竜牙の勇者はしばらくお休みします (雷神宮燦)
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聖竜の助言

「あの大きさを見てよ、リオン! あれはモンストラススネークっていう魔獣だよ!」

 後ろの荷台に同乗してるクレールが、馬車で進む街道の先を指差した。声に恐怖を滲ませ、見るからにうろたえている。

 確かに、いる。豚くらいなら丸呑みにしてしまいそうな、巨大なヘビだ。初めて見るなら、結構怖いかもしれない。俺も最初はそうだったかな。

 ただまあ、俺としては見慣れた感じもある。

 少し前、神託の霊峰を探索してた時に、何度も戦った相手だ。こんな風に開けた場所で見ると案外小さいな、と思って、ちょっと微笑ましくすらある。

「一匹だけみたいだし、別に怖がるような魔獣じゃないよ」

「え、そう?」

 拍子抜けしたようなクレールの声に、俺は「うん」と頷く。

 これが〈奈落這い(アビスクロウラー)〉なら、俺も少し緊張するところだけど。あのヘビだけなら、今の俺たちには危険はない。

「でもこんな街道の近くにいると危ないのは確かだから、退治はしておこう」

「それがいいよね」

「あ」

「ん?」

 つい一昨日に決心したばかりのに、うっかりしてた。

 

 年が明けてからの忙しさは落ち着いたものの、まだ冬の寒さが厳しいこの時期。

 最近感じるようになった身体の変調について、聖なる竜に相談した。

 その結果――『戦わない、争わない』というのを、今年の目標に付け足したんだった。

 

       *

 

 俺は、神託の霊峰に来ていた。俺がいま住んでいる村からはずっと北の方にあって、このあたりでは竜の営巣地として有名な場所だ。

 もちろんものすごく危険だから、よほどの用事がなければ、近付く人はほとんどいない。

 たまに力試しに竜に挑んだりする人もいるらしいけど、監視所に常駐している兵士から「自殺と変わらないからやめろ」と止められるらしい。

 俺が初めてここに来たときには、いろんな事情が重なったせいで監視所が機能していなくて、誰からも止められなかったけど。

 それはまあともかく。

 見上げると、頂上ははるかに雲の上。歩いて登るなら相当、つらい道のりになる。実際、いま思い出してみても、よく生きていられたなあと思ってしまう。

 今回は、上にある星読みの宮から迎えの飛竜が来ていたから気楽だったけど。

 

 この霊峰の頂上には、他の竜とは違う、聖なる竜が住んでいる。

 まだ十五年しか生きていない俺とは比べものにならないくらい長い時間――具体的には、すでに数百年、あるいは千年以上を生きた……古竜。

 それだけの永い時を生きた賢者だから、悩みを相談すればその深い知見で良い助言をくれるに違いない。

 例えば――俺が最近感じるようになった、身体の変調について。

 聖竜はどういう助言をくれるだろう。

 大きな不安と、少しの期待とを持って、久しぶりにこの地を訪れた。

 

 神託の霊峰の、頂上。

 すり鉢状になった地面の中央に、真っ白な毛に覆われた聖竜がいた。

 前に会ったときより元気そうに見えるのは、もこもことした冬毛のせい……だろうか。

『リオン――〈安定をもたらす者〉よ。おそらくだが、そなたの身体の変調は竜の血を浴びすぎたことが原因であろう』

 毛むくじゃらな巨体から、ごお、と声が降ってきた。

『そなたが倒してきたのは下位種どもとはいえ、竜の血には多くの竜気(オーラ)が含まれておるゆえな』

 竜の血……。正直、心当たりはある。

 俺の手には、竜が竜を殺すために鍛えたという伝承武具(レジェンダリーアーム)、魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉があって、人間よりはるかに強大な生物である悪竜たちと戦った。

 誰かに請われてであったり、力試しであったり、理由はそのときどきでいろいろだったけど、何にせよ、一度や二度じゃない。

「それで身体が竜に近付いている、と?」

 俺の問いに、聖竜は重々しくうなずいた。

『そなたならば、やがて大きなちからのある竜となろう。我ら十星珠にも空位ができて久しいゆえ、歓迎するぞ』

 そうは言われても、あまり嬉しくないな……。

 竜として生きるのもそれはそれでたぶん面白いこともあるんだろうけど、人間の俺にはいまいち想像できない。

 偏見かもしれないけど、食べることくらいしか楽しみないんじゃないだろうかと思ってしまう。

『竜となりて後も、その性を竜石に封じ、人化して暮らす道もある。そなたが思っておるほど、竜と人とは違わぬよ……』

 励ましなのか、気休めなのか、聖竜はそう言って笑った。

 これは……ダメかも。

「……星は、どうなっていますか?」

 聖竜は見ているもののスケールが違いすぎてなんとなくあてにならないので、俺は隣にいる星読みのティータさんに尋ねた。

 彼女はこの聖竜の巫女で、星読みの宮の祭司でもある。

 俺が勇者と呼ばれるようになる前に、俺の宿命に気付いて道を示してくれた、信頼できる人だ。

 だが、ティータさんは少し困ったような表情で、首を横に振った。

「不思議なことに、リオンの未来は見通せないのです。少し前までは見えていた道が、今は見えなくなっている。星読みとしてもこんなことは初めてで戸惑っています」

「そう……ですか」

 ティータさんがこんな風に言葉を濁すのは珍しい。

 星読みは万能ではないとは前にも言っていたけど、それともまた違う状態なのか。

 それか……本人に告げるにはあまりにもつらいことを、隠している?

 どうも悪い方に考えてしまうな。

「止められないものでしょうか、竜になるのは」

『竜になるのは嫌かね』

 この聖竜はどうしても俺を竜にしたいのか……。

 ……とまでは思っていないとしても、この竜にとっては実際、人も竜も大差なくて、変わると言っても、髪型がちょっと変わる程度なのかもしれない。

 だとしたら、深く悩まないのも当然か。

 俺にとっては結構重要なことなんだけどな……。

 とはいえ、相談を聞いてくれている賢竜を目の前にして「竜になんか絶対になりたくない!」と声高に叫ぶのもどうかと思ったりするので。

「……自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと、そういう不安があります」

 控えめにそう言うと、竜は『ふむ』と鼻を鳴らした。

『わからぬでもない。ならば戦いから離れることだ。戦いの高揚は竜気(オーラ)を活性化させる。かつてそなたは、我と戦うことで我の竜気(オーラ)を活性化させ、我を蝕む歪みを取り払ってくれたであろう? あれと逆のことだ。心を静めて、大地の霊気(マナ)をその身に感じるのだ。やがて人の身体からは竜気(オーラ)も遠のくであろうよ……』

「心を静めて、か……」

『宿命を見通せぬからと言って、必ずしも悪いことばかりでもあるまい。悪いこともあれば、良いこともある。ただ、何が起きるかその時にならねばわからぬだけよ。そして全てはなるようになる。あまり思い悩まぬ事だ……』

 永い時を生きた竜がそう言うから、なんとなく納得しておくことにする。

 今の俺がやるべきことは、一応だけど、はっきりした。

 まあ……うん。

 俺は〈竜牙の勇者〉なんて呼ばれているし、最近は自分でもそう名乗っているけど……

 そろそろ戦いから離れるべき時なのかも。

 俺の故郷を滅ぼした〈剣鬼〉。

 剣鬼の邪悪な波動から銀の玉座に生まれた〈天地大乱(メイルストローム)〉。

 人間を家畜にして支配しようと企んでいた〈魔杯〉の悪霊(アンホーリーグレイル)

 異界に封じられていた偽神〈運命を生成するもの(フェイトジェネレータ)〉。

 邪神降臨を願った〈歪みの民〉たち。

 そして、大陸に大災厄をもらたすという邪神〈歪みをもたらすもの〉。

 全部、倒したから。

 俺がこの力で倒すべき敵も、倒したい敵も、もういない。

 そうだな……少し、休憩しよう。

 

       *

 

 それは、世界には大陸がひとつだけだと……

 まだ、そう信じられていた時代の話。

 

 伝説は語る……。

 

 かつて、死と瘴気の渦巻く異界より歪みをもたらすものが現れ……

 人間の世界は、滅びの危機に瀕した。

 邪神は見るもおぞましい竜の骸の姿で、欠けることのない満月の浮かぶ空を舞う。

 爪を振るえば大地が裂け、その吐息は海も干上る灼熱。

 咆吼すれば山が砕け、翼を打てば吹き荒れる呪いの風。

 ただそこに在るだけでも歪みの波動を放ち続け、木々は枯れ森は腐り、水は濁り汚れ、あらゆる生き物たちは死したという。

 人間はこの強大な存在に為すすべもなく、みな恐怖し、絶望した。

 

 この邪神の再訪が予言された時期から、すでにしばらくが過ぎている……。

 だが、人々の口にのぼる噂によれば、邪神はすでに滅んだのだという。

 

 ――〈竜牙の勇者〉、と呼ばれる人物によって……。



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クレール

「おかえり、リオン。星読みはどうだった?」

 星見の間の外で待っていたクレールが、戻ってきた俺の顔を見て尋ねてきた。

 声は明るい調子だったけど、その青い瞳には少しの不安をにじませている。彼女なりに心配してくれていたのだろう。

「まあ……聞きたかったことは聞けた、かな」

 話を聞いて完全に解決、とはいかなかったけど、悩んでいたことの一部が解消したのは事実だ。今はこれでよしとしよう。

「そっかー。よかったねえ」

 聞いたクレールも安堵の笑顔を浮かべてくれた。

「次は僕の番だね。ちょっとドキドキするなー。よし、行ってくる!」

 ふわっとした金髪を揺らして、クレールは元気よく星見の間へと入っていった。乗り込んでいった、というくらいの勢いだ。俺はそれを見送って、傍にあった椅子に腰を下ろした。

 

 クレールは不思議な縁で俺の仲間になった子だ。

 俺が〈歪みをもたらすもの〉との決戦のために、聖竜の助けを借りて時空を越えた時だ。

 その狭間に罠を張っていた黒貴族によって、俺は異界にとらわれてしまった。

 手助けしてくれたのがクレールだった。

 その異界でもいろいろあったけど、俺は無事にこの世界に戻ってくることができた。

 そしてクレールも、一緒にこちらの世界についてきたというわけだ。

 魔術と法術に関しては非常に優秀で、そのちからには俺も何度も助けられている。

 性格は子供っぽいところもあるけど、本当に辛いときはその明るさも助けになった。

 今日も……はっきりとは言わないけど。

 俺が悩んでいるのを察して、ついてきてくれたんだろう……。

 と、思う。たぶん。

 

 そんな風にクレールのことを思いながら待つことしばし。

 バーン! と扉を開いて、クレールが戻ってきた。

「すごいことを……聞いてしまった……」

「え、なに?」

 この世の終わりか、というほど切迫した顔つきでクレールが呟いたので、嫌な予感がした。

 俺の星読みもあんな感じだったから、クレールも何か、悪い話を聞いたのかもしれない。

 クレールは、大きく深呼吸をして息を整えると、真剣な顔で、俺に言った。

「星読みの宮の祭司の人、ティータって言うんだって! それって、僕の家の近くに住んでた竜と同じ名前なんだよ! もしかしてどっちも、聖竜さんが名付けたのかな?」

「ああ……どうだろう、そうかもしれないな」

 表情から心配していたより、かなりどうでもいいことだった。心配して損したという感がなくもない。

 ちなみにその『竜のティータ』には俺も会ったことがある。全身ふさふさの竜だった。ふさふさの竜はこの二頭の他には見たことがないから、ここの聖竜の血縁で間違いないだろう。

「いやー、びっくりしたよほんと」

 クレールは興奮冷めやらぬ様子……。

 もっと大事なことがあると思うんだけどなあ。

 と思っていると、クレールもどうやら気付いたらしい。

「あ。待たせてごめんねー。それじゃ、帰ろっか!」

 違った。違う方向に察していた。

 でもこれは、やっぱり他人には話したくないような、深刻な話を聞いたのかもしれない。

 踏み込んでいいものかどうか、少し悩んで……

 やっぱり、聞いておくことにした。

「……星読みはどうだったの」

「あ、それね。僕の前途の幸運がとてつもないことになってることが確認できたよ」

「えぇ……」

 別に深刻な話でもなく、単に話し忘れていただけらしい。

 それにしても、幸運がとてつもないっていうのは、どういう状態なんだろう。

「詳しく話すと星が変わっちゃうかもしれないらしいから、内緒だけどねー。って、なんか、納得いかないって顔してるね?」

 ……俺の方はいい話ばかりじゃなかったからなあ。

 と、そんなふうに思っていると、クレールから頭を撫でられた。

「ちょ、なにいきなり」

「僕のとてつもない幸運をちょっとだけ分けてあげようと思ってさー」

 それって、頭を撫でたら分けられるものなんだろうか?

「なーんか難しい顔してるけど、僕が幸せなのはリオンにとってもいいことだと思うよ?」

 クレールは俺の頭を撫でながら、そんな風に言った。

「そうかな」

「だって、僕はまだまだリオンの傍にいるつもりだし、その僕が幸せってことは、リオンに何か悪いことがあるはずはないでしょ」

「……なるほど」

 理屈は合ってる……のかな?

 考え込んでいると、クレールの手は止まった。撫で疲れたらしい。

「んふ。まあ大船に乗ったつもりで、何かあったら僕を頼るといいよ。僕の方がだいぶお姉さんだからね」

 そう言って、ふんっ、と胸を張ったクレール。

 ……どうも泥舟感があるんだけど、何でだろう?

 それと、気になることがもうひとつ。

「その、歳のことは公開情報なの?」

 クレールはパッと見には俺とそう違わない年頃だし、話し方もまだ幼い。

 でも、俺の計算が間違ってなければ、実際に生きた時間で言うと、俺の十倍どころじゃなく、もっと長く生きているはず。

 それは年齢で言うと――

「実質十七歳だから、リオンよりひとつかふたつかくらい上だね」

「実質?」

「実質ね」

 誤魔化された。正確なところは、あまり他人には知らせるつもりはないということなんだろう。

 でも、それにしても、十七歳とは。

「ちゃんと人生を楽しみ始めた時間でいうと、だいたい合ってるはず」

 そういう計算になるのか。

「前は十四歳を自称してたような……」

「可変なのだ」

「可変」

 その時々で、だいたいそのあたりの都合良さそうな年齢を自称するということらしい。

 十七歳というと、いま十五歳の俺よりふたつ歳上ってことになる。

 ……見えないな。

 背の高さにしてもそうだし、浮かべている表情もそう。

 絶対に俺より歳下……だと思う。真実を知らなかったなら。

 そんな葛藤を抱える俺を見て、クレールは自分の口元を手で隠して、

「んふ」

 と笑った。



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霊峰からの帰路

 穏やかな日差しを受けながら、俺たちの乗る馬車は街道を進む。

 神託の霊峰で助言を受けてからすでに二晩を明かした。

 あれ以来、今のところだけど、誰とも何とも戦ってはいない。

 天駆の街道みたいな人通りの多い道を駅馬車に乗って旅する分には、危険な魔獣と遭遇することもほとんどない。そうだからこそ、街道が通っているわけだし。

 さっきの荒水の町で駅馬車の旅は終わり。預けていた自前の馬車と馬を引き取って、ついでにと頼まれていた買い物も済ませて、天駆の街道を離れ南への街道に乗った。

 この調子なら、特に波乱もなく、もうすぐ館に帰り着けるだろう。

「いい天気だねー。もう冬の終わりも近くなってきたって感じがするなー」

 クレールは荷台に寝転んで、気楽にそんなことを言っている。

 俺は御者台で馬の手綱を取っている。確かに日差しは暖かだけど、この位置だと冷たい風を受けるからまだ結構寒い。

「んー、うまいっ」

「うまいって何が? ……あ」

「あ。見られた」

 荷台を振り返ると、クレールは積荷の中にあったリンゴを食べているところだった。

「それ、ニーナに頼まれて買ったやつなんだけど」

 確かそれでタルトやジャムを作ると言ってたような。

「箱いっぱいあるんだから、一個くらい大丈夫だよー。たぶん……」

 そのままかじりついたせいで果汁が垂れたのを、クレールは舌でぺろりと舐め取った。

 人によっては、色気の出るしぐさかもしれないけど……。

 クレールがやるといかにも子供っぽい感じに見えるな。

「でも一個は食べきれないなあ。残りはリオンが食べてよ」

「えぇ……」

「ほらほらー。あーんってして」

 そう言ってクレールは、食べかけのリンゴをこっちに近づけてきた。

「口開けたとして、入らないでしょ、その大きさは」

「……うまいことやったら入らないかな?」

「いや、無理だから。普通に渡してよ」

「わがままだなー、リオンは」

 仕方なく、という感じで、クレールはリンゴを手渡してくれた。

 今の、わがままだったのは俺の方なのかな。違うと思うんだけど。どうも釈然としない。

 そんな気分を紛らわすために、半分よりちょっと少なくなっていた赤い実から、シャクッと一口頬張ると、甘酸っぱい味が口の中いっぱいに広がった。

「あ、うん。確かにこれはおいしい」

 そう言ってから……ふと見ると、クレールが「してやったり」という顔をこっちに向けていた。

「んふ。これでリオンも共犯だね」

 ……そういう魂胆だったのか。

「仕方ない。ニーナには俺も一緒に謝るよ」

「そうしよう。ま、ニーナなら『別にいいよ』って言ってくれるって信じてるけどね」

 それは、そうかもしれない。でもクレールにはこれまでに積み重ねた罪もあるから、いつか本気で怒られることもありそうな気がする。

 まあ、それもたまにはいい薬になるかな。

 クレールは貴族の生まれだからか、わりとわがままなところあるし。

「あー、オレンジもうまいなー」

 荷台からのんきな声が聞こえた。

「……それもニーナに頼まれて買ったんだよ」

「どうせ謝るんだから、食べたのが一個でも二個でも大して変わんないよ」

「はぁ……」

 クレールは実に美味しそうにオレンジを食べている。

 どことなく小動物みたいだ。リスとか、あんな感じの。可愛いのは可愛い。女の子として可愛いかどうかは、また別の話ってことになるけど。

「んぐ」

 突然、クレールが不穏な音を発した。

 まさか喉に詰まらせたんじゃ……と思って荷台を振り返ると、さっきのオレンジを口いっぱいに頬張っているところだった……のは、ともかく。

 前方を指さしている。何かに気付いたらしい。

 そちらの方に目をやると……。

「ああ、ヘビか」

「ヘビか、じゃないよ! あの大きさを見てよ、リオン! あれはモンストラススネークっていう魔獣だよ!」

 改めて見ると確かに大きい。豚くらいなら呑み込んでしまうだろう。でも人間や牛なら無理かな。まあ、その程度の大きさ。締め付け攻撃はあるけど、毒はない。

 神託の霊峰の洞窟にはよくいるタイプの魔獣だけど、そういえばクレールとはあそこでは一緒に戦ったことがない。そんな名前だったのか。何度も倒したことがあるけど、名前までは気にしないから初めて知った。

「一匹だけみたいだし、別に怖がるような魔獣じゃないよ」

「え、そう?」

「でもこんな街道の近くにいると危ないのは確かだから、退治はしておこう」

「それがいいよね」

「あ」

「ん?」

 ここまで話して気が付いた。

 ……戦っちゃいけないんだった。

 俺やクレールにとってそんなに強い相手じゃないのは間違いない。何度も倒してきたから大体の強さはわかってる。見た感じ、何か特別な個体とも思えない。

 でも、戦っちゃいけないとなると……。

「……というわけで、倒しておいてくれない?」

「あれ。リオンが魔剣で輪切りにするとかじゃないの?」

「いやあ……クレールの経験になるかと思って」

「ふーん? まあいいけど」

 俺は馬の手綱を引いて馬車を停めた。周りは草原で見通しもいいし、相手は拾ってきた家畜か何かを呑み込もうとしてるとこみたいで、その場を動かない。魔法なら十分に射程距離内だろう。

 クレールは荷台にすっと立ち上がって、お気に入りの短杖(ワンド)を頭上に掲げた。

「それじゃー、いっくよー! えーい!」

 杖が振り下ろされて、その動きに合わせるように、無数の氷柱がヘビの体を貫いた。攻撃されてもがくヘビはこっちに気付いたみたいだけど、でももう、その氷柱に動きを阻害されてこちらまでは近付いてこられない。

 こういうところ、魔法攻撃は便利だと思う。

「確かに、そんなに強くないかも。これでとどめだーっ!」

 渦巻く霊気(マナ)に金髪をなびかせながらクレールが放った魔法の雷撃は、ヘビの息の根を完全に止めた。しばらくそのまま眺めていたけど、もうピクリとも動かない。

「お見事」

 俺が拍手しながらそう褒めると、クレールは両手を腰にあてて、得意げな顔。

「ふっふーん。さっすが僕だなー。……で、あれはどうするの?」

「冒険者の組合に討伐報告をしておけば、素材回収の人たちが来て片付けてくれるよ。そしたらその一割くらい、分け前がもらえる」

 冒険者組合には、何でも屋の手伝いをやる時に叔父さんの勧めで登録した。悪竜を含む魔獣の討伐報酬で、俺も結構稼いだと思う。

「そっかー。そういうのやってるの、大迷宮みたいなとこだけかと思ってたけど、こんな平原でもやるんだねえ」

「街道沿いだからね。まあ、通りすがりの人や獣に取られて、儲けがないこともあるらしいけど」

「へぇー。大変だねー」

 魔獣の素材、ちゃんと自分で取れるようになるともっと儲けがあるんだろうけど、持てる荷物の量も限界があるからなあ。

 何でも屋ではそもそもそんなに魔獣と戦うつもりもなくて、素材回収の技術は学んでない。ちゃんと学んでいたら、かさばらなくて高価な部位だけ選んで取れたかもしれないけど。

 今から学ぶか、専門の回収人を雇って……と、考えてみて。

 そういえば、戦わないことにしたんだった。

 と思い出した。魔獣を倒さないのに素材回収に悩んでも仕方ないな。

「ヘビって食べたら美味しいのかなー」

 倒したヘビの近くを通るとき、クレールがそんなことを言った。

「他の肉だと、鶏肉みたいな味」

「……食べたことがある?」

「クレールはないんだね」

「……僕は、うん、ないよ……」

 そうかー。そこは育った環境の違いなのかな。

 といっても、特別に美味しいわけでもないし、他に食べるものがあるなら無理に食べることもないだろうとも思う。

「っと、ここか」

 街道から、村の方への分かれ道。油断していると見落としそうな小さな道だ。

「ここ、何か目印が欲しいよね」

 俺がそう言うと、クレールも「ね」と頷いた。

「普通に看板? それとも、何か建てよっか! リオンの像とか」

「それはやめて」

「んふ」

 からかっているのか、本気なのか、微妙にわからない。正直、クレールなら俺の像を建てるくらいは本当にどうにかしてしまいそうな気がする。

「リオンの像は、広場の真ん中に建てたいって、親方が言ってたよ」

「親方が? それは止めないとな……」

 親方は村の指導者……というか、本来なら村長であるべき人だ。今は俺が領主で村長ということになってるから、親方って呼び方になってるけど。

 そんなわけだから、時々、俺の希望を無視して話を進めてしまうことがある。

 親方は悪意があってそうしてるわけではなくて、むしろ逆。ただ、ちょっと行き過ぎなところがあって……。俺としては、俺がやったことになってる話を大げさにして欲しくないんだけど、やたら持ち上げてくれたりするので、少々困ったことになりがち。

 像のことも、そうならないとは限らない。帰ったらすぐに話をして、止めてもらおう。

 

 林の中の小道を、馬車はゆっくり進んでいく。

「もうすぐ村に着くね」

 クレールが急に御者台の俺の隣に移動してきて、そんなことを言った。

 ふわっと、甘く爽やかな香りが漂ってきて……。

 ……ああ、リンゴとオレンジか。

「二人きりの旅行、楽しかったなー。僕ね、リオンと一緒に旅行……冒険じゃなくってね、旅行。したいなーってわりと長いこと思ってたから、夢がかなった気分」

 そう言って、クレールは俺の肩に寄りかかってきた。

 まだ冬の寒さは残っているけど、この距離だと、クレールの体温を感じて少し暖かい。

「また一緒に行こうよ。行き先はどこでもいいからさー」

「機会があれば、そうしたいね」

 クレールの要望に俺が前向きな返事をすると、クレールは笑った。

「えへへ」



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ニーナ

 いま俺が住んでいる村。

 以前は『寒寂の村』っていういかにも寂れた寒村を思わせる……というか、そのまんまの名前で呼ばれていた漁村だ。

 東に広がる調和の海を定期船が通るのは見えるけど、立ち寄ってはくれない。もっとも、もし停泊したところで降りる人はいないし、乗る人もいない。そんな場所。

 道に迷ってたまたま立ち寄った俺は、この村の人たちが領主の横暴と圧政に苦しんでいるのを見聞きして、何とかできないかと動いた結果……。

 領主を倒して、追放して、俺が代わりに領主になってしまった。

 そこまでやるつもりはなかったんだけど、成り行きでそうなってしまった。

 村の人たち……特に、親方にはうまいこと利用された気がしなくもない。

 その親方の発案で、村は『竜牙の村』に改名された。俺の異名である〈竜牙の勇者〉にあやかったらしい。俺が反対する暇もなかった。

 それで俺は今、村の北にある高台に建つ領主の館に住んでいる。

 前の領主が領民に重税を課して建てた館だ。当然、相当にお金がかかっている。高価な調度品なんかは知り合いの商人に引き取ってもらって、今後の復興のためのお金に替えてもらった。

 でも館自体はなかなかそうもいかない。

 俺がそこに住むように村の人たちから勧められたのは、扱いに困ったからだろう。村の人たちは誰も住みたがらないけど、また前の領主のような横暴な金持ちが住んでも困る……という感じ。

 で、その館にも新しい名前が必要だと言われて、今の名前は『竜牙館』。名付けたのは誰だったかな。なんとなく、自然に、流れで、そうなったような気もする。

 ともあれ、故郷の村を滅ぼされてからは仮住まい続きだった俺が定住地を得たということで、かつての仲間たちが訪ねてくるようになり、そのうちの何人かは一緒に住むようになって、今に至るというわけだ。

 

       *

 

 海沿いの高台にあるこの竜牙館に戻って、荷物を降ろし、ほっと一息……

 ……の前に、やらなくちゃいけないことがあった。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

 反省の意を示すため、俺とクレールは床に膝をついて、ニーナに頭を下げていた。

 ニーナは腕組みをして、そんな俺たちを見下ろしている。

「つまみ食い、しちゃったんだね」

 冷たい声。普段は温和なニーナがこの声を出すと、みんな震え上がる。

「箱いっぱいに入ってたから、一個くらいいいかなーって……」

「お、同じく」

 ぼそぼそと言い訳をする、クレールと俺。

 それを聞いたニーナは、腕組みをしたまま大きくため息。

「ちゃんと自分から謝ってくるのは進歩だね」

「でしょでしょー」

 調子に乗ったクレールが顔を上げた瞬間、ニーナの持つお玉がクレールの額を直撃して、クレールは「あいたっ!」と悶絶した。

「罰として、クレールはお風呂の掃除。ぴっかぴかにすること。私が見てオッケー出すまで」

 罰が言い渡され、それを聞いたクレールの返事は。

「そのぉ……もうお昼過ぎてるし、今から始めても、夕食までに終わらないんじゃないかなー……って、思ったり……」

 すかさずニーナが冷たい声で追い打ち。

「返事は、はい」

「はいっ!」

 クレールは完全に敗北してうなだれた。

 続けて、俺への判決。

「リオンはリンゴの皮むき。私がいいって言うまで」

 目の前には、箱いっぱいのリンゴ。

「はい」

 返答にそれ以外の選択肢はない。

「よろしい。じゃあ、さっそくはじめっ!」

 

 ニーナはうちで主に料理当番を買って出てくれている、俺のいとこだ。歳はニーナの方がひとつ上。夕陽みたいな色の赤毛が特徴的で、顔は結構かわいい。まだ綺麗ではないかな。かわいい。でも将来は綺麗な女性になりそうな気がする。

 元は雷王都市で叔父さん――ニーナのお父さんと一緒に、何でも屋をやっていた。俺がこの村に移り住んでからは、彼女も雷王都市から手伝いに来てくれている。

 うちに集まってる俺の仲間たちはみんな、元は冒険者だったりで自分の身の回りのことは一通りできるとはいえ、話が家全体の管理となると、ニーナの知識と経験には敵わない。

 彼女が来てくれて、俺としても本当に助かってる。

 ちなみに一応、何でも屋の仕事のひとつ、として来てくれている。というのも、そうでないと叔父さんが納得しない感じだったから。娘が男の家に行ったまま帰ってこない……という状況に理由をつけたい気持ちだったんだろう。

 ……そういえば最近は、帰ってくるように催促されてはいないみたいだ。

 元々、俺と叔父さんも仲は悪くない。

 俺の故郷が剣鬼に滅ぼされたと聞いてすぐ、安否確認に動いてくれた人だ。

 その時は、俺は俺で叔父さんを頼って雷王都市に向かっていて入れ違いになってしまったけど、その後は自分の家に住むように勧めてくれたり、一緒に何でも屋の仕事ができるように手はずを整えたりもしてくれた。

 あのまま何事もなければ、俺は今でもニーナと一緒に何でも屋をやってたかもしれない。そういう可能性もあった。

 

 台所の隅でリンゴの皮剥き。これも、たまにやるとわりと楽しい。故郷ではよく野菜や果物の皮剥きをやったのを思い出す。日常の仕事というか……平穏な時だからできることかなって気がする。

 リンゴ一個分の皮を一度も切らさずに剥ききる、というチャレンジが成功に終わって、ちょっと満足。

「リオン。クレールには内緒にしといて欲しいんだけど……」

 かまどの火加減を確かめながら、ニーナが呟いた。

「果物はね、たぶん途中で食べたくなっちゃうと思って、多めに頼んでおいたの。だから数は心配しなくても大丈夫だよ」

「……なるほど」

 ニーナの方が一枚上手だったというわけだ。

 もっとも、もしこのことをクレールが聞いたら、

「たぶんそうだろうと思ったから遠慮なく食べたんだよー」

 なんて言うんだろうけど。

「でも、たまにはつまみ食いにも罰を与えないとね」

 まあ……ニーナとクレールも、お互いにそういうのがわかっちゃうくらい打ち解けてる間柄だっていう、そういう話だ。

「うん、皮むきはそのくらいでいいかな。後は私がやるから、大丈夫だよ」

「ん。ずいぶんあっさり終わったけど」

 全部合わせても確か二十個はないくらい。一人で食べるなら相当多いとは思うけど、普段からこの館に住んでるのは俺も含めて七人だから、このくらいはすぐに食べ終わってしまうと思う。

「一度にあんまりたくさん作ってもね。同じのが続くと飽きちゃうでしょ?」

「なるほど」

 そういうところ、ちゃんと気を付けてくれてるから、いつも美味しく食べられるんだろう。ありがたい。

「もう少し手を加えたらクレールの仕事ぶりを見に行くから、先に行っててくれる?」

「わかった。何か伝言はある?」

「んー……ちょっと脅かしておいて」

 そんな秘密の指令を受けて、俺は浴場へと向かった。



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浴場の掃除

 クレールが掃除に向かった浴場は、本館から分かれて裏庭の東側にある。

 この館の他の部分と同様に、この浴場にも相当お金がかかっている。

 建材のほとんどは大理石。知識の豊富なステラさんによると、その装飾は古王国中期の様式で統一されているらしい。

 浴槽のお湯は元は天然の熱水泉……いわゆる温泉からのもの。薪を焚いてお湯を用意する必要がなくて、いつでも、入りたい時に入れる。

 東側には壁がなくて、並んだ柱の間から海を望むことができる。早朝なら日の出を眺めながら、というわけだ。

 そして広さ。十人くらいなら余裕で入ることができる。ちょっとした公衆浴場並みだ。個人で使うのはちょっと贅沢かなと思う。

 ただしもちろん、広いってことは、それだけ掃除が大変ってことでもあるわけだ。

 クレールもたぶん苦労してるだろうから手伝おう。

 そう思って、脱衣所を経て、浴場へ。

「クレール? 掃除は進んでる?」

 声を掛けると、一生懸命に浴場を磨いていたクレールと目が合った。

「…………」

「…………」

 お互いに、しばし無言。

 それから、かーっと顔を赤くしたクレールが、

「わーーーーーーーーっ!」

 と叫んで、浴槽の中に飛び込んだ。お湯張ってないのに。案の定、「あいたっ!」と悲鳴が聞こえた。

 まあ、それはともかく、だ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ! 外に出てて! 僕がいいって言うまで! 脱衣所よりも外だよ! 扉も閉めて!」

 言われて、俺は慌てて廊下まで戻った。

 ……何か、見えたら嬉しいけど見てはいけないものを、見てしまったような。

 扉を閉めて、そこに背中を預けて立つと、脱衣所の方でばたばたと足音がした。

「……どうしたの、その……その格好は」

 扉越しに声を掛けてみる。

「リオンは僕の今の格好を見ていないはずだから、そんな質問はしないはず」

「えぇ……」

 ダメ出しされた。理不尽な気はするけど、逆に、黙っているなら俺の方も見なかったことにして流していいってことでもあるのか。

 質問を変えよう。

「何があったの。そんなに慌てて」

「いやあ……僕ね、真面目にやろうと思って。そしたら、動きやすくて濡れてもいい姿の方がいいかなって思って、それでちょっと、そういう姿なの……」

「ああ……」

「ニーナになら見られても平気なんだけど、リオンはダメだよ! ちょっと待ってよ。まだ入ってきちゃダメだよ!」

「はいはい……」

 どうりで布面積が小さいと思った。動きやすいのは確かにそうなんだろうけど。それにしても上下の下着だけなのは……っと、見てない見てない。

 でも、うう。しばらく忘れられそうにないな、これは。

 脱衣所の方ではクレールの気配がごそごそと動いている。

「……それで、リオンはもう終わったの?」

「まあね。主犯じゃなかったからちょっとだけ罪が軽かったんじゃないかな……」

「ううーっ。こっちは全然終わらないよー。広すぎるんだよー」

「そうだと思って、手伝いに来たんだよ」

「あっ、それは助かるね。でも、僕がちゃんとがんばってる風に演出してほしいな。ニーナが見に来た時だけでもね」

「ニーナ、すごく怒ってたからね」

 本当はそうでもなかったけど、脅かしておくように言われたから大げさに言っておいた。

「うう。ニーナ、怒ると怖いからね……」

 本気で戦ったら多分クレールの方が強いんだけど、こういう力関係って、必ずしも腕っぷしの強さだけでは決まらないもの。

 そしてニーナは、みんなの食事を掌握しているから、この館の中ではかなり強い。

 ニーナは俺を立ててくれるから一応、俺も面目を保っていられてるけど、正直なところ、俺もニーナには頭が上がらない。

「よしっ! もう大丈夫! さ、せっかく来たならリオンも手伝ってよね!」

 クレールから声がかかった。手伝うのは、そのつもりで来たから、頑張ろう。

 脱衣所に入ると、クレールは一足先に浴場に戻るところで……。

 ……何か、うん。

 さっきと比べるとシャツは一枚着てるけど、それだけだ。

 シャツの裾は長めで、下もそれなりに隠れてはいるけど、チラチラしてて、かえって気になる。

 これ、いいんだろうか。

 目のやり場に困る……。

「ぼーっとしてないで、リオンはあっち側から!」

 クレールは気にしてないみたいだし、たぶん見られてもいい格好なんだろう。線引きがよくわからないけど。

 ……せっかくだから、よく見ておくべきでは……。

 そんな気持ちがなかったと言えば嘘になるけど、すぐにニーナも来ると思うからどうにか自重した。やましい気持ちで見ていたら、そのことはきっとすぐにバレてしまうだろうし。

 それに、たぶん大丈夫だとは思うけども、可能性として、そういう興奮でも竜気(オーラ)を活性化させてしまうかもしれないという危険もある。……ないかな。どちらとも言えない。

 平常心。

 平常心……。

「どうしたのリオン。手伝ってくれるんじゃなかったの? あれ、もしかして具合悪い?」

 クレールが声をかけてきた。

「何か心配事とかあるなら言ってよね。僕が何とかできることなら、手伝うからさ」

 基本的に、クレールは優しい子だ。だからこうして、何かあれば気にかけてくれるし、手助けもしてくれる。ただ、ちょっと抜けてるところがあるだけで。

 そう、ちょっと抜けてるところがあるんだよな……。

 ……やっぱり、禍根を残さないためにちゃんと確認しておこうかな。

「じゃあ、その……聞きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「境界線はどこなの……」

「? 何の話? この村と隣村の村境のこと?」

 いまいち通じていない。

 でも、どうしよう。はっきり言っていいものだろうか。

 悩んでいると……。足音が聞こえた。

「クレール? お風呂の掃除進んでる?」

「あ、ニーナだ。話はまたあとで聞くね」

「もしかして怠けて……あれっ、え、クレール? その格好はどうしたの?」

 浴場に顔を見せたのは確かにニーナで、俺と同じようにクレールの格好に驚く。

 それでもさっきよりはマシな格好なんだけど、言ってもややこしくなるだけだろうから言わない。

「動きやすいように薄着にしたんだー。真面目にやろうと思ってさー」

 クレールは得意げな顔でやる気をアピールした。

「……リオン?」

 ニーナの視線が俺に向けられる。俺のせいじゃないんだけど。どことなく冷たい視線に感じる。俺もやましい気持ちがなかったとまでは言えないからか。

「本人がそう主張してるから、俺には線引きがわからなくて……」

 一応、言い訳。

「さっきから何の話?」

 一人だけよくわかっていないらしいクレールが、のけ者にするなとばかりに参戦。

「えっと……下もちゃんとした方がいいと思うんだけど……」

 どうやら俺からは言いにくいことだと察してくれたらしく、ニーナがそう指摘。

「下? 下って、この短パンが……えと、短パン……」

 クレールはそう言いながら、空いている手でぱたぱたと下半身を確認。何か違和感を覚えた様子で、次は目視で確認。

 そうして、ようやく。

「わーーーーーーーーっ!」

 と悲鳴を上げた。

「こっ、これっ、これはっ! 違うんだよー!」

 やっぱり違ったのか。具体的に何がどうなのかは俺にはまだよくわからないけどとにかく、違ったんだ。

 半泣きになったクレールは、シャツの裾を下に引っ張って何とか隠そうとしているけど、前を引けば後ろが出るし、後ろを引けば前が出る、という……。

「リオンは見ない。廊下に出てて」

 ニーナの的確な指示。

「はい」

 それ以外の返事は選択肢にない。

 

 でも、そういうことなら……。

 せっかくだから、もっとよく見ておけばよかったかな……。



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ステラとミリア

 浴場の掃除は俺とクレールの二人がかりで何とか終わった。

 旅の疲れを癒やす間もなくの大掃除は、正直ちょっとつらかったけど、これで今夜からも気持ちよく使えるというもの。

 クレールは早速、旅と掃除の疲れをお風呂で癒やすことにしたらしい。

 一緒に入るわけにはいかないので、俺はお湯だけもらって体を拭いた。ちゃんとした風呂は、他のみんなが済んでからの一番最後かな。だいたいいつもそんな感じ。

 身支度が済んだらちょうどよく夕食時。日中はわりと思い思いに過ごしている館の住人たちが、食事のときにはちゃんと食堂に集合する。

 俺とクレールが食堂に入ると、すでに一人。

「……おかえり」

「ただいま、ステラさん」

 言葉を交わすと、ステラさんはひとつ頷いて、食堂にまで持ち込んでいた本に視線を戻した。

 

 ステラさん……なんとなく敬称をつけてしまうけど、確か俺よりひとつ歳下。

 俺と同じ黒髪で、俺とは違って赤目。物静かで、本を読むのが好きらしい。本人は、本で得た知識を実践するのも同じくらい好きだと言ってた。

 ここでは経理を担当してくれているけど、そもそもは魔術士として俺を手伝ってくれていた子。それも相当の腕前。

 なんでも〈西の導師〉という大魔導士の弟子なんだそうだ。

 クレールも「ステラの魔術の才能は、僕の次くらいにすごい」と褒めていた。

 好きな飲み物は人の生き血……らしい。俺も首筋から吸われたことがある。美味しかったらしいけど、喜ぶべきなのかは微妙なところ。

 普段は普通に食事をしているけど、その気になれば他人から血と霊気(マナ)を吸えば食事しなくても平気だと言っていた。ちょっと珍しい体質だ。

 そういえば最近、メガネをかけているのをよく見る。手元の本を読んだりする時にはメガネが必要らしい。

 相当高価なものだと思うけど、師匠からもらったものを大事に使っているのだそう。

 

「どうだった。……神託」

 本から顔を上げないまま、ステラさんが訊ねてくる。

 どう答えようか少し悩んで、ひとまず当たり障りなく、でも正直に。

「良くはないけど、悪くもない……という感じかな」

 言うと、ステラさんは小さく頷いた。

「悪くないなら、構わない」

 神託に関する話はそれで終わり。

 でも、帰ってきて最初の質問がそれっていうことは、やっぱり心配してくれてたんだろう。

 ――あとでみんなにもちゃんと説明しないとな。

 続いてクレールが「僕の方はねー」と話し始めたけど、ステラさんが「それは後で良い」と冷たく返したから、クレールは衝撃を受けていた。

 まあ、二人もそのくらい仲がいいって話。……たぶん。

 と、ステラさんが顔を上げた。

「空腹。今日の夕食は何」

「僕も聞いてないなー。リオンは手伝ったんじゃないの?」

「俺はリンゴの皮を剥いてただけだから。あれはジャムにするって言ってたし、今夜の夕食のヒントにはならないかな。でも、いい匂いがしてたよ」

「いい匂いがするって、ニーナの料理はだいたい全部そうじゃないかな?」

 それはまあ、確かにそうだ。

「楽しみ」

 ステラさんの表情はほとんど変わらない。

 他人と話す時の語彙も少ないから、その気持ちを推し量るのには慣れが必要だ。

 もっとも、これでも以前よりは自分の感情を言葉にして教えてくれるようになってるんだけど。

 言葉は少ないけど正直な子だから、楽しみだというのも本当のことだろう。

「ね、ね。今日はなに読んでるの?」

 クレールがステラの持っている本を覗き込んでいる。

 羊皮紙が何枚も綴じられたもので、ステラさんは小柄だとは言え、両手で抱えているというくらいに、かなり大きな本だ。

 返ってきたのは少し意外な答え。

「古王国時代の造船工の帳簿」

「……それって読み物なの?」

 俺が思ったのとだいたい同じことを、クレールが続けて質問した。

 そして、ステラさんは首を左右に振る。

「読み物ではない。帳簿と言った。興味深い」

「ステラにとってはそうなんだね……僕は遠慮しとこうかな……」

「勧めるつもりもない」

 クレールも本は嫌いではないはずだけど、どんな本が好きかは、人によって違いもあるだろう。

 そして、俺も正直、大昔の帳簿の面白さってよくわからない方かな……。

「リオーン。配膳手伝ってくれるー?」

 と、奥からニーナの声。

「はいはい」

 こういうとき、以前はニーナも「誰か手伝って」と声をかけていたけど、最近は俺を名指し。

 料理を運ぶ役を買って出たクレ……誰かさんが、転んで料理をぶちまけたり、食器を破損したりという事故が多発したからだ。

 俺にゆっくりしていてほしくて手を出したってことだったから、怒る気にはならないけど。

「鍋に入ってるこれは、シチュー?」

「うん。でも、ジョアンさんがくれた食材を入れてみたから、いつものとはちょっと違うよ」

 見た感じ、ニンジンとタマネギと肉。香辛料の香りもある。それが薄い色のスープに浸かっていて……。

 あと、これ。なんだろう。芋かな。農村育ちだけど初めて見る。

「それは悪魔の実」

「え……大丈夫なの?」

 もらった食材のうち、特に脅かされたやつだ。

 海の向こうの国から持ち帰ったとか。で、ジョアンさんの部下がそれを炙って食べたところ、しばらくしたら体調不良を訴えて、げえげえ吐きまくったらしい……。

「ステラが調べてくれたけど、芽や緑色になった部分を食べなければ平気なんだって。今回はちゃんといいのだけ選んで使ってるから大丈夫」

 そうなのか。ステラさんは何でも知ってるな……。

「それで、味はどうなの?」

「期待してていいよ。私とナタリーでちょっとだけ味見したけど、ナタリーも絶賛してた」

「それは期待できるね。それで、ナタリーは?」

「全部食べちゃいそうな勢いだったから、マリアさんのとこにお使いに行ってもらってたんだけど……まだ帰ってきてないの?」

「さっきは見なかったな……」

「どこかで寄り道してるのかな?」

 ニーナが準備した料理を一人分ずつトレイに載せて、二人で手分けして食堂に運ぶ。クレールとステラさんはもう自分の席に座って、料理が来るのを待っていた。

「クレール。ナイフとフォークを持ってはしゃがない」

 クレールは食事中の作法なら一番きちんとしてるのに、食事が始まるまではわりとこういうこともある。

「えへへ。待ちきれなくってさー」

「待ちきれなくってさー」

 と、クレールに続けて言ったのは、いつの間にか食堂に来ていたミリアちゃんだ。

「ミリアちゃん。こういう時のクレールは真似しちゃダメだよ。悪い見本だからね」

「ひどいっ!」

「ニーナの言い分は、事実の指摘にすぎない」

「ニーナの料理を心待ちにしてるっていう最上級の表現なのに……」

 大げさに泣き真似をするクレールに、ステラさんもわりと辛辣な言葉を投げかけて、状況は一層混沌としてきた。

 そんな他愛ないやり取りを見ながら、ミリアちゃんは「はーい」と返事をした。

「あたしはお兄ちゃんをお手本にする!」

「それもやめた方がいいよ」「勧められない」「そうだよ」

 俺が言うより早く、ミリアちゃんは三方向から異口同音のツッコミをもらった。

 ……自分でも言うつもりだったけど、他人に言われるとそれはそれでちょっと悔しいな。

 

 ミリアちゃんは俺より五つ歳下の女の子。姉のマリアさんから、ミリアちゃんの薬の材料を探してきてほしいと依頼を受けたのが、知り合ったきっかけ。

 元々は姉妹で雷王都市に住んでいたけど、勉強はどこでもできるからとこっちに移ってきた。今はこの館で、帝麟都市にある大学への入学試験のための勉強をしている。

 前にミリアちゃんの部屋の本棚を見せてもらったときには驚いた。子供が楽しむような絵本と、俺には全く理解できない魔法理論書が同じ棚に並んでいたから。

 魔法の、特に法術の方面では天才……らしい。ステラさんは「きっと歴史に名を残す」と太鼓判だし、クレールも「ミリアちゃんの法術の才能は、僕の次くらいにすごい」と褒めていた。

 将来美人になるのもほぼ間違いない。本人もそう言ってる。

 

 さて。

 配膳は済んで、もう食べられるところなんだけど。

「ナタリーたち、遅いね」

「いつもなら一番に食堂に来てるのに、どうしたんだろう?」

「それは、お使いを頼んだからだけど」

 そう。予定の頃を過ぎてしばらく経つけど、ナタリーがまだ帰ってこない。

 たぶんマリアさんも一緒に帰ってくるんだと思っていたけど……二人とも、姿を見せない。

 こういうとき、食事は先に済ませていていいということになっているけど……。

「ちょっと心配だね」

「俺、ちょっと見てくるよ。マリアさんのとこに行ったんだよね?」

「そのはずだけど……」

「みんなは先に食べてて」

 何かあると困るので一応、剣は持っていくことにした。魔剣じゃない、普通の剣だけど、大抵の相手ならこれで十分。

 戦わないようにしたいから、何事もないならその方がいいんだけど。



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魔女の店

 もしかしたら途中で合流できるかもしれないと思っていたけど、そんなこともなく、目的地である一軒家までたどり着いた。

 ここは魔女の店。

 まじないや占いの他に怪我や病気の治療も行っていて、薬草に詳しいマリアさんは、その知識を買われてここに手伝いに来ている。ナタリーはそのマリアさんを迎えに来たはずだけど……。

 普段ならもう店を閉めている時間だというのに、煌々と明かりが灯っている。

 どうしたんだろう。

 疑問を抱えたまま、様々なハーブの植えられた前庭を抜けて店に近付くと、ちょうど外に出てきた白衣姿のマリアさんと目が合った。

「あら、リオンさん。おかえりなさい」

 数日の旅行から戻ってきた俺だから、マリアさんの「おかえりなさい」は合ってるけどね。

 俺が迎えに来たつもりのところに言われたから、ちょっと笑ってしまった。

 

 マリアさんは、ミリアちゃんのお姉さん。

 俺より歳上だけど、正確に何歳かは聞いていない。訊ねていいものかどうか迷っていたら、なんとなく機会を逃している。でもたぶん、四つか五つくらい上ってところだ。

 魔法の才能はミリアちゃんほどではないけど、元々が魔女の家系らしく、特に薬草に関する知識が豊富。その分野では、ステラさんもマリアさんに教えを請うほどだ。

 あと、その……。

 スタイルが良い。そして美人。

 普段は他人と胸の大きさを見比べて勝った負けたと呟いているクレールも早々に張り合うのをやめて「うわー、母性に吸引されるー」と抱きついていたりする。ちょっとうらやましい。当然のことながら、俺にはそんなことをする勇気はない。

 ミリアちゃんが自分は将来美人になると確信しているのも、マリアさんがいるからだ。

 

 そんなマリアさんだけど、よく見れば、今は少し疲れた表情をしている。

「何かあったんですか?」

「ええ、ちょっと……急な患者さんがいらっしゃって。命に関わるほどではないんですけど、治療は早いほうがいいだろうということになりまして」

 言いながら、マリアさんは俺の横を過ぎて、ハーブ畑の方に向かった。そして、手にしたランタンの明かりを頼りに、次々とハーブを摘み取っていく。さすがの手際だ。

「俺にも何か手伝えることがあれば、言ってください」

「ありがとうございます。でもここの薬草は毒があるものも多いので……お気持ちだけで」

 そう言われると手は出せない。確かに、専門の知識がある人がやるべき仕事だ。

「それに、患者さんはもう落ち着いたので、大丈夫ですよ。ナタリーちゃんもたくさん手伝ってくれましたし」

 ……なるほど、それでか。

 二人がなかなか戻ってこなかった理由ははっきりした。

 そして、この場にはもう俺の出番はないってこともわかった。

「リオン! 来てたですか!」

 と、ちょうどナタリーがやってきた。両手で持っているのは大きな水桶。井戸に行って水を汲んでたみたいだ。

「うん。二人がなかなか帰ってこないから」

「お手数をおかけして申し訳ないです! あたしはこのとおり元気です!」

 確かにいつも通りの元気の良さだ。

 それに間を置かず。

「患者さんが休んでるから静かにね」

 自分の唇に人差し指を当てて、マリアさんがナタリーを窘める。

「そうでした……!」

 慌てて声を落としたナタリーの様子に、マリアさんは小さく頷く。

 そしてどうやらここでの作業は終わったようで、マリアさんはハーブの入った籠を手に立ち上がった。

「ナタリーちゃん。ここの手伝いはもう十分ですから、その水をおばさまに届けたら、リオンさんと一緒に帰ってもいいですよ」

 その言葉にナタリーは「わかっ……!」と大声で返事をしようとして、慌てて中止した。

「わかったです。そうするです」

「手伝ってくれてありがとう。帰り道、気を付けてくださいね」

「マリアさんは?」

「私はもう少し残ります。明日からのお薬を用意しておかないといけませんし。ミリアのこと、お願いしてもいいでしょうか」

 俺の質問に、マリアさんはひどく申し訳なさそうな顔でそう答えた。

「伝えておきます」

 俺がそう請け合うと、マリアさんは安堵の表情。

「ありがとうございます。お願いしますね」

 あとはナタリーが戻ってくるのを待って、帰るだけ……。

 ……っと、そうだ。忘れるところだった。

「これ、ニーナがマリアさんにって持たせてくれたんですが」

 ニーナが大慌てで用意してくれたお弁当。中身は、パンと、薄切りのハムとチーズ。手をかけずにすぐに食べられるものだってことだった。

「あら。ありがとうございます。助かります」

 マリアさんが一人で食べるには多めのような気がするけど……ナタリーと、もしかしたら俺もこれを食べる可能性があったのか。それならこの量も納得。

「ニーナちゃんにもお礼を言っておいてください」

「わかりました」

 そうこうしているうちにナタリーも戻ってきた。

 そして俺のことをじーっと見ていて……。

「ナタリーもがんばったね」

 そう言って頭を撫でると、ナタリーは目を細めた。尻尾があればぶんぶん振ってそうな感じ。

「よしっ! 帰りましょう!」

 と元気に拳を突き上げたナタリーは、すぐにマリアさんから窘められた。



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ナタリー

「特級おなかが空いたです!」

 帰り道。ナタリーはいつもの元気な声でそう主張した。足取りはどことなく軽やかで、後ろから見ていると、ナタリーが歩くたびにポニーテールがぴょこぴょことはねて面白い。

「そうだね」

 空腹には俺も同意。夕食を一度目の前にしておきながら食べずに出てきたから、なおさらかも。

 とはいえ、ナタリーやマリアさんに何か危険が迫っていたとしたら、のんびり食事をしている場合でもなかった。

 ……終わってみれば、俺がいなくても大丈夫そうだったな、というのが今日のことだけど。

 いつもそうとは限らないっていうのも、これまでの経験。

「手伝いをしてちょっと疲れたですが、こうしてリオンが迎えに来てくれたから元は取った気分です!」

 ナタリーが俺の二歩分くらい前を歩きながら、そんなことを言った。

「そういうものかな」

 ナタリーが俺のことを悪く思ってないらしいのは、なんとなくわかってるけど。

 今回の作業量に見合ってるのかな、俺の迎え。……もしかして希少価値? いや。うーん。送り迎え、わりとやってると思うけどなあ。

「暗いから足元に気を付けてくださいね! あっ! 手を繋ぎましょう!」

 うきうきした様子で、振り返ったナタリーが手を伸ばしてきた。

「ほらほら。ランタンもあたしが持つですよ!」

 ほとんどひったくるように俺からランタンを取り上げたので、ちょっと苦笑。

 さらに、手を繋ごうと思って手を出すと、ナタリーから手首を掴まれて、さらに苦笑。

 ……でもこうしていると、迷宮の探索をしていた頃を思い出すな。

 正しくないタイルを踏むと罠が作動するらしい、なんて時にはこうやって、ナタリーが前を行って安全を確かめてくれた。

「最近、足元の心配はあんまりしなくなったよ」

 冗談めかして言うと、ナタリーも笑った。

「あはは。それは、ちょっとわかるです」

 

 ナタリーと知り合ったのは、とある遺跡。ミリアちゃんの薬の材料を得るために、奥にある貯蔵庫跡に向かっていた時だ。

 そこは長年の間に崩れたり、植物が生い茂ったりして、迷路のようになっていた。少数ではあるけど魔獣も棲み着いていた。今なら苦戦しないような相手ばかりだったけど、当時の俺にはまだ魔剣もなかったから、奥へ進むのにも相当苦労した。

 手助けしてくれたのが、ちょうど同じ遺跡を調べていたナタリー。

 古代の財宝があるという話を信じて調べていたものの何も見つからなかったそうで、探索で作った地図を俺に売って元を取りたかったらしい。

 ナタリーから買ったその地図はとても出来が良くて、その後の探索は難なく進んだ。

 他の遺跡でもときどき再会しては似たようなことがあって、もういっそのこと一緒に行こう、ってなった。

 ちょっと不思議な縁だ。

 

「もう危険なことはしなくても暮らしていけるんだよな」

 いろんな遺跡や迷宮を探索していた頃のことを思い出す。

 どこも決して簡単ではなくて、ある時は不意に強敵と出会って危ない目に遭ったり、ある時は遺跡の罠で閉じ込められそうになったりもした。

 この村で過ごす日常の中には、そんな危険はほとんどない。

「そうですね!」

 ナタリーも笑いながら同意した。

 そう考えてみると、戦わないで暮らすというのも、案外何とかなるのかもしれないな、と思う。

「あ、でも……」

 ナタリーが小さく呟いて、立ち止まる。

「あれはあれで、辛いことばかりじゃ、なかったです。……リオンとも会えましたし」

 見上げた先は星空。ナタリーは空に手を伸ばして、何かを掴むような、そんなしぐさをした。

 俺も見上げてみると、なるほど確かに、これだけ星があればどれかひとつくらい掴めるやつが混じってそうな気もする。

 仲間との出会いって、そういうものなのかもしれない――なんて。

「そうだね。俺もみんなに会えてよかったよ」

 俺がそう応じると、ナタリーは少しはにかんだ笑顔を向けてきた。

「えへへ。ちょっとしんみりしちゃったです。それはともかく、早く帰ってニーナの料理を食べたいです!」

 ナタリーの原動力は食欲。クレールも美味しいものには目がない方だけど、ナタリーはそれ以上。ニーナはその二人を相手に、毎日戦っている。

「そうだね」

 同意した俺にまた笑顔を向けてから、ナタリーは俺の手をぐいぐい引っ張っていった。

 

       *

 

 館に戻ると、みんなエントランスに集まって俺たちを待っていた。

 とは言っても、さほど深刻そうな様子じゃない。自室には戻らずに、食後にお茶を飲みながら歓談……という感じ。

「おかえり。どうだったの?」

 代表してクレールが訊ねてきたので、俺はかいつまんで事情を説明する。

 それでみんな納得したようだ。

「お姉ちゃんはお仕事大変だなー」

 というミリアちゃんの言葉には、みんな頷いていた。俺たちもそれぞれに何となく担当の仕事があるものの、夜までかかりきりということは滅多にない。

「その急な患者さん、大事なくてよかったね。どこの誰だった?」

「俺はそこまでは。マリアさんに聞いたらわかると思うけど」

「わかった。じゃあ、お見舞いは僕から手配しとくよ」

 そういえば、必要なんだな、そういうのも。

 クレールはそういうところにわりとよく気が付く。元々、領主の娘として生まれ育って、自身も一時は領主だったというから、経験の差もあるだろう。

 ……でも、俺の故郷はどうだったかな。そういうの、あったかな。思い出せない。なかったのかも。いや、うーん。ひどい風邪を引いた時に、果物が届いてたような気もする。

「じゃあ二人とも。夕食は温めておいたから、食べよう」

 ニーナが言うと、ナタリーは待ってましたとばかりに「感謝です!」と叫んだ。そのナタリーが食堂へ向かったのを合図にしたように、集まっていたみんなもそれぞれ散っていく。

「ありがとう。手間をかけさせたね」

 隣に残っていたニーナにそう声を掛けると、ニーナは笑って頷いた。

「せっかく作ったんだから、できるだけおいしく食べてもらわないとね。さ、リオンも行こう」

 本当にありがたい。



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リオンの日記

「あ、おかえりー」

 風呂を済ませて自室に戻ると、ベッドの上にクレールが寝転んでいた。

「……ここ、俺の部屋だけど」

「知ってるー」

 じゃあいいか……となるはずもない。

「あのね。前から言ってると思うけど、クレールは女の子で、俺は男なんだからさ。こんな夜更けに一人で男の部屋に来るなんて、褒められたことじゃないよ」

 俺がそう説教すると、薄桃色の寝間着で仰向けに大の字になったクレールは、そのまま起き上がりもせずに反論。

「それは前から言われてるけど、リオンが僕を襲う気がないなら別にいいじゃない?」

「そういう問題じゃない……」

 と思う。

「んふ。それとも、僕を襲ってみる? リオンがその気なら、僕も考えを改めるかも」

 そこを言われると難しい。

「それはしない」

「ほら。だったらいいじゃない」

「はあ……」

 正直、俺だって人並みにそういう欲もある。同時に、当然踏むべき段階を飛ばしてしまうのは良くないという理性もあるわけで、あまり挑発しないでもらいたいんだけども。

 今のところは、まだ理性の勝利。

 一応、クレールの名誉のために付け足しておくと、クレールに魅力がないからじゃない。俺の理性が頑張ってるだけ。

「……それで、用事は?」

「特にないけど?」

 言いながらクレールはごろんごろんとベッドの上を転がった。そうできるくらいに大きなベッドで、俺としては落ち着かないんだけど。そういうのは大体、前の領主のせい。

「強いて言うなら、リオンと遊ぼうと思って来ただけ」

「あとは日記を書くだけで寝ようと思ってるんだけど。旅行のことも忘れないうちにちゃんと書いておきたいしさ」

 棚から日記帳を取り出して、書き物机に置く。日記の付け始めにクレールからもらったものは羊皮紙製だったけど、最近使っているのはもっと安価な紙製。それも決して安くはないものの、他にお金のかかる趣味もないし、このくらいはいいだろう。

「日記かー。最近はどんなこと書いてるの?」

「いろいろ」

 楽しいことばかりじゃなく、自分や他人の失敗のことなんかも書いているから、あまり詳しくは話せない。まあ、ここで秘密にしていても、俺が留守の間にこっそり覗き見するような人がいれば無意味だけど。

 クレールは他人の私的な日記を覗き込むようなことはしない。……たぶん。さすがに。

「僕の登場頻度は?」

「そりゃあ、まあ、ほぼ毎日……」

「そっかー。んふふ。それはいいことだね」

 そこは、ほぼ毎日何かやらかしてるからでもあるんだけど。

 もちろん俺にも分別はあるから、浴場でやらかしたクレールがその時どんな姿だったのかを事細かに書き記したりはしない。

 

 ろうそくの明かりを頼りに、ここ数日のことを思い返しながら、ペンを走らせる。

 大事なことは忘れないようにちゃんと書いておかないといけない。

 俺の身体の変調について聖竜に相談したこと。

 変調の原因が、竜の血を浴びすぎて竜気(オーラ)が蓄積してしまったせいであること。

 これ以上進行させないためには、竜気(オーラ)を活性化させないこと。

 つまり……。

 戦ったり、争ったりを避けること。

 ここまでの数日は何とかなった。明日からはどうなるだろう。

 この館に住むことになった経緯もそうだけど……

 特に魔剣を手に入れてからの俺は、何か問題が起きると戦うことで解決してきた。

 ほとんどの場合、相手が人間じゃなかったからでもあるけど。

 とにかく、戦う以外の解決方法を知らないまま、ここまで来てしまっている。

 やり方を変えていかなくちゃならないってことに、不安はある。

 でも、変えていかないとな。

「ずっと、穏やかな日が続けばいいのに……」

 日記を書き終えて、一息。

 

 やけに静かだと思ったら、クレールは寝てしまっていた。

「寝るなら自分の部屋に戻りなよ……」

「ううーん……」

 声を掛けると、一応、返事があった。

「……でも、それは……リオンが食べ……ちゃったから……」

「俺が何を食べたって?」

「……日記……」

 だめだ。完全に寝ぼけてる。

 このまま放っておいたら変に噂になっちゃうかもしれないし、クレールを自分の部屋に戻らせないと。誰かに来てもらって、手伝ってもらうのがいいな。こういう時は、とりあえずニーナに相談するのが確実。

「ぅん……むにゃ……」

 それにしてもまあ、幸せそうな寝顔だ。

 

 ――僕を襲ってみる?

 

 ふと、さっきのクレールの言葉が頭の中に響いた。

 ……これだけ無防備に寝てるなら、俺がそうしようと思ったら、できる。

 やらない、けども。

 自分の部屋に帰らせるためには起きてもらわないといけないし、ちょっと触れるくらいは仕方のないことだと思う。

 

 ――クレールがどこまで許容するか試してみようか。

 

 ちらっと、そんな風に思ったりもする。でも我慢。

 誘惑に乗ってしまわないうちに、早くニーナを呼んでこよう。



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竜牙館の朝

 夜が明けきらない早朝。

 ここにいるみんな、それぞれに朝の日課みたいなものを持っていて、俺のそれは剣の素振り。日の出前から始めれば、ほどよくお腹が空いた頃に朝食の時間になるし。

 まだ吐く息が白くなる寒さ。裏庭の端で一心不乱に木剣を振っていると、一息つく頃には体中から白いもやが立ちのぼるようになる。

 なんとなく、自分の体に不思議な力が宿ったような感じがする。

 ……ステラさんが言うには、理論的に説明できる現象で、まったく不思議なことではないらしいんだけど。

 みんなはというと、ニーナは朝食の準備をしてくれているし、ステラさんは庭に来るネコや鳥にエサをやっている。ミリアちゃんはマリアさんと育てている家庭菜園の水やり。ナタリーは朝のランニングに出ていった。クレールは朝風呂。

 それぞれの朝の日課が済んでから、なるべくみんな揃って朝食、ってことになる。

 

 昨日から戻っていないマリアさんを除いて、そのほかは今いる六人全員が食堂に集まった。

 俺が浴場で軽く汗を流して食堂に出てくる頃には、大抵みんな集まっている。

 俺が最後なのは、申し訳ないけど、仕方ない。朝風呂のクレールと、早朝の運動から帰ったナタリーが済ませた後でないと、俺は浴場を使えないし。

 ともあれ、朝食。

 テーブルの上には大きな籠にたっぷりのパンが用意されていて、それ以外にも主に野菜を使ったスープがある。

 必要な人はそれに燻製肉を追加することになってるけど、これは俺が切り分ける。

 肉を切って分配するのは食事の主催者、館の主人、一般家庭ならまあだいたい父親の役目。

 俺も故郷では父さんが肉を切り分けるのを楽しみにしてた。

 その時の俺と同じ顔をしているのが、主にクレールとナタリー。

「リオン、特級かっこいいです!」

「はいはい」

 肉を多めに貰おうと俺をおだてるナタリーを適当にあしらいつつ。

 みんなの準備ができたら、軽く食前の祈りを捧げて、食べ始め。

 

 俺は食事中のマナーについて他人にあれこれ言えるほど自分ができているとは思えないから、細かい作法よりは楽しく食べることを重視しよう、とみんなにも話して、納得してもらってる。

 そんな中でもマナーがよくできてると感心するのはクレール。

 さすがに時々注意をされるのがナタリー。

 食べたがり二人がそこのところでは両極端に分かれる。

「本日の朝食も非常に美味ですわね。ほほほ」

 ナタリーが注意されたときには、クレールはこれ見よがしに貴族のお嬢様のような台詞を投げつけている。それに対して、ナタリーは「ぐぬぬ」って顔だ。

 クレールは実際に貴族のお嬢様なんだけど、普段は全然そんな感じがしないんだよな……。

 そうやって、和やかに朝食を済ませる。

 

「さて……みんな食べ終わったところで、今日の予定を確認したい」

 俺がそう言う頃には、ステラさんの方もほぼ準備が整っている。

 彼女によって黒板に書き込まれているのは、みんなの今日の予定……なんだけど、今日は空欄が多いな。

「リオンの予定。午前中は自由。午後からは陳情の受付。私とクレールも参加。今日は他に特段の予定はない」

 ほとんど俺の予定だけだった。空欄が多いはずだ。

 陳情受付か。一応は俺が領主だから、住民からの陳情を受ける義務があるらしい。相談して、だいたい三日に一度くらいの頻度でそういう時間が設けられることになっている。

 俺だけじゃなくステラさんとクレールも参加するのは、二人が実質的にこの領地の経営を担っているから。一緒に聞いてもらったほうが手間がない。

 まあ、最初の頃と比べると陳情も減ったかな。

 訴えを受けたことの多くについて、暫定的にでも対処をしてきたからだと思う。

 季節が春になったらまた増えるかもしれないけど、今の量から変わらなければ、頻度を減らしても大丈夫そうだ。

 でも、今日は何か大変な陳情がありそうな気がする。

 旅行のために前回の受付を休んだからだけど。

「他の人。何かあれば言うと良い」

「あたしは散歩してくるです! あっ! お昼ごはんと晩ごはんにはちゃんと帰ります!」

 ナタリーの自己申告。

 散歩とは言うけど、実はあんまりお気楽なものでもなくて、要はこのあたりの地図をなるべく正確に作る、という話。ナタリーはそういうのが得意だから任されている。

 ちゃんとした測量術を学んでいないはずなのにやたら正確な地図を描くので、ステラさんは不思議がっているそうな。

「ステラせんせー。勉強教えてもらいたいから、午前中いい?」

 続いて手を挙げたのはミリアちゃん。

「構わない。食後にミリアの部屋に行く」

 ステラさんも即答して、黒板に追加の予定を書き込む。

 ミリアちゃんは勉強を頑張っている。大学に入学するには最低でも古王国語の読み書きが必要で、その他に推薦人を見つける必要があるらしい。その推薦をもらう段階で学力を試されることが多いそうだから、それが実質的には入学試験。

 推薦人に関してはステラさんに伝手があるそうだけど、その人もやっぱりステラさんの師匠である〈西の導師〉の弟子で、ステラさんの同門だという話だ。

 いずれはミリアちゃんの大学入学のために遠出することになりそうだと思っているけど、ステラさんの見立てでは「まだまだ」だそうで、いつになるやら。

「私は午前中のうちに洗濯をしちゃうから、まだ洗濯物出してない人は急いでね」

 ニーナによる洗濯は定期的に行われてる。

 洗濯は結構力仕事だと思うし、俺も手伝いたい気持ちはあるんだけど、その……今は俺の他は女の子ばかりだから、その衣類にあまり手を出すわけにもいかない。特に下着類は、みんなも俺には触れてほしくないだろう。

 ニーナは洗濯を村の洗濯場でやる。そうすると村の人達からいろんな噂話が聞けるんだそうだ。その場で軽めの陳情を受けたりもするらしい。

 そういう人付き合いは大変そうだな……と、俺なんかは思うんだけど、ニーナはわりと楽しんでる様子。

 ちなみにどんな噂話が出たのか聞いてみると「大体、リオンの話だね」との返事。

 どうやら俺は女性関係にだらしない好色男ということになっているらしい……というありがたくない情報をもらった。うう。

 ニーナもそれを否定しないから、村の人たちの間では完全に事実として扱われているそうだ。

 俺としてはそこは否定して欲しかったところだけど、この館にいる子たちが毎日のように婿候補を紹介される苦労から解放されたのはその噂のおかげだそうだから、悪いことばかりではない……と、自分を納得させている。

「クレールは、何かある?」

 申告がないから特にないんだろうとは思いつつ、ないならないことを確認しておくのも必要だと思って質問。

「特になしっ!」

 予想通りの返答だった。まあ、クレールは旅行の疲れもあるだろうし、普段は王国法に関することで頑張ってくれてる。たまに予定がない時間があっても誰も咎めはしない。

 それに、館が広いからせっかくだしみんなで住んでるけど、領主ってことになってる俺と、何でも屋として仕事で来ている形のニーナ以外は、基本的に自由に過ごしていいわけだし。

「……でも、僕だけ怠けてるみたいになっちゃうから、何かやりたいね。誰かを手伝おうかな」

 少し申し訳なさそうな感じで、クレールはそんなことを言った。

「無理に予定を入れなくてもいいと思うけど。昨日は浴場の掃除を頑張ってたし」

 俺は本心からそう言ったけど、クレールは首を横に振る。

「せっかく天気のいい日だし、外に出ようとは思ってたんだー」

 そういうことなら無理に止めることもない。

 見回すと、ニーナが小さく手を挙げた。

「それじゃ、マリアさんにお弁当を届けるの、任せていいかな?」

「ん、いいよ。その仕事、僕が完璧にこなしてみせるっ!」

 何の衝動に駆られたのか、両手に握りこぶしでやる気をアピールするクレール。

「そこまでの気合は必要ないけど……転ばないようにね」

 ニーナとの温度差がすごい。

「んふ。心配無用だよ。僕だっていつも転ぶわけじゃないし。たまにだよ、たまに。だから、僕をいつも転ぶ人扱いしないでよね!」

 強く訴えるクレールを見て、ニーナと俺……だけじゃなく、この場のみんなが「これはきっと何かやらかすな」という気持ちで顔を見合わせた。



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謎の男

 予定が書き込まれた黒板は食堂から隣の会議室に移動。誰がどこで何をしてるのか、知りたくなったらこれで確認することになる。

 結局みんながいろいろと予定を入れた中、俺の午前中は空いたまま。

「昼食まではエントランスで留守番でもしておくかな」

「前庭に出た方がいいんじゃない? 今日は晴れてるし」

 俺の呟きに、ニーナが提案。確かに、窓から見えるのはきれいな青空だ。

「それもそうか。そうしよう」

 一年中ほとんど雨の日だという雷王都市に最近まで住んでいたから、晴れの日の景色は新鮮でもあり、故郷を思い出して懐かしくもある。見れば、冬の間は茶色だったこの丘もずいぶんと緑色が目立つようになっていた。

 確かに、この中でなら穏やかな気持ちで過ごせそうだ。

「ティーポットにお茶と、籠にお菓子、用意しておいたから。あと、敷布を使うなら寝具室にあるからね。それじゃ、洗濯行ってきまーす」

 出掛けにニーナがそう伝えてくれた。気が利く。お菓子は、ナタリーやクレールに見付からないうちに手元に確保しておこう。

 

 ニーナに少し遅れて、クレールとナタリーも出かけていった。

 それを見送って、ニーナが焼いてくれたビスケットを食べ、お茶を飲んで、穏やかな日差しを浴びながら、うとうと……。

 という頃だった。

「寒寂の村の悪徳領主とやらは貴様かっ!」

「ん?」

 目を開けると、少し離れたところに男が立っていた。村の人じゃない。見覚えがない。

 武装している。剣と盾、それに革鎧。傭兵か、冒険者か、そんな感じ。

 そして、闘志に燃える形相で、すでに鞘から剣を抜いている。

 いくら昼の間は表門を開けているとはいえ、武装したままで入ってくるなんて。

 ……危ない人かもしれない。

「人違いですよ。その人はもうここにはいないし」

 悪徳領主を追い出したのは俺自身だ。それ以来、姿も見ていない。

 今の領主である俺を悪徳領主と言っているなら、人違いじゃないけど。

 でもそれなら『寒寂の村』じゃなく『竜牙の村』の領主と言われるはずだから、やっぱり前の領主を探してるってことで、合ってるだろう。

「若い娘を何人も囲っている好色領主だということは知っている! なんとうらやま、じゃねえ、なんとけしからん奴だ! 俺はそんな悪徳領主を成敗するために来た!」

「はあ」

 何か新旧混ざってるような気がするな。それとも、前の領主にもそんな噂があったんだろうか。

 それにしても、一応もしかしたら、陳情の時間に早めに来てしまっただけかもしれないという可能性も考えていたんだけど。

 成敗するって言われてしまったら、多分、陳情目的ではないだろう。

「今の領主は俺ですけど」

「さっきはとぼけていたが、ようやく認めたな」

 別に嘘を言ったつもりはないけど、話を聞かなそうな人だから訴えても仕方ないかな。

「ならば名乗ろう! 俺は雷王都市で〈剣の王〉の称号を得た〈竜牙の勇者〉リオン!」

 と、相手が、名乗った。

 俺じゃなく。

「……はあ」

「くくく。驚いて声も出ないか?」

 声が出ないのは確かだ。何て言えばいいんだ。

 自分の偽者を見たのは初めてじゃないけど、見た目が似ても似つかない、似せる気もないというのは初めてだ。

「ハーッハッハッ! そりゃあそうだろうな。なんせ〈竜牙の勇者〉と言えば雷王都市を襲い騎士団を壊滅させたあの〈剣鬼〉をも余裕で倒した、不死身の男だからな! 怖くて恐ろしくて声も出まいよ!」

「そうなんですか」

 不死身だったとは初耳だ。最近は吟遊詩人が物語を派手にするために、そういう設定を付け足してるんだろうか。俺が前に聞いたときにはそこまで事実とかけ離れてはいなかったと思うんだけど。

「貴様も名乗るがいい!」

 相手が剣の切っ先をこっちに向けながら、そう叫んだ。

 仕方がないから、俺も傍らに置いていた剣を片手に立ち上がる。

 鞘からは抜かない。多分だけど、力量差がありすぎて、ちゃんと剣を振るうと相手の生命が危ない。この剣は鍛造の量産品だけど、それでも、だ。

 相手が余裕の表情なのは何でだろう。確かに身体は俺より大きいけど。力量差がわからないのか。

 ……でも、俺の見立てが間違っていて、本当は達人なのかもしれない。

 まあ、名乗れと言うんだから、名乗ろう。

「リオン。――〈竜牙の勇者〉」

「はっ?」

 相手は驚いて声も出ないという様子。剣を取り落としそうになって、慌てて握り直していたり。

「他人の名前を騙るのはやめてくれませんか? あなたの行いが悪いと俺が迷惑するから」

 穏やかな日が続けばいい……と思っていたのに、昨日の今日でこれだもんな。

「黒髪、黒目……まさか本物……いや、そんなはずはない! 本物がこんな田舎村にいるはずがない! 俺だったらその名声があれば美女に囲まれて酒池肉林で暮らすからな! 男なら皆そう願うはずだ! このぉー、俺の名を騙る悪人めぇー、成敗してやるーっ!」

「……俺の評判が落ちるのって、こういうののせいもあるのかなあ」

 俺にとってひとつ幸いだったのは、闘志を燃やす必要もない程度の相手だったことだ。

 これなら多分、竜気(オーラ)も活性化しなかっただろう。

 

 改めて穏やかな日差しにうとうとしていると、さっきのことは「何か変な夢を見ていたような気がするな」という程度に忘れた。

 でも、うーん。まだ夢を見ているのか……?

 足音が近づいてくる。それは奇妙なことに、歩くたびに、べしゃっ……べしゃっ……と、湿った音を響かせる。

 これは……思い出した。聞き覚えがある。

 魚人族の足音だ。こんなところに? 海が近いからか!

 ……と飛び起きると、そこにいたのは魚人族ではなく、ずぶ濡れのクレールだった。

 全身からぽたぽたと水を滴らせて、半泣き。

「おかえり、クレール。……どうしたの、その格好は」

「転んだわけじゃないからね! それにお弁当は渡した後だったし! 歴史書には『クレールは与えられた役目を完璧にこなした』と記されるだろう!」

 お弁当をちゃんと渡せたというのはいい知らせだけど、いったいどうしたらそんなにずぶ濡れになるんだろう。

「……じゃあ、どうしたの」

 本人に聞くのが早い。詳しい説明を促すと、クレールは遠い目をして空を見上げた。

「ちょっと足を滑らせたら、たまたま川があっただけ。転んではいないよ」

「…………」

「…………へくち」

 何かやらかすような気はしていたから、その程度ならさして驚きもない。この話を聞いたみんなも「ああ、やっぱり」くらいしか感じないだろう。

「まあ、お風呂に入って着替えたほうがいいよ」

「そうする……」

 ふらふらと館の方に歩いていくクレールに俺も付き添う。棚に洗濯済みのタオルがあるから取ってこよう。

「あ、ひとつ訊きたいんだけど」

 さっきから少し気になっていること、思い出したので聞いておこう。クレールは王国法に詳しいから、きっと知ってるはず。

 タオルで髪の水気を拭いながら、クレールが首を傾げる。

「なーに?」

「王国法では、貴族を騙った時の刑罰についてどう決められてるの?」

 俺も今は領主だから、一応、貴族ってことになる。

 もしもその名を騙る人がいたら、どうなるのか。

「死刑」

 クレールの返事はあっさりしていた。

「……死刑か」

 今は領主が俺に変わったことの申請を出してその返事を待っているところだから、厳密には、まだ貴族ではないけれども。

 そうか、死刑か。

「貴族は大きな権限がある代わりに、果たすべき義務も大きいんだよ。だから、貴族を詐称するのは、義務を果たさないままにその利益の部分だけを掠め取ろうとする卑劣な犯罪である、とされているわけ。本人がそうと言わないで周りが勘違いしてるだけならセーフだけど、本人がそう言って何らかの利益を得ようとしたならアウト」

 なるほど。じゃあ、さっきのはアウトだ。

「誠実に生きてたら大丈夫だよ。あ、リオンの爵位は暫定だけど正当性あるから心配しないで。いざとなれば僕の爵位もあるし。それじゃ、お風呂行ってくるね……」

「ああ、うん。温まっておいで」

 クレールを見送って、少し黙考。

 もうしないと約束させた上で、騙し取ったものがあるなら謝罪して返還するように命じて、逃してやったけど。

 命が助かるかどうかは、本人次第か。



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陳情受付

 昼食を終えて、陳情の受付。

 広間の奥の方に豪華な椅子があって、そこに俺が座る。

 前の領主が置いた椅子はもっと豪華だったけど、知り合いの商人に頼んで交換してもらった。前の領主のは俺の趣味じゃない装飾が多かったし。その……全裸の女性の彫刻とか。やめてほしい。そういうのは。

 俺の左手側にはクレールが、右手側にはステラさんが立つ。二人を立たせて俺が座っているというのは心苦しいけど、領主はそういうものだとクレールに言われて、仕方なく。

 本当は、侯爵位を持ってるクレールの方が地位は上なんだけど。

 クレールはそのことを秘密にしている。みんなとの間に壁ができたら嫌だからと言っていた。なんとなく、わからないでもない。

 というようなことを思い出してしまうのは、暇だから。

「……誰も来ないね」

 クレールがあくびを噛み殺しながら、呟く。

 俺もちょうどあくびが出そうだったから、苦笑。

「一回休んだから今日は多いんじゃないかと思ってたけど。そろそろ急ぎの陳情はなくなったのかもね。椅子、座ったら?」

「そうするー。ステラも座ろう?」

 クレールに勧められて、ステラさんも着席。

「暇だから僕から陳情しようか」

 行儀悪く足をぶらぶらさせながら、クレールが言う。

「何かある?」

「僕はねぇー、川にちゃんとした堤防を整備した方がいいと思うなー」

「……検討に値する」

 ステラさんは頷いているけど、俺にはなんだか、クレールの私怨のように聞こえる。

「ステラは、何かある?」

 クレールが水を向けると、ステラさんは少しの間考えてから、ぽつり。

「ねこ喫茶……必要……」

 どうやら猫が放し飼いになっている飲食店のことをそういうらしい。俺は見たことがないけど、ステラさんはどこかの町で立ち寄って、ひどく感銘を受けたらしい。

「それは……面白いとは思うけど、領主の権限で進めるものではないような……」

 俺が言うと、クレールも頷いた。

「……そう……」

 ステラさんは残念そうに顔を伏せた。

「親方に相談してみたら、村の誰か、そういう店を始めたい人がいるかも」

「これからこの村も発展して人が増えると思うしね」

 そんな他愛ない話をしばらく続けても、陳情に来る人はいない。

「誰も来ないなら今日はもうおしまいかなー」

「特に不満がないってことなら、悪いことじゃないね」

「そう思う」

 と、今日の受付を終了しようとしたその時。

 

 ばたばたと、複数の足音が近付いてきた。

 かと思った次の瞬間。

 バーン! と、勢いよく扉が開け放たれた。

 何事かと視線を向けると……。

「陳情したいことがあるです!」

 ナタリーだった。その後ろには、ミリアちゃんとニーナも一緒だ。表情を見るにどうやら、ニーナは巻き込まれた様子。

「一体どうしたの。陳情って?」

 俺が訊ねると、ナタリーが元気よく手を挙げて発言。

「おにくが食べたいです!」

「にく」

 意表を突かれて、ついその単語を繰り返してしまった。

「大・賛・成っ! 普段のお魚も燻製肉もおいしいけど、ずっと続くと飽きちゃうよ! たまにはおにくにしようよー!」

 ナタリーとミリアちゃん、共同での陳情というわけだ。

 ただ料理に関しては、俺たちではなくニーナが責任者……っと、だから連れてこられたのか。

「……ということらしいけど、ニーナの意見はどうかな」

「やっぱりお魚が安いから……」

 なるほど。地理的な理由だ。元々この村は漁村だし、肉といえばまずは魚肉。

「他のお肉は、ニワトリと、ウサギかイノシシならたぶん、この村でも買えるけど」

 と、ニーナの妥協案。ニワトリはこの村でも飼育されているし、ウサギとイノシシは近くの森に生息しているから、それを狩っている人もいる。

「うし!」

「うしに決定です!」

「牛かあ……」

 ミリアちゃんとナタリーの希望は牛肉。

「隣町まで買い出しに行かないと無理かな。このあたりだと牛はあんまり手に入らないし」

「貴重な労働力だもんねー、牛」

 ニーナの指摘に、クレールが相槌を打つ。

 確かにこのあたりでは、燻製肉ならともかく、新鮮な牛肉はあまり食べる機会がない。

 牛は大きくて力強いから、畑を耕したり、荷を運んだりするのに利用されてる。育てるのも時間や餌がたくさん必要で大変だから、そう簡単に食肉にはできない。

 牛乳なら、このあたりでも牛を飼育してる人から分けてもらえるけど。

「僕は鶏肉が好きだなー。えっとねー、若鶏のお肉を使った焼き鳥がいいよ! 串に刺してさー」

 流れに逆らってクレールがそう主張したけど、みんな聞いていない。流れは完全に牛肉。

「まあ、隣町まで行けば買えるんだったら、行ってこようか。お金は大丈夫かな」

 ステラさんに意見を求めると、渋い顔をされた。

「財政的には軽微なため問題ない。しかし、私的な楽しみのためなら、自分の資産を使うのが適切」

 なるほど、確かにそうだ。そこを踏み越えると本当に悪徳領主になってしまう。

 自分の財産としては、魔獣討伐で稼いだのの他に、剣鬼を討伐した時に雷王都市から出た報奨金もかなりあるから、身の丈に合った暮らしをするのに困ることはない。牛肉を買うくらいは平気だ。丸々一頭分買っても余裕。買って食べきれるかはまた別の話になるけど。

「じゃあ俺の財布から出しておくよ」

「それが良い」

 さて、じゃあ、買う事自体は決まった。

「今から出ると遅いから、買いに行くのは明日にしよう。ニーナ、明日の朝から出られるように準備しておいてもらえる? 俺とニーナの分」

「あ、うん。わかった」

 どんなのでもいいなら適当に買ってこられるけど、そこはやっぱり、料理に使う本人が直接見たほうがいいと思う。

「他に何か買ってきて欲しいものは?」

「僕は特にないかな」

 隣町の市場ならクレールは昨日も見たから、まあそうなるか。

「特にない」

 クレールだけでなくステラさんもそう言うのは、日常で必要なもののうち保存が効くものなら、だいたい馴染みの商人が届けてくれるからでもある。

「おいしいものなら何でもお願いします!」

 ナタリーの明快かつ曖昧な要望に、俺は「ふむ」と苦笑。

 まあ、みんなにそれぞれ何かひとつずつくらい、お土産を買って帰ることにしておこう。

「それじゃー、今日の陳情受付はこれにてしゅーりょー!」

 クレールがガランガランとベルを鳴らして、陳情の時間は終わった。

 

       *

 

 今日の夕食にはマリアさんも間に合った。

 これで、今この館に住んでいる全員。俺も含めて七人だ。

 マリアさんはミリアちゃんと隣り合って、笑顔で食事を楽しんでいる。

 本当に仲のいい姉妹で、見ているこっちまで嬉しくなる。俺は兄弟がいなかったから、なおさらそう思うのかもしれない。

「なんだか、久しぶりに帰ってきた気がします」

 ふと、マリアさんがそう言った。

 それにうんうんと頷いたのはクレール。

「ここに住んでるって人がみんなそろったのは久しぶりだから、余計にそう感じるのかもね」

 確かに、俺とクレールはしばらく留守にしていたし、昨日はマリアさんがいなかった。七人での夕食は五日ぶりかな。……懐かしむほどの長い間ではないような。

 まあ、マリアさんが言いたいのは、やっと休める、という気持ちのことかもしれない。

 俺たちもまだここに来て長いわけではないけど、そうだなあ。

 帰ってきた、か。

 ここが自分の家、くつろげる場所だっていう気持ちが、そういえばちゃんとある。

 いいことだと思う。

「明日は俺とニーナで隣町に出かけるけど、夕食の準備には間に合うように戻るよ」

 俺がそう言うと、みんなそれぞれに了承の意を示した。

「ついにおにくが……あたしのおなかに入る日が……!」

 ナタリーが歓喜のためかふるふる震えていた。

「そんな、大袈裟な」

 と言いつつも、俺も久しぶりの牛肉は楽しみにしている。しかもそれをニーナが調理するのだから、美味しくないはずがない。期待が高まるのもわかる。

「一応、手をかけなくても食べられるものは用意していくつもり。朝とお昼はそれを、えっとー……ステラ、私がいない時は代わりに準備をお願いできる? 棚から出して並べるだけで済むようにしておくから」

 ニーナがステラさんにそう言うと、すぐに「わかった」との返事があった。

「そこはなんで僕じゃないのかなー?」

 不満げに言ったのはクレール。

「え……」

 と、ニーナもさすがに言葉に詰まる。

 なんでもなにも……ね。本人もわかってないはずはないと思うんだけど、汚名返上の機会を伺ってるのかな……?

「じゃあクレールはステラを手伝って食器の用意……は、だめだから……」

「だめってなに!?」

「えと……人には向き不向きがあると思うの。だから、あまり悩まないでね。みんなを食堂に呼び集める役がいいかな。それがいいよ」

 精一杯の笑顔で、ニーナがクレールに役目を割り振る。まあ、そのくらいならクレールも転んだりせずにこなすはず。

 クレールはやる気満々といった様子で、両手に握りこぶしを作ってみせた。

「わかった。僕、食器の用意をがんばる! やりとげてみせる!」

「やめてね?」

 即座にニーナから冷たい声が発せられて、

「……ハイ……」

 クレールは握りこぶしをそっと下ろした。

 

「あ、私からひとついいですか?」

 食事の終わりがけに、小さく手を挙げたのはマリアさん。

「村の人から聞いた噂なんですが、最近、街道の方にサーベルタイガーが出るということで、気を付けて欲しいそうです」

 サーベルタイガー。剣歯虎とも呼ばれる魔獣だ。このあたりの森の奥なんかに生息していて、人間の生活圏には滅多に出てこないんだけど、まれに街道付近まで出てくることがある。隊商を襲って積荷の食料を食い荒らす被害を時々聞く。刺激すると人にも襲いかかってくるので、注意が必要。

 俺にとっては、少し思い出深い相手でもある。

「号令をかけて、討伐隊を組織したほうがいいかな?」

「まだそこまでは言われていませんね」

「正式な要請もない。あれば陳情の時間に来たはず」

 俺の問いに、マリアさんとステラさんが続けて答えた。

 まだ様子見、ってところか。

「わかった。村に被害が及びそうなら俺たちで退治することになるかもしれないから、みんな気持ちの準備はしておいて」

 念のためそう注意喚起をして、今日の夕食は終わり。

 

       *

 

 翌朝は予定通り、早朝からの出発。

 見送りは、たまたま起きていたらでいいと言っておいたから、ちょうど来ていたのはステラさんだけ。

 今朝はかなり寒いから、俺も起きるのに少し気合が必要だったけど……。

 ステラさんは氷の魔術を得意にしているから、冷たいのやら寒いのやらには慣れているのかもしれない。

「気を付けて行ってくると良い」

 そういえば、わりと寒いのに、ステラさんの吐く息は白くないな……。



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荒水の町へ

 クレールと出かけたときにも使った馬車に、今日はニーナと二人。

 荷台にはニーナの他、村の人たちからついでにと頼まれた隣町への届け物が乗っている。これは行った先で全部下ろして、帰りは代わりに、買ったものを積むことになる。

 まあ……預かった荷物のせいでちょっと魚臭いのは確かだ。

「何だか、リオンとこうして出かけるのも久しぶりな気がする」

 荷台に座っていたニーナが、そう声をかけてくる。

「そうだね。最初のうちは俺とニーナの二人だけだった。それ以来かもね」

 故郷の村を滅ぼされた俺は、叔父さんを頼って雷王都市にたどり着いて、そこで、叔父さんたちの何でも屋を手伝うことになった。叔父さんは一人で十分だからというので、俺の役目はニーナのサポート。

 二人で迷い猫探しなんかをやったなあ。懐かしい。

「そんなに経たないうちに、ウェルースさんたちから魔獣討伐の手伝いを依頼されて、それからは誰かしら他にもいたような」

「そうだったね」

 その頃の雷王都市は剣鬼への警戒に多くの人員をあてていて、街道に出現した魔獣への対処が遅れがちになってたんだった。

 それで、街道で魔獣を見つけたウェルースさんとメルツァーさんが、自分たちで討伐してしまおうと考えて、その手伝いを探していた。

 俺とニーナは、二人が魔獣を追い込んだっていう遺跡に出向いて……。

 その時に戦った魔獣が、サーベルタイガー。

「……リオン」

「ああ、うん。……いるね。噂をすれば、だ」

 黄色と黒の入り混じった毛皮と、その名前の由来になっている長く鋭い二本の牙を持つ、虎の魔獣。

 隠れている。人を恐れているからじゃなくて、狩りをするためだ。

 俺やニーナは、そういう気配に敏感だから気付いたけど、村の人たちだったらやつに気付かずに襲われていたかもしれない。

 それにしても、完全にこっちを狙っている目つきなのは……魚を積んでるせいかな……。

「このままにしとくのは危ないな。ニーナは馬を頼むよ。あいつは俺が倒すから」

 手綱をニーナに手渡す。代わりに剣を取って、俺は馬車から飛び降りた。

 なるべく戦わないようにと思ってはいるけど……

 今回はちょっと、試したいことがある。

 サーベルタイガーとの距離はまだ遠い。一歩ずつ、近付いていく。

 向こうからは近付いてこない。でも、こちらを睨みつけたまま身を屈めていて、完全に戦闘態勢。

 こちらから突っ込むのは悪手。

 敵が仕掛けてくる時を見極めて、相手の勢いを利用して仕留める……後の先を取る。

 昔、サーベールタイガーと戦った時は、ただ闇雲に剣を叩きつけたけど。

 あの時とは違う。

 

 ふっ、と風が揺らいだ。

 

 一瞬で、俺の目の前にサーベルタイガーの牙が迫ってくる。

 食いつかれれば、今の俺でも無傷では済まない。

 でも。

「遅い」

 大きく開かれたサーベルタイガーの口に、俺は剣の切っ先を滑り込ませ、ねじ込んだ。

 相手の突進の勢いがそのまま、その喉をえぐる力になる。

 痛みに暴れ始める前に剣の柄から手を放し、代わりに手にした鞘で、魔獣の鼻先を殴打。

 これで決着。

 すぐに飛び退いてしまえば、返り血を浴びることもない。

「お見事」

 後方で見守っていたニーナが、小さく拍手。

「昔は苦労した相手だけど、今となってはなんてことないな」

 この前クレールと一緒の時に遭遇したヘビよりもさらに弱い。

 それがわかってるから、今回は俺が自分で倒した。

「成長したんだね。苦労したしね」

「……そうだね」

 ステラさんが言うには、魔獣を倒すと、魔獣が体内に貯めていた霊気(マナ)の一部を自分のものにできるらしい。それが積み重なった結果、歳や体格に似合わない力を出せるようになるそうで、それが今の俺……俺たちの状態なのだそうだ。

 俺の場合はその上、竜の血を浴びすぎて、竜気(オーラ)を取り込みすぎたってことだ。

 ただただ強くなりたいと思ってた頃は、そんなこと気にもしなかった。いや、むしろ、その方が強くなれると思ったから、悪竜退治にだって自分から首を突っ込んだ。

 以前は、強くなればなるだけ、平穏に過ごせるようになるものだと思ってたし。

 けど、そううまい話ばかりじゃないってことかな。

 竜に近付いてるっていう身体のことも、成り行きで領主になってしまったことも。

 強くなったせいで、俺が思ってもいなかった方向に進んでしまったり。

 ……自業自得って面が、全くないとは、言わないけど。

「リオン、どうかした? 具合でも悪い?」

 黙ってしまった俺を心配したのか、ニーナが声をかけてくれた。

「……ああ、ごめん。普段より少し早起きしたから、眠くなったかな。まあ、うん。大丈夫だよ」

 試したかったことは試せた。

 ……このくらいならまだ大丈夫。闘志を燃やさなくても勝てる。

 どこまで大丈夫か、なんて、本当はそんなこと考えずに安静にしてるべきなんだろうけど。

 この前のヘビも、今回のサーベルタイガーも、村の人たちにはまだ厳しい相手だと思うから、自警団がちゃんと機能するようになるまで、もう少し俺の出番もありそうだし。

 でもよく考えたら……。

 いざとなったら、たとえ自分が危険かもしれなくても、首を突っ込んじゃうかもしれないな。

 やっぱり近いうちに、みんなにも事情を話して、何か上手いやり方を考えないとな。

「……さ、先を急ごう」

 剣はもう、あの中にもう一度手を突っ込む気にはならないので、新しいのを買おう。



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おにく記念日

 俺たちが『隣町』と呼んでいるここ『荒水の町』は、神託の霊峰の南西に位置している。大陸を横断する天駆の街道の上にある町のひとつだ。

 名前の由来は、神託の霊峰からの雪解け水が毎年のように川から溢れてくるかららしい。

 そういう話を聞くと、昨日クレールが提案した堤防の整備も案外、重要度の高い案件かもしれないと思ったりする。

 早朝に出たおかげで、この町に着いたのはまだ午前中。少しだけど予定より早く着いた。

 その分で何かやりたいことがあれば、とニーナに提案してみたけど。

「それなら食材を見極める時間にあてたいな」

 と言われてしまったので、肉屋に直行。

 ニーナを肉屋の前で降ろして、俺は村の人から頼まれた配達。

 終わって戻る頃には、ニーナは「これ! これにしよう!」と推すほどの牛肉を見付けていた。……丸々一頭分のように見える。買えるけどね。食べきれるのかな、これ。

 そんな感じで。

 ついでの配達も、主な目的だった牛肉の購入も、みんなへのおみやげ選びも、滞りなく済んだ。

 少し買いすぎたかな、と思ったけど、金額は大したことはない。むしろ、こんなに安かったかと思ったくらいだ。

 よくよく考えてみると、強敵と戦っていた頃には買い物っていうと、魔剣、魔導器、霊薬というような、普通の人が手を出さない稀少で高価なものが多かった。

 最近は前の領主が館に貯め込んでいた財産を村の復興の財源にするために、商人とずいぶんやりとりをして。それもやっぱり、高価なものばかり。

 それと比べたら、そりゃあ、安く感じるのも無理はないだろう……と、ひとり納得。

 

 帰りの馬車ではニーナと思い出話。

 一緒に危険に立ち向かったのは、もちろんその時は大変だったけど、終わってしまった今はいい思い出だ。

 思い返すと、ニーナにはずっと助けられてるな。

 強敵との戦いが激化した頃には、ニーナを危険から遠ざけていたこともあったけど、その時には温かくて美味しい料理でサポートしてくれた。

 それに助けられたのはたぶん、俺だけじゃなくて、みんなもそうだと思う。

 そのせいで、ナタリーあたりからは「みんなのお母さん」なんて言われてて、本人は少し複雑そうだけど。

 ふと気付くと、ニーナは荷台で寝息を立てていた。

 いつもお疲れさま。

 

       *

 

 館に帰り着くと、俺たちの帰りを今か今かと待ちわびていたであろうナタリーが、盛大にラッパを吹き鳴らして大歓迎してくれた。大袈裟な。

「やったー! おくにだー!」

 歓迎のラッパの音を聞きつけて、ミリアちゃんも満面の笑みで館から飛び出してきた。大袈裟……とは思うけど、二人が馬車の周りを踊りながらくるくる回っているのはちょっと面白い。

 やがてラッパはミリアちゃんの手に渡り、騒がしい演奏が続く。

「特級たのしみです!」

 ちょっと心配になるくらい大喜びの二人に少し遅れて、クレールとステラさんも様子を見にやって来た。

 みんなが驚いたのは、買ってきた肉の大きさ。

「うわあ、結構大きいね。一頭分かー。こんなに買ってくるとは思わなかったよ」

 荷台を覗き込んで、クレールが呟いた。

「すぐ食べきれない分は燻製にしようかなって。自分で作れば燻製肉も好みの味付けにできるし、飽きない工夫になるはずだから。塩の濃淡だけでも結構印象が変わると思うよ」

「そっかー、それは楽しみだね」

「……楽しみ」

 みんなの反応も上々。わざわざ行って買ってきた甲斐はあったかな。

 俺とニーナは顔を見合わせて笑った。

「さーて。思ってたより早く帰ってこられたし、準備の時間も十分にあるから、今夜はこのお肉をー……」

 荷台に立ったニーナはみんなからの視線を受けながら、少し言葉を止めて。

「このおにくをー……?」

 焦らして、焦らして……。

 

「――焼いちゃいます!」

 

「わー!」

 主にナタリーとミリアちゃんあたりから歓声。そして拍手。

「裏庭の調理炉を使うから、ミリアちゃんとナタリーは倉庫から鉄板を出して来てくれる? リオンは荷物を運び込むのを手伝って。お肉は、すぐ使わない分は貯蔵庫に入れないとだし」

 ああ、裏庭の調理炉。あれを使うのか。

 俺の故郷では時々、広場の共用調理炉に村の人たちが食材を持ち寄って、どんどん焼いてどんどん食べる、っていう集まりがあった。

 という話をしたら、雨の日が多い雷王都市出身のニーナには屋外で調理する習慣はなかったみたいで、妙に食いついてきた。

 だから、調理炉もいつか使うかもしれないと思って、記憶を頼りに耐火煉瓦を組んで作っておいたんだった。ついに活躍する時が来たのか。

「今夜全部食べちゃうですよ!」

「食べちゃうぞー!」

「それはだーめ」

 ナタリーとミリアちゃんの宣言には、ニーナからすぐにダメ出し。

「僕は何を手伝おう。お皿取ってこようか!」

「やめてね?」

 即座に却下されて、クレールは「ぐぬぬ」とうなだれた。

「食器の用意はステラに任せるね」

「了承した」

「クレールは炉の近くまで薪を運んでおいて。その後は椅子と、小さめのテーブルもお願いね」

 ああ、ちょっと落としたくらいじゃ壊れないやつね……。

 賢明な判断だと思う。クレールはちょっと不満そうだけど。

 そうこうしているうちに、ナタリーとミリアちゃんはすでに鉄板を運び出してきていた。

 二人で力を合わせて鉄板を運ぶ、その歩みに合わせて、

「お・に・く!」

「お・に・く!」

 という掛け声。

「あたしは今日この日をおにく記念日にして、一生忘れることはないです! たぶん!」

 言いながら二人は裏庭の方へと消えていった。

 でも、姿が見えなくなっても「お・に・く!」という掛け声だけは聞こえてくる。

「ほとんどお祭りだな……」

 言うと、ニーナも「あはは」と笑った。

 

       *

 

 日が落ちてから裏庭に出て、調理炉のそばで夕食。

 外だからもちろん寒さはあるけど、これだけ火が燃えていれば、汗ばむくらいだ。

 熱々の鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てながら肉が焼けていくのをみんなで見守って、焼けたものからどんどん食べていく。

 あたりにはたくさんの煙とともに、香ばしい、いい匂いも漂っている。

 鉄板の上では一緒に野菜や茸も焼かれていて、ステラさんとマリアさんはそちらを中心に食べているみたいだ。けど、ナタリーとミリアちゃんの狙いはやはり肉。全部食べるという宣言通り、かなりの勢いで食べ進んでいる。クレールは肉と野菜のどっちもバランス良く食べてるな。

 俺とニーナは今のところ、焼く係。まあ食材はたっぷりあるから、これがなくなるってこともないだろう。多分。

 肉への味付けはシンプルに塩だけという以外にも、かなり値が張るけど奮発して用意した胡椒、それにニーナ特製のタレもある。

 俺はこのタレで食べるのが好みかな。もう少し焼いたら俺も食べよう。

「あ、そういえばリオン、もしかしてサーベルタイガーを倒さなかった?」

 食べるのを一休みしてお茶を飲んでいたクレールが、ふと思い出したようにそう訊ねてきた。

「ああ、俺が倒したよ。行く時に襲いかかってきたから」

「やっぱりリオンのしわざかー。倒されたサーベルタイガーがそのまま落ちてたから、村のみんなで運んできたんだって。一撃で仕留められてて状態が良いから、皮とか牙とか、結構高く売れるらしいよ」

 なるほど。言われて思い返してみると、帰りには消えてたな。

 厳密に言うと一撃で倒したわけではなかったけど、細かいことはいいや。大差ない。

 でもそうか。村の人たちの中には、魔獣でもちゃんと解体できる人がいるのか。

 だったら、倒したのを無駄にしないで済むようにできるかもなあ。

「そういうので装飾品とか作るのはどうだろう。村の特産品にならないかな」

「うーん。魔獣から採れる素材を原料にすると、安定的な生産はできないと思うなあ。臨時収入的にやるのは、いい考えだと思うけどねー」

 それもそうか。

 やっぱり、村の人たちの暮らしを良くするには、まず道の整備、それと港かなあ。

 地道にやるしかないってことだよな。



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ステラと本

 相変わらず、村の域内で魔獣を目撃したっていう報告は続いている。

 このあたりは大きな街から離れているから、街道警備隊による討伐が行き届かないんだろう。

 とはいえ、さほど強い魔獣は出ていなくて、俺たちの中で手の空いてる誰かが行って退治してくる、というので今のところは間に合ってる。

 余裕があるときは、村の自警団の人たちを連れて行って援護……の練習をしてもらったり、本当に大したことない相手の時は実際に戦ってみてもらったりもしている。

 今は村の人たちも十分にやる気があるから、この調子なら、もうしばらくしたら大部分を任せられるようになるはず。

 それに、こんなに頻繁に魔獣が出るなら、魔獣から採れる素材を使った品物も結構な数を作れそうな感じだ。もっと安定した収入源を確保するまでのつなぎとしてなら、悪くないと思う。

 そんな感じの日々に、俺もわりと穏やかに過ごすことができている。

 溜めすぎた竜気(オーラ)が完全になくなるまで、あとどのくらいかかるのかはわからないけど、この感じならうまくやっていけそう。

 そんな気がする。

 

       *

 

 ある日の昼。

 外で一仕事終えて戻ってくると、執務室に近い小ホールのテーブルに、ステラさんがいた。

 パッと見ただけでも小難しそうな本を、一心不乱という感じで読み込んでいる。

 書庫に続く小階段のすぐ前にあるのがこの小ホールだ。今ステラさんが読んでいるのはたぶん、書庫から持ち出してきた本だろう。

 邪魔しない方がいいかな、とも思ったけど、ステラさんの方が俺に気付いて「おかえり」と言ったから、俺も挨拶。

「ステラさん。今日は読書を?」

「……魔術書」

 ステラさんが少し見せてくれたけど、正直よくわからない。

「分厚い本だな……」

 俺がすぐに言えたのはそのくらいだ。見たまま。

「書庫にあった。珍しい本」

「そうなんですか」

 使われているのは古王国語みたいだ。文字の形は今の言葉とほとんど同じだけど、そのつもりで読んでも意味がわからないから、たぶんそうなんだろう。

 ステラさんは古王国語も読み書きできるし、何なら喋ることもできるらしい。

 魔法のことをちゃんと勉強しようと思うと、古王国語は必須なんだと、前に言っていた。

 見るからに古い本だけど、装丁はしっかりしている。ただ文字が書かれているだけじゃなくて、各ページごとに多くの図表と色とが使われていて、表紙や背表紙も豪華。

 俗なことを言うと、これは相当高い本だと思う。

「書庫の本はどれも珍しいものだった。だが、並べ方に何の意図も感じられなかった。前の領主はおそらく、金銭的な価値のみで本を購入していたものと推測される」

 なるほど。前の領主も俺と同じ程度の頭だったみたいだ。性根は俺の方がマシだと思いたい。

「目録を作って並べ替えているところ」

 ステラさんはそう言って、本に視線を戻した。

 書庫のことはステラさんに任せているので、俺は詳しいことはよくわからない。たぶん自分で活用することはほとんどないだろうし。

 それにしても……。

「でもそこで本を読んでいるということは、並べ替えてないですよね?」

 そこのところを指摘すると、ステラさんの動きが止まった。

「…………」

「…………」

 大掃除で昔のものが出てくると懐かしくなって手が止まっちゃうアレみたいなものかな。だとしたら、よくあることだと思う。

 ニーナあたりならそのへんはうまく制御しそうだけど、クレールだと無理だろうなあ。

 とはいえ、俺の勝手な想像だから実際には違うかもしれない、ということを一応、クレールの名誉のために付け加えておく。

「……内容をよく確認しなければ、正しい並べ替えはできない」

「なるほど」

「必要なこと」

 もっともらしいことを言って、ステラさんは頷いた。

 まあそれも嘘ではなくて、理由のひとつではあるんだろう。

「ところで、魔術や法術って俺はあまり得意じゃないですけど、本を読めば上手くなるものなんですか?」

 簡単な法術なら一応、習ったら使えるようになったけど……正直俺は、『魔法』がどういう基準で『魔術』と『法術』に分けられてるのかも良く知らない。

 敵を攻撃するのが魔術で、人を癒やすのが法術、という感じに考えてたけど、例外もあるみたいでややこしい。

「理論を知れば応用が利くようになる。あなたには最低限の素養はある。基礎理論を修めれば、術法の効果の向上が見込める」

 ふむ。そういうことなら、ちゃんと学び直すのもいいかもしれない。今はほとんど見よう見まねでやってるし。

 ステラさんが言葉を続ける。

「突き詰めれば、偉大な先人がしたように、新しい術法を創ることもできる」

「それはすごいですね」

 術法を創る、か。そういえば、クレールのお父さんが、そういうのやってた気がするな。

 俺は主に、それに苦しめられた方だけど。

「……もしかして、ステラさんもできるんですか?」

 訊くとステラさんは小さく頷いた。

「簡単なものなら」

「すごいな。そんなに詳しいなんて」

 ステラさんはほんの少しだけ、本当にかすかに、口の端を上げて得意げな顔をした。よく見てないと気付かない程度だけど。

 実際にどのくらい詳しければできるのかは知らない。でも、少なくとも俺より詳しいだろうってことだけはわかる。

 それにしても、歴史に名を残すような術士でないとできないのかと思ったけど、意外と身近にいるんだな……と考えて。

 ステラさんがまさに、歴史に名を残すほどの術士だったことを思い出した。

 見た感じは、年相応の……普通の女の子なんだけどな。

「けれど、わざわざ手間をかけて作る必要もない。既存の術法が十分有用」

「そうなんですか」

「術法はすでに二千年近い研鑽の上で今の形態になっている。一朝一夕の思いつきでは覆すことはできない」

「なるほど」

 言われてみれば頷ける話。

 長い時間を経て今の形になってるんなら、そうなる理由があったんだろうし。そこをちゃんと理解せずに変えても今より悪い形にしかならない、か。

 そう考えると、やっぱり俺には難しそうだ。

「師匠は術法の原理への理解も深く、多くの理論書を著している。いずれは師匠を超えたい。今は勉強」

「熱心ですね」

 目標とする人がいて、才能があって、しかも、努力を怠らない。

 上達して当然だし、もう少し時間を経れば、きっとかなりの高みへ上り詰める人だと思う。

 ……いつまでもここの手伝いに引き留めるわけにはいかないかもしれないな。

 もしステラさんがまた修行の旅に出るというなら、その時は応援したいと思う。

 いつそうなってもいいように、こっちも頑張らないとな。

「しかし、法術に関しては難しい。素養が無いのも確か。でも、好敵手が強い」

 好敵手。つまり競い合っている相手ということ。

 ステラさんと同等かそれ以上に魔法が得意な子と言えば……ああ。

「ミリアちゃんですか」

 俺が名前を口にすると、ステラさんは頷いて返した。

「天才。きっと歴史に名を残す」

 さっき俺がステラさんに思ったのとほとんど同じ評価だ。

 つまり、ステラさんもミリアちゃんのことをかなり高く評価しているということ。ステラさんのことだから、明確な根拠もあるんだろう。そこは、俺が聞いてもわからないかもしれないけど。

「ミリアちゃんはミリアちゃんで、ステラさんのことを尊敬していると言ってましたよ」

「……切磋琢磨」

「そうですね」

「頑張らなければいけない」

 なるほど、いかにも好敵手。

 二人はまだまだこれから、もっと力を付けていくだろう。

 俺も応援しよう。



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ミリアと書庫

 一日の終わりに日記を付けていると、部屋の戸がノックされた。

 ……誰だろう?

 今夜はクレールは来ていない。いつも俺の部屋にいるわけじゃない。十日に一度くらいだ。

 だから、もしかしたらクレールかな、と思ったけど。

「あれ、ミリアちゃん? どうしたのこんな夜更けに」

 廊下にいたのはミリアちゃんだった。大きな本を一冊、胸に抱えている。

「お兄ちゃん。困ったことになったの」

「困ったこと?」

 わざわざ助けを求めてくるくらいだ。よほどのことだろう。

 ミリアちゃんに続きを促す。

「さっきまで本を読んでて……」

「うん」

「読み終わったから続きを読みたいと思って書庫に行ったら……」

「うん……」

 と頷いてから、ふと思い出した。

「そこは、もうこんな時間なんだから、寝ることにしてほしかったな」

 たぶん、ミリアちゃんと同室のマリアさんもそう言うと思うけど……。

 そういえばマリアさんは今夜も魔女の店から帰ってないんだった。

 それで夜更かしを止める人がいなかったのか。

「そしたら! 続きがなかったの!」

 俺の小言を遮るように、ミリアちゃんは自分の困りごとを言い切った。

 読んでいた本の続きが見当たらない。

 なるほど。

「……そこまでで終わりの本じゃなかったの?」

「上巻を読んで、次に中巻を読んだの。下巻がないはずないでしょ?」

 それは、確かに。

 これが上下巻だったら、多少納得のいかない終わり方だとしてもきっとそこで終わりだろうけど。

 ……いや、うーん。

 もしかして『下巻の二』とか『完結巻』とか『続の上巻』とかに続いたりする?

 滅多にないと思う。……たぶん。

 話が逸れた。今回は上巻と中巻の次の話。当然、下巻があるだろう。

「書庫の本棚わかりにくいっ!」

 ミリアちゃんが不満を口にした。

 ステラさんも言ってたな。本棚の本は、前の領主が適当に突っ込んだだけみたいだって。

「いま、ステラさんが並べ替えをしてくれてるはずだけど……まだ全部はできてないのか」

 ロビーに持ち出してまで一冊を熱心に読んでたしなあ。

 ずっとあんな感じなら、あまり進んでなかったとしても頷ける。

 いつまでにと決めた仕事じゃないから、そこは別にいいんだけど。

「でも、下巻もきっとどこかにあると思うの。お兄ちゃんも探して?」

 なるほど。単純に人手が多い方がいいって程度の話だ。俺のところに来たのも深い意味があったわけじゃなくて、起きてる人だったら誰でも良かったんだろう。

 うん。他の子を叩き起こしてでもというほどの事件じゃないな。

「……仕方ないな。ミリアちゃんが早く寝られるように手伝おうか」

 俺が断ると他の誰かが寝てるところを起こされるかもしれないし、まあ、仕方ない。

「やったー! ありがとう、お兄ちゃん」

 まだ見付かってもいないのに、俺が手伝うというだけでこの感謝。

 それはそうか。二人いれば探す速度は二倍。書庫は本が多いといっても、きっとすぐ見付かるだろう。

「それで、どんな本?」

「これ!」

 差し出された本は分厚くて、なるほど、分冊になるのもわかる。無理矢理一冊にまとめたら作る方も読む方も難儀するだろう。

 さて、ミリアちゃんが夢中になっているという、その本の題名は。

「えーっと……『法術文化史詳論・中巻』……」

 ……うん。

「探してるのはそれの下巻なの!」

 …………うん。

 表紙を見ただけで「俺だったら手に取らないだろうな」「開いてみてもさっぱりわからないだろうな」という感じがびりびり伝わってくる。

「面白いの? 読みたくて夜更かしするくらい?」

 一応、訊ねてみる。

「うん。お兄ちゃんも読む?」

 軽ーい感じで勧められたけど、うーん。

 もしその……法術文化史とやらに興味があったとしても、いきなりここから読む段階の本ではない気がする。もっとこう……『猫でもわかるかんたん法術文化史』みたいな本から始めないと。

 だよな……?

