Raison d'etre (月島しいる)
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プロローグ

個人サイトと平行投稿しています。
7年前の完結作品の手直し品です。
大幅な加筆と設定変更があります。


 夕陽で赤く染まった世界。

 バルコニーで電子キーボードを弾いていた幼い少女は、ふと空を見上げて演奏を止めた。

「姉さま、何故、お空は夕方になると赤くなるの?」

 少女は隣に座る姉に問いかける。姉はぼんやりと空を見上げ、小さく首を傾げた。

「太陽が真上に来る正午は一日の中で最も熱くなるでしょう? 逆に、夕方になると気温が下がる。つまり、時間帯によって太陽との距離が違ってくるってこと。太陽との距離が遠くなると、青い光は波長が短いから、届かなくなる。でも、赤い光は波長が長いから、太陽が離れても地表まで光が届く。だから、空が赤くなったように見えるってわけ」

「お日様は青い光と赤い光を出しているの?」

「他にもいっぱい出してる。波長ってのは、つまり周波数。それを、私達が勝手に赤色とか青色とかに分けてるだけ。凛の好きな音楽と一緒だよ。あれも音の周波数を勝手にドレミに分けてる。そうした方が都合が良い訳。一旦記号化すると、その記号を操作する事でコードとかを簡単に定義できるから。でも、間の情報は失われる。巨大な情報的損失だよ。そうやって情報をわざと落とさないと人間は現実が理解できないんだ。メモリが圧倒的に足りない」

 少女は難しい顔を浮かべながらも、必死にその言葉を理解しようと努めた。それを見た姉が頬を緩める。

「話を戻そう。夕焼けと同じで、日中に空が青いのは中くらいの光、つまり青波が窒素とかで散乱してるから。それで、空が青く染まる。朝焼けとか、そういうのも光の波長によって色ごとに散乱するから起こる訳。後は、同じような現象に分散っていうのがあるかな。物質中を走る光の速さってのは同一じゃないんだよ。周波数……光の場合は波長かな。波長ってのはさっき言った所謂色に当たるんだけど、実は色ごとに進む早さが違う。だから、白色の光を発すると、ある地点で光は色ごとに時間軸に分散して到達する。って事はさ、光を信号として利用した場合、これがノイズになる訳。信号がさ、太くなっちゃうんだよ。物質を通る以上、こういうノイズは必ず混ざっちゃう。有名なのは、そう、熱雑音。熱があると言う事は、細かく震えてる訳じゃない? だから、あらゆる通信系には必ず雑音が混じる。さっきの話に戻ると、人は常にこういう雑音の影響を受けてる訳。だから、絶対に現実を理解できない。物質的な問題と、認知的な問題。極端に言えば、私と凛は違う世界にいるってこと」

 少女には、姉の話がよくわからなかった。ただ、ノイズという何かが悪さをしている事だけは分かった。

「そのノイズがなくなればどうなるの?」

「ノイズがなくなれば、か。そうだね、もし、あらゆる物質的な影響を受けない何かがあれば――――――――するかもしれないね」

「本当に?」

「そう、多分、そうなる」

 姉が言葉を濁す。

「いや、この話はやめよう」

 姉は口を閉じ、少女の膝に乗っていたキーボードをそっと手に取った。そして、そのままキーボードを弾き始める。それを見て、少女はある事に気付いた。

「姉さま、さっき、音楽は周波数がどうのこうのって言ってたけど、間違ってると思う。音楽はね、和音だけじゃなくて、リズムとか大きさなんかも大事なんだよ!」

 私がそう言うと、姉は手を止めて、じっと少女の顔を見つめた。

「そう、かもしれないね。確かに記号の操作だけじゃない。なるほど、凛の言う通りだ。凛は将来良いピアニストになるだろう」

 姉はそう言って、少女の頭をくしゃりと撫でてくれた。少女は誇らしそうに電子キーボードを抱きかかえた。



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1章 救世主
01話 神条奈々


 物心ついた時から、僕の国は戦争を続けている。

 正確には、戦争という表現は妥当ではないらしい。だって、相手は国家ではないから。それどころか、人間ですらもない。亡霊と呼ばれる怪物を相手に、僕の国は八年もの間闘いを続けている。学校の教科書では「闘争」という言葉が使われていた。

 この亡霊との闘争について、僕は良く知らない。そして、それは僕だけじゃない。皆、詳しい事は何も知らない。もしかしたら誰も知らないのかもしれない、とたまに思う。

「日本固有の領土である白流島を長期に渡って不法占拠し続ける生命体」

 教科書では、亡霊について簡素にそう説明されていた。それ以上の説明は、誰もしてくれない。多分、亡霊が何なのか、誰もわかっていないんだと思う。でも、わかってなくても問題なかった。僕達には関係のない事だから。

 僕が小さい頃は、テレビの向こうに燃える街がよく映し出されていた。煤だらけの瓦礫の山。空を覆う怪物の群れ。対空砲の咆哮。叫ぶリポーター。

 でも、僕が大きくなるにつれて、そうした報道は減っていった。亡霊対策室と呼ばれる情報機関が設立されて、亡霊による被害が急速に収まっていったから。

 その機関のトップは若い女性だった。とても綺麗な人だった。設立された当初は毎日のように彼女がカメラの前に立って、フラッシュを浴びていた。その女性はいつも仮面のような笑顔を浮かべていて、それが僕にはとても寂しそうに見えた。

 その女性が、今、僕の目の前に立っている。記憶の中とは違う、柔らかな笑みを浮かべて。

「はじめまして、桜井優(さくらい ゆう)君。特殊戦術中隊への入隊を歓迎します」

 彼女はそう言って、手を差し出した。僕は迷わず、その手を取った。

 とても長い闘いが、ここから幕を開けます。

 

 

 

──────────1章 救世主

 

 

 

「君は、ここで起きている戦争というものを理解しているかしら?」

 無機質な印象を受ける白亜の廊下。

 二つの足音とともに、神条奈々(しんじょう なな)が無表情に問いかけてくる。

 桜井優は奈々の人形のように整った顔を見上げて、小さく首を横に振った。

「正直に申し上げると、何もわかりません」

 奈々は足を止め、微笑んだ。

「そう、君は何も知らない。それを、よく理解しておきなさい。前期初級訓練過程では、基本的な概念や知識しか与えられない。私達は、君に充分な教育を与える事ができなかった。時間が、それを許さない。その責任は、私達にある。けれど、その結果は君に跳ね返る事になるでしょう。それはとても理不尽なことだわ」

 奈々の手が優の頬に添えられる。温かった。

「これから先、君はそれとは桁違いの理不尽な経験をすることになるでしょう。でも、それを甘んじて受ける必要はない。君がそうした理不尽な目に遭わないようにすることも、私の役割の一つ。入隊時にも言ったけれど、何かあれば、私に相談すること。いい?」

「はい」

 優が頷くと奈々はにこりと微笑んで、それからすぐ近くの扉に目を向けた。

「それじゃあ、行きましょうか」

 奈々が扉を開く。優は奈々に続いて、部屋の中に足を踏み入れた。

 白を基調にした講堂のようだった。その中には、優と同年代と思わしき高校生くらいの少女たちが並んでいる。およそ三〇人。その全てが、女性だった。

 少女たちの視線が優に注がれる。優は緊張で身体を硬くしながらも、少女たちの前を通って檀上にのぼった。

「事前に告知した通り、彼が今日から正式に第一小隊に配属される事になっている」

 奈々がよく通る声で告げた後、自己紹介をするように目で合図を送ってくる。優は一歩前に出て、頭を下げた。

「今日からお世話になる桜井優ですっ。よろしくお願いします」 

 静寂に包まれた講堂に、僅かに上擦った優の声が響いた。それに応えるように数多の拍手が室内に木霊する。優は安堵の笑みを浮かべ、深々と下げていた頭を勢いよく上げた。

「彼は昨日付けで前期初級訓練課程を終え、今日から寮棟に入る事になっている。暫くは後期初級訓練課程に入るけれど、合同訓練にも参加してもらうから、何かあったら率先して手を貸してあげるように」

 優の隣で、奈々がよく通る声で補足する。

 亡霊対策室・総司令官、神条奈々。腰まで届く黒髪と人形のように整った鼻筋が印象的な彼女は、この組織の頭である。女性にしては背が高い為、隣の優の背の低さが際立っていた。

 奈々は一度だけ隣の優をチラリと見た後、すぐに少女たちに向き直った。

「今は簡単な紹介だけ。これから彼には後期初級訓練課程のカリキュラムを消化してもらう予定がある。後日、正式な歓迎の場を設けるけど、何か質問があれば今のうちに済ませて」

 奈々がそう言うと、室内が僅かにざわめく。そして、部屋の後方にいた一人の少女が手をあげた。肩まで届く茶髪に、活発な雰囲気を纏っている。

「歳はいくつですか?」

 優は一度だけ隣の奈々に視線を向けてから、その質問に答えた。

「十六歳です」

 途端、室内に驚きの声が反響する。

「中学生じゃないの?」

 ざわめきの中からそんな呟きが聞こえ、優は引きつった笑みを浮かべた。平均身長よりも低いため、よく言われる事だった。

「彼女はいますかぁ?」

 前列にいた長身の少女がからかうように言う。同時に、周囲から黄色い声があがった。

 優が困ったような笑みを浮かべて隣の奈々を見上げると、奈々は呆れたように首を横に振った。

「公式の場でそういう質問はしないように」

 その援護射撃に優は安堵の息をついた。

「大した質問がないようなら切りあげましょう。そういう質問は後日、個人的にしなさい。今日はこれで解散。優君だけ、私と一緒に来てくれる?」

「はい」

 優が頷くと、奈々はさっさと戸口に向かって歩き始めた。同時に少女たちのひそひそ話が始まる。優は室内を一度だけ眺めてから、奈々の後を追って廊下に出た。

「うるさい子達でしょう?」

 廊下に出て早々、奈々が呆れたように言う。優は曖昧な笑みを浮かべた。

「女子が静かすぎると、怖いです」

「それは言える。君以外は全員女性だから、色々とやりづらいかもしれない。何か困った事があったら遠慮なく相談してね」

「はい」

 頷きながら、エレベーターに乗る。奈々が黙り込んだ為、優も口を閉ざした。

 エレベーターが動き出す。

 微かな駆動音。

 優は奈々の綺麗な横顔をじっと見上げた。その地位に反して異常とも言える若さと美貌。整いすぎた鼻筋からはどこか冷徹な印象を受け、奇妙な威圧感を覚える。周囲の空気を変えるほどの容姿は、人を従える立場の人間として非常に恵まれた素質と言えるだろう。神条奈々は生まれながらにしての統率者だった。

 奈々の顔を見惚れていた事にふと気づき、優はそっと奈々から視線を外した。

 奈々と出会ってから一週間経ったというのに、一向に慣れる様子がない。そこまで考えて、もう一週間経ったのか、と優は感嘆に浸った。

 桜井優には、超感覚的知覚(ESP)と呼称される能力がある。その能力を持った者だけが集められる特殊戦術中隊に勧誘を受けたのが、一週間前の事だった。

 特殊戦術中隊はその名の通り、軍事的な目的を持つ組織である。しかし、その矛先は通常の軍事的組織と異なり、人には向けられない。特殊戦術中隊の目的は、亡霊と呼ばれる生命体の殲滅にある。そして、通常、ESPは女性にしか発現せず、特殊戦術中隊は女性だけで構成されていた。

 男性の発現例は、桜井優だけだ。何故ESP能力が発現したのか、優本人にもわからなかった。明確なきっかけは、何もなかった。ある日突然訪れた軍の関係者によって、告げられた。君にはESP能力がある、と。

 エレベーターの扉が開く。奈々が一歩踏み出したのを確認してから、優もそれに続いた。

 エレベーターの外は吹き抜けになったエントランス・ホールだった。そのホールを奈々が真っすぐ横断していく。取り残されないように、優は足を速めて奈々の後を追った。

 エントランス・ホールの裏から外に出る。そこは、野外の射撃訓練場だった。冷たい秋風が頬を撫でる。

「今日から、実際に火器を扱って貰う事になる。安全の為、指示通りに行動すること」

「はい」

 射撃場の奥にいた男が二挺の小銃を抱えてやってくる。奈々は男から小銃を受け取り、一挺の小銃を優に渡した。ずっしりとした重さが両腕にかかる。その小銃は驚くほど手に馴染んだ。そして、奇妙な懐かしさを覚える。その不思議な感覚に、優は首を傾げた。

「どうしたの?」

 小銃をじっと見つめたまま固まる優に、奈々が心配そうな声をかける。優は顔をあげて、何でもありません、と答えた。

「前期過程で習ったはずだけど、これがフレイニングと呼ばれる小銃。実弾は利用しないから暴発の心配はいらないし、装填する必要もない。初心者向けの火器と言える」

 奈々が安全装置を外す。

「まず、安全装置を外して」

 優は奈々の動作を真似て、小銃の安全装置を外した。カチャリと小気味良い音が響く。

「それで、構える時はこう。ここを肩に当てて、安定を図る。」

 奈々が遠くの的に向かって小銃を構える。優もそれに続いた。

「そう、それで、頬をストックに密着させて。そう。そのまま的を狙って撃ってみて」

 優は思わず奈々を見た。

「あの、どうやって撃つんですか?」

「エネルギーを込めて、引き金を引く。それだけ。小銃に取り付けられた供給機構が勝手にESPに反応するから、少し力を込めるだけで良い」

 言われた通り、優は力を込めて引き金を引いた。発砲音とともに、小銃から翡翠の閃光が走る。そして、小さな反動。優は反射的に目を瞑った。

「……初めはこんなものだから、気にしないように。訓練を重ねるうちに上手くなるから、頑張ってね」

 微かに落胆の色が混じった奈々の声。

 目を開けると、的から何メートルも離れた位置から煙があがっていた。

 優は素直に頷いて、もう一度小銃を構えた。

 よく的を狙って引き金を引くと、銃声とともに的が弾け飛んだ。

「良い狙いだわ」

 後ろから僅かに弾んだ奈々の声。優は小銃を下ろして、首を振った。

「……二つ隣の的を狙ったんです」

 

◇◆◇

 

 情報は、歪んでいく。

 それを明確に認識したのが何歳の時だったのか、もう覚えていない。

 ただ、その歪みを恐ろしいと思ったことだけは、明確に覚えている。

 重要な何かが、隠されていく。重要な何かが、聞こえなくなる。そうした雑音に対して、神条奈々はある種の恐怖感さえ抱いていた。そのまま現実がノイズによって塗りつぶされていくのではないか、という妙な恐怖に襲われる事もあった。

 こうした奇妙な恐怖感を持つのは、思春期ではよくあることだと、奈々自身思う。自分以外の人間はロボットではないか、とか。子どもという存在は、正面から死という概念について考える為の前準備としてしばしばそうした哲学的なことを考えるものだ。ただ、奈々の持つノイズへの恐怖は、成長しても薄れることはなかった。むしろ、それは確固たる形をとり、その恐怖感から逃れる為、奈々は少しでも現実を直視しようとした。その価値観が、神条奈々という人格を作り上げていった

 故に、はじめてそれが観測された時、奈々はそれをそのまま認めた。友人のように不必要に笑い飛ばしたり、大袈裟に騒いだりしなかった。それらは正しい認識の障害にしかならなかったし、有効的な方法ではなかった。奈々は、それを常識的な価値基準によって解釈しようとはせず、そういうものだとありのまま認識することにした。

 亡霊。人ではない、異形の侵略者。

 当時、奈々は防衛大学校の二年生だった。故にそれが現れた時、彼女は自衛隊の今後の在り方が変わる事を早くに予期した。それは彼女の友人達も同様だったようで、防衛大学校から多くの退学者が出た。奈々は親の反対を押しきってそのまま残留した。

 あらゆる経済活動が新たな対応策に追われた。警察・消防・保険・宗教・医療・軍事、数えきれない変化が日本を覆った。奈々は激動の時代で青春を送った。

 そうやって、人々は徐々にそれに馴染んでいった。誰もがそれを現実と認めざるをえなかった。そうした間に奈々は防衛大を首席で卒業した後、亡霊対策室の司令官として迎え入れられた。

「彼は普通の男の子よ」

 司令官としての立場に就いて六年経った今、奈々は組織を運用する立場にいる。奈々は廊下を歩きながら、隣を歩く副司令官の長井加奈に向けてそう言った。

「彼の持つESPは平均を僅かに上回っているだけ。加えて、射撃も人並み。メディアが騒ぐほど、特異な点は見当たらない」

「皆、きっかけを待ってるんですよ。彼をきっかけだと思いたいんです」

 加奈がそう言う。奈々は憂鬱そうに首を振った。

「性別が変わっただけで、何かが変わる訳じゃない。過度な期待は彼の負担にしかならない」

「そうですね。でも、希望を捨てる必要もありません」

「……希望、か」

 奈々は呟いてから、加奈の言う希望とは何に対する希望だろう、と考えた。

 闘争が終わる希望?

 まさか、と思う。八年間にも渡る闘争は、未だ終わる兆しを見せない。

 八年間。それだけ闘争が続けば、経済的な疲弊は隠しきれない。貿易に依存した産業は深刻な影響を受け、莫大な失業者を生み出している。輸出国家である日本国の体力は、闘争を続ける上で低下し続けている。闘争が続けば続くほど、不利な状況に追い込まれていくのだ。

 奈々はそれから無言で、薄暗い廊下を進んだ。

 

◇◆◇

 

 桜井優は、ポツンと野原に立っていた。ふと、晴れ渡る空を見上げる。どこまでも透き通る蒼。優は視線を落とし、後ろを振り返った。少し離れた所に、同じ第一小隊の少女たちが集まっている。そして、彼女たちの背中には巨大な翼が生えていた。

 機械翼。

 亡霊との空戦を実現する為の戦術兵器。

 早く小隊に慣れる為にも集団の少女たちへ積極的に話しかけた方がいいのかもしれないが、はじめての正式な訓練である為、緊張してそれどころではなかった。

「桜井くん、これを」

 後ろから、落ちついた男性の声。振り返ると、作業服を着たエンジニア・スタッフが機械翼を両手で抱え、前に差し出していた。優は黙ってそれを受け取った。

 機械翼を用いた飛行訓練。それが今日のカリキュラムだった。空を飛ぶという事に子供のような期待を覚える一方で、墜落したらどうなるのだろう、と現実的な不安が圧し掛かってくる。

「ねえ、一人で付けられる? 手伝おっか?」

 横から柔らかい声。

 顔を上げると、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべる一人の少女がいた。

「前期過程で取り扱い方だけは習ったから大丈夫……だと思う。ありがとう」

 優は笑みを返してそう言った。

 少女は、そっかそっか、と呟いてから逃げるように少し離れた地点に固まるグループの元に戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、少女の言葉に甘えた方が仲良くなるきっかけになったかもしれない、と今更ながらに思って軽く後悔した。

 周囲には、エンジニアスタッフを除けば女性しかいない。機械翼を取りつけて訓練に臨んでいる男は、優一人だった。どうも馴染める気がしない。

 優は思考を切り変えて、機械翼の装着を再開した。いくつものベルトで機械翼を身体に固定し、金具をはめていく。

 作業を続けていくうちに、頭の中が急速に冷えていくのがわかった。飛ぶ事への不安が薄れ、気分が落ちついていく。背中にかかる重みが心地よくさえ感じられた。

「チェックします」

 近くで待機していたエンジニアスタッフがそう言って、機械翼が正常に装着できているかを確認し始める。優は両手をあげて、エンジニアスタッフが作業しやすいようにした。

「問題ありません。ゆっくりと、ESPを送ってください」

 エンジニアスタッフが三歩下がる。

 優は目を瞑り、ゆっくりと意識を集中させた。背後から僅かな駆動音。

「試しに一メートルほど上がってみましょう。飛行方法は覚えていますか?」

「はい、大丈夫です」

 優は頷いて、機械翼を展開させた。

 強い風が吹き、足がゆっくりと地上から離れていく。

 浮遊感。

 足場がない為、どこに重心をおけば分からない。飛行姿勢が崩れ、高度が不安定になる。

「高度はこのままで姿勢の制御に移ってください。重心を前に倒さないと機械翼の重さで後ろに倒れますよ」

 エンジニアスタッフに言われた通りに前傾姿勢をとると、幾分か高度が安定し始めた。すぐにコツを掴み、高度を僅かにあげてみる。地上のエンジニアスタッフが僅かに不安そうな表情を浮かべるのが見えた。

「あまり高度を上げないでください。はじめは三メートル辺りが限界です」

 優は頷いて、高度を維持したまま旋回を繰り返した。

 考えなくても、次にどう動けばいいのか不思議と理解できた。風が気持ち良い。

 充分に飛び回ってから、高度を下げ始める。足が大地に触れると、優は大きく息を吐き、エンジニアスタッフに視線を向けた。

「これ、どれくらいの速度まで出せるんですか?」

 

◇◆◇

 

「彼、飛行は初めて?」

 神条奈々は、エンジニアの指示に従ってカリキュラムを消化する桜井優の姿を遠方から眺めた後、思わず隣の長井加奈に視線を向けた。

「ええ。機械翼の概要や基本的な姿勢制御については既に前期初級訓練過程で学んでいますが、実際に機械翼を利用するのは初めてです」

 加奈の答えを聞いてから、奈々はもう一度視線を遠方の優に向けた。優はずっと低空飛行を続け、原っぱを何周も回っている。

「射撃に関しては成長を見送るしかないけれど、飛行に関しては既に及第点に達している。一度、実戦を体験させた方が良いかもしれない」

 奈々の言葉に、加奈が僅かに驚いた顔をする。

「少し、急ぎすぎていませんか?」

「もちろん、投入はしない。部隊の後ろから実戦を見せるだけ。本物の戦闘を間近で見れば訓練に対するやる気も変わってくるでしょう」

 そう言って、奈々は早くも頭の中で新たなスケジューリングを組み立て始めた。

 

 ◇◆◇

 

 それの予兆が記録上に初めて現れたのは二〇一〇年六月十二日の正午過ぎだった。日本海に浮かぶ人口八二〇人の小さな白流島を中心とした半径一〇キロメートルに謎の霧が発生し、突如島と本土の連絡が途絶えた。白流島を取り巻いたこの濃霧はグロテスクな紫色をしていたという。翌日、海上保安庁は住民の無事と不可解な霧の原因を調べる為に三隻の調査船団を送り出した。しかし、調査船団は濃霧に入った途端連絡が途絶え、そのまま行方不明となる。

 同年六月二十日、白流島から調査船団の代わりに数百の影が飛び出した。濃霧と同じ紫色の光を纏い、巨大な二対の翼を持った異形のそれは統率のとれた動きで本土を目指し高速で飛翔した。

 その姿から後に亡霊と呼称される怪物は、数時間後に日本海沿岸に点在するいくつかの集落を消し去った。それが未知の生命体、亡霊との長い戦いの幕開けとなる。

 

◇◆◇

 

「ここでの暮らしはどう?」

 第一小隊に配属されてから三日目。

 司令室に呼び出された優は、目の前で柔らかい笑みを浮かべる奈々を見上げて、曖昧な笑みを浮かべた。

「施設が広すぎて、未だによく迷います」

 そう言いながら、司令室をチラリと見渡す。

 規則的にディスプレイが並び、電子オペレーターが暇そうにいていた。壁には用途不明の表示灯やスイッチが並び、機械的な雰囲気になっている。

 奈々はクスッと笑って、それから話を進めた。

「第一小隊の子たちとは仲良くなれそう?」

「まだわかりません。数人と少し言葉を交わしただけで、顔も名前も覚えてないです」

「やはり、周りが女ばかりというのは嫌かしら?」

 その言葉に、優は僅かばかり考え込んだ。

「……嫌ではないです。でも、やっぱり馴染みづらいです」

 それを聞いた奈々は頷いて、優から目を離した。

「斎藤、こっちに来て」

 奈々が奥にいた若い男性を呼び付ける。

 斎藤と呼ばれた男がディスプレイの並んだデスクの間を縫って近づいてきた。

「この人は、情報部の斎藤準(さいとう じゅん)よ。何か困った事があったら、これからこの人を頼るといいわ」

「紹介に預かった斎藤準だ。対策室のシステム運用に携わっている。よろしく」

 斎藤準は友好的な笑みを浮かべて、手を差し伸べた。優は慌ててその手をとった。

「桜井優です。よろしくおねがいしますっ」

「今日は生憎これから仕事が入ってるんだが、今度一緒に飯でもどうだ。周りが女ばかりだと、落ちつかないだろう」

 気さくに誘ってくる準に、優は満面の笑みを浮かべた。

「はい。是非、お願いしますっ」

「さて。紹介はこれで終わり。斎藤は持ち場に戻って。優君と話があるから」

 奈々の言葉に準は頷いて、司令室から出ていった。それを確認した奈々が優に向き直る。

「ここからが本題」

 優は黙って先の言葉を待った。

「もう少し馴染んでから亡霊が出たら、実際に出撃してもらおうと思ってるの。もちろん、戦闘ではなく見学の意味で。戦闘記録は何度か見た事があろうだろうけど、実戦は全く違うから、それを肌で感じ取って貰うのが目的よ」

「実戦、ですか……」

 自然とトーンが落ちる。

「心配しなくても大丈夫。君が直接戦う必要は絶対にないから」

 奈々が断言する。

 優は頷く事しかできなかった。



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02話 篠原華

 翌日、優は準に案内されながら、訓練の為に寮棟から離れた施設に向かっていた。

 本部の敷地は山奥にある為か、必要以上に広大だ。一人では目的地まで行けそうになかった為、奈々が準を案内人として起用してくれていた。教育部隊の人間を利用せずに、無関係な準を案内人に起用したのは、交友関係が薄い優に対する配慮だろう。一人でも親密な人間がいれば、人はそれだけで新しい環境に溶け込みやすくなる。

「今日は、何をするんですか?」

 前を歩く準に声を投げかける。

「室内プール使うって言ってたから、着水訓練だろうな」

「……プールですか?」

 優は秋風で乱れる髪を押さえながら、微かに嫌そうな表情を浮かべた。

 その様子を見た準が小さく笑う。

「水温は低いだろうが、戦闘服の下にウェットスーツを着こむから、冷たいのは一瞬だ」

 話しているうちに、大型の施設に辿りつく。中に入ると、真っ先に受付が見えた。しかし、人影はなく、照明も半分以上が落ちていた。

「受付、誰もいないんですか?」

「ああ。中隊員の生活環境改善を名目に建てられた施設なんだが、利用者が少なすぎて週に二回しか開放されていない。今日みたいな訓練の時だけ特別に開放されている」

 こっちだ、と準が奥の階段を上り始める。優はその後を追いながら、薄暗い施設の内装を不思議そうに眺めた。

「何だか、勿体ないですね。予算、余ってるんですか?」

「余ってるとかの問題じゃなくて、必要だったんだ。中隊の離脱率は高い。入って三年経てば特別年金が出て生活も保障されるから、中隊の中心だった古参がどんどん抜けていく。繰り返される戦闘で精神的に参って抜けていく奴も多い。中隊へ定着させるために、極力居心地の良い空間を提供する必要があった。ただ、この施設は稼働率が低すぎて、一時期はかなり叩かれたよ」

「学校の授業で聞いた事があります。予算を使い切らないと次から減らされるから、必要なくても使っちゃうんだって」

「そうだな。そういう面もある。学校はどこに行ってたんだ?」

「花公院です」

「……驚いたな。名門じゃないか。確か、最近共学になったばかりだったな……お、ついたここだ」

 目の前で準が立ち止まった為、その背中に優はぶつかりそうになった。

「中に着替えが用意されてるはずだ。着替えてきてくれ」

「はい」

 頷いて、部屋に入る。

 中は普通の更衣室だった。棚の一つに戦闘服とウェットスーツが綺麗に畳まれて置かれている。優は早々に着替えを済ませて、外に出た。

「早かったな」

 そういう準の隣には、知らない少女がいた。肩まで届く茶色に染められた髪に、どこかふわふわとした雰囲気を纏う少女は、優と同様に黒い戦闘服を着ていた。

 優が困惑した様子で少女を眺めていると、少女はにこりと笑って、小さく頭を下げた。

「第一小隊長の篠原華(しのはら はな)です。後期課程の訓練は複数人でやるものもあるから、私がお手伝いすることになりました」

「よろしくおねがいしますっ」

 慌てて優も頭を下げる。

 第一小隊長ということは、優の直属の上官ということだ。

「確か同い年だったかな? よろしくね!」

 華と名乗った少女はそう言って、手を後ろ手で組んで、えへへ、と前かがみに笑った。普通ならわざとらしく見えるその仕草も、不思議と自然な動作に見える。

「じゃあ、俺は戻らないと。頑張れよ」

 準がそう言って、引き返していく。

 ありがとうございました、と優が声を投げかけると、準はひらひらと手を振って、そのまま階段の方へ消えていった。

「それじゃあ、桜井くん、こっちに来て」

 華が歩き出す。

「はい」

 頷くと、ぴたりと華の足が止まった。そして、不満そうな顔で優の方を振り返る。

「えっとね、敬語はいらないよ。上下関係とか、気にしなくていいから」

 優は微かに躊躇した後、素直に華の言葉を受け入れた。

「うん。わかった。よろしくね」

 華がにこりと笑い、再び歩き始める。優は黙ってその後を追った。

 歩いてすぐに華はある扉の前で立ち止まり、それを横に開いた。扉の先には広大な空間が広がっている。華が中に入っていった為、優も後に続いて扉をくぐった。

 そこには、五十メートルほどのプールがあった。天井が高く、外と違って照明が強い。プールサイドには黒い制服を着込んだ二人の男と一人の女が雑談していて、優達が入った途端に慌てて話を止めた。

「これを」

 男の一人が機械翼を持って近づいてくる。優と華はそれを受け取って、装着を始めた。

 優が慣れない作業に手こずっているうちに、華はすぐに機械翼の装着を終えたようだった。

「手伝おうか?」

 にこにこと華が声をかけてくる。それで、先日の飛行訓練時に同じように声をかけてきたのが華であることに気付いた。

「うん。ちょっと、お願い」

 素直に華の好意に甘える事にする。

 華が手早く後ろに回り、機械翼の装着を手伝い始める。

「はい、できたよ」

 あっという間に作業が終わり、華が一歩下がる。

「ありがと。篠原さん、本当に早いね」

「桜井くんも慣れたらこれくらい楽にできるよ」

 にこにこと笑う華の肩越しに、プールサイドの向こうに立つ女が手招きするのが見えた。

「準備が出来たら、こちらへ」

 華と並んで、女の方へ向かう。

 その間、残った男が反対のプールサイドで三脚とカメラを用意していた。訓練記録を撮るのだろう。

「よし。じゃあ、簡単に説明しようか。今日やるのは着水訓練。基本的に亡霊の迎撃は洋上で行われるから、墜落した場合の対処方です。って口で言うより、実物見た方が早いかな。篠原さん、お手本見せてみて」

 女の言葉に華が頷いて、機械翼を展開させる。翼が大きく広がり、華の足がゆっくりと床から離れていった。そして、そのままプールの上空に移動していく。

 何をするつもりなのかと優がじっと華を見ていると、高度五メートルほどまで上がった華の身体が不意に落下を始めた。

 優が何か行動を起こす前に、華の身体がプールに落ちて水柱があがる。

「……篠原さん?」

 優が心配そうな声をかけた直後、水面から華の顔が飛び出した。戦闘服の両肩部分が膨れ上がっているのが見える。前期訓練過程で戦闘服の構造は理解していたが、実物を見るのは初めてだった。

「戦闘服にはああいう浮き袋がついています。着水直後にこのベルトを引き抜いてください」

 女が近づいてきて説明する。優はベルトの部分を確認して頷いた。

「では、一度やってみましょう。あ、ちょっと水が深いけど泳ぎは大丈夫ですか?」

「人並みには、大丈夫です」

 優はそう言って、機械翼を展開させた。駆動音。

 以前行った飛行訓練通りに浮き上がり、高度を上昇させる。そして、そのまま華のいるプールの上空にゆっくりと移動した。機械翼の動作は酷く安定していて、空を飛ぶという行為への恐怖感を払拭してくれる。この調子なら、高度一〇〇メートルでも大丈夫そうだった。

「落下する時は、背中からが理想的。君達はちょっと衝撃に強いみたいだから、首の骨を折る事はないだろうけど、姿勢制御には気をつけるように」

 プールサイドから女が叫ぶ。優はチラリと女を確認してから、機械翼の動作を完全に停止させた。次の瞬間、ぐらり、と身体が後ろに傾く。そして、強烈な浮遊感。

「……っ……ぁ!」

 姿勢制御などする暇もなく、優の身体は水面に叩きつけられた。水とは思えないほどの衝撃を受けると同時に、視界が気泡で覆われパニックを起こしそうになる。そして、プールが予想以上に深い事に初めて気づいた。

 考える余裕もなく、優は右手で肩のベルトを手探りで見つけ出し、それを力の限り引き抜いた。途端に両肩が膨れ上がり、上半身が急速に水面へ浮上を始め、身体が勝手に半回転する。

「……っは!」

 頭が水面から飛び出すと同時に、優は大きく息を吐きだした。それから、何度も大きく息を吸う。

「だ、大丈夫?」

 前方から、華が両手で水を掻いて近づいてくる。

「……大丈夫。ちょっと、驚いただけ」

 優はそう言って、下に目を向けた。

 深い。三メートルは超えていそうだった。実際の洋上は更に深く、波も高いのだろうと思うと、憂鬱な気分になる。

「次、連結ベルトいこうか」

 プールサイドから女の声。

「先に手本、見せて上げて」

「わ、私がですか?」

 華が動揺した様子を見せた後、おずおずと優の元に泳いでくる。

「あの、ちょ、ちょっと、ごめんね」

 華の手が腰のベルトを引き延ばし、優の腰に巻きつけ始める。自然と抱きつくような格好になり、優はついと視線を外した。

「終わりました」

 ほのかに顔を赤くした華がプールサイドの女に向かって声をあげる。女は満足そうな表情を浮かべて、口を開いた。

「前期過程で習っただろうけど、それが連結ベルト。機械翼が破損したり、負傷して動けなくなった味方を身体に固定して、引き上げる為のもの。大事なことだから恥ずかしがってないで、しっかり締めるように。そのまま、桜井くんを引き上げてみて」

 華が微かに躊躇した様子を見せた後、腰に両腕を回してくる。肩から腰までぴったりと密着する為、自然と二つの柔らかいものが押しつけられる。優はあまりの気まずさに視線を逸らし続けた。

「ちょっと持ちあげるね」

 華が告げた次の瞬間、優の身体が華に引っ張られるようにして浮いた。身体に纏わりついていた水が下に落ちていく。連結ベルトでしっかりと固定されている上に華の腕がしっかりと回されている為、予想以上に安定していた。

「オッケー。降ろして」

 女の声とともに、華がゆっくりと高度を下げて再び着水する。直後、再び華が腰に回した手をごそごそと動かし、連結ベルトが外れていくのがわかった。

「よーし。じゃあ、今度は桜井くん、やってみて」

 女の声に優は頷いて、自らの腰に装備された連結ベルトを引き延ばした。それから、華の腰に手を回そうとした直前、優は僅かに動きを止めて、顔を赤くした華をチラリと見やった。中隊には女性しかいない為、異性が苦手なのかもしれない。

「ごめんね。出来るだけ早く終わらせるから」

 そう言って、華の腰に手を回す。

 華の腰は折れそうなほど細かった。女性の腰に手を回すという行為に慣れていない為に緊張はしたが、慣れない訓練である為、連結ベルトの固定に意識の大部分が持っていかれた。それに十日後には実戦が待っている為、恥ずかしがっている余裕などなかった。

 黙々と連結ベルトを戦闘服の持つ機構に固定させて、最後に連結ベルトを軽く引っ張り、しっかりと繋がっている事を確認してから優は顔を上げた。

「終わりました」

 プールサイドの女に向かって報告する。女は遠目から連結ベルトの様子を確認するように目を細めて、満足そうに頷いた。

「オッケー。相手の腰に手を回して、それから機械翼を展開させてみて。あ、腰ってのはウェストじゃなくて、骨盤の辺りね。上に手を回すと痛いから」

 女の言葉通り、優は華の腰に手を回した。華の身体が硬くなるのが分かる。

「持ちあげるね」

 華の耳元で告げてから、機械翼を展開させる。身体が浮き上がり、周りの水面が微かに盛り上がった。ざばあ、と水の落ちる激しい音が響き、身体が完全にプールから浮かび上がる。前方に華を抱えている為か、身体が前に傾きそうになり、優は慌てて姿勢制御に移った。

 姿勢が安定すると、優が予想した通り、プールサイドから女の声が届いた。

「オッケー。それじゃ、休憩入れながら後二〇セットやってみよう。身体が覚えるまでやらないと意味ないからね」

 二〇セットという言葉に、華の身体がピクリと反応する。優は奇妙な罪悪感に苛まれながら、華を抱いたままゆっくりと高度を下げ始めた。

 

「ごめんね」

 訓練が終わってプールサイドに上がった優は、華に向かって一番に軽い謝罪の言葉を口にした。

「え? な、なにが?」

 ウェットスーツだけになって戦闘服の袖を絞っていた華が不思議そうに振り返る。

「連結ベルト繋ぐ時、結構くっついたから。それと、篠原さんには関係ない訓練なのに、手伝ってくれてありがと」

「そ、そんな、謝らなくても大丈夫だよ!」

 華が全身で否定するように両手をぶんぶんと胸の前で振る。先程まで手に持っていた戦闘服が地面に落ちるが、気づいていないようだった。

「あの、ほら、中隊は女の子ばっかりだから、あまり慣れてなくて! 嫌とか、そういうのじゃないから、その、ね!」

 一生懸命フォローしてくれる華に優はクスりと笑って、ありがとう、と繰り返した。

 それから、背後を振り返る。一人の男が三脚とカメラを回収し、残った男と女が何やら紙に記録をつけている。

「これ、帰っていいのかな?」

「うん。戸締りも、あっちの仕事。早く着替えて戻ろ!」

 華が駆けだす。優はその後をゆっくりと追いながら、戸口へ向かった。

 桜井優が初めて実戦を経験する九日前の話である。

 

◇◆◇

 

「装備の点検を怠らないで。焦らなくていいからしっかりと。華、準備が出来た人をまとめて」

 慌ただしい室内で、神条奈々は歩きながら部下に声をかけ回っていた。

「神条司令、優くんの準備が整ったようです」

「そう。男の子は準備が早くて助かるわね。こっちはまだかかりそうだから待たせといて」

「はい」

 副司令である長井加奈の報告に頷き、奈々は部屋を見渡した。

 部屋、というよりも倉庫のような薄暗い出撃準備室であり、室内にいる部下全員が装備の点検途中だった。その部下は大半が未成年の少女である。

 彼女たちは、これから戦場へと送りだされる。数年前の社会通念に照らし合わせれば、子どもを戦場に送り出すことは許されない事だったが、長引く闘いの影響で奈々のそうした倫理観は変質を遂げていた。

「第一小隊、準備完了。これより待機」

 少女たちから慌ただしく報告があがる。

 奈々は壁に備え付けられたコントロールパネルを操作してハッチを開いてから第一小隊に出撃命令を出した。続いて、第二小隊から報告が上がる。

「第二小隊、準備完了。指示を」

「その場で待機しなさい」

 第一小隊とは違う命令を出してから、奈々は部屋を飛び出した。

 長い廊下を歩きながら腕時計に視線を向ける。

 一四二七。

 亡霊の一次発見から既に八分経過していた。

 司令室に入ると電子・解析オペレーターが亡霊の侵攻ルートを補足する作業に入っていた。壁に埋め込まれた巨大なディスプレイには出撃準備室の様子が写し出されている。全員の準備ができたようだった。

 奈々はコンソールを叩いてディスプレイを切り替えた。大きな部屋に一人だけ佇む少年の姿が映る。まだ幼く、中性的で整った顔は緊張で強張っていた。カメラがもう少し離れていれば、華奢な身体も相まって少女と見間違えたかもしれない。そして、その華奢な背中には不釣り合いな巨大な機械の翼を有している。

 随分と絵になる、と奈々は画面を見ながらぼんやりと思った。照明を上手く利用すれば、翼を休める天使のようにも見えるかもしれない。

「優くん、気分はどう?」

『緊張してます』

 奈々は優を安心させようと笑顔を作った。向こうにもこちらの姿が映るディスプレイが存在する。

「大丈夫。訓練通りにやれば何も問題ない」

『……はい』

 優は不安を隠すように硬い笑顔を浮かべた。

 奈々は少し思案してから、コンソールを叩いた。ディスプレイが二分割され、新たにマップ情報が写し出される。第一小隊は既に本部から三キロメートル離れた地点まで進んでいた。

「第二小隊出撃しなさい」

 出撃ハッチから、第二小隊長の姫野雪を先頭に少女たちが飛び出した。その数およそ三十。第一小隊を追いかけるように青空の中を羽ばたいていく。

「優君、続いて」

『はい』

 少女たちの後から少年が飛び出す。

 今回が桜井優の初陣だった。

 他にも一人、今回が初陣の少女がいる。初陣と言っても実際に戦闘に参加することはなく、部隊の後方から戦場を見せるだけだ。

 奈々は再びコンソールを叩いた。画面が三分割される。

 一つは高機動ヘリが部隊の背後から撮影した中継映像。

 もう一つは大型のレーダーを積んで遥か高高度を旋回する警戒機によるESPエネルギーの探知図。

 最後の一つは機械翼につけられた識別信号を映す俯瞰マップだった。

 高機動ヘリには医師や高度な医療器具が用意されており、負傷者の応急処置・輸送などにも利用される。これは、実際的な役割よりも中隊員のメンタル面に多大な貢献をしていた。

「方位二-八-〇。衝突予測ポイントまで残り三〇キロメートルを切りました」

「総員に通達。後十分で接触する。第一小隊、速度を落とし、第二小隊との距離を詰めなさい」

 奈々の命令とともに、識別レーダーに映る先頭集団の速度が徐々に落ちる。

 機動ヘリから中継された映像では、第一小隊長の篠原華(しのはら はな)が指揮をとって、小隊の動きを制御していた。華は亡霊対策室に入って三年目の中堅組であり、その従順性と機転の良さから奈々は華を重宝していた。

 第一小隊、第二小隊の距離は順調に縮み、衝突予測ポイントの五キロメートル前で二つの小隊は横に並んだ。奈々は停止を命じ、ヘッドセットに向かって叫んだ。

「優くん、柚子ちゃん」

 奈々は少し砕けた喋り方で、今回が初陣の優と柚子を安心させようと語りかけた。

「亡霊は、外見ほど恐ろしいものではない。訓練通りに行動すれば難なく倒すことができます。大事なのは、パニックに陥って状況判断が狂う危険を絶対に避けること。限界だと思ったらすぐに戦線から離脱しなさい。それは恥ずべきことではない」

