無限螺旋英雄譚 (望夢)
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プロローグ

性懲りもなくまたデモンベイン。でも2013年から書き始めた血濡れやちっぽけな、そして悪徳の要素を全て煮詰め直して書き出したこの物語。プロットは出来た。後は紡ぐのみ。しかし分量的に3週分くらい掛かるから完結は未定。応援してもらえると元気になって続けられるかもしれない。

しかし整理したらクロウが普通にチートキャラなんだけどこれでもまだ足りないクラインの壺ってホンマ蠱毒だ。


 

 如何にしたらこうなるのかと不思議に思う廃墟の中に呆然と立っている青年が居た。青年と表したが、まだまだあどけなさが色濃く残る大人の世界に脚を踏み入れたばかりであることが見て取れる少年の様な青年だ。

 

「どこだ…? ここは」

 

 放つ言葉は悲しく響くだけだった。

 

 黒い太陽と紅い月が昇る澱んだ空。静寂を運び、死の臭いを孕む風。地平の先までも広がる廃墟。それは古代遺跡にも似た光景ではあるが、その廃墟から読み取れる文明度は近世のそれに相違ない。そんな廃墟に人の気配は無い。無くて当たり前――なのか彼にはわからないが、廃墟でも人が住んでいそうなイメージを抱いていた彼には、人の気配を感じない廃墟はまるでゴーストタウンという括りを離れた。死んでしまった土地というイメージを抱かせた。

 

 うず高く、出来の悪いオブジェの様に積まれた瓦礫の上で――墓標のごとく突き出した鉄骨に背中を預けながら彼は静寂を享受していた。静かな場所が好きな彼からすれば、静寂な世界というのは歓迎だ。

 

 しかし空を見上げれば瞳に映る光景は真っ赤な空であった。

 

 赤いペンキをぶちまけ、何重にも重ね塗りをした様な、赤くありながら黒い血の色の様な空だ。夜なのか朝なのかわからないが、逢魔ヶ刻にしては些か物騒な空だ。

 

 ひゅうと風が吹く。まるで何週間も放置した台所のような腐臭染みた臭いと錆び鉄のような鼻に突く臭いを運ぶ風に顔を険しくする。

 

 ポケットのハンカチと服の袖の二重フィルターで防御しながらとりあえず歩き始めた。目指すのはとにかくどこでも良い。動けば何かあるだろうという考えしかなかった。ともかく方向は敢えて風の吹いてきた方向だった。

 

 そして数分か、或いは数十分か、或いは数時間。同じような景色ばかりで時間経過が、体内時計が狂っている様に感じながら歩くと、子供が啜り泣く様な声が聞こえた。空耳かとも思ったが、両手を耳に当てて音を拾おうと耳を澄ませば、やはり聞こえてくるのは子供が泣いている啜り声。放ってはおけない。それに誰か居るのなら情報が得られるかもしれない。

 

 瓦礫を上り歩いて、悪路を歩いて、狭い道を、道なき道を歩き続けた。その先に巨大な影が見えてきた。

 

 薄汚れた廃墟の上に佇む巨大な紅の巨人。その足元に蹲る紅い影。まるで神様に祷りを捧げる巫女の様で、不謹慎だが見とれてしまったのだ。だが、泣き声は今見ている巨人の足元から聞こえてきている。

 

「うわっ!?」

 

 足場の悪い瓦礫の上だ。足を滑らせてしまう。

 

「っ、いづっ!?」

 

 瓦礫は鉄骨も剥き出しだ。こけた時に突き出していた鉄筋で大分深く足を切ってしまったらしい。血が溢れ、痛みは熱に変わっていく。

 

「だれ…?」

 

 振り向いた影は少女だった。第一印象はただ紅い。それに尽きる。靴とドレスや帽子の刺繍以外はすべて紅い。瞳も、髪も、帽子も、ドレスから伸びる紅いレースに隠された下着さえ。

 

 紅い。すべてが紅く、血を彷彿させる程に紅かった。

 

 ゆらり、ふらふらと、まるで亡者の様な足取りで近寄られる様は軽くホラーだが。動きたくても足がしびれてきて動かなかった。

 

「あらあら、不運ねぇ。あなた、あと数分の命よ。動脈をばっさり。抑えても血は止まらないわ」

 

 恍惚とした表情で告げる少女だが、言われるまでもなく、なんかヤバ気なのは自分でもわかっている。足の感覚が消えていって、吐き気が込み上げてくる。頭痛が始まって目眩が起き、視界すら明滅し、眠気も襲って来る。

 

「どうしてもって、言うなら、助けてあげないこともないわよ?」

 

 クスクスと笑いながらからかう様に告げてくる少女。しかし余裕なんてものはない。耳で聞いていても頭まで入っていかない。

 

「ほらほらぁ~♪ どうするぅ~? もう3分もないんじゃないかしら?」

 

 人が死にそうになっても面白そうに囃し立ててくる。まるで目の前の死が、死に逝く様を見せ物の様に悦ぶ子の様に。軽い怖気と吐き気がした。

 

 怠く重い腕を伸ばす。伸ばした腕は少女の肩に触れた。弱々しい力で肩に手を置いた。

 

「うふふ。いいわぁ。契約は成立」

 

 紅い唇で口づけをされた。小さくて、柔らかく、それでいて咽かえる程に血の匂いが、生々しい匂いがする口づけだった。

 

 紅い光に包まれて視界が真っ赤に染まる。そこで、意識は途切れてしまうのだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「きしし…。面白い夢だね。黒羽(くろう)くん」

 

「そうかな? 少し薄気味悪いというか、生々しかったというか」

 

 昼休憩。周りでは仲良しグループで席を寄せあったりして昼食を食べていたりする普通の光景。しかし自分は教室の片隅で一つの机でひとりの女の子と向かい合って――ではなく、なぜか膝の上に女の子を乗せて食事をしながら今朝見た夢の事を語っていた。

 

「くすくす。欲求不満なのかなぁ? むげんがお相手仕ろうか?」

 

「なんでそうなる」

 

 いつの間にか背中に抱き着いて首に腕を回すあすなろ抱きをする女の子。背中に感じる柔らかさはDくらいはあるだろうか。確実にCはある。

 

「C寄りのDってところかな? 程よく実ってますぜ旦那ぁ」

 

「だから…」

 

 この幼馴染。寄車(よぐるま)むげん――。

 

 つかみどころのない幼馴染であり、こうして異性に対しても遠慮なく絡んで来る分け隔てのない所が人気の女子。顔も可愛い為に告白とかラブレターまで貰っているとか。それでも本人は面倒だと言って愚痴を聞かされる程度には、彼女の懐に居る自覚はある。

 

「そう。むげんは別に興味なんてない。君さえ居てくれるのならばむげんはそれで良い」

 

 そして巷で言う少し重い系女子でもある。

 

「きしししし。そう邪険にしないでおくれよ。君に嫌われたらむげんは、とてもとても悲しいんだ」

 

「そうは思えないけどね」

 

 基本的に˝ひとつのもの˝に固着するような子でもない事は長い付き合いで分かっている。寧ろ幼馴染だからという理由で自分が彼女の世界に居る事は異例中の異例とも言えるものだった。

 

 それでも友好を続ける辺り、自分も好き物だと黒羽は思っている。

 

「でもさぁ。そういう夢は、案外夢じゃないのかもしれないね」

 

「夢じゃなかったら悪夢だ悪夢」

 

 こと˝夢˝という相手に関して自分はかなり特殊な存在である。アレがただの夢でないのならば一体何だというのだ。しかし何故だか引っかかるのだ。あの夢に出てきた女の子も、そして、あの紅い巨人は、見たことがあるはずなのに、どこで観たのかが思い出せない。実際に見たはずというわけでもない。例えばCMの様な一瞬の映像。或いは漫画やアニメの様な、そんな存在。とも少し違うのだろうか。しかし見覚えがあるのは確かだった。

 

「じゃぁ。悪夢はそれこそすぐそこにまで迫っているのかもしれないね」

 

「なにを――」

 

 そう言いながら、いつの間にかむげんに口づけされていた。彼女の綺麗なアメジストの様な色の瞳と、眼帯に包まれた顔が間近にある。重ねられた唇から舌が這い出して来て、歯を舐める。僅かな隙間をこじ開ける様に動く舌が歯を割って入ってくる。口の上顎を舐められてゾクゾクと背筋に快楽が走る。そこで口を大きく開けてしまったが最後。口の中を好き勝手に嬲り始めるむげん。互いの舌が交尾するかのように厭らしく絡みつき、唾液が互いの口を行き来して、とても甘く、蕩けるような粘液に代わり、いつの間にか黒羽も彼女の腰や頭に腕を回して逃がすまいと、この味をもっと味わいっていたいと思う様になっていた。

 

「む、むーちゃん…!?」

 

 いきなりすぎて昔のあだ名が、ふたりでいる時等に未だに使うあだ名が口を突いて飛び出した。互いの口から銀色の橋が伸びていた。

 

「きしし。なにを驚くのかな? むげんと黒羽は˝恋人˝じゃないか」

 

「だ、だからって、ここ学校…!」

 

 学校で、隠れてならまだしも、こんな公衆の面前で口づけを出来る程に図太い神経は持ち合わせてはいない。

 

 そういう図太い神経を持つ様なバカでもない。

 

「そうかな? 黒羽は全然自分を分かっていない。君はこのむげんでも欲してやまない存在。むげんと黒羽は対なんだ。或いは比翼。或いは陰陽。或いはなくてはならないもの。君はすべてに通じる鍵であり、すべてに通じる道標。こうしてむげんとも交わえる存在。黒羽、君はね。そういう存在なんだよ」

 

「なにを――」

 

 彼女の言っている意味がわからない。わかろうとしても頭が理解を拒絶している。いや、わかるはずだ。

 

「今はまだお休み、黒羽。君はいずれ嫌が応にも運命に立ち向かうんだ。だから今はお休み。良い夢を」

 

 そうむげんが黒羽の瞳をひと撫ですると、黒羽は急激な抗えない眠気と共にその意識を落とすのだった。

 

「大層な仕掛けだ。これ以上どうしようというのだ?」

 

 喧噪のままに賑やかさを奏でる教室に響き渡る声。その声はとても良く響いた。男の(コエ)だ。

 

 そこに現れたのは軍服を身に纏い。腰に刀を差した偉丈夫であった。肩から羽織る白い外套は、その迫力をより高め、そしてひどく馴染ませていた。

 

「別に。そろそろ潮時ではあるさ。彼の完成はどうしても試練が要る。だからその試練を与えられる因果を構築して、その因果に彼を結びつける。その試練を踏破した時。彼もまた˝王˝として完成する」

 

「用意された試練か。それで観客が満足するとでも?」

 

「それは彼次第だ。諦めずに踏破しつつければ、それは人の輝きとして遜色ないとは思うのだけれども?」

 

「くははははは! なるほど。確かにそうだ。良いだろう魔人(フリークス)よ。今しばらくは待とう。なに、我々もそれはそれで結構暇なのだ。それこそいつ始まり、いつ終えようとも構わないのだが、楽しみにしている演目が延期されていて、おちおちと待ち続けていられる程には我慢強くはないのだよ」

 

「それくらいは我慢してほしいな。大人だろう?」

 

「大人ではある。だが、楽しみをいつかいつかと待ち侘びて我慢が出来ない程度には子供心を忘れた覚えもないのだよ」

 

「うわぁ、めんどくさ…」

 

 偉丈夫に向かいむげんは隠すこともなく面倒だという表情を向けても、それもなおよしと、偉丈夫は笑った。

 

「さて、今しばらく˝混沌˝を騙しに行くとしよう。アレもアレで˝子˝の消息に大凡の見当をつけ始めている。あまり長くは保たんぞ」

 

「それを如何にかするのが役目だろう? 夢見の魔王――甘粕(あまかす)正彦(まさひこ)

 

 そうむげんに呼ばれた偉丈夫は笑いながら姿を消した。

 

 そしてむげんも黒羽を抱き上げて姿を消す。そこには変わらず男女の喧騒だけがあった。録画されたテープの様に同じ光景だけがループする。

 

 朝昼夕夜。それだけを、同じ時間を繰り返す世界だけ。小さな箱庭のように代わり映えのない世界が繰り返されている。

 

 しかしそんな世界に噴き出すように闇は現れた。

 

「ここでもない。一体何処まで我々(わたし)を惑わす気かな? 魔人(フリークス)の分際で」

 

「憤るな。たかが神の分際で――」

 

 闇の頭上に光が生まれた。その光を足場にして、偉丈夫は眼下の闇に突き付ける。

 

「プロメテウスの炎程度が、我々(わたし)に通じると思ったか? 魔王よ」

 

「いいや。だがこの程度では終わらんよ」

 

 偉丈夫が頭上に手を掲げ、その手の中から光が空へと放たれた。

 

 光が描くのは魔法陣だった。そこから生まれる光は真紅に染まり、輝く光を朱に染めた。

 

「権能を代行させて貰うとしよう。終段・顕象ォォォ――!!!!」

 

 朱に染まる魔法陣から降ってくる血に濡れた刃。その掌にはすべて例外なく区別なく諸共に滅する破邪の波動が、渦動破壊の渦が内包された紅の光を放っていた。

 

レムリア・インパクトォォォ!!!!」

 

「くっ、おのれェェェェェェエエエエエ――――――!!!!」

 

 その無限熱量を身に受けた闇は、その光に魂すら震える程の憎悪を込めて叫んだ。

 

 我が宿敵。我が怨敵。我が恋人。我が花嫁。永遠に続く輪廻の中で終わりもなく続く演目の君。

 

 愛しや憎し我が同胞。

 

 その放つ熱を身に浴びて、闇の化身は消え去った。

 

 後に残ったのは何もない空間。書き割りさえも巻き込み昇華してしまったのだ。

 

 何も残らない空間に、しかし偉丈夫と、紅の巨人は立っていた。その胸の上に立つ紅き姫はその闇が消え去る光景を目にして、そして何処でもない何処かを見つめて口を開いた。

 

「はやく、目を覚ましなさい。わたしの下僕。私の分霊。ワタシの同胞。わたしの、ワタシの、私の――」

 

 その言葉は何処までも響くこともなく、だれの耳にも聞こえる事はなく。されど彼女と運命を共にする血濡れの刃だけは、彼女の言葉をしかとその無垢なる魂に刻むのだった。

 

 

 

 

to be continued…



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悪徳の章
1-1 ダンウィッチの怪


取り敢えず再構成して色々と継ぎ足してみました。その関係で物語の進みは結構遅いかもしれません。ご了承ください。


 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 死に物狂いで廊下を走る。本棚の隙間を縫って走り抜ける。

 

 後ろを振り向かずに、ただひたすらに前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前―――――――。

 

 ヰguなヰヰぃぃヰぃぃぃぃぃいいい――。

 

「あっ、ぁぁ、あぁぁぁあああああああああああああああ――――――!!!!!!!!!!!!

 

 いくら走っても追ってくる怪物。図書館の中を駈けずり回っても撒く事が出来ない。

 

 吐き出す息は熱く喉を焼き、脚は鉛のように重く、心臓は破裂しそうな程に脈打ち、それでも命の危機に際して身体の枷を解き放ったかの様に限界を超えて身体を動かす。

 

 気づいたらこの図書館に居た。陰湿で、真っ暗な雰囲気から真っ当な場所じゃないことは考えていた。

 

 でもそれが、あんな化け物に出会すと誰が思うのだろうか。想像力が足りないとは言うが、あんなものを誰が想像出来るのだというのか。

 

 あれはなんなのか。どういうものなのか。そんな事を考える暇もなく、いや、考えてはいけない。あれは人間の認識が理解できるものでも、理解出来ても良いものじゃない。

 

「ひぃ、ハァ…、ひぃ、ひぃ、あぁ、あうっ、あああああああああああああああ!!!!!!」

 

 足が縺れそうになり、転げそうになるのを木綿が裂けるような叫びを上げて、自分の身体を叱咤して、如何にか転ばずに落ち込んだスピードを取り戻す様に足をひたすら動かし続ける。

 

 伊具なヰぃぃいいいいいいいい――――。

 

「ひぃぃぃぃ、あああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 

 僅かな窓から差し込む月の光に照らされた怪物の姿。山羊の様に飛び出した眼球が、くるくると回りながら、此方を見つめていた。

 

「ッ――――――いやああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

 

 精神を容易く打ち破り、原始的な、野生が、生物としての遺伝子に至るまでに冒涜的な恐怖が焼き付けられてしまった。

 

 吐き気を通り越し、身体を流れる血液すら冒す腐臭。

 

「あ、ああ、あ、あ、ぅぅ、ぅ、うあああああああ!!!!」

 

 もう正常な精神状態とも言えず、取り乱し、泣き叫びながら手当たり次第に本棚にある本を投げつける。

 

 手が触れた先から切り刻まれたり、腐ったり、焼けたり、乾いたり、膨れたり、異常を来しても構わずに本を投げつけるという行為を行うだけだった。

 

 ヰぐなヰぃぃぃいイぃぃぃぃ――――。

 

「はっ、はっ、ははっ、はっ、は、は、ぅはっ」

 

 手に当たる物が無くなってしまい、足腰に力が入らないまま、本棚に背中を擦りながらなんとか怪物との距離を開ける。

 

 怪物は1歩、また1歩、近付いてくる。

 

 もうなにがなんだかわからないまま、ただ誰かの助けを求めた。誰がこんな怪物を退けられるのかわからない。誰も居ない図書館の中、あんな怪物から救ってくれる人が現れるはずもない。

 

 ヰぐなヰヰぃぃぃぃい――。

 

「が、あが……っ」

 

 人間と同じ五本の指を持つ手に首を締め上げられる。片手で軽々しく持ち上げられ、すべての荷重が首に集約し、身体から首が抜け落ちそうになる様な感覚を味合わされる。

 

 殺される……っ。

 

 締め上げられる苦しさで浮かぶ涙に霞む視界の向こう。山羊の様に飛び出した眼球が見える。

 

 その目はおれの顔を映し、そして瞳は嘲笑うかの様に細められていた。

 

 人間と同じ四肢を持ちながら、体躯は2mは超す巨漢。だが纏う雰囲気は普通じゃない。

 

 魔人や神様、魔王に英雄。

 

 様々なものを見てきた。しかしこんな冒涜的な雰囲気を持った存在は生まれてはじめて見た。出逢わずに普通は一生を遂げられる筈の存在が、目の前に存在していた。

 

「ば、け……もの……ぐああああああああああああ!!!!!!」

 

 いぐないいいいいいヰヰ!!!!!

 

 両手を使って首をへし折らんばかりに締め上げてくる怪物。化け物という言葉に腹を立てたらしい。

 

「あっ…かっ……あぐ……」

 

 全身から力が抜け、酸素の行き届かない頭はひどい頭痛を訴え、意識が遠退いていく。

 

 神様でも、悪魔でも、死神でも、吸血鬼でも何でもいい……。

 

 このばけものから、おれをたすけてくれ……。

 

 ―――――――――――。

 

「ぎっ、がああああああ!!!!!!」

 

 肺に残る酸素を吐き捨てる勢いで雄叫びを上げながら、魔術回路に魔力を通して――ソレヲモトメタ。

 

 魔術回路を伝い、大気中のエーテルを伝い、˝ナニ˝かと繋がった。

 

 パラパラパラと、まるで本の頁が捲れる様な音が聞こえ。紙が風に吹き飛ばされたかの様な音も聞こえてくる。

 

 首を掴んでいた手が、なにかによって切り落とされた。

 

「ゲホッ、ゲホッ、ぐぇっ、がはっ」

 

 強烈な吐き気と頭痛を感じながら、身体に酸素を取り込んでいく。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……かっ、はぐっ」

 

 涙で霞む視界の先には、怪物に立ちはだかる姿があった。

 

 黒い髪の毛、黒いドレス、陶器の様に白い肌、小柄の女の子だった。

 

 女の子の影から黒い犬が這い出てくる。痩せて細った。という次元ではなく骨と皮というか骨その物の様な形から辛うじて犬とわかる生物は、飢えているように喉を鳴らした。宇宙の邪悪さが全て痩せて飢えた身体に集約されているような、そんな醜悪な姿と唸り聲だった。

 

 犬が怪物に向かって飛び掛かった。

 

 肉をその牙で喰い千切り、怪物をズタズタに引き裂く爪。ぶちぶちと聞こえるのは肉の繊維が千切れる音だろうか。グシャグシャと聞こえるのは臓物を咀嚼する音だろうか。

 

 まるで助けを求めるように伸ばした腕さえ食い荒らされていく。

 

「うっぷ…」

 

 その悍ましい光景に吐き気を感じながらも、その光景を確と目に焼き付けた。

 

 満足したのか、犬が戻って来た。犬は女の子にじゃれつくと、その影の中に戻って行った。不浄な臭いを伴う煙が発生させて。……何故かニタリと笑う猟犬の姿を幻視した。

 

 犬が去り、気狂いしそうな程に煩く啼く何かの鳴き声が鳴り止まない中。女の子がゆっくりと振り向いた。

 

 その青い瞳に見つめられた自分は、身動きが出来なかった。

 

 吸い込まれそうな程に深い碧眼。魂が囚われてしまいそうな感覚すら覚えた。

 

「ご無事ですか? マスター」

 

 鈴の音色の様な声が、怪物に冒された心を癒してくれる様だった。

 

「き、君は……」

 

 そう呟くと、まるで君主に仕える騎士の様に片膝を着いて頭を垂れた。

 

「私はナコト写本が精霊。アナタ様の声に応え、御前に参上致しました」

 

 ナコト写本。その名は聞いた事がある。

 

 クトゥルフ神話に登場する架空の魔導書の名だ。

 

 その精霊と名乗った。

 

 魔導書の精霊? そんなものが存在するはずがない。ナコト写本? それは架空の魔導書だ。自分は˝また˝夢の中に居るのだろうか。

 

 いいや、夢であるはずがない。あの狂気と恐怖と邪悪が夢であって良いはずがない。

 

「お労しや。さぞお辛かったでしょう」

 

 そう言いながら彼女はおれの手を取り、焼けて膨れ腐り爛れ傷だらけの手を癒してくれた。その温かさえ感じる魔力を感じて、心の中から安堵が込み上げ、そして底知れぬ恐怖に身を震わせた。

 

「なんだったんだ……。なんだったんだ()()は!!」

 

「……場所を移しましょう、マスター」

 

「あ、あぁ…」

 

 そういう生返事になってしまうのも仕方がない。女の子に支えられながら歩くという無様を晒しながら、おれは一度図書館を後にした。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アーカムシティ――。

 

 そこは現実には存在しない空想の街。魔術と錬金術により文明を過剰に発展させた街。聖者も愚者も金持ちも貧乏も光も闇も受け入れる摩天楼は、実在する。

 

 此処ではない、極めて近く、限りなく遠い世界にて存在する街だ。

 

 憧れのアーカムシティ。クトゥルフ神話において時々物語の舞台にもなるその場所。その街は。

 

 覇道鋼造というひとりの男が発展させた街となっていた。アメリカ合衆国のマサチューセッツ州の片田舎の町が巨万の富を築いた大富豪によって大改造ビフォーアフターバーナーされた街である。

 

「デモンベインかぁ……」

 

 ひとこと言わせてもらう。バカじゃねぇの?

