とある五つ子の(非)日常 (いぶりーす)
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日常編
ある雨の日の三玖


時系列は十一月頃です。


 図書室の窓から見える止む気配のない雨に三玖は思わずため息を吐いた。

 

(家を出る時はあんなに晴れていたのに……)

 

 十一月だというのに、まるで梅雨のように激しく降り注ぐ雨に少しだけ憂鬱な気分になる。

 別に雨が特段嫌いというわけではないが湿気て前髪が張り付くのはやはり鬱陶しい。

 朝、家を出る際に五月に言われて姉妹全員傘を持って来たが、この激しい雨だと傘を差しても靴やタイツは濡れるだろう。

 

(……フータローまだかな)

 

 恒例となった放課後の勉強会。期末試験を控え、一段と気迫のこもった風太郎に他の姉妹たちは例の如く逃げ出した。当然、それを見過ごす彼ではなく中野姉妹専用家庭教師は今頃、彼女たちを追いかけ回っているだろう。

 

(たぶん、今日は四葉と二人かな)

 

 比較的に出席率の高い一花は仕事が入っているため、今日は来られないと聞いている。

 残り三人だが、あの二乃が素直に参加するとは思えないし、最近は仲が改善されつつあるとはいえ五月もまだまだ素直ではない。

 そうなると今日は四葉と二人か。そう予測していると図書室の扉がやや乱暴気味に開かれ、背の高い男子生徒が顔を見せた。その表情は誰が見ても不機嫌そうだ。

 

「遅かったね、フータロー。他のみんなは?」

 

 校内を走り回ったのか、額に汗を浮かべる風太郎に三玖は労いの言葉をかける。彼の後ろに他の姉妹の姿が見えないことから大体の予測は付くが一応は聞いてみた。

 

「ダメだった。全くどいつもこいつも……」

「一花は仕事だから仕方がないよ」

「だからって勉強を粗末にしていい理由にはならない。仕事で学習時間が不足しているだろうとわざわざ課題を作ってやったのに一花の奴、受け取らずに逃げやがって」

 

 苦虫をダース単位で噛み潰したような顔をする風太郎の手には夏季休暇に出される学校の課題よりも分厚そうなプリントの束が握られている。

 流石にそんな物を渡されたら自分でも逃げ出すな、と三玖は一花に同情した。

 

「二乃と五月は?」

「五月はちょっとな……」

「また喧嘩したんだね」

「べ、別に喧嘩なんてしてない。少し発破をかけたらあいつが拗ねただけだ」

 

 バツの悪そうに答える風太郎を見て三玖は二人が交わした会話を容易に想像できた。どうせいつもの売り言葉に買い言葉で五月が怒ったんだろう。頬を膨らませる五月の顔が脳裏に浮かんだ。

 ただ、前のように大きく擦れ違う事はないだろう。あの林間学校以来、五月も風太郎に少しずつ信頼を寄せるようになっているのは見ていて分かった。

 

「二乃に関してだが、五月を説得してる間に逃げられた。メール送っても無視しやがる」

「……二乃には後で私から言っておくよ」

 

 風太郎が倒れたあの日から二乃も一応は放課後の勉強会に顔を見せるようになったが、それでも参加率は低い。

 二乃とは何かと折り合いが悪い自分が注意すればまた口論になるだろうが、少しでも風太郎の負担が減るのなら構わないと三玖は決心した。

 

「……? そういえば四葉もいないんだ」

 

 あのうさぎの耳を模したかのような特徴的なリボン頭の彼女の姿が見当たらない。今日は四葉と二人で勉強会をすると思っていた三玖は首を傾げた。

 

「最初は参加してくれるって話だったんだがな。急遽、バスケ部から助っ人を頼まれたそうだ」

 

 頼まれたら断れない彼女らしい理由だ。勉強会自体には普段から参加してくれるので風太郎も無理には言えないのだろう。これが試験一週間前なら話は別だろうが。

 

(でも、そうなると……)

 

 自分たち以外に殆ど人気を感じない図書室を見まわす。普段ならもう少し他の生徒もいるのだが、雨が激しくなる前に帰宅しようと考える生徒が多かったのだろう。今いるのは受付で暇そうに欠伸をしている司書くらいだろうか。閑散とした図書室を激しく地面を叩く雨の音だけが支配していた。

 今更になって風太郎と二人きりの空間にいると気付き、三玖は自身の鼓動が高鳴るのを感じた。

 

「しかし、三玖一人だけか……」

 

 一方の風太郎はそんな三玖の事など露知らず別の事で頭を悩ませていた。もちろん家庭教師の業務についてだ。五人全員の勉学を任されている身としては、これだけ集まりの悪いようでは勉強会の意味がない。

 一人だけ成績を上げればいいのではない。あの欠点ばかりのアホ姉妹全員の成績を引き上げなければならないのだ。その為の破格の給料だ。それに三玖も自分ひとりだけならあまりやる気も出ないだろう。勉強というのは一人でするものだと風太郎は考えているが、どうにもこの姉妹に関してはそれに当てはまらないと気付き始めた。

 

「どうする? これだけ集まりが悪いんじゃ今日はお開きにして自習にしてもいいが」

「えっ?」

 

 姉妹の成績を考えれば一日でも時間は惜しいが、他の姉妹がいないなら三玖もモチベーションはあまり上がらないだろう。それならいっその事、勉強会は明日にして今日は帰って彼女たちの学習課題の作成と自身の予習をしようと風太郎は三玖に提案した。

 そんな風太郎の提案に三玖は勢いよく顔を上げ、慌てて口を開いた。

 

「わ、私はフータローと勉強したい」

「なに……?」

 

 まさか三玖の口からそんな答えが返ってくるとは思っておらず、風太郎は目を丸くした。

 ここ最近、三玖が勉強に向き合うようになってきたとは思ってきたが、それでも歴史以外の科目は嫌いの傾向がある。だから、自習という提案も喜ぶと思っていたが、まさか自主的に、しかも一人でも勉強したいと言い出すとは。

 三玖の目に見えて感じ取れる成長に風太郎は口元を綻ばせた。生徒がやる気を示してるのだ。それを無下にする家庭教師がどこにいるものか。

 

「そうか、ならやるか二人で」

 

 もちろん三玖からすれば目的は勉強よりも風太郎と一緒にいたいというのが本音だが、学生恋愛など下らないと豪語する彼に三玖の淡い想いなど気付く筈もない。

 三玖とて彼が自分の真意に気づいていない事なんて分かっているが、今はただ目の前の想い人と過ごす時間が増えた事が素直に嬉しかった。

 

 三玖の隣の席に風太郎が座り、鞄から筆記用具と問題集を出して机に広げた。科目は三玖の苦手な英語だ。

 

「……うん、二人で」

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 ノートにひたすら単語を書き写し時折、風太郎が作成した小テストを解く。英文の訳し方が分からない時は逐一、風太郎がフォローしながら三玖はペンを進めていった。

 淡々とした作業に思えるが、三玖にとっては緊張と幸福が混じり合った時間だった。

 分からない個所を教えてもらう時、風太郎が吐息のかかる距離まで顔を近づけてくる。他のみんなと勉強会をしている時では決してありえない距離。とにかく近いのだ。普段以上に。

 風太郎と隣同士で、ツーマンセルで勉強を教えてもらった経験は三玖にはない。いつも以上に近い距離の彼にずっと緊張していた。

 だけど指摘して距離を置かれるのは嫌だし、何より真剣に自分に教えてくれる彼に水を差したくない。高鳴る心臓の音と赤面した顔を必死に得意のポーカーフェイスで誤魔化しながらできるだけ無心にペンを走らせた。

 

「───よし、今日はこれくらいにするか」

「つ、疲れた……」

 

 キリのいいところまで三玖が問題を解いたところで、風太郎が持っていた参考書をパタンと閉じ、勉強会の終わりを告げた。

 時計を見ると気づけば図書室の利用時間ギリギリの時刻になっていた。ここまで疲れた勉強会は初めてかもしれない、と三玖は大きく嘆息した。

 

「お疲れさま。よくやったな」

「……うん、フータローのおかげ」

 

 彼からこうして労いの言葉をかけられるのは珍しいかもしれない。いや、正確には三玖一人に対してだ。普段なら姉妹全員に向けられる言葉が今はこうして三玖が独り占めしている。それに少しばかりの罪悪感はある。特に自身と同じ想いを抱く一花に対しては。

 だけど、そうじゃないと三玖は首を振る。

 

(……平等じゃなくて、公平に)

 

 あの林間学校で彼が口にした言葉に三玖は衝撃を受けた。

 姉妹はみんな平等に。それが今までの自分にとっての常識だったから。だからこそ、《公平》という言葉は三玖にとってはまさに天啓だった。

 

(フータローと勉強する機会はみんな同じ。だから今日の勉強会は公平……うん、公平)

 

 そう自分に言い聞かせるとさっきまで感じていた罪悪感はすっかりと胸の内から消えた。そうだ公平に。一花にも遠慮はしないと宣言したんだ。今日はただ、彼と過ごす時間が他のみんなよりも少しばかり増えた。それを素直に喜ぼう。

 それに今日は風太郎と二人きりで帰れる。これは勉強会に唯一参加した自分へのご褒美だと三玖は思うことにした。

 二人で図書室を後にし、校舎の玄関に行くまでに姉妹の事や三玖の好きな戦国武将の会話に花を咲かせた。敢えて今日の勉強の事について話題にしなかったのは、疲れた様子の三玖に対する風太郎なりの気遣いだったのかもしれない。

 三玖は風太郎との会話を楽しみながら、このまま彼と一緒に帰れる事に気分が高揚していた。ところが、そんな三玖の期待を裏切るかのように風太郎は玄関口で突如立ち止まり、口を開いた。

 

「それじゃ、今日はこれで。また明日な三玖」

「………え?」

 

 あまりにも自然な流れで放った別れの言葉に三玖は思わず首を傾げた。

 そんな三玖に風太郎も同じように首を傾げる。

 

「どうかしたか?」

「なんで?」

「……?」

 

 風太郎の家の場所は知らないが、途中までの帰路は一緒だった筈。なのにこの場で別れの挨拶をするなんて、まるでここで別れるみたいではないか。『なんで』という言葉に三玖はそれだけの意味を含ませた。

 もちろん、こんな短い言葉でそれらの意味が伝わるとは思っていない。もしそれだけで伝わる仲なら今頃は三玖の想いも風太郎に伝わっている筈だ。

 だから今度は具体的に言葉にして聞いた。

 

「私と一緒に帰らないの? フータロー」

 

 不安そうに三玖が聞くと風太郎は空の両手を見せつけた。そこで初めて三玖は彼が傘を持っていない事に気づいた。

 

「実は今日、傘を忘れてな……」

「そうなの?」

 

 何かと用意の良い風太郎にしては珍しいと思ったが、それと同時にこの学年一位の秀才でも傘を忘れる事があるんだな、と妙な親近感を抱いた。別に完璧ではないのだ、この上杉風太郎という少年も。

 最初に会った時は、頭は良いが他人に対してどこか高圧的な嫌な人だと思っていた。けれど、それは彼を表面的にしか知らなかっただけ。

 本当は面倒見がよくて、責任感も強くて、そして意外と体力がなくて、自分が作ったとても上手とは言い難い料理を美味しいと言うほど貧乏舌で、初対面の時には予想もしなかった意外な面をこの数か月の間に見てきた。

 そんな風太郎を知っていく内に彼の優しさに、暖かさに、気付けば三玖はどうしようもなく惹かれてしまっていた。

 

「この様子だと当分は止みそうにないし三玖は先に帰ってくれ。俺は雨の勢いがマシになるまで学校に残るから」

 

 風太郎はそうは言うものの素直には従えない。三玖からすれば風太郎と一緒に過ごせるせっかくのチャンスなのだ。

 

「職員室に行けば先生が傘を貸してくれると思うけど」

「万が一に壊して弁償させられる羽目になったらどうする。そんな金はない」

「……前から思ってたけどフータローってケチ」

「うっさい」

 

 せっかく出した案を一蹴された。いい案だと思ったのに。どうしようかと三玖は頭を悩ませたが、ふと手元の傘を見て閃いた。

 

「フータロー」

「なんだ? 俺の事はいいから先に……」

「私の傘を使えばいい」

「三玖の? ならお前はどうするんだ」

「もちろん、私もこの傘を使う」

「……つまり一緒に傘を差しながら帰れと?」

「いい案だと思う」

 

 いつものポーカーフェイスで提案するが、内心では心臓の鼓動がバクバクと聞こえる。我ながら大胆な事を言っているなと三玖は思った。

 

「ありがたい提案だが、それだと三玖も濡れるだろ。風邪でもひいたらどうするんだ」

 

 三玖の持っている傘はそれほど大きくはない。背の高い風太郎と一緒だと多少は濡れるだろう。

 だが、そんな返しは分かっていたと言わんばかりに三玖もすぐさま反論する。

 

「でも、フータローも濡れて帰るつもりでしょ? せっかく治ったのにまた熱出したら嫌だよ」

「それは……」

 

 痛いところを突かれたと風太郎は眉を顰めた。

 林間学校で熱を出して入院した際は姉妹側が全額費用を負担したのだ。五月を探すためとは言え、あの時に無茶をしたのは自分だ。

 治ったばかりなのに、また熱でも出したら流石に気が引ける。

 

「……分かった。なら途中まで頼む」

「うんっ」

 

 ようやく折れてくれた風太郎に微笑みながら三玖は傘を差し出した。

 

「帰ろ、フータロー」

「ああ」

 

 三玖から差し出された傘を手に取り風太郎は傘を開いた。男の風太郎が差すと少し小さい、可愛らしい傘だ。

 そこへ三玖が離れないようにそっと身を寄せる。濡れないように、離れないように。風太郎もそんな三玖を傘も持ってない手で彼女が濡れないように自分に引き寄せた。

 

「……っ!」

 

 より一層高鳴る胸の鼓動。もしかしたら雨が降っていなければ、この距離にいる風太郎に自分の鼓動が聞こえてしまうのではないかと錯覚するほどだ。

 自制心と湧き出る高揚感に我慢できずに、三玖は思わず抱いていたその言葉を口にした。

 

「……すき」

 

 呟いたその小さな言葉は傘を打ち付ける雨音に打ち消された。

 今は届かなくてもいい。だけど、いつの日かは……。

 

 次は晴れた日に。他の音に打ち消されない声で。

 

 もう一度、同じ言葉を伝えようと三玖は心に誓った。

 

 

 



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この黒い感情の名は。

前回の話と同様に時系列は11月頃です。



 日曜日。今日は仕事が入っておらず、家庭教師である風太郎も訪れる予定はない。一花にしては大変珍しく何も予定のない休日だった。

 こんな日は普段なら三玖辺りと買い物に出かけたり、或いは五人が揃っていたなら全員でランチにでも行ったりとするのだが、今日に限っては各々用事が重なっていた。

 二乃は学校の友人と出かけ、三玖と四葉は何やら最近発売されたらしいゲームを買いに行き、五月は風太郎の妹であるらいはと遊ぶ約束をしたそうだ。

 ならば自分は昼間まで惰眠を貪り、のんびりと過ごそうかと思った一花であったが、せっかくの休日を家で寝て過ごすのも勿体ないかと、思い切って外へと出た。

 

 一人で、ただ目的もなくブラブラと街を歩く。

 衝動的な行動であったが、気の向くままにウインドショッピングを楽しむのは中々に充実したものだった。

 己が意志で目指した女優の道も、長女としてあの個性豊かな妹達を見守る事も、別に苦だと思ってはいない。だけど、それらに囚われずにこうして一人で自由気ままに過ごすのはやはり開放感があった。

 

(フータロー君は今頃、何してるのかな)

 

 冬へと移り変わっていく町並みを歩みながら、脳裏に彼の姿が浮かんだ。

 小言が多くて、厳しくて、それでいて思いやりがあって、自分達姉妹を導いてくれる同い年の家庭教師。

 そして……最近、気になり出した同い年の異性。

 あの勉強に生真面目な風太郎の事だ。休日でも家で勉学に励んでいる姿が容易に想像できる。

 

(彼が休みの日に街でショッピングとかしてる姿は想像できないかも)

 

 風太郎の普段から努める節制の姿勢は並々ならぬものだ。そんな彼が無駄に金銭を消費するような姿は想像すらできない。

 それも彼の家庭環境を考えれば仕方がないのだろう。家の借金を返済するために自分たちのような問題児姉妹を一挙に受け持つ家庭教師をしているのだから。

 数少ない彼の家庭環境を知る人物の一人である一花は、そんな風太郎を密かに尊敬していた。

 

(……頑張っているフータロー君に何かお礼でもしようかな)

 

 ここ最近は勉強面だけではなく、姉妹の私生活関係でも何かと迷惑をかけてしまっている気がする。先日の林間学校が正にそうだった。

 

 そう言えば、もう少ししたら勤労感謝の日だな、と一花はスマホを操作しながら画面に表示されたスケジュール表を眺めた。

 ちょうどこの日も仕事の予定はなかった筈。せっかくだ。風太郎を自分の出演した映画を見に誘ってみるのも悪くないのかもしれない。都合のいいことに他の姉妹に配った映画のチケットもまだ余っている。

 あの風太郎の事だし、自分たち姉妹に借りを作るのを嫌がるのは目に見えている。例えお礼で何かを買ってあげようとしても拒む可能性がある。

 だけどタダで映画を一緒に見るくらいなら案外、気兼ねなく応じてくれるかもしれない。

 

(映画に出てる私、フータロー君が見たらどんな感想言うのかな。ちょっと楽しみかも)

 

 どうせ彼の事だろうから「最初に死ぬ役だなんて映画でもドジなんだな」と呆れたような、バカにするような顔で言う姿が容易に思い浮かぶ。

 それに対してきっと自分は「相変わらずデリカシーがないね」とでも言って笑って返すのだろう。

 既に脳内で次の勤労感謝の日の予定が着々と出来上がりつつある一花だったが、この時本人はまだこれが世間一般で云うところのデートであるとは気付いてはいなかった。

 それに気付いたのは、勤労感謝の日の前日。誘いのメールを送る直前だった。

 

「あれ……?」

 

 次の休日の予定が決まり、自然と軽くなった足取りで目に付いたカフェにでも入って軽く休憩をしようとした時だった。

 

「フータロー君?」

 

 入ろうとしたカフェの窓ガラス越しに予想外の人物を見つけてしまい、思わず足を止めた。窓側のテーブル席に腰掛ける背の高い見知った男子。

 非常に珍しい光景だ。普段から自販機でジュースの一本すら渋る事のある彼がこんな場所に居るとは想像すらしていなかった。

 不意打ちのような形で見つけてしまった風太郎に一花はどうするべきか悩んだ。

 

(まさかこんな場所で出会うなんて……うん、せっかくだし話しかけようかな)

 

 今度の祝日の予定を聞くいいチャンスだと、ぎゅっと拳を握りしめる。その時、自然と頬が緩んでいたの事を一花は自覚していなかった。

 

 ほんの一瞬だけ、困ったような表情を浮かべる三玖の顔が脳裏に浮かんだが頭を振った。これは別にそういうのではない。風太郎の事については未だ自らの想いに整理を付けきれていないが、今は置いておく。

 今はただ、この偶然の出会いに感謝して彼に何と話しかけようかと悩みながら、改めてカフェに入ろうとして……。

 

「えっ」

 

 心臓が飛び跳ねるような衝撃を感じながら、一花は再び足を止めた。

 彼の座るテーブル席の向かいに見知らぬ少女が現れたからだ。

 黒い髪を肩まで伸ばした、真面目そうな子だ。おそらく自分と年齢もさほど変わらないだろう。

 彼女は風太郎と向き合うと、何やら親しそうに会話を始めた。

 

「……っ」

 

 そんな二人の姿を見た一花の行動は速かった。

 二人のいる席から視線を外さないまま、急ぎ足でカフェに入り二人のテーブルを見張れる位置にある席を確保して注文を伺ってきた店員にコーヒーだけを頼んだ。

 座った席は風太郎たちが座る場所から二つほどテーブル席を挟んだ位置。幸いにも店内があまり混んでいなかったお蔭で席の確保はスムーズに行けた。

 流石にこの位置では二人の会話までは聞き取れないが、余りに近付きすぎても風太郎に感づかれる可能性があるので、この位置がベストだろう。

 

(私、なにやってるんだろ。こんな、盗み見るような真似して……)

 

 席に着いてから今更そんな後悔のような感情が湧いてきたが、もう遅い。

 それにあの場で立ち去らずに、無意識に行動を移したのはきっと本心から気になっていたからだ。

 目の前にいる彼と、そして彼女が。

 

(誰なんだろう、あの子……フータロー君のお友達? でも彼に友達なんて……)

 

 スマホを操作する振りをしながら向こうの席を盗み見る。多少、風太郎に対して失礼な事を考えていたが実際、彼が友人らしい友人と共にしている姿を一花は学校で見た事がない。

 友達、それも異性の友達など、果たしてあの風太郎にいるのだろうか。

 勉強では普段働かない思考が急速に回転していく。

 

(学校で見た事ないから、多分私たちとは違う学校の子っぽいけど)

 

 断言はできない。一花も転校してまだ数か月なので同級生の顔を全て知っている訳ではいのだ。

 これがコミニケーション能力に優れ早くも多くの友人を作っている二乃なら判断ができるのだろうが、仕事の関係もあって基本的に同級生たちと関わりの薄い一花には無理な話だ。

 

(……いや、そんな事はどうでもいい)

 

 別にあの少女が自分と同じ学校に通っていようがいまいが構わない。

 一花がさっきから気になるのは彼女本人よりも、彼女と話す風太郎の表情だった。

 

(フータローくん、あんな風に笑うんだ)

 

 それは一花が初めて見る表情だった。

 気兼ねなく笑う、楽しそうな笑顔。

 

 別に風太郎が無表情で無愛想という訳ではない。

 中々言う事を聞かなかった二乃に呆れたり、小テストの点数が上がった三玖に口元を緩ませたり、勉強よりも部活を優先しがちの四葉に眉を顰めたり、最近は信頼を寄せるようになった五月に真剣に勉強を教えたり。

 色んな表情や感情を浮かべる彼の姿はこの数か月で何度も見た。

 

 だけどあんな風に、年相応の笑みを浮かべる風太郎の姿を一花は見た事がなかった。

 

(楽しそうだな……)

 

 真っ先に思った感想はそれだった。

 あの風太郎でも、あんな表情を向ける間柄の人間が家族以外にも居たんだな、と新鮮さすら感じる。

 他の姉妹が知らない彼の新たな一面を見れたような気がして、どこか優越感のようなものも覚える。

 

 だけど、それだけじゃない。

 

(……なんで)

 

 沸々と、心の底から疑問が湧いてくる。

 

(私たちには、私には……あんな顔……)

 

 出会ってから自分の中で築き上がってきた風太郎の像と、目の前の彼女と会話を楽しむ風太郎の姿にどこかズレが生じているように一花は感じた。

 

 あそこで会話をしている彼は、家庭教師としての上杉風太郎ではなく、ただ一個人の上杉風太郎として接しているように思える。

 あの少女は、少なくとも自分の知らない風太郎を知っているのだろう。

 だから、彼は自分の知らない表情を見知らぬ彼女へと向けるのだろう。

 

 そう考えるだけで、一花は胸の内から湧いていた疑問が、どこか黒くてドロドロとした何かに変質していくような錯覚を覚えた。

 

「あれ、私……なんで」

 

 ふと、手元にあったコーヒーカップが視界に入った。二人を盗み見るのに夢中で殆ど口を付けていない、冷めてしまったコーヒー。

 黒い液体の表面に映った自分の顔を見て一花は驚いた。

 

 そこには目を鋭くして表情をこわばらせる、中野一花の顔があったからだ。

 

 慌てて顔を隠すようにカップを口元に持っていきコーヒーを一気に飲み干した。

 砂糖を入れ忘れたせいで、強い苦みが口に中に広がる。二乃ほど甘党という訳ではないが、三玖のように苦みが平気でもないので、思わず眉を顰める。

 

(流石に今の顔は女優がしちゃダメだよね……)

 

 カップを手元に戻して深く息を吐いた。強い苦みのお蔭か、少しだけ冷静になれた気がする。

 口元を手で撫でながら、自分の表情を手探りで確認する。

 ……大丈夫だ、今はもう普段の表情に戻っている。

 

 大きく嘆息して胸を撫で下ろす。そして同時に先ほど感じた、あの言い表せない胸の衝動は何だったのだろう、と首を傾げた。

 

(そう言えば、前にもこんな事があったような気がする)

 

 思い出すのは先日の林間学校の夜。手違いで二人で倉庫に閉じ込められたあの時。

 風太郎にキャンプファイヤーのダンスを断られて、何故か自然と涙が流れた。あの時は無性に悲しみが溢れて出て、それが涙となって抑える事が出来なかった。

 

 今回もそれと同じ、自分ではとても制御できない感情の奔流。

 だけど、今回のあれは悲しみなんかじゃなく、もっと粘着質で黒くて、心の底から滲み出るような……。

 

「もしかして、私……」

「さっきからジロジロと見てたが、何か用か? 一花」

「ッ!?」

 

 突然かけられた声に思わず顔を上げた。どうやら深く考え込み過ぎて周りの光景が全く頭に入っていなかったらしい。

 気付けば風太郎が一花の座るテーブル席の前で立っていた。

 よく見れば、先ほどまで彼と話していた少女の姿は見当たらない。

 

「え、えっと、奇遇だね。フータロー君。こんな所で会うなんて。というか、気づいてたんだ」

「入口で突っ立ってるのが目立ってたからな」

「えっ」

 

 そう言えば風太郎を見つけた時に思わず立ち尽くしてしまっていた事を思い出し、その一部始終を彼に見られたと思うと羞恥で頬が赤くなった。

 

「俺はもう店を出る予定だったが、お前はどうする? 話があるなら聞くが」

「……私もちょうど出ようと思ったところだよ」

 

 赤くなった顔を見られるのが嫌で俯きながら、一花は風太郎と共に店を後にした。

 

 

 

 

「め、珍しいね。君があんなお店にいるなんて、お姉さんビックリだよ」

 

 店を出た一花は、既に用事を済ませ後は帰るだけらしい風太郎と途中まで帰路を共にする事になった。

 途中、互いに無言だったが意を決してようやく一花から口を開いた。

 

「普段なら間違いなく入らないんだがな。コーヒーに五百円も払うだなんて馬鹿らしいし」

 

 そう答えた風太郎に一花はピクリと眉を動かす。

 普段なら、という事は今日は特別だったという事だろうか。

 

「あの、カフェでフータロー君が話してた子だけど……良かったの? 私とこうして帰ってて」

 

 先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。いつの間にか姿を消していたのも気になる。

 

「ああ、竹林か。あいつなら用があるらしくて先に帰った」

「そ、そうなんだ……」

 

 竹林、それが彼女の名前なんだと一花は心の中で呟いた。

 

「随分と仲良さげだったけど、もしかしてフータロー君の彼女とか?」

 

 まさか普段の自分を演じる日が来るだなんて一花は夢にも思っていなかった。

 なるべく普段通りの、からかうような口調で尋ねた。内心では緊張と不安でまともに思考が出来ていない。

 ただ、どこか心の隅で彼がどんな返答をするか予想は出来ていた。

 いつもの仏頂面でそんな訳ないだろ、と一蹴する筈だ。

 

 ところが、一花の予想とは裏腹に風太郎は非常に複雑そうな表情を浮かべた。

 

「……そんな訳ないだろ。あいつは小学生の時の旧友だ。今日はたまたま出くわしたから話してただけだ」

 

 返ってきた言葉は一花の想像通りだったが、その表情は違った。

 何やら苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

 

「旧友、か……そっか、そっか」

 

 ただ、そんな風太郎の表情に気を止める余裕は一花にはなかった。

 今はただ、胸の中に広がるこの暖かな安心感が心地良かった。

 

(フータロー君があんな表情をしていたのも、彼女が彼の旧友だったから。別に特別な関係だからじゃないんだ)

 

 心の中で広がっていたモヤモヤとして感情が晴れた気がする。

 そして同時に、あの時に滲み出た黒い何かの正体も理解できた。

 

(やっぱりあの時、嫉妬してたんだ、私……)

 

 自分でも自覚しきれてない程度には、どうやら目の前の彼に心奪われていたようだ、と一花は自嘲した。

 そして再び、脳裏に三玖の顔が浮かんだ。自分と想い人を同じくする、愛おしく大切な妹。

 

(ううん、大丈夫。三玖が相手なら、きっとあんな嫌な気持ちにはならない筈)

 

「何でそんなに笑ってんだよ」

「解けなかった問題が解けてスッキリしただけ」

「なんだそりゃ」

 

 ようやく普段通りの調子を取り戻した一花は風太郎と肩を並べて、笑みを浮かべた。

 

(……だって私たちは同じ姉妹なんだから)

 

 

 この時の一花は、そう信じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




遅くなりましたが、アニメ化おめでとうございます。これを機に五等分の二次創作がもっと増えてくれればいいのですが……。
5巻を読んでいたら、原作でも竹林さんいつか出るかなって思って今回の話を思い付きました。
次は二乃あたりを書こうかと思っていますが、単行本未収録の内容を含むと思います。


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最悪の出会いではなかったのなら。

今回は一話のIF展開です。


 家の借金がなくなるかもしれない。

 

 電話をして欲しいと妹のらいはからメールが来たのは、ちょうど四限目の終了のチャイムを耳にした時だった。

 教室を後にした風太郎は食堂に向かいながら、らいはに電話をすると開口一番にそう告げられた。

 詳しく話を聞くと、どうやら最近この辺りに引っ越してきた金持ちの家庭が娘の為に家庭教師を探しているらしい。この話を見つけた父に、あんなダメ親父でもたまには役に立つんだなと、感心した。

 

(……それにしても家庭教師か)

 

 最初、家庭教師と聞いて眉を顰めてしまった。

 別に勉強が苦手という訳ではない。むしろその逆で得意だし成績だって学年トップだ。体力がない事を自負している風太郎にとっては下手な肉体労働のバイトよりはずっと向いていると言ってもいい。

 しかし問題は勉強を教えるという家庭教師の仕事だ。

 らいはに勉強を教えてあげる程度の事なら今までも経験があったが、家庭教師として教えるとなると話は別だ。

 生徒の成績の向上は必須だろうし、給料を貰う以上はその責任も当然伴う。教えるにしてもどの程度勉強ができるかによってカリキュラムを練らなければならない。

 それに加えて、家庭教師として教える生徒は自分と同い年の女生徒だと聞いた。これがまだ年下なら昔に習った知識と経験を元に対策はし易いのだが、同い年となると自分の分の勉強に加えて生徒の面倒も見なければならないので負担も大きいだろう。

 

(結局は背に腹は代えられなくて受けるって答えたが)

 

 報酬は相場の五倍、と聞いてしまったら流石に受けざる得ない。これで借金がなくなるというなら御の字だ。

 アルバイトは早速明日から始まるそうなので、家に帰ったら色々と準備が必要になるだろう。

 

(帰りに本屋に寄って、参考書でも読んで帰るか)

 

 肝心の生徒の情報についてもっと詳しく聞こうとしたが、普段碌に携帯電話を使わないせいか充電をし忘れていて通話の途中で電源が切れてしまった。

 仕方がないと、ため息を吐きながら風太郎は食堂の厨房でいつもの『焼肉定食焼肉抜き』を注文した。周りの生徒から向けられる怪訝そうな顔はもう慣れたものだ。

 そのまま定食の乗ったトレイを持っていつもの定位置の席に座ろうとした、その時だった。

 

「あの!」

 

 急に掛けられた声に首を傾げながら顔を向けると、違う学校の制服を着た女生徒が風太郎と同じ席に座ろうとしていた。

 見ない顔だ。同学年どころか同級生の顔すら憶えているか怪しい彼でも、視界に入れば記憶に残る程度には人目を引く容姿をしていた。

 

「なんだ?」

「私の方が先でした。隣の席が空いているのでそっちに移ってください」

「はあ?」

 

 何を言っているんだこいつ、と風太郎は女生徒を睨み付ける。だが彼女は一歩も引く様子を見せない。

 

「ここは毎日俺が座っている席なんだが」

「関係ありません。早い者勝ちです」

 

 風太郎の言葉に有無を言わせないとばかりに反論する女生徒。初対面の相手にここまでストレートに物を申すとは中々に肝が据わっていると、当事者でなければ感服していただろう。

 普段ならここで風太郎も臆せずすぐさま言い返すのだが、今は目の前の少女よりも明日から始まる家庭教師のアルバイトの方がずっと気になっていた。

 それにこの女生徒はどうにも頑固そうだ。仮に言い返しても直ぐにまた反論してくるだろう。ここで下手に口論になるのも労力の無駄だと判断し、渋々席を譲る事にした。

 勿論、ただでは譲らずに無言で睨み付けたが。

 

(それにしても随分と豪勢だな。セレブかよ)

 

 隣の席に移動しながら盗み見た女生徒が持つトレイに目を疑った。うどんにトッピングの天ぷら、更にデザートも付けて千円は超えている。実に風太郎の一週間分の昼食代に相当する。

 金額もそうだが、その量も一般的な女子高生が食べるにしては多い量だ。

 

(昼間からよく食う女だ。そう言えば、俺が担当する生徒も金持ちだと聞いたが……こんな感じなんだろうか)

 

 脳裏に高飛車そうな少女の像が浮かび上がる。風太郎は増々気が重くなった。まだ見ぬ自分の生徒に不安が積もる。

 せっかくの昼食なのにこんな気分で食べるのも馬鹿らしいと思い、風太郎は気分転換にこの間のテストの復習をする事にした。自分の為の学習にもなるし、多少は明日からの家庭教師業務の糧にもなるだろう。

 スラックスのポケットから四つ折りにしていた答案用紙と単語帳を取り出す。さあ、勉学と昼食の有意義な時間を過ごそうして……またしても声が掛かった。

 

「食べながら勉強するなんて行儀が悪いですよ」

「……」

 

 こめかみの辺りが痙攣しているのが自分でも分かった。どうやら今日は所謂ツイてない日のようだ。

 鬱陶しそうに隣の席に視線を向けると、ジト目で先ほどの女生徒がこちらを見ていた。

 

「何? あんた、『ながら勉強』を否定すんの? あの二宮金次郎もやってたのに俺だけ批判するの?」

「状況が違います」

 

 まくし立てるように文句を言ったが、またしても反論してきた。

 思わず舌打ちしそうになったが、何とか寸前で我慢した。そんな事をすれば余計につっかかって来る姿が容易に想像できる。

 

(まあいい。無視だ、無視)

 

 短いやり取りしかしていないが、どうにもこの女とは馬が合わない。そんな人間の相手をいつまでもするのも時間の無駄だ。

 それにこの目立つ女生徒と会話しているだけで、さっきから周囲の視線が集まっている気がする。たまったものではない。

 女生徒を無視して単語帳と答案用紙に視線を戻し、箸を持って食事と勉強を再開した。

 

「食事中にも勉強だなんて、よほど追い込まれているんですね」

「………」

 

 まだ話しかけてくるのか。風太郎は無視を続けるのも無理そうだと諦め、女生徒に顔を向けた。

 

「あっ! もしかしてそれ、答案用紙ですか? 私にも見せてください!」

「はあ? なんでだよ」

「この学校ではどんな問題が出題されるのか知りたいんです!」

「おいこら、勝手に覗くな!」

 

 隣から覗き見ようする女生徒を静止しようとするが止まらない。

 

「いいじゃないですか! どれどれ……上杉風太郎君。点数は…………」

「止めろ! 見るな!!」

 

 答案用紙を読み上げる女生徒に風太郎は悲痛な叫びを上げる。

 そんな彼に女生徒は楽しそうに点数の書かれた箇所を見た。

 

「……百点」

「あー!! めっちゃ恥ずかし!!」

「……」

 

 丸しか付いていない答案用紙に女生徒は頬を膨らませながら風太郎を睨み付けた。一方の彼は鬱憤が晴らせたとほくそ笑んだ。

 

「わざと見せましたね……なんですか。勉強できるんじゃないですか」

「別にできないとは言ってない」

 

 これでも成績は学年トップだと付け加えてドヤ顔で煽って更に追い打ちをかけた。

 女生徒に対して余程、鬱憤が溜まっていたのだろう。

 

「……うう、羨ましいです。私は勉強が得意ではないので」

 

 女生徒は目を伏せて気弱に言葉をポツリと漏らした。もっと悔しがる反応を見せるだろうと予想していたが、先程と違って落ち込んだ様子の彼女はどこか深刻そうな表情に見えた。

 意外だった。会話から生真面目なイメージを受ける彼女は一見すれば勉強が苦手そうには見えない。むしろ優等生タイプのような勉強のできる人間に思える。とは言え、人は見かけによらないが。

 

(羨ましい、それに得意ではない、か……。嫌いと言わない辺り、向上心はあるようだな)

 

 少なくとも、勉強に対する思いはかつての自分よりはマシだろう。『彼女』と出会う前の自分よりは。

 ふと、脳裏に髪の長い無垢な笑みを浮かべる少女が浮かんだ。

 

「そうです!」

 

 ぽんと女生徒が何かを思い付いたように手を叩いた。

 今度は何を言い出すのだろうか。面倒くさそうに風太郎は女生徒に視線を向ける。

 

「こうして隣の席になったのも何かの縁です。勉強、教えてくださいよ」

 

 風太郎の満点の答案用紙に目を輝かせながら女生徒は笑顔を浮かべた。

 

「……」

 

 断る、と普段の風太郎ならノータイムで返していただろう。すぐさまに食事を済ませ、「それだけ食べると太るぞ」と捨て台詞を吐いてこの場を立ち去っていたに違いない。

 現に今もそう口にしようとしたが、喉まで出掛った言葉を飲み込んだ。

 

(待てよ? これはいい機会なのかもしれない)

 

 果たして経験もないのにいきなり家庭教師が務まるのだろうか。答えは否だ。

 せっかくの好待遇のアルバイトだ。自分の不手際で失敗は許されないだろう。

 なら仕事をこなせるように少しでも経験を積むのは悪くない。見たところ、この女生徒は恐らく自分と同じ学年だろう。どのように勉強を教えれば理解してもらえるか、検証するのに丁度いい。

 

「……別に構わないが」

「えっ、本当ですか?」

「提案したのはそっちだろ。何でそんなに驚く」

「いえ、言ってから気付たんですが……あなたなら何となく断るだろうと思いまして。すみません、失礼な事を考えてしまって」

「……」

 

 実際、断るつもりだったから否定はできない。

 

「あっ、もしかして……」

 

 しかし無言の風太郎を見て、何を思ったのか女生徒の視線が何かおぞましいモノを見るような目つきに変わり、両手で自分の肩を抱いた。

 

「勉強を教える変わりに何か私に要求しようと……」

「違う。こっちにも事情があるんだよ」

「事情、ですか?」

 

 首を傾げる女生徒に理由を話すかどうか悩んだ。だがこのままつまらない勘違いをされても困るので素直に話す事にした。

 

「明日から家庭教師のバイトを受け持つ事になっていてな。しかも生徒は俺と同い年だ。今までそんな経験なんて無かったから人に勉強を教える練習をしておきたかったんだ」

 

 二人で食事を再開しながら事情をかいつまんで説明した。途中、女生徒からそれだけでは足りないのでは?とトッピングの天ぷらを分け与えられそうになったが風太郎はそれを丁重に辞退した。

 

「家庭教師……? それに明日から……同い年の生徒……」

 

 話し終えると風太郎の言葉に何故か女生徒は箸を持つ手を止め、考え込むように顎に手を当てていた。

 

「どうかしたか?」

「……あの、つかぬ事をお伺いしますが」

「何だ」

「その家庭教師のアルバイト、教える生徒は五人だったりします?」

 

 女生徒の質問の意図が理解できず、五人?と今度は風太郎が首を傾げた。

 

「人数は聞いていないが……普通は家庭教師なんて受け持つ生徒は一人だろ。まあ、報酬は相場の五倍らしいが」

「……なるほど、そうでしたか」

 

 何かに納得したように女生徒は呟いた。何がなるほどなのか分からないが、とりあえずこれで明日からのバイトの備えが多少はできただろう。

 ほっと胸を撫で下ろし、改めて女生徒の顔を伺うと目があった。

 

「勉強の件、よろしくお願いします。早速ですが、今日の放課後でも構いませんか?」

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

「驚きました。上杉君と同じクラスなんて、凄い偶然ですね」

 

 放課後。生徒の出入りが少ない図書室の机に筆記用具と教科書、ノートを広げて、食堂の女生徒である中野五月(いつき)は約束通り風太郎に勉強を教えてもらっていた。

 

(上杉風太郎君……恐らく彼がお父さんが言っていた明日から私達に付く家庭教師)

 

 父から聞かされていた明日から自分たち姉妹を受け持つ家庭教師。食堂で話した内容だけでは断言はできないが……それでも目の前の彼がそうなのだろうと、五月はどこか確信めいた予感がしていた。

 

(あなたがもし本当に私達の家庭教師になる人なら、相応しい人か見定めさせてもらいます!)

 

 もし彼が本当に自分たちの家庭教師なら、姉妹を代表してここで見極めなければならない。

 それにもし違っていても、学年トップの生徒に勉強を教えてもらえる機会は貴重であるし、この時間が無駄になる事はない。編入したばかりで同じクラスに友人を作れたと思えば十分だ。

 気合いを入れて風太郎を見つめる五月に風太郎は大きく嘆息した。

 

「確かに同じクラスだったのは驚いたが……俺はそれよりもお前の勉強の出来なさ加減に心底驚いている」

「うっ……」

 

 とりあえず五月の学力を知るために急ごしらえで用意した簡易的な五教科の小テストをやらせみたところ、それはもう酷かった。

 よくこの高校に編入できたなと風太郎が疑問に思うほど壊滅的な結果だった。

 

「……見たところ、理科が比較的マシのようだが」

「はい! 理科は得意科目です!」

「得意ならせめて半分くらいは正解してみせろ」

「そ、それは……」

 

 額に手を当てて苦言を呈する風太郎に五月は何も言い返せなかった。

 自分の勉強のできなささは自分自身が一番よく解っているつもりだったが、それを改めて他人に指摘されるのはやはり心苦しかった。

 

「まあいい。とりあえずはお前の学力は把握した。始めるぞ」

「……はい」

 

 自信なさげに五月はうなづいた。

 

 

 小テストの間違えた箇所を解説を聞きながら改めて問題を解く。

 その際に風太郎は教科書だけではなく理解を深めやすいように時折、日常生活での例え話を用いたりと工夫を加えて教えた。

 風太郎からすれば手探りでの授業だったが、どうやら効果的だったらしく五月のペンを持つ手はさっきからずっとカリカリと問題を解き進めている。

 

(……一人で勉強していた時と全然違う)

 

 今までの自分の勉強の方法が間違っていたのだと痛感させられた。

 一度解けたからと分かったつもりになっていたり、基礎から学ぶ事の重要さをちゃんと理解できていなかった。

 何より、間違いを指摘して正してくれる人の存在は思ったよりも大きかった。

 

(それに……意外と真面目な方ですね)

 

 隣で今も解説を続ける風太郎の顔を眺める。その目は真剣そのものだった。

 食堂で話した時はもっといい加減な人だと思っいた。行儀が悪くて、愛想も悪くて、意地悪で口も悪い。

 だが、こうして勉強を教えてもらっていると少し印象が変わった。相変わらず愛想も口も悪いが、問題の解説は驚く程に丁寧だ。

 分からない問題を尋ねると、こちらが理解するまでペースを合わせて説明をしてくれる。学年トップというのは自称では無さそうだ。

 今こうして五月の勉強を教えているのも家庭教師のバイトの為だと言うし、責任感は強いのだろう。

 

「そろそろ終わるか」

「えっ? でもまだ問題が残って……」

「ここの閉館時間だ」

「あっ」

 

 風太郎の視線の先にある掛け時計を見て驚いた。ここまで集中して勉強できたのは、初めてだったかもしれない。

 

「教師の猿真似で解説をしてみたが、どうだった?」

「その……とても解かりやすかったです」

「そうか。中野でも理解できるようなら明日からのバイトも何とかなりそうだ」

 

 お前よりアホな生徒を教えることなんてないだろうしな、と教科書を鞄に入れながら憎まれ口を叩く風太郎に五月は頬を膨らませた。

 

(悪い人ではないとは分かりましたが……この調子だと二乃や三玖とは折り合いが悪いかもしれませんね)

 

 自分含めたそのアホな生徒を五人も受け持つ羽目になるは夢にも思っていない彼に怒りよりも先に少しばかりの同情心が湧いた。

 

「上杉君、今日はありがとうございました」

「……別に礼なんて必要ない。言っただろ。こちらの都合のためだ」

 

 面と向かって礼を言うと、風太郎は言い訳をするように言葉を並べて五月から視線を逸らした。

 そんな彼が何だか可笑しくて、五月はクスクスと喉を鳴らした。

 

「これからも、よろしくお願いしますね」

「……? クラスメイトとして、って意味か?」

「明日になれば分かりますよ」

 

 思わぬ形で先に出会った家庭教師は同い年で同じクラスの男の子。

 無愛想で行儀が悪くて口も悪い彼はきっと自分たち姉妹とこの先何度も衝突する事があるだろう。

 だけど案外、彼なら自分たちと上手くやっていけるのかもしれない。

 

 そんな彼をもう少しだけ知りたいと、五月は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二乃を書く予定でしたが、先に五月メインの話が完成してしましました。


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白馬の王子は私のモノ。

 胸のつっかかりが取れたような、そんな晴れやかな気分でその日の朝、二乃は目を醒ました。

 隣を見ると他の姉妹たちはまだぐっすりと眠っている。山場だった期末試験を何とか乗り越えた直後だ。みんな疲れているんだろう。

 相変わらず四葉の寝相の悪さに三玖は苦しそうだし、そんな三玖に毛布を取られた五月は自分と一緒の布団に潜り混んでいる。一花はいつも通りあの包まった毛布の下は全裸だろうか。

 

 静かに眠る愛おしい姉妹達を起こさないように二乃はそっと立ち上がり、炬燵のある居間へと足を運んだ。

 まだ起きるには少し早い時間だが、二度寝をしようとは思わなかった。今は、この心地良さを噛み締めていたかったから。

 

 いつも通りの朝。だけどいつもよりも気持ちのいい朝。その理由は解っている。

 

『あんたが好きって言ったのよ』

 

 昨日、風太郎に放った告白が脳内でリフレインした。

 胸の鼓動が速くなる。こんなにも火照った顔をもし他の姉妹に見られたら、熱でもあるのではないかと心配されるだろう。頭を振ってあの光景を振り払おうとした。これ以上、昨日の事を思い出しているとおかしくなってしまう。

 だけど瞳を閉じても瞼の裏には鮮明に彼の顔が浮かんで消えなかった。

 

(ああ、私……言ったんだ、あいつに)

 

 いつの間にか、最悪で最低な奴から最愛の人になった無愛想で口の悪い彼。

 たった数か月前までは自分たち姉妹にとって異物だと思っていたのに気付けば、なくてはならない存在になっていた。それはきっと、この想いを抜きにしても姉妹全員が共通する彼に対する認識だろう。

 

(あんなに驚く姿、初めて見たわ)

 

 恋愛なんて下らないと吐き捨てていた風太郎が、自分の告白にああも狼狽えていたのが可笑しくて、同時に凄く嬉しかった。

 あの反応を見て彼も自分たちと同い年の男の子なんだと分かったし、何より自分の言葉が彼の心にちゃんと届いているのだと安心した。

 

(でも、大変なのはこれからよね……)

 

 良くも悪くも今まで彼は家庭教師と生徒、或いは友人同士という一線を決して踏み外す事なく自分たちと接していた。いや、友人同士というよりは手間のかかる妹たちの世話をしていた兄みたいだと表すのが正しいかもしれない。

 そんな自分たち姉妹をまるで女とも思って無さそうだった風太郎でも、流石に告白を受ければ否が応でも自分を一人の異性として意識せざるを得ない筈だ。

 あの風太郎を相手にそこまでさせただけでも大金星だろう。

 

 だが、それだけで満足する二乃ではない。

 

(……次は振り向かせてみせる)

 

 今は、きっと彼の中では自分と他の姉妹に対する好感度に、そこまで差はないだろうと思う。

 姉妹の中でも特に衝突の多かったと自覚している二乃だが、そんな自分を邪険に扱うことなく風太郎が姉妹全員を分け隔てなく接していたのは十分に理解していた。

 特定の誰かを贔屓することなく、公平に自分たちを見てくれる。

 それは素晴らしいことだと思う。彼がそうして自分たちと向き合ってくれたから、こうして誰一人欠ける事無く三学期を終えることができたのだから。

 生徒と家庭教師の関係なら今まで通りで良かった。ただの友人同士の関係であっても。

 

(だけど私が欲しいのは、そんな関係じゃない……それだけじゃ、もう我慢できない)

 

 あの時、二人乗りしたバイクでの会話を思い出す。

 本当は言葉にするつもりなんて無かった。あの日で生徒と家庭教師という関係が途切れる事になる彼に、気付いてしまった自分の想いを伝えるなんて、出来る筈がなかった。

 風太郎と自分たちを繋ぐものは家庭教師と生徒という関係だけで、それが無くなれば今までのように接する機会も少なくなっていく。そして何れは途切れてしまうのだろうと。

 

 だから、伝えるつもりはなかった。彼も困惑するだけだ。何とも思っていない相手からそんな想いを寄せられても迷惑なだけだと、そう思っていた。

 

 彼の漏らした言葉を聞くまでは。

 

『────寂しくなるな』

 

 強い夜風に晒された中で碌に言葉なんて聞き取れない筈なのに、不思議とその言葉だけははっきりと二乃の耳に届いていた。

 その時、心の底へと溜め込んでいた彼への想いが溢れそうになった。真冬だというのに体は燃えているかのように熱くて、胸の鼓動は今まで感じた事がないほどに高鳴った。

 

 自分だけではない。彼も、自分たちの繋がりを惜しんでくれたのだと。自分たちの繋がりを大事に想ってくれていたんだと、言葉で聞く事ができた。

 普段の彼ならそんな言葉を人前で零すなんてあり得ない。きっと口にした本人すらも自覚していない程の、自然と心の内から漏れた言葉だったのだろう。

 

 だからこそ、その言葉は二乃に大きく響いた。心にしていた栓が音を立てて崩れ落ちた。

 もう、止められない。この想いを胸の内に留めておくことなど、できる筈がない。

 

 止めどなく溢れる情熱と情愛に逆らう事なく、ただ内なる想いのままに二乃は想いを告げた。

 

(……まあ、まさか同じ日に二度も告白する事になるとは思わなかったけど)

 

 勢いのまま放った最初の告白は残念ながら彼には届いていなかった。

 冷静に考えてみれば、バイクに乗りながらヘルメットを被った相手にまともに言葉が届く筈もない。

 ないのだが、二乃からしてみれば一世一代の告白が届かなかったのは、やはり気に食わないし、腹立たしい。

 だから今度は確実に、声の届く距離で、言い訳なんてできないくらい、はっきりと想いを伝えた。聞こえなかったのなら、もう一度告白すればいい。単純ながらもそれ故に効果的な選択だった。

 

 その結果、風太郎は困惑と驚愕を顔に張り付け、固まる事になったが。

 

(これからどうしようかしら……)

 

 振り向かせると決意はしたが、実際にこれから彼をどう攻めていくか決めかねていた。

 以前、彼が変装した金太郎に心奪われていた時は多少キャラを作って距離を詰めようとしていたが、今回は相手が自分を知り過ぎている。

 ならばいっその事、下手に着飾らずにありのままで接するのがいいのではないかと二乃は思考する。

 

(とりあえず、呼び方を改めるのはどうかしら? 親しくなるにはやっぱり名前で呼んだ方がいいわよね)

 

 彼の性格から今更呼び名を変えたくらいでは何とも思わなさそうなのが難点だ。他に名前で呼ぶ異性がいないなら効果的だろうが、一花も三玖も既に彼を名前で呼んでいる。

 だが、決して無駄ではないだろう。何事も積み重ねが重要だ、という言葉は彼が勉強を教える際に自分たちに何度も言い聞かせていた。

 それは恋愛にも当てはまるのではないかと二乃は思う。小さな日々の努力が未来に実を結ぶのだ。

 早速、練習がてら彼の名前を口にした。

 

「……ふ、フータロー」

 

 言った途端、余りの気恥ずかしさに両手で顔を隠した。

 他の姉妹たちは未だに夢の中だろうが、万が一にこの顔を見られたらたまったものではない。

 だけど、気恥ずかしさ以上に、二乃の心はどうしようもない暖かさと幸福感に満ち溢れていた。

 

(いい! いいわ、これ! 凄くいい!)

 

 以前にも彼の事を咄嗟に名前で呼んでしまった事はあったが、その時は何とも思わなかった。

 それが好きな人になった途端にこれだ。さっきから緩む口元が元に戻らない。これが恋なのだと二乃はこの幸福感を深く噛み締めた。

 

「フー君、フータロー君……違うわね。やっぱりストレートな呼び方がいいわ。フータロー……フータローね、うん」

 

 他の呼び方も試してみたがイマイチしっくりこない。やはり素直に名前で呼ぶのは一番自分らしい。

 名前を口ずさむ度に彼の顔が思い浮かぶ。今度会う時は開口一番に呼んでやると拳を握りしめた。

 

(呼び方は決めたけど、次はどうアピールするかね。フータローはどんな女の子が好みなんだろ)

 

 やはり好きな相手の好みというのは気になるものだ。意中の相手の好みが自分に当てはまっているならアピールする上で有利に立てるし、そうでなければ好みに合わせて自分を磨くことが出来る。

 相手を知ることが恋愛における勝利の必須条件なのだ。二乃にとってそこに妥協は存在しない。

 

(確か、前にそんな会話があったと思うけど……)

 

 まあ、あれはないか。彼が家庭教師として勉強を教え始めた頃にクイズ形式で三玖達に自身の好みのタイプを話していたのを思い出した。

 その時に挙がっていた好みのタイプは元気が良くて、料理ができて、お兄ちゃん想い。

 隣で二乃も聞き耳を立てていたが、あれが本気で答えたものとは到底思えない。仮に事実なら自分に当てはまる項目があるから期待してしまうが、恐らくないだろう。

 だいたい、その好みにまんま当てはまるのは彼の妹くらいだ。

 

(そもそも、異性の好みどころか好きな食べ物や趣味、どこに住んでいるのかも知らないのよね、私)

 

 食べ物の好みは、恐らく特にはないだろう。自分の作った料理と三玖が作った料理を食べ比べて両方上手いと評するのが風太郎だ。味に拘りがないように思える。

 趣味はやはり勉強だろうか? 二乃からすれば勉強が趣味の人間なんて信じられないが、彼を見ているとそれもあり得る。

 彼がどこに住んでいるのか。こればかりは見当も付かない。放課後の勉強会の後も彼はすぐさま自分たち姉妹と別れて帰っていたし、普段から彼自身がどこか自分たちに自宅を知られないよう振舞っていたように見えた。

 

 色々と風太郎の事を推測してみたが、どこまでいっても憶測の域を超えない。

 思った以上に自分が風太郎の事について知らなかった事実に二乃は少しばかり凹んだ。

 今まで興味が無かった、というのも事実だが風太郎自身があまり自分の事について語らないのも原因だろう。

 

「……あいつって誰かを好きになった事ってあるのかしら」

 

 ため息混じりに思わず言葉が出てしまった。好意を自覚したのはいいが、相手が余りに手強すぎる。

 

 自慢ではないが、容姿にはそれなり以上に自信がある。同世代の女子と比較しても抜きん出ていると胸を張って言い切れる。

 だが、そんな自分と同じ顔をした姉妹五人に囲まれてほぼ全く照れもしないのがあの上杉風太郎という男だ。

 出会った当初はまだ異性としての羞恥が彼に多少はあったのに、最近では平気で自分たちの寝床に入って会話に交じるほどデリカシーのない行動を見せるようになった。正直、性欲があるのか疑いたくなる。

 

 そんな彼が異性に対して好意を抱く姿があまり想像はできない。

 

 想像はできないのだが……ある懸念が二乃にはあった。

 

(そう言えば……あいつ、振られたんだっけ)

 

 五月と喧嘩して家出をしてホテルで寝泊まりをしていたあの日。毎日しつこく来る彼に呆れながらも、どこか安堵していた時だった。

 ロビーで何故かびしょ濡れになった彼が浮かない表情をして佇んでいた。濡れた雫が頬を伝う様がまるで涙のように見えて、思わず二乃は彼を自分の部屋へと招いた。

 池に落ちたという彼を無理やり風呂に入れて、そこで二乃は事情を少しだけ聞いた。

 昔出会った少女と再会して、そして一方的に別れを告げられた話を。

 

(あいつは頑なに否定してたけど、間違いなくその子の事が好きだった筈だわ)

 

 本人はその子に抱いていたのは憧れや感謝といった感情だと話していたが、乙女の二乃は決してそうは思わない。それ以上の何かを秘めていたのだと確信している。

 

(だって、そうじゃないとあいつがあんな顔、する筈ないもの……)

 

 この数か月で風太郎の好みはともかく、人なりについては知ってきたつもりだ。初対面でも高圧的で口が悪くてデリカシーもない。だけど根は案外いい奴で、責任感も強くて、自分たち姉妹に対して諦めずに根気強く接してくれた男の子。

 

 そんな彼の、あそこまで落ち込んだ表情に二乃は強い衝撃を受けた。

 

(あいつがまだその子の事を引きずっているなら……)

 

 非常に厄介だ。タダでさえ相手は一筋縄ではいかない男なのに、その男に好きな子がいるならこれ以上に厄介な事はないだろう。

 あの時の風太郎はその子に言われた言葉を引用して自分に過去との決別を促していたが、果たして彼自身はその過去を割り切れているのだろうか。

 こればかりは本人でない二乃には知る由もない。 

 

(……でも、そんなの関係ない)

 

 想いを自覚した今では、彼にそんな表情をさせた少女に思うところがないと言えば嘘になる。

 どんな人なのか、どのように彼と出会ったのか、どうやって彼にあんな表情をさせる程に親しくなれたのか。

 そして何故、別れを告げたのか。

 

 気になる事は山ほどある。だけどそれは自分の恋には関係がない。所詮は過去の出来事なのだから。

 二乃が欲しているのは過去の彼ではない。今の彼だ。今の上杉風太郎なのだ。

 

(過去なんかに、私の恋は邪魔させない)

 

 短くなった後ろ髪をそっと撫でた。これは二乃にとって過去との決別の印だ。もう自分は過去になんか囚われない。髪を切ったあの日に、偽りの恋と共に『さよなら』を言い渡した。

 

(その子の事を忘れられないなら、私が忘れさせてあげる)

 

 五年も前の色褪せた恋など今から私が上から書き換えてしまえばいい。

 彼がその子にまだ手を伸ばすのなら私がその手を取ってしまえばいい。

 

 王子様は一人。結ばれるのも一人。ならばそれは自分以外にあり得ない。

 白馬の王子は私のモノだ。誰にも、例え愛おしい姉妹にも渡しはしない。

 

 それぐらいの意気込みが無ければ、恋など成熟しない。

 

「必ず、振り向かせる。覚悟しなさいフータロー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次は四葉を書こうと思いますが、描写が難しいため暫く後になるかと思います。


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もしも三玖なら。

 どうにも慣れない。

 自身の手を包み込む人肌の温もりに風太郎はむずがゆさのようなものを感じた。

 歩幅を合わせて隣に歩く彼女に視線を向ける。身長差があるため自然と見下ろす形で眺めると、普段は表情に乏しい彼女が今は機嫌の良さを微塵も隠そうとせずに口元を緩めていた。今となっては珍しくない表情だ。

 

「どうかしたの?」

 

 こちらの視線が気になったのか、長い前髪を揺らしながら見上げる彼女と視線が合った。

 

「いや、未だに慣れないと思ってな……なんというか変な感じだ」

 

 この関係性に。この距離感に。こうして異性と手を取り歩幅を合わせて歩く自分に。

 全くもって慣れる気配がない。

 違和感、とまでは言わないがどうにも落ち着かないのだ。現にこうして彼女と手を繋ぐだけで妙な気持ちになる。

 誤魔化すように空いた手で前髪を弄ると、そんな風太郎に何を勘違いしたのか彼女は不服そうにむっと頬を膨らませた。

 

「もしかして手を繋ぐの……嫌?」

 

 しまった。またやってしまったか。眉根を寄せてこちらの瞳をじっと見つめてくる彼女に風太郎は心の中で溜息を吐いた。

 余計な勘違いをさせてしまったようだ。どうにも自分の言葉は誤解を招く表現が多いらしい。直さねばならないと思いつつも、培ってきた口癖はそう簡単には変えられない。

 以前、彼女達姉妹にデリカシーがないと苦言を呈された事を思い出す。その時は気にも留めていなかったが、この関係になってからは身に染みて実感した。

 このままではいけないと、誤解を解く為にあれこれと言い訳が瞬時に脳裏に浮かんだが、これは悪手だ。

 今までの経験から下手に御託を並べるよりも素直に心内を晒すのが一番の得策と判断し、急いで言葉を紡いだ。

 

「そ、そうじゃない。ただ……」

「ただ?」

「……こっぱずかしいだけだ」

 

 ああ、やはり慣れない。手を繋ぐのが恥ずかしいだなんて女々しい言葉を自分が口にするなんて、慣れる筈がない。

 隣ではクスクスと可愛らしい笑い声が聞こえる。

 

「……笑い過ぎだ」

 

 前の自分ならこんな風に誰かに笑われたら不快感を露にしていただろうに、相手が彼女だというだけでそんな感情が一切湧かない。

 どうにもこの関係になってから調子が狂う。彼女にこうやって会話の主導権を握られる事が多くなったのも、この関係になってからだ。

 

「だってフー君が可愛かったから、つい」

「前も言ったがフー君はやめてくれ、三玖」

「冗談だよ。ごめんね、フータロー」

 

 言葉では謝っているのに、ちっとも悪びれた様子のない『恋人』に風太郎は軽く鼻を鳴らした。

 

 紆余曲折の末に『家庭教師と生徒』から大きく変化した三玖との関係は風太郎にとって未知の出来事ばかりだった。

 生徒でもなく、友達でもない。それ以上に深く強いこの繋がりは何もかもが新鮮で、何もかもが分からない。

 以前と勝手が違いすぎて未だに戸惑う事の多い日々を送っていた。

 

「でもフータローも変わったね。私たちがこういう関係になる前に手を繋いだ時は何とも無さそうだったのに」

 

 指を一本ずつ絡めてぎゅっと己の手を握りしめる三玖にまたしてもこそばゆい感覚に襲われる。

 いい加減、慣れなければと思うが、それができれば苦労はしない。だが自分だけ意識し過ぎるとまた揶揄われる気がする。それだけは癪だ。

 動揺を見せないよう何とか平常心を保ちながら風太郎も三玖の手を不器用に握り返した。

 

「前って、確か花火大会の時か?」

「あの時もこうして握ってくれたよね」

「それはそうだが……」

 

 あれは握ったと言えるのだろうか。風太郎からすれば掴んだ、という表現のほうがしっくりくる。

 離さないように、今とは違いぶっきら棒に彼女の手を引いた。

 少なくともあの時は人ごみの中をはぐれない為、ただそれだけの単純な理由による行為だった。

 

「指までは絡めてない……それにあの時と今じゃ状況が違うだろ」

「うん。そうだね」

 

 なら、今はどういった理由で彼女と手を繋いでいるのだろうか。しかも今度は指まで絡めて。

 

 ふと、そんな疑問が頭を過ぎったが深く考えようとはしなかった。

 どうにも自分は理屈で物事を追及する節がある。それ自体は間違いだとは思っていないが、恋愛事に当て嵌めるべきではない。

 理屈で追及すればするほど、自身の彼女に対する想いに言い逃れができなくなってしまうからだ。

 そうなると否が応でも自分の本心と向き合わされる事になる。付き合っているとはいえ、それらを全て飲み込むにはまだもう少しだけ時間が欲しい。

 

 思えば彼女を本格的に意識したのも、『愛があれば姉妹を見分けられる』という中野祖父から続く彼女達の謎の理論から『三玖を見分けられた自分は彼女に対して愛を持っていたのか』という思考の袋小路に嵌り、苦悶の自問自答が繰り返したのが始まりだった。

 

「だってもう『知り合い』じゃない。私たち、恋人同士だから」

 

 三玖のさり気ない言葉に面食った。事実ではあるが、こうも堂々と宣言されるとやはりむずがゆい感覚に襲われる。

 赤くなった頬を隠すように口元を手に当てながら風太郎は三玖の顔に視線を向けた。

 

「前から思ってたけど」

「なに?」

「お前ってその、意外とそういう事、ストレートに言うな」

「そういう事って?」

「いや、だから」

「ふふっ。そういうフータローは意外と恥ずかしがり屋さんだね」

「ぐっ」

 

 またしても三玖に主導権を握られ、何とも言えない敗北感を嚙みしめたまま風太郎は押し黙ってしまった。

 勉強に関しては負ける気がしないが、こういったやり取りでは未だに勝てる気がしない。

 こればかりは慣れていくしかないのだろう。勉強と同じ、日々の積み重ねだ。

 

(それにしても……随分と変わったな、こいつも)

 

 今も楽しそうに微笑む三玖を見て出会った当初の彼女の姿が脳裏に浮かんだ。

 最初に出会った時は覇気のない暗い奴だと思っていたのに、それが今はこうして明るい表情も増えた。

 生き生きとしている彼女を見ていると安心できる。

 

(言葉数も増えたし、表情が豊かになった。そして何よりも積極的なところを見せるようになったのが大きな変化か)

 

 この関係になって気付いた事が色々とあるが、何より驚いたのが三玖の積極性だ。

 付き合い初めてからというもの、とにかく距離を詰めようとしてくる。物理的にも、精神的にも。

 正直なところ、風太郎は三玖と自分は恋愛において同種の人間だと思っていた。

 三玖に限らずあの一筋縄ではいかない五つ子達は碌に恋愛経験が無さそうだが、中でも三玖は消極的な方だと考えている。

 だから互いにそう言ったモノに疎い人種の自分たちは付き合うと言っても最初は友達の延長線のような関係からだと思っていた。手探りで徐々に距離を縮めて一歩一歩、関係を詰めていくのだろうと。

 

 その予想が大きく外れていた事に風太郎が気付いたのは、付き合ったその日に三玖に押し倒れるように抱き着かれながら唇を奪われた時だった。

 

(いや、俺が気付かなかっただけで元々積極的だったのかも)

 

 振り返ってみれば、思い当たる節がいくらかある。

 勤労感謝の日の誘いのメールやバレンタインのチョコは彼女のアプローチだったのだろう。それだけに限らず、日常の中でも色々と距離が近かったし、労わりの言葉も多かった。

 そう考えると露骨に好意を向けられていた気がしなくもない。だけど当時はそれを友情や信頼からくるものだと思っていた。

 それに出会って間もない家庭教師の自分に異性として好意を向けられるなんて想像もしなかった。

 

(もっと早くに気付いてあげれば良かったか)

 

 少しばかり反省と共に昔の自分ならきっとこんな事、考えすらしなかっただろうなと自嘲した。

 

「俺も、か」

 

 どうやら変わったのは彼女だけではないらしい。恋愛などくだならいと馬鹿にしていた昔の自分がこの光景を見たらどんな反応をするのだろうか。何となくそう思ったが、答えは分かり切っている。きっと鼻で笑うに違いない。

 

「フータロー?」

「何でもない。行こう」

 

 だが、そんな過去の自分に笑われるような今の自分は存外嫌いではなかった。

 風太郎は繋いだ手を放さず、今日の目的地へと向かった。

 

 

 

 

 

「一応、確認するが良かったのか? マジで何もないぞ」

「うん、いいの。一度来てみたかったから」

「テレビすらないが」

「いいよ」

「やる事なくないか?」

「フータローとお話ができる」

「お茶も麦茶くらいしか……」

「気にしないよ」

「そ、そうか。三玖がそう言うならいいが……まあ、とりあえず上がってくれ」

「お邪魔します」

 

 付き合った際に家庭事情を全て話しているとはいえ、この家に人を招くのは抵抗があったがここまで強く希望されては折れるしかない。

 少々の気恥ずかしさを感じながら風太郎は三玖を自宅に招き入れた。

 

 本日のデートは所謂、自宅デートと呼ばれるモノだ。提案したのは三玖だった。

 元々、苦学生である風太郎には自身の為に使える金銭は乏しいし、本人も使う気がない。恋人が出来てからも節制は変わらず、娯楽に金を使う考えなど毛頭なかった。

 ……なかったのだが、その事を妹のらいはや父の勇成に話すと正座させられた挙句に長時間説教された。

 二人曰く、そんなのだから彼女達にデリカシーがないと言われるのだと。

 

 なので考えを改め、少しではあるがデートの為の資金をバイト代から捻出するつもりだったが、三玖とのデートは風太郎の思った以上に金銭を使わなかった。

 単純な話だが二人ともインドア派な上に体力もないため出掛けて遊ぶよりも静かな室内で快適に過ごす方が好みだった。なので付き合ってからはもっぱら放課後の図書室デートが主流となった。そのお蔭で余りデートに費用がかかる事もない。

 そもそも風太郎がケーキ屋のバイトと家庭教師で休日が皆無な為、何処かに出掛ける暇も無かったのも金を消費しなかった理由の一つだ。

 

 そんな付き合ってからの日々の中で流石に毎回似たようなシチュエーションのデートばかりでは申し訳ないと思い、貴重な休日の休みを取れた風太郎は三玖に何処か行きたい場所はないかと尋ねた。

 数秒の沈黙の末、彼女から申し出たのがこの上杉家だった。

 

(しかし俺の家に来るならわざわざ待ち合わせする必要もなかった気がするが)

 

 今日は何故か二人の家の中間地点辺りの距離にある公園で待ち合わせをしてここまで来た。普通に出掛けるなら待ち合わせをするのは理解出来るが、自分の家に訪れるなら最初から直接来ればいいのではないのか。

 そう思ったが敢えて口にはしなかった。付き合ってからこの手の疑問を口にして良かった試しなど一度もないからだ。

 

「何だか懐かしい感じ」

「そう言えば、お前達も似たような家に住んでいた事があるんだったな」

「話した事あったっけ?」

「前に五月から聞いた」

「そうなんだ」

 

 所々傷んでいる畳の敷かれた居間へ案内すると三玖は興味深さそうに辺りを見回した。物珍しさというより、どこか懐かしいそうに言葉を漏らす。

 内心、余りの貧乏っぷりに引かれないかと少し緊張していた風太郎は三玖の反応に胸を撫で下ろしながら、傍の台所でお茶の用意を始めた。

 滅多に来ない来客への御持て成しは普段なら妹のらいはが進んでするのだが、今日はその姿が見当たらない。

  

「そうだ。フータロー、今日もお菓子作ってきた」

「ああ、いつも悪いな。お茶請けすらなかったから有難い」

 

 鞄からタッパーを取り出した三玖に礼を言って食器棚から皿を出す。どうやら今日はクッキーを焼いてくれたようだ。

 三玖がこうして手作りのお菓子を振舞ってくれるのは付き合ってからの恒例行事となっている。最初はまた胃の酷使を覚悟していたがバレンタインのチョコレート作りでコツを掴んだのか、腹痛を起こさない程度には仕上がっていた。

 腹を壊さないのなら、大歓迎だ。もとより貧乏舌。大抵の味は許容範囲である。

 そんな三玖の手料理は風太郎にとって密かな楽しみの一つでもあった。

 

「らいはちゃんとフータローのお父さんの分もあるから……あれ?」

「どうかしたか?」

「らいはちゃんは?」

「ああ、らいはなら珍しく今日は友達の家に泊まりで遊びに行ったよ」

「残念。久しぶりだし会いたかったな」

 

 そう言ってくれると、らいはも喜ぶだろうな、と返事をしながら二つのコップに麦茶を注ぐ。

 らいはも随分と中野姉妹に懐いてしまった。妹を大事に想う兄としてはらいはを盗られたようで少々複雑な気分だが、相手が彼女達ならまあいいだろう。

 

「……あれ?」

「今度はどうした?」

「フータローのお父さんもいないの?」

「親父なら仕事だ。どうにも急に舞い込んできた案件らしくてな。帰りは朝になるんだと」

「そ、そうなんだ……」

 

 盆に皿とコップを乗せて居間に戻り、四足のちゃぶ台の前で座る三玖の隣で腰を下ろしたところで、風太郎は自分の言葉に妙な違和感を覚えた。

 あの親父が仕事で休日に家にいない事は特別珍しくないが、らいはまでいないのは非常に珍しい。

 普段は家の家事を優先しがちで友人はいるものの、泊りで遊びに行くなんて今まで無かった筈。

 そこまで思考したところで先日、三玖が家に来る事を話すとまるで示し合せたかのように二人がその日は留守にする旨を風太郎に伝えた光景を思い出した。

 

(まさか、気を遣われた?)

 

 らいははともかく、あのダメ親父には無性に腹が立った。思えば、仕事があると言った父の顔はムカつくほどニヤついていた気がする。意味深そうに『がんばれよ』と父に肩を叩かれたあの時は言葉の意味が分からなかったが、今となってようやく理解できた。

 

(余計なお世話だ馬鹿親父)

 

 思わず舌打ちをしそうになったが、三玖の前なので自重する。

 親父が帰ってきたら文句の一つでも言うくらいは許されるだろう。

 らいはもらいはだ。最近は妙にませてきたのかもしれない。これも彼女たちの影響だろうか。

 

「誰もいないなら……二人きりって事だよね」

「……ッ」

 

 妹への悪影響も考えてやはり中野姉妹とらいはは遠ざけた方がいいのではと思考し始めた風太郎の耳にポツリの消え入るようにような声で呟いた三玖の言葉が届いた。

 それまで考えていた事が一瞬で消し飛び頭の中が真っ白になる。思わず身を強張らせた。 

 

(馬鹿馬鹿しい!)

 

 一瞬だけ妙な妄想をしそうになった自分を殴りたくなった。

 自分たちは付き合っているとは言っても年齢相応の健全な関係のままだ。欲望に忠実な同世代の猿どもとは違うという自負がある。欲に溺れて身を滅ぼすのは馬鹿のする事だ。自分はそんな馬鹿ではない。

 そう自分に言い聞かせるが、さっきから緊張感が全く解れない。

 

(そもそも三玖と家で二人きりになったからって何だ。そんなの今までだって…………いや、ない。ない、のか?)

 

 過去を振り返ってみると、付き合ってからこんな状況は今までなかった。中野家のアパートには何度も顔を出しているが、それは家庭教師としてだし二人きりになる機会がない。上杉家に三玖を招いたのは今日が初だ。

 

「と、とりあえず誰もいないし気にせずくつろいでくれ」

「う、うん」

 

「「……」」

 

 気まずい沈黙が流れた。こういう時にテレビでも付ければこの気まずさを多少は紛らわせる事が出来ただろうが、残念ながら貧乏家庭の上杉家にそんな物はない。生まれて初めてテレビが欲しいと願った。

 

「そ、そうだ。折角、作ってきてもらったんだ。クッキー貰ってもいいか?」

「ど、どうぞ」

 

 三玖の許可を得て見栄えが決して良いとは言えない不揃いな形のクッキーを口に放り込む。

 少なくともこうしてクッキーを食べている間は多少の場の空気を紛らわせる事が出来る筈。

 正直なところ味がしなかったが、これは三玖のせいじゃない。さっきから緊張している自分が原因だ。

 

(ここからどうする……? このままじゃ間が持たねえ)

 

 こうしてずっとクッキーを食べていられる訳じゃない。一刻も早くこの妙な雰囲気を何とかしたい。

 いつものように三玖の好きな戦国武将の話題を振るのだろうだろうか。案外いいアイデアかもしれない。普段と変わらない会話を続ける事で、環境の変化も気にならないなる可能性もある。

 

「そう言えば、前に本で読んだんだが……」

「……」

 

 とりあえず話しかけようと三玖の顔を伺ってみるが、俯いて長い前髪が垂れ下がっているせいで表情が見えなかった。

 やはり他の家族がいないと知ってから三玖の様子がどうにもおかしい。余所余所しいというか、そわそわしているというか。自分と同じように緊張した様子に見える。

 

(この状況……もしかして俺が誘ったように思われているのか?)

 

 有り得ないと願いたいがそう思われても不思議ではない。

 家に彼女が訪れた日に都合よく彼氏の家族が誰もいないなど、余りにも都合が良すぎる。

 誤解をされているなら、せめてそれだけでも解こうと口を開こうとしたところで風太郎の袖口を隣に座る三玖が引っ張った。

 

「……フータロー」

「な、なんだ?」

 

 さっきまで前髪で隠れていた三玖の顔が明らかになる。その瞳はまるで覚悟を終えたような強い意志が宿っていた。獲物を捉えた獣の眼とも呼べるが。

 この瞳を風太郎は以前にも見た事があった。彼女に唇を奪われたあの日と同じ眼だ。三玖の積極性を垣間見た、あの時と同じ瞳。

 体が反射的に後退りしそうになったが、袖口を掴んで離さない三玖がそれを許さない。

 相手が四葉ならともかく非力な三玖を振りほどくのは風太郎でも簡単だ。だけど、体は素直に言う事を聞いてくれない。この後、どうなるか分かっている筈なのに。

 

(まさか、望んでいるのか? 俺が?)

 

 戸惑いを隠せない風太郎にずいずいと三玖の距離は縮まっていく。

 

「フータロー」

 

 何とか静止を呼び掛けてみようとしたが、喉がカラカラに乾いて上手く言葉が発せない。緊張のせか、それともさっき大量にクッキーを頬張って口の中の水分がなくなったからか。

 彼女は止まらない。風太郎の名前を呟きながら更に近づく距離。もう逃げられない。

 

「フータロー」

 

 袖口を掴んでいた手はいつの間にか首の後ろに回され、遂には二人の体の距離はゼロになった。互いの体は密着して、女性の体特有の柔らかい感触が服越しに伝わる。

 どくんどくんと、どちらのものか分からない胸の激しい鼓動が密室となったこの部屋に響いているような錯覚に陥った。

 

「……ッ」

 

 顔と顔が近い。三玖の吐く荒くなった吐息が風太郎の顔を撫でた。艶のある亜麻色の髪から漂う甘い香りが鼻孔を擽る。ダメだ、流されるな。冷静になれ。

 

 まだ自分たちには早すぎるのではないか。

 もう少しお互いを知ってからではダメだ。

 何も準備がない。もしもの事があったら。

 思考が、出来ない。上手く頭が回らない。

 

 必死に思考を重ねて冷静さを保とうとするが、それが出来ない。五感で感じる全てが彼女の色で塗りつぶれていく。

 

「み、三玖」

 

 何とか、名前だけは口に出せた。

 本当は落ち着け、とか冷静になれ、と言った言葉の方が適切な筈なのに、何故か今は彼女の名前を呼ぶ事が正しい事のように思えて。

 

「いいのか」

 

 自分でも何を言っているのか分からない。

 何がいいのか。何の確認だ。言葉が足りない。これでは相手に伝わらない。

 

「いいよ」

 

 なのに、三玖は頬を紅潮させたまま、微笑んだ。

 微睡む思考と溢れる情動。ああ、やはり慣れはしない。

 思慮を欠いて情熱に身を委ねる事が愛だと云うなら、きっとそれは今までの自分とは相反するものだ。

 だが、それを受け入れたから彼女とこの関係になったのだろう。 

 

 ようやく覚悟が決まったところで、少しだけ冷静になった頭が待ったをかける。どうせなら三玖に何か恋人らしい言葉をかけてからの方がいいだろう。

 何がいいかと一瞬考えたが、ちょうどいい言葉が直ぐに見つかった。

 好きだ、は言った事があるが似たようなもう一つの言葉は口にした事がないのを思い出した。

 

「三玖」

 

 意味は同じなのに、言葉が違うだけて口にする時の羞恥が段違いだ。

 しかしここで躊躇っては後から文句を言われかねない。

 

 だから羞恥を捨てて今は素直に言葉にしよう。

 

「──愛している」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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架け橋。

 怒涛の春休みを終え、新学期が始まってから暫く経った。

 普段はクラスメイトの顔や名前など気にも留めない風太郎だが、四葉の推薦によって不本意ながらも着く事になった学級長の立場の都合上、そうもいかなくなった。

 未だ姉妹の見分けが付かないクラスメイトから『中野姉妹専門窓口』として毎日話しかけられる内に嫌でもクラスメイトの顔と名前を覚えてしまった。

 

 それもこれも彼女たちが全員同じクラスになったのが原因だろう。

 

 流石に自身の生徒である中野姉妹全員がクラスメイトになったのは風太郎も面食らった。

 神の気まぐれか。はたまた何者かの作為による陰謀か。五つ子全員が同じクラスなんてどう考えても有り得ない。しかし、いくら思考を巡らせようと答えは出ないので、とりあえずは目の前の現実を受け入れる事にした。

 あの姉妹に理屈や常識というものが通用しないのは半年以上の近い付き合いの中で嫌という程に思い知らされたからだ。考えるだけ無駄である。

 きっと何か目には見えない糸で彼女達は強く深く繋がっているのだろう。オカルト染みた考えは好みではないが、あの姉妹を見ているとそんな風に考えてしまう自分がいる。それ自体は構わない。決して悪い事ではないのだから。

 

 問題はその強固な糸に最近は自分までも巻き込まれ絡みつかれているのではないか、という事についてだ。

 先日の家族旅行で鉢合わせした時もそうだ。疲弊した心と体を休めるどころか姉妹達の問題解決の為の奔走し、何とか無事に事が済んだかと思えば、最後に大きな爆弾を抱えてしまった。

 ここまで来ると何か因縁のようなものを感じざるを得ない。

 

 そして今、目の前で行われた席替えの結果もそうだ。

 

(前門の虎、後門の狼……いや、四面楚歌か?)

 

 窓際から二列目、後ろから二番目の席。風太郎にとって黒板から遠いこの場所はあまり歓迎できた席ではないが、これだけなら別に文句はない。どんな場所であれ集中すれば授業を受けるのに影響はないからだ。

 座席の位置だけなら何も問題がなかった。

 

「お隣さんだね、フータロー」

 

 窓際の席に座る三玖は花が咲くように頬をゆるませた。

 同じクラスに五人も姉妹がいるのだ。一人くらいなら誰かと隣合わせになっても不思議ではない。

 

「あら、隣だなんて奇遇ね」

 

 三玖とは正反対に位置する席の二乃が風太郎に声をかけながら三玖を牽制するように視線を向ける。

 三玖を除いてもまだ四人もいるのだ。中野姉妹に挟み撃ちにされる座席でも、あり得なくはないだろう。

 

「こんなに近くだと授業中に寝ちゃったらフータロー君にばれちゃうね」

 

 三玖の前の座席。椅子の背もたれに肘を付きながら一花が照れ臭そうに頬を掻いた。

 この辺りから風太郎の胃がキリキリと痛みを訴え始めた。あり得るのだろうか、こんな事。周りのクラスメイト達から「上杉君やべえ」「学級長すげえ」などのざわめきが聞こえる。

 自分は何もヤバくないし凄くもない。凄くやべえのはあいつらの悪運と頭の出来だ。俺を巻き込むな。そう叫べたらどれだけ楽だったろうか。

 

「せっかく近くの席になれたのです。これで授業で分からない事があっても直ぐに聞けますね」

 

 風太郎の前の席。目の前で五月が頭頂部から生えるその特徴的な毛束を揺らしながら振り向く。どんな確率だこれは。頭の中で数式を組み立てようとしたが、途中で止めた。確率的にあり得ない事象でも目の前で起きているのなら受け入れるしかないのだ。中野姉妹に常識は通用しない。

 

「凄い偶然ですね、上杉さん! みんな一緒ですよ!」

 

 後ろの席から発せられた四葉の言葉に心の底から同意した。本当に凄い偶然だ。抽選で行われた席替えで自分を玉にした矢倉囲いを組むなど神の悪戯としか思えない。

 もしかして今なら宝くじを買えば当たるのではないか。そうだ帰りに買って帰ろう。当たればきっと妹のらいはも喜んでくれる。

 

 半分現実逃避をしながら風太郎は彼女達からは決して逃れられない自身の運命を悟った。

 

 

 ◇

 

(クソッ……なんてザマだ)

 

 先ほどから全く授業に集中できない。席替えを終えてから授業が始まり、早くもペンを投げ出したくなった。

 授業の内容自体は既に全て予習済みではあるが、前年度の期末試験で彼女達の為とはいえ、成績を落としている身だ。慢心など出来る筈もない。

 なのに、黒板の文字や教師の声に集中できない。これでは彼女達を導く家庭教師として失格だ。

 

(全部、この席が悪い)

 

 環境のせいで勉強ができないなど馬鹿や怠け者がする言い訳だと思っていたが、今はその意見に強く賛同できる。なるほど。確かに勉強をする上で環境は重要だ。こんな場所で集中などできる筈がない。

 さっきから感じるのだ。四方八方から、特に左右からは己を嘗め回すようなねっとりとした視線が。

 

 今も、窓際の方から強い視線を感じる。風太郎は少しだけ黒板から目を逸らして窓際側の席を横目で見た。

 

 すると想像通り、ずっとこちらに視線を飛ばしていたであろう三玖と目が合う。

 彼女はあっと小さく声を漏らし何度か瞬きしたかと思えば、微笑みながら風太郎に手を振った。

 頭を抱えたくなる。今は授業中ではないのか。視線を向ける場所が違うだろう。そして何故手を振る。これが授業中でなければ風太郎はそう声に出していた。

 しかし、彼女の手元をよく見るとノートはしっかりと黒板を写しているようだった。別にサボっている訳ではないらしい。

 

(……どの道、注意散漫なのに変わりはない。後で注意しておくか)

 

 ノートを丸写しする事だけが何も授業ではない。教師の解説を聞き、それを咀嚼して理解し、問題を解いて初めて学習と言えるのだ。それに彼女達も無事に進級できたとはいえ、まだまだアホには変わりない。ここで気を抜かれては困る。

 次に指導する際はいつもよりも厳しくしようと気合いを入れた、その時だった。

 

「……っ」

 

 三玖とは正反対の方角から小さい何かが風太郎の後頭部に目掛けて飛んできた。

 机の上に落ちたそれを拾い上げる。最初はゴミかと思ったが、どうやら丸めたメモの切れ端のようだ。広げて中身を確認すると見覚えのある丸文字で『授業に集中しろ』と書かれていた。

 誰の仕業か、考えるまでもない。

 

 紙の飛んできた方向を振り向くと、不機嫌そうな二乃が頬杖を付きながらもう片方の手でペンをくるくると回していた。

 

(集中しろはこっちの台詞だ!)

 

 言葉の代わりに睨み付けてやったが、それがどう伝わったのか二乃は自分に向いた風太郎からの視線に、にやりと口の端を吊り上げた。まるで悪戯が成功した子どものような……いや、子どもが浮かべるにしては少々妖艶ががった笑みだ。

 またしても頭を抱えそうになる。何がそんなに楽しいんだ。授業中に遊ぶな。小声で文句の一つでもぶつけようしたが、二乃も三玖と同様にノートはしっかりと取っていたのでその気も失せた。

 

(……やりにくい)

 

 心底そう思った。左右の二人でこれなのだ。残りの三人はどうなのだろうか。ちゃんと授業を受けているのだろうか。一度、気になりだすと不安がだんだん胸の中で大きく膨らんでいく。

 流石にそろそろ授業に集中せねばと思いつつも、つい三玖の前の席に座る一花に視線を向けた。

 普段から彼女の眠る姿をよく目撃している風太郎にとってはある意味一番の要注意人物だ。授業中に眠られては家庭教師としてたまったものではない。

 

 だが、そんな風太郎の心配は杞憂に終わった。

 

(あいつはちゃんと授業を受けているようだな……良かった)

 

 得意科目の授業だからだろうか。斜め後ろの席から見える一花は集中してペンを動かしていた。真剣に授業に取り組む彼女に風太郎はほっと胸を撫で下ろす。

 ドジなところもあるが、何だかんだ言っても五つ子の長女なだけある。きっと同じクラスになった妹達への模範となるようしっかりと勉学に励んでいるのだろう。

 そんな一花の姿に風太郎は珍しくも素直に感心しながら、自分も彼女に負けないよう集中しようとして────。

 

 何故か一花と目が合った。

 

(……なんでこのタイミングでこっちを見た)

 

 一花は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、すぐさま笑顔に変えて風太郎にウインクを送った。

 

 まさかこの席位置で目が合うとは想定外だった。

 何故わざわざ振り向いた。今は授業中だぞ。前の黒板を見ろ。口にすれば自分にも跳ね返ってくる言葉を何とか飲み込んで風太郎は一花からすぐさま目を逸らした。

 最近は鳴りを潜めているが、何かと自分を揶揄ってくる自称お姉さんの一花である。きっと授業が終わった後にこの事をネタにされるに違いない。ならば、さっさと目を逸らすのが得策だ。

 

(……とりあえず、懸念していた一花が真面目に授業を受けいただけで良しとするか)

 

 本当は後ろの四葉から発せられる背中に感じる視線も気にならないと言えば嘘になるが、自分の勘違いの可能性だってある。流石に振り向いてわざわざ確認するような真似も出来ない。

 なら、ちゃんと授業を受けていたかどうかは後で本人に聞けばいいだけの事。

 四葉に関しては授業を受けているかよりも内容に付いていけているかを確認した方がいいかもしれないが。

 

 嘘の吐けない彼女の事だ。もし授業に付いていけないなら、その時に素直に白状するだろう。

 

(残りは五月だが……まあ、こいつなら何も問題ないだろう)

 

 目の前の席に座る五月の背中を眺めた。跳ねた頭頂部の毛束が彼女がペンを動かすのに連動して微妙に揺れ動いている。

 五月も他の姉妹同様にアホに違いはないが真面目ではある。授業はしっかりと集中しているだろう。

 去年、一応は同じクラスだった時に彼女の授業態度はよく目にしている。

 

(俺もしっかりしないとな……)

 

 こんな腑抜けた状態では五月に小言を言われかねない。それだけは御免だ。

 深く呼吸して心を落ち着かせる。

 ──よし、これで行ける。

 

 今度こそはとペンを動かそうとして、またしてもトラブルが起きた。

 

「あっ」

 

 机の端に置いていた消しゴムが手に当たり、前の方に転がり落ちてしまった。

 出端を挫かれ、風太郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。今日は何かと集中力を削ぐ出来事が多すぎる。

 思わず舌打ちしながら、床に落ちた屈んでを拾おうとして───先に目の前の消しゴムが別方向から伸びた手によって拾われた。

 

「どうぞ」

 

 顔を上げた風太郎の瞳に消しゴムを差し出す五月の姿が映った。

 何故か体が硬直した。

 想像以上に彼女の顔が近い。あまりに近すぎる。

 『この顔』はダメだ。『五月』の顔はダメなんだ。

 

 その時、あの旅行の最後に起きた光景が脳裏を過ぎった。

 

 鳴り響く鐘の音。

 紅潮する彼女の頬。

 覆い被さった彼女の体から伝わる熱。

 

 そして唇に触れたあの────。

 

「……」

「上杉君?」

「あ、ああ……ありがとう。五月」

 

 五月の声に我に返る。

 怪訝そうな顔をする五月に礼を言い、すぐさま席に着いて大きく溜息を吐いた。

 何とかノートを取ろうとするが、ペンを握り締める手に力が入らない。

 重症だ。これでは授業どころではない。

 

 ようやく気付いた。気付いてしまったのだ。

 集中できないのは彼女たちの視線のせいではない。

 

 自分が過度に彼女達を気にしているからだと。

 

 その原因に大きな心当たりがあった。

 

 

 ◇

 

 

「……」

 

 昼休み。人出の少ない校舎の屋上でフェンスに凭れながら風太郎は一人で黙々と菓子パンを口に運んでいた。

 午前の授業を反省し午後の授業に向けて少しでも集中できるように糖分が豊富な低単価で高カロリーのパンを購買で選んだが少々後悔した。口の中で強烈な甘さが広がる。

 

(水じゃなくてコーヒーにすれば良かったか)

 

 コストパフォーマンスを考えて容量の多い水をパンと一緒に購入したが失敗だったかもしれない。

 大抵の物は美味いと感じて食べれるが、今日は気分的にもう少し落ち着いた味付けが良かった。それこそ、いつもの焼肉定食焼肉抜きのような。

 同じ二百円でもやはりあの定食の方が満足感はある。おまけに水も飲み放題だ。

 

(流石に今日は食堂に行く気は起きねえ)

 

 あの食堂は現在悩みの種である中野姉妹も利用している。少なくとも今は彼女たちの顔を直視できそうにない。

 同じクラスなので午後からの授業はどうしようもないが、せめて昼休みの間くらいは距離を置きたかった。

 一度、落ち着いて気持ちを整理する必要がある。そうでないとまた思い出してしまう。

 

 再びあの時の光景がフラッシュバックしそうになり、馬鹿馬鹿しいと首を振った。

 

(……あれは事故だ)

 

 そう自分の中で処理した筈だ。なのに、彼女たちの顔を近くで見ると嫌でも思い出す。

 このままでは不味い。家庭教師としての業務に支障をきたす恐れがある。

 

(仮に事故じゃなかったとしても、あんな事を故意にする奴なんて……)

 

 そんな事をふと思ったが再び姉妹の顔が脳裏に浮かび上がりそうになり、またしても首を振った。

 やめだ。考えれば考えるほどドツボに嵌る。やはりあの出来事はなかった事にして綺麗に忘れるのがベターなのだろう。

 ベストは彼女の正体を暴いて真意を確かめるのがいいのだろうが、それが出来れば苦労はしない。かつて『写真の子』かどうかを姉妹に訪ねた時とは訳が違う。

 現状は放置しか手がない。あの時の相手が誰であれ、向こうから何も言ってこない以上はこちらからは対処のしようがない。

 

「あっ、上杉さん!」

 

 パンも食べ終わり、残った昼休みの時間を先ほどの授業の復習に費やそうとした風太郎に聞き覚えのある声がかけられた。

 声の方向に恐る恐る視線を向けると悪目立ちするウサギの耳のようなリボン頭が視界に映った。

 

「よ、四葉」

「探しましたよ上杉さん。今日は食堂じゃないんですね」

 

 そう言って当然のように隣に並び立つ四葉に風太郎は緊張の汗を額に浮かべる。

 こういう時に同じ顔というのは厄介だ。嫌でもあの光景を思い出してしまう。

 しかもタチが悪い事にこの中野姉妹はどうにも普段から距離が近い。こちらのパーソナルエリアなど知った事かと言わんばかりに自分と体が近いのだ。その中でも四葉は特にだ。今も互いの肩が触れ合いそうな距離にいる。

 出会った当初は風太郎もそんな彼女達に戸惑う事が多かったが、次第に彼女達の距離間はこういうものなのだと納得して特に意識する事も無くなった。

 

 それが今更になって、また意識させれられるハメになるとは思いもしなかった。

 

「あ、ああ。そういうお前はもう昼食は済ませたのか?」

 

(馬鹿な……何故ここにいる!?)

 

 この時間の食堂は人で溢れかえっている筈だ。食べ終わるにしても早すぎる。それを見越してわざわざこんな所で昼食を済ませたというのに。

 自分は彼女達からは決して逃れられない運命だとでも云うのか。

 

 なるべく動揺を顔に出さず、平静を装いながら四葉に訪ねた。

 

「はい! 今日は二乃がみんなの分のお弁当を作ってくれたので教室で食べたんですよ」

「そ、そうだったのか」

「ここの食堂のご飯も美味しいですけど、やっぱり二乃の料理が一番ですね!」

「そうか……それで、何か俺に用か?」

「あっ、そうでした。はい、どうぞ」

 

 そう言って四葉から差し出されのは楕円形の弁当箱だった。桜色をしたその弁当箱は一目で女子が使うようなものだと判断できる。

 風太郎は四葉の意図が分からず、怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「お弁当です」

「いや、見れば分かる。俺が聞きたいのは……」

「もう、上杉さんったら。お弁当を渡す前に教室からいなくなっちゃったから探すのに苦労しましたよ。でも甘いですね! 上杉さんの場所なら匂いで分かります!」

「話を聞け。なんで俺にその弁当を渡そうとする」

「二乃が上杉さんの分も作ってきたんですよ」

「二乃が? なんで……」

「五個も六個も作る材料は変わらないからって。あと食べなさすぎてバイト先のケーキ屋さんで倒れられたら困るとも言ってました」

「……」

 

 バイト仲間として、或いは友人として。確かに四葉の話しを第三者が聞けばそう言った理由で弁当を作ってくれたのだと納得出来るが、当の風太郎はそうは思わない。

 

『あんたが好きって言ったのよ』

 

 何せ、二乃に関してはそれ以上の理由に心当たりがあるからだ。

 

(あの時の『五月』の正体……まさか……)

 

「……」

「上杉さん?」

「……悪い。少し考え事をしていた。せっかくだ。いただこう」

「どうぞ食べてください! 二乃もきっと喜びますよ」

 

 さっきまで忘れようと決心していたのに、またあの事を考えてしまう自分がいる。余程重症のようだ。

 やはり今は中野姉妹から距離を置いた方がいい。

 とりあえず四葉から弁当箱を受け取って彼女の用事を済ませてあげよう。そうすれば四葉もこの場から立ち去る筈だ。今はとにかく一人になりたい。

 

「……」

「食べないんですか?」

 

 だが、弁当箱を受け取った後も何故か四葉は立ち去る気配がなかった。

 

「……四葉」

「なんですか?」

「お前の用事は俺に弁当箱を渡す事だったんだよな?」

「そうです!」

「なら用は済んだ筈だろ。何故まだいる」

「いえ、上杉さん一人でお昼を食べるのも寂しいだろうと思いまして。だから私が上杉さんのお話し相手になります!」

「一人で食べるのはいつもの事だが」

「なら今日は私がいるので大丈夫です!」

「……」

 

 違う。そうじゃない。

 しかし、こう見えて四葉も意外と頑固なところがある。こう言い出したら下手に言い訳をしてもきっと彼女はこの場から離れてはくれないだろう。

 だからと言って事情を話す訳にもいかない。

 

「……好きにしろ」

「はい!」

 

 結局、折れる羽目になった。

 

「それにしても上杉さん、もし二乃のお弁当がなかったら今日のお昼はそのパンだけだったんですか?」

「俺はこれだけでも十分だ」

「ダメですよ! ちゃんと食べないと。途中でお腹が空いて午後の授業に集中できなくなりますよ?」

「五月じゃあるまいし。多少は空腹感がある方が集中力は増すんだよ。逆に満腹時の方が内臓に血液が行って逆に集中できなくなるんだぞ?」

「えっ。そうなんですか? なるほど……じゃあ私が今までお昼の授業で寝てしまったのもそれが原因だったんですね」

「は?」

「きょ、今日は大丈夫です! ……たぶん」

「ったく、お前は……」

 

 四葉から貰った二乃の弁当を食べながら、四葉と他愛のない話をした。

 二乃の料理は相変わらず美味いし、四葉は相変わらずのおバカだ。そんな彼女に呆れながらも風太郎は無意識に口元を緩めていた。

 

(あれ……)

 

 そこで、ふと気付いた。いつの間にか自然体で四葉と接している自分に。

 さっきまではあんなに意識していたのに。

 

「上杉さん、やっと元気が出ましたね」

「なに?」

「何だか今日の上杉さん、少し様子が変でした」

「……そうか?」

「はい。何かありましたか?」

 

 人をよく見ているなと思った。姉妹の中でも特に勉強を苦手とする四葉だが、他人の感情の起伏に特に敏感なのもまた彼女だ。

 きっとお人好しな人柄が、こうした周りへの配慮や観察能力を高めたのだろう。

 

 そんな四葉が相手だからだろうか。晒すつもりがなかった胸の内を少しだけ零していた。

 

「何もない、事はないが……」

「もしかして、私達また上杉さんに何かご迷惑を……」

「……どちらかと言えば俺自身の問題だ」

 

 顔を伏せ、地面を見た。四葉の顔を見ながら話すには出来そうになかったからだ。

 

「最近、ある難問にぶつかっていてな。こいつが解けないんだ」

「上杉さんでも解けないくらい難しいんですか?」

「ああ。厄介な事にそいつには教科書に書かれた数式が通用しないんだ。得意の勉強も役に立たない」

 

 問題を先送りにするのは勿論、一つの解決策だとは思う。

 あの出来事をなかった事にして、ただ忘れて。今まで通り彼女達と接する。

 

 だが、それが本当に正しいのだろうか。

 

 仮にあの出来事をなかった事にして、そしたら次は二乃の言葉と向き合う必要がある。

 返事はいらないと言われたが、いずれは自分自身の中で答えを出さなければならない時が来る筈だ。それも先送りにしていいのだろうか。

 懸念しているのは二乃だけじゃない。あの旅行で偽五月に扮していた三玖についてもだ。

 

「正直、どうしたらいいのか分からん」

 

 答えが出ない。解に導けない。二乃の家出騒動の時と同じだ。

 あの時は、己の無力さに嘆いて、だけどその後に再開した彼女に別れと共にエールを送られた。

 今はもう、あの時のように彼女に言葉を貰う事など──。

 

「上杉さん」

 

 顔を上げると、四葉の顔が直ぐそこにあった。その時、彼女にしては珍しく真剣な表情を浮かべたいたのが風太郎の中で強く印象に残った。

 

「私はおバカだから上杉さんでも解けない問題なんて絶対分かりっこないですが……だけど分かります」

「分からないけど分かるって……何が言いたい」

「分からない問題は、分かる人に教えてもらえばいいんです。私たちがそれぞれの勉強を互いに教えあったように」

「……言っただろ勉強とは違う。それに誰かに教えて貰って解ける問題でもない」

「でも一人じゃずっと解けないままなんですよね。なら、みんなで考えたらいいんです」

「何?」

「えっと何て言えばいいのでしょうか……つまり……」

「誰かに頼れ、って事か」

「そういう事です!」

 

 エッヘンと胸を張る四葉に風太郎は眉根を寄せた。

 

(こんな事、誰に頼れって言うんだ。お前達にか?)

 

 無理だ。お前達の顔を見ていると意識してしまうなんて本人たちに言える筈もない。

 

「そんな相手がいない。先に言っておくがお前達には絶対無理だ」

「なら、それ以外の方はどうですか?」

「それ以外?」

「例えばクラスの人たちとか」

「はあ? そもそも俺にクラスの連中との関わりなんて……」

「何を言ってるんですか。上杉さんは学級長ですよ? 皆さんと毎日お話ししてるじゃないですか」

「それは立場上仕方なく……」

「上杉さんも立派なクラスメイトの一員なんです。きっと皆さんも力になってくれますよ!」

「……」

 

 誰かに頼る。そんな事、考えも付かなかった。ましてクラスの人間になど。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 

「連中に頼るくらいなら自分で悩んだ方がマシだ」

「上杉さん……」

 

 そう吐き捨てると四葉は表情を曇らせた。

 

「……が、まあ、お前の話は少しは参考にはなった。ありがとな四葉」

「……! はいっ!」

 

 さっきまでの曇った顔は何処へやら。一瞬でいつもの笑顔に早変わりした四葉に風太郎は小さく笑った。思えば、彼女と一緒にいると笑顔にさせられる事が多い。あの勤労感謝の日もそうだ。

 

 確かに馬鹿馬鹿しいが、それでも四葉の言葉で少しだけ視野は広まった気がした。

 今のところ誰かに頼る気など更々ないが、最悪の手段として頭の片隅に置くくらいはいいのかもしれない。

 

(結局、まだ何も解決していないが……まあ、簡単に解決するならここまで悩みはしないか)

 

 彼女達に囲まれた午後からの授業と放課後のバイト。とりあえず今はどちらも覚悟して挑まなければならないだろう。

 

 

(それにしても、たった半年でここまで変わるとはな)

 

 彼女達との関係だけではない。自分を取り巻くそれ以外の環境も、そして自分自身さえもいつの間にか変わってしまった事に気付いた。

 

 最悪の出会いを果たした姉妹達と信頼関係を結べたのも、断絶していたクラスメイトの関係を結べたのも、目の前で嬉しそうに眩い笑顔を咲かせる彼女が架け橋となってくれたからだろう。

 

 

 

 

 

 

 



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男女の戦い。

京都編がギスギスしてきましたので清涼剤代わりに。
単行本未収録の内容及びキャラ崩壊ありなのでご注意ください。


 

「ところで上杉君はどんな女性が好みなんだい?」

 

 京都を周る班も決まり、修学旅行まであと数日と迫った。受験を控えた三年生にとっては高校生活の集大成ともいえる一大イベントだ。

 今日も昼休みの食堂では辺りを見回すと彼ら三年生たちは普段よりも活気に溢れいた。

 誰と周るだとか、どこに行くだとか、何を持っていくだとか。全力で青春を謳歌しようする者ばかりだ。

 風太郎も表面上は平静を装いながらも内心では周りの彼らと同じようにテンション爆上げでエンジョイする気満だった。何せ、ここ最近は林間学校、家族旅行とハプニング続きで素直に泊行事を楽しめていない。

 二度あることは三度ある、と云うが今回ばかりは三度目の正直を信じたい。

 

 修学旅行に向け期待と不安に胸を膨らませるそんな彼に、今日は珍しくも共に食事をする人影があった。

 

「……いきなり何の話だ、武田」

「いやなに。こういった会話は修学旅行では定番じゃないか、ね?」

「その修学旅行はまだだろ」

「ほら、そこはリハーサルってことで」

「リハーサルって……」

「で、実際どうなんだい?」

 

 粘着質のある視線を向けられながら、何やら面倒な事になったと風太郎は鼻を鳴らした。定食のお新香に箸を伸ばし黙々と口へと運ぶ。

 

 修学旅行の件で話があると彼に昼食を誘われたのが始まりだった。

 話をするだけならわざわざ昼食を共にする必要はないと最初は風太郎も断った。しかし焼肉定食焼肉"有り"を奢るからと言われ掌を即座に返してホイホイ彼の話に乗ってしまった。

 少し前なら、そもそも誰が相手だろうと話の内容すら聞かずに無視をしていたところだが今は少しばかり心境の変化もあってか、とりあえず要件は聞く事にしていた。

 これも彼女達に出会って自分が変わったのが原因だろうか。

 或いはあの模試の時にトイレで聞かされた彼の夢が要因か。

 それは今でも分からないままだ。

 

 だが、まさか彼からこんな質問を投げかけられるとは思わなかった。

 

 自分と違って交友関係も広く男女問わずに人気のある彼がこの手の話題をするのは別段おかしくはない筈なのだが、何となく違和感があった。

 以前にもあの五つ子に似たような質問をされた事を思い出しながら風太郎は武田に向けて視線を返した。

 

「生憎、その手の話題には興味なくてな」

「成程、異性には興味がないと」

 

 何故だろう。彼がそう言うと身の毛がよだつ。まるで違う意味のように聞こえた。

 何か余計な勘違いされないよう、断じて違うと即座に返した。少なくとも自分の性癖は一般的なものだ。

 

 それに、最近では昔ほどに恋愛感情に対して嫌悪感のようなものは薄れている。

 

「君も男だろう。そういった趣向は何か一つくらいはある筈さ、ね?」

「やけに食いつくな。何が目的だ?」

「別に他意はないさ。単なる興味本位だよ」

「……」

 

 本当にそうだろうか。急に飯まで奢ってまでこんな話をするなんてやはり違和感がある。何か裏があると勘ぐってしまう。

 表情から情報を読み取ろうと試みたが武田はニヒルな笑みを浮かべるだけ。まあ、見ただけで分かる筈がないか。

 人の顔を見て内心を推し量れる程、器用な人間だったら五つ子相手にここまで苦労はしてなかっただろう。

 素直に彼との近状の出来事を思い返す方が手掛かりがあるだろうと思い、記憶の糸を辿る。

 

 すると、ふと先日の公園で彼と共に呼び出れた時に交わした中野父との会話を思い出した。

 家庭教師である自分と最近やけに距離感が近い娘達を危惧して紳士的な対応をするようにと釘を刺されたところだった。

 

 点と点が線で結び付いた。成程。そういう事か。

 

 事あるごとに何かと干渉してくる中野父のことだ。自分の言葉だけを信用する筈がない。

 そこでこちらの真意を探る為に彼を差し向けたといったところか。娘達を本当に邪な眼で見ていないかどうかの確認だろう。

 中野父と彼は個人的な繋がりがあると聞くし、それならこの不自然な質問にも納得がいく。

 

 しかし、そうだとしたら何と答えたらいいものか。焼肉と米を咀嚼しながら悩んだ。

 

 先のように適当に言葉を濁しても、しつこく追及してくるであろう事は目に見えている。

 ならば適当に身長(タッパ)(ケツ)がデカイ女がタイプですとでも答えるか。

 いや、あまりに白々しいとそれはそれで疑われる。どうにか納得させられる答えが必要だ。それも中野父が聞いて安心できるような説得力のある答えが。

 

 頭で五つ子を思い浮かべる。なんだ、簡単じゃないか。

 最後の肉をよく咀嚼し味噌汁と一緒に喉へ流し込む。正しい解が見つかった。

 

「……そうだな、強いて挙げるなら」

 

 きっとこれが正解だろう。

 

「ふふ、やっと答えてくれる気になったのかい?」

「お前がしつこいからだ。黙って聞け」

「すまない、話の腰を折ってしまったね。さあ、続きを聞かせてほしい」

 

「……知的で清楚でスレンダーな女だ」

 

 これなら中野父も満足するだろう。風太郎は自信満々にそう答えた。

 

 ◇

 

 武田は風太郎の後方でテーブル席を占拠する五つ子たちに向けて目の前の彼に悟られないよう彼女達にハンドサインを送った。

 予め決めていたサインは中野姉妹に無事に一言一句伝わったようで、彼のサインを見た彼女達はそれぞれこの世の終わりを目の当たりにしたような表情で沈んでいた。

 それを眺めながら武田は頬が緩むのを我慢出来なかった。ダメだ。まだ笑うな。堪えるんだ。目の前には風太郎がいる。し、しかし……。

 何とかテーブルの下で内股をつねる事により頬の筋肉を引き締めるのに成功した武田は心の中で勝利の雄叫びをした。

 良かった。どうやら彼があの悪い虫たちに誑かされる心配はないようだ。

 知的、清楚、スレンダー。どれを取ってもあの姉妹に全く掠りもしない。ストライクゾーンから大きく外れた暴投だ。ここまで好みと正反対なら、まだ同性相手の方が靡く可能性が高いだろう。

 男にも劣る愚かな姉妹を肴に武田は勝利の美酒として彼と同じ焼肉定食の味噌汁を口にした。

 あゝ、味噌汁が美味い。

 

 風太郎の睨んだ通り、この男は彼を探る為に送られてきた刺客だった。

 ただ風太郎の推測と違ったのは依頼主が中野父ではなくその娘の中野姉妹によって買収された事だ。

 まさか五つ子達が前に聞いてきた自分の異性の好みを今度は他人を利用して聞いてくるなど全国模試三位を誇る彼でも読み切れなかっただろう。

 買収された武田もこの状況が特異だと思っているくらいだ。

 彼自身、あの五つ子達に対しての好感度はあまり高いとは言い難い。むしろ低い方だ。何せ、自分が唯一好敵手とする男を堕落させ一度は絶対王者の彼の成績を低下させた諸悪の根源なのだから。

 確かに彼は前回の模試で宣言通りに輝かしい成績を納め実力を改めて認めたが、あくまでも認めたのは風太郎だけだ。そのおまけの五つ子達じゃあない。今もまた彼を堕落させないか心配なくらいだ。

 今まで歯牙にもかけられてなかった武田だったがあの日、彼は自身の存在を認め受けて立つと言ってくれた。風太郎は武田にとってライバルであり、そして同時に唯一無二の友であると自負がある。

 その友人としての責務として、風太郎を守護らなければならない。彼に付きまとう五つ子達は云わば悪い虫だ。ただの虫じゃない。糸を吐く蜘蛛、それも女郎蜘蛛だ。

 

 その彼女達に先日、協力して欲しいと依頼された。

 本来なら相反する彼女達に手を貸すなど天地がひっくり返ってもあり得ない。彼女達の企みによって友が苦心する姿など見たくない。

 鉄の意志で断固拒否すると要件を聞かずに吐き捨てた武田であったが、姉妹側から提示された報酬に掌をクルックルに回転させて忠誠を誓った。

 

 彼の使用していたビロビロおパンツ。それも二枚だ。

 

 これの真の価値を知る者は少ない。あの模試で父に渡された回答用紙などこれに比べたら尻にへばりついた糞を拭くチリ紙以下だ。便所に流すのも烏滸がましい。

 

 上杉風太郎は下着を滅多な事がない限り買い替えない。そのせいでゴムが伸び切りビロビロになった状態で今も使用して状態である。

 これは彼の成績が下がった時に独自に調査(ストーキング)してた時に得た機密情報だ。あの姉妹がその存在を知っていた事自体に驚愕を隠せなかった。

 上杉家は裕福とはかけ離れた家庭状況だ。本人自身もあまり物欲がなく身の回りの消耗品の更新は極めて稀である。その中でも特に下着はそうだ。

 つまり彼の下着は市場に出回る事すら稀有な貴重価値の高い逸品なのだ。つい先日、下着の買い替えが行われたのをリサーチしていたがまさかそれが既に姉妹の手によって渡っていたとは。

 

 あれは正規の手段で入手するには彼の妹に信頼された上で相応の対価を支払ってようやく手にする事ができる。非合法的な手段を用いるなら彼の家に忍び込み頂戴仕る事もできなくはないがリスクは高い。

 あの姉妹の事だから恐らくは前者の方法で手に入れたのだろう。最終的な目的を彼と定める彼女達が義妹に対して好感度の下がる手段を取るとは考え難い。

 これを入手する為に彼女達が一体どれだけの対価を支払ったのか武田には想像できなかった。だが確かに黄金に輝く覚悟を彼女達に見た。この時は性差を超え、彼女達の覚悟に敬意を示したものだ。

 

 しかしだからこそ解せなかった。それほどの対価を支払ってまで手に入れた宝を何故みすみす手放すのか。

 それも敵対関係である自分に分け与えるなど。敵に塩を送るようなもの。

 勉強の出来は見るに堪えないが、彼の事に関しては頭が回るのが中野シスターズだ。必ず何かある。

 彼女達の思考をトレースし、吟味し、何度もシミュレートした。その結果、彼は一つの解に辿り着いた。

 

 彼女達は修学旅行で全てにケリを付けるつもりなのだ。そして彼を手中に収める算段は付いている。

 

 恐らくは既に仕込みは終えているのだろう。何重にも張り巡らされた計略という糸が彼の手足を絡み取り、女郎蜘蛛どもの餌食になる。

 今回はその策を万全のものとする為の最後のダメ押し、と言ったところか。彼の好みを知り、自分達がそれに一致してたらそのまま決行。そうでなければ、彼の好みに近づき自分を女として仕上げるつもりだ。

 ダメ押しの為に宝を捨てる云わば背水の陣。リスクは大きいが成功した時のリターンは計り知れない。

 

 確かにそれなら納得ができる。彼のビロビロおパンツは貴重品ではあるが、あくまでも副産物。黄金の卵を産むガチョウがいるのなら、最初から卵より本体を狙うのは道理だろう。

 流石の武田も姉妹達の意図に気付いた時は冷汗をかいた。とりあえず前金であるビロビロおパンツの一枚を彼女達から受け取り、家に帰ってそれを被りながら頭を悩ませた。

 修学旅行当日はあの姉妹と別行動を取るのは当然として、他にどう手を打つか。頭脳は人の五分の一だがマンパワーは向こうが上回っている。油断はならない。

 結局、良い案が浮かばないまま今日を迎えてしまったが運よく杞憂に終わった。

 

 彼女達は上杉風太郎が理想とする女性には決してなれない。

 

 この事実は楔となり彼女達の胸にずっと残る事になる。

 知性とは極地の位置に存在する彼女達が一朝一夕で叡智を得る事などできないし、異性の下着を後生大事にするような女は清楚とはかけ離れている。スレンダー? 笑止。

 気分がいい。実に愉快だ。やはり彼は頭のいい人間を好むらしい。人間には分不相応は関係が求められるというものだ。

 

 気を良くした武田は追い打ちをかけるようにハンドサインを送った。もちろん目的は彼女達への煽りだ。

 

 沈んでいた彼女達がそれを気付いたが、意図が伝わっていないのか、何も反応を示さない。当然だ。

 これは事前に決めていたサインではなく、今即興で考えたものなのだから。

 

 ああ、君たちには決して理解できないだろうさ。これがナニを指すか。そうだ。君たちは何も知らない。ナニも知らないんだ。彼の事を何も。

 

 右手の親指と小指だけを立てそれを限界まで広げて振る。この親指を小指の間の長さがある物のサイズを示していた。

 

 ───上杉君のフー君である。

 

 彼女達はこれを知らない。知る機会がない。故に知る由もない。

 別に彼と彼女達の関係が希薄なものであるはとは言わない。癪だが確かな絆があるのだと認めよう。だけど、それだけだ。

 性別が違う彼女達がこれを知ろうとするなら男女の関係において極地に至らなければならないが、あの五つ子はそこに達していない。

 

 だが、武田は違う。同性だからこそ至れる道がある。

 

 何度、彼の隣で用を足しただろう。

 何度、彼の隣を眺め見たのだろう。

 

 違うクラスだった時は同じタイミングでトイレに向かうに難儀したものだ。

 仮にタイミングが合っても次に彼の隣が空いてなければならない。

 そしてそれをクリアしても、彼に感づかれないよう眺めるのはほんの刹那の間だ。

 たったそれだけで正確なサイズを推し量るなど不可能である。

 

 しかし、ここに例外が存在する。

 

 何度も何度も、毎日、彼の隣で用を足す。そして脳に刹那の光景を焼き付ける。

 焼き付けた刹那の画は積み重ねれば瞬間になり、瞬間を重ねれば時は永遠になる。

 そして繰り返す事三年生の春。武田は鮮明にフー君を脳内に浮かべる事が可能になった。

 

 君たちは"これ"を知らない。それが君たちと僕との決定的な差さ。まあ、分からないか。この領域(レベル)の話は。

 

 ふっ、と勝ち誇り武田は姉妹達から視線を外し、風太郎との会話を再会しようとした。

 

 その時だった。

 

 彼女達が何やら動きを見せ、思わず目をそのまま彼女達に向けたままにした。すると、武田にとって信じ難い光景が繰り出された。

 

 ば、馬鹿な!