「……そのうち機会があればね」

「そっかー」

 たぶん読まないよ、というニュアンスもどうやら過不足なく伝わったようで、ミリアちゃんは少しがっかりした様子だった。

 

 それぞれにランタンを持って、二人で書庫へ。

 ここは本の劣化を防ぐ目的で地下に造られていて、窓もなく暗い。

 夜の静けさも相まって、なるほど、一人で来たら結構不気味に感じるかもしれない。

 壁の燭台に火を入れて部屋を明るくしたら、二人ならそこまで心細くもないけど。

 本棚には多くの本が並べられている。入り口に近い一部は、ステラさんによって整頓された形跡があるな。テーブルの方には並べ替えている途中の本の山。確かにこれは大変そうだ。

 ただ並べ替えるだけでも大変なのに、それぞれの本の内容から、関連性のあるものを同じ棚に……とやっていたら、いつまでかかるやら。ステラさんはやる気みたいだから、頑張って欲しいけど。

 それにしても。

「難しそうな本ばかりだな……」

 正直、俺にはよくわからない本が多すぎる。まず、題名が古王国語な時点で無理。題名が読めるものもそこそこあるけど、読めるというだけで、理解はできないものもある。

 それにしても、よくもまあこんなに集めたものだ。

 これが前の領主の課した重税によるものでなければ、もっと良かったんだけど。

 一応、この蔵書も相応の値段で現金化する案はあった。

 真っ先に反対したのはステラさん。今後、村の人たちにも多くの知識が必要になるときが来るから、その時のために残しておくべきだって。

 もっともな意見だと思ったから、書庫の本のほとんどはそのまま残されている。

 村の人たちのために、この本をしっかり活用していけるようにしないといけないな。

 ちなみに……教育によろしくない本もそこそこあるらしい。知り合いの商人にお願いして、そういうのを専門に集めているという図書館にそれなりの金額で買い取ってもらえるよう交渉中。

 今のところは、ミリアちゃんの手が届かない一番上に仮置きされている。

 俺も興味がないわけじゃないけど、一応、領主として品行方正であろうと心掛けているから、読む機会は多分今後もないだろう。

 ……でも、村の人たちからはもう、複数の女性を囲っている好色男扱いらしいから納得がいかない。最近では、誰が正妻になるかの賭けまで行われているらしい。うう。

「お兄ちゃんは本を読むのは嫌い?」

 ミリアちゃんがそんなことを訊ねてきたから、慌てて意識を戻した。

 そう思われたのは、難しい顔をしていたからかな。心配事は別のことだけどね……。

 さてそれで、ミリアちゃんからの質問の件だ。

「あんまり習慣はないかな……故郷は農村で、本なんかほとんどなかったし。両親が教えてくれたから読み書きは不自由なくできるけど、そのくらい」

「そっかー。面白いのになー」

 ミリアちゃんは残念そうな顔。

「面白くて、その……読みやすそうな本なら、俺も読んでみたいけどね」

「そう? それじゃあねー、どれがいっかなー」

 まず読める文字で書かれていないと、内容がどうとかという以前の問題。両親は古王国語の読み書きは教えてくれなかったしなあ。たぶんそもそも、二人とも読めなかったんだと思うけど。

「んっんー……じゃあこれ!」

 ミリアちゃんが本棚から一冊の本を取り出して、その表紙を見せてくれた。

「……『上級法術の展開と維持』……」

 これは……ミリアちゃんが雷王都市に住んでた頃、その部屋で見たことがある気がする。あれから一年くらい経つけど、その間の成長を考慮しても、読めるようになった気はしないな……。

「気に入らない? こっちは?」

「えーっと……『術法回路構築基礎概論』……」

 この本、基礎とか概論とかってある以上は、きっと初歩的なことが書いてあるんだろう。

 ……でも、全く読める気がしない。

 ミリアちゃんにとっては精一杯簡単な本を選んだのかもしれないけど。

「お兄ちゃんは好き嫌いが多いなー。これはどうかなっ?」

 次のもきっと俺には難しすぎる本が……と思いながら確認。

 うん。題名が古王国語だから読めない。

「これは?」

「えっとねー、『魔剣を作ろう・第一巻』だよ」

「……ああ、それは面白そうかな」

 そんなに厚みもないし、魔剣についての本なら興味はある。古王国語が読めるんだったら、ちょっと読んでみたかったかも。

 せっかくだし、読み書きから勉強するのもありかなあ。

「付録の素材がないから魔剣は作れないけど、作り方はわかるよ!」

 おっと。ミリアちゃんが重要な情報をくれた。

 何か架空の物語かなと思ってたけど、どうやら実用書らしい。

 付録がないから作れないけど、作り方はわかる。

 逆に言うと。

「素材さえどうにか調達できれば、魔剣が作れてしまうのか」

 魔剣は貴重なもので、いま出回っている少数の魔剣は、主に古王国時代に作られたもの。美術品としても、実用品としても価値がある。値段も、もちろん相応に高い。

 作れるっていうんだったら、この村の産業にできないかな。

 そう思っていると、ミリアちゃんは渋い顔をした。

「それは、うーん……」

「うん?」

 何か言いたそうにしているので、続きを促すと……。

「全百巻の付録が全部ないと魔剣は作れないの」

「百巻」

 思わず繰り返してしまった。

 古王国では今より紙が安価で、本が多かったとは聞いてるけど、さすがに……。

 そんなに厚みもないと思ったけど、全部揃えるとこの百倍ってことなら、話が別。

 ミリアちゃんが探してる『法術文化史詳論』を上中下巻併せたよりさらに分厚くなってしまう。

「でも読み物として面白いよ!」

 せっかく興味を持った俺のために、ミリアちゃんがフォローをするけども。

「そうなのかー……百巻かー……」

 さすがに厳しいな、百巻は。

 

 探していた本はすぐに見付かった。

 少し高いところにあったせいで、ミリアちゃんからは見えなかったらしい。

「今度からは上の方もちゃんと探すね!」

 ミリアちゃんがそう言っていたので、教育に良くない本は別の場所に移した方がいいかもしれないな。



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魔包丁をつくろう

 明けて、翌日。

 書庫でこんなことがあった、とステラさんに話したところ。

「作れる」

「えっ」

「作れる、と言った」

 意外な返答があった。

「付録とされた素材のリストを作ってみたが、多くの素材が現代にも存在するもので代用可能」

「そうなんですか」

 リストを作ったってことは、百巻分を読んだのか。そもそもちゃんと揃ってたのか。前の領主もよく揃えたな、それ。

 でもそういえば、ミリアちゃんもきっと全部読んだから俺に勧めてくれたんだよな……。本好きってすごいな。

「これがそう」

 ステラさんは、持ち歩いている鞄から雑記帳を取り出して見せてくれた。

 そこには確かに、百巻分の素材が列挙されている。

 すでに古王国語での記述からステラさんを通して現代語に書き換えてあるので、そうしてみると確かに、見知った材料が多い。

「いくつか、入手が困難なもの、入手不可能なものがある。だから、それに合わせて途中の手順をいくつか変更する。それにより、作ること自体は可能になる」

 印がつけてあるものがそうかな。熱核滅珠とか、物騒なものもあるな……。

「威力はさほど強いものにはならないが、この本の内容自体が元々、魔剣技を有する銘入りを作れる理論ではない。古王国の術士たちの趣味のための本」

 ステラさんにとっては、それでも銘入りの魔剣に至る理論のひとつとして「非常に興味深い」とのことなので、作れるというなら、一度試してみるのも悪くないな。

「特性としては、普通の武器と比べると?」

「壊れにくくなる。威力が高まる。霊気(マナ)感知で見分けられる。そんなところ」

 伝承武具(レジェンダリーアーム)ほどの不壊性まではいかないか、さすがに。

 そうなると、俺と俺の仲間たちの間では、武器としての有用性はあんまりないかな。みんなもっと質の高いのを持っていると思う。

 かといって、この材料のリストから考えると、自警団の人たちに行き渡らせるほどの数が作れるとは思えない。

 それ以外だと……。

「例えばですけど、その本のやり方で包丁を作ることはできそうですか?」

「……魔包丁」

 俺の質問に、ステラさんが呟いた。

 そうか。形状が剣じゃなくて包丁なら、魔包丁だ。

「日用品への付与……興味深い。良いと思う」

 ステラさんも乗り気のようだから、ともかく一度やってみよう、ということになった。

 

       *

 

「……というわけで、材料集めをすることにしたんだ。基本的には俺がやるけど、手が空いてる人には手伝いをお願いするかも」

 夕食の席で魔剣制作計画について話すと、みんなも興味を惹かれたようだ。

「僕も手伝うよ!」

 真っ先に賛同の意を示してくれたのはクレール。両手に握りこぶしでそう宣言した。

 手伝ってくれるのはありがたい。その意思を真っ先に表明してくれたのも。

 でも、気になることもある……。

 ……クレールに熱核滅珠とか持たせたら危ない気がする。

「どういう意味?」

 おっと……。うっかり口に出ていたのを聞きつけられたか。

 クレールは握ったままの拳に力を込めて振るわせつつ、不信感を湛えた目で俺を見ている……。

「……クレールが怪我したら嫌だなって」

 まあ、嘘じゃない。熱核滅珠が危ない代物なのは確かだ。普通に持ち歩いてる程度で爆発してしまうことはないはずだけど。少なくとも俺にはその経験がない。あったらここにはいなかったかもしれない。そのくらいの威力があるってのは知ってる。

「んふ。そっかー。そういうことならいいけどねー。僕、てっきり……」

「転ぶ」

 クレールが自分で言おうとしていたのを遮ってまで、ステラさんがその言葉を被せた。

「いつも転ぶ人扱いしないでよね!」

 クレールは俺に振り下ろされるかもしれなかった拳をステラさんに向けて振り回したけど、テーブルを挟んでいるから届かない。

 こういう反応が予想できたから、俺は言わなかった。思ってはいても。

 まあ俺の記憶でも実際、クレールってそんなに頻繁に転ぶわけじゃない。たまたま、みんなの印象に残るような転び方をするだけだ。

「あたしも、近所で拾ってくれば済むものならお手伝いするですよ!」

 そう言ってナタリーが元気よく手を挙げた。

 続けて、マリアさんも手を挙げる。

「薬草類なら、お店がお休みの時にはお手伝いできると思います」

 マリアさんは薬草の専門家だし、ナタリーはもう、俺たちの中では一番、このあたりの地形に詳しい。必要な材料には薬草の類いもあったはずだから、二人が手伝ってくれれば確かに、拾ってくれば済むものも結構ありそう。

「あたしも手伝うよ! えっとー……何かで!」

 ミリアちゃんも……うん、何かで手伝ってくれそう。

「私は……直接はあんまり手伝えることないかもしれないけど、出かけるときには言っといてくれれば、お弁当作るからね」

 ニーナは控えめにそう言ったけど、ニーナが普段からやっている館の管理が一番大変な仕事のような気がする。

「ありがとう、助かるよ」

 とりあえず、みんな賛同はしてくれた。もしかすると『男のロマン』みたいなものかも、と思っていたから、賛同をもらえたのは素直に嬉しい。

「……意外」

 ステラさんがそう呟いたので、みんなが注目。

「むむっ、僕が手伝うのがそんなに意外?」

 さっきのことを根に持っているのか、クレールがそう突っかかった。冗談で言ってるのはすぐにわかるけど。

「そうではない」

 それに対して、ステラさんは律儀に否定の返事をした。

「こうした作業は『術士の道楽』であって、他の人たちには理解されないものと思っていた。なので、意外」

 ああ、俺が思ってたのとまさに同じことだ。

「えー。だって、魔剣って何かかっこいいじゃない?」

 クレールがそう言うと、ナタリーとミリアちゃんがうんうんと頷いた。

 三人に共通してるのは、ちょっと子供っぽいところがあるってところかな。

 ……一人、実年齢ではまったくそんなことはない子が混じってるけど。

「でも、ほんとに包丁でいいの? みんなで作るんだったら、誰でも使えるような、ナイフとかの方がいいんじゃない?」

 ニーナの指摘。包丁として作ると、ここではほとんどニーナ専用だから、少し気が咎めているのかもしれない。

 ただ、そこのところは俺の中では結論済み。

「短剣なら、他にもっといいのがあるから。でも包丁は、古王国遺産でも魔剣化したのは見たことない。あれば便利だと思うんだけど」

「私もそう思う。日用品はもっと便利になるべき。魔法を戦いのためだけに使うのは心の貧しさだと思う」

 俺の説明に、ステラさんも持論を乗せた。

「確かに、短剣はあたしも他にいいのを持ってるです!」

 ナタリーは特に短剣を得意としているだけあって、かなりいいものを持っていたはず。多分、不壊性のある伝承武具(レジェンダリーアーム)のどれかだったと思うけど、どれだったかな。メルツァーさんが持ってるのがディフェンダーで、ナタリーのがフリーダムだったかな? ……まあ、今はそれはいい。

「それでニーナの料理が今よりもっと美味しくなるなら、それはみんなのためにもなるし」

「そうですね。いいことだと思いますよ」

「あたしもそう思うなっ!」

 マリアさんとミリアちゃんからも賛成の声。

「そう……なのかな?」

「魔包丁でどんな料理ができるのか、楽しみだなー」

 クレールもそう言ったから、今回の魔剣化を包丁に施すことについて、ニーナ以外はみんな納得してるってことになった。

「それなら……うん。その包丁でおいしい料理を作って、お礼するね」

 ニーナも納得してくれたから、これで全員。

「決まりだねー。僕もその美味しい料理を食べるのをがんばるよ!」

「そこはあたしがやるから、クレールは引っ込んでるがいいですよ!」

「えーっ!」

 ……まあ、これでひと安心というところではある……はず。

「具体的にどの包丁を魔剣化するかは、ニーナが決めることになる。これまで使っていたものを魔剣化しても良いし、新たにあつらえても良いと思う」

 ステラさんが、ニーナに具体的な提案をした。

「それは、いつまでに決めたらいい?」

「形状に応じて魔法回路を微調整する必要がある。今日明日というほどではないが早い方が良い。特に、新たにあつらえる場合は、刃物職人にも話をしなければならないため、五日のうちに方針だけでも決めてもらいたい」

「ん、わかった。少し考えるね」

 新しく作るとしたら、うーん。

 村の鍛冶屋に頼むか、それとも、刃物で有名な街から取り寄せるか、いっそその街まで見に行くか……? 確か、神託の霊峰よりも北の方に、刃物で有名な街があったはず。どのくらいの距離があるのかな。

 ニーナがどうするか決めたら、その辺も話し合わないとな。

「材料以外の、魔法的なことはステラさんが担当ということで」

「了解している」

 そんな感じで、魔包丁を作る計画が始まった。



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マンドラゴラ

 今日は朝から出発して、村に近い森で、魔剣の材料になる植物の採集。

 村で使う木材は昔からこの森で切り出していたそうで、それを通すための道がある。昼間に通る分には強い魔獣も出ないと聞いてる。街道のように舗装されたものではないけど、薬草採りで通るには十分な道だ。

 俺と一緒に来ているのは、ナタリーとマリアさん。三人でここまで歩いて来た。

 さすがに森に入るのにサンダルってわけにもいかない。かといって、未開の地に分け入るほどの重装備も要らない……。というわけで、ちょっとした野外活動に支障がない程度の準備。水を入れた革袋なんかの、ちょっと重い荷物は俺が背負っている。大したことはないけどね。

 マリアさんはなかなか休みを取れないんじゃないかと思っていたけど、魔女の『おばさま』に言ったら、すぐに休みを作ってもらえたそうだ。

「私があんまり働き過ぎだから、そろそろ無理矢理にでも休みを取らせないと、と思ってらしたみたいで……」

 とは、マリアさんの言葉。

「私、そんなに働いてましたか?」

「あたしよりずっと働いてたと思うですよ!」

 ナタリーも言うほどだらけてはいないと思うけど、まあ、マリアさんが他の人より働いてる様子なのは俺も同意する。

 ニーナがしてるような館の中での仕事なら、手伝って負担を減らすこともできるけど、マリアさんは村にある魔女の店で働いていて、しかも専門的な知識も必要な仕事だから、なかなか手が出せない。

 帰ってくる時間が遅いことも多いし、みんなも心配してはいるんだ。

「今日はお休みなので、がんばります」

 マリアさんがそんなことを言ったので、俺はナタリーと顔を見合わせた。

 ちょっと笑ってしまったけど、笑い事じゃない気もする。

「お休みなんだから、あまりがんばらない方がいいんじゃ……」

 連れ出しておいて何だけど、これも本心。

「元々、何かしていないと落ち着かない性分なんです」

 マリアさんはそう言うけど、今日はなるべく俺とナタリーががんばって、マリアさんには散歩気分で気晴らししてもらいたい。

「それにしても、この三人の組み合わせは珍しいですね!」

「そうかな?」

 ナタリーの言葉に、改めて思い返してみると……。

「そうでもないような」

 この前も一緒に話した気がするし、頻繁かというと違うけど、珍しいというほど珍しいわけでもないはず。

「あれ? うーん? マリアさんが普段お仕事忙しいからそう思うんでしょうか」

「それは、そうかも」

 生活時間が合わないとか、そういうことかな。なるほど。

 ナタリーの仮説に俺が頷くと、

「もっと忙しく働いている方もいますよ?」

 と、マリアさん。

 ……そりゃあまあ、そうだろうけど。

 さっきから何となく、マリアさんの働き方に危うさを感じるな……。

 マリアさんが休みを言い出しやすいように、何か理由を付けてあげた方がいいのかな。近いうちに魔女の『おばさま』とも話して、調整しよう。

「せっかくのお休みなので、ミリアも一緒に来られたら良かったのですが……」

 ああ、そうか。館にいるときはだいたい、マリアさんがいるところにはミリアちゃんもいるから、そこに俺とナタリーが一緒にいても『三人』にならずに『四人』になるんだな。

 一緒にいるとマリアさんよりミリアちゃんがしゃべりがちだし、マリアさんはそれを静かに見守ってることが多い……。

 そう考えると、ナタリーの「この三人の組み合わせは珍しい」という感覚が合ってたのかも。

「ミリアちゃんは、ステラさんと魔剣製作用の魔法回路作りをがんばっているみたいでしたね」

 持続的な魔法付与をする場合はいろいろ入念な準備が必要で、まずは魔剣を作るための道具から作らないといけない。……と、ステラさんが言っていた。

 そのあたりは俺じゃ詳しく説明できないけど、ステラさんが必要だと言うなら必要なんだろう。

 ステラさんの話を理解して、ちゃんと手伝えるミリアちゃんは、魔法に関して俺よりずっとよく知っている。

 マリアさんは「そうですね」と頷いて、ふっと微笑んだ。

「成長しているんだと思うと、嬉しい反面、寂しさもありますけど……」

 マリアさんとミリアちゃんは、両親を亡くしてから二人で生きてきたと言ってた。それもずっと前のことだから、ミリアちゃんは今よりもっと小さくて、マリアさんは親代わりにもなってミリアちゃんを守ってきたんだそうだ。

 俺が二人と知り合ったのも、ミリアちゃんの病気を治す手伝いをしたのがきっかけだし。

 そういう絆のある二人だから、その間にある感情は、俺では想像できない部分も多いな……。

 それで俺は、マリアさんにどう声をかけるべきかちょっと迷っていたんだけど。

「それならマリアさん! あたしを妹と思っていいですよ! あたしなら、まだまだ手がかかることうけあいです! 特級甘えちゃうですよ!」

 ナタリーはいつもの調子でそんな風に言って、マリアさんに抱きついた。マリアさんは突然の体当たりにちょっとびっくりしたようだったけど、すぐに微笑んで、ナタリーの頭を撫でた。

「ふふ。ありがとうございます、ナタリーちゃん」

 ナタリーは気持ちよさそうに目を細めている。

 ……俺にはナタリーの真似はできないな。むしろ、軽々しくやっちゃいけないと思う。

 

 マリアさんとナタリーが手を繋いで歩くのに後ろからついて行くこと、しばし。

「あっ! 発見です! 薬効のある、えっと……ナンタラゴラです!」

 ナタリーが指差した先を見ると、……どれだろう。ちょっとよくわからないな。いろんな植物が生えているし。

「ああ、それです。良く見付けましたね」

「物を見付けるのは特級得意です!」

 マリアさんとナタリーはどれだかわかってるみたいだけど、俺にはまだよくわからない。どれがそうなんだろう……。

「毒がある植物なので、素手で触れないようにしてくださいね」

 さすがに、薬草を専門としているマリアさんと、目敏いナタリーが組むと早いな。俺は感心することしかできない。手を出す暇もないし、荷物持ちに徹することにするか……。

「ナンタラゴラ、動いてるのしか見たことなかったです! 土に埋まってるものなんですね!」

「マンドラゴラね」

「それです!」

 マンドラゴラ。俺も魔獣の一種としか見てこなかったな。ナタリーと同じで、歩き回ってるのしか見たことがなかった……気がする。

 魔獣としての強さは……群れてた時は結構危ないこともあったな。当時は俺がまだ駆け出しだったせいもあるけど。その時でも、一匹なら大したことなかった。戦ってると強い眠気に襲われたり、毒をもらったりするけど、その程度。ちゃんと準備して気を付けてれば、戦いを専門にしてる人でなくても対処可能だと思う。

 植物として生えてるのも見たことがあるかもしれないけど、そうと意識したことはないな。故郷の村のあたりには生えてなかったと思う。気候の関係かな。

「成熟すると這い出してきて、生育に良い土地を探して歩くんだそうですよ」

 なるほど。青虫が蝶になるとか、オタマジャクシがカエルになるとか、あんな感じか。幼生と成体で姿や過ごし方が違うっていう生き物。なんだろう。たぶん。

 ほっといたら、今植わってるそこからも這い出して来てそのへんを走り回るのかと思うと、ちょっと面白い。

 前に群れてたのは知人の館だったから、あんまり笑い事にもできないんだけど。

 よっぽどいい土地だったんだろうなあ。庭だけでなく館の中にまでマンドラゴラが入り込んでたし……。みんなで退治したから、今はもういなくなってる……はず。

 と、俺が思い出に浸っているうちに、ナタリーはもうマンドラゴラを掘り出そうとしていた。

「植物として埋まっている間の方が毒性は強いので、気を付けてくださいね。根を傷つけないように、そっと掘り出してください」

「わかったです!」

 ナタリーはしっかりと手袋をした上で、手持ちのスコップを器用に使ってマンドラゴラの周囲の土を掘っていく。

 腰に伝承武具(レジェンダリーアーム)の短剣を身に付けているのも見えてるけど、それは使ってない。貴重で高価だから穴掘りなんかには使わない……とかいうわけでもなく、単純に、専用の道具を使った方が効率がいいってことだと思う。

 マンドラゴラを『倒す』つもりなら、もちろん、その短剣を武器として使うだろうけど。

 それにしても、だ。

「魔剣の材料って、こんな植物まで使うんだな……」

 吟遊詩からの印象だと、こう、魔法使いが「えいっ」とやるだけで即座に魔剣になるのかと思ってた。ステラさんにそう言ったら返ってきた説明によると、一時的な強化ならそれこそ「えいっ」でできるらしいんだけど、今回は長期間持続する魔剣化だから話が別なんだそうだ。

 でも、マンドラゴラなんかをどう使うんだろう。

「私は魔剣化には詳しくないですが、魔女としての見地からすると……マンドラゴラに含まれる魔法の力を使うのかもしれませんね。マンドラゴラには、魔女の薬にも使われるくらい強い力がありますから」

 俺の呟きに、マリアさんが返事をくれた。

「魔女の薬……ですか」

 マリアさんが働いているのが、魔女の店。怪我や病気の治療を行っていて、その一環で薬も売ってる、というのは俺も知ってる。

 でも『魔女の薬』って言葉には、なんだか、妖しい響きがあるな。

「マンドラゴラは効果が強すぎるので、普段はあまり使いませんけど……リオンさんにも馴染みのあるものですと、そうですね……催眠魔香や錯乱魔香にはマンドラゴラが使われていますよ」

「ああ。ああいうものに使われてるんですか。なるほど」

 魔獣相手に何度か使ったことがある粉薬だ。魔香の名前の通り、本来なら焚いて使う物だけど、魔獣相手には粉の入った袋をそのまま投げつけてた。

 催眠魔香は相手に強烈な眠気を引き起こして、錯乱魔香は相手の意識を混濁させて放心させる。

 そんな薬だからもちろん、人間相手に使うのは推奨されていなくて、もし使ったら投獄されるって聞いた。結構高いから、普通の人はそもそも気軽には使わないと思うけど、盗賊団や暗殺者はときどき使うっていうから、まあ、危ない薬ではある。

「いかにも身体に悪そうでしょう?」

 俺がどんなことを考えてたか、顔に出てたかな。

 マリアさんの問いに、俺は苦笑いで頷いた。

「人を癒やす効能もちゃんとあるんですが……そちらは、最近はもっと扱いやすい薬草に置き換わってきていますね。やはり強い薬は扱いも慎重にならざるを得ませんから」

 なるほど。いろいろ考えてるものなんだな。

 俺はこれまで、そういうのをあんまり深く考えずに使っていたけど……。

 普段何気なく使ってる物も、どこかで誰かが作っていて、それぞれなりの材料があって、苦労があって、ようやく俺たちの手元にある。

 まあ、そういう話。

「掘り出せたです! 特級気持ち悪い感じのが出てきたです!」

 確かに……。人型に見えなくもない根っこに、顔みたいな凹凸があるから、不気味に感じる。

 歩き回ってるのと戦ってたときには、他にも気持ち悪い感じの、たとえば骸骨戦士やら亡霊やらいたからあんまり気にしなかったけど、いま改めて見ると……うん、やっぱり気持ち悪いな。

「必要なマンドラゴラは一匹ですかっ?」

「うん。でもできれば予備にもうひとつ欲しいって」

「了解したです! あと一匹探すです!」

 ナタリーはどうも、マンドラゴラのことは植物扱いしてないみたいだ。気持ちはわかるけど。最初の印象って大事だよな。

 ナタリーがマンドラゴラをもう一匹見付けたのはそのすぐあとのことだった。



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ニーナのお弁当

 今日の主目的は魔剣化に使うマンドラゴラだけど、その他にもマリアさんが個人的に欲しいという薬草を何種類か採取した。

 何に使う薬草なのか聞いてみたら「秘密です」と言われてしまったけど。

 ちょっと気にはなるけど、俺はその植物が何ていう名前なのかも知らないから調べようがない。

 まあ、マリアさんのことだから、悪いことに使うものではないだろう。

 そうしてたどり着いたのが、森の中にある広場。

 猟師たちが休むための小屋もある開けた場所で、頭上からは日が差し込んでいて明るい。近くには水場もあるし、休憩にちょうど良さそうな切り株もある。事前に村の人たちから聞いていたとおりの場所だ。

 今日はここで折り返して帰る予定になっていたから、採集カゴを降ろして中身を確認。

「……うん。今日採取する予定の分は揃ってるみたいです。あ、パエトの根以外は、ですね」

 カゴの中を覗き込んで、マリアさんがそう言った。

 ステラさんから「あれば採ってきて欲しい」と言われていたパエトの根は見付からなかった。

 マリアさんによると、大昔の大災厄が原因で絶滅した植物なんだそうだ。もしまだ生えているのが見付かれば大発見ってことになるけど……あるとしたら秘境の奥地とかなんだろう。

 そこはステラさんと相談して、代替策を検討しないといけないな。確かな情報さえあれば、探しに行くこともあるかもしれない。

 とはいえ、今日のところはひとまず、これで終わりだ。

「じゃあここで一旦、休憩にしよう」

 他の二人にそう言って、俺は背負っていた荷物を降ろした。さすがにちょっと疲れた。

 日差しの中で、ぐーっと伸びをして深呼吸。気持ちがいい。

 それにしても、最近はよく疲れを感じるな。戦いばっかりだった頃は、あんまり感じなかったのに。闘気(フォース)竜気(オーラ)が活性化してたからだったのかな。

 単に身体がなまってるだけって可能性も否定はできないけど。最近は朝の素振りくらいしかやってないし。

 もう少し運動を増やした方がいいのかな……なんて考えていると。

「休憩なら、必要なものがあると思うです!」

 ナタリーがそう言って、俺が降ろした荷物に視線を送っていた。

 そこに何が入ってるのかは事前に話してあるし、もちろんナタリーも知ってる。

「それじゃ、みんなで食べよう。ニーナが持たせてくれたお弁当」

「わーい! 待ってたです! 特級おなか空いたです!」

 そう。今日は森に植物採集に行くと話してあったから、ニーナがお弁当を用意してくれていたんだ。その味についてニーナは「今日のも自信作」と言っていたから、間違いなく美味しいはず。

 俺も道中楽しみにしていた。

「危険な植物を触った後ですし、まずはよく手を洗ってくださいね。泥もついてますよ」

「了解したです!」

 マリアさんの指摘を受けて、革袋いっぱいに詰めてきた飲み水で、まずはみんなの手を洗うことに。

 さっきの話を聞いた後だと、マンドラゴラの毒は特に念入りに洗い落とさないとって気になって、掘り出していたナタリーの手には特にたっぷり水をかけてあげた。

「そういえば、この三人は誰も〈解毒(アンチドウテ)〉の法術は使えないな」

 使えれば便利だとは思うけど、俺の場合は〈解毒〉には適性がなかったみたいで、未だに身に付かない。解毒の魔石を介せば一応は使えるけど、今日は持ってきてないな。

「毒消しは持ち歩いてるです!」

 ナタリーが、腰のポーチをぽんっと叩いてアピールした。

 準備がいいな、と思ったけど、ナタリーのことだからいつも持ち歩いているんだろう。

 ともあれ、準備があればちょっとくらいなら平気……

 かと思いきや。

「冒険者向けに売ってる毒消しを過信しちゃダメですよ。あれは基本的には、よく出会うタイプの魔獣の毒にしか効きませんから」

「あれ、そうなんですか」

 マリアさんの指摘に、ナタリーも「えーっ」と驚いている。

「実用上はほぼ問題ないですけど、あれでは対応できない毒もありますよ」

 うーん。咬まれた時には傷口に塗って、毒を飲み込んだ時には毒消しも口から飲む、と説明されて、その通りに使ってきて、これまでちゃんと効いてたけど。

「それじゃ、〈解毒〉の法術の方は?」

 ナタリーの手伝いを受けて手を洗っているマリアさんに訊ねると、マリアさんはちょっと困ったような顔をした。

「ミリアが言っていることを聞いた感じでは、毒素自体を消し去る作用があるようなんですが……あの子の話す言葉は感覚的で、私も理解できたとは言いがたいので……詳しい仕組みはステラちゃんに聞いた方がいいかもしれません」

「なるほど」

 ミリアちゃんはそういうところがあるな。

 魔法に関して、俺たちとは見えているものが違う。

 ステラさんはそれを「ミリアは霊気(マナ)の流れが見えている」と評価していた。そしてそれが、幼い頃から当たり前になっているらしい、とも。

 俺たちがリンゴとオレンジを一目で区別できるのと同じように、ミリアちゃんは霊気(マナ)や魔法がよく見えていて明確に区別できている……とステラさんから説明はされたけど、俺にはちょっと想像できない。

 本来なら、相当な研鑽の果てに到達する境地らしい。普通の人より魔法適性の高いステラさんやクレールでさえ、魔法に集中していない時には見えないと言っていた。

 すごい才能だと思うけど、そのせいでミリアちゃんは、自分が扱える魔法について他人に教えるのは絶望的に不得手、というのもステラさんの見立て。

 そこをミリアちゃんがちゃんと理解しないと、『見えない』人向けに書かれた多くの本を理解できないだろう、ということで、ステラさんがいま教えているのはそのあたりのことらしい。

 先が長いのか短いのか、いまいちよくわからなくなる話でもある。

「毒消しの話はもういいです! マリアさんの手もきれいになりましたし、はやく食べましょう!」

 ナタリーが、もう待ちきれないという様子で訴えてきた。

 うん、そうだ。

 これからお弁当を食べるんだから、毒消しのあの、一口で吐き戻しそうになる味のことは忘れよう……。

 水に濡れた手を拭いてから、大きめの切り株の上にお弁当の包みを開ける。

 中に入っていたのは……パン。

「……ん?」

 ナタリーが首を傾げる。

「パンだけですか?」

 期待していたものと違う……という、残念そうな顔。

 ちゃんと予想通りの顔も見られたので種明かしをすると、このパンに乗せる具は別の箱に入れられてて、食べる時に好きなように乗せていい、ってことらしい。

 そっちの箱を開けて見せたら、ナタリーの表情もまたパッと明るくなった。

「おにくを乗せたいです!」

 ローストビーフがあるな。ちゃんとナタリーが肉を望むことをわかっていたみたいだ。

 他にも魚のほぐし身、チーズ、ピクルス、レタス……こっちの瓶はジャムか。ヨーグルトの瓶もある。食べきれるか心配になる量だけど、ナタリーがいるから大丈夫かな。

 それぞれ思い思いの具を乗せる。後になれば残ってる感じのを使っちゃおうってことになると思うけど、最初くらいは好きな物だけ乗せてもいいだろう。

 三人で軽く食前の祈りをしてから、食べ始め。

「特級おいしいです!」

 真っ先にそんな声を上げたのは、もちろんナタリー。

 でも本当に美味しい。具材もだけど、まずパン自体がおいしい。これってすごいことだと思う。

 俺の故郷で焼いてたパンなんて、堅くて不味かった。あんまり堅いから皿代わりにしてたし。食べ終わってまだ物足りなかったら仕方なく食べるけど、もう十分満腹だったら家畜の餌箱行き。

 それとこれは、同じ『パン』って名前で呼んじゃいけないような気がする。

「んーっ! パンはふわふわ! もちもち! おにくは柔らかいし、噛めば噛むほど肉汁がしみ出してきてこれは……これが、しあわせの味! う、う……ウマウマ!」

 というナタリーの意見はさすがに大袈裟だとは思うけど、美味しいのは確かだ。

 マリアさんもひとくちひとくち、ゆっくりと味わって食べている。

「本当においしいです。具材は全部、冷めてもおいしいようにしてありますし、パンにも何か工夫がありそうですね……」

 ニーナ、そういうところまで考えているのか。すごいな。

「私もお料理にはちょっと自信がありましたけど、ニーナちゃんと比べるとまだまだですね……」

「おそるべき才能です……っ!」

 ミリアちゃんとは違うけど、これも才能なのか。それとも、研鑽の果てに到達した境地なのか。

 いずれにしても、それをこうして享受できる俺としては、感謝するしかない。

 ニーナのためにも、魔包丁、ちゃんと成功させたいな。



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ニーナの包丁

 魔剣の材料集めは順調に進んでる。

 このあたりで手に入る植物や動物から採れるものは大体集め終わったし、ここに住むことになる前に手に入れた物の中にも、材料になるものがあった。

 足りない物のうち、いくつかは商人に頼んで調達してもらうことになった。揃うには少し時間がかかると言われているけど、そこは気長に待つことにしよう。

 

 今日は午後から陳情受付の予定だから、午前中は出かけずにニーナの手伝いをすることにした。

 今は台所の端で、夕食に使う予定だっていうニンジンを洗ったところだ。このまま皮剥きもやってしまう予定。

「あー、あれはね。疲れた時に食べたくなるようなものを選んだの。なるべくね」

 ナタリーたちとマンドラゴラを採りに行った時のお弁当の話。

 マリアさんが「かなり工夫しているみたいだ」と言っていたのを思い出して、作業の間の雑談に訊いてみたら、ニーナの返事がそれ。

「疲労と空腹を調味料にするっていう、ニーナの仕掛けだったわけだ」

「ま、そういうこと」

 単純なことのように聞こえるけど、それぞれの食材のことや、何より食べるみんなのことをよく知ってないとできない気がする。少なくとも、俺にはきっと無理だ。

「お母さんのレシピ帳にね、料理をおいしくするためのいろんな工夫が書いてあって。お母さん、本当にいろいろ試してて、うまくいかなかったこともあるみたいなんだけど、それも含めてね、すっごい参考になる」

 なるほど。ニーナのお母さんか。

 ニーナのお母さんは、俺からは叔母さんということになるけど、十年ほど前に亡くなってる。

 うちの家族とは離れて暮らしていたこともあって、俺にはあまりはっきりした記憶はない。ただぼんやりとだけど、ニーナと同じ夕陽色の髪だったのは覚えがある。それに、優しそうな人だったな。

 叔母さんが亡くなった当時の叔父さんは、料理や家事は全くできなくて、役に立たない感じだったそうだ。今はマシになってるらしいけど、まあそれで、ニーナがそのへんをやるようになったと言ってた。

 ニーナの料理のおいしさの秘密が、少しわかった気分だ。

 わかったからって、俺には真似できないけど。

「そういえば、魔剣のベースはどうするか決めた?」

 ニンジンの皮を剥くのにナイフを手にして、そのことを思い出す。

 いま使ってるのをベースにするか、新しく作るなり買うなりするか、ニーナが決めることになってたはずだ。

 訊ねると、ニーナは「うん」と頷いた。

「いろいろ考えたけど、やっぱり使い慣れてる形がいいかなって思ってるの」

 ん? ……形の話か。

「形って、そこ悩むところ? 包丁は包丁じゃないの?」

「包丁もいろいろ種類があるんだよ? ここにあるのだけでも、ほら」

 そう言って、ニーナがいくつか並べて見せてくれたけど……

「ほとんど違わないような」

「えーっ! 全然違うよ。よく見てよ」

 そうなのか……。確かに、刃の角度とか長さとか差があるけど……そんなに大きな差になるものなのかな。俺にはよくわからない。

「やれやれ、リオンはおおざっぱだ」

「悪かったね」

 ニーナが呆れたように言うけど、わからないものはわからない。

 俺がそんな態度でいると、ニーナはため息をつきながらも、どうにか俺に理解させようと再度の説明を試みてきた。

「はいはい、よく見て。いい? こっちは野菜を切るのに良くって、こっちはお肉用。こっちはお魚ね。ね、違うでしょ?」

 ふむ。どういう理屈でそういう使い分けになるのかわからないけど、違いがあるのは確かだ。

「それぞれ適した道具があるって話なら、それは、そうだと思うよ」

 マンドラゴラを掘りに行ったときもそうだった。

 ナタリーは伝承武具(レジェンダリーアーム)の短剣ではなく、ちゃんとスコップを使っていた。

 穴掘りなら短剣よりスコップ。戦いなら短剣で。料理に使うなら包丁。

 その包丁の中にも、用途によっていろいろ違いがあるらしい、と。

 それは、納得。

 どこがどう違うのかは、やっぱり俺にはよくわからないけどね。

「それで、ニーナが選んだのは?」

「え。それは……何にでも使える形のやつ」

 がく。

「えぇ? いまの話の流れでそれ?」

 てっきり、その『専門の包丁』のうちのどれかにするものと思ってたのに、まさか『何にでも使える』なんてのがあるとは。

 それならもう全部その、何にでも使える包丁で切ればいいんじゃないか?

 俺にはいよいよわからない……。奥が深すぎる。

 ニーナは「あはは」と笑ってる。

 まあ、あんまり突っ込んでさらに専門的な話をされても困るから、ここは誤魔化されておこう。

「だってね、ほら、これにしようかなって思ってるから」

 ニーナが持ち上げて見せたのは、かなり使い込まれた包丁。俺も見たことがある……というのも当然で、ニーナが昔から使ってるやつだ。それこそ、雷王都市にいた頃から。

「ん? それって確か……」

 確か、前に聞いたな。

 そう思ってニーナの顔を見ると、彼女は「うん」と頷いた。

「これね、お母さんが使ってたものなの」

 やっぱり。どうりで年季ものなわけだ。

 でも、ニーナがこれを大事に使ってきたのは知ってる。なるべく長く使いたいと言って、時々は念入りに手入れをしているのも見た。俺も、古くなった柄を取り替える手伝いをしたな。

 そうだから、逆に、ちょっと意外に思った。

「いいの? そんな大事なものを。魔剣を作るのは初めてのことだし、今回は試作、みたいなとこあるけど……」

 そこはすでにちゃんと説明してあったし、ニーナもそれは理解して、よく考えた上で決めたことだろうとは思うけど。

「私がもらってからでももう十年以上、研ぎ直しながら使ってるから……今後を考えると、これを魔剣化してもらった方が、長持ちするかなって」

 確かにそれは魔剣化の利点のひとつだ。実際にどのくらい違うのかは、ステラさんに訊かないとわからないけど。魔剣化すればいくらか寿命が延びるのは確実。

 ただ、もし失敗した場合にどうなるかは、よくわからない。

「心配じゃない? 必ず成功するとは言い切れないかも」

 不安を煽るようなことを言ってしまったかな、と思ったけど、本心。

 自分のことならいい。失敗しても、また頑張ればいい。

 でも、ニーナのお母さんの思い出の品だ。もし何かあったら、取り返しのつかないことのような気がする。

 それは、俺も両親を亡くしてるからそう思うだけの、感傷的なことなんだろうか。

 俺だったら……魔剣化のベースにはもっと当たり障りのないものを選ぶ気がするな。

 でも、ニーナは違うみたいだ。

「まあ、その時はその時かな……どうせいつか、実用にならなくなる時は来るわけだし」

 その大事な包丁の峰のあたりを、つうっと撫でながらうっすらと笑って、ニーナはそう言った。

「それにね、魔剣化に必要な材料を見たら、次があるかわからない感じだったから。今、やっておいた方がいいと思ったの」

 うーん。確かに、手に入れるのが難しい材料もある。それでも大抵のものはお金を積めば何とかなるとはいえ、魔剣化の効果と天秤にかけるとどうなるか。

 古王国時代にはありふれていて価格の安かった材料が、今は入手困難で価格が高い……ということもある。それは材料費に直接響いてくる。

 最終的な判断は、今回の結果を見てからになると思うけど、ステラさんの試算では「おそらく、費用対効果は非常に低いと想定される」ということだった。

 確かに、次はないかもしれない企画ではある。

 そんなところまでちゃんと確認してるってことはやっぱり、ニーナが熟考したのは間違いなさそうだ。

 だったら……今さら俺がどう言っても仕方ないか。

「わかった。ニーナがそこまで言うなら、もう止めないよ。うまくいくといいね」

 ちょっと突き放した言い方になったかもしれない、と思ったけど。

 ニーナも「うん」と頷いたから、まあ、伝わったかな。

「俺もなるべく頑張るよ。……材料集めは目処がついたし、あとどのくらい俺が関与できるかはわからないけど」

「うん、ありがとう。……ほんとはね、本音を言うとね、心配は心配。うまくいって欲しいなあ」

 そんな話をしているうちに、ニンジンの皮剥きも終わり。

「次はどうしようか?」

「じゃあ、大きいお鍋にお湯を沸かしといてくれる? それと人数分の食器ね」

「はいはい」

 ニーナの手元には食材が並べられていて、もう調理を待つばかり。

 昼食も楽しみだ。



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魔剣と魔剣技(前)

 今日の陳情は二件。

 最初は、幼い兄弟のけんかの仲裁。原因が『五個の飴玉を二人でどう分けるか』が原因だったから、クレールが一個足してあげたら即座に解決した。

 それと親方から、春祭りの開催許可の件。

 春の花が咲いたら十日のうちに、ということなので正式な日程はまだ決まっていないらしいけど、その時期が来たら開催していい、という許可は出した。

 前の領主の時はその許可も、なんだかんだ文句を付けられて、なかなか出してもらえなかったらしい。そのせいでここ数年は開催できていなかったそうで、親方も「今年は盛大にやりたい」と張り切っていた。

 ……そういえば親方の顔を見た時に、親方に言わなくちゃいけないことがあったような気がしたんだ。でも何を言いたいんだったか思い出せなかった。大事な用があった気がしたんだけどなあ。まあ、思い出せないんだからその程度の用事だったんだろう。

 陳情がそんな風にあっさり終わったので、今日もまた時間が余っている。

 

「そういえば今回作る魔剣には、魔剣技は付けられないっていう話だったけど」

 暇を持て余しての雑談の中で、クレールがそんな風に切り出した。

「魔剣技って、どういう仕組みなんだろう? 特定の魔剣でないと使うことができない技だってことは知ってるけど」

 魔剣技か。ここ最近は魔剣を持つこと自体を控えているし、魔剣技が必要なほどの敵もいないから、しばらく使ってないけど。

 確かに、仕組みは少し気になるな。

「現存例が少ないので断定はできない」

 ステラさんの返答はそんな感じ。確かに、魔剣というだけでも珍しいのに、そのほとんどには特別な魔剣技はない。魔剣技のあるいわゆる『銘入り』というのは、本当に数が少ない。

「僕が見たことがあるのは……〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉の竜牙砕き(ファングクラッシュ)竜殺剣(ドラゴンバスター)、それに〈極北の魔神〉の大凍冷波(デッドエンドブリザード)と、〈嵐を呼ぶもの〉の天嵐襲戮殺(カルネージレイド)

 クレールが過去を振り返って、見たことがある魔剣と魔剣技を列挙する。

 俺が見たのもそれだけかな、たぶん。少なくとも、ちゃんと銘入りの魔剣として認識したのはそれだけだ。

 ステラさんもほぼ一緒だと思うけど、もしかしたらステラさんの師匠である〈西の導師〉のところでは見たことがあるかもしれないな。

「最後のは知らない」

 ん……?

 ステラさんがそう指摘したので思い返してみる。確かステラさんも見たことがあるはず……。

「スレイダーが持ってた魔剣の技だけど……ああ、そっか。ステラは知らないのかー」

 クレールが言ってることもよくわからない。まさにこの三人にスレイダーさんを加えた四人で探索に行ったことも、一度や二度ではなかったはず。

 ……いや。そうか、そうなるのか。

 うーん。少し複雑な話だけど……。

 その魔剣を見たのは俺が異界に行った時だ。クレールと出会って、スレイダーさんと出会って、ステラさんとも合流した。

 ただ、そのステラさんは『向こうの世界のステラさん』であって『こっちの世界のステラさん』とはよく似ているけど違う人だという話を、そういえばクレールのお父さんから聞いた……気がする。

 だから異世界の時の話をしても通じないんだ。

 クレールは向こうの世界からこっちに来たから、そのあたりの話は通じるんだけど。そういえばそのことついてステラさんと詳しく話したことはなかった気がする。

「そういえば、スレイダーとはしばらく会ってないね」

 俺が二人のステラさんについて考えている間に、クレールが思い出していたのはスレイダーさんのことか。

 スレイダーさんは、一時期、クレールのお父さんのところで働いていた凄腕の剣士だ。その縁で、クレールのお目付役だったこともある。

 ややこしいことに、スレイダーさんは『この世界』とも『俺が行った異世界』とも違う『さらに別の異世界』から流れ着いたと言っていた。

「何年前の人」

 ステラさんが訊ねた。どうもステラさんは、クレールが見た目通りの年齢じゃないことには気付いていそうだ。

「……僕は実質十六歳だから、まあまあ、そのくらいの範囲ってことでひとつ……」

 クレールは誤魔化しているけど。絶対に秘密、というほど徹底しているような気はしない。

「存命人物と解釈する」

 ステラさんも、誤魔化されたというわけではないだろうけど、深くは追求しない。

 でも、どうなんだろうな。スレイダーさんが本当にまだ生きているかどうか、俺にはよくわからない。一応、再会を約束して、それぞれの世界に帰ったわけだけど……。

 確かにクレールの言った通り、しばらく会っていない。

 そもそもまた会うことがあるんだろうか。同じ世界にいる人とだって、一度別れたら滅多に会うこともないのに。

 そういえばスレイダーさん、別れ際に言ってたな。

「もっと酷い戦いを求めるなら俺を呼べ」

 って。

 スレイダーさんはいつも何かと戦ってる人だった。それに「欲しいものは戦うことでしか勝ち取れない」とも言ってた。

 そして、そのあたりは俺と似てる、とも。

 ……仮に今、再会できたとしても、碌な事にはならない気がするな。

「そんなことより、魔剣技だよ!」

 クレールが自分の年齢に関する話題が広がるのを断ち切ろうとそんな風に言ったので、俺も考えを中断。

「リオンとしては、どう? 魔剣技を使うときって」

「説明するのは難しいけど、うーん……」

 改めて考えてみると、戦いの時は身体が動くのに任せている部分が多くて、頭で考えてやってることって案外少ない。いや、結構あるのはあるんだけど、それをうまく言葉にして説明できないというか……。

「そうだな……。戦う気持ちの時には、胸の奥とか、腹の中とか、そのあたりから闘気(フォース)が湧き上がってきて、それが全身を巡っていく」

闘気(フォース)霊気(マナ)……本質的には同じもの。魔法に変換せず相手に直接ぶつける場合は、闘気(フォース)と称するのが一般的」

 ステラさんが短く解説を挟んでくれた。

「それを自分の中のどこに集めたいとか、意識すればある程度制御できるから、すぐに放出してしまわないように、溜めて、溜めて……剣を持つ右手に集めていく。それで、攻撃する時に一気に吐き出す」

「そうすると、ババーン! って魔剣技が出る?」

 クレールが両手を振り回す大袈裟なしぐさで、魔剣技を表現した。

 ババーン、かどうかはともかく、まあ大体合ってる。

「……察するに、魔石と同様の現象。霊気(マナ)――闘気(フォース)が、魔剣に搭載された特別な回路を経由することで変質・変換されて発露する」

 ステラさんがそう解説して、俺も魔石のことを思い出す。

 魔石は霊気(マナ)を術法に変換する機能がある石のことで、それを握って意識を集中すれば、適性を持っていない術法でも発動できる。現存しているのは古王国時代に作られたものばかりで、希少性で言うと、銘入りの魔剣よりはかなり多いけど、銘無しの魔剣よりは少ない……といったところ。

「なるほどー。魔石なら術法が発動するのと同じ原理で、魔剣なら魔剣技が発動するってことなのか。なるほどー」

 クレールはやたら「なるほど」を連発してるけど、そんなに意外な解説だったかな……と思って見ていると、その視線に気付いたらしいクレールが、ぽつり。

「まあ、僕もそんなとこだろうと思ってたけどね」

 本当かな。

「しかし現存例が少ない。銘入りの魔剣を壊して中を確認するわけにもいかない。よって、私の推測でしかないことに留意する必要がある」

「でも僕が見た感じからしても矛盾はない気がするなー」

 独自研究であることを強調したステラさんに対して、クレールは自分の体感から肯定的な発言。

「リオンはどう? 魔剣技と魔石、両方とも使ったことあるでしょ?」

 確かに、それはそうだ。でも、近いものだと意識したことはなかったな。思い返してみると、魔剣は魔石とは干渉しないみたいだから、それで完全に別物という感覚だったのかもしれない。魔石は、干渉を避けるために他の魔石と一緒には身に付けないのが普通だ。

 ただ、うん。

 ステラさんの解説は納得できたから、きっとそういうことなんだろう。

「言われてみれば、似てる気はするよ。だけど、魔剣技の方が身体の負担は大きいな。発動した時の反動が強い感じ。でもこれって普通に叩いた時と同じで、叩く力が強いから反動も大きいってだけのような気もするな」

「なるほどねー」

「俺も自分で使ったのは〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉だけだから、他の魔剣だと違うかも。今度クルシスにも訊いてみようか」

「興味深い。ぜひそうすべき」

「スレイダーさんの魔剣は異世界のものかもしれないから、参考にならないかも」

「あー、そうかもしれないねー」

「見たことがないので言及は控える」

 やっぱり、参考になる例が少ないと議論も深まらないな。

 まあ、どうせ暇つぶしの雑談ではあるけど。



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魔剣と魔剣技(後)

「魔石みたいなものってことは、術力が強いと術法も強くなるのと同じように、闘気(フォース)が強いと魔剣技も強くなるのかな?」

 クレールの疑問に、ステラさんは思案顔。

「事例や資料が少ないので、確かなことは言えない」

 とすると、魔剣技を使っていた俺の経験から言うしかないな。

「そこは多分、そうだと思うよ。やっぱり気持ちが入ってる時の方が魔剣技も強かったし」

「リオンの闘気(フォース)が魔剣と同調したら、貫けないものはないっ! って感じだったもんね。邪神だって倒せちゃうんだし」

「それは闘気(フォース)だけでなく身体能力も向上した結果。それをもって闘気(フォース)の強さが魔剣技の強さと有意な相関関係を形成すると結論することはできない」

「えー。そこまで厳密にしなくてもいいんじゃない?」

「数少ない事例だからこそ、よく検証しなければいけない」

 話している内に、ステラさんも魔剣技への興味が強くなったみたいだ。ただの雑談じゃなくなってる……。

 俺としても、魔剣技の詳しい仕組みがわかったらもしかすると、闘気(フォース)竜気(オーラ)を活性化しなくても魔剣技を使えるようになるかもしれないし、そうなったら便利だなあとは思うけど。

 その検証のためにもっと戦ってくれと言われると、今はちょっと困るな……。

「あーあ。僕も〈真竜の牙〉で魔剣技が使えたら、試してみるのになー。闘気(フォース)って要するに霊気(マナ)と同じなんでしょ? 僕って魔法の才能は一番で術力が強いから、魔剣技の威力も強くなると思うんだよねー」

 クレールのその言葉に、ステラさんが頷いた。

「貴方の魔法の才能は認める。私の次くらいにすごい」

「ステラが、僕の次くらいにすごいんだよ!」

「……私の次くらいにすごい」

 二人とも相手をすごいと褒めているけど、自分の方が上だというのは譲れないらしい。まあ、二人はそのくらい仲良しだって言う話……多分。

「ステラは強情だなー」

 ため息をついたクレールが「やれやれ」とでも言い出しそうな表情と身振りでそんなことを言うと、ステラさんもほんの少し、本当にほんの少しだけ、口の端を上げて応じた。

「強情さの一番は貴方に譲る」

「!」

 クレールは返す言葉を失って、口をあんぐりと開けている。

 これはクレールの負けだな。これ以上熱くなる前に止めよう。

「まあまあ二人とも、そのくらいに。……そうだ。魔法が発達してた古王国時代にはきっと、術力が強い人が多かったんだと思うけど、同じように闘気(フォース)が強い人も多かったのかな。どう思う?」

 話をそらすために俺がそうまくし立てると、二人もそれ以上の応酬はしなかった。元々、じゃれ合いみたいなものだったんだろうけどね。

 クレールはしばらく「うーん」とうなってから。

霊気(マナ)闘気(フォース)と同じっていうなら、そうなるんじゃない? 霊気(マナ)を扱う能力が、今の人より強かったんじゃないかなー。ま、これは僕の想像だけどね」

 なるほど。そもそもの身体の造りが違うという解釈か。

 古い伝説で主役になっているような、力のある人は、例えば……神の子孫だとか、天使と悪魔のハーフだとか、異界から来た上位種だったりとか、そういう話がついているもの。昔はそういう人が案外多くいて、代を重ねるごとに普通の人間と変わらなくなっていってる、というのはあるかもしれない。

 俺は……霊峰の聖竜から、そういう特別な血は全くないって断言されたけどね……。

 それにしても、気になるのはクレールだ。

「? どうしたの? 僕の顔をじーっと見て」

 クレールも本人が言うように、一番かどうかはともかく、術力は強い方だと思う。

 もしかすると……。

 うーん。やっぱり、参考にはならないな。

 考えてみれば古王国時代って千年以上前だから、さすがにクレールよりもさらに昔の人だ。

「……ねえリオン? いま、僕を昔の人扱いしなかった?」

 おっと、ばれたか。案外鋭い。

「…………」

 クレールは無言で俺を見つめている――というか、睨んでいる……。

「……クレールの術力は本当にすごいなと思って」

「ほんとにそれだけ?」

 くっ。いつもならこれで大体、クレールの方から退いてくれるのに。

 こうなったら仕方ない。最後の手段。

「……ははは」

「笑ってごまかされたっ!」

 これ以上は何と言っても角が立ちそうだから、ごまかせるものならごまかしておこう。

 クレールはなおも俺を追求しようとしたけど、そこにちょうどステラさんが割り込んだ。

「古王国時代の人間は、おそらく闘気(フォース)も強かったと推測される。でなければ、あれほど多くの魔剣が制作される理由がない」

 なるほど。使う人がいない道具を作っても仕方ない。それはそうだ。

「もう昔の話はしなくていいよ!」

 クレールがご機嫌斜めな様子でそう言ったので、この話はここまで。

「では、魔剣技の話に戻す」

 そうだ。その話だった。

 それにしても、ステラさんは魔術士だから魔剣を使うわけでもないのに、どうして急に魔剣技について興味を惹かれたんだろう。

 と思ったけど、ステラさんが続けて話したことで、何となくわかった。

「魔剣技が魔石を介した術法の発動と同様の現象であると仮定すると、魔石を制作できる環境があれば、魔剣技を付与することができる可能性もある」

 魔剣を作るというのがもうほぼ現実のものになったからかもしれない。

 その先のこととして、魔剣技のある銘入りの魔剣を作ることにもいつかは挑戦したいってことなんだろう。

 その気持ちはわかるな。

「魔石って、作れるんですか? ええっと……今の技術で」

 古王国時代には可能だったことが、今も可能とは限らない。でも、魔剣が作れるならもしかして、という期待もある。

 だけど、ステラさんは首を左右に振った。

「今の私には無理」

 やっぱり無理なのか。ただ、将来的には可能かもしれない、という言い方だ。

 どういうことなのか、クレールと一緒に、続く言葉を待っていると。

「魔石は、石の内部……外から見えない部分に、非常に緻密に、立体的に、魔法回路が刻まれている。その刻印作業は魔石の外部から、その石を破壊せずに、術力の強弱のみで行わなければならない。これには高度な術力制御技術と、多大な集中力を要する。平面の層が二、三ある程度ならまだしも、複層球形回路は、古王国でも多くは制作されなかったほど、非常に難易度が高い。よって、今の私では挑戦したとしても成功の見込みはない」

 うん、うん。説明を聞いても何が何だかよくわからなかったけど、ともかく困難だってことだけはわかった……。

「なるほどー。なるほどねー」

 クレールはしきりに頷いてるけど、本当にわかってるのかな。

「複層球形回路の理論書は僕も読んだことあるけど、確かに難しそうだったね。父様は、冗長になっても平面回路に描き直した方が扱いやすそうだって言ってた。僕もそう思うよ。でも発動が遅くなっちゃうのかなー」

「おそらくそう。使用時の負担も大きくなると推測される。どの程度の差が出るかは術法による」

「でも魔石の大きさのこともあるし、あんまり非効率的な回路だと入りきらないのかな?」

「高精細にすれば納めること自体は可能であるはず。ただし、それではいずれにせよ高度な術力制御が必要になる。また、そうして製造された魔石は、外部からの干渉の影響が大きくなると予想される。端的に言うと、使いにくくなる。最終的な仕上がりに関しては、複層球形回路が最適解」

「なるほどねー」

 ……うん、クレールもわかって話してるみたいだ。俺はよくわからないけど。

「逆に魔石自体を人間が持ち運べないほどの大きさにすれば、今の私の技術でも制作できる可能性はある。その大きさならばおそらく、制作時に多少制御を誤っても破綻はしないと期待される」

「そっかー。それは試してみる価値ありかも!」

「ただし、材料費が膨大になる。師匠の研究によれば、現在入手可能な素材で魔石として利用できるものは限られる。比較的身近なものでは、サファイアが該当する」

「人間が持ち運べない大きさの、サファイアかー。リオンはどう思う?」

「無理かな。まず見付からないと思うし、あったとして、手が届く値段とは思えないよ」

「だよねー」

「残念だが、理解している」

 結局、今は魔石を作ることはできないって結論になった。

 魔剣に魔剣技を付けられるようになるのは、まだまだ先の話か。



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来客

 来客を告げるナタリーの声を聞いて表に出てみると、荷馬車が停まっていた。

「よう、領主様。元気そうだな?」

 声をかけてきたのは銀髪の旅商人、ユウリィさん。俺がここに来る前からの知り合いで、その縁もあって、この館にもよく立ち寄ってくれる。

 長い灰色のマフラーで口元を隠しているし、旅装束だと少しわかりにくいけど、女性。その格好も口調も、無用のトラブルを避けるためにやってるんだそうだ。切れ長の目に琥珀色の瞳は、狼を連想させるな。何か底知れないものを感じる人だけど、悪い人じゃない。ただちょっとお金に対する執着心が強いだけだ。

 この館にあった無駄に高価な調度品を処分するのに際しては、本当によく手伝ってくれた。もちろん、相応の料金は取られたけどね……。

 そのあたりのことは目処がついたから最近の訪問はそう頻繁じゃないけど、定期的に日用品を届けに来てくれる。他に特別な注文があればその時に伝えておくと、だいたい次に来る時までに用意してくれているからありがたい。

 とはいえ、前回の注文の多くは魔剣の材料。今の時代でも入手は可能だけど、産地が遠いものだったり、稀少であまり出回っていないものだったり……というものを注文していた。

 ユウリィさんがいくらやり手でもさすがにすぐには揃わないだろう。

 俺もみんなもそう思っていたんだけど。

「普段通りの日用品の他に、頼まれてた品も揃えてきた。荷台に全部あるから確認してくれ。請求書もそこだ」

 ユウリィさんがそう言うから、その場にいた俺たちは顔を見合わせた。

 荷台を覆っている布をめくり上げて見ると、確かに注文した覚えのあるものがずらりと並んでいる。

 ちゃんと確認してみようということで、日用品の方のチェックはナタリーに任せて、俺とステラさんで魔剣の材料の方をひとつひとつ見てみることにした。

「……数は合っている。確かに揃っている」

 ステラさんが、信じられない、という様子で呟いた。

 俺には何に使うかわからない物もあったけど、注文通りに揃ってるってのは、確かにその通り。

「すごいな。思ったより早く集まりましたね」

 俺がそう言うと、ユウリィさんは目を細めた。

「あんたはうちの一番のお得意様だからな。他よりも優先して揃えたのさ」

「助かります」

 嬉しいことだけど、お得意様ってことは要するにそれだけお金を使ってるってことでもあるわけで、農村育ちで元々は貴族でも何でもない俺としては……うーん。ユウリィさんの懐に入ったはずの額をざっと思い浮かべてみると、ちょっと震えを感じるような。

「品質は信用する」

 ステラさんはそう言って点検を終えた。ステラさんも、そろそろユウリィさんとの付き合いは長い。値段を吹っかけられることはあっても、品質が悪かったことは一度もないってのは承知してるだろう。

 そういう商人だ、ユウリィさんは。

「仕入れた時点で悪いものはなかったな。それは確認した。しかし悪くなりやすいものもないわけじゃない。特に食い物は気を付けてくれよ?」

「気を付ける。皆にも周知する」

「悪くなる前に食べるので大丈夫です!」

 ナタリーがそう言ってるから、食べ物に関しては大丈夫だろう。むしろ足りなくなる心配の方が大きいな。

 確認が済んだところで、三人で手分けして、荷物を荷台から降ろす。うん、今回はそんなに重い物はない。余裕、余裕。

 その間、ユウリィさんはステラさんが用意した今回の取引の代金を受け取って、念入りに確認していた。その財布が仕舞われる頃にちょうど、俺たちの作業も終わり。

「いい買い物したよ、あんた」

 ユウリィさんはいつもこの言葉でひとつの取引を締めくくる。買う前はいろいろ悩むこともあるけど、最後にこう言われるとまあ、そうなのかなって気になる。

「……それにしても妙な物を欲しがったもんだな? どれもこれも妖しげな儀式に使いそうな物ばかり。魔女でも飼っているのかね」

 ユウリィさんが今回の注文品についてそんな感想を口にした。

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」

 確かに普通はちょっと使わないようなものが結構あったけど、魔剣化の材料だってことをどう説明しようか、それともユウリィさんには言わない方がいいんだろうか……と迷っていると。

「飼われているわけではない」

 すぐに反論したのはステラさん。……でもその反論が、ちょっと。

「お互いを必要として、同棲しているだけ」

 うーん。何かその言い方は、何か、うーん。

「毎晩求め合っている、って話か?」

「誤解を招くような言い方はやめていただきたい」

 ユウリィさんの言葉には、俺の方からすぐに抗議。

「……? 事実。私はリオンを必要としているし、リオンも私を必要としている。お互いを高め合う関係。そのはず」

「それは、そうなんですけど」

「?」

「あたしもそうです!」

「……仲間」

「ですです!」

 大人びて思えても、ステラさんは俺より年下。ナタリーもそう。正直なところ、このあたりのことをどう説明したらいいのかよくわからない。ニーナかマリアさんあたりからそれとなく伝えてくれるといいけど……

 俺から二人にそうお願いするのも何か別の問題になりそうな気がして、ためらってしまうな。

 そんな俺たちを見て、ユウリィさんはニヤニヤしてる……気がする。

「お互いを必要としてるってのは、いいことだな?」

「そう思う」

 この話題、あまり突っ込んでも分が悪そうだから適当に流しておこう……

 と思ったけどそうだ。この際だからひとつだけ確認しておきたい。

「俺が好色男だっていう噂の出所って、まさかユウリィさんじゃないですよね?」

 ニーナが村の人たちから聞いたっていう噂。実際はそんなことないんだけどなあ。誰も否定してくれないんだ。クレールでさえ「だってリオン、女の子好きだよね? 特に、困ってる女の子」なんて言ってたし。それは人助けだから。困ってるのが男の子だって助けるよ。ほんと、誤解を招くような言い方はやめていただきたい。

「その噂はオレも聞いてるよ。そんなに嫌なら、美女に言い寄られても全く手を出せないヘタレって噂に上書きしてやろうか? 相応の料金で引き受けるぜ?」

「えぇ……」

 あんまりひどい噂は嫌だけど、情けない噂で上書きってのも困る。事実より大袈裟にされるのも嫌だけど、ほんのちょっとくらいは見栄も張りたい……。でもまあ、人の噂ってものがそんなにちょうどいい具合になることなんて、今後も絶対にないだろう。

 諦めのため息。



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ニーナのビスケットの価格

「それで、何か新しい注文はあるか?」

 ユウリィさんがそう訊ねて、ステラさんが頷いた。

「村で春祭りが開催される。竜牙館からも祝いの酒を出すことになっている。注文書を用意してあるので確認して欲しい」

 ステラさんが鞄から取り出した一枚の紙を、ユウリィさんが受け取る。館にいるみんなの要望を元にステラさんがまとめたものだ。

「……祭りとはいえ、葡萄酒に、麦酒も……こんなにか? やけに多いな?」

 ユウリィさんが少し驚いた様子で言う。

 俺も最初はそう思った。うちではみんなそんなにお酒は飲まないし。マリアさんが時々少し多いかな、と思う程度。

 今回、そのあたりの注文を出したのはクレール。

「クレールが、そのくらいは必要だと言っている。祭りでは飲み放題にすると言っていた。その上で、村の人口を考慮すると、妥当な量と推定される」

 そう。親方が春祭りを盛り上げたいと言っていたのを陳情の場で聞いたクレールが、それならと企画したんだ。ステラさんの言う通り、村の人たちに振る舞うと考えれば、多すぎる量じゃない……と思う。親方とか、かなり飲みそうだし。

「それは大盤振る舞いだな? まあ、理由があってのことならオレは注文通りに揃えるだけだ」

「お願いします」

 その他は、普段通りの日用品が主で、あとは少し遠方から来る果物やお茶、お菓子なんかを頼んでおく。そのあたりは、ジョアンさんも珍しい物を届けてくれるけど、あの人はいつ来るかわからないからな……。

「しかし、そろそろ荷役の人員くらい雇わないのかね。この注文量だと、馬車から降ろすのもかなり苦労すると思うぜ?」

 その心配はもっともだ。荷台いっぱいに積まれてくる樽。この丘の上まで牽かされる荷馬も大変だろう。もちろん、それを荷台から降ろすのも。

 ただ、人を雇うのに関しては、今のところまだ慎重。

「まだ村も発展途上。人手が足りない。館のことはなるべく自分たちでやるべき」

 ステラさんが指摘したとおり、村は村で新しいあり方を模索しているところ。あまり館の手伝いに駆り出すわけにもいかない。

 手伝いに来てもらうにしてもね。俺たちにとっては『お願い』であっても、こっちから頼むと、村の人たちは『命令』と思うかもしれないし。

 よほどの事がない限り、強権は使わないで済ませたいところ。

「俺がやれば済むことは、人を雇うほどでもないですよ」

 結論としては、そういうこと。

「働き者だな?」

 ユウリィさんは少し呆れたような顔をした。

「ユウリィさんだって、ほとんど自分一人でやってるでしょう?」

「オレはいいんだよ。趣味だからな?」

 商売は趣味だったのか。まあ、ユウリィさんらしいか。

 それからみんなで、ユウリィさんが荷台に布をかけ直すのを手伝って、今日の取引は終わり。

「せっかくだしうちで夕食ご一緒しませんか」

「お風呂もあるですよ!」

 俺とナタリーがそう声をかけると、ユウリィさんは少し迷った様子だったけど、結局は断った。

「魅力的な申し出だが、今日は弟子に指導をしなくちゃならないからな」

 なるほど。

「ニコルくんの指導ですか」

「そう、ニコルの」

 まあそういうことなら仕方がない。

 ニコルくんはユウリィさんの弟子。とは言っても、旅商人のユウリィさんについて回っているわけじゃなくて、今はこの村で雑貨屋を任されている。

 お店はユウリィさんの所有で、一応本店。単に、所有してる店舗が他にひとつもないからってだけらしいけど。ともかく、そのお店の経営を全部任せてるんだそうだ。ユウリィさんは「自分でやらせた方がよく覚えるだろ?」と言ってた。実際、そういうものかもしれない。

 連れ歩くのが面倒で、もっともらしい理由を並べただけって可能性もあるけどね……。

 まあ、俺が伝え聞く限りでは、結構繁盛してるらしい。

「この町はもっと発展するとオレは睨んでるからな。あいつには今のうちに、稼ぎ方をよーく教えておかなくちゃいかん」

 ユウリィさんはあちこち忙しく駆け回ってるから、たまにこの村に立ち寄った時には、ゆっくりくつろぐよりも弟子の指導、というわけだ。

「将来はユウリィさんみたいなやり手になるのかな……」

 楽しみなような、恐ろしいような。

「もちろん、あんたに損はさせないぜ? ニコルは数字の天才だからな。いつかきっとあんたの助けになる。もちろん、オレとニコルはその分の対価をいただくがな? あんたはそれ以上に得をするはずだ」

 その対価が、すごいことになりそうな気がしてるんだけどね。

 とまあ、雑談も一区切りして、さてそろそろ……という頃合いに。

「あ、よかった。ユウリィさんまだいた」

 そう言ってニーナがやってきた。手には小さな包みを持ってる。

「これ、今朝焼いたビスケット、ニコルちゃんと一緒に食べてください」

 あれか。香ばしくて、サクッとした食感で、甘い。アクセントに入ってるのは胡桃。前とは作り方を変えてみた新作らしい。俺も朝に食べたけど、他では食べたことがないくらい美味しかった。

「えーっ! あのビスケット、あげちゃうですか!」

 ナタリーがそんな抗議をしたのは、朝のことが原因かな。ナタリーがあまりにも一人でどんどん食べてしまうせいで、途中でニーナに「また後でね」の言葉で止められたんだ。

「まあまあ。また作るからね?」

 ニーナに言われて、ナタリーも仕方なく引き下がったけど。

 で、包みを目の前にしたユウリィさんはというと。

「ほう、うまそうな匂いだ。値段はいくらだ?」

 そう言われて、ニーナは「え」と困惑顔。

「たくさん作ったから、いいですよ、そういうのは」

「そいつはダメだ。あんたは正当な対価を受け取るべきだ」

 ユウリィさん、また面倒くさいことを言い出したな。貸しを作るのはいいけど、借りは作りたくない、みたいな感じ。タダより高い物はない、を座右の銘にでもしてるのかもしれない。

「でも、値段って言われても」

 ただのおすそ分けのつもりだったニーナはちょっと困ってる。今さら「やっぱりやめた」ってわけにもいかないしね……。

「領主様はもう食べたのか? だったら、いくらだと思う?」

 おっと……こっちに来たか。

「確かに朝食の時に少し食べたし、おいしかったけど……値段か……」

「いきなり言われても困るよね……」

「特級おいしいから、特級高くても当然です!」

 ユウリィさんに渡したくないのか、ナタリーは勢い込んでそう言ったけど。

「だとしたら、ナタリーはもう今後は食べられなくなるかも」

 というニーナの指摘に「えっ……」と絶句。

「価格……」

 ナタリーが黙ったと思ったら、今度はステラさんが、黙考から目覚めて呟いた。

「……適正な価格ということであれば、まずは原価を計算する必要がある。その上で、その物品に対して加えた技術や手間を貨幣価値に換算したものと、販売者が得たいと望む利益を上乗せして、最初の価格が決定される。続いて、これを購入しようとする者の多寡により――」

「はい、そこまで」

 そう言って、ニーナが割り込んだ。

「……まだ説明が途中」

「長くなりそうだから」

 少し不満げなステラさんを、ニーナはばっさり。

 確かにニーナの言う通りなんだけど、俺だったらそのまま最後まで聞いてたかもしれない。止められなくて。聞いても理解はできない気がするけど。

 ステラさんの説明を止めたニーナは、結局、ビスケットの包みをユウリィさんに押しつけた。

「今日のところはとりあえず、持って帰ってください。で、次に来た時に、ユウリィさんが正当だと思うだけ、お返しをしてくれれば」

「なるほど、名案だな? それじゃ後でニコルと二人、じっくり検討させてもらおう」

 ユウリィさんはそう言って笑って、包みを受け取った。

 あの顔から察するに、多分、俺たちをからかってたんだろうな。でもまあ、そう約束したからには、ニーナのビスケットに『正当な対価』ってのを支払ってくれるだろう。

 ユウリィさんが立ち去るのを見送って、ニーナは館の方に戻った。

 俺とナタリーは……

 ステラさんから適正な価格をどうやって付けるべきかの長い説明を聞くことになり、最後まで聞いてもやっぱりよくわからなかった。



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材料が揃った

 さらに数日を経て、魔剣化の材料がほぼ揃った。

 昼の内にステラさんからそう報告を受けていた俺が、夕食の席でみんなにもそのことを伝えると、たちまちお祝いムードになった。

 結局、集め始めてからここまで、一ヶ月くらいかかったかな。必ずしも毎日材料集めをしていたわけじゃないけど、みんなの熱が冷めないうちにここまで来られて良かった。

 材料が揃ったことで、あとは実際に作ってみるという段階になる。

 夕食の後に、ステラさんが今後の作業について話してくれた。

「マンドラゴラとか何に使うのかと思ったけど、魔法陣を描く塗料に混ぜるのか」

「食べるんじゃなかったんですね!」

 ナタリーが意外そうな感じで言った。

 えぇ……あの何か気持ち悪い感じのマンドラゴラを食べる?

 ないな。ないない。

「マンドラゴラ……毒がある植物」

「しっかり焼くとか、塩漬けや酢漬けにでもしたら食べられるのかと思ってたです!」

 うーん。そう言われるとナタリーの言い分もわからなくはないな。

 気持ち悪い感じの顔みたいな部分や手足みたいな部分は包丁でざっくり落としてしまえば、ニンジンと大差ない気もする。

 ……まあ、どっちにしろ毒があるから食べないんだけど。

「マンドラゴラの他にも、魔法に影響する植物の粉末を混ぜ込んで塗料を作る。入手困難だと思っていたパエトの根も確保できた」

「えっ。あったんですか? パエトの根が?」

 ステラさんの説明に驚いたのはマリアさん。

 パエトの根……今では絶滅した植物だと考えられているけど、手に入った。いや、持ってたと言うべきか。

 俺が異界で買って荷物袋に入れてた『活力の球根』が、それだったらしい。そういう商品名で売ってたんだ。他の材料を探して倉庫を確認した時、ステラさんが運良くその球根に気付いて助かった。

 煎じて飲んだら身体の不調が一気に吹き飛ぶような代物で、異界でも結構高かった覚えがある。確か一角獣の角と同じくらいだったし、銘のない魔剣のうちそんなに強くないものなら買えるくらいの金額。

 そう考えると今回の魔剣制作は、金額的には本末転倒のような気がしないでもないな。元々、たぶんそうだろうという予想は、ステラさんから聞いてはいたけども。

「パエトの根、栽培できないでしょうか?」

 マリアさんがステラさんに訊ねた。

 なるほど。栽培したら増やせるかもしれないのか。

「可能性はある。幸い、三個あるうち、魔剣化に使うのはひとつだけ。栽培は残りの球根で試すことになる。栽培について記した本を探し、万全の態勢で臨みたい」

「ぜひ一緒にやらせてください!」

「心強い」

 今となっては他では滅多に手に入らない稀少な植物。案外、将来的に村の産業になりそうなのはこっちかもしれない。

 マリアさんとステラさんは挑戦するつもりみたいだから、俺も応援しよう。

 さて、手順の確認もいよいよ最終段階。

「仕上げに霊気(マナ)を込めることになる。他にも方法はあるが、今回は魔剣化する刃物を放さずに握っておく方法を採用する。完全に定着するまで、霊気(マナ)を通し続ける必要がある」

 ふむ。やっぱりここでも「えいやっ」の掛け声だけで完成、というわけにはいかないらしい。でも握っておくだけならまあ、簡単そうではあるな。

「魔剣化するのはニーナの私物なので、本来ならニーナに任せるべき作業。ただし、長時間の作業となるので、無理にとは言わない」

 ステラさんの言葉がなにやら不穏なので、俺たちは顔を見合わせた。

「それって、どのくらいかかるの?」

霊気(マナ)の量によって仕上がりまでの時間が変わる。試算では、ニーナなら二日かかる」

 訊ねたニーナが、ステラさんの返答に絶句。

「さすがにそれはちょっと厳しいかな……」

 二日の間ずっと何かを持ってるだけでも大変そうなのに、それが刃物。

 そしてそれをやるのがニーナだと、他のみんなの胃袋にもダメージを与えかねないな……。

 それが予想できるから、ステラさんもニーナに勧めないんだろう。

「他の方法もあるって言ってましたよね。それは?」

「……手順書には、死なない程度に突き刺したままにしておく方法も紹介されていた。生け捕りした魔獣等を所有している場合には選択肢のひとつになる。今回は現実的な方法ではないため、除外した」

 それは結構、危険そうな方法だ。そんなことをして魔獣がおとなしくしてるはずないし。結局、完成まで気が休まらない点は同じか。

「ずっと握っておく方法、僕がやるとどのくらいになりそう?」

 クレールが訊ねると、それも想定してあったらしく、ステラさんの返答は早かった。

「私やクレールなら、およそ半日。早朝から始めれば、夜には終わる」

「う。ニーナと比べるとだいぶ短いけど、それでもやっぱり結構長いね。でも、そのくらいならいけるかな……」

 確かに、クレールは俺と一緒に陳情を聞く以外には、特に決まった仕事があるわけじゃない。ときどき、ニーナから手伝いや買い出しを頼まれているけど、それも館の中で暇そうにしてるからだ。

「よし、そこは僕ががんばるよ! 材料集めではあんまり活躍できなかったしね!」

 決意に満ちた目と、両手に握りこぶしで、クレールがそう宣言した。

 でも、気になることもある。

 クレールが刃物をずっと持ってるのって、もしかすると結構あぶな……。

「……何を言いたいのかな?」

 おっと……。うっかり口に出ていたのを聞きつけられたか。

 クレールは握ったままの拳に力を込めて振るわせつつ、不信感を湛えた目で俺を見ている……。

「……クレールが怪我したら嫌だなって」

「ちゃんと気を付けるから大丈夫っ!」

 普通ならまあ、そうそうひどいことにもならないだろうとは、思うけど。

 でも、クレールだからなあ……。ここ数日、特に何もやらかしていないから、そろそろ何かあるんじゃないかという予感がしてしまう。

 と、そこにステラさんが補足。

「鞘に入れても良いし、布で包んでおくのも良い。抜き身である必要は無い」

「だって。じゃあ問題ないね」

 そういうことなら、まあ、大丈夫かな。誰かが見張っ……見守ってれば、重大事故にはならないだろう。多分。

 ステラさんは、やる気に満ちあふれたクレールの顔をしばらく眺めて、思案。

「……私が霊気(マナ)を込める想定で回路を書いていた。クレールのための修正が必要。数日かかるが、予定日には間に合う。そのはず」

「予定日っていうのは、何か理由がある?」

 クレールがステラさんにそう訊ねながら、俺にも視線を送ってきた。でも、日程を決めた覚えはないな。どういうことだろう。

「不慣れな場合は満月の魔力を借りるのが良い、との記述があった。それに従う」

「なるほど」

 そういうことなら、俺も反対する理由はないし、事前に相談されてもその日にしただろうな。月はこっちの都合では動かないし、こっちが合わせるしかない。

「がんばるぞー!」

 クレールが握った拳を突き上げた。



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ものぐさなクレール

 今日は満月。とはいえ、まだ昼だから月は出ていない。ステラさんによると、それでも魔法への影響はあるらしい。瞬間的に発動する術法にはほとんど影響ない程度とはいえ、今回は少し長時間になるから、無視できないんだとか。

 それがいい方向に働くように準備してあるって話だから、心配はないけど。

 今回魔剣化を施すニーナの包丁には、昨日の夜のうちに、ステラさんが下準備を済ませてくれていた。今朝、始める前に見せてもらったけど、特殊な塗料でびっしりと文様が描き込まれていて、ちょっと不気味だったな……。

 預かった包丁を握って霊気(マナ)を込め続けているクレールは、最初のしばらくは落ち着ける場所を探してたようだったけど、当のニーナから「刃物を持ったままうろうろしないでね?」と叱られて、俺の執務室に逃げ込んできた。多分、温泉熱を利用した暖房があるからだと思うけど。

 今はソファのクッションを枕にして、女の子にあるまじき姿勢でだらけている。刃物を持ってる緊張感がないのは、刃物が左手ごと布でぐるぐる巻きにされてるからかな。

「おなか空いたねー。何か食べるものない?」

 だらけきった姿のまま、クレールが呟いた。

「さっきお昼食べたじゃないか……」

 左手が使えないクレールのために、昼食は片手でも串で突き刺すだけで簡単に食べられるようにしてあったし、クレールも大いに満足するまで食べたはず。

「それはそうなんだけど、お菓子は別のおなかに入るからさー」

 そうなのか。よくある言い訳に聞こえるけど、クレールの場合は本当かもしれない。ナタリーほど運動してる感じもないのに、結構食べてても太らないし。

「仕方ないな。ビスケットでいい?」

 こんな時のためにと、ニーナが朝の内に用意してくれたのがある。クレールがここに来ることも、何かおやつを欲しがることまで、ニーナには予想の範囲内だったってことだ。

 ニーナが鋭いのか、クレールの行動が読みやすいのか。

 まあ、どっちかというと後者のような気はする。

「わーい。僕、ビスケット大好きなんだー」

「そうだっけ? 初めて聞いた気がする」

 ニーナは知ってたのかな。それとも、前に作って評判がよかったからってだけなのか。

「甘い物はだいたい好きー」

「そういうことか」

 難しく考えるような話でもなかったみたいだ。

 ソファの前のテーブルに、ビスケットが並べられた小箱を置く。皿に並べた方が見栄えがいいのはわかるけど、俺とクレールだけならそこまでちゃんとする必要もないかな。

「じゃあ、あーん」

 クレールはソファから起き上がりもせずに、そんな風に言って、口を大きく開けた。

「……空いてる右手で取ればいいと思うんだけど?」

「あーん!」

 自分で取るつもりはないらしい。あまりにもだらけすぎじゃないかな、とは思うけど、言い争っても無駄な気がする。

 ……だらけすぎのせいでスカートの裾が上がって結構きわどいところまで太股が見えてるのは、うん、見てないことにしよう。

「仕方ないな……はい」

 ビスケットをひとつつまんで口元に寄せると、クレールはそれにぱくりと食いついた。

「んー、甘くておいしー」

 相変わらず、小動物的な可愛さはある。

「お茶もちょうだい」

「お茶はないよ」

「じゃ、お水でいいや」

 というやりとりを、やっぱり起き上がりもせずにするので、俺は「やれやれ」とため息をつきながら、水差しの水をカップに注いで手渡した。さすがに水の入ったカップは、クレールも空いてる右手で受け取った。

「んー、冷えてておいしー」

 クレールは結局、飲み終わった後のカップの片付けにも起き上がることなく、俺を呼びつけて済ませた。数歩の距離だからまあいいか、と席を立ってカップを受け取ったけど、クレールだって身体を起こしさえすれば一歩もない距離にテーブルがあるんだから、そこにでも置いとけばいいのにとも思う。

「そういうところお嬢様だよね、クレールって……」

 今の俺の素直な感想がそれ。

「えー? そのお嬢様のイメージ変じゃない?」

 クレールはすぐに抗議の声を上げた。寝転がったままだけど。

「そうかな。そりゃあ、クレール以外にお嬢様の知り合いなんていないし、聞きかじりのイメージではあるけど……」

「大抵のお嬢様は、ちゃんと『美味ですわね』って言ってると思うよ?」

「ん?」

 何の話かと思ったら……「おいしー」についてか。そこじゃない。けど、お嬢様は「おいしー」と言うもの、と思ってたならそれはイメージが変だと言われるのはわかる。でもじゃあ「美味ですわね」ならいいのかというと、それもどうなんだという気はするな。

「ん?」

 話がかみ合ってないことにクレールも気付いたらしい。

「俺が言いたかったのは、身の回りのことをお付きの人にやらせてるイメージの方だけど」

「えぇー。それって僕には当てはまらないでしょー」

 改めて説明したところに、改めての抗議。

「今まさにその状態なんだけど」

 俺がそう指摘すると、クレールは「うっ」と呻いて、黙った。自覚はあるらしい。

「えっとー……この魔剣化の作業って、結構疲れるんだよね。力を吸い取られてるような感じで、身体がだるーくなってさー。だから、今日はたまたまじゃない?」

「そうかな」

 まあ、普段のクレールは自分のことは自分でやってる……かな?

「思い返してみると、そうかも」

「んふ。そうだろうと思ったよ」

 まあ、ニーナから禁止されてる食器運び以外は、だけど。



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魔包丁完成?

 クレールは夕食も右手だけで済ませた。

「このままじゃお風呂にも入れないから、そろそろ出来上がって欲しいね」

 疲れが溜まってきたのか、そんなことも言っていた。

 窓の外を見れば、満月。

 個人的には、満月にはあんまりいい印象ないけどね。まあ、見るだけならきれいではある。

 ステラさんからは、包丁から煙が出たら完成、と聞いてる。刃物に文様を描いていた塗料が役目を終えて燃え尽きる時に発生するものらしい。そうなるように調整されてるそうだ。

 ステラさんが事前に計算した通りなら、そろそろのはず。

「さすがに飽きたよね」

 クレールが言うと、近くにいたニーナが苦笑していた。ニーナだったらこれ、二日間やらないといけなかったんだよな。大変そうだ。

「儀式魔法には、より大変なものもある。魔法には忍耐も必要」

 ステラさんの解説に、クレールは「うへえ」って感じの顔をした。

「父様はそういうの苦にしない性格だったけど、僕には無理だなー」

 クレールのお父さんは……確かに、そういうの黙々とやりそうな人だ。時間に対する意識が俺たちとは違うせいかもしれないけど。

 それにしても……聞けば聞くほど、魔法も便利なばかりじゃなさそうだな。

 そんな雑談で時間をつぶしていると、夕食の後片付けも終わり。マリアさんはまだ魔女の店から帰ってきてないから、ナタリーがミリアちゃんを連れてお風呂に行った。

 残りの四人で、魔包丁の完成を待つ。

 そこに、ニーナがお茶とお菓子を用意してくれた。リンゴのタルトはニーナが得意としているお菓子で、ニーナ自身の好物でもあるらしい。他のお菓子の時より、ニーナ自身の取り分が多いのはそのせいだろう。

「多くない?」

 クレールが訊ねると、ニーナは笑った。

「これは、私が食べたくて作ったのを他の人にも分けてあげてるだけだから。食べてもらうために作ったお菓子とは違うの」

「えぇー。僕、これだけじゃ足りないよー」

 そう言いながら、こっちにチラッと視線を送ってくるクレール。

 ……俺の分を狙ってるな……?

 こういう時は、取られる前に食べてしまうに限る。

「非常に美味」

 ステラさんも同じ判断をしたようで、口をもぐもぐさせている。

「ぐぬぬ……」

 クレールはほとんど睨むようにこっちを見ているけど、ちゃんと同じだけは食べたんだから、こっちも文句を言われる筋合いはないな。

 そしてさすがのクレールも、ナタリーとミリアちゃんのために残してある分に手を付けるほど大人げなくはない。……未練がましく見てはいるけどね。

 それからさらにしばらく経った頃。

「あ、なんか熱くなってきた気がする!」

 クレールが声を上げた。見ると、包丁を持っている左手のあたりから、うっすらと煙が立ち上っていた。それは見ているうちにもだんだんと濃くなっていって……やがて止まった。

「……できたのかな?」

「できた」

 クレールが訊ねて、ステラさんが頷いた。

 ニーナとクレールが笑顔になった。きっと俺も同じだろう。

「開けてみていいのかな?」

「構わない」

 ステラさんの返答を受けて、クレールの左手を包丁ごと覆っていた布が取り払われる。

 姿を現したニーナの包丁は、まだ魔法の残滓である燐光をまとって輝いていた。始める前に描き込まれていた文様はすっかり消えていて、もう不気味さは感じない。むしろ、何か聖なる力が宿ったようにすら見える。

「た、試し切りしないと!」

 クレールが言うと、ニーナが台所からまな板とキャベツを持ってきた。

 ニーナに包丁を手渡そうとしたクレールは、凝り固まった左手の指をなかなか開けなくて苦労していたけど、俺とニーナが手伝ったらほどなく外れた。

 包丁を手渡されたニーナは、清潔な布で刃を拭ってから、その包丁でキャベツをサクリ……。

「わっ、すごい切れ味……刃を入れても全然抵抗ない。断面もきれい。わー」

 キャベツはそのままあっという間に千切りになった。

 横で見てたクレールも「すごいっ!」と驚いている。

 俺には、包丁の切れ味のせいなのか、それともニーナの技量のせいなのか、どっちとも判断できないけどね。ともかくすごい速さだったのだけはわかった。

 ニーナ自身も驚いてるから、包丁の切れ味がすごいのは確かなんだろう。

「これは間違いないね」

 クレールが言って、他の三人も顔を見合わせて頷いた。

「やったー! 魔包丁の完成だー! おめでとー!」

 クレールが喜びの声を上げて、俺と一緒に拍手。

 ニーナは包丁を手にしてにっこりと……うん、ちょっと怖い。

 そしてステラさんは。

「その認識は誤り」

「ん?」

 何が違うんだろう。

 よくわからないままの俺たちは、ステラさんの次の言葉を待った。

「通常の霊気(マナ)でなく、クレールの持つ煌気(エーテル)を定着させるよう、回路を書き換えておいた。よって、今回作られたのは魔包丁ではない」

「つまり……?」

 俺たちは「ゴクリ……」と息を呑み。

 ステラさんは厳かに告げた。

「……それは聖包丁」

「聖包丁……!」

 何かすごい話になったな。

 クレールは訳あって、普通の人には扱えないとされる煌気(エーテル)を扱うことのできる体質だから、それを知っていたステラさんが、一計を案じたというわけだ。

 確かにこの包丁、そう言われてみれば、何となく神々しさのようなものは感じる。

 しかし、こういうこともできるのか。ステラさんは何でも知ってるな。

「そういえば僕の煌気(エーテル)がだいぶ吸い取られたような……」

「えぇ?」

 クレールが自分の胸のあたりを撫でながら、そんな風に呟いた。

 胸が特別減ってるようには見えない。というか元々そんなに大きくは……ああ、うん。まあ、それは今はいい。

「なんてね。特に何ともないよ」

 なんだ、冗談か。

 残念だな。もしそれが本当なら、俺の竜気(オーラ)もこういうことに使って減らせたかもしれないのに。その時は竜包丁になる? 魔包丁よりさらに武器っぽい名前に感じるのはなぜだろう。

「それにしても聖包丁だなんて、何だかすごそうだけど、魔包丁とは性能が違うの?」

 まな板の上に横たえられた魔包丁――いや、聖包丁を、指でつんつんとつつきながら、クレールが訊ねた。ステラさんは少し黙考して、それから、返答。

「……おそらく、通常の武器で傷付かない妖魔や亡霊も斬れる」

「それ、包丁には要らない機能だよね? 食べないよね?」

 クレールが即座にツッコんだ。

 うーん……。妖魔はもしかしたら、ぎりぎりの極限状態だったら仕方なく調理する可能性があるかもしれないけど。

 亡霊はないだろうなあ……。腐ってるか、そもそも実体がないかだと思うし……。

 どっちも、食べたいとは全く思わないな。

「今後改めて武器を作ることになれば、今回の経験がきっと役に立つ。……必要なこと」

 ステラさんはもっともらしい理屈を並べたけど、俺とニーナは苦笑。

「でも包丁には要らない機能だよね?」

 クレールが追い打ちをかけると、ステラさんは、すっ、と目を逸らして。

「…………おそらく、そう」

 と負けを認めた。

 まあ、単にそんな要素が付け足されただけならいいかな。あったら困るって機能じゃないし。

 ひとしきり感心した後で、さっき試し切りで千切りにしたキャベツを、ニーナがちょっとしたサラダに整えた。といっても、オリーブ油、ワインビネガー、塩を適量入れて混ぜ合わせただけだけど。これはこれで美味しい。

「これも、数百年したら伝承武具(レジェンダリーアーム)みたいな扱いになっちゃうのかなー」

 タルトが物足りなかったらしいクレールが、キャベツをもっしゃもっしゃと食べながら、合間にそんなことを言った。

「そんなに長持ちする?」

 ニーナが訊ねると、ステラさんが頷いた。

「可能性はある」

「そうなんだ。すごいね」

 いくつかの材料は近いもので置き換えたとはいえ、古王国時代に書かれた本の通りに作ったわけだから、他の古王国時代の魔剣と同じように長持ちする可能性はあるわけだ。魔剣ほど戦いで荒っぽく使わない分、むしろ長持ちかもしれないし。

 まあ、これがどのくらい長持ちするのかなんて、それが百年を超えるんだったら、俺たちがどう論じてもね。きっと俺の方が先に死んでる。ニーナがその包丁をずっと使える程度に長持ちすれば十分だろう。

 ……でも、本当にそんなに長持ちなら、子供に受け継ぐとか、あるかもしれないのか。

 ニーナが、ニーナのお母さんからそうしてもらったように。

 そう考えると、より長持ちであることに越したことはないな。

「それじゃあさー、銘ってわけじゃないけど、何か名前付けちゃう?」

 クレールの提案に、ニーナは「えぇ……」と呻いた。

「普通、包丁に個別の名前は付けないような……そもそも元にしたのはお母さんが使ってた包丁だから、伝説になるような逸話はないと思うよ」

「えっとー、ということはー……」

 ニーナが渋っているのをほぼ無視して、クレールが案を練る。

 少しの沈黙の後で「ひらめいた!」という感じの得意顔を見せたクレールに、ニーナと俺は不安を隠せない。

「聖母の包丁!」

 そう言い切ったクレールは「どうだ、まいったか」と胸を反らしている。

 なんだか、うん。安直だな……。

「ええぇ……それって『聖』を付けるところ違わない?」

 ニーナの指摘ももっともだ。

 あとはステラさんが鋭い指摘を入れれば、クレールも諦めるはず。

 三人から視線を受けて、ステラさんが口を開いた。

「……良いと思う。伝説や伝承は、後からついてくる」

 あれ?

 ステラさんはクレールの案を支持するのか……。

「後からって、それ、捏造なんじゃ……?」

「これからニーナが伝説になるということ。問題ない」

「ええぇ……」

 結局そのまま押し切られて、包丁の名前は『聖母の包丁』に決まった。



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聖母の包丁

 聖母の包丁ができた翌日。

 朝食の席でニーナから、その包丁を今日の夕食の準備に使うつもりだと発表されて、みんなの期待は高まっている。

 朝や昼からじゃだめなのかと訊ねたら「マリアさんがいないから、みんな集まってる食事で初披露したい」と言われた。なるほどね。そのことはナタリーがマリアさんに伝えてきてくれることになった。

 どんな夕食になるんだろう。

 普段なら俺も夕食の準備を少し手伝ったりするけど、今日はニーナが一人でやると言うので任せることになった。だから、いったい何を作るつもりなのか、全容はニーナにしかわからない。

 ちなみに、さっき台所を覗きに行ったナタリーからは、肉が使われていることが報告された。

「どんな料理なんだろうね」

 クレールの呟きに、ナタリーが追加の情報を提供する。

「特級いい匂いがしてたです!」

「いい匂いがするって、ニーナの料理はだいたい全部そうじゃないかな?」

 それはまあ、確かにそうだ。ほとんどいつもそうだ。つまり、参考にならない。

 まあいいけどね。完成すればわかることだ。

「おそらく、非常に美味であるはず」

「ですです!」

 期待をたっぷり込めたステラさんの言葉に、ナタリーが強く同意した。

 それからしばらくして。

「夕食できたから、みんなに声かけてくれる? ……って、もうみんないたんだ」

 台所から食堂を覗き込んだニーナが、驚いていた。

 ニーナが言ったとおり、すでにみんな食堂に集まっている。それだけ、今日の夕食を楽しみにしていたわけだ。

 みんなを代表して、クレールがニーナに訊ねる。

「今回は聖母の包丁を使ったんだよね?」

「その名前は確定なの? まあ、うん。使ったよ。切れ味すごすぎて、慣れるまで少しかかるかなって思うけどね」

 切れ味がすごいと聞いて、マリアさんとミリアちゃんが「へぇー」と声を上げた。二人は聖母の包丁ができてすぐの時はその場にいなかったから、まだその包丁の切れ味は見てない。見たら驚くかもしれないな。

「それで今日の夕食は何ですかっ?」

 ナタリーは包丁のことより献立が気になるみたいだ。肉が使われてるらしいから、なおさらだろう。

「牛肉と茸の赤ワイン煮と、野菜とベーコンのスープ、それとトースト」

「おにく! おにくは特級好きです! ベーコンもです!」

 ナタリーの主張は聞き慣れたものだったから、みんな「はいはい」と苦笑で済ませた。でも、夕食を楽しみにしてるのはみんな同じ。

 ニーナの指名を受けた俺が配膳の手伝いをして、ほどなく、夕食がテーブルに並んだ。

 いい匂いが食堂いっぱいに立ちこめて、それだけでもう、腹が「早く食べさせろ」とうるさい。みんなも同じ気持ちみたいだけど、特にナタリーは今にも食いつきそうで、すぐに自分を抑えきれなくなりそうな気配を漂わせてる。

 みんなで、少し端折り気味に食前の祈りをしてから、食べ始め。

 赤ワインで煮込んだというだけあって、少しとろみのある煮汁は濃い赤茶色。肉はどこの部位かはわからないけど、ごろっと大きめに切ったものが入っていて、見た目には固そうに見えた。

 でも、スプーンを差し入れると肉は簡単にほぐれた。口に入れると、見た目ほどには濃厚な味ではなくて、ふわっと染み込んでくるような味。

 故郷にいた頃、母さんが作ってくれた料理を思い出すな……。

「やっぱりニーナの作る料理はおいしー」

「ですです!」

 みんなも「おいしい、おいしい」と食べていて、その様子を見たニーナも嬉しそうにしている。

 ただ……。

 気のせいか、ステラさんだけ少し、なにやら浮かない顔をしているような。ステラさんの表情はわかりにくいけど、他のみんなほどは食が進んでいないように感じる……いや、うーん。ステラさんの食が細いのは元々かな、とも思うけど。

「おかわりが欲しいです!」

「はいはい」

 食べまくっているのはナタリー。こっちは完全にいつものことだけどね。

 

 魔剣化が成功したお祝い気分もあって、夕食はおおむね賑やかに終わった。

 食後のお茶と雑談も一区切りして、それぞれ後片付けにお風呂にと食堂を出て行く中……

 ステラさんだけが、自分の席でまだお茶を飲んでいた。

 やっぱり、何か様子がおかしい気がする。

 考えられるのは……魔剣化のことしかないよな、やっぱり。

 もしかすると、魔剣化の費用のことで何かあったかな。ステラさんに、実際にかかった費用をまとめておいて欲しいと頼んでおいたんだけど、それが思いの外、悪い結果だったのかもしれない。

 まあ、覚悟して聞くしかないな。

「ステラさん」

 声をかけると、ステラさんは肩をびくっと震わせた。

 ステラさんがこんなにわかりやすく驚くのは珍しいな。

「何か悩み事ですか。例えば、その……魔剣化のこととか」

 元々、安く済むとは思ってなかったけど、さて、どうなったのか。

「……魔剣化……」

 ステラさんが心ここにあらずといった様子で呟いた。

 そして、うつむいてしまった。

「ステラさん?」

 心配になって声をかけると、ステラさんはうつむいたまま、ぼそぼそと……

 妙なことを言った。

「ニーナに謝らなければならない」

「謝る? どうして」

 訊ねるけど、ステラさんは両手で持ったティーカップを見つめたまま、無言。

「ニーナなら、まだ台所にいると思いますけど、呼んできますか?」

 そう言ってもステラさんは無言のまま。

 どうしたものかな。

 そもそも……ステラさんとニーナ。二人の間に、何があったんだろうか。

 俺には心当たりはなくて、どう言うべきか考えがまとまらない。

「……いい。こちらから行く」

 と、ステラさんが言った。

「一緒に来て欲しい。……私一人だと不安」

 そんな風に不安を訴えるのは、ステラさんには珍しい。だから、俺も力になりたいとは思うんだけど。

 本当に、何があったんだ。

 ニーナは台所で後片付けをしていた。いつもなら誰かしら手伝っているんだけど、今日はそれも含めて一人でやりたいとニーナが言ってたから、任せている。

 もしかしてそれも、ステラさんとの不仲が原因だった? そんな風には見えなかったけど、俺もみんなのことを何でも全部知ってるわけじゃないからな……。

 話してみないとわからないか。

「ニーナ、ちょっといい? ステラさんが話したいことがあるって」

「ん? うん、私はいいけど……どうかした?」

 片付けの手を止めて、ニーナが返事。ニーナの方はこれといって怒っている様子もない。さっきの夕食の時も、そんな感じは全然なかったし。

 だから、俺としてはいよいよ何が何だかわからない。

「……ニーナに謝らねばならない」

 意を決したのか、ステラさんが話を切り出した。

「何のこと?」

「聖母の包丁」

「?」

 ニーナは俺に視線を向けてくるけど、俺にもよくわからないので首をひねるしかない。

「聖母の包丁のことを、謝りたい」

 ステラさんが、そう繰り返した。

「そこはわかったけど、どういうこと? 私には心当たりないけど……あ、もしかして名前のこと? 確かに、聖母の包丁は大袈裟かなって思うけど」

 なるほど、そのことか?

 ……と思ったけど、ステラさんの様子を見るに、どうもハズレらしい。

 ニーナと顔を見合わせて、どうしたものかと思っていると、ようやく、ステラさんが続けた。

「今回の魔剣化。……ニーナに魔剣化した包丁を渡せば喜ぶと思った。今思えば浅はかだった」

 でも、やっぱり論点がはっきりしない。

 浅はか……? 何がだろう。何のことだ?

「うーん? いまいちよくわからないけど……」

 ニーナも困惑したままだ。

 最終的についた名前はともかく、包丁の魔剣化自体はちゃんと成功もしたし、ニーナも喜んでると思うんだけど。

 さっき食べた夕食も美味しかったし。

「……今日の夕食。非常に美味だった」

 俺が思ったのと全く同じ事を、ステラさんが言った。

 あれ。でも、だったらなぜ?

「あ、うん。ありがとう」

 ニーナはそう反応したけど、俺と同じで、ステラさんの話の脈絡はよくわかっていない様子だ。

「だが……正直に言うと……」

「うん」

 ひとつ頷いて続きを待つニーナを前に、ステラさんはたっぷり十呼吸ほども躊躇してから、ようやく言葉を絞り出した。

「正直に言うと、今日の夕食も『いつも通りに』美味だった。……聖母の包丁を使えば、より一層の美味になると思っていた」

「んー……まあ、やってることはいつもと同じだから、それはそうなんじゃないかな?」

 ステラさんの言葉に、ニーナはそう返した。

 でも、なるほど。ここまで言われれば、俺にもなんとなくわかる。

 つまり、あえて悪い言い方をすれば、ステラさんにとって今日の夕食は……

『期待したほどではなかった』

 ……ということだ。

 ただそれだけなら、わざわざ謝るほどのことじゃない……と思う。誰だって、そう思ったりするくらいのことはあるはず。

 でも、ステラさんがそれを謝りたいと言うのは……

 魔剣化したのが原因だと思ってるから、か。

「身勝手な失望をした。そして思い至った」

 ステラさんはまるで懺悔するかのように、静かに言葉を続けた。

「今後、ニーナが聖母の包丁を使って料理をすると知った者は、私と同じように期待をして、同じように失望するかもしれない。そして、ニーナの料理を美味だと評価しながらも、聖母の包丁あってこその美味であろう、聖母の包丁がなければ凡庸なものに違いないと、不適切な評価をするかもしれない。私は自分の興味と楽しみを優先して、浅はかなことをしたと……後悔の念を抱いた。同時に、ニーナに対して申し訳ないという思いが強くなった」

 俯いたままそこまで一気に言い切ってから、ステラさんは顔を上げた。

 そして、ニーナの顔をじっと見つめた後で、

「ゆえに、謝りたい」

 そう言って、頭を下げた。

 

 ――自分のせいで、ニーナが正当に評価されないかもしれない。

 

 ステラさんはそう考えているわけだ。

 でも、それだったら、俺も同じ。

「魔剣化の話が出た時に、包丁にしたらいいんじゃないかって提案したのは俺だ。ステラさんが謝らなくちゃいけないなら、俺も同罪だと思う。だから、一緒に謝るよ」

 その気持ちは本当だ。

 でも、その前に確かめなくちゃいけないことが残ってる。

「ニーナが、魔剣化しなければ良かったと思ってるなら、だけど」

 するとニーナは「ふむ……」と腕組みをした。

 ……俺がこれまで見た感じだと、ニーナは特に怒ってはいない。

 そう期待していながらの俺の行動は、あんまり褒められたものじゃないかもしれないけど。

 ちゃんと当事者として首を突っ込むなら、もうここしかなかった。

 もしニーナが本当に怒っているんだったら、俺もステラさんと一緒に怒られよう。その責任があるはずだ。

「じゃあね、私も正直に言わせてもらうけど」

「……うん」

 ニーナが口を開いたから俺は、そしてきっとステラさんも、まな板の上で捌かれるのを待つ魚の心持ちで、続く言葉を待った。

「この包丁、すっごいよく切れるよ。前なら『えいっ』て切ってたものが、もう、刃を当てただけでスパッと切れちゃうの。ほら、このパンの切り口、角がきれいでしょ? 前はこれちょっと潰れちゃってたんだよね。ここまで切れ味がいいなら、気を付けて使わないとちょっと危ないかなーって、それは思う。何か、まな板まで一緒に切れちゃいそうな感じ」

「使いにくくなったということか?」

「まだ慣れてないから、ある部分では、そうだね」

 魔剣化は、予想以上の効果だったと思う。ニーナほど普段から包丁の扱いに慣れていても、それでも気を遣うというほどの切れ味になったわけだし。

 鋭すぎるから逆に使いにくい、か。

 古王国の人たちもそうだったのかな。だから、魔包丁はあんまり作られなかったのかも。

「申し訳なく思う」

 ステラさんが呟く。俺も……と思ったら、ニーナが止めた。

「そんなこと思う必要ないよ。しばらく使ってたら慣れてくると思うし」

 慣れの問題なのか。

「今はまだ戸惑いもあるけど、この切れ味でないとできない料理もきっとあると思うんだよね。腕が道具に負けないように、まだまだ修行かなーって感じ。だから、うん。今日の料理を『いつも通りに』美味しいと思ってくれたなら――」

 ニーナは聖母の包丁に手を添えてから……

「――この包丁に慣れたら私、もっとすごいの作るよ?」

 そう言って、俺とステラさんに笑いかけた。

「そうなのか」

「そうだよ。だからね……」

 なおも不安げな様子で顔を上げたステラさんに、ニーナは頷く。

「お母さんの包丁、長く使えるようにしてくれて、ありがとう。大事に使うからね」

 ニーナの笑顔からは嘘を言っている感じは全くなくて、その言葉はきっと、本心。

「うん……」

 料理の味がそう劇的に変わったわけではなくても、包丁を魔剣化したことは、ニーナも喜んでる。それが確かにわかって、ステラさんもようやく納得したみたいだ。

 これで、本当に一件落着。

 

 ――っと、費用の話が残ってたな。

 事前の予想通り、古王国時代の魔剣を買った方が安上がり、という結果になった。いや、それどころか、ちょっとびっくりするような値段になってしまっていたから、やっぱりこれは自己満足、道楽、趣味……まあ、そんな感じ。村の産業にはできそうもない。

 もう次はないんじゃないかな。

 今度こそ銘入りの魔剣が作れる、ってことにならない限りは、だけど。



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ドラゴンの噂

「村の近くにドラゴンが?」

 夕食の席で、マリアさんがその報告をくれた。

「はい。とは言っても、近くの山の斜面に姿が見えたという程度で、まだ襲われた人はいないそうですけど」

 村の自警団の人が魔女の店にそう注意に来て、いざとなったら避難できるように心構えをしておいて欲しいと頼んだんだそうだ。

 そういう時は本当は、こっちにもすぐに連絡を入れておいて欲しいんだけどな……。

 今回はまだ噂の段階で、しかも緊急じゃなさそうだってことで、マリアさんがこっちにも伝えれば十分だろうってことになったらしい。

「雷王都市にいた頃は、竜が近くを飛んでたらすぐ鐘が鳴らされてたけどなあ」

「あんまり頻繁だから、街のみんなはあんまり気にしてなかったけどね……」

「ですです。見えてはいるけど特級遠くだから、全然危険とか感じなかったです」

「あれって監視所の人は大変そうだけどね」

 俺の呟きに、雷王都市出身のニーナとナタリーが返す。

 そういうものなのか。ちゃんと警戒していることが逆に油断に繋がってるのは、なんだかもったいない気がするな。でも確かに、俺も一年弱滞在したけど、あの鐘で避難したことはなかった気がする。ニーナが落ち着いてたからかもしれない。

 いや、一度だけ避難したな。でもあれは〈剣鬼〉が雷王都市に近付いて騎士団と交戦してた時だった。竜が理由じゃない。正直、〈剣鬼〉のことは今でも完全に恐怖を克服したとは言えないな。

 それに対して竜――ドラゴンは、ある程度強くなってから戦ったせいもあるし、何度も倒したからでもあるけど、あまり怖いと思う気持ちはない。むしろ格好の獲物。

 ただ……竜と戦うと、竜気(オーラ)が活性化するだけじゃなく、また新たに竜気(オーラ)を取り込むことにもなってしまう。それは避けないといけない。

 いざとなれば、みんなに倒してもらうしかないけど……さて。

「数は?」

「何頭もいるとは聞いていませんね」

 とすると、仔竜じゃないな。仔竜は一頭だけでの行動はしないはずだし。

 まだ若い竜かな。獲物を探してるだけならすぐにいなくなるかもしれないし、そいつが魔獣を獲るなら、退治する手間が省ける。

 面倒なのは、成竜が新しい巣を作る場合。放っておくと他にも竜が増えてしまう可能性もある。そうなると、村の自警団では対処できないだろう。

 古竜って可能性は……まあ、ないな。でももしそうなら、古竜は話も通じるし、平和的な対処もできると思う。たぶん。

「明日、様子を見に行くか……」

 村の人に危険があるかもしれないから、対処は早い方がいい。

「そういうことなら僕も行くよ。さすがにドラゴンが相手なら、ちゃんとした術士は必要だと思うなー」

 クレールが胸を張ってそう言うと、ステラさんも。

「私も行く。魔術……得意」

「あとはー、あたしみたいな、法術が大得意な子がいないとねー?」

 さらにミリアちゃんが立候補。一応、保護者であるマリアさんに視線を送ってみるけど、苦笑されただけ。

 マリアさんもこのメンバーなら任せても大丈夫と信頼してくれてるんだろう。

「じゃあ四人で、かな。ニーナとナタリーは?」

 ニーナはともかく、ナタリーはこういうの行きたがるかと思ったんだけど。実際、ナタリーはなんだかそわそわしてるし。

「行きたいのはやまやまなのですが、明日は予定があるです」

「館で留守番してるよ。ナタリーとお菓子作りすることにしてたから」

「そうなんだ」

「はい! 特級楽しみなのですよ!」

 予定があるなら仕方ない。

 ……それにしても、ドラゴン退治に参加しない理由がお菓子作りか。平和だ。

「えっ、お菓子いいなー」

 クレールもそう言い出したからちょっと笑ってしまう。さすがにクレールが抜けて三人ってことになると、ちょっと対処が難しくなるかな、と思うんだけど。

「ちゃんとみんなの分も作るから、クレールはリオンのサポートをお願い」

 ニーナがそう言ってくれたから助かった。

 クレールは「やれやれ」という感じのしぐさでため息。

「しょうがないなー。ま、僕って頼れるオトナの女だからね。そこまで言われたら仕方ないなー」

「頼れるオトナの女って……そんな要素は全然ないと思うけど……」

 ニーナが苦笑。この件に関しては、他のみんなもニーナと同意見みたいだ。もちろん、クレール本人を除いて、だけど。

 その評価を、クレールは無視。

「楽しみだなー、久しぶりのドラゴン狩り」

「……その言い方は何か、戦いに飢えてる感じに聞こえるな」

「みんなで遊びに行くのが楽しみって意味だよ」

 クレールとしては、貴族が鹿狩りなんかを娯楽にしてるのと同じような感覚なのかな。

 それに対して俺の方は……。

「遊びに行くわけじゃないんだけどね」

 これって害獣駆除だよなあ……という気持ち。

「狩るにしろ追い払うにしろ、別に危険なことはないでしょ?」

 緊張感がないのはそのせいもあるか。

「普通のドラゴンならね」

 それでも、村の人たちにとっては十分脅威だと思う。俺たちにとってはそうじゃないだけで。

 そこにマリアさんが追加の一言。

「話を聞く限りでは普通のドラゴンみたいでしたよ。あ、赤かったそうです」

 村の人はたぶんそんなに見慣れてないと思うから、わりと興奮気味に話したんじゃないかと思うけど……。

 俺たちと一緒に結構な強敵とも渡り合ってきたマリアさん、というフィルターを通して聞くと、そんなに大した問題には聞こえない。

 そういえば、サーベルタイガーの時もこんな感じだったような……。

「久しぶりにお兄ちゃんとお出かけできるー」

 ミリアちゃんとしてもその程度の危機感。

「……まあ、油断はしないようにね……」

 俺の言葉にみんな「はーい」と返事をしてくれたから、まあ、大丈夫だろう。

「あ、お弁当いる?」

「いるいるー」

 ……たぶん、大丈夫だろう。

 

       *

 

 村の人がドラゴンを見たっていう場所は、村の北にある高台だ。

 この東の端に、竜牙館も建っている。

 雑草もまばら、というほどに痩せた土地に大きな岩がごろごろと転がっていて、開墾もほとんど進んでいないけど、マリアさんとステラさんの見立てでは、ワインに適した葡萄を育てるにはいい土地らしい。それでこれから、その方向で整備していこう……という計画になってはいる。

 目的地はそんなに遠くなかったから、朝食をとってから出発した。夕食までには十分に戻れる距離だ。

 その近さだから、竜がいるとなれば、村人が不安に思うのもわかる。

 荒れた土地で馬車は使えないから、歩いて行くことになった。必然的に、俺が大荷物を背負うことにもなるけど、まあ、仕方ない。

 一応、魔剣は持ってきた。

 銘入りで、俺の異名の由来にもなってる魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉。

 竜を殺すために作られたという伝説がある……らしい。この剣については俺もまだ知らないことが多い。俺のひとり前の所有者のことですら、よくわからないくらいだ。

 俺の竜気(オーラ)が強まっているのもこの剣の影響があると思う。だから、少し距離を置こうとは思ってるんだけど、今回は相手がドラゴンということで、念のための用意。

 でもできれば、普通の剣で済ませたい。

 どんな相手か見てからだな……。

 前の領主がすでに整備していた東側から、西へと進むほどに土地が荒れて歩きにくくなる。石や岩を取り除いて地面を平らにするだけでも相当の苦労がありそうだ。

 まあ、それについてはおいおい、かな。

「そういえば、ドラゴンって食べられるのかな?」

 軽やかな足取りで前を歩くクレールが、そんなことを呟いた。

 ドラゴンの肉、か……。

「高級食材。美味との噂は聞く」

 クレールに答えるように発せられたステラさんの言葉に、俺は首を傾げる。

「あんまりおいしくなかったよ。臭みがあって、固かった。処理の仕方のせいかな」

 俺のその言葉に、クレールが立ち止まって、振り返った。

「……食べたことがある?」

 そんなに驚くようなことかな。

「あんまりたくさん倒したから、実はおいしかったらもったいないと思って、試しに焼くだけ焼いてね」

 見た目から、ヘビと似た感じの味かと思ってたけど、そうでもなかった。他の部位ならまた違う味だったかもしれないけど、ドラゴン一頭分の肉を食べ比べるのも一苦労だしなあ。

「……リオンってわりと何でも食べるよね……」

 クレールが呆れたような声でそう言った。

 不本意な評価だ。俺だって、そんなに何でも食べてるってわけじゃない……はず。

「あたしも食べてみたいなー」

「興味深い」

 ミリアちゃんとステラさんもそう言ったから、ドラゴンの肉の味って、わりとみんな興味あるんじゃないかな、と思う。そもそも、ドラゴンの肉の話を切り出したのはクレールじゃないか。

「ニーナならちゃんと調理できるのかなあ」

 包丁も切れ味良くなったし、ニーナならやってくれそうな気はする。

 でもそれでドラゴンを美味しく食べられるってことになると、また竜気(オーラ)が溜まりそうで怖いな。



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レッドドラゴン

 ドラゴンが目撃されたあたりまで近付いてきたから、一応、所々にある岩陰を選んで進む。ドラゴンは視力がいいから、その程度では隠れたことにはならないかもしれないけど。ただできれば、敵がこっちに気付くより先に見つけ出して、大まかにでも作戦を決めてから臨みたいところだ。

「あ、あれじゃないかなっ?」

 最初に気付いたのはミリアちゃん。指差す方を見ると、確かにいる。

 赤い鱗を持つ竜――レッドドラゴン。

「赤竜は生息域が比較的身近であるため、人間に与える被害の規模では暗黒竜を上回るとの試算もある。気性が荒く、遭遇すれば戦いは免れない。戦いになれば生半可な力量の者は死ぬしか無い。恐ろしい魔獣。……ただし、今のリオンにとってはさほど脅威で無いのも確か」

 ステラさんの解説に、ミリアちゃんが「へぇー」と感心。

 ミリアちゃんも俺と一緒に結構倒してると思うけどね、レッドドラゴン。とはいえ、たくさん倒したからってそいつに詳しくなるわけじゃないか。

「成竜だな。あれで何歳くらいなんだろう」

「身体的特徴からおそらく、百以上二百未満と推測される」

 この距離から見ただけでそこまでわかるのか。ステラさんは何でも知ってるな……。

「近くで観察すればより絞り込めるが、今日の本題では無い」

 まあ、確かに。

 しかしそうすると、成竜とは言ってもまだ若い方だ。身近にもそれ以上の年齢の人がいるし。ええと、まあ、何人か。……うち一人は、ものすごく身近だな。

「だったら、そんなに強くないかもね。僕ひとりでも勝てちゃうかも!」

「油断は禁物」

 調子に乗ったクレールを、ステラさんが窘める。

 ……まあ、単純に何年生きたかじゃなくて、何を経験したかなんだろうな、こういうのって。

 しかし、さて。

 向こうはまだ気付いていないみたいだけど、寝ているという感じでもない。すぐにこっちに気付くだろう。どう対応するか、みんなと話し合っておきたい。

 とはいえ、大した相手でもなさそうだ。おおまかに方針が決まってれば十分だろう。

「俺が引きつけるから、みんなは後ろにいて。俺が合図をしたら、援護を頼むよ」

 俺以外の三人はみんな術士。距離を取ったまま戦えるのが強みだ。あえて近付く必要はない。俺がドラゴンを的にしやすい場所に引き留めておけば、クレールとステラさんは一気に仕留めてくれるはずだ。

「オッケー、まーかせといてっ!」

「問題無い」

 俺は背負った荷物を降ろして、剣を――取る。

 少し迷ったけど、魔剣じゃなく、普通の剣にした。ここにクレールたちも控えてるから、信頼しよう。

 そうしていると、ドラゴンが頭を上げた。

 そして、こっちを見た。

「……向こうも気付いたな。行ってくる」

 念のため腕には〈鬼人の手甲(オーガブレイサー)〉も身に付けたし、普通の剣でもドラゴンと一戦遊ぶくらいは耐えるだろう。

 俺が岩陰から立ち上がって荒野に身を晒すと、ドラゴンは咆吼した。

 これを聞くのも久しぶりだ。村の人たちだったら、もうこれだけで恐怖を感じてしまうかもしれないけど、俺は気分が高揚してくる。久しぶりの戦いの予感に、身体が熱くなってくる……。

 ……いけないな。戦いの高揚は竜気(オーラ)を活性化させる。霊峰の聖竜にそう警告された。心を静めて、落ち着いて対処しないといけない。

 ドラゴンはこっちを見てはいるけど、近付いては来ない。

 それに向かって、一歩ずつ。

 俺の意思よりももっと深い、本能に近い部分が、俺の背中を竜に向かって押し出そうとしてくるけど、その衝動を抑えながら、ゆっくりと歩く。

 それに焦れたのか、ドラゴンが動いた。

 大きく広げた翼を、どうっ、と打つと、巨体が浮いた。飛んだというよりは、跳んだ、という感じだ。でもそれだけで、俺と竜との距離は一気に縮まった。

 ずん、と地面が揺れ俺の目の前に赤竜が立ち塞がった。

 縦長の瞳孔を備えた、ヘビのものにも似た眼が、俺を睨む。俺も睨み返したけど、相手の方が頭の位置が高い。かなり上を向くことになってしまった。

 理性や知性を感じないその相貌。俺のエサとしての価値を見定めようとしているのか。

 俺と睨み合う竜の口から、ごはぁ、と熱い息が漏れる。

 びっしりと並んだ牙は、なるほど、噛みつかれたらただでは済まない。人間の細い首なんか、ひと噛みでちぎれてしまうだろう。

 人間の天敵とも言うべき生物。

 これがドラゴン。

 ……まあ、このくらいのドラゴンは何度も倒したことがあるけど。

『また下等動物が我が領土に無断で立ち入ったか。いかにしてその愚かな振る舞いを後悔させてくれようか……』

「ん?」

 違和感があった。

『ん?』

 どうやら相手も同じ違和感を覚えたらしい。

「喋れるのか……」

『貴様こそ、下等動物のくせに我が言葉を解するか』

 お互いに、相手に話が通じるとは思っていなかったみたいだ。

 喋ることができる竜は珍しいな。俺が実際に会ったのは三頭しかいない。よほど歳を重ねた古竜でないと無理なのかと思ってた。

「ということは、悪竜ではないのかな」

 俺が呟くと、それを聞き咎めたのか、ドラゴンが鼻を鳴らした。

『下等動物ごときが何を以て我らをそのように呼ぶのか知らぬが、言葉には気を付けることだ。この地はすでに我が物。下等動物には我が食餌(エサ)として存在を許すのみ。赤竜王〈焼き尽くすもの(インシネレータ)〉が眷属である我〈火焔の岩(フレイムロック)〉を崇め、讃えよ』

 言葉を喋るのはともかく、言ってる内容は悪竜だな。まあ、人間の悪人のほとんどは人間の言葉を使ってるわけだし、言葉が通じるならいい奴だ、ってことにはならないか。

 それにしても。

「悪竜にも一応名前とかあるんだな……」

 人間が勝手に付けてるだけかと思ってたけど、竜同士で呼び合う時用の名前があるんだな。当たり前か。でも正直、悪竜の知性ってそれ未満だと想像してた。

『聞いておるのか』

 怒ったような声音。

 相手が要求してるのは「崇め、讃えよ、そしてエサになれ」だから、こっちとしては受け入れられるはずもない。

 いや、それとももしかして。

「もしかして、俺が名乗ってないから怒っている?」

『下等動物の名など何の意味も無いわッ!』

 やっぱり違うか。でも意図はどうあれ、相手は名乗ったんだから、こっちも名乗らないと失礼なような気はする。

「一応、名乗ろう。俺はリオン。――〈竜牙の勇者〉」

 名乗ったところで、ドラゴンが俺の名前を知ってるとも思えないけど。

『……確かに最近そんな奴がいると聞いた覚えがあるが、だからと言って』

 聞き覚えあるのか。吟遊詩人の題材になるとすごいな。竜にまで噂が届くなんて。

 ん……そういえばこいつ、竜か。

「竜が相手なら〈安定をもたらす者〉って名乗る方が通じるのかな」

 確かその称号、竜の間で伝わる古い予言詩に出てくるものだと、聖竜だったか、ヴァレリーさんだったかが言ってた気がする。

『はっ?』

 相手は驚いて声も出ないという様子。

『……〈安定をもたらす者〉と言えば、古き詩にその到来を予言され、魔剣〈真竜の牙〉を手に多くの竜たちを屠り、かつてこの大陸に大災厄を引き起こしたあの〈歪みをもたらすもの〉をも余裕で倒したという、竜の天敵にして、不死身の者……ッ!』

「えぇ……。まあ、倒したのは確かだけど……」

 余裕では無かったと思う。

 あと、少し前に来た人もそうだったけど、何で俺、不死身ってことになってるんだろう。

 それにしても、結構詳しく知ってるもんだな……。そこは、俺の方が驚く。

『我が伯父も、いとこも、いとこの子も、その友の父も、さらにその父も、その友のはとこの子も、その者に屠られたと聞くぞ……』

 うーん……そう言われると少し心が痛むな。

 ただ、向こうも俺を殺そうとしてたし、元々人間を襲ってた悪竜だったから戦ったんだよな。

 こんな風に話が通じたら、別の解決法もあったかもしれないけど。

 でもまあ、こうまで言うってことはこいつ、相当怒ってるな。

 怒りを堪えているのか、ぶるぶると身体を震わせているし。

 ……ステラさんが言ってた通りか。やっぱり、遭遇すれば戦いは避けられない。

 殺さないまでも、悪さできない程度に痛めつけてやる必要はありそうだ。

「さあ、かかってこい」

 みんなも後ろの方からこっちを見ている。戦いが始まったら、総攻撃の合図を出して――

 そう考えた次の瞬間、ドラゴンが動いた。首を持ち上げ、すうっと息を吸い込んだ。

 そうそう、ドラゴンと言えばこれだ……。

 鉄をも溶かす、灼熱の吐息――ドラゴンブレス!

 

 ――来るッ!

 

       *

 

 みんなのところに戻ると、みんな状況がよくわからずにいるようで、首を傾げていた。

「ドラゴン、逃げちゃったけどいいの?」

 クレールが訊ねてくる。もっともな疑問だ。

「もうこのあたりには近付かないから見逃してくれ、って言ってきたから、まあいいかって」

 事実。あのドラゴン、炎の息を吹きかけてくるものだと思ったのに、額を地面に擦りつけて命乞いをしてきた。

 どうやら悪竜の間で俺は〈竜を絶滅させるもの〉とかいう有名人らしい。それと出会って生きて帰った竜はいないとかなんとか……。

 かなり倒したのは確かだけど、そこまで噂になるほどだったかな?

 正確な数は覚えていないから、強い反論はできなかった。

 まあ、今は戦いたくないってのは、こっちも同じ。

 本当はすぐにでも殺してやりたいがそこまで言うなら仕方がない、と恩着せがましく言って逃がしてやった。もし人間を襲えばどこへいても見付け出して殺してやる、とも付け加えたら震え上がっていた。所詮は悪竜だし、いつまで約束を守るかはわからないけど、さすがにしばらくは大人しくしてるだろう。

「しゃべれるドラゴンだったの? レッドドラゴンだったら普通は悪竜だと思うけど……」

 そう言って、クレールが首を傾げた。

「赤竜は竜の中でも特に気性が荒いとされる。通常、交渉は不可能であるはず」

 ステラさんもそう指摘。

「こっちまでは聞こえてなかったか」

 そんなに大声で話してたわけでもないから、何か話してるのはわかっても、内容までは……ってところか。

 と思っていると。

「がうがう言ってるのは聞こえたよ」

 そう補足されて、今度は俺が首を傾げることになった。

 ……がうがう?

「がうがうっ! がーう!」

「似てる!」

 ミリアちゃんが両手を振り上げてやったしぐさを、クレールが評価。

 そうだったかな。普通にいろいろ話したと思うんだけど。

 あれ。もしかして……

 ――俺の方が、竜の言葉を理解できるようになった?

 これも、竜気(オーラ)が溜まってしまった影響なのか。

 竜に近付いてるって、こういうことなのか。

 これだけなら便利な面もあると思うけど、他にもこんな風に、気付かないうちに何か変わってしまってることがあるのかと思うと、かなり不安だ。

 他はまだ何ともない……よな?

 硬い鱗も鋭い牙も爪もないし、翼もないし、炎の息も吐かない。

「……まあ話し合いで追い払うのも、退治するのとそんなに変わらないけどね、手間は」

 なるべく平静を装いながら、みんなにはそう言ったけど。

 ――俺、人間だよな……?

 今後それをどうやって確認したらいいのか、ちゃんと、本気で考えておこう……。



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ドラゴンハート

 珍しい。

 パァーッというラッパの音に惹かれて前庭の方に目をやると、門の外に配達人がいた。

 わざわざ配達人が来るなんて、どうしたんだろう。

 大体、遠くからの届け物は、この村宛ての分がまとめられて馬車で運ばれてきて、村の集会所を兼ねてる酒場に預けられる。

 村の人たちはその酒場に行って、自分宛の荷物を受け取る……という感じで、俺たちに宛てた荷物も、そうなってることがほとんどなんだけど。

 わざわざ配達人が届けに来るってことは、必ずこの館まで確実に届けて欲しい、という強い要請が、送り主からあったってことだ。

 一体、何だろう。

 思いながらエントランスに足を運ぶと、配達人はもう出て行った後だった。

「返事、来た」

 そう言って、先に来ていたステラさんが封筒を持ち上げて見せた。

 パッと見ただけでも、明らかに他の荷物とは様子が違う。こんなに真っ白な羊皮紙で作られた封筒は、滅多に見るものじゃない。中身もよほど重要なものに違いない。

「誰から?」

「雷王都市。雷王の印章で封がしてある。重要な手紙」

 なるほど、それなら納得。

「きっと爵位のことだよ。開封して確認するね」

 俺と同じく、配達人のラッパの音を聞きつけてやってきたらしいクレールがそう言った。

 爵位と領有権について俺は、王国法に詳しいクレールの勧めで、三方に申請を出していた。

 新王国時代の王都で、今も大きな影響力のある古都、帝麟都市。

 自由と光の教団の総本山である天命都市。

 それと、この付近では一番栄えている雷王都市。

 クレールによると、この三都市に爵位の正当性を認められれば、央州ならどこでも通じるってことらしい。

 難しいことはわからないから、俺はクレールが用意してくれた書類に署名をしただけだけど。

「えっとー……うん。申し出は認められたみたいだよ。リオン・ドラゴンハートの男爵位と領有権および付随する権利を認める、って書いてある」

「朗報。村の開発も進めやすくなる」

 クレールの報告を聞いて、ステラさんも頷く。

 いいことだと思う。確かに。

 でも、ひっかかることがひとつある。

「ちょっと待って。……ドラゴンハートってなに」

 あまりにもさらっと言うもんだから、危うくそのまま流してしまうところだった。

「領地のある貴族が家名もないなんておかしいでしょ。相談しなかったっけ?」

「聞いてないよ」

「あれー……そうだったかな……」

 クレールが「うーん?」と首を傾げる。

「口では言ってないかもしれないけど、送る書類には書いておいたはずだよ? だから僕、ちゃんと読んでねって言ったもん。なのにちゃんと読んでなかったなら、リオンが悪いね?」

 そうか。雷王都市が俺にそう付けたわけじゃないんだから、申請の書類に書いてたんだよな。

「そうだったのか……」

 確かに、難しい言い回しが多かったから、クレールの事を信頼してたのもあって、署名するだけで済ませてしまった。その署名もリオンとしか書かなかったし。

「……まあ、いいじゃない。かっこいいよ、ドラゴンハート」

「悪くない」

 クレールとステラさんがそう慰めてくれたけど、俺としては、ドラゴンハートはちょっと仰々しすぎるんじゃないかと思う。

 失敗したなあ。

 ちゃんと確認してたら、もっと当たり障りのない、目立たない感じのにしたのに……。

 今回のことは仕方がないとしても、このことは胸に刻んで、次からはちゃんとよく確認しよう。

「今後はフルネームで署名する機会もあると思うから、慣れていってね」

「そうするしかないか……」

 そういえばクレールもフルネームは長かったな。侯爵家の生まれだとそういうものなのか、としか思ってなかったけど。

 確か……クレール・ブランシュ・ベルスタンティン。

 それも生まれた家の名前を継いでるわけで、そもそも、名前も親につけてもらったもの。

 選べないのが普通、か。

 そう思って、ドラゴンハートのことは諦めよう。

「爵位、ちゃんと認められたですか! 特級よかったです!」

「よかったね!」

 いつの間にか、ナタリーとミリアちゃんも駆けつけて来ていた。

「ああ、ありがとう。まあ、それで俺の生活がそんなに変わるわけじゃないけど」

「いえいえ! 爵位ですよ! これはめでたいです!」

 俺よりよほど嬉しそうに話すナタリー。ちょっと微笑ましい。

 ナタリーは貧乏生活が長かったから特にそういうのが嬉しいのかな、と思っていると……。

「そして、ということはー……?」

 ということは?