「はい」

 二人の新人が緊張した声で答えた。

 奈々は少し思案して、時計を見た。

 衝突予測ポイントまで後三分。

「時間よ。各自、兵装チェック。高度維持。敵右翼突出。構え」

 青空の彼方に影が現れる。

 高高度を旋回する警戒機から送られてくる亡霊の位置情報を見て、奈々は淡々と情報を伝達させた。

「敵影二十三。方位二-八-五。依然として敵右翼突出。敵左翼、更に外側へ移動。敵右翼は囮の可能性が大きい。敵左翼の迂回に気をつけて」

 中継映像に亡霊の姿がはっきりと浮かんだ。

 紫丹の巨大な羽を大きく揺らし、醜悪な顔にぱっくりと開いた巨大な口。その悪魔的な姿は、まだ戦闘に慣れていない隊員たちの気力を急速に奪っていく。

 第一小隊が小隊長の篠原華の指揮で敵右翼を迎え撃つように前進していく。第二小隊は第一小隊の側面を守るよう、左側に旋回した。

「距離一〇〇〇を切りました。」

 解析オペレーターがカウントを開始する。トップとの相対距離が百メートルを切った時、第一小隊長、篠原華が片手をあげて叫んだ。

「撃て!」

 第一小隊、総勢三十二名が構える銃口が弾けた。一拍遅れて大気が爆発し、轟音がつんざく。一斉に放たれたESPエネルギーの塊は巨大な奔流となって、敵亡霊軍の突出した右翼へと吸い込まれていった。

「命中を確認。一体ロスト」

 ESPレーダーから影が一つ消える。

 しかし大多数の亡霊は依然として無傷のままだ。

 人間相手ならば一撃で殲滅せしめる攻撃も、異形の相手には致命傷を与えるに至らない。

「着剣用意!」

 第一小隊長、篠原華が頭上に上げた右腕を大きく回した。それを合図に第一小隊の前面に展開した少女たちが一斉に銃剣を構える。ESPエネルギーを纏った銃剣が淡い輝きを放った。

「第一分隊突撃!」

 華が先頭に立って飛び出す。それにならって、第一分隊に所属する八人の少女が続いた。

「敵左翼、接近。混戦が予想されます」

 長井加奈が緊張した声で報告する。

 奈々は刻々と変化する警戒機のマップ情報を眺めながら、呟くように口を開いた。

「第二小隊、前進。挟撃せよ」

 第二小隊長が大きく動き、全部隊が亡霊と衝突を始める。

 散発的な銃声がスピーカーから響いた。

 秩序だった隊列が崩れ、あっという間に状況把握が困難な混戦に移行する。

 近接戦闘によって味方と亡霊が入り乱れ、それを突破した亡霊たちが背後の分隊に襲いかかる。数が勝っているにも関わらず、徐々に前線が崩れていくのがわかった。

「第一分隊、後退せよ。無理に抑える必要はない」

 注意深く観察しながら命令を飛ばす。

 華が直接率いる第一分隊は後退しなかった。

 浸透した亡霊を迎え撃つ為、後方支援が断たれているようだった。離脱する機会を逃がした第一分隊が徐々に孤立を始める。

「繰り返す。第一分隊は即刻後退せよ。第二分隊、支援せよ」

 奈々の命令で、ようやく第二分隊が事態に気付いて支援攻撃を開始する。

 遅い。

 その間に、敵左翼が第二小隊を無視して、第一小隊の左側面を取るように回り込んでくる。第一小隊の中でも前線を支える為に突出した第一分隊は完全に孤立していた。

「このままでは呑みこまれる。後退せよ。繰り返す。後退せよッ!」

 ようやく、状況に気付いた第一分隊が離脱を始める。

 それを防ぐように、亡霊は死を恐れずに執拗な追撃を繰り返す。第一分隊の後退速度が急速に落ちた。その間に敵左翼が左側面から急接近を始め、全体が挟撃されようとしていた。

 奈々は唇を噛んだ。

 数は勝っている。しかし、それだけだ。

 相手の出方は分かっていたのに、それを止める事が出来ない。

 それは亡霊対策室の保持する実働部隊、特殊戦術中隊の厄介な性質の為だった。

 亡霊は、あらゆる物理干渉を受けない。銃撃も、弾道ミサイルも、亡霊の前には意味をなさない。

 亡霊には実体がない、と言われている。見る事も、映像に記録する事もできる。なのに、その存在に干渉することができない。少なくとも、経験的にそう解釈されている。しかし、観測はできる。映像の記録に加え、亡霊の存在する周囲にはいくつかの異常な現象が発生する。それを用いて、亡霊の発生を探知することが可能となった。また、その異常を引き起こす何らかの未知のエネルギーが存在すると仮定されるまでに至った。

 その後、この探知技術に亡霊以外の存在が引っかかった事をきっかけに、事態は好転する。亡霊と同様の未知のエネルギーを持つであろう存在は、人間だった。後に超感覚的知覚能力者、ESP能力者と称される人間。彼らは、亡霊に干渉することができた。

 時間の経過とともに、多くのESP能力者が発見された。彼女たちを特殊戦術中隊に組み込む事によって、日本は亡霊との闘争を開始した。だが、ESP能力を保有する人間の数は圧倒的に少なく、亡霊に対抗する為の充分な戦力を確保することができなかった。加えて、戦闘経験のない一般人を利用する事、従来の戦争とは異なる為に充分な運用ノウハウが蓄積されていない事が重なり、軍隊としての錬度が著しく低いまま前線に投入される事となった。その問題は、今でも解決される見通しが立っていない。

「第三分隊、第一分隊の援護を」

 第一分隊の後退を支援しようと第三分隊が前進する。

「──司令、間に合いません」

 長井加奈の焦燥感の混じった声が横から届く。

 中継映像には、追撃をしかける亡霊を何とか抑える第一小隊長、篠原華の姿が映っていた。そして、その側面を奪った亡霊が死角から迫っているのが中継映像に映る。華は目の前の亡霊の相手に必死で気付いていない。

 第三分隊の援護はとても間に合わない。

「華ッ、すぐに離脱しなさい!」

 奈々の言葉に華がようやく死角を取られたことに気づいて、攻撃を中断する。

 しかし、既に亡霊との距離は致命的なまでに詰められ、最早回避行動が何の意味も成さない状況に陥っていた。

 負傷は避けられない。

 奈々が機動ヘリに回収命令を出そうと口を開きかけた時、中継映像を一つの影がよぎった。

 次の瞬間、華の側面から接近していた亡霊の体が消し飛ぶ。

 淡い霧のようなものが空中に拡散した。

「亡霊、一体ロストッ」

 解析オペレーターが叫ぶ。

 奈々は中継映像に映る影を見て、目を大きく見開いた。

 影の正体は後方で待機している筈の桜井優だった。

 更に華の近くにいた二体の亡霊の反応がロストした。その後も、高高度の警戒機から送られてくる亡霊の反応が消えていく。

 次々と消えていく亡霊の反応を眺めながら、奈々は得体の知れない高揚感が湧きあがってくるのを感じた。

 

 神条奈々が若くして亡霊対策室の総司令官に抜擢されたのには、いくつかの特殊な経緯がある。亡霊の出現は日本の国防を脅かす存在であり、日本は防衛関係費を拡大させる必要があった。しかし、日本にとって、軍拡は非常にデリケートな問題である。第二次世界大戦における敗戦国としてのイデオロギー。加えて、中国、ロシアを中心とした経済統合体であるユーラシア連合を刺激する恐れがあるとして、慎重論が根強く展開された。

 そうした世論を背景に創設された亡霊対策室は少しでも「軍」といったイメージを和らげるため、亡霊対策室の司令官に女性を起用することが決定された。後にこれは軍の予想以上の効果をあげることになる。

 また、トップに女性を起用することにはもう一つ利点があった。亡霊に対抗できる唯一の存在である超感覚的知覚を保持したESP能力者がどういうわけか全て女性だったのだ。亡霊対策室が設立された際に確認されていたESP能力者は二百三十一人。その全てが女性で、九割が未成年だった。

 亡霊対策室の前途は多難だった。戦闘経験も人生経験もない少女たちをまとめあげ、過酷な戦闘によって傷つく少女たちの精神もケアしなければならな事も女である奈々が抜擢される要員となった。

 そうやって、奈々は司令の座についた。前例がないことの連続ではあったが、奈々はよくやった。思春期の少女たちをまとめあげ、最低限の防衛を可能とした。

 そうやって、今まで何年も持ちこたえてきた。自分の指揮に国防の全てがかかっている、というプレッシャーに耐えてずっとやってきた。こうやって、死ぬまで戦い続けるのだろうと漠然と思っていた。

 しかし、その予測は三週間前に破られた。青天の霹靂と言える。亡霊の出現からはじめて、男のESP能力者が確認されたのだ。それが桜井優だった。

 

 奈々は奇妙な高揚感に包まれながら、ディスプレイをじっと眺めた。

 訓練で見た動きとは違う、熟練した兵士の動きを桜井優は見せていた。才覚か、はたまた土壇場の偶然か。

 ――それは、今考えるべき事ではない。

 奈々は思考を振り払い、急遽転がり込んできた好機に飛びついた。

「立て直しましょう。すぐに後退しなさい」

 奈々の声で、第一分隊が再び後退を始める。第二小隊の後方支援が激しさを増し、亡霊が攻撃を避けようと散開していく。

 ひとまず危機は脱した。

 しかし、油断はならない。両翼に大きく展開する亡霊の布陣を見て、奈々は逡巡した。

 距離が開いた。これは、遠距離攻撃に長ける──近接戦闘と比べれば──特殊戦術中隊にとって有利だ。暫くは現状を維持し、相手を削っていくのが一番か、と考える。

「押しています。追撃をしかけますか?」

 中央部の亡霊が後退を始めた。それを受けて、第二小隊長の姫野雪が追撃の有無を問いかけてくる。

 確かに中継映像を見た限りでは押しているようにも見える。しかし、高高度から送られてくるESPレーダーと、機械翼に取り付けられた識別マップを見て奈々は顔を曇らせた。

 中央部は特に相手の戦力が薄い訳でも、味方の戦力が集中しているわけでもない。加えて、両者の密度が中央部と殆ど変わらない両翼は拮抗したままだ。つまり、中央部は押している訳ではなく、誘われているだけ、と考えられる。

「……第一小隊の第一分隊と第二分隊はそのまま前進後、両翼に展開せよ。両翼、突撃準備」

 奈々は慎重に指示を出した。

 後退する亡霊に合わせて、特殊戦術中隊の中央部が僅かに突出する。そして、奈々の合図とともに、両翼が突撃を開始。同時に、中央部が敵両翼の側面から襲いかかる。

 敵両翼は側面と正面からの集中砲火を浴び、無残に四散していく。

 加速度的に減っていく亡霊の数を見て、奈々は安堵の息をついた。

 戦いは終息に向かっている。

 しかし、最後まで気は抜けない。

 亡霊は人間と違い、戦略的な撤退をしない。戦術的な後退はあっても、亡霊は全滅するまで襲いかかってくる。降参という概念を持たないのかもしれないし、死に対する恐怖や価値観が人間のそれとは恐ろしく異なるのかもしれない。

 全滅を辞さない亡霊に対し、逆に特殊戦術中隊──更に言えば亡霊対策室は一人の犠牲者も出すことが許されない。未成年ばかりで構成され、なおかつ少数で構成された特殊戦術中隊にとって、一人の死がもたらす影響は物理的にも、精神的にも計り知れない。戦術的敗北が戦略的敗北に直結する恐れさえある。奈々は経験的にそれを嫌というほど知っていた。

 今回は大きな被害が出ずに済んだようだった。間もなく戦闘は終わりを迎えるだろう。

 だが、闘争は終わらない。これが終わっても仮初の一時的な平和が流れるだけだ。また近いうちに白流島から亡霊が飛びだし、亡霊対策室はそれの対応に追われる。

 何度も何度も繰り返してきたことだ。

 そしてこれからも。

 いつ、この戦いの連鎖は終わりを迎えるのだろうか。

 それを思うと、気分が沈む。

「司令、気分がすぐれないように見えますが、大丈夫ですか?」

 長井加奈の言葉に、奈々は顔を強張らせた。

「いえ……」

 言葉を濁す奈々に加奈が笑いかける。

「心配、ですか?」

「……ええ」

 加奈は鋭い。

 何年も横にいるだけある。

 奈々は諦めたように頷いた。

「正直焦ってる。いくら戦術的勝利を重ねても、戦略的勝利には近づけない。このままじゃ、亡霊には勝てない。この闘争は一体いつまで続くのかしら…」

「攻めるだけの戦力ができるまで待つしかありません。そしてそれは遠くない未来かもしれませんよ」

 奈々はその言葉に顔をあげた。

「彼、は何かのきっかけになると思います」

 そういって、加奈は中継映像を見やった。

 ディスプレイにはまだ幼さを残す唯一の少年が映っている。

 桜井優、

 史上初の男性ESP能力者。

 奈々はさきほどの戦闘を思い出し、頷いた。 

 その時、ESPレーダーから全ての反応が消えた。思考を切り換える。

「亡霊群の殲滅を確認。これより帰投しなさい」

 中継映像に歓声をあげる少女たちの姿が映る。

 それを見て、奈々は頬を緩めた。

 確かに戦争は続く。

 際限ない戦闘を経て、少女たちは傷ついていくだろう。

 しかし、奈々はその少女たちを守れる立場にある。それは喜ぶべきことだ。

 自らの手で、運命に干渉できる。それは素晴らしいことだ。

 第一小隊、第二小隊を合わせた六十四名が綺麗に隊列を組んで、空をいく。

 負傷者二十二人。死者〇人。

 戦いが終わり、仮初の平和が訪れる。

 そして、この戦いが後に救世主と呼ばれる桜井優の最初の小さな一歩となった。



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03話 長井加奈

「申し訳ありませんでした」

 司令室の一角に、桜井優の言葉が反響する。

 帰投後、優は司令室に呼び出され、つい先ほどの戦闘について厳重注意を受けていた。

「……全てを私が指揮する訳ではないし、多くの判断は現場の中隊員に委ねられる。だけど、今回は君に戦闘の許可自体を与えていなかった。ここは建前上軍ではないけれど、実際には自衛軍よりも厳しい状況に置かれてるの。これからは命令を絶対に遵守しなさい」

「はい……」

 優が頷くと、奈々は厳しい表情を緩めた。

「お説教はこれでお終い。誰かが危なければ、自然と体が動くのは当然だと思う。でも、可能な限りは許可を求めてから行動するように。良い?」

「はい。申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる。

「華を助けてくれてありがとう。もう行っていいわ」

「はい。失礼します」

 優は最後にもう一度頭を下げてから、司令室を後にした。

 廊下に出て、大きく息を吐きだす。

 何故、あんな事をしてしまったのだろう、と優は後悔の表情を浮かべた。

 部隊の後方から戦闘を観察するだけの予定が、気がつけば敵陣の中に突っ込んでしまっていた。

 パニックに陥っていた訳ではない。頭の中は、極めて冷静だった。それなのに、身体が勝手に動いてしまっていた。戦う事が自然な事であるように思えた。奈々からすれば、調子に乗った新人にしか見えないだろう。

 脳裏に、亡霊を銃剣で突き刺した時の感覚が蘇る。亡霊の咆哮が、何度も再生される。

 優は小さく首を振って、寮棟に戻る為に長い廊下を歩き始めた。

 寮棟前の廊下にいた数人から視線が投げ掛けられるが、意図的に無視する。

 やりづらい、と思った。優以外の中隊員は全員女性で、亡霊対策室のメンバーも女性が多い。情報部などは男性が多いようだが、特殊戦術中隊の寮棟などでは他の男性の姿を見た事がない。

 優が亡霊対策室に拾われたのは三週間前の事だった。高校に入学してからまだ五カ月しか経っておらず、特殊戦術中隊への入隊に悩んだが、小さい頃に見た奈々の仮面のような笑みが酷く気になって、入隊を決意した。奈々に対し、憧れを持っていたといってもいい。

 しかし、現実は甘くなかった。女性だらけの集団に男一人で生活する厳しさを優は想像していなかった。見えない壁があり、物珍しさで話しかけてくる人はいたが、知り合い止まりといった感じで、友人と呼べる人は一人もいない。

 厳しい訓練、過酷な実戦、孤独な生活。先は暗い。

 唯一の救いは、優にESPエネルギーの扱いに対して平均以上の才能があったことだろう。入隊時に測定したESPエネルギー出力値はどうやら特殊戦術中隊の平均値を上回っているらしかった。先程の実戦でも大きな怪我はなく、撃墜数九という大きな戦果をあげることができた。少なくとも足手まといになる危険性は回避できたようである。しかし、増長してると見られても仕方がない行動をとってしまったことで、信用も失墜した気がする。

 自室前に着いた時、優は暗い思考を停止した。自室のドアに誰かがもたれかかっている。着水訓練でお世話になった篠原華だった。

 華も優の存在気付き、もたれかかっていたドアから離れる。

「久しぶり。さっきはありがとう」

 そう言って、華は笑った。まだ幼いながらも整った顔立ちで、顔をあげた拍子に茶色く染められたセミロングの髪が空を舞う。十日前に会った時よりも、落ち付いているように見えた。

「十日ぶりかな?」

「うん。ねえ、今、時間あるかな?」

 少女はそう言って、小首をかしげた。仕草と雰囲気が妙に合っていて、頬が緩む。

「時間?」

「うん。良かったら、ご飯一緒に食べない?」

 思わぬ言葉に、優は目を瞬いた。

「ご飯?」

「そう。さっき助けてもらったし、お礼に!」

 優はじっと華を見つめた後、不思議そうに首を傾げた。

「ぼくが、助けた?」

「あれ? 戦闘時、桜井くんが突っ込んできたから私助かったんだけど、あれ、私を助ける為じゃなかったの?」

 優は記憶を振り返って、再び首を傾げた。よく覚えていない。勝手に身体が動いて、よくわからないままに全てが終わった。味方を見ている余裕などなかった。

「えっと、必死だったからよく覚えてなくて……ごめんね」

 申し訳なさそうに優が言うと、華は微かに残念そうな表情を浮かべた。

「うん。初陣だもんね。私も初めは周り見る余裕なかったよ」

 華がフォローするように両手を振る。

「それでね、お礼に夕食ご馳走したいんだけど、どうかな?」

 それは、優にとってありがたい誘いだった。友好的な誘いを断る理由などない。優は迷わず頷いた。

「じゃあ遠慮なくお願いします」

「本当? じゃ、こっち来て!」

 華が嬉しそうに駆け出す。その時、警報が鳴り響いた。

 華の足が止まる。優は何もない天井を見上げた。

「亡霊……?」

 自然と呟きが漏れた後、ポケットに入っていた端末からも激しいアラームが鳴り響いた。出撃命令。

「うそ。また?」

 華の困惑した声。

 優と華は顔を見合わせた後、同時に頷いて、出撃ゲージ目指して駆け出した。

 

◇◆◇

 

 亡霊対策室司令官、神条奈々は対ESPレーダーに映る無数の影を見て戦慄した。

「八九、九〇、九四……」

 上擦った解析オペレーターの声がぼんやりと耳に入る。

 通常、亡霊は一度襲撃を仕掛けてくれば、次の襲撃までに二、三日の空白期間があった。にも関わらず、今回は三時間前に迎撃したばかりであるにも関わらず、白流島から新たな亡霊が飛び出している。亡霊がこんな短時間で再び姿を見せた前例など存在しない。しかも、百を超える大群だ。

 まるで、と奈々は思った。まるで次の襲撃を待ちきれなかったようだ。そう考えて、すぐにそれを打ち消す。亡霊を擬人化し、人の行動特性に当てはめる事は危険だ。古来より人は理解できない事象に神や妖怪を結びつけ、表向きの納得と安心を得てきた。しかし、それは何も解決しないどころか、正しい知識や理解を得る為の障害にもなりうる。奈々は、そうした馬鹿げた理由付けをしたくなかった。「無知の知」と言う言葉が頭をよぎる。

 亡霊の活動には謎な部分が多い。その一つに戦力一定の法則と呼ばれるものがある。数が多い場合は個々の戦闘能力が低く、数が少なければそれを補うように個の力が強大となる。そういった経験的な法則を軍はいくつも分析してきたが、その理由や原因はいまだに判明しない。価値基準自体が人間と大きく異なるのだろう。戦略目的が不明な以上、亡霊の行動特性が絞り込めない。

 そうした中、唯一理解しうる可能性があるのは戦術・戦闘の分野だ。刹那的な亡霊の戦術は人間のそれと同様に見える。戦闘といった一点に絞れば、動物などを観察してもある程度の理解ができるのと同じだ。奈々の仕事はそうした理解できる部分から対応策を練り、迎撃することにある。亡霊の思想や考え方などは哲学者が考えればいい。

 奈々は余計な思考を振り払って、出撃メンバーの選択に取り組んだ。特殊戦術中隊は六つの小隊からなる。しかし、第五、第六小隊は休暇中で前線に送り込める状態ではない。第一、第二小隊も昼過ぎの戦闘による消耗が激しく、負傷者も多い為出撃は見送るべきだろう。ならば、スケジューリングを前倒しにし、第三、第四小隊を同時に選択するのが自然だ。

 しかし、と奈々は思った。手元にあった書類をチラりと見やる。唯一の男にして、先程の戦闘で驚くべき能力を見せ付けた桜井優。その腕を再び確認したい、と強く感じた。

 救世主。かつて、ESP能力者がはじめて実戦に投入された際、そう叫ばれた。残された最後の希望。しかし、現実は違った。ESP能力者である少女たちは非力で、臆病で、不安定な存在だった。多くの死者を出し、多額の資本を投入し、経験を重ね、そうやってやっと戦える、実用に耐えうる段階まで昇華した。そうした時代の流れを間近で見続けてきた奈々は救世主などいないことを知っていた。

 しかし、だからこそ、奈々は特異点を意識せざるをえないのだ。幾度も期待と失望を積み重ねてもなお、ずっと救世主を心の奥で望み続けている。

「第三、第四小隊……また、第一小隊第一分隊のみを投入する。なお、桜井優を当案件より第三分隊から第一分隊に異動せよ」

 電子オペレーターは少し驚いた顔をした後、急いで各個人端末へ通達を送った。その様子を背後で見ていた副官の加奈が咎めるように口を開いた。

「司令、あの、それは――」

「念の為、リソースは多く設定しているし、亡霊の個別能力は低いと予測される。彼の動きをもう一度確かめるにはちょうどいい」

 奈々の言葉に、加奈は渋々といった様子で頷いた。

「もしかしたら亡霊も司令と同じ考えなのかもしれませんね。優君の能力を再確認したいのではないでしょうか」

 奈々は何も答えなかった。代わりにコンソールを操作する。画面に映る膨大な亡霊の数を見て、ただ苦々しい顔をした。

 もしかしたら、今までの戦いは序章に過ぎなかったのかもしれない。ふと、そう思った。



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04話 佐藤詩織

「本当、凄かったよ! 機械翼の性能自体が違うんじゃないかと思ったくらいだし!」

「あんた、帰ってきてからその話ばっかり……」

「確かに、初陣にしては有り得ない動きだったよね。正直うちの隊長より強いんじゃない?」

 寮棟の廊下の隅で騒ぐ数人の会話を聞いて、第三小隊長、佐藤詩織(さとう しおり)は足を止めた。

 桜井優。

 史上初の男性ESP能力者。どうやら初陣で成功をおさめたらしい。

 男。

 その存在が詩織には別の世界のものであるかのように、遥か遠くに感じられた。

 ESP能力の発現に性差がある事は初期の段階から指摘されていた。それは年を追うごとに懐疑の必要すら感じさせない統計的事実として受け入れられ、ESP能力の発現原因を探る数少ない手がかりとなった。

 ESPエネルギーは生命エネルギーであり、生命の源である子宮で生成されるなどと言ったくだらない噂も流行った。染色体などに起因する先天的な能力であるとして一時期は活発な研究も行われた。

 故に、桜井優が発見された時、世間の目は男である点に注がれた。

 研究者も優に性的な欠陥がないか、性自認はどうなっているのか、遺伝的変異が見られないか、に重点をおいた。

 詩織もまた、優が男性であると言う点に注目せざるをえなかった。

 詩織は、軽度の男性恐怖症を患っていた。

 彼女が特殊戦術中隊に入隊した理由の大半はそれだった。男性恐怖症を患う彼女にとって、女性比が突出した特殊戦術中隊は最後の逃げ場だった。

 そうした経緯を持つ詩織にとって、桜井優の登場は好ましいものではない。

 故に彼が別の小隊に配属されたことと、優が詩織の思い描く一般的な男性像に合致しなかった事は唯一の救いと言える。整った中性的な顔立ちに、手入れの行き届いたさらさらと流れる琥珀色の髪。背が低く小柄なのも相まって、遠くから見れば少女のようにも見える。その容貌は男性恐怖症を患う詩織にとって、比較的抵抗感が少ないものと言えた。

 しかし、それでも桜井優が男であることに変わりない。できれば接触は避けたいが、純粋に戦力として期待ができるなら、そのうち小隊長格である詩織との接触回数は嫌でも増加するだろう。

 小さくため息を吐き、訓練室へと足を進める。

 その時、携帯端末から警報が鳴り響いた。

 今日二度目の警報。

 誤報かと思って、周囲を見渡す。

 廊下にいる中隊員も、困惑した様子を見せていた。

 司令部に問い合わせようかと迷った直後、端末が鳴る。

 個別の出撃命令だった。

 詩織は硬い表情を浮かべ、出撃準備室へと向かった。

 

◇◆◇

 

 出撃準備室の中、優は慣れない手付きで戦術飛行に利用する機械翼を装着していた。それが終わると機械翼の両翼端についた識別灯の点灯を確認し、兵装の点検に移る。

 手伝ってくれる人はいない。

 唯一の男性である優は他と区別されている。優は訓練を思い出しながら、兵装の点検を丁寧に終えた。

「異常ありません。準備完了しました」

『指示があるまで待機してて』

 出撃準備室の隅に設置されたカメラに向かって報告すると、奈々の命令が返ってくる。

 騒音とともに、ハッチが開き始める。

 その向こうに広がる夜空に優は息を呑んだ。

 夜間飛行の訓練は片手で数えるほどしか実施していない。正直に言えば不安だった。

『第四小隊出撃完了。出撃カウント開始。二十、十九……』

 解析オペレーターの言葉に合わせ、機械翼に動力源であるESPエネルギーを送る。

 機械翼が展開し、横に大きく広がった。

 腰を落とし、飛行準備態勢を取る。

『八、七……』

 深く息を吸って、吐き出す。不安はあるが迷いはない。

『三、二、一、出撃!』

 一拍おいて、優は地を蹴った。

 同時に機械翼が翡翠の光を纏い、輝きを放つ。

 重力から解き放たれ、優は勢いよく夜空に舞い上がっていった。

 秋の夜風が少し肌寒い。

 前方には光の群れ。

 衝突を防ぐために機械翼の両端に取り付けられた夜間飛行用の識別灯だ。

 更に小隊長格や分隊長格はサインを出す為、指揮灯と呼ばれる腕輪を装備している。

『速度、高度ともに問題なし。そのまま方位を維持しなさい。衝突だけはしないように注意してね』

 奈々の言葉に優は前後の距離を確かめた。問題ない。

 ふと空を見上げると、遥か高高度を維持する警戒機の光が見えた。警戒機は大型レーダーを積み、中隊の目や耳となる重要な存在だ。

 そして、眼下には護衛艦「みなみ」が探照灯で暗い海原を照らし出している。護衛艦「みなみ」の明かりは、何も見えない海上で高度を掴むのに重要な役割を果たしていた。

 そのまま優たちは隊列を乱さず夜空を飛び続けた。何もない夜空を飛び続けると時間間隔が麻痺していく奇妙な感覚に襲われた。一時間近く飛んだ気がした頃には、流石に緊張感や不安感が薄れてきた。訓練で教わったことを一つ一つ丁寧に、冷静に思いだし、整理する。何も不安に思うことはない。ただいつも通りにやるだけだ。

『衝突予測点まで後五分。各員、兵装確認』

 奈々の言葉に、全員が一斉に小銃や連結ベルトの状態を確認する。優もその例にもれず、淡々と規定通りの確認を行った。

『数は向こうの方が上よ。相手は大きく横に広がってる。呑まれないように細心の注意を払って』

 夜空の彼方に敵影が見える。

 闇夜の中、不気味に紫色の光を放つ姿は、亡霊という名に相応しいものだった。

『構え。距離一〇〇〇……』

 小銃を持つ手に汗が滲む。

 しかし、不思議と頭の中は冷静で冴えていた。

 恐怖はない。意識を集中させ、奈々のカウントに耳を傾ける。

『もう少し……まだ……撃てッ!』

 奈々の命令と同時に引き金を引く。

 次の瞬間、辺り一帯の大気が膨らんだ気がした。

 轟音が轟き、空間が震える。

 一斉射撃された凄まじいESPエネルギーの奔流が亡霊たちに向かって雪崩れ込んだ。

 ESPエネルギーの波から逃れようと亡霊が散開を始める。

 しかし、間に合わない。

 中央部の逃げ遅れた亡霊が巨大なESPエネルギーの波に呑まれて消し飛ぶのが肉眼でも分かった。だが、相手は百を越える大群であり、依然として速度を緩める気配はない。

『第二射用意!』

 慌ててESPエネルギーを小銃に装填する。

 その間にも亡霊たちは恐るべき速度で距離を詰めてくる。

『撃てッ!』

 周囲の空気が膨張するかのような錯覚とともに、再び膨大なエネルギーが放出される。

 それは最早、射撃ではなく砲撃と呼ぶに相応しいものだった。

 しかし、亡霊群が回避行動をとる様子はない。

『後退ッ! 後退しなさい!』

 奈々の命令とともに、やや前方の上空にいた華が小さな指揮灯をつけた右手を振り、単純後退を命じた。それに合わせて一斉に第一分隊が後退を始める。

 優はその時、先程放たれた第二射が亡霊の群れに風穴を空けるのを見た。

 しかし、亡霊群は止まらない。

 群れに風穴を空けられながらも、亡霊は死を恐れずに向かってくる。

 背筋を冷たいものが這った。

『散開ッ!』

 亡霊の群れから紫色に光る小さな弾が高速で飛び出した。

 ESPエネルギーを凝縮した弾丸だ。当たればただではすまない。

 悲鳴があがり、隊列が僅かに乱れる。

 混乱が広がる中、最前列に位置する華が散発的な攻撃を命じる合図を送ったのが見えて、優は引き金に指をかけた。

『両翼が呑まれかけてるッ。中央部は後退しなさい!』

 亡霊との相対距離が五十メートルを切る。

 隊列が大幅に乱れ始め、秩序だった攻撃が難しくなり始めるのが分かった。

 新たな判断を仰ごうと華に目を向けるも、いまだに散発的な攻撃命令が解かれる様子はない。優は前方に迫りくる亡霊に向かって銃撃を加え続けた。

『敵両翼が中央部に殺到しているッ! 中央は更に下がりなさい!』

 奈々の言葉に、中央部に位置する優は牽制を諦めて更に後退を始めた。

 視界に映る亡霊の数が加速度的に増えていく。

 まずい。

 そう考えて、距離を離そうと機械翼の出力を高める。

 しかし、手遅れなのだとすぐに悟った。

 亡霊群が優の位置する中央部に深く切り込み、優目指して直線的に距離を詰めてくる。

「――――ッ!」

 狙われている。

 そう直感し、優は考えるより先に高度を上げた。

 安易に速度を稼ぐために、高度を落とすべきではない。空戦は上を取った方が有利だという直感に従ってひたすら上を目指す。

「桜井くん!」

 機械翼の駆動音に紛れて、通信機から華の声が届いた。

 しかし、振り返る余裕はない。

 ぐんぐん高度を上げながら下方から迫り来る亡霊に小銃を向け、引き金を絞る。

 刹那、亡霊の顔面部分が弾け飛び残った胴体部がゆっくりと眼下の海へ落下していった。

 血は、出なかった。

 千切れていく亡霊の身体の向こうから新たに数十体の亡霊が接近してくるのが見えた。

 迫りくる亡霊を振り払う事に集中し、機械翼へのESPエネルギーの供給量を増大させる。

 夜風が耳元で轟音を立て、通信機の向こうから届く誰かの声を掻き消していく。急加速のせいか、酷い頭痛がした。

 チラリと、後ろを振り返る。

 数十体の亡霊が後ろに張り付いているのが見えた。

 完全に振り払う事は難しいかもしれない。

 そう考えて、旋回際に背後へ何発かの銃撃を加える。

 その全てが亡霊に着弾するのが視界の隅に映った。射撃訓練の時とは比べ物にならない命中率に微かな驚きを覚えながら、何度も銃撃を加える。

 不思議な感覚だった。

 まだ二回目の実戦であるにも関わらず、次にどう動けば良いのか、どこを狙えば良いのか直観的に掴む事ができた。

 頭の中は冷え切っていて、恐怖や混乱はない。

 優は何度も旋回を繰り返しながら、亡霊に銃撃を加え続けた。

 何度目かの旋回を開始した時、不意に激痛が全身に走った。

 口から苦悶の呻き声が漏れる。

 視界に、鮮血が撒き散らされる。

 それで、被弾した事を悟った。

 全身から急速に力が抜け落ち、ESPエネルギーのコントロールが困難になり、身体がきりもみする。

 それでも、恐怖は覚えなかった。

『華ッ! 援護を!』

 奈々の悲鳴じみた声とともに優は鮮血を撒き散らせながら、漆黒の海に向かってゆっくりと落下を始めた。

 その時、下方から迫りくる亡霊と目が合う。

 血のような、真っ赤な双眸。

 優は最後の力を振り絞って、小銃を亡霊に向けた。

 銃声が響く。

 それを最後に、桜井優は意識を失った。



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05話 黒木舞

 神条奈々は、ディスプレイに映った中継映像を呆然と眺めた。

 夜空を背景に鮮やかな紅い華を散らせながら、空を舞う少年。

 それが緩やかに、美しく弧を描き、落下が始まる。

『桜井君っ!』

 誰かの叫び声。同時に悲鳴があがる。

 奈々は我に返って、最も優に近い篠原華に願いを託した。

「華ッ! 援護を!」

 同時に亡霊の反応を示したマップ情報を見て愕然とする。

 先程まで大きく横に広がっていた亡霊群が、今は一つの点を目指して急速に密集し始めていた。亡霊群が向かう先には血に染まりながら落下する桜井優の姿。

「――なに、これ」

 奈々の口から、ぽつりと言葉が零れた。

 未だ七十以上の数を誇る全ての亡霊が、墜落する桜井優ただ一人に向かって殺到し始めていた。まるで、桜井優以外の中隊員が目に入っていないようだった、

 六年にも渡り亡霊との戦闘を見守っていた奈々でも、亡霊がここまで集中的に一人を狙ったケースは見た事も聞いた事もなかった。

 あまりにも不可解な亡霊の行動に、次の命令が出せない。

 その間にも、桜井優を目指すように一団となった亡霊の群れが特殊戦術中隊の隊列に大きく切り込みを入れ、空いた穴から亡霊が次々突破していく。

 完全に浸透を果たした亡霊を見て、奈々は弾かれたように叫んだ。

「浸透を許すなッ! 近接遅滞戦闘用意!」

 奈々の命令を受けて、中隊が亡霊を抑えようと密集隊形をとる。

 しかし、それでも亡霊群の突撃を抑えきれず、隊列が大きく崩れ始めた。両翼のフォローも間に合いそうにない。

 奈々はすぐに悟った。もはや崩壊は避けられない。

「華! 優くんを!」

 奈々が叫ぶより先に、華が落下する優を守るように上空から殺到する亡霊の間に割り込んだ。華の振り下ろした銃剣が亡霊の頭を吹き飛ばす。

 続く銃撃で後ろに続いていた二体の亡霊が吹き飛んだ。しかし、その後から更に数体の亡霊が飛び出す。到底抑えきれる量ではない。

「第三小隊! 回収用意ッ!」

 落下するであろう桜井優は、周囲に亡霊が多すぎて哨戒ヘリでは回収出来ない。第三小隊に回収指示を出す。

 その間に、華のもとへ四体の亡霊が迫った。

『ハナっち!』

 ハスキーな声とともに華の前に一つの影が飛び出し、同時に亡霊の首が弾け飛ぶ。

 ――第四小隊長、黒木舞(くろき まい)。

 全中隊において、最も近接戦闘に秀でた小隊長。彼女の真価は乱戦において発揮される。

『早く、新人君を拾いに行って!』

 銃剣を構えた舞が叫ぶ。

 華は自由落下する桜井優を目指し、急降下を始めた。反対に舞は上空から迫る亡霊に向かって高度をあげていく。

『桜井くん!』

 華の手が、落下する優の腕をしっかりと掴む。彼女はそのまま優を抱き寄せ、しっかりと背中に腕を回した。しかし、優はぐったりとして華の身体に抱きつく様子を見せない。

 哨戒ヘリが送ってくる映像越しにその光景を見た奈々は、反射的に問いかけた。

「意識は?」

『あります。でも、血が止まらなくて!』

 華が金切り声をあげる。

 多量の出血を前に、恐慌状態に陥っているようだった。

「すぐに哨戒ヘリを回す。止血して!」

 本部へ映像中継を行っている哨戒ヘリには医療班と医療機材が用意されている。

 奈々が哨戒ヘリに命令を与えようとした時、それまで防波堤の役割を果たしていた舞が遂に亡霊を抑えきれずに、次々と突破されるのが見えた。

 華は優を抱えている為、戦闘できるような状態ではない。

 奈々はすぐに、マップ情報に目を向けた。すぐに援護できる位置には、誰もいない。

『――たすけて』

 通信機の向こうで、華がそう呟いた気がした。

 

◇◆◇

 

 桜井優は既に正常な五感を得ていなかった。

 わき腹からの出血はもはや致命的な量に達し、感覚は麻痺し、痛みすら感じなくなっている。視覚も霧がかかったようで、ぼんやりと白濁した景色しか見えない。

 このまま死ぬのだろう。そう、漠然と思った。

 何故、こんな痛い思いをして戦っているのだろう。

 きっかけがあった気がする。

 でも、思い出せない。

 大事な事を忘れたまま死ぬのは嫌だな、とぼんやりと思う。

 その時、意識の彼方から声が聞こえた。

『ちゃんと良い子にしててね』

 酷く懐かしい声。

 暖かく、柔らかなこの声は、果たして誰の声だっただろうか。

 遠い昔に何度も何度も聞いた事がある気がする。

『すぐ帰るから』

 あぁ、そうだ。この人は――

 何故、こんな時に嫌な記憶を思い出すのだろう。

『そう、約束。じゃあ――行くね』

 約束。

 遠いあの日に、あの人はそう言った。

 結局、その約束が達成される事はなかったけれど、今でもその約束が忘れられない。

 できれば、最期に会いたかったな、と思う。唯一の心残りだった。

 意識が闇に沈んでいく。

 今のが走馬灯というものだったのかもしれない、と混濁する思考の中で思った。

 その時、遥か彼方から何かが聞こえた。

 誰かが傷ついた音。

 止めないと、と思った。

 それが与えられた唯一の存在意義のはずだった。

 意識が浮上を始める。

 暖かかった。

 誰かに強く抱き締められている気がした。

『助けて――』

 意識が覚醒する。

 恐怖に震える華の顔がぼんやりと視界に映った。

 戦わなくちゃ。

 そう思うも、手元に小銃はなかった。落下中になくしてしまったらしい。

 でも、問題ないと思った。戦い方は知っている。

 優は血で赤く染まった右手を空にかざした。

 暖かなものが体を包み込む。震える華の頬を左手で優しく撫でると、華は驚いたように肩を一瞬大きく震わせた。直後、華の震えがとまる。それを見て優は屈託なく微笑んだ。

 右手に光の粒子が収束する。次の瞬間、それは何の前触れもなく爆発した。光の衝撃が闇夜を吹き飛ばす。

 それは指向性を持たず、球を描くように膨張していった。

 昼夜が逆転したかのように、周囲をESPエネルギーが発する光が満たしていく。

 衝撃と轟音が、周囲を包む。

 荒れ狂うエネルギーの奔流に揉まれ、優は華の腕の中から宙に放り投げられた。どうやら、華は気を失っているようだった。二人はバラバラに仄暗い海を目指して頭から落下を始める。

 まずい。そう思うも力が入らない。優は薄れゆく意識の中、誰かに足を掴まれるのを感じ、そのまま意識を手放した。

 

◇◆◇

 

 奈々は中継映像を呆然と見詰める事しかできなかった。

 瀕死の桜井優が放ったESPエネルギーの波が、その周囲に群がっていた亡霊群を跡形もなく消し去っていく。

「モニタ!」

 奈々は反射的に、電子オペレーターたちに向かって叫んだ。

 解析オペレーターたちが弾き出された数値群を素早く処理し、その影響範囲を記録していく。

 それから、落下を続ける桜井優と篠原華に気付いて、通信機に向かって命令を飛ばす。

「詩織! 二人を拾って!」

 命令通り、第三小隊長の詩織が急降下を始める。数秒後、詩織が華と優を無事に拾いあげたのを見て、奈々はほっと胸を撫で下ろした。

 続いて、中継映像を通して相当な怪我をしているように見えた第四小隊長、舞の様子を確認する。

「舞、傷は?」

「ちょっとヤバいかな……」

「綾、舞を連れていって」

 慌ただしく負傷者の搬送が始まった。電子オペレーターと解析オペレーターが先程の優が放ったESPエネルギーの暫定的な解析結果を弾き出し、騒ぎ始める。

 奈々は椅子に深く腰かけ、安堵の息をついた。

 背もたれにもたれかかり、静かに目を瞑る。

 瞼の裏に優の放った最後の光が浮かんだ。

 夜空を照らす暖かな光。

 それはまるで、地上に舞い降りた神のようだった。

 彼は本当に救世主なのかもしれない。

 ゆっくりと瞼を開き、奈々は凛とした声で宣言した。

「負傷者十六名。死者〇名。七十二名全員の生存を確認。これより帰投しなさい」



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06話 佐藤詩織(2)

 桜井優は消毒液の匂いで目を覚ました。

 重い瞼を開くと、見慣れない白い天井がぼんやりと視界に入ってくる。カーテンが閉められているらしく、かなり薄暗い。

 身を起こそうとすると強い目眩を感じた。身体が酷くだるい。それに、わき腹が強く痛む。体調は最悪だった。

 しかも軽い失見当識を起こしてるようで、いまいち状況が掴めない。目線を落とすと、身体中に包帯が巻かれているのが見えた。酷い怪我をしてるらしい。

 なら、ここは病院だろうか。そう思って辺りを見渡すと、人影があることに気付いた。

「篠原さん……?」

 壁際に備え付けられたソファに、一人の少女が眠っている。

 疑問に思うも、少し嬉しかった。どうやら、心配してくれたようだ。篠原華とは友好的な関係を築けたという証拠。

 痛む身体に鞭を打って、ベッドからフラフラと立ち上がる。スリッパが見当たらなくて、床についた素足が冷んやりとしたが気にはならなかった。目眩を我慢し、窓際へと向かう。