 

 中野姉妹の次女、二乃が五月のほうばっていたホットドッグを取りあげ武田に見せびらかすようにそれを振った。

 これが何を示しているのか常人には理解できない。

 だが、武田には理解った。理解できてしまった。

 

 あれは、あのホットドッグの形こそが、武田が想定していたフー君の戦闘形態そのものだった。

 

 実際に見た訳じゃあない。何せ、見れる機会がないのだから。

 だから通常時のサイズから凡そのモノをシミュレーションしてどの程度になるかを想像するしかなかった。

 

 そして中野二乃が振るあれはまさに、彼が想像したナニそのものであった。

 

 馬鹿な、そんな馬鹿な! ありえない! 彼女達は既に男女の極地に至ったというのか!?

 

 混乱する武田を見て二乃は胸がすいた思いをしていた。ざまあみなさい。あんただけの特権だと思わない事ね。

 

 ハンドサインでそう返され、武田は呆然とした。

 

 彼は知らない。二乃が混浴に入ったのを見計らってそのまま突入した経験がある事を。

 彼は知らない。入ってきた二乃に誰だ、なんて聞いた癖に半裸の彼女に風太郎のフー君がきちんと反応してた事を。

 彼は知らない。自分を誰だか判断出来なかった彼に怒りながらも、きっちりとそれを目に焼き付けて後に姉妹で情報を共有した事を。

 

「……おい、お前さっきから挙動不審だが大丈夫か?」

「あ、ああ。大丈夫さ。何でもない」

 

 やはりあの姉妹は危険だ。早急に手を打つ必要がある。そうしないと彼の身に危険が及ぶ。

 自分の身を案じてくれる友に笑みを返しながら武田は改めて誓った。

 上杉風太郎を守護らねば、と。

 

 男女の戦いは京都へと続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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もしも二乃なら。

暴走機関車の二乃につられて暴走気味のフー君がイチャコラする話。


 男女間の恋愛において勝敗なんてものはあるのだろうか。

 例えば同じ異性に惚れた二人がいて片方が結ばれたのなら明確に勝者と敗者に別れるのだろうが、少なくとも男と女の間で芽生えた恋愛で勝っただの負けただのはない筈だ。互いに結ばれているのだから二人とも幸福だ。敗者などいない。

 だが、『惚れた弱み』や『好きになった方が負け』なんて言葉がある以上はやはり勝敗があるのだろう。

 そして勝者と敗者で区別するなら自分はきっと彼女に負けてしまったのだと思う。それも完膚なきまでに。

 

「んっ」

 

 唇に張りのある柔らかい感触。今日まで何度触れてきただろうか。

 最初はただ触れるだけだった。互いの唇を合わせるだけの拙い行為。

 それが回数を重ねる事にエスカレートして互いに吸うように激しくなり、最後は舌まで絡めるようになった。流石に舌を絡めるのは時と場所を選ぶが。

 しかしこの触れるだけの行為ですら、もう何度もした筈なのに未だに慣れはしない。

 体の芯から湧く熱が己の思考能力を悉く奪ってしまう。その癖、頭では否定しても体が勝手に何度も求めてしまうのだから若い肉体にとっては中毒性のあるドラックに匹敵するのではないだろうか。

 

「……二乃、仕事中だぞ」

「でも、今は休憩時間でしょ?」

「そういう問題じゃない。場所を弁えろって言ったんだ」

 

 少なくともバイト先の休憩所でするような行為じゃない。誰かに見られたらどうするんだ。

 自重するように二乃を咎めたが、彼女はまるで聞く耳を持たないと言わんばかりに風太郎の胸に顔を埋めた。

 

「ならバイトが終わったらいいの?」

「……っ」

「ふふ、楽しみにしてるわ。フー君」

「……バイトが終わったらな」

 

 腰に腕を絡めてながら自身の胸板に頬をこすりつける二乃に風太郎は朱色に染まった頬を手で隠しながら嘆息した。

 これで照れずに言っているのなら、単にからかわれているだけだと少しは冷静になれるのだが彼女自身も顔を真っ赤にして言うものだからタチが悪い。まあ、もう片方の空いた手でしっかりと彼女を抱きかかえている風太郎自身も彼女の態度に満更ではないのが。

 そもそも風太郎と二乃は頭一つ分の身長差がある。本来、立った状態だと向こうが背伸びをしようが唇まで届かないので風太郎側も少し屈まない限りキスが成立しない。つまりキスが成立するという事は互いに望んだ結果という訳で。

 

「……ったく、少しは手加減してくれ」

「お断りよ」

 

 僅かな願いも二乃の一言で打ち砕かれた。全くもってこのお姫様には敵わない。文句の一つでも言ってやろうかと思ったがあまりにも彼女が幸せそうな顔をしているので言葉を飲み込んで代わりにもう一度大きく嘆息した。

 随分と絆されたものだと自嘲する。羞恥とむずがゆさを感じながら、それでも彼女に対する愛おしさの方が上回って抱き寄せてしまうのは自分が大きく変わった証拠だろう。

 

 こんな関係になるなんて出会った時は夢にも思っていなかった。

 あれだけ馬鹿にしていた恋愛に自分が現を抜かすなんて想像出来る筈がない。おまけにその相手は家庭教師を受け持つ自身の生徒でバイト初日に薬盛って排除してくるような少女だ。

 当時の自分に一年も経たない未来には二乃とバイト先で抱き合ってキスする関係になっていると伝えても決して信じないだろう。

 彼女とはまさに最悪の出会いだった。それが今では最愛の人なのだ。人生とは実に数奇なものだと嫌でも実感する。

 

 

 二乃との関係に転機があったのは、やはりあの告白だろうか。

 生まれて初めて異性に告白されて、最初に感じたのは戸惑いだった。好きだ嫌いだの前に何故という疑問しか湧かなかったのが正直な感想だ。恋愛を馬鹿にしてた風太郎ではあったが、別に人が誰かを好きになるという感情に全く理解がない訳ではない。

 風太郎だって子どもの頃には人並みの淡い初恋をしたし、そこで人並みの苦い経験を得た。

 だけどそれはこっちから一方的に好きになっただけであって、誰かに好意を寄せられたのは全くの未知の体験だった。

 

 何故、二乃が俺なんかを……。

 

 二乃に告白されてから何度、何故と疑問を繰り返したのだろう。彼女からはむしろその逆で嫌われているものだと思っていた。

 そもそも自分は他人に好意を持たれるような人間ではないと自負している。

 風太郎は自身に対しての評価は決して高くない。勉強に関しては絶対的な自信があるが逆に言えばそれだけだ。他には何の付加価値のない男だと自覚していたし、第三者から見ても己の自己評価は概ね正しい筈だった。好かれる要素など何一つ思い当たらない。

 異性に好かれる男性像として思い浮かべるのは最近交友を深めつつあるクラスメイトのとある男子だが、自分と比べれば真逆の存在だ。

 

 そんな自身を好きだと言った二乃の言葉を風太郎はそのまま信じる事が出来なかった。

 加えて家庭教師としての立場や姉妹達との今後の関係も考えれば、素直に彼女の想いを受け入れる事など不可能だ。だから最初は二乃の告白に対して断ろうとした。

 別に二乃だから断ろうとした訳じゃない。きっと他の誰かに同じ想いを向けられたとしても同じ事をしただろう。

 それに想いを告げた二乃自身が冷静でないように思えた。きっと何か気の迷いだ。もしかしたら未だに偽りの自分の影を追って勘違いをしたのかもしれない。

 後になって彼女が後悔するよりは早期に決着を付けた方が互いの為になる。正しい判断だと信じて告白の返事を返そうした。

 

 しかし当の本人によって返事は拒絶されてしまった。

 まさかの展開に困惑した。生まれて初めて告白をされ、その返事をしようとしたら遮られた場合の対処方法など風太郎には思い付きもしなかった。

 

『覚悟していてね、フー君』

 

 風太郎に反論など許さないとばかりに次々と言葉を紡ぎ、最後には宣戦布告とも取れる言葉を耳元で囁かれた。

 思い返せば、あの時、あの言葉で既に彼女に堕ちていたのかもしれない。彼女の真っ直ぐな言葉に心臓の鼓動が馬鹿みたいに煩く、顔は風邪でも引いたかのように火照って熱かった。

 自分と同い年の男女が恋だ愛だに浮かれる気持ちが少しは分かった気がする。冷静になれる筈がない。達観して判断できる筈がない。迸る情愛に箍を付けるなど不可能だ。

 その後、宣言通りに彼女は事あるごとに自分がいかに風太郎を愛しているかを語り時には行動で示した。学校だろうとバイト先であろうとお構いなしに。

 彼女の告白を断ろうとした風太郎も一応は抵抗を試みた。けれどダメだった。あの暴走機関車を止める術など持ち合わせていなかったのだ。

 

 いつからだろう。一緒にバイトをする中で彼女の姿を自然と視線で追うようになったのは。

 いつからだろう。熱の籠った独特な呼び名に文句を言わずに受け入れるようになったのは。

 いつからだろう。バイトの帰り道で手を繋ごうとしてくる彼女を受け入れてしまったのは。

 

 何度も一直線に想いをぶつけてくる二乃にとうとう根気負けした。

 鉄の意志と鋼の強さを持って彼女達姉妹を異性として決して見ようとはしてこなかった風太郎であったが、彼も男だ。何度も好きだと言われたら嫌でも意識するし、何度も情熱を伝えられたらその熱が自身にも移る。

 気付けば毎日のように二乃の事を頭に思い浮かべている自分がいた。そして思い知らされたのだ。負けた、と。何処か清々しさすらある敗北感を味わいながら風太郎はいつの間にか芽生えた二乃への好意を自覚した。

 だが、それでも最初は素直に彼女の想いに応えることは出来なかった。

 やはり自分には彼女達の家庭教師という立場があるし、最近では彼女達の父親に紳士的な関係をするよう釘を刺されている。だからある日、いつものバイトの帰りに彼女を呼び出して二度目の返事をした。

 

 ───俺もお前と同じ気持ちだ。だがお前達が無事に卒業するまでは待って欲しい。

 

 自分の中で最大限、譲歩した答えのつもりだった。彼女の行為を無碍にするつもりなど毛頭ない。卒業さえすれば幾らでも彼女に時間を費やそうと思っていた。散々、返事を待たせたのだ。それくらいは道理だろうと覚悟はしていたつもりだ。

 しかし、またしても二乃は風太郎の想像を超えた。彼女はいつだって己の斜め上を征く。

 

 ───待って欲しい? 嫌よ。待たないわ。ううん、違う。私じゃなくてフー君が待てないようにしてあげる。

 

 そう宣言して彼女は押し倒しながら己の唇を奪った。何処かクリームのような甘い味と彼女がいつも付けている柑橘系の香水の香りが鼻孔を擽った。

 一瞬にも永遠にも感じた彼女との口付け。息の続く限り押し当てられた張りのある感触に風太郎はデジャヴを感じた。

 あの日だ。生まれて初めて異性とキスをした家族旅行の最終日。鐘の音色が脳裏に蘇る。キスをしたのは人生で二度目だが、まさか二度とも相手から強引に迫られる形でするとは思わなかった。

 しかも相手から押し倒されてるような、全く同じ体勢で。

 後になって判明したが一度目の相手も二乃の仕業だった。結局何も成果も残せないまま旅行が終わる事を癪に感じた彼女は激情に身を任せてキスしたらしい。

 だが、勢いでした後に冷静になって初めてのキスを五月に変装した状態で行った事を後悔し、あれは彼女の中ではノーカンという扱いになったそうだ。それを聞いた風太郎は姉妹を初めて異性として感じたあれをノーカン扱いされて正直複雑な気分ではあったが、同時に二乃らしいと苦笑した。こと恋愛事情に関しては彼女には敵わないと思い知らされた。

 

「ねえ、フー君」

「なんだ?」

 

 バイトが終わりいつものように手を繋ぎながらの帰路。二乃との関係の経緯を懐かしんでいた風太郎だったが隣で歩いていた彼女にくいと手を引かれた。立ち止まって顔を伺うと何故か不機嫌そうだ。

 

「そろそろ私に言う事があるんじゃない?」

 

 姉妹共有のムッと頬を膨らませた表情。前まではこれを目にすると決まって厄介事が起きる予兆としてうんざりしていたが、今ではそんな表情も可愛らしく思うのだから不思議なものだ。この関係になって気付いたが二乃はコロコロと表情を変える。嬉しい時は笑うし不機嫌な時は今のように頬を膨らませるし恥ずかしがる時は頬を紅く染める。自分に素直な女の子だ。そんな表裏のないところも彼女に惹かれた要素の一つだ。真っ直ぐと想いを寄せられたからこそ失っていた思春期と共に恋を思い出したのだろう。

 

 ……いや、今は惚気ている場合ではない。二乃が不機嫌な原因を解明しなければ。また何かしてしまったのだろうか。

 二乃曰く、フー君って頭はいいけど恋愛に関しては欠点スレスレの問題児だわ、とのことだ。

こちらの何気ない言動で機嫌を損ねてしまった回数は既に両手では数え切れない。それはこの関係になる前からもそうなのだが改善はするべきなのだろう。

 以前も僅かな髪の変化やマニキュアを塗った爪、自作のフー君抱き枕など彼女はそれを褒めて欲しいと愚痴を溢された。しかしどう褒めればいいのか分からなかった。周りの人間に興味を示さなかったせいで見た目の変化に疎いし、自分の顔と思わしきイラストが刺繍された枕を見せられてどう反応すればいいと言うのか。

 悩んだ挙句、二乃の見た目ではなく中身の惹かれた旨を伝えてそこを褒め称えた。

 すると二乃は顔を真っ赤にして以後は見た目の変化に特別言及しなくても機嫌を損ねなくなったのだが、今日はどうやら別の件らしい。

 

「……あーその、あれか? 休憩時間に言ってたバイトが終わってからの」

「それはさっきフー君の方からキスしてくれたじゃない」

 

 バイト先の休憩所でキスをするのを咎めたが、それ以外の場所であるのなら特に言及はしない。むしろ求められたのなら何だかんだ文句を言いつつもその場で応えてしまう程度には二乃に毒されているのが現状だ。

 先ほどもバイトが終わって直ぐに店の前で彼女にせがまれ唇を落としたのだが、それを血の涙を流さんとばかりに表情を歪めた店長に見られて逃げてきたところだ。

 

「じゃあ今度の休日の事か?」

「フー君の服を買いに行くって言ったでしょ。また私があんたにぴったりな服を選んであげるわ」

「そうだったな。よろしく頼む」 

「うん、任せて! ……って、本当に分からない?」

「いや、待て。もう少し考えさせてくれ」

 

 今度は頬を膨らませるのを止めてしゅんと落ち込んだような表情を見せた。

 さすがの風太郎も二乃の反応に肝が冷えた。彼女とこの関係になってからも怒られるのは日常茶飯事だし口喧嘩もよくするのだが、落ち込まれるのが一番反応に困るのだ。

 必死に灰色の脳を回転させてはみるが答えにはたどり着かない。それに見かねたのか二乃は大きく溜息しながら助け舟を出してくれた。

 

「……しょうがないわね。ヒントをあげるわ」

「た、助かる」

「フー君は私に一つ言い忘れている事があるの」

「言い忘れていること……?」

「ええそうよ。それも、とっても大事なこと」

「大事な……」

 

 せっかく与えられた温情だ。これで答えに辿り着かなければ間違いなく一週間は不機嫌なままになる。ヒントを頼りに風太郎は記憶の糸を手繰り寄せた。

 最近は毎日作ってくれている弁当への感謝の言葉だろうか。いや受け取る時にいつも礼を言っているしそれではないだろう。

 では、バイトで二乃の指導のお陰で厨房を任されるようになった事についての礼だろうか。それも彼女の方から互いにフォローする関係なのだからお礼は要らないと言われている。とは言え、それでも感謝の気持ちは行動と言葉で返してはいる。

 

「もうっ、ヒントその二をあげるわ」

「……すまん」

「私達の関係についてよ」

 

 自分達の関係。そこに答えがある。となるとまずは自分と彼女の関係が何かという事を確認しなければならない。

 上杉風太郎と中野二乃の関係の始まりは家庭教師と生徒だ。それは現在でも継続している。最近では自分と彼女は世間一般でいう恋人同士、という関係に昇華したばかりだ。

 二乃が指す関係というのはこの恋人同士の事だろう。それについて大事なことを言っていないらしい。

 恋人同士で大事なこと。ダメだ。全く心当たりがない。次のデートの取り決めもしているし、普段も他の姉妹からキレ気味に茶化される程度には恋人らしいやり取りをしているつもりだ。現状は何も問題がない筈。

 

 現状は……?

 ふと、引っ掛かりを覚えた。もしかすると彼女は今の事ではなく未来の事を指摘しているのだろうか。恋人同士の更に先にある関係を。

 確かに今は恋人同士ではあるのだが、その先を風太郎は考えた事もなかった。あれで二乃は夢見る乙女だ。そこまで見据えている可能性は十分にある。

 バイトをしてる時も"いつか自分のお店を持ってフー君と一緒に厨房に立ちたいわ"なんて事を冗談混じりに話していた記憶がある。あれは冗談などではなく本気だったという事か。

 

 いや、待て。それは幾ら何でも早すぎる。これから将来を共にする取り組めをしようだなんて。

 自分達はまだ高校生だ。しかも付き合っているとはいえまだ数か月。出会って一年も経っていない。それに付き合っている事をあの中野父には未だに内緒にしている状態である。今でもバレたら家庭教師をクビにされるだろうにその先を黙って決めれば物理的にもクビを飛ばされかねない。

 

 しかし、しかしだ。二乃は本気だ。マジなのだ。彼女は暴走機関車だ。それを本気で考えているのなら止める術はないのだろう。

 それにこの前に買った恋愛ブックにも書いてあったのだ。”女の子の覚悟を受け止めるのが男”だと。

 二乃は覚悟をしてきている。それを受け止めるのが男の役割。ならばこちらも腹を括るしかない。

 

「分かったぞ、二乃」

「ようやく分かってくれたのね」

「ああ、だが少し早過ぎるとは思うんだが……」

「私からすれば遅すぎるくらいよ」

「そうか……なら待たせちまったな」

「うん……」

 

 二乃の言葉で自分の推理は正しかったのだと確信した。彼女が見ているのは未来だ。今じゃない。ならば俺も明日が欲しい。

 マルオがなんだ。クビを刎ねられる前にまたバイクで二乃を乗せて逃げればいい。

 意を決して風太郎は二乃の瞳を見つめて口を開いた。

 

「結婚しよう、二乃」

「ッ!!」

 

 後日、二乃が本当に欲していたのは"愛している"という言葉だと判明し風太郎は大恥をかいた。

 しかし二乃がその場で風太郎のプロポーズを即決したお蔭で二人は将来を約束し、怒りのマルオとカーチェイスをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




恋愛科目欠点のフー君ならこんな暴走もしそうという妄想でした。


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「フー君にバブみを感じてオギャる……最高に尊いわ!」

ファザコンでマザコンでシスコンでツンデレの睡眠薬盛ってくる属性マシマシ次女と愉快な姉妹達。


 『父』とは何だろうか。

 そんな漠然とした疑問を子供の頃から何度も抱いた。『父』という存在、定義、その在り方について。厳しくも優しい大好きな母が亡くなってからより一層、二乃は『父』について考えるようになった。

 二乃には二人の『父』がいた。蒸発した実父と、家に全く帰ってこない今の父親。

 二人の『父』が共通しているのは自分の傍にいないという事だ。

 もちろん、今の父には感謝をしている。大事な姉妹達と五人一緒に何不自由なく暮らせるのも彼のお陰だ。それに関しては頭が上がらない。

 けれど、いくら感謝をしても思ってしまうのだ。何故、『父』なのに傍にいないのかと。

 家族なのに。親なのに。どうして……。

 幼い時から感じていた不満と不安は膨らみ続け、二乃は『父』としての愛情を無意識の内に姉妹達の誰よりも求めるようになっていた。

 

 ずっと傍にいてくれる人を。暖かく見守ってくれる人を。優しく頭を撫で安堵を与えてくれる人を。

 そんな中で出会い、ぶつかり合い、理解し、惹かれたのが中野姉妹専属家庭教師である上杉風太郎であった。

 最悪のファーストコンタクトから始まった人生最大の大恋愛。恋敵は同じ血を分けた姉妹、相手は恋愛のれの字すら知らないような難攻不落の城塞。波乱万丈の恋愛劇の始まりだ。

 仲良し五つ子の絆すらも皹が入りかけたのは記憶に新しい。時に涙し、時に怒り、そして最後に笑い、彼を巡る姉妹間の争いは修学旅行で一応は終戦を迎えた。

 時は経ち、とうとうあの四女と五女も参戦し、今では彼の事について姉妹間で仲睦まじく語り合うようになっていた。

 

 そんなとある日の午後であった。

 

「フー君にバブみを感じてオギャる……最高に尊いわ!」

 

 恍惚とした表情を浮かべ両手を頬に添えながら発した次女の奇妙な発言に他の姉妹四人は相応の反応を見せた。

 長女はなるほどと興味深そうに頷き、三女はポーカーフェイスを保ちながら次女の説明を促し、四女は笑顔を浮かべながらも内心ドン引きし、五女はモグモグとアンパンを頬張りながら静観していた。

 

「えっと、二乃」

「なにかしら? 四葉」

「その、説明してもらってもいいかな? 上杉さんに何を感じるって」

「バブみよ」

「……ば、バブみ」

「ええ。フー君にバブみを感じてオギャるのよ」

「……汚ギャル」

 

 この姉は一体、何を言っているのだろうか。四葉にはてんで理解出来なかった。

 まずバブみという概念が分からない。あのよくCMでやっている炭酸入浴剤の事だろうか。

 次に汚ギャル……これは確か聞いた事がある。この前テレビで見た数十年前に渋谷で流行ったとされるルーズソックスを穿いて肌を黒く焼いた不衛生な女子高生の事だ。

 四葉の脳内で炭酸入浴剤の入った浴槽に風太郎と肌を焼いたギャルっぽい格好をした二乃が仲良く一緒に浸かる様が浮かび上がったが余計に混乱を招いた。

 

「フー君っていつも私達の傍にいてくれるでしょ?」

「え? う、うん。上杉さんは私達の家庭教師でお友達だからね」

「それにずっと見守ってくれてるわ」

「私達の夢を卒業までに見つけるって言ってくれたもんね」

「あと掴んでろって何度も私の手を取ってくれるの。花火大会の時も、川で溺れそうになった時も、一緒にバイクに乗ってくれた時も」

「へぇ……それは初耳だよ」

「つまり私のパパよ」

 

 何がつまりなのだろう。何をどう繋げば風太郎が父になるのか。

 四葉の疑問などお構いなしに興奮した二乃の『上杉風太郎=パパ説』のプレゼンを続けた。

 二乃曰く、父とは常に子の傍に居て見守り時に手を差し伸ばしてくれる存在である、と。

 それは即ち我らが家庭教師、上杉風太郎その人であると己の経験から導き出したのだ。

 なるほど。つまり風太郎に父性を感じるという事か。それならまだ理解できなくもない。

 今まで姉妹全員が共通してこんなにも親しく、近くにいた男性など家族以外では彼が初めてだ。そんな彼に家族として欲していた不足した部分を求めてしまうのは仕方ない事かもしれない。特に姉妹で一番、家族への愛情が強い二乃は。

 

「実はこの前ね、フー君と一緒にバイトしてた時なんだけど、私その時は疲れちゃって休憩室でついうたた寝しちゃったの。でもねフー君ったら優しいのよ。私が寝ちゃった時に自分の上着を被せてくれて」

 

 急に惚気話が始まって明らかに部屋の温度が下がったように感じた。他の姉妹達からの無言の圧だ。長女は露骨に舌打ちを、三女は早く結論を言えと催促するように大きな溜息を、五女はモグモグと新たにメロンパンに手を付けながら次女を睨む。

 無論、己の想いに蓋をするのを辞めた四女も例外ではない。気付けば手に持っていたカフェオレの入ったマグカップを粉砕していた。

 そんなのは知ったことかと彼女のマシンガントークは止まらない。

 

「それで目が覚めた時にたまたま目の前にフー君の顔があったの。私、その時は寝ぼけてたみたいで、思わず『パパ』って呼んじゃったのよ」

 

 うわぁ、と三玖がドン引きするような声を漏らした。声だけではない。体も少し後退っている。四葉もちょっと引いてしまった。

 

「ふふ、そしたらフー君、なんて言ったと思う?」

「そういうのいいから」

「早く答えてよ二乃」

「……もぐもぐ、ごくん」

 

 勿体ぶるように二乃が姉妹達に視線を這わせる。更に部屋の温度が下がった。

 これはいけない。ここは姉である自分がこの空気を変えるべきだ。

 はい、と姉妹達を代表して一花が手を上げ回答を口にした。彼がなんて言ったなんて簡単に想像できる。ここは女優らしく少し彼の声を真似て答えてあげようと一花は気合いを入れた。

 

「『俺は何時からお前のパパになったんだ? 寝坊助にはお仕置きが必要だな一花』」

「そ、そんなお仕置きなんて……な、何をされるのかな」

「『決まってるだろ。"いつもの"だ。そら、早く壁に手をついてケツ向けろ』」

「い、いや、フータロー君……」

「『いやぁ? こっちは嫌がってないようだがな』」

「そ、それは…ッ!? あッ! 駄目……」

 

 長女が己の性癖を混ぜ合わせながら女優として培った技能をフルに活かして風太郎の声真似をしながらして答えたが妹達はそれを華麗にスルー。

 修学旅行以降、良くも悪くも吹っ切れた彼女はこうして姉妹で風太郎のことを話している時に急に一花ワールドを発動させて一花の一花による一花の為の劇団一花をゲリラ公演するようになったが、今では慣れた光景だ。暫くは放置しても構わないだろう。

 何事もなかったかのように二乃は続けた。

 

「フー君、私の頭を撫でながら優しく名前を呼んでくれたの! きゃー!」

「きゃー!!」

 

 感極まった次女が奇声を挙げると同時にメロンパンを食い終えた五女も奇声を放った。

 なんだこいつらは。常識人枠である三玖と四葉は互いの肩を抱いて姉と妹の奇行に震え怯えた。

 

「もうあの時からフー君は私の第三のパパ、心のパパになったのよ。あの眼、間違ってパパって呼んだのにそれを咎めずに仕方ないなって笑うフー君の眼ッ! もう凄いわ! ヤバいわ! ずっとあの眼に見守って欲しい! あの眼でよくやったなって褒めて欲しいの!」

「分かります! 分かりますよ二乃!」

「あら、五月も?」

「はい! そもそも最初に私が上杉君に直接父になるって言われましたからね。私が先ですよ?」

「は?」

「何か?」

 

 やはり二人の言葉が理解出来ない。ツンデレや真面目を拗らせると頭がおかしくなるのだろうか。それに何故か同じ異常性癖なのに何故かいがみ合っているから理解に苦しむ。

 他の姉妹も困惑しているだろう。そう思って姉妹の様子を眺めた四葉であったが……。

 

「フータロー君にバブみは感じないかなぁ。私はオギャるよりもギャン泣きしたいかな。泣かされたいというか、お尻を叩かれたいというか……なんか二乃のとは違うんだよね」

「……ギャン泣き」

 

 どうやら今日の劇団一花は閉幕したらしい。今度は長女の口から理解不能な言語が出てきた。またしても四葉は混乱した。

 なんだ。ギャン泣きって。

 ギャンという単語からアニメを良く見る四葉が想像できるのはツィマッド社が開発した試作機くらいだ。ビームサーベルと盾、その盾に誘爆しそうなミサイルを積んでいる意味の分からない機体だ。そのギャンが泣くのか。盾に積んだミサイルが誘爆して泣くのではなく、お尻を叩かれて。

 ギャンに搭乗した一花がビームサーベルで尻を叩かれて泣く様を想像したが意味が分からなさ過ぎて首を振って消した。

 

「なに言っているのよ。娘を泣かせる父はいないわ!」

「分かってないなぁ二乃は。一度はフータロー君に言葉責めされてみたらきっと分かるから。そしたら絶対にお姉さんと同じ扉を開けるよ」

「ふん。そんな扉、開きたくもないわ。四葉、あんたはどう思う?」

「四葉もお姉さんみたいにフータロー君に泣かされたいよね? ギャン泣きしたいよね?」

「違うわよ。フー君は私のパパになってくれる男なのよ。そうでしょ? 四葉。あんたもフー君にバブみを感じるでしょ? 四葉はフー君にどう興奮するの?」

 

 何故かヒートアップする二人にあわあわと四葉は震えた。

 これは自分の答え次第では更に荒れそうだ。せっかく今日は一花が仕事の合間を縫ってわざわざ帰ってきているのに台無しだ。

 もっと平穏に風太郎の事を語りたいと言うのに。仕方ない。ここは正直に答えて一度、話を戻そう。

 

「え? いや普通に上杉さんが他の女の子に取られてから寝取り返してイチャイチャしたいだけだよ」

 

 うわぁと他の四人からドン引きされた。

 失礼だなと、四葉は憤りを感じた。三玖はともかくファザコンのマゾヒストの変態には言われたくない。

 

「たとえば三玖」

「……なに?」

「上杉さんがクラスのあの子、ほら、前髪ぱっつんの子いるでしょ?」

「フータローにベタベタしてきたあの女生徒……」

「あの子が目の前で上杉さんとキスしてたらどう思う?」

「ッ!」

 

 じわりと三玖の瞳が涙で濡れていくのが目に見えて分かった。

 因みに他の三人はじわりと下着を濡らした。どうやら見境のない性癖らしい。姉妹全員共通して上杉風太郎に対してはドМなのだ。他人に取られるのもオカズとしては十分にアリなのである。

 しかしこの時点で興奮してはダメだ。三流だ。三下だ。一流の美学というのものを理解していない。

 彼女達は今、妄想の中で風太郎を寝取られたに過ぎないが四葉は違う。忘れもしない六年前の京都での彼との出会い。出会ってその日に大好きな彼を姉にリアルで寝取られたのだ。

 薄っぺらな噓を吐きガムとゴムの性質を持った粘着性のある愛情を抱きトランプが大好きなあの姉に。

 あの絶望感、あの喪失感、あの失望感はそうそう味わえない。もしもこれであのまま彼が姉と結ばれ、結婚式で姉に『四葉の敗因は思い出(メモリー)のムダ使い♡』なんて煽られた日にはその場で憤死しただろう。

 普通なら発狂しかねないその負の感情を四葉は性癖に変換する事で何とか耐え忍ぶ事が出来たのだ。

 

 『一度は寝取らせてから、その様を見て怒りと興奮を溜め込み、その後寝取り返して一気に欲望を放出する』

 

 一発大逆転のカウンター型性癖。ただの寝取られ厨と一緒にする事なかれ。

 やられたらやり返す。倍返しだ。それが四葉の生み出した性癖であった。

 青い果実を取るのではなく熟した甘い果実を頬張るのだ。可愛い子には旅をさせよ、みたいなものである。私の風太郎君を敢えて、他の女で汚させ最後に己が体で綺麗に拭き取る。その瞬間が最高のエクスタシーになるのだ。

 誰を愛そうがどんなに汚れようがかまわぬ。最後にこの四葉の横におればよい。

 覇者にしか許されない絶対で究極の性癖。それを下品なマゾヒストやファザコン共と一緒にされては困る。

 これはただ寝取られに興奮するだけではダメなのだ。彼を他者に取られる事に関して強い拒絶感を持って初めて成し得る。

 そう。つまりは興奮している三人よりも涙目で嫌がる彼女の方が───。

 

「三玖」

「……なに?」

「三玖は素質あるよ」

 

 親指を立てながら新たに同士と成り得る姉にエールを送ったが、その後暫くは口を聞いてもらえなかった。

 しかし四葉の見込みは正しかったようで、三玖と共に『風太郎君を寝取られた後に寝取りたい』同盟が結成された。

 

 




真面目なSS書いてると溜まるので発散しました。


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お義姉ちゃん育成計画。

らいはちゃんが少しブラコンだった場合。


 上杉らいはには生まれてからずっと自分を溺愛してくれる兄がいた。いついかなる時も妹を優先し、妹を愛し、妹に尽くしてくれる優しい最愛の兄。

 体が弱く体調をよく崩していた幼い時はいつも自分の手を握って一緒に寝てくれた。彼が青春を擲って学業に励むのも貧しい家庭の為だ。少しでも妹の自分に楽をさせようと、身を扮してくれているのだ。

 らいはもそんな兄の為に尽くそうと思った。要は恩返しだ。優しい兄への、不器用な兄への感謝として。

 その第一歩として彼の身の回りの世話を始めた。料理、洗濯、掃除と家の家事を最初は兄と共にしていたが体が成長するに連れてその役割を全て自分が担当するようになり、また彼の身嗜みもらいはが整えて上げるようになった。

 らいはが物心つく頃には既に勉強おばけだった兄は身嗜みに関しては全くの無頓着だ。私服は殆ど古着でお金が勿体無いからと散髪代までケチるほどの筋金入りである。見かねたらいはは兄の散髪を自分がすると申し出た。

 せめて髪くらいは私が整えてあげよう。そう思い立ったのだ。

 当然ただの子どもが床屋のように上手く散髪出来る筈もなく、完成したのは可笑しな髪型だった。

 出来上がったそれに唖然としながら慌てて兄に謝ろうとしたらいはであったが、兄は特に気にした様子を見せず優しく自分の頭を撫でてくれた。ありがとな、と笑みを添えて。

 あの時、らいはは己が胸の鼓動が高鳴ったのを自覚した。

 それから兄は自分に散髪を頼むようになり、らいはは喜んで兄の髪を切っていった。

 しかしながらあの妙な髪型、兄は気にしていないが切る側はやはり気にするものだ。大好きな兄には少しでも格好良くなって欲しい。そう願ってらいははある日、思い切って普段とは違う髪型に挑戦してみた。

 

 その結果、思った以上に格好よく仕上がった。想像以上だ。まさに奇跡の出来栄え。友達の家でしか見た事のないテレビに映っていたアイドルとかがこんな感じの髪型だ。

 もう一度再現しろと言われたら少し難しいかもしれないが、今度からはこんな感じの髪型を目指していこう。

 やや興奮気味に兄にも感想を聞いたが、帰ってきたのはいつもの感謝と笑みだった。まあ、あまり期待はしてなかった。彼がこういう変化に疎いのは判っている。多少いつもより前髪の長さが違うな、程度にしか思っていないのだろう。それでいい。らいはにとっては兄の見た目が格好よくなっただけでも十分なのだから。

 ささやかな幸福感を胸に抱きながら、その日は床に就いた。

 

 翌日、洗い物をしながら兄が有象無象の女共に囲まれたという話を聞いてらいはは持っていた皿を落としかけた。

 

 妹の自分が言うのも何だが兄は顔に関しては整っている。めちゃくちゃ整っている。髪型込みで地味な顔だと酷評する面食いの女がいたとして、その髪型をちょっと変えるだけでその女がくるりと掌を返す程度にはイケメンなのだ。鋭い眼光と甘いマスク。VRMMORPGで無双しながらハーレムを築きそうな特徴的な声。絵本から飛び出た王子様なのだ我が兄は。

 そんな兄の輝く貌をあの髪型と他人に対して無関心で口を開けば辛辣な言葉が飛び出る内面性の屑さで相殺して地味な男として位置付けていた。

 それが髪型が変わった事によって均衡が崩壊したのだろう。他人に対する興味の無さや口の悪さなどイケメンがやれば魅力を引き立てるスパイスにしかならないし、友達がいないぼっちも言い方を変えれば孤高だ。お砂糖、スパイス、素敵な物をいっぱい混ぜたらめっちゃ可愛い女の子ができるように、イケメン、毒舌、孤高を混ぜればあっという間に少女漫画や乙女ゲーに出てくるような俺様系キャラが出来上がる。

 しかも兄はナチュラルに気障で若干ナルシストである。見た目だけではなく中身も乙女心を擽る。おまけに完璧超人と思わせておいて体力がないという可愛らしい弱みまで完備だ。強気な男の弱い部分に女は弱いのだ。

 嵌る女は嵌る。あれは沼だ。底無し沼の如く嵌る。そりゃあ女に囲まれるだろう。マスクを外して常にフェイスフラッシュを展開した無敵モードだ。倫理的に無理でなければ真っ先に自分が兄をぺろりと頂いていただろう。

 

 これはいけない。らいはこの状況に危惧した。

 あの兄が顔だけで寄ってきたそこらの下らない発情した雌に現を抜かすなどあり得はしないだろうが、万が一という可能性もある。あのあるかないのか分からない兄の性欲が爆発して雌共に食われてしまう可能性がないとは言い切れないのだ。

 下賤共に大事な兄をくれてやる訳にはいかない。そんな奴に食われるくらいなら倫理を放棄して自ら兄を頂戴する。

 その日、らいはは断腸の思いで昨日の髪型を封印することを決心した。あれは真に兄と、そして自分が認めた女性が現れる日まで人の目に晒してはならない。

 強大な力は人を惑わす。女の人はよく見極めて慎重に選ばなければならない。

 

 ───お義姉ちゃんになる人は私がしっかりと見極めるから。だから安心してね、お兄ちゃん。

 

 この日から、らいはは兄に相応しい女性を見極める盾になる事を決意した。

 後に『らいはカット』と呼ばれるようになる彼の特異な髪型はいかに兄の顔を目立たなくできるかと研究と研鑽を続けた妹の影の努力の結晶である。

 『カット』するのは兄の髪の毛だけではない。顔だけで兄にホイホイ近付く愚かな羽虫どもを遮断(カット)するためのファイアウォールなのだ。このフィルターを通り抜ける事ができて始めてスタート地点なのである。

 これで当分は兄に近付く愚か者はいなくなる。そう胸を撫で下ろした。

 

 しかし、何時の時代も障壁というのは乗り越える猛者が現れるのが常である。

 月日は流れ、兄の元に五人の少女が集った。顔も声も体も同じ世にも珍しい五つ子の少女達。

 美しく、可愛らしく、お金持ち。しかしながら全員が曲者であるとらいはは初見で既に見破っていた。

 

 ───彼女達は今までと"何か"が違う。

 

 出会った時に何かこう宿命のようなものを姉妹に感じ取っていた。そしてらいはの予感は見事に的中した。

 気付けば彼女達五人全員がただの世間知らずのお嬢様から兄を欲する"女"へと仕上がっていたのだ。

 流石は我が兄。五つ子全員を一年で全て堕とすなんて。兄の無自覚な誑しっぷりを畏怖しながらも、らいはは姉妹の存在を強く受け止めた。

 らいはカットの兄を受け入れそれでもなお兄を求め進み続けた人達だ。面構えが違う。かつて兄を囲んだ有象無象の雌とは一線を画している。喩えるならば獣。気高く飢えた獣だ。

 らいはも彼女達に見込みがあると思い姉妹の内の一人と慎重に交流を図りながらも彼女達を見定めてきたが、まさかここまでとは。

 しかも五人が全員狡猾なのだ。勉強の出来はアレらしいが、少なくとも恋愛に関しては賢しい。

 まず真っ先に彼の大事な家族であり、溺愛するこの自分を狙ってきたのだ。『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』とはよく云ったものである。彼女達は兄を堕とすのに何が必要なのか心得ている。

 そうだ。兄を射止めるには妹であるこの私の許可がいる。

 今日も中野姉妹に誘われて男子禁制の微笑ましい女子会……という名の誰が兄に相応しいかを見定めるプレゼンが中野家で行われていた。

 

「お邪魔します! 一花さん、二乃さん、三玖さん、四葉さん、五月さん!」

「あ、いらっしゃい。らいはちゃん」

「よく来たわね。お茶用意するわ」

「今日はくつろいでいってね」

「らいはちゃん!」

「こんにちは、らいはちゃん」

 

 玄関口で姉妹全員が出迎えてくれた。四葉に至っては熱い抱擁まで添えてだ。バカでかいリボンとバカでかい胸を押し付けられもみくちゃにされながらも、らいはは姉妹に笑顔を向けた。

 きっとこの中から兄と添い遂げる人が出てくる。そういう確信がらいはにはあった。

 中野姉妹は特別だ。それは容姿やお金持ちのお嬢様だから、という訳ではなく兄を大きく変えてくれた人達だからだ。彼女達と過ごす兄を見るとやはり違うのだ。彼女達に向ける笑みが。

 本当に楽しそうで、本当に嬉しそうにで、それでいて本人はまだ自覚していないが、きっと彼女達を愛しているに違いない。

 兄本人から好感的で妹であるらいはからもフィルターを潜り抜けた彼女達は十分に資格があると思っている。

 だからこそ、見極めなければならない。彼女達の中から選ばれるであろうたった一人を。

 

「あっ、らいはちゃん。この前はご馳走様でした。とっても美味しかったです!」

「良かったぁ。五月さんに喜んでもらえて」

「あのカレー、いつもと味が違ったように思えますが何か味付けを変えたのですか?」

「ふふふ、それは秘密ですっ」

「むむ、なら次に戴いた時はかならず隠し味の正体を明かしてみせます!」

 

 開口一番、まず小手調べと言った具合に五女が先制パンチを姉達にお見舞いした。

 恐ろしい。彼女はわざと姉妹の目の前で己が上杉家に入り浸っている事をアピールしたのだ。

 

 "どうですか? 私達の仲の良さは。上杉君と一番親しく家族ぐるみの付き合いをしているのは私ですっ!"

 

 言葉にはしていないが、先の会話にはそんな意味合いが込められていたに違いない。

 どうやら五月が放ったジャブが効いているようで、姉達は眉をひくつかせていた。

 

 中野五月。転校して最初に兄と出会い、そして姉妹で最後に兄に惚れた少女。その胃にブラックホールを飼うアホ毛という名の角を生やした可能性の獣。

 彼女が己が好意を自覚してから行動に移すまでは実に鮮やかだった。己が兄に好意を抱いてたと知るや否や、この上杉家によく入り浸るようになったのだ。

 三日に一回帰ればそこに五女がいる。最初は兄も困惑していたが彼女は己が生徒であるという立場を存分に活かし勉強を教えて欲しいという大義名分で上杉家に通うようになった。

 兄がケーキ屋のバイトがない時なんかは一緒に帰ってきて家で勉強する日もある。そのまま夕食を共にし、食器を洗って兄が彼女を見送るのがもはや日常の一部となってきている。まさに通い妻状態。

 上杉家四人目の家族と言っても過言ではないだろう。父に至っては彼女が兄の嫁になると信じて疑っておらずこの前も家の合鍵を彼女に授けていた。この事は勿論、兄は知らない。気付かぬ間に囲いが出来あがりつつあるのである。

 上杉家特性カレーを美味しそうに平らげる姿はらいはも胸を打たれた。何というか過保護になるのだ彼女を相手だと。それが彼女の、中野五月の強さだ。

 

 ───しかしこの五女が独走状態かと問われたら首を横に振らざる得ない。

 

「らいはちゃん、風太郎君は今日も相変わらずお勉強をしてたのかな?」

 

 五女の攻撃に黙っていないのが四女の四葉だ。

 彼女が発した言葉は他人からすれば何の変哲もない会話だろう。だが、事情を知る者が聞けばそこに込められた意味を読み取れるようになる。

 今の言葉は上杉らいはに向けられたものではない。他の姉妹への牽制として張られた弾幕なのだ。

 敢えて口調を変え彼との間にある唯一無二の関係性を強調する事によって他の姉妹を"判らせた"。

 

 "まさか忘れてない? 私が風太郎君と一番最初に会ったんだよ。一番理解しているのも、一番支えたのも、一番愛しているのも私。みんなとは過ごしてきたレベルが違うよ"

 

 四女から発せられるプレッシャーが他の姉妹を圧倒する。強い。ただ単純に強いのだ。彼女は。剛の愛を持っている。

 中野四葉。実は兄と一番最初に出会っていた始まりの少女。たった半日程度の付き合いで兄に惚れたという三女もビックリのチョロさでありながら、再会してからも兄を想い続けた現代社会に現れたビアンカとはこの人である。

 想いが重いのは姉妹共通だがその中でも特に重いのが彼女だ。

 らいはが聞いた話によると最初は兄への想いを過去のとある出来事から諦めていたのだが、それを振り切り今では好意全開ラブ度天元突破風太郎君しゅきしゅきだいしゅきデカリボンに変貌したのだ。

 今まで己の感情に栓をしていた事もあり、感情に抑えが効かないらしい……らしいが、らいはにはそれが俄かに信じ難い。

 第三者のらいはから見ても四葉が兄に対する好意を隠す気などサラサラなかったように思える。あれで抑えていたというのが驚きだ。普通、好きでもない異性の頬に着いたクリームを舐め取りはしないだろうと正月の出来事を思い浮かべた。

 

 しかし、ある意味で一番危うい存在である。なまじ常人離れした身体能力を有しているせいで実力行使で兄を手にしようとすれば誰も止められないのが厄介な強化系である。

 状態異常攻撃が得意な具現化系の次女と搦め手を得意とする変化系の長女が組めば仕留める事は可能かもしれないが、そもそもその二人も厄介な女なのでらいはからすれば悩みの種である。

 果たして彼女は兄に相応しいのだろうか。頭を悩ますらいはであったが、思考する暇もなく今度は別の姉妹が声があげた。

 

「フータローはきっとデートの準備に忙しいんだよ。明日、私と約束しているから」

 

 四葉が展開していた弾幕を無理矢理こじ開けた。爆弾を投下したのは中野家が三女。天下第一天上天下無双。

 中野三玖。彼女の攻略スタイルは『王道』だ。搦め手を用いず、兄との深い過去の思い出もなく、ただある"今"と"明日"を求めて突き進む絶対王者。

 先の発言もブラフなどではなく事実なのだろう。兄がそれをデートと認識しているかどうかは別として既に一緒に出掛ける予定を組み込んでいるのだ。王道、故に強い。故に無敵。だからこそ長女は恐れ邪の道へと走ったのだ。

 まさにキング。キングオブナカノ。最初からキングが全力でかかれば一瞬だ。キングのラブコメはエンターテインメントでなければならない。故に他の姉妹が全て参戦してから全て蹴散らす算段なのだ。

 妹のらいはから見ても三玖は候補としてかなり強力だ。苦手な料理も克服しつつあり、勉強面も姉妹基準で言えばトップに君臨し、その内気な性格も兄のお陰で改善された。

 欠点を挙げるなら体力面であるが、そこは兄も同じなので問題はない。一人で家事がこなせないというのなら、妹であるらいはが一緒に兄夫婦と一緒に住んで手伝えばいいし、夜の営みが体力的にキツイなら自分が変わればオールオッケーだ。

 何も問題はない。むしろ変われ。お兄ちゃんは私のだ。そのキングの座を私に寄越せ。そのまま元キングとして過去の栄光に縋れ。

 

「はい、らいはちゃん。お茶淹れたわよ。紅茶で良かった?」

「うん! ありがとうございます。二乃さん!」

 

 三玖の流れを断ち切るように自分にティーカップを差し出したのは中野姉妹のご意見番、ツンツン、デレデレ、シスコン隠れファザコン恐らくマザコンも発症させた全マシ五色文明のレインボーカード。

 中野二乃。彼女に関して言えば当初のらいはの評価は著しく低いものであった。

 なにせ、この次女。聞けば最初は金髪の兄を別々の人物だと勘違いをしてそれに惚れたそうだ。この時点でらいは的には即ギルディだ。見た目だけで集ってきたそこらのゴミ虫と何ら変わりない。そんなのをお義姉ちゃんと呼ぶ事は出来ない。

 だが、らいはもそこまで無情な人間ではなかった。確かに、確かにだ。兄の顔をした金髪の王子様が目の前に現れたのなら現を抜かしてしまうのも分かるのだ。

 らいはからすれば合法的に結婚できるジェネリック上杉風太郎がいきなり目の前に現れるようなものだろう。想像しただけで我慢できずに頬を紅潮させた。

 それなら仕方ない。一度だけの過ちだ。寛大な心で見逃してやろうと二乃を受け入れた。

 

 その甲斐あってか、今彼女を評価すると当時とは随分と異なる。

 そもそも中野姉妹の中で嫁力が一番高いのが二乃だ。料理が出来る。これだけで大きなアドバンテージである。しかも彼女はそれだけじゃない。

 一番最初に兄に告白し、異性として意識させた多大なる成果がある。バイクに乗りながら兄に告白した経緯を聞いた時、兄の後ろに乗せて貰った二乃が羨ましい過ぎて憤死しかけたのは懐かしい。この中野姉妹は着実に自分から兄を奪い取っていっているのだと嫌でも実感させられた。

 恐るべき中野二乃。恐るべきツンデレ。最近は事あるごとに上杉家特製カレーのレシピを聞いてくるがそれを拒絶するのがらいはに出来るせめてもの抵抗だ。

 もし門外不出のあのレシピが二乃の手に渡れば間違いなく彼女はその味を再現する事になるだろう。そうなればお終いだ。兄の胃袋は二乃に掴まれ、彼女の料理を全て受け入れるようになり、安心しきった所を睡眠薬で眠らせ兄のキンタローくんを強制的に徴収するのだ。

 結果、子を産み兄は結婚を余儀なくされ自分は若くして叔母さんと呼ばれる立場になる。

 そんな未来だけは何としても回避しなければ。やはり狙うとしたら立場を奪える三玖だ。彼女を兄とくっ付けてしまえば、とりあえずは安心できる。他の四人、特に……。

 

「らいはちゃん」

「……っ」

 

 ───その姉が危険なのだから。

 

「何か欲しいものはない? あったらお姉さんが何でも買ってあげるよ」

「い、いえ……」

「もう、遠慮なんてしなくていいよ。私とらいはちゃんの仲でしょ?」

「……」

 

 中野が誇る最恐の長女。地上最強の姉。戦うのではなく勝つのが好きな姉。その想いの重さはあの四女にも匹敵し、その躊躇の無さは次女を凌駕する覇道の傾奇者。

 中野一花。彼女だけはマズい。彼女だけは気付いているのだ。この上杉らいはの思惑を。

 自分達姉妹が兄に相応しいか見極めようとしてるのを知った上で堂々と金で買収しようとするその大胆さ。これができるから中野一花なのだ。

 最近では強大な愛は鳴りを潜め、修学旅行のお姉ちゃんはもっと輝いていたぞと揶揄される彼女であるが実態は逆だ。ただ大人しく引き下がる筈がない。あの愛が全部消える筈がない。

 全部が嘘? それが嘘なのだ。噓つきの言葉を信用してはいけない。彼女にある真は彼へ愛のみだ。愛だけが真実なのだ。それ故に彼女は強い。

 今は牙を研いでいるに過ぎない。ライバルを一撃で粉砕する為の牙を。

 

 どういう訳か、らいはは一花から兄の攻略プランを聞かされていた。そして戦慄したのだ。

 現在、兄と彼女は色々な事情が絡み合って仕事先のホテルでカメラを回しながら二人きりで勉強をしている。

 それだけで何ともまあインモラルな絵面なのだが、それで終わる一花ではない。なんと彼女、兄へ差し出す飲み物に媚薬を入れていると白状したのだ。それも恐ろしい事に大量にではなく、少しづつ会う度に量を増やしているのだと。

 急に興奮すれば怪しまれる。だから徐々に興奮するよう量を調整しているのだ。ご丁寧にその過程をカメラに抑えて。

 日に日に二人きりでいる内に興奮を隠せなくなっていく兄、それを日々録画しているカメラ。

 そして等々抑えの効かなくなった彼は己が欲望のままに目の前の餌へと食いつくのだ。その様子を納めているカメラがある事を忘れ、猿のように。

 全てを撮り終えた後、それを姉妹に送り付けて完全勝利宣言をするのが彼女の計画だ。

 

 なんて恐ろしい。なんて悍ましい。なんて羨ましい。

 

 兄の嵌め撮りを送られた日には血涙を流しながら鼻血を垂れる事になるだろう。

 

 妄想しただけで垂れてきた鼻血を拭いながら、らいはは改めて決意した。

 

 お兄ちゃんは私が守らねば、と。

 

 いつか、兄に相応しい女性が現れるその日まで、彼女の戦いは続く。

 

 

 

 

 

 

 



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杉にバナナは生えるのか。

───生える。生えるのだ。


 今日も今日とて仲良し姉妹。中野家の五つ子達は愛しの家庭教師上杉風太郎についての議論を白熱させていた。

 彼には黒髪と金髪どっちが似合うか。彼はMかドSか。式を挙げるなら教会式か神前式か。最初の子どもは男の子と女の子どっちがいいか。五人でローテーションを回すなら週毎か月毎か、等々日によって話題は変わる。何ともまあ微笑ましい光景だ。

 今日の議題は『彼に話しかけるクラスメイトのモブどもが日に日に増えてきてそろそろ目に余るので強行手段に出て学生結婚も視野なのでは』という四女の提案の元、各々が意見を述べていた。

 提案者の四女と過激派の長女次女は賛成、保守派の三女五女は条件付きで賛成と近いうちに案が実行されそうである中、一つの波紋が広がった。

 

「───実際のところ大きいのかしら」

 

 しん、と部屋が静まり返った。

 強行手段に出るのなら言い逃れのできない状況を作るのが手っ取り早いという話になり、そこから昼間から淑女が口にするには少々憚れる内容の会話になったのだが、そんな中で次女である二乃がぽつりと言葉を漏らした。

 いつもの笑みを浮かべる長女。得意のポーカーフェイスを維持する三女。何のことだかさっぱりだと恍けた様子の四女。バナナを頬張りながら静観する五女。

 それぞれが別々の反応を見せながらも誰も言葉を発しない。

 沈黙が部屋を支配し、壁に掛けた時計の秒針がカチカチと鳴る音が姉妹の鼓膜を叩く。

 

「大きいって、何が?」

 

 そんな沈黙を最初に打ち破ったのは、可愛らしく首を傾げた四葉だった。

 姉妹の中で国語が得意な四葉であっても主語がないものを答えろというのは少々酷な話である。一体、何の事だろうか。疑問を投げかけるように彼女はその無垢なる眼を次女に向けた。

 

「四葉、この場でかまととぶってもフー君が見てないから意味ないわよ」

 

 ───が、無意味。姉妹の中で、特にこの次女の前でこの程度のペテンなど容易く見破られる。

 

 彼女達が指摘するように本当は二乃が言いたい事など手に取るように判るし、実際に四葉も気になっている。何なら今すぐに風太郎の下に駆け寄って直接この身で確かめたい。

 しかしながら、それを口にするのはあまりにも下品で下劣である。表裏のない天使ヨツバエルと巷で評判の中野四葉が軽々と人前でたとえ姉妹の前だとしても口にしていいものではない。

 天使は常に穢れなき無垢でなければならないのだ。それも全ては彼との輝かしい未来の為。

 

『お前といると安心する』

 

 そう彼に告げられたのはいつの日の放課後だっただろうか。

 過激派の長女次女、ストーカー気味の三女、外堀を着実に埋めていく五女の策略に疲れ果て、つい漏らしてしまった彼の本音。

 他の姉妹がそれぞれ牙を向ける中、四葉は敢えて本心を隠し彼のよき友人として過ごしてきた。天使として、ヨツバエルとして。彼を励まし、常に傍で支えた。

 それもこれも全て来るべきカタルシスの為に。

 異性として意識してもらおうと手段を選ばない過激派の姉妹に疲弊した風太郎に、敢えて女の醜い部分を見せず常に表裏のない笑顔で接する事で安心感を持たせる。

 こいつなら大丈夫だ、こいつはただの友達という心地の良さを提供し続ける。すると彼は油断し、誰も家族がいない時に家に友人である自分を招く機会がやってくるだろう。

 

 そこで気を許した所を持ち前の身体能力でぺろりと美味しく頂く算段なのである。

 

 想いを自覚し自重しなくなってから四葉は女としての強かさを身に着けた。負けられない戦いに勝つために。勝利の栄光を手にするために。

 修学旅行で起きた醜い姉妹間での戦争以降、一応は終戦を迎え将来は姉妹で風太郎を分かち合い五等分する事を条件に姉妹間で停戦協定を結んだが何事も優先順位というものがある。

 戦争というのは終わってからが本番なのだ。五等分する風太郎を一番大きく頂いてしまいたいと思うのが女心である。

 

 だから風太郎と共に歩む青き清浄なる世界の為に四葉は仮面を被る。いざという時にボロを出してしまぬよう、姉妹の前でも初心である事を偽るのだ。

 中野四葉はいつだって笑顔で天然で、最高にあざとい女の子でなければならないのだ。

 あざといは正義。可愛いは作れる。人造天使ヨツバエル。それが彼女の正体だ。ヨツバエルの元に集え。ヨツバエルこそが唯一絶対の力であり、中野姉妹の頂点に立つのだ。

 

「あんた、本当は分かってるでしょ?」

「一番むっつりの癖に」

「毎晩毎晩トイレで大声で四葉がしてるのはみんな知ってますよ」

「昨日も『この上杉さん凄いよぉぉ!! 流石風太郎君の上杉さんッ!!』って深夜の二時に叫んでたよね。お姉さん知ってるよ」

「……」

 

 しかしながら被った仮面をいともたやすく粉砕し、四葉の抱いた幻想をぶち殺すのが二乃であり、またその姉妹である。

 こちらの仮面など姉妹達からすればお見通しだ。その証拠に一花も三玖も自分だけ可愛い子ぶるなと非難の眼を向けている。五月は未だにバナナを頬張っている。

 この状態ではどうやら降参するしかない。まさかヨツバエルであるこの私に歯向かうとは、と四葉は驚愕を隠せない。

 

「……上杉さんの風太郎君でしょ」

「そりゃそうよ」

「ちゃんと言えたじゃない」

「聞けてよかった」

「……じゃあ、聞くけどみんなはどう思ってるの? 上杉さんの」

 

 結局は姉達の無慈悲な圧に屈してしまった。中野姉妹は弱肉強食。弱ければ死に強ければ生きる。

 仮面が無意味と分かった以上はせめて有意義な議論をしたい。彼の杉についてとことん語り合おう。

 

「二乃は見た事ないの?」

 

 二乃と言えば風呂場ハプニング。風呂場ハプニングと言えば二乃。バスタオル姿で押し倒しから混浴突撃と何でもござれ。風呂場クイーンの二乃である。

 姉妹の中で一番風太郎の肌の面積を多く目撃しているのが彼女であり、姉妹の中で一番肌の面積を晒しているものもまた彼女である。

 彼と一緒に姉妹全員でプールに行った時は彼の水着姿を舐め回し、上半身にある黒子の位置を全て答えれる程度なら姉妹全員が出来る共通スキルであるが二乃は更に上を行く。

 混浴に突撃した際に内股に黒子を見つけたと大喜びしながら姉妹に自慢し一花や三玖なんかが歯軋りをしていたのは記憶に新しい。この間も彼に絡む時、服の上から全身の黒子を小突いて北斗百裂拳をお見舞いしていた。

 そんな彼女なら竿のサイズから球体の直径、皺の数まで把握していてもおかしくはない。

 

「残念だけど、ないわ」

 

 が、よくよく考えてみれば話題を振った当人が知っているのはまずないか。そもそも知っていたなら二乃はその事を隠し通し、彼の陰部の情報を自分のオカズのクオリティアップにのみに使うだろう。

 四葉の予想通り、二乃は残念そうに首を横に振った。

 

「混浴の時も?」

「毛の先端は見えたんだけどね……あと少しだったわ」

「そっか、残念……」

「二乃でダメなら他のみんなは見てないんじゃないかな」

 

 落胆を隠そうともしない姉妹達。四葉自身もそうだ。可能性で言えば姉妹の中では二乃が一番確率が高い。彼女から風太郎のぶら下げている凶器の情報を知る事が出来れば今晩はより一層ヒートアップしただろうに。何とも歯痒い事か。

 シュレーディンガーの猫ならぬシュレーディンガーの竿。パンツを捲るまではそのサイズを観測できないので現状では杉も小枝も成り勃つのだ。杉ならば性欲が無さそうな振る舞いの癖にぶつだけはでかいのだとそのギャップに萌え、小枝なら普段の高圧的な態度とは裏腹にこっちは可愛いんですねとまたしてもギャップに萌える。四葉的にはどちらでもバッチ来いではあるのだが、やはり気になるものは気になるのだ。

 少なくとも何十回何百回何千回何万回と相手をする事になる生涯のパートナーである彼の杉。実践前にやれる事は全てやってベストを尽くしたいと思うのが出来た花嫁というものだろう。

 それは他の姉妹も同じだ。

 

「そうだ、四葉。一花なら」

「……! そっか、一花なら」

「うん、一花なら」

「えっと……私?」

 

 希望を宿した瞳を妹達に向けられ、一花は照れるように頭を掻いた。

 たははと笑う彼女であるが、その企みは姉妹一恐ろしい。何せあの長女、『風太郎と二人でホテルの部屋で過ごせる』という最強のカードを持っているのだ。

 中野レギュレーションでは強すぎて即禁止行きの凶悪カード。たとえば二乃がそのカードを持っていたとしたなら『催眠薬入り紅茶』と組み合わせたマジックコンボで即座に風太郎をその手に収めゲームエンドを迎え事になっただろう。

 インチキ効果もいい加減にしろと言いたくなるその最強のカードを最恐の姉が使えばどうなるか。想像するのは容易い。

 

 信じて送り出した風太郎が長女の卑劣な変態撮影にドハマりして醜態を晒した様子を録画したビデオレターを妹達の元に送りつけるようになるのだ。

 

 その為の計画は今もなお進行中であり、妹達はそれを阻止するのが目下の目標なのである。

 しかしながら、今回はその一花の持つ最強のカードが妹達の希望に成り得るのかもしれない。あの姉の事だ。まだ手は出していなくても寝てしまった風太郎を密に服を脱がしてその様を録画しているくらいは既に終えているだろう。

 ならばそのテープを見れば彼のブツが判る筈だ。

 だから隠し撮りしているビデオを提供しろと妹達は姉に迫ったが、一花は先程の二乃と同じように首を横に振った。

 

「残念だけど、まだそこまで実行できてないんだ。知ってるでしょ? フータロー君って結構ガードが堅いんだよ。二人きりの時に寝るなんてまずないかな」

「そんな……」

「一花までも……」

「一花なら絶対に撮ってるって思ってたのに」

 

 希望を断たれ、四葉は再び落胆した。まさか一花までもダメだとは。これは想定外だ。既に変態撮影を終えた風太郎のビデオをこの場で見せられるくらいは覚悟していたのだが。

 

「……三玖は何かない?」

 

 ダメもとで尋ねて見たが、あまり期待は出来ない。

 彼女も彼女で風太郎の私物コレクターであるのだが、持ち前の引っ込み思案な性格からか風太郎本人に直接手を出す勇気が中々ないのは姉妹全員の共通認識だ。

 せいぜいあるとしたら彼の使い古したビロビロおパンツくらいだろうがその程度の私物、四葉ならそれに相当する物を三十六個は所持しているし他の姉妹も似たようなものだろう。

 

「私はこれくらいしかない……」

 

 そう言って彼女が指差したのは自身が首に掛けているヘッドホンだ。他の姉妹も全員首を傾げたが、耳を澄ましてみるとどうにも聞き覚えのある声が聞こえる。

 

『流石だな、三玖』

『お前が一番だ、三玖』

『よくやったな、三玖』

『結婚しよう、三玖』

 

「これ、上杉さんの……」

「何これ、録音したの?」

「うん。フータローの日常会話からボイスサンプルを採取して編集してみた。高校生編、大学生編、社会人編、新婚編の今のところは全部で四部作、四十八時間」

「ねえ、三玖。あとで私にも聞かせてよ」

「でも、フータローは私の名前しか呼ばないよ?」

「いいのいいの。三玖に成り代わって変装して代わりにフータロー君とイチャイチャしてる設定で妄想すれば使えるから」

「なるほど」

 

 長女の天才的発想に感服しながら、四葉も後で三玖に同じものをダビングしてもらおうと決意したが、肝心の杉の大きさはどうやら判らず仕舞いのようだ。

 まあ、こんな何もない微笑ましい一日もありだろう。何も急ぐ必要なんてない。分からないモノを他人に教えられてばかりではダメだ。

 ちゃんと自分の手で掴み取る。それが正しさなのだ。母が示し、彼が教えてくれた正しい在り方なのだ。

 

「あっ」

「どうしたの? 五月」

 

 とうとう丸々一房食べるのか、最後の一本を手にした五月が何かに気付いたように声を漏らした。

 

「このバナナ、ちょうど上杉君のとそっくりです」

 

 既に戴きはしましたが、と赤く頬を染めながら彼女は慣れた手付きで皮を向いてそれを頬張った。

 それが第二次シスターズウォー開戦の合図でもあった。

 

 

 

 

 

 



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タマコ!タマコ!タマコ!タマコぉぉおおおわぁああああああああああああああああああああああん!!!

僕は、ついてゆけるだろうか

タマコのいない世界のスピードに


 百年の恋も冷める瞬間がある、というのは昔からよく聞くフレーズだが自分にはまず当て嵌まらないだろうと一花は風太郎と結ばれた日からずっと確信していた。

 恋焦がれ、燃えた愛故に暴走して愛おしき妹達を蹴落としてまでも欲した深淵の愛。自分の過ちに気付き、一度は諦めかけた一世一代の大恋愛で終わる筈だったそれを恋の女神は何の気紛れか幕から降りた筈の自分に手を指し伸ばしてくれたのだ。

 選ばれるとは思ってなかった。報われるとは夢にも思っていなかった。彼に好きだと言われた時、お前が欲しいと告げられた彼の想いに、自然と一花の頬に一滴の涙が零れ落ちていた。

 真っ直ぐと視線を向ける風太郎の告白に一花は抱きつきながら口付けで応じた。一度目はあの鐘の下で、二度目は想いを自覚したあのベンチで。三度目のキスは自信と彼を繋ぐ証として、強く永く互いに唇を重ね合った。

 あの瞬間は色褪せる事なく年を重ね老いて朽ち果てる間際でも、きっと鮮明に思い出せるだろう。それほどに中野一花にとっては眩しく焼き付いた思い出だった。

 

 ───それが今、音を立てながら崩壊しようとしていた。

 

「……頼む」

 

 両手と額を地に擦り付けて頭を垂れる風太郎。それはまさに見事なジャパニーズDOGEZAであった。

 以前に出演した時代劇でもこれほど綺麗な土下座をする俳優はいなかった。織田社長の言う通り、彼には役者としての見込みがあるようだ。流石は今をときめく人気女優中野一花を才能を見出した男だ。彼の先見の明には恐れ入る。

 ……なんて現実逃避をしたいのは山々であるが、状況が状況なのでそれもできない。何せ彼が土下座をしているのはダブルベッドの上でそれも全裸。そして一花自身も一糸まとわぬ状態で豊満な胸を腕組しながら隠して頭を下げる彼に対面しているからである。端的に言えば、致す前の会話なのだ。

 

 こうなったのには一応の経緯がある。

 無事に風太郎と結ばれ彼と恋仲になった一花であるが、売れっ子女優である彼女は中々に多忙な身であった。

 勿論、会えなくても毎日電話で連絡をしてはいるがやはり直接顔を見れないのは寂しいものだ。それは恋心を理解したばかりの彼も同じようで、恥ずかしながらもいつ会えるかとよく尋ねられた。その言葉を聞く度に一花は彼からの愛情を占領しているという独占欲が満たされ、この状態も満更ではなかったのだが。

 ともあれ中々会えない恋人同士である二人にとって直接会える休日は非常に貴重な時間であった。折角の休みを無駄に人通りの多い場所やいつでもできるショッピングなどで浪費するのを二人とも良しとしなかった。

 

 では何をするのか。簡単だ。ナニを擦るのだ。

 最初はもっとプラトニックな関係を夢見ていた。離れていた時間を埋め合わせるように風太郎の肩に頭を預け、彼はそんな一花の腰に手を回して抱き寄せる。その間はテレビを見たり、何気ない日常の事を語り合ったり、そしてたまにキスをしたり……だが現実は非常なものである。

 意外と性欲が強いことが判明した彼と自他共に性欲が強い自分が同じ空間にいて何も起きない筈もなく、初めての自宅デートはただ猿のようにしこたま盛りあって一日が終わった。

 それ以来、性にドはまりした二人は休みの日は外に一切出掛けず体を求め合うのが通例となっていた。

 ただ肉体を重ねるだけでは飽き足らず、様々なシチュエーション、時には変装や玩具なども積極的に用いて一花と風太郎は互いに貪りあった。今ではこの体で彼に嘗められていない箇所はないと断言できる程だ。

 文字通り一花は全身を使って風太郎を愉しませ、風太郎も一花の被虐性癖を理解しながらそれを刺激した。幸運な事に二人とも肉体の相性が抜群に良かったのだ。阿吽の呼吸で乱れるシンクロ率百%の最恐のタッグ。気が合ってもこれが原因で別れる男女がいるが、こと自分たちには当て嵌まらないと一花は断言する。

 そんな二人のプレイの一環として前に一度、とある変装をした事があった。

 『妹達の変装』などというありふれたものではない。そんな凡人が考えつくような発想は体を重ね始めた一週間で全て済ませているし、とっくに姉妹全員分のコスプレイなどコンプリートしている。今ではローテーションを組んでいるくらいだ。

 一例を出すなら、最初に三玖の変装した一花に気付かないフリをしつつ、終盤でかつらを無理矢理剥ぎ取り『やっぱり嘘なんだな』と耳元で吐き捨て一花のケツを叩きながらバックでフィニッシュするプレイがあるが、これは風太郎にとってマイフェイバリットプレイである。もはや定食屋の定番メニューのようなもので最低でも月に二回は行われる。

 

 一花がしたのはかつて演じたとある映画の役のコスプレであった。

 ただの好奇心だった。五つ子変装プレイのローテーションがちょうど一周したので、今回は奇をてらってみたのだ。普段の自分とはまるで性格の違うその役は映画の中ではモブで終わったのだが、一花にとっては印象に残っている役の一つだ。あの時の事を覚えているかどうかの確認も兼ねたコスプレイのつもりだった。

 

 だが、結果は一花の想像を斜め上を征く展開となった。

 嬉しい事に彼もこの役を覚えていてくれた。それは素直に嬉しかった。モブとはいえ彼の前で自身を持って演じれたあの日の事を覚えていてくれたのだから。問題はその後だった。

 

 あろうことか、風太郎は今までのどんなプレイやコスプレ、シチュエーションの時よりも激しく興奮して一花の肉体を貪ったのだ。

 

 全身にホイップクリームを塗りたくってそれを舐め取りながら行う通称『パティシエ二乃』よりも激しく、

 修学旅行の二日目を彷彿させる欺瞞と背徳感に満ち溢れた禁忌の業『三玖だよ嘘じゃないよ』よりも固く、

 頭に巻いたデカリボンを手綱の如く巧みに操りじゃじゃ馬を躾ける禁術『おうまさん四葉』よりも大胆に、

 教員のような格好でセクハラまがいに腹を摘まれながら始まる『淫乱教師五月ちゃん先生』よりも強引に、

 そして何よりこの変幻自在中野家のトリックスター大女優・一花の時よりも濃かった。普段の状態がフータローの体液とするならこの時のはフータローの特濃だ。G級である。

 彼の持つ超弩級砲塔上杉フークン・マックスから放たれる粥の如きもの……否、それよりも更に粒のあるそれは例えるならば粥というよりはもんじゃ焼きが適切だろうか。それがとめどなく生産され、一花の中でブチ撒けた。

 もんじゃをブチ撒ける時の彼の漏らした言葉を今でも覚えている。どんなコスプレイをしても、彼は最後に自分の名前を呼んでくれるのだ。一花、と切なそうな声で、愛の詰まった言葉で。

 だけど、あの時は違った。彼は、愛おしき上杉風太郎が口にしたその名前は──────。

 

「……タマコになってくれ、一花」

 

 それは祈りにも似た切なる願いだった。神に頭を垂れるかのようなその様はまるで古代ギリシアにある絵画の一枚のように美しく、第三者が見れば歴史的な光景の模倣に映ったのかもしれない。

 だが、実際はそんな奇麗なものではなく特殊性癖に目覚めた男が特殊プレイを彼女にお願いをする為に土下座をする情けない一面なのである。

 

「絶対にいやだよ!」

「一回だけでいい! 頼むッ!!」

 

 涙目でノーを突きつける一花に風太郎は更にベッドに額を擦り付けてふかふかのダブルベッドにめり込ませた。

 あんなにプライドの高かった彼がこんな間抜けで無様を晒すなんて……。一花は自分の愛した恋人が何処か消えてなくなってしまったのではないかと思い始めた。

 目の前にいる男は少なくとも自分の知る上杉風太郎ではない。ベッドに這いつくばり侘びるかのように(こうべ)を差し出す。名付けるなら上杉侘太郎だ。太郎では語呂が悪いから侘助でいいかもしれない。

 

「私じゃダメなのかな、たまには『私のまま』でしようよ」

 

 侘助に侮蔑の視線を向けながら一花は何とか説得をしようと持ちかけた。

 女優としてのスキルを存分に活かし、ベッドにめりこんでいる彼の耳元でそっと息を吹き掛けるように囁く。

 一花の経験上、こうすれば彼は割と直ぐに墜ちる。服を着た状態でもルパンダイブの如く中で脱衣しながら一花は風太郎に戴かれるのだが何時もの王道パターンである。

 更にその放漫な双子山を彼の密着させて追い打ちを掛けた。念には念を入れる。確実に仕留めるのが一花のヤり方なのだ。

 

 ───しかし、今日の彼は違った。

 

「なん、で……」

 

 未だに土下座フォームを解除しない彼に一花は目を見開いた。有り得ない。先のコンボで彼の杉は既に直立状態の筈。故に土下座フォームを維持する事など不可能。

 彼の杉の大きさは一花はこの世の誰よりも理解()っているという自負がある。あの内臓を抉るような凶悪の具現化。命を刈り取る形をしたそれを初めて見た時は一花も覚悟を決めたものだ。

 彼の杉は杉だけど杉じゃない。解放状態で土下座などしようものなら彼の腹に穴が空く筈。ならば何故、彼は未だに土下座をしているのか。

 

 単純だ。解放状態でないのだ。

 

「ど、どうしてなの、フータロー君……」

 

 土下座する彼の横から覗き込んだそれを見て一花は絶望感のあまり膝を付いた。

 

 彼の杉が地に垂れていたのだ。

 

 つまり、彼はあの必中必殺のコンボを食らってなお解放状態でないのだ。

 横から覗き込んで見える程度には大きい。だがそれは一般的な話だ。常人の解放状態ならあのサイズは妥当だろうが、相手は上杉風太郎だ。あんな矮小な解放状態は有り得ない。

 

「これで解っただろ、一花」

 

 ようやく頭を上げた風太郎は、何処か悲しげに自嘲しながら己が杉を撫でた。

 

「今の俺は、タマコじゃなきゃダメなんだ」

「───」

 

 後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃が一花を襲った。何て事だ。頭痛がする。吐き気もだ。己が股を抉ったあの凶器は何処にいったのだろうか。熱い夜に見た彼の杉は今では見る影もない。

「つ、疲れてるだけなんだよきっと……ね?」

「違う。疲労程度で俺が萎えると思っているのか?」

「でも、そうじゃないとそんな事有り得ないよ」

「なら試してみるか?」

「え?」

「一瞬だけでいい。タマコを演じてくれ」

「……」

「そうすれば証明できる」

「そ、そんな……」

「一言、タマコの台詞を言えばいいだけだ」

「……分かったよ」

 

 風太郎の提案に渋々頷きながら一花はこれで彼の言う"証明"が出来なければ一晩中どころか朝になるまで搾り取ってやろうと決心した。馬鹿な事をいう彼に『中野一花』を分からす為に。

 ごほん、と息を整えて己の中から中野一花を消す。そしてタマコというペルソナを取り出してそれを被った。

 

「もぅ、タマコじゃなきゃダメなんてフータロー君は変態なのですぅ」

 

 台詞を言い終えた瞬間、それは起きた。

 

「……ッ!?」

 

 それは杉というにはあまりにも大きすぎた。

 大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。

 それはまさに大樹だった。

 

「───な? 言っただろ、一花」

 

 苦笑を浮かべなら風太郎は己が大樹を右手で支えながらタマコの見せつけた。

 タマコは、いや一花は目の前の現象が未だに信じられないまま空いた口を手で覆うい目を見開いていた。

 希望が潰えた瞬間である。

 正直、間に受けてはいなかった。タマコじゃないと立ち上がれないなんて、信じられる筈がない。

 だってそうだろう。有り得ない。そんな事はあってはならない。彼の目の前にいるのは他の姉妹でも無ければモブのタマコでもない。中野一花なのだ。それなのに彼は自分ではなく自分の演じる役に興奮するだなんて。そんな馬鹿げた話を認めろと言うのか。

 赦されない事であった。一花の矜持が目の前の杉を決して赦してはいけないと吼えた。

 

「元気になったらいいでしょ。ほらフータロー君、きて」

 

 タマコのペルソナを引き剥がして中野一花として彼に迫る。失われたプライドを取り戻す為にはやはり彼には朝まで付き合ってもらう必要がある。

 意を決して風太郎に襲い掛かろうとした一花であったが、またしても目を疑う光景を目の当たりにした。

 

「あ、あれ……」

 

 先程、眼前にあった筈の大樹が一花の前から忽然と姿を消していたのだ。

 変わりにあったのはベッドに頭を付ける萎びたカメさんヘッドだけ──。

 

「ったく、難儀な事になったもんだ」

 

 恥ずかしそうに前髪を弄る風太郎に一花は困惑していた。

 今、いつの間に杉を縮めた? 何かに気を取られて見逃していたというのか。

 いや、一花はずっと彼の杉から意識を外していない。あんな長さの伸縮を見逃す筈が──。

 

 ふと、そこで一花は己の額から"何か"が垂れている事に気付いた。緊張のあまり汗をかいていたのだろうか。

 そう思ったが、どうにもこの感触は違う。自分の汗を生暖かいと感じた事はあっただろうか。

 

 ───そもそも汗はこんなにも生臭く粘着質のある液体だっただろうか?

 

 額から垂れるそれを反射的に手で拭っていた。

 

「───」

 

 今度こそ一花は言葉を失った。

 額から垂れていたものは汗ではない。だが"これ"は未知でもない。既知の液体だ。

 何度も何度も口に、体内に取り込み、飲んで味わって、沁み込ませた馴染みあるこの液体は間違い。

 

 風太郎の樹液だ。通称フー君の自家製メイプルシロップ。それが何故か一花の額から垂れていたのだ。

 

「やっと気付いたか」

「そ、そんな、こんなの、ありえないよ」

「『ありえないなんて事』はありえない。これが俺のタマコに対する想いだ」

「……っ」

 

 先の出来事。何が起きたのは頭では理解した。だが心が納得したかは別である。

 顕現した筈の大樹の消失、そして額にこびり付いたメイプルシロップ。

 ここから導き出される答えは一つしかない。

 

 そう。風太郎は刹那の合間に限界まで伸ばした樹木から樹液を射出し、そのサイズを即座に縮め飛び出た樹液は見事に一花の額に直撃しヘッドショットを決めたのだ。

 ビューティフォーと口にしながら称賛しそうになるその射的技術。解放状態から通常状態に戻るまでの驚異の速さ。どれも驚嘆に値する。きっと音速の五百倍はあるであろう早打ちだ。

 これほどまで常人離れした業を一花は風太郎との営みをで一度も目にした事がなかった。

 これが彼の本当のスペックという事なのだろう。これが上杉風太郎だ。これが学園一位の男なのだ。上杉の杉に常識は通用しない。

 一花は先程まで『中野一花』に拘っていた鎮痙な己を恥じた。何が女としての矜持だ。これほどの潜在能力のある彼を全く引き出せなかった分際でどの口がほざくのか。

 これは試練だ。『タマコ』(過去)に打ち勝てという試練と一花は受け止めた。今は、タマコを演じればいい。だが、いずれは中野一花で先の御業を再現させる。

 それこそが中野一花に課せられた風太郎への愛の試練だと言えるのだろう。

 

 だから、今日はその第一歩として学ぶ事から始めよう。彼がタマコのナニに興奮し、何処に刺激を受けるのか。これも勉強と同じだ。基本をなくして応用はできない。

 覚悟を決め、一花はヘアゴムで両端をくくり短いツインテールを作った。

 イメージするのは常に最高の自分(タマコ)だ。 外敵など要ない。女優・中野一花にとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。

 

「わぁ、フータロー君のとっても濃くて美味しいのですぅ~」

「タマコ!タマコ!タマコ!タマコぉぉおおおわぁああああああああああああああああああああああん!!! 」

 

 そのセリフと同時に風太郎はタマコにダイブした。この時の営みは朝まで続き、女優中野一花は更に演技に磨きがかかり大女優への道に一歩近付く事ができたという。

 

 後に一花は風太郎との間に無事に女の子を授かり、その子の名前でまたひと悶着あったのは別の話である。

 




過剰に描写されましたがフー君の杉は言うたほど長く伸びません。言うたほど速く伸びません。


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天に竹林、地に五つ子!目にもの見せるは惚気話!真・幼馴染END!!

別に幼馴染ENDではないしタイトルも特に意味はない。


 上杉風太郎と自分達五つ子の仲は今となってはもはや切っても切り離せないほど強固で確かなものであるというのは五人全員の共通認識であり、彼もまた自分達姉妹を特別に想ってくれているのだと理解していた。

 最初はいがみ合い、反発し、拒絶した。それでもゆっくりと一歩ずつ歩み寄り、理解し、信頼し、今となっては深い絆で結ばれた。もはや家庭教師と生徒などという単純な関係で収まるような間柄ではない。言うならば血よりも深い絆で結ばれた家族だ。大袈裟な言い方かもしれないが、いずれ姉妹の誰かと結婚するのだから間違ってはない。必ず結ばれる。万が一、億が一、彼が誰も選ばず逃げようものなら地獄の果てまで追いかけ輪廻を巡ってでも捕まえるが。

 そんな彼と過ごした時間はまだ一年半足らずである。たったその程度の付き合いだと嗤う人間もいるだろう。だが過ごした時間に想いの大きさが必ずしも比例する訳ではない。僅かな時間であっても惹かれ、想い続ける事だってある。恋焦がれ溢れそうになるくらい重い想いを抱くこともある。それが自分達五つ子だ。

 この想いの深さならば誰にだって負けはしない。それは中野姉妹達が共通する唯一にて絶対の正義であり真理であった。

 

「風太郎が勉強を教えているなんて、なんだか新鮮」

「あの時とは違うんだよ」

「賢くなったね」

「まっ、お陰様でな」

 

 ……しかし、長年共に過ごした時間というのは中野姉妹達が想像する以上に絶大であると思い知らされた。

 目の前で繰り広げられる彼と、その『お友達』との日常的な会話。一見、何の変哲もない様子だが五つ子達から見れば理解(わか)るのだ。言葉遣いや仕草、その返し一つを取っても風太郎が彼女に対して絶対の信頼と安心感を抱いているのだと、嫌でも思い知らされた。当然看過できるものではない。五つ子たちは怒りのあまり、ギリギリと不協和音のクインテットを歯軋りで奏でた。

 もはや嫉妬を通り越して憎悪すら湧きかねない。中野姉妹からすれば度し難い悪夢だ。

 一花は女優がしてはいけないような阿修羅の面を見せ、二乃は薬を盛って怨敵を排除するか企て、三玖は目尻に涙を浮かべ頬を膨らませながら後で風太郎を襲う事を決心し、四葉は怒りの余り手に持ったボールペンをへし折り、五月は来客用に出された茶菓子をやけ食いしていた。

 何故こんな地獄絵図になったかと言うと、発端を辿れば彼女たち五つ子側が原因だった。

 

 ────私もその"自称"幼馴染さんとお喋りしたいなぁ。

 

 言い出したのは直接彼女と出会っていない一花だった。

 先日の文化祭で突如襲来した謎の女。愛しの風太郎と目の前で手を繋ぐどころか我が物顔で彼を独占し、挙句の果てには幼馴染だからと宣って自分達五つ子を挑発してきた不届き者。場所が場所でなければそのまま囲って五つ子を敵に回した痛さと怖さを教えてやる所だったが流石に彼の目の前だったので自重した。

 あの日、僅かしか言葉を交わしていないが竹林と名乗る女は自分達にとって間違いなく天敵だと五つ子たちは理屈ではなく本能で理解した。そして後日、その忌々しい女狐について愚痴を溢していた時に沈黙を貫きながら彼女の話を聞いていた一花が笑みを浮かべながら宣言した。彼女と『お喋り』をしよう、と。

 勿論、姉がただの可愛らしい『お喋り』を望んでいるなんて馬鹿正直に信じる妹は一人もいない。そんな愚者がいたらとっくの昔に上杉風太郎争奪戦で脱落している。ここにいる五人は戦い抜いた歴戦の猛者だ。一花の言葉に隠された本当の意味を当然のこと読み解いている。

 "私たちを舐めた落とし前をつけろ" 彼女は暗にこう言ったのだ。もう卒業まで残り僅か。高校生活最後に思い出作りの卒業旅行と称して祖父の旅館に彼を拉致し、沢山の思い出()作りを企画している中で余計な因子は目障りなだけだ。ここで芽を摘んでいた方がいい。計画に支障をきたすモノは何であろうと排除せねば。一花の提案に妹達四人は即座に賛同した。

 全会一致で決まった『女狐掃討作戦』に真っ先に動いたのは四葉だった。かの怨敵に対してフレンドリーな態度を装って予め連絡先を聞いていた彼女の功績が大きく、作戦は驚くほどスムーズに進行した。

 

『竹林さん。良ければまたお会いしませんか? 私たち姉妹と勿論、上杉さんもご一緒に』

 

 そのシンプルな誘いに竹林は二つ返事で快諾してくれた。飛んで火にいる夏の虫とはまさにこの事だ。ほいほいと誘いに乗った竹林に五つ子たちはほくそ笑んだ。

 何が幼馴染だ。何が姉だ。馬鹿馬鹿しい。

 

 ──確かに上杉さんと幼馴染みたいだけど、そんなの昔のことだよね。

 

 彼の幼馴染は将来を誓い合い永遠の愛も約束したこの中野四葉だ。いずれ公園で首輪をつけながら彼に散歩させられイヌヌワンと鳴くプレイが待っている。私は風太郎君の犬。風太郎君は私のトレーナー。ちなみにダイマックスするのは四葉ではなく彼のナッシー(アローラの姿)である。

 

 ──フータロー君の"自称"姉なんだっけ。面白いこと言うね、その子。

 

 彼のお姉さんは姉妹プレイからの弟に逆転されるシチュを毎日妄想してシーツを濡らすこの中野一花だ。人が食べたパンの枚数を覚えてないのと同じように一花が今まで汚したシーツの枚数を覚えていないのはご愛敬。それほどまでに愛が深い証拠。彼をおかずにした者だけが彼の姉を名乗れるのだ。ちなみにその理論をかざすと風太郎の妹も彼の姉になってしまうのは誰も知らない隠された真実だ。

 

 そうだ。何処の馬の骨とも分からない女に譲るつもりなど毛頭ない。小学生の頃に同じクラスだっただけの似非幼馴染似非姉風情がよくもまあ私たちを煽ってくれたものだ。

 京都組の一花、四葉だけではなく、他の三人も同様に憤りを感じていた。特に風太郎の腕をあろうことか勝手に掴んで連れまわしていた光景を目の当たりにした二乃と三玖にとっては屈辱でしかない。

 

 ──本当よね。たかだか元クラスメイト風情が私達に勝てる筈ないのに。

 

 彼と腕を掴むのは自分だけの特権だ。掴んでろのお返しに摘まんでよ、揉みなさいよと彼に体を差し出し、全身にフー君生クリームをデコレーションしてもらうのが中野二乃なのだ。式でも花嫁にデコレーションをしてウエディングドレスとウエディングケーキを兼任する斬新な催しを既に企画中である。風太郎もきっと驚くだろう。二重の意味で食べられて一石二鳥のお得なホイップウエディング二乃に貧乏性な彼にも大うけに違いない。

 

 ──フータローが好きなのは私達だけ。

 

 三玖も二乃と同じだ。彼が掴むのはあの女狐の手ではない。この身に実った大きな二つのパンだ。何のために彼にパン作りを伝授したと思っている。あの時の練習用のパン生地は自身のパンと同じ柔らかさに調整したものだ。それも全てはいずれ訪れるウエスギ夜の三玖パン祭りでパンパンしてもらう為である。朝は米派の彼も夜はパン派にくら替えさせる為にも祭りは毎日毎晩行われる予定だ。つい最近、本人に我慢しなくていいとお墨付きを貰ってるので遠慮なくヤらせてもらう。毎日がパン祭り。毎日が日曜日。ミス・オールサンデーだ。

 

 ──それに人の『家族』にちょっかいを出すなんて許せません。

 

 五月も黙ってはいられない。大切な『父』に唾を付ける悪女など許せる筈もないのだ。家族に介入してくる愚か者がどういう末路を辿るのか、あのハゲが既に証明している。きっと父マルオによって今頃は医学進歩の為の人柱となっただろう。女狐もその例外ではない。だいたい何が姉だ。彼は私の父だ。それはつまりは乳を捧げる相手である。風太郎は中野五月の父であると同時に中野五月は上杉風太郎の母なのだ。お母さんを目指す以上、彼との間に五人の子を授かるのがノルマと言える。

 

 女狐を呼び出し、前回の鬱憤を晴らす。自分達が如何に彼と仲睦まじいか、如何に彼を愛しているのか、如何に彼との将来を計画しているのか理解させる為に。

 目の前で見せつければあの自称幼馴染も認めざるを得ないだろう。上杉風太郎に相応しい女性はこの中野姉妹以外にはあり得ない。あの女はそれを自覚し、以前に不敬を働いた事を悔いて地に額を付け侘びるのだ。

 中野強靭。中野無敵。中野最強。それをあの竹林とかいう不届きものの魂に刻み付ける。恐れることは何もない。勝利は既にこの掌にあるのだから。そう確信していた。

 

 ──今日までは。

 

「竹林、ここの綴り間違ってるぞ」

「あっ、本当だ。まさか風太郎に指摘されるなんて」

「いつまでも子供扱いすんじゃねえよ」

「ふふ、成長したんだね。えらい、えらい」

「お、おい! 撫でるな!」

 

 今日の集まりは中野家のマンションで行われた。名目上は外部の人間を招いた合同勉強会である。この時期に彼を誘うとなるとそういう建前が必要だったからだ。彼女も同じ受験生で、しかも成績は優秀である。風太郎からすればいつの間にか仲良くなっていた五つ子と幼馴染に少し恐怖を覚えただろうが、単純に教える側の人間が増えるのは彼からすれば負担が減るので決して悪い事ではない。

 ……が、五つ子達からすればたまったものではない。なんだこれはと頭抱えたくなった。

 あの女狐の前で思う存分に彼との仲を見せつけ六人の絆パワーで悪を撃滅するのが当初のプランだった筈なのに。大体、なんだあの距離は。

 自然に、流れるように、まるで当たり前のように! あの女狐は彼の頭を撫でているではないかッ!!

 彼に頭を撫でられた経験がある姉妹は決して少なくない。三玖なんて文字通り撫でポでほぼイキかけたこともあるくらいだ。

 しかし、彼の頭を撫でた者は一人たりともいないのだ。あの一花でさえ、寝ている彼に膝枕をして寝顔を盗撮しスマホの待受にして三玖からもらった加工済の盗聴ボイスを聞いて達するのがやっとだと言うのに。

 あの女狐は、あの自称幼馴染は姉妹達ができない事を平然とやってのける。この距離が当たり前。これが幼馴染。これが『姉』。なるほど、自称するだけの事はあるようだ。何より強いのは彼がそれを何処か受け入れているという事実である。

 文化祭による怒涛のキラッシュ。不意打ち、事故に見せかけて、正面から堂々と、寝いてる間に。多種多様に渡る手段で風太郎の唇を奪った。これが男女逆であったらとっくに豚箱行だったが可愛いは正義なので無罪放免。それはともかくとして、あれは向こうが受け入れる受け入れないを問わずに強襲した言わば非同意の行為である。

 しかし、しかしあの竹林は違う。それが当然だと風太郎に受け入れられているのだ。もしその気になれば、あれが目の前でキスをしたとしても彼はされるまで脅威を感じないだろう。

 

 ……危険だ。あの女は。あまりに危険すぎる。

 対象の脅威判定が更新された事により執行モードへと以降した五つ子達は彼女の完全排除を決心した。

 

 その時だった。

 

「……えっ?」

 

 姉妹の誰かが声を漏らした。

 それは驚嘆の声だった。ずっと二人を見ていた筈なのに、目の前で起きた出来事が理解出来なかったからだ。

 

「あ、あんた、フー君に何をしたの!?」

「なにって、おかしな事を訊きますね。皆さん、ずっと見ていたじゃないですか」

「分からないから聞いている。フータローに何したの……?」

「別に、変な事はしていませんよ」

 

 激しい感情を顕わにする二乃。そして彼女と対照的に静かに怒りを滲ませる三玖。

 その二人の強い敵意の籠った眼差しに対して竹林は涼しげな表情で薄く笑った。

 

「ただ、こうして風太郎の頭を撫でてあげただけです」

「嘘です!」

「四葉の言う通りです! そんなの、だって上杉君が」

 

 四葉の否定に五月も追随する。あり得ない。まるで魔法でもかけたかのような目の前の光景は五つ子達からすれば信じがたいものであった。

 当然、妹達だけではない。その長女も目の前の怨敵を睨み付けた。

 

「撫でただけ? それじゃあなんでフータロー君はあなたの膝で寝ているの?」

 

 一花が指さす先には竹林の膝の上で静かに寝息を立てる愛おしの家庭教師の姿がいた。

 一体なにが……。

 それは姉妹全員がこの場で共通する疑問であった。

 さっきまで自分達はあの二人が交わす幼馴染特有の昔話と妙に近い距離感を見せつけられていた。

 少しでも妙な真似をする気配を見せれば四葉が神速を持って彼女を制圧するよう常に五人で監視していた筈だ。二乃の得意戦法である薬を使った形跡もない。

 あの女は、本当にただ風太郎の頭を撫でていただけ。

 

 それなのに何故ッ!!愛しの家庭教師はあろうことかあの女狐の膝を枕にしながら安堵した表情で寝息を立てているのかッ!!

 

「あれ? おかしいですね……」

「おかしいって何がよ」

「皆さん……もしかしてご存知、ないのですか?」

「だから、上杉さんの何をですか?」

「そっか。知らないのですね。あんなにも風太郎と一緒にいたのに」

「……もったいぶってないで早く答えてください」

 

 一々癪に障る彼女の言葉に温厚な中野シスターズも我慢の限界だった。二乃はすぐにでも彼女に薬を盛って排除したい衝動に駆られ、四葉は物理的に彼女を排除しようと拳を鳴らす。

 だが、消すのはまだだ。彼女は何かを知っている。自分達の知らない風太郎の秘密を。それを聞きだしてからでいい。

 

「風太郎のこの髪、頭頂部に変わったアホ毛が付いてるくらいは知っていますよね?」

「当然」

「それくらい見れば分かるわよ」

「私のリボンとお揃いのアホ毛ですよね。ちなみに私のリボンと上杉さんのアホ毛を合わせれば『四葉』になるんですよ。つまり私が風太郎君と結婚する事を示してるんだよ。みんなとは違うよ」

「四葉、今は自重して」

 

 イキリボンを拗らせた妹を長女として宥めながら一花は竹林に説明を催促した。どうやらあのアホ毛が関係しているらしい。

 そんな一花達を面白おかしく笑いながら竹林は告げた。

 

「実はあのアホ毛を撫でられると風太郎、気持ち良くて寝てしまうんですよ」

 

 !!?

 

 彼女の衝撃発言に姉妹達全員に電流が走る。そんな彼女達に竹林は自慢するように過去を語った。

 

 それはちょうど四葉と風太郎が出会った後だった。心機一転して髪の色を黒へと戻し髪型も整髪剤を使わず下ろすようになって今の髪型で初めて小学校に登校した時だった。

 それはもうクラスメイト全員が騒然となった。あの悪ガキ大将がまさかこうもガラリと印象を変えたのだから。

 当然それは幼馴染であった竹林も同じでやっと更生したんだ、と彼の頭を撫でたのだ。

 その時だった。なんと彼の髪の毛、正確にはその頭頂部から生え出た双葉のアホ毛を撫でると風太郎はあまりの心地良さに眠ってしまったのだ。これには竹林も驚いた。

 後々、調べていく内に判明したのだが彼の妹が切った絶妙なバランスによりアホ毛が揺れる事で彼の頭部にあるツボを刺激し、眠気を誘発したという。

 正に奇跡の産物と言えるだろう。その事を知った妹のらいはは以降、ずっと兄にこの髪型を施術し時折、彼の頭を撫でて眠らせてから倫理を超えたのだが、それはまた別の話である。

 

「うそ……そんな事って」

「本当です。皆さんも目の当たりにしましたよね?」

「で、でも俄に信じられないわ」

「なら風太郎に触ってみますか? この状態だと早々起きませんから」

「じゃあ、遠慮なく」

「ちょっと三玖!?」

「いきなりそんなところを……でも確かに起きませんね」

 

 躊躇なく三玖がズボン越しに風太郎のアローラナッシーに触れるも全く起きる気配はない。どうやら彼女の言った言葉は本当のようだ。そのまま彼のナッシーにしたでなめるを繰り出そうとしたナカヌオー三玖に他姉妹の四人が羽交い締めして寸前で止めた。

 

「言った通りでしょう?」

 

 確かに嘘ではなかった。しかしそれはそれで次にまた疑問が生じる。

 何故、あの女狐はこんな有益な情報を自分達にもたらしたのだろうか。

 そもそも彼女の目的が見えない。それは今日だけに限った話ではなく、初めて会った時からだ。学園祭に武力介入して自分達姉妹を煽り宣戦布告したのも謎のまま彼女は撤退してしまったのだから。

 

「どうしてって聞きたそうな顔をしてしますね」

「……当然だよ」

「あんた、何がしたいの」

「こんな情報を私達に寄越すなんて」

「こんな事を聞いてしまったら、十月十日後には上杉さんが五人のパパになってるかもしれないんですよ?」

「聞かせてください。あなたの目的を」

 

 姉妹達の視線が竹林に集まる。彼女達に囲まれたなら普通なら逃げだすだろう。風太郎の場合は嫌でも逃げられないが、常人ならこの状況になれば泣き出すに違いない。

 けれど竹林はそんな中野姉妹に全く臆せず堂々と彼女達を見渡して宣言した。

 

「勿論、私が風太郎の『姉』だからですよ」

 

 彼女の放った言葉を理解できる者は少なくともこの場にはいなかった。

 

「私、小学校を卒業して風太郎を離れてからずっとあの子の事を気に掛けていたんです。風太郎、私がいないとダメな子だから。皆さんと違って長い付き合だからそういうのが分かるんです」

 

 ナチュラルに幼馴染マウントをかましてきた竹林に四葉と一花の堪忍袋の緒が切れかけたが、他の三人が何とか宥めて抑えつけた。気持ちは分かるが今は彼女の話を聞くべきだ。

 

「特に心配していたのは恋愛事に関してです。風太郎が私の事が異性として愛していたのは勿論知っていましたが、私からすればやはり可愛い弟のようなものなので…………残念ながらあの子の想いに応えてあげる事ができませんでした」

 

 今度は姉妹全員がぷつんと何かが頭の中で切れたが、僅かに残っていた理性を全力で働かせてどうにか互いで互いを抑えてつけて昂る怒りを納めた。

 これはわざと煽っているのだろうか、それともただ単に天然なだけなのだろうか。前者なら全力で戦争して叩き潰すだけだが後者なら最悪だ。意図も悪意もなく言葉を振りかざしているなんて尚更、質が悪い。

 

「姉とはいえ、風太郎にいつまでも寄り添う事はできません。それができるのはきっとあの子と生涯を共にするパートナーだけ」

「私だね」

「私よ」

「私」

「私ですね」

「私です」

「……」

 

 流石の竹林も怒涛の私グォレンダァに一瞬言葉を詰まらせたが気にせず彼女達を見渡した。

 

「……私はただ、あなた達が風太郎を幸せにできるかどうか見定めたかっただけなんです。ただ、姉として」

「ふーん。目的は分かったよ。で? 私達は『お姉さん』のお眼鏡に適ったのかな?」

「ええ、まあ……そうですね。及第点、と言ったところです。風太郎の周りに纏わりつく女を察知して直ぐに今日のようにすぐさま呼び出し、行動した点は評価できます」

「ふん、上から目線ね」

「ただ、まだまだ風太郎の事を知らなさすぎるのが残念です。あのアホ毛の件もあなた達は今日までご存知なかったようですし」

 

 それを言われると押し黙ってしまう。あんな有益な情報を知らなかったのは恥だ。先に四葉が言ったように知っていたならとっくの昔に彼はパパになっている。

 

「でも、私達はあなたが知らない風太郎を知っている」

「三玖さん、でしたっけ。例えばなんですか?」

「フータローのフー君の大きさ」

 

 !!?

 

 場の空気が一瞬にして凍った。思わず五月は時計を見た。まだ昼の三時過ぎだ。シモの話は早過ぎる。

 だが、先程そのシモに直接攻撃をしようとした三玖にはそんな事は関係ない。

 

「あなたがフータローを最後にあったのは小学校の時。今のフータローをあなたは知らない」

「あなたは知っている、と?」

「勿論」

 

 そう言って三玖が取り出したのは彼女のスマホだった。指を滑らせて何やら操作した後、彼女はスマホの画面を竹林に見せつけた。

 

「これ」

 

 そこに写っていたのは紛れもなく彼のアローラなナッシーだった。立派な6Vだ。艶も形もいい。

 どうしてこんな写真を三玖が持っていたのか。他の姉妹は当然知っている。

 風太郎の妹、らいはから買収したものだ。買収と言っても金銭でのやり取りではない。そんなもので彼の妹は釣られない。要はギブアンドテイクだ。学校や家庭教師の授業中での彼の盗撮写真や盗聴ボイスを彼の自宅で採取されたものと交換しているのである。

 とどのつまり上杉風太郎に自宅は勿論のこと風呂やトイレすら彼のプライバシーな空間が消失してしまっているが、今スヤスヤと眠る彼はその事実は知らないので全く問題ない。世の中、知らない方がいい隠された真実もあるのだ。

 そんな彼のガバガバ個人情報交換で五つ子達は皆、それぞれ彼のナッシーをスマホの中に納めている。

 これは竹林になくて自分達にしかない絶対的なアドバンテージだ。幼馴染とはいえ、そう簡単にこの牙城を崩す事はできない。

 

 どうだ、と三玖はどや顔でアローラナッシー(ニックネーム、フー君)を見せつけ、姉妹達もざまあみろと中指を立てた。あの涼しい表情を常に浮かべていた自称幼馴染が地団駄を踏む姿をようやく拝める。

 

「なんだ。その程度ですか」

 

 が、彼女の反応は姉妹達が想像していたものと正反対のものだった。

 

「な、なによ! その程度って!」

「あなたは上杉さんのフー君を知らないじゃないですか!!」

「そうです! 私達だけが彼のバナナを……」

「……なにを言ってるのですか」

 

 威嚇する姉妹達にきょとんと首を傾げる竹林。

 しかし次の瞬間、姉妹達は眼を剝いた。

 

「写真など見なくても実物を見ればいいじゃないですか。目の前にあるのですから」

 

 一切の躊躇なく彼女は寝ている風太郎のチャックを下したかと思えば、一瞬にしてそれを取り出した姉妹達の前で見せびらかした。

 

「これをこうやって、ほら大きくなりました……ふふ、こっちも成長したね」

 

 ガサゴソとナッシーのタマタマを弄ったかと思えば、気付けば彼のナッシーはキョダイマックスしていたのだ。

 これには歴戦も猛者である中野姉妹も言葉を失った。写真や映像媒体を経て彼女達は妄想では百戦錬磨だ。数で云えば二千は超えている。スペシャルで、模擬戦では無敗だった。

 しかし生で見るのは今回が初めてであった。ましてや戦闘形態となると更に生々しい。

 

「……どうやら皆さんに風太郎を任せるには、まだまだ先のようですね」

 

 ナッシーに釘付けになりながら息を荒げる五人の獣たちに竹林はやれやれとため息をついた。

 この大切な『弟』を安心して誰かに託すのは、どうやらもう少し先らしい。

 それまでは、『姉』として彼の事をもう少しだけ見守ってあげよう。

 スヤスヤと寝息を立てて眠る風太郎の髪を撫でながら竹林は優しい笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 




別世界線の無双してるバンブー林さんとは関係ないです。


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「高校生ってのはなあ、ババアなんだよ」

京都の子の写真は脇がチラ見しててえっちぃと思いました。


 上杉風太郎の朝は早い。

 早朝四時に起床し彼の一日はまず布団の上での柔軟運動から始まる。父や愛する妹を起こさないよう起き上がる。静かに体をゆっくりと伸ばしながら深く呼吸をすると寝ぼけた頭の思考が段々と鮮明になっていく。

 深呼吸をしながら四肢の柔軟を終えるのにいつも三十分もの時間を費やしていた。勉強熱心な彼はその間も単語帳を片手に持ち勉学に対するストイックさは健在である。

 準備運動を終えほどほどに体が温まったのを確認すると、風太郎はおもむろに鞄の中から『ある物』を取り出し優しい笑みを浮かべた。

 風太郎の視線の先にあるそれ。普段、彼が肌身離さず持ち歩いていた生徒手帳だ。

 割れ物を扱うような繊細な手つきで手帳を開き、挟んでいた一枚の写真をゆっくりと広げた。

 そこに写っていたのは幼い頃、まだやんちゃだった頃の彼と一人の華憐な少女。風太郎にとって憧れであり、とある約束を誓い合った同士であり、自分を助け導いてくれた感謝の念を抱く相手であり、そして────。

 

「んぉぉぉぉおおおおおおおおおおッッ!!!!!」

 

 毎朝欲望をぶちまける顔射の相手でもあった。

 ドッパアアアアアン!!と小気味のいい爽快な音と立てて自慢の44マグナムをぶっ放した風太郎の顔はそれはもう達成感に満ち溢れていた。

 勿論、一発では終わらない。彼の平均装填数は五発と常人の遥かに上回る。脅威のクイックドローで顔、脇、手、胸、腰にそれぞれ弾丸をぶち込んだ。普通の写真なら悲惨な事になっていたが、そこは灰色の脳を持つ秀才上杉風太郎。写真は既にラミネート加工済で抜かりはない。

 

「ふう……」

 

 息を吐き出すと同時に体に籠っていた熱が放出されるような感覚があった。軽い怠惰感と共に体を巡る言葉では言い表せない甘美な悦がそこにはあった。

 これで今日も一日頑張れる。証拠隠滅のためティッシュではなくトイレットペーパーで写真を綺麗に拭いそれをトイレに流すと再び布団に潜り二度目の眠りに就いた。

 

 風太郎がこのようなサイクルに至るようになったのは振り返ること五年前まで遡る。

 京都で出会った憧れと感謝を抱く思い出の少女。彼女と誓った約束を果たすため、恥を忍んで幼馴染に勉強を教えて欲しいと頭を下げてややスパルタ式の勉強を毎日行っていた頃であった。

 今と違い勉強をするにもノウハウがなく何度も躓いては悔しさで拳を握りしめる毎日だった。自分では約束を果たすことができない。変わることができないと諦めてかけた時、風太郎をいつも励ましていたのは写真に写った彼女だった。

 その日も自分の無力さに打ちひしがれ、凹みながら学校から帰宅した。彼女に励ましてもらおうと家族二人が寝静まったのを見計らって風太郎は布団の中で彼女の写真を眺めていた。

 不思議な少女だ。明るくて可憐で、写真を見るだけで気落ちしていた自分に勇気を与えてくれる。勉強漬けで疲労した体に元気を与えてくれた。

 だが、その日は少しだけ。そうほんの少しだけいつもと違った。

 

 ───なんと、写真を見ていると体だけではなく彼の杉も元気になったのだ。

 

 これには風太郎も戸惑いを隠せなかった。当時何も知らないアホガキだった彼は自身の身に起きた異変に対してなんの知識も持ち合わせていなかった。

 だが、知識はなくとも本能で判断するのが人間という生物である。脳は分かっていなくとも体はこの状態を分かっていた。

 自分の意志とは関係なく本能のまま風太郎は写真の少女に釘付けになっていた。

 無垢に笑うその整った顔に。

 陶器のように白く綺麗な手に。

 純白のワンピースから除き見える彼女の脇に。

 風太郎の脳が少女と過ごしたあの思い出の日を再構築していく。握られた手の温かさ。彼女の声。あれで意外と膨らみのあった胸。トランプをした時に対面から目に入ったワンピースのスカートがはだけた太もも。思い返してみれば全て脳裏に焼き付いていた。

 荒くなる呼吸と脈拍。立ち上がった己が分身をどう扱うかまるで分っていたかのように動き出す手。

 そこから初めてのオーガズムを彼が知るのは間もなくのことであった。

 

 収まらない興奮で寝付けないまま迎えたその翌日。風太郎はまたしても驚くことがあった。昨日あんなにも躓いていた算数の問題がスラスラと解けるようになっていたのだ。これには幼馴染の竹林も驚いていた。家でちゃんと自習してたんだねと褒められたが生憎と心当たりがない。

 では何かあったかと問われたら、それはきっと例の行為だ。あれが何かの要因ではないのか。そして幼い風太郎はある一つの疑問を抱くようになる。

 

 昨日のアレをもっとすればもっと勉強が出来るようになるのではないだろうか。

 

 一度思い立ったらもう止まらない。試すしかない。

 その日から風太郎は己の体を実験体とした研究を始めた。翌日、翌々日と布団に潜っては写真にぶちまけるを繰り返す。その度に己の学力が向上した確かな手応えを感じた。

 風太郎はさらに研究を続け、あるメカニズムを解き明かした。どうやらこの行為、ただ単に行うよりも想像力を働かせ脳と杉を限界まで刺激してから行うほうが効果がでるらしい。

 それから彼は毎日、行為に対して徹底的な準備を終えてから行うようになっていた。

 息を整え、拝み、擦り、構えて、抜く。体力のない風太郎は最初、一連の動作を終える頃には肩で息をしていたが今ではこうして涼しい顔で二度寝までしている。

 

 この鍛錬により今となっては学年トップの成績を収めるまでに成長していた。

 が、何事もメリットだけという都合のいい話はない。勿論、この鍛錬にもデメリットは存在している。

 

 ────高校生ってのはなあ、ババアなんだよ。

 

 風太郎自身の性癖が修復不可なレベルで歪んでしまった事だ。普通なら年齢と共に成長する筈だった異性に対する興奮が『写真の子』で完全に固定されてしまい精神と肉体の乖離が起きてしまった。

 性癖は子ども、体は大人。それが上杉風太郎という哀れな男なのだ。中学生はおばさん。高校生はババア。大学生は化石。それが風太郎にとっての異性に対する概念だった。

 しかも質が悪いことに当の本人は気にするどころかそれを誇りにすら思っている。『写真の子』こそ正義だと崇拝すらしている状態である。

 本人からすれば順風満帆。成績、性績ともに頂点まで上り詰めた。何もかもが上手くいっていたと思っていた。

 

 それが間違いだと気付かされたのは、とある五つ子と出会ってからのことであった。

 

 出会いは間違いなく最悪だった。あの悪態を付いてしまった食堂の女子高生(ババア)が己が受け持つ事になる家庭教師としての生徒と知った時は思わず頭を抱えた。冷静になろうと翌日の早朝に普段より多めに写真にぶっ放した。

 他の姉妹とも相性は最悪で、中には睡眠薬を盛って強制的に排除してきた女までいた。これから先、本当に上手くやっていけるのだろうかと不安になった。そもそも女子高生(ババア)に囲まれた職場が地獄である。老人ホームは学校だけで十分だというのに。

 己を鼓舞する為、深夜と早朝に二回ぶちまけた。

 だが苦心しながらも風太郎は一歩一歩ゆっくりと、だが確実に姉妹達と寄り添い良き関係を築けた。

 三女の三玖は始めに心を開いてくれて勉強に協力してくれるようになった。嬉しくてその日は写真の子に祝砲を上げた。

 長女の一花が隠していた夢の事を訊いてその背中を少しだけ後押しした。彼女も少しだけ協力してくれるようになり、またしても祝砲を上げた。

 初めての中間試験は中々に困難を極めた。協力しない二乃、仲違いした五月と悩みの種を抱えながら苦肉の策として彼女達の家に泊まり込みで勉強会をするようになった。いつものように朝の一発をぶちかました時に何故か隣で寝ていた三玖に少し流れ弾が当たって冷や汗をかいたが何とか試験と同様に切り抜ける事ができた。

 続く林間学校もハプニングの連続だ。二乃に妙な勘違いをされたり、一花と二人きりで閉じ込められたり、五月に試されて雪山で倒れかけたりと些細な事はあったが一番の問題は朝のルーティンが崩れた事だ。

 二日目の朝は五つ子たちが眠る中でぶっ放したが、旅館の料理が栄養満点だったせいかいつもよりも量が多く不幸にも寝ていた姉妹全員に被弾したがばれないよう拭き取り何とか事なきをを得た。続く三日目も合同部屋で頭を悩ませたが、流石に同級生の前で砲を取り出す訳にはいかないと泣く泣く自重したが後にこれが後悔を抱くことになる。

 風邪を拗らせた状態で雪山で五月を探し回ったせいか風邪が余計に悪化してしまい林間学校終了と共に入院してしまったのだ。

 しかも不幸な事に入院時にあの写真を持ち合わせていなかったせいで朝の神聖な儀式ができない。このままでは精神に悪影響が出る。絶体絶命の窮地かと思えたが、風太郎はそこで新たな境地に辿り着いた。

 

 ──何日か我慢してぶっ放した方が効果的なんじゃないか?

 

 五年前のあの日から皆勤賞であった朝の儀式。それを敢えて間を開ける事で更なる脳の活性化が見込めると踏んだ風太郎は自身の閃きに一種の興奮を覚えた。

 極めたと思っていた。高みに辿り着いたと思いっていたが慢心だった。とんだ勘違いだ。恥ずかしくて穴があったら入りたい。自分はまだまだ成長できる。まだ先がある。

 開いた扉の向こうに何が待っているのか、風太郎は胸をときめかせながら己の限界に挑む事にした。

 

 これが更なる不幸の始まりだと知らずに。

 

 続くと思っていた今日が、迎えると思っていた明日が、必ずくるとは限らないと思いもしなかったのだから。

 二乃と五月の間で姉妹喧嘩が勃発し五つ子達の仲が険悪になり風太郎も限界まで膨張しそろそろぶちまけようと思っていた、その日だった。

 

 ───零奈と名乗る不審者にあろうことか思い出の写真を奪取されたのだ。

 

 泣いた。風太郎はただ泣いた。嗚咽すらないただ静かに涙を流す男泣きだった。

 二乃が泊まるホテルのフロントで泣いて、その様子を二乃に見られて見かねた彼女が風太郎を部屋に上げて風呂に無理矢理入れたが、その時も風太郎の涙は収まる気配がなかった。

 

 ふざけるな。なんだあの女は。突然現れて好き放題言いやがって。あんなババアがあの子であるものか。

 

 風呂に入り少しは冷静になれるかと思ったが逆効果だった。冷静になればなるほど、あの光景が鮮明に浮かんで苛立ちと怒りが沸々と沸いてくる。

 あれが彼女だと。認めない。断じて認めない。あれが、あの姿が、彼女であるものか。

 しかしそう感情が訴えてもあの女が写真の子しか知り得ない情報を知っていたのは事実。だが風太郎の本能と呼べるものが、あの女を写真の子とは決して認めてはいなかった。

 少なくとも彼女と何か関わりがある人物に違いない。だが本人ではない。なら誰だ。近しい間柄の人間……友人、家族、親、姉妹……双子…………五つ子?

 

 ふと、妙な閃きが脳裏をよぎった。

 

 ──何故あいつは俺に最初から協力的だった。単にお人好しだったから? 違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。本当は別に理由があったからだ。

 

 線と線が繋がり点と点を結び思考が交差していく。

 

 ──そうだ。思い返してみろ。林間学校の二日目の朝、勢い余って流れ弾があいつらに当たってしまった。だが、その中で一人だけ、被弾範囲の広い奴がいた筈だ。これはきっと偶然ではない。俺が弾丸が、俺が想いが込められた分身が、それを向ける相手が彼女だと見分け指し示したんだ。あいつが、そうか。あいつがッ!