 

 色々と整理できたというか、落ち着けた自分。未だに助けてもらった女の子に頭を撫でて貰うことでどうにか自分という物を取り戻せた黒羽は新聞からこの街の情勢をくみ取り、そして今が1928年8月3日であることも確認した。

 

 となれば、自分はダンウィッチの怪に遭遇したという極めて不運な事柄に直撃したという事だった。

 

 このダンウィッチの怪が解決するには1月の時間がある。

 

 ダンウィッチの怪。かの有名なH.P.ラヴクラフトの作品として有名だろう。コズミック・ホラーの生みの親であり、その恐怖は読んだもののみぞ知る。

 

 放っておいても三銃士の博士らが対処してくれるのだ。

 

 一月の間を遣り過ごせればすべて終わり世は事もなしである。

 

 それにこの世界には魔を断つ剣がある。余程でなければどうとでもなるのだ。

 

「ありがとう、助けてくれて」

 

「いいえ。我が(マスター)の危機をお救いするのは我が勤めです。マスターはお気になさらずとも良いのです」

 

 さも当たり前のように言って見せるナコト写本の精霊を名乗る女の子。未だに信じられないものの、信じるしかないのかもしれない。

 

「それにしても、マスターって、おれはいつ君と契約したんだ?」

 

「先程の、あの図書館で。とはいえ狂気に駆られていらっしゃいましたので記憶の混濁があっても仕方がないのかもしれません」

 

 あの時。図書館で何かに縋る様に求めた存在。それが彼女だったのだろう。

 

 彼女を注視してみると、記憶にあるナコト写本の精霊よりも色が黒く見えるのは部屋の明かりがナイトスタンドの小さな光によって影が多い部屋の所為だけではないだろう。

 

「君は、ナコト写本の――」

 

「英語版であります」

 

 英語版。確かにミスカトニック大学秘密図書館に蔵書として保管されている魔導書だった記憶がある、だがこうして顕現出来る程の力があったのかという僅かな驚きがあった。

 

「私もマスターと契約して顕現出来る力を得られました。マスターはとても強い魔力の持ち主なのですね」

 

「そうなのか?」

 

「はい。とてつもなく大きな、力強い魔力を感じます」

 

 そうは言われても今一実感はない。そんなに凄い魔力があるのは有り難い物の、使えなければ意味がない。

 

 今から約1か月。それでダンウィッチの怪は終わる。そしてきっとしばらくして斬魔大戦が始まるのだろう。

 

 自分には、なにも出来ない。する必要もない。何故なら自分は部外者だからだ。

 

「ねぇ。おれ以外に誰か巻き込まれてなかった?」

 

「いいえ。マスター以外には誰も」

 

 となると、魔導探偵は生まれないのだろうか? その上にアル・アジフが動かなかった事が気掛かりだ。

 

「あの図書館にネクロノミコンはあった?」

 

「イエス。いくつかの著書がありますが…」

 

 しかしそれ以上は少女は語らず、少し顔に陰りも生まれる。それを見て不躾だったと黒羽は思った。

 

 本は本でも女の子。と言うより本である分他の本んの事を訊くのも悪かったと思って黒羽は口を開いた。

 

「名前は、まだないんだよね?」

 

「ええ。生まれたばかりですから」

 

 とてもそうは思えない程言葉もハッキリしている上に知性もある。というよりも20年も生きていない自分からすれば彼女は何倍も年上だろう。という思考は忘れて見かけ相応の女の子に対する様に扱えばいいのか悩む。

 

 それでも契約はして、助けて貰った相手で、名前はない。

 

 というのならばお近づきの印とお礼を込めて名前を送ることも悪くはないのかもしれない。

 

 ただ、下手な名前だとダメだろう。それこそ名前で人生が変わるという話はよくあることだ。その相手に意味があるものでなければならない。

 

「くろ……はね…」

 

 此方を慈しみながら見下ろす彼女の髪が揺れた。記憶にあるものよりも黒く、光でさえ呑み込みそうなほどに黒い髪が、まるで羽の様に見えた。そして生まれて初めての契約者が自分。そこまで考えて、それ以上の名前が自分には考えられなかった。

 

「黒い羽と書いて黒羽(クロハ)はどうかな?」

 

「イエス、マスター。了承致しました。今宵この瞬間より、私の名は黒羽(クロハ)となりました。素適な名前を授けて下さり、ありがとうございます」

 

「黒い羽はおれの名前でもあってね。クロウ、そう呼ぶんだ」

 

「マスター・クロウ。その名前を魂に刻みました。マスターの魂尽きるまで、お傍を離れません」

 

 ナコト写本の精霊は重くなる性質でもあるのだろうか。それとも忠犬属性がデフォで備わっているのだろうか。まだ10歳前半くらいの女の子なのにとても魅力的に彼女が見えた。――いやロリコンじゃないぞおれは。

 

「では契の口づけを、その…、よろしいでしょうか…?」

 

 口元に指を当ててもじもじと恥ずかしがるその姿に思わず抱きしめて頭を存分に撫でたくなってしまうのを抑える。――だからロリコンじゃない!

 

「本契約完了…。かな?」

 

「あっ…」

 

 身体を起こして、ほんの少しだけ触れるような口づけ。唇を離すととても残念そうに呟くクロハに、このまま押し倒したくなってしまう衝動に駆られる。――だからペドフィリアでもないって!!

 

「ま、マスター……」

 

 うるうると瞳を滲ませるクロハに何故だかとてつもない罪悪感を感じる。というか胸が痛い。切ない。もっと繋がっていたいという欲求が胸を締め付ける。

 

「な、なにか、した?」

 

 いくらなんでも、可愛いからと言って此処まで自分が制御できないのはおかしいと気付く。

 

 それを確かめる為にクロハに問うものの、彼女は頬を染めるだけで言葉を返してはくれない。

 

「ますたー……もっと…」

 

 クロハの黒真珠の様な瞳が大きくなっていく。重なり合う鼓動。絡み合う指先。身を寄せ合い、もう、逃げ場はなく。その小さな唇が重なった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 クロハと契約を結んだクロウは改めて状況把握をする為に半月を過ごした。

 

 ブラックロッジの存在も確認した。街にある教会も。探偵事務所も。そしてミスカトニック大学も。

 

 結論から言って、この世界では魔導探偵は生まれない。白き王は普通に学生だった。

 

 ただ教会に入り浸っては子供やシスターと戯れていた。それが良いのかどうかはわからない。ただ彼がそれを守りたい日常だと尊べる温かさがそこにはあった。

 

 だから自分は一つの覚悟を決めた。

 

 というより、やられっぱなしは趣味ではない。そして、これは一つの試練だろうとも思えた。自らに降って湧いた試練から逃げたとあっては、˝父親˝に顔向け出来ないどころか雷が降ってくるだろう。

 

 だから逃げずに立ち向かうための準備を進めた。より具体的には魔術師となるべく修業を始めた。

 

 魔術の本質は実践にこそある。故に――。

 

「ナイトゴーント先生との楽しいステゴロの時間だコラァ!!」

 

 という風に、足でも踏み外したら落ちるような、ミスカトニック大学の時計塔頂上で絶賛修行中。

 

 蝙蝠の羽に悪魔のような尻尾。悪魔の様な風貌の顔に頭には角。夜鬼(ナイトゴーント)先生によるステゴロ授業によって先ずは己を高める所から始まった。

 

 壁を垂直に走るなどと言うニュートン力学に真正面からケンカを売りつつ、ナイトゴーントを迎え撃つ。

 

 マギウス・スタイル時の服装はあのぴっちりボディスーツかと思ったものの、任意で形は変えられるらしく、さっそく自分の一番馴染む軍服と外套姿に変更する。これによって身は引き締まる。恰好一つでもいつもの戦闘服と部屋着とではわけが違う。仕事着と私服での心の持ち様の違いとでもいえば理解できるだろう。

 

 身体の内側、心の奥底から溢れ出る熱を汲み取り、全身に行き渡らせ循環させる。

 

 背中の外套が僅かに膨らみ、空気を掴むように形を変えて空を飛ぶ。

 

 そして腰から抜いた漆黒の日本刀――オリハルコン製のその刃で、ナイトゴーントの羽の切り裂きを防御する。

 

 空中に浮いているという人類には馴染みのない感覚ではあっても、それは普通に受け入れられた。それくらいは出来る。

 

 異なる法則の感覚を擦り合わせる様な、半分作業染みた修行に半月を費やしつつ、現状で可能な対抗手段を模索する。

 

 とはいえ、必要なアーティファクトはいくつかある。イブン=ガズイの粉薬は先ず絶対必要になる。

 

 200年以上遺体が埋葬されている墳墓の塵を3、微塵にした不凋花(アマランス)を2、木蔦の葉の砕いた物1、細粒の塩1を土星の日、土星の刻限に乳鉢で混ぜ合わせる。調合した粉薬の上でヴーアの印を結び、コスの記号を刻み込んだ鉛の小箱に封入する。

 

 材料はあの使い魔――ティンダロスの猟犬たちが集めて来てくれた。なんというか便利な子たちであった。

 

 魔術は使う人間によって性質を変えるが、使う人間の認識でも変わる為、見かけは結構イヌ科の形をしていて、一目見ると怖い物の、頭を撫でてやると意外と人懐っこいのか、結構イヌだった。尻尾をフリフリするので普通に可愛いと思ってしまった。いあいあ。

 

 そんな便利な使い魔さんのお陰で、イブン=ガズイの粉薬はどうにかなった。

 

 あとは現地調査なのだが、想定されている相手は腐っても邪神の血を引く化け物だ。

 

 機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)が必要な程の化け物だ。

 

 クロハはナコト写本の英語版であり、不完全な魔導書であるが故に機神召還が行えない。鬼械神に関する記述が不十分なのだ。

 

 それに対してクロハは申し訳なさそうに謝罪するが、クロウは別段彼女を攻める気はなかった。それ以上に、自分に付き従ってくれる魔導書の存在は心強い物だった。

 

 出来得るだけの準備を重ね、錬金術師などを当たり武器も調達した。

 

 その上でやれる事はすべて行った。

 

 高度経済成長によって日増しに拡大化する街――アーカムを中心にその開発に取り残されて忘れ去られた村。

 

 そのひとつがダンウィッチ。

 

 暴力と背徳が跋扈し、邪悪な儀式や謎めいた集会、秘められた殺人などが平然と行われているという、堕落と退廃に冒された不浄の土地である。 

 

 風光明媚とは聞こえがいいが、心癒される感じはまったくありはしない。

 

 木々は異様に大きく、葉の色や形は見たこともないものばかり。遺伝子に致命的な欠陥があるのか、あるいは地球の植物ではないように感じる。

 

 村に着いてクロウは聞き込み調査に乗り出した。日本から来た軍警察という立場を偽って、日本でも同じような事件があった為に関連性を調べる調査員として出向いた設定だ。暗示も少しだけ使って不自然のない様に振る舞い、話を聞いて行った。

 

 ダンウィッチの中心から、7km離れた辺鄙な場所にウェイトリー家はある。

 

 ドーム状の小高い丘。センティネル丘へと向かう。途中、何軒もの家や木々が薙ぎ倒されいる光景が眼に入る。

 

 注視すれば、地面をとてつもなく巨大な物体が蠢いた形跡がある。

 

 吐き気を通り越して、血液が毒に変わりそうな程の悪臭が立ち込める。

 

 ここ数日で被害が増え、村一同で恐慌状態に陥っていた。その痛々しい光景は、いくら村の住人が排他的とはいえ、そういう住人が藁をも縋る思いで話してくれる様子に、同情する。

 

 たったひとりの魔術師の実験で、この村は邪悪に冒されているのだ。許せるものでもない。だからこそ、復讐も兼ねてここに居るのだ。

 

 やがてセンティネル丘が見えてきた。その頂には荘厳さが漂う石造りの環状列石の姿を確認できる。正常な意識で相対するからわかる。

 

 アレは『門』なのだと。不完全――いや、壊れてはいるが、邪悪の世界を垣間見るには十分だろう。

 

 そのセンティネル丘の中腹。姿は確認できないが、草木が踏み潰され、地面に刻まれていく奇妙な跡からそれとわかる。

 

 ウィルバー・ウェイトリー/その弟だ。

 

 足が震える。今でもはっきりと思い出す忌まわしい記憶。

 

 山羊の様な目に見つめられたあの日の夜。まだ一月しか経っていないのだ。忘れられる筈がない。

 

 見つめられたその眼の奥深くに見えたもの。

 

 それは静止した「現在」。

 

 それは流動する「過去」。

 

 それは蓄積された「未来」。

 

 それは「門」。

 

 それは「鍵」。

 

 それは、

 

 それは、

 

 それは――「扉」だ。

 

 やらゆる時間と時空に存在する「門の鍵にして守護者」。旧支配者の棲む外宇宙へと繋がる存在。

 

 外なる神――ヨグ=ソトース。

 

 外なる神の前には、人間の精神など障子の紙同然だ。いや、まだ障子の紙のが強いだろう。もしくは紙容器の中のヨーグルト。指で刺せば軟らかいな。もしくは大気を舞う微細な塵か細菌か。

 

「ッ!」

 

 狂いかけた精神を、唇を咬み、痛みで引き戻す。

 

「マスター」

 

 そんなおれを、クロハが心配してくれる。ただの意地の様な戦いに彼女を巻き込んでしまった事に罪悪感を感じるものの、彼女がいなければ自身は何もできない唯の人間なのだ。

 

 地を蹴って野を駆ける。自分が失敗しても三銃士が居る上に、魔を断つ剣もある。自分がダメならばそれを知らせれば覇道が動くだろう。

 

 故に後顧の憂いはない。

 

 故に、全身全霊をもって復讐する。この魂に、外なる神々の恐怖を植え付けてくれたことを後悔させる。汚泥の血脈はここで断ち切る。なによりも危険な存在なのだ。

 

 故に必ず仕留める。˝勝つ˝のはおれだ。

 

 身体能力を強化し、丘を駆け登り、ウェイトリーの眼前に控える。

 

 薬莢をひとつバラして、中身の火薬を宙に蒔く。火薬の中のイブン=ガズイの粉薬が反応して、˝ソレ˝は姿を現した。

 

 十数階建てのビルに相当するだろう巨体。のたうつロープが複雑に絡み合うような毛玉のような形をしていた。躰はゼリー状の皮膜のようなもので覆われており、いくつもの大きな瞳が様々な方向に向けられている。また、三十近い口状の突起物はなにかを求めて蠢いている様は、発狂しても不思議ではない凶悪な姿だった。そして出来の悪いオブジェの様に人の巨大な顔が着いている。

 

 中々原典寄りの姿をしている。胸に納めている旧神の印を刻んだ十字架の首飾りが熱した鉄の様に熱くなり、精神を正常に保ち続けてくれる。

 

 その怪異の眼が一斉にこちらの姿を捉えた。強烈な悪意が噴出した。その視線だけで、魂は簡単に砕けそうになる。ココロが冒される。

 

『ヰぐなぃぃぃイぃい――』

 

 蠢く触手が、一斉にこちらに向かってくる。 

 

「――力を、与よ!」 

 

 小高い丘に、陽光が産まれた。

 

 灼熱の光が、丘を照らす。

 

 陽光の中、オリハルコンの日本刀を手に、印を切る。

 

 人の力では及ばない存在。魂を穢れさせる邪悪。

 

 ならば、人の力では及ばない神の力。魂を昇華する力で、この邪悪を終わらせよう。

 

 腕を振るい、血風が舞う。血に術式を宿し、意のままに魔術を発動させる。

 

 血こそ我が存在。

 

 我が魔力(ちから)の証明。

 

 我が魔術の源泉。

 

 現れたのは黄金に輝く弓である。魔力をつぎ込み、その光は陽光を黄金の黄昏に染め上げる。

 

「奏でよう。闘争の管弦楽曲(オーケストラ)を」

 

「聖弓ウィリアム・テル起動――」

 

 その黄金の弓を手に掴み、和弓の姿勢で弦を引き絞る。

 

「アルゲンティウムアストルム。天狼星の弓よ!」

 

 引き絞った弦に光が収束し、一本の矢を作り出す。その弓は更に輝きを増していく。

 

「我は闇、我は蛇、我は弓、我は星――」

 

 更に番える矢に紫電が迸り、ありったけの魔力を注ぎ込んで必殺の一撃を加えると、意志も殺意もすべてを魔力と共に込めて行く。過負荷によって弓を握る手や弦を引き絞り、矢を番える指が裂傷し、火傷さえ負うが、この一撃だけは届かせるのだと気合と根性で耐える。

 

「悪神セト、蹂躙せよ。犯せ、冒せ、侵せェェェッ!!!!」

 

 そして放たれた煌く光の一撃は、その輝きの分を反転させるかのように、まるで太陽の黒点に生まれ変わるかのように漆黒の龍となって、その咢を広げて邪悪な落とし仔へと向かうのだった。

 

 

 

 

to be continued…



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1-2 機械仕掛けの神

3つのデモベ作品の設定を統合して整理なおしての再構成でこうなってしまいました。まぁ、シュロウガ出すよりもらしくなるかとは思ております。でもご都合主義なんですがね相変わらず。


 

 星すらも砕くだろうと思わせる程の力を秘めた龍の咢。

 

 その黒き閃光は正しくウェイトリイの顔面へと吸い込まれ、直撃した。

 

「くっ――!」

 

 爆風が丘を襲う。閃光と爆炎がすべてを無に帰す。無限熱量には及ばずとも、神獣と撃ち合える威力のある一撃だ。全身全霊を込めている一撃に、いくら落とし仔であっても無事では済まないだろう。

 

 これで終わるとするのならばそれでも良い。あっけなく終わる方が楽で良い。だがその程度で終わるのならば鬼械神が必要なまでの存在ではない。

 

 油断なく、弓は構えたままで煙が晴れるのを待つ。

 

「マスター!」

 

「っ、くぁっ!!」

 

 爆煙の中から撓る触手が飛び出し、クロウの身体を締め上げて拘束した。

 

「マスター!! きゃあああっ」

 

 慌ててクロウを助けようとするクロハだったが、次いで襲ってきた触手が彼女を強かに打ち払った。

 

「ま、す、たぁ……っ」

 

「っ、クロハ…!」

 

 ウェイトリイは鬼械神クラスの大きさだ。その触手も太く、直撃すれば無事では済まない。魔導書の精霊であるが故に普通の人間よりも頑丈であっても、ダメージは深いクロハは起き上がれずに、苦し気に主の名を呼びながら手を伸ばす。

 

 それを見て憤怒の表情を浮かべながら、クロウはウェイトリイを睨みつける。

 

 その人間の顔は酷く抉れていて、タールの様な黒々とした血を流しているが、生きている。

 

 ここに来て最早ウェイトリィの弟の方は人間の範疇を超えて確実にあちら側の存在であると改めて認識する。顔を半分抉られているのに生きている。その事実だけでも驚愕に値する上にその生命力の強さに厭きれる。

 

 だが厭きればかりもいられない。身体強化に魔力を注ぎ込み、四肢を拘束する触手を力任せに引き千切る。

 

天狼星(シリウス)の弓よ!」

 

 再び弓に矢を番え、今度は手数で勝負する。襲い来る触手を次々に撃ち落とす。――しかし直ぐに追いつかなくなるというある種の予定調和に、日本刀での迎撃に切り替える。

 

「っ、こんのォ!!」

 

 白き王が悪態を吐く気持ちが理解できた。実際に相対するとここまで面倒な性質の敵は居ない。

 

 日本刀に術式を通し、天狼星の弓を構築する魔力を注ぎ、振り下ろした剣圧の衝撃波が迫りくる触手の気勢を削ぐ。

 

「クロハ!」

 

「ます、たぁ…」

 

 クロハに駆け寄り、抱き起す。そして外套に魔力を流して飛翔する。

 

「もうし、わけ、ございま、せ、ん…」

 

「喋らなくていい。とにかく撤退を――」

 

 そこまで言った所で、ガクンと、飛翔するベクトルが落下に変わった。

 

「しまっ――!?」

 

 それは触手によって足を掴まれ、クロウは勢い良く地面に向かって振り下ろすように叩き付けられてしまった。

 

「ぐあああああああっ」

 

「きゃあああっ」

 

 辛うじてクロハを守れたクロウではあるが、術衣を身に纏っていても防ぎきれない衝撃に内臓の中身が飛び出しそうなほどだった。

 

「ぐ、がはっ」

 

 そしてその負荷を受けた内臓が血反吐をクロウに吐き出させた。

 

 そのまま触手はクロウの身体を引き摺って持ち上げた。

 

「っ、ますたー…!!」

 

 その瞬間にどうにかクロハだけは手放せたクロウは、クロハに向けて叫んだ。

 

「覇道に伝えろ!! 行けっ」

 

『ヰぐなぃぃぃイぃい――』

 

 人ではない雄たけびを上げ、ウェイトリイはクロウをその抉れた口の中へと放り込んだ。

 

「ま、……マスタぁぁぁぁああああああ――!!!!

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 上も下も。右も左も。上下左右という概念がない空間を、クロウは落ちていた。

 

 真っ暗闇の中で、クロウは己の意識を保っていた。

 

 敗北。少しでも勝てると驕った自分の末路としては相応しい。

 

 思い越すのは黒い少女。こんな自分を助け、共に戦ってくれた少女。

 

 彼女に伝言を頼んだのだから、この事件は解決されるだろう。自分は邪神の落とし仔の腹の中で諸共に処分されるのだろう。仕方がない。挑んだ結果なのだ。自分の力で復讐すると息巻いた結果がこれである。とんだお笑い物だ。

 

 本当に、このまま終わって良いのか?

 

 終わりで良いのか?

 

 終わりで構わないだろう。自分はどう足掻いたとしても、物語の主人公ではないのだから。

 

 だから諦めても良いのか? 邪悪に挑む覚悟はその程度の物だったのか? 1度や2度の失敗で萎えてしまう程度の甘い決意に、自分の恩人を巻き込んだ恥知らずのままで終わるのか?

