殺生院キアラは幸せな一生を送り、笑みを浮かべながら死にました。 (赤目のカワズ)
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桂馬の高上がり
私は理想に溺れていた。
「その生き方、疲れない? 馬鹿じゃん」
別れ際に投げかけられた言葉を、若い頃の私は無視した。
分かっていた。だが、あえて無視した。当時から分かってはいたのだ、この生き方は、人間が出来るものではないと。
世は西欧財閥絶頂期。表立っての技術革新が失われ、最新テクノロジーが放逐された世界。
医療もまた、その進歩を闇に閉ざされた内の一つである。医療機器一つとっても、アンダーグラウンドで仕入れた方が性能が良いというのだから、世も末だ。
「ふむ……君もなかなか苦労しているようだ。お互い様だがね」
「お前ほどじゃないさ、いつの間にか髪も真っ白になりやがって。じいさんも草葉の陰で泣いてるぞ」
若い頃の私は、人を救いたいという気持ちに溢れていた。私にはそれを成す技術があったし、志も熱く燃えていた。
今をもってなお、理想に燃える友よ。君は、今の私をどう思っているのだろうか。
その答えを、私はまだ知りたくない。
「センセイ」
はて、自分は今、何をしていたのだろうか。
最近は、年を取った自覚が一にも二にも悪目立ちする。自分がつい先ほどまで何をしていたのか、失念してしまうほどだ。
「センセイ?」
しかし、何も覚えていない割には、胸いっぱいに広がるこの幸福感は何であろうか。
まるで、母の腕に抱かれているかのような安心感だ。それでいて、見目麗しい美女を抱いているかのような、快楽でもある。
「――もう、センセイったら。寝てしまわれたのでしょうか」
はっとして思考の海から帰還すると、目の前に女が座っていた。
膝元で重ねられた手の平。竹を据えたかのような、すっとした背筋。いかにも上品な佇まいだ。
「センセイ?」
「あ、ああ、すまない。少し…………ぼーっとしていたようだ」
ぼーっとするにも程度があると思うが、それ以外に言いようがない。
申し訳なさげに謝罪の言葉を口にすると、女はこれまた上品に微笑んでみせるではないか。
「いえ、気にしておりませんわ」
「そう言ってくれると助かるよ……やれやれ、最近はとんとこういう事が多くなった。思考の空白というか、なんというか……」
「ふふふ。ああ、そうそう私、センセイに申し上げたい事がございます」
「ふむ……一体何かな。私に出来る事であれば、力を尽くすが」
仮にも医者が、診察室で夢心地とは聞こえが悪い。
罪悪感と使命感を綯い交ぜにした私は、彼女の次の言葉を待った。
それは、聞くに堪えない罵倒に近いものであった。
「――センセイはインポでいらっしゃるのですね?」
「………………」
四十を数えるようになったともなれば、それなりに場数も踏む事となる。酸いも甘いも噛み分けた人生だ。
しかし、妙齢の女性に単刀直入インポテンツの疑いをかけられる経験など、なかなかないだろう。
「あー…………キアラ君?」
「なんでございましょう?」
「猥褻か否か? それを決めるのは人の感性と法律であると私は感じている。付け加えれば周囲の環境だ。年端もない女性と四十のおっさん――この関係性を鑑みれば、今の話題は非常にまずい。ああ、まずいとも。さて、キアラ君。今後は清らかな話題作りに努めてくれたまえ」
「センセイはインポで」
「どうしても勃起不全について話したいのか。分かった分かった。付き合おう」
深く息を吐く。春は卑猥な事件が多いと聞くが、キアラ君もその類なのだろうか。それまでの罪悪感が霧散したかと思えば、次に襲ってきたのは脱力感だった。
聞くところによると、殺生院キアラなる少女の評判はすこぶる良いらしい。
こんな根無し草の所にまでその名が届いてくるのだから、その人気ぶりは相当のものだ。成る程、秀麗眉目に心穏やかと来れば、世の男に限らず誰も彼もが彼女を放っておく訳がない。
それを思えば、その口が清らかなものだけを咀嚼していると考えるのは、当然の帰結である。いくら旧知の仲とはいえ、おっさんにそのような言葉を吐き出してよい筈がない。
「キアラ君、年若い少女がそのような事を言うものではないよ」
「だってそうでしょう。私、これでも自分の体の魅力は心得ております。この体に迫られたというのに、あんないけずな態度を取るだなんて……インポか何かと考える他ありませんわ」
「元患者に手を出す奴がどこにいる」
私は、人を救う術を持っていた。
最も、正規の医者ではない。若い頃の驕りが祟ってか、今や立派なお尋ね者である。おまけに顔を何度も変えたとくれば、ブラックジャック氏を笑えまい。
殺生院キアラ君は、若い頃に見た患者の一人だった。
「キアラ君、前から言っているがね。君はもう、すこぶる健康だ。健康過ぎて羨ましいぐらいだ。さて、この定期検診という名の蛇足も、もう何度目かね? というか、毎度毎度どうやって私を見つけて……まあそれは別にいい。君はまだまだ若いんだ。そろそろ若者らしく恋の一つでも」
「ああ、センセイっ。私、実は大変な病にかかってしまったのでございます」
顔を手で覆うキアラ君。
その様子に、心の臓が思わず飛び上がった。
「何っ、それを早く言いたまえ。症状は? どこかに痛みは感じるかね」
「ええ、実は胸の所がドキドキと動悸が。それと顔も熱を帯びて赤みが。症状が出る時は……センセイの事を考えている時です。ああ、特に、……こうして顔を見合わせると症状が悪化してしまいますわ」
「……成る程……」
尻がずり下がっていく。すわ一大事かと思ったが、この様子だと命に別状はないらしい。
キアラ君――殺生院キアラとの出会いは十年前に遡る。半ば軟禁状態にあった彼女を無理矢理救い出した事に後悔はないが、もっと他にも方法はあったのではと述懐する。私が最も愚かだった時代だ。
問題はここからである。彼女の病は既に完治しており、予後も問題はない。始まりこそ不運であったものの、彼女はきっと幸せな人生を送る事だろう。友人と語り合い、良き人に恵まれ――だのに、
「なんでこんなおっさんに絡んじゃうかなぁ……」
「なにかおっしゃいましたか、センセイ?」
「いや、何も。若い子の考えはよく分からんという話だ」
「まだまだセンセイもお若いのでは?」
「おっさんを煽てるのはやめてくれ……」
キアラ君の言葉はいちいち艶やかだ。声の調子、声色――それは天性の才能でもある。
時代が彼女を求めれば、殺生院キアラはすぐさま歴史にその名を刻むだろう。英雄、などと持て囃されていたかもしれない。