 

 本来ならばこの状態では結びつかない真実。正史であったなら、もっと時間がかかっていた謎。

 しかしそれらは五年前から続く朝の儀式によって培われたきた灰色の脳と鍛え上げられた本能によって風太郎はある一つの解に辿り着いた。

 

 後日、風太郎は五つ子の内の彼女だけを呼び出した。

 

 

 

「悪いな、急に呼び出したりして」

 

 放課後の教室。期末試験間際で学校に居残る者も少ない中、風太郎はこの場に彼女を呼び出していた。

 

「いえ……大丈夫ですよ、上杉さん」

 

 林間学校二日目の朝、風太郎のぶちまけた弾丸をその身に一番受けた少女。

 ────中野四葉を。

 

「その、要件は分っています。部活の助っ人の事ですよね。でも信じてください! 私は絶対に両立して……」

「違う。その件じゃない。家庭教師としてじゃなくて……俺個人としてお前に用があった」

「えっ?」

 

 姉妹喧嘩に加え、四葉の陸上部助っ人による勉強会不参加。家庭教師である彼に負担を掛けていると彼女自身も重々分っていた。だからこうして今日、彼に呼び出され注意されるのだろうと。

 けれど、違った。彼の眼はいつになく真剣で。いつになく近くて。四葉にとって"あの日"を思い出させるほど、彼の顔がすぐそこまであった。

 

「う、上杉さん?」

「……そうやって余所余所しく呼ぶのは止めろ。昔みたいに名前で呼んでくれ、四葉」

「ッ!?」

 

 何を言われたのか一瞬分からなかった。だが言葉の意味を理解した途端、四葉は思わず後ずさった。

 何故。どうして。もしかして昨日、五月が口を滑らしたのだろうか。それとも、もしかして彼は最初から分っていた?

 溢れる感情に困惑し、ろくに思考ができない。そんな状態で人間が取る行動は限られている。逃避か受け止めるか。四葉が選んだのは───。

 

「何のことですか?」

 

 逃避だった。嘘を吐いた。大好きな彼に、ずっと愛していた彼に、憧れていた彼に。失望されるから、嫌われるのが怖くて嘘を吐いてしまった。自己嫌悪で吐き気がする。

 けれど真実を語って、今更どの面を下げて彼に何を話せばいいというのか。それならきっと過去を封印していた方がずっとマシで、何も知らないおバカな中野四葉のまま彼の傍にいられるならそれが一番幸せで。

 

「逃げるな!」

「……っ!」

 

 なのになんで彼は自分を抱き寄せて離してくれないのだろう。

 

「わ、私は、ちが……」

「まだ言い訳をするのか。なら証拠を突き付けてやる。みろ四葉」

 

 そう言って風太郎はおもむろにベルトを解いてスラックスをずり下げと同時に立派な杉を取り出して四葉に見せた。

 

「なっ……」

「四葉、俺はお前とあの日出会ってから毎日感謝していたし顔射していた」

 

 取り出したそれを懐かしむように撫でる風太郎に四葉は身動きが取れなかった。

 

「お前に感謝しながら毎日だ。俺の感謝の念が、顔射の想いが、きっとこれに宿ったんだろう。こうやってこいつはお前を指し示している」

「うそ……」

「嘘じゃない。普段なら女子高生(ババア)を相手に反応しないこれが、お前にだけは反応しているんだ」

 

 信じられず四葉は試しに右へとずれてみたが、それと連動して彼の杉も同じ方向を向いてずっと四葉を指したままだった。確かに彼の言う通りダウジングのような役割を果たしているらしい。

 

「分かっただろ。もう言い逃れできねえよ。お前は、俺と出会っていた」

「…………風太郎君、でも私は、私はね」

「聞かせて欲しい。お前のこと、何があったのか、全部」

「でも、失望するよ」

「しない」

「嫌いになる」

「ならない」

「だって私は……」

「『いつか誰かに必要とされる人間になる』覚えているか? 俺の目標だった」

「えっ?」

「でも『誰か』じゃない。今はお前に必要とされたいんだ。四葉」

「…………風太郎君ッ!!」

 

 それから二人は抱き合いながら掛けていた時間を埋め合うように全てを語り合った。時間だけではなく体も物理的に穴と棒で埋め合った。

 風太郎と四葉の中で止まっていた時計の針が動き始めた。過去に囚われたまま本心を隠していた四葉。写真の子に囚われたまま高校生をババアと切り捨て、時折らいはに京都の子のウィッグをかぶせて写真を撮って性癖を拗らせていた風太郎。

 互いの時間が動きだし、四葉は過去という茨から、風太郎は過去という名の性癖からようやく解き放たれたのだった。

 

 




これを風四を言うと殺されるので真面目な風四も書きます。


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その出会いが運命ならば。

 その時の私はただ怖くて、足が震えて涙が溢れそうで、体を動かす事ができなかった。

 悲しい時や不安な時、いつも私達は五人一緒だった。五人一緒だったから何が起きても乗り越える事ができた。五人一緒だったから安心できた。

 でも、今日に限って違った。みんなとはぐれてしまった私は一人ぼっちだったから。

 一人だと何も出来ないんだって、思い知らされて、恐怖と不安と寂しさで胸が押し潰されてしまいそうで。

 

 そんな時だった。彼が私の前に現れたのは。

 颯爽と現れて私の手を掴んだ金髪の男の子。昔お母さんに呼んでもらった御伽噺で見た王子様を私は思い出していた。

 お姫様の窮地に駆け付ける白馬に乗った王子様。

 ヒロインと必ず結ばれる運命の人。

 女の子なら誰しもが憧れる存在。

 ピアスを付けて、前髪を上げた彼の姿は王子様とは程遠くて。

 でも間違いなく私の目には彼が絵本から飛び出てきた王子様に見ていた。

 

 ────掴んでろ。

 

 手を掴まれて戸惑う私に彼はそう言い放った。

 私はただ言われるがままに彼の手を握り返して、そのまま一緒に駆け出した。

 握られた男の子の手は女の子の私よりも少し大きくて、力強くて、それでいて暖かかった。

 姉妹のみんなと一緒にいる時とは違う不思議な安心感を私は彼に抱いた。

 そしてその安心感を上から塗り潰すくらい、緊張もしていた。

 だってそうでしょう。男の子に手を握られるなんて初めてなんだから。

 安堵と緊張と興奮が混じり合い重なり合って私の胸を駆け巡る。

 心臓の音が自分でも聞こえるくらいどくどくと鼓動を刻んで、私の頬が林檎のように真っ赤に染まっていたのは鏡を見なくたって分かった。

 

 何もかもが初めてで、何もかもが新鮮で、何もかもが分からない。

 でも、それでも一つだけ。これだけは確かだと言えるものが、一つだけあった。

 

 ────この出会いはきっと私にとって運命だったんだ。

 

 ◇

 

 小学校の修学旅行と言えば小学生達にとって一大イベントである。それは悪ガキだった上杉風太郎にとっても同じで今日という日を一週間も前からずっと楽しみしていた。

 行先は定番の京都。父親から勝手に拝借したカメラを首に掛け、みんなで遊ぶ用のトランプも鞄に入れた。準備は万端。おまけに気になる幼馴染の女の子とも一緒の班になれた。テンションを上げるなと言う方が無理がある。

 修学旅行当日の朝は風太郎にとっては間違いなく人生で最もハイで、人生で最高の一日になるという予感に胸をときめかせていた。

 

 ……だが、蓋を開けて見ればどうだ。

 一緒の班だった気になるあの子には家族ぐるみで付き合いのある男子がいると判明し、五人班で残りの男女二人もいい雰囲気だ。二組の仲の良い男女とその他一人。これでは明らかに自分だけが浮いている。

 ──不要なカードは切り捨てていけ。

 ふと新幹線でトランプをしていた時の自分の言葉が風太郎の中で木霊した。

 ここでの不要なカード。そんなのもは考えるまでもない。それが『誰』か何て馬鹿な自分でも分っている。

 だからその不要なカードを切り捨てる事にした。上杉風太郎という要らないカードを。

 腹を壊したと嘘を吐いて、彼らを五人から四人の割り切れる数字にして、楽しんでこいと自分から彼女達とはぐれた。

 別に格好つけた訳じゃない。ただあのまま班にいるとやるせなさや惨めさを噛みしめるだけだと思って、それが嫌で逃げ出しただけだ。

 それに散ったばかりの恋にも満たない淡い感情を整理する時間が欲しかったのも事実。端的に言えば風太郎はただ一人になりたかったのだ。

 

 なにやってんだ。せっかくの修学旅行なのに。

 

 班の連中と別れた後、手持ち無沙汰になった風太郎は京都駅の階段で座り込みながら道行く人々にカメラを向け、そして幼馴染の顔を浮かべてはアンニュイな気分に陥っていた。

 カメラの中には新幹線で撮った幼馴染である少女の横顔が既に何枚か保存されている。何度も消そうとしたが、試みるだけで結局、寸前のところで指が止まる。そう簡単に割り切れるものではないと思い知らされて、やるせなさに嘆息した。

 楽しみにして浮足立っていた今朝の自分が嘘のようだ。最低の気分で過ごす最悪の一日。よりにもよって小学校の修学旅行という一生に一度のイベントなのに。

 一人になりたかったのは事実だが一人が楽しい筈がない。だからといって今更、自分の班と合流しようという気にはなれない。それをすれば何もかもが中途半端に終わってしまう。

 彼らとは集合時間ギリギリまで粘って頃合いをみて合流するのがベストだろう。

 でも、結局それまでは一人ぼっちに変わりはない。孤独な時間は嫌でも自分の惨めさを痛感させられる。

 せめて何かで気分を紛らわせたい。何かないだろうか。

 そう思ってカメラを覗き込みながら辺りを見回している時、ふとその光景が風太郎の視界に入った。

 

 ゴスロリのような服装をした年齢不詳の女性が純和のワンピースを身に纏った少女に対して何やら捲し立てていた。

 

 少女の方は自分と同じくらいの年齢だろうか。二人の間に何かトラブルがあったらしい。

 耳を傾けてみると、どうやら少女の方がゴスロリの女性をぶつかってしまい女性がこけて服が汚れてしまったそうだ。

 その事で女性は少女に対して怒りをぶつけている。怒鳴り散らす女性に少女は完全に萎縮してしまっていて目に涙を浮かべていた。

 女性の方は更にヒートアップした様子で声を荒げていく。周りの人間も騒めき始めた。

 流石にそろそろ誰か止めるだろうと風太郎は彼女達の周りを眺めた。だが、どうにも少女の保護者らしき人物や友達が見当たらない。

 周りの大人達もただ傍観しているだけ。誰も止めようとしない。少女の味方は誰一人いない。

 

 ────俺と同じ一人ぼっち、か。

 

 そう思ったと同時に体が無意識に少女の元へ駆け出していた。

 

 ◇

 

 ………面倒な事になった。

 風太郎は大きくため息を漏らしながら金髪に染めた頭を掻いた。

 

「風君! 見て見て、さっきまでいた京都駅があんな小さいよ!」

「なあお前、いつまでついてくんだよ」

「掴んでろって言ったのは風君でしょ?」

「……言ったけど」

「ならいいでしょ」

 

 自身の腕を先程からずっと掴かんでいる少女に風太郎は頭を悩ませた。眉間に眉を寄せる風太郎とは対象的に少女の方は鼻歌でも歌いそうなくらいご機嫌な様子である。

 風太郎は京都駅での出来事を浮かべてはため息を付くサイクルをもう何度も繰り返ししていた。

 気付けば、体が動いていた。

 涙を浮かべる少女の元に駆けつけ掴んでろと手を差し伸ばして、全力疾走であの場から逃走してきた。

 そのまま成り行きで少女と行動を共にするようになったのだが……。

 

 なんであんな事をしちまったんだ……。

 

 自身の軽率な行動に頭痛がした。本当にどうかしている。普段の自分ならきっとあんな真似はしなかった。

 無条件で人助けをするほど自分は善人でない。困っていた少女を助けたのは何かで気を紛らわせたかったのと……彼女が自分と重なって見えたからだ。一人ぼっちの自分と。

 善意で助けたつもりは微塵もない。ただの自己満足だ。だから礼は要らないと、彼女を適当な場所まで送ってそのまま別れようとした。

 しかし今日はどうにも思い通りに事が運ばない日らしい。所謂、厄日という奴だ。

 どういう訳か、少女は風太郎の腕を離さなかった。ゴスロリ女から逃げ、いくつか観光地を巡り清水寺にまで辿り着いた今この時まで少女は頑なに腕を離さず、殆ど密着した状態だ。

 最初は余程怖かったのだろうと同情した。ただの小学生が一人ぼっちで奇妙な格好をした女に絡まれたら恐怖するのは無理もない。

 だが彼女の楽しそうな表情を伺うと、どうにも違うように思えてきた。最初はそうだったかもしれないが少なくとも今は怯えた様子などなく、ただ純粋に観光を楽しんでいるように見える。

 では何故ついてくるのか。風太郎にとっては謎でしかない。

 ついてくるな。手を離せ。似たようなやり取りを何度も繰り返しているが彼女は一向に離してくれる様子はなく、むしろ最初よりも強くホールドされてもはや逃げれない。

 動きにくいとか、暑苦しいとか、あと恥ずかしいからとか、色々と苦言を呈してみたが少女は全く聞く耳を持ってくれなかった。

 猪突猛進な少女に風太郎は駅で出会ってからずっと振り回され続け、気付けばずるずると一緒に行動する羽目になってしまっていた。

 

「ねえ、風君」

「なんだよ」

 

 風君、と独特のあだ名で呼ばれる事にもそろそろ慣れてきた頃だ。

 別に名前を名乗るつもりはなかったのに、何度も何度もしつこく名前を聞かれて風太郎の方から根負けして名前を教えた。

 ところがせっかく名前を教えてやったというのに彼女は『風太郎』では呼びにくいからと自身が考案した『風君』なるあだ名を勝手に命名してきたのだ。

 その背筋がむず痒くなるあだ名は止めてくれと懇願したが、少女は風君、風君と呼びながら袖をくいくいと引っ張るばかり。これには風太郎も早々に抵抗するのを諦めた。

 

「せっかくなんだし写真撮ろうよ」

「写真?」

「うん」

「写真ならさっき撮ったけど」

 

 首に掛けているカメラを撫でた。清水寺から一望できる京都の光景は中々に圧巻だ。思わずテンションの上がった風太郎が何度もシャッターを切ったのはつい先ほどの出来事である。

 その様子を間近で少女も見ていた筈だが、と風太郎は意図の見えない少女に首を傾げた。

 

「ううん。私達の写真」

 

 当然のようにふざけた事を口にする少女に思わず眩暈がした。

 何故自分達の写真なんぞを撮らねばならないのか。一応の抗議はしてみたが、既に結果は分かり切っていた。

 

 いつの間にか少女は他の観光客の大人に声を掛け写真を撮ってもらうよう頼み込んでいたのだ。

 少女に撮影を頼まれた若い大学生くらいと思わしき女性二人組に可愛いだとちびっこカップルだの散々揶揄われながら、無情にもシャッターは切られてしまった。

 

「もっと笑ったら良かったのに」

「……やだね」

 

 ピースをしながら優しく微笑む少女の隣で出来る限り不機嫌そうな表情を貼り付けたままだったのは、風太郎に出来る精一杯の抵抗だった。

 写真を撮り、これで満足しただろうと一息吐いたのも束の間、今度は少女の『せっかくだからお守りも買いたい』という発案と共に風太郎は少女に手を引かれたままお土産が売っている売店まで半強制的に連れて行かれた。

 少女がお土産コーナーで目移りしている中、特段お土産に興味がなく手持ち無沙汰だった風太郎は彼女の横顔を何となく眺めていた。

 綺麗な髪をしてるなとか、睫毛が長いなとか、そんなとりとめのない事を考えていると視線が気になったのが振り向いた少女と目が合ってしまった。

 

「どうしたの?」

「べ、別に……それより買うもんは決まったのかよ」

「うん。これにしようかな」

 

 少女が手に持っていたのは清水寺では定番のお土産であるお守りだった。

 お守りを買うこと自体は別におかしくはない。だが風太郎は少女が持つお守りの数が気になった。

 

「随分と多いな。そういうのって一つの方がいいんじゃねえの?」

「ううん違うよ。あの子たちの分」

「あの子たち?」

「私の姉妹だよ」

「へえ、妹がいるのか?」

「お姉ちゃんもいるよ。まあ、だらしない子だけど。私の大事な家族なんだ」

 

 少女は自身の家族の事を自慢げに語った。

 妹のものを取ってしまうけど頼りになる姉。

 引っ込み思案で人見知りだけど心優しい妹。

 一番元気で体を動かすのが好きな明るい妹。

 食べるのが好きでお母さん離れできない妹。

 そして厳しくて、優しい大好きなお母さん。

 想像以上に多かった少女の家族に面喰ったが、それ以上に風太郎は家族を語る時の少女の顔に何故か目が離せなかった。

 家族を想いやるその慈悲に満ち溢れた表情。先程とは違う少女が見せた別の一面に何処か懐かしさのようなものを感じた。昔、何処かでこの顔を見たことがある。自分に対して向けられた事が確かにあるのだ。

 だけど思い出せない。何処で、一体誰に……。

 思い出せないもどかしさを胸に風太郎は家族の事を語り終えて満足そうに笑う少女から目を逸らした。

 

「みんな私の大好きな家族だよ」

「ふーん……でも五つ子って、信じらんねえな」

「ほんとだよ! そうだ、風君にもみんなを紹介してあげる!」

「いいよ。全員顔が同じなんだろ? ややこしい」

「そんな事ないよ。ちゃんと見分けはつくんだから。お母さんも間違えた事は一度もないよ」

「見分けって、どうやって?」

「愛だって」

 

 五つ子とやらの見分け方に少し興味を抱いたが少女の答えに一瞬で白けてしまった。

 愛だなんて。そんな曖昧なもので顔や体が同じ五人を本当に見分けられるのか風太郎には懐疑的だった。

 実物を見た訳ではないが、少女が言うには顔どころか髪型や服装まで姉妹は同じと聞く。それで見分けがつくならエスパーではないか。

 しかし彼女の母が一度も間違えた事がないと言っているのだから、愛のお陰かどうかはともかくとして彼女達の母親が娘を溺愛しているのは確かなのだろう。

 姉妹達が母を愛しているように姉妹達もまた母親から多大なる寵愛を受けている。母離れできない妹がいると言っていたが少女自身も十分に母に甘えているように見えた。

 別にそれを揶揄うような真似はしない。母親がいるなら子はそれに甘えるのが自然なのだから。

 

「……」

 

 幼い妹を思い浮かべながら風太郎はほんの少しだけ彼女達が羨ましく思った。

 

「しかし五つ子なのは分かったけど……なんでお守りは四つなんだ?」

「本当は全員分買いたかったんだけどね。そしたらバスのお金無くなっちゃうからあの子たちの分だけでもって」

 

 感心しながら意外としっかりしているんだなと風太郎が口にすると、お姉ちゃんだからと少女は笑った。

 『お姉ちゃん』と言っても同い年の五つ子なのだから姉も妹もないようなものだろう。それなのに彼女は姉だと主張する。

 それはきっと少女が姉妹達の事を本当に大事に想っているからだろう。大切でかけがえのない家族の為なら自分の身を削る事を厭わない。その気持ちは幼い妹を持つ風太郎にも理解できた。あの子の為ならなんだって出来る。それはきっと兄や姉の義務であり、その喜びは兄や姉の権利だ。

 

「……ほら」

「えっ?」

 

 だから、これはきっと少女に対する共感や同情に違いない。同じように大切な妹を持つもの同士として。

 四つのお守りを買った少女に風太郎は適当に手に取ったお守りを一つ買って少女に渡した。

 

「お前だけ持ってなかったら姉や妹から仲間外れにされるだろ」

「みんなそんな事しないよ。でも……いいの?」

「勘違いすんな。別に買ってやったんじゃねえよ。貸すだけだ。後でお前らの姉妹と合流した時に金は返せ。うちも貧乏なんだ」

「……うん。ありがと、風君。一生大事にするね」

 

 買ってあげたお守りを大事そうに両手で抱きしめる少女を見て、今更ながら恥ずかしくなってきた。どうにも彼女には調子が狂う。

 破顔する少女の顔を直視できなくて風太郎は顔を逸らして頬を掻いた。

 ああ、でも不思議だ。最初は京都駅であんな事をするんじゃなかったと少女を邪険に思っていたのに、今は正解だったと胸を張って言えるのだから。

 

 

 

「もうすぐ夜だな」

「あっという間だったね」

 

 日は傾き京都の町並みは夕焼けに染まっていた。

 随分と歩き回った。有名な観光地も粗方回った気がする。最初は少女に振り回されていたのに、いつの間にか風太郎の方から積極的に少女を連れて京都の町を巡っていた。

 単純に、ただただ楽しかった。きっと自分一人だったら最悪な一日で終わっていた筈の今日という日を彼女の笑顔が塗り替えてくれた。彼女が傍にいてくれたからこうして笑う事ができた。

 助けたと思っていた少女に実は自分も救われていたんだ。孤独から抜け出す事ができた。彼女には感謝してもしきれない。

 だから、もう少しだけ彼女と一緒にいたい。もう少しだけ彼女と遊びたい。もう少しだけ彼女と話したい。

 けれど、時間がそれを許してはくれなかった。

 

「次のバスが来たら……お別れだな」

「……そうだね」

 

 少女の方も風太郎と同じく京都には修学旅行で来ていたそうだ。彼女の学校の先生には既に電話で連絡しており、そこで彼女は姉妹達と合流する予定だ。風太郎も別の場所で元の班と合流する旨を既に担任に連絡済である。

 こうもとんとん拍子に事が運んだのも、意外と少女がしっかりもので互いの財布の中身を把握しながら行動していたたらに違いない。

 二人の合流場所は別々で、風太郎は少女を見送ろうと彼女と共にバス停のベンチで並んで腰を下していた。

 

「今日はその……ありがとな」

「それは私の台詞だよ。風君が助けてくれたから」

「助けられたのは俺も同じだ」

「えっ?」

「お前がいなきゃ俺は一人ぼっちだった。だから……感謝してる。本当に楽しかった」

「……うん。私も、楽しかった」

 

 いつの間にか繋ぐのが当たり前になっていた少女の手を強く握りしめた。

 今日という日を忘れないよう、この手のぬくもりを忘れないよう、ぎゅっと。

 少女が乗る予定のバスが比較的本数の少ないものだったのは幸運だった。まだ次のバスまで少しだけ時間がある。それまでは、こうして少女と手を繋ぎながら話す事が出来るのだから。

 

「あーあ、修学旅行が終わっちまったらまたつまんねー勉強ばっかに戻るんだよな」

「風君は勉強嫌い?」

「見た目通りだ。お前は?」

「私も嫌い」

「なら一緒だな」

 

 二人でクスクスと笑い合いながら、それからも他愛のない会話が続いた。

 学校のこと、友達のこと、そして家族のこと。

 

「……私のお母さんね、最近体の調子が悪いんだ」

 

 家族の話題になった時、表情に影を落としながら少女がそう切り出した。

 

「病院に行く事も多くて、この間まで入院してて……心配だよ」

「……」

 

 少女の話を聞きながら風太郎は幼い頃に亡くした母の姿を思い出していた。六歳の頃に亡くなった母との思い出は色褪せる事なく鮮明に残っている。

 風太郎は母が作ってくれたパンが好きだった。店で売っているパンなんかよりもよっぽど美味しくて、何より食べていて暖かさを感じたのだ。母が作ってくれた美味しいパンを食べる朝がずっと続くと信じて疑わなかった。

 ……そんな毎日はある日突然終わりを告げた。理不尽に。唐突に。何の前触れもなく。

  

「私ね、お母さんの為にお料理を作ってあげたいの」

「料理?」

「うん、私のお母さんすっごくお料理が上手なんだ。お母さんのおいしいお料理を食べると嫌な事があっても元気になれるの。だから、私もお母さんにお料理を作って食べさせてあげたら、お母さん、元気になれるかなって」

「───」

  

 少女の語る目標に風太郎は眩い太陽の如き光を幻視した。あの日から何も出来なかった自分と違って少女は家族の為に目標を持っている。

 彼女の境遇は会話の中で聞いていた。自分とそう変わらない貧乏な家庭状況だ。何を為すにも不便な環境にあるに違いない。

 それなのに彼女は自分の境遇や環境に諦観する事なく家族の為に変わろうとしている。その姿に風太郎は鈍器で殴られたような衝撃が走った。

   

「……すげえなお前」

「えっ?」

「ちゃんと自分の目標があるってさ」

「そんな……まだしてあげたいってだけで実際には何もできてないよ。お料理もまだまだ失敗ばかりだし」

 

 照れながら謙遜する少女に風太郎は首を振った。

 

「十分にすげえよ。俺なんてお袋に何もしてやれなかったし……今までも何も出来なかったんだ」

 

 流石に少女の前で亡くなった母の事は話さなかったが、それでも彼女は風太郎の言葉で察したようで繋いだ手の力をそっと強めた。

 優しく握られた手のぬくもりに少しだけ目尻が熱くなった。ああ、そうか。ようやく思い出した。

 先程、清水寺で彼女が見せた家族を想う笑み。その既視感はかつて見た母が自分に向けていたそれと同じだった事を思い出した。

 

「……俺にも今から出来ること、ねえかな」

 

 ポツリと漏らした心の芯から滲み出た言葉だった。停滞していた毎日から一本踏み出す為の宣言だった。

 

「お袋の為に出来る事はもうねえけど、でも妹がいるんだ。大切な小さい妹が。せめてあいつの為に何かしてやりたい。お前みたいに」

「私みたいにって……私は一人じゃ何もできないよ。みんながいなきゃ、五人一緒じゃなきゃ何も」

「そんな事ねえよ。俺からしたら立派な奴だよお前は。今日だって俺はお前に救われたんだ」

「風君……」

「お前に会えて良かった。本当に。俺もお前みたいに何か頑張ってみるって決めた」

 

 彼女の手を両手で包み込みながら風太郎は少女に心からの感謝の言葉を贈った。

 もうすぐバスが来る。これがきっと最後に交わす言葉だ。

 

「だから、お前も頑張れ。お袋さんもお前の料理を食べたらきっと良くなる筈だ」

「……っ、うん!」

 

 神に誓った訳でも、約束し合った訳でもない。ただ互いに家族の為に。それだけを目標に二人は互いの夢にエールを送った。

 間もなくしてバスが到着した。バスに乗り込み薄く涙を浮かべながら少女に風太郎は一抹の寂しさを憶えながら、それでも笑顔で彼女を見送ると決めていた。

 

「今日はありがとう。バイバイ……ううん、またね! 風君!」

 

 サヨナラの言葉を飲み込んで再会を望んで手を振る少女に風太郎は目を丸くした。

 ああ、そうだ。彼女の言う通り。これは今生の別れではない。きっとまた会える。

 根拠はないが、何故かそういう確信があった。それに少女にはまだお守り代を返して貰ってないのだ。これでサヨナラはできやしない。

 だから、風太郎もサヨナラではなく再会を祈って少女に手を振った。

 

「ああ、またな、────」

 

 その時、初めて呼んだ彼女の名前に少女は目を丸くして次第に頬を夕焼けと同じ朱色に染めた。

 名前は最初に彼女が名乗ったので知っていた。でも、呼べなかったのは気恥ずかしかったから。

 これは練習だ。次に会った時に自然と彼女の名前を呼べるようになる為の第一歩。

 風太郎は満面の笑みで少女を見送った。今日という日は間違いなく人生で最高の一日だったと噛みしめながら、次に会う日を願って。

 

 ◇

 

 懐かしい夢を見た。京都で出会った、自分の価値観を変える転機となったあの日の事を。

 そして共に過ごしたあの家族想いの少女の事を。

 

 どうしてるんだろうな、あいつ。

 

 顔を洗おうと洗面台の前に立った風太郎は欠伸を噛み殺しながら、鏡に映った自身の金髪を眺めた。

 何か家族の為に自分が出来る事はないか。あの日、変革を決意した風太郎が自問自答の末に選んだのは勉強をいう道だった。

 勉強は誰もが出来る金持ちへの近道だ。一流の大学を出て一流の会社に就職すれば、金を多く稼ぐ事が出来る。そうすればらいはや一人で家庭を支える親父の負担も減るだろう。

 勉強は決して無駄になる事はない。努力の還元率は間違いなく他の何より高い筈だ。ならば全力を注ぐべきである。

 その為に要らない物は全て捨ててきた。貧乏ながら持っていたゲームや玩具、漫画は全部売って代わり参考書を揃えたし、付けていたピアスも外した。

 遊びだけじゃない。家族以外の人間関係すらも断ち切った。勉強の為に。勉強以外のものは全て不要だと切り捨ててきた。

 

 だが、髪だけは、高校進学とともにまた染めていた。高い偏差値の割には校則の緩い学校だからあまりとやかく言われる事はないが、これも無駄の一つには違いない。

 染めるのにも金はかかる。それこそ切り捨てるべき無駄の一つだ。不要なものは全て排するべきである。

 

『風君の髪、とっても似合ってるよ!』

 

 けれど一つだけ。たった一つだけでも、何か捨てなくてもいい物があってもいいではないか。

 捨てず、ずっと持ち続けてもいい拘りがあってもいいではないか。そう、思ってしまったのだ。

 彼女と撮った写真と彼女に褒められたこの髪は風太郎が残した自身の拘りだった。色褪せる事ない過去の象徴だった。

 捨てれる筈がない。これを捨ててしまえば本当に自分は空っぽの人間になってしまう。それだけは御免だ。せかっく彼女が自分を変えてくれたというのに。

 

 また、逢えたらいいな。

 

 もしも街中であの子とすれ違った時、当時と変わらない髪を見れば、彼女は自分に気付いてくれるだろうか。そもそも覚えてくれているだろうか。

 ……なんて考えは流石に女々しいか、と風太郎は苦笑いを浮かべて顔を洗った。

 

「お兄ちゃん、今日から新しいバイトだったよね?」

「ああ。とは言っても今日は生徒との顔合わせ程度だがな。家庭教師だなんて務まるか分からんが……」

「大丈夫だよ。お兄ちゃん、勉強だけは取り柄なんだから」

「だけって、お前……」

「でも、お父さんも凄いバイト見つけて来たよね。五倍の報酬の家庭教師なんて」

「全くだ」

 

 仕事で父は既に家を出ていたので卓袱台をらいはと二人で挟みながら朝食をとっていると思い出したかのようにらいはがバイトの話題を振ってきた。

 昨日、父が突然持ってきた家庭教師のバイトだ。しかも報酬額は相場の五倍とかなり破格。正直、胡散臭さすら感じるが一応は父経由のバイトなので真っ当な内容ではあるのだろう。

 それにこれだけ高額収入のバイトを目の前でぶら下げてられたら多少の怪しさには目を瞑る。

 貧窮な上杉家には仕事を選べる程の余裕などないのだから。

 

 しかし、このバイト。風太郎にとってはある問題があった。

 

「だが、生徒がまさか同い年の女子とはな……」

 

 受け持つ生徒が小学生や中学生ではなく高校生。それも異性ときた。

 しかもそれだけではない。

 

「黒薔薇女子ってたしか物凄くお金持ちの子が通うお嬢様学校だったよね」

「俺でも聞いたことがあるくらいだからな。俺らとは縁のない連中だ」

 

 家庭教師を雇うのだから裕福な家庭なのは当然だが、まさか超が付くほどのお嬢様学校の生徒を受け持つとは思わなかった。

 これだけでも素人が家庭教師をするにはハードルが高すぎるというのに、まだ問題があるのだ。

 

「しかも五つ子だって! 凄いねお兄ちゃん!」

「……ああ」

 

 生徒は一人だけではない。五人の姉妹で五つ子だ。らいはは五つ子という未知の存在に目を輝かせているが風太郎からすれば五つ子という言葉は既知の存在であった。

 一つ、風太郎の中で思い当たる人物がいるのだ。五つ子というカテゴリーに該当する少女が。

 

 ありえない。あの子ではない。

 

 今朝の夢を思い出しながら彼女ではないと首を振った。確かに五年前、京都で出会った少女は自らを五つ子と自称していた。

 だが、彼女は風太郎と同じく貧乏な家庭に生まれ育ち、ボロボロのアパートに住んでいると言っていた。そんな家庭が家庭教師を雇える余裕があるとは思えない。

 ましてやお嬢様学校に五人も娘を通わすことなど不可能だ。少なくとも彼女ではない。あの日、出会い自分を変えてくれた恩人ではない筈だ。

 案外、五つ子というのも世間ではそう珍しい存在ではないのかもしれない。そう思う事にした。

 

「でも、大丈夫かな?」

「大丈夫って何が?」

「お兄ちゃんのそれ」

 

 らいはは風太郎の頭を指さしながら不安そうにぼやいた。妹の指摘に風太郎は思わず言葉を詰まらせた。

 彼女が言わんとしてる事は理解している。それは風太郎自身も気にしていた事だ。

 

「……やっぱマズいか?」

「どう見てもヤンキーだよ」

「………ど、どう見ても優等生だろ。学年トップだぞ」

「相手はお嬢様学校の人達だよ? 金髪の不良なんて怖がるかも」

「不良じゃねえよ。それに地毛って事で誤魔化したら……」

「そんな言い訳通用しないよ?」

「……」

 

 お兄ちゃんが門前払いされないよう祈っておくね、と妹にエールを贈られながら風太郎は不安と恐怖を抱いて家を出た。

 

 

 

「……ここか」

 

 放課後。家庭教師初日という事で今日は生徒との顔見せだけの予定だった為、風太郎は学校が終わって直ぐに受け持つ生徒達の自宅へと赴いた。

 らいはに渡された地図を頼りに辿り着いたのは流行りの高級タワーマンションだ。生徒の姉妹達はその最上階に住んでいるとのことらしい。想像を絶する金持ちだ。破格の給料も納得がいく。

 しかし妙なのは、そんな金持ちが何故自分のような素人のしかも高校生を家庭教師として雇ったのか、だ。これほどのマンションに住むような親なら幾らでも金を叩いて優秀な人材を雇えただろうに。

 風太郎は自身の能力に対して過信も慢心もしていない。らいはの言う通り勉強だけが取り柄のただの高校生だと自覚している。確かに人に勉強を教えるくらいは出来るだろうがプロのレベルを求められては困る。一介の高校生である自分を何故彼女達の親が雇ったのか。

 父の何らかの思惑が絡んでいるのは容易に予想できるが、それが『なに』かは検討が付かない。雇い主と父が何らかの関係があるようだが……。

 

「あなたが上杉風太郎君、ですね?」

 

 父と雇い主の思惑に疑念を抱きながらタワーマンションの入り方に戸惑っていると、後ろから声を掛けられた。

 女性の声に振り向くとそこには妙齢の女性が佇んでいた。気品溢れる女性に思わず息を飲む。

 普段、異性の容姿に対して特別何も思わない風太郎でも一瞬言葉を詰まらせるほど美人な女性だ。

 しかし何故、そんな人が自分の名前を知っているのだろうか。

 

「えっと、あなたは?」

「初めまして。中野零奈といいます。今日から娘がお世話になります」

「……なっ、は、はい! こちらこそよろしくお願いします!」

 

 自身の雇い主だと分かり慌てて頭を下げた。驚いた。まさかこんなに若い女性が母親だとは夢にも思っていなかった。

 俄かに信じられない。彼女の娘は自分と同い年だった筈なのに。とても高校生の娘を持つ母には見えなかった。

 この頭髪の事を指摘されないだろうか。まさか生徒に会う前に本当に門前払いされるのでは。

 緊張と恐怖で頭を下げたまま動けなかった風太郎に零奈は優しく笑った。

 

「そう畏まりまらないでください。もっと楽にしていいですよ」

「し、しかし……」

「ふふ。お父さんとは違って礼儀正しいのですね」

「……えっ?」

「ここでは何ですし、詳しい話は中でしましょうか」

「は、はい……」

 

 意味深な零奈の言葉に呆気にとられながら風太郎は彼女の後について行った。

 

 マンションのエレベータホールでエレベータの到着を待ちながら風太郎は零奈から父との関係を聞かされていた。

 驚いた事に彼女、中野麗奈は父の高校の時の恩師だそうだ。その話を聞いて風太郎を腰を抜かしそうになった。

 父の恩師という事はそれなりの年齢の筈なのだが全くそうは見えない。風太郎の父も実年齢より若く見られるが、その父と同世代と言われても納得してしまう。

 これが世に言う美魔女という奴なのか、と関心しながら風太郎は一番の疑問であった自分が家庭教師として雇われた理由を彼女に問うた。

 

「本来なら教鞭を振るっていた私が娘達に勉強を教えるのが道理なのですが……」

 

 そう言って彼女は恥ずかしそうに事情を話してくれた。

 どうにも彼女、数年前に重病に侵され何度も入退院を繰り返していたほど衰弱していたそうだ。

 奇跡的に回復はしたものの、今でも体調が万全とは言い難く自宅のベッドで療養する日が多いらしい。

 その状態では娘達に勉強を教えてあげるどころか、彼女達に心配され半ば無理やり寝かしつけられてしまうとか。

 しかしそれでも母として、元教育者として娘達の成績は看過できない。そこで零奈とその夫の知人である父が息子である風太郎を家庭教師として雇うよう推薦したそうだ。

 

「……なるほど、事情は理解しました」

 

 自分が雇われた理由は分かった。だが、どうしてプロの家庭教師を雇わないのだろうか。

 娘達の成績向上を願うなら、それこそ素人などではなくプロに任せるべきなのではと思った。

 わざわざ自分である必要が感じられない。高額報酬で雇われた身なので流石に口にはしなかったが、零奈は風太郎の疑問を察したらしく口角を少し吊り上げた。

 

「あなたを雇った理由なら直ぐに分かりますよ」

「えっ?」

 

 どういう意味か尋ねる前にエレベータ-が到着してしまった。

 そのまま二人で乗り込み最上階まで上がるの無言で待っていたのだが、ぽつりと零奈が言葉を漏らした。

 

「……上杉君、あなたには感謝しています」

「感謝って、まだ何もしてませんよ」

「いえ、違います。私がこうして娘達と過ごせるのは、あなたのお陰です」

「……? どういう意味です?」

「あの人は、主人は信じてないでしょうけど……私は思うのです。あの子の料理を食べたから、あの子達の温もりを感じられたから、今うこうして私は元気でいられるのだと」

「まさか……」

 

 料理、母親、病気。三つのキーワードは風太郎をある解へと導き出した。

 五年前、夕焼けに染まった京都の町。互いに語った家族の為という目的。

 少女の姿が脳内でリフレインする。

 

 それと同時にエレベーターの扉が開き、人影が風太郎に目掛けて飛んできた。

 長い髪を揺らしながら、その人影はぎゅっと風太郎を抱き寄せた。

 脳内で再生された五年前の少女の姿と、目の前の自分に抱きつく少女の姿が重なる。

 

「また逢えたわね、風君」

「……二乃」

 

 自然と口にしたのはこの五年間、風太郎が片時も忘れなかった想い出の少女の名だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




最速最短全員幸せ二乃END。続かないです。


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イキれ、リボン。

完結記念。


 四葉は激怒した。

 必ず、かのニブチンノーデリカシーの彼を犯さなければならぬと決意した。

 四葉には勉強がわからぬ。四葉は、五つ子の四女である。思い出の公園でブランコを漕ぎ、姉妹と遊び、あらゆる体育系の部活に助っ人として参加し賞を総なめしてに暮してきた。けれども上杉風太郎に対しては人一倍に敏感であった。

 今日未明、四葉はペンタゴンを出発し、数キロ離れたこの上杉の家が佇む町にやって来た。

 今の上杉家には彼の父も、彼の妹も無い。ストーカーもとい友の武田も無い。十八の、恋人である自分と二人きりになれる絶好の機会だ。四葉は、この貧相な家庭教師を近々花婿として迎える企みを計画していた。秘密裏に進めていた結婚式が間近なのである。

 四葉はそれゆえ花嫁になる前に風太郎の貞操を頂こうと、はるばる家にやって来たのだ。積年の想いが報われてから風太郎の盗撮写真で毎日自分を慰めていたのだがとうとう我慢できなくなったからだ。

 先ず、町のドンキでゴムとおもちゃを買い集め、それから思い出の公園をぶらぶら歩いた。

 四葉には食いしん坊の妹の他に年の離れたもう一人の妹がいた。もうすぐ義妹となる上杉らいはである。今は此の上杉家で、風太郎を悪い虫(姉妹たち)から守っている。その義妹を、これから先に訪ねてみるつもりなのだ。

 予め打合せし、二人きりのシチュエーションを作ってもらう算段である。その報酬として初めてのプレイを収めた動画を高画質で提供する事をらいはに約束していた。

 ライン上でのやり取りはしていたが、こうして直接顔を合わせるのは久方ぶりだった。訪ねて行くのが楽しみである。しかし上杉家に近付いていくうちに四葉は、彼の家の様子を怪しく思った。

 不気味な程にひっそりしている。もう既に日も落ちて、家が暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか夜のせいばかりでは無く、上杉家全体が、やけに寂しい。呑気な四葉も、だんだん不安になって来た。

 例の如く上杉家の前で待ち構えていたストーカー三女の姉をつかまえて、何かあったのか、前に此の家に来たときは、夜でも皆がカレーを食べ家は賑やかであった筈はずだが、と質問した。三女は首を振ってヘッドホンを装着しぷいとそっぽを向いた。かわいい。

 電柱裏に隠れてカレーを食べていた五女に逢い、今度はもっと語勢を強くして質問した。五女は答えなかった。

 四葉は五女の脂の乗った横腹を摘まみながら質問を重ねた。五女は、お腹を摘まむのは止めてくださいと顔を赤くして懇願した。

 

「一花が、上杉君を犯します」

「どうして犯すの?」

「恋心を自分に抱いている、というのですが上杉君はそんな、一花に恋心を持ってはいません……上杉君は私のです」

「たくさん上杉さんを犯したの?」

「はい、はじめは上杉君の実家で。それから自身の部屋で。それから、らいはちゃんの目の前で。それから、らいはちゃんの格好で。それから、四葉の格好で。それから、お義父さまの目の前で」

「わお。一花はご乱心?」

「いいえ、乱心ではありません。一花√を、信じている、というのです。このごろは、上杉君の心をも手に入れた豪語して、彼が拒絶するようなら犯された時の写真をばら撒くと。命令を拒めば十字架にかけられて、上杉君は犯されます。今日は、六回犯されました。私も四回混じりましたが」

 

 聞いて、四葉は五女の横腹をぎゅっと握りながら激怒した。

 

「呆あきれた夫だ。イカして置けないよ」

 

 四葉は、単純な女であった。ドンキの買い物袋を手に持ったままで、のそのそ上杉家にはいって行った。

 たちまち彼女は、猿轡のされた風太郎に無理矢理交わっていた長女に見つかり捕縛された。

 調べられて、四葉の懐中からは厚さ0.01mmのオレンジ味がするゴムが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。四葉は、長女の前に引き出された。

 

「このゴムで何をするつもりだったのかな。言ってみてよ」

 

 長女一花は静かに、けれども威厳を以って問いつめた。

 その姉の顔は風太郎と致したばかりのお陰かつやつやしており何処か栗の華の匂いがした。エロスの権化である。

 

「夫を泥棒猫の手から救うの」

 

 四葉は悪びれずに答えた。

 

「四葉が?」

 

 長女は憫笑した。

 

「仕方の無い子だね。四葉には、私のフータロー君への愛がわからないよ」

「ふざけないで!」

 

 四葉は、イキリボンとなって反駁した。

 

「人の夫を奪うのは、最も恥ずべき悪徳だよ。一花は、私の夫さえ奪って平然としてる」

「奪うのが、正当の心構えなのだと、スクランブルエッグ編で私に教えてくれたのは、四葉だよ。最終回の後、結婚式は全部夢で卒業旅行中にフータロー君と私がやっちゃってそのまま一花(わたし)√に分岐もあり得るよね」

 

 長女は長々と興奮した様子で己のIF√について嬉々として語り、やがて落着いてほっと溜息をついた。

 

「……私だって、純愛を望んでいるのだけどね」

「何が純愛だよ。この泥棒猫」

 

 今度は四葉が嘲笑した。

 

「罪の無い夫を無理やり犯して、何が純愛なの」

「黙りなよ、下賎のリボン」

 

 長女はさっと顔を挙げて報いた。

 

「口では、どんな綺麗事でも言えるよ。私はどんな手段を使ってもフータロー君が欲しいの。それにもうフータロー君は私にメロメロだよ。何回もしたし何回も出したの。もう私のなの。ほらここに婚姻届があるでしょ? 二人の印はしてるからあとは役所に出すだけだよ」

「一花は卑劣だよ。上杉さんを脅したんでしょ? 無理矢理押させたんだね」

「いくら叫ぼうが今更だよ。これが運命だよ。知りながらも突き進んだ道でしょ?」

「何を」

「いつまでも五人一緒と信じて、私達がフータロー君を諦めていないと知らず、フータロー君の助けを求める声も聞かず、その果ての終局だよ。もはや止める術など無いの」

 

 とどのつまり彼女がいようが既婚者だろうがヤりたい男の子とヤったもん勝ち青春ならと長女は主張しているのだ。卑劣な長女の策略に拳を握りしめる四葉。

 そんな四葉を鼻で笑い長女は勝利宣言として四葉を今から磔にして目の前で風太郎と交わると言い渡した。風太郎が寝取られれば素質のない四葉は脳が破壊される。実質的な死刑である。

 死刑を言い渡されても四葉は瞳に宿す意思を燃やしながら長女を睨み付けた。

 私は絶対上杉さんから愛を取り戻す。ただ、──と言いかけて、四葉は足もとに視線を落し瞬時ためらい、

 

「ただ、もし私に姉妹としての情をかけたいつもりなら、上杉さんを目の前で犯すまでに三日間の日限を与えて。

 せめて人生で一度きりの式を挙げたいの。三日のうちに、私は上杉さんと結婚式を挙げさせて、必ず、ここへ帰って来るから」

 

 ばかな、と長女は可愛らしい花澤ボイスで低く笑った。

 

「とんでもない嘘を言うね。逃がしたリボンが帰って来るというの?」

「そうだよ。帰って来るの」

 

 四葉は必死に言い張った。

 

「私は約束を守るよ。私を三日間だけ自由にして。夫が、私との式を待っているの。そんなに私を信じられないなら……。

 いいよ。この家にらいはちゃんがいます。私の大切な義妹だよ。あの子を人質としてここに置いて行くよ。

 私が逃げてしまって、三日目の日暮までここに帰って来なかったら義妹の前で上杉さんを犯して。お願いそうして」

 

 それを聞いて長女は残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。

 生意気なことを言うわ。どうせ帰って来ないにきまっている。寝取られて脳が破壊されるのが怖いんだ。

 この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白いね。そうしてフータロー君を、三日目後にずっと犯してあげるのも気味がいい。

 これが本当の一花√だよと私はブイサインでらいはちゃんを磔にて目の前でフータロー君との子を出産するの。

 無駄のない完璧な一花√が組みあがり長女は興奮して下着をジワリと濡らした。

 

「いいよ。らいはちゃんを呼んで。三日目には日没までに帰って来なよ。遅れたら、らいはちゃんの目の前でフータロー君と私のノーカット版ベッドシーンの撮影だよ。

 ちょっと遅れて来るがお勧めかな。そうしたら四葉の罪は永遠に許してあげる」

「なに、何を言うの」

「はは。フータロー君のアヘ顔ダブルピースは見たくはないでしょ。遅れて来て。四葉の心はわかっているよ」

 

 四葉は口惜しく、地団駄踏んだ。勢い余って上杉家の畳を踏み抜いたがそれを気に掛ける余裕はなかった。

 義妹らいはは、深夜、長女に起こされた。暴君一花の面前で、佳き義姉と佳き義妹は、数か月ぶりに相逢うた。四葉は、らいはに一切の事情を語った。らいはは無言で首肯ずき、四葉の胸をひしと両手で摘まんだ。姉と妹の間は、それでよかった。

 らいはは縄打たれた。四葉は一花に搾り取られてげっそりとしている風太郎を連れてすぐに出発した。初夏、満天の星である。月がきれいですねと五月の声が聞こえた気がした。

 四葉はその夜、一睡もせず急ぎに急いで、ペンタゴンへ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、マルオは病院に出て仕事をはじめていた。

 四葉の夫である風太郎も、無理矢理担ぎこまれて今はリボンを使ってベッドに縛り付けられていた。

 

 意識を失っていた風太郎だったが、目が覚め視界に飛び込んできたよろめいて歩いて来る恋人の、虚無を宿した瞳に驚いた。

 そうして戸惑いながら四葉に質問を浴びせた。なんだこれは。どうなっている。一花に五月に次はお前か。震える風太郎の声は残念ながら四葉には届かない。代わりに四葉は彼を安心させる為に笑み浮かべた。

 

「天井の染みを数えてて」

 

 四葉は無理に笑おうと努めた。

 

「上杉さんの家に用事を残して来たの。またすぐ家に行かなきゃダメだから。明日、上杉さんとの結婚式を挙げるの。早いほうがいいですよね?」

 

 風太郎は顔を真っ青にした。聞いていない。何のことだ。この手首のリボンを解け。

 

「嬉しい? ふふ良かった。えっちなコスもドンキで買って来たよ。さあ、これから交わりながら電話でお父さんたちに知らせて。結婚式は、明日だって」

 

 四葉は、また、よろよろと歩き出し、風太郎に跨り、服をぬがし、呼吸を調え、間もなくベッドに倒れ伏し、呼吸も許さぬくらい激しい交尾を行った。

 

 眼が覚めたのは夜だった。四葉は起きてすぐやつれた様子の風太郎のフー君を握りしめ元気にさせ、風太郎と交わった。

 事の最中、念入りに結婚式を明日だよ、と告げた。風太郎は驚き、冗談だろ。せめて大学卒業までは待ってくれ、と答えた。四葉は待つことは出来ない、どうか明日にしてくれ給え、と更に犯した。

 なかなか承諾してくれない。夜明けまで無理やり交わりつづけて、やっと、どうにか風太郎をなだめ、脅して、説き伏せた。

 二人きりで行われた結婚式は、真昼にベッドの上で行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、早速初夜(二回目)が開始された。

 四葉は狭いベッドの中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、陽気に五等分の花嫁のオープニングテーマを歌い、腰を振るった。四葉は、満面に喜色を湛え、しばらくは、一花とのあの約束をさえ忘れていた。

 初夜は、三回戦に入っていよいよ乱れ華やかになり、四葉は風太郎が気絶している事に全く気付かなかった。四葉は、一生このままここにいたいと思った。

 この佳い夫と生涯交わり続けて行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。四葉は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

 明日の日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一犯しして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、性欲も収まっているだろう。

 少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。四葉ほどのリボンにも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、精魂搾り取られやつれた風太郎に近寄り、

 

「私もちょっと疲れちゃったから、もう寝ますね。眼が覚めたら、すぐに上杉さんの実家に出かけます。大切な用事があるんです。

 私がいなくても、もう上杉さんには……風太郎君には子供が十月十日後には可愛い赤ちゃんができるのだから、寂しい事は無いよね。

 風太郎君のお嫁さんの、一番嫌いなものは、人の男を奪う女と、それから、嘘をつく女だよ。風太郎君も、それは、知っているね。

 私達の間に、どんな秘密でも作っちゃだめ。風太郎君に言いたいのは、それだけだよ。風太郎君のお嫁さんは、風太郎君を忘れず一生愛しているから風太郎君も浮気しちゃダメだよ」

 

 風太郎は、顔を真っ青にして首肯いた。四葉は、それから風太郎の肩をたたいて、

 

「私には風太郎君だけだ。他には、何も無い。だから全部あげる。この体も心も全部。その代わり風太郎君も全部私にちょうだい」

 

 風太郎は震えながら枕を涙で濡らしていた。

 

 四葉はそのままベッドにもぐり込んで、風太郎と更に交わった。

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。四葉は跳ね起き、南無三、ヤりすぎたかいや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。

 今日は是非とも、あの姉に、人の夫を奪うとどうなるかを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。四葉は、悠々と身仕度をはじめた。性欲も幾分かマシになっている様子である。

 身仕度は出来た。さて、四葉は、ぶるんとおっぱいを大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

 

 私の風太郎君は、今宵、寝取られます。寝取られる為に走ります。身代りのらいはちゃんを救う為に走るんです。一花の奸佞邪智を打ち破る為に走るんです。走らなければだめ。

 そうして、私の夫は寝取れます。愛するらいはちゃんを守らないと。さようなら、ペンタゴン。

 若い四葉は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。

 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。家を出て、信号を横切り、商店街をくぐり抜け、隣町に着いた頃には、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

 四葉は額の汗をリボンで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。私達は、きっと佳い夫婦になるだろう。

 

 私には、いま、なんの気がかりも無い筈です。まっすぐに上杉家に行き着けば、それでよいですよね。そんなに急ぐ必要も無いかな。

 ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、五等分の花嫁エンディングテーマをあやねるボイスで歌い出した。ぶらぶら歩いてドンキに立ち寄り風太郎のとサイズが近いバイブを買い揃え、そろそろ道の半ばに到達した頃。

 降って湧わいた災難、四葉の足は、はたと、止まった。見よ、前方の川を。先ほどの豪雨で氾濫しているではないか。四葉は茫然と、立ちすくんだ。

 別に川が渡れなくて唖然としているのではない。四葉がその気なら氾濫していようが激流だろうが泳いで渡れるし何なら水上歩行も可能である。彼女の身体能力はその域にある。

 単純に昨日の夜を思い出し体が疼きムラムラとしてきたのだ。大洪水なのは目の前の川ではなく四葉のくまさんパンツだった。

 性欲はいよいよ、ふくれ上り、四葉はその場でうずくまり、リボン泣きに泣きながら神ねぎに手を挙げて哀願した。ああ、鎮しずめたまえ荒れ狂う我が性欲を!

 

「もう十二時過ぎです。このまま上杉家に行き着くことが出来なかったら、あの佳い義妹が、らいはちゃんが私のために目の前で兄を寝取られて憤死してしまいます」

 

 性欲は、四葉の叫びを笑う如く、ますます激しく躍り狂う。

 性欲は制御が効かず、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は四葉も覚悟した。ここでオナり切るより他に無い。

 ああ、神々も照覧あれ! 性欲にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。四葉は、懐から先程ドンキで購入したバイブを取り出し大蛇のようにのた打ち荒れ狂うそれを相手に必死の闘争を開始した

 

 満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる性欲を、なんのこれしきとバイブで股を掻かきわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、ねぎも哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。

 押し流されつつも、見事、イクことで性欲発散が出来たのである。

 ありがとう。四葉はメロンのように大きな胸震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、無駄には出来ない。陽は既に西に傾きかけている。歩道橋を上り、信号を渡って、ほっとした時。

 突然、目の前に見覚えのある姉達が躍り出た。

 

「待ちなさい」

 

 三人の姉達の一人。次女が腰に手を当て四葉の顔をぎろりと睨みつけた。

 

「何をするの。私は陽の沈まぬうちに上杉家へ行かなきゃならないの。放して」

「どっこい放さないわ。隠し持ってるフー君の下着を置いて行きなさい」

「私には上杉さんとの撮れたてほやほやのハメ撮りの他には何も無いよ。その、たった一つのハメ撮りもこれから一花に見せびらかしてやるんだから」

「そのハメ撮りが欲しいのよ」

「……もしかして一花の命令でここで私を待ち伏せしていたの」

 

 姉妹たちは、ものも言わず一斉にそれぞれの武器を振り上げた。次女は手に持ったパンケーキを、三女は抹茶ソーダの缶を、五女は上杉家特性カレーをそれぞれ四葉に浴びせようとしたのだ。

 四葉はひょいと、体を折り曲げ回避し、懐から取り出した三本のバイブを黒鍵の如く指に挟み構えた。

 

「気の毒だけど愛のためだよ!」

 

 ずぶりと目にもとまらぬ三連撃、たちまち三人を絶頂させ、さっさと走って上杉家へと向かった。

 信号を待てず一気に歩道橋を駈け降りたが、流石に疲労した。無尽蔵の体力がここに来て尽きかけていた。原因はあの風太郎との連戦だろう。ほぼ睡眠と取らずにひたすら交わっていたのだから。

 膝ががくがくと震え出した。これ以上立ち上る事が出来ない。

 ああ、性欲を凌ぎ切り、姉妹を三人もイキ倒し花嫁、ここまで突破して来た四葉よ。真の魔王、エメラルドよ。

 今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する義妹は、らいはちゃんは私を信じたばかりに、やがて兄を寝取られて憤死しなければならない。まさしく一花の思う壺つぼだよ。

 と自分を叱ってみるのだが、体はピクリとも動かない。その場で寝転がりバイブを使って体力を回復させようと試みた。

 身体疲労すれば、精神も共にやられてしまう。もう、一花と私との一夫多妻制ENDでもいいんじゃないかなと花嫁に不似合いな不貞腐された根性が、心の隅に巣喰った。

 私は、これほど努力したました。約束を破るつもりは無かったんです。私は精一ぱいおっぱいに努めて来たんです。動けなくなるまで上杉さんとヤッて来たんです。

 でも私はこの大事な時に精も根も尽きてしまった。ちなみに上杉さんの性も根も吸い尽くしました。

 

 私はきっと笑われる。新婚旅行にもナチュラルに付いていく泥棒猫の姉妹たちに笑われる。私は義妹のらいはちゃんを欺いてしまいました。

 中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じです。ああ、もう、みんなとの週休二日制の日替わりで上杉さんを分け合うENDでもいいじゃないですか。これが、私の定った運命なのかも知れません。

 らいはちゃん、ごめんなさい。ゆるしてください。

 あなたは、いつも私に上杉さんの使用済みビロビロおパンツを分けてくれました。私もお返しにこの上杉さんの使用済みゴムをあげたかったです。

 私たちは、本当に佳い義姉と義妹になれたと思っています。今だって、あなたは私が上杉さんとのハメ撮り動画を無心に待っているでしょう。ああ、待っているはずです。ありがとう、らいはちゃん。

 本当にごめんなさい。家族の姉妹の絆は、この世で一番誇るべき宝なのに。らいはちゃん、私は走りました。あなたを欺くつもりは、無かったんです。

 信じてください。私は急ぎに急いでここまで来たんですよ。濁流のような性欲を突破しました。山賊のような姉妹達の囲みからも、するりと抜けて一気に歩道橋を駈け降りて来たんです。

 私だから、出来たんですよ。三玖ならきっと上杉さんとやるだけやって疲れて添い寝するのがやっとです。

 ああ、でも。もういんです。私は負けたんです。だらしが無いよ。笑ってください。

 一花は私に、ちょっと遅れて来なよって耳打ちをしました。遅れたら、身代りの脳を破壊して、私を助けてくれると約束しました。

 私は一花の卑劣を憎みました。でも、今になってみると、私は一花の言うままになっています。

 私は、遅れて行くことになります。一花は私を見て笑い、そして一花ならそのまま私も磔にして一花の出産に立ち会わされる事になります。

 そうなったら、私は、上杉さんをただ寝取られるより辛い。私は、永遠の敗北者だ。エターナルルーザーだ。取り消してよって言っても断じて取り消してはくれない。

 らいはちゃん、私も脳を破壊されます。あなたと一緒に憤死させて欲しいです。あなただけは私を信じてくれるに違いありません。

 いえ、それも私の独りよがりなのかも……ああ、もういっそ、ハーレムENDでもいいのかな。

 お金は一花が稼いでくれるし、二乃と三玖が家事をやってくれて、私と五月とらいはちゃんが上杉さんと常に交代しながら交わり続ける。それでいいんじゃないかな。

 倫理的がどうだの、法がどうだの、ハーレムENDは逃げだの、考えてみれば、くだらないですね。好きな人と添い遂げる。それがラブコメの定法じゃないですか。

 ああ、何もかも、馬鹿馬鹿しい。私は敗北者です。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 

 ふと耳に、パンパンと何かを叩きつける音が聞えた。そっと頭を上げて、息を呑んでリボンをすました。

 どうやらポケットに入れていたスマホからだ。スマホを取り出してみると画面が汗で濡れたポケットに反応したのか昨日撮ったハメ撮り動画が再生されていたのである。

 その動画に吸い込まれるように四葉は身をかがめた。喘ぎ声を漏らす風太郎の表情に興奮し、持っていたバイブを使ってずぶりと差し込んだ。

 はうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。イこう。

 肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望と膨大な性欲が生れた。義務遂行の希望と風太郎と交わりたいという単純明快な性欲である。

 日没までには、まだ時間がある。私を、待っている人がいるんです。少しも疑わず、上杉さんとのハメ撮り動画を待っている人がいるんです。

 私は、信じられている。ハーレムENDなんて気のいい事は言って居られません。私は、信頼に報いなければなりません。イキれ! リボン!

 

 私は信頼されています。私は信頼されているんです。

 さっきのあの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だよ。忘れてしまえばいい。やりまくって疲れていると、ふいとあんな悪い夢を見ちゃうんだ。

 四葉、あなたの恥じゃない。やはり、あなたは真の魔王エメラルドです。

 こうして再び立って走れるようになったじゃないですか。ありがたい! 私は、愛の士として寝取られる事が出来ます。

 ああ、陽が沈んでしまいます。お願いします、待ってください。せめてらいはちゃんにこの総撮影時間十八時間にも及ぶハメ撮り動画をらいはちゃんに!

 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、四葉は緑のリボンのように走った。

 ずっとストーキングしていた江場部長を仰天させ、たまたま歩いていた無堂を蹴とばし、道路を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、千倍も早く走った。

 肉まんを口に加えた見覚えのある姉妹達とすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

 

「今頃は、らいはちゃんも磔にかかっています」

 

 ああ、らいはちゃんのために私は、いまこんなに走っているの。らいはちゃんを憤死せてはいけない。

 急げ、四葉。遅刻しちゃだめ。愛と誠の力を、あの長女に思い知らせてやれ。

 風態なんかは、どうでもいい。四葉は、今は、バイブを挟んだ状態だった。イク事で正真正銘の無尽蔵の体力を得たのである。

 二度、三度、下の口から潮が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、うえすぎの看板が見える。看板は夕陽を受けてきらきら光っている。

 

「あ、風太郎の恋人さん」

 

 何処か余裕のある声が、風と共に聞えた。

 

「誰ですか」

 

 四葉は走りながら尋ねた。

 

「竹林です。風太郎の幼馴染で風太郎が想いを寄せていた初恋の相手です」

 

 開幕早々幼馴染アピールをしながら煽ってきた黒髪の女に四葉は血管を浮き立たせた。

 

「もう、駄目ですよ。無駄です。無駄なんですよ無駄無駄。走るのはやめて下さい。もう風太郎の妹さんを助けになることは出来ませんよ」

「いえ、まだ陽は沈んでいません」

「ちょうど今、妹さんが磔になるところです。あなたは遅かったのです。残念ですね。私なら間に合っていたのに。それで風太郎の恋人を名乗れるのでしょうか」

「いえ、まだ陽は沈んでしません!」

 

 四葉は先ほどからナチュラルに煽ってくる竹林に何しにきたのかと憤りを隠せないまま走り続けていた。今は走るより他は無い。

 

「無駄ですよ、やめて下さい。妹さんは、あなたを信じていました。刑場に引き出されても、平気でいました。

 長女さんが、さんざん妹さんをからかっても、四葉さんは来ます、とだけ答え、強い信念で待ってしました」

「それだから、走るんです。信じられているから走るんですよ。間に合う、間に合わぬは問題じゃないんです。寝取られて脳が破壊されるかどうかの問題でないんですよ。

 私はらいはちゃんにハメ撮り動画を差し上げる約束の為に走っているんです! ついて来てください! 竹林さん」

「あなたは気が狂ってしまったんですね。それでは、気が済むまで走りましょう。ひょっとしたら、間に合わうかもしれませんし、私も風太郎のハメ撮り動画が気になります」

 

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈んでいなかった。最後の死力を尽して、四葉は走った。

 四葉の頭は、からっぽだ。リボンが付いているだけで、中身は何一つ考えていない。

 ただ、約束を守る為に走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、四葉は疾風の如く上杉家に突入した。間に合った。

 

「待って。その子の脳を破壊しちゃダメです! 上杉四葉が帰って来ました! 約束のとおり、いま、帰って来ました!」

 

 と大声で刑場の姉妹達に向かって叫んだつもりであったが、上杉四葉という明らかに煽る単語に腹を立てて姉妹達は華麗にスルー。

 姉妹達は一人として彼女の到着に気づかぬふりをした。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたらいはは、徐々に釣り上げられてゆく。

 四葉はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流のような性欲を抑えた時のようにバイブで掻きわけ、掻きわけ、

 

「私です、一花! 寝取られるのは、私です。四葉です。らいはちゃんを人質にした私は、ここにいます!」

 

 あやねる声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく義妹の両足に、齧りついた。

 姉妹達は、どよめいた。あっぱれ。許せ。カレーを持てなせと口々にわめいた。らいはの縄は、ほどかれたのである。

 

「らいはちゃん」

 

 四葉は眼に涙を浮べて言った。

 

「私をぶってください。力一杯に頬をはたいてください。私は、途中で一度、悪い夢を見てしまいました。私はあなたから上杉さんのビロビロおパンツをもらう資格さえ無いんです。さあぶってください」

 

 らいはは、すべてを察した様子で首肯き、四葉の右胸を揉みしごいた。持たざる者が持つ者への嫉妬である。揉んでからから優しく微笑み、

 

「四葉さん、私もぶってください。私はこの三日の間、たった一度だけ、四葉さんを疑ってしまいました。撮ってくれたハメ撮り動画がブレブレで見れたものではなかったらどうしようって。

 生れて、はじめて四葉さんを疑いました。四葉さんが私をぶってくれなきゃ、私は四葉さんから動画を受け取れません」

 

 四葉は先ほどのお返しにらいはの胸に手を伸ばしたが空ぶった。想定していた場所にそれがなかったのである。持つべき者は持たざる者の心が理解できないのだ。

 

 「ありがとう、姉妹よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからハメ撮り動画を見せあって二人でイッた。

 姉妹の中からも、私にもその動画を見せなさいよとブーイングが上がった。暴君一花は、姉妹の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

 

「あなた達の望みは叶ったね。あなた達は、私の心に勝ったの。一花√は決して空虚な妄想じゃなかった。

 どうか、お姉ちゃんも仲間に入れてくれないかな。どうか、私の願いを聞き入れて、ハーレムENDの仲間の一人にしてほしいの」

 

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

 

「万歳、ハーレムEND万歳」

 

 ペンタゴンから回収され拘束されていた風太郎はその様子を見て全身から血が引いていくのを感じていた。

 恐る恐る姉妹達に尋ねる。

 

「俺の意志は」

「ないよ」

「ないわ」

「ない」

「ありえません」

「いりますか? それ」

 

 風太郎は、顔を真っ青にした。

 

 

 



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パズルは五等分できなくても風太郎は五等分できる。

ごとぱず配信記念。


『私たちのゲームが出来たから遊んで欲しい』

 

 そんな意味不明な言葉と共に問題児の五つ子たちから押し付けるような形でスマホを渡された風太郎は未だに電源すら入れていないそれを片手にどうするべきか自宅の居間で頭を悩ませていた。

 少し前の彼ならばゲームなどくだらないと一蹴しただろうが、今は少しだけ事情が違う。あの姉妹に対してある一定以上の信頼を寄せる今の風太郎は彼女たちに『お願い』をされたら何だかんだ言って聞いてしまう程度には甘くなっていた。本人はそれを頑なに認めようとはしないだろうが。

 

「まっ、やらなかったら後が面倒だしな」

 

 建前半分本音半分が混じり合った言葉を溜息と共に吐き出して五つ子たちから渡されたスマホの電源を入れた。

 未だにガラケーを愛用している彼にとってスマホの操作に不慣れだったが、ホーム画面にずらりと五つ並んだアイコンを適当に一つタップするとゲームを起動できたのでほっと胸を撫で下ろした。

 何故かウェディングドレスを着た彼女たちのアイコンが五つ並んだだけのホーム画面を見た時は一瞬恐怖を感じたがとりあえず今はゲームを進めようと気に留めないでおく。

 

『五等分の花嫁~五つ子ちゃん達はパズル(と上杉風太郎)を五等分できない。』

 

 大音量で流れたタイトルコールに風太郎は思わず心臓が止まるかと思った。幸いなことにらいはは友人の家にお泊まり、父は仕事で朝まで帰ってこない為、現在上杉家は風太郎だけであり音に腰を抜かした醜態を誰かに見られることはなかった。二人のいる前でこんなゲーム音を鳴らしたらどんな反応をされるか想像するまでもない。

 聞き馴染んだ五つ子たちの声で発せられたタイトルコールに何処か不穏な単語が混じっていた気がしたが、いきなり流れた大音量に気が動転してそれどころではなかった。

 音量を小さくしようとしたがどうやるか分からない為、諦めてそのままゲームを続行した。

 しかし『五等分の花嫁』とはまた随分と猟奇的なタイトルだ。一見すればミステリー小説か何かのタイトルかと勘違いそうになる。案外そういう内容なのかとゲームを進めてみたがどうやら違うらしい。

 

「ソーシャルゲームって奴か? これ」

 

 いきなり結婚式の式場と思われる場面から始まり五つ子の誰かと思わしき花嫁が振り向いた瞬間、画面に十枚のカードが表示された。以前、前田に見せて貰ったことがあるソーシャルゲームのガチャ画面に類似していたのを風太郎は思い出していた。このゲームも所謂そのソシャゲに分類されるものなんだろう。

 服装が違う五つ子たちが描かれたカードの内訳を見ると、それも見事に五等分されており五人のカードがそれぞれ二枚づつ表示されていた。何やらカードの右下に星が五つ表示されているが装飾か何かだろうか。十枚全て五つ星が付いていたので風太郎はそれが何か理解しないままゲームを進めた。

 

「ジャンルはパズルか。あいつらのイメージじゃないな」

 

 デフォルメ化された五つ子のドロップを繋げて消していく割とポピュラーな内容だった。かつて勉強一辺倒になる前の風太郎もこういったジャンルのゲームを友人たちとした記憶がある。頭を使うゲームとあの馬鹿な五つ子たちでは水と油のような組合せかと思ったが、それを気にしても意味はないだろう。

 

『まずはお兄ちゃんの情報を入力してね』

 

 ナビゲーターのらいはがフルボイスでゲームの解説をしてくれるが、この場合ゲームの開発に巻き込まれていた妹を嘆くべきなのか、可愛らしくデフォルメ化された愛すべき妹に癒されるべきなのか。

 最近は何かとあの姉妹に毒されてきてはないかと心配しながら風太郎は入力事項に目を通した。

 

「プレイヤーネームの入力か……なんだこれ、俺の名前が既に入力されてるな。しかも変えれねえし」

「誕生日の入力……これも既に入ってるな」

「次にキャラクターの編成は……さっき引いた奴入れたらいいか。レベル六十? こういうのって普通はレベル一からじゃないのか」

 

 ナビゲーターのらいはに言われるままフリックを繰り返しようやく最初のパズルゲームの画面にまで辿り着いた。何かと妙な点が多いが最近のゲームはこういうのが当たり前なのだろうと深くは考えなかった。

 

『やっほーフータロー君』

 

 パズル画面に入ると見慣れた制服姿の一花が表示され、こちらに手を振ってきた。あまりにもリアリティのある挙動に驚いたがこれもゲーム業界の日進月歩の賜物なのだろう。

 

『まずは黄色(わたし)以外の()を消そうか』

 

 パズルの横に表示された一花が笑みを浮かべながらそう指示してくる。どうやら毎回パズル画面では姉妹の誰かが出てきてパズルのナビをしてくれるらしい。

 風太郎としてはパズルのナビもらいはで良かったのだが、それを口にしたら画面の一花に睨まれてスマホを落としかけた。リアリティがありすぎるというのも考えものだ。

 

『うん、その調子だよ。どんどん他の()を消してね』

 

 言われるがままパズルを解いていくと気づけば盤面が黄色一色になり一花の顔をしたドロップで埋まっていた。この手のゲームは色んな色のドロップが降ってくるため、いくら特定の色を消しても普通は一色になるとはならない筈だが、このステージはそういう仕様なのだろう。

 絵面としてはシュールを通り越してもはや恐怖に片足を突っ込んでいるがとりあえずこれでクリアだ。

 

『よくできました! 頑張ったねフータロー君。ご褒美は冷蔵庫に入っているからね』

 

 ご褒美、というのはステージクリアの報酬の事だろうか。なら冷蔵庫はアイテムボックスを指すのだろう。敢えてゲーム特有の単語を使わない事で没入感を演出していると言ったところか。中々に凝っていると素直に関心した。

 

『お兄ちゃん。次はストーリーモードを進めていこう』

 

 と、らいはに案内されてプレイしてみた風太郎だったがその内容に頬をひくつかせた。無理もない。どう見ても自分と五つ子たちのファーストコンタクトが描かれているのだから。

 プライバシーもへったくれもないストーリーモードという名の赤裸々に語られる自分達の過去に目を覆いたくなる。だが段々と進めていくうちに恥かしさよりも懐かしさが上回り、こんなこともあったなと苦笑いを浮かべるようになっていた。

 

『第二章~屋上の告白~』

 

 どうにもこのゲーム、風太郎と五つ子たちとの過去を振り返りながらパズルを解いていくジャンル分類がよく分からないゲームだ。目的がよく分からないゲームだなとは思いつつも何だかんだと進めていくと気づけばストーリーは第二章に入っていた。

 屋上の、という単語から風太郎は三玖との思い出を連想する。この章ではおそらく三玖が中心なのだろう。

 

『放課後に屋上に来て。フータローに伝えたい事がある。どうしてもこの気持ちが抑えきれないの』

 

 机の中に入っていた手紙を見て固まるゲームの自分。あの時と一言一句違わないその手紙に風太郎は懐かしさを感じていた。

 当時の自分は相当焦ったものだ。ゲームのアバターである『上杉風太郎』も同じ反応をしている。

 ここまで同じだと次の展開も予測できる。屋上に向かい三玖と対峙する。

 

『誰にも聞かれたくなかったから』

『フータロー。あのね』

『ずっと言いたかったの』

 

 屋上で向かい合う二人。何処か緊張した空気が流れるその光景は何もかもが記憶通りだ。

 ならばこの先も同じだろう。

 

『……す…』

『……す』

 

 言葉を絞り出すように彼女は告白するのだ。今朝出したテストの答え『陶晴賢』と。

 

『すき』

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「…………は?」

 

 思わず声が出た。テキストの見間違えかと思ったがフルボイスで流れた台詞は少なくとも『陶晴賢』ではなかった。幻聴を疑いマジマジとスマホを眺めたがテキストは流れてしまいストーリーはそのまま進行する。

 当然だがゲームの中の風太郎も戸惑いを隠せない様子だった。当たり前だろう。ゲーム内だとまだ出会って二日だ。それが何故こうなる。

 

『フータローは私を変えてくれたから』

 

 まだ何もしていない。変えるような出来事もないしこの時点ではろくに会話すらなかった筈だ。

 

『フータローのおかげで何も出来なかった私は変われたの』

 

 そう言って三玖は美味しそうな手作りのパンをおもむろに取り出したが時系列が明らかにバグっている。何故この時点で三玖がパンを作れるのか。何故それを持って来ているのか。

 そして摩訶不思議な事にゲームの中の風太郎はそのパンを何の疑問を抱かないまま一瞬で頬張りごくりと飲み込んだ。

 確かに修学旅行で似たような事をした記憶があるが、出会って二日の女に告白と同時に渡されたパンをその場で喰うような真似は流石にできない。

 ゲームの中の自分の行動に若干引いていると次の瞬間、目を疑うような光景が流れ込んだ。

 

 突如、ゲームの風太郎の中に存在しない(・・・・・)記憶が流れ込んできたのだ。

 中間試験、林間学校、期末試験、新学期、修学旅行、日の出祭。三玖と共に過ごし、三玖の為に奔走し、三玖の為に駆け抜けた覚えのない日々。

 もはや時の流れなどクソ喰らえとでも言わんばかりの矛盾した怒涛の回想は何故か感動的なBGMと共に流れたが、これで感動できる人間などこのイカれたストーリーの製作者くらいだ。

 激流のように流れ込んできた回想の記憶が終えた時、ゲームの中の風太郎は何故か決心が付いたように三玖を見据え、口を開いた。

 

『俺も好きだ、三玖。俺の子を産んでくれ』

『うん。子供たちで合戦ができるくらい大家族になろうね』

 

 間違いなく自分が言いそうにもない知性の欠片もない下品な告白の返事に三玖は二つ返事で返し二人は結ばれた。

 そして時系列は飛び、冒頭の結婚式のシーンに戻る。

 おめでとう、と見覚えのある参列者たちから言葉を贈られ二人は誓いのキスを交わし物語は光の中で完結した。

 

「……俺の頭がおかしくなったのか?」

 

 あまりの展開に数十秒は茫然としていた風太郎が最初に発した言葉がそれだった。久しぶりにゲームをしたせいで脳がおかしくなっているかもしれない。でなければ悪夢か何かだ。

 理解不能、というより理解してはいけない狂気だ。あれを理解してしまうと常人に戻れなくなる。そんな内容だった。

 さっきのアレはバグか何かだろう。現実逃避しゲーム画面を見ると『二章クリア、三章へ続く』と表示されていた。どうやらあれがエンディングではないらしい。あの狂気にはまだ続きがあるのだ。その事実が末恐ろしい。

 怖いもの見たさで三章のあらすじ画面を開いてみたがそれがまた酷かった

 バスタオル姿の二乃を誤って押し倒したのは記憶のとおりの展開だがそのまま二人が発情してズッコンバッ婚した後の二乃との関係を描くストーリーらしく、そっと画面から目を背けた。

 

「と、とりあえずここまでプレイしたら十分だろ……」

 

 一日で二章までストーリーを進めたのだ。あの五つ子たちもこれで文句は言わないだろう。

 今日はここで辞めたほうがいい。というかこれ以上やると精神的にやられる。

 

「……ん? なんだこれ」

 

 嫌な汗をかいたせいか喉が渇いた。気分転換もかねてお茶を入れようと冷蔵庫を開けると何故かそこに茶封筒が入っていた。

 何故こんなものが冷蔵庫に。らいはか親父が何かの拍子に間違って入れたのだろうか。しかし冷蔵庫にそんなものを入れる機会など間違ってもないだろう。

 怪訝に想いながら封筒を手に取り裏返してみると黄色い蛍光ペンで短くこう書かれていた。

 

『ご褒美』

 

「……ッ!!?」

 

 声を上げなかったのは男としての意地か、はたまた声すら上げれなかったのか。

 震える手からこぼれた封筒が床に落ちてその中身をぶちまけた。中に入っていたのは札束だった。 

 先ほどゲーム内での一花の声が風太郎の脳で再生された。

 

『ここが上杉さんのお家なんですね』

『来るの初めて』

『なんだか懐かしい感じね』

『五月ちゃんはお泊まりした事あったんだっけ』

『ふふ、もう第二のお家のようなものですよ』

 

 居間から聞こえてきた声に鳥肌が立ったがそれがゲームの音声だと分かった途端、風太郎はその場で腰を抜かした。

 ああそうだ。ゲームの画面を閉じないまま居間を離れたんだった。最大音量の設定になっているせいて実際の声と誤認してしまったんだ。

 画面をのぞき込むとゲームのホーム画面で五つ子たちが現実世界と変わらない挙動でわちゃわちゃと動いていた。背景は何故かこの上杉家の居間が最初から設定されておりそのまま変えていなかったので背景に合わせた台詞をゲーム内のキャラが発していたんだろう。

 

「……ったく、ビビらせやがって」

 

 さっきの封筒はきっと一花あたりがらいはに頼んで仕込んだ悪戯か何かだろう。そう考えるのが妥当だ。

 明日会ったら頬を引っ張ってやろうか。姉妹への仕返しを考えながら風太郎はスマホの電源を切ろうとして……。

 

「……?」

 

 ふと違和感を覚えた。

 先ほどまでわちゃわちゃしていた五つ子たちが画面から消えていたのだ。

 またバグか。バグだらけじゃねえか。内心でそう悪態を付いたが、画面をよく見ると居間から見える押し入れの襖が少し開いている事に気付いた。

 なるほど。ここに隠れたのか。きっとタップしたら五つ子たちが出てきて驚かす、みたいな演出があるのだろう。変なところで凝っているゲームだ。こんな所に拘らずあのイカれたストーリーモードに力を入れたらいいものを。

 まあいい。今度こそスマホの電源を落とし精神的疲労を負わせられたゲームからようやく解放された。

 とにかく疲れた。今日は早く寝よう。普段なら明日の授業の予習と五つ子たちの問題作成に取り掛かるところだがそんな気力は微塵も残ってはいない。

 

 早めの就寝を決めた風太郎は布団を取り出そうとし、

 

 

 普段はきっちりと閉められている筈の押入れの襖が少し開いていた事に気付かないまま手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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非日常編
わんないとらぶる①


フー君がラブラブする話。


 深く溜息を吐くと白い息が視界にふわりと広がった。肉体的な疲労と精神的な困憊が混じり合い吐く息すら重く感じる。肌に突き刺さるような真冬の冷たい風は体だけではなく心まで熱を奪ってしまう。

 どうしてこうなったのだろう。帰りたくない。さっきからそんな幼稚な考えが浮かんでは消える自分に嫌気が差す。寒空の下、棒になりそうな足を無理やり引きずって帰省本能に従いながら駅に向かう中で風太郎は只々、途方に暮れていた。

 普段なら仕事が終われば寄り道などせずに真っ直ぐ帰路に着く。共に残業を終えた同僚に飲みに誘われても断るのが常だったが、今日ばかりは些か事情が異なった。

 

 今朝の事だった。端的に言えば妻と喧嘩をした。

 売り言葉に買い言葉。反発し、感情的になり、つい思ってもない言葉を互いにぶつけてしまった。口喧嘩自体は結婚する前から幾度なくしてきたが、それでも長引くことはなかった。

 だが今回は別だ。積もり積もったものが爆発してしまったのだ。

 結婚してから数年。愛する妹からも仕事人間だと揶揄される風太郎はつい仕事を優先しがちになってしまっている。ここ最近は残業が続きそれを何度も妻に咎められたのだが、仕事が繁忙期なこともあってそう都合よく直ぐには改善はできない。

 上手く折り合いを付けることができないまま、先延ばしにして妻よりも仕事を優先して夜遅くに帰る日々が続いてしまい、とうとう妻の堪忍袋の緒が切れた。

 昔ならともかく、今なら彼女に謝罪をして埋め合わせをする程度の対応はできた。けれど多忙な仕事でのストレスと疲労が重なってか、風太郎もつい昔のように反発してしまったのだ。

 今更ながら、馬鹿な真似をしたと頭を抱えた。妻の言葉にカチンと来たのは確かだが、堪えれる程度にはもう大人だと言うのに。

 

「……はあ」

 

 今朝の醜い掛け合いを思い出して、風太郎は再び溜息を吐いた。

 どうすればいいのか分からない。解が見えない。学業に全てを捧げていた学生時代ですら、こんな難問と出会った事などなかった。

 突発的な喧嘩であったならどれだけマシだったか。それならば今までの経験を活かせばいい。真っ先に帰って妻に謝ればいいのだから。俺が悪かったと頭を下げて、ご機嫌取りに彼女の好物でも買って帰れば元通りだ。

 しかし今回はそうではない。毎朝、朝食を共にする時に感じていた段々と空気が冷え切っていく感覚。それを分かっていながらも、見て見ぬふりをしてしまい、不満を募らせて爆発させてしまった。

 一朝一夕の怒りではない。長い年月をかけて降り積もった負債だ。そう簡単に解消できるとはとても思えなかった。

 妹や彼女達姉妹に相談をしようかと考えたが、首を振った。これは夫婦の問題である。自分で解決しなければ意味がない。親族とはいえ、ここで彼女達に頼ってしまっては今度も似たような事が起きた際に毎回他の人間に頼るようになってしまう。

 持ち前の責任感の強さから、誰かに頼るのを良しとはしなかった。けれど幾ら思考を割いても案は浮かばず、何も解決しないまま時間だけが無駄に過ぎて行く。

 今日みたいな日に限って仕事がスムーズに進み、いつもよりも少しだけ早く仕事を終えてしまったのは間が悪いとしか言いようがない。

 普段よりも早い帰路に着く中、ふと思った。このまま真っ直ぐに帰って妻と顔を合わすことが出来るのだろうか、と。

 今朝の事でご機嫌取りに今日だけ早く帰ってきたと思われ、ならば普段からもっと早く帰ってくればいいのにと愚痴を零されそこからまた口論になる可能性だってある。

 悪い方へ、悪い方へと思考の天秤が傾く。ネガティブな考えに囚われて上手く頭が回らない。打開策が浮かんでは消えをループする。まるで出口の見えない迷宮に迷い込んだような気分だ。

 気付くと、改札口へと向かう筈の足が自然と別の方向へと進んでいた。

 

 ふらりとふらりと目的なく足を運び、立ち止まったのは駅に面している少し寂れた居酒屋の前だった。普段、通勤だけにこの駅を利用している風太郎にとってはあまり馴染みない店だ。もしかしたら職場の同僚達がよく利用しているのかもしれない。

 自然と手が店の扉へと伸びていた事に気付き、手を止めた。

 何をしているのだろう、俺は。自身の非合理的な行動に心底驚いた。これはただの逃避だ。ましても問題を先延ばしにしているだけ。

 だが、確かにこのまま家に帰っても妻との和解案がないのも確かだ。今の自分に必要なのは考える時間と心の余裕。一度、冷静になる必要がある。

 夏休みの宿題を終えていない小学生でももう少しマシな言い訳をするだろうなと、自嘲しながら風太郎は暖簾を潜ろうとして、待てと立ち止まりコートのポケットにしまい込んでいたスマホを撫でた。

 妻へ連絡をするか。いや、ほんの少し一人でいる時間が欲しいだけだ。いい案が浮かんだら直ぐに帰る。それならわざわざ連絡する必要もないだろう。ここで一時間過ごしたとしても普段よりは早く帰れる。

 結局のところは逃げでしかない。自身の行動を頭の隅で冷静に分析しながらも、逃避を選ぶ自分が情けなかった。

 

「……風太郎?」

 

 店のカウンター席に案内され、席に着いてほっと一息を吐いて適当に注文を終えた時だった。

 背後から自身の名前を呼ぶ女性の声が聞こえ、びくりと肩を震わせた。こんな場所で声を掛けられるとは夢にも思ってなかった。それも上杉ではなく風太郎と親しそうに呼ぶ女の声を。

 一体、誰だ。交友関係は決して広いとは言い難い。勉学一筋に生きていた高校時代よりはマシになったとは言え、それでも人と比べれば遥かに狭いものである。そんな数少ない知人の中で自分の事を名前で呼ぶ女性となると更に限られてくる。真っ先に浮かんだのは妻の姉妹達だ。かけがえのない思い出を与えてくれた恩人達。

 しかし有り得ない、と直ぐに脳が否定した。あの五つ子達は顔も体も声も全て同じであるが、今ではそれでも誰だか判別できる程度には彼女達の事を知った身だ。声を聞けば直ぐに名前が浮かぶ。

 この声は姉妹の誰にも該当しなかった。ならば誰だ。眉根を寄せながら振り向くと、そこには長い黒髪をサイドテールに纏めた女性が驚いた表情を浮かべていた。

 

「奇遇だね、こんなところで」

 

 見知らぬ顔、ではない。何処かで見覚えがある。この懐かしい感じ……。

 過去の記憶を掘り起こしながら女性の姿を眺めていた風太郎は、彼女がしていたヘアピンを見てようやくその名を思い出した。

 

「……竹林、か」

「もう、何? その間。また私の顔忘れてたでしょ」

「何年振りだと思ってんだ。一目じゃ分からん」

「私は風太郎だって直ぐに分かったけど?」

「……」

「それに今は『竹林』じゃないよ」

 

 そうだったな、と口にしながら竹林の左手の薬指に嵌められた銀色に輝くそれを風太郎は横目で見た。風太郎自身の指にも嵌められている一人の異性に永遠の愛を誓った証。

 彼女達の式はちょうど自分達と同じ年に挙げていたからよく覚えている。相手の男性も風太郎が見知った眼鏡の彼だった。家族ぐるみで付き合いがあったのだから順当に結ばれたのだろう。素直にお似合いだと思った。

 彼は悪い奴じゃない。空っぽだった自分に得る物が欲しいと必死になって勉強を頑張ろうとした時、風太郎は竹林だけではなく彼にも世話になった。

 だから二人の式には参加し、友として幼馴染として純粋に彼女達を祝福をした。その時、純白に包まれた竹林の姿に一瞬だけ目を奪われたのは風太郎にとって墓場まで持っていく秘密の一つだ。

 もし彼女の式に妻やその姉妹が招待されていたら、と考えるだけでも末恐ろしい。きっとバレたら事あるごとに揶揄されるに違いない。

 

「同僚と飲みに、って訳でも無さそうだね。一人?」

「ああ」

 

 自然な立ち振る舞いで自分の隣の席に着く竹林に風太郎は眉を顰めた。一人の時間が欲しいという名目でこんな場所に来たというのにこれでは言い訳が成り立たない。

 だからといって隣に座ったばかりの彼女を置いて今更、店を出ていくという選択肢も取る気にはなれなかった。若干居心地の悪さを感じながらも、風太郎は固い木製の椅子を座り直した。

 

「なぁんだ、寂しいな」

「そう言うお前も一人じゃねえか。旦那はいいのか?」

「……あーまあ、今日はね。風太郎の方こそいいの? 可愛い奥さんが待ってるでしょ?」

「……今日はな」

 

 二人して言葉を濁した事で互いに事情を察し、同時に苦笑いを浮かべた。

 どうやら向こうもパートナーと何かあったらしい。昔なら察せなかった人の心の機敏。それを感じ取れるようになったのも妻とその姉妹のお陰だ。

 しかし、こんな偶然があるのだろうか。今日初めて入った店で幼馴染と再会し、共に似たような悩みを抱えていただなんて。

 パートナーの悩みを抱く竹林に風太郎は少し親近感が湧いた。さっきまでは一人でいたかったのに、どういう訳か今は少しだけ彼女とこの悩みを分かち合いたくなった。もしかしたら何か解決の糸口が見えるかもしれない。

 それは竹林も同じようで、彼女は自身が注文をしたビール瓶をそのままこちらに向けてきた。

 

「いや、酒は……」

「居酒屋に入っておいて何言ってるの。ほら」

 

 あまり外で飲むのは好まないのだが、昔と変わらない仕切りたがりの彼女が飲めと言うのだ。断ろうとしたらきっと骨が折れる。

 今の風太郎にそんな労力は残っていなかった。渋々グラスを持って竹林に注いでもらい、瓶を奪って今度は彼女のグラスに風太郎が注いだ。そんな粗暴で不器用な風太郎に竹林は懐かしむようにはにかんだ。

 偶然の再会に対するものか、それとも同じ悩みを持つ同士としてか。

 カチンと音を立ててながらグラスを互いに引っ付けて乾杯を上げた。

 

 ◇

 

 父と違って風太郎はそこまで酒に強い訳ではなく、そもそもあまり飲酒という行為が好きではなかった。

 どの酒が美味いだの料理に合うのだのと感じれるほど舌は肥えていないし、何よりアルコール摂取による思考の低下が馬鹿馬鹿しくて嫌いだった。

 人間の本質は学び考える事だ。何が悲しくてその本質を投げ捨ててまで一時の快楽の為に馬鹿にならなければならいのか。大学に進学し、社会に出てからも酒で馬鹿をした人間も周りで何人も見てきた。

 だから酒を飲む時は仕事での最低限での付き合いか、もしくは信頼できる家族や親族の前でしか飲まないようにしていたし、それすらも酔わない程度の量で抑えていた。

 

 ……それなのに、どうしてこうなったのだろう。

 

「ふうたろう、聞いてる?」

「ああ、聞いてる、聞いてるから」

 

 意外と酒豪であった彼女のペースに付き合わされて、既に空の瓶がカウンターに並んでいた。

 旦那が出張ばかりで家を空けてばかりだとか、帰ってきても疲れていて直ぐに寝てしまい最近は殆ど会話がないだとか、休日もあまり構ってくれないだとか。

 風太郎にとっても耳が痛い愚痴を延々と零されながら竹林はペースを落とすどころか更に上げていた。

 彼女に合わせたせいで、気付けば脳が上手く働かなくて、アルコールによる高揚感と思考にもやが掛かったような独特の感覚が風太郎の思考能力を奪っていた。

 酒が入る度に風太郎もまた、上杉家の現状を零すようになり妻の事を彼女に話すようになっていた。案の定、彼女からは自身に対するダメ出しのような苦言を呈されたが。

 だが、こうして本音で語り合う事が出来るのは貴重だ。男は男の、女は女の、それぞれの悩みを互いに嚙み砕いて知る事が出来た。

 話は段々と盛り上がり、小学生時代の馬鹿をしていた思い出話にまで発展していた。

 

「ねえ、風太郎」

「なんだ?」

「風太郎はさ、どうして急に勉強を教えてって言い出したの?」

 

 ほんのりと朱色に染まった頬の竹林が覗き込むように尋ねてきた。酔っているからだろうか、妙に距離が近い。

 素面であったなら風太郎も冷静に彼女を引き離しただろうが、今は酒が入っていたせいでそんな判断も出来なかった。

 ただ純粋に子どもの頃に戻ったような錯覚していて、あの時と同じように目と鼻の先にある彼女の顔をただ当たり前のように受け入れていた。

 

「言っただろ。何もない空っぽな自分に嫌気が差したって」

「あの写真の子だよね」

「ああ。約束したからな」

「本当にそれだけ?」

「なに?」

「実は疑ってたんだよね、あの時から」

「何の事だ」

「その子の事が好きだったから、でしょ?」

 

 からかうようにはにかむ竹林に、風太郎は今自分がどんな表情を浮かべているのか分からなかった。

 風太郎の事なら何でも分かるよ、と自慢するように笑う彼女。

 ああ、そうだ。彼女はいつだってそうだった。まるで自分を弟のように見て、仕切りたがりで、馬鹿な自分を叱って、けれど最後はしょうがないなと折れて付き合ってくれる。

 そんな彼女に上杉風太郎は初めて異性に対して淡い思慕の情を抱いたのだと思い出した。

 

「ははは、やっぱり当たった? もしかして初恋だったり?」

「……」

 

 普段ならこんな馬鹿げた事はきっと口にしない。

 これもきっと酔いのせいで、からかう彼女の表情を崩してやりたと悪ガキのような悪戯心が芽生えたのだろう。

 だから、これは酒のせいだ。

 

「俺の初恋はお前だった」

「───えっ?」

 

 言葉を無くす竹林にしてやったりと笑みを浮かべてグラスに残ったビールを仰いだ。

 さっきまで談笑していた筈の竹林の表情が固まった事に、その時の風太郎は気付かなかった。

 

 



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わんないとらぶる②

とある長い夜に思い出すのは最悪の出会いと奇妙な再会。


 腐れ縁であり、幼馴染であり、親友であり、世話のかかる弟でもある。それが小学生時代の竹林にとって上杉風太郎との関係だった。

 生真面目で学級長の自分と不真面目で不良な彼。水と油のように思える彼とは意外にも馬が合った。

 見た目は派手で口調も粗暴であるが、根は優しく何より一緒にいて純粋に楽しかった。互いに相手を振り回し、振り回される日々に心から笑い合った。

 弟のような幼馴染との変わらない日常。それがこれからもずっと続いて、彼とずっと馬鹿なやり取りを交わしていくのだと竹林はどこか漠然と思っていた。

 

『俺には何もない。変わりたいんだ』

 

 終わりは、ある日突如訪れた。あの勉強嫌いの風太郎がどういう風の吹き回しか自分に勉強を教えて欲しいと頭を下げてきたのだ。

 自分と幼馴染の真田の前で頭を下げて勉強を押して欲しいと懇願する風太郎に竹林は喜んで彼の手を取った。

 意地っ張りで素直じゃない彼が自分を頼ってくれたのが嬉しかった。お馬鹿な彼もようやく勉強の大切さを学んだのだ。その成長は歓迎すべきである。彼との勉強会はきっと楽しいに違いない。

 けれど、随分と急な変化だと思った。流石に何か理由があるのだろう。竹林は風太郎の心境の変化に疑問を投げかけると彼は自慢するかのようにある一枚の写真を目の前で見せびらかした。

 

『約束したんだ。こいつと』

 

 その写真に映っていたのはカメラから目線を逸らすぶっきらぼうな表情の風太郎と……彼とは対象的に笑顔を浮かべてピースサインをする一人の可憐な少女。

 修学旅行の時に彼が自分達の班と離れていた間に出会い、行動を共にしたその少女に感化されたそうだ。

 嬉しそうに、楽しそうに、大事そうに、───愛おしそうに。

 その少女との約束を語る風太郎に竹林は何故か、言葉にし難い寂しさを覚えた。今まで共に遊び笑い揶揄いあっていた世話のかかる弟のような幼馴染が、気づけば何処か遠くに行ってしまったかのような錯覚を感じたのだ。

 なんだろう、この空白は。なんだろう。このぽっかりと心に空いた穴は。

 風太郎が成長するきっかけを得れて素直に祝福できる筈なのに、何故私の心はこんなにもモヤモヤとしてるんだろう。

 

 後に彼が純白のドレスに身を包んだ女性と誓いの口付けを交わした姿を見るまで、竹林はこの時に抱いていた名状しがたい喪失感の正体に気付く事ができなかった。

 

 ◇

 

「俺の初恋はお前だった」

「───えっ?」

 

 彼の口から零れ落ちた言葉の意味を飲み込むのに数瞬の時間を要した。

 何を言っているのか分からなくて、酒に酔ったせいでおかしな幻聴が聞こえたのかと思った。

 グラスに残ったビールを一気に呷る風太郎に竹林は未だに言葉を失ったまま目を見開いていた。

 

「……もう、そういう冗談はダメだよ。いくらお酒を飲んでるからって」

 

 何とか絞り出した声。かつて彼が悪戯をした際に叱りつけたのと同じように質の悪い冗談を口にする幼馴染を窘めた。

 平静を装ってはみたが、きっと声は震えていただろう。それこそ自分と普段から傍にいる夫ならこの異変に気付いた筈だ。

 けれど酔った影響か、それとも生粋の鈍さ故か。風太郎はその異変に気付いていない。それどころか、こちらの事情など知ったことかと言わんばかりに空になったグラスにビールを注ぎ始めた。

 

「俺がそういう冗談を言うと思うか?」

「昔の風太郎なら言ったでしょ」

 

 悪戯が好きで明るく真っ直ぐで純粋な彼なら、きっと悪意なくこんな冗談を口にしただろう。

 昔から彼を知る幼馴染だからこその認識。既知故の常識。

 

「その昔の頃から俺はお前が好きだったんだよ」

「──」

 

 だが、そんな常識はいとも簡単に崩れるものだと思い知らされた。

 

「……そう、だったんだ」

「ああ」

「知らなかったよ、そんなの。だって風太郎、普通に遊んでたじゃん私と。あんな笑って」

「そりゃ好きな奴と遊んでたんだからな。楽しいに決まってる」

「気付かなかった」

「言わなかったからな」

「言わなかったって……」

「……正確には言えなかった」

「言えなかった?」

 

 『どうして』という言葉を続けそうになって、それをなんとか飲み込む。そんな必死な自分自身に竹林は戸惑いを隠せなかった。

 なぜ今更そんな話を聞く必要があるんだ。子ども頃に抱いた幼稚な恋なんて今は関係ないだろう。

 なぜ聞こうとした事をそんなに驚くんだ。いい酒の肴だ。必死になって止める必要はないだろう。

 矛盾を孕んだ自分の思考に混乱する。どうやら思った以上に飲み過ぎたようだ。酔った勢いで高揚して、おかしくなっているに違いない。

 だってそうだろう。こんなのはおかしいに決まっている。さっきから彼の顔を直視できないのも、脈が強く打っているのも。

 

「ねえ、風太郎」

「なんだ?」

「どうして言えなかったの? 恥ずかしかったから?」

「それは……」

 

 さっき飲み込んだ言葉を敢えて吐き出した。昔のように揶揄うように。そうすれば少しは冷静になれると、酔いが醒めるのではないかと信じて。

 それにこう問えばきっと彼も言葉を詰まらす筈だ。それを見て彼を笑い飛ばそう。シャイだねと揶揄い、私も風太郎の事は嫌いじゃなかったのに、とでも冗談を返して。

 これで互いに良い酒の肴になるだろう。全て酒と共に洗い流せる。

 

「告げようと思った事はあった」

「本当?」

「小学生の時じゃない。お前と再会してからだ」

「え……」

 

 なのに、どうして彼はそうさせてくれないのだろう。どうして私は彼の言葉に。

 

「覚えてるか? お前とあの公園で再会して……そのおかげで俺はあいつらと信頼関係を結べたんだ」

 

 上杉風太郎との再会。もちろん覚えている。忘れる筈がない。気に掛けていた幼馴染と───あんな形で再び会えたのだから。

 

 

 ◇

 

 上杉風太郎にとって人生で一番最悪だったのは母親が亡くなった日だ。それはきっとこれから先も変わる事はないだろう。

 ならば二番目に最悪だった日はいつか。それは間違いなく『今日』だ。これもきっとこれから先の人生でも塗り替わる事がない。そう断言できる程度に今日は最悪な日だった。

 その日は朝から『最悪』だった。高額収入の家庭教師のバイト。その生徒がまさか昨日邪険に扱った女生徒とは夢にも思っていなかった。何とか関係修復をしようとあれこれ布団の中で悩み、そのせいで遅刻しそうになった。慌てて家を出た為、家に大事な生徒手帳を忘れたのも最悪だ。肌身離さず持っていた彼女の写真を今日に限っては手放していた。

 次に最悪だったのは案の定、あの女生徒。中野五月に根に持たれ接触すらままならないという状況。しかもその友人と思える集団に悉く邪魔され上手く事が運ばない。

 それだけならまだしも、なんとその四人は友人ではなく彼女の姉ときたものだ。世にも珍しい五つ子姉妹。自分と関係のない存在だったなら動物園のチーターのような珍しい姉妹もいるものなんだなと、軽く流していたに違いない。

 だが、彼女達は無関係ではなかった。むしろ大有りでなんと中野五月だけではなく、姉達四人も自身の生徒として受け持つ事になった。

 恐らく五人全員が最悪の印象を持たれている。逃げだしたい気持ちは山々だがこれも借金返済とらいはの笑顔の為。背に腹は代えられないと最悪の状態の中、彼女達と対面して改めて家庭教師である事を名乗り、パートナーだと宣言した。

 結果は姉妹一人を除いて全員が無視か拒絶。何とか姉妹の何人かをテーブルに囲わせ、勉強を始めようとした。その矢先に姉妹の一人にクッキーと紅茶を勧められ、そして───。

 

「……どこだ、ここ」

 

 気付くと公園のベンチで横たわっていた。

 見知らぬ公園、では無さそうだ。一応は見覚えがある。特徴的な大きな池があるこの公園は家から徒歩圏内だった筈。

 いや、問題はそこではない。何故、公園のベンチなんかに寝そべっていたのかが問題だ。状況が全く理解できない。なんだこれは。

 記憶の糸を手繰り寄せ、未だに思考が覚束ない脳を無理やり働かせる。

 確か家庭教師の為に中野家に訪問していた。ほとんどの姉妹がやる気なく、骨が折れたがようやく勉強を始めようとして……。

 

「まさか……」

 

 だんだんと記憶が蘇っていき、ある確信に至った。そして絶句した。

 あの女。確か次女だったか。彼女に薬を盛られたのだ。記憶が飛ぶ前に確か家庭教師など要らないと吐き捨ていたのを思い出した。

 確かに自分は部外者で異物で印象も最悪だった。だが、だがである。だからといって睡眠薬を盛って家庭教師を排除するなど考えられるだろうか。

 ご丁寧にマンションの下ではなく離れた公園に放置する徹底ぶりだ。マンションの傍なら今からでも乗り込んでやろうという気になるが流石にここまで離れた場所に投げ出されてはそんな気力も湧きやしない。

 風太郎は己に為された行為に怒りよりも呆れの感情が上回っていた。こうも拒絶されるとむしろ清々しさすら感じる。ベンチに寝転がりながら風太郎は空を仰ぎ見た。

 もう日が沈みかけていて辺りは薄暗い。今から彼女達のタワーマンションに向かえば完全に日が暮れるだろう。それにマンションに向かった所でここまで徹底して排除されたらそもそも部屋に通してもらえなさそうだ。

 どうしたものか。

 大きく溜息を吐いた。このままでは空だけではなく自身のお先も真っ暗だ。相場の五倍の報酬である家庭教師のバイト。確かにそれは魅力的だ。喉から手が出る程に。

 だが目標達成が今のところ現実的でない。勉強を教える前に最悪の状況から信頼関係から築かなければならないなんて聞いていないのだ。それも対話すら成り立つかも怪しい。特にあの次女と五女は。

 背に腹は代えられない家庭状況とは言え、これで成果を上げろなんて無茶な話だ。これなら今まで通り普通のバイトを続けて堅実に稼いだ方がいいのではないか。

 だんだんと思考がネガティブになっていく。初日からどぎつい洗礼を受けて風太郎はいつになく弱気になっていた。諦めかけた時や挫けそうになった時は京都の彼女の写真を見て己を鼓舞していたが、不幸なことに今日はそれを持ち歩いていない。

 いやむしろそれは幸運だったかもしれない。万が一、寝ている間にあの子の写真をあの姉妹に見られていたらと思うとそっちの方がゾッとする。

 

「……最悪だ、本当に」

 

 とりあえず帰って、このとんでもない仕事を持ち込んできた父に一言文句を言ってやろう。その後にらいはの作る晩御飯を食べれば今日の悪夢はきれいさっぱり忘れられる。

 硬いベンチで寝ていたせいで節々が痛む体を無理やり起こして立ち上がろうとした、その時だった。

 

「ようやく起きたんだね、風太郎」

 

 突如かけられた声と頬に当てられた温かい感触。

 慌てて後ろを振り向くと、ヘアピンをした長い黒髪の少女が優しく微笑みかけていた。

 誰だ。何故名前を知っている。いや、何処かで見覚えがある?

 

「驚いたよ。たまたま通りがかった公園で生き別れの弟と再会するなんて」

 

 妙に既視感を覚える謎の少女に戸惑う風太郎だったが、彼女の言葉でますます困惑した。

 

「あれ、本当に分からない?」

「えっと、どちら様ですか……?」

「小学校以来だもんね、しょうがないか」

「小学校……あっ」

 

 そのワードでようやく彼女の正体を掴めた。

 自分をこうも揶揄い、そして笑いかける女子なんて一人しか心当たりがない。

 

「思い出してくれた?」

 

 彼女の問いに肯定の意で頷くと彼女、竹林は嬉しそうにはにかんだ。

 

 

 

「苦いのはダメだったからココアで良かったよね?」

「あ、ああ。悪いな……にしてもよく覚えてたな、俺の好みなんて」

「小五の時だったかな。風太郎が背伸びしてコーヒー飲んで吐き出したの、今でも覚えてるよ」

「……忘れてくれ」

「ふふっ」

 

 自身の直ぐ隣に座り、ココアの缶を渡してくる竹林に風太郎は何処か居心地の悪さを感じた。

 家庭教師のバイトをしていた筈なのに生徒に眠らされ公園で放置されたかと思いきや今度は幼馴染との思わぬ再会だ。戸惑うなと言う方が無理がある。

 この状況、未だに当事者の自分でも整理が付いていないのだから。

 

「それで?」

「何だ」

「風太郎はどうしてこんなところでお昼寝なんてしてたの?」

「……」

 

 竹林から渡されたココアをちびちびと飲みながらなんと答えるべきか迷った。別に誤魔化してもいいし、素直に話す必要もない。

 ……だが今日の事で少し鬱憤が溜まっていたのかもしれない。普段なら誰にも零さず自分の中で消化していた感情。それをほんの少し、誰かに聞いて欲しかった。

 相手が気の許せる幼馴染だったというのも理由の一つだ。だから風太郎は竹林に今日の出来事を愚痴りながら零した。

 

「今からその子達の家に行こうか?」

 

 ふむふむと時折相槌を打ちながら話を聞いていた竹林は聞き終えて開口一番にそう言って笑った。笑顔のままじっとこちらを見つめているので流石に風太郎も嫌な汗が流れた。

 

「流石に人の弟を眠らされれて放置されたは看過できないな」

「よしてくれ。余計に面倒な事になる……というか誰が弟だ。いつお前が俺の姉になったんだよ」

「冗談だよ」

 

 本当に冗談だったのだろうか。委員長気質である彼女だが、時折やんちゃだった頃の自分でも振り回された事がある。竹林の行動力なら本当にあの五つ子マンションに殴り込みに行きかねない。

 もしそうなったら確実にあの姉妹と揉めて修復不可能な程の溝が出来上がる。それこそ家庭教師をクビになるだろう。そうなれば一層の事清々しいかもしれないが流石にまだ手放すには惜しい高額報酬のバイトだ。今のところは何とかまだ続けて行きたい。

 

「しかし変わらないな、お前も」

「一目で直ぐに分からなかったのに?」

「見た目の話じゃねえよ。中身だ、中身」

「そうかな?」

「ああ」

「そういう風太郎は変わったね。あのお馬鹿は風太郎が今じゃ誰かに勉強を教える立場なんて」

「お陰様でな。厳しい『先生』の指導で勉強だけは出来るようになった」

「厳しくしてくれって言ったのは風太郎でしょ?」

「スパルタ式にしろとまでは言ってない」

「そうでもしないと覚えないからだよ」

 

 本当に彼女はちっとも変わらない。その強引さも、真面目さも、その笑みも何もかもが。

 空っぽだった何もない頃の自分は今となっては嫌いだが、それでもあの頃の毎日は竹林と過ごす日々は確かに楽しかった。

 そんな懐古感が彼女と話していると湧き出てくる。それに勉強の為に家族以外の全ての繋がりを断ち切ってきた風太郎にとって、誰かとこうして話すのは本当に久しぶりだ。

 ……久しぶりに、他者と関わる喜びを思い出した。家族以外の前で笑ったのも本当に久しぶりだった。

 

「それで、どうするの?」

「家庭教師か?」

「うん。話を聞いてると中々手強そうだからね、その子たち」

 

 手強い、どころかじゃない。強すぎる。無敵だ。今のところ勝ち目がない。初日でこれなのだから心が折れかける。果たして彼女達五人全員を無事卒業させる事など可能なのだろうか。

 どの程度の学力かそれすらも図れず仕舞いで初日の今日は終わってしまった。計画の目途すら立っていない。

 

「一応は続ける予定だ……だが」

「策は無いんだ」

「正直な。お手上げ状態だ」

 

 両手を上げて溜息を吐く。もしもこれで彼女達が全員赤点のミラクルお馬鹿なら完全に詰みだ。どうしようもない。加えてノルマなど課せられた日には黙って辞表を残して去るだろう。

 

「まずはその子に何とか信頼されないと」

「それすらままならねえからな今は」

 

 勉強を教えるのなら出来る。だがこれは教える教えない以前の問題だ。こちらから歩み寄ろうにも今日のような拒絶の仕方をされたらどうしようもない。

 だいたい自分のような家族以外の人間関係を断絶してきた人間に信頼関係を築けというのうが無茶な話だ。それも同い年の異性に。

 自分に足りないもの。それは彼女達との付き合い方、いや人との付き合い方だ。勉強以外を粗末にしてきたツケがここに来て回ってきたのかもしれない。

 どう話せば心を開くのか、どう接すれば歩み寄ってくれるのか。点で理解できない。何か、それこそ勉強のように教科書があればいいのに。

 そう思って、ふと隣にいる竹林の顔を流し見た。

 

「……?」

 

 そう言えば、意識していなかったが彼女とはこうして自然と対話し、自然と歩み寄れている。

 勿論それは長く共に過ごした時間があるからこそであるが、何もそれは最初からではない。

 

「なあ、竹林」

「なに? 風太郎」

 

 もしかしたら、これは光明となるかもしれない。あの厄介な五つ子たちを相手取るのに必要な鍵。

 

「正直、俺はあいつらみたいな同い年の連中とどう接すればいいのか分からん。何が正解で何が不正解なのか。点で理解できない」

「うん。風太郎は勉強ばかりしてきたって言ってたもんね」

「だから、お前に頼みがある」

 

 人に頼るなんて、普段なら絶対にしない。他人など全員馬鹿に見えるし、見下してもいる。プライドが許さない。

 でも、彼女は違う。だって彼女は、竹林は幼馴染で、自分にとって勉強を教えてくれた『先生』で既に頼った事のある唯一の友だから。

 

「たまにこうして会ってくれないか? あいつらとどう接すればいいのか、お前の意見を聞きたいんだ」

 

 かつて勉強を教えてもらうように頼んだ時と同じように深く頭を下げた。きっと上杉風太郎にとって家族以外で頼れる存在は彼女しかいない。

 そんな風太郎の手を竹林は取った。勉強を教えてあげると言ったあの時と同じように。

 

「当然だよ。風太郎は私の弟みたいなものだから」

 

 いつの間にか日が暮れていた。闇雲の間を縫うように照らした月光の光は変わらない幼馴染の笑みを美しく存在立たせ、思わず風太郎は目を逸らした。

 

 この時から、少しずつ歯車はずれ動き始めたのかもしれない。

 

 



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わんないとらぶる③

誰しも一度や二度は後悔がある話。


 夢を見ていた。風太郎と初めて口付けをした、あの日の事を。

 鳴り響く鐘の音と目の前にある彼の驚いた表情。唇から伝う燃え上がるような熱。

 あまりにも印象的で、あまりに強烈で、あまりにも鮮明で、あまりにも運命的な人生で初めてのキス。

 転んだ勢いでしてしまっただけのそれは、言ってしまえばただの偶然かもしれない。

 だけど、この想いは、彼との出会いは決して偶然なんかじゃなくて、必然だった。運命だったんだって、後の式で誓いのキスをした時に確信した。感情が溢れそうになって、ただただ嬉しくて、式の最中なのに涙を流してしまった。

 だから、私はこうしてあの日のキスを色褪せることなく夢で見る。

 私にとって、人生で最高の幸せへと向かう分岐点であり────人生で最低で最悪な辛酸を嘗めさせられた初めてのキスを。

 

『……やめてくれ』

 

 永遠にも一瞬にも感じた口付けの後、風太郎が僅かに漏らした消え入るような言葉。最初は何かの聞き間違いかと思った。だけど、すぐにそうじゃないと彼の様子を見て嫌でも思い知らされた。

 私から目を逸らして、口を拭う彼にまるで後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

 『この格好』なら誰か判らないから困惑したのだとか、無理矢理にキスをされたから戸惑ったのだとか、少なくともそういう反応じゃない。

 『私』が姉妹の中の『誰』かなんて、そんな些細な事はどうだって良かったんだ。顔すら合わせず目を伏せる彼にとって。

 ────だって彼の示した反応は明確な拒絶だったのだから。

 たとえ私達姉妹の誰であろうと、彼にとっては関係なかった。一花でも二乃でも三玖でも四葉でも五月でも、その誰であったとしても。先の出来事は彼にとって口を拭うくらい不快でしかなかったんだ。

 その認めたくない現実に涙が零れ落ちて、居ても立っても居られなくなって、私はその場から逃げ出した。逃げる事しか出来なかった。

 

 分かっていたんだ。こんな事は、この結末は。

 彼にとって私達は、ただの生徒や友人でしかなくて。

 

 ───『彼女』のような特別じゃないんだって、分かってた。

 

 

「……っ」

 

 目が覚めて、慌てて時計を見ると既に九時を過ぎていた。どうやらうたた寝をしてしまったようだ。テーブルでうつ伏せになって眠ったせいで体が痛い。それに『あの夢』を見たせいで、頬に涙の痕が残っている。

 久しぶりに『あの夢』を見た気がする。結婚してからは殆ど見なくなっていたのに、どうして今になって。

 涙の痕を拭いながら、正面にあるポツリと空いた席を眺めた。席の前にはテーブルに用意された料理にはラップがされている。いつも彼が座る席。そこに夫である上杉風太郎の姿はない。

 また残業だろうか。スマホを確認してみたけど、いつも事前に送ってくる連絡はまだ来ていない。

 ……いや、連絡がないのは当然か。今朝、あんなにも声を荒げて喧嘩をしてしまったのだから。

 結婚してから、恐らく初めてだったと思う。あそこまで大喧嘩したのは。付き合ってた頃はそれこそ日常茶飯事だったけれど、結婚してからは殆どなかった。

 それは当時の喧嘩は主に私が原因だったから。理由は単純で、付き合ってからずっと重く、深く、彼を束縛し続けたからだ。離れないように。逃さないように、消えてしまわないように、ずっと。

 四六時中彼の傍に居たし、酷い時は軟禁に近い状態で過ごしていた事もあった。自分でも度が過ぎていたと自覚できる程度には異常な関係だ。当然、受け入れられる筈もない。

 うんざりとした風太郎の表情を何度も垣間見た事があった。でも、それでも止めようとはしなかった。出来なかった。無理矢理にでも縛り付けていないと彼が私から離れて何処か遠くに行ってしまわないかと怖かった。

 怖くて怖くて、体は震えて、涙と共に弱音が全部吐き出てしまいそうになるから。

 だから結婚という一つの契機は私を大きく変えた。喧嘩をしなくなったのも変に余裕ができたからだと思う。愛しの風太郎と永遠の愛を誓い、愛する風太郎と家族になれた。

 それは絶対で決して解けることのない関係で、私はようやく胸を撫で下ろす事ができた。

 

 ずっと不安だった。

 彼の───風太郎の中で未だに『彼女』の影が残っていないか。

 

 人間は誰しも一度や二度は後悔の念にかられる事がある。あの時、ああすれば良かった。あの時、もっとこうすれば良かった。そんな後悔は山のようにある。

 それらの後悔を噛みしめ飲み込んで人間は前へと進む。それを成長と言うのだと家庭教師時代の彼に聞いた記憶がある。その言葉は私に深く突き刺さった。

 確かにそうだ。過去をやり直したいと願うのはいつまでも成長できていない未熟者の証拠だ。私だってそうだったから。

 彼のお陰で過去から解き放たれ、停滞していた『今』から一歩前に進む事が出来た。だから彼に惹かれた。だから彼に恋い焦がれた。

 

 ただ、ただそれでも一つだけ。私にはどうしてもやり直したい事がある。

 どうしようもない愚かで馬鹿な自分の頬を叩いてでも止めたい愚行がある。

 それは彼とのあの最悪の出会いだ。もしも、もしもあの日、あんな事をしなければ。

 そうすれば、そうすればきっと……。

 

 ────私は今も『彼女』の影に脅えなくて済んだのに。

 

 思えば、あの日からずっとだ。『彼女』という存在を認知してからずっと、靄を抱いてきた。

 忘れもしないあの日から、彼と結ばれた筈の今ですら決して消える事なく、ずっと。

 

 ◇

 

「信じられん馬鹿共だよ、あいつらは」

「また何かあったの?」

「聞いてくれ竹林。あいつら今度は何したと思う?」

 

 ホットココアの缶を片手に愚痴を溢す弟のような幼馴染に竹林は懐かしさを感じていた。

 再会した時は随分と大人びたと感じたが、こうして拗ねた表情を浮かべていると当時と何も変わらない。髪型や身長が変わっても中身はあの悪戯好きで、それでいて何処か面倒見のいい悪ガキだった彼のままだ。

 あの夜から竹林は風太郎と定期的に会うようになっていた。場所は二人が再会したあの公園のベンチだ。喫茶店のような落ち着いた場所の方が話をするなら適しているかもしれないが、彼の家庭状況を考慮するならなるべく金銭が掛からない方がいいと竹林の方から提案して、この場所で集まるようになっていた。

 彼は申し訳なさそうにしていたが、竹林からしてみればこっちの方が心地良かった。あの悪ガキ風太郎と会うなら洒落たカフェなんかよりも、公園のベンチに座って語り合う方が懐かしくていい。この公園も昔は何度か彼を含む友人達と遊んだ思い出の場所でもある。

 

「……なるほど。その全教科0点の答案用紙は結局、姉妹全員が犯人だったんだ」

「本当に揃いも揃ってバカばっかだ。おまけに次から次へと厄介事の見本市だ」

「そう言えば林間学校でも色々あったばかりだったよね。体の方はもう大丈夫なの?」

「まあな。お前もわざわざ見舞いに来てくれて悪かったな。ただの風邪を拗らせただけなのに大袈裟な事になっちまった」

「入院したって聞いた時は驚いたよ。風太郎は昔から無茶ばっかりするんだから」

「……流石に今回のは無茶をしたと自覚してる」

「うん。反省してるならいいよ。でも、噂の五つ子さん達とはお会い出来なかったのは残念だったかな。一目見てみたかったんだけど」

「やめておけ。絶対に面倒な事になる」

 

 本当にどうしようもない連中だぞ、と釘を刺してくる風太郎であったが言葉とは裏腹に何処か楽しそうに語っているように見えた。

 最初はあんなにも嫌々と彼女達の愚痴や文句を垂れ流していたのに、随分と変わったものだ。どうやら問題児の五つ子達とは順調に信頼関係を築き上げているらしい。

 こうして自分が相談に乗ってあげる事で少しは彼の力になれたようだ。『弟』の力になれて『姉』としては冥利に尽きるというもの。

 

(最初はどうなることかと思ったけど……)

 

 偶然再会した幼馴染の上杉風太郎。小学校を卒業してそれぞれ別々の中学へと進学してからは疎遠となっていた彼を竹林は密かにずっと彼の事を気に掛けていた。

 というのも彼が病的なまでに勉強に没頭するようになったからだ。自分を変えたいからと頭を下げてきた時は快諾したが、どうにも風太郎は加減というかブレーキというものを知らなかった。

 前から猪突猛進的なところはあった。何をするにしても色々と極端なのだ。それが今回は歯止めを効かなくしてしまっていた。

 勉強をするようになったはいいが、それ以外の全てを投げ売ってまで没頭する彼の姿に痛々しさすら感じたこともあった。だから何度か注意を呼び掛けたが結局聞いてくれる事はなく、そのまま卒業と共に別れてしまった。

 そして再会して彼の現状について会話を通して知っていく内に真っ先に浮かんだのは案の定、という感想だった。

 危惧していた通り、彼は勉強以外の全てを捨ててしまった人間になってしまっていたのだ。確かに勉強はできるようになった。それこそ、今では教えていた自分よりも優秀な成績だろう。

 だが、問題はそれ以外だ。聞けば友人と呼べる間柄の人間は一人もなく家族以外の人間関係を全て断ち切っていたのだ。それを聞いた時は思わず彼が京都で出会ったという少女を少し恨んでしまった。

 彼女と出会い約束を誓った事で自分を変える為に勉強を始めたと聞いたが、これでは約束を通り超して呪いだ。彼を約束という呪縛で縛り付けてしまっている。

 一の為に全を棄てた彼と五つ子達の間で衝突が多いのも頷けた。確かに話を聞く限りではその件の五つ子達もかなりの曲者揃いだ。初対面の相手に睡眠薬まで盛って排除するような過激な少女もいると聞く。

 普通の人間でも難儀するであろう彼女達に人間関係を切り捨てた彼が信頼関係を築くというのは無茶というより無理だ。不可能に近い。

 だから竹林は風太郎にこうアドバイスをしたのだ。

 

『少し、肩の力を抜いて接してみたらどうかな。生徒と家庭教師の関係は置いておいて』

 

 それを聞いて風太郎も最初は理解できなかったようで首を傾げた。勿論、竹林もそれは想定内で補足して彼に説明した。

 今の風太郎は他人との接点が無さすぎて人との距離感の取り方を忘れてしまっている。言ってしまえば遠慮や配慮というのものが全く存在しない。

 それがプラスに働く事もあるのだろうけど、基本的にはデリカシーがないと取られてしまうだろう。それに相手は自分達と同い年で、しかも風太郎からすれば異性だ。おまけに問題児だらけの五つ子達。

 このままの風太郎が受け入れられるのはかなり難しいだろう。そうなるとせめてこちら側の接し方を少しでも改善するしかない。しかし五年もの間、人間関係を断っていた彼が一朝一夕でコミュニケーション能力を改善できるとは思わない。

 八方塞がりで頭を悩ませる竹林だったが、ふと昔と変わらず気さくに会話をする風太郎を見て閃いた。

 

 確かに『今の』風太郎ならば難しい。だけど『昔』の風太郎だったら?