 

 自分と共に落ちてきた刀が目に留まる。

 

 漆黒の刀身に柄は白く鍔が無い。

 

 諦めなければ必ず夢は叶うと信じている父親の暑苦しい顔が浮かんだ。

 

 自分が憧れた英雄は何があっても諦めなかった。どれだけ険しい道であっても踏破した。

 

 試練に際してこそ人は輝けるのだという父親の言葉は、理解している。そういった英雄譚に心が躍らないとはいわない。自分も男なのだ。だから少なからず英雄願望はある。そしてヒーローに憧れる気持ちもある。

 

 ならば立ち上がれるはずだ。己はまだ負けていない。()()()()()()()()()()()()()だろう。

 

 丸飲みにされただけで、五体満足だ。

 

 ならば出来るはずだ。立ち上がれるはずだ。憧れの英雄(ヒーロー)の様に。

 

 白き王の様に、無様でも、何度倒れても、それでも再び立ち上がり続ければ良い。今ある感情。復讐心。それだけではない。

 

 無様でも構いやしない。最後に˝勝つ˝。それのみを完遂する。故に諦めるものか。諦めて堪るか。

 

 そんな明日の目覚めが悪くなるような選択が出来るか。それで後ろ髪引かれて後悔と未練タレタレの道を選べるか。

 

 コメカミはズキズキする、うなじはジリジリする、胸はムカムカする、心臓はバクバクする、胃はシクシクするという散々な状態だ。

 

 ああ、そうか。こういうことなのか――。

 

 視界が灼ける。耳鳴りがする。鼻の奥がきな臭い。舌が乾く。咽喉が渇く。胸の奥が熱くて、腹の底が冷たい。

 

 こんなのは嫌だ。大嫌いだ。まったくもって不愉快だ。

 

 よろしくない。これだけは大変よろしくない。こんな感覚が――。

 

 邪悪を赦せない感情も本物だ。だからわかる。このままで終われない後味の悪さ。

 

 何より格好がつかない。故にもう一度立ち上がる。自分だって面子を気にする程度には男なのだから。

 

 確かに打つ手が現状ではない。どうしようもない悪足掻きをしようにも、相手は自分よりも上位の存在で、人間の悪足掻きを容易く砕ける存在だ。

 

 なにも出来ないのか。打つ手がないからこのまま終わるしかないのか。そんなのが許されるのか。打つ手がない、なにも出来ない。

 

 否、そんなはずはない。探せばあるはずた。たとえなにもなくとも、何かか出来るはずだ。

 

 なんだって、出来るはずだ。

 

 そう、無限螺旋を戦い抜いた白き王は言ったのだ。もっとも信奉し、信仰する()()()()が言ったのだ。

 

 ならば成せる。出来る。そう信じて突き進む。たとえこの世界の神が無駄だと論じようとも挑み続ける。

 

 そうして神の摂理に挑み、踏破した者達を識っているからだ。

 

 カチッ――。

 

 何かが填まるような音と共に頭の中を術式が駆け巡る。それと同時に舞い込むのは――。

 

「ッ――――――!!」

 

 雑念が紛れ込んだ。

 

 自我の防壁をいとも容易く擦り抜け、怒涛の如く流れ込んでくる大質量の思念。

 

 灼けるように熱く。壊れそうなほどに烈しく。

 

 苛烈で壮絶な魂の衝動/燃焼/激動/疾走/爆発/嵐――。

 

 強く/優しく/陽気に/愛しく――。

 

 その正体を、知らない、だが識っている――。

 

 光。

 

 眩い光。全てを照らさんとするどこまでも眩い白き闇。激しい闇。

 

 まるで泡沫のように滲む景色に、彼らの背中はあった。

 

 強く/優しく/陽気に/愛しく、包み込んでくれるかのような温かい背中だ。

 

 だがその背中は、多くの傷を刻み、血を流した背中だ。血で染まりきり、溺れてしまいそうな血を流した背中だ。

 

 その背中を支えるのはなんなのか。その背中を突き動かすのはなんなのか。

 

 親でもなければ、無垢なる刃でもない自分には計り知れない。でも――。

 

 明日を求めた彼らのその気持ちは、わかるような気がする。

 

 背中が振り向いた。陽光に照らされて、その顔はわからない。なにかを呟いているようにも見えても、その言葉は届かない。だから、

 

 ――手を伸ばした。

 

 理不尽な邪悪を、どうにも出来ない大理不尽の神を、どうすれば良いのか、自分はどうしたら良いのか。そんな問いを願いと込めて手を伸ばした。

 

 どんな絶望にも、どんな理不尽の前にも、何度も何度も傷つき、倒れても。傷だらけになって、たくさんの血をながして、でも、それでも諦めない。

 

 何度も何度も立ち上がって、涙を堪えて、歯を食い縛り、剣を手に、何度も何度も挑み続けるその姿に。

 

 いつの間にか背後に聳え立つ、物言わぬ、血濡れの刃を見上げる。その意志と、心を、想いを託し、彼は堕ちた。堕とされた。そして無垢なる刃は罪に濡れようとも、己の戦友の仔を守り続けた。己の使命に反してまで。己の存在意義に反してまで。使命か、無垢なる願いか。刃金の巨人は涙を流し、そして使命ではなく仔を選んだ。それが理不尽に流れ落ちる涙を赦せなかった彼の精一杯の答えだったのだろう。

 

 彼の様に強くもない。立派でもければ無様も晒せない。ちっぽけで無力なニンゲンでしかない。

 

 物言わぬ、血濡れの刃を見上げる。その意志と、心を、想いを託し、堕ちた刃を見上げる。

 

 頭の中に響く術式。それを自分が解放しても良いのだろうか。全く接点のない自分が、この力を振るう資格があるのだろうか。

 

 しかしこの力に頼らなければ、この邪悪を滅する事は出来ない。

 

 咎は受けよう。この力を分不相応に振るうことの罪も受けよう。だから今は、この力を振るわせて欲しい。

 

 印を結び、剣指を作り、クロウは中空に指を走らせる。

 

「……刃よ。血濡れし刃よ。たとえ汝が罪に錆びゆくとも、我は汝の同胞なり」

 

 互いに罪に穢れようとも、その心はひとつ。ただ赦せない、赦しては置けない邪悪を滅する為。

 

 物言わぬ刃金よ……。まだ、覚悟が足りいのかもしれない。純粋に、正義の路を歩めないかもしれない。それででも――。

 

「無垢なる怒りでも、切なる願いでもない。単なるわがままだとしても、コイツだけは赦しておけないんだ」

 

 思考が加速する。世界の法則に接続し、演算し、導きだした式に、自らの理論を書き加え、自分の世界を創造する。

 

 それがこの世界の魔術。真実の眼を以て、世界と繋がり外道の知識で世界を創造する秘術。

 

 世界に意識を張り巡らせ、己に都合の良い世界を産み出す。字祷子(アザトース)を伝い、繋がっている刃金の巨人を呼び醒ます。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

 虚空の空より来たりて、切なる叫びを聴き、我は明日への路を切り開く。

 

 それでは御伽噺を始めよう。

 

 すべての始まり、暗黒神話を打ち破る荒唐無稽な生命の唄。

 

 血の夢を編む、血の薫り高き薔薇/血の誇り高き騎士、血闘のアンビバレンス。

 

 気高き血塗れの刃を彩る光。

 

 悪鬼羅刹魑魅魍魎、遍く邪悪を討つ。

 

 たとえ傷ついても、その傷の数だけ、魂に刻む闘志は誰にも消せはしない。

 

 あの仔/娘が静かに眠れる日まで、すべてを懸けて戦う。

 

 本当に陳腐でこどもみたいな御伽噺ばかりだ。だが、そんな純粋で無垢な御伽噺が、誰にも消せない生命の詩になるのだ。

 

 希望を紡いで、明日を紡いで、未来を紡いで、勝利を紡いで、その紡ぎ手は光りに約束された勝利の剣となる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神。紅く、血の色に染まる機械神(デウスマキナ)

 

 その姿をクロハは見たことはない。だが、見たことはないのにその機械神(デウスマキナ)が何であるかを彼女は魂で理解していた。

 

 汝は憎悪に燃える空より生まれ落ちた涙――。

 

 汝は、流された血を舐める炎に宿りし、正しき怒り――。

 

 汝は、無垢なる刃――。

 

 汝は『魔を断つ者』――。

 

 汝は、汝は…、汝は――。

 

デモン…、ベインッ!!

 

 親の仇、宿敵、怨念すら込めそうなほどの聲で、魂からその名を絞り出す。

 

 血に濡れた刃(デモンベイン・ブラッド)が動き出す。その拳を、ウェイトリイの腹部へと突き差した。

 

『ヰアアァアえギィやアアァアァァアアァア――!!!!』

 

 腹部を裂かれた痛みに暴れるウェイトリイ。触腕と、胎内の触手が不規則な軌道で振るわれる。

 

 だが紅い結界に阻まれて、デモンベイン・ブラッドには全くダメージを与えることなく無意味な抵抗になっている。

 

 肉を引き千切る音と共に、鋼の腕が引き抜かれ、その拳が開かれると、鋼鉄の手に突き立てた刀の上に両手を添えて雄々しく立ちながらウェイトリイを睨みつけるクロウの姿があった。

 

「マスター!!」

 

 主の無事を喜ぶクロハの身体が頁に解けて、風に乗ってその頁はクロウのもとに運ばれ、再び人の姿を取る。

 

「マスター、マスター! マスター!!」

 

 主に大事はないか身体を触りながら縋りつく様に泣き崩れてしまうクロハを、申し訳なく思いながらクロウはその髪を撫でた。指通りの良い、いつまでも梳いていたい手触りの髪を撫でながら、その頭をポンポンと軽く叩くと、涙を流すクロハが顔を上げたのを見計らって声を掛けた。

 

「立てるか? クロハ」

 

「――イエス、マイ・マスター」

 

 魔導書と魔術師は魂で繋がっている。意識すれば互いの心すら互いに理解できるのだ。

 

 主は戦おうとしている。その闘志を漏れなくクロハも感じ取っていた。

 

 そのメカニズムをまだクロウは知らない。だが、魔導書と魔術師――白と黒き王のふたりが、何故無限螺旋を戦い抜けるのかというその本質の一つを、今この瞬間にクロウは体験していた。

 

 互いの心が、互いの魂が、互いを守り、励まし、慈しみ、奮い立たせる。

 

 そしてその想いと血が、機神の魂を動かすのだ。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

「システム掌握。銀鍵守護神機関、及び獅子の心臓正常稼働確認。全ステータス、オールグリーン。マスター、ご指示を」

 

 魂の怨恨。それを未だにクロハは感じていた。だが、宿敵であるが故、魂の怨敵であるが故。その機能を掌握するのは容易かった。

 

 そして操作に関するマニュアルを脳内にインプットしていたクロウも同時に意識を戦闘に向けた。

 

 ウェイトリイは目の前の巨人に怯えにも似た感情を抱いていた。この巨人は同類だ。しかし何かが決定的に違うのだ。そして、歯向かえば死ぬという明確な恐怖が身体を硬直させていたのだ。

 

「始めるぞ、クロハ――」

 

「イエス、マスター――」

 

 操縦桿を動かせばデモンベイン・ブラッドが動き、その様子にウェイトリイが怯む。

 

 機械神(デウスマキナ)で戦ったことなどない。しかし、どう動かせばいいのかは既に頭に入っている。全ての機能(システム)はクロハが掌握している。そのお陰もあって自分はどうこの巨人を動かせばいいのかハッキリと認識している。

 

 あとは、白き王の様に戦うだけだ。

 

「ティマイオス、クリティアス!!」

 

「断鎖術式解放・爆裂(エクスプロージョン)――!」

 

 脚部シールドから紫電が迸り、空間を眼に見えて歪ませた。エネルギーによって砕かれた岩が、テープの再生と巻き戻しを繰り返すかのように、一瞬、昇ったり落ちたりを繰り返した。

 

 デモンベイン・ブラッドの足元で、莫大なエネルギーが爆裂した。刹那――。

 

 デモンベイン・ブラッドはウェイトリイに向かって爆発的な速度で猛進する。

 

 断鎖術式を解放する事によって、時空間を捻じ曲げ、それが戻ろうとする作用。その時空間歪曲エネルギーと重力操作で高機動性を獲得するデモンベインの機動システム。50m級のスーパーロボットが軽々しく動けるのも、この術式があればこそだ。でなければ機動性は4割も行かない程に。とても、とても、重要な役割を果たしているのだ。

 

『ヰぐなぃぃぃいィいい』

 

 巨大な触手を振りまわし、しならせて襲ってくるウェイトリイ。それはさながら鞭の様で、達人が振るえば音速を超える。その理屈をその神の仔である出鱈目な肉体だけで再現する。

 

 見えないのならば諸共に粉砕するのみだ。

 

 精神を集中させ、研ぎ澄ませる。

 

 冷たく澄んだ思考が脳裏を何よりも速く、疾走する。光となった思考が、その意志を燃やしだす。

 

 そして熱せられた血液が、身体中に行き渡り、力を漲らせる。

 

 その感覚を、クロウは意識ではなく本能から理解する。

 

 これが魔術の本懐。荒ぶる魂を理性で制御するという感覚。

 

 魔術師としての覚醒――。

 

 それを喜ぶ暇はなく、疾走した意識は体感時間を引き延ばしながら、されども思考速度は無限の加速を続けて行く。

 

 己の内で精製した魔力を、意識という名の術式を乗せて、外側へ――刃金の巨人へと広げていく。

 

 デモンベインの脚を庇う様に備え付けられた巨大な脚部シールド。その城壁の如く供えられた盾の表面で魔術文字が走り、エネルギーのうねりを発生させる。魔術回路が発光し、ただならぬ力が込められていくのを外見からでも理解できるだろう。

 

 脚部シールドから時空間歪曲エネルギーが紫電となって漏れ出すが、それを更に集束する。逃げ場のない紫電は閃光を灯し、デモンベインの振り上げられた脚部は死神の鎌の様な半月の軌跡を描く。

 

 今、デモンベインは正しく魔を断つ剣として、目の前の邪悪を断ち切る死神としての刃を、渾身の回し蹴りをその刃として振り抜いた。

 

「アトランティス・ストライク――!!」

 

 デモンベインの近接粉砕呪法。面倒な手順(プロセス)を踏むことなく放てる最強武装。

 

 時空間歪曲エネルギーを直接打ち込む必殺技。

 

 その爆発力を湛えるデモンベイン・ブラッドは飛び蹴りの姿勢のまま時空間歪曲エネルギーの奔流で触手を粉砕し、邪神とも言えるウェイトリイの胴体に、その超重量・超破壊力を備えた一撃を打ち込んだ。

 

 迸るエネルギーが空間ごとウェイトリイの身体を粉砕し、爆裂し、炸裂した破壊力でその巨体を吹き飛ばした。

 

 手応えはあった。しかしそれ以上に、直感的にトドメは刺せていないと感じる。土煙が晴れ、そこには汚穢な体液を撒き散らしながら、体組織の半分近くを吹き飛ばしても生きているウェイトリイが悶えている様子が見える。

 

「大分、しぶとい様ですね」

 

「半分人間でも、半分は神――だからな」

 

 そう。これは邪悪を断つだけではない。今から自分は神殺しをしようというのだ。

 

 だが不安はない。何故ならこの魔を断つ剣は、神すらも断ち切った剣なのだ。

 

 切実なる生命の叫びを胸に、無限螺旋を踏破し、邪神の思惑を狂った因果と諸共に断ち切った神殺しの刃なのだ。

 

 神を模した人の造りし神。機械仕掛けの神――鬼械神(デウス・エクス・マキナ)

 

 その更に模造品。粗悪な紛い物。だが人間が生み出した人間の為の機械仕掛けの神――機械神(デウスマキナ)

 

 未来(あす)の光をその手に掴む想いがあれば応えてくれる。人間の切なる叫びを聞き届けてくれる。

 

 人間の為に力を振るってくれるご都合主義の神様。

 

 それでもこの身は血と罪に穢れしもの。魔を断つ剣なれども、栄光には程遠く、また光を目指すには最早この身は不浄なれば。

 

「ならばその罪も何もかも一緒に背負ってやる。どんな姿であっても、どんな存在であっても、その意志を貫く限り、魔を断つ剣として存在し続ける!」

 

「マスター?」

 

 デモンベイン・ブラッドが、その姿を変えていく。紅ではない。闇を溶かし込んだかのような黒々しい紅い血が装甲から湧き出していく。

 

 それを凝固化させ、鎧を身に纏う。それは人に叡智を齎す存在。そして同様に混沌を齎す存在。千の無貌を持つ邪神の一つの貌。

 

 だが識っている。邪神であっても、その意志を貫けば属性は変わる。

 

 邪神であっても魔を断つ剣となった存在を識る。

 

 邪神であっても旧神として覚醒した存在を識る。

 

 ならば、罪に濡れて闇に堕ちても魔を断つ剣となれるはずだ。いいや、なってみせよう。その証を立てて見せよう。

 

「クロハ。ヒラニプラ・システムに接続(アクセス)したい。できるか?」

 

「イエス、マスター。少々お時間を」

 

 そう言って作業に取り掛かるクロハから、クロウは邪神に視線を向ける。

 

 破損した身体からブクブクと醜く醜悪な光景と共に再生を始めている存在。最早人間でもなにものでもなく邪悪そのものだ。

 

 故に必ず倒さなければならない。

 

 無数の触手があらゆる角度、ありえざる角度から襲って来る。

 

「エレクトリック・ブラスト!!」

 

 混沌の闇にまで汚染されていた血濡れの刃。だが自らを魔を断つ剣に擬態させて失敗した様に。魔を断つ剣に潜んでいても失敗するのは最早予定調和だ。

 

 気合と根性で機体のコントロールを制御下に置き、その力を捻じ伏せて支配下に置く。

 

 それによってステータスが変化し、クロックの力を得たデモンベイン・クロックワーク・ブラッド――デモンベイン・クロックはその両手から電撃の嵐を撃ち出し、ウェイトリイの触手を焼き払った。

 

 稲妻に触れた触手の群れが一斉に泡立ち、蒸発する。

 

 鬣状に発生しているビームに術式が迸り、捕縛ワイヤーとなってウェイトリイを締め上げた。

 

 これで締め上げている限り消えることも逃げる事も叶わない。逃がしはしない。必ずこの場で滅する。

 

 だが――。

 

「ッ、これでも消えられるのか!?」

 

 雁字搦めにした筈のワイヤーから手応えが消えた。クロウが見ている前で、醜悪な姿が霞の様に消えたのだあれほどの巨体が跡形も無く、消滅した。その場には化け物が居たという痕跡だけを残して。

 

「アレは本来、不可視の怪物です。加えて次元を超える能力。厄介ですね」

 

 次元を超える力は、その父親がなんであるか知っているから驚きもしない。しかしそれ程に浸食は進んでいるというわけでもある。

 

 もう一度イブン=ガズイの粉薬を使おうかと思った時だった。

 

 ウェイトリイが消えた辺りで魔法陣が浮かび上がり、魔力の爆発が起こる。

 

 旧き印と共に空間に広がる魔力の波動は呪文を描き、事象として顕現する。

 

 光の粒子が溢れ、空間に満ちて行く。

 

 淡い光の霧の中に、巨大な影が浮かび上がって行く。

 

 空間を破壊する様な音と共にウェイトリイが再び姿を現した。苦し気にのたうち回る姿は無理やり実体化させられたことによるものだろうか。

 

 今のは間違いなく霊質と物質を結びつける術式だった。それを行うイブン=ガズイの粉薬。自分以外にこの場にそのアーティファクトを持ち込み、さらにウェイトリイの性質も知っている人間は限られている。

 

 村の方に視線を向ければ、初老の男性と壮年の男性と青年とも見れる若々しい男性の三人組が見える。

 

 ミスカトニック大学秘密図書館特殊資料室の誇る三銃士の姿だった。

 

 その援護に感謝するが、却って少しマズいともクロウは思った。デモンベイン・ブラッドの姿を見られていないかという懸念だったが、それは後回しだ。

 

「マスター!」

 

 頭の中に術式が廻る。必要な術式の手順がダウンロードされた。

 

「やるぞ、クロハ!」

 

「イエス、マスター!」

 

 剣指を作るデモンベイン・クロック。その合わせられた剣指の手の内には超高密度の魔力の塊が産まれている。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 クロウが吠え、重ね合わせた両腕を天に掲げ、左右に広げながら降り下ろす。

 

 後光の如く輝く五芒星の印――旧き印(エルダー・サイン)が、邪悪を討ち祓う結印が一際輝きを増し、結界を作り出した。

 

 そして紡がれるのは、未来永劫過去永劫現在永劫変わることなく語り継がれ紡がれる破邪の祝詞。

 

「光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所なし!」

 

 天高く掲げられたデモンベイン・クロックの右の掌に超高密度の魔力が収束する。高密度の術式と魔力が駆け抜け、必滅の威力を封じ込めた術式が覚醒する。

 

「渇かず、飢えず、無に還れ!」

 

 デモンベイン・クロックが地を蹴り、疾駆する。掌から溢れ出す閃光が邪悪を、白い闇で染め上げる。

 

 邪神の落とし仔が、巨人の右手に宿る輝きを見た瞬間、怯えた。その破滅の光を、魂が識っていた。だがもう、逃れるには致命的な距離だった。

 

 神をも滅する第一近接昇華呪法――その名は!!

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 必殺の一撃を乗せて、デモンベイン・クロックの右の掌は吸い込まれるようにウェイトリイのボディに叩き込まれ、必滅の術式がその内部へと浸透していく。

 

「昇華!」

 

 必滅の呪文が世界に響き渡り、デモンベイン・クロックの掌から放たれた光が、世界を白い闇で埋め尽くし、塗り潰し、染め上げ、閉じ込めた。

 

『エエ・ヤ・ヤァ・ヤハアアア――エ・ヤヤヤアアアア……ング・アアアアア……ング・アアア……フユウ……フユウ……助けッ、助けて! チ――チ――、ちち、父上ぇ! 父上ぇぇぇぇぇぇ! ヨグ=ソトぉぉぉス――ッ』

 

 暴虐の光の中。魂を冒さんばかりの断末魔。だがその断末魔は結界に封ぜられた無限熱量の暴虐によって、邪悪な者の実体も、魂も、その悉くを滅却し、昇華させた。

 

 断末魔の余韻の様に、何処からともなく夜鷹(ウィップアーウィル)の嬌声が無数に重なり轟いた。

 

 夜鷹が啼いた。即ちウェイトリイの魂は連れていかれたのだろう――。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 レムリア・インパクトの爆発に紛れて、クロウはデモンベイン・クロックを離脱させていた。

 

 マサチューセッツ州を離れ、ウィスコンシン州のリック湖周辺の森に降り立った。

 

 そこは森とは最早名ばかりであり、焼滅した土地が残るのみだ。この土地は地球が死ぬまでこのままだろう。

 

 ここに何があるのか、クロウは知っていて立ち寄った。

 

 デモンベイン・クロックがざわついている。だがそれでも心を強く保つ。

 

「マスター…」

 

 この土地の不気味の悪さは、クロハも感じていた。

 

 クロウに寄り添い、服の裾をきつく掴む様子に、クロウは彼女を外套で包み込む。気休めかもしれないが、精神を安定させる術式を走らせる。

 

 コックピットを開け放つと、鼻に突く焦げ臭い香り。

 

 だがそれも一瞬でなくなる。

 

「やあ。いらっしゃい」

 

「ッ――!?」

 

 いつの間にか目の前に、黒いスーツ姿で、胸元を惜しげもなく晒している赤目の女が存在していた。

 

 いつの間にそこに居たのか認識すらできなかった。

 

「フフフ。別に身構えなくてもいいさ。今の、この僕は、君に危害を加えようとは思っていないからね」

 

 時間も空間も、このクラインの壺の中でなら自由自在。それこそ庭なのだから当たり前なのだろう。

 

 焼き尽くされた土地が一瞬で鬱蒼と茂った冥い闇を孕んだ森に変わった。

 

 ド・マリニ―の時計を超える上位の時間逆行・空間操作能力を持つ目の前の邪神からすれば、先程の死闘でさえ、なかった物に出来るのだから。

 

「それにしても驚いたものだ。ナコト写本だけでなく、デモンベインだけでなく、何処かの僕でさえ従えてしまう。君は面白い存在だね」

 

 そういう混沌の姿が崩れ、人の形を捨てた闇が覆いかぶさろうとする。

 

 だがそれは紅い結界によって弾かれた。紅い、五芒星の結界。

 

「おやおや。これは少し厄介かな?」

 

 その結界に触れた闇は浄化される様に塵となった。

 

「ひとつ聞きたい。ここから出る方法を」

 

 どうやって入ったかはわからないものの、出る方法くらい目の前の存在なら知っているだろうと、態々危険を承知で訊ねに来たのだ。ここ以外でアーカムシティの古本屋を探すよりも会える可能性のある場所を知らなかったとも言える。

 

「ここから出たいのかい? せっかく憧れの舞台に立てたのに?」

 

「御託は沢山だ。お前に関わってマトモに過ごせるとは思わない。もう充分だ」

 

 それこそ無限螺旋に巻き込まれるなんてシャレにもならない。それ以上に目の前の存在に利用される前にこのクラインの壺から脱出しなければならないのだ。だから敢えてその方法を知る者に、利用される危険性を犯してまで会いに来たのだ。

 

「まぁまぁ。少し落ち着いたらどうだい? お茶でも飲んでリラックスしながら話そうじゃないか」

 

 そう言って人の姿に戻り、デモンベイン・クロックの胸の上でお茶会セット、テーブルとイスも込みを用意する邪神の根性に言葉もない。デモンベインという宿敵の胸の上でお茶を飲める気になる神経がわからない。

 

「ここは僕の庭さ。僕の領域。その気になれば僕はいつでも君を食べちゃえるんだけどなぁ」

 

 ふざけているが、それも事実だろう。妙な真似をする。と言うよりかは機嫌を損ねた瞬間に自分の命はないだろう。

 

 故に席に着く。クロハは膝に抱えるが、外套で隠し、対面座位の様な格好になるが、彼女を邪神から守る格好となるとこれしか思いつかなかった。

 

「フフフ。随分気に入って貰えたみたいだね。良い魔術師に出逢えたみたいでなによりだ」

 

 意識を向けられたクロハが腕の中で震えた。その身体を確りと抱きしめて混沌を睨む。そうすると大げさなジェスチャーをする様にやれやれと混沌は首を振った。

 

「そう恐い顔をしないでくれよ。お姉さんコワくなっちゃうゾ♪」

 

「寝言は寝てから言え」

 

 出された紅茶を口に含む。さすがにここに来て変な仕掛けをする程外道でもない――と思う自信がない。

 

 それでも男は度胸だと、口に含んだ紅茶を飲み込む。

 

「あはは。僕がどんな存在か知っていて、そのお茶を躊躇なく飲むなんて。カッコいいねぇ。そのカッコよさに免じてその紅茶は種も仕掛けもない普通の紅茶――という事にしておこう」

 

 さりげなく厭らしい事をしていたのだろう邪神に、眉を顰める。なにか文句をつければこの紅茶もアウトだったのだろうか。笑えない冗談だ。

 

「まぁまぁ。取り敢えず、状況を簡潔に伝えるとね。君には代役をしてもらいたくなったんだ」

 

「代役?」

 

 だれの、なんの、そう思う前に何故だかなんとなく理解した。

 

「実は言うとだ。マスターテリオンは前回の戦いで魔導書を失ってしまったんだよ。いやはや、まさか九郎くんもやってくれるとは思わなかったよ」

 

 それを聞いて驚かずにはいられなかった。マスターテリオンが白き王に手傷を負わせられたなんて、失礼だが信じられないが。ここで邪神が自分にウソ吐く理由がない為、先を促した。

 

「そのお陰でマスターテリオンとアル・アジフが生き残った。まぁ、九郎くんに関しては構わないんだけど、問題はナコト写本――エセルドレーダさ。彼女を再構成するには15世紀に掛かれる原本を都合するしかないんだけど、経験値がゼロからのやり直しでね。マスターがマスターテリオンだから復帰も速いだろうけど、今回には間に合わない」