しかし、彼女には平和な時を過ごしてほしいというのが私の願いだ。なんやかんや彼女を追い返さないのは、その歩みを見守りたいという気持ちからでもある。
「しかし、不思議なものだよ。私は常に追われているから、心休まる場所というものがない。根無し草で、おまけに厄介者だ。だというのに、キアラ君と来たらいつの間にか私を探してみせる。こちらから顔を見せに行こうと思った時には特にね」
「毎度毎度の事でございますが……センセイを探し出すのには大変苦労いたします。何せ、いつの間にか伽藍堂になっているのですから。国内は勿論、時には海外にいらっしゃる事もありますし」
「それはそうだが……ふむ、一体どうやってこの場所を探し当てたのかな。その手段には非常に興味がある」
「ふふふ……魔法、とでも言いましょうか。女には、いくつも秘密があるものでございます」
「魔法、ね」
そんなものがあっては、医者は食いっぱぐれだ。
「魔法といえば、センセイも……一体どのようにしてこの場を?」
キアラ君が不思議がるようにして首を傾げる。その疑問は当然のものだった。
金があるからといって、そう易々とビルを間借り出来るものではない。繁雑な契約、時間、etc……、とにもかくにも、根無し草が出来る事ではない。
いくらこの島国が崩壊間近とはいえ、普通の方法ではまず借りる事は出来ないだろう。そう、普通の方法では。
「何、私も魔法を使ったまで。蛇の道には蛇をという奴さ」
「あら、それでは私たちは、似たもの同士、という事で。ふふふ、こんなに嬉しい事があるものなのですね」
「うーむ、そういう話をしたい訳ではなかったのだが……」
キアラ君がからかうような笑みを浮かべる。
おっさんとて枯れた訳ではなかったから、こういう話は妙にこそばゆい。
「あー、そういえば……キアラ君は知っているかね? 稀代の天才医師、トワイス・ピースマン氏が亡くなったらしい。交通事故、との事だった。テロは勿論だが、車にも気をつけなければね。キアラ君も、私のところに怪我が理由で来るような事だけはしてくれるなよ。ただでさえ情勢は逼迫しているんだからね」
話を変えるきっかけとしては、三文芝居も良いところだ。しかし、トワイス氏の落命はそれほど衝撃的なニュースだった。
トワイス・ピースマン。医の道に携わる者であれば、知らぬ者はいない。彼の死はそれこそ人類にとって大いなる損失と言えた。
「まあ、それはお労しい……。トワイス先生といえば、私のような一般人でもその名を伺っております。稀代の名医とて、時にあっけなくその命を散らす……ああ、なんと人の世の儚き事。明日は我が身、という事も十分ございましょう」
「えらく悲嘆的な事を言うな……」
「申し訳ございません。これもまた生来の癖というものです。何せ、センセイが救い出してくれなければ、私は永遠にあの暗がりに閉じ込められていたのですから」
菩薩の如き、慈愛に満ちた笑みだ。神の作りたもうた究極の美だ。
幼少期のキアラ君とは、全く異なる表情だ。
昔の彼女は病気がちで床に伏せており、外に出る事すら叶わない状況だった。成る程、世界に絶望した人間の顔は往々にして似通っているらしい。
暗がりの中、戯れに供えられた絵本を片手に。闇を侍る彼女の瞳は、しかして死神をも魅了するほど可憐であった。
「…………もう、何年も前になるか」
「正確には、十二年と三ヶ月飛んで十日でございます」
「そんなに経つのか。はは、道理で私も年をとる訳だ」
「ふふふ。センセイ、もっと正確を求めるなら――」
「?」
「いえ、なんでもございません。それにしても、本当に長い時が経ちました」
「ああ、そうだね。だが、目を閉じれば思い浮かぶくらいだ。昨日の事のようにも思える」
懐かしむように呟く。
今やすっかり昔の情熱は失われてしまった。若い頃の俺は、今の私をどう思うであろうか。どう、笑うであろうか。
それよりも――キアラ君自身は、私の事をどう思っているのだろうか。
今の私は――水死体だ。とっくの昔に溺れ死んだというのに、その事に気づかぬ振りをして前を向いている。かつての理想を忘れていないつもりでいる。
「お気にさわらなければ伺っても宜しいでしょうか?」
「勿論、構わないよ」
「センセイは何故、医者を志すになったのでしょう?」
キアラ君の問いに、私は即答する事が出来なかった。若さへの嫉妬か反省か。夢を語るには、私は年をとりすぎた。
しかし、自然と口は渇いていなかった。それはキアラ君がいたからである。かつての自分が、全て誤っていた訳ではない。その証が目の前にいたからこそ、私は久方ぶりに、理想を口にする事が出来た。
「正義の味方になりたかったのさ」
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鵜の真似をするカラス
生き残った男の子。
早くに両親を亡くしたからか。或いは、大災害に巻き込まれた影響からか。
エミヤシロウという男は、何かに焦っているように見えた。周囲の死が、彼の心に何らかの影響を与えたことは間違いない。
もっとも、初めて会った時にはもう随分と人間性を回復させていた。恐らくこれは衛宮翁の影響が大きいだろう。
翁といっても、年を重ねた老人だった訳ではない。白髪でなければ、禿頭でもなかった。ただ、人生の重みを感じさせるような老け方をしていたのは確かだ。エミヤシロウにならってじいさんと呼んでいたのは、寿命を磨り減らした出で立ちに恐れを覚えたからであった。
ともかく、衛宮翁の存在はエミヤシロウにとって大きな役割を持っていた。血の繋がりがあった訳ではないようだが、それでも二人は家族だった。
しかし、親代わりだった衛宮翁もまた、中学生になる頃にはあっさりと早逝してしまった。
俺にとっても、身近な人の死とはこれが初めてである。しかし、大きな衝撃を受けた俺とは違い、エミヤシロウは平静を保っているように思えた。
初めは、彼を取り囲む境遇ゆえと考えた。
エミヤシロウの人生は幼くして、死に彩られている。しかし、赤い目を擦る俺に対して、エミヤシロウは小さく笑みを浮かべた。
「じいさんとは、ちょっとした約束があるからな」
彼はその約束を、理想の生き方、あるいは夢と称した。
新聞は大見出しで、先日起こった大規模テロについて報道している。
いわゆる西欧財閥への反抗テロといった所か。死傷者数もかなりの数にのぼっているようだ。
「酷い世の中だ……」
飲み込んだコーヒーの味は苦い。
空の様子をうかがえばどんよりとした曇天で、今にでも雨が降ってきそうだ。
カフェテラスは閑散としていて、男一人というのは何ともさもしい。
だが、閑古鳥が鳴いているのは天気のせいでも、この店の味が悪い訳でもない。