 

 こうして目の前で話す彼は少なくとも竹林からすれば気の許せる親しい友人だ。ああ見えて意外と気が利くところや気遣いもできる。それは彼が本来持ち合わせている表に出さない優しさや暖かさだ。

 それを彼女達の前でも出せるようになれば、少しは五つ子達も心を開いてくれるのではないだろうか。

 そう提案してみたが、風太郎の反応は難色を示していた。どうやら彼自身は自分とその他の人間で態度や接し方を変えている自覚がないらしい。

 

『別にデリカシーを持って、なんて言うつもりはないよ。分かりやすく言うなら───』

『その子達と接する時は私を相手してると思って接してみて』

 

 はたしてこんなアバウトなアドバイスで幼馴染の力になれただろうか。最初は少し不安に思っていた竹林であったが、彼と次に会った時に少しだけ手応えがあったと笑っていた。

 それから彼は毎週のように近状報告をしてくれるようになっていた。

 まずは初対面の時に悪印象を持たれていた五女に何度も謝ったら機嫌を直してくれて、少しは信頼してくれるようになった。

 次に何を考えているか分からなかった三女とたまたま多く話す機会ができて、そこで彼女の姉妹に対するコンプレックスを聞いた。彼女の事を少しでも理解しようと奔走して、ほんの少しだけまた信頼を得られた。

 姉妹達と流れで一緒に花火大会を見に行く事になり、そこで飄々としていた長女が姉妹達にある隠し事、彼女の夢の事を聞いてその背中を後押しした。

 お人好しで最初から協力的だった四女にも気兼ねなく接することで他の姉妹達との関係が取りやすくなった。

 未だに自分を認めてくれない次女が今のところ一番の悩みの種で、この前の林間学校でもその悩みが更に大きくなった。

 

 最初は眉根を寄せて眉間に皺を作っていた風太郎だったが公園で会って話を聞く度に、その皺は減っていって気付けば口元に笑みを浮かべるようになっていた。

 再会してからようやく見せてくれた幼馴染の表情に竹林はようやく安堵する事が出来た。

 屈託のない無邪気な子どものような笑みだ。再会してから久しく見ていなかった幼馴染の笑顔に竹林も口が弧を描いていた。

 彼のあの笑顔が昔から好きだった。やんちゃで元気で邪気のない笑顔が。どんなに悪戯をしてきても仕方がないなと彼に釣られて笑いながら何度も笑いあった。

 昔に戻ったようで懐かしかった。彼が変わろうと宣言してから、約束に憑りつかれてから、ずっと竹林が見た風太郎の表情は苦悶を浮かべるものが多かった。苦手な勉強を必死に克服しようと足掻き藻掻いて、ただただ必死だったから。

 

(これも五つ子さん達のお陰、なのかな)

 

 きっと風太郎はもう大丈夫だ。自分のアドバイスなんてなくても彼女達と無事に卒業できるだろう。

 最初は大切な幼馴染になんて事をしてくれたのだと憤りを隠せなかったが、今は少しだけ彼女達に感謝している。

 こうして案じていた風太郎と再会できたのもある意味では彼女達のお陰なのだから。だからもしも、彼女達に会う事があったらお礼をしよう。

 風太郎と再会させてくれてありがとう。風太郎を笑顔にしてくれてありがとう、と。

 

 そう思っていた。

 

 ───深刻そうな表情を浮かべ、今にでも目の前の池に身を投げ出そうという雰囲気を醸し出す落ち込んだ彼を見るまでは。

 

 

 ◇

 

『あんたなんて、来なければよかったのに』

 

 二乃に放たれた言葉がずっと胸で反響していた。

 浮かれていた。勘違いしてしまっていた。中野姉妹達に頼られるようになって、彼女達に少しずつ信頼を寄せられるようになって。

 自分が誰かに必要とされる人間になれただなんて、幻想を抱いてしまっていた。

 当たり前の話だが、四人と信頼関係を深める事ができて残りの一つともそうなるなって保証は何処にもないというのに。むしろ今回のはそれが原因だったと言えるかもしれない。

 目の前で起きた二乃と五月の姉妹喧嘩。その原因は間違いなく自分で、だけどどうしようも出来なかった。

 分かっていた。自分という人間が彼女達にとって異物なのだと。自分はあくまでもただの家庭教師で、家族の問題に首を突っ込めるような立場でない事くらい。

 でも、それでもただじっと指を銜えて待つ事など出来はしなかった。自分という異物が原因で起きた喧嘩なのだから、その要因が解決に勤しむべきだ。

 だけどやる事なす事、全てが空回り。挙句の果てに二乃から強く拒絶されてしまった。

 

「………」

 

 しかも姉妹喧嘩だけじゃない。部活の助っ人を断れない四葉も何とかして連れ戻さねばならないというのに。

 試験まで時間がない。二乃と五月の姉妹喧嘩だけではなく他の問題も山積みだ。

 このままではまた赤点を取ってしまうだろう。中間試験で僅かに踏み出せたと思った一歩が全部無駄になってしまう。

 

「間違っていたのか」

 

 自分のやり方が。いや、そもそも彼女達に過度に干渉してしまった事が。

 ただの雇われ家庭教師に徹するべきだった。余計な事などせずに。でもそうすれば今度は家庭教師としてすら彼女達に勉強を教える事すらままならなかっただろう。

 お世辞にも今までの選択が正しかったとは言えない。考えても思い返しても最良の選択肢が見つからない。

 どうやっても詰みだ。という事は最初から無理だった。実力不足だったのだ。自分というちっぽけな男に、何もない空っぽな人間に、五人の人間を導くことなんて。

 そんな当たり前の事を今になってようやく気付いてしまった。ちょっと彼女達に頼られて、なんて烏滸がましい。なんて傲慢だ。天狗になっていた自分に吐き気がした。

 

 ふと、目の前に揺れる池の水面に写る自分の顔があった。そいつの顔はどうしようもなく覇気がなくて、どうしようもなく無力で。

 五年前の何もなかった無知な自分と重ねて見えた。

 もしも、あの間抜けな顔をした自分に飛び込んだら少しでも変われるだろうか。

 もしも、目の前の池に飛び込んだら彼女達は心配してくれるだろうか。

 自分でも思考がおかしくなっている事に気付いて風太郎は乾いたような笑みを浮かべた。

 

「俺は、何も……変わってない」

「そんな事ないよ」

「……っ!?」

 

 慌てて振り向くと心配そうな表情を浮かべる幼馴染がそこに居た。

 

「竹林」

「こんにちは、風太郎」

「……今日は会う日だったか?」

「ううん、偶然だよ」

 

 偶然。その言葉を彼女の口からよく聞くなと思った。

 思い返してみれば竹林との再会もその偶然が原因だった。

 

「偶然、か」

「何かあったの?」

「……別に、何もねえよ」

 

 誤魔化す言葉は自然と口から漏れていた。竹林には何度も世話になったし何度も助けられた。だからこそ、彼女にはこれ以上は迷惑をかけたくなかったのだ。

 わざと無愛想な表情をしてそのまま去ろうとした。

 

 けど、出来なかった。

 

「……何の真似だ?」

「風太郎、覚えてる? 修学旅行の日の事」

「はあ?」

 

 腕を掴まれながら急にそんな事を問われて困惑した。だが戸惑う風太郎にお構いなしに竹林は続ける。

 

「お腹が痛いって言って別行動になったよね」

「……そんな事もあったな」

「あれ、後から気付いたんだ。風太郎、私達に気を遣ってくれたんだよね」

「覚えてねえよ」

「あの時は気付けなかった。風太郎は優しくて、でも不器用な子だから」

「だから、俺は」

 

「ねえ、風太郎。誰かに必要とされる人になりたい人でも誰かを必要としてもいいんだよ?」

「───」

 

 その言葉は、風太郎にとってあまりにも深く突き刺さった。ずっと晴れない霧の中にいるような迷いの中で光が差した。

 

「だから、私に話して。風太郎」

 

 自然と伏せていた目を正面に向けると眩い笑みを浮かべる竹林に風太郎はある事を思い出していた。

 

 ああ、そうだ。俺は、俺はこいつの笑みにただ惹かれていたんだ。

 



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五つ子強くて?ニューゲーム①

上杉君がやべー姉妹に絡まれる話。


 今日は妙に落ち着かない。

 いつも通り食堂で『焼肉定食焼肉抜き』を注文し、定位置となった席で単語帳を眺めながら食事をしていると周囲から強い視線を感じた。

 自分が学校でそれなりに浮いた存在だと自覚している風太郎はいつものことだと最初は気にも留めていなかったが、今日はどうにも様子が違うようだ。

 普段の嘲笑が込められたような視線ではない。言葉で表すなら『狙われる』とでも言うのだろうか。そんな刺すような視線だ。

 気になって辺りを見回すと、少し離れたテーブル席から五人の女性徒の集団がこちらをじっと見ていたのに気付いた。

 見慣れない顔に見慣れない制服を身に纏ったその五人組は食堂の中で注目を浴びていた。

 全員が人目を引く整った容姿をしていたから、というのもあるが恰好が随分と個性豊かだ。

 短髪でピアスをした女、サイドテールに髪飾りをした女、ヘッドホンを首に掛けた女、悪目立ちするリボン頭の女、センスの欠片もない星形のヘアピンを付けた女。

 そして何よりも、それぞれ髪型や装飾が違う彼女達がみな同じ顔をしていたのが目立っていた。

 

 珍妙な集団だ。制服も違うし転校生だろうか。

 

 まあ自分には関係ないだろう。さっき感じた視線もきっと気のせいだ。彼女達を一瞥し、視線を手元の単語帳に戻そうとして─────五人と目が合ってしまった。

 

「……ッ!」

 

 その瞬間、風太郎は思わず身震いした。何故ならその五人組が自分と目が合った途端に全員同時に笑みを浮かべたからだ。

 背筋が凍るとは正にこの事だろう。見知らぬ相手、しかも同じ顔をした五人の人間がいきなり同時に同じ表情を浮かべたのだ。下手なホラー映画よりもよっぽどホラーな光景だ。

 

 風太郎はすぐさま目を逸らし乗っていたご飯と味噌汁を胃に流し込み、足早に食堂を後にした。

 あれは関わらない方がいい。何か、ろくでもない事に巻き込まれる気がする。

 理屈はない。だが予感がした。

 

 そしてその予感は的中する事になる。

 

 その日の午後。五人組の一人がなんと自分のクラスへ転校してきた。あの星型のヘアピンをした彼女だ。中野五月、という名前らしい。

 その名前に風太郎は偶然にも聞き覚えがあった。つい先ほど妹からの電話で耳にした名前と同じだ。

 明日から自分が家庭教師として受け持つ生徒の名前と。 

 

 黒板の前で自己紹介をする五月に周りのクラスメイト達は一斉に湧いた。容姿端麗の女子が転校して来たんだ。彼女を歓迎するのも頷ける。

 だが、その中で風太郎はたった一人だけ、他の連中のように彼女を歓迎出来なかった。

 

 見ているのだ。自分の顔を教室に入ってきてからずっと。

 

 しかも、こちらを射抜くその眼光に何か強烈な感情の色を感じる。

 ぐるぐると強い執念が渦巻いているような、そんな眼だ。勿論、会ったばかりの彼女にそんな視線を向けられるような覚えは一切ない。

 

 五月と顔を合わせる事に恐怖を感じた風太郎は彼女の自己紹介が終わるまで、ずっと顔を伏せてやり過ごそうとした。

 

 しかしその僅かな抵抗は無駄に終わる。

 

「──また、よろしくお願いしますね。上杉君」

 

 自己紹介を終えた五月が自身の席に戻る最中、風太郎の座席を通り過ぎる際に彼女が自分にだけ聞こえる程度の声で囁いた。

 その言葉は彼を震えあがらせるには十分過ぎた。

 

 何故、あいつは名乗ってもいない俺の名前を知っていたんだ。

 また、とはどういう意味だ。

 

 五月の言葉の意味を理解できないままその日の晩、風太郎は明日のバイトへの不安で中々寝付く事が出来なかった。

 

 

 

 翌日。寝不足と今日から始まる家庭教師の憂鬱感で重くなった足をなんとか引きずりながら家を出た直ぐの事だった。

 

「おはよう。フータロー」

 

 余りに自然な挨拶だった。まるで旧知の間柄で交わされるような、日常でのやり取り。親愛の情が籠った優しい声だった。

 

 当然、風太郎は彼女の事など知る筈もない。

 

 ヘッドホンをした少女に後ろからいきなり声をかけられた風太郎は思わず悲鳴を上げそうになった。振り向いて彼女の姿を確認するとその顔に見覚えがあった。

 昨日の五人組の一人。長い前髪で片目が隠れているが、よく見ればあの転校生と同じ顔だ。

 何故ここにいる。そもそも何故当然のように俺の名前を知っている。何故馴れ馴れしく名前で呼ぶ。

 疑問は尽きないがそれを言葉にする勇気よりも恐怖の方が何倍も上回って口にする事は出来なかった。

 何より、その声色は優しいのに瞳が昨日の五月と同じく強烈な感情を秘めていたのが、たまらなく恐ろしかった。

 

「お、おはよう」

 

 無視するのも怖いので一応は挨拶を返すと、彼女は顔を綻ばせ慣れた様子で風太郎と肩を並べた。まるでこの位置が当然だと言わんばかりだ。

 まさか、このまま一緒に登校する気なのだろうか。恐る恐る表情を伺うと前髪を揺らしながら彼女は首を傾げた。

 

「何してるの? 行こうよフータロー」

 

 そのまさかだった。

 

 それからは道中で特に会話もなく学校に着いた。聞きたい事は山ほどあったが、風太郎から話かける事は決してしなかった。藪蛇になる可能性があるからだ。下手な発言をして、この謎の同行者の機嫌を損ねるのは気が引けた。

 とは言え見知らぬ女生徒と無言のまま登校するのも、それはそれで精神的に辛かったのは確かだ。加えて互いの肩や腕が触れそうな距離を常に保ちながら歩いてきたのも居心地が悪かった。

 途中、何度もこのまま走り去って巻いてしまおうかと考えたが体力のない自分では余りにリスクが高すぎるので結局、実行に移す事は出来なかった。

 

「三玖、あんたやっぱり抜け駆けしてたわね」

 

 学校の正門に到着し、ようやくこの女生徒に解放されると安堵したのも束の間、後ろから来た黒塗りの高級車から声がした。

 振り向くとサイドテールに髪飾りを着けた長い髪の少女が車から降りながら隣の三玖と呼ばれた少女を睨み付けた。

 

「むっ。二乃」

 

 二乃、それが彼女の名前なのだろう。名前らしき単語を口にした三玖は彼女に対してむっと頬を膨らませて睨み返していた。不穏な空気が流れる。

 風太郎は学校に来て早々帰りたいと強く願った。真面目に勉強をするようになって学校をサボりたいと思ったのは今日が初めてだ。

 

「ふん、まあいいわ」

 

 二乃は鼻を鳴らして三玖から視線を外した。そして今度はその瞳が風太郎を捉えた。

 改めて見ると、やはり同じ顔だ。彼女も昨日の五人組の一人なのだろう。

 そして顔だけではなく、その瞳に宿したモノも同じだ。ねっとりとまるで嘗め回すかのような視線が風太郎の全身を這う。身の危険を感じた風太郎は無意識に彼女と距離を取ろうとしていた。

 

「────今度は絶対に離さないから」

 

 たった一言。それだけ呟いて二乃は風太郎を通り過ぎて行った。間違いない。あれは獲物を捉えた獣。それもただの獣ではない。血に飢えた凶暴な獣だ。

 

 今度とは何だ。離さないとはどういう事だ。

 風太郎は震える足を何とか動かして駆け足で教室へと向かった。

 通り過ぎた彼女の言葉もそうだが、あの場に残っていたら隣にいた三玖と、車から出てきた残りの三人に絡まれると思ったからだ。朝からこれ以上、精神と肉体を摩耗したくはない。

 

 ここに来て風太郎はようやくあの五人組の関係に薄々と察しが付いてきた。

 顔が同じで同じ車で登校してきた。金持ち家庭の恐らくは姉妹。そして着ていた制服を見る限り全員同じ学年。つまりは世にも珍しい五つ子なのだろう。

 五つ子なんて冗談みたいな連中が存在するなんて俄かに信じられなかったが、実際に同じ顔を五人見ているので認めざるを得ない。

 そこでふと、ある事を思い出す。昨日、妹のらいはと話した時に出た家庭教師のバイトの報酬の件だ。何でも相場の五倍だとか。この『五』という数字が頭の中で妙に引っかかった。

 

 昨日、食堂で睨まれた『五』人組。

 生徒はその内の一人である中野『五』月。

 彼女たち中野姉妹は『五』つ子。

 そして『五』倍の報酬。

 

 頭の中で決して認めたくない真実が浮かび上がる。

 

 どうやら生徒は五月だけじゃないようだ。風太郎の胃がキリキリと痛み始めた。

 

 昼休み。午前の授業中ずっと斜め後ろの席に座る五月から視線を受けながら、それでも何とか耐えた風太郎は四限目終了のチャイムと共に食堂へと駆け出した。

 一刻も早くあの五月の眼から逃げたしたかったからだ。

 昨日今日と体力がないのに走り回る事が多いとボヤきながらも、何とかいつもの席を確保した。

 これからどうしたものか。風太郎は定食のお新香に箸を付けながら頭を悩ませた。

 いつまでも逃げる訳には行かないだろう。どの道、今日の放課後には彼女達五人と対面する事になるのだから。

 しかし昨日や今朝の光景が若干トラウマになって足が竦んでしまう。

 

「上杉さん」

「ヒィェアア!?」

 

 一度は彼女達と面と向かって話してみようか、そんな思考が突如目の前に出現したデカリボンによって一瞬で消し飛んだ。風太郎は自分の心臓が止まったのではないかと錯覚した。

 また同じ顔だ。今度はウサギの耳を模したかのようはリボン頭。しかもやたらと距離が近い。今にも顔と顔が触れかねない程の至近距離だ。

 

「もうっ! そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」

「きゅ、急に話しかけてきたそっちが悪いんだろうが……」

「あっ、確かにそうですね! えへへ、すみません」

 

 頬を膨らませて怒ったかと思えば、今度は素直に謝罪する彼女に風太郎はやや拍子抜けした。

 何とかいうか、ここに来てようやく普通の反応をする人間と会えたからだ。

 今までの三人はまるで知り合いかのように絡んできて、意味深な台詞を吐きながら怖い視線を飛ばしてきたが、目の前の彼女はどうにも違うように思えた。

 

 

「……それで、何の用だ?」

「あっ、その前に自己紹介がまだでしたね。私、四葉って言います」

「四葉……苗字は中野か?」

「はい! よくご存知で」

「似た顔の奴がうちのクラスに昨日転校して来たからな」

 

 やはりそうだった。つまり、この四葉と名乗った彼女も今日から自分が受け持つ生徒という事になる。

 丁度いい。一度彼女達とバイトの前に対話をしておきたかった所だ。

 まずは比較的まともそうな目の前でにこやかに笑みを浮かべる四葉から情報を得ようと決めた。どうせ話しをするなら、まともそうな奴がいい。何よりも目が怖くない。これだけで随分と気が楽だ。

 

「確か姉妹、なんだろ? 何でも五つ子だとか」

「そうなんですよ! さすがは上杉さん。何でもご存知ですね。五月がいつもお世話になってます」

「……」

 

 一方的に絡まれている。否、睨まれているのは世話になると言うのだろうか。

 勿論、口にするような愚かな真似はしない。

 

「あっ、用というのは先に挨拶をと思いまして。今日からでしたもんね、上杉さんの家庭教師」

「知っていたのか?」

「はい、もちろん」

「なるほど……そういう事か」

 

 四葉の言葉に風太郎はようやく合点がいった。

 どうやら彼女達が自分の名前や顔を知っていたのは家庭教師のバイトを通じた情報のようだ。

 名前はともかく、顔まで知られていたのは謎だが親父が見つけてきた仕事だし、その際に写真でも見せたのだろうと勝手に推測した。

 家庭教師の仕事がどんなものか詳しくはないが、事前に教師の顔写真を生徒に見せる事があっても別に不自然ではない。

 

「謎が解けたよ」

「謎、ですか?」

「ああ。お前たちが俺の名前を知っていたのは予め家庭教師が俺だって知らされていたからなんだよな?」

「……」

 

 それにしても先の三人の態度や、意味深な言葉が気になるが、演技で近づいてこちらを観察していたと考えられなくもない。

 同学年の男子を家庭教師にするのだ。それくらいの警戒心があってもおかしくはないだろう。結局は全部推測でしかないが、手元に判断材料がない以上は自分にそう言い聞かせて納得するしかない。

 何はともあれ、ようやく解けた謎に風太郎は胸をなで下ろした。

 

「いえ、違いますよ」

「えっ」

 

 が、四葉の言葉によってまたしても背筋を凍らせる事になった。

 表情はさっきと変わらず笑顔だ。なのに、いつの間にかその瞳は五つ子だと思わせるような先の三人と同じものを宿していて──。

 

 

 

 

 

「───だって私たち、上杉さんのこと、ずっと前から知っていましたから」

 

 昨日と同じく、風太郎はその場から全速力で逃げた。

 

 

 

  

 放課後。とうとうバイトの時間が迫り、風太郎は中野姉妹が待ち構える高級マンションの玄関口の前に立っていた。今も胃がねじれるように痛い。

 

 今日は散々な日だった。午前は五月の視線、午後はそれに加えて四葉の発した言葉のせいで全く授業に集中出来なかった。お蔭で時間が過ぎるのが一瞬に感じてあっという間にバイトの時間が訪れてしまった。

 時間とは人の意識でこうも短く感じるのか。相対性理論の残酷さに風太郎は涙した。

 しかし泣き言ばかり言ってもいられない。中野姉妹が何やら危険な雰囲気を漂わせているとはいえ、この高額報酬のバイトを無碍にする選択肢など風太郎には最初からなかった。

 全ては家の借金返済のため。大事ならいはの笑顔のため。この程度の事で立ち止まる訳にはいかない。

 

 ……立ち止まる訳にはいかないのだが、足が思うように動いてくれない。緊張、恐怖、不安、そして走り回った疲労で足が竦んでいるというのもあるが、そもそもこういった高級マンションへの出入りの仕方が分からなくて立ち往生していた。

 

 とりあえず、緊張を和らげよう。そうすれば冷静になって出入りする方法もきっと見つかる筈だ。

 風太郎は周りに誰もいないのを確認してからポケットから生徒手帳を取り出した。外でこれを見るのは気が引けるが、今は少しだけ『彼女』に頼りたかった。

 手帳に挟んである写真を大事に広げると共に自然と口元が緩んだ。

 そこに写っていたのは、かつて馬鹿だった自分と感謝と憧れを抱く思い出の彼女。

 写真が色褪せたせいか、彼女の瞳が何だかあの姉妹みたいな目になっているような気がしたが、きっと気のせいだ。

 

 ああ、やはりこの写真を眺めると心が安らぐ。

 太陽のような笑顔を咲かせる写真の彼女からまるで元気を分け与えてもらえるような気がして、今から中野家という虎穴に入らんとする風太郎の暗い気持ちも明るく暖かく照らしてくれた。

 

 今、どこで何をしているのだろうか。

 俺はあの時から変われただろうか。

 変われたのなら、また会えるだろうか。

 もし会えたら、その時はやべー姉妹の家庭教師をした話を聞いて欲しい。

 本当にやべー連中だ。五つ子なんて冗談みたいな存在の上に馴れ馴れしくて目が怖い。

 でも、きっと彼女ならこんな与太話でも笑い飛ばして聞いてくれる筈だ。

 

 少しだけ彼女から勇気を貰ったと同時に初心を思い出した。いつか誰かに必要とされる人間になる為に。それを目的として自分は勉強をしてきた。

 よくよく考えてみると生徒はあれだが、この家庭教師という誰かに必要とされ、誰かに尽くす仕事自体は別に悪くはないのかもしれない。

 

 ほんの少しだけバイトに対して前向きになれた。今ならあの怖い姉妹達を相手にやれそうな気がする。

 心に熱を滾らせた風太郎はやる気に満ち溢れていた。

 

「フータロー君」

 

 が、それも長くは続かなかった。

 

「ひっ」

 

 写真を見てつい感傷に浸っていたせいか、後ろから迫っていた脅威に気付けなかった。

 耳元で息を吹きかけるように名前を囁かれ、思わず生徒手帳を落としそうになる。

 

「な、なにしやがる!」

 

 勢いよく振り向くと、またしても同じ顔。今まで見たことのない髪型から、まだ会った事のない最後の姉妹のようだ。

 風太郎の反応が可笑しかったのか、彼女はくつくつと喉を鳴らして笑っている。

 

「あなたが私たちの家庭教師でしょ? 上杉風太郎君」

「っ……そういうお前は中野姉妹の一人か?」

「うん。私は中野一花だよ。こんな所で立ち止まってないで早く上がりなよ。みんな待ってるからさ」

「あ、いや……どうにも、ここの出入りの仕方が分からなくて」

「それならお姉さんに付いてきて。案内するから」

「え、あ、ああ、頼む……」

 

 一花と名乗った少女はどこか揶揄うような笑みを浮かべながら風太郎をマンションの中へと案内した。

 今のところ、出会った姉妹の中では四葉同様に話が通じそうだが、決して油断は出来ない。安心していた四葉があれだったのだ。気を抜ける筈がない。

 やべー奴、やべー奴、やべー奴、やべー奴と四人続いて最後の一人がまともな人間なんて事が果たしてあるのだろうか。

 風太郎は四葉の時と同じ轍は踏まないと、気を引き締めて彼女の後に続いた。

 

 

 

「ここ、階数が高いからね。エレベーターも結構待つ事があるんだ」

 

 ホールでエレベーターが降りて来るのを待つ最中、気さくに話かけてくる一花に風太郎は相槌を打ちながら彼女の背中を眺めていた。

 話を聞くところによると彼女が姉妹の長女らしい。何だかんだ姉としての責務を感じたりだとか、妹達の欲しがるモノを自分も欲しがる悪い癖があったりだとか。そんな五つ子特有の苦労話や愚痴を語っていた。

 自身も長男なことあってか一花の話に共感できる部分もあり、風太郎もいつの間にか警戒心を解いて彼女に耳を傾けていた。

 

「こう見えても五つ子ってね、意外と好みが別れるんだよ」

「そうなのか?」

「好きな食べ物とか、好きな飲み物とか、好きな動物とか好きな番組とか、他にもたくさん……でも、どうしても『欲しいモノ』に限ってみんなも欲しがったりするんだよね。しかも誰も絶対に譲ろうとはしないの。そういう時、どうすると思う?」

「知らん」

「いいから、いいから。答えてみてよ」

「……普通に考えれば五人で分けるんじゃないか?」

「うん。五等分に……だけどその『欲しいモノ』が分けれないモノだったら?」

「じゃんけんとかで勝った奴が得ればいいだろ。公平に決めたなら無理に平等である必要もない」

「……私もそう思ってたんだけどね」

「……?」

「例えばさ、競ってる間に『欲しいモノ』が姉妹以外の誰かの手に渡ったら、意味がないでしょ?」

「それはそうだが……」

「ねえ、フータロー君。そういう場合はどうしたらいいと思う?」

 

 一花はエレベーターの扉を見つめながら、振り向かずに風太郎に問いかける。

 その言葉はさっきまでの雑談と違って、どこか真剣味を帯びているように思えた。

 何だか話が急に妙な方向に向かっているような気がするが、本人は至って真面目そうだったので風太郎もあまり気にせず質問の答えを考えた。

 もしかしたら家庭教師になる自分を何か試しているのかもしれない。

 

「そうだな……分けるのが無理で他人に盗られるのが嫌なら最初から五人で確保して、それから全員で共有する、とか? 何も物理的に分けるだけが五等分じゃないだろ」

 

 そもそも、その『欲しいモノ』とやらが何か分からない以上、明確な答えなど思いつかない。

 少なくとも食べ物では無さそうだなと思いながら風太郎は一花に自分なりの答えを提示した。

 

 同時にエレベーターが降りて来て扉が開いた。

 

「────やっぱり、フータロー君もそう思うよね」

 

 先にエレベーターに乗り込んだ一花がそう言いながら風太郎に振り向いて微笑んだ。

 その時になってようやく風太郎は一花が彼女達の姉妹だと実感できた。

 

 何故なら、風太郎を射抜くその瞳がやはり他の姉妹と同様に強い感情を秘めたものだったから。

 

 

 

 一花に連れられ、中野家に招かれた風太郎はそのままリビングへと案内された。先ほどの一花との会話が妙に頭に残ったが気にしても仕方がない。今は仕事が優先だ。思考を切り替え、改めて彼女達五人と対峙した。

 テーブルを挟んだ向こう側のソファーに同じ顔が五つも並んだ光景はやはり圧巻だった。気圧される。それにやっぱり目が怖い。

 だが、ようやくここまで来たのだ。後は無事に授業を済ませたら、とりあえず今日のところは一安心だ。

 五人の視線を浴びながら手短に自己紹介を済ませた風太郎は姉妹たちに自作の簡易的なテストを配布して解くよう指示した。意外にも彼女達は従順で、大人しく用紙を受け取って各々ペンを進めていった。

 

 初日の今日はこのテストを受けさせて彼女達の得手不得手を知るだけで十分だろう。最終的な設定目標を考えれば十分に余裕がある。

 

 家庭教師の依頼主である彼女達の父親からのオーダーは姉妹全員が無事に卒業をする事だ。想像以上に難易度の低い設定目標に最初は風太郎も耳を疑ったが、聞き間違いではなかった。

 流石に難関大学に合格させろ、のような無理難題を素人で高校生の自分に押し付ける事はない思っていたが、まさかただ単に卒業させるだけのような簡単な目標だとは思わなかった。

 高校の卒業など余程のアホでもない限り家庭教師を雇う必要すらないとは思うが、金持ちの親バカが娘を想って念には念を入れたのだろう。

 

 そう高を括っていた。

 

「何とも言えんな、これは……」

 

 一通り姉妹の採点を済ませた風太郎は余りにも微妙な採点結果にどう反応していいのか困り果てていた。

 結論から言うと彼女達はアホだった。

 基礎が理解できているかどうかを確認する為に比較的難易度の低い問題しか出題していなかったが、ミスが目立つ。少々彼女達を侮っていたのかもしれない。

 確かにこの成績では卒業も危うい。家庭教師を雇った彼女達の父の判断はどうやら正しかったようだ。それでも何故自分のような同級生を雇ったのかは謎だが。

 

「うーん。一度はやった筈なのになあ」

「まあ、久しぶりにやったらこんなもんよね」

「大丈夫、今はフータローがいる」

「うん、上杉さんにまた教えてもらえばいいんだよ」

「そうですね。その為に彼が家庭教師としているんですから」

 

 だが、悲観するほどのアホでもないらしい。意外にも勉強に対して意欲があるようだし、何故か知らないが自分への信頼も不自然なくらい高い。

 後者に関しては全く身に覚えがないので正直怖いが今は気にしないでおく。とにかく、やる気があるのは良い事だ。己を高める意志を持ち続ければ必ず実を結ぶ事を風太郎は自身で証明している。

 それにアホだと言っても十分に改善が期待できる程度のレベルだ。採点していて気付いたが、全員にそれぞれ得意な科目がある事も見て取れる。長所を伸ばしながら短所をカバーしていけば、無事に卒業させる事も十分に実現可能である。

 もしこれで全員やる気がなく、その上に姉妹の合計が百点のようなミラクル級のアホ五人なら流石に風太郎も匙を投げたかもしれないが、これなら何とかなりそうだ。

 

「全員やる気があるようで何よりだ。お前たちもいきなりのテストで疲れただろう。後はゆっくりと休むといい。では、初日だし今日はこれでお開きということで俺はこれで……」

「待ちなさいよ」

 

 いい感じに締めの挨拶を言ってそのまま帰ろうとしたが、二乃に呼び止められて阻止された。風太郎の頬に一筋の汗が流れる。

 

「な、なんだ? 二乃」

「せっかくだし、夕御飯もついでに食べていきなさいよ」

「お腹、空いたでしょ? 私も作ってあげるよ、フータロー」

「そうですよ、上杉さんっ! みんなで食べましょうよ!」

 

 食事を誘う二乃と三玖。それに便乗する四葉。三人とも表情は柔らかいが、やはり目が怖い。

 しかしここで怯んで流される訳にはいかない。家庭教師の業務を遂行した以上、今日はもうこれでお役御免だ。これ以上中野家に居座る道理もないし、居座りたくもない。

 とにかく今日は疲れたんだ。体を一刻も早く休ませたい。今すぐ帰ってらいはの作る料理を食べ、風呂に入って勉強してから布団に入りたい。

 

「悪いが遠慮しておく。俺は別に飯を食いにここに来たわけじゃない。それに妹が飯を作って待ってるからな」

 

 理由としては完璧だ。嘘偽りもない。流石に家族を理由に出せば彼女達も食い下がるだろう。

 だが甘かった。

 

「それなら大丈夫ですよ。私から、らいはちゃんに連絡しておきましたから」

「なっ」

 

 そう言ってスマホを持つ五月に風太郎は絶句した。まさか予想外の所から詰まされるとは思わなかった。

 何故、らいはの名を知っている。そして何故、らいはの電話番号まで知っている。

 じわじわと、見えない何かに自分の周りが囲まれているような錯覚がした。

 

「これで障害はなくなったね。さ、フータロー君は座ってて。みんなで色々と準備するから」

 

 一花の有無を言わせない圧の籠った笑みに風太郎は従わざるを得なかった。

 

 

 

 予感や直感など普段は宛てにしない風太郎だが、今だけは自身の感じるそれに従った方がいいのではと思った。

 

「食べないのですか?」

「それともお姉さんが食べさせてあげようか?」

「あ、いや……」

 

 五月と一花に催促され、風太郎は慌ててテーブルの上のスプーンを手に取った。

 

 目の前のテーブルに並んだ料理はどれも美味しそうな物ばかりだ。特に洋を中心とした凝った料理が多く、見たこともない名前の分からない料理も並んでいる。フレンチか何かだろうか。風太郎にとっては縁が無さすぎて最早、未知の領域だ。これらは全て二乃が作ったらしい。

 たまに見栄えの悪いオムライスやコロッケが見えるが、こちらは三玖が作ったようで、二乃の料理と並べると浮いて見えるが、別にそんな事は気にしない。

 というより、気にする余裕がなかった。今、風太郎の頭の中にあるのは葛藤だけだ。

 

 果たして、目の前の料理を食べて良いのか、否か。

 

 直感、或いは本能的な危機察知能力的なものが告げている。これは危険だと。

 

「食べられないものでもあったかしら。あんた、生魚以外に苦手なものなかったわよね?」

 

 当然のように自分の好みを言い当てる二乃に今は恐怖を感じる余裕すらない。

 今はこの局面をどうやって切り抜けるかだ。そうだ。腹が減っていない、という設定はどうだろうか。

 

「じ、実は今日は昼に普段より多めに食べていてな。そんなに腹は減って……」

「上杉さん、今日もいつもの定食でしたよね? 何でしたっけ、えっと確か……」

「『焼肉定食焼肉抜き』だよ、四葉。フータローがいつも頼んでいるのは」

「あっ、それだよ三玖!」

「……」

 

 退路は断たれた。もう覚悟決めるしかないようだ。

 いや、そもそもこの直感自体が間違っている可能性もある。本当に彼女達が善意で料理を振る舞ってくれたのに、ありもしない疑いの為に料理を口にしないのは彼女達に対する侮辱だ。信頼関係を揺るがす行為だ。今後の家庭教師の業務に影響を及ぼし兼ねない。

 それに料理に危機感を覚える事自体がおかしい。例えば美味しそうに見える二乃の料理の味が実はとんでもないものだったとしても、貧乏舌の自分なら大抵の味は許容範囲だ。何ら問題ない。それは見栄えの悪い三玖の料理だって同じ事だ。

 

 流石に料理に薬でも盛られているなら話は別だが、そこまでやべー連中ではない筈だ。

 毒殺される覚えも、眠らされる覚えも、麻痺させられる覚えも、一切ない。この料理はきっと、家庭教師の自分への歓迎のもてなしなんだ。

 

 家庭教師如きにそんな事をするか疑問だが、それがきっと金持ちのやり方なんだろう。

 

「いただきます……」

 

 意を決した風太郎はまず手始めに三玖のオムライスから口を付けた。

 その様子を見た三玖は小さく拳を握り、二乃は自分の料理が先に選ばれなかった事に鼻を鳴らした。

 

 食べた感想は普通に美味い、だった。見た目はともかく、味付けは悪くない。

 何度かスプーンを口に運んだ後、今度は二乃の料理を口にする。こちらは見た目通り、美味い。味付けや食感も丁寧な気がするが、正直その辺りはあまり分からない。

 どちらが美味いかと聞かれたら、きっとどっちも美味いと答えただろう。

 

 美味い。

 

 美味い。

 

 …美味い。

 

 ……美味い。

 

 ……眠い。

 

 ………美味い。

 

 ………眠い。

 

 眠い……眠い。

 

 …………あれ?

 

「お、おま……」

「フータロー君、凄く眠そうだね」

「ち、ちが……」

「いいんだよ。あとでちゃんと起こしてあげるから」

「おれ……まちがって……」

「だから、今はおやすみなさい、フータロー君」

「が……ま……」

 

 スプーンを落とし、意識を失ってそのまま床に倒れそうになった風太郎を隣に座っていた一花がそっと抱き抱えて、彼の頭を自身の太ももの上に乗せた。

 

「何だか懐かしいな、この感じ」

「ちょっと、一花。懐かしいってどういう意味よ」

「……したの? フータローに膝枕」

「秘密」

「もう、喧嘩はダメだよ」

「そうですよ。それにもう私たちで競う必要なんてないんですし」

 

 残りの四人も眠る彼の体を囲うように並ぶ。

 

「でも大丈夫かな。上杉さん、一日お借りしちゃって」

「大丈夫ですよ、四葉。らいはちゃんが心配しないように今日は泊まりで家庭教師をする旨を伝えています。勿論、彼のお義父様にも」

「良かったぁ。なら安心だね」

「四葉は本当にらいはちゃんが好きだね」

「当たり前だよ、三玖。だって私たちの義妹なんだよ?」

「四葉の言う通りね」

「今まで同い年の妹しかいなかったから年の離れた妹って、新鮮かも」

 

 眠る彼の左手の指に五人はそれぞれ手を伸ばした。

 

「フータロー君が言ったんだよ? 五人で共有すればいいって。それが五等分だって。だからセンセーの教えはちゃんと守るよ」

 

 意識と信念を貫くと言われる親指に。

 

「あんた、言ったわよね。掴んでろって。だから掴んでいるわ。フータローを。これからもずっと。絶対に離してあげないんだから」

 

 積極性を高め、導いてくれる人差し指に。

 

「今度こそ私はフータローに好きになってもらえる私になる。だから見てて、フータロー。ずっと、ずっと見てて」

 

 他者への理解、他者からの理解される力を高める中指に。

 

「ごめんなさい、上杉さん。あの時、欲しいものはちゃんと頂いたのに。だけど、それだけじゃ足りないんです。ずっと、欲しいんです。あなたの笑顔が」

 

 愛と絆を深め、願いが叶うとされる薬指に。

 

「上杉君。私たち、決めたんです。全てを五等分に。喜びも悲しみも苦しみも。そしてあなたさえも。だってあなたは私たちのパートナーですから」

 

 チャンスを呼び寄せ、異性を惹き付ける小指に。

 

「だからもう」

「絶対に」

「二度と」

「あなたを」

「離さない」

 

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム②

上杉君がやべー長女に捕まった話。


「……さて、どうしよっか」

「もう十分に堪能したでしょ、あとは私に任せておきなさい」

「絶対、嫌」

「ダメだよ二乃、抜け駆けは」

「そうです。公平に決めましょう。公平に」

「うんうん。五月ちゃんの言う通り。じゃあ公平にお姉ちゃんから順で」

「ずるいです!」

「あら、私は別に構わないけど」

「それは二乃が二番目だからだよ」

「……じゃんけん。じゃんけんで公平に決めよう」

「三玖に賛成です」

「ま、結局それが無難よね」

「うん、公平だね」

「なら、じゃんけんで。文句はなしだからね」

 

 

 

 

 

 

「……やった」

 

 ◇

 

 

 

 意識が朦朧とする。思考が覚束ない。体はまるで鉛のように重くて、指一本を動かす事すら気怠い。ここまで酷い疲労感や倦怠感を感じたのはいつぶりだろうか。

 例えるなら百メートル走を何セットも全力疾走したような、そんな疲労感だ。何もしたくない。このままずっと眠っていたい。

 だが惰眠を貪るなんて時間の無駄だ。こんな事に時間を割くなら勉強をした方がいい。

 

 ゆっくりと瞼を開く。どうやらカーテンの隙間から漏れた光が部屋を照らしているようで、灯りのない部屋でも辺りが薄っすらと認識できた。見覚えのない天井と見慣れない照明が視界に入る。自分の家ではない。どこだ、ここは。

 今更気付いたが、体が柔らかい何かに沈んでいる。ベッドだろうか。風太郎が普段使っている布団ではまず有り得ない感触だ。あまりの快適さに再び瞼が重くなるが、何とか耐えた。二度寝はダメだ。起きなければ。起きて状況を確認しなければ。

 

 もっと情報を得ようと首を何とか回して、横に視界を移す。

 

 すると、そこで風太郎の眼に真っ先に飛び込んできたのは彼と同じ布団に包まった全裸の少女だった。忘れもしない、あの五つ子の一人だ。

 

「ひッ」

 

 意識が一気に覚醒し、眼を見開く。叫び声を上げそうになった口を押え、さっきまで感じていた体の気怠さなど忘れて風太郎はベッドから飛び起きた。

 

「な、なッ……」

 

 言葉が出ない。絶句とはまさにこの事だろう。

 目の前の光景に風太郎の脳は困惑と恐怖に染まり体が硬直した。状況が飲み込めない。理解が追いつかない。なんだこれは。

 

「……ん」

 

 風太郎が飛び起きた反動でベッドが揺れ動いたせいか、小さく声を漏らして裸の少女の瞼が開いた。

 

「……あ、フータロー君。起きたんだ。おっはー」

「な、なんで、お前、服をッ! ここはどこだ!? なんで俺はこんな場所に」

「とりあえず落ち着きなよ。ほら深呼吸、深呼吸」

「落ち着いていられるか! というかお前はまず服を着ろ! そもそも誰だ!? 三玖か? 四葉か? それとも二乃か? もしくは五月……」

「もう、わざと外してるでしょ。一花だよ」

「どうでもいい! とにかく服を着ろ!!」

 

 どうやらこの女は裸を見られるよりも名前を間違えられる方が機嫌を損ねるらしい。彼女の羞恥心がイカレているのか、それとも五つ子特有の感覚なのか。風太郎には理解が出来なかった。

 名前を間違えられてムッと頬を膨らませる一花に怒鳴りながら視線を逸らした。朝から心臓に悪い。ただでさえ昨日一昨日とストレスと恐怖で胃を痛めているのに心臓までダメージを与えてくるなんてタチが悪ぎる。

 

 

「……いくつか質問がある。答えてもらおう」

 

 何とか目の前の痴女に服を着てもらう事に成功し、一先ず冷静さを取り戻してベッドに腰掛けながら風太郎は隣でピタリと体をくっつけて座る一花に尋ねた。

 妙に距離が近いのが気になったが、指摘すれば更に距離を詰めてくる気がしたので敢えて口に出さなかった。これが彼女達のパーソナルエリアなのだろうと無理矢理自分に言い聞かせるしかないようだ。

 

「なにかな?」

「まず、ここはどこだ」

「私の部屋だよ。ごめんね、ちょっと散らかってて」

「ちょっと……?」

 

 辺りを見回すとそれはもう腐海が広がっていた。どうやら彼女は羞恥心だけではなく『片付ける』という概念も持ち合わせていないらしい。こうしてベッドの上に風太郎が腰掛けているのも、床が洋服やら下着やら化粧品やらで座るどころか足の踏み場がないからだ。

 この有り様を『ちょっと』で済ませるには無理があるが、今はそれを気にしている場合ではない。風太郎にはもっと重大な懸念事項があるのだ。

 

「まあいい。で、何で俺がここで寝ていたんだ」

 

 これだけはどうしても確認する必要がある。何故なら全く覚えてないからだ。

 昨日、初めて家庭教師として彼女達に教鞭を振るい、その後に夕食を誘われたのは覚えている。誘われたというより半強制的に参加させられたが正しいが。そして料理は二乃と三玖が作ってくれた。これも記憶にある。

 

 問題はそこからだ。彼女達の料理を食べた前後の記憶が全くないのだ。

 

「覚えてないの?」

「……ああ」

「フータロー君、ご飯を食べた後、すぐに寝ちゃったんだよ」

「寝た? 俺が……?」

「うん。すっごく疲れてたんじゃないかな。体を揺らしても全然起きなかったし」

「……」

 

 確かに昨日は寝不足ではあった。何せ、一昨日はこのやべー姉妹達とのファーストコンタクトを果たし、更にその内の一人が怖い眼をしながら自分のクラスに転校して来たんだ。おまけにそいつが自分の受け持つ生徒ときた。安眠できる要素など皆無だ。

 そして昨日は朝からストーカー紛いのヘッドホン女に待ち伏せされた事から一日が始まり、次々と同じ顔と同じ眼をした姉妹に絡まれた。どいつもこいつも怖い眼をして意味深な台詞を吐くせいで精神的にも、彼女達から逃げ出す為に肉体的にも疲労が蓄積していたのも事実だ。

 

 しかし、それでも他人の家で食事をしている途中で熟睡してしまうなんて事が本当にあるのだろうか。ましてや警戒心を抱いていた筈のこの中野姉妹の住処で。

 

 まさか薬でも盛られたのか?

 

 そんな荒唐無稽な考えが浮かび上がったが直ぐに脳裏から消した。

 馬鹿馬鹿しい。テレビのドラマじゃあるまいし。医者でもない女子高生が一体どうやって即効性の睡眠薬を入手できるというのだ。

 それに眠らせてどうする。こんな貧乏高校生を眠らせて一体何のメリットがある。寝てる間に奪われるようなモノなど持ち合わせてないというのに。

 

「それで五月ちゃんがフータロー君の妹ちゃんとお義父さんに連絡してうちで一晩、泊まらせることにしたの。ちょうど今日は休日だから学校の心配もいらないしね」

「……そう、だったのか」

「納得した?」

「……」

 

 素直に頷く事は出来なかった。理解はしたが、納得はしていない。できる筈もない。

 

 だが、自分が先ほどまで一花のベッドで寝ていたのは紛れもない事実だ。後で念の為にらいはと父に確認はするつもりだが、恐らく彼女の言葉は嘘ではないのだろう。

 

「俺が寝てしまったのは判った。だが、何故お前の部屋で寝かされていたんだ? 別にそのままリビングで放置しても良かっただろ。勝手に寝たのは俺の方なんだし」

「フータロー君は私たちのお客様なんだからそんな事できる訳ないじゃん。誰の部屋に運ぶかはちょっと揉めたんだけど、じゃんけんで決めて私の部屋になったんだ」

 

 出会ってから彼女達があまりに異質なせいで忘れかけていたが、一応は金持ちのお嬢様だったの事を風太郎は思い出した。育ちの良い彼女達が客人をそのまま放置するような真似は出来なかったのだろう。そして面倒事を誰が背負うかを姉妹で公平に決めて、そこで負けた一花に白羽の矢が立ってしまったといった所か。風太郎からすればリビングにある高級そうなソファでも十分に熟睡できる自信があったが。

 

(それにしても、普通わざわざ一緒に寝るか? ありえねえだろ)

 

 客人をリビングに寝かせられないと言っても、何も同じベッドで一緒に寝る必要はなかっただろう。一花が姉妹と一緒の部屋で寝るなど、他にいくらでもやりようがあった筈だ。

 仮にも自分たちは思春期の男女だ。それが一緒のベッドで寝るなんて、彼女達の父親が知ったら間違いなく風太郎は解雇だけでは済まされないだろう。せっかくの高収入のバイトをこんな事で水の泡にしたくはない。

 

(何も間違いが起こらない、って一花から信頼されているのか?)

 

 勿論、風太郎自身は彼女達に手を出すつもりなど毛頭ない。元々、色恋沙汰自体に興味がないし、そんな事をしている余裕もない。

 そもそも昨日や一昨日の彼女達との出会いがトラウマすぎてあの姉妹をそんな目で見れる自信がなかった。

 

 だが一花の方の反応が妙だ。仮に一花が自分を異性として認識していないにしても、あまりに無防備すぎる。

 その信頼が一体どこから来ているのか。それが分からない。まだ出会って二日の家庭教師の男にそこまでの信頼を寄せる理由は一体なんだ。 

 一花だけじゃない。二乃も三玖も四葉も五月も、他の姉妹全員だ。何を考えているのか分からない。しかもそれが悪意によるものではないのだから、余計にタチ悪い。

 邪険にされるのなら、まだ分かる。同級生の、しかも異性の家庭教師など年頃の少女なら誰だって拒絶する。勉強が出来ないとはいえ、親が金を払って雇った同い年の異性に教えを乞うなんて風太郎が彼女達の立場だったとしても良くは思わないだろう。

 

 そうだ。邪険にされるのなら理解できる。だが、好意的に接してくる理由は何だ?

 

 風太郎は自身の事を第三者視点から見ても勉強しか能がない男だと評している。それに今まで家族以外の人間関係は断ち切ってきた。自分がお世辞にも愛想が良いとは思っていない。少なくとも初対面の相手にここまでされるような人間ではない筈だ。

 

 だから解せない。出処の分からない自分への信頼が余りに不気味だった。見知った悪意よりも見知らぬ善意の方が遥かに恐ろしい。

 

「他に聞きたい事はある?」

 

 沢山ある。その信頼がどこから湧いて出たものなのか。

 昨日、四葉が言っていた昔から知っていたとはどういう意味なのか。

 他の姉妹が口にした意味深な言葉もだ。その全てを知りたい。

 

「……お前が裸だったのは?」

「あっ、それは普段のクセ。寝てる間に脱いじゃうんだよね、私」

「クセって……」

「あはは。驚かしてちゃってごめんね」

 

 だけど聞けなかった。それを知ってしまうと、それこそ後戻りが出来なくなる気がして。

 

 だから自分からは何も聞かなくていい。何も知らなくていい。

 彼女達からはともかく、風太郎からすれば中野姉妹は所詮はまだ出会って間もないビジネス上でのパートナーに過ぎない。一人は同級生だが、友人でもない。

 あくまでも仕事上での関係。そう割り切って引いた線を越えなければ、彼女達の事情を深く気にする事もない筈だ。家庭教師と言っても別に毎日授業を行う訳でもないのだ。

 適正な距離を保って適切な関係を維持する。それが最善手だ。

 

「……いや、俺の方こそ世話をかけたな。生徒の家で寝るなんて気が抜けていたようだ」

 

 そう思うと、随分と心が軽くなった気がした。彼女達が何を胸の内に秘めていようが関係ない。自分はただ彼女達の良き教師として導くだけでいい。

 幸いにも勉強に対してのやる気はあるようだし、無理にこちらから歩み寄る必要もない。

 勿論、彼女達が困難にぶつかり手をこちらに差し伸ばしたのならその手を取るし、躓いたならこちらから手を差し伸べる。あくまで勉強に関してだが。

 金銭を貰う以上はその責任はしっかりと果たす。彼女達を無事全員、笑顔で卒業させるつもりだ。

 

「寝ちゃったものは仕方がないよ」

「そう言ってもらえると助かるよ」

 

 ようやく中野姉妹との付き合い方の糸口を見つける事が出来た風太郎は肩の力を抜いて口元を緩めた。

 どうやら今まで深く考え過ぎたようだ。彼女達との関係はもっとシンプルでいい。教師と生徒。それだけでいいじゃないか。

 別にドライな対応をするって訳じゃあない。仕事上の関係とはいえ、信頼関係が大事な事に変わりはないのだ。ただ、一線を引いて互いに不可侵領域を作る。それだけだ。

 そうすれば、きっと彼女達とのコミュニケーションもスムーズにいく筈だ。

 

「気にしないでよ。私たち、パートナーなんだからさ。持ちつ持たれつでいこうよ」

 

 それにしても一花の方も今日は何だか機嫌がいいのか、昨日と比べて表情が自然なように見える。若干、憑き物が落ちたかのようだ。何かいい事でもあったのだろうか。

 もしかしたら、昨日はたまたま機嫌が悪くてあんなやべー目をしていただけで、普段はこうなのかもれない。

 

「……あと悪かったな、一花」

「何が?」

「シーツだ、随分と寝汗をかいたらしい。妙に湿ってる。何か口元もべたべただし、枕も同じ有り様だ」

「……」

「クリーニングが必要なら俺の給料から差し引いてもらうよう、お前の父親に言っておいてくれ」

「……気にしなくてもいいよ」

「え、いいのか?」

「うん、記念だから」

「記念? まあ、助かる……それと、気になっていたんだが怪我でもしたのか?」

「どうして?」

「いや、シーツに赤いシミが付いていたから」

「…………ちょっと転んで怪我しちゃって」

「何だ、意外とドジだな」

「……っ」

 

 ようやく自分のペースと取り戻した風太郎がいつもの憎まれ口を一花に放つと彼女は顔赤くして俯いた。きっとドジな所を指摘されて恥ずかしかったのだろう。

 

 これでいいんだ。こういう互いに遠慮せず、だが一線を飛び越えない関係こそが理想の教師と生徒というものだろう。この時の風太郎はそう信じていた。

 

 




前回長すぎたので分割しました。


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五つ子強くて?ニューゲーム③

上杉君がやべー三女の策略に嵌った話。


 家庭教師のバイト初日でいきなり生徒の自宅で寝てしまうという失態を犯した数日後、二回目となる授業の日がやってきた。

 

 今日が来るまでの間も風太郎の学校生活は相変わらずだった。

 家を出たら三玖が待ち構えており更に二乃まで増えて三人で一緒に登校し、教室では五月に後ろから背中に穴が開くほど睨まれ、食堂ではやたらと距離の近い四葉に絡まれ、放課後に図書室でひっそりと勉強していると鼻歌まじりに機嫌の良さそうな一花に見つかり、そして帰りは姉妹に囲まれながら帰宅する。

 常人なら精神を摩耗するであろう日々を送っていたが、ようやくそれも慣れてきた。人生何事も慣れである。

 慣れとは即ち学習だ。人は学んで成長する生物である。風太郎は自分がいつまでも彼女達に怯えて過ごす学習できない愚鈍な草食動物ではないと確信している。

 

 彼女達はああいう人間なのだ。目が怖くて何故か付きまとってくるという個性豊かな生徒なのだと慣れてしまえば後はこっちのものだ。今では心に多少余裕が出来た事で中野姉妹に対して新たな発見もあった。

 未だに姉妹全員揃って目がやべーのは変わらないが、そんな彼女達の中でも一花だけは比較的僅かにマシではないかと風太郎は思った。何かこう、他の姉妹に比べてどこか余裕があるように感じた。

 会話をする時にやけに距離が近いのは姉妹共通だが、その時に一花は他と違ってあまり圧をかけてこない。これは風太郎にとってはかなり有難い事だった。

 残りの妹四人、特に三玖から放たれる無言のプレッシャーは慣れてきたとは言え、未だに風太郎の胃を痛めつけている。

 気のせいかもしれないが、一花を除いた他の姉妹四人は自分に何かを求めているような節があった。一体、何を求めているのか風太郎には見当も付かなかったが。

 金のない自分が彼女達に与えられるモノなど勉学の知識くらいしか思い浮かばない。

 

 だが、分からなくてもいい。敢えて問わない。一線を引いて彼女達と接すると決めたからだ。

 求めるモノが知恵なら進んで進呈するが、それ以外なら悪いが管轄外だ。他を当たって欲しい。自分達と姉妹の関係はあくまでも生徒と教師。その範疇を超えるつもりは一切ない。

 だから風太郎にとっては姉妹の中でもまだ距離の取り方を弁えている気がしなくもない一花が今のところ接していて楽だった。五つ子とはいえ、やはり長女なだけあって彼女が一番しっかりしているのかもしれない。

 それならそれで、連結した暴走列車の妹達の手綱を握っていて欲しいが……それは叶わぬ願いだろう。

 

「よし、一度休憩にするか」

「はあ、疲れた」

「お茶でも淹れてくるわ」

「私は抹茶ソーダがいい。二乃、冷蔵庫からついでに取ってきて」

「手伝うよ、二乃」

「頭を使ったので何か甘いものが欲しいですね」

 

 昼の三時頃、勉強もひと段落したところで休憩を取る事になった。中野姉妹はみな勉強に対してやる気を見せているとはいえ、苦手なのには変わりない。

 苦手な事を続けるというのは中々に骨が折れるものだ。休憩を挟まなければ姉妹達の集中力が持たないだろう。それに今日に限って言えば風太郎自身も休憩が欲しかった。

 

(睡眠は重要だと改めて思い知らされたな……今日は帰ったら早く寝るか)

 

 姉妹達が各々の休憩を取る中、風太郎は何とか欠伸を噛み殺しながら休憩後に彼女達に出す予定の問題集をパラパラと捲っていた。

 今日も寝不足だ。自分の勉強と家庭教師の両立は風太郎の想像以上に負担が大きく、昨日も夜遅くまで起きて前回のテスト結果を反映させた彼女達の個別課題を作成していた。

 生徒がやる気を見せる以上、教師にはその熱意に応える義務がある。そう思って気合いを入れて課題作成に夢中になったのが仇になってしまったようだ。

 流石に二度も彼女達の家で寝る訳にはいかないと、普段は決して買わない缶コーヒーを来る前に飲んできたが今のところは気休めにしかなっていない。

 

「みんな、お茶淹れたわよ。フータロー、あんたも飲むでしょ?」

「いや、俺は」

「いいから、ほら」

 

 キッチンから戻ってきた二乃が姉妹にそれぞれ飲み物を配りながら、最後に風太郎に対して有無を言わさず紅茶の入ったティーカップを差し出した。

 断る隙すらなく、受け取ってカップを覗き見る。一見は何の変哲もない紅茶だ。

 この手の飲み物の良し悪しは分からないが漂う香りから金持ちのお嬢様らしく如何にも高そうな茶葉を使っているのだろうと予測できる。

 普段は食堂の水や家の麦茶で喉を潤わせている風太郎には少々気が引けた。だが受け取ってしまった以上は飲むしかないだろう。

 それに紅茶にもカフェインは含まれていた筈だ。もしかしたら多少はこれでも眠気覚ましにはなるかもしれない。

 

 風太郎はそのまま二乃に出されたティーカップを口に運ぼうとして────。

 

 直前で手が止まった。手がこれ以上動かない。無意識に、体がまるで何か警鐘を鳴らしているかのように。

 

「どうしたの?」

「あ、いや……もう少し冷ましてから飲もうと思ってな」

 

 わざわざ口元まで運んだティーカップを飲まずに皿に戻した風太郎に二乃は怪訝そうな眼を向ける。

 

「あら、猫舌だっけ? 違った筈だけど。それとも麦茶の方が良かった?」

「別に猫舌って訳じゃないが……今日はそういう気分なんだよ」

 

 風太郎はこちらの眼を覗き込んでくる二乃から顔を逸らした。あの眼にずっと見られているとまるで瞳を通してこちらの胸の内まで見透かされているような錯覚がする。

 どうにも二乃は苦手だ。姉妹の中でも特に自分の事を知ったような口を利いてくる。

 それがただの口から適当に吐かれた言葉なら気にしないが、数少ない苦手な食べ物や好きな飲み物まで言ってもないのにピタリと当ててくるのは恐怖だ。こればかりは慣れようがない。

 

「フータロー」

「何だ、三玖」

「熱いのが嫌なら私のジュース飲む?」

 

 今度は隣に座る三玖から緑色の缶ジュースを差し出された。相変わらず距離が近い。頬に彼女の吐息がかかる。少し体をずらして三玖から距離を取りつつ風太郎は顎に手を当てた。

 彼女が手に持つ飲み物は抹茶ソーダだ。味に関しては未知だが別にそれは問題ない。

 

 重要なのはこれが『未開封の』缶ジュースだと言う事だ。

 

「……いいのか?」

「うん。フータローにもこの味を知って欲しい」

「味は別に気にしちゃいないが……じゃあ、いただこうか」

「ちょっと、私の淹れた紅茶は?」

「も、勿論、後で飲む」

「ふーん、ならいいけど」

 

 二乃に睨まれ冷や汗を背中に流しながら内心、ほっと胸をなで下ろした。

 そのまま缶ジュースを受け取ろうと三玖に手を伸ばす。

 

「あ、ちょっと待って」

「えっ」

 

 が、その前に三玖が待ったをかけた。

 

「やっぱり私も飲みたいから、二人で分けようよ」

「いや、待て三玖。それなら俺はいらな──」

「待ってて。コップに入れてくるから」

 

 いそいそと席を離れて、少し間を置いてから三玖が緑色の炭酸水が注がれたコップを二つ持って戻ってきた。

 

「はい、どうぞ」

「……」

 

 差し出されたコップを受け取り、風太郎は再び手が止まった。これでは二乃の淹れた紅茶と変わらない。

 風太郎が飲みたかったのは別にジュースなんかではない。『手の加えられない未開封の飲み物』だ。何故そんなものを欲しがったのか理由は単純である。

 

 風太郎は未だに彼女達を疑っているからだ。

 

(寝不足と疲労で飯の途中で寝ただと? 絶対にありえねえ。今日、こいつらに囲まれて改めて実感したぜ)

 

 先日、自分が彼女達の目の前で寝てしまった件について風太郎は素直に飲み込めていなかった。一花の前では一応は納得した振りをしたが、後になって考えてみるとやはり違和感しかない。

 今日も先日と同じく寝不足の状態でコンディションは最悪ではある。だがそれを加味しても彼女達の前で寝てしまおうなんて気は微塵も起きない。そんな恐ろしい真似、出来る筈がない。

 飢えた獣の前で寝る草食動物が何処にいるというのだ。

 

(だがどうする? 今度は二乃の時みたいに熱いから飲めないって言い訳は通用しないだろうし)

 

 面と向かって飲み物を断れるならそれが一番なのだろうが、それが出来ればここまで苦労はしない。今のところ彼女達はグレーだ。黒ではない。下手に疑っているのがバレて今の関係性が崩れるのだけは何としても避けたい。

 先日の一花とのやり取りで感じた教師と生徒の関係性。その距離感は今が間違いなくベストの筈だ。これ以上近づくつもりはないが、離れるのも好ましくない。出来るだけ、事は穏便に済ませたい。

 

(……いや、待て。逆に考えろ)

 

 この状況、彼女達の尻尾を掴むチャンスかもしれない。もしここで自分が直ぐに眠ってしまったら間違いなく何かを盛られていたと確信できる。そうすれば黒と断定して彼女達との距離感を改めて調整できるのではないのだろうか。

 盛った盛ってないよりも、このグレーの現状が続く方が精神衛生上よろしくない。彼女達と深く関わらないと決めたが、相手が薬を盛ってくるやべー連中か、ただの目の前怖いやべー連中かでは流石に対応も変わってくる。

 

 それに仮に盛られていてまた眠ったとしても別に失うものなどないだろうし、リスクはないと考えてもいい。不意打ちで眠らされるのと覚悟を決めて眠らされるのでは訳が違う。

 前回の時も帰ってから念の為、鞄や財布を調べたが特に変わりはなかった。もっとも教科書しか入っていない鞄も僅かな金銭しかない財布も変化があった所でそこまで痛くはないが。

 一番懸念していた懐にしまい込んでいた生徒手帳も見られた形跡もなかったので一応安心はした。着ていた制服に多少の乱れがあったが、どうせそれは寝返りをした時に着崩れたのだろう。

 

「飲まないの? フータロー」

「いや、もらう。ありがとな、三玖」

 

 三玖に礼を言って風太郎は覚悟を決めた。前回のように記憶が飛ぶ可能性も視野に入れ右手でコップを持ちながら、姉妹にバレないようテーブルの下で左手に持ったペンでひっそりと膝の上に落としたノートの切れ端に三玖から飲み物を受け取った旨と現在の時刻を走書きした。

 これで記憶が飛んだとしてもこのノートの切れ端を後で見れば誰に盛られていつ寝たか後で確認できる。切れ端を小さく丸めてスラックスのポケットに入れた。準備万端だ。

  

「安心して。鼻水は、入ってないから」

「鼻水? どういう意味だ」

「ふふ、あとで教えてあげる」

 

 毒は入っていない、という意味合いだろうか。笑みを浮かべて発した三玖の言葉にイマイチ要領を得なくて首を傾げた。

 まあいい。盛られていないならそれで構わない。その時は抹茶ソーダなる謎の飲料を味わうだけだ。三玖の言葉が嘘か誠かは直ぐに分かるだろう。

 風太郎はコップに入った緑色のジュースを一気に飲み干した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夢を見ていた。あまりに有り得ない光景のせいで夢だと自覚している。

 純白の衣装を着飾った自分と、同じように隣で純白のドレスを身に纏った女性。

 これが何を指す光景なのか直ぐに理解できた。

 所謂、男女が人生の墓場に足を突っ込んだのを祝う式だ。

 心底、馬鹿馬鹿しいと思った。式に、ではない。普段から恋愛を下らないと吐き捨てていた自分がこんな夢を見ている事に。

 夢は深層心理を映し出す心の鏡だと聞いたことがある。ならば自分は心の底でこんな事を望んでいたとでも言うのだろうか。或は、未来の姿を夢想したのか。愛だの恋だのに溺れる自分を。

 

 辺りを見回すと見知った家族や親戚、見知らぬ人間が集っていてやけにリアルに感じた。

 

 全員が笑顔で二組の男女の新たな人生の旅路に祝福している────ように見えたが違った。

 

 よく見るとその中で違う表情を浮かべている集団がいた。

 

 それは五人組だった。

 皆が笑う中、彼女達の表情はただただ虚無だった。

 何も浮かべていないのだ。

 喜びも、悲しみも、苦しみも、怒りも、何もなかった。

 

 だけど、その瞳だけは違う。

 ぐるぐると何かが渦巻いている。

 執着、執念、愛執、強い感情の色をしたそれは何処かで見覚えがあった。

 

 そして、そんな瞳をした彼女達が全員同時に小さく口を動かしてぽつりと何かを呟いた。

 夢のせいか、声は聞こえない。けれど、不思議と何と言ったのか理解できた。

 

 

 ど

 う

 し

 て

 ?

 

 

 

 

 ◇

 

「……ッ!」

 

 強烈な悪寒と共に風太郎は一気に意識が覚醒した。

 身に覚えのあるベッドの感覚、視界に入る見覚えのない部屋。デジャヴを感じた。

 

「あ、起きたんだねフータロー。よく眠れた?」

「み、三玖? ど、どうして……それにここは」

「私の部屋だよ。覚えてない?」

 

 混乱した脳を働かせて記憶の糸を辿っていく。

 今日は二回目の家庭教師のバイトの為、中野家を訪れた。それは覚えている。

 休憩を取って、色々とあって三玖から貰ったジュースを警戒しながら飲んだ。それも覚えている。

 

 そしてその後の記憶もあった。

 

「確か、授業を何とか終えたが眠気が限界に来て……」

「うちで少し休んでもらう事になった。今日のフータロー、何だか寝不足みたいだったし」

「……悪い、また世話になったようだ」

 

 三玖のジュースを飲んでも体に異変がないと安心して気が抜けたのだろうか。念の為、二乃の淹れた紅茶は結局、口はしていないし今回は自分の失態のようだ。

 元々今日は自分が寝不足だったのを軽く見ていたのかもしれない。何とか耐えられるものだと思っていたが休憩後は想像以上に眠気が強烈だった。

 授業を進めていく内にだんだんと睡魔が強くなっていき、授業を終えて直ぐに倒れそうになった自分を二乃と三玖が支えて運ばれたのが最後の記憶だ。

 その時に誰の部屋に運ぶか後ろで口論していたような気がしたが、詳しくは覚えていない。

 きっと前回の一花の時のように、じゃんけんか何か決めて今回は負けた三玖の部屋に運ぶ事になったのだろう。

 

「ううん、気にしないで。私たちの為にフータローが頑張ってくれたのは分かってるから」

「だが、二度も生徒の家で寝るのは……」

「うちで寝ないで帰る途中で寝ちゃった方が困るよ」

「……それでも家庭教師としては問題ありに変わりない。教師失格だ」

 

 風太郎は自分が情けなくなった。

 本来、信頼すべき彼女達生徒をあろうことか教師の自分が疑いの目を向けた挙句、自分の失態でその尻拭いまでさせてしまった。

 距離感を保つと言って置きながらも、彼女達に対して罪悪感のようなものが湧いてくる。

 

「ねえ、フータロー」

「……なんだ?」

「休憩時間に言った話、覚えている?」

 

 露骨に話題を変えてきた三玖に戸惑いつつ、あの時の会話を思い浮かべた。

 

「確か、鼻水がどうのって話だったか」

「うん。あれ、石田三成が大谷吉継の鼻水の入ったお茶を飲んだエピソードから取ったジョーク」

「い、石田三成? 急に何の話だ」

「私ね、戦国武将が好きなの」

 

 今度は趣味の暴露にまたしても困惑する。三玖の意図がイマイチ読めない。

 

「まあ、いいんじゃないか? 趣味なんて十人十色だろう」

「でも、私はその趣味を誰にも言えなかった。他の姉妹にも」

「どうしてだ。別に恥じる事じゃないだろ」

「私が一番の落ちこぼれだと思っていたから」

 

 自身を持てない、という事だろうか。自分の趣味に、ではなく自分自身に。

 だが、さっきから三玖の言葉は妙に引っかかりを覚える。

 言えなかった、思っていた、何故彼女は過去形で語るのだろう。

 

「少なくとも、前のテストは五月に次いで点数が高かったが」

「私に出来る事は他の姉妹にも出来たよ。五つ子だから……だから、落ちこぼれの私は諦めてって言ったらフータローはどうする?」

 

 問いかける三玖の瞳はいつもの恐怖を感じる眼ではなかった。

 ただ純粋に、真意を確かめたい一心の曇りのない色だ。

 

 答えなど、決まっている。

 

「それはできない。俺は五人の家庭教師だ。お前達には五人揃って笑顔で卒業してもらう」

 

 堂々と言い切ると三玖は花を咲かせるように笑った。

 

「……やっぱり、フータローはフータローだね」

「どういう意味だ」

「私達には、私にはフータローが必要だよ。家庭教師失格なんかじゃない」

「……二度も生徒の家で寝る奴だぞ?」

「私にはフータローしかいない」

「……っ」

 

 流石にそこまではっきりと言われると言葉に詰まる。

 もう少し消極的な人柄だと思っていたがここまでストレートに言葉を投げてくるとは……いや、よくよく考えれば毎朝人の家の前で待ち構えているような奴はむしろ積極性の塊ではないか。

 

「だから、フータロー。私たちから離れないでね」

「少なくとも責任は果たすつもりだ」

「今度こそ、絶対だよ」

「……まっ、金で雇われている以上は、な」

 

 口ではそう答えたが、実際はどうだろうか。距離感を保つとは決めたが、もしかしたら少しずつ歩みを寄せるのも悪くないのかもしれない。

 もし今日の三玖のように姉妹が全員、自身の事を語ってくれるのなら風太郎は少しだけ、それに応じても良いのではないかと思った。

 

 ──思っていた。

 

 

 

 

「ところで三玖」

「何?」

「なんでタイツ脱いでいたんだ」

「……暑かったから」

「暑いか? 快適な気温だと思うが」

「う、運動したせい」

「運動……ああ、俺を運ぶのにか。悪かったな」

「……いい」

「あと、すまない。覚えていないんだが悪い夢でも見たせいか、シーツを寝汗で汚しちまった。枕もだ。これじゃ一花の時と変わらねえな。洗うならクリーニング代を」

「記念だから置いておいて」

「姉妹で流行っているのか? その記念って。一花も似たような事言ってたな」

「……」

「それと、怪我は大丈夫か?」

「怪我?」

「ベッドに赤い染みが着いてたんだよ。一花もそうだが、そんな所も姉妹で似るんだな」

「……」

 



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五つ子強くて?ニューゲーム④

上杉君がやべー五女と勉強会する話。


 今日は家庭教師の仕事がない長閑な休日だった。学校でもバイト先でもあの五つ子に頭を悩まされている風太郎にとっては束の間の休息だ。

 今だけは中野姉妹の存在を脳裏から綺麗さっぱり消し去り、家に引きこもって好き放題勉強が出来る。最高の勉強日和とはまさにこの事だろう。

 ノートと教科書を広げ、平穏を噛みしめながらペンを走らせていた風太郎であったが、それも長くは続く事はなかった。

 

 何故なら突如鳴り響いたインターホンによって彼の平穏は音を立てて全て崩れ去ったから。

 

 普段、上杉家には来客なんてものとは縁がない。借金取りかセールスの類かと思いながら渋々と扉を開けると、風太郎は驚愕のあまり目を見開いた。

 

「こんにちは、上杉君」

 

 扉の前に立っていた来訪者の名は中野五月。クラスで常に後ろから睨み付けてくる中野姉妹のやべー五女。

 

(な、何しに来やがったこの女!)

 

 普通なら真っ先に何故自宅の住所を知っているのかと疑問に感じるところだが、そもそも出会って初日でいきなり自宅の目の前で待ち受けていたやべーヘッドホン女がいた事案があったので特に気にする事もなかった。

 自身の個人情報が五つ子に筒抜けなのは今に始まった事ではない。教えてもないメールアドレスと電話番号を何故か知られていたどころか、勝手にスマホのアドレス帳に五人分の情報が追記されていたのは記憶に新しい。自宅を知られていた程度なら許容範囲内だ。

 だが、休日にまで彼女達と接するとなると話は別だ。以前の三玖とのやり取りで多少は彼女達に歩みを寄せてもいいかと考えなくはなかったが、休みの日にわざわざ顔を合わせるほど距離を詰めた記憶はない。

 五月の姿を見て即座に扉を閉めようと試みた風太郎だったが、彼女は持っていた鞄を咄嗟に扉に挟んでそれを阻止した。

 

「ひっ」

「お邪魔します」

 

 半開きの扉を掴みながら笑顔を浮かべる五月に風太郎は即座に抵抗の意志を捨て去った。

 

 一体何が目的なのかと緊張しながら居間に案内した風太郎だったが、そこで話を聞くと五月が訪れた理由は意外と真っ当なもので、風太郎に彼女の父から預かった給与を渡しに来たのが今日の目的だった。

 

「給料か。それなら今度のバイトの日に渡してくれても良かっただろ」

「いえ、お金の事ですし後回しになんて出来ません」

「全く、律儀な奴め」

 

 呆れるような反応を見せつつ内心では五月の言葉を聞いて安心した。それが目的なら直ぐに帰って貰えるようだ。平穏な休日を続ける事が出来そうだ。

 

「それじゃ、遠慮なくいただいて……なっ」

 

 給与の入った封筒を受け取った風太郎だったがその中身に言葉を失った。諭吉が五人もいたのだ。破格の高収入バイトだと自覚していたが、実際に貰うと気が引ける。

 本当にこんな大金を貰ってもいいのかと五月に問いかけようとしたが、ふと思い留まった。よくよく考えれば、ここ最近の精神的及び肉体的疲労を顧みれば割と妥当な金額ではないのだろうか。

 確かに家庭教師自体は二回しか行っていないが、それ以外の時間外であの姉妹に絡まれた時間は考えるのも嫌になる程だ。学校生活においてはほぼ全ての時間、姉妹の誰かが傍にいるのが現状である。

 家庭教師として仕事、というより日常生活を姉妹から監視される事へのモニターの報酬の方がしっくりくる。

 

「どうかしましたか?」

「いや、何でもない」

 

 とりあえず貰った給料は受け取っておく事にした。ここで妹のらいはがいたら何か欲しいものを買ってあげるのだが、生憎と今日は友人と出掛けている。

 何でも最近、新しく友人が増えたそうだ。今日はその友人達と遊びに行くという旨を聞いていた。どうやら夜から行われる花火大会にも参加するようで、帰りが少し遅くなるらしい。

 兄としては少し心配だが、いつも負担を掛けている妹に遊んでくれる友人が出来たのは素直に嬉しかった。何でも年上の友人らしいが、機会があれば会って直接お礼を言いたい。

 

「さて、ここからが本題ですが」

「えっ」

「上杉君、まずはこれを」

 

 何やら不穏な言葉を発した五月がすっと懐から封筒をもう一通差し出してきた。

 警戒しながら中身を確認すると今度は樋口がひょこりと顔を見せた。彼女の意図が理解できず、風太郎は思わず眉を顰める。

 

「……何のつもりだ、これは」

「『今日』の給料です」

「は?」

「あなたの家庭教師は一人一日五千円でしたよね。ですから、今日、あなたの時間を一日私に買わせてください」

 

 五月はじっと風太郎の眼を見つめた。相変わらず怖い眼であったが、それでも今までと違って何か決意を秘めているように思えた。

 

「つまり俺を今日一日、個人で家庭教師として雇いたいと?」

「はい」

「意味が分からん。勉強を教えて欲しいなら平日の放課後でもいいだろう。勉強会なら図書室でやっている」

「それだけじゃ足りないのです」

「……お前が勉強熱心なのは分かった。だがそれは受け取れない」

「どうしてですか」

「お前達に勉強を教えるのはあくまで、お前達の父親から依頼されているからだ。で、その分の報酬はさっき貰っている。お前からの金を貰う事は出来ない」

「……」

 

 差し出しされた封筒をそのまま五月に突き返した。無言で睨まれて一瞬、気圧されたがここで引くわけにはいかない。

 

「……つまり、個別のレッスンに金はいらねえって事だ。ちゃんとノートと教科書は持ってきたんだろうな?」

「はいっ! ありがとうございます!」

 

 結局は彼女の熱意に折れてしまった。わざわざ休日に家を訪ねて来て勉強をしたいと申し出ている生徒の願いを無碍にするなど出来なかった。

 風太郎の返事に嬉しそうに笑顔を浮かべる五月に大きく嘆息しながらも苦笑いを浮かべる。警戒をしていた筈なのに、だんだんと彼女達に対して甘くなっている気がする。

 これも一花や三玖との会話のせいだろうか。未だに彼女達とは打ち解けてはいないが異常な発言や行動に目を瞑れば、存外上手くやっていけているのかもしれない。

 

 それに馬鹿でも勉強に対して向上心がある奴は少なくとも嫌いではなかった。

 

 

 

 ◇

 

「上杉君はどうして勉強をするのですか?」

 

 相変わらず姉妹揃って距離が近い。今でも四つ足の卓袱台にわざわざ二人隣り合わせに並び時折、目に刺さりそうになる五月の頭頂部の毛束を避けながら彼女に指導していた。

 誰もいない上杉家で二人きりの時間を過ごす中、五月の解いた問題の採点をしていると彼女から急にそんな疑問を投げかけられた。

 

「理由?」

「はい。私は知りたいです」

「勉強は学生の本分だろうが。理由なんてない」

 

 何を馬鹿な事を言い出すんだと返して風太郎は気にも留めず採点を続ける。

 ここで一つ、嘘を吐いてしまった。本当は勉強をする明確な理由が存在する。

 だが、それをわざわざ素直に話そうとは思わなかったし、他人に話す事でもないと思った。

 彼女との思い出は誰かと共有するものではない。

 

「私には夢があります」

 

 ペンを走らせる風太郎に五月はそのまま言葉を続けた。

 

「急になんだ」

「学校の先生になることです」

「教員? また随分と遠い目標だな。教員を目指すって事は大学に進学する必要があるが、今は進級出来るかどうかも怪しいだろ」

 

 夢を見るのは結構だが、それ相応の現実を見るのも重要だ。

 彼女の掲げる夢は現状では少し厳しいと風太郎は感じた。まずは赤点回避という目先の目標は優先だろう。

 それは五月も理解しているようで、風太郎に分かっていますと答えてから言葉を紡いだ。

 

「確かに今のままでは難しいです……ですから、私は変わりたい。その為に私にはあなたが必要なのです」

「……っ」

 

 思わずペンを動かす手を止めて五月の顔をまじまじと見てしまった。

 先日の一花や三玖の時もそうだが、この姉妹は時々珍妙な事を軽々しく口走る傾向がある。

 特に『自分を必要としている』だなんて言葉は本当に卑怯だ。嫌でも彼女との思い出が脳裏に浮かんでしまう。

 自分が勉強をする理由でもあるそれは、風太郎にとってある意味で殺し文句のようなものだ。流石に彼女達は分かって口にしていないだろうが。

 最近、彼女達に甘くなっているのもそれが原因だろうか。

 

「俺に課せられた最終目標はお前達の全員卒業だ。進路までは面倒見切れん」

「でも、笑顔で卒業させると言ったのでしょう?」

「……あくまでも勉強を教えるだけだ。過度な期待はするな」

 

 その言葉は三玖にしか口にしていない筈。もしかして彼女が口を滑らしたのか。まるで揚げ足取りをされたようで、風太郎は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 態度は素っ気ないのに、言葉では否定しない彼を見て五月はどこか懐かしむように微笑んだ。

 

「──やはり、あなたは変わらないのですね。もっと、もっと早く信頼していれば、自覚していれば、そうすれば」

「何か言ったか?」

「いえ、何も」

「とにかく無駄話はこれで終わりだ。勉強を再開するぞ」

 

 五月が呟いた小さな声を無視して再びペンを握った。せっかく休日を返上して勉強を教えてやっているんだ。時間は無駄にしたくはない。

 

「もう一つ、今度は相談をしてもいいですか?」

 

 ところが五月の方は会話をもう少し続けたいらしい。この状態では勉強に身も入らないだろう。

 仕方ない。少し休憩を挟む事にしてペンを置いて五月に視線を向けた。

 

「俺はお前達の家庭教師であってカウンセラーじゃないんだが……まあいい」

「ありがとうございます。さっき、夢があるって言いましたよね。実はもう一つありまして」

「何だ、教師以外にもあるのか」

 

 夢が二つもあるなんて欲張りな奴だと言葉では皮肉を吐き捨てながらも、風太郎にはそんな五月が輝いて見えた。

 自分と違って具体的な夢や選択肢があるのは素直に羨ましいと思う。ただ教科書の知識を頭に詰め込むだけでは得ることが出来ない何かに、彼女は手を伸ばそうとしている。

 それがたまらなく眩しかった。

 

「『家族』とずっと一緒に過ごす事です」

「……また随分と抽象的な目的だな」

 

 さっきの教師になるという具体的な夢と違ってあまり要領を得ない目的だった。

 首を傾げる風太郎に五月は自身のこれまでの家庭状況を語った。

 

 風太郎の雇い主である今の彼女達の父と再婚するまで自分と変わらない極貧生活を送っていた事。

 その生活の中で母が倒れ、五月は他の姉妹の母の代わりになると決心した事。

 

 彼女達の過去や母の五人でいる事が重要だという教えから五月は『家族』で過ごす事を望んでいるらしい。

 だが、彼女の話を聞いても風太郎は未だに納得できないでいた。

 

「お前達の事情は分かったが……別にわざわざ夢として掲げなくても既に達成しているんじゃないか?」

 

 出会って間もない風太郎から見ても姉妹の仲は良好に見える。

 中野父とは電話でしか会話した事がないが、落第しそうな娘の為に高額の報酬を出して家庭教師を付けるのだから少なくとも彼女達を大事にしているのだろう。

 それともずっと一緒に過ごす、という言葉は文字通りの意味なのだろうか。それはそれで何時までも自立できなくて問題だとは思うが。

 

 話の途中、五月が手伝うと言って入れてくれた上杉家の麦茶をチビチビと口付けながら風太郎は彼女の『夢』に疑問を抱いていた。

 

「姉妹揃って家族で暮らすなら今もそうしているだろ」

「違いますよ。それだと『父』がいないでしょう?」

「……? いや、お前達の親父さんが」

「私にとっての『父』はお父さんじゃありません。私が『母』なんですから」

 

 何を言っているんだ、こいつは。相変わらず話がイマイチ理解できない。

 それに、だんだんと話が妙な方向に進んでいる気がした。

 

「じゃあその『父』とやらは誰だ。長女の一花か?」

「違います」

「料理が出来る二乃」

「違います」

「三玖か?」

「違います」

「じゃあ四葉」

「違いますよ。分かりませんか?」

 

 さっぱり分からない。例えば彼女達の祖父が『父』とでも言うのだろうか。

 答えを当てられない自分に苛立ちを感じているのか、さっきから五月の視線がだんだんと強くなっている。

 これは流石にそろそろ正解を当てないと不味い。身の危険を感じる。緊張のせいか喉が渇く。

 何とか喉を潤わせようと麦茶を一気に飲み干した。

 

 ─────その瞬間、視界が歪んだ。

 

「なん、だ、これ……」

 

 急激に意識が遠のいていく。風太郎はこの独特な感覚に既視感を覚えた。

 しまった。油断した。自分の家のお茶だったから何も警戒していなかった。

 一花の時も、三玖の時も確証は得られなかった。だけど今回は間違いない。

 こいつらはやっぱり──

 

「あなたですよ、上杉君」

 

 深淵へと意識が落ちてゆく中、風太郎が見たのは頬を紅潮させた五月の笑みだった。

 

 

「上杉君、あなたは私の『父』になってくれたかもしれない男性でした」

「あの時、確かに言いましたよね。私達の『父』になると」

「私が『母』であなたが『父』。つまりそれはもはや夫婦でしょう?」

「あの夜の事は今でもずっと覚えています」

「大丈夫です。あの時の言葉、今はちゃんと理解していますよ」

「だからもう一度、今度は理解した上でこの言葉をあなたに……」

 

 

 

「──今日は月が綺麗ですね」

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム⑤

上杉君がやべー次女と花火を見る話。


 化かし化かされ化かし合う。

 姉妹たちが本当の自分の姿でいる方が珍しくなったのは、いつからだろうか。

 僅かな所作や仕草で彼女たちを見分けられるようになると彼女たちの祖父は言っていた。

 だが、こんな形で彼女たちを見分けられるようになるとは思わなかった。

 毎日、誰かが誰かに化けて嘘をつく。眩しく感じていた姉妹の笑顔が次第にくすんで、その瞳も濁ってしまった。

 こうなった原因は分かっている。その解決法も。あの時と同じだ。結局、何も変わらない。

 

 ──ただ、『不要なカード』を切り捨てればいい。それだけのシンプルな方法だ。それで全て丸く収まる。そう信じていた。

 

 

 どうして、と絶望と執着の混じり合う長女に問われた。

 

 ──俺には誰か一人を選ぶ事なんて出来なかった。

 

 どうして、と怒りと悲しみを浮かべた次女に問われた。

 

 ──誰かを選ぶとお前達の絆を壊してしまうから。

 

 どうして、と涙を零しながら詰め寄る三女に問われた。

 

 ──お前達には五人一緒にただ笑顔でいて欲しい。

 

 どうして、と今にも泣きそうな笑顔で四女に問われた。

 

 ──それがお前たち姉妹に望む理想の関係だから。

 

 どうして、と驚愕で顔をこわばらせた五女に問われた。

 

 ──俺達は友人だと、そう言ったのはお前だろう。

 

 特定の誰かではなく、五人全員と出会えたから俺は変われた。だから、姉妹の誰か一人を選ぶ事なんて出来る筈がなかった。

 それが正しい選択だと、最善なのだと疑いもしなかった。彼女達にはずっと五人で過ごして欲しいと心の底から願っていた。

  

 けど、それは間違いだったのだろう。彼女達に自分の望む理想を押し付けてしまった。

 本当に正しい答えを選んでいたら、きっと彼女達を悲しませる事なんてなかった筈だ。

 もしかしたら、俺は一番してはいけない選択肢を選んでしまったのではないだろうか。

 もし誰か一人を選んでいたのなら、こんな結末を迎える事はなかったのかもしれない。

 覆水後に返らず。いくら後悔しても、もう遅い。時計の針は決して戻せないのだから。

 

 

 ずっと五人一緒がいいんだね、フータロー君は。

 

 あんたがそう言うなら癪だけど仕方がないわね。

 

 それがフータローが望んだ『公平』ならいいよ。

 

 上杉さんがそれで笑顔になれるなら構いません。

 

 それがあなたの願いなら私たちが叶えましょう。

 

 

 ─────五人一緒に。あなたと共に。永久に。

 

 

 

 ああ、失念していた。

 彼女達がどうしようもなく馬鹿で素直に言う事を聞かない厄介な連中だという事を。

 

 

 

 

 ◇

 

 

「………ねえ、起きて」

 

 誰かの声がした。体を揺られながら徐々に意識が覚醒していく。

 体が物凄く怠い。まるで苦手な運動をした後のような気怠さだ。おまけに腰の辺りも痛む。それに口元が何故かべたべたとして気持ち悪い。

 この体の不快感は以前にも経験した事がある。そうだ、あれは確か───。

 

「起きてお兄ちゃん!」

 

 耳元で響いた声に目を開くと自分の顔を覗き見るらいはの顔が映った。

 

「らいは、か」

「あ、やっと起きた。おはようお兄ちゃん。もう夜だけど」

「夜……?」

 

 覚醒しきっていない頭を動かして部屋の壁時計を確認すると七時を回っていた。窓から見える外の景色は既に暗闇が包んでいる。

 不思議と、夜空に浮かぶ月がいつもより綺麗に見えた。

 

「なんでらいはが……確か友達と花火大会に行った筈だろ?」

 

 今日は父も仕事で、らいはも帰るのが遅いと聞いて家は自分一人だった筈。絶好の勉強日和と思って卓袱台に筆記用具やノートを広げて勉強に明け暮れていたのは覚えている。

 頭がぼうっとする。記憶が曖昧だ。何故、寝てしまっていたんだ。勉強を張り切りすぎたかのだろうか。

 

『上杉君はどうして勉強をするのですか』

 

 ……いや、違う。今日は一日中勉強をしようとして彼女が訪問してきたんだ。

 だんだんと記憶が蘇っていく。そうだ思い出した。給料を渡しに来た五月に勉強を教えて欲しいと言われ、そしてその途中で───。

 

「らいはちゃん、そろそろフータローは起きたかしら?」

「ッ!?」

 

 聞き覚えのある声。だが、この場所で、我が家で決して聞くことのない筈の声がした。

 ありえない。なんでこいつが。

 あまりの衝撃に辿っていた記憶の糸が途切れてしまった。

 

「あ、二乃さん。いまちょうど起きたよ」

「良かった。今からなら花火も何とか間に合いそうね」

「ま、待て、らいは! なんでそいつがいる!?」

 

 まるで我が物顔のように部屋に入ってきた浴衣姿の二乃に風太郎は目を剝いた。

 状況が理解できない。脳が処理しきれない。

 何故、この女がここにいる。

 何故、当然のようにらいはと会話している。

 

「言ったでしょ、お兄ちゃん。友達と花火大会に行くって。その友達が二乃さん達だよ」

「なん、だと……」

 

 風太郎は言葉を失い崩れ落ちそうになった。

 唯一の心の拠り所を失ってしまったような、そんな喪失感が胸の中にじわりと広がる。

 せめて家の中だけは、家族だけはあの姉妹に侵されない聖域だった筈。

 それが気付けば姉妹の魔の手が届いてしまっていた。

 家の前で待ち構えているならまだ我慢できる。

 インターホンを鳴らして客人として訪れるのも別にいい。

 

 だが家族を手籠めにされて出入りされるのはダメだ。まだ自分への客人として訪れるなら断る事も出来るが、らいはの友人として訪ねられたら彼女の侵入を許さざるを得ない。

 そうなってしまったら終わりだ。これでは安眠出来る場所すらないではないか。

 

「馬鹿な、そんな事が……」

「ほら、突っ立ってないであんたも準備しなさい」

 

 茫然と立ち尽くす風太郎だったが、そんなのはお構いなしに二乃は彼の腕引いた。

 

「じゅ、準備? お前、何を言って……それより五月はどこだ。あいつは俺に」

「決まってるじゃない。花火大会よ。五月は先に行ってるわ」

 

 何が何だかさっぱりだ。しかもこの流れはどうやら自分の意志に関係なく彼女達に付いて行かなければならない事が既に決定しているらしい。

 拒否権がないのなら諦めるしかない。普段は諦めの悪い男だと自負してる風太郎だが、彼女達相手に意地を通せるのなら、今日までの精神的疲労はなかっただろう。

 

 それに、この場にはいない五月には何としても確かめなければならない事がある。

 

「……あれ? お兄ちゃん。怪我したの?」

「怪我?」

「ほら、ここ。畳に赤いシミが付いてるよ。どこか擦りむいたりしたの?」

「ほんとだ。けど怪我なんてした記憶にないが……」

「……」

 

 

 ◇

 

 

「クソッ……どうして俺が花火大会なんぞに参加しなきゃならねえんだ」

 

 浴衣を着た人混みを搔き分けながら、屋台通りを渋々と歩く。秋とはいえ、これだけ人が集まると蒸れるように熱い。

 せっかくの勉強日和がこれでは水の泡だ。額に汗を浮かべた風太郎は隣を歩く二乃に愚痴をぶつけるが、彼女は気にも止めずに聞き流していた。

 

「いいじゃない。ほら、あんたの妹ちゃんも四葉に遊んでもらって喜んでるんだし」

 

 二乃の指差す方に視線をやると合流した四葉とらいはが祭りを存分に楽しんでいるようだった。

 否、正確には口元にソースを付けた四葉をらいはがハンカチで拭って世話をしていた。

 

「あれはどちらかと言うと四葉がらいはに遊んでもらってないか?」

「……そうね」

 

 気まずくなったのか、二乃は四葉達から顔を逸らした。

 そんな二乃に呆れながらも風太郎はずっと感じていた疑問を投げかけた。

 

「そもそも、なんでお前たちとらいはが友達になっているんだよ」

「ほら、前にあんたが私たちの家で寝た事があったでしょ? その時にらいはちゃんと電話で話してる内に仲良くなったのよ」

 

 あの時に何故か五月がらいはの携帯電話を知っていたのを思い出した。

 姉妹がらいはと友達になった経緯よりもそっちが気になったが、何となく聞くのは躊躇われた。何となくだが、聞いてはならない気がして。

 

 まあいい。彼女達への自分の個人情報流出など今更だ。

 

「ったく、どんなコミュニケーション能力してやがる。普通、電話で話しただけの小学生とそこまで仲良くなるか?」

「話してみると良い子で可愛かったから仲良くなりたいと思っただけよ」

「確かにうちの妹は良い子で可愛い。つい友達にしたくなるのも仕方ないな」

 

 意外と話が分かる奴かもしれない。風太郎は初めて二乃に心を許しかけた。

 

「それに、将来の事を考えたら挨拶は速い方がいいし」

「何の話だ?」

「後になれば分かるわ。それまで楽しみにしてて」

「……?」

 

 まるで子どもが悪巧みをするかのような笑みを浮かべる二乃に風太郎は嫌な予感がした。

 彼女達が何かを企むなんてろくでもない事に違いない。

 

「……にしても意外だな」

「何が?」

「てっきり姉妹揃って来ているかと思ったんだが」

 

 いつも五人揃って常に自分を囲っている中野姉妹だが、今日はやけに人数が少なかった。

 普段なら気付けば後ろにいる三玖も、最近出会う毎に何かと飲み物や食べ物を差し出してくる一花もいない。

 それに風太郎にとって今現在一番の懸念事項である五月の姿も見当たらなかった。

 

「五月なら屋台を食べ歩きしてるわ。運動した後だからお腹空いてたんでしょうね。三玖はその付添。五月、一人だと迷子になるからね。二人とは後で合流する予定よ」

「運動……?」

 

 妙にその言葉が引っかかったが、とりあえずは納得した。しかしそれだとまだ一人足りない。

 

「一花はどうしたんだ?」

「仕事。今度やる大きい映画のオーディション受けに行ってるわ」

「……オーディション?」

 

 いきなり飛び出た不可思議な単語に首を傾げると、二乃は意外そうに目を大きくした。

 

「あら、まだ聞いてないの? 一花、女優の卵なのよ」

「は? 女優……?」

「意外ね。一花の部屋で二人が一緒に寝た時に言ってるかと思ったけど」

「ご、誤解を招くような言い方は止めろ!! 別にあの時は特に何も話してない。起きた時に状況の確認をしただけだ」

「……」

 

 思い返してみれば、確かに姉妹の中でも一花だけは放課後に姉妹に囲まれて帰る中で姿を見せない日が時々あった気がする。彼女がいなかったのは仕事が理由だったのだろう。

 そもそも五人に囲まれて帰宅する事自体が異質な為、そんな些細な事に気付く筈がなかった。

 

「しかしあいつが女優ねえ……全く想像できねえ」

「勉強が遅れるか心配?」

「いいや、それに関しては全く」

「え?」

「今のところ家庭教師の日にはちゃんと授業を受けているし、予習もしているようだ。仕事をしながらそれが出来ているなら何も心配はない」

 

 一花の仕事には驚いたが、勉強を疎かにしている様子は今のところ見受けられない。

 勉強と仕事を両立させる苦労は風太郎も身に染みて実感している。それをしっかりとこなしている一花に風太郎は好感が持てた。

 長女として妹達の模範となろうとしているのだろう。彼女のそういったところは素直に尊敬できる。

 最近では三玖も一花に感化されたのか、最初に比べて自分に圧かけてくる事も少なくなった気がする。何というか心に余裕が出来たように感じた。

 

「……ふーん、そう」

 

 突如、二乃がつまらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ほんっと、ズルいわ。一番余裕がなかったのは一花だったのに、じゃんけんで勝った途端に余裕ぶって、三玖も同じよ。五月だっていつもの食欲に戻ったし、私だって絶対に……」

「な、なんだよ、いきなり……」

 

 急に機嫌を損ねてぶつぶつと独り言を呟きだした二乃に風太郎は戦慄した。

 時々あるのだ。彼女達を話していると突然、まるでスイッチが入ったかのように態度が豹変する事が。

 つい先日もそうだった。日直でクラスの女子と事務的な会話を二言三言交わした時に五月から普段よりも強烈な視線を送られ、何故か後から三玖と二乃に何を話したか尋問され、一花に言ってもいないその女子の名前を確認され、四葉がその女子の様子を視察しに行った。

 本当にこの姉妹は何が地雷なのか分からない。

 

「こっちの話よ。まあいいわ。ようやく私の番だしね。ほら行きましょ」

「行くってどこに」

「今日はビルの屋上を貸し切って花火を見るの。その特等席に向かうのよ」

 

 何とか機嫌を直してくれたようだが、今度は流れるように飛び出たセレブ発言に風太郎は眉をひくつかせた。

 金持ちというのは、やる事のスケールが庶民とは違うと思い知らされる。

 

「四葉達はいいのか?」

「四葉とらいはちゃんには予め言ってるわ。時間までまだ余裕があるし、もう少し遊んでいくんじゃない? それともフータローも二人と一緒に遊びたいのかしら」

「興味ない。その特等席とやらにさっさと行くぞ」

 

 揶揄ってくる二乃を無視して風太郎は溢れる人混みを搔き分けるように前に出た。

 しかし、前から流れてくる人だかりに中々進めない。後ろの方で二乃が人とぶつかったのか、あっ、と彼女の声が聞こえた。

 これでは埒が明かない。仕方ないと、風太郎は溜息を吐いて二乃の元に戻って彼女の手を取って自身の袖口に寄せた。

 

「ったく、人混みが多いな。ほら、掴んでろ」

「……っ!」

「いや、腕じゃなくて袖を……」

「……」

「……もうそのままでいいから案内してくれ」

 

 普段は怖い眼をして距離が近くても全く動じない癖に、なんで今に限ってしおらしいんだ。

 腕を抱きしめて顔を伏せる二乃に若干の気恥ずかしさを覚えながら風太郎は人混みを進んでいった。

 

 ◇

 

「……圧巻だな、流石はセレブ席。本当に俺たち以外誰もいねえ」

「当然でしょ。誰にも邪魔なんかされたくないんだから」

 

 何となく気まずい空気を味わいながら二乃に腕を抱きつかれたたまま、何とか目的地のビルへとたどり着いた。

 屋上はテラスになっており、木製のテーブルの上には予め用意してあったのか何本かのジュースのペットボトルが置かれている。

 

「しかし、四葉達も三玖達も遅いな。来る気配がないが……一緒に花火を見る約束があるんだろ?」

 

 道中、二乃から聞いた話だが中野姉妹は毎年姉妹で花火を見る習慣があるらしい。それが母との思い出だと。

 だからこうして屋上を貸し切ってまで用意をしたらしいが、未だに屋上には自分と二乃以外の姿が見当たらない。

 

「ええ。だけどそれは後よ」

「後?」

「花火大会、一花は間に合わないし。五人揃ってなきゃ意味ないのよ」

「じゃあどうするんだ」

「一花が来た後に買った花火をするわ。規模は小さいけど花火は花火だからね」

「……随分と五人一緒に拘るんだな」

 

 何となく、思った事をそのまま口にしていた。

 仲のいい姉妹だと思っていたが、それにしても五人でいる事にどこか強い拘りを感じる。

 

 風太郎の疑問に二乃は夜空を見上げながらぽつりと呟いた。

 

「──だって五人一緒じゃなきゃ手に入らないモノがあるんだもの」

 

 花火を見る為にこんなビルの屋上を貸し切る事ができる姉妹だ。頭の出来は五人で一人前だが、それ以外は何でも苦も無く手が届く連中だと思っていた。

 そんな彼女達が揃って一体何を欲しているのか少し気になったが、二乃の瞳が夜空よりも暗く濃い黒を宿していたのを見て言葉を飲み込んだ。

 今まで見た中でも、特に圧の感じる瞳は、並々ならぬ感情を秘めているように感じた。

 

「でもせっかく、こんな場所を借りたんだし花火を楽しまないと損よね。はい、あんたの分のジュース」

 

 喉渇いたでしょ、と二乃はテーブルに置いてあったペットボトルを手に取って風太郎に差し出してきた。

 何の変哲もない、ただのペットボトルに入ったジュースだ。

 

 ──だが、もう同じ手は食わない。

 

「……悪いが、それは受け取れない」

 

「どうして?」

 

 ありふれた言葉なのに、二乃が口にしたそれは強烈なプレッシャーを感じた。

 それに、何故だろう。彼女から……彼女達からその言葉で問われたのは初めてではない気がする。

 しかし今はそんな既視感に構っている暇はない。

 

「そのジュースを、もしお前が先に飲んだら、受け取ってもいい」

 

 暗に何かを盛っただろうという疑いを含んだ言い方をしたが、直接の表現は敢えて避けた。

 これは風太郎なりの妥協ラインだ。二乃が手に持ったジュースを飲まなかったらそれでいい。それ以上は彼女を追及はしない。

 このまま引き下がれば、少なくとも二乃とは何もなかった事にするつもりだ。

 

 彼女達とは、出来ればこのまま良き生徒と教師の関係でありたい。

 

「気付いていたの?」

「半信半疑だった。一花の時も、三玖の時も、一応は寝てもおかしくはない状況だったからな。だが、今日の五月で確信した」

 

 寝不足でも何でもない今日、いきなり眠気が襲ってきたのは明らかに異常だった。

 本当は五月を呼び出して今日の真相を確かめるつもりだったが、二乃から仕掛けてきたのだから仕方ない。

 

「……そっか。三玖は上手くやったけど、五月はそういうの、苦手だったわね」

 

 二乃は目を伏せて観念したように嘆息した。彼女の漏らしたその言葉は自白したも同然だった。

 

「二乃。今のは何も聞かなかった。何も知らなかった事にする。だからこんな事は……」

 

 何が目的かは尋ねない。そうすれば、金持ちお嬢様のちょっとしたいたずらで済ませる事が出来るのだから。

 そう願う風太郎に二乃は目を開いて不敵な笑みを浮かべた。

 

「──こうすれば満足かしら」

「なッ!?」

 

 突如、二乃は手に持ったジュースを一気に呷った。

 

「二乃!」

 

 風太郎は慌てて二乃のもとに駆け寄った。あの薬の即効性は身に染みて理解している。

 こんな場所で気を失って固いコンクリートの地面に頭をぶつけたら大事だ。

 

「あっぶねえ……」

 

 何とか間に合った。倒れる前に何とか二乃を抱きかかえ、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 

 

 ──だが、その刹那の油断が隙を生んだ。

 

 

 眠っていたと思い込んでいた抱きかかえた二乃の両腕が伸びた。両腕は風太郎の後頭部をしっかりとホールドする。そのまま彼女は体重を掛けて風太郎を押し倒した。

 驚く間もなかった。

 声を上げる事すら出来なかった。

 抵抗する暇もなかった。

 

 二乃は躊躇う事なく、風太郎の口元に自身の唇を押し当てた。

 

 視覚が二乃の顔で埋め尽くされた。柑橘系の香りが彼女の髪から漂う。

 触れた唇をこじ開けて何かが流れ込んでくる。二乃の舌と彼女が口に含んでいたらしいジュースだ。

 舌がジュースの甘味を感じながらも、同時に彼女の舌を絡み取った。

 くちゅくちゅと卑猥な音を立てる口元と、自身の鳴り響くうるさい心臓の鼓動のせいで鼓膜がそれ以外の音が聞き取れない。

 

 五感全てが彼女に犯されていく。

 

「ごほっ、な、なにを……っ!!」

 

 一瞬にも永遠にも思えた彼女の接触を何とか腕で押し返す事によって顔を引き剥がした。

 だけど体に力が入らないせいで、二乃は未だに仰向けになった風太郎の腰の上に馬乗りしている。腰の上で擦り付けるように乗りながら二乃は妖艶に笑い舌なめずりをした。

 

「ねえ、フー君。他の子と意識のある状態でもうキスはしたのかしら?」

 

 フー君、というのが己を指す名称だと直ぐには気付かなかった。そんな事よりも、風太郎は自身の身の異変に焦燥していたからだ。

 今にも沸騰しそうなくらい頬を紅潮させた二乃が風太郎の唇をそっと人差し指で撫でた。

 

「まだよね」

 

 唇に触れていた指がゆっくりと顎、首と下に進みながら撫でていき、そのまま風太郎のシャツのボタンに指を掛けた。

 このままでは不味い。非常に不味い。頭では分かっているのに体がさっきから全く言う事を聞かない。

 

「ふふ、フー君の初めての相手は一花でも三玖でも四葉でも五月でもないの。この二乃よ。残念だったわね」

「……や、めろ」

 

 一つ一つ、ボタンが不慣れな手付きの二乃に外されていく。

 体が異常な程に熱を帯びていて、理性が崩壊しそうになる。

 さっきの行為の生理現象だったとしてもこれは余りに異常だ。

 

「寝てる相手として私が満足すると思うのかしら」

「……やめろ、二乃」

 

 どうしてと自身の身に起きる現象に混乱する風太郎の目に二乃が飲んだペットボトルが視界に入った。

 そうだ。よく見てみると自分と同じように、飲んだ二乃自身もさっきから息を切らして興奮している。

 

 まさか、まさか、そんな……。

 

「五月の後だしね。物足りなくなったら困るでしょ? それに──相手に意識させるからこそ恋なのよ」

「やめろぉおおおおおお!!!」

 

 

 風太郎の叫びは夜空に鳴り響く花火の音に打ち消された。

 



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五つ子強くて?ニューゲーム⑥

上杉君がやべー四女から逃げられない話。


「──では、期待しているよ」

 

 通話を終え、息を吐いてチェアの背凭れに体を預けた。

 電話の相手は学力の乏しい娘達を無事に卒業させる為に雇った高校生の家庭教師だ。

 娘の携帯を通じて彼と交わした会話は至ってシンプルなものだった。家庭教師の仕事に対する労いの言葉と娘達の学習の進捗状況の確認、そしてあるノルマを与えた。

 

 中間試験も近い。そこで五人の誰か一人でも赤点を取れば家庭教師を解雇する、と。

 

 それを伝えた時、電話の向こうから何故か歓喜のような雄叫びが聞こえて眉を顰めたが、余程自信があるのだと受け止めた。

 彼の家庭状況は知っている。自身の能力を雇い主にアピールできるチャンスだと踏んで己を鼓舞しただろう。あわよくば給料値上げの交渉材料に、とでも考えているのかもしれない。

 

 実際、ノルマを課したと言っても形だけのもので終わるだろうと予測している。

 娘の五月を通じて彼の様子は報告を受けているが、中々に優秀な男だった。

 鬼門であると考えていた姉妹との関係は意外にも良好だと聞く。早々に全員と打ち解け、無事に家庭教師として受け入れられたそうだ。それだけ信頼に足る人柄だったのだろう。

 それに加え、娘達から聞く彼の仕事ぶりには目を見張るものがあった。家庭教師の日以外にも自主的に放課後に勉強会を開くなどして姉妹の勉学のサポートをしており、粉骨砕身で彼女達の学力向上に努力しているらしい。

 学年トップの頭脳を誇り、癖のある娘達と打ち解けられる人柄も持ち合わせ、さらに仕事への責任と熱意も十二分にある。

 五月の報告を聞く限りでは非の打ち所がない家庭教師だ。最初は娘と同級生の男子生徒、それも『あの男』の息子を家庭教師として雇うのに懐疑的ではあったが、どうやら杞憂で終わったようだ。

 彼ならば、この程度のノルマは難無くクリアするだろう。その時は彼に対する報酬も底上げてもいいと考えている。バイトの日以外にも娘の世話を見ているのなら、それに対して正当な報酬は支払われるべきだ。

 

 雇い主として、家庭教師である上杉風太郎の働きには高い評価と期待を寄せていた。

 

「……」

 

 だが、その一方で親として彼には言葉では言い表せない妙な不安を同時に抱いていた。

 理由や理屈のない直感のような曖昧な概念で思考するのは馬鹿らしいが、それでも何故か胸騒ぎがする。

 

 ──ふと、昔に彼女達五人に問われた、ある言葉が頭を過った。

 

『ねえ、お父さん。聞いていい?』

『将来、もしも私たちに好きな人ができて』

『その好きな人が五人とも同じ人で』

『全員がその人の傍にずっといたいって言ったら』

『許してくれる?』

 

 まだ、姉妹全員が同じ服装、同じ髪型、同じ口調をしていた頃だった。父親としてまだ彼女達と接して間もなかったある日に娘達にそんな言葉を投げ掛けられた。

 幼い彼女達は未だ恋を言葉でしか知らないような、無垢な少女だ。五つ子特有の何でも五等分で共有したいと願っていた時期なのだろう。

 そんな彼女達に現実的な常識を説くよりも、少女らしい夢を見せる方が父親としては正しい行動なのだと判断した。

 

『君たちが本当にその人を心から愛しているのなら、好きにしなさい』

 

 その時に気付くべきだった。彼女達五人がとても無垢とは言えない強烈な感情を秘めた瞳をしていた事に。

 

 そうすれば、今から五年後の未来に当時の自分を絞め殺したいほど後悔する事はなかったのに。

 

 

 

 ◇

 

 

 土曜日。習慣となった家庭教師の日がやってきた。中間試験も迫っており、気の抜けない時期だ。

 更に昨日は雇い主である彼女達の父親から試験で一人でも赤点を取れば解雇するとノルマまで言い渡されてしまった。

 風太郎の見込みでは今の彼女達が全員赤点を取らずに試験をクリアできるのは正直、厳しいと感じている。

 出会った時と比べたら目に見えて成長が見られるものの、未だに姉妹全員苦手な教科が克服できていない。中でも勉強を苦手とする四葉が一番の難点だろう。

 今から試験への対策を取り組んで、はたして間に合うかどうか微妙なところだ。下手をすれば、このまま自分は家庭教師を辞めさせられる……。

 

 そう、“辞めさせられる”のだ。

 

 

 このノルマの話を聞いた時、風太郎は思わずその場でガッツポーズをして狂喜乱舞した。携帯を借りた五月の目の前だとか関係なしに雄叫びを上げた。

 

 ヤッタ! 逃げられる! 奴らからおさらばだ! イエス! オ~イエス! イエス! イエス! イエスッ!!