 

「なら世界をリセットすれば済む話だろう」

 

 そうだ。そうすればなかったことに出来るのだ。そうする事で火星人の襲撃を無くした例も知っている。だから態々そんなまどろっこしい事をしなくても良いはずだ。

 

「僕にとっては、このクラインの壺の中での現在過去未来という概念は関係ないんだ。どこに視点を置くかの違いしかない」

 

「過去でも現在でも未来でも同じ時間軸として認識できると?」

 

「そういうことさ。賢い子は好きだよ」

 

 邪神に好かれても有難味もなにも感じないのだが。そういうことは、既に未来もある程度決まっているという事だ。なのに態々こうして尋ねてくる。運営も楽じゃないだろう。とはいえここが一つの分岐で、選択肢の一つだろう。

 

「乗るか反るか。まぁ、どっちでも面白いとは思うんだけどね」

 

 どちらでも構わない。そう言う邪神だが、その答えの先を知っている筈だ。

 

 知っていて強制はしないのならば、こちらに自由に選択する意志はあっても結果は同じなのだろう。だから嗤いながらこちらを観察しているのだろう。

 

 ここで断った場合。おそらく逃げる事の出来ない理由を作って従わせるという最悪なシナリオが待っている――可能性が否定できない。ならば積極的に申し出を受けた場合は、自分は白き王の敵だ。

 

 自分は魔を断つ刃を振るった。邪悪を断ち切る剣を手にした。しかし血に濡れて、罪を犯し、咎を受ける覚悟も共に背負うと決めたのではないのか。

 

 ならば答えは決まっている――。

 

 

 

 

to be continued…



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1-3 インスマウスの影

やっぱりどうしても序盤の修練場という運命から逃れられない土地インスマウス。

悪徳篇に関しては今までやらなかった如何にして黒き王の代役になって行くのかを描写したいと序盤はそんな風なお話になると思います。


 

「この様な場所に只の童が紛れ込むとはな」

 

 その男との出逢いは、自分が一生忘れはしないと断言できる。

 

「時に童よ。お前に夢はあるか?」

 

 夢。そんなものはなかった。

 

 その時の自分は何もなかった。真っ白だった。備えるべきものすら持たない無智の存在だった。

 

 親もなく、家族もなく、しかし言語は備えていた。思考も備えていた。だがそれ以上は何もない。問われた言葉の意味を理解出来ても答えは出せなかった。

 

 故にない。目指したい展望もなく、なりたいという自己の未来すらなかった。

 

「ほう。いやはや。お前はどうも面白い存在の様だ。夢がないとは言うが、それは目指したいものを選定する尺度がそもそもないからだ」

 

 だから無責任な言葉は紡がない。愛想を取り繕ったところで意味はない。目の前の男はそれを望まない。それだけは理解できた。

 

「だが童が、夢はないと真顔で語る。その姿には悲しさすら覚える。如何様な生まれかは知らぬが、お前の様な年頃の童は、まだ夢物語を語る様な夢幻を口にする権利があるというのに」

 

 その男は心底嘆かわしいと言わんばかりに告げた。そうは言われても仕方がないのだ。物は考えられるが知らないのだ。識ってはいても知らない。故に会話は出来ても価値観の共有は出来ない。受け答えだけは出来る人形。白痴の様な存在。

 

 夢はない。なにしろそれを口に出来るほど自分は生きてすらいない。それどころか生まれてすらも居なかった。

 

 だから夢はない。それを指標にし、指針にして突き進む。選定する為の経験がない。だからないとしか言いようがなかった。

 

「ならば探してみるか? お前が掲げるに値する夢を」

 

 夢を探す。その時の自身はそれがどういう意味なのかを理解は出来て理解出来なかった。言葉の意味は解っても意味まではわからなかった。

 

「この邯鄲(ユメ)の中でなら、それも出来よう。望むがままにすべてが叶う。そう、夢を探すことすら容易だ」

 

 まるで悪魔の誘いだ。怪しさ全開の言葉。なのに惹き付けられるなにかがある。

 

「夢を叶える為に努力する。それは当たり前の事だ。だが夢を探す為に努力する、変わり種だがそれもまたよし」

 

 おかしな話だと思う。夢がないから夢を探してみよう。そんな話なだけだ。

 

「これもなにかの縁。もしくは世界、あるいは誰かの気紛れやもしれん。だが何処(いずこ)かの(セカイ)からやって来た無望の童よ。この俺がお前を手助けしてやろう」

 

 マントを広げながら楽しそうに笑う男。それは只の気紛れだったのかもしれない。実際気まぐれだろう。だが同時に、これから歩き出す子供の行く末を愉しむ様な、そんな気配すらあった。

 

「見せてみてくれ、童よ。お前が掲げるに値する夢を手に入れる時を。夢を叶える瞬間を。夢を叶える為に試練に立ち向かう輝きを」

 

 そこからすべてが始まった。

 

 夢界の中で夢を探す。言葉だけなら頭がおかしい人間の言葉に聞こえるだろう。

 

 だが夢の世界はそんな生易しいものではなかった。

 

 現実化された夢はもはや夢とは言えない。それは現実と変わりはしない。

 

 そんな邯鄲(ユメ)の中で出逢ったのが、暗黒神話を踏破するいのちの詩の物語だった。

 

 何度も何度も倒れても、傷ついても、剣が折れても立ち上がって、人には抗い難い存在に挑んでいく姿が心を鷲掴んだ。

 

 初めてそれが夢を抱いた瞬間だった。あんな風になりたいと。何があっても諦めない、挫けない、強い人間になりたいと思った。

 

 だがどうすれば良いのかわからなかった。夢は抱くものでもあると同時に叶える為にある。でなければ夢とは言えない。

 

 夢を叶える為にはどうすれば良い。抱いた夢は職業の様に定められた物ではない。それは偉業を成した者に贈られる称讃の様なものだ。故に目指すべき終着点も曖昧だ。明確に、それを成せば辿り着けるという物でもない。ならばどうすればこの夢は叶えられるのだろうか。いくら諦めなければ必ず叶うと言われても、何をどう目指せばこの夢が叶えられるのかわからなければ意味がない。

 

 あの男はそんな思い悩む自分を笑いながら讃えた。そしてその道の進み方は自分で見つけてこそ意味があるものだと言って、結局答えは得られなかった。

 

 故に悩みに悩みながら、想いを踏破しつつける邯鄲(ユメ)を見続けた。

 

 自分には明確な指針も何もない。指針になるのはあの男だけだった。ただ規範になったのは別の男である。

 

 あの男を、非常識が服を着て常識を備えた破綻者である男を素手で殴った男がいた。その男から規範となるべき人間という物を教わった。でなければ自分は今頃魔王二号辺りになっていただろう。

 

 とにもかくにも、そうして諦めなければ夢は必ず叶うと信じている男によって自分は育てられた。

 

 それが万人に倣える事ではない事を理解している。だが自分はそうありたいと願うことも確かだ。

 

 だから先ずは成すしかない。ようやく自分の人生に明確な試練が訪れたのだ。ならば踏破するのみ。ただそれだけだ。

 

 眼前に聳える苦難。それから逃れようとも思わない。どれだけ険しい道であっても、一歩一歩進んでいけば踏破できる。そう信じているのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アーカムシティに戻り、クロウはミスカトニック大学の敷地内にあるカフェに立ち寄った。

 

 そこに行って、待っていれば良いと、あの混沌に告げられたからだ。

 

 ただ待つにしても時間という物があるだろう。故に放課後。夕焼けの時間帯。生徒たちが各々一日の終わりにくつろぐ時間。

 

 そんな時間にクロウはカフェに出向いた。コーヒーと蒸パンを注文して席に座るクロウは周囲から浮いていた。それもそうだろう。軍服に外套という出で立ちに、腰には日本刀を帯刀しているのだ。

 

 現代基準で言えば大学のカフェにコスプレした人間が居座った様なものだ。しかし今は1920年代。日本には国軍があり、憲兵隊や警察隊も現代に比べて古臭い――こういった格好をしていても不思議には思われない。

 

 興味ありげに学生たちから視線を送られるが、それだけだ。

 

 そうして待っていれば、日差しが沈み、益々赤みを帯びて行く。まるで血の様に紅く染まる太陽。

 

 そして耳に聞こえていた喧噪が途切れた。

 

「――――」

 

 息が詰まる。いや、心臓すら止まる程の、重圧。

 

 それはウェイトリイが冗談のように思える程の気配だった。

 

 突然。

 

 突然だった。

 

 警戒を怠っていたわけでもない。だが自分だけが別の世界に連れてこられてしまったか、あるいは自分以外の人間が地球から居なくなってしまったかのように周囲にまったく気配がなくなると同時に世界を満たすように現れた気配。

 

 身体に悪寒が奔った。

 

 まるで真冬の寒空に何も纏わず放り出され、冷水を浴びせかけられたかのような感覚。

 

 心臓に氷の刃を突き立てられたかのような、神経を剥き出しにされ、直接氷水の中に浸されたかのような、比喩でも何でもなく本当にこのまま凍死してしまうのではないか、そんな風に考えてしまう程に異形じみた名状しがたい致命的で絶望的な感覚に冒されていく。

 

 もしかしたら、自分はこの瞬間、本当に死んでいたのかもしれない。

 

「――――ッは!!」

 

 呑み込まれそうだった意識を気合で繋ぎ、呼吸どころか心肺活動すら停止していた身体を根性で動かす。

 

 金縛りにあっていた身体が解放され、身体の動悸を落ち着ける為にコーヒーを一口飲み込んだ。

 

 真っ赤な黄昏に照らされ、その少年は立っていた。

 

 黄金比を体現したかのような相貌をもつ、人外じみた美しい少年。

 

 穏やかな笑みを―――どこか狂気を孕んだような微笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへと歩いてくる。

 

 金色の闇、金色の深淵、暗黒より深い無明の金色。綺麗な黄金の髪、見たもの全てが魅入られるであろう金色の瞳。しかし――。

 

 こと金色というものには縁がある自分から見ても、その金色は異常であった。

 

 眩い破戒の光でも、黄昏の慈愛の光でも、煌く意志の光でもない。闇の金色。

 

 本能が警告を発している。危険という次元を超えている。

 

 だが退かない。ここで退けばその瞬間に自分に後はないだろう。故に痩せ我慢であっても退きはしない。

 

 なにより重圧の気配が異なるだけで、魂が潰れそうになる程の重圧を受けた経験もある上に、同じ邪神の落とし仔という分類であるウェイトリイという存在とも対峙している。

 

 程度は異なるものの一度体験している重圧だ。後はどれだけ意地を張れるかという問題だ。

 

「はじめまして。異邦の客人」

 

「ああ。はじめまして、マスターテリオン」

 

 マスターテリオン――。魔術の真理を求道する者。

 

 大いなる獣(マスターテリオン)――。

 

 聖書の獣(マスターテリオン)――。

 

 七頭十角の獣(マスターテリオン)――。

 

 ブラックロッジの大導師(グランドマスター)――。

 

 黒き王、マスターテリオン――。

 

 クロウは名乗る為に腰を上げた。存在としては自分は彼の足元にも及ばないちっぽけな人間だろう。だが、それで尻込みしている場合でもない。己を奮い立たせ、そして˝魔王の眷属˝として相対する。

 

「おれの名は黒羽。甘粕 黒羽だ」

 

「ほう…」

 

 マスターテリオンはひとつ息を吐いた。そこにどのような感情が込められているのかを察するだけの余裕は、残念ながら今のクロウにはなかった。

 

「余を前にして、本名を語るとは。些か不用心ではないかな?」

 

「偽りの名を名乗ったところでなんになる。それこそ逃げでしかない。その瞬間にこちらの命もないだろうと思ったまでだ。不用心というより、誠実と言って欲しいものだな」

 

「ククク、なるほど。確かに、これは失礼をした」

 

 そうしてマスターテリオンは金色の前髪をかき上げながら、大仰な仕草でこちらに一礼した。

 

「以後お見知りおきを、魔王の眷属(イーブル・カイン)。今日はゲームキーパーが選んだ新たな役者を一目見たくてね、こうして伺わせてもらった」

 

「ご足労痛み入るよ、背徳の獣殿。して、こちらの役割は把握済みかな?」

 

 邪神との契約。それは背徳の獣の代行――。

 

 魔を断つ刃、白き王との戦いを代行し、魔導書の復活まで戦う事だ。

 

 それを条件に、このクラインの壺からの解放を提示した。

 

 それが守られるかどうかはわからない。アレは水銀の蛇以上に信頼のならない邪神だからだ。ある意味ウソも吐かない上に約束を違えないという部分において、水銀の蛇の方が誠実だ。

 

 ともかく自分はこの背徳の獣に代わって、これから悪徳を執行する立場になる。それもまた試練なのだとして自分を言い包める。でなければこんなことに加担できるはずもない。試練に毅然はないとは言うだろうが、誰が進んで悪徳を重ねたいと思うのだ。真っ当な人間ならば普通に聖徳を重ねたいと思うものだろう。

 

 だが下手に断って、それで自分以外に被害が行く可能性を考えてしまうと、どうにも断れなかったのも事実であった。

 

「無論。何処まで踊れるのか楽しみだ。この余興は、余も関心を置いているのさ」

 

「それは光栄だな」

 

 条件だけを見れば、自分は白き王と同じだ。魔術師として駆け出し、魔導書を所持し、機械神を操る。

 

 だが、鬼械神(デウスマキナ)を内包する世界最強の魔導書に比べて、クロハは一段どうしても劣ってしまう。魔術師としての質も劣るだろう。唯一勝っていそうなところは機械神(デウスマキナ)の性能だ。

 

 デモンベイン・ブラッドは、あの旧神に至ったふたりの魔を断つ剣だ。それを邪神が、中に託した仔を攫って、容を組み替えたのだ。

 

 中身は本物で外身は邪神の二刀流。中身は邪神で外身は本物の血濡れの刃。

 

 自分はそう考えている。故に中から邪神の影が溢れてくるのだろう。だがそれも今は支配下に置いている。同じ者同士で、邪神の力がある分性能は上だ。そのアドバンテージをどれだけ生かせるかが勝負になるだろう。

 

「では手始めに、ひとつやって貰いたいことがある」

 

「なにをだ」

 

 要件を聞こうとした時だった。世界が歪んだのがわかった。それは断鎖術式を解放する時の様な感覚の一つに近かった。

 

「時間を――巻き戻した?」

 

「そうだ。しかしその感覚がわかるのか。これは期待できそうだ」

 

 そういう少年の顔は、酷く愉しそうだった。まるで新しくできたおもちゃを愛でるような純粋さのある顔だった。それが光のない瞳にミスマッチして、怖気を感じさせる。

 

「ここは…」

 

 時間を巻き戻すのは良い。だがあまり時間は戻っていない様に感じた。

 

「さて、では参ろうか?」

 

「え? あ、ちょっと」

 

 そういって踵を返すマスターテリオンに、クロウは慌てて着いて行く。どこに向かうのかすら言われていないので、ただその背中を着いて行くだけだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アーカムシティは、東京、パリ、ニューヨークに続く世界有数の魔が跳梁跋扈する都市だが、なにもそれが日常茶飯事というわけではない。

 

 青空が広がる。一点の雲すら見かけない空だ。気温は35℃前後。夏が目前に迫っているちょっと暑い気温だ。

 

 燦々と輝き照りつける初夏の陽光は、服で紫外線を防備する身体に容赦なく熱を浴びせる。まだ午前10時前。しかしクロウはバス停のベンチに腰掛けて、暑さなどまるで感じていなかった。

 

 その手には年季の入っている一冊の大冊があった。風の魔術の応用で気温調節をしているクロウからすれば、軍服に外套という殺人的な暑さを更に増長させる服装でも涼しい顔をしていられた。

 

バス停は全米でチェーン展開する薬局の脇にあるのだが、バス停とは名ばかりの廃れたトタン板の小屋と時刻表があるだけだ。利用者は――居ない。皆鉄道での快適な移動が主流であり、態々乗り付けが悪いバスに乗るような好き物の観光客も居ないからだ。

 

 クロウが熱心に読んでいるのはナコト写本――その原本である。

 

 これは前回の、死んでしまったナコト写本の残骸である。魂は既に新しい本に移してあるらしい。あとは目覚めを待つだけという。

 

 魔導書としての価値は既にない。学術書としてはこの上なく貴重ではある。抜けている頁は現在のナコト写本から写本を書かせてもらった。

 

 オリジナルの復元本とでもいうべきナコト写本を、クロウは読み耽っていた。何故ならば魔術とは実践もさることながら、どれだけ理解があるのかという部分も重要になってくるのだ。ましてや自分は白き王との対決が待っている、故にこうして勉学に励むことも重要なのだ。

 

 1927年7月15日――。

 

 約1年の時間を巻き戻されてクロウはそこに居た。

 

 この年に何があるのか、そして行き先を聞いて大体の事情を察したのだった。というよりも、そうなるようなおあつらえ向きの時期だった。齧る程度にではあるが、かのラヴクラフトの作品については、荒唐無稽の暗黒神話に付随する形でいくらかの知識をクロウは所持していた。

 

 インスマウスにこの時期に向かう用向きとあれば間違いなく半魚人との闘争があるだろう。

 

 インスマウスについては、近々覇道財閥が開発に乗り出そうかという記事が散見されている。だが今のところインスマウスは普通の人間が立ち寄って無事に済むような場所ではない。故にそこをクロウは訪れて無事に帰って来いというお達しをマスターテリオンから言い渡されたのだった。

 

 序盤最大の山場にして、そこが彼の白き王が神殺しの刃として経験を積む場所であるが故に、この地を研修場所に選んだのだろうかと推測するが、考えた所で意味はない。どうあの背徳の獣が考えているのかわからないが、今はこの試練を乗り越えるまでだ。

 

 不安――は、ないとは言わないが、手元にはアル・アジフに並ぶ世界最強の魔導書がある。そして気心を預けられる魔導書の精霊が居る。

 

 膝の上に頭を置いて眠っている愛らしい少女の髪を撫でる。驚天動地の連続で荒みそうな心を癒してくれる存在。やはりロリコンかペドフィリアでないと無限螺旋は乗り越えられないのだろうか。

 

 クロハの梳き通りの良い髪を手慰みに、クロウはバスを待った。

 

 そしてクロハが目を覚ますと、同時にバスのエンジン音が聞こえてきた。バスと言ってもワンボックスのワゴンの様な小さなバスだ。地域密着型とは聞こえが良いが、錆汚れていて、さらにくたびれ加減を増長する様に揺れの激しいバスだ。その行き先の表札も『アーカム――インスマウス――ニューベリーポート』と、半ば読みとれない行き先標示版は不気味な味が出ている。

 

 SAN値が減少しそうな風貌の男たちが数人バスから降りるのを見送り、クロウはクロハを連れてバスの一番後ろの席に座った。風の魔術を切るようなことはせずに、若干埃っぽいイスも、クロハがひと撫ですると新品同様に変わった。と言うより限定的に空間を弄って時空間に干渉。自分たちの居場所だけを新品同様の物に逆行させたらしい。ナコト写本の原本を手に入れたことで、彼女もかなりの芸達者になったものだ。

 

 料金として1ドルと20セントを置いておく。それで二人分はあるはずだ。子供料金があるかはわからないが。

 

 クロハを膝に乗せて、クロハの頭が肩に寄りかかる。こういう恰好の方が互いに安心できるとわかって来てからは、座るときはほぼこういう姿勢になる。こう甘えられていて、こちらも甘える事の出来る絶妙な体制だった。クロハの吐息を首筋に感じながら、彼女の、女の子特有の甘い香りを清涼剤代わりに取り込む。決して匂いフェチではない。

 

 外から戻って来た運転手がこちらを一目見るが、それだけだった。

 

 ガタンと、一つ大きな揺れと共にいよいよバスは動き出す。排気口から黒い煙を吐きながら動き出す。

 

 サスがイカレているのではないかと思う程にガタガタのバスに揺られながら窓の外を視る。都市部を離れ、景色は海に移ろう。

 

 州道を走るバス。煉瓦造りの古い建物の並ぶ景色を見ると、まだここが1920年。つまりは20世紀初頭というのを嫌でも実感する。実際アーカムシティの生活に馴れると時代背景がズレる。あの街は風に20世紀後半から21世紀初頭の生活空間と遜色ない。テレビどころかネット回線にPCまで完備しているのだからもう訳が分からない。

 

 がたがた、がたがた揺れるものの、その揺れを足と腰で吸収し、クロハはなるべく揺れない様に頑張ってみる。無駄な修練とは思わない。効率の良い衝撃の逃し方というものも学べる。

 

 バスは国道に抜けるとスピードを上げた。威厳ありそうな昔の屋敷や、さらに昔の植民地時代からありそうな家屋を横目に、長く単調な視界の開けた海岸地方へと入って行く。

 

 車窓からは青い海が見える。その風景は進むにつれて荒涼したものに変わり、インスマウスへと続く道は幹線国道からは外れているために、車は海岸のすぐそばの道を走り出す。家は一軒も見当たらず、感じる揺れからしてあまり手入れもされていないだろう事がわかる程に道が悪い。いよいよ重力制御魔術まで使って身体に掛かる重力を減らして揺れを軽減する。

 

 外の景色はこの辺りに人が来ていない事を察するには十分すぎる程に荒れている。

 

 電信柱には二本の電線。しかしその木製の電信柱は年季の入っているような黒々しい色だ。さらに丸太橋も年季が入っていて、メンテナンスのクソもない様な様子だ。

 

 遠くに注視すれば朽ちた家屋の残骸などが見える。これが昔は肥沃で人の多い町だったとは思えない程の荒廃加減の原因は、1846年に蔓延した疫病が原因であると言われている。そういう意味で周囲の人間も近寄らない一因なのだろうが、それ以上に並の人間なら近寄りたくないと思う陰の気が充満して、ある種の結界の様になっている。

 

 試しに一瞬だが風の魔術を薄めて――。

 

「うっ――!?」

 

 後悔した。鼻がひん曲がりそうだった。

 

 即時浄化。換気と新しく新鮮な空気を生成。古く穢れた空気と入れ替える。

 

 この研修が終わったら核爆弾で丸ごと吹き飛ばしてやりたくなった。もしくは神の杖で爆撃してやりたくなった。その方が更地になって開発し易くなるだろう。

 

 バスの進んでいる狭い道が険しい登り坂になり、そうして車は頂上に向かって前進する。

 

 その坂の頂上からはマニュ―ゼット河が見え、断崖から川の水が流れているのが見える。そこから断崖を辿ればキングスポート岬が見える。その手前。家屋の集中する地帯が見える。そこがインスマウス。いまはまだ呪われ、穢れた土地だ。

 

「かなり、酷いものですね」

 

「わかるのか?」

 

「酷い邪気です。進んでは近寄りたくありませんね」

 

 顔を顰めるクロハ。そうでなくてもクロウの視界にもインスマウスが良くはない気を放っているのは感じ取れた。

 

 広い地域に、しかし密集する様にぎっしりと立ち並ぶ家屋。それだけ多くの家があって、しかし人の住む気配がないという不気味な町だ。時間的に昼は過ぎているとはいえ、煙突から煙の一つも上っていないというのはどう考えても異常だった。

 

 だが坂を降り始めた車が近付くと見えてくる景色になるほどと思う。空き家が多いのだろう。見えてくる家々の屋根は損傷があるものが殆どだ。ゴーストタウンという言葉がしっくりと来るだろう。だがそれでも人が居る気配があるのが却って不気味さを増長させる。

 

 廃止になって久しいだろう鉄道の駅、雑草の生い茂る路線が見え、電線を通していただろう電信柱も今に倒れそうになっていた。辛うじて道、とわかる程度の線が路線に伝って伸びていた。

 

 そうした廃れた様子の家屋は仕方がないが、波風の一番影響を受ける海辺に近しいところに広がっているが、比較的町の中心に近い家屋はまだ充分に住めそうなものが多かった。人の気配も一番多い。

 

 一面砂で埋まっている港には石の防波堤が取り囲んでいた。その防波堤の上に腰かける漁師が見える。その防波堤の内側には砂州があり、その上に小屋と繋留されている小舟が見える。

 

 海岸のあちこちには防波堤の残骸の様なものも見える。その海上の遥か彼方には、波が高いのにも関わらずに見える海面に突き出た岩礁が見える。

 