この島国を取り巻く情勢の悪化が原因であった。恐らく、十数年後には国そのものが消失しているに違いない。それほどまでに日本は追い詰められており、西欧財閥は圧倒的だった。
暗い趨勢に釣られてか、俺も気分が悪い。ありきたりに言えば――そう、苛苛している。無性に腹が立つ。
カウンターの方を振り返れば、年老いたマスターが暇そうにしながら立っている。ここのマスターとも古い付き合いだが、次に来る頃にはも抜けの殻になっているに違いない。確信に近い予感があった。
「お尋ね者同士が話をするには、いささか開放的過ぎる気がするがね」
「いいじゃないか。俺はここのコーヒーの味が気に入ってるんだからな」
ふらりと現れた男は、空いていた席に腰を落ち着かせる。
同い年とは思えないほどに、若々しい男だった。日本人離れした褐色の肌に白髪と、奇妙なテクスチャで上書きされているにも関わらず、浮かべる笑みは昔のままだ。
エミヤシロウは昔のまま、理想に向かって走り続けているのだろう。
「久しぶりだなシロウ。変わらないようで何よりだよ」
「君もな。だが……ここは随分と変わってしまったらしい。やれやれ、まさか母国を失う事になるとはね」
「まだ終わっちゃいないさ。時間の問題ってのは確かだが」
おっさん二人には何ともお似合いの話題だ。夢もなければ希望もない。
近頃のエミヤは中東に身を寄せているようであった。西欧財閥の影響を考えれば、自然な流れだ。
「彼は元気か?」
「ああ、元気なものさ。今は別件で動いてもらっているから、ここにはいないがね」
話題に上がった『彼』とも、もう随分と長い付き合いだ。
エミヤシロウのマネジメントを一手に担うその手腕は中々のもので、エミヤの道のりはその助力無くしては立ち行かない。
実質、『彼』こそがエミヤシロウ最大の理解者と言っていい。エミヤシロウの理想は孤高ではあるが、孤独ではないのだ。
かつて、その道のりはエミヤ一人だけのものだった。しかし、彼の理想への道のりは、今や人々との繋がりで舗装されている。
その轍は後に続く者の希望となるに違いない。私は、今もそう信じて疑わないようにしている。
「しかしエミヤ。お互い年を取ったと思わないか。お前もまだまだ若作りだが、実際は四十を超えたおっさんだろう? どうだ、ここらへんで若い者に後を託すってのは。奥さん……いや、籍は入れてなかったか。ともかく、お前がそれじゃあの人もおちおち寝てられんだろう」
私の冗談めいた発言は、しかしその実、悲鳴を上げる縄梯子であった。
どうか、私の言葉にうんと頷いてくれ。さもなくば、この縄梯子はぷつんと切れて、私を奈落へと叩き落す。
しかし、エミヤは笑みを浮かべるばかりだ。ああ、風貌が変わってしまっても、時折見せるこの表情は、あの頃のままだ。
瞬間、時が遡る。赤毛の少年が夢を語り始めるのを、俺は憧れと共に見つめている。その時、俺は、俺は――
俺は。
「……いや、忘れてくれ。お前は年を理由に、前に進むのをやめる人間じゃない」
「悪いが、まだまだ私は現役のつもりだ。君にも迷惑をかける事になるがね」
「迷惑なんざ、今更だよ。全く、お前についていく度こっちは命がけだ。正義の味方は勿論だが、俺の味方も兼任してほしいくらいだよ」
「これでも君を全力で守っているつもりさ。何、次こそは無傷で生還させると約束しよう」
「どうだか……ま、ほどほどに期待しておくよ」
その歩く道は、常人が選べるものではない。上っ面だけで語る事が出来たのは、それこそ子供の時だけだ。その道のりは血飛沫に塗れ、死に彩られている。
本当なら――数年も経たない内に、エミヤの道は絶たれていた筈なのだ。
だが、何かが――何かが上手く組み合って、ここまで来てしまった。
今やエミヤの名は世界中に響き渡っている。戦が人殺しを英雄に昇華させるというのは、真の話らしい。
「久しぶりの日本だが、じいさんへの挨拶は済ませたのか?」
「いや――これでも多忙の身でね」
「親不孝もんめが。まあ、俺も人の事言えるわけじゃないがよ……っと、すいません、おかわ、りを……」
マスターの方を振り返ると、その視線を遮るようにしてウェイトレスが立っていた。
確か、ここはマスターが一人で切り盛りしている筈だった。それに、まるで立ち聞きをしていたかのようだ。
その錯覚に気味の悪さを覚えつつも、顔の方に視線を向ける。
「――――かしこまりましたわ、センセイ♪」
そこには、キアラ君がいた。
長い髪を一束に纏めて、短いスカートが売りであろう制服を見事に着こなしている。
まるでウェイトレスをやるために生まれてきたかのような造形美だ。いや、違う。待て待て俺。
「き、き、キアラ君? い、一体どうしてここに!?」
「まあ、センセイったら。私とあなた様はもはや一心同体以心伝心ツーと言えばカーでございます」
「それとこれとは話がちが、いやいやそういう事ではなく!!」
私の混乱はその時頂点に達した。
何故、ここに。
何かもっともらしい、理論づけて説明を求めたくなるも、言葉が出てこない。
「ふふふ……どうしてか、気になりますか?」
「っ……」
「私の事が、気になっているのでしょう」
その時私は、彼女に深淵を垣間見た。錯覚に違いない。だが、確かに得体の知れない何かを、感じ取った気がしたのだ。
私が何も言い出せないでいると、キアラ君はぱっと花の咲いたかのような笑みを浮かべた。
「……ふ、ふふふ、センセイったら、おかしな人」
「ど、どういう意味かね」
「あは、あはははっ。そんなに警戒なさらないでくださいませ。単なる偶然なのですから」
「ぐ、偶然? それにしてはあまりにも……」
「いえ、本当に―――単なる偶然でございます。私はここのマスターと知己の関係にあり、ご多忙の時に限って、ちょっとしたお手伝いをさせていただいているのです」
「そ、そうなのか……」
閑散としたカフェテラスに、聖女を思わせる笑い声が木霊する。その笑みは閑古鳥さえ魅了すると言っていい。
だが、おかしな話だ。もっと深く考えるべきなのだ。単なる偶然で終わらせるには、キアラ君の出現はあまりに唐突で奇妙だ。
しかし、彼女の天女を思わせる微笑を前にして、何も言い出せなくなってしまう。
……今思えば、とっくの昔に俺のココロは囚われていたのだ。
女神の如き彼女に。
殺生院キアラに。
何も言い出せなくなった俺を良いことに、それまで蚊帳の外に放逐されていたエミヤが、皮肉げに顔を緩ませる。
「ふっ……君もスミにおけないな」
「お……おいおいおい。ははは、茶化してくれるなよ。彼女はただの患者だ。随分昔だが、お前にも相談した事があっただろう。ほら、とある山奥の……」