 

 風太郎には彼女達の父親がまるで窮地に手を差し伸べてくれた救世主のように思えた。

 自ら“辞める”のではない。“辞めさせられる”のだ。似ているようでこれには天と地ほどの違いがある。

 あの花火大会を境に風太郎の中での中野姉妹への恐怖心は限界にまで膨れ上がり天元突破した。あれ以降、姉妹達の顔をまともに見る事が出来なくなっていた。

 それも当然だ。二乃が堂々としでかした『行為』によって、寝ている自分が姉妹に何をされていたのか嫌でも察してしまったのだから。

 毎度毎度起きたら口元がベタついていたのも、シーツや枕が湿っていたのも、妙な赤いシミがあったのも、全てあの姉妹が寝ている自分を使ってエンジョイ&エキサイティングしたせいだ。

 もはや拭う事のできない一生モノのトラウマである。下手をすれば女性そのものが嫌になって今後まともな恋愛など出来ないのではないかと危惧してしまう。

 もし、自分が今後誰か女性とそういう男女の関係になった時が来たとしても、間違いなくその瞬間にあの五つ子達の顔が脳裏に浮かぶ事になるだろう。

 文字通り、風太郎の身と心に『中野姉妹』を刻まれた。

 

 ──あの姉妹は危険過ぎる。

 

 花火大会の翌日、真っ先に思い浮かんだのは家庭教師のバイトを即座に辞める選択だったが、それは直ぐに却下した。

 もしも家庭教師を辞めるなんて言い出したら彼女達が何をしでかすか想像も付かないからだ。

 薬を盛って寝てる自分を襲ってきたような連中だ。携帯のアドレスも自宅の住所も知られているし、愛しい妹もその手中に墜ちた今では下手に彼女達を刺激するのはあまりにも軽率だ。

 それなら生徒と教師という関係を形だけでも保って彼女達の動きを牽制した方が、まだマシだろう。少なくとも今は耐えるしかない。

 

 切れる札が少なく現状維持という選択を余儀なくされていたが、ここにきて新たに切れる手札が増えたのは僥倖だ。

 

 自ら辞めるのではないく、雇い主によって解雇される。

 

 彼女達から解放される筋書きの中で、最もスマートなあらすじだ。流石の中野姉妹も親の決めた方針なら従わざるを得ないだろう。

 風太郎の給料はあくまでも彼女達からではなく、彼女達の父から支給されている。金の切れ目が縁の切れ目だ。

 家庭教師を辞めさせられたら何の遺恨もなく中野姉妹にさよならを言い渡せる。既に自身の貞操とは強制的にさよならをさせられたのだ。十分な対価だろう。

 

 しかし、まだ安心してはいけない。ここで重要なのは自分が『雇い主によって』辞めさせられた、という建前だ。それを何としても証明しなければならない。

 仮に風太郎が家庭教師の仕事に対して手を抜いて、彼女達が赤点を取ってもあの姉妹は決して納得しないだろう。何かと御託を並べて家庭教師を続投させられる可能性が十二分にあり得る。

 ならば、どうするか。答えは簡単だ。そんな下らない言い訳を出来なくすればいい。

 

(一切、手を抜かない。奴らに全力で勉強を叩きこみ、その上で解雇される。我ながら完璧な幕切れだ)

 

 下手に策を弄するよりもシンプルな方が確実だ。全力で彼女達の教育をして、その結果、中野姉妹が赤点を取れば上杉風太郎が家庭教師として相応しくないという揺るがない証明となる。

 大丈夫だ。今のところ、彼女達があのノルマを達成するなど不可能に近い。中野姉妹の頭の出来は自分が一番よく理解している。

 

 金はないが、意地があるのが上杉風太郎という男だ。もとより、勉強で手を抜くなど自身のプライドが決して許さない。

 どうせ解放されるなら、彼女達の落ち度によってその手を逃れたい。己の頭の悪さを呪う中野姉妹の顔を見ながら解放されるのが、風太郎にとって一番胸のすく別れ方だ。

 

(結局、俺がやる事は何も変わらない。あのどうしようもない馬鹿どもに勉強を教えるだけだ)

 

 気を引き締め、鬼達の待つマンションへと足を踏み入れた。

 

 

 

「あっ」

「げっ」

 

 エレベーターを上がり、中野家の玄関の扉を開ける。いつもなら五月が律儀に正座をしながら待機しているのだが、そこで待ち受けていた予想外の人物を目にして風太郎は瞼をひくつかせた。

 

「に、二乃……」

「いらっしゃい。ほら、上がって」

 

 

 玄関で出迎えたのは、よりにもよって風太郎が姉妹の中で今一番会いたくない二乃だった。

 どういう心境の変化か、腰にまで掛かっていたその長い髪が肩の辺りでバッサリと切り揃えられている。正確には心境の変化に一つ大きな心当たりがあるのだが、あまり深く考えないでおく。出来ればあれは思い出したくない。

 しかし髪を切るだけで随分と印象が変わるものだ。これであの特徴的なデカリボンでもしていたら四葉と間違いなく勘違いしただろう。むしろ、四葉が待ち構えてくれた方が良かったが。

 姉妹全員がやべーのは間違いないが、前科持ちの四人とそうでない四葉とでは対面する時の緊張感が違う。特に目の前の二乃は一番の凶悪犯だ。

 

「……ちゃんと来てくれたのね」

 

 ぼそりと二乃が呟いた言葉の意味を飲み込むのに少し時間が掛かった。どういう意味だと眉を顰める。

 恐る恐る彼女の顔を窺うと、どこか気まずそうに頬を掻いていた。

 どうやら一応は例の行為について多少は負い目のようなモノを感じているらしい。或いは恥じらいか。

 平気で薬を盛ってくる連中でも今回は流石に事が大きかったようだ。

 思い返してみれば、それが原因か知らないが花火大会から今日までの間、風太郎は二乃とまともに会話をする機会がなかった。自粛していた、とでも言うのだろうか。

 

 中野姉妹のガバガバな倫理観には理解に苦しむ。薬で眠らせて襲うのはセーフで、意識がある状態で襲うのはアウトなのか。それなら最初からやるなと声を大にして言いたい。

 

「仕事だからな」

 

 ぶっきらぼうにそう答えた。実際、彼女達の家を訪れる理由など仕事以外に有り得ない。誰が好き好んで自ら肉食獣の巣穴へと入るような真似をするというのか。

 それに仕事自体も、こうして続けるのは時間の問題だ。中間試験が終われば、きっと自分はこの家に足を運ぶ事は二度とないだろう。

 それを知らないからか、二乃は嬉しそうに頬を緩めた。

 

「ふふ。それでも、フー君に会えて嬉しいわ」

「……そのフー君とかいう間抜けそうな呼び名は止めてくれ」

「いいじゃない。二人きりの時だけ呼ぶんだから」

 

 どうやらあの夜を境にフー君呼びが定着してしまったようだ。恥ずかしいし、例の行為を思い出すので止めて欲しいが、素直に言う事を聞く女でないのは出会ってから今日までの日々で既に身に染みて理解している。

 

(……にしても、やっぱ落ち着かねえ)

 

 とりあえずは中間試験まで家庭教師を続けると決めたが、骨が折れそうだと二乃の顔を見て改めて思った。

 何とか表面上はこうして平静を装って会話をしているが、実際に二乃の顔を見て話すと想像以上にあの夜が脳裏に浮かぶ。

 しかもこれは二乃に限った話ではない。他の四人も同様だ。同じ顔というのはつくづく厄介だ。意識がある状態で行為をしたのは二乃一人なのに、顔が同じせいで嫌でも他の四人にあの夜の二乃が重なる。

 そのせいでこの一週間、二乃以外の四人に絡まれた時は気が気でなかった。今まで通り生徒と教師という関係を押し通すのは厳しいだろう。

 ああもドストレートに色情をぶち込まれていたら、いつか正気を保てなくなる。好し悪しはともかく、嫌でも彼女達が『異性』だという事を刻みこまれた。

 

(このままじゃ俺の方がおかしくなっちまう……)

 

 家庭教師を辞めて姉妹と距離を置きたいのは彼女達が怖いというのは勿論ある。

 だがそれとは別に、このままでは自分が彼女達に対して何か妙な情を抱かないかという不安が風太郎の中で徐々に膨れ上がっていた。

 

 現にその傾向が、あの花火大会の夜に見られた。

 

『お願い……もう、私達を置いていかないで』

『もう、二度と離れないで』

 

 あの夜。最初はただ色に溺れ、欲望のままに動いていた二乃が次第に涙声になり、風太郎に跨りながら、ずっとその言葉を繰り返していた。

 今にも消え入りそうな声で震える彼女を見て自分が何を思ったのか、正直覚えてはいない。

 薬で火照った頭で思考が正常にできていなかった影響なのか、それとも彼女と同様に色に溺れてしまったからなのか。

 

 ──あろうことか、震える二乃に自ら手を伸ばして抱きしめていた。

 

 何故、そんな真似をしたのか分からない。無理矢理唇を奪って、押し倒して襲ってきた女だというのに。

 ただ、そうすることで泣き止んでくれた彼女に自分が安堵していたのが、あの夜で一番印象深く記憶に染み付いていた。

 

 

 ◇

 

 

「ば、馬鹿な、ありえない……」

 

 中間試験に出そうな範囲をピックアップして作ったお手製のテストを姉妹に出題し、採点を終えた風太郎はその結果に愕然とした。

 

「うん、今日のは手応えあったかな」

「前に比べたら調子がいいわ」

「この感じなら中間試験本番もいけそう」

「うーん、私はまだ全然ダメダメだよ……」

「大丈夫ですよ、四葉。まだ時間はあります。それに私たちには上杉君が付いていますから」

 

 姉妹が各々テストの感想を述べているが、その表情は四葉を除いて清々しいほど明るかった。

 それもそうだ。五人中四人が全教科赤点のラインを超えるという偉業を成し遂げているのだから。

 その一方で風太郎は彼女達の想定外の成長に顔から血の気が引いていた。

 脳裏に家庭教師続投の文字が浮かび上がる。

 

(何だこれは……何が起きているッ!?)

 

 自分の採点ミスかと考え、もう一度彼女達の答案用紙を一から見直してみるも点数に変動はない。

 テスト形式で授業をしたのは初回と合わせて今回が二回目だが、その時と比べてあまりにも数値の上げ幅が大きすぎる。

 問題を解く所はずっと観察していたため、カンニングのような不正行為も考えにくい。まさか、今まで彼女達は本気を出していなかったとでも言うのだろうか。

 

(いや、それなら四葉だけが前回と比べて点数に変化があまりないのはおかしい)

 

 四葉も確かに前回に比べれば点数が上がってはいるのだが、風太郎の予想範囲内だ。他の四人があまりにも不自然過ぎる。

 何かあったとしか思えない。四葉以外の四人に大きな変革を与えたきっかけが。

 

(待てよ。四葉以外の四人だと……?)

 

 一つ、思い当たる節がある。奇しくも彼女達四人にはある共通点がある。しかもそれは風太郎自身に深く関わりがあるものだった。

 ───四人とも、笑顔で『卒業』しているのだ。風太郎を使って。

 

(ふざけるな! そんな事で勉強が出来るようになってたまるか!!)

 

 馬鹿げた妄想だと一蹴した。こんな事があっていい筈がない。

 まだ『やればできる子』なら分かる。勉強が嫌いなだけで苦手ではないという人間もいるだろう。仮に嫌いでも努力次第で成績はいくらでも伸ばせると自身が証明している。

 だが『ヤればできる子』なんて存在を風太郎は認める訳にはいかなかった。脳内ピンクの猿に人の叡智が宿る筈がない。それで勉強が出来るなら自分の苦労は何だったんだ。

 そんな事は有り得ない。有り得ないのに、彼女達のテストの結果がそれを完全には否定できなくしていた。

 フラストレーションを発散する事で勉強へのモチベーションに繋がった、とでも云うのだろうか。

 

「これならフータロー君もお父さんに家庭教師を辞めさせられる心配もないね」

「……え?」

 

 返却された答案用紙を眺めてながら嬉しそうに呟いた一花の言葉に風太郎は固まった。

 

「な、なんで、その事を……」

「五月から聞いたよ。フータロー、お父さんにノルマを課せられたんでしょ?」

「安心して。あんたは絶対に辞めさせないから」

「みんなで必ず試験を乗り越えてみせます」

「ええ必ず。お父さんに上杉君の事を認めてもらいます」

 

 姉妹全員、やる気に満ち溢れていた。前までなら、家庭教師として冥利に尽きる光景だっただろう。

 だけど今の風太郎にとっては死刑宣告をされたような心境だった。

 こんな筈じゃなかった。全力で家庭教師としての業務を全うするも力及ばず、雇い主によって解雇される。思い描いていたのはそういうシナリオだった。

 だけど現実はどうだ。『ヤればできる』中野姉妹の想像以上の成長によってその土台が大きく揺らいでしまった。

 このままでは不味い。とりあえずバイトが終わったら帰って根本的にプランを練り直さなければならない。

 

(お、落ち着け。まだ大丈夫だ。時間はある)

 

 ゆっくり家で風呂にでも浸かりながら考えればきっといい案が浮かび上がる。弱気になってはいけない。

 そう自分を勇気づけていた風太郎に、一花が良い事を思い付いたと言ってぽんと手を叩いた。

 

「試験まであまり時間もないし、お泊まり勉強会ってのはどうかな?」

「は……?」

 

 それのどこが良い事だ。ろくでもない事じゃないか。風太郎に背に滝汗が流れた。

 

「いいアイデアね。もっと勉強も出来るし」

「うん。いいと思う。フータローもそう思うよね?」

「勝手に決めるな。今日はらいはが飯を作って家で待って……」

「大丈夫です。前と同じようにらいはちゃんと貴方のお義父さまには既に許可を得てますから」

 

 もう彼女達からは逃れないのだろうか。風太郎の心にじわりと絶望感が広がった。

 

「それじゃあ、今日はお泊まり決定ですね! 上杉さん、よろしくお願いしますっ!」

 

 自分はチェスや将棋でいう『詰み(チェック・メイト)』にはまってしまったのだと風太郎は四葉の笑顔を見ながら思い知らされた。

 

 

 

「上杉さん、自分の部屋だと思ってくつろいでいいですからね」

 

 結局、中野家で泊まりの勉強会をする羽目になった風太郎は姉妹への授業を終え、風呂と食事を済ませて四葉の部屋に案内されていた。

 前回と同じ轍は踏まないと、口にする水は持参したものだけ飲み、出された料理も注意しながら食べたので、急激な眠気に襲われる事もなかった。

 

(何とか、四葉以外は振り払えたか)

 

 彼女達が生徒という立場を利用して家に泊まらせるなら、こちらは家庭教師という立場を存分に使うまでだ。仕返しとばかりに彼女達にみっちりと勉強を叩き込んだ。それこそ余計な気を起こさせないよう徹底に。

 いくら成長したとはいえ、勉強嫌いのアホ姉妹に変わりはない。風太郎のしごきに耐え切れず、勉強会が終わる頃には全員がぐったりとテーブルに頭を伏せていた。

 そのまま姉妹が各自の部屋へ大人しく戻っていったの確認して胸をなで下ろしていたのだが、何故か四葉だけが戻ってきた。

 彼女曰く『お客様をリビングで寝かせられない』との事だ。風太郎からすれば、そもそも今日は寝るつもり等全くなかった。あんな事があって彼女達の前で寝ている姿を晒せる訳がない。

 リビングで警戒しながら夜が明けるのを待ち、その間に今後のプランを練るつもりだったのだが、四葉に強制的に連行されてそのまま部屋へと連れられた。

 

「……一応、聞くがお前はどこで寝るつもりだ?」

 

 これで自分と一緒に寝るなどと答えたなら、風太郎は無理矢理にでもこの部屋を今すぐに出るつもりだ。

 四葉は今のところシロではあるのだが、他の四人に例があるので油断は決してできない。

 蛙の子は蛙。獣の姉妹は獣。獣との同衾などできる筈がない。

 

「そうですね。上杉さんが寂しいなら私が一緒に」

「出ていく」

「冗談ですよ。今日は三玖の部屋で寝ようかと思ってます」

「ならいい。遠慮なくベッドを使わせてもらう」

 

 今はとりあえず、四葉の言葉を信用するとしよう。部屋も内側から鍵が掛けられるようなので、念には念を入れて彼女が部屋を出ていったら鍵を閉めた方が良さそうだ。

 ところが、四葉は中々部屋から出ていく気配を見せなかった。

 

「……なんだ」

「いえ、せっかくですし上杉さんとお話でもしようかと思いまして」

「俺はお前と話すことなんてない」

「まあまあ、そんな事を言わずに。いいじゃないですか」

 

 面倒だと心底思った。姉妹共通して、彼女達はどうにも一度言った事は中々曲げない傾向がある。

 このまま居座られても厄介だと判断し、風太郎は深く嘆息した。

 

「分かった。だが条件がある」

「条件、ですか?」

「俺が腰掛けているベッドにそれ以上近付くな。いいか? 今、ここは俺の領域(ベッド)だ。そこに近付いてはいけない。それが条件だ」

「……」

「どうして俺がこんな事を言うのか、お前は……お前達なら分かっているだろう」

 

 安全地帯の確保と言葉による牽制。

 暗に彼女達の自分にしてきた行動を口にする事で先に動きを制限した。

 四葉だけが他の四人の凶行を知らない可能性もなくはなかったが、風太郎の言葉に沈黙を示したという事はおそらくそういう事だ。

 とりあえずこれでベッドは自身の領域になった。

 

「二乃は、大胆ですね。私には絶対に出来ませんよ」

「……」

「二乃だけじゃありません。他のみんなのように……私はまだ」

 

 いつもの、四葉が浮かべている笑みだった。だけど今彼女が浮かべるそれは風太郎にはわざと貼り付けたような面のように思えた。

 

「どうして、お前達はあんな真似をした」

「……」

「俺が気に食わないからか?」

「違います」

「じゃあ、なんで」

「好きだから」

 

 

「……えっ?」

 

 四葉の口にしたそれを風太郎が理解するのに一瞬の間があった。

 そして理解したと同時に困惑した。意味が分からなかった。

 

「な、何を言ってる。好きだと? 会って間もない俺に何をッ」

「言ったじゃないですか。私たち、上杉さんのこと、ずっと前から知っていたって」

 

 四葉の視線が部屋に置かれた机の上へと向けられた。風太郎もそれに釣られて瞳を動かす。

 そして、そこにあった物を目にして風太郎の思考は停止した。

 

 観葉植物が多く飾られたこの部屋で、それらに視線が行って今まで気付かなかった。

 部屋に入った時点でそれに気付くべきだった。

 

「嘘、だろ……」

 

 風太郎の視界に映ったのは一つの写真立てだった。

 五人の幼い少女が並んでいる、よくある写真だ。きっと彼女達の子どもの頃の写真なのだろう。

 みんな笑顔を浮かべ、ピースをしている五人の髪の長い少女たち。

 

 

 ───その写真の少女を風太郎はよく知っていた。見間違える筈がない。今まで何度も眺めて、再会を願っていた少女なのだから。

 

「嘘じゃないよ」

 

 四葉の声が、気付けば耳元でした。あまりの衝撃に、彼女が目の前まで接近していた事に気付くのが遅れてしまったのだ。

 気付いた時にはもう遅い。既に彼女の間合いだ。

 

「ま、まて四葉! それ以上近付くんじゃあない!! ここから先は俺の領域(ベッド)だ!」

 

 茫然としていた自分を何とか振り立たせ、声を荒げた。写真の事は気になるが、今は自分の身の安全が最優先だ。

 必死に説得を試みようと四葉の両肩を抑えようとするが、悲しいかな体のスペックは圧倒的に向こうが上だった。風太郎が力負けすると同時に四葉は何か吹っ切れたような、笑みを浮かべた。

 

「いいえ、上杉さん……私たちの愛の巣(ベッド)です」

 

 そのまま自分の胸元へと飛び込んでくる四葉への抵抗手段など風太郎は持ち合わせていなかった。

 男女での身長差や体格差はあってもそれらでは決して覆すことができない圧倒的で純粋な(パワー)

 薬など要らない。

 言葉など不要。

 あるのは愛による蹂躙。

 ただひたすらに、四葉は己が本能のまま欲望に従った。

 

 

 

 後日、急激に成績の伸びた四葉も赤点ラインを超えるようになり中間試験は無事に姉妹全員突破できた。

 同時に上杉風太郎の中野姉妹専属家庭教師の続投が決定した。

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説①

上杉君が伝説になる序章。


「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」

 

 脱力してベッドに横たわる自分に跨りながら彼女は何度も謝罪の言葉を繰り返していた。互いに一糸まとわぬ姿のまま、顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を上げながら何度も、何度も。

 無尽蔵に近い体力馬鹿の四葉との行為で虫の息となった風太郎は意識が朦朧とする中、彼女の流した涙が自分の頬に零れ落ちる様をただ眺める事しか出来なかった。

 

「ずっと笑顔でいて欲しかっただけなのに、それなのに私……っ」

 

 この光景に風太郎は既視感を覚えた。忘れもしない花火大会の夜。あの時の二乃と同じだ。

 事の最中は自分の肉体をさも己の物だと言わんばかりに好き放題していた癖に、終わった途端にまるで憑き物が落ちたかのように冷静さを取り戻して後悔を顔に貼り付けながら体を震わせる。

 二乃と四葉だけなのだろうか。もしかしたら、他の三人も意識のない時に同様に反応を見えていたのかもしれない。

 

 本当に何なんだ。意味が分からない。行動原理がまるで理解出来ない連中だ。

 泣いて謝るくらいなら最初からこんな事をしなければいいのに。

 

「……っ! 上杉、さんっ」

 

 だけど、そんな彼女達よりもっと理解のできないのは自分自身だった。

 また、体が勝手に動いてしまった。何故かは分からない。

 自然と手が彼女に伸びて二乃の時と同じように抱き寄せていた。

 彼女達姉妹の中に『彼女』が居ると知ったから、だから『彼女』かもしれない四葉に泣いて欲しくなかったからだろうか。

 或いは、胸元で泣きじゃくるこの弱弱しい少女こそが、自分に異常な執着を見せる彼女達の本当の姿だと思ったからだろうか。

 結局、その時はいくら考えても答えは出なかった。ただ、何となくこうする事が正しい事のように思えて。

 四葉が泣き止むまでの間、風太郎はずっと彼女を抱きしめていた。

 

 暫くしてようやく涙を止めてくれた四葉に胸をなで下ろして、ふと、ある事に気付いた。

 

 

 ──そう言えば、こいつらの事を『怖い』と思った事は何度もあったが、『嫌い』だと思った事は不思議となかったな。

 

 

 ◇

 

 

 家庭教師の続投が決定し、風太郎の逃げ道は完全に閉ざされた。

 しかもそれだけじゃない。何故か家庭教師の給料もアップし風太郎は困惑した。ただでさえ高額の報酬だったのに、まさか更に増えるとは想像もしなかった。卒業まで彼女達の家庭教師を続けなくとも在学中に家の借金返済が十分可能になる程の増額だ。

 流石に気が引けると雇い主の中野父に五月を通じて連絡をしたが、これは正当な報酬だと言われ、ついでに今後も期待をしているとの旨の言葉を贈られた。今更になって家庭教師を辞めるなんて、とてもじゃないが言い出せない。

 こうなってしまった以上、否が応でも中野姉妹と向き合わなければならないだろう。

 

 だが、彼女達の正体を知ってしまった今、逃げるという選択肢は風太郎の中ではとっくに消えていた。

 家庭教師という職務上の立場としてではない。上杉風太郎個人として、中野姉妹と向き合わなければならない理由があった。

 

 ──あの姉妹の中に五年前に京都で出会った『彼女』がいる。

 

 先日のお泊まり勉強会の時に四葉の部屋で見た中野姉妹の幼き頃の写真。あれは間違いなく『彼女』だった。

 

 あまりこういう陳腐な言葉を遣うのは好きではないが、それでも敢えて云うならこれは『運命』なのだろう。

 今の中野姉妹は少なくとも、正しい在り方とは言い難い。学力面はもちろんの事、人として誰もが持つ常識という箍が欠如してしまっている。五人全員がブレーキのイカれた暴走列車だ。

 だからこそ今度は自分から『彼女』に、いや彼女達に手を差し伸べる時が来たのだ。

 これは『試練』だ。彼女達を正しい道へ導けという『試練』と風太郎は受け止めた。

 当時の馬鹿だった自分の成長は、彼女達を変える事ができて初めて成せたと言える。

 

 ───家庭教師として中野姉妹全員の卒業は勿論の事、彼女達を真っ当な人間に戻してみせる。

 

 彼女達はまだギリギリのところでグレーだ。限りなく黒に近いが完全に黒ではない。今なら白に戻れるんだ。

 あの時、涙を流していた二乃と四葉に風太郎は一縷の光を見た。戻れる筈だ。かつて出会った無垢な少女に。

 絶対に笑顔で卒業させる。今のようなやべー笑みじゃない。自分を変えてくれた黄金のような眩い笑顔で。

 

 それこそが自分にできる『彼女』への最大限の恩返しだ。必ず成し遂げてみせると風太郎は強く心に誓った。

 

 

 

(……とはいえ、どうすりゃいいんだか)

 

 彼女達を真っ当な人間にすると誓ったのはいいが、実際には中野姉妹と今後どうやって接すればいいのかすら分からないのが現状だった。

 それもそうだ。憧れと感謝を抱いていた思い出の少女が実は五つ子で、しかも家庭教師をする自分の生徒として再会して、驚くほどの馬鹿になっていて、おまけに薬を盛ってるやべー奴になっていて、ついでに『彼女』を含む姉妹全員と肉体関係を結んでしまったのだから。

 もう何を言っているのか自分でも分からない。頭がどうにかなりそうだった。何なんだこの状況は。

 

 そんな彼女達との関係に朝からずっと頭を悩ませていたせいか、気付けば放課後になっていた。

 碌に話を聞かず姉妹の事を考えて過ごしたせいでホームルームの時間でいつの間にか林間学校での肝試しの実行委員を任される羽目になり、風太郎は憂鬱な気分のまま図書室で独り勉強に励んでいた。

 勉強とは言っても、ただペンを動かしているだけなのであまり意味のない行為だ。英単語も文法も数式もほとんど頭に入ってこない。思考のほぼ全てが中野姉妹で占められていた。

 

(幸いにも、林間学校を挟むおかげで家庭教師のバイトは当分先だ。それまでにどうするか方針を決めないとな)

 

 ここ数日は日課となっている彼女達と行う勉強会は休止している。中間試験を全員無事に欠点回避ができたご褒美、という建前で林間学校までの期間は各自放課後は自由に過ごすように伝えていた。

 本来、家庭教師としてなら気を抜かず勉強をさせる方が正しいのだろうが性的欲求の満足感と学力が=で結び付いてるような連中に常識的な方法を取るなど今更無駄だろう。

 それなら目の前の自身の課題を片付けるのに時間を割いた方がいいに決まっている。結果的にそれは彼女達を良い方向へと導く事に繋がるのだから。

 

 しかし、こうして一日中思考を巡らせても問題が一向に改善される気配がない。

 学年トップを誇るこの灰色の脳細胞は残念ながら勉学以外では上手く働かないらしい。或いは、家族以外の人間関係を断ち切ってきた弊害か。

 人との付き合い方でこうも頭を悩ませる日が来るとは思いもしなかった。それも特大級に面倒な連中を相手に。

 

(……やっちまったんだよなあ、全員と)

 

 走らせていたペンを机に放り投げて大きく息を吐いた。否定したくてもできない彼女達と関係を持ったという事実が風太郎の肩に重くのしかかった。

 意識の有無や本人の同意はさておき、結局は全員と肉体関係を持ってしまった。世界広しと云えど世にも珍しい五つ子全員に襲われた男など自分くらいじゃないだろうか。しかも睡眠薬媚薬筋力による一方的な蹂躙だ。

 二乃の時点で既に彼女達と顔を合わすのに内心ではかなり躊躇したのに、今では全員コンプリートだ。場所も中野家から上杉家、更には屋外と広いラインナップである。

 全く笑えない冗談だ。今後、どんな顔をして彼女達と接すればいいのか。中間試験の時は解雇されるのを見越していたから何とかなったが、今は状況が違う。少なくとも卒業までは行動を共にする事になる。

 しかも関係を持った中野姉妹の誰かは間違いなく『彼女』だと判明しているのが尚更タチが悪い。本当に最悪だ。

 

 恋愛など学生の本分である学業から最もほど遠い愚かな行為だと唾棄している風太郎だが、決して性欲がない訳ではない。

 あれから毎日のように二乃と四葉との行為が夢に出て、その度に体が反応して朝起きたら風太郎のフー君がとんでもない事になっているし、憧れだった『彼女』と行為をしたという事実に何度も枕に顔を埋めてもがいたか分からない。

 その『彼女』の正体だって未だに誰か判明していない。あの写真をわざと見せてきた四葉が今のところは最有力候補であるが、他の姉妹も意味深な言葉を口にしていた為に断定は出来ない。

 『彼女』が誰かを一旦置いておくとしても、あの時どさくさに紛れて四葉に好きだと告白されたが、自分はどうすればいいのか。

 

 そもそも、彼女達全員が自分に肉体関係を迫った理由が分からない。

 仮に、そう仮にあの時の『彼女』が自分に思慕の情を抱いていて、五年間ずっとその想いを募らせ、そして再会した自分を見て箍が外れて行動に出たのなら理屈はまだ分からなくもない。本当は分かりたくもないが。

 だが、残りの四人は何だ。完全に初対面の筈だ。あんな常軌を逸した行為をする理由など全くないではないか。

 

 ダメだ。考えれば考える程、ドツボに嵌っていく。『彼女』との綺麗な思い出と中野姉妹のドス黒い愛執をコンクリートミキサーにかけてブチまけたような混沌だ。情報量があまりにも多すぎる。

 考える時間などいくら有っても足りない。

 

「フータロー君。さっきからぼーっとしてたけど、どうかしたの?」

「ずっと上の空」

「一花、三玖……」

 

 だが、そんな風太郎の悩みなどお構いなしに気付けば傍に現れるのがこの中野姉妹だ。

 どうやら集中し過ぎて周りが見えてなかったらしい。いつの間にか両隣の席に一花と三玖が腰掛けていた。相変わらず距離が近い。完全に体が密着している。椅子をずらして距離を取ろうとしたが、二人もすぐさま詰めて来るので早々に諦めた。この手のやり取りはもう何度目だ。

 

「勉強会は林間学校が終わるまでしないって伝えた筈だが」

「もちろん、フータロー君に会いに来たんだよ」

「最近、会う機会が減ってたから」

「……毎日顔を合わせているだろ」

 

 毎朝、中野姉妹の姉三人組が家の外で待ち構えているのに会う機会が減っているとはどういう事だと首を傾げたくなる。平日は家に居る間以外の時間は全て姉妹の誰かが傍にいるのに。

 これ以上会う頻度を上げるのなら、それはもう『おはよう』から『おやすみ』まで行動を共にするしかないだろう。そんなのは家族だ。彼女達を真っ当な人間に戻すという目的はあるが、流石に人生の半分をくれてやるつもりはない。

 

「フータローはいつもの勉強?」

「ああ……まあ、そんなところだ」

 

 中野姉妹今後の付き合い方について一日中頭を悩ませていた、なんてとでもじゃないが彼女達の前では口にできない。

 机の上に広げたノートを覗き込みながら腕を絡めて更に体を擦り寄せてきて来る三玖に適当に相槌を打ちながら風太郎はこの場をどう切り抜けるか思考した。

 

(クソッ、タチの悪い連中だ)

 

 柔らかい感触が二の腕を包み込む。慣れた、とは口が裂けても言いたくないが中野姉妹が共通する無駄にでかいあれだ。今までは敢えて意識しないようにしてきたが、改めて確信した。

 

 ──この姉妹、間違いなくボディタッチの際に故意にこの凶器をぶつけてやがる。

 

 しかも今日は普段よりも露骨だ。ただでさえ全員と関係を持った罪悪感やら誰かが『彼女』かもしれないという疑惑やらで意識せざるを得ない状況なのに。まるでこちらの心境を読まれた上で詰ませにかかっているような狡猾さだ。

 

「で、結局お前たちは俺に何の用だ?」

 

 出来るだけポーカーフェイスを保ちつつ風太郎は多少強引に三玖に絡まれた腕を振りほどきながら二人に目的を尋ねた。

 

「ほら、明日から林間学校でしょ? 色々と物入りだろうし」

「みんなでお買い物しようと思って。フータローも一緒に行こうよ」

 

 正直、また何をされるのかと身構えいたので拍子抜けした。

 

「そんな事か。悪いが遠慮しておく。買うような物も金もねえ。それに林間学校自体、どうでもいいしな」

 

 本当は給料も上がったので多少の買い物くらいの余裕は出来たのだが、それでも無駄遣いをするつもりは一切ない。林間学校なんて風太郎からすれば勉強する時間を取られる面倒なだけの行事だ。

 そんな事の準備の為に時間と金を費やすくらいなら勉強でもするか、中野姉妹をどうやってまともな人間に戻すかプランを練る方がまだ有意義である。

 何より、今は出来るだけ心の整理をしたい。こうして二人と話せているのも彼女達が意識のない状態で関係も持った二人だからだ。これが二乃と四葉なら間違いなくそのまま会話もせずに逃げていただろう。

 

「もう、そんなつれない事言わないでよ。そうだ。フータロー君に林間学校が楽しみになる話をしてあげるよ」

「楽しみになる話?」

「うん。この学校の林間学校にはある伝説があってね。最終日のキャンプファイヤーでダンスがあるのは知ってる?」

「いいや、初耳だ」

 

 余りにも興味がないのでまともに行事予定表すら見てなかった。しかし話の流れからして下らなさそうなオチが見えている。

 頭の緩そうな脳内ピンクの女子が好きそうな噂話の類だろう。

 

「そのダンスのフィナーレの瞬間に踊っていた男女は『生涯を添い遂げる縁で結ばれる』らしいよ」

「くだらない。非ィ科学的だ」

 

 どうせそんな事だろうとは思った。一花の話に呆れる風太郎だったが、対象的に彼女達二人の表情は真面目なものだった。

 

「私も、フータローと同じ感想だったけど……」

「なんだ。三玖は信じているのか? こんな与太話を」

「うん。だって本当だったから」

「私も信じているよ。だって身をもって体験してるからね」

「は?」

 

 急にそんな事を言い出した一花と三玖に風太郎は言葉では言い表せない何か、不気味なものを感じ取った。

 まるで彼女達と初めて出会った時に感じた恐怖と同じ……いや、それ以上のどす黒い何か。

 

「こうして五人でやり直せたのは、きっとあの時にみんなで触れていたからだと思う」

「指だけでこれなんだから伝説って凄いよね」

「うん。今度は前よりもっと深く繋がっていたら、もっと強くフータローと結ばれるよね。何度生まれ変わっても、ずっと一緒なくらい、強く永遠に」

 

 結局、風太郎は二人の言葉をその時は理解出来なかった。与太話だと思っていた彼女達の話を信じるようになるのは、もう少し未来。

 

 ちなみにその後、一緒に買い物に行くのを渋っていた風太郎だが一花に寝込みを襲われていた時に撮られたと思われる写真で脅迫されたので強制的に姉妹に同伴する事になった。

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説②

上杉君が伝説になる二日前の話。


『───私にはあなたが必要だもん』

 

 『彼女』の夢を見るは久しぶりだ。それも、こうして夢だと自覚して見るのは初めてだと思う。

 はっきりと意識はあるのに、あの出会いを夢で見せられるのは何とも言い難い心境だ。特に『彼女』の正体を知った今は。

 だが、その正体が何であれ俺に変革も齎したのは間違いなくこの黄金のように輝く『彼女』の微笑みだった。その事実は決して変わらない。

 要らないカードとして切り捨てた自分を拾ってくれた『彼女』は俺にとって、今も心に灯と熱を与えてくれる太陽だ。

 

『一緒に行こうよ』

 

 最初は訳の分からない奴だと思って拒絶していた。何よりあの時は一人でいたかった。誰かと一緒にいると自分が余計に惨めに感じたから。

 それなのに『彼女』は俺の後ろを付いてきた。何度も来るなと言ったのに全く言う事を聞いてくれず、挙句の果てに俺が必要だなんて言って。

 結局、俺の方から折れて一緒に行動する事になった。思えば『彼女』のこういう自分を決して曲げない頑固な所は面影としてあの姉妹に残っていたのかもしれない。

 

『ねえ、フータロー君……このカメラに写っている女の子、誰?』

『あ! おいコラ! 勝手に人のカメラいじるんじゃねえ!』

『誰?』

『と、友達だ』

『何でその子の写真ばかりなの?』

『お前には関係ないだろ……』

『……ふーん、そう』

 

 ああ、そう言えばこんな事もあったな。好奇心旺盛な『彼女』に持っていたカメラを勝手に見られてしまった。

 中身の写真は当時思春期真っ盛りだった俺にとって誰にも見られたくない代物だった。だからそれを勝手に見た『彼女』に怒ろうとしたけど、只ならぬ雰囲気に萎縮してしまった記憶がある。

 あの時の『彼女』は何故か話しかけるのも躊躇われる程、ピリピリとしていた。不機嫌、なんて生易しいものじゃない。

 

『……あ、そうだ。ねえ、今度はあそこに行こうよ』

『あそこってどこだよ』

『そんなの決まってるよ……京都なんだし』

『清水寺か?』

『安井金比羅宮』

『はあ? どこだよそれ。行きたいなら一人で行ってくれ』

『いいから、いいから……ほら行こ?』

 

 半ば無理矢理に握ってきた『彼女』の小さな手を、振りほどく事が出来なかった。

 別に異性と手を繋ぐくらい今まで友人と遊んだ時に何度も経験していた筈なのに、どうしてか彼女の手の感触や温もりが特別に感じて、ずっと掌に残っていた。

 

 『彼女』に手を握られたまま連れられた場所がどんな所なのか、その時の俺よく知らなかった。京都の寺や神社なんて清水寺くらしか知らない無知なガキで、どれも似たようなモノだと思っていたからだ。

 その神社で俺は『彼女』に小さい穴の開いた特徴的な碑をくぐり抜けさせられた。何でも”不要な縁”を断ち切って”良縁”を結ぶのだとか。正直、この手の話はあまり興味がなかったので殆ど聞き流していた。

 

 その後も御守りを買ったり、他の有名な観光地を回ったり。あと『彼女』はその場その場で屋台を見かけては買って食べていた気がする。そう言えば行く先々で写真を無理矢理二人で撮らされたな。

 後でカメラを確認したらそれぞれ別の場所で五枚も同じポーズの写真が残っていて呆れた記憶がある。

 

 結局は『彼女』に振り回されてばかりだった。

 けど、不思議と不快感はなくて、むしろ悪くないと感じている自分がいて。共に居る内に自然と『彼女』と共に笑みを浮かべていた。忘れもしない、たった二人の京都での修学旅行。

 

 子どもの身で一日中随分と歩いたと思う。疲れてへばってないか後ろを歩く『彼女』の様子を窺うと肩で息をして酷く疲労した表情を見せていた。休憩が必要だと判断して何処か休める場所を探してたが、また振り向くと今度はケロりと余裕そうな表情を浮かべていて、体力があるのかないのかよく分からない子だった。

 そうやって『彼女』の心配ばかりをしてたが、逆に俺の方が先に体力に限界が来てしまった。

 適当に見つけたベンチで二人並んで座って休んでいる時だった。余程、疲れていだんだと思う。

 『彼女』に奢って貰ったジュースを飲んだ途端にこてんと眠ってしまった。

 

 次に目が覚めると『彼女』の顔が間近にあって、自分が膝枕をされていたのに気付き慌てて飛び起きた。

 驚いた? と悪戯が成功した子どものようにクスクスと笑う『彼女』に何をすんだと、怒った。

 だけど内心では『彼女』に対して怒りなんて微塵もなくて、本当は赤くなった頬を誤魔化す為にそんな振りをしていたんだ。

 あの時、目と鼻の先にあった『彼女』の整った顔に、心臓の鼓動が自分でも聞こえるくらい煩かったのが今でも印象深く残っている。 

 

『──私たち、きっとまた会えるよ』

 

 『彼女』と過ごした時間は今まで過ごしたどんな時間よりも早く過ぎ去っていったように感じた。

 夕暮れ時には『彼女』との別れの時が迫っていた。

 人を探していると言っていた『彼女』の目的の人は父親だったらしい。その人と無事に合流し、俺も別れた自分の班を見つけて二人きりの旅行も閉幕となった。

 

 別れ際、落ちる夕日にも負けないくらいの眩い笑みを『彼女』は再び俺に向けてた。

 

『どんなに離れていても、必ず。だって私達にはあなたが必要だから───またね、上杉風太郎君』

 

 手を振る『彼女』とこちらに一礼をしたその父親を見送って、暫く呆然と立ち尽くしていた。

 あっという間に過ぎ去った京都の思い出の余韻に浸りながら、俺はその日を境に変わろうと決意した。

 この二人きりの修学旅行で彼女が自分を必要としてくれたように。

 いつか誰かに必要とされる人間になるために。

 

 

 ……けど、もしかしたら『誰か』なんてただの詭弁なのかもしれない。

 不特定の『誰か』じゃない。俺が本当に必要とされたかったのは、あの日から何も変わっていないのではないか、そんな事を考える自分がいた。

 本当は自分でも分かっていたのかもしれない。でも、それを認めたくはなかった。認められる筈がなかった。

 だってそうだろう。また『彼女』に必要とされたいから、そんな理由の為にこの五年間全てを断ち切ってずっと勉強してきただなんて。

 

 馬鹿馬鹿しい。それじゃあまるで、俺が『彼女』を───。

 

 ◇

 

「上杉君、着きましたよ」

 

 五月に体を揺すられ瞼を開けると猛吹雪で白一色となった景色と今日泊まる予定の旅館が車の窓から見えた。

 肌を刺すような寒さと、妙に頭に残っている先程の夢のせいだろうか。寝起きなのに脳は直ぐに覚醒していた。

 

「……五月か。ああ、悪い。寝ちまってたのか」

「無理もないですよ。昨日はらいはちゃんにずっと付きっ切りだったんですから」

「そのらいはの件でお前たちには借りがあるな。助かったよ、本当に」

 

 林間学校をリムジンで出発するなんて、相変わらず金持ちのやる事はスケールが違うと実感させられる。

 普段なら派手な連中だと悪態を付いていた所だが、昨日はその派手さに救われた。

 

 昨日、風太郎は姉妹達の買い物に渋々付き合わされていた。一花に服を貢がれ、二乃と三玖に下着の柄を選ばせられ、四葉と五月にマムシやらスッポンやらが調合された怪しげなドリンク剤を渡されと中々に濃い買い物だった。姉妹達の買い物の筈なのに何故か自分に物を次々と渡してくる彼女達に疲弊しながら、ようやく帰れると思った時だった。

 妹の通う小学校から電話があった。らいはが熱を出して倒れたと。

 

 体の弱いらいはが倒れたと聞いて風太郎は気が気でなかった。すぐさま走って家に帰ろうとした彼だったが、それに待ったをかけたのは中野姉妹だった。

 足で走るよりも車の方が速いと、普段彼女達が登校で使っているリムジンを手配してくれた。そればかりか、中野姉妹の父が経営する病院まで紹介してくれて、らいはを病院で診てもらう事ができた。

 

「心配性だよね、フータロー君って。ただの風邪って診断されたのに寝ずに一晩中らいはちゃんを看病したなんて」

「あの子は体が弱いんだ。これくらい当然だ」

「それで寝落ちして林間学校に遅刻なんだから世話ないわよ」

「別に俺は参加できなくても……」

「ダメですよ上杉君。らいはちゃんと約束したんでしょう?」

「林間学校でたくさんの思い出を作る。それがらいはちゃんへの最高のお土産ですよ、上杉さん」

「たくさん作ろうね、フータロー。何があっても忘れられない思い出をたくさん」

 

 愛する妹を盾にされると何も言い返せない。らいはの件については素直に感謝しているが、それはそれとして今でも林間学校はあまり乗り気ではなかった。

 昨日の一花と三玖の意味深な会話が妙に頭に残っていたからだろう。この林間学校で何かろくでもない事が起きるのではないかという胸騒ぎがしていた。

 だから寝落ちして、時計の針がバスの出発時間を過ぎていたのを見た時は思わずほっと胸を撫で下ろしていた。あの中野姉妹も今頃は全員バスに乗っているだろうし、これで数日は何も心配なく過ごせる。

 意図せず手に入った束の間の休息に安堵した風太郎だったが、その直後にインターホンのベル音と共に襲来した中野姉妹全員を目の当たりにして震えながら膝を付いた。

 

 本当は何となく分かっていた。どうせこんな事だろうと。希望を与えられ、それを奪われる。その瞬間に浮かべる自分の表情にきっと愉悦を覚える運命の女神がきっといるに違いない。

 帰ってきた父親と元気の戻った妹に見送られ、風太郎は中野姉妹に連行されながらリムジンで林間学校に参加することになった。

 

「でも残念ね。せっかく車の中で前みたいに『五つ子ゲーム』しようと思ってたのに、あんたが寝ちゃってたから出来なかったわ」

「五つ子ゲーム? なんだそりゃ」

「簡単に言えば、五人が誰か判別できない状態で誰かを当てるゲームよ。正解したら勝ちのシンプルなルール。私達らしいでしょ?」

「また随分と難易度の高そうなゲームだな」

 

 未だにヘッドホンやデカリボンのような装飾品がなければ姉妹の判別が付かない風太郎は自分では到底クリアできそうにないと思った。

 それに名前は可愛らしいが主催がこの姉妹なので何となくおぞましさが漂うゲームだ。正解出来なかったら罰ゲームで肉体か精神を五等分にされるのではないだろうか。

 まあ流石にそんなオカルト染みた事は起きないだろう。それにいくらやべー中野姉妹でも高々ゲームにそこまでムキにならない筈だ。風太郎は馬鹿馬鹿しい妄想を止めた。

 

「……まあいいわ。本当のゲームはこれからなんだから」

 

 意味深に呟かれた二乃の言葉は幸か不幸か風太郎には届いてなかった。

 風太郎がこの『五つ子ゲーム』がゲームであるが遊びでないと知るのはその日の夜だった。

 

 

 ◇

 

 

「このまま無事に帰れるのか、俺は……」

 

 露天風呂の湯船に浸かりながら風太郎は深く息を吐いた。

 この際、林間学校に参加するのはいい。今更グダグダと文句を言っても仕方がないし、らいはに思い出話を持ち帰る約束をした以上はそれに全力で応えようとは思っている。

 これが普通の林間学校なら風太郎も気分を変えて行事を楽しもうと思っていた。確かに勉学の足しにはならないが、元々の性分が悪ガキだったため本音で言えばこの手の行事は好きか嫌いかと問われたら決して嫌いではなかった。

 だが残念ながら今回の林間学校は『普通』ではない。既に一日目からしてリムジンで現地に向かって明日から途中参加するなどという破天荒な行動をしている。それだけならまだしも、同行するのはいつ爆発するかもしれないダイナマイトの五つ子と共にだ。

 この林間学校での己の行く末を憂いながら風太郎は旅館に着いて一花が放った言葉を思い出していた。

 

『部屋、一つしか確保出来なかったんだって。だから今日はフータロー君も私たちと一緒の部屋だよ』

 

 あの時、何を言われたのか一瞬分からなかった。正確には脳が理解を拒んでいた。

 聞き間違いでなければ死刑宣告にも似た言葉を一花が口にした気がしたが流石に気のせいだろう。

 ──そう願ったが現実は非情だった。本来四人が寝泊まりするのを想定した部屋に六人の男女がぶち込まれた。

 姉妹と同じ部屋に案内された時の風太郎の顔はそれこそ人生の終わりを迎えたのような生気の抜けた表情だった。

 

「まだこっちの気持ちの整理も付いてないってのに……」

 

 車の中では寝ていたし、寝起きの会話でもあまり姉妹を意識せずに済んだが同じ部屋となるとそうはいかない。

 風太郎は未だに彼女達との接し方に答えを出せていないままだった。

 その状態であの五人と同じ部屋で寝泊まりをするなんて、今までの経験から推測すれば何が起きるかなんて猿でも分かる。というか連中が猿になる。

 

 このままでは間違いなくまた過ちが起きる。中野姉妹を何とか真っ当な人間にしたいという目的を掲げる風太郎にとっては看過できない状況だ。

 流されて再び肉体関係を持てばそれこそ歯止めが効かなくなる。その先に待ち受ける未来に風太郎が望む彼女達の笑顔はない。

 

「……そもそも五対一で敵う訳ねえじゃねえか」

 

 ただでさえ男女の性差による肉体的アドバンテージは非力な風太郎と体力オバケの四葉の時点で皆無に等しいのに、数まで劣るとなると抵抗すらできない。それに中野姉妹は馬鹿だが間抜けではない。同じ手段は喰らわないと身構えても彼女達は必ずこちらの想像を超えてくる。次はどんな搦め手を使ってくるのか思い浮かべるだけで身の毛がよだつ。

 戦局はこちらが圧倒的に不利な状況だ。四面楚歌とはまさにこの事だろう。打開するには風太郎一人では決して覆せない戦力差だ。

 

(一人では覆せない、か……)

 

 ふと、ある妙案が浮かんだ。

 

「五対一なら無理だが、四対二ならどうだ……?」

 

 強靭無敵に思える最強の五つ子ペンタゴンだが、一つだけ僅かな、それも開いているかどうかも怪しい程の小さな『穴』があった。そこを穿てば或いは──。

 

(一人、確実に俺と五年前に京都で遭っている奴がいる。そうだ『彼女』があの中にいる筈だ)

 

 まだ誰なのか特定すら出来ていないが、もしかしたらこの状況を打破できる突破口に成り得るかもしれない。

 

「……僅かだが光明が見えたぜ」

 

 

 

 ◇

 

「ヤるわよ」

「ひぃぃ!!!」

 

 風呂から上がり、部屋に戻ってきた風太郎に二乃が開口一番にドストレートの剛速球をぶちかましてきた。

 

「ヤ、ヤるって何を……」

「昼間に言ったでしょ。『五つ子ゲーム』よ」

 

 咄嗟に部屋の隅へと後退りした風太郎だったが、想像した事と違って安堵したと同時に即座にそれを想像した自分に自己嫌悪した。

 相当毒されているようだ。もう彼女達が何かを『やる』なんて言い出したら『ヤる』にしか聞こえない。下半身で物事を判断する男子中学生でももう少しマシな思考回路をしているだろうに。

 

「……ちなみに聞くが拒否権は?」

「別に先に寝ててもいいわよ」

「その場合、寝てる間に私たちがフータロー君に罰ゲームの『イタズラ』をしちゃうかもしれないけど」

「フータローはそっちの方がいい?」

「まだ寝るには早いと思いますよ」

「上杉さん、せっかくですしヤりましょうよ」

「……」

 

 実質拒否権など存在しないようなものだった。どうやらこの『五つ子ゲーム』とやらに参加するしかないらしい。

 そして恐らく自分はこのゲームをクリアする事はできない。待ち受けるは罰ゲーム。どの道詰んでいた。

 

 しかし、まだ諦めるには早い。僅かだが希望は残っている。それに賭けるしかない。

 

「分かった。付き合ってやるよ。お前たちには昨日の件で借りがあるしな。ただし、その前に一つ聞きたい事がある」

 

 ごくりと唾を飲み込んだ。口にすればきっと後には戻れない。

 意を決して風太郎は彼女達に問いかけた。

 

「この中で昔、俺に会った事ある人ー?」

 

 挙手するようにジェスチャーしながら五つ子をそれぞれ見たが誰も動かなかった。

 しん、と部屋が静まり返える。誰も口を開かず、五人の視線が風太郎に注いだ。

 大丈夫だ。問題はない。これは想定の範囲内だ。

 

「……お前たちの中で一人、確実に俺と出会った事がある奴がいる筈だ。それを確かめたい」

 

 五人の顔を見渡しながら言葉を紡ぐ。ここで怯んではいけない。

 恐れず、堂々と。

 

「最初に会った時に名乗り出なかったという事は何か事情があるのだろうと思う。それは俺も理解している。だが、それでも名乗り出て欲しい。俺はそいつに用がある」

 

 もしかしたら『彼女』はあの時と今とで全く違う自分を知られる事を恐れているのかもしれない。

 そうだとしたら風太郎がやる事は決まっている。

 『彼女』が自分に一歩踏み出せないというのなら、こちらから一歩近付けばいい。

 

「俺と過ごしたのは半日程度の時間だ。それも五年も前に。俺と出会った事なんて忘れているかもしれない。だから、思い出してもらう為にもその子と出会った経緯を今ここで話そう」

 

 『彼女』を特定し、説得してこちらに招き入れる。他の四人はともかく、昔に出会った『彼女』なら、きっと話が通じる筈だ。

 あの子なら姉妹を真っ当な人間に戻す事に強力してくれるに違いない。そして、あの時の礼も言いたい。

 

 恥も外聞もかなぐり捨てて、風太郎は五つ子に五年前の出会いを語った。

 

 

 

 

「……ねえ、フータロー君。一ついいかな」

 

 五年前の出来事を語り終え、真っ先に口を開いたのは一花だった。

 

「なんだ、一花」

「その五年前の子、フータロー君はどう思ってるの?」

「……は?」

 

 意図の見えない質問に風太郎は首を傾げた。

 外見の特徴や性格を聞かれるならまだしも、どう思っているかなんて聞いてどうするのだろう。

 何故か、昼間に見た夢が脳裏を過ったが頭を振って追い払った。

 

「……今はそんな事、関係ないだろ」

「いいえ、あります。あなたがどのような想いでその子と再会を望むのか私たちは知りたいのです」

 

 一花に続いて五月までそんな事を言い出した。面倒な事になってきたなと内心で舌打ちをした。

 

「……さっき語った通りだ。『彼女』には恩義がある。当時の礼を言いたいだけだ」

 

 本命は『彼女』を説得してこちら側に付いてもらう事だが、礼をしたいというのは決して嘘ではない。

 中野姉妹に下手に嘘を吐くのは悪手だ。なら真実を混ぜて語るのがセオリーとなる。 

 が、それすらも簡単に通じる相手ではなかった。

 

「本当にそれだけ?」

「なに?」

「フータロー、本当にお礼を言いたいだけなの?」

 

 三玖の指摘にドキリとさせられた。風太郎の頬に一筋の汗が流れる。

 どういう意味だ。まさかこちらの意図に勘付かれたのか。

 だがここで臆する訳にはいかない。このままでは自分は彼女達の餌食だ。何としても足掻く。

 

「それ以外に何がある。他意はない」

「嘘はダメですよ、上杉さん」

「嘘って、どういう意味だ。別に嘘なんて」

「あんたさ、よく考えてみなさいよ」

 

 クスクスを嗤う四葉。さらに二乃が腕を組んで風太郎を睨み付けた。

 

「考える? 何が言いたい二乃」

「五年も前にあった女の子との写真をずっと持ち歩いていて、しかも今も会いたいって思っているんでしょ?」

「……そ、そうだが」

 

 正にその通りだし否定は一切できないのだが、こうして他人に言葉で並べられると何だかむずがゆかった。

 

「だから、それは礼を言いたいからだって……」

「違うわ、フー君。その子をずっと忘れず、ずっと想って、ずっと会いたいって願っていたなんて……」

 

 またあの夢がリフレインする。

 馬鹿馬鹿しいと切り捨てたあの時の妄言。それを風太郎に目掛けて指差しながら二乃は宣言した。

 

「その気持ち、まさしく恋よ」

「恋ィ!?」

 

 頭を鈍器で殴られたような錯覚がした。

 あまりの衝撃に風太郎は素っ頓狂な声を上げた。

 

「ば、馬鹿な事を言うな! 俺がそんな……」

「誰がどう見たってそうだよ、フータロー君」

「諦めなさい。間違いなく恋よ」

「そうだよ、フータロー。もう認めよう?」

「諦めは肝心ですよ、上杉さん」

「本当は自分でも気付いていたのでしょう?」

 

 なんだこれは。どうしてこうなる。当初の目的は『彼女』を特定してこちら側に引き入れるプランだった。

 その為にわざわざ言いたくもない過去を開示したのだ。なのに結果は姉妹に集中口撃される羽目になっている。

 一体どこで間違えたのだろうと風太郎を頭を抱えたくなった。

 

「そんな、そんな事は……」

 

 『彼女』に対して、確かに憧れは抱いていた。だけどそれは別に異性としての好意ではない筈だ。単に自分を変えてくれたきっかけを貰った礼を、あの時に必要だと言ってくれた礼をしたかっただけだ。

 その筈なのに、姉妹達にその感情を恋だと指摘されて酷く動揺した。まるで今まで地に足を付けていた場所が大きく崩れ落ちるような感覚だった。

 

「……仮に、仮にだ。もし俺がそう言った気の迷いを抱いていたとして」

 

 何とか冷静さを保とうと、姉妹の顔を睨み付けた。

 このままではいけない。きっとこれは中野姉妹の卑劣な策だ。こちらの動揺を狙ったんだ。そうに違いない。

 ならば深く考える必要はない。適当に流して話を本筋に戻せばいい。

 

「あくまで昔の『彼女』に、だ。決して今のお前たちの誰かにじゃない。そこは勘違いをするな」

「で、結局好きなんでしょ」

「とんだロマンチストね」

「フータローって意外と一途」

「その子をずっと想っていたなんて素敵です!」

「もしその子たちと両想いなら結婚するしかないですね」

「…………ああもう、そういう事でいいから、素直に名乗り出てくれ」

 

 中野姉妹の慈悲なき追撃に風太郎は遂に白旗を揚げた。何やら最後の方で不審なワードが飛び交ったいた気がするが、気に掛ける余裕などなかった。

 正直、無理だ。限界だ。頭がパンクしそうだった。

 ただでさえ姉妹全員と肉体関係を持った事に負い目を感じているのに、その中に京都の『彼女』がいて、しかもその子に自分が恋をしてただなんて、情報過多にもほどがある。

 

 穴の開いた風船のように、一気に体から力が抜けた。布団に膝を付いて風太郎は頭を垂れた。

 

「──そっか、好きでいてくれたんだ。今までずっと」

 

 そんな風太郎を頭を両腕で包み込み優しく抱きしめる者がいた。

 

「……もしかして、一花。お前なのか?」

 

 顔を上げると微笑みを浮かべる一花の顔がすぐそこにあった。

 一瞬、一花のその笑みが『彼女』と重なったような錯覚がした。

 

「──うん、そうだよ。フータロー君」

「そうか、お前が……」

 

 未だに信じ難い。まさか一花だとは思っていなかった。

 正直、面食らったが同時に緊張が解けた。とりあえずは第一目標は達成だ。後は一花を説得できれば完璧だ。

 

「一花、お前にだけ少し話が───」

「ちょっと待ちなさいよ、一花!」

 

 プランを次の段階に移行させようとした風太郎だったが二乃の怒鳴り声によって遮られてしまった。

 

「もう、なに? 二乃。せっかく感動の再会だったのに」

「また一人だけ抜け駆けなんてずるい」

「そうだよ一花!」

「ズルいです!」

「ごめん、ごめん。ちょっとしたジョークだよ。分かってる。みんなで五等分に、でしょ」

「あんたがやると洒落にならないのよ」

「ま、待て、待ってくれ、どういう事だ!?」

 

 抜け駆けだのジョークだの、さっきからきな臭い言葉が飛び交っている。

 まさか一花が『彼女』だというのはフェイクだったのか。ならば本物は一体……。

 

「言葉で説明するより写真を見た方が早いんじゃない? 今も持ち歩いているんでしょ、あの時の写真」

 

 混乱する風太郎に答えを差し出したのは二乃だった。

 彼女に指摘され風太郎は慌てて鞄を漁って生徒手帳を取り出した。何か、胸騒ぎがする。

 

(ば、馬鹿な……なんで、『彼女』が見えているんだッ!?)

 

 普段手帳に写真を挟む際は過去の自分が上にくるよう折って挟んでいた。それなのに、手元にある手帳には『彼女』が上になって残り半分が見えていない状態で挟まれていた。

 

(違う……これは、俺が持っていた写真じゃない! すり替えられた!? 何時だ……この写真を確認したのは三玖に盛られた時が最後だった……まさか五月の時か?)

 

 心臓が脈を刻む音が次第に早くなる。手は震え、一筋の汗が風太郎の頬を流れた。

 不気味なのはこの写真だ。撮った場所が違うので間違いなく持ち歩いていた写真と別物の筈なのに、こちらを向いてピースをしている『彼女』は自分の持っていた写真と全く同じポーズだった。

 

 恐る恐る写真を取り出し、折りたたまれた残り半分を震える手でゆっくりと開いた。

 

「ひっ」

 

 小さく悲鳴を上げ、風太郎は思わず写真を落としてしまった。

 布団の上に落ちた写真の半分はピースをしている『彼女』が写っている。

 

 ───そしてもう半分にはベンチで眠る自分と、それを取り囲む四人の『彼女』が写っていた。

 

「そんな、そんな馬鹿げた事が……『彼女』は五人いたッ!?」

「……ようやく気付いた? なら満足したよね。さっ、本題に戻ろうか」

「なっ」

 

 気が付けば、自分を中心として中野姉妹に取り囲まれていた。

 

 それも、まるで写真の『彼女』がそのまま成長したかのような全員同じ髪型した姿で。

 

「驚いた? ウィッグって奴だよ」

「今日の為にみんなで用意してきたんだ」

「口調も昔に戻して」

「本格的な五つ子ゲームを楽しめるように」

「風太郎君は当てれるかな?」

 

 部屋から逃げ出そうとしたが足が竦んで動かなかった。

 

「風太郎君は、私たちの事が好きだったんだよね」

「だったら大丈夫だよ」

「きっと当てられる」

「だって愛があるもん」

「あなたならきっと分かる筈だよ」

 

 声を上げようとしたが喉がカラカラに乾いて声が出なかった。

 

「ルールは簡単」

「私たちが一人一人順番に風太郎君に『触れて』」

「誰だか当てれたら風太郎君の勝ち」

「外したらまた当てるまで繰り返すの」

「ね、簡単でしょう?」

 

 思えば、昼間にゲームの概要を聞いた時、勝ちの条件は説明していたが、負けの条件はなかった。負けのないゲームほど理不尽なものはない。

 とどのつまり、このゲームは風太郎が勝つまでループするのだ。最初から罰ゲームなんてなかった。

 参加した時点で彼女達の勝利だったんだ。

 

「「「「「さあ、ゲームを始めましょう」」」」」

 

 風太郎にとって人生で最も長い夜が始まった。

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説③

上杉君が伝説になる一日前の朝の話。


 彼が自分達の元を離れた要因は何だったのか。最初は考えても分からなかった。馬鹿な自分達に絶対に解けない課題を残して愛しの家庭教師は去った。

 今にして思えば、彼は姉妹が彼を巡って水面下で醜い争いをしていた事に感づいていたのだろう。

 最初は誰かに変装して嘘を吐いた程度だった。それが一人で済めば良かったのに、ならば仕返しにと今度は変装された側が変装した者に扮して彼に偽りを語った。

 女の戦いに卑怯なんて言葉はない。策に嵌った方が悪いのだ。繰り返される変化球による合戦は果てしなく続いた。

 猪突猛進をしていた彼女も姉と妹を見て自らのスタイルを棄てた。わざわざ正々堂々とストライクゾーンに珠を投げる必要なんてない。相手に死球をぶち込んで斃せば勝てるのだから。

 そして彼に好意を抱いていた上三人の姉達が争いをしている内に下の妹達もまた彼に惹かれていたのは至極当然の道理だったのかもしれない。三人が互いに牽制をしている間に二人の妹達は彼と接する時間が増えたのが要因だった。

 叶わないと諦観していた想いをずっと胸に押しとどめていた反動もあったのだろう。姉妹間や姉妹と彼の関係を調律し笑顔を浮かべていた彼女が参戦して時は更に争いは加速した。

 四人の姉と自覚した彼への想いを天秤にかけ、家族と恋とで揺れ動いていた想いがとうとう振り切れ最後の一人も意を決して戦いへと身を投じた。負ける気も譲る気も更々なかった。

 そこからはもう泥沼化だ。

 全員が全員、手段を選ばなくなった。姉妹から笑顔が消えていた。

 

 溢れる愛情。滲む嫉妬。底なしの独占欲。これらは止める事のできないものだ。姉妹が彼を求める限りそれらは決してとどまることは無い。

 

 そんな姉妹達に彼が憂いの色を滲ませた眼を向けるようになっていたと気付いたのは彼が消えてからの事だった。

 

 高校を卒業すると同時に彼は何も告げずに姉妹達の前から姿を消した。

 携帯に連絡をしても通じず、メールもアドレスを変えたのか届く事はない。

 彼の家族に聞いても強く口止めをされているのか要領を得る答えは得れず、何も手掛かりを得れないまま煙のように姿を消してしまった。

 

 彼と結ばれていたと信じて疑わなかった赤い糸がぷつりと切れていた。姉妹間の長い争いはそこで終戦となった。

 

 当時は全員、酷く焦燥していて苛立ちを隠せなかった。常にピリピリした空気を貼り付け、人を寄せ付けないでいた。

 彼に逢いたい。それだけが姉妹を動かす唯一の原動力だった。

 

 何度も何度も彼の家族に頭を下げ、涙を流して彼の所在地を聞いた。けど答えが返ってくる事はなかった。

 彼の数少ない友人、と言えるか怪しいクラスメイトの男子に脅迫紛いに問い質したが一蹴された。曰く、君たちは何も分かっていない、と。

 ただいたずらに時間は過ぎていき、それでも彼に辿り着く解は得れなかった。

 彼が消えた理由を誰かに押し付けようと互いに罵って喧嘩をした事もある。けど直ぐに虚しさが押し寄せて争う気力も失せた。

 それぞれ姉妹が掲げていた輝く夢も、彼を失った虚無感でくすみ堕落した無気力な毎日を送っていた。

 

 そして彼が消えて数年経ったある日だった。姉妹達の元に一通の手紙が届いた。

 内容は結婚式の招待状だった。眉を顰めて送ってきた相手の名前を確認すると高校三年の時のクラスメイトの女子だった。

 正直あまり話した事がなかった相手だ。名前を思い出すのにも時間がかかった。

 姉妹の中でコミュニケーション能力の高い二乃は何度か話した事があると記憶しており、意外にも三玖も覚えてた。

 彼が学級長に任命された日にベタベタとくっついていた女の一人だと彼女は瞳孔を開きながら語った。それを聞いて姉妹は全員苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべ、そして彼の事を思い出して憂鬱な気分になった。

 全く最悪だ。こんな紙一枚で気分を害された。半分八つ当たり気味にクラスメイトの女子の事など興味がないと返信もせずに招待状をシュレッダーにかけようとした。

 

 だが、そこに記載された新郎の名前に姉妹はみな目を見開いた。

 

 

 ───彼だった。

 

 信じられなかった。同姓同名の別人かと疑ったが招待状の裏面に印刷された男女は見覚えのある顔だった。

 

 意味が分からなかった。

 理解が追い付かなかった。

 悪い夢だと思った。

 

 だが何度頬をつねっても痛みだけが残りこれが現実であると理解した。

 

 

 

 

 そして理解したと同時に沸いた感情は───歓喜だった。

 

 全員が口元を歪めて声高らかに嗤いあった。こうして姉妹みんなで心の底から笑ったのは一体何時ぶりだろか。

 勉強以外は意外と不器用な彼の事だ。ちゃんと暮らせているのか心配だったが、どうやら元気なようだ。

 写真を見て彼が写真に写る事を極度に嫌っていた事を思い出した。盗撮を除いて彼が映った写真はそれこそあの時の家族旅行での写真一枚きりだろう。

 これは貴重な一枚だ。是非ともコピーして切り取って保存しなければ。

 

 数年振りに見た彼は姉妹の知る姿を少し違っていた。少し大人びたように見える。髪型も整えていて服装も正装だ。普段とはまた印象の違う彼に全員が思わず見惚れた。

 あの残念な髪型さえしていなければ、整った顔立ちをしているのだと改めて思い知った。

 しかしこれはこれで問題がある。自分達だけで堪能するなら未だしも、ただでさえ頭が良くて頼りになって背が高くてかっこいい彼が身嗜みを整えたら悪い虫が付かないか心配になる。

 まあ今はそんな心配をしても仕方がない。それよりも純粋に彼との再会の時を祝福しよう。

 

 ようやく会える彼に最初に掛ける言葉は何がいいだろう。

 

 久しぶりだね。

 全くどこに行ってたのよ。

 元気そうで良かった。

 お久しぶりです、上杉さん!

 もう心配させないで下さい。

 

 無難にこんな感じだろうか。それとも胸に燻るこの炎のように燃え盛る想いを言葉に込めて。

 

 ねえ、なんで。

 もう離さない。

 愛してる。

 二度と逃しません。

 ずっと一緒ですよ。

 

 こっちの方がいいだろうか。ああ、何しろ楽しみだ。

 久しぶりに彼と再会できると知って姉妹達は全員心が躍った。血が湧いた。体が熱くなった。生きているという実感がした。

 これが愛なのだろう。これが恋なのだろう。今日まで虚無感に苛まれて過ごしてきたのが嘘のようだ。

 つくづく重いものだと思い知らされる。こんな重い想いを募らせた責任は取ってもらうべきだ。

 

 フータロー君と会えるの楽しみだなあ。オシャレしていかないとね。

 

 王子様から招待状が送られてくるなんて童話に出てくるヒロインになったみたい。全くフー君も洒落た真似するわ。

 

 ヒロインなら、ドレスを着ないとダメだよね。フータローの為に用意しなくちゃ。

 

 三玖、用意するなら赤いドレスの方がいいよ。白いドレスだと汚れが目立っちゃう。上杉さんにそんな恰好見せれないよ。

 

 そうですね。赤なら目立ちませんから。上杉君に逢えるなんて今から楽しみです。

 

 淀んでいた五人の瞳に希望が宿った。明るく漆黒(くろ)い希望の火が。

 式に参加の旨を記入して姉妹は招待状を返した。もちろん、結婚式の招待状を返送する際のマナーはしっかりと心掛けている。

 

 丁寧に新婦の名前に二重線を引き、その上に五人の名前を書き込んでポストに投函した。

 

 

 

 

 

 だが、楽しみにしていた筈の式なのに当日の事は不思議とあまり思い出せない。

 四葉が懸念していたように赤いドレスを着てきて良かった、とだけは覚えていた。

 式の誰よりも目立つ赤いドレスは観客を魅了した。何せ自分達がヒロインなのだから。

 

 それともう一つ覚えている事がある。彼が自分達に送った言葉。

 

 "お前達には五人一緒にただ笑顔でいて欲しい。"

 

 何だ。そんな事だったのか。そんな些細な事で彼は自分達から離れてしまったのか。

 なら簡単だ。彼の望むままにすればいい。

 

 五人一緒に笑顔でいる。それはつまり永遠に六人でいるという事だ。

 

 ああ、なんて簡単な事なのだろう。

 

 そして、なんて壊れやすい願いなのだろう。平等しか許されない薄氷のような関係を永遠に望むなんて。

 

 だけど彼がそれを望んだ以上は叶えるのが自分達の役目だ。誰も選べないと言うなら選ばなくていい。

 一人しか選べないと言うなら五人で一人になればいい。

 元より自分達は何でも五等分にしてきたんだ。そんなのは慣れっこだ。

 

 

 そうだ。私が、私達が五等分の花嫁(パートナー)だ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ────私は誰でしょう。

 

 その問いを何度されただろうか。

 その問いに何度答えただろうか。

 その問いを何度間違えたろうか。

 

 分かる筈がない。普段ですら名前を呼び間違えそうになるのに、一糸纏わぬ姿の同じ髪型をした五つ子を見分けるなんて不可能だ。これほど理不尽なゲームがあるのだろうか。

 確率は五分の一の確率なのに当てれない。正解が分からない。真実に辿り着けない。

 声も口調も体も握った手の感触も、五人全て同じ。全員があの日に出会った『彼女』だった。

 

 このまま意識を手放してしまえたらどれだけ楽だったろうか。五感全てを彼女達に掌握された今ではそれすらも叶わない。

 自分に馬乗りになって必死に体を動かす『彼女』の瞳を盗み見た。

 

 漆黒(くろ)い眼だ。目的の為なら何をするのも厭わない。そんな強い意志を感じる。

 きっとこれから未来永劫、彼女達からは決して逃げられないのだろうと察した。そう体に理解させられた。

 この身を手に入れる為に必要ならば家や親、資産や夢、人間性すらも捧げて構わないという覚悟が彼女達にはあった。

 そんな五つ子達に、最初から敵う筈がなかった。逃げられる訳がなかった。

 

 いっそ彼女達が望むままに快楽に身を沈めればいいのだろうか。

 黒い泥のような諦観が胸の中にじわりと広がる。

 抵抗は無駄だ。彼女達の見分けなんて付かない。全てが『彼女』なんだ。

 もう何もかも受け入れてしまおう。

 

 そのまま跨る彼女に手を伸ばそうとして……。

 

 ────長い年月を経て、その者の仕草、声、ふとした癖を知ること。それはもはや愛と言える。

 

 そんな時、誰かの言葉が頭蓋の奥に浮かんだ。

 誰に言われた言葉か思い出せない。或は”まだ”誰かに言われていない言葉。

 なんだ、これは。本格的に頭がどうにかしてきたのかもしれない。

 

 ────それは一朝一夕ではできん。お主は何のために……を見分けたいんだ。

 

 馬鹿げた問いだと風太郎は思った。

 そんなもの決まっている。この狂ったゲームから抜け出すためだ。それ以外にどんな理由があると言うのか。

  

 ────見分けられるようになって、お主がしたいことはなんだ。

 

 自分がしたいこと。その問いに対して今度は直ぐに答えが浮かばなかった。

 仮にこのゲームから抜け出せて一旦は彼女達から解放されたとして、自分はどうしたいのだろう。

 普通の人間なら真っ先に逃げる選択肢を選ぶ。自分だってそうだ。現に中間試験の時は彼女達から逃げようと策を弄した。

 

 なのに、何故か今は彼女達に背を向けたくないと感じている。

 確かに彼女達から逃げるのは無理だと思った。だからといって逃げようとすらしないのはおかしい。

 負けず嫌いな性格だと自覚しているが、それでもあんなヤバい連中からは今すぐにでも逃げるべきだ。

 あらゆる手を使って己の肉体を弄んだ連中を相手に背を向けたくないなんて、こんなの正気じゃあない。どうかしている。

 

 理性では分かっている。だけどそれとは別の部分で逃げたくないという想いが上回っていた。

 

 彼女達から"また"逃げるなんて出来ない。そんな自分でも理解のできない意志が胸の中で消えずに灯っていた。

 

 ───お主に……と向き合う覚悟はあるか。

 

 覚悟はあった。あったつもりだった。でも足りなかった。全く届いていなかった。彼女達の意志は自分の想像を遥かに上回っていた。

 つくづく実感した。自分は彼女達のことを何も知らなかったと。

 

 何も、知らない……ああ、そうか。

 

 頭の中で空回り続けていた歯車がようやく噛み合った。

 この期に及んで自分がまだ彼女達をどうにかしようとしていた理由がほんの少しだけだが解ったような気がする。

 

 涙を流す四葉を咄嗟に慰めたのは、姉妹の中に『彼女』がいるからだと思い込んでいた。

 だけど忘れもしない花火大会の日。同じように涙を流す二乃を抱きしめていたのは何故だ。

 当時はまだ『彼女』と姉妹を結び付けてなかった。それなのにあんな行動を取った。

 

 ただ、純粋に知りたかっただけなのかもしれない。過去の彼女達だけじゃない。今の彼女達も。

 

 あの時の衝動的な行動に敢えて理由を付けるならそうなのだろう。

 

 

 ───私は誰でしょう。

 

 再び審判の時がきた。何度も答えを導けなかったどんな数式や文法よりも厄介な難問。

 何度も正解できないのは、彼女達を見分けるのに理屈や理論が通用しないからだろう。

 それこそ先の言葉を信じるなら"愛"なんてものが必要なのかもしれない。

 

 少し前の自分なら無縁のモノだと鼻で笑っただろう。けど皮肉にもそれは彼女達に指摘された事で自覚してしまった。

 

 認めよう。過去の『彼女』に抱いたのは確かに思慕の情だった。果たしてそれを今の彼女達に対しても未だに抱いているかは自分でもまだ判らないが。

 恋と愛との違いなど哲学者にでも語らせればいいが、少なくとも似たような物だとは思う。これがゲームをクリアする僅かな希望に成り得るかもしれない。

 

 本当に勘弁して欲しい。恋だの、愛だのと。不得手な科目だ。教科書や参考書の知識ばかりを頭蓋に詰め込んできた自分には到底、理解できない。

 これで当てれなかったら金輪際、この手の戯言は信じないだろう。全く馬鹿馬鹿しい。

 

 だが、一度くらいはそう言ったものに頼るのも悪くはないと思った。現状は他に打つ手がないんだ。試してみる価値はある。

 

 改めて、風太郎は自身に跨る彼女を凝視した。

 僅かな仕草も見逃さないよう、体の隅々まで眺め、そして手を伸ばして彼女の頬に指先でそっと触れた。

 すると、ピクリと彼女の体が震えた。まさかこちらから触れてくるとは想定してなかったのだろう。

 その僅かな動揺で、姉妹の一人の姿が目の前の彼女と重なって見えた。

 

 この感覚は以前も似たような事があった気がする。妙な既知感を覚えながら幻視した彼女の名前を口にした。

 "前回"と違って、今度は自信を持って、はっきりと。

 

「──三玖、だろ」

 

 目を見開き、彼女の表情が固まった。

 けどそれは一瞬で、漆黒を灯した瞳に光が差し、目尻に一滴の涙が浮かんだ。

 

「当たりっ」

 

 ウィッグを外して満面の笑みで抱き付いてきた三玖に風太郎は動揺と同時に安堵しながら口元を緩めた。

 

 

 この時、風太郎は緊張が解けて周りが見えていなかった。全裸で抱き合っている事もあり、感極まってそのまま第二回戦に突入した三玖を相手にそれどころじゃなかった。

 他の四人、特にその中でも表情を無にして二人の様子を眺める彼女に気付く事が出来なかった。

 

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説④

上杉君が伝説になる一日前の夜の話。


 人は決して平等ではない。それが例え同じ顔をした五つ子でも例外ではなかった。

 性格が違う。特技が違う。趣味が違う。足の速さが違う。

 

 なのに好きな人は同じ。闘争は必然だった。

 

 そして闘争の果てがあの結末だ。勝者など何処にもいない。姉妹全てが敗者となった。

 だから偶然にも『二度目』を手にした彼女達はその時に五人で誓い合った。

 

 誰も勝者になれないのなら全員で勝者になればいい。

 

 それに彼が言ったのだ。五人一緒にいて欲しいと。教師の教えを守るのが生徒というもの。

 だから全員が同じ相手に愛情を求める以上は五人全員が平等であるべきだ。そうでなければならない。

 姉妹で五等分に。彼から与えられる愛も、幸福も、悦びも、時間も、彼の全ても。

 

 ───にも拘らず同じ格好をした状態で一人だけが姉妹の中で見分けられた、などという事があっていいのだろうか。

 

 否。断じて否だ。そんな事はあってはならない。それは平等ではない。

 彼女達にとって見分けられる、というのは特別な意味を指す。そこに"愛"があって初めて中野姉妹は見分けられるのだ。

 姉妹達は祖父から続くその言葉を信用していたし、事実今までもそれは正しかった。

 自分達をノーヒントで見分けれる母や義父、そして祖父は家族"愛"を持っていた。

 ならば、家族でない彼がどうして自分達を見分けられたのか。それは"愛"があったからに他ならない。

 しかしそれは想定外だ。彼に自分達を見分ける事は不可能だと姉妹達は踏んでいた。少なくとも今はまだ。

 

 正直なところ多少強引に彼との関係を進めてしまったと一応は自覚している。

 自分達からの彼に対する一方的な愛はともかく、彼から自分達へ同じような感情が向けられていると楽観視できるほど盲目ではない。

 そもそも、この状況自体が姉妹にとってはイレギュラーだった。

 

 本来の計画ではもっとじっくりと関係を煮詰めるつもりであった。

 彼女達だって乙女だ。無理矢理などではなく、想い人とは真っ当な恋愛をした上で相互に想いを寄せて結ばれたいという願望はある。

 ただ、ほんの少しだけ愛が人よりも重く深いだけだ。

 

 だから彼と真っ当に結ばれる為に『二度目』を迎えた時から計画を練り始めた。

 まずは彼と結ばれた時に将来的に大きな障壁となるであろう父には予め布石を打った。

 正しい事ばかりを口にする人だが、幼い自分達に対しても同じように正しさを説かないだろうと考えた。結果は予想通りだった。はっきりと言った。彼の傍に五人で永遠にいてもいい、と。

 言質は得た。録音もしたしその場で第三者の江端もあの会話を耳にしている。幼い時の些細な会話など何の効力もないように見えるが、あれで意外と自分達に甘い人だ。最終的には間違いなく折れる筈だ。

 まあ折れなければ折るつもりだが。

 

 親からの許可も無事に得たので後は好きにさせて貰うだけだ。

 次に問題の彼だ。慎重に確実に大胆に射止める必要がある。

 

 最初に仕込みから入った。京都のファーストコンタクトで自分達を『思い出の少女』として念入りに印象付ける。

 当時の初心な彼なら手を握るなどして積極的に肉体的接触を行えば自分達を強く記憶に残す事が出来るだろう。子どもの時に芽生えた淡い想いは五年後再会して正体を明かした時に実を結ぶ筈だ。

 本当なら最初から五つ子である事を明かして五人で共に行動したかったが、当日は半日程度しか彼と一緒にいられない。五人だと個別に印象に残らない可能性がある。

 だから『思い出の少女』という役割を五等分にして五人で入れ替わりながら彼の初恋の人として記憶に刻み付ける。

 

 そして次に高校で再会した時だ。五年前に撒いた種の収穫の時でもある。

 この時には既に勉強星人の彼は恋愛に否定的で一見ガードが堅いように思えるが実はそうではない。攻略の決め手は速攻だ。 

 出会った当初は自分達姉妹を異性として多少は意識していた節があった、と前回の時に彼を屋上で呼び出した三玖が姉妹に語っていた。つまりこの時点では意外と攻めが通るのだ。

 皮肉にも前回は姉妹達が彼に対して心を開き惹かれるに連れて、彼は姉妹達を異性として見なくなっていく反比例が起きてしまった。

 再び意識して貰うのに時間を要したのは前回から反省すべき点だ。姉妹間の戦争が泥沼化したのも早期に彼に惹かれていた姉組が彼を射止めきれなかったのが原因の一つでもある。

 その反省を活かし今回は速攻でいく。再会して最初のアプローチさえ上手くいけば簡単に靡いてくれる筈だと確信していた。

 だが速攻とは言え焦りは禁物だ。慎重に、そして大胆に。敢えて最初は『思い出の少女』という事を伏せる。

 そうする事で彼は初対面だと思い込んでいる姉妹達が妙に好感度が高い事に疑問を持つだろう。疑問は関心であり、知りたいと思う心はやがて大きく育つ。

 

 そして機を見計らって彼に告げるのだ。私達が君の初恋の相手である『思い出の少女』だと。

 

 ここまでくれば勝ちだが、まだ油断はしない。慢心は死を招く。

 

 更に念には念を入れて早期の段階で彼の家族と交友を深め、彼の家庭でも囲いを作る。将を射んとする者はまず馬を射よ、とはよく云ったものだ。自分達はもう愚者じゃない。賢者は歴史に学ぶものだ。

 彼の家族周りに加えて同級生に対して広い顔を持つ二乃や部活動に積極的に参加している四葉が友人や先輩後輩にそれと無く中野姉妹と彼が親しい関係であると流布して学校でも噂をされるように下地を用意する。

 こうして第三者を介する事によって噂の信憑性や信頼性を高め自分達に意識するよう働きかけるウィンザー効果も狙う予定だ。

 周りの評価など気にしない彼には効果が薄い可能性もあるが、それならば更に別のプランに移行するだけだ。状況によって三十一のプランが設定してある。特に彼は妹のらいは関連が緩いのでそこが狙い目だ。

 

 そして彼がこちらを意識してしまえば後は簡単だ。焦らずじっくりと味わう。

 それぞれ姉妹が前回の時に経験した彼との好みシチュエーションで好きなように結ばれるだけだ。

 

 閉じ込められた倉庫の中で役作りの為のベッドシーンの練習(本番)をするのも良し。

 一緒に混浴に入ってフー君のキンタロー君を思う存分洗って奉仕してあげるのも良し。

 彼を自分の部屋に泊めて寝ぼけたフリして同じベッドに入り込み合戦をするのも良し。

 一日デートを楽しんだ後に公園の遊具を使った童心を忘れないプレイをするのも良し。

 彼の家に泊まり込んで彼の家族が寝ている前でスリルある夫婦の営みをするのも良し。

 

 想像するだけで口元が緩み、体が火照った。私たちには薔薇色の性春が待っている。

 

 正に盤石の布陣だ。この中野姉妹に弱点はない。

 姉妹全員が自身の持つ情報という手札を共有し、カードの切り方さえ間違えなければ自分達が他の女に彼を奪われる要素など万が一にも存在しないのだ。

 

 完璧な作戦だ───彼女達が理性を上回る愛欲を持っていたという点に目をつむれば。

 

 予定が狂い始めたのは京都での事だった。

 『思い出の少女』として彼の記憶に鮮明に刻むのに重要な任務だ。

 失敗は有り得ない。五人でおバカな知恵を必死に絞って出し合った完全無欠のプラン。そしてその先にある彼と結ばれる未来への栄光のロード。

 しかしそれは、僅か一つの過ちで断たれることになる。

 入れ替わり立ち代りで彼と京都を回り休憩を取ろうと公園のベンチで二人で並んで座った時だ。

 

 あろう事か、彼と一緒に居た姉妹の一人が我慢できずに彼を眠らせて寝てる彼の手を自分を慰める為に使ってしまったのだ。

 

 下手人曰く、魔が差した、との事だった。

 この時点での抜け駆けは決して赦されない。推定無罪であっても即始末(ギルティ)が姉妹間での血の掟だった。しかし実際には他の四人の姉妹達は罪を犯した彼女を咎めなかった。

 現時点でしか拝めない貴重な金髪ピアスの悪ガキバージョンの彼と手を繋いでいたんだ。まだ誰にも汚されていない無垢な彼と。

 そんなのは腹の空かせた野犬の前に餌を置いて待てを命令するようなものだ。我慢できる筈がない。

 誰だってそうする。私だってそうする。四人は彼女の罪を赦した。

 

 それに抜け駆けした彼女への罰など無防備に寝顔を晒す彼の前では些末事でしかない。

 

 残りの四人も我先にと寝てる彼の手を使って思う存分に発散した。

 この時に敢えて口付けをしなかったのは、本当に抑えが利かなくなると流石に姉妹達も理解していたからだ。まだ手で済んだだけ当時の彼女達には良心があったのかもしれない。

 全員行為が終わった後は余韻に浸りながら記念に写真を撮っていた。至福の時とはまさにこれを指すのだろう。

 初めて彼の手に普段は触れられない箇所を当てた時の感触と愉悦は鮮明に記憶に残っている。物持ちのいい姉妹の一人は未だに当時ビショビショにした下着を今でも愛用しているくらいだ。

 

 ──ああ、やっちゃった。

 

 五人全員、体の火照りが引いた後に少々後悔していた。所謂賢者タイムだった。

 彼女達は乙女であるが、その前に女だった。いや獣だった。しかし誘惑に弱いのは性分だ。

 成すべき事より成したい事を優先するから勉強ができないアホ姉妹なのだ。人の本質はそう簡単には変わらない。

 まあ。やってしまったものは仕方がない。どうせ五年後にはこれより凄くて激しい事を彼と毎日ヤる予定なんだ。今日はその来るべき未来に向けたリハーサルという事でいいだろう。

 気を取り直して姉妹達は彼が起きるまでの間、彼の体を隅々まで触診した。

 

 しかし、この出来事が後々大きく計画を揺るがす弊害となってしまった。

 

 五年だ。前回と同じ運命を辿ったとしても彼と次に再会するのは高校二年の秋。今から五年も先の未来になる。

 耐えれる筈がなかった。直接その身に彼の温もりを知ってしまった以上は我慢など出来る訳がない。なのに物理的な距離が彼と姉妹を引き離す。どんなに逢いたいと願っても彼に逢えない。

 一日、また一日と時間が積もるに連れて彼の想いも濃く深く強く熟成していく。

 

 そして五年経ち彼と再会を果たした運命の日。彼女達は弾けた。

 

 やり過ぎたとは思っている。本当はもっとプラトニックな関係を結びたかったのに。彼の心が欲しかったのに。無理矢理彼に跨って嗚咽を漏らしながら腰を振るった。

 でもどうしようもないのだ。我慢が出来なかった。それだけ彼に触れられた感覚は姉妹にとって麻薬だった。一度知れば、もう戻れない。

 彼との相思相愛計画はぐちゃぐちゃになり、肉体だけで結ばれた歪な関係になってしまった。けどそれでも構わなかった。

 彼を盗られた喪失感を彼の体の温もりが埋めてくれるなら、心は後ででもいい。今は体だけも───。

 

 そんな中で投じられた彼が三玖を見分けた、という事実は他の四人を大きく揺るがした。

 

 彼の愛が誰にも向けられていない、全員が体だけの関係は確かに平等と言えた。

 だからこそ姉妹達の絆は強固だった。ならばこれは当然の帰結だった。

 

 一人だけを見分けられた? 許容できる筈がない。そんな事、誰が赦せるものか。

 

 

 気を失っている彼と、それに覆い被さるようにして幸せそうな表情で眠る三玖を四人は漆黒の眼で捉えながら拳を握り締めた。

 

「ぐっすり眠っちゃって……フータロー君、勘違いしているようだね。まだ私達の五つ子ゲームは終了していないよ」

 

 

 

 ◇

 

 

 あの後、何度も三玖に求められて体力の限界が来たのだろう。気付けば気を失っていた。

 姉妹の中でも特に非力な三玖に気絶するまで一方的に蹂躙されてたなんて情けないと思われるだろうが、最初は五人が相手だったのだ。むしろ元々の貧弱だと自覚している風太郎からすればよく耐えた方だろう。

 彼女達を捌ききれたのも、偏に男子高校生特有の精力があってこそだ。

 同年代と比べてそう言った欲求は薄い方だと思っていたが、最近は給料が上がって上杉家の食生活が改善された事によりタンパク質を前より摂取できるようになったので人並み程度に欲求が戻ってきたようだ。

 そうでなければ今頃、あの五人によって吸い尽くされて布団の上で事切れていた可能性がある。そんな不名誉な死に至らなかったのも給料を上げて貰った中野父のおかげだ。正に命の恩人とも言えるだろう。

 礼を言いたいのは山々だが流石に娘との歪な関係を考慮すると、どんな顔をして会えばいいのか分からないので遠慮しておくが。

 

 何はともあれ、無事にイカレたゲームは切り抜けた。晴れて自由の身だ。昨日のあれを超える試練など流石にないだろう。

 今朝起きた時は股間と腰は痛いし眠気は凄まじいしで最悪のコンディションだったが、旅行前に四葉と五月に渡された栄養ドリンクを飲んだら随分と楽になった。

 ああ、体が軽い。こんなに清々しい気分で林間学校の二日目を迎えるとは思わなかった。

 そうだ。もう恐れるものは何もない。何も怖くない。昨日はアクシデントであの姉妹と同じ部屋になるなんて事があったが、今日からは男女別々の部屋だ。

 あの中野姉妹も男子の部屋に侵入して事に及ぶような真似はしない筈。

 とにかく姉妹の事は一旦忘れて思う存分、残りの林間学校を楽しもうじゃないか。それにらいはへの楽しいお土産話を持ち帰る約束が残っている。

 間違っても昨日の狂気を思い出話として語る気はない。あんなのを話せばドン引きされるに決まっている。

 ならば勝手に任された肝試し係を全力で務めて同級生たちを恐怖のどん底に陥れた話をしてやろう。

 

 そう意気込んで夜の肝試しを迎えた風太郎だったが、もちろん彼に安泰の時など訪れる筈もなかった。

 

「……一応、聞くがどうしてここにお前がいる」

「私も肝試し係だからだよ」

 

 さしずめ『更屋敷のお菊』といったところだろうか。やけに似合う白装束をした三玖に風太郎は額に手をやって呆れた。

 どうせ絡まれるとは分かっていた。今更、彼女達から逃れるとは思っていないし、もう逃げる気もない。向き合うと決めたんだ。

 

 だが、せめてもう少しインターバルを設けて欲しい。

 半日前に柄にもなく愛だの恋だのと頭を悩ませてやっと正体を見破り、まるでそのご褒美かと言わんばかりにズッコンバッコン大騒ぎした相手の顔を直視できるほど風太郎の神経は図太くなかった。

 

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「なんだ」

「昨日の五つ子ゲーム、どうして私だって分かったの?」

「……適当に答えたら当たっただけだ。所詮は五分の一の確率だしな」

 

 頭の中で謎の声が聞こえて、そいつが愛があれば見分けられるなんてほざいたなど、口が裂けても言えない。

 おまけに自分がそれに従って、挙句に見事当てただなんて。

 そんな告白紛いの事を口にできる筈がない。

 

 三玖と顔を合わせないように後ろを向いてぶっきらぼうに答えた風太郎だが、彼の耳が後ろからでも分かるくらい真っ赤になっているのを見逃す三玖ではなかった。

 

「ありがとう、フータロー。私を見つけてくれて」

「……っ」

 

 後ろから抱きしめてきた三玖に心臓が止まるかと思った。

 互いに仮装用の生地の薄い衣装を着ているせいか、体の感触がいつもよりもダイレクトに感じた。

 ただ抱き着かれるだけなのに、脈が速くなる。これ以上に凄まじい事を彼女達とはもう何度もした筈なのに。

 何なんだ。この胸の高鳴りは。この身体の芯から発する熱は。

 

 本当に俺はこいつらの事を───。

 

 そこまで考えてはっと首を振ってどうにか冷静さを取り戻した。流されてはダメだ。何を妙な事を考えている。

 それにこのままくっ付かれていると不味い。もうじき肝試しが始まって誰かに見られるかもしれない。

 ただでさえ最近は学校でも転校生の五人姉妹を侍らかすやべー奴なんて不名誉な噂話が流れているというのに。

 他人からどう思われようが構わない。だが間違っても、らいはがその与太話を耳にするのだけは勘弁して欲しい。

 今でもあの姉妹とは随分と仲がいいのに余計な勘繰りまでされたらたまったものではない。

  

 後ろから手を回して離れないように抱きつく三玖をどうやって離すが悩んでいると、更に彼女から追い打ちがきた。

 

「私はフータローが好き」

「なっ」

 

 手を振りほどきながら振り向く風太郎に三玖は構わず言葉を続けた。

 

「みんなを好きになって欲しかった。みんなを愛して欲しかった」

 

 漆黒を宿した瞳が風太郎を射抜く。

 

「だけど本当は違う。私だけを好きになって欲しい」

「お前は何を……」

 

 並々ならぬ圧を放つ彼女に思わず後退りした。

 すると逃がさないとばかりに一歩、彼女は近付く。

 

「他の女の子の話はしないで。他の女の子は見ないで」

「一花や二乃や四葉や五月のことも……私だけを見て欲しい。そう言ったら、フータローはどうする?」

「三玖、俺は……」

 

 様子のおかしい三玖を何か宥めようと言葉考えて彼女の顔を凝視した。

 

 

 すると、何か妙な違和感を感じ取った。何かがおかしいかは分からない。

 だけど何かがおかしい。

 そしてその違和感は、そのまま思考する間もなく言葉になって風太郎の口から洩れ出ていた。

 

 

 

 

 

 

「───違う。お前は誰だ?」

 

 三玖の口元が空に浮かぶ三日月のように歪んだ。

 

 どうやら二日目の夜も長くなりそうだ。

 

 

 

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説⑤

上杉君が伝説になる前日の夜に愛に気付く話。


 不気味な笑みを浮かべる『三玖』に風太郎は頬をひくつかせた。

 肌寒い秋夜だというのに背中から嫌な汗が噴き出る。ピリピリと肌を突き刺すような空気が辺りに満ちていた。

 何故、目の前の彼女を三玖ではないと断言したのか自分でも分からない。何となくそう感じてそのまま自然と言葉が口から零れていた。

 そして彼女の反応を見るに事実だったのが余計に混乱を招いた。

 

「誰って、おかしなこと言うねフータロー……私だよ。見て分かるでしょ?」

 

 くつくつと喉を鳴らす『三玖』からは何処か不気味さと妖艶さが滲み出ている。

 いつもみたいに無理矢理押し倒される危機感とはまた別の強烈なプレッシャーだ。

 出合ってまだ日は浅いが中野姉妹に何度もヤバいと感じた事があった。

 

 何故か眠ってしまい気付けば全裸の一花が隣に寝ていた時。

 二回目の家庭教師で三玖のジュースを飲む羽目になった時。

 せっかくの休日だと思っていたのに五月が突如襲来した時。

 意識のある状態、それも野外で二乃に無理矢理ヤられた時。

 薬など関係なしに四葉に圧倒的な体力でねじ伏せられた時。

 

 だが今回はその中でも格別だ。とてつもない圧がヒシヒシと伝わってくる。

 今すぐに逃げ出したいという衝動が胸の底から湧き出た。

 

「フータロー……どうしてそんな事、聞くの?」

 

 距離を取ろうとしたが気付けば背中に固い木の感触があった。どうやら無意識に足が動いていたらしい。物理的にこれ以上、彼女からは逃れられない。

 ゆっくりと『三玖』が近づいてくる。一歩、一歩、着実に。

 仮装の白装束姿も相俟って、より一層恐怖が心を支配し鳥肌が立った。

 

「ねえ、どうして?」

 

 とうとう木と『三玖』に挟まれる形で追い詰められた。

 

 今度は一体何なんだ。何でこんな事になる。必死になって見破った今朝のあれは全部無駄だったのか。

 必死に頭を回転させてもこの状況を打開できる案が浮かばない。何故こうなったのかすら見当も付かない。

 

 ───分からない。お前は誰だ。

 

 観念してそう問おうとしたが、寸前で言葉を飲み込んだ。

 何故か、それを口にすると、"また"取り返しの付かない事になる気がして。

 

 よく考えろ。何故わざわざ三玖に変装した。何か意図があるに決まっている。それはなんだ。

 少なくとも今、彼女にかけるべき言葉はそうじゃない。だいたい変装をした相手が素直に正体を明かす筈がないだろう。

 考えろ。考えるんだ。このままでは今までと何も変わらない。

 

 三玖を見破った時の光景が脳裏に浮かんだ。

 あの時はどうして見破れたのだろう。

 それはきっと彼女達を知りたいと願ったからだ。ならば同じだ。

 向き合え。真意を確かめろ。

 そうしなけば何も始まりはしない。

 

 彼女は本当は何を望んでいる。何を求めている。

 真に選ばなければならない言葉は別にある筈だ。

 もう逃げないと決めたんだ。彼女に立ち向かえ。

 戦え。戦え。戦え。戦わなければ生き残れない。

 

 己を鼓舞し、腹を括った。

 

 彼女達と向き合う覚悟があるかだと?───そんなもの、とうにできている。

 

 

「───どうやらゲームはまだ終わっていないようだな。いいだろう。どうせ乗り掛かった船だ。残りも全員暴いてやるよ」

 

 今までは後手を取らされてばかりだったが今度は先手を奪取した。いつまでもヤられっぱなしで終わる上杉風太郎ではない。

 『三玖』の手を強引に引いて、逆に彼女を木に押し付けた。彼女の顔を挟むように両手で木に手を付く。

 こちらが逃げないのだ。ならば彼女にもとことん付き合って貰うのが道理だろう。決して逃がしはしない。

 

 無自覚で風太郎が『三玖』に行ったこの体勢───所謂、壁ドンである。

 

「えっ」

 

 突然の風太郎から仕掛けられた攻勢に『三玖』は戸惑いを隠せない様子だ。

 さっきまでの漆黒い瞳はどこへやら。今は頬を真っ赤に染めて視点は定まらず、風太郎とろくに目を合わす事すらままならない。

 

「ちょ、ちょっと、これは……」

「動くな」

「ッ!!」

 

 なるべく感情を押し殺し、『三玖』の耳元でそう囁くと彼女は体をびくりとさせて石のように体を硬直させた。

 上手くいってくれたか。表情には決して出さず風太郎は胸を撫で下ろした。

 あの五つ子ゲームで三玖を暴いた時にもしやと思っていたが、やはりそうだ。この『三玖』の反応で確信した。彼女達に対抗できる唯一の隙。

 

 中野姉妹は自分達から仕掛ける分には容赦も情けも一切ない。

 『薬を使って無理矢理関係を持つと相手がどう思うのだろう』とか『五人でゲームと称して襲ったら相手はどう感じるだろう』といった道徳観など彼女達からすれば便所のネズミのクソにも匹敵するくだらない物だという考え方なのだろう。

 

 ところが、一転してこちらから彼女達へ仕掛ける分にはどうなのだろうか。

 その答えが五つ子ゲームで三玖に触れた時や先の言葉での反応だ。

 

 この姉妹、攻撃力は極端に高いが防御力が極端に低い。

 

 振り返ってみれば、その兆候は二乃に襲われた時には既に見せていた。

 己に跨り涙を流す彼女を抱き寄せた時、二乃は直前の様子からは考えられないほど大人しくしていた。四葉の時もそうだ。こちらからアクションを起こすと決まって大人しくなる。

 ……二人とも落ち着いた後に再燃して即座に激しさの増した二回戦に突入したのだが、それは置いておくとしよう。

 つまり、自分から積極的に攻めれば意外と萎縮してしまうのだ、あの姉妹は。

 

 散々ヤりにヤりまくり性を存分に発散して何を今更かまととぶるのかと風太郎からすれば首を傾げるしかないが、こうして実際に目の当たりにしているのだから受け入れるしかない。

 これが所謂、女心というものなのだろうか。少し違う気がするが、もしそうだとすれば一生かけても理解できる気がしない。

 何はともあれ絶好のチャンスだ。彼女を見破ってみせる。

 

(動きを止めるのに成功はした。肝心なのはこれからだが……)

 

 微動だにしないどころか、目まで瞑ってまるで何かを期待するようにじっと石のように固まる『三玖』の髪に視線を向けた。

 姉妹全員が髪の長さが別々なのでこの『三玖』も昨日の五つ子ゲームのようにウィッグとやらを着けているのだろう。今ならそれを無理矢理奪えば手っ取り早く正体を暴くことも可能かもしれない。

 確かにこれなら確実だ。愛だの恋だのといった曖昧なものに頼る必要もない。

 目を瞑っているし何をしても抵抗する様子はない。仮に正体が圧倒的肉体スペックを誇る四葉だとしても今なら容易に奪い取れるだろう。

 ただ見破るだけならこれが最適解だ。

 

 風太郎は悟られないよう、そっと『三玖』に手を伸ばす。

 

 "不正して得た結果なんて、なんの意味も持たない"

 

 その時、あの時と同じように"誰か"の言葉が頭に響いた。今度は別の人間の言葉のようだ。

 何故だか分からないが、その言葉は胸の奥に妙に染み渡った気がした。

 

 ああ、そんな事は言われなくても分かっている。

 

 口端を吊り上げ笑みを浮かべた。僅かに生じた心の迷いはもう消えていた。

 

(……ちゃんと向き合って、こいつが誰か暴かなきゃ意味がねえよな)

 

 そのまま伸ばした手を髪にではなく、彼女の頬へと差し出して優しく撫でるように触れた。

 

「……っ」

「じっとしていろ」

 

 再び体を震わせる『三玖』に静止するよう促す。動かれては集中出来ない。

 意識を目の前の彼女だけに集中させて全神経を研ぎ澄ませた。

 僅かな差異も見逃さないよう文字通り目と鼻の先まで『三玖』に顔を近づける。

 

(改めて見ると本当に似ているな、五つ子って奴は……)

 

 思えば、こうしてマジマジと姉妹の顔を眺めるのは初めてかもしれない。

 最初は恐怖でまともに目も合わせれなかった。後に肉体関係を持っていた事が判明し、更には中野姉妹の正体が過去の『彼女』だったりで余計に顔を合わせ難くなり、無意識に顔を逸らすように接していた。

 だから彼女達の顔をしっかりと見つめるのは何だか新鮮な気分だった。異性の容姿に関してどうこう思う事はあまりなかったが、少なくとも彼女達は人並み以上に整った顔立ちをしているのだろう。

 これで中身がまともなら顔を近づけた時に別の感想を抱いたかもしれないな。

 自分でも馬鹿馬鹿しいと思うような事を考えながら風太郎は『三玖』の顔の輪郭を確かめるように指で撫でた。

 

 指先を通して伝わる彼女の体温。

 頬にかかる吐息の間隔。

 我慢できず時折の口から漏れ出る悦の混ざった小さな声。

 

 それらを手掛かりに脳内にある彼女達と照らし合わせていく。

 そうする事で段々とヴィジョンが浮かび上がってきたが、まだだ。

 まだ鮮明ではない。この曖昧なヴィジョンに色を付けるにはもう少しだけ情報が必要だ。

 

(一つだけでいい。何か、あと一つ決定付ける何かがあれば……)

 

 他に得れる情報はないかと改めて『三玖』を足先から頭まで視線を這わす。

 仮装着の為、服装では判断できない。よく見たら体が震えている。薄着だし寒いのだろうか。

 体の形も同じ。三玖がいつも着けているヘッドホンも今はない。

 顔はさっき触診しながら確かめたが、これ以上は何も……。

 

 と、風太郎が視線を顔に戻すといつの間にか閉じていた目を開いた『三玖』と目が合った。

 

「なっ……」

 

 しまった。あまりに待たせ過ぎたか。油断していた。

 咄嗟に距離を取ろうとした。が、既に彼女は風太郎の腰に手を回していた。

 逃げられない。

 何をしでかすか分からない『三玖』に風太郎は焦燥感に駆られたが、どうやら様子がおかしい。

 その瞼が開かれた瞳は何と言ったらいいのだろう。とろんとしている。

 息遣いも激しい。まるで何か衝動を抑えるかのような。

 

 ああ、そうか。時間切れか。

 

 風太郎はこの様子の中野姉妹をよくご存知だ。

 

「んぐっ!?」

 

 彼女達が自分を襲う時に発する危険信号である。

 気付けば無理矢理唇を奪われていた。

 しかも触れるだけのものではない。こちらの唇をこじ開けて彼女の舌が入ってくる。

 啜るような卑猥な音が夜の林に響き、密着された事で嫌でも彼女の体の感触が全身に伝わってくる。

 

 一瞬、抵抗を試みようとした。だが、風太郎は敢えて彼女を受け入れた。

 

(この感じ……まさか)

 

 こんな状況とは裏腹に風太郎の心は驚くほどに落ち着いていた。

 別の事に思考を割いていたのが大きいだろう。もちろん既に何度も襲われたせいでこの程度では動じなくなってしまったという悲しい理由もあるが。

 実は最近、中野姉妹以外で自身のフー君が反応しなくなってきているのは彼の密かな悩みでもあった。

 

(ああ、そういう事か……)

 

 舌を何度も絡めとり、歯茎と歯を舐めます彼女をただありのままに受け入れながら風太郎はある一つの解に辿り着こうとしていた。

 

 どうやらあの五つ子ゲームは無駄ではなかったらしい。あの時は姿形も口調も同じ五人だったが全てが同じという訳ではなかった。

 五つ子とはいえ、全く同じ人間ではない。彼女達はあくまで五人の別々の人間だ。当然、心も違うし僅かな所作に違いも出てくる。

 それを風太郎は文字通り、体に叩き込まれていた。

 

 五人全員が違った。自分を"触った"時の行動が。特にこのキスなんかは分かりやすい。

 

 一人は最初は触れるだけ。そして徐々に激しく舌を絡め、唇を吸うように求めてくる。

 一人は恥ずかしいのか、触れるだけだ。ただ行為自体は好きなようで何度もそれをしてくる。

 一人はまず初めに唇を舐めて何かを味わうように楽しんでから深く絡みついてくる。

 一人は浅いキスを何度も繰り返し、行為が激しくなるに連れてそれも段々と激しくなる。

 

 そしてもう一人。今のようにハナから舌を入れてきてエンジン全開で飛ばしてくる姉妹がいた。

 

("これ"だったのか……あの言葉が指す意味は)

 

 今にしてようやく理解(わか)った気がする。

 愛があれば彼女達を見分けられる。風太郎はそれを字面通りで捉えていた。何か直感のようなもので見分けるものだと、そう思い込んでいた。

 だが実際は違う。そうじゃない。もっと論理的だった。

 ここで云う愛というのは所謂、通過点に過ぎない。見分けるのに必要となる要はその先にある。

 そもそも愛とは何か。それは相手を想う事であり、理解する事。また関係性によって愛の形は千差万別だ。

 例えばその関係性が家族なら愛は長く共に時を過ごした事により育まれる。彼女達姉妹が同じ顔でも互いに見分けるのはきっと長く時を過ごした"愛"があるからだ。

 家族愛ならそうだ。ならば自分たちのように家族でもない男女の場合ではどうだろうか。

 

 男女の関係が行き着く先。愛は何も心だけのプラトニックな関係だけを指し示すものじゃない。

 

 男と女なのだからその先にある"愛"───即ちそれは肉体の繋がりに他ならない。

 

 風太郎は中野姉妹との関わりは未だ数か月のものだ。彼女達を見分けるには過ごした時間、つまり家族としての"愛"が足りない。

 しかし、肉体関係を持つ事でそれを克服できる。長年掛けて見分けるのに僅かな所作も直接触れて確かめれば、結果は同じ。

 むしろ家族愛しか持たない者以上に彼女達を見分けられると言っても過言ではない。

 一体、他に誰がキスしただけで彼女達の見分けが付くのか。

 一体、他に誰が同じ姿で襲われた状態で見分けが付くのか。

 

 そんな人間、この地球上において上杉風太郎しかいない。

 

 つまり、ヤればできるのだ。彼女達を見分ける事がッ!!

 

(思い出せ。誰だ……?)

 

 一度、口を離し深呼吸したかと思えば再び舌を絡めてくる『三玖』に風太郎は動じずに思考を回転させる。

 記憶の糸を辿り、彼女達に無理矢理襲われた忌々しき過去を辿った。

 

 初めて意識がある状態で唇を奪ってきたのは二乃だ。しかし彼女はあれで意外とキスに関してはここまで積極的ではなかった。

 口移しでジュースを飲まされた後、行為の最中は今のようにずっと舌を絡めるような真似はしなかった筈だ。

 

 二乃ではない。

 

 次に記憶にあるのは四葉だ。ベッドに押し倒されたのが今でも印象深く記憶に刻み付いている。正直、怖かった。

 彼女は持ち前の体力を存分に活かしアグレッシブに行為をしていた。それに伴いキスも段々と激しくなっていたが、最初から舌を入れて飛ばす奴ではなかった。

 

 四葉でもない。

 

 今朝、見破った三玖はどうだ。そもそも目の前の彼女が偽物だと思ったから、こんな事になっているのだから本人ではないのだろうが念の為に振り返っておこう。

 あの時は余裕がなくて考える暇もなかったが、三玖を見破って第二回戦が始まり直ぐに唇を奪われたのを思い出す。

 しかし舌を絡めるような事は殆どなかったように思える。ただ唇を合わせるだけの拙い行為。塵も積もれば、とは言わないが何度もされたせいで最終的には口元がベタベタになったが。

 

 つまり改めて目の前の彼女は三玖でもない。

 

 二択まで絞れた。

 

 五月か一花。そのどちらかだ。依然、三玖に変装する理由までは分からないが。

 だが、ここまでだ。それ以上は今の手札では絞る事はできない。

 この二人に関しては本人だと認識して行為をした事が未だにないからだ。

 一度目は寝ている間に。二度目はあの五つ子ゲーム。そのどちらも風太郎にとって判断材料となる情報はなかった。

 

(ここまでなのか……)

 

 あと一歩だと言うのに。歯がゆい想いを拳を握り締める。それと同時に唇が離された。

 どうやらまた息継ぎをしているらしい。もうこれで何度目だ。彼女は何度自分の舌を啜れば気が済むのだろうか。

 

 微睡んだ瞳をして肩で息をする『三玖』を見て思う。

 ああ、きっと彼女は止まらないのだろう。これから自分が迎える未来は既に幻視している。

 いつものオチだ。このまま彼女に襲われるに違いない。

 

 だが、どうせだ。その前に一つ。最期に悪あがきをさせてもらう。

 

「んっ!?」

 

 呼吸を整えている最中で反応出来なかったのだろう。

 彼女の唇を風太郎の方から奪うのは造作もなかった。

 

 これが最後の悪あがき。判断材料がないのなら作ればいい。"これ"で反応を見る。

 それに散々向こうからされたんだ。一度くらいこちらからする権利はあるだろう。

 正当なる防衛という奴だ。

 

 咄嗟の出来事に『三玖』は目を見開いていた。

 だけど抵抗はなかった。ただ、されるままに受け入れて、風太郎の腰に回していた腕に強く力を入れて抱き寄せた。それに合わせて、今度は風太郎の方から彼女に舌を入れて絡めた。

 すると何故か、彼女は涙を流していた。

 一瞬、動揺した風太郎だったが、どうやら嫌悪感で流したものではないらしい。

 むしろそれとは逆の感情から溢れ出るものだった。

 

 その一滴が決め手となった。明確に、彼女のヴィジョンが重なった。

 

「───これで満足か? 一花」

 

 ゆっくりと唇を離し、その名を告げると彼女は体を硬直させた。

 

「……どうして」

「何となく……ただ、お前の姿が重なった。それだけだ」

「……っ」

「それにどうしてはこっちの台詞だ。何で変装なんかしたんだよ」

「だって、フータロー君がまた三玖だけ見分けたから……そんなのズルいって思って」

 

 また、というのがどういう意味かは分からないが面倒な姉妹だとつくづく実感した。

 見破るのが目的のゲームを自分達からけしかけた癖に見破ったらズルいとはどういう事だ。

 色々と言いたい事はあるが、今はそれを飲み込んだ。

 ぽろぽろと涙を零す一花に愚痴を言うのは後でいいだろう。

 

 それに、面倒なのは今に始まった事ではない。

 そんな彼女達と向き合うと決めたのは自分だ。文句は言えない。

 

「……言いたい事があるなら自分の姿で言え。回りくどいんだよ」

「うん、そうだね……前も最初から、そうすれば良かったんだね」

 

 涙を浮かべて微笑む一花に風太郎も同じように安堵の笑みを浮かべた。初めて、彼女の心の底から笑う姿を見れた気がする。

 夜闇に輝かしく一輪の花のような笑顔。これが彼女の魅力なのだろう。きっとこれからも彼女は女優として沢山の人間を魅了していく筈だ。

 

「でも、フータロー君があそこまで大胆だとは思わなかったな」

「うるせえ。お前らだけには言われたくねえよ」

 

 少しばかり冷静になって、さっき自ら一花に行った行為を思い出して風太郎は頬を赤くした。今もずっと抱き合ったままなので、さっきから煩い心臓の鼓動が一花に伝わっていないか不安になる。

 

 秋夜に吹く冷たい風は熱くなった頬を冷やしてくれて心地よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当然、これで一花が満足できる筈もなくこの後、野外で仮装着のまま風太郎は襲われた。

 変装を見破って貰ったのがよっぽど嬉しかったのだろう。嬉々として一花は風太郎に跨り、彼が枯れ果てるまで搾り取った。

 その様を偶然にも目撃してしまった彼女に密かに想いを寄せていた一花のクラスメイトである前田はあまりのショックに次の日も寝込んでしまった。

 

 

 五つ子ゲームクリアまであと三人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説⑥

上杉君が伝説になる一日前の夜に二戦目をする話。


 『中野家の五つ子』と名付けられたグループラインは彼女達の電子上での家族会議の場であり、同時にガールズトークの場でもある。

 五人で彼を射止めると決めた時からここで話題に挙がるのは専ら彼の事ばかりだ。

 今日は彼が他の女と何度話したかとか、彼に色目使う女はいなかったとか、彼とどんなシチュエーションで致すのが至高であるかとか、彼は意外と可愛い声を出すとか、彼の何処が敏感だとか、自分の時は何分持っただとか。

 年相応の微笑ましいやり取りが幾度となく繰り広げられている。今日は近い将来訪れる彼との間に宿る命にどんな名前を付けるかが議題だった。

 

『やっぱり名前って重要よね』

『私は謙信がいい』

『二人の名前から一文字づつ取るってのもいいよね』

『二人の名前から、なるほど。私と上杉君なら五月と風太郎から一文字づつとって風五(フーゴ)はどうでしょう? きっと賢い子に育ちますよ』

 

 林間学校中も普段と変わらないテンポのいい姉妹達同士のトーク。そんな彼女達の憩いの場に今、爆弾が投げ込まれた。

 

『フータロー君からのキスとってもきもちよかったよ』

『それと、私もフータロー君から見分けてもらえたの』

 

 

 沈黙を続けていた長女から送られてきた小学生並みの語彙で綴られた言葉に他の姉妹達は電撃が走った。

 

 彼女達中野姉妹は上杉風太郎に対して並々ならぬ想いを寄せている。

 もはや彼をその手中に収める為なら過程や方法などどうでもよいと全員が共通する思想であるが、その中で敢えて誰が一番手段を択ばないかと問われたら間違いなく長女を指さす結果となるだろう。

 風太郎によって三玖が見分けられて真っ先に動いたのは彼女だった。

 しかし前回と違い、今ではもう姉妹全員に彼女のやり方は知れ渡っている。だから他の姉妹は焦らなかった。

 彼女の目的は分かっている。どうせ三玖辺りに変装して五つ子ゲームと称し彼を襲う魂胆だろう。

 それなら別に放置しても構わない。三玖以外の姉妹も似たような事を企てていたし、先にヤるよりも後からヤった方が彼の記憶に深く刻みつける事ができるのではないかという思惑があったからだ。

 初めての経験は確かに強く深く印象に残るだろうが、二度目三度目となると話は別だ。古い経験より新しい経験が上から積み重なる。だから先手ではなく後手が有利と判断して静観していた。

 

 しかし、結果は違った。先に動いた一花はとんでもなく大きなアドバンテージを得てしまった。

 

 自分達から風太郎に対してのキスは何度もした。今まで食べてきたパンの枚数を覚えている人間がいないように、今まで彼にキスをした回数など既に覚えていない。彼女達にとってはそれほど当たり前の行為だからだ。

 

 だが、彼から自分達へのキスとなると話は別である。

 彼の性格はよく知っている。伊達や酔狂でそんな真似をする男では決してない。

 彼からのキス。それはつまり彼からの求愛行動に他ならない。

 

 一足先に彼から見分けたという絶対的なアドバンテージを築きその心理的余裕もあって、けっこう吞気していた三玖ですらこれにはビビった。出遅れた三人など顔面蒼白でスマホを持つ手が震えている。

 妹達の反応を知ってか知らずか、それだけでは終わらない。一花からの通知は続く。

 

『キスはフータローくんからしたをいれてくれたの』

『だからおかえしにわたしのしたにいれてあげたよ』

『ふーたろーくんのすごかったよ』

『わたしのふーたろーくん』

『わたしのふーたろーくんのふーたろーくん』

 

 暫くの間、怪文が流されていた。興奮が治まらないのが文字から伝わってくる。

 妹たちは姉の狂気に気圧されながらも、ただ流れてくる文字を目で追うしか出来なかった。

 

『私、思うんだ。フータロー君のお嫁さんってのはさ、お嫁さんになろうとした瞬間に失格なんだって。互いに愛し合ってこそなんだよ』

 

『みんな、今の状態だとアウトじゃないかな』

 

 ようやく冷静になったのか、最後にそう綴って一花からの連続通知は終わった。

 と同時に姉妹達はスマホを強く握りしめた。

 

 一見、宣戦布告とも煽りとも取れる一花からのメッセージ。しかしそうではない事を姉妹達はもちろん理解していた。

 もし本当に彼女が姉妹を出し抜くつもりならわざわざ情報を開示したりはしない。そんな愚かな女ではない。

 最後の最後まで秘匿し、風太郎との関係を盤石の布陣にした筈だ。その後でグループラインに流れていたのは今のような怪文ではなく彼との相思相愛の様を取った写真だっただろう。

 彼女に宣戦布告なんて言葉はない。あるのは終わった後の勝利宣言だけ。

 中野一花とはそういう(ひと)だ。それを姉妹達はよく知っている。

 

 ならば何故、彼女が姉妹たちにこんなメッセージを送ったのか。

 そこには別の意味が込められていたのだ。

 

『来なよ"高み"へ』

 

 あれにはきっとそういった意味が込められていたに違いない。最後の言葉は一花()から妹たちへ向けた激励だ。いつまでその位置で満足しているつもりなのかだと、発破を掛けたのだ。

 

 自分達の目指していた未来は何だ。

 彼を肉の愛玩具として愛の無い関係を持つことか。否。

 彼の傍でただいたずらに心を向けられないまま過ごす事か。否ッ!!