「うっ――!?」

 

「見てはいけません――」

 

 咄嗟にクロハが視界を手で遮ってくれた。だが一瞬見ただけなのに脳髄にウジ虫が湧いて見境なく頭の中を這うような不快感が襲ってきた。

 

「悪魔の岩礁。あそこに神殿がありますが、近づかない方がよろしいでしょう。今のマスターでは魂が汚染されてしまいます」

 

 そう注意深く、忠告するクロハの言葉には大人しく従う方が良さそうだ。と言うより見ただけで影響を受けるのだ。触らぬ神になんとやらである。

 

 やがてバス停にたどり着き。そこは四つ辻に分かれていた。

 

 四つ辻の左側の町は海岸へと続いていて、道も舗装はされていない。そして荒廃具合も酷い。また右側は昔はそれなりに華麗であっただろう町の名残があった。

 

 バスは町の中央の広場に差し掛かり、その両側には教会が並んでいた。時の中で荒廃した教会の切妻屋根のところに、黒と金で書かれている文字はそれもまた時の風化によって読み難い物だったが『ダゴン秘密教団』と書かれていた。

 

 そこまで見てクロウは深く椅子に腰を据えた。車の揺れがダイレクトに伝わるが、それはもうどうでもよかった。

 

 古ぼけた高い円屋根のついた建物の前でバスは漸く止まった。

 

 『ギルマンハウス』。

 

 そう書かれた建物に入る。帳場の中年の男性に一泊の宿泊。ひとり部屋でと伝える。その男の目が一瞬クロハとクロウを行き来したが、それだけだ。クロハもクロウも黒髪だ。顔つきは似てはいない。クロハは深い蒼の瞳、クロウは燃え盛るような灼眼である。肌はふたりして白い。細かな特徴から兄弟とでも見えるだろう。

 

 軍服に外套姿のクロウと、動きやすさを考えてショートパンツにシャツというネクロノミコン旧神スタイルに近い格好をしているクロハというのは軍人とその家族という括りで辛うじて扱えるだろう。

 

 それはさて置き、そんな一組ならば一部屋でも充分だ。だがそれで一番安い部屋なのも怪しまれるとも考えて手ごろな広さの部屋を取った。

 

 部屋に入って、防御結界と同時に空気を総入れ替え、更に清水と酒と塩を振りまいて、場を清める。その様子をクロハが興味深く見ていた。

 

「オン、マカキャラヤ、ソワカ―――」

 

 印を結び、霊力を込めて場を清め、破魔札を四方に投げて張り付ければ、この部屋は外界の穢れを一切入れない場となる。更に部屋の中心に腰から抜いた刀を突きたてて結界の維持をする基点とする。

 

「身体は平気か? クロハ」

 

「は、はい。なんともありませんが」

 

 それを聞いて一安心した。一応は邪悪な外法である魔導書とあって、魔に属するクロハに影響がない様に術式を弄ったものの、実際にやってみないとわからないことも多い。

 

「今のは…」

 

「東方の術さ。東洋魔術――陰陽道も少し混じってるかな」

 

 仏教や宗教などわからないが、色々な術を学ぶ時間はあった上に、その辺りはあの男が教えてくれた。魔術に関しては水銀に少しだけ教わりはしたが。

 

 これで万が一にもこの部屋に穢れた存在は立ち入れないが、ここに籠って明日まで過ごすというのも試練にはならないだろう。

 

 故に動く。懐中時計を開けるとまだ11時半程度の時間だ。そろそろ昼だ。

 

「動けるか? クロハ」

 

「イエス、マスター」

 

 クロハを連れてクロウはギルマン・ハウスを出る。そこから見えるのは傾斜屋根のついた煉瓦つくりの建物が半円状に広がっている。数件の店が開いているが、入ろうという気になるのは一軒だけだった。

 

 それはチェーン店でありそうな、今風で言うコンビニだ。この時代ならスーパーマーケットの個人店版とでも言えば良いのだろう。

 

 中に入って適当につまめるものを買い漁る。会計のついでに活発で愛想の良さそうな青年と軽く世間話ついでに情報を仕入れる。

 

 十中八九インスマウス――深き者ども(ディープ・ワンズ)の血を引く穢れた住人とダゴン秘密教団の呪祭の情報が得られた。取り敢えず情報料代わりにお守りを一つ手渡した。中には小さな破魔札が入っていて、邪気を祓う効果がある。人ひとりを守る程度の力しかないが、この邪悪な土地で勤勉に働く彼の無事と労を労う意味で渡しただけだ。

 

 いや、一応伏せる様には言ったが、異国の軍人が来ているのだ。悪いことは言わないから今日は早めに店を切り上げて家に帰る様に言っておく。これなら間違っても善良な青年が夜の乱痴気騒ぎに巻き込まれることもないだろう。

 

 その後も、気配を探って家々を訪ね歩き、他所から移り住んだ。元々この土地の者でなく、まだ血に汚染されていない人間の居る家を訪ねて、同じように町から出るのを促した。

 

 ミスカトニック大学に居るヘンリー・アーミティッジ教授を訪ねる様に言いつけてである。

 

 これは偽善でしかないだろう。自分が黒き王の代役として戦うのならば、結末はおそらく――。

 

 それでも悪徳を見境なしに積む気はない。だから無駄だとわかってても、目の前の偽善くらいはやらせてもらおう。

 

 そうして声を掛けて回ることで、気づけば太陽は西に沈んでいた。

 

 

 

 

to be continued…



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1-4 結ばれる契約

今回は少し短めで8千文字。

しかしどうもPCで絵を描くって大変だと思たぜ。気になる人はシブでも覗いてみてくれたまえ。

あと質問とか色々をツイッターで受けようかなぁって思ってるけど、需要あるのかね?


 

 インスマウスの住人――他所から来た住人に声を掛けて回ても居れば、いくら日本の軍人という身分を偽って名乗ったところで時間が掛かるのは仕方のない事だった。

 

 理由は簡単だ。先ず子供連れの、さらにまだ見た目が子供であるクロウをひと目で軍人だと鵜呑みにする人間はいない。しかし暗示については魔術師の得意とする所である。さらに米軍の特殊部隊が今夜インスマウスで派手にドンパチをやる。そこに居るものは見境なし。――そう脅してやれば意外なほどに簡単に訊ねた住人たちは必要な物だけを持って家を捨てた。この土地に住まう余所者は皆、結婚した家族に連れられたり、オランダ人などの入植期にどうにか住民に取り入ったものの居残りなどだった。自力で国に帰る事も出来ないような人間が肩をより合わせて生活しているような人たちだった。

 

 コンビニの若者と同じようにお守りと旅費を渡し、車がある者を中心に相乗りをしたり、或いは徒歩でアーカム方面に向かう者も居た。アーカムのミスカトニック大学のアーミティッジ教授宛に著名で手紙を持たせた。

 

 これであとはもう夜を過ごすだけである。午後六時には一度ギルマンハウスに戻った。

 

 風の魔術で空調は完璧でも、やはり土地柄の鬱蒼とした気配にはまだ身が堪えた。

 

「お疲れ様です、マスター」

 

「クロハこそ。歩き疲れただろう」

 

「いいえ。私は問題ありません」

 

 クロハの体力がどの程度あるのか、そもそも体力という概念があるのか、いまだクロウはクロハの全容を把握していなかった。それでも今現在唯一の味方なのだ。無碍に扱うつもりはない。そして命の恩人でもある上に、魔術師として魔導書が居るから生きていられるのだ。まだ出逢って二月も経っていないが、既にクロウはクロハに対して全幅の信頼を寄せていた。

 

 インスマウスは魚が旨いと聞くものの、この邪気に満ちた土地柄の物を口にする勇気が持てず、クロウはコンビニで再びインスタントを中心にいくつか食料を調達すると、あの青年も今日は店じまいをして下宿先の隣町に帰るという事だった。

 

 その背中の無事を祈りつつ、夕食はカップラーメンという寂しい物だったが、これから色々と動くだろう身としてはあまり腹に居れても仕方がないかと思いつつ、食事を終えて部屋に備え付けの湯船にお湯を張ってくつろぐことにする。

 

 日本人というよりかは、自分がきれい好きなのか、その判断基準はわからないが、朝と、1日の終わりに必ず、寝汗と、1日の汚れを落とさないと気が済まないクロウは実際きれい好きな部類なのかもしれない。水道代よりも身の清潔の方が気になる上に、汗でベタつく肌というのは不快指数を増長させるものだ。だから少なくとも朝は必ず風呂に入る。夜も余程疲れていなければやはり風呂に入る。とはいえ時間の問題もある故に湯船に浸かれるのは夜だけで、朝はシャワーで済ませてしまう。

 

 風呂は生命の洗濯とは上手いセリフもある。湯船に浸かると身体の疲れも解れる。それこそ頭から魂が抜けて行くようなあの感覚は日本人が風呂好きと言われる一つの本能に刻まれた感覚なのだろう。

 

「んーーっ、ごくらくごくらく」

 

 湯船に浸かり、完全にリラックスしているクロウはこの時だけは何もかもを忘れて頭を空っぽに出来る心のオアシスを堪能していた。それほど身体の大きくないクロウでも膝を曲げる程度には狭い一人用の風呂でも構わなかった。湯船に浸かるという行為が大事なのだ。

 

 良い塩梅に蕩けていたクロウの耳に、お風呂場の扉を開ける音が聞こえた。サッと視線だけは向けるものの、この部屋に入れるのは自分とクロハだけである為に、警戒はしていなかった。

 

「あの、マスター」

 

「んーーー?」

 

 顔だけを覗かせて声を掛けてくるクロハに、しかしクロウは特に気にもかけずに応対した。

 

「ご一緒、しても、よろしい…でしょうか……?」

 

 途切れ途切れで、それでいて声も小さなクロハの言葉はそれこそ近くに居なければ聞こえない程だが、バスルームは狭く、音も反響しやすい。故にクロウの耳にもしかと聞こえてはいた。

 

 だが今まで食事や就寝は共にしても風呂場までは入ってこなかったクロハの接近に、どういう風の吹き回しなのかと思いつつも、断る理由もない為に了承する旨を伝える。

 

「そ、それでは、しし、失礼…、します…」

 

 消え入りそうな声で断りを入れて入って来たクロハは――水着姿だった。

 

「――――――」

 

 ナコト写本の精霊であるから黒のイメージが強かったクロウだったが、その認識を改める必要があると素直にそう思った。未成熟で未発達のロリボディだが、人としての黄金比にも見える程に均衡の取れているバランスの身体は、衣服というものを脱ぎ捨てたことでその身体のラインという者がはっきりと認識できる。

 

 白のセパレートタイプの水着に身を包んだクロハは、その闇色の髪と、深い青の瞳も相まって寒色系の落ち着いた服が似合うのは普段からの服も黒が基調としてある為にわかっていたが、その対向色である白というのも中々に似合っていた。腰のフリルも女の子らしさを演出している。クールな印象を受け、硬い感じの彼女を今は白という色をメインにすることで、何処にでもいる普通の女の子に雰囲気を落ち着けていたのだ。

 

「あ、あの、どう、でしょう…」

 

 そう言ってくるりと回って全身を魅せるクロハに、クロウは思わず口元を抑えた。忠犬属性疑惑のあるナコト写本系列の末席の精霊であるクロハであっても、今の彼女は相当な勇気を振り絞っているのがわかる。でなかったら耳とか頬のほてりが何なのか説明してほしい。

 

 そして、育った環境柄、ストレートな愛情表現というものに耐性がないクロウからすると、クロハの献身はとてつもなく刺さるのだ。

 

 つまり何が言いたいのか。それは最早語るべくもない。

 

「一緒に入るか?」

 

「っ――、は、はい…」

 

 風呂に入る前は身体を洗うものというマナーなど知った事かと言わんばかりに、クロハの手を手繰り寄せて、湯船に誘い、膝の上に彼女を乗せて寛ぐ姿勢にクロウは移行した。

 

「お、おもく、ありません、か?」

 

「いいや。というより軽すぎる」

 

「ま、ますたー、あの…、そのぉ……」

 

 湯船に横たえた自分の身体に添わせる様にクロハを横たえさせる。自分は何も身に着けていない為、直接肌でクロハの感触を感じている。思えばここまで身体を許しているのも初めてだとクロウは思いながら、意外と柔らかいクロハのお尻の感触を太腿で感じていた。

 

 気分としては歳の近い妹と入っているようなものだ。妹など居ないから本当の所は良くはわからない。だが性欲が鎌首を擡げないようにするにはそう思う他なかった。でなかったらもうペドフィリアでも良いやと降参しそうだった。

 

 そもそもからしてクロハの見かけは、クロウの好みにドストライクの女の子だったのだ。

 

 黒髪長髪系の女の子が好きなのは日本人として同じ髪の色が好きなのは良いとして、長い髪の毛が好きなのは事実だ。それでいてクロハは完成されている美少女だ。外見年齢的には10代前半の女の子だ。だがその年頃の女の子というのは漸く二次性徴という女の子から女になる時期であって、身体は子供なのか大人なのか微妙な時期だ。だが魔導書の精霊であるクロハはそんな時期の女の子の美しさを完成した芸術の様に見事なバランスで構成された肉体を持っている。正直街中でひとりでいたら最悪ハイエース案件が余裕で発生するだろう。

 

 アル・アジフも嫌いではないのだが、どちらかと言うと戦友であり、相棒であり、そこから紡がれる王道的な愛。それも悪くはない。

 

 だがクロハはナコト写本の精霊――マスターテリオンのエセルドレーダの様にとても献身的で、一途で、愛が深い。そう思える。そしてそういう主の為に全身全霊を尽くして仕えるエセルドレーダの方が、クロウは好みだった。

 

 だからというわけでもないが、クロハはクロウにとって今後一生現れないであろうレベルの優良物件――実に好みに則した少女だったのだ。あとは魂をマスター・オブ・ネクロロリコンよろしく、修羅道に擲つだけである。

 

「んっ、ますたぁ…」

 

 クロハの肩に顎を乗せて、首筋に頬を当てる。頬でも感じるクロハの肌の気持ちよさ。普通此処までさせてくれる異性というものも中々居ないだろう。離れない様にお腹に回している両腕の内、片方の手で、彼女のお腹を撫でる。

 

「んぅ…、ぁ、あん…、ふぅ、んんっ――」

 

 気持ちがいいのか、声を漏らしてぴくぴく震えながらも声を我慢する姿に、背筋がぞくりとする。

 

 こう、誰かを腕の中に抱いて過ごすというものがこんなに多幸感があるものなのかと今更に思い始めていた。

 

 ある意味で何も気張っていない、オープンな状態でクロハを受け入れているからなのだろうか。

 

 腕に籠る力が自然と増した。

 

「ま、すたぁ…?」

 

 彼女の熱が自分にも移ったのだろうか、少しだけ、耳が熱くなっているのが自分でもわかる。動きの無くなった湯船で、重なり合った肌を通して、クロハの鼓動を感じていた。同じリズムで、少し早い鼓動をふたりでしていた。

 

 クロハがクロウの胸に、愛情表現の様に頬を擦り寄せる。

 

 ちゃぷんと、身動きしただけ湯船の水が揺れた。

 

 そしてどちらからともなく、唇を重ねた。触れる程度の、子供のようなキス。

 

「――これから、険しい道を進むかもしれない」

 

 唇を離したクロウは自分でも意識していない内に言葉を紡いでいた。

 

「過酷で、先の見えない。そんな、長くて、険しくて、辛くて、恐ろしい。そんな路かもしれない」

 

 それは常々考えている事だった。背徳の獣の代わりをするという事は、悪徳を敷くことだ。

 

 そしてそれは生半可な覚悟で踏破できるものでないことも理解している。

 

 物語の主人公を相手にしようというのだ。ぽっと出の自分にどうにか出来るようなレベルではない。だがやらなければならない。そうでなければ自分は死ぬだろう。それだけは諦めたくない。自分の命だけはたとえどんなことがあっても諦めたりはしない。何故ならそうして生にしがみつくことを何よりも貫き通した男を知っているからだ。その男に敬意を払い、だからこそ何があっても自分の命は諦めたりはしないのだ。

 

 そして、この険しく辛い試練を踏破してこそ、恐らく自分の夢を叶えるヒントになるだろうという期待もある。だから何が何でも越えてみせるのだ。それが自分が唯一本気になれる事柄なのだろう。

 

 夢も希望も持たなかった自分が、希望の見えない明日の光を信じて戦おうというのだ。本気でやらなければ即死ぬだろう。ひとりでは厳しいだろう。自分の知る男たちは皆ひとりで熟してしまう者が殆どだ。

 

 だが自分はそんな彼らの様に優秀な人間ではないのだ。ひとりでは成せないこともある。故に――。

 

「だからこそ、君が必要なんだ」

 

 力だけではない。支えてくれる存在が、心身を支え、苦楽を共にできる存在が、自分には必要だ。

 

 笑われるだろう。情けないと失望されるだろう。だが、何も試練というものはひとりで踏破しなければならないという決まりは何処にもないのだ。誰かと共に踏破してはいけないという決まりはない。それは盧生が証明している。

 

 故に、自分もまたひとりではなく、気心を許せる者と共に、この試練を挑む権利はあるはずだ。

 

「私は貴方さまの魔導書です。私は貴方さまの従僕です。命令(オーダー)を、マイ・マスター。私はあなたの剣であり、盾であります。殲滅しろと、蹂躙しろと、鏖殺しろと、ご命令ください」

 

 そして言葉を途切り、クロハは湯船に浮かぶクロウの紙をひと房掬い上げると、その髪の毛に口づけをした。その様はまるで騎士が仕える姫に誓いを立てるかのように堂に入った物だった。

 

「私はいつでも、あなたの味方です。我が主、甘粕 黒羽さま」

 

 そして微笑むクロハは、とてもきれいで、縋りつきたくなってしまう程に力強い芯のある人間の心を持った微笑みだった。

 

「なら、おれはお前に命令する。如何なる障害であろうとも叩いて潰せ。如何なる相手でも押し潰し、粉砕しろ。それがたとえ何であっても、それがたとえ、だれであってもだ」

 

 それは命令と共に、自分に対する覚悟の再確認だ。相手がだれであっても踏破する。何であっても乗り越える。相手が白き王という物語の主人公であっても。それで世界が滅びようとも、たとえそれが、邪神であっても。

 

 悉くを殺し尽す。障害となるものはすべて排除する。究極の私刑である。だがそれの何が悪いというのだ。結局、物事を押し進めるのは個人のエゴだ。利害と利益があれば人は賛同するが、自我の為に人は動く生き物だ。聖人君子の様に人助けをしていても、それも自分のしたいと思ったこと、しなければならない事であっても実行に移すのは自分の意思であり、選択である。

 

 故に、生き抜くためにはこの私刑を執行する。たとえ罪に溺れ、血に濡れようとも歩むと決めた。

 

 だからこそ誓いを立てる。

 

 だからこそ、互いに支え合う者であって欲しい。

 

「んっ…、や、…ま、ますたー?」

 

 クロハの胸元に口づけをする。そして痕が残る様に強く吸い付いて、証を残す。

 

「ますたー…」

 

 その意味を、どういう意味なのか、クロハは知っているのだろうか。

 

 胸元にするキスは所有を意味する。クロハは胸につけられた証を愛でる様にその細い指で何度も何度も撫でて、その度に瞳は潤み、そして頬や耳が朱くなっていく。そんなクロハにもう一度、額に口づけをする。

 

 すると今度は額を両手の指で、愛おしげに繰り返し撫でる。

 

 まるで愛玩動物みたいに愛でたくなってしまうが、彼女も感情のある人間と同じだ。望めば受け入れてくれるだろうが、今はそんな気分ではなく、ただ、互いの温度を、鼓動を感じて、ゆっくりしたい気分だった。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 フングルイ、ムグルウナフ、クトゥルフ、ルルイエ、ウガフナグル、フタグン――。

 

 その声が聞こえたのは夜中であった。それと同時に聞こえる悲鳴。女の金切り声の様な悲鳴が微かに聞こえた。風が、血の匂いを運んできた。

 

「マスター」

 

「ああ。始まったか」

 

 体感時間的に夜明けまではまだ2時間はあるだろうか。それでも行動を起こしたのは彼らが夜行性だとかそういう理由でもないだろう。

 

 身体を起き上がらせると、結界の基点にしている刀がカタカタと揺れている。部屋の外からはドアを激しく叩いているような音が聞こえるが、防音結界も張っているので不必要な騒音は聞こえないようになっている。そんなに呑気に寝ていられるのも、いくら深き者どもとはいえども人間との混血児程度に破られるような軟な結界は張っていないからだ。

 

「猟犬たちは?」

 

「いつでも。お腹を空かせていますよ」

 

「それは重畳」

 

 ベッドから起き上がると、部屋の影や鋭角な角度からおどろおどろしい蒼い煙と共に現れる猟犬たち。

 

 その数は数十。皆お腹を空かせたように唸っている。が、何故か猟犬たちに飛び付かれて舐められたり甘噛みされたりと、構ってオーラ全開でじゃれついてくるのだ。なんなんだこのかわいい動物どもは。

 

「こら! マスターのご迷惑です。整列!」

 

 そうクロハが号令を出すと、名残惜しくもきちんと整列する猟犬たち。これがティンダロスの猟犬である。威厳も恐怖も地に落ちたものだ。

 

 さて、こちらを喰おうというのだ。ならば、喰われる覚悟もあるという事だろう。

 

 クロウが床から刀を引き抜くと同時にドアが開き、そこからインスマウス面の半魚人軍団が雪崩れ込んで来るものの、ワンルームの寝室に入る手前で廊下を通せん坊する様に整列している猟犬たちの姿を見て、足を止める半魚人の軍団。

 

「夜中にこんな大勢で押し寄せるとは。マナーがなってないな」

 

「ウルサイ、シャベルナ。軍ノ狗メ。ココハ我々ノ土地ダ。我々ノ大地ダ。余所者ハ生贄ニ捧ゲヨ」

 

「なるほど。なら仕方がない――変神(トランジション)!」

 

 顔を手で覆う様に隠しながら、その言葉と共にクロハの身体が光り、頁にばらけ、紙吹雪と共に魔力がクロウの身体と一体化する。

 

化身(アヴァタール)魔王の眷属(イーヴィル・カイン)

 

 寝間着姿から魔王の眷属としての軍服姿に変身する。クロハもちびクロハになって肩に乗っている。ちびになる必要はないのだが、この方が動くときは楽である。

 

「さぁ、狩猟(ハンティング)の時間だ。喜べ海産物ども、地獄の猟犬がお供を仕ってくれるぞ」

 

 刀を掲げ、そして指揮棒の様に振り下ろせば一斉に猟犬たちがインスマウス面の人間たちに襲い掛かった。

 

 阿鼻叫喚というのは正しくこうなのだろうという光景が広がった。

 

 混血とは言え、確かに普通の人間よりは強いだろうが、魔術師に敵うようなスペックはない。ましてや相手は使い魔にしているとはいえ、神話生物でも飛び切りのヤバさに定評のあるティンダロスの猟犬たちだ。

 

 襲わせておいてなんだが、襲われる方の身になると気の毒としか言えないだろう。

 

 しかしそれでも猟銃などでこちらを狙う勇敢な海産物も居るのだが、銃弾の1、2発程度なら撃たれる前に銃口から射線を予測して避ける事は可能だ。だが、あえて切り捨てる。

 

 弾丸は真っ二つになって床に転がる。

 

「この程度か?」

 

「ヒ、ヒェェェッ!?」

 

 睨みつけると踵を返して逃げようとするインスマウス面の海産物。だがその身体がガクンと膝を崩して倒れ込む。

 

「ヒ、ヒゲェェェッ!!」

 

「どうした? まだ一度しか試してないだろう。一度試して通用しなければ二度目を放てばいい。それでもだめならば次を放てよ。それすらだめでも、通用するまで試し続ければ良い。化け物の血が入っていようと貴様らは()()人間だろう? ならもっと本気を出せ。銃が通用しないだけで恐怖に駆られて逃げてどうする。銃ではなくその先祖譲りの怪力を試してみろ。その口の牙はなんだ。それすら通用しないとなぜ決めつける。やってみなければわからんだろう。ほら、恐怖に震える己を奮い立たせろ。そしてその拳と、爪と、牙で喰らいつけ。己は成せると信じろ。さぁ、早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)!!!!」

 

「マスター」

 

「…なんだ、クロハ?」

 

「その者、既に息絶えております」

 

「なに?」

 

 そう言われてクロウは今目の前に居るインスマウス面の人間の顔を見れば、白目を剥いて身動きすらさせずに死んでいた。

 

「なんだ。ただ機会を与えてやろうと応援しただけで死ぬのか。つまらん」

 

「あれは応援だとかそういう類への冒涜です。思いっきり凄んでいました。普通の人間では魂が砕けてしまうので自重してくださいませ」

 

「甘いぞクロハ。この程度で砕けている様なら魂がいくつあっても足りんわ」

 

 それこそクロウからすればまだまだ初心者向けのマイルドさマシマシの対応だったのだ。

 

 いくら混血で少し人間よりも頑丈とは言え、中身は人間そのままらしい。

 

「白けた。クロハ、この町の住人はもう汚染されたものだけか?」

 

「イエス、マスター。既にこの町の者に喰い尽された様です」

 

「なるほど」

 

 部屋を出て一匹の猟犬が帰ってくる。その口には魔導書が咥えられていた。しかも風の魔術を貫通する程に潮の香りのする魔導書だった。

 

「これは――」

 

「おそらく、ルルイエ異本でしょう。魚面の司祭風の男を食い殺して持ってきたと言っています」

 

「あぁ…」

 

 おそらく、エイハブ・マーシュだろう。さすがに魔導書を持っていてもティンダロスの猟犬には敵わなかったらしい。

 

 一応魔導書を受け取り、その猟犬の頭を撫でてやると尻尾をこれでもかとぶんぶん振り回して、また獲物を探しに駆け出して行った。

 

 しかしルルイエ異本なんぞ貰っても困るだけだ。自分にはクロハがいる。となれば持ち帰ってマスターテリオンに手渡すのがベターだろう。

 

 インスマウスで既に汚染されている人間は猟犬に追いかけ回されているだけで、こちらには一切誰も来ない。物語なら自分は追われる方かと思ったものの、追われているのは自分を襲おうとした方だとはなんとも笑える話だ。

 

 どの程度の住人が居るかはわからないが、一晩もあれば喰い尽されるだろう。無人になったほうが後腐れも何もなく覇道財閥も開発に乗り出せるだろう。こんな邪悪で陰気な町は滅ぼしたほうがみんなの為だ。

 

「風が――」

 

 風が変わった。

 

 そう思った瞬間に、目も開けていられない程の強風が襲ってきた。腕を盾にどうにか片目だけは開いたままで堪える。

 

 そして風が止むと、そこには――。

 

「ふむ。見かけない成りだが、君は何処かの軍属かな? それと、君が今手にしているものをこちらに渡しては貰えないかね? なに、悪いことは言わない。それはとても危険な代物でね。並の魔術師では身を亡ぼすだけの代物さ」

 

 グラサンを掛けた筋肉モリモリマッチョマンの核を撃ち込みそうなガングロ老人が佇んでいた……。

 

 何故にwhy――?