「何? ……ああ、じゃあ、彼女が例の……」
エミヤにはかつて、キアラ君を救い出すにあたっていくつかの相談をした事があった。
それこそキアラ君が成人する前の話だ。霞に映りこんだ影のような話に、初めこそエミヤは首を傾げたが、やがて得心したように目を瞬かせる。
「お初にお見えかかります。私、殺生院キアラと申します。……といっても、エミヤ様のお話は何度かセンセイから伺っておりますが」
「これはどうもご丁寧に。エミヤシロウだ」
「ふふふ……エミヤ様には、色々とお話を聞かせて頂きたい所でございます。センセイはつれないお方ですから、何もご自身の事を話してくださらないんですもの」
「ほう……やはり、スミにおけないな、君も」
「勘弁してくれ……」
誰の影響を受けたのか、エミヤの皮肉屋ぶりは収まるところをしらない。
今度は俺が、蚊帳の外に捨て置かれる番だった。
ここぞとばかりにある事ない事を根堀葉堀聞き出そうとするキアラ君とエミヤによる夢のタッグマッチである。二千万パワーズを前にして俺は目の前が真っ暗になる気分だった。
「センセイったら、ご趣味さえ一向に話してくれませんから、私悲しくて悲しくて……」
「彼は昔から登山が好きでね」
「まあ、登山でございますか。他には?」
「ああ、そういえば……」
「おいおいエミヤ、お前そんなキャラだったか!?」
堪らず声を張り上げた私だが、エミヤ&キアラという世紀のタッグの前とあっては、何も意味をなさない。
さながら張子の虎もいいところで、とうとう私はなすがまま弄ばれるに至る。
ようやく嵐が過ぎ去ったのは、満足げな笑みを携えたキアラ君が、注文をとってキッチンに戻っての事だった。どっと疲れが出て、椅子に預けていた尻がずるずると下がる。
「まったく、酷い目に遭った……」
「良い子じゃないか。そう邪険にする必要もあるまいに」
「年を考えろ年を。といっても、お前にそれは無理な相談だったか」
「ふっ……まだまだ若い者には負けんさ」
どういう意味で若い者には負けないのか。そこを詮索するほど俺も野暮ではない。お熱い事は結構だが、周りとしてみれば勘弁してもらいたいものだ。
その視線がキアラ君の後姿に向けられているような気がして、思わず私は体を起こす。決して嫉妬ではない。
「おいおいおい……ほんとに年を考えろよな。というか俺の元患者だぞ」
「いや、特に他意はない。ただ、彼女のように若い子がこれから生きていくには、この国は脆いと思ってね」
「ああ、そっちか……」
エミヤの言葉に我に返る。しばらくこの地を離れていたとはいえ――いや、だからこそか。外から見たからこそ、エミヤはこの国の行く末を探り当てていた。
正に恐慌一歩手前だ。穏やかに見える風景も、一度何かのタイミングで弾ければ、元には戻らない。
或いは、国民が危機意識に麻痺しているのかもしれない。まるでモルヒネを打たれた患者だ。末期にも関わらず、その心身はどこか落ち着きを取り戻している。
いくらエミヤとて、国一つを救うなど出来やしない。
そんな事が出来るのは――ああ。童話の王子様ぐらいのものだろう。
「お前の言うとおりだ。後何十年後……いや、何年後の話かもしれない。ともかく、もうこの国は終わりだ。予後をどうにかこうにか繕ってみせたが、崩壊を止める事は出来ない。西欧財閥様様という奴だよ、全く」
「君はこれからどうするつもりだ?」
「さて、お前に同行して正義の味方をやるのもいいが……まだ考え中だよ。答えは早い方がいいが」
「そうか。私としても、君が同行してくれるなら助かる。ただ……」
珍しく言葉を濁すエミヤ。昔ならいざ知らず、最近の彼はとんとこうした表情を見せない。
どうしたものかと続きを促すと、とんでもない事を言い出すではないか。
「彼女はどうする?」
「彼女? 誰の事だ」
「何をいまさら。先ほど自己紹介してくれたばかりだろう。殺生院キアラ君の事だよ」
昔とは似ても似つかない鷹の目が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
まるで詰問するかのような眼差しに、俺は思わず閉口した。全く、何故かは知らないが話が妙な方向に向かっている気がする。
エミヤの鋭い双眸に煽られてか、心臓までもが声高な主張を繰り返し始めた。
「おいおいおいおい、止してくれ。彼女は本当にただの元患者だ。来るなら拒まないが、積極的に連れていこうなんて考えてもないさ。それに、彼女ならどこにいったって幸せに暮らせるさ、こんな暗い御時世だろうとね。こんな老い先短いおっさんに付き合わせるなんて罰があたる」
「君がそういうならあえて否定はしないが……当のご本人は納得していないように見えるがね」
「は?」
エミヤの思わせぶりな視線の先を追うと、そこにはキアラ君が立っていた。
手にはコーヒーを載せたソーサラー。タイミングの悪い事に、彼女はとっくの昔にこちらに戻ってきていたらしい。
「おかわり、お持ちいたしました。センセイ」
「あ、ああ……ありがとう」
「いいえ」
「……ちなみに、何時から私たちのかい、わ、を……」
私はこの時不思議と、毒蛇に睨まれる蛙の気分を味わった。
飲み込んだコーヒーの味は、熱く、苦い。きゅっと喉元を締め付けられるかのような苦さに、私は堪らず声を上げた。
「は、ははは、随分と苦いな」
「ふふふ。そちら、実は私が淹れたものでございます」
彼女の声が、頭上から降ってくる。
「そ、そうなのか。確かにマスターが淹れたのとは違う気がするな。あー、深みがある気がして……うん、旨い! 旨いぞ!」
「センセイのために――――隠し味を入れましたから。そちらのお陰かもしれませんわ」
「そ、そうなのか!」
「ええ」
「あー、美味しいな! 本当に美味しい! そうそう、君も知っての通り、ここのケーキは絶品でね! これまたコーヒーよく合うんだ!」
「まあ、そうとはつゆも知らず……では、スイーツの方もお持ち致しましょうか?」
「ああ、頼むよ!」
「では、暫くお待ちくださいませ」
再度、彼女の背中を見送る俺とエミヤ。
冷や汗が止まらない俺を尻目に、エミヤは我関せずと言った表情だ。
「よくもまあ、そんなツラ出来るな……妙な話の流れになったのは、大部分お前のせいだぞ」
「ふっ……そう口にする割には、随分機嫌が良さそうじゃないか」
「何?」
エミヤの言葉に、首を傾げる。
その意味を図りかねていると、エミヤは意外な事実を告げてみせた。
「自覚がないのか。後で鏡でも見てきたらどうだ? 先ほどまで、いや、顔を合わせてからずっとか。どこか苛立ちを隠せない顔をしていたが――――彼女と言葉を交わしてからというものの、上機嫌で気味が悪いくらいだ」