 

 そうではない。原初の願いはそうではないのだ。

 何の為の二度目だ。何の為のリベンジだ。何の為のやり直しだ。

 

 性を発散する為の人生ではない。

 愛を全うする為の人生である。

 

 一花はそれを姉妹たちに思い出させたのだ。

 

 グループラインに再びメッセージが流れた。

 たった一言、次は自分が動く、との旨を伝えて。

 

 長女一花が見せた希望の花。それを魅せられて今までのように静観できるほど、冷静でいられる筈がない。

 彼女の愛は止まらない。止まる愛などハナから持ち合わせてはいない。恋は、愛は、常に加速するものだ。

 

 林間学校二日目。長い夜はまだ続く。

 

 ◇

 

 流石にもう今日は何もないだろう。その筈だ。そうだと言ってくれ。

 一花との五つ子ゲームを無事クリアし、そのクリア報酬として何度も激しく搾り取られた風太郎はフラフラになりながらも何とか肝試しから帰還できた。

 事の最中、近くに誰かがいたような気配を感じたがきっと気のせいだ。あんな光景を誰かに見らていたら自分達は間違いなく今頃、教師に呼び出されているに決まっている。

 

(しかし危なかった……危うく逝きかけたぜ。いや、既に何度もイかされたが)

 

 念の為、林間学校前に四葉と五月に渡された例の栄養ドリンクを携帯していて助かった。

 それを飲み干し何とか事無き得た。昨日は夜から朝まで立て続けに絞られて更に一花を相手だ。いくら人並み程度に性欲が戻ってきたとは言えこれでは身が持たない。あのドリンク、成分は怪しいが効果は如何やら本物のようだ。

 飲んでいる所を一花に見つかり取り上げられて彼女が口移しに互いに飲んで更に連戦する羽目になったが、何事もデメリットが付き添うものだと割り切った。

 

(暫くあいつもこれで満足するだろ……)

 

 事が終わってコテージまでの帰り道、ずっと一花は満足そうな笑みを浮かべながら自身の腕にしがみついていた。まるでもう二度と離すものかと言わんばかりに。

 こればかりは誤魔化しようがなく何人かの生徒に見られてしまったが仕方がない。腕を組んでる姿か男女が合体している姿、どっちが目撃されて不味いか何て分かり切った質問だ。まだマシだと思うしかない。

 

 それに何故か、いつものように離れろと強く彼女に言えなかった。

 

 一花が本当に嬉しそうに、幸せを嚙み締めるかのように腕を組んでいたからか、それとも浮かべる表情があの京都の彼女と重なったからかは分からない。

 ただ確かなのは、段々と彼女達の行動に対して自分の許容範囲が広がっているという事実だ。

 

 間違いなく、上杉風太郎は中野姉妹に毒されている。それを身をもって実感した。

 

(……あの時はその場のテンションだったとはいえ、俺は何て真似を)

 

 先程の光景を浮かべながら前髪を弄った。思い出すだけでも心臓が煩い。

 いくら彼女達の正体を暴くためとは言えもっと他に手段はあっただろう。自ら彼女達の唇を奪って正体を確かめるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。何をやっているんだ。これでは無理矢理、襲ってきた中野姉妹とやっている事が同じではないか。

 

(あの時はあれが最善だった。結果論だとしても、だ)

 

 全く無駄な行為だったかと言われると、決してそう言えないのも事実だ。あの偽三玖を見破る最大の手掛かりとなったのは間違いなく彼女との口付けだった。

 こればかりは言葉では言い表せないのだが、確かにああする事で一花だと感じ取れた。それは否定できない。

 

(しかし、残りの三人も同じ方法を使って見破るのか……?)

 

 五つ子ゲームはまだ継続していると見て間違いない。残りの三人も明日以降、一花と同じように接触してくる筈。その度に同じ方法を使えばどうなるのか目に見えている。

 待ち受ける結末は今日の一花と同じだ。間違いなく搾り取られる。しかも内一人は無尽蔵のエネルギーを持った四葉だ。一滴たりとも残しはしないだろう。そうなれば本格的に命の危機だ。

 

 もうこの際、日を分けて来るなら風太郎も一人一人姉妹の挑戦を受け入れるつもりだった。クリア特典も込みでだ。

 一人を相手ならまだ多少余裕がある。だが、日に何人もは勘弁して欲しい。ただでさえ一度では満足しない欲深い連中なのにそれを何人もとなると己のフー君が持たない。今だってジンジンと痛むのだ。これ以上、彼を酷使させてはいけない。労働基準法に違反する。せめて週二日の休息は与えてあげたい。

 

(……とりあえず今日はベッドに横になりながら他に見破る方法を考えてから寝るか)

 

 何はともあれ、今日のイベントは無事に終了だ。不本意だった肝試し係の役目も一応は果たしたし、少し早いが今日はもうベッドにもぐろう。

 

「あっ、見つけた」

 

 そう決めて割り当てられた部屋に帰ろうとした風太郎だったが、聞き覚えのある声が彼を呼び止めた。

 そのまま振り向かないで逃げる事が出来たらどれだけ幸せだっただろうか。額に冷や汗を浮かべながら風太郎は渋々と振り返った。

 

 

 ◇

 

 適材適所、餅は餅屋、人には得手不得手というものがある。

 わざわざ不得手なものを強いるのは無駄な行為だとつくづく思う。

 ただでさえ体力がないのに加えて姉妹との連続運動で体力を消耗した自分に丸太を運べとは拷問か何かだろうか。

 風太郎は肩で息をしながら自分と共に丸太を持つ中野姉妹の一人である彼女を恨めしそうに睨みつけた。

 

「もう、そんなに睨まないでよフータロー君。仕方ないでしょ? さっきの肝試しで一組の男子が一人倒れちゃって人手が足らなくなっちゃったんだから」

「だからって、な、何で俺なんだ……も、もう、休ませてくれ」

「それはフータロー君がたまたま暇そうにしてたからだよ。ほら頑張って! これで最後なんだから」

 

 女子ならともかく男子が肝試しで倒れるなんて情けない。なんで俺がそんな情けない男の為に丸太を運ぶ羽目になるんだ。

 見知らぬ男子に恨み辛みを募らせながら風太郎は明日のキャンプファイヤーで使う丸太を何とか倉庫へと運びこんだ。

 

「はぁ、はぁ、疲れた……もうダメだ」

「お疲れ様。私もちょっと疲れたな。ここで少し休んでから戻ろっか」

「あ、ああ……そう、しよう」

 

 倉庫の壁にもたれながらそのまま座り込んだ。もう暫く動けそうにない。ただ丸太を運ぶだけなら非力な風太郎でもここまで消耗しなかっただろうが、今日は事情が違う。丸太を運ぶだけではなく自身の丸太を酷使したのだ。足も腰も既に限界である。

 

「ふふっ」

「……何が可笑しい」

 

 未だに呼吸が整わない風太郎の隣で彼女も座りこんで体を引っ付けながら微笑んだ。

 

「また二人きりになれたね、フータロー君」

「俺は日に何度もこんな目に合うとは思わなかったがな」

「もう、つれないなあ」

 

 風太郎は自身の肩に何かが乗せられた感覚がした。

 わざわざ首を動かして確認しなくても分かる。隣の彼女が自分の肩に頭を預けてきたんだ。

 鬱陶しい。疲れているんだ。やめろ。

 昔の自分なら直ぐに口から出たであろう言葉は喉元にすら届かず、ただ黙ってそれを受け入れていた。

 短いながらもサラサラとした彼女の髪が首筋にあたって僅かにくすぐったい。

 

「ねえ、フータロー君」

「なんだ」

「どうして、さっきはキスしてくれたの?」

「……」

 

 答える気はなかった。向こうも風太郎の反応を分かっていたのか沈黙を返した風太郎にそのまま言葉を続ける。

 

「好きになってくれたから? そうだよね、そうじゃないと君がキスなんて」

「───いつまで白々しく一花の真似を続けるつもりだ」

「えっ?」

「気付いていないのか? 俺は一度もお前の事を"一花"と呼んではいない」

「ッ!!」

 

 風太郎は隣の彼女の顔を凝視した。

 なるほど。やはり似ている。顔だけ見れば間違いなく一花だ。何一つ違いないし、先の会話も二人しか知らない内容だ。

 

 だが、そんな常識が通用しないのは知っている。きっとこの姉妹の事だ。あのキスの件や見破った事も既に姉妹全員に共有させているのだろう。

 だから驚きはしなかった。むしろ最初から分かっていた。あのコテージで話しかけられた時から既に。

 

「でも、その様子だと私が誰だかは分からない様子だね」

「……正直に白状すると、そうだ。お前が誰かまでは答えに至ってない」

「なら、確かめてよ。またキスしてよ」

「それは……」

「『私』にはしてくれないの? もう、特定の誰かを好きになっちゃったの?」

「……っ」

 

 『一花』に言い寄られた。体に力が入らなかったせいで踏ん張りが効かず、そのまま地面を背に彼女に押し倒された。

 四つん這いになって己にそう問いかける彼女の顔はあまりに必死で、そしてあまりに悲壮感に満ちた表情だった。

 見かねた風太郎は視線を逸らしながら違う、と消え入りそうな声で返した。

 

「違うの?」

「……ああ。お前たちに対して向ける感情を、そもそもまだ把握しきれてないんだ。別に特定の誰かを云々の話じゃない」

「じゃあキスしたのは?」

「……そ、そうする事でしか今の俺はお前たちの判断が付かないと思ったからだ。自分でも気が狂ったとしか思えん。だからあの方法を試すのはもう……んぐッ!?」

 

 だから別の方法を試させてくれ。そう言おうとしたが続きは唇で蓋をさせて言葉にする事が出来なかった。

 この強引さに何処かデジャヴを感じる。いや、そんな曖昧なものじゃない。もっとはっきりとしたヴィジョンが浮かぶ。

 何だこれは。一花の時よりも鮮明に誰だか分かる。試行回数を重なる程に精度が高くなっているとでもいうのだろうか。決して褒められた行為ではないが、それならそれで自らアクションを起こす必要がなくなるメリットは大きい。

 なんせ彼女達は人の唇をまるでおやつ感覚かとでも言わんばかりに隙を見せれば吸い付いてくる。なので五つ子ゲームのクリアも向こうからの行動を待つだけで必然的にクリアに繋がる事になる。

 どの道最後は食べられてしまうが、それは共通のエンディングなので回避しようがない。割り切ろう。でないと死んでしまう。

 

 そんな事を考えているとようやく唇が離された。彼女と自身の唇との間に透明の液で出来た橋が薄っすら繋がる。

 妙な背徳感を覚えながら風太郎は彼女の名を口にしようとした。

 

「分かった。お前は」

「待って!」

「な、なんだ」

 

 だが何故か"待った"をかけられてしまった。まさかこの五つ子ゲーム、囲碁や将棋のように"待った"が存在するのだろうか。

 

「本当に、それだけで分かったの?」

「なに?」

「言っておくけど、外したら大変な事になるわよ」

「た、大変な事だと?」

「最初からやり直しよ」

「……え」

 

 一瞬、思考が完全に停止した。

 そして再び脳が動き出した時、同時に風太郎は奥歯をガタガタと震わせて音を鳴らした。

 ふざけんな。なんだそれは。そんな理不尽なゲームがあってたまるか。そう怒鳴り散らしたいが、この姉妹は本気だ。ヤると決めたらホントにヤる凄みがある。

 ゲームのリセットだと。またあれを最初からヤれというのか。無理だ。まず体が持たない。つまりここでの敗北は死に直結する。

 彼女の言う通り、本当にさっきのヴィジョンが正しいのだろうか。不安になってきた。

 

「それでもいいって言うなら答えを……んむっ!?」

 

 今度はこっちから会話を遮って無理矢理唇を奪った。意趣返しもあったが、単純に外した時のリスクが恐ろしくて急いで確かめようとしたのが大きい。

 そのまま彼女の頭に手を回して一花の時と同じように唇を舌でこじ開けて、彼女の舌を強引に絡めとる。

 途中、驚いたように彼女が目を見開いて抵抗したが何度も舌を絡めつける事でようやく大人しくなった。

 

 この意外と初心な反応。間違いない。彼女は──。

 

「もういいだろ、二乃。コテージに戻るぞ」

「う、うん……」

 

 借りてきた猫のように大人しくなった二乃を抱きしめながら風太郎は本日二度目の勝利を納めた。

 

 

 

 

 

 勿論、そのままただで帰して貰える筈もなく予め二乃が仕込んでいた他の生徒に倉庫の鍵を閉められて二人きりの密室となり夜戦が開催。

 それを見越して風太郎は対四葉の為に温存していた栄養ドリンクを惜しみながらも使用し何とか耐えたかに見えたが、二乃も同じく例の栄養ドリンクを所持していた事により状況は一転。

 あのドリンクは彼女が作成したモノだと発覚した。成分は風太郎があの花火大会で二乃に飲まされたものと同じである。

 互いにそれを飲んで二人は朝が来るまで互いの肉体で暖を取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説⑦

上杉君が伝説になる日の朝。


 互いに栄養ドリンクを補給しながら己の限界を超えた二乃との激戦は朝まで続いた。

 逃げられない状況と、ドリンクによる肉体と精神の昂り、寒さを凌ぐ為という大義名分もあり風太郎は諦め半分に彼女の欲求に応える羽目になった。こうなってしまった以上はむしろ抵抗する方が労力を使う。

 ならば素直に受け入れてた方がいいだろうと判断した。その方が二乃も納得してくれる。

 それに先程の彼女の雰囲気だと拒んだ場合、いつものように無理矢理襲うのではなく、泣いてしまうのではないかという懸念があった。

 何故、自分だけキスをしてくれないのか。そう問う彼女の表情に風太郎は痛々しさすら感じた。あの花火大会の時といい、二乃という少女は普段の言動とは裏腹に姉妹の中で一番繊細なのかもしれない。

 あいつに泣かれるくらいなら、身を差し出して襲われる方がマシだ。そう考える自分に疑問を持つ事はなかった。

 理屈や損得勘定で物事を考える風太郎だったが、最近では彼女達に関してだけは同じように当て嵌める事が出来なかった。

 

 二乃に限らず、あの姉妹が涙を流す姿は心が痛む。

 

 今なら分かる。きっとそれは中野姉妹が思い出の『彼女』だったからじゃない。そんな単純な理由だったらこんなに悩みはしないだろう。

 過去に彼女達が自分に対してしでかした数多くの問題行動を偏に『思い出の少女だから』という理由だけで受け入れている訳ではない事に自分でも気付いている。

 

 ならば何故と問われると言葉を詰まらせてしまうが。こればかりはまだ分からない。

 だから彼女達をもっと知りたいと願ったのだ。もう少しだけ、時間が欲しい。

 彼女達を知る為に。彼女達に対する自分の感情の正体を知る為に。

 

「だ、ダメ、腰が抜けてもう一歩も動けない……」

 

 永遠にも思えた二乃との激戦は同時にドリンクのストックが尽きた事で一応の決着を迎えた。

 火照った体を秋風が冷まし、ようやく昂った感情も落ち着きを見せていい加減、ここから出ようとした時だった。二乃が先程から全く動かないのだ。

 

「猿みたいに盛るからだ。自業自得だな」

 

 足を震わせて地面にへたり込む二乃に風太郎は溜息を吐いた。

 確かにあれだけ派手に暴れればそうなる。四葉のような神が宿った肉体と違い常人でしかない二乃が朝まで通しで戦えばドリンクを服用しようが、肉体が限界を迎えてしまうのは目に見えていた。

 しかし逆に考えればドリンクさえを服用すれば他の姉妹も四葉に匹敵すると思うと恐ろしい代物だ。

 

「……だって、仕方がないじゃない」

「何が仕方がないだ。人を散々好き勝手襲いやがって」

 

 こうして体力のない風太郎が先に立ち上がれたのも今までの経験のお陰だ。

 何度も行われた彼女達との行為において彼は既にどの体勢をキープすれば体力をなるべく消耗しないか見極め始めていた。勉強と同じで経験は人を成長させるものだ。

 本人にとっては全くもって不本意ではあるが、それが己の命を繋ぎ止める生命線なのだから受け入れるしかない。

 

「フー君から、好きな人からキスされて、そんなの我慢なんて出来る筈ないじゃない!」

「ば、馬鹿な事を」

「そう言えば今回はまだちゃんと伝えてなかったわね……いいわ、何度でも言ってあげる」

「何を」

「───私は、あんたが好き」

「……っ!!」

 

 真っ直ぐと瞳を捉えて投げ込まれた二乃の言葉に風太郎は思わず息を飲んだ。

 彼女達が自分に向ける歪とも云える感情に気付いてはいたが、それを本人から改めてはっきりと言葉にして伝えられるのは彼にとって衝撃が大きかった。

 冷静さを保つ事などできはしない。告白をしてきたのがあのやべー中野姉妹が相手だと分かっていても───いや、彼女達だからこそ。

 飾らない言葉で向けられた二乃の好意に酷く動揺した。

 らしくもない。一花の時と同じだ。何でまた馬鹿みたいに心臓が煩いんだ。

 

「俺は……」

「返事は必要ないわ。フー君は私の。決定事項よ」

「……拒否権は?」

「言ったでしょ? 今度は絶対に離さないって」

 

 そう言えば出会い頭にそんな事を言われていたのを思い出した。二乃の言葉は冗談では決して無さそうだ。

 彼女の表情を見れば嫌でも分かる。あれは本気だ。本気で上杉風太郎を己が所有者だと宣言しているのだ。

 大真面目に馬鹿な事を言う二乃は、風太郎の知る禍々しい目をしたモノではない。何処か清々しさすら感じる、真っ直ぐに輝いた瞳だった。

 

 ああ、でも何故だろう。この馬鹿な少女の瞳は一花の時に見た笑顔と同じで、不思議と嫌いではない。

 なんて事を思ってしまって風太郎は羞恥に頬を染めた。何を考えているんだ。やはり彼女達に随分と毒されたらしい。

 

「と、とにかくコテージに戻るぞ……立てるか。ほら、掴んでろ」

「~ッ!!」

 

 二乃の告白で火照った頬を誤魔化すように風太郎は彼女に手を差し伸べていた。

 

 それが間違いだった。

 

 どういう訳か、二乃はその言葉に酷く興奮して停止していた筈の肉体が再び活性化した。

 彼女は風太郎が差し伸ばした手をそのまま両手で掴み、体重を掛けて引っ張って風太郎に覆い被さったのだ。

 馬鹿な、再起動だと。ありえるのか、こんな事が。ドリンク(燃料)はもう残っていない筈なのに。

 二乃の強襲に反応できず風太郎はただ、彼女の顔を茫然と眺める事しか出来なかった。

 

「だ、ダメよ、フー君……その言葉は反則だわ」

 

 ダメなのはお前の頭だ。反則はお前だ。一歩も動けないんじゃなかったのか。そう反論しようとしたが既に二乃の唇によって塞がれていた。顔を紅潮させ肩で息をしながら襲い掛かる彼女に抵抗する術はもう持ち合わせてはいない。

 

 日に二度同じ奴に襲われる馬鹿がいるか。

 

 最後の最後で油断してしまった己の迂闊さを呪いながら風太郎は二乃との延長戦を迎えた。

 

 

 ◇

 

 

 全く、昨日は散々な一日だった。

 狂気のゲームを奇跡的にクリアしたかと思えば第二の刺客である一花に襲われ、もうこれ以上は何もないだろうと慢心していた所を二乃にしてヤられた。

 もう何度行為をしたのか数えるのも馬鹿らしい。勘弁してくれ。もう限界だ。これ以上、俺のフー君を苛めるのは止してくれ。彼はもう立ち上がれない。

 倦怠感と疲労感で指一本動かせないまま風太郎は宛がわれた部屋のベッドに身を沈めていた。

 

 幸いにも今日は比較的に自由な日程を組まれていた筈だ。スキーや登山、川釣りに参加するのも各自自由である。だからこうして自室で寝ていても文句は言われないだろう。

 

 とりあえず、午前中はゆっくり部屋で休もう。今は誰もいないし落ち着いて寝れる。

 同じ部屋の男子は風太郎が目を覚ました時には姿が消えていた。大方、スキーにでも向かったのだろう。自由参加の行事は十時からだと記憶しているが、彼らがいないという事は当に時間は過ぎているようだ。

 随分と寝過ぎた。普段なら寝ている暇があるなら勉強をするところだが、今日ばかりは惰眠を貪りたかった。

 何せ、怒涛のハードワークの後だ。労働には休息が伴うものである。別に丸一日寝て過ごすつもりはない。午後から体を動かさずに済む川釣りにでも参加すればいい。

 そう思って瞼を閉じようとした風太郎だったが、それは叶わなかった。

 

 先程から敢えてスルーしていたが、毛布の下に『何か』いるのだ。

 いや、『何か』なんて曖昧な言葉で濁すのは止そう。大方見当はついている。

 本当は分かっていたんだ。この怒涛の林間学校で三日目だけ素直に休めると思えるほど風太郎は楽観主義者ではない。むしろこの最終日に今までの事が可愛く思える程の何かとんでもなく大きな出来事が起きるのではないかという予感すらあった。

 

 これはその序章だ。回避はできない。既に脅威はすぐそこにまで迫っていた。

 

「……何の用だ」

「あ、気づいていたんだ」

「おはよう、楽しいリンカン学校も今日で最後だね」

 

 風太郎の被っていた毛布がもぞもぞと動きだし左右から挟むように二人の同じ顔が飛び出た。

 同じなのは顔だけで二人とも格好が違う。片方はあの五つ子ゲームで中野姉妹が扮していた姿だ。

 まるで京都で出会った思い出の彼女がそのまま成長したかのような、髪の長い彼女。

 中身があの中野姉妹と分かっていても、この姿には未だに慣れはしない。姉妹に指摘された通りやはり彼女に対して自分は深い感情を抱いていたのだろうと思い知らされる。

 だが、まだこの格好をするのは理解できる。五つ子ゲームの延長だと言うのなら一昨日と同じ格好をするのは自然の流れだろう。

 

 ───問題はもう一人の方だ。

 

「お前……なんだそれは、そもそも誰だ?」

「誰って、それを当てるのがゲームでしょ?」

「だ、だからって限度があるだろ」

 

 耳にピアス、頭にはサイドリボン、首にヘッドホンをかけてウサギの耳を模したかのような悪目立ちするリボンを結び、センスの欠片のない星型のヘアピンをした少女がそこに居た。

 何だこいつは。何だこのイカれた格好は。これが進化した中野姉妹の真の姿なのか。

 属性過多の馬鹿みたいな格好をした馬鹿に風太郎はさっきまで感じていた倦怠感や疲労感が吹き飛んだ。究極完全態グレートナカノとでも呼べばいいのだろうか、或いはキメラテック・オーバー・ナカノか。完全にやべー奴だ。

 誰だってこんなふざけた格好をした女が同じベッドに潜り込んでいたら寝起きでも意識が一瞬で覚醒する。それは風太郎も例外ではない。

 

「こうすれば誰だか直ぐには分からないでしょ?」

「さっ、続きをしようよ」

「……今は勘弁してくれ。少し休ませろ。後で相手になってやるから」

 

 左右から両腕で巻き付け抱きついてくる中野姉妹は腕をホールドしたまま離してくれそうにない。

 そんな二人にしっしと手で追い払うようにジェスチャーしながら風太郎は冷汗を流した。これは非常にまずい状況だ。

 ゲームクリアまで残り二人。口調は普段と異なるがベッドに潜り込んだこの奇人変人どもは十中八九、四葉と五月だろう。

 流石に間を置かずにクリア済の姉妹が襲ってきたら残っている姉妹から反感を買う筈だ。まあ一度見分けたと言ってそれで満足いく連中かと聞かれれば首を傾げるが。

 とにかく彼女達が残った四女と五女に違いはないと考えていい。

 しかし二人同時に攻め込んでくるのは想定外だった。

 

(ただでさえ体力が無尽蔵の四葉が残っているのに二人同時を相手だと……こいつら俺を殺す気か?)

 

 無理だ。捌ききれない。連日連戦で既に体のコンディションは最悪だというのに。

 今このままヤりあえば間違いなくベッドの上で息絶える。それだけは何としても避けなければ。

 楽しい林間学校の思い出話を待っている妹に兄が腹上死したなんて馬鹿げた知らせを聞かせる訳にはいかない。そんなの死んでも死にきれない。

 

(どうする……考えろ。どうすれば切り抜けられる)

 

「ねえ、早く始めようよ」

「今更、私たちだけ除け者にするなんて言い出さないよね」

「三玖は最初に見分けられたのに」

「一花には自分からキスしたのに」

「二乃とは朝まで愛し合ったのに」

 

 どうやら考える時間すら与えてくれないようだ。

 二人の眼が風太郎が見てきた中でも過去最高に黒く濁っている。今の彼女達はブレーキが全く効かない。そもそも最初からそんなもの備わってない気もするがそれを言い出したキリがない。

 どの道、もう逃げ場はない。性か死か。審判の時はもうすぐそこまで来ている。

 

(これだけはやりたくなかったが……やむを得ないか)

 

 実は最初から一つだけこの場を切り抜ける方法を風太郎は思い付いていた。それも恐らく彼女達には最も有効な手段ともいえる方法を。

 しかし気が進まない。自身のプライドがそれを許さない。何より、彼女達への感情に区切りを付けないまま行うには余りに不誠実。

 それに所詮はその場限り。下手をすれば今後更に状況を悪化させる可能性がある諸刃の剣だ。

 出来れば使いたくない。このカードを切らずにゲームをクリア出来ればそれがベストだった。

 だがこうなった以上はもう四の五の言ってはいられない。今この場で二人同時は無理だ。

 これはもう、腹を括るしかないようだ。

 

 風太郎を意を決して重い口を開いた。

 

「……一つ提案がある」

「提案?」

「なに? 風太郎君」

「せめて一人づつにしてくれ。これじゃあ体が持たん」

「ダメだよ。そんなの」

「そうだよ。もうこれ以上待てないよ」

「ただでとは言わない。お前達が我慢の限界なのは分かっているからな」

 

 勿論、彼女達が素直に言う事を聞いてくれない事など想定内だ。

 そんなのは分かっている。だから、それ相応の対価を支払うのだ。

 

「……俺が他の姉妹をどうやって判別したのか、知っているか?」

「うん、もちろん」

「当然、私達にもしてくれるんだよね」

 

 まるでおやつを楽しみにする子どものような無垢な笑みを浮かべる二人。

 その二人に風太郎は首を横に振って答えた。

 

「いいや、お前達には別の方法を試そうと思う。もっと確実な手段を思い付いてな」

 

 その瞬間、部屋の中の空気が何度か下がったような錯覚に陥った。

 原因はもちろん彼女達だ。漆黒の眼を風太郎に向けながら先程とは打って変わって表情を無して彼に絡める腕の力を強めた。

 

「なんで、なんで、なんで、なんで私にはしてくれないのですか」

「そんなのズルい。ズルいよ、ズルいですよ、私は、私は……」

 

 壊れたテープレコーダーのように何度も何度もズルい、なんで、と同じ単語を繰り返す二人に圧倒されそうになったが何とか堪えた。

 彼女達に飲まれるな。しっかりとこちらのペースを保て。

 獣を御するには"餌"が必要なんだ。中野姉妹にとって極上の"餌"を。

 

 それを今、ここで捧げよう。

 

「……方法は簡単だ。お前達の姉三人にした手段よりも"深く触れ合って"確実に判別する」

「「……ッ!!?」」

 

 神の怒りを鎮めるのに必要なのは何時の時代も生贄だ。

 捧げればいい。己が肉体を。己が心臓を。己がフー君を。

 肉を切らせて骨を断つ。性を委ねて生を守護る。これが自分にできる唯一の生存手段。これが上杉風太郎にとっての究極の護身。

 

 彼の思わぬ提案に二人はその大きな目を丸くした。

 

「そ、その……」

「何だ」

「触れ合うというのはどういう意味で……」

「勿論、お前たちが想像している事を、だ。"俺の方から"リードして相手をする」

「あなたの方から……」

「リード……」

「ただ二人同時だと集中できない。だから一人づつ頼みたい」

 

 ゴクリと二人同時に唾を飲み込む音がした。彼女達は断れない。断る筈がない。必ずしや食いつく。中野姉妹は飢えた獣だ。目の前に極上の餌をぶら下げれば食いつかずにはいられない。

 こちらからのアクションに彼女達が滅法弱いのは三人の姉が証明済だ。

 

「す、少し考えさせてください!」

「作戦会議ですっ!」

 

 二人はそう言って風太郎のベッドからすぐさま離れ、部屋の隅でしゃがみ込みながら何やらゴニョゴニョと会話を始めた。

 作戦会議などと称しているが既に決まっている筈だ。間違いなく提案には乗るだろう。今はどちらが先行を取るかを議題にしているに違いない。

 やがて二人の話し合いはヒートアップし、どうやら対話だけでは決まらなかったようで、じゃんけんをし始めた。

 流石五つ子と言ったところか。じゃんけんも中々決着が付かない。何度かのあいこを経て、二人は風太郎の元へと戻ってきた。

 その表情を見るだけでどちらが勝利をしたのか直ぐに窺えた。

 

「やりました! 私からですっ!」

「私が最後……」

「お、お前か……」

 

 じゃんけんを制したのは究極完全態グレートナカノの方だった。興奮しているせいか、最早口調を偽る余裕もないらしい。残念ながら四葉も五月も自分に対しては敬語を使うため口調だけでは判断が付かないが。

 まあ仮にそれで見分けたとしても、もう彼女達が納得しないだろう。身を差し出すというジョーカーを切った以上、相手をしなければ中野姉妹は納得はしない。下手をすれば今後余計に悪化する。

 彼女達をたった一言で御せる最強のカードであるが、その代償も大きい。大いなる力には大いなる責任が伴うものだ。

 

「……終わったら言ってくださいね。次は私ですよ。絶対ですよ。相手をするって嘘じゃないですよね。待ってますから」

 

 こちらも口調を偽る事を辞め、恨みつらみを垂れ流しながら『思い出の彼女』の格好をした少女はトボトボと肩を落として部屋を出ていった。

 正直、あの様子だと後が怖いが二人で同時に襲われるよりはマシだ。

 

(何とか、一対一に持ち込めたはいいが……ここからが勝負どころだ)

 

 改めて目の前の彼女と向き合った。見た目は完全にやべー奴なので圧が半端ない。

 あまりに頭部に装飾品が集中しすぎている。こんな奴を見かけたら間違いなく距離を置く。例え知人だとしても話しかけてたりはしないだろう。

 せめて一花や二乃のように他の姉妹に変装するだけならまだ冷静に対処できたが、このイカれた格好の女と今から事を構えるのかと思うと少し気が滅入った。

 

 それに問題はまだ残っている。

 

(こいつが四葉か五月、どちらかによって俺の命運は決まる……)

 

 一対一とはいえ、四葉を相手取るにはやはり不安が残る。せめてあのドリンクが残っていればと思うが無い物ねだりをしても仕方ない。

 二乃の時に使い切らなければあの場で終わりを迎えていたんだ。使いどころは間違ってなかったのだろう。

 それに四葉は一応あれで姉妹の中では比較的、まだ話が通じる方だ。暴走すれば姉妹で一番厄介だが、上手く話し合えば生き長らえる事ができる。

 

「そ、それじゃあ、始めるか」

「お、お願いします……」

 

 互いにベッドで向き合うように座り、風太郎は彼女の肩を両腕で掴んだ。

 生き残る為とはいえ、今更になって自らの意志で彼女達と事を交わそうとする状況に風太郎は余裕などなかった。それは相手も同じようで、風太郎に両肩を掴まれた瞬間、びくりと彼女は体をはねさせ目を強く瞑った。

 

 何度も行為はしたし、襲われる事に関しては慣れたが、こちらからするとなると勝手が違う。

 一花や二乃の時はその場の勢いのようなものがあったし、あくまでもキスだけで済ますつもりだったから多少強引に出来たが、今回は目的が最初からクライマックスだ。

 果たして上手く出来るだろうか。不安になりながら、一先ずは彼女の正体を暴くべく風太郎は目を瞑る究極完全態グレートナカノに唇を落とした。

 

「……んっ」

 

 彼女の口から甘い声が漏れた。目を瞑れば色のある雰囲気なのだが、目と鼻の先に属性過多の全盛り女のせいで雰囲気もへったくれもない。

 さっきまで無駄に緊張していたのが馬鹿らしく思いながら風太郎は更に彼女に舌を絡めた。経験上、こうすれば大体判別出来る。

 

 舌を絡めると向こうもそれに応じてきた。それどころか、こちらの歯や歯茎までまるで味わうように舌を這わしてくる。

 四葉とは意識のある状態で無理矢理押し倒された経験があるが、彼女はこんな絡み方ではなかった。そうなると自然と答えは決まる。

 

「……五月、だな」

 

 唇を離して自信を持ってその名を告げる。間違いない。五月だ。

 良かった。とりあえず五月が相手なら何とか無事に済みそうだ。風太郎はほっと胸を撫で下ろした。

 

「ふふ、流石ですね上杉君。それでこそ私達の父になってくれる人です」

「……」

 

 ああ、思い出した。五月が家に押し掛けて眠らされる直前、彼女はそんな妙ちくりんな事を発していた。

 

「な、なんでそんな格好をしたんだ? 他の姉妹に変装するだけで良かっただろ」

「前にも言いましたが、私が母であなたが父。それはもう夫婦です」

「……」

 

 会話になっていない。最近、色々とありすぎて忘れていたが何気に言動に関しては彼女が一番やべー奴だ。

 教室でずっと睨みを利かせているのも五月曰く、あれは浮気チェックらしい。最初にそう説明された時は頭がどうにかなりそうだった。

 何が浮気チェックだ。そもそも結婚すらしていないしその年齢にすら達していない。なんだこのやべー女は。

 あの時は五月の言葉を適当に受け流していたが、最近になってそれが段々と現実味を帯びてきた気がする。

 結婚など恋愛から程遠い生活を送ってきた風太郎からすれば想像も付かないイベントの筈なのに、何故かある特定の未来だけは容易に想像できるのだ。

 

 ───花嫁五人に囲まれ、バージンロードに無理矢理連行される己の姿が。

 

 何という狂気。何という悪夢。そんな倫理に反する未来を想像してしまう自分が恐ろしい。

 だが、その未来に向け確実に歩がゆっくりと向かっている気がする。

 不本意ながら既に全員と関係を持った。そして今度は自らの意志で彼女達と交わろうとしている。理由はどうであれ、傍から見れば風太郎自身もとうに狂気に染まっているのだ。

 

 この五つ子ゲームをクリアしたら、彼女達と一度本気で話し合おう。

 

 このままではろくでもない未来が待っている。それだけは何としても避けなければ。

 こうして流されるまま肉体を交わり続ければ先にあるのは破滅だけだ。

 

 とりあえず、今は目の前の五月を何とかしよう。約束した以上、これから先をする事は既に決定事項だ。逃げれる筈がない。

 まあ、相手があの五月だったのはせめてもの救いだ。事が終われば少し休憩して最後の戦いに備えればいい。

 

「さあ、上杉君。始めましょう。約束通り、リードしてくださいね?」

 

 ───そう言えば、食欲が強い人間は性欲も同じように強いらしい。

 

 ふと、昔何処かで耳にした与太話を何故か今になって思い出していた。

 

 五月が姉妹の中で四葉に負けず劣らず強い欲求心を持っていた事を身をもって知ったのはそれから直ぐの事である。

 

 事が終わった後、風太郎は満身創痍でベッドに横たわっていた。

 

 

 

 

 




今更ですが五等分の花嫁アニメ二期おめでとうございます。
これを機に更に二次創作が盛り上がり増える事を楽しみにしています。
ニューゲームシリーズも残り二話で完結予定ですが、今後も短編や長編を続けていこうと思っておりますので、よろしくお願いします。


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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説⑧

上杉君が伝説になる日の午前。


「ふふ、緊張しているんですか?」

「う、うるせえ」

 

 いざ身を差し出すとなると、覚悟をしたつもりでも緊張は中々解けないものだ。

 正体を暴く為にキスをした後、風太郎は直ぐに行為へと移行せずに五月と少しばかり会話をしていた。

 

「ところで、なんでそんなイカれた格好をした?」

「えっ?」

 

 五つ子フルアーマーを解いていつものヘアピンを付けて髪を整えている五月にずっと感じていた疑問を投げかけた。四葉のあの姿は分かるが、五月の奇行は謎だ。というか今回に限らずこの中野五月の行動はいつも風太郎の斜め上を往く。

 

「イカれた、とは失礼ですね……」

「事実だろ。鏡見てみろ」

「わ、私は三玖や一花のようにそこまで変装が得意ではないのです。だから誰かに変装するよりも誰だか分からないようにした方がいいと思いまして……」

 

 確かにあれでは誰だか一目で判断は出来ないが、それにしても限度がある。フルアーマーナカノの状態でこの部屋まで来たとなると目撃した生徒はさぞ恐怖しただろう。

 そもそもの話だが、最初から変装なんてしなければいいのに。それを口にしたらまた文句を言われるのだろうとは分かっているが。

 どうにも彼女達は誰か一人だけを特別扱いされる事を嫌う傾向がある。一花が三玖に化けたのもそれが原因だった。五つ子特有の複雑な乙女心という奴なのだろうか。毎回それに巻き込まれるこっちの身にもなって欲しい。

 

「そんな事より、はやくしましょうっ! 善は急げです!」

 

 まるで御馳走を目の前にしたか子どものような無垢な笑顔を浮かべてベッドの上でぴょんぴょんと跳ねる五月。頭頂部の毛束と豊満な胸部が連動して揺れている。やけにテンションが高い。普段真面目な彼女が見せる末っ子らしい反応に微笑ましさを感じる。

 

 ……ことなど一切なく、不安しかなかった。例えるなら皿の上でただ喰われるのを待つしかない魚の気分だ。覚悟して自ら身を差し出したとはいえ、事が事だ。既に両手で数え切れないほど経験を重ねた風太郎であったが、全てが向こうからの宣戦布告による強襲ばかりだ。こちらから仕掛ける攻め戦に関しては未だに経験がないままである。

 だからこそ準備が必要だ。戦局を有利に進める為の下準備が。

 

「ま、待て。その前に用意したものがある」

「用意したもの、ですか?」

 

 ベッドから降りた風太郎は近くに置いてあった自身のリュックサックを漁り、そこから紙袋を取り出して頭頂部の毛束を垂らしながら首を傾げる五月へと見せつけた。

 

「せめて、これを使わせてくれ」

「これは……」

 

 紙袋の中に入っていたのはビニールで包装された小さな小箱だった。

 所謂、ゴムゴムの近藤さんである。五つ入りで風太郎の昼食一週間分相当の費用を要した。

 こんなものを事前に用意していた自分に自己嫌悪したが、決して間違った選択ではない筈だ。

 林間学校前日、姉妹に連れられた買い物で彼女達の異様な雰囲気を感じ取った風太郎は密かにこれを購入していた。勿論、そういう関係を期待して用意した訳じゃない。色々と手遅れになるのを防ぐ為の防衛手段としてだ。これは鞘だ。剣を守る為に必要となる鞘。そして同時に破滅の未来を回避する為の希望だ。

 結局、今日まで使う隙すら与えてもらえなかったが使えるのならそれに越したことはない。

 

 そもそも今までが狂っていたんだ。

 

 彼女達が自分に肉体関係を求める事に関しては、もう今更どうこう言うつもりはない。豚に真珠、馬の耳に念仏、とは正にこれを指すのだろう。あの姉妹に何を言っても止まらないのは分かっている。それに彼女達の性欲求は何故か成績にも直結しているのだ。拒んで折角上げた点数を落とされても困る。

 だが、関係を持つならせめてそれ相応の準備をした上で事を為すべきだと風太郎は思う。

 中年サラリーマンが居酒屋に来て気軽に注文するような感覚で毎回毎回『とりあえず生で』では間違いなく取り返しの付かない事になる。

 既に手遅れの可能性もあるが、それはなるべく考えないようにしていた。一度それを考えてしまって震えて眠れなくなった夜があったからだ。責任の取れる立場でもないただの学生で、しかも家の借金もまだ残っている。なのに母親の違う五人の娘息子達からパパと呼ばれるなど、真っ平御免だ。そんな波乱万丈の人生設計図を描くつもりはない。

 

 とにかく、関係を持つならこの程度の備えは必要だ。給料が上がったとはいえ、彼女達の要求頻度を考えれば痛い出費だ。それに加えてせっかく中野父が自分の実績を認めてくれて給料を上げてくれたのに、その賃金で娘と交わる為の近藤さんを買うのは正直かなり気が引ける。金銭的に懐が、心情的に胸が痛い。

 しかし、もはや綺麗事は言ってられない。やらない善よりやる偽善。付けない生より付けるゴムだ。

 

「なんですか。それ」

「なにって見ての通りだが」

 

 まさか見た事がないのだろうか。いやそんな筈はないだろう。今時、避妊具なんて保健の授業でも実物を見せられるくらいだ。いくらアホの中野姉妹とは言え、これくらいは常識として知っている筈である。

 そう思ったが、五月からの言葉は風太郎の予想を遥か斜め上をいった。

 

「違いますよ────それは何のつもりですか、と訊いたんです」

「はっ?」

 

 さっきまでの高いテンションはどこへやら。目つきを鋭くして問いただす五月に風太郎は目を丸くした。

 

「……上杉君、今一度問います。私とあなたの関係はなんですか?」

「関係? なんでそんな事を……」

「いいから答えてください」

 

 何故、今このタイミングでそんな事を問われなければならないのか。それが近藤さんとどう関係あるのかと疑問は尽きないが、この様子だと答えなければならないようだ。

 頬を膨らませている中野姉妹は決まって面倒な事が起きる前触れだ。無視して良かった試しは一度もない。

 

 しかし随分と突拍子もない問いだ。自分達の関係だなんて。

 どんな関係かと言われたら、真っ先に思い付いた家庭教師と生徒だと答えようとしたが言葉を飲み込んだ。

 会う度に保健体育の実技が強制的に行われる関係が果たしてただの家庭教師と生徒の関係なのだろうか。

 では何かと訊かれると直ぐには思いつかない。知り合い、というには物理的にも深い関係を築いてしまった。もちろん恋人同士でもない。

 だが中野姉妹とは肉体だけの関係でもないのだ。彼女達とは五年前から続く数奇な縁で結ばれているのもまた事実。それに肉体的なあれに目を瞑れば彼女達とは良好な仲と言えなくもない。友人というカテゴリが一番相応しい気がした。

 

 敢えてこの関係に名前を付けるならやはり友人同士、だろうか。それも肉体関係を持った。

 

 いや待て、それはつまりセフ───。

 

「もう、しっかりしてください。私達は夫婦ですよ。夫のあなたが直ぐに答えられなくてどうするんですか」

 

 答えあぐねる風太郎に五月は深く溜息を吐いた。 

 

「どうやら、まだあなたには自覚が足りないようですね」

「……」

 

 むっ、と頬を膨らませて睨んでくる五月に先ほどまで真面目に考えていた自分がアホらしくなった。

 そうだ。こいつはそういう奴だ。頭のネジが何本か消し飛んでしまっているんだ。一番真面目そうに見えて一番頭がお花畑なのが中野五月なのである。

 普段ならここでスルーしてもいいが、今はそれをすると後から否定しなかったと言って無理矢理彼女の夫にされる可能性もある。人生の墓場に片足を突っ込むのはまだ早い。

 

「……結婚どころか付き合ってもないのに何言ってんだ」

「果たして本当にそうでしょうか」

「……なに?」

「休日にあなたの家で共に勉強をして、その後に私の初めてを捧げて愛を育み、義妹のらいはちゃんやお義父からも信頼を寄せられ、この林間学校では日が昇るまで一晩中愛し合い、そして先ほどもあなたからキスをしてくれました。これはもはや恋人、いえ夫婦では?」

「……」

 

 事実を淡々と並べられて風太郎は閉口した。経緯はともかくとして結果は彼女の言う通りなのだ。否定は出来ない。

 向こうから襲われただけならまだ言い訳ができた。それだけならやべー姉妹に薬を盛られて襲われた哀れな子羊でいられた。

 だが、自らキスをしたのは不味い。言い逃れが出来ない。もし彼女達の父にこの事がバレて問いただされた時、おたくの娘さんを見分ける為だけにキスしましたなど口が裂けても言えない。ましてや今度はそれ以上の事を自らしようとしている。

 

「上杉君、もう私達はただの友人同士や教師と生徒で済まされる関係ではないですよ」

 

 五月の言葉は確かに真理なのかもしれない。もうあと一歩踏み出せば、それこそ本当に引き返せない所にまで行ってしまう。

 五月の言いたい事はつまりこういう事なのだろうか。自らの意思で己を抱くならこの関係をはっきりさせろ、と。

 

「お前の言いたい事は分かったよ。この関係を俺の口からはっきりさせる為に……」

「何を言っているのですか。私達が夫婦なのは公然たる事実です。今更変わりませんよ。問題はそこではありません」

「……」

 

 ゴジョの奇妙な発言に何だかもう全てがどうでも良くなってきた。この場では真剣に考える自分の方が馬鹿なのだろう。

 彼女の中で自分が夫なのはもう決定事項らしい。そもそも近藤さんの話をしていたのに何でこんな会話になっているのだろうか。投げやりになりながら風太郎は黙って自称妻の意見を聞くことにした。

 

「上杉君、今から私達は何をするのか分かっているのですか?」

「何って、あれだろ……」

「あれ、とは?」

「……言わせるなよ」

「いいから答えてください」

「……セッ」

「……」

 

 言葉の途中でもの凄い目で睨まれたので言えなかった。どうやら直接的な表現ではなく、別の言葉で言って欲しいらしい。何となく五月の扱いが分かってきた。

 しかし、そうなると彼女が何度も口にしているあの表現だろうか。

 口にするのは憚れるが、言わないと話しが進まない。風太郎は渋々言葉を言い直した。

 

「…………ふ、夫婦の営み、だろ」

「はい、そうです」

 

 どうやら満点の答えだったようだ。五月は満面の笑みで頷いた。

 

「私達は今から夫婦の営みをします。しかも今回は上杉君がリードしてくれる約束でしたよね」

「……た、確かに言ったが」

「それなのになんですか、それは」

「なにって、いるだろ常識的に考えて」

 

 それ、と彼女が鋭い視線を向けるのは風太郎が手にした近藤さんだった。

 まるで汚物を見るかのような五月の眼に風太郎は思わず気圧された。意味が分からない。

 

「あなたは妻にそんな無機物と交われと、そう言っているのですかっ!?」

「な、なにを言ってるんだ……とりあえず落ち着け」

 

 上等な料理に蜂蜜をブチ撒けるがごとき愚行とてでも言わんばかりに感情を爆発させる五月。

 風太郎は頬を引き攣らせながら何とか彼女を宥めようとしたが、聞く耳を持たない。

 興奮したまま五月はさらに風太郎にまくし立てる。

 

「上杉君。あなたは姉たち三人の時にそんな無粋な物を使いましたか?」

「いや、使ってないが……」

 

 使う暇もなかったので使えなかったが正しいがそんな事は五月には知った事ではないのだろう。

 

(そういう事か……)

 

 五月が腹を立てている理由に見当が付いた。とどのつまり他の姉妹と同じ条件を望んでいるのだろう。

 中野姉妹は特定の誰かが贔屓される事を極端に嫌う。今回の五月の怒りもそこから来ているに違いない。

 

「なら、どうして私の時だけ使おうとするんですか。どうして私だけ……三玖や一花や二乃には使わなかったのに……私の想いもみんなに負けてないのに……どうして」

「わ、分かった! 使わない! お前とも使わずにするから!」

「……本当ですか?」

「あ、ああ……今回は使わねえよ」

 

 取り乱す五月を鎮める為にこちらから折れることにした。説得が通じる相手でないのは何度も身をもって思い知らされている。下手に相手を刺激するよりは受け入れてしまった方が利口だ。

 しかしこの流れだと最後の四葉にも近藤さんは使えそうにない。他の姉妹にも使ったからと嘘を吐いて使うことも出来なくは無さそうだが後が怖いのでそんな愚かな真似はしない。

 この林間学校では彼の出る幕が無さそうだ。風太郎は深く溜息を吐いて昼食一週間分を費やした無用の小箱を鞄に放り込んだ。

 

 ────と同時に袖を強い力で引っ張られてそのまま仰向けに押し倒された。

 

「えっ……」

 

 唖然とした表情を顔に貼り付けた風太郎の瞳に呼吸を荒くし恍惚した五月が映った。

 

「な、なんのつもりだ、これは……俺がリードすると言った筈だが?」

「私もそのつもりでした」

「じゃあどいてくれ……」

「上杉君。さっき言いましたよね? "今回は"使わないと」

「い、言ったが、それが何だ?」

「それはつまり、次もあるって事ですよね?」

「……ッ!!?」

 

 違う。言葉の綾だ。そんなつもりで言ったんじゃあない。

 即座にそう反論しようとした風太郎だったが、次の瞬間には唇を五月に塞がれていた。

 長く永く、永遠にも思えた口付けをして、五月は微笑んだ。

 

「ふふ、嬉しいです。あなたは"次"も約束をしてくれました。これはもう相思相愛では?」

「ち、ちが……」

「だから、あなたからリードしてもらうのは次に取って置きます。好きなものは最後に取っておいた方が美味しく味わえますから……それにもう私の方が我慢できません」

「や、やめろォ!」

 

 逃げ出そうとした。けど無理だ。

 彼女にマウントを取られた状態で非力な風太郎が抜け出す事など不可能である。じゅるりと五月は舌なめずりをした。

 

 蛇に絡めとられた蛙の運命など決まっている。

 

 

「──では、感謝を込めて。いただきます」

 

 

 ◇

 

 どうして俺はここにいるのだろう。

 白銀の世界でポツリと佇みながら風太郎は白い吐息を吐いた。

 

 初めての攻め戦と思いきや結局いつもの防衛戦へと移行した五月との戦いを終え、気付くと時計の針は十二時を回っていた。どうやら気絶していたようで目覚めた時には傍に五月の姿はなく、代わりに枕元に置手紙とドリンク剤が置かれていた。

 

『スキー場で待っています』

 

 短い言葉で綴られた文章は筆跡から四葉のものだと直ぐに分かった。一緒に置かれていたのは例の精力剤だ。疲れているからまた今度、とはいかないらしい。

 疲労時の差し入れなんて普通なら気が利いた贈り物だと喜ぶ所だが相手とその目的が分かっている為に素直に感謝できない。

 ゲームで例えるならラスボス戦前に設置されたセーブポイント、と云ったところだろうか。全力を持ってかかってこいと言われるようなものだ。

 今更逃げる選択肢のない風太郎はドリンクを一気飲みし、重たい足を引き摺ってスキー場へと向かったが……。

 

「……いねえじゃねえか」

 

 辺りを見回しても彼女らしき人物は見当たらない。当然だ。目印になる場所を指定もせずにただスキー場に来いとだけの手紙じゃ見つかる筈もない。

 声が大きく騒がしい彼女ならこの広いゲレンデでも直ぐに分かると思っていたが少々考えが甘かったようだ。

 

「にしても四葉の奴、なんでこんな場所に呼び出したんだ」

 

 彼女の目的は既に分かっている。他の姉妹同様に激しいスポーツを望んでいる筈なのだが、あれは少なくとも屋内競技だ。間違ってもこんな野外のしかも雪が降り積もった場所で行うウィンタースポーツではない。

 目的を果たすだけならこんな場所に呼び出さずに部屋で事を済ませば良かった筈だ。いまいち彼女の意図が読めない。

 

(まだ何かあるのか……?)

 

 常に予想の斜め上を超えてくるのがあの中野姉妹だ。スキー場に呼び出したのも何か裏がある筈。それも間違いなくろくでもない事だ。

 

「あっ、上杉さんっ!」

 

 聞き覚えのある大きな声が背中から聞こえた。振り向くと洗練された身のこなしで雪原の上スキーで滑ってきた四葉が見えた。

 

「ようやく来てくれたんですね。もうっ、随分と待ったんですよ? あまりにも遅いんで滑ってました」

「あ、ああ……悪いな」

 

 いつものウサギを模したリボン頭ではなく、猫の耳のような特徴的な帽子を被った四葉は風太郎の傍まで来て嬉しそうにはしゃいでいた。

 この様子を見ると彼女は恐らく本物の四葉だろう。あの方法を使わなくても、何となくだがそう感じた。

 

 しかし彼女が本物の四葉だという事に風太郎は違和感を覚えた。

 

「四葉、一ついいか?」

「なんですか?」

「何故、変装をしていないんだ」

 

 そうだ。彼女が変装をしないまま本来の姿でいるのが妙だ。これは五つ子ゲームだ。

 いくら残り一人で答えが決まっているとはいえ、言い当てるまでクリアではない。

 それとも残り二人で五月を当てた時点でクリアだったとでもいうのだろうか。

 いや、有り得ない。彼女達は五つ子ゲームと称して自分と交わうのが本来の目的の筈。

 

 疑問と疑心が頭蓋を駆け回っていた風太郎に四葉は首を傾げた。

 

「えっ? だって残り一人は私だけですし変装する必要はないですよね?」

「い、いや、確かにそうだが……それだと五つ子ゲームは」

「おめでとうございます! 上杉さんは無事ゲームクリアです!」

「な、に……?」

 

 歯を見せしししと笑いながら四葉は風太郎を称えるように拍手を送った。

 当然、風太郎自身はそれを素直に受け入れられない。更に混乱して思考が追いつかない。

 

 何だこれは。ゲームクリアだと。馬鹿な、ありえない。こんな簡単に狂気が終わりを迎える筈がない。

 

「うーん。上杉さんはあまり納得がいかないみたいですね」

「あ、当たり前だ。何を企んでいる。正直に吐け!」

「あっ、そうだ! ではこれでどうでしょうか」

 

 警戒心を抱いたまま後退る風太郎に四葉は何かを思い付いた様子でぽんと手を叩いた。

 何をするのかと彼女の一挙手一投足見逃さないようにしていた。

 

 だが、視線で捉えていた筈の四葉の体が一瞬、ぶれた。

 

「えっ──」

 

 轟ッ!!という音が風太郎の鼓膜を叩いた。

 それが雪の大地を踏み締めた四葉が生み出した音だと気付いた時には、風太郎の眼前に四葉の顔が迫っていた。

 何が起きたのか、理解するのに数瞬の時を要した。

 神の宿ったとしか思えない彼女の脅威の肉体を以って神速を生み出し風太郎へと瞬時に接近したのだ。常人では決して捉えられない神の速さ。

 

 それらを全て理解し終えたと同時に風太郎は雪原に押し倒されながら唇を押し付けられていた。

 

「……ぷはっ、これで私が誰だか判るんですよね?」

「よ、四葉、だろ」

「はい、正解です!」

 

 正直、今までのようにキスの感触や舌の絡み方で判断する余裕などなかった。だが断言できる。

 今もなお、押し倒したまま胸元で抱きついて離れようとしない彼女は間違いなく本物の四葉だ。こんな膂力を有している姉妹が何人もいてたまるか。

 ドリンクを服用しても体力は増えるが身体能力が上がる訳ではない。紛い物では決してできない芸当を彼女はしてみせた。

 

「これでゲームクリアです。納得できました?」

「……ほ、本当か?」

「はいっ! 本当に本当です」

「そ、そうか……俺は、クリアしたのか」

「納得できましたか?」

「一応は、な……」

「それならよかったです!」

 

 未だに信じ難いがどうやらこれで解放されたらしい。

 願っていた結末であったが、あまりにも唐突過ぎて実感が湧かない。

 あのどうあがいても絶望だった一昨日のような夜は本当に訪れないにだろうか。

 

「さて、無事にゲームも終わりましたし本来の目的を果たしましょうか、上杉さん」

「え」

 

 やはりそうだ。まだ終わってなどいない。四葉の不穏な言葉に風太郎は恐怖し、足が震えた。

 安心などできない。安堵などほど遠い。この林間学校はまだ何かある。

 だが諦めるな。あと半日だ。あと半日乗り越えれば本当に終わりなんだ。耐えろ。耐えるんだ。

 なんとか歯を食いしばり立ち上がろうする風太郎だったが、そんな彼に四葉は微笑みながら手を指し伸ばした。

 

「忘れちゃったんですか? 楽しい林間学校の思い出話をらいはちゃんに持って帰るのが上杉さんの目的ですよ!」

 

 今度こそ、風太郎は拍子抜けして雪原に尻餅を着いた。

 

 ◇

 

「どうですか? そろそろ慣れてきました?」

「あ、ああ。なんとかな」

「上杉さんも随分と滑れるようになってきましたね」

「お陰様でな」

「しししっ、練習の成果ですよ。何事も練習が一番です」

「それを少しは勉強にも活かしてくれたら俺も助かるんだがな」

「それは言わないお約束です」

 

 ぎこちない動きで四葉に手を引かれながら雪原を滑る。

 妹への思い出話の為に。そう言って彼女はスキーを堪能しようと提案してきた。

 体力がなくスキーなど滑った事のない風太郎はあまり乗り気ではなかったが、こうして手を引かれて滑っていく内に段々と表情に笑みを浮かべるようになっていた。

 

(スキーってのも存外、悪くねえな)

 

 雪風を頬に受けながら思う。ああ、これだ。こういうものだ。泊行事というものは。

 間違っても性の耐久レースで身を削るイベントではない。今この瞬間だけは風太郎は林間学校という行事を心の底から楽しんでいた。

 思い返してみれば今までは酷すぎた。どれだけフー君を酷使したのだろう。今日の午後くらいはゆっくりと休ませてもいい筈だ。

 

「上杉さん、ちょっと休憩しませんか? 私は大丈夫ですが、ずっと滑ってばかりでしたし」

「そうだな。少し休むか」

 

 携帯を確認すると三時を過ぎていた。随分と夢中になって滑っていたようだ。

 あと数時間もすれば夕食の時間だ。それが終わればキャンプファイヤーでこの林間学校は幕を閉じる。

 殆どがろくでもない記憶ばかりだが、最終日にはこうして一応は泊行事らしい事も出来たし土産話には十分だろう。

 

(にしても、こうしていると思い出すな)

 

 四葉に手を引かれて雪原をザクザクと踏みしめて進みながら休憩所を目指している間、ふと五年前の思い出が蘇った。

 あの時もこうして"彼女"に手を引かれて一人ぼっちだった自分を連れ出してくれた。

 

(思い出すのは当たり前か。あの子はこいつらだったんだから)

 

 中身はどうであれ、あの時に救われたのは確かだ。

 そして彼女の正体が中野姉妹全員だと知り、彼女達を真人間に戻す事で恩を返そうと思った。

 

 けど、今はどうなのだろう。

 

 狂気の五つ子ゲームであったが、得られたものは何も恐怖だけではなかった。

 彼女達について改めて考えさせられる事になったのは確かだ。

 五月との会話は少々あれだったが、彼女の言う通りこの関係性ははっきりとさせなければならない。それは今すぐには難しいが、いつかは必ず。

 

(だが、本当はもう気付いているのかもしれない)

 

 自分が彼女達を拒まない理由も。

 彼女達の涙を見たくない理由も。

 

 この五つ子ゲームで思い知らされたそれらの感情は───。

 

「あっ、上杉さん。あそこ、見てください!」

 

 四葉の声に顔を上げた。いつの間にか休憩所前まで到着していたようだ。随分と考えふけっていたらしい。

 四葉の指さす方に視線をやると休憩所の壁際にスキー板やスノボーが立て掛けられていた。

 その中で一際目立つものが存在感を示していた。

 

「何だこれ……かまくらか? なんでこんな場所に」

「誰かが作ったみたいですね。せっかくですしここで休憩しましょう!」

「あ、おい! 引っ張るな!」

「さあ、レッツゴー!」

 

 そう言って四葉は風太郎の制止を振り切りかまくらの中へと突入した。

 手を引かれた状態の風太郎も合わせて一緒に入る事になる。

 中は人が二人どうにか入れる程度のスペースで少し薄暗い。並んで座ると体同士がどうやっても密着してしまうが、今更それを気にする仲でもない。

 特に四葉はあの無理矢理襲われた夜に全身を舐め回された。風太郎の体で彼女が触れていない箇所などないだろう。服の上から触れるなど風太郎からすれば逆に珍しいくらいだ。

 

「意外と暖かいもんだな」

「はいっ。これくらいなら大丈夫そうですね」

「……? 何の話だ」

「上杉さん」

 

 隣同士で座っていた四葉がずいっと更に身を寄せてこちらの瞳を覗き込んできた。

 

「なんだ?」

「らいはちゃんへのお土産もこれでバッチリですね!」

「ああ。そうだな。スキーはけっこう楽しめた。お前のお陰でな」

「それは良かったです」

 

 ししし、と笑う四葉に風太郎も釣られて笑った。

 

「上杉さん」

 

 再び彼女は己の名前を口にした。気のせいだろうか、先程よりも熱の籠った言葉だ。

 

「今度はなんだ」

「まだ油断してはいけませんよ。林間学校は終わってません」

「キャンプファイヤーだろ。分かってるよ」

 

 そう言えばキャンプファイヤーでダンスがあるのを思い出した。

 いつもの流れからすれば、彼女達の誰かと踊るのが容易に想像できる。

 特定の誰かだけでは満足しないのは目に見えている。ダンスも五人でルーティーンを組むのだろうか。

 

「上杉さんはキャンプファイヤーの伝説はご存知ですか?」

「伝説……ああ、一花と三玖が言っていた奴か。生涯を結ばれるとかなんとかっていう」

「はい、それです」

 

 図書館で二人がそんな話をしていた事を今の今まで忘れていた。正直、それどころではなかった。あのキャンプファイヤーの伝説なんかより五つ子ゲームで全員と朝まで盛った姉妹と自分の方がよっぽど伝説的な存在だろう。

 まあ、あの狂気が誰かの眼や耳に入らない限り伝説にはならないだろうが。

 

「お前もあの伝説とやらを信じてるクチか?」

「素敵じゃないですか。それにあの伝説は本当ですし」

「一花と三玖も同じように信じていたな。とんだロマンチストだ」

 

 何を根拠にそんな荒唐無稽は話を信じているのだろう。四葉や一花はともかく、その手の話には懐疑的なイメージのある三玖も信じていたのが意外だった。

 何度生まれ変わっても繋がり続けるだとか言っていたが胡散臭いにも程がある。

 

(こいつらが俺に異常な執着を見せるのは、あいつらが俺と前世で繋がっていたから、とでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい)

 

 くだらない妄想をした自分自身を鼻で笑おうとしたが、少し思考を巡らせた。

 

 そう言えばあの時、三玖は身をもって体験したと言っていたがどういう事だろうか。

 

 今まであまり深く考えようとはしていなかったが、彼女達の言動も確かに妙な点がある。

 初対面だと思った彼女達が自分の事を知ったような風で接していたのは五年前に京都で出会っていたからだ。そう思っていた。

 

(俺、あの時に食い物の好物の話とかしたか?)

 

 初めて中野姉妹の家に訪れた時、二乃は確か自身の好物や苦手な食べ物をピタリと言い当てていた。そんな話は京都の彼女にも話した記憶はない。

 

(いや、らいはから聞いた可能性だってあるだろ。あの時点で何故からいはとは仲が良かったんだし……)

 

 そうやって無理矢理自分を納得させようしたが、次から次へと疑問は湧き出てくる。

 

 そもそも、あの京都の子は何故、初対面の自分にあそこまで積極的に絡んできたんだ。

 

 段々と考えていく内に寒気がしてきた。思わず首を振って風太郎は思考を揉み消した。

 くだらない。こんな馬鹿げた話、正気じゃない。

 

「上杉さん」

「っ!?」

 

 また名前を呼ばれ、体がびくりと震えた。

 

「な、なんだ」

「上杉さんはあまりこういう伝説は信じない人だとは分かっているんですが、今夜のキャンプファイヤー、ご一緒してもいいですか」

「……なんだ。そんな事か。別に構わねえよそれくらい」

「本当ですか! ありがとうございます!」

 

 風太郎は即座に頷いて返事をした。

 たかがダンス程度だ。それくらいなら別に付き合っても構わない。

 むしろこうして断りを入れてくる方が驚きだ。彼女達の事だから有無を言わさずに迫ってくると思っていたが。

 やはり四葉は姉妹達の中ではまだ会話になる方だと風太郎は改めて思った。

 

「───じゃあ、本番に向けて練習が必要ですね」

 

 言葉と同時に風太郎は狭いかまくらの中で押し倒された。

 

「……っ!!?」

 

 言葉を失う風太郎に四葉は微笑みを浮かべたまま彼の頬を両手で包み込んだ。

 まるで赤子を抱きかかえる母のように。その手は慈愛に満ち溢れていた。

 

「約束しましたよね、ちゃんと私の相手もしてくれるって」

「しょ、正気か!? こんな野外でなんて」

「だからこそです。言ったじゃないですか。これは本番に向けた練習ですよ」

「ほ、本番……? 何を言って」

「キャンプファイヤーのフィナーレの瞬間、触れ合っていた男女は結ばれるんです」

「それがどうした!? それとこれが何の関係が……っ!」

 

 四葉の言葉でようやく気付いた。気付いてしまった。彼女達の真の目的が。

 五つ子ゲームで全員に襲われたのは、あれが本命ではなかった。

 あれも本命に向けた練習の一環だったのだ。恐らく後の個別での五つ子ゲームは彼女達にとっては想定外だったのだろう。

 そしてつい先程、四葉が口にした『これも本番』の意味。

 あの五つ子ゲームにおける集団戦闘。そして今回の野外での戦闘。

 

 それらは本命の、キャンプファイヤーで全員と野外で事を交わるのを想定した訓練だった。

 

「さあ、上杉さん。本番に向けていっぱい頑張りましょうね?」

 

 彼女を止める術など持ち合わせてはいなかった。あの性欲モンスターである五月を相手に歯が立たなかったのだ。今回の相手は四葉だ。

 

 モンスターではない。神だ。

 

 雪原にフー君の白い涙が散った。

 



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五つ子強くて?ニューゲーム 結び(物理)の伝説(終)

伝説の上杉君の伝説。


 その学校の林間学校には昔からある伝説があった。

 最終日のキャンプファイヤーで行われるダンス、そのフィナーレで踊っていた男女は『生涯を添い遂げる縁で結ばれる』というものだ。

 伝説だなんて大袈裟な言い回しだが、どこの学校にも似たような噂話が一つや二つはあるだろう。

 これもそんな与太話の一つだ。本気で信じている人間はそう多くはない。

 結局のところは青春を謳歌する為のアクセントに過ぎないのだから。

 

 そんな『結びの伝説』であったが、今となっては異なる内容で語り継がれるようになった。

 人から人へと伝達するのだから話が尾ひれはひれをついて変貌するのはそう珍しくない。これもそうだ。

 

 ダンスのフィナーレで男女共に触れ合っていたのなら踊る必要はない。

 それが男女であるのなら二人以上でも構わない。むしろ多い方が良い。

 より深く触れ合っていたのなら、男女の魂は繋がれ何度生まれ変わっても未来永劫共に在り続ける。

 

 と言った具合に随分と話のスケールが大きくなった。生涯どころか輪廻に囚われ永劫の時を共に歩むなんてロマンチックな話もここまでくればもはやホラーだ。誰もやりたがらないだろう。

 何故ここまで元の話よりも飛躍した解釈で伝わるようになったのか。

 それには起源となった、とある人物がいた。

 伝説を刻む人間は時に英雄視される事がある。彼もまた英雄だったのだろう。

 己が身に生やした剣一本を頼りに彼は最後まで戦いヌいた。

 

 曰く、彼は頭がよくて頼りになって背が高くてかっこいい。

 曰く、彼は五人もの女子生徒を毎日引き連れて卒業まで過ごした。

 曰く、彼を囲うその五人の女子は世にも珍しい五つ子姉妹で見分けが付かないほど似ていた。

 曰く、彼だけは唯一彼女達を瞬時に見分けることができた。愛の成せる特技だった。

 曰く、彼は彼女達姉妹を愛し、姉妹達もまた彼を深く愛していた。

 曰く、彼と姉妹は深い繋がりを経て真の"結び"を体現した。

 曰く、それが原因で六人とも退学になりかけた。

 

 

 曰く、曰く、曰く……。

 どれが真でどれが嘘なのか。それは当時の人々しか知らない。

 どれも真実かもしれないし、或いは全てが偽りかもしれない。

 だがその真偽は別として『結びの伝説』は、今では彼を指し示す名詞として語り継がれるようになった。

 

 

 ◇

 

 

 『結びの伝説』などという下らない非ィ科学的な与太話を信じるつもりはない。ダンスを踊っていただけで生涯結ばれるなどアホらしい。

 普段の風太郎ならそう鼻で笑っていただろう────それが他人事であったのなら。

 残念ながら、この馬鹿げた伝説とやらを本気で実行に移そうと企む超弩級の馬鹿が五人も身近にいるせいで全く笑えなかった。

 

 ただ単に一緒にダンスを踊るだけだったら何も問題はなかった。この林間学校に参加できたのも彼女達のおかげではあるのだし、それくらいは付き合っても構わないとは思っている。

 だが、あの姉妹達が独自解釈をした『伝説』に付き合うとなると話は別だ。手を繋ぐだけで済む筈がない。

 きっとあらゆる部分を連結合体するハメになる。もちろん五人全員と。これまでの経験から彼女達が成し遂げようとしている未来図が風太郎には容易に想像できた。

 全く冗談でない。彼女達は林間学校を一体何だと思っているのだろうか。学校の泊行事は決して保健体育の実技演習ではないのだ。

 しかし彼女達が"結び"を物理的に結ばれる事だと解釈するほど脳内がピンクで染まっているとは思わなかった。思いたくなかった。

 確かにキャンプファイヤーのフィナーレで物理的に結ばれている男女がいたら間違いなく伝説にはなるのだろうが、そんな不名誉な伝説で語り継がれるなど末代までの恥だ。

 

 ……まあ、流石に中野姉妹もそこまで馬鹿でも恥知らずでもない筈だ。繋ぐにしても人目の付かない場所に連れ込んで行うと考えるのが妥当だろう。

 

 とにかく、彼女達の伝説実行を何としても回避しなければ。

 この林間学校、五人全員でのリンカン学校から始まり各個人にそれぞれ肉体を求められ、風太郎のフー君はとうに限界を迎えていた。もう彼の体はボロボロだ。これ以上彼女達の相手をするのは不可能だ。

 特に最後の一戦。四葉との雪原での戦いが一番身を削った。

 

 神の肉体を持つ四葉相手に持久戦は不利。だから短期決戦に持ち込もうとした。

 彼女達姉妹が共通する弱点を利用し、一花や二乃の時のように戦況を有利に運ぼうとした────それが間違いだった。

 自身に覆い被さり興奮した四葉の隙を見て半ば強引に口付けをした。これで彼女の暴走が止まると信じて。

 迂闊だった。愚かだった。神を試してはいけなかった。

 四葉の反応は一花の涙とも二乃の驚愕とも違った。

 

 そこにあったのは恍惚を帯びた歓喜だった。

 

 箍が外れた、と表現するのが正しいのだろう。今まで溜め込でいた何かを吐き出すかのように、積年の想いを全てぶつけるかのように。

 四葉は想いと欲望を溢れるがままにぶちまけてきた。

 

『上杉さんっ、上杉さんっ上杉さんっ……』

 

『…………風太郎君っ!』

 

 何度も何度も己の名前を呼んで。

 あの時、何故彼女は一度だけ苗字ではなく名前で呼んだのだろうか。それが妙に印象深かった。

 あの瞬間、四葉がかつての彼女の姿と重なって見えたのは気のせいだろうか。

 

 そこからは先は殆ど記憶がない。気付けば元の自室のベッドで寝かされていて、時計を見れば自由行動の時間は終わっていた。

 まるで泡沫の夢のようだ。五月とのナニや四葉とのアレは全部が夢で本当は一日中ここでずっと寝て過ごしていたのではないだろうか。そう思ってしまう程に。

 

「……そんな都合のいい事がある筈ないか」

 

 夢だと思ってしまいたいのは山々だが、残念な事にあの出来事は全て現実のようだ。顔を洗おうと洗面台の前に立つと鏡にその証拠が写っていた。

 例の五つ子ゲームで判明した事だが、あの姉妹は事を成した後に痕を残すらしい。首筋の左側に今日付けられたと思わしき二つの真新しい痕が残っていた。因みに右側には初日で付けられた痕が五つ綺麗に並んでいる。まるで首輪だ。

 わざわざ人目に付く首筋に付けるのは彼女達なりのマーキングとでもいったところか。昨日、飯盒炊飯の時に同級生達が自分を見て何かコソコソと話していたのを目撃して気付いた。

 

 前までの風太郎なら首筋に痕を付けようが、誰も気には止めなかっただろうが今は状況が随分と違う。

 全くもって不名誉な事だが風太郎に対して『あの五つ子転校生を全員侍らかせているやべー奴』なんて噂が蔓延しているのが現状だ。

 そんな自分が首筋に五つもキスの痕を残した状態で林間学校に途中から五つ子と一緒に参加したとなれば他者からどう思われるかなど猿でも判る。

 

『上杉風太郎は五つ子でリンカン学校した後に何食わぬ顔で姉妹と林間学校に途中参加するやべー奴』

 

 そう思われても仕方がないだろう。これが事実無根なら良かったのだが全て事実なのだから救いがない。

 もとより学校で孤立していたと自覚していたが、この噂のせいで自分は今後五つ子以外から完全に距離を置かれる存在になるだろう。

 少なくともこの高校生活の間で自分に話しかけてくる生徒が現れる事などないに違いない。もし声をかけてくるような物好きな奴がいたらそいつと友人になってもいいのかもれない。まあないだろうが。

 

「あまり時間はないな」

 

 林間学校の締めとなるキャンプファイヤーは刻一刻と迫っていた。審判の時は近い。彼女達の企みを何とかしなければ。

 ……とは言っても取れる手段は多くない。キャンプファイヤーに参加するか否か。その二つだ。

 そして参加しないという選択肢は絶対に選んではいけない。一見、安牌にも思えるがそれは違う。罠だ。これは大よそ考えうる中でも最悪の結末だ。

 行事に参加しない場合、どうしても理由は必要になる。仮病を使うのが一番無難だろう。

 仮に体調不良を教師に訴えて何処か個室で寝かせてもらうようにしたとしよう。

 そうすれば間違いなくあの姉妹は部屋に侵入してくる。鍵を掛けようが関係ない。そんなものは姉妹にとって障害に成り得ない。

 ベッドの用意された部屋で待機するなど彼女達からすれば鴨が葱を背負ってくるようなもの。待ち受ける未来は五人による蹂躙。そうなれば風太郎の体は持たない。

 

 となると残された方法は最初から一つしかない。

 

「キャンプファイヤーに参加する。そこでケリを付けてやる」

 

 逃走は不可。ならば正面から迎え撃つのは必然と言えよう。もはや戦うことでしか生き残れない。

 思えばあっという間の日々だった。彼女達と出会ったあの日。否、彼女達と再会した忘れもしないあの日から。

 

 何度も姉妹に襲われた。

 何度も唇を奪われた。

 何度も恐怖を感じた。

 何度も何度も何度も何度も。

 

 まるで風が吹き抜けるかのように、激動の日々は過ぎ去っていった。

 

 永遠にも思えたあの永い夜を打ち勝ち、姉妹からの試練を乗り越え、そして迎えた最終決戦。

 これが最後だ。いい加減、決着を付けよう。

 

 五年前から続いた数奇な運命に。

 全て始まりである必然の再会に。

 五つ子達が向ける漆黒の想いに。

 この胸に芽吹いた奇妙な感情に。

 

 

 ───全てに因果に決着を。

 

 

 ◇

 

「あ、フータロー君だ」

「遅かったじゃない」

「フータロー、こっちだよ」

「上杉さん、待ってました!」

「これで役者は全て揃いましたね」

 

 キャンプファイヤーの行われている広場に足を踏み入れると早速あの五つ子達に発見された。

 妙な話だ。まだこちらからの姉妹の姿は見えてもない筈なのに直ぐに勘付かてるなんて。あの姉妹は五感以外で自分を捉えれる潜水艦のソナーのような探知能力が備わっているとでも言うのだろうか。

 

「待たせたな」

 

 揺らめく炎を背に集う中野姉妹はこうして見ると圧巻だ。ゲームなど久しくやっていないがRPGで魔王と対峙した勇者になったような気分になる。五人全員が獲物を捉えたかのような狩人の眼をしていた。

 ひしひしと彼女達から強烈なプレッシャーを感じる。ここで勝負を決するのは向こうも同じのようだ。

 それほど彼女達にとって『結びの伝説』とやらは優先度の高い代物らしい。あんなオカルトを信じるつもりはないが、姉妹がこうも必死な様子を見ると本当に何かあるのではないかと勘繰ってしまう。

 

「さっ、始めようか」

「早くシましょ」

「善は急げだよ」

「一緒に踊るって約束しましたよね」

「こっちですよ」

「ま、待て!」

 

 ここまで来たのだから今更逃げ帰るつもりはないのだが、五人に包囲されると後退りしてしまう。

 そもそも、姉妹は何故キャンプファイヤーとは真逆の薄暗い林の方へと連れていこうとしたのだろうか。

 いや決まっている。明らかに人気のない場所へと連れ込む気だ。そうなれば終わる。

 彼女達の企みを阻止しようと、四方八方伸びる手に拘束されそうになりながらも何とか振りほどき体を捻って五人の包囲網から抜け出した。

 

「どうしたの? フータロー君」

「どうして私達を拒むの?」

「なんで、フータロー」

「約束、しましたよね」

「まさか、また私達の元から去るつもりですか?」

「ッ……!」

 

 五つ子から放たれる圧が更に強まった。息が詰まりそうになる。だがここで屈してはいけない。引けば老いる。臆せば死ぬのだ。もうそういう所まで来てしまった。

 ここで屈してしまってはあの五つ子ゲームの夜と同じ末路を辿る事になるのは分かっている。

 

「まだ、フィナーレまで時間がある筈だ……少し話をしよう。俺達のこれからに関する大事な話だ」

 

 下唇を噛んでなんとか踏ん張り、呼吸を整えて姉妹達を眺めた。

 

「私達のこれから? それって新婚生活についてだよね」

「なんだそんなことね。家事は任しておいて」

「違うよ二乃。フータローはそんな短期的な考えはしない。もっと長い視点で考えてる」

「長期的……つまり赤ちゃんが出来てからのこと?」

「なるほど。ようやく上杉君も父親としての自覚ができてきたんですね。安心してください。既に名前は考えています。私とあなたの名前から取ってるんですよ」

 

 

 姉妹のぶっ飛んだ解釈に冷や汗が流れた。会話が成立しない。言葉が繋がらない。

 なんだこれは。せっかく覚悟を決めたというのに早速逃げ出したくなった。

 アホで脳内ピンクの中野姉妹とはいえ、いくらなんでもここまでイカれた思考回路はしていなかった筈だ。

 伝説達成を目前として気が昂っているのだろうか。それにしたって限度がある。

 それと当然のように子ども云々の話をするのはやめて欲しい。冗談でも笑えない。全員に心当たりがあるせいでその手の話は肝が冷えるんだ。

 やはり近藤さんは必須だ。身を守る為にも絶対に。残念ながら今は携帯していないが、今後は常に持ち歩かなければならないだろう。

 

 いや、今はそんな事はどうでもいい。話さなければならない事がある。

 

「……色々とおかしな勘違いをしているようだが違う。五月にも言われたが、俺達の関係性についてだ。いい加減、白黒つけよう」

 

 そう告げると五つ子達は先ほどの騒ぎ立てていた様子とは打って変わり、黙り込んで風太郎の瞳に視線を集中させた。

 

「一花、まずはお前に訊くが俺達の関係はなんだ?」

「そんなの決まっているよ。私達は」

妄想(みらい)の話じゃない。今の関係だ」

「……家庭教師と生徒、あと"今は"友達同士、かな」

「概ね俺も同じ意見だ」

「あっ、でも男女の関係を持った友達だから正確にはセフ──」

「言うな。もう少しマイルドな言い方があるだろ」

「じゃあオブラートに包んで愛人さんって事でいいよね。えへへ」

「…………」

 

 一花に訪ねた通り、己と姉妹との現在の関係性は彼女の答えが正しい。

 あくまでも自分は家庭教師で彼女達は生徒という立場だ。同い年だろうが、友人同士であろうが、その事実は変わらない。

 

「次に二乃、今度はお前に尋ねるが家庭教師と生徒はどういった関係を指す?」

「はあ? 決まっているじゃない。フー君が勉強を教える側で私達は教わる側よ」

「ああ、その通り──」

「そして私達はそのお返しにフー君に奉仕してあげるの。昨日の夜みたいに朝が来るまで情熱的に」

「もういい、二乃」

「昨日は凄かったわ、フー君。耳元で何度も私の名前を呼んでくれて」

「分かったから、よせ」

「最初は私の方から無理矢理求めたのにフー君はずっと優しいんだからズルいわ」

「やめろ」

「でも途中からフー君の方からも激しく」

「二乃ォ!!」

 

 そうだ。家庭教師と生徒という関係は本来ならば教える側と学ぶ側に過ぎない。

 間違っても教師に生徒が保健体育の実技を叩きこむようなものではない。

 

「……俺たちは本来なら教える側と教わる側に過ぎない関係だ。それなのに俺たちが実際に行っている事は───」

「ねえ、フータロー」

「三玖、大事な話なんだ。質問は後に」

「どうして私だけ除け者にするの?」

「除け者? どういう意味だ」

「昨日の夜は一花、その次は二乃、今日は五月と四葉……私は?」

「いや、お前は最初に見分けれただろ。それにあの時、当てた後にお前から襲って……」

「私は?」

「……」

「ねえ、私は?」

「…………り、林間学校が終わってからな」

「うんっ」

 

 このように今では勉強を教えるのがメインではなくサブになっている。完全にヤるかヤられるかの関係だ。

 果たしてそれが生徒と家庭教師だと言えるのか。断じて否だ。

 ならばこの曖昧な関係をこの際、はっきりとさせるべきだ。

 

「……少なくとも俺は今のお前達との関係が正しい在り方だとは思わない」

「上杉さんは籍を入れて正式な関係にしたいって事ですか?」

「話を飛躍させるな四葉」

「これでようやくらいはちゃんが私の義妹になってくれるんですね!」

「四葉、最後まで話を聞け」

「できれば一緒に住みたいのですが、流石に大所帯ですから難しいかもしれませんね。私達五人と上杉さんで六人、その間に最低でも子どもが二人はいるとなると……」

「やめてくれ、四葉。子ども云々の話は俺に効く」

「でも逆に考えればこれだけ家族が多いと今更一人や二人増えても変わらないですよね!」

「やめてくれ」

「それに、実はもう上杉さんのお義父さんとらいはちゃんには将来の事を話して大体の事は了承を得てるので問題はないですし」

「───え?」

 

 今、とんでもない詰みを言い渡された気がしたが流石に何かの聞き間違いだろう。

 ───気を取り直して話を戻そう。

 この関係は間違っていると思う。というより歪んでいる、の方が正しい表現なのかもしれない。

 その歪みを断ち切り、新たに再構築しなければならない。

 

「と、とにかくだ。俺たちの関係を今、ここで一度見直さなければならないと思う」

「確かに永い付き合いになる事ですし、将来を見据えるのは大事ですね」

「……少なくとも、今の関係性が異常な事くらいお前達も自覚はあるんだろ?」

「夫婦の関係が異常だなんておかしな事をいいますね」

「俺は真面目な話をしているんだ五月」

「失礼ですね、私は至って真面目ですよ」

「………」

 

 ああ。やはりダメか。このままでは埒が明かない。分かりきっていた事ではあるが、それでも少しばかりは話が通じるものだと信じたかった。

 だが、ここまでは想定内と言えば想定内だ。今の彼女達は伝説達成にしか頭にない。つまりは自身と同化する事にしか興味がないという事。

 そんな彼女達をどうすれば話し合いのテーブルに着かせる事が出来るのか。

 

 簡単だ。彼女達の視線を釘付けにすればいい。伝説なんて思考から抜け落ちるくらいのインパクトを与える。

 

「───俺はお前達の事が嫌いではない。むしろその逆だ、と思う」

 

 視界に写る姉妹達の眼が同時に見開いた。

 どうやら効果はあったようだ。シンと静まり返えり五人は己の次の言葉を待っている。

 こんな事を堂々と言葉にするのに気恥ずかしさがないのかと問われれば勿論ある。あれだけ恋愛を馬鹿にしていた自分が多少言葉を濁したが、間違いなく告白の類いを口にしたのだから。

 

 けれど、彼女達に言葉を届かせるには恥なんて物は無用の長物だ。投げ捨てて全てを吐露しなければ、真意なんてものは決して届かない。

 

「……正直、最初はお前達に感じたのは恐怖だった。なんだこのやべー連中は、ってな」

 

 忘れもしないあの食堂での出会い、いや再会は風太郎にとっては恐怖の日々の始まりであり同時に人生の転機とも言えた。

 これまで他者との関係を断ち、そしてこれからも変わらないものだと信じていた自分の閉ざされた世界はあの日にいとも簡単に全て崩れ去った。

 わけのわからない連中に困惑した。やけに距離に近い彼女達に恐怖した。

 

「しかも実際に接してみると想像以上にやべー連中だ。途中、何度も家庭教師を辞めようと思ったことか」

 

 初回のバイトで不自然に彼女達の家で寝てしまい、目覚めると傍に全裸の一花がいた。

 二回目の時も警戒していたのに関わらず、気付いたら寝てしまい今度は傍に三玖がいた。

 とうとう姉妹達の侵略の手は家にまで及び五月の襲来、そして疑惑が確信に変わり逃げようとしたが二乃がそれを許さなかった。

 だから今度は策を講じて家庭教師を辞めようとしたが、それも叶わず結局は四葉に襲われ全員と関係を持ってしまった。

 

「おまけにお前達の正体が『京都の彼女』ときたもんだ。勘弁してくれと嘆いたさ」

 

 全員と関係を結んでから知ってしまった彼女達の正体。それは風太郎にとって憧れと感謝を抱く恩人だった。

 真実を知った時は頭が真っ白になった。また再会できるとは夢にも思っていなかったし、彼女が実は五人いたとは想像もつかなかったし、成長してああなるとは予想できなかった。

 困惑した。彼女達とどう接すればいいのか、分からなかった。とりあえずは彼女達を真っ当な人間にしようと目標を定めたがそんな事は無理だと本当は悟っていたのかもしれない。

 

「だが、何故だろうな。お前達から向けられる強烈な感情に何時の間にか恐怖じゃなくて疑問を感じるようになっていた」

 

 花火の夜、二乃の流した涙を見た時。部屋で馬乗りになりながら涙を流し懺悔する四葉を見た時。風太郎は彼女達を放ってはおけなかった。

 無意識のうちに体が動いて彼女達を抱き寄せていた。きっと他の三人が涙を見せていたら同じ事をしただろうという確信がある。

 何故、こいつらは涙を流しながらこんなにも自分を求めてくるのだろうか。思えば自分は彼女達の事を何も知らないではないか。

 その疑問はいつの間にか胸の中で膨らんでいて、あの五つ子ゲームの時にようやく自覚した。

 彼女達をもっと知りたい、と。ずっとそう願っていたのだ。

 それは彼女達が『京都の彼女』だからではない。知りたいのは過去ではない。今だ。自分が知りたいのは今の彼女達なんだ。

 どうしようもなく馬鹿で問題行動ばかりを起こす五人の大馬鹿達の事をもっと。

 肉体だけの関係ではなく。ちゃんと言葉で話した上で、分かち合いたい。

 

「俺は、お前達の事をまだ何も知らない」

 

 疑問に持つという事は知りたいという事だ。相手を理解したいと想う事だ。

 

「どんな人間で何が好みで何が嫌いなのか。まだ全然知らないんだ」

 

 そして相手を理解()りたいと想う心の行く先が、この胸に芽生えた奇妙な感情の正体なのだろう。

 

「だから教えてくれ。お前達を全て知った上で、俺はお前達の想いに初めて向き合える気がする」

 

 そう言って左手を差し伸べると姉妹達はそっと、それぞれの五指を撫でるように握った。

 不思議と、この感触に風太郎はデジャブを感じた。

 何故だろう。前にも何処かで指を握られた気がする。

 

「……私達、大事な事を忘れてたみたいだね」

 

 親指を強く握りながら一花は自嘲するように笑った。

 

「そうね、恋は一方通行だけじゃダメなのよね」

 

 人差し指に手を添えながら二乃は風太郎の瞳を見つめた。

 

「あの時と同じ……今のフータローにもっと私達を知って欲しい」

 

 中指を絡めながら三玖は風太郎に微笑みを向けた。

 

「私も、もっと上杉さんの事を知りたいです」

 

 薬指を互いに結びながら四葉はししし、と歯を見せた。

 

「まさか貴方に言った言葉が返ってくるとは思いませんでした……あの時とは逆になりましたね」

 

 小指にそっと触れながら五月は懐かしむように。

 

「……その、なんだ。もう少しお前達の事を知ってから、ケジメは付けるつもりだ。全員が同じ想いをぶつけて来ているのは分かっている。だからちゃんと考えた上で答えを出そうと思う」

 

 気付けば周りの生徒達から視線が集まっている気がする。当然か。

 周りが男女二人でダンスを踊っている中、自分達は男一人女五人の六人で集まって手を握り合っているのだから。

 今更になって羞恥心が湧いてきて、顔を隠すように空いた手で前髪を弄った。

 一応は彼女達に対して想いを全部吐き出したとはいえ、誰に対してそれを抱いているのかは正直、まだ分からないのが現状だ。

 当たり前のように五人全員と関係を持ってしまったが、最終的には一人だけを選ばなければならないのだ。

 中野姉妹はまるで自分を含め六人全員いつまでも一緒かのように口にしているが、それは現実的ではない。それは彼女達も本当は分かっている筈だろう。

 自分は神でもなんでもない。ただの人だ。全てを取る事なんてできやしない。

 

「……上杉さん、答えを出すってどういう意味ですか?」

 

 ───が、神にさえも反逆の牙を突き立るのがこの中野姉妹だ。

 

 それを風太郎はまだ、理解していなかった。

 

「どういう意味って、それはお前達の誰か一人を……」

「ふふ、分かっていませんね。上杉君は」

 

 喉を鳴らして笑う五月に風太郎は怪訝そうに眉を顰めた。

 

「あんたが私達の想いに真摯に向き合ってくれるのは嬉しいわ」

「でもね、フータロー。もう誰かを選ぶとか、そういう小さい次元の話じゃないんだよ?」

 

 気付けば二乃も三玖も四葉も五月も風太郎から指から手を離して互いに手を繋ぎ、円になって囲んでいた。

 そのまま繋いだ輪で風太郎の周りをゆっくりと回りながら彼女達は微笑んだ。

 小さい時に遊んだ『かごめかごめ』の歌を何故かその時、脳裏に浮かべていた。

 この状況、籠の中の鳥は誰を指すのだろうか。

 

「フータロー君の選択肢は一つだけ。『五人全員を選ぶ』それだけだよ」

 

 正面に残った一花が風太郎に抱き着きながら耳元でそう囁いた。

 すると周りの生徒達から茶化すような黄色い声が上がった。踊っていた彼らも手と足を止め、口笛を吹く。教師達も何処か微笑ましいように自分達を見守っていた。

 まるでこのキャンプファイヤーの主役になったかのようだ。いや現にこの舞台の主役は自分達なのだろう。こうして目立つ集団が男女で抱き合っていたのなら嫌でも目に付く。

 

 長女の恋の成就を祝福する四人の微笑ましい妹達、その相手となる幸せな男。

 

 きっと彼らの目にはこう写っているのだろう。こちらの会話が聞こえていないのなら、そう勘違いされるのも無理はない。

 

 だが、実際は違うのだ。

 

 ここにいるのは籠に囚われ自由を奪われた鳥と、それを今まさに食そうとする腹を空かせた獣なのだから。

 

「お、お前達、まさか……正気か? こんな所でヤれる筈が───」

 

 想いを全て吐露すれば彼女達は止まってくれると思っていた。

 健全な形で伝説に付き合ってこの林間学校に終止符を打てると思っていた。

 

 そんな筈がない。熟成された五人の想いが止まる筈などないのだ。

 

「ヤっちゃうんだよね、これが」

 

 そのまま一花が風太郎を押し倒したと同時に周りの四人も一斉に飛び掛かった。

 彼女達の様を表すなら鳥葬、と例えるのが一番正しいのかもしれない。

 屍に群がる鳥たちのように中野姉妹は地面に転がる風太郎を啄んだ。

 

「な、なにが起きてるの?」

「あれヤバくね?」

「あ、ああ、僕の、僕の上杉君が……ッ」

「アオハルかよ」

 

 ただのアオカンだ。

 周りの生徒達がざわめきを風太郎は耳にしながらフォークダンスは打ち上げられた花火と共にフィナーレを迎えた。

 また同時に風太郎のフー君からも白い花火が打ち上げられ五人に白い火花を浴びせながらも無事に『結びの伝説』は達成された。

 

 その時、風太郎は確かに聞いた。ガチャリと何かが繋がれた音を。

 

 今にして思えば、あれは『魂が繋がれた音』だったのかもしれない。

 自分と、姉妹達五人の魂が輪廻の鎖で結ばれた音。

 

 まるでその証とでも云うかのように、この林間学校で姉妹達に付けられた風太郎の首筋の首輪のような口付けの痕は生涯、消える事はなかった。

 

 

 ◇

 

 あれから随分と色々な出来事があった。

 まず林間学校で無事に伝説になった上に姉妹共々退学処分になりかけた風太郎だったが、どうにか六人とも首の皮一枚で繋がった。

 中野姉妹は中野父がこの学校の理事長と繋がりがあり、それを利用して。

 風太郎はどういう訳かその理事長の息子が庇ったお陰で退学を免れた。

 それを機に庇ってくれた武田という生徒と交流ができ、唯一心を許せる友となったのだが、その彼と姉妹達で何度も衝突があったが全て語ると長くなる。

 

 あの一件以来、中野父にいつ家庭教師のクビを宣告されるか待つだけだと思っていたが予想外な事に彼は風太郎に家庭教師をそのまま続けるよう伝えてきた。

 流石に事情が飲めないと彼に真意を問いただすと、どうやら中野父も姉妹の異常性に感づいてたようで如何にか直したいと考えていたそうだ。その為に彼女達が強い執着を見せる風太郎を姉妹から離すのではなく逆に取り込んで治療に協力してもらう算段だったらしい。

 風太郎も中野父の考えに賛同し、彼の友である武田も風太郎を陥れる悪魔達から救う為に協力を申し出た。

 中野上杉武田連合は姉妹更生の為にいくつもの策を講じ、実行に移した。

 

 しかしながら、相手は歴戦の怪物。人の手で斃せる筈もなく全て返り討ちとなり、風太郎は彼女達の実家の温泉に拉致られた挙句、その観光地の鐘の下で何度も何度も行為をさせられた。

 何でもその鐘を鳴らしてキスをした男女は生涯結ばれるなんて伝説があったようで、彼女達は再び伝説を独自解釈し、鐘を鳴らしながら風太郎のキンタローを揺らした。

 

 その後、伝説の二重掛けのお陰だろうか、風太郎と中野姉妹の障害となるものは自然と消えて運命はより強固に彼と彼女達を強い縁で結び付けた。

 何の作為もなかった筈の三年のクラス替えでは何故か姉妹全員と風太郎が同じクラスになり、本来は五人班で行動が原則だった修学旅行もその年に限っては六人班が許され、どういう手違いがあったのか部屋まで六人部屋で第二次五つ子ゲームが開催された。

 

 どうあがいても五つ子達からは逃げられないのだ。

 

 そしてあろうことかあの中野父も、とうとう風太郎に姉妹を委ねる形で彼女達のあるがままを受けれた。

 愛する妻の言葉を思い出したのだ。娘達には五人でいて欲しいという願いを。

 例えその願いの形が歪んでいたとしても、叶えるのが父の役割ではないのだろうか。

 ずっと正しい言葉だけを説いてきた彼だったが、正しさだけが全てでないと悟った。

 それに彼女達には確かにあの時、言ってしまったのだ。本当に望む事であるのなら、好きしてもいいと。

 

 五人で彼を囲う事を許可した時、娘達は涙を流しながら父に感謝の言葉を贈った。その時、ようやく彼女達の父親になれたのだと目尻に滴が零れた。

 同時に風太郎も最後の拠点であった筈の中野父のまさかの陥落に涙した。

 

 もはや彼女達を止めるものなど何処にもない。

 

 

 五年後。彼女達は病める時も、健やかな時も、富める時も、貧しき時も、夫として彼を愛し敬い慈しむ事を誓った。

 それは風太郎も同じだった。彼もまた五人に誓いを捧げた。

 

 腹を括るのに時間がかかってしまった。何せ、五人と生涯を共にするなんて普通の人間では有り得ないのだから。

 でもそれを望んだのは彼女達で、最終的に自分もそれを望んでしまった。

 馬鹿みたいに重い愛情を馬鹿五人に注がれている内にどうやら自分も大馬鹿になってしまったようだ。

 

 何かを選ぶ時、それは何かを選ばない時だ。愚かにも全部に手を伸ばすと神は必ずその愚者に罰を与える。

 けれど恐れをしらない五人の馬鹿が一緒ならどんな困難も乗り越えられる。そんな勇気が不思議と心の底から湧いてくる。

 

 その日、伝説となった男は五人の花嫁と式を上げた。

 

 彼の五指にはそれぞれ眩い五つの指輪が嵌められていたという。

 その輝きはきっと何度生まれ変わっても失われる事はないのだろう。

 

 だって五つと一つは永劫、結ばれているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 




五つ子のニューゲームシリーズは一応これで完結です。
次回は番外編のフー君強くてニューゲームか武田が女だった場合のIF短編か二乃メインの長編かお姉ちゃん大勝利の話かの何れかを掲載しようかと思います。
サラッとしたヤンデレを目指した本編ですが次回はどれもちょっとドロっとした感じになるかと。



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外典 フー君強くてニューゲーム!①

やべー姉妹じゃなくて上杉君がニューゲームした話。


 生温い紅に沈みながら虚空を眺めた。

 不思議と痛みはない。ただ体から徐々に熱が抜けていくような感覚だけがあった。

 もうじき何も映らなくなる瞳が輝いていた過去の日々を幻視した。

 

 ──何が間違っていたのだろう。

 

 己の短い人生を顧みた。

 

 ──彼女達との出会ったことだろうか。

 

 いや、それは違う。出会いは間違ってなかった。彼女達との出会いがあったから変われた。成長できた。

 凡人ですらなかった自分を人にしてくれた。熱を与えてくれた。

 それをなかった事にしたくはない。例えその結果が”これ”だとしても後悔はなかった。 

 

 ──ならば、彼女達との関係だろうか。

 

 きっとそうだ。彼女達との距離を誤ってしまった。それが原因だ。

 最初はただ彼女達の信頼を得る為だった。あの問題児達の家庭教師を務めるには、ただの生徒と教師の関係では不可能だった。

 勉強を毛嫌いするどころか、自分を拒絶する者がいる中、彼女達の成績向上を成し遂げるには、まずは信頼を勝ち取る事は必要だった。

 全ては家の借金返済の為。高収入の家庭教師のバイトを続ける為。

 それがどういう訳か、信頼を得ようと奔走している内に各々の悩みや将来、果てには家族の問題まで口を挟むようになってしまった。

 彼女が五人で一緒にいるのなら勉強など、どうでもいいとすら口にした事もあった。これでは本末転倒だ。利己的に生きていた今までとは逆行した選択だ。

 

 でもそんな自分が嫌いではなかった。信頼を寄せてくれる彼女達の為なら何でもできると思っていたし、現に何度も困難を乗り越える事ができた。

 そしていつしか向けられるようになった彼女達の好意に気付いてしまった。

 こんな自分を好きだなんて酔狂にも程がある。戸惑いしかなかった。けれど、不思議と心が熱くなった。

 

 だが、度が過ぎた。愛が深すぎた。彼女達の想いは歯止めが効かない程、大きかった。

 あんなに硬く結ばれた姉妹間の絆が途切れる程に。

 

 騙し騙され騙し合う。次第に激しさを増す姉妹間の醜い争いにとうとう目を背けてしまった。

 彼女たちの重ねる嘘に少し疲れてしまったからかもしれない。

 何とかしたいと思った。あの姉妹が争うなど間違っている。考えに考え抜いて選んだ選択は最低の方法だった。

 

 彼女達から距離を置いた。

 自分がいなくなれば元の関係に戻るなんて根拠のない幻想を免罪符に、何も言わず姿を消した。

 

 時が過ぎれば彼女達は自分と過ごした僅かな日々など忘れると思った。

 それでまた姉妹の仲は戻る。皆幸せになるのだと。

 そう信じて自分も過去を振り返らないと決意した。あの時の思い出の彼女にさよならを言い渡したように。

 新たな道を他の人と歩もうとした。彼女達を過去にして、忘れようとした。

 

 その罰がこれなのだろう。

 

 なんてことはない。ただ彼女達が自分を忘れず秘めた熱をずっと滾らせていた。それだけだ。

 彼女達が悪いのではない。自分があまりに楽観視し過ぎただけだ。事を見極められなかった。

 自業自得。その言葉が脳裏を過ぎる。地に伏しながらも、意外とこの結末もすんなりと受け入れる事ができた。

 これで彼女達の胸がすくというなら安い代償だ。

 

 ……ただ。

 

 ただ、ほんの少し。

 

 いや、誤魔化すのはもう止そう。やはり後悔というのは残るものだ。

 五人全員、こんな事をして明るい未来が待っているとは到底思えない。或は未来など既に投げ売った上での行動だったのか。

 本来なら彼女達には在るべき正しく輝く未来があった筈だ。それを見つけると宣言したが、成し遂げる事は遂に出来なかった。

 心残りがあるとするならそれだろう。正しく導けなかった。

 彼女達にはいつまでもあの眩い笑顔でいてほしかった。

 

 ──ああ、でも何もかも手遅れだ。もう、意識も遠のいてきた。

 何もできない。何も残せない。何もしてやれない。

 

 ……せめて最後に祈りだけでも捧げておこう。

 彼女達の未来と、そして……過去の罪への懺悔を。

 

 現実主義者だった自分の最期が祈りだなんてとんだ皮肉だ。

 

 

 願わくは、彼女達に幸福な明日を。

 

 そして叶うなら、愚かな自分に────。

 

 ◇

 

 お腹が空きました……。

 この数時間、中野五月は何度心の中でそう呟いただろうか。彼女はもう限界だった。

 今日から新たに転入する学校の校舎見学を午前中に済ませ、空腹でへろへろになりながらも辿り着いた食堂で五月は普段よりも気が立っていた。

 待ちに待った昼食時だ。誰にも邪魔などさせない。本来なら同じく校舎見学に来ている他の姉妹と一緒に昼食を取る予定だったが、これ以上は我慢できない。姉妹には連絡をして先に昼食を取る旨を伝えていた。

 それほどまでに彼女の空腹感は限界に達していた。

 

 だからだろう。

 楽しみにしていたうどんと天ぷらの盛り合わせの乗せたトレイを持って席に着こうとした時、同じタイミングで同じ席に座ろうとした背の高い男子生徒に強く声を荒げてしまった。

 

 先に座ったのは私です。あなたは隣の空いている席に座ってください、と。

 

 その男子生徒は五月を見て驚いた表情を……いや、それ以外にも何か言葉では言い表せないような複雑な感情も幾つも滲ませた顔を張り付けていた。

 そんなに威圧してしまっただろうか。男子生徒の反応に思わず申し訳なさが湧いた五月だったが、気付くと彼は先ほどの複雑な表情を消しており、どうぞと一言だけ発して席を譲ってくれた。

 五月は安堵してそのまま席に座り、譲ってくれた彼に礼を言おうとした。しかし彼は五月の事など目もくれず背を向けて立ち去ろうとしていた。

 

 ……これでは私だけが大人気ない。

 

 五人姉妹の末子ながら、ある事情から彼女達の母代わりを目指している彼女にとってこのまま何もしないのは許容出来なかった。

 そうこうしている内に空いていた隣の席も埋まってしまった。別の席を探そうとしているのだろう。空いている席がないか辺りを見回す彼を五月は引き留めていた。

 

「他に空いている席も無さそうですし、良ければ一緒にどうですか」

 

 相席を提案すると、男子生徒は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せたまま固まった。

 さっきあれだけ威圧したのに今度は相席を勧めてくるなんておかしな女だと思われただろうか。

 不安になりながら男子生徒の表情を伺うと彼は一瞬だけ考える素振りを見せた後、ああ、と短い返事をしながら渋々といった様子で五月の正面の席に座った。

 

 良かった。これで心置きなく昼食にありつける。胸を撫で下ろしながらうどんを啜りだした五月だったが、暫くして相席を提案した事を後悔した。

 どうにも彼は目立つ人物らしい。先ほどから周りの生徒から何かと視線を感じる。当然それは彼だけではなく共に座る自分に対してもだ。

 『あの上杉君が女子と食事している』だとか『上杉君、何故今日は僕と食べてくれないんだい!?』だとか、ひそひそと声が聞こえる。

 目の前の男子生徒は上杉という名前らしい。その件の彼は周囲の視線や声など気にも留めない様子で五月が気付いた時には既に彼は食事を終えていた。

 

「えっ、それだけで足りるんですか!?」

 

 思わず声を出していた。だってそうだ。米と味噌汁とお新香だけで昼食を済ますなど五月からすれば到底考えられない。その倍を食べてもきっと自分なら満足できはしないだろう。そもそもそんな質素な定食がメニューにあったのかと驚いた。需要があるのだろうか。

 

「……ダイエットしている最中だ」

 

 絶対に嘘だ。この上杉という華奢な男子にダイエットが必要なら世の女子の大半はダイエットが必要な事になる。

 あまりにも質素な食事に五月はつい自身の天ぷらを差し出したが彼はそれをすぐさま断った。

 

「それだけ頼んだって事は腹が減ってたんだろ。気にせず食えよ」

「……はい」

 

 とうの本人にそう言われては引き下がるしかない。初対面の相手にあまりに恩着せがましいのは失礼だ。

 それに申し訳なさを感じるがお腹が空いているのは事実ではある。五月は肩身の狭い想いをしながらうどんを啜り天ぷらを頬張った。

 

「お昼休みでも勉強をするなんて真面目なんですね」

 

 周りの視線もあって一人だけ黙々と食事を続けるのも気が引けた五月は目の前の男子生徒に再び話しかけていた。

 するとテーブルに答案用紙を広げて単語帳を眺めていた彼は視線を五月に向けて怪訝そうな顔をした。

 

「どうした。まだ食べ終わってないだろ」

「き、気になったんですよ」

 

 何故か彼は自分の事を何でも食事優先の女だと思っているらしい。

 あまり強く否定は出来ないが、初対面の相手にそう思われるのは少し恥ずかしい。

 

「それにしても百点満点なんて凄いじゃないですか」

 

 広げていた彼の答案用紙を見て素直に賞賛を贈った。百点満点なんて五月からすれば小学校の時にすら取った事がない。

 

「本当に羨ましいです。私、勉強は苦手で……」

 

 答案用紙の問題を軽く覗いてみたが、この学校のレベルは決して低くはないようだ。

 少なくとも五月が同じテストを受けても彼の点数の五分の一にすら届くか怪しい。

 五月は新たに始まる学校生活に早速不安を覚えた。明日から家庭教師が来るというが、果たして自分達問題児五人姉妹の面倒を見切れる人間など本当にいるのだろうか。成績が伸びるかどうかよりも授業が成り立つかの問題だ。

 父には申し訳ないが正直、あまり期待は出来ない。やはり家庭教師という父の力に頼るだけではなく、自分自身も成績を上げる方法を何か模索しなければ。

 とはいえ、独学で成績が伸びないのは嫌でも分かっている。基礎が理解できていないせいで学校の授業もついていけない。現状は八方塞がりだ。

 

「そうだ!」

 

 大人に教わるだけではなく、同級生に勉強を教えて貰うのはどうだろうか。

 例えば、目の前の百点満点を取った頭の良い彼に。

 こうして同じ席になったのは何かの縁だ。それに新たな環境で新しい友人を作る最初の第一歩にもなる。

 

「あの!」

「……なんだ?」

 

 答案用紙を片付け、席を立とうした彼を呼び止めた。

 

「良かったら私に勉強、教えてくれませんか?」

 

 今にして思えば、初対面の相手にいきなりそんな事を頼めば断られるのが普通だ。

 だけど、彼は何処か懐かしむように口元を緩めて引き受けてくれた。

 その時の彼の表情が五月にとっては妙に印象深く残った。

 

 それが上杉風太郎とのファーストコンタクトだった。

 

 

 ◇

 

 思い返して見ると少し恥ずかしい出会いだった。初対面でいきなりお腹を空かせて不機嫌な自分の姿を見られてしまったのだから。幸いにも彼はその事を特に気にも留めていなかったが。

 

 上杉風太郎という男子生徒との出会いは五月にとって奇妙な縁を感じ取らせた。

 まさか食堂で出会った彼が同じクラスメイトで、しかも自分達のパートナーとなる家庭教師だったとは。

 普段は花より団子な五月とはいえ、彼女だって年頃の乙女だ。彼との偶然の連続はセンチメンタリズムな運命を感じてしまうのは仕方がない事だ。

 

 五月は走らせていたペンを止めてチラリと隣に座る彼の顔を盗み見た。

 その表情は真剣そのもので、真摯に自分と向き合ってくれているのだと伝わってくる。

 

「手が止まっているが、何か分からない箇所があったか?」

「あ、えっと、ここが……」

「ああ、これならさっき解いた式の応用だ。いいか、まずここは……」

 

 転校初日に図書室で行われた彼との勉強会は彼が家庭教師と判明した数日経った今日も続いている。

 彼の授業は五月が今まで出会ったどの教師よりも解かりやすく、丁寧だった。

 自分がどこまで理解していなくてどこまでを解けるのか、彼はまるでそれらを全て把握してるかのようだ。

 授業が付いていけなくて教師に後で解説を聞きに行った事があるが、何故理解できないのか分からないと呆れられた事は何度もあり、その度に目に涙を溜めた。

 けど、彼は違う。自分がどうして分からないのかを理解してくれて、難解な式や文法も解かりやすく噛み砕いて教えてくれる。

 五月にとって生まれて初めて姉妹以外で自分の理解者に出会えた気がした。

 

(それに勉強だけじゃありません……上杉君は私の事を見てくれています)

 

 あれは彼が家庭教師初日に姉妹と顔合わせをした翌日だった。

 彼が新たな家庭教師だと知った他の姉妹達の反応は静観、拒絶、無関心、協力的と四人とも異なっていた。

 その中でも拒絶の反応を示した次女の二乃は初日から彼を排除しようと策を講じたようだったが失敗に終わり、早速次の手を打った。

 彼女は放課後の勉強会に五月に扮して参加し、彼を再び排除しようと試みたのだ。

 しかしながら彼は変装した五月を偽者だと一目で看破した。お前は五月ではない、と。

 二乃の企みは再び失敗に終わり彼女は悔しそうな表情を浮かべて敗走した。

 後からそれを聞いて二乃を叱りつけた五月だったが、その時は姉への怒りなど微塵もなく心の中は姉の変装を見破った彼への複雑な想いに胸がいっぱいだった。

 

 中野姉妹は全員が同じ顔の五つ子だ。出会って間もない人間なら変装なしでも判別は難しく、変装した状態で見分けるのは付き合いの長い人間であっても至難の技である。

 誰かに変装をした彼女達を見分けられるのは姉妹間同士か彼女達の亡き母か父、祖父と云った家族くらいだろう。

 そして彼女達の祖父曰く、見分けるのに必要なのは"愛"だそうだ。

 祖父の言葉は母へと受け継がれ、また母から姉妹へと受け継がれた。姉妹もまた自分達を真に見分けるには"愛"が必要だと信じている。

 

 つまり自分を見分けられた彼は……。

 

(い、いけませんっ! また私は何て事を考えて……)

 

 彼が二乃の変装を瞬時に暴いたと聞いてから、こうして珍妙な妄想をしそうになり自己嫌悪する。

 彼と自分はあくまでも家庭教師と生徒という立場だ。もしくはクラスメイト、或は友人同士か。そんな破廉恥な関係ではない。そもそも出会ってまだ間もないではないか。何を馬鹿な妄想をしてるんだ。それに亡き母も言っていた。男の人は慎重に選ぶべきだと。まだ自分は彼の事を何も知らないのに。

 こんな馬鹿な事に現を抜かしていると給料が出る家庭教師の日でもないのに、こうして時間を割いて不器用な自分の勉強を見てくれている彼に申し訳がない。

 

 何とか気を取り直して問題に取り掛かろうとした五月だったが、その前にパタリと本を閉じた音がした。

 

「少し休憩にするか」

「え? でも」

「さっきからペンが動いていない」

「あ、す、すみません……」

「気にするな。ゆっくりでいいんだ。自分のペースで進めればいい」

 

 気遣いの言葉を掛けてくれる彼に五月は恥ずかしくなって穴があったら入りたい気分になった。自分は勉強に集中できていないのにそれを咎めず、心配してくれている。

 まるで大人と子どもだ。まだ知り合って間もないが、同年代の自分達と比べて彼は妙に達観しているように感じる。それが五月にとっては接していて心地良くもあり、同時に何処か壁を感じるようでもあった。 

 

「あの、上杉君」

「なんだ?」

「上杉君って以前にも誰かに勉強を教えた事があるんですか?」

 

 折角貰った休憩だ。気分を変えようと彼と話そうと思った。

 それに少しでも彼の事を知りたいという気持ちもある。同じクラスメイトではあるのだが意外と彼と話す機会がないのだ。

 今日も食堂で彼を見かけたので午前の授業で分からなかった箇所を教えてもらうついでに一緒に食事を誘おうとしたのだが、彼と仲良さげな一組の男子と共に食事をしていたので諦めた。

 

「…………なんでそう思う」

「だって上杉君、教えるのがとても上手ですから。以前にもそういったバイトをされていたのかと」

「……」

 

 五月の質問に彼はどうにも答えにくい様子だった。口を閉ざし考え込むように顎に手を当てていた。

 もしかして何か失礼な事を聞いてしまったのだろうか。

 不安になって直ぐに謝ろうとしたが、その前に彼の方が先に口を開いた。

 

「……前に似たような仕事をした事があるんだよ」

「似たようなって、家庭教師のお仕事ですか?」

「ああ、まあ……そうだな。それに近い」

「なるほど。だから人に教えるのに慣れていたんですね!」

「そう、なるな」

「教えていたのは小学生ですか? それとも中学生」

「お前達と同じだ」

「え?」

「あ、いや……」

 

 しまった、とまるで口を滑らしたとでも言うかのように彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 自分達と同じ、高校生の生徒。同い年の生徒に家庭教師を頼むなんて自分達くらいだと思っていたが世の中は広いらしい。そんな珍しい事もあるものだ。

 もしかしたらその実績があるから彼は父から家庭教師に選ばれたのだろうか。

 

 それを聞いて親近感が湧いた五月は更に風太郎に質問を続けた。

 

「私達と同じなんですね。どんな人だったんですか?」

「どんなって、別にいいだろ」

「いいじゃないですか。教えてくださいよ」

「なんでだよ」

「知りたいんです!」

「断る」

「教えてくれるまで睨みますよ?」

「……」

 

 最初は嫌がっていた彼だったが、ムッと睨み付けてくる五月に折れて深々と溜息をついた。

 

「───馬鹿だった。それも、どうしようもない大馬鹿だ」

 

 そう言って彼は断片的にその『前の生徒』について語ってくれた。

 

 最初は馬が合わなかった。

 どうしようもなく不器用で要領の悪い奴だった。

 その癖、意地っ張りで何度も衝突した。

 

 彼の口から語られる言葉はその生徒の愚痴ばかりだった。

 何度彼の口から馬鹿という言葉が出ただろう。だけどその口調はどこか優しく懐かしんでいるように思えた。

 

 話を聞く限りでは生徒と家庭教師、というより気を許した友を語るようで。

 

 ───そんな彼を見ていると何故か、胸の奥がモヤモヤとした。

 

 どうしてだろう。聞いたのは自分なのにこれ以上、彼に"昔の人"の話をして欲しくなかった。

 その人はあくまでも過去の人だ。今の彼のパートナーは自分だ。そんな理不尽な不満が湧き出たことに五月は自分でも驚いた。

 

 この時はまだ、ただのモヤモヤで済んだのに。

 

 

 ◇

 

 二度目があるとは思わなかった。正直、今も夢か何かだと思っている。

 だけど折角見れた夢だ。醒めるまで足掻いてみるのも悪くない。

 今度こそ、あいつらに夢を見つけさして笑顔で卒業させてやろう。

 

 ただ、同じ轍を決して踏まないように心掛けなければ。

 今度は適切な距離を保って、あくまでも家庭教師としてあいつらを卒業させる。

 前よりも困難な道のりかもしれないが、決して不可能ではない筈だ。経験と知恵があるのだから。

 

 しかし、この経験と知恵に頼りすぎるのも宜しくはない。いつか怪しまれる可能性もある。

 今日、五月との会話で咄嗟に前の経験と知恵を"前の生徒"と称して誤魔化したが、案外あれは良かったのかもしれない。

 今後も"前の生徒"という建前を利用すれば上手く立ち回ろう。

 

 大丈夫だ。今度こそきっと事は全ていい方向に進む筈だ。 

 




今回は上杉君が無意識の内に地雷原でタップダンスする作風になります。


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外典 フー君強くてニューゲーム!②

すげー家庭教師が四女を励ます話。


 これが運命だと云うのなら、それを定める女神はきっと気まぐれなのだろう。

 驕り昂り、夢破れて、打ちのめされた苦い過去。その報いだとしてもあまりにも酷い仕打ちだ。

 やり直そうと思った。新たな学校で新たな環境でこれからは姉妹の為に尽くそうと。

 

 その矢先に過去の象徴である彼と対面するなんて。

 

 彼との再会は突然だった。新たな学校に転校した翌日、五月に連れられてリビングへと案内された彼を見て何処か懐かしい雰囲気を感じた。

 そして彼の名前を聞いて体が固まった。あまりの衝撃で指一本動かせなかった。

 姉妹達の前で今日から自分達の家庭教師を担当する旨を添えて自己紹介した同い年の男子に中野四葉は張りぼての笑みを張り付けながら内心、気が気でなかった。

 

 上杉風太郎。

 

 その名前を約束したあの日から片時も忘れた事などなかった。

 四葉にとって彼は綺麗な思い出の象徴でもあり、共に同じ夢を語った同志でもあり、初めて同じだった姉妹からの脱却を願ったきっかけでもあり───落ちぶれた今の自分を見せられる鏡でもあった。

 さり気なく近づいて見た彼の顔は雰囲気が随分と異なるものの当時の面影を残していた。

 何より、彼の瞳はあの夜、共に夢を語った眩い少年の瞳と同じで四葉に確信を持たせるのに十分だった。

 複雑な心境だった。大切な思い出の彼との再会が嬉しくない筈がない。

 けれど今の自分の有り様を知られたくないのも、また事実であった。

 

 次の日、四葉なりに現在の彼を探ってみたが、自分とは本当に真逆の人生を辿っていた。

 毎日食堂で『焼肉定食焼肉抜き』を頼む名物的な変人として有名なようだが、それ以外では特に悪い噂もない。

 試験では常に学年トップを維持する優等生。無愛想だが授業について行けないクラスメイトに気まぐれで勉強を見てあげる事もあるそうで、彼の解説は分かりやすいと好評だと聞いた。

 多くはないが友人もちゃんといるようで、一組の人気者の男子と楽しそうによくつるんでいるらしい。

 その仲の良い男子に彼の事を尋ねると、いかに彼が頭脳明晰で手強いライバルかと昼休みが終わるまで鼻息を荒くして一方的に語られた。

 何でも入学してから一度も満点以外を取った事がなく卒業までに彼に打ち勝つ事が目標だと男子生徒は熱を滾らせていた。

 

 話を聞き終えて四葉は思わず自嘲した。本当に随分と差がついたものだ。

 彼は正しい道を突き進んでいる。あの日に誓った夢へと向かって真っ直ぐに歪むことなく。

 もしも、彼が勉強ばかりでそれ以外を切り捨てた人間になっていたのなら、ほんの少しだけ気が楽だったのかもしれない。

 自分は全くダメだったが、彼も道を少し逸れてしまった。失敗したのは自分だけではない。そんな狡い言い訳をする事ができたのだから。

 そんな醜い嫉妬に似た感情に自己嫌悪を抱いた。正しい道を歩めている彼の姿はあまりにも眩しすぎて直視できなかった。

 

 ───ああ、今の風太郎君の姿が私が本当になりたかった姿なんだ。

 

 努力が報われ、立ち止まる事なく夢へと進み続け、その姿を見た誰かに頼られるようになる存在。知れば望んでしまうのだ。彼のようになりたいと。彼のように在りたいと。

 かつて彼の点数の三分の一以下しか取れていない答案用紙を父に自慢していた自分が余計に惨めに感じた。よくもまあ、あの程度で驕り、慢心したのだ。

 始まりは同じだったのに。互いに同じ夢を誓ったのに。本当にどうしてこうなったのだろう。

 

 片や約束も守れず今となっては姉妹皆の足枷となり、片や約束を果たす為に今もなお努力し結果を残している。

 

 何が違ったのだろう。例えば才能の差だろうか。勉学に関しての才能の差。きっとそれは彼にはあって自分にはなかった。

 後は目的の有無だ。互いに大事な人を楽にさせる為に勉強を頑張ろうと誓ったけれど、その大事な人は誓ってすぐにいなくなってしまった。

 ゴールがあるなら走れた。目的地が見えているのなら、そこまで目指せた。どんなに辛くても頑張れた。

 だが行く先が見えず、終わりの見えない闇を独りで走り続けるのは四葉にはできなかった。暗闇を突き進む勇気がなく自分が今どこにいるのかも分からない恐怖で足が竦んでしまった。

 ……それも結局は言い訳に過ぎない。いくら言葉を並べても今は何も変わらない。落ちぶれた自分という結果は変わらないんだ。

 

 ───今の私を見たら風太郎君はどう思うかな。

 

 きっと失望するだろう。いや、そもそも向こうが自分を覚えていると思う方が都合が良すぎる。

 彼にとってあれは勉強をする単なるきっかけに過ぎないだけで、たった半日一緒に過ごした程度の相手を覚えている筈がない。そう思うのが道理だ。

 それでいい。忘れてくれて構わない。むしろ忘れていて欲しい。

 彼と約束を交わした無垢なままに夢に手を伸ばした少女はもういないのだ。ここにいるのは目的を見失い地に堕ちたただの抜け殻。

 そんな抜け殻でも烏滸がましくも願いがある。せめて思い出だけは綺麗なままでいて欲しいという願いが。

 

 彼には絶対に正体を明かさない。たとえ彼が約束を覚えていたとしても。

 

 嘘は苦手だが、たった一つの嘘を突き通すくらいは馬鹿な自分でもできる筈だ。

 彼とは思い出の少女としてではなく、ただのお馬鹿な中野四葉として彼の五人いる生徒の一人として接していこう。それが互いの為になる。誰も傷つかないし誰も損しない。

 彼なら、きっと姉妹も気に入る筈だ。現に五月は出会ったばかりなのに既に彼の事を認めているようだし他の三人ともいずれは仲良くなってくれるに違いない。覚えてはいないだろうが姉の一人は五年前に目を離した隙に仲良くなっていた過去もある。彼と姉妹の相性は悪くない筈だ。

 当然か。彼は自分と違って凄い人なんだから。せめて、彼の役に立てるよう姉妹達と彼を繋ぐ架け橋になれれば、それが姉妹の為にもなるし彼の為のもなる。

 

 ───だから、私は影に徹しよう。憧れの彼と大事な姉妹を見守る影に。

 

 

「よう……五年ぶりだな」

 

 

 そう、思っていた筈なのに。どうしてこうなったのだろう。 

 

 ◇

 

 それは再会して三日目の事だった。彼が家庭教師になってから何かと騒がしい日が続いている。

 昨日なんて二乃と五月の間で彼に関する事で少し言い争いがあったが、姉妹間での口喧嘩なんて日常茶飯事だ。

 今朝の朝食時には五月はいつもの通りに二乃の作ったご飯を美味しそうに食べていたので、さほど問題はない。

 どうにも二乃は彼の事を敵視しているようなので打ち解けるにはもう少し時間がかかりそうだ。一花と三玖もあまりやる気を見せていない。

 今のところ彼に協力的なのは自分達妹組だけだ。何とかして姉達と彼の関係を良好なものにできないだろうか。

 姉妹と彼との関係に頭を悩ませていた四葉だったが、その日の放課後、更に頭を悩ませる出来事が起きた。

 

『話がある。放課後、屋上で待っている』

 

 男子特有の角張った字で短く綴られた手紙、いやノートの切れ端が四葉の下駄箱に入っていたのだ。

 四葉とて女子だ。この手のシチュエーションは男子からの告白なのではと勘繰りしてしまう。

 だが、差出人の名前を見て頭の中が真っ白になった。相手はちょうど頭を悩ませている家庭教師の彼だったのだから。

 

(え、な、なんで……風太郎君が私に……も、もしかして、こ、こ、告白!?)