 

 

 

 

to be continued…



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1-5 Dr. SONICBOOM

今回は書いてて楽しかったというか、攻防を全てダイスの女神任せにしたら、なんだか出目が暴れに暴れまくって草生えた。ダイスの女神のあらぶり加減で良い戦いが書けたと思う。


 

 ルルイエ異本を手にしてしまったクロウ。そんなクロウの前に現れたのは、長身で筋肉質、壮年の雰囲気を纏わせたサングラスの紳士だった。

 

 老年ではあるのだろうが、まったくそんな事を感じさせない若々しい雰囲気がその紳士にはあった。

 

 その老人の正体を、クロウは知っている。

 

 風の賢人。盲目の大賢者。逆さ十字と渡り合える程の高位の魔術師――ラバン・シュリュズベリイ。

 

 ミスカトニック大学の隠秘学科で教鞭を振るう講師であり、そして魔導書『セラエノ断章』の著者でもある。

 

 そんな大物魔術師――クトゥルフ神話における主人公格の登場に、クロウは背中に嫌な汗をかき始めていた。

 

 魔術師の位階として表すのならば、今のクロウは魔術師でも駆け出しも良い所であり、ようやく実践者(プラクティカス)に至った所だ。

 

 今まで実践ではなく理論ばかりを習っていた事で知識とその応用力は高い物の、魔術師としてはまだまだようやくひよこが卵の殻から抜け出せたくらいだろう。それこそその実力は無限螺旋の魔導探偵初期と団栗の背比べとでも思えばわかりやすいだろうか。

 

 そのような位階のクロウの目の前の賢者は、ブラックロッジの逆十字の小達人(アデプタス・マイナー)クラスの魔術師を軽くあしらえる程度の、大賢人だ。クロウの見立てでは更にその一つ上、魔人ネロと同クラスの大達人(アデプタス・メジャー)ではないかと推察している。まかり間違っても今のクロウが相手をして勝てるような相手ではない。未だ第一団(ファースト・オーダー)の第七位なのだ。位階が3つも離れていれば大人と子供のケンカだ。

 

 どうにかしてこの場を切り抜けるのが得策であるか考えるが、おそらくこのルルイエ異本は持ち帰らなければならないだろう。でなければ何をされるかわからない。

 

 ジリっと、動いた瞬間に、クロウの視界を何かが横切る。それは瞬く間にクロウが握るルルイエ異本ごと右腕に巻き付いてくる。それは黄色いボロ布だ。それを辿ればボロ布はシュリュズベリイ博士の服の袖口から伸びている。

 

「無駄な抵抗はよしたまえ。私としても、未来ある若者を傷つけるようなことはしたくはないのでね」

 

 極めて紳士的な対応だが、その声にはこちらに有無を言わさぬ程の力強さを含ませていた。根本的に次元が違う。これならばまだウェイトリイを相手にした時の方が気が楽だった。それもそうだろう。あれは邪神の落とし仔ではあったが、魔術師としてはお粗末も良い所であり、そして生物的に違う種に進化していったからこそ化け物として処理できたのだが、今目の前に居るのは同じ人間だ。同じ尺度が通用してしまうだけに余計に恐怖も湧き上がる。力の差が理解出来てしまう。

 

 だが、それがどうしたというのだ。

 

「くっ――。ご忠告は痛み入る。だが、おれもコレは手放せない事情があるものでね」

 

「それはどうしても、かね?」

 

 クロウの言葉に、僅かに眉を顰めたシュリュズベリイ。目の前の少年とも少女とも取れる、まだ幼さが残る子供が闇の気配を携えながらも目は純粋で真っ直ぐな物だった。

 

 敵ではない。敵愾心を抱くよりも、あの目は魔術を扱う者としてはとても貴重な存在だった。

 

 魔術という外法を扱いながら邪悪に染まっていない人間。そういう存在はとても貴重であり、人類を外宇宙の邪悪な存在から守護する人間としては最良のものなのだ。

 

 故に穏便に済ませたかったのだが、それでもルルイエ異本という高位の魔導書を野放しには出来ないのが事実だ。そして位階の合わぬ者がその書を閲覧すれば忽ち魂は穢れ、最悪の場合は化け物に変質するだろう。そういう輩を長い闘争のなかで飽きる程見てきたシュリュズベリイ博士は、クロウを正しい道に導くという教育者としての義務感すら抱き始めていた。

 

 だがクロウは悪徳を敷く背徳の獣の代理人。即ちシュリュズベリイ博士の示す路とは対極の方に伸びる路を既に選んでしまっているのだ。

 

 猟犬がシュリュズベリイに襲い掛かった。

 

「なに!?」

 

 不意を突かれても大賢人。難なくその奇襲を避ける。だが同じタイミングで現れた別の猟犬がボロ布に噛みつき、数匹掛かりで布を噛み千切った。

 

 そして腕に巻き付いた布が魔術文字に解けて、クロハに回収される。それは今はどうでも良いとして、周りに猟犬たちが集まってくる。

 

「この邪悪な気配と異臭。ティンダロスの猟犬か!」

 

「マスター!」

 

 クロハが撤退する意思を向けてくる。猟犬たちもクロウとシュリュズベリイ博士の間に広がるが、その中をクロウはルルイエ異本を背にしまい。刀を抜きながら前に出る。

 

 そう。勝てない相手だ。戦えば確実に命を失うだろう。だが、そんな目の前に降って湧いた強大な敵を前にしてむざむざと逃げ遂せてはこれから先、白き王と戦えるわけがない。そしてセラエノ断章もどうにかして手に入れるのだろう。でなければ逆十字に空席が出来てしまう。故にクロウはこの場でシュリュズベリイ博士を倒し、そしてルルイエ異本とセラエノ断章を持ち帰る役割(ロール)が発生したのだと、そう思わずにはいられなかった。或いはそういう思考に誘導されるようなステージ構成にされているのだろう。邪神が好みそうな事だ。既に自分は演者のひとりなのだろう。ならばそれでも構わない。

 

「優秀な魔導書も連れているようだ。それ以上に何を求めるのかね?」

 

 そう言いながら既にシュリュズベリイ博士も臨戦態勢だった。魔力と闘志が高密度で錬られていくのを肌で感じていた。それにクロウは引き攣りそうな口元を一度だけ噛み締め、そして口を開いた。

 

「たとえどのように非難されても、譲れないものがある」

 

 ピッと、刀で指先を切り、溢れ出る血が血風となってクロウの身体の周りを包む。

 

 血は魔術において媒介としてメジャーな部類である。そして自らの術を載せるのに、自らの血というものはこの上なく効率の良い触媒でもある。

 

「血刃を放つ、断て――!」

 

 血風を刀で切り裂き、その斬撃は血の刃となって魔力を込められてシュリュズベリイ博士へと向かった。だがそれをシュリュズベリイ博士は身を翻して回避する。

 

「なるほど。では、少々手荒だが、お相手仕ろう。若い魔術師(ヤング・ウィザード)よ」

 

 シュリュズベリイ博士から風の刃が放たれる。風属性に高い適性のあるクロウであるからその気配がわかったようなものだ。

 

 しかしそれを察せるとしても、相手は風に長けた大賢者。その(はや)い風の刃を、今のクロウには避けきれる技量はなく。咄嗟に魔力を纏わせた刀を盾にする事でどうにか凌ぐことが出来た。

 

 しかし反撃しようにも風の勢いは強く、クロウは尻もちを着いてしまう。猟犬たちが空かさずカバーに入るものの、使い魔として使役されており、更に魔導書の記述――ある意味呪法兵装に近い存在。ページモンスターに近い性質である猟犬たちは、大賢人の風の刃の前に蹴散らされてしまった。

 

 それでもクロウはその間に立ち上がって、刀を握り直す。

 

「ほう。気骨は大したものであるらしい。それに素質も申し分ない。こうして敵として戦わなければならないのが実に残念だよ」

 

「かの大賢人にそう言って貰えるとは、感動で涙が出そうだ」

 

 実際、どうやってこの場を退くか。――盲目の賢者相手にどう勝ちを拾うか。その方向にのみ思考を割いているクロウではあるが、それでも今のところは突破口の一つも思いつかない。ならば相手を分析する為に、仕掛けるほかはない。

 

 だがその思考の合間に次の風の刃が放たれる。しかしその刃は一度は見ている。故にクロウはすぐさま回避する様に地面を横に転がり、それが功を成し回避に成功する。だが反撃しようにも態勢は悪く、更なる追撃を許すことになる。

 

 更に風の刃が襲い、それもどうにか刀を盾に防ぐものの、腰を据えて受けきれなかったが故に、手から刀が弾き飛ばされてしまった。

 

「っ――!?」

 

 唯一の武器を失って、クロウに焦りが生じる。だがまだ諦めるには遠い。たかが武器を失っただけなのだ。

 

 再び血刃を放つクロウだったが、その刃は意図も簡単に風の刃で防がれてしまう。そしてその風の刃がそのままクロウに襲い掛かったものの、血刃を切り裂いた事で多少勢いが落ちたのだろう。

 

 素早く回避しつつ、立ち上がり、今度は光の弓をクロウは構えるのだった。

 

 そのまま番えた光の矢を放つクロウ。その速さは光となって風を追い越す。

 

 だがまだ練度が足りない。狙った方向には向かわずに、シュリュズベリイ博士からは僅かに逸れてしまった。

 

「中々粘るものだ。その力、人々の役に立てる気はないかね?」

 

「気持ちは有り難い。だがおれは既に選んでしまった。どのような悪徳を重ねようと、罪を被ろうとも構わない」

 

 問答は平行線だ。ならば力で屈服させるほかはない。

 

 それを察し、その覚悟を見て、シュリュズベリイ博士も本腰を入れる覚悟を決めた。

 

 その手に賢者の鎌を構え、クロウに急接近する。風の加速も加えた高機動に、クロウの反応が遅れる。

 

「させるか!」

 

 だがそこにクロハが結界を張る。振り下ろされた鎌に身体を切り裂かれるが、僅かに間に合った結界で命拾いをするクロウ。生じた風に身を任せて、敢えて吹き飛ばされることで間合いを開けた。

 

 そしてそのまま弓を引き絞り、光の矢を再装填。着地と同時に放った。

 

 だがそれも歴戦の大賢人には通用せずに避けられてしまう。

 

「くっ、ご老体なのに中々にやってくれる!」

 

「君こそ若いのに大したものだ」

 

「その頑張りに免じて見逃してくれるとかは」

 

「残念だがそれは出来ない相談だ。では、講義を続けよう」

 

「わかり切ってはいたがなっ」

 

 賢者の鎌を振り、風の刃が放たれるのを光の矢を複数放って迎撃する。一撃に際して複数攻撃しなければ迎撃しきれない。それを見てクロウは回避重視で相対する事を選択する。

 

 だが攻撃の連射速度ならばこちらが有利のはずだ。そう思ったクロウは一気に6本の矢を番えて放つ。二挺拳銃に匹敵する速度の物量攻撃。次々に矢を放つクロウ。その一発一発の速さは風よりも速い光の速度だ。

 

 それでも迎撃するシュリュズベリイ博士に、クロウは厭きれそうになるが、連射速度によってその場に釘付けに出来ていることを悟り、新たな魔術を行使する。

 

天狼星(シリウス)の弓よ!!」

 

 大きな一撃に賭ける。すべての想いを載せて撃ち出された黒き龍の一撃。それは迎撃に勤しんでいたシュリュズベリイ博士の虚を突き、龍の咢が博士を呑み込むのだった。

 

 煙が晴れ、そこには僅かにだが傷を負った老賢者の姿があった。

 

「驚いたものだ。その歳で私の結界を撃ち抜く力があるとは」

 

 しかし見た目ほどにダメージはない様子に、クロウは肩から力が抜け落ちそうだった。溜めは短かったとはいえ、それなりに威力の期待できる技だったのだが、結界を撃ち抜けてもダメージが軽いのでは意味がない。

 

「これは少々本気になる必要がありそうだ」

 

 そう言って、シュリュズベリイ博士は懐から出した黄金に輝く試験管を取り出した。それが黄金の蜂蜜酒だというのがクロウには判断できた。

 

 それを阻止しようとしたものの、クロウが動くよりも速くシュリュズベリイ博士はその黄金の液体を飲み干した。

 

 それによって一気に彼の霊質が嵩増しされたのを感じる。黄金の蜂蜜酒は飲んだ者に幻視の力を与えるとともに、星間宇宙を旅する力を与えるという霊的な物を強化すると共に、それは魔術師として能力を高める事の出来る霊薬でもあった。

 

「吹き荒べ、究極の風よ! 険悪にして恐るべきハスターの声を聴くがいい!!」

 

 吹き荒ぶ真空の刃。

 

 空間自体を切り裂くその刃を防げるモノなどない。

 

 咄嗟に結界を張ったものの、それすら意図も容易く切り裂かれ、術衣も紙きれの様に切り裂き、クロウは深手を負ってしまう。

 

「ぐはっ!!」

 

 そしてそのまま風に吹き飛ばされて地面を転がる。

 

「マスター!!」

 

 地面を転がり、身動きの取れないクロウを、元の姿に戻ったクロハが庇う様に抱き上げる。その姿に自分が悪者めいてしまっている気分にシュリュズベリイ博士は眉を顰めるのだが、ルルイエ異本の回収は必ず果たさなくてはならない。それは人類を守る為に必要なことなのだ。故に心を鬼にして、シュリュズベリイ博士はクロウとクロハに歩み寄った。

 

 主を守る為に魔力波を放つクロハだが、それも大賢人には通用しない。

 

「お嬢さん。主を守る姿は賢明で尊いものだが、よければ彼の持つルルイエ異本を私に譲ってはくれんかね? そうすれば彼の命までは取るつもりはない」

 

 それは事実だった。これでクロウが邪悪な魔術師ならば命を狩ってでもルルイエ異本は回収しなければならなかったが、そうではなく、将来有望な若者がまったく邪気もなく、ただ譲れない何かの為に戦っている者の目をして相対してきたのだ。

 

 それ故の申し出だった。だが、クロハに決定権はない。しかし拒めば主の安全が保障できない。

 

 ここは主の好感を損ねても優先するべきものがある。クロハがルルイエ異本を渡そうと思った時だ。クロウは身体を起こして起き上がった。

 

「ま、ますたぁ…」

 

「…あまり動かない方が良い。その傷では直ぐに手当てをしなければ命にも関わるやも知れん」

 

 そう言われてしまう程に、クロウの身体には深い傷が刻まれていた。失血死に至るような深い傷からは血が止めどなく流れている。

 

 確かにまだ、致命傷ではないが、放っておけば命が危ないだろう。しかし、まだ動ける。まだ戦える。

 

 ただ身体に少し深い傷を負っただけだ。少し血が止まることなく流れているだけだ。意識が朦朧としているが、それだけだ。

 

 まだだ、まだ五体満足だ。まだ動ける。闘志に曇りはない。ならばまだ戦えるだろう。そう――。

 

「まだだ…!!」

 

 クロウから溢れ出すその血が、まるで意志を持ったかのように蠢いて、クロウの傷口を埋め、更には血風に魔力が宿り、美しい光のヴェールとなってクロウとクロハを包み込み、魔力が高まって行くのをシュリュズベリイ博士は感じ取っていた。

 

「機神招喚――!!」

 

 そう、クロウは叫んだ。クロハの身体が魔導書の頁となって解け、クロウを高度な術式転送装置となって包み込んだ。

 

「なに!?」

 

 その言葉に驚くのはシュリュズベリイ博士だった。目の前の魔術師の少年は鬼械神(デウス・マキナ)を招喚出来る程の位階にあるとは思えなかったからだ。

 

 ……刃よ。血濡れし刃よ。

 

 たとえ汝が罪に錆びゆくとも、我は汝の同胞なり。

 

 戦友(とも)よ。我が戦友よ。

 

 我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!

 

汝、血濡れし刃――デモンベイン!!

 

 紅い光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣。

 

 悪徳を敷こうとも、交わされた契約のもとに、血濡れし刃はその姿を顕すのだった。

 

鬼械神(デウスマキナ)――!?」

 

 血に濡れたように真っ赤で、血が固形したかのように紅く黒々した色の装甲。血と瘴気の腐臭を漂わせ、錆鉄の香りが辺りを支配した。

 

 転送魔術によってコックピットに転移していくその主と魔導書の目はまだ死んではいない。限りなく高められた闘志が燃え盛り、鋼のコックピットへと消えて行く。

 

 相手が鬼械神ではこちらもそれ相応の対応をしなければならない。

 

 シュリュズベリイ博士の身体の周りにも吹き荒ぶ風が結晶化し、魔導書となる。その魔導書を開き、シュリュズベリイ博士も己の聖句を紡いだ。

 

 我は勝利を誓う刃金。我は禍風に挑む翼。

 

 無窮の空を超え、霊子(アエテュル)の海を渡り、翔けよ、刃金の翼!

 

「舞い降りよ―――アンブロシウス!!」

 

 極めて膨大な字祷子(アザトース)の乱れ。と共に突風が吹き荒れる。

 

 それは強大な何かが顕現しようとしている証だ。あり得ざる物体が、霊質から物質へと置換されていく。

 

 痩せた猛禽のようであり、鋼鉄で組まれた骸骨のようでもあった。強力にして強大な神の模造品。

 

 巨大な人の(カタチ)をしている魔術的な機械(マキ―ナ)

 

 だが、正確に人体を模しているわけではない。大体のシルエットは人間に似ている。が、二本ではなく四本の腕が伸びている。

 

 そして、まるで痩せた猛禽のような相貌と、鋭い鋼鉄の翼。

 

 これが魔導書『セラエノ断章』から召喚される鬼械神(デウスマキナ)である。

 

 そして両手に握られた一振りの巨大な鎌。四本腕のその機体は、どこか禍々しいものを連想させた。

 

 例えて言うなれば、死神の鎌を持つ巨大な凶鳥。

 

 死の旋風を運ぶ鬼械神――それが盲目の賢者の駆る機械仕掛けの神。

 

 鬼械神――アンブロシウスである。

 

 デモンベイン・ブラッドのコックピットに移ったクロウは機械仕掛けの神の力を発動させ、デモンベイン・ブラッドの身体を機械の鎧が包み込む。

 

 デモンベイン・クロックワーク・ブラッド――。

 

 デモンベイン・クロックへの変態を終えたクロウは、コクピットの中で目の前の鬼械神の攻略法を考える。こちらと比べて、アンブロシウスは時間制限に厳しい鬼械神だ。

 

 性能は強力だが、術者への負担も考えられており、蜂蜜(ミード)という燃料が尽きれば動けなくなる。強力な代わりに燃費が悪い。永劫の名を持つ鬼械神に近しい性質を持っていた。

 

 そういう面で、術者への負担も最小限である最弱無敵の機械神であるデモンベインというのは、クロウにとってもあり難い存在だった。

 

 機械として顕現している邪神の力も相まって、その維持や行動に、純正の鬼械神程魔力を消費しない。故に継続戦闘能力は抜群に他の追随を許さないのだ。

 

 だが相手は空に居る。空中戦を出来る装備は、悲しいかな。クロックワークの力を得てもデモンベインに備わっていない。

 

「それは私がどうにかします。今しばらくお待ちください」

 

「任せる」

 

 そしてクロウは操縦桿を操り、デモンベイン・クロックを動かす。

 

 それに相対してアンブロシウスも戦闘態勢に移行する。

 

 初の機械仕掛けの神(デウスマキナ)同士の戦いが、まさか盲目の賢者との戦いになるとは思いもしなかったクロウだったが、相手にとって不足なし。それどころか多額のお釣りを支払うような相手ではあるが、贅沢は言っていられない身分なのだ。そのお釣りを全て奪っていく勢いで掛からなければ死ぬ。そう自分に言い聞かせる。

 

「跳べぇぇぇ!! デモンベイン!!」

 

「アンブロシウス、駆けよ!!」

 

 脚部シールドのエネルギーを爆裂させ、跳びあがるデモンベイン・クロックデモンベイン・クロック。

 

 だが空中戦を得意とするアンブロシウスは変形してデモンベイン・クロックから遠ざかって行く。しかしそれは逃げるという行動ではない。こちらの形状から明らかに空戦向きではない事をわかった上での仕切り直しだ。

 

 旋回して向かって来るアンブロシウスからエーテルランチャーがミサイルの様に次々と放たれていくのをバルカンで迎撃する。

 

 そこでデモンベイン・クロックが重力に掴まるのを感じ取る。

 

「おおおおおおおっ」

 

「っ、はあああああ!!」

 

 変形し、上段から賢者の鎌を振り下ろしてくるアンブロシウスに合わせて、クロウはデモンベイン・クロックの腕を突き出す。

 

 拳と刃が盛大な火花と金属の衝突音を響かせて弾き合う。

 

「アトランティス・ストライク!!」

 

 身を翻して、クロウはデモンベインの必殺技を叩き込む。だが不利な空中戦。分が悪い。時空間歪曲エネルギーが届く前に離脱したアンブロシウス。そして滞空限界で着地するデモンベイン・クロック。重力制御によってその着地はなめらかではあるが、出力的にデモンベインの超重量を重力の枷から解き放つだけの力はない。

 

 しかしそれでもやらなければならないのだ。

 

「エレクトリック・ブラスト!!」

 

 両手を天に掲げ、放電した稲妻が天を駆け上がり、枝分かれした雷がアンブロシウスを襲う。

 

 それを持ち前の高機動で躱していくアンブロシウス。しかし今回はそれでは終わらない。

 

 再び跳び上がったデモンベイン・クロック。その軌道は神懸かり的にアンブロシウスの回避軌道の先だった。

 