 サッ、とカーテンを開けると、爽やかな日差しが部屋を満たした。小さく背伸びをしようとしたが、わき腹の痛みに耐えかねて断念する。

「……ぅ……んっ…………」

 背後で可愛いうめき声が響き、優は申し訳なさそうに振り向いた。

「ごめん、起こしたかな」

「桜井……くん……?」

 ぼんやりとこちらを向いた華は、徐々に驚愕の色を瞳に宿し、急にソファから立ち上がった。

「わ、私先生呼んでくる!」

 そう言って、彼女は慌ただしく外に出ていった。優はキョトン、とその後ろ姿を見送った。

 

◇◆◇

 

 医者の話によれば肋骨にひびが入り、出血も酷く、三日間意識が戻らなかったらしい。それを聞いて、華の慌てぶりに納得がいった。彼女は三日間、ずっと付き添ってくれていたらしい。随分と負担をかけてしまったようだった。

 暫くは安静にしなければならなかったが、最先端の医療用ナノマシンによる治療で、優はすぐに元気になっていった。非常に高価な技術であると聞いていた為、医療費を請求されればどうしようか、医療保険は効くのだろうか、などとビクビクしていたが、全てを亡霊対策室が負担してくれるらしく、安堵の息をついた。

 六日後、優は無事治療を終え、すぐに通常の生活に戻れるようになった。

 しかし、医務室で過ごす最期の日、思わぬ来客があった。

 ノックの音に、読んでいた漫画を横におく。

 てっきり華が入ってくるのだろう、と思っていたが、ドアから姿を現したのはシャギーの入ったセミロングの黒い髪に、鼻筋の通った、凛とした雰囲気を持つ少女だった。白のブラウスに、ふわりとしたフレアスカートがよく似合っている。

「あー……えーと……」

 名前が出てこない。優は気まずそうに少女を見つめて目を泳がせた。

 それを見た少女が慌てたように助け船を出す。

「第三小隊長の佐藤詩織です」

 正直、まるで覚えがなかった。返す言葉が見つからない。

 気まずい沈黙が到来するのを予感して、優は適当に口を動かした。

「……えっと……久しぶり……?」

 誠意の欠片もない言葉を放ってから、凄まじい後悔が襲ってきた。

 詩織は困ったように笑みを零す。

「あ、やっぱり、はじめましてだよね? ごめん、記憶力なくって」

 再び沈黙が落ちそうになり、慌てて言葉を重ねる。少女は言葉を選ぶように目線を泳がせながら、口を開いた。

「……ちゃんと挨拶したことないから、はじめましてで良いと思います」

「そっか。そういえば、そんな気がするかも」

 再び訳の分からない言葉が飛び出す。

 何だこの空気、と優は落ち着きなく、少女を見やった。

 詩織もそわそわした様子で、一向に目を合わせようとはしない。見た目はしっかりした感じだが、どうやら中身はそうでもないらしいようだった。

 一瞬、嫌われてるのかな、と思うも訪ねてきたのは向こうだ。一体この少女は何をしに来たのだろう、と首を傾げる。

「えっと、良かったからこれ食べる……?」

 沈黙に耐えきれず、優は棚の上に置いてあったプリンを手にとった。会話の流れが優自身わけがわからなかったが、沈黙よりはましだと思った。

「神条司令官から貰った結構有名な店のものらしいんだけど、食べきれなくって。あ、嫌なら無理にとは……」

「ぁ……えっと、いただきます」

 優はプリンの上に使い捨てのスプーンをのせ、手渡した。おずおずと手を出した詩織は、受け取った瞬間、びくりと肩を震わせた。

 やっぱり嫌われているのだろうか。そう思うも、嫌われるようなことをした覚えが全くない。何せ、向こうの言い分では今日会ったばかりなのだ。

 疑問に思いながら、優は自分用のプリンを手にとった。こちらも食べないと、詩織が食べづらいだろう、と気を遣った結果だ。

 座ったらどうかな、と勧めると、詩織はようやく来客用の椅子に腰掛けた。

「ルーライズって知ってる?」

 食べながら問いかける。

「ルー……ライズ……ですか?」

「うん。洋菓子の専門店なんだけど、かなりおすすめ。このプリンの五倍おいしいかな」

「……甘党なんですか?」

「将来、糖尿病になりそうなくらい」

 少し会話が繋がり、優は微笑んだ。

「……男の人って、そういうの駄目なんだと思ってました」

「確かにダメな人は多いね。僕がまだ子どもだから大丈夫なのかも」

 食べる、という動作が会話を副次的な要素に追いやり、少し緊張がほぐれたのだろうか。今まで受け身だった詩織がぽつぽつと話すようになった。

「前に私が怪我した時、神条さん、これと同じプリン持ってきたんです。皆に配ってるのかな」

「神条司令の親戚さんがやってるお店のものらしいよ。商売上手だよね」

 そう言って、二人して苦笑する。

 その時、詩織の個人端末から小さなアラームが鳴った。訓練の知らせだ。詩織が慌てて立ち上がる。

「あ、あのっ」

「ん?」

「プリンありがとうございましたっ!」

「どういたしまして。いってらっしゃい」

 気を付けてね。そう付け加えると、詩織は大袈裟な動作で頷き、慌ただしく部屋を出ていった。

 部屋に静寂が戻る。

「……結局何だったんだろう」

 もしかしたら、他に用はなく、ただお見舞いにきてくれただけだったのかもしれない。

 何故かどっと疲れた。優はそのままベッドに倒れこんだ。

 

◇◆◇

 

 佐藤詩織は医務室から飛び出すと、近くの壁にもたれかかった。

 全身が不自然に熱い。恐らく、自分は今耳まで真っ赤になっていることだろう。

 深呼吸して、気分を落ち着かせる。

 先の戦いで落下する優を最後に拾った時、不思議と拒否反応が出なかった。もしかしたら、と思って試しに来たのだが、会った瞬間頭が真っ白になってしまった。

 やはり、あれは命がかかった特殊な状況に起因していたのだろう。自分の男性恐怖症はまだ治っていない。

 普段から男性と一切関わり合いを持たない詩織にとって、優との会話は新鮮なものだった。異様に緊張して身体が固くなってしまったが、嫌悪感は感じなかった。少しずつマシにはなっているのかもしれない。

 ただ、それは恐らく優の容姿のせいでもあるだろう。はじめて間近で見た優は想像以上に小柄で、触れれば壊れてしまうんじゃないかと危惧してしまうような儚さがあった。

 たぶん、あれは年下趣味の人からしたら理想の相手ではないだろうか。整ったまだ幼い顔つきは優しく、性を感じさせない。無邪気な子どもという風だった。

 思い出すと、再び顔が熱くなってくる。

 詩織は妙な思考を追い払おうと顔を振り、誤魔化すように訓練室目指して駆け出した。



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07話 黒木舞(2)

 午前十一時。亡霊対策室中枢エリアの廊下。

 療養から復帰して一日経過し、優は入隊後の初級訓練カリキュラムを消化する為に第二特別室に向かっていた。

「ここでの生活はもう慣れたか?」

 隣を歩く斎藤準(さいとう じゅん)が言う。優の知り合いの中では唯一の男性で、奈々の個人的な知り合いでもあるらしく、入隊当初から本部内の案内をして貰っていた。まだ本部内の構造が良く分かっていない為、今もこうして案内をして貰っている。男性の知り合いを作りづらい環境であった為、奈々が準を案内役として紹介してくれた事に内心感謝していた。

「はい。ようやく慣れてきた感じです。でも、まだ友達とか少なくって、まだまだかも」

「やっぱり、やりづらいだろ? 学生時代の友人に元女子高に入った奴がいたんだが、肩身が狭いと嘆いていたよ」

「ええ。何と言うか、場違いな気がしますね。一番困るのは男子トイレが寮棟にないことです」

 準は小さく吹き出した。

「そりゃそうだ。ただ、桜井なら女子トイレに入っても誰も気づかないかもしれん」

「それ、どういう意味ですか。チビってことですか」

 準の言葉に、優は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「そのままの意味だよ。さて、着いた」

 準が足を止める。第二特別室と書かれたプレートと、横開きの白い扉があった。

「頑張ってこい」

「はい。案内、ありがとうございました」

 頭を下げる。次いで扉に手をかけると、音もなく扉がスーと開いた。中にいた数人の少女から視線を向けられる。

「あ、桜井くん、入って入って!」

 その中の一人、篠原華が声をあげる。知り合いがいた事にホッとして、優は第二特別室の中に足を進めた。

 特別室は大学の講義室のように前方に大きな黒板があり、その前に長机が並べられてる。部屋の中には二十人ちょっとの女の子がいて、三から五人ほどのグループに分かれて疎らに座っていた。

「適当なところに座って」

 華が言う。どこに座ろうかと優が部屋を見渡した時、部屋の前方に座っていた一人の少女が後ろの空いてる席を叩いた。

「ここ座ったら? 適当にって言われても困るでしょ」

 優は頷いて、示された席に向かった。その間、部屋中の視線が集中して、僅かに居心地の悪い思いをした。

 優が席についた瞬間、前方の少女が身を乗り出し、口を開いた。

「私、長谷川京子。よろしく! あんたと同じ第一小隊の、ってか、ここにいるの皆第一小隊の子だけどさ」

 そう言って、京子と名乗った少女は自身の隣にいる大人しそうな少女を指差した。

「こっちは宮城愛。ちょっと無愛想だけど、悪い子じゃないから」

 愛と紹介された少女が振り向く。

「……よろしく」

 抑揚のない声でそう言った後、愛はすぐに前方に向き直った。

「ね? 無愛想だけど、誰にでもこんな感じだから気にしないで」

 京子が笑いながらそう言う。隣の愛は何も言わなかった。対象的な二人の様子に思わず優はクスりと笑みを零した。

「よろしくね。えっと、長谷川さんと宮城さん」

「はい、お喋りストップ! 説明始めるよ!」

 黒板の前に立つ華が声をあげる。京子は仕方がないといった様子で前に向き直った。

「入隊して十日間は専門の教育部隊の人が色々と教えてくれたと思いますが、それ以降は各小隊で細かなケアをする事になってます。それで、小隊長の私が実戦の細かな注意とかすることにしました。対象は桜井くんと柚子ちゃんだけなんだけど、この教室で二人だけってのは寂しいから、交流を兼ねて暇な人に来ていただきました。何か分からない事とかあれば、私だけじゃなく、周りの人にも遠慮なく聞いてください」

 華はそう言って、黒板の方にクルリと向き直った。チョークの音と共に、黒板に何か書き始める。

「まず最初は集団飛行! 戦闘は一人では出来ません。強大な亡霊群の前には一人一人の細かな飛行技能なんて意味を成さないのです! よって指示された隊列を乱さず、維持する事が最も大切です。その為には――」

 華が説明を始める。その多くは入隊直後に教育部隊の人から教えてもらった事の復習に近いものだったが、実戦的な視点から語られるそれは無駄のないものだった。優は実戦での事を思い出しながら、華の話に真剣に耳を傾けた。

 

「――つまり、空戦機動とは何かと言うと運動エネルギーと位置エネルギーの変換であり、このエネルギー変換に対する長期的なプランが戦闘に大きな影響を与えるのです。加えて、私達はESPエネルギーの残量とそのコストを考えていかなければいけない。飛行訓練の時には是非この話を思い出して訓練してほしい、と思う次第です。えっと、えっと、次は――」

「……華、時間」

 話の区切りがついたところで、優の斜め前に座っていた宮城愛が声をあげた。あまり大きな声ではなかったが、よく通る声だった。華が室内の壁にかけられた時計に目をやり、しまった、という顔をする。

「わっ、もうこんな時間……。じゃあ、今日はここまで。続きは明日、ここと同じ場所で。桜井くんと柚子ちゃん以外も暇な人は来てね!」

 華の言葉が終わると同時に、室内が騒がしくなる。いつの間にか机に突っ伏していた京子が顔をあげ、大きく欠伸した。そこに黒板の文字を消し終えた華が駆け寄ってくる。

「ちょっと京子、堂々と寝すぎだよ」

「だって私、この話何回も聞いてるし」

 京子があっけらかんと言う。華は困ったような笑みを浮かべて優に視線を移した。

「桜井くんは京子みたいにならないでね」

「がんばります」

 優はそう言って頷いた。

 喧騒の中、京子の横に座っていた愛が立ちあがる。

「……そろそろ合同訓練の時間。早く行かないと遅刻する」

「だね。さっさと行こうよ」

 京子が立ちあがる。次いで、優の方を見やった。

「桜井も一緒に来なよ。場所、わからないでしょ?」

「うん。案内してもらえると凄い助かるかな」

「オッケー」

 京子が戸口に向かう。その後に愛が続き、最後に華と優が続いた。

「最後にここ出る人、鍵閉めて後で私に渡してね!」

 第二訓練室を出る際、華が室内に残った女の子たちに向かって声を張り上げた。中からそれに了承する返事が疎らに返ってくる。

「小隊長って大変そうだね」

 優が思った事をそのまま口にすると、華は小さくはにかんだ。

「確かに大変だけど、信頼されてるって事だからちゃんと応えないとね。責任は果たさないと」

 同い年には思えないほどしっかりとした答えが返ってきた為、優は思わず華の顔をまじまじと見つめた。

「篠原さんはここに来て結構長いの?」

「もう三年目だよ。それと数ヶ月かな」

 と言う事は、十三歳の頃から亡霊と戦っていた事になる。

「ここに来た時は不安で一杯だったけど、周りが良い人ばかりだったからすぐ慣れちゃった。桜井くんもすぐ慣れるよ」

 華はそう言って笑みを浮かべた。釣られて頬が緩む。

「そうなれるように努力します。篠原小隊長殿」

 ふと視線を華から前方に移すと、京子が足を止めてこちらを急かすように手招きしているのが見えた。その横に立つ愛も無言で優たちが追いつくのを待っている。それを見て、優はこれから先も亡霊対策室で何とか上手くやっていける気がした。

 

 次の日。

 優は野外に設置された第一訓練場の中を走っていた。

 訓練場と言っても、特別な訓練施設がある訳ではない。ちょっとした平地に壮大な原っぱが広がっているだけだ。本来なら大規模飛行訓練に利用する訓練場らしいが、今日は基礎体力訓練の為に使われていた。

 寒空の下、原っぱに複数の足音と荒い息遣いが静かに響く。

 優は背中に機械翼を広げ、両手で小銃を構えて原っぱの上を走り続けていた。その前後には優と同様に機械翼や小銃、通信機などを装備した少女たちが黙々と走り続けている。特殊戦術中隊の基礎体力の向上を目的としたランニングだ。陸上自衛軍ほどの厳しい訓練ではないが、特に優は男性であるという理由で他よりも厳しいノルマが課せられている。優は体力の配分に注意を払いながら、原っぱの上を走り続けた。

 背中に装着した機械翼がずっしりと圧し掛かってくる上に、両手に持つ小銃のせいで腕がだるくなってきていた。中学の時にテニスをやっていた為、体力にはそこそこ自信があったのだが、予想以上に厳しい訓練だった。

『後五分』

 通信機から奈々の感情の籠らない声が届く。

 荒い息を吐きながら、酷い筋肉痛になりそうだなぁ、とぼんやりと考えていた時、後ろから声がかけられた。

「君、入ったばかりにしては結構体力あるね」

 振り返ると、長い黒髪が印象的な長身の女性が走っていた。大人じみた造形をしているが、親しみやすい笑みを浮かべている為、それほど歳が離れているようには見えなかった。

「えっと……」

 優が困ったような表情を浮かべると、女性はクスりと笑った。

「ボクは第四小隊長の黒木舞(くろき まい)。君、新しく入った子だよね」

「はい。第一小隊に配属されました」

 走りながら答える。ボク、という一人称に違和感を覚えたが、一定の速度を保つために気にしている暇がなかった。

「名前、何だっけ?」

「桜井優です」

「ユウくんか。呼びやすいな」

 いきなり名前で呼ばれ、優は僅かに眉を寄せた。距離を感じさせない話し方だ。悪く言えば、馴れ馴れしい印象を受ける。新入隊員を気遣ってくれてるのかな、と優は舞の態度を好意的に受け取った。

『舞、マイクの電源を切り忘れているようだけど……』

 通信機の向こうから奈々の声。舞はギョッとした様子で慌ててマイクを切った。

「やっば……これ、よくやっちゃうんだよね」

 慌てた様子で奈々のいる本部の方を振り返る舞の姿がおかしくて、優はクスクスと笑った。大人びた外見とは裏腹にどこか子どもっぽい人だと感じた。

 それから、優は舞と小声で会話を交わしながら残りの時間を潰した。舞は優の一つ上で、今年で十七歳らしい。

「もう少し年上かと思ってました」

 素直にそう言うと、舞は目を何度か瞬いて、次に意地の悪い笑みを浮かべた。

「逆にボクは君の事、もっと年下かと思ってたよ」

 優は何も言わず、じっと舞を睨みつけた。舞が笑う。

「良くて十四歳くらいにしか見えないかな。ユウ君、一四〇センチくらいしかないでしょ?」

「一四五センチです」

 不機嫌そうにそう言うと、舞は再び笑った。

「ごめん、ごめん。もしかして結構気にしてた?」

「気にしてません!」

 そう断言した時、警笛の高い音が鳴り響いた。次いで、通信機から奈々の声が届く。

『訓練はここまで。突然止まらない事。各自、身体を解してから各小隊ごとに点呼をとって』

 どうやら終わりのようだった。優は小銃を投げ捨て、その場に倒れ込んだ。背中の機械翼が重い。しかし、取り外す作業が非常に面倒である為、優は機械翼の存在を無視する事にした。

「はぁ、ようやく終わった。ボク、点呼取らないといけないから行くね」

 舞が乱れた息を整えながら言う。優は原っぱの上に座り込みながら舞を見上げた。

「はい。お疲れ様でした」

「じゃあね!」

 舞が背を向けて本部の方に歩いていく。優は足首を何度かマッサージした後、ゆっくりと立ちあがった。まだ息があがっていたが、いつまでも休んでいられない。第一訓練場の本部側に向かい、第一小隊が集まっている場所を探した。数か所に分かれて人が集まっていたが、どれが第一小隊の輪なのかよくわからなかった。

「桜井、こっちこっち」

 京子の声。優はすぐに京子の姿を見つけ、傍に駆け寄った。

「あ、桜井くんも来たね。各分隊で欠員いない? 大丈夫?」

 中心に立っていた華が周囲を見渡しながら声をあげる。数人の少女が、大丈夫、と言葉を返した。

「よし、じゃあ解散!」

 華が宣言した途端に周囲が騒がしくなる。シャワーを浴びに本部へ戻ろうとした時、京子に呼び止められた。

「桜井、最後までペース落ちなかったね。何かスポーツやってたの?」

「軟式テニスを少しだけ」

 ふくらはぎを片手で揉みながら答えると、京子は小さく笑みを零した。

「ロブ打たれたら終わりじゃないの?」

「……似たようなこと、黒木さんにも言われたよ」

 多少不機嫌そうに答えると京子は、やっぱりね、と言った。

「体重どれくらい?」

「四十」

「うわ、反則じゃない、それ?」

 京子が呻く。優はクスりと笑った。

「今日みたいなランニングって今までやった記憶ないんだけど、毎週あるの?」

「週一かな。今は地上戦とか殆どやらないから、最低限しかやってないよ。射撃訓練と飛行訓練の方が大事だしね」

 基礎体力訓練を軽視しているというよりも、実戦重視という印象が強い。優は頷いて、足首を軽く回した。疲労が溜まって奇妙な脱力感が抜けない。

「京子、私先に帰ってる」

 横から宮城愛の声。振り返ると、相変わらず無表情な愛と目があった。

「あいあい。お疲れ様」

 京子が言う。優も、お疲れ様、と短く言葉を返した。愛は一度だけ小さく頷いて、本部に戻っていった。それを見送ってから、京子が大きく背伸びした。

「私もそろそろ戻ろっかな。シャワー浴びたいし」

 そう言ってから、京子が訓練服の首元ををパタパタと煽ぐ。

「だね。僕も戻るよ」

 優も賛同し、背中に担いだ機械翼を外す為に大きく身体を捻った。それを見ていた京子が口を開く。

「外してあげよっか?」

「うーん、じゃあお願い」

 一瞬だけ迷った後、優は素直に京子に背中を向けた。

「オッケー。じっとしててね」

 カチャカチャと金具を外す音が背中から響く。優の何倍も手際が良かった。あっという間に背中部分の固定装置が外れる。

「ちょっと手、回すよ」

 京子の手が後ろから腹部に伸びてくる。後ろから抱きつかれているような格好になり、優は僅かに気まずい思いをした。

「はい、終わり」

 小気味良い金属音とともに機械翼が取り外される。身体が軽くなり、奇妙な浮遊感に襲われる。

「ありがと」

 取り外した機械翼を京子から受け取り、優は笑みを浮かべた。

「じゃ、戻ろっか」

「うん」

 横に並んで本部に向かう。その時、背後から華の呼び声が届いた。

「京子、待って! 私も一緒に行く!」

 振り返ると、こちらに向かって華が走ってくるのが見えた。優と京子は立ち止まって、華が走ってくるのを待った。

「報告終わったの?」

「うん。ばっちり」

 京子の問いに華が笑顔で答える。

「神条司令の注意が黒木さんに向いてたから、報告早く終わっちゃった」

「黒木さん、毎回よくやるなぁ……」

 京子が呆れたように呟く。マイクを切り忘れていた事に対してだろう。毎回、という言葉が気になって優は首を傾げた。

「黒木さん、ああいうの良くやっちゃってるの?」

 華が苦笑して頷く。

「うーん、何て言うか、結構訓練サボっちゃったりとか、会議中に寝ちゃったり色々しちゃってるから。でも、面倒見良くて凄い良い人だよ」

 そんな人が第四小隊長で大丈夫なのだろうか、と微かな不安を覚える。しかし、それを補う程の何かを持っているのだろう、と優は解釈した。

 冷たい風が吹く。うう、と華が小さく呻いて身を抱いた。汗を大量にかいていた為、秋風が凍えるように冷たく感じる。優達三人は他愛のない雑談をしながら、急いで訓練場を後にした。



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08話 長谷川京子

「桜井君おはよう!」

「おはよう」

 寮棟の廊下ですれ違う少女の挨拶に手を振って応える。

 復帰してから五日経った。華たちのおかげか、最近は前までのように変に距離感を感じることなく、誰からも普通に接してもらえるようになった。見知った顔をも増え、ようやく溶け込めた事が実感できるようになってきた。

 あくびを抑えながら一番近い食堂に向かう。食堂に行くためにはいくつかのセキュリティゲートを抜けなければならない。セキュリティゲートはセキュリティレベルの異なる区間に存在し、それぞれのセキュリティレベルに合わなければ弾き出される。このセキュリティエリアは各下位組織のセキュリティポリシーに沿ったレベル分けをされている。例えば特殊戦術中隊の寮棟には殆どの者が入れないし、逆に中隊員は情報部や防諜部などの関係ないエリアに入れないようになっている。

 寮棟から中枢エリアへ移り、一階に位置する賑やかな食堂に入る。券売機の前に数人が並んでいるのを確認し、優は最後尾に並んだ。列を待つ間を利用して華の姿をキョロキョロと探す。どうやらまだ来ていないようだった。

 列が進み、優の番になる。優は迷わず朝食セットを選び、券を抜き取った。

「桜井、一緒に食べない?」

 不意に後ろから話しかけられて、振りかえる。同じ第一小隊に所属する長谷川京子だった。茶色に染めたショートカットに、ぱっちりとした目から活発的な印象を受ける。京子が華の友人であったことも手伝って、最近はよく話すようになっていた。

「いいよ」

 頷くと京子はにっこり笑みを浮かべ、目線で一つのテーブル席を差した。

「じゃ、席あっちでいい?」

「オッケー」

 京子の後に続き、比較的奥の席に座る。

 京子の前にはラーメンが置かれていた。優の顔が軽く引きつる。

「朝からラーメン?」

「そ。栄養つけないとね」

 京子はそう言って笑った。ラーメンに栄養があるのかは疑問だったが、カロリーは高そうだな、と考えながら優は自身の朝食セットに箸をのばした。

「あ、華! こっち!」

 京子が不意に優の背後を見て声を張り上げる。京子の目線を追って振り返ると、華がトレイを持ってこちらに向かってきているのが見えた。

「篠原さんも朝食セット?」

「うん。大体毎朝これだよ」

「朝からラーメン選ぶ人の方が少ないよね」

 そう言って、ちらりと京子に目をやる。京子は特に気にした風もなく、食事を続けている。そこから何となく視線を横に逸らすと、テーブル越しにある少女と目が合った。

 肩口で揃えられた黒い髪に、ぱっちりとした瞳。第三小隊長、佐藤詩織。詩織が迷った様子を見せながら口を開く。

「あの……、ご一緒していいですか?」

「え、あ、うん! ここ空いてるよ!」

 華が意外そうな顔をした後、慌てたように答える。そんな二人を優は怪訝な目で見た。

 二人はあまり仲が良くないのだろうか。そんな事を考えている間に、詩織は優の斜め向かいの席に腰を下ろした。

「佐藤さんも朝食セット?」

「は、はい」

 優が声をかけると、詩織は大袈裟な程肩を震わせた。それを見て、やっぱり変わった子だな、と思う。いつも向こうから接触してくる割に、反応だけを見ると嫌われているように見える。優は小首を傾げた。

「そういえば、明日から休みだよね。何か予定ある?」

 京子が顔をあげて優達を順番に眺める。優はふとある疑問を口にした。

「休み中って外に出られるの?」

 京子が怪訝な顔をする。

「当たり前じゃん」

「遊んでる間に亡霊が来たらどうするの?」

「小隊ごとに休みの日がずれてるの。亡霊が出た直後だと三つくらいの小隊に同時に休みが出たりするよ」

 華の補足で、優は納得したとばかりに頷いた。

「あ、でも入隊した時、勝手に外に出ないよう何度も注意された記憶が……」

「勝手に出たら駄目だよ。総務部に外出許可届出さないと」

「私達、一応特殊公務員だしね。手続きさえ踏めば殆ど何でもできるんじゃない?」

 京子はそう言って、再び食事を再開した。

 優は中隊に入ってから外に出てない事を思い出し、機会があれば出てみようかな、と思考を巡らせた。  

 

◇◆◇

 

「司令……?」

 神条奈々が司令室のデスクに座ってじっと考え込んでいると、副司令である長井加奈から遠慮気味に言葉を投げかけられた。奈々は我に帰って、視線を加奈に向けた。

「何か報告?」

「いえ、司令、ずっと考え込んでいるようですが、何か問題でも発生したのでしょうか?」

 奈々は無言でディスプレイを指差した。不安そうな様子で加奈がディスプレイを覗きこむ。

「……これは」

 奈々が示したディスプレイには、戦略情報局から送られてきた訓練カリキュラム変更の通達と広報活動に関する通達が映し出されている。加奈はそれを見て不思議そうな顔を浮かべた。

「SIAからですか」

 戦略情報局(SIA)はユーラシア連合の台頭に伴って創設された情報機関だ。統合幕僚監部から独立しながらも、各軍と連携を取りながら対外的な諜報活動も行っている。その権限は年々強化され、過ぎた干渉が問題視されている。

「そう。それで、具体的なカリキュラムがこれ」

 奈々はそう言ってコンソールを叩いた。画面が切り替わり、簡素なマトリックスが表示される。途端、加奈の瞳に警戒の色が宿った。

「何ですか、これ?」

 ディスプレイに映し出された新しいカリキュラムは従来のカリキュラムとは違い、個人技能の習熟に焦点を当てたものだった。対亡霊戦では複数の小隊を並行して運用する為、個人技能の習熟は実戦では効果が薄い。その為、これまでは集団戦を想定した飛行訓練や隊形移動を中心にしたカリキュラムが組まれてきた。

「何の為だと思う?」

 奈々はディスプレイを眺めたまま立ち尽くす加奈を見やった。加奈は何も答えない。奈々は再びコンソールは叩いた。

「次にこれが広報活動に関する通達」

 画面が切り替わる。すぐに加奈の瞳に驚きの色が宿った。

「優君をメディアに露出させる? 彼、未成年ですよ」

 ディスプレイには、広報活動に桜井優を起用するという旨が長々と表示されていた。顔写真に映像、そして本名の公開。また、その公開に関するメディアの選別も既に終わっているようだった。予算、そして、期日までもが明記されている。

「たった一人の男性ESP能力なのだから情報を開示する社会的責任がある、という建て前でしょう。けど、社会的不安を取り除く為に偶像化される事は避けられない」

「プロパガンダ、ということですか?」

「そう捉えても問題ない。それとね、まだ言ってなかったけど、今朝ある報告があったの」

 奈々はそう言って再びコンソールを叩いた。途端、画面にヒストグラムが表示される。

「珍しい形をしていますが、標本はなんですか?」

 興味深そうにヒストグラムを見ながら、加奈が問う。ヒストグラムはガウス分布に近い形をとりながらも、山から遠く離れた右端に一つだけ点がある。

「中隊員の瞬間出力ESPエネルギーの分布よ。横軸はESPエネルギーの瞬間出力量、縦軸は該当人数を示す。見た通り左の山は綺麗な形をしているでしょう? 平均的な出力量を持つ中隊員が一番多くて、ずば抜けた出力量や出力量が乏しい人は人数が減っていく。でも、この山から離れた存在が、右に一点だけある」

 奈々はディスプレイの右端を指差した。そこには一人の分布を示す小さなバーが盛り上がっている。

「さっきも言った通り、横軸はESPエネルギーの出力量。つまり、一人だけ瞬間出力ESPエネルギーの突出した存在がいる」

「まさか、優君ですか?」

 加奈の言葉に奈々は頷いた。加奈が混乱したように額を押さえる。

「まさか、だって、最初に計った時はこんなに……」

「そう。入隊時に計った瞬間最大出力量は平均より少し高い程度だった。でも、彼が復帰してから再計測した結果がこれ」

 加奈が息を呑む。

「短期間でこれだけ成長したって事ですか? いえ、そもそも出力エネルギーが上昇するなんて、聞いた事がありません。彼女たちの超能力は、訓練によって伸びるものではないはずです」

「そのはずだった。でも、実際に彼の出力エネルギー量は増大している。成長したというよりは、顕在化しただけかもしれない。これから成長する可能性は低いでしょう。でも、これで戦略情報局が干渉してきた理由が大体理解できる」

「個人技能の習熟というのは、優くんを切り札にする為ですか? そして、その戦果をプロパガンダにフィードバックする?」

 加奈の推測に対して奈々は、どうかしら、と否定的な態度見せた。

「その逆かもしれない。優くん以外の中隊員の個人技能を上昇させる事で、彼の影響力をコントロールできる範囲に抑えようと考えている可能性が高い」

 統合幕僚監部、及び戦略情報局の望みは安定した戦力の供給だ。彼らはシステムに組み込まれた救世主を求めているが、コントロール不能な爆弾を抱え込むつもりはない。

「司令……どうするんですか?」

「カリキュラムの変更については実務に悪影響が及ぶ可能性があるとして抗議する。でも、プロパガンダに関してはこちらに拒否権はない。もう四幕の間でシナリオが作られてしまっている。後は、何とか細かな要求を付け加える事しかできない」

 奈々は唇を噛んだ。

「少し、風に当たってくる」

 加奈に言葉を残し、奈々は司令室を出て、当てもなく無機質な白亜の廊下を進んだ。

 脳裏に一人の少女の姿が浮かぶ。人前では気丈に振る舞い、陰で泣いていた孤独な少女。

 ──柊沙織(ひいらぎ さおり)。史上初のESP能力者。そして、実戦投入されたESP能力者として初めての戦死者。

 マスメディアに救世主としての役割を与えられ、その役割に殉じた十六歳の子ども。

 当時、奈々は一切の感情を殺し、効率を求める事こそが強さだと信じていた。そして、その結果柊沙織は死んだ。奈々は彼女を助けられなかった。奈々の無慈悲な指揮が、彼女を殺す事に繋がった。

 史上初のESP能力者。そして、史上初の男性ESP能力者。一人の少女と、一人の少年の笑顔が頭の中で重なる。二人が持つ雰囲気は、酷く似通っていた。恐ろしい程までに。

 過ちを繰り返してはいけない。その為に、奈々はこのポストに留まり続けているのだ。来るべき日の為に。

 奈々は、どこに向かっているのか自分でもわからないまま、長い廊下をゆっくりと歩き続けた。



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09話 橋本恵

 優が亡霊対策室での生活にようやく慣れ始めた頃、司令室から呼び出しを受けた。

「司令、お話とは何でしょうか」

 司令室に入って早々に、優は話を切り出した。奈々はデスクから立ち上がって、優と目線を合わせるように少し前屈みになった。黒い髪がはらりと落ちる。それを見て、本当に綺麗な人だな、と思う。

 奈々は少し迷うような素振りを見せた後、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「わざわざ司令室まで足を運ばせてごめんなさい。いきなり本題に入ると、取材を受けて欲しいの。と言っても、大袈裟なものじゃなくて、簡単な質問に答えるだけ。後、少し撮影も」

「撮影、ですか?」

 優が不思議そうな顔をする。

「そう。まだ男性初のESP能力者が発見されたという情報を公表してるだけで、優君の具体的な個人情報は公には何も出してない。もちろん、それが普通なんだけど、君の立場は少し特殊だわ。どうしても一般人とは区別されてしまう。それで、情報の開示をする事になったの。君には関係ない大人の事情だけど、受けてもらえないかしら?」

 本当に申し訳なさそうに奈々が言う。何となく奈々の立場を理解して、優は快諾した。

「はい。記者の方と話すだけなら大丈夫だと思います」

「ええ。質問に答えるだけ。ありがとう、助かるわ」

 奈々は安心したような笑みを見せた。

「えっと、日時なんだけど、明日なの。予定とか大丈夫?」

「はい。大丈夫です」

 コクリと頷く。

「良かった。場所は本部内の……」

 

◇◆◇

 

 翌日、優は奈々に指定された部屋の前に立っていた。亡霊対策室の中に備え付けられた来客用の部屋の一つだ。

 取材、という言葉に緊張する。優は深呼吸してから、恐る恐るノックした。

 数秒後、ガチャリと開いたドアから、まだ若い女性の顔が覗いた。

「桜井優くん?」

 高い、ソプラノの声が響く。

 もう少し年輩の人が相手だと思っていた為、優は軽く面食らった。

「はい」

「私、橋本恵(はしもと けい)。今日はよろしくね!」

「こちらこそよろしくお願いします」

「お、礼儀正しいなぁ。あ、入って、入って!」

 恵が一歩下がる。優は一礼し、中に入った。

「あ、腰おろして楽にしてて」

 シンプルな部屋だった。真ん中に机と椅子があるだけ。

 指示に従い、椅子に腰かける。続いて恵も腰をおろした。

 恵は机の上で両手を組み、少しだけ身をのりだし、笑った。

「君、かわいいね」

 予想外の言葉に、たじろぐ。その様子を見て、恵は悪戯に成功した子どものような笑みを浮かべた。

「ごめんごめん。緊張してるみたいだからほぐそうかな、と。逆効果だったかな」

 でも、と恵は続けた。

「でも、可愛いのは本当。あー、何だか私犯罪者ちっくだなぁ」

 そう言って恵はコロコロと笑った。

 対照的に、変わった人だなぁ、と優の顔が引きつっていく。

「うーん、じゃあさ、ちゃちゃっと終わらせちゃおうか」

 ごそごそと、恵が鞄を漁り始める。何をしているのだろうと優が首をかしげると、恵は手帳とボールペンを取り出した。

「これからいくつか質問するけど、嫌な質問には答えなくていいからね。これ、他から頼まれたもんだから、遠慮なく切っちゃって」

「他からって……代行ってことですか?」

「そう。奈々に頼まれちゃって。各新聞社とかの質問をまとめて私が聞くの。あからさまにデリカシーのない質問は私が勝手に落としとくけど、個人的に答えたくないのもあるだろうから、ね?」

「神条司令の……」

 どうやら恵は奈々の知り合いらしく、優は少し気が楽になるのを感じた。

 確かに、新聞社の人たちに質問責めされるよりはいい。裏で色々と場を整えてくれた奈々に優は感謝した。

「じゃ、一つ目。初陣で大活躍したらしいけど、怖くはなかった?」

「ええっと、もちろん怖かったですが、それよりも必死な感じで……何とか我慢できました」

 つっかえながら、かろうじて答える。恵はうなずいて、軽快にペンを走らせた。

「じゃ、次。特技は?」

「えっと、あの、……空を飛ぶことです」

 咄嗟に浮かんだことをいうと、恵がクスりと笑った。

「うん。良い答えだ。次は……」

 恵の顔が曇る。少し迷っているような素振りだった。

「……戦争についてどう思う?」

 亡霊との戦いは"闘争"と表現され、一般的に戦争と呼ばれる事はない。

 わざわざ戦争という表現が使われている事で、十六歳の優でもその答えが政治的に利用される類いのものだとすぐ理解した。

 望まれている答えはこうだろう。

『戦争はとっても悪いことです』

 頭の中が急速に冷えていくのを感じた。

 第二帝国主義が終わった今、戦争というものはただの浪費でしかない。

 ユーラシア連合やヨーロッパ連合など多くの経済圏ごとに連携を強めている中、実際的な戦争というものは起き得ない。あるのは、ユーラシア連合による小国の併合のみ。そして、ユーラシア連合は経済的解放運動と称して、これを正当化している。日本はユーラシア連合には加盟していないが、地理的な特性上、それに強く反発する事ができない。

 戦争を起こすのは、経済的な疲弊から大国への反発が強くなり始めている小国でしかありえない。この質問がどういった視点から利用されるのか透けて見えた。

 少し考えた後、優は恵の顔をじっと眺めた。

「戦争に突入せざるをえなくなった構造を何とかしないといけないと思います」

 恵が少し驚いた顔をする。

 しかし、彼女はすぐに笑顔を繕って、質問を続けた。

「じゃあ次は――」

 

◇◆◇

 

 順調に三十ほどの質問に答え、ようやく優は質問責めから解放された。

 思っていたよりも疲れる。背伸びすると、腰からパキッと小気味の良い音が聞こえた。

「お疲れさま、と言いたいところだけど、次撮影お願いね!」

「……そういえばそんな話もありましたね」

 思い出したくなかった事を言われ、げんなりする。

 優はため息を吐いて、机に突っ伏した。

 少し、懐かしい。学校に行っていた頃は退屈な授業中によくこうやって寝たものだ。亡霊対策室に来てからは机に座る機会が食事以外に殆んどなくなってしまった。

 普通の生活とは違うんだな、と思うと寂しいような、悲しいような何とも言えない気持ちが渦巻いた。

「とりゃっ」

「わっ!」

 不意に頬に冷たいものが触れ、優は大きく飛び退いた。見ると、缶ジュースを持った恵がクスクスと笑っている。

 優は無愛想に感謝の言葉を述べて、それを受け取った。

「桜井君」

 突然、恵の声色が変わる。慈悲に満ちた、柔らかな声。まるで別人のようで、優は驚きの表情を隠せず、恵の顔を見つめた。

「これ」

 そう言って、彼女は名刺を取り出した。反射的に受け取り、目を通す。

 肩書きはフリーライターになっていた。それと連絡先が載っている。

「困った事があったら何でも相談して。これから先、外部の協力者を得るのって難しいと思うから。あ、夜なら雑談電話もオッケー」

 優は、じっと恵を眺めた。そして、信頼に値する人だと確信する。もしかして、奈々は取材を理由に、優に外部とのチャネルを持たせたかったのではないか、とふと思った。

「じゃ、撮影行こうか」

 恵がドアに向かって歩き出す。

 優は名刺をしっかりと財布の中にいれ、「はい」と小さく返し、後を追った。

 廊下には三人の男が待機していた。恵は男たちに合図した後、優に向かって着いてくるように手招きし、少し離れた部屋に向かった。

 その部屋の一角には、撮影用の照明器具や白い背景が設置されていた。男達が手際よく準備を始める。優が困ったように視線を恵に向けると、恵は手に持った布を前に差し出した。

「はい。これ、衣装」

「衣装?」

 優は戸惑いながらそれを受け取った。

「撮影用のね。私は外に出てるから、その間に着替えて」

 そう言って、恵はさっさと部屋の外に出て行ってしまった。残された優は準備を進める男達を見た後、部屋の隅で邪魔にならないよう着替え始めた。

 恵から受け取った衣装は、軍服のようだった。深い緑色の、コートのようなデザイン。胸元からチェーンのようなものがぶら下がり、中尉の階級章が取り付けられている。

 着替え終えた後、優は外で待っている恵を呼びに廊下に出た。途端、恵が歓声をあげる。

「わぁ! 似合ってる! 似合ってる!」

 優は曖昧な笑みを浮かべて、小さく頭を下げた。優にとっては下手なコスプレをしているようにしか思えず、複雑な気分だった。

「じゃ、始めよっか」

 妙にハイテンションな恵が楽しそうに言う。優は嫌な予感を覚えながらも頷いて撮影に入った。



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10話 宮城愛

 無事に撮影を終えた優は疲れた顔で自室に戻った。

 騙された。少しでも恵を信じた自分が馬鹿だった、と優は深く悔いた。

 恐らく、恵の本職は記者というよりも撮影関係なのだろう。恐ろしく細かい指示を長時間出され続け、撮影に当初予定していた倍以上の時間を消費した。精神的な疲労が酷い。

 ぐったりとベッドに倒れこむ。そのまま優は目を閉じた。

 そして、取材の時に感じたある事を思い出す。机に突っ伏した時に感じた言い知れぬ喪失感。

 ――高校生活。

 その言葉が、今は遥か遠くの別の世界の事のように思えた。

 寝がえりを打ち、ぼんやりと天井を見上げる。

 その時、ノックが響いた。

「どうぞ」

 身を起こし、返事する。

 ドアが開き、ラフな格好をした京子が顔を覗かせた。

「ばんわ!」

「夜に男の部屋訪ねるのはどうかと思うんだけど」

 時計を見て、優は呆れた。既に十時を超えている。

「あのねー、ここ女の子しかいないんだから、そんなこと言ってたら桜井はこれからずっと一人で夜過ごすことになるよ」

「……正直、暇してました」

「素直でよろしい。で、談話室に数人で集まってるんだけど来ない?」

 あんたの知ってる人だけだから安心して、と京子が付け足す。

 優は顔を綻ばせて頷いた

「是非!」

 そう言って立ちあがる。京子は笑みを浮かべ、ついてきて、と言葉を残し部屋を出た。優も慌てて京子の後に続く。

 談話室は寮棟の各階にある。セキュリティゲートを通り抜けるわけではない為、認証ログからそこでの交友関係などが漏れることはない。つまり、奈々に夜に男女が会う事を注意されるような心配はしなくていい。