 

 一瞬、馬鹿な妄想をしかけたが首を横にぶんぶんと振って何とか雑念を振り払った。

 落ち着け。そんな事はあり得ない。

 彼が出会ったばかりだと思っている自分にそんな事をする筈がないし、五年前に京都で出会った事に気付いている筈もない。

 単純に何か、相談か何かだろう。そうに決まっている。きっとやる気を見せない姉達の件に違いない。

 ならば自分の出番だ。彼に少しでも役立つチャンスなのだ。これを見逃す手はない。

 再会して二人きりで話すのは今回が初めてだが、大丈夫だ。自然に、ごく自然に接すればいい。"約束の子"としてではなく、ただの中野四葉として。

 そうすればバレる事など万が一にも有り得ない。そう高を括っていた。

 

 

 はっきり言って油断していた。

 屋上の扉を開け、フェンスに背中を預けて待っていた彼を見つけた時は、揶揄うようにしししと笑いながら『屋上に呼び出すなんて、まさか告白ですか、上杉さん!?』とでも言うつもりだった。

 なのに、彼は四葉が言葉を発する前に言ったのだ。

 聞き間違いではない。はっきりと、目を見つめながら、『五年ぶりだな』と。

 

「えっ、え……?」

 

 彼の放った言葉は四葉の思考を停止させるのに十分な威力があった。

 そんな事、ありえない。覚えている訳がない。そもそも、自分だと断定できる判断材料がない筈。

 いや、こちらも髪色すら違う彼に懐かしさを感じ取ったんだ。当時の事を覚えているのなら向こうも何か気付いても不思議ではないのかもしれない。

 だけどあの時は名前を名乗ってもいない。自分の容姿に当時の面影を感じたとしても、どうして同じ顔をした五人の中で私だと……。

 

 違う。関係ない。彼が覚えていようといまいと。それは重要ではない。

 

 突き通せ、嘘を。今の現状を知って幻滅されたくない。失望されたくない。

 前の学校の友人や教師に向けられたあの蔑むような眼を彼にだけは向けられたくない。

 その一心で四葉は何とか言葉を絞りだした。

 

「な、何を言ってるんですか上杉さん。私達は三日前にお会いしたばかりじゃないですか」

「五年前、京都で俺はお前に出会った。場所は京都駅。警察に絡まれている俺を助けてくれたな」

 

 そうやって否定したのに、彼は聞く耳を持たずにこちらの瞳を見つめて表情を変えない。

 懐かしむように、優しい微笑みを浮かべたまま。

 

「俺はあの時、お前に救われた。声を掛けてくれたのもそうだが、そこじゃない。お前の言葉に救われたんだ」

「人違いですよ」

「独りだった俺に手を差し伸べてくれた」

「……違います」

「あの日過ごした一日を、あの日に誓った約束を、俺は忘れた事はない」

「違うんですよ、上杉さん」

「お前のお蔭で俺は変われたんだ。ずっと感謝したかった」

「…………違う」

「だから、ありがとう。四葉」

「違うんだよ、風太郎君」

 

 何度否定にしても彼はその口を閉ざしてくれなかった。

 どうして。もう止めて。それ以上、何も言わないで。

 彼の口からキラキラと輝いていたあの日を語られる度に、愚かだった過去と何も成し遂げられなかった今の自分が浮き彫りになるようで、とてもじゃないが耐えれなかった。

 いつの間にか視界がぼやけて、気付けば涙が頬を流れていて、立っていられずに膝から崩れ落ちた。

 

「私は、私はね、君に感謝されるような人じゃない……約束を守れなかった……君のように立派になれなかった」

 

 それから懺悔するかのように四葉は彼と別れてからの空白の日々を全て語った。

 赤の他人だと突き通す事が不可能なら、いっそのこと全て話してしまいたかったのだ。

 知れば、彼はきっと自分を軽蔑するだろう。約束を守れなかった自分に。愚かな自分に。

 でも、勘違いされたまま彼に感謝の言葉を言われるくらいならそっちの方がマシだ。

 罵倒してくれた方が自分が間違っていたのだと再確認できるから。

 

 だから全て話した。

 あの日に誓った、楽をさせてあげたかった母が亡くなった事。

 目的を失って特別になるという事だけに固執してしまった事。

 自分は他の姉妹と違うのだと傲慢な態度をとってしまった事。

 自分が何に向かって努力していたのか、分からなくなった事。

 勉強を疎かにして、退学になりかけて姉妹に迷惑を掛けた事。

 

 目を覆いたくなる醜い過去を嗚咽を漏らしながら全て曝け出した。その間、何も言わずに話を黙って聞いていた彼の顔を怖くて見る事が出来なかった。

 どんな表情をしているのだろう。失望だろうか。軽蔑だろうか。

 

「風太郎君は……上杉さんは凄いですね。勉強もできてずっと頑張っていて……私、全部ダメでした。悪い子なんですよ。姉妹に迷惑ばかりかけて」

「……そうだな。お前は間違ってしまったのかもしれない」

「かもじゃないですよ。間違ったんです。私は」

「けど、それは俺も同じだ」

「え?」

 

 伏していた顔を上げるといつの間にか彼が目の前でしゃがみ込んで、目線を同じ高さに合わせていた。

 思ったよりも顔が近くて心臓の鼓動が高鳴った。目と鼻の先にある彼の瞳は約束を誓ったあの夜に見た時と変わらない輝きで、思わず四葉は見惚れてしまった。

 

「俺も間違っていた。前までは周りの馬鹿共を見下していたし、家族さえ良ければそれ以外は切り捨ててもいいと思っていた。気付けばまた独りだった」

 

 四葉には彼の言葉が最初は信じられなかった。そんな筈がない。周りを見下しているような人間に友達など寄ってこない事を四葉は身をもって知っている。

 きっと自分を慰める為に優しい嘘をついてくれたんだ。そう思った。

 

「でも、間違いを気付かせてくれた奴がいたんだ。だから今は多少はマシになれた……と思っている」

 

 けれど、違う。嘘を言っている人はこんな真っ直ぐな目をしていない。

 自分に間違いを気付かせてくれた大切な姉妹達が居たように、彼にもそれと同じ人がいたんだ。

 誤った方へと進む彼を正しい方向へと導いた人が。

 

 ……こんなにも愛おしそうに語る彼の思い出の人が。

 

「四葉。お前はなりたい将来の夢とかあるか?」

「夢……?」

「ああ」

 

 突拍子もない質問に困惑したが、分からないと答えた。

 そんなものはないのだ、今の自分に。姉妹の為に生きると誓った自分に夢など。

 けれど、彼はまるでそう答えるのを分かっていたかのように、なら、と言葉を繋げて四葉の手を取った。

 かつて彼の手を取って約束をした光景が思わず脳裏に蘇った。今度はあの時と逆だ。彼から自分の手を掴んでくれた。

 

「それを一緒に見つけ出すのが俺の仕事だ」

「え……?」

「家庭教師の初日に言っただろ。お前達を笑顔で卒業させるってな。ただ卒業するだけじゃ意味がない。次の道を見つけてこその卒業だと俺は思う」

 

 彼の言葉に只々困惑した。ただの家庭教師にそこまでする義理などない筈だ。 

 それにかつての頃、彼は妹を楽にさせたいが為に勉強をすると誓ったのだ。この家庭教師のバイトもその彼女に少しでも負担を減らす為のものだろう。

 ただでさえ問題児ばかりの自分達姉妹に勉強を教えるだけでも骨が折れる筈なのに、進路の事まで面倒を見るなんて、そんな余裕がある訳がない。なのにどうして。

 

「どうして、どうしてそこまで……」

「ただの自己満足だ……とはいえ、大層な目標を掲げたはいいが生徒の半数以上がやる気がないのが現状だ。俺だけじゃどうしようもない」

 

 口では自己満足だなんて言葉で濁しているが、そんな理由ではない事くらい判る。

 彼は本気で自分達姉妹の事を想ってくれている。

 あんな過去を全て曝け出した自分も含めて、彼は手を差し伸べてくれると言った。

 

「だからお前にも協力して欲しいんだ」

 

 こんな特別でもない自分を必要だと、言ってたんだ。

 

「わ、私に?」

「ああ」

「私に、できますか? 上杉さんのお手伝いが」

「一筋縄ではいかない厄介な連中だからな。俺一人じゃ無理だ」

「……本当に、私なんかにできるのかな、風太郎君」

「俺はお前が必要なんだ、四葉」

「……っ!」

 

 体が無意識の内に動いていた。彼の胸板に抱きつきながら声を上げて泣いた。

 彼に見分けて貰えるようにと付けた始めてたリボンも抱きついたせいで、くしゃくしゃになってしまった。

 でも構わない。今は、今だけは、必要だと言ってくれた彼の暖かさを感じていたかった。

 

 

「風太郎く……あ、えっと上杉さん」

「さっきからコロコロ呼び名を変えるな。面倒くせえ。統一しろ」

「え、えっと……じゃあ、二人きりの時は風太郎君で、いいかな?」

「……好きにしろ」

「えへへ、なんだか手馴れてるね。リボン直すの……妹さんもリボン付けてるのかな」

 

 崩れたリボンを彼に直してもらいながら、四葉の胸は幸せで満ち溢れていた。

 彼の事をもっと知りたい。彼ともっと話したい。私の知らない彼と。

 あの日、本当はもっと彼とお喋りしたかった。それが今、叶うとは夢にも思っていなかった。

 

「らいははこんな悪目立ちするデカリボンなんて付けてねえよ」

「じゃあどうして?」

「いや、それは……」

 

 彼の妹の名前は『らいは』というらしい。また一つ彼の事を知れた喜びと同時に四葉は何処か違和感を覚えた。

 リボンを付けるなんて女の子に決まっているし、それが妹でもないとなると……。

 

「……その、なんだ。前も家庭教師をしてたんだが、その時の生徒がお前みたいにリボンを付けてたんだよ」

「へえ、そうなんだ。どんな子?」

「どんなって、別にいいだろ」

「どんな子?」

「だから……」

「どんな子?」

「………」

「どんな子?」

「……一言で言うなら馬鹿だ。それも超弩級の馬鹿だった。何度あいつに手を焼かされたことか」

 

 何度か尋ねると彼も折れてくれたのか、渋々とその子の事を教えてくれた。

 彼の声や表情からその"前の生徒"とやらが彼にとってどれだけ大事な存在なのか嫌でも伝わった。きっとその子が、間違っていた彼を正してくれた子なのだという確信が四葉にはあった。

 余程、思い入れがあったのだろう。次第に楽しそうに語る彼を四葉は微笑ましそうにずっと聞いていた。

 

 彼が語るその子とはいつ出会ったのだろう。仕事という事は去年あたりか。

 という事はたった一年程度の付き合いしかしていないという訳で……。

 

 これから先は自分の方が長い付き合いになるのが確定している訳だ。

 

 まるで愛おしそうに思い出を語る"前の生徒"よりも自分の方が永く。

 思い出なんてものは上から積み重なるものだ。過去よりも今、今よりも未来。

 今はこうして過去に耽っている彼も次第に自分達姉妹の事を今のような表情や声色で語るようになるのだろう。

 

 それを想像するだけで四葉は身が震えるほどの優越感を覚えた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 あくまでも家庭教師としてあいつらを卒業させるつもりだ。それは変わらない。

 けれど、それを為すには乗り越えなければならない過去があるのもまた事実だ。

 過去のしがらみは拗れる前に取っ払ってしまった方がいいに決まっている。

 前回のように協力して貰いたかったのも確かだが、あいつには溜め込んだものを全て吐き出して欲しかったのが本音だ。

 とはいえ、四葉にあんな事を言ったが自分が一番過去に囚われているのが皮肉なものだ。

 

 囚われたままでは前に進めない。それは俺も同じだ。

 

 逃げずにあいつらと向き合い導いて、初めて明日に進めるんだ。前回はそれを理解してなかった。

 だから未来を阻まれた。精算の終えていない過去はいくら忘れようとバラバラしても石の下からミミズのようにはい出てくる。

 今度こそは必ず成し遂げてみせる。輝く未来に羽ばたくあいつらを見送りたい。

 

 もし、全てが終わったら……あいつらを笑顔で卒業させる事ができたのなら、今度こそ俺も前に進もう。

 

 今は目先の事ばかりで手一杯で未来の事なんて考える余裕もないが、とりあえずは話をしよう。あの時、共に新たな道を歩めなかった彼女と。

 逃げた先で結ばれた前回と違って今度は違った関係になるかもしれないが。

 今の俺はまだマイナスだ。それをゼロにしてようやく未来に一歩踏み出せる。

 

 そうだ。全てに決着を付けてまた、ゼロから歩み始めればいい。

 

 

 

 

 

 

  



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外典 フー君強くてニューゲーム!③

すげー家庭教師が家庭訪問して家庭訪問される話。


 ここ最近、中野二乃は虫の居所が悪い日が続いている。その原因はもちろん、あの家庭教師である上杉風太郎だ。彼が来てから腹立たしい毎日だ。

 自分達姉妹に家庭教師等という異物は不要である。それをあの父は全く分かっていない。

 勉強が大事だという父の考えは一応理解できる。自分達の将来を想って新たな学校や家庭教師を用意してくれたのだろう。だがそれはあくまでも一般論だ。自分達姉妹は例え学校を辞めさせられる事になったとしても五人で一緒にいる事を選ぶ。

 五人一緒に。それが亡くなった母の願いでもあり、唯一の家族である大切な姉妹を思う二乃の本心でもあった。

 だから、姉妹の仲に土足で踏み入れるあんな俗物を二乃は認める訳にはいかなかった。

 

 それなのに四葉と五月の妹組は既に彼を受け入れ初めている。

 聞いた話だと五月なんて出会って初日に勉強を教えて貰っただけで彼に信頼を寄せるようになったそうだ。

 我が妹ながらちょろすぎると呆れた。中学校から前の高校まで女子しかいない環境に身を置いていただけあって、異性との距離の取り方が分かっていないのだろう。

 本人は友人同士だと主張しているが、むこうはどう思っているか分からない。男など所詮は獣……と言いたい所だがあの家庭教師、同い年とは思えないくらい達観しているので本当に問題はないのかもしれないが。

 

 そして四葉も妙だ。お人好しの彼女が家庭教師の彼に気に掛けるのは分からなくもないのだが、それにしても少々距離が近すぎるのではないか。

 昨日も朝早く起きておにぎりを作っている姿を見た。あまりにも珍しいので思わず声を掛けたが、どうやら彼の為に作ったそうだ。ここまで来るとお人好しを通り越して何か別の感情があるのではないのかと訝しんだが、それを言葉にする事はなかった。

 前の学校の一件以来、姉妹に対して過剰に遠慮するようになった四葉が、まるで昔に戻ったかのように楽しそうにしていたのだ。思うところはあるが、本人が望んでいるのなら仕方がないと諦めた。

 

 正直なところ、彼が家庭教師でなかったのなら別に二乃は干渉しようとは思っていない。

 もし仮にあり得ないとは思うが、五月や四葉が彼と付き合うような事があったとしても男の趣味が悪いだの地味だのと散々ケチは付けるだろうが、最終的には祝福するだろう。大事な妹達とはいえ、個人の付き合いにまで口を出すつもりはない。

 ……が、家に上がり込んで自分達姉妹全員と係る事になる人間となると別だ。

 ここは私達だけの聖域だ。あんな他人がずけずけと踏み入れていい場所ではない。

 それに予感がするのだ。あの男は自分達姉妹の関係を大きく変質させてしまうのではないかという確信めいた予感が。

 彼はこんな短期間で五月と四葉から信頼を得た。三玖や一花もそうならないとは限らない。もし四人が彼を受け入れてしまったら……。

 

 ──それだけは絶対に嫌。私はただ、五人でずっと一緒にいたいのに。

 

 自らの居場所を守るため、二乃はあの外敵を排除しよう決意した。

 まず初日に好意的なフリをして飲み物に細工をして眠らせてしまおうと試みた。所謂実力行使という奴だ。

 ごく自然に来客におもてなしをするよう装った。笑みを浮かべ、さも自分は味方であるかのように演じて。

 だが、彼は自分の出した飲み物に全く口を付けなかった。それどころか、作ったクッキーすら一切手を付けず、まるでこちらの考えなど全てお見通しとでも言わんばかりに。

 計画が失敗して腹を立て無理矢理にでも彼を追い出そうとしたが、それも見越していたのか彼はその前に帰ってしまった。まるで子ども扱いされたようで、かつてない敗北感に二乃は涙目になった。

 

 次の日、今度は別の切り口で挑んだ。どうにも彼は警戒心が強いようだ。初日で仕掛けようとして気付かれたのだから、二度目は難しいだろう。ならばどうするか。

 簡単だ。”二乃”以外が攻め落とせばいい。

 自分達は瓜二つの五つ子だ。姉妹に変装するなど造作もない。早くも信頼を寄せる五月に扮し、五月の姿で家庭教師など不要だと告げて追い出そうとした。信頼を得たと思った五月の口から拒絶の言葉を聞けば彼も動揺するだろう。

 三玖ほど完璧な変装はできないが、赤の他人である彼を騙すなら自分でも十分だ。見抜ける筈がない。今度こそ成功すると確信した。

 しかし、またしても作戦は失敗に終わった。予想外な事に彼は一目見ただけで自分が五月でないと看破したのだ。"愛"がなければ見抜けない筈の姉妹への変装を。

 会話に違和感を感じて、という理由ならまだ分かる。だが一言も発していないのにすぐさま見抜かれるとはいくらなんでも想定していない。

 加えて、彼が変装した自分に向けたあの表情が二乃にとっては衝撃的だった。

 

『……またか』

 

 心底嫌気がさした顔、とは正にああいうのを指すのだろう。滲み出る嫌悪感を微塵も隠そうともしない彼の冷たい眼差しが二乃を貫いた。

 

 確かに騙そうとした。悪い事をしようとした。でもまさかあそこまで怖い顔をされるとは思いもしなかった。

 他人にあんな表情を向けられたのは生まれて初めてだった。あまりのショックでまたしても二乃は涙目で敗走した。後ろから彼の呼び止める事が聞こえた気がしたが、立ち止まる事なく全力で逃げた。単純に怖かったのだ。

 家に帰ってから怖い顔であの家庭教師に睨まれた事を五月にチクったのだが、うっかり騙そうとした事まで話してしまって五月に叱られた。

 

 ───ほんと、ムカつく。

 

 彼が家庭教師な事も、自分が作ったクッキーを食べなかった事も、妹達が彼に信頼を寄せる事も、彼が一目で変装を見抜いた事も、彼が怖い眼で睨んできた事も全て二乃にとっては気に食わなかった。

 あの男は間違いなく、姉妹の絆に害為す存在だ。どんな手を使ってでも排除しなければ。

 その結果、姉妹から嫌われようとも構わない。汚れ役なら喜んでやろう。

 

 守護(まも)らねば。三玖も四葉も五月も、姉である一花でさえ───私が守護(まも)らねばならない。

 

 ◇

 

 強大な敵を倒すにはまず、その敵を理解()るのが重要である事を二乃は学んだ。どうにもあの家庭教師は付け入る隙がない。下手に攻め込んでも軽くいなされるだけだ。それ相応の策が必要となる。

 次の土日にまたあの家庭教師が家に来る。それまでに何か弱みでも握る事ができればと良いのだがと考えてた二乃に思わぬ転機が訪れた。

 

「──で、何しに来たのよ」

「まあ、その……なんだ」

「なに?」

「今日はお前だけか、二乃」

「何しに来たかって聞いてるのよ」

「……」

 

 一花は私用で、三玖は買い物、四葉は運動部の助っ人、五月は食べ歩きと各々用事で出掛けた中で一人家に居た二乃に予想外の来客が訪れていた。

 あの忌々しい家庭教師だ。インターホンを出た時は真っ先に門前払いしてやろうかと考えたが、待てと思慮した。

 短絡的な思考のままでは彼に勝てないと先日思い知らされたばかりだ。こちらの腹に受け入れ敵を知るくらいの度量が必要だろう。そう判断し敢えて彼を招き入れた。

 リビングのソファーにふんぞり返りながら二乃は風太郎に要件を問いただした。客人を迎える態度ではないが、彼相手なので問題はない。

 向かい側のソファーで何故か言いにくそうに前髪を弄っていた風太郎だったがやがて諦めたように溜息を吐いて渋々と言葉を漏らした。

 

「……前に来た時にどうやらここに忘れ物をしちまったみたいでな」

「忘れ物?」

「ああ。生徒手帳なんだが」

「生徒手帳? ……あっ」

 

 生徒手帳と聞いて彼が初めて家庭教師として家に来た日の事を思い出した。

 あれは彼が帰って直ぐの事だ。確か、姉妹の一人が床に落ちていた生徒手帳を拾っていた記憶がある。

 彼のものだと判り、面白がって手帳をパラパラと捲っていた彼女が途中でその手を止めて驚愕の表情を浮かべていたのが二乃の中で印象深く残っていた。

 あの時は五月が彼に手帳を返しておくと申し出たが、何故かそれを彼女は断った。拾った自分が彼に直接返すからと言って部屋に戻っていったのだが……。

 どうやらあの手帳をまだ彼に返していなかったらしい。そのせいで家庭教師の日でもないのに彼の顔を拝む羽目になったのだから二乃からすれば迷惑な話だ。

 

「心当たりがあるのか?」

「……ええ、あるわ」

 

 わざわざ家に出向いて何の用かと警戒していたのだが蓋を開けてみれば大した用事でもない。

 とんだ肩透かしだ。他の姉妹が手帳を持っていた旨を伝えて彼には早く帰ってもらおう。

 

「そうか。お前が持っていたのか?」

「……」

「二乃?」

 

 ───そう、思っていたのだが少し気が変わった。

 

「心当たりはあるとは言ったわ。でもタダで渡すとは言ってないけど?」

「……なに?」

 

 よくよく考えてみれば妙な話だ。普通、生徒手帳を忘れたからと言ってわざわざ家にまで来るだろうか。それも次の休日に訪れる予定があるのにも関わらず、だ。

 

 ──何かある。その生徒手帳にはこの家庭教師の弱みとなりえる何かが。

 

 二乃の直感がそう告げている。これは勝機だ。数少ない彼に付け入る事のできる僅かな隙。

 それをみすみす逃すなんてあり得ない。勝ち誇った笑みを浮かべながら二乃は風太郎を指差した。

 棚から牡丹餅とはこの事だろう。まさかこんな形で彼の弱みを手に入れる事が出来るとは。

 

「その様子だとあんたの生徒手帳、よっぽど大事みたいね」

「まさか強請る気か?」

「人聞きが悪いわね。交渉よ」

 

 あの生徒手帳に何やら彼に関する秘密があるのは間違いないだろう。

 思えば手帳を拾った彼女があんな表情を浮かべていたのもそれを見たのが原因だったのかもしれない。

 線と線が結ばれていく。勝利の方程式は決まった。

 これを交渉材料にすれば彼を追い出す事も……。

 

「断る」

「えっ」

 

 だが、そんな二乃のプランは彼の無常な一言で全て瓦解した。

 

「ちょ、まだ何も言ってないでしょ!?」

「どうせ家庭教師を辞めろだとか、この家に近付くなとかだろ」

「なっ」

「生憎だが、誰に何を言われようともお前達の家庭教師を辞める気はない。返す気がないのなら手帳は好きにしろ」

 

 全てお見通しのようだ。一言一句違えず自分の考えていた事を風太郎に言い当てられ、二乃は悔しくて歯噛みした。

 

「な、なによ。生徒手帳、あんたの大事なものじゃないの?」

「別に手帳自体はどうでもいい。大事なのは写真の方だ」

「写真?」

「その様子だとお前は手帳を持っていないのか、或いは中身を見ていないようだな」

「あっ」

「……見てないならいい」

 

 他の連中に見られると面倒だからな、と呟きながら何処か安堵した様子で胸を撫で下ろした風太郎を見て二乃は少し意外に思った。好きにしろ言っていたが、やはり大切なものらしい事が伺える。

 あの妙に達観した家庭教師がそんなにも大事そうにする写真には一体誰が写っているのだろうか。ほんの少しだけ興味が湧いた。

 

「……その写真ってそんなに大事な物なの?」

「言っただろ。好きにしてもいいって」

「嘘よ、顔に出てたわ」

「……っ」

 

 そう指摘すると彼は自分の顔を手で触れながら苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。

 初めて彼を言い負かす事ができた気がする。機嫌を良くした二乃はそのまま風太郎に写真の事を追及した。

 

「そんなに大事なんだ。家族の写真?」

「ああ」

「適当に言って誤魔化そうとしたでしょ」

「……」

「素直に白状しなさい。そうしたら手帳の事、教えて上げてもいいけど?」

「……恩人の写真だ」

「恩人?」

「ああ。俺を変えてくれた人の」

 

 弱みだと思った写真の事を追及する事で風太郎の嫌がらせになると思った二乃だったが、意外にも彼はその"恩人"との思い出を語ってくれた。

 京都で出会い、共に大事な人の為に勉強を頑張ると誓った少女の話を。

 気付けば二乃は風太郎の思い出話に聞き入っていた。見るからに恋愛など下らないと唾棄してそうな彼からまさかこんなロマンチックな話を聞けるとは思わなかった。

 

「……長々とつまらない話をしたな」

「そんな事ないわ。素敵な話じゃない!」

 

 偶然の出会い、二人きりの修学旅行、二人で誓った約束……まるで少女漫画のようだ。乙女の二乃には胸を刺激する内容だった。

 それに話の途中で聞いた彼の家庭事情や妹を楽にさせる為という目的は二乃にとっては風太郎の印象を大きく変えた。自分も姉妹の事が大好きだ。妹を想う気持ちはよく分かる。貧相な生活を送っていた経験からその苦労も理解できた。

 ほんの少しだけだが、彼という人物の事を知れた気がする。

 

「あと、その……ごめん」

「何がだ」

「だって写真、とっても大事なものじゃない。あんたの好きな人の写真だなんて……」

 

 軽い気持ちで考えていたが、まさかそんな大事なものだとは思ってなかった。それを交渉材料に使おうとした事に二乃は罪悪感が湧いた。

 

「感謝はしているが別に好きって訳じゃない。言っただろ。ただの恩人だ」

 

 風太郎は否定したが、二乃にはそうは思えなかった。きっとその子は彼の想い人だろう。恩人とはいえ、肌身離さずその人の写真を持ち歩くなんてよっぽど思い入れがあるに決まっている。

 しかしながら、そうなると安心だ。彼の話を聞いて感じたが上杉風太郎は一途な男だ。間違っても姉妹達に手を出すような真似はしない。

 別に彼を認めた訳ではないが、姉妹の仲を裂くような男でもないと感じた。

 

「それに謝るのは俺の方だ」

「私に?」

「……前にお前が五月に変装しただろ。あの時に睨んじまったから」

「えっ」

 

 思わず目を丸くした。彼が謝った事に、ではない。彼があの時の変装を”二乃(じぶん)”だと見破っていた事に。

 偽五月だと看破したのは驚いた。けれど"誰が"変装していたかまで気付いていたとは思わなかった。

 ふと、祖父から続くあの言葉が脳裏を過ぎる。"愛"がなければ見抜けない。

 馬鹿な妄想をしかけて二乃は頭を振って思考を掻き消した。二乃は知らぬ事だが同じ考えを妹の五月も先日思い浮かべていた辺り、彼女達は根っこの部分で共通するものがあるのだろう。

 

「……ねえ、聞きたいんだけど」

「なんだ?」

「あんた、何であの変装を私だって分かったの?」

「……」

 

 初日に妨害しようとしていた事は彼に悟られていたし、変装をして妨害しようとするのなら真っ先に自分が候補に上がるのだろうが、それでも納得がいかなかった。

 二乃の問いに何処か答えにくそうな表情を浮かべていた風太郎だったが、暫く沈黙を続けた後に口を開いた。

 

「……その、あれだ。前に今と同じ仕事をしていたんだが」

「家庭教師を?」

「ああ。その時の生徒も……変装が得意な奴だったんだ」

「変装が得意って、五つ子の私達よりも?」

「……クオリティは似たようなもんだ」

 

 にわかに信じがたい話ではあるが、五つ子と同じクオリティの変装が出来る人間がいるらしい。

 もしかするとその子も自分達と似たような双子か何かだろうか。

 

「その時に散々騙された。それこそ嫌ってほどにな……お蔭でそういったのを見抜けるようになったんだよ」

「ふーん……その前の生徒ってのは随分とやんちゃだったのね」

「やんちゃ、で済めば良かったんだがな。おまけに馬鹿だ……本当に馬鹿だった」

 

 馬鹿だ馬鹿だと連呼する彼の表情は、何処か先ほどの思い出を語る時よりも楽しそうに見えた。

 最初は敵意を剝きだしにされて、でも認めてくれた時は嬉しかったと懐かしさそう嬉しそうに彼は語った。

 家族想いで、料理もプロ並みに上手で、彼女の作るお菓子は美味かったと、そんな事まで話してくれた。

 

 ───"前の生徒"の作った料理は食べたのに私のは食べないんだ。

 

 何故だろう。彼の話を聞きながら二乃の頭の片隅にはあの日、テーブルに残された手の付けられていないクッキーが浮かんでいた。

 

 

 ◇

 

 人間関係なんてものは片方の意志だけではどうにもできない。前回の二乃にそう言ったがそれは今回も変わらないだろう。

 警戒心を剝きだしにする初期の二乃とどう接すればいいのか頭を悩ませた。眠らせてくるのは前回の時に経験済みだったので予測できたが、まさか五月に変装してくるとは思わなかった。

 そのせいで前回、あいつらが醜い争いをしていた末期を思い出してしまった。誰かが誰かに化けて嘘を吐く、あの酷い有様を。

 トラウマが甦って思わず二乃を睨み付けてしまったが、あいつには少し申し訳ない事をした。前回の出来事なんて今のあいつらは関係のないというのに。

 あれで一番繊細な奴だ。何とかしたいと思っていたが今日は上手く事が運んだ。結局こちらを知ってもらうのが一番手っ取り早い信頼方法なのだろう。

 知らない人間の事をいきなり信用しろと言っても出来ない。だから、聞かれた事は話せる範囲で話したが、そのお蔭で少しは二乃と歩み寄れた気がする。

 思えば、あいつと二人きりで話すのは存外嫌いではなかった。好意を寄せられる前は、姉妹の中でもフラットに言い合えていたと思う。今回は、そんな関係を目指していきたい。

 

 しかし、結局二乃から手帳の行方を聞き出せないまま、有耶無耶になってしまったが……まあ、いいか。写真はあくまでも物に過ぎない。大事なのは思い出だ。

 それに下手に持ち歩いている所を四葉以外の姉妹に見られたら少し面倒な事になるかもしれない。二乃には京都の事を語ったが、相手が四葉だとは言っていない。どんな過去があろうとも今の俺達の関係は家庭教師と生徒。そう決めているんだ。下手に距離を見誤るとまた前回の二の舞いになる。

 だから俺たちの関係は四葉にも二人だけの秘密と言って口止めをしている。あいつは喜々とした様子でそれを受け入れてくれたので姉妹に口を割る事はないだろう。

 

 まだ出会って数日だが今のところは順調に正しい関係を築けている。この調子で明日も頑張ろう。

 

 

「───あ、お帰りなさい。フータロー君」

 

 ああ、失念していた。もう一つあったのだ。決着をつけなればならない過去が。

 

 家に帰ると、妹と"トランプ"をしながら俺の帰りを待っていた中野一花が出迎えてくれた。

 ……その手に俺の生徒手帳を持って。

 

 

 



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外典 フー君強くてニューゲーム!④

すげー家庭教師との出会いに長女が感謝する話。


 振り返ってみれば彼との出会いは好奇心から始まったと言えるだろう。五年前のあの日、修学旅行で行った京都の地で彼と初めて出会った。

 面白い子と出会ったと満面の笑みを咲かせながら姉妹に自慢する妹を見て何となく、どんな子か気になったのがきっかけだ。一目見ようと彼のいる部屋の前を通りかかった時に一緒に遊ぼうと誘われた。

 共に過ごした時間はほんの僅かで互いに名前も名乗ってもいないのに中野一花にとって彼と遊んだ楽しい時間は五年経った今でも色褪せる事なく鮮明に刻まれていた。

 男の子とあんなに話したのも遊んだのも生まれて初めての経験だ。彼が自分にとって淡い初恋の相手だったと一花が気付いたのは、中学校になって何度か異性からの告白を受けてからの事だった。

 きっとあの時に感じた胸のときめきを今でも忘れられないのだろう。だから近付いてくる男子には何も感じなかったし、自分が誰かに惹かれる事は当分の間はないと思っていた。

 

 ───彼と再会するまでは。

 

 好奇心から始まった初恋の人との出会い。その彼との再会もまた好奇心からによるものだったのはある意味、必然と言えるのかもしれない。

 上杉風太郎。父が用意した自分達姉妹専属の家庭教師は"地味な男の子"というのが一花の第一印象だった。

 背が高くて真面目そうで少し変な髪型をした男子。家庭教師として同級生の勉強を見るという事は頭はいいのだろう。一花の初恋の相手である彼とは真逆のタイプ。けど何故だろう。不思議と彼から懐かしさを感じた。

 他の姉妹の反応を伺うと二乃は敵対心を剝き出しに、三玖は無関心、四葉とそして何故か五月が彼に協力的と別れていた。話を聞くと五月とはクラスメイトで転校初日に交流があって彼の事を受け入れているらしい。

 

 あの五月が彼を認めているという事は少なくとも悪い人ではないのだろう。四葉もお人好しではあるが妙に彼への信頼度は高いように見える。

 出会って二日で二人の信頼を得る彼はもしかすると今後、妹達ともっと深い関係になるのかもしれない。勉強へのやる気はないが彼の事は少し面白そうだと興味が湧いた。

 ここは長女としてあの真面目な家庭教師と妹達の仲を茶化しながら見守ってあげよう。

 妨害しようとする二乃を軽くあしらいながら初日の家庭教師業務を無事に終えて帰った彼を見送りながらそんな事を考えていた一花だったが、リビングで拾った生徒手帳が彼女の運命を大きく変えた。

 

 あの家庭教師が落としたと思われる生徒手帳。人の手帳を勝手に盗み見るなんて決して許された行為ではないのだが、その時の一花は好奇心が上回った。

 何か面白い事でも書いてないかな。好奇心に駆られてペラペラと頁を捲るが特別何も書かれてはいない。

 まあそう都合よく何かある訳でもないか。やや落胆しながら最後の頁を捲った時、一花はその手を止めて目を見開いた。

 一花の瞳に飛び込んできたのは"彼"だった。忘れもしない京都で出会った髪を金色に染めてピアスを付けた活発そうな男の子。

 写真は半分に折りたたまれていてもう半分は開かないと見えない。誰かと撮った写真だ。どうして彼の写真をあの家庭教師が持っているのだろうか。

 今すぐにでも写真を開いて見てしまいたいという衝動に駆られたが、その場では自重した。どうしてか自分でも分からないが、あの写真はこの場では見てはいけない気がしたのだ。姉妹全員が揃っているこの場では。

 彼と同じクラスである五月が手帳を拾った一花を見て、自分がそれを返却すると申し出たのだが一花はそれを断り自分で彼に返す旨を伝えて部屋へと駆け込んだ。

 

 念のために部屋に鍵をかけ、興奮気味に一花は写真のもう半分を開いた。

 そこに写っていたのはかつて髪型も同じであった妹の姿だった。他人では決して見分けが付かないだろうが姉妹の自分なら分かる。写っているのは四葉だ。

 ああ、そうか。そういう事か。点と点が結び付き線になっていく。

 どうして四葉が何故か妙にあの家庭教師を信頼しているのか。どうして彼から奇妙な懐かしさを感じたのか。疑問が全てが解けた。

 

 上杉風太郎こそがあの京都の少年だった。

 

 胸の鼓動が速くなっていくのが自分でも分かる。運命というものが本当にあるのならきっと彼との再会を指すのだろう。五年前に出会い、ほんの僅かな時間を共に過ごした初恋の人との再会。これを運命と呼ばずして何と呼ぶのだろう。

 彼と話してみたい。もしかしたら自分の事を覚えているのかもしれない。彼からすれば四葉だと思ってあの時に遊んでくれたのだろうけど、それでも構わない。ただ話したいのだ。ようやく名前を知れた彼と。

 

 そこから一花が行動を移したのは数日経ってからの事であった。最初は翌日に学校で生徒手帳を返そうとしたのだが、緊張して渡せなかった。一花は自分がこの手の事に関して奥手なのだと初めて実感した。

 結局、手帳を返せないまま一日、二日と経過し流石にこのままでは不味いと判断した一花は手帳に記載されていた風太郎の住所に目を付けた。どうせなら自宅に送り届けよう。そうすれば逃げ場などなく嫌でも渡せる筈。

 いきなり家に訪問するのもどうなのかと迷いはしたのだが、これ以上は長引かせるのも宜しくはない。

 ついでに言えば彼がどこに住んでいるのか知りたいという欲求も密かにある。己を奮い立たせて一花は彼の家を訪れた。

 

 出迎えてくれたのは彼の妹だった。どうやらタイミング悪く彼はまだ帰っていなかったようで、一花は手帳を預けて帰ろうとしたのだが、彼の妹らいはに呼び止めれて彼の帰りを家で待つ事になった。兄の異性の知り合いが家を尋ねて来るのは初めてだそうで、らいはは興奮気味に一花を歓迎してくれた。

 らいはとトランプをしながら風太郎の帰りを待つ最中、一花は彼の事をらいはに訪ねた。京都の時と随分と雰囲気が変わった理由を知りたかったのだ。残念ながら妹であるらいはも兄の変化に関してはあまり詳しくはなかったが。彼女が知っていたのは彼が昔はやんちゃだったらしい、と父から聞いた程度だ。

 しかし、得れた情報もあった。何でも高校に入ってから彼は変わったそうだ。それまでは勉強と家族以外の事には無関心で他人など眼中になかったのに、ある日を境にそういった短所を改めるようになったらしい。

 

 もっと詳しく話を聞こうをした一花であったが、その前に彼が帰ってきた。

 ああ、やっと彼と話せる。胸の鼓動が速くなるのを感じながら、自分を見て驚いた表情を浮かべる彼に一花は微笑みで出迎えた。

 

 ◇

 

 結論から言えば、生徒手帳を彼の家に直接届けたのは一花にとって大きな成果となった。

 あの日はそのまま彼の家で夕食を共にする事になり、彼の家族と共に卓袱台を囲んでカレーを御馳走になった。

 何処か懐かしさを感じる味に舌鼓を打ちながら一花は上杉家に打ち解ける事ができた。

 そして、何よりも二人きりで彼と話せたのが大きかった。

 彼に目的であった生徒手帳を渡して帰ろうとした一花に彼が途中まで送っていくと申し出てくれたのだ。

 共に肩を並べて歩く中、一花は意を決して写真の事を彼に尋ねた。勿論、中身を見てしまった事については予め謝った上で。

 彼はどう反応するだろうかと身構えた。写真を見た事を怒るだろうか。それとも写真の事を誤魔化すのだろうか。

 ところが一花の予想は大きく外れ、彼は素直に写真の事を打ち明けてくれた。あの子と……四葉と共に撮ったその経緯を。

 何処か嬉しそうな彼の横顔を眺めながらモヤモヤとした不快感を感じていたが、四葉と共に宿に一緒に行った件を語る中で彼は急にその優しい眼差しをこちらに向けてきた。

 

『……あの時にトランプの相手をしてくれたの、お前だったんだろ? 一花』

 

 彼の眼に釘付けになりながらも一花は衝撃を受けた。打ち明けるつもりではあったが、けれど彼が気付いていたなんて夢にも思わなかった。どうして、と尋ねると彼は迷う素振りを見せながら四葉から聞いたと答えた。

 

『四葉だけじゃない。お前にも感謝している。あの時、一人だった俺と遊んでくれたのは嬉しかったし……その、楽しかった。ありがとな、一花』

 

 前髪を弄りながら彼から感謝の言葉を贈られて一花は既知感のある高揚を味わった。かつて五人が同じ姿をしていた頃によく妹の物を取ってしまった時に感じた、あの感覚。母が亡くなり長女としての自覚を持つようになってから長らく眠っていた己の中の強烈な"個"としての欲求。

 彼と四葉の思い出を聞く中、彼にとって四葉は特別なのだと思っていた。共に約束をした彼女だけが唯一の特別なのだと。けれど違うのだ。自分も、彼にとって特別なのだ。

 全身に熱い血が巡るのが分かる。ああ、そうだ。間違いない。これはあの時、感じたものと同じだ。

 彼と遊んだあの時、初恋の人と同じ時間を過ごしたあの瞬間。

 

 改めて確信した。中野一花は上杉風太郎に恋してる、と。

 

 彼の家を訪問して以降、一花は毎日が輝いて見えた。

 あんなにもつまらないと、辞めてしまってもいいと思っていた学校も今では彼と会える素敵な場所だ。行くのが楽しみで仕方がない。

 姉妹で唯一彼の自宅を知る一花は毎朝、姉妹の誰よりも早く家を出て彼の登校路で待ち伏せして共に学校へ向かうようになった。登校中に勉強を教えてもらうという建前を用意すれば彼も断れない。

 放課後の勉強会も都合が付くなら積極的に参加するようにした。初日から参加していた五月、彼に協力的な四葉、あとはどういう心境の変化か彼に興味がなかった筈の三玖もいつの間にか参加するようになり、四人で勉強をする事も増えた。相変わらず二乃の参加率は低いようだが。

 

『一花も勉強会に参加するようになったんですね』

 

 勉強会に顔を見せた時、五月からそんな事を言われた。その時、彼女は少し困ったような表情を浮かべていた。

 姉妹の機敏な心の動きは長女なだけあって察する事が出来きる。勉強会に参加する姉妹が増えて喜ぶ素振りを見せる五月に一花はその真意に感づいていた。

 あれは何処か、納得のいっていない表情だ。それも自分が何故そんな事を感じているのか理解していない。

 

 "最初は上杉君と二人きりだったのに"

 

 自覚していない五月の心の声を一花は確かに聞いた。分かるのだ。彼女の気持ちが。

 甘えん坊の癖に甘え下手なのが五月だ。好意、とまではいかないのだろうが信頼する彼に対してほんの少しばかり子供じみた独占欲のようなものが既に見え隠れしている。彼はそれに気付いてはいないようだが。

 一花はそれを微笑ましく思った。仕方がない事だ。頑張って勉強をしても点数の上がらない自分と真摯に付き合ってくれる彼に五月がそういった想いを抱くのは理解できる。

 

 しかし本当に残念だ。長女として末っ子の淡い想いを応援したいのは山々なのだが、長女である前に一花は一人の少女である事を選んだのだ。彼を譲る気など毛頭ない。

 それに仮に他の姉妹がみな彼に惹かれるような事があったとしても一花にとって脅威と成り得るのは四葉だけだと考えている。

 彼との再会を通じて一花は運命というモノを信じるようになった。結ばれる人というのは最初から決まっているのだ。残念ながら他の三人はただ彼と家庭教師として出会っただけに過ぎない。

 だが一花は違う。一花は属さない。あの再会は自分が彼と結ばれる運命であると理解しているからだ。

 

 運命は私に味方している。そう感じたのは、姉妹にとって母との約束でもある花火大会の日だった。

 

 その日は昼から一花は上杉家をまた訪れていた。彼に家庭教師の給料を渡す為だ。

 本来、父が五月に頼んでいた用事だったが、彼の家を知っているという理由から一花自らが名乗り出てその役割を頂いた。五月は何か言いたげな様子であったが、こういう事は長女の役割だと説き伏せた。

 無事に彼に給料を渡し、その後もらいはの提案で思わぬ形で彼と妹のらいはも一緒だがゲームセンターでデートする事もできて、一花にとっては至福の時間を過ごした。

 貴重な機会を得れて満足していたのだが、今日はそれだけでは終わらなかった。

 

 偶然にも帰り道で花火大会に向かう途中であろう姉妹達と合流。らいはがそれに便乗して兄を花火大会に行こうと誘いだしてくれたのだ。

 この流れに彼は今までに見せた事のないほど露骨に顔を引き攣らせていたが、妹の誘いを断れず渋々と自分達姉妹と共に花火大会に参加することになった。

 

 ◇

 

「ねえ、フータロー君」

「なんだ?」

 

 夜の公園。遠くで妹達が花火で騒ぐ声を耳にしながら一花は風太郎と隣合せでベンチに腰掛けていた。余程疲れているのだろう、隣のベンチでは彼の妹が静かに寝息を立てて眠っている。

 

「……今日はどうして私に協力してくれたの?」

 

 波乱万丈の一日を振り返りながら一花は風太郎に視線を寄越した。

 本当に今日は色んな事があった。最初はただ例年通り花火大会に参加して姉妹で一緒に花火を見るだけの予定だったのに、急に仕事が入ってしまう出来事があった。

 半年前から始めた女優の仕事。その大事なオーディションを一花は断る事が出来なかった。

 自分のやりたい事と姉妹との約束を天秤に乗せ、一花は前者を選んだ。後で二乃に怒られるだろうなと思いながら社長の車に乗ろうとした時、彼に呼び止められた。

 きっと妹達に自分を探すように頼まれたのだろう。特に隠すつもりもなかったので一花は女優の仕事の事を彼に打ち明けた。

 

「俺は、何もしていない」

「ううん。そんな事ないよ」

 

 話を聞いた彼はオーディションに向かおうとする自分を止めるでもなく、ただこちらの頬を両手でパンと挟み一言こう言った。

 

『お前の笑顔ならきっと合格できる』

 

 瞳を真っ直ぐに見つめられながら、そうエールを送られた。頭が沸騰しそうになった。妹達との約束よりも優先して彼からも応援されて、落ちる訳にはいかない。

 彼から勇気を貰ったお陰で一花はオーディションで手応えのある演技をする事が出来た。社長からもこんな演技が出来たのかと褒められ、これなら間違いなく合格すると太鼓判を押された。

 

「フータロー君が後押ししてくれたから、悔いなく演じきれたんだよ。それに、こうしてみんなで花火を見れるように提案したのも君でしょ?」

「……花火を見るってだけなら打ち上げ花火に拘る必要がないと思っただけだ」

 

 はしゃぐ妹達を眺める彼の瞳は妹達を見守っているよう見えた。

 自分が知らない間、彼も奔走したのだろう。目に見えて疲れが出ていた。

 

「今日はごめんね。迷惑かけて」

「俺が勝手に動いただけだ。それに過度に関わるつもりはなかったんだ。俺とお前達はあくまでも家庭教師と生徒に過ぎない」

「でも、何だかんだ言って面倒見がいいよね。放課後の勉強会だって、あれお給料出てないんでしょ?」

「給料の出る日だけ授業してお前達が赤点を回避できるなら勉強会だってしねーよ」

 

 本当にそうだろうか。仮に欠点を回避できるようになった後でも五月が辺りが勉強を教えて欲しいと頼めば彼は勉強会を開いてくれる気がする。

 再会してから思ったが、どうにも彼は言葉と行動が一致しない人だ。口では家庭教師として一線を引いていると言っているのにその実は勉強以外でも自分達姉妹の相手をしてくれている。

 その事を改めて尋ねると彼は答えにくそうに沈黙を続けたがやがて観念したのか言葉を選びながら口を開いた。

 

「……前も家庭教師をしていたんだ」

「そうなの?」

「ああ。お前達に引けを取らない程の馬鹿だった……けれど、そいつには夢があったんだ」

「夢?」

「叶いっこないと思っていたんだが、馬鹿は馬鹿でも夢追い馬鹿でな。ひたむきに努力するその姿に尊敬もしていた」

「……」

「それにしっかり者だと思ってたんだ。周りの事を良く見て判断できる奴だと、一人でも何とか出来る奴だと」

 

 随分とその子の事が大事だったんだな、と彼の語る言葉から伝わってきた。

 遠い目をしながら過去を語る彼の瞳には、自分は写っていないのだろう。それが一花にとっては無性に腹立たしかった。

 

「けど、違ったんだ。もっと気に掛けるべきだった……どうしたと聞いてやるべきだった」

「その子とは喧嘩別れでもしたの?」

「……似たようなもんだな」

 

 その反省を今度は活かそうと思ったと彼は語った。一見、大丈夫そうな奴ほど気丈に振る舞い中身はボロボロになっているから、と。

 

「だからって訳じゃないが……お前も何かあれば言ってくれ」

 

 彼の語った過去を聞き終えて一花はその"前の生徒"とやらに深く感謝した。

 その子のお蔭で彼は自分をこんなにも気に掛けてくれるのだ。本当に感謝してもしきれない。

 ……ただ、いつまでも彼の心に居座るのだけはナンセンスだとは思う。彼は既に私達の、いや私のパートナーなのだ。埃被った過去の人との思い出なんてものは早急に朽ち果ててもらわなければ困る。彼にとってはもはや亡霊だ。亡霊は暗黒に還るべきだろう。

 

「あれ? フータロー君?」

 

 気付けば、彼は目を開けたまま眠ってしまっていた。そう言えば彼はあまり体力がないらしい。やはり今日は少し無茶をさせ過ぎたようだ。 

 目を開けて座ったまま器用に眠る彼の頭を抱きかかえて自分の膝へと乗せた。この方が体勢は楽だろう。少しチクチクするが、これくらいは我慢できる。

 

「君と再会できて本当に良かった……ありがとうフータロー君」

 

 短い彼の黒い髪を撫でながら感謝を伝えた。彼だけではない、もう一人。一花には感謝を伝えたい人がいる。

 

「ありがとう、四葉」

 

 あの日、遊んだ『トランプ(思い出)』はこのために……ありがとう。ありがとう四葉。本当に、本当に、『ありがとう』それしか言う言葉が見つからない。

 五年前に京都で自分と彼を巡り合わせてくれたあの子は恋のキューピットだ。彼女がいたから彼と出会えた。

 一花は愛する妹に感謝しながら己の膝で寝息を立てる彼の頬に触れるような口付けをした。

 

 

 

 ───その様子を後ろから瞳孔を開いて眺めていたリボン頭の彼女に気付かぬまま。

 

 

 ◇

 

 全ての原因があいつにあったとは言わない。けれど一花が三玖に変装したのが間違いなく転機ではあったのだろう。俺は選択肢を誤った。

 贔屓をする訳ではないが、今度はもう少しあいつを気に掛けて接していこう。大丈夫だ。今のところは全て問題なく進んでいる。

 前回と同じように花火大会では過度にあいつらと関わってしまったが、まだ想定の範囲内だ。今ならまだ家庭教師と生徒の関係を維持できている筈だ。

 

 

 

 

 



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外典 フー君強くてニューゲーム!⑤

すげー家庭教師と(自)惚れた三女の話。


 どうして私なんかに、こんなにも尽くしてくれるんだろう。

 

 上杉風太郎が中野姉妹の家庭教師に就任してから何度か彼と接していく内に中野三玖はそんな疑問を抱くようになった。

 最初は全く興味がなかった。同級生が家庭教師というのも意味が分からなかったし、今まで異性との交流もなかった三玖にとってはどう接していいのかも分からない相手だ。

 だから特別関わりを持とうとは思わない。二乃のように露骨に敵意を向けるつもりもないが距離は置くつもりだった。

 そんな三玖が風太郎に興味を示したきっかけは、彼が出題した歴史の問題だった。偶然なのか三玖の好きな戦国武将にまつわる問題ばかりでつい興が乗ってスラスラとペンを走らせた。お蔭でその日の小テストの点数は自分が一番になり少しだけ気を良くした三玖だったが、テスト中にどうしても思い出せない問題が一つだけあった。

 後になって答えを思い出した三玖は彼を屋上に呼び出して問題の解答を伝えた。モヤモヤとした気分も晴れてスッキリしたところで彼に姉妹の誰にも話していない筈の趣味の事を看破された。

 

 動揺した三玖はどうして分かったのか彼に尋ねると、自分が解いたテストを見て判ったそうだ。解答した問題があまりにも偏り過ぎていたので、もしやと思ったらしい。

 やはり同い年で家庭教師をするだけあって頭がキレるようだ。油断していた。三玖は知られたのが恥ずかしくて誰にも言わないでと懇願した。

 こんなの普通じゃない。姉妹達には知られたくない。彼もこのおかしな趣味を笑うだろうか。そう恐れていた三玖に風太郎は何もおかしくはないと諭してくれた。

 

 ───三玖の趣味趣向を俺が笑う筈がない。勿論、お前の姉妹だってそうだ。

 

 そう言ってくれたが自分には自信がない。自身を持てないのだ。他のみんなと違って一番劣る自分には。

 けれど、彼はまたしてもそんな卑屈な言葉を首を振って否定してくれた。

 

 ───他の姉妹にできてお前にできない事はない。俺はそう信じている。

 

 どうしてだろう。まだ出会って日も浅いと言うのに、彼の言葉には何故か信じてみようという気持ちが沸いてくる。この人が言うのなら本当なのだろうと感じる奇妙な感覚。

 ふと昔、誰かに同じような事を言われたような既視感を覚えた。一体なぜ。何処で、誰に。

 思い出せないけれど、きっとその人は目の前で優しく口元を緩める彼のような笑みを浮かべるのだろう。

 その日を境に三玖は風太郎に少しづつ信頼を寄せるようになっていった。

 

 風太郎との交流を重ねる事で三玖は彼を徐々に知る事ができた。

 まず驚いた事に風太郎は自分と遜色ない程、戦国武将に関する知識を持っていた。誰にも話せなかった趣味の話題に乗ってくれる彼は三玖にとって初めて共通の話題を交わせる友人だった。

 勉強ができるからそういった知識を持っているのだろうと思っていたが、それにしては教科書に乗っていない逸話等もよく知っている。もしかして自分と同じ趣味なのだろうかと聞いてみたが残念な事に彼は首を横に振った。

 どうにも以前に自分と同じ趣味を持つ子と仲良くなりたいが為にそういった知識を蓄えたと語っていた。詳しく聞くとその子も自分に自信の持てない性格で放っておけない子だったと彼は懐かしむように笑った。

 ……胸がチクりと痛んだ。せっかく風太郎と共通の話題を交わせて喜んでいたのに。

 三玖は頬を膨らませて少しだけ不機嫌そうにその話を聞いていた。

 

 もう一つ、彼には意外な部分があった。あの上杉風太郎という男……妙に異性に慣れているのだ。

 何というか、特に意識した様子もなくふとした時に彼は自分に触れてくる時がある。それは彼が出した問題を解いて褒められる時だったりだとか、勉強会で隣に座った時だとか。あとは花火大会で人混みが多い中を共に歩いた時も。

 それが無意識なのかわざとなのか三玖には分からないが、わざとなら相当な女誑しだ。きっと過去に五人は女の子を泣かせているに違いない。

 でも、彼に触れられるのは嫌ではなかった。むしろ心地よさを感じた程だ。頭を撫でてくれる時も手を握ってくれる時も、常に暖かい彼の気遣いを感じたからだろう。大切にしてくれていると言葉がなくとも伝わってくる。それを思う度に三玖は頬を朱色に染めた。

 

 そして彼を観察していく内に、どうにもこうして常に気を遣ってくれるのは姉妹の中でも自分だけなのではないかと思い始めた。

 勿論、姉妹全員に対して彼は大事に思っているのだろうが、その中でも自分への対応は一番優しい気がする。これはきっと気のせいではない。現に彼と話している最中に他の姉妹から不満気な視線を向けられているからだ。

 特に一花は露骨だ。彼女の眼は母が亡くなる前の頃を思い出す。他の姉妹からお菓子をぶんどってしまおうとする狩人の瞳。この時はまだ彼女が何故そんな眼を向けるのか分からなかった。

 五月や彼を嫌っている筈の二乃も、自分が彼に優しさを向けられる度に何か言いたげな表情を浮かべている。変わらないのはいつものように笑顔を向ける四葉くらいだろうか。

 

 本当に、どうして私にだけ……。

 他の姉妹と比べ、何の取り柄もないと自虐している三玖にとって彼が自分に対して特に気に掛けてくれる理由が何度考えても分からなかった。

 一花のように愛想良く人に好かれやすいわけでもない。

 二乃のように友達が多く、料理が得意なわけでもない。

 四葉のようにずば抜けた運動能力があるわけでもない。

 五月のように勉強に対して特に真面目なわけでもない。

 

 何もない自分を彼は励ましてくれる。少し難しい問題を頑張って解くとよくやったなと頭を撫でながら褒めてくれる。人混みで逸れそうになった時も手を繋いで一緒にいてくれる。

 その度に胸の鼓動が早くなる。とても恥ずかしくて、でも少し嬉しくて……。

 異性とこんなにも距離が近いのは三玖にとって未知の経験だ。だから知りたかった。彼が自分に向ける優しさの理由を。

 

 でも、直接は聞けない。どうせ聞いても"お前達の家庭教師だから"とはぐらかすのが目に見えている。本当にそれだけの理由なら自分はこうも彼に気を許してはいない。

 本当の事を知りたい。彼の心理を。彼の考えを。彼の思いを。

 

 だから三玖は自分なりに調べた……ネットという手段を用いて。

 異性の知り合いのいない三玖が同い年の男子の考えを知ろうとするならそれくらいしか方法が思い浮かばなかった。彼の自分に対する行動を羅列して検索ワードに打ち込んだ。 

 

『男性 スキンシップが多い 励ましてくれる』

 

 色々と出てきたサイトを調べた結果、男性が積極的に肉体的接触を図るのはその女性に好意があるからだと知った。優しい言葉や励ましも女性に対するアピールである、と。

 特に手を繋ぐ、頭を撫でるなんて好意が無ければ有り得ない。そう書かれていた。

 

 それらの情報を頭の中で整理し、三玖はある一つの結論を導きだした。

 

 ───もしかして、フータローは私の事が好き?

 

 風太郎が優しくしてくれる理由に納得がいった。彼は自分に好意を抱いている。三玖はそう確信した。

 だってそれ以外に考えられないからだ。彼が姉妹の中で自分を一番に気にかける理由なんて。

 しかしまだ出会って間もないというのに困ったものだ。これが所謂、一目惚れという奴だろうか。確かに異性によくモテる一花と同じ顔をしているのだから、容姿には割と自信はある。でも、こうもストレートに好意を向けられるとは思わなかった。

 

 正直、三玖は困惑した。気持ちの整理が付かない。まだ知り合って間もないが、上杉風太郎という男の子に対して三玖も既に好意的ではあった。

 姉妹に対して持っていたコンプレックスを見抜いてそれを励ましてくれて、しかも誰にも言えない趣味の戦国武将の話を振っても乗ってくれる。

 容姿も髪型はアレだし顔も地味だが良く見ると整っているし、背も高い。頭もいいし、面倒見もいい。それに頼りになる。

 

 彼の好ましい点を一つ一つ挙げていく内に自然と笑みを浮かべている自分に気付いた。

 

 ───あれ? 私もフータローが好き? りょ、両想い!?

 

 自意識過剰ちゃん爆誕の瞬間である。

 

 ◇

 

「今日は四人だね」

「二乃は相変わらず来ませんね」

「仕方がないよ、五月」

「フータロー君。始めようよ」

「ああ、そうだな」

 

 放課後。毎日のように開かれる勉強会に今日は二乃を除いた四人が集まっている。

 彼の両隣に一花と四葉、その向かいに自分と五月が座るのが四人で勉強会を行う時の定位置となっていた。

 勉強会が始まり暫くの間は黙々とペンを動かしていた三玖だったが、隣の五月が手を止めている事に気付いた。五月にしては珍しい。普段なら解けない問題にぶつかっても彼女は手を止めずに必死にペンを動かしているのに。

 だが、よく見ると五月は問題が解けないから手を止めている訳ではなかった。

 彼女の視線の先を見ると一花が風太郎に体を寄せて分からない箇所の質問をしていた。

 五月はそれを見て不服そうに眉をひそめている。確かにあれは距離がいささか近い気がする。しかも彼を見るその眼がどうにも色があるように思える。

 勉強に真面目な五月は集中していない彼女に不満を感じているのだろうか。

 それにしても、あれは勉強を教えてもらっている家庭教師に向ける視線ではない。どちらかと言えば異性に向けるような……もしや、と三玖はある想像を浮かべた。

 

 一花って、フータローが好き?

 

 思えば彼女が急に勉強会に参加するようになったのは妙だ。失礼ではあるが理由もなく一花が勉強に対して真面目に取り組むとは思えない。何かがあると考えるのが道理だろう。その何かがきっと彼なのだと三玖は確信した。

 姉妹の中で最も異性に好意を寄せられ、何度も告白をされては振ってきた一花がまさか彼に惚れるとは。

 きっと自分の知らない所で風太郎に惹かれる何かがあったのだろう。自分だって既に彼に心を許しているし、一花にそう言った感情が芽生えるのも不思議ではない。

 尊敬する大好きな姉が恋をしている様は三玖にとっては素直に祝福できた。

 

 ……相手が彼でなければ。

 

 口惜しい気持ちになる。あれだけ一花が熱を向けているのに、残念ながら彼の想いのベクトルは自分に向いているのだから。一方通行なのだ。彼女の想いは。

 だってそうだろう。風太郎は一花の頭を撫でたりはしないし、手を繋ぎもしない。それをするのは自分だけ。それが現実だ。

 彼にとって中野三玖は特別で、姉妹の中で一番に気を遣ってくれて優しさと愛情を与えてくれる。そこに特別な感情がない筈がない。

 

 ───ごめんね、一花。

 

 三玖は申し訳なさで胸が締め付けられた。出来れば、この場で言ってしまいたかった。

 フータローが好きなのは私だよ、と。そうすれば少しでも失恋の痛みを和らげる事が出来るかもしれない。暖簾に腕押しの彼女の想いは早期に断ち切るべきだ。

 風太郎が自分に想いを寄せている事を知れば四葉も五月も驚きはするだろうが、きっと祝福してくれるだろう。二乃はどう思うだろうか。やはり反対されるだろうか。でも何だかんだで最後は認めてくれる気がする。彼女は根は優しい子だ。

 

 もし、それを言葉に出来たなら素敵なハッピーエンドを迎えられたのかもしれない。

 けれど三玖にはそんな勇気がなかった。姉の恋を目の前で終わらせるなんて事を出来る筈がない。あの幸せそうな彼女の顔を曇らせる覚悟がまだなかった。

 いずれは決着を付ける時が必ずくる。今はまだ自分が風太郎の想いに察しただけではあるが、もしも彼から告白をされたなら三玖も腹を括られねばならない。

 

「三玖、どうかしたか?」

「……え?」

「さっきから手が止まっているぞ」

「……ううん、何でもないよ」

「そうか。ならいいが……五月、お前は?」

「ッ!? い、いえ、あ、その……ここの問題が」

 

 いけない。つい深く考え込んでしまっていた。席を立って隣の五月に問題の解説をする風太郎を横目に三玖は一花の顔を窺った。

 予想通り、彼女は風太郎に夢中で視線をずっと彼に向けていた。やはり彼が気になるのだろう。でもあまりに露骨過ぎる。あまりに不自然だ。そのせいでさっきから四葉は隣の一花を凝視していた。きっと姉の行動に疑問を抱いるのだろう。無理もない。

 この状況、中々ややこしい状況だと三玖は思った。

 風太郎は自分に好意を抱いていて三玖自身とは両想い。その風太郎に想いを寄せている一花は勉強会中でも自身のアピールをするが、それを不審がる五月と四葉。

 

 こんなところだろうか。それぞれの抱く思惑を恐らく全てを把握しているのは自分だけだろう。ここにもし二乃がいれば彼女も一花の行動を疑問視して、彼女の想いに気付くかもしれない。そうなれば相談して少しは状況をマシに出来るのだろうが、ないものねだりだ。

 

 ───私達、大変だね。フータロー。

 

 彼はまだ何も知らないのだろう。それが羨ましい。

 いつか共に想いを告白した暁には今の気苦労を彼に聞かせてやろうと三玖は誓った。

 もはや気分は恋人同士である。互いに両想いなのだから実質恋人だ。間違いではない。

 

 

 ◇

 

 前の時もそうだったが、三玖は姉妹の中でも一番卑屈な奴だ。自分に自信がなくて、ふさぎ込む傾向にある。

 だからそのコンプレックスを少しでも和らげようと接した。

 ……少し甘いのではないかと思ったが仕方がない。前回に一花が言ってたような頭を撫でてやるといいみたいな話を思い出して実践してみたが効果的だった。

 教育関係の本にも書いてあったが褒めて伸ばす、というのも重要だそうだ。特に三玖のような自信のない奴にはそういう方法がいいと聞く。

 やはり先人の知恵は素晴らしい。馬鹿に出来ないものだ。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言う。ならば愚者の経験と賢者の歴史を併せる事のできるこの状況は僥倖だろう。

 前回よりも早くあいつらとの信頼関係を築けていると確かな手応えを感じる。

 今のところは良き生徒として、或いは良き友人として関係を築けている。それは三玖だけではなく勿論、他の姉妹とも。

 二乃はまだ距離を置かれているが、少しは改善された関係になりつつある。あいつに関しては急ぐ事はない。ゆっくりと時間を掛けて信頼関係を築いていけばいい。まだ時間はあるのだから。

 それにあいつも勉強会はともかく、家庭教師の日には一応は席には付いてくれる程度にはマシな関係ではあるんだ。前に比べたら大きな進歩だろう。

 とりあえず、これで全員とは授業になる形まで一応の関係は作れたのは大きい。少しは一安心、と言ったところか。

 これで条件は全てクリアされたも同然だ。あとはイレギュラーさえなければこのまま全員を笑顔で卒業させるだけだ。

 とはいえ油断は大敵だ。今は次の中間試験に向けて気を引き締めなければ。

 

 ◇

 

 五つ子中間報告

 

 一花 フー君と結ばれる運命にあると信じて疑わない。上杉家との関係も良好でニッコニコ。恋も仕事も成就させなきゃならないのが長女の辛いところ。

 二乃 まだフー君の事を完全には認めてはないが時間の問題。ここ最近、何故か彼とバイクに乗ったり混浴に突撃したりと妙な夢を見る。

 三玖 フー君は自分と両想いなのに一花がフー君に惚れている。どうしよう、とお悩み中。一応、四葉には相談してみた。

 四葉 嘘つきは泥棒の始まりと云うが泥棒から始まる嘘つきが身内にいるのを知る。また別の姉のふざけた妄想(げんそう)をぶち殺さなければならない予定ができた。

 五月 最近、フー君の事ばかり考えて食欲が落ち気味&勉強会でフー君の両隣をキープしだした姉達に対してのモヤモヤが日々大きくなってそろそろ限界。

 



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外典 フー君強くてニューゲーム!⑥

すげー家庭教師と五つ子達が中間試験試験に向けて頑張る話。


 中間試験も間近に迫ってきた。前の学校に比べ試験が緩いとは言え中野姉妹にとっては難関である事には変わらない。それに今は家庭教師まで付けて貰っているのだ。ここで酷い点数を取れば父にも彼にも申し訳が立たない。

 普段以上に気合いの入った五月はホームルームを終え下校のチャイムと共にクラスメイト達がぞろぞろと教室を出る中、前の方の座席にいる風太郎へと真っ直ぐに向かった。

 

「上杉君、いいですか?」

「なんだ?」

「今日の授業で分からなかった所があったので上杉君に教えていただこうと思いまして」

「そうか。なら勉強会の時に」

「いえ、今すぐに教えて欲しいんです」

「……? 構わないが」

「ありがとうございますっ!」

 

 怪訝そうに首を傾げる風太郎をよそに五月は空いた彼の隣の席を拝借して彼の机と引っ付けた。この時の彼女の動きはいつになく俊敏だった。

 こうして風太郎と隣り合わせで勉強をするのは五月にとっては随分と久しぶりだ。他の姉妹達が勉強会に参加するようになってから彼の隣を座る機会がめっきり減ってしまった。

 その原因は主にいつも風太郎の隣を占拠している四葉と一花の二人だ。今となっては彼の両隣はもはや彼女達の定位置と言っても過言ではない。

 当然、彼はそれに文句を言う筈もなく寧ろ姉妹の中で一番勉強のできない四葉と仕事の関係で毎回勉強会に参加できない一花が隣にいる方が都合がいいとすら思っているような節がある。

 確かに自分達姉妹の成績向上を目的とする彼からすれば、その方がいいのだろう。それは分かっているつもりだ。

 だが、理解しているのと受け入れるのとでは話が違う。何故、彼の隣をあの二人が我が物顔で独占している。その席に最初にいたのは私だ。

 大切な姉達の筈なのに最近の五月は彼女達にそんなモヤモヤとした感情を抱くことが多くなっていた。それが何かは彼女自身まだ正体を掴めていないが不快な気分なのは確かだ。

 

 それだけじゃない。最近は他にも気になる事がある。彼の事だ。

 どうしてだろう。日を増すごとに五月の思考は上杉風太郎を占める割合が高くなってきている。彼の傍にいると言葉では言い表せない心地の良さを感じるからだろうか。

 明日はどんな授業だろう。問題を解ければ彼はよくやったなと褒めてくれるだろうか。そんな事ばかり頭に浮かんでしまう。それが原因か分からないが食欲も常人の三倍から二倍になる程度には落ちてしまった。彼を想うと何故かお腹も胸も満たされるのだ。

 事実こうして彼と隣合せで勉強を教えてもらうこの僅かな時間でも、五月にとって大好きな食事の時間と同等の幸福を感じていた。

 

「そう言えば五月、お前に聞きたい事があるんだが」

「何ですか?」

「お前の親父さんから俺に何か連絡とかなかったか?」

「お父さんから?」

 

 二人きりの時間はあっという間に過ぎ去り、一通り解説を終えた風太郎がそんな事を聞いてきた。いまいち意図の見えない質問だ。風太郎と父の間で家庭教師に関する事で何かあったのだろうか。

 心配になって五月は彼の顔を覗き込んだ。

 

「いや、心当たりがないならいい」

「何かお父さんとあったのですか?」

「別にそういう訳じゃない。雇い主であるお前の親父さんにノルマを課せられるんじゃないかと思っただけだ。中間試験も近いしな」

「ノルマ、ですか」

「ああ。たとえばお前達が全員赤点を回避できなきゃクビ、とか」

「それは流石に……」

 

 いくら何でもそんな無茶なノルマは課さないだろう。少なくとも父は自分達の成績をよく知っている筈だ。こんな短期間で赤点を回避できる頭ではない事も。

 確かに彼のお陰で少しずつだが解ける問題が増えているとは身をもって実感はしている。だがそれでも全て欠点を回避できるかと聞かれたら首を横に振らざるを得ない。

 今のところ放課後の勉強会に皆勤の自分ですら達成できそうにないのだ。他の姉妹なら尚更だ。

 それに父は風太郎の事を評価していると思う。何故なら毎日のように四葉が彼を家庭教師にしてくれた事を感謝する旨と共に彼との学校生活を父に嬉しそうに報告しているからだ。一花も似たような電話を父にしていたのを見た記憶がある。

 少なくとも、父は娘達から評判のいい家庭教師を達成不可能なノルマを課して解雇させようとするような人ではない。

 

「一花に聞いても特に知らない様子だったんだが、お前もそうか……妙だな。前とは違うのか」

「……一花に」

 

 顎に手をやりながら呟いた風太郎の意味深な言葉よりも五月にとっては一花と彼が口にした方がよっぽど気になって仕方がなかった。

 まただ。また、一花だ。

 あの長女、どういう訳か勉強会に参加するようになってから姉妹の中でやけに彼との距離が近い。

 先日もそうだ。朝、家を出るのが早いと思っていたら案の定、彼と共に登校していて偶然にも五月はそれを見かけてしまった。その時、無意識に歯を食いしばってそれを眺めていた自分に驚いた。

 

 そもそも、おかしな話じゃあないか。

 どうして彼女だけが風太郎の住所を知っているんだ。彼は一花だけの家庭教師じゃない。自分達姉妹全員の家庭教師なのに。

 どうして彼女が風太郎に給料を渡す役割を担っているんだ。その役目は元々父から自分に頼まれていた筈だ。一花ではない。

 どうして彼女が彼の隣をいつも独占しているんだ。そこに最初にいたのはこの私だ。中野五月だ。一花だけじゃない四葉も。

 思い返すだけであのモヤモヤが胸の中で再び渦巻いた。黒い暗いドロドロとした何か。

 上杉君は最初に私が最初に仲良くなった筈なのに。どうして、どうして、どうして。

 

「もしそんなノルマを課せられたら、その時はお前が頼りだ」

「……えっ?」

 

 沸々と湧き出そうになっていたがおぞましい何かが風太郎の一言で胸の奥に引っ込んだ。

 

「いいか、五月。お前はやれば出来る奴だ」

「私がですか?」

「今まで勉強を出来なかったのも飲み込み方が悪かっただけに過ぎない。それさえ改善できればきっと点数は伸びる」

「そ、そうでしょうか……」

「ああ。お前には伸び代がある」

「でも今は勉強会に参加していない二乃とそんなに変わらない気がします……」

「確かに今はまだ団子状態だ。だが五月は他の姉妹よりも多くの時間を勉強に励んできた。その糧がお前の中で確かに積もっている筈だ」

 

 彼はたまにこういう時がある。何の前触れもなく自分の心を大きく揺るがすような言葉を飾る事なく平気で放ってくるのだ。今も、こうして自分の実らなかった今までの努力を肯定してくれた。

 それにただ全てを肯定する訳ではなく、欠点も指摘した上で自分を見てくれている。上杉風太郎は中野五月という個に対して真摯に向き合ってくれているんだ。

 ああ、そうか。漸く理解した。彼と共に過ごす事で感じる心地良さの正体を。

 彼からは父性を感じるのだ。暖かく見守ってくれて、それでいて頼りになって、自分と向き合ってくれる。

 表には出さなかったが家に帰っても姿のない今の父に寂しさを感じていたのは確かだ。母であろうとする自分が父性を求めてしまうのは道理かもしれない。

 もっと構って欲しい。もっと見て欲しい。もっと話して欲しい。そんな心の何処かで求めていた父性を彼は満たしてくれた。

 

「その今まで積み重ねてきたものが噛み合えば、きっとお前が姉妹の中で一番になる筈だ」

「私が、姉妹の中で一番……」

 

 彼の言葉を何度も胸の中で推敲する。心臓の鼓動を早くなり、緊張して五月は体を強張らせた。

 髪を弄りながら彼の顔を伺うと真剣な眼差しを向けられていた。やはり冗談で言っている訳ではない。彼は本気で言っているのだ。だから余計にタチが悪い。

 

「そうなれば俺と一緒に他の姉妹にもっと効率よく勉強を教えられるだろ? どんなノルマも俺達なら乗り越えられる筈だ」

「はいっ!」

 

 風太郎に勉強の事で頼りにされた事は確かに嬉しかった。上杉風太郎は中野五月の父になってくれるかもしれない男性なのだ。その"父"から頼りにされて嬉しくない筈がない。

 だけど、それ以上に彼が自分を姉妹の中で一番だと言ってくれた事の方が五月にとっては心に響いた。

 

 ◇

 

 結局、中間試験で風太郎が懸念していたようなノルマは課せられなかった。

 五月も念のために父に確認を取ったが今のところはそのような予定はないとの事だった。毎日のようにかかってくる娘達からの報告を聞いて彼が家庭教師として責務を果たしていると判断しているようだ。

 それを風太郎に話すと、彼は怪訝そうな表情を浮かべていたのが五月には不思議だった。酷なノルマを課せられずに済んで喜ぶものだと思っていたのに、彼の反応はどちらかと言えばその逆で困惑した様子だった。妙に達観している中野姉妹専属家庭教師だが、意外と心配性なのかもしれない。

 ともあれ、五月からすれば気負わずに中間試験に挑める。流石に彼の家庭教師存続がかかった試験となると緊張してしまうが、これで懸念事項は無くなった。

 ほっと胸をなでおろした五月であったが、そんな彼女の心を揺るがす出来事が、家庭教師の日に起きた。

 

「ねえ、フータロー君、一ついいかな」

「どうした一花。分からない箇所でもあったか?」

 

 今日も中野家で行われた家庭教師による授業は昼過ぎから始まり、既に日が暮れていた。

 勉強会と違って風太郎を含む六人でテーブルを囲っているが、その両隣は相変わらずあの二人だ。その片方である一花が風太郎に肩を寄せながら猫なで声を出した。

 甘えていると言えば聞こえはいいが、悪く言えば媚びている。一花のクラスメイトの男子が彼女にあんな風に迫られたら一瞬で堕ちるだろう。

 最近、一花があんな調子なのは既に姉妹全員に知れ渡っている。二乃はそんな長女に眉をひそめ、三玖は仕方がないなと諦観気味に、四葉はいつもの笑みで、五月はモヤモヤを胸に宿しながら妹達は姉の様子を伺っていた。

 

「もうすぐ中間試験だよね」

「ああ、だからこうして今日は普段よりも延長して授業をしているんだろ」

「うん。けど今のままだと正直、赤点は免れないと思うな」

「……だろうな。多少は解答欄を埋められるようになったとはいえ、そこまで俺も楽観視しちゃいねえよ」

「でも、私達だって勉強してきたんだし少しは良い点数を取りたいって思ってるんだ」

 

 嘘だ、と妹達の心の声がシンクロした。何か企んでいると四人全員が確信した。あの眼が何よりの証拠だ。

 長女のあの眼。妹達はそれを決して忘れたりはしない。かつてお菓子を勝手に食べ、おもちゃを強奪し、傍若無人の限りを尽くした圧制者の瞳だ。

 

「だから、思い切ってお泊まり勉強会ってのはどうかな?」

「……なに?」

「ちょっと一花! あんた、なに言い出すのよ!?」

「二乃の言う通りだ、一花」

 

 真っ先に声を荒げたのは二乃だった。当然だ。彼を家に上げるのは渋々認めてはいるが泊まるとなると話は別である。それに追随して風太郎も二乃に同調した。

 一花の投下した爆弾に二人とも動揺しているようだ。他の姉妹はどうだろうかと五月は三玖と四葉を見ると彼女達二人は笑みを浮かべて事を見守っている。どうやら彼女達は一花の意見に否定的ではないらしい。

 しかし、家庭教師と生徒の関係とはいえ年頃の男女が泊まるというのは如何なものだろうか。彼は"父"であるが、同時に同い年の男の子でもあるのだ。

 思春期の男子高校生にしては達観している彼ではあるが、何か間違いが起きないとは限らない。それに寝る部屋はどうするのか。誰かの部屋で、それこそ提案した一花の部屋で泊まるのか。いや彼女の汚部屋で客人を寝泊まりさせるのは流石に失礼だ。

 仕方がない。ここは自分が一肌脱ごう。彼を自分の部屋に寝かせれば全て丸く収まる筈だ。

 自分は他の姉妹と一緒に寝ればいい。いや待て。一花は汚部屋、二乃は一人で寝たがるだろうし、三玖と一緒だと毛布を強奪される可能性がある。寝相の悪い四葉は論外。

 そうなると彼と一緒に寝るしかないではないか。ああ、これは仕方ない。故意ではない。自然の流れでそうなるのだ。どうしようもない。

 そして共に同じベッドで眠りに着いた後、ふと夜中に目が覚めると彼の顔が直ぐそこにあるのだ。高鳴る鼓動と湧き出る好奇心。

 眠る彼に手を伸ばす。まだ起きない。女性とはまた違った異性の感触。頬、唇、首筋、胸板と触れる手はどんどんと下へと向かっていく。そして等々"そこ"に辿り着いた。

 ゆっくりと撫でるように触れていく。すると不思議な事に段々と硬い感触になっていくのだ。恐る恐るそれを直接触る。思わず息を飲んだ。

 ただの杉ではない。太く大きな縄文杉と呼ぶべきか。上杉君の縄文杉君。上縄文杉風太郎……略して縄太郎(ジョータロー)だ。上縄(ジョジョ)と呼んでもいい。縄太郎に触れながらさっきよりも速く脈打ち、呼吸が乱れる。

 そして、風太郎の腹部に下部から粥のごときものがあふれ出た。

 

 ……なるほど。こういう未来が待っているのか。これは他の姉妹ではあまりに刺激が強すぎる。やはりここは母役を名乗り出ている自分の役目だろう。

 風太郎が泊まるかもしれないと聞いて、実際にそうなった場合のぱーふぇくとぷらんを五女は一瞬で練り上げた。

 

「生徒の家に"また"泊まってまで勉強会をするなんて……」

 

 が、彼が何気なく発したその言葉で全てが瓦解した。自分を含め姉妹達全員が表情を無にした。

 パキリ、とまるで空気が軋む音のように聞こえた"それ"は四葉が手に持っていた鉛筆をへし折った音だった。

 

「あの、上杉さん」

「どうした、四葉」

 

「また、ってどういう意味ですか……?」

 

 五つ子達の視線が家庭教師に注いだ。

 

 ◇

 

 前の生徒。時折、風太郎の口から明かされていたその存在は所詮は過去の人間だと思っていた。数ある彼が出会ってきた人間の中の一人だと。今は関係のないタダのモブだと。

 けれど、違った。違ったのだ。忌まわしき過去は未だに彼に纏わり着き、今を共にする自分達姉妹をこうも不快にさせる。ああ、実に不愉快だ。過去は過去らしく深く底に埋もれていればいいものを。

 

「みんなはフータロー君が言ってた"前の生徒さん"について何か知ってる?」

 

 結局、風太郎は中野家に泊まる事になった。風太郎は最後まで渋ってはいたが途中で渋々折れる形で泊まる事を了承した。

 過去に生徒の家に泊まった経験があるのなら今回自分達の家に泊まってはいけない道理はない。そう言って四葉と一花が迫ったのが決め手になったのだろう。特にこの二人の圧は凄まじかった。

 一花も早々に彼の妹に泊まる旨を連絡したので抜かりはない。当然、父が帰ってくる事もないので結果としては長女が望んだ通りの展開となった。

 しかしながら、彼女の顔は浮かないものであった。一花だけではない。他の姉妹も同様に。

 彼が風呂に入っている間、姉妹達はテーブルを囲い五人が顔を見合わせていた。そこには重々しい空気が漂っていた。

 そんな中、一番最初に沈黙を破ったのは一花だった。

 

「フータロー君さ、たまに話してくれるんだよね。その子の事。楽しそうに笑いながら」

 

 曰く、その生徒はしっかり者で、周りの事を良く見て判断できる子で、夢があって、でも気に掛けて上げなければならない子だったそうだ。

 

「そう言えば、あいつから似たような話を聞いたわ」

 

 曰く、その生徒は最初は風太郎に敵意を剝き出しにして、家族想いで、料理もプロ並みに上手で、作るお菓子は凄く美味いそうだ。

 

「私もフータローから聞いた」

 

 曰く、その生徒は自分に自信がなく風太郎はその子の事を放ってはおけなかったそうだ。

 

「……私も上杉さんから聞いたよ」

 

 曰く、その生徒は超弩級の馬鹿でリボン頭をした女の子で、風太郎はその子に救われたことがあったそうだ。

 

「私も聞きました」

 

 曰く、その生徒は真面目でどうしようもなく不器用で要領の悪く意地っ張りで何度も衝突したそうだ。

 

 総括するとその"前の生徒"とやらは夢があって料理がプロ並みで自信の持てない性格で放っておけない子でリボンを付けていて、真面目な子だが超弩級のどうしようもない馬鹿らしい。そんな子を風太郎は気に掛けており彼女に救われた事もあり、また今日のようにその子の家に泊まって勉強を教えた事もあったそうだ。

 

 ……何だこれは。まるで自分達姉妹の要素を全て掛け合せたような存在だ。言うなれば究極完全態グレート・ナカノ。或いは(ファイブ)(ゴッド)(ナカノ)とでも呼ぶべき少女。

 それが彼をいつまで縛る枷となっている。あまりにも彼が可哀想だ。聞けばその子とは喧嘩別れをしたそうではないか。そんな負の思い出なんていつまでも引きずるべきではない。もっと前を向いて新たな人と別の道を歩むべきだろう。

 

「もうフータロー君も酷いよね。今は私達の先生なのにずっと前の子を気にしてさ」

「私は別にどうでもいいけど……でもその子と比べられてるとしたら何かムカつくわ」

「大丈夫だよ、フータローはもう私達だけを見てる」

「私もそう思うよ。それにただの生徒だしね……その子も皆も私とは違うよ」

 

 ポツリと四葉が最後に呟いた言葉は聞き取れなかったが、大方姉妹全員があの"前の生徒"にあまり良い感情を抱いていないのは確かだ。

 五月だってそうだ。いつまで彼に他の人と比べられたくはない。何よりもその子の事を嬉しそうに語る彼の顔を見たくないのだ。

 

 どうすれば、彼はその子を忘れて自分達だけを見てくれるだろうか。

 

 その時はまだ、ただ彼に自分達だけを見て欲しいという欲求だけだった。それだけで、良かった。

 

 

 



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外典 フー君強くてニューゲーム!⑦

すげー家庭教師が五つ子と共に素敵な林間学校に行く話。


 家庭教師である彼が中野家に泊まり込み、勉強漬けで臨んだ中間試験は他人と比べれば悪い点数ではあるものの、中野姉妹基準で言えば大いに健闘した結果となった。

 特に今まで勉強をしても伸びなかった五月は漸く実った結果に大はしゃぎで勢いのまま風太郎に抱きついて感謝していた。そんな彼女に一花は不満気な顔をしていたが、四葉はその程度では動じない。ただ静観を貫いた。

 私の風太郎君に抱き着いたから何だと言うのだ。別に何てことはないし五月の抱擁は感謝以外の意味合いは込められていない筈だ。可愛い無垢な妹が友人とじゃれているだけじゃあないか。自分は姉とは違う。そのような些末事で心を乱す中野四葉ではないのだ。

 何故なら自分と彼には他の姉妹にも”前の生徒”にもない、絶対的な絆があるからだ。現に今もそうだ。こうして絆を確かめ合っている。

 

「五月、すごく喜んでたね」

「いくら何でもはしゃぎすぎだ。あの程度の点数で満足してたら困る」

 

 昼休み。解放された校舎の屋上で二人で肩を並べて昼食を共にするのが習慣になったのはつい最近だ。給料の出ない平日も彼に勉強会を開いて貰っているお礼として四葉は毎日のように風太郎に自身が握ったおにぎりを提供していた。お礼を抜きにしても彼があんな質素な食事をしているのを見て見ぬふり等出来なかった。

 流石に最初はそれを拒んでいた風太郎であったが、あれで彼は意外と押しに弱い事を四葉は五年前に京都を回った時に知っている。押せば通るのだ。予想通り最終的には仕方ないと嘆息しながら折れてくれて一緒に昼食を取ってくれるようになった。

 

「それにお前達相手じゃ多少成績を上げたところで油断はできねえよ」

「あはは、風太郎君は厳しいね」

「お前もあれで安心してはいないだろうな、四葉」

「もちろん。次は姉妹で一番を目指すつもりだよ」

 

 勉強に関しては過去に挫折した苦い経験があるが、それも彼と一緒なら乗り越えられる。二人でならどんな試練でも打ち勝てる。それに今回の試験、姉妹で一番の成績を収めた五月が彼に褒められていたのを見て、四葉の中で火が付いた。

 別に嫉妬ではない。そう断じて醜い嫉妬等ではないのだが、自分だって彼に褒められたいのは確かだ。彼の口から自分が姉妹で一番だと言って欲しい。ただ彼からの言葉が欲しかった。それだけで四葉は満たされるのだから。

 

「姉妹で一番か。随分と大きく出たな」

「できるよ。だって風太郎君と一緒だもん」

 

 風太郎の肩に頭を預けながら四葉は多幸感に包まれていた。まるで恋仲にある男女のように甘えているが、この程度の事なら彼は決して拒絶したりはしない。四葉には分かるのだ。彼の中にある線引きが。

 彼はあくまでも家庭教師で在ろうと線引きをするが、その境界線は自分に対してだけは曖昧になる。今が正にそうだ。その理由は偏に自分が彼にとって『家庭教師と生徒』という枠組みを超えた特別な存在であるからだと四葉は確信している。

 一花でも二乃でも三玖でも五月でもない。この中野四葉だからこそ彼はここまで許容するのだ。他でもない自分だけに。あの時に出会った自分だけに。

 かつて檀上に上がり表彰されながら自分を見上げる姉妹四人を眺めた時よりも深く甘く蕩けてしまいそうな優越感は四葉の中に眠っていた自尊心を擽り臍の下が電撃が走ったように疼いた。

 

 ──風太郎君とこうしているだけで私は幸せだよ。

 

 この昼休みの僅かな時間は四葉にとって至福の時であった。誰にも邪魔されず、彼と二人きりで過ごす優しく流れる愛おしい自分達だけの世界。この時だけ四葉は砕けた口調で彼を『風太郎君』と呼び、リボンを解いて素の自分を曝け出していた。

 ありのままの自分を彼は認めてくれる。リボンなど無くても同じ姿の姉妹から彼は自分を見つけてくれる。この姿で彼に名前を呼ばれる度に自身が絶対的な立ち位置にいるのだと再確認できる。

 

 ──”あなた”も風太郎君とこういう事をしていたんですか?

 

 彼の口から何度か語られた"前の生徒"を思い浮かべた。他の姉妹達から聞いた彼女の話を統括すると、彼女もまた彼にとってかけがえのない存在であったのが分かる。自分がいない間はきっと彼女が風太郎の隣にいたのだろう。それは認める。否定できる要素がない。

 しかし所詮はそれも過去の話だ。過去なんてものはどう足掻いても今には勝てないのだ。思わず笑いが込み上げてきた。

 

 ──喧嘩別れしたあなたは風太郎君の前から消失、一方私は今では彼に必要とされ、こうして隣にいます。随分と差がつきました。悔しいでしょうね。

 

 彼が懐かしむように、そして何処か寂しそうに笑みを浮かべる度に何度拳を握りしめた事か。

 けれど、それもお終いだ。彼女は思い出になったのだ。ただの記憶の残骸に。

 

 ──今でも風太郎君の中で"あなた"の事は強く印象に残っているんだと思いますよ。絆も、思い出も。だけど、まるで全然、この私には程遠いんですよね。

 

 四葉は違う。彼の思い出になどなってたまるか。私はずっと彼の隣に在り続ける。

 

「あ、そうだ。もうすぐ林間学校だね」

「そう言えばそうだったな」

 

 中間試験の話題を打ち切ってわざとらしく林間学校の話を彼に振った。というのも今日はこれが四葉にとっての本命であるからだ。

 何でもこの学校の林間学校はとある伝説があるそうだ。キャンプファイヤーのフィナーレで踊っていた男女は『魂が繋がれ何度生まれ変わっても未来永劫共に在り続ける』という伝説が。

 昔はもっとありきたりな話でここまで仰々しいものでなかったそうだが、何時の間にか尾ひれはひれをついて変貌したらしい。まあ今時の女子はこれくらいオーバーな話の方がインパクトがあって好むだろう。女子高生とはそういう生き物だ。四葉もその例に漏れない。

 

 ──風太郎君と一緒に踊りたいな。

 

 伝説を初めて聞いた時、真っ先に彼の顔が思い浮かんだ。家庭教師であり、友人であり、思い出の人であり、恩人でもあり、想い人でもある大好きな彼の顔を。

 いつから彼に惹かれたのかと問われたら、間違いなくあの日からだ。京都に出会った思い出の日に中野四葉は初めての恋をした。それからずっと四葉の心には彼が居た。

 初恋なんてものは実らないとよく言うが、四葉は違うと断言する。きっと実らないのはその子達の想いと愛が足りなかったからだろう。運命的な出会いと再会を果たした自分達はきっと結ばれる。そう確信している。

 四葉がよく好んで見る夕方にやっているアニメでも幼馴染というのは総じて主人公と結ばれてハッピーエンドを迎えている。物語というのはそういう物なのだ。それはきっと自分と彼も同じ。

 例えばの話だが、相思相愛の幼馴染の男女がいてその女の姉が男を横取りして結ばれる話があっても誰も喜ばないだろう。少なくとも四葉はそんなアニメがあれば録画したそれをすぐさま削除する。そんな強欲で貪欲な姉が許される筈がない。フィクションであっても泥棒は良くない。何故人から盗むのか。それが本当に理解出来ない。

 

「風太郎君は知ってる? 林間学校の伝説」

「確か、キャンプファイヤー云々でって奴だろ」

「意外だよ、風太郎君が知ってたなんて……もしかして興味あったの?」

 

 聞いてみたものの、何となくだが彼はこの手の俗っぽい話題は鼻で笑いそうだと思っていた。そもそも伝説すら知らないだろうと。

 ところが意外な事に彼は既に伝説を知っているようで四葉は目を丸くした。

 

「前に……いや、たまたま耳にしただけだ」

「そうなんだ」

 

 前髪を弄りながら答える風太郎に四葉は微笑みを返したがその内心は余り穏やかではなかった。

 彼と再会したこの短期間で既に四葉は風太郎の癖や仕草を見抜けるようになっていた。勉強会でも家庭教師の日でも常に彼の隣をキープし観察し続けてきた努力の賜物である。だから風太郎が仮に嘘を吐こうものなら一目で分かるし、隠し事をしているのだって分かってしまう。別に彼を疑う訳ではないが、将来的には人生を共にする男性であるのだからこのような技量を身に付けるのは損ではないのだ。

 彼が前髪を弄る仕草を見せる時は何か感情を隠している時が多い。そうだと仮定して今度は何故、彼が何を隠しをしているのかという疑問が出てくる。伝説に纏わる事で何かを隠したがっている。それはつまり……。

 

 ──もしかして風太郎君は既にキャンプファイヤーで踊りたい相手がいる?

 

 ぎしり、と四葉の奥歯に自壊しかねない程の圧が掛かった。これはただの仮定だ。憶測の域を出ない。

 だが、彼に自分以外でそんな異性がいるという仮定が存在すること自体が四葉にとっては赦し難い事であった。

 さっきまで満ち溢れていた暖かな幸福感はすっかりと失われ、代わりに胸の中が氷のように冷たい怒気が滲み出た。

 

 ◇

 

 全てが前と同じではないと思い知らされたのは、中間試験からだ。俺の行動が前回と違うのだから当然と言えば当然なのだが、まさかあいつらの父親からノルマを課せられる事なく最初の試験を迎えるとは。

 蝶の羽ばたきが竜巻を起こすと云われるように僅かな変動で大きく事が変化するのだと肝に命じておいた方がいいだろう。

 今回は『中間試験でノルマを課せられなかった』という俺にとって都合のいい結果になったが、次もそうなるとは限らない。前回よりも最悪な事態が起きる可能性だって当然あり得る。

 細部までは覚えていないが、あの林間学校の伝説とやらも前回と少し内容が異なる気がする。あまり関係はないだろうが、それも何らかで生じた変化の影響だろうか。

 だが、俺の見えている範囲で起きる変化ならまだマシだ。本当に怖いのは見えていない場所で大きな変化が起きていた場合だ。気付いた時にはもう遅い、という結末だけは絶対に避けなければならない。

 なるべく慎重に事を運ばなければ。幸いにも、林間学校を控えたこの時点では確実にあいつらとは前よりも信頼関係を結べている。それも健全な家庭教師と生徒、或いは友人同士として。

 四葉が前よりも心なしかスキンシップが多い気がするが前回もあいつは何かと距離の近い奴だったので特に問題はないだろう。それに過去を開示しているのだから気の許せる友人としてああいう態度も納得がいく。

 

 可能であれば二乃とももう少し距離を縮めていきたい所だが、この林間学校で何か変化があるだろうか。前回と違い、らいはが体調を崩す事なく前日の夜を迎えてしまったが、このまま何もなく平穏な林間学校になればいいんだが。

 とにかく今は前のように面倒な誤解を生むような事が起きないよう祈るしかない。

 

 

 ◇

 

 少女というのは誰だって白馬に乗った王子様という存在に一度は憧れを抱くものだ。童話に出てくるようなキラキラと輝く王子様と結ばれるヒロインになりたいと。

 けれどその憧れを幼少期を過ぎ高校生になった今でも抱き続けるとなると中々に珍しい話になる。理想を諦めて現実が見えてく頃合いだからだ。

 だが中野二乃は未だに夢見る少女であった。乙女の彼女は今でもいつか現れるであろう王子様に憧れを抱いている……が、待てど暮らせど王子様が舞台に登場してくれないのが現状だ。

 

 前に在籍していた女子高と違い今の学校は共学だ。男子がいる。そこに素敵な出会いを期待していなかったと答えれば嘘になる。少女漫画や映画に出てくるような素敵な男性がいるのではないかと少しは期待に胸を膨らませた。

 しかしながら現実は非道である。蓋を開けてみれば気立ての良い姉に集る蠅しかいないのだ。最初は二乃も何度か男子に話しかけられた事もあったが持ち前の気の強い性格が災いして転校して一週間も経てば彼女の周りには女子の友達だけであった。例外があるとするなら家庭教師である彼が自分の周りにいる唯一の男子なのだが、彼は気に入らないので除外だ。

 一応、初対面の時と比べて彼の事は多少は認めている。花火大会の時もバラバラになってしまった姉妹を奔走して繋ぎ合わせてくれたのは彼だ。それには感謝している。だが、姉妹が彼と仲睦まじく話している様を見るとどうにも腹立たしいのだ。

 

 それに彼は自分の好みとは正反対の容姿をしている。二乃が恋をするとしたらそれは王子様しかあり得ない。

 出来れば派手な格好が似合う人がいい。髪を染めていて、それでいて男らしさがあって。現代社会で白馬は流石に無理があるので代わりにバイクなど運転できて後ろに乗せてもらえればグッドだ。何故か最近、あの家庭教師とバイクに乗る奇妙な夢を見たが、彼には似合わないだろう。

 とにかく、そんな素敵な男性との胸が昂る出会いがないだろうか。

 周りの女子がキャンプファイヤーでの伝説に盛り上がるのを眺めながら二乃は叶わないと分かっていながらも、そんな事を願いながら林間学校に向かうバスの中で溜息を吐いた。

 

 そんな諦め半分だった乙女の夢を運命の女神は何の気紛れか、叶えてくれた。

 

 ──その日、少女は運命に出会う。

 

 林間学校二日の夜は肝試しが行われた。怖がりの五月とペアを組んだ時点で既に嫌な予感がしていたのだが、その予感は見事に的中した。やけに気合いの入った肝試し係の変装に妹は涙目で悲鳴を上げながら自分を置いて走り去ってしまったのだ。

 本当にツイてない。昨日は何事もなく一日が過ぎたが今日は最悪だ。飯盒炊飯では同じ班の男子は言う事を聞かないし、肝試しでは五月とはぐれてしまう。連絡を取ろうにも携帯は充電切れ。一人で道を突き進むも辺りが暗くて方角が正しいのすら分からない。まさに最悪だ。

 夜風が吹き、森の木々がせせら笑うような不気味な音を立てた。怖くなった二乃はその場から駆け出したが足元が見えなくて躓いてしまう。膝を擦りむいた痛みと一人ぼっちの寂しさに涙が溢れそうになった。

 

 そんな時であった。

 

「ようやく見つけた、二乃」

 

 何処か安堵するような声色が聞こえた。見上げると、そこには手を差し伸ばしてくれる一人の男の子が佇んでいた。

 空を覆っていた雲の隙間から月明かりが照らし、彼の姿を明らみにする。

 高い身長に金色の髪。整った顔立ちをした彼はまるで絵本からそのまま飛び出た王子様のようで、其処には二乃の妄想を具現化したかのような存在がいた。

 

「え、あ、えっと、その……」

 

 上手く言葉が出ない。誰かに見つけてもらえたという安心感と、妄想を具現化した彼に対する緊張で体が動かない。

 

「そうか、これじゃ分からないよな。俺だ」

 

 そんな二乃を見て彼は納得したように一人頷いてから金色の髪を掴んでそれを投げ捨てた。

 え、と声が漏れる。よく見れば鬘のようで金髪の下からは黒い髪が現れた。

 見覚えのある顔だ。忘れもしない。あの気に食わないと思っていた家庭教師の彼だった。

 

 現実の王子様というのはある日突然現れるのではなく気付けば傍にいる人が王子様に見えるようになるのだとその日、少女は知った。

 

 後になって思う。この瞬間、中野二乃にとって上杉風太郎が王子様になったのだ。

 他の姉妹が彼に家庭教師と生徒の枠組みを超えた視線を送っているのは二乃も気付いてはいた。それに面白くないと感じていた事も。

 この嫌悪感は大事な姉妹達が彼に取られるの危惧したものだと思っていた。けれど違うのだ。逆だった。彼が姉妹達に取られてしまうのではないかと、恐れていたんだ。

 

 そうだ。ずっと待ち焦こがれていたんだ、こんな展開を。

 お姫様がやってくるまでの場つなぎじゃない。花嫁が登場するまでの時間稼ぎじゃない。他の何者でもなく。他の何物でもなく。自分のその手で、たった一人の王子様と結ばれると夢見たのだ。

 ずっとずっとヒロインになりたかったんだ。絵本みたいに映画みたいに恋焦がれてたった一人の王子様と結ばれるヒロインになりたかったんだ。

 だったらそれは全然終わってない。始まってすらいない。ちょっとぐらい長いプロローグで諦めてはいけない。

 

 ──手を伸ばせば届くのよ。いい加減に始めましょう、ヒロイン(わたし)

 

 

 



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外典 フー君強くてニューゲーム!⑧

すげー家庭教師の終わりの始まり。


 この胸の高鳴りも、体の内から溢れ出てしまいそうな滾る熱も、何も考えれなくなるような蕩けるような幸福感も、二乃にとってはどれも始めての経験であった。まるで稲妻に打たれたかのような衝撃。これが恋と言うのだろう。これが愛と言うのだろう。ずっと探していた青い鳥はこんなにも近くにいた。ようやくその事実に気付いてしまった。

 一目惚れ、とは少し違う気がする。確かに金髪の鬘を被った彼の容姿に心を奪われたが、それだけでは決してない。

 拒絶をしても手を差し伸べてくれる彼に、姉妹の為に尽くしてくれる彼に、花火大会で人混みに押され躓きそうになった自分の手を取ってくれた彼に、少しづつではあるが既にその中身には惹かれていた。

 

「……あ、あんた、どうして」

「お前達が決められた道とは別の方向に逃げて行くのが見えたからな。追いかけて来た。ほら、立てるか?」

「うん……あっ」

 

 差し伸ばされた手を取って立とうとしたが、思った以上に足腰に力が入らない。

 そのまま崩れ落ちそうになった二乃であったが、その前に風太郎が二乃の手を掴んで抱き寄せた。

  

「っと、大丈夫か?」

「……ッ!」

 

 引き寄せる勢いのまま彼の胸元に顔を埋めた。初めて嗅いだ彼の香りが二乃の鼻孔を擽る。走って探していたのだろう。じんわりと汗と男性特有の匂いがする。でも不思議と不快ではない。

 ああ、これが彼の匂いなんだ。これが彼の温もりなんだ。頭の隅でそんな事を思い浮かべながら、体は硬直して動けなかった。今度は力が入らないからじゃない。ただ動きたくないからこうしているんだ。もう少しだけ、このまま彼に密着した状態が続いて欲しかった。

 じっと胸元にしがみつく自分をきっと風太郎は不審がるだろう。けれど、それを口にする事は決してなくそれどころか。

 

「……落ち着くまで掴んでろ」

 

 そう言って自分を受け入れたまま頭を触れるように撫でてくれた。

 

 ──本当にずるい。

 

 頬を朱色に染めながら心の中で悪態をつく。彼はきっと暗闇の森で迷子になっていた自分が怯えていたと思い、安心させようと頭を撫でてくれたのだろう。それはまるで娘を心配する父のようでもあり、妹を宥める兄のようでもあり、淑女の扱いに手馴れた紳士のようでもある。

 それが二乃は気に食わなかった。こっちはこんなにも胸の鼓動を速くし、体を火照らせているというのに彼は何とも思っていないなんて余りに不公平だ。

 いっそ、このまま好きだと言ってしまおうか。最速で最短で真っ直ぐに一直線に胸の響きを、この思いを伝えたら、そうすれば風太郎も少しは慌てふためき、その涼しい顔を崩す事ができるかもしれない。

 間違いなく冷静さを失っているであろう二乃の頭脳がそんな馬鹿げた事を思い描き初めていたが、流石に行動には移さなかった。

 だってそうだ。もし今仮に彼へ告白しても間違いなく断られるに違いない。自分は姉妹の中で彼に一番辛辣な態度を取ってきたし、こうして優しさを向けられても、その大きさは姉妹と比較すれば一番下な筈だ。

 

「あんたは、私のこと……どう思ってるの?」

 

 ……だから、なのだろうか。そんな言葉が自然と口から零れ出していた。

 

「どういう意味だ?」

「あんたは私のこと、嫌いだと思ってた」

「……」

「私、あんたに酷いこと言ってたし勉強会も参加してないし……どうして私に優しくしてくれるの?」

 

 最悪のファーストコンタクトを思い出し、さっきまで滾っていた胸の熱が急激に冷えていくように感じた。いくら想いを自覚したからと言っても一方通行では意味がない。

 風太郎が最初に家に来た時、彼は自分の淹れた紅茶を飲まなかったが、もし飲んで強制的に排除していたなら、いま自分を包み込んでいるこの優しさすらも向けられる事がなかったかもしれない。そう思うだけで背筋が凍る想いだった。

 恋は戦だとも言うが、自分の初陣はもしかしたら勝ち目のない負け戦なのかもしれない。

 漸く自覚した初めての恋が最初から報われる事がないと分かっていたのなら、こんな想いなんて気付きたくなかった。

 溢れ出そうになる涙を堪えながら風太郎の言葉を待つ。けれど中々返事を返してくれない。不安になって彼の顔を見上げた。

 そこには呆れるように笑う彼がいた。

 

「お前達を全員笑顔で卒業させる」

「えっ?」

「最初に言っただろ。当然そこにはお前も含まれている」

「……」

「だから、俺がお前を嫌うなんて有り得ない。この先もずっと」

「……ッ!?」

 

 ああ、本当にずるい。風太郎はまるで自分の心を読んでいるかのようにこちらが真に求める言葉を与えてくれる。

 ずっと、と彼は言った。ずっと上杉風太郎は中野二乃を嫌う事がないと言ったんだ。病める時も、健やかな時も、富める時も、貧しき時も。

 それはまるで永遠の愛を誓う言葉のようで、陽だまりのような彼の温もりは再び二乃の胸に情熱の火を灯した。

 芽生えたこの想いを彼に届ける事が出来るのか。他の姉妹と並び、抜き去る事が出来るのか。

 出来る。出来るのだ。諦めてかけていたこの初恋は決して無駄ではない。

 光明が差した。まだ私は戦える。私も他の姉妹と同じ位置に居たのだ。嬉しさのあまり踊り出してしまいそうになった。そうだ、踊りと言えばキャンプファイヤーだ。例の伝説もあるし誘ってみたらどうだろうか。

 せっかくだ。誘うならこれを機に最も親しくなりたい。まずは呼び名からだ。

 

 ──上杉くん?……ううん、違う。もっと親しく呼ばなきゃ。風太郎、フータロー……フー君、うん! フー君よ!