その言葉を受けて、ふと自分の口を触ってみる。
俺は――――笑っていた。
エミヤと別れた後、俺はカフェに居座り続けた。
本来であれば俺もまた、別の用事に足を運ぶ予定だった。エミヤと共に。そもそもエミヤがわざわざこんな島国に来たのは、その用事のためだ。
俺は何杯目かになるコーヒーに舌鼓を打ちながら、日が暮れるのを待っている。
ビルの群れが太陽を吸い込み、輝かしい陽の光が御隠れになるまで、どれだけ待っただろうか。結局、閑古鳥はカフェを憩いの場として選んだ。
寒気が身を突き刺し、暗い夜空が天を満たす。星一つない真っ黒な天井は、俺の未来を悲観しているかのようだった。
「…………寒い」
闇夜を前に、誰かが返事を返してくれる訳もない。
思わず店内に目を向けるも、彼女が姿を現す気配はない。
「…………」
彼女が姿を現したのは、日が暮れてからだいぶ時間が経っての事だ。
「……? あら、センセイ。どうなさいましたか」
きょとんとしたキアラ君の顔に、何も思わない訳ではない。
しかし、感情を律する事が出来るからこそ大人なのだ。私は努めて冷静さを保とうとする。
今思えば、何と滑稽な……何と滑稽な事をしていたのだろう。そもそも冷静さなんて持ち合わせてなどいない。半ばきつい口調になっていたのが、自分でも分かった。
「どうなさいましたかとは酷い言い草じゃないか、キアラ君」
「…………?」
首を傾げるキアラ君。
畳み掛けるように私の言葉が続く。
「まさかこんな夜遅くまでバイトをするだなんて……夜は危険だと言っていただろうに」
「まあ……もしや、私を待っていたのですか? 一言声をかけてくださればよかったのに」
「ん、あ、ああ。いや……仕事中の君に声を掛けるのも、どうかと思ってね」
「ふふ……お客様なんて、エミヤ様を除けば、センセイ以外一人もおりませんのに? 暇が明いた私をただ見ているだけだなんて……ああ、でも何度かセンセイと目が合いましたわ。ふふ、私も先生を見つめていましたから、これでお相子……ふふふ」
「あ、ああ、そう、だな……」
エミヤの言葉が脳を行き交う。
笑っている。確かに笑っていた。いや、それは正しい感情の筈だ。元患者の元気な姿を見て、喜ばない医者はいない。
だから………………エミヤと別れてまでここにいるのは、正しい選択の筈だ。
「それにしても、宜しかったのですか? エミヤ様と、何か大事な用事があったとお見受けいたしますが」
「あ、ああ……だが、キアラ君、君がいるんだ……。君は何かと危なっかしい。目の届く範囲にいる限りは、見守っていたいというのは、医者として当然の事ではないかね?」
さも正論ぶった言い回しだ。ここぞとばかりに医者然とする事で、私は平静を保とうとする。
しかし、欺瞞の積み重ねはあっけなく崩される事になった。他でもない、キアラ君自身の手によって。
「ふふふ。センセイのお心遣い、大変嬉しく思っております――――ですが、センセイ」
「どうか、したかい」
彼女の笑みは正に天女のそれだ。
しかし、彼女の唇が紡ぐ言葉は――俺の存在を否定していた。
「私は一言も…………待っていてくれとは、申し上げておりませんが?」
その言葉に、私は愕然とするしかなかった。
さて、俺は、なんと言ってエミヤと別れた? 親友は、旧友は重要な任を帯びてこの島国に来ていた。勿論、俺も助力ながら手を貸す筈手取りだった。
それを、どのようにして断った? 何故断った? 何のために断った?
全く、思い出せない。
いや、きっと、全く気にしていなかったのだ。誰しも大事の前の小事など、気に留めなどしまい。
いや、おかしくないか? キアラ君は確かに大切だが、大切であるが、だからといって優先させる順位としては……駄目だ、思考の空白が、思考の空白がある。どうしてキアラ君を優先したのか、頭がぼーっとして思い出せない。
思考の空白が、俺を殺していく。
頭がおかしくなりそうだった。
「…………そう、だな。君は、一言も待ってくれだなんて…………。す、すまない……私は……どうか、していたようだ」
「ふふふ、謝る必要はありませんわ、センセイ。だって、センセイのお心遣いを、確かに感じておりますもの」
「そ、そうか……だ、だが、危険なのは確かだ。家まで送らせてくれ」
「あら、私の家をご存知で?」
「何を言っているんだ。君が教えてくれたんじゃないか」
キアラ君を家まで送り届けた私は、急ぎエミヤを追った。今ならまだ間に合う筈だ。
踵を返して一路エミヤの元へ駆け出した私は――それでもふと気になって、振り返る。
キアラ君が、こちらを見つめている。
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釈迦に説法
最近、妙にキアラ君と顔を鉢合わせる機会が多い。
「センセイっ」
「セーンセ」
「セーンーセー」
美女と野獣――アンバランスな風景を見た時、人は何かと詮索したがるものだ。ただでさえ目立ちたくないというのに、キアラ君の存在は嫌が応にも人の注目を集めてしまう。
とうとう痺れを切らした私が、彼女を叱りつけた事がある。しかし、彼女はのらりくらりと私の追及をかわすのだ。
「キアラ君、いい加減こんな男に会うのは止めたほうがいい」
「まあ、センセイったら酷い事をおっしゃる。ですが、私……あなた様に好きな時に、好きなように会いたいから、このようにしているのです。昔、病気を治してくださった時、好きなように生きろとおっしゃったのは、センセイでしょう?」
「それは、そうだが」
「ふふふ。でしたら、私の自由にさせてくださいませ。ねえ、センセイ……?」
瞳だ。
彼女の瞳に見つめられると、途端に私は何も言い出せなくなる。まるで杭で縫い付けられるかの如く、体から意思を奪い去られる。それまで高ぶった熱が急激に冷め、それでいて心の臓だけが声高に自分の存在を主張し続ける。
彼女の瞳が私は嫌いだった。
俺は、好きだった。
彼女はまるで、音もなく忍び寄る蛇のようだ。彼女の陶磁器のように美しい指が、いつの間にか私の腿に添えられている。
それを知覚した瞬間、私の腿は気が狂ったかのように熱を帯びた。その熱は一箇所に留まる事を好まず、段々と私の肉を犯し始める。足が、指が、心の臓が、脳味噌が。理性が競り勝ったのは僥倖としか言いようがない。
「っ……! や、やめたまえ。全く……」
「あら、つれないお方……」
払いのけるようにして意固地な態度を取った私に、キアラ君もそれ以上は詰め寄らなかった。
今思えばこれも、私の理性が勝利した訳ではなかった。全ては彼女の手のひらの上でしかなかった。