 廊下の突き当たりにある談話室に近づくと騒がしい声が廊下まで聞こえた。京子が慣れた様子で中に入っていく。後から続いた優はそろりと顔だけ覗かせた。

 かなり広い部屋にソファと円形のテーブルがいくつか設置され、十数人の女の子がグループごとに固まっている。壁際には三つの自販機が並んでいた。

 女性しかいない為に少し入りづらかったが、優は意を決して中に足を踏み入れた。

「あ、桜井君!」

 奥にいた華がすぐに気付き、声をあげる。優は小さく手を振って、華たちのグループへと向かった。

 そこには比較的見慣れたメンバーがいた。第一小隊の篠原華、長谷川京子、そして華と京子の友人である宮城愛。それと第四小隊長の黒木舞の四人だ。時間のせいか、全員がラフな格好をしてる。

 優はまだ宮城愛とまともに喋ったことがなかった。会ったことは何度もあるのだが、大人しいというより徹底した無口で話しかけづらい雰囲気を纏っている。逆に舞は気さくなタイプで、今までに何度も話す機会があった。

「こんな休憩場所あったんだね」

 周りをキョロキョロと見渡しながら優が言う。ソファの上で紙コップを握った舞がニヤニヤと笑った。

「まあ、とにかく座って。ちょっと聞きたい事があるから」

「聞きたい事って、なんですか?」

 言われるがままに優がソファに腰をおろすと、舞がぐいと顔を近づけてくる。

「最近、しおりんと仲が良いって聞いたけど、何かあったの?」

「え?」

 予想外の問いに、優は小首を傾げた。

「しおりんって、誰ですか?」

「第三小隊長の佐藤詩織。朝にさ、わざわざしおりんが同席してきたんでしょ?」

 舞が楽しそうに言う。優は舞の言っている事が理解できなくて、何度か目を瞬いた。

「食事だけなら、篠原さんとか長谷川さんとも同席した事あります」

 優の言葉に、京子が何かに気付いたような顔をする。

「あ、桜井って知らないんだっけ」

「何が?」

 尋ねると、京子の代わりに華が口を開いた。

「詩織ちゃんね、軽い男性恐怖症みたいなんだって」

 優は驚いて、華の言葉を反芻した。

「男性恐怖症?」

「そう。だから、しおりんが自分から男の子に近づくのって珍しいなって話になってたわけ」

 舞がからかうように言う。

 優は詩織の今までの行動を思いだして、一人納得した。そして、小さな不安を覚える。

「知らないうちに嫌な思いさせちゃってたかも……」

「まあまあ。あまり気にし過ぎると逆効果なんじゃない?」

「そうそう。ただ、お触りはなしの方向で」

 京子の言葉に舞が同意しながらからかうように言う。

 それはそうかも、と考えながら優は先程から一言も発さない愛に視線を向けた。

 愛は無表情のまま、紙コップに口をつけて話をじっと聞き続けている。本当に静かな女の子だ。騒がしい舞や京子を見て、ある意味バランスが取れてるな、思う。

「そういえば――」

 舞がまた何か楽しそうに口を開く。

 談話室の照明が落ちるのは、随分と遅くなりそうだった。

 

◇◆◇

 

 上田孝義(うえだ たかよし)陸上中将は暗い室内で淡い輝きを放つディスプレイを見て、静かにため息を吐いた。

 陸上中将という肩書に似合わず、その目は虚ろで覇気がない。

 彼は神経質そうに机を指で叩きながら、目の前の懸念事項を無表情に見つめていた。

 一つは、特殊戦術中隊から、一人が異常な瞬間最大ESPエネルギー量を記録したという知らせ。上田中将が求めるのは特殊戦術中隊というシステム化された戦力であり、属人化した能力は求めていなかった。

 もう一つ、上田中将を悩ます出来事は欧州に於いて高まりつつある急進的ポピュリズムの機運だった。近い将来、レイシズムの嵐へと転化する可能性が高い。それは、低迷する欧州経済に致命的な亀裂を生みだすだろう。

 欧州の力が弱まれば、ユーラシア連合がますます増長してしまう。彼らの帝国主義は本物だ。彼らは列島線を越えようとしている。十一年前に起こった金融危機で唯一の後ろ盾であったアメリカ合衆国も没落し、そんな状況でなお日本が独立を保っていられるのは、ひとえに亡霊の影響だ。

 白流島を取り囲む亡霊に対して、有効策、すなわちESP能力者を保有しているのは日本だけだ。亡霊は日本の独立を守りつつ、国家として破綻しうる要因となっている。

 故に、今の絶妙なパワーバランスを崩してはならなかった。

 特殊戦術中隊は、亡霊と拮抗したシステムでなければならない。そして国家の下にコントロールされた安定したものである事が望ましい。

 桜井優という存在は、今の危ういバランスを崩す可能性を秘めている。

「この桜井優という子供は、危険だな」

 呟いた言葉に、低い声が返った。

「我々のコントロール下に置きましょう。亡霊対策室の支配下ではなく、軍の支配下として用いれば問題ありません。どの道、舟板とは別に象徴が必要でございます」

 上田中将は灰色がかった髭を撫でて、虚ろな瞳をゆっくりと声の主に向けた。

「軍の支配下か……」

 そう呟いた時、慌ただしく室内に男が入ってきた。

「報告します! 都内で民間人が三名死亡。同時刻、同所にてESPエネルギーの発生が確認されました」

 上田中将は静かに男を見つめ、機械的に詰問した。

「亡霊が都内に? 何故、それまでに探知できなかった? 先制攻撃を受け、探知能力を喪失したのか?」

「いえ……ESPエネルギーの出力元は亡霊ではなく人間、ESP能力者です。これは殺人事件です」



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11話 広瀬理沙

 広瀬理沙(ひろせ りさ)は、血だまりに倒れる一人の同級生を無感動に見下ろした。

 呆気ない。

 そう考えながら、血だまりの向こうで呆然とした表情を浮かべる二人の女学生に目を向けた。二人の女学生が怯えたように震える。

「うそ、マジ、こいつ、頭やばい」

 一人がポツリと呟いた後、もう一人の女学生が逃げるように走り出す。

 理沙はその後ろ姿に右手を向けた。翡翠の光が女学生に向かって放たれ、女学生の身体が大きく吹き飛ぶ。

 そのままビルの外壁に激突して動かなくなった女学生を確認してから、理沙は最後に残った女に目を向けた。

「あんたは、逃げないの?」

 理沙は問いかけながら、目の前に落ちていた血塗れの財布を拾い上げた。この女学生たちに奪われた理沙の物だった。

「広瀬、違う、ほんと、あれ、安奈に命令されて、ねえ、わかるでしょ? 逆らったら、私だって――」

 必死に保身を図る女をぼんやりと見つめながら、右手を女に向ける。直後、女の首が消し飛んだ。一拍おいて女学生の身体が痙攣を繰り返しながら崩れ落ちた。

 理沙は周囲に転がった三人の死体を眺めてから、奇妙な解放感を覚えていた。もう、全てがどうでもよかった。学校だって、もう行く必要がなくなった。あの腐った家族にも会わなくて済む。

 所属すべき組織がなくなったことで、生まれて初めて本当の自由を掴み取った気がした。幼かった頃は、全てが自由だった気がする。それがいつの間にか良く分からないルールや組織、人間関係に支配されて、理沙の世界は色褪せていった。

 理沙は死体の横に腰を下ろして、ビルの外壁にもたれかかった。それから、血塗れの財布の中を見る。

 一万五千円。

 理沙は小さく笑った。

 それから全てがどうでも良くなって、長いため息をついた。

 きっと、警察や軍は理沙がESPエネルギーを使用した事を既に把握しているだろう。

 全てのESP能力者は、従軍せずともESPエネルギーの波形を記録されている事になっている。指紋のようなものだ。すぐに足がつく。

 理沙のような女子高生一人のために、重武装の男たちが三ダースほどの隊列を組んでやってくる筈だ。

 馬鹿馬鹿しい。

 近くに転がった死体を暫く眺めた後、理沙はよろよろと立ち上がった。

 それから、亡霊のように夕闇の街に溶け込んでいった。

 

◆◇◆

 

 その日、桜井優は久しぶりに一人で街を歩いていた。

 心配の種だった外出許可の申請もあっさりと受理された。

 大通りを適当に散策し、目に止まった本屋に寄って、以前によく見ていた漫画の最新刊を数冊手に取り、次に参考書を物色する。特殊戦術中隊に入る為に高校は中退したが、高等教育レベルの勉強は一通り済ませておきたかった。

 漫画の上に数学と英語の参考書を積み、レジに向かう。少し高くついたが、既に給料が支払われている為に、さほど痛い出費ではなかった。

 会計を済ませて本屋を出ると、既に空は薄い赤に染まっていた。

 このまま帰るか、まだどこかで暇をつぶすか考えつつ、駅に向かう。

 秋の涼しい風が心地よい。優は人通りの多い道を避け、少し遠回りしながらのんびりと歩いた。あまり知らない裏通りを歩くというのも中々面白い。

 少し肌寒い。厚着してきたら良かった、と後悔した時、不意に背後に何かを感じた。

 ――ESPエネルギー。

 背後で膨れ上がるエネルギー体から逃れようと反射的に前方に跳躍し、上体を捻る。

 しかし、それよりも早く優の背中を衝撃が貫き、優は地面に倒れこんだ。

 衝撃で喉から奇妙な音が漏れ、痛みに身を丸める。

「動くな」

 首に冷たいものが押し付けられた。すぐに刃物だと気付き、反射的に身体が動きを止めた。

 突然、ふわり、と場違いな甘い香りが優を包んだ。直後、背中に柔らかな重みを感じる。

 女。

 声と気配からそう判断してから、ESP能力者には男がいない事を思い出す。例外は優だけだ。

「桜井優だな? 動いたら殺す。抵抗しないなら危害は加えない。オーケー?」

 名前を知られていることに気付き、血の気が引いた。脳裏に数日前の取材のことが蘇る。既に何らかの形で情報の公開が行われたのだろう。

 優は女を刺激しないように、黙って頷いた。直後、乱暴に身を起こされる。

「手荒で悪いけど、大人しくしてたら何もしないから」

 チラリと女の顔を見る。

 まだ若い。恐らくは少し年上の女だ。

 少し吊りあがった目で優をじっと睨んでいる。

「変な気起こすなよ。あたしもハーフだ。その気になればナイフなんてなくてもすぐに殺せる」

 ハーフ。

 過去に使われていたESP能力者の蔑称だ。

 亡霊と人間の中間。

 同一説というものが流行った事があった。人類史上初のESP能力者、柊沙織が発見された時に生まれ、今は廃れた風説。

 柊沙織は当初、人に擬態した亡霊ではないか、と囁かれた。ESPエネルギーは当時亡霊を構成する未知のエネルギー体として、亡霊の代名詞でもあった。ESPエネルギーを持つ彼女は本当に人間なのか、という点において多くの議論が沸き起こった。

 そしてこの同一説にはいくつかのバリエーションがある。曰く、ESPエネルギーは空気感染する。曰く、亡霊はESPエネルギーに呑みこまれた人間のなれの果て。

 どれも根拠のない話だったが、圧倒的に情報が不足していた当時、こうした風説は爆発的に広がった。

 もしESP能力者の数が多ければ、こういったデマはすぐに消えたかもしれない。しかし、ESP能力者の数は圧倒的に不足していて、大多数の人たちにとってESP能力者とは酷く曖昧な、現実味のないものだった。そして空想は一人歩きを始めた。

 しかし、それは亡霊対策室が設立されてから急速に鎮火したはずだった。少なくとも、優が大きくなってからはそうした馬鹿げた風説は聞いた事がない。今はもう使われていないハーフという呼称を何故使ったのか、優には理解できなかった。

「ついてこい」

 女が歩き出す。

 どうすべきか考えながら歩を進める。そして街灯の近くに来た時、優は気付いた。

 明かりに照らされた女の服に赤い染みが付着している。

 思わず息を止めた優に気付いて、女は答えた。

「既に三人殺した。変な動きを見せたら、あんたも容赦なく殺す」

 優は黙って女を眺めた。

 女の瞳の奥で、何かが揺らめく。女はその揺らめきを隠すように優から視線を外し、強い口調で再度、ついてこい、と言った。優はそれに従わず、立ち止まったまま口を開いた。

「名前、教えてもらえますか?」

 女が立ちどまる。怪訝な顔で優を見て、少し迷う素振りを見せた。

「広瀬理沙(ひろせ りさ)」

「桜井優です」

「知っている」

 理沙は特に何の反応も見せず、再び歩き出した。

 チラリと周囲を見渡す。

 人影はない。

 相手は刃物を持っているが、従軍経験者ではなさそうだった。

 優はまだ新米ではあったが、実戦を経験している。ESPエネルギーの扱いと出力量では優位に立てるだろう。男女の筋力差だってある。逃げようと思えば逃げられるかもしれない。

 しかし、優は逃げずにそのまま黙って理沙の後を追った。

 漠然と、そうするべきだと思った。

 

◇◆◇

 

「遅い」

 神条奈々は今までに何度も繰り返したように、無意識に時計に目を向けた。

 現時刻は夜の九時。

 桜井優に外出を許可したのは八時までだ。既に許可した時間から一時間を超えている。

 普段なら外出時間にここまで神経質になる事はない。しかし、今日は別だった。

 戦略情報局から届いた一つの情報が頭をよぎる。

 ――ESP能力者による殺人。

 いつかは起こるだろう、と予測はしていた。

 だからこそ、全ESP能力者の指紋や血液、ESPエネルギーの固有波形は戦略情報局と亡霊対策室によって厳重に記録され、ESP能力が悪用された場合、容疑者の特定が速やかに行えるように対策されている。

 特定と追跡は容易だ。解決までに時間はかからないだろう。しかし、ESP能力による被害が拡大してそれが表に出れば、混乱と増長を引き起こしかねない。

 超能力による大量殺人が一度でも発生すれば、誰もがこう考えるだろう。

 もしESP能力者が本気で徒党を組んだ場合、どうなるのだろう、と。

 ――彼女達は本質的に人間社会に依存する必要がないのだ。

 彼女たちには、人を支配する力がある。

 彼女たちが本気でESP能力を用いれば手錠で拘束する事は困難だし、その場で射殺するとしても相応の犠牲を払う必要がある。

 彼女たちが何らかの社会契約を破ったとして、誰もそれを抑えることはできない。

 ESP能力者がそれを自認し、実行に移した場合、現行の社会システムは呆気なく崩壊するだろう。

 幸い、ESP能力者は生まれながらにしてESP能力者であるわけではなかった。幼少時代から深く刻み込まれた倫理観、社会感覚がそうした事に対して、彼女たちに強烈なタブー意識をもたせている。しかし、それは酷く不安定な、曖昧なものだった。

 少なくとも、現時点で一人の少女はタブーを侵し、ESP能力者の持つ優位性に気づいてしまった。原因はどうであれ、彼女が自身の行動を正当化するような思想を持つ場合や、優位性に気付いて増長してしまった場合は、再びESP能力を行使する危険性がある。当面の間、警戒が必要だ。

 憂鬱な表情を浮かべ、奈々は再び時計に目をやった。時間だけが過ぎていく。

 現在、戦略情報局と警視庁が秘密裏に広瀬理沙を殺人の容疑で捜索している。戦略情報局のやり方は過激だ。優も一連の騒動に巻き込まれたのではないか、と不安が募る。個人端末に備え付けられた測位システムも機能していない。

 奈々は唇を噛んだ。優が戦略情報局ではなく、件のESP能力者と偶然接触したなら更に問題だ。

 ESP能力を一般人に向ける、という発想に触れること自体が危うい事だった。

 戦略情報局はESP能力者の思想管理を最重要事項として規定し、前々から亡霊対策室の初級課程における座学において、倫理教育を押し出すように提唱している。

 もし優が広瀬理沙と接触していた場合、思想的な汚染がないか徹底的に洗われるだろう。そして人類史上初のESP能力者、柊沙織が受けたような苛烈な思想教育が再実行される可能性もあった。

 

「私は大丈夫だよ。別に。心配なんていらない。皆が望む通り、お国のために死ぬまで戦ってあげる。それで満足でしょう。お飾りの司令官さんは、安全なここで見ていればいい」

 

 脳裏に、柊沙織の声が甦った。

 戦略情報局の苛烈な思想教育を受けた彼女は、昏い瞳で奈々を見上げながらそう言った。

 そして言葉通り、彼女はそのまま死ぬまで戦い続けた。

 ゆっくりと息を吐き出す。

 繰り返してはいけない。

 まだ優の事は統合幕僚本部にも、戦略情報局にも報告していない。

 何か手を打つ必要があった。

「優くん……」

 呟いた声には、奈々の自覚していない感情が込められていた。

 それは誰の耳にも届くことなく、宙へ溶けていった。



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12話 広瀬理沙(2)

 優が理沙に連れられて辿り着いたのは、都心の片隅に取り残された廃ビルだった。

 埃臭くてお世辞にも居心地が良いとは言えないが、確かに身を隠すにはもってこいの場所だった。

「今日はここで寝る。じっとしてな」

 理沙が慣れない手付きで優を縛り、動けないようにする。

 優が身動きできない事を確認すると、理沙は壁に背を預けて座り込んだ。

 沈黙が落ちる。

 優はそっと辺りを見渡した。

 古い建物だ。壁には小さな亀裂が無数に走り、幾何学的な模様を描いている。そして暗い。窓は大きいが、既に空に光はない。明かりをつけることも出来ない為、窓から差し込む僅かなネオンの光が唯一の明かりだった。

 視線を理沙に移す。

 綺麗な黒い長髪で、大人と子どもの間のような、まだ幼さの残る顔には疲労の色が強く浮かんでいる。

 そこでふと気づく。理沙の唇の端に黒いものがついていた。すぐに血だと気付いた。それによく見ればスカートが切り裂かれて太腿が露わになっている。

「……口もとに血がついてます。それが原因ですか?」

 理沙が無言で口を拭う。

 少し腫れているようだった。

「そう。これはいつものこと。けど今日はいつもより大人数で、数人は刃物を持ってた。このままだといつか殺される、と思った」

 理沙が呟く。

 その声からは先程までの覇気が全く感じられず、優は息を呑んだ。

「正当防衛を主張するなら自首すべきです。減刑されるかもしれません。それに未成年ならやり直しのチャンスだって与えられるはずです」

 理沙は唇に薄い笑みを浮かべた。

「ESP能力で人を殺めた者が、公正な裁判を受けられると本気で思ってんの? 簡単に人を殺せるESP能力者を、一体どうやって勾留するわけ?」

 冷水をかけられたように、頭の中が急速に冷えていった。

 何か、致命的な間違いを犯した気がした。

「あんたさ、自分がどういう立場か知ってる? 小さな救世主だってさ。そういう報道がされてるんだよ。それなのにさ、亡霊っていう怪物に向けられるべき強力な力が一般人に向けられました。これからもそういう事件が起こるかもしれません、なんて報道できないでしょ」

 理沙は小馬鹿にしたように笑った。しかし、その笑みはどこか泣くのを我慢している子どものようにも見えた。

「今までさ、そういう報道って一つもなかったでしょ? 本当になかったと思う? ESP能力が一般人に向けられた事が、八年間一度もなかったなんて、ありえる? 私達は、司法の外にいるんだ。司法は、人を守る為にある。私達は人じゃない。人じゃ、いられない」

 反論しようとして開いた口からは、何も言葉が出なかった。

 確かに、ESP能力者の事件は聞いたことがなかった。

 千人近いESP能力者全員が、善人だった。衝動的にESP能力を使う者も一人としていなかった。そんなことが有りうるのだろうか。

「人間が私を人間扱いしないのならば」

 憎しみの籠った声だった。

「私は、ハーフという新しい種として生きるしかない」

「……中隊に入る気はないんですか。ESP能力者だけで構成された中隊ならば、きっと――」

「ない。無理だよ。それこそ奴等の思う壺だ。もう、あたしは人間社会に関わるつもりも、従うつもりもない」

 人死が出た時点で説得はもはや不可能な域に達しているのかもしれない。

 ゆっくりと息を吐く。

 嫌な想像が頭の中を巡った。

 理沙の言う通り、恐らくESP能力者は司法の加護から外れてしまっている。

 司法は、彼女を保護しない。彼女は公正な裁きを受ける事ができない。

 きっと、彼女が自首すれば秘密裏に処分されるのだろう。そう思った。

 それを理解しながら、彼女を警察に突き出す事が優にはできなかった。例え彼女が人を殺めていたとしても。

「……広瀬さんがここにいることは、軍にはすぐに分かります」

 理沙が睨みつけてくる。

「何を言って――」

「軍にはESPエネルギーを探知する技術があります」

「それくらい知ってる。固有の波形から特定できるんだろ。だから、すぐにあの場からは離れた。いざって時のためにあんたを人質にもしてる」

「ESPエネルギーを使ってない状態でも、時間をかければ探知が可能なんです。しかも、僕のESPエネルギーは平均より大きくて、探知されやすいです。このまま僕といれば補足されるのは時間の問題です」

 理沙の顔が警戒するように歪む。

「だから、今すぐ逃がせってわけ?」

「そうです」

「馬鹿げた事を――」

 理沙が毒づくのを遮って、優はにっこりと笑みを向けた。

「その代わり、あなたの逃走をお手伝いします」

 

◇◆◇

 

 奈々の指揮で戦略情報局とは独立した桜井優の捜索が始まっていた。

 保安部の者が総出で優を散策しており、発見され次第連絡が来るように手配されている。

 ESP能力者による殺人を、奈々はどう受け止めて良いか分からなかった。

 いつかは起こると思っていた。

 もしかしたら、過去にもあったのかもしれない。中隊の中でもESP能力を使った喧嘩が起こったことは何度かあるが、表には出していない。戦略情報局が秘密裏に処理した事件だってあるかもしれない。

 そんなことを考えながら、奈々は副司令である長井加奈の中間報告を聞いていた。

「新たな被害者は出ていない、と」

「はい。優くんの行方も掴めていません。戦略情報局の指示と思いますが、航空自衛軍がESPレーダーを積んだ警戒管制機を出して、亡霊が出ていないのに一帯の空域から民間機が追い出されています。これ多分、問題になりますよ。うちで独自の夜間飛行訓練をやって誤魔化した方がいいです」

「……街頭カメラの記録も徹底的に調べて。発見した場合、戦略情報局には伝えず、こちらで処理する」

 奈々はいくつかの書類を手に取った。特定された容疑者の情報が記されている。

 広瀬理沙。女。十八歳。夢野高校三年生。

 調査書に同封されていた写真に目をやる。恐らく高校の文化祭に撮った集合写真だろう。集団の端で一人立っている。周りがカメラに笑顔を向けている中、広瀬理沙だけがつまらなさそうにカメラの外を見ていた。

 奈々は次いで被害者の情報に目を通した。

 被害者は三人、いずれも女で理沙と同じ夢野高校三年生だった。卒業アルバムの為に撮ったらしい三人の写真を見てから、集合写真でその顔を探す。目立つ中央にいた為、すぐに見つかった。彼女らは広瀬理沙とは対象的に明るく笑っていた。

 写真から目を背け、次の書類に手を延ばす。これには、被害者達の更に詳しい情報が記載されていた。

 さっと書類を眺めていた奈々の瞳が一点に止まった。

 八月四日、東杏菜の父親が亡霊との上陸戦に巻き込まれ死亡。

 簡素な文を、奈々は三回読んだ。東杏菜は被害者の一人である。

 奈々は経緯を悟って、軽い目眩を感じた。

「司令! 報告です。白流島付近に巨大なESPエネルギーを確認しました」

 不意にオペレーターが叫んだ。

 モニタを覗きこんだ奈々の顔が強ばった。

 マップ上に映る敵性反応はただ一つ。

 つまり戦力一定の法則が裏切らなければそれは――

「全小隊長を召集しなさい。出し惜しみせず、小隊長六人全員をぶつける」



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13話 広瀬理沙(3)

 篠原華は機械翼の生みだす揚力によって夜空を飛行しながら、背後をチラりと振り返った。

 五つの識別灯が一定距離を保ってついてきている。

 そして、洋上には護衛艦みなみの探照灯。

 全小隊長が一度に出撃するのは、華が知っている限りこれで二度目だった。通常、連戦や本部の防衛を考慮して、小隊長のうち最低一人は本部に残る。

 つまり、全小隊長が出るのは異例中の異例だ。自然と小銃を握る手に力が籠る。

『警戒区域に突入。各自兵装を確認』

 通信機から届く奈々の命令に、小隊長たちは一斉に小銃の安全装置を解除した。そしてマニュアル通りに連結ベルト、機械翼、識別信号に異常がないかを確認していく。

 第五小隊長の進藤咲(しんどう さき)が狙撃銃を構え、光学照準器を覗きこむ姿が後方に控える哨戒ヘリからの照明で夜空に浮かび上がった。

『……前方海面付近に亡霊です』

 通信機から咲の小さい声が届く。

 華はすぐに視線を落とし、海面付近を注視した。

 一つの発光体が見える。

 発光体はみるみるうちに大きくなり、次第にその姿がはっきりと視認できるほどになった。

「鳥……?」

 華の口から、ぽつりと呟きが漏れる。

 敵は鳥のような形をした、大型の亡霊だった。

 美しい流線型のフォルムは、遠目では戦闘機のようにも見える。過去に観測された死神のような亡霊とは、形状が大きく異なっていた。

『これより目標をパーソナル・ネーム"イーグル"と呼称する。射程に入り次第、咲の狙撃を起点に総攻撃を開始する』

 咲が絶妙なESPエネルギーのコントロールで機械翼を操り、音もなく空中で静止して狙撃銃を構える。

 風切り音に紛れて、奈々の号令が聞こえた。

『撃てッ!』

 同時に銃声が轟いた。

 進藤咲の構えていた大型の狙撃銃から、巨大な光条が放たれる。それはイーグルと命名された亡霊に直撃し、閃光が走った。

『……命中確認。外傷は確認出来ません』

 閃光の向こうから、悠々と鳥型の亡霊が姿を現す。

 それはまるで、雲間から姿を出す戦闘機のようだった。

 背筋を嫌な汗が伝った。

『目標、移動を開始しました。接近しています』

『散開し、動きを牽制しましょう』

 解析オペレーターの警告と、奈々の命令が届く。

 イーグルが翼を大きく広げ、夜空を駆け上っていった。

 鳥のように羽ばたき、どこか美しさを感じさせる飛び方で遥か頭上を超えていく。

『敵ESPエネルギーの増幅を確認。衝撃に備えてください』

 解析オペレーターの言葉と共にイーグルの口が千切れんばかりに大きく開いた。

 攻撃に備え、機械翼を大きく展開して初速をつける。

 同時に、イーグルの大きく開いた顎から、楕円形の光弾が発射された。光弾の向かう先には第四小隊長、黒木舞の姿があった。

 回避行動を取る為に舞が右に体を傾け、射線から身を引く。その時、奇妙な事が起こった。光弾が突然、舞を追いかけるように弾道を変えたのだ。

 まるで誘導ミサイルのような軌道を描くそれは、はじめて見る亡霊の力だった。

『……追い付かれる。回避行動は必要ない。速度をあげなさい』

 奈々の命令に従うように、舞の速度が格段に上昇する。しかし、追尾弾は尚も舞の後ろに食らいついて離れない。

『ダメっ! 振りきれない……!』

 舞の舞が光弾を振り切ろうと何度も旋回を繰り返すが、光弾は舞の後を正確に追尾し続ける。通信機から鋭い奈々の命令が走った。

『華、援護を! 光弾を吹き飛ばして!』

 同時に華は舞に向かって飛翔を始めた。

 小銃を構え、追尾弾を撃ち落とそうと狙いをつける。

 手が震えた。

 視線の向こうでは、舞とそれを追う追尾弾が複雑な軌道を描いていた。

「司令、無理です! 補足できません!」

 一拍の間をおいて奈々の声が届く。

『舞ッ! 引きつけてからESPエネルギーを全包囲に出力して、相手の攻撃を吹き飛ばしなさい』

 回避と迎撃が共に不可能と判断したらしく、通信機から防御命令が届いた。既に追尾弾は舞のすぐ近くまで迫っている。

「黒木さん!」

 華が叫んだ時、舞の体が光の渦に巻き込まれた。次いで、轟音と紫光が広がる。

 押し寄せるESPエネルギーの波に逆らい、華は爆心地目指して加速した。

 被弾した舞が緩やかに落下し始めるのが視界に映る。

『舞ッ!』

 奈々が叫ぶ。

 華は更に加速して、落下する舞の腕を掴んだ。そのまま速度を落とすことなく、イーグルから距離を取る。

「黒木さん、しっかりして!」

 舞が焦点の合わない目で華を見る。辛うじて意識はある。

 戦闘服が焼け焦げ、全身に軽い火傷を負っているが、それ以外に目立つ外傷はない。上手くESPエネルギーを殺したようだった。

『篠原さん、黒木さんをつれて早く離れてください! 次が来ます!』

 詩織の声と同時に、轟音が大気を揺るがした。

 振り返ると、イーグルから新たに数発の光弾が発射されたところだった。射線上には第二小隊長の姫野雪の姿。

 暗闇の中、雪の小銃からマズルフラッシュが瞬いた。銃弾の嵐が、迫り来る光弾を撃ち落としていく。

『突撃します!』

 通信機から鋭い詩織の声が届く。

 雪から視線を離すと、詩織が亡霊に向かって加速していくところだった。

 イーグルは雪に気を取られたままで、背後からの詩織の接近に気付いていない。脅威的な速度で詩織がイーグルとの距離を詰めていく。至近距離から銃弾の雨がイーグルに降り注ぎ、その動きが鈍った。

『咲、凜ッ。目標を包囲して!』

 詩織の作りだした好機を見逃すまいと通信機から奈々の命令が届く。

 その命令に従うように、夜空に二つの識別灯が走った。

 第五小隊長の進藤咲と第六小隊長の白崎凜(しらざき りん)がイーグルを包囲する為に、高度をあげていく。

 華は荒い息をあげながら、負傷した舞を連結ベルトで自らの身体に固定し、それから洋上の護衛艦に向かって降下を始めた。

 艦艇の甲板に降り立つと、待機していた医療チームがすぐに集まってくる。華は治療の邪魔にならないように少し離れたところまで下がり、上空を見上げた。

 絶え間ない攻撃によって、イーグルの戦闘機のような胴体が小さく炎上しているのが見える。

 勝てない相手ではない。しかし、致命的な被害を受ける恐れもあった。

「神条司令、援軍を、桜井くんをお願いします」

 先日の戦いで信じられない力を見せた桜井優の存在が頭をよぎり、華は迷わず彼の名前を口にした。司令室もこのままではイーグルを撃墜する事が難しい事を理解しているはずだった。しかし、返ってきた答えは華の予想を覆すものだった。

『……それは出来ない』

 奈々からの短い答えを聞いて、華は胸騒ぎを覚えた。

 出撃前に桜井優の姿が見えないと京子たちが騒いでいた事を思い出す。

 できない、とはまだ桜井優が見つからない、ということなのかもしれない。

 そうでなければ、桜井優の投入を渋る理由が見つからない。

 既に亡霊が発見されてから一時間以上経過している。中隊員が持ち歩いている端末には出撃を知らせる機能があり、更に有事に備えGPS機能も有している。

 優と連絡が取れないということは、優が戦闘できる状態ではない、もしくは端末が機能を失っている、ということだ。

 胸騒ぎを覚えながら、華は護衛艦の甲板から上空の戦闘をじっと見上げた。

『高エネルギー反応。また来ます!』

 通信機の向こうで解析オペレーターが叫ぶ。

 直後、解析オペレーターの予測通り、イーグルから新たな光弾が飛び出した。一つではない。いくつもの追尾弾が、異なる軌道で放たれる。

 その先には第六小隊長、白崎凛の姿。

『凛ッ! 吹き飛ばして!』

 奈々の鋭い声。

 次の瞬間、暗闇に閃光が瞬いた。

 中隊の中でもトップクラスの出力量を誇る凛のESPエネルギーが、迫る追尾弾をまとめて吹き飛ばしていく。 

 同時に外側から回り込んできた複数の追尾弾が凛に直撃し、通信機から苦痛の声が届いた。

 哨戒ヘリの接近音と、サーチライトが夜空を切り裂く。

 堕ちていく白崎凛の姿が、光条の中に映し出された。光の中で鮮血が煌めいた気がした。



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14話 広瀬理沙(4)

「街頭カメラから桜井優の映像が見つかりました」

 そう報告してきたのは情報部の主任である斎藤準だった。

 奈々は素早く端末を操作し、映像を再生させた。

 ディスプレイに薄暗い路地が映る。誰もいないそこに、画面左下から二つの影が現れた。影が街灯に近づき、色を帯びていく。影は優と見知らぬ少女だった。

 奈々は写真を取り出し、映像と見比べた。そして断言する。

「間違いない。広瀬理沙よ」

 二人の姿が画面左上に消えていく。

 奈々はゆっくりと息を吐き出した。

 広瀬理沙が優に接触したのは間違いない。大事なのは、現在この事実を把握している勢力が亡霊対策室だけということだ。

 戦略情報局と自衛軍はESPエネルギーの探知を続けている。探知が完了するまでに優に離脱を命じなければならない。もしくは、優が広瀬理沙を軍に引き渡す、といった事実が必要だ。そうしなければ思想的な汚染があるとして、面倒な事になるだろう。

 しかし、優への連絡手段がなかった。端末は機能を失い、携帯も繋がらない。恐らく、そうしたものは広瀬理沙によって破壊されたのだろう。

 先程の街頭カメラの映像から優の向かった方角をある程度予想できるが、いくら人員を割いても軍のESPエネルギーの探知より効率が良いとは思えない。

 結局、早急に優と連絡をとることは不可能だ、と奈々は判断した。ならば、優を支援するしかない。

「桜井優が広瀬理沙と同行している映像だけを消す事はできる?」

 尋ねると、準は頷いた。

「限定的であれば可能だ。街頭映像は各自治体から警察機構へ送られる。警察機構内に張り巡らされたネットワークには、対策室に与えられた正規の手順を踏む事でアクセスする事ができる。そして、この監視システムは移動体の検出された映像だけが残るように設計されている。つまり、移動体の検出を示す別のメタファイルを書き換えれば、システムそのものによって任意の映像を破棄させる事ができる」

「自治体の方には、データが残ってしまうということ?」

「そうだ。自治体の内部ネットワークに入りこむための正規の手順を、対策室は保持していない。保持していたとしても、自治体のシステムは簡素化されたもので、穴をつく事は難しい」

 奈々は少し考えた後、準を見つめた。

「戦略情報局、及び自衛軍が自治体に直接情報の提供を求める可能性はある?」

「極めて低い、と言える。警察機構から提出された情報に不審な点、つまり不審な痕跡が残っていなければ、普通は自治体からの情報提供を求める事はない」

「貴方のいう方法では、不審な痕跡が残るんじゃない?」

「ああ。痕跡は必ず残る。だが、リソースは無限じゃない。痕跡を流す事は可能だ。システムスタックに対して異常な入力を与えて、情報を追いだせば良い」

 奈々は眉を寄せた。

「その攻撃自体が、痕跡となって残るでしょう?」

「ああ。だから囮を使おうと考えている。特定省庁付近のメタファイルに異常なアクセスを送って、別件のように見せかける。これで暫く連中の注意は他へ向かうだろう。その間に、防諜部を使って自治体に圧力をかければいい」

 悪くない考えだ、と奈々は評価を下した。リスクはゼロではないが、最善の手に思える。

「じゃあ、後は貴方に任せましょう。慎重にね」

 了解、と準が答える。

 司令室から出ていく準の背中を見送りながら、奈々は優が状況を正しく把握していることを祈った。

 

◇◆◇

 

「その代わり、逃走をお手伝いします」

 にこりと笑みを浮かべた優に、理沙の瞳に宿った警戒の光が色濃くなる。罠を疑っているのだろう。

 理沙が結論に辿り着くより先に、優は後ろ手に縛られた両手にESPエネルギーを込めてロープを切断し、立ちあがった。

 立ちあがった優を見て、理沙が刃物を構えようとする。優は理沙が行動を起こすより先にポケットから財布を取り出した。不可解な優の行動に、理沙の動きが止まる。

「これ、逃走資金に使ってください」

 そう言って、いくつかのカードだけ抜き取った財布を理沙の足もとに放り投げる。

「何のつもり?」

 理沙は足元の財布を一瞥してから、警戒するように一歩下がった。

「逃走資金です。それと、今から全方位にESPエネルギーを放って、戦略情報局の探知手段に対して撹乱をしてみます。軍の探知能力が喪失している間に、遠くへ逃げてください」

 その言葉で、理沙の瞳に理解の色が浮かんだ。

「私を逃がす代わりに、お前を逃がせってこと?」

 優は頷いて、廃ビルの窓に目を向けた。遠くからESPエネルギーの気配がした。

「そうです。亡霊が出てきているみたいで、そろそろ戻らないといけないです」

 理沙はじっと優を見つめた後、小さく舌打ちした。

「お前の事情は理解した。嘘を言っているようにも見えない。信用してやる。ただし変な動き見せたら、殺すぞ」

 理沙はそう言って、足元に転がったままだった財布を拾い、中を確認する。

「つーか、あんたはそれでいいのか? 逃がすだけじゃなくて、撹乱なんてしたら立場悪くなるだろ?」

「いえ、これで立場が悪くなるのは広瀬さんの方です」

 優は窓の向こうを見つめたまま口を開いた。

「探知されたESPエネルギーの波形から、撹乱手段を行ったのが僕であることはすぐにわかります。だから、僕は広瀬さんと戦闘状態に陥り、離脱するために撹乱手段を用いたというストーリーにします。つまり、広瀬さんには僕、つまり特殊戦術中隊に対する攻撃意志があったということなります。広瀬さんは殺人の容疑だけでなく、安全保障上の危険分子として認識されてしまうかもしれません。僕が撹乱手段を行えば、広瀬さんはもう引き返せません」

 どうしますか、と優は理沙に向き直った。

 理沙の顔に、徐々に険が混じり始める。

「それは、脅し?」

 優は首を振った。

「違います。何もしなければ、広瀬さんは見つかります。僕が撹乱手段を取れば、この場は切り抜けられます。その代わり罪は重くなります」

 理沙は何も言わない。優は言葉を続けた。

「信じてください。僕だって、短期間だけどそれなりの訓練を受けている身です。広瀬さんと戦う選択肢だってありました。そうしなかったのは、広瀬さんの事が気になったからです」

「何故? 同情?」

「初めは、好奇心でした。僕とそれほど歳が変わらない人が、何でESP能力を人に使ったんだろうって。それで、話してるうちに、何だかよくわからなくなってきました。広瀬さんは、多分、社会的に保護されない存在です。司法では、どうする事もできない。政治的な影響力が強すぎるから。だから、今は身を隠すしかないと思いました」

「……人を殺した」

「裁くのは司法です。でも、それを判断する司法は、多分正常に働かないです。そんな状況で広瀬さんが捕まって、不当に殺されてしまうのは納得できません。正しくないのはわかってますが、状況が変わるまで逃走を支援したいです。それで、いつか今の体制が良くなったら、自首して、ちゃんと法の下で裁かれるべきです」

 自分で言っていて、酷く子供じみた考えのように思えた。

 しかし、理沙はじっと優の瞳を見つめ、頬を緩めた。

「理沙、でいい」

「え?」

「私は社会的に死ぬ。人としてはもう生きられない。姓はもう必要ない」

 それから、理沙は小さく息を吸い込んだ。

「私はハーフとして生きる。覚悟はできてる。だから、手伝ってくれないか?」

 理沙は笑っていた。迷いはもうないようだった。

 優は頷き、右手をかざした。

「全方位に無数のESPエネルギーをばらまきます。その密度が薄くなる前に、逃げてください」

 ESPエネルギーが右手に収束し、周囲の闇を照らし出す。

 そして、その光は突然爆発するように膨張を始めた。光の渦が音も無く優と理沙を飲み込んでいく。

 廃ビルのフロア全体を包むほど膨張した時、それは何の前触れもなく弾けた。無数の光の塊となって、空へと散っていく。

 同時に、理沙が駆け始めた。優の放った撹乱手段に乗じて、その姿が暗闇の中に溶けていく。

 優はそれを見送ってから、自分の仕事を果たす為に走り始めた。



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15話 広瀬理沙(5)