「ということはー!」

 合いの手を入れたミリアちゃんがナタリーと肩を組んで、二人は満面の笑みで拳を突き上げた。

 そして――

 

「「今夜はお祝い!」」

 

 ……なるほど。

「お・に・く!」

 とナタリーが言えば、

「お・に・く!」

 とミリアちゃんが返す。

 完全にお祭り状態になってしまった。

 それにしてもこの二人、ときどき組み方を変えながらくるくる回って、えー、仮名『お肉を所望する踊り』を踊ってるけど、妙に息が合っててすごい。

 そして確かに、故郷でお祭りやお祝いがある時には、村の人たちもこんな風に踊ってた。

 俺の故郷はもうないけど……。

 今は、ここを、そんな風に思ってもいいのかな……。

「帝麟都市にはクルシスが行ってくれてるし、天命都市の大教会にはレベッカが話を通してくれてるはず。返事が届くのが待ち遠しいね」

 クレールがそう言ったので、俺も頷いた。

 二つの都市は雷王都市より遠いけど、それでも、そうだな……

 もうすぐ春になる。

 春の間にはきっと、その返事も届くだろう。



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ティーパーティ

 ある日の昼過ぎ。冬の寒さはそろそろ遠くなりつつあって、このくらいの時間帯ならさほど厚着をしなくても良くなった。

「今日はマリアさんもお休みだし、ティーパーティをやろうよ!」

 そんなクレールの一言でお茶会の開催が急に決まって、中庭に持ち出してきた丸テーブルに、ニーナが作ったお菓子が並べられている。

「んー、お茶がいい香りだねー」

 クレールはいかにも貴族の子女といった所作でこのお茶会を取り仕切っている。最近はこの領地の経営に関する仕事をする以外に、改めて魔法の訓練も頑張っているみたいで、今日はせっかくみんないるから息抜きがしたい、と漏らしていた。それにしても最近、心なしか以前より頬がふっくらしているような……。身体を動かしてるのもそのせいかな。

「非常に美味」

 ステラさんは読みかけの本を鞄に戻して、今はニーナが焼いたお菓子に夢中。そんな時でも傍らには魔法の杖を忘れないのはステラさんらしい。

「あーっ! それはあたしが食べようと思ってたです!」

「早い者勝ち。そのはず」

「特級悔しいです!」

 今日も元気なのはナタリー。少し前にこのあたりの海岸線と生活道路の地図を作り終えたと言っていたから、最近はこの館のある高台の西側を調査してもらってる。先にそういう資料が出来上がっていると開墾もしやすい、とステラさんが言っていた。ナタリーは散歩がてらにその資料を作ってる。

「んっんー。あたしはー、どれから食べよっかなー」

「ミリア、そうやって手をさまよわせるのはお行儀が悪いですよ」

「はーい」

 ミリアちゃんとマリアさんの姉妹も、この集まりを楽しんでいるみたいだ。

 マリアさんは一時期よりもお休みが増えた。本人はもっと働きたいって気持ちがあるみたいだけど、ミリアちゃんと過ごす時間も大事だってことみたいだ。冬の間にたくさん働いた分、春の間は館で過ごす時間が増えそうかな。

 ミリアちゃんも相変わらず勉強を頑張っていて、大人でも解けないような問題をすらすらと解いているらしい。らしい、っていうのは、ステラさんから聞いた話だから。俺が見てもまるで理解ができない問題だったし、そのあたりはわかってる人の評価を信じるしかない。

「お菓子、まだあるから遠慮しなくていいよ」

 そう言ったのはニーナ。今日のお菓子も全部ニーナの手作りで、どれも美味しい。

 少し前に作った魔法の包丁――聖母の包丁にも慣れてきたみたいで、味や見た目の良さはそのままに、作る速さが上がってきた。それで浮いた時間を新作料理の研究にあててるっていうから、まだまだその腕も磨かれていくんだろう。

「リオンも食べて食べて。ぼーっとしてると、ナタリーたちに取られちゃうよ」

「ああ。それじゃあ、その赤いのを取ってくれる?」

「このマカロンね。はい」

 ニーナから渡されて、俺もひとくち。

 香りからして想像はついてたけど、甘い。甘さの中心は、中に挟まれてるしっとりとしたクリーム。そしてその甘さが、お茶によく合う。

「このお茶は? さわやかな香りがするけど」

「何種類かのハーブを合わせて作ったんです。気持ちを落ち着かせてくれる成分と、お腹の調子を整える成分が入っていますよ」

「そうなんですか」

 解説をくれたのはマリアさん。ハーブに関しては、マリアさんの方がニーナよりも詳しい。その知識でこうしてお茶を用意してくれている。ありがたい。

 俺の中に溜まった竜気(オーラ)も、ハーブ茶の効能で何とかなればいいのに。

 これ以上竜気(オーラ)を活性化させないために、冬の間中、なるべく戦ったり争ったりしないように努めてきた。おおむね、穏やかな日々を過ごしてきたと思う。それでどのくらい効果があったかはまだわからないけど、きっと、少しは良くなってるだろう。……そうだといいな。

 いずれまた神託の霊峰に行って聖竜に診てもらおうと思ってはいるけど、行くとなるとしばらく館を離れることになるし、早くても春祭りが済んでからになるな。

「あーっ! それは僕が食べようと思ってたのにっ!」

「早い者勝ちです! クレールはお上品に美味ですわねってしてればいいです!」

「ぐぬぬ」

 クレールとナタリーがお菓子を巡って言い争っている間に、ステラさんは次を食べ始めている。ミリアちゃんも満面の笑顔で、口いっぱいに頬張っている。

「リオン、そっちのそれ取って。それは僕が食べるよ!」

「それって……どれだろう」

「それはそれだよ」

「これ?」

「その隣のやつ」

 クレールの曖昧な指示からご希望のお菓子を見つけ出すと、俺はそれを小皿に取った。

 雷王都市から俺の男爵位が認められて、名前がリオン・ドラゴンハートに変わっても、みんなの俺への態度は変わらない。俺はそれでいいと思う。これまで一緒にやってきた仲なんだし。

 特にクレールは自分で侯爵位を持ってるから、爵位では元々俺より上。今更変わる理由もないか。クレールはそのことをみんなに秘密にしてる。ただ、クレールが普段通りに接してくれたことで、みんなもそれに倣ったって面もあるような気はするな。

「んー、うまいっ」

「せめて『おいしい』って言いなよ」

「美味ですわねー」

 作法はともかく、言葉遣いはあんまりお嬢様って感じしないんだよな、クレールは。

「口元にクリームついてるよ」

 ニーナに指摘されて、クレールは慌てて口元を拭った。

 とそこに、バサバサと羽ばたきの音がした。それだけで、ずいぶんと大きい鳥だとわかるくらい。

「わわっ」

 それに驚いたのか、クレールがティースプーンを取り落としてしまった。スプーンは甲高い音と共に、テーブルの下に跳ねていった。

「ああ、俺が拾うよ」

 銀でできたスプーンは、以前の俺なら「そんな高価なもの」と思ってたけど、最近は「特別な時にならいいかな」と思うくらいまでには、まあ、慣れた。普段の食事には木製のものを使ってるけど、こういう時くらいはね。

 っと……。

「いてっ」

 慌てて頭を上げようとしたら、後頭部をテーブルに打ち付けてしまった。頭上でがちゃがちゃと皿が揺れる音が……。

「大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫だから」

 これ以上何か言われない内にと、身体を起こして姿勢を正す。

 ……女の子と囲んでるテーブルの下を覗き込むのは、いけないな。最近暖かくなってきて、裾丈が短くなってるし。

「それで、さっきの音は?」

「あれです! あの鳥です!」

 ナタリーが指差した方を見ると……いた。

 斑紋のある灰褐色で、どことなく猫に似た顔つきの、大きな鳥だ。

「……フクロウという種類の鳥。主に北方の森に生息する種。本来は夜行性のはず。おそらく、何者かの使い魔」

 そう解説したのはステラさん。相変わらず、ステラさんは何でも知ってるな……。

 さてそのフクロウ……使い魔、か。よく見れば、中庭の木の枝をつかむその足に、小さな筒が括り付けられてるのがわかった。

「手紙を届けに来たのか」

 最近、珍しい方法で手紙が届くな。この前はわざわざ配達人が届けに来たと思ったら、今度はこれだ。

 ともあれ、中身を確認……と思ったけど、俺が手を伸ばしても、フクロウは木の上から降りてこない。

 どうしたものかと思ったけど、クレールが呼んだらすぐに降りてきた。

 ちゃんと人を見てるのかな。賢い鳥だ。使い魔だからかもしれないけど。

 クレールが筒から中身を取り出すと、それは一枚の紙を丸めたもので、やっぱり手紙みたいだった。小さな字でびっしりと書き込まれていて、ちょっと離れたところからじゃ、とてもじゃないけど読めないな。

「これ、父様からだ!」

 手紙を読んでいたクレールが声を上げた。



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暗黒卿からの手紙

 クレールがその手紙……手紙と言うには小さい紙片を広げて見せて、端のあたりを指で示してくれた。そこには確かに、差出人として……〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイ・アンリ・ベルスタンティン、と署名されていた。クレールのお父さんの名前だ。

「クレールはお父さんがご存命だったですか」

「うん。僕より長生きするかもね?」

 クレールは冗談めかして言ったけど、実際ありそうな話だ。九割九分くらいは人間をやめてるような人だし。クレールも他の人とは少し違うところがあるけど、あの人と比べるとそれほどでもないな。相手が普通じゃなさ過ぎるせいだけど。

 二人が並べば、親子どころか兄妹にさえ見えるくらい、見た目には若々しい人だった。もちろん、クレールと同じで見た目通りの歳じゃないけども。

 思い返せば、ルイさんとはいろいろあったな。

 俺を異界に引きずり込んだ張本人だし、その時に力の大半を奪われた。直接戦いもした。力を奪われてたからでもあるけど、かなり手強かったな。

「いったい、何の用事だろう」

 俺の言葉に、クレールも首を傾げた。

「僕を心配して手紙をくれたのかな?」

 クレールのことを溺愛してる人だから、ただそれだけの可能性もないとは言えない。クレールを自由にさせてるのは、まあ、心配ではあるだろう。こんな子だし。

 という前提があって。

 その上でクレールが俺の近くにいることを許してるんだから、俺とルイさんはちゃんと和解できてるんだな……たぶん。

「フクロウが留まっているのは……すぐに返事を書いて持たせた方がいいのかな」

「そうだね。まずは読んでみるよ」

 クレールが手紙を読んでいる間に、ナタリーがそっとお菓子を食べていた。今なら敵が少ないと思っての行動だろうけど、そんなに慌てなくてもニーナは十分な量を用意してるんじゃないかな。

「えっとねー。僕の友達が訪ねてきたから、講義をしてあげてるって。ユリア、ちゃんと父様に会えたんだね。でも修行が終わるにはもう少しかかるみたい。それが済んでユリアをこっちに送り出したら、次は風の終焉地っていう古い遺跡を調べに行くんだって」

「ひとまず良かったね」

 クレールの話に出たユリアというのは、少し前に知り合った女の子。といっても、俺より少しだけ年上か。

 事情があって、身体の中に冥気(アビス)を溜めてしまっていた。俺の竜気(オーラ)と同じような感じ……かな。それを何とかするために、冥気(アビス)の扱いに詳しい、クレールのお父さん――〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉を紹介した。

 うまくやってるなら良かった。

「それから、紫電の魔石が余ってたら譲って欲しいって書いてあるけど、ないよね?」

 クレールの口から聞き慣れない魔石の名前が出てきて、俺は少し悩んだ。

「そもそも実在してるの、それ。見たことないけど」

 魔石。握って意識を集中すれば、石に刻まれた術法を発動できる不思議な石のことだ。古王国時代に製造されて、今でもいろんな種類の魔石が出回っている。

 俺も、故郷を出てからこれまでの間にいろんな魔石を見てきたし、実際に手にしたものも多いけど……。

 紫電の魔石は、見たことがないな。

 そう考えながら視線を送ると、ステラさんはお菓子を食べる手を止めて解説をくれた。

「古い文献にはその名前を見付けることができる。ただし、現物は発見されていない。また、〈紫電(マッドサンダー)〉は魔界の術法、冥術であるため、冥気(アビス)を扱える者でなければ、魔石を介しても発動することはできないとされている」

 うん、やっぱりステラさんは何でも知ってるな。頼りになる。

冥気(アビス)って、ほとんどの人は扱えないんですよね?」

「そう。人間は冥気(アビス)煌気(エーテル)を扱う器官を持たないとされる。そのはず」

 ステラさんの視線は自然とクレールに向いた。クレールは煌気(エーテル)を扱える体質だからな……。ちなみに、知り合いだと他には神託の霊峰の巫女ティータさんも扱える。聖竜の近くで暮らしているから、そのおかげもあるんだろうな。

 一方、冥気(アビス)を扱える知り合いは、話に出たルイさんとユリアの他は、アゼルさんくらいかな。アゼルさんは法と秩序の神の司祭で……そういえば最近会ってないな。今はどこで何をしてるんだろう。

「大昔には紫電の魔石もあったのかもしれないね」

 ステラさんの解説に、クレールが頷いた。

冥気(アビス)のない人は扱えなくって、だから、価値に気付かれずに捨てられたりしたのかな? でもそっかー、ユリアなら使える可能性あるんだもんね」

 これまでの話を総合すると、そういうことになる。

「危ないもののような気がするけど」

 と呟いたのは俺の本心。冥気(アビス)は別名を『穢れた霊気(マナ)』とも言って、術法という形にならないままでさえ人体に悪影響がある。それが術法として発動した時の威力は、他の系統の術法とは比較にならないほど強力になる。

 俺がそう言えるのは、実際にその〈紫電(マッドサンダー)〉を食らったことがあるからだけど。

 他の系統の術と比べると、うーん……ただ痛いとか熱いとかじゃなくて、こう……身体の内側から食い破られるような。そんな激痛を受けたな。

「確かにね。もともと〈紫電(マッドサンダー)〉が使える状態なら、魔石の補助があれば〈終極(アポカリプス)〉まで使えるようになっちゃうかも」

 そうクレールが言ったから、確かに魔石の仕組み上そうなるか、とは理解しつつも。

「それって、街が滅ぶレベルだと思う」

 冥気(アビス)の制御の仕方を教えるって、そこまで行き着いてしまうものなんだろうか?

「この世ならざる者の領域」

「邪神とかだよね?」

 俺に続いてステラさんとニーナがそれぞれの言葉で懸念を表明するも、クレールは特に気にした様子もなく……。

「まあ、父様はたぶん、魔石の補助がなくてもできちゃうけどね」

 クレールの言葉に、みんなは顔を見合わせた。みんなはルイさんのことをよく知らないから、そういう反応になるよな。

 邪神とまではいかないにしても、そうだな、魔王くらいなら名乗ってもおかしくない……と思ったけど、〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉って二つ名はすでにほとんどそれか。

「もし父様が悪いことを始めたら、また僕とリオンで立ち向かわなくっちゃだねー」

 笑いながらそんなことを言うクレールだけど、俺としてはそれに軽々しく「そうだね」なんて頷くことはできない。本当に冗談で済まなくなったら大変だし。

「大人しくしててくれると助かるね……」

 偽らざる本音を吐露すると、まあ、こんな言葉になる。

 俺の気持ちはともかくに、クレールは早速返事を書くことにしたようで、紙とインクを取りに席を立った。

「……クレールのお父さんって、結構すごい人なんだね」

 ニーナが呟いて、他のみんなも頷いた。

「でも羨ましいです。心配してくれる親がいるのって」

 ナタリーにしては珍しく、少し寂しげな声音……

 だけど、手に持ったお菓子で使い魔のフクロウを餌付けしようとしてるな?

 ……まあ、うん。

 クレールの他にはニーナにお父さんがいるだけで、あとは俺も含めてみんな、すでに両親を失ってる。大災厄の時代だから多くの人がそういう悲しみを経験したとはいえ、やっぱり少し寂しさはあるな。

 と、俺たちがそれ以上あれこれ言う暇もなく、クレールは戻ってきた。

「そんな大きな紙に書くの? あの鳥の足に付いてる筒に入れるんでしょ? 入らないんじゃ……」

「折りたたんだら、背負ってもらえばなんとか大丈夫じゃないかなーって」

 そうかな。

 見れば、フクロウも首を傾げていた。……わかってるんだろうか?

「んー、えっとー……」

 ペン先にインクをつけてから、クレールは少し思案。

「父様へ。僕は元気です。みんなと一緒で毎日楽しいです……それから、えっとえっとー……」

 言葉にしながらペンを走らせて、ふと。

「この紙でも書き切れないかも!」



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結成報告

 昼の日差しはいよいよみんなの防寒着を剥ぎ取って、クローゼットの中に放り込んでいった。冬の間には聞かれなかった鳥のさえずりも、もうここまで届いてきている。館のある丘では、緑色の中にもちらほらと色とりどりの花が顔を出し始めていて、その合間を蝶が飛んでいるのが見られるようになった。

 季節の変わり目、というものを全身で感じる日だったな。

 そんな日の夕食の席で、マリアさんから重大な報告があった。

「春の花、咲いてたらしいですよ。おばさまと親方さんが、一緒に確認してました」

 ……こういうの、ちゃんとこっちにも知らせてきて欲しいんだけどな。マリアさんに伝言したから十分ってことになったんだろうか。村の人たちから嫌われてて報告をもらえないってことでは……ないだろう。たぶん。俺はそう信じたい……。

 まあそれはともかくとして、なんでその報告が重要なのかというと。

「じゃあ、いよいよ春祭りだね」

 そう。ニーナが言ったとおり。

 少し前に親方から春祭りの開催の許可を求められて、それは俺もすぐ応じた。その時に春祭りの日取りとして申請されたのが「春の花が咲いたら十日以内」というもの。

 マリアさんが働いている魔女の店の庭先にある木が、その基準になってるらしい。と、そう聞いたのは後でのことだったけど。

 その木に花が咲いたのを、魔女の店のおばさまと、そして親方も確認した、と。

 いよいよ冬も終わるな。そんな気持ちになる話だ。

「楽しみだよね」

 クレールがそう言ったから、俺も頷いた。

 とはいえ、心配なこともある。

「ステラさん。ユウリィさんに注文しておいた葡萄酒と麦酒、まだ届いてないですよね?」

 俺が確認すると、ステラさんはこくりと頷いた。

 心配事はそれだ。村のみんなに飲み放題で楽しんでもらおうとクレールが企画して、確かに注文を出しておいたんだけどな。

 ……とはいえ、村の準備もまだ整ってはいないだろうし、祭りの当日までに届けば問題はないか。

 それについては明日にでも、お店のニコルくんに確認してみるとして……。

「他には、何かありますか。こっちで準備するようなもの」

 と、ステラさんに訊ねた。そのつもりだったけど。

「あるよ!」

 手を挙げたのはクレールだった。

「僕たちもお祭りの演し物をやることにしてるんだ」

「え。初めて聞いたけど」

 寝耳に水の話だ。というか、え、やっぱり俺だけ何か情報をもらえていない、端的に言うと仲間はずれにされてる気がする……。

「あ。リオンは、今回は出番ないよ」

 ないのか。今から大慌てで準備するよりは、気は楽だけど。でも、俺だけみんなの輪に入れてないんじゃないかっていう懸念は消えない。

「一体、何をたくらんでるの」

 意を決してそう訊くと、クレールは「んふ」と笑った。

「僕たち、女声音楽隊を結成したんだよ」

「えぇ?」

 やっぱり、俺の知らないところで何かが……って、結成する、でなく、結成した、なのか。クレールひとりの思い付きの段階の話じゃないってことだよな。それに、女声音楽隊? それは確かに、俺の出番はないと思うけど。

 考えがまとまらずに混乱する俺を見て、クレールがガタッと席を立った。そしてそのまま、食堂の広く空いたところに小走りに駆けていって。

「しゅーごー!」

 号令をかけた。

 すると、それを待っていたかのように、ニーナとナタリーが動いた。二人はクレールの左右にそれぞれ立って……

「せーの!」

 クレールの合図に合わせて。

「僕たち、スターリー・シュガー・シスターズ!」

 ポーズを決めた。

「……ええぇ?」

 スター……なに?

「スターリー・シュガー・シスターズは、歌える・踊れる・戦えるの三拍子揃った新感覚の音楽隊だよ」

「そうなのか……」

 そうなのか? 何が何だかよくわからない。もしかして、この気持ちが新感覚なんだろうか。

 ミリアちゃんとマリアさんからは拍手が起きている。

 いや、うーん。確かに、すごいのはすごい……んだろう。三人がポーズを合わせるだけでも即興では無理だろうし、相当練習したのは伝わってくる。

 でも何だろう……何だろうなあ……。

「んふ。どうやら驚いてくれたみたいだね」

 そりゃ、驚いたのは確かだ。そりゃあね。

「ナタリーはこういうの好きそうだからともかく、ニーナはそれでいいの?」

 念のために訊ねると、ニーナは苦笑した。

「何か、成り行きで……」

 断り切れなかった、ってところか。それでもちゃんと決めポーズを合わせてるのはさすがだ。何にでも手を抜かないというか。ニーナはそういうところあるな。

「あたしはお姉ちゃんと楽器をやるんだよっ!」

 ミリアちゃんが手を挙げて主張した。ミリアちゃんが踊り子役にいなかったのはそういうことか。

「そうなんだ。どんな楽器を?」

「お姉ちゃんがリュートで、あたしは笛!」

「まだまだ練習が必要ですけど……」

 言われてみれば、笛の音は少し前から聞こえてた気がするな。あれはミリアちゃんの練習だったのか。

 マリアさんが演奏するっていう『リュート』は、吟遊詩人がよく持ち歩いてる楽器だ。滴型の本体に何本かの弦が張ってあって、これを指で弾いて音を出す。音を出すこと自体は簡単だけど、ちゃんとした演奏となると一朝一夕で身に付くものじゃないと思う。

「幼い頃に両親から習っていたので、まるで素人ではないですけど、やっぱり随分忘れてますね……」

「練習あるのみだよ、お姉ちゃん!」

 ミリアちゃんにそう言われて、マリアさんは微笑んだ。

「ミリアと一緒にひとつのことを頑張るのも久しぶりなので、楽しんでいますよ」

 確かに、以前はずっと一緒にいた姉妹だけど、ここに移ってきてからはそれぞれの仕事や勉強を頑張っていて、その分、二人で過ごす時間は減ってそうだな、とは思ってた。

 もしかして……それを何とかしようとでも思って、こういう演し物を企画したのかな、クレールは。

「始めたばっかりの頃より随分良くなったよ」

「ねー」

「ですです!」

 言ったナタリーがちらちらとこっちを見て、何か訊ねて欲しそうにしてるな。

「ナタリーは」

「ですです! 歌と踊りが特級得意なので、大抜擢されたです! 特級がんばるですよ!」

 何を質問するまでもなく、名前を呼んだだけで食い気味にアピールされたので、ちょっと苦笑。

 さて、そうすると気になるのは、あと一人。

「ステラさんは?」

「裏方。予算や予定の管理を行う」

 矢面に立つのは避けたか。大騒ぎが好きそうには見えないしな、ステラさんは。

「辺境には古い警句が残る地域もある。祭りなどで目立つのは避けたい」

「警句?」

 ただ賑やかなのが苦手なだけじゃなくて、何か理由があるのか。

 そう思っていると、ステラさんが頷いた。

「黒髪の少女は災いをもたらす。そう信じられていた時代もあった」

「そんな話があるのか」

 確かにステラさんは黒髪だ。そういう話があるなら、気にするのも無理はないかな。

 とはいえ、俺も黒髪だけどそういう話は初めて聞いたな。俺が男だからかもしれないけど。

「気にしすぎじゃない?」

 割り込んだのはクレール。

「ものすごーく昔に一時的に流行しただけの迷信だと思うよ。出所もよくわかんないしね。古い時代の王国法には確かに、黒髪の女子が産まれたら領主に報告するようにって規定もあったみたいだけど、違反した時の罰則はなかったらしいし」

 クレールがものすごく昔なんてわざわざ言うくらいだから、相当昔の話なんだろう。とすると確かに、気にしすぎのような気はする。

 ただ……ステラさんは両親に疎まれて育ったと言ってた。その理由として探し当てた話なのかもしれない。だとしたら、あんまり強くは言えないな。

「ステラさんは詠唱の時なんか声も良く通ってるし、歌だけの参加もいいんじゃないかと」

 俺から言えるのはその程度。

「……あなたがそう言うなら、検討する」

 せっかくみんな盛り上がってるし、ステラさんも楽しく過ごせるといいなとは思う。

「まあ、お祭りの時くらいしか出番はないけどね」

 クレールが笑いながらそう言った。それはそうだろうな。巡業するとも思えないし。

 ただ、ステラさんはそれに異論があるようで。

「祭りの演し物に留まらない。歌劇の新しい形としてこれからの時代の主流になる」

「そうなのか……」

 ステラさんは何でも知ってるな……と、言っていいんだろうか。妙に自信満々だけど、その根拠が俺にはいまいちよくわからない。

 まあ、ステラさんが自信満々に言い切ったのはナタリーやミリアちゃんに大変好評で、察するに、ステラさんも今回のことを応援してるってことなんだろう。

「リオンにはお祭りより一足早くお披露目したいところだけど……まだ歌と踊りが完璧にはできてないんだよね。もう少し練習して、ちゃんと合わせないとだねー」

 クレールが言って、ニーナとナタリーが頷いた。ニーナもただ巻き込まれただけじゃなくて、楽しんでやってるみたいだ。

「ていうかクレール。確か最近、魔法の訓練を頑張ってるって言ってたよね。もしかして」

「んふ。実は、この練習をしてたんだよ!」

 そうなのかー……。

「しばらくは夜遅くまで騒がしいかもしれないけど、春祭りまでだから我慢してよね」

 まあ、みんながやる気なんだったら、無理矢理止めるほど無粋じゃないけどね。



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港の整備に向けて

 クレールたちが祭りの演し物として女声音楽隊……スターリー・シュガー・シスターズを結成したことは、昨日の夕食の席で俺にも報告されて、みんなは今日もその準備を進めるつもりらしいけど。

 それは今のところ、俺の今日の予定とは関係がない。

「ステラさん。今日は何か俺が出ないといけない予定ありますか?」

 朝食を済ませて、黒板にみんなの予定を書き込んでいたステラさんにそう訊ねると、ステラさんはしばし黙考。

「……夜に親方達と会合。村の酒場でやることになっている。他には特段の予定はない」

 そういえば言われてたな。今夜の予定だったか。

「その会合、議題は何ですか。春祭りのことかな」

「確認する」

 酒場はこの村では集会所としても使われてるから、必ずしも飲み会というわけじゃない。ちょうど春の花が咲いたところだ。春祭りのことが議題の中心になるんじゃないかと、そのくらいは俺にも予想できる。

 ステラさんは、鞄から雑記帳を取り出して俺の質問に答えてくれた。

「今後の村の発展を祈願する会合。飲食物は各自で注文すること、との補足もある」

 ……ただの飲み会か。まあ、そこではいろんな噂話も聞けるし、愚痴を聞けば改善すべき点も見えてくる……かもしれない。

「わかりました。じゃあ、ニーナ。俺の分の夕食は要らないよ」

「はいはい」

 ニーナの料理が食べられないのは残念だけど、村の酒場の料理もまあまあ美味しい。ニーナのと比べると味が濃くて、そうだな、ちょっと塩辛いか。お酒と一緒に楽しむともっと美味しく感じるんだろうけどね。俺はそんなに飲まないからなあ。

「そうすると、昼の間は手が空いてるな」

 クレールたちの練習を見学してもいいけど、ちゃんと仕上がるまでは見ないでいた方がいいような気もするし、どうしようかな。

 少し悩んでいると、ステラさんが近付いてきて、俺の目の前に立った。

「何かやるなら手伝う。何でも言って欲しい」

 嬉しい申し出ではある。ステラさんも一緒なら、やれることの幅は広がるな。

「ありがとうございます。でも、音楽隊の方はいいんですか?」

「私は裏方。ずっと見ている必要は無い」

 そういうものかな。まあ、何かあればすぐ合流できるように、壁一枚くらいのところにいれば大丈夫か。とすると……

「それなら、領地の経営についていろいろ確認しておこうかな」

 会合は実質的には飲み会とはいえ、あるいは、だからこそ、村の人たちが大勢集まる。今後のことについて要望を伝えられたり、見解を求められたりもするだろう。そこはステラさんとクレールに任せてるから、で逃げるのは一応とはいえ領主としてちょっと情けない。

「良いと思う」

 ステラさんも頷いたので、方針はこれで決まった。

 一応、音楽隊を仕切ってるらしいクレールにも視線を向けると、笑顔で頷いていたから、まあ、特に問題はないんだろう。

「それなら早速、村のことで確認してもらいたいことがある」

「ん?」

 ステラさんはそう言って、鞄から今度は一枚の紙を取り出して、俺に手渡してきた。

「港湾設備の建設、見積もりが来ている。確認したが、ジョアンの要望はほぼ満たされていると判断する」

「あ、僕にも見せてー」

 俺の横から、クレールもその紙を覗き見る。

 話に出たジョアンさんは船乗りで、しばらくは俺と一緒に邪神と戦う仲間の中にいたけど、戦いが終わってからは本業に戻ってる。大きな船を何隻も持っていて、今は巨額の貿易を指揮してるんだそうだ。

 この村の港の整備は、そのジョアンさんからの提案。

 紙には様々な建築資材の単価と必要量、そして総額が一覧にされていて、その他に、必要な人数とその人たちに支払う賃金、それに期間も記されている。工事は夏季に行う予定、か。

「すごい額だけど、これで妥当なんですか」

「私の試算とほぼ合致する。次の冬の農閑期まで待つなら人は集めやすいが、夏なら賃金を上げないと人が集まらない」

 なるほど。確かにこれほどの材料にこれほどの人数だと、お金はかかるか。俺の普段の金銭感覚をかなり越えてるから、ちょっと理解が追いつかないけど。

「大型船向けの港になるんだね。将来的には近くの港より大きくなるのかな。大丈夫かな……」

 クレールは金額のことではなく、別のことを心配していた。こっちに港ができることで、すでにある港に出入りする船が減る……つまり税収が減ると、抗議を受けるかもしれない、ということらしい。

 ただ、ステラさんはそれもすでに想定していたみたいだ。

「まだ内陸側の交通網が未整備で、村に特産品と呼べる物もないので、現在の計画では貿易港として拡大する可能性は大きくない。軽めの補給や、船から船への荷物の積み替えなどはこの港で行われる可能性もあるが、主に沿岸を航行する貿易船が風を避けるために一時寄港する程度、あるいは旅客船の寄港地としての使用を想定している。他港の権利を侵害する規模にはならないと推定する」

 ステラさんがそう説明してくれたけど、俺としては全部を理解できた自信はない。

「んー、それなら大丈夫かなー」

 説明を聞いて、クレールはほぼ納得した様子。

 俺としては、やっぱり人同士の調整って難しいな……という思い。相手が魔獣なら戦って倒すだけだから簡単なのにな。

「ジョアンからは、多くの商会が巨大帆船の建造に注力しているとも聞いている。今後のことを考えると、港も大型化する必要がある。既存の港とは、いずれはひとつの経済圏を構成し、お互いを補完する形になると予想する」

「念のため、近くの港町には手紙を送っておくよ」

 完全に納得したらしいクレールがそう言って、ステラさんも頷いた。

 まあ、この二人が大丈夫だと言うなら、そうなんだろう。

「じゃあそれで進めておいてください」

 最終的な承認だけは、領主である俺の仕事。

 やっぱり、俺としても自信を持ってやれるように、もう少し勉強しないとな。



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レベッカ

 ステラさんから様々な報告を受けて、自分の領地についての理解を深める時間。それは必ずしもうまくいってはいない。

 何しろ、俺の故郷と全然違う。俺の故郷は内陸だったけど、こっちは沿岸だ。気候も違って、自然と産物も変わってくる。

 唯一特産品と呼べる物は牡蠣くらい。それと魚は、北にある荒水の町まで持って行けばそれなりの値が付く。ただ、これから暖かくなってくると魚の輸送は大変そうだな。

 その他の産物は、小麦やオリーブ、ワインの原料にする葡萄なんかがあるけど、多くが地産地消……この土地の産物はこの土地の人で消費する、という状態だ。

 前の領主の時代、つまり去年の秋までは、その産物のほぼ全てに重い税がかかっていて、領主の私兵たちが武器を手に税の取り立てに来ていた。領主が集めた産物は他の町から来た商人に売り払われていて、ほとんど村の人たちの口には入らなかったらしい。

 かろうじて税の対象になってなかった海藻を食べて何とかお腹を誤魔化していたという状態で、俺がここに迷い込んだのはまさにその頃だったな。

 俺が領主になった時にまだ館に残っていた産物は村の人たちに分配して、ステラさんの勧めで、さらに一年の間は税を免除することになった。村の人たちはもちろん喜んだけど、今後のことを考えると徴税はいずれどうしても必要になる。

 どのくらいが適切なのか、よく考えないとな。

 それにしても、今更ながらこれらのことを学んでいる俺に対して、ステラさんとクレールは早い段階でほぼ掌握して理解していたらしい。もし二人がいなかったら、今ここにはもう俺の次の領主がいたかもな……。

「だいぶ合うようになってきたね!」

 中庭で演し物の練習をしている声が届いてくる。

 風通しの良さで今日の居場所に選んだエントランスからは、ほんの数歩の距離。ただ、なるべく見ないようにしてる。ちゃんと整ったところで見て、あっと驚きたいしね。

 と、そんなことを考えていた時。

 前庭に人が入ってくる気配がした。人……だけじゃないな。馬だ。

「誰だろう。急いでるみたいだけど」

 村の人じゃなさそうだ。村には俺の館にいる二頭以外に馬はいない。以前は何頭かいたらしいけど、前の領主に税の代わりに取り上げられたらしい。今は村で荷車を牽いてるのは牛だ。

 さて、じゃあ……誰が来たんだろう。

 ステラさんと顔を見合わせる。ステラさんも小さく、首を傾げた。心当たりはないみたいだ。

 念のため、鞘に納めたままの剣を持って、表へ出ると……

 ちょうど、立派な白い馬から騎手が降りるところだった。その姿を見て、俺は緊張を解いた。よく知った顔だ。

「リオン! 久しぶりね」

 俺の姿を向こうも見付けたようで、そう言って手を振ってきた。

 そこにいたのは聖騎士のレベッカさんだった。

 

 レベッカさんは〈自由と光の教団〉の聖騎士。俺より少し年上の女性で、長い金髪が目を惹く。瞳は琥珀色で、左目の下の泣きぼくろが特徴的。

 その立ち居振る舞いはまさに女性聖騎士の規範、という凛としたもの。青と白を基調とした服装も、その印象を強くするな。

 元々は大教会からの指示で邪神の気配を追っていて、俺たちに合流してくれた。大盾と戦鎚を用いる伝統的な聖騎士の闘法で、攻守ともに頼りになる。俺の戦いを特に間近で支えてくれたひとりだ。

 一時は、その盾を俺に捧げる――命を懸けて俺を守ると言ってくれた。実際に助けられたことも、一度や二度じゃない。

 戦いの後は大教会の本拠地である天命都市に戻って、俺と大教会の間で連絡役を引き受けてくれている。

 俺の爵位と領有権について天命都市に申請した手紙も、レベッカさんが運んでくれた。

 それで、その次にここに戻るのはその件の視察も兼ねて、春の半ばを過ぎた頃になると……そう、他ならぬレベッカさんから手紙が届いていたんだけど。

 

 レベッカさんはどうやら大急ぎでここまで来たらしく、人馬ともども息を切らせている。予定よりもずっと早いし、もしかして……

「そんなに急いでるのは、もしかして、何かまずいことがあったんですか」

 本人が目の前にいるんだ。直接訊ねるのが早い。

 馬を水場の近くに繋ぎながら、返った言葉は「うん、まあ……」なんて、いかにも歯切れが悪いもの。

 よほどのことだろう。そうなると、爵位と領有権についての話がこじれたんだとしか思えない。

「とりあえず、何か飲みますか? 話は少し落ち着いてからに……」

「ああ、いえ、大丈夫よ。……ちゃんと話さなくちゃね」

 そう言って、レベッカさんは大きく深呼吸。

 続く言葉を待って、俺もごくりと息を呑む。

「……次の訪問は視察を兼ねてるってことは、前に手紙で知らせたわね」

 やっぱり、その話か。だよな。

 視線を向けると、ステラさんも……よく見ないとわからないくらいとはいえ、緊張しているような。

 いったい、どんなトラブルがあったのか。

 心して聞かないといけないな。

 俺が覚悟をして頷くと、レベッカさんも頷き返した。

「視察と言っても、爵位と領有の件は大教会も前向きだから、そう緊張することはないわ。でも、ちゃんとした返事はその報告をした後になるから、予定よりちょっと遅くなってしまうわね」

 ん? あれ?

 それだけ……なのか? 何だか拍子抜けだ。

「それは構いませんが……」

 と言ってから気付いたのは、レベッカさんの表情がまだ晴れないこと。

 爵位の件じゃないのか。レベッカさんが抱えてるのは。

「話はそれだけじゃなさそうな感じですね。どうしたんです?」

 訊ねて、それでも、レベッカさんはなかなか口を開こうとしない。

 どうしたものかとステラさんに視線を振ると、ステラさんは杖を手に立ち上がり、その杖の先で、こん、と床を叩いた。

「何かあるならば、早く言った方が良い。ためらっていても悩みが長引くだけ。得策ではない」

 ステラさんのそのばっさりと切り捨てた物言いに、レベッカさんは言葉に詰まった。ただそれは、反発からという様子でもない。話そうという気持ちはあるんだろう。

 やがてレベッカさんも観念したのか、渋々とだけど、口を開いた。

「……その時に、私の後輩も一緒に来ることになったの」

「後輩っていうと、大教会の聖騎士?」

 レベッカさんは頷く。

「まだ見習いだけどね。ぜひリオンに挨拶したいって」

 他の聖騎士の存在を意外に思ったのは、単純に、俺が会ったことのある聖騎士がレベッカさんだけだったからだ。

 レベッカさんの後輩か。何となく、想像できない。

 でも、よく考えてみれば後輩がいるのも当たり前。レベッカさんは聖騎士団という組織に属していて、当然、上司や先輩もいれば部下や後輩もいるだろう。

「教会の改築の件もあるし、きっとしばらく滞在することになると思うのね」

 確かに、前の領主の横暴に耐えかねてか、教会の司祭はずっと前にこの村から離れて今も戻ってないと聞いてる。村の人たちにも余裕がなくて、教会は荒れ果てたままらしい。

 ただ、そういう事情を足しても、レベッカさんが何をそんなに言いにくそうにしていたのかはまだよくわからない。

「でも、その……」

 口調や態度からすると、ここからがやっと核心の話。

 レベッカさんは、ふうぅ、と大きくため息。

「その後輩ね。リオンのことを神格化しすぎてる子で……会わせたらどうなるか、ちょっと予測できなくて、でも、ほっといたら勝手に来そうな勢いだったから、それよりは引率してきた方がマシだと思って……ああ、頭が痛い……」

 そこまで言って、レベッカさんはまたため息を吐きながら、右手で頭を押さえた。

「……それほどなんですか」

「それほどなのよ……」

 あれほど勇敢に戦ったレベッカさんがそこまで泣き言を言うんだから、相当のことなんだろう。

 にしても神格化って。そりゃ俺は邪神とも戦ったし、何もしてないなんて謙遜でも言うつもりはないけど、かと言って、あんまり分不相応に褒められるのもな……。

 やっぱり、あんまり噂先行で有名になるのも考え物だ。



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その時に備えて

「あれ。レベッカ、帰ってたんだ。おかえりー」

 様子を見に中庭から出てきたらしいクレールが、久しぶりに館に戻っていたレベッカさんに気付いて、ごく気軽な挨拶をした。

「みんなー! レベッカが帰ってきてるよー! で、何の話?」

 クレールが中庭に向かって声をかけると、演し物の練習をしていた他のみんなも集まってきた。

 そこで改めて俺から、俺を神格化してるっていうレベッカさんの後輩のことについて説明したんだけど……

「そういうことなら、せいぜいこき使ってやればいいよ」

 クレールの提案がそれ。

「それはちょっと……」

 いくらなんでも、と思う。

「リオンを神格化してるっていうんだったら、そういうことを望んでるんじゃないの? 救主教の人ってそういうとこあるでしょ」

 いい考え、とばかりに自説を披露するクレールに、みんなは苦笑。クレールが何となく大教会に批判的なのは、古竜信仰をしてきた家系の出身だからかもしれないけど。

 それにしても。

「救主教って……」

 指摘すると、クレールが「あっ」という顔をした。

「自由と光の教団の古い呼び名よ。よく知ってるわね」

 レベッカさんの補足で、他のみんなは「ほう」という、ちょっと感心したような表情。クレールは少しうろたえた様子だけど。

「ま、まあ、僕って勉強家だからさー」

 そういうことにしておいてあげよう。

 ――ともあれ、レベッカさんの事情はわかった。

「その後輩さんについては、こちらも心構えはしておきます」

「お願いね……」

 言って疲れた笑顔を向けてきたレベッカさん。体より心の疲れの方が大きそうだな……。一体どんな人が来るのやら。

「この館に滞在する予定なんですよね? 期間は決めてますか?」

「まだはっきりはわからないわ。教会のこともあるから、少し長くなるかもしれない」

 村の教会、結構荒れてるって言ってたな。村の人たちも、ずっとそのままにしておくつもりはないにしろ、今は他のことで手一杯。預かる人もいなくなってる教会が後回しになってるのは仕方ない。村の人たちの信仰心の表れでもあるけど、前任の司祭の人望でもあるかな、そこは。

「後輩は……私と同じ部屋に泊めてもいいかしら。みんながいいなら、だけど」

 レベッカさんが、少し申し訳なさそうにそう訊ねてきた。

「同じ部屋でもいいってことは、その後輩も女性なんですか」

「ああ、まだ言ってなかったわね。ええ、そうよ。女の子で、出身地方が私と近いのもあって、私の預かりになったの。名前はペネロペ。歳はリオンより少しだけ下ね」

「なるほど」

 そこまで説明されて、やっと完全に納得がいった。

 俺のことをほとんど信奉してるっていうその後輩が女の子だから、俺とその……不適切な関係になるのを心配してたのか。

 何かあればレベッカさんの責任問題にもなりかねないわけで、慎重になるのも当然だな。

 ……決して、俺が女の子にすぐ手を出す男だと思われてるわけではない、はず。

「まあ、実際どんな子か見てから最終判断だけど、とりあえず許可ってことでいいんじゃない? レベッカの後輩なら、そこまで常識知らずでもないでしょ」

 言葉にしたのはクレールだけど、様子を見渡す限り、他のみんなもそう変わらない意見みたいだ。

「一番東の部屋なら二人で使える広さがあるな。今は空いてるよね?」

 ニーナに訊ねると、すぐに「うん」と頷いてくれた。館の管理はニーナがやってくれてるから、使われてない部屋の鍵は全部ニーナが持ってる。ただ開けるだけなら、ナタリーに針金を何本か渡せばすぐに開けてくれるけどね……。

「ちょっと待ってね。あの部屋の鍵は、えーっと……」

 言って鍵束を確認しようとしたニーナを、レベッカさんが止めた。

「荒水の町で後輩と合流してからまた来るから、鍵はその時にお願い」

「そういうことなら、それまでに二人で泊まれるように部屋の中も準備しておくね」

「うん、ありがとう」

 ニーナはレベッカさんと歳が近いのもあってか、お互いに気安い感じで話す。俺はレベッカさんには敬語を使いがちだな。ニーナとは気軽に話せるんだけど。

「そうだ。教会に見られたら困るようなものがあれば、今のうちに隠しておいて」

 自身も教会の聖騎士であるレベッカさんが、そう忠告してくれた。ちょっと笑ってしまったけど、まあ、ありがたいことではある。

「……何かあったかな?」

 ニーナに訊ねてみる。俺自身には思い当たることはない。様子を見るに、ニーナもそうらしい。

「特にないと思うけど……レベッカの目ではどう?」

「そうね、服装くらいかしら。自宅の気分だと、結構緩くなりがちでしょう? ペネロペがいる間だけでも、きちんとしておいてもらえると助かるわね」

 その指摘に、クレールが「ふふん」と胸を張った。

「そこは心配ないね。みんな、普段からきちんとしてると思うよ」

 まあ、そこはそうかな、と思うけど。ひとつだけ。

「風呂上がりにみんなわりと薄着でいるような」

 俺がそう指摘すると、みんなそれぞれ少し考えこむ様子を見せてから……

「女の子同士ならあのくらいへーきへーき」

 言ったのはクレール。ニーナとナタリーとミリアちゃんはおおむね賛成、という感じ。

「俺もいるんだけど」

「そうですよ」

 マリアさんが味方をしてくれた。ありがたい。

「それはリオンが見なければ済むだけだから」

 クレールは、無茶を言うなあ。

「リオンは男性というか、リオンという生き物だと思うです」

「えぇ……」

 ナタリーの認識はさらにひどかった。

「そ、そこは……きちんとした方が、いいと思うわよ?」

 レベッカさんがそう言ってくれても、まだどうも分が悪いな。いや、まあ、みんなが俺に見られても構わないっていうなら、いいけどさ。俺としても見たくないわけじゃないし。

「……書庫には禁書とされる本があるかもしれない。しかし、大教会による禁書認定の基準がわからなければ、こちらでの特定は困難」

 突然そう言ったのはステラさん。強引に話を戻したというよりは、最初の議題で考えをまとめてたらこのタイミングになったんだろう。

「それは多分ペネロペもわからないと思うから、適当に誤魔化しましょう」

 レベッカさんもそこについてはわりと適当というか……こっちとしては気楽だけど、いいのかな、それで。

「それじゃあ、用件だけで申し訳ないけど、もう行くわね」

 言って、繋がれていた白馬を解放すると、レベッカさんはひょいっとその背の鞍に乗った。馬は特に嫌がる様子もなく、むしろそれが正しいありようであるかのように、軽くいなないてレベッカさんを鞍上に迎えた。

「そんなに急ぎなんですか」

 訊くと、レベッカさんはまたあの疲れた笑顔になって。

「私、まだ荒水の町にいることになってるから……」

 それでみんなも「あぁ……」と同情する顔になった。かなり無理をしてまで、事前の警告に来てくれていたわけだ。ありがたいことだけど、これからまた隣町か。大変そうだ……。

「それじゃあ、また近いうちに!」

 レベッカさんがそう言うと、馬はその意をくんだように駆け出した。さすが聖騎士というか……馬上のレベッカさんは絵になるな。乗馬の腕については、俺はレベッカさんの足下にも及ばない。

 そのままみんなでレベッカさんを見送った。

 馬の駆ける音が遠くなり、姿が見えなくなると、みんな館の中へ戻っていく。その時に、クレールがぽつり。

「レベッカも忙しそうだね」

「も?」

 クレールはそんなに忙しくは暮らしてない気がするけど……

「……今、僕を暇人扱いしなかった?」

 おっと……。思ったことが顔に出たかな……。

「言っとくけど、僕はいま演し物の練習してるんだから、どっちかって言うとリオンが暇人なんだからね!」

 それはまあ、確かにそうだ。

 そのクレールたちが中庭での練習に戻っていくのを見届けて……

「……そういえば、春祭りについて知らせるのを忘れてたな」

 俺がそう呟くと、それに応じたのは隣にまだ残っていたステラさん。その赤い瞳でレベッカさんが去った方向を眺めながら……

「またすぐに戻る。春祭りには間に合う。そのはず」

 そう言った。まあ、それもそうか。

 きっとレベッカさんの滞在中に、春祭りは開催される。せっかくだから、楽しんでもらえたらいいな。

 なんて。俺はほとんど見てるだけだけどね……。



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村の発展を祈願する会合

 ステラさんの指導で俺もこの村の現状についてさらに理解を深めた……と思う。これなら、会合で村の人たちからあれこれ聞かれても大丈夫……のはず。

 いまいち自信がない。普段はほとんどをステラさんとクレールに任せきりだからな……。

 念のため手提げランタンを持って館を出た俺は、日が沈んで少し経った頃に、村の集会所を兼ねてる酒場に到着した。両開きのいかにも重々しい扉が、半分だけ開け放たれていて、中からは賑やかな声が聞こえてきている。確か……前の領主といざこざがあった時に、扉を頑丈な物に替えたんだと言ってたな。重鎧の男たちが勢いよく体当たりしてきても壊れなかったんだそうだ。

「リオンさん! こっちこっち!」

 中に入ると、一番奥の席から俺を呼ぶ声が聞こえた。親方のいるテーブルだ。

 見回すと、村の主立った有力者はすでにほとんど集まってる。だいたい同じ職種で同じあたりのテーブルに固まってるみたいだ。商人さんたちが集まってるテーブルには、ユウリィさんの弟子のニコルくんもいた。距離もあるし、お互いに軽く手を振るだけで済ましたけど。端の方には魔女の店の『おばさま』もいるな。

 それぞれ小集落のまとめ役だったりする人たちが集まってて、これでおよそ四十人。以前に親方から聞いたところでは、村の総人口は五百前後だということだ。寒寂の村、なんて名前だったにしては結構多いと思う。俺の故郷はもっと少なかったし。

「こんばんは。まだ予定の時間より早いと思うんですが、俺が最後だったかな」

 親方にそう言うと、親方は口を大きく開けて笑った。

「あっはっは! まあ、竜牙館はちょい離れてっからな! もーちょい近いと便利なんだが、移築するわけにもいかねーわな!」

 親方は前の村長の奥さん。ニーナやナタリーの赤毛とはちょっと違う、燃える炎のような色合いの髪が特徴的。

 前の村長は前の領主との争いで亡くなって、今は俺が領主で村長を兼ねてるから、この人は『親方』って呼び名になってるけど、本来なら村長をやってるべき人だ。

 とはいえ、いま親方も話した通り、竜牙館は村から少し離れてることもあって、実質的には親方が村長として頑張ってくれてる。一応、役職的にも村長代理には任命してあるし。

 歳は、はっきりは知らないけど、少し上だな。俺の母さんより上ってことはないだろうけど。

「そうだ、リオンさん! 聞いたぜ、また嫁っこが増えたって! 今度は女騎士なんだって? いやー若いっていいな! これで嫁がひいふうみい……七人? 八人?」

 そう言いながら、親方は俺の背中をばしばしと叩いてきた。

「ええぇ。また無責任な噂を……」

 親方はいい人なんだけど、噂好きなところがあるな。それ自体は構わないんだけど、俺自身が噂の的になるとちょっと、俺としては対処に困る。否定すればするほど、余計に何か言われそうだ。

 それにしても、レベッカさんはこれまで数に入ってなかったのに、今日一時的に館に戻ったところで数に入れられてしまったか……。

 ただ「その噂があると村の人たちから毎日求婚されないで済む」と言ってたのはニーナだったかな。そういう事情らしいから、俺として強く否定はしないことになってる。

「というか親方、もう飲んでるんですね」

 酒場なんだからお酒があるのは当然だけど、会合を正式に始めないうちからこの始末だからなあ。

「いやーっ、はっはっは! こーんなに酒が飲めるなんて、昔と比べたらもうほんと天国だよ! みんなそう思ってるさ!」

 親方がそう言うと、周りの人たちからも賛同の声が聞かれた。

「それは良かった」

 見回すと、前の村長の時代から村を支えてきた重鎮たちだ。俺の父親どころか、祖父でもおかしくない歳の人もいる。そして例外なくもうすでに飲んでいる……。

「話し合いをするっていう感じでないこともわかりました」

「今日は発展祈願をするだけだからいーんだよ! ほら、リオンさんも飲んだ飲んだ!」

 やっぱり飲み会だ。まあ、仕方ないか。他に娯楽がないとまでは言わないけど、主要な娯楽であることは確かだ。それに実際、前の領主の時にはそれもできなかったそうだから、反動もあるだろうな。

「じゃあ少しだけ」

 それを断るのもね。俺ももう十五だ。遠くの街では子供の飲酒を禁じているところもあるらしいけど、このあたりの地域では俺はすでに『飲んでもいい歳』ってことになる。とはいえ、まあ……進んで飲みたいかというと、今のところそれはないな。楽しめるようになるのはもう少し先か。

「……そういえば、春祭りの準備はどうですか?」

 葡萄酒をすする程度に飲みながら、親方に訊ねてみた。もうだいぶ酔ってそうだから詳しく説明されるのは期待してないけど。

「ああー、みんな張り切って進めてるよ。二、三日中には村の外れにやぐらを組んで、飾り付けして、当日になったらそのやぐらを……」

「そのやぐらを」

「燃やす」

「えぇ……」

 せっかく組んで飾り付けまでするのに、燃やしちゃうのか……。

 そんな俺の様子を見た親方は、大きく口を開けて笑った。

「冬の時代を終わらせるっていう祭りなんだから、盛大な方がいーんだよ」

 なるほど。つらかった冬のことは燃やしてしまって、新しいことが始まる春を祝う、って意味か。それなら確かに、春祭りらしい趣向かもしれない。

「そういうことならわかりました。何かこっちの方から手伝いが必要なら言ってください」

「いやー、何でもかんでも領主様に任せっきりじゃーな! なあみんな」

 親方が意見を求めると、近くの人たちもしきりに頷いていた。

「あの地獄から救い出してもらっただけで、あたしたちゃ、もう感謝しきりだよ。そりゃあね、頼りたくなっちまう気持ちもあるさ。けど、リオンさんは勇者なんだ。いつかもっと大事な用ができて、この村を出て行っちまうかもしれねーだろ? 早いとこ、あたしたちだけでもやってけるようにならなくっちゃーな」

 その気持ちは、村の人たちみんなで共有してるみたいだ。それは俺も感じる。自警団を組織した時も、春祭りのことも、村の人たちから言い出した話で、俺は頷いただけだ。

 それは前の領主に押さえつけられてた気持ちが噴き出しているだけかもしれないけど、俺としては、村の人たちが村のことを自分たちで決めるっていうのは、応援したいと思う。

 親方が言うように、俺もまた何か新しい敵と戦うためにここを出て行く可能性は、確かにあるわけだし。

「そういうことなら……。でも、本当に手伝いが必要になったら遠慮はしないでくださいね」

「ありがてえお言葉だなあ、おい。これだけでも発展祈願の会を開いた甲斐があった!」

 親方がそう言って笑いながら麦酒を呷ると、周囲からは「だなだな!」と賛同の声があがって、その人たちも笑顔でジョッキを傾けていた。

「ははは……」

 これだけの人がいればお互いに利害が衝突したり、あるいはもっと個人的なことでだって喧嘩になることもあるだろうに、それでもみんな新しい季節のために力を合わせてる。

 みんなが前の領主の横暴に対して一緒に立ち向かったからかもしれないし、単純に、親方の人望のおかげかもしれないけど……

 何にしても、この空気ならきっと、村ももっと良くなっていくだろう。

 そう思えた会合だ。

 

 でも、うん……それからしばらく時間が経つと、そうとばかりも言えなくなった。

 少しだけって言ったのに、ずいぶん飲まされたな……。

 俺はこれまでの体験のおかげで毒への抵抗力があって、それが酒精も防ぐ、つまり酔いにくい体質のはずだとステラさんが言っていたけど、それでも軽く酔いを感じるくらいだ。

 親方の周りにいた何人かは、親方のペースに付き合わされた結果、すでに端の方で壁を背にぐったりしている。そうでない人も、これからそうなる運命に見える。

 ニコルくんは俺より年下だからお酒は断ってたみたいだな。でももう姿が見えないから帰ったんだろう。当然か。特に重大な議題があるわけでもないし、時間も遅い。

「じゃんじゃん飲もうぜー!」

 親方がジョッキを掲げると、まだ生き残ってる人たちが「おおーっ!」と気勢を上げた。まあ、最初よりだいぶ減ってはいる……。

 俺もそろそろ帰ろうと思うけど、失敗したな。人数が少なくなったから、今から動くと目立ってしまう。見付かって捕まったらまた長引くな……。

 そう思った時にちょうど、出入口の方から聞き慣れた声がした。

「リオーン。迎えに来たよ!」

 クレールだった。まさに天の助けというやつだ。いやあ、本当に助かった。

「ああ、クレール。ありがとう。それじゃ親方、迎えが来たから俺はこれで……」

 と言った俺が立ち上がるより早く、

「おーっ! クレールちゃん! いいところに来た! 一杯飲んでいきな!」

 親方の矛先がクレールに向いた。非常にまずい。クレールまで捕まったら、帰れるのはいったいいつになるか。クレールには断って欲しいところだけど……。

「えー、親方はしょうがないなー。一杯だけだよ!」

 ダメだったか。

 新しく用意されたジョッキに麦酒がなみなみと注がれて、立ち上った泡はジョッキから溢れんばかり……。いくら一杯だけと言っても、これは大変だぞ。

「この村の発展とリオンさんの前途に乾杯だー!」

 親方がそう叫んでジョッキを掲げる。クレールもすぐさまそれに応じた。

「いえーい!」

 そしてなんと。

「…………ぷっはー! ごちそうさま!」

 何度もまばたきしないうちに、全部飲み干してしまったという……。

「じゃあ今日はこれで! またね、親方!」

「おー! 気を付けて帰れよー!」

 そしてなんともあっさりと解放されたのだった。

「……すごいね、クレールは」

「えー。そんなに強いのじゃないでしょ、あれ」

 お酒自体のこともそうだけど、なんかこう、勢いで乗り切っちゃう感じがすごい。俺にはちょっと真似できないな……。

「お代は結構ですから、またいつでも来て下さい」

 そう言ってくれたのは酒場のマスター。この漁村には不似合いな……というと村の他の人たちには失礼かもしれないけど、ともかくそんな感じの老紳士だ。

「ありがとうございます」

 会釈して外に出ると、ちょうど夜風が吹いた。酒精の回った身体にはこれが気持ちいい。以前に感じたような肌寒さはあまり感じないな。それは、酔いのせいだけじゃないと思う。

「そろそろ冬が終わるって感じは、確かにするな」

 季節が変わる。そのことを、全身に感じる。

「ちょっと賑やかになるかな?」

 クレールがそう言ったから、俺も「そうだといいね」と応じた。



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夜道とクレール

 ランタンを片手に、夜道を歩く。月明かりがあるから、ランタンも要らないくらいだ。とは言え、俺はそれでいいとしても、クレールの足下はやっぱりなるべく明るい方がいいだろうと思う。念のためね。

 また風が吹いて、隣を歩くクレールの髪がふわっとなびいた。クレールはそれを片手で押さえながら過ぎ去った風に向かって文句を言っていたので、俺はちょっと笑ってしまう。

 ふと、クレールがこっちを振り向いた。俺が笑ったのを気付かれたかな……。

「ね、リオン」

 言われて、ちょっとどきりとした。

 クレールが、思っていたよりずっと真面目な表情で、俺を見たからだ。

「そろそろ、また冒険に行きたいなーって、思わない?」

 雑談……うん、雑談だ。でも、ちょっとだけ、真剣な話だ。

「なんかね、リオンとこうして暗い中を歩いてたら、古き契約の宮のことを思い出しちゃってさ」

 俺とクレールが挑んだ異界の地下迷宮の名前を、クレールは呟いた。

 前にナタリーと歩いた時にだったか、そういえば俺もそんなことを思ったな。

 地下迷宮での冒険なんて、やってる時は本当に苦しくて危なくて大変だったのに、終わってしばらく経ってみると……ああ、あれはあれで楽しくもあったなって、思い返したりはする。ナタリーもそう言ってたし、よくあることなんだろう。ただ……。

「俺はここでの生活を気に入ってるよ。冒険は、いつも誰かに命の危険がある感じだったから」

 実際に死にかけたこともある。死から逃れられなかった人を見たこともある。そして、もうほとんど人間じゃなくなっていた相手とはいえ、他人の命を絶ったこともある。相手が魔獣なら、お互いに容赦もない。どっちかが死ぬまで戦うのが当たり前。

 そういう、命のやりとりをする日々だった。

 絶対に死にたくないと願ったから、強くなりたいと願ったから、そしてたまたま、戦った相手より強かったから、俺は生きてこられたけど。

 だけど……

「それで怖くなった?」

 少し立ち止まって、クレールが俺の顔を覗き込む。

 また、風が吹いた。木々が揺れて、ざあっ、と音がした。

 と――それが過ぎ去ったら、急に静かになった。あれだけ騒がしかった酒場の喧噪も、もう聞こえてきてはいない……。

「俺自身はいいんだよ。絶対に死にたくないって気持ちはもちろんまだあるけど、俺自身の判断でそうなるなら仕方ないとも思ってるし。だから、俺自身のことよりも、みんなのことかな……」

 そう。クレールの言う通り、怖いのは怖い。

 でもそれは、天秤に載るのが俺の命だけじゃないからだ。

「もし俺がまた何かと戦うってなったら、みんなきっと手伝ってくれると思うんだよね。俺の自惚れでなければ、だけど」

「それは、そうだね」

 クレールがすぐに頷いたから、俺としては、きっとみんなもそうだろうと思ってしまう。もしかしたら、うん……みんな、じゃないかもしれないけど。でも、少なくとも一人はいるわけだ。すぐ目の前に。

「だけどね。今はみんな、それぞれ自分の目標に向かって頑張ってる。だから、危険なことには付き合わせたくはないんだよ。……もちろん、みんなもいざとなれば自分の判断で危機を乗り越えるとは思うんだけどね」

 俺の仲間のみんなにそれだけの実力があるってことは、俺も知ってるつもりだ。

「それに、俺は……」

 続けて言おうとして、はっと口をつぐんだ。

 竜気(オーラ)の活性化を抑えるために戦いを避けてること。うっかり話しそうになったな。実は、みんなにはまだ話してない。話せてないとも言う……。いつか話そうと思ってはいるんだけど。

 ……でも、よく考えたらもうそんなに重大なことでもないよな。

 この生活を続けてれば、俺が竜気(オーラ)を燃やして戦うような相手はいないんだから。

「それにね、俺はみんなが頑張ってるのを応援して、できれば手助けして、これまでの恩を返したいって、そう考えてるんだ。今はね」

 それだって本心だ。ただ、戦い以外の場面では俺って本当に役に立たないなって、痛感する日々だけど。

 ……ああ、だからかな。クレールがこんなことを言い出したのは。

 そろそろ俺にも鬱憤が溜まってるだろうから、気晴らしをさせたい……と、そんなところか。だとしたら、いかにもクレールらしい気配りだと思う。

 あまり心配させないようにしないとな。

「クレールも何か頑張りたいことや、困ってることがあったら言ってよ。俺もできる限り、手伝うからさ」

 俺がなるべく明るくそんな風に言うと、クレールもやっと笑顔に戻った。

「んふ。リオンって、困ってる女の子が好きだもんね?」

 元に戻ったと思ったら、いきなりその話か……。

「あのね……」

 小さくため息をついて、館への坂道を歩く。

「前にも言った気がするけど、困ってるのが男の子でも助けるよ」

 クレールもわかってくれてるとは思う。たぶん、俺をからかってるだけなんだろう。

「わかってるよ」

 と……言ったクレールの声が、また、妙に真剣なものだったから、俺は慌てて振り向いた。

 でも、クレールはいつも通りの、俺と冗談を言い合う時の顔で笑っていた。

 気のせいだったのかな。……少し気にしすぎなのかもしれない。

「……よし、それじゃー僕も目標に向かってがんばって、リオンに応援してもらおうかな?」

 クレールは少し足を速めて、俺の隣に並んだ。

 改めてそうすると、クレールは小さいな。俺は最近少し背が伸びたかなとは思うけど、クレールは初めて会った時から全然変わらない。

「いいことだと思うよ。どんな目標?」

「そーだなー。とりあえずだけどー……リオンのお嫁さんになろうかなって思ってるんだー」

 ……息が詰まるかと思った。いきなり何を言い出すんだ、まったく。

 ちらりと視線を向けると、クレールは俺の方を見ながら、にへら笑いをしていた。

 俺の反応を面白がって言ってるだけなんだろうな、とは思うけど、そんなことを直接言われたら、そりゃあまあ、動揺くらいする。

「僕のために父様と対決するリオン、格好良かったなー」

「あれは……いや、クレールのためでもあったけど……」

 クレールのお父さんと対決したっていうのは、その部分は本当。お互い本気で戦ったから、どっちかが死んでもおかしくなかった。スレイダーさんが割って入ったから、運良く、二人とも死なずに済んだけど。

 あの時の問題は〈魔杯〉のことで、決して、クレールとの接し方について保護者から苦情があったとか、そういう争いじゃ、ない。

「ちなみにねー、親方は僕に賭けてるんだってー」

「何の話?」

「誰がリオンの正妻になるかの賭け」

「えぇ……」

 そんな賭けがあるらしいことは、他の子からも聞いてたけど……親方まで関わってるのか。胴元は、ユウリィさんあたりかな……。

「んふ。まあ、それはそのうちでいいや。僕が他の子たちとちゃんと決着を付けてからね。みんなのことも好きだから、後々恨まれるようなことはしたくないし」

 そんなことまで考えてるのか。するとこれは、まるっきり冗談で言ってるわけでもないらしい。

 それほどの気持ちなら、それはもちろん、嬉しくないわけはない。

 でも……

「前にも言ったと思うけど、邪神と戦うために異界に行ったりしたから、身体にどんな影響が残ってるかわからなくて、だから俺はそういうのはまだ……」

 実際、竜気(オーラ)が溜まりすぎてるってわかったのも最近だったし。どうなんだろうな、竜に近付いてるって。今のところ、そんなに大きな変化は……竜と話せるようになったかもしれない、くらい。

 異界に行ったのも、どうなんだろう。目立った異変は感じてない。でもまだ、もしかするとこれから出てくるかもしれない。

 結局、自分がちゃんと人間かどうかを確認する手段は、まだ考え出せていないんだよな。

 そのことについて、あんまりみんなを巻き込みたくない、悩ませたくないって気持ちはある。

「わかってるよ。でもさー、異界がどうとかっていう話なら、僕も同じだし。それに、一緒にいたいって思うくらいは、別に構わないでしょ?」

「それは……そうだけど」

 正直なところ、クレールがいてくれないと領地のことについてうまく処理できる自信がない。

 ……気持ちを知りながらそれを利用して引き留めてる、と言われても反論できないな。

「ま、急がなくてもいいよ。僕ってわりと一途だし、気は長い方だからね。リオンが心を決めるか、そうじゃなかったら、天寿を全うするくらいまでだったら、待ってあげられると思うからさー」

「それは……気が長すぎるんじゃない? さすがに冗談にしか聞こえないよ」

「んふ。僕の心変わりが心配なら、早く決めた方がいいね?」

 ……ここであんまり動揺してもクレールの思うつぼだな。

「とりあえず、クレールがいてくれて助かってるよ。領地のこととか」

「あ、誤魔化したね? まーそこは、どういたしまして、ってとこかなー」

 お互いに笑い合って、この話はこれで終わり。

 だけど……クレールが俺を手伝ってくれてることに、俺はどう報いていけばいいのか、もっと真剣に考えていかないとな。



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ペネロペ

 レベッカさんが館に戻ったのは、前の一時帰館から二日後、その昼前だった。

 予告通り後輩の聖騎士を連れていたから、一応、初顔合わせということで、大広間での謁見……みたいな体裁を整えた。俺の左手側にはクレール、右手側にはステラさんもいる。

 レベッカさんが促すと、後輩の子は一歩前に進み出た。そして優雅に膝を曲げ、挨拶をしてくれた。

「お初にお目にかかります、リオン様。私は自由と光の教団の聖騎士――見習い、ペネロペと申します。お目にかかれて光栄ですわ。これも我が神の思し召しというものでこざいましょう……」

「ああ、どうも……」

 どこかのお嬢様かな。身のこなしが、いかにもそんな感じだ。……とはいえ、本当にお嬢様なクレールがあんな風だから、自信はない。

 

 ペネロペ、と紹介されたこの子は、レベッカさんの後輩。聖騎士の見習いで、修行中の身らしい。レベッカさんと故郷が近い同士と言っていたから、結構、北の方の出身になるのかな。

 歳は、俺よりも下だと聞いた。見た感じも確かにそうだ。十三か十四か、そんなところ。特徴的なのは薄桃色の髪。ストロベリーブロンドという珍しい髪色だと、後で解説をもらった。ステラさんは何でも知ってるな。

 レベッカさんと同じ、青と白を基調にした服をきりっと身につけていて、まだ見習いとは言え聖騎士だなあ、と感じる。

 

 そのペネロペが、俺をじっと見つめている。

 レベッカさんから事前に、俺のことを神格化しているらしい、と聞いてるから、少し緊張するな。

 ただ「あれ?」と思ったのは、その視線がどうも、尊敬とか崇敬とかじゃなくて、なんだろう……疑念? そんな感じだったことだ。

 無言で見つめ合う、というか、睨まれる時間がしばらく過ぎて……

 ペネロペが、ようやくもう一度口を開いた。

「普通の人に見えますけれど、本当にリオン様?」

 何だ、その感想。

「そりゃまあ、翼が生えていたりはしないと思うな……」

 隣に居たクレールが少し呆れたような声音でそんな風に返答した。まあ、うん、竜の翼なら、そのうち生えかねないのが怖いところだけど。

「……おかしい」

「はあ」

「こんな普通の男に、レベッカお姉様が傾倒するはずありません。さてはあなた、偽者ですね? 影武者? 影武者なんですね?」

 ペネロペは俺に指先を突きつけて、そんなことを言い放った。

 あまりにもいきなりの、予想外のことで、さすがに少し面食らったけど、でも俺としてはちょっと面白い。もしかしたら俺ってもう普通じゃないのかもしれないと思い始めてたから、この初対面の子から普通の男だと言われて、何だか少し安心した。少なくとも見た目はそうなんだろう。

 それにしても。

「レベッカ……お姉様?」

「なんか、レベッカから聞いてた話と違うような……」

 クレールと顔を見合わせる。そうしている間に、ペネロペがさらに捲し立てた。

「お姉様を呼ぶ時は敬称をつけなさい! レベッカお姉様は聖騎士団の中でも超エリート。若くして単独での任務を与えられ、暗黒神、死神、邪神と数々の戦いで大活躍され、もうこれまでの功績だけで大教会の伝説となるお方ですのよ!」

「はあ」

「そのレベッカお姉様がこれと決めた勇者なら、それはそれは特別な存在であるはず。こんな普通の男なはずありませんわ!」

「…………はあ」

 どうも、認識に行き違いがあったみたいだな。

 ペネロペは今にもまた吠えだしそうな気配を漂わせて、俺を睨んでいる。

 その隣のレベッカさんは、頭を押さえて目を閉じている。頭痛に耐えているようなしぐさだ。本当にそうだったとしても、まあ無理もない。

「あのね、ペネロペ。この人が間違いなく、私が勇者と認めてこの盾を預けた〈竜牙の勇者〉リオンなのだけど?」

 諫めるようにそう言ったレベッカさんだけど、ペネロペの勢いはもう止まらない。

「お姉様がそう言っても信じられませんわ! だってこんな平凡男!」

 レベッカさんが言ってすら、この始末。確かに扱いにくそうな子だ。

 しばらくここに住むんだよな。さすがにこれは、何かトラブルがありそうな予感がする。

 どうしたものか、と、クレールやステラさんに視線を送ると、クレールはしぐさで「やれやれ、どうしようもないね」との意思を伝えてきた。ステラさんは……

「勝負すれば良い。そうすれば、リオンが普通の男などで無いことは理解できる。そのはず」

 えぇ……。確かに、それはそうかもしれないけど。

 聖騎士とはいえ見習い。それも、俺より年下の女の子。俺が負ける理由はない。

 こんなわかりきった勝負、持ちかけても相手が受けるはずがない。

「望むところです! こーんなごく普通のどこにでもいるいかにも軟弱そうな男に、私が後れを取るはずはありませんものね!」

「えぇ……」

 受けるのか……。どうも、見た目で判断された場合には相当弱そうに見えるらしいな、俺。自分ではそれなりに筋肉も鍛えてるつもりなんだけどな。

「まあ、練習用の木剣でいいなら……」

 俺としての譲歩はそのあたり。当たれば痛いだろうけど、死ぬほどのことはないだろう。それに力量差は明白だから、竜気(オーラ)が活性化する危険も、多分ない。素振りと同じ。

 裏庭から俺の練習用の木剣と、同じく練習用の戦鎚をクレールに持ってきてもらって、勝負自体は前庭でやることになった。中庭はちょっと、戦うには狭い。

 少しずつ長さや重心の違う戦鎚がいくつかあったそうで、クレールは一応、それらを全部持ってきた。そして、前庭に出るところで盛大に転んだ。最近大丈夫だったから俺も油断してたな……。

 どれを使うか、ペネロペにはじっくり選ばせて、俺の木剣に不正がないことも確かめてもらう。その間に、俺はレベッカさんと話す機会を得た。

「レベッカさんから見て、あの子の実力のほどは?」

「神官戦士団と比べたらだいぶマシだけど、やっと聖騎士の最低限が身に付いたってとこかしらね。将来には期待できるけど、今はまだね」

「なるほど」

 正式な聖騎士じゃない、ということは、初めて会った頃のレベッカさんよりも実力は下ということ。手加減はちゃんとした方が良さそうだ。

 さて、ペネロペによる確認も終わって、俺の手元に木剣が届けられた。

 ペネロペは練習用の木製の戦鎚を右手に持って……

「あれ、ずるくない?」

 クレールが指摘したのは、ペネロペが左手に持った盾。いかにも頑強そうな、金属製の大盾だ。ペネロペの身体には不似合いなくらいの大きさで、俺としては、脅威を感じるよりも、むしろちょっと微笑ましい。

 あれを扱えるんだったら、鍛えてるのは確かだろう、とは思うけどね。

「別に構わないよ。聖騎士の戦い方なんだろうし。それに、ここには練習用の大盾はないから」

 戦鎚と大盾を用いた闘技は聖騎士の伝統だって聞いてる。レベッカさんもそうだった。それを禁じて後で文句を言われるのも面倒くさい。

 二人で前庭の広い部分に出て、背中合わせからお互いに五歩ずつ離れた。合わせて十歩の距離で、改めて向き合う。

 ペネロペは戦鎚を握る右手を胸の前に留めて、礼の姿勢を取った。俺もそれに倣って、同じ姿勢を取る。

 それから、構え。

「手加減は無用ですわ!」

 大盾の陰に全身を隠したペネロペは自信たっぷりにそう言ってるけど、審判として間に立っているレベッカさんは嘆息して、

「ほどほどにしてあげて」

 と要請してきた。

「そうします」

 俺としても、女の子にそんなに手荒な真似をするつもりはない。

 

       *

 

「まいりました」

 ペネロペはそう言って膝をついてうなだれた。

「うん。レベッカさんもそうだけど、聖騎士の戦い方は遅すぎるよ」

「後の先をとるのが聖騎士本来の戦い方だけど、リオンには通用しないわね……」

 ペネロペは大盾をどん、と前に構えて、どんな攻撃も防ぐという意気込みを示してはいた。これに木剣を叩きつけたら、木剣の方が当たり負けるのは確かだ。それを覆すなら、闘気(フォース)を木剣に届かせて強度を底上げするしかない。でもそれはしないことにした。

 じゃあどうしたかというと、単純に、横に回り込んだだけ。

 簡単に聞こえるだろうけど、聖騎士はその程度のことは当然想定していて、盾で相手の選択肢を狭めつつ、戦闘を展開していくものだ。レベッカさんがそう言っていた。

 ただ何というかまあ、大きな盾のせいもあるけど、俺からすると本当に遅い。

 木剣でペネロペが持っていた戦鎚をはじき落とし、柄頭を盾の裏側に打ち付けて、体勢を崩した相手の目の前に切っ先を突きつけて、終わり。

 やっぱり、ペネロペはまだ見習い。レベッカさんほどの巧者じゃなかった。相手がレベッカさんなら、俺ももっと苦戦したと思う。

「まさかこの男、本当にリオン様……?」

 うなだれたままのペネロペが呆然と呟くのを聞いて、レベッカさんが苦笑した。

「ごめんね、リオン。迷惑をかけたわね」

「まあ、わかってもらえたようで良かった」

 それにしても、こうやってちゃんと戦ったのはしばらくぶりだけど、やっぱり「戦って勝てば良し」っていうのは明快でいいな。気が楽だ。

 というわけで、やっとわかってくれたらしいペネロペと、改めて自己紹介をすることになった。自分のことをリオン、だけじゃなく、リオン・ドラゴンハートなんて言うのはまだ慣れないけど。

 そういえば、こういう時はことさらに自分の爵位をひけらかさないように、とクレールには強く言われたな。名前だけでいいって。そういうものなのか。

「改めまして、私はペネロペ。リオン様の愛の奴隷……」

「……はあ」

 何か妙な自己紹介が聞こえた気がするな。

「感服いたしました。まさかこんなにもお強く、素晴らしい方でらしたなんて……。レベッカお姉様の気持ち、今ならわかります。私もリオン様にこの身の全てを捧げます。私のことは、どうぞ、いつでもお好きになさって下さい……」

「ちょっ、何言ってるのペネロペ! もっと自分を大事にしなさい!」

 レベッカさんが慌てて止めに入らなかったら、俺はペネロペから抱きつかれてたところだった。そうならなかったのは、ちょっとだけ残念ではある。……みんなの手前、口には出さないけど。

「古い伝承の通り。……ピンクは淫乱」

 そんな伝承があるのか。ステラさんは何でも知ってるな……。

「はは……」

「笑い事じゃないよ!」

 ステラさんもクレールも、ペネロペの豹変に警戒を強めたみたいだ。

 聞いてたのと違うと思ったら、最終的には聞いてた通りになったと、まあ、そんな話。

 ……ちなみにこの後、レベッカさんによって物陰に引きずられていったペネロペは、戻ってきた時には平静を取り戻していた。あれはどうやら、発作みたいなものらしい……。



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ニコル

 ペネロペのことも一区切りついたから、俺は午後からユウリィさんの店を訪ねた。春祭りはもうすぐ開催されるのに、そのために頼んでおいた葡萄酒と麦酒がまだ届いてないからだ。

 この用事、他の誰かに頼むことも考えたけど、レベッカさんとペネロペを迎えるにあたって館の方も慌ただしくなってたし、ペネロペの発作がいつまた起きるか少し不安なのもあって、俺はしばらく館から離れておくことに……。

 ユウリィさんの店は村の中心にある広場からは少し海寄りの方にある。ユウリィさんが来る前から主に釣り具を扱う雑貨屋があったらしいけど、前の店主はすでに結構なお歳で、前の領主といざこざがあった時に店をやめてしまったんだそうだ。

 今はユウリィさんが賃料を払って、その建物を借りているらしい。

「あれ、リオンさん。珍しいですね、お店に来るなんて」

 店に並べた商品の埃を払っていたニコルくんが、俺に気付いて駆け寄ってきた。

 

 ニコルくんはユウリィさんの弟子。ユウリィさんによれば「数字の天才」らしい。それで、まだ若いを通り越して幼いというくらいなのに、この店を任されてる。

 歳は俺よりずっと下で、ミリアちゃんと同じくらい。でもミリアちゃんと比べると、その歳に似合わないくらい落ち着いてて、大人びて感じるな。

 髪は茶色、瞳は青。顔立ちは中性的で、女の子と言われたら信じてしまいそうだ。

 困窮した故郷を旅商人のユウリィさんが訪れた時に、自分を「買ってもらった」と言っていた。ユウリィさんはその時の積荷全部を代価として支払って、故郷の村はなんとか持ち直すことができたんだそう。

 いつかはユウリィさんに「いい買い物だった」と言わせたいらしい。

 俺から見ると、なんだかんだでニコルくんのことは認めてると思うけどね、ユウリィさんは。

 

「今日はちょっと聞きたいことがあって。ユウリィさんに頼んでた荷物のことなんだけど」

「ああ……師匠、しばらく戻ってないですもんね」

「他の日用品はいいけど、葡萄酒と麦酒は春祭りのために頼んでるから」

「はい、承知してます」

 話が早い。打てば響くという感じだ。俺がニコルくんくらいの歳の頃はどうだったかな……なんて思い返すと、ちょっと自分が恥ずかしくなるくらい。

「ユウリィさん、何かトラブルでもあったのかな」

 それについては「今のところ特に連絡はありません」とのこと。

「間に合わせると言ってたので、もう少しお待ちいただければと思います」

 そうか。まあ、仕方ないかな。俺が今ここでニコルくんに怒鳴ったって、ユウリィさんが戻るのが早まるわけじゃない。

「ユウリィさんなら無理だと思ったら引き受けないだろうしね」

「身内を褒めるようで恐縮ですけど、はい、その通りだと思います」

 その点では、俺もニコルくんも見解は同じ。

 とはいえ一応、お酒を注文したクレールとも話し合って考えてきたことは伝えておく。

「念のため、もし間に合わなかった時には替わりのお酒を出せたらと思うんだけど、どうだろう」

「そうですね……」

 ニコルくんは少しだけ考えて……その立ち姿、なんかユウリィさんに似てきたな。

「蜂蜜酒と林檎酒なら、すでに注文された量の二割ほどまでお譲りできます」

 二割か。クレールは飲み放題にしたいと言ってたけど、その量だとちょっと厳しいかな。とはいえもちろん、全然ないよりはずっとマシだ。

「祭りまでの間、取り置いてもらえるかな。ユウリィさんに注文したのが届けば必要ないけど……」

「んー……わかりました。後から注文が来るかもしれませんが、リオンさん直々の予約となれば、村の皆さんも納得せざるを得ないでしょう」

「申し訳ない……」

 あんまり使いたくなかった強権を使うことになってしまうかもしれないな……。とはいえ、独り占めしたいからじゃなくて、村のみんなに配りたくてしたことだから、大目に見てもらいたい。

「師匠のことですから、きっと間に合わせると思いますので、あまり心配しないでください。師匠が注文量を揃えてきたら、こちらのご予約は破棄ということでいいですか?」

「そうしてくれると助かるよ」

 話がまとまると、ニコルくんはすぐにそのことを紙に書き記した。ステラさんもそうだけど、そうやって記録に残す習慣が身に付いてるのってすごいな。

 俺も日記はつけてるけど、いまだに時々、日記をつけること自体を忘れそうになる……。

 それはともかく、ここでの用はもう済んだ。そろそろ館に戻ろう。

 と思っていると、メモを終えたニコルくんが、俺に営業用の笑顔を向けてきた。

「せっかくだから何か買っていきませんか?」

 逃げ遅れた、と今更気付いてももう遅い。

「お勧めの品はこちら、はるか東にある碑岩の街で作られた、金の首飾りです! 碑岩の街は昔から金細工で有名でして、例えば、魔剣王時代の教皇レナトゥス三世は特にこの街の金細工を好んだという話ですよ。大教会の頂点である教皇をも魅了する金細工……どうです、欲しくなってきませんか?」

 そう言って、ニコルくんは立派な化粧箱に入った金の首飾りを見せてくれた。確かに素晴らしいものだと思う。俺ごときの鑑定眼じゃ純金かどうかまではわからないけど、施された細やかな意匠やちりばめられた宝石の数々……宝飾品にあんまり興味の無い俺でも、見ればため息が出るような華麗さだ。職人技ってやつだろう。

「……でも、高価なものなんだろうね」

「女性に贈ると喜ばれますよ」

 まあ、それはそうだろう。これだけの物だ。これを身に付けた自分の姿を想像するだけでも幸せな気分になれるような、そのレベルの装飾品だと思う。

 それは認めるけれども。

「俺の立場だと、誰かを特別扱いはできないんだよ。後のことを考えると……」

「全員に贈ればよろしいじゃないですか」

 俺は買わないための理由を探してるんだけど、ニコルくんは買うための理由を即答してくれる。さすが、ユウリィさんの弟子だ……。

「……その手には乗らないよ」

「あら、残念。リオンさんが買わないとなると、売れ残っちゃうな……どうしよう……」

 うう。今度は泣き落としで来たか。

 それは俺の事情じゃない、って突っぱねることももちろんできるけど、この店との今後の付き合いもあるしなあ……。

「……仕方ないな。ひとつだけ買わせてもらうよ」

 誰かにとっての特別な日、例えば誕生日なんかに贈る分には、なかなか悪くないんじゃないかな……と、一応は理由を付けてみる。でもそれはそれで、みんなを一巡するまでは同程度のものを贈ることになるのかもしれない。他でどうにか節約しないとな。

「ありがとうございます! きっとお気に召しますよ!」

 弱った顔をしていたのも演技。あからさまだったし、もちろん知ってたけど。

 でも、さすがユウリィさんの弟子というべきか。あっという間に買わされてしまった。ニコルくんの将来が恐ろしくなる手際の良さだ。

 それとも、ただ単に俺の意思が弱いから買わされてしまうのか……?

 ……ニコルくんの手腕、ってことにしとこう。うん。



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ハスター

「ねー、ハスターがどこに行ったか知らない?」

 夕食の後の雑談で、クレールがみんなにそう訊ねた。

 ハスターは俺の仲間で、この館にも一緒に来た。俺が異界に捕らわれた時はわざわざ手助けに来てくれたくらいの功労者だ。

「そういえば最近、見てない気がするな」

 薄情と思うかもしれないけど、ハスターは束縛されるのが嫌いらしいから、こっちもあまり口出しはしない。どこかに出かけて行く姿を見かけたとしても、行き先はわからない。

 それはみんなも同じらしくて、有力な手がかりは出てこない。

 前に見たのはいつだったかとみんなで確認しあうと、どうも年明けのお祝いをした時が最後だったみたいだ。もう随分前のことになるな。

「冬眠してるのかな?」

 諦めのため息をついてクレールが呟く。

 冬眠してたとしても、もう春になる頃だ。さすがにそろそろ出てくると思うけど。

「するのかな、冬眠」

「資料が不足しているため、どちらとも断言はできない」

 ステラさんも知らないとなると、完全にお手上げだな……。

「冬眠じゃないとしたら、どうしたんだろう?」

「人間の言葉は話さないが、高度な知性のある生物……自らの意思で自由に行動する」

「まあ、それはそうだけど……うーん。ちょっと頼みたいことがあったんだけどなー」

 クレールが首を傾げるも、ステラさんは終着点のない議論よりも手元の本に夢中らしい。

 ハスターに頼み事か。ハスターはすごい力を持ってるから、逆に少し不安だ。クレールがまた変なことを言い出すんじゃないかと……。

 とはいえ、幸か不幸か、今はハスターはこの館にはいない。

「そのうち帰ってくるんじゃないかな。中庭の回し車も気に入ってるみたいだったし」

 お茶の香りを楽しみながら、ニーナがそう発言すると、ステラさんも「そう思う」とぞんざいに頷いた。

「回し車って、中庭のアレですか! ちょっと見てくるです!」

 言って、ナタリーが食堂を飛び出していった。そろそろお風呂入るんじゃなかったのかな。いいけどさ。

 回し車――水車みたいな形の、中に入って遊ぶ道具だ。下の土台に、上の円筒を支える形で車輪がついていて、円筒が回ってもその場から動いてしまうことがない。中に入った動物は、その中を延々走り続けることができる。

 そういうものがある、とステラさんが教えてくれて、村の職人さんに作ってもらった。ステラさんは何でも知ってるな……。

「もしかして、広場にハスターの像を置く予定だったのに、リオンの像に変更になったから怒ったのかな……」

 はあーっとため息をついて、クレールがぼやいた。

 ステラさんも「可能性はある」と投げやりに返事をした。

「え、なにそれ」

 驚いたのは俺。

「あれ、秘密だったっけ?」

 クレールが首を傾げて周囲に確認すると、ステラさんが手元の本から顔を上げて応じた。

「公開情報であるはず」

「だよね? リオンにも確か、言ったと思うけど……」

 そうかな。思い出せない。

「確かー……そう、神託の霊峰から帰ってくる時だよ。親方がリオンの像を建てたいって話してたよって、僕、ちゃんと言ったよ。リオンも頷いてたし。聞いてなかったなら、リオンが悪いね?」

「……そういえば、聞いたような……」

 いろんな雑談をしながらの旅行だったし、他にも話題が多すぎて、記憶の網をすり抜けたのか。そういえば、親方が何かの陳情に来た時、その顔を見て何か引っかかると思ったんだ。このことだったか……。

「広場の中央にすでに設置済み。春祭りの最初に除幕式が開催される予定。そのはず」

 村の広場か。近くは通りかかったけど、全然気にしてなかったな。思い返してみると確かに、布に覆われた像らしきシルエットがあったような。

 もっと早くに気付いてれば、強権を使ってでも、予定通りハスターの像にするよう命じたのにな。ステラさんの解説は、今から動いても完全にもう手遅れであることを示している……。

 俺の銅像なんか建てても、何の役にも立たないと思うんだけどなあ。

 ……まあ、当初の予定通りハスターの像だったら役に立ったかって言うと、別にそんなことはないって話ではあるけど。

「ハスターって、誰ですの?」

 それまで黙って聞いていたペネロペが訊ねてきた。

 そういえば、ペネロペはハスターには会ったことないな。

「誰っていうか……」

 クレールがハスターの説明を始めた。

「ハスターは、スペースハムスターっていう生き物だよ。モフモフしててかわいいんだ。大きさは仔犬くらいかな? 魔獣……じゃないな。聖獣とか神獣とかそういうやつ。不思議なちからでリオンを助けてくれたこともあるよ。結構気に入られてたみたいだね」

「古王国時代にも目撃例がある。謎が多い。……興味深い」

 ステラさんも補足を入れた。古王国時代にもハスターみたいな生き物がいたのか。まさかハスター本人ではないと思うけど。でもそう考えると、わりとあちこちに結構いるのかな、スペースハムスター。

「そうなんですね。仔犬は好きです。私も会ってみたいですわ」

「そのうち会える」

 目を輝かせるペネロペに、ステラさんが応じた。

 かわいい生き物が好きなのかな。まあ、そういう子は多いよな。ステラさんも猫好きだし。

「んっんー。でもハスター、あたしのおやつを食べちゃったんだよ。見た目はかわいいけど、食い意地は汚いよねー」

 ミリアちゃんが言ってるのは最初にハスターを見付けた時のことだと思うけど、そういえばその後も食料庫を荒らしたりしてたな……。確かに、食べ物のことになると必ずしも理性的とは言えない。

 そんな話をしていると、中庭の方からなにやら妙な音が聞こえてきた。

 カラカラカラカラカラカラカラカラ……

「! 回し車の音だ! 帰ってきたのかも」

 そう言ってクレールが席を立ったから、俺たちも続いた。

 中庭の隅に置かれた回し車。そこで俺たちが見たものは……

「……なんだ、ナタリーか」

「これ結構面白いですっ! ヒマつぶしにはちょうどいいです!」

 回し車の中に入って遊ぶナタリーだった。ものすごく楽しそうに回していて、いっそこれを水車代わりの動力にして小麦を挽けそうなくらい。

「あははははっ!」

 速い速い。大笑いしながら走りまくる姿からは、相当楽しんでるらしいのは伝わってくる。その姿を見たミリアちゃんも興味がありそうだけど……。

「ナタリーの知的レベルに対する評価を、スペースハムスターと同程度もしくはそれ未満、と修正すべきかもしれない」

 ステラさんの評価は厳しい。

「あははははははははっ!」

 この笑い方は何だか微妙に、ナタリーの正気を疑わせる響きがあるな……。

「もー! ナタリーは早くお風呂入りなよ! 僕たちが遅くなるとその分リオンの寝る時間がなくなるんだからね!」

 結局、ナタリーが遊び疲れ汗だくになって風呂場に向かうまで待っても、ハスターは帰ってはこなかった。

 本当に、どこに行ったんだろう?



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村はずれの教会

「これが教会か。確かに、ちょっとひどいな」

 午前の内に村の教会を確かめようということになって、レベッカさんとペネロペの二人を案内してきた。ステラさんも一緒だ。

 まあ、俺も行くのは初めてだから、本当に案内してるのはステラさんだけど。

 途中、村の広場の真ん中に布を掛けられた何者かの像らしきものがあるのを確認した。布の外から推測される形状は、確かにハスターの姿ではなさそう……。

 気を取り直して、教会。

 荒れてるとは聞いてたけど、実際に見ると、周囲はもうほとんど廃墟の様相だ。

 以前は畑があったと見える場所も、雑草が伸び放題で無残なもの。

 建物は離れたところから一見すると大丈夫そうに見えたけど、近付いてみれば、入口の両開きの扉が大きく壊されていた。外壁にも所々、暴力が振るわれた跡が残ってるし、教会の建物に似つかわしくない色の塗料をぶちまけられた様子もあった。

 前の領主の手下たちがかなり暴れたらしいって話は聞いてたけど、確かにひどい。

 ここを預かってた司祭が逃げ出してしまったっていうのも、無理もないことだと思う。

「修繕は大変そうね。リオンからも寄付という形で費用を負担してもらうことになるけど……」

 レベッカさんが申し訳なさそうにそこまで言うと、ペネロペが続けた。

「寄付の金額が大きいほど、神の恵みもより多くなることでしょう」

 ……要するに、今後も教団から便宜を図って欲しいならたくさんお金を出してくれと。

 まあ、驚きはない。そこのところは事前にクレールやステラさんとも確認済みだし。二人がちゃんとこういう場合の寄付の相場――慣例的な金額を考慮した上で、少し色を付けた金額を試算してくれた。他に特段の事情が出てこなければ、その額を寄付する予定になってる。

 やっぱり二人がいないと、俺ひとりだったらそこまでできた気はしない。ありがたい。

 教会の中は、外よりもずっと荒れていた。

 以前はここが村の集会所になっていたそうだ。村の人たちが前の領主に抵抗しようとした時もここに集まって、それで、前の領主も抵抗の意思を折るためにことさら徹底的にここを叩いた……ということらしい。

 金目の物は前の領主の私兵たちが持ち去ってしまった。重くて持ち運べなかったものは、飾られていた宝石だけ外されたり、壊されたり。

 前任の司祭は逃げ出してしまって、それきり。

 教会の聖印である陽光十字を背負った聖者の石像は、何だか悲しそうな顔をしてるように見えるな。

 

 レベッカさんとペネロペが被害状況の確認をする間、俺とステラさんはかろうじて無事だった椅子で待機することになった。

 ステラさんは椅子で本を読んでいる。ペネロペから渡された教会の聖典だ。大教会の存在は知りつつも教義にはあまり興味がなかったそうで、この機に読んでみることにしたらしい。そういえば、俺も読んだことないな、それ。

 少し見せてもらったけど、古王国語で書かれていた。

 大教会で司祭以上の聖職者になるにはこれがちゃんと読めないといけないらしい。

 ペネロペはまだ勉強中で、同じ年頃のステラさんがすらすら読んでいるのには少なからず衝撃を受けたみたいだ。そこは育った環境もあるだろうし、仕方ないと思うけどね。ミリアちゃんなんかもっと年下なのに、古王国語も平気だし。

 と……

「ギャーーーーーーーーッ!」

 突然悲鳴が聞こえて、俺とステラさんは顔を見合わせた。

 レベッカさんは……そこにいる。ということは、今の悲鳴はペネロペか。

「どうしたのペネロペ!」

 レベッカさんが慌ててペネロペに声を掛ける。

 ペネロペは奥の廊下から飛び出してきて、床に倒れ込んだまま、震える指先で奥の部屋を示した。

「なにか……」

 駆け寄った俺たちに、怯えた表情を見せたペネロペが、言葉を紡いだ。

「なにか……モコモコしたのがいますわ!」

 もこもこ?

 いまいち要領を得ないけど、何か得体の知れないものがいるのかもしれない。

 剣の柄に手を添えて、警戒して待つ。すると……

 カサ……カサカサ……

 そんな足音が聞こえた。

 奥の部屋から廊下を通って、それが姿を現す……!

「ギャー! 巨大なネズミ! こわい!」

 それを見たペネロペが大声で叫んだ。

 俺はそれを聞きながらも、息を吐いて警戒を解く。ステラさんとレベッカさんもそれに続いた。

「なんだ、ハスターか」

「きゅい」

 顔見知り、でいいのかな。まあ、知らない仲じゃない。

 そこにいたのは、スペースハムスターのハスターだった。

「これが……スペースハムスターっ? ネズミじゃないですか!」

 そうかな?

 姿は……まあ、長い前歯なんかは特に、ネズミに似てなくもない。ただ、頬が膨らんでたり明るい色の毛並みだったりで、ネズミより愛嬌のある顔つきだと思うけど。

 大きさは、後ろ足で立った時に俺の膝くらいまで。ふかふかの毛の色はお腹の方が白、背中の方がオレンジ色。つぶらな目は黒色。尻尾は短くて目立たないな。

 群れは見たことないな。というより、ハスター以外のスペースハムスターを見たことがない。

「ネズミじゃないよ。多分」

 総合すると、ネズミというより、リスとかの仲間なんじゃないかと思う。

「ほら、おとなしくてかわいいよ」

「きゅい!」

 ぴょんっ、と俺の肩に登り上がったハスターもそう言ってる。まあ、そうされるとちょっと重いけど。

 でもペネロペは納得していない……というか、なんかこう、汚物でも見るかのような目を向けてきている……。

「でも、ネズミのなかまですわ!」

「きゅい」

 ん? ハスターも否定しないのか……。

 ちなみに、ハスターは人間の言葉を喋らないけど理解はしているらしい。「はい」と「いいえ」と「わからない」に関してはしぐさで反応してくれることが多い。気まぐれなところがあるから、何でも答えてくれるわけじゃないけど。

「古王国でもネズミの仲間と認識されていた。別名ダイテンクウキヌゲネズミ」

 ステラさんが解説を挟んだ。ステラさんは何でも知ってるな。

「ネズミは不浄の生き物です! 教会にいてはいけません! どこかへもってって!」

 ペネロペの言い分にも一理ある……ということになるのかな。

 ネズミが病気を運んでくるって話は、俺も聞いたことがある。それを予防するための、大教会の決まりなんだろう。

 そういえば大教会では猫を神の眷属、聖獣とみなしてるってのも聞いたな。それでネズミとは相性が悪いのかもしれない。

「ここは改装するから、館に移った方がいいよ」

 ハスターにそう言うと、その返事があるより早くにペネロペが叫んだ。

「ネズミを竜牙館に! やだやだ! キャーキャー! こわいこわい!」

 ……どうも、ペネロペが個人的にネズミ嫌いなだけのような気がしてきた。

 ハスターは奥の部屋に視線をやってから、またこっちを見た。

 奥に何かあるのか?

「きゅい!」

 ハスターが一声鳴いたあと奥に向かって歩き出したから、俺もその後に続く。他のみんなもそれについてきた。ペネロペは嫌そうだけど。

「クレールもハスターに何か頼みごとがあるって言ってたよ。館に戻ろう」

 前を行くハスターにそう言うと「きゅい」と返事があった。……今の声が賛成のか反対のかは、ちょっとわからなかったな。

 と、奥の部屋の前でその足が止まった。

「きゅいきゅい!」

 覗き込むと、そこは荒れ果てた書斎だった。

 といっても、ハスターが荒らしたわけじゃなくて、前の領主のせいだろう。

 ここにあった本は全部持ち去られてしまったらしい。今は館の書庫に入ってるのか……それとも、荒らした手下たちが持ち出して売り払った可能性もあるな。

 と、ハスターが空になった本棚の一番下の段に『入っていった』。

 ……ん?

「あれ。あの子、どこに行ったの?」

 レベッカさんは他に気を取られていたのか、ハスターの姿が急に消えたように見えたらしい。

「きゅい!」

 声がした。どうやら、本棚の向こうにまだ空間があるらしい。

 俺とレベッカさんで本棚を動かすと、そこには隠し部屋。

 ここはどうやら、前の領主の手下には見付からなかったらしい。他の部屋よりも整然としたままで残されていた。

 そこにあったのは……!

「……住みやすいように整えてたのか」

 ハスターの寝床だった。どこから拾ってきたのか、藁や布を材料に作ってある。

「まるっきり、ネズミの巣じゃないですか!」

 ペネロペはそう言うけど、ネズミの巣よりはかなり清潔そう。そのへんはハスターの性格なのか、それともスペースハムスターってのはみんなそうなのか。

 それにしても、なかなかよくできてる。もしかすると、俺が故郷で使ってた寝床よりマシかもしれないくらいだ。

 俺の昔の寝床があまりに酷かったって話でもあるけどね。干し草を積んだ上にシーツを敷いただけだったし。子供の頃はそれが普通だったから気にしてなかったけど、今の寝室にある高級ベッドに慣れてしまったらな……。

「これはどこか新しい住処に移すことにしておいて、ともかく退去はしてもらわないと。この教会はこれから修繕してまた使うからね」

「きゅい……」

 どうやら、渋々ながら納得した、という様子。

 具体的な方法は、どこに引っ越すか決まってから考えるけど、荷車を借りてくるくらいはなんとかなるだろう。

 ハスターの方はそれでいいとして……

「ネズミー! がるるるるーっ!」

 レベッカさんの背中に隠れたまま、ハスターを睨み付けてるペネロペをどうするか。

「あのねえ……」

 服の裾を引っ張られながら、レベッカさんがため息。

「ハスターは他のネズミと違っていい子だから、そんなに怖がらなくてもいいのよ」

「こっ、怖がってなんかいませんわ! ただ、汚らわしいと思っているだけです!」

 ……これ、俺が言われたらちょっと傷付くな。

 ハスターにも聞こえてるはずだし、あんまり続くと仲がこじれかねない。

 喧嘩でもしてペネロペが怪我しないように、ここは少し脅かしておいた方がいいな。

「あんまり刺激しない方がいいよ。ハスターは怒ると強いから」

「強いと言っても所詮はネズミ! そーんな脅しで、私が怖がるはずありませんわ!」

 足、震えてるけどね。

 ……と、棚に残っていた本を調べていたステラさんが、補足。

「ハスターは攻撃の天術である〈煌天(シャインフォール)〉や〈輝彗(コズミックライナー)〉を使うことが可能。普通の人間が耐えうるとは到底思えない。ハスターは手加減すると期待されるが、無謀な挑戦はお勧めしない」

 その言葉がペネロペの頭に浸透しきった頃、真っ赤だった顔が、さあっと青白くなっていった。

「……それって、奇跡のわざでは? おとぎ話で天使が使うような……」

 効いたかな。少し態度が変わったような。

「スペースハムスターってそういう生き物だから」

 そこについては、俺としてもそうとしか言いようがない。

 ハスターも「きゅい」とひとつ頷いて、胸を反らしている。

「……よく見ればネズミというほどでもありませんでしたわね」

 言葉の意味はよくわからないけど、ともあれペネロペもハスターのことを見直した……とまではいかなくても、積極的に争う気持ちはしぼんでしまったみたいだ。

 

 結局、ハスターは竜牙館に帰ってくることになった。

 寝床の移設もその日の内に済ませたけど、形が微妙に気に入らないのか、何度も乗ったり降りたりを繰り返していた。

 回し車は一晩中ずっと、カラカラカラカラ……

 俺の部屋が中庭に一番近いから、ちょっとうるさかったな。



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暗黒司祭アゼル(前)

 三日後に春祭りを開催したい、と親方がわざわざ朝食前の早い時間に知らせに来てくれた。もちろん準備が順調に進んでいるからこその話で、いよいよだな、という気持ち。

 クレールたちは演し物の練習に集中したいそうだから、俺はその邪魔をしないように、今日は村の方を視察……という名目で散歩することにした。

 気になるのはユウリィさんのことだ。

 注文した葡萄酒と麦酒が、まだ届かない。本当に祭りまでに間に合うのか、不安だな。ニコルくんに頼んで、他のお酒で注文量の二割分くらいは出せることになってはいるけど、きっと足りないよなあ。

 そんな不安を抱えながら、今にもユウリィさんが帰ってくるかもしれないと、村の正門の近くまで足を伸ばした。

 南北を結ぶ大きな街道から、細道が別れてこの村に繋がる。

 門があるのは高台の間にできた谷間みたいなところで、村の外から魔獣が侵入してくるのを防ぐにはいい立地だ。旅人の検問もやりやすい。

 ただ、大型の馬車が向かい合うとここではすれ違えない、という幅だから、今後を考えると整備が必要な場所でもある。

 今はそもそもそんなに人の行き来がないから、後回しになってるけど。

 とはいえ、ユウリィさんが馬車で通るならここしかない、という地点だ。

 午前中に村を一通り見て回ってから、ここで、ニーナが作ってくれたお弁当を昼食にして休憩。

 それにしてもここ、屯所もあるのに誰もいない。元は前の領主が他の領地からの介入を防ぐために強化した場所とはいえ、魔獣への警戒にも便利だから、本来なら自警団の誰かがいるはずなんだけど……。

 春祭りの準備が忙しいから来てないのかな。不用心だ。後で村の方に戻ったら自警団の方に知らせておこう。

 ひとまず、昼食の間は俺が警戒を担当することにした。

 ニーナのお弁当は相変わらず美味しい。とはいえもう少し肉が欲しいと思うのは……贅沢かもしれないけど、思うくらいはいいだろう。

 昼食を終える頃になると、暖かさもあって少し眠くなってきた。

 戻るのは、もう少し休んでからにしよう。

 そう考えて目をつむると……

 足音。村の外の方から、だんだんこっちに近付いてくる。

 一瞬、ユウリィさんかもしれないと思ったのは、他にこの村を訪ねてくる人はほとんどいないから。

 ただよく聞けば、徒歩で、一人だ。ユウリィさんなら荷物を馬車の荷台一杯に載せているはず。

 じゃあ、誰だろう?

 目をこらすと、一人の男がこちらに向かってきているのが見えた。長い杖を持っていて、黒地に金の縁取りが鮮やかな法衣をまとっている。フードを目深にかぶっていて、その顔はまだよく見えないけど……

 あの格好からすると、知ってる人だな、多分。

「おや。ククク……自らお出迎えとは恐縮です……」

 その声を聞いたら、それが知人だというのははっきりした。

 左手でフードが上げられてその顔があらわになると、もう間違えようがない。

「お久しぶりです、リオン……」

 長い黒髪と整った顔立ち。そして、仄暗い感情を秘めたブラウンの瞳。

「誰かと思ったら、アゼルさんじゃないですか」

「そう……法と秩序の神の司祭であるアゼルです」

 ねっとりした喋り方も相変わらずだ。

「知ってますよ」

「もしやお忘れではないかと、思いましてね……」

 と、アゼルさんは冗談めかして言った。

 会うのが少し久しぶりなのは確かだ。邪神〈歪みをもたらすもの〉との戦いの後、アゼルさんとは雷王都市で別れた。それ以来じゃないかと思う。それにしたって一年は経っていない、という程度だけど。

「アゼルさんには何度も助けられましたし、忘れるわけないですよ」

 まあ、それは事実だ。

「それならよいのですがね……」

 とはいえ、印象に残ってるのは戦いで助けられた記憶だけのせいでもないな。

 

 言ったとおり、アゼルさんは法と秩序の神の司祭。

 歳は俺よりだいぶ上で、二十……何歳か。三十にはなってないと言っていた気がする。

 そのアゼルさんが信じる『法と秩序の神』は、大教会が祭っている『自由の神』とは異なる存在で、お互いに良く思っていないらしい。レベッカさんは、アゼルさんのことを暗黒司祭、その信じる神のことを『支配と束縛の暗黒神』だと言っていた。アゼルさんはアゼルさんで、大教会の神を『無法と混沌の邪神』と言ってたから、まあどっちもどっちだ。

 アゼルさんが暗黒系統の法術を得意としているのは事実だし、限定的にとはいえ冥気(アビス)を扱えるのも事実だけどね……。

 顔は美青年のそれだ。法衣の下には鍛えられた身体を隠してもいる。司祭になる前はどこだかで傭兵をやっていたらしい。本人は「神の司祭となった時に、剣は捨てました」と言っていたけど、手斧を振り回して戦う姿も見たことがある。

 まあ、見た目が格好いい感じでも、ねっとりした喋り方と性格が台無しにしてるけど。

 出会いはとある遺跡。アゼルさんは「我が神の気配を感じる」と言ってその遺跡に住んでいたところを、剣鬼との戦いに力を貸してくれることになって、仲間に加わった。

 問題はその後だ。アゼルさんが感じると言っていた神の気配。その神はアゼルさんの信じる神じゃなくて、偽神〈運命を生成するもの(フェイトジェネレータ)〉だった。

 結局、激戦の果てにその偽神は倒したけど。

 あの時のアゼルさん、ひどく落胆してたな……。

 それで結局、〈歪みをもたらすもの〉を倒したのを機に、また旅立っていった。

 

 さて、そのはずのアゼルさんが、どうしてこんな村に来てるんだろう。今は領主である俺が言うのも何だけど、そんなに見所がある村じゃないと思うんだよな。

「何か用があって来たんですか?」

 本人に聞くのが早い……と、普通の人が相手ならそうなんだけど。

「何か用がなければ、私などはここを訪ねてはならぬと?」

「そんなことは……」

 アゼルさんは相変わらず皮肉屋というか、意地悪な話し方をするな。

「リオン……いま『こいつ面倒くさい奴だな』と思いましたね?」

「いやいやまさか」

 見抜かれている、というわけでもないと思う。だって、それ以外の感じようがないし。

 ただ、そうやって二歩ほど踏み込んだような発言をしてから。

「その気持ちを大切になさい……貴方が親身になって話を聞く必要のない人間というのは、世の中に大勢いるのですから……」

「……はあ」

 こうやって一歩引っ込む。

 ばかばかしい問答のように聞こえるかもしれないけど、油断してると思考や心を誘導されかねない危険な話術だ。

 そんな挨拶を交わしてから、本題。

「リオンがこちらにいることを風の噂で聞いたのです。それで、少しお願いがありまして、訪ねてきたのですよ」

 アゼルさんは、口はうっすらと笑っているけど、目は笑っていない。何か企みがあるとかでなく、大体いつもこの顔だけど。

 それにしても、お願い、か。

「何でしょう。俺でできることなら、できる範囲で聞きますよ」

「やる、とは言っていませんね? いま」

「…………」

 アゼルさんと話すと疲れるな。端的に言うと、面倒くさい。

「……『こいつ面倒くさい奴だな』と思いましたね?」

「はい」

 実際にそう思ったから、素直に頷いておく。

「それは傷つきますね」

 アゼルさんは額に手を当てて、大袈裟に天を仰いで見せた。

「面倒くさい人ですね……」

 まあ、今更この程度のことで仲がこじれるって間柄でもない。お互いに笑い合うだけだ。

「……それで、お願いのことです。ある人物を捜していまして、もしここに来たら私に知らせて欲しいのです」

 人捜しか。こんなへんぴなところにアゼルさんの尋ね人が来るとも思えないけど……

 そうか。アゼルさんがそうだったように、俺の噂を聞いて訪れる可能性はあるわけだ。

 俺としては、あちこち探し歩かなくても、訪ねて来た人の顔を確認すれば済むだけだ。大した手間じゃないな。

「そのくらいならいいですよ。みんなにも聞いてみます。似顔絵があるなら、酒場の掲示板に貼ってもいいし」

「ありますよ。……これです」

 アゼルさんはそう言って旅の荷物を探り、くるっと丸められた羊皮紙を一枚、取り出して見せてくれた。

 それを広げると、描かれていたのは女の子の絵だ。

 この、目を大きく描く可愛らしい画風は、アゼルさんが描いたものだな。アゼルさんがこういう絵を得意にしてるのは前に見たことがある。使われてるのは黒のインク一色だけど、巧みな筆遣いで、生き生きとした絵に仕上がってる。

 件の女の子は、十歳くらいかな。いかにも快活そう。

 ……ふむ。何かちょっと記憶に引っかかるな。もしかしたら、どこかで会ったことがあるのかもしれない。どこだろう……。

 そう思いながら文字による追記を確認すると、そこには『ストロベリーブロンドという珍しい髪色』だと書いてあった。



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暗黒司祭アゼル(後)

「私の姪にあたる子なのですがね。数年前の災害で、一家がちりぢりになってしまったそうです。私も先日久しぶりに故郷に戻ってそのことを知りましてね。今もどこかで無事に生きているのなら会いたいのだ……と『堅実』を擬人化したような私の兄が、わざわざ私に涙ながらに訴えてきまして。そこまで言うならと、私も行く先々で尋ね歩いているという次第です。生きていれば、歳は十四という頃でしょう。名はペネロペと言います」

 アゼルさんの解説で完全に理解した。

 ストロベリーブロンドの髪。名前はペネロペ。歳もほぼ合ってる。似顔絵にも面影がある。間違いないだろう。

 ただ、うーん……。

 アゼルさんも根は悪い人じゃないから、捜してる理由はまさに言ったとおりで、誘拐とかそういう悪事のために捜してるわけじゃないはずだ。そこは心配ない。

 問題は今のペネロペの方。アゼルさんとしては、大丈夫なんだろうか?