だが、見れば見るほど、その美しさにココロを奪われる。豊熟とした山容は、何故ここまで瑞々しい水脈との両立を保つのか? 豊満な女性美は、彼女の若々しさでは本来手に入る筈のないものだ。彼女は熟れた果実でありながら、少女のように不完全である。それが、ただただ美しかった。
「センセイ――よもや、私の事を、あの頃のままだとお思いになられているのでしょうか」
俺はずっとそう思っていたかった。だが、どうやら事実は違うらしい。
――頭がぼやける。思考の空白を縫うようにして、キアラ君は着々と俺の生活を蝕みつつあった。
しかし、決して手を出す事だけはしなかった。彼女は微笑み、佇み、そこにいるだけだ。
「ねえ、センセイ。エミヤ様とは、どういったご関係なのでしょう?」
エミヤと顔を会わせて以来、彼女は何かとエミヤとの関係を知りたがった。
「別に特別な何かがあるわけじゃないさ。子供の頃からの仲――腐れ縁とでも言っておこうか」
瞼を閉じれば、あの頃の記憶がよみがえる。無垢なままでいられた貴重なひと時だ。
あの頃の俺は、単純に夢を追えた。現実というテクスチャを知らないそれは、情熱を注ぎ込むには十分すぎる熱量を誇っていた。
エミヤシロウと衛宮翁――二人が紡ぐ夢物語に、俺も加わってみたい。ただそれだけを一心に、走り抜ける事が出来た。
淡い青春の日々を思い起こし余韻に浸っていた私は――キアラ君が目の前にいる事を一瞬忘れてしまっていた。
「…………ん。ああ、すまないキアラ君。えっと、何だったか」
「エミヤ様との事でございます、センセイ。ふふふ……それにしても、とても良い思い出だったご様子。先ほどのセンセイと来たら、私にも見せた事のない笑みを浮かべるのですから」
「そんな顔をしていたのかね、私は……」
懐かしい風景が胸の内を過ぎ去る。しかし、それは同時に俺自身を苛んだ。
俺にとって、エミヤシロウとの友情は、忘れ去りたい過去でもあったからだ。ああ、そうだ。俺は、正義の味方にはなれなかった。自分を省みず、ただただ他の人々のために尽くす――そんな存在になど、普通の人間がなれる訳ない。
そして――エミヤもまた、かつて望んだ夢をそのまま叶えた訳ではない。
食うに困り、家族のために窃盗を行うしかなかった集団を一方的に殺す事が正義か?
ウイルスに集団感染した飛行機の乗客達――それでも生にしがみついた人々を、その希望ごと撃ち落したのが正義か?
いや、違う。違う筈だ。
少なくとも。
あの時、あの頃、一緒に追いかけた夢のカタチは――断じてそういうものではなかった筈だ!
末恐ろしいのは――エミヤにそういう認識が薄い事だ。先日の再会は、それを確認するためのものでもあった。
そして、確信する。
かつての夢のカタチは、歪んでしまっている。そして、長い長い――本来なら数年で途絶えていたであろう――エミヤの道のりによって、その歪みはとてつもなく大きくなってしまっている。
誰かが止めなくてはならない。
その役割は俺にあるように思えた。かつて、共に夢を追った同志として。理想に溺れた水死体とて、何か出来る事がある筈だ。
それに、もしかしたら――二人で一緒に、また夢の続きを追う事が出来るかもしれない。
もう一度、正義の味方を目指して。
「センセイ?」
キアラ君の呼びかけに、俺はたびたび答えなかった。新たにした決意が、外界への注意を疎かにしての事だろう。
それを知ってかしらずか、キアラ君は大胆な行動に出る。彼女は突如として立ち上がったかと思うと、そのまま私の方に倒れこんできた。
しなだれかかる豊満な美肉。腕にぎゅっと押し付けられた乳房によって、心臓が飛び出るほどの衝撃が襲ってきた。
「き、きききき、キアラ君!?」
「ああ、やっとこちらに目を向けてくださいましたね。もう、本当にセンセイはいけずなんですから」
「わ、分かった分かった! 分かったから離れて……」
動揺をあらわにする私は、キアラ君の寂しげな表情に気がつくのに、しばらく時間を要した。
慌てて引き離そうとするのを止め、そのままの姿勢で呼びかける。
「……キアラ君。一体どうしたというんだ」
「……センセイは、本当に温かいお方です。こうして体と体で触れ合っていると、それを直に知る事が出来ますわ」
「こんなに密着すれば、どんな人間であろうと温かく感じるものだと思うが……?」
「ふふふ。本当に――――つれないお方。貴方様でなければ、私は何も感じませんのに」
キアラ君の寂しげな表情を――――私は、甘えと評した。
彼女は複雑な家庭環境だ。宗教と結びついた生家とは絶縁に近く、親元と呼べるものは無きに等しい。
その状況を作り出した一因は俺にもあった訳だから、出来る限りの金銭的援助やメンタルケアはしてきたつもりだ。しかし――それが彼女にとっての足枷になってしまっているのかもしれない。
彼女は、もっと羽ばたける筈なのだ。鳥のように。蝶のように。
「キアラ君……私は、よかれと思って君の甘えを許容してきた。だが……そろそろ、君は、君の人生を歩むべきなんじゃないか? さっきも言ったが、こんな所に、何時までも留まっているべきじゃない」
それは、激励のつもりだった。
「君はきっと、偉大な人物になれる。それこそ、物語や御伽噺の中の、英雄のような存在に。もし君がしたい事があるなら、いくらでも援助はするつもりだ」
それは、激励のつもりだった。
彼女は天より舞い降りた女神だ。それでいて、あらゆる者を慈しむ事が出来る天女でもあろう。その才は、こんな所で浪費されていい筈がない。
「それに、私にもやる事が出来てね。暫く君とは……」
それは、激励のつもりだった。
「……キアラ君?」
彼女は、どんな表情をしていたのだろうか。
胸元に顔を埋める彼女は、どんな気持ちで、俺の言葉を聴いていたのか。
しかし、この時のキアラ君は、あくまで私に従順であるように装ってみせた。
彼女はそれまで抱きついたいたのを止めると、姿勢を正す。そこに浮かんでいるのは聖母のような微笑だ。
「――分かりましたわ、センセイ。そこまでセンセイがおっしゃるのでしたら。そこまで、私の事を拒絶なされるのなら」
「きょ、拒絶ではない。キアラ君、私は君の事を励まそうと……」
その時、私は酷い焦燥感に襲われた。
ここで彼女を引き止めなければ――何か、取り返しのつかない事が起きる。そんな、漠然とした予感がして。
しかし、彼女の天女の如き微笑を前に、またもや俺は何も言い出せなくなってしまう。
「いいえ。いいえ。よいのです。センセイ――私も、そろそろ外の世界に目を向けるべき時でしょう。それに丁度、私にもやらなくてはならない事がございます」