 

 不思議と胸から湧き出た彼の呼び名は妙にしっくりきた。まるで前にもそう呼んだ事があるような、ずっとそう呼んでいたような、奇妙な感覚。

 何処か懐かしさすら感じるその呼び名をそのまま口にしようとした。

 

 その時だった。

 

「……それに本当に嫌だったら、二度も馬鹿共の面倒を見ねえよ」

「──」

 

 虚をつかれた思いがした。ぽつりと独り言のように呟いたそれを二乃は確かに聞いた。聞いてしまった。聞こえてしまったのだ。

 二度目、というのは自分達の事を指すのだろう。だとしたら一度目は誰を。

 ……そんなのは決まっている。”前の生徒”だ。

 風太郎が自分達姉妹の前で時折口にする女の子。ただの『家庭教師と生徒』の関係には思えない彼女とはどうやら喧嘩別れをしたようで、彼は未だにそれを引き摺っている節が見受けられる。

 後悔があるのだ。未練があるのだ。後ろめたさがあるのだ。だから彼は今度こそはと自分達に真摯に向き合ってくれる。

 ああ、それはつまり……。

 

 ──もしかして、私達にその子を重ねているの?

 

 瞬間、二乃の中で腸が煮えくり返しそうな程の強烈な感情の奔流が巻き起こった。

 中野二乃は五つ子だ。今まで何度も他の姉妹に間違われた事があるし、人気者の姉と思って話しかけられて勝手に落胆された事もあった。

 けれど、姉妹と間違われる事や他の姉妹と重ねて見られる事に内心では不快感など微塵もなかった。当然だ。そうする事で大好きな姉妹と似ていると、大好きな姉妹と繋がっていると実感させられるのだから。

 

 だが、姉妹以外の人間と重ねられて見られるのは初めてであり、そして何よりも耐え難き屈辱でもあった。

 よりにもよって想いを寄せる風太郎からそんな目で見られていたという事実に虫唾が走る。彼が向けてくれた優しさも、誠実さも、自分のモノだと思っていたのに、その中に余計な不純物が混ざっていたなんて。

 赦せる筈がない。許容できる筈がない。なんて忌々しい存在なんだ"前の生徒"は。想い人に寄生し彼をいつまでも蝕む寄生虫、いや寄生獣か。何とも厭らしい獣がいたものだ。

 その子がどんな顔をしているのか知らないが本当に最低な女だ。多分今まで知った人間の中でこんなに悪いことをした奴はいない。消さなきゃ。彼の思い出の中でいつまでもいちゃダメな女だ。一体その子は何考えているのだろう。

 本当に気持ち悪い。彼女を語る風太郎の情愛に溢れたあの表情を思い出すだけで吐き気がする。

 

 ──いいわ。特別に赦してあげる。

 

 胸に滾る熱い情熱の赤い火が黒いドロドロとした感情と混じりあって赤黒い炎へ変貌していく。

 自分も彼を憧れた王子様と重ねて見たのだ。自分達を過去の女と重ねるのを寛大な心で赦してあげよう。これでお相子だ。

 

 ──覚悟していてね、フー君。

 

 いつの日か、その獣との黴の生えた思い出を"素敵な今(中野二乃)"で塗りつぶされる覚悟を。獣との思い出が彼の中から一片の欠片なく全て消え去るその日を。

 やるなら徹底的にだ。乙女に灯った淡い火はたった一日で決して消えない執念の劫火と成った。

 

 ◇

 

 つくづく天は己の味方をしている。

 風太郎と再会してから何もかもが自分の都合の良い方向に進んでいる実感が一花にはあった。

 花火大会の時に受けた映画のオーディションも見事合格し、彼との関係も一歩ずつであるが進んでいる。この間も彼の妹とショッピングをして彼女が望む物を全て買ってあげて交友を深めた。上杉家の外堀は着実に埋まってきている。仕事も恋も順調だ。

 更に、自分の立ち位置が姉妹の中で誰よりも優位に立っているというのは幸運と呼ぶに他ならない。

 風太郎の自宅の住所を唯一姉妹の中で知り、同じクラスに彼の親友もいるので情報的なアドバンテージも持ち合わせている。彼の趣味趣向登校時間持ち合わせている全ての下着の柄枚数一日のトイレの回数時間まで全て知り尽くした。まさに無敵だ。他の姉妹が敵う道理がない。

 

 そもそも妹達は甘いのだ。本気で恋をするという事は本気でライバルを蹴落とすと同義である。彼女達には足りないのだ。彼を手に入れようとする鉄の意志と鋼の強さが足りていない。

 例えば、ほぼ間違いなく自分と同じ想いを風太郎に向けているであろう五月は彼と同じクラスという自身の持っている強力なカードを活かしきれていない。最近二人揃って勉強会に少し遅れて来るので放課後に二人きりの時間を満喫しているのだろうが、ぬるい。それだけで満足していては彼を落とせる筈がない。

 一花なら放課後だけでは飽き足らず、休み時間も昼休みも四六時中彼に付きまとって周りに関係をアピールして牽制しつつ彼との時間を更に確保する。彼の親友に聞いた話だと意外と彼は陰で女子に人気があるらしい。確かに頭が良くてかっこよくて背が高くて頼りになる我らが中野姉妹専属家庭教師だ。不敬であるが姉妹以外にもそういった感情を向ける女子がいても不思議ではない。そんな羽虫共に彼を取られるなど微塵も思ってはいないが、警戒をしておくのに越したことはないだろう。一花ならそこまで徹底する。

 

 五月以外の妹達も、三玖は彼に対して少なからず悪く思ってはいなさそうだが、何故か余裕を感じるのが少し不気味だ。しかし動きを見せない以上は今のところ自分の優勢は依然変わりない筈である。

 二乃は未だ参戦していないが、時間の問題だと思われる。口では文句を言いつつも彼に段々と心を開いている。想いを自覚した際の彼女の爆発力は中々に脅威かもしれないが、それでも所詮は暴走機関車。暴走はしても決められた道しか走れないのが彼女だ。ならばその線路に軽く仕掛けをすれば勝手に脱線して自滅するだろう。特に問題はない。

 

 そうなると残ったのは彼女だけだ。一番厄介で、一番狡猾で、一番強大な、あのリボン頭。

 

 ──全く酷いよね、四葉は。私のフータロー君を勝手に盗ろうとするなんて。

 

 四葉のお蔭で風太郎とは出会えた。それ自体には大いに感謝している。感謝してもしきれない。何度ありがとうと心の中で呟いたか。

 だが、あくまでも彼女は自分達を結び付けた恋のキューピットという役目だ。もう出番は終わったのだ。ならば舞台から大人しくご退場願いたい。ここからは結ばれた男女のラブロマンスが始まるのだから。

 恋のキューピットが勝手に人の男に手を出すのは宜しくないだろう。そんな筋書きは誰も望んじゃいない。

 

 ──昼休みにフータロー君をいつも独占してるの、私が気付いてないと思ってるのかな?

 

 屋上でリボンを外し雌の顔をしながら普段とは違う媚びたような口調で彼に語りかける彼女の姿を目撃した時は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。そのまま声を掛けて二人きりの時間を邪魔しても良かったが、そうなると間違いなく彼の目の前で言い合いになる。

 それだけはダメだ。彼の前で醜態を曝け出したくはない。男の前で弱みは見せても醜さは晒さない。それが淑女というものだ。

 だから敢えて黙認した。しかし我慢にも限界というものがある。仏の顔も三度まで。長女の顔は一度だけ。

 この林間学校に向かう前日、一花は四葉を呼び出していた。彼女もきっと林間学校で何か動きを見せるだろう。その企みの前に。

 できれば穏便に事を済まそうとしたのだ。全力で蹴落とすと言ってもそれは他の女の場合だ。大事な妹となると少しだけ話が変わる。無意識に手心を加えてしまうのは仕方がない事だ。

 なるべく優しく、諭すように、棘のない言い方でオブラートに包みながら彼女に問うた。

 

『泥棒は良くないよ? 四葉』 

 

 最初、四葉は何を言われたのか分からなかったのか首を傾げたが、漸く言葉の意味を飲み込めたのか手に持っていたココアの入ったスチール缶を凹ませていた。

 しかし返事しない彼女に一花は意味が伝わってなかったのかと思い、今度はもっと分かりやすく言葉を選んだ。

 これならお馬鹿な四葉にも伝わるだろうと、お姉さんらしく気を利かせて。

 

『なんだか最近、妙に仲が良いみたいだけどさ。悪いけどフータロー君の事は諦めてくれないかな。彼、お姉さんのだよ?』

 

 次の瞬間、四葉は缶を完全に握り潰し、中身を一花の頭にぶちまけていた。

 そこから先は特に語る必要もない。ただ単に"よくある姉妹喧嘩"をしただけである。

 幼い時にも何度もしたのだ。今更そう珍しくもない。五つ子とはいえ性格は違う。意見の食い違いはよくある事だ。

 私達は仲良し姉妹。喧嘩するほど仲が良いと言うだろう。

 

 結局、四葉とは"話し合い"では解決しなかった。仕方がない。こうなった以上は現実を突きつけるしかないだろう。風太郎が自分を選ぶという非情な現実を。

 彼の口から直接好意を拒絶されれば間違いなく四葉は酷く悲しむ。それこそ立ち直れない程に。

 だから一花は姉として辛くないよう諭したのだが、残念ながら姉の気遣いは妹には届かなかった。

 姉の心妹知らず。自分が正しいと信じ、分からぬと逃げ、知らず、聞かず。その果てにある終局はきっと姉妹の仲を修復できない程に引き裂く結果が待ち受けている。

 ならばそうなる前に姉としてここで妹の叶わぬ恋に引導を渡してやるのが己の役目だ。

 

 この林間学校で必ずや彼と添い遂げてみせる。

 今の友達以上恋人未満の関係も悪くはないが、関係をはっきりさせなければ四葉のように他の妹達も勘違いをしてしまう。そうなれば姉妹間同士で血で血を洗う醜い争いは避けられない。分かるのだ。彼女達が行き着くであろう想いの重さが。たとえ相手が血を分けた姉妹であろうとも厭わない程の強烈な愛をいずれ育む事になる。

 その前に終わらせよう。取り返しのつかない事態になる前に全て。

 

 ──だからフータロー君は私と結ばれるんだ。今日、ここで。

 

 林間学校最終日、全てに決着を付けんとする一花は決意の火を瞳に宿していた。

 

 その火の灯った一花の瞳が虚無へと変わったのはその日の午後の事であった。

 

 林間学校三日目は各自でスキーや登山、川釣りに参加できる自由行動だ。風太郎の親友であり一花のクラスメイトである武田から予め彼がどれに参加するかは既にリサーチ済みである。ここで彼と一日共に行動をしてそのまま夜のキャンプファイヤーに誘う魂胆だ。

 しかし何事も思い通りにはいかないのが人生というものである。ここまで順風満帆に彼との距離を詰めてきた一花であったが、いざ玉を取ろうとした時に限って妨害が入る。

 

「……奇遇だね、みんなスキーを選ぶなんて」

「私が登山や川釣りなんて地味な事する筈ないでしょ」

「フータローもスキーを選ぶ気がしたから」

「あはは、ほんと奇遇だねぇ……一花」

「上杉君の姿が見えませんね」

 

 頬をひくつかせながら一花は集った妹達四人を眺めた。同じ顔と体でも性格趣味趣向は別々なのが中野姉妹の筈。普段なら間違いなくバラけるというのに、どうしてこんな時に限って同じ個所に固まるんだろう。

 彼と同じクラスである五月がスキーを選ぶのは予想していたが、他の三人は想定外だ。特に四葉が此処にいるのがおかしい。彼女には事前に風太郎が登山を選ぶとフェイクの情報を流して誘導していた筈なのに。

 

「そう言えば四葉、汗をかいていますがどうしたんですか?」

「実は最初は登山を選んだんだけどね、途中でやっぱスキーがいいかなって思って走って戻ってきたんだよ」

「相変わらず凄い体力」

「逆にあんたは体力が無さすぎなのよ」

「……」

 

 失念していた。四葉の桁外れの身体能力を。

 本当に同じ体なのかと疑いたくなるようなポテンシャルだ。登山途中でスキー場の自分達を見つけて戻って来たのだろう。

 まさか戦略を戦術でひっくり返されるとは夢にも思ってはいなかった。これでは風太郎に近付こうとしても間違いなく妨害される。

 早急に次なる一手を打たなければ。五月はともかく、四葉がこの場にいては身動きも取れない。

 勉強では全く働かない一花の脳が今はフル稼働して妹達の対応を思考していた。

 

「……なに、あれ」

 

 一花の耳に三玖の震えるような声が届いた。

 しかし今はそれを気にしている場合ではない。無視してプランを練り直そうとした。

 

「どういう、こと、ですか……?」

「なんで……」

 

 今度は五月と二乃がまるで信じられないものを見たと言わんばかりに。

 

「……ウソだよね、風太郎君」

 

 四葉の呟いた言葉に一花は思考を中断して即座に姉妹が釘付けになっている方向へと瞳を向けた。

 

「───。」

 

 言葉が、出なかった。

 何も、考えられなかった。

 だってそうだろう。両想いである筈の我らが家庭教師が、見知らぬ女生徒とスキーをしていたのだから。

 彼が影で女子に人気があると一花は知っていた。だから彼を誘う発情した雌猫共が集るくらいは想定済みだ。

 

 だが、そんな畜生相手に彼のあの顔はなんだ?

 どうしてあんなにも楽しそうなんだ。

 どうしてあんなにも嬉しそうなんだ。

 

 どうして、そんな情愛の籠った目を見知らぬ女に向けるのだ。

 

 そんな眼を自分に向けた事があったか。

 そんな顔を自分に向けた事があったか。

 

 どうして。どうして。どうして───。

 

「ふふ。上杉君が楽しんでいるようで何よりだ、ね」

 

 そんな二人を見守るのは瞳を虚無にした五つ子だけではなかった。

 まるで一仕事終えたかのように煌めく笑顔を浮かべる美男子が微笑ましく彼らを眺めていた。

 

「武田、くん……」

「やあ、中野さん。どうかしたのかい?」

「あれ、なに……?」

「ああ、彼女か」

 

 畜生を指差しながら一花は乞うように答えを求めた。

 あれが一体何なのか。あれは一体どういう事なのか。

 

 武田は包み隠さず全てを話してくれた。

 

 風太郎の友である武田はよく彼の事を観察している。それこそ並々ならぬ五つ子達と同じく、いやそれ以上に。

 高校一年の時から風太郎を見てきた武田はある日、彼を見ていて気付いた事があった。

 上杉風太郎はある意味では他人に対して平等な男である。友である武田以外には最低限しか交流を持たず、他の生徒に対してはみな同じ態度で接するのが彼だ。

 そんな彼が、一人だけ妙に視線を向ける女生徒がいる事に武田は気付いた。

 きっと本人も意識していないほど無意識によるものであるそれを勘付く事が出来たのは偏に武田が学校内で一番彼の近くにいたからであろう。

 友である自分とは別に、他の生徒とは違う特別な女生徒。それがどういう意味か鈍くなければ誰でも想像がつく。我が友にそういう人がいるのだと。分かっていても黙っているのが男の友情だ。武田は静観を決め込んだ。

 

 しかしながら、友は視線を向けるばかりで一向に声すらかける気配がない。

 これは如何なものかと思った。最近では新たに家庭教師のバイトまで始めたと話していた友に高校生活を堪能する時間があるのかと。

 このままではいけない。武田は立ち上がった。せめてこの林間学校で架け橋を掛けるくらいはしようと決意したのだ。

 お節介だと自覚しているが、それでも黙って見過ごすことは出来なかった。だからこの林間学校三日目に彼と彼女を引き合わす計画を企て見事に遂行できたのだ。

 お陰で彼の笑顔を見れたと武田は清々しい笑みを浮かべた。

  

「我ながら粋な計らいをしたよ。だがこれも友の為だ。君たちも今は彼の邪魔しないでくれたまえ」

 

 そう言い残して彼は五つ子達の前から姿を消した。

 残された彼女達は未だに虚無を瞳に浮かべながらも、ただじっと風太郎を見つめていた。

 

 ───この日、五人の怪物が産まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




前妻はモブ二人組の前髪ぱっつん子かサイドテールの子かお好みの方を想像してください。


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外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ①

少しやべー姉妹。


 女性は男性に浮気された場合、その湧き出た憎悪と憤怒は浮気をした男ではなく男を誑かした女へと向ける傾向があると昔テレビのバラエティー番組か何かで見た記憶がある。

 ちょうど姉妹全員が揃っていた時に流れていたそれを五人で見て各々感想を述べていたが要約すると概ね同じ意見だった。

 馬鹿馬鹿しい。浮気をしたのはその男だ。そいつが悪いに決まっている。相手の女性に怒りをぶつけるなんて筋違いにも甚だしい。

 姉妹全員が口を添えてその番組に文句を付けていた。その時はまだ恋がどういうモノか理解していなくて、何も知らない無垢な少女だった。胸を迸る熱さも、一人の異性に向ける愛の重さも知らない、ただの子どもだった。

 

 今ならあの時の番組の言葉が頭ではなく心から真に理解できる。それはきっと自分達が少女から女へ、子どもから大人へと一歩踏み出した成長の証なのだろう。

 

 こんなにも愛おしく想う彼が悪いなんて有り得ない。"悪"があるとするなら、自分を理解し、受け入れ、陽だまりのような温もりを与えてくれる彼に付け入り誑かした何処の馬の骨と分からぬ凡骨こそが"悪"なのだ。

 悪は殲滅しなければ。その厭らしい性根を根絶し二度と馬鹿な勘違いをしないよう徹底しなければならない。これは正義である。彼を守護る為であり───そして同時にあの勘違いをしてしまった愚かな仔羊を守護る為でもあるのだ。

 だってそうだろう。あまりに可哀想じゃあないか。あまりに不憫じゃあないか。もしやと思ったがやはり違うのだ。あの凡骨と自分達とでは。

 相手はこの中野姉妹五人。少なくとも容姿に関してこの学校で自分達に敵う女など一人も存在しないという自負がある。私に勝てるのは(姉妹)だけだ。それが姉妹全員が共有する常識であり、覆る事のなり現実であるのだから。

 振り向く筈がない。想いが届く筈がない。報われる筈がない。結ばれる筈がない。その先は地獄だぞ、と親切心であの凡骨に警鐘を鳴らしてあげているのだ。

 待ち受けるのは残酷な結末だけだ。全く彼も酷な真似をする。なんだあのスキーの時の彼の顔は。あんな表情を向けられてしまっては誰だって勘違いしてしまうじゃないか。

 もし自分達にあれを向けられていたのなら体は一瞬で火照り臍の下が強く疼き、その場で己を慰めなければ収まりが効かないところだった。それを判っているから彼は自分達には安易にあの笑みを向けないのだろう。彼は何時だって私達を理解してくれている。会話を交わさなくとも望む言葉を与えてくれて、姉妹に変装しようとも深い愛を持ってそれを看破する。こんな馬鹿な自分達を見捨てず、ただ真摯に向き合ってくれる。

 それは真の愛があるからこそだ。間違いなく彼は自分達に他の有象無象とは違う並々ならぬ想いを抱いている。少なくともあの女にではない。もし彼が自分達に愛を抱いていないと言うのなら、最早この世界の何処にも愛など存在しないだろう。

 

 彼の親友を自称するあの男の眼はどうやら節穴だったようだ。下らない。何があの女にだけ視線を向けているだ。何が他とは違う特別な女性だ。何が友の為だ。何が邪魔をしないでくれたまえだ。気障ったらしい。反吐が出る。

 ちょっと彼と親しい程度の分際で彼の事をまるで全て理解しているかのように思い上がる愚かな男。身の程を弁えない愚者の言葉など中野姉妹には何の意味もないし、何も響かない。

 

 あんな男の妄言には付き合いきれない……が、邪魔をして万が一にも愛おしい彼が機嫌を損ね自分達に煩わしさを感じるような事があっては大事だ。

 そんな事は有り得ない。有り得ないと信じているが、その『もし』を想像するだけでも足が竦んでしまう。何故だろう。彼が自分達の下から姿を消す未来が妙に鮮明なヴィジョンとして姉妹全員が思い浮かべる事が出来たのだ。

 まるで未来視でもしたかのような、実際に目にしたような。リアリティのあるそんな光景が。

 

 だから中野姉妹は全員が身を引いて断腸の想いで彼を見守る事にした───自由行動の間だけは。

 

 ◇

 

『彼氏の浮気を見てしまった場合、一度目は笑って許してあげましょう。それが円満の秘訣です』

 

 以前に購入した恋愛解説本(恋人編)に書かれていたフレーズを思い出しながら三玖はようやく冷静さを取り戻しつつあった。

 やはり先人の知恵は偉大だ。恋愛に関して無知な自分に叡智を与えてくれる。三玖は自信が着実に成長していっているという確かな手応えを感じていた。知恵とは即ち武器だ。武器を手にしていれば人間という生き物は安堵を得れる。事実、あの雪山での惨劇を目にした後、姉妹の中で一番最初に立ち直り次の一手へと素早く手を伸ばしたのは三玖だった。

 

 ──フータローも男の子だもん。ちょっとは目移りしちゃう事もあるよね。

 

 忌々しい記憶が蘇る。両想いである筈の意中の男の子が凡骨と楽しげに白銀のゲレンデを滑るあの光景。思い返すだけで苛立ちと悲しみともどかしさで胸の中が埋め尽くされそうになる。

 林間学校三日目の自由行動は恋人同士の風太郎と思う存分遊ぼうと思っていたのに酷く気分を害されてしまった。最初は黒いドロドロとした感情しか沸かなかったが、それも時間が経つに連れて熱を持った黒い感情は冷めた憐れみへと変化してしまった。

 可哀想に、未だに自分と彼が恋仲であると知らないのはどうやら姉妹だけではないらしい。

 中野三玖と上杉風太郎は両想いである。それは出会って数週間で判明した事であり数か月経った今では二人の関係が恋人に昇華していても何ら不思議ではない。

 この事を風太郎に直接言った事はないが、彼は自分の事なら言葉にしなくても何だって察してくれる。間違いなく彼も自分と同じく既に関係が恋人同士である事を認めている。

 

 それなのに他の女に浮気をするなんて、と涙が溢れそうになったが何とか堪えた。

 男の嘘を許すのが女だと恋愛本にも書いてあった。今は恋人という仲であるがこれすらも自分達には通過点に過ぎない。最終的なゴールは死がふたりを分かつまで。

 何もこれは自分の自意識過剰な妄想ではない。ちゃんと彼の口から出た言葉を耳にしている。あれは他の姉妹が予定が重なり珍しく風太郎と二人きりになった勉強会の時だった。ちょうどいい機会だと思い三玖は勇気を振り絞って彼に尋ねた。『私達の関係って何なのかな』と。

 聞く必要があった。確かめなければならなかった。両想いとは言え当時は言葉にしなければ真意が分からなくてただ不安だった。このもどかしい関係を貴方はどう思っているの、と直接彼に聞きたかった。

 すると彼は間髪入れずにこう答えたのだ。

 

 ───俺達はパートナーだ、と。

 

 パートナー。相棒、相方を意味するそれには配偶者を指す言葉でもある。彼は間違いなく後者の意味合いでその言葉を遣ったと三玖は確信した。

 それを聞いた時、雷に打たれたかのような衝撃が彼女の全身を走った。

 両想いであるとは知っていた。彼は自分に対して他の姉妹にはない愛情を向けてくれるし、そんな彼に三玖自身も惹かれていた。

 けれど、彼の愛の覚悟がまさかそこまで決まっているとは思わなかった。既に風太郎は中野三玖を生涯の相棒として、伴侶として添い遂げる覚悟を決めていたのだ。

 ならば男の覚悟に応えるのが伴侶となる女の役目だろう。

 

「……フータロー見っけ」

 

 林間学校最終日最後の目玉であるキャンプファイヤーが始まり生徒達は盛り上がりを見せていた。あの伝説を信じ勇気を振り絞って異性を誘う生徒、それを出来ず悔しそうに歯嚙みする生徒、目当ての人物が既に別の人と踊っていて落胆する生徒、そしてそんな彼ら彼女らを優しく見守る教師陣営の大人達。

 そんな青春が広げられる場所から少し離れた階段にお目当ての彼はいた。辺りには誰もいない。もちろんあの忌々しい女も。

 

「もう、探したよ」

「……」

 

 風太郎と同じように三玖は階段に腰掛けた。ここなら喧騒もあまり届かなくて落ち着いて二人で過ごせる。

 キャンプファイヤーを遠巻きにして眺められるここは何となくだが彼らしい場所だと思った。自分達姉妹を大切に想いながら、けれどどこか一歩引いた位置で見守る彼らしいと。

 そんな一歩引いた風太郎に二歩踏み込んだ位置に唯一いるのがこの中野三玖、否、上杉三玖である。将来、彼と人生を共にする最愛のパートナーだ。

 

「ねえ、フータロー。いいかな」

「……」

「さっきの事、許してあげる」

「……」

「だって私はフータローのお嫁さんだもん。これくらいは寛大に構えないと子育ては出来ないもんね。でも一度だけだからね? 次は浮気しちゃダメだよ。絶対だよ。次はないからね。気を付けてね」

「……」

「フータロー?」

 

 さっきからどうにも様子がおかしい。言葉を交わさなくとも相互理解し合える最愛のパートナーとは言え何も返事をしないのは変だ。

 不審に思った三玖は彼の顔を覗き込み……そしてクスリと笑みを零した。

 

「疲れちゃったのかな」

 

 器用な人だ。目を開けたまま眠っているなんて。きっと昼のスキーであの女に無理矢理連れ回されて疲れ果ててしまったのだろう。

 何かと無難に物事を熟すイメージがある風太郎であるが体力に関して驚くほど全くない。自分と同じ欠点を持つ彼に最初は三玖も親近感を抱いたものだ。

 それにしても、酷い女だと改めて思う。風太郎の事を何も知らないなんて。

 なんて愚かなんだろう。体力のないフータローを一日中滑らせたなんて。無知とは罪だ。罪には罰だ。可哀想な風太郎。

 そうだ。今こそ疲れた風太郎には少しでも労わってあげるのが妻の務めだ。早速三玖は風太郎の頭を己の膝に置いて膝枕をした。これで少しは楽に寝れるだろうか。

 

「ふふっ、フータローの寝顔、可愛いな」

 

 髪を優しく撫でながら無防備となった彼の顔を眺めて見る。

 背の高い彼の顔を見下ろす機会などそうない。きっとこの至福の光景を瞼に焼き付ける事が出来たのも姉妹の中で自分だけだ。

 一番、劣っていたと思っていた自分だけ……。

 

 ドクン、と心臓が高鳴った。

 

 今、三玖の胸にジワリと広がったそれは劣等感を抱いていた姉妹への初めての優越感。

 そして彼を独り占めしているのだという独占欲。

 ああ、なんて心地の良い感覚なんだ。なんて蠱惑的なんだ。

 風太郎の吐息を感じるだけで、風太郎の鼓動を感じるだけで、何もない空っぽだった己を埋めてくれるような錯覚に陥りそうになる。

 

 そう言えば、もう少ししたらキャンプファイヤーもフィナーレの瞬間を迎える筈。例の伝説の時間は間近に迫っている。

 

 踊りこそしてはいないが、もしフィナーレの瞬間に風太郎と……それこそキスでもしていたらどうなるのだろうか。

 あまりこの手の嘘には興味がない三玖であるが、何故かこの時だけはあの伝説が本当に存在するのだと、彼と永劫結ばれるのだと本気で信じ込んでしまっていた。

 この状況が三玖の冷静さを失わせたのか、それとも胸の内にある妙な既視感が伝説の信憑性を高めているのかは分からない。

 

 ただ言えるのは三玖が寝ている風太郎の唇を奪おうとしているのが事実であり───。

 

「寝てる人にキスをするのはちょっと過ぎた悪戯じゃないかなぁ? 三玖」

「勝手にキスするなんて陰険よ」

「……やめてよね。本気でやったら三玖が私に敵う筈ないのに」

「そういうの、上杉君は嫌がると思いますよ。三玖」

 

 当然のようにそれを阻止せんと彼と自身の唇が合わさるのその直前に待ったを掛けた姉妹が居た事である。

 

 ああ、分かっていた。きっと来るであろうと。邪魔をするであろうと。

 ああ、分かるとも。だって血を分けた大切な愛おしい姉妹なのだから。

 

 仕方ない。この伝説とやらは今回は五人で痛み分けといこうじゃないか。

 みんな仲良く五等分。今までもそうして来ただろう。

 

 ───まあ、最後には全て貰い受けるが。

 

 己に芽生えた消えぬ炎。これが女の闘争心であると三玖はその日知った。

 

 ◇

 

「やあ、急に呼び出して悪いね」

「……いえ」

 

 とある喫茶店。多忙な仕事の合間を縫って五つ子達の父親である中野マルオは娘を通じて中野姉妹専属家庭教師である上杉風太郎を呼び出していた。

 こちらから呼び出したので何でも好きな物を注文していいと言ったのだが遠慮しているのか彼が頼んだのは一番安いサイズの小さなアイスコーヒーだった。

 砂糖とミルクを多めに入れたそれに口を付けないまま、風太郎は警戒した様子でこちらの顔を伺っていた。

 当然の反応だ。雇い主である自分から急に呼び出されたのだから萎縮してしまうのも仕方がないだろう。

 だが別に取って食おうという訳ではない。少し、彼に興味を示したからだ。

 

「そう畏まらなくてもいいよ。今日呼んだのは別に大した用ではないんだ。娘達の面倒を見てもらっている君とは一度、直接会って話がしてみたいと思ってね」

「話、ですか?」

「娘達から君の評判は良く聞いているよ。普段も勉強会を開いて娘達の勉強を見てあげているとか」

「あいつらの成績を上げるのが仕事ですから。それくらいは当然ですよ」

 

 と彼は言うが給料の出ていない日でも時間を割いて娘達に付き合っているのは雇い主からすれば有難い事ではあったが同時に大人として対価を支払うべきだと感じた。

 彼の家庭状況が厳しい状態であるのは彼の父親と旧知の仲である自分も把握している。本来なら他人の為に割く時間などない筈だ。他にバイトだって入れたいだろう。そんな彼が粉骨砕身で娘達に尽くしてくれたからこそ先の中間試験では成長を見せた結果となったのだ。

 当初は彼にノルマを課そうと考えていたのだが、嬉々とした声色で知らされる娘達の報告を聞いてそれも取りやめた。娘達から信頼を得ているし何より彼自身が家庭教師の業務に対して真摯な態度を見せている。

 それを試すような真似は無粋だと判断したのだが、どうやら正解だったようだ。

 

「ならば、その仕事に報酬を与えるのも当然という訳だね」

「えっ?」

 

 風太郎に労いの言葉を掛けながらこれからは勉強会の分も給料を出すと申し出ると意外な事に彼は喜ぶどころか、こちらの申し出を断ろうとした。自分は家庭教師として業務を果たしただけだと。

 あの男の息子の割には随分と謙虚な性格だ。風太郎は覚えていないだろうが一度、彼とは五年前にも見た事がある。その時は父親と似た風貌であったが、正しく成長したらしい。

 遠慮する彼に黙ってこれまでの勉強会の分の給料が入った封筒を押し渡した。これくらいは雇い主として、いや大人としては当然の振る舞いだ。

 

「……えっと、これからも精進します」

「ああ、頼りにしているよ」

 

 しかし直接話してみて分かったが、高校生にしては落ち着きのある若者だ。

 成績は勿論のこと、学校での普段の評判もいいと聞く。あの娘達にも数日で受け入れられたのは人柄の良さか。何にしても雇い主である自分からすれば信頼足り得る男だ。

 

 雇い主としては、だが。

 

「ところで上杉君、君に尋ねたい事があるんだ」

「何ですか?」

「僕はこれでも君を高く買っているつもりだ。そんな君こんな質問は不要かもしれないが、一応父親として確認しておきたくてね」

「はあ……何でしょうか」

 

 金銭の話が終わり緊張が解けたのか漸く風太郎はコーヒーに口を付け始めた。どうせ世間話か何かをされると思っているのだろう、何を問われるかまるで見当も付かないと言った表情だ。

 今日は先程の給料の件で呼び出されたと風太郎は勘違いしているに違いない。それも間違いではないが……しかしマルオにとってはこれからの質問の方が本命であった。

 

「君は娘達の事をどう思っているんだい? 上杉君」

 

 

 ◇

 

 中野姉妹の事をどう思っているのか。先日の二乃もそうだが、似たような事を最近はよく聞かれる。

 二乃の時はあいつが自身が嫌われていると勘違いをしているようだったから、ああ答えたがこの場合は何が正解なんだ。そもそもこの時点で中野父に呼び出されてこんな事を聞かれる状況が呑み込めない。

 時系列で言えばまだ林間学校を終えたばかりだ。中野父はこれが初対面。少なくとも前回と違って今のところは中野父からの印象が悪くなるような事をした記憶はないが……。

 どういう意味合いなのだろうかと中野父の表情を伺ってみたが相変わらずの無表情だ。顔からは何も感情を読み取れない。

 仕方がなく聞いてみることにした。

 

「その、どう思っていると聞かれましても……」

「娘達から君の話をよく聞くよ。何でも随分と仲が良いそうだ」

「ええ、まあ……それなりには」

 

 あいつらに信頼されようと最良の選択肢を選んできたつもりだ。信頼を勝ち取る事こそがあいつらを無事に卒業させる最短の道に違いないと信じているから。

 実際に先の中間試験では全員全教科赤点を回避、とまではいかないものの間違いなく前回よりは良い点数を取れた。成績向上の目的で言えば上々の出来だ。この伸びを維持出来れば卒業自体は容易い。

 それに勉強だけじゃない。姉妹との関係を上手く立ち回って仲違いをさせなければ前みたいにあのマンションを勝手に引っ越すなんて馬鹿な真似もしないだろう。思えば、あそこから『家庭教師と生徒』という線が曖昧になって、結果的に最悪の事態を引き起こしてしまった。

 

 絶対にそれは阻止しなければ。正しい関係を保ち、無事にあいつらを卒業させる。

 その最短の道が今の関係を継続する事だ。家庭教師として、或いは友人として。その距離を卒業まで保てばあんな事は起きやしない。

 そもそも前回が不幸なだけだった。あらゆる偶然が重なってあの悲劇を産んだ。本来のあいつらはあんな事をする程、馬鹿でも愚かでも短絡的でもない。

 

「娘達があまりに君への信頼を強く寄せているから少し気になってね」

「そう、でしょうか」

「そうだよ。父親として心配するほどに」

「……」

 

 なるほど。そういう事か。中野父が言わんとしていることが理解できた。とどのつまり俺があいつらに家庭教師と生徒以上の感情を持っていないか危惧しているのだろう。

 確かに前回よりも信頼を寄せられてはいる。だがそれは家庭教師としてである。もしくは良き友人として。

 ここは誤解を解いておいた方がいい。ちゃんとした理由も添えて、そうすれば少しは彼も納得してくれるだろう。

 先日の林間学校で友の粋な計らいがあった三日目の昼を思い浮かべながら俺は中野父に身の潔白を説明しようとした。

 

「安心してください。あいつらは確かに俺にとって大事な生徒で友人ですが、それ以上の関係ではありません」

「言い切るね」

「はい。それに俺には……ッ!」

 

 言おうとした。証明しようとした。あいつらをそんな目では見えない理由を。

 だけど何故かその時、強烈な悪寒がして言葉が詰まった。全身に鳥肌が立つ。まるで誰かに、何かに睨まれたような、心臓を鷲掴みにされたかのような圧が、確かにあった。

 思わず立ち上がり振り返って後ろのテーブル席を見た。

 

 ───しかしそこには人影はない。ただの空席だ。

 

「……? どうかしたのかい?」

「い、いえ……何でも」

 

 おかしい。全て上手くいっている筈なのに。この既視感のある胸騒ぎは何だ。

 先程まで団体客が座っていたのだろう。テーブルの上に残されていた五つのティーカップに何故か言葉では言い表せない恐怖を感じた。

 

 



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外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ②

すげー家庭教師の事を語り合う姉妹の話。


「あれ? お兄ちゃん。首のそれ、どうしたの?」

 

 前回とは違い大きなトラブルもなく林間学校が終わり、季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。日に日に気温は下がっていき起きるのも少し億劫になってきた肌寒い朝の事だった。

 いつものように卓袱台を家族三人で囲いながら朝食を取っていると、らいはが俺の首筋を指差しながら可愛らしく首を傾げた。

 

「ああ、これか」

「なんだ風太郎。こんな時期に蚊にでも刺されたのか?」

「いや、多分違うと思うが……」

 

 釣られて俺の首を覗き込んできた親父が怪訝そうな表情を浮かべた。二人の視線の先にあるもの。それは俺の首筋に付いている妙な"痕"の事だろう。

 鏡を使わなければ自分では確認できないが、俺もこの妙な"痕"に関しては既に把握している。確かこれに気付いたのは林間学校が終わった翌朝の事だ。顔を洗おうと鏡を見たら首筋にこの虫刺されのような痕があった。

 最初は親父と同じように時季外れの蚊にでも刺されたのかと思ったが、痒みは特にない。それに奇妙な話だがこの虫刺されのような痕、一つではないのだ。何故か五つも数珠繋ぎに並んでいた。

 鬱血したような丸い痕が首筋を横切って綺麗に列をなして五つ並んでいるその様は、まるで自由を縛る首輪を掛けられた奴隷のようで───。

 

「も、もしかして何か悪い病気とかじゃ……」

「別に大した事はねえよ。痛くも痒くもないしな」

 

 心配そうに眉根を寄せたらいはを安心させる為に笑みを作ったが、正直なところ気味が悪い。

 どうせ直ぐに消えるだろうと思って最初は気にも留めていなかったが、未だ消えずに残っているのを見るとこれが只の虫刺されではない気がしてくる。

 鏡の前に立ちこれを鏡で見る度に何かこう、胸を締め付けられるような感覚に陥る。まるで取り返しの付かない罪を犯してしまった罪悪感のような何か。

 呪いとでも言うのか馬鹿馬鹿しい。そんなオカルト有り得ない……前の俺ならきっと、そう切り捨てただろうに。なまじその"オカルト"を体験した今では有り得ないと断じる事が出来なくなっている。

 この痕の数が四つや六つならきっと何も思わなかったのだろう。だが、『五つ』だ。『五』なんだ。この数字に纏わる事象は俺の人生に良くも悪くも変革を齎した。

 果たして今度の『五』は吉と出るか凶と出るか。

 

「まっ、やべー病気なら一花ちゃんの親父に見てもらえばいいだろ!」

「そっか! 一花さんのお父さん、お医者さんだったもんね!」

「だから別に心配いらねえって……」

 

 親父も暗い顔をしたらいはに気を遣ったのだろう。ガハハと笑い飛ばしながらいつもの通り期限切れの牛乳を一気に飲み干した。

 しかし元々中野父と旧知の仲らしい親父はともかく、らいはまでそんな事を知っているとは。どうやら俺の知らない内に随分と打ち解けたらしい。

 何というか……違和感がある。前回なら二人の口から出る名前は五月だったというのに、それが今回は一花だ。全く違う接し方をしているのだから当然と言えば当然なのだが。

 それに一応は女優の卵である一花が仕事の合間を縫ってらいはと交流を深めていたのは意外だ。あまりイメージはなかったが一花とらいはも相性が良かったのか。

 

「そう言えばちゃんと一花ちゃんとは仲良くしてるのか?」

「まあ、生徒だしな。それなりには」

「一花さんなら何時でも遊びに来てもいいって伝えておいてね」

「ああ、言っておく」

 

 こうして家族との些細な会話でも前回との変化を嫌でも感じさせられる。別に悪い事じゃない。運命を変えたのだという確かな手応えがあるのだから。

 進めたんだ。前とは違う道に。変えれたんだ。前とは違う結末を。

 

 林間学校だってそうだ。行く前には何か起こるのではないかと警戒していたが、それも杞憂に終わった。

 厄介事になりそうな火種を予め全て潰していたのが大きかった。二乃に妙な誤解をされる事もなく、五月が変装して一悶着起きる事もなく、熱で倒れて入院する事もなく、無事に帰る事ができた。

 人間、二回も同じ人生を歩めば誰だって学ぶものだ。間違いなく前回の経験を活かせている。

 あいつらとの仲も順調だ。林間学校で二乃とも少しは関係を改善できたようであれ以降、勉強会にも顔を見せるようになってくれた。

 ……正直、いきなり呼び名を『フー君』に変えてきた時は冷や汗をかいたが、幸いにも前回のような露骨な態度は見せてはいない。

 渾名で呼ぶようになったのは二乃なりの信頼の証明、と言ったところだろう。林間学校で厄介な勘違いはなかった筈だしあいつにそんな感情を抱かれる心当たりなど全くないからな。

 あんな経験をしたんだ。前の時よりはそういう心の機敏を理解できるようになっていると自負している。

 

 ──大丈夫だ。何もかも全て上手くやれている。何も問題はないじゃないか。

 

 先の首筋の痕といい、どうにも最近は神経質になり過ぎている。これも中野父に呼び出されたあの日が原因だろう。

 あの時に感じた強烈な悪寒と圧。

 気のせいだと何度も自分に言い聞かせても納得せず、頭蓋の奥底で警鐘を鳴らす自分がいる。

 あの悍ましさを俺は知っているからだ。俺は既にこの身に向けられた事がある。濁り腐り魂にこびり付くかのような感情の奔流を。

 

 かつての時、姉妹の仲が裂け手段を選ばず嘘と独占欲に塗れた虚無の瞳をしたあいつらに俺は───。

 

「ッ!?」

 

 ふと、腹部に鈍い痛みが走り、慌てて己の腹を見て固まった。

 一瞬だけ、けれど確かに。前回の最後と同じ光景を幻視したのだ。

 伝う鮮血、体から熱が抜けていく感覚、腹から生える銀色に煌く五つの刃、力なく笑う五人。

 真紅と共に己が内から絶望と諦観が滲み出る。どうしてだ、何故だ、と。

 ……けれどその五人の瞳には確かに一滴の涙が零れていて。

 

「おい! 風太郎!」

「お兄ちゃん!? どうしたの、顔真っ青だよ!」

「……いや何でもない。大丈夫だ」

 

 蘇ったトラウマに強烈な吐き気に見舞われながら、這い上がってくる胃液を飲み込んで拳を握りしめた。

 ああ、分かっている。上手く行き過ぎて忘れてかけていたんだ。泡沫の幸せな時間を味わえて勘違いしそうになっていたんだ。

 願ったんだろう。あの涙を止めたいと。

 願ってしまったんだろう。もう一度と。

 

「でも……」

「大丈夫だ、らいは───俺は大丈夫だから」

 

 ああ、そうだ。大丈夫だ。何も問題はない。何も間違ってはない。

 あれを回避出来ればいい。それだけを考えろ。それだけに集中しろ。

 それ以上は望まない。望んじゃいけない。きっとどんな結末を迎えようとも、あの惨劇を回避出来れば俺は後悔はしない。

 

 何、簡単なことだ。何も難しい事なんてない。

 あの馬鹿共を無事に卒業させる。それだけで全員笑顔のハッピーエンドだ。単純だろ?

 

 ◇

 

 夢を見た。素敵な王子様と恋に落ちる妄想のような夢を。

 夢を見た。王子様でないのに惹かれてしまった彼の夢を。

 前者の彼は金色の髪をした自分の理想の男の子。けれど、その彼との恋は成就しなかった。

 後者の彼は理想とはほど遠い地味な姿の男の子。けれど、その彼との恋も成熟しなかった。

 

 一度目の恋は諦めが付いた。いつまでも過去に囚われていた自分と決別をしてちゃんと『サヨナラ』を言い渡せたから。

 

 だけど二度目の恋はダメだった。諦める事なんて出来なかった。この手から零れ落ちる事を許容出来なかった。

 姉妹以外で初めて受け入れる事が出来た"外"からきた男の子。彼を拒絶し、彼と衝突し、彼を理解し、彼に歩み寄り、彼を受け入れ、そして彼に惹かれた。

 その時には既に彼は自分にとって"家族"同然の人になっていた。大事な、掛け替えのない、大好きな姉妹達と遜色のない家族に。

 

 もしも……。もしも彼が自分でなくても姉妹の中の誰かを選んでいたのなら、涙を流し悔やみながら歯を食いしばって、けれど笑顔でその結末を受け入れる事が出来たのかもしれない。だってそれでも彼は家族として自分の傍にいる事に変わりはないのだから。そう納得する事が出来た。

 

 ───だが、そうじゃなかった。そうはならなかった。

 彼は、大事な彼は、大好きな彼は、家族である彼は、よりにもよって自分から、そして姉妹から離れるというあってはならない選択をしたのだ。

 ダメだ。それは。

 それだけはダメだ。亡くなった母のように、消えた父のように、彼までもが自分達の前から消えるなど。

 度し難い事であった。赦せない事であった。

 家族は一緒でなければならないのに。家族は絆で結ばれていなければならないのに。

 どうして、どうして、どうして。

 涙が枯れるまで泣いた。けれど涙はとめどなく溢れて、代わりに枯れたのは心だった。

 もはや怒りはない。ただ、どうすれば彼が家族の元に戻ってくるのかを考えた。

 考えに、考えて、彼との出会いから全て振り返って……ふと思い出したのだ。

 あの林間学校の伝説を。結びの伝説を。自分達を結び付けている運命の糸の存在を。

 

 そうだ。あの時、あの瞬間。確かに自分達は彼の手を握っていたではないか。

 あの温もりを、あの感触を、忘れる筈がない。今もこの手に残っている。失われてなどいない。

 まだ切れていない。彼と自分達を結び付ける運命は決して途絶えてなどいない。

 

 希望の光が見えた。再び彼と共に歩める道が見えたのだ。希望を見出したのはどうやら自分だけではない。

 こういう時に五つ子だという事を思い知らされる。他の姉妹も同じ考えに至っていた。

 

 この恋はいつ死ぬのだろう。

 

 想いを寄せる人が離れてしまった時──違う。

 好きな人を部外者の女に盗られた時──違う。

 その女と彼の結婚式に招待された時──違う!!

 

 ───大好きな人に忘れられた時だ。

 

 なら私達の恋はまだ終わっていない。私達の運命はまだ潰えていない。彼が私達を忘れる筈がない。忘れたと虚偽を吐くなら思い出させればいい。二度と忘れないよう、今度は強烈に刻み付けて。

 彼の中で決して消えない思い出となればこの想いと恋と愛は不滅となるのだ。

 

 夢はそこで終わった。目覚めた時には殆ど覚えてなくて、曖昧で、ぼやけていた。

 けれど、一つだけ分かった事がある。

 

 あの夢の女は結局のところ王子様を手にする事が出来なかった。

 所詮はただの敗北者だ。自分とは違う。ああはならない。

 

 

 

 ◇

 

 

「いやぁ、こうしてみると姉妹五人だけでテーブルを囲うのって最近なかった気がするよ」

「あいつがいない時はそれぞれ予定が被ったりするもんね」

「一花はお仕事でいない時があるし、四葉は部活の助っ人で帰る時間もバラバラ」

「あはは、言われてみればそうだね」

「それに最近は五人が揃っている時は上杉君も一緒ですし、五人だけと言うのは久しぶりです」

 

 二乃が用意した料理のお皿が並べられたテーブルを五人で囲いながら姉妹はそれぞれ顔を見渡した。

 昔は何をする時も何処に行く時も五人一緒だった仲良し五つ子姉妹であったが、年齢を重ねるに連れて各々が別に時間を過ごす事が増えた。

 もう高校二年生だ。いつまでも家族と一緒、と言う訳にはいかない。見た目は同じであるが中身は別で、好みの食べ物も飲み物も趣味も特技も全てが異なる五人。

 だからこうして改めて五人で一緒に食卓を囲むというのは嬉しいものだ。二乃なんて鼻歌まじりに今日は一段と料理に力を入れていた。

 久しぶりに姉妹水入らずで五人仲良く、みんなで一緒に、語り食事をしようじゃないか。今日は素敵な晩餐会だ。

 

「早速だけど本題に入ろっか。"私"のフータロー君の事について」

「一花。何言ってるの? 上杉さんは私達の家庭教師なんだから誰かのじゃないよ」

「ああ……ごめんごめん、四葉。言い間違えちゃった」

 

 あはは、と長女と四女が同時に笑った。早速、女子会らしくガールズトークに花を咲かせたようだ。

 流石は五つ子姉妹。何ともまあ仲睦まじい。互いに嗤いあう二人に他の姉妹も微笑ましく見守っている。

 

「そうだよ。"私"の風太郎君なんだから。そこは間違っちゃダメだよ一花」

「四葉こそ間違ってるじゃん。フータロー君は四葉のじゃないよ」

「あはは、ついうっかり」

「もう、ダメだよ四葉。いくら五年前に"たまたま"先に会ってたからってそんな事を言ったら。フータロー君に気味悪がられるよ?」

「そう言えば一花も会ってたんだよね。ただトランプしただけで、私と比べたら一瞬だけど。風太郎君、本当に覚えていたのかな?」

「……ふふっ」

「……ははっ」

「「あっははははっ!!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──何が可笑しいのかな。四葉」

「それはこっちの台詞だよ。一花」

「お姉さん悲しいな。妹にこんな酷い事を言われて」

「酷い事? 私から奪ったのに」

「私が奪った……? ああ、確かに小さい時はあったね。お菓子かな? おもちゃかな? それとも四葉が集めていたシール? あはは、何を返して欲しいの?」

「風太郎君」

「フータロー君? 可笑しな事を言うね。フータロー君はこれから貰うんだよ。私が告白して返事に抱きしめて貰うことでね」

 

 早々に茶番を終わらせ、互いに睨みを利かせた。両者共に一歩も譲る気などなく、姉妹相手だからと言って引く気も更々なかった。

 今日、ここらで一度ちゃんとした話し合いの場を設けようと提案したのは長女である一花だった。

 水面下で火花を散らしている姉妹間の戦争。チクチクと離れた箇所から棒で突き合う下らないやり取りに嫌気が差したのもあるが、一花が動いた本当の理由は先の林間学校と父と彼との会話であった。

 あの時、彼が父にどんな言葉を吐きかけたのか。よっぽど愚鈍で愚図でない限りは誰でも察しが付く。

 彼は、上杉風太郎は、あろうことかあんな名前も知らないようなモブを相手に焦がれ始めているのだ。

 何故、どうして、理解できない。本当にどうしてあんな女なんだ。あれの何がいいと言うのか。

 多少は見た目が整ってはいるようだが、容姿で言えば自分の方が遥かに上だ。いや見た目なんてどうでもいい。彼はそういった要素で人を選ぶ男ではない。そこらにいる凡百の発情した猿とは違うのだ。

 そうなると必然的に彼は中身であの女に惹かれた事になるが、有り得ない。あの後、彼とあの女の関係を洗い浚い探ってみたがどうにも関係性や共通点が見えてこない。

 あの女自身にも確かめてみたが、彼と直接話をしたのは林間学校のあのスキーが初めてだと語っていた。その時にあの女が満更でも無さそうな顔を浮かべていたのが一花には癪だったが女優としてのスキルをフルに活かし何とか目の前では笑みを張り付ける事が出来た。

 話を聞き終えた後、教室のゴミ箱を蹴り上げながら怒りをぶちまけ、その様をクラスメイトであり彼女に密かに憧れを抱いていた前田が目撃して彼の淡い想いが終わったのは別の話である。

 

「まあ、落ち着きなさいよ二人とも。フー君についてはまだ誰のでもないでしょ」

 

 料理を盛りつけた皿を運びながら二乃が睨み合う二人に制止を呼び掛ける。

 が、今は逆効果だ。睨み合う二人の眼が今度は二乃を捉えて感情の矛先を変えた。

 

「ねえ、二乃」

「何かしら一花」

「そのさ、フー君って……なに?」

「いいでしょ? 可愛いくて。あ、でも付き合うまではいいけど結婚した後は普通に呼んだ方がいいのかしら……」

「二乃は風太郎君の事、嫌いじゃなかった?」

「いつの話をしているのよ四葉」

「……確認、してもいいかな」

「何よ。改まって」

「まさか、今更になってフータロー君の事が好きだなんて言うつもりないよね?」

「あれだけ拒絶していたのに今から掌返して風太郎君を好きになる筈ないよね?」

「そんなのさ」

「都合良くない?」

「都合がいい? 当たり前でしょ。これは私の恋なんだから」

 

 二人の口撃を鮮やかにいなす二乃。強かだ。男子三日会わざれば刮目して見よと云うがそれは彼女にも当て嵌まる言葉のようだ。

 先程の一花と四葉のやり取り。半分以上は本音で語り合っていたが何も相手を貶すだけが目的ではない。

 こうして目の前で派手に罵り合う事で他の姉妹が彼の争奪戦に参加する事を躊躇させる目的もあったのだ。ただでさえ目の前にいるのは己の最大の敵で、しかも無視できないモブまでいる。これ以上は戦局を荒らされたくないという利害の一致が一花と四葉にはあった。

 しかしながら、彼女にそれは通用しない。堂々とこの場で二乃は宣戦布告をしたのだ。

 暴走機関車、なんて生易しいものではない。暴走した装甲車だ。動く城塞だ。何人たりとも彼女を止める事などできやしない。

 

 だが、それでも妙だと一花は訝しんだ。

 なんだ、あの二乃が漂わせている強者の余裕は。

 条件で言えば後から参戦し、更に彼からの好感度も一番低くても何ら不思議ではないのが二乃だ。その状態でこうも余裕を見えるのは不気味だ。

 彼女は分かっているのだろうか。彼にただでさえ姉妹というライバルがいる中、彼に想い人がいるかもしれないという一刻の猶予もないこの状態を。

 戦局を読めていないのか。ただ猛進する獣なのか。いや、違う。彼女は獣ではない。賢しく狡猾な女だ。眼を見れば判る。

 あれは何も見えていない獣の眼ではないのだ。

 

「そうだ。ちょうどいいから聞いておくわ……最近、妙な夢を見たって子いる?」

「……?」

 

 二乃の奇妙な問いに一花と四葉は顔を見合わせて首を傾げた。妙な夢……一体何の事だろうか。

 判っていないのは先程からやり取りを静観していた五月も同じようで目をぱちくりとさせて疑問を抱いている様子だ。

 

 しかし残りの一人───彼女は違った。

 

「……もしかして二乃も?」

「ふーん、三玖もなんだ」

「何処まで覚えてる?」

「正直あんまり……あんたは?」

「曖昧で、ぼやけてる」

 

 意味深な言葉を交わす二人と理解の追い付かない三人。

 確かなのは、夢を見たという彼女達二人の顔は一花や四葉と違って焦燥感など微塵もなく、あるのは絶対的な自信と凶暴な愛の炎が宿った瞳。



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外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ③

すげー家庭教師が少し様子のおかしい五女と勉強する話。


 一花と四葉が語った彼に出会った過去を聞いた時、五月の胸の内を渦巻いたのは間違いなく嫉妬の感情だった。

 姉達に対してそれに似た感情を抱くのは、別にこれが始めてではない。幼い頃に大好きな母の膝を他の姉達が占領した時なんかはズルい、私も、と強請り涙を浮かべたものだ。

 でも、今度のそれはそんな拙さの残る可愛らしいものではなかった。今まで感じた事がない程に強烈で熾烈で、肉も骨も腸も煮えたぎり溶け落ちてしまいそうな程に熱を持った感情の奔流。

 初めて経験する制御の効かないそれを抑え込む術を五月は知らなかった。

 

 あの話を聞く前ですら、彼と距離の近いあの二人を何度妬んだことか。彼の背中を授業中に眺めている時も、大好きなご飯を食べている時も、放課後勉強会の前に二人きりで過ごす僅かな時間も、家庭教師として真剣な眼差しで隣り合わせになって勉強を教えてくれる時も、鈍い痛みと滾る熱が胸を走った。

 けど、それだけだった。ただ距離が近いだけなら、そんなちっぽけな嫉妬心だけで済んだのに……。

 

 一花と四葉だけが過去に彼と出会っていた。

 

 その事実を五月は素直に飲み込めなかった。二人は五年前の修学旅行の行き先である京都で出会った。四葉に至っては彼を変えた約束までしたと聞く。

 そして月日は流れ、また彼との再会を果たした姉達。

 

 ……なんだ、それは。彼女達の話を聞いて真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。

 理解できない。納得できない。許容できる筈がない。

 何故、二人だけなのだ。どうして自分ではないのだ。同じ顔なのに。同じ体なのに。同じ声なのに。あの時は髪型すら同じだったと言うのに。

 そんな物語のヒロインのような過去を四葉や一花にだけ与えられたんだ。運命が姉妹五人の中から二人を選んだとでも言うのか。彼との再会は必然だとでも宣うのか……ふざけるな。

 

 一花は着飾ったドレスを見せびらかすように語った。彼との偶然の出会いを。そして再会。

 ずっと上杉風太郎との思い出を一花が記憶していたように、彼も一花を覚えていた。たった一時だけ共に過ごした僅かな時間を。それを機に一花は彼との距離を縮めた。

 何かと理由を付け上杉家に入り浸るようになり、今では彼の家族とも親密な関係を築いているらしい。

 自分から彼に給料を渡す役割を奪い、姉妹で唯一彼の住所を知る一花。時折、彼の妹と仲良さげに電話でやり取りしている様子を五月は知っている。それを見る度に拳を握りしめた。”それ”は本当なら私だったのに、と。

 

 一花に追随して四葉も手にした眩く輝く宝石を自慢するかのように彼との思い出を零した。

 五年前、舞台は京都。修学旅行で出会った運命の男の子。それが上杉風太郎だった。自分達と同じように貧しくて、不思議で、おかしくて、粗暴で、だけど優しい男の子。

 彼と約束を交わした五年前からずっと四葉は彼を想い続けた。約束を守ろうと周りを見ずに走り続けた時も、約束を果たせず失意の底に沈んだ時も、ずっと。

 彼と再会し、約束を破った自分を受け入れ、それどころか必要だと言って手を指し伸ばしてくれた事で胸に秘めていた四葉の想いは爆発した。

 ああ、確かに素晴らしい話だ。目が潰れそうになるくらい眩い思い出だ。四葉が御伽噺のヒロインであったのなら上杉風太郎が手を取るのは彼女が相応しいのかもしれない。

 ……あくまでも御伽噺であったのなら、だが。

 彼との思い出を姉妹の前で明かしたあの日、一花と四葉は自分達に向けて宣戦布告をした。

 

『フータロー君を一番愛しているのは私だよ。一番の理解者も、一番尽くしてあげられるのも、私だけだよ』

『風太郎君が選んだのは私だよ。だって言ってくれたんだ。私が必要だって、みんなとは次元が違うんだよ』

 

 二人が自分達に向ける眼は少なくとも愛おしく大切な家族に対して向けるものではなかった。

 敵対するなら容赦はしないと、獣が外敵に向けるそれと何ら遜色ない何者にも染められない漆黒。

 そして、それを向けられる五月もまた、同じ眼で睨み返していた。胸から湧き出るドロドロとしたマグマのような熱を宿しながら。

 

 ずるい。ズルい。狡い。なんで、なんで、なんで……なんであなた達だけッ!!

 

 気を抜けばきっとそう叫んでいただろう。仮にも自分は彼女達の母になると誓った身だ。愛おしく大事な姉達にそんな呪詛を吐き掛ける真似は出来ない。

 だから言葉にしないように必死に歯を食いしばった。僅かに残った五月の理性がそうさせたのだ。

 しかしながら、そんな五月を彼女達二人はまるで憐れむかのように嗤った。

 

 "五月ちゃんが今更何を足掻いても無駄だよ無駄無駄。お姉さんがフータロー君を貰うから"

 "五月はお母さんの代わりなんだよね? なら私の恋をちゃんと応援してよね『お母さん』"

 

 一花も四葉も口を開いていない。けれど、確かに五月の耳には二人の声が届いていたのだ。まるで自分の事など歯牙にもかけないと言わんばかりの声が。

 幼い頃、髪型も同じで思考すらも共有していると妙な錯覚をしていたあの頃はたとえ口にしなくても姉達の言葉が解ったものだ。今では失われたその懐かしい感覚。

 久しぶりに体感したそれは、あの時と違って日溜まりのような暖かさと心地良さはなく、氷柱で刺された痛さと冷たさ、そして拭い難い不快感しかなかった。

 名状しがたい荒々しい感情の暴風が五月の胸を吹き荒れる。

 その原因は自分を嘲笑う二人だけではない。

 

 どうして、あなた達は平気なんですか……?

 

 二乃と三玖。先程から凪のような静けさを保つ彼女達二人も、また五月にとっては解せない存在だった。

 何故、あの二人は一花と四葉の彼との関わりがある過去を知った上で自分とは違って冷静なのか。

 普段の二乃なら声を荒げて感情を爆発させた筈だ。

 普段の三玖なら静かな怒りを滲ませて睨んだ筈だ。

 それなのに、今日の彼女達は感情を表に出さずただ静観を貫いている。そしてその瞳は何処か余裕を滲ませていて、五月は焦燥感に駆られた。

 自分には一花や四葉のような劇的な出会いと過去もなければ二乃や三玖のような根拠の出処が分からない絶対的な自信もない。

 まるで姉妹でただ一人、取り残されてしまったような錯覚に陥った。

 居ても立っても居られなくなり、五月は逃げ帰るように自分の部屋に戻って、ベッドに飛び込んだ。

 感情の奔流は未だ収まる気配を見せない。憤怒、嫉妬、愛憎、何もかもが混じり合って思考どころか呼吸すらもままならなかった。

 

「上杉、くん……」

 

 ぐちゃぐちゃになった頭の中で、ただ彼の名前が唇から零れ落ちた。

 上杉風太郎。中野姉妹専属の家庭教師。五月のクラスメイト。大事な友人。そして……。

 

「……上杉君」

 

 もう一度、今度はゆっくりと彼の名前を口にした。するとどういう訳か、不思議と胸がすいて荒くなっていた呼吸も落ち着いてきた。

 荒々しい暴風が吹き荒れていた五月の心に、仄かな火が灯り、彼の顔が浮かぶ。

 暖かな人だ。彼は出会った時からずっと見守るような優しい瞳を向けてくれた。それはまるで亡くなった母のようで、失った筈の寵愛をまるで彼が与えてくれるような心地良さを感じた。

 あの林間学校の夜を見た晩も今のように感情が昂って寝付けなかったが、彼の名前を口にするだけで鎮静剤のように心の熱が引いていった記憶がある。

 それだけ彼が自分にとって大きな存在になっていたのだと、五月は改めて実感した。

 

 私達を一目で見分けてくれる人。

 私達を本気で気遣ってくれる人。

 私達を否、私を導いてくれる人。

 一緒にいてくれて安堵できる人。

 私のお父さんになってくれる人。

 

 胸に手を当てて確かめるように、そっと撫でる。

 この胸の鼓動、高鳴り。彼を想うだけで炎に入れた鋼のように熱くなる心。

 友情と言うにはあまりにも苛烈で、友人というにはあまりにも愛おしすぎる存在。

 きっとこれが恋というのだろう。

 きっとこれが愛というのだろう。

 

 生まれて初めて異性の事を好きなのだと自覚した。

 

 この胸に、この心臓に、この心に。中野五月には上杉風太郎を想う愛と恋が確かに此処にあるのだ。

 それはどんな輝かしい思い出や眩い約束にも決して劣りはしないこの世で唯一無二の尊き存在。

 共に過ごした時間がなんだ。共に交わした言葉の数がなんだと言うのだ。

 そんなものはこれからずっと彼の傍に自分がいれば幾らでも上書きできるではないか。

 

 一花も二乃も三玖も四葉も、前の生徒とやらも、そして名前も知らないあの忌々しい女生徒も。

 全部、全部、全部、上杉君の中から綺麗さっぱり真っ白に染め上げて、そして私が───。

 

「上杉君ッ……! 上杉君、上杉君、上杉、くん……風太郎、くん」

 

 姉妹に向けた強烈な熱は別の彼を想う消えない炎が五月の身を焦がした。

 火照る体を冷ますようにその日、五月は密かに拝借していた彼のペンで自分を慰めながら果てると同時に眠りについた。

 

 ◇

 

 恒例となった放課後の勉強会。普段なら学校の図書室を利用して五つ子とテーブルを囲いながら行われるそれは、今日は少しばかり様子が異なっていた。

 まず面子だ。最近は二乃が参加するようになり五人全員が揃った状態で行われていた勉強会だが、今日はどういう訳か五月一人しかいない。

 一花は映画の撮影、四葉は部活の助っ人、二乃と三玖は何やら二人で用事があるとの事で四人とも放課後の予定が埋まっていたと五月から聞いた。

 前回ならば忌々しき事態であったが、幸いにも今回のあいつらは前より成績の伸び率がいいし、期末試験はもう少し先だ。時間的にもまだ余裕があった。

 五月から他の姉妹の予定を聞いて今日はオフにしようとしたのだが、その五月に呼び止められてしまった。

 やる気に満ち溢れた表情で勉強を教えてください、と嘗て初めて出会ったあの時の言葉を向けられて断る事など俺には出来なかった。

 

 二つ返事で了承して五月と二人きりで勉強会を行う事になったのはいいのだが……。

 

「……しかし、なんで俺の家なんだ」

「前から一度来てみたかったんですよ」

「こんな何もない所よりも図書室の方が良かっただろ。仮に家で勉強をするにしてもお前達のマンションの方が快適だったろうに」

「ふふ、いいじゃないですか。それに一花だけ訪れた事があるなんて不公平です」

「不公平って……」

 

 何故か、普段のように図書室ではなく俺の家で勉強会を行う事になった。

 折角の機会だからとやや興奮気味に提案してきた五月に最初は難色を示したのだが、どういう訳かこいつは一歩も譲らなかった。

 そこまで拘る理由がイマイチ理解できなかったが、まるで前回の時のような意地の張りように少し懐かしさを感じて最終的には俺の方が折れてしまった。

 既に一花が何度も出入りしているんだ。今更、五月が訪れたところで何も変わらないだろう。それに前回のように家出して数日の間居座らせるのとは違い、たった数時間の事だ。別に問題はない。

 ついでに言えば前のようにらいはと五月が仲良くなって欲しいという思惑があった。今は一花とも仲良くやっているようだが、またらいはが五月にカレーを食わせて嬉しそうに笑う顔を見てみたかったのだ。

 残念ながら今日は友人の家に遊びに行っているらしく、らいはの姿は見えないが。 

 

 結局、場所が変わっただけでやる事は普段の勉強会と何ら変わらなかった。

 卓袱台の上に参考書とノートを広げ、五月に解説しながら問題を解かせる。図書室で行っているのと変わりはない。

 違いがあるとするなら、使っている卓袱台が図書室のテーブルよりも小さいせいか、いつもよりも五月との距離が近い程度だろうか。

 肩をくっつけながら隣で教えているが俺もあいつも気にしていないし、特に問題はない。五月は真面目な奴だ。その程度で集中を切らすような奴でない事を前回の時からよく知っている。

 

「上杉君、少しいいですか?」

「なんだ?」

 

 五月に解かせた小テストの採点をしている最中、くいっと袖を引かれた。隣を向くと何やら五月が真剣な表情をしていたので、俺もペンを止めて五月と向き合った。

 分からない箇所でもあったのだろうか、と思ったがどうにもそういう感じでは無さそうだ。

 この時期に起きた中野姉妹に纏わるトラブルを思い出し、気を引き締める。まさか、また姉妹間で喧嘩をしたんじゃないだろうな。

 

「上杉君は前の生徒さんの事をどう思ってるんですか?」

「前の? 急にどうしたんだ」

「以前から気になっていたんです。その人は、今でも上杉君にとって大切な人ですか?」

「……」

 

 想像していたものと違った質問に思わず押し黙ってしまった。

 『前の生徒』について……一体何故そんな事を聞くのか全く分からない。てっきりあいつら姉妹の問題を相談されると思っていたのだが。それにどういう意味だ。大切な人か、だなんて。

 前回のあいつらとの経験を便宜上、『前の生徒』と言って誤魔化してきたが、それを怪しまれたのか。自分では上手く立ち回ってきたつもりだが、もしかしたら無意識に何かへまを踏んだのかもしれない。

 ここに来て五月から信頼を損なわれるような真似はできない。せっかくここまで全て順調に来たのだ。ならばここは下手に誤魔化す事はせず、ちゃんと答えるのがベストか。

 暫く間を置いて、顎に手を当てながら俺は慎重に言葉を選んだ。

 

「そう、だな……大切な、掛け替えのない思い出だ」

「それは私よりも?」

「……何?」

「今の生徒である私よりも、大切な人ですか?」

 

 五月の追及にまたしても言葉を詰まらせたと同時に何処か違和感を覚えた。何故かは分からない。だが俺の知る五月の像から少しズレた言葉だった気がする。

 戸惑いを隠せないまま、五月の顔を伺うとその表情は不安そうに見えて……。

 自然と考えるよりも先に口が先に動いていた。

 

「確かにあの思い出があったから、今の俺が在る。それは否定しない」

「……」

「だが、今の俺の生徒は、こうして俺の傍にいるのは、お前だ。過去の生徒じゃない」

「ッ!!」

「言っただろ。笑顔で卒業させるって。少なくともそれまでは、俺は全てにおいてお前達を優先するつもりだ。何よりも……そして誰よりも」

「───」

 

 噓偽りが無いのを示すように俺は五月の眼から視線を逸らさずに宣言する。間近で眺めた五月の揺れる瞳に俺の顔が映った。

 ようやくこいつの質問の意図が見えた気がしたのだ。きっと、こんな事を聞いたのは不安だったからだ。

 今になって気付いた俺は相当間抜けだ。俺はずっと重ねて見てしまっていたんだ。今のこいつらに『前回』の思い出を。

 それはただの自己満足に過ぎない。俺が自身の負債を埋め合わせようと身勝手に思い出を想いを、こいつらに重ねてしまっていた。それを五月は感じ取ったのだろう。

 俺が五月達に向ける信頼も、友情も、全ては前回の経験から起因する。だがそれは今のこいつらにとっては身に覚えのない信頼と友情だ。不審に思ったに違いない。

 そしてそれを俺が『前の生徒』に向けていた感情を今の自分達に重ねていたのではないかと、疑ったのだろう。あながち間違いではなかったが。

 

 一花も二乃も三玖も四葉も五月も、姿は同じでも中身は俺の知るあいつらではない。重ねてはいけないんだ。向き合うのは過去じゃない。今なんだ。

 そんな当たり前の事にようやく気付かされた。危うく同じ過ちを繰り返す所だった。

 

「本当、ですか?」

「本当だ」

「前の生徒さんよりも私の方が大切ですか?」

「ああ」

「私を誰よりも優先してくれんですか?」

「そう言った」

「じゃあ、他の誰よりも私が一番なんですよね」

「? ……そう、いう事になるのか?」

「そうですよ。安心しました」

 

 やはり五月の言葉に妙な何か引っ掛かりを感じる。何かこう、いつもとは違う言い回しだ。

 だが、安堵の笑みを浮かべる五月にとりあえずは胸を撫で下ろした。これで少しは信頼を取り戻せただろうか。

 気が抜けたせいか、思わず出そうになった欠伸を既の所で何とか噛み殺した。

 が、誤魔化せなかったようで五月は首を傾げて寝不足ですか、と俺の顔を覗き込んできた。

 

「ああ、まあな……最近少し寝付きが悪いんだ」

 

 あの林間学校以来、時折見るようになった『前回』の記憶。悪夢となって蘇る忘れ難き傷は俺の睡眠を阻害していた。

 未だに残る首筋の五つの痕をそっと撫でる。消えないこの虫刺されのような妙な痕と消えない過去の記憶。それら二つが何故か繋がりがあるように思えて鏡を見る度に気分が悪くなる。

 今の姉妹達に過去を重ねてはいけない。だが同時にあの過去を忘れてはいけない。

 こいつらを無事に卒業させて、笑顔で見届けたその時に初めて開放されるのだろうという直感のようなものがあった。

 少なくとも家庭教師を続けている間はこの悪夢と痕に付き合う事になるのだろう。

 

「あまり無理はしないでくださいね。辛いようでしたら勉強会の途中で寝てしまっても構いませんよ?」

「そこまで眠気は酷くねえよ。俺を舐めるな」

「ふふっ、頼りになりますね。そうだ。休憩がてらお茶にしませんか? 実は家から二乃がお気に入りの紅茶の茶葉を持って来たんです」

 

 そう言って五月は鞄からがそごそと漁り出した。しかし随分と準備がいいな。朝の時点で俺の家で勉強会をやる見込みだったのだろうか。

 まあいい。ここは五月の好意に甘えるとしよう。珈琲ではなく紅茶ならまだ俺も飲めるし、カフェインを取れば多少は眠気覚ましにもなる筈だ。

 台所を借りますね、と居間を離れてた五月を見送ってからふと今更になって先程の違和感の正体に気付いた。

 

 ───何故、あいつは『私達』ではなく『私』と言ったのだろうか。

 

 

 ◇

 

 やってしまった。卓袱台に伏して眠り込む風太郎を見下ろしながら五月は自分の呼吸が段々と荒くなっていくのを確かに感じ取っていた。

 罪悪感は、ある。だってそうだ。想い人を薬を使って眠らせるなんて、許されない事だ。バレたらきっと優しい彼でも怒るだろう。もしかしたら家庭教師を辞めてしまうかもしれない。

 けれど、やらないという選択肢は最初から五月には存在していなかった。己の中で後悔など微塵も存在しなかった。千載一遇のチャンスなのだ。今日という日は。

 一花も四葉も互いに互いの事を一番警戒している。末妹の事など牙を持たぬただの子犬と侮っているのだ。それは二乃と三玖も同じ。

 

「上杉君……」

 

 そっと彼の頬に触れた。普段は年不相応に大人びて見える彼だがこうして寝ている顔を盗み見ると、何処かあどけなさすら感じる。

 この顔を他の姉妹は知っているのだろうか。見た事があるのだろうか。触れた事があるのだろうか。

 きっと、あるのだろう。解るのだ。同じ血を分けた同じ顔の姉妹だから。一花辺りなら寝てる彼の頬に口付けをしていても不思議ではない。

 なら、五月がやる事は決まっている。愛おしい彼をこの身で清めるのだ。

 

「んっ……」

 

 触れるような口付けを彼の頬に落とした。たったそれだけで体の中に熱した鉄を流されたかのように火照った。

 昂る。血が沸く。ああ、これだ。これが欲しかった。これを望んでいたのだ。中野五月は。

 勿論、これだけでは終わらない。次は恐らくだが他の姉妹もまだ彼にした事がない筈だ。自分が、自分が一番最初なのだ。

 彼を畳の上に寝かせ、体勢を整える。心の欲求と欲望のまま今度は彼の唇に己のそれを重ねた。

 

「ん、あっ、んむっ……」

 

 最初はただ重ねるように、次第に口内をなぞるように、そして舌を犯すように。

 びちゃびちゃと卑猥な音だけが部屋を支配していた。

 風太郎の唇を奪った時、最初に感じた五感は触覚ではなく味覚だった。ただ、美味しいと思った。

 彼の唇が、彼の唾液が、彼の舌が、彼の歯茎が、彼の歯が。舐めるように味わいながら自分の唾液と混ざり合ってそれが、極上のハーモニーを奏でる。

 今まで食べてきたどんな料理よりも、心を満たすそれは五月にとって中毒性のあるドラッグにも等しく、直ぐに辞める事など叶わなかった。

 

「上杉君、上杉君っ、上杉君ッ、上杉君ッ! ……風太郎くん、風太郎!!」

 

 誰もいない。誰も聞いていないこの空間だからこそ、五月は彼の名前を呼べた。

 フータロー君。

 フー君。

 フータロー。

 風太郎君。

 

 思い返すだけで嫉妬の炎が体の内側から溢れ出そうだ。あの姉達は何ら遠慮など知らぬとばかりに大好きな彼の名前を平気で口にする。

 二乃も四葉も自分と同じように苗字で呼んでいた癖に厚顔無恥にも急に名前で呼びだした。余所余所しく上杉君と呼ぶのは自分だけ。

 また、自分だけだ。また取り残された。それだけは許せない。それだけは許容できない。だから私も高らかに叫ぶのだ。風太郎、と。

 これは練習だ。ずっと一緒にいると、自分が一番だと言ってくれた彼と生涯呼ぶであろう名前を呼ぶ為の、必要な行為なのだ。

 だからこうして名前を呼び、彼の唇を貪るこの行為は五月にとって正当なものである。

 自分は正しい。何も間違っていない。大好きな男の子に尽くすのは女の子として間違ってない。そうだよね、お母さん。

 

『男の人は慎重に見極めて選ばないといけません』

 

 ふと、五月の脳裏に母が遺した言葉が過った。

 大好きな母が漏らした、後悔を滲ませたようなあの言葉。それはきっと自分達を残して去った実父を指し示した言葉だったのだろう。

 五月はそれを理解していたし、それに従って異性に対しては姉妹で一番警戒してきたつもりだった。

 

 だが、あの言葉は真に正しかったのだろうかと思う時がある。

 気を許せる人が現れて、とても温かい人で、心の底から一緒に居たいと願った人がいて。

 

 もし慎重になって見極めている間にその人を他の女に盗られてしまったらどうするのだろうか。

 

 その疑問が今になってようやく確信へと変わった。

 

「───」

 

 あれほど情熱的に味わっていた彼の唇から、聞き覚えのない女の名前が寝言のように零れ出した瞬間に。

 先程まで全身を巡っていたマグマのような血が一瞬で冷えていくような感覚がした。手足の先が凍り腐り落ちてしまいそうな錯覚と腹の底から頭蓋までを駆け上がる吐き気を伴う感情の激流。

 五月は制服のボタンに指をかけながら眠る風太郎に跨った。

 

 ああ、ダメですよ。上杉君。それはダメなんです。

 今日は"ここまで"するつもりはなかったんですよ? 本当です。だっていつらいはちゃんや貴方のお父様が帰って来るか分からないじゃないですか。

 それに、こういう事は同意の上で行うのが当然でしょう?

 

 でも、ここまでさせたのは貴方です。だから責任を取ってくださいね。

 

「お母さん。私、『お母さん』になります」

 

 

 

 ◇

 

 懐かしい、感触がする。

 唇に触れる人の温もりと柔らかさ。初めては、確かにあの時だ。あの鐘の下で事故のように。あいつらの内の誰かと。結局は誰か分からないままに終わったが。

 その次は、自分を愛してくれた彼女だった。あいつらから逃げだした俺を受け入れ慰めてくれた彼女。

 これは、夢なのだろか。微睡む意識の中、彼女の名前を口にした。

 すると、夢である筈なのに自分を包み込む感触が確かにあったのだ。妙な夢だ。ただ、夢だとしてもこの心地良さに抗う事が出来そうにない。

 初めて彼女と交わった日を思い出す。ただ自分の中の懺悔と欲望を吐き出すように全てをぶちまけた。

 彼女はそれをただただ、受け入れてくれて、誰かに認められ求められる幸福に俺は涙した。

 

 この夢も、それと同じ快感があった。悪夢による不安が全て拭われていくような開放感。

 

 久しぶりに幸福な夢を見れた気がする。夢の中で俺はあの時と同じように己の中にあった不安と全てを吐き出した。

 

 

 それらが全て夢でなかったと知ったのは、もう少し後になってからだった。



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外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ④

少しやべー三四五。


「風太郎君、どうかしたの?」

「え?」

「さっきからずっと上の空だよ」

 

 恒例となった屋上で過ごす風太郎との至高の昼休み。先程からおにぎりを口に運ばず手に持ったままの風太郎に四葉は心配そうに首を傾げた。

 今朝からずっとそうだ。忌々しくも一花と共に登校する風太郎を後ろから付けていた時も、休み時間中に廊下から覗き見た五月と会話をしている時も、遠目で見て分かる程度には今日の彼は何処か様子がおかしい。

 昨日、何かあったのだろうか……或いは何かされたのか。

 

「悪い。少し考え事をしてただけだ」

「そうなんだ。さっきから手が止まってるから今日のおにぎりが気に入らないのかと思ったよ」

「そんな訳ねえよ。お前には感謝しているさ。四葉のお陰であの定食とおさらばできたんだしな」

「えへへ」

 

 食事を再開した風太郎に笑みを向けた四葉であったが、その内心はあまり穏やかなものではなかった。こんな事なら部活の助っ人など断って昨日は彼の傍にいれば良かった。何かあってからでは遅いのだから。

 林間学校最終日の出来事以来、四葉は風太郎に関することで少しナーバスになっていた。ただでさえ己と同じ肉体を持つライバルが複数いるのに、名も知れぬモブまで彼に集っているのだ。流石にモブのような羽虫如きに遅れを取る事はないと自負しているが目障りなのに変わりはない。

 

(一花が何か仕掛けたのかな……?)

 

 風太郎の様子がおかしい原因として真っ先に長女の姿を思い浮かべた。四葉にとっても現状一番の障害であるあの泥棒猫。悔しいが事あるごとに何度も風太郎の家に訪問している一花が最も彼と距離が近いと認めざるを得ない。

 しかし彼女は映画の撮影で昨日は学校自体を休んでいた。彼と物理的な接触はなかった筈だ。四葉は一花のスケジュールを完璧に把握している。そこに抜かりはない。英単語や数学の方程式よりも優先して頭に叩き込んだ。この戦争に負ける訳にはいかないのだから。

 映画の撮影がフェイクで何か仕掛けたとも考えにくい。それなら何か事前に不思議な動きを見せる筈だし、それを見逃す四葉ではない。それに仕掛ける時はこちらの妨害が入る事も彼女は理解している。現状、一花と四葉は互いに睨みを利かせ実質的な冷戦状態と言っても過言ではない。今ここで一花が動くとは思えない。

 

(もしかして二乃?)

 

 『泥棒猫』ではない。ならばあの盗人猛々しい次女が何か嗾けたのだろうか。

 四葉個人の意見としては正直なところ二乃は歯牙にもかけない相手だ。まず彼からすれば姉妹で最も第一印象が悪いのが彼女だ。想いを寄せ始めたのも最も遅い。あれだけ嫌っておいて今更掌を返して好きだの恋だのと馬鹿ではないのだろうか。あれが彼女なりのジョークならば大したものだ。全く笑えない冗談だが。

 人の大事な大事な幼馴染を勝手に気色悪いあだ名を付けた時は思わず鳥肌が立ったものだ。体を汚されたような不快感すらあった。しかし後で冷静になって今は問題ないと捨て置いていた。

 正攻法で彼を手籠めにするにしても、一日や二日でどうにかなる相手ではない。二乃程度でどうにかなっているならとうの昔に自分が彼と結ばれている。そうなっていたならこの屋上での昼食もおにぎりだけではなく四葉自身も頂いて貰っていたに違いない。

 つい普段寝る前に浮かべているピンクな妄想に浸りそうになったが首を振ってそれをかき消した。まだ完全に安心できる訳ではない。相手はあの暴走機関車。あれが果たして行儀よく正攻法を用いるだろうか。

 

(二乃なら強行手段もあり得るかも……)

 

 中野二乃に常識は通用しない。薬を盛って無理矢理という手段も十二分にあり得る。あれはヤると決めたらとことんヤる女だ。それだけの強引さと覚悟がある事を四葉は知っている。遅れた分を取り戻すだけの勢いを彼女は秘めているのだ。

 しかし、そこで四葉は二乃もまた昨日は用事があると三玖と共に出かけていた事を思い出した。彼女もアリバイがある。一花の次に警戒度の高い三玖も一緒なのが気になるが。

 

 あの三女はダークホースだ。以前、彼女は自分と風太郎が両想いなどというふざけた幻想を四葉の前で垂れ流してきた事があった。その時はいつもの笑みで誤魔化したが内心では腸が煮えくりかえっていたのは言うまでもない。あの妄想癖はある意味二乃以上に手が付けれられない。最近ではそれに加えて妙な自信も持ち併せていて正直不気味だ。どうせその自信も根拠のない妄想が生み出した物だろう。あれでは想像妊娠するのも時間の問題だ。末期の薬物中毒者でももう少しはまともな幻覚を見るだろうに。

 決して叶わぬ恋を夢想する姉を不憫に思うが、害があるなら容赦なく除かねばならない。一花に続き三玖も彼と二人きりにさせてはいけない要注意人物の一人である。

 

(でも三玖も二乃と一緒に出かけていたから問題はないかな……そうなると)

 

 残った最後の一人。肉まんを頬張りながらアホ毛を揺らす無垢な妹を浮かべて四葉は胸を撫で下ろした。

 確かに五月は昨日、風太郎と勉強会を行っていた。それも二人で、だ。いつも通りあの静かな図書室で彼と隣り合わせで肩を寄せながら勉強に励んでいたのだろう。

 誰も邪魔されずに彼と二人きりになれるなんて四葉にとっては垂涎もののシチュエーションだ。もしも一花が彼とそんな状況になっていたら嫉妬のあまり憤死もあり得た。だが相手が五月となると話は別だ。嫉妬など微塵もなく、むしろ微笑ましさすら感じる。

 あの食いしん坊で生真面目で、それでいて何処か抜けている愛おしき妹も他の姉妹同様に彼に淡い想いを抱いているのは当然知っている。しかし抱いているだけだ。たったそれだけなのだ。彼女の想いは。

 そこから発展することは決してないと四葉は踏んでいる。五月はそこまでなのだ。それ以上先へは動けない。動かないのではない。動けないのだ。

 男の人は慎重に見極めて選べという母が遺した言葉。母になろうとする五月がその言葉を忘れる筈がないだろうし誰よりもその言葉を尊重する筈だ。故にそれが楔となり彼女を封じ込める。

 いずれはその楔を打ち破って動き出す時が来るかもしれないが、その頃には間違いなく決着がついているだろう。自分と彼が無事に結ばれ、誓いのキスを交わすエンディングを迎えて。

 だから四葉は五月にだけは絶対的な信頼を寄せている。彼女だけはあり得ないという一種の安心感があるのだ。

 

(うんうん。五月なら大丈夫)

 

 一花と共に風太郎との過去を明し、如何に自分達が彼と運命の糸で結ばれていたのかを語った時、子犬のように震えていた妹を思い出して四葉は哀れんだ。

 慎重に見極めようやく信頼して過去の楔から解き放れた時には既に失恋をしていた、なんてあまりにも可哀想ではないか。

 本来ならば応援するのが筋だろう。四葉にとっては可愛い妹だ。転校前にも迷惑をかけたし恩返しもしたい。

 大切な妹の淡い恋路を応援しようと全力でその背中を押して恋を成就させるのが姉として、家族としての正しい役割である事は百も承知だ。

 ──しかし。

 

(……悲しいけどこれ『戦争』なんだよね)

 

 そう。これは喧嘩や競い合いと言った生温いものでもない。姉妹間で行われている無慈悲な戦争なのだ。たとえ今は害がなかったとしても僅かな芽が出るなら敵である以上は摘まなければならない。

 五月は何も悪くない。悪いのはこの残酷な運命なのだ。既に風太郎は自分と運命の赤い糸で結ばれているというのに、その彼に手を差し伸ばす様は水面に写る月を掴もうとして湖に飛び込み溺れる獣のようで、哀れな五月に心を痛めた。

 私はつらい。耐えられない。だから死んでくれと五月の淡い恋心に対して四葉は切に願う。

 無垢で純粋なまま産声を上げずに初恋が終わることを四葉は姉としての嘘偽りのなり善意で祈っていた。

 祈っていたのだ……この時までは、まだ。

  

「なあ、四葉」

「なに?」

「その……」

 

 おにぎりを食べ終えた風太郎が何処か言い辛そうに前髪を弄る様を見て四葉は何故か嫌な予感がした。

 彼のこの仕草を四葉はよく知っている。伊達に毎日のように昼休みに二人きりになり、それ以外の時間も暇を見つけては彼の後を付けていた訳ではない。これは照れ隠しや或いは戸惑う時に見せる仕草だ。今回の意味合いはどちらかと言えば後者だろうか。

 

「どうしたの?」

「昨日のことなんだが……五月の奴、何か様子が変だったりしたか?」

「五月?」

 

 さっきまで浮かべていた無垢で哀れな弱弱しい子犬の事を聞かれて首を傾げた。どういう意味だろうか。

 特に変わった様子はなかったと記憶している。部活の助っ人を終えた四葉よりも帰りが遅かったが、五月の勉強に対する熱意を考えれば別に不自然ではない。

 

「別に普段通りだったけど…………あ」

 

 言われてみれば一つだけあった。彼女が普段通りでなかった点。

 それは五月が帰宅後直ぐに夕食ではなくお風呂に入った事だ。あの五月が。これが他の姉妹ならば気にも留めなかっただろう。

 いつもならお腹を空かせて帰ってくる彼女が昨日に限っては何故か風呂を優先したのだ。もう十一月だ。汗をかく季節でもないのに珍しいと思ったのは四葉だけではなかったようで、他の姉妹も目を丸くしていた。

 別に違和感と呼ぶほどではないが、確かに少し気にはなったのを思い出した。

 

「……」

「何かあったのか?」

「ううん、別に。五月は普段通りだったよ」

「そうか」

「五月がどうかしたの?」

「いや。俺の方も別に大した事じゃない」

「ふふ、そうなんだ……ねえ、風太郎君」

 

 しかし四葉は彼には敢えてそれを隠す事にした。

 見つけてしまったからだ。五月の様子が変だとか風太郎の様子がおかしいだとか、そんな些末事に構う余裕がなくなる『それ』を。

 四葉は風太郎と首筋にある『それ』をそっと指で突きながら問うた。

 

「なっ、おい! 急になんだ!?」

「虫にでも刺されたの? それ」

「ああ、これか……多分そうだと思うが。もう一月前くらいからか。中々消えなくてな」

「ううん、違うよ。そこじゃなくてその上の」

「上?」

 

 四葉の手を払い除けて五つ綺麗にならんだ首筋の痕を風太郎は指でなぞったが、それではない。それは自分達姉妹があの林間学校で平等に付けたものだ。消えないように、途切れないように、忘れないように、何度も何度も吸い付いて付けた証。

 だが、それとは別に新たな痕が彼の首筋に増えていたのだ。

 

「自分じゃ見えねえな……」

「スマホのカメラを使えば見えるよ、ほら」

「ああ、助かる。本当だな。また増えてやがる」

 

 眉根を寄せながら気味が悪そうに呟く風太郎を四葉はただじっとその痕を睨み付けていた。

 ああ、そうだ。気味が悪いに決まっている。『虫』に刺されて喜ぶ人間などいやしない。

 

「きっと『虫』だよ。悪い悪い、害虫さんに刺されたんだね」

 

 新たなに出来た風太郎の痕。彼は気付いていないようだが、それは元からあった五つの痕の一つと酷く類似していた。

 五つ並んだ鬱血したその痕は全て同ように見えるが実は全て細部が異なるのだ。それに気付けるのは付けた当事者だけ。

 まるで自分達、五つ子と同じように。あの日、自分達と同じように彼女が首筋にこれを付けたのは無自覚な独占欲からだと思っていた。

 それを可愛らしいと、微笑ましいと思ってただ見逃していた。自分も、一花も。

 だが、違ったのだ。同じだった。彼女が抱いていたものは、自分達の抱くものと何も変わらない。ドロドロと黒く熱く湧き出る灼熱。

 

「んっ」

「なっ!?」

「……これで少しは薄くなるかな?」

「お、お前……」

「えへへ。その痕、目立つから消えるようにおまじない」

 

 六つ目の痕にそっと四葉は口付けをした。本当は吸い付いて上からのかき消したかったが、それは彼と本当に結ばれてからだ。今は、まず先にやらねばならない事が出来た。

 目を丸くして固まる風太郎の唇をそのまま奪い去りたい欲求を押さえつけながら立ち上がった。もうすぐ昼休みが終わる。

  

「風太郎君、今日の勉強会。ちょっと遅れるね」

「え? あ、ああ。構わないが……また部活の助っ人か?」

「ううん、違うよ」

 

 未だ呆ける風太郎にとびきりの笑みを向けた。

 

「ガールズトーク」

 

 ああ、信じていたのに。祈っていたのに。可愛い妹の幸せを。大事な妹の安泰を。

 何もしなければ良かったのに。何も知らなければ良かったのに。何も欲さなければ良かったのに。

 

 ───どうしてみんな、私の大事なモノを勝手に盗ろうとするのかな。

 

 

 ◇

 

 昨日、俺の自宅で行われた五月と二人きりの勉強会。気付けば俺は眠ってしまっていた。最近続いていた寝不足が溜まりに溜まって肉体が限界を迎えたのだろう。

 それはまだ良かった。いや本当は良くないが、まだ眠ってしまっただけだったならマシだった。

 問題は起きた後だ。目が覚めると、何故か五月が俺に抱きつきながら眠っていて、俺も寝ぼけていたのかあいつを抱きしめていたのだ。

 なんで寝てしまったのか、なんで五月まで寝ていたのか、なんでその五月が抱き着いていたのか、なんでこんなに体が怠いのか、寝ぼけた頭ではとても処理しきれなかった。

 とにかく五月を起こさないように、そっとあいつから離れようとしたがそれも叶わなかった。

 ───運悪く、五月が目を覚まして、目が合った。

 

 背筋が凍った。今まで築き上げてきた五月との信頼関係が音を立てて崩れる様を幻視した。こいつは生真面目な奴だ。前回と違って、今はただの友人程度の関係である。

 少なくとも、こんな真似をすれば拒絶されるだろう。終わった、と思った。咄嗟にぶたれるか、或いは突き飛ばされるだろうと覚悟して体が強張り目を瞑った。

 けれどいつまで待ってもビンタや拳が飛んでくる事がなく、恐る恐る目を開けると五月はただ何事もないかのようにこう言った。

 

『おはようございます、上杉君。眠気は取れましたか?』

 

 そんなあいつに俺は増々混乱して、ああと答える事しか出来なかった。

 それは良かった、と五月はふんわりと笑って再び俺を抱き寄せて眠りについた。正直、何が何だか分からなかった。あいつは寝ぼけていたのか、それとも何か企みがあってそうしたのか。

 ただ流されるがままに俺は五月の抱き枕にされた。五月が二度寝して、もう一度離れようと試みたがあいつは俺のシャツを握ったまま離してくれず諦めた。

 その後、らいはと親父が同時に帰ってきて色々と勘違いをされた。一応は誤解を解こうと説明したが、あの様子だと勘違いされたままだろう。寝相が悪かったのか、俺と五月の衣服が乱れていたのも更に誤解を深める原因となった。

 

 昨日はらいはと親父の揶揄うような追及を躱すのに思考を割いて考える余裕がなかったが、翌日になった今日になって改めて違和感を覚えた。

 確かに五月は友人との境界線があやふやな奴だ。前回の時も混浴に突撃してくるような奇行が目立っていた。

 だが、それでも後で冷静になって自らの奇天烈な行動に恥じらいを覚える奴だった。それが、今回はどうだ……?

 何処か、余裕すら感じる笑みを浮かべて、まるで自身の行動が当たり前だと、正しい事だと言わんばかりに俺を何の躊躇もなく抱き寄せた。

 

 あれは、寝ぼけてなんかいない。あいつの意思で、自ら望んでそうしたんだ。そういう確信があった。けれど、それならば今度は何故そんな事を、という疑問が湧き出る。

 疑問が疑問を引き寄せて思考が混線する。そうして頭を悩まさしている内に気付けば昼休みに入り、恒例となった四葉との昼食で俺はまた頭を悩まされる事になった。

 

 いつの間にか出来ていた新たな『痕』。それに四葉は恥じらいも躊躇いもなく口付けした。

 

 戸惑いはした。焦りもした。けれどあいつは前回の時も頬に付いたクリームを舌で舐めとるような真似をした事がある。だから今回の行動も一応は納得ができる。そういう可能性がある。何もおかしくない。

 そう自分に言い聞かせながら午後の授業は終わっていた。意識しないようにしている時点で意識しているのだと思い知らされた。

 

 昨日の五月。今日の四葉。

 

 果たして、その行動は本当にただの家庭教師と生徒の関係として正しいのだろうか。友人同士として適切なのだろうか。過去の恩人に対してするものなのだろうか。

 ───俺はもしかしたら、また間違った関係を築いてしまったのだろうか。

 もしも、もしも彼女達が俺に抱くモノが家庭教師への信頼ではなく、友人への友情ではなく、もっと別の、あの時と同じモノなら、俺は、また……。

 

 考えれば考えるほど、ドツボに嵌りそうになる弱い自分に嫌気が差す。

 しっかりしろ。前回とは違う。前のあいつらと違うんだ。今のあいつらは別人なんだ。

 

『放課後に屋上に来て。フータローに伝えたい事がある。どうしてもこの気持ちが抑えきれないの』

 

 ───だから、何も問題ない筈だ。

 三玖が前回と同じように手紙で俺を屋上に呼び出したのも、ただの偶然なんだ。

 

 

 ◇

 

「やっぱり来てくれたんだね、フータロー」

 

 屋上に出る扉を開けると共に視界に入った光景に酷く吐き気がする程の既視感が襲った。

 

「あ、ああ……それで? わざわざ呼び出して何の用だ?」

 

 手足は震えて、上手く歩けない。ふらつきそうになりながら俺を待っていた三玖になるべく自然を装う。少しでも虚栄を張り付けておかなければ膝から崩れ落ちそうになるから。

 

「手紙だなんてまた古風だな。俺のメアドなら知ってるだろ?」

「うん……でも手紙の方がいいと思ったから」

 

 少しだけ弧を描く三玖の笑みは、見慣れた笑みの筈だった。三玖の笑顔は静かで、それでいて優しく暖かい。初めてそれを見た時、信頼の第一歩を踏み出せたのだと確かな達成感を得たのを今でも覚えている。

 だけど、何故だ。何故、目の前の三玖の笑顔を何時もと違う、と俺の心は訴えかけているんだ。

 そして、その笑みに何故、見覚えがあるんだ。

 

「手紙の方がいいって、なんでだ? 見てくれないかもしれないだろ」

 

 自分の中で何かが警鐘を鳴らしている。彼女から逃げろと。ここから走り去れと。

 心臓が馬鹿みたいにうるさくて、背中から汗が噴き出ている。歯がガタガタと震え、舌を何度も噛みそうになる。

 けれど、少しでも会話をしていないと、言葉を吐き出していないと、さっきから浮かべる馬鹿な妄想に取りつかれて狂ってしまう。

 ああ、有り得ない。そうだ。そんな馬鹿げた事、有り得ない。

 

「見てくれるよ」

「どうして言い切れる? メールの方が確実だ」

「フータローなら大丈夫だよ」

「だから、なんで……」

 

 そんな。覚えている筈が、そんな事があっては───。

 

「───だって、前は見てくれたでしょ? フータロー」

 

 そう言って微笑む三玖の笑みを俺は知っていた。覚えていた。忘れる筈がない。忘れられる筈がない。

 だってそうだろう。俺の最期の光景にこびり付いた五人の笑顔を忘れることなんて。



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外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ⑤

すげー家庭教師とやべー三女、やべー四女VSやべー五女がそれぞれ和解する話


 虚無を宿した瞳が目の前にあった。知っている恐怖がそこにはあった。

 垂れた長い前髪から覗かせるその眼は一見、何も映していない漆黒のように見えるがそれは違う。

 その双眼は間違いなく俺の顔をじっと捉えていた。未知ではなく既知の(それ)に動悸が速くなっていく。

 心臓の音がバクバクと煩い。瞬きも呼吸すらも忘れていつの間にか滝のように油汗が背中から流れた。

 

「前はって……何のことだ?」

 

 緊張でカラカラに乾いた喉を唾で濡らして何とか声を絞り出した。

 あり得ない。そんな事はない。大丈夫だ、何も問題ない。前回とは違う。

 何度も何度も、同じ言葉を繰り返し言い聞かせて己を鼓舞した。自己暗示にも似たそれは、多少は効果があったようで、さっきよりは少しだけ呼吸を整えることができた。

 冷静に。冷静に、だ。落ち着け。まだ何も確定していない。三玖の冗談か何かの可能性だってある。

 

「フータロー、寒いの?」

「な、なんのことだ」

「足、震えてるよ」

「ッ!?」

 

 足元を見ると自分では全く意識していなかったが痙攣したかのように俺の足は小刻みに震えていた。

 無意識に、まるで生物として生命を守る防衛本能とでも云うかの如く。

 慌てて太ももを両手で抑えて何とか震えを抑え込んだ。気を抜けばきっと尻餅を付いて立ち上がれなくなる。

 そうなれば終わりだ。その先に待ち受けるのはあの鮮血の────。

 

「大丈夫?」

「あ、ああ。問題ねえよ」

「本当に?」

「本当だ」

「ふふ、強がりはダメだよ」

「……なっ」

 

 口元に薄く弧を描いた三玖が、あろうことか俺の胸に飛び込んできた。

 足が震え、その震えを手で抑え込んでいた俺は当然それを受け止めれる術を持たない。

 三玖に押し倒される形で尻餅をついてしまった。

 

「……っ! な、何しやがる!?」

「懐かしいね」

「はあ?」

「『前』もこうしてフータローの胸に抱き着いたでしょ? あの旅館で」

「────」

 

 三玖の言葉に必死に積み上げていた思考が一瞬にして崩れ言葉を失った。決して聞き間違いなんかじゃない。

 確かに、はっきりと、目の前の三玖は俺に告げたのだ。まだ未知である筈の俺の中で色濃く残る『思い出』の一つを。

 

「私を見つけてくれて、涙が溢れそうになっちゃって……本当に嬉しかったんだよ」

「お、俺は……んぐっ!?」

 

 なんとか紡ごうとした言葉を物理的に封殺された。唇を塞ぐという強行手段を以て。

 体力がない三玖が相手なら男の俺でも突き飛ばすことは可能だ。だが抵抗できない。

 恐怖で体が動かない。震えて上手く機能しない。けど、抵抗できない理由はそれだけではない。

 もし突き飛ばして三玖が怪我をしてしまったら。

 そんな彼女に対する情で行動に移せなかった。今更ながら自分が姉妹達に対して甘いのだと嫌でも思い知らされる。この期に及んで気に掛けるのは自分の身ではなく相手なのだから。

 分かっている。これが甘いなんて生易しいものじゃない事は。俺が姉妹達に抱く胸の疼きが何なのか、本当は理解しているんだ。

 

「んっ、はむ……」

 

 ちゅぱちゅぱと音を立てながら三玖の舌が俺の口内を犯していく。

 唇を啄み、歯茎を舐め、舌を絡める。

 ただ茫然と三玖との非日常的な行為を受け入れながらも、思考はさっきよりも冷静さを取り戻ししていた。

 単純な話だ。自分だけが『二度目』だなんて、そんな都合の良い話はない。ただそれだけの事だったんだろう。

 俺は自分だけが都合の良い存在であると勘違いしてしまった。

 或いは選択を間違えたのか。『二度目』の機会を得た時、あいつらを関わらないように立ち回る事も可能だった。そうすればこんな事にはならなかったのかもしれない。むしろそれが最善の選択だったろう。

 だけど、そんな選択肢など俺には最初から存在しなかった。中野姉妹(あいつら)のいない上杉風太郎など既にあり得ないからだ。

 あいつらは俺を正しく変えてくれた。独りだった俺に大切な事を教えてくれた。見失っていたものを取り戻してくれた。

 だが俺はどうだ。あいつらに何をしてやれた? 何を与えてやれた? 何もないじゃないか。

 それどころか間違った方向へと変えてしまった。これは罪だ。俺があいつらを変質させてしまった。

 『あんな事』があったにも関わらず、俺はこうして三玖を拒む事が出来ない。いやむしろ『あんな事』があったからこそ、俺はあいつらを拒む事が出来なかった。

 結局、負い目があるからだ。あいつらから逃げてしまった事に。変えてしまった事に対する罪悪感が。

 もう一度、あいつらに関わろうと決めたのは逃げた事に対する罪滅ぼしと、俺を変えてくれた恩返しの為に。

 ……だからこの状況はむしろ都合が良い。

 あの時、逃げてしまったあいつらに対してこうして今度こそ、ケジメを付ける事が出来るのだから。

 

「……聞いてくれ三玖」

「なに?」

 

 幾分かの口付けを終え満足気に笑みを浮かべる三玖の肩を両手で掴んでその瞳をしっかりと見据えた。

 

「俺は……お前たちから逃げてしまった」

「うん。ずっと探していたんだよ」

「俺はお前たちを変えてしまった」

「そうだよ。フータローが私を変えてくれたんだ」

「本当に……すまないと思っている。黙って消えた事も。お前たちの気持ちから背を向けて逃げてしまった事も、全て」

「本当に、酷いよ。責任を取るって言ってくれたのに」

「……だから、二度目は、今度こそ逃げないと決めたんだ。思い出したのなら……それでいい。三玖、お前だけにでもちゃんと伝えるべき言葉を今、伝える」

 

 前回の時も、こうしていれば良かったんだ。恐れず逃げず向き合って、あいつらの想いを正面から受け止めて、その上で自分の想いを伝えれば、きっと間違える事などなかった。

 だから今度こそ言おう。半端な関係に区切りを付けて、良き友人同士になればきっと昔のように六人で笑い合う関係に戻れる筈だ。

 

「俺は……」

「いいよ。全部分かっているから」

 

 決意を込めた俺の言葉は三玖の囁いた返事に掻き消された。

 茫然とする俺に三玖は屈託のない笑みを浮かべる。その微笑みは俺が何度も見た、静かで優しい笑みだった。

 

「えっ?」

「フータローが何を言おうとしてるのか、分かっている」

「だが」

「安心して。もう前みたいな事はしないよ」

「……」

「私こそごめんね。前の事も、さっきの事も。フータローを怖がらせちゃって……でも前の事を思い出して、我慢できなかった。想いに蓋をできなかった」 

「三玖……」

「フータローは、戻りたいんだよね。一花も二乃も四葉も五月も含めたみんなで笑い合っていた関係に」

「……ああ」

「私も同じだよ」

 

 そっと差し出された三玖の手をまじまじと眺めた。

 これは、どういう状況だ。どういう事だ。理解が追いつかない。感情が整理できていない。

 目の前の三玖は、本当にあの『三玖』なのか? 全て思い出したというのに、それでもなお俺と同じようにあの平穏な日常に、楽しかった六人に戻りたいと、そう願ってくれているのか?

 

「私も、またみんなで笑いたいな。姉妹みんなで、フータローと一緒に」

「……だから、今度はちゃんと六人で、笑顔で、ね?」

 

 その言葉が俺の耳に届くと同時に自然と体が動いていた。差し出された三玖の手を、俺は包み込むように両手で握りしめていた。

 体は震え、何か生暖かい雫が頬を伝っていく感触があった。

 許された、とは思っていない。思える筈がない。まだ何も成し遂げていないのに。

 だけど『あの時』の三玖がこうして目の前にいて、俺と同じようにやり直しを願っていたと知れただけで、ただほんの少しだけ救われたような気がしたんだ。

 

 

 ◇

 

 分かっているよ、フータロー。フータローが何を言おうとしたのか。

 私の、私達の想いに全部決着を付けようとしたんだよね。

 でも言わせないよ。言葉にさせない。だから私は『聞いていない』。聞いていないなら事実じゃない。なら問題はないよね。

 でも安心して。嘘はついてないよ。フータローは私達六人でいたい。私達はフータローと一緒にいたい。ほら目的は同じ。

 だから、きっと最後には幸せになれる。フータローの目指すようにみんなで笑顔に。

 何も問題ないんだよ。フータローがあの女を想っていても、『今』は何も問題ない。

 大事なのは未来だから。今はどうでもいい。それに、私は別に構わないよ。他に好きな人がいても、フータローが私達を好きになっちゃダメって道理はないんだから。

 二乃は煩いだろうけど、でも私は気にしない。だって私の恋と想いはずっと変わらないから。

 

 

 ──フータローが他の人を好きになっても失恋したかどうかは私が決めることにするよ。

 

 

 

 ◇

 

 

「……なんだか静かですね」

 

 四葉と五月。二人きりの放課後。静寂が支配する教室で先にぽつりと五月が呟いた。

 

「校舎には生徒も殆どいないですし、普段とは随分と違います」

「うん。テスト前だし他の生徒は軒並み帰ってるのかも」

「まあ、私達には関係ないですけどね」

「上機嫌だね」

「そりゃそうですよ。前回のテストではみんな赤点を回避できて、上杉君も私達の為に頑張ってくれましたし、私も頑張らないと」

 

 今にも鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌な妹の様子に四葉ははにかんだ。本当に五月はよく笑うようになったと思う。

 別に彼女が特段、無愛想という訳ではない。無愛想という評価ならそれは三玖の方が当てはまるだろう。

 だが姉妹の母代わりを名乗り模範であろうとする五月が普段から気を引き締めている様を四葉はよく知っている。

 気を抜くのは彼女が大好きな食事時くらいで、外では勉強以外は真面目な優等生だ。そんな彼女がこうして子どもの時のように無垢な笑顔を曝け出すようになったのはつい最近だ。

 勿論、心当たりはある。間違いない。彼だ。

 

「そうだね……ねえ五月」

「なんですか?」

「私が呼び出した理由……分かってるよね?」

 

 ようやく本題を切り出した四葉は親の仇を見るかの如く怨嗟の念が籠った眼でたった一人しかいない最愛の妹を睨み付けた。

 ギチリと握った拳から骨が軋む音が鳴る。もし二乃のように爪を伸ばした手だったらきっと掌にそれが食い込んで血塗れになっていただろう。

 

「さあ? 心当たりはないのですが」

 

 しかしそんな姉の視線を受けながらも飄々と涼しい顔を浮かべる五月に四葉は歯を食いしばった。

 自壊しかねないほと圧の掛かった歯はぎちぎちと音を立てるその様はまるで獲物を狩る時に喉を鳴らす獣である。

 こんな様、きっと他人には見せられないし何よりも愛しいの彼には絶対に見せはしない。

 家族だから、姉妹だからこそ曝け出せる剝き出しの感情。純粋な怒り。冷静になどなれないし、なる必要もない。

 

「……そう。とぼけるつもりなんだ」

「とぼけるって何の話ですか?」

「言わないと分からないのかな」

「そう言われましても……あ、もしかして」

 

 困ったように顎に手を当て考え込むようなポーズをする五月は何処かわざとさしく見える。それは四葉にとっては腸が煮えくり返るほど腹立たしかった。

 そんな五月は数瞬の考慮の後、何かを思い出したかのポンと手を叩き笑みを浮かべた。

 

「私が上杉君と関係を持った事ですか?」

「──────」

 

 完全に油断していた。相手があの五月だから。普段の五月なら何か後ろめたい事があれば目に見えて分かるように動揺を見せるのだと、そう思い込んでいた。

 教室に呼び出した時に気付くべきだった。動揺した様子もなくただ静かに待ち構えていた彼女に揺るがぬ意志が宿っていた事に気付くべきだった。

 感情を剝き出しに相手に牙を向けていたのは自分だけではない。

 

 五月もまた自分に対して研ぎ澄まされた敵意の刃を向けていたのだ。

 

「どうしたのですか? 四葉」

「ッ!?」

 

 予期せぬ先制攻撃に硬直していた四葉は挑発するかのように浴びせられた五月の言葉で冷静さを何とか取り戻した。

 しかし冷静になれたのは一瞬限り。次の瞬間には先の言葉に対する怒りが沸々とマグマのように湧いて出た。

 私の風太郎君と関係を持った? 噓でも万死に値する。いつから私の可愛い妹は長女のようになってしまったのだろうか。

 そう嘆きながら四葉は五月に鋭い眼光を飛ばした。

 

「五月……冗談にしては笑えないよ」

「ふふ、まだ冗談だと思っているなら楽観的すぎて笑えますけどね」

 

 見え透いた挑発だ。乗るな四葉。この手のやり取りは一花と顔を合わせる度に交わしてるじゃないか。

 そう自分に言い聞かせるが感情はそう簡単なものではない。気付けば四葉は怒りのあまり近くにあったゴミ箱を蹴りで真っ二つに叩き割っていた。

 空中にゴミが散乱する中、憤怒と憎悪を滲ませ五月に問うた。

 

「いくら鈍い五月でもさ、知ってるよね」

「何がですか?」

「私が風太郎君の事を好きだって」

「ええ、誰だって分かりますよ。だって四葉、上杉君と一緒にいると本当に楽しそうでしたから」

「覚えてる? 五年前の京都で出会った男の子の話」

「修学旅行の時ですよね。四葉、嬉しそうに自慢してましたね」

「その男の子が風太郎君なんだ」

「へえ、それは凄い偶然ですね」

「……ここまで言ってまだ分からないかな」

「何が?」

「偶然なんかじゃない。必然……ううん、運命なんだよ」

「運命、ですか」

「そうだよ。私と風太郎君は結ばれる運命なの」

 

 そうだ。運命だ。宿命なのだ。自分と彼は結ばれる。京都で偶然出会い、約束をし、そして再会し、彼は自分を覚えてくれた。

 これを運命と呼ばずして何と呼ぶのか。再会した時、同じ顔である自分達姉妹の中から彼はこの中野四葉を呼び出したのだ。それは彼が自分を見分けられた何よりの証拠。

 愛があれば見分けられる。愛の証明。それを彼は再会と同時に見せつけた。ゲームセットだ。勝負はついた。試合終了。パーフェクトゲームだ。

 ハナから他の姉妹に出番などなかった。それなのにあろう事か擦り寄り集ろうとする愚姉が三人もいて疲弊してたというのにまさか妹まで姉達と同じ過ちを犯すとは。

 だから今日は五月を呼び出したのだ。既に勝負が決まっていると分からせる為に。

 

「ふ、ふふっ」

 

 ……だというのに何故、目の前の妹は嗤っているのだろうか。

 

「何が可笑しいの?」

「何がって、ふふっ、すみません。これを堪えるのは無理です」

「ふざけているの」

「だって……可笑しいじゃないですか」

「何が」

「四葉と上杉君は結ばれる筈の運命だったんですね……なら何故私と彼はこうして関係を持ったのでしょうか」

 

 そう言って五月は懐からある物を取り出して四葉に見せつけた。彼女のスマホだ。そこに表示されている画像は四葉が思考が真っ白になるには十二分な威力があった。

 彼女の視界に飛び込んでいたのは眠る風太郎にまたがり、よがり、見た事もない悦楽の表情を浮かべる五月の姿であった。

 

「う、噓だよ……こんな」

「何を言っているのですか。あなたも疑っていたから私を呼び出したんでしょう?」

 

 最早怒りすら湧かず、あるのはただただ疑問だった。どうして、何故。どうにかしてそれを四葉は言葉にして絞り出した。

 

「な、なんで……」

「何故って一緒だからですよ」

「いっしょ……?」

「はい。私も上杉君が好きですから」

「風太郎君は私の……」

「この期に及んでまだそんな事を言うのですね」

 

 やれやれと呆れたように嘆息しながら五月は四葉の眼を捉えながら一歩近付いた。

 思わず後退った四葉であったが五月は構わず更に一歩前に出て距離を詰める。

 それを何度か繰り返して気付けば四葉は教室の壁側まで追いやられていた。自分と同じ顔をしている五月が目と鼻の先にまで近づく。

 この距離になってようやく気付いた。今日の五月は何かが違うと思っていた。それは眼だ。宿しているものが違うのだ。

 一花が見せる執念の籠った炎ではない。虚無を宿した暗い瞳。だけどその瞳の奥底には執念以上に強い何かどす黒い意志が確かにギラギラと燃え盛っている。

 

「あなたに足りないものがあります……何だかわかりますか?」

「足りない、もの?」

「危機感、ですよ。あなた、もしかしてまだ自分が上杉君と結ばれると思ってるんじゃないですか?」

 

 五月がそっと四葉の頬に触れる。何故か彼女の手がひどく氷のように冷たく感じた。

 

「運命じゃダメです。足りないんですよ。それだけでは」

「私一人じゃダメなんです。一花だけでも、二乃だけでも、三玖だけでも、四葉だけでも、私だけでも……五人で、みんなで」

 

 添えらえた手はそのままに五月は四葉の耳元で囁いた。

 

「……だから早くあなたも思い出してください。あとは一花とあなただけですよ」

「何、が……」

 

「決まっているじゃないですか。上杉君との楽しかった思い出ですよ」

 

 ふと、その瞬間。四葉の脳裏に深紅に染まり倒れる愛しい彼の姿が過った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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