 鎌を振り上げる様に脚を振り上げるデモンベイン・クロック。その死神の鎌が、アンブロシウスを捉える。

 

 だが直前でバレルロールによって回避したアンブロシウス。

 

 そのまま賢者の鎌で反撃を打ち込んで来る。だがクロウは無理やり振り向きながら強引に蹴りの軌道を変え、どうにか賢者の鎌を迎撃する。

 

「ぐぬぅぅぅうう!!」

 

「うおおおおおああああああっっ」

 

 そのままの勢いで強引に時空間歪曲エネルギーを解放した。

 

「アトランティス・ストラァァァイクッッッ!!!!」

 

「ぐ、おおおおおおお!!」

 

 だがそれでもアンブロシウスは結界を展開し、耐えた。

 

 盾にした賢者の鎌が、へし折れ、時空間歪曲エネルギーの光が、未だ夜明けを迎えぬ夜に太陽を生む。

 

 蹴り飛ばされたアンブロシウスはそれでも落ちない。無理やりに打ち込んだ蹴りでは威力が足りない上に、賢者の鎌と結界に阻まれてダメージは通っていないだろう。

 

 再び着地するデモンベイン・クロック。その後ろ腰に、新たな機構(パーツ)が追加されたのがシステム・ステータスで確認できる。

 

「リベルレギスの竜の衣の翼を術式編纂して使える様にしました。これならば――」

 

「フッ、パーフェクトだ。クロハ!」

 

「感謝の極み」

 

 赤黒い竜の翼から、輝くエーテルの光を吐き出し、デモンベイン・クロックは空に飛び立った。

 

「翼!? 飛べるようになったのか!」

 

 まるで空を駆け登るイカロスの様に、その背に翼を生やした人型の機神に、シュリュズベリイ博士は自らの領域(フィールド)が、絶対のものではなくなったことを理解した。

 

 未だに無手のデモンベイン・クロック。しかし、その身に宿した力は並大抵の鬼械神では及びもしないものである。術者が未熟者であるから良い物の、第三位階の被免達人(アデプタス・イグゼンプタス)や第二位階の神殿の首領(マジスター・テンプリ)級の魔術師が操っていれば星どころか宇宙でさえ壊滅させる能力を発揮するのだ。

 

 機械神は超絶一級。魔導書は一級。魔術師が三流で、漸くまだ、三位一体が一級品である盲目の賢者の方が強いのだが……。

 

 忘れてはならない。光の魔王に育てられた魔王の眷属は、気合と根性で覚醒を果たす˝バカ˝の部類であると。

 

 相手が格上であればあるほどその成長は急速である。

 

 戦う時間が長ければ長い程、また成長を繰り返す。

 

 ダメージを与えれば与える程に強くなる。

 

 相手が強ければ、強くなれば、その強さに合わせて強くなる。

 

 そして何があっても負けを認めずに立ち上がり続ける。

 

 更に瀕死の状態にまでになれば、覚醒を果たす。

 

 そこから極限状態に陥れば至ることの制限が解除され、さらにまた以下ループの様に続いて行く。

 

 やがて格上だった存在に追いつき、並び、そして追い越して、踏破する。

 

 そんなトンチキの様な素質を、魔王の眷属は持ち合わせていた。何故ならばそういう風に魔王が育ててしまったからだ。

 

 これが普通の家庭で育てられた子供だったのならば、諦めが悪く、勇敢に立ち向かう様な普通の主人公補正で終わるのかもしれない。強くなるにしても限度がある。

 

 だが、その限度を知らない。取り払ってしまった破綻者に育ててしまったのだ。

 

 すべては、その人の輝く姿を見たいがために。子供だからこそ、強く望む夢を掴んでもらおうとしたがために。

 

 光の魔王は光ではあるが魔王であるが故に――加減を知らなかったのだ。知っていたとしても加減はしないだろう。何故ならば、加減をして中途半端に育てるくらいならば初めから子育てなどに手を出さない。

 

 やるからには全力全開で一切の手加減も妥協もしない。故に実際はともかく、そういう思考回路は受け継がれた。第二盧生の修正が入って一般常識だけは働かせられるが、やはり根本的な価値観というのはどうにもならなかった。でなければ魔王の眷属を続けてはいないだろう。

 

 そして空に飛翔するデモンベイン・クロックは一直線にアンブロシウスに追いすがる。空気抵抗どころか重力すら無視する勢いで加速したデモンベイン・クロックの機動力に対して目を見開くシュリュズベリイ博士だったが、すぐさま機体を翻し、そして両者は空中で組み合う。

 

 デモンベイン・クロックの両腕と、アンブロシウスの巨腕が組み合う。

 

「アルデバランより吹き荒れよ!」

 

 残った本体の腕で印を切り、アンブロシウスはデモンベイン・クロックを竜巻の中に封じ込める事に成功する。だが、それでは終わらない。

 

 すぐさまアンブロシウスに蹴りを入れるデモンベイン・クロック。離れた両者の間を稲妻が降り注いだ。

 

「読まれていたか!?」

 

「ある程度は予測できる!」

 

 それは曲がりなりにも、クロウは知っているからだ。盲目の賢者の戦い方を。

 

 そして未だ賢者は最弱無敵の破邪の刃の戦いを知らぬが故のアドバンテージの差が、僅かにだが戦いをクロウの優勢に傾けつつあった。

 

 両手に稲妻を溜め込み、二つの稲妻を一つに纏め、クロウは明滅する雷の矢を放った。

 

「死に雷の洗礼を!!」

 

「ABRAHADABRA――」

 

 その雷は竜巻を吹き飛ばし、真っ直ぐにアンブロシウスに向かった。しかしアンブロシウスは紙一重でその雷を回避し、腕を振るって風の刃を撃ち出してくる。

 

 回避は間に合わない。だが展開した五芒星の輝きを放つ紅い結界に阻まれ、風の刃は届かない。

 

「返すぞ!!」

 

 さらに呪力の軌道に沿って、クロウは呪詛返しの応用で血の刃を飛ばし返した。

 

 その様な方法での反撃に、心底惜しいと、シュリュズベリイ博士はクロウの才能を思わずにはいられなかった。

 

 だがクロウに出来て、シュリュズベリイ博士に出来ないわけでもなく。結界によって血の刃は防がれてしまう。

 

 さらに同じように呪詛返しによって風の刃が放たれ、その刃を届かせる為だろう、エーテル弾が次々とアンブロシウスから放たれる。

 

 だがデモンベイン・クロックは再び物理法則もあったものでもない超加速で風の刃を、エーテルの追尾弾を振り切り、そして機体を翻して急降下。時空間歪曲エネルギーの籠った蹴りでその攻撃を全て吹き飛ばすのだった。

 

 そのまま急降下するデモンベイン・クロックだが、その様な見え透いた攻撃に当たるようなアンブロシウスではない。

 

 擦れ違ったデモンベイン・クロックに対して腕を振るい、風の刃を放つ。だが急停止・急反転という正しく物理法則にケンカを売った切り返しで、デモンベイン・クロックは突き出した左肩の装甲を切り裂かれながら遂にその拳をアンブロシウスに届かせた。

 

「ぐおおおおおっ」

 

「うおおおおおおおおっ」

 

 拳はアンブロシウスの結界を強かに打つ。防御結界というものは魔術的な要素のあるものには強固な防壁となるが、物理攻撃に対して――鬼械神同士の戦いでは余程の出力がなければ防げるものでもない。

 

 結界を破り、拳がアンブロシウスに直撃する。

 

 空かさずクロウは畳みかけた。

 

 アンブロシウスの翼を掴んだのだった。その意図を察したシュリュズベリイ博士は魔力で賢者の鎌を再生成した。壊れた呪法兵装を修復するのにはそれなりの魔力を必要とするが、それ以上に優先するべきものがあった。

 

 振るわれた鎌はデモンベイン・クロックの貌を直撃し、クロックワークの装甲に守られた顔を露出させるが、クロウの勢いは止まらない。

 

 メキメキと、ひび割れる音と共に、アンブロシウスの左の翼を捥ぎ取るデモンベイン・クロック。

 

 そのままボディを蹴り飛ばし、サマーソルトで間合いを僅かに開ける。

 

 翼を片翼捥がれた程度で墜ちるような軟な鬼械神ではないアンブロシウスではあるが、それでも翼が健常であるデモンベイン・クロックよりも態勢の立て直しで後れを取る。

 

 そのまま組み付こうとしたデモンベイン・クロックの魔の手から逃れ、無防備を晒した背中に、賢者の鎌を振るった。

 

 デモンベイン・クロックも振り向き様に拳を振りかざした。

 

 また同じようにかち合う拳と鎌だったが、込められた魔力を炸裂させることでアンブロシウスは再び鎌を失うものの、デモンベイン・クロックは左の腕を中ほどまで失ってしまう被害を出してしまった。

 

 しかしそれで諦めるようなクロウではない。

 

「デモンベィィィン――!!」

 

「ぐおっ、これは!?」

 

 その右手に集まる魔力の奔流を、シュリュズベリイ博士は見逃さなかった。

 

 防ぐ――論外である。防げるような規模の魔力の集中ではない。

 

 気づけばシュリュズベリイ博士は頭部のバイアクヘーに乗せられ、アンブロシウスを脱出していた。

 

「なっ――!?」

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 巨人の右手が、無限熱量を内包した結界が、アンブロシウスの胴体に叩き込まれた。

 

 太陽すら焼き尽くさんという程の眩い光が放たれ、アンブロシウスの機体を呑み込んだ。

 

 その光景を、盲目の賢者は存在しないはずの眼でしかと目に焼き付けた。

 

 誰にも消せない、生命の詩を紡ぐ少年の魂を、自らを逃がした娘の最後を、人類の為にその刃金を振るった機神の幕引きを――。

 

 

 

 

 

to be continued…  



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1-6 一難去り、また一難

全開が濃かった反動で今回は出涸らしも良い所の薄味です。

次のバトルもサイコロで占おうか少し悩む。本当だとシュリュズベリイ博士倒す予定じゃなかったんだけど、退きたい所で普通の成功ではなくクリティカル出されるともう戦うしかないわけで、なら戦闘もほどほどにしようかと思ったらまたクリティカル連続とか、クロウがクリティカル判定出した時に回避ロールでファンブル出すシュリュズベリイ先生のダイス運ってなんなんだろうね。だからクロウが勝っちゃったんだけどさ。

あと悪徳・咆哮・血濡れの他に飛翔篇までのプロット出来ました。しかしそれが形になるのは何年先の話になるのやら。


 

 セラエノ断章――。

 

 惑星セラエノの大図書館にある石盤の内容を訳した魔導書である。新しい部類の魔導書からすればそれだけで機神招喚が可能なのはやはり著者であるシュリュズベリイ博士がそれほどに高位の魔術師であった事が窺える。

 

 回収したセラエノ断章は魂の抜け殻であり、また散失した記述も多かった。それだけでも大変為になる魔導書だったが、完全版を読みたくなってしまうのも仕方の無いもの。

 

 ナコト写本には時間逆行の秘術も記載されている。

 

 それでセラエノ断章の時間を巻き戻したことで漸く完全版の記述を読み解くことが叶った。

 

 邪神狩人であるシュリュズベリイ博士が己の経験も合わせて書いている学術書という側面もあるらしいオリジナルのセラエノ断章。 

 

 内容も邪神から身を守る為の旧き印や、ビヤーキーの招喚。黄金の蜂蜜酒の製造方法、クトゥグア招喚。それらを中心に、邪神の脅威に対する防衛術が網羅されている。特に対クトゥルー関係に対する造詣が深いのはやはりシュリュズベリイ博士自身も対クトゥルー信仰に対する戦いをしてきた為だろう。

 

 この魔導書を読んでしまうと、素直にこれをマスターテリオンに手渡して悪徳の限りを尽くす尖兵にしてしまう事に抵抗が出来てしまう辺り、自分はこの先やっていけるのかと思うが。

 

 悪党には悪党の美学がある。

 

 そんな言葉を思い出した。

 

 悪徳を積もうとも譲れない一線がある。そこまでの人間性を捧げてしまった時。それはもはや人間ではなく獣と同じだ。

 

 だからマスターテリオンは別として、逆さ十字の咎人は彼処まで外道なのだろうかと詮無いことまで考えては筆を休める。

 

 初の鬼械神同士の戦闘。それを終えて三日三晩、アドレナリンが沸騰しすぎて眠れず、眉間から頭の中身が出そうな程の痛みを味わった。興奮し過ぎて脳の毛細血管が破裂していたらしい。

 

 それをクロハに癒して貰いながら、クロウはセラエノ断章の写本に着手した。

 

 クロウ自身、相性の良い属性は風である。

 

 そんな風を扱える魔導書を手元に置かないという選択肢は無い。故にオリジナルはマスターテリオンに渡してしまうのだから、原本を手元に残せる処置をするのは勝者としての義務だ。

 

 アンブロシウスを降した後、クロウはキングスポートへ向かった。流石にそのままアーカムに帰るにしては早すぎる上に、インスマウスで寛ぐ様な図太い神経は持ち合わせていなかった。

 

 そこで宿を借り、セラエノ断章の写本執筆作業と相成ったのだ。

 

 セラエノ断章を読み解きながら、手記に内容を走り書く。持ち運びが楽な方が良いと思ったからだ。

 

 そうして、手記セラエノ断章は生まれた。

 

 メインで使うのは当然クロハであり、外付けの補助回路の役目を手記セラエノ断章には果たして貰うつもりだ。そしてシュリュズベリイ博士の教訓に関しての部分は抜いておく。これだけは渡せないと確信している。

 

 ベッドの上で寝息を立てているクロハを見ると、自然と頬が緩む。

 

 戦闘後に情けなくも倒れてしまった。魔力が切れたわけでも、ケガの所為でもない。緊張感から解放されてそのまま気絶したという情けない物だった。

 

 戦いで負った傷の痛みでさえ後追いの様に襲い掛かり、1日は痛みで悶えて終わり、2日目は戦いの興奮によってアドレナリンが沸騰しすぎて眠れず、3日目に漸くクロハに抱かれて眠ることができた。

 

 恐らく自分はどうやらもうロリコンだった様だ。自分もそこまで体格が良い方では無いものの、同年代の妹の様な、それこそ小学生でも通じてしまいそうな女の子に抱かれて安眠する様なペドフィリアだったらしい。

 

 この様な自分に献身的に付き従ってくれる優しい従者。初心者向けの魔導書としてはアタリを引けた事は幸いだった。――そうは思いたくはないものの、実際クロハの存在というものは有り難かったりする。何故ならば試練を踏破するという意志力に合わせて、彼女を守ろうという想いを抱き始めている。それほど情が湧いている。というのもあるが、実際自分と契約して生まれた存在。

 

 自分好みの子に助けられ、更には自分が死ねば彼女も死ぬだろう。敗北を期すればどうなるかもわからない。

 

 アンブロシウスを倒し、セラエノ断章の残骸を手にして湧いた想い。彼女を死なせたくないという願い。

 

 優しく一途な献身を受けた程度で此処まで自分が他人を想う等とは思わなかった。自己解析してもあまりにもチョロすぎないかとも思う。他人に明確で真っ直ぐな好意を向けられた事がないからだろうか。

 

 父代わりのあの男や、自分を躾た男も、命への執着を教えた男も――。考えてみたら周りが()()()()()()()()。それは流石に耐性が皆無でも仕方がなかった。

 

 故にチョロいのではなく、異性から一途な想いを向けられた経験がないが為というだけで全く問題はないという事である。

 

 ベッドに入って、クロハの顔を胸に抱くように身体を寄せる。クロハの、まるで乳液のような心地の良く甘い香りを感じながらいると、クロハが足を絡めて、腕を此方に回してくる。そして心地の良い位置を探るように顔を擦り付け、開拓された着物の胸元を舐めはじめる。――イヌかこの娘は?

 

「……わん」

 

 イヌだったか。

 

「きゃうっ!? ま、ますたぁ…? んや、ぁぅ、んっ」

 

 舌触りがくすぐったかったので、仕返しにお尻を揉んでみる。手に吸い付いてくるしっとりとした餅のようで、その実手を反発する張りも申し分無く飽きが来ない揉み心地を約束している。

 

 胸はCはあるだろう。手に丁度収まる大きさで、此方も揉み心地は抜群で、というよりクロハは何処を触っても、触り心地が抜群である。

 

「ん、んはぁ…、あふっ……」

 

 触り心地の良い臀部から名残惜しくも片手を離し、そのまま背中を、背骨をなぞる様に指を這わせていく。びくびくと身体を震わせている姿もまた愛らしく、もっと強請る様に胸に吸い付く強さが増す。肌で感じる彼女の鼓動が、興奮に合わせて速くなっていくのがわかる。

 

「あ…、きゃうんっっ」

 

 イヌの様な悲鳴――甲高い嬌声を上げるクロハ。クロハの弱点は尾てい骨の部分を触られる事だ。尻尾のつけ根。そういうところが弱いらしい。

 

「だ、ダメ…っ、です、んひゃいっ」

 

 身体を仰け反らせる程に快楽を感じている姿はもっと喘がせてみたくなるものの、そうすると止まれなくなるので、身体を仰向けにする。もちろんクロハは抱いたままだ。そうするとクロハは俯せで身体の上に乗ることになる。

 

「ゃん、…ま、ます、たー?」

 

 体勢を変えて不思議がるクロハを抱いたまま軟らかいお尻をまたむにむにと手慰み代わりにする。べつに尻フェチに目覚めたわけでもない。クロハの身体が何処をどう触っても心地好い手触りなのが悪いのだ。

 

 クロハの身体が動かない様に片手は背を抱いて、片手は代わらずに臀部に添えるという少しアレな寝かたでもクロハは嫌な顔をひとつせずに受け入れてくれる。

 

 だから調子に乗ってしまうのだが、女体を触ることさえクロハが初めてなのだ。

 

 自慰を覚えたての獣ではないが、その快楽を、心地好さをつい求めてしまう。

 

 だが明日はアーカムに戻ろうと思っている為、肉欲は自重しなければならない。

 

「明日は早いからな。今日はこのまま寝るぞ」

 

「こ、このまま…、です、か……?」

 

 寂しげに声を漏らしながら、どうにか焚き付けようと腰を求愛行動の様に擦り付けてくるものの、本能と理性の制御程度は造作もない。

 

 その上、クロハは焦らされることさえ好きなのもわかっている。

 

 腰を動かして臀部に添えられている指の当たる位置を変えて快楽を得ようとするクロハ。だが軽く肉を掴む程度の力は込めている為、身を捩っても無駄である。

 

「ま、ますたぁぁ……」

 

 猫撫で声、とでもいうのか。潤んだ瞳、蜜を含んだ声。見掛けの少女然とした姿からは想像できない程に情動を誘う仕草。男であれば一目で魅了され、理性は溶解し、気づいた時にはこの少女を犯しているという光景が広がるだろう。正直本能では今すぐにでも彼女をぐずぐずに蕩ける程に犯したいと思っている。でなければ彼女を故意に高める様な事もしない。だがそんな甘く蕩けそうな誘惑でも、鋼鉄の理性は揺るがない。

 

 確かに情欲は感じているものの、それを解放してしまうと後が大変である為、今夜はその情欲を愛撫するという事だけに差し向ける。

 

「ひぁああっ、ま、まひゅたぁぁ…」

 

 一度強く握り潰す勢いで肉を掴む指を沈めると、身体をびくびくと痙攣させて、くたりと身体の力が抜ける。

 

「ぁ、ら、め、いま、まひゅたぁぁぁ…」

 

 魔術回路にそのまま指を動かす様に命令を下してそのままクロハの嬌声を子守唄代わりにして眠りにつく。こうする事で指だけが勝手に彼女をかわいがり続ける。既にベッドのシーツはコップの水を溢したかの様になっているが、構わないだろう。

 

「あ、あ、ぅあ、ひぅ、ゃらぁぁ、まひゅ、らぁぁ……」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 そこは祭壇にして、玉座。

 

 盲目の賢者を打ち破る光景を、少年は玉座にて鑑賞していた。遠見の魔術程度、彼からすれば造作もない事である。

 

 血に濡れたように真っ赤に染まった魔を断つ剣。その出生も気になるところであるが、それ以上に関心を寄せたのは、賢者に勝利した人間の事であった。

 

 一目見た時は、何処にでもいる普通の人間だった。邪神に見定められたとは思えない程に普通だったのだ。それこそ戦いに巻き込んでしまうからと、意味もなく穢れていない住人を逃げる様に訪ねるという無意味な偽善をする程度には善良な普通の人間だった。

 

 だがいざ戦いが始まればそれも少し印象が変わった。

 

 生身での戦闘では子供が大人にあしらわれる様にまったく歯が立っていなかった。ルルイエ異本を手にしたのならば退散するという選択肢もあっただろう。勤勉な彼ならば、完全な状態のナコト写本より、たとえ盲目の賢者が相手であっても逃げる事の出来る魔術はあることはわかっている筈だ。

 

 しかし彼は逃げる事はせずに立ち向かった。敵わないとわかっている相手にだ。逃げる為にどうにか手傷か隙を作り、逃げようとしていた気分はあった。だが途中からその気分さえ初めからなかったかのように正面からバカ正直に挑み続けていく。拙い回避や、魔術で。

 

 その気になられていればいとも容易く狩られてしまう様な力しかない。だがそれでも抗う姿に、どうしてか愛しの怨敵を想起させた。

 

 そして深手を負わされても、命乞いをするわけでもなく、かといえば逃げるわけでもなく、立ち上がり、立ち向かうその光景は、今度こそ宿敵と被った。成る程、確かに邪神の目に留まる程度の存在ではあるわけである。

 

 そうして、戦いは鬼械神同士の戦いへと移り、今度は一転して盲目の賢者より戦いの流れを掴み始めた光景は、正直心が躍るものがあった。

 

 デモンベイン――。

 

 魔を断つ刃は白き王のみに与えられてこそ価値がある。その真価は、彼の正の極限へ至る英雄にこそ相応しい。

 

 だが、負の極限に挑む英雄もまた面白い見世物であると、この時少年は邪神の意図を僅かながら理解した。

 

 善性の徒に悪徳を積ませることで、その葛藤を愉しむ、そしてその属性故の人としての限界を愉しみたいのだろう。

 

 自らの様に役目だけを果たす役者には飽きたという見方も出来るだろう。

 

 そろそろ終わりも近いと、最近は思い始めていた。なにしろ魔導書を焼かれる事態などこの数千億の果てしない輪廻の中では初めての事だったのだ。油断も隙もなく、純然たる実力によって一矢報いられた。

 

 それによって終わりの足音を感じられた。故にこそ、更なる追い込みをかけるのだろう。

 

 両社がぶつかり合う事で起こる変化というものを、今から楽しみで仕方がなく、それを想うだけで愉快な気分が少年の鉄面皮に弧を描かせる。

 

 魔術師、魔導書、鬼械神の三位一体を正しく理解しているのならばたどり着けるだろう。

 

 わざわざ完全な状態にまで復元した『ナコト写本』の()()を渡したことにも意味があるというものだ。

 

 膝の上に頭を乗せる黒い少女の髪を愛でながら、少年は玉座にあって、無窮の退屈からの一時の解放を素直に受け入れた。面白い見ものが始まる。そう確信させる。故に――。

 

「貴公を我が逆十字の末席に加えようではないか」

 

「…………どういうことだ――?」

 

 未だ第13封鎖区画の瘴気には耐える事の出来ないクロウの為に態々アーカムのこじんまりとした喫茶店で待ち合わせをした少年は、ルルイエ異本とセラエノ断章を差し出した彼に向かって言い放った。

 

「なに。そのままの意味だ。7つの頭。鬼械神を招喚出来る程の魔術師は決して多くはない。全人類のほんの一握りであろう」

 

 無限螺旋では気軽に鬼械神を運用する魔術師が多い物の、小達人(アデプタス・マイナー)であるアンチクロスの魔術師でさえ長時間の展開は難しいのだ。短期決戦であるが故にそうは思わないだろうが、扉を超えて戦い続けられる程には、アンチクロスのだれであっても成すことは叶わないだろう。

 

 そうした適正を持つ人間を用意するのも骨が折れる故に、邪神が介在し、自然と面子は揃うものの、同じ風使いという括りで考えてしまえば、クラウディウスよりも目の前の、宿敵と同じ名を持つ少年の方が段違いの活躍をするだろうという確証は、盲目の賢者より勝利した事実をもってして証明に足る事実だろう。

 