 第三小隊長、佐藤詩織は空戦機動技術に自信を持っていた。

 亡霊に遅れを取るはずなどないと、そう思っていた。

 そのはずだった。

「なん、でッ!」

 競い合うように、イーグルと高度を上げていく。

 横目で見るイーグルは、徐々に詩織を突き放そうとしていた。

『危険域です。それ以上は高度順応できていません』

 オペレーターの警告。

 人が対応できる高度には、限界がある

 その限界を伸ばすため、高度順応訓練をずっと積んできた。高高度を目指して、飛び続けてきた。

 警戒管制機の光が、遥か上方に見えた。その光にはまだ届かない。

 機械翼が不規則な振動を起こす。

 くらくらと目眩がした。

『危険です。高度を下げてください』

 荒い息を吐き出し、詩織は上昇を止めた。

 構えた小銃の向こうで、イーグルは更に上を目指して飛んでいく。

 引き金を絞ってばら撒いた銃弾は、イーグルを捉える事なく空中に溶けていった。

『上を取るのは難しそうです。戦いやすい低空で待ち伏せしましょう』

 第二小隊長、姫野雪の声。

 イーグルが大きな口を開き、複数の追尾弾を吐き出す。

 詩織は即座に反転し、今度は墜落するようにして速度を得た。

 下方に二つの識別灯。

 斜線が被らないように角度を切る。

 援護するように、下方から銃弾が降り注いだ。

 振り返ると、上方から迫る追尾弾が援護射撃に撃ち落とされていくところだった。

『進藤さん、援護してください。切り込みます』

 姫野雪が着剣し、銃剣が淡く光る。

 急降下してくるイーグルに相対するように、姫野雪が上昇を開始した。

 彼女の小銃から放たれた光条と、イーグルが吐き出した光弾が衝突する。

 閃光が煌めいた。

 続いて轟音とともに、衝撃が詩織を襲う。

 通信機から巨大な雑音が届く中、詩織の身体は大きく空を舞った。姿勢制御に集中し、反転する視界を何とか元に戻そうとする。

 何が起こってるのか分からないまま、二度目の轟音が響いた。

 再び、軽い衝撃。

 ようやく態勢を立て直す事に成功した詩織の視界に入ってきたものは、依然として空に浮かぶイーグルと、堕ちていく雪の姿だった。

 眼下の護衛艦が、位置を示すように探照灯を回す。闇夜を光が切り裂く中、護衛艦から一つの識別灯が飛び立つのが見えた。華だ。

『華ッ、雪を拾いなさい』

『高エネルギー反応あり。次の攻撃に備えてください』

 振り向いた先で、イーグルが次の攻撃を仕掛けてくるのが見えた。

 ばらまかれた五つの追尾弾が、第五小隊長の咲へ向かう。

 重い銃声と共に、一つの追尾弾が撃ち落とされる。しかし、残る追尾弾は依然として咲に向かったまま。

 進藤咲は標準装備の自動小銃ではなく、単発式の狙撃銃を装備している。彼女の腕がどれだけ良くても、全てを撃ち落とす時間はない。

 撃たれる前に撃つしかない。そう判断し、詩織は小銃を無防備なイーグルに向けた。そのまま引き金を絞る。

 セミオートで放たれた光弾が、次々とイーグルに着弾する。しかし、爆ぜる身体が堕ちる様子はない。

 下方で爆発音が聞こえた。

 見ると、咲が堕ちていくところだった。

 残った小隊長は詩織と、下方でフォローに回っていた華の二人だけしかいない。

 勝てない。

 その事実が、ゆっくりと脳に染み込んでくる。

 ここを突破されれば、このイーグルは本土を強襲するだろう。

 この時間帯では避難に大幅な遅れが生じ、多くの民間人が犠牲になる事は容易に想像できた。

『イーグルから更なるエネルギーを反応を確認』

 通信機からオペレーターの声。

 小銃をイーグルに向け、迎撃態勢をとる。

『来ます』

 オペレーターの声と同時にイーグルの口がぱっくりと開き、光弾が夜空に飛び出す。

 その数、七つ。

 避けられない。

 すぐに詩織はそう判断した。

 前方に小銃を構える。

 全てを撃ち落とすことなんてできるわけがない、と思った。しかし、それでもやらなければならない。

 引き金を絞る。

 反動で揺れる視界には、依然と光弾が映ったままだ。

 もう一度、人差し指に力を入れる。すぐ目の前まで迫っていた光弾が弾け飛ぶ。当たった。しかし、次の攻撃がすぐ近くまで迫っていた。

 小銃にESPエネルギーを装填し、すぐに次の光弾を狙う。発砲音が響くが、変化はない。

 間に合わない。

 小銃へのエネルギー供給を放棄し、全ての力を防御に回す。

 詩織は衝撃に備え、目を瞑った。直後、轟音と衝撃が詩織を包み込んだ。

『これは――』

 誰かの唖然とした声。

 痛みは、やってこなかった。

 ゆっくりと目を開ける。

 光る翼が、目の前に広がっていた。

 天使だ、と詩織は思った。

 目の前の、小さな背中からは巨大な翡翠の翼が飛び出し、詩織達を守るように大きく広がっている。イーグルの放った攻撃は無力化され、静寂が辺りを包んでいた。

『……桜井くん?』

 通信機から華の声。

 それを機に、目の前で翼を広げる小柄な影が、桜井優であることに初めて気づいた。

 優が振り向き、屈託なく笑う。

「ごめんね、遅くなって」

 詩織は安堵感で胸がいっぱいになっていくのを感じた。途端、疲労が限界に達したのか視界がぐらりと揺れる。

「……あ……っ……」

 機械翼へのエネルギー供給が途絶え、落下を始める。しかし、すぐに誰かが優しく抱き上げてくれたのを感じた。

 途方もない安心感が心を満たしていく。

 顔を見なくても、誰なのかわかった。

 不思議と嫌悪感を感じることはなかった。

 最後に感じたのは、安らぎだった。

 そこで詩織の意識は途切れた。

 

◇◆◇

 

「……優くん、どうして……」

 奈々の口から、無意識に言葉が零れた。

 哨戒ヘリが映し出す映像の向こうには、巨大な翡翠の翼を広げる桜井優の姿があった。

 佐藤詩織を抱き上げた優は、その翼を広げて大きく上昇していく。

 彼の背中に広がる翼は、特殊戦術中隊の標準装備である機械翼ではなかった。ESPエネルギーそのものが翼を形作ったような何か。

 既視感があった。

 史上初のESP能力者、柊沙織が今際に見せたもの。

 誰もいない暗い廊下で、血溜まりで倒れていた彼女。

 その背中で折れ曲がっていた翼を思い出し、奈々は一瞬言葉に詰まった。

 

「皆が望む通り、お国のために死ぬまで戦ってあげる」

 

 柊沙織の昏い双眸がフラッシュバックした。

 コンソールを操作する右手が強張り、周囲の音が遠ざかっていく。

 死人が目の前で甦ったような、そんな得体の知れない恐怖心が胸に湧いた。

 琥珀色の鮮やかな髪と後ろ姿が、ますます柊沙織を想起させた。

 そうだった。

 最前線で一人戦い続ける彼女は、いつもそうやって背中を見せていた。

 奈々はいつも、安全な司令室からその背中を見つめていた。

 血に濡れていく彼女の背中を、ただじっと見ている事しかできなかった。

「司令、司令ッ! 指示をッ!」

 加奈の叫び声。

 それでようやく、奈々は現実に戻ってきた。

 ディスプレイに映った映像には、イーグルと距離を取って対峙する桜井優の姿があった。  

「優くん。聞きなさい。我々は鳥型の亡霊を"イーグル"と命名した。イーグルの放つエネルギー弾は追尾能力を有し、現時点では撃ち落とす以外に対抗手段がない。空戦機動によって振り切る事は難しいと仮定しなさい」

『了解です』

 ノイズの混じった優の返答が届く。

 イーグルは突然現れた優を警戒するように、距離をとって旋回を続けている。

 待機状態のイーグルに対し、優がゆっくりと銃を構える。

 一発の銃声。

 それが合図だった。

 イーグルが回避行動に移ると同時に、その口を大きく開いて数発の追尾弾を放つ。

「数が、多い……」

 隣で加奈の呻くような声。

 放たれた追尾弾は全部で七つ。一人で撃ち落としきれる数ではない。

 異なる放物線を描きながらも収束するように集まってくる追尾弾に対し、優は回避行動を見せる事なく、真っ直ぐと飛び続けながら右手を前方にかざした。

「これは――」

 優の右手から、無数のESPエネルギーが放たれた。小さな粒子が扇状に広がり、追尾弾を覆うように包み込んでいく。途端、追尾弾は目標を見失ったように四散していった。

「――フレア?」

 赤外線誘導ミサイルを誤魔化すための燃焼物のように、無数に放たれたESPエネルギーの小弾がイーグルの追尾弾を狂わしていく。

 全ての追尾弾が逸れると同時に、桜井優がイーグルの懐へ飛び込むのが見えた。

 先日見せた、馬鹿げたESPエネルギーの塊が至近距離で爆発する。

「まるで……現代の空戦みたいですね」

 イーグルの断末魔のような叫び声に、加奈の声が被さった。

 一拍遅れて、警戒管制機が送ってくるイーグルの反応が消滅した。

「イーグル、ロストしました」

 オペレーターの放心したような声。

 司令室に、奇妙な沈黙が落ちた。

 中継映像の向こうでは、荒い息を吐く桜井優の姿。

 背中から生えるのは、異形の翼。

「……護衛艦みなみ、桜井優を回収しなさい。機械翼なしの飛行は安全上の都合、認められない」

 それから、と言葉を続ける。

「佐藤詩織、および篠原華の治療を」

 勝利の余韻は、どこにもなかった。



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16話 佐藤詩織(3)

 潮の香りがした。

 護衛艦みなみの甲板に倒れるように臥した優の横で、同じように力尽きて倒れていた華がクスクスと笑い声をあげた。

「はー、本当にびっくりしたぁ。ヒーローは遅れてくるもんなんだね」

 優は弱々しく笑った。

 ESPエネルギーの使いすぎのせいか、全身に力が入らない。

「はじめから出撃できていれば良かったんだけど……ごめんね」

 遠くで哨戒ヘリのローター音がする。

 先に重症を負っていた舞や咲を搬送してからまだ数分と経過していない。どうやら奈々が追加でヘリを寄越したようだった。

「ねえ」

 華の弾んだ声。

「あの光の翼、どうやったの?」

 その問いに、優はうまく答えられなかった。

 仰向けになり、夜空を見ながら考える。

「遠くで亡霊の気配が感じられて。急行しないと、って思った。気づいたら……ESP能力で空を飛べる気がして。身体がやり方を知っているような、そんな不思議な感じで……」

「そっか……」

 華の声が、ローター音に掻き消された。

 護衛艦の上空に滞空した哨戒ヘリが、慎重にレスキューホイストを吊り下げてくる。

「桜井さん、先にどうぞ。一番しんどそうです」

 足を引きずるようにして、詩織がやってくる。

 彼女は自然な動作で優を抱え、ぶら下がったレスキューホイストに向かって歩き始めた。

 それを見た華が驚いた顔を浮かべる。

「詩織ちゃん……その……桜井くんに触っても大丈夫なの?」

 優を抱えたまま、詩織が振り返る。

 彼女は不思議そうに首を傾げて、それから穏やかな笑みを見せた。

「はい。なんだか、大丈夫みたいなんです」

 哨戒ヘリが巻き起こした風で詩織の髪が大きくなびく。

 一瞬髪の間から見えた耳元は、仄かに赤くなっていた。

 

◇◆◇

 

 詩織は医務室の白いドアをノックした。

 暫く待ってみるも、返事はない。ドアノブに手を延ばす。

 ゆっくりとドアを開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。

 部屋に入ると、すぐに優の姿を見つけた。

 彼は白いベッドで静かに寝息を立てている。

 詩織は起こさないようにゆっくりとベッドに近づいた。そして持参した果物をそばに置きながら、寝顔を覗き見る。

 綺麗な寝顔だった。

 そこでふと、上半身が裸であることに気付き、小さく赤面する。

 幸い、毛布があるので目のやり場に困ることはなかった。

 やることもないので、来客用の椅子に座る。

 詩織は窓へ視線を向けた。

 開放的な大きな窓には、澄んだ青空がうつっている。詩織は目を瞑り、戦いとは離れた、静かな日常に身を委ねた。

 こんなに安らいだ気持ちになったのはいつ以来だろう、と思う。そばに優がいるだけで、詩織は安心することができた。

 以前は男というだけで、恐怖心を覚えた。それは無意識レベルのもので、抑えようとしても何とかなるものではなかった。

 しかし、今の詩織は優に絶対的な守護を感じていた。きっと、この人は私を傷つけない。きっと、私を守ってくれる。あの、翡翠の翼とともに現れた小さな背中を見た時、そう、根拠もなくそう信じられた。

「…っん……」

 優が寝返りを打った。

 毛布がずれて、彼の上半身が露になる。

 ちらりと、視線が追ってしまった。無意識の目の動きだった。

 思わず息を呑んだ。

 優の体には無数の傷があった。

 新しい傷ではない。とても古い傷が全身に広がっている。

 火傷のようなものが一番多かった。

 医療用ナノマシンによって、自然治癒が働いている箇所は既に回復している。つまり、この傷は特殊戦術中隊に入る以前に出来たものと推測できる。

 詩織は優を見た。

 まだ幼くあどけない寝顔を見て、詩織は胸が熱くなるのを感じた。

 ――――まさか、先輩も私のように――――

 何があったのかは分からない。

 しかし、きっと優は周りが期待するような、強い少年ではないのかもしれない。

 そして、詩織は何故優をすんなりと受け入れられたのかわかった気がした。

 ――私と似ているんだ。

 詩織はそっと幼い少年の前髪を撫でた。

「んっ……」

 優がゆっくりと目を開ける。

「気分はいかがですか?」

「わっ!……佐藤さん?」

 優が驚いたように声をあげる。

「意外そうな反応、ですね」

「いやっ、そういう意味じゃなくて……でも、何でっ?」

 優が混乱したような声をあげる。詩織はその様子を見て頬を緩めた。

「騒ぐと体に障りますよ」

 詩織の注意で、優が幾分かの落ち着きを取り戻す。

「でも……大丈夫なの……?」

 遠慮がちに優がたずねる。

 何が言いたいかすぐに理解して詩織は、はっきりと頷いた。

「はい。もう大丈夫です」

「……そっか」

 優が安心したようにそう答えた時、ノックの音が鳴った。

 優が返事する間もなく扉が開く。入ってきたのは、陸上自衛軍の制服を来た壮年の男だった。

 階級章は、陸上中将。

 彼は白色が混じる無精髭を撫でて、怪我はどうだ、と口を開く。

 詩織が立ち上がって椅子を譲ると、悪いね、とどこか機械的に笑って椅子に腰かけた。詩織は恐縮したように壁際に寄った。

「私は陸上自衛軍の上田というものだ。さて、疲れてるだろうが、いくつか聞きたいことがある。良いかな?」

「はい」

 優の返事に上田中将は満足そうに頷いた。

「君がESP能力者と接触した、と聞いた。それは間違いないね?」

 詩織が戸惑ったように優を見る。優は詩織の視線に気付かずに、頷いた。

「はい」

「そのESP能力者の名前は分かるかな?」

「いいえ」

 そうか、と呟いて、上田は一枚の写真を取り出した。

「君が接触したのは、この女の子かい?」

 詩織の位置からは写真が見えなかった。しかし、優が頷くのは見えた。

「はい。間違いありません」

「この子と何を話した? つまり、彼女の行方の手がかりとなるようなことは――」

「何も話していません」

「どんな小さなことでも何か手がかりに繋がるかもしれない。話した内容を全て教えてくれないかな?」

「話していません。何も、です。急な戦闘で、話せる雰囲気ではありませんでした」

 優が繰り返す。上田は粘り強く訊ねた。

「じゃあ、何故襲われたのか、も分からずに戦闘を?」

「はい。正当防衛でした。拘束された状態から逃げる時も相手の不意をついたので、本当に話す機会はありませんでした」

 詩織はそこでようやく気付いた。

 これは尋問だ。

 優は何かを疑われている。

「そうそう、その逃げる時に君は無数のESPエネルギーを全包囲に放ったようだな。それが軍のESPエネルギー探知機を結果的に無力化してしまったんだよ。君はこれを予想したかな?」

 優が黙る。

 上田中将は口調こそ子どもを諭すような優しさを保っていたが、その目の奥は一切笑っていなかった。

「それについては謝罪します。しかし、ESP能力者もESPエネルギーを感知することが可能です。追撃を避ける為には、あの撹乱は必要不可欠でした」

「ふむ。では、その行為が軍のESPエネルギー探知機をも撹乱することは予想できたんだね?」

 中将が繰り返し問う。

 詩織には一連のやりとりの意味が分からなかった。

 しかし、何か特定の答えを引き出したい、という事だけは分かった。

「はい。予想はしました」

「では、少し待てば軍が支援行動を取る、とも予想できた訳だ。君が気絶して拘束された時点で、相手は君に殺意を持っていない、と判断できる。しかし、君は軍の支援を期待して待機しようとはしなかった。何故だ?」

 中将の言葉には明らかな批判が含まれていた。

 詩織は扉に目をやった。

 これは恐らく、奈々に報告するべき事案だった。

 しかし、抜け出せるような状況でもない。

「僕、いえ、私が遠方でESPエネルギーを感知したからです。同僚が苦戦しているのを感じ、軍の支援を期待している余裕がないと判断しました」

 中将は何かを考えるかのように黙りこんだ。

 部屋に沈黙が落ちる。

 詩織は居心地の悪さに目を伏せた。

 優も、緊張した様子で中将を見ている。

「そうか」

 不意に、上田中将が立ち上がった。

「悪かったね。参考になったよ」

 そう言って、扉に歩を進める。

 しかし、詩織が安堵の息を吐いた瞬間、中将の足が止まった。

「最後の質問だ。君は何者であるべきだと思う?」

 詩織は質問の意味が分からず、首を傾けた。

 反対に、優は質問から何かの意図を読み取ったように、真剣な顔で答えた。

「特殊戦術中隊に所属する一兵士です」

 上田中将は何も言わず、扉を開けた。

 その姿が消え、扉が静かに閉まる。

 詩織は優を見た。優も詩織を見ていた。

 どちらからともなく、思わず苦笑する。

「何だったんだろうね?」

 詩織は答えに困って何も言えなかった。

 優もそれを感じたのか、話を続けようとはせず、ベッドに全体重を預けた。

 そしてすぐ、何かに気付いたように跳ね起きる。

「あーっ! そういえば、買ってきたゲームとか全部忘れてきたっ!」

 思わず、詩織は小さく笑みをこぼした。

「あ、そうだ。前に桜井さんが言ってたルーライズのプリン買ってきました」

「覚えてくれてたんだ」

「はい。あそこ凄いですね。プリン以外にも――」

 医務室に笑い声が響く。

 二人の間に以前のようなぎくしゃくした雰囲気はなかった。

 その日、少女は生涯で見れば小さな、けれども本人にとっては大きな、かけがえのない一歩を踏み出した。

 プリンを差し出した手が、優の手に触れる。

 詩織は、動じない。

 その手は、震えない。

 ただ、頬が桜色に色づくだけだった。

 

 

 

1章 救世主 完結

2章 本土地上戦へ続く



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2章 本土地上戦
01話 山田茂雄


 青空が広がっていた。

 その下に、荒々しい息遣いが響く。

 桜井優は背中に機械翼を背負い、両手に小銃を抱えて原っぱを走っていた。

 特殊戦術中隊は建前の上では軍隊ではないが、最前線に送られる部隊である事に変わりはない。

 こうした走り込みを命令されるのは珍しくなかった。

 ゴールに辿り着つくなり、すぐに機械翼を外してその場に倒れ込む。

「お疲れさま」

 先に訓練を終えていた篠原華がタオルを差し出す。

 優は息を整えながらそれを受け取った。

「……あり、がとう……」

「慣れないとしんどいよね」

 苦笑する華の言葉に、優は黙って頷いた。相槌を打つ気力もなかった。

 寝返りを打ち、後ろを確認する。

 まだ走っている中隊員が大勢いた。

「あ、京子も終わったみたい」

 華の声と同時に、京子が向こうからふらふらと寄ってくるところだった。

「はあ……はあ……もうダメ……」

 彼女はそう言って、機械翼をつけたまま前のめりに倒れ込んだ。

「おつかれさま」

 優が声をかけると、京子は恨めしそうに顔をあげた。

「なんで……はあ……入ったばかりの桜井のほうが……早いの……」

「京子が練習さぼってるからでしょう」

 隣から華の声。

「はあ……そもそも、これ、意味あんの……私達、どうせ空飛ぶじゃん……」

 そう言われて、ふと疑問に思う。

 現在、亡霊対策室は洋上封鎖ドクトリンと呼ばれる基本原則に従って人員を編成し、標準装備を更新している。

 亡霊が本土に到達する前に洋上で撃破するというこの原則において、地上戦というものは重要視されていない。

「うーん、昔聞いた話なんだけどね、軍事学的に占領には歩兵が絶対に必要なんだって」

 考え込む優の横で、華が思い出したように言った。

「占領?」

「そう、占領。例えば安全に攻撃するだけだったらミサイル飛ばしたり空爆するのが一番だけど、最終フェイズとして占領しないといけないわけじゃない? そこで屋内を制圧できる歩兵が絶対にいるんだって」

「いやいや、どこを占領するの?」

 京子が笑う。

 華は少し考えて、それから真顔で言った。

「……白流島だよ。最終目標である白流島攻略を司令部はずっと考えているんじゃないかな」

「白流島……」

 日本海に浮かぶ有人島。

 現在、謎の濃霧に包まれて亡霊の拠点となっている。住民の生死は不明。

 物心がついてから、日本はずっと亡霊との闘争を続けてきた。

 白流島攻略という考えが、優にはどこか現実離れしたもののように思えた。

「……そうしないと、この闘争はいつまでも終わらないんだもの」

 華の呟きを聞きながら思う。

 司令部は、本気で白流島を攻略する気なのだろうか。

 テレビ越しに何度も見てきた亡霊対策室司令、神条奈々の飾りめいた笑顔がふと脳裏によぎって、それから消えていった。

 

 

 

 

 

──────────2章 本土地上戦

 

 

 

 

 

「戦争には、英雄が必要でございます」

 ねっとりと絡みつくような声に、神条奈々はうんざりとした表情を見せた。

「これは、国家総動員の総力戦ではない。そんなものは必要ない」

「国民は不安を覚えております。終わらない侵略に震えております。我が子は無事に成人できるのか。晴れ姿を見ることはできるのか。孫を抱くことはできるのか。皆、そのような不安を抱いて生きているのでございます」

 そう説くのは、亡霊対策室広報部の長、山田茂雄(やまだ しげお)だった。

 でっぷりと飛び出したお腹を揺らしながら、彼は力説する。

「神条司令、よくお考えください。桜井優は既に戦略情報局の手によってメディアに露出しております。このまま戦略情報局の傀儡として利用されるくらいなら、我々対策室によって良識な英雄を作り上げるべきです。彼にとっても、そのほうが負担が少ないに違いない。そうではありませんか?」

 思わず息を吐く。

 神条奈々は山田茂雄に視線を向けると、じっと睨みつけた。

「桜井優がまだ十六歳の未成年であることをあなたは忘れていないかしら」

「理解しております。まだ幼い彼にとって、得体の知れないSIAのプロパガンダに利用されるのは耐え難い重責でありましょう。身内である我々が動いた方が、きっと彼の負担も少ないはずです」

「柊沙織は、違った」

 思わず、彼女の名前が口を飛び出した。

「柊沙織は英雄化によって、引き下がれない状況に追い込まれた。彼女は小銃を投げ捨てる権利を失った。英雄になるということは、そういう事でしょう。あなたは、桜井優の逃げる権利を奪おうとしている」

「力を持った者の定めでございます。人間社会は、どれだけ取り繕うとも功利的な部分がございます。桜井優の持つESP能力は、稀有なものです。その力は公共のために振るわれなければなりません。そして、我々は最大限のサポートで彼を支えなければならない」

「許可しない。未成年をプロパガンダに担ぎ出すなんて全うじゃない。子供を前線に送り出す現状が既に狂っているのよ。私がここの司令官である内は、これ以上狂った事になんてさせない」

 奈々が睨みつけた先で、山田茂雄はいつもの張り付いた笑顔を浮かべたまま表情を崩さなかった。

 それがどうしようもなく奈々を苛立たせた。

「話は終わりよ。出ていきなさい」

「承知いたしました。しかし、近い内、必ずSIAからプロパガンダの発案がございましょう。私ならば、きっと最小限の負担で彼を英雄に仕立てあげてみせます。覚えておいてください」

 山田茂雄はそう言って背中を見せた。どこか片足に負担をかけるような歩き方で、引きずるように司令室から出ていく。

 その背中を見送りながら、奈々は思考を巡らせた。

 ――危険な男だ。

 広報部長としては、仕事の出来る男だった。

 しかし、人を操る事に快感を覚えている節がある。

 元々、海外でアジテーターとしての活動実績がある男だ。

 七年前、柊沙織を英雄として利用するように提唱したのも彼だった。当時、戦略情報局の思想教育部隊に携わっていたのではないか、とも言われている。

 奈々は小さく息をつき、椅子を回転させて窓の外へ目を向けた。

 広がる原っぱで、中隊員たちが走っているところだった。

 小銃を抱えて走る少女たちを見て、ふと思い出す。

 柊沙織が死んだのは海の上ではなく地上だったな、と。

 英雄として祭り上げられた彼女は、暗い廊下で息絶えた。

 そばには、壊れた小銃が落ちていた。

 英雄と呼ばれた少女が残したものは、それだけだった。

 後には何も、残らなかった。

 何も。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 訓練後、優は一人で本部に戻った。

 シャワーを浴びる前に渇いた喉を癒そうと自販機に向かうと、基地内では珍しい男性の姿があった。

 情報部の主任である斎藤準だ。

 優がここに来た時に本部内の案内をしてくれた人で、数少ない男性の知り合いだった。

「よっ、また新しい女の子ひっかけたんだって?」

 準がからかうように話しかけてくる。

 優は苦笑して「またって何ですか」と抗議の目を向けた。

「そういう、斎藤さんはどうなんですか?」

 準には付き合っている女性がいた。

 同じ情報部の田中幸枝。

 過去に一度だけ会った事があって、大人びて綺麗な人だった、と優は記憶している。

「婚約したよ」

 思いがけない返答に優は取り出した財布を落とした。

「おめでとうございます。田中さんも物好きですねー」

「素直に祝えよ。ところで、財布変わったんだな」

 財布を拾おうとしていた優の動きが止まる。

「女の子は現金より、プレゼントを渡された方が喜ぶぞ」

 その言葉を吟味し、意味をすぐに悟る。

 優は驚きを隠せず、弾かれたように準の瞳を見た。

「知っていたんですか?」

「あぁ。一部始終が街の街頭カメラにばっちり映ってた。消しといたけどな。」

 準は手に持っていたコーヒーを一口飲んで、話を続けた。

「逃亡資金として財布ごと彼女に渡したんだろ? 随分と気前がいいな」

 優は返答に窮して、黙りこんだ。

「……広瀬理沙は高校でいじめに遭っていたそうだ」

 準はじっとコーヒーの缶を見つめて、何でもない風を装いながら話を始めた。優は静かに耳を傾けた。

「いじめの原因はESP能力。ESP能力が発現するまでは普通の学生生活を送っていたらしい」

 言葉を選ぶように、小さく間をおきながら準の続ける。

「それがエスカレートして事件に繋がった。現場には刃物が落ちていた。恐らく、広瀬理沙に向けられたものだ。現場を見た限りでは正当防衛の線が濃い」

「……未成年による正当防衛。かなりの減刑があるってことですか?」

「……いや、正直なところそれは難しいと思う」

「ESP能力で人を殺したからですか?」

 優は無表情にそう言った。

 意識的に感情が出ないように抑え込んだ声だった。

「この国は、法治国家だ。でも、そうじゃない部分もいっぱいある。戦時下なんだ。俺たちにはどうしようもない」

 優が目を伏せる。

「……広瀬さんは、どうすれば良かったんでしょうか」

「……逃げるしかなかったんだ。人生には、そういう場面がいっぱい出てくる。関わってしまった時点で不幸になる人間ってのが一定数いるんだ。俺たちに出来ることは距離をとって、逃げる事だ」

「……僕がやったのは、正しかったんでしょうか?」

「さあな。これから広瀬理沙がどうするかによるだろうよ。もし広瀬理沙が無差別殺人を始めた場合、お前は責任を取らないといけない。しかし、広瀬理沙が穏やかに余生を過ごした場合、お前は少しだけ誇らしく生きていける」

 準はそう言って、手に持ったコーヒーを飲み干した。

「いいか、桜井。逃げてもいいんだ。広瀬理沙みたいな状況に追い詰められたら、逃げるしかないんだ。やり返したってろくな結果にならない」

 準の目が、優を見る。

 どこか、憐れむような目だった。

「小銃だって、投げ捨てていいんだ。機械翼だって、投げ捨てていい。お前の命はお前だけのものだ」

 優は何も答えられなかった。

 亡霊対策室に所属する者として到底許されるとは思えない発言に、優は内心動揺していた。

「じゃ、俺は仕事に戻るよ」

 缶をゴミ箱に投げ、準が踵を返す。

 優は小さく返事して、自販機のボタンを押した。大袈裟な音を立てて、缶コーヒーが落ちる。

 優は緩慢な動作でそれを取り出した。

 遠ざかる準の後ろ姿を見ながら、理沙の事を考える。

 苦いコーヒーの味が口内を満たした。



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02話 宮城愛(2)

 桜井優は緊張しながら昼食をとっていた。

 目の前には無表情で定食を食べる宮城愛の姿がある。

 愛から自分の定食に視線を戻し、唐揚げを口に運ぶ。緊張で味が分からない。

「この唐揚げ、味薄くない?」

 意を決して話しかけてみる。

 しかし、意に返さず食事を続ける愛。

 会話が全く成立しない。

 大人しいというより、無口、という言葉がぴったりな少女だった。

 優は気まずそうな顔で、味が薄いどころか味のしない唐揚げを再び口に放り投げた。

 本来は京子と愛の二人と昼食を食べる予定だった。

 ところが京子に急用ができた為、こうした気まずいシチュエーションができてしまった。

 心の中で京子を怨む。

「そういえば、宮城さんって何歳なの?」

 ダメもとでもう一度話しかけてみる。

 すると、愛の箸の動きがピタリと止まった。

「……十六」

 どうやら完全に無視するつもりではないらしい。

「…………後、愛でいい。苗字で呼ばれるのは好きじゃない」

 愛はそう言って、再び食事に戻った。

 嫌われている訳ではないようだった。

 優が見た限り、愛は誰にでも無愛想である。

「愛……さん? 愛……ちゃん? どっちがいいかな?」

 それほど親しくないのに名前で呼べと言われても逆に困る。

 一応、二通りの選択肢を並べてみるが、愛は構わず食事を続ける。

 優はむっと口を結んだ。無視されればされるほど意地でも喋らせたくなってくる。

「ここの食堂、美味しいよね」

「…………」

「……昨日のテレビ見た?」

「…………」

「…………ある男が友人にジグソーパズルを見せびらかした。普通にやれば三年かかるパズルを三ヶ月で完成させたってね。半信半疑でパズルの箱を見てみるとこう書いてあった。3yearsって。あ、うん。何でもないです」

「…………」

 心が折れた。

 色々話題を変えてみるも、全く食いついてこない。

 京子たちは普段、彼女とどんな話をしているのだろうか。

 謎である。

「愛ちゃんの趣味って何?」

 とりあえず、食いつきそうな話が全くわからない為、向こうの趣味に合わせる事にした。

「……読書」

 それを聞いて、優は目を輝かせた。優も読書が趣味で、読むジャンルも幅広い。

「あ、読書なら僕も好きだよ。どんなの読むの?」

「……サイバーパンクとポストアポカリプス」

「ジャンル狭っ!?」

 何だかもう駄目な気がしてきた。

 頭を抱える。

 京子はまだ帰ってこない。

 早く帰ってきて、と心の中で悲鳴をあげる。

「……あ、ご飯粒ついてるよ」

 愛の頬に米粒がついている事に気づき、何気なく手を伸ばして取る。

 その瞬間、愛の顔がぼふっという擬音が似合うほど一気に赤面した。

 それを見た優は、新しいおもちゃを見つけた子どものように、ぱっと目を輝かせた。

 

◇◆◇

 

 京子は急ぎ足で食堂に入った。

 愛と優を二人っきりにしたのは失敗だった。

 きっと気まずい沈黙が流れているに違いない。

 京子は心の中で謝り、愛たちを捜そうと席を見渡した。

 二人はすぐに見つかった。だが、様子がおかしい。二人はテーブルの上で手を握り合い、愛は恥ずかしそうに顔を背けていた。

 不審に思いながらも近づく。しかし、不穏な言葉が流れてきた。

「愛ちゃん……愛してるよ」

「あんたは何で公共の場で愛を囁いてんのっ!?」

 京子が詰め寄り、首根っこを掴むと優が慌てて弁解を始める。

「ち、ちがっ! 反応が面白かったからつい悪のりして!」

「あんたねえ……っ!」

「悪気はなかったんです! ごめんなさい!」

 優がおずおずと、京子の反応をうかがうようにこちらを見やる。

「い、いや、愛ちゃんが無視するから相手して欲しくて……」

 上目使いで寂しそうな顔をする優。

 優は幼い顔つきながらも、整った顔立ちをしている。少なくとも、京子の知るどんな男性よりも。

 京子は優を見てうめいた。頬が僅かに赤く染まる。クリーンヒットだった。そして、京子は無意識に口を開いた。

「……許す」

 桜井優。彼は割りと何でも許される最強のESP能力者である。




「崩恋 ~くずこい~」が完結しました。
「樹界の王」を新規投稿開始しました。
ヤンデレ短編2つ新規投稿しました。

よろしければ他もよろしくお願いいたします。


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03話 姫野雪

 重い金属製の扉を開けると、眩い光とともに心地良い風が吹いた。

 思わず目を細める。少し肌寒かった。

 桜井優は亡霊対策の寮棟にある屋上に来ていた。

 この頃はよくここに足を運んでいる。

 亡霊対策室の中では比較的静かで落ち着ける数少ない場所だった。

 扉が重い音を立てて閉まる。その時、思わぬところから声があがった。

「こんにちは、桜井くん」

 驚いて声のした方向に目を向ける。

 そこにはフェンスにもたれかかるように、第二小隊長の姫野雪が立っていた。

「あ、こんにちは」

「風に当たりにきたの?」

 小さく頭を下げる優に、雪がゆっくりと近づいてくる。

「それとも……なにか悩みごと?」

「えーと、外の空気を吸いに……」

「嘘」

 雪は優の目の前で立ち止まり、顔を覗きこむように腰を曲げた。

 顔の距離が五十センチほどまで縮まる。優は思わず後ずさりそうになった。

 雪とはあまり話した事がなかった。慣れない彼女の雰囲気に呑まれそうになる。

「う、嘘ってどういう意味ですか?」

「あなたは悩みがあってここにきた。広瀬理沙の事が心配なんでしょう?」

 とくん、と心臓が跳ねた。

 あれを知っているのは陸上自衛軍と奈々、それに情報部の一部だけのはずだ。

 優は警戒するように雪を見た。

 雪は薄い笑みを浮かべたまま表情を崩さない。

 優の反応を見て楽しんでいるようだった。

 彼女の優しい眼差しが、じっとりと優を射抜く。

 大人びた憂いを帯びた淡紅色の瞳。そこに、光を反射する銀色の髪がひらりと重なる。

 今まで赤い瞳はカラーコンタクトだと思っていたが、間近で見ると本物だとわかった。

 誰かが雪の事をアルビノだと言っていた気がする。先天的な遺伝子疾患が原因である、と。

 ――あの人はさ、多分、あんまり身体が良くないんじゃないかな。日光に弱いし、視力も低いはずだよ。本来、小隊長には向いてないかもしれない。

 そう評したのは、確か第四小隊長の舞だったか。

「あ、あのっ、日光を浴びるとまずいんじゃ……?」

 広瀬理沙の話題を逸らそうと試みる。

 しかし、雪は優しい微笑みを浮かべてそれを受け流した。

「ええ。でも、今はそういうお薬があるの」

「そ、そうなんですか――わっ」

 不意に雪の手が優の頬にのびた。

 突然のことに固まる。

 雪の淡紅色の瞳が優を瞳を射ぬいた。

 まるで頭の中を覗かれるような奇妙な錯覚に陥る。

 優は咄嗟に目を逸らせそうになって、意識的に耐えた。

「あなたは、アルビノじゃないのね」

「――え?」

 思わぬ言葉に、気の抜けた言葉がもれる。

 雪の手が頬から名残惜しそうに離れる。

 そして、彼女は再び微笑を浮かべた。

「広瀬さんとコンタクトを取りたいなら、ESPエネルギーをもっと上手く扱えるようになれるようにしなさい。ESPエネルギーは攻撃手段以外にも情報体としての特性を持ちます。正しくは、そちらが本質なのですけれどね」

 話が急に戻った。唐突な変化に軽く混乱する。

「情報体……?」

「そう。あなたはそれを既に知っているはず」

 優の脳裏にイーグルの放った追尾弾が浮かんだ。

 ――ESPエネルギーは情報体としての特性を持つ。

 いくつもの疑問が濁流のように溢れ、雪に訊ねようとした時、彼女はくるりと背を向けた。

「あ、あの」

 呼び止めると、雪は一度だけ振り返り、柔らかい微笑を浮かべた。そして、滑るようにすうっと出入り口へ消えていく。

 いつのまにか、優はその様子に見惚れていた。

 ――不思議な人だなぁ。

 そう思いながら、自身の右手を見つめた。表面を覆うようにして光り輝くESPエネルギー。

 ESPエネルギーの扱いに上手くなれ、と雪は言った。

 不思議とデタラメな言葉ではないように思えた。どこか確信めいた言い方だった。

 強く風が吹き上げる。

 優は静かにESPエネルギーを纏い始めた。

 自身の手を見る。

 練り上げたESPエネルギーによって翡翠の光が溢れていた。

 現時点で、優は攻撃以外にESPエネルギーによる光翼を作り出す事が出来る。

 攻撃の為の単純なエネルギーの出力ではなく、持続的に揚力を発生させるエネルギーのコントロール。

 小銃も機械翼も、ESPエネルギーに指向性を与える為の補助具でしかない。

 本来のESPエネルギーはもっと自由に使えるはずだった。

 なのに、誰もそれを体得できていないだけなのではないか、と思う。

 練り上げたESPエネルギーを、光翼のように指先に維持させるように意識する。

 何かを具現化させようと集中する。

 指先に集まったESPエネルギーがすぐに霧散し、大気中に溶けていく。

 優は諦めず、もう一度ESPエネルギーを練り始めた。

 今度は指先ではなく背中にESPエネルギーを集中させて、以前のような光翼を作り出す。

 背中から広がった翡翠の光が、優を包み込んだ。

 やはり、小銃から撃ち出しているようなESPエネルギーとは違う。この光は攻撃的な特性を保持していない。

 これと同様のものを、背中以外から出力しようと試みる。

 しかし、何度挑戦しても指先に集中したESPエネルギーは、蒸発するように一瞬で霧散してしまう。

 原因を考える。それらしい理屈が一つだけ頭に浮かんだ。

 日常的に機械翼を使用しているため、ESPエネルギーを用いて空を飛ぶ、という認識と感覚が既に頭にあった為だろうか。

 イメージ、あるいは自己の認識、経験。それらが必要な可能性が高い。

 優は試行錯誤を重ねながら、そのまま屋上でESPエネルギーを練り続けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「ねえ。いきなりだけど姫野さんって強いの?」

 華、京子、愛のいつもの第一小隊のメンバーと食堂で夕食を食べていた時、優は何となく気になっていた言葉を口にした。

 華と京子がキョトンとした顔をする。

 愛は相変わらず無表情のままだ。

「そりゃあ……小隊長だし強いんじゃない?」

「小隊長の中ではどうなのかなって」

「んー、例えば黒木さんは近接戦闘に長けてるし、咲ちゃんは狙撃技術に特化しているし、みんな戦い方が全然違うから一概には言えないけど、一番強いのは第六小隊長の白崎さんかも」

 華が悩んだように言う。

 小隊長である華が言うのだから、かなり信憑性が高い。

「白崎さん?」

「うん。なんというか、戦い方が派手だよ。高出力のESPエネルギーで一気に殲滅しちゃうの。でも……」

 華は何かに気付いたように言葉を続けた。

「そういえば、姫野さんが大きな怪我をしたのって前のイーグル戦が初めてかも。あまり目立たないけど、もしかしたら白崎さんと同じくらい強いのかもしれないねー」

「へえ……一度も大きい怪我をした事がない、か……」

 集団戦において、全ての敵に注意を向けることは不可能だ。

 必ずどこかに死角ができ、そこからの攻撃にはどんな機動力を持っていても避けることは叶わない。

 一度も大怪我をした事がないという事は、常に全体を見渡せるような余裕を持っている、という事だ。

「何でいきなりそんな事を?」

「んー、昼に会った時、やけにESPエネルギーに詳しそうな話をしていたから、強いのかなって」

 京子の問いに少しぼかして答える。

 華がやや意外そうに眉をひそめた。

「……姫野さんとお話したの?」

「うん。ちょっとだけだよ」

「珍しいね。姫野さんっていつも他人と距離を置いてるような感じだから。同じ小隊長の私でもあまりお話した事ないよ」

「……逆ナン?」

 愛が首を傾げて、じっと見つめてくる。

 思わず苦笑して、首を振った。

「違うよ。屋上に行ったら、たまたま会っただけ。愛ちゃんは誤解を産むようなことばっかり言うんだから」

 視界の隅で華が不思議そうな表情を浮かべる。

「そういえば、桜井くんはいつから愛の事名前で呼んでるの? 私なんて未だに『篠原さん』のままなのに……」

「いや、それは愛ちゃんから――」

「あ、そういえば桜井って佐藤隊長のこともいつの間にか名前で呼んでなかったっけ?」

 何かに気付いたように、京子がぽつりと零す。

 それを聞いた華はジト目で優を見つめた。

「この差は何なんですか?」

「……えっと、別に意図したものじゃないんだけど……」

 思わず苦笑いを浮かべて誤魔化す。

「……呼び方は統一すべきだとおもいます」

「あ、じゃあ私もそれで。いいじゃん。他人行儀すぎても良くないって」

 抗議を続ける華と、それに便乗する京子。

 優は二人をちらっと見て、首を傾げた。

「じゃあ、何て呼べばいいの? ……華ちゃん?」

 試しに言ってみると、華の顔が茹蛸のように赤く染まった。

「私は?」

「……えっとじゃあ、京子?」

「……何で私だけ呼び捨てな訳?」

 不満そうに唸る京子。

「だって、ちゃん付けするタイプじゃないし……京子ちゃん、とかどう考えても似合わないと思うよ」

 そう言って、優はまだ半分以上残ってる親子丼に箸をのばした。

 さっきから話してばかりで一向に中身が減っていない。冷める前に食べきらなければ、とペースをあげる。

 それに合わせるように華は唐揚げ定食、京子はしょうが焼き定食に手をのばした。愛はさきほどから隣で黙々とミートスパゲティを食べ続けているが、あまり量は減っていない。食べる速度が遅いのだろう。

 そのまま食事を続けていると、優たちのテーブルの近くに一人の女の子が近づいてきた。華か京子の知り合いだろうか。

 チラ、と横目で見ると少女は優のすぐ隣で立ち止まった。

「あ、あのっ!」

 思わず、話しかけてきた少女に目をやる。

 ツインテールが特徴的な小柄な少女だ。恐らくは年下だろう。

 何故か、彼女の目は真っ直ぐと優に向けられていた。

 どこかで会った事があっただろうか、と記憶を辿るも思い出せない。

 キョトン、とする優に向かって、彼女が口を開く。

「す……す、す、すすす好きですっ! わ、私と付き合ってくださいっ!」

 その一言で場が凍った。

 視界の隅で華が石化しているのが見えた。

 誰かのスプーンが落ちる音。

「……らぶらぶ」

 愛の呟きが、妙に大きく響いた。



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04話 望月麗

 付き合ってください。確かにそう聞こえた。

 混乱したまま少女の姿を観察する。

 身長は優よりも小さい。一四〇センチメートルくらいだろうか。顔は整いながらもまだ幼い感じで、両サイドをリボンで結んだ金色の髪が幼さに拍車をかけている。

 そこでようやく、同じ第一小隊に所属している女の子である事に気づく。しかし、名前は覚えていない。そして会話した事もなかったはずだった。

「……えっと、ごめん。状況がよく飲み込めないんだけど……」

「だ、だから、私と付き合ってください!」

 少女は叫ぶように繰り返した。

 その慌てぶりを見て、反対に冷静さを取り戻す。

 どうやら悪戯ではなさそうだった。

 優は少し迷いながらも、はっきりと答えた。

「えっと……ごめんなさい」

 嫌な静寂が訪れた。

 伏せ目がちに沈む少女の様子を見て、言葉を続ける。

「……ごめんね。正直、名前も知らないし、いきなり、そういうのは、どうかなって……」

「……望月麗(もちづき れい)です」

「えっと、望月さん。今、言った通り、良く知らない人と付き合うとか、想像できなくて。だから、ごめんね。でも、そういう好意を向けられたのって初めてだったから嬉しかったです。ありがと」