 少し迷いつつも、知ってるのに黙っているわけにもいかない。

「……知ってますよ、この人」

「おおっ、本当ですか! 生きているんですね? なんたる僥倖!」

「ええ、まあ」

 アゼルさんの喜びようを見てると、事実を伝えるのが少しためらわれるな。

「それで、今はどこで何をしているんです?」

「うちにいますよ」

 そう言うと、アゼルさんの顔色が変わった。

「……私の姪も手込めに?」

「違います」

 アゼルさんも、俺のことをそんな風に見てたのか。これはもしかして、みんなそう思ってるのかな……。

 まあ今はそれは置いとこう。本題が先だ。

「でも、アゼルさんには辛い話かもしれません……」

 心の準備をしてもらうために、俺はそう言っておいた。アゼルさんは神妙な顔つきで頷く。

「覚悟はできていますとも。生きていてくれただけで、他には何も望みません……」

 さすが聖職者だ。そこまで言うなら大丈夫だろう。包み隠さず話そう。

「……ペネロペは、大教会の聖騎士見習いになって、レベッカさんと一緒にここへ――」

「ぐわーっ!」

 俺が言い終わらないうちに、アゼルさんが吠えた。

「何でよりによって聖騎士に! 他にもっとマシな職業あるだろ! 何で! 何でよりによって聖騎士なんぞに! ぐわーっ!」

 叫びながら、足でドンドンと地面を踏みつけている。まるで、そこに見えない魔獣でもいるみたいに……。

 まあ、こうなるかもしれないと予感はしてたな。アゼルさんは大教会のことが嫌いみたいだったし。だから先に心の準備をしてもらったんだ。足りてなかったみたいだけど。

「落ち着いて下さい。生きてさえいれば、他には何も望まないんでしょう?」

 そう言ってなだめると、荒い息を吐いていたアゼルさんも、何度か大きく深呼吸して、ようやく見た目には平静を取り戻した。

「……人の欲望とは限りがないものです」

「はあ」

 今さら聖職者っぽく話されてもね。

「しかし、わかりました。教会なんぞにいるということは、両親は災害で亡くなったと思っているのでしょう。こちらに両親からの手紙があります。ペネロペに会えたら渡してくれと頼まれたものです。渡してあげて下さい」

 言って、アゼルさんは旅の荷物からまた巻いた羊皮紙を取り出した。さっきのより重みを感じるのは、単純に枚数が多いから……というだけじゃないかもしれないな。

「アゼルさんが直接渡してはどうですか? 今日はレベッカさんと村の教会にいるはずですし、ここからならそう遠くはないですよ」

 きっとその方がいいだろう。そう思って勧めたけど、アゼルさんは首を左右に振って固辞した。

「聖騎士と同席はできないのです。これはもう、我が家の古くからの家訓で、私にもどうにもならないことなのです……」

 古くからの家訓か。そういうことなら仕方ない。俺だって、父さんや母さんから「絶対にやってはいけない」ときつく教えられたことがいくつもある。その中にたとえ不合理に思える家訓があっても、その家ごとの事情もあるだろうし。

「あれ? ということは、アゼルさんのお兄さんは、聖騎士になったペネロペと同席できない?」

 ふとそのことに思い当たって尋ねると、アゼルさんの動きが止まった。

「…………そこは、親子なら特例となるでしょう」

「はあ」

 単にアゼルさんが個人的に聖騎士に会いたくないだけなのを、家訓だと言って誤魔化してたのかもしれないな。

 まあ、いろんな意味で、聖騎士と喧嘩しそうな人ではある。本人が会いたくないと言ってるのを無理に引き合わせる必要はないか。

 とはいえ。

「遠目にでもいいので、ちゃんとペネロペ本人かどうか、顔を見ていってくださいよ。手紙を渡したけど別人だった、じゃ笑い話にもならないですから」

「それは確かにそうです。確かめに行きましょう」

 これにはすんなり応じてくれて良かった。

 

「最後に会ってから随分成長していますが、ええ、間違いありません。私の姪のペネロペです。命が助かっていたのは本当に良かった」

 教会の庭で修繕の相談をしていたレベッカさんとペネロペを少し離れた茂みから観察して、フードを目深にかぶったアゼルさんが頷いた。

 こうして遠くから見ていると、ペネロペもレベッカさんの部下としてよく働いてる。発作さえ起きなければ、基本的にはいい子なんだろう。

 ……改めて考えてみると、アゼルさんの血縁ってことで、何かいろいろ納得がいったな。

「これで私も肩の荷が下ります。……それにしても、聖騎士なんぞになろうとは、何か育て方が悪かったのでしょうか……。ああ、育てたのは兄夫婦ですが……」

 ペネロペの両親は多分、アゼルさんみたいになって欲しくなかったんじゃないかな……という言葉は口から出さずに呑み込んだ。

「リオン。これは私の個人的なお願いなのですが、どうかペネロペが間違った道――つまり、この場合は聖騎士のことですがね――そちらに進まないように、適切に助言してやってください。どうか、お願いします」

「はあ……」

 俺としては、聖騎士も立派な仕事だと思うけどね。

 そんな話をしていると……。

 たまたまちょうどこっちを向いたペネロペと、目が合ってしまった。

「あーっ! リオン様ーっ!」

 ペネロペは大きく手を振りながらこっちに向かって走ってきた。

 アゼルさんは大慌てで茂みの中に潜り込んで、頭を抱えてうずくまってるのが視界の端に見えた。

(うまく誤魔化してください)

 そんな囁き声が聞こえた……気がした。

「リオン、そんな茂みで何してるの?」

 レベッカさんも一緒に来て、そう俺に尋ねた。どう言おうかな。

「えーっと……そう、ハスターがこっちの方に来たような気がして……」

「ネズミっ!」

 ハスターの名前を出しただけで、ペネロペはレベッカさんの後ろに隠れてしまった。

 レベッカさんはそんなペネロペに苦笑しつつ。

「私は見てないわね。ペネロペは?」

「見たとしてもすぐに記憶から消しますわ」

 そこまで苦手なのか。ハスターは例外になったのかと思ったけど、どうも根が深いみたいだな。

「ところでリオン様。さきほど、こちらにもう一人、どなたかいらっしゃいませんでしたか?」

 ペネロペがきょろきょろとあたりを見回しながらそう言った。

「え? い、いやー、どうだろう? 俺ひとりだったと思うけど……」

「そうですか?」

 アゼルさんも見られてたんだな。一緒に居たんだから当然か。念のためフードで顔を隠していてよかった。

「暗黒司祭のような格好の人物が、リオン様の背後にいたような気がしたのですけれど……」

 首を傾げるペネロペに対して、レベッカさんが「そういえば」と口を開く。

「リオンの知人にも暗黒司祭みたいなのが一人いたわね。この村には来てないみたいだけど」

 レベッカさんが多分アゼルさんのことを言ったけど、『仲間』じゃなくて『知人』扱い。アゼルさんはレベッカさんがいる時は一緒に行きたがらなかったし、いまいち絆が深まっていなくても仕方ないとこではあるけどね……。

「リオンが認めてるのだから、きっと、根っからの悪人ではないんでしょうね。それは私もわかってるわ。ただ……そう、ヘビみたいな、生理的嫌悪感があるというか……」

 それはそれで酷い言われようではあるけど、アゼルさんの方も近いことを思ってるだろうから、そこはお互い様か。

「まあっ! そんな害虫のような輩と関わっては、リオン様の品位が落ちますわ! いずれ駆除しませんとっ!」

「ははは……」

 ペネロペは、そうと知らないとはいえ、自分の叔父を害虫扱い。

 本人がまさにすぐそこにいるけど、やっぱり顔合わせは無しだな。

 

 二人が教会の方に戻ったのを確認して、アゼルさんとは村の正門のあたりで落ち合った。

 ひとつ幸いなのは、アゼルさんが酷い言われようにもまるで動じてなかったこと。……言われ慣れてるのかもしれない。

「ペネロペの無事は確認できました。聖騎士を目指そうなどとは親不孝なことですが、リオンの傍にいる間はこれ以上悪いこともないでしょう」

 所々に葉っぱがついたままの法衣をはたきながら、アゼルさんはそう言った。

「リオンの傍にいると、別の心配はありますが……」

 さて、何のことかな。

「ともあれ用は済みましたし、私はもう立ち去ります。手紙のことはくれぐれもよろしく頼みましたよ。私の名は伏せて『両親から』とだけ伝えれば、あの子も変な先入観は持たないでしょう。では、またいずれ……」

 そう言って、アゼルさんは村に背を向けて街道を歩き始めた。

 アゼルさんの巡礼と布教の旅はまだまだ続く――。

 

 ……と、アゼルさんの歩みが止まった。

「…………?」

 俺が首を傾げていると、こちらを振り向いたアゼルさんは駆け足で村に戻ってきた。

 そして。

「リオン。せめて夕食だけでも、とか言って引き留めないのですか?」

 ああ……。なるほど、言いたいことはわかるけど。でもね。

「……せめて夕食だけでもどうですか?」

 誘ってもどうせ来ないだろうと思う。数日前ならともかく、今はレベッカさんがいる。アゼルさんもそのことは知ってるわけだし、レベッカさんと同席するはずがない。

「お言葉は大変ありがたいのですが、私もこれで忙しい身。あまり長居はできないのです。残念ですがね」

「…………」

 ほらね。

 まあ、そうとわかってても一応訊くのが礼儀だったかな……。

 でもアゼルさんがそれを言うのか、という気もする。

「リオン……いま『こいつ面倒くさい奴だな』と思いましたね?」

「そりゃそうですよ」

 俺が正直にそう言うと、アゼルさんはいつもの、目が笑っていない笑顔になった。

「我が神の与える試練ですよ。これからも精進なさい、リオン」

「はあ」

 それで今度こそ本当に、アゼルさんは旅立っていった。

 ……面倒くさい人だな、ほんとに。



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レベッカの苦悩

 夕食前の食堂。来るのが少し早すぎたかなと思っていたけど、レベッカさんが先に来ていた。

 ペネロペはいない。いつも一緒というわけじゃないんだな。アゼルさんから預かった手紙を渡したいけど、夕食の後で執務室に寄ってもらえばいいか。

 レベッカさんは食堂の端にある小さなテーブルで、アクセサリーを磨いていた。

 持ち物を磨くのはレベッカさんの趣味だ。昔からの習慣で、落ち着いて休める時には、鎧もしっかり磨いてから寝ると言ってた。もっとも、鎧に関しては隙間に砂なんかが入り込むと耳障りな音が出るからっていう止むに止まれぬ事情もあるけども。

「きゃっ! びっくりした……。リオン、いたなら声かけてよね」

 アクセを磨く手を止めて、レベッカさんが抗議してきた。黙って近付きすぎたか。

「すみません。レベッカさんも集中してるみたいだったから、邪魔になるかなと思って」

「まだ誰も来てないからやってただけよ」

 言って、レベッカさんはブラシや布を小箱にしまい始めた。磨いていたアクセは……邪神と戦った頃にも身に付けてた護符か。古王国遺産の一種で、実際に効果があるお守りだ。俺も同じものをまだ持ってるな。ユウリィさんにでも売ればきっと高く買ってくれるけど、また使うかもしれないし、手元に置いててもそんなに嵩張らない。

「リオンは演し物の練習には行かないの?」

「今回は女性陣だけでやりたいってことみたいなので。完成してから見て、驚きたいなと思ってるとこです」

 中庭の方からは今もクレールの歌声や楽器の演奏が聞こえてくる。

 かなり速い曲だ。クレールの歌と、たぶんミリアちゃんがやってる笛が、まだ合ってないみたいだけど。

「そういえば、ペネロペは一緒じゃないんですね。どこに行ったんです?」

「演し物の練習を見に、中庭に行ったわ。あの子も音楽は好きだから。聖ルクレツィアを目指してるって言っていたし」

「聖……誰です?」

「昔の大教会にいた歌い手よ。後に教皇になるレナトゥス三世と共に魔獣の大軍に立ち向かったの。大教会から〈聖女〉の称号を受けた聖人のひとりで、今でもその名前を冠した聖歌隊があるわ」

「そんな人がいるんですね」

 レナトゥス三世って、最近どこか他のところでも聞いたな。どこだっただろう。まあ、今の教皇の名前も知らない俺でさえ名前を聞くくらいだから、相当な偉人なんだろうな。

 その偉人と共に戦ったというくらいなら、その聖ルクレツィアって人も相当な有名人なんだろう。俺が詳しく知らないだけで。

「でもちょっと複雑な気分なのよね……私もこの前、その〈聖女〉の称号を受けたのだけど……」

「えっ。すごいじゃないですか」

 実際にどのくらいすごいのかはよくわからないけど、今でも名前が残ってるっていう過去の偉人と並ぶレベルってことだよな。

 それにしては、レベッカさんの表情はすぐれない。

「でもね、生前にその称号を受けた人って、みんな早逝してるのよ……」

「ああ……」

 レベッカさんは大教会の聖騎士だから自分でははっきりとは言わないけど、要するに、すごい称号だけど何となく縁起が悪い気がする、ということらしい。

 俺が雷王都市からもらった〈剣の王〉っていう称号にはそういうのあったのかな。誰からも詳しくは聞いてないような気がする。多分、〈剣鬼〉を倒したからそれより上、って程度の理由でくれたんだろうとは思ったけど。

「でもそんなすごい称号を受けたのに、こんな田舎に来てていいんですか?」

 自分のことはひとまず棚に上げて、俺はレベッカさんにそう尋ねてみた。

「快く送り出してくれたわよ。私が天命都市で目立つと、困る人もいるのね」

 ……なるほど。それについては、何となくわかるな。俺に対する雷王都市の扱いと似たようなものなんだと思う。

 俺と一緒に戦った将軍のヴォルフさんは言いにくそうにしてたけど、俺の名声が王様より高まると政情が不安定になりかねないから、雷王都市に長く留まるのは勧められないって、そう言ってた。

 俺にそのつもりがなくても、王位簒奪を狙ってるなんて噂になれば都市を二分しかねないからね……と、叔父さんが説明してくれたけど。言外に、今の王様の人気のなさを含ませてたな……。

 俺は出世欲があるわけでもないし、今の雷王都市が打倒すべき敵だとも思ってないしで、ちょっと多めの支度金だけもらって都市を出たけど。

 あのまま残ってたら、今頃はどんな暮らしをしてたんだろう。

 何となくだけど、元々が農村暮らしだった俺には、ここの暮らしの方が性に合ってるんじゃないかな、という気はするけど。

「私としても、大教会の運営のためにずっと会議室詰めなんて耐えられそうにないから、今まで通りの扱いの方がいいけれどね」

 レベッカさんは元々、「人々の自由を守る」っていう聖騎士の理念に憧れてその道に進んだっていう人だから、なるべく現場でっていう意識があるんだろうな。

 そんな話をしている内に、レベッカさんの片付けも終わって……

「……ねえ、リオン。正直に言って欲しいのだけど」

 そんな言葉と共に、レベッカさんはじっと俺を見た。

「何でしょう」

 よほどのことじゃなければ、正直に答えよう。俺にはやましい事なんてない……と言えるようになりたいな、とは、常々思ってる。うん。

「昼間のことなのだけど。あの後、見えたのよね……茂みに隠れてたあの人が這って逃げていくところ。いたのよね? あの場に」

 そのことか……。そこまで知られてるなら、下手に言い逃れしても仕方ない。

「はい。……アゼルさんが聖騎士には会いたくないと言うので、隠れていました」

 アゼルさんのせいみたいな言い方になったけど、ほぼ事実だよな。うん。

 俺の判断ももちろんあったけど、アゼルさんだけでなくレベッカさんにとってもその方がいいと思ったから内緒にしてただけで、悪意からそうしたんじゃないことは信じてもらいたい。

 ということを正直に伝えると、レベッカさんは頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏した。

「やっぱり。ああ、もう、どうしよう……」

 俺に怒るでもなく、アゼルさんをののしるわけでもなく。

 どっちかというと、自分の行いに後悔している……ような。

「もしかして、アゼルさんに生理的嫌悪感があるって言ったことですか?」

 あの人は気にしてませんでしたよ、とも付け加えたけど、レベッカさんは大きくため息。

「どちらかというと、言わなかったことを、ね」

「……言いましたよね? 実際」

 ヘビみたいだとかなんとか、言ってたよな。ヘビに感じる嫌悪感の大きさは人それぞれかもしれないけど。

 それに対するレベッカさんの返答は、言い逃れでも言い訳でもなかった。

「本人がいないところでああいうことを言うのは、本当はよくないことだと思うのね。その場にいた他の人は、その時は話を合わせても、自分も陰ではどう言われているかって不安になる話だと思うから」

「そうかもしれません。それで、だから、それを言ってしまったのは良くなかった……って話ですよね?」

 そう確認すると、レベッカさんは首を左右に振って否定した。

「ちゃんと本人に直接言うべきだった、という話よ」

「えぇ……」

 そう……そういうもの? わかるような、わからないような……。

 確かに俺もレベッカさんからは厳しい指摘を受けることもあるけど、そういう信条からのことだったのか。

「ペネロペを預かってる身として、なるべく、正しい姿を見せたいと思っているのだけど、まだまだ未熟ね……」

 レベッカさんは苦労が絶えないな。自分でわざわざ苦労を背負い込んでる気がしないでもないけど。

 ……っと、そうだ。

 この際、レベッカさんには話しておかなくちゃいけない。

「アゼルさんが言ってたんですが、あの人はペネロペの叔父なんだそうです。アゼルさんのお兄さんの娘さんが、ペネロペ」

 レベッカさんは知っておくべき話だろう、と思う。

 ただ、その話を聞いて少し顔がひきつってる感じだから、ちょっと悪いことしたかなとも、思うけど。

 でもここまで来て黙ってるのも何だかね。レベッカさんを信用してないと思われるのは嫌だし。

「……それ、冗談よね?」

「アゼルさん本人がそう言ってましたよ。ペネロペには、まだ訊いてませんけど。俺の心証では、まあ、確かな話かなと」

「何となく納得いった感じがするのは、なんでかしらね……」

 二人の振る舞いや言動に、どことなく共通点を感じてしまうんだな。

 そこは俺と同じか。

「だとしたら、ペネロペがあんな風にならないように、ちゃんと導いてあげないといけないわね」

 レベッカさんはそんな言葉で決意を新たにしたけど。

「今、アゼルさんのことを本人がいないところで『あんな風』って言いましたけど、それはいいんですか?」

 さっきその辺をもっと気を付けたいと言ってたから、一応、訊いておく。

 するとレベッカさんの返事は。

「どんな風かは言ってないでしょう?」

 ……それは、確かにそうだ。でも、ありなのか、それ。

 まあ、いいや。レベッカさんに聖騎士の立場や聖女の称号はあっても、素顔は普通の女性。完全無欠じゃなくて逆に親しみが持てる、か。



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頭痛を抑えるために

 そんな風にとりとめもないことを話しながら過ごすことしばし。

 次に食堂に来たのはマリアさんだった。

「レベッカさん、お薬、持ってきましたよ」

「ああ、ありがとうございます」

 マリアさんの言葉に、レベッカさんが椅子から立ち上がって頭を下げた。

 そして、そのレベッカさんの目の前のテーブルに、小さな革袋が二つ、置かれた。

「こちらが痛み止めで、こちらは吐き気止め。症状が出始めたと思ったら、一回に一粒だけ、飲んでください。どちらも強いお薬なので、一度飲んだら次は半日以上、間を空けるようにしてくださいね」

「はい」

 レベッカさんも素直に頷いて、袋を手に取った。

 その中身を確認するのを俺も横から見ていると、革袋にはたくさんの丸薬が入っていた。レベッカさんはそれを元の袋に戻して、その袋を、自分の腰のベルトに繋いだ。

「痛み止めの薬って、どこか痛むんですか」

「頭痛の薬よ。ときどきあるの」

 レベッカさんはそう言って苦笑しながら、額を押さえてみせた。

「そういえば、前に聞いたな。頭が痛くなって、気分が悪くなるんだって。それで両方の症状に薬を出してもらったんですね」

 呟くと、不思議そうな顔をされた。

「言ったかしら。まあ、知られてまずいことでもないけど」

 おっと……。もしかしたら、その話をしたのは異世界の方のレベッカさんとだったかな。まったく同じとも限らないし、気を付けないとな。

 それにしても、改めて思い返すとレベッカさんはよく頭を抱えてる。いろいろと気苦労が多いんだろう。今は特にペネロペのこととか。

「頭痛自体が酷くなることは滅多にないんだけどね。でもやっぱり、集中力も落ちるし」

 ふむ。少なくとも俺がレベッカさんと一緒に戦っていた時には、頭痛を理由に途中離脱されたことは、なかったな。

 ……頭痛を理由に同行自体を断られたことはあったけど。

 ただ大体、アゼルさんがいた時だったから……単純に気持ちの問題だけじゃなくて、何かこう、空気が合わない、みたいなのがあるんだろうと諦めてた。

「頭痛に効く薬もあるのか。知らなかったな」

 俺も頭痛は時々あった。記憶を失ってた時のことで、最近はほとんどないけど。

 あの頃に痛み止めを持ってたら使ったかもしれない。

「レベッカさんの頭痛は前兆があるそうなので、その時に飲めばちょうど頭の痛みが出始める頃に、痛み止めの成分が効いてくると思いますよ」

 とは、マリアさんの解説。

 前兆がある頭痛もあるのか。これから頭痛になるってわかるのは、便利なような、逆に不安なような。

「大変そうだ」

 ありきたりだけど、俺の感想としてはそんな感じ。

「でも薬があればそれを飲めば治まっちゃうから、だいぶ気が楽になるわね」

 レベッカさんが力なく笑う。そんなに酷くはならない、と言ってもやっぱりつらい時もあるんだろう。

「法術で治せればいいのに」

 怪我なら〈回復(ヒーリング)〉の術法で治すことができる。同じように、頭痛も静められればいいんだけどな。

「一応、一時的にだけど、痛みは抑えられるわよ」

「あれ、そうなんですか」

 レベッカさんの指摘に、俺はちょっと間抜けな返事をしてしまった。

「外傷のない痛みには、だいたい〈療身(アンチパラライズ)〉か〈平静(サニティ)〉が効くと言われてますね。私はどちらも使えませんけど……」

 そう答えたのはマリアさん。マリアさんは魔術の方が得意で、例に挙がったふたつは法術だ。マリアさんと逆に法術が得意なミリアちゃんなら、どっちも使えるはずだ。

「私は〈療身(アンチパラライズ)〉なら使えるし、それが効くこともあるわ。ただね、術を使うのも集中力が必要だし、集中すると頭は余計に痛むしで、頭痛の時にはなるべくやりたくないのよね。身近に誰か代わりに術を使ってくれる人がいればいいけど、一人のことも多いから、やっぱり薬は必要よ」

 なるほど。頭痛を治そうとして頭痛を強めるのは、本末転倒だな。

「でもこれは強い薬ですから、使いすぎはだめですよ」

「はい」

 レベッカさんも薬のことに関してマリアさんに意見するつもりはないらしい。

「特級お腹空いたです!」

「いっぱい身体を動かしたからねー。夕食、楽しみだなー」

「んっんー! 今日はおにくだと思うなっ!」

「お肉ですか。お肉は好きですわ」

 と、演し物の練習に区切りを付けたみんなが、ぞろぞろと食堂にやってきたので、レベッカさんの頭痛の話は終わり……

「あ、ハスターは木の実を食べたいんだって」

「きゅい」

「ぎゃーっ! ネズミっ! どこかへもってって!」

 おっと……。終わってなかった。

 食堂の大騒ぎに、レベッカさんはため息を吐きながら、右手で頭を押さえることになった。



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ぎりぎりの到着

 春祭りは明日の早朝から開催される。変更の連絡は受けていないから、そうなんだろう。

 クレールたちも演し物の練習を、まだがんばっている。明日のギリギリまで質を高めたい、と言っていた。

 俺はその邪魔にならないように、執務室にいる。と言っても、別にだらけて過ごしてるわけでもなく、溜まっていた書類を片付けているところ……まあ、クレールとステラさんが用意してくれたものに目を通して署名をするだけだけど。

 そういえば、俺としては『いつの間にか』って話になるけど、川に堤防を整備する計画がほぼ完成していた。以前クレールが自分が川に滑り落ちたのを根に持――貴重な経験にして、必要性を説いていたものだ。

 書類の内容は、整備に必要な材料と金額の見積もりと、それに応じた予算の申請。もちろん、許可を出しておいた。

 将来的には水車小屋を増設する予定もあるらしい。

 こういうの、俺がいなくても二人でさくさく決めてしまえるあたり、俺の存在意義について疑問を持たざるを得ないところでもあるけど、あまり気にしないことにする。

 思い出すのは、今はここにはいないけど、一緒に戦った仲間の一人のメルツァーさんの言葉。

『世間ってのは意外と、俺がいなくても関係なく回る。俺がいなくても回るところに追加で俺が入ると、みんなの助けになる。その時のために、普段は休んでても問題がない。だろ? その心構えが、前向きに生きるコツ』

 騎士のわりに少し不真面目なところがあるメルツァーさんの言葉だから、聞いた時は苦笑したな。

 でも実際、そのくらいの気持ちの方が暮らしやすいのは確かだ。

 いつか必要とされた時のために、今は力を蓄えておこう。

 

 そうして過ごしていると、執務室のドアがノックされた。そしてそれに返事をする間もなく、ミリアちゃんが乗り込んできた。

「お兄ちゃん! ユウリィさんが来たよ!」

 その報せに俺は安堵の息を吐いた。

 ようやくか。頼んでいた葡萄酒と麦酒を持ってきてくれたんだろう。

 そう思いながら、鍵付きチェストから財布を取り出す。これは俺個人の財布じゃなくて、館に関する比較的少額の取引のために取り分けてあるものだ。ユウリィさんが来たなら必要になるだろう。

 ミリアちゃんと一緒に表に出ると、そこには確かにユウリィさんがいた。

 ただ、俺に視界には期待した荷物が入ってこなくて、俺は少し困惑。

「よう、領主様。元気そうだな?」

 ユウリィさんからそう挨拶された俺は、それがあまりにもいつも通りだったから逆に不意を突かれて「はあ、どうも」とぼんやりした会釈を返すことになった。

「頼んでいた荷物を持ってきてくれたんですよね?」

「そのことだが、村の祭りで振る舞うと聞いていたからな。まだ下の店に置いてあるのさ。ここまで運んだ方がいいのかね」

 ああ、なるほど。それは確かに伝えてない。それどころか、俺も知らない。これを企画したのはクレールだし。どうするつもりなんだろう。

「クレールに訊かないとわからないな。少し待ってください」

「あたしがきいてくる!」

 ミリアちゃんがそう言って駆け出すのは、俺より早かった。任せよう。

「その他の注文品は持ってきてある。次の注文はどうだ?」

「それはステラさんに訊かないと……」

 しまった。ミリアちゃんにそのことも頼まないといけなかったな。ステラさんの方で気を利かせてくれるといいけど……

 俺の慌てぶりを見て、ユウリィさんは苦笑。

「戦う敵がいなくなって、領主様はすっかり置物になってるな?」

「まあ、適材適所、ってところですね……」

 呆れられてるのはわかるけど、実際、戦い以外のことは何をやってもダメ……とまではいかなくても、せいぜい歳相応しかないから、ほとんどのことは専門家に任せるのが一番だ。

 逆に、いざ戦いになれば、きっと役に立てると思う。

 ……その唯一の取り柄を封じてるから、置物化が加速してるのは事実だけど。

「さて、そんな領主様が威厳を取り戻すために、オレも一肌脱ごうじゃないか。ここはやはりプレゼント攻勢が効果的だ。というわけで、今日のお勧めの品はこの……」

「買いませんよ」

 ユウリィさんが何か言いかけたのを、先んじて止める。これは耳を貸しちゃいけない。間違いなく、お金がかかるやつだ。

「……売り口上くらい言わせてくれてもいいだろうに」

 もちろん、すぐさま抗議があったけど、俺としてもここは譲れない。

「この前ニコルくんにお勧めされて金細工を買ってしまったから、もう自由なお金がないんです」

 これが事実だから、まあなんとも情けない話ではある。

 以前にもらった報奨金はもちろん結構な額だったけど、それも普通に暮らしていくならってことで、領地経営に十分な額とはとても言えなかった。村の復興が順調にいって財政が健全化したら、そこから給金をもらうことにしているけど、今はまだ無理だ。

 その上で、ジョアンさんの商船にも投資してる。みんなそれぞれ無理のない範囲で出してたけど、俺は見栄を張って結構出しちゃったな。ジョアンさんからは「三倍にして返す」と言われてるけど、あまり期待はしてない。

 残った現金は、後で困らないように、少しずつ使うことにしていて……というか、みんなの勧めでそうなって、今の俺が使える額は実のところそう多くはない。

 高価な魔導器や霊薬は結構持ってるから、それも含めた資産額で言うと、決して困窮しているわけじゃないんだけど。これ、すぐには現金化できないんだよな。

「一見華やかな領主様も、内実は大変そうだな?」

 ユウリィさんに少し同情された。そのおかげで、余計なものは買わされずに済みそうだけど。

「俺が買わなくていいなら、売り口上くらいいいですよ。どうぞ」

「オレがそんな無駄なことをすると思うか?」

 なんとも、もっともな言い分だ。

 さて、そうしているうちにミリアちゃんも戻ってきた。

「きいてきたよ! お酒は村の広場に出したいから、今日はお店の倉庫に置いといてほしいって!」

「この坂を大荷物で登ってくる手間は省けたな?」

 ミリアちゃんの報告を受けて、ユウリィさんが呟いた。まったくその通り。俺としても異論はない。

 とするとあとは次の注文だ。

 尋ねると、ユウリィさんはひらひらと手を振った。

「明日でもいいさ。ニコルから聞いたが、春祭りはもう明日なんだろう? 明後日まではこの村に滞在することにした。それまでに届けてくれりゃ、それでいい」

 ユウリィさんがそう言ったのは、もちろん、春祭りを見ていくという意味で間違いない。

「それは、ぜひ楽しんでいってください。見所は……俺からはちょっと案内できませんけど」

 情けないことだけど、春祭りで何があるのか、俺も全部知ってるわけじゃない。特に大きな催しだけは、いくつか聞いてるけど。

「んっんー! あたしたちも演し物をやるんだよ! いまねー、明日の本番に向けて最終調整中!」

 ミリアちゃんのアピールに、ユウリィさんは目を細めた。

「まあ、オレなりに楽しませてもらうとしよう」

 ユウリィさん自身は今でも旅商人とはいえ、一応の『本店』があるこの村にも、少しは特別な思い入れもあるだろう。……多分。

「じゃあ樽はこっちで預かっておく。明日の朝、荷車ごと広場に出しておけばいいな?」

「それでお願いします。それと、ニコルくんに予備で頼んでおいたお酒が……」

「ああ、聞いてる。それはキャンセルするんだな?」

 話が早い。……おっと、でも、そうだ。

「よければ、林檎酒と蜂蜜酒を一樽ずつはそのまま譲って下さい。明日、他の樽と一緒に広場に」

「わかった。それは手配しよう。じゃあその分も含めて、金を頂こうか?」

 執務室から持ってきた財布で、ユウリィさんに言われるままに代金を支払う。ユウリィさんはそれを念入りに数えて、満足したら財布にしまう。いつものやりとりだ。

「いい買い物したよ、あんた」

 これでひとつ、春祭り前の懸念が減った。ぎりぎり、間に合って良かった。

「さて、ところでこれは……」

「買いませんよ」

 何かを鞄から取り出そうとするユウリィさんに、俺はそう言った。

 ユウリィさんは苦笑しつつ、結局それを取り出して、俺に押しつけてきた。

「そいつは、ニーナのビスケットに対する正当な対価、だ。あの子に渡しておいてくれ」

 ……一瞬、何のことかと思ったけど、そうか。

 前に来た時に、ニーナが渡したお菓子。値段はいくらだと訊かれたニーナが、ただのお裾分けのつもりだったから困って、結局はユウリィさんが食べてみて判断してくれ、ということで渡したんだ。

「そういうことなら、わかりました。ひとまず預かっておきます」

 きれいな花の模様が縫い込まれた小袋だ。両手で包むように持つとそんなに重くはないから、中身は貨幣の類じゃないと思うけど、さて。

 

 ユウリィさんを見送って、ミリアちゃんと館の中に戻った。

 クレールたちはちょうど少し休憩に入ったところで、ニーナも額に大粒の汗をかいて花壇の縁に座り込んでいた。

「これ、ユウリィさんからニーナに。ビスケットのお礼らしいんだけど」

 小袋を受け取ったニーナは、早速その口を開いて中身を確認した。

 中には折り畳まれた紙片が入っていて、ニーナはそれにも目を通した。

 そして……

「なるほどね」

 そう言って笑った。

「中身は何だったの?」

 尋ねると、ニーナはその袋の中身を、俺にも見せてくれた。

「ビスケット。ユウリィさんが材料を買ってきて、ニコルちゃんが作ったんだって。手紙にそう書いてある」

「ビスケットのお礼は、ビスケットか」

 結局、落ち着くべきところに落ち着いた……かな。



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春祭りの始まり

 日の出に合わせて、村の方から何度も何度も鐘が打ち鳴らされ、それを合図に、村のあちこちに火が掲げられた。

 俺はそれを、館のある高台から見下ろしている。

 いよいよ、春祭りが始まった。

 この祭りに合わせて、俺は『領主の仮装』とでも言うような、仕立ての良い服に身を包み、金糸で縁取りされた外套をまとっている。これから春を経て夏になったら、とても着ていられないような厚着だ。

 とはいえ「こんな時くらい領主らしい格好を」という勧めがクレールたちからあったからには仕方がない。幸い、今朝はまだ少し肌寒いくらいで、この厚着もちょうどいい。

「似合ってるよ。童話に出てくる王子様みたい」

 と、ニーナはそう言ってくれたけど、本心からのことかどうかはわからないな。

 まあ、馬子にも衣装ってやつかとは思う。

「いよいよお祭りです!」

 ナタリーが拳をふるふると振るわせながら意気込んだ。

「楽しみだねー」

 クレールも、今にも走り出したくてうずうずしている、という様子。本当に走り出したら転びそうな気がするけどね。

 レベッカさんやペネロペも含めて、館の住人はほとんどここに揃って、村の様子を眺めている。いないのは、先に村に降りているマリアさんだけだ。

 みんなも普段着より着飾っていて、うん、何だか華やいで見える。

 中でも特にレベッカさんは、完全武装ではないものの聖騎士の鎧を身に付けていて、朝日に照らされると神々しささえ感じるほどだ。

 正直なところ、村の人たちも、俺なんかより周りのみんなに注目すると思うな。

 ……と、村の方にひときわ大きな火があがった。

 冬を追い払うこの祭りを照らす『春迎えの火』というものらしい。俺たちはこれが見えたら村に向かうことになってる。

 みんなで頷き合ってから、連れだって村へと続く道を進んだ。

 村へ着いたのは、太陽がすっかり水平線を離れてしまう頃。

 ……村の人たちがこの祭りを派手にやりたいというのは、いいことだと思うんだけど……。

 たいまつを手に俺たちを大歓声で待ち受けてるとは思わなかったな……。

 俺はあんまり派手にして欲しくないけど、クレールに言わせると「これも貴族の義務」ってことらしい。仕方がない。

 村の人たちから案内されるままに、俺は村の真ん中にある広場まで歩いた。

 その俺の袖を引いたのはクレール。

「まずは、除幕式だよ」

「えぇ……やっぱりやるのか」

 耳打ちされて、俺の気持ちは沈んだ。

 俺の銅像が建つ……というかすでに完成していると聞いて、今からでもやめさせようかと迷っているうちに、結局何も手を打てないまま、この日になってしまったなあ……。

 幸い、大きさはせいぜい等身大ってところらしくて、それは良かった。巨大なやつだったら恥ずかしくて村から逃げ出したくなりそうだった。普通の大きさでも十分恥ずかしいけど。

「僕たちは演し物の準備があるから、そっちはそっちでがんばってね」

 俺の葛藤を知ってか知らずかクレールがそう言うと、

「きゅい」

 今度はハスターがそう言って、クレールの肩にひょいっと跳び乗った。

「ハスターも?」

「うん。僕たちのマスコットを引き受けてくれたんだー。お祭りまでに戻ってくれて良かったよ。じゃねー」

「えぇ……」

 ハスターに頼みたいことがあるとか言ってたのはそのことだったのか。

 今回のことに関しては、どうも俺の理解が及ばない部分が多かったな……。

 クレールに続いて、他のみんなも列を抜けていく。

 あとに残ったのは、レベッカさん、ペネロペ、それと、ステラさん。

 レベッカさんたちは今回あまり関わってないから当然として。

「ステラさんは、いいんですか?」

「客席から出来映えを確認する係。特別な前準備は必要ない。そのはず」

 なるほど。ステラさんは最初から舞台に立つ予定にはなってなかったし、結局、そのまま変更なしか。

「じゃあ、その時には一緒に」

 そう誘うと、ステラさんは「うん」と頷いた。

 けどその前に、まずは除幕式を乗り切らなくちゃな……。

 そうしてようやくたどり着いた広場には、木造の立派な舞台が組まれていた。

 この春祭りは派手にやりたいと言っていた親方の、その強い意気込みを感じさせる……ような。

 舞台の上にいる親方が俺にも登ってくるよう示したから、俺は、盛大な拍手に迎えられてその上に登った。

 見下ろすと、さすがに村の人たちはほとんど集まっているように見える。それだけじゃなく、知らない顔もちらほらいるな。祭りの開催を聞いて来たのか。この村の人とも親しげに話してるから、近くに住む親戚か、あるいは元住民かもしれない。

 ステラさんたちは壇上まではついてこずに、脇の方から俺に視線を向けていた。俺はいよいよ孤立無援。親方はすぐ横にいるけど、正直、この場では本当に味方かどうか……。

 その親方が片手を上げると、それまで大騒ぎしていた人たちが、さっと静まった。

 それを満足げに見渡してから、親方が声を張り上げた。

「無事にこの日を迎えられて、あたしは本当に嬉しい! 前の年に逝ったあたしの旦那も、あの世で嬉し涙におぼれてることだろーと思う! 生き残ったあたしたちは、この村をもっと良くしていかなくちゃーならない! そういうわけで、今日の春祭りを開催する!」

 ごく簡単な挨拶が終わると、改めて大歓声があがった。

 ここまではいい。俺は見てるだけでいいし。

 問題はこの後だ。

「さあ、リオンさん。銅像のお披露目だよ!」

 そう言った親方の声はうきうきしていて、何だかまるで子供みたいだ。

 マリアさんを通して村の噂を聞いたところによると、この村にはこれまで銅像を建てるほどの偉人はいなかったそうだ。その上、前の領主が自分の像を建てようとしたのは村のみんなで阻止した……ということらしい。

 俺の像だって、特に建てる価値があるとも思えないんだけどな。

 マリアさんは「村の人たちはきっと、村がいい方に変わっていってることを、何かで示したいんですよ」なんて言っていて、わからなくもないけど。

 できてしまった像がどんな扱いを受けるかは不安だな。雑に扱われても嫌だし、あまりに敬われすぎても恥ずかしい。

 いずれにせよ、俺が自分で建てたがったわけじゃないってことは、声を大にしたいところ。

「今からでも他の何かに建て直した方が……」

 一応、最後の抵抗を試みるも。

「何を言ってるんだい! リオンさんがやらないなら、あたしがやるよ!」

 やっぱりだめか。仕方ない……。

 親方が「さあ」と手渡してきたのは、像を覆う幕の一端。

 ため息が出る……悪い意味で。でも、やるしかない。

 諦念と共に、像に掛けられた幕を引きずり下ろした。

「おおーっ!」

 歓声。そして拍手。

 みんなが見ている方に俺も目を向けると、石造りの台座の上に『俺』が立っていた。旅装束の俺が、腰に佩いた魔剣の柄に手をやりながら、厳しい視線をはるか西の空へ向けている。

 俺も初めて見たけど、確かに、わりと似ていると思う。……実物よりは、ちょっと美男子のような気はするけど、まあ、無理のない範囲かな。

 ここはとりあえず流しておいて、後日、何か理由をつけて廃棄する手もあるな、なんて思っていたけど……。

 これが真っ赤に熱せられ、金槌でガンガン叩かれて、ぐしゃぐしゃべこべこと元の金属塊に戻るのは、見るに忍びないところではある。

 しばらく経って歓声が収まる頃、親方に促されて、一歩前に出た。

 みんなが俺に注目する。

「ええっと……」

 ……うう、緊張するなあ。戦いの時とは別の緊張だ。

 あらかじめ用意しておいた言葉を言うだけなのにな。

「ここのいるみんな、多くの辛いことを乗り越えてきたと思うので、これからは楽しい時が続くように、今日のお祭りがその一歩になればと、思います」

 何とか、ほとんど詰まらずに言えた。

 ただ、返った拍手は少し遠慮がちなものだったな。

 辛いこと、という言葉を入れたからか、あるいは単純に、親方との人気の差かもしれない……。

「よし! 堅苦しいのはここまでだ。みんなの熱気で冬を吹き飛ばして、春を迎え入れよう! ここでなんと! 竜牙館からのお祝いとして、葡萄酒と麦酒がたっぷり届けられた!」

 広場の端に置かれているのはもちろん、あらかじめ注文しておいた酒樽だ。見れば、ユウリィさんとニコルくんはそのすぐ近くにいて、俺が見ているのに気付いたのか、ひらひらと手を振っていた。

「しかもこれが飲み放題! 領主様によーく感謝して、適量を見極めながら飲むよーに!」

 親方がそう言い切ったあたりが、歓声の最高潮。

「領主様バンザイ!」

 どこからか声があがった。

「リオン様バンザイ!」

 その声は大きなうねりになって、村全体を包み込んでいく……。

 ……やっぱりみんな、俺なんかの銅像より、お酒かー。

 いいと思うけどね、それで。お祭りなんだし。

 

 春祭りはそんな感じで始まった。



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結婚式

 特に邪魔な外套だけ脱いで酒場のマスターに預け、まずは村の様子を見学することにした。

 一緒にいるのはステラさんだけだ。

 レベッカさんとペネロペは、教会の司祭がやるお勤めをやると言っていた。今は村に司祭がいないからその代わりに、ということらしい。特に葬儀は、司祭がいなくなってから正式なものをできていないそうで、溜まっている分を今日いっぺんにやってしまうんだそうだ。大変だな。ちなみに、お悔やみの品はクレールとも話し合って手配済み。それが無事に終わったらお悩み相談会をやりたいと言っていた。

「非常に美味」

 ステラさんが食べているのは、魚肉のすり身を棒に巻き付けて焼いたもの。さっき酒場のマスターの露店で買った。俺も一口もらったら、確かにおいしかったな。内陸育ちだから、まだなんとなく海の魚の料理には慣れないけど、これは食べやすいと思う。

 ステラさんは俺と同様、他のみんなが演し物をやるまでは暇……というと聞こえが悪いな。予定がない、という状態だ。

 ステラさんは当初、他のみんなの演し物が始まるまで広場の隅で本を読んで過ごすつもりだったらしいけど、せっかくだから俺から誘って、一緒に祭りを見て回ることにした。

 広場の近くに、露店が数軒。酒場のマスターが開いている軽食の店の他に、祭りと聞いてこの村に来た旅商人のものがいくつか。品揃えはいろいろだけど、春を感じる野菜や果物が多いかな。

 村の人のほとんどは、今日は仕事を休んでいるから、店はそんなところ。

 驚いたのは、ユウリィさんがニコルくんと一緒に露店を開いていたことだ。

 こんな時でも商売……いや、こんな時だからこそ、かな。ユウリィさんは自分なりに祭りを楽しむって言ってたけど、こういうことか。商売するのが趣味だと言ってたのも頷ける。

「何を売ってるんですか?」

「ここだけの話、店で売れ残ってた商品だ。ニコルの見通しが甘かったな?」

 言われて、ニコルくんは「すみません」と肩を落としていた。

「それでまあ、人目に付くところに引っ張り出してきたってわけだ」

「これまで売れてなかったのに、売れるんですか?」

「全く需要がない場合はほとんど売れない。が、そういう商品があるってことが知られていない……認知不足の場合は、人目に付けば売れることもある。まあ、今日一日、やれるだけやるさ。領主様もどれか買っていくか?」

 少し迷って、香水の小瓶を買った。瓶自体が宝石みたいにきれいなガラス細工だったから、目を惹いたな。香りには詳しくないから、あの花の、なんて特定はできないけど、いい匂いだ。商品名は『冬の残り香』で、なるほど、そんな雰囲気はある。ただ確かに、店に置いて村の人たちに買ってもらうには時期が悪い気はするな。

「じゃあ、これはステラさんに」

 俺がそう言って渡そうとすると、ステラさんはしばらく首を傾げていたけど。

「……ありがとう。大切にする」

 やがてそう言って、受け取ってくれた。

「いい買い物したよ、あんた。それじゃああとは、他の子たちにも買って帰らないとな? これなんかどうだ。旅鳥の町の老舗レデッカ・エト・ルカーナの紙細工で――」

「みんなが豪勢にお肉を食べてる時にステラさんがひとりだけ特に小食なので、その分の埋め合わせですよ」

 ここぞとばかりに買わせようとするユウリィさんをかわして、店を離れる。長居すると危険な店だ。きっと村の人たちも何人か捕まってしまうだろう。他の村から見物に来た人や、もしかすると旅商人すらも……。ああ怖い、怖い。

 

 広場の外周に並んだ露店をひやかしながらぐるっと一回りしても、思ったほどの時間はかからなかった。

 祭りを見物に来た外の人も合わせたって千人はいないわけで、無理もない。普段から人の出入りが多い街道沿いの街での祭りと比べたら、規模が違って当然。

 まあ、これでも村の規模からしてみれば盛り上がってると思うけど。

 やっぱりメインは舞台での演し物みたいだ。村の人たちが一人一芸、みたいなノリで様々な演し物を見せてくれている。

 順番から言って、クレールたちの演し物まではもう少しかかりそうだ。

 舞台の前に横たえられた椅子代わりの丸太には多くの人たちが座っていて、俺が座るところもなさそう……と思っていたら、村の人たちが気を利かせて舞台の正面を空けてくれた。

 端で良かったんだけどね。あまり目立ちたくないし、演者も領主の俺がこんな所で見てたらやりにくいだろうし。何より一緒にいるステラさんがのんびり本を読んで過ごせる場所じゃないから。

「問題ない。演し物も興味深い」

 ステラさんはそう言って、実際、鞄は閉じたまま。気を遣ってくれてるのかもしれないけど、単純に、本は後でも読めるからという損得勘定からかもしれない。

 この場所からだと見やすいっていうのは、まあ、確かだ。

 ちなみに今は、どこだかの奥さんがものすごいハイペースで旦那さんについての愚痴をぶちまけている。

 内輪の話だから俺にはいまいちよくわからないけど、村の人たち……特に、酒樽の周囲にたむろした酔っ払いたちには大ウケ。その酔っ払いの筆頭はもちろん、親方。

 この雰囲気の中で歌や踊りを披露するのは、結構、度胸がいるような気がする。子供達の演し物には評価が甘い傾向はあるけど。

 と……次に壇上に立ったのは、それまでの何人かとは雰囲気の違う男女の二人組。このあたりの伝統的な衣装だと思うけど、どっちもかなり着飾ってる。気合いが入ってるなあ。

 そしてなんと、その二人の後ろからレベッカさんとペネロペも壇上に立った。

 何事かと思っていると……

「俺たちは今日、結婚します!」

 先に上がった男女から、まずはその報告があった。

 ……ああ、それはめでたい。

 一瞬の間を置いて、広場全体から巻き起こった歓声と拍手が二人を祝福する。

 あまり村の方に頻繁に行かない俺でも、二人が一緒にいる姿は時々見かけていたくらいだから、前々からそういう話はあったんだろう。

 そういえば、村から大教会の司祭がいなくなって、葬式だけでなく結婚式もできないままだったと言ってたな。それでレベッカさんたちが壇上にも同行してるのか。

「二人が夫婦となることを祝福します。悲しみの冬を越え、芽吹きの春に新たな人生を歩み始める彼らに、みなさんからもどうか祝福をお願いします」

 レベッカさんがそう告げると、観衆からの拍手はより大きくなった。

「あなた方に、自由と光の祝福と加護がありますように」

 お決まりの言葉が出ると、新郎が新婦を抱え上げ、その場でくるくると回ってみせた。二人とも満面の笑顔で、見ているこっちまで嬉しくなる。

 でも、あれ……?

 これはさすがに、お祝いを贈らないといけないよな。どうするかな。

「祝いの品は手配済み。心配ない」

 隣で拍手をしていたステラさんがそう言った。……ん?

「……手配済みなんですか」

 聞き間違いかもしれない。念のために確認すると、ステラさんは改めて「手配済み」と頷いた。

「この村ではこういう場合に領主が贈るべき物は『銀製のスプーンを二人分』と決まっているとのこと。慣習に従って手配した」

 なんとも手際がいい……。いやまあ、俺だって事前に知ってたらさすがに用意したと思うけど。

「何でみんなこんな大事なことを俺に知らせてくれないんだろう?」

「……サプライズ?」

 小首を傾げながらのステラさんの言い分は、つまり、驚かせたくて秘密にしていると。そりゃあ、驚いてはいるけどね。そりゃあね。

 俺の気持ちは釈然としないままだけど、壇上での結婚式はもう終盤。

 酒樽の方から聞こえてきた強い要望に従って新郎新婦が情熱的なキスを交わすと、周囲の盛り上がりも最高潮になった。

 そして最後に、花嫁がブーケトスというものをやることになった。

 俺は、というか村の人たちもそうみたいだけど、初めて聞く演出だ。

 新郎新婦によると、最近、北の方から伝わった風習だそう。花嫁が投げた花束を取れた人に幸運が訪れる、特に取った人が未婚の場合は婚期が近付くんだとか。幸せのお裾分け、ということらしい。なるほど。

 ステラさんの補足では、花嫁にあやかろうとする未婚の女性たちが花嫁を取り囲んで私物をむしり取った事件がきっかけで、花束で勘弁してもらおうという風潮になったんだとか。さすが、ステラさんは何でも知って……いや、本当かな、その話。

 ともかく、それだ。

 花嫁の投げるブーケを取ろうという強い意欲のある人は誰からともなくぞろぞろと前の方に出てきた。

 その中で特に異彩を放ってるのが……

「花嫁のブーケはこの私がゲットいたしますわ!」

 ペネロペだった。さっきまでレベッカさんと一緒に壇上にいたのに、いつの間にかブーケを狙う集団の中に混ざってる……。

 ちなみに、レベッカさんはまだ壇上にいる。ステラさんは俺の横にまだ座っている。二人とも積極的に参加するつもりはないらしい。まあ、花嫁の友達の誰かがもらうのがいいんだろうな、こういうのは。

 それだけに、ペネロペの空気の読めなさが際立つというか……熱意はわかるけど。

 その姿を見ていると、ペネロペがふとこっちを振り向いて、ものすごくいい笑顔で俺に手を振ってきた。

 ……俺へのアピールなのかな、この行動は。

 なんてことを考えているうちに、新婦がみんなに背中を向けた。ブーケはその状態から、みんなの方を見ずに投げるんだそうだ。

 他の参加者と比べると、聖騎士の訓練に耐えてるペネロペの身体能力は相当上だと思うけど、ここでそのちからを発揮するのかどうか。……怪我人が出たりはしないよな? 少し心配だ。

「それーっ!」

 俺の心配をよそに、新婦がブーケを投げ上げた。

 多くの人が注目する中、高く舞い上がったブーケは、ふらふらと風に煽られ……

 あ、まずい。

 何がまずいって、ブーケがそのまま飛んできたら、まさにちょうど座ったままのステラさんの所に落ちる。

 そしてそこに、ペネロペの突進が!

「もらったあぁーっ! ですわーっ!」

 ペネロペが他の参加者より一歩先んじている。そして他の参加者達もまだチャンスを諦めてはいない……!

「あ……」

 ステラさんがようやく、事態に気付いた。

 そして……。

 

 ずんっ。

 

 と、さすがにかなりの衝撃があった。

「ぐえぇーっ! ですわ……っ」

 悲鳴を上げたのはペネロペ。後ろから殺到したみんなに背中を押されて、つぶされそうになっている。

「ちゃんと周りを見て行動しないとだめだよ」

 俺の胸にへばりついたままのペネロペにそう言ったけど、はたして聞こえてるかどうか。まだ無理かな……。

 しかし今のは危なかった。俺が気付くのがもう少し遅かったら、ステラさんとペネロペが激突した上に、他の参加者に押しつぶされていたかもしれない。

 俺がとっさに立ち上がって、二人の間に割って入ったのがちゃんと間に合って良かった。普通の人より頑丈な身体が、久しぶりに役に立ったな。

 ……ペネロペはまあ、どっちにしろ押しつぶされたんだけど。

「ステラさん、大丈夫ですか?」

 背中の方に視線を向けながら尋ねると。

「うん。……ありがとう」

 ステラさんの声が返ってきた。

 その手には、花嫁が投げたブーケがちゃんと握られていた。



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スターリー・シュガー・シスターズ

「せっかくリオン様に抱いていただけたのに、まるで壁のようでしたわ……」

 間にステラさんを挟んだ向こうに座ったペネロペから、そんな声が聞こえてきた。……さっきのあれは抱いたうちに入るのかな。

 ともあれ、さっきので葬式と結婚式が無事に終わったそうで、レベッカさんはお悩み相談会の準備に向かった。やりたいって言ってたもんな。ペネロペもその会に出る予定だったけど、大変な目に遭ったから少し休憩ということになって、今は一緒に演し物を見てる。

 最初は俺の隣に座ろうとしたけど、ステラさんに阻止されていた。素直に従ったのは、ペネロペなりにさっきのことを申し訳なく思ってるのかもしれない。

 壇上はすでに次の演し物に移っていて、革細工屋の主人が自分の作った鞄がどれほど高性能なのかということを熱く語ってる。

 ステラさんは興味深そうに聞いていたけど、他の人たちの反応はいまひとつ。酒樽の方から「それは聞き飽きたよ!」という親方の野次が聞こえたような。聞けば、酒場で酔った時は毎回その話をしているらしい。そりゃ聞き飽きるだろうな。

 と、舞台の横に異様な風体の一団が現れた。みんな揃いの白い布で身体を隠して……

 って、クレールたちか。俺が見ているのに気付いて、小さく手を振ってきた。

 ようやく出番みたいだ。

 他の人たちも気付いたようで、少しざわつき始めた。すると、壇上にいた革細工屋の主人はため息をついて話を中断し「ともかく革細工のことならうちに相談してくれ。修理もやってるぞ」と無理矢理まとめて舞台を降りていった。もう宣伝を諦めたのか……。

 ともあれ、その革細工屋の主人の次に……

 クレールたちが舞台に上がった。

 マリアさん、ニーナ、クレール、ナタリー、ミリアちゃん。

 見た目の年齢順……かな。横一列に並んだみんなは、まだ白い布で身体を隠している。

 客席からは控えめなざわめき。やがてそれが自然に収まった頃……

 クレールたちはお互いに頷き合った。そして。

 ばあっ、と白い布を剥ぎ取って後ろに放り投げた。

 隠されていたのは、五人お揃いの衣装。たくさんのフリルがついていて、まるでドレスみたいだ。ところどころに星の意匠があしらわれていて、それはキラキラと光っている。

「せーの……」

「僕たち、スターリー・シュガー・シスターズ! いぇい!」

 クレールとニーナとナタリーが、その声に合わせてビッとポーズを決めた。

 それを見た村の人たちは……

 最初にそれを見た時の俺と同じように、頭の上に疑問符を浮かべたような顔になった。親方だけは「ヒューッ」と口笛を吹いて大喜びしてたけど。あの人はもうたっぷりお酒が入ってるからな……。

 とはいえクレールたちは気にした様子もない。その動きに緊張は見られるけど、臆してはいない。マリアさんとミリアちゃんはその場でくるりと一回転してから後衛に移動して、それぞれ楽器を手に取った。マリアさんがリュートで、ミリアちゃんが縦笛だ。

 楽器の準備もできてから、クレールたちは集合ポーズを解いた。

「今日は春を告げる妖精になって歌うよ!」

 クレールが一歩進んでそう言えば、

「この歌が多くの人に届きますように」

 ニーナもそう続けて、そして最後にナタリーが……

「…………」

 ナタリーが……あれ?

「ナタリー、次だよ……」

 クレールがナタリーを肘でつつきながらそう言ったのが、俺のいるところまで聞こえてきた。

「……あっ! え、えーっと……ちょっとセリフ忘れたですが、特級がんばるです!」

 これには観客からも苦笑の声が聞こえた。

 と、その声も収まらないうちに、何かが輝きながら飛来した。ハスターだ。回転しつつ何度かぽよんぽよんと跳ねてからクレールの前に着地して……

「きゅい!」

 こちらもビシッとポーズを決めた。……ハスターもここまでやるのか。

 ともあれこれで全員出揃って、いよいよだ。

 俺もそうだし、壇上のみんなはもっとだろうけど、俺の隣のステラさんがものすごく緊張している。ステラさんにしては珍しい。どのくらいか具体的に言うと、ステラさんが俺の太股をものすごく強く握っていてちょっと痛い、というくらい。

 まず、マリアさんがリュートをかき鳴らした。

 靴が床を叩いて速いリズムを刻み、ミリアちゃんがそれに合わせて笛を鳴らした。

 二人による前奏は、それだけでもう心が浮き立つような、明るい曲調だ。

「それじゃー、いっくよー!」

 たんっ、と床を蹴って、クレールがまた一歩前に出た。

 曲に合わせて、クレールが歌う。練習の時にあった伴奏とのズレはもうない。

 春を待ちわびる気持ちを歌いながら大きく動いて、その動きのままにニーナと場所を入れ替わる。

 ニーナは春の訪れを感じて高鳴る心を。

 ナタリーは春と共に走り出す新しい日々を。

 激しく踊りながら情感豊かに歌った。

 マリアさんたちの演奏もそれをよく盛り上げている。

 特にマリアさんの演奏は、本人は「なんとか素人ではない程度」と謙遜していたけど、相当の技量だ。

 弦を押さえる左手も、弾く右手も、速さ正確さ共に並の吟遊詩人では比較にならないほど。

 最初はただ好奇の目で見ていた聴衆も、曲の盛り上がりと共に気分が上がってきたのか、今では立ち上がっている人も多くなった。

 曲に合わせてあいの手を入れたり、手拍子をしたり、手にした棒を振ったりして、大いに楽しんでる。

 ハスターも壇上で踊っている。クレールたちと比べると踊り自体は不規則だけど、ちゃんと曲のリズムには合ってるし、何より楽しそうだ。

 ステラさんもこの盛り上がりを感じて、安心したみたいだ。もう俺を掴んでないし、舞台にしっかりと視線を向けて、客席からのチェックという本来の目的に取り組んでいた。

 

 やがて、曲は終わった。

 

 振り返ればさして長い時間じゃなかった。でも、舞台の上にいるクレールたちはいっぱいに汗をかき、肩で息をしているというくらい、激しい生命の躍動が高密度に結晶したひとときだった。

 一拍遅れて、大歓声。そして万雷の拍手。みな立ち上がって、素晴らしい演技に惜しみない歓声を送っていた。

 壇上の五人は互いに顔を見合わせて、汗にまみれたその顔を満面の笑顔に変えて、互いの肩を抱き合った。

 

 午後まで続いた様々な演し物の中で最も多くの支持を得て、クレールたちスターリー・シュガー・シスターズの演技が最優秀賞に選ばれた。結婚式をやった村の二人よりもウケたわけで、すごいことだと思う。賞品は竜牙館から提供した酒樽だったから辞退してたけど。

 ともあれ、最優秀賞の名誉は確かに得たわけで、練習が実を結んだというのは、みんな……特に、進学のために勉強を続けてるミリアちゃんには、いい弾みになったんじゃないかと思う。

 俺もみんなの歌と踊りには感動した。最初にクレールが言ってた新感覚というのも何となくわかった。

「通常、吟遊詩人の歌う題材の多くは叙事詩――過去にあったとされる神話や伝説が多い。しかし、今回の歌は季節の移り変わりとそれを感じる少女の感性が主題になってる。マリアの技巧で実現したとても速いリズムの伴奏、そして歌いながら踊るというスタイルも合わさり、これまでの歌曲とは一線を画している」

 ……と、ステラさんが解説してくれた。ステラさんは何でも知ってるな……。

 何にせよ、俺がみんなに言いたいのは。

「おめでとう。すごく良かったよ。お疲れさま」

 表彰を終えて舞台を降りたみんなにそう声を掛けると、その顔にも春の花が咲いた。



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冬の終わり

 日没が近付いてきた。それは、春祭りの終わりが近いということでもある。

 その時、俺は館のみんなと一緒にいた。村の人たちが冬用の保存食の残りを持ち寄って作った大鍋のスープを食べていたところだった。

 酒樽の方から、親方の声が聞こえた。

「そろそろ、やぐらを燃やそう」

 見れば、親方の足下には酔いつぶれた人たちが転がってるけど、最後の締めは予定通りやるみたいだ。まあ、目を覚ますのを待ってたらいつまで経っても進められないしね。

 親方が真新しいたいまつを手に取って、大鍋を焼いていた火をその先に点けた。

「さあ、これはリオンさんが持って」

 言われるままに、たいまつを受け取った。

 やぐらはこの広場からは少し離れている。炎が大きくなるから、万が一にも周囲に燃え移らないようにという配慮だ。

 親方を始め、他にも何人か、たいまつを手にしてる。

 この村にまだ残っている冬を、この火でやぐらの方へと追い立てていくんだそうだ。

 春祭りの催しはもう、これを最後に残すだけ。

 館のみんなも、村の人たちの大部分も、後ろについてきている。

 たどり着いたやぐらは俺の背の三倍くらいの高さで、一応上に人が乗れるようにはなっているけど、もちろん、これから燃やすのだから今は誰も乗ってない。

 その足下には、よく燃えるようにだろう、干し草が積まれている。

 たいまつを持った人たちが、ゆっくりと歩いて、その周囲を囲んだ。

「冬を、追い詰めたぞ!」

 芝居がかった調子で、親方が言った。

「燃やせ! 燃やせ! 冬を追い払おう!」

 その声を合図に、火のついたたいまつがやぐらの足下に投げ入れられた。火はみるみるうちにやぐらを呑み込んでいき、やがて真っ赤な炎の柱になった。

 これが『冬払いの火』だ。

 やぐらが完全に火に包まれてしまうのを見届けてから、親方はみんなを振り返った。

「これで冬は終わりだ! 祝おう! 新しい季節を! 春を!」

 歓声があがった。それと時を同じくして、冬払いの火に照らされた村はずれに、祭りの終幕を彩る楽器の演奏が響く。

 素朴な楽器に、素朴な音。村に根付いている伝統の音色。

 みんな、それに合わせて踊り始めた。最初はゆっくりと、だんだん激しく。それは季節の移ろいを表現しているのかもしれない。

 俺も……故郷のことを思いだした。俺の記憶にある故郷でも、祭りの時にはこんな音が鳴っていた。

 踊る人たちの邪魔にならないように、俺は端に移動した。座るのにちょうどいい丸太が転がっていて、助かるな。見れば他にも何人か、同じようにそこに腰掛けてる。……まあ、踊るのはつらそうなお年寄りが多いけど。

 みんな元気だなあ。特にナタリーとミリアちゃんは、二人でくるくる回りながら踊ってるのを村の人たちからも絶賛されてるみたいだ。

 と……。

「ねえ、リオンは踊らないの?」

 声を掛けてきたのはニーナ。

 普段と雰囲気が違うのは、服装のせいかな。演し物の衣装からはとっくに着替えてるけど、それでも普段よりはだいぶ着飾ってる。村の子たちからは「さすが都会の人は服装が洗練されてる」と注目されてたくらい。ニーナは雷王都市の出身だから、優劣はともかく、村の人たちとちょっと着こなしが違うのは確かだ。

「今日はみんなが楽しんでるのを見ていようかと思って」

 俺がそう言うと、ニーナは「ふーん」と言いながら、俺の隣に座った。

「みんな楽しそうにしてるからね。……七割か八割くらいは、お酒のせいかもしれないけどね」

「あはは」

 クレールの企画でお酒を飲み放題にして、多分一番飲んだのは親方だけど、他の人たちもかなり飲んだはず。そのせいってことは、大いにありえる。

「でも、前の領主の時にはお酒も厳しかったんでしょ? それを目一杯楽しめるんだったら、それも含めて、いい時代になったな、みたいな話じゃない?」

「それは、親方もそう言ってたよ」

 そう……そういうのも含めて、この春祭りには大きな意味があったと思う。

 この村はこれから、新しい季節を迎える。それは単に月日が経つという以上に、いろんなことが変わっていく。

 俺がきっかけになったのは確かだけど、今は逆に、村の方の変化に俺が引っ張られてる感じがするな。

 ここの暮らしは、結構気に入ってる。

 まだ骨を埋めるつもりとまでは言えないけど、もう少し、この村の変化を見ていたいって気持ちはある。

「ニーナこそ、踊ってこなくていいの? ナタリーとミリアちゃんはすごく楽しんでるみたいだけど」

 尋ねると、ニーナは「んー……」と少しだけ悩んでから、立ち上がった。

「そうだね。ちょっとだけ、踊ろうかな?」

 俺はそんなニーナを見送ろうとして……

「踊ろう」

 そう言ったニーナに手を掴まれ、引っ張られて、椅子代わりの丸太から立ち上がらされた。

 何だかちょっと、普段のニーナらしくない……と思ったけど、ニーナの横顔を見たらなんとなく理解した。

 冬払いの火の照り返しだけじゃ説明できないくらい、顔が赤い。

「……ニーナ、もしかして酔ってる?」

 今日はニーナも館の仕事はほとんどお休みで、演し物も無事に成功した。ちょっとくらい羽目を外したとしても不思議じゃない。

「ふふっ、そうだね。酔ってるかもね?」

 ……仕方ないな。少し付き合うか。

 ニーナの手を握り返して、俺も踊りの輪に加わった。

 他のみんなほどには、うまく踊れなかったけどね。

 

       *

 

 空き巣が捕まった。

 村の外から来た盗賊で、なんでも、祭りの隙を狙って竜牙館に盗みに入ったんだとか……。

 そいつの供述によると、時はちょうど春祭りでやぐらが燃やされる頃。みんなの目が派手な炎に引かれている間に、という計画だったらしい。

「くっくっくっ……領主も祭りに出て、館はがら空き……盗みのチャンス到来だぜ。さてさて、俺のお宝ちゃんはどこにあるのかなーっと……」

 住人がみんな祭りに参加してたのを確認してからの犯行で、足音も消さず、独り言も止めず、堂々と正面から侵入したそうだ。

 うーん……村の人たちには門を閉ざさないように、という気持ちでいたけど、祭りの時は外からも少なくない数の人が来るのを失念していた。確かに不用心だった。反省して、今後の防犯についてはみんなと話し合うとして。

 エントランスに入った空き巣は、そこで不思議な音を聞いた。

 

 カラカラカラカラカラカラカラカラ……

 

 最初は風が何かを揺すりでもしてるんだろう、と、さほど警戒していなかったそうだ。

 でもその音は、風とは無関係に、鳴ったり、止まったり、また鳴ったり……

 

 カラカラカラカラカラカラカラカラ……

 

 空き巣は薄気味悪くなって、ともかく何か金目の物を取ってさっさと退散しよう……と、廊下に飾ってあったツボに目を付けた。そいつはそれを古王国時代の貴重な骨董品だと判断して、あらかじめ用意していた袋に、最初の戦利品としてそのツボを突っ込もうとした。

 その時……

 

 ……………………。

 

 あの不思議な音が、すっかり鳴り止んでいるのに気付いた。

 不穏な予感を覚えないでもなかったが、やはり風の仕業だったのだろう、と気を取り直して作業を再開すると……

 

 もふっ。

 

 ツボの隣に、さっきまで影もなかった何かがあった。

 ……いや。

 いた。

「何だ? 毛玉……」

 それが何か確かめようと、掴んで持ち上げた次の瞬間。

「きゅい」

 動きはまさに電光石火。侵入者に対する怒りが、必殺の前歯となって襲いかかった。

「ぎゃーーーーーーーーっ!」

 その毛玉による攻撃は急所に当たり、効果は抜群だった。

 

 俺たちが館に帰り着く頃には、空き巣は門の外まで放り出されていて、意識を失っていた。

 もちろん、これらは全て、スペースハムスター……ハスターの仕業だ。

 そこらの空き巣じゃ、戦闘力的には相手にならないだろう……。

「防犯はハスターに任せればいいんじゃないかな?」

 空き巣の供述を自警団から聞いたクレールは結論としてそう言ったけど、ハスターは渋い顔をした。今回はたまたま館にいたからよかったものの、いつも見張ってるわけじゃない、ということらしい。確かにそうだ。

 さしあたって決まったのは、全員が出かける時には戸締まりをちゃんとする、ということだった。ナタリー並の技術がある盗賊が来たら無力だけど、やらないよりはいいだろう。

 でも、防犯のことより差し迫って深刻なのは……

「ネ、ネズミ……ネズ……うぐぐ……」

 ペネロペのハスターに対する苦手意識がぶり返したことかな……。



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フューリス

 春祭りが終わってもう数日。村はそれ以前よりも少しだけ賑やかにはなったけど、おおむね、元の姿に戻った。

 広場にあった酒樽は、後片付けの時に酒場に移された。村の人たちにあげたお祝い品だから、すっかりなくなるまで飲んでもらえたらいい。酒場のマスターは快く引き受けてくれた。ただ、どうせ二、三日で無くなるだろうという予想ではあったな。そろそろ無くなってるかもしれない。

 竜牙館の方も普段通り。俺は書類の処理が終わったから、ちょっと散歩中。

 すれ違う村の人たちは気さくに挨拶してくれて、そこからは、まあまあ慕われてるんじゃないかな、という気持ちになる。恨まれてるよりはずっといい。

 気になるのはあの像だ。祭りの時はゆっくり見る暇をとれなかったから、今日こそはと思って、村の広場まで出てきたんだ。

 改めて見るとやっぱり、かなり美化されている気がする。先にこれを見てから実際の俺に会ったら、がっかりするんじゃないかというくらい。

 かといって不細工にして欲しかったかというと、それもなあ。

 どうしても後の世にまで残らざるをえないなら、美化されてる方が幾分マシかな……。

 そして、今日になって気付いた。

 台座に文章が刻まれてる……。

『〈竜牙の勇者〉リオン・ドラゴンハート。幾千の竜を倒して無敗。村は勇者によって救われ、新たな春を迎えた。その業績を忘れぬよう、像にする』

 ……そんなに間違ってはいない……かな?

 でも『幾千の竜を倒した』って部分だけは言い過ぎだ。千は絶対に行ってない。だって、毎日三頭倒しても一年かかる計算。実際に竜と頻繁に戦ってたのは半年もないくらいだったから、幼竜を除いて成竜に限ったら、倒したのは百頭前後じゃないかな。

 ……改めて考えると、百頭でも十分多いな。悪竜から〈竜を絶滅させるもの〉なんて渾名をもらうのも仕方ないか。

 それにしてもこの像、村の誰かが造ったんだと思うけど、よくできてると思う。俺が題材じゃなければ、もっと穏やかな気持ちで楽しめるんだけどな……。

 そんな風に像を眺めていると……

「もしかして、あなたが〈竜牙の勇者〉リオン・ドラゴンハート男爵でしょうか」

 声を掛けられた。

 振り向くと、そこにはこの村に似つかわしくない、どことなく高貴な感じの服に身を包んだ人がいた。歳は二十歳を過ぎたくらい。ダークブロンドの髪とブラウンの瞳の美男子だ。

 でも少し違和感が……なんだろう。

 もちろん、街道から離れたこんな村に来るような人に見えない、というのが一番の違和感だけど。

 後は……だめだ、違和感の正体がいまいち掴めない。

「私は西に領地を持つ者で、名はサンジェルマンといいます。初めまして、になるでしょうか」

「ああ、どうも初めまし……ん? ええっと……」

 声を聞いて、違和感が大きくなった。

「どうしました?」

 サンジェルマンと名乗ったその青年貴族が、俺の様子を訝しんだのかそう声を掛けてきたけど。

 ……やっぱり、そうだ。

「フューリスさん……ですよね?」

 俺がそう言うと、サンジェルマンはまず驚き、それから、笑った。

 次の瞬間に起きた変化は劇的だった。

 サンジェルマンが指をパチンと鳴らすと、その全身から、ぶわっ、ともやがあふれ出てその身体を覆い隠した。

 そのもやが晴れた時、そこにはサンジェルマンという青年貴族ではなく……

「……ふふ。やはり少しばかり変装しても君にはすぐに見破られてしまうね。どうしてだろう?」

 俺の旅の仲間だったフューリスさんが、立っていた。

 

 フューリスさんは……謎の多い人だ。俺はその一端を知っているけど、本人はあまり他人に話してはいないみたいだし、俺も詳しくは言えない。

 見た目には二十歳を過ぎた頃。マリアさんと同年代か、少し年上に見える。控えめに言っても美女だ。絶世の美女、と言う人もいるかもしれないくらい。

 ただ、その……胸の大きさは、クレールが「これは僕が勝ってるよね?」と言って誰からも反論されない程度。中性的な雰囲気は、そのせいでもあるかな。フューリスさん本人は「軽くていいだろう?」と笑ってたけど、本心かどうかはわからないから、俺からは話題にはしない。

 肩まである髪は赤ワインの色。目の色もそう。落ち着いた性格にも合ってると思う。

 俺がフューリスさんと出会ったのは雷王都市。何者かに追われていたフューリスさんをかばったのがきっかけ。その追っ手が警備兵で、王家の宝物庫に盗みに入った賊を追っていたと知ったのは後日のこと……。フューリスさんの言い分では「侵入はしたけれど盗んではいないね」ということだったけど。

 さっき見せてくれたように、変装の名人でもある。自分の姿を変えることができる魔導器を持っているとも、一族に伝わる特殊な秘術があるとも、正体は不定形の生物で人間ではないとも、仲間内でさえいろんな噂が飛び交ったけど、フューリスさんは笑っただけ。

「手品なんてものは、ねえ。タネを明かしてしまったら、途端に面白くなくなってしまうよ」

 一番食い下がっていたのがステラさんだったけど、最後には結局諦めてた。

 それと同じちからなのか、フューリスさんがいると魔獣に気付かれにくくなるってこともあったな。

 本当に不思議な人だ。

 

 ただ、俺はどういうわけだか、フューリスさんの気配はわかる。なんとなく、という程度ではあるけど。今回のも、変装を見破ったというよりは、フューリスさんの気配に気付いた、というだけだ。

「そうなのかい? 上手く消しているつもりでいるのだけれど。もしかして、匂いかな?」

 言ったフューリスさんは、自分の腕の匂いをすんすんと嗅いでみているけど。

「匂い……ではないと思います」

 俺自身、よくわからない。前々からだから、竜気(オーラ)が溜まってるのも関係ないと思うし。

「まあ、一瞬騙されそうになりました。男装だったからかな」

 フューリスさんは女性だから、男装の時は結びつくのに時間がかかるというのはありそうな話だ。フューリスさんを追っていた警備兵たちはその逆に、ひげ面の男に変装したフューリスさんを追っていたせいで、変装を解いたフューリスさん本人が「そいつならあっちへ行きましたよ」なんて言っても全く気付いていなかったし。

「男装もなかなか似合っていただろう? 名はサンジェルマン、西に大きな領地を持つ伯爵で、妻子はいない。歳は二十二。最近は錬金術に凝っていて、それにまつわる面白い話があればぜひ聞きたいと思っている……という設定なのさ」

「設定」

「そういう細かい設定を決めておくとね、思いがけないことを訊かれた時にも対処しやすいのだよ。やはり変装には気分が大事だね」

 なるほど。嘘をつくのも、本気でやろうとするといろいろ大変そうだ。正直に暮らすのが一番楽だな。

「今の私には、本当に領地があっても煩わしいだけだから、設定だけだけれどね。日々を暮らしていけるだけのお金があれば十分。だろう?」

 それは確かにそうかもしれない。俺もここで領主なんかになって、以前とは違うことでいろいろ悩みが尽きない。戦っちゃいけないって事情さえなければのんびりしてる理由もないから、とっくに放り出して冒険の旅に出発していたかも。春祭りなんかは特に、誰かに後を任せて旅立つのにいい機会だったし。

 まあ領地のことは、ようやく少し面白くなってきた感じもするけどね。

 とはいえ、フューリスさんは、俺とはまた事情が違う。過去のこともあるし、領地や領民を気に掛けるのを煩わしく思って避ける気持ちも、わかるな。

「でも、爵位の詐称は死罪と聞いてますけど……」

「ああそうだった。けれど、君はもちろん黙っていてくれるだろうね?」

 ……まあ、フューリスさんを告発しても俺には何の得もないな。

「さて、本題に入ろうか。私が今日ここに来たのは、少し事情があってのことなのだよ」

「事情……ですか」

 呟きながら、その事情とやらを推測してみるけど。

 心当たりは……ある。

「何か俺が手伝えることがあれば、手伝いますよ」

 そう言うと、フューリスさんの顔がほころんだ。

「うん。それじゃあまずは確認だけれど、私が探しているもののことは覚えているかい?」

 やっぱり、という思い。フューリスさんの事情で、一番重要なのはやっぱりそれだろう。

「確か〈太陽の聖石〉という魔導器を探してるんでしたよね」

 フューリスさんとゆかりの深いその品は、俺の知る限り、この大陸に現存する魔導器の中でも特に強力なもののひとつだ。しかもそれが古王国の技術でなく、比較的近年に作られたものだというから驚く。他に〈賢者の石〉という別名もある。

「そう。正確には、その複製品だけれどね。いま探しているのが最後のひとつだ。他はもう回収したからね。サンジェルマン伯爵として社交界に出入りして、ようやくその足取りを掴めた……と思っているところなのだよ」

「そうなんですか。おめでとうございます」

 ありきたりな言葉になったけど、本心。

 相当長い年月をその捜索に費やしてたと聞いてる。雷王都市で宝物庫に侵入したのもそのため。それがやっと報われるなら、俺としても嬉しい。

 フューリスさんは「うん」と微笑んだ。

「それで、最後のひとつの行方を知る人物に、会いに来たのさ」

「こんな辺鄙なところに住んでるんですか」

 稀少な魔導器を集めてるような人、この村にいたかな。いないと思う。ぎりぎり、魔女の店のおばさまが何か持っていそうではあるけど、そのくらいだ。

「君の領地だろう?」

 フューリスさんはそう指摘したけど、俺としては苦笑するしかない。

「辺鄙なところだっていうのは事実ですよ。これから発展する可能性はありますけど」

 どのくらい辺鄙かというと、街道でよく売られてる旅行地図には記載されていないことがほとんどで、大きな街道からこの村に入る道は細くて見付けにくい。海に面してはいるけど、外からの寄港はない……まあ、少なくとも都会だという人はいないだろう。

 とはいえ。

「まあ、今後に期待というところだね?」

「そうですね」

 フューリスさんの言葉に俺も頷く。

 春祭りにも、事前に考えていたよりたくさんの人が外からも来ていた。その一部はユウリィさんが紹介したそうで、さらにそのうち何人かからは出店の相談も受けた。近いうちに親方たちも交えて改めて話し合うことにしてるけど、この村にない業種だったから、出店を許可することになると思う。

 そういうこともあって、村の発展を期待するのは、おかしいことじゃない。

 ……まあ、明日からいきなり大都会、とまでは期待してないけどね。

「それで、誰を探しているんですか? ここの住人なら案内できますよ。……まあ、わかる人を紹介するくらいまでなら」

 本当は自信を持って「村の人なら全員わかる」と言えたらいいんだけど、辺鄙な村と言っても五百人くらいいるわけで、あまり接点のない人はなかなか顔と名前が一致しない。

 館でそこに一番詳しいのは、マリアさんかな。ニーナも噂話はいろいろ聞いてるみたいだけど、魔女の店で働いてるマリアさんほどじゃないだろう。

 さてそれで、フューリスさんが探しているのは……

「ステラだよ」

「……ステラさんなら、館にいます」

「うん、知っている」

 言って、フューリスさんはくすくすと笑った。

 ステラさんなら確かに、この村にいる人のうちに入るな……。

「補足するとね、かの高名な〈西の導師〉が石を手に入れたというところまでは、突き止めたのだよ。しかしその人物はどうも長くひとところに留まらないようで、今どこにいるのかは見当も付かない。さてそこで思い出したのが、ステラのことだ。彼女は〈西の導師〉の弟子のひとりで、かの人物が件の石を手に入れた頃にちょうど、その傍で暮らしていたはずなのだよ。……まったく、そうと知っていれば初めから彼女に尋ねていたのだけれどね」

「ずいぶん遠回りしましたね」

 フューリスさんが自分のことをもっとみんなに打ち明けていたら、もっと早く済んだかもしれなかったわけだ。

 ただ、太陽の聖石を巡る話は、フューリスさんにとって決して楽しい話じゃない。他人とあまり共有したくないと思っても、無理はないか。

「まあ、これはこれで面白い体験だったよ。さて、ではステラに会いに行こうか」

 そういう葛藤を感じさせない口調で、フューリスさんはそう言った。



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聖石の行方

「知らない」

 書庫にこもっていたステラさんは、ごく短い言葉でフューリスさんの質問に答えた。……期待された答えではなかったけども。

「そうなのかい? 時期としては、確かに君も近くにいたはずの頃なのだけれど」

 フューリスさんは質問を続けるけど、ステラさんは無言。

 無視してるってわけじゃない。本を読んでいた顔を上げて、ちゃんとフューリスさんの方を見ているし。

 それでも知らないと言うのは、ステラさんの性格からすると、嘘ではないはず。

 ……ステラさんでも知らないことがあるのか……。

「何か少しだけでも思い出せないかい? 見た目は魔石に近いものだったはずだよ。とても強い力を内包していて、内側から光を放っている、宝石のような――」

 フューリスさんにしては珍しく熱心に語りかけているな……。それだけ重要な話なんだと思う。

 すると、ふと、ステラさんのまつげが動いた。

「……〈月光の聖石〉なら、見た」

「それだ」

 ようやく繋がった。俺も自分の事みたいに、安堵のため息が出た。

「今はどこにあるのかわかるかい?」

 問題はそこだ。他の人の手に渡っているなら、その先をさらに追わなくちゃならない。

 ステラさんはその問いに少しだけ間を置いてから、よくわからないことを言った。

「わかるけれど、わからない」

「難しい答えだね」

 フューリスさんが肩をすくめて、いかにも困ったというしぐさを大袈裟に見せながら呟くと、ステラさんはさらに続けた。

「妹弟子が持っているのは知っている。妹弟子が今どこにいるのかは知らない」

 そこまで言われて、やっと俺も内容を把握できた。

 でも、ステラさんの妹弟子って何歳なんだろう、とか、そういうところが気になる。

 もちろん、フューリスさんの方には、また違った感じ方があるみたいだ。

「持っている? 断言するとは、奇妙なことだね。すでに手放している可能性もあるんじゃないかな?」

 それももっともな指摘だと思うけど、ステラさんは「ない」と即答した。

「心臓の代わりに稼働していた。失えば死ぬ。手放すはずがない」

「……そんなことになっていたのか」

 少しの沈黙……あるいは絶句の後で、フューリスさんは呻いた。

「そうしなければ死んでいたと聞いている」

「そうだね。それほどに酷い状態でなかったら、心臓と魔石を入れ替えるなんて、やったやつの頭の中身を疑うところだよ。それほどの状態だったとしてさえ、ほとんど頭がおかしいのだからね」

 実際のところ、心臓が石に置き換わるって、どんな感じなんだろう。

 鼓動を感じなくなる……というか、そもそも無くなるわけだよな。それと一緒に、心も無くなってしまうものなんだろうか?

「師匠がやった。理由は『面白そうだから』だった。私はそれが本心であると推測している」

「……偏屈な人物だとは聞いていたが……おっと、失礼」

「問題ない。事実の指摘に過ぎない」

 どんな人なんだろうな、その〈西の導師〉って。ステラさんの師匠なんだし、悪い人ではないんだろうけど……。

 伝え聞く範囲では、ちょっと変な人みたいだな。

「ということは、その……フューリスさんがそれを取り返そうと思うと、その人は……」

 その人にとって聖石は心臓と同じ。ステラさんも言ったとおり、失えば死ぬだろう。それをわかっていてそれでも、フューリスさんは聖石を取り戻そうとするんだろうか?

「そこは君が心配することはないよ」

 フューリスさんはそう言って微笑を浮かべた。そこには不穏な影は見えない。

「君が心配するほど大きな問題にはならないはずだよ。おそらくね」

「そうなんですか?」

 フューリスさんには何か考えがあるんだろうか。

「もしその子が石の力に困っているなら、私が自身の石を無害化した経験が役に立つだろう。無害化できるならば、石自体は私には必要ないよ」

「なるほど」

 フューリスさんも、太陽の聖石の力を使わざるを得なかった人だ。それでも今は、聖石の力なしにこうして過ごしている。後遺症みたいなのはあるらしいけど、それでもその経験談は、ステラさんの妹弟子にもきっと有用なはずだ。

「そしてもし、石の力を大喜びで使っているようなら、私としてはその子に容赦する必要は感じないから、倒してしまうだけだよ」

「……なるほど」

 すこし過激な論ではあるけど、フューリスさんは「聖石をこの大陸の歴史から消し去ってしまいたい」という意気込みだから、そうならざるを得ないんだろう。

 もし戦いになってしまう場合は、俺の出番になるかもしれないけど……。

 太陽の聖石については、俺なりに調べたこともある。

 歴史書によると、この大陸にはかつて太陽の聖石を持った〈沈まぬ太陽の女神〉という人物がいて、東にある渇きの都を支配していた。その力は強大で、古竜ですらその女神に傷ひとつつけることができなかったそうだ。結局、同じ時代の英雄である〈北の魔剣王〉と大陸を二分するような争いの末に敗れたそうだけど。

 魔剣王はその後に始まった大災厄で〈歪みをもたらすもの〉と戦ったというから、時代は少し遠いけど、俺の先達ってことになるな。

 そのくらいの大戦争を覚悟しないといけない相手……。

 正直に言うと、そんな相手と戦ってみたいという気持が、なくはない。でも今のところ戦う理由はない……強敵への興味という以外には。俺の身体が万全じゃないのも問題だし、なにより、みんなをそんな私的な戦いに巻き込むつもりはない。

「悪い噂は届いてこないため、おそらく自制しつつ暮らしていると推測される。穏便に済むことを期待する」

 ステラさんが言ったことに、俺も同意するしかない。

「私も、そうであることを望んでいるよ。もちろんね」

 フューリスさんとしてもそうなんだから、よほどこじれない限りは俺の出番はないはずだ。

「それで、その子に会いたいのだけれど、どうすればいいだろう?」

「師匠の元をそれぞれ旅立つ時、妹弟子は赤塞都市に向かうと言っていた。それが最後。およそ一年前になる」

「赤塞都市……西だね。少し遠いけれど、他にあてがあるわけでもないから、行くしかないね。あとでその子の特徴をまとめてくれるかい?」

「わかった」

 フューリスさんは新しいヒントを得てまた一歩、聖石に近付いたわけだ。その目的が無事に達せられるように、俺も応援したい。

 それにしても……。

「どういうところなんですか、赤塞都市って」

 実を言うと、というほどでもないけど、俺の知らない場所だ。都市というからには相当に規模の大きな街なんだろうけど、よほど遠いのか、初めて聞く。

 答えてくれたのはステラさん。

「古い時代の戦争で築かれた城壁がある。赤い城壁が名前の由来。過去の英雄〈天覇聖〉の子孫がその街の領主――王として君臨。かつては平和な街だった。そう聞いている」

「かつては……ということは、今は違うんですか」

「赤塞都市は十年ほど前に大きな災害があったのだよ。正確には、十三年前だったかな?」

 今度はフューリスさんが話してくれた。

「城壁の内側は今でも酷い有り様で、立ち入りが禁止されているという。王はその時に死に、王家でただ一人生き残った王子が、今は人々をまとめているそうだ。人々は城壁の外に新市街を作って暮らしている」

 思った以上に不穏な話だ。十三年も前ということは聖石のせいではないんだろうけど、でも今そこに聖石を持った人がいるかもしれないってのは、何かが起こりそうな予感を覚えるのも無理ないところだろう。

 そんな俺の様子を見てから、フューリスさんが続けた。

「まあ、すぐ傍に今でも暮らしているのだから、差し迫ったものでもないのだろうね。ともかく行ってみることにするよ。もし本当に危険なら、改めて君に協力を頼むかもしれないけれど」

 もしかすると、という気持ちがなくもない。

 というのも、災害が起きたのが約十年前。というのは、邪神復活の前兆のひとつだった可能性もあるなあ、と。

 もうそうなら、俺が立ち向かうべき何かがそこにいるかもしれない。

 ……まあ、考えすぎか。

 まずいな。俺も最近あまり身体を動かしてないからなあ……って程度の気分を理由に、大陸規模の危機を望んでるみたいになってるような。

「そうならないように祈っておきます」

 自戒を込めてそう言うと、フューリスさんも「そうだね」と頷いた。

 ……本当に、気を付けないとな。

「ところでもうひとつ訊きたいのだけれど、ユウリィが来るのは、次はいつかな?」

「ユウリィさん?」

 少し意外なことを訊かれて、俺はステラさんと顔を見合わせた。

「旅に出たのが春祭りの後だったから、数日しか経ってないですね。まだしばらくは戻らないんじゃないかな……」

 普段通りなら、北にある荒水の町まで出て、天駆の街道を主な活動域にしているはず。ただ、そのどこにいるかまでは俺は判断できないし、わかってから追いかけても追いつけるとは思えない。

 フューリスさんは「ふむ」と唸った。

 結局、ここで待っているのが確実とはいえ……。

「それならば、待っていても時間を無為にするかもしれないね」

 まさに、フューリスさんの言う通りだ。

「ああ、あとほんの数日だけ早く来ていれば! 急ぐ旅でもないなどとうそぶいて晩冬の味覚に舌鼓を打っていた少し前の自分を叱ってやりたい気分だよ」

 フューリスさんが大袈裟に言うので、少し笑ってしまった。

「この館で有意義に過ごせば良い」

 そう指摘したのはステラさん。

 確かにその通りで、ユウリィさんへの用事がすぐに済まないからって、無為に過ごす必要はない。近いうちに聖石を追って赤塞都市に旅立つにしろ、今すぐってこともないだろう。

 フューリスさんはほんの少しの間、目を伏せて考え込んだ。

「それが最善であるように思えるね。ということは、だ。急ぐ旅でもないのだし、ここで春の味覚に舌鼓を打つのも悪くはない……ということになる」

「少し後の自分に叱られるんじゃないですか?」

「それもまた一興というものだけれどね。少し後の自分もおそらくそこまで狭量ではないと、そう期待したいと思っているのだよ、実はね」

 このあたりの言い回しの迂遠さは、仲間内ではフューリスさんが一番だな……。

 まあ、何日か滞在するのは間違いなさそうだ。

「フューリスさんはこの館は初めてですよね。何日くらい滞在できそうですか? 温泉もあるし、ぜひ休んでいってもらいたいところですけど」

「そうだね……」

 俺の誘いにフューリスさんは、言葉には悩むそぶりを滲ませながらも、微笑んでみせてくれた。

「石の行方がおぼろげにもわかった以上は、あまり長居するのも気が落ち着かない。けれど、積もる話がないわけでもない、というのが悩ましいところだね。間を取るといった具合で、三泊ほど寝床を貸してもらおうかな?」

「わかりました。ニーナにもそう伝えておきます」

「よろしく頼むよ」

 お互いに、話したいことも訊きたいことも少なくないはず。

 長い夜になりそうだ。



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宝の地図?

 ニーナの案内で空き部屋のひとつに旅の荷物を下ろして、フューリスさんも館の住人になった。一時的にではあるけど、それは厳密に言えば俺とニーナ以外はみんなそうだ。

「なかなかいい館だね。話に聞いた印象ではもっと、そうだね、趣味の悪い建物なのかと思っていたよ」

 フューリスさんがそう言うのは理解できる。前の領主の悪行を聞けば、類い希な美的センスを有していて非常に落ち着いた雰囲気の邸宅に住んでいる人物だとは思わないだろう。そして、実際にそうじゃなかったわけだし。

「調度品なんかには、あまりいい趣味と言えないのもありましたよ。ユウリィさんに処分してもらいましたけど」

 思い返せば絵画も彫刻もたくさんあったけど、裸婦が題材のものが多かったな……。それを「いい趣味をしている」なんて、同じ趣味だと公言するようなものだし、おおっぴらに言う人はほとんどいないだろう。

 夕食の準備に戻っていったニーナに代わって、暇な……こほん、時間に余裕のある俺が、館の案内。

 一通り案内し終わって、最後に裏庭。前にはここで肉を焼いたな。あれ以来、調理炉はときどき使われてる。

「向こうにあるのが温室で、温泉の熱で暖めてるんです。南の方の植物もありますよ」

「それは興味深いね。世話は誰が?」

「主にマリアさんが。ミリアちゃんとナタリーもよく手伝っていますね」

 フューリスさんとそんな話をしていると、裏庭の日当たりのいいところに置かれた丸テーブルが目に付いた。

 レベッカさんとペネロペ、それにクレールがいるな。顔を突き合わせて、何かを覗き込んでるけど……。

「何してるの」

「あ、リオン」

 声を掛けると、三人とも顔を上げてこっちを見た。

「それにフューリスも? おかえりー……は、変かな?」

「この館に来たのは初めてだからね。けれども、うん。知った顔が多いから、まるで実家のような気分だ、とは言えるよ」

 確かに、フューリスさんにとって初対面なのはペネロペだけか。

「えっとねー、ペネロペが教会の奥から古地図を見付けてきたっていうから、三人で眺めてたんだよ」

「でもどこの地図かわからないのよね……」

 クレールもレベッカさんも地理に疎くはないはずだ。それでもわからないってことは、相当に遠い場所の地図なのか、あるいはもしかして異世界の……?

 特に熱心に見ているのはクレール。

「宝の地図だと思うんだけどなー。だってほら、古王国語で、えっとー……『竜の黄金を求める愚かな冒険者たち、欲にまみれた盗人どもよ。お前たちは必ず後悔するであろう。お前たちを待ち受けているのは、恐ろしい死だけなのだから』……だって。これは間違いないね?」

 宝の地図……なのか? これが?

「黄金って単語以外は全部不吉な言葉だったような気がするけど」

 そう指摘したけど、クレールは自信満々の表情を崩さない。

「他にもいろいろヒントが書いてあるんだよ。これさえあればきっと財宝を手に入れられるよ! ……まあ、どこの地図だかわからないんだけどね」

 それに呼応してレベッカさんも。

「金銭的な価値はともかく、考古学的に貴重なものもあるかもしれないわね」

 なんて言って、結構乗り気だ。

 とはいえ、実際に探しに行くつもりじゃなくて、知的な遊戯として古地図の解読に挑んでるんだろうと思う……たぶん。

「でも、場所がわからないんだよね?」

「山と川と町が描いてあるけど、このくらいの組み合わせ、大陸のあちこちにあって特定できないよね。地名が書いてあれば簡単なのになー」

 地名すら書いてないのか。大昔の子供の落書きか何かって可能性もあるな。いや、それだと逆に、適当な地名を書くかもしれないかな?

 ちなみに一緒にいるペネロペが黙ってるのは……たぶん、古王国語を読むのに苦戦してるんだと思う。

「うん? もしかして……」

 と、フューリスさんがその地図を眺めながら、呟いた。

「地図をそのまま見ていないかい? ほら、ここに太陽が描かれているだろう? この印を太陽の方に向けると……」

「えっ。ということは、ふむふむ、なるほどー……」

 指摘を受けたクレールが、その通りに地図をくるりとすると……

 まず「あっ」と声を上げたのはペネロペだけど、まだ読んでる途中だったのを取り上げられたからか。

 それから、クレールがぽつり。

「僕、この地図を描いた人に文句言いたい……」

 いきなりなにごとかと思うと、今度はレベッカさんがため息。

「これ、南を上にして描かれてたのね……先入観にとらわれすぎてたわ……」

 そういえば、普通の地図は北を上にしてる気がするな。

「あれってどうしてなんだろう。何となくそのまま使ってるけど」

 誰にともなく尋ねると、レベッカさんが教えてくれた。

「北の空に『北の明星』っていう不動星があるから、その星を向いた状態でわかりやすいようによ」

 なるほど。その星は俺にもわかるくらい明るい星だ。夜に目印にするにはちょうどいい。ただ、さすがに昼の間は見えないな。

「羅針盤の針が北を指すから、それと合わせて見やすいようにしてるらしいって、父様が言ってた気がするけど」

 そう言ったのはクレール。羅針盤は俺も使ったことがあるな。黒猫の意匠がついた魔法の羅針盤を持ってる。北を指すのは魔法のおかげなのかな? 仕組みはよくわからない。

「私の故郷では南を上にしていたよ。真昼の太陽の方角を上にすると定められていたからね」

 フューリスさんの言葉に、クレールが「えーっ」と声を上げた。

「ということは、これはフューリスさんの故郷の方の地図?」

 俺がそう訊くと、フューリスさんは微笑しながら首を横に振った。

「そうとは限らないね。地域や時代や用途によって、どの方角が地図の上になっているかは変わる、というだけのことだよ。北を上にするのが近年の流行ではあるようだけれどね」

 なるほど……? よくわからない。

「結局、どこの地図なんだろう」

「私の故郷の近くのような気がしますわ」

 そう言ったのはペネロペ。

「その財宝を竜の黄金と言うからには、竜に関係のある土地なのでしょう? 私の故郷の近くに、刃義の赤竜山というかつて火の竜が棲んだという山がありますの。そこで数年前に大きな噴火があって、私は家族と離ればなれに……」

 おっと。偶然見付けた古地図に、意外な繋がりがあったな。

 ペネロペが故郷を離れる原因になった災害って、火山の噴火だったのか。俺は噴火って実際に見たことはないけど、山から噴き出した炎が森の木々や近隣の村や町さえ呑み込むと聞いて、さすがに恐怖を感じたな。竜への対処の方がよほど簡単に感じる。

 ちなみにペネロペの両親がその災害を生き延びていたのは、少し前にアゼルさんが話したとおり。預かっていた手紙もすでにペネロペに渡してある。安心はしたようだったけど、聖騎士の修行を放り出して帰るつもりはないようで、まずは返事を書くと言ってたな。

「それじゃこの町の名前もわかる?」

 クレールが訊くと、ペネロペは頷いた。

「おそらく、狼宴の町だと思います。錬灯都市の傘下ですわね」

「錬灯都市ってー……えっとー……」

 クレールが悩んでる。俺もよく知らないな、錬灯都市って。世の中には俺の知らない場所がまだまだたくさんあるんだな……。

「かつては燈火の街と呼ばれていたところだね?」

 言ったのはフューリスさん。聞き覚えがない地名なのは変わらないけど。

「あーあー、あの辺かー」

 クレールの方はそれでわかったようで、しきりに頷いていた。

「今日出て明日着くって距離じゃないね。帝麟都市より向こうだもんね。掘り出しに行くのは無理かなー」

 そんなに遠くなのか。

 帝麟都市には、俺の爵位を認めてもらうように手紙を送った。ちょうどそこに行く予定のあったクルシスがそれを引き受けてくれたけど、冬の初めに出発して、まだ戻ってきていない。

 そのくらい遠い帝麟都市より、まだ向こう。

 俺にとっては世界の果てとも大差ない距離だ……。

「ペネロペの故郷の近くだというなら、彼女が持っておくのがいいのではないかな?」

「そうだねー。見付けたのもペネロペだし、里帰りのお土産にでもしたらいいよ」

 そういうことになった。

 ちょっと不思議なのは、フューリスさんがごく普通にペネロペの名前を出したこと。これが初対面だと思ってたんだけど。

「あ、そうだ。フューリスさん。先日はありがとうございました」

 立ち上がって頭を下げたのは、レベッカさん。すぐに、ペネロペもそれに倣った。

「役に立ったかい」

「はい。助かりました」

 と言葉を交わす二人を見ても、何があったのかよくわからない。

「何の話?」

 俺と同じく心当たりがないらしいクレールがそんな風に尋ねると、フューリスさんが微笑と共に答えた。

「先日、雷王都市で偶然、レベッカと会ってね」

「偶然って、そんなことあるんだ」

「雷王都市だったら不思議でもないだろう? リオンと一緒に活動していた頃はみんな同じ宿に集まっていたし。今でも特段の理由が無い限りは、同じ宿に行くよ」

「なるほどね」

 確かに、あの宿は東門に近い場所にあったから便利はいい。冒険者の組合が運営してる安宿だったと思う。ちょっと懐かしいな。俺も雷王都市に着いて何度かは泊まったし、そうでなくても他のみんなとの待ち合わせにはよく使った。

 料理はまあ、あまり美味しくはなかったな。……というと失礼だから補足すると、安いから仕方ないな、といったところ……。雨の日が多くて野菜が育ちにくい土地柄のせいもある。

「地図を頼りに古い時代の教会の跡を探していたんだけど、地図も古くて、地名が今と違ったの。それで、ちょうどフューリスさんと会えたから相談したら、すぐに今の地名に読み替えてくれて」

「まあ、これでも旅はしてきた方だからね。地名についてはなかなか詳しい方だと思っているよ」

「本当に助かりましたわ」

 ああ、それでフューリスさんとペネロペも面識があったのか。初対面にしては自己紹介もないと思ってたけど、そういうことなら納得だ。

「なるほどねー。雷王都市が昔は止まぬ雨の街だった、みたいな話ね」

 クレールがぽんと手を打つと、フューリスさんも笑いながら「そうなるね」と応じた。さっきの、錬灯都市と燈火の街の読み替えも、同じ話だ。

「竜牙の村は寒寂の村だったね」

 そう言ったのはクレール。

「今はまだ寒寂の村の方が知られてると思うけどね」

 俺が言ったのは本心だ。いつかは逆転するのかもしれないけど、少なくとも今はまだ、そうだろうと思う。

「いずれにせよ、古い地名にはその土地土地ごとの歴史や教訓が込められている場合もあるから、いたずらに変えてしまうのは感心しないね」

 フューリスさんの言葉には、俺も頷くしかない。でも、竜牙の村って名前に関しては、今更言い出せないしな……。

「とはいえ、それも時の流れというものではあるね」

 考えると、地名って結構、時が経つと変わるものなんだろう。

 それをたくさん見てきたフューリスさんはなおさら、それについて思うところがあるのかもしれないな。

 

 夕食の席では、久しぶりに会ったフューリスさんとみんなで大いに盛り上がった。

「――さてそうして青年貴族サンジェルマン伯爵に扮した私は、その宴でとある貴族のご令嬢に気に入られてしまってね。ぜひ奥の部屋で、二人きりで話がしたいと誘われたのさ。さあそれで怒ったのがその令嬢の婚約者だ。私としてはあまり事を荒立てたくはないと思っていたのだけれど、彼は私の言葉など聞く気もない、といった様子でね。怒りに燃える目で私を睨み付けてこう言ったのだよ……『決闘だ』。私はやれやれと心の中でため息をついたけれども、周囲の目もあることだし、当たり障りのない返事をすることにしてね。それで言ってやった。『死ぬ覚悟がないのに、そのようなことを口走るのは感心しませんね』……とね」

「自分から特級煽ってるです!」

 フューリスさんは俺たちと別れてからの自分の冒険を面白おかしく話して聞かせてくれた。どこまで本当の話かはわからなかったけど。



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沈んだ太陽

 フューリスさんの旅立ちを明日に控えた、深夜。

 少し冷えると思って目を開くと、カーテンが揺れていた。湯上がりの身体を冷ますために開けていた窓を、閉め忘れてたらしい……。

 ベッドから起き上がって窓を閉めに行くと、月明かりが差し込んできた。

 と……。

 視線を下ろすと、中庭にフューリスさんが見えた。

 何をしてるんだろう?

 少し気になって、俺も二階の自室から出て階段を降り、中庭に出た。

「眠れないのかい?」

 俺が来るのに気付いていたのか、俺が声を掛けるよりも早く、フューリスさんがそう言った。

「フューリスさんこそ」

「ふふ。せっかく良い月が出ているから、寝てしまうのがもったいなくてね」

 確かに、きれいな月だ。俺自身は、月にはあまりいい思い出はないけど。

 フューリスさんがいるテーブルには旅の荷物らしきものが並べられていた。月明かりの下で、その手入れでもしてたんだろう。

 それと、小瓶があるな。中の液体は半分より少ない、といったところ。

「私の飲みかけだけれど、飲むかい?」

 差し出されたコップの中身は、まあ、想像通りのものだろう。

「じゃあ少しだけ」

 葡萄酒の香りを少しだけ吸ってから、軽く、ひとくち。思っていたより喉が渇いてたみたいで、呑み込んだそれがすーっと身体に染み込んでいくのがわかった。

「夜はいいね。太陽の顔を見なくて済む。沈まない太陽なんてものがあったら、うざったいことこの上ない。君もそう思うだろう?」

「はは……」

 俺としては苦笑するしかない。

 フューリスさんがかつて遠い土地で〈沈まぬ太陽の女神〉と呼ばれてたことを知ってるから、そうなってしまう。

 その事実を共有できる間柄だからちょっと自虐的な冗談にしてみたってとこだろうけど、どのくらい笑っていい話なのかは悩むな……。こういうとき、うまい返しができるといいんだけど。

 月の光を浴びながら同じテーブルについて、しばらく、二人とも無言。

 ……静かだな。

 ハスターも今はいないみたいで、回し車は止まったまま。

 聞こえてくるのは、ごく控えめな虫の音と風の音くらいだ。

「……ようやく、最後のひとつだ」

 ぽつりと、フューリスさんが呟いた。それは、もちろん……

「聖石のこと……ですよね」

「そう。ひとつでも面倒くさいものが全部で三つもあると知った時にはどうなることかと思ったけれど、意外と何とかなるものだね」

 力の強い魔導器とはいえ、手のひらに乗る程度の石。それをこの大陸のどこかから見つけ出す、という旅がいったいどれほど困難なものになるのか、俺には想像もできない。

 でも、フューリスさんはそれをもう少しでやりとげるところまで来ている。

 それは、何だろう……。

 使命感? 責任感? あるいは、贖罪……?

 そのいずれにしても、楽しいばかりの旅じゃなかったはずだ。

「一応、念のために訊いておきますけど」

 俺が口を開くと、フューリスさんは「うん?」と首を傾げた。

「聖石で……以前の力を取り戻したいとは思わないんですか?」

 フューリスさんがそれを望んでいないのは、知ってる。

 知ってて尋ねるのも馬鹿げたことかもしれないけど。

 でも、今の俺にとって、改めて訊いておきたい事柄だった。

 つまり……要するに……。

 それまで使えていた力を使えなくなるっていうこと。

 それに対して、フューリスさんはどう思ってるのか。

 俺は剣鬼に故郷の村を滅ぼされて、生きるために強くなりたいと願って、強くはなったけど。

 竜気(オーラ)に身体を蝕まれていて、その力を振るうことができない。

 そんな今の俺に、フューリスさんの経験が道しるべになってくれるかもしれない。

「君が戦いに明け暮れていた頃には、そうだね、もうちょっとだけ力があれば君の助けになれるのに、と思ったことはあるよ」

 そう言って、フューリスさんは薄く笑った。

「けれど、その時ももう過ぎた。そうだろう?」

 確かに、今の俺は平穏に暮らしてる。以前のように、戦いに明け暮れてはいない。時々、自警団で手に負えないような魔獣を追い払う程度。それも、他の誰かがやるのを後ろから見てるだけってことが多いな。

「望めばきりがないことだよ。だからね、他人から大事なものを奪われない程度の力があれば十分。多くを持ちすぎると、それを維持していくのには大変な労力が必要になるからね。大切なのは、自分にとって本当に大事なものとは何か、それを見失わないことだよ」

「本当に大事なもの、ですか」

 フューリスさんにとって、それは何だったんだろう。

 俺にとって、それは何だろう。

「私はね、それというのはきっと、両腕で抱えられる程度の大きさだと思っているのだよ」

 フューリスさんは具体的に何かを思い浮かべているかもしれないけど、それが何かは、俺にはわからない。

 ただ、両腕で抱えられる程度の大きさ、か。

 やけに小さいな、とは、思った。

 フューリスさんはそんな俺の顔を見て、ふっ、と笑った。

「私が大事に思っていたものはそのくらいの大きさで、そして――『大事に思うべきだと思っていたもの』は、もっともっと大きくて、私の両肩にのしかかってきた。それはね、私には重すぎたのだよ」

 かつて〈沈まぬ太陽の女神〉は渇きの都の民を率いて〈北の魔剣王〉と大戦争を演じた。そして魔剣王が勝って、渇きの都は負けた。歴史書にはそう書いてあるけど……。

 その時代のことについて、フューリスさんが話してくれたことは多くはない。

「本当に大事なものを見失ったまま、私は生きた。生きたいという気持ちはあまりなかったけれど、生まれ育った土地を見捨ててしまうのも気が引けてね。とはいえ、最後には結局、何もかもが嫌になって全部を放り出してしまったけれど」

 そこまで言ってしまうと、フューリスさんはしばらく無言になって、小瓶の中に残っている液体を見つめた。

「……私はその器ではなかった、ということだね。身の程を知るというのは大事だよ。ああ、もっと早い段階でそれに気付いていれば、私よりうまくやれる誰かを見付けられていたかもしれないのに……」

 静かにそう言った後には微笑を浮かべていたから、途中からは冗談だったのかもしれないけど。

 フューリスさんは、大きな力を得た後のことを楽しげには語らない。そして、その強大な力を失ったことを嘆いてもいない。

 むしろ、今の姿の方が自分の在りようとして正しいと、そう言っている。

 聖石の力とそれに対する周囲の期待が、フューリスさんにとってどれほど重荷だったかわかるな。

 力を望んだか、望まなかったか。

 最初の感情が違うから、俺はフューリスさんと同じ心持ちにはなれないかもしれないけど……フューリスさんの選択は尊重したい。そう思う。

 でも、ひとつだけ。

「最後の聖石を見付けたら、どうするんです?」

「もちろん、その力をもう誰も使うことがないように――」

「その、後です」

 言葉を遮られたフューリスさんは、少し怪訝な顔で俺を見て、やがて「ああ」と呟いた。

「もしかしたら君は、石を処分し終えた私が人生の大きな目標を失って、その時には自らの命を絶つかもしれない……と、少しばかり心配しているのかもしれないけれど。それについては、どうか安心しておくれ。私にはその気はないよ」

「それなら、いいんですが」

 俺がそう思ってしまうのは、フューリスさんの気配が、やっぱり他の人とは違うからだと思う。

 こんなに近くにいて、目に見えているし、息づかいも感じるし、手を伸ばせば触れることだってできるはずなのに。

 まるで、幻影を前にしているような……

「大丈夫だよ」

 と、フューリスさんは微笑んだ。

「今の私には、本当に大事なものがあるからね。もちろん、それは両腕で抱えられるくらいに収まっているから、気を揉む必要はない。それならば、ねえ。最後の石を探す旅にも、快く送り出せるというものだろう?」

 たぶん、俺が心配しすぎなだけなんだろう。もしかして、酔いが回ったのかな。大した量は飲んでいないつもりだけど。

「とはいえ確かに、人生を掛けた大仕事だから、終わった後のことはまだよく考えてはいない、というのもその通りではあるけれどね。そろそろ考えようとは思っているのだよ。こう見えてもね」

 冗談めかしたしぐさを交えつつだから、どこまで信じたものかな。

「……君はどうなんだい? あの戦いを乗り越えて、今、君は幸せかな?」

 唐突に、そう訊かれた。

 いや。唐突……でもないのかな。フューリスさんの探索行も、俺の邪神との戦いも、大仕事という点では同じようなものか。

 少しだけ考える。

 あれからもいろいろあったけど、そうだな……。

「幸せですよ」

 そこはそう言って差し支えないと思う。不満がないこともないけど、まあ、些細なことだ。

 すると、それを聞いたフューリスさんは、くすりと笑った。

「ふふ。そう言い切れるのが、君の強さなのかもしれないね。私もそうありたいものだよ」

 フューリスさんのそれが本気なのかはわからないけど、茶化しているという感じでもない。お世辞、というあたりかな。

「でも幸せっていうのは確かに、上を見ればきりがないものだと思います」

 それも俺の本心。

「そうだね、本当に」

 一度落ちたところが酷かったから、幸せ、というもののの基準が下がってる感じはするな。ナタリーもそういえば、毎日食べるものがあるだけで幸せ、なんて話をしていた。

 とはいえ、少し基準を上げても、今が不幸だという気はしない。

 衣食住は十分に満たされてるし、普通に暮らしていけるだけの蓄えもあるし、心配事も多くない。

 なにより、何かあれば一緒に力を尽くしてくれる仲間に恵まれてる。

「この幸せがずっと長く続けばいいと思うのは、欲張りでしょうか」

 試しに尋ねてみると、フューリスさんは少し考えてから、頷いた。

「そうかもしれないね。世の中は必ずしも思い通りにはならない。望外の幸運で大きなものを得ることもあるし、その逆に、予期せぬ不運に見舞われることもある。その天秤が気まぐれに揺れ動く中で永遠を望むのは、本当に大変なことだと思うよ」

 一度手にしたものはもう手放したくないと思ってしまうから、その全てを守りたいと思った時には動きが鈍ってしまう。そして結局は守り切れなくなって、こぼれ落ち失ったものの大きさを悔やむことになる。

 それが嫌だと、フューリスさんは言ってるんだろう。

 俺も今は戦うことを自分に禁じているから、何かあったらと思うと心配にはなる。

「けれどね」

 と、フューリスさんが呟いた。

「それでも、だ。明日の平穏を望む程度のことは許されるべきだと、そう思うよ。そして、その明日を終えるときに、さらに次の日の平穏を望むこともね。だからそれは、そう願い続ける限りは、小さな願いの積み重ねであって、決して欲張りではない……とまあ、そんなところかな?」

 ……なるほど。

「確かにそれは、永遠を願うよりは、ずっと小さな願い事ですね」

「もちろん、他の人には他の人なりの考え方があると思うけれどね」

 言って、フューリスさんは小瓶の中身をぐいっと飲み干した。

 フューリスさんは少し名残惜しそうに、空になったその瓶を振ってみせたけど、俺が預かったコップももう空だ。

「やれやれ。用意した飲み物も尽きてしまったようだね? しかしまあ、ちょうどいい頃合いではある。そろそろ部屋に戻って休むとしようか」

「そうですね」

 それぞれ自分の部屋に戻る別れ際……。

「願わくば、明日も良い日でありますように」

 フューリスさんは、そう言って微笑んだ。



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延期の理由

 夜中に一度起きたせいで少し眠気が重かったけど、それでも身体はいつもの頃合に起き出して、いつもの通りに裏庭で朝の日課である鍛錬を済ませた。

 この頃はさすがに、日の出が早くなってきたことを感じるようになった。

 もう春だから当たり前か。

 裏庭の門から敷地の外に出ると、ここが高台なのもあって、東には調和の海がよく見える。

 雲ひとつない空。今日もいい天気になりそうだ。

 フューリスさんが西にある赤塞都市に向かって旅立つにあたって、なかなか、悪くない日だと思う。

 先に浴場を使っていたクレールとナタリーが出た後に、俺も鍛錬の汗を洗い流す。

 そうしてから、朝食のために食堂へ。

 テーブルにはもうパンの入った籠は用意されていて、ナタリーがその籠に熱烈な視線を送ってる。ナタリーほどではないけど、ミリアちゃんも同じようにしているし、最近はそれにペネロペも加わった。一応、じっと見ているだけでつまみ食いはしていないみたいだけど。

「あれ。フューリスさんは?」

 食堂に姿が見えないから、少し心配になった。

 ……もしかして、もう出発してしまったんだろうか。

 誰にともなく尋ねた言葉に、クレールから返答があった。

「さっきニコルがフューリスを呼びに来たんだよ。今は表で何か話してるみたいだね」

 ニコルくんがわざわざ館まで、こんな朝早くから来るのは、何かよほど大事な用事だろう。

 そういえばフューリスさんは、ユウリィさんに用があるって言ってたな。ユウリィさんがいないから、ニコルくんに伝言を頼んだはずだけど……話ってそのことかな。

「早く戻ってきてほしいです。特級お腹が空いたです!」

「先に食べてていいって言ってたよ!」

 ナタリーとミリアちゃんはそう言ってるけど、台所からちょっとだけ食堂を覗いたニーナがパン以外を運んでこないのは、フューリスさんが戻るのを待つっていう意思表示だろう。この空間では領主の俺より、さらに言うと侯爵位があるクレールよりも、ニーナの方が実質的な立場は上だ。

 とはいえ、それから間もなくフューリスさんは戻ってきた。

「すまないね、待たせてしまって。さて、みんなに少しだけ言わなければならないことがあるけれど……それは食べながらにしようか」

 フューリスさんがそう言ったのは、もちろん、今日このあとにはもう出発する、という話だろう。

 せっかく来たんだからもう少しゆっくりしていけばいいのに、とは思うけど、大事な目的がある旅の途中だ。引き留めるわけにはいかない。

 そこに、ニーナが朝のスープを運んできた。そしてそれと一緒に……。

「フューリスさん。今日出発するんですよね? お弁当、用意しておいたから持って行ってください。それとこっちは、少し日持ちする塩漬け肉の燻製」

 手抜かりなく、用意してあった。

 そうだな。引き留めるわけにはいかないんだから、こうして快く送り出すのが、やっぱり一番いいんだろう。

「ああ、ありがとう、ニーナ。しかしね、うん。そうまでしてもらって、実に言いにくいことではあるのだけれど……」

 ……ん?

 その言葉が気になって目をやると、フューリスさんは苦笑……微笑? その中間みたいな、微妙な表情を浮かべていた。

「実はね、出発を……うん、少しばかり延期することにしたいのだよ。いつまでとは、まだはっきりしないけれど。構わないかな?」

「あれ、そうなんですか」

 みんなもどうやら初耳で、軽い驚きの表情を浮かべている。

「俺は歓迎しますよ。でも、急にどうしたんです?」

「それがね……いや、まずは朝食にしよう。私も空腹を感じているからね。ああ、けれど、決して悪い理由での延期でないことは、先に承知してくれるかい」

 その前置きには少し安心した。そして、空腹なのも確かに。俺だけじゃなく、多分みんなもだ。フューリスさんがちゃんと話してくれるまで疑問は残るけど、ともあれ席につく。ナタリーも限界が近そうだし。

 ニーナが用意した朝食は、今日も美味しい。白いスープには旬の野菜が盛り込まれていて、冬にはなかった味。こんなところにも季節を感じるな。

 ただ、ニーナには申し訳ないけど、フューリスさんの話が気になって、なかなか素直に楽しめないでいる。

「さて。……言っておいたとおり、私自身も今日のうちにここを発つつもりでいたのだけれどね」

 ナタリーの食欲が他人の声を聞ける程度までおさまった頃、フューリスさんは話を再開した。

「ついさっき、ニコルが私のところに来てこう言ったのだよ。頼まれた品は必ず用意するから少しだけ待って欲しい……とね。あの店に頼んでおいたのは相当に稀少な品だから、私としてもいずれ手に入ればいいという程度に思っていたのだけれどね。ニコルがわざわざそう言いに来たのは、何らかの目処が付いたからだろう。さてそれで、だ」

 一旦言葉を止めて、フューリスさんは他のみんなを見渡した。

「それならば、品が届くまでの間はここで気ままに暮らすのも悪くない。……と、まあ、そういうことなのだよ」

 その顔には苦笑が浮かんでいる。

「その……捜し物のことは、いいんですか?」

 俺が言ったのはもちろん、太陽の聖石のこと。フューリスさんが忘れてるはずないとは思いつつ、それでも念のため。

「うん。有力な情報は得られたし、ここまでだって長い時間をかけてきたからね。今さら半年なり一年なり足踏みしたところで大きな違いはないだろう、と思っているのだよ」

 それは……そうなのかもしれない。フューリスさんがここまで歩んできた時間は、俺のこれまでの人生よりもはるかに長い。一年の長さの感じ方が違っても無理はない。

「でも、気が急いたりしないんですか」

「それはもちろん、そういう気持ちはあるよ。私には誤差でしかない時間だとしても、捜し物を持っている相手はその間にまた移動してしまうだろう。けれども、それならそれをまた追いかければいい……とも思っているのだよ。そうすればいつかは追いつけるからね」

 気の長い話だ……。でも、フューリスさんならやり遂げる気はする。俺があまり心配しても仕方ないかな。

「それにね」

 と、フューリスさんは続けた。

「拙速に目的を達したとしてもその後の予定をまだ決めていない、というのもあるよ。となれば、あまり急いでも仕方がない。さてそういうわけで、頼んでいる品が届くまで待って欲しいというニコルの要請は、もうしばらくここでみんなと過ごすのにちょうどいい理由だった……というところかな? 私も本音では、すぐにここを離れてしまうのは惜しいと思っていたからね」

「いいと思うよ。今ここは平和だし、春になって季候も穏やかだからね。ちょっと休憩して人生を見つめ直すにはもってこいだよ」

 すぐに応えたのはクレールだったけど、みんなだいたい同じ意見だろう。フューリスさんが滞在を延長するのに誰からも異論は出なかった。

 その様子を見回したフューリスさんは、その顔に微笑を浮かべた。

「……けれど、お弁当まで用意してくれたのに申し訳ないね」

 そういえば確かに、出かけないならお弁当は要らないな。ナタリーが手を挙げて自分に寄越せとアピールしているけど、口いっぱいにパンを頬張っているから声はない。

「お弁当は朝食や昼食の下準備ともまとめて作っちゃうから、見た目の印象ほどには、手間はかかってないですよ」

 ニーナの言い分に、フューリスさんは「そうなのかい?」と驚いた顔。

 すぐ傍でそれを聞いてたマリアさんは、苦笑しながら首を左右に振っていたけど。魔女の店の手伝いに行く時はいつもお弁当を用意してもらっているマリアさんは、それが片手間にできるようなものでないのわかってるんだろう。何でもないことのように言うニーナに素直に賛成できないらしい。

 フューリスさんもそれは承知した様子で続けた。

「私は自分でもわりと何でもできる方だとは思っているのだけれど、料理に関してはニーナには敵いそうもないね。雷王都市で別れてからのほんの短い間にもかなり腕を上げたようだし。正直に言うと……つまり、ねえ、これはお世辞ではない、ということなのだけれど、そこいらの食堂はもちろん貴族たちの晩餐会でもこれほどのものは滅多に食べられるものではない、という――」

「あはは。それはさすがにお世辞でしょう?」

 フューリスさんがさらなる美辞麗句を紡ごうとするのを、ニーナは笑い飛ばした。

「やれやれ。どう言葉を尽くせばこの賞賛の心が伝わるのか。難しいものだね」

 そう言って肩をすくめたフューリスさん。

 そこに、口の中のパンを呑み込み終えたナタリーが元気な声で主張をぶつけた。

「特級おいしい! でいいのですよ!」

 その物言いに、フューリスさんは苦笑を深めて……。

「ああ、なるほど。言葉を飾れば飾るほどに真実は遠のく、というものかもしれないね」



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失われた聖意物

 冬の終わりから春にかけて立て続けにいろいろあったけど、それもそろそろ落ち着いてきた。

 あとは、そろそろ帝麟都市に行っていたクルシスが戻ってくる頃だと思うんだけど、今のところ音沙汰ない。何か面倒ごとに巻き込まれてないといいけど。剣の腕は俺より上だけど、口下手なところも俺以上だからな……。

 ともあれ、日々は概ね平穏。

 最初はどうなることかと思ったペネロペも、もうだいぶ馴染んできたし。レベッカさんがあれこれ世話を焼いているからでもある。どっちが補佐だかわからないよ、なんて、ミリアちゃんにつっこまれてたけどね。

 さて、そのレベッカさんとペネロペが俺を訪ねてきた。

 俺はその時、フューリスさんとステラさんが遊戯盤を挟んで戦火を交えているのを、横で見てたところだった。一応、不正がないか監視する審判の役に任命されてるけど、出番はない。

 二人ともこのゲームに関しては俺よりはるかに強いけど、その二人の内では、フューリスさんが少し強いみたいだ。

 いわく「持ち時間に制限があればステラが勝つけれど、無制限なら私が勝つよ」とのこと。確かに、そんな雰囲気はある。

 まあそれは、今はいい。

 後ろにペネロペを伴ったレベッカさんが、少し深刻な表情なのが心配だ。

「リオン。少し相談に乗って欲しいんだけど……今、いいかしら」

「どうしたんです、そんなに改まって」

 ステラさんたちのゲームは、フューリスさんが長考に入ったところ。視線を向けると、二人からは「こちらに聞こえてもいい話なら、そこでしても構わないよ」「問題ない」と返事があった。

 レベッカさんも頷いたし、それならまあいいか。

 俺とレベッカさん、それにペネロペの三人で、隣の円卓に移った。

「それで、どうしたんです?」

 続きを促すと、レベッカさんが口を開いた。

「教会の建物の再建については目処が立ったのだけど、ひとつ困ったことがあって。聖意物のことなんだけど……」

「聖意物……ですか。それって、どういう物なんです?」

 どうも、俺がこれまであまり意識してこなかった言葉だ。

「過去の聖人の遺骨や遺品のことですわ。今の教会法では、そうした聖なる意思の宿る物品、聖意物を教会に少なくともひとつは祭っておかなくてはならない、と定められていますの」

 なるほど。俺は教会でお祈りするって時には、大教会のしるしであるあの陽光十字紋を見ていたけど、実体……と言っていいのか、ともかく信仰に本当に重要なしるしは別にあった、ということだ。

「それが、ない?」

「そうなのよ。前の司祭が持ち出したか、前の領主に取り上げられたか……ともかく、聖意物を祭るべき祭壇が空だったの」

 それは確かに大事件だ。すると、もしかして……?

「もしかして、それがないと教会の再建が進められないんですか」

「そうね……」

 俺の旅の仲間であると同時に、レベッカさんは大教会の聖騎士。ここへ来た目的の中でも特に大きなものが、前の領主に弾圧され破壊された教会の再建。

 建物だけじゃなく、聖意物という貴重で大切なものまでなくなっていたのか。

 レベッカさんが深刻な表情をしてる理由がわかった。

「こちらでどうしようもなければ、大教会から分けてもらうことになるけど、かなり高額の寄付を要求されることになると思うのよね……つまりその、リオンが」

 ……なるほど。今はここの領主は俺だから、この土地の教会のために寄付をするとなれば、まずは俺からか。

「だいたいこのくらいっていう金額があれば、何とか用意できる、かも……。できるといいな……。いや、どうかな……」

 かなり高額、とわざわざ言うからには、俺の金銭感覚を大きく上回ってる可能性が高い。

 そうなると正直、いったいどのくらいの額になるのか理解が追いつかないな。

 港や堤防の整備なんかも、こんな田舎村のものでさえ、俺個人の財布から出すにはかなり重い金額だった。

 そのくらいになると、俺の頭は『とにかく多額』という以上の認識を拒否してしまう。俺の所持金の上限は、それよりもっと下ってことなんだろう。

 ちゃんと理解できる人はすごいと思う。この館では、クレールとステラさんがそうだ。

「金額の問題だけに留まらない。教会の司祭自体も大教会からの推薦者を断れなくなる。大教会の利益を優先して、村の利益に寄与しない人物が来る可能性が高まる」

 フューリスさんの長考がまだ続いているからか、ステラさんも話は聞いていたらしい。その上でそんな指摘をくれた。

 とすると、必ずしもお金で解決できる話ってわけでもないのか。

「……処分した財産の中に、聖意物は?」

 念のため、ステラさんに尋ねてみる。

「こちらの記録によると、聖マウロの遺骨の一部があったはずですわ」

 ペネロペからの補足を受けて、ステラさんはしばらくぼーっと中空を眺めていたけど……。

「なかった。そのはず」

 最終的にはそう返答した。

「やっぱり持ち出されたと考えるのが自然かな」

 もしも前の領主の弾圧に耐えかねて村を出た司祭が持ち出したなら、いずれ戻してくれるかもしれないけど……そうだとしてもいつになるかわからない。期待はできないか。

「どうにかならないかしら。何か代わりになる物があるといいのだけど……ああ、頭が痛い……」

 うーん。お金で取引できる物なら、ユウリィさんに頼んでみればなんとかしてくれそうではある。いずれにせよ高額なのは同じだけど……。

「あてはある」

 突然そう言ったのはステラさん。

 頭を突き合わせて唸っていた俺たちがみんな「えっ」と声を揃えてしまったのも無理はないだろう。

 視線が集中してもステラさんは動じないで、言葉を続けた。

「師匠の家にがらくた同然に置いてあった。そのはず」

「がらくたって……」

 思わず、という感じで声を上げたのはレベッカさん。気持ちはちょっとわかるな。

「聖人の遺骨が普通の人間のものとどう違うか、師匠が実験した余りだという話だった」

 レベッカさんとペネロペが揃って絶句。

 信仰にさして熱心でない俺でさえ、さすがにそれはどうかと思ったくらいだし仕方ない。

 二人の様子を見たステラさんは、相変わらず表情はほとんど動かさなかったけど。

「……その詳細を語るのは控える」

 そう言ったのは、レベッカさんがいるから配慮したのかもしれない。

 でも、配慮するならその前の段階からの方が良かったかな……。

「ま、まあ。それを譲ってもらえるなら、解決するわね」

 どうにか気を取り直した顔でレベッカさんが言うと、ステラさんも頷いた。

「手紙を書く。返事が来るまでしばらくかかる。希望があれば伝える」

「私は特にはないけど、ペネロペは……」

「聖ルクレツィアのゆかりのものがいいですわ!」

 それまで頭を悩ませ唸っているばかりだったペネロペが、急に元気になってそう主張した。その聖人のことを深く尊敬しているみたいだ。目が輝いてるし。

「希望通りのものがあるかどうかは不明だが、書くだけは書いておく」

 ステラさんはそう請け負ったけど……。

 それって、実験材料にされた残りなんだよな? 特別に尊敬してる聖人のものなら、そこにない方が幸せな気がする……。

 ともあれ、強くこだわらなければ、何らかの聖意物を譲ってもらえる可能性は出てきた、かな。



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ひと休み

「ちょっといいかな?」

 そこに声を掛けてきたのは、フューリスさん。いつの間にか、じっと睨んでいた遊戯盤から顔を上げて、俺たちの方に視線を向けている。

「私は大教会のしきたりに詳しくないから、教えて欲しいのだけれど」

 そう前置きして、フューリスさんは続けた。

「その聖意物というのは、さっきペネロペは過去の著名人の遺骨や遺品だと言っていたけれど、となると――つまりね、その対象となる著名人は故人でなければいけないのだろうか、ということなのだけれど」

 尋ねられたレベッカさんは、ほんの少しだけ悩んだ後で、フューリスさんの疑問に答えた。

「他の宗派はどうかわからないですけど、自由と光の教団では、必ずしも故人である必要はないですね。過去には教皇聖下から下賜された杖をそれとみなしていた例もありますし。ただやはり、遺骨のようなものの方が使いやす……でなく、取り回しが……でもなくて、ええと……」

「死後の時間経過によって評価が定まっているために、聖意物も価値の騰落が発生しにくい」

「……という側面はあります」

 信仰のためにあまりぞんざいな言葉を使えないらしいレベッカさんに代わって、ステラさんが間に補足を入れてくれた。

 まあ確かに、一時は持て囃された人が急に転落人生、なんて話題はどこにでもある。評価が二転三転するのに引きずられるなら、そのゆかりの物を祭る教会は大変そうではあるな。

 ともあれ、それを聞いたフューリスさんは「ふむ」と息をついて……。

「まあ、話はわかったよ。……そういうことなら、何とかなるかもしれない」

 と呟いた。

「実を言うとね、私の友人に大教会の著名人がいるのだよ。故人ではないから身体の一部を譲ってもらうというのは無理だけれど、髪か爪くらいならば頼めば用意してくれるのではないかと、そう期待するところなのだよ」

「そんな人が……ええ、頭髪なら十分、聖意物として祭ることができます」

 なるほど。確かに、髪なら一度切っても時間が経てばまた伸びる。それでも聖意物としていいなら、存命人物にも頼みやすいな。骨をくれ、なんて言うよりは。

「ちなみに、素行も非常に良くてね、これから評価が下がるとも思えない。むしろまだまだ高まっていくだろうし、死後となればどれほどのことになるか想像もつかない。今のうちの方がむしろ入手は容易、というくらいの人物だよ」

 今時、そんな人がいるのか。

 あまりに話がうますぎはしないか、という不安も少しだけ。ただ、フューリスさんの紹介なら身元の確かな人だろうとは思う。

 レベッカさんもほぼ同じように考えたのか、かなり乗り気に見えた。

 ただ一応、聞いておかないといけない。

「とてもいい人なのはわかりました。でも、その……他人に渡しても大丈夫なくらいには、あるんですよね? 髪の毛……」

 尋ねると、ペネロペが吹き出した。フューリスさんとレベッカさんは苦笑。ステラさんは無表情のまま俺を見ている……。

「確かに、聖職者にはわざわざ剃ってしまう人もいるくらいだから心配するのはわかるけれど、そこは問題ないよ」

 フューリスさんがそう言うなら、そうなんだろう。

 気を取り直して……。

「その人には、どこに行けばお会いできますか? フューリスさんも一緒に行ってくれたらお願いもしやすいけど、無理なら紹介状だけでも……」

 レベッカさんの勢いは、今日これからすぐにでも馬に乗って話をつけに行きたい、というくらいだ。

「ああ、その必要はないよ」

 それをフューリスさんが止めた。

「だってその大教会の著名人たる私の友人とは、レベッカ、君のことなのだからね」

「えっ」

 レベッカさんに視線が集中する。

 その本人は、その言葉の意味を測りかねているような表情だったけど。

「あっ……あー……そういうこと……」

 その顔も次第に理解の色を帯びてきた。

「確かにそうですわ!」

 ペネロペが歓声を上げた。

「なにせレベッカお姉様は大教会の期待の星! 先日は〈聖女〉の称号も授与され、その名声は今や天への階段を駆け上るかのよう!」

 それに対して、レベッカさんはまだ放心から立ち直っていない様子。

「……天への階段を駆け上るって、それ死んでるみたいだからやめて……」

 そういえば、レベッカさんが〈聖女〉の称号を受けた話は俺も聞いたな。

 過去にその称号をもらった人はみんな早死にしてる、とも言ってたけど……。

「けれども、きれいな金髪をそこまで伸ばしているのだから、特別な思い入れがあるのはわかるよ。切りたくないという気持ちも無理はないところだね」

 ああ、レベッカさんが落ち着かない様子なのはそのせいか。フューリスさんの指摘で、俺にもようやくわかった。

「私も昔、長く伸ばしていた髪を切った時には、ねえ、何だか……うん、ひとことで言うなら、『やってしまった』が近いかな? そんな気持ちになったよ」

 フューリスさんはというと、今は確かにそんなに長くは伸ばしてないな。以前に確か、変装に邪魔だからあまり長くはしない、と言っていたように思う。それでも俺よりは長いけど。

 それにしても、レベッカさんは聞いているのかいないのか、どうにも反応が鈍い。

「聖意物として扱うのに適切な長さとかあるんですか?」

 その最低限だけ切るくらいなら影響は少ないんじゃないかと思って、そう訊いてみた。するとレベッカさんからの返答は……。

「それはまあ、長ければ長いほどいいでしょうね……」

 ……うーん。それなら、レベッカさんがこんなに悩むのもわかるな。

「また伸びる」

 とのステラさんの指摘にも。

「それは、そうなんだけど……」

 という返事。

 ステラさんも、髪はさほど長くない。ここにいる中ではレベッカさんの次に長いのがペネロペだけど、それでも肩のあたりまで。

 レベッカさんの葛藤をわかってあげられそうなのはマリアさんかな。わりと長い方だし。でも残念ながら、今ここにはいない。

「……うう。別に、願を掛けているとかじゃないんだけど、いきなりだからまだ気持ちの整理が……」

 やっと自発的に言葉を発したと思ったら、呻くようにそう言ったあとは頭を抱えてしまった。

 これは……すぐに判断できる状態ではないかな。

「……やっぱり、まずは他を当たってみてからがいいんじゃないかと思います。対価がお金で済むなら何とかなるかもしれないし」

「それがいいかもしれないね。すまなかったね、まとまりかけていた話をかき回してしまって」

「いえ。確かに驚きはしましたけど、気付いていなかった点を指摘してもらって……でも、はい。もう少し考えてみることにします……」

 後でマリアさんにも事情を話して、それとなく相談に乗ってもらうように頼んでおこう。

「ところで、私が気になったのはステラの方だよ」

 フューリスさんに呼ばれて、ステラさんは少しだけ首を傾げた。

「師匠に手紙を送ると言っていたね。もしかして、君は〈西の導師〉がいまどこにいるのか、わかるのかい?」

 そのことか。

 ステラさんの師匠である〈西の導師〉は、フューリスさんの捜し物を一度は手にした人物だ。

 でも、住処がひとところに定まらないから、なかなか会うことができないと言っていた。その居場所がわかるなら、話を聞きたいと思うのも当然か。

 でもステラさんは首を左右に振った。

「わからない」

「わからないのに、手紙は届くのかい?」

「過去の居住地に特別な手順で手紙を送ると、使い魔が取り次ぐ。連絡は可能」

 何のためにそんな面倒くさいことを……と思うけど。

 そういえば、聖人の遺骨を実験に使っちゃう人だったな。フューリスさんが探してる聖石をステラさんの妹弟子の心臓の代わりに移植したのも、その人だ。

 俺の常識でその思考をはかろうってのは、無理な話なのかもしれない。

 ともあれ、ステラさんによれば、その人への手紙は届けられる。

「そういうことなら、私の探している太陽の……いや、そちらで〈月光の聖石〉と呼んでいる石についても尋ねてくれないかい?」

「そちらで手紙を用意してくれれば同封する」

 ステラさんがそう返答すると、フューリスさんは微笑を浮かべた。

「ありがたいことだね。早速、今夜にでもしたためるとしようかな」

 そう言いながら、フューリスさんは遊戯盤上の駒をひょいっと摘まみ上げて、ステラさんの陣地から遠く離れた位置に指した。

「……それは最善手ではない」

 俺の目からも、ステラさんの意見が正しいように見える。ただ、俺の腕前は先に言った通り、全く大したことないんだけど。

「今の君にはそう見えるかもしれないけれど――」

 フューリスさんは微笑……いや、違うな。

 不敵に笑っている、というやつだ。

「いつだって最短の道を行くことが、必ずしも正解とは限らない。だから、私の手はこれでいいのだよ。時間はたっぷりあるのだからね」

 

 結局、この勝負は夕食を挟んで夜まで続いた。

 そして、珍しく長考したステラさんに、それでもフューリスさんが競り勝った。

 あの手を指した時にそこまで読めていたのか、と訊くと……。

「もちろん、ここまでの道筋は全て読めていたよ――なんて、事も無げに言えると格好良いね。君もそう思わないかい?」

 という、結局どっちなのかよくわからない返答をもらった。



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傭兵組合詳報

「傭兵組合詳報の記者?」

 何日かに一度開いている陳情受付の時間に、そう名乗る人物が訪ねてきた。

「あい。名前はネスケっていうっす。よろしくっす」

「はあ。よろしく、ネスケさん」

 服装からして、どうやら旅の人らしいのはわかった。

 陳情は村の住民じゃないといけない……とは決めてないから、旅の人が訪ねてきてもそこは問題ない。

 女性の一人旅だとしたら珍しいと思ったけど、組合に所属してるって事は、記者とはいえ傭兵なんだろう。それなりに腕に覚えのある人なのかもしれない。

 セミロングの、収まりの悪いダークブラウンの髪に、同じ色の瞳。

 あまり言うとまたクレールあたりからからかわれそうだけど、まあ、美人だ。歳は、俺より上なのは確かだ。童顔だけど、体つきが俺より年下とは思えないし、それに……。

「……何かお酒の匂いがするような」

 いつも通り、左右にはクレールとステラさんもいるけど、俺も含めて、三人ともそう酒量が多い方じゃない。特にステラさんはまだ飲めない歳だし。

 なのに実のところ、匂いがするような、どころじゃなくて……。

 ぷんぷん、というくらい、お酒の匂いが漂っている。

 この記者の人が俺より年下ではありえない、と思ったのは、これが一番の理由だ。

「村の方でちょっといただいたっす。いやー、いいっすね、あのお店。新鮮な牡蠣がワインに合う合う。もーサイコーっす」

 料理とお酒と言ったら、村の酒場しかないな。確かにあそこは料理も美味しい。お酒も、以前は領主の目を盗んで作った密造酒しかなくて味はいまいちだったらしいけど、今は旅商人のユウリィさんを通して余所の町や村から良いものを仕入れてるんだそうだ。

「……で、飲んできたと」

「いやー、最初は食事だけのつもりだったっすけど、生牡蠣。一口食べたらお酒が欲しくなっちゃったっす。そしてその判断は間違ってなかったっす」

「はあ」

 酒場にいたら、お酒を飲みたくなって、飲んだ。

 それはいい。そういうお店なんだし。

 でも……その足で来ちゃったかあ……。

 赤い顔に、どことなく焦点が合ってないようにみえる目つきで、傭兵組合詳報の記者……ネスケさんが、にへらっ、と笑った。

「それで、取材なんすけどー」

「はい」

「……ひっく」

 正直に言うと、これでよくこの館まで来られたな……という状態。

 大丈夫なのかな。少し心配になる。

「中庭に出た方がいいんじゃない? 椅子とテーブルあるからさ。座ってもらった方がいいよ。たぶん……」

 クレールの提案で、広間から中庭に場所を移して、記者であるネスケさんからの取材に答えることになった。

 中庭には春の午後の柔らかな日差しが降り注いでいて暖かい。端の方ではスペースハムスターのハスターが丸くなってる。夢でも見てるのか、寝言みたいなうめき声を出してるけど。

「えーっと、これは前に発行した冬号の普及版っす」

 そう言って、ネスケさんが鞄から何枚かの紙を綴じた小冊子を出してきた。一番上の紙には『傭兵組合詳報』の文字。それと確かに、冬号普及版とも記されていた。

「俺は初めて見るけど、どういうものなのかな」

 尋ねると、返事をくれたのはステラさん。

「傭兵たちの間で出回る情報紙。街道の封鎖情報や、各地の領主の格付けなどを掲載している。今は季節ごとの年四回発行。要点をまとめた速報版と、少し遅れて発行されるが完全な情報が掲載される普及版がある。四百年近い歴史がある」

「おおー、詳しいっすね。その通りっす」

 ステラさんの説明に、ネスケさんは拍手。ステラさんは何でも知ってるな……。特に今の説明は、ネスケさんから聞くより良かったかも。何しろあっちは相当酔ってるみたいだし。

 で、肝心の内容だけど……。

「格付けとかあるのか」

 確かに、傭兵……特定の誰かと主従関係を結ばずに、一時的な雇用関係を結んで給金をもらって戦っている人たち……からしてみれば、雇い主が信用できる人かどうかは大事な情報だろうと思う。

 それに対して、格付けされる方がどんな気持ちになるかは……。

 これからわかるかな。

「あい。各地を旅する傭兵の間では美味い店の情報が求められているっす」

「格付けって、そっち?」

 同じテーブルで話を聞いていたクレールが首を傾げた。その気持ちは俺と、たぶんステラさんも共有したと思う。

「もちろん、領主についても厳正な格付けをしてるっす。でもそっちはおまけみたいなものなんで、あまり身構えなくてもだいじょーぶっす」

 そうなのか。……そうなのか?