「そ、そうか……」
「ええ。それではセンセイ」
診察室を出ようとするキアラ君。
背を向けたその姿が、一度だけこちらを振り返る。
「ですが、センセイ。一つだけ、お伝えしなくてはならない事がありますわ」
「……何かね」
彼女はそれを、後に運命になぞらえた。
「私は、必ず貴方様の下に帰ってまいります。ええ、必ずや」
その後、殺生院キアラなる女は消息を絶つ。
彼女と再会したのは――――エミヤの死刑が執行されて、暫く経っての事だった。
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狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり
エミヤの死。
それは、衛宮士郎個人の死とイコールではない。
エミヤはもはや一個人の枠を越えて、概念そのものになりつつあったからだ。
戦場を血で覆う死神。誰かにとっての希望。誰かにとっての悪。誰かにとっての正義。
十数年に及ぶエミヤの戦いは、世界にその存在を刻み込んだ。それは、エミヤを支援する人々の助力も大きい。
エミヤの正義は歪んでいたかもしれない。しかし、それでも確かに意味はあったのだ。救いはあったのだ。その正義の元に、名もなき人々は集った。
エミヤとは、正義の味方を僭称する大きな群れだったのだ。
それが、死んだ。全て死んだ。皆死んだ。
エミヤシロウの死刑執行から一年、彼が育んだものは全て消え去った。
エミヤシロウの人生は徒労に終わったのだ。
エミヤの死から時が経ち、俺はとある女と再会を果たした。
熱砂集う中東の一国にて――ブロンドの髪がたなびく。
トオサカ・リンは名うてのハッカーだった。或いは、ウィザードと称すべきだろう。女だてらに活動を続けられるのは、彼女が電脳空間に通じた特殊な才能の持ち主だからである。
彼女は一匹狼だ。レジスタンス側に属してはいるものの、基本的に単独犯である事が多い。
それにも関わらず彼女が中東の地に降り立ったのは、俺と似たような理由からだった。即ち、危機に瀕した一組織からのSOS要請である。
「酷い顔ね」
「お互い様だろう、それは」
じりじりと照りつくような熱さが、体を苛む。
苛むのは熱さだけではない。周りを見渡せば、血、怪我人、血、血、死体、怪我人。
ここはこの世の地獄だ。エミヤの死から始まったそれは、疫病のように蔓延し始めている。
エミヤの死とは、正しく総体としての死でもあった。
衛宮士郎は死んだ。『彼』も死んだ。エミヤが愛した女も死んだ。
エミヤを支援していたスポンサーも死んだ。エミヤと苦楽を共にした組織の人間は、全て死んだ。
死んだ。死んだ。全員死んだ。
もう、誰も生き残っちゃいない。
レジスタンスにおける一大勢力の消滅は、世界に閉塞感をもたらした。世界は今、息苦しさを覚えている。管理社会の足音が聞こえる。
始末の悪い事に、レジスタンス内部でのいざこざも多くなってきた。元々一枚岩ではない事もあり、もはや誰が敵か味方かも定かでない。
「正直、今でも信じられないわ。あんなに大きな組織が壊滅するだなんて……あー駄目駄目、現実を見なきゃ」
「……何故、『彼』はエミヤを裏切ったんだろうか」
「さあね? 当事者はもう誰も生き残ってないんだから、真相は闇の中よ。ビジネスパートナーによる裏切りだなんて、まあありがちな最後ではあるでしょうけど」
「いいや。いいや。そんな筈がない。ある筈ないんだ。『彼』はエミヤの盟友だった。『彼』が、エミヤを裏切る訳がない。きっと、何か別の理由がある筈だ」
願望に近い推測を、リンは否定する訳でも肯定する訳でもない。ただ、言外にこう言ってみせるだけだ。
現実を見ろと。
キアラ君と別れた私は、すぐさまエミヤの元に向かった訳ではなかった。
真に愛するモノのみを食む女――その治療を依頼されたのが理由だ。典型的な飢餓状態にあった彼女は、心を病んでいた。気が狂ってしまっていた。
『五停変生』――自作した精神治療用のプログラム――は正にこういう時にあるべき代物だ。だが、それでも彼女の心を救えなかった。長い時を彼女と過ごしたが、症状は一向に改善しなかった。
いや……事実は、違う。
本当は…………救う事が、出来た。
少なくとも、彼女の偏食を止めさせる事は。俺はそれを可能とする術を、ずっと昔に体得している。
しかし、私はもう決めたのだ。二度とそれを使わないと。使った所で、意味がないからだ。
エミヤの組織がおかしくなったのを知ったのはこの時だ。失意の内に患者の下を去り、エミヤとコンタクトを取ろうとした時には、もう全てが遅かった。
エミヤは既に囚われの身にあり、顔を合わす事も出来ない。『彼』はこちらの言葉を聞こうともしない。エミヤが愛した女も、組織の人間も、皆同じ反応だ。
まるで機械と話しているようだった。誰も私の事を見ていない。一辺倒に私を拒絶するその様に、私は恐れを抱いた。
そうして、エミヤはあっけなく死ぬ。稀代の英雄は誰に見送られる事もなく、あっさりと死んだ。
私には、救う手立てがなかった。
ただ、その死を見つめ続けた。
いや……事実は、違う。
本当は…………救う事が、出来た。
エミヤを助けだす事は、可能だった筈だ。
だが、俺は、しなかった。エミヤとの誓いを、裏切りたくなかった。
それは今更浮かび上がった罪悪感と後悔だ。しかし、エミヤに、衛宮士郎に非難される事が恐ろしくて、私は何もしようとはしなかった。
「恋人を裏切った男を女が殺し、中枢の二人を欠いた組織は自然と空中分解した――筋道を立てるなら、こんな所かしら」
「そうだな」
「『彼』はどんな様子だったの?」
「分からん。ただ、何かに焦ってるようにも見えたけどな」
リンの推測は、あながち外れてないように思える。事実、『彼』もまた、エミヤの後を追うようにしてその命を絶ったからだ。
エミヤと『彼』を失った組織は、まるで燃え盛る火の玉のようでもあった。あるいは烏合の衆とも。
誰も彼もが生き急ぐように戦場に飛び出し、誰も彼もがその命をあっけなく散らした。
その理由もまた、定かでない。エミヤの正義のカタチ――それに殉死しようとしたのか。それとも、何か別の理由があったのか。いずれにしろ、エミヤが紡いできたものは、全て無価値となった。
世界が、色褪せて見える。エミヤのいない世界は、古ぼけた絵画そのものだった。価値がない。
「息が詰まりそうね」
「ああ」
暑い。ここは地獄だ。
血、怪我人、血、血、死体、怪我人。
病人。
「暑いわね」
「ああ」
エミヤは――エミヤは、希望の轍となる筈だった。