 素直に自分の気持ちを伝える。はっきりと彼女が納得できるように。

 麗は悔しそうにぎゅっと口を結んだ。本当に悔しそうな顔だった。

 何故、そんな表情ができるのだろう。まだろくに話したこともない間柄だというのに。

 優の記憶では、麗との接点は今まで一度もなかったはずだった。

「じゃあ――」

 麗は何かを決心したように口を開いた。

「――知らない人と付き合うのが嫌なら、まずお友だちとして付き合っていただけませんか?」

「え……うん、ただの友達なら……」

「じゃ、じゃあ、連絡先を交換してください!」

 麗の勢いに押され、携帯を取りだす。

「いけたかな?」

「はい。じゃあ、私はこれで失礼します!」

 連絡先を交換し終えて満足したように麗が慌ただしく去っていく。

「何と言うか、積極的な子だね……」

 麗の後ろ姿を見送っていた華がぽつりと呟いた。

 優は曖昧に頷いた。

「何で断ったの? 可愛い子だったじゃん」

 京子が、もったいない、といった表情で言う。

「全く接点がなかった子だし……」

「ふーん。もしかして既に彼女とかいたりして?」

 からかうように言う京子。

 同時に華が身を乗り出して真剣な顔で見つめてくる。

「いないよ。中隊に入ったばかりなんだから、周りは知らない人ばかりでそんな関係に進展しないってば。よく知らない人とお付き合いなんてやっぱり無理だよ」

「ふーん……じゃあ知ってる人ならいいんだ?」

 京子が悪戯っぽく笑う。

 優は返答に窮して、それなら良いけど、と曖昧に濁した。

「てかさ、桜井って年下のほうが良いの? 年上受けしそうな感じだけど」

「いや……あんまり年齢に拘りとかないよ。あ、望月さんってやっぱり年下だったの?」

「うん。確か二つ下だったから中二じゃない?」

 中二、という言葉が妙に印象的だった。

 通常、特殊戦術中隊に入隊した時点で学業からは離れる事になる。しかし、義務教育である中学校を辞めることはできない為、便宜上まだ彼女は学生なのだろう。

「そういえば、詩織ちゃんも一個下だっけ。後輩たちは積極的だねぇ。華も頑張りなさいよ」

「ええっ!? わ、わたしは別に――」

 京子の言葉に華が顔を真っ赤にして慌てふためく。

 優は苦笑して、すっかり冷めた親子丼を口に運んだ。 

 

◇◆◇

 

 夕食を終えた後、優たち四人は寮棟に繋がる通路に向かおうと、一階ロビーを通った。

 その時、警備員と年輩の女性が入り口で言い争っているのが見えた。

 珍しい光景に自然と足が止まる。女性は「中に入れろ」と騒いでいて、警備員が三人がかりでそれを押さえ込んでいた。

「なに、あれ?」

 不思議そうにその光景を見つめながら尋ねると、京子が呆れたような声で答えた。

「第四小隊の……誰だっけ。誰かの母親らしいよ。ああやって娘に面会させろって頻繁に乗り込んでくるわけ。ちょっとした名物みたいなもんだよ」

「面会? ああ、既に面会時間が終わってるのにゴネてるとか?」

 何気なく振り返ると、優以外の三人は困ったように顔を見合わせていた。

 その様子に思わず首を傾げる。

「ううん……面会は夜九時までは自由なんだけど、娘さんの方が会いたくないって言ってて……」

 華が言いづらそうに答える。

 優が不思議そうな顔をすると、愛が補足するように呟いた。

「……昔、虐待があった。児童相談所が何度か動いて、接近禁止命令が出てる」

「――え?」

 接近禁止命令。

 予想していなかった単語に、優は息を止めた。

「あー、桜井って今まで面会に来てる家族さんとか見た事ないでしょ? 何でか知ってる?」

 京子が迷ったように、目を逸らしながら言う。

 珍しく歯切れの悪い京子に、優は戸惑いの視線を投げ掛けた。

 確かに、面会に来ている家族を見た記憶はなかった。

「えっと、うん、確かに見た事はないけど……ここが山奥の辺鄙なところにあるからじゃないの?」

 短い沈黙が流れた。

 嫌な間だった。

 それだけで、良からぬ理由がある事を察するには十分だった。

 京子がわざとらしく明るい声で説明を始める。

 まるで大した事がないように。

「世間じゃさ、ESP能力者の共通点って、全員が女っていうくらいしか認識されてないよね。実はさ、公式には発表されてないんだけど、もう一つ共通点があるらしいよ。あくまで噂だけどね」

 聞いた事がない話だった。

 中隊に入る時も、誰からもそうした説明はなかった。

 共通点はESP能力の源を探る上で重要な研究指針となる。何故、そんな大事な事が発表されてないのだろう。その疑問は京子の続けた言葉で易々と氷解した。

「――ESP能力者は全員、例外なく家庭環境に問題を抱えてるんだって」



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05話 秋山明日香

「全員が……家庭環境に……?」

 京子が曖昧な笑みを浮かべて頷く。

「そう。だから、誰も面会なんて来ないし、たまにああやって押し掛けてくる人がいても誰も会いたがらないってわけ」

 京子の声が随分と遠くに感じた。

 それから少し遅れて、すとんと納得がいった。

 国防上やむを得ない事態とは言え、成人すらしていない我が子を軍隊に預ける親が一体どれだけいるだろうか。

 恐らく、殆どの親は我が子を守ろうとするだろう。

 しかし、日本に存在する全ESP能力者の内、その三割近くが特殊戦術中隊に所属しているのが現状だ。

 三割。

 あまりにも多い。

 つまり、彼女らは親に心配されるような立場ではなかった。もしくは、彼女らは自ら特殊戦術中隊への入隊を希望してしまうような状況に置かれていた、ということなのだろう。

 優は反射的に華、京子、愛の顔を見渡した。

 京子は全てのESP能力者がそうだ、と言った。

 ならば、そういう事なのだろう。

「そんな顔しないでよ」

 京子が困ったような笑みを浮かべた。

 優は意識的に何でもない風な表情を取り繕うとしたが、すぐに駄目だと悟って、まだ言い争っている警備員たちの方に顔を背けた。

 年輩の女性は、娘に会わせろと叫び続けている。

 一見すると、娘想いの母親に見えた。

 不意に一人の男の姿が脳裏に浮かんだ。近所では愛想の良い父親として振る舞っていたあの男。

「桜井くん?」

 華の声が酷く遠くで聞こえた。

 彼女の声に重なるように、女性の悲鳴が頭に響いた。

 続いて食器の割れる音。

 男の叫び声。

 鈍い音。

 すぐに幻聴だと分かった。

 幼少期に何度も聞いた騒音。

 視界が霞む。 

 目眩がした。

 誰かの声が二重に聞こえる。

 吐き気がこみあげ、その場に膝をついた。

 口を押さえ、小さくうずくまる。

「ちょ、ちょっと! 桜井くん?」

 警備員と女性の言い争う声がやけに遠く聞こえた。

 現実感が麻痺していく。

 誰かの悲鳴が轟いた。

 これはただの記憶だ。現実に起こっている事ではない。

 そのはずだった。

 息が苦しい。

 うまく呼吸できなかった。

 過呼吸を起こしている、と冷え切った頭の奥で警鐘が鳴る。

 意識的に息を吐く。

 しかし、体がうまく動かない。

 手足が鉛のように重かった。

「桜井……やっぱりあんたも……」

 誰かの声。

 それに重なるようにまた女性の叫び声が聞こえた。

 現実と記憶の境目が消えていく。

 誰かが殴られる音と男の怒声。

 響き渡るサイレンの音。

 優は丸まるようにして、震える自分の肩を抱いた。

 不意に、その肩を誰かが優しく包み込んだ。

 ほのかに甘い香りが優を包む。

 震えがぴたりと止まり、混乱していた優の意識は急速に現実へと浮上していった。

「華、ちゃん……?」

「大丈夫だよ」

 その一言を聞いた途端、全身から力が抜けた。心地よい安心感が全身に広がっていく。

 緊張の糸が切れたように、思考が白濁する。

 ふらっと身体が傾いた。

 まずい、と思った次の瞬間には華に身体を預けるようにして倒れ込んでいた。

 誰かの呼び声。

 そこで桜井優の意識は途切れた。

 

◇◆◇

 

 消毒液の香りがした。

 起きているのか眠っているのか、判断が出来ないほど思考に霧が掛かっていた。

 誰かの話し声がした。

「接近禁止命令が出ている対象がどうしてこの敷地内にいるの。こういった事態を避ける事が保安部の仕事でしょう」

「全面的にこちらの落ち度です。ただ、保護者の立場を持つ者に対して我々は強い権限を持ちません。我々は建前上、民間人に対して強く出る事が出来ない」

 女と男の声。

 一人は、軍医の秋山明日香(あきやま あすか)だった。治療中に何度か会った事がある。

 もう一人は知らない男の声だった。

「あのね、司法が接近禁止命令を出しているの。つまり、保護者ではなく加害者なの。お客様扱いする必要はないでしょう。敷地内にあんなのがウロウロしていたら子どもたちが混乱を起こして当然です」

 ぼんやりとした思考の中、視線を横に動かす。

 大柄の男がいた。クマみたいな後ろ姿が明日香に叱られ、小さくなっている。

 恐らく、亡霊対策室の警備を統括している保安部の責任者なのだろう。

 亡霊対策室は実働部隊であるESP能力者よりも、それを支援する職員の方が遥かに多い。

「この子たちはいつ戦闘に駆り出されるのかも分からないのよ。常にメンタルをニュートラルに保つ必要がある。二度とあの保護者を敷地に入れないように」

「はい。再発防止に努めます。ただ、親である事に変わりないのではありませんか。本当に門前払いが――」

 クマのような男はそこで言葉を切った。それから、ゆっくりと優の方を向く。

 目が合った。

「すまない。起こしてしまった」

 男はそう言って、不器用そうな笑みを浮かべて立ち上がった。

「話はまた後で」

 明日香が小さく言うと、男は小さく頷いてそのまま部屋から出ていった。

 医務室に優と明日香だけが取り残される。

 優はぼんやりと明日香を見た。まだ頭が上手く動かない。

「落ち着いた?」

 明日香が優しく問いかけてくる。

 答えようとするが、上手く声が出なかった。

 だから、代わりに頷く事にした。

「そう。どうせ後は寝るだけでしょう。今日はここで休むといいわ」

 優は頷く代わりに目を瞑った。

 酷く疲れていた。

 思い出したくない記憶が頭の中に溢れ出していた。

 眠って忘れてしまいたかった。

 目を瞑る。

 医務室に満ちる消毒液の臭いが昂ぶった神経を鎮めていくのが分かった。

 優はそのまま意識を手放した。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 桜井優は睡眠、という行為が好きではなかった。

 時々、嫌な夢を見る。

 思い出したくない記憶が掘り出され、現実と夢の境界が曖昧になり、終いには二つの世界が逆転してしまうのではないか、と途方もない空想が勝手に広がってしまうのだ。

 しかし、その日の優は夢を見る事なく目を覚ました。

 いつもと違うベッドと毛布の感触に違和感を覚え、重い瞼を開く。 

「わっ!?」

 目を開けた途端に愛の寝顔が視界に飛び込み、優は素早くベッドの上で起き上がって壁際に転がった。

 優に腕を絡みつけて寝ていた愛も引っ張られて、ゴロゴロと目の前に転がる。

「うそ! なんで!?」

 寝る前の記憶を思い起こす。

 しかし、記憶が曖昧だった。

 それらしい事は何も覚えていない。

「ん……っ……ぅ……」

 その時、愛が小さきうめき、薄く目を開いた。

 身を固くする優の前で、愛がのそのそと上体を起こす。

「……おはよう。激しかったね」

「その第一声狙ってるよね!?」

 愛は不思議そうな顔をした後、毛布を体に巻き付け、頬を赤く染めた。

「……汗、かいたからあまり近づかないで。……恥ずかしい」

「え、あ、ごめんなさい……」

 本当に恥ずかしそうにする愛を前に、反対に冷静さを取り戻していく。

 辺りを見渡すと、清潔感のある医務室が広がっていた。

 そこでようやく、昨夜の事を思い出す。

 娘に会わせろと怒鳴っている女がいた。過去の嫌な記憶が蘇り、気分が悪くなったところを華たちが医務室まで運んでくれたのを朧気に覚えている。

 恥ずかしいところを見られてしまった。

「昨日、ここまで運んでくれたんだね。ありがとう」

 愛は頷いて、優の顔をじっと覗きこんだ。

 彼女の透き通った瞳と視線が絡み合う。

「な、なにかな?」

「……涙の後がある」

「……ぁ……」

 愛のひんやりとした指が優の頬を優しく撫でた。

 次の瞬間、優の体は愛の腕の中で抱き締められていた。

「あ、愛ちゃん……?」

 仄かに甘い香りが優の頭を満たした。

 柔らかな感触に動揺して、離れようと肩を押し返そうとする。しかし、それは次に愛が放った言葉によって遮られた。

「……昔、泣いた時に父がよくこうしてくれた」

 全身から力が抜ける。

 はじめて愛と会った時、話しづらそうな子だと思った。

 少し、気難しそうな子だな、と。

 しかし、すぐに違うと分かった。

 彼女は冗談をよく言うし、すぐに顔を赤くする恥ずかしがり屋な面もある。

 愛は無表情ではあるが、逆に愛想笑いなどで表情を偽ったりはしない。その感情をストレートに行動で示す。

 中隊の女子の中で愛はやや変人のような扱いを受けている事があるが、彼女の実直な在り方はとても好ましく思えた。

 対策室に入ってまだ日が浅く、良く知らない人間も多い。組織構造もまだ全体がよく見えない。

 その中で宮城愛という人間は、最も信用出来る友人かもしれない。

 そう思った時、医務室のドアが開く音が聞こえた。

「あ」

 振り返る。

 ドアが開いたところには驚いた様子の秋山明日香が立っている。 

 短い沈黙があった。

「二人でお楽しみのところ悪いんだけど、医務室のベッドでそういうことは……」

「わーーー! 違うんです! 誤解です! そういうのじゃないんです!」

 恐ろしい誤解が広がる前に食い止めようと、手を振り回し必死に訂正する。

 しかし、背中に回された愛の腕が離れない。万力のようだった。

「ちょっと愛ちゃん! 離して! 誤解が! 壮大な誤解が!」

「青春ね」

 クスッと明日香が微笑む。

「少しからかっただけよ。誤解なんてしてないから安心しなさい」

 彼女はそう言って、優の前で屈み込んだ。

「体調はどう?」

「えっと、あの、もう大丈夫みたいです。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

 さっきのからかいを含んだ笑みとは一転、慈悲深い聖母のような笑みを浮かべる明日香。

 どうも調子が狂う。

「今日の訓練は休んだほうがいいわね。一応熱だけ計っておきましょう」

 明日香がゴソゴソと引き出しをいじり、体温計を優のわきに入れる。

「正直ね、心配だったの」

「え?」

 ぽつりと明日香がこぼした言葉に顔をあげる。

「ここ、女の子しかいないでしょう? 男の子がちゃんと馴染めるのかなって」

 優は少し考えた後、頷いた。

 確かに悩んだこともあった。

「そう、ですね。はじめの一週間とかは全然ダメでした。やっぱり皆と壁を感じて……」

 でも、と優は愛に目を向けた。

「でも、華ちゃんや愛ちゃん達のおかげで無事馴染めることができました」

 明日香が微笑む。

 そこで体温計がピピピと電子音を発した。

 明日香が体温計を取り出す。

「36.8度。大丈夫そうね。念のため、激しい運動は控えるように」

 明日香は体温計を引き出しに入れながら、思い出したように言った。

「それと愛ちゃん。あなた朝食がまだでしょう。優くんは私が診てるから食べてきなさい」

 愛は素直に頷いて戸口に向かう。

 その間、明日香は無言でじっと愛の背中を見ていた。

 愛が出ていったのを確認して、明日香が優に向き直る。

 何となく、大事な話があるのが分かった。

 明日香は少し迷ったように視線を動かして、それから何でもない風に口を開いた。

「さっきの話の続きだけど、ここは本当に女の子ばかりなの」

 明日香の言わんとしている事が見えず、優は小さく首を傾げた。

「つまり、ここの男女比は外とは全く違うという事。思春期の男女にとって、それはつまり恋愛対象が限定されるということでもあるの。それは分かるでしょう」

 明日香は真剣な顔で言葉を続ける。

「特にここは閉じた世界だわ。そして貴方たちはESP能力者で、そこに強い帰属意識を覚えている。優くん、あなたの行動に関係なく、周りの女の子たちは少し普通とは違った行動を取るかもしれない。なにか困ったことがあったら、すぐに相談しなさい。いいわね?」

 優は困惑したように明日香を見上げた。

 彼女は真面目な顔で、じっと優の答えを待っている。

 明日香が一体何を危惧しているのか、優には良くわからなかった。

 麗の顔が、一瞬頭をよぎった。

 突然、何の前触れもなく告白してきた少女。

 しかし、相談するような事案でもないように思えた

「はい。何かあったら相談します」

「来てくれたのが貴方のような男の子でよかった」

 明日香はそう言って微笑んで席を立った。話はこれで終わりということだろう。

 優もそれに続いて立ち上がり、短く一礼した。

 医務室を出て、先に出た愛の後を追おうとする。

 その時、ポケットで携帯が小さく振動した。端末を取り出して確認する。

 望月麗からのメッセージだった。

 予想していなかった文字が目に飛び込んできて、優は固まった。

『明日デートしてください』



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06話 長谷川京子(2)

「デート……」

 その日の夜、桜井優は自室のベッドで携帯を片手に一人で唸っていた。

 望月麗からのデートの誘いに優は承諾の返事を出した。

 しかし、具体的なプランがあるわけでもなく、何も思いつかないまま無駄に過ぎていく。

「あー! もうだめだ!」

 携帯を放り出し、ベッドに倒れこむ。

 その時、ノックの音が聞こえた。

「はい。どうぞ」

 大声で叫ぶと、玄関から京子が顔を出した。

「なに一人で騒いでんの?」

「んー……悩み事がありまして

 優はそう言いながら上体を起こしてベッドに座った。

「京子はこんな時間にどうしたの?」

「特に用はないんだけど、暇だったからさ。悩み事って?」

 京子がそう言いながら、優の隣に腰掛ける。

 優は無言で液晶画面が見えるように携帯を突き出した。

 京子がそれを不思議そうにのぞきこむ。

「……デート? 望月さんと?」

「うん。でも、どこに行ったらいいか分かんなくて」

 優はそう言って、再びベッドに倒れ込んだ。

 京子が上から怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

「……もしかして、そういう経験ないの?」

「うん。よく考えたらデートとかした事ないから困って」

「……冗談でしょ?」

 優は少しムッとして、京子を睨んだ。

「デートした事ないってそんなにおかしいかな?」

「いや……そういうんじゃなくてさ、ちょっと意外だっただけ」

 京子が言う。どこか歯切れが悪い。

「優はさ、その、付き合った事ないの? 一度も?」

「んー。一度もないよ。京子はどうなの?」

 切り返すと、彼女は小声で「ないけど」と呟いた。

「私の事は別に良いじゃん。それより優はそれでいいの。初デートなんだよね。望月さんの事、別に好きじゃないんでしょ」

「でもお友達からって言っちゃったし、断るのも変じゃない?」

「まあ、そうかもしれないけど。でもさ、いないの? 他に好きな人とか」

「うん。いないかなー」

 優はそう言って、ゴロゴロとベッドで回転した。 

「……京子先生、デートとはどういうところに行くべきなんでしょうか」

「……そんなに気負わなくて良いんじゃない。変に格好つけず、友達と行くようなところに行けばいいって」

「普通のところかぁ。カラオケとか映画とかかな?」

「話題が続く自信がないなら、話題に富んだ場所を選ぶべし」

 なるほど、と頷く。

「あー。でも、相手って二歳年下なんだっけ? 年上に変な幻想抱いてたらしんどいかもね」

「幻想?」

「お洒落なレストランに連れてって貰えるとか、そういう幻想持ってるタイプだと年下はしんどいよ。慣れてないなら先に同年代と付き合ったら?」

「そっか……幻想かぁ……」

「ま、合わなければ無理に付き合う必要ないんじゃない。気負いすぎだって」

「それはそうだけど……やっぱりこういうのは真剣に対応したいなぁと思うわけです、はい」

 優は上体を起こして、何となく枕を抱えた。

 その時、カシャリと変な音が響いた。

 一拍遅れてシャッター音だと気づく。

 いつの間にか京子が優に携帯を向けていた。

「いまって写真撮るような場面だっけ?」

「いや、何となく」

 そう言いながら、携帯をいじる京子。

「いいじゃん。減るもんじゃないんだから」

 気にするな、とばかりに片手をひらひらさせる京子を見て、優は呆れたようにため息をついた。

「……変なことに使わないならいいけど」

「それよりさ」

 京子が言う。

「優って年下が好きなわけ?」

「……年上とか年下とかって気にした事ないかなー」

「ふーん」

 じゃあ、と京子が言う。

「同年代の、例えば華とか愛はどうなの」

 突然出てきた友人の名に、優は動きを止めた。

 思わず京子を見ると、彼女は悪戯っぽく笑った。

「なに本気にしてんの」

 それから立ち上がって背伸びする。

「あー。もうこんな時間か。帰って寝よっと」

「あ、うん。おやすみ」

 玄関に向かう京子に声をかけると、彼女はひらひらと左手を振って、それから最後に振り向いた。

「ま、初デート頑張りなよ。後で残念会開いてあげるからさ。おやすみ」



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07話 篠原華(2)

 目覚ましの音で優は目を覚ました。

 外はまだ薄暗い。

 いつもはベッドで暫くゴロゴロするところだが、この日は違った。

 ベッドからすくっと立ち上がり、洗面台に向かって歯磨きを開始する。

 それから念入りにシャワーを浴びて、普段より丁寧にドライヤーでブローした。

 しばらく鏡と睨み合いをして、ようやく納得がいってから部屋に戻って服を選ぶ。

 一応前日には組み合わせを決めていたが、念のため三回ほど鏡の前で他の服に着替え、結局元の組み合わせに戻す事にした。

 時間にたっぷり余裕がある事を確認して、朝食のために食堂へ向かう。

「あ、桜井くん、おはよう。今日は早いね」

「おはよう。うん、ちょっと用事があって」

 廊下ですれ違った中隊員と挨拶を交わしながら、頭の中でデートのシミュレーションをする。

 麗の事をよく知らないため、どうしても上手くいく事が想像できなかった。

 失敗しそうだなあ、と暗澹たる思いで食堂に到着し、朝定食セットを頼んで席につく。

 そわそわしながら携帯端末でデート先周辺の地図を眺めていると、声がかけられた。

「桜井くん、ここ良い?」

 顔をあげると、トレイを持った華がいた。

「あ、うん。誰も来ないから大丈夫だよ」

「何だかぼんやりしてるように見えるけど大丈夫?」

 気遣うように顔を覗き込みながら華は隣の席に座った。

「うーん。望月さんと今日一緒に遊びに行くんだ。何だか緊張しちゃって」

 素直に白状すると、箸に手を伸ばしかけていた華の動きが止まった。

 一瞬の沈黙。

「あ、そうなんだ。で、でも、桜井くんって望月さんの告白断ったんじゃなかったの?」

「望月さんのこと、よく知らないからねー。出かけるだけなら良いかなーって」

 そう答えてから、思い出したように言う。

「この前はごめんね。医務室まで運んでくれたんだよね?」

「え、あ、うん。医務室まで走って明日香先生を呼んでくれたのは京子だよ。私、どうしたら良いのか分からなくて、何も出来なかったから」

 華はそう言って、曖昧な笑みを浮かべた。

「……私もね、ここに来てから何度か嫌なことを思い出した事あるよ。ここの人は多分、みんなそういうのあるから」

 でも、と華は続ける。

「大丈夫だよ。ここの皆が家族みたいなものだから。三年以上中隊員として従事すれば特別年金だって給付されるんだよ。だから心配することは、何もないよ」

 だから大丈夫、と華はにこにこと言う。

 それは恐らく、華が過去に繰り返し自分に言い聞かせた言葉なのだろう。ふと、そう思った。

「……うん、そうだね。華ちゃんもそうだけど、皆良い人ばかりだから、僕は大丈夫。ありがと」

 華が柔らかい笑みを浮かべる。

 年不相応の包容力のある笑みだった。

 華はたまに酷く大人びて見える事がある。

 まだ十六歳なのに第一小隊のリーダーとして選ばれた理由が垣間見えた気がした。

「華ちゃんは、ここに来てどれくらい経つの?」

「私? 三年くらい……かな」

 三年。

 彼女が先程語った特別年金の給付条件をクリアしているという事だ。

 それでも中隊を抜けないのは、やはり帰るべき場所がないからなのだろう。

「あ、冷めちゃうよ」

 暗くなった雰囲気を払うように華が手元の朝食セットを見る。

「……そうだね。食べないと」

 箸を伸ばしながら、ふと考える。

 これから会う予定の望月麗も、恐らくは帰るべき場所を持たないのだろう。きっと、中隊が最後の居場所なのだ。

 彼女とどういう関係になるかまだ分からないが、不誠実な対応はするべきではないし、居づらくなるような対応はしないように気をつけなければ、と気を引き締める。

「あ、お迎えの人、来てるよ」

 華の声に釣られて、食堂の出入り口に目を向けるとスーツ姿の大男が立っていた。送迎を担当する保安部の者だった。亡霊対策室は山奥にある為、街までの移動手段は車しかなく、こうして送迎してもらう必要がある。

「もう行かないと。ごちそうさま。またね」

「うん。行ってらっしゃい」

 華に見送られて、大男の元へ向かう。 

 大男は不器用そうな笑みを浮かべて、小さく会釈した。

「送迎を担当する保安部の中村(なかむら)と申します。では参りましょうか」

「はい。お願いします」

 ペコりと頭を下げて、中村と名乗った大男と共に食堂を後にする。

 巨体の中村が目立つせいか、エントランスですれ違った中隊員からまじまじと視線が投げかけられる。

「桜井くん今からデート? 頑張れー」

 中隊員の誰かがからかう声。

 優は苦笑して軽く手を振ってから、外に出た。

 空は青く、よく晴れている。

 エントランス前には既に黒塗りの乗用車が回されていた。

「では行きましょう」

 中村がドアを開ける。

 その時、彼の腰に大型の自動拳銃がついているのが見えた。

 どうやら広瀬理沙の件を受けて、送迎よりも護衛にウェイトがずれたようだった。

「どうしましたか?」

 中村が怪訝そうに問いかけてくる。

「いえ、高そうな車だったので躊躇しちゃって」

 優は愛想笑いを浮かべて、車に乗り込んだ。



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08話 望月麗(2)

 雲一つない青空の下、桜井優は駅前の噴水で望月麗を待っていた。

 携帯を取り出し、時間を確認する。待ち合わせ時間より二十分ほど早い。

 優はぼんやりと人混みを眺めた。

 まだ朝なのに、人の行き来が激しい。それを見て、平和だな、と思う。現在進行形で未知の生命体から侵略を受けている国の雰囲気ではない。亡霊対策室がしっかりと機能しているという証拠だ。

 先の大戦のように、無差別な空爆や飢餓があるわけではないというのも大きいだろう。

 亡霊の影響で日本海側の貿易ルートが制限され、一時的な経済麻痺を起したことはあったが、人々の暮らしは徐々にそれに合うよう変化していった。生産力をあげるという方法よりも輸入に依存していた一部の品目が自然消滅するという流れで和食回帰の風潮が訪れ、結果的に食料自給率もあがったりもしている。

 亡霊の物理的被害よりも、数年前の世界恐慌の尾ひれを引いた失業率の方が、多くの人にとってはよっぽど現実的で深刻な問題なのかもしれない。

「ねえ、君ひとり?」

 突然、声がかけられた。

 驚いて顔をあげると、三人組の女性が立っていた。

 全員、知らない人だった。

「え、あの──」

「暇だったら私たちと遊ばない? お姉さんたち奢っちゃうよ」

 一人がコロコロと人懐っこい笑みを浮かべる。

 女子大生だろうか。少なくとも同年代ではないように見えた。

 返答に困って、優は困ったような笑みを浮かべた。

「えっと、あの、ごめんなさい。人を待ってるんです」

「友達? よかったら、その子も一緒に遊ぼうよ」

「あの、いえ、友達というか──」

 明るい声で笑う女性に、優がはっきりと断りをいれようとした時、よく通る少女の声が響いた。

「先輩! お待たせしました!」

 振り返ると、麗が小走りで手を小さく振りながらこちらに向かっているのが見えた。

「あ、彼女さんいるんだぁ。ごめんね」

 麗を見て、女子大生たちが目の前で手を合わせて謝る。それから彼女たちは何事もなかったかのように駅の方へと去っていった。

「今の人たち、知り合いですか?」

「ううん。知らない人、かな」

「桜井先輩。ESP能力者以外の人とは、あまり関わらない方が良いですよ」

 真面目な顔で麗が言う。

 その真意が分からず、優は麗を見つめた。

 補足するように麗が言葉を続ける。

「中隊だけで200人いるんです。まずはその200人と親睦を深めるべきですよ」

 それから麗は「さて」と話題を切り換えるように優から顔を背けて後ろのビル群を見上げた。

「どこに行きますか?」

「まずはそこの駅ビルでお昼にしようか」

「はい」

 そこそこの人気のあるパンケーキ屋に、携帯で地図を確認しながら向かう。

「先輩、やっぱり私服は綺麗めでまとめるんですね。よく似合ってます」

「ありがと。望月さんもよく似合ってるよ」

 麗は薄手のすっきりしたパーカーに、フリルスカートといった組み合わせをしていた。いつものように両側で髪を結っており、年相応といった感じがする。

「呼び捨てでいいですよ。先輩のほうが年上なんですから」

 目的のビルにたどり着き、1階のパンケーキ屋に入る。平日のため、それほど混んではいなかった。

「断られると思っていました」

 席についた麗が、不意にそんな事を言った。

「え?」

「今日のデートです。先輩、既に仲の良さそうな人がいるじゃないですか」

「京子とか華ちゃんの事? えっと、ただの友達だよ」

「そうなんですか?」

 店員がメニューと水を持ってくる。

 一瞬の沈黙。

 お勧めメニューを説明してから去っていく店員を確認してから、麗が言葉を続けた。

「先輩は、男女の友情って成立すると思いますか?」

「うーん。成立するんじゃないかな」

「私は成立しないと思ってます。私と同じ考え方の人は多分たくさんいます。だから先輩が成立すると思ってても、彼女さんとか友達の女性はそうは思っていないかもしれないですよ」

 麗はそう言って、水の入ったコップに口をつけた。

 その真意がよくわからず、えっと、と言葉を選びながら答える。

「だから、つまり、彼女が出来た後は、例え友人であっても異性とは関わらない方がいいって事かな?」

「そうです。中隊は上官や部下の形ですから特別ですけどね。だからさっき、言ったんです。中隊以外の人と繋がりなんて初めから持たない方がいいって」

 麗はそう言いながらメニューを開く。

「あ、これ美味しそうです。イチゴたくさん乗ってますよ。私これにします」

 話題を変えるように、麗が年相応のはしゃぎっぷりを見せる。

 優は少しだけ考えてから、先程の話題は流して同じようにメニューを眺める事にした。

「じゃあ僕はこれにしようかな」

「あ、それも美味しそうですね。半分ずつ交換したいです」

「そうしようか」

 店員を呼んで、オーダーを伝える。

 その間、じっと麗の視線を感じた。

 オーダーを終えて麗に視線を向けると、目が合った。

「先輩って綺麗な顔してますよね。本当に彼女いないんですか?」

 返答に困って思わず苦笑いを浮かべる。

「ありがとう。うん、いないよ」

「じゃあ好きな人はいるんですか?」

 好きな人。

 そう言われて何故か、神条奈々の顔が頭に浮かんだ。

 初めて会った時、綺麗な人だと思った。

 しかし、恋愛的な好意を寄せているわけではない。

「うーん。いないよ」

「じゃあ。これまで中隊でデートした人はいるんですか?」

「それもいないかな。外出申請も全然出してないしね」

「それじゃ、私が一番乗りですね。勇気を出して良かったです」

 麗はそう言って笑う。

 年下とは思えないほどぐいぐいと距離を縮めてくる麗に、優は首を傾げた。

「そういえばいきなり告白されたけど、そんな好意を向けられるような出来事あったっけ?」

「単純に先輩がかっこよかったからですよ」

 シンプルな答えだった。

 店員がお皿を運んでくる。

 何となく話が途切れてしまって、優はそれ以上の追求をやめた。

「わ、イチゴの数凄いです。これはもはやイチゴ丼です」

 テーブルに届いたパンケーキを見て、麗がはしゃぐ。

「美味しそ――」

 口を開いた時、優は違和感を感じて動きを止めた。

「先輩?」

 麗が不思議そうな顔をする。

 優は弾かれたように窓ガラスから表通りを見渡した。

 ──どこか遠くのほうで巨大なESPエネルギーが膨らんでいる。

 しかし、その気配は5秒ほどで消えてしまった。

 亡霊対策室から支給されている端末を取り出す。出撃要請は来ていない。

「先輩、どうしたんですか?」

「え? あ、ごめん。通りすがった人が知り合いに似てたから、びっくりして」

「後ろ姿とかだと、私もよく見間違います。あれ、勘違いしたまま声かけちゃうと恥ずかしいんですよね」

 咄嗟についた嘘に、麗が経験談を話しながら楽しそうに笑う。

 優は笑みを浮かべて頷きながら、気のせいだと自分に言い聞かせた。

 ──あんなに巨大なESPエネルギーが実在すれば、特殊戦術中隊など簡単に壊滅してしまうのだから。



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09話 望月麗(3)

「これ、すっごく可愛くないですか?」

 昼食を終え、二人は適当に大通りを散策していた。

 アクセサリーの並んだウィンドウを見て、麗が歓声をあげる。

「ん、どれ?」

「あれです。翡翠色の細工が入った指輪」

 照明に照らされて明るく輝く、しかしながらあまり主張しすぎない指輪があった。

 可愛い、というよりも綺麗だと優は思った。

 亡霊対策室からの給与で払えないこともない。しかし、初デートで指輪をプレゼントするのは憚れた。

 優は麗の意見に同意するだけに留めた。

 麗も買ってもらおうとまでは期待していなかったようで、同意を得られた事に満足して再び足を進めた。

「つ、次は向こうのお店見たいです!」

 そう言って、麗は優の手をぎこちなく取って、駆け出した。

「わっ」

 急に引っ張られ、驚きの声を出す。

 暖かい麗の手は、不自然なほど固くなっていた。

 ――絶対無理をしてるよなぁ。

 麗からは無理に親密になろうとしている印象を受ける。

 違和感を覚えながらも、優はそのまま何も言わず買い物に付き合った。

「麗ちゃんは、こうやって良く街に出かけるの?」

「入隊した当初は、よく出かけました」

「今は出かけないの?」

「……一緒の時期に入隊した人がいたんです。昔は休暇を取る日を合わせてよく遊びに出てました」

 でも、と彼女は言った。

「死んじゃったんです。それからあんまり外に出かけなくなりました」

 予想しなかった言葉に、優はかける言葉を失った。

「遊んでばかりいても、ダメですよね。まずは生き残る事が大事です。それを思い知りました」

 どこかあっけらかんと麗は言う。

 中隊員が殉死するのを優はまだ見た事がない。

 しかし麗はきっと、何人もの仲間が死んでいくのを間近で見てきたのだろう。

「でも、先輩は大丈夫そうですね。初陣から僅かの時間であれだけの戦果を上げたんです。凄いことですよ」

 手を繋いだまま、麗がくるりと振り返る。

「そういう強いところも、好きですよ」

「……戦果は殆どまぐれみたいなものだよ」

「まぐれでも戦闘なんて結果が全てですよ。死んだらおしまいなんですから」

 彼女の好意の大元は、戦果に対する憧れなのかもしれない。

 まだ十四歳なのだから、そこから好意に発展して告白してきたのは十分にありえそうな事だと優は思った。

「あ、次はこのお店入りましょう。ここの雑貨すっごく可愛いんですよ」

 

 

 

 

「先輩、少し休みませんか?」

 太陽が傾き、街が鮮やかな朱色に染まった頃、麗が休憩を提案した。

「だね。少し疲れたかも」

 優は携帯で地図を出し、周辺の喫茶店を探した。

 どこもそれなりの距離を歩く必要があるようだった。

「……あの。私良い休憩場所知ってるんです。ついてきてもらっていいですか?」

 どの店にしようか悩んでいる優に麗が助け舟を出す。

 優は、任せるよ、と頷いた。

「こっちです」

 麗がぎこちない動きで優の手を握り、歩き出す。

 夕暮れの涼やかな風が麗の長いツインテールをたなびかせ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「麗ちゃんはこの辺りによく来るの?」

 歩き慣れた様子の麗に、疑問を投げ掛ける。

「割りと」

「もしかして地元だったり?」

「いえ」

「じゃあ、入隊してから良く来てるのかな」

「ですね」

 どこか上の空のような麗の返答に優は首を傾げた。

 少し歩調をあげ、麗の顔を遠慮がちにのぞきこむ。夕陽に照らされた麗の幼い瞳は憂いを帯び、どこか大人びているように見えて、優は少しドキりとした。二つ年下とは思えない雰囲気だった。

 何となく声をかけるのが憚れて、黙りこむ。

 風に揺れる麗のツインテールをぼんやりと眺め、優は麗の小さい歩調に合わせて歩き続けた。

 遠くからサイレンの音が響く。

 赤く染まった景色と、使い古されたサイレンの音が妙にノスタルジックな気分を思い起こさせた。

 ふと、古い記憶が蘇る。似たようなサイレンが響く中、血のように真っ赤な夕陽が差し込む部屋で、母が泣いていた気がする。

 響くサイレンの音と、外の喧騒に幼い頃の優は怯えていた。母は優の不安を和らげようとするように優しく抱いて、大丈夫だから、と何度も囁いてくれたものだ。

 しかし、優しく抱き締めてくれた母の細い腕も恐怖に震えていた事を優はしっかりと覚えている。

 今思えば、あの『大丈夫』という言葉は優に向けられたものではなく、自分自身に言い聞かせる為のものだったのではないかと思う。だから、私はあの時――――私は――?

 鋭い痛みが頭を走った。

 私、とは誰だ?