 実際に言う通りなのか、ただの冗談なのか、酔ってるから正確じゃないのか、どれとも判断できないな。

「ということは、前の領主も格付けがあったんでしょ? どんな感じだったの」

 そう質問したのはクレールだけど、それは俺も気になる。

「えーっと、それについては昔のから写してきたんすけど……」

 ネスケさんは鞄をごそごそとかき回して、一枚の紙を取り出した。

「……汚れ仕事が多い、傭兵を使い捨てにする、と悪評があったっすけど、金払いは良かったってことで、星三つっすね。ちなみに星五つが最高評価っす」

 そういう情報が出回った結果、金がもらえれば何でもいいっていうならず者が集まってきて、前の領主の私兵になったわけだ。なるほど。

 そう考えると、どう書かれるかは結構重要な気がするな。

「リオンはどのくらいになりそう?」

 回りくどい駆け引きもなしにまっすぐにそう訊ねたのはクレール。

「それはまだ決まってないっすねー」

 返答はそれ。取材はこれからなんだから、まあ、当然か。

「複数の記者の評価で総合的に判断するっす。だから、はっきりとは申し上げられないっす。正しい評価をするためにお土産とかもお断りしてるっす。正体を隠して視察している記者もいるっす」

「正体を隠して!」

 そんなことまでするのか。取材も大変だな。

 書かれて困るような行いはしてないつもりだからいいけどさ。

「でも、この村ってそんなに旅人がいるわけじゃないから、すぐバレるような気がするな」

「それは、気のせいっす」

 そう言われてもね。気付かない振りをするのも面倒くさそうな。

「ともかく、私は主に対談の担当なんで、ぜひ正直にお答えいただければと思うっす」

「はあ……。嘘をつく理由もないですし、いいですけど」

 訊かれてもわからないことはありそうだけどね。まあ、クレールとステラさんもいるからフォローしてくれるだろう。

 ネスケさんは鞄から手帳と、それから小さなインク壷を取り出して、右手にはペンを握った。本格的だと思ったけど、記者なんだからそれで当たり前か。

「そいじゃ、えー……基本的なとこから、っす……」

 いざという瞬間になって、ネスケさんの声が細くなった。

 心なしか、まぶたが落ちかけているような。

「……大丈夫?」

「いやっ、ねてないっす。ちょとふわっと……しただけっす」

 ……酔ってるのか。

 それでもここを訪ねてきたのは、やる気があるからなのか、それとも、正常な判断力を失っているのか。

 生命に関わるほどの痛飲ではないとは思うけど、果たしてこれで取材できるのかな。

 俺のそんな心配をよそに、明らかに泥酔状態のネスケさんは質問を繰り出してきた。

「えっとー……リオン・ドラゴンハート男爵閣下はー、ご結婚のご予定はあるっすか?」

「ん?」

 何だ、その質問……。思わず聞き返してしまった。

「跡継ぎがいるかどうかは、安定的な領地経営に関わることっすよー」

 ああ、そういう意図か。それは、うん。わからなくもない。

 ちょっと、左右からの視線が気にはなるけど。

「いや、今のところは」

 隣に座ってるクレールが、聞こえよがしのため息。言いたいことは何となくわかる。ただ、今は俺がまだ、誰かとそういう話を進める準備を済ませられてない。

 ちょっと申し訳ない気持ちでいると、目の前の記者からは……

「結婚はしてないけどお子さんはいらっしゃる、とかはないっすか?」

 さらにそんな質問が来た。

「ないです」

 それに関しては、はっきりきっぱり簡潔に答えたけど。

「そうなんすかー。よりどりみどりって感じに見えるっすけどー? うへへぇ」

 ネスケさんが、なんというかこう……下品な笑顔を、向けてきた。

 そんな言葉、女性の表情に対して使うことになるとは思わなかったな。

「取材って、こういう質問が続くんですか」

「いやあ、これは取材っていうか、私の個人的な興味っすー」

「…………」

 取材じゃなかったのか。違うなら違うとあらかじめ言っておいて欲しい。

 という気持ちでため息をつくと……。

「ついでに聞いちゃいますけど、いま傍にいるお二人ではどちらがお好みなんすか? ん? ん?」

 さらにひどい質問が来た。笑顔の下品さも度を増して、最初に美人だと思ったのを取り消そうかと思ったくらい。今の顔を先に見てたら、そもそもそんな評価はしなかっただろうし。

「真面目な話じゃないようだし、取材の話はなかったことに」

 そう言って席を立つそぶりを見せると、ネスケさんは大慌てで頭を下げた。

「あっ、失礼したっす……。何か話しやすそうだったから、つい素が出ちゃったっす」

 うーん……それって、俺に威厳がないってことかな。経験も浅いし当たり前だけど。

 なんてことを考えていると、神妙な顔つきだったネスケさんが……

「あとでこっそり教えていただければオッケーっすから」

 と囁いてきた。

 この人は……まったく、しょうがない人だな。

「……今後の立入禁止もつけましょうか?」

「あー、いやー、それはホント勘弁してほしいっす……」



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酔いからさめて

 春の朝。寝心地がいいのか、クレールなんかは朝食の席に呼ばれるまで自分の部屋で寝ていたりする。朝風呂をすっぽかしたクレールの髪の毛は、寝癖がすごいことになるんだけども。

 俺は昔からの習慣で、寝起きは悪くない方だ。

 いつも通り、日の出を待たずに起床して、まずは鍛錬。

 冬の頃と違って、こんな早朝でも寒さはほとんど感じない。

 不思議なことに、こうして毎朝鍛錬をするようになったら、魔獣と戦っていた頃より身体ががっしりしてきた。筋肉が付いてきたというかな。それも、農作業向きの身体でなく、戦いのための身体になってる感じ。

 やっぱり俺の強さって、魔獣や竜を倒して得た霊気(マナ)竜気(オーラ)のおかげだったんだろうな。

 その強さに、身体が追いつくといいけど。そうすれば、見た目で弱そうと思われないで済むようになるはず。

 一応、背は少し伸びた……と思う。どのくらいまで伸びるかはまだわからないけど、あと少しでレベッカさんの背を越えられると思うんだよな。そのあたりをひとまずの目標にしてる。

 

 いつも通りおいしい朝食も終わって、みんなの予定の確認も済んだ。

 俺は午前中のうちはステラさんとクレールに手伝ってもらって、書類の決裁をやる予定。二人によってすでに整理されてる案件を、それぞれ認めるか認めないか……と言ってもこれも助言に従うだけだから、俺の仕事はほとんどない。

 俺に限って言えば、領主って楽な仕事だと思う……大変なところを引き受けてくれる人がいるからだけど。

 食後の小休止の後で執務室に入る。ペンとインクの準備くらいは自分で……と思っていると、次に入ってきたのはクレール。

「ねーリオン。昨日の人が来てるけど」

「昨日の?」

 昨日は陳情受付をしたから何人かと会ったけど、クレールなら村の人はほとんど覚えてるから、どこの誰なのかを名前で言ってくれるはず。

 ということは、あの人か。

「傭兵組合詳報の記者だっていう……ネスケさん?」

「女の子の名前は忘れないよね、リオンって」

 呆れたような声音で、クレールが言った。

「……男でもわりと覚えてるよ」

 そのはずだ。

「それはいいとして、何か様子が変なんだよね。リオンに会いたいらしいけど、どうしよっか?」

 クレールはそう言って首を傾げたけど、その説明じゃ俺も何が何だかわからない。

 仕方がないから、ともかく会ってみることにした。

 

 正門は開け放たれている。村の人に何かあればいつでも訪ねてこられるようにそうしてるんだけど、でも、ネスケさんはそれより外側に立っていた。

 俺とクレールが館から出てきたのが見えたのか、姿勢を正して……を通り越して、がちがちに緊張した姿だ。

「昨日はどうも、ネスケさん。こんな朝から訪ねて来たのは、何かあったんですか?」

 俺の方から声を掛けると、ネスケさんは何か喋ろうとしてはやめ、口を開いては閉じ……という動作を何度か繰り返した。

「す、すみません。あの、私、傭兵組合詳報の記者で、ネスケと申しまして……あの、取材を申し込もうと思ったんですが……」

 やっと、そんな言葉が発せられた。

 ……でも不可解だな。

「昨日のでは足りなかったんですか?」

 理由といえば、そのくらいしか思い浮かばない。

 でも、途中途中に少し品のない質問があったとはいえ、結構時間を取って真面目な話もしたし、記者らしく熱心にメモを取っていたのも見た。

 なのに、改めて取材をされたところで、昨日話した以上のことが話せるとも思えないけど。

 首を傾げてから、ふと。

「そういえば、今日は酔ってないんですね」

 言うと、ネスケさんの肩がビクッと震えた。

「あの……ご迷惑を、おかけしませんでしたでしょうか……?」

 か細い声でそう尋ねられて、俺はまたクレールと顔を見合わせる。

 確かに様子が変だ。昨日と全然違う。

 ……いや、昨日のあれは酔っていたんだから、こっちが普通の状態なのか。でも初対面の時の印象がアレだったから、今のこの様子にはちょっと違和感があるな。

 で、迷惑をかけられたかというと……。

 正直に言っていいものかな。

「……その沈黙が答えなんですね……」

 ほとんど泣きそうな顔から呟かれた声が、俺の耳にも届いた。

「まあ、ねえ……」

 酒の席でのことなら、あのくらいはお互い様かな、という気もするけど。

 この人だけが酔っ払った状態だったから、同席した俺やクレールとの寒暖差は、正直かなり大きかったな。

 ただ、確かに少しは迷惑な質問もあったけど、取材全体としては記者としての熱意も感じたから、不問にすることにしたんだった。

「あの……」

 遠慮がちに、ネスケさんが続ける。

「実は私、先日ようやくこの仕事を一人で任されたところでして……そんな緊張をしていたら、あの……つい飲み過ぎてしまって……」

 そういう経緯は、理解はできるけどね。許容するかどうかはともかく。

「朝起きたら取材メモらしきものがあって……あの……酔っている間にお邪魔したんです……よね……?」

「覚えてないってこと?」

 クレールが質問で返すと、特に詰問する口調でもなかったにも関わらず。

「ごめんなさいごめんなさい!」

 そう言って頭を抱えてしまったから、どうも重症だなこれは。

「あの、私、今回の取材は失敗するわけにはいかないんです。そういうことですので、あの……お手数でなければ、もう一度、取材のやり直しを……」

 どうしようかな。今日は書類を処理してしまうつもりだったけど、取材を受ける時間もないというほど忙しいわけでもないから、受けてもいい。

 でもその理由が、記者が酔ってて覚えてないから、となると。

 軽々しく再取材を許していいものかな。

 さすがに、ちょっとくらいはペナルティを与えるのがむしろ大人の対応のような気がするけど……。

「メモがあったんじゃないんですか?」

 そう尋ねると、ネスケさんは空を見上げてうつろな笑顔を浮かべた。

「……読めないんです……」

「…………」

 結局、かわいそうという思いが勝って再取材を許してしまうことになった。

 クレールからは「リオンは女に甘い」って評価をもらうことになったけど……確かに、この記者が俺より年上の男だったら再取材を許してなかったと思うから、その評価は甘んじて受けるしかないところではある……。



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再取材

 執務室に場所を移して、結局、昨日話したことをもう一度最初から話した。

 さすがに二度目だから口も滑らかになるな。

 ステラさんは、昨日と全く同じ道筋の取材にはあんまり興味をそそられないみたいで、何かあれば呼ぶように言い残して書庫に行ってしまってるけど。

「将来的には村の人たちの合議で領地運営をしていけるように道筋をつけてから、領主というより住民の一人として領地に関わっていけたらと」

「なるほどなるほど」

 聞く方も意識がはっきりしてるから変な遅滞もない。

 取材に熱心なのは昨日の時点でも感じていたけど、今日はなおさら強く感じる。

「最後に、あの、これは真面目な話なんですけど」

 熱心に書き込んでいた手帳から顔を上げて、ネスケさんが俺を見た。

「記事の中に独身アピールは入れますか?」

 ……酔ってるわけでもないはずなのに、よくわからないことを言うなあ。

「それ、入れるとどうなるんですか」

「男爵夫人の座を狙う傭兵女子からのアタックを期待できるようになります」

 なるほど、そういうことか。

 何だか男女とも下心が見え見えな話だけど、お互いに下心があるのをわかって付き合うなら、ある意味では対等な駆け引きなのかもしれない。

 とはいえ、それにしても。

「傭兵女子……の、アタック……」

 俺の呟きに、クレールが苦笑。

「わりと痛そうだよね……」

 結局、独身アピールはしないことにした。単に言葉の選び方の問題なんだろうけど、傭兵女子から攻撃(アタック)されるのは、やっぱり遠慮したい。

 そんな最後の質問も済んで、取材は終わり。昨日とほぼ同じ量を話したわりには、かなり早く終わったな。

 まあ、本来なら今日の取材なんてそもそも不要だったんだけど。

「そういえば、ネスケは独身なの?」

 突然、クレールがそう訊いた。

 そういう質問って、失礼にならないのかな。俺もネスケさんから訊かれたからお互い様かと思わないでもないけど、女性に対しては少し慎重にした方がいいような気がする。言い方を変えると、あまり触れない方がいいというか……。

「そうですけど、それが?」

 別に気分を害した風でもなく、ネスケさんが首を傾げた。ふう。

「いまこの領地ではいろんな税が免除されてるから、このうちに結婚したいっていう人がいるんだよね。だから、村にいたら求婚されるかもね?」

「そうなんですか。なるほど……」

 そういえば春祭りの時にも一組、結婚式をしてたな。そういう事情があったのか。……なんていま知るあたりから、俺の領主としての能力は偉そうに取材を受けるほどのものじゃないってことがよくわかるな。

 ネスケさんはというと、見た目には美人だし、酒癖の悪さはあるけど、そのくらいなら愛嬌と感じる人もいるだろう。

「まーね、ここで結婚したいなら構わないけど」

 と、クレールが続けた。

「断りたいなら『リオンの許可がないとできない』って言ったらいいよ。みんな『それなら仕方ない』ってなるから」

「……不本意だけど、そう言うと有効なのは確かです」

 俺としても頷かざるをえない。何しろ、この館にいる何人かですでにその効果が実証されてる。

「困った時は使わせてもらいます」

 ネスケさんは神妙に頷いた。

「まあ、断る必要がないくらいの良縁があることを願っておきます」

「ご丁寧にどうも……でも今はまだ記者の仕事をがんばりたいと思ってるので、ご期待には添えないかと……」

 それならそれで構わないけどね。

「では、直接の取材はこれで十分ですが、他の取材のためにしばらくこの町に滞在しようと思いますので、何かあればおっしゃってください」

 と頭を下げたネスケさんに、クレールが「あっ」と声を上げた。

「いま、町って言った」

 ん。言ったな、確かに。

「あれ、そういえばリオン様は男爵位ですから、王国法上は村なんですね」

 クレールが「そうだよ」と頷く。

 今の王国法では、領地の規模は爵位で制限されているらしい。それは義務と権利のバランスでそうなっているらしいから、必ずしも悪い話ではないんだけど。

 俺の爵位は男爵。その場合は領地の中で一番大きい集落が『村』を超えない。

 いずれ『町』の規模に発展する時には子爵に上る必要があるけど、そのためには治安維持のための常備軍が必要だと聞いて、主に財政上の理由で、今のところは保留にしてる。

「でも、活気は感じましたよ。酒場も料理が美味しいだけでなく、どことなく上品な感じがしましたし」

 判断の基準が酒場っていうのも……いや、傭兵としてはまずはそこからなのかな。あの店は宿も兼ねてるし、自分たちで陣地を作るような大規模傭兵団でもなければ、最初に目に留めるところなのかもしれない。

 そんなことを考えていると、クレールもうんうんと頷きながら……

「あそこのマスターは先々代の領主のとこで家令だった人だからね」

「え、初耳だけど」

 家令というと、貴族の家で事務や会計、食器や食材やお酒の管理、食事の用意と給仕、主人の身の回りの世話に私的な秘書、あるいは助言役もこなす……今の竜牙館で言うと、クレールとステラさんとニーナを合わせたような役割になる。

 もちろん、貴族に仕えるにあたっては礼儀作法も大事だし、場合によっては貴族の子弟にそれを教える立場にすらなる。

 話だけ聞くと、とてつもない超人みたいな感じだけど。

 実際には一人でやるわけじゃないらしい。でもそれにしたって、できる人を雇い集めて統括するっていう役目もある。

 完全無欠でないにしろ、何かしら秀でたところがないと務まらない仕事だ。

 どうりで、あの人だけ他の人たちと雰囲気が違うと思った。

「親方が言ってたよ。先代に代わった時いざこざがあって辞めさせられたんだって」

 その一事だけでも、前の領主の不見識が感じられるな。

 それと、そういう話を今の今まで知らなかった俺の不見識も……。

「あとね、僕、もうひとつ訊きたかったんだけど。ネスケはどこでリオンのことを知ったの?」

 クレールの方が記者になったみたいに、ネスケさんに質問した。

「それは、組合の先輩に言われて」

「誰だろう。リオンの知ってる人かな」

「いえ、多分違うと思います。先輩は帝麟都市の公示で知ったそうですし」

 公示か。それだったら、全く面識がなくても知ってておかしくない。

「あれ?」

 と、クレールが首を傾げた。

「帝麟都市? 雷王都市じゃなくて?」

「はい」

「……あれえ?」

 言われてみれば、確かに変だな。

 雷王都市からは俺の爵位を認める手紙が届いた。

 でも、帝麟都市からはまだ何の返事も届いてない。

 それなのに、公示には載ってる……?

「クルシスが申請の書類を帝麟都市まで届けてくれて、多分、その返事も受け取ったんだろうけど……まだ帰ってきてないな」

 帝麟都市はかなり遠いし、ある程度時間がかかるのは想定してたけど、公示を見てから訪ねてきた記者の方が早いとなると……。

 クレールが首を傾げたまま、呟いた。

「どこかで寄り道してるのかな?」



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クルシス

 傭兵組合詳報の記者から取材を受けた日から、さらに数日が経った頃――。

「久しぶりだな、リオン」

 帝麟都市に行っていたクルシスがようやく帰ってきて、執務室のドアを開けた。

 砂と泥にまみれた旅装で、荷物も背負ったまま。もちろん、腰には魔剣を帯びてる。

 これが知り合いじゃなかったら、まずはとにかく追い出してるところだ。

「長旅ご苦労様、クルシス。帝麟都市はどうだった?」

「魔剣王の足跡をたどろうと思っていたが、その件ではあまり収穫はなかったな」

「それは残念だったね」

 旅が長引いたのはそれが理由か。帝麟都市の方に用事があるとは聞いてたけど。

「ああ。それから……お前の爵位とこの地の領有について帝麟都市に申請した手紙の、返事を持ってきた。渡された時に聞いた限りでは、特に問題のない内容だろうと思うが」

 確かにまあ、きっと大きな問題はないだろう。すでに公示もされてたって、ネスケさんから聞いたし。

 クルシスは荷物の中から小箱を取り出して、その中に仕舞われていた真っ白な封筒を差し出してきた。雷王都市から届いたのに負けないくらい、立派な封筒だ。それを持つクルシスの手も、俺と比べると相当白いけど。

 ……これで二ヶ所目か。

 あとは村はずれの教会の修繕に目処が立てば、天命都市からもいい返事をもらえると思う。

 いよいよ後戻りできなくなってきた気がするなあ。

 ともあれ、届いた手紙は後でクレールに精査してもらうことにしよう。

「滞在中はここを宿にしたい。いいか? そう長くは滞在しないと思うが」

 クルシスがそう言ったので、俺は他のみんなの顔を思い浮かべつつ……。

「構わないよ。一階の来客用の部屋が空いてる」

 そのはずだという結論を得た。

 本来なら俺や他のみんなと同じ二階の部屋を使ってもらうところだけど、レベッカさんとペネロペに加えてフューリスさんも滞在してるから、空いてないんだよな……。

 来客用の部屋の方が内装はしっかりしてるから、それで納得してもらおう。

 

 クルシスは〈北の魔剣王〉の末裔。魔剣王っていうのは、かつて央州全域を巻き込んだ大戦争で中心的な役割を果たした英傑。クルシスもその血と剣技を受け継いでいて、相当の強者だ。

 俺がクルシスと最初に会ったのは、〈剣鬼〉に滅ぼされた故郷から雷王都市に向かう途中。

 今でこそクルシスは俺の冒険仲間の一人だけど、出会いは酷いものだった。

 何しろクルシスは剣鬼と瓜二つだったから。それもそのはずで、二人は双子の兄弟。クルシスは魔道に堕ちた剣鬼を追っていたところだった。

 とはいえそんな事情を知ったのは後日のことで、その時の俺は二人を区別できずに、争いになった。当時はクルシスの方が圧倒的に強かったから、俺は軽くあしらわれてしまったけど。

 再会した時には力量差も縮まっていて、剣鬼を倒すために協力し合うことになった。その後は〈歪みをもたらすもの〉を倒すまで仲間として、ライバルとして、そして友人として、その力を貸してくれた。

 はっきり言って、単純に剣技の腕だけで比べたら、俺は今でもクルシスには勝てないと思う。

 腰に帯びているのは魔剣で、銘は〈極北の魔神〉。常に冷気を帯びているその剣は、クルシスの先祖が魔剣王という異名で呼ばれる由来になったもので、以来代々受け継がれてきたんだそうだ。

 ちなみに、右利き。剣鬼は左利きだったから、俺も今見れば二人の区別はつく。

 

 食堂で夕食の準備をしていたニーナから客室の鍵だけ預かって、俺がクルシスを案内した。

 一階のエントランスの東西に、来客用の部屋がそれぞれひとつずつある。今回は東側の部屋を使ってもらうことにした。前庭に面しているから、日当たりはいい。

 西側の部屋はまだ空いてるな。今のところ他に誰かが来る予定はないけど、俺の仲間って、クルシスもそうだしフューリスさんやアゼルさんもそうだけど、旅の途中にふらっと立ち寄るってことがあるからなあ。

 荷物を下ろして旅装を解くと、クルシスは軽く頭を振った。肩まである金髪が、窓から差し込んだ陽光できらめく。

 北の方の生まれだからか、クルシスの肌は白い。髪も、金髪とは言ったけど、正確には金と銀の中間くらいかな。その中で輝く赤い瞳は、まるでルビーのよう。物語に出てくる北の森の妖精は、きっとこんな感じだと思う。

 このクルシスと瓜二つだった〈剣鬼〉が『人ならざるもの』の扱いを受けたのも納得できるな。

「次の旅は少し長くなる」

 と、クルシスが言った。

「東……異境の砂漠にある渇きの都へ行くからな」

「そこって、フューリスさんの故郷だったような気がするな」

「そうなのか」

 帝麟都市も遠いと思ったけど、渇きの都はさらに遠いな。船に乗れば近くまでは行けると思うけど、その後もまだ遠いんじゃないかな。地理に明るくないから、聞きかじりからの印象だけど。

「かつて魔剣王が、その都の支配者である〈沈まぬ太陽の女神〉と戦ったという伝説がある。魔剣王が勝利したから、敗れた向こうにはあまり記録はないかもしれないが……」

「それは、そうかもしれないな」

 そのことについて知りたいなら、一方の当事者がごく身近にいるんだけど……本人が言い出さない内は俺からは言わないことにしてるから、クルシスに対しては曖昧に頷くだけだ。

「魔剣王が見た景色を私も見たい。そのための旅だ」

 そういうことなら、戦いの顛末だけ聞いても仕方ないのかもしれないな。

 でも、となると、船は使わずに陸路を行くのか。いったいどのくらいの時間と費用がかかるのか、俺じゃまったく想像もできない。

「じゃあ、ここでしっかりちからを蓄えていかないといけないね」

 ともかくそれだけは確かだ。

 クルシスも「そうだな」と頷いて返した。

「それと、ここにはもうひとつ、やらねばならないことがある……」

 それが何かを尋ねようと思った瞬間。

 

 ――ぞわっ。

 

 全身の毛が逆立つ、闘気(フォース)の突風。

 害意。あるいは、――殺気。

 とっさに身体をひねって、伸ばした手で掴んだのは燭台。

 迫った『それ』を、どうにか眼前で受け止める。

 ギン、と、金属製の燭台が音の波紋を広げ……

 それに一瞬遅れて、窓にかかったカーテンがふわりと揺れた。

 

「――久しぶりに会ったのだから、お前とは剣を交えねばな」

 足下を冷たい風が流れていった。

 クルシスの右手に握られていたのは魔剣……ではあるけど、鞘に入ったままだった。もし抜き身だったら、たとえ闘気(フォース)を込めていたとしても、何の変哲もない燭台ひとつじゃ防ぎきれなかっただろう。

 その時に俺の頭がどうなっていたのかは、あまり想像したくないな。

 剣に込めていた力を緩めたクルシスが薄く笑って離れると、俺もようやく一息ついた。

「先に言っておくけど、俺は全力は出せないよ。クルシスには悪いけど」

「鍛錬を怠っていたようには見えないが?」

 それを試すために、いきなり襲いかかってきたのか。

「まあ、事情があるんだよ……」

 ため息をつきながら燭台を元の位置に戻すと、うーん、明らかに曲がってるな。危なっかしくて、これに蝋燭を立てたいとは思わない。

 さてそれはともかく。

 クルシスと全力で戦うのは、正直に言うと、楽しそうではあるけど……。

 今の俺がそれをやると、竜気(オーラ)の活性化が一気に進んでしまうかもしれない。そのくらいの相手だ。

 特に、お互いに魔剣を振るって対決したら、絶対にまずいよなあ。

「……模擬剣での練習試合でよければ、いいけど」

 そのくらいまでがぎりぎり、大丈夫なんじゃないかと思える範囲。

「無理を言うわけにもいかんな。仕方が無い。それで良い」

「すまないね」

 ちょうどそう言ったあたりで、さっきの燭台がごとりと音を立てて転がった。

 ……修理に出すか。

 

       *

 

 夕食の席には現在ここに滞在している全員が集まって、十一人と一匹。

 これだけいれば多少騒がしくなるのは当たり前で、今日の話題の中心はやっぱり久しぶりに会ったクルシスのこと。

「帝麟都市って、俺は行ったことないけど、大きな街なんだよね?」

 俺がそう訊いても、クルシス本人は「ああ」と言うだけで、詳しくは話さないけど。

 だから代わって答えたのはステラさん。

「かつては『都市』と呼ばれる規模の街は帝麟都市しかなかった。古王国の後に興った新王国の王都。現在はいくつもの小王国が乱立しているものの、帝麟都市はなお大陸最大の都市」

 大陸最大、ということは、雷王都市より大きいんだよな。想像できない。雷王都市でさえ、田舎村から出てきた俺にとってはとてつもない大都市だったし。

「古王国時代には十字路の街と呼ばれていた。交通の要衝。それは今でも変わらない。一説によると、現在の人口はおよそ三十万」

「三十万!」

「これでも最盛期の半分以下とされている」

 ステラさんの追補に、誰からともなく驚愕の声が上がる。

 この村の住民が確か五百人くらいだから、ええと……まあ、比較にならないということはわかった。

「目隠ししたまま適当に剣を振っても誰かを斬れるほどだったな」

 そう言ったのは、最近実際に行ってきたクルシス。

「クルシスは喩えが物騒だよ」

 まさか実際にやってはいないだろうけど。

「僕もいつか行ってみたいとは思ってるんだけどねー」

 あれ。クレールがまだ行ったことがないってのは意外だな。

 でもそういえば、クレールはわりと最近まで故郷の街から出たことがなかったんだな。クレールのお父さんの〈箱庭〉にはあの街しかなかったわけだし。

「ミリアが目指している大学も帝麟都市にありますね」

 マリアさんが言うと、ミリアちゃんも頷いた。頷いただけなのは、パンを頬張っているから。

「ミリアちゃんが大学に無事入学できたら、送っていこうかな?」

 クレールのその提案は面白そうだと思う反面、そんな大都市に田舎者の俺が行くと、街の中で迷いそうだという気持ちもある。

 そもそも、俺はともかく、クレールとステラさんが二人とも出かけたらその間の領地運営はどうするんだっていう問題もあるし。俺が一人で? 無理な話だ。

「七重の城壁を備え難攻不落とされた帝麟都市を攻略し、新王国にとどめを刺したのが我が祖、魔剣王だ」

 とは、クルシスの言葉。

 領主を打倒したって一点だけなら俺と同じだけど、その規模が桁違いだな。俺には真似できないと思う。真似するつもりは、今のところないけどね。

「……うまいな」

 ふと、クルシスが声を漏らした。

 今食べたのは、このあたりの海で獲れる魚を調理したものか。

「食事はほとんどニーナが作ってるよ。これは?」

「舌平目のムニエル。旬にはちょっと早いけど、たくさん獲れたって聞いたから」

 バターの香りが食欲をそそる。白身の魚で、味はあっさりしてるかな。故郷で食べてた川の魚と比べると、臭みは全然感じない。種類のせいか、調理の腕の違いかはわからないけど。

「人の食事だ」

「それって褒めてる?」

 クルシスの言葉に、ニーナが苦笑した。

「他で食ったものは、あんなものは、これと比べたら家畜の餌だった」

 これ、ニーナの料理を褒めてるというよりは。

 ……よほど酷い店に当たったんだろうな。

「これに慣れると、他では何も食えなくなるように思う」

 その感想は……同意せざるを得ないところだけど。



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練習試合

 クルシスとの練習試合をやることになった。

 今日は朝から快晴。雲ひとつない。ついでに言うと、外せない予定もまったくない。それは朝食の席でステラさんにも確認した。

 体調は万全。……日常生活を送る上では、の話だけど。

 他の誰かなら、そんなに心配しなくてもいいところだけど、今日の相手はクルシスだ。木剣での練習試合とはいえ、少し興が乗ると、体内の竜気(オーラ)が活性化してしまうかもしれない。

 もし自覚できるほど危険な兆候があれば、途中で切り上げるつもりだ。

 ……他の誰にも話してないから、自分で気を付けなくちゃな。

 急ぎの用がない何人かは、一緒に前庭に出てきて、邪魔にならないくらいの距離をとって俺とクルシスを眺めてる。

 特に俺に注目してるようなのはペネロペ。そういえば、ペネロペの前ではまだあまり俺の戦いを見せてはいないな。ここしばらくは俺が直接手を出すような魔獣も出てないし。

 あまり無様な姿は見せられないけど、さて。

 相手がクルシスだからなあ。

 剣技の腕も、打たれ強さも、俺より上。

 俺はというと、速さではクルシスに少し勝ってると思うけど、それが必ずしも有利かというとね……。

 練習用の木剣を選び終えたクルシスが、肌身離さずで帯びている魔剣を、鞘ごと、前庭の端に突き立てた。その衝撃で、鍔と鞘の間から冷気が白いもやになって漏れ出る。

「そういえば魔剣技についてクルシスに訊きたいんだった」

 ふと思い出して、口を開いた。

「魔剣技か。私の魔剣〈極北の魔神〉には大凍冷波があるが」

 銘のある魔剣が持つ特別な能力――魔剣技は、俺の魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉にも竜牙砕き(ファングクラッシュ)竜殺剣(ドラゴンバスター)のふたつが備わってる。

「少し前にクレールたちと話していてね。魔剣技を使う時の気持ち、というかな……あと、闘気(フォース)の流れとか」

「確かに魔剣技は他の剣技とは違うな」

 クルシスが頷く。でも、続いた言葉は……

「その魔剣に備わった何かが私の力を吸い上げていくような感覚だ」

「うん? 俺のとはちょっと違うな……」

 俺の場合は、闘気(フォース)を魔剣に押し込む感じだな。吸い上げられる感じはない。

「成り立ちのせいかもしれん。〈極北の魔神〉はその名の通り、剣に魔神が封じられていると伝え聞く」

 なるほど。何となく、想像はできた。

「持ち主の闘気(フォース)を吸い上げて、魔剣技として発動させる『生き物』が、剣に宿っている感じかな」

「そうなるな」

「とすると、俺の魔剣よりも〈魔杯〉に近いものなのかもしれないな。油断すると危険がありそうだ……」

 魔杯は、不老不死と無限の魔力を所有者に与えると言われた魔導器だ。俺も見たことがある。これに宿っていた悪鬼が、クレールのお父さん――〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉をそそのかして、力を集めさせていたんだ。もしあれを阻止できなかったら、あの人はきっと悪鬼に身体を乗っ取られていただろう。

 銘入りの魔剣を造るには、いろいろ危険な工夫が必要……ってことになるのかな。

 ニーナの包丁を魔剣化した時に、いずれは銘入りの魔剣を、なんて考えたこともあったけど、ちょっと厳しそうだ。

「我が兄マルスを剣鬼たらしめたのも、剣に宿る魔神の働きかけによるものだったかもしれん。だが、それゆえにこそ、この魔剣にはまだ可能性を感じる」

「可能性?」

 聞き返すと、クルシスは頷いた。

「剣自体が成長する可能性。そして、新たな魔剣技を得る可能性だ」

 そうか。その中にいるものが生きているなら、そういうことがあるかもしれないのか。

「魔剣王の足跡を辿りたいと思ったのもそのためだ。その軌跡から、何かを得られるかもしれん」

「なるほどね」

 クルシスは俺と違って、剣鬼や邪神が現れる前の、もっと幼い頃から剣の道を歩んできた。そして、脅威が去ったからといってその剣を置いたりもしていない。

 俺とは剣に対する考え方が違うんだよな、根本的に。

「そして、お前と剣を交えたいと思う理由のひとつでもある」

「はは……」

 いずれまた、俺はクルシスに負けるのかもしれない。

 一進一退とか、勝ったり負けたりとか、そうじゃなくて。

 こいつにはもう勝てないな、っていう……。

 いや、もしかすると、それが今日なのかも。

「では、そろそろ――」

 と、クルシスが口を開いた瞬間。

「そ、その勝負、ま、まっ、待ってぇー」

 門の外から、そんな声が聞こえた。

「あれ、ネスケさん」

 見れば、鞄を抱えたネスケさんが息を切らせて走ってきているところだった。

 そしてそのまま門をくぐって、前庭に駆け込んできた。ぜえぜえと荒い息を吐いて、顔は赤い。相当急いできたのか、あるいは……

「知り合いか?」

 怪訝な顔で訊ねたクルシスに頷いて返すと、クルシスはそれ以上は何も言わなかった。

 ネスケさんはそんなクルシスにちらりと視線を向けてから、俺の方に向き直って、にへらっ、と笑った。

「かの有名な流浪の傭兵〈剣狼〉クルシスが来てるって聞いて、とんできたっすー」

 ん、なるほど。今日の目当てはクルシスか。

 クルシスほどの達人なら、人目に付けば有名にもなるだろうな。

 ここに来てるのを聞いたのは、今日はマリアさんが魔女の店に行ってるから、そこからかな。村の人たちはクルシスのことはあんまり知らないだろうし。

 それにしても。

「クルシス、そんな異名があったのか」

「他人が言っているだけだ」

 あまり興味なさそうに……いや、それどころか少し迷惑そうに、クルシスが言った。

「ぜひ取材させて欲しいっすー」

 締まらない笑みを浮かべたネスケさんが口を開くと、……ふむ。

「それは日を改めて、酔ってない時に来てください」

「酔ってないっすよー」

 酔っ払いはだいたいそう言って自分が酔ってることを認めないんだよな……。

 

 気を取り直して、クルシスとの練習試合に臨む。

 練習だから、はっきりと勝敗を決めるわけじゃない。

 ただ、俺とクルシスなら、打ち合えばお互いの力量はわかる。

 ――どっちが勝者かってことも。

 

 背中合わせからお互いに五歩ずつ離れて、十歩の距離。

 クルシスが相手だと、これでもひどく近く感じる。二人が同時に駆け出せば一息の距離。

 双方とも、得物は木剣。加えて、俺は念のため革鎧を身に付けている。一方、クルシスは普段着のまま。

 これは俺たちの闘法の違いのせいでもある。ただ正直なところ、俺たちの戦いで革鎧は役に立たない気はしてるんだけど。武器が木剣だから、そもそも致命傷はもらわないだろうし。

「リオーン、がんばれー」

 応援してくれたのはクレール。

 みんなは俺たちの練習試合を、完全に観客として、お菓子を食べながら見物してる。気楽なもんだなあ、とは思うけど……俺も普段は気楽に暮らしてるから、とやかく言えないな。

「では、始めよう」

 クルシスが剣を構える。と同時に、その全身から闘気(フォース)がゆらりと滲んだ。

 そのせいで、手にしているのはただの木剣のはずなのに、まるで魔剣のように感じられる。

 一瞬だけ、ためらって……。

 俺も闘気(フォース)を高めた。

 大丈夫。異変は感じない。むしろ、久々の戦いの予感に、心が跳ねている。身体はまるで乾いた布が水を吸うみたいに闘気(フォース)を吸い込んで、もっともっとと要求してくる。

 ざあっ、と景色が変わった。

 余計な物が消えて、向き合ったクルシスだけが視界に残った。

 そのクルシスが最初の一歩を踏み出すのと、俺が最初の一歩を踏み出すのが……

 ほぼ、同時。



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友情

 結論から言うと、俺が勝った。

 クルシスの手に魔剣がなくても、その剣技の多彩さは損なわれてない。

 闘気(フォース)を巧みに操って、まるで手品か魔法かという技が次々と繰り出された。

 でも俺も、クルシスの技は何度も見てきてよく知ってる。

 お互いに間合いを計りながら、ほんの少しの隙を見付けては木剣を振るう。それが致命打にならないように受け止め、弾き返して、また間合いを計る……。

 何度打ち合ったかは数えてないけど、それなりの時間だ。

 クルシスが、体勢を崩した。

 俺がそうしたというよりは、何か目測を誤って足を踏み違えたような、そんな崩れ方。

 一瞬だったけど、その一瞬に、俺の木剣がクルシスの左腕を打った。

 それがきっかけで、クルシスには勝負を急ぐような動きが見え始めて……

 やがて、ざあっ、と後方に飛びすさった。

 クルシスはその距離で大きく息を吸って、雄叫びと共に体内の闘気(フォース)を一気に高めた。

 きっと勝負を決めるための大技が来る。

 俺も息を整えて、剣を構え直し――

 

 いつの間にか、クルシスが眼前にいた。

 

 そして連撃!

 いや、とてつもない速さのこれは――連撃というより、乱打だ!

 その間、クルシスは瞬きも、息継ぎすらしない――

 なのにペースが乱れない。反撃の隙を見いだせない!

 木剣同士がぶつかり合う音は轟音に、衝撃で四散した闘気(フォース)ですら烈風になって、周囲に飛び散っていく。

 でも、こんな攻撃が長く続くわけないのも当然のこと……

 耐え続ければ勝機はある!

 クルシスの乱打にこっちも剣を合わせて弾く。それでもどうしても届かないのは身体をひねって避け、あるいは籠手で受け流して、限界を待った。

 その読み通り、ついにクルシスの身体がぐらついた。と同時に、打ちつけられる剣の威力も弱まる。

 この好機に俺は、大きく一歩踏み込んだ。

 一息にクルシスの剣を打ち上げ、そして、空いた胴に渾身の突きを……致命打の直前で止めた。

 これで――、決着。

 クルシスはそのまま仰向けに倒れて、空を見上げたまま荒い息をついた。

 

 改めて見回すと、前庭は酷い有様だった。

 俺とクルシスが闘気(フォース)と剣技をぶつけあった余波で地面があちこちえぐれてしまっていたから、午後はこれの修繕をやらないとな……。

 観戦していたみんなも、始める前と比べて距離が遠い。巻き込まれないように避難したか……賢明な判断だと思う。

「まさか、あれをすべて受けきられるとはな……」

 ようやく息が整ったクルシスが、前庭に座り込んだまま呟いた。

 俺も、あれはまあよくがんばったと思う。もう少し長く続いていたら、致命打をもらったかも。

 それにしても……二人ともかなり無茶して打ち合ったせいで、練習用の木剣はぼろぼろだ。もう使い物にならない。とはいえ、木製にしてはよく保った方かな。闘気(フォース)を通されて一時的に耐久性が増した分だけ、まだなんとか形を保っている……という具合だ。

 俺たちの魔剣ならどっちも銘入りで壊れる心配はないけど……練習試合で使うものではないよな。

「クルシスが持ってたのが魔剣だったら、防げたとは思えないな」

 俺は正直な感想を口にしたけど、クルシスの表情を見るに、どうも納得してないらしい。

「お前が魔剣を振るっていたら、私は腕を斬り飛ばされていたかもしれん」

 それは、確かにそうかもしれない。お互い様か。

 反論できずにいると、クルシスがため息をついた。

「……勝ち筋が見えたと思えば消え、消えたと思えば見え、それがまた消え……次の一手の判断を狂わされた。相変わらず、不可解な奴だ……」

 そういうものなのか。確かに、平衡感覚は抜群のクルシスが、途中途中でどうも妙なふらつきをすると思ったのは、判断のミスを修正しようとしてたからなのか。

「剣をちゃんと学んでないからじゃないかな。見様見真似で――」

 俺は元々、田舎の農村の出身。そこでは剣を持って戦うことなんてない。それができる人もいない。もし戦わないといけなくなったら農具が武器、っていう場所だ。

 だから俺は、雷王都市で叔父さんの仕事の手伝いをすることになって、その時にようやく、初めて、自分の剣を買った。

 それが一年半くらい前。

 だから、正しい構えや型、それに歩法……そういうのは、全くと言っていいほどわからない。

 ヴォルフさんやスレイダーさん、それにもちろんクルシスにも、少しは訊いてみて、自分なりに取り込んだつもりではあるけど……あんまりうまくいかなかったな。

 きちんと剣の流派を修め追求してきたクルシスの勘を鈍らせてるのは、そんな俺の、素人の思い付きみたいな動きかもしれない……。

「違うな」

 クルシスは、首を横に振って俺の説を否定した。

「素人の思い付きごときで私の剣技に耐えられるはずがない。お前には私と違う道が見えていて、それをしっかりと血肉にしているのだ。それで、私の予想と違う……いや、私の予想を超えた動きをする」

 クルシスがそう言って、そういえば、と思い出した。

 俺の動きは竜殺し(ドラゴンスレイヤー)のものだ、って言われたことがある。人間を相手にするだけなら必要ない動きが混じるって。確かに、ドラゴンはかなりの数を倒したし、効率化というか特化というか、そういうのが起きていてもおかしくはない。

 なんて。そう簡単な話でもないんだろうけど。

「相変わらず強い。私も負けたままではいられんな」

 剣の達人であるクルシスからそう言われるのは、悪い気はしない。

 あまり謙遜しても失礼だから、賞賛は素直に受け取っておくことにするか。

「だが……」

 と、クルシスが続けた。

「……かつて私はお前にこう訊いたな。『お前にとって剣とは何だ?』と」

 ああ。その質問は、確かにされたな。

 あの時クルシスは、剣は人を殺す以外に使い道がない、と言った。そして、剣の技を極限まで磨くと、自分は剣と同一のもの――つまり、人殺しになるのだと。クルシスと同じ道を歩んだ双子が〈剣鬼〉になったから、クルシスはその思いを強くしていたんだろう。

 俺の答えは確か――

「お前は言った。剣は鏡だと」

 そうだ、それだ。

 戦うための物、戦うための技。それを手にしたとき、その力を自分はどう使うのか、どう使うべきか。剣はそれを問いかけてくる。その答えが、自分の剣に宿る。剣に映った答えを、俺は見る。

 確かそんなことを、クルシスに言った。

 剣を振るう機会は減ったけど、その考えは今でも変わってない。

「お前の剣を、お前の心を、私は見た。……今のお前には迷いがあるな。剣から伝わってくる」

 言われて、どきっとした。

「そうかな……」

 とりあえず、とぼけてみたけど。

「そうだ」

 クルシスは断言した。

 ……迷い、か。もちろん、ある。

 身体に蓄積した竜気(オーラ)のことだ。クルシスとの戦いの間、どこまで力を使っていいのか、どこまでなら大丈夫なのか、そういうことを悩みながらだったのは否定できない。

「お前の迷いが何なのかはわからんが……」

 クルシスは、この場でそれを問いただそうとはしなかった。

「迷ってもいい。だが、臆するな」

 理由も訊かずに、それはクルシスなりの激励なんだろう。

「あの霧の中で、私たちは自らの中にあった剣鬼への恐れと向き合ったな」

 かつて挑んだ神託の霊峰で、俺たちは悪夢の霧に囚われた。

 俺たちの前には死んだはずの剣鬼の亡霊が現れて……

 一度は倒したはずの相手なのに、故郷を滅ぼされたときのことを思い出すと、怖くて、何もできなかった。

 でも……

「それを、私たちは二人で断ち切ったはずだ」

 クルシスの言うとおりだ。

 あの時に俺の迷いを断ち切ったのは、直接的には俺の魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉に備わった魔剣技〈竜牙砕き(ファングクラッシュ)〉だったけど。

 その力をくれたのは、仲間たちだった。一緒だから、乗り越えていけた。

「同じことだ。お前は必ず乗り越えられる。そのために私のちからが必要ならば、喜んで貸そう」

 そう言ったクルシスは右手の拳で、俺の胸をとんと叩いた。

「ありがとう、クルシス」

「友なのだから、当然のことだ」

 言って、クルシスが微笑した。ちょっと珍しいものを見た気分だ。

 しばらく離れていたけど、クルシスとの友情は以前とまったく変わっていない。

 それを確認したっていう話。



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強さの秘密

 俺とクルシスの練習試合を見ていたみんなの所へ行くと、ニーナがタオルと飲み物を用意してくれていた。これは……爽やかなレモンの香りがするな。

「私、感激いたしました。リオン様がお強いことは知っていたつもりでしたけれど、まさかこれほどまでとは……」

 そう言ったのはペネロペ。俺が本気で戦ったところを見たことがないから、そういう感想になるんだろう。

「リオンの力は、まだまだこんなものじゃないわよ」

「そこ、何でレベッカが自慢げなの」

 クレールに指摘されて、レベッカさんは顔を赤くした。

「だ、だって。私はリオンの素質を早い内から見抜いてたっていうか……わ、私が育てた? みたいなところがあるし……」

 と、しどろもどろ。

 まあ、真っ直ぐで力強いレベッカさんにお世話になったのは事実だ。

「お姉様がそう仰るのでしたら、真実なのでしょう。いつかリオン様の本気の戦いも見てみたいですけれど……」

 と、ペネロペが期待のまなざしを向けてきたけど……。

「俺がそんなちからを使わなくて済む方が、平和でいいと思うけどね」

 言われたペネロペも「そうですわね」と納得した口ぶりながら、ため息も漏らした。

「ところで、ネスケさんは……」

 俺の戦いを見たことがないという点はネスケさんもペネロペと同じはず。試合の前に駆けつけていたから、多分見ていたんだと思うけど。

「寝てるですよ」

 手を振ったナタリーに視線を向けると、ネスケさんはその横ですやすやと幸せそうに眠っていた。

「……やっぱり酔ってたのか」

 まったく、しょうがない人だ。放っておくわけにもいかないし、誰かに頼んで屋内のソファにでも移動させよう。

「しかし、不思議だな」

 一息ついた頃、クルシスが呟いた。

「お前が相当強いのは今も確かめたが、どうしてそこまで強くなれた? 農村育ちで力があるとか、肉体を鍛錬したからとかだけでは、説明できん。それならば私もさほど違いはないはずだ」

「それは、私も気になりますわ」

 クルシスに同調したのはペネロペ。

 でも、うーん。そう訊かれてもな。特に秘密とかはないつもりだ。

「気付いたらこうなってたよ。死にたくないから頑張ってきた、死線をくぐってきた、とは言えるけど」

 もちろん、クルシスがそれで納得するはずもない。

「何か特別な血筋なのか? 私が魔剣王の末裔であるように、お前も例えば、竜の血を引いてるというような……」

「そういうのはないって、聖竜には言われたよ。特別なものは何もなかったって」

 思い返すと『言われた』というより『断言された』って感じ。

 でも、確か……。

「人の心があるから勝てたんだろう、って言ってたな。人間は仲間たちと心を繋ぐことができるようにできていて、望んだことを実現できる力があって。それが人間の強さなんだって言ってた」

「仲間のために、か」

「おかげで、かな」

 それはクルシスが求める答えじゃないかもしれないけど、俺としては、そういう気持ちって大事にしたいと思うんだよな。

「んふ。僕のおかげってことだね?」

 ……クレールだけじゃないけどね。

「――仮説」

 と、ステラさんが口を挟んだ。

「私の師匠が言っていた。人間が魔獣を倒すと、その魔獣が持っていた霊気(マナ)の一部をその身に取り込むことができる。それは肉体の成長や鍛錬とは別に、本人の闘気(フォース)を高める。……リオンは多くの魔獣や竜を倒してきた。私も見ていた。仮説を証明はできていないが、私の実感としてはおおむね正しい」

 その話は、以前にも聞いたな。俺としては『俺の強さの秘密は、絆のちからだ!』でも良かったような気がするけど……。

「僕の父様もそういうの調べてたよ。ステラのお師匠様とほとんど同じ推察をしてたなー」

 クレールのお父さん……〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉からは、ちからを吸い取られたことがあるな。単に〈魔杯〉の能力というだけじゃなくて、そういう研究の成果でもあったのかもしれない。

「すると、弱い魔獣を倒すところから始めてちからを蓄えつつ、少しずつ強い魔獣と戦うようにしていけば、誰でも我らの域まで強くなれるのだろうか」

 クルシスの推測は、なるほど、とも思う。

 立派な聖騎士になりたいと望んでいるペネロペは、特に目を輝かせてるな。

「困難だと推測される」

 でも、ステラさんの返答は渋い物だった。

「どうしてですか?」

「ふたつ理由がある。ひとつめ。リオンには強力な魔剣がある。それによって強敵と渡り合えていた」

 確かに、強力なものだと知ったのはしばらく使ってからだったけど、魔剣は身近にある。

 でもなあ。

「強敵と戦えていたのは、仲間に恵まれたからだと思うけどね」

 そうでなかったら、そもそも魔剣を手に入れることもなかったわけだし。

「そういう運が必要」

 ステラさんは魔剣と仲間たちをひとまとめにしてそう言った。

 まあ、それなら間違ってはいない……かな?

「もうひとつの理由は?」

「討伐速度」

 ……そんなに速かったかな。

 確かにある程度ちからがついてからは、以前には苦戦してた魔獣を相手にしても苦労しなくなったけど。少し前に街道で出会ったサーベルタイガーとか。でも、特筆するほど速いとは思わないけどなあ。

 するとステラさんの解説は、俺が思ってもみなかった部分に及んだ。

「リオンは魔獣を倒すだけで、魔獣を由来とする素材に興味がない。金銭的な欲が強く素材や損得を気にする者は、討伐速度および討伐数でリオンに及ばない」

 ……なるほど。そういえばあんまり気にしたことないな。

 せいぜい討伐の証明になる角とか耳とかを取る程度で、先を急いでる時にはそれすらしなかった。

「しかしおそらく、そうした欲のある者の方が大多数。多くの者が挑戦しても、リオンの域まで達する者は少ないと推測される理由」

 そう言われると、そうなのかもしれない。

「確かにリオンと共にいた頃は毎日のように多くの魔獣を倒していた。私のちからも、その頃に特に急激に増したように思う」

 クルシスが頷くと、レベッカさんも「そうね」と応じた。

「私も、リオンと共にいてちからが高まったのは感じる」

 ステラさんもそう言って、クレールが――

「僕はまあ、元々才能があったからなおさらだね」

「……才能なら私が上」

「そうかなー?」

 負けず嫌いの子供か。まったく……。

「話を戻す。強い魔獣と戦えばちからが増すという仮説は、実感としては正しい。しかし、いのちを落とす危険もある。安易には勧められない」

「それは、そうだね」

 ステラさんが言って、クレールが頷いたのは、確かにそのとおり。

 俺も実際に何度も死にかけたし、まさに死の瞬間を幻視したこともある。

 今なら簡単に倒せる魔獣ですら、駆け出しの頃には絶望的な力量差がある相手だった。特に、迷宮の下層に巣を作っていた大蜘蛛(ブラックウィドウ)や、廃屋に隠された地下施設をさまよっていた被験体は、最初に出会った時には逃げることしかできなくて本当に怖かったな。

「大勢が集まれば、強い魔獣とも比較的簡単に戦えるのではないですか?」

 ペネロペが言ったのは、確かに、普通の考え方だ。大勢集まることで力を発揮してより強い敵と戦うっていうのは、ペネロペが目指してる聖騎士もそうなんだろうし。この村でも自警団はその方法で訓練してる。そこはステラさんも修正してないし、当然、有効だと思うんだけど……。

「魔獣を討伐した際に一人あたりが得る霊気(マナ)の量が減少する。その目的のためなら、討伐可能なぎりぎりの少人数が望ましい。危険は増大するので、生命を最優先にするなら採るべきでない方法」

 そこは金銭目当てでやる時と同じか。

 俺が強くなったのって、そう考えると、俺が思ってたよりすごいことなんだな。

「そもそも邪神討伐以降、魔獣の数と強さは減少、下降傾向。これからリオンに追いつくのはその点でも容易ではない」

 ステラさんによると、それが「世が乱れている時ほど英雄が現れやすい」という現象の原因だと考えられる……と。なるほど。

「……仮に、だが」

 考え込んでいたクルシスが、顔を上げた。

「リオンを殺すと、リオンが溜め込んでいるちからを奪える、ということになるのか?」

「物騒なこと言うなあ……」

 クルシスの場合は、完全に冗談とも言い切れないのがなんとも。

 さっきの練習試合では俺が勝ったけど、もし俺に武器がない時を狙って、魔剣を持ったクルシスが不意打ちをしてきたら、俺だって絶対に勝てるとは言い切れない。

 ……まあ、さすがに冗談だろう。うん。

 でも、そういうのを抜きにすると、実際その辺はどうなるんだろうっていうのは確かに気になる。

 答えを持っていそうなのはステラさんだけだから、自然と視線が集中した。

「人間の場合は、そうはならない」

 ステラさんの返事はそれで、俺は安堵の息を吐いた。

「通常、人間が死ぬと体内の霊気(マナ)は変質して冥気(アビス)になる。そして通常、人間は冥気(アビス)を受け入れる器官を持たない。死者から湧き出た冥気(アビス)は霧散するか、特に多量の場合は土地に留まる。一度に大勢が犠牲になった場所が呪われた土地として避けられるのもこのため」

 そうか、冥気(アビス)になるのか。

 そういえば、ユリア……今は〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉のところで冥気(アビス)の制御を学んでる子が、同じようなことを言ってた。自分はいけにえから冥気(アビス)を移す実験の生き残りだって。同じようにされた他の人たちは多分みんな死んでしまったんだろう、とも……。

「例外はないのか」

「ある」

 クルシスの問いにステラさんが頷いて、背筋が冷える。

「本人がその死を受け入れる場合には、体内の霊気(マナ)冥気(アビス)に変質しないとされる。叙事詩などでは『死に際の者から力を託された』等と表現されている現象」

「気持ちの問題なのか……」

「現状の資料からは、そう推測するほかない。安易に試すわけにもいかないので、この分野の研究が急速に進展することは望めない」

 安易に試すわけにはいかないっていうのは、確かにそうだ。

「人間だけが特別なのは、何か理由があるのかしら」

 レベッカさんが呟くと、ステラさんは首を左右に振った。

「逆。魔獣だけが特別。その理由は完全に明らかになっているとは言えないが、師匠はこれについて二重世界仮説を提唱して説明を試みていて――」

 その時、ぱんぱんっ、とニーナの手が鳴った。

「そろそろお昼にしようか」

「そうです! 特級おなかがすいたですよ!」

 ナタリーも声をあげた。二人とも、強くなることにはあんまり興味なさそうだし、退屈な話だったのかもしれない。

「……長くなるので詳細は別の機会にする」

 ステラさんも無理に続けようとはしなかった。

 さて、残るは……。

「あれ……私はどうしてここに……?」

 軽く揺すってみると、ネスケさんは目を覚ました。

「記憶をなくすほど飲むのはやめてくださいね。危ないですよ」

 ここまでたどり着いてたからいいようなものの、以前にクレールがやったみたいに川にでも落ちたら、最悪の事態になりかねないし。

「ご、ご迷惑をおかけしました……」

 ネスケさんは恐縮して頭を下げていたけど、改善するかどうかは……どうだろうな。



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取材の行方

 昨日の練習試合でめちゃくちゃにした前庭をクルシスと二人でせっせと埋め戻していると、そこにネスケさんが訪ねてきた。

「伺ったお話から起こした記事がほぼ完成したので、清書の前に内容を確認していただこうかと」

 そういうことだったから、作業を一時中断してその原稿を見せてもらうことになった。

 今日はどうやら酔ってないみたいだし、そんなにこじれもしないだろう。

 俺の作業を少し離れたところで見守っていたクレールとステラさんも、前庭の端にあるテーブルに集まった。ちなみに、二人は作業を見てただけ。埋め戻し自体は俺とクルシスの二人だけで頑張っている。俺たちがやったんだから仕方ないけどね……。

「本人が確認するなら、あまり悪いことは書けないね?」

 クレールが言うと、ネスケさんも頷いた。

「私はもともと隠しごとができないので、気持ちよく取材に協力してもらえるようにした方がいいって、先輩から……あ、これが記事の原稿です」

 どれどれ。

 受け取った紙には確かになにやらいろいろと書いてある。もちろん、古王国語じゃないから、俺でも読める。

 横から、クレールとステラさんも覗き込んだ。

 ネスケさんは、少し不安そうだな。まあ当たり前か。

「……?」

 と、クレールが首を傾げた。

「な、何か気になるところがありましたか?」

 ネスケさんが聞くと、クレールは俺の手から原稿を取り上げて、さらにじーっとその内容を確認した。

 俺、まだほとんど読んでなかったんだけどな。いったいどうしたんだろう。

 しばらくすると、クレールが険しい顔をして……。

「……この男爵閣下は」

 と、内容を音読し始めた。男爵っていうと、俺のことかな?

「この男爵閣下は無類の女好きであり、新領主として領民の歓心を得るべく多くの税を減免する一方、結婚税いわゆる初夜権だけは手放そうとしなかった……?」

「ぎゃーーーーーーーーっ!」

 突然叫び声をあげたのはネスケさん。クレールの手にあった原稿を破れるのも構わないという勢いでひったくって、ぐしゃぐしゃに丸めて、鞄に突っ込んだ。

「……それを載せるの?」

 クレールが苦笑交じりのなまぬるーい視線を向けながらそう言うと、ネスケさんは口を開けたり閉じたりした。目はきょろきょろと落ち着きがない。両手はしばらくばたばたした後で、結局最後は頭を抱えるために使われた。

「今のは、ちが、ちがうんです! 個人的な趣味で書いているもので、その、フィクションです! 実在の人物とは一切関係ありません!」

 つまり……今のは記事の原稿じゃなかったのか。

 しかも、何かおかしなことが書いてあったらしい。

 とりあえず、女好きがどうとかとは、聞こえたな……。

「いくらなんでも、今の時代に初夜権はないでしょ……」

「フィクションなので!」

 クレールの指摘に、ネスケさんは絶叫気味に返答。顔はほとんど泣いてる。

 何かよほどまずいことが書いてあったんだろうけど……。

 俺の中では、これがいったいどういう話なのか、いまいちピンとこないな。

「初夜権って、どういうものなのかな」

 訊ねると、クレールはため息をついて……。

「リオンは知らなくていいよ」

 とだけ言った。

「初夜権とは――」

「ステラも説明しない」

 口を開きかけたステラさんをクレールが一喝すると、普段なら構わず説明を続けてくれるステラさんも気圧されたのか……

「――詳細を語るのは控える」

 と言って、言葉を止めてしまった。

 ……そこまで言われると逆に気になるな。

 

 その後に出てきた原稿はちゃんとしたものだった。俺たち三人でそれぞれ確認して、大きな誤解や誤認がないことも確かめた。

 ネスケさんはその原稿を清書して、組合の編集部に送るそうだ。

 本人はというと、もう少しここに残って取材をしたいらしい。そんなに見るところがあったかな、と思っていると……。

「〈剣狼〉クルシスさんですよね! 取材させてください!」

 ……なるほどね。傭兵の間じゃ、俺よりもクルシスのほうがよほど有名人らしいから、そのためか。確かに、強さもそうだけど、見た目が何しろ俺よりずっと美男子だ。背も高いし。それこそ、傭兵女子からのアタックはひっきりなしってものだろう。

 それで、取材を申し込まれたクルシスの方は……

「断る」

 一言で切り捨てていた。

 

       *

 

 肩を落として村の方へと坂を下っていくネスケさんを見送って、また庭の埋め戻し。ほぼ平らにはなったけど、芝が生え揃うにはしばらくかかりそうだな……。

「取材を受けないのは何か理由がある?」

 スコップを杖代わりにしての休憩がてら、一緒に庭を整えていたクルシスにそう訊ねると、クルシスは「いや」と首を振った。

「受けない理由は特にないが、受ける理由もない」

 それは、確かにそうかもしれない。

「でも、傭兵組合詳報に記事が載ったら名声が高まるんじゃないかな」

 話を聞いてるとどうも、かなり広い範囲で読まれてるものらしいし。名前が載るだけでもかなり知名度が上がりそう。

 俺の記事は領主紹介だから、俺のというより村の知名度に影響があるんだろうけど。

 クルシスのは単独記事なら当然、クルシス本人が有名になるわけだ。

「それで何か得があるのか」

 クルシスの言葉は素っ気ない。

「うーん……例えば、多額の報酬が出る依頼が名指しで来るとか」

「金には興味が無い」

 ……まあ、クルシスってそういうところあるよな。フューリスさんなんかもそうだけど。二人に共通してるのは、貯金がなくても食べていくのには困らないくらい能力や才能があるってところかな。

 俺も自分一人ならそういう心持ちになるのかもしれないけど……成り行きとは言え、領主になったからそうもいかないんだよな。

 まあ、俺のことはいい。クルシスのことだ。

「名前が売れてると、どこかに仕官する時とか、有利になるんじゃないかな。いや、相手の方から雇いたいと言ってくるかも」

「くだらん」

 これも一刀両断。

「そうか……。他には、うーん……」

 考えても、というか、考えれば考えるほど、クルシスが記者の取材を受ける理由がなくなっていくな。

 そうやって悩んでいると……。

「私は自分の剣の使い道は自分で決める。金だなんだで指図されるのは気に食わん。それで食うに困って死ぬなら、それが天命というだけだ」

 クルシスはそんなことを言ったから、俺はちょっと苦笑。

 刹那的な生き方だなあ。らしいと言えば、そうだけど。剣を極めることにしか興味がないというか……。

「……一人だけ、私の剣を預けてもいいと思った奴がいる」

 ふと、クルシスが言った。

「そうなのか。クルシスがそうまで思うなら、よほどすごい人なんだろうね。誰だろう」

 俺がそう呟くと、クルシスにしては珍しく苦笑を返してきた。

「お前以外に誰がいる」

 ああ……なるほど、俺か。

 ちょっと買いかぶりすぎのような気がしないでもない。でも、クルシスほどの剣士からそうまで評価されてるなら、光栄なことではあるな。

 ただ……。

「私を失望させるなよ?」

 ずっと維持し続けるのは大変そうだ……と思うと、俺も苦笑以外の表情が見付からないな。



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ヴォルフ将軍

 その日はこの土地にしては珍しく、朝から雨が降っていた。統計とかあるのかはステラさんに聞かないとわからないけど、体感で言うと十日に一度くらいかな、雨が降るのは。

 毎日雨が降ってばかりだった雷王都市と比べると、全然降らない、と言っていいくらいだ。

 そんな雨の日に、その雷王都市からの訪問があった。

 ニーナに呼ばれてエントランスまで出てきた俺の視界に、外套を雨に濡らした大柄な騎士が入った。

 雷王都市のヴォルフ将軍。俺の冒険の仲間の一人だ。

「どうしたんです、ヴォルフさんがわざわざここまで来るなんて」

「うむ……。ちとな、頼みがあるのだ。リオンと、それから、ニーナに」

 言われて、俺とニーナは顔を見合わせた。

 

 ヴォルフさんは、雷王都市の騎士たちを束ねる将軍の一人。

 元々身体ががっしりして大きい人ではあるけど、全身を覆う金属鎧を身につけているから、なおさら大きく感じるな。しかも立派なひげを蓄えている上に左目を眼帯で覆っている。まさに歴戦の強者っていう威圧感だ。

 この人と出会ったのは、俺が剣鬼を追っていた時。ヴォルフさんも雷王都市を襲撃した剣鬼を追っていて、それで出会った。

 俺だけだったら協力してくれなかったかもしれないけど、ニーナと面識があったからよかった。ニーナのお父さん……俺の叔父さんとは騎士団で同期だったそうだ。俺の仲間では他に騎士のメルツァーさんが、短い間だけどヴォルフさんに師事したって言ってたな。

 かつて戦場で前線に出ていた頃は〈鉄壁将軍〉と呼ばれていたらしい。ヴォルフさんに命を救われたって人も、雷王都市には大勢いる。

 ただ……私生活はわりとずぼらなんだよな、この人。男爵位を持ってて、砦みたいな大きな館を持ってるのに、手入れをしなかったもんだから、庭どころか建物の中にまでマンドラゴラが繁殖してた……なんてこともあった。

 ……俺も気を付けないとな。

 

 それで……そのヴォルフさんが俺に頼み事、か。

「頼みっていうのは、あの馬車と関係が?」

 雨の降る前庭の向こう、門の外に視線を向けると、ヴォルフさんを乗せてきたらしい黒い軍馬の他に、立派な馬車が停まってるのが見えた。

 屋根付きの馬車だ。幌じゃなく、屋根が付いてる。しかもガラス窓。それを牽く馬は、これまた立派なのが二頭。

 普通は、庶民が乗るものじゃないな。よほど高い身分の人が乗っているんだろう。それこそ、雷王都市の将軍が護衛をしてくるというくらいの。

「……実は、あちらにおわすのは雷王陛下のご息女でな」

 声を潜めてではあるものの、ヴォルフさんはあっさり白状した。

「というと、お姫様ですか」

「えっ。もしかしてヴィクトリア様? 本当に?」

 俺よりはニーナの方が強く反応した。それもそうか。ニーナは幼い頃からずっと雷王都市に住んでるし。

 ヴォルフさんが身振りで静粛を促すと、ニーナもあっと口を閉じた。幸い、エントランスには俺たち三人以外はいなかったけど。

 でも、あまり大勢には聞かれたくない話らしい……というのはわかった。

「先日、陛下と少々……けんかをなされてな。どこか目の届かぬところで羽を伸ばしたいと仰せになったのだ。陛下も陛下で、強い言葉を反省されてはおるものの、すぐに謝るのも威厳がないと」

 親と喧嘩して家出って。何だか、王家にも普通の家庭と同じような悩みがあるもんなんだな。

 とはいえ、そのくらいのことであんな豪華な馬車に将軍の護衛までつけてってあたりが王家のスケールか。

「それで、お主に姫様のことをしばらく頼みたいと」

「何でそこで俺に振るんですか」

 ヴォルフさんの要請に、すぐに出た俺の感想がそれ。

 別に領地が近いわけでもないし、そもそも王様とは剣鬼の討伐で報奨金と称号をもらっ――下賜された時に一度会っただけで、仲がいいとかそういうこともない。

 で、ヴォルフさんの返答はというと。

「何でも何も、今や大陸最強の剣士であろうが。他の理由なぞは、それに比べたら些細なことよ」

 あー……うーん。一応、そういうことになるのかな。雷王都市の騎士団が総出でかかっても勝てなかった剣鬼を倒したのも、邪神とも言われる〈歪みをもたらすもの〉を倒したのも確かだ。だからもちろん、自分が弱いなんて言うつもりはないけど。

「剣技ならクルシスの方が圧倒的に上ですよ……」

 そこは、練習試合でも実感した。俺が勝ったのは魔獣や竜を倒して得た、いわば『不思議な力』のおかげであって、技量を競うならクルシスの方が上。

「あやつはまた別格ではあるが……お主とは別の意味で、雷王都市では歓迎されんな……」

 ヴォルフさんがそう言うのもわかるけどね。クルシスは剣鬼と双子で、そっくりだから。一時は「死んだはずの剣鬼が亡霊となって雷王都市に現れた」なんて噂になったくらい。ヴォルフさんにしてみれば、クルシスを全面的には信用できないって気持ちがあったとしても仕方ないところかな……。

「そのクルシスがいまこの館に滞在してるのは承知の上で?」

「……姫様は剣鬼の顔をご存じないから、問題なかろう」

 そういうことなら、その点はよしとしよう。

「でも、ここの生活がお姫様のお気に召すかどうか」

「心配するな。姫様がここを希望されたのだし、陛下もお主ならと快諾された。無論、報酬も用意しておる。これが陛下からの書状だ」

 ヴォルフさんが差し出した封筒には、確かに雷王の印章で封がしてある。

「詳しくは中を見てもらえばわかるが、もしお主がいずれ子爵への陞爵(しょうしゃく)を望むなら、その時は便宜を図ると。もちろん金銭的な報酬もある」

 それは、領地運営の助けにもなるな。今のところ子爵になるつもりはないけど、内諾があれば計画も立てやすくなる。

 でも、果たして軽々しく受けてもいいものか。

「……王様は俺のことを嫌っているのかと」

 引っかかってるのはそこだ。

 剣鬼を討伐した時には報奨金とかをもらったけど、その後は厄介払いというか、ほとんど追放みたいな感じで、雷王都市を出てきたんだし。王様より人気が出ると困るからって。

 王様の方はたぶん俺を嫌ってたんだろうし、俺としてもちょっと恨みを持っててもおかしくないくらいだよな。

 まあ、雷王都市にいたのはそんなに長い期間じゃなかった。何事もなければ今でも住んでいたかもしれないけど、絶対にあの街でないといけないって理由はなかったかな。

 そこのところは、こっちの暮らしを気に入ったのも大きいけど。

 言うと、ヴォルフさんは「うーむ」と唸ってひげを撫でた後……

「そこは誤解のないように言っておきたいが、陛下はお主のことを嫌ってはおらんよ。ただ、お主は騎士として陛下に仕えるのを拒んだであろう?」

 そういえばそんなこともあった。

「確かに、その話は断りました。分不相応というか、柄じゃないというか……」

 剣鬼を倒したとはいえ、元は田舎村の出身だ。騎士になるなんて、そんなことは思いもしなかった。俺が会った騎士はみんな立派な人たちだったし、尊敬はしてるけど……だからこそ、なのかな。あの全身鎧を着て謁見の間に背筋正しく並んで……っていう自分の姿がまったく想像できなかった。

 断ったのにはそういう理由があるって確かヴォルフさんにも話して、残念だけど仕方ないな、みたいなことを言われた記憶がある。

「陛下の武勇がお主に及ばんのはご本人も承知の上。なればお主にそのつもりがなければ御しきれんのも道理。積極的に関わらんようにするのがお互いにとって良いのだろうと、そう結論されたのだ。断じて、嫌っているからではない」

 そうなのか。そりゃまあ、直接喧嘩したら俺の方が勝つんだろうけど。でも周りには騎士団の人もいて――

 って、そうか。

 その騎士団より強かった剣鬼を、俺は倒してるんだ。俺に無理に言うことを聞かせようとしたら一苦労あるだろうな。

「民は派手な英雄譚を好むため、お主と比べると陛下の人気がいまひとつなのは確かだが、王としての能力も申し分ない。でなくば、儂がいつまでもお仕えするはずがなかろう?」

 確かに、ちょっと頑固なところはあるけど、ヴォルフさんはいい人だ。そのヴォルフさんが信頼して仕えている王様も、悪い人ではないんだろう……というのは、理屈はあってるか。

「園芸と芸術と読書を好んでおられるとお聞きしてます」

 そう言ったのはニーナ。

「うむ。内向的なお人柄ではあるが、大災厄の時代が終わればいずれ、名君との評価になろうよ」

 乱世向きの人ではないってところは、ヴォルフさんも認めるところか。

 平時なら名君、とまで言うほどの統治能力があるのかは、俺にはわからないけど。

 ただ、自分でも領地経営をやってみて、これって結構大変だなあとは思った。

 その上で、家族との喧嘩。気苦労があるのは、まあ、察する。

「それで、姫様のことだ。急な話で悪いが、しばらく引き受けてくれぬか」

「ねえ、リオン。引き受けようよ。だって、ヴィクトリア様だよ?」

 ニーナはちょっと興奮気味。最近は他の子が騒いでるのを冷静に止める役割が多いだけに、ちょっと新鮮な感じがするな。

「そんなに有名な人なの? 俺はあんまり知らないんだけど……」

 訊ねると、ニーナは「えーっ」と声をあげた。

「ヴィクトリア様を知らないって、ほんとに? 嘘でしょ? リオンだって雷王都市に住んでたのに」

 そう言われてもね。

「仕方ない。リオンが雷王都市に来た頃を考えると……」

「あっ……そっか、そうですね……」

 ヴォルフさんの言葉で、ニーナは口をつぐんだ。

 ……もしかして、気を遣われてる?

 俺が雷王都市に出てきたのは故郷の村を剣鬼に滅ぼされたからで、そりゃまあ、あんまり気持ちに余裕がなかったのは確かだけど。

 あれからもう一年半は経ったし、仇である剣鬼も俺自身の手で倒した。整理がついてないことももちろんあるけど、あんまり気を遣ってくれなくても……とは、思う。

「まあ、雷王都市では有名な人なんだね? で、評判も悪くない」

 ニーナは「うん」と頷いて、俺の言葉を肯定した。

 そういうことなら、積極的に反対する理由はないか。

「……わかりました。爵位のことでもお世話になったし」

 本当はクレールやステラさんにも相談したいところだけど、逆にややこしくなりそうな気もする。知り合いの娘さん、で通した方が問題は少ないかな……。

 ヴォルフさんは「面倒を掛けるが、よろしく頼む」と頭を下げた。

 その上で――

「ふたつ、留意してもらいたいことがある」

 と続けた。

「まずひとつめ。お主たち二人以外には正体は明かさぬよう努力して欲しい。どうしても無理ならば仕方ないが、その場合でも館の中だけで留めてくれ」

「努力はします」

 正体が知れると、ろくでもない考えを持つ人がいないとも限らないしな。この館の住人は大丈夫だし、村の人たちも大丈夫だとは思うけど……。

 いや、うーん……。

 村の男たちが嫁探しをがんばってるって話があるんだった。

 お姫様が出歩くには、もしかすると、ちょっと危ないかもしれないな……。

 一応、俺の名前を出せば平気らしいんだけど、お姫様にそれをしてもらっていいものかどうか。

 悩んでいるうちにも、ヴォルフさんの話は進む。

「もうひとつは、姫様が庶民の生活を体験したいと仰せであること」

 ……庶民の生活、ね。

「あの馬車で来て、それは……」

 少なくとも庶民でないことは一目瞭然だ。あんな馬車、乗らないで一生を終える人がほとんどだろうし。俺だって乗ったことがない。

「多少それらしい体験ができれば十分……というところだな。お主らはなるべく普段通りにしてくれれば良い。その結果、例えば姫様が食事の際に末席になることもあろうが、そういうことに文句を言わぬよう、姫様と侍女には納得してもらっておる」

 それは助かる。今の館の住人で、王族を相手にできるマナーがちゃんと備わってるのは、うーん……クレール、レベッカさん、それにフューリスさん、もしかするとペネロペ……くらいかな。他は、俺も含めて、あまり期待できない。そのあたりの不作法をいちいち指摘されて直してたら、謎の客人の正体がすぐばれてしまうだろうし。

 なるべく普段通りね。

 ……よし、だいぶ気楽になった。

「おっと、あとひとつあった。これは姫様からでなく、陛下からなのだが」

 まだ何かあるのかとちょっと警戒していると、ヴォルフさんは声を潜めて続けた。

「姫のことを気に入ったならば、婿候補の一人として雷王都市に戻っても良いと……」

「それは遠慮します」

 貴族の生活にそんなに憧れがない俺としては、即答。

 ニーナは苦笑してる。さすがに「断るなんてもったいないよ」とは言ってこない。俺じゃ釣り合いが取れてないのは明らかだしね……。もちろんヴォルフさんも強く勧めてはこない。

 まあ一応、王様から嫌われてないことの証拠にはなる、か。

「儂は村に宿を取ることにする。雷王都市の将軍である儂があまり近くにおると、姫様も気が休まらんだろう。無論、館の周囲の警戒はするが」

「そんな警備態勢でいいんですか?」

 訊ねると、ヴォルフさんは苦笑した。

「そこらの夜盗ごときが、この館におる者たちを相手に悪事を為せるはずもなかろうよ」



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ヴィカとペトラ

 ヴォルフさんに促されて、馬車から一人の女の子が降りてきた。

 この子がお姫様か……と思ったら、違った。侍女か。先に降りて、主人が降りやすいように手を差し出してる。

 その手を取って、もう一人がゆっくりと降りてきた。その姿を見た隣のニーナが、ほうっ、とため息をつく。

 服装は思ってたほどに豪奢ではなくて、でも、一目見ただけでも質の良さがわかる仕立ての良いものだ。

 でも多分、そこじゃない。

 立ち居振る舞い、というか、雰囲気、というか……

 小雨が降る中に降り立っても全く動じるところがないのは、さすがは止まない雨が降る雷王都市の王族。そしてそんな姿が、薄暗い中でも何だか輝いて見える。

 それを見て自然と、お姫様だ、と思った。

「ごきげんよう、リオン・ドラゴンハート男爵。しばらくの間、よろしくお願いしますね」

 そんな感じの、とても優雅なお辞儀をいただいた。

 

 お姫様と侍女の人、それにもちろんヴォルフさんも同行して、まずは執務室に入った。ニーナはすぐにタオルを用意してくれて、みんなそれで雨に濡れた髪を拭く。お姫様の髪は、侍女の子が拭いた。

 椅子を勧めると、お姫様だけがソファの前へ移動して、侍女の子とヴォルフさんはその斜め後ろに立った。俺はお姫様の正面に座って、ニーナはその斜め後ろに立つ。俺が座ったのを見て、お姫様も座った。

「では改めて、俺……ん、ん。私はリオン・ドラゴンハート。ここの領主です。まあ、一応」

「こちらは雷王陛下のご息女、ヴィクトリア・シュラール・ブリッツシュラーク殿下である」

 俺の自己紹介に対して、相手の方は侍女の子がその主人を紹介した。

 

 さて、このお姫様――ヴィクトリア・シュラール・ブリッツシュラーク……殿下。俺はこの人のことをそう知ってるわけじゃない。

 歳は、そうだな……俺より上だけど二十歳には届かない、というあたりかな。

 見た目は、いかにもお姫様。

 歩く姿も、立ち姿も、座っても、まず姿勢がいい。そしてやんわりとした微笑を浮かべている。

 ……思い出した。こういうのを『気品がある』って言うんだ。

 長い髪はダークブラウン。雨に濡れたせいで、神秘的ともいえる輝きを放ってる。同じ色の瞳もまるで宝石みたいだ。

 総じて、なるほど、雷王都市出身のニーナが敬愛するのもわかる。

 

「貴方とは以前にお目にかかりましたね」

 そのお姫様が口を開いて言ったのは、そういうことだった。

 会ったことがあるのか。記憶にないな。でも、お姫様と会うなんて機会は限られてる。となれば、多分……

「剣鬼を討伐して、称号を頂いた時かな」

 それを聞いたお姫様は、微笑を浮かべたまま頷いた。

「ええ。あの謁見の間で」

 良かった。当たってた。

 でもこれ以上詳しい話は無理だな。正直に白状した方が良さそうだ。

「すみません。あの時は緊張していて、実は、よく覚えていないんです」

 嘘じゃない。まず城への呼び出しがあった時点ですでに、どんなことを言われるのか気が気じゃなかったし、城はもう何もかも異世界めいていて……

 特に、その謁見の間。

 真っ赤な絨毯と、居並ぶ近衛騎士たち。

 叔父さんが用意してくれた礼服は十分に上質のものだったけど、着慣れないせいもあって、ひどく頼りなく感じたな。

 やがて王様が玉座について、俺は一目だけその人を見たけど。

 実は、きらびやかな服装と冠ばかりに注目してしまって、顔はよく覚えてなかったりする。

 あの時そういえば、隣にお姫様も立っていたようにも……。

 いや、あの場にいたって言われたばかりだから、そんな気がするだけかな。

「姫様の顔を忘れるとは、無礼なやつ!」

 突然、俺に向かって罵声が浴びせられた。

 お姫様の斜め後ろに立っている侍女の子が、俺を睨んでいる……。

「ペトラ」

 と、お姫様が声を掛けた。

「良いのです。あの時は私もにこにこ笑っていただけでしたから」

 そのとりなしで、侍女の子……ペトラも引き下がった。

 お姫様と比べると明るいブラウンの、少し癖のある髪。そして、お姫様とは対照的な、険しい目つき。これは生来のものというよりは、俺が嫌われてるからかもしれないけど。歳は……俺と同じくらいかな。

「失礼しました。侍女の不作法は私の責任。謝罪いたします」

「ヴィクトリア様がこんな、平民出の田舎貴族に頭を下げる必要は――」

「ペトラ」

 どうも、あんまり良く思われてないのは確かみたいだな。

「まあまあ。ここは儂に免じて穏便にな、穏便に」

 ヴォルフさんが割って入った。どっちかというと俺向きにそう言ったのは、激発すると俺の方が強いからだろう。俺は元々、荒立てる気はないけどね。

「リオン様。それと、ペトラも。まず承知していただきたいのは、ここにいる間の私は『雷王都市の王女ヴィクトリア』ではなく『ただのヴィクトリア』だということです。リオン様もどうぞお気軽に、ヴィカ、とお呼びください」

 本人はそう言ってるけど、大丈夫なのかな。

 そう思ってヴォルフさんに視線を向けると重々しく頷いていたから、まあ、いいんだろう。

「では、ええと……ヴィカ」

 言われたとおりの愛称で呼ぶと、お姫様は「はい」と笑った。

「なるべく不自由を感じないようにはしますが、なにぶん田舎なので、ある程度は我慢してください。それと俺……私は元が田舎者なので、言葉遣いに関しては大目に見てもらえると助かります」

「お前、さっきからほんっと無礼だぞ、姫様に向かって」

「ペトラ」

 すぐに窘められて、ペトラは「むー」と唸った。

 お姫様は今のところ我慢してるのか、それとも実際気にしてないのか、いずれにしろあんまり俺の作法に文句を言ってはこないけど。このペトラは、うーん……仲良くやっていけるか、ちょっと不安だな。

「前々から庶民の生活を体験してみたいと思っていましたので、言葉遣いもどうぞ普段通りに」

 理由はどうあれ、それでいいっていうなら助かる。

「どうしても我慢できなくなったら予定を切り上げて帰ります」

 ……まあ、その時はそうしてくれた方がお互い幸せか。

「ここでの暮らしについては、まずは後ろにいるニーナに言ってください。男の俺には言いにくい話もあるでしょうし。それに、彼女は雷王都市の出身ですから」

 俺から軽く紹介すると、ニーナがちょっとどもりながら「よ、よろしくお願いします」と頭を下げた。

「あらあらまあまあ。丁寧にありがとうございます。しばらくお世話になりますね、ニーナさん」

 はっきり言って、ニーナは俺よりも緊張してる。大丈夫かな……?



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客室の準備

 ニーナがお姫様……ヴィカを浴場に案内して、まずは旅の疲れを取ってもらおうということになった。

 案内されたヴィカとペトラが中へ入っていき、しばらくしてニーナだけが出てきた。

 入浴が済むまでしばらくかかるだろう。その間に、ヴィカが過ごす部屋を準備しないといけない。

 浴室の脱衣所の外の廊下で、一応見張りに立ってるヴォルフさんも交えて、その辺のことを話し合うことになった。

「空いてるのって、西の客室だけだよね。東の客室はクルシスが使ってるし」

 もう少し早く来てくれていたらもっと空いてたのに、と思わずにはいられない。

 まあ、西の客室はこういう来客があった時のための部屋だから、内装はしっかりしてる。クルシスが使ってる東の客室もそうだけど、日当たりもいいし。

「でも、防犯の点からすると客室は外側過ぎない? 春祭りの時は空き巣もいたし、心配かも」

 というニーナの意見も、まあわかる。

 なるべく普段通りにと言われても、実際にはお姫様だってのが変わるわけじゃない。仮に悪党がこの館にやってきた場合、他のみんなはある程度は自分で対処できる強さがあるけど、お姫様たちはそうじゃないしな。あまり楽観視はできない。

「……俺の部屋を使ってもらうしかないかな。それで、俺が西の客室に移る」

 俺の部屋は奥側にある、言ってみればプライベートな区画の、二階。中庭を見下ろせる窓があるから、日当たりがいいのは客室と同じ。

 館の主人なんだから一番いい部屋にとクレールから言われてそこに決まった経緯があるから、実際、いい部屋だ。

「ペトラさんは使用人部屋に入ってもらう?」

「そうだった、ペトラもいるんだ」

 ニーナが言った使用人部屋っていうのは、奥の区画と大広間との間にある部屋で、名前のとおり使用人たちが共同で使う場所だ。狭くはないけど、一人あたりで計算すると広いわけじゃない。今は使用人を雇ってないから、誰も使ってないな。使えるように掃除はしてあるけど。

 で、ペトラは……侍女は侍女でも、お姫様の侍女、だからなあ。どのくらいに遇したらいいのか、いまいちわからない。

 聖騎士見習いのペネロペは、先輩にあたるレベッカさんと一緒の部屋で過ごしてるけど……

 ヴィカとペトラの場合はどうなんだろう。こっちとしては、一緒の部屋にいてくれた方が便利な気はするけど。こっちでそう決めてしまってもいいんだろうか。

「侍女はな、本来は、姫様が声を掛けたらすぐに駆けつけられる程度の距離の部屋にいるのが望ましい。しかし、姫様も多少の不自由を体験したいと望まれておるからな……」

 ヴォルフさんが意見を言ったけど、決定的なものじゃない。

「その辺のことを考えると、結局は西の客室が一番かも。あそこはお付きの人が寝泊まりできる小部屋が隣接してるし」

「そうだっけ?」

 ニーナの言葉で思い返してみるけど、思い出せない。まあ、館のことについては俺よりニーナの方が詳しい。そのニーナが言うなら確かだろう。

 ヴィカたちは西の客室にってことなら、俺も部屋を移る手間はないな。

「防犯をどうするかが問題だけど……」

 ニーナの不安は最初からそこだった。

 一番近いのは東の客室のクルシスか。前庭あたりで何か物音がすればすぐ気付きそうな感じだけど、過信はできないかな。

「夜だけでも見張りを立てるしかないな。それは俺がやるよ。ニーナは食事の準備とかもあるし」

 普段通りに、と言われたとはいえ、何かあったら大変だ。そのくらいの手間は仕方ないだろう。まあ、迷宮で魔獣の息遣いを感じながら、とかじゃないしそう苦にもならないはず……。

「いや、それには及ばんよ」

 ひげを撫でながら、ヴォルフさんが口を挟んだ。

「儂の他に、馬車の御者もあれは雷王都市の騎士でな。この後も数人、部下が来る予定になっておる。みな信頼の置ける、一騎当千の……とまではまだいかんが、将来には期待できる一騎当百ぐらいの奴らよ。館の周囲は儂らで警戒するから安心せい」

 その後に「お主らがいるだけで十分、何事も起きんとは思うのだがな」とも付け加えてた。……実際に、そうかもしれないけどね。

 でもまあ、俺を含めて館のみんな見た目にはそんなに強そうに見えないのが不安なところ。

 その点、ヴォルフさんの部下の騎士たちといったらいかにも強そうに見えるだろうし、俺たちが出て行くまでもない程度の悪党は、騎士たちの姿を見ただけで引き返していくだろう。それは助かる。

「でも、どうしてばらばらに来るんです?」

「武装した騎士が集団で他領を通行するのは、いろいろと面倒があるのでな。これを伝令などの単身任務という扱いにすると、通行の手続きが比較的容易に済む」

 なるほど、そういう事情があるのか。裏技というか、悪知恵というか……。

 実際、他領の騎士が武装して集まっていると、領主としては警戒しちゃうだろうな。

「無論、ここでの組織立った活動にはお主の許可が必要だが……」

 途中は裏技で抜けて来られるにしろ、最終的にここで合流したらそれは立派に武装集団。領主である俺の許可なく行動はできないわけだ。

「それは許可するのでお願いします」

 ヴォルフさんなら知らない仲じゃない。部下っていうのも信頼できる人たちだと言ってた。こっちも信頼して任せよう。

「あとは表向きの理由をな、村の警備隊との共同訓練、にしようと思っておる。無論、共同訓練自体は実際に行う。うちの奴らにとってはまあ、バカンスみたいなものだがな」

 その理由なら確かに、館の周りをうろうろと警戒しても問題はないな。

「実際、騎士の人たちにうちの村の自警団を指導してもらえるなら助かります。俺はどうも教えるのが苦手で」

 言うと、ヴォルフさんは苦笑した。

「お主の真似は、皆ができるものではないからな……」

 やっぱり、そういうことなのかな。

 

 お姫様のご入浴はさすがに長くて、少し待ちくたびれた。

 ヴォルフさんは、慣れなのか、姿勢良く立ったままでもまるで疲れを見せないな……。俺には無理だと思う、それ。

「さっきの話だけど」

 と、退屈そうに座っていたニーナが呟いた。

「もしリオンが部屋を移るんだったら、私の部屋に来てもいいんじゃないかなって思ったんだよね。こっちも、広すぎるくらいだし」

 ……確かに広さは、クローゼットまで含めて考えると、雷王都市でニーナが叔父さんと住んでた家がすっぽり入りそうなくらい広いけど。というか、クローゼットだけでも以前のニーナの部屋くらいはあるし。

 でも。

「それはさすがに、問題があると思う。広さの問題じゃなく」

「そうかな? ……そうかもね」

 まあ、部屋が広すぎて落ち着かないっていう気持ちは、わかるけどね。

 そうしているうちに、脱衣所の方から声がかかって、ニーナが様子を見に入っていった。

「……ダックスの奴がな、深刻な顔をして『もう、すぐにでも自分に孫ができてしまうんじゃないか』などと随分気を揉んでおったが……その様子だとまだしばらくはなさそうだな」

 ヴォルフさんが、叔父さんの名前を出してそんなことを言った。

 ……やれやれ。



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お嬢様なら

 西の客室はまあまあ気に入ってもらえたらしい。馬車の御者がエントランスに積んでいった荷物を、俺とヴォルフさんで手分けして客室に運び込む。なかなかの量だ。中身はほとんど服で、これでもかなり減らしてきたらしいけど。まあ、お姫様のご旅行というとこのくらいにはなるか。

 さすがにこの頃になると館のみんなも来客に気付いて集まってきた。

 西の客室はこの館の個室としては一番広いとはいえ、みんなが入ってくると密度がすごいな。

「お客さん? 泊まるの? どこの人?」

 訊いてきたのはクレール。

「ヴォルフさんの知り合いの娘さんで、しばらく預かることになったんだ。ヴィカと、侍女のペトラ」

 嘘は言ってない。その『ヴォルフさんの知り合い』が王様だってことを言ってないだけで。

 ヴォルフさんも「どうかよろしく頼む」と頭を下げた。

 みんな、思うところはあるかもしれないけど、反対はなかった。見た感じ、好奇心が勝ってるかな。それぞれ口々に自己紹介をしてた。

「どこかで会ったことがある気がするです!」

「あたしも! どこだろ?」

 ナタリーとミリアちゃんがそう言ってるのが聞こえて、少しひやひやする。この二人は雷王都市に住んでたから、ヴィカのことを知っててもおかしくないな。マリアさんもそうだ。表情を見る限り……気付いてるかもしれないな、マリアさんは。

「ねー、リオン。ヴィカってたぶん、結構お嬢様だよね?」

 クレールはヴィカのことをよく知らないはずだけど、そんな風に言ってきた。

「どうして?」

「侍女がいるってだけで、ほぼ間違いないよ。それにこの荷物の量。そして、あんな馬車で来たってことなら、完全に確定だよね」

 見れば、ヴィカが乗ってきたあの馬車はまだ前庭に停まっていた。ヴォルフさんが出てくるのを待ってるのか。あの御者も本当はヴォルフさんの部下の騎士だって言ってたしな。

「……まあ、本人から言い出すまではあまり詮索しないってことで」

 クレールは子供っぽいところもあるけど、本当に子供なわけじゃないから、そのくらいの分別は期待してもいいだろう。

「ま、僕が指摘するまでもなく、夕食の席でおのずと明らかになると思うよ。決定的な証拠が現れるよ、きっとね」

 ……よくわからないことを言うなあ。

 

 ヴォルフさんは「くれぐれもよろしく頼むぞ」ともう何度目だかわからないようなことを言い残して、あの馬車と一緒に村へと降りていった。夕食にも誘ったけど、一緒に居るとヴィカが羽を伸ばせないだろうからと断られた。仕方ないか。村の酒場の料理がおいしいことは伝えておいた。

 その後の夕食の席。

 これまで以上に大人数になったから、急遽テーブルを継ぎ足して対応した。

 素性を知ってると申し訳ないけど、ヴィカとペトラは継ぎ足された部分に座ってもらった。案の定、ペトラからはものすごく睨まれたけど。ヴィカの方はにこにこしていて、気にした様子は見られない。少なくとも、今のところは。

「いい匂い……」

 運ばれてきた料理を前にして、ヴィカが呟いた。

「お口に合うかどうか」

 ニーナは緊張してる様子。それはまあ、そうだろう。お姫様が自分の料理を食べていったい何て言うか、気にならないはずがない。

 そのせいかな。心なしか、今日の料理は普段より豪華なような。

 でも品数が多いだけか。それぞれの料理は普段通りだ。海で獲れる魚、森で採れる茸や木の実、それに畑で育てた野菜。そういうのを使った料理で、そんなに特別なものじゃない。

 まあ、なんてことない普通の食材でも、ニーナにかかれば美味しく調理されてしまうんだけど。

 食前のお祈りを済ませてから、食べ始め。

 量が多いのに感激してるのは、たぶん一番はナタリーだろうな。最初からかなりのハイペースで食べてる。最終的な量でいうとクレールやミリアちゃん、それにペネロペも結構食べるけどこの三人の食べる速さは、ナタリーと比べたらゆっくりだ。

 さて、肝心のヴィカはというと……

「温かくて、とても美味しいです」

 微笑と共にそう言ったので、ニーナもやっと安心したみたいだ。ヴィカの隣ではペトラも自分の分を食べている。無言だけど、相当気に入ったらしいのは伝わってくるな。

 この二人の所作は、並ぶと特にだけど、ヴィカの上品さが際立つ。スプーンでスープをすくって口に運ぶ、というだけでもこれほど差が出るのかと驚くくらい。侍女のペトラだって、これでも普通の人と比べたら上品な方なのにな。

 館の住人だと、クレールやフューリスさんも上品な食べ方をする方だけど、さすがに現役のお姫様には一歩譲る感じになるか。

 なるほど、クレールが言ってた『お嬢様であることは夕食の席でおのずと明らかになる』って、こういうことか。

 こういうマナーは一朝一夕に身に付くものじゃない。きっと幼い頃から教育されてきたんだろう。そういうところで、育ちの良さは出てしまうわけだ。

 俺は……まだこれから身に付く可能性は、あるな。……多分。

 

「この後は食器を洗うんですよね。手伝わせてください」

 夕食の後、ヴィカがにこにことそんなことを言ったので、少し扱いに困った。本人が希望したとはいえ、お姫様にやらせていいものなんだろうか。結局、ニーナが「今日は初日だから、お客様としてゆっくりしててください」と理由をつけて諦めさせてたけど、その理由は明日には使えない。どうしたものかな……。

 片付けもある程度済んでから、特に急ぎの用事がなく居残ったみんなで食後のお茶を楽しんでいると……

「あてが外れたなあ……」

 クレールが、どことなくしょんぼりした様子で呟いた。

「お嬢様なら絶対に『美味ですわねー』って言うと思ったのに……」

 そこか。



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従者対決

 雷王都市のお姫様であるヴィカとその侍女のペトラがこの館に来たのが昨日のこと。

 そして今日、早速問題が発生した。

 騒ぎを聞いて中庭に駆けつけると、その真ん中あたりで、ペネロペとペトラが睨み合っていた。

「私の方が忠義の心は勝っていますわね。お胸の形も美しいですし」

 ペネロペが胸を反らしてそう言えば、ペトラも負けじと言い返す。

「私も主を敬愛する心には自信ある! 歳はお前より上だし、胸の形も負けてない!」

 ……胸の形はこの際、関係ないと思うけど。

 ともかく、この二人が衝突しているからには、レベッカさんとヴィカも……

「あらあら、どうしましょう」

「頭が痛い……」

 ……二人は特に争ってはいないみたいだ。

 だけど、ペネロペとペトラだけでも喧嘩になると良くない。この館はそこそこ広いとはいえ、顔を合わせずに生活するのはまず無理だ。

「これ、原因は何なのかな」

 誰にともなく訊くと、ステラさんが答えてくれた。

「ニーナが用意した菓子の取り合い。ペネロペはレベッカに、ペトラはヴィカに、それぞれ大量の菓子を確保したがった。そのためこの抗争に発展した」

 お菓子の取り合いね……二人ともまだ子供だな。

「形とかってさー、大きさで勝負できない子の言い訳だよね。形も大きさも申し分ないマリアさんの前にはどうせみんな無力なのに……」

 とばっちりでダメージを受けていたらしいクレールがそう呟く間にも、二人の言い争いはますます過熱している。

「私はお姉様が戦場で危機に陥ったら、この命に替えましてもお姉様をお救いする所存ですわ!」

「私だって、ヴィカ様が悪徳領主に手込めにされそうになったら、代わりにこの身を差し出してでもお守りする!」

 何か今、俺の名誉が傷付けられたような。

 まあ、それはともかく……。

 これはそろそろ止めないと被害がさらに広がりかねない。でも、さて、どうやって止めればカドが立たないだろう。ありきたりだけど「まあまあ」なんて言いながら割って入って、二人の怒りの矛先を俺に向けるしかないかも……。

 そんな風に俺がためらっているうちにも、二人の興奮は増していって。

「こうなれば、どちらが補佐役としてすぐれているか、勝負ですわ!」

「のぞむところ!」

 ついに決闘、というところまで来てしまった。

 さすがにもう迷ってられないな。無理矢理にでも止めないと。

 と、そう思った俺が動き出すより一瞬早く……

「その勝負、僕が裁定してあげるよ!」

 クレールが元気よく手を挙げた。

 ……余計にこじれそうな気がするのは、気のせいかな。

 でも他のみんなもどこか面白がっていて、止めようとはしない。俺もどうやって止めたらいいのかわからないし。

 なんだかやる気になったクレールに指示されて、俺は椅子を用意することになった。

「何が始まるです?」

 ナタリーが期待のこもった声で訊ねたけど、クレールは「んふ」と意味ありげな含み笑いをしただけ。そうなると、他のみんなは知るよしもない。

 大惨事……なんてことにならないといいけどね。

「じゃあレベッカとヴィカはそこに座ってね」

 いったい何をやるのか。俺はもちろん、当事者である四人ですら何も知らされないまま、ともかくクレールの指示に従った。

 横に二つ並べられた椅子の正面、十歩分ほど離れた場所に、これまたクレールの指示でペネロペとペトラが立った。

「補佐役としてはやっぱり相手の考えてることをくみ取る能力が大事だよね」

 クレールの言葉に、参加者たちが頷く。

 で、ペネロペとペトラは、その部分での優劣をはっきりさせたいと望んでいるわけだ。

 最初は手元に確保したお菓子の量を競っていて喧嘩になって、それで、次は?

「というわけで、伝心ゲームだよ!」

 ……やっぱり妙なことになったな……。

「ルールはねー、僕が描いた絵をレベッカとヴィカに見せます。二人はその絵の特徴を身振りで伝えて、ペネロペとペトラが、僕が描いた絵の題材を当てます」

 うーん。まあ、趣旨はわかる。確かに相手とうまく意思疎通ができれば有利だ。それは確かだ。

 でもこれって、二人が望んでたような勝負なのかな。遊んでるだけのような。

「あら、私とお姉様の絆があれば簡単ですわねー」

「負けない!」

 ……本人たちもやる気みたいだし、いいのか。

「じゃあ、絵を準備するよ。お題はー……ステラが決めて、まずは僕にだけこっそり教えてね。それと、えっと、ナタリーは執務室から紙とペンとインクを取って来てー」

 クレールに出題者として指名されたステラさんは、少しだけ斜め上を見上げるようにして悩んだ様子を見せたけど、そう長い時間じゃなかった。

 やがてナタリーから筆記具を受け取ったクレールは、ステラさんの口元に耳を寄せて、お題を受け取った。

「はいはい、あれね。それじゃー、えーっと、えーっと……」

 中庭のテーブルで、クレールがペンを走らせる。

 その間も、ペネロペとペトラは睨み合って、一触即発という状態。早く描き上がらないかな。クレールは鼻歌交じりで楽しそうにしてるけど……。

 やがて、クレールがペンを置いた。

「できたっ! それじゃ、レベッカとヴィカに見てもらうよ。言葉で伝えちゃだめだからね。身振りだよー」

 そう前置きして……

「せーの、じゃんっ!」

 クレールは、自分が描いた絵をレベッカさんたちに向けて広げて見せた。

 それを見た二人は……

 首を傾げて、怪訝な目で絵を見つめた。



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伝心

「……始める前に聞いておきたいのだけど、絵の題材がさっぱり意味不明な時にはどうしたらいいのかしら」

 言葉は禁止とあらかじめ言われたにも関わらず、レベッカさんがそう言ってしまう絵らしい……。

「えー、そう? そうかなあ?」

 クレールはもう一度自分の絵を見直して、こっちはこっちで首を傾げている。

 どんな絵なんだろう。ここからじゃ見えないけど。

「まあ、その時はー……勘で!」

 勘って。それ、ちゃんと勝負が成立するんだろうか……。

「みんなも考えてね。それじゃ、スタート!」

 その合図を受けて、レベッカさんとヴィカが両手を動かし始めた。二人ともあまり大きな動きはせずに、胸の前で何かの形を作ってみたりしてる。

 レベッカさんが首を傾げてるのは、先に言った通り、お題を理解しきれてないのかな。

 対するヴィカは、なにやら自信ありげな様子。

 でも……その二人の動きを俺が見てもさっぱりわからない。周りで見てるみんなもよくわかってない様子だ。そこはやっぱり、主従なり義姉妹なりの絆がないと理解できないんだろうか、とも思う。ただ、出題者として答えを知ってるステラさんまで小首を傾げているのが気になるな……。

「わかった」

 ペトラが言って、見守っているみんなから「おおっ」とどよめきが上がった。先んじられたペネロペは「なっ!」と呻く。

「はやいね! じゃあペトラの答えは?」

 クレールが訊ねると、ペトラは自信満々に回答。

「ステーキ!」

「全然違うねー。食べ物じゃないんだよー」

 残念。ペトラは「そんなはずない!」と抗議したけど、裁定は覆らない。

「ペネロペはわかった?」

 訊ねられて、ペネロペが頷く。レベッカさんはあまり自信なさそうだったけど、ペネロペは何かの確信がある様子……。

「正解は、パンですわね!」

「食べ物じゃないって言ったよね? はずれだよ!」

 ダメだったか。ペネロペは「ぐぬぬ」と歯ぎしり。

 この場合はどうするのかな。決着が付くまで続けるなら、次の問題が出ることになる?

 いや、その前に答え合わせか。

「正解はー……」

 クレールはそうやって少しもったいぶってから……

「じゃんっ! これ!」

 と、自分の描いた絵をみんなに大公開した。……したのはいいんだけど。

「……何それ」

 俺は、みんなを代表してそう言った。

 何か……端的に言うと、謎の黒い物体だ。

 まあ黒インクしかないから黒いのは仕方ないとはいえ。

 形は、そうだな、丸いものなのはわかる。何かの模様らしきものも描いてある。

 言われれば確かに、肉を焼いたものにも、パンにも見えるな。

 でも食べ物じゃないらしい。

 ……本当に、何なんだろう、これ。

「え。ねこだよ!」

 クレールがそう言って絵を頭上に掲げたから、改めてよく見てみる。

「……?」

 猫? これが?

 まさか竜気(オーラ)の影響とかで俺の目がおかしくなったのかと思って、一応、みんなの顔を見回してみたけど。

 なるほど得心がいった、なんて顔はひとつもなかった。

「……もしかして、僕のすばらしい絵がわからない?」

 クレールが、不満げな声でそう言ったけど。

「少なくとも猫ではないね……」

 俺としては、そう言うほかない。

 絵が得意でないのは個人の資質もあるしあれこれ言うつもりはないけど、この絵が他人にも伝わると思えるのはどういう心の働きなんだろう……。

「レベッカとヴィカは何だと思ってたです?」

 ナタリーがそう質問した。なるほど、それはちょっと気になる。

「悩んだのよね……。でも、最後にはパンだと信じて伝えたわ」

「ですわよね。お姉様のその意思は私にも伝わってきましたもの」

 レベッカさんとペネロペがそう頷き合った。

「私はステーキだと思いました。ペトラは私のことをよく理解してくれています」

「ほら! 私も合ってる!」

 こっちも、お互いの意思疎通はできてたってことになるな。

「なかなかやりますわね」

「ふんっ。お前もな」

 ペネロペとペトラはそう言葉を交わして、お互いの健闘を称え合った。その様子にみんなから拍手が起きて、ついには二人とも矛を収めるに至った。

 ちょっとした衝突はあったけど、このくらいならむしろ、お互いを知るいいきっかけになったかな。

 もしかして、クレールはこうなるところまで計算して……?

「……ねこなのに……」

 というわけでもなさそうだ。まだ自信を失った様子で立ち尽くしてた。

「そう気を落とさないでください。クレールさんの絵からはなんと言いましょうか、こう……どっしりとした安定感を感じましたよ?」

 ヴィカは笑顔でそう言ってクレールを慰めたけど、それって褒めてるのかな。

「この絵、頂いてもよろしいですか? 今日という日の記念品にしたいので」

 そこまで言うなら、ちゃんと褒め言葉だったんだろうな……多分。

 クレールは半ば自棄になった様子で「こんなのでよかったらどうぞ……」と絵を譲っていた。

 それにしても、互いの間に深い理解があれば、身振りだけでも結構伝わるものなんだな。

 ……俺はみんなとどのくらい気持ちを繋げられているだろう。

 みんなは俺を理解しようとしてくれてるけど、それに対して俺はどのくらいみんなのことを理解できてるか。

 同じゲームをやってみればわかるのかもしれないけどね。実際に確かめるのは、ちょっと怖くもあるな。

 それにしても。

「これ、絵にしなくても、レベッカさんとヴィカにはお題を直接伝えれば良かったんじゃない?」

 さっきのルールは、クレールの絵心という不確定要素がちょっと強すぎたよな。

「それは始める前に気付いて言って欲しかったよ……」

 そう言われてもね。

 結局これ、誰が勝ったのかはわからなかったけど……クレールが負けたのだけは、確からしい。

 

 ちなみにその絵はヴィカが本当にもらっていって――

 その日の夕食の席で、題名は『ステーキでもパンでもなくねこ』に決まった、と教えてくれた。



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猫の話

 ヴォルフさんの部下の騎士たちが到着し始めて、今やヴォルフさんも含めて五人。遅れてあと数人来るそうだけど、今回の主力はひとまずこんなものだとのこと。

 それを聞いて、午前中のうちに自警団の集会所に行ってきた。「数日間、ヴォルフ将軍が率いる雷王都市の騎士たちと共同訓練をしてもらうことになった」と伝えると、自警団の方からは少し困惑の声が出たけど、ヴォルフさんが俺の冒険の仲間だったことも明かすと、それならばと歓迎してくれた。一安心。

「なかなか、鍛えれば伸びそうなのもおるではないか」

「自警団の当番でない時は海で漁をしてる人たちですから。身体の丈夫な人が多いですよ」

「それならば下手に剣などを持たせるよりも、銛や投網を活かした戦技を磨くのが良かろうな」

 なるほど。俺も銛は考えてたけど、投網も武器にできるのか。

「街道警備隊に協力要請された時に恥ずかしくない程度には鍛えておかんとな」

「まあ、お手柔らかにお願いします。なり手がいなくなると困るので……」

 以前、ヴォルフさんから指導を受けたことがある騎士のメルツァーさんが「あのおっさんは鬼だぜ。訓練中の若者を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた奴をまた突き落とす」と、自分の体験談として語ってくれた。

 俺がその指導を受けることにならなかったのは良かったけど、自警団のみんなは耐えられるのかな。ちょっと心配だ。

 

       *

 

 ペトラとペネロペがお互いの忠義心を示すために対決した時、猫を題材に絵を描いたのはクレールだったけど、そのお題を出したのはステラさんだった。

 ステラさんは以前にも「村に猫のいる喫茶店が必要」と主張してたことがあったな。

 そして今は、庭に来た猫にエサをあげて、その様子を近くにしゃがみ込んで眺めている。

「猫、結構たくさんいるのね」

 そう言ったのはレベッカさん。確かに、見える範囲だけで五、六……七匹はいるな。

 レベッカさんたちが所属する自由と光の教団では、猫を神の眷属とみなしているらしいから、レベッカさんも猫は好きだと公言してる。

 ステラさんも、もしかしてそれで猫好きなのかな、と思ったこともあったけど……どうもそういうわけでもないらしい。ステラさんは教団の活動に対してわりと冷静だ。

「雷王都市ではあまり見かけなかった」

 と、ステラさんが呟いた。

 そういえば確かに、雷王都市にはあまり猫はいなかったな。ペットとして飼育されている猫はいたけど、基本は室内飼い。ずっと雨が降っているせいじゃないかって、ニーナは言ってたけど。

「ステラさんは猫がお好きなのですか」

 ヴィカが訊ねると、ステラさんは頷いた。

「ねこ……非常に興味深い」

 その言葉の通り、ステラさんはじっと猫を見つめている。猫の方はそんな視線を気にもせずにエサを食べてるな。よほど慣れてるのか、もともと図々しいのか……。

 その様子を見ていたヴィカが、ステラさんの近くにしゃがみ込んで、一緒に猫を観察し始めた。

「私の実家にも何匹かおりまして。勝手に住み着いてしまった子たちなのですが人によく慣れていて、すり寄ってくるのがかわいらしいのです。父は最初の内にはうっとうしがっていましたけど、しばらくするとすっかり猫のとりこになってしまわれて、今ではどちらが館の主かわからないくらい。先日は絵画の題材にしようとアトリエに呼びつけたのですが、猫が来るはずもありませんよね。仕方なく、父の方が画材を抱えて猫のところへ出向いていました」

 ヴィカのお父さんっていうと、王様だよな。王様より偉いのか。猫は皇帝だった……?