「悪いがそれはご免被る。おれは魔王の眷属であって、魔人ではあるが、畜生に堕ちる趣味はない」

 

 そうして孤高の矜持を持つ姿が愛いしく想えるのも、それは久しく身近では感じなかった人としての矜持だけは捨て去るものかという強き意志を持つ人間の輝きを持つが故だろう。

 

 彼我の実力差を分かっている上で、それだけは譲れないと主張する目の前の少年を、組み敷き喘がせれば、いったいどのような聲で啼くのだろうかという愉しみもないわけでもないが、それは一先ず置き、背徳の獣は目の前の魔王の眷属をどうしたものかと思案する。

 

「そのまま邪神の思惑通り王座を渡して隠居でもすれば良い。おれが居る限りは次の出番はないと思え」

 

 そう啖呵を切る魔王の眷属に、背徳の獣は口を開けて笑った。

 

「あはははははははははははは!!」

 

 その様子にクロウは身構えた。それは嘲笑でもなんでもない、ただおかしくて、ただおもしろくて、そう。まるで子供が純粋に笑うような聲であったからだ。

 

「なにがおかしい」

 

「いやなに。中々どうして、愛いと思ってな。貴公は余の楽しませ方というものを分かっている様だ。ククク、教育が行き過ぎているな」

 

 金髪の超越者というのは似たような感情を抱くのだろうか。強者故に、弱者の強がりを怒るのではなく、笑い、そして愛でるかのような顔で見るのだ。

 

 だが、それはそれで話しやすいとも言う。強者は弱者の精一杯の強がりを微笑ましくは思うが怒りはしない。それは強者の余裕であるからだ。そして、弱者が己と同じ強者になった時に、その感情を発露する。

 

 そう想えば、強者とは孤高の存在で、そして、寂しい生き物だ。

 

 己の価値観を理解されない。理解させようにも相手が壊れてしまうから。故に、強者は常に飽いている。飢えている。

 

 それを是とせずに恋い焦がれて待ち侘びるのだ。

 

 己と価値観が共有できる存在を。己と同じ領域に並ぶものを。強者もやはり究極的には人であるのだ。それは超越者であっても変わらない。

 

 そういう感情を抱くことなく突き進む者は破綻者なのだろう。それを理解して、それでもなお進む強者もまた存在するが、あれは例外である。何があっても諦めずに踏破するという気概は大変学べる上に、その英雄譚は輝かしく憧れるものであるが、それに倣うのならばその気骨だけで充分であると教育者からは言われたが。

 

 そうして魔王の眷属は目の前の少年を哀れには思わないが、ただ寂しいとは思った。そして、その寂しさを埋められるのは己の従者であると知るのはまだまだ先の事なのだろう。

 

 だが、今回は邪神の意図はわからないものの、自分が悪徳を成す存在に抜擢されてしまったのだ。

 

 ただ一度の代役。しかし演目はわかっているのだ。故に演じ切ろう。故に背徳の獣に出番はないと突き付けたのだ。

 

 まさかそれを強がりだと笑われるとは思ってもいなかったが。

 

「しかし、これだけではまだ足りぬだろう。故に、次のステップだ」

 

「なに?」

 

 次のステップ。そう言った瞬間に時間が再び巻き戻ったのを、クロウは感じていた。しかもその遡りは先日の物よりも更に過去に跳んだ事を感じるのには充分な一瞬の1900()が感じられた。

 

「何をした。いや、なにをさせるつもりだ」

 

「なに、他愛のないお使いの様なものだ」

 

 そう店を出るマスターテリオンに、クロウは後に続かざる得なかった。

 

 そうして目にするのは今よりもまた少し古い――未だ発展途上の様なアーカムシティの姿だった。

 

「ざっと数十年前だ。ここで、…いや、今説明する事でもないが。貴公は人間を砲弾に積めて宇宙に打ち出すという発想をどう思う?」

 

「どう思うか。いや先ず人間には無理だろう。Gと加速度で潰れるに決まっている」

 

 そうだ。普通そんなことが出来る人間などいない。砲弾に人間を詰めて、そして宇宙に向けて放つことで重力の枷を振り切れるとしても、普通の人間には耐えられないだろう。それこそ魔術でも使わなければ。

 

「いやまて、まさか――」

 

 そう思った所で既にマスターテリオンの姿は無かった。…もしマスターテリオンの言っている言葉と、自分が思う事が合致しているのならば確かめることがある。

 

 新聞を屑籠の中から拾ってクロウは今の時間軸を正確に理解した。そしてマスターテリオンが今回、なにを自分にさせたいのかというものは依然として掴めなかった。それほどにこの時代に自分を寄越した意味が理解できなかったのだ。

 

 旧世紀最大のカタストロフ。神の国の滅びより数年。

 

 1900年初頭。

 

 クロウは真相を確かめる為にその足を向けることになる。

 

 霧の都といわれ、アーカムシティ―と同じように怪異が跳梁跋扈する土地――ロンドンへと。

 

 そして聞くのだった。

 

 ウザ=イェイ!ウザ=イェイ!イカア・ハア・ブホウ-イイ、ラーン=テゴス-クルウルウ・フタグン-エイ、エイ、エイ、エイ ラーン=テゴス、ラーン=テゴス、ラーン=テゴス――。

 

 それは旧支配者ラーン=テゴスへの祈祷であった。

 

 

 

 

to be continued…



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1ー7 蝋細工の博物館

Diesのアニメが終わってしまった。燃え尽きそうだ。

次はどんなアニメがあるのかなぁ。


 

 1900年初頭。新世紀である20世紀になって数年。

 

 19世紀終わりの年に神の国の消失(プロヴィデンス・ロスト)が起こっている事は確認しているクロウは、この時代で最も物事の動きが把握し易いのはロンドンであった。

 

 ロンドンにあるミスカトニック大学ロンドン校付属学園――またの名をダーレス学園である。を、見張っていれば物語がどう動くのかというのは把握できるだろう。下手に覇道財閥やミスカトニック大学秘密図書館特殊資料室のお膝元をウロウロするよりかは余程安全である。

 

 そこまで警戒しなくとも良いのだろうが、クロウはナコト写本の主である。さらに言えば本自体はミスカトニック大学秘密図書館の蔵書だ。それに気付かれて厄介なことになるリスクを避けるのは当然だろう。

 

 以上の理由から、クロウは英国はロンドンの地に足を踏み入れた。

 

 しかしアーカムの1/3の神秘性とはいえ世界有数の魔都である。連日夜になればそこかしこで邪悪な気配は蠢いている。

 

 紅い刀を手に刃を振るう。

 

 セラエノ断章からクトゥグアに関する記述を手に入れたことで拵えた緋々色金製の刀である。

 

 オリハルコンと同じく錬金術で造られる超常金属であり、魔導合金としてどちらも鬼械神の装甲に使われている。

 

 緋々色金は魔導合金としては人の手でも造ることが容易である。というよりオリハルコンは魔術的要素が強く絡む為に人の手で造るのは容易とは言い難い。

 

 その点錬金術で造れる緋々色金は生産施設さえ整えてしまえば人の手で造れてしまう辺り、人の為の超常合金と言えるだろう。

 

 その柄には炎の魔術刻印による加工を施している。

 

 クロウ自身、火の属性適正は並みではあるが、風と掛け合わせる事でその威力は充分過ぎるほどに発揮できるのである。反面水にめっぽう弱い、土にも余り強くはないという欠点があるが、土方面はクロハの魔術で充分対応出来る。故に属性的に弱いのはやはり水であった。

 

 日銭を稼ぐ為に、フリーの魔術師として今日も化け物(フリークス)退治に勤しむ。

 

 しかし此方もフリーランスの所為か、巷では炎髪灼眼の幽霊だとか言われている。

 

 それも火事で死んだ幽霊やら、戦地に行って死んだ亡霊だとか。

 

 軍服姿で焔を纏っていたから仕方がないのかもしれないが。ミイラ取りがミイラになるような事にはなりたくないとは思いつつ、今日もクロウは紅い刀を手に焔を纏い、化け物を切り伏せた。

 

「どうだクロハ?」

 

「いえ。依然反応はありません」

 

 化け物退治をしつつ、クロウは死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)を探していた。

 

 死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)――恐らくはエドガーという死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)の中でもかなり野蛮で攻撃的。言ってしまえば子供がいきなり大人にされたらああもなるのだろう。

 

 白き王を相手にする前の予行も出来るのではないかという期待もあっての事だが、今はまだこのロンドンに姿を現していないようである。

 

 死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)との手合わせは序のようなものであり、物語のタイミングを計る為でもあった。

 

 マスターテリオンが何を考えて自分をこの時代に送り込んだかは未だにわからないものの、なにかをさせる為であるが、態々死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)と対峙するという安直な目的だけなのだろうか。

 

 これがまだ数年前ならばまだ目的がハッキリしている為に対処はまだ簡単だ。――或いはないことになるが故に好きに動けというフリなのかが、クロウには判断がつかなかった。

 

「しかし。ロンドンはこうも日夜怪魔が蔓延る物なのか…?」

 

 ロンドンに渡って数日だが、それだけでも既に両手では足りない程度の邪神奉仕種族や、混血、余りにも強い狂気や魔力に当てられて変質した魔術師モグリなど。そういう手合いを相手にしていた。

 

 その合間にわざと見つけてもらう様に魔力を大幅に垂れ流しているのだが、網には未だに引っかけられていない。

 

「恐らく邪神ズアウィアの復活が原因ではないかと」

 

 その疑問にはクロハが答えを示してくれた。数年前に起きた邪神復活は、魔を断つ刃の初陣でもあった。

 

 正義と悪の神が地球上で争ったのだ。邪神復活の影響で魔に属するものの動きも活発になったのか。或いは星辰の日に備えて活動を始めたか。

 

「うっ!?」

 

「なに!?」

 

 そんなふたりを突然照らし出した強烈な光に、クロウもクロハも強烈な光によって焼かれた目を庇いながら、その光に向かって注意を向けた。

 

暗いと不平を言うよりも~っ! 科学の灯りをつけましょお~~っ!

 

 スピーカーの割れ掠れる様な女性の大声と共に現れたシルエット。まるで潜水服の様な出で立ち。巨大な怪物の双眸を思わせる二つのアーク灯。間違いないと、その出で立ちにクロウはその存在を認めた。

 

我は、˝科学の騎士˝なりィ~~

 

 凄んでいる様なのだが、掠れたスピーカーの所為で変に不気味であった。

 

『見つけましたよ、炎髪灼眼の幽霊さん! この世に未練があるのはわかりますが、このロンドンを騒がすのならば、この科学の騎士があなたの未練を照らし出しましょう!』

 

 科学の騎士こと、オーガスタ・エイダ・ダーレスそのひとである。彼女とのエンカウントは想定の範囲内ではあるが、まさか人払いの結界が効果を発揮していない事には驚いた。人払いの効力以上に彼女の探究心が上回っているというのは考えたくはなかったが。

 

「如何なさいますか、マスター?」

 

 そういうクロハの影からは猟犬たちの唸り声が聞こえる。クロウの許可さえあれば、ダーレス女史はすぐさまこの世で最も救いのない神話的生物に狙われて食い殺されるだろう。

 

 それは流石に邪神から何か言われそうなので、クロハを手で制する。

 

「別に照らしてもらう様な未練はないさ。そもそも死人でもない」

 

 そうして転移魔術を起動する。魔導書の頁がパラパラと捲れる様に舞い散る。

 

『あ、あなたは――!?』

 

「また会おう。科学の騎士よ」

 

 クロウはそう言い残して転移する。覇道財閥とは変に事を起こす気は今のところはないので、関わらない事が一番の回避方法だ。

 

 転移したのは泊まり先のホテルである。

 

 パラパラと紙が舞い、転移術式を構成する紙束になっていたクロハが人の姿に戻る。

 

「追跡の気配もありません。やはり死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)はこの地にはまだやって来てはいないのでしょう」

 

 というクロハの結論を聞きながらどうしたものかと考える。

 

 別に死霊秘法の主(マスター・オブ・ネクロノミコン)に拘る必要もないのだろう。この時代でやるべき事が何であるかの指定は未だにない。

 

 目的がないとなると逆に何をして良いのか悩んでしまう。

 

 そんなクロウの手をクロハが取って自分の胸に掻き抱いた。

 

「マスター。この世の遍く森羅万象はマスターのものです。マスターは、マスターの御随意に過ごされるのがよろしいかと愚考致します」

 

 クロハの言うことも一理ある。何も言われていないのだから好きに動くというのも良いだろう。

 

「クロハは賢いな」

 

「んっ、…マスター」

 

 右手はクロハに抱かれてしまっているため、空いている左手でクロハの頭を撫でる。指通りの良い更々の髪はいつ撫でても最高の撫で心地を約束している。

 

 手を引かれて、先にベッドに倒れ込んだクロハの上に覆い被さる様に倒れる。

 

 ドレスのスカートからはわざと足を太股まで覗かせる。今日はスパッツらしい。そんな太股の半分程度を隠す黒い魅惑のアイテムは熱がスカートの中で籠っていたのか、しっとりと濡れていた。そして女の子特有の甘い香りに誘われる虫のように普通の男であれば自制などせずに飛びつくだろう。

 

 だがそれではこの忠犬美少女の良さの1/10も味わえないだろう。

 

 肘で上体を支え、しかし下半身は膝で支えるという端から見れば尻を突き上げた不様な格好だが、これで良いのだ。

 

 肘で支えた上体はギリギリでクロハの身体には触れていない。

 

 頭にも触れずに髪の毛を掬って手の中でその感触を楽しむ。

 

「ま、ますたぁぁ……」

 

 クロハに触れているのは彼女が抱いている手だけだが、その手は決して動かさない。

 

 快楽を得ようと身体を動かそうとするクロハだが、胸に置かれた手で押さえる事で彼女の動きは制限される。

 

 身動きしても快楽を得られないのはちょっとした拷問だろうが、焦らしプレイすら好物のクロハからすればこのまま放っておいても構わない。

 

 ただ髪の毛の感触を楽しむ事だけに集中する。それでも徐々にクロハの息が荒くなっていく。

 

 髪の毛とはいえそれを構成している情報もクロハの本体であるナコト写本である。

 

「ぁ、んぅ、ふぁぅ」

 

 こうして髪の毛で快楽を得るという無駄に高度な性感帯を獲得していたりもする。

 

「はぁ…はぁ…はぁ……、ます、ひゃああああっっ」

 

 髪の毛に意識を集中して微細な感触で快楽を得ようとする所に、その白い首筋を甘噛みして、染み込んだ汗を吸い出す様に皮膚を吸い上げ大きな快楽をいきなり与えればどうなるか。

 

 背を仰け反らせながら腰を痙攣させ、快楽に思考を焼かれ、落ち着いた頃には蕩けきった表情を浮かべる美少女従者の出来上がりである。

 

 瞳を滲ませ、息を荒くし、汗と共に甘い香りを放つ美少女がベッドの上に添えられているという据え膳状態でも食らいつかずに耐えるというのも中々精神力が要る。

 

 劣情をコントロールする事もまた精神的な試練である。

 

 だがそれではクロハが可哀想なので愛撫は別口である。

 

 結果的に生娘(魔導書の精霊にその概念が適切かはわからない)のまま開発が進んでいるという別な意味でよろしくはない様な関係になってしまっている。

 

 触れる度にクロハの反応を面白がっている自分も大概なのではあるのだが。

 

 そういう意味では自分も鬼畜ではあるのかもしれないが。互いに愉しがっているただの乳繰り合いであるから鬼畜でもなんでもないだろう。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 翌日ロンドン観光にクロウは繰り出した。

 

 夜と違い活気のある街並みは清々しいものだった。

 

 アーカムシティと同じく昼は人の持つ陽の気で陰の気を祓っていた。

 

 水も滴る魔導書になってしまった、微妙に湿っぽいナコト写本を腰のブックホルスターに納めながらクロウは古い街を歩き回った。

 

 そしてふと立ち止まったのは美術博物館だった。どうやら蝋細工を展示しているらしい。別に美術の展示物に興味があるわけでもないのだが、気になるのは美術館から感じる闇の気配だった。ロジャーズ博物館という名の博物館に足を踏み入れた。

 

 中に入ってみれば色々な蝋細工が置かれており、神話的な生物であるゴルゴンやキマイラ、ドラゴンや妖精の蝋細工が展示されていた。 

 

 それらは今にも動き出しそうな程の躍動感すらある。しかしその造形は変にリアル志向というか悪夢めいた造形だった。

 

 更に展示物はそれだけではない。

 

 成人だけが入れる特別展示室には少し異常な展示物が陳列されている。

 

 それこそSAN値直葬系のヤバい展示物の類だった。

 

 タコ頭のオブジェなんて見るんじゃなかったと後悔しつつ、普段はクロハが隣に居る事で己の何かを保っているのだろう。でなければ邪神の蝋彫像を事でここまでのダメージを受ける自分の脆さというのが説明できない。

 

 さらには本物そっくりの犬の死骸という恐るべき展示物だったが、それも普通の死体ではなかった。

 

 全身を何者かに食い荒され血を吸われたような、おぞましい死骸の蝋人形だった。

 

 ともかく冒涜的な展示物にはなるべく目を向けずにいると、ひとつだけ目を惹かれたものがあった。

 

 七色に光る球体の集合体――題して、ヨグ=ソトースであった。

 

 七色のシャボン玉の様な集合体の蝋細工に何故か目が離せなかったのだ。

 

「気になりますか?」

 

「うわ!?」

 

 極度の集中で急に声を掛けられて驚く。浅黒い肌の女性に声を掛けられたのだ。

 

「ああ。ごめんなさい。凄く熱心に見ていたものですから」

 

 そう言って詫びた彼女の名はオラボナというらしい。

 

 彼女がこちらを驚かそうとした意図はないとわかる。驚いたのはクロウ自身の非によるところもあるので、クロウも頭を下げた。

 

 しかし何故、ただの虹色の球体の集合体に魅入られたのかは、クロウ自身もわからなかった。

 

 しかし何故か惹かれてしまうのだ。それは光に誘われる虫の様に、それは恋をした少女が相手をつい目で追ってしまう様に。何故か、そう。無意識で、見つめてしまうのだ。

 

 まるで忘れてしまったなにかを思い出しそうで思い出せないというもどかしさも孕んでいた。

 

 そんな妙な感覚を抱きながらこれ以上SAN値を削る前に退散してしまおうと考えたクロウだったが、特別展示室から出て身を固まらせた。

 

「うーむ。中々独創的で斬新な造形ですけど、子供たちに見せるにはまだ早いかしら?」

 

 そこにいるのは金髪の、眼鏡を掛けた女性。耳に聞き覚えのある声は昨夜聞いたばかりである。

 

 冒涜的な展示品を普通に見て回るその胆力はいっそ尊敬してしまいそうな程だ。少なくとも今の自分は彼女の様にまじまじと冒涜的な展示品を観察する様には見て回れない。

 

 このまま退散して良いのだろうが、この博物館から感じる闇の気配。そこに来てダーレス女史の襲来である。何かが起こるのではないかと身構えてしまうのは仕方のない事だった。

 

「あら。ダメよキミ。ここから先は大人しか入れないのよ?」

 

 クロウは目の前の女性に関わるのが恐くなってきた。何故ならば今のクロウは魔術で見た目は子供でも大人として認識されるはずなのだが、エイダはクロウを子供として認識していると言うことは昨夜と合わせて魔術が効力を発揮していないということだ。

 

 やはりそれほどの探求心の持ち主と言うわけなのだろう。彼女以外にはしっかりと魔術で騙せているのだから、魔術自体が効力を発揮していないわけではないということだ。

 

「あら、あなた」

 

 気づかれたかとクロウは身構えるのだったが。

 

「肩に埃が着いているわ」

 

 身構えた力が変な抜け方をしてギャグ漫画の様に転びそうになるが、どうにか耐える。

 

「ありがとう。それよりこの先には行かない方が良い」

 

 肩の埃を取られたクロウは背後の特別展示室を指して忠告する様に言い放った。

 

「この先は普通の人間では魂を汚染される。闇の世界の住人であっても、あまり良い気はしない」

 

「闇の世界の住人…? あなたは」

 

 余計な一言が過ぎた。しかし率直な感想として間違ってはいない。故にそう言葉を放った時。

 

「おや。私の力作はお気に召しませんでしたかな?」

 

 特別展示室から出てきた中年の男性。人の良さそうな笑みを浮かべているが、クロウは然り気無くエイダの前に出て背に庇うように振り向く。

 

 同業者であるから感じる闇の気配と言うものを男から感じたからだった。

 

「いいえ。どれもこれも臨場感と躍動感を感じる素晴らしい作品だと思います」

 

「そうですか。そうです。そうですとも! 通常展示しているものは所謂お試し用。いえ、それでも丹精を込めて作っていますがね」

 

 彼はここの館長であるロジャースと名乗った。 

 

 この蝋細工の数々は彼の手製の作品で、その出本は魔導書という事だった。

 

 それを語る内にロジャースの口調は荒々しくなる。

 

「そうだ! 私は数々の魔導書を読み漁り、これらの外なる神々を形にした!!」

 

 そして魔導書の記述をもとにして実物もいくつか持ち帰り、蝋細工として展示しているそうだ。

 

 気味が悪いと展示物を見てそう感じる訳だ。

 

 というより命知らずの様に感じてしまった。良く今まで生きていたと感心する。

 

 しかしその狂い方からもう手遅れだと感じる。魂が汚染され、既に何かに囚われているのがわかる。魂に関しては心得がある。間違いないだろう。

 

「先生。私はそろそろお暇しようと思います」

 

「え、ええ。そうね。私もそろそろ帰らなくては。すみませんミスター。お話の途中に」

 

「いえいえ、こちらこそ。またお越しください。お嬢さん方」

 

 クロウの促しに乗じて、エイダもこの場を辞する事を決め、クロウの手を引く。それにクロウは少し驚くものの、彼女を先生と言った手前、彼女の教え子として振る舞う。

 

 博物館を出て暫く歩いた所で振り返られる。

 

「さて。あなたは何者なのかしら?」

 

「別に。あなたには関係のないことだ。そして、あの博物館には近づかない事をお薦めする」

 

「あら。それは何故?」

 

「言わなくてもわかるでしょう。あの博物館には本物がある」

 

 蝋細工とはいえ形のある邪神や旧支配者はそこにあるだけで世界を汚染する。可能な限り廃除しなければ何が起こるかわからない。

 

 彼女の手から離れ、去ろうとしたらまた手を引かれた。

 

「待って。あなたは魔術師なのでしょう?」

 

「何故そう思う」

 

「そう聞き返す時点で答えを言っている様なものです。普通の人なら、あなたは魔術師ですかと聞かれても笑われてしまうわ」

 

 確かに彼女の言葉は一理あり、そしてそうでなくとも普通ではない忠告をいくつかしているのだ。魔術師と言われても仕方のないことである。

 

「もしミスター・ロジャースの蝋細工が、彼の言うように本物もあるというのならば。それは世界を冒してしまう危険なものかもしれません。それを回収するお手伝いをしてくださらない?」

 

 正直。彼女と関わるメリットはないだろう。何故なら彼女とは――覇道財閥とは敵になるだろうからだ。

 

 そして、自分は悪徳を敷くものだ。

 

 しかし、聖約を反故にはしたくはない。

 

「今夜。博物館に忍び込む」

 

「忍び込むって。あまり穏やかではありません。相手は人間なのですから、正式な手続きを践まなくては」

 

「あれはもう手遅れだ。人の形をしていても人じゃない。そしてやるなら早い方がいい」

 

 特別展示室のさらに奥。作業場であるだろう場所から漂う気配。確実になにかをしている。それも、かなり不味いレベルのなにかを。だから近づかなかったのだ。

 

「それが出来ないのなら、関わらない事が身のためだ」

 

 魔導書の頁が舞う。するとエイダが目を見開いた。

 

 紙片の渦がクロウを包み込む。

 

「ではダーレス女史。また会いましょう」

 

 字祷子(アザトース)となって解け、光と共に消えるクロウ。

 

 だがその消え去った光の中から一枚の紙がひらひらと落ちてきた。

 

 それがエイダの手のひらに収まった。それが意味する事を受け取って取り敢えずはエイダは今夜まで待つことにする。

 

 また会いましょうという言葉を置いて行くということは手伝ってくれるという事だ。

 

 しかしエイダは今の光景に既視感を感じていた。

 

「あなたが、幽霊さんなのかしら?」

 

 

 

 

to be continued…



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