 そもそも、これは一体何歳の頃の記憶だろうか。

 記憶の向こうで鳴り響くサイレンは何だ。

 亡霊の襲来を示す避難サイレンだろうか。

 思い出せない。

 頭の中が混濁している。

 遠い過去の記憶は靄がかかったように不明瞭で、曖昧に満ちたものだった。

「先輩」

 麗の声がした。

 優の意識は思考の海から現実へと急浮上していった。

 きらびやかなネオンの光が視界を覆う。

 知らない場所だった。

 テレポーテーションをしたような不思議な感覚に一瞬だけ襲われる。

 一体どれくらい歩いたのだろう。

 目の前には、麗の顔があった。

 その瞳は、不安そうに揺れている。

「桜井先輩」

 彼女はもう一度、優の名前を呼んだ。

 繋いた麗の手が若干汗ばんでいることにそこで初めて気付く。

 もしかしたら麗だけでなく、自分も少し汗をかいているかもしれない、と思った。

「よろしければ、ですけど」

 彼女が、躊躇するように言う。

 ゆっくりと。

 優の瞳を真っ直ぐ見つめて。

 繋いだ手を強く握って。

「ここで、休憩しませんか?」

 何でもない風に、彼女は言った。

 彼女の後ろの建物に、目を移す。

 ホテルだった。カップル向けの。

 優はそこでようやく、自分たちがホテル街に立っている事に気づいた。

「ここ、って――」

 掠れた声が出た。

 二歳年下の、まだ十四歳の麗から提案された事がすぐには飲み込めなかった。

「休憩、できるみたいですよ。泊まり以外でも使えるらしいんです」

 夕日に照らされながら、麗がはにかみながら言う。

 その頬は夕日以外の効果で朱く染まっていた。

 彼女がこの建物の意味を理解した上で休憩を提案しているのは明らかだった。

「……あんまり説教みたいなことは言いたくないけど」

 麗の視線を真っ直ぐと受け止めながら、慎重に言葉を選ぶ。

「僕たち知り合って間もないよね。ダメだよ。そういうのは、ちゃんと段階を踏んでからじゃないと」

 年上として諭すべきだと思った。しかし、結果的に失敗した。

 優の言葉が終わる前に、麗が叫んだ。

「よく考えた上での判断です! 遊びとかそんなんじゃありません! 私、本気です!」

 夕陽が逆光になっていて、麗の表情はよく見えない。

 しかし声は決意に満ちたもので、それだけで彼女が真剣なのだとわかった。

「先輩って好きな人いないんですよね」

「……うん、いないよ」

「じゃあ――」

 麗が一歩踏み出す。

「――私を好きになってください」

 更に麗が一歩踏み出した。

 麗との距離がゼロになり、甘い香りが優を包み込む。

 唇に柔らかな感触が触れた。

 目の前には、夕陽で燃えるように赤く染まった麗の瞳。

 至近距離で、彼女と視線が交差した。

 彼女の唇がそっと離れる。

「私じゃ、ダメですか?」

 一歩下がりながら、麗が不安そうに言う。

 ――何故、こんな顔ができるんだろう。

 数日前に麗から告白された時もそう思った。断った時、彼女は本当に悔しそうな顔をしていた。

 会って間もない人に対して、果たしてここまで一生懸命になれるものだろうか。少なくとも自分には無理だ、と思う。

「先輩」

 麗の透き通った声が響いた。

 茶色がかった大きな瞳が優を射抜く。

 その瞳に吸い込まれるような錯覚に陥った。

「答えを、聞かせてください」

 喉がカラカラだった。

 心臓が早鐘のように打っている。

 唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。

 反対に、周りの喧騒は遠ざかっていく。

 優は答えを出す為、口を開き――

 その時、けたたましいアラートが優と麗の両方から響いた。

「あ――」

 麗の呟くような声を無視して、音の発生源である端末を取り出す。

 ディスプレイには、全中隊に対しての出撃準備命令が表示されていた。

「出撃命令だ」

 優の呟きに、麗が呆然とした様子で端末を取り出す。

「全小隊に出撃準備命令、ですか? つまり、予備戦力は残さない? どういう事ですか?」

 脳裏に数時間前に感じたESPエネルギーの異常な膨張がよぎる。

 恐らく、普通の亡霊の出現ではない。何らかの異常事態が発生しているようだった。

 間髪置かずに端末に着信が入る。保安部の中村からだった。

『保安部の中村です。中隊の全てに出撃準備命令が下りました。これから迎えに上がります。大通りに出て下さい』

 優は麗を見た。

 麗が無言で頷く。

 二人は赤く染まった街を一斉に駆け出した。



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10話 望月麗(4)

 亡霊対策室は騒然としていた。

 各部署でひっきりなしに電話が鳴り響き、廊下を慌ただしく職員が走り回る。

 それは司令室として例外ではなく、オペレーターたちは次々と舞い込んでくる解析結果に顔を青くしていた。

 事の始まりは数時間前に遡る。

 一三三五、九州沿岸に位置する高梨市から膨大なESPエネルギーが探知された。

 その大きさは一つの都市を丸ごと飲み込むほどの巨大なもので、多くのオペレーターを震撼させた。

 しかしその後の調べで、探知されたESPエネルギーは一つの亡霊を指すのではなく、ESPエネルギーの集合体である事が判明し、ただちに沿岸部の全域に避難警報を発令した。

 ESPエネルギーの集合体とは、何の攻撃意思も持たない単なるエネルギー体ということである。

 一般にそれは霧のようなものとして認識される。

 しかし、このエネルギー体が問題だった。

 白流島はESPエネルギーで構成された霧に包まれているが、調査に入った者で生存者は存在せず、島民全員も行方不明者扱いとなっている。

 高梨市一帯を覆うESPエネルギーは白流島と同様に霧状のもので、一度中に入れば生きて戻れない危険性があった。

 こうして避難警報が発令し、自衛軍による厳戒な警戒体制が高梨市一帯に敷かれたのが一六三〇のことだった。

 ここで神条奈々は一つの決断を迫られる。つまり、特殊戦術中隊を投入するか否か、である。

 ESPエネルギーに包まれた高梨市一帯との通信手段は全て途絶え、市民の安否が不明な状況に陥っていた。霧に包まれた街から脱出した者は一人もおらず、内部の情報が一切手に入らない状態だった。

 熟考の末、神条奈々は待機の判断を下した。

 蔓延したエネルギー体での生存が確約出来ない以上、特殊戦術中隊を投入する事は出来ない、と判断したのだ。

 統合幕僚監部、及び戦略情報局もこれを支持し、情報収集と通行規制による二次災害の抑制に留まる事になった。

「司令、高梨市に繋がる主要交通網の封鎖を陸上自衛軍が完了しました。引き続き、周辺都市への避難支援を実行中です」

 奈々の元へ加奈が報告に来る。

「航空自衛軍による生存者の探索も実行中ですが、未だに霧から脱出した生存者は見つかっていません。内部からのそれらしい音声も一切拾えない、と報告が上がっています」

「……白流島に亡霊が出現した時と同じ状況ね」

 奈々は空撮された高梨市の様子を見ながら呟いた。

「……白流島は第一基地に過ぎなかった。第二、第三基地が本土内にこうして作られていく可能性がある」

 最悪の想定を口にした奈々に、加奈が青ざめる。

「日本海上ならともかく、これでは亡霊が出る度に甚大な被害が……」

「本土決戦どころではない。この狭い列島内部に敵の前線基地が作られたとなれば事実上の敗戦と同義よ。何としてでも高梨市は奪還しなければならない」

 ――侵略。

 その二文字が頭の中をぐるぐると回る。

 特殊戦術中隊の設立後、亡霊の被害は急速に減っていった。

 未知の生命体による侵略を受けている状態という認識は、世間では徐々に薄くなっている。

 奈々に言わせれば、今までの亡霊の侵略はどこか遊びのあるもので、本腰ではないように思えた。

 まるで特殊戦術中隊の規模に合わせたような戦力の逐次投入など、亡霊には不可解な動きが多い。

 しかし、前線基地が九州に造られたとなると侵略という意味合いが急速に現実味を帯びてくる。

 この事態が引き起こす経済的損失がどれほどのものになるか想像もつかない。

 日本が頼っているメタンハイドレートの輸出も難しくなるかもしれない。あらゆるシーレーンが危機に晒され輸入出の全てがストップする可能性もある。少なくとも、これでは対馬海峡は放棄せざるを得ない。

 海上自衛軍や戦略情報局が維持している中曽根航路帯構想は軍事的にも経済的にも破綻するだろう。

 そこまで考えて、思考を放棄する。

 自分の仕事は戦うことだ。

 亡霊の多方面的な影響など文民が考えればいい。

 どうせ、全ては既に手遅れなのだ。

 一八四〇、沈黙が破られた。

 高梨市一帯のエネルギー体とは独立した一つの巨大なESPエネルギー、すなわち亡霊が現れ、統合幕僚監部による承認を受けて神条奈々は特殊戦術中隊の投入を決定した。

 

 

◇◆◇

 

 

 桜井優は戦闘服に着替え、識別灯の点検を繰り返していた。

 識別灯は夜間飛行時に、味方への誤射や衝突を防ぐ為のものだ。

 特に小隊長クラスは識別灯に色が異なっており、即座に見分ける事が可能になっている。

 黙々と訓練通りの点検を進めながら、息をつく。

 先程の麗の言葉が脳裏に蘇った。

 ――私じゃ、ダメですか?

 ホテルの前で、彼女はそう言った。

 一瞬、唇が触れた。

 彼女は本気だった。

 しかし少し冷静になれば、やはりおかしいと思う。会って間もない異性に対してあれほど積極的になれるものだろうか。

 何か、違和感があった。

 無理をしているような気がした。

 それがとても危うく感じた。

『優くん、準備出来た?』

 通信機から奈々の声。

「はい。終わりました」

『そう。女性陣はまだドレスアップと化粧に手こずっているわ。悪いわね。みんな厚化粧なのよ』

 奈々の冗談と、数人の笑い声が聞こえた。

『司令、こっちにも聞こえてますよ。第一から第六小隊の全ての準備完了報告を受けました』

 華の声。

『あら。ではパーティーの時間ね。ダンスホールを開放しましょう』

 男女の出撃ブースを分断していた扉が開き、機械翼を広げた女性中隊員たちと部屋が繋がる。

『出撃ハッチ開放十秒前』

 オペレーターの無機質な声。

「ねえ、今回ってやばそうじゃない?」

「……過去最大のESPエネルギー量が観測されたらしいね

 誰かの不安そうな声がそれぞれの識別灯で明滅する部屋に響いた。

 それをかき消すように第四小隊長の黒木舞が叫んだ。

「さて、今日は精鋭揃いだ。大物を落とした子には優くんとの一日デート権をプレゼントするよ」

 周囲の第四小隊のメンバーが笑い声をあげる。

 今回出撃するのは第一から第六小隊の第一分隊、総勢四十八名である。

 各小隊の第一分隊には近接戦闘が可能な、ESPエネルギーに恵まれた少女たちが集められている。今回、戦力として安定しない少女たちは作戦に組み込まれていなかった。

 優はちらりと後ろを見た。麗もこの精鋭の中に混じっていた。

 彼女は何かを考え込むように小銃を睨んでいる。

『ハッチ開放』

 オペレーターの宣言とともに、出撃ハッチが開いていく。

 夜の冷たい風が吹き込んだ。

『これより出撃を命じる』

 通信機から奈々の言葉が届く。

 それを合図に各員の機械翼が一斉に展開されていく。

「第一小隊出撃」

 奈々の命令とともに、優たち第一小隊に属する第一分隊計八名は大きく床を蹴った。



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11話 望月麗(5)

 福岡県高梨市に隣接する上空に到着して、優は息をのんだ。

 眼下の街を紫色の霧が覆い尽くしていた。

 かつて似たような光景を、写真で見た事があった。

 日本海に浮かぶ白流島が、謎の霧に包み込まれている空撮写真だ。

 それと同様の霧が本土に広がっているのは、想像していたより遥かに衝撃的な光景だった。

 それは紛れもない侵略で、本土が戦火に包まれていく前触れにも思えた。

 そして、上空にポツンと佇む異様な影。

 人の形をした何かが、高梨市の占領を誇示するように上空二〇〇メートルほどで静止している。

『なんですか、あれ?』

 誰かの呟きをマイクが拾う。

 全員がその異様な姿に圧倒されていた。

 その亡霊は、人の形をしながらも巨大な頭部と手を有していた。

 反対に、胴体部や足は小さくバランスが悪い。

 どこか宇宙人を連想させるようなフォルムだった。

『視認出来る亡霊は情報通り一体です。体高は三メートルから四メートルほど。出現後から対象に動きが見られません』

 第六小隊長の白崎凛が淡々と報告をあげる。

 哨戒ヘリが優たち中隊を追い越して、亡霊を撮影するように近づいていく。 

 しかし、亡霊は接近する哨戒ヘリに対して反応を見せず、ただ浮遊しているだけだ。

『ペンフィールドのホムンクルスに酷似しているわね』

『顔つきまでそっくりです。模倣しているとしか思えない』

 奈々の声に同意する白崎凛の声。

『ペン……何とかのホムンクルスって何ですか?』

 第三小隊長の詩織の声に、奈々が答える。

『脳機能局在論という、人の脳は部分ごとに違う機能を持っているという学説があるの。例えば、ある脳の部分は手の機能を司っている、みたいにね。そして、その脳の領域の大きさは、対応している体の領域から来る体性感覚の入力量や重要度のそれに比例する。ペンフィールドのホムンクルスはそれを三次元的に表現した学術的な人形で、あの亡霊はどうもそれに酷似している』

 説明を聞いても、いまいちピンと来なかった。

 優は小銃の光学照準器を覗いて、異形の亡霊をじっくりと眺めた。

 口の部分が大きく飛び出し、逆に頭頂部の付近は小さくなっている。腕や胴体は今にも折れそうなくらい細く、栄養失調の子供のようだ。しかし、手はそれには釣り合わないほど大きく、その巨大な頭さえも鷲掴みできるほどだった。

 人の口の部分と手の部分は入力量、そして重要度が大きいということだろうか。そして、胴体部などは情報の入力量が小さいと解釈できる。

『何だか、気持ち悪い形ですね』

 詩織の声。

 暗くて周囲の中隊員の表情が見えないが、全員が似たような感想を抱いているようだった。

 優自身もこの亡霊に対して、強い生理的嫌悪を感じていた。

 人間の脳の入力量を表した学説モデルと、亡霊が同じ形をしている。

 明確には説明できないが、不穏で不快な話だった。

『これより、目標の亡霊をホムンクルスと呼称し、本作戦における第一攻撃目標とする』

 ホムンクルスの周囲を旋回していた哨戒ヘリが戻ってくる。

『咲の狙撃を合図に総攻撃を開始せよ。狙撃準備を開始』

 哨戒ヘリが安全圏に戻ると同時に、第五小隊長の進藤咲に狙撃命令が下る。

 優が振り返ると、光輝く隊列の中から小隊長格の識別灯を持った明かりが前に出るのが見えた。

 進藤咲だ。

 中隊で最も狙撃能力に長ける彼女が、ゆっくりと小銃を構える。

『撃て』

 銃声が轟いた。

 同時にホムンクルスの身体が爆ぜる。

『胴体部に命中。総攻撃を開始せよ』

『突撃!』

 着弾と同時に四十八名全員が加速した。

 ホムンクルスとの距離が一瞬で詰まる。

 先頭を飛ぶ第一小隊長の華が指揮灯をつけた右手を上に振り上げた。

 攻撃命令だった。

 それを合図に大気が爆発したかのような轟音が響き、ESPエネルギーの嵐がホムンクルス目指して降り注ぐ。

 ホムンクルスの身体がESPエネルギーの津波に翻弄されて、きりもみするのが見えた。

 反撃が来る前にそのまま撃ち落とそうと、優は照準を覗いた。

 その時、ホムンクルスの巨大な口の端が吊りあがるのが見えた。

 まるで、笑っているようだった。

 引き金に当てた指が思わず固まる。

『攻撃中止! 総員、後退し――』

 奈々の叫び声が聞こえた。

 同時に、ホムンクルが物理法則を無視したかのような挙動で上昇を開始した。

 突然のことに後退が遅れ、隊列が乱れる。

 いくつもの識別灯が、バラバラの方角へ飛んでいく。

 何が起こったのか分からなかった。

 優はその場に静止して、上昇していくホムンクルスを見上げた。

 ホムンクルの巨大な口が大きく開くのが見えた。

 物理的限界を超えて、口腔が全てを飲み込むように大きく広がっていく。

『後退せよ。繰り返す。後退せよ』

 奈々の命令が、通信機の向こうで繰り返される。

 高度を上げ続けるホムンクルスの口から、突如何かが吐き出された。

 霧だった。

 それは白流島や高梨市一帯に広がる霧と酷似していた。

 恐るべき速度で拡散していく霧が、上空から覆いかぶさるように広がってくる。

「──ッ!」

 優は後退を諦め、逃げ遅れた少女たちの元へ方向転換した。

 通信機の向こうで誰かがそれを咎めるのが聞こえる。

 しかし、優は止まらなかった。

 機械翼が嫌な音を立てて、切り裂いた風が唸り声をあげる。

 優は更に速度をあげ、いまにも霧に飲み込まれそうな一人の少女の身体を強引に抱きしめた。

「きゃっ!」

 ──ESPは攻撃手段以外にも情報体としての特性を持ちます。

 脳裏に雪の言葉が浮かぶ。

「ごめん、我慢して」

 優はありったけのESPエネルギーを少女の機械翼にぶつけた。

 彼女の機械翼が優の膨大なESPエネルギーに感応し、凄まじい速度で上空に打ち上げられていく。

 乱暴なやり方だったが、少なくとも安全圏まで投げ出す事は出来た。

 振り返ると、上から霧が迫っていた。

 高度を落として、失速した速度を稼いでいく。

 周囲を見渡すと、逃げ遅れたらしい識別灯が五つあった。

 ──間に合わない。

 そう悟っても、優は速度を緩めようとはしなかった。

「桜井! どこ!」

 不意に前方から京子の肉声が響いた。

 見ると、安全圏らしき所に京子らしき識別灯が見えた。

 京子の位置はまだ安全だ、と判断して真下にいる少女の元へ加速する。

 力一杯腕を伸ばし、その機械翼にESPエネルギーを送る。

 優のESPエネルギーを通した命令が彼女の機械翼に伝わり、逃げ遅れていた少女が一気に加速して安全圏へ弾かれていく。

 次。

 逃げ遅れている少女たちを探す。

 既に数人がエネルギー体に呑まれはじめていた。

『優くん、何をしているの! 後退しなさいッ!』

 奈々の命令。

 それでも優は迷わず、エネルギー体に突入を開始した。

 視界が紫一色に染まる。

 途端、機械翼が不気味な音を立てて振動し始めた。

 機械翼へのESPエネルギー供給が、辺りに蔓延するエネルギー体によって阻害されているようだった。

 霧で塞がれた視界の一角に何かがきらめく。

 識別灯の明かりだとすぐに理解し、速度をあげる。

 機械翼が悲鳴をあげるように軋んだ。

 識別灯の持ち主──望月麗の姿が霧の向こうに垣間見えた。

「麗ちゃん!」

 腕を伸ばす。

「先輩!」

 優の存在に気付いた麗が驚いたような顔をして、優に向かって手を向けた。

 二人の手が絡まり合い、離れないよう力強く握る。

 その時、機械翼が遂に機能を停止させた。

「やば──」

 咄嗟にESPエネルギーで光翼を作り出す。

 巨大な翼が優と麗を包み込んだ。

 しかし、機械翼と同様に揚力が得られない。

 周囲のエネルギー体から何らかの妨害を受けているらしかった。

「先輩! 地面が!」

 麗の声に釣られて下を見る。

 既に陸地が目の前まで迫っていた。

 咄嗟にESPエネルギーを練り、衝撃を殺す為に下方に放つ。

 直後、凄まじい落下音が霧の中に木霊した。

 

◇◆◇

 

 奈々は哨戒ヘリから送られて来る映像に叫び続けていた。

「後退せよ。繰り返す。後退せよ」

 しかし、命令を無視するように桜井優は霧の中へ突入していく。

「優くん、何をしているの! 後退しなさい」

 ついに霧の中へ完全に姿を消した桜井優を見て、呆然とする。

 更に優を追うように第一小隊の長谷川京子が霧を目指して急降下していくのが見えた。

「第一小隊、桜井優。第一小隊、望月麗。第一小隊、長谷川京子、第一小隊、安藤桃。合計四名のロストを確認」

 解析オペレーターが霧に呑まれて反応の消えた四名の報告をあげる。

「ホムンクルス、高度上昇中。中隊に接近しています」

 ホムンクルスが後退し終えた少女たちに肉薄している。

 そして、再びその大きな口を開き──

「すぐに高度を落としなさい! 総員、全力撤退! 戦闘区域からの離脱を命じる」

 数人の姿が、ホムンクルスの撒き散らす霧の中に消える。

 それを助けようとした数人が更に巻き込まれるのが中継映像に映った。

 識別レーダーから次々と中隊員の反応がロストしていく。

 それはもはや撤退ではなく、敗走だった。

「第四小隊、藤宮綾。第六小隊、東寺智ロスト」

 解析オペレーターが次々と不明者の名を読み上げていく。

 逃げるだけではなく、広がる霧を食い止める必要があった。

「凛! 最大出力で霧を吹き飛ばして!」

 第六小隊長、白崎凛。

 優が現れるまでは、最大のESPエネルギー出力量を誇るエースだった。

 命令通り、白崎凛が小銃を霧に向けESPエネルギーを練り上げ始める。

 次の瞬間、中継映像がフラッシュで一瞬見えなくなった。

 桜井優に次ぐ巨大なESPエネルギーの波が凛から放たれ、マイクが強い轟音を拾い上げた。

『一部の霧の消滅を確認。高出力の広範囲攻撃は有効のようです』

 凛の報告を示すように、徐々に正常に戻った中継映像では霧が大きく吹き飛んでいた。

「凛、高出力の攻撃で霧を吹き飛ばして前線を維持しなさい。咲、狙撃でホムンクルス本体を止めて」

 形成を立て直そうと、反撃を試みる。

 その時、予想外の事態が発生した。

 眼下に広がる霧が腕のように伸び、先行していた第六小隊長の凛の足を絡め取ったのだ。

『――これは』

 凛の悲鳴じみた声が、通信機から響く。

『凛! 待って!』

 凛を助けるように前に出た第四小隊長の舞に向かって、街を覆う霧から新たな腕が伸び始めた。

 二人の小隊長が拘束され、エネルギー体の中へ引きずり込まれていく。

 他の中隊員たちはその様子を見て、後退を止めていた。

「司令、ホムンクルスが!」

 加奈の悲鳴。

 気がつけば、ホムンクルスが本隊の上空まで迫っていた。

 再度、その巨大な口から霧が吐き出される。

 もはや隊列など存在せず、散発的な反撃が繰り返され、各個撃破される最悪の状況が中継映像の向こうで広がっていた。

「雪! 詩織!」

 上空から迫るホムンクルスと霧に注意を向けていた小隊長たちに、下方の霧が腕のように伸びてその身体を街中へ引きずり込んでいく。

 悲鳴がひっきりなしに届いた。

 霧に包まれた中隊員たちが、次々に姿を消していく。

 解析オペレーターがロストした少女たちの名前を読み上げていく。

「哨戒ヘリ、及び警戒管制機も下がりなさい! 持ちこたえられない!」

 撤退命令を出している間にも、識別レーダーに映る友軍の反応が続々と消えていく。

 あっという間の出来事だった。

 哨戒ヘリが反転を開始し、現場の映像さえも見えなくなる。

 司令室に響くのはマイク越しに届く悲鳴と、ロストが確認された少女の名前だけだった。

「……オールロスト」

 無情な報告が司令部に響く。

 僅か数分で、神条奈々は手持ちの駒を全て失っていた。

 ホムンクルスは更なる侵攻を開始するわけでもなく、高梨市の占領を誇示するように一人、ただ空に浮遊している。

 司令室は沈黙に包まれていた。

「……加奈、生存者の索敵を」

「ESP反応は霧のせいで一切確認出来ません。音声信号なども確認出来ません」

「陸上自衛軍による生存者の捜索は?」

「統幕、および戦略情報局で協議中です。内閣の承認もまだで……期待できません」

 奈々は中継映像を眺めた。

 上空でじっと動かないホムンクルスが映っているだけだ。中隊員の姿はどこにも見当たらない。

 奈々は呆然として、隣の加奈を見た。

 視線に気づいた加奈が、震える声で言う。

「……他の部隊を、第二分隊以降を投入しますか?」

 奈々はゆっくりと首を横に振った。

 あり得ない事だ。

 小隊長格及び桜井優のようなイレギュラーの全員を失ったのだ。

 戦力の逐次投入で解決出来るはずがない。

「……交通規制を広げる必要がある。ホムンクルスは容易にあの霧を拡大する手段を有している。陸上自衛軍に連絡を」

「はい」

「それから、残りの全中隊に出撃準備命令を。もしホムンクルスが高梨市の外へ侵攻を開始すれば、ただちに出撃出来るように準備だけさせなさい」

「はい」

「それから……」

 奈々はそれ以上の言葉を失って黙り込んだ。

 各小隊の頭を失ったのだ。もはや亡霊対策室に出来る事は少ない。

 じっと中継映像を眺める。

 考えなければならなかった。

 ホムンクルスの目的は何だ。

 何故、動かない。何を企んでいる?

 あの霧の中は、一体どうなっている?

「あ」

 不意に一人の解析オペレーターが放心するように呟いた。

 中継映像を確認すると、霧の中から上空に向かって一つの光が打ち上げられたところだった。

「ESPエネルギーです。第一小隊の桜井優のものです」

「優くんの?」

「はい。エネルギー波形は桜井優のものと一致しています」

「これは……恐らく生存信号ね。内部で生きている事を私達に知らせようとしているんだわ」

 奈々は中継映像を見ながら考える。

「この霧は、少なくとも内部に落ちたESP能力者の生存をただちに脅かすものではない。ただし、何らかの効果、例えば機械翼の無力化などで脱出が困難ですぐに出てこれないのかもしれない」

 内部の事情が分からない以上、人員を送り込む事は難しい。

 出来る事は限られている。

「支援物資を投下しましょう。ナノマシンを中心とした医療道具に、飲料水や食料を用意して」

「はい」

 加奈が慌ただしく司令室を出ていく。

 それを見送ってから、奈々は中継映像に視線を戻して小さく呟いた。

「……最近、優くんに頼りっきりでダメね」



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12話 白崎凛

 第六小隊長、白崎凛がはじめに感じたのは、冷たいアスファルトの感触だった。

 気を失っていたことに気づくと、凛はすぐに立ち上がった。

 強い目眩を感じたが、彼女はそれを無視して小銃を構え、周囲を見渡した。

 辺り一面が紫の霧に覆われ、見通しが悪い。

 僅か10メートル先さえも霞んで見えない状況だった。

 凛はゆっくりと足音を殺し、近くの民家の塀まで移動して、そこに背中を預けた。

 耳を澄ますも、周囲から聞こえるものは何もない。完全な静寂が辺りを支配していた。

 どうやらあのホムンクルスと呼ばれた亡霊の追撃はなさそうだった。

 背中に背負った機械翼を手探りで確認する。特に大きな損傷は見られない。

 試しに機械翼にESPエネルギーを送った。しかし、何かに阻害されているかのように、機械翼は沈黙を続ける。

 凛は小さく舌打ちした。

 ――まんまと誘いこまれてしまった。

 そもそも、中隊が到着するまでホムンクルスが高梨市の上空でじっと待機していた時点で気付くべきだったのだ。

 今思えば、あれはどう考えても罠ではないか。無能な司令官め、と内心毒づく。

 凛は小銃を構え、ゆっくりと塀伝いに移動し、手短な庭に入り込んだ。

 そのまま民家の窓を銃床で叩き割り、強引に身を滑り込ませる。

 どうやら、そこはリビングのようだった。小銃を油断なく構え、順番に部屋の内部をクリアリングしていく。

 静寂の中、自分の息遣いと足音が妙に大きく聞こえた。

 一階に誰もいない事を確認し、凛は迷った後、二階も確認する事にした。

 薄暗い階段をゆっくりと上る。

 やはり、人の気配はない。

 凛は油断なく小銃を構えながら、階段近くのドアをそっと開いた。

 メンテナンスをしていないせいか、ヒンジの部分から高い金属音が上がった。

 中を覗き込むと、子ども部屋のようだった。勉強机が二つ並び、二段ベッドが置かれている。

 誰もいない事を確認し、次の部屋のドアを開ける。

 倉庫のようになっていて、乱雑に物が積まれていた。

 住民の死体はどこにもない。

 たまたま留守だったのか、亡霊にどこかに連れ去られたのか。

 凛は二階の廊下に土足のまま座り込んだ。

 深呼吸して息を落ち着かせる。

 考えろ、と凛は自分に言い聞かせた。

 何故、ホムンクルスは追撃してこない?

 ――この霧の中に落とす事自体が目的だったからだ。奴はわざわざこの霧の上空で待ち伏せをしていた。はじめから計画的に練られたものだったに違いない。

 脳裏に嫌な想像が浮かんだ。

 エイリアンに攫われた人間の末路は、大体が似通っている。

 そういうフィクションは何本も見てきた。

 亡霊の戦略目標は恐らく、ただの侵略ではない。

 単純な侵略行為ならば、亡霊の持つ戦力は亡霊対策室のそれを遥かに上回っている。こんな小細工を弄する必要はない。

 裏に隠れた目的を考え、阻止しなければならない。

 そこで凛は思考をとめた。

 小銃を捨て、階段を降り始める。

 一階に降りて、凛はそのまま庭に出た。

 周囲には誰もいない。

 右手を何もない道路に向け、ESPエネルギーを練り上げる。

 風が吹き上げ、凛の黒髪が大きく乱れた。

 練り上げたESPエネルギーを、容赦なく放つ。

 空間が波打ち、周囲の霧が消し飛ぶ。

 少しだけ見通しが良くなった道路を見つめ、それから空を見上げる。

 凛の持つ高出力のESPエネルギーでも、星空は未だに隠れて見えない。

 ならば、桜井優ならばどうだろうか。

「やはり、彼が選ばれている、と考えるべきか」

 凛は呟いて、それから壮絶な笑みを浮かべた。

 唯一の男性ESP能力者。

 それが現れてから、亡霊の動きが明らかにおかしい。

 亡霊にとって想定外の何らかが起きていると見るべきだった。

「神条奈々。その席、必ず明け渡してもらうぞ」

 元々、桜井優は第六小隊へ配属させるつもりだった。

 しかし神条奈々はその提案を受け入れず、第一小隊へ捩じ込んだ。

 きっと彼女は警戒しているのだろう。

 高位のESP能力を持つ者が第六小隊に一極集中することを。

 現時点で第六小隊の持つESP出力量は中隊の平均出力量を大きく上回っている。

 現存する最古のESP能力者も第六小隊に属していた。

 そしてその全員を従わせる自信が凛にはあった。

 凛は両手を広げて、高出力のESPエネルギーを放った。

 周囲の霧が、消し飛んでいく。

「ESP能力者は、優秀なESP能力者によって統括されるべきだ。ただのノーマルが私たちの上にいるべきじゃない。そうだろう、桜井優」

 轟音に紛れて、凛の呟きが虚空に放たれた。

 桜井優に次ぐ莫大なESPエネルギーを持て余すように全方位への高出力を繰り返し、周囲の視界を広げていく。

 亡霊に見つかる可能性など、どうでも良かった。

 まずは優秀な部下たちを探す必要があった。

 子飼いの者たちを全て手中に戻し、この霧から脱出しなければならない。

 亡霊との闘争は通過点でしかない。

 こんなところで手勢を失うわけにはいかない。

 爛々と輝く双眸が、霧の中で危険な色を放った。

 そして白崎凛は一人、突破を目指して動き始めた。



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13話 進藤咲

「先輩! 先輩!」

 麗の鋭い声に、意識が覚醒する。

 桜井優は自身が地面に横たわっていることに気づいて、慌てて辺りを見渡した。

「ここは……」

 辺り一面を霧が覆い尽くしていた。

 高梨市に墜落した事を思い出し、ゆっくりと立ち上がりながら麗に視線を移す。

「麗ちゃん、怪我は大丈夫?」

「先輩が守ってくれたので擦り傷だけです」

 見た限り、外傷は見当たらない。

 気丈に振る舞っている訳ではなさそうだった。

 地面に衝突する間際、勢いを殺す為にESPエネルギーを放ったのが功を為したのかもしれない。

 ゆっくりと周囲を見渡す。

 妙に静かだった。人の気配を全く感じない。

 嫌な予感がした。

 慎重に霧の中を歩く。

 戦闘の形跡は見当たらない。

 にも関わらず、住民の気配がない。

 周囲を満たす霧をじっと観察する。

 これ自体が何らかの攻撃になっている可能性があった。

 空を見上げる。夜空は見えない。

 試しに機械翼にESPエネルギーを送ってみるが、機械翼は沈黙したまま動かない。

 機械翼を脱ぎ捨て、光翼を作り出そうと試みる。しかし、それも上手くいかなかった。

「先輩でも機械翼は動かせないんですか?」

「うん……ダメみたい。この霧に妨害能力があるのかな」

「先輩、どうしますか?」

 麗が小銃を構え、緊張した声で指示を乞う。

「……とりあえず、本部に生きてる事を伝えよう。他に何人も墜落したはずだから。墜落者の生死が不明なのはまずいと思う」

「……連絡、ですか? でも通信機も通じないですよ」

「ESPエネルギーを使おう。僕達はエネルギーの波形が本部に登録されてるから、誰の信号かも特定出来ると思う」

 優はそう言って、頭上に右手を向けた。

 ESPエネルギーを練り上げ、上空に向かって打ち出す。

 それは信号弾のように霧の中へ消えていった。

「霧の中で信号が減衰せずどこまで打ち上がるか分からないけど、ないよりはマシだと思う。後はとりあえず移動しよう」

 優は二つ年下の少女の不安を拭う為に、何でもない風を装って行動を始めた。

「どっちに、ですか?」

「高梨市に広がってる霧は直径で大体一〇キロメートルくらいのものだったと思う。どの方向に歩いても数時間あれば突破出来るんじゃないかな」

 小銃を構え、ゆっくりと霧の中を進む。

 アスファルトを踏む自分たちの足音が妙に大きく聞こえた。

「とりあえず、この道を進もう。何かの目印がないと、この霧じゃ方向が分からなくなる。大通りに出て、ひたすら同じ方向に進んだ方が効率が良いんじゃないかな」

「了解です」

 麗を庇うように先頭に立つ。

「……街の中、本当に誰もいないです」

 後ろから麗の声。

 優は油断なく前方に小銃を構えながら、彼女の不安を払拭する言葉を探した。

「避難場所に集まっているのかも」

 自分でも白々しい嘘だと思った。

 それでも、死体はまだ一つも確認出来ていない。生存者がいる可能性は十分にある。

 沈黙が落ちる。

 緊張で小銃を握る手に自然と力が篭った。

 そのまま住宅街らしき道を歩き続ける。

 五分ほど歩いたところで、優は足を止めた。

「国道だ。この道に沿って進めば高梨市から出られると思う。他の中隊員と遭遇する可能性も高いかも」

 住宅街を抜けた先に広がる大通り。

 何となく左側に向けて足を進める。

 麗は何も言わず、無言でその後をついてきた。

 ふと、足を止める。

「先輩?」

 麗の不思議そうな声。

 優はじっと目を凝らして、前方に小銃を構えた。

「そこにいるのは誰ですか?」

 霧の中に、うっすらと人影が見えた。

 優の牽制の言葉に、その影が揺らめく。

「ここの住民ですか?」

 ゆっくりと足を進める。

「先輩、ダメです。下がりましょう」

 麗の怯えた声。

 優はそれを無視して、また一歩前に進んだ。

「誤射したくありません。もし人間なら返事をお願いします」

 人影は答えない。

 霧の向こうで、じっと立ち尽くしているだけだった。

 大きく息を吸う。

 ゆっくりと上体を前に倒し、優は勢い良く地面を蹴った。

 相手の不意をつくように、一瞬で人影との距離を詰める。

「――――ッ!?」

 霧の向こうから、銃口が見えた。

 人間。

 それを理解すると同時に、叫び声が響いた。

「来ないで!」

 女の声だった。

 足を止め、霧の中から現れたその顔を見る。

「進藤、さん?」

 目の前には、警戒するように小銃を向けてくる第五小隊長の進藤咲がいた。

 どっと安堵に包まれる。

「良かった。全然返事がないから亡霊かと思って」

 力なく笑って、優は小銃を下ろした。

「進藤先輩、ですか?」

 後ろから恐る恐る着いてきた麗が驚きの声をあげる。

「うん。合流出来て良かったよ」

 優はそう言って、咲に向かって足を進めた。

 それに合わせるように、咲が一歩後ろに後ずさった。

「来ないで」

 小さな拒絶の声が届いた。

 予想もしなかった反応に、優は足を止めた。

「進藤……さん?」

 咲は何も答えない。

 彼女は油断なく優に銃口を向けたまま動こうとしなかった。

「あの……?」

 優は困惑したように咲を見た。

 そして、ようやく気づく。

 咲の瞳に宿るものは敵意だった。

 紛れもない害意が優と麗に向けられていた。

「あの、進藤さん。その小銃、下ろしてくれないかな?」

 優はそう言って、自分の小銃を地面に投げ捨てた。

 しかし咲は動かない。

 じっと観察するように優を睨みつけるだけだった。

「進藤、先輩?」

 背後から麗の震えた声。

 咲が小銃を構えたまま、一歩後ろに下がる。

「住民が一人も見つからない」

 ポツリ、と咲は呟くように言った。

 優は真意を測りそこねて言葉の続きを待ったが、彼女はそのまま黙り込んでしまった。

「……うん。何が起こってるのか、これから何が起こるか分からない。墜落した中隊員を集めて、皆でここから脱出するべきだと僕は思う」

「私はこの中で無闇に移動する気はない」

 咲はそう言って、もう一歩下がった。

「わざわざ危険を犯す必要はない。桜井君たちは勝手に脱出ルートを探せばいい」

 彼女の持つ小銃は、未だ優に向けられたままだった。

 優はそっと後ろの麗を見た。

 麗は怯えた様子で、優に縋るような視線を向けていた。

「……うん。分かった。進藤さんが僕達と合流する気がないなら無理強いはしないよ。大丈夫。安心して」

 咲は何も答えない。

 ただ銃口を向け、警戒心を露わにするだけだった。

「あの、じゃあ、僕たち行くね。進藤さんも気をつけて」

 咲を刺激しないように、ゆっくりと小銃を拾い上げる。

「無事に脱出できたら必ず救援を要請するから待ってて」

 出来るだけ優しい言葉をかけながら、優は麗に目配せして、そっと咲の横を通り過ぎた。

 咲のすぐ横を通り過ぎた時、彼女の身体が大きく震えるのが分かった。

 彼女の荒い息遣いがはっきりと耳に届く。

 そのまま、咲を残してその場を去る。

 最後に後ろを振り返ると、濃霧に紛れて優たちを監視するように銃口を向けたままの咲と目が合った。

 その瞳には、敵意と怯えが同居しているように見えた。

 優はすぐに視線を外して、麗の手を取った。

 麗が驚いたように小さい声を出す。

 優は構わず、咲から距離を取るように足を早めた。

「あの、先輩」

 咲と十分な距離をとったところで、麗が口を開く。

「進藤先輩、様子がおかしかったです。ちょっと普通じゃないですよ」

「うん」

 優は足を止める事なく頷いた。

「……小銃のセーフティーが外れてた。進藤さんは本気で僕達を撃とうとしてた」

 進藤咲の事を、優はよく知らない。

 第五小隊の小隊長で、狙撃を得意とするエース。知っている情報はそれくらいだった。

「進藤先輩、重度の人間不審なんでしょうか」

 麗の疑問の声。

 彼女の手を引っ張りながら考える。

 進藤咲は、いつも一人で行動しているタイプだった。

 それは別段、中隊では珍しくない。

 第二小隊長の姫野雪や、第六小隊長の白崎凛も一人で行動している事が多い。

 だから、優はこれまで進藤咲にそれほどの注意を向けて来なかった。

「進藤さんの事は気になるけど、この状況下でもう一度進藤さんと遭遇するのは危ないと思う。このまま距離を稼ごう」

 優はそう言って、麗の手を引っ張りながら国道をまっすぐと進んだ。

 生存者は未だ、見つかりそうになかった。



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14話 望月麗(6)

 随分と国道を進んだ時、無言で歩いていた麗が口を開いた。

「何か聞こえます」

 立ち止まり、振り返る。

 麗が深い霧の中で空を見上げていた。

 釣られて空を見上げる。霧で何も見えない。

 彼女の言う通り、何か低音が聞こえた。

「これ、ヘリですよ。対策室の哨戒ヘリです」

「ヘリ?」

 言われればローター音のようにも聞こえた。

「……まさか、ここに着陸して僕達の捜索を開始するつもりじゃないよね……」

「……わからないです。どうなんでしょう?」

 優は少し悩んだ挙句、空に向かって右手を向けた。

 そしてESPエネルギーの信号弾を打ち上げる。

「一応、位置情報を送っておこう。神条司令に何か考えがあるのかも」

「そうですね」

 ローター音が大きくなる。

 じっと空を見上げるが、霧の中に機影は確認出来ない。

 相応の高度を維持しているようだった。

「あ」

 麗の声と同時に、視界の隅で何かが動いた。

 続いて破裂音が響く。

「何か落ちましたよ」

 十数メートル離れた車道に黒い物体が落ちていた。

 霧のせいで良く見えないが、かなりの大きさと質量を持った物体だった。

 小銃を構え、警戒しながら落下物の確認に向かう。

「……ドローン?」

 アスファルトに叩きつけられて破損しているのは、軍用のドローンのようだった。

 機体に取り付けられたカメラを覗き込む。

 点灯している表示灯はなく、正常に動いているようには見えなかった。

 これを使って本部とやり取りを行うのは無理だろう、と判断する。

「……この霧に通信を妨害する機能があるみたいだね」

「あ、また何か来ます」

 麗が叫ぶ。

 空を見上げると、ドローシュートが取り付けられたボックスがゆっくりと落ちてくるところだった。

「次はなんだろう」

 恐らく哨戒ヘリが投下したのだろう。

 落下してきたボックスを拾いに向かう。かなり大型のボックスだった。

「ゲームに出て来る宝箱みたいです」

 本部との繋がりが出来て余裕が出たのか、麗がどこか呑気そうに言う。

 優は小さく笑って、ボックスを開いた。

 中には医療用ナノマシンの注射器と飲食料、小銃が入っていた。

「うーん。支援物資かな」

 ボックスを漁り、一つ一つを念入りに確認していく。

「本部からの命令とか指示を示すものはないんですか?」

「メッセージはなさそうだね。食料が結構入ってる。神条司令はこの事態が長期化する可能性も考えてるのかも」

 優はそう言って、小銃を肩にかけるとボックスを両手で抱え上げた。

「一度休憩しよう。麗ちゃん、周囲の警戒をお願い」

「はい」

 支援物資を運びながら歩道に寄って適当に休めそうな場所を探す。

「……コンビニの中、入ろうか」

 近くにあったコンビニ。

 自動扉に近寄ると、センサーが反応してドアが開いた。

 店内は通常通り明かりがついている。

 電気は高梨市外から通常通り届いているらしい。

 補給物資の中にあった予備の小銃を、何となく外の駐車場に置いておく。

 もしも中隊員がこの前を通って落ちている小銃に気づいたら、向こうから中に入ってくるだろう。

「暖房、ついてますね」

 麗が店内に足を踏み入れながら呟く。

「人がいない事を除けば、ごく普通のお店だね」

 優はそう言って、レジカウンターにもたれかかるように座り込んだ。

 その隣に麗が腰を下ろす。

「ご飯、食べる? 色々あるみたいだけど」

 ゴソゴソと補給物資を漁り、食料を取り出す。

 固形食料に缶詰、クッキーのような保存食、レトルト品。

 どれも見慣れないもので、優は興味深くパッケージを眺めた。

 反対に麗は興味なさそうに店の外をガラス越しに眺めていた。

「お菓子みたいなのもあるよ。缶に入ったチョコケーキだって。ちょっと固そうだけど」

 緊張と不安を解こうと麗に声をかけたが、彼女は何も答えなかった。

 沈黙が落ちる。

 優は水の入ったペットボトルに手を伸ばし、少しだけ口に含んだ。

 水を飲み込む音が、妙に大きく聞こえた。

 ペットボトルの蓋を閉め、ふと天井を見上げる。

 換気扇の静かな低音が唸っていた。

 静かだった。

 目を瞑る。

 そこでようやく、疲労が溜まっている事に気づいた。

 どっと眠気に襲われる。

「先輩」

 麗の声。

 薄く目を開く。

 彼女の栗色の瞳が、すぐ目の前にあった。

「先輩は」

 麗の手がゆっくりと上がり、優の頬を撫でた。

「私のこと、どう思っていますか」

 優はぼんやりと麗を見つめた。

 答えを待つように、麗は何も言わない。

「……麗ちゃんが何を考えてるのか分からない」

「なにって、そのままですよ。答えが聞きたいだけです」

 優は少しだけ考える素振りを見せて、それから首を横に振った。

「この状況で話すような事じゃないよ」

「この状況だから、です」

 麗の表情が、崩れた。

 今にも泣きそうな顔を浮かべ、口を開く。

「先輩は、先輩が思ってるよりも遥かに重要な存在なんですよ」

 麗の言葉が理解出来ず、優はじっと彼女を見つめた。

「亡霊は無限に出てきます。少なくとも、たくさんいます。でも、私たちESP能力者はたった千人弱で、しかも特殊戦術中隊に入ってるのは二百人ほどしかいないです」

 彼女が何を言おうとしているのか、優にはわからなかった。

「だから、過去にESP能力者を増やす為の研究がされてきました。でも、結局何も分からなかったんです。妊娠したESP能力者も過去にいましたが、能力が子供に遺伝することはありませんでした」

 でも、と麗は言葉を続けた。

 麗の澄んだ瞳が、真っ直ぐと優を射抜いた。

「父親もESP能力者ならどうでしょうか?」

「それは――」

 優の言葉を遮るように、麗が動いた。

 甘い香りが全身を包む。

 柔らかな感触が、唇に触れた。

 麗のツインテールが、頬を優しく撫でた。

 目を見開く優に、唇を離した麗が宣言する。

「先輩、もう一度言います。私を好きになって下さい」

 

 

 

 望月麗は、母の命と引き換えにこの世に生を受けた。

 彼女は生まれながらにして、命の重みをその魂に刻んでいた。

 出産後、42日以内に妊産婦が死亡する確率は、0.003%と言われている。

 彼女の命は、0.003%の確率の上に成り立っていた。

「命を紡ぐんは、とても難しいことじゃけえ」

 そう言ったのは、祖母だった。

 田舎育ちの祖母は、多くの兄弟に囲まれて育ったという。

 その兄弟は皆、祖母を残して既に死んでしまっていた。

 物心ついた時から、何度もその話を聞いた。

 生まれながらに0,003%の死を見た麗にとって、それは特段珍しい事ではないように思えた。

 麗の死生観は、平均的なそれよりも遥かに悲観的なものとして形成されていった。

 産まれてから一年未満に死ぬ乳児死亡率0.02%。

 40歳までに死ぬ確率2%。

 60歳までに死ぬ確率およそ10%。

 平均寿命までに死ぬ確率63%。

 人の命は、簡単に散ってしまう。

 タンパク質の塊は、いとも容易く崩壊してしまう。

 0.003%の確率が、母を奪った。

 麗は母の死体の上に、その生を積み上げていった。

「麗。母の分まで生きるんじゃ」

 そう言ったのは誰だっただろうか。

 祖父母だったかもしれないし、遠い親戚だったのかもしれない。

 麗の命は、母の命とともにあった。

 それは恐らく、彼女のものではなかった。

 身体も、魂も、自分のものではないように感じていた。

 どこかで引け目のようなものがあった。

 自罰的な意識があった。

 そして海上自衛官だった父の下、厳格な教育を受けて麗は育った。

 父は遠洋に出ると長い期間家に帰らなかった。

 父にも祖父母にも迷惑をかけてはいけない、という思いが生まれた。

 麗の人格は主体性を失って、その欠けた部分を補うように自己犠牲的な責任感が芽生えた。

 それが望月麗という少女を作り上げた。

 そして、亡霊の侵攻が始まった。

 麗より少しだけ年上の少女たちが、戦場に駆り出されていった。

 多くのESP能力者の命が失われただけでなく、亡霊に対して遅滞作戦を実施した数多の自衛官も殉死した。

 父の乗っていた護衛艦も、その例外ではなかった。

 数少ないESP能力者を撤退させるため、父の乗っていた護衛艦は勝ち目のない遅滞作戦を実行した。

 そして遺体すらも残らなかった。

 母だけでなく、父もいなくなった。

 同時期に、祖母もいなくなった。

 平均寿命までに死ぬ確率63%。

 母が0.02%を引いたように、祖母も当然のように63%を引いた。

 望月麗は頼るべき家族を失った。

 彼女にESP能力が発現したのは、そんな時期だった。

 選択肢はなく、亡霊対策室に身を寄せる事になった。

 父の仇もあり、麗は銃を手に取った。

 それが11歳の時だった。

「ここの最年少か。その身体で小銃を構えられるの?」

 入隊当初、当時の小隊長は麗を見て心配そうに笑った。

 麗はその小さい身体に似つかわしくない大きな小銃を構えて、ただその女性を睨んだ。

 他の年上の少女たちに混じって、麗は死にものぐるいで訓練に参加した。

 機械翼や小銃などの標準装備は、11歳の少女には重量過多だった。

 実戦には参加出来ず、基礎訓練に励む毎日だった。

 しかし、そのおかげで麗は死なずに済んだ。

 じっくりと、基礎を固める事が出来た。

「待ってろよ。チビ助。すぐ帰ってくるからさ」

 休暇の日に、よく街に連れ出してくれた人がいた。

 家族のいない麗にとって、姉のように慕っていた人だった。

 その人は、強かった。

 いつまでも実戦に投入されない麗と違って、毎回のように主戦力として投入されていた。

 中隊のエースだった。

 しかし、いつかは終わりが来る。

 終わりの見えない闘争で、ただ一度だけしくじってしまった。

 それだけで、その人は死んでしまった。

 その人だけではない。

 多くの中隊員が死んでいくのを、望月麗は見てきた。

 どれだけ強くても、繰り返される戦闘の中、一度のミスで誰だって死んでしまう。

 出撃が許可されない中、望月麗はずっとその現実を近くで眺めてきた。

 28%。

 入隊したばかりの一年目の中隊員の死亡率。

 11%。

 二年目の中隊員の死亡率。

 望月麗は、出撃を許されないまま二つの確率を超えた。

 彼女は万全の準備を整え、戦場に向かって歩き出した。

 戦いながら、実感する。

 この闘争が終わらない原因は、はっきりしていた。

 数だ。

 数が違いすぎる。

 亡霊の圧倒的な数に対して、中隊は僅か数百人をローテーションで回すだけ。

 この闘争は、危ういバランスの上で成り立っていた。

 そのギリギリのバランスで、終わりの見えない不毛な闘争を続けるしか選択肢がなかった。

 今までは。

 

 桜井優。

 

 その存在が確認された時、何故か両親の事を思い出した。

 自らの命と引き換えに、新たな命を選択した母。

 自ら危険な護衛艦に乗り込み、国を守ろうとした父。

 そして、思った。

 桜井優の存在は、闘争を終わりに導くのではないか、と。

 闘争が未だに終わらないのは、亡霊との戦力差が顕著すぎるからだ。

 もし、男性ESP能力者と女性ESP能力者によって新たなESP能力者が産まれるのだとしたら、その戦力差は爆発的に縮まるだろう。

 恋愛なんてどうでも良い。

 欲しいのは結果だけ。

 誰かが、真っ先に証明をするべきだと思った。

 ならば、私が。

「先輩」

 麗は意を決して、戦闘服の胸元に手をかけた。

「もう一度言います。私を、好きになってください」



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15話 長谷川京子(3)

「もう一度言います。私を、好きになってください」

 麗の言葉に、優は動きを止めた。

 ――父親もESP能力者ならどうでしょうか?