 それを聞いて、レベッカさんは苦笑していた。

「そういうのってどこでもある話なのね。大教会でも多くの猫が飼われていたけれど、その内の一匹がよりによって教皇聖下のお祈りの時に祭壇に登り上がって……聖下はそれにお気付きにならないで、まるで猫に向かってお祈りしているみたいに……」

 皇帝をも超えて神にまでなったのか、猫は……。

「あの時はみんな笑いを堪えるのに必死だったけど、まだ我慢してたのよ。なんとかね。でもお祈りを終えられた聖下が、一旦はそのまま祭壇を降りようとされたのに『えっ』ていう感じに振り返って猫を二度見してしまったから……」

 それは俺も、その場にいたら笑わない自信はないな。

「猫はかわいいです。ステラさんも、それで猫好きに?」

 ステラさんはヴィカからそう訊ねられて、小さく頷いた。

「理由のひとつ。しかし、それだけではない」

「他にも何か、特別な理由があるんですか?」

 その質問にステラさんはしばらく無言でいたけど、ヴィカが返事を待ってじーっとステラさんを見つめているのに耐えきれなくなったのか、やがて小さな声で答えた。

「……私が森に捨てられたとき、ねこが私の近くに来て鳴いた。そのおかげで、師匠が私を見付けた。そうでなければ、私はあの森で死んでいた。ねこ、恩がある」

 その話、俺は以前にも聞いたことがあるな。

 不思議な話だと思う。ヴィカはそれが本当のことなのかどうか、判断を下せないでいる様子。

 対してレベッカさんは、微笑を浮かべている。

「それって、大教会では『猫の導き』と呼ばれてるものね」

「猫の導き?」

 俺が聞き直したら、「ええ」と頷きが返ってきた。

「天命都市が今の場所にあるのは、猫が聖者を導いてきたからなの。〈天命の聖者〉は南方大陸の生まれでね。猫が導くままに船に乗って、後に天命都市になる土地までやってきたの。当時は草も生えないような荒れた丘だったらしいのだけど、猫がそこで立ち止まって鳴いたから、そこに教会を建てて、それが大教会の始まり」

「そんな伝説があるんですか」

「それ以来もう千年くらい、教団の聖職者たちは猫を追い続けているわ」

 そこだけ聞くと、大教会って猫好きが作った同好会なのかって印象を受けるなあ。

 そういえば、俺が持ってる魔法の羅針盤にも黒猫の意匠がある。もしかすると、そういう伝説を元にして作られた物だったのかもしれないな。今のところ、詳しい由来もわからないから調べようがないけど。

「猫の導きがあったのなら、何かが違っていれば、ステラも教団の聖職者になっていたかもしれないわね」

「興味がない」

 ステラさんが聖職者になっていたら……うーん、あんまり想像できないな。

 話を聞いた限りでは、聖職者って冠婚葬祭を取り仕切ったりをはじめとして、やっぱり人と関わることが多いから、人好きというか世話焼きというか……他人と関わるのが好きな人でないとやっていけないんじゃないだろうか。

 ステラさんには無理……とまでは思わないけど、少なくとも、得意な分野ではないような気がする。

「あの……森に捨てられた、とは……」

 ヴィカが、猫の話から少し戻って、ステラさんの話を蒸し返した。

「言葉の通り。親に捨てられた」

 それを聞いたヴィカは言葉を失っていた。

 確かステラさんは……その黒髪と赤い眼が両親のどちらとも似ていなくて、そのせいで、両親から疎まれて育ったらしい。

「……苦労されたのですね」

 ヴィカは、やがてそう言ったけど……。

 前に聞いた時には、両親を恨んではいないと言ってた。立って歩いて話せる歳までは育ててくれたから、って。むしろ、その対価を払えないままでいることが心残りなんだそうだ。

 ステラさんは猫から顔を上げずに、ヴィカに答えた。

「そのおかげで師匠と会った。リオンとも巡り会えた。……それで良い」

 ステラさんの師匠は〈西の導師〉っていう有名人だからともかく、俺と会ったことをそこまで重大事にしてもいいんだろうか。

 でも、ステラさん本人が納得してるなら、俺が「それは違う」なんて言っても仕方がないか。

「天命、というものなんでしょうね」

 レベッカさんが大教会の言い回しでそう結論すると……

「そうかもしれない。そうでなければ、奇跡というものだと推測される」

 ステラさんにしては珍しく、説明できないものを説明できないままに受け容れていた。

「……ねこの存在も奇跡」

 まあ、この館には猫好きが結構いるよな、っていう話。



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魔剣王の末裔

 エサをもらっていた猫たちが毛繕いまで済ませて去ってしまった後、裏庭には穏やかな空気が流れていた。

 今日はもう急いでやるようなことはない。もちろん、明日以降にやる予定のことをいくつか前倒しでやってもいいけど、そこまで勤勉でなくても暮らしていくことはできる。

「やはり日が差していると暖かくていいですね」

 気持ちよさそうに目を細めていたヴィカがそう言った。

 ヴィカは雷王都市の人だから、なおさらそう思うのかもしれない。あそこはずっと雨が降ってるし。そうでない時も少しはあるけど、降ってないというだけで曇ってはいて、日が差すなんてことは滅多にない。それこそ、雷王都市に太陽の光が差すのを見られたら願いが叶う、と言われてるくらい。

 それで、ヴィカはニーナからひとつ注意を受けてたな。あまり日光を浴びないようにって。雷王都市での暮らしが長い人ほど、日焼けの苦しみが重いんだそうだ。ヴィカはそれを聞き入れて、庭にできた木陰で休んでいる。

「……そういえば、ペトラを見かけないけど、どうしたんです?」

 さっきからどうも穏やかだと思ったら、そういうことだった。あの子がいると俺はずーっと睨まれてるからな……。

「ニーナさんとナタリーさんに誘われて、食材を採りに行くと言っていましたよ」

 そういえば……ニーナとナタリーがそうするっていうのは、朝食の席で聞いてたけど。それについていったのか。

「いいんですか? 侍女なのに傍に居なくて」

 訊ねると、ヴィカはやんわりと笑った。

「ペトラは私のことをよく気にかけてくれていますけど、せっかく旅行に来たのだからあの子ももう少し気楽に羽を伸ばしたらいいのに、と思っていましたから。そこにちょうどお誘いがあって、いい機会なのではないかと思いまして。それで送り出したのです」

 なるほど。確かに、早々にここに馴染んでくつろいでるヴィカと比べて、ペトラはどうも気を張ってた感じはあった。侍女にだって休暇は必要だろう。

 とはいえ、ニーナやナタリーと一緒に食材を探すって。あの二人はその達人だから、ついていくのは結構大変なんじゃないかな。

 俺がそんな風にペトラの心配をしていると……

 ふと、ステラさんが顔を上げた。そして。

「来た」

 短く、そう言った。

「何が?」

 レベッカさんがそう訊いたのに対して、ステラさんの答えは、これもまた短い。

「たのもう」

 レベッカさんとヴィカはいまいちピンと来ないという顔だったけど、俺は「ああ……」とため息。

 それからしばらくもしないうちに、答え合わせ。

「頼もう! こちらに竜牙の勇者がお住まいと聞いて参った! それがしと勝負してもらいたい!」

 前庭の方から、野太い大声が届いた。

「……時々来るな、こういう人。何人目だったかな」

 吟遊詩人が俺のことを題材にした詩歌をいろんなところで披露してるのは知ってる。人間だけでなく悪竜にまで名前が知られるくらいだから、ところかまわず、というくらいなんだろう。

 そして、それを聞いたうちの何人かが、俺の居場所を突き止めてまでやってくるようになった。俺を倒せたら自分の名声が高まる、ということらしい。

 えーっと……多分、四人目くらいだ。まだ片手で足りるくらいか。

「どうするのですか?」

 ヴィカはちょっと面白がって俺に訊いたけど……

「断ろうかと。ああいうのの相手もそろそろ飽きてきたし」

 この大災厄の時代に、本人の腕前だけではまだ名前が知られていなくて、俺を倒して一発逆転だか一攫千金だかそういうのを考えるくらいの相手だから、あんまり強い人じゃない、という感じ。

 今はまだ時々で済んでるけど、相手をしていたらいずれもっと増えそうな気がするし、構わないで追い返した方がすっきりするよ……とクレールが言ってて、それもそうだと思ったんだよな。

 相手がクルシスくらいに強ければ、俺としても少しは面白く感じるんだろうけど……

 と思っているうちにも、相手は声を張り上げている。

「それがしは魔剣王の剣技、魔閃一刀流を修め、流派の最高師範! つまりそれがしこそが魔剣王の剣技の正統な継承者!」

 そこまで聞いて、俺が思ったのは……

「あ、まずい」

 ということだった。

 レベッカさんとヴィカが「ん?」と首を傾げる。

 でも、詳しく説明している暇がない。というか、なくなった。追い返すにしろ、挑戦を受けるにしろ、すぐに行かないと。木剣は……手元にはないな。話をつけてから、必要なら用意してもらおう。

 駆け出すと、レベッカさんが追いかけてきた。俺の顔を見て、ただ事ではないと思ったのかもしれない。

「いろいろ、でっちあげの嘘っぽい肩書を名乗る人は今までもいたけど、魔剣王のだけはまずいんです。止めないと」

 正門に向かうまでの間に、レベッカさんに最低限の事情を説明した。

 レベッカさんは少しだけ戸惑った様子だったけど。

「え。魔剣王って確か、クルシスの……」

 レベッカさんのその呟きが終わる前に、俺たちは前庭に到着した。そして……

「ほう。魔剣王の剣技の正統な継承者、と?」

「いかにも!」

 前庭の中央あたりで相対する、挑戦者とクルシスの姿を見付けた。

 ……遅かったか……。

「嘘だな」

 クルシスが、嘲弄を含む声音でそう言った。それはそうだ。気持ちはわかる。

 だからこそ、クルシスより先に来たかったのに……間に合わなかった。

「嘘ではない! それがしは魔剣王の剣技、魔閃一刀流の最高師範!」

 挑戦者の男は、長身のクルシスよりもさらに頭ふたつくらい大きい。ヴォルフさんよりも大きいくらいで、それなりの威圧感はある。

 でも、自分が魔剣王の剣技の正統な継承者だなんて、魔剣王の末裔であることに並ならぬ誇りを持ってるクルシスの前で言っちゃいけない……。

「え、なに? なにが始まるの?」

 騒ぎを聞きつけて、クレールがやってきた。少し遅れて、俺を追いかけてきたステラさんとヴィカも合流。

 その俺たちが見守る前で、クルシスが魔剣を抜いた。

「ひっ……!」

 息を呑んだのは誰だったか。クルシスの魔剣を初めて見るヴィカかな。

 そのくらいの魔性がある剣だ。鞘から解き放たれただけで、それは甲高く哭き、周囲にまるで真冬のような冷気を撒き散らした。それは白いもやになって、クルシスの足下をすうっと流れていく。

 今はクルシスが味方だからいいけど……

 この魔剣〈極北の魔神〉を手にした剣鬼と戦った時は、俺もものすごい恐怖を感じたな。乗り越えたと思った今でも、この魔剣が哭く声を聞くと身震いがする。

 今回の挑戦者は……特に何とも感じていないみたいだ。魔剣の恐ろしさに気付いていないのか、それとも、俺の予想以上にとてつもなく強くて気にならないのか。

 いや、そんなことはどうでもいい。止めないと。

 そう思って一歩踏み出すと、クルシスの視線がこっちを向いた。

 ……うーん。

 止めるな。任せておけ。心配するな。……と、そんな感じの意図を受け取った気がする、多分。

 それで俺の足は止まった。

 ここはクルシスを信頼するか。……もし最悪の事態になったら、レベッカさんに葬儀をお願いしよう……。

「ならば勝負。私を倒せれば、リオンへの挑戦を認めよう」

 クルシスがそう言うと、相手は笑った。

「ムッハハハ! 二言はないな?」

「ない。ただし、私が勝ったら貴様には先程の肩書を名乗るのをやめてもらおう」

 そう言う間もクルシスの姿勢は変わらない。まだ構えてはいない。ただ、その全身からゆらりと闘気(フォース)がにじみ出て、魔剣の冷気は足下で渦を巻き始めた。

「よかろう! それがしが勝つに決まっているがな! なにせそれがしこそ、魔剣王の正統な――」

「それはもういい。さっさとかかって来い」

 少しうんざりした調子の声で、クルシスは相手の口上を遮った。

 挑戦者は少し気分を害した様子だったけど、すぐに気を取り直して、腰から左右一振りずつの剣を抜き放ち、二刀流に構えた。

 ……さっき、一刀流って言ってなかった?

「では行くぞ! 魔閃一刀流奥義、魔閃両翼撃! どりゃああああぁぁぁぁ!」

 大男がそう雄叫びをあげながらクルシスに向かって突進し、左右それぞれの手に持った剣を翼のように広げて跳び上がった。

 

 結果から言うと、相手は見かけ倒しだった。

「貴様は生涯二度と魔剣王の名を口にするな。名が穢れる」

「もう聞こえてないと思うよ」

 男が左右に持ってた剣はクルシスの一太刀で粉砕され、きらきらした氷の粒になって散った。続くもう一太刀で、本人は前庭から正門を越えて外までぶっとんでいった。

「……死んだ?」

 クレールがそう訊くから確かめに行ったけど、どうも死んではいないみたいだ。白目を剥いて泡を吐いて失神してはいるけど。

 クルシスなりに手加減したってことなのかな。魔剣の刃で直接は斬らずに、魔剣を通して冷気を帯びた闘気(フォース)をぶつけたみたいだ。言うのは簡単だけど、相当に繊細な制御が必要な技だと思う。

「殺すほどの価値もない」

 偽物に対して、本物としての矜恃を見せつけた、ということになるのかな。



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ブランシャール家

「よりによってクルシスがいる時に魔剣王の名前を騙るなんて、馬鹿なことしたな」

 俺は失神した挑戦者を通行の邪魔にならないところに引っ張っていって、一応〈回復(ヒーリング)〉の法術も施しておいた。今日は天気もいいし、戦技はともかく身体は丈夫そうな人だ。あとは放っておいてもいいだろう。

「もしかしたらこの人も師匠から言われて信じてただけかもしれないけどね。もっと言うと、その師匠もさらにその師匠から……」

 クレールが可能性を口にしたけど、クルシスが遮った。

「いずれにしろ不愉快だ。魔剣王の剣技は一子相伝。父はすでに亡く、継ぐのは今は私だけだ」

 クルシスと双子の剣鬼が争ったのもその一子相伝の掟のためだった、とは、以前に聞いた。どちらかが死ななければならない、という中で、クルシスは二度も瀕死の重傷を負った。

 もしかしたらそれは――つまり、二度も機会がありながらとどめを刺さなかったのは、剣鬼なりの兄弟愛だったのかもしれない、とも、思うけど。

 それにしても。

 ……一難去ってまた一難、というものか。

 どさっ、と音がしたから視線を向けると、ペトラが立っていた。足下には、見付けてきた食材が入っているらしい袋。これが落ちた音だったか。

「魔剣王、と言ったか……?」

 低い声。そして、すごい形相だ。俺がヴィカと話している時に「田舎貴族がヴィカ様に慣れ慣れしくするな!」と言ってくる時よりも、もっと強い……何か憎悪のようなものを感じる顔で、ペトラがクルシスを睨んでいた。

 かと思った次の瞬間。

「くたばれ魔剣王!」

 懐から取り出した細身のナイフを続けざまに三本、ペトラがクルシスに向かって投擲した。お姫様の侍女だからかそれなりの技量には見えるけど、もちろんそのくらいの技がクルシスに通じるはずはない。

「……いきなり、何だ」

 事も無くすべてを最小限の動きで避けたクルシスが訊ねると……

 ペトラが絶叫した。

「魔剣王のせいで私がどれだけ苦労したかわかってるのかーっ!」

「わからん」

 クルシスの返事はいくらなんでもあっさりしすぎとはいえ、確かにペトラが言っていることはよくわからない。

 とりあえず近くに居た俺がクルシスとペトラの間に入って、ペトラの行動を封じた。

「このっ! はなせ! どこ触ってる、この変態!」

 ……誤解を招くような言い方はやめてもらいたい。変態呼ばわりされるようなところには触れてないはずだ。

「どうしたのです、ペトラ。貴方らしくないですよ」

 ヴィカが駆け寄ってきて訊ねると、ペトラは一旦、暴れるのをやめた。興奮はまだ冷めたとは言えないけど、ヴィカの言葉なら聞くだろう。

「止めないでください。私は魔剣王を倒さなければならないのです」

「まずは理由を話してくれますか?」

 言われて、ペトラは言葉を詰まらせた。目の端にはじわっと涙が浮かぶ。

「話せば長くなるのですが……私の家はかつては貴族だったのです。それが、魔剣王のせいで廃爵に……」

「あらあらまあまあ」

 本人が言うほどは長くなかった。

 没落貴族の出身なのか。表情を見る限り、ヴィカもそのことは知らなかったみたいだ。

 ……でも、あれ?

「魔剣王のせいって言うなら、二百五十年くらい前のことだよね?」

 クレールが首を傾げながらそう言った。

 その計算で合ってるはずだ。クルシスは魔剣王本人じゃなくて、あくまで魔剣王の子孫。魔剣王がいたのは前の大災厄の時代。かなり昔だ。ペトラの家が没落したっていうのも当然、大昔。

「あの魔王さえいなければ私も、私ももしかしたらお姫様に……うわーん!」

 ついに膝をついて泣き出してしまった。

 でも、その言い分はどうなんだろう。仮に貴族だったのが確かな話として、ペトラがお姫様になるってことがあるのかな。元は王族に近いくらいの家柄だったんだろうか。それとも、貴族のお嬢様ならみんなお姫様、という程度の話かな。

「ちなみに、どこの家?」

 クレールにそう質問されると、ペトラは涙声で返事をした。

「……ブランシャール家……」

「え。……知らないなあ」

「きー!」

 クレールは貴族家については結構詳しい方だと思ってたけど、知らないのか。すると、そう有名な家系ではないのかな……。

「……かつて芽吹きの街道にある白風の町周辺を領地としていた子爵家。そのはず」

「そう! その通り!」

 うーん。相変わらず、ステラさんは何でも知ってるな……。

 子爵というと今の俺よりひとつ上の爵位か。貴族なのは確かだけど、王族とはまだまだ隔たりがあって……大陸にはそのくらいの貴族はそこそこいる、という程度の家柄だ。

 とはいえまあ、二百五十年くらい前にそれなら、その家系が現代まで貴族として続いてれば有力貴族になってた可能性はあるかもしれない。

「あれ、白風の町のあたりなら僕の実家とも近いね」

 ええっと……クレールの実家はここから北西にある輪廻鳥の街にあって、芽吹きの街道はそれより東だから、白風の町はここからだと北北西ってところか。近くはないけど、想像はできるくらいの範囲だ。

「……でも知らないなあ」

 クレールがそう追い打ちを掛けると、ペトラは「ぴきー!」と、怒りとも哀しみともつかないような声で泣いた。

 

 自分の侍女がしでかしたことで大変ご迷惑を……と、ヴィカは申し訳なさそうだったけど、みんなもヴィカのせいだとは思ってない。そもそもペトラのこの突然の襲撃については、標的になったクルシスが「どうでもいい」って態度だったから、何にせよ重い処罰にはならない。

 ただ、だからって何の咎めもなしというわけにはいかないから、浴室の掃除をしてもらうことにはなった。もちろん、普段の掃除当番がやってるよりもしっかり徹底的にやれということだから、そこそこ重労働なのは確かだ。

 一応、ヴィカがそれを手伝おうとしてたけど……あの顔は多分、庶民がやる風呂掃除というものを一度体験してみたかった、って感じかな。

 結局、当のペトラに断固反対されてしょんぼりしていた。



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さまよえる砂海人

「ブランシャール家、ですか。聞いたことがありますわね」

 夕食の席で昼間のペトラの奇行が話題になった時、ペネロペがそう言った。

 ペネロペはあの騒動の時には書庫にいて、ミリアちゃんと一緒に本を読んでいたそうだ。それで、そんなことがあったのを今ようやく知ったらしい。

 で、その件の感想が、それ。

「私も聞いたことある気がしていたのだけど、いつどこで聞いたのかしらね。こう、喉のあたりまで出かかっているんだけど、どうもはっきりしなくて」

 レベッカさんが首を傾げると……

「有名なんだよ! ブランシャール家はみんなが知ってるくらいの名門なの! 田舎変態貴族の仲間たちはこれだから! その点、ペネロペはよくわかってる。さすが私のライバルなだけある」

 ペトラは立ち上がってまでそう主張したけど、その言い分は誰も信じてない様子。ヴィカからは「ペトラ」と叱責されて、しょぼんとした顔で座り直していた。

 それにしても、俺のことを言うのに変態ってつけるのやめてくれないかな……。

「お姉様。きっと『さまよえる砂海人』のお話だと思いますわ」

 ペネロペがそう指摘して、レベッカさんも「ああ」と得心がいった様子を見せた。

「知らないけど、どんな話なんです?」

「僕も知らない」

 俺とクレールがそう言うと、なんとステラさんも小首を傾げた。ステラさんも知らないってことは、よほど知られてない話なんだろうな。

「私は聞いたことがあるような気がするね。旅の途中で聞いたから……そうだね、おそらく天命都市のあたりの民話なのではないかな?」

 そう言ったのはフューリスさん。なるほど、一部の地域でしか知られていない話なのか。それならステラさんが知らないのも納得だ。

「ペトラはその話を?」

「知らない。でも、何かすごくためになるいい話なんだろ? それはわかる」

 そうかな? まあ、そういう冗談が言えるくらいには打ち解けてきた、ってところかな。それはいい徴候だ。……本気で言ってる可能性もなくはないけど、冗談だよな?

「私も他の子から聞いた話だから、細部は間違っているかもしれないけど」

 そう前置きして、レベッカさんが語るには……。

「確か……その『さまよえる砂海人』は、風の魔神を罵ったことで呪いをかけられていて、故郷に帰れないでいるのよ。その呪いを解くためにいけにえの女の子を探しているのね。それで、女の子が夜にひとりで外を歩いているとその怪人が声をかけてくる。『お前はブランシャール家の者か?』って。すぐに否定すると何もせずに去って行くんだけど、答えに迷ったり、肯定したりすると――」

「ど、どうなるんだ?」

 青ざめた顔でペトラが訊ねる。

「……声を取られるんだったかしら?」

 レベッカさんがペネロペに確認すると「はい」と頷きが返った。

「さまよえる砂海人が連れている犬が、にわかにサソリの正体を現して、その毒針で声を奪うのだそうですわ。するともう一生、喋ることができなくなってしまうのだとか」

「そうそう。そうだったわね」

 話を続けたペネロペに、レベッカさんが相槌を打った。

 うーん。ペトラが期待したような『ためになる話』ではなさそうだな。

 不気味な怪人に、わけのわからない問いかけ、そして理不尽な結末――完全に怪談だ。

「もし出会ってしまったら、聖ルクレツィアの名前を三回唱えると砂になって消えてしまうそうです」

 対処法もわけがわからない……と思っていると。

「聖ルクレツィアは歌の守護聖人ですから」

 なるほど。一応、それっぽい由来はあるのか。とはいえやっぱり怪談には違いない。

「女の子の一人歩きに注意を促すための作り話だと思ってたけど、何か元になった出来事があったのかもしれないわね」

 レベッカさんが言うのは、確かにありそうな話。

 そういえば俺も子供の頃はいろいろ怖い話を聞かされたな。森に潜んでる〈かみなりねずみ(サンダーラット)〉の話とか、川の深いところにいる〈お堀の怪物(モートモンスター)〉とか……子供が勝手に立ち入ると危なそうな所には、大抵何か怖いものがいるってことになってた。

 ……まあ、それが魔獣なら今の俺だったらたぶん倒せるんだけど。

 そう考えると、意味がよくわからないままの怪談の方が怖いな。

「天命都市みたいに大教会の影響が強いところでも、やっぱり夜の一人歩きは危険なんですか」

「それは、そうよ。性根の悪い人間は『大教会のお膝元でまさか』って油断してる人を狙うんだから」

 卑劣だなあとは思うけど、悪人の言い分は「油断してる方が悪い」ってところだろう。いつどこにだって悪人はいる、と思って自衛するしかない。

「その悪漢が件の怪人に襲われたら、なかなか楽しい見世物になるだろうにね」

 フューリスさんの仮定は、確かにちょっと面白い。

「何が出ようが、襲ってくるなら斬り捨てるだけだ」

 クルシスはすぐに剣に頼りすぎだな……。

「毒針ってことなら〈解毒(アンチドウテ)〉の法術でなおせるんじゃないかなっ?」

「形態は毒針だとしても、それによってもたらされる効果は呪いの一種と推測される」

 ミリアちゃんとステラさんは真面目に考察してるし。

 そんな風にみんながわいわいと話していると……

「聖ルクレツィア様、聖ルクレツィア様、聖ルクレツィア様……」

 歌の守護聖人だというその名前を必死に呼ぶ声が聞こえてきた。

「……ここには出ないと思うよ、その怪人は」

 ニーナが声をかけると、涙目のペトラが絶叫した。

「だって私、正直に答えたら危ないじゃないか! とっさに唱えられるように練習しとかないと!」

「あらあらまあまあ」

 ……まあ、練習しても使う機会はないと思うけどね。

「でも、その怪人がいけにえとして探してるのがブランシャール家の娘さんなのはどうしてなんですか? もしかして、何か特別なちからのある家系なんでしょうか」

 マリアさんがそう疑問を口にした。ただ、レベッカさんは少々困り顔。

「さあ、そこまでは……」

 元々、詳しくはないと言ってたしね。

「そうか! その怪人、実はなかなか見る目があるやつなのかも!」

 ペトラのその希望的観測を、ペネロペが即座に否定した。

「傭兵として戦った給金を払ってもらえなかったことの恨みだとか聞きましたわね」

「そんな理由、美しくない……」

 そう言ってがっくりとうなだれたペトラにとって、今回の話は結局、追い打ちにしかならなかったみたいだった。

 でも、悪いことばかりでもなくて。

 夕食後にペネロペのところに行ったペトラは、歌の守護聖人について熱心に訊ねていた。ペネロペの方も、あの子は元々から聖ルクレツィアに憧れてるとかで、二人で盛り上がったみたいだ。

 あとは、俺を変態呼ばわりするのをやめてくれればなあ……。



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食事会への招待

 ヴィカとペトラもだいぶこの館に馴染んで、まあ楽しそうに過ごしてる。館のどこに何があるのかもだいたい理解したみたいで、あれこれ訊ねられることも減って、手がかからなくなった。

 そんな頃の、朝食後。フューリスさんがニーナを呼び止めて……

「ああ、ニーナ。今夜は外で食べてくるから、私の夕食は用意してくれなくて構わないよ。私と、それからクルシスもだ。そうだね?」

 そんなことを言った。クルシスも「ああ」と頷いている。

 この二人は元々わりとふらっと出かける方ではあるけど、だから逆に、わざわざ告げるのは珍しい気がするな。

「外で? 酒場にでも行くんですか」

 俺が訊ねると、フューリスさんは「うん」と頷いた。

「ここしばらくは食卓にも人数が増えて、賑やかな反面、ニーナは準備が大変そうだろう? そんなことをメラニーと話していて、それならたまには外でお酒をメインにするのもいいだろうということになってね」

 確かに、春になってからレベッカさんとペネロペが来て以降、急に人が増えたよな。みんなも少しずつ、例えば洗濯はクレールとミリアちゃん、掃除はステラさんにレベッカさんとペネロペ、料理は下準備だけではあるけど俺やナタリーが手伝いには入ってる。

 料理に関しては「大鍋で作ってるから人数が増えてもそんなに違わないよ」なんて言ってたけど。

 改めて考えるまでもなく、ニーナの負担が大きいのは間違いない。

 それを軽くすべく……というのは、理解できる動機だ。

 で、フューリスさんだけならそれが一番の理由だと納得できるけど……

 話に出たメラニーって、親方なんだよな。それを考え合わせると、お酒をメインにする、っていうのが一番の理由かな……。

「他にはネスケとヴォルフ将軍も来ると言っていたね。君も参加するかい? もちろん、お酒は無理に飲まなくてもいいし」

 ええと……フューリスさん、クルシス、それに親方と、ヴォルフさんと、ネスケさんか。親方とネスケさんが一緒なところに、何か混ぜちゃいけないものを混ぜてしまった感じがあるけど……。

「たまには酒場の料理もいいかな?」

「いいと思うよ。何か美味しい料理が出たら教えてね。参考にするし」

 ニーナからもそう後押しされた。

 すると、クレールやナタリーも一瞬、行きたそうにして見せたけど……

「リオンたちが出かけて館にいない分、残る人はいつもよりたくさん食べられるね」

 そう言われて留守番を決断していた。

 ニーナの料理は実際、少し前と比べてもさらに腕が上がっていて、雷王都市の王女であるヴィカもとても気に入ってる、というくらいの味。それをお腹いっぱい食べられるとなれば、ものすごい贅沢だ。

 ただ、ミリアちゃんやナタリー、それにステラさんがお酒を飲めない歳なのもあって、お酒は控えめにしか用意されていない。その点は、フューリスさんには物足りないかもしれないな。それで、今回の話になったんだろう。

 俺はそんなにお酒を飲むわけじゃないけど、せっかく久しぶりに会ったヴォルフさんがヴィカに遠慮してるのか村の方に留まってるから、それならこっちから行くのもいいか、とまあそんなところ。

 酒場の料理も、若干酒飲み向けの味付けになってるらしいとはいえ、それはそれでなかなか美味しいし、楽しみにしておこう。

 と、そんなことを考えていると……

「私も行く」

 小さいけどはっきりした声が聞こえて、俺は「えっ」と声をあげてしまった。

 見れば、小さな手が俺の服の肘のあたりを掴んでいる。その手の主を辿ると、いつの間にか近くに来ていたステラさんが、いつものように表情の読みにくい顔で俺を見ていた。その赤い瞳はじっと俺の目を見ていて、何だろう、何かを試されているような気がするな。

「……ステラさんはお酒飲める歳じゃないでしょう」

「リオンが酔った場合に帰り道の案内役が必要。そのはず」

 うーん。俺がそこまで酔うとは思えないし、ステラさんもそれはわかってるはずだ。だから、ステラさんにしては珍しく的外れな主張をしてるな、とは思う。

 ただまあ、もちろん、俺もこのくらいのことを察せないほど鈍くはない。

「ふふ。君のことを心配しているのだよ。意地悪せずに連れて行ってはどうかな」

 フューリスさんがそう言ったのは、さて、誰への配慮だったのか。

「別に意地悪してるつもりじゃないですけど……」

 ステラさんはどうしても一緒に行きたいらしい、というのは、若干無理矢理な反論をしてきたことで理解した。フューリスさんが言うように、ステラさんが俺のことを心配してるってのも、半分は合ってるだろう。

「……うーん、まあ、わかりました」

 元々、どうしてもステラさんを連れて行きたくないって理由はない。あんまり反対したらそれこそ意地悪になってしまうな。

 ステラさんが本当に心配してるのは、俺の自惚れでなければ、フューリスさんによる抜け駆けのことだと思うんだけどね。もちろん、わざわざステラさんが監視してなくても妙なことにはならないと思っているけど、それを俺から言い出して勘違いだったら恥ずかしいから、黙っていることにする……。

 

       *

 

 昼の内に、クレールやステラさんと領地運営のことについて話し合い。

 夏にやる予定の港の整備について、資材の調達が順調なことと、建設のための職人さんは、隣町の仲介屋に募集を依頼したことも併せて報告された。結構大人数になるけど、村にいくつかある空き家を臨時の宿泊所にする予定で親方とも話はついてる。

 一区切りしたところで、俺とステラさんは予定通り、酒場に向かうことにした。フューリスさんとクルシスも探したけど、どうも先に行ったらしかったな。

 酒場に着いた時にもまだ日は沈んでいなかったけど、中はもう賑やかだった。

 入ってみれば見回すまでもなく、大柄なヴォルフさんが目立っていたから、見付けるのは簡単。奥の方の半個室みたいになってる席に、ヴォルフさん、クルシス、フューリスさん、それに親方とネスケさん。五人はすでに来ていた。俺とステラさんが最後だったみたいだ。そして特に俺たちを待っていた風でもなく、もうみんな飲んでる。

「やあ、来たね。大皿でいろいろ頼んであるけれど、他にも何か頼むかい?」

 そう言ったのはフューリスさん。確かに、テーブルの上には所狭しと様々な料理が並んでる。海の幸が多いな。エビもカニもあるし、スープは魚介類のごった煮。それにもちろん、村の名産である牡蠣。

「これだけあれば俺は十分かな。ステラさんは?」

「問題ない」

 壁に据え付けられた長椅子に座ろうとすると、二人が入るにはちょっと狭かった。何しろすぐ隣になるヴォルフさんが大きいし、元々、三人ずつが向かい合わせに座る席だ。椅子ひとつを隣のテーブルから借りてきて、ステラさんはそれに座ることになった。

 その頃を見計らったかのように、酒場のマスターが濡れタオルを持ってきてくれた。この人は先々代の領主の頃は家令だったという人で、そう思って見ると、確かに動きが洗練されてる感じがする。お礼を言って受け取ると「どうぞごゆっくり」の言葉も置いていってくれた。

「それじゃ、はやく続きを話してくれよ」

 そう言ったのは親方。視線はフューリスさんに向いている。どうやら今はフューリスさんのこれまでの旅のことが主な話題らしい、ってところかな。

「さて、どこまで話したかな? ……ああ、そうそう。賭場で連戦連勝の大儲けをしていた男のことだ。それだけならば、ああ幸運の女神とは気まぐれなものだ……なんて噂になるだけで済んだのだけれどね。それが四日、五日と続くとさすがに怪しい。しかも、アルカナ札を使った賭けにしか乗ってこないとなれば、皆がイカサマを疑うのも無理もないところだね。けれどね、横で見張っていても、後ろで見張っていても、身体検査をしてさえ、そいつは何も怪しいそぶりはない……と。そうなってしまってから、私が呼ばれた。私はそれ以前にもその賭場での不正行為を見破ったことがあってね。それで相談されたのだよ。それならば、まあ見てみようということになって、後ろからその彼の手元を見ていたのだけど。タネを明かせば簡単なものだったよ。役が揃った状態の札を隠し持っていて、途中ですり替えていたんだ」

「しかし、その程度なら他の者が調べた時にでも見付けられたのではないか?」

 フューリスさんの話を、エビのフライを食べていたヴォルフさんがそう指摘した。そんなに大きなエビではないとはいえ、ひとつ丸ごとを口に放り込んでバリバリというのは、ヴォルフさんらしい豪快さだ……。

「みんな服の袖、靴の中、下着の中までも熱心に調べていたらしいけどね。見付けられなかった」

「じゃー、どこに隠してたんだ?」

 親方が聞くと、フューリスさんは神妙な顔つきで返した。

「頭だよ。フサフサの髪の毛は、これが実は精巧なかつらでね。それとツルツルの頭皮の間に、秘密のポケットがあったのさ。そこから出し入れするのは、なかなかの奇術師ぶりだったとは思うけれどね」

「あっはっは! ひでーなそれ! ひでーイカサマだ!」

 大笑いする親方に、ネスケさんも同調。

「不正はらめれすよねぇー! 不正をあばくのもきしゃのしごとれすからぁ、めもめもれす!」

 予想はしてたけど……ろれつが怪しい。手帳に何か書き込むようなしぐさはしてるけど、後で見返した時に読める字を書いてるかどうかは不明だ。

「ネスケさん飲み過ぎじゃないかな」

「酔ってないれしゅよぉ!」

 俺の指摘に、ネスケさんは真っ赤な顔で即座に反論してきた。具体的な証拠はなくて、本人の主張だけだけど。

「……そうですか。俺にはいつもよりさらに飲み過ぎてるように見えるんですが」

 まあ、酔ってる人が自分から「酔ってしまった」とは、なかなか言わないかな。あれがどうしてなのか、俺にはまだよくわからないけど。

「……ひっく。……酔って……ないれしゅ……」

 最後にそう言うと、ネスケさんはテーブルに突っ伏してしまった。まあ、幸せそうな顔ではある。

「彼女はここに宿を取っているのだろう? 気が緩んでいるのかもしれないね」

 フューリスさんが言ってるような理由もあるだろう。でも単純に、お酒に関して自制できてないだけのような気もするな。

 俺の隣ではヴォルフさんがグビグビと麦酒を飲み干していた。空になったジョッキがドンと置かれると、テーブルとその上の皿は揺れたけど、ネスケさんは目を覚ますことなく眠りこけている。

「酒は飲んでも飲まれるなと、その手帳の目立つところに書いておいてやれ」

「名案だね、ヴォルフ将軍」

 言いながら、フューリスさんはさりげなくネスケさんの周囲から皿やコップを遠ざけていた。あれならまあ、多少身じろぎしても大丈夫だろう。

「こいつ無茶苦茶弱いぜ、酒。だからあたしが見張ってやってんの。決して、あたしが酒好きだから酒場に入り浸ってるってわけじゃーない」

 親方がそううそぶきながらジョッキの中身を呷った。

「……葡萄酒をジョッキで飲む奴は言うことが違うな」

 ぼそっと呟いたのはクルシス。黙々と食べてるかと思ったら、話は聞いてたらしい。

 にしても、親方のあれ、中身は葡萄酒なのか……。

 親方と比べたら大抵の人は酒に弱いって扱いになるな。

「何か間違いがあったら困るだろ? 望まない相手とーなんて、あたしだったら嫌だしなー」

 という言葉からは、親方の面倒見の良さも感じられる。村長代理として、村の人たちから人望があるのも頷けるな。

「メラニーの言うことは、それは、確かにそうだろうね」

「いや、そこはまず本人が自己管理をして、酔い潰れんようにすべきだろう」

 フューリスさんは賛同したけど、ヴォルフさんの意見は厳しい。そこは、二人の立場の違いもあるかな。

「そーいや、こいつに賭けてるのも何人かいるよ。今のところは大穴だけどな」

「賭けって……あれか」

 俺の正妻が誰になるかの賭けね……。

 ネスケさんは多分ないと思うけど、それを明言してしまうと村の男達から毎日何度も口説かれる事態を防ぐ効果が期待できなくなるし、俺としては曖昧に頷くだけ。

「かーっ、うめぇ! おやっさん、生牡蠣追加で!」

 何にせよ、館での夕食とは違った賑やかさだ。



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北の魔剣王

 発端は、親方が雷王都市のことを聞きたがったことだった。

 するとこの中で一番詳しいのは、その雷王都市に長年住んで今は将軍であるヴォルフさんってことになる。

「雷王都市の祖である初代の雷王――テオバルト王は、魔剣王と犬猿の仲、というやつでな。魔剣王は渇きの都を攻めるとの名目で雷王都市を通過したにも関わらず、その後に取って返して帝麟都市とともに雷王都市を挟撃したのだ。なんたる卑劣!」

 さっきは酔い潰れたネスケさんを見て自己管理がどうとか言っていたわりに、ヴォルフさんも少し酔ってる気がするな。偉大なる雷王都市の歴史、とでも題名がつきそうな熱弁だ。

 でも、すぐ隣にクルシスがいるのに魔剣王を卑劣漢扱いするのは、どうにも危なっかしいな。

「私が知っている話と少し違うね?」

 フューリスさんがそう言ったのは、クルシスの激発より早かった。

「魔剣王が渇きの都を攻めているところに、止まぬ雨の街――雷王都市が裏切って魔剣王の背後を襲ったと聞いているよ」

 どっちかというと魔剣王を擁護する感じなのは、ヴォルフさんの意見とバランスを取ったのもあるだろうな。ただ、魔剣王と戦った当の本人にも関わらずそれを言えるのはすごいと思う。単なる敵同士というだけでない複雑な事情があるのは確かだけど。

「詳しくは知らんが、魔剣王が魔剣〈極北の魔神〉を、雷王が〈統魔の雷精〉を、それぞれ振るって一騎打ちをした話は、里の伝承にも残っていた」

 麦酒を呷ってから、クルシスが言った。フューリスさんが先手を打ったおかげか、言葉のトゲは少なめだ。

 名前が出たふたつの魔剣は、いずれも銘入りの魔剣の最高峰。〈極北の魔神〉は冷気の属性を帯び、〈統魔の雷精〉は稲妻の属性を帯びているそうだ。これは攻撃の魔術の基本的な属性である火炎、冷気、稲妻になぞらえてあって、火炎の属性を帯びた〈炎獄の舞姫〉を加えて〈古王国三剣〉と呼ばれている……と、ステラさんが言っていた。ステラさんは何でも知ってるな。

 その魔剣同士が戦うというのは、さすがに大災厄の時代だ。そういう時代には魔剣も含め多くの伝承武具(レジェンダリーアーム)や古王国遺産が歴史の表舞台に浮かび上がってくるというから、俺やクルシスの魔剣も、そういう時代の流れの一部なんだろう。

 と、その程度で終わりそうな話だったのに……。

「テオバルト王が勝利したので、雷王都市は今も繁栄しておる」

 もう何杯目だかの麦酒を飲み干して、ヴォルフさんがまた雷王都市を持ち上げて、暗に魔剣王を貶した。

 そうなるとクルシスも黙ってはいられないわけで。

「……魔剣王が敗れたはずがない」

 言葉はそれだけだったけど、その声の冷たさはもうそれだけで周囲のものを斬れそうなほど。

 親方は酔いが醒めたような顔で「お、おいおい。喧嘩は勘弁してくれよ」と言ったけど。

「そう信じたいお主の気持ちはわからんでもないがなあ」

 ヴォルフさんがさらに煽るようなことを言って、クルシスはついに魔剣の柄に手を――

「まあまあ二人とも。こういう時は彼女に訊くのが一番だよ。ステラ、君はどう学んでいるのかな?」

 フューリスさんが割って入ったことで、乱闘は一時回避された。

 みんなの視線が、両手で持ったコップからちびちびと果汁を飲んでいたステラさんに集中する。

 ステラさんは顔を斜め上に向けてしばらく黙考すると、やがてゆっくりと口を開いた。

「……魔剣王と渇きの都が戦った。その頃に、止まぬ雨の街が新王国秩序からの離脱と雷王都市への改名を宣言した。その後に魔剣王は帝麟都市と戦い、そこを首都としていた新王国を滅ぼした。雷王都市と戦ったのはその後。それらは多くの資料が言及しているので事実と考えられる。だがその仔細は伝える者によって見解が変わる」

「すると、私もヴォルフ将軍も、どちらも正しい理解をしていなかったということになるね」

 フューリスさんは渇きの都が負けたあたりまでしか認識していなかっただろうし、無理もない。ヴォルフさんの方は歴史としてちゃんと学んだにしろ、雷王都市の文書だったら雷王都市を悪くは書いてない、か。

「うーむ。しかし、雷王都市が魔剣王に勝利したのは間違いないのであろう?」

「魔剣王は雷王との一騎打ちに勝利したはずだ」

「いや、それはおかしい」

 ヴォルフさんとクルシスが反発しあって、また一触即発の空気。二人とも少し酔ってるからなおさらだ。雰囲気が張り詰めてるのは二人が隣り合って座ってるせいでもあるけど、俺自身が緩衝材として今の二人の間に座りたいとは、ちょっと思わないな。何とか和らげようとしてるフューリスさんはすごい。

 俺の出番はまあ、二人がいよいよ耐えかねて物理的な暴力の行使に踏み切った時かな……。

「よく考えてみろ。魔剣王が帝麟都市だけでなく雷王都市をも下したというのであれば、二つの都市を呑み込んだ広大な王国が生まれたはずだ。だが現実にはそんなものはない。テオバルト王が勝ったとしか考えられんだろう」

 ヴォルフさんのその主張は、確かに頷けるところもある。二つの都市はどっちもこの央州では最大規模の都市。この二ヶ所を手中にしたというなら、央州全土を支配したも同然だ。

 でも、少なくとも俺は、魔剣王がそれらの都市の王として、あるいは王の上に皇帝として君臨したとは聞いてない。〈北の魔剣王〉という名前はあくまで称号、通称だ。

「魔剣王は倒すべきを倒し、救うべきを救った。君臨して支配するのが目的ではなかった。最後まで従った者は、万年氷の街のさらに北の山中に移り住んだ。里の伝承ではそうなっている」

 クルシスのその言葉には、どちらかというとヴォルフさんよりはフューリスさんが強く反応した。

「救うべきを救った、ね……」

 どことなく懐かしむような声音なのは、フューリスさんとしては心当たりのある話だからなのかもしれない。

「それにしても、そこまでしておきながら山奥に移り住むなんて、欲がないというかなんというか……」

 俺が率直な感想を言うと、みんなが怪訝そうな顔で俺を見た。

「ど、どうしたんです?」

「いや。お主がそれを言うのか、と思うてな」

 ……なるほど。田舎に引っ込んでるのは、俺も似たようなものなのか。魔剣王とは、理由は違うと思うけど。そうだな、俺と違ってきっと……うん、わかる気がする。大勢の人や国との関わりを絶とうと思った理由。

「魔剣王はその後に〈歪みをもたらすもの〉と戦ったんだよね」

 俺の知る限り、それで合ってるはず。

 それなら……。

「きっと、あんまり他人を巻き込みたくなかったんじゃないかな。俺は奴と戦った後にここに移り住んだけど、魔剣王はその生の最後にあの邪神と戦った。その準備として、戦うのに必要な物以外は全部、他人に譲ったんじゃないかな……」

 俺も、強敵に挑むとなった時には、ニーナやミリアちゃんの同行を断ったこともある。誰かを守りながら戦うのはとても大変だし、それに、もし守り切れなかったらと思うと……。

「魔剣王が、あの邪神と戦ったのか?」

 ヴォルフさんが訊ねてきた。よく知られてる話なのかと思ってたけど、そういえば俺も元々知ってたわけじゃないな。

「俺が〈歪みをもたらすもの〉と戦うために異界に行った時に、本人から直接そう聞いたんですよ」

 俺がそう言うと、クルシスも「ああ」と頷いた。あの時はクルシスも一緒だった。……というより、クルシスが魔剣王に遭遇した時に俺も一緒だった、と言うべきかな。

 フューリスさんが少し驚いた様子で俺とクルシスを見比べた。

「あの魔剣王が、この時代まで異界でまだ生きていたのかい? すごいことだね。それとも、異界は時の流れ方が違うのかな?」

「クルシスの魔剣に宿った魂というか、思念というか……それがあの場所で実体化したと……俺も詳しくは説明できないですけど」

 生きていたかというと、ちょっと違うような気がするな。

 クルシスの魔剣〈極北の魔神〉は魔剣王も使っていたし、中には魔神が封じられているとも言うから、そのあたりのことが影響した不思議な出来事だったんだろう。ステラさんも一緒にそれを見てたら、論理的な説明をしてくれたかもしれないけど。

「もっと話を聞きたかったが、すぐに消えてしまったな」

 残念そうにクルシスが言ったのは、偽らざる本音だろう。クルシスは魔剣王を尊敬というか、崇拝してるし。

「知られざる伝説、といったところかな?」

 フューリスさんが言うと、ヴォルフさんも頷いた。

「当時が災厄の時代であったのは疑問の余地もない。歴史として俯瞰すれば、多くの〈歪み〉が大陸を覆っておったのは明らかだ。その中で、魔剣王はかの邪神に挑み、ついに還らぬ者となった……か。辻褄は合うな」

 ヴォルフさんも、俺と一緒にこの時代の〈歪み〉と立ち向かってくれた。

 この人には立場もあるから、俺は一度は同行を断ったんだけど、それを聞いたヴォルフさんは「儂には妻子もない。親もすでに亡い。地位と名誉はあるが、お主のような若者を死地に向かわせてまで守るほどの物でもないわ」って笑い飛ばしたんだよな。

 俺たちの戦いは『歴史』にはならないかもしれないけど、多くの困難があったのは、きっと魔剣王の時とも同じはずだ。

 かつてあの邪神に立ち向かった魔剣王を、ヴォルフさんも悪くは言えないだろう。



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消える歴史と残る歴史

「資料では、魔剣王はどうして死んだことになってるんですか?」

 ふと気になって、ステラさんに訊ねてみた。

「歴史から消えたとしか言いようがない。多くの説があるが、どれも確証のあるものではなかった。そのため、魔剣王の墓所は大陸の各地にあり、それぞれ様々な加護をうたって、その正統性を主張していた。……剣鬼の騒動で撤回したところもあると聞く」

 剣鬼は魔剣王の子孫で、持っていた魔剣がそれを裏付けていたから、剣鬼の悪行のせいで魔剣王の評判まで下がったというわけだ。でもそれで魔剣王ゆかりの、と主張していたのをすぐさま撤回してしまうというのも、浅ましいというか恩知らずというか……。

「それにしても、あれだけの英雄が没年不詳扱いとは、何とも不思議なことだね。もちろん、クルシスの故郷になら、もっと詳しい資料があるのだろうけれど」

 フューリスさんが視線を向けると、クルシスは飲みかけのジョッキをテーブルに置いて、口元を布で拭いながら頷いた。

「おそらくな。私は口伝によってしか知らんが」

「おや、そうなのかい?」

「歴史書は里の長老たちが管理していて、魔剣王の名を継がぬ内は書庫への立ち入りを禁じられていた。今なら読む資格があるかもしれんが、剣鬼の騒動以来、一度も戻っていない。あまり良い記憶もないしな」

 そこまで言って、クルシスはまた麦酒を呷った。

 ……そういえば俺も、故郷を滅ぼされてから一度も帰っていないな。そもそも、戻ってももう何があるってわけでもないだろうけど……。

 それ以前には楽しい思い出もたくさんあったはずなのに、最後に見たあの光景で全部が上書きされてしまって……きっと、今からあの村に戻っても、失われたものはもう戻ってこないってことを実感するだけなんだろう。

 クルシスも、剣鬼に父親を殺されたと言っていた。長老たちは元々才能のある剣鬼に魔剣王の名を継がせる気だったらしいし、暴走した剣鬼を止めるためにクルシスが旅立つ時も、全く期待していない様子だったとか。

 絶対に嫌だ、とまでは思ってないにしても、わざわざ帰るほどじゃない、というくらいは思っても無理もないところかな。

 本人が帰りたくないなら、俺としても無理に勧めるつもりはない。

 いつかわだかまりも解けて気軽に帰れるようになればいいな、とは思うけど。

「魔剣王は出生についても複数の説があり、判然としない。どこからか現れて、どこかへ消えた。そういう人物」

 ステラさんが解説を続けた。

 どこで生まれたかもわからないのか。まあ、田舎村の出身だとか、貴族でも没落した家だとか、そもそも規模の小さい家柄だとかなら、大成して名前が知られるようになってからの方が資料が多いっていうのは、十分あり得ることだ。

「実在したのは、間違いないけれどね」

「まあ、フューリスさんは実際に……あっと」

 実際に会ったことがあるから当然――と言いかけてしまった。フューリスさんが指を自分の口元に当てるしぐさで止めてくれてよかった。本人がみんなには秘密にしてて、俺を信頼して話してくれたことを、うっかりで口にしちゃまずいよな。気を付けないと。

「末裔である私から見ても謎の多い人物だが、なればこそ、魔剣王の足跡を辿る旅も悪くないというものだ」

 クルシスはそう言って、摘まみ上げたソーセージを口に放り込んだ。

 そうだった。クルシスはその旅の途中だ。ヴォルフさんがいるのもヴィカが滞在している間だけだし、フューリスさんも出発の準備が整えば行ってしまうだろう。

 みんなそれぞれ立場や目的があって、いつまでもここにはいない。

 そうすると、この中の誰かと誰かは、顔を合わせるのはもうこれで最後……なんてことがあるかもしれないわけだ。

「うむ……。すまんな、クルシス。ちと熱くなりすぎておったわ。魔剣王もテオバルト王に劣らぬ英傑であったことは儂も十分に理解した」

「わかったなら良い。……雷王も魔剣王の良き好敵手だったと聞く。雷王都市の基礎を築いたというほどの人物ならば納得というものだ」

「いやー、どうなることかと思ってヒヤヒヤしたよ。やっぱ、お酒は楽しく、仲良く飲まなくっちゃーな! おやっさん、麦酒追加で!」

 親方の言う通りだと、俺も思う。

 遠く離れて思い返す時、最後の思い出が喧嘩別れじゃ、寂しいもんな。

 ……それにしても、クルシスが珍しく饒舌だったのに、ネスケさんは完全に酔い潰れてるな。取材、まったく捗ってないんじゃないかな。

 ほとんど魔剣王の話だったような気もするけど、それはそれで、世間では詳細不明とされてる部分に踏み込んだ話だったよな。

 俺も魔剣王のことが少しわかった気がする。

 どこからか現れて、多くの戦いを繰り広げて、どこかへ消えた。

 うーん。ミステリアスな人物だな。これが歴史のロマンってやつか……

 ……あれ?

「もしかして俺も、後世の歴史家から詳細不明の人物扱いされる……?」

 俺の呟きに、みんなが俺を振り向いた。

「……可能性はあるな」

 そう言ったのはクルシスか……。そこに、ヴォルフさんの追い打ち。

「剣鬼は各地で派手に暴れておったゆえ記録も残ろうが、お主は、こう……見た目は地味だからな」

 ま、まあ、出世欲は特にないし、決して目立ちたいと思ってるわけでもないんだけど……

 もし俺の人物像がよくわからなくなって、そのせいで後世の歴史家が頭を悩ますようなことになったらちょっと申し訳ないなあ、というくらいは思ったりするところだ。

「そうはならない」

 と、ステラさんが妙に自信満々に言ったから、驚いてその顔を見ると……

「私が伝記を書く」

 表情は一見いつもと同じだけど、その声音や姿勢、それに眉の微妙な角度から察するに、どうやら本気らしい。

「それはさすがに、どうかと……」

 伝記なんてそんな、まるで歴史上の偉人みたいに……

 確かに全部忘れ去られてしまうと寂しいけど、そこまでする必要はないような。

「いやいや、実にいい考えだと思うよ」

 俺の方に微笑を向けながら、フューリスさんがそんなことを言った。

「それほどの人物なのだから、ぜひ記憶のしっかりしているうちからまとめておくべきだよ。そうすれば、私も君たちと過ごしたこの時間をずっと忘れずにいられるからね」

 この人にそう言われると、俺としてはどうも反論しにくいな。

「そーゆーことなら、あの銅像の横にでっかい石碑も建てよう! リオンさんの偉業を石に刻んで一万年先まで残そう! よーし、前祝いのかんぱーい!」

 親方は……俺の銅像のあたりを観光名所にしようと考えてるのか……。

 勝手に建て始めないように、注視しとかないとな。



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北の砂浜

 その日は午後から陳情受付をする予定になっていた。そして、ヴィカがそれを見学したいと言ってきたから、許可した。

 こういう時に限って陳情がない。

 いつもはさすがに一件くらいは……うーん、まあ、ある。あったはずだ。いや、三、四回に一回くらいは何もないこともあるかな……。

 ともかくそれが今日でなくてもいいじゃないか、という感じ。

「誰も来ませんね」

 ヴィカがそう呟く隣で、ペトラは大きなあくびをしていた。口元を隠してもいない。

 俺の隣に立ってるクレールも退屈そう。

「この村は今、平和なんだよ」

「それはいいことですね」

 なんだか前にもこんな会話をしたような気がするな。

 言ってることは、確かにそうなんだろうけどね。陳情がある日にしても、家庭内のけんかの仲裁をしてくれ、ってあたりがせいぜいだし。自警団の活動が順調な結果でもあると思う。

 それにしても、ヴィカは壁際にある硬い長椅子に座ってるのに、俺が一番上等な椅子に座ってるのは、何となく居心地が悪い。

 クレールもそうだけど、本来の地位は俺より上なのに身分を隠してるから、見た目の扱いをわざわざ雑にしないといけなくて心苦しいというか。

 本人たちがそれでいいって言ってるんだから俺の気持ちの問題ではあるけど、ペトラからの視線は痛い。

 やがて誰も来ないのに飽きたクレールが椅子を引っ張り出して来て座ると、それに倣ってステラさんも座り、ペトラもヴィカの隣に腰を下ろした。

「田舎変態貴族は人望がないから誰も陳情に来ない。きしし」

 俺を小馬鹿にした調子でペトラがそう言って、すぐにヴィカから窘められていた。

 まあ、これもペトラなりに打ち解けてきたからなんじゃないかな、と思うと腹も立たない。

 ただ、俺だって人望がないわけじゃない、ってことはそのうち証明したい。

 本当に人望がなかったら、クレールやステラさんほどの子がいつまでも手伝ってくれたりはしないはずだし。

 ……それに見合うだけのものを返せてるかどうかは、最近はちょっと自信ないけど。

「もう少ししたら夏だね」

 クレールがそう言うのは、ここから見える中庭が暖かな陽気に包まれてるのと無関係ではないと思う。他に話題がないから、そうすると天気や季節の話になりがち。

「……夏は苦手。日差しが強い」

 ステラさんは、そうだろう。ニーナに言われて日差しに気を付けてるヴィカよりも、ステラさんの肌の方がさらに白い。白いを通り越して青白いというくらい。これで夏の日差しを浴びても大丈夫なのかどうか、俺としても少し心配だな。

「オリーブ油を肌に塗ると日焼け止めの効果があるそうですよ。マリアさんがそう仰っていました」

 その言葉はヴィカから。

「初耳。検討に値する情報」

 マリアさんはこの館では一番、薬に詳しい。ステラさんもそれは認めてる。そのマリアさんが言うことなら、何か根拠のある話なんだろう。

 これでステラさんの夏が少しでも過ごしやすくなるといいけどね。

「僕ねー、夏になったらやってみたいことがあるんだー」

 クレールが行儀悪く足をぶらぶらさせながら、そんなことを言った。

 やってみたいこと、か。

 改めて考えてみると、俺自身にはあんまりそういうのないな。誰かが何かをやろうとしてたら、それを手助けしたいって気持ちはあるけど。

「やる気があるのはいいことだと思うよ。それで、何をやりたいの」

「海水浴!」

 訊ねられるのを待っていましたというくらいの、即答。

「……海で泳ぐって、大丈夫なの?」

 確かに、海はすぐ近くにあるし、春祭りの後くらいからは村の漁師たちも舟で出るだけでなく海に潜ってるけど。牡蠣が食卓に並ぶのもそのおかげだし。

 でも、俺はもちろん、クレールも生まれは内陸の土地のはず。少なくとも俺は、海を自由に泳げる自信はないな。クレールもそうなんじゃないかと思うけど……。

「あれ、言ってなかったっけ。館の北側に斜面を下る道があってね、その先はきれいな砂浜なんだよ。陸側からだとこの館を通らないと入れないから、庭の一部ってとこかな。ちょっとくらいはしゃいでも村の人の迷惑になるようなことはないんじゃない?」

「そう思う」

 クレールの言葉にステラさんが頷いた。

 ……俺が心配してるのはそこじゃないけどね。

 それにしても、館の北に砂浜? そんなのあったかな……と思い返して。

「ああ、思い出した。前の領主を追い詰めた時に行った所か。桟橋の小舟で逃げようとしたんだよな」

 前の領主が、自分の遊興のためだけでなく、この館の防衛機能のひとつとしていざという時の脱出経路に使えるよう用意していたわけだ。

 それで俺はとっさに、闘気(フォース)をまとわせた魔剣の剣風でその小舟を木っ端微塵にぶち壊したんだった。

 ……あの頃は竜気(オーラ)のことを気にしてなかったから、膨大な闘気(フォース)を何の遠慮も無く使ってたな。そのおかげで逃げられずに済んだけど。

 ともかく。

 これまであんまり意識したことがなかったけど、自由に使える砂浜があるのはいいな。泳ぎの練習をしようと思ったとき、泳ぎに慣れた村の人たちに無様な姿を見せなくて済むし。一応、川では泳げるんだけどね。でも海だと勝手が違うんじゃないかと思う。

「人目を気にせず海で泳げるなんて素敵ですね。楽しそうです。少し前と比べると随分暖かくなったと思いますけど、まだ海には入れないのですか?」

 ヴィカの声は大きな期待を含んでいた。

 普段のヴィカが暮らす雷王都市も海に面してはいるけど、あそこはほとんどが港だし、砂浜は覚えがない。それにずっと雨が降ってる土地だから、海の雰囲気も暗い。海水浴の気分は盛り上がらないよな。

 それで、ここでの海水浴に興味を惹かれてるんだと思うけど……。

「親方によると、僕たちはもう少し暖かくなってからの方がいいって。村の人たちは慣れてるからもう平気らしいんだけどねー」

 クレールの返答は、ヴィカの期待に沿うものではなかったみたいだ。

 村の人たちはずっとここに住んでて海が生活の一部だから、慣れてるのも当然。俺もここに数年住んだらそういう身体になるのかもしれないけどね。

「そうなのですか。泳げるようになる頃まで滞在できたらいいのですが……」

 ヴィカは大いに残念そうに呟いた。

 彼女が雷王都市からここへ来てすでに数日。あとどのくらい滞在することになるのか、はっきりとしたことは結局まだ聞いていないけど、最初の話ではそう長い間ではなさそうだった。夏までは滞在しないだろう。

 でも……。

「気が済むまで滞在していいですよ」

 今の俺はそう思ってる。ヴィカも微笑を浮かべながら「ありがとうございます」と言ったから、それなりにここを気に入ったんだと思う。

 ただ、ヴィカは雷王都市での立場もあるし、本人が長期の滞在を望んだとしても必ずしも思い通りにはならないだろう……というのは俺にもわかる。

 そう考えると、王族には王族なりの悩みがあるものなんだな、という感じ。

「水着持ってないなら作った方がいいとも言ってたなあ。見た目では下着とあんまり変わらない気もするけど、違いはどこなんだろ」

 クレールが疑問を口にすると、ステラさんが答えた。

「水着とされるものは、濡れた時に肌が透けない。主に生地の厚みによってその差が生じる」

「あー、なるほどね。それは大事かも」

 そう言ったクレールの視線は俺に向いている。

 ……まあ、俺としてはそりゃ、気にならないはずがない。そりゃあね。

「変態がにやついてる……」

 ペトラがそう言ったのが聞こえて、顔を引き締める。

 ……そんなに緩んでいたかな。ここには鏡もないし、自分じゃよくわからない。

 うーん。でも俺も男なんだし、そういう気持ちがあるのはおかしいことじゃないわけで、ことさらに言い訳をする必要性は感じないな。……っていう言い訳を、口には出さずに呑み込むことにした。

 ばたばたと複数の足音が近付いてきたのはそんな時だ。

 もしかしたら、誰かが陳情に来たのかもしれない……と思った次の瞬間。

 バーン! と、勢いよく扉が開け放たれた。



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散歩のお土産

「ただいまです!」

 ナタリーだった。その後ろにはミリアちゃんとハスターも一緒だ。

 それを確認したところで、クレールが大きなため息。

「なーんだ。陳情かと思ったらナタリーか」

「なんだとはなんですか!」

 クレールの言い方にナタリーは憤慨してるけど、俺もクレールと同じように思ったのは事実。でもまあ、この二人が来たなら陳情待ちの退屈な時間は終わりそう。

 というところで改めてナタリーとミリアちゃんを見てみると……妙に薄着だ。

 ミリアちゃんは白いワンピースに、リボンのついた麦わら帽。もうすでに夏を先取りしたような格好だ。足下もサンダルだし。

 ナタリーはたくしあげたシャツを胸のすぐ下で結んでいて、下はショートパンツ。健康的なお腹や太股があらわになっている。

 二人とも、あと数年したら世の男たちが放っておかないだろうな……なんて思うのは、何だか兄のような心境、というのかな。……父親ではないはずだし。

「そんなこと言うならクレールにはお土産あげないです!」

 ご機嫌斜めのナタリーがそう宣言すると、クレールは「えっ」と声を上げた。

「お土産ってなに?」

 あげないと言われたのに――いや、言われたからこそなのか、クレールがそう訊ねると、ナタリーは「ふんっ」とクレールから視線を外した。

「クレールにはこの特級きれいな『何かの羽根』をあげるつもりでしたけど、これはステラにあげるです!」

 そう言ってナタリーが腰の後ろに身に付けていた鞄から取り出したのは、鮮やかな赤みのある羽根だ。結構大きい。

「綺麗な色だね。何の鳥の羽根だろ」

「火炎鳥。赤みのある羽根が名前の由来。水辺に片足で立つ姿がよく知られる。巨大な群れを作って暮らす」

 首を傾げたクレールに対して、ステラさんが即答。でも、知らない鳥だった。俺が考えてもわかるはずなかったな。

 ただ、この大きさの羽根を持ってるなら、かなり大きい鳥だと思う。群れを作るとステラさんが言ってるし、そもそも羽根が落ちてるなら近くに生息してるはずだから、そのうち見る機会もあるだろう。

「……興味深い」

 ステラさんはそう言って、ナタリーからその羽根をもらっていた。言葉の意味は「ありがとう」ってところか。

「ふーんだ。僕はもっと大きな羽根を見付けてみせるよ!」

 もらえなかったクレールは、妙に前向きな負け惜しみを言ってるな……。

「でもこれお土産って、どこのお土産?」

「クレールには教えないです!」

「裏にある砂浜だよ! ナタリーちゃんとハスターと一緒に散歩してきたの! 貝殻とかも拾ったよ!」

 横取りをたくらむクレールにナタリーは抵抗したけど、ミリアちゃんがあっさり白状してしまった。しかもそれが、ちょうどついさっき話題にしていた砂浜。

「あそこならすぐ近くだね。んふ。僕も後で探そーっと」

「ぐぬぬ」

 このくらいの張り合いならまあ、害のない方か。殴り合いをするわけでもないし。俺とクルシスの練習試合の方がよっぽど被害が大きいな。

「あ、そうだ。ヴィカにもお土産があるです」

「まあ何でしょう」

 ナタリーがまた鞄に手を突っ込んで、今度は何か黒っぽい塊を取り出した。

「散歩してて見付けたです。変な顔みたいな模様の石です!」

 ……俺もそういうの、子供の頃には集めてたな。

 ナタリーはその時の俺よりは年上のはずだけど、ミリアちゃんと一緒に遊んでると子供心が勝ってしまうのかもしれない。

 でも、その石をもらってヴィカが喜ぶかというと……。

「あら。確かに変な顔ですね。面白いです」

 ……どうやら気に入ったらしい。ヴィカは石というと宝石なんかを見慣れてるだろうから、こういう普通の石が逆に珍しくて面白いのかな……。

 なんて考えているところに、ナタリーの補足説明。

「困った時のリオンみたいな顔です!」

 言われて、みんなが俺を見た。

「なるほど?」

 ヴィカは首を傾げて苦笑してる。その隣に座っているペトラは、石と俺との間で何度も視線を往復させて見比べてるな。

「……俺、そんな顔してる?」

 訊ねてみる今の俺が、もしかすると、まさにその『困った時の顔』なのかもしれない。

「よく似てるですよ!」

 ナタリーがそう言うと、今度はしきりに見比べていたペトラが。

「確かに似てる。変態の顔。呪われそう」

 ひどい言われようだ。でも本当に似てるんなら、ヴィカにとってはここに滞在した記念にはなる……かな。

「きゅい!」

 と、突然鳴いたのはハスター。……ハスターだよな? なんか、顔――というか頬がものすごく膨らんでて、いつもと雰囲気が違う。

 スペースハムスターは、食べ物なんかを一時的に口の中にある頬袋に入れておくことができるらしい、というのはステラさんが前に教えてくれたけど。

 ここまで大きくなるものなのか……。

「あ。ハスターからもお土産があるみたいです」

 ナタリーが通訳するのに合わせて「きゅいっ!」ともう一声鳴いたハスターは、膨らんだ頬を両手でぐいぐいと揉んだかと思うと、人の頭ほどにもなるかという大きなきのみを、口の中から『もがっ』と取り出した。

 どことなく、南国の雰囲気がある実だ。多分、その砂浜に流れ着いていたんだろう……けど……。

「あ、ありがとう、ございます……?」

 ヴィカが困惑気味なのは、これがハスターの口の中から出てきたからだろうな……。困惑しながらも受け取ってたけど。これがネズミ嫌いのペネロペだったら卒倒してもおかしくないところだ。

 で、ナタリーとハスターがそうして『お土産』を披露する傍で、ミリアちゃんは申し訳なさそうにしていた。視線を向けると……。

「あたしは浜辺で拾ったものはお姉ちゃんにあげるから、他のみんなにはお土産がないの……」

 なるほど。今日はマリアさんは魔女の店に手伝いに行ってる。砂浜に一緒に行けなかった分、お土産くらいは、ってところか。

「だから、ヴィカちゃんにはかわりにこれをあげる!」

 そう言ったミリアちゃんが肩掛け鞄から取り出したのは、折り畳まれた羊皮紙。

「これね、あたしの研究メモ!」

「かわいらしい研究者さんですね。ありがとうございます」

「うん! 中はねー、なんだと思う?」

 ヴィカの目の前にそれを差し出しながら、手渡す前に問題。

 ミリアちゃんがわざわざそう訊くからには、普通に考えつくようなものじゃないだろう。となると、俺には想像もつかない。

「そうですね……お菓子の作り方や、お花のスケッチ……とかではないですか?」

 ヴィカが少し思案してから挙げたのは、確かにミリアちゃんくらいの子が熱心に書き留めていそうな事柄に思える。

「んっんー、ちょっとちがうかも。見てみて!」

 ミリアちゃんから手渡された紙を、ヴィカは慎重に広げた。

 そして、ハスターからきのみを渡された時以上の困惑顔になった。

「……これは?」

「さっぱりわからない。なに?」

 ヴィカの横から覗き込んだペトラも降参して答えをせがむと、ミリアちゃんは「それはねー……」と少しもったいぶってから、正解を口にした。

「上級法術の発動中に外部から強い干渉を受けた時その影響を受け流しながら自分の術に取り込んで威力を増すためにあらかじめ展開しておく魔法陣の構築理論の草案!」

 わかるはずない、そんなの。

「……あらあらまあまあ」

 ヴィカは返すべき言葉が見付からないのかそんな風に応じたけど、顔は笑っている。もしかすると、子供が子供なりに真剣に描いた微笑ましい落書き……とでも思ってるのかもしれない。

「非常に興味深い」

 ステラさんは、それがただの子供の落書きだとは思ってないみたいだ。そして俺も、ステラさんの見解が正しいと思う。ミリアちゃんの才能に触れる機会をまだ持てていないヴィカがそう想像できなかったとしても、無理もないけど。

 いずれにしても、もらって嬉しそうなのは確かだし、あれこれ言うのも野暮か。

「そういえば、俺にも何かお土産があるのかな」

 一応訊ねてみるけど、ナタリーもミリアちゃんもハスターも、俺に何かを渡そうという気配はない。

「変態はやっぱり人望ない」

 ペトラがそう言って含み笑いをしたけど、そんなはずはない……よな。

 と思っていると、ナタリーが「あのー……」と進み出た。

「ごめんなさいです。リオンには特級いいものをあげたいと思ったら、決めきれなかったです」

「なるほど。そういうことなら仕方ないね」

 俺にも人望がないわけじゃない、ってことはこれでペトラにも伝わったはずだし、それをお土産ってことにしよう。

「なーなー、私には何もないのか?」

 ペトラにそう言われて、ナタリーとミリアちゃんが顔を見合わせた。

 この流れでペトラにはかわいそうだけど、これは二人とも何も用意してないな。

「な、何かあるだろ?」

 ペトラは食い下がるも、ナタリーもミリアちゃんももう特には……と思っていると。

「やれやれ、見てらんねえぜ」

 みたいな様子で、ハスターがスッと進み出てきて……

 また頬袋から『もがっ』ときのみを取り出して、ペトラに手渡していた。

「あ、あ、ありがとう! これでペネロペに自慢できる! きしし、あいつ羨ましがるぞ!」

「誰からどうやってもらったかは、言わない方がいいと思うよ……」

 大喜びのペトラに、クレールの忠告がちゃんと届いてるかどうか、ちょっと不安だ。

 それにしても……

 ハスターの顔、この部屋に入ってきた時の三分の一くらいに縮んだな……。



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事件そして解決

「……確信したです。もう黙ってられないです」

 全員が食堂に揃って、これから夕食前のお祈り……というところで、ナタリーが突然立ち上がった。

「あたしはヴィカを告発するです!」

「え、いきなり何」

 脈絡はいまいちよくわからないけど、ナタリーが何かに怒ってるのはその表情から明らかだ。

「あたしは気付いてしまったです。確信したです」

「どうしたの。さっきはお土産とかあげて仲良くしてたのに」

「あたしは裏切られた気分です!」

 クレールの指摘に、ナタリーは拳を振るわせて応じた。腹に据えかねた、ってところか。何がそんなに気に入らなかったのか、俺にはわからない。

 視線を向けられた当のヴィカも、首を傾げている。心当たりはないらしい。

「ヴィカは……」

 ナタリーが、その右手の人差し指をビシッと真っ直ぐに伸ばしてヴィカを……

 いや、ヴィカの前にある料理の皿を、指差した。

「ヴィカの料理は、あたしのより多いです!」

「なーんだ。そんなことか……」

「なんだとはなんですか!」

 クレールの言い方にナタリーは憤慨してるけど、みんなクレールとほとんど同じ感想なんじゃないかな……。

「あたしだってもっと食べたいです!」

 ナタリーはそう訴えたけど、十分にたくさん食べてると思う。

 そして、ヴィカがそれ以上に食べてるとは思えない。お皿に乗った分は、いつも残さずきれいに食べてはいるけど。それが他の子と比べて特に多いってことはない。

「……ええっと、あまり気にしていませんでしたけど、そうなのですか?」

 ヴィカが視線をニーナに向けてそう訊ねるも、ニーナの返答は……

「だいたい同じにしてるはずだけど。そもそも、誰の分って決めて盛り付けてるわけでもないし……」

 献立に肉がある場合は俺が切り分けるけど、その場合もあまり極端に変わらないようにしてるな。まあ、ステラさんがあんまりお肉を食べないから、その分くらいはナタリーのが増えてることもある。

「昨日も多い気はしてたですが、今日は間違いないです! 絶対多いです! いま確認してみてほしいです!」

 ナタリーが自分の皿を持ち上げて、みんなにそう訴えた。まだお祈りの前だから、二人のお皿も手つかずのままだ。

 二つの皿が隣同士に並べられて……

「……確かに多い」

「ほら!」

 いや、これは確かにナタリーの言う通りだ。

 どっちも同じ、野菜炒めに目玉焼きが乗ってる、っていう皿だ。でも、ナタリーのお皿に盛り付けられた量と比べると、ヴィカのお皿の方が、そうだな、二割か三割かくらい多く見える。

 ニーナが両方の皿を手に持って重さを比べているけど、見た目通りに重さも違うらしい。

 そして、ナタリーのが減っているわけではない。他のみんなと同じ量だ。

「おかしいなあ。同じくらいにしたはずなんだけど……」

 ニーナが首を傾げる。ヴィカも首を傾げている。

 ナタリーの分が減ってるっていうことなら話は簡単なんだけどな。本人も無意識のうちに食べてしまったから、というのがナタリーならあり得なくはないし。でも、ヴィカのだけが増えているというのは、不思議な話だ。

「んっんー! みんな大事なことを見落としてるよねっ!」

 立ち上がったミリアちゃんが、胸を反らしてそんなことを言った。

「名探偵あたしの推理によるとー、これは普段からヴィカちゃんのことを手助けしてる、近くの人の犯行だと思うなっ!」

 その指摘を受けて「っ!」と肩をふるわせた人物がひとり……。

「あーっ! ペトラの料理が少ないです!」

 その言葉の通り、ヴィカの隣に座るペトラの取り分は、巧妙に隠蔽されてはいるもののよく注目して見れば明らかに少なかった。

 観念したペトラは、がっくりと肩を落として犯行を自供した。

「こんなにおいしい料理なんだから、ヴィカ様に少しでも多く食べてもらいたいと、そう思って……それがこんなことになるなんて……」

 そういえば少し前にはお菓子の取り合いでペネロペと喧嘩になりかけたこともあったな。あれもヴィカにたくさん食べて欲しいっていう心遣いが暴走した結果だった。

「あらあらまあまあ……まさかそんなこととは思いませんでした」

 そう言ったヴィカの顔は、とても申し訳なさそうだ。

「ごめんなさい、ナタリーさん。侍女の罪は私の罪でもあります。責は私が負います」

「ヴィカ様は何も悪くない! 罰なら私が受ける!」

 主従の強い絆を感じるな。……そこまでするほどの問題とも思えないけど。

「ペトラ、あなたの心遣いは嬉しいです。ですが貴方は、自らの罪を認めず、あまつさえその罪を侍女に着せるような者を、自分の主にしたいですか?」

 ヴィカのその言葉は、俺にも刺さるなあ。みんなからちゃんと領主として認められるように、品行方正に生きないとな。

 ともあれ、今回のことに関しては……。

「いやっ! あたしもヴィカが悪いみたいに決めつけて申し訳なかったです……」

 ナタリーがしょんぼりと謝ったところで、まあ、一件落着かな。

「迷惑をかけてしまったので、あたしにもリオンから何か罰を言い渡して欲しいです!」

 えっ、俺? いきなりこっちに振られてもなあ。

「私たちにもお願いします、リオン様。もう二度とこんなことが起こらないように……」

 ヴィカだけでなくペトラまで神妙な面持ちなのは、ちょっと珍しいものを見た気分だけど。

「いやあ。当人同士が納得してやる分には、料理を融通し合うくらい構わないと思うよ……」

 俺の意見はそんなところだけど、当人達はそれじゃ納得できない様子。

 それほどの大問題かなあ、これ。でも何か言い渡さないと、この事件は終わりそうにない。他のみんなも夕食をとれずにいるし……。

「じゃあ、えーっと……」

 でも、この程度のことにあまり重い罰を科してしまうと、他のこととの釣り合いが取れないんだよな。あー、どうするかなあ。

 それで結局。

「罰として、明日の朝食が終わるまで言葉の最後に『ニャ』ってつける、ということで……」

 やったことの程度を考えると、これでも重すぎるかもしれないけど。

「わかったです! ……あ、わかったですニャ!」

「謹んで承りましたニャ」

「反省してるニャ。みんな、ほんとごめんニャ」

 ナタリー、ヴィカ、ペトラが口々にそう言って、今度こそ本当に一件落着……なのかな。

「……悲しい事件だったニャ……」

「クレールはつけなくていいんだけど」

 俺は……いったいどうすれば良かったんだろう……。



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ヴィカの悩み

 昨日の夕食の席でナタリーたちに科した罰がなぜか他の子の間でも流行してしまって、朝はあちこちでニャーニャーうるさかった。

 その朝も終わり……。

「雲ひとつ無い、綺麗な青空ですね」

 俺はヴィカと二人で館の屋上に出ていた。

 屋根の上に見える見張り台が、ヴィカは前々から気になっていたらしい。

 俺の部屋の前にある小さな階段を上れば、この東西一対の見張り台がある屋上に出ることができる。普段はあまり使わないから施錠してるけど、今回はニーナから鍵を借りてきた。

 俺もここには滅多に来ないな。ヴィカがいる間の警護をヴォルフさんが引き受けてくれなかったら、夜をここで過ごすことになってたかもしれないけど。

 そのヴォルフさんは、今は正門の外に立ってるのが見えるな。

 ヴォルフさんの部下の騎士たちと村の自警団の人たちが、荒い息を吐きながら館への坂を登ってきている。

「まだ三往復だぞ! あと七往復!」

 相当厳しい訓練らしい。ただ上り下りするだけでも大変な坂を、自警団の人たちは右手に銛、左手に盾を持っているし、騎士の人たちは加えてさらに金属鎧。

 ヴォルフさんが将来を見込んでる若者ばかりだと言ってたから、それで特別に厳しいのかもしれない。彼らにとってはこの村での共同訓練なんて休暇みたいなもの、って『誰か』が言ってた気がしたんだけどな。

 ここでのんびりしてるのが心苦しくなるような光景だ……。

 ヴィカが軽く手を振ると、それに気付いた騎士たちが胸の前に槍を構えて敬礼した。それで気が付いたらしいヴォルフさんも、振り返って敬礼。

 雷王都市ではヴィカの人気はかなり高い、ってニーナが言っていた。雷王都市の若い騎士たちには、ヴィカの笑顔は一服の清涼剤ってところかな。

 と同時に、今そのヴィカの隣にいる俺には嫉妬の視線が向けられているような……考えすぎかな。

 ちなみにいつもヴィカの傍にいるペトラは、今日はニーナの手伝いに行った。凄腕の侍女を自称してるペトラからもニーナの仕事量は異常に見えるらしく、その秘密を盗みたいと言っていた。

 ニーナも多分、俺が魔獣を倒すのに付き合ってたせいで疲れ知らずの体力を身に付けたんだろうけど……それにしても、家事をこなす速度や、同じ事を繰り返しても平気な精神力はすごいと思う。

 ともかくそれでペトラがいなくて、手すりから危なっかしく身を乗り出すヴィカを止めるのは俺の役目。

「雷王都市はどちらの方角でしょう」

 ああ。それで身を乗り出してたのか。

 屋上の床には、東西南北を示す模様が描かれてる。南にある正門から館の真ん中を通る線が、ちょうどまっすぐ南北。西には荒れ地があって、東には調和の海が広がっている。

 それで、雷王都市は……。

「ここからだと北東、いや、東北東になるかな……。あっちの方ですね」

 北東にしろ、東北東にしろ、海の方角なのは変わりない。

「見えませんね、ここからでは」

 俺が指差した方を、ヴィカは手で作ったひさしの下から眺めて、そう呟いた。

 ここからだと雷王都市は、馬車で陸路を辿るなら五日、天気次第では七日かひょっとすると十日くらいかかる。海の上をまっすぐ船で移動できればもっと早いだろうけど、それにしたって、肉眼で見える距離ではないかな。

 そもそも、ここからは島のひとつも見えない。時折、比較的沿岸を航行する船は見えるけど、この村には停泊しない。通り過ぎていくだけだ。

 なんとも、のどかと言えば聞こえはいいけど、雷王都市と比べたら退屈、とも言えるかな。

「雷王都市が恋しくなりましたか」

「そうですね……」

 その返事に慌てたのは、むしろヴィカの方。

「ああ、ええっと、気を悪くされたならすみません……。こちらでの暮らしに不満があるわけではないのです」

 俺は苦笑。別に、意地悪で訊いたわけじゃないしね。

「誰だって、故郷は特別なんじゃないですか」

 言うと、ヴィカはまた海の方に目を向けながら「そうですね」と頷いた。

 海の方から来る風は、意識するとやっぱり潮の香りがする。長い髪がそれに揺れて、ヴィカは少し煩わしそうに髪を手で抑えた。

「ああ、ですが、帰るのは少し憂鬱です……」

 言って、ヴィカは海から視線を外し、手すりを背にして座り込んでしまった。

「リオン様もお聞き及びのことと思いますが、実は私、お父様と少々けんかをしておりまして……」

「それは、ええ、確かに。理由までは、聞いていませんけど」

 ヴォルフさんの話だと確か、けんかはしたけど王様はそんなに怒ってなくて、ただすぐに謝るのは威厳がない……という感じで、特に深刻そうな話ではなかった。

 だから、ヴィカがどうしてそんなに憂鬱そうにするのか、と少し不思議ではある。

 そんな考えを俺の顔から読み取ったのか、ヴィカは少し悲しげに笑った。

「あれからもう二年も経ったのだから、そろそろ……と、そう言われました」

 二年、っていうのは、何だろう。何の話だ?

 その疑問を俺が口にするより先に、ヴィカが続けた。

「――だからそろそろ、私の新しい許嫁を選ぶ、と」

 許嫁。……許嫁か。

 つまり、要するに、親同士が決めた婚約者、というわけだ。

 数日ですっかりここに馴染んだのもあって忘れがちだったけど、ヴィカは貴族の中の貴族、王族だ。許嫁がいてもおかしくない。

「ええ、私には許嫁がおりました。ですが二年前に、西の巡礼塔の警備を指揮してらした時に、塔が魔獣に襲われて……」

 西の巡礼塔。またも意外な言葉が出て、一瞬、思考が止まった。

「居合わせた民間人を逃がすために、まさに決死の戦いをされたそうです。……後に、その時の魔獣を倒して仇を取ってくださったのが貴方だということでした。それで私は貴方に興味を持ったのです」

「はい、覚えています。あの塔のことは……」

 それは、雷王都市の西にある古い時代の塔だ。

 確か、支配と束縛の暗黒神を退けた大教会の英雄を記念して建てられたものだ、とニーナが言ってた。

 建てられてからの長い年月の間に、そこには多くの書物が保管されていて、自由と光の教団の信者だけでなく、書物の知識を求める人たちもよく訪れる場所だったそうだ。

 呼び名が、西の巡礼塔。あるいは、雷王都市では単に西の塔と言えば通じる。そのくらい有名な場所だ。

 そこが、魔獣に襲われた。

 俺がそこを訪れたのは、襲撃からはずいぶん経ってからのことだった。荒れ果てた塔の中で、その塔に居着いた魔獣を討伐しようとするレベッカさんと知り合ったんだ。

 その上で、それでも、その時の俺たちでは獅子と竜と山羊の頭を持つ三つ首の魔獣キマイラには歯が立たず、荷物を放り出しまでしてようやく何とか逃げ切ったというありさまで、討伐できたのはもっと力を付けてからだった。

 そんな強力な魔獣が塔を襲った時、ちょうどそこにいた人たちがどうなったのか、想像はできる。つらい想像になるけど。

 その時、他の人たちを逃がすために自分の身を挺して戦ったというその人は、確かに、雷王都市の王女の許嫁に相応しい立派な人だったんだろう。

「あの方とは特別に好き合っていたわけではありませんでしたが、幼い頃から許嫁として接していましたので、いずれは自然とそうなるのだろうと思っていました。誕生日にはいつも贈り物をくださって……そうですね、兄のような感じ、でしょうか」

 ヴィカは昔を懐かしむように目を細めて、空を見上げた。

「あの方が亡くなって、そうすると、心に穴が空いたような、そんな気持ちになりまして。そこに他のどなたかを入れるというのが、私にはまだ、うまくできそうにないのです」

 自分の生を振り返ってみると、その人との思い出が意外と多いことに気付く……。

 そういうのって、よくあることだと思う。

 そして、その存在の大きさに気付くのは失ってから、ってことも少なくない。

「お父様はもう二年経った、と言うのですが、私としてはまだ二年しか経っていない、という気持ちなのです。……それなのに帰ればまたその話をされるのかと思うと、憂鬱になっても仕方がないと思いませんか?」

 強く同意を求められて……まあ、それは確かに。

「何となく、わかります。俺もまだこの一、二年のこと、整理が付いていないことも多いです」

 剣鬼の襲撃で故郷の村が滅びたこと、完全に受け止め切れてるわけじゃない。仇を討って区切りはつけたつもりだけど、それでも、村があった場所へは戻れていない。

 過去の自分の弱さを、見せつけられる気がして。

 そして、きっと今も、心までもが強くなったわけじゃないから。

 だから……

「ゆっくりでいいんじゃないでしょうか」

 そう言ったのは、半分は自分に対してだ。

「もし王様が考えを変えないなら、いつまでだって、ここに滞在していいですよ。もちろん、仲直りできるならその方がいいですけど」

 それは現実逃避ってやつなのかもしれない。

 だけど、身体と同じように心も疲れる。だから、心にだって休息の時間は必要だ。……と、思う。

「ありがとうございます。次のお相手も、リオン様のようにお優しい方だといいのですけど」

 そう呟いたヴィカは、膝を抱いて大きなため息を吐いた。

 ――ああ、このことだったのか。

 と、急に納得した。

 ヴィカのことをヴォルフさんから頼まれた俺が、雷王都市の王女ヴィクトリアについて「よく知らない」と言った時のこと。その時、ヴォルフさんとニーナが何だか俺に気を遣っているように感じたんだ。

 でも、事情を知った今、それが俺の勘違いだったことがわかった。

 一年半くらい前、俺が雷王都市に流れ着いた頃。

 ……西の塔の襲撃からは、まだ半年。

 二年経った今のヴィカでさえ、こんな感じだ。当時のヴィカはまだ心に大きな哀しみを抱えていたんだろう。そして多分、あまり人前に姿を見せていなかった。

 ニーナたちはそのことを思い出して、俺がヴィカのことをよく知らなくても無理もない、って理解したんだな。

 最初は、雷王都市のお姫様がどうしてこんなところに、なんて思ったけど。

 雷王都市が見えないくらい、遠く。家族や友人知人もほとんどいなくて、少し心細い反面、自由で……

 あとは、空が青い。

 ずっと雨が降ってる雷王都市よりは、ここの方が気も晴れるかな。

 やがて……

 ため息をつくのにも飽きた様子でヴィカがふと顔を上げて、かと思うと、その視線がじっと俺の顔に向けられた。

「……そういえば、父ははっきりとは口にしませんでしたが、貴方のことも私の許嫁の候補にしているものと……」

「ああ……」

 ヴォルフさんもそんなことを言ってたな。婿候補にならないかって。しかもそれが王様からの伝言って。

 言われたその時はすぐに断ったけど、ヴィカの事情を知った後だと、何とかしてあげたいという気持ちはあるな。……まあ、俺が婿候補になる以外の方法で。

「リオン様には、心に決めた方が?」

 ヴィカがそう訊ねてきたのは、冗談なのか本気なのか……。

「俺はまだそういう気持ちにはなれないので……」

 前にクレールから似たようなことを聞かれた時にも、似たような感じの言葉を返したと思う。

「ふふっ。身近に魅力的な女性が多くて、一人に決めきれないのですね?」

 いたずらっぽく笑って、ヴィカはそんな指摘をしてきた。

「それは否定できないところですが……」

 実際、みんなそれぞれ違った魅力がある。一人だけ選べ、と言われたら決めきれないだろう。そもそも俺に選択権があるのかどうかは、また別の話だけど。

 俺が抱えてる問題は、今のところは、そこじゃない。

「……みんなにはまだ秘密にしてますけど、激しい戦いが原因で健康上の不安があって。それで今は断っているんです」

 ヴィカが言ってるのは多分冗談だろうと思いつつも、雷王都市のお姫様との縁談を断るとなれば、それなりの説明をする責任があるだろう。

 聞いたヴィカは「えっ」と声を漏らした。

「ご病気なのですか。気が付きませんでした。法術では治らないのですか?」

 今のところ、身体に目立った異常があるわけじゃないから、気付かなくても当然だ。悪竜の言葉がわかるようになったことなんかは、むしろ便利だと思う人もいるだろうし。

 いずれにせよ、身体が竜に近付いてる、なんて症状が法術で治るとは思わないな。

「神託の霊峰の聖竜によれば、戦いから離れていれば改善するだろうと。いずれにしても今日明日にどうなるというものではないので、あまりお気になさらず」

 あの竜は、見ているものが俺と違いすぎていまいち参考にならないところもあるけど……多分、一応は、適切な助言をしてくれているはず。

「そうなのですか。それなら、良いのですが……」

 ヴィカはそう言って立ち上がり、俺の手を取って、それを両手で包み込むように握った。

「お体、大切にされてくださいね。万が一の時、残される者はつらいですから」

 重い実感のこもった言葉だった。

 それについて、俺が何か言葉をかけようとした時……

「ヴィカ様ー! ただいま戻りましたー!」

 中庭から、ペトラの声がした。見ればニーナと一緒に、洗濯物のカゴを抱えていた。村の洗濯場から帰ってきたところらしい。

「そろそろ降りましょうか」

 言って微笑むヴィカの手を俺は軽く握って、階段を下るのに付き添った。

「ありがとうございます。……少し、気が紛れました」

 悲しい記憶にどう区切りを付けるのが一番いいのか、俺にはよくわからない。

 きっと、誰でもに効く薬みたいなのは、ないんだろう。

 ただ……ここでの休暇が何かの助けになればいいな、とは、思った。



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反王制派の刺客

「リオンに話がある。ちと借りていくぞ」

 ヴィカがなるべく自由に過ごせるようにと館の中まではほとんど入ってこないでいたヴォルフさんが珍しく俺の執務室を訪ねてきて、そんなことを言った。

 一緒に書類の整理をしていたステラさんとクレールにはそのまま続けてもらって、俺はヴォルフさんと共に執務室を出る。

 前庭から正門の外に出て、館の誰かがこっそりついてきてないか振り返って一応確認してから……。

 その上で、さらに声を潜めて、ヴォルフさんが口を開いた。

「こちらで賊を捕らえた。所持品を調べたところ、予想通りではあるが、雷王都市内の反王制派だとわかった。姫様に危害を加えて、陛下を脅迫するつもりだったようだな」

 報告されて、ちょっと驚いた。

 以前には空き巣もいたし、もしかしたら……とニーナが心配してたのが当たってしまったか。今回はヴォルフさんたちが警備を担当してくれててよかった。

 でも、その悪党も雷王都市からこんな田舎村までご苦労なことだ、とは思うな。

「お主の領地でのことゆえ、捕らえた賊はそちらに引き渡しても良いが……」

「いや、ヴォルフさんに任せます」

 こっちは正直、悪党を捕まえておく余裕がない。牢屋は前の領主と揉めた時に打ち壊したきり建て直してないし、昔を思い出させるような重い刑罰もなるべく控えることにしてるから、領主の館への襲撃の『未遂』に対しては、せいぜい領外追放になるくらい。

 そもそも目的が雷王都市への攻撃ということなら、雷王都市に判断を任せるのが妥当だと思う。

 ということを伝えると、ヴォルフさんは「そうか」と頷いた。

「形式上は、そちらからこちらへ引き渡してもらった、ということになる。その方が後々の面倒がないのでな。その書類は今日にでも作るとしよう」

 こういうのはクレールが得意だし、実際に普段はほとんどやってもらっているけど、今回はヴィカのことに絡むから俺がやるしかないか……。

「……それにしてもな」

 と、ひげを撫でながらヴォルフさんがぼやいた。

「その反王制派、ある人物を指導者として仰いでおるのだが……誰だかわかるか」

「そんな集団があるってこと自体、初めて知りました。誰なんです。俺の知ってる人かな」

 多分そうだろう。でないとそんな問題を出されてもわかるわけがないし。

 雷王都市にいて俺がよく知ってる人というと、まず一番には、俺の父さんの弟にあたるダックス叔父さん。ニーナのお父さんだ。でも、そんな大それたことをする人じゃないな。善良な人だし、ヴォルフさんとも旧知の間柄だ。

 とすると他には……

「お主だ」

 考えをまとめる前に、ヴォルフさんが答えを言った。

「はあ。……えっ、俺?」

「剣鬼を討伐した英雄であるのに冷遇され、雷王都市を追放までされて、陛下を恨んでいる……という設定なのだそうだ」

「設定」

 うーん。確かに、何のわだかまりもないというほど気持ちよく雷王都市を出てきたわけじゃなかったけど。

 転覆を企むほどまで恨んでた覚えはないなあ……。

「つまり、俺の偽者がいる?」

 俺じゃないんだから、そうとしか考えられない。

「まあ、そうなるのだろうな」

 ヴォルフさんも重々しく頷いた。

 ……何人目だろう、俺の偽者。何人まで増えるんだろう。そのうち俺の偽者だけで村がひとつ作れちゃうんじゃないだろうか……。

「無論、陛下はそんな与太話を信じてはおられん。儂もお主がそんな男でないことは強く申し上げたしな。でなければ、姫様をお主に預けるはずがなかろう」

「それは確かに」

 そういう事情を知ると、王様が俺を嫌ってるとは全く思えないな。むしろ、結構信頼されてるんじゃないだろうか。

 そうすると、騎士になるように誘われたのを断ったのは悪かったかなあ。雷王都市の騎士として過ごすのも、それはそれで、ここの暮らしとは違った楽しみがあったかもしれないし。

 まあ、今更な話ではあるか。性に合ってるのは田舎暮らしかな、っていうのは、確かだし。

「うーん。するともしかして、ヴィカがここにいるのは……」

 王様やヴォルフさんは、そういう活動をする集団があるのを知っていて……

 そうだ。さっき『予想通り』反王制派だった、って言ったな。

 全部知ってて、それで、ヴィカをここに避難させてる、ってことなのか。

 俺の呟きに、ヴォルフさんは首肯を返してきた。

「実は今、雷王都市の方ではその組織を潰しているところでな。その間の危険から姫様を遠ざけるためにこの旅行が組まれたという面もあるのだ。一石二鳥、というやつだな。わっはっは」

 わっはっは、じゃないよ。

 それで最初から信頼できる部下たちを呼び集めておいたわけか。警備の態勢を作るのが妙に素早いとは思ってたんだ。

「そう難しい顔をするな。心配することはない。こうして強硬手段に出てきたということは、後がないくらい追い詰められておるのだ。そろそろ掃除も終わる頃であろうよ」

 掃除か。それで俺の偽者が捕まれば、たぶん死刑だろう。

 偽者とはいえ『俺』がそうなるのは決して気持ちのいいことではないけど、そもそも悪党が俺の名前を勝手に使ってること自体が気分のいい話じゃないな。でも、ある程度有名になったら仕方ないことなのかな。

「まあ、もしやむにやまれぬ事情があってやったことだったら、俺の名前を騙った件についてだけは刑を減じてあげてください」

 確か、貴族を騙るとそれだけでも死刑になりうると聞いてる。でも、どうしてもそうせざるを得ないことも……うーん、俺はすぐには思いつかないけど、まあ、あるかもしれない。

「お主は甘いな。王制の廃滅を企図するだけでなく実際に行動もしておるから、その罪だけでも死刑は免れんと思うぞ」

 そうなのかもしれないけど、領主を打倒して取って代わったって点だけ見れば俺も似たようなものだからなあ。俺が許されてるのは、前の領主の横暴が証明できた上に勝ったからであって、もし負けてたらそれこそ死刑だっただろう。

「とはいえ、その分で絞首刑から薬殺刑に減じられるくらいはあるかもしれんな」

 どっちにしろ死刑には違いなくても、死後の名誉に関して扱いが違う可能性はある、か。

「反王制派の処遇はともかく、事が済めば姫様のご旅行も終わりになる」

 ああ。数日くらい、とあまりはっきりした予定を決めないまま滞在することになったのも、埃を掃き出すのに何日かかるかわからなかったからか。

 でも、それももうすぐ終わる、というわけだ。

「そうですか。少し寂しくなりますね」

 ヴィカは持ち前の社交性ゆえなのかすぐに馴染んでいたけど、ペトラの方はようやく、というところだった。最初は住人が一度に二人も増えるなんて、と思ってたけど、もうすぐいなくなると思うとやっぱり寂しい。

 ということを嘘偽りなく話すと、ヴォルフさんは腕組みして「うーむ」と唸った。

「……やはり、婿候補として雷王都市に戻る気はない、か」

 そのことか……。でも、それは断るとヴィカ本人にも告げてある。ヴォルフさんから言われても、考えが変わることはない。

「とても素敵な方だとは思いますけど」

 それも本心ではあるけどね。だから、いい相手が見付かるといいな、とは思う。

「儂は姫様がお生まれになってからずっと傍で見守ってきたのでな。礼を失することとは思いながらも、我が娘のように思うこともあるのだ。……お主になら、安心して任せられるのだがなあ」

「はは……」

 ヴォルフさんの評価はありがたいけど、もし仮に俺が騎士としてヴォルフさんの部下だったら、もっと短所が目についたんじゃないかと思う。

 例えば、戦い以外のことであんまり役に立たないこととか。……全然役に立たない、とまで言わないのは見栄だ。

「しかしダックスの所のニーナも幼い頃から知っておるし、お主の隣にはあの子の方が似合う気もする。悩むところよな」

 眉間にしわを寄せて唸るヴォルフさんに、俺は苦笑するしかない。

「ヴォルフさんが悩んでも仕方ないでしょう」

「確かにそうだ」

 俺自身にだって選択権があるかどうか疑わしいのに、当事者でないヴォルフさんが悩みに悩み抜いたところで、何が変わるということもないわけで。

「まあ、儂から言いたいことはな。あの子らを泣かせるような真似はするなよ、ということだ」

 そう言うのは、ヴィカやニーナの保護者を気取ってか……それともあるいは、俺の保護者のような気分で、かもしれない。

「それは……肝に銘じます」

 俺がそう返すと、ヴォルフさんは満足げにひげを撫でて「うむ」と頷いた。



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フューリスの注文品

 館を警備していた騎士のひとりが俺を訪ねてきて、来客があることを告げた。

 前庭に出ると、そこには多くの荷物を積んだ馬車と、その荷台に寄りかかって立つ銀髪の女商人がいた。

「よう、領主様。また同居人が増えたそうだな?」

 春祭りの時以来、久しぶりに会うユウリィさんだ。

 まあ、邪神との戦いが終わった後には会ってないくらいの仲間もいるから、それと比べれば、よく顔を見る方か。

「確かに、春祭りの頃からは何人か増えてますね」

 フューリスさん、クルシス、ヴィカ、ペトラ……の四人か、春祭りより後に来たのは。同居人、というくくりだからネスケさんやヴォルフさんは除外。

「でも、みんな一時滞在の予定ですよ」

 俺がそう言うと、ユウリィさんはにやにやと笑った。

「そうなのか? 村ではまた嫁が増えたらしいって話になってたがな?」

「それ、言ってるのはどうせ親方でしょう……」

 親方はあの賭けの胴元に近い位置にいて、村の人たちをかなり煽ってるらしい……というのは、魔女の店で村の噂に接する機会の多いマリアさんからの情報。

 親方はヴィカと会ったことはないはずだけど、フューリスさんとは一緒にお酒を飲む仲だし、ペトラも最近はニーナについて村に降りることも増えてるから、話くらいは聞いてるのかもなあ。

 俺から訊ねると逆に口を滑らせてしまいそうだから、確認はできていないけど。

「それにしても、物々しい雰囲気だな? ここに来るのに坂を登ろうとしたら、呼び止められて荷物検査だ。おかげでえらく時間がかかっちまった」

 俺をここに呼んだのも、館の誰かじゃなくて雷王都市の騎士だった。館に近付く人、特に村の外から来た商人なんかは、なかなか厳しい検査があっただろう。

 事が事だから仕方がないとはいえ、迷惑を掛けてしまったな。

「この迷惑料は誰に請求すればいい? 領主様か、それとも、あんたの館にいる雷王都市のお偉いさんか?」

 俺からは何も言ってなくても、すぐにわかってしまうか。

 騎士たちは鎧に紋章を刻んでいる。元々、識別のためにつけている物だ。そこから雷王都市の関係者が館にいることを推測するのは、ユウリィさんくらいの商人なら容易なことだろう。

「それは、どうしてもと言うなら俺の方に請求してください。特別な通行許可証を渡してなかった俺の失策です」

 そう言うしかない。実際ユウリィさんは重要な取引相手だし、館の住人と同じ程度にすんなり通行できていいはずだ。

「ふぅん? そうしてかばうとは、相手はよほどの大物らしいな? とすると……」

「ああ、ええっと、決してかばって言ってるわけではないんですが……」

 ……うーん。こうして話し続けるのは危ない気がするな。一応、ヴィカが雷王都市の王女だってことは秘密なのに、見破られてしまいそうだ。

「やあユウリィ。元気そうだね」

 そこにちょうどそう声を掛ける人が現れて、ユウリィさんが思考を中断したから、俺としては助かった……ってところだ。

「ああ、フューリス。あんたも元気そうで何よりだな? あんな物を注文するくらいだから、もっと悲愴な顔をしているのかと思ってたぜ」

「それは、ご期待に沿えず申し訳なかったね」

 どこか似たところのある二人が、俺を挟んでそんな言葉の応酬をした。

 似てるっていうのは、俺より背が高いところとか、短めに整えた髪とか、あとは、話が回りくどいことがあるところか……。

 横で見てると言葉にちょっとトゲを感じることもあるけど、二人ともそんな言葉遊びを楽しんでるみたいだから、仲が悪いってわけじゃないはずだ。

「早速だけれど、私が頼んだ品について聞かせてくれるかい? 届くのはいつ頃になりそうかな。ニコルは、しばらく待ってくれと言っていたけれど」

 フューリスさんが言ってるのには、俺も心当たりがあった。本当は数日しか滞在せずまた旅に戻るつもりだったフューリスさんが、その品物が届くのを待つために滞在を延長してるんだ。

 かなり貴重な品だとは聞いてるけど、それが何なのかは、実はよく知らない。

「そいつなら持ってきた」

「えっ、もうかい?」

 フューリスさんがそんなに驚くのは珍しい。というくらいの驚きようだった。

 すぐに立ち直ってはいたけど、でも、やっぱり納得がいかない様子ではある。

「……少し待っておくれ。それはおかしいのではないかな。だってね、私は確かに注文を出したけれど、それはお店にいるニコルに伝えたのであって、ユウリィ、君はそのことを今日聞いたのではないかと思うのだけれど」

 確かに、フューリスさんがここに来たのは春祭りの後で、春祭りまで滞在していたユウリィさんとは入れ違い。そのせいで、品物が届くまでは時間がかかりそうだ、というのはフューリスさんも覚悟していた。

 それが、もう用意出来ている?

 ユウリィさんは困惑する俺たちを鼻で笑って、種明かしをしてくれた。

「ニコルはオレがどの宿に泊まるか知っているからな? 泊まる予定の宿に手紙を送る程度の手間を、あいつが惜しむはずもないだろう?」

「それは……なるほど、道理ではあるね」

 どこにいるかわからない人に手紙は届かない、と思ってたのが間違いだったわけだ。ステラさんの師匠もそうだけど、住処が定まらない人はその人なりに、親しい人との連絡手段は確保してるものなんだな。

「気付かなかったのが恥ずかしいよ。どうも少しばかり、一人でいることに慣れすぎていたみたいだね」

 フューリスさんも基本的には旅の人だけど、商人であるユウリィさんほどには、他人と関わらなくても平気だったのかもしれない。自分の事情になるべく他人を巻き込まないように、あえてそうしていた面もあると思うけど。

「それで、こいつだ」

 言って、ユウリィさんは荷台から小さな荷物を取り出した。

 何か、棒……みたいなものだ。長さは、俺の指先から肘あたりまで、くらいかな。真っ赤な布に包まれていて、それが何なのかはっきりとはわからない。

 それを手渡されたフューリスさんが布を剥ぐと……

 ぞわっ、と、空気が震えた。



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邪鋼の短剣

「……何なんです、それは」

 鞘に収まった、短剣に見える。それはわかる。

 でも、この不穏な気配は何なんだ。

 フューリスさんがその剣を鞘から抜くと、濃紫の、あるいはほとんど黒と言ってもいいほどの刀身があらわになった。

 さっきの嫌な感じはより一層強くなって、俺たちを取り囲む――。

 パチン、と、フューリスさんはその剣を鞘に戻した。

 そのおかげで、嫌な感じは明確な形にならずに霧散していった。それでもまだ、その短剣を見ていると背筋がぞわぞわするけど。

「間違いない。私が頼んだ品だ。……これはね、邪鋼で造られた短剣だよ」

「邪鋼……ですか?」

 俺にはどうも聞き慣れない言葉だ。でも、名前からしていかにも危険な雰囲気が漂ってる。それはわかる。

「伝説によれば、魔界で採掘されたものとも言われる。そのくらい強い冥気(アビス)を帯びている金属だ。聖銀と比べると威力がある上に加工が容易らしく、古い時代には多くの邪鋼武器が出回っていたそうだよ」

 威力がある、っていうのは武器にとって重要な利点だ。でもそれが冥気(アビス)に由来するものだとなれば、利点ばかりとも思えない。

「危ない物のように聞こえますけど」

「武器なのだから、少し危なっかしいくらいの方がいいだろう?」

 フューリスさんが改めて赤い布で包むと、邪鋼剣の唸りは収まった。よく見れば、その布には何かのまじないの文様が刺繍されている。鞘だけで抑えきれないちからを、それで抑えているのか。

 やっぱりこれは、安易に触れるべきでない物のように思う。

「君の言いたいことはわかるよ。邪鋼の武器は使用者を喰い殺すとも言うからね。そうしてそれらは、その使用者と共に歴史の闇に消えていったというわけさ。そういうわけだから当然、もうほとんど現存してはいない。こうして手にできるのは、相当に運がいいよ」

「えぇ……」

 聞けば聞くほど、不安がつのる話ばかりだ。

 フューリスさんはどうしてそんな物を注文したんだろう?

 気にはなるけど、フューリスさんのことだからまさか悪事に使うはずはないだろう。とすれば、自分でそれを振るって何かと戦うつもりだとしか考えられない……。

 こうして手にできるのは運がいい、とフューリスさんは言ったけど、本当にそうだろうか。

 俺は、フューリスさんがこれを買うのを止めた方がいいんじゃないだろうか……。

「さて、けれども、稀少な上にこれほどの業物だ。相当に高価なのだろうね」

 俺が迷っている間に、フューリスさんは値段の交渉に入ってしまった。

 ユウリィさんは待ってましたと言わんばかりに両手を広げて口を開く。

「そいつはまさに、前の所有者を喰い殺した武器でな。恐ろしいが軽々に処分もできない、という遺族を見つけ出してきたのさ。そして大教会から高名な司祭を呼んで来てお祓いまで手配した。品物自体の仕入値は大したもんじゃない……が、オレがそいつを手に入れるのに多大な苦労をしたのは、理解してもらえると思うがな?」

「それは無論、そうなのだろうね」

 ユウリィさんもその武器がいかに恐ろしいものかを力説した。普通の人にそんな話をしたら売れなくなるだろうに、今回のケースではそういうエピソードがある方がむしろ価値が上がると考えているらしい。そして、それはどうも正解みたいだ。

「さてそうすると、今の私の手持ちでは足りないかもしれないね。私の荷物から金銭的な価値のありそうな物を買い取ってもらうとしようかな。後でお店の方に行くから、それまでこの短剣は取り置いてもらえるかい?」

 フューリスさんは「その日を暮らせれば十分」と言って普段からあまりお金を持ち歩かないから、そうなってしまうんだろう。

 ただ、持ち物には高い価値があるものも含まれてるはずだ。それこそ、貴族として社交界に出入りしても怪しまれないくらいの服飾品とか。

 それらと交換なら、確かに、この邪鋼の短剣が買えるくらいの価値になるのかもしれない。

 ただ、ユウリィさんはフューリスさんが差し戻した短剣を受け取ろうとはしなかった。

「そいつはあんたが持っておいてくれ」

「まだお金を払っていないけれど、いいのかい?」

 金にうるさいこの人にしては珍しい……という視線を俺とフューリスさんから向けられて、ユウリィさんは肩をすくめた。

「店に置いといてニコルに何かあったら困るんでな。あんたから売れる物があるなら、この場で見せてもらって買い取ることにしよう。もしあんたが払えないなら領主様から取り立てることになるが、いずれにせよ、そいつをうちの店には持ち込んでくれるなよ?」

 なるほど……。ユウリィさんは一人で危険なところにだって行く旅商人だけど、ニコルくんはそうじゃないからな。身体もまだ子供なこともあって、危険への対処能力がユウリィさんより劣るのは無理もないことだ。

「そういうことなら、その申し出はありがたく受け取っておくことにするよ。私としても、邪鋼の武器の危険性は承知しているつもりだからね。親しい人に近付けたくないという気持ちはわかるよ」

 とはいえ、身近にあるってだけでそれほどに危険なものなら、ヴィカやペトラも危ないんじゃ……と思わないでもない。今のところ、鞘から抜かなければ大丈夫かな、という気はするけど。

「フューリスさんは伝承武具(レジェンダリーアーム)も持ってると思うんですが、それでもそんな危険な武器が必要なんですか?」

 訊くならここしかない、と思い切ってそう言うと、フューリスさんは即座に「うん」と頷いて返してきた。

 フューリスさんの意志はそれほどに固い、ということだろう。でも――

「いや、使わないで済むならそれに越したことはないのだけれどね」

 俺を一目見たフューリスさんがそうやって言い訳めいたことを口にしたのは、不安が顔に出ていたからかもしれない。

「うん。君の心配はわかるよ。けれど、私の敵ときたら煌気(エーテル)冥気(アビス)でなければ傷付かない可能性もあるからね。念には念を、ということなのだよ。どうか納得しておくれ」

 そう言われると、俺も「ああ……」と、消極的ながら頷かざるを得ない。

 あの〈太陽の聖石〉の複製品については、俺よりもフューリスさんの方が詳しい。強大な力を秘めたその石はかつてフューリスさんの手元にあって『古竜ですらその女神を傷付けることはできない』と言われたほどだ。

 伝承武具(レジェンダリーアーム)でさえ、通らない可能性があるのか……。

 確かに邪鋼の武器は扱いづらそうだし危険そうだけど、フューリスさんの旅の目的を考えると、それがないことによる危険の方が大きい可能性はある。

 だからこそ、フューリスさんはそれが届くのを待っていたんだろうし。

「さて。これであとは、ステラの師匠である〈西の導師〉から手紙の返事が届けば、やっと西へ旅立つことができるね。もっとも、それがいつのことになるかはまだわからないけれど」

 フューリスさんの旅の目的が達せられるように、と同時に、その危険な武器を使う日が来ないようにも祈ることになりそうだ。



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幸運を呼ぶツボ

 フューリスさんが部屋から持ってきたのは、旅の荷物が詰まった背負い袋。

 一見するとそれに入りそうもない物が次々に引っ張り出されて、ユウリィさんの鑑定に掛けられた。

 その中にはフューリスさんがサンジェルマン伯爵に変装する時に着ていた衣装もあったけど、これはフューリスさんの体型に合わせて仕立てられてるから、ユウリィさんは「仕立て直すのは面倒だな?」と渋い顔をしていた。品質自体は、貴族の服として申し分ないらしいけど。

「着てみるかい?」

 フューリスさんに言われて、俺は苦笑。いいデザインだとは思うけど、ちょっと、俺の身長だと似合うとは思えないな。

「確かに、うん。今の君に合うように直しても、君は今後まだ成長してしまうかもしれないね」

 その可能性はあると思う。そう思いたい。

 結局、ユウリィさんがフューリスさんから引き取ったのは宝石が主だった。その中には大粒の魔晶石もあった。むしろこれが一番高価なのか。

 そういうわけで、邪鋼の短剣は晴れてフューリスさんの物になった。

「いい買い物したよ、あんた」

 館で使うために注文しておいた物も数は足りてるし、その料金もさっき支払った。これで今日の取引は終わり……

「あら。御用商人ですか?」

 というところで前庭に現れたのは、ヴィカ。

 ……フューリスさんの取引に気を取られてて、ヴィカの接近に気が付かなかった。まずいことになった。

「御用商人。ふむ、まあそんなところだな?」

 ユウリィさんは俺に視線を送って、そう言った。その琥珀色の目は、全部理解したぞ、と告げている。……まあ、ユウリィさんほどの人が、雷王都市の王女ヴィクトリアのことを知らないはずはないよな……。

「その身なり、いずこかの高貴な身分の方とお見受けするが、いかがかな?」

「ご想像にお任せするということで……」

 二人とも、笑顔。

 お互いはっきりとは言わないけど、これはもう完全に、わかっているけどわかってないふりをしている、って様子だ。

 そこは大人の対応だと思う。これなら案外、酷いことにはならないかもしれない。

 ……と、そう思ったのも束の間。

「それなら、そうだな……これなんかどうだ? これは幸運を呼ぶツボでな……」

 思った途端にこれだよ。

「……そういう無理矢理な押し売りはやめてください」

 よりにもよって、商材が『幸運のツボ』。いくら俺が田舎者で世間知らずでも、これが詐欺同然の話だって事くらいはわかる。

 ところがユウリィさんは悪びれることなく、荷台から取り出したそのツボを丁寧にテーブルの中央に置いてみせた。

「領主様は疑り深いな。こいつは本当に正真正銘、幸運を呼ぶツボなんだぜ?」

「えぇ?」

 そう言われても……見た目は、古くさいツボだ。いつ頃作られたのかは、詳しくないからわからないけど、少なくとも最近流行のデザインじゃない。そして、さっき邪鋼の短剣に感じたような特別な気配も感じない。

 正真正銘って、どこでそう判断しろというんだろう。

「前の持ち主がそう自慢してたのを、オレはよーく覚えてる」

 ユウリィさんは大袈裟な身振りを交えて、そんな話をした。

「そいつが馬車に轢かれて死んだんで、形見分けでもらってきたんだ」

「それ、前の持ち主は不幸な亡くなり方をしてますよね?」

 馬車に轢かれて死ぬなんて、幸運のツボを持ってたにしてはおかしな話だ。

 指摘すると、ユウリィさんはにやりと笑って……

「ほう。そこに気付くとは、鋭いな?」

「いやいやいや……」

 そこまで鋭くなくても気付くと思う。明らかに矛盾してるし。

 でもユウリィさんはまだ諦めていない様子で「まあ最後まで聞いてくれ」と話を続ける……。

「かつてこれを手に入れた旅商人がいてな。大きな取引をいくつも成功させ、大教会とも深い繋がりができて、きれいな嫁さんももらって、人生はまさに順風満帆。ついには自分の店を持つまでになった。だがある時から、店は寂れ、嫁さんには逃げられ、石があればつまずき、犬に会えば噛みつかれ、とまあ散々な余生を送ったそうだ……」

 前半の上り調子からの、後半の落差がすごい。

「完全に不幸のツボじゃないですか」

「そう思うだろう?」

 俺の指摘を受けたユウリィさんは、それを待っていたという顔で笑った。

「実はこの幸運のツボ、大きな幸運を得られるのは最初の一年の間だけでな。欲張っていつまでも持っていると不幸になるんだ。つまり……さあ、もうわかっただろう? 一年以内に手放してしまえば大丈夫ってわけなのさ」

 そうなのか、なるほど……。

 うまい話には裏がある、そしてそのさらに裏をかけばうまい話にありつける、というわけだ。

「あらあらまあまあ」

 思わず、という様子でヴィカが声を上げた。

「では、これがあれば……これさえあれば……」

 震える手は、テーブルの上に置かれたツボへと伸びる。

 ヴィカはこんなツボに頼らなくてももう十分に裕福だと思うけど、でも、将来に不安を感じていないわけじゃないのは、本人から聞いたとおり。

 確かに、このツボがもたらす幸運があれば……

 フューリスさんの手が強く打ち鳴らされたのはその時だ。

「騙されてはいけないよ、二人とも。ユウリィの売り口上なんて半分はでまかせなのだから」

「……えぇ?」

 俺としては「ユウリィさんがまさか」とは、思わない。

 どちらを信用するかといえば、フューリスさんだ。

 ……でまかせ、なのか?

「失礼なことを言うやつだな」

 そう言ってユウリィさんは憤慨した様子を見せた。

「オレは商売に関しては信用ってやつを大事にしてるんだ。そんな詐欺みたいなことをするはずがないだろう?」

「ふむ。それならば、君がそのツボから得た幸運というものを、ぜひ聞きたいね」

 そうだ。今このツボを持っているのはユウリィさん。

 話が本当なら、当然、ユウリィさんもとてつもない幸運を手にしているはず。

「ああ。ひとつは、領主様と知り合えたことだな」

 悩むことなく、ユウリィさんはそう口にした。

 ……それは幸運なのかな。

 俺の方としては確かに、ユウリィさんほどの商人と知り合えたのは幸運だけど、ユウリィさんからもそうなのかは……。

「なるほど? それは確かに、望外の幸運かもしれないね。他には?」

 フューリスさんはそう言って続きを促した。……俺とのことは幸運扱いでいいのか。今のところフューリスさんからもヴィカからも異論は出てない。そうなのか……。

「いちいち語るのも面倒くさいくらいにいろいろあったな。東で安く仕入れた商品が西では高値で売れるなんてのは日常茶飯事だった……」

 うん……うん?

 俺は商売のことにはすごく詳しいわけではないけど、土地ごとの特産品は生産数が多いから安くて、それを別の土地に持っていけば高く売れる……というのは普通によくあることで、だから旅商人って仕事が成り立つんじゃないのかな。

 ユウリィさんが言ってるそれは、本当にツボのもたらす幸運なのか……?

 その表情は真剣そのもので、真面目に語っているようには見えるけど。

「あとは最後にもうひとつだけ、大きな幸運がある予定になってる」

「それは?」

 訊かれて、ユウリィさんはそのツボの口のあたりを気軽に掴んで、片手で持ち上げた。

 そして、それまでの神妙な顔を崩して、にやりと笑った。

「この何でもないツボがいかにも不似合いな高値で売れちまう、ってのは、どうだ?」

 何でもないツボ……ということは。

「……やっぱり詐欺なんじゃないですか……」

「えっ、えっ、もしかして、さきほどのお話は嘘だったのですか?」

 ヴィカはまだ完全には事情が呑み込めていない様子だ。生まれも育ちもまるで違う俺とヴィカがちょうど同じくらい世間知らずなのは、何だか不思議なことではあるけど。

 タネ明かしが済んで、ユウリィさんは心底面白そうにくっくっと笑った。

「詐欺みたいなことはしない、とは言ったが、詐欺をしないとは言っていないな?」

 そうだったかな。仮にそうだったとしてもごまかしの理屈には違いない。

「信用を大事にする、とは言ってましたね」

 俺がそう指摘しても、ユウリィさんは余裕の笑みを崩さない。

「本物の詐欺に引っかかる前に聞くには、ためになるいい話だったろう? あんたはお得意様だから、授業料は無料にしておいてやるよ」

 うーん。そう言われると、確かにためになる話だったような……?

 ……と、もしかしてまた騙されてるんだろうか、これ。

「やれやれ。信用商売が聞いて呆れるね」

 フューリスさんが肩をすくめた。

「こういうやつなんだよ、ユウリィは。よく気を付けて付き合わなくてはいけないね」

 この人がいてくれなかったら、俺かヴィカかのどちらかが、あのツボを高値で買っていたかもしれない。今回は危ないところを助けてもらったな。

「あ、ということは……」

 ヴィカが、ぽん、と手を打った。

「せっかく開いたお店は寂れ、奥様には逃げられて、犬に会えば噛みつかれるという余生を送った不幸な商人さんはいなかったのですね? 良かったです」

 それは……そこ特別に注目するとこかな、と思わなくもないけど、なかなかヴィカらしい気遣いだと思う。

 こんな多くの嘘にまみれたやりとりも、これで何やらこう、爽やかでいい感じの結末に――

「いや、それはいたんだよ。ツボとは関係なく」

 ……なんて悲しい話なんだろう。



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旅行の終わり

 ヴィカから「夕食の前に少しお時間を」と言われて、俺とニーナは執務室でヴィカと向き合った。ヴィカの後ろにはもちろん、ペトラも控えてる。

 そしてその席で、ヴィカから告げられたのは……

「帰る? 雷王都市に?」

「はい。お父様からそろそろ戻るようにとの手紙が届きましたので。急で申し訳ありませんが、明日の朝にはここを発つことに……」

 そういうことだった。

 この話に先だって、ヴォルフさんからペトラを通じてそのことを告げられていたらしい。どうりで、少し元気がないような気はしてたんだ。

 王様が戻ってくるように連絡してきたってことは、もう反王制派の組織を壊滅させたんだろう。

 潰されたそいつらにもそいつらなりの言い分はあっただろうけど、俺の名前を騙ったり、ヴィカを害そうと刺客を送ってきたりと、俺の知る限りでは、あんまり同情できる余地はないかな……。

 さしあたって、問題はそっちよりヴィカの方だ。

「いいんですか、けんかしてたことは」

 ヴィカが許嫁を失って二年。新たな婚約者を選ぶ、と父親である王様から言われて、それに反発して、ここまで『家出』をしてきたわけだ。

 反王制派が壊滅しても、ヴィカのその問題が解決したわけじゃない。

 俺としては、少し心配ではある。数日とはいえ一緒に暮らせば、情もわく。それはニーナも同じだろう。

 ただ、ヴィカの方はあまり深刻そうにはしていない。

「完全に納得したわけではありませんが、心の整理も、少しずつ、進んでいますし……」

 そう言って、うっすらと笑った。

「それより、これ以上ここにいたら貴方を男性として好きになってしまうかもしれなくて、今はそちらの方が怖いです」

「……はあ。……あ、えっ?」

 どうも、突然に意外なことを言われて、間抜けな返事しかできなかった。

「ほんとに無礼なやつだな、お前。最初からそうだったけど」

 ペトラに呆れ顔でそう言われて、返す言葉もない。

 とはいえ、少しくらい落ち着いて考えてもあまり気の利いたことが言えるとは思えない。悪竜や魔獣をいくら倒したところで女性を口説く能力が向上するはずもないわけで、そこらへんは故郷の田舎村でぼんやり暮らしてた昔と同じだ。

 逆にそういうところが気に入られてるって可能性は、なくもないけど。

 いずれにせよ……

「貴方にはその気はないようですし、あまり長く滞在してもお邪魔かと」

 邪魔とは思わないけど、その気がないってのは合ってる。

「すみません。ヴィカのことは綺麗で気品のある素敵な人だと思いますし、気持ちは嬉しいのですが、応えることはできないかと」

「珍しく身の程をわきまえたな。お前みたいな変態はヴィクトリア様にふさわしくない。でもヴィクトリア様の好意を無下にするのは無礼でムカツクな」

 ペトラは無茶苦茶なことを言ってくるけど、この毒舌も明日までか。そう思うと少し寂し……くはないな、これに関しては。途中から始まった変態呼ばわりは結局やめてくれなかったし。

 もちろん、ペトラみたいなお騒がせ……んん、賑やかな子がいなくなれば、ふと寂しく思うこと自体はあるだろうけど。

「まあ……気が向いたらまた二人で遊びに来てください」

 言うと、ヴィカは「はい」と頷いて、微笑を浮かべた。

「お互いのためにも、そのくらいの関係にしておきましょう」

 ヴィカの立場を考えると確かに、俺なんかに片思いしても辛いばかりだろう。棲む水が違う、というかな……。それに応えられない俺としても心苦しいし、結局最後は苦い決断をすることになる。

 もしどこかの吟遊詩人が知ったら、立派な悲恋話にしてくれるかもしれないけど……

 そうならないうちにというヴィカの判断は、賢明、と言っていいと思う。

 ……原因の半分である俺が言うのもなんだけど。

「他の皆さんにも、この後の夕食の席で私自身からお話ししようかと」

 そうか……寂しがるだろうな、みんな。旅慣れてるから、旅立とうという人を泣いて引き留めるまではしないと思うけど。だからって寂しくないわけじゃない。

 たぶんすぐ傍で聞いてるニーナも……と思っていると、そのニーナがちょうど口を開いた。

 ただ……

「あの。明日の朝食はどうしますか?」

 訊ねたのは感傷的なことでなく、あくまで現実的なことだった。

 朝食か。作りすぎて余る分には誰かが食べるだろうけど、足りないと困るもんな。……まあ、万が一そうなっても俺とニーナが朝を我慢すれば済むけど。

「お手数をおかけしますが、いただいてから出発しようかと」

 もちろん、あらかじめそう言われてれば、ニーナは万事うまくやるだろう。

「わかりました。とびきり美味しい料理でお見送りします。それとお弁当も、二人分」

「それ、私も手伝う。手伝わせて欲しい」

 ニーナにそう申し出たのはペトラ。俺に対する態度と全然違うけど、ペトラは元々、ヴィカの侍女としてニーナの仕事ぶりを褒めて――を通り越して尊敬していた。それでこんなことを言うんだろう。

 ただ、ニーナは首を縦には振らなかった。

「最後なんだから、私にちゃんとおもてなしさせてね?」

 今回ばかりは自分の『権利』を譲るつもりはない、ということらしい。ペトラは残念そうだけど、ニーナからそうまで言われたらさすがに引き下がるしかないだろう。

「ペトラ」

 ヴィカが名前を呼ぶと、ペトラは残念そうな顔を瞬時に捨て去って「はい!」と元気な返事をした。

「私が帰るのはすでに話した通りですが、貴方はどうするのですか?」

 静かな声でそう問うヴィカに、ペトラは「えっ」と怪訝な顔を見せた。

「どう、とは?」

「貴方はまだここにいたいのかと」

 ヴィカのその言葉に、俺としては少し意外な気持ちがした。

 ペトラがそんなにここを気に入っていたとは知らなかったな。「ようやく帰れることになってせいせいする」くらいは言いそうな気がしてた。

 そう考えていると、ペトラと目が合った……ような気がした。すぐに顔を背けてたけど。

「……まさか。私はヴィクトリア様とずっと一緒です!」

 ペトラは元々、ヴィカの侍女だ。そうするのが自然だろう。

 ただ、そう宣言されたにも関わらず、ヴィカの顔は少し曇っている。

「明日には発つのですから、悔いのないようにしなさいね」

 それが何を意味した言葉なのか、俺にはいまいちわからない。

 ペトラは……わかってるんだろう。何やら悩んでいるような、そんな表情をしていた。

 

       *

 

 ヴィカからの突然の報告には、みんな驚いたようだったけど……

 元々、滞在は数日の予定だった。もうそんなに経ったか、という驚きが主で、ヴィカが帰ること自体への驚きは、そう大きくなかったように見えた。

 一番寂しそうだったのはミリアちゃんかな。ヴィカは「また遊びに来ますから」と言ったけど、ミリアちゃんは「その時にはあたし、もういないかもしれないもん」と涙ぐんでいた。

 この言葉にヴィカが驚いたから、ミリアちゃんが大学に合格したらそうなる、ということを説明することになった。……ヴィカが不穏な勘違いをしてしまったのは、先日俺が身体の不調のことを話したからかもしれない。

 結局、ヴィカが時々手紙をくれるということになった。雷王都市に帰ればヴィカも忙しいだろうに。でも、ありがたい話だ。

 夕食の席は寂しさを吹き飛ばそうとするように賑やかだった。女性陣はお風呂でもそんな感じだったらしいんだけど、そこはもちろん、後から話で聞いただけだ。

 女性陣が済ませた後の風呂場でクルシスと一緒になった時は「ああまで旅立ちを惜しんでもらえるのは人望だな」という話をした。

「確かに、旅に出るのがクルシスだったらみんなあそこまではしないと思うけど、人望がないからじゃないと思うよ」

「では、どうしてだと?」

「クルシスは旅が似合うから、あるべきところに収まるって感じなんだよなあ」

「……なるほどな」

 そういえば結局、ヴォルフさんはこの温泉には入れなかったな。



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最後の夜のペトラ

 騒ぎも一段落して、みんな自分の部屋に戻ってしまった夜。

 俺も自室に戻って、ろうそくの明かりを頼りに日記を書いていると、部屋の戸がノックされた。

 明日の相談にニーナが来たのか、それともクレールが特に理由もなく遊びに来たのか……と思いながら戸を開けると、意外な子が立っていた。

「おい。……今、いいか?」

 ペトラだった。

 ただ、様子がどうも普段と違う。見慣れない寝間着姿なのが一因ではあるけど、それだけじゃない。表情だ。何だかこう……恥じらっている、というか。

 いったいどうしたのか、と思っていると、ペトラは周囲の廊下をきょろきょろと見回してから、声を潜めて……

「中、入ってもいい? 誰かに見られると、やだから」

 そう言うと、俺の返事も待たずに部屋に押し入ってきた。……こういうところは、いつものペトラだな。

 それにしても、一体何だろう。他の誰かに見られるのが嫌って。それにこの、何かを言いたそうにしながら言えないでいる姿。

「あの、な。その……ええっと……」

 ろうそくの火にあわせて、ペトラの姿を彩る陰影も揺らぐ。そうすると、意外に女性らしい輪郭がうっすらと浮かび上がって……

 漂ってくる甘い香りは、香水か何かかな。

 ……ふと、さっきのヴィカとペトラのやりとりを思い出した。

『明日には発つのですから、悔いのないようにしなさいね』

 ヴィカはそう言っていた。

 言われたペトラの方は……確か俺の方を見ていた。

 それで、ここに?