たとえ衛宮士郎が死のうと、エミヤという道は残る。その正義は間違っていたかもしれないが――全てを否定される程ではなかった筈だ。少なくとも、俺の正義なんかよりは、よっぽどマシだった筈だ。
だが、エミヤは死んだ。全てを泡沫のようにかき消して。
「あー! もう! そんなんじゃ、あいつも浮かばれないでしょうが!!」
リンの怒声が耳朶を打つ。
「元気出しなさいよ、先生!」
リンは、俺は勿論エミヤとも知己の仲だった。小さい頃から知っている。
彼女は強い人間だ。揺るぎない自らの芯を持っている。たとえ悲しみを胸に抱こうと、必ず前に進む事が出来る人間だ。
それが酷くまぶしかった。
「……良い子に育ったもんだよ。俺が育てた訳じゃないが」
「ちょ、ちょっとちょっと……や、止めてよね。先生らしくないじゃない」
「俺も年とったんだよ」
顔を赤面させるリン。
しかし、彼女と穏やかな時間を過ごす事が出来たのも少しの間だけだった。
それは、空を切り裂く雷のように。わっと湧き上がった悲鳴、怒声、絶叫。
風雲急を告げる報せとは、何時だって突然舞い込んでくるのだ。
「ったく……最近ほんと多いわね、こういういざこざ」
「ここには子供も多い。ただでさえ酷い状況、怒鳴りあいなんざごめんだ」
リンと俺は騒動の中心に足を向ける。そこには人だかりが出来つつあった。
見れば、骨と皮だけになった老人が、男の足にすがり付いている。その顔は涙に濡れ、年老いた人間とは考えられないほどの激情が溢れていた。
老人が叫ぶ。
それは、あってはならない叫びであった。
聞く筈のない名であった。
『誰か、誰か……殺生院キアラ様を救ってくだされええええ!!!!』
その名前を聞いたとき、俺の人生は色を取り戻したのだ。
殺生院キアラの名は私の動揺を誘った。
何故、その名をここで。何故、君はここに。
落ち着きを取り戻した老人から話を聞くと、彼女の正体はこの地に舞いおりた女神との事だった。
「いや、それは知ってる」
「ええ!?」
老人曰く、殺生院キアラは暫く前からセラピストとして活動しているらしかった。
慈愛に厚く、それでいて金銭を要求する訳ではない。正に聖者のような働きぶりだ。疲弊したこの国の人々にとって、彼女はちょっとした有名人になりつつあるらしい。
しかし、ここは戦場でもあるのだ。治安も著しく悪い。見目麗しい女が一人で渡り歩くには無理が過ぎる。トオサカ・リンは例外だ。
「なんか今、すっごい馬鹿にされた気がするんだけど!?」
案の定、彼女は盗賊達の視線を集め、囚われの身となった。
今や生きているかすら定かでない。盗賊達の住処こそ分かっているが、そこに踏み込めるほどの戦力もない。
『お願い申し上げます! お願い申し上げます! お願い申し上げます! お願い申し上げます! どうか! どうか! どうか! どうか! 救ってくだされ! 救ってくだされ! 救ってくだされ!』
「ちょ、ちょっとちょっと!落ち着きなさいってば!」
老人の狂気に満ちた瞳に、リンがたじろぐ。
だが――俺も考えている事は同じだった。彼女が、殺生院キアラがここにいる。
彼女が囚われているというのなら、救い出さねば、助け出さねば。救わねば。助けねば。
この時、エミヤを見殺しにした罪悪感が俺を駆り立てた。もう、あんな思いはしたくない。見捨てた命は数え切れないが、その中でもエミヤの存在は重くのしかかった。これに加えてキアラ君も見捨てた時の事など、考えたくもない。
それに、どうやら彼女がここに来た理由は俺にあるらしかった。キアラ君は俺の足跡を辿るようにしてこの地にたどり着いたらしい。
『キアラ様はおっしゃっておりました。用事も済んだので、先生にお会いしたいと。キアラ様はそれはそれは喜びに満ちた表情で』
だが、現実はそうもいかない。正義の味方を名乗っていた男さえ、もうこの世にいないのだ。
逼迫した情勢、生きているかどうかも分からない人間のために、人員を出せる訳もなかった。
「あの殺し屋が付近にいるって情報もあるのよ? 防衛だけでも手が足りないってのに」
それに、とリンは耳元で呟く。
「どう考えてもこのおじいさん、様子が変よ? 盗賊の住処だけは分かっているってのもおかしい。西欧財閥の対テロ部隊がウロウロしているんだもの、素人に居所がバレる程度の奴ら、とっくの昔に死んでるに決まってるわ」
おかしい? だからどうした。
キアラ君が囚われの身にある。それだけで結論は決まっているようなものではないか。
「っ、そりゃ先生の身内だっていうんだから協力はしたいけど、もっとちゃんと考えなきゃ。それに、先生も冷静さを欠いてるわ。気持ちは分かるけど、こういう時こそ落ち着いて」
「いいや、考える必要はない。俺には、彼女を救う術がある。誰の力を借りずとも、彼女を助ける事の出来る術がある。俺は、冷静だ」
「あーもう分からず屋! ただの医者がどうこう出来る問題じゃないでしょうに!」
その言葉にはっとする。
そうか。君は、知らなかったか。いや、調べようとも思わなかったか。
俺が、昔何をしたか。何故、お尋ね者になったか。何故、西欧財閥から指名手配を受けたか。何故、■■■■
かつての俺は、エミヤに誓いを立てた。もう、二度とこれを使わないと。
俺がエミヤの歪みに気づいたのは、付き合いが長いからではない。
正義の味方を諦めたのは、自分を殺して他者に尽くせなかったからだけではない。
俺自身が、夢のカタチを歪めた経験があるからだ。
これは、この――コードキャストは。
正義の味方の持ち物ではない。
俺には、彼女を救う術がある。
だが、本当は、使いたくなどなかった。
俺は、狂った女を見捨てた。
エミヤを、見殺しにした。
それは、この力が、この、コードキャストが。
正義の行いではないからだ。人殺しの術だからだ。
だが、キアラ君。殺生院君。
君が。君が生きているなら。もし、死んでいないのなら。
何をしてでも、君を救いたい。
君は、君は俺の誇りだからだ。正義の味方であった頃に救った、小さな命。
エミヤ亡き今――その光は、とてつもなく大きな光を放っている。世界を明るく照らしている。
「先生! 先生ってば! どうしてそこまでムキになるのよ!」
「正義の味方だからだ」
あの時目指した正義の味方には、もうなれない。
だから
たとえ、あらゆる人間を殺す事になったとしても。
五停変生
男が自作した医療ソフト
精神の淀みや乱れ――それを生み出す怒りや苦しみといった感情を和らげる。
だが、男はそれだけでは満足しなかった。
ほんとは五停心観だけど、まぎらわしいのでオリジナル
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