 考えた事などなかった。

 麗はきっと、この闘争をうんざりするほど長い間経験してきたのだろう。

 彼女がどこか余裕がなく、焦っているように見せるのは、きっと優が知らない現実をいくつも見てきたからに違いない。

 ――一緒の時期に入隊した人がいたんです。昔は休暇を取る日を合わせてよく遊びに出てました。

 ――死んじゃったんです。それからあんまり外に出かけなくなりました

 ――遊んでばかりいても、ダメですよね。まずは生き残る事が大事です。それを思い知りました。

 麗の言葉が頭に蘇った。

 彼女の突然の告白と、急なアプローチの理由をようやく理解する。

 彼女は危惧しているのだろう。

 ここで万が一があれば、ESP能力者同士の子どもを作る機会が永遠に失われるかもしれないのだ。

 優が死んでも、麗が優の子どもを宿して生き延びることができれば、それはESP能力につての研究に新たな方向性を与えることができる。

 この得体の知れない状況の中で、麗は最善の行動を取ろうとしている。

 しかし、優は麗のように割り切ることができなかった。

 目の前で迫る麗に応えようとは、到底思えなかった。

「先輩」

 麗の手が、その胸元にのびる。

 戦闘服がはだけ、中に着込んでいたスウェットスーツが露わになっっていく。

「麗ちゃん、それ以上は」

「先輩」

 麗が身体を寄せてくる。

 甘い香りが鼻腔をついた。

 濡れた彼女の瞳が、すぐ目の前にあった。

 戦闘服の中に着込んでいたスウェットスーツのファスナーがゆっくりと開いていく。

 その時、予想もしない第三者の声が響いた。

「まったく。ようやく見つけたと思ったら、とんだお邪魔虫のようで……」

 反射的に振り返る。

 開いた自動扉に、小銃を構えた京子が呆れた顔をして立っていた。

「長谷川先輩!」

 麗は慌てて優から身を離し、乱れた服を隠すように身を抱いた。

 京子が呆れるように息をついて、近づいてくる。

 彼女の瞳は、麗に向けられていた。

「って言うか、子供作るだけなら別にあんたじゃなくていいよね。あそこ、腐るほど女の子が余ってるんだからさ」

 いつからそこに、と優の頭に疑問が浮かぶ。

 京子は優を無視するように、麗に向かって足を進めていく。

「そういう大義名分を背に、なに当たり前みたいに関係を迫ってんの? そうすれば桜井が断れないとでも思ったわけ?」

 責めるように言う京子を、麗が睨み返す。

「違います!  私はそんなつもりじゃ……」

「じゃあ、告白した時に何で理由を言わなかったの? 事情を隠す理由なんてないし、もっと言えば誰かと子供を作ることを勧めるだけでよかったよね。本当はさ、それを理由にしたくなかったんでしょ」

「違いますッ! 私は……ッ! 私は……」

「本当は普通に付き合うつもりだったんだ、でも断られたから、言っちゃったんでしょ? そうすれば押し切れると思ったわけだ」

「黙ってください!」

 麗の怒号に呼応するように、店内に充満する霧が揺らぐ。

 麗の小さな身体からESPエネルギーが溢れだしていた。

 それでも、京子は怯まない。

「そういう中途半端なの、誰も得しないよ。そうやって、その場だけ繋いでも後で後悔するだけなんだからさ」

「違います! 私は、私はずっと悩んで――」

「ふうん。そうなんだ?」

 彼女は挑戦的な笑みを浮かべ、優に視線を向けた。

 そして何でも無い風に、言葉を続ける。

「じゃあさ、私とヤッてみる?」

「なッ――」

 麗が絶句したように目を見開く。

 京子は呆れたように笑った。

「ESP能力者の子供を作るべきだって言うなら、全員と順番にヤレばいいじゃん。別に望月と桜井が付き合う必要ないでしょ」

 結局、と京子は冷たい目を麗に向ける。

「望月はさ、桜井と付き合う名目にそんな大義名分を持ってきただけじゃない。桜井の責任感を利用しようとしてるだけ。桜井のことなんて本当はどうでもいいんだ」

 麗は何も言い返さなかった。

 唇を噛んで、涙の滲んだ瞳で京子を睨みつけるだけだった。

 京子の視線が剣呑なものになる。

「桜井は望月とデートする前日、本気で悩んでたよ。普通なら恋に恋してる年齢のあんたなんて無視してもいいのに、糞真面目に対応しようとしてた。それを利用して踏み躙るつもりなら、もう二度と桜井に近づ――」

 彼女の言葉は最後まで続かなかった。

 大気を揺るがすような爆発音が全てを掻き消した。

 反射的に外を見る。

 店内のガラスが小さく揺れるのが見えた。 

 優はすぐに小銃を抱え、外に飛び出した。

 濃厚な霧が視界を覆い、爆発源は確認できなかった。

「桜井! 今のは?」

 遅れて京子が飛び出してくる。

 優は何も答えず、周囲を用心深く見渡した。

 亡霊の姿は、確認できない。

「先輩――」

 店内から麗の声。

 被さるように二度目の爆発音が響いた。

「誰かが戦ってる……?」

 京子と視線を交わし、言葉もなく優は駆け出した。

「ま、待ってください」

 麗が追いかけてくる。

 三度目の爆発音。

 続いて銃声がした。

「この銃声、一人分じゃない」

 京子の叫び声。

 銃声に紛れて音楽が聞こえた。

 派手なロックだった。

 次いで、再び爆発音が轟く。

「かなり近いです!」

 後ろから届く麗の声と同時に、前方に黒煙が見えた。

 霧の向こうで燃え盛る何かがあった。

 息を荒げながら、足を止める。

 燃えているのは自動車だった。

 国道に乗り捨てられた自動車がいくつも炎上していた。

 そして、その向こう。

 バリケードを作るように並べられたトラックの間に、小銃を抱えた少女たちが整然と隊列を組んでいた。

 周囲のトラックからは、大音量で音楽が流れ続けている。

 隊列を組んだ少女たちの中から、長身の影が前に出てくる。

 第六小隊長の白崎凛だった。

 彼女は不敵な笑みを浮かべ、周囲の音楽に負けないほどの大声で叫んだ。

「狼煙は派手な方がいい。そうだろう?」

 指揮灯をつけた彼女の右腕がすっと上がる。

 周囲の少女たちはそれを合図に、一斉に発砲を開始した。

 近くの自動車が炎上し、爆発音が轟く。

 熱風が頬を焦がす中、霧の向こうから次々と中隊員が集まってくるのが見えた。

 その中心に立つ白崎凛は、優がこれまで見てきた誰よりも支配者然とした姿をしていた。



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16話 白崎凛(2)

 続々と集結する中隊員たち。

 そして、その中心で指揮を執る第六小隊長の白崎凛。

 優は後ろの京子と麗に思わず目を向けた。

「みんな無事みたいだね」

「私たちも中入っておこうよ」

 京子に押されてバリケードの中に足を進める。

 隊列を組む少女たちの中から、佐藤詩織が駆け寄ってきた。

「桜井さん! ご無事でよかったです」

「詩織ちゃんも無事みたいで良かったよ」

 見たところ、怪我はなさそうだった。

 すぐに視線を周囲に向ける。

「怪我人は?」

「足を骨折した人が四人います。ほかは軽症が数人です」

 思ったより被害が少ない。

 指揮系統さえ回復すれば、まだ組織として機能する状態を中隊は維持していた。

 背後から爆発音と熱風が届く。

 振り返ると、新しい火柱があがったところだった。

 立ち上る黒煙の前で、凛が地図を広げるのが見えた。

「我々はこれより、自力で合流が不可能な重傷者の救出を行う!」

 凛の透き通った声が霧の中に響いた。

 誰もが凛に視線を向け、次の指示を待っていた。

「これが高梨市の地図だ。主要幹線道路はいくつかあるが、我々はまずここを拠点とし、東西に伸びるこの国道を中心に捜索を広げていく!」

 彼女はそう言って、二つの車の鍵を取り出した。

「東西二手に分かれてクラクションを鳴らしながらゆっくり走行しろ。銃声等、何らかの生存信号が聞こえた場合のみ国道から離れて捜索することを許す。生存者からの合図がない場合は絶対に国道から逸れるな」

 大声を張り上げる凛の後ろには、副官のように身を寄せる少女の姿もあった。

 この場の主導権は、間違いなく凛が掴んでいた。

「東寺! 大葉! 確か免許を持っていたな。運転しろ」

 凛が鍵を放り投げ、二人の少女がそれを受け取る。

「橘! 手塚! 助手席に乗り込んで二人をサポートしろ」

 命令を受けた二人の少女がそれぞれ車に乗り込んでいく。

「他の全員はここに残り、引き続き拠点の維持を行う。狼煙を上げ続けろ」

 極めて明瞭な方針だった。

 捜索を命じられた二台の車のエンジンがかかり、ヘッドライトの明かりが霧の中で散乱した。

 けたたましいクラクションとともに、東西に分かれてゆっくりと発進していく。

 その間にも凛の指示が飛んだ。

「小林、合流出来た中隊員と未回収の者のリストを作成しろ。橋田は食料品の在庫をまとめて何日持つか計算しろ」

 霧の向こうから新たな集団が合流してくるのが見えた。

 第一小隊長の篠原華が率いる集団だった。

 彼女は築かれたバリケードをまじまじと見ると、安心したように笑った。

「みんな無事だったんだね」

「篠原。怪我は?」

 華の姿を発見した凛が駆け寄っていく。

「私は大丈夫です。ここには第一小隊の人もいるのかな?」

 きょろきょろと周囲を見渡す華と視線が合った。

 優が手を振ると、華は弾かれたように駆け出した。

「桜井くん! 京子と望月さんも!」

 駆け寄ってくる華に笑みを向けて、それから華が連れてきた数人の中隊員に目を向ける。

「華ちゃんも独自に人を集めてたんだね」

「うん。白崎さんみたいな成果は上げられなかったけど」

 華は苦笑して、辺りを見渡した。

 白崎凛が集めた少女たちは規律正しく整列し、全方位を警戒し続けている。

「京子? なんか静かだね」

 先程から喋らない京子に気づき、華が首を傾げる。

 優もそっと京子を見やった。

 望月麗と言い争ったのが気まずいのか、口数が少ない。

「いや……こんな状況で元気なんて出ないって」

 京子は誤魔化すように笑って、それより、と華を見た。

「これからどうするわけ? このまま白崎さんの指揮下に入っていいの?」

 京子も麗も優も、第一小隊に属している。

 決定権は小隊長の華にあった。

「んー。それなんだけどね」

 華はそう言って、周囲を見渡した。

「第一小隊! こっち来てー!」

 普段の姿からは想像できない大声を出す華に、隊列を組んでいた少女たちの中から数人が歩み寄ってくる。

「全部で六人かな。私たちは白崎さんのグループから離脱し、霧の中から脱出を目指します」

 華の宣言に、優は横にいた麗と思わず目を合わせた。

「あの、篠原小隊長。せっかく他の小隊と合流出来たのに、離れても良いんですか……?」

 恐る恐るといった様子で麗が進言する。

 周囲を見ると、遠くから第三小隊長の詩織が心配そうにこちらを見ていた。

 第六小隊長の白崎凛も厳しい顔をして華を見ていた。

「うん。神条司令は最後に後退を命じてたからね。私たちは速やかに作戦区域から撤退するよ」

 華は当然のように言い切って、小銃を担ぎなおした。

 そこに白崎凛がやってくる。

「篠原。やめろ。動けない怪我人がいる。拠点の維持に専念しろ」

「第一小隊以外でも維持は可能だと思います」

 華が淡々と反論する。

 その様子に違和感を覚え、優は思わず華の横顔をまじまじと見つめた。

 何かがおかしい。

 遠くから様子を見守っていた詩織が駆け寄ってくる。

「あの、篠原さん。私も白崎さんに賛成です。今はバラバラに動くべきではないと思うんです」

「詩織ちゃん。私たちだけ抜けても影響は少ないと思うよ。拠点組と脱出組の二手に分かれたら良いんじゃないかな」

 不意に、白崎凛の視線が優に向けられる。

「分かった。良いだろう。しかし、桜井優は置いていけ。彼の制圧力は拠点の維持に不可欠だ」

 突然話の矛先を向けられ、優は思わず身を硬くした。

 華が声を荒げる。

「桜井くんは第一小隊所属です。白崎さんに指揮権はありませんッ!」

「ここには怪我人がいるんだ。もしホムンクルスの強襲があれば私と佐藤だけでは迎撃が難しい。脱出を図るのはお前の勝手だが、桜井優は置いていけ」

「篠原さん、あの、考え直してくれませんか? バラバラになった中隊員を回収することが先決だと思います」

「でも、神条司令は撤退しろって言ってたよ。作戦区域から出ないと」

 口論が激しくなる気配がした。

 仲裁しようと口を開きかけた時、後方で声があがった。

「亡霊ですッ!」

 口論を中断して、一斉に振り返る。

 上空に機影が見えた。

 一つではない。

 おぴただしい量の影だった。

「戦闘用意!」

 真っ先に凛が叫ぶ。

 優が小銃を構えるより早く、隣に立つ凛からESPエネルギーが放たれた。

 辺り一面を制圧するかのような膨大なエネルギーが、上空の影を呑み込んでいく。

「佐藤、背面を維持しろ。篠原、右面を警戒しろ!」

 次々と指示を飛ばしながら、凛が前方に駆ける。

「奥村ァ! 第二、第四、第五小隊を指揮して援護しろッ!」

 奥村。

 知らない名前だった。

 集団の中から、赤いメッシュの入った髪が目立つ少女が飛び出した。

 小隊長が不在の部隊が一斉にそれに続く。

「桜井くん!」

 華の叫び声。

「こっち!」

 事態を正確に把握できないまま、駆け出した華の後を追う。

 上空を見上げると、凛の攻撃で見通しがよくなった上方から無数の亡霊が舞い降りてくるところだった。

「撃てェ!」

 詩織の号令が後方から届く。

 全方位を亡霊に囲まれているようだった。

「第一小隊! 構え!」

 華の命令通りバリケードの隙間から小銃を構え、上空の亡霊を狙う。

「撃てッ!」

 引き金を絞る。

 恵まれたESPエネルギーが光条となって、上空の亡霊を吹き飛ばした。

 いたるところから光弾が放たれ、銃声が轟く。

「ホムンクルスの強襲に気をつけろ! それらしい姿を見つけたらすぐに報告しろッ!」

 凛の叫び声を聞きながら、上空の亡霊を撃ち続ける。

 きりがなかった。

 次々と亡霊がバリケードの外に着地し、包囲を始める。

「奥村ァ! 北側を抑えろォ!」

 凛の声と同時に、奥村と呼ばれた少女がバリケードの外に飛び出していく。

 彼女の構えた銃剣が強烈な光を纏うのが見えた。

 躊躇なく亡霊の群れに飛び込んでいく姿に、優は息を止めた。

 時間が引き伸ばされたような奇妙な感覚があった。

 奥村と呼ばれた少女の銃剣が、亡霊の身体を切り裂いていく。

 彼女の赤いメッシュに、目が釘付けになった。

 何故か、懐かしい気持ちが胸の奥から湧いた。

 まるで踊るように亡霊の群れに切り込んでいく後姿に目を奪われ、優は暫く引き金を絞るのを忘れていた。

 後方から轟いた轟音で、優の意識はようやく現実に引き戻された。

 振り返ると、白崎凛が凄まじいESPエネルギーで面ごと制圧しているところだった。

 よく見ると彼女は小銃を捨てて、素手で戦っていた。

 亡霊対策室が支給する小銃はESPエネルギーに強い指向性を与えるが、その代わり拡散しづらい特性がある。

 優は彼女を真似するように小銃を投げ捨てると、両手を前方に広げてESPエネルギーを練り上げた。

 そのまま亡霊群に向かって放つ。

 轟音とともに光の奔流が亡霊を呑み込んでいくのが見えた。

 亡霊の群れに風穴が空く。

 霧中に閃光と轟音が轟く中、クラクションの音がつんざいた。

 霧の向こうにヘッドライトの光が見えた気がした。

「捜索に出してた車だ! 奥村、桜井は私に続け。佐藤と篠原は場を維持しろ」

 凛が駆け寄りながら叫び、すぐ前のバリケードから外に飛び出していく。

「ま、待ってください! この中を突っ切るんですか?」

 思わず問いかけると、凛は不敵な笑みを浮かべて振り返った。

「私たちが三人もいれば十分だろう?」



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17話 白崎凛(3)

 躊躇なくバリケードの外へ飛び出していく奥村と呼ばれた少女と、第六小隊長の凛に優は呆気に取られた。

 クラクションの音が響き渡る中、二人はどんどん前方へ飛び出していく。彼女たちは、優が後ろから付いて来るものと一切疑っていないようだった。

 外に広がる亡霊の群れを見渡した後、優は覚悟を決めて駆け出した。

 上空から舞い降りてくる亡霊たちに無差別攻撃を繰り返しながら、前方の影を追う。

 霧の中、拡散したヘッドライトの光が徐々に大きくなり、車体のシルエットがはっきりと浮かび上がった。

「負傷者は?」

 先に車に辿り着いた凛が叫び声をあげる。

「二人います!」

「そのまま車を出せ。援護するッ!」

 直後、車が動き出した。

 同時に全方向から亡霊が集まってくる。

「奥村、桜井。拠点までの道を死守しろ。遅滞戦闘用意ッ!」

 応じている余裕などなかった。

 翼を広げて高速で接近してくる亡霊に、何も考えずESPエネルギーの塊を放つ。

 吹き飛んでいく亡霊の後ろから新たな亡霊が姿を現し、徐々にその包囲が狭まっていくのがわかった。

「囲まれてます!」

 響き渡る戦闘音に負けないように叫び声をあげる。

 四方から閃光が走り、轟音が平衡感覚を奪った。

 そんな状況下で、白崎凛はどこまでも冷静に戦闘を続けていた。

 思わず目が奪われる。

 亡霊の群れに怯む様子もなく、自ら最前線を維持する後ろ姿は支配者そのものだった。

「傾注ッ!」

 不意に、白崎凛が叫んだ。

「これより我々は内線運動によって敵戦闘力の分離を生じ、接敵面積を拡大させるものとするッ!」

 激しい戦闘下において、優は凛の発した言葉の意味を呑み込むことができなかった。

 硬直した優に対し、凛が振り返って言う。

「ついてこい!」

 途端、凛は反転するように走り出した。

 護衛していた車がバリケードに達し、優たちもすぐに拠点に戻ることが可能な状況にも関わらず、凛は亡霊の集団を目指して走っていく。その後ろには迷わず着いていく奥村の姿もあった。

 優は拠点側に集まる中隊員たちと、自ら孤立していく白崎凛たちの姿を交互に見比べた後、諦めて凛を追うように走り出した。

 凛の言う内線運動の戦略的意義など優には分からなかったが、彼女の迷いのない判断と行動はきっと正しいのだろうと思えた。

 先頭を走る凛が次々と亡霊を打ち破りながら叫ぶ。

「数に惑わされるな。全てはESPエネルギーによる力比べに過ぎない」

 荒い息を吐きながら、凛の言葉に集中する。

 彼女の雄々しい言葉には、戦場の恐怖を忘れさせる効果があった。

「我々三人の持つESPエネルギーは、ここにいる雑魚どものESPエネルギーを遥かに凌駕する」

 敵の包囲網を突破するように、凛が道をこじあけていく。

 突出した優たちを包囲しなおそうと、亡霊たちの群れが崩れていく。

 後方の拠点への圧力が下がっていくのがわかった。

「さあ、このまま――」

 声が途絶えた。

 声だけではなく、あらゆる音が一瞬にして遠ざかった。

 全ての亡霊が、一瞬にして動きを止めた。

 目の前で吹き飛んでいく亡霊の頭が、妙にゆっくりに見えた。

「なんだ?」

 奥村の低い声。

 それに乗じるように、周囲の亡霊たちが一斉に引いていく。

 そして、亡霊たちの視線が上空へ向けられた。

「おい、なにか来るぞ」

 奥村の警告と同時に、上空から凄まじい圧力が届いた。

 直後、周囲を覆っていた霧が割れた。

 晴れた空から、巨体が舞い降りてくる。

 猿のような頭部に、巨大な両手。細くて虚弱な両足。

 不思議と、その表情は笑っているように見えた。

「――ホムンクルスッ!」

 凛が叫ぶと同時に先制攻撃を加える。彼女の指先から打ち出された光条がホムンクルスの頭部を撃ち抜いた。

「奥村ァ!」

 凛の掛け声に応えるように、奥村が地を蹴った。

 彼女の銃剣がESPエネルギーを纏って光り輝き、ホムンクルスの胴体へ突き刺さる。

 並の亡霊なら、これで確実に死に絶えるはずだった。

 しかし、猿のような巨大な頭部がゆるりと周囲を見渡すように動き、その視線がすぐ近くの奥村へ向けられた。

 次の瞬間、ホムンクルスの巨大な手が横薙ぎに振るわれ、奥村の身体が宙を舞った。嫌な音とともに、彼女の身体がアスファルトに叩きつけられる。

 優は目の前の事態を、唖然と見つめることしかできなかった。

「桜井!」

 叱咤するような凛の声。

「奥村の容態を確認して生きてるようなら一緒に後ろに下がれ。望みがなさそうなら一人で拠点で戻れ」

 こいつは、と凛が駆け出す。

「私が相手をする」

 閃光が走った。

 圧倒的なESPエネルギーの波が、ホムンクルスを食らうように打ち出される。

「早く!」

 その声に、優は弾かれたように駆け出した。

 壊れた人形のようにアスファルトの上に倒れる奥村は、遠目には死んでいるように見えた。

「奥村さんッ!」

 そばまで駆けつけ、しゃがみこんで顔色を確認する。痛みに顔が歪むのが見えた。

「良かった……生きてる……」

 安堵と同時に、今すべきことを思い出す。

 優はゆっくりと周囲を見渡した。

 遠くに亡霊が壁を作るように並んでいた。しかし、そのどれもが戦闘意思を見せず、その場に立っているだけだった。

 ゆっくりと息を吐き出す。

 優はバックパックから医療用ナノマシンの注射器を取り出し、訓練通りに付属品のアルコールで彼女の腕を拭った。

 中隊員には限定的な医療行為が法的に認められている。中でも救急措置については何度も訓練を受けていた。特に医療用ナノマシン投与の有無における生存率の違いについては徹底的な教育を施されていた。

 周囲の亡霊を確認しながら、医療用ナノマシンを奥村の身体に投与していく。

 その間にも、後方から凛とホムンクルスが衝突する戦闘音が響いていた。

「ぁ……ぅ……っ……」

 奥村の口から、低いうめき声が漏れた。

 少なくとも呼吸はしている。それだけは確かだった。

 空になった注射器を放り捨て、戦闘服の連結ベルトに彼女の身体を繋ぐ。洋上で負傷者を拾い上げる訓練は何度もしたことがあったが、地上で負傷した仲間を運ぶ訓練はしたことがなかった。

 頭部を揺らさないように慎重に持ち上げ、ゆっくりと歩き出す。

 振り返ると、凛が断続的な攻撃を繰り返しているところだった。ホムンクルスは凛の攻撃に動じる様子もなく、単調な突進を続けていた。

「さ、おり……」

 担いだ奥村の口から、知らない人の名前が溢れた。

 きっと大事な人の名前なのだろう。

 誰にだって家族がいて、大事な友人がいる。

 必ず生きて連れ戻さなければならない。

 優は拠点に向き直ると、彼女を背負って駆け出した。

 周りの亡霊たちは動かない。

 まるで役目を終えたように、彫刻のように突っ立っているだけだった。

「桜井さん!」

 前方のバリケードから、第三小隊長の詩織が飛び出してくる。

「後ろです!」

 振り返る。

 すぐそこに、ホムンクルスの姿があった。

 自然と足が止まる。

 さっきまでこれを相手していたはずの凛の姿がどこにもなかった。

「桜井さん!」

 詩織の叫び声。

 ホムンクルスの腕が、ゆっくりと優に向けられた。

 咄嗟に連結ベルトに手を伸ばし、奥村の身体を切り離す。

 次の瞬間、優の身体がホムンクルスの巨大な手に鷲掴みにされた。

 奥村の身体がホムンクルスの手をすり抜けて、アスファルトに崩れ落ちていく。

「桜井さん!」

 詩織の悲鳴をかき消すように銃声が響いた。標準装備のものではなかった。

 第五小隊長、進藤咲だけが持っている狙撃銃のものだろう。

 ホムンクルスの右目が大きく弾ける。

 しかし、ホムンクルスの手は優を掴んだまま離さない。

 ゆっくりと身体が持ち上げられる中、ホムンクルスの肩越しに凛の姿が見えた。彼女はアスファルトに突っ伏して動かなくなっていた。

「優くん!」

 第一小隊長、篠原華の声が聞こえた。

 振り返ると、バリケードの向こうから複数の影が飛び出してくるのが見えた。

 同時に、ホムンクルスの口が大きく開かれる。

 優は目の前の巨大な頭部を、じっと見上げることしか出来なかった。

 大きな歯が見えた。

 人間なんて簡単に食いちぎってしまいそうな大きさだった。

 それが、ゆっくりと動く。

 まるで喋るように。

 音はなかった。

 人間のような声帯がないのかもしれない。

 代わりに銃声が響く。進藤咲の狙撃銃だった。

 今度はホムンクルスの左目が弾け飛ぶ。

 しかし、まるで効いていないようだった。

「桜井さん! 今助けますから!」

 詩織の声。

 同時に、ホムンクルスの口から薄いESPエネルギーの波のようなものが感じられた。

 意味はわからなかったが、まるで言葉のようだと思った。

「このッ!」

 眼下で詩織が銃剣をホムンクルスの脚部に突き刺すのが見えた。

 しかし、ホムンクルスは気にした素振りもなく優に向かって極めて薄いESPエネルギーの波を送り続ける。

 不思議と悪意は感じなかった。

 優は両目を失ったホムンクルスを見つめると、ただ首を横に振った。

 わからない、とそう伝えたつもりだった。

 途端、それまで優を掴んでいたホムンクルスの手が緩んだ。

 浮遊感。

 身体が落下し、アスファルトに衝突する。

「さ、桜井さん!」

 詩織が駆け寄ってくる気配。

 鈍痛の中、ホムンクルスを見上げる。

 その姿が、霧のように溶けていくところだった。

 それだけではなかった。

 周囲を囲んでいた亡霊たちも、一斉に溶けるように消えていく。

 優は立ち上がって、それらをゆっくりと見渡した。

「ど、どうして……?」

 詩織も困惑したように周囲を見渡していた。

「優くん! 大丈夫!?」

 華がすぐそばまで駆け寄り、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「……それより、白崎さんと奥村さんを……」

 ホムンクルスに掴まれていたせいか、息をする度に肺が痛んだ。

「あ、えっと、うん!」

 すぐに華が凛の元へ駆け寄っていく。

 彼女がバックパックから医療品を取り出す中、優は足元の奥村の身体を連結ベルトで繋いで担ぎ直した。

 それから空を仰ぐ。

 一帯を包んでいた霧が晴れかかっていた。

 遠くのビルの窓で、人影が動くのが見えた。

 第五小隊長の進藤咲だった。

 同行は拒否されたが、少なくとも最低限の援護はしてくれたらしい。

「先輩! 大丈夫ですか!」

 霧が晴れていく中、バリケードから次々と人が出てくる。

 その中の一人、望月麗は煤だらけの顔で優の身体を支えた。

 彼女は背中に担いだ奥村を見て慌てたように言った。

「私、持ちますよ!」

「……ありがとう。でも大丈夫だよ」

 思わず苦笑する。

 麗の小柄な身体ではきっと支えきれないだろう。

「ほ、本当に大丈夫ですか?」

 麗の心配する声が響く中、上空からヘリのローター音が響いた。

 優は背中でうめき声をあげる奥村を背負い、ゆっくりと舞い降りてくるヘリに向かって歩き始めた。



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18話 望月麗(7)

 包帯で全身をグルグル巻きにされた優はムスッとした顔をして、医務室のベッドの上で横になっていた。

 勝手に包帯をグルグルと巻いて、包帯男だ、とからかった京子と第一小隊の面々は既に退室し、既に訓練に行っている。

 暇を持て余していると、コンコン、とドアをノックする音が静かに響いた。

「どうぞ」

 静かにドアが開き、奈々の姿が現れる。

 少し疲れた顔をしていた。事後処理に追われ、忙しいのだろう。

「……どうしたの、その包帯?」

「包帯男です。がおー」

 奈々は一瞬ポカンとした顔をし、すぐに破顔した。

「包帯男って喋るの? それに鳴き声が狼男みたいよ」

「国際化が進んでるんです」

「よくわからないわね」

 奈々は少女のようにクスクス笑いながら来客用の椅子に腰かけた。

 その表情は、とても十歳以上歳が離れているとは思えない。しかし、その美貌には疲労で陰が見えた。

「その様子だと、体調は大丈夫そうね」

「はい。医療用ナノマシンがあれば安心して大怪我できそうです」

「……あまり頼りすぎないように」

「はい。善処します」

 奈々が見慣れた袋を取り出し、前に差し出した。

 中身は見なくても分かる。いつかのプリンだった。

「ありがとうございます」

 優は屈託のない笑顔でそれを受け取り、奈々に視線を向けた。

「それで、今日はどうしたんですか?」

「……察しが良いわね」

「まだ、事後処理が終わっていないんですよね? 見舞いに来るには早いかな、と思って」

 優の言葉に、奈々は降参したように苦笑した。

「顔色、悪いです。神条司令は働きすぎです」

「残業代がおいしいのよ」

「じゃあ、次からはもっと高級なプリンをお願いします」

「次がないようにしなさい」

「はい」

「で、本題だけど」

 奈々の表情が真剣なものへ変わる。

 優も失礼がないように姿勢を正した。

「優くん、昇進よ。おめでとう」

「え?」

 予想外の言葉に、優は目を瞬いた。

 奈々が補足するように言葉を続ける。

「君は今、第一小隊に属している。けれど、これからは特定の小隊に身を置かずに特殊戦術中隊をまとめる中隊長をやってもらう事になった」

 中隊長。

 聞き慣れない言葉に、優は思わず小首を傾げた。

「中隊長、ですか?」

「これまで特殊戦術中隊は六つの小隊を同列に並べ、その上に司令部を置いていた。けれど、今回の件で司令部と現場が分断されてしまった時の脆弱性が露わになった」

 奈々の言葉が、淡々と病室に響き渡る。

「だから司令部が指揮機能を喪失した場合、六つの小隊を束ねる中隊長を新たに設けることにしたの」

 優の顔に、困惑の色が広がっていく。

「あ、あの……お言葉ですが、僕はまだ入ったばかりです。もっと相応しい人が……」

「君の懸念や言いたいことは分かる。入ったばかりの人間が突然上に立つことによる反発や軋轢を心配しているんでしょう?」

 けどね、と奈々は言った。

「すでに六人いる小隊長のうち、君は五人の信任を得ているの。そもそも発案したのは第六小隊長という事情もある」

 優は黙るしかなかった。

 何故、という疑問が頭の中をぐるぐると回る。

「……白崎さんが?」

「今回の一件に関して、私達も内部で何があったのか知るために聞き取りを実施して大体の動きは把握しているの」

 奈々の視線が小さく揺れる。

「離散した中隊員をまとめて事実上の指揮をとったのは白崎凛だった。これは多くの中隊員の証言から疑いようのない事実。そして篠原華は正面から方針の違いで対立した。これも間違いないでしょう?」

 優は一瞬迷ったあと、うなずいた。

 あの時、二人の意見が対立していたのは明白だった。

「意見が対立していた二人のうち、どちらかを中隊長として昇格させるのは不要な誤解を招きかねない。そもそも第一小隊、および第六小隊はそれぞれの小隊員から強い信頼を得ている。これを動かして君を代わりに据えるのは、正直に言えば君にとって非常に酷と言わざるをえない」

 そこで奈々は一旦言葉を切って、ため息を吐き出した。

「いえ、表向きの理由はやめて、この際もっと腹を割って話しましょう」

 単純に、と奈々は切り出した。

「指揮権というものは、継承に関して非常に強い混乱を招くものなの。とても不快な話をするけれど、例えばもし指揮権を持つ者、および次の継承者数人が一斉に殉職した場合、その混乱を鎮めることが非常に困難になる。一体誰が指揮権を持っているのか誰も分からなくなるし、その混乱がどんどん広がっていく。一度不明になった指揮権を戦場で明確にすることはとても難しい」

 小隊長格の一斉殉職。

 考えたくはないが、きっと想定しなければいけないのだろう。

「今回、君は白崎凛や奥村音々と並んでたった三人で敵陣地を突破したと聞いている。その突破力、および生存力は正直に言えば小隊長を凌ぐと言っても過言ではない」

「あの、でも、それは……白崎さんや奥村さんが強かったからです。僕の力ではありません」

 それに、と優は言葉を続けた。

「あの……奥村さんが適任だと思います。あんなに強い人がいるなんて正直びっくりしました」

「……奥村音々はね、小隊長をやっていたことがあるの。けれど、彼女の希望で降りる事になった。だから中隊長にはできない」

 それを聞けば黙るしかなかった。

 きっと、小隊長を辞めたくなった理由があるのだろう。

「優くん」

 奈々の優しい声が響いた。

「君は、君自身が予想するよりも遥かに皆から頼られてるわ。すでに小隊長には話を通したけれど、反対者はいなかった。事実上の指揮をとっていた白崎凛も積極的に君を押し上げようとしている。これは中隊の総意と言っても過言じゃない」

 だから、と奈々が身を乗り出す。

「頼まれてくれないかしら。君なら、きっと大丈夫だから」

 奈々の双眸の奥で、何かが揺れるのを優は感じた。

 不安なのかもしれない、と思った。

 そもそも、神条奈々は中隊長よりも遥かに思い責任を負っている。

 もっと若い頃からずっと、その重責を負ってやってきたはずだった。

 少しでも肩代わり出来るものがあるのならば引き受けるべきなのではないか、という思いが急速に膨れ上がっていく。

「……あの、本当に僕でよければ」

「ありがとう」

 突然、奈々に強く抱きしめられ、優は全身を緊張で硬くした。

 柔らかい感触が顔に当たる。

「し、神条司令?」

 戸惑った声を出すと、すぐに抱擁は解かれた。

 そしてくるりと背を向ける。

 そのせいで、奈々が今どんな表情をしているのか、何故いきなり抱きつかれたのか、優がそれを知る機会は永遠に失われてしまった。

「後日、正式な書類が届くから、それに目を通してね。じゃあ……」

 矢継ぎ早に言い残し、奈々が去っていく。

 バタン、と閉じたドアを見て、優はぽかんとした。

 しかし、すぐにまたノックの音が響く。

 忘れ物でもしたのだろうか、と思って優は「どうぞ」と返した。しかし、予想に反して入ってきたのは望月麗だった。

「こ、こんにちは」

「うん。こんにちは」

 しきりにドアの方を気にする麗の姿に優は顔をかしげた。

「あの、神条司令と何かあったんですか?」

 麗がおずおずと聞きづらそうに言う。

「何かって?」

「い、いえ。あの……もしかして、先輩と司令はお付き合いされているんですか?」

「……はい?」

「あ、違いますよね。すみません、忘れてください!」

 顔を赤くした麗が、さっきまで奈々が使っていた来客用の椅子に座る。

 そして二つ年下の後輩は、真剣な顔で優を見上げた。

「今日は謝る為にきたんです。あの……申し訳ありませんでしたっ!」

 突然、勢いよく頭を下げた麗に優は驚いて反応できなかった。

 彼女のツインテールが激しく宙を舞う。

「私、先輩の気持ちを考えず無視して自分勝手な理想を押しつけました。本当は、そういうやり方をするつもりではなかったんですが、長谷川先輩がおっしゃったように、断られてたのがショックで、あんなに卑怯な言い方を……。本当に、申し訳ありません」

 優は思わず小さく笑って、彼女の頭を優しく撫でた。

「気にしてないよ。でも、やっぱり自分の身体は大事にしなきゃ、だよ。そういうのは好きな人としないと」

「……あの、先輩は勘違いしているかもしれませんが、私、先輩と嫌々デートした訳ではないです。少し急ぎ過ぎた感は否めませんが」

「へ?」

「だから、私、諦めません。いつか、受け止めていただけたら嬉しいです」

 そう言って、麗は逃げるように部屋を出ていった。

 優はそれを唖然と見送ることしかできなかった。

 そうして、兵卒としての毎日が静かに終わりを迎えていく。

 この時の桜井優は、特殊戦術中隊の中隊長という立場の重みをまだ理解していなかった。

 それがESP能力者を統べる立場であることも、総体としての窓口になるということも理解していなかった。

 桜井優はこの時、軍部の偶像となる未来を決定づけられたのだった。

 

 

 

 

 

2章 本土地上戦 完結

 

3章 銃口が向かう先 へ続く



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