「お前に……言いたいことが、あるんだ……」

 らしくなく緊張しながら、ペトラが呟く。

 これはまさか。

 最後の夜に、悔いを残さないように、こっそり訪ねてきて……なんて、いかにも『そう』な感じじゃないか。

 どうしよう? どうしたらいいんだ?

 ……うん。とりあえず落ち着こう。勘違いだった時に恥ずかしいし。

 なんてあれこれ考えている内に、ペトラは覚悟を決めたようで、俺の顔をまっすぐに見つめてきた。

 そして――

「……ごめん!」

 と、勢いよく頭を下げた。

 

 …………?

 

「ええっと……『ごめん』って、何のこと?」

 俺としては、まずそのあたりがよくわからない。心当たりがない。

 ……まあ、それを言われる前に想像してたようなことじゃないってのは、わかったけど。

 ペトラは頭を上げて、ただし俺からはちょっと視線を外しつつ、続けた。

「その……ほら、私、お前のこと結構悪く言っただろ。言い過ぎたかなって、ちょっとだけ、思ってて……」

 んー……ああ、そのことか。

 確かに、いろいろ言われた記憶があるな。無礼者とか、田舎者とか、変態とか。

 でももう、今更だな。明日にはペトラも雷王都市に帰ってしまうわけだし。そう思うと懐かしくすらある。

「許してくれるか……?」

 ペトラにしてはしおらしくそう言ったから、うん、これを突っぱねても大人げないな。ここは、心残りをなくして気持ちよく帰れるようにしてやるべきだろう。

「元々、そんなに気にしてないよ」

 本当はそこまでよくできた人間でもないけど、あと半日くらいなら、そういう顔をしておくことは可能だろう。

 俺の言葉を聞いたペトラは、ぱあっと顔を明るくした。

「そっか! それなら良かった。これで心配事がひとつ減った。それじゃあ、また明日な。おやすみ!」

 たぶん安心したんだろう。笑顔で一気にそう言って、部屋から駆け出ていった。

「ああ、おやすみ」

 ペトラの背中に向かってそう言ったけど、はたして聞こえたかどうか。

 ……なんか、どっと疲れたな。最後の夜までお騒がせな子だった。

「んふ。愛の告白じゃなくて残念だったね?」

 からかうような声でそう言われて、俺は大きくため息。

「別に、そういうのは期待してなかったよ」

 仮にそうだったとしても、応えることはできないわけだし。そうでなくて良かった。

「……ていうか、なんでいるの」

 開け放たれたままの入口から、クレールが顔だけ出して覗き込んでいた。

「ペトラがこの部屋に入っていくのが見えたから、もしリオンが刺されたら大変だと思って、廊下から様子をうかがってたんだよ」

 クレールはそう言いながら俺の部屋にひょいっと入り込むと、そっとドアを閉めた。

 ……もし仮にペトラに刺されたとして、それが俺にとって致命傷になるとは思えないけどね。

 それはともかく、クレールは夜に寝間着姿で俺の部屋に遊びに来るのももう一度や二度じゃないから、何というか、お互いに勝手知ったる……みたいな感じだ。今もクレールはろうそくの小さな明かりだけでも何の躊躇もなく歩いて、ベッドの縁に腰掛けてみせた。

 これが誰か他の女の子ならもっと胸の高鳴りを感じそうなものだけど、クレールが来るのは完全に慣れきってしまったな……。

「帰る前に謝っときたかったって、なかなか可愛いとこもあるね。まあ、僕ほどじゃないけど」

 前半はともかく、後半には「はいはい」とぞんざいに返してしまう。

 一応、クレールの名誉のために補足しておくと、自分で言ってもおかしくないくらいには可愛い。でも、そういう言動を何度も繰り返されると、いちいち相手してたら大変なんだよな……。

 まあ、クレールの方も真剣な返事は期待してないらしい。気にした風もなく話を続けた。

「明日帰っちゃうとなると、やっぱりちょっと寂しいよね。お姫様とその侍女だから、いつまでも遊んでるわけにはいかないし、仕方ないんだろうけど」

「そうだね」

 ここに来たことで、少しは気分も安らいだんじゃないかな、とは、思う。

 思う、けど……。

 ……ん? 何か変だな。いま、クレールが……

 あれ?

「クレールは知ってたの、ヴィカのこと」

 違和感を覚えて指摘すると、クレールは「あ」と声を漏らした後で口を押さえた。

「し、知らないなー。何のことだか、僕、さっぱりだよー」

 今更そう言われてもね。という気持ちを視線で伝えると、クレールはすぐに降参した。

「……えっとねー、途中で気付いたけど、黙ってたんだよ。知らないふりしとこうと思って……」

 そっか、気付いてたのか。まあ、そんなに真面目に隠してもいなかったし、ちょっと有名人を知ってる人にはバレてしまっても不思議じゃない。……俺なら気付かなかったかもしれないけど。

 ただ、ヴィカがどうしてそれを隠してたのか、ということに関しては――

「僕も爵位のこと秘密にしてるし、なんかね、友達といるときはそういうの忘れたいなーって思う気持ちはわかるから」

 クレールには、改めて言う必要もなかったか。

「明日は、気持ちよく送り出してあげるつもりだよ。……友達としてね」

 その言葉に、俺も頷いて返した。

 きっと、ヴィカもそれを望んでるだろう。



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新しい季節へ

 朝早くから、正門の外には豪華な馬車が停まっていた。もちろん、ヴィカがここに来た時に乗っていたものだ。荷物のほとんどはすでに積み込まれた後で、後はヴィカとペトラが乗り込めば出発できる、という状態。

 ヴォルフさんはその馬車の御者と一緒に、外で待っている。あまり急がなくてもいいとは言ってたけど、日が出ているうちに今日の宿がある隣町まで行くとなれば、あまり出発が遅くても問題だろう。

 朝食が済めば、ヴィカとペトラは帰ってしまう。

 それをみんな知ってるからか、今日は誰も朝食に遅れはしなかった。

 すでに食卓に並べられているのは、朝食にしては豪華な料理の数々。ナタリーなんかは「朝からこんなに食べていいんですか!」と喜んでる。その上で、朝から重いな、みたいなのはひとつもなくて、どれもすんなりと身体に入っていきそうなものばかりだ。

 ニーナはそれらを早朝から一人で作った。いや、昨晩から仕込んでたらしいものもあるな。いずれにしろ、かなり手間がかかってるのは確かだ。

 そういえば、このスープは確か……フューリスさんが出発する予定にしてた朝にもあったな。きっと何か、旅立ちに向けて力が出るような、そういう素材のスープだ。

 そして、そう。よく見れば、ありきたりないわゆる『高級食材』ではなくて、この土地のものがたくさん使われてる。

 ニーナなりの、旅立ちの日の料理。

「こんなに心のこもった料理でお見送りしていただけるなんて、感激です。本当にありがとうございます」

 朝食の前にヴィカがそう挨拶した。ペトラもその後ろに立っている。

「ここに滞在している間、皆様にもとてもよくしていただいて、感謝の念に堪えません。私は今日これにてここを去りますが、いつかまたお会いできましたら、その時はどうぞ変わらぬご友誼を――ああ、ええっと、その……皆さんさえよろしければ、これからもずっとお友達でいてください」

 公式行事での挨拶みたいな堅苦しい感じになってたのを、途中で無理矢理修正したな……。まあ、雷王都市の王女ヴィクトリアでなく、ヴィカとしてなら、その方が自然か。

 みんなから口々に「もちろん」と声を掛けられて、ヴィカは笑った。

 うん、いい笑顔だ。

 ヴィカは、雷王都市に帰ればおそらく大きな問題に直面することになる。ヴィカ自身もそれをわかってる。でも、こんな風に笑えるならきっと、乗り越えていけるんじゃないかな。

 ここでの思い出と、いつも一緒にいるペトラが、ヴィカを助けてくれるはずだ。

「それで、あの……少々、申し上げにくいことなのですが、ひとつお願いがありまして……」

 ……うん? 何だろう。俺には心当たりがないな。ニーナも何も聞いてない様子で、こっちに視線を送ってきた。結局、お互い何もわからないってことがわかっただけだったけど。見回すと、みんなもそうらしい。

「……いったい、どうしたんです?」

 代表して俺が訊ねると、ヴィカが「実は」と切り出した。

「ペトラを、もうしばらくこちらで預かっていただきたいのです」

 みんなの視線がペトラに集中する。

 注目されたペトラは、ヴィカの隣に一歩進み出て丁寧に頭を下げた後、ぎこちなく笑った。精一杯の笑顔らしいけど、さっきのヴィカや、昨晩のペトラ自身の笑顔と比べると、ひどいものだ。

「……一緒に帰るんじゃなかったんですか」

 まさか、何かの罰で居残りになったんじゃないだろうな……。

「昨晩、改めてよく話し合いまして。私としては、ペトラの意思を尊重することにしました。もちろん、皆さんの許可をいただけたら、ですが」

 ヴィカがそう補足した。ペトラ自身の希望なのはわかったけど、その詳しい理由はわからない。

「ちゃんとペトラの口から理由を訊いてからかな」

 俺より先に、クレールがそこを指摘した。

「何が気になるの? もしかして……」

 そういぶかるクレールだけでなく、何人かが俺の方にちらっと視線を向けた。

 もしかして、俺がペトラをたぶらかしたと思われてる……?

「私、私は……」

 ペトラは緊張した面持ちで、視点が定まらない。その中で、俺の方にも視線を向けた瞬間はあったけど、何か意味がある視線だったかどうかは、はっきりしない。

 ただいずれにしろ、ペトラがここまで言いにくそうにするとは、よほどの理由があるんだろう。

 ……たっぷり二十ほど呼吸する間をあけてからようやく。

 ペトラが深呼吸をした。そして、顔をまっすぐに上げて……

「ニーナ!」

 と、名前を呼んだ。

「は、はいっ?」

 いきなり巻き込まれた、という様子で、ニーナが慌てて姿勢を正した。

 クレールが拍子抜けしたような声で「あれ、そっち?」と呟いた。……正直、俺も似たような気持ちだ。

 そんな俺たちのことはお構いなく、ペトラは言葉を続けた。

「私、ニーナの料理の腕、掃除洗濯の手際、館の隅々まで把握している気配り、そして住人たちを等しく包み込む母のような愛……そういうのに本当に感動して……ここでもっと修行したいと、そう思うようになった。より強い侍女になるために……!」

 ……強い侍女? よくわからない用語が出てきたぞ。

 ともあれ、何やら熱意があるのは伝わってくる。

「ぜひ学ばせてほしい、ニーナ……いや、師匠!」

「えぇ?」

 ニーナのところまで駆け寄ったペトラがその手を取って懇願したけど、ニーナは困惑顔……。

 とはいえ結局、ペトラを受け入れること自体は賛成多数になった。

 ニーナの負担が今まで以上に大きくなるのか、それとも手が増えて楽になるのかは、まだわからない。

「よかったですね、ペトラ。しっかり学んできてくださいね」

 ヴィカにそう激励されて、ペトラは「はい!」と元気に頷いていた。やる気は十分にありそうだ。

「それじゃ、もうしばらくよろしくな、変態領主!」

 ……こうなると、昨日の夜ペトラに「あの程度の悪口は気にしてない」なんて言ったのは、早まったかな。まあ、今更ペトラから『リオン様』なんて呼ばれても逆に落ち着かないかもしれないけど。

 

       *

 

 ヴィカの乗る馬車をみんなで見送って、それが解散になっても、ペトラはまだその場を動かずにいた。馬車が見えなくなるまではいいか、と、俺も付き添う。

 止まない雨の降る雷王都市とは違う、真っ青な空。

 ペトラはしばらくの間、ヴィカとは違う空の下で自分を鍛える決断をした。それ自体は、応援してあげたいところだ。……あとは暴言が減ってくれると、なおいい。

 そんな風に考えながら立っていると、ニーナが声を掛けてきた。

「それじゃ、私は食堂の片付けに戻るから。リオン、しばらくペトラのことお願いしていい?」

 俺は今日のところは暇……んん、ではなく、急いでやるべきことは全て済んでる状態だから、そのくらいは構わない。

「あ、私もやる! 片付け!」

 ペトラが手を挙げたけど、ニーナは首を横に振る。

「気が済むまで見送ってからでいいよ。今日はもともと一人でやるつもりだったし。明日からはしっかり手伝ってもらうけどね」

 そう言われたペトラの顔は、不満半分、感謝半分。仕事は頑張りたいけど、ヴィカと離れた寂しさは大きい……ってところか。

 しばらくこの子を任された身としては、何か声を掛けてあげたいところだけど……

「あ、でもひとつだけ」

 と、食堂に戻りかけていたニーナが振り返った。

「ひとつだけ、今日のペトラにやってもらいたい仕事があるの。えーっと……はい、これ」

 ニーナが懐から取り出してペトラに手渡したのは、ひとつの鍵。

「これは?」

「使用人部屋の鍵。西側の、謁見室と応接間の間にあるから、そこの掃除をお願いね。場所がよくわからなかったら、リオンに案内してもらって」

 渡された鍵を見て最初は少し戸惑っていたペトラも、その鍵とニーナの顔との間で視線を往復させるうちに、意味を理解したらしい。

 まあ……いつまでも客室を使われたら困るよな。

「もうお客さんじゃないんだから、自分の部屋は自分できちんとすること。いい?」

 ペトラはその鍵を両手で握りしめて……

「うん! もちろん、そうする!」

 と、元気な返事をした。



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旅立てない理由

 ここ数日、日差しが明らかに強くなって、外に出ると日陰が恋しい気持ちになる。

 季節は夏に入った。

 それで少し、故郷のことを思い出した。

 故郷は森を切り開いて作った村で、雷王都市みたいな都会と比べたら本当に何もなかったけど、涼しい木陰はたくさんあった。川と畑を往復して水を運ぶのは当時の俺には重労働で、そこでよく休憩したな。

 二年前は、そうやって暮らしていた。

 ……遠く離れた海沿いの村で領主をやることになるなんて、その頃は思いもしなかった。

 

 今の俺が住んでいる『竜牙の村』の方にはいくつかの変化があった。

 一番は、港の整備が始まったことだ。それに先だって、作業を担当する人や、そのための資材が集まった。そのことでトラブルも少しあったけど、現場の揉め事のほとんどは親方が対応してくれてる。あの人はそういうのが得意だし、好きでもあるようで、俺としては楽だ。

 整備は数年をかける計画で、この夏には大型の船が停泊できる桟橋を新設する予定になってる。

 大きな船が入れるってことは、干潮の時にも底を擦らないくらいに深さがあるってことだ。村の漁師たちが使ってる桟橋より、かなり大きくて長い物を作ることになる。話を聞く限り、資材さえあれば技術的には可能らしいから、俺が下手に手を出すよりは任せてしまった方がいいだろう。

 それから、何人かの移住希望者もやってきた。

 ほとんどは家業を継げない次男三男という人たちだそうだ。念のため確認したけど、この村まで手配書が来てるような悪党は混ざってなかった。

 目を引いたのは、この村で鍛冶をしたいという女性。故郷の街では女性だと鍛冶屋の組合に所属できず鍛冶場を持つことができなかったそうだ。この村には鍛冶屋はひとつしかなくてしかももうそろそろ引退を考える歳、ということもあって、受け入れが決まった。

 親方の後押しもあった。その理由のひとつには、この村の男女比の問題もある……。

 まあ、本人はどうやら「よりどりみどりじゃないですか!」という気持ちらしいから、それなら俺からとやかく言うこともない。好みは『はち切れんばかりの筋肉がある男』だそうで、俺は候補者になっていない。

 

 比べると、館の方には特に変化はない。ただ、変化がなさ過ぎるのも少し心配になるところではある。

 特に気になるのは、クルシスのことだ。

 ヴィカよりも先にこの館に来て、フューリスさんのように目的がある旅の途中のはずだ。となれば、滞在はほんの数日……と思っていたのに、いまだに旅立ちをためらっている。

 俺はその理由にまったく心当たりがなくて、どうにもしようがない。

 それで今朝、思い切って直接訊ねてみた。

「もしかして何かあった?」

 曖昧な尋ね方だけど、そうとしか訊きようもなかった。

 俺のその問いに、クルシスが神妙な顔で返してきたのは……

「……つまり、旅に出ると食事が不味い、と」

 少し意外だけど、切実な事情ではある……かな。

「あんなものは人間の食事ではなく、家畜の餌だ。最大限に譲歩した表現で、人間の餌だ」

 そういえばクルシスはここに来た当初から、他で食べた料理には厳しい評価をしてたな。

「それに比べて、昨日食べた……あの赤い果実の」

 あれか。ニーナ自身が好きでときどき焼いてるお菓子。

「確か、ストロベリータルトだ」

 それ用に作った生地をお皿みたいにして、バターや特製のクリーム、それにたくさんのイチゴを乗せて焼いてあった。前はリンゴを使って作ってたけど、ちょうど手に入る物を使うことにしてるらしい。甘さの中にイチゴの爽やかな酸味が効いてて美味しかったな。ニーナが作る料理はだいたい美味しいけど。

 クルシスは昨日食べたその味を思い出すように目を細めた。

「あれは天上の美味だ」

 その言葉は少し大げさに聞こえるかもしれないけど、実際に食べたらそう言いたくなる気持ちはわかる。

 ただ、そのおかげで――

 そのせいで、と言うべきか。

 クルシスとしては、粗末な料理を身体よりは心が受け付けなくなって、それで出発をためらっているらしい。

 元々の腕に加えて魔包丁にも慣れたニーナの料理は、いまやそういう魔性を持っている……。

「だが、それを振り切ってでも出発するつもりも、最初は、あった……」

 次の目的地がひとまずは天命都市だから、目的地が同じレベッカさんとペネロペが出発するのに合わせるつもりだったらしい。

 誤算だったのは、その二人の方も教会の修繕に手間取っていて、出発の気配がないこと。聖意物についてステラさんの師匠である〈西の導師〉に訊ねた返事を待ってる、という事情もあるけど。

 それでクルシスもずるずると滞在を引き延ばしていたわけだ……。

 数日分なら、保存が利く食材で作ったお弁当をニーナが持たせてくれると思うけど、その先はどうするのか、というのはやっぱり問題だ。

 

 そのことを夕食の席で誰とはなしに相談したら、「それなら」という助言があった。

 クルシスと二人で村の酒場を訪ねたのは翌日の午前中のこと。

 ここにいる、ある人物に会うためだ。

 

「ああ、はい。わかりますよ、各地の美味しいお店」

 傭兵の組合(ギルド)に所属している記者の、ネスケさんだ。

 組合が発行している『傭兵組合詳報』には美味しいお店の情報も載ると、そういえば最初の取材の時に言ってたな。

 会う時はだいたい半々くらいの確率でぐでんぐでんに酔っているけど、どうやら今日はまだ酔ってないらしい。昼前に来て正解だった。

 酒場には他の客はいない。港の整備の作業に来ている人には朝のスープを無料で提供してるけど、それも済んだ後だそうだ。マスターはその片付けをしている。

 ネスケさんは鞄をごそごそとかき回したかと思うと、そこから一冊の本を取り出した。きれいな装丁で厚みのある本だ。

「これはおよそ二年に一回発行してる飲食店ガイド本で、去年の終わり頃に発行された最新の版です。私の読み古しですけど、これで良ければ」

「そういうのもあるのか」

 クルシスが感心したように声を漏らした。確かに俺も、紙面の一部に少し載っているだけかと思ってた。こんな本になるほどの量だとは……。

「各地を旅する傭兵の間では美味しいお店の情報が求められていますから!」

 傭兵って何となく粗食にも耐える印象があるけど、こんな本ができるってことは、そういう人たちばかりでもないんだろう。むしろ、体が資本の稼業だからこそ、食べ物に気をつかうのかもしれない。

「この酒場の料理も格付けを?」

 クルシスが尋ねた。そういえば、ここの料理は平気だったよな。

 確かに美味しい店だ。この村の新鮮な食材を使ってるし、何より、先々代の領主の下で家令だったという店主の腕が熟練の域。味付けは少し酒飲み向けだけど、クルシスならそこは問題にならない。

 この店の評価がどのくらいかがわかれば、本に載っている他の店の味を推し量る基準になるな。

 ただ、ネスケさんの返答は、残念ながら。

「あー、いえ、私はグルメ担当ではないので、すみません……」

 そういえば、美食記事の担当記者は、正体を隠して取材をしているとかなんとか言ってたな。

 で、ネスケさんは対談記事の担当だと。

 ……うん、まあそれもそうか。

 正直に言うと、ネスケさんには悪いけど、飲食店の質について厳正な格付けができる人じゃないよな。主にあの、酒癖の悪さのせいで。

「でも他の店でも食べたことがある私の個人的な印象では、星三つ……いや四つは堅いですね。ちなみに最高点は星五つです」

 まあ、個人的な感想、ということならいくらか参考にはできる。

 それにしても、ここですら最高点じゃないのは意外だな。というのは、俺がこの村の領主だから、ひいき目ってのもあるかもしれないけど。



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クルシスの旅立ち

 昼間の酒場に客は少ない。昼食をとりにくる人はいるはずだけど、それにしたってまだ早い、という頃だ。ネスケさんはここに宿を取っているから、こんな頃にでもいるけど。……酒好きだから昼間からいるというわけではなく。

 そのネスケさんが、ぐるりと店内を見渡す。

「ここはほら、良くも悪くも店構えが田舎の酒場じゃないですか。お店の評価点っていうのは、そういうところも含めてになりますから」

 そういうことなら、確かに。でも店構えってそんなに大事かな、という気持ちもあるけど……。

「どんなに美味しい料理でも、怒号と酒瓶が飛び交う中じゃ落ち着いて食べられないですよ」

 そう言われると、それはそれで納得。

「ここは店構えは加点も減点もなしで、味だけで星三つ四つつくんだから、大当たりの部類です。世の中、星が一つもつかないようなお店がほとんどですから。食べ比べたらわかりますけど、悪いとこはほんと、人間のエサって感じで」

「わかる」

 ネスケさんの言葉にクルシスが強く頷いた。ここに来る前にクルシスが言ってたのとまさに同じ表現だったから、俺も苦笑してしまう。

「覚えておくといいのは、冒険者組合の看板が出てるところは比較的マシってことですね。組合内でレシピを共有してるそうで、央州全土どこで食べてもそれなりの味がしますし、そもそもの味付けが旅人向けです」

「言われてみれば、そうだったように思う」

 クルシスがまた頷いた。

 俺は、冒険者組合の店って雷王都市にあったのの他はあんまり寄った覚えがないな。街道沿いの町で行ったと思うんだけど、あまり気にしなかった。違和感がなかった、ということなら、ネスケさんの指摘が当たってるのかもしれない。

「逆に、地元の人が行く店は合わない時はとことん合わないですね。旅行自体を楽しむならそういうのもありですけど、傭兵の旅はそうじゃないことが多いですよね。で、そんな時にー……」

 と、ネスケさんはさっきのガイド本を顔の横に持ち上げて見せた。

「そんな時にこのガイド本があれば、美味しくない店に当たっちゃうことが減るどころか、次はどんな美味しい店に行けるのかっていう気分で旅ができちゃいます」

「すばらしい知恵だ。それを譲ってもらえるのはとてもありがたい」

 そう言って、クルシスは手を伸ばした。

 でもネスケさんは、持っていた本をその手からサッと遠ざけた。

 そして、にっこりと笑った。

「これ、買うと結構するんですよ。これだけ分厚い本で、有用な情報がたっぷり入っているから、作るのにかかっている労力や材料を考えたら当然ですよね。なので、ひとつの傭兵団に一冊だけ買って、みんなで回し読みしてたりするんです、普通は。というわけで」

 言ったネスケさんの笑みが、にっこり、から、にやり、に変わって……

「取材、受けてくれますね?」

 ……そういうことか。

 ネスケさんはこれまで何度かクルシスに取材を申し込んで、すべて断られてる。

 クルシスからすると「取材を受ける必要性を感じない」ということらしかったけど……

「…………わかった」

 クルシスが呻いた。

 さすがに力ずくで本を奪い取るようなことはせず、かといって本を諦めるわけにもいかず、となると受けざるを得なかったらしい。

 とはいえ元々、クルシスにとって損になる取材ではなかったと思うんだよな。

 本人は、剣鬼の双子の弟ってこともあって、あまり目立ちたくないのかもしれないけど……

 だからこそ、ちゃんとした取材に基づいた記事が載るのは、悪いことばかりじゃない……はず。

 取材の権利を勝ち取って、ネスケさんは満面の笑顔。

「クルシスの気が変わらないうちに、取材、した方がいいと思いますよ」

 俺は一応口ではそう言ったけど、ネスケさんが酔ってないうちにやった方がいい、という意味だ。ただ、それが二人に通じたかどうかはわからない。

 ともあれ、ネスケさんはすぐに紙とペンとインクを鞄から取り出してテーブルに並べはじめて、その間に、クルシスは居心地悪そうに手元のお茶をすすった。……いつの間にお茶を出されていたんだろう。マスターが気を遣ってくれたんだろうけど、まったく気付かなかった。

 湯気の立ち上るお茶を、俺も一口。館でマリアさんが煎れてくれるのより、少し苦みが強くて、これはこれで美味しい。

「その取材も終わると、クルシスもだけど、ネスケさんも出発か」

 俺とネスケさんの間にはそんなにいろいろあったわけじゃないけど、思い返してみればこの村に来たのはクルシスより少しだけ早い。親方とも仲良くしていたみたいだし、いなくなると思うと少し寂しい気持ちも……

「あ、私は残りますよ」

 ……ん?

「そうなんですか」

 俺がそう訊ねると、ネスケさんは「はい」と頷いた。

 残るって、なんでだろう。領主である俺への取材はもう済んでるし、クルシスへの取材も済む。この村には他に継続して取材しないといけないようなところがあるとは思えない。……まあ、館にいるみんなもクルシスに劣らずすごい人たちではあるけど、ネスケさんがそれに気付いた様子はなかったからなあ。

 俺のその疑問に対して、ネスケさんの返答。

「組合の先輩はどうもリオンさんに大注目してるらしくって」

 ふむ、もっと上の人からの指示か。

「それで、手紙にですね、リオンさんのことを秘密裏に調べて情報を送るようにって……あ」

 ん? 今、何か……

 と思った瞬間。

「ぎゃーーーーーーーーっ!」

 ネスケさんが突然叫び声をあげた。かと思うといきなり椅子から立ち上がって、大慌てで隣のテーブルの下に潜り込んでしまった。

 ……これはやっぱり、直前に口を滑らせたのが理由、だよな。

「いま、秘密裏にって聞こえましたけど」

 ネスケさんの先輩とやらが俺に注目してるのは構わないけど、調べるにあたって、秘密裏に、というのは穏やかじゃないな。

 俺の呟きに対して、か細い声が隣のテーブルの下から返ってきた。

「……気のせいです」

 そうか、気のせいか。

 ……で済む話じゃないような気がするけど。

「と、とにかく、もうしばらく滞在しますので、どうぞこれまでと変わらない親しいお付き合いを、ですね……」

 まあ確かに、最初は俺のことを『リオン様』と呼んでいたネスケさんも何度か顔をあわせるうちに『リオンさん』と呼ぶようになって、まあまあ親しい付き合いをしている。そういう間柄ではある。そこは、よく一緒に飲んでるらしい親方の影響かもしれない。

「でも、秘密裏に調べるように言われてるんですよね?」

「…………気のせいです」

 ネスケさんはご覧の通りだからさほど警戒する必要はないにしろ、傭兵組合には今後、少し注意しておいた方がいいかもしれないな。

 

       *

 

 準備を整えたクルシスの旅立ちは本当にあっさりしたものだった。出発が日の出前だったこともあって、見送りも俺とニーナだけ。他のみんなは、昨日の夕食の席で見送りは済ませた、っていう扱いだ。クルシス本人もさして気にした様子はない。

 天命都市、救世の都を経由して渇きの都を目指す旅だ。フューリスさんによれば徒歩なら片道でも百日はかかるというから、次に会うのは一年後、あるいはもっと先という可能性もある。

 お互いそれがわかっていながら、それでも。

「ではな」

「うん。気を付けて」

 別れの挨拶はそれだけだった。

 きっとまた会える。

 そのつもりだから、それ以上の言葉は必要ない。



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ペトラのダーツ

 その日は朝食の後すぐから執務室で古王国語の読み書きを勉強していた。少し前からステラさんの指導で学んではいるけど、どうもまだすらすらというわけにはいかない。

 今でも使われてる言葉の元になっている、という部分も多くて、それならわかりやすいかも……と思ったのは最初のうちだけで、今はよく似ているからこそ間違えてしまう、という段階。

 一応、古王国語の本も少し読めるようになった。ステラさんによれば、古王国では五歳くらいの子供が読んでいた本らしいけど……。これが読めるようになっただけでも大した進歩だろう。うん。

 でも、辞書を引きながら子供用の絵本を読むのに疲れたのも確かで、休憩を挟むことにした。

「ペトラちゃんすごーい!」

「きしし。そうだろー」

 執務室から出ると、広間の方から何やら楽しげな声が聞こえた。

「どうしたの」

「あ! ねえねえお兄ちゃん! ペトラちゃんがすごいんだよ!」

 俺が声を掛けると、ミリアちゃんが振り返った。一緒にいたペトラは得意げな顔をして、その指でペンのような細い棒をもてあそんでいる。

「ダーツ! 投げたらぜーんぶ的の真ん中に当たるの!」

 ミリアちゃんからそこまで言われてようやく、広間の反対側に的があるのに気付いた。この木の板は……温室で使うフラワースタンドを作った時の余りか。三重丸が描かれていて、確かにその真ん中にダーツが三本、突き刺さってる。

「……仕事は?」

 得意げな顔のペトラに、一応そう訊ねてみたところ、

「怠けてるわけじゃないぞ! 休憩中! だいたい、お前こそ暇そうだろ!」

 という返事があった。

 ニーナに弟子入りして以来、ペトラは精力的に仕事をこなしてはいる。俺に対して言葉遣いが悪いのは直ってないけど、ペトラはそもそも俺のことを目上だとは思ってないから無理もない。別にいいけどね。いつか自然に納得するまでは放っておこう。そんな日が来るかどうかはわからないけど。

 と、ため息をついた俺の目の前で、ペトラが的に向かって手をひらめかせた。

 続けざまに放たれた三本のダーツは、風を切りながら真っ直ぐに飛んで、先に刺さっていた三本とほぼ同じ位置に突き立った。

「……確かに、結構すごいな」

 的までの距離は五歩分くらい。遠くはないけど、そう近いわけでもない。少なくとも普通の剣の届く距離よりは外だ。その距離をこの精度で狙えるなら、確かに、特技と言っていい。

 もし戦闘用の武器として威力を競うなら俺が上かもしれないけど……競技や遊びでやるなら、ダーツで的を木っ端微塵にできるからって威張れることでもないだろう。

「せっかく的まで用意したからペネロペにも見せたかったけど、あいつ、今日はいないんだよな」

 的に刺さった合計六本のダーツを引き抜きながら、ペトラが残念そうに呟いた。

「教会の屋根も直って、昼の間はあっちにいることになったらしいね」

「ふーん。まあ、聖騎士なら暇じゃないよな。後で見せればいいや」

 ペネロペはまだ見習いだけどね。

 ペトラはペネロペと妙に仲がいい。最初のうちに少し衝突してたけど、そのおかげでむしろ仲良くなったみたいだ。同い年らしいから、そのせいでもあるだろう。努力家だっていうのも共通点か。

「それにしても、なんでダーツ投げが得意なの」

 訊くと、ペトラは呆れ顔を返してきた。

「なんでって、練習したからに決まってるだろ、変態」

 うーん。そうじゃなく、どうしてダーツを練習したのかってことを知りたかったんだけど。

 そこはまた後で詳しく訊くとして、気になったのは。

「この際、俺が変態かどうかは関係ないんじゃないかな」

「じゃあ変態だって別にいいってことじゃん」

 いいのか? いいのか……。

 ペトラからはことあるごとに変態呼ばわりされ続けてるけど、結局、深い意味はないんだろうな。

 肩をすくめる俺の目の前で、ペトラはふんっと胸を張った。

「侍女たるもの、主人に危機が迫った時には対処できるようにしとかなくちゃならない。だから練習したんだ。もちろん、この場合の主人っていうのはヴィクトリア様のことだ!」

 なるほど。理由はわかった。ペトラは「強い侍女になりたい」と言っていたから、それで、というわけだ。いくら強くなりたいといっても、王女の横で侍女が両手剣を構えてるわけにはいかない。掌や袖の中に隠しておける武器、となれば、ダーツは確かに候補になる。

 いまいちピンときていない様子で首を傾げたのは、ミリアちゃん。

「びくとりあ様?」

「ヴィカのことだよ」

 ここにいる間、ヴィカはずっと愛称で呼ばれていた。それで結びつかなかったんだろう。本名であるヴィクトリアを名乗ると、雷王都市の王女であることがすぐにバレてしまうから、そうしていた。……何人かにはあっさりバレていた気もするけど。ミリアちゃんは気付いていなかったらしい。

「そっかー。うん、ヴィカちゃんは確かに、ちょっとぼーっとしてるとこあるから、まわりの人が気を付けてあげないとねー」

 この館で最年少のミリアちゃんがお姉さんぶっているのがちょっと可笑しい。ミリアちゃんからそう気遣われるほど、ヴィカがぼーっとしていたかというと、別にそんなことはない……とも言い切れない、かも……。確かにのんびり屋ではあった。

 俺がヴィカのことを考えているうちに、ペトラはまた的に向き直った。

 手を振り下ろして一投、返す手でまた一投……

 ペトラが次々にダーツを放ると、その全てが的の中心付近に刺さった。さっきのと合わせてもう十本を越えた。さすがに偶然じゃないだろう。

「いざとなったらこれでお前のことも消すつもりだったけど、よく我慢したよな私」

 そんなことを考えてたのか。……まあ、クルシスは難なく避けてたし、俺も多分平気だとは思うけど。

「他の子に迷惑だからやめてほしいな」

「余裕ぶっててむかつくなー」

 そう言われてもね。

 余裕ぶっているというか、実際に余裕だと思う。ダーツが飛んできても避けられる、というのと、刺さっても致命傷にはならない、というふたつの意味で。毒でも仕込んであれば別かもしれないけど、それにしたって、竜を殺せるくらいの猛毒でないと、たぶん効かない。

 ともあれただのダーツでも他の子には危険なのも確かで、あまり投げつけて欲しくないところだ。

「そうだ! あれやってみせて!」

 訓練の範囲に留めるよう注意しようとしたところに、ミリアちゃんが手を叩いた。

「さっき話してたあれ! 頭の上に乗せたリンゴを射貫くやつ!」

 ……そんなことを話してたのか。

 確かに、ペトラの腕前ならリンゴを射貫くのは十分に可能だろう。でもそれが頭の上に乗っているとなると、必ずしも止まってはいないはず。

 で、そのリンゴを乗せるのは誰かということになると、ミリアちゃんではないはずだし、当然、ダーツを投げるペトラでもないわけで。

 ……この流れでそれをやることになると、俺の眉間のあたりが心配だ。

 ただ、ペトラは首を左右に振った。

「今はだめだ」

 おや。ちょっと意外だ。俺をからかって怖がらせて遊ぶものだと思っていたのに。

「どうして?」

 ミリアちゃんが訊ねると、ペトラは……

「リンゴは冬が旬だから、今は手に入らない」

 そういう理由か。確かに、ヴィカが来る少し前くらいだったか、余っていたリンゴはニーナが全部ジャムにしてしまって、その後は少なくともリンゴの実は手に入っていない。

 ユウリィさんに頼めばどこからか手に入れてきてくれるかもしれないけど、ダーツの的にするなんてとんでもない、という値段になるだろう。

「じゃあ他のものでもいいよ? とにかく、ちょっとハラハラする感じのやつ!」

 ミリアちゃんがそう譲歩すると、ペトラは俺の方を少しだけ見た。

「的持たせればいっか」

 よくないけどね。

 でもまあ、ペトラの腕前は見た。真面目にやれば、あの的からはずすってこともないだろう。

「じゃあこれ持って、あそこに立って」

 ……何だか、さっきの的より二回りくらい小さいのが出てきた。

「これが的?」

 一応訊ねると、ペトラは首を横に振った。

「それはコースター」

 うん。俺もそう思ってた。コップの下に敷くやつだよね。

「ちゃんと加減するし、たぶん貫通はしないから安心していいぞ」

 ……やっぱり的なんじゃないか。

「すごーい! んっんー! これはハラハラするねっ!」

 ミリアちゃんは大喜びだけど。

 ……うーん、仕方ないな。

 そのコースターは木製で、広さは片手で持てるくらい。厚みも思ったよりはある。……それでも、掌ほどの厚みはないな。俺はそれを持ってペトラから少し離れた位置に移動して、的を頭の上に掲げた。

 すると。

「もっと下」

 という指示が飛んできた。

 頭の上じゃないのか。指示に従って、少し下げる。眉間のあたり。ダーツがここに向かってくるとさすがにちょっと不安だな。

「もっともっと下。胸のあたりで」

 ん? 思ったよりまだ下だった。言われたとおり、胸の前に的を持つ。

「もーちょい右。ちがうちがう。お前から見たら左。そう、そのへん」

 妙に細かい指示で、的を持つ位置を何度か調整。

 ようやく「よし」の声が返ったから、俺はそこに的を留めたまま、ペトラに質問した。

「何でこの位置?」

「真ん中がちょうどお前の心臓の真上」

 真剣な顔で、ペトラが頷いた。

 ペトラはこの小さい的を十分狙える技量を持っているとしても、この位置を狙いたいという気持ちには少し背筋が冷える。

 殺意があるってこと、なのかな……。

「的をちゃんと持ってたらそれが盾になるから逆に安全だろ」

 ……そういう考え方もあるか。貫通しなければ、という条件付きではあるけど。

 まあ、いざとなれば闘気(フォース)を高めて防げばいいか……。

 俺がそう覚悟を決めた頃にちょうど、ペトラもダーツを構えた。

「よーし、動くなよー。動いたら安全が保証できないからな。信頼関係が大事なんだ」

 ……妙なことを言い出したな。

「正直、俺とペトラにはそこまでの信頼関係はないと思うけど」

 一緒に死地をくぐり抜けてきたというわけでも、主従の強い絆があるわけでもない。軽蔑されてるとまでは思わないけど、尊敬されてるという気もしない。顔見知り、あるいは知人、よくて友達、という程度かな……。

 という気持ちを言ったところ、ペトラも「うん」と頷いた。

「ま、そういうことを正直に言える程度はあるじゃん」

 その程度でいいのか……?

 どうも釈然としないけど、ペトラはもう今にも投げようという体勢だ。

「いくぞー」

 いよいよか。もしペトラが内心はこの的を囮にして顔を狙ってくるつもりなら、すぐに防がないといけない。緊張が走る。

 そして運命の一投――!

「ペトラー。そろそろ休憩終わりだよー」

 ニーナの声が聞こえてきたのは、まさにその時。

「えっ! あっ!」

 気を取られて慌てたらしい。ペトラの放ったダーツは思わぬ所へ飛んだ。でも速い。風を切って、俺に向かってくる。

「っとと……」

 スコン、と音がして、ダーツは的に突き刺さった。たぶん。まだ見えてないけど、感触はあった。

「すごーい! ちゃんと真ん中に当たった!」

 ミリアちゃんの歓声が聞こえた。

 的とは名ばかりのコースターを胸の前に下ろして見てみると、ダーツは確かに、ど真ん中。

 ……俺が的を動かさなければ、俺の眉間に刺さってたところだった。

 すっぽ抜けてそれっていうのは、ある意味では、名手なのかもしれないけど。

「えっーと……す、すごいだろー」

 ペトラが引きつった顔のまま、胸を張って見せた。

「今のは俺が」

 俺が的を動かさなかったらチャレンジ失敗だったよね。……と言おうと思ったものの、

「すごいだろ!」

 ペトラはその言葉を大声で遮った。

 その横で、ミリアちゃんは「すごーい!」と目を輝かせている。

「……まあ、勢いは感じる」

 ミリアちゃんに免じて、ここは俺が折れておこう。

 ひとまず、的の中心に刺さったのは確かだ。それが誰の手柄なのかは、ともかく。

「近いうちにもう一回挑戦するからな!」

 大慌てで仕事に戻る支度をしながらペトラはそう言って、俺に指先を突きつけてきた。

 ……眉間って、どうやったら鍛えられるんだろうな。

 そんなことを考えながら、仕事に戻るペトラを見送った。



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マリアの申し出

 夕食の後、マリアさんに声を掛けられた。何やら話したいことがあるそうで、それなら、と二人で執務室へ向かう。応接用のソファに向き合って座ると、マリアさんは懐から一通の手紙を取り出して、テーブルに置いた。

「これは〈魔女の同盟(ウイッチクラフトアライアンス)〉から届いた手紙です」

 すでに封は切られている。マリアさんは中身を読んだんだろう。

 この封筒、雷王都市や帝麟都市から届いたものほどではないにしろ、上質の紙が使われているように見える。琥珀色の封蝋に捺されているのは、魔法のシンボルマークである六芒星をあしらった紋章。いたずらにしては手が込みすぎてる。一応、本物とみなして話を進めていいだろう。

「その、〈魔女の同盟(ウイッチクラフトアライアンス)〉というのは?」

 俺には聞き慣れない言葉だったので、そこはマリアさんに訊ねてみることにした。

「〈同盟(アライアンス)〉は魔女の組合(ギルド)みたいなもの、だそうです。私もこの手紙が届いてから知ったので、詳しくはないのですが……」

 なるほど、組合か。同業者が組合を作るのはよくあることだ。俺自身も冒険者の組合に所属していたことがある。

「魔女にもそんな団体があるんですね。するとそれは、勧誘の手紙ですか?」

 マリアさんも、本人はまだまだ勉強中だと言っているけど、特に稲妻属性の魔術に関してはすでにかなりの腕前。その分野で有名になっていてもおかしくはない。

 でも、マリアさんは「いえ」と言って俺の予想を否定した。

「母の持っていた権利が私に相続されてるそうで、主に薬の調合に関する特許の使用料が〈同盟(アライアンス)〉の方で預かりになっていると」

「特許の使用料?」

「ええと……薬のレシピが売れた代金、と思ってもらえればだいたい合ってます」

 なるほど、そういうものか。

 マリアさんのお母さんも魔女だった。それは以前に聞いたことがある。マリアさんとミリアちゃんが幼い頃に亡くなった、とも……。もともと体が強い方ではなかったそうで、風邪をこじらせて、ということだった。その後は姉妹だけ残されて相当苦労したらしい。

 特にお金のことは、幼い姉妹にとって大問題だっただろう。両親が健在なら、と思ったことは一度や二度ではないはずだ。

 それが、今からでも両親が遺したお金を受け取ることができるというなら、かなり助かるに違いない。

「そういうことですので、以前に相談した件は、何とかなりそうです。ご心配をおかけしました」

「ああ、それなら良かった」

 相談の件、というのは、ミリアちゃんの進学の費用のことだ。

 大学で将来有望と認められれば学費が免除される特待生待遇を受けられるとはいえ、もちろん、簡単なことじゃない。それに、学費自体だけでなく、大学のある帝麟都市への旅費や向こうでの生活費も必要だ。どうしても足りない時には貸して欲しい、と内々に言われていた。

 それを「何とかなりそう」と言うからには、〈同盟(アライアンス)〉が預かっているというお金はなかなかの額なんだろう。素直に喜ばしいことだと思う。

「でも、どうして今になって手紙が来たんでしょう」

 不思議に思って訊ねてみた。

 なにしろ、マリアさんの両親が亡くなったのは確かもう七年か八年くらい前だ。その間の苦労を思えば、もっと早く連絡があればと思わざるを得ない。

 俺の疑問に対してマリアさんは、意外にも微笑を浮かべてみせた。

「リオンさんのおかげですよ」

「俺の?」

 どういうことだろう。俺はその〈同盟(アライアンス)〉というものを、まさに今、初めて知ったし、俺から何か働きかけたということはないけど。

 それでもマリアさんは「はい」と頷いて続けた。

「リオンさんが有名になったので、私とミリアもその同行者として語られるようになって、それで〈同盟(アライアンス)〉の魔女の方が気付いてくださったそうで」

「ははあ、なるほど」

 それは確かに、間接的にだけど、俺のおかげというのも間違いとは言えないか。

 でもそれはやっぱり、マリアさんとミリアちゃんが活躍したから名声が届いたわけで、俺はそれを自分の手柄にしようとは思わないな。マリアさんも素直に自分を褒めてあげていいことだと思う。

「それで、あの……」

 改めて居住まいを正し、真剣な表情になったマリアさんが、俺に真っ直ぐな視線を向けてきた。

「これまでお世話になった分は、このお金からちゃんと返したいと思うんですが」

 ……なるほど。マリアさんらしい申し出だ。

 この館には俺の仲間を中心に数人が滞在してるけど、宿泊費とか家賃とかそういうものを徴収してはいない。館の持ち主である俺としては、どうせ部屋は余ってるから、という気持ちだ。そもそも俺一人で暮らすには広すぎるし、みんながいて賑やかな方が俺にとっても好ましい。

 でもマリアさんはそれについて思うところがあるみたいで、時々こうして、家賃を払わせてくれ、というようなことを言ってくる。

 俺はそのたび、同じように……

「気にしなくていいですよ。みんな家族みたいなものですし。それにたぶん、そんなに改まって言うほど高額ではないと思います」

 だいたいそんなことを言って断っている。これまでは、マリアさんもそれで引き下がっていた。魔女の店を手伝っていくらかお金を得てはいるものの、ミリアちゃんのための貯蓄も疎かにできない、という事情もあっただろう。でも……

「いえ。今日こそは、どうか」

 今回は引き下がらなかった。まとまったお金が湧いて出たことで、この機会に、という気持ちになったんだろうか。

「リオンさんはそんなに高額ではないと仰いますけど、あのお部屋の賃料だけでも相当だと思いますよ?」

 その指摘は、そうかもしれない。

 マリアさんとミリアちゃんは二人で暮らすということで、大きめの続き部屋を割り当てられてる。当然、かなり広い。ちゃんと賃料を設定した場合、マリアさんたち姉妹が雷王都市で住んでいた家より安いということはなさそうに思える。

「それに、ミリアのために薬を探してきてくださった件の報酬も、うやむやになっていましたし……」

 マリアさんは少し申し訳なさそうにそう付け加えた。

 ……そうだったかな。

 その依頼のことは覚えてる。ミリアちゃんの病気を治すために、すでに製法が失われた薬が必要になって、古い資料を頼りに遺跡の貯蔵庫を調べたんだ。その結果、幸運にも保存状態良く瓶に入ったままの薬を見付けることができて、ミリアちゃんは一命を取り留めた。

 そういう経緯は、覚えてる。それで、確か……

「あの時は、確かちゃんと報酬をもらいましたけど」

 思い返してみても、そうだ。

 当時のマリアさんにとっては安くなかっただろう額のお金と、加えて、危険から守ってくれるという貴重な宝石ももらった。十分すぎる報酬だったと思う。

「でも、後から考えてみると、あの時のお礼は少なすぎたと思うんです」

 マリアさんは真剣な顔でそう主張した。

「あの時の依頼書には『見付けてきてほしい』とは書いていましたけど『見付けた物を譲ってほしい』とまでは書いていなかったんです……」

 うーん。話が依頼書の細かい内容にまで及ぶと、さすがに覚えてないこともある。

 冒険者の組合に掲示されてた依頼書から仕事を受けたのはダックス叔父さんだった。でも叔父さんは他に受けた仕事に思いのほか手こずっていて、それでマリアさんからの依頼は俺とニーナに回ってきたんだった。命に関わる依頼だと知ってたら、叔父さんもマリアさんからの依頼を優先したかもしれないけど。

 ともかく、俺たちが代わりにその依頼を受けて、無事に達成して……

 見付けてきた物を譲るなら別料金だったのか。

 そう言われれば、そうなのかもしれない。俺はそんなこと知らなかったから何とも思わなかったけど、お金が絡むことだから、人によってはそれで揉めたりってこともありそうな話ではある。

 ともかく話を総合すると、根本的なところは、マリアさんが俺に金銭的な部分で負い目があるってことだ。俺としてはあんまり気にして欲しくないと思ってはいても、マリアさんとしては気になって仕方がないんだろう。

 となれば、気持ちに区切りが付くようにちゃんと請求してあげる方が、マリアさんのためなのかもしれない。

「……わかりました。ステラさんたちとも相談して、請求額を決めます」

 俺が根負けしてそう言うと、マリアさんは笑顔で「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 まあ、よく相談して額を決めて、それをマリアさんから払ってもらったら、そのまま、ミリアちゃんの入学祝いのためにでも取っておくことにしよう。

「実は……」

 マリアさんが小さな声で呟く。

「いよいよとなれば、リオンさんには私の身体でお返しするつもりでした」

「ええ?」

 驚いた俺が視線を向けると、マリアさんは少し頬を赤らめて微笑んだ。

「ふふ、冗談です。だってそれって、私の借りが増えるだけのような気がしますし」

「いやいや、そんなことないですよ……」

 まあ、ちょっとびっくりはした。それ自体は、マリアさんの言う通り、冗談なんだろう。お金のことが一段落しそうで、安心したから出たんじゃないかな。

 それはそれとして、マリアさんはどうも自己評価が低い、という気はするな。

 美人だと思うんだけどなあ。少し赤みがかった金髪もきれいだし。あと、胸が大きい。マリアさんと話す時につい胸に目が行きがちなのは、申し訳ないと思ってる……。

 見た目を除いても、薬草の知識は仲間内で一番だし、魔術も稲妻の系統に限ればステラさんよりも上で、弓矢の技量は達人級。リュートの演奏が上手いことも知ってる。

 もう少し自信を持ってもいいと思うし、折に触れてそう伝えてもいるんだけど、長年のことでできあがった性格は、そうすぐには変わらないか……。

「でも本当に良かった」

 と、マリアさんは安堵の息を吐いた。

「ミリアにもお金の心配はしなくていいって言ってあげられます」

 マリアさんが自分を一番にしないのは、マリアさんの中ではミリアちゃんが一番だからでもあるんだろう。マリアさんがどれほどミリアちゃんを大事にしてきたかは、それこそ、ミリアちゃんを見ればわかる。

 それが二人の在り方なら、俺があまり口を出すことでもないのかもしれない。

 本当に困ってたらちゃんと手助けしてあげられるようにだけは、しておこう。

「でもミリアちゃんはこれまで通り、特待生待遇を狙うことになると思いますよ」

 特待生になると学費は免除される。それもあって、ミリアちゃんは一生懸命、ステラさんを先生にして教わっていた。

「そうでしょうか。ミリアは興味がない分野の勉強は苦手そうでしたけど」

 マリアさんはさすがにミリアちゃんのことをよく見ている。

 とはいえ、この件に関しては……

「ミリアちゃんがというより、ステラさんが、かな……」

 教え子になったミリアちゃんを優秀な成績で送り出すことに、ステラさんはかなり執心しているみたいなんだよな……という話。



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西の導師からの荷物

 ある日、ステラさん宛に奇妙な箱が届けられた。

 抱えるのに両手が必要なくらいの木箱だ。蓋までも釘で打ちつけられていて、それが開封されていないことを示すために何ヶ所かに札が貼られている。

 その札には『資格無くこの箱を開けた者、その手は腐り、目は潰れ、全身は引き裂かれたように痛み続け、やがて死に至るだろう。そして新たな生を得ることもなく、冥府で苦しみ続ける』という、なかなか物騒な文言と共に、二匹の蛇が絡みつく杖の絵が捺されている。

 盗難防止のためなんだろうけど、これを運んできた人の気苦労が偲ばれるな。

「届いた。師匠から」

 ステラさんがそう言ったので、納得はした。ステラさんの師匠……〈西の導師〉といえば、みんな口を揃えて「あの偏屈な」と言うくらいの人だ。フューリスさんがそう言って、ステラさんも同意していた。俺は会ったことがないけど、二人の言うことだからほとんど信じている。

 少し前に、その人に対してフューリスさんとレベッカさんがそれぞれ手紙を書いた。間に立ったのが〈西の導師〉の弟子であるステラさん。

 そして今日、その返事が届いたというわけだ。

 物騒な言葉が書かれた札を、ステラさんは適当に破いた。まあ、ステラさんは開ける資格があるから問題ないはずだ。それからレベッカさんとペネロペが二人で釘抜きをして、間もなく蓋は開いた。

 中には手紙が四通。それと……さらに箱。

「手紙。私宛、フューリス宛、レベッカ宛……もう一通、これは貴方に」

 俺に宛てた手紙もあった。でも他の三通と比べると厚みはないな。俺から何かを質問したわけでもないし、まあ時候の挨拶程度のことだろう。

 俺がそれをステラさんから受け取る頃……

「こっちの箱は、聖意物ですわね!」

 ペネロペが喜色満面に叫んだ。待ちに待った、という届け物だ。

 聖意物があればようやく教会を本格的に再建できる。建物の外観はほぼ修繕が終わってるから、もう間もなく、というところまで来た。

 少し複雑な気持ちになるのは、その聖意物が〈西の導師〉としては『実験に使った余り物』だという話だったこと。大教会では聖なる物として扱っているものが、たぶんかなりぞんざいな扱いを受けていたんだろうというのは想像に難くない。

 でも、もうこの際、気にしない方がいいんだろうな。少なくとも、レベッカさんたちはそのつもりらしい。

 一方、手紙を読んで黙り込んでいるのはフューリスさん。その訳を訊ねてみると……

「うん、それがね。最初の一枚目以外は、まったく意味不明な文字の羅列なのだよ。暗号、というやつだね」

 それは……手間がかかってるな。

 でも、フューリスさんが訊ねたのはとても強力な魔導器のこと、そして、それをいま持っている人の行方だ。意図しない他人に読まれたら悪いことが起こりかねない話題ではある。そう考えると、厳重なのも仕方ないのかな。

 単に面白がってやっただけというのも、否定できないけど。

「これを解読するのは手間がかかりそうだけれど……解き方はステラが知っている、とも、書いてあるね」

 なるほど。ステラさんの協力が不可欠となれば、見知らぬ他人に読まれる心配はほとんどなくなるな。うまい手だ。

「そして――」

 と、フューリスさんが続けた。

「その解き方を教わりたければステラの願いをひとつ叶えること、という条件がつけられている。ステラに届いた手紙には、そのことは書いてあるかい?」

「私宛ての手紙でも、その時はカギを開示するよう指示されている」

 フューリスさんの問いかけに、ステラさんが答えた。

 肩をすくめて、フューリスさんが笑った。

「師匠から弟子への贈り物を私が代わりに用意してやれと、まあ、そういうわけだね」

 そう考えれば、なるほど。そのためにこんな妙な手紙を作る手間をかけていると考えれば、偏屈ではあっても悪い人ではなさそうだ。ステラさんの師匠だから、そのくらいは期待してもいいだろう。

「早速だけれど、何か願い事はあるかい?」

 フューリスさんが改めてそう話を向けると、ステラさんは首を傾げた。

「願い事……」

「もちろん、私が叶えられる範囲で、ということになるけれど。その範囲でならば何でもするよ。うん。何でも、だ」

 そう言われたのが俺だったら、うん、まあその……男女のことを想像してしまったかもしれない。でも、ステラさんとフューリスさんの間なら多分そういうことはないだろう。

 ステラさんはいったい何を望むのか。それは、俺も少し興味がある。

 返る言葉を待つことしばし。

「……少し考える」

 そう言って、ステラさんは判断を保留にした。

 フューリスさんのちからの及ぶ範囲でとはいえ、願い事をひとつだけ何でも叶える、と言われれば迷ってしまうのは当然か。

「いつまで、というのはないけれど、あまり遅くならないようにしてくれると助かる、とは言えるね」

 フューリスさんが旅に戻るのを延期していたのは、まさにこの手紙を待っていたからだ。実際には、この手紙を解読してもすぐに旅立つわけではないかもしれない。すでにそれなりの期間をここで過ごしているし、これが今さら一日二日延びたところで大差はないだろう。

 でも、『旅立たない』と『旅立てない』の差は大きい。

「了解している」

 ステラさんは頷いて、近いうちに結論を出すことを約束した。

 

 カリカリカリカリカリカリ……。

 いつの間にかハスターも近くに来ていて、中身の無くなった木箱をかじっていた。

「釘があるから気を付けて」

「きゅい」

 注意を素直に聞いて、ハスターが鳴いた。ちゃんとわかってるなら問題はない。

 問題は、ハスターがこんなに近くにいるのに気付かないで意気消沈しているペネロペの方だ。普段なら「ぎゃー! ネズミ!」とでも叫んで跳び上がるはずなのに。

 荷物が届いてすぐには大喜びだったペネロペとレベッカさんが、届いた箱を前にして、今やまるで葬式の時みたいな沈痛な面持ちになっている。

 二人が同時に大きなため息をつくに至って、俺は口を開いた。

「どうしたんですか、レベッカさん」

 訊ねざるを得なかった。何か予想外の災難があったんだろうというくらいは、見れば明らかだけど。

「聖意物のことでね……」

 まあ、それ以外は考えられないよな。

「届いたんじゃなかったんですか」

 少なくとも手紙と別に何やら箱が入っていたのは、俺も見た。あれがそうだと思っていたけど、もしかしたら中身は別の物だったのかもしれない。そういういたずらだったということもあり得る。

 でもレベッカさんの返答はというと、

「ええ。聖人の遺骨の一部、それなりの大きさでね。右腕の骨だそうだけど」

 というものだった。すると、届いたのは確かなのか。

 それじゃあなぜこんなにも落ち込んでいるのか、ますますわからない。

 そう思っていると、レベッカさんは大きなため息をひとつついてから、話を続けた。

「だけどね。それが本物だと、私たちでは証明できないの」

 証明、か……。

 聖意物というのは、大教会の定義によると『聖なる意思の宿る物品』というもので、主に過去の聖人の遺骨や遺品というものが聖意物になる、という説明は以前に聞いた。

 となると。

煌気(エーテル)や神聖属性の霊気(マナ)を帯びているんじゃないんですか?」

 伝承武具(レジェンダリーアーム)の中にも、そういうものがあった。俺が手にしたものでは、例えば〈斬魔大剣(ギガブレード)〉なんかは、一目でわかるくらい神聖なちからに満ちていたな。すごい武器だった。ただ残念ながら、俺もクルシスも、もっと言うとスレイダーさんも、それぞれ自分の魔剣を持っていたから、あまり使う機会はなかったな……。

 話が逸れた。ともかく、聖意物もそんな風に、見ればわかるんじゃないのかと、そう思ったわけだけど。

「それが、そういうわけでもないのよね……。聖人とされた人の多くはその行いによってそう認定された人で、生前には必ずしも神聖なちからを宿していたわけじゃないのよ」

 レベッカさんの説明はそういうことだった。

 それだと確かに、聖意物が本物かどうか見分けるのは難しいな。

「それでね。聖人が葬られる時には、遺体や遺品について、大教会の証明書が作られるの。その後の分割も基本的には大教会の立ち会いの元で行われて、証明書が作られる。それが聖意物であることの証明になるのね」

「分割……ですか」

 ……聖人になると死後も大変そうだ。身を挺して世の中に尽くそうという姿勢には頭が下がるな。

 ともかく、本物の聖意物には大教会の証明書がある、ということだ。

 すると、二人がこんなに悩んでいる原因はそこか。

「もしかして、その、証明書が入ってなかったんですか?」

 だとしたら、レベッカさんが「聖意物だと証明できない」というのも頷ける。〈西の導師〉は聖意物を大事にはしていなかったようだし、証明書は紛失したって可能性も――

 と思っている俺の目の前に、レベッカさんは一枚の紙を広げて見せた。

「これが、過去に大教会が出した証明書。部位は右腕の骨、で、大きさも書いてある。届いた骨とも合致する。以前に他のところで見たものと書式も同じだし、捺されてる印もたぶん本物ね」

 ……ん? あれ?

「当時の教皇聖下の御署名もありますわ。発行年と照らしても矛盾はありません」

 ペネロペがさらに補足を加えた。

 ますますわからなくなった。証明書の問題じゃないのか。

「それじゃあ、どこに問題があるんですか?」

 証明書があれば、聖意物であることの証明はすでにできている。今さらレベッカさんたちが悩むことじゃないはずだ。

 困り顔をしたレベッカさんが、俺を手招きした。そして、箱の中を見てみるように促した。

 覗き込むと、そこにあったのは骨だった。確かに、骨だ。長さは、肘から手首までくらいで……って、当たり前か。右腕の骨だというのは証明書にも書いてある。

 問題はそれとは別のところで、実際に前にすれば一目瞭然だった。

 それを理解した俺に、レベッカさんが、力なく笑いかけた。

「見ての通りよ。……全く同じ見た目のものが、五つ、届いたの」



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聖意物の聖性

 ……確かに、レベッカさんが口にしたとおりだ。

 箱の中には、骨が五本、収められている。全て同じ形だ。よく見れば多少は色味や大きさや長さが違うようにも見えるけど、一目で聖意物とわかる特徴はない。その意味では、ほぼ同じだ。

「手紙には『送った物のうち本物は一点のみで、あとは偽物』と書いてあるのよ。ということは、偽物が四つもあるってことよね……」

 フューリスさんへの手紙は暗号文だったけど、内容が内容だから仕方ないところではあった。一応、そう納得した。

 でもこっちは、完全にからかって遊んでるよな……。

 これを見た後だと、フューリスさんへの暗号文もやっぱり遊びなのかもしれない、と思ったりする。それでもあっちはステラさんの協力を取り付ければ正解は導けるらしいから、まだおとなしい方か。

 こっちはどうなんだろう。はたしてどれが本物なのか……よく見ればわかる、というようなものなんだろうか。

「……全部祭るわけにはいかないんですか」

 俺がそう言いたい気持ちになるのは、まあ、無理ないことだと思う。

「いざとなったらそうするかもしれないけど、最後の手段にしたいわね……」

 レベッカさんですら、それで済ませたい気持ちが皆無ではないらしい。

 ただ、それでも、レベッカさんは大教会の聖騎士。俺とは違う意見も当然持ってる。

「これは〈西の導師〉からの挑戦だと思うの。信仰があればどれが聖意物かわかるだろう、っていうことよね。安易な方に流されたくはないわ」

 もともと負けず嫌いなところがある人だから、そう納得して決心してしまえば、あとは着実に進めていくだろう。本人がその気なら、俺としては応援したい。

 とはいえ、改めてその五本の骨を並べてみると……

 どうやって見分ければいいんだ?

 俺には、全部同じに見える。誰のであろうと、右腕の骨には違いないとすれば、似てるのは当たり前だし。

「まずは仮の番号をつけて、この五つを区別できるようにしましょう」

 レベッカさんの提案は即座に実行に移された。番号を書いた札が、紐で骨に結びつけられる。

 その作業の途中で、ペネロペが「あっ」と声を上げた。

「これ! 私はこれだと思いますわ!」

「どうして?」

 訊ねたレベッカさんに、ペネロペが言うには。

「なんだかこう、聖なるちからを感じる気がしますの!」

 そう言われて見てみれば、なるほど……うん、なるほど……?

「俺にはよくわからないな……」

 見た目は他のと大差ない。差があるにしても、札を付けてなかったら区別できない程度だ。

 でも、ペネロペは見習いとはいえ大教会の聖騎士。聖なるちからを見付けることについては俺より得意という可能性も――

「具体的に言うと、他のと重さが違うのですわ!」

 ……重さか。

「他のよりも少し軽い、これは、天へと引き寄せられているためではないかと思いますの! それに、持ってみると少し温かいような気もしますわ!」

 ペネロペから渡されて持ってみると確かに少しだけ軽い。温かさも感じる。これひとつだけだ。温かいのはペネロペがしばらく持ってたせいかもしれないけど。

 ともあれ、手紙には『本物はひとつだけ』と書いてあったそうだから、ひとつだけ重さが違うというのは確かに怪しい。

 これが、そうなのか?

 レベッカさんもそれを手に持って、確かめている。ペネロペの期待のまなざしを受けながら、他のと重さを比べてみたり、手触りやにおいも確かめて。

 やがて、レベッカさんは……

 首を横に振った。

「これは多分、偽物ね。後でステラにも手伝ってもらって確かめるけど、木製の棒にそれらしい塗装をしただけだと思うわ。ほら、ここに出てるのは木目でしょう?」

 それを聞いたペネロペは「ええーっ!」と声を上げて落胆した。

 言われて改めて見てみれば確かに、木製品の特徴がある。手に持った時に感じた温かさもそのせいか。

 こんな偽物を混ぜてあるとは、このためにわざわざ作ったんだとしたら、変に手間がかかってるな……。

「でも、偽物を見付けられた、と思えば一歩前進じゃないかな」

 気落ちした様子のペネロペに、俺はそう声をかけた。

「残るはあと四つ。ひとつひとつ、絶対に本物ではありえない、っていう証拠をみつけていけば、最後には本物が残る。そのはずですよね」

 俺の言葉にレベッカさんが「そうね」と頷く。

「でも、他のはこんなにわかりやすくはないようだし、どうしたものかしらね……」

 それは確かに、一筋縄ではいかない、というところだけど……。うーん。

 と、そこにステラさんとクレールがやってきた。

「ステラさん、荷物はもういいんですか」

 訊くと、ステラさんは「うん」と頷いた。〈西の導師〉からは手紙や聖意物だけでなく書物や何かの道具も届いていて、ステラさんはそれをひとつひとつ確認していた。

「後で部屋に運ぶ時には手伝ってもらいたい。構わない?」

 首を傾げて問うステラさんに、俺は「もちろん」と頷く。力仕事に分類される部分でなら、お安い御用というものだ。

「そっちはどうしたの?」

 クレールが訊ねて、レベッカさんが「実は――」と口を開く。そうして事情が全て伝えられると、クレールはそれらの骨を見比べてみることにしたらしい。「ちょっと面白そうだね」なんて、当事者じゃないからこそ言える気楽な言葉を呟いていた。

 一方のステラさんは、それにはちらりと視線を向けただけ。

「私に宛てられた手紙によると」

 手近な椅子に腰掛けて、ステラさんが口を開いた。

「聖性を観測し定量化する試みに、師匠はかなりの手間と時間を費やした。師匠は聖意物の聖性というものを信じていなかった。あるいは、信じたかったからこそ研究していたのかもしれない。しかしその研究では、特別な違いは見付けられないと確認したに留まった」

 今回届けられたのはそういう研究をしていた時の『余り物』だとは聞いていた。散々調べた後、というわけだ。

煌気(エーテル)や神聖属性の霊気(マナ)はなかったんですか?」

 一応、さっきレベッカさんにしたのと似た質問をしてみると……

「少なくとも『聖意物』の共通の特徴ではないと確認された。それ自体は聖意物に備わるとされる『聖性』とは関係がない」

 返答も、レベッカさんの時と似たようなものだった。

「現在の魔法や錬金術の技術と視点では『聖意物の聖性』を観測できず、聖人の骨であっても区別はできない。師匠はすでに聖意物への興味を失っている。それで処分……手放す気になった」

 ステラさんの師匠にとっては「もう研究する価値を感じない」というわけで、それは大教会の聖騎士であるレベッカさんにとっては、内心では異論があるところかもしれないけど。

「そのおかげで、譲ってもらえるのだから、あまり文句は言えないわね……」

 レベッカさんのこの呟きにはペネロペも「そうですわね……」と力なく頷くしかなかったようだ。

 だとしても、その聖意物を使ってこんな遊びを考えたステラさんの師匠は、意地が悪いというか、なんというか。

 念のため、と、ステラさんはレベッカさんに宛てられた手紙も預かって読んでみていた。でも、新たな材料は出てこなかったみたいだ。

 結局、ひとつずつ確認するしかないんだろうけど……

 ステラさんの師匠が散々調べて、その上で『特別な物ではなく、他と区別できない』と諦めたものだ。改めて調べ直したとして、答えを導けるほどの判断材料が出てくるかどうか。

 俺は正直、自信がない。レベッカさんとペネロペも、そう感じているらしいということは態度から伝わってくる。

 クレールが手を挙げたのは、そんな時だった。

「……僕、わかっちゃったかも」

「え」

 と思わず声を出したのはレベッカさんだったけど、俺も、たぶんペネロペやステラさんも同じ気持ちだったと思う。

「どれが本物かわかったの?」

 訊ねられて、クレールは「うん」と頷いた。

 まさか、とは思いつつも、クレールは煌気(エーテル)を扱える体質だから、もしかしたらそういうのがわかるのかもしれない、という気もする。

「そ、それで、どれが本物なの?」

 レベッカさんが興奮気味に答えをせがむと、クレールは「これ」とその場に並べられていたものからひとつを選んで持ち上げてみせた。

「この証明書が本物で、骨は全部偽物」

「……え?」

 そう声を漏らしたのは誰だったか。

 証明書――大教会が聖意物の証明のためにつけているものだ。

 確か、他で見た本物の証明書と書式が同じで、捺されている印もおそらく本物で、記載されている発行年に実際に教皇だった人の署名もある。

 ……という感じで、その証明書が本物だという材料については、レベッカさんとペネロペが俺に話してくれた通りだ。

「届いた物のうち一点だけ本物、って、そういうこと……?」

 レベッカさんが唸ると、改めて手紙を確認していたステラさんも頷いた。

「確かに、この手紙にはそれを否定する要素はない」

 一応その後に「クレールの予想が正しいと確定させる材料もないことには留意する必要がある」とも付け加えていたけど。

 俺としては、クレールの意見は何となく腑に落ちた感じがあったな。

「僕は実際に会ったことはないけど、そういう人だよね? 人をからかうのが好きっていうかさ」

 クレールがそう言って、それはまさに俺が思っていたことと同じだったから、少し苦笑。他のところからも「それは違う」なんて言葉は出てこない。それどころか、出題者の弟子であるステラさんが、

「確かにそう」

 と頷いたら、俺たちにはそれを否定する材料はない。

「僕の父様は、あいつとは気が合わない、って言ってたよ」

 クレールのお父さんというと、〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉の異名があるルイさん。〈西の導師〉と知り合いなのは初耳だけど、二人とも魔法や魔導器に詳しい人だから、知り合いだとしてもおかしくはないかな。

「その心情は理解する」

 ステラさんにでさえそう思われるくらいだから、まあ、噂通り相当に偏屈な人なんだろう。そして、たとえそうだとしても、その知識や経験が否定されることもない。すごい人なのは確かだ。

 

 結局、数日遅れで追加の荷物が届いて、聖意物の問題は決着した。

 その中にはもうひとつ『右腕の骨』が入っていて、同梱されていた手紙によるとそれが本物の聖意物らしい。ステラさんの証言では「師匠は試料の管理については厳格な人であるため、取り違えの心配は不要だと期待される」とのこと。

 一応、先に届いていた物と見比べてみたけど……違いはわからなかったな。

 そして、もし違っていたとしても、俺たちには確かめるすべはない。

 その上で――

 〈西の導師〉は手紙に自分の意見を記していた。

『証明書のない骨はただの骨であり、他の骨と何ら変わるところはない。この骨に聖意物としての聖性というものを付加し得るのは大教会の手による紙切れのみである。結論として、聖意物の聖性は大教会がそうと認めたという証明書にこそ存在している、と判断せざるを得ない――』

 正直、その話を完全に理解したとは言えないけど……

 話に付き合うのが面倒くさそうな人だというのは、俺にもわかった。



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互いを必要とする関係

 執務室の机から、俺に宛てられた手紙が出てきた。

 ステラさんの師匠である〈西の導師〉からのもので、ステラさんへ宛てた手紙の『ついで』に入っていたものだ。後で読もうと思ってすっかり忘れてた……。

 他の人たちに届いた封筒に比べると薄い、とは受け取った時にも思ったけど、中身を確認して納得。紙が二枚だけだった。どうりで薄いはずだ。

 ただ、内容までも薄いわけじゃないようだ。

 時候の挨拶もそこそこに、話題はステラさんに関することへ。

『あの子には大魔導士となる未来が待っている。そのためにはより多くのことを経験せねばならない。そして人の生は短い。君とのことは良い経験になったと思うが、そろそろ別れの経験も必要であろう』

 ……ステラさんがいつまでもここに留まっていることに、あまり賛成ではないらしい。

 でも、それは本人の意志だ。そして、ここでも多くのことを経験していると思う。心配するほどのことはないんじゃないか、という気はする。師匠としては、もっと厳しい環境でさらなる経験を積んで欲しい、という気持ちなんだろうけど。

 と心の中で反論してみたものの、ステラさんをいつまでもここに引き留めていることに関しては、俺も悩んでないわけじゃない。ただ、俺の方の事情として、いまステラさんに抜けられるととても困るのも事実。

 特に領地経営にかかるお金の問題だ。

 お金自体は、ある。

 問題は、それがどこに必要なのか、どのくらい必要なのか、そしてどう振り分けるべきなのか、ってことだ。ここにいずれは、徴税の件も増える。

 そういう計画のほとんどを、今はステラさんが考えてくれている。

 それをできる人というただそれだけなら、募集をすればどこかから誰かが来るのかもしれないけど……

 信用して任せられる人、というと、今はステラさん以外には考えられない。

『我が弟子が多才にして非凡であるために、手放すのを惜しんでいるのであろうが』

 〈西の導師〉からの手紙にはそんな言葉もあった。

 確かに、俺はその言葉には反論できない。

 お見通しというよりは、向こうが弟子かわいさに言ったことがたまたま合ってた、というところだと思うけどね……。

 そんな手紙を読み終えて、気になるのがこの部分。

『いずれ挨拶に伺うが、いつになるかは気分次第。事前の通告は諸事情によりかなわぬやもしれぬ。それをよく心に刻み、決して気を緩めることなく、日々を過ごされたし』

 偏屈と評判の人らしい、ちょっとした嫌がらせだ。

 まあ、日常的に淫蕩にふけっているというならともかく、俺は普段から品行方正にしている……つもり、だから、抜き打ちで様子を見に来られても困ることはない……はずだ。

 そもそも、自分の楽しみのために村の人たちに苦難を強いていた前の領主を懲らしめた結果として代わりに領主になった身で、同じ轍を踏むわけにはいかないだろう。

 執務室を見回してみても、散らかってはいない。ニーナが定期的に片付けてくれているからではあるけど、俺自身、なるべく綺麗に使おうと思ってる。俺がまた長い旅に出ることがあれば、この館は村の人たちに返すことになるだろうから。

 そういうわけで、ことさらに何か準備をするということはないにせよ……

 あの〈西の導師〉のことだから、意表を突いてまさに今日訊ねてきてもおかしくない。一層、気を引き締めないとな。

 と……ドアがノックされたのはその時。

 まさか、とは思いつつ、さすがにそれもないだろうと気を取り直す。

「どうぞ」

 そう声を掛けたけど、ドアは開かない。

 首を傾げていると、またノック。

「…………開けて欲しい」

 ドアの向こうから聞こえてきたのは、ステラさんのか細い声。

 カギはかけていないはずだけど、何かあったのかな。

 怪訝に思いながらドアを開けると、ステラさんは両手いっぱいに荷物を抱えていた。それで開けられなかったのか。ノックは……頭を使って乗り切ったらしい。言葉通り。

「先に言ってくれれば俺が運んだのに」

 言って、ステラさんの荷物を引き受ける。どうやら、書物と書類の山だ。ステラさんが一人で運ぶには重かっただろう。指示を受けて執務机に置く。……前が見えなくなるくらいの量だな。

「これは?」

「急ぎではないが確認すべき書類とその資料。そのはず。これを明日、なるべく多く片付けたい」

 俺がした質問への答えは十分納得できるものだったけど、後半部分にはため息が出てしまう。

「明日は構わないですけど、この量は……」

 古い権利書なんかは古王国語で書かれていることが多くて、俺はまだよく読めない。そういうものはいつもステラさんやクレールに読み上げてもらっている。比較的最近のものは俺でもわかる言葉で書いてあるけど、難しい言い回しが多くて、それはそれで苦戦するんだよな。

 そんな俺の処理速度だと、とても一日で終わる量とは思えないけど……

 訊ねた俺の言葉に、ステラさんは頷く。

「いつまでも放っておくわけにはいかないため、少しずつでも進めたい。できる限りで良い」

 そういうのを後回しにしていたから、この量があること自体は不思議ではないけど。

「……だめ?」

 ステラさんが小首を傾げてそう訊ねてきた。

 正直に言うと、うんざりする量だけど……

 やる前から諦めてしまうような態度だと、ステラさんの師匠からどんな叱責を受けるかわかったもんじゃないな。

「……頑張ってみます」

 俺の言葉に、ステラさんは「うん」と頷いた。

 そうしてから、紙の束を執務机に乗せた。

「これは今日の分」

 ……これだけでも結構ある。

「今日は多いですね」

「移住者の開業届けなどが重なった。内容はすでに私とクレールで確認して問題なかった。貴方は署名だけすれば良い」

 確かに必要な書類だ。量が多いのは気が重いけど、署名だけでいいなら簡単ではあるな。

 それで済むのも、ステラさんが信用できる人だからだ。

 この書類を持ってきたのが例えばユウリィさんで「ここに署名だけしてくれればいいからな?」と言ったとしたら、そのまま署名して問題ないとは、俺はそこまではユウリィさんを信用してはいないな。いったいどんな書類かわかったもんじゃない。束の中にだって変な書類を紛れ込ませているかもしれない。気が休まらないと思う。

 

 俺がペンを走らせると、署名の済んだ紙はすぐに横に除けられて、別の紙が俺の前に差し出される。たくさんあるように見えた紙の束も、ステラさんの助けを借りながらなら、見た目ほど大変な作業ではなかった。

 夜までかかると思っていたのに、あまりにもあっさり終わってしまったから、夕食までもまだ時間があるくらいだ。

 まあ……書類と資料が塔のように積み上がってるさまを見る限り、明日は今日と比べものにならないくらい大変そうだけど。

 ため息をついても仕方がないとはいえ、出てしまうのも無理はないところだ。

「明日もよろしくお願いします、ステラさん」

 ステラさんがいてくれてよかったな、というのは、こういう時には特に実感する。今日は用事で出かけているクレールも明日は手伝ってくれるだろうし、実際はこの見た目から感じるよりはずっと簡単に終わるはず……だといいな、という希望くらいは持ってもいいだろう。

 今日の分の書類をまとめていたステラさんは俺の言葉に頷いて、それから……

「……師匠が言っていたことを、最近、よく思い出す」

 と、口を開いた。

 ステラさんの師匠、というのはもちろん〈西の導師〉のこと。

 その人から送られてきた手紙の内容を思い出して苦笑しながら、俺は続きを促す。

「私がまだもう少しだけ幼い頃、あることに気付いた。それは、私が師匠を必要とするほどには師匠は私を必要としていない、ということ」

 それは、そうだろう。いくらステラさんが魔術の分野では天才とはいえ、相手も相当に高名な魔導士らしいから。そもそも師と弟子。そして育ての親という相手だ。相手に求めることの大きさは当然違う。

 ステラさんは昔を懐かしむ様子で、言葉を続ける。

「その時に、師匠が言った。互いに必要とする関係というものは、力の近い者同士でしか構築できない。そしてそれは、二人の力のバランスが崩れた時、あるいは、どちらかが妥協した時に終わる。そういう儚いものだと。しかしそれ故に、貴重でかけがえのないものだと」

 それはステラさんの口から語られてはいるけど、その師匠の言葉。何だか、その道で並び立つ者がなくなった〈西の導師〉の寂寥を感じなくもない。

 言い終わって、ステラさんは……俺を見た。

「互いを必要とする、そういう相手を、お前は見付けろと。そうも言った」

 それでステラさんが見付けたのが、今その視線の先にいる男というわけだ。

「私は貴方を必要としているし、自惚れでなければ、貴方も私を必要としている。そのはず。……違う?」

 その問いには、何を取り繕う必要もない。

「違ってないです。合ってますよ」

 俺が正直にそう言うとステラさんは、よく見なければわからない程度に、笑った。

 これがステラさんの精一杯の笑顔であることを、俺は知ってる。



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ステラの変化

 今朝の早いうちに、レベッカさんとペネロペは旅立っていった。

 今回は南にある迷香の街から船に乗るそうだ。雷王都市を経由して陸路を辿るよりは早い……らしい。天命都市での用事を終えたら、夏が終わる頃にはここに戻ってくる予定で、その時には、俺の男爵位について天命都市からも承認が出ているだろう、とのこと。

 あとはこの村の教会の司祭がどうなるかだけ、だけど、そこはレベッカさんが村の発展に尽くしてくれる人が来るよう「いざとなれば〈聖女〉の威光を使ってでも」尽力すると言ってくれたから、問題はないだろう。

 ペネロペを好敵手と認定しているペトラは、しばしの別れに少し寂しそうではあったな。とはいえ、今はニーナの仕事を追いかけるのも忙しいみたいで、あまり感傷に浸っている暇はなさそうだ。

 

 俺も今日はいろいろと片付けないといけない書類がある。……と、ステラさんから言われていて、今は執務室にいる。準備をすると言って出て行ったステラさんが戻ってくるのを待っているところだ。

 こういう時によく手伝ってくれるクレールは、今日は出かける予定らしい。手伝ってもらうつもりだったのに、あてが外れた。フューリスさんに誘われて、ナタリーやミリアちゃん、それから親方も一緒。館の北にある浜辺の方に、牡蠣を採りに行くんだとか。その浜はこの館の一部として領主の所有物で、村の人たちの漁には開放してない場所だから、手付かずのまま。きっと大漁になるぜ、とは親方の言葉。

「リオンは僕の水着姿を見るの初めてだよね? 感想は?」

 風呂場の脱衣所で着替えた後で、クレールが執務室まで水着を見せに来てくれた。

 ニコルくんのお店で調達したものを、マリアさんが全員分、手直ししてくれたらしい。

 クレールの水着は白。胸元と下半身を覆う布は別々で、下着に似た特徴はあるにせよ、たくさんのフリルがついていることで、こう見るとだいぶ違う。

 とはいえ肌の露出は多いから、執務室にいると場違いな感じは完全には拭えないかな……。

「……似合ってると思うよ」

 と、嘘じゃない程度の感想を言うと、クレールは不満げに頬を膨らませた。

「反応薄いよー。もっと何かいい感じの感想が欲しいなー」

 わざわざ見せに来たんだから、というその言い分は、まあ、わかるんだけど。

「それを全員分考えるのは大変なんだよ……もともと口が上手い方じゃないのに」

 クレールの方も、俺の苦労はわかってくれているらしい。「うーん」と唸ったくらいで、あまりしつこく食い下がってはこない。

「じゃあ、ひとつだけきくけどー」

 そう言ったクレールは、ちょっと体を捻って、腰のあたりを示してみせた。

「ここに紐があるでしょ? これ、引っ張ってみたいと思う?」

 その紐は、水着のだよな。引っ張るとこれ、ほどけるのか。……うーむ。

「……俺をからかうのはやめて、もう行ってきなよ。みんな待ってると思うよ」

 俺は明確な返事はしなかったけど、クレールは何だか満足したようで「んふ」と笑って執務室を出て行った。……まったく。

 

 クレールとほとんど入れ替わりに、準備を終えたらしいステラさんが執務室に入ってきた。

 ……昨日運び込まれた書類と資料だけでも相当な量だったのに、まだあった。

 どん、と目の前に置かれた古い紙の束。これは――と訊ねるよりも早く、ステラさんの解説が入った。

「未整理のまま残っていた勅許状。私はすでに確認したが、領主であるあなたの確認も必要。そのはず」

 それは、まあ、そうだろう。

 勅許状というのは、王様や大教会から発行された証書。内容は様々だけど……

 今回ステラさんが用意してくれたものは、その中でも領主の権利に関する書類らしい。

 以前に見たものには、塩や酒の取引の権利、漁業権、徴税権に関する物があったな。そのあたりは特に重要だからと早いうちに確認した覚えがある。

 そういうわけで、急ぎのものは終わってるわけだから、残りを今日やらなくてもいいと思うんだけど。

 というのは、俺もみんなと行く牡蠣採りに興味があったのと、この公式の書類を見るのは気が重いから。こういう公式の文書ってだいたい、古王国語で書かれているから、俺はなかなか理解できないんだよな……。

 いつまでも逃げてはいられないってのも、そうだけど。

 と書類に向かってみたけど、すらすら読めるわけじゃないから、ほとんどはステラさんからの音読と解説をもらうことになる。ステラさんは本当に頼りになるな……。

 今回の分で目を惹いたのは、

「……温泉の権利?」

「館に引かれている温泉。その源泉の利用に関する権利。権利を持たない者による盗水、盗掘を処罰する権利も含む」

「そういうのもあるんですね」

 よく考えれば当たり前か。水源の権利はどこでだって重要なもので、時にはそれが原因で争いになることもある。噴き出すのが温水だってそれは同じ、というわけだ。

「あれ。これも温泉の権利?」

 別の紙にも同じものがあって少し困惑したけど、ステラさんの解説によると、さっきのは新王国時代のもので、こっちは古王国時代のもの……らしい。

「支配者が変わるごとに古い勅許状は無効になる。ただし、古い時代からの権利であることを主張するための材料になるため、過去の勅許状も可能な限り保管するのが原則。現代のこの地域で最も強い効力を持つのは、雷王都市の勅許状。次いで天命都市、帝麟都市のものが続く」

 その三つの都市は俺の爵位の申請をしたところでもあって、なるほど、そういう事情があったわけだ。

 そんな感じで、二人がかりで書類の分類を進めていると……

「あれ」

 ふと、何かが引っかかって、俺は手を止めた。

 何だろう。花の香りがする。ニーナが花瓶に飾ってくれてる花とは違う……。

 すん、と香りを吸い込んだ時、一瞬だけど冬のことを思い出した。

 冬の花の香り……?

 そう意識してしばらくすると、その香りがどうやらステラさんが動く時に漂っているらしい、ということに気付いた。

「……何?」

 俺の視線に気付いたのか、ステラさんが首を傾げる。

 その顔も、よく見ればいつもと少し違って見える。血色がいいというか、顔色が明るい。いつものステラさんの顔が青白すぎるというのは、あるにしても。

「ステラさん、今日は何か少し、普段と雰囲気が違いますね」

 俺が思ったままを口にすると……

 ステラさんはふいと目を逸らし、手にしていた本で口元を隠した。

 そのしぐさも、何だかいつもと違う気がする。気のせい、ではないはず。

「……うん」

 小さく頷いて、ステラさんの赤い瞳がまた俺の方へと向いた。

「化粧、してみた。……どう」

 なるほど、それがさっきから感じていた引っかかりの正体か。

 ステラさんは俺に向き直って、顔を隠していた本も下げてくれたから、今はその顔がよく見える。

 化粧とは言っても、よく見れば、というくらいのごく自然なものだ。普段からステラさんを間近に見ていなかったら気付かなかっただろう。

「頬が明るいからか、普段より少し快活な感じがします」

 それだけじゃないな。目元もいつもより柔らかい感じがする。あとは――

「口紅もしている」

 というステラさんの自己申告の通り、唇にも普段と違う色が入っていた。

「そうですね。ほんのりと赤みがあって……」

 つやがあって、柔らかそうで……。

 ……じっと見ていると、どうもいけないな。

 ステラさんは俺より年下なこともあって、女性らしさという点では他の子より何歩か後ろだと思っていたけど……。

「どう?」

 ステラさんはじっと俺を見つめていて、たぶん……下手な嘘を言ったらすぐに見破られてしまうだろう。そんな気がする。

「可愛らしいと思います。俺は好きだな」

 俺がそう言うと、ステラさんはほんの少しだけ、本当に少しだけ、表情を緩めた。

「……そう。それなら、良い」

 思えば、ステラさんと初めて会ってからもう随分経つ。まだ二年は経ってないけど、一年半くらいは過ぎた。

 その間、俺が成長しているように、ステラさんも成長している。

 そういう当たり前のことに今さらながら気付いた、というところ……。

 近くにいて親しくしているからこそ、気付くのが遅れたのかもしれないけど。

「ひとつ、気になることがある」

 ステラさんの呟きが届いて、俺は意識を戻した。

「気になること?」

 訊き返すと、ステラさんは無言のまま俺を見て、小さく頷く。

「…………」

 でも、続く言葉はなくて、かといって視線を逸らすわけでもなく。

 見えない天使が通りすがりでもしたかのような、沈黙の時間があった。

「――ステラさん?」

 俺がそれに我慢できなくなって名前を呼ぶと、「うん」と頷いていた。聞こえていないわけではないらしい。

 何だか落ち着かない時間はそのまましばらく過ぎて……

「……あなたは、もしかしたら」

 ようやく、ステラさんが言葉を続けた。

「もしかしたら……私を年上だと思っている……?」

「え?」

 急に、なんだろう。話が見えなくて、言葉を繋げられないでいると……

「ニーナ、ミリア、ナタリー、クレール、ペネロペ、ペトラ」

 六人分の名前を、ステラさんは斜め上を見ながら列挙していった。

 それが済んでから俺に視線を向けて……

「あなたが同年代ないし年下だと思っている者、そう扱っている者を列挙した」

 そう続けてから、くい、と首を傾げた。

「私はそうと思われていないように感じる。違う?」

 それは……どうだろう……。

 ステラさんが年下なのは知っているし、そう思っているつもりだ。

 でも、改めて考えてみると、直前に列挙された子たちのようには、扱ってはいない気もする……。

「私の方があなたより年下。あなたは十六歳で、私は十五歳。そのはず」

 それは、たぶんその通りだ。ステラさんは背が低いから、見た目ではもう少し下に見えなくもないけど。

「他の者と同様の扱いを希望する」

 そう言われて、俺は唸った。

 同様の扱い……と言われても、元々さほど違う扱いをしてるつもりがない。

 でも、うーん。

 指摘されれば確かに、ステラさんを『年上組の最年少』くらいの距離に感じてるところはあったかもしれない。

 もう少し気安く接して欲しい、ということかな……。

「じゃあ、えーっと……ステラ?」

 ニーナを呼ぶ時くらいの気持ちで名前を呼んでみると、ステラさんは「うん」と頷いた。

「他の人と同様にって、こういう感じで?」

「それで良い」

 俺の問いに、ステラさんは満足げな返事をした。

 とはいえ、俺の中では違和感がある。急に言われたからでもあるけど……

「そもそも年上みたいな扱いになったのは、ステラが大人びてるからじゃないかと」

 ステラさんはその言葉に反応して、ぴくりと眉を動かした。

「……そうだろうか」

「ステラさんは何でも知っているし、話し方も姿勢も落ち着いていて、年下とは思えない信頼感があります」

 そうなのだ。そしてそれを感じてるのは俺だけじゃなくて、他のみんなもそのはずだ。

 ステラさんはしばらく黙っていたけど、すぐに反論してこないあたり、思い返せば自分でも納得できる、というところか。

「……幼い頃は、自分が何もできない子供であることがもどかしく、早く大人になりたかった。それは事実」

 そんな風に思う子は、決して少なくはないだろう。俺自身も、子供のままでいたいって気持ちよりは、大人になりたい気持ちの方が強かった。

 ステラさんもそう思って、努力して、もう何もできない子供じゃない。誇っていいことのはずだ。

「……改善策を検討する……します?」

 年下らしさというやつをどうにか口調に取り入れようとしているみたいだけど、正直、うまくいってるとは言いがたい。そもそも使ってる単語が難しいから口調以前の問題だし……。

「無理に変えなくてもいいんじゃないかと。お互いに」

 俺の言葉に、ステラさんは少し不満げだけど……。

「他の子と同じように振る舞わなくても、ステラさんにはステラさんの魅力がありますから」

 そう続けると、ステラさんは何か言いたげに一旦は開いた口を閉じて……

「……本当に」

 改めて、小さな声で呟いた。

「私の魅力というものが、あなたには見えている?」

 少し上目遣いにそう訊ねてくるステラさんは、いつもよりは少し自信なげに見えて、そうしているといかにも年下のか弱い女の子だ。

 でも、それがステラさんの魅力の本質というわけでは、ないと思う。

「ステラさんが鏡で自分を見る回数より、俺がステラさんを見る回数の方が多いから」

 ステラさんには「多分そう思う」ではなかなか通じないけど、数字の大小で説得すれば一応は納得させられる。

「一理ある」

 こんな感じに。……後日になってさらに詳細な資料で反論されることはあるけど。

 でももし論争になったらいくらでも……とまではいかなくても、何度か反論に耐えるくらいの材料は、持ってるつもりだ。

 まあ、今のところは、ステラさんも俺を論破するつもりはないらしい。

「あなたが理解しているなら、他の誰かや私自身すら理解していなくても、大きな問題はない。……そのはず」

 そう言って、手元に視線を落とした。

「……念のため、言っておかなくてはいけない」

 次に処理すべき書類を俺の目の前に広げながら、ステラさんは、ほとんど囁くような小さな声を俺に向けてきた。

「あなたが鏡で自分を見る回数より、私があなたを見る回数の方が多い」

 反論ってわけじゃ、ないな。

 言いたいことは、さすがに、わかるつもりだ……。

「ありがとうございます、ステラさん」

 言うと、ステラさんは「うん」と頷いた。



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フューリスとステラ

 作業をしている人たちの邪魔にならないように少し離れたところから、桟橋の建造を見守っている。今日は急ぎの仕事はないと言われて、せっかくだから視察に来た。

 視察というよりは見物かな、とも思うけど。

 木造の桟橋は前に見た時よりも海の方に延びていて、完成に近付いてるのがわかる。

 大型船が停泊できる桟橋というのをいったいどう造るのか、親方に訊いたら「そこは、力業だよ」と言っていて、最初は想像できていなかったけど……

 浜から海の方へ、何本も杭を打ち込んでいる。ハンマーをガンガン振り下ろして、杭のてっぺんが他の杭の高さと同じになったらそれらの上に板を置いて釘で打ちつける。そこを足場に、海のもっと深い方へ次の杭を……と、それを繰り返していけば最後には長い桟橋が出来上がる、ということらしい。

 実際に見ればなるほど、これは力業だ。海底深くまでしっかり突き刺さるくらい長い杭が大量に必要だけど、そういう材料の調達も含めて、力業だ。後から拡張するのも同じ力業でやれる。

 この木造桟橋が何十年、何百年も使えるわけではないけど、使えるうちに石造りの港を整備する計画になっているから、元々間に合わせの予定だ。問題はないだろう。

 と、領主らしく村の将来に思いを馳せていたところに――

「やあ、ここにいたのかい。探したよ」

 フューリスさんがやってきた。

 俺が館にいなくても待っていれば戻ってくるのに、わざわざ探したとはどういうことだろう。

 不思議に思って訊いてみると……

「暗号が解けた? 全部?」

 驚いた俺の言葉に、フューリスさんは笑って「うん」と頷いた。

 暗号、というのは、少し前にステラさんの師匠である〈西の導師〉から届いた手紙だ。フューリスさんは以前〈西の導師〉への手紙で自分が探している魔導器について訊ねていて、その返信ということだった。

「二つの詩から文字を置き換えるための円盤を作って、さらに三つ目の詩に沿って一文字ごとに変換表をずらしていく、という……ステラから教わらなければとても解けなかっただろう方法で書かれていたよ」

 そう言われても何が何だかわからない。

 とはいえ、解けたのはいいことだ。

 ただ、確かその暗号のカギをステラさんから教わるには、ステラさんの願い事を何かひとつ叶えなくちゃいけない。そういう条件が〈西の導師〉から出されていたはずだ。

「願い事はね、もちろん、叶えたよ。ステラから『化粧の仕方を教えて欲しい』と言われてね。けれど、それだけではさすがに簡単すぎるというか、そんなことは言ってくれればいつでも教えるのに、というものだったから、私の方でいくつか『おまけ』をつけておいたのだよ。例えば、意中の彼と二人きりになれるように恋敵を遠ざけておく、とかね」

 ……なるほど。フューリスさんは変装の達人で、化粧も得意だと言っていた。その先生にするのにこれ以上の人は、あの館にはいない。

 そして、おまけ、か。……ふむ。

 そういえば、フューリスさんがクレールたちを誘って出かけた時、俺とステラさんは館に居残って、急ぎでないはずの書類を片付けていたな。

「どうも普段のステラさんらしくない気はしてたんですが、フューリスさんの仕業だったんですね」

 俺の言葉を聞いたフューリスさんは、これ見よがしに肩をすくめた。

「やれやれ、人聞きの悪いことを言うものだね。私はあくまで、彼女が望んだことを叶えただけだよ」

 それは、そうかもしれない。でも多分、ステラさんの希望は化粧の仕方を教わるところまでで、その先のことはフューリスさんがけしかけるようなことを言ったんだろうと思う。

 俺のその予想が当たっていたとしても、もちろん、そういうことを面白がってやる人じゃないとは思ってる。

 だけど、真面目にやるということなら、それはあるかもしれない。

「君はそれを、らしくない、と言ったけれどね。そう変わりたいと彼女が願った理由を、よく考えてみておくれ。……とまあ、これは、お願いされたからではなく、私のお節介だけれどね」

 言って、フューリスさんは微笑を浮かべた。

 うーん。何だか、少し前から思っていたけど……

「その顔は、どうして私がステラのためにそこまでするのだろう、というところかな?」

 そこまで顔に出ていたかな。まあ、フューリスさんはそういうのによく気が付く人だから、隠し事をするのは簡単じゃない。今回は、隠すようなことでもないけど。

 こうなれば、本人に直接聞くのが一番早い。

「いったいどうしたんです? 以前は、今ほどには気に掛けてなかったと思うんですが」

「そうだね。君たちがこちらに移ってからだよ。そう思うようになったのはね」

 俺の問いにフューリスさんは頷き、言葉を続けた。

「理由は、これは君にだから話すのだけれど……ステラに、私と似たところがあると思ってね。正確には、幼い頃の私と同じ類の『危うさ』があると思っているのだよ」

「危うさ、ですか?」

「そう。自分の将来や、あるいは自分の意志さえも他人に委ねてしまうような、そういう危うさだ。私が見たところ、ステラは自分の力の研鑽には熱心だけれど、その力を使ってどうしたいのか、という視点が欠けているね。その部分を、他人に委ねてしまっている。この場合の他人というのは、もちろん、君のことだよ」

 言われて振り返れば、そういうところはあるかもしれない。

 ステラさんは俺をよく手伝ってくれているし、それはありがたいけど、ステラさんが自分から何かしたいと言い出すことは滅多にない。過去に何度か言われた要望を思い返すと、大本は「自分の力を試したい」というところかなと思う。

 でも、その力を使って何をしたいのか、か……。

「おそらく〈西の導師〉もそれが気になっていたんじゃないか、と思っているのだよ。なにせステラは、魔術の修行の旅を続けることなく、君と共にここへ来るという選択をしたのだからね。何を望んでそうしたのか、推測は出来るけれど、本人の言い分も聞きたい、と。それで、私に叶えさせるというていでステラ自身の願いを口に出させようとした、というところかな」

 そう言われれば、そうかもしれない。ステラさんの師匠は偏屈な人という噂だけど、弟子思いの面があることも何となく伝わってくる。もしくは、そうせざるを得ないくらいにステラさんが危なっかしいのか……。

「その願い事の内容は、まあ、さっき言ったとおりだったから、少し心配は残るけれどね。さしあたっては、君が道を間違えなければ大きな問題にはならないだろう……というところなのだよ。そういうわけだから、ねえ、荒れ果てた空っぽの心に憎悪の種しか植えてもらえなかった哀れな少女のようには、どうか、しないであげておくれ」

 それは、今のステラさんに似ていたという、幼い頃のフューリスさんのこと……か。

 フューリスさんは過去のことをあまり語りたがらないから、俺もはっきりとは知らない。

 ただ、当時の……渇きの都で〈沈まぬ太陽の女神〉として〈北の魔剣王〉の軍勢と戦っていた頃のフューリスさんが穏やかな気持ちでいたとは、到底思えない。

 ステラさんもそうなってしまうかもしれない、と、フューリスさんは危惧してるのか。

 もちろん、俺のできる限りのことはするつもりでいる。ステラさんは大切な仲間だし、この領地の経営にも欠かせない人材だ。

 ただ、俺がステラさんの助力に対して相応のものを返せているかは、あまり自信はないな……。

「今回、ステラは『手段』を願ったのであって、それによって『目的』までもが達せられたわけではない、ということは、君もわかっているね? ……まあ、君にもステラだけをひいきにできない事情があるのは、察するところではあるけれど」

 うーん。言い訳まで先回りされてしまうと、苦笑を返すことしかできない。

「……よく気を付けておくことにします」

 ようやく言えたのはそんな当たり障りのないことだったけど、フューリスさんも「ぜひそうしておくれ」と頷いたくらいで、その話を切り上げた。



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旅立つ人と残る人

「それで、手紙の内容だけれどね。知りたかったことは全て書いてあったよ。特に、ステラの妹弟子にあの石を移植した経緯と手法を知れたのは良かったね。待っていた甲斐があった、というところかな?」

 それは、吉報と言うべきなんだろう。フューリスさんが目的の達成に一歩近付いたということだし。

 ただ、手放しに喜べない気持ちも、ある。

「それじゃあ、いよいよ出発ですか」

 そうなのだ。フューリスさんは一時的に旅を中断しているけど、それも次の旅の準備が整うまでのこと。

 先日ユウリィさんから買った邪鋼の短剣と、今回の〈西の導師〉からの手紙。

 両方が揃ったから、準備は整った……ということになる。

 俺の言葉に、フューリスさんは「うん」と頷いた。

「名残惜しいけれど、行ってくるよ。用が済めば戻ってくるつもりではあるけれど、さて、どのくらいの時間が必要か、まだ予想も立たないね。何ヶ月か、あるいは、何年もかかるかもしれない。けれど、放っておくこともできないからね」

 強力な魔導器である〈太陽の聖石〉をこの世から消し去る、というのがフューリスさんの旅の目的で、今はその石をステラさんの妹弟子が持っている……心臓の代わりに、胸の中に。

 おそらく相手も簡単には承諾しないだろうし、どうしたって困難は避けられないだろう。

「一緒に行って手伝えたらとは思うんですが」

 それは嘘じゃない。でも、現実的にはそうできない事情もある……

「気持ちは有難いけれど、君は君でやることがあるだろう? それにこれは私の問題だから、できれば自分でけりをつけたいと、そう思っているんだ。理解してくれるね?」

 フューリスさんのそれも、まるっきり嘘ってわけじゃないだろう。ただ、俺が一緒に行けないことを気に病まなくていいように、ちょうどいい理由を作ってくれてる面もありそうだ。

 ……この体がふたつあれば、その片方でフューリスさんの手伝いができるのにな。

 そう思うのは、フューリスさんの旅の先に強敵が待ち受けている予感があるからかもしれない。そして……

 強敵と戦いたいという気持ちは、正直に言うと、俺の中にある。

「もちろん、私だけの手には負えないとなれば、改めて君に助力を頼むことになるかもしれないけれど」

 だから、フューリスさんがそう言った時には、少し心が躍ったものだけど。

 戦いの高揚は竜気(オーラ)を活性化させて、そうすると、俺はいずれ竜になってしまう。霊峰の聖竜からそう警告されているから、どうにか自制した俺は、

「そうならない方がいいんでしょうね」

 とまあ、そんなことを言った。

 フューリスさんは微笑して、そんな俺の肩を軽く叩いた。

「君は私の旅が無事に終わるように、星にでもお祈りしておいてくれるかい? ああ、けれど、太陽は駄目だよ。あれは私を嫌っているから」

「はは……まあ、わかりました」

 詳しい事情はまだみんなに話せていないけど、俺が戦いを遠ざけようとしていること自体は、フューリスさんには見破られているだろう。もちろん、そうしながらも戦いの高揚感を忘れられずにいることも。

 それで、こんな風に冗談を交えながら、俺の闘争心をなだめようとしてくれているわけだ。

 そしてそういうことができる人が旅立ってしまうというのは、残念な気持ちにもなる。だからって引き留めるわけにはいかないけどね。

「さあそういうわけだから、今夜は少し大騒ぎして、気分を盛り上げておくとしようかな。酒場に寄って、お酒を買い込んで持って帰るとしようか。今夜ばかりは君も付き合ってくれるだろう? もちろん、明日に響かない程度にね」

 言って、フューリスさんは片目をつむってみせた。

 

       *

 

 旅立ちの日。朝食を終えて、フューリスさんは旅立っていった。

 まずは南にある迷香の街に向かってそこから街道を西に進む、ということでフューリスさんは「やれやれ。レベッカがもう少し待ってくれていたら、途中までは彼女の馬に乗せてもらえたものを」なんて嘆いていた。気持ちはわかる。

 結局、徒歩で出発したフューリスさんを館の正門のところで見送った。俺の他にはクレールとナタリーがいる。それからハスターも、何の気まぐれか、一緒に来てる。館では比較的暇そうにしている方から四人、ってところかな……。

「フューリスさんも行っちゃったね」

 海からの風に金髪をなびかせながら、クレールが呟いた。

 一時は十三人と一匹まで膨らんだ住人が、結構減って今や八人と一匹。それでも冬の間よりは、ペトラとハスターがいる分、少し賑やかなんだけど。

 でも、一番賑やかだった時と比べてしまうから、やっぱり、今は少し寂しさがあるな。

「あたしは、まだまだここで暮らすつもりです!」

 だから、ナタリーがそう言ったのは、特に突然ってこともないだろう。

 旅立つ人もいるけど、残る人もいる。まあ、そういう話。

 ただ、クレールにはまた違った感じ方があるようで……

「ナタリーはさー、いつまでもここにいていいの? 将来どうしたいとかないの?」

 それは別に嫌みとかでなく、単純に、ナタリーを気遣ってのこと……だと思う。

 確かに残る住人の中ではナタリーが一番、なんというか、将来の夢、みたいなことを語らない。今は毎日が楽しいからそれでいい、という感じ。

 訊かれたナタリーは赤毛のポニーテールを揺らして振り返ってから、微笑んだ。

「あったですが、それはもう叶ったので」

「どういうこと?」

 クレールが訊き返す。

 と、ナタリーの視線は俺やクレールの後ろ……竜牙館の方へ向いた。

「あたしは、屋根のあるところで暮らしたかったです。あと、一緒に暮らす家族もいたら満点です。それって、もう叶ってるですよね?」

 それは、確かにそうと言えるかもしれない。

 血の繋がった一族の集まりというわけじゃないけど、多くの困難を一緒に乗り越えてきた仲間たちだ。あるいは、血の繋がりよりも深い繋がりかもしれない。

 実際、ナタリーはこの館でみんなと過ごして、毎日楽しそうだ。

 父親を亡くして以降は家も家族もなかったというナタリーにとっては確かに、願いならもう叶った、ということなんだろう。

「贅沢を言うとペットも欲しかったですが、ちゃんとお世話できるか不安なので、しばらくはハスターで我慢するです」

「きゅいっ?」

 ナタリーの言いぐさにハスターが振り向いたけど、確かにまあ、ハスターなら自分のことは自分でできるから、世話をする必要はないな。

 それにしても、ナタリーのこれは、いい傾向かというと難しいところだ。

 元々、ナタリーは雷王都市にお父さんと二人で暮らしていた。そのお父さんが病気で亡くなった後、全ての財産を借金のかたに取られてしまった。家までもだ。

 それで家や家族が欲しいと思ったのは、当時のナタリーにとっては遠い目標だったのかもしれない。

 ただ、こうして叶ってしまった後、そこで立ち止まってていいんだろうか。

 手先が器用だったり、地図を描くのが得意だったりと、他の子にはない才能があるから、それを活かせるようにするべきなんじゃないだろうか……。

「今のところ、ここでの暮らしにはほとんど不満ないです」

 本人はそう言うから、あまり急かすようなことも言いたくはないけど。

「ほとんどってことは、少しはある?」

 一応、そう訊いてみる。不満点から、何か新しいことに挑戦するきっかけが見付かるかもしれないし……

 すると、ナタリーは俺を見てちょっと頬を膨らませた。

「もっとリオンと遊びたいです! 最近は書類の仕事が多いです! この前の牡蠣採りの時もリオンは来てくれなかったです!」

 ……うーん。新しい目標にするにはちょっと、身近すぎるかな……。

「土地の権利とか複雑だったから整理しなおしてたんだよ。古い順に並べて確認しないといけなくて。ナタリーが作ってくれた地図はすごく役に立ってるよ」

 そう言うけど、ナタリーの不満顔は変わらない。

「ナタリーも書類の手伝いすればいいじゃない」

 クレールがそう言ったけど、

「それはいやです」

 即答だった。

「だってあたしがそれやったら特級有能すぎて、仕事がなくなったクレールはぐーたらしてるだけの役立たずになってしまうです……」

「ひどい言われよう……」

 ショックを受けたクレールの様子に、俺としては少し笑ってしまう。

 ……よく考えてみれば、今のナタリーはまだ、故郷を出てきた頃の俺と同い年くらい。これからまだいろんなことがあるだろうし、何か始めるにしても、それからでも遅くはないかな。



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ユリア

 それは、フューリスさんが旅立ってからまだ数日もしないうちのことだった。

「たっだいまー。ユリアを連れてきたよー」

 親方との話し合いで村の方へ出ていたクレールの声が聞こえた。

「ユリア?」

 知らない名前じゃないけど、今日ここで聞く名前じゃない気がした。

 いったい何事なのか確かめようと執務室を出ると、ちょうどクレールも執務室へ向かってきているところで、その隣にはクレールより少しだけ背の高い、長い銀髪の女の子が立っていた。

「あ、えっと、その……お、お久しぶりです。リオンさん」

 居住まいを正してそう言ったのは、確かにユリアだった。

 

 ユリアは俺と同年代。長い銀髪と赤い瞳、真っ白い肌。メリハリのある体つきもあって、少し大人っぽくは見えるな。

 俺との間には、少し、複雑な事情がある。

 立場で言うと、俺の敵でもおかしくなかった子だ。なにせ、邪神〈歪みをもたらすもの〉を信奉する歪みの民たちに〈歪みの御子〉として育てられたというんだ。

 俺も詳しく知っているわけじゃないけど、ユリアによると、〈歪みの御子〉と〈安定をもたらす者〉は、邪神降臨の気配――つまり大災厄があるたびに、何度も激しい戦いをしてきたらしい……。

 ただ、俺がその存在を知ったのはもう邪神を退けてからだったし、本人も望んで〈歪みの御子〉になったわけじゃないと言っているから、個人的には、争う理由はない。

 俺が邪神を退けたちょうどその時、ユリアは歪みの民の神殿から逃げ出した。その時に出会ったのが俺らしい。らしい、としか言えないのは、ユリアが出会ったその『俺』は、この俺じゃない偽者だったからだ。そこの話は特に複雑で……いずれ機会があれば詳しく話そう。

 ともかく、さしあたっての問題はユリアの体に宿っている冥気(アビス)のことだ。

 邪神降臨のために集められたいけにえから大量の冥気(アビス)が生み出されて、今はユリアの中にある。まともな人間ならとても耐えられないという量だ。

 その制御を学べるように、クレールのお父さんで〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉の異名があるルイさんを紹介した。

 今もまだその修行をしてるんだと思っていたけど……

 

 現実に、ユリアは目の前にいる。

 どうしたんだろう、とは思いつつも、見た目には特に具合が悪そうには見えない。その旅装にははるばるやって来た距離に応じた汚れがあって、ようやくたどり着いた、という疲れは見えるけど。

「久しぶり。元気みたいだね」

 ありきたりな言葉だけど、事情を知っていたら、ユリアの見た目が「元気そうだ」というのは大変なことだと言うしかない。

「ええ、おかげさまで……あの時は本当にお世話になりました」

 いろいろあったけど、最終的に、俺がユリアの命を助けたというのは間違いない。〈歪みの民〉は「きっと後悔する」なんて捨て台詞を投げかけてきたけど、今のところ、後悔はない。

「もう修行は済んだの? ルイさんからは何も聞いてないけど」

 訊くと、ユリアは頬に指をあてて少し考えるしぐさをしてから、

「うーん。日常生活に支障ないくらいには、ですかねー」

 そんな風に答えた。

 見たところ、大量の冥気(アビス)を宿しているというわりには、嫌な感じはしない。

 本人によると元は金髪碧眼だったのが冥気(アビス)の影響で銀髪赤目になってしまったんだという話だから、嫌な感じはないといっても本人はまた違う感じ方があるかもしれないけど。

 そういえば、ルイさんも元はクレールと同じ金髪だったのが、銀髪になったと言っていた。冥気(アビス)の影響で髪の色が抜けるというのは、わりとよくあることなのかもしれない。

 今回、ルイさんから特に連絡はなかった。するつもりがあれば、前みたいに使い魔で手紙を送ってくれたはずだし、それが徒歩のユリアより遅いことはない……はず。特に連絡の必要を感じなかったということなら実際、ユリアの言う通り、基礎の修行は終えてきたってことなんだろう。

「ねえねえ、リオン。ユリアの部屋って、空き部屋ならどこでもいいのかな? 何か決めてたっけ?」

 クレールがそう言ったから思い返してみると……

「レベッカさんは戻ってきたらまたペネロペと二人であの部屋を使うと言ってたから、あの部屋以外。フューリスさんが使ってた部屋になるんじゃないかな。ニーナかペトラが片付けてくれてるはずだけど」

「そっかー。なるほどねー」

 確かそのはずだ。レベッカさんたちが使っていた東の端の部屋は、一人で使うにはさすがに広すぎる気がする。とはいえ、フューリスさんが使っていた部屋だって決して狭くはない。この館の部屋はだいたいどこでも広い。

「カギはニーナが持ってるよね?」

「ペトラも持ってる」

 今は部屋の掃除なんかを分担する関係で、ペトラも多くの部屋のカギを管理してる。全部持っているのはニーナだけだけど。

「でも、荷物を置くだけならカギはまだいいと思うよ。空き部屋にはカギかけてないはずだし」

「それもそっか。じゃあ、詳しく案内する前に荷物置きに行こっか」

 クレールが声を掛けたけど、ユリアは首を傾げて俺を見ている。何事かと思っていると……

「リオンさんはマスターキーとか持ってないんですか? 館の主人なんですよね?」

 そんなことか。

 ユリアは不思議そうだけど、俺からすると不思議でもなんでもない。

「女の子が多いからね。俺がカギ持ってたらみんな安心できないんじゃないかな」

 一番大きい理由はそれ。もちろん俺はそれを悪用するつもりはないし、みんなもそう信頼してくれているとは思うけど、魔が差すってことも絶対にないとは言い切れない。

 という説明になっていたと思うけど、ユリアの不思議そうな顔は変わらず。

「私は、いつでもどうぞですよ?」

 ……そう言われてもね。

「はい、ストーップ! 荷物置きに行くよ!」

「あっ、ちょっ、クレールさん! 襟巻きを引っ張らないでください! 伸びちゃいますから!」

 クレールがユリアをほとんど引きずるようにして連れて行ったから、俺も苦笑しながら後を追った。

 まあ、これでまた少し賑やかになりそうだ。

 

「わあ、広い! それに、ここから海も見えますね!」

 フューリスさんが使っていた部屋は、きれいに片付いていた。元々、フューリスさんもそんなに雑には扱ってなかっただろうし、数日のうちにニーナかペトラが整えてくれてる。

 俺の部屋と比べると、奥……北側にテラスがあるのが特徴的だな。そのあたりも含めて、ステラさんが使ってる西側の部屋とほぼ鏡写し。

 ユリアは部屋の端に旅の荷物を下ろすと、早速、そのテラスに踏み出していた。

 このテラスがまた、やたら広い。隣の、レベッカさんたちが使っていた部屋からも出てこられるから、共同スペースってことではあるけど。そこに丸テーブルがひとつと椅子が四脚。海を見ながら過ごすにはいいところだな。……まあ、夏の間は暑そうだけど。

「いいんですか、こんないい部屋」

 ユリアはどうやら気に入ったみたいだ。

「あ、その下のとこに見えてる離れが温泉ね」

「温泉もあるんですか。楽しみです」

 二人は北側の手すりにとりついて下の方へ視線を向けている。

 ……ちなみに、このテラスから温泉は覗けない。念のため。

「すごいよね。温泉は古王国の頃からもともとあったらしいんだけど、今のこの館とか、お風呂の建物なんかは、前の領主がかなりお金かけて作ったみたい」

 というのはクレールによる説明。

 この館の建設にかかった費用については、ほとんどが領地と領民に対する重税でまかなわれてた。そのこともあって、今は村の人たちに対する徴税は一時停止中だ。

 館自体の出来は、実際に暮らしてみての感想としては、なかなかいい建物だと思う。お金がかかってるだけのことはある。

「前の領主?」

 ユリアが首を傾げているのを見て、クレールも「あれ?」と首を傾げた。

「言ってなかった? 元々この村にいた悪徳領主をリオンが成敗して、それでこの館をもらったんだよ」

「そうだったんですね。初めて聞きました」

 だいたいその説明通りだ。

 ただまあ、もらったというよりは、押しつけられたって方が正しいかな……

 要は、前の領主が復讐に燃えて戻ってきた時のための番犬として雇われてるというわけだ。

 故郷をなくして以来、居場所を決めかねていた俺としてもそれで助かったのは事実だから、お互い様ってところだけど。

「領地経営なんてがらじゃないから、実務的なことはほとんど任せてるけどね」

 そこのところは、クレールやステラさんがいてくれて本当に助かった。

 で、そのクレールは……

「うーん」

 廊下の方に顔を突き出して、何やら唸っている。

「こうして見ると、リオンの部屋に近くてちょっと不安だなー」

 確かに、俺の部屋はすぐ近くだけど。だからどうっていうこともないだろう。

「別に不安に思うことないですよ?」

 ほら、ユリアもそう言ってる。……と思いきや。

「その気なら遠くの部屋からでも通いますし」

 ……これは、クレールが不安に思う気持ちもわかる、と言うべきなのかな。

 するとクレールはクレールで、

「僕、リオンの部屋に住もうかなあ」

 なんて言い出してしまった。冗談……だと思うけど、クレールは俺の部屋には頻繁に遊びに来ているから、冗談だと断定はできない。

「その時は、俺がクレールの部屋に行くことになるかな……」

 クレールが本気だった時は、そうせざるを得ないだろう。

 それを聞いたユリアは、思わずといった様子で笑った。

「ただの部屋替えじゃないですか」



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入館審査

 夕食前の時間。クレールからみんなに、ユリアのことが紹介された。

「この子はユリア。前に言ったと思うけど、僕の父様のところで冥気(アビス)の制御を学んでたんだよ。同じ先生から学んだってことで、僕の妹弟子ってところだね。しばらくここに住むから、みんな仲良くしてあげてよね」

 なるほど。クレールとユリアは同門ということになるのか。二人とも魔術についてはステラさんほど詳しくはないにしろ、クレールは煌気(エーテル)、ユリアは冥気(アビス)を扱えるという特殊な才能がある。それを指導できる人なんて、大陸中を探してもそう多くはいないだろう。

「ここなら万が一の時には止めてくれる人がいるからって、クレールさんが招待してくれたんです。それで、お言葉に甘えました。先生も勧めてくれましたし」

 ユリアがそう言ったところで、クレールが得意げな顔になった。

「僕って気が利くでしょー」

「それ自分で言わなければ、もっと良かったけどね」

 聞けばどうやら、前にルイさんから手紙が届いた時の返事に、そういうことを書いていたらしい。

 来たのは突然だったけど、俺の知る限り、ユリアには他に行くところもない。次の行先に悩んでいるうちはここにいるのもいいかな。

冥気(アビス)を制御できるようになったから、父様のとこから出てきたんだよね? どのくらいのことができるようになったの?」

 訊ねられたユリアは「えーっと……」と少し考えるしぐさを見せてから、口を開いた。

「普通にしてたら漏れてこない程度に抑えてられるようになりました。一応、冥術も〈紫電(マッドサンダー)〉だけは扱えますけど、使わない方がいいって先生が」

「それがいいね。やっぱり冥術は負担が大きいと思うよ」

 実際、冥気(アビス)のことを考えると、他のところにいるのは本人にも不安が大きいだろう。

 ちなみに、その〈紫電(マッドサンダー)〉という冥術は……人間に当たれば、まあ、普通は即死かな……。

「基礎的な訓練の方法は学んできたので、続けていればもっと安定すると思います。紫電の魔石があれば、体内の冥気(アビス)の流れを安定させるのに役立つそうなんですけど」

「それは、僕たちも持ってないね」

 前にルイさんからの手紙で持っていないか訊かれたけど、そういう使い方をするつもりだったのか。その用途に限れば、確かにあると役立ちそうではあるけど……

 はっきり言って、とんでもない危険物だと思う。悪意を持って使えば街が滅ぶ、というくらいはまあ、あるだろう。

 ユリア自身にもその危険性があることは、気に留めておかないとな……。

「それで、みんなは何か言っておきたいこととかあるかな」

 訊ねてから改めて見回してみるけど、特に不安がっているとかそういう様子は見受けられない。

「リオンさんが受け入れると決めたのでしたら、私には異論はありません」

 マリアさんがそう言うと、ステラさんも頷いた。

「その意見に同意する。冥気(アビス)を扱える体質……非常に興味深い」

 ユリアはこれまで、俺とクレール以外のみんなとは面識がなかった。そんな子が急に一緒に住むことになってみんなは大丈夫かな、とは少し思ってたけど、よく考えるとペネロペやヴィカやペトラもそんな感じだった。

 人の出入りにおおらかなのは、元々が冒険仲間の集まりだからなのかな。そのときどきで、いる理由がある人がいる、ということに慣れているのかも。

「あたしと名前が似てる! ということはー……ミリア、マリア、ユリアで三姉妹だ! あたしにも妹ができたね!」

 ミリアちゃんが手を挙げてそう言った。……年齢からするとユリアの方がお姉さんだと思うけど、ミリアちゃんの中ではそうでもないらしい。

「あのさー。私、いまいち話についてけてない気がするんだけど」

 続いて手を挙げたのはペトラ。

「冥術って、あれか? 物語で悪魔の王とかが使うやつ? そんなの、人間が扱うなんて聞いたことないけど」

 ……これが普通の人の意見なのかな。

 ペトラは確かに、激しい戦いの中に身を置いていたわけじゃない。俺でさえそう何度も食らったわけじゃない冥術の話が出て実感が湧かなくても、無理はない。

 とはいえ、ペトラの認識もまるっきり間違いというほどでもない。

「冥術は確かに、使える人は滅多にいないかな。暗黒の術法なら、使う人もたまにいるけどね。それとは仕組みが違うんだよ。使うのは実際、魔王とか邪神とか呼ばれるくらいのやつだね」

 俺の実感からしても、クレールが言った通りだ。ステラさんも続けて解説を入れてくれた。

「暗黒の術法は霊気(マナ)を使う魔法の一系統。その延長線上には冥気(アビス)を使う冥術はない」

 ステラさんは何でも知ってるな……。まあ、そういうことだ。

「それで、普通の魔法とは違う、特別な素養が必要なんだよね。逆に言うと、その素養があれば人間でも使えるんだよ。でもだからって、ユリアも他の人とそんなに違うわけじゃないよ。正しい心があれば冥術も正しいことに使えるよ。……たぶん」

 冥気(アビス)煌気(エーテル)の違いはあってもその『特別な素養』を持つクレールは、それでユリアのことを何かと気に掛けているんだろう。

 俺の知り合いでは他にクレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉と、ペネロペの叔父である暗黒司祭のアゼルさんが、冥術を使えるな。といっても二人のちからにはかなりの開きがあって、アゼルさんは暗黒神の祭器がなければ冥術を使うことはできない。あれば使える、というだけで十分にすごいことではあるけど。

 ユリアは独力で扱えるようにはなった、ということで、アゼルさんとルイさんの間くらいか。

 ちゃんと制御できてるなら、そんなに危険なことにもならないとは思う。

 ……それにしても。うん。

 冥術がどんなに危険か話してきておいて、なんだけど。

 普通の人はたぶん、冥術でない暗黒系統上位魔術の〈影降(シャドウストライク)〉……あるいは中位魔術の〈闇剣(ダークセイバー)〉ですら食らったら即死するだろうから、食らえば死ぬ、という意味では違いは無いとも言えるな……。

「結局いまいちよくわからないけど、わかった。ナイフ持ってる人がみんなナイフを悪用するわけじゃないってことだろ?」

 と、ペトラ。それで合ってる……かな? うん、だいたい合ってる。

「危なくなったら変態領主を盾にすればいっか」

 よくないけどね。……いや、待てよ。変に自分で対処しようとせず俺を頼ってくれた方がいいのかな。扱いの雑さは気になるけど。

「それじゃそろそろ夕食だけど、ユリアも苦手な食べ物とかあれば言ってね」

 受け入れ自体はもう異論無く決まったという感じで、となれば、今後どう過ごすかだ。ニーナはそこの担当者ってことになる。

「うーん。今のところ、特にないです!」

 そう言ったユリアの顔に嘘は見えない。今のところ、というのも「見知らぬ料理まではわからないけど」という程度の意味だろう。

「それなら今後も増えることはないです。ニーナが作る料理はどれも特級美味しいです!」

 ナタリーの言葉にもユリアは「そうなんですねー」と素直に感心している様子で、逆に、ニーナの方は苦笑。

「そこまでとは思わないけど、苦手な物があれば食べやすくはしようと思ってるよ」

 まあ、ニーナのせいで外の料理を食べられなくなったという人もいたけどね……。



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深夜の訪問者

 ふと目を覚ますと、うっすらとした月明かりが長い銀髪を照らしているのが見えた。

 誰かが、俺の顔を覗き込んでいる……。

 それが誰なのか、一瞬、わからなかったけど。

「あれ、起きちゃいました?」

 声が聞こえて、ゆっくりと意識が覚醒していくにつれ、そこにいる人影の正体もはっきりした。

「……ユリア?」

 名前を呼ぶと、彼女は微笑を浮かべた。

「リオンさんって、夜寝る時も部屋にカギかけないんですね。不用心じゃないですか?」

 囁くような声とともに、俺の頬に吐息が当たる。それくらい、近くにいる。

 こんなに近くに寄られるまで気付かなかったのは、気の緩みかな……。多分、ユリアに害意がなかったからでもあるだろうけど。

「緊急時にもすぐ出入りできるようにそうしてるんだよ。開けてたからって俺を襲ってくる人もいないし」

「いるじゃないですか。いま。ここに」

 言ったユリアが、仰向けのままの俺に跨がってきた。

 そう重いわけじゃない。これがもし俺の命を狙ってきた暗殺者だったら、ためらうことなく振り払うだろう。でも……

「……別に、命の危険はないし」

 ユリアには俺を害するつもりはないはずだ。そのつもりなら、もっと別の方法がある。そもそも、そうする理由がないだろう。

 と……ユリアの両手が俺の頬に添えられた。

 さらりと垂れてきたのは銀髪。

 何だか甘い香りが鼻をくすぐる……

 そう思った瞬間、ユリアは自分の額を俺の額に合わせてきた。

 触れ合った部分から、相手の体温が伝わってくる。熱を感じる。

「貞操の危機かもしれませんよ?」

 そう言った唇は、もう俺の唇に触れる寸前――

 ――というところで、さすがに、右の掌を差し込んでユリアの行為を中断させた。

「そういうのは断ってるから」

 言うと、ユリアは「えー?」と不満げな声をあげながら上体を起こした。

「自分で言うのもなんですけど、こんな美少女に好かれてるのに、もったいなくないですか?」

 うーん。確かにユリアは自分で言うほどの美少女ではあるし、好意を向けてくれるのは嬉しいし、それを断るのはもったいないなあとは、もちろん思うけど。

「俺は今の自分が普通の人間じゃないことを自覚してるから、あまり深い関係にならないように気を付けてるんだよ。ユリアだけじゃなくて、誰とでもだよ。相手にも悪影響があるかもしれないから」

 実際に影響があるかどうかはわからない。仮に何らかの影響があったとして、その結果どうなるのかも、まるで見当も付かない。

 でも、何もないとは言い切れない状態。

 ちょっと臆病すぎるかもしれないけど……

 俺ひとりのことならいい。でも、誰かが俺のせいで辛い思いをするのは嫌だ。

 ということを伝えたつもりだったけど。

 ユリアは小首を傾げ、妖艶、とも言えそうな笑みを浮かべて、俺を見た。

「それ、私が気にすると思います?」

 ……そう言うのは、ユリアも同じだからか。

 俺が竜気(オーラ)を溜めてしまっているのと同じで、ユリアは冥気(アビス)を溜め込んでいる。

 それによってすでに外見に影響が出ているくらいだから、俺の場合より重い状態と言えるかもしれない。

 そこに俺と触れ合って何かが起きたとして、今さらどうということはない、と思っていても不思議じゃない……。

「……気にして欲しいな」

 俺としてはそう言うしかなかった。理性的な説得がユリアに通じなかった場合は、俺の理性までもが流れに負けてしまう前に、ユリアを無理矢理押しのけないといけなくなるし。

 ……今の段階でまだ押しのけてないことが、俺の理性の弱さの証明なのかもしれないけど……。

「うーん。ま、今日は許してあげます」

 ユリアがそう言ってくれて、俺も助かった。

「やっぱりお互いにそういう気分の時でないとだめですよね。初めてだから、ちょっと焦り過ぎちゃったかも」

 俺の上から降りたユリアはベッドのふちに腰掛けた。少し名残惜しい気持ちはあるけど、忘れよう。そして、今後は就寝前にカギをかけることを検討しておこう……。

 ようやく上半身を起こすと、ユリアは俺を見つめて笑っていた。そして、ずい、と体を乗り出すと、少し上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。

「もし気が変わったら、いつでも言ってください。前にも言ったけど私、リオンさんならいつでもどうぞなので」

 そのユリアの顔に視線を向けると、その先、夜着の胸元が少し開いているのが見えた。差し込む月明かりだけでも、白い肌がちらり――

 俺の視線に気付いているのか、そもそもそういう誘惑だったのか、ユリアは少し笑って襟元に手をやり、そっと広げて、囁く……

「なので次は……リオンさんが私の部屋に――」

「あー! 何してるのユリア!」

 一瞬甘くなりかけた空気を、クレールの声が切り裂いていった。

 俺は慌ててユリアから視線を外したけど、ユリアの方は落ち着いたもので。

「あ、見付かっちゃいました。あはは。それじゃ、部屋に戻りまーす」

 ひらひらと手を振って、軽やかな足取りでベッドから離れ、クレールの横をすり抜けて部屋を出て行った。

 ……嵐は去ったか。

 ほうきを杖みたいに持って、クレールはユリアが出て行った廊下の方を睨んでいる。泥棒でもいたらそのほうきで叩くつもりだったのかな。さすがに、杖と間違えて持ってきたってことは、ないだろう……。

「んもー、女狐めー」

 ユリアが自分の部屋に戻ったのを確認したのか、クレールは部屋の扉を閉めて俺の方へとやってきた。

「まったくもう。ほんとにもう。もうこんなことしないように明日きつく言っておかないと……」

 言いながら、クレールはサイドテーブルにあった水差しを取ってコップを満たすと、ぐいーっと一気に飲み干した。そうして深呼吸をしたところで、ようやく落ち着いたらしい。

「……二人は仲がいいのかと思ってた」

「仲はいいよ? 友達としては気が合うからね。でも、恋敵としてならちょっと話が別なの」

 うーん。わかるような、わからないような。

「僕が早めに異変に気付いてよかったよ。何とか間に合ったね」

 確かに、今回はクレールが来てくれて助かった。正直、ちょっと危なかった。……理性をちゃんと鍛えておかないとなあ。

「寝てるところにこっそり忍び込むなんてふしだらだよね」

 ユリアの行いを、クレールがそう断じた。ただ、俺の記憶が確かなら……

「……それについては、クレールも大して変わらない気がするけど」

「全然違うよ!」

 そうかな? いったいどのあたりで線引きをしてるんだろう。俺にはよくわからない……。



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歪みの民

 ユリアが竜牙館で暮らすにあたって、足りないものがいくつかある。とはいえ、買い置きがないというだけで、村にある店まで行けば買えるものがほとんどだ。

「私、まだこのあたりのことはよくわからないのでー……リオンさん、案内してくれます?」

 昨晩のことがあるから、指名されて少しだけ迷ったけど……まあ、人目がある昼間から妙なことはされないだろう、ということで引き受けた。そのやりとりを見ていたクレールも特に妨害はしなかった。

 そのクレール自身はというと、今日は書庫で調べ物をするそうだ。ルイさんから手紙で頼まれたらしい。古い資料をあたるというから、古王国語が不得意な俺では戦力にならない。少し悔しいけど、まだ子供向けの絵本がせいぜいなのは確かだ……。

 今はともかく、自分の役割を果たそう。

 ユリアを案内して村に向かうと、夏至祭の準備が進んでいた。春祭りほど大きいものじゃないとは聞いてる。新桟橋の完成祝いも兼ねてるから、俺は一応挨拶に出る予定だ。ただ、わけがあって、竜牙館のみんなはほとんど不参加だけど。マリアさんだけは魔女の店の手伝いとして顔は出すらしい。

 そんな様子を眺めながら大通りをしばらく歩くと、ニコルくんの店。大抵のものはここで揃う。そんなに広い店じゃないのに不思議だ。

 この店の周囲には最近、新しい店もできた。この村の発展を見込んで移住してきた人の店だそうだ。

 今まではニコルくんの店で何でも扱っていたけど、専門店ができればその分野の商品はそっちに任せることになるんじゃないか、と親方は言っていた。村の方針としては、その方がいいだろう、ということなんだけど……

 ただ、どこの店に商品を卸すかは、最終的には職人さんの選択次第だとも言っていた。ニコルくんと競争、というのはなかなか大変そうだけど、専門店ならではのサービスで立ち向かって欲しいところだ。

 とはいえ、今日の買い物はニコルくんの店だけで済んだ。新しい店の方はまた後日、ゆっくり来よう。

 それにしても、ニコルくんの店に行くといつも『すぐには要らないけどいつか必要になりそう』くらいのものを余計に買わされてしまうな……。今回はユリアの部屋に置く香炉を俺が買わされてしまった。ユリアが喜んでくれたのは良かったけど。

「すみません。買い物に付き合ってもらった上に、荷物を持ってもらって」

 口ではそう言っているユリアだけど、それをあてにして俺を案内役に指名したんだろうというのは、まあ、わかる。俺もそのくらいは覚悟していたし、ユリアが一人で持つには重いのも確かだ。

 そうして、館への帰り道。

 村と館のちょうど中間あたりに、少し開けた場所がある。

 少し前には雷王都市から来たヴォルフさんたちがここに簡易の検問所を作っていた。普通に館に向かうなら必ず通る、という場所だ。

 

 そこで、襲撃を受けた。

 

「――リオンさんっ!」

 それに俺が気付いた直後、ユリアも悲鳴のような声をあげた。

 宙に浮かんだいくつもの影のかたまりがやがて矢のようになって、俺の心臓を目掛けて飛来した。……と言うと何やらおそろしいものに聞こえるけど、これ自体はなんということはない。暗黒系統の初歩の魔術である〈暗黒(シャドウボルト)〉だ。そうとわかっていて気持ちの準備ができていれば、この程度の術で俺が致命傷を負うことはない。

 ただ、持っている荷物はそこまで丈夫でもないから、これへの直撃を避けるため、影の矢は俺の背中で受け止めることになった。痛みはある。でも、この程度なら足がよろめくほどのこともない。一瞬、暗黒系統の魔術に特有の気持ち悪さはあったけど。

「ユリア、俺の近くに」

 荷物を下ろしながらその指示をして、俺は護身用の短剣を鞘から抜く。魔法も何もない、ただ短剣だ。とはいえ俺が持つ以上、これでも丸太をへし折ることくらいはできる。

 警戒する俺の目の前。

 夏の熱気に揺れる白い視界に、じわり、と黒い影が立ち上がる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……

 合計で、三体まで増えた。その影はやがて人型をなして、俺とユリアを取り囲む。

 三体いるけど、それらの区別はつかない。そもそも人間ですらないんじゃないか。白目もなくただ真っ赤なだけの目が、俺を睨んでいる。

「……誰だ」

 ようやく目と口が認識できる程度ののっぺりとした顔に、俺はそう問いかけた。

『我らは〈歪みの民〉』

 影のひとつが、くぐもった声で答えた。

『憎き〈竜牙の勇者〉よ。その生命、我が主のためもらいうける』

 その言葉を合図に、全ての影が全く同じ動作で、両手に鋭く長いツメを伸ばして、臨戦態勢をとった。

 ……そうか。〈歪みの民〉か。

 邪神〈歪みをもたらすもの〉を信奉する邪教集団だ。その上層部の多くは人間ではなかったと聞いた。

 ユリアはそこで〈歪みの御子〉として育てられた。邪神のしもべとして大陸をさらなる混乱へ導く者として。

 でも、ユリアがその役目を果たすことはなかった。

「邪神はもう滅んだ。いまさら俺と戦って何になるんだ?」

 俺が〈歪みをもたらすもの〉を倒して、この大陸への干渉を断ち切って、〈歪みの民〉たちが望んだ大災厄は実現しないまま終わった。

 だけど、そう言ってやっても、相手が俺に向ける敵意が消えることはなかった。

『もはや今代の活動を終えた〈歪みをもたらすもの〉は関係ない。我らは〈千年女伯(エビルカウンティス)〉モルガーナ様の臣下よ。主の復讐を成就することこそが我らの血であり、肉である』

「……なるほど」

 言い分はわかった。

 こいつらの言う〈千年女伯(エビルカウンティス)〉モルガーナは強大な力のある吸血鬼だった。本性は魔獣でありながら伯爵位を持つという黒貴族で、広大な森を有する領地に〈歪みの民〉の神殿を隠していた。

 そして、ユリアを捕らえていた集団では首領格だった。

 ユリアがいまここにいるのは、もちろん、俺がそのモルガーナを倒したからだ。

 眷属にまだ生き残りがいたとは思わなかった。主であるモルガーナが滅んだ時に、すべて滅んだと思ってた。

「リオンさん……」

 不安げに、ユリアが俺の名前を呼んだ。

「俺から離れないでいれば大丈夫。奴らのツメも牙も、ユリアには触れさせない」

 俺がそう言っても、ユリアの戸惑いは消えない。

「でもっ! 今のリオンさんには短剣しか……っ!」

 そのことか。

「問題ない」

 見たところ、俺にとってはさほど強い相手ではなさそうだ。もし強敵なら、最初の不意打ちですでに〈影降(シャドウストライク)〉程度は撃ってきただろうし。

 ただ、多少の注意は必要だ。俺自身の力で短剣が壊れてしまうことは、あるかもしれないから。

『貴様の肉体をばらばらに引き裂いてモルガーナ様に捧げてくれよう! 冥府で我らが主に許しを請うがいい、竜牙の勇者ッ!』

 三体の影が同時に動いた。魔術が発動する。中級魔術の〈闇剣(ダークセイバー)〉か。黒いもやが集まって剣の形になり、俺に向かって矢のように撃ち出された。

 さすがに全部食らうのは避けたい。

 ふたつは、落とす。

 短剣に、腹の奥から湧き出た闘気(フォース)を流し込む。たちまち、高揚感が体を満たしていく。でも、これに身を委ねちゃいけない……。

 全開で戦えたらどんなに気分がいいだろう、とは、思うけど。

 必要十分な量の闘気(フォース)だけ集めて、飛来する〈闇剣(ダークセイバー)〉を切り払おう。これ以上は短剣の方がもたないって事情もある。ひとつくらいは、左腕を盾に防ぐ。

 まだだ。まだ。もう少し……

 ……ここだ。

 

 ――断ち斬る。

 

 目論見通り、ふたつは俺に当たる前に霧散した。ひとつは、予想を超えない程度のダメージを、俺の左腕に残した。まあ、かすり傷ってやつだ。

『ばか、な……すでに発動した魔術を斬った、だと……!』

 元は封撃(スペルブレイク)、という戦技だ。本来は敵に直接打ち込んで体内の霊気(マナ)の流れを乱してしまう技だけど、弱い魔術なら直接斬れる……ということに気付いたのは最近。もちろん、十分な反応速度は前提だけど。

 飛んできた矢を切り落とすのと大差ないから案外簡単だ……とクレールに言ったら「矢を落とすのって、そんなに簡単じゃないよね?」と反論されたけど。

 俺の想定外だったのは、護身用の短剣が思った以上にもろかったこと。闘気(フォース)を使うのは久しぶりだから、加減を間違えたかな……。

 とは、いえ。

 実のところ、闘気(フォース)を使って戦うなら短剣でも素手でも威力自体は大差ない。何とかなるだろう。

 何にせよ、長引かせる意味はない。

 魔術は効かないと察した敵たちはいよいよそのツメで切りかかってきた。

 ただ、その動きは緩慢。……他の人の感じ方は違うかもしれないけど、クルシスの動きと比べたら、そういう評価になる。

 それをわざわざ食らってやる義理もないから、近付いてきたやつから順番に倒していく。

 見た目は影だけど、短剣を振ればそれなりの手応えはあった。斬ったところから、小さな粒になった影が噴き出す。袋の中に詰まっていた、という感じだった。

 そうして『中身』を失った影たちは、ついに人型をも崩して、泥のようになって地面に落ちた。

『憎い……憎いぞ竜牙の勇者……』

 地に落ちてなお、影はへばりついた地面から俺を見上げて、口を開いた。

『覚えておくがいい。我らは滅びぬ。何度でも蘇り、貴様を狙う。歪みの民は必ずや貴様の生命を我が主へと捧げる……』

 それが最後の言葉だった。影は消えて、周囲にはもはや戦いがあった痕跡もない。

 それにしても、こんなところで襲われるとは思わなかった。

「命を狙われるって、やっぱり気分のいいものじゃないなあ」

 俺もユリアも、見た感じ命に関わる怪我はない。荷物も無事だ。それでもやっぱり、これが続くとなると気が休まらないな。こうして実際に襲われた以上、気を付けないわけにはいかないし。俺はいいとしても、他の誰かに害が及ぶと困る。

「ごめんなさい、私のせいでこんな……」

 荷物を抱えなおす俺に、ユリアが声をかけてきた。

 ……ユリアのせいだとは、俺は思わない。明らかに俺を狙っていたし。

 さかのぼって、俺が恨まれる理由を考えると、奴らの主だったモルガーナを倒したからで……確かに、そうしたのはユリアのためではある。

 でも、だからってユリアを助けなければよかったとは、俺は思わない。

「俺を憎んでた。ユリアが巻き込まれた方だよ。……怪我はない?」

 訊ねると、ユリアは「はい」と頷いた。一安心。

 やつらがもしもユリアや村の人たちを人質にでもしていたら、俺ももっと苦戦しただろう。

 そうならなかったのは、あいつらが卑怯な手段を嫌ったというよりは……

 主であるモルガーナを失って、俺への憎悪しか残らなかったのか。直接危害を加えようという以外の方法を思いつかないくらいに。

 それはそれで、奴らもかわいそうな存在なのかもしれない。それとも、奴らにとってはそれが幸福なんだろうか。

 ……考えてもしょうがないな。



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もう一人の自分

 ため息をついて短剣を鞘に戻そうとしたけど、入らなかった。……刀身が内側から膨らんでる。ぎりぎりのところで破裂はしてないけど、見るからに危なっかしい。

「剣は新調しないとな」

 さすがにあの短時間のたった一度の交戦で壊れてしまうのは、今後を考えると不安だ。とはいえ、あまり強い武器を持って村の人たちを不安にさせるのも望ましくない。

 でも……館の倉庫にはちょうど手頃な魔剣がないと思う。

 邪神を倒した後に仲間たちとそれぞれひとつずつくらい伝承武具(レジェンダリーアーム)を分け合って、残りは悪用されないように霊峰の聖竜に預けてしまった。必要とする人が現れたら渡してくれと頼んだけど、まだ一年は経っていないから、あそこまで行けばどれかは残ってるだろう。でも、少し遠い。

「あの……魔剣は、使わないんですか?」

 ユリアが訊ねてきた。俺が事情を話そうとすると……

「リオンさんの異名の由来になってる、あの魔剣」

 話はそう続いた。

 俺の異名である〈竜牙の勇者〉の由来というと、それはもちろん、魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉だ。

 確かにあれは、館にある。本当に必要になった時にはいつでも使えるように。

 だけど、なあ……

「……あれはだめなんだ。強すぎてさ」

「そうなんですか?」

 確かに名剣ではある。例えばクルシスが持っている魔剣〈極北の魔神〉は銘入りの魔剣の最高峰で〈古王国三剣〉のひとつに数えられる名剣中の名剣だけど、〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉はそれと並べてもまったく遜色ない。

 なぜそんな魔剣が歴史に語られることもなくほぼ朽ちた状態で放置されていたのか、俺にはわからないし、資料を探してくれているステラさんでさえまだよくわからないらしいけど。

 いずれにせよ、少なくとも俺にとっては、あれ以上の剣はない。

 ただ……強すぎるのが問題だ。

 あの剣は俺の手にあれば俺の闘気(フォース)を――あるいは、今にして思えば竜気(オーラ)をも、どんどん要求してくる。そしてちからを注げば注ぐだけ強くなる。それこそ、邪神を倒せるくらいに。

 今の俺には、それが少し怖い。……やりすぎてしまいそうで。

 そうなったら竜気(オーラ)が活性化しないわけがない。俺の体はまた竜に近付いてしまうだろう。どのくらいまで大丈夫か、なんて、自分の体で実験するつもりにはならない。

「確かに、あれなら少し乱暴に扱っても壊れないけどね……」

 それも事実だから悩ましい。命を狙ってくる敵に対して「武器が壊れたからここまでにしよう」と言って通じるはずもないし。拳でなんとかすることになったら、逆に大量の闘気(フォース)を使うことになりかねない。

 ……今後のために、よく考えておかないとな。

「あ、リオンさん。その手……」

 ふと、ユリアが呟いた。

「ちょっと、見せてもらっていいですか?」

「手を? いいけど」

 荷物を持ったままの手。その手の甲を、ユリアは左右とも確認した。

 別に、変なところはないと思うけど……

 と見てみると、そういえば左手の甲には『しるし』があった。

 霊峰の聖竜から〈安定をもたらす者〉と認められた時に、左手の甲に正三角形のしるしをもらった。普段は見えないけど、戦いで闘気(フォース)を使った時なんかは、これが淡く光る。今は、少し光っていた。

 ユリアはそれを見て……

 ため息。

「このしるしは、本物のリオンさんですね。違うとこ、ひとつ見付けました」

 そう言うのは……ユリアが歪みの民の神殿から抜け出して出会った『俺』を思い出しているんだろう。

 その、俺じゃない方の俺は、邪神の残滓だった。

 本人が語ったことによれば、あの邪神〈歪みをもたらすもの〉は、やつが出会った中で最も強いものの姿を真似るという。

 俺が戦った時、それは骨のみを残した体で宙を舞う巨大な竜だった。

 その骨の竜が倒された後、邪神の残滓は『俺』の姿になった。……出会った中で最も強いものの姿に。

「……彼のことは、すまなかったね」

 人間の形をとったからか、あるいは、俺を真似たからか。彼も最初は、俺がするように、困っていた人を助けた。つまり、ユリアを。

 でも〈千年女伯(エビルカウンティス)〉モルガーナによって冥気(アビス)を注がれると、彼は邪神のカケラとして覚醒した。

 そして、俺はそれを倒した。

「あの最期は本人も望んでたから、私が何か言っても仕方ないじゃないですか」

 完全に邪神になってしまう前に倒してくれ、と頼まれた。

 そして、自分の代わりにユリアを手助けしてやってくれ、とも。

 ユリアが好意を向けているのは、さて、どっちの『俺』だろう?

 

 館への帰路を歩きながら、ユリアは彼のことを語った。

 最初に出会った時、襲ってきた魔獣からユリアを守ろうとした彼が、ユリアが護身用に持っていた剣を振るって、そしたらその剣が一撃で壊れた……なんて話はついさっきの俺と同じで、ちょっと笑ってしまう。

「ここで暮らすことになったから、私、リオンさんとあの人で違うところをたくさん見付けようと思ってるんですよ。そしたら、納得できるかなって思うので」

 そう言って、ユリアは俺の左手の甲を見つめている。少し歩く間に、あの正三角形の紋章は消えていた。

「でも、うーん。まだ『似てる』と思うところの方が多くて……困るんですよね、そういうの」

 そう言われてもね。なるべく手助けしたいとは思ってるものの、俺が彼を真似してるわけじゃないから難しい。

「やっと三つくらいは、違うとこ見付けましたけど」

 もう三つも見付けたのか。俺から見てもほとんど鏡を見てるような感じだったのに。

「どのあたりかな」

 訊ねると、ユリアは自分の右手を目の前に差し出した。

「手のしるし。あの人は左手の甲に、骸竜の紋章がありました。歪みの民の神殿でも使われてたものです。それ、今は私の右手に移ってますけど」

 俺の左手のしるしは生まれつきのものじゃなくて、聖竜からもらったものだ。それで再現できなかったのかもしれない。

 そして確かに、ユリアの右手の甲には竜の模様のあざがある。

 彼は『自分』を表すそれで、俺のしるしの代わりにしたのかもしれない。

「それとあの人は、おでこのところに傷があって」

 言って、ユリアは自分の指で額を示してみせた。

 それは……邪神が骸竜の姿だった時、俺がとどめとして魔剣を突き立てたのが、あの巨大な頭蓋骨のまさにそこだった。関係があるんだろうか?

「もうひとつは?」

 続けての質問に、ユリアは少し寂しげな笑顔を返してきた。

「あの人は私にだけ優しくしてくれましたけど、リオンさんは女の子みんなに優しいんですよねー。なので、リオンさんが私に優しくしてくれるとあの人と区別できなくなりそうでちょっと複雑……っていう感じです」

 優しくしすぎてもだめらしい。加減が難しい。

「あの人も、周りに女の子がいっぱいいたら、みんなに優しかったのかなあ」

 ぽつりとそう呟いているのが俺にも聞こえたけど、答えようがない。俺が彼と会ったのは最後の勝負の時だけだったし。

「リオンさんより格好良い男の人が現れたら、きっぱり忘れられるのかもしれないですけどねー」

 冗談めかした言葉に、俺も苦笑する。

 結構いると思うけどね、俺より格好いい男。強さでなら自信があるけど、見た目に関してはそこまで自惚れてはいない。

 ただ、ユリアは長いこと歪みの民の神殿に留められていたから、まだそんなに多くの人と出会ったわけじゃない。俺でも、その中ではましな方、というくらいはあるかも。

「ルイさんは美男子じゃなかったかな」

 共通の知人で、つい先日までユリアを指導してくれていたはずの〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉の名前を挙げると、ユリアは渋い顔をした。

「うーん。先生は確かに見た目はそうなんですけど、何百年も前に亡くなった奥さんを今でも愛してるって聞いたらちょっと……攻略対象な気がしないですね」

 それは、確かにそうかもしれない。

 俺とは敵対したこともある人だけど、何しろ根が真面目な人だ。悪霊にそそのかされていたのもその真面目さが原因とも言えるし。その人が一途な愛を貫いていると聞いても、納得するだけだ。

「それに私、クレールさんからお義母さんとか言われたくないですよ」

 ……なるほど。二人の見た目は同年代だし、そこに抵抗感を持つのもわかる。

 そうすると、俺が紹介できるような美男子は……

 少し前まではクルシスがいたけど、今はいないな。これはつまり『縁がない』ってことなのかもしれない。

「あー、でもきっとダメです、私。誰といても、リオンさんと比べちゃいそう」

 それが俺なのか彼なのかは、この際どっちでもいいか。見た目は大差ない。

「そのうち、俺がもう少し成長したら、少なくとも見た目は変わると思うよ」

 言うと、ユリアは「そうですかね」と応じた。

「少なくとも、背はもう少し伸びて欲しいと思ってるから」

 今は、俺の方がユリアよりも少し低い。

 毎朝の鍛錬は欠かしていないし、食べるのも食べてちからをつけているから、ユリアやレベッカさんには、もう少しで追いつくはずだ。俺以外の男性陣はみんな俺よりずっと背が高くて、そっちにはまだまだ追いつけそうにないけど。

「リオンさんの背が私を追い越したら……その時は、あの人と区別できるようになるかなって気がします」

 彼はもう変わることはなくて、俺はまだ変わっていける。

 それは、ユリアにとってはつらいことでもあるかもしれないけど……

 手助けしてやってくれと頼まれた。その約束を忘れたわけじゃない。



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村はずれの遺跡

 桟橋の工事はもうほぼ終わり、というところまで来たらしい。村の事情に詳しいマリアさんを通じてそう聞いていたから、書類整理を一区切りした後の気晴らしに、村まで降りてきた。

 桟橋は確かに、思っていた以上に立派なものが出来上がっていた。

 雷王都市にいた頃に俺の冒険の仲間でもあるジョアンさんの船に乗せてもらったことがあるけど、あの大きな船だって十分に停泊できる。……というか、まさにそのジョアンさんからあらかじめ『絶対に必要な条件』を受け取っていて、それを満たすように計画したんだから当たり前だけど。

 そんな感じに新桟橋の視察――というのもはばかられる程度の見物をした後、次に向かったのは村の西側にある遺跡。

 最低限の修繕が終わったというこの場所は、石畳の隙間から伸びていた雑草も取り除いてもらって、ずいぶん見晴らしが良くなった。

 今後の使い道についてはまだ決まっていないけど、元は砦だったというから、足下は頑丈だ。まずは自警団の訓練なんかに使うことになるだろう。

 古王国時代の遺跡……というと、俺としては迷宮がつきもののように思ってしまうけど、もちろん、必ずしもそうじゃない。むしろ迷宮じゃない遺跡の方が圧倒的に多い。そりゃそうだよな。建物の全部が迷宮だったら、普段の暮らしに不便すぎる。

 ……でも、一応探してみようかな、迷宮の入口。

「あ、リオンさーん」

 不意に声を掛けられたのはその時。

 視線を向けると、ユリアがいた。普段着……じゃ、ない。大きな荷物こそ持っていないけど、旅や冒険の服装だ。

「こんなところでどうしたの」

 まさかこの前みたいによからぬ集団に追われてるんじゃないかと心配したけど、どうもそういうことじゃないらしい。

「ステラさんに言われてこの遺跡を調べてたんです。大昔はここに何かの社があったみたいだから、散歩がてら探してみてくれって。この土地の歴史を調べる上で重要な手がかりになるそうです。この古地図がヒントらしいんですけど、私が見てもよくわからないですね」

 そう言って、ユリアは古地図とやらを広げて見せてくれたけど、せいぜい海岸線に見覚えがある程度で、他の目印は心当たりがない。……いや、この印は温泉の湯けむりか。その位置関係を探ると、確かにこの遺跡のあたりだろう、とは予想できる。

 そして、探しているのは古い社、か。

「社っていうと……何かを奉っていた?」

「ステラさんは、古い精霊か竜への信仰だろうって言ってましたけど」

 俺の呟きにはすぐに答えが返った。

「……竜への信仰か」

 確かに、都会から離れた田舎の方には今でも残っているという竜や精霊への信仰は、古い時代にはもっと一般的なものだったらしい。比較的新しい時代の信仰を掲げる大教会も、古い信仰を守っている人たちに対してことさらに改宗を勧めたりはしていないそうだ。

「リオンさんは、竜のことは嫌いですか?」

 ユリアがちょっと非難がましくそう言うのは、自分の右手に竜の紋章があるからかもしれない。

 でも、それは普通の竜のしるしじゃない。

「話の通じる竜もいるのは知ってるけど、そうじゃないのと相当戦ったからね……」

 ユリアの持つ紋章は骸竜……邪神〈歪みをもたらすもの〉のしるしだ。あんなのと戦うことになったら、竜を嫌いになっても仕方ないと思う。もっとも、アレの本性は竜じゃないんだろうけど。

 そして、今の俺が竜というものを忌避しがちなのもあの邪神のせいばかりじゃない。

 竜を倒しすぎたせいで俺の身体は強い竜気(オーラ)を帯びていて、このまま戦い続ければいずれ竜になってしまうと言われた、ってことの方が主な理由だ。諦めて竜になってしまえば気が楽になるのかもしれないけど。……それもなんだかな。

「普通の人は竜とそんなに戦わないし、戦えないし、戦っても勝てないと思うんです」

 ユリアのそんな意見ももっともではある。

 俺が竜と戦えていたのは、魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉があったことも大きいな。俺自身も強くなった今となっては必ずしもないと勝てないわけではないけど、あの威力が心強いのは確かだ。

 ただ、あれも俺の闘気(フォース)を、ひいては竜気(オーラ)を活性化している一因だから、最近はあまり触れないように壁に飾っている、という状態だ。

 俺がそんな風に黙考していると、ユリアは話を続けた。

「竜と戦えない人にとっては、竜っていうのは災害と同じで、通り過ぎてくれるのを祈るしかない存在だったわけです。だから、竜への信仰っていうのは、大元は恐怖心とか……畏怖、ですね。それで竜への信仰は大陸のあちこちにあったんですけど、竜の数が減ったせいか今は廃れてしまった所が多くて、社や祭壇は木々に隠されたり、土に埋もれたりしてるんですね。そういうのが、このあたりにもあるんじゃないか、っていうことなんですよ」

「なるほど」

 少し意外な気がしたのは、ユリアが歴史や考古に詳しいところだ。俺よりよほど学がある。それをちゃんと学んだとすれば、あの〈歪みの民〉のところにいた頃か。話題にしていいのかな……

 なんて思っていると。

「って、ステラさんが言ってました」

 ……なんだ。さっき聞いたばかり、ということだ。知識の出所がステラさんってことなら、別に驚くこともない。

「ステラさんは何でも知ってるな」

 俺が呟くとユリアも笑って頷いた。

「少し観察してましたけど、本を読む速度が私と全然違ってて……古王国語の本もすらすら読んでて、すごいなあって。それで、自分は本を読んでるから、現地での調査は私たちに任せるって」

 元々館にあった本に加えて、教会に残されていたものも目録を作ると言っていたから、本を読んでいるのはその作業なんだろうけど……結局、書庫の片付けはあんまり進んでいないみたいだな。

 それにしても……

「私たちって? 他にも誰か来てる?」

 ユリアの言ったことが気になって訊ねてみる。

「あ、ナタリーさんも来てるんですよ。このあたりを調べてくれてるはずですけど……はぐれてしまって」

 もしかして俺が数に入ってるのかと思ったけど、そういうわけではなかった。

 ナタリーなら確かに、探索にはこれ以上ない人材だ。ステラさんもそれがわかってて、ユリアの案内につけたんだろうけど。

 これ、どっちがはぐれたんだろう。ユリアは自分がはぐれたと思っているみたいだけど、ナタリーも行動が自由な方だからな……。

「まあ、お腹が空いたら館に戻ってくると思うよ」

 この土地に来たばかりのユリアと違って、ナタリーはもうこのあたりで迷うはずがないし、何かトラブルがあってもかなりの部分まで一人で解決できるから、その程度の話になる。

「ナタリーさんはそれでいいですけど、私は一人じゃ心細いです。なので、リオンさんがエスコートしてくださいね?」

 仕方ないな。一人で放っておけないのは事実だし。

 そうしてユリアに付き添うことにしたけど……

「あっ、ユリアー! こっちですよ! こっちー!」

 ほどなくナタリーの方から声を掛けてきてくれたので、俺は一度引き受けた案内役をあっさり引退することになった。

 ただ、真の案内役であるナタリーが、俺の顔を見た途端に、

「ああっ! リオン、来てたですか!」

 と言って……物陰に隠れてしまった。何でだ?

 本気で隠れているわけではなくて、単にちょっと顔を合わせたくない、という程度の隠れ方だけど、……何かあったかな。

「どうしたんです?」

 ナタリーが隠れている石壁の残骸のあたりにユリアが声を掛けると、その残骸の向こう側から声が返った。

「いえーそのー……リオンって男性ですよね?」

「そうだけど」

 不思議なことを言うな……と思いつつも、俺は頷いて返した。

 でも、そういえば、以前にナタリーは俺のことを「男というか、リオンという生き物」なんて言っていたな。ナタリーの認識が変わるようなことが何かあったかな、と思い返すけど、記憶にない。

 そう思っていると、ナタリーが続けた。

「男性の前では身だしなみをきちんとしなくちゃいけないって、マリアさんが……」

 ああ、マリアさんか。

「指導を受けているんだったね、マリアさんから」

 少し前に……そう、ミリアちゃんの学費の心配がほぼなくなったからだ。大学への進学がいっそう現実的になったから、外に出て恥ずかしくない程度に礼儀作法を学ばせたい、ということになった。

 ナタリーはそれに巻き込まれたというか……自分から「特級面白そうです! あたしもやるです!」と言って突っ込んでいったんだ。

 その件を言うと、ナタリーは頭を抱えた。

「指導が特級厳しいのです! 一緒に始めたミリアちゃんはもう脱落したですよ!」

 脱落したのか。厳しすぎて。それは、なかなか大変だな。

「マリアさんはミリアちゃんには甘いと思ってたけど……」

 さすがに礼儀作法については甘やかせないのか、と思いきや。

「あたしは脱落を許されなかったのです!」

「……そうなのか」

 ミリアちゃんは降参したら逃がしてもらえたけど、ナタリーはそうもいかなかった、と。

 やっぱりミリアちゃんに甘いってことになるのかな、これは。

「それで、何を見付けたんです?」

 ユリアが声を掛けると、壊れている石壁の上のところに、ナタリーの顔がひょこっと現れた。

「そうでした! 古い社です!」

「案内してくれます?」

「もちろんですよ! あっちです! 行くですよ!」

 姿を現したナタリーは、見慣れないロングスカート姿。……それで恥ずかしがっていたのか。

 でも動きはいつもと変わらない。瓦礫が放置されたままで足場の悪い場所でもすいすいと進んでいく。俺とユリアはそれをなんとか追いかけている、という具合だ。

 淑女の礼儀作法はまだ身に付いていないかもしれないけど、これはこれで、ナタリーの魅力だと思うな。



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石碑と紋章

 遺跡の端の方に、その社はあった。

 あまり大きいものではないけど、周囲に散らばっているのと同様の石材が、明らかに何らかの意図によって尖塔状に組まれている。高さは、俺の背より少し高いくらい。

「確かに、探していた社みたいだね」

 というのも、それらしいしるしが古地図にも描かれているから。

 軽く叩いてみると、どうも中には空洞がありそうだ。何かが入っているかもしれないけど、それを確かめようとするとこれを壊すことになってしまうのかな。

 詳しい調査はステラさんと話し合ってからになりそうだ。

「こっちには碑文もあります! 読んでみます! えーっと……古王国語だから読めないです」

 古い時代のものには古王国語がつきものだ。ナタリーの古王国語の理解は俺より少しマシという程度で、難しい文章を辞書なしですらすら読めるというほどはない。

「書き写しておいたら、ステラさんが読んでくれるよ」

「いい考えです!」

 自分で読むことができない文字でも、そういう絵として書き写すなら、ナタリーの得意分野だ。鞄から筆記用具を取り出して、ナタリーはその石碑に向き合った。俺もその作業を後ろから眺める。

「――っ!」

 息を呑んだのは、俺だったか、それともユリアだったか。ふたりともかもしれない。

「……この紋章、覚えがあります」

 ユリアがそう言って、俺たちが同じものを見たことが確信できた。

 石碑の一番上に刻まれていたのは、見覚えのある紋章。

「きっとこれは……〈歪みをもたらすもの〉の……」

 呟いたユリアが自分の右手をかざすと、その手の甲に同じしるしがある。

 空を舞う骸竜の姿を模した紋章だ。

「祈りが通じる相手なのかな、あれは」

 俺が見た限りでは、何らかの意志はありそうだった。あれを信奉する集団もいる。ただ、それでも、あれが人間の願いを聞き届けるだろうか、と考えると……

「どうでしょうね……」

 一時はその邪教集団にいたユリアですら懐疑的。

 まあ、世界の滅びを願ったら力を尽くしてくれるかもしれないけど……

 それはあくまで邪神側の都合であって、人間の願いを聞いたからじゃないな。

 この碑文は、あれにいったい何を祈っているんだろう?

「書き写したです!」

 ナタリーがそう言ったので、写した紙を見せてもらった。あの紋章も寸分違わぬという精密さで写し取られている。

 やっぱりナタリーはこういうのが上手いな。写本を作る仕事でもやったら一生食べるのに困らないと思う。

 

       *

 

 三人で館に戻って、その足で地下の書庫へ向かった。ステラさんはそこで一心不乱に本を読み進めている。特に急ぎの用事のない、余暇の時間はそうして過ごしているらしい。この書庫の整理もステラさんが引き受けた仕事の内だから、完全に余暇なのかというと違う気もするけど、楽しんでいる様子なのは確かだ。

 ナタリーが碑文を写し取った紙を、ステラさんは本を読むために使っていた手元のランタンで照らすと、その内容を確認した。

 おそらくあの邪神に関する内容だろうという推測を伝えると、ステラさんは頷いた。

「確かに〈歪みをもたらすもの〉の記述。過去の災害を引き起こした骸竜が鎮まるようにと建設された社だとのこと。尖塔は竜の牙を模したものであるらしい」

 なるほど。この土地の過去にはそういう歴史があったのか。

 そうすると、村の名前が寒寂の村から竜牙の村に変わったのも、歴史的にまったく由来のないことではないわけだ。

 ただ、その相手がな……。

「そういう祈りや願いが効果あると思いますか? あいつに」

「まったく思わない」

 ステラさんは即答。

「ですよね……」

 そう言うだろうとは思ってた。「そういうのやめてほしい」「はい、わかりました」で済む相手なら俺もあんな苦労はしなかったし。

「しかし、戦う力のない者たちが、できる範囲で行った対応策。彼ら自身にとって効果がなかったとは思わない。つらい時には何かすがる物が必要」

 ステラさんの指摘も、確かにそうだ。

 俺は戦う力を得たから『邪神と戦う』って選択肢があったけど、故郷が剣鬼に襲われたときの力のない俺は隠れていることしかできなかった。

 あの時は、雷王都市にいるはずの叔父さんを頼ることができたし、そして何より、剣鬼への復讐の心があったから、自ら死を選ぶことはしなかったけど。

 叶わないかもしれなくても何らかの祈りを抱いている方が、絶望するよりは、いいのかもしれない。

「時代は、どうですか」

 あの邪神について書かれているなら、いつだかの大災厄の時だろうとは思う。ただ、俺も災厄の歴史については詳しいわけじゃない。かろうじて、およそ二百五十年くらいごとに起きているらしい、ということくらいは知っているけど。

 ステラさんは改めて書き写された碑文を読んで……

「天の火が降ったとの記述がある。およそ千年前のものと推測される。古王国が崩壊した時期と重なる。邪神の引き起こした大災厄によって、相当の被害が出た。替わって新王国が台頭した」

 そう解説してくれた。

「千年前……想像できないな」

 古王国は魔法の国で、竜をも従えて央州全土を支配した大国だった。今も残る伝承武具(レジェンダリーアーム)の多くがその時代に作られたそうだ。

 それほどの国ですら、あの邪神に滅ぼされてしまったのか。それとも、すでに対抗する力がなかったという点で、実質的には災厄の前に滅んでいたのか。

「時代の過渡期なので資料が少ない」

「そうなんですか」

 答えを持っているかもしれなかったステラさんでさえそう言うんだから、俺が想像を巡らせたところで真実にたどり着くとは思えない。

「今回の発見は、この土地の歴史を調べる重要な手がかりになる。後で私も足を運んで確認する」

 どのくらいのことが明らかになるかは、まだわからないけど。

 この一見何もないというような田舎村にでも、人がいる以上は、何らかの歴史がある……と。まあ、そんな話。



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ジョアン

 この村も夏至を迎えた。暑い日が続いてるのも当たり前か。

 村で行われた夏至祭は、春祭りの時よりはずっとささやかだったけど、それでも多くの人たちが夜遅くまで盛り上がっていたらしい。

 新桟橋の完成祝いも兼ねているから、俺も行って挨拶した。作業のためにこの村に滞在していた人たちは、これで故郷へ、あるいは次の仕事場へ旅立っていくことになる。縁があればまた次の工事の時にも来てくれるかもしれないな。

 でまあ、そのあたりは今回の祭りの一部ではあるけど、本題じゃない。

 親方から事前に聞いていた話によると、一番は『男女の縁結び』らしい。

 それで俺としては、用意されていた食事をその場でいただいたくらいで館に戻った。退出する時に「あとはどうぞ若い人たちで楽しんでください」なんて言ったら「リオンさんも若いだろ!」と指摘を受けてしまった。確かにそうだけどね……。でも俺は誰かから誘いを受けても断るから、そのままいても邪魔になってしまう。

 そのあたりの理由で、館のみんなもほとんど参加していない。マリアさんだけは魔女の店の手伝いで来ているけど、あくまで手伝いだけ、という条件で親方からも了承されてるそうだ。

 今回は親方も無理には勧めてこなかった。というのも「館の子がいるとなー、その気がなくても誘わないと失礼かも、ってなっちゃうだろ? それにクレールちゃんが本気でめかし込んだら村娘集団が束になっても勝てるわけがない」ということらしい。親方はなぜだかクレールのことをとても気に入ってる。

 ともかくそういうわけだから、せっかくのお祭りだけど、クレールたちの『スターリー・シュガー・シスターズ』も今回はお休みなんだそうだ。

 で、その帰り際、親方からちょっと迷惑な『お土産』を持たされた。

「帰るならこれ預かっといてくれよ。あたしはまだ抜けられないから」

 これ、というのは、酔い潰れたネスケさん。ほんと、この人は自分の酒量を知らないな。どこに寝かせるかはみんなと相談して、ペトラが使っている使用人部屋に決まった。あそこならもともと寝台が四つあって、三つは空いてる。

 ペトラからは「変態領主は犬猫じゃなく女を拾ってくる……」とか言われたけど。人聞きの悪い言い方はやめていただきたい。

 

       *

 

 朝食を終えてネスケさんを見送った後、執務室で古王国語の勉強をしていると、ひどく慌てた様子のペトラが、ドアを蹴破るようにして入ってきた。

「おい変態! 沖に海賊がいるぞ! どうするんだ!」

 そう報告されて、屋上の見張り台から確認してみると……

 確かに、いる。

 大型の船だ。このあたりを航行する他の船と比べて、一回りは大きい。三本の帆柱(マスト)を備えていて、そこに張られるべき帆は畳まれてるな。何らかの意図があってあそこに停泊しているのは間違いない。

 ペトラが海賊だと言った理由は、よくわからないな。砲窓は閉じてるし、船員たちも武装はしてない。

 ……旗かな? 白地に、サーベルを持った目つきの悪い赤い魚が描かれている。いや、魚じゃないな。何と言ってたかな……聞いた気がするんだけど。

 ともかく、見覚えがある旗だ。慌てることはない。

「あれはジョアンさんの船だ。俺の仲間だよ」

 そう言うと、ペトラは「なーんだ。変態仲間か」と安堵の息をついた。

 ……変態仲間って。むしろ安心できない単語のような気がするけど。

 

 ジョアンさんは冒険商人で、船乗りだ。海賊かもしれないと思っていたこともあったけど、本人は否定していた。厳密には違う、とかなんとか。

 歳は俺の倍はない、と強調して言っていたから、二十代後半だけど三十代ではない、というところかな。アゼルさんや親方と同年代というあたりだろう。アゼルさんと比べると、日差しや潮風をよく浴びるからかな、野性味というか円熟味というか、そういうのを感じる風貌だ。

 俺が孤島の探索をした時に、その島まで船を出してくれたのがジョアンさんだった。当時の俺にしては高額な料金を支払ったけどね……。そのおかげか、孤島の探索が終わっても「面白そうだから」と何かと協力してくれた。

 特にユウリィさんとの値段交渉は激しかったな。同じ商人同士、負けられない気持ちがあったんだと思う。

 戦いでは細剣(レイピア)を使った戦技を得意としていて、すごい時には急所を一突きしただけで魔獣を倒してしまうこともあった。俺もいつだかサーベルタイガーを倒した時にはジョアンさんの真似をしてみたけど、結局、力任せで倒すことになってしまった。あの稲妻のような剣技を真似するのはなかなか難しい。

 邪神との戦いの後は、報奨金やみんなからの出資金を元手に大きな商いをやると言っていた。出資金は三倍にして返すぜ、なんて言ってたけど、正直なところあんまり期待はしてない。

 

 俺が村の方まで降りていくと、村の人たちも浜に集まっている。銛や投網で武装しているのは、あれが海賊だった時のためか。親方もいて、陣形を整えるよう指示を出していた。なかなか、さまになってる。

 たぶん俺の仲間のジョアンさんだ、と説明したらみんな納得していたけど、ちゃんと確認できるまでは、いざという時のための訓練と思って対応することになった。

 そこに小舟が上がってきた。乗っていたのはほんの四人くらい。

 そのうちのひとり……ゆるく波打つ灰色髪の男性が、俺の顔を見て手を振った。

「リオン! 久しぶりだな」

 ジョアンさんで、間違いない。一瞬、印象が以前と違って見えたのは、日焼けのせいだ。

「だいぶ焼けましたね」

「ははは。船に乗ってたらこんなもんさ。お前との冒険も楽しかったが、やっぱり迷宮よりは船の方が気持ちがいいぜ」

 そういうわけで、警備訓練は解散になった。

「ありがとうございました、親方」

 去り際の背中にそう声を掛けると、親方は片手だけ挙げてそれに応えた。

 臨時の場合は領主である俺の代理として指揮をとってもらうことになってるけど、そこの力量に関しては、俺より親方の方が上だと思うんだよな。俺はせいぜい自分を含めた四、五人くらいの小規模集団での活動が主だったし、それも指揮をするとかじゃなくて真っ先に突っ込んでいく役目だった。

 ひとそれぞれに才能は違うとはいえ、領主になったからにはもう少し指揮能力も欲しいところではあるな……。

 そこへ行くと、ジョアンさんはそのあたりの感覚は持ってる。あの大きな船を動かすにはチームワークが欠かせない。それをちゃんと指揮できてる人だ。

「やっぱりあの船、ジョアンさんのだったんですね」

 旗を見ただけでそうだとはわかっていたけど、途中で海賊に乗っ取られた、なんてこともないとは言えなかった。杞憂だったけど。

「他の船とは見るからに違うだろ? あんなに優美な船は他にないぜ」

「はは……」

 船の優美さというのは、俺もそれなりには感じる。なんというか、道具や建築が機能性を追求していくとその姿も綺麗になる、っていうあの感じ。ただ、他の船と比べてどうかというところまではまだ理解が及ばないな……。

「名前は〈赤鯱〉ってんだ。今の流行からするとちと古い型の船だが、長く使ってるから愛着はあるな。それに、左右合計五十門の大砲は今でも現役。この船の旗を見たら海賊も逃げ出すくらいさ」

 そうだ、魚じゃなくてシャチだ。内陸生まれの俺はまだ見たことがないけど、なんでも船より大きいくらいの巨体で、海の王者と呼ばれている生き物らしい。その強さにあやかろうと、名前を使ったんだろう。

「それで、新しい設備ができてるならそっちに入れようと思うんだが……」

 ジョアンさんが周囲を見回した。その目にも、新しい桟橋が見えたはずだ。

「ちょうど出来上がったところで、まだ正式に使った船はないので、一番乗りですよ。事前に言われたとおり以上の水深は確保できてると思います。工事の人以外に、親方や村の漁師さんにも見てもらいましたけど、干潮時でも問題ないって」

 そういう説明は受けてる。

 これが想定ほど深くなかった場合、ジョアンさんの船が入ってくると船底をガツンとぶつけてしまう。すると悪い場合はそこで沈没することになる。

「そこは念のためうちのやつにも確認させる。使い慣れてる港ならいいが、一番乗りとなるとな……」

 ジョアンさんがそう言うのも当然。港内で船が沈んだらこっちも困るけど、一番困るのはやっぱり船の持ち主だろう。

「で、大丈夫そうなら使っていいんだな? あの桟橋」

「そのために整備したんですから、もちろん」

 そもそもジョアンさんが言い出したことだ。俺がここに移ってすぐの頃、当面必要な資材を届けてくれた時に、沖に停泊して小舟で行き来するのは面倒くさいからこの船が入れる港を造ってくれ、って。

 それから半年くらいかけて、木造の桟橋ができた。これが使えるうちに石造りのものも造る計画だけど、港があっても船が来ないんじゃ意味がない。まずはジョアンさんの船だけでも有効活用して欲しいところだ。

「桟橋の使用料についてはひとまず親方に……」

 俺がそう言うと、ジョアンさんが眉をひそめた。

「おいおい。金を取るのか?」

 その口調は不満げで、その気持ちは俺にもわかるけど。

「俺は無料でもいいと思ってたんですが、そうすると近くの港町から苦情が出かねないって。工事と今後の維持にお金がかかるのも事実ですし」

 事情があるのはわかってもらいたい。酒場での貸し借り程度の話じゃないし。

「そこをなんとか。なあ、俺とお前の仲だろ?」

 ジョアンさんが食い下がる。実際、俺もずいぶん助けてもらったし、今後もあの大きな船での貿易にこの港を使ってくれるなら助かる。

 少し考えるそぶりの後で……

「わかりました。ジョアンさんにはお世話になっていますし、まずは冬至までの半年の間、半額で使えるように伝えておきます。そのかわり、実際使ってみての感想や改善点の報告と、あと、他の船への宣伝もしてください」

「おお、それで済むなら安いもんだぜ」

 ジョアンさんも納得してくれた。

 実のところ、ジョアンさんがそう言い出すのは予想してたから、最初から織り込み済み。割引にした分は館の財布から肩代わりすることで話は通っている。クレールとステラさんも了承済み。

「大きい船も使える桟橋ができたよって宣伝はどうせやらないといけないしね。ジョアンさんにやってもらえばいいよ」

 とはクレールの意見。そのくらいは割引の恩を着せなくてもやってくれたと思うけどね。



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取引

 そんなやりとりをしていると、ジョアンさんの部下のひとりがこっちへやってきた。

「ああ、ちょうどいいところに来たな、クリストバル。あの桟橋に〈赤鯱〉を泊められるかちょっと見てこい。人選は任せる。水深もよく確認しろよ」

 ジョアンさんの指示を受けて「へい」と頷いたこの男――クリストバルさん。浅黒い肌で筋骨隆々、大柄で、右目には眼帯をしていて、残る左目も目つき鋭く、気の弱い人なら前に立たれただけでも腰を抜かしそうな、怖い顔の人だ。

 俺の前に立つと、俺より頭二つ分くらいは大きい。ヴォルフさんと同じくらいかな。眼帯をしてるのも、ひげをはやしているのも似ている。眼帯は、ヴォルフさんとは逆の目だけど。

 その大男が……

「お久しぶりです、リオンの旦那」

 にっこりと笑顔でそう挨拶した。

「お久しぶりです、クリストバルさん」

 この人はジョアンさんの昔からの部下で、今もジョアンさんの副官をしている。顔は怖いけど、曲がったことが嫌いな、優しくて勇敢な人だ。なんでも、ジョアンさんが仇敵に捕らわれた時には敵の船に単身乗り込んでまで救出したそうで、ジョアンさんも全幅の信頼を置いている。

 ジョアンさんが俺を手伝ってくれるようになってからは、俺のこともジョアンさんの友人として丁重に扱ってくれている。

「おかしらは船の上でも旦那のことをずっと気にしていましたぜ」

 クリストバルさんが笑顔でそう話してくれた。

「今回の取引だって雷王都市で済ますこともできたんですがね。せっかくだからってこの村に寄港を……」

「おい、クリストバル。そういうことはいちいち言わなくていいんだよ」

 少し照れくさそうに頭を掻きながら、ジョアンさんがクリストバルさんの言葉を遮った。

「あと、おかしらはやめろって何度言えば覚える?」

「へい、すみませんおかしら……じゃなかった、提督!」

 ジョアンさんは部下に自分のことを『提督』と呼ばせようとしているけど、副官がこうだから、これがなかなか徹底されないらしい。

 指摘を受けたクリストバルさんは、その場では言い直すけど、結局すぐに『おかしら』に戻っている。あの有能なクリストバルさんの物覚えが悪いはずはないから、たぶん、わざとやっているんだろう。

 まあ、今は船が一隻しかないから、艦隊の長の称号である提督を自称するのは早いんじゃないかという気はする。ジョアンさんに言わせると「昔は五隻を率いてたから、今はたまたま一隻でも提督は提督」ということらしいけど。

 クリストバルさんたちが船を桟橋に入れる間、俺とジョアンさんは工事の後も置きっ放しになっていた木材に腰掛ける。

「今回はゆっくり滞在できるんですか?」

 訊ねると、ジョアンさんは「そうもいかない」と、首を振った。

「予定では二、三日だ。俺も忙しくてな。ここでの用事が済んだらすぐ出港だ」

「それは残念です。でも、用事って? こんな田舎に?」

 そういえばさっきクリストバルさんが、何かの取引のためにここに来た風に言っていたような。そのことなんだろうか。

 ジョアンさんは「ああ、まあな」と頷く。

 そして、にやりと笑った。

「ここにはな、身代金を受け取りに来たんだ」

「えぇ?」

 

       *

 

 身代金……なんて言われて、まさかジョアンさんは悪事に手を染めてしまったのか、と一瞬疑ったけど。

「樽にしがみついて漂流してたのを偶然見付けて拾ったんだ。で、そいつの雇い主に連絡して、謝礼金をいただくことに決まった」

 悪事どころか、人助けだった。そのまま漂流してたら死んでいたかもしれないし、謝礼金……よほど法外な額でなければ、要求しても構わないだろう。

「身代金っていうから、誘拐でもしたのかと」

「ま、人質とは言えなくもないな。雷王都市では賞金首だから、身代金が払われないなら警備兵に突き出すところさ。俺は金がどっちから出ても構わねえしよ」

 ……なるほど。それは、雇い主という人も見捨てるわけにはいかないし、人質に身代金というのも間違いじゃない。

「賞金首って。危険な人なんですか」

 海にいる危険人物というと、やっぱり一番に思い浮かぶのは海賊だ。荷物を運んでいる船を襲って積荷や船自体を横取りしてしまう海の盗賊。それで悪名が知られるほどになれば、当然、賞金首になるだろう。

 ジョアンさんは「まあな」と頷いた。

「南西にある『嘆涯の海都』に所属する私掠船の乗員なんだ。私掠船って知ってるか? 所属する都市の領主から敵都市の船を攻撃する免状をもらってる船だ。それで他の都市の航路と積荷を横取りするのさ。海の利権を巡っての、緩い戦争状態ってとこだな」

「それって、海賊じゃないんですか」

「共通のルールもあって、厳密には海賊とは少し違う。海の傭兵だな。今は、所属都市からもらった私掠船旗を船首に掲揚するとか、降伏する船の乗員は殺さないとか、そんな感じの取り決めがある。一応な。襲われる側からすりゃ海賊と似たようなもんだろうが、非道の度合いで言えば海賊よりはいくらかマシだ」

 うーん。何となくわかった……気がする。私掠船ってのは要するに、海賊だな。うん。

「もしかして、ジョアンさんも?」

 妙に事情に詳しいし、眼帯をした大男から『おかしら』なんて呼ばれてる人だ。俺がそう疑っても仕方ないだろう。

 ジョアンさん自身も、苦笑しつつ頷いた。

「まあ、じじいが生きてた頃はな。ただ、いろいろ思うところがあって、独立してからはまっとうな商売だけにしてる。武装はしてるがあくまで自衛のためだ。海にも魔獣はいるし、もちろん海賊もいるからな」

 足を洗った、というやつかな……。まあ、俺の倍近くも生きてればそういうことのひとつやふたつ、あるのかもしれない。

「それで、どうしてこの村に?」

「他の都市の私掠船に『雷王都市まで来い』と言ってのこのこ来るはずないだろ? かといって陸路で取引するのも面倒くさい。その点、ここはどっちの都市にも所属してないから、取引にちょうどよかったんだ」

「なるほど」

 でもその、嘆涯の海都というのがどこにあるのか俺はよく知らないし、つい先日はここに雷王都市の王女がおしのびで来ていたし、気持ちの上では雷王都市に近いと思ってるけど。

「それにこんな機会でもなけりゃ、俺もなかなかここに寄る時間が取れなくてよ」

 ジョアンさんが後から付け足したその言葉の方が、本心に近いのかもしれない。

 

       *

 

 ジョアンさんの船は無事に入港できた。乗組員は三十人弱ってところ。最低限の見張りは交代制だそうで、休憩時間の船乗りたちの多くは酒場へ向かっていった。

 俺は船の中に案内された。前に乗せてもらった時とほとんど変わっていない。

 船乗りの生活は不衛生だって話はよく聞くけど、ジョアンさんは内海である調和の海をその活動の中心にしていて、いつもさほど長期間の航海はしないそうで、その分、船内は清潔さを保ってる。

「この村には、何か外に売れるくらい量がある品はあるか?」

 世間話に訊ねられて思い返すも、そこはやっぱり小さな漁村。

「特産品というと、牡蠣と魚ですね。ユウリィさんは生ものを扱いたがらないので、まだ輸出というほどの規模は整えてないですけど」

 ユウリィさんは陸路で旅をする商人で、そのわりに移動距離が長いから、そうなってしまうんだとか。魚なんかはせいぜいここから隣町まで運ぶくらいだ。

 村の人たちは他の町まで自分で売りに行く余裕がまだなくて、だからそもそも、自分たちが食べて余らない程度にしか獲ってない。余所に売るとなれば、漁獲量自体はいくらか拡大可能のはずだ。

「ふーむ。そいつは味を確かめてみなくちゃならないな」

 そんな話をしているうちに、船倉の一角にたどり着いた。

 そこにはすでにクリストバルさんが待っていて、俺たちの姿を認めると扉についた錠前を外した。

 中は暗く、狭かった。壁に据え付けられているのはベンチとベッドを兼ねたもの。揺れる船内でこれはさぞ寝苦しいだろう。他には調度と呼べるほどのものは何もなく、明かりですら廊下から差し込んでくるものに頼るのみ。この船では牢として使われてる部屋だと推測できた。

 その牢に、ひとりの男がいた。



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ジョアンの提言

「……その人が?」

 俺の言葉に、クリストバルさんが頷いた。

「おい、領主様に挨拶しろ」

 声を掛けられたのは牢に入れられていた髭の男。この髭が、鼻の下、口周り、顎の下からもみあげまでひとつながりになっていて、顔の印象の半分は髭だ。髭に覆われていない部分には、異郷風の顔立ちを見てとることができる。

 他に特徴的なのは、頭に巻いたターバン。この布巻きものは調和の海の南岸や東岸でよく使われているものだそうで、央州ではあまり使われていない。着用している人を見かけたらほとんどの場合、商人か船乗りということになる。

「はいはい。あっしの名前はラムーっス。どうぞよろしく」

 捕らわれているにしては気さくな調子で、その髭ターバンの男がニカッと笑った。暗い中できらりと輝いた歯だけが異様に白い。

「よろしく、ラムーッスさん」

「あ、いえいえ。ラムー、っス。イザル・ヘイラー提督第一の腹心ラムー、と覚えてください!」

 うーん? ……そうか、ちょっと訛りがあるのか。聞き取りにくいというほどではないけど。

「イザル・ヘイラー提督は嘆涯の海都に所属する〈無敵提督(コンキスタドール)〉の一人で、艦隊戦、白兵戦、いずれも達人級との噂ですぜ。話を聞くだけで見たことはありやせんがね」

 クリストバルさんが解説してくれた。

 そんな人がいるのか、と思っていると、ジョアンさんがため息。

「あそこの〈無敵提督(コンキスタドール)〉連中はヤバいのが多いから、本当ならあんまり関わりたくないんだがな」

 ジョアンさんがそう言うくらいだから、相当なんだろう。悪人は魔獣より怖い、なんて言葉は最近読んだ古王国語の本にも書いてあった。前の領主の圧政もそのたぐいだし、悪逆非道な海賊もそうだろう。

 ただ、ラムーさんには異論があるようで。

「あっしらは善良な私掠船なんで、他の都市に所属してる私掠船以外は狙いませんよ!」

「善良、ねえ」

 ジョアンさんはうろんげな顔。ラムーさんの言葉を信じていないのは明らかだ。

 どうにか信じさせようとしたのか、弁明を続けるラムーさんだけど……

「そりゃあ、間違って自分とこの軍艦に大砲ぶっ放して沈めちまったこともありますがね。たまにですよ! たまーに!」

 ……たまに、そんなことがあるのか。

「そういう奴らなんだよ。イカレてやがるぜ」

 ジョアンさんは我が意を得たりといった様子で、肩をすくめた。

 

       *

 

 ラムーさん自身は今のところ善良な人質ではあるそうで、粗食にも耐え、狭い牢にも文句はなく、ともかく命が助かったことを感謝している様子だという。

 とはいえクリストバルさんは、そこを素直には受け取っていない。

「ありゃあ、元の船ではあまりいい扱いをされてなかったようですな。第一の腹心ってえのも本人が言ってるだけですし、本当かどうか」

 とは言うものの、それにしては救助費用については気前よく満額回答だったということで、その不均衡が気にはなるものの……

「よっぽど儲かってんのかね、嘆涯の海都は。あやかりたいもんだな」

 ジョアンさんはそう言って頭を掻いただけだった。

 

 留守を副官のクリストバルさんに任せて、ジョアンさんは船を下りた。

「前に来た時はまだ荒れ果てた感じがあったもんだが、だいぶ明るくなったな」

 桟橋で伸びをしながらそう言って、大きくあくび。

「ちょうど昨日の夜に夏至祭をやったんですよ。そのせいじゃないかな」

「なに、祭りだったのか。そうと知ってりゃ、昨日来たのによ。早く言っといてくれよそういうことは」

「無茶を言うなあ……」

 こっちから連絡を取ろうにも、ジョアンさんがその時どこにいるのか、確実なことはわからないし。どこに手紙を送ればいいのかも、いまいちよくわからない。雷王都市の港で預かってくれるんだろうか。だとしてもいつ読まれるのかは運次第ってところだ。

「ははは。まあ、なかなかいい感じになって来たんじゃないか?」

 ジョアンさんはたまにしか来ないから、それで変化が目に付くのかもしれない。

 何にせよ、いい方に変わってるなら、喜ばしい。俺も少しはその手伝いができてるはずだし。

「よーし。それじゃ俺も酒場でちょいと遊んでくるかな」

「案内しますよ。ジョアンさんたちのことをマスターにも話しておきたいし」

 酒場は館へ帰る道にあるから、どうせ途中までは一緒だ。

 俺と並ぶと、ジョアンさんはなんというか、颯爽としている。背が高いのもそうだけど、何より服装がしゃれているからかな。そういうところは見習いたいと思ってるし、館のみんなの手も借りてはいるけど、どうも田舎者くささが抜けないんだよなあ。

「ここに滞在する間は、竜牙館に泊まるんですか?」

 二、三日くらいならクルシスが使ってた客室を使ってもらえばいいと思ったけど、ジョアンさんは「いや」と頭を振った。

「俺だけならそれでいいんだが、船や部下も放っておけないしな。夜は船に戻るつもりだ」

 なるほど。ジョアンさんは船とその船員を大事にしている。いつかは「同じ船に乗る船乗りは家族みたいなもんだ」とまで言っていた。寝食を共にする仲間だからって。となれば、船長とはいえ、ひとりだけ特別扱いを受けるのは気が乗らないのかもしれない。

「じゃあ、夕食だけでもどうですか」

「おお。そいつはいただくとするかな。お前も領主になったんなら、料理もさぞ豪華なんだろ? ははは! 楽しみだな!」

 ……このくらいは大丈夫なのか。

 まあ、船の仲間もだけど、冒険の仲間も大事に思ってくれてるってところかな。

「料理は誰が作ってるんだ? 凄腕の料理人でも雇ったか?」

「最近はずっとニーナがやってくれてます。前よりも腕を上げていますよ」

「ほう、ニーナの嬢ちゃんか。そいつは期待できるな」

 ジョアンさんも以前に何度かニーナの料理を食べたことがある。

 確か……そうだ。冒険者の店で食べる料理を「不味くはないんだが、こればかりだと飽きるな」と評して、それに同意したメルツァーさんやフューリスさんたちとニーナの家でごちそうになったんだ。

 その頃もニーナの料理は美味しかったけど、今はもう、ニーナ自身を『凄腕の料理人』と言っていいくらいだ。ジョアンさんもきっと気に入るだろう。

「……なあリオン」

 酒場まであと少しというところで、ジョアンさんが急に立ち止まった。

「はい?」

 真剣な表情を向けてくるジョアンさんに、一体何事かと首を傾げると……

「ここに定住するんなら、お前もそろそろ嫁をもらったらどうだ。ニーナの嬢ちゃんなら家庭的だし、お前に合ってるだろ?」

 その話か……。ヴォルフさんからもそれらしいことを言われたな。

「……ジョアンさんだって独身じゃないですか」

 そう反論すると、ジョアンさんはため息をつきながら、右手で髪をかき上げてみせた。

「俺は港ごとに女がいるからな。特定の女には縛られないことにしてるのさ」

「そうなんですか」

「ああ、俺くらいの美男子ともなるとな……そういうものなんだ」

 それはその女の人たちに不誠実な気がするけど……。

 気を持たせるだけで決定的なところは保留のままっていう態度は、俺も同じなのかもしれない、とも思う。

「じゃあまあ、ひとまず俺もそういう感じにしておこうかと……」

 消極的な返事をすると、ジョアンさんはひときわ大きなため息をついた。

「……お前なあ、もう少し真面目に考えろよ……」

 そう言われてもね。ジョアンさんが言える立場かな。

「まだそういうことを考えられないんですよ、今の俺は」

 口ではそう言ったけど、俺だって俺なりに真面目に考えなかったわけじゃない。結論が出なかっただけだ。結論を出すべき時じゃないのかもしれない、という結論になったというか。

 一番の問題は、やっぱり体に蓄積している竜気(オーラ)のことだ。竜に近付いているっていうこの体で、他人と今よりも深く関わることになるのは、正直少し怖い。俺自身がどうなるかってこともだけど、相手に何か悪影響があるんじゃないかっていうあたりが、特に。

 ……もしそのことがなければ誰か一人を選べていたかというと、自信はないけど。

「お前はまだ十五だからと思ってるかもしれないけどな、もう十五だぞ。もう十分、一人前の男だ。いいか、女の方はいつまでも待ってはくれねえ。一人に決めきれないってんなら、気になる娘は全員囲うくらいの気持ちで、もっとガツガツ行かなくちゃ駄目だ。若いし金もあるんだから」

 無茶なことを言うなあ。ただ、熱意は伝わってくる。それはそれでジョアンさんの何らかの哲学に基づく結論なんだろう。

 でも俺も素直に「わかりました」とは言えない。

「俺みたいなのは、いつ死ぬかわからないですから」

 ほんの数日前には〈歪みの民〉の残党に襲われた。近くには魔獣もいるし、ときどきは竜もいる。西に向かったフューリスさんからも、救援の要請があるかも。

 俺はいつかまた激しい戦いに身を投じることになるかもしれないし、そうなれば今度こそ死ぬかもしれない。

「だからこそ、だろ?」

 ジョアンさんは真顔でそう言った。この人なりに心配して言ってくれてるのは確かだし、その気持ちはありがたいとは思うけど。

「うーん……」

 唸ることしかできない。ジョアンさんの考えは心に留めておくとしても、今すぐに結論が出せる話じゃない。

「まあ、あんまり口うるさく言うのもなんだな」

 俺の煮え切らない態度に呆れたのもあるだろうけど、この場はジョアンさんが先に折れてくれた。

「せっかく久しぶりに会ったんだし、夕食の席では心躍る海の冒険の話でもしてやるか」

「そうですね。その方がありがたいです」

 ただ……酒場にいた船乗りたちに俺の財布から牡蠣を奢ることになってしまったのは、その代わりなのかもしれない。



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赤毛の女海賊

 夕食の席にはジョアンさんもやってきて、昼に言った通り、心躍る海の冒険の話をしてくれた。

 以前に聞いたことのある話もあったけど、ユリアやペトラは全部が初めて聞く話だ。しきりに感心しながら聞いていた。

 特に盛り上がったのは、シードラゴンの話だ。

 まだ〈白鯨〉の船団にいて五隻を指揮していた頃、ジョアンさんは海の竜、シードラゴンと遭遇した。そいつは名を〈隻眼の海蛇〉といって、船乗りの間では恐怖をもって語られる人食いの怪物らしい。その身体は船よりも大きくて、丸呑みにされた船もあるとか……。

 恐慌に陥る船員たちを叱咤して、ジョアンさんは海竜に立ち向かった。とはいっても正面からやりあって勝てるはずもない相手だ。そこでジョアンさんは、干し肉の詰まった樽を船に備え付けの投石機でぶん投げて、海竜にぶつけた。それに海竜が気を取られているうちに、指揮下の五隻全てがどうにか追撃を振り切って逃げ切った……とまあ、そんな話だ。

 どこまで本当の話かはわからない。真に迫った話し方ではあったけど、ジョアンさんは口が上手いからなあ。まあ、聞いていてハラハラドキドキの面白い話ではあった。それなら話の真偽なんて些細なことかもしれない。

 

 夕食の後に「話したいことがある」と言われた。内密の話という感じだったから、俺はジョアンさんと二人で執務室に移った。

「話すかどうか悩んでたんだが、やっぱりお前には話しておきたい」

「なんです、改まって」

 応接用のソファに座ったジョアンさんの口調と態度からは、何やら深刻な話であることが想像できた。俺には心当たりはない……と思ったけど、俺が投資したお金を返せそうにない、って話ならあり得るか。

 ただ、その予想とは違った。

「お前が『親方』って呼んでるあの女のことだ」

 ……親方? 意外な話だ。

 ちょうど俺がこの村に来た頃、前の領主の圧政下にあった村で、村長さんが亡くなった。

 親方はその、村長の奥さんだ。本来なら次の村長になっていておかしくなかった人で、今は俺が領主に村長を兼ねているから、村長でなく『親方』と呼ばれてる。役職としては村長代理に任命してあるし、館にいることが多い俺に代わって、実質的には村長だ。

 お酒好きなのは知ってる。村では一番強いんじゃないかな。最近はよくネスケさんと一緒に飲んで、酔い潰れたネスケさんを部屋まで送り届けているらしい。

 その親方が、どうしたっていうんだろう。

「やつの名前は、メラニー・ローラディン・レイス」

 ジョアンさんが話を続けた。

「この近海を荒らし回った海賊〈赤髭〉バルバトスの娘で、雷王都市や嘆涯の海都だけじゃなく、調和の海に面した都市だったら大抵どこからでも懸賞金が掛けられてるくらいの賞金首だ。ついた渾名が〈赤毛の女海賊〉……」

 ……なんとまあ。

「海賊? 賞金首?」

「武装の乏しい商船はもちろん、私掠船や軍艦でさえ、やつの船〈調和の水妖〉が近付いてくれば一目散に逃げ出すってほどでな。襲われて積荷を奪われた船は十や二十じゃきかねえ。百は軽く超えて、二百とも三百とも言われてる。やり合えたのは俺の〈赤鯱〉くらいなもんだ」

 そんなに悪名高い人だったのか……。

 納得できる部分はある。今日の昼のことも、思い返せば、そうだ。

 ジョアンさんの船を見た村の人たちが「海賊船なんじゃないか」と警戒して集まっていた時、それを指揮していたのが親方。村長代理という立場だからってだけじゃなく、なんというか、武装した集団を指揮するのに慣れている感じがあった。前の領主との争いの中で身に付けたのかとも思ってたけど……。

「特に酒樽を運んでる船は要注意だって言われてたな。匂いでわかるんだと。だが酒樽を積んでれば命だけは助けてもらえるって噂もあった。ま、相当な酒好きだったってのは確かな話だ」

 それは……ちょっと笑ってしまうな。親方らしい。

「だが、その女海賊が……数年前に、海でシードラゴンと出くわしたそうでな。仲間の船を逃がすために、その怪物と海戦やらかして、船と一緒に海に沈んだって話だった。親父の〈赤髭〉も相当探したらしいが、行方は知れねえまま。何しろ相手がシードラゴンとなりゃ、生存は絶望的だ……」

 シードラゴン。ジョアンさんがからくも逃げ切ったと自慢していた怪物だ。逃げるのが正解で、立ち向かう相手じゃないってことだ。船より大きいとか言ってたな。ドラゴンならそのくらいは当然か。当然だから怖くないってことにはならないけど。船の上は逃げ場がないし。

 そういえば、と思い出した。

 あの日……俺が前の領主を打倒したあの夜には、親方は誰にも告げず、たったひとりで館に乗り込んでいた。その覚悟と度胸は並外れてる。その時はさすがに多勢に無勢だったけど、それでも、俺が駆けつけるまでにかなり大暴れしていたみたいだった。

 そういうところから、ただ者じゃないとは薄々感じてた。

 ジョアンさんが語る女海賊と共通してるのは、仲間のためには命を懸けられる人だってことだ。

「それから一年経ってついに、赤毛の女海賊はもう死んだって認定されて、各都市とも懸賞金は取り下げてる」

 なるほど。そういうことなら、どこかから賞金稼ぎの人が来て突然、なんてことにはならないか。一安心だ。

「……生きてるとなりゃ、別かもしれねえがな」

 ジョアンさんがそう付け加えて、俺を見た。俺の表情の変化を見逃すまいと注視しているのがわかる。

 ふむ。……ジョアンさんの意図はわかった。

「あの人は……」

 俺の目で見てどうなのか。このまま放っておいていいのか。倒すべき悪党ではないのか。

 そのあたりを、ジョアンさんは訊いておきたいわけだ。

 ジョアンさんが語った赤毛の女海賊の話は、確かに、今の親方の姿にも通じるところがある。

 でも、今の親方と同じじゃ、ない。

 俺が親方に会ってからもう半年以上になるけど、悪党には見えない。村のみんなのことをよく気遣っていて、村の人たちからも慕われている。勇気があって、面倒見が良くて、お祭りが好きで、お酒が大好き。

 親方から過去のことを聞いたことはない。だから本当は、もしかしたら、過去には悪党だったかもしれない。〈赤毛の女海賊〉はほとぼりが冷めるのを待っているだけで、いつかはまたその牙をむくのかもしれない。

 でも俺は。俺の判断は……

「多分、よく似た別人だと思いますよ」

 甘いのかもしれない。でも、今の親方のことを信じたいと思う。過去を話したがらないのは、親方自身、過去のことを悔いているからじゃないかな……。

 それに、そもそも本当に他人のそら似って可能性も消えてはいないし。

「……そうなのかもな。いや、お前が言うならそうなんだろう」

 ジョアンさんはそう言って笑った。

 たぶん最初から、俺がジョアンさんの話を聞いてどんな判断をしたとしても、その判断を尊重するつもりだったんだと思う。

「他のやつらにも話すかどうかはお前に任せる」

 ジョアンさんは最後にそう言ったけど……

 俺とほとんど関係ない女海賊の話を披露する機会は、多分ないだろう。



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シードラゴン

 ジョアンさんの船をこの村に迎えた翌日。

 俺の今日の予定は、夜に村で会合……という名の飲み会がある以外は、急ぎのものはない。

 せっかくジョアンさんが来ているから海釣りをするのもいいかと思ったけど、よく考えると船乗りのジョアンさんは陸での休暇中にわざわざ海釣りをしたいとは思わないかもしれない。

 まあ、とりあえず会いに行ってみよう、と自室で身支度をしていると、ひどく慌てた様子のペトラがドアを蹴破るようにして入ってきた。

「おい変態! 沖にシードラゴンがいるぞ! どうするんだ!」

 そう言ってからようやく、ペトラも俺の格好に気付いたようで……

「さっさと服着ろ変態!」

 ……まあ、下は履いてたからいいけどさ。

 それにしても、シードラゴン?

 ジョアンさんがその話をしてくれたのは昨日の夕食の席だ。ペトラも熱心に聞いていた。だからそれで、海に漂っていた流木か何かを見間違えたんじゃないかな。

 半信半疑で屋上の見張り台から確認してみるも、やっぱり何も見えない。

「見間違いじゃない?」

「確かにいたんだよ! 私に見付かって逃げたのかも」

 シードラゴンがペトラに見られたくらいで逃げるものだろうか。

 そう思ったのが顔に出たのか、

「私に流れるブランシャール家の血がドラゴンを萎縮させて圧倒してねじ伏せているんだ」

 ……そんな特別な家系だとは聞いてないけどね、ブランシャール家。

 

「おー、リオンさん! こっちこっち!」

 ジョアンさんを探して村に降りると、広場に親方がいた。

「リオンさんの偉業を称える石碑をこのあたりに建てよーと思うんだよ! 今夜の会合で議題に出すから!」

「やめてください」

 俺の銅像は結局、広場に置かれたままになってる。今のところ過度な崇拝も粗末な扱いもされず適度な距離感に収まった様子で安心してたところなのに、そこに石碑? 確かに酒の席でそんなことを言ってたことはあったけど、本気だったのか。

 即座に否定の意を言葉で伝えたけど、親方には届いていない様子。

「言い伝えや本じゃーだめだ! 最後に勝つのは石碑! 一万年先まで残す決意だよ!」

「ほんっとーに、やめてください」

 そういうの好きな人もいるんだろうけど、俺は恥ずかしいと思っちゃう方かな……死後なら文句も言えないし諦めるけど、まだ生きてるし。

「そう、まだ生きてるんだから、業績はこれから増えるかも……」

「追記できるよーに余白をとっておけば大丈夫だよ!」

 どうしても俺の銅像のあたりを観光地にしたいらしい。村の発展のためとはいえ、親方も強情だ。

 ただ、俺の名前ってどのくらい知られてるんだろう。この村に石碑を建てたとして、それを目当てに観光に来る人がいるほどとは思えない。雷王都市のあたりでは偽者が現れる程度には有名人だけど、帝麟都市の方から来たっていうネスケさんは俺のことよく知らないみたいだったし。

 そういえば、竜にはわりと知られてるらしいんだよな。確か〈竜を絶滅させるもの〉って渾名がついてるとか。……まあ、そんな伝わり方なら竜が観光に来ることはなさそうだな。

 石碑が強いっていうのは、少し前に古い社を見付けた時にも思い知った。ステラさんによるとおよそ千年前の石碑。そこに刻まれた文字が読めてしまう。強い。一万年だと、さすがにどうなるかわからないけど。

 俺がそんな風に考えを巡らせる間にも、親方は「こっちの方が目立つかねー」なんて言いながら広場をうろうろしている。

 今夜の会合で議題に出たら、その場で諦めさせないと。とは思うけど、採決すると俺が負けるんだよな。領主権限で廃案にした方がいいのかな……。

 俺に声がかかったのはその時だった。

「リオン! ここにいたのか! ちょうど良かった!」

 ジョアンさんだ。妙に慌てた様子で、俺に駆け寄ってくる。

 一瞬、昨日聞いた話を思い出して、親方が近くにいても平気なのかと心配したけど、それは杞憂だったみたいだ。

 そしてつまり、この慌てようは親方に関することじゃない。

 すると、ここでやると言っていた『取引』のことだろうか。例えば、あのラムーさんが逃げ出したとか……

 俺のそんな予想はことごとく外れた。

「出やがった! シードラゴンだ!」

 その緊迫した様子は、とても冗談を言っているようには見えない。

「シードラゴン、だって……?」

 親方がどこか呆然と呟いた。

「見間違いじゃねえ。うちの見張りから報告されて、俺とクリストバルも確認した。漁師たちが海に出るのを止めねえとまずいぞ」

 そうか。早い人はもう日が出る前から海に出ている。もし遭遇したら危ないなんてもんじゃない。

 こんな時には自警団が早鐘を鳴らすことになってる。すぐに知らせに行かないといけない。

「リオンさん! あたしは村のやつらを内陸の方に避難させるよ! 自警団にも知らせてくる!」

「お願いします、親方」

 こっちのことは親方に任せておけば大丈夫だろう。俺がやるよりよほどうまくやってくれるはずだ。

「……頼んだよ、リオンさん」

 去り際、親方はそう言って俺の肩を叩いた。とはいえ、ドラゴンとはいえ海の魔獣に対して俺がどのくらいのことをできるかは、ちょっとわからない。

「あいつ、このあたりにはよく出るのか?」

 ジョアンさんが言うのはもちろん親方のことではなく、シードラゴンのことだ。

「俺が知る限りでは、初めてですね」

「積荷の匂いにでもつられてきたのか……?」

 普段と変わったことと言えば、ジョアンさんの船が来たことと、桟橋ができたことくらい。……シードラゴンが工事の騒がしさに怒った、なんてこともあるんだろうか?

「なあリオン。この村に投石機かバリスタはあるか?」

 投石機、は聞いての通りの設備だ。一方、バリスタっていうのは土台のついた据え置き型の大型弩弓。どっちも簡単に動かせるものじゃないから、よほど規模の大きな戦いでない限り、どちらかというと防衛側の武装として用意されるものだ。ジョアンさんのように武装船に積んでいることもある。

 この村だと、確か……

「投石機なら竜牙館のある高台にあったかな。海の方を向いてる」

 多分、海上から大砲で攻撃された時の反撃に使うために前の領主あたりが設置したんだろう。

「でも手入れしてないから、使えるかどうか」

 使われたって話は聞かないし、俺も使ったことがない。正直、置物としか思ってないな。

「俺の船から砲撃した方が確実か……」

 ジョアンさんが思案するうちに、早鐘が鳴り始めた。何事かと通りに顔を出した人たちの間を、自警団が駆け回って避難を呼びかけている。

 俺たちはその騒ぎが大きくなる前に、新しい桟橋の方に向かって走った。

「ジョアンさん。シードラゴンと戦うつもりなんですか?」

 様子を見ていると、どうもそうだとしか思えない。

 訊かれたジョアンさんは「もちろんだ」と頷いた。

「奴はな、ちょうど昨日話しただろ? 何隻もの船を沈めた人食いの怪物〈隻眼の海蛇〉だ。シードラゴンの中でも特に凶暴で、あの〈赤毛の女海賊〉の船を沈めたって奴でもある。懸賞金も馬鹿高えが、何より航路の安全のために、仕留めるチャンスが来たってわけだ。こいつは逃すわけにはいかねえぜ」

 航路の安全。なるほど、確かにあんなのが港の近くをうろうろしていたら、安心して寄港できない。せっかく港を整備しても、船が避けていくんじゃ何の役にも立たない。

 俺としても放ってはおけないところだけど……

「勝算はあるんですか」

 訊ねると、ジョアンさんは立ち止まって振り返って、ニヤリと笑った。

「お前がいるだろ? 期待してるぜ」

 俺をあてにしてたのか……。

 確かに俺はこれまで竜と何度も戦って倒してきたし、竜からも恐れられてるらしいけど。

 今は事情があって、戦いを避けてるんだよな……。

 それに俺も水竜とは戦った経験があるけど、場所は地底湖の湖畔で水はせいぜい膝下までっていう感じだったから、本当に海の中に入って戦った経験はないんだよな。

 でも、うーん。

 誰かがやらなくちゃならないなら、俺がやるべきだろう。

 俺にしかできない、とも思うし、やらなくちゃいけない、とも思うし……

 正直に言うと、やりたい、とも思う。

 戦いは竜気(オーラ)を活性化させる。だから、このまま竜になりたくなければ戦いから離れろ。……と、霊峰の聖竜からは言われてるけど……

 俺にしかできないなら、仕方ないじゃないか?



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開戦

「見ろ、あいつだ」

 ようやくたどり着いた桟橋から、ジョアンさんが海の方を指差した。

 波間に、背びれのようなものが見えた。さっきペトラが見たっていうのもあれだったんだろうか。確かに大きい……と思う。海には比較できるものがないから、俺がひと目見た程度じゃ、正確なところはわからないけど。

 話によれば、ジョアンさんの船よりも大きいらしい。その船なら今、すぐ近くにある。村で使ってる漁船とは比べものにならない大きさだ。これよりもまだ大きいのか。

 ……大きさだけで言うと、霊峰の聖竜の方がちょっと大きいかも。

 そう思うと、何となくやれそうな気はする。

 海の中で戦った経験はないけど、頭突きだか竜の吐息(ドラゴンブレス)だか頭を近付けてくるタイミングはあるだろう。その時を狙えばいいんだ。……まあ、そんなに簡単とも思えないけど。

 いつ崩壊するかわからない浮き岩を足場に跳び回った異界での戦いよりは、少しマシかな……。

 そもそも剣の距離でどうにかしようと思うのが困難の原因のような気もするけど、それでもジョアンさんが俺を頼りにするのは、船の武装では勝てなかったっていう経験からだろう。

 俺の魔剣なら確かに、当たりさえすれば勝機はある。あとは、どうやって間合いに引きずり込むかだ。

「リオーン! お待たせーっ!」

 クレールが駆けつけたのはその時。ステラさんも一緒だ。二人とも息を切らせているから、かなり急いできたんだろう。

「自警団の人が知らせてくれたんだよ。それで、これ」

 背負っていた棒状の包みを、クレールは俺に手渡してきた。

 これは……包みを解くまでもなく、中身は想像がつく。というか、俺から見れば明らかにそれとわかる竜気(オーラ)を放っているし。

「相手がシードラゴンなら、必要でしょ?」

 魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉だ。確かに、館まで取りに戻る手間は省けたけど……

 もし自分で取りに戻ったら「これを本当に使うのか」なんて葛藤しただろうに、何だかあまりにもあっさりと手元に来てしまったな……。そういうところも伝承武具(レジェンダリーアーム)っぽいと言えば、そうだ。

 包んでいた布を剥ぎ取ると、竜革の鞘に収まった魔剣がその姿を現した。

 思えば、まだ冬のうちに神託の霊峰に行って以来か。近くに悪竜が現れた時も、普通の剣で済ませたし。もう半年、なるべく触れないように過ごしてきたことになる。

 本当にこれが必要かどうかの判断は、相手を間近に見てからにするけど……

 それはそれとして、使いたいのに手元にないでは間抜けすぎる。いつでも抜けるように、俺は魔剣を腰に下げた。

「あとねえ。魔術なら届くかも! ってことになって、僕とステラが来たってわけ」

 そう言ったクレールがお気に入りの短杖を掲げて見せると、ステラさんも頷いた。

「魔術、得意」

 ステラさんもいつもの魔法の杖を手にしていた。よく見れば二人とも、杖以外にも魔法の品を身に付けている。ほとんど、邪神に挑んだ時の装備だ。

 二人がいてくれれば確かに心強い。

「あ、ユリアは置いてきたよ。まだ〈紫電(マッドサンダー)〉を使うのは危なそうだし」

 それは仕方ない。威力は期待できるけど、その分、反動も大きい。いずれ慣らしていく必要はあるかもしれないけど、いきなりシードラゴンにぶつけるのはさすがに荒行すぎるよな。

「そういえばペトラが『やっぱり合ってたじゃないか!』って怒ってたけど、何かあった?」

「それは後で謝っておくよ……」

 ペトラがシードラゴンを見たと訴えてきた時にすぐ対応を始めてればこんなに大慌てしなくて済んだわけで、こういうところはまだ領主として未熟だなあと痛感する。

 だけど、そこを反省するのは後の課題で、今は――

「やべえ! 撃ってくるぞ! 伏せろーっ!」

 ジョアンさんが叫んだ。

 海を見れば、シードラゴンがいたあたりに何か不穏な……

 あれは、泡か?

 そう思った瞬間に海が爆裂して、水柱が斜めに立った。

 ズンッ! ズンッ!

 腹に響く爆発音がここまで届いた。

 その一瞬後に俺たちのほんの数歩横を突き抜けていったのは、何かのかたまり。

 そのかたまりが何かを確認する前に、それは浜の近くに建っていた木造の小屋を一撃で粉砕した。

 巻き上げられた砂と、そして小屋の残骸が、少し遅れてばらばらと落ちてくる。

「今のは?」

「あの〈隻眼の海蛇〉の吐息(ブレス)攻撃ってとこだな……前に会った時もこいつを撃たれてな、俺じゃ防ぎようもねえが、撃ってくる前兆だけは見切ったんだ。役に立ったな」

 ジョアンさんが額の汗を拭う。

 ステラさんは髪や肩に落ちた砂をそのままに、シードラゴンの方へと目を向けている。

「おそらく、吐息の砲弾と言うべきもの。珍しい種類。属性は大気……もしくは単に打撃と推測される」

 確か、大気属性は魔法でなく精霊の領域だから魔法では防げないと聞いたな。

 特別な属性を持たない物理的な打撃の威力に関しては、防ぐ魔法もあるけど……あいにく、ここにいる四人は誰も使うことができない。

「んふ。実はねー、力盾(フォースバリア)の魔石を持ってきておいたんだよ」

 クレールは得意げな顔。なんとも用意がいい。

 〈力盾(フォースバリア)〉は敵からの攻撃をかなり軽減してくれる。俺たちは使えないと言ったけど、魔石さえあれば、その術法の適性がなくても一時的に扱うことが出来るようになる。

 ただ、〈力盾(フォースバリア)〉の法術自体が、あまり広範囲に展開できるものじゃない。それに許容量を超えた強い衝撃を受けると剥がれてしまうこともある。そのたびに張り直す必要があるから、維持し続けるにはかなりの手間と精神力が必要だ。

「それは俺に任せろ。正直、シードラゴンと殴り合える気はしねえからな。そっちは任せるぜ」

 ジョアンさんが名乗り出た。この四人の中でなら、そうなるか。シードラゴンが細剣の届く距離までぼんやり近付いてくるとも思えないし。それにジョアンさんは案外法術が得意な方だ。うまくやってくれるだろう。

「おかしら! 船の準備はできてますぜ! 手下どもにも、臆病風に吹かれた奴ァひとりもいません!」

 クリストバルさんが、船の甲板から大声でジョアンさんに報告した。その顔には恐怖の色はなく、むしろ活き活きとしている。

「でかした、クリストバル! リオン、お前らも乗りな! 海竜退治だ!」

 ジョアンさんの号令に俺たちは頷き合って、桟橋から船へと乗り移る。

「僕、こんな大きい船に乗るの初めてかも!」

 渡り板はあまり幅が広くないから、先に渡った俺がステラさんとクレールの手を引いた。……ここで転んだら本当に危ないし。

 二人が渡りきるのと、クリストバルさんとのごく短い打ち合わせを終えたジョアンさんが振り向いたのが、ほぼ同時。

「乗ったな? よぉーし、それじゃ――」

「ま、待ってください!」

 いよいよ、というところに制止の声がかかった。

 声のした方を見ると、桟橋を駆けてくる人影。

 あの、ひげ面の……。

 ジョアンさんの『取引』のために連れてこられていたラムーさんだ。

「敵は〈隻眼の海蛇〉だぞ! お前はどっか安全なとこに引っ込んでろ!」

 ジョアンさんが怒鳴った。

 シードラゴンと戦うにあたって、船からは降ろされていたらしい。それが、いったいどうしたんだろう。ジョアンさんの言う通り、おとなしくしているのがいいと思うけど……

「ちょうどそこでこいつを見付けたんで、準備は万端ってとこですよ!」

 そう言って振り上げたのは手斧。左右に合計二丁。桟橋の工事で使われたやつが、まだ置きっ放しだったのか。

「助けてもらった恩もあるし、あっしも行きますよ! 投石機で飛ばしてくれれば大丈夫なんで!」

「……えぇ?」

 何だか妙なことを言ってるな。

「投石機なら、この船にも一基はあるが……」

 ジョアンさんが唸った。

「投石機で生きた人間を飛ばした例は聞いたことがない。射出時、及び、落下時の衝撃は生存が困難なものになると推測される」

 そう言ったステラさんはいつもの無表情。

 不安げな一同に対して、ラムーさんは白い歯をむき出しにしてニカッと笑った。

「なーに、心配には及びません。あっしはすでに何度かやってみて、完全にコツを掴んでますからね! 嘆涯の海都にはこんなすごい奴がいるんだってことを見せてやりますよ!」

 すごい奴? ヤバい奴の間違いでは……。

「どうします、おかしら」

「本人がやりたいってんならやらせてやれ。〈力盾(フォースバリア)〉をかけときゃ、ちょっとは違うだろ」

 呆れ顔のクリストバルさんに、呆れ顔のジョアンさんが頬を引き攣らせながら応じた。

 確かに本人はものすごいやる気だけど、いいのかな……。

 ジョアンさんが魔石を握って念じると、ラムーさんの身体に燐光が灯った。これで一応、落下の衝撃もいくらかは防げるはずだ、けど。

 投石機の準備が整うのを待つラムーさんの眼は、闘志に満ちあふれている。

 どうやら本気らしい。

「何にせよ、投石はもう少し近付いてからだ。おい野郎ども! 錨を上げて帆を張れ! 出港だ!」

 すでに配置についていた船員たちが、ジョアンさんの合図で一斉に動いた。ラムーさんも自分が乗り込んだ後で渡り板を取り込んで片付けている。

「リオンの旦那。こっからはちょいと揺れますんで、十分気を付けてください。海に落ちたら助けに行く余裕ないかもしれませんので、なるべく端には寄らないようにお願いします」

 クリストバルさんからそう言われて、俺たちはそれに従う。そこにジョアンさんが「これ掴んでろ」と縄を投げてくれた。マストに結びつけられていて、ところどころに掴みやすいよう結び目もつけられている。なるほど、これがあるとだいぶ気が楽だ。

「真っ直ぐ近付くなよ! 左右に向きを変えながら近付くんだ! 敵に狙いを付けさせるな!」

 その指示通りに何度も帆の向きが変えられ、そのたびにぐらりぐらりと船が揺れた。クレールは「ちょっと気持ち悪くなってきたかも……」と呟いている。それは俺も少し感じる。

 一方、さすがに海の男たちにはそんな様子は見られない。船がぐいぐいと進んでいくにつれて、陸地が遠ざかっていく。

 そして近付いてくるのはシードラゴン。

 目を凝らさなくても、もうその姿は明らかだ。背びれのようなものを左右に振りながら、敵の方もこっちに近付いてきている。

「投石機、準備できましたぜ!」

 船員たちによる巻き上げ作業が終わったことをクリストバルさんが報告すると、ラムーさんは意気揚々と棹の先の石受けに収まった。

「ウオオオ! いくぞオオオ!」

 気合いの声が聞こえてくる。一方、クリストバルさんたちは投石機の横で時機を待っている。ジョアンさんがまだ遠いシードラゴンを睨んで「まだだ。まだだぞ」と片手を挙げている。

 ごくり……と一同が息を呑んだ。

 そして。

「今だ! 放て!」

 ジョアンさんの手が振り下ろされた。

「希望を胸に、すべてを終わらせる時……! 天帝戦斧術奥義ッ! てんて――……!」

 ラムーさんが何か言っていたけど、ものすごい勢いで飛ばされていったから最後まで聞こえなかった。

「ああっ! 惜しい! 飛距離が足りませんぜ!」

「いや、見ろ!」

 クリストバルさんの叫びに、ジョアンさんが投石の行方を指差した。

「浮いた! 両手の斧を羽ばたかせて、浮いたぞ!」

 わけがわからない……。



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シードラゴンとの攻防

 ラムーさんが飛んでいってから、シードラゴンの進攻は目に見えて遅くなった。

「すごい。ラムーさん、手斧でシードラゴンと渡り合ってる」

 自信満々だっただけのことはある。シードラゴンに攻撃させないように、その周囲を巧みに泳ぎ回っている。その上、合間合間に手斧で斬りつけている。

「やっぱりあっちの船乗りはイカレてやがるぜ」

 ジョアンさんが感嘆とも呆れともいえない呟きを漏らした。

 ただ、ラムーさんの攻撃が有効打になっているとは言えない。あくまで時間稼ぎといったところだ。でもその時間を、今は必要としていたわけだ。ラムーさんは十二分に役目をこなした。

 ジョアンさんは「なるべく有利な位置を選びたい」と風を見て、船は慎重にシードラゴンとの距離を詰めていた。船に搭載した大砲が最大限に威力を発揮できる距離。ジョアンさんは「大砲じゃ倒せない」と言っていたけど、まったく無力とも思っていないようだ。

「おーい! もういいぞ! こっちの砲撃に巻き込まれないように離れろ!」

 ジョアンさんが声を掛けると、ラムーさんは了解した様子ですいすいとシードラゴンから離れていった。その退き際はあまりに鮮やかで、シードラゴンも追っていけない。

 そうなると、奴の次の標的はもちろん、この船だ。

「おっきい! 信じられないくらいおっきい!」

 クレールが叫ぶ。確かに、村から見ていた時にはいまいち実感がわかなかったけど、ここまで近寄れば、とてつもなく大きいってことが一目でわかる。

 船より大きい、どころじゃない。何しろ長い。船をぐるりと取り囲んでもまだ余るっていう長さだ。

 その長い胴は黒。でも真っ黒というわけではなくて、よく見れば黄色い身体に黒い斑点がある、という姿だ。そして真っ赤な背びれが、頭から尻尾まで。背びれと表現したけど、触れれば刺さりそうな、トゲ状の突起が連なったものだ。

 頭はまだ海面下で、よく見えない。

「非常に興味深い」

 ステラさんもそう言って海面を眺めていたけど、

「のんびり見物してる場合じゃねえぞ」

 ジョアンさんが言った通り、もうこの距離だと敵がいつ攻撃してくるかわからない。さっきの気泡弾を撃ってきたら、この船もいつまで耐えられるか。

「おかしら! 砲撃、いつでもいけますぜ!」

 クリストバルさんの報告に、ジョアンさんは大きく頷いた。

「出し惜しみするなよ! 討伐できりゃあ元は取れる! 撃って撃って撃ちまくれ!」

「野郎ども! おかしらの期待に応えろ! 撃て!」

 指示が飛ぶと、艦載砲が雷のような轟音を響かせた。それも一度では終わらず、何度も、何度もだ。そのたびに船が揺れる。

 海に水柱が立った。でも、シードラゴンからは少し離れてる。

「前後から撃っても当たらねえぞ! 横っ腹が見えた時だ! 横っ腹にぶち当てろ!」

 次の弾を込める間にも敵は動く。そしてその機敏さは帆船とは比較にならない。

 それでもこの船はその帆に巧みに風を捕まえて、シードラゴンとの距離を確保している。

 火薬の匂いが漂う中、さらなる砲撃が行われた。さすがは熟練の武装商船員というところか、今度は何発かが海竜の傍に着弾した。

 当たった……と思う。敵が身をよじる感じがあった。ただ……

「なんにしても海面下だ。弾の勢いが殺されてあんまり効いてませんぜ!」

 クリストバルさんの言う通り、これで倒せるというほどの威力にはなっていないみたいだ。

「あれだけ大きいと、魔術もどのくらい効くか……」

 シードラゴンの大きさに驚いていたクレールが唸った。

 俺のこれまでの経験で言うと、やっぱり大抵の場合、身体が大きい魔獣は生命力も強い。そしてそれは、こっちの攻撃が相対的に小さくなるからでもある。

「とにかくやってみるよ。えっとー……」

 短杖を構えて、クレールが目を閉じる。すると周囲がきらきらと輝きはじめた。これは霊気(マナ)じゃなくて、煌気(エーテル)だ。クレールは、魔術ではなく天術を使おうとしている。その前兆だ。

 そして、詠唱。

「遠く大天空より降る星の力、天使の白き翼に宿りし輝ける月の加護、あまねく地を照らしたる天陽の煌気(エーテル)!」

 聖獣や天使は詠唱なしでも天術を扱えるそうだけど、クレールはさすがにその域じゃない。とはいえ、それでも、煌気(エーテル)を帯びる人間は滅多にいない稀少な才能だ。

「其は祝福! 其は恩寵! 其は栄光! その輝きを幾千の矢へと、また、幾万の槍へと変え、我が敵を打ち据えよ!」

 詠唱が終わる頃には、クレールの頭上には光の玉がいくつも浮かんで、解き放たれるのを待っていた。

「行っくよー! ――〈煌天(シャインフォール)〉ッ! どどーん!」

 どどーん、は要らないと思うんだけど。

 ……ともかく、その合図で光は一斉に頭上へと飛び立ち、一瞬の後に、敵へと降り注いだ。

 シードラゴンが身じろぎした。砲撃には見せなかった姿だ。人間はもちろん、魔獣の多くも天術へは抵抗力を持っていないそうだ。

 これは効いてる!

 続けて、ステラさんが杖を振るう。夏の日差しの下なのにぞくりと冷えるのは、展開された魔術がステラさんの得意とする冷気の術法だからだ。

霊気(マナ)は変質する」

 よく使い慣れた魔術に、ステラさんの詠唱は短い。放たれたのは、これも今の大陸には使い手がほとんどいないという、冷気の上級魔術。

「――〈絶凍(ディープフリーズ)〉。……ばばーん?」

「そこは真似しなくていいんじゃないかな……」

 どことなく、クレールと張り合っている感じがあるような。そのせいか、放たれた術法の威力はクレールの〈煌天(シャインフォール)〉にも引けを取らない。術法による攻撃を警戒しはじめた様子だったシードラゴンにも巧みに命中させているのは、さすがといったところ。

「効いてるな。この距離なら術法の方が命中精度もいいか」

 敵の様子を見ていたジョアンさんも手応えを感じている様子だ。

「この調子で続けてりゃいつかは……」

 確かに、これなら俺の出番もないくらいかもしれない。

 ……そう思ったのがまずかったのか。

「畜生、潜りやがった!」

 船縁に取り付いて敵を窺っていたジョアンさんが叫んだ。

 嫌な予感が体中を駆け巡って、肌をぶるりと振るわせる。

「撃ってくるぞ! 何かに掴まれッッ!」

 緊迫した叫び声。

 とっさに伸ばした左腕でステラさんとクレールをまとめて捕まえ、右手ではロープを掴んだ。

 船に強い衝撃があったのはまさに次の瞬間。

 轟音が聞こえるより先に、船が揺れた。そのくらい速かった。船は大きく傾いで、とても立っていられない。まるで壁のように立ち上がった大量の海水が船を呑み込む。

 撃ってくるっていうのは、さっき見たあの吐息(ブレス)のことだったのか。

 この至近距離で、しかも船の上。

 俺を狙ってくるならまだしも、船自体を狙われたら避けられない。

 やがて船は安定を取り戻した。船が沈まなかったのは幸運だった。さすがジョアンさんの自慢の船だ。

 だけどまた同じ攻撃が来たら……

 次も耐えるだろう、なんて安易な期待はできない。

「二人とも、大丈夫?」

 俺が訊くと、クレールもステラさんも頷いた。ただもちろん、さっきの水しぶきをまともにかぶったからみんなずぶ濡れだけど。衝撃で海に投げ出される可能性だってあったから、それを思えば些細なことだ。伸ばした手が間に合って良かった。安堵して、二人に改めてロープを握らせる。

「さっきのを何度も食らったら船がもたねえ。幸い、あまり連射はできねえらしいが……」

 ジョアンさんが腕で額を拭いながら呟いた。

「術法を警戒してるのか、少し深いところにいったな。背びれが見えなくなった」

「このまま逃げちゃうってことは?」

 クレールの問いに、ジョアンさんは頭を振る。

「奴の気性からすると、まずないな。この船をまた襲ってくるのは確実だ。多分、長く待つ必要もないだろう。そしてあの吐息じゃこの船は沈まないと判断したなら、次は体当たりしてくるかもな」

 あの巨体での体当たりは、さすがにこの船もどうなるかわからない。

 ただ、ジョアンさんはむしろそれを待っているみたいだ。

「危険だが、チャンスでもある。奴がそれだけ近付いてきてるってことだからな」

 言って、俺の方へ視線を送ってきた。

「やっぱり、その瞬間を狙ってリオンが魔剣で『ぐさぁーっ!』ってやるのが一番なんじゃない?」

 クレールの提案は、そのまま、ジョアンさんが思っていることでもあるだろう。

「……そうするしかないか」

「何か心配?」

 一番心配なのは、もちろん、俺の身体の竜気(オーラ)のことだ。

 ただ戦うだけでも不安なのに、相手がドラゴン。竜気(オーラ)が活性化するだけに留まらず、俺の身体にさらに溜め込んでしまうことになるかもしれない。

 そうしたら、もう、すぐにでも竜になってしまうんじゃないか……?

 ……というようなことを、みんなにはまだ話せていないから。

「俺、海でちゃんと泳いだことないんだよね」

 言えるのは、そんな情けない理由になってしまう。

 それも事実なのが悲しいところだけど。



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支援砲撃

「すみません。斧は途中で落としてしまいました。あとで弁償しますんでどうかご勘弁を」

 近くを漂っていたラムーさんが救助された。もっとも、今この船に乗っても必ずしも安全とは限らないけど。まあ、身ひとつで海を漂っているよりはマシか。手斧はもともと村で建築作業に使われてたもので、大したものじゃなかったはずだ。その値段分以上の働きはしてくれたと思う。

 シードラゴンがまた浮上してきたのはその直後。丁寧に、挨拶代わりの気泡弾も飛んできた。クレールが不安がる程度の嫌な音はしたけど、今のところ浸水はしていない。

 ジョアンさんの予想通り、敵はあまり気が長い方じゃないらしい。ただ、だからといって冷静さを失っているわけでもないみたいだ。

「警戒してやがるな。術法の距離に近付いてこない」

 ジョアンさんが言う通りで、この距離だと敵の吐息だけが一方的に届く。

 一応、船から散発的な砲撃は続けられている。でもあまり効果は出ていない。

「うおおおおお……! ちくしょう……! ちくしょおおおーっ! お、斧さえ……斧さえあれば……!」

 ラムーさんはまた飛びたそうな様子だけど、手頃な武器がない。

「これを斧だと思い込めばいけないか?」

 ジョアンさんがそう言って船員用のサーベルを用意したけど……

「いやあ、さすがにその剣じゃ無理っス……」

 どうも気に入らないらしい。まあ、俺も剣の戦技を斧でやれと言われたらうまくやれないだろうし、無理を言うわけにもいかない。

「くそっ。エサにも食いつかねえ」

 改めて〈力盾(フォースバリア)〉をかけなおしたジョアンさんが苦々しげに呟いた。

 さっきから何度か、距離を詰めようと試してはいる。でも、近付いた分だけ相手が離れる、というのを繰り返していてらちが明かない。

 ジョアンさんがエサと言ったのは塩漬け肉の入った樽。投石機でこれを飛ばしてもみたけど、まるで無視している。

「船があと一隻ありゃあ、やりようもあるんだが……」

 それはさすがに、手斧ほど簡単には調達できそうにない。

 と苦笑した時だ。

「……おかしら! 船が!」

 クリストバルさんが叫んだ。何か異常が起きたのかと思ったけど、どうも、違う。

 指差す方。海の上に、いつの間にかもう一隻、大型の帆船が浮かんでいた。

「あれは……あの旗は」

 ジョアンさんが呻く。

「――嘆涯の海都の私掠船旗!」

 これを単純に援軍と期待することができないのは、嘆涯の海都と私掠船の悪名を聞かされていたからだ。襲われる方にとってはほとんど海賊と変わりないっていう話だった。

 ただひとり素直に喜色を浮かべたのはラムーさん。

「みなさん、ご安心を! あれこそ、イザル・ヘイラー提督の船団の旗艦〈聖騎士〉号っス!」

 ラムーさんが誇らしげに紹介したその船が……

「撃ってきたぞ!」

 ずらりと並べられた大砲から、次々と黒い煙があがった。放たれた弾は山なりの軌道を描いてこの船の方へと飛んでくる。

「提督! あっしがいるのに撃つなんて、相変わらずひどいっス!」

 相変わらずって。……まあ、ジョアンさんからも「あそこの連中はヤバい」と聞いていたから、そんなに驚きはない。

 相当な長距離を飛んできた弾が、この船の近くに次々と水柱を立てた。ただ、この船には一発も命中していない。

「すげえ……!」

 一瞬、ジョアンさんがそう言った意味がわからなかった。だって、ひとつも命中せずに全て外れたわけで……。

 でも、すぐに理解した。さして間を置かず第二波が放たれると、その砲撃のすごさを認めざるを得なかった。

「あんなに遠くからなのに、的確な砲撃で、シードラゴンの動きをうまく誘導してやがる」

 そうなんだ。撃ち込まれた砲弾が敵の行動を制限している。着水するたびに立ち上がる水柱が幾何学的な模様を描き出していて、明らかにその意図で撃ってきてるのが感じられる。

「悔しいが、この船の練度じゃあそこまではできねえ」

 ジョアンさんには悪いけど、俺の見た限りでは、その意見は正しい。でもこっちの船だって決して下手じゃない。あっちの船がそれより上手いのは、普段から『そういう』活動をしているからかもしれない。

 事情はともあれ、今は助かる。

「おかしら! あのデカブツ、こっちに来やすぜ!」

 クリストバルさんが叫んだ。

 その報告通り、シードラゴンはその巨体を左右にくねらせながら、今まさにこっちに向かってきている。海面に突き出た背びれは天に向かってぴんと張っていて、心なしか、さっきまでよりまがまがしく光っている。

「かなり怒ってやがるな」

 その様子を、ジョアンさんはそう評した。怒っているのか、あれは。言われてみればそうのような気もする。

 私掠船は砲撃を続けながら移動もし続けていて、今やあの船とシードラゴンとの間に、こっちの船が挟まれる形になった。大砲の弾はこの船の上を飛び越えて、シードラゴンの周囲へ降り注いでいる。

 こうなれば、怒っているシードラゴンはまずこの船を襲うだろう。

「下をくぐるか、体当たりしてくるか、それとも上を飛び越えるんですかね?」

 どこかのんびりした様子でクリストバルさんが呟くと、ジョアンさんは頭を掻きながら応じた。

「体当たりだけは勘弁して欲しいが、こういう時は十中八九、体当たりだな。出番だぜ、リオン」

 こうなってしまうと、もう後戻りはできない感じだな……。

 この敵の危険性は思い知った。村の近くに野放しにしておくことはできない。それはわかってる。

 でも正直なところ、気が進まない。

「……ドラゴンの一種なんですよね」

 そこが問題だ。ドラゴンと戦ったら俺の中の竜気(オーラ)が――

「違う」

「えっ。違う?」

 ステラさんの言葉に、俺は思わず訊き返した。

「確認した。時間が無いので詳細は省くが、あれは巨大なウミヘビで、魚の一種。ドラゴンではない」

「そうなんですか」

 なるほど……? 正直、よくわからない。でもステラさんが言うならそうなんだろう。

 それなら、倒すことで敵の竜気(オーラ)を取り込んでしまう危険は気にしなくていいのか。だったらやれるかもしれない。

「わかりました。とどめの一撃、俺が行きます」

 剣で直接届く距離での攻防なら、村の近くにたまに出る害獣を退治するのと大差ないだろう。相手がちょっと大きいだけだ。

「頼んだぜリオン。万が一のことがあっても嬢ちゃんたちはどうにかして村まで送り届けるから、安心して行ってこい!」

 ジョアンさんの激励。万が一なんてことにならない方がいいけどね。

 大きく深呼吸して、竜革の鞘から魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉を抜く。

 名前の通り竜の牙から削り出したという片刃の刀身は、竜の頭部を模した柄とあわせると竜の吐息のように見える。この剣を手に、俺は多くの戦いを乗り越えてきた。

 身体が熱いのは、夏の日差しのせいだけじゃない。魔剣に呼応して、俺の中を巡る闘気(フォース)が沸き立ったからだ。

 だから、魔剣を使うのを避けてたんだよな……。

 そんな言葉とは裏腹に、気分は戦いに向けて高揚していく。

 ……なるべく手早く済まそう。

「来たぞ! 野郎ども! 衝撃に備えろーッ!」

 ジョアンさんの指示を背中に聞きながら、俺は船縁を踏み越えて海へと……シードラゴンへと跳んだ。



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海中での対決

 思ったより、しぶとい。

 並みの魔獣なら最初の一撃、背中に魔剣を突き立てた時点で倒せていたはずだ。それに耐えて、暴れた。……いや、本人としては耐えきれずに暴れたのかも知れないけど。

 俺は振り落とされないよう魔剣を握る手に力を込めている。船からは少し遠ざかってしまったけど、巻き込むよりはいい。

 やがて大きく首が振られた勢いで、突き刺した剣が抜けた。それを握っていた俺も、振り落とされた形になる。

 逃げたらまずい。そう思ったけど、ジョアンさんの言った通り、敵は逃げることなく俺に向かってくる。

 海に差し込む陽光の中、初めて、そいつの顔を見た。

 シードラゴン。……ドラゴンではないらしいから、ややこしいけど。特徴的なのは、向かって右の眼が潰れていること。これが理由で、渾名は〈隻眼の海蛇〉というそうだ。

 残ったもうひとつの眼が、俺に向けられている。それは確かに、竜の眼じゃなかった。竜ならあの特徴的な、縦長の瞳孔があるはずだ。それがなく、ただ黒いだけの眼。これはこれで、何を考えているのかよくわからなくて不気味だけど。

 ただ、俺を見ているのだけは、確かだ。

『竜がなにゆえ人に味方する……』

 突然、そんな声が聞こえて戸惑った。

 シードラゴンが喋っているのか?

 声にはかすかに怒気が感じられた。背びれもまだ、攻撃色というのか、不気味に輝いているままだ。平和的な話し合い、というわけではなさそうに思える。

「俺は竜じゃない」

 そう言ったけど、実際には海の中で泡を吐いただけ……

『それほどに竜気(オーラ)を放ちながら、竜ではないのか』

 どうやら通じたらしい。不思議だ。

 そもそも、相手のこれは、竜の言葉か? だから俺も理解できるし、俺が声に出そうとしたことが相手にも伝わっているのか。

「お前こそ、竜の言葉を喋るなんて……ウミヘビじゃなかったのか」

 俺の言葉に、敵は嘲りを込めた視線を向けてきた。

『我がちからの強大なるを見よ。竜を何匹も喰ろうたからよ。竜をも超えた我こそ、万物の頂点たるに相応しい』

 相当な自信家らしい。確かに、身体は大きい。竜を食べたことがあるというのも嘘ではないかもしれない。

 それで……うーん。ということは、こいつの強さは竜から奪ったもので……

 こいつも、竜気(オーラ)を溜め込んでる……?

 まずいことになった。ドラゴンじゃないと思ってたから、少し安心してたのに。

 とりあえず話は通じるんだから、倒してしまわずに、ちょっと懲らしめるくらいで済まないか……と思案する間もなく。

『竜でないならば恐るるに足らん。貴様を喰ろうて、その竜気(オーラ)もろとも我が血肉としてくれるわッ!』

 怒気をはらんだ声で吠えて、襲いかかってきた。

 この程度のありきたりなことしか言ってこないなら、何も言わないでいた時の方が不気味な恐ろしさがあったな。

 それにしても、気が乗らない……。

 そう思いながらも、大人しく食われてやる義理もない。

 大きく開けた口から、あの気泡弾。でも海の中だとあれが泡として目に見えているから、対処はしやすい。俺の魔剣はちゃんと闘気(フォース)を通せば竜の吐息(ドラゴンブレス)も斬れる。

 となれば、目の前に残るのは大口を開けたウミヘビだけだ。

 背中の方に闘気(フォース)を噴き出せば前に押し出される感じで距離を詰められるのは、陸の上でやるときと同じ。敵が吐いた息を吸い込むと、水の流れも自然とそうなった。それに乗れば、さらに速い。

 たどり着いた口の中はなかなか広い。人間を船ごと丸呑みにするって噂も嘘じゃなさそうだ。ジョアンさんの船は無理でも、漁船くらいなら、まあ。不意にそうなったら恐ろしいだろう。

 今はあえて飛び込んだんだし、足場になる場所がある分、海を漂っているより気は楽だ。

 ここから――

「――応えろ〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉!」

 闘気(フォース)はなるべく控えめに……と思っても、やっぱりこれだけの敵を倒すとなるとどうしても力が入ってしまう。闘気(フォース)を魔剣技として放とうと思えば、十分な量をこっちから押し込んでやらないといけないし。

 ああ、でもこの感覚も久しぶりだ。

 輝きを帯びた魔剣を思いっきり振り回すのは、そうだ、暴食に近い感じがあるな。後に起きることは頭から追い出して一時の楽しみを貪っている、という……。

 幸いというべきか、他の多くの魔獣の例に漏れず、こいつも口の中まではさほど頑丈じゃなかった。

 発動した魔剣技〈竜牙砕き(ファングクラッシュ)〉が上あごから眉間までを闘気(フォース)の輝きで貫くと、事態はその一撃で終息した。

『ぐおぉ……こ、こんなはずでは……』

 呻き声はしばらく口の中を反響したけど、それもすぐに終わった。その頃には大きく開いた傷痕から血が漂い始めて、俺は外へと抜け出した。

 ……まずい。

 このウミヘビの持っていた霊気(マナ)、取り込んでいた竜気(オーラ)が、俺へと流れ込んできた。これは必ずしも目に見えるわけじゃないし、見えたからって避けられるものでもない。

 新たに取り込まれた竜気(オーラ)が身体を駆け巡っていく。それを受け取って「新たな力が開花!」……なんて無邪気に喜ぶことはできない。

 ウミヘビだっていうから、竜気(オーラ)に関しては油断してたな。そもそも俺自身が竜じゃないのに竜気(オーラ)を持ってるわけで、同じような生き物が他にもいる可能性は当然あったわけだ……。

 それはそうと、ひとつ合点がいったことがある。

 断末魔の時、このウミヘビからかすかにだけど〈歪み〉の波動を感じた。つまり、こいつも邪神〈歪みをもたらすもの〉の影響を受けていたんだ。異様な肥大化や人を襲うような凶暴性はそのせいじゃないか? と思う。

 そして、そうすると……

 聖竜から〈安定をもたらす者〉と認められた俺が戦うはめになったのも、なるべくしてなった、あるいは、遅かれ早かれ、というところだろう。

 何にせよ、これでシードラゴン騒動はほぼ決着。

 村に大した被害が出なくて良かった、ということで、まずは満足しておこう。

 

       *

 

 シードラゴンのむくろは急速に崩壊が進んで、ようやく引き揚げられたのは頭部の骨だけだった。それでも、片目のあたりに一度砕けた古い痕を残しているから〈隻眼の海蛇〉の討伐証明にはなるだろう、とのこと。その頭骨だけでもものすごい大きさだから、運ぶのには苦労しそうだ。

 結局、半分以上沈めたまま引っ張ることになったけど、村に戻ったら空の樽をいくつも繋げてちゃんと浮くようにしないといけない、とクリストバルさんが言っていた。樽も安くはないけど「シードラゴンの頭蓋骨を運ぶのに使った凱旋樽、って札をつけりゃ儲けが出るくらいさ」とはジョアンさん。

「うう。これ、ちゃんとお手入れしとかなくちゃ……」

 クレールが沈んだ声で呟いたのは、伝承武具(レジェンダリーアーム)にも数えられるローブが海水をかぶってしまったから。布地もだけど、特に飾りの金属部分は、海水だと痛むだろうな……。

 

 ジョアンさんと嘆涯の海都のイザル・ヘイラー提督との間で行われるはずだった『取引』は、シードラゴンの取り扱いについても含めた形で行われた……らしい。

 俺も同席するつもりがあったけど、止められた。嘆涯の海都の私掠船に肩入れしていると見られると、雷王都市との関係が悪化しかねないからって。……なるほど。

 そういうわけでジョアンさんが「お前の分まで分け前を勝ち取ってきてやるよ」と豪語して、クリストバルさんだけをお供に出かけていった。

 桟橋を挟んで並んだ二隻のうち、交渉が行われたのはイザル提督の船の中。

 確か船の名前は〈聖騎士〉号だって、ラムーさんが言ってたな。

 大きさはジョアンさんのものと大差なく見えるけど、その風貌はかなり違う。まず明らかに幅が狭い。そしてその分、前後に長い。船尾側が高くて、船首側が低いな。その船首には何か……よくわからない生き物を模した船首像が、微妙にイラッとくるようなしたり顔で戦斧を構えている。

 船首像を抜きにすると、イザル提督の船の方が優美に見えるかな。でもこうして見比べると、どっしりとしているジョアンさんの船も、俺は好きだな。

 

 酒場で待つことしばし。

 その間に、クレールとステラさんはニコルくんのお店で間に合わせの服を買って、すでに着替えてきている。その素朴な風合いの服は、ステラさんはともかくクレールは普段あまり着ていないから少し新鮮だな。

 それはともかく。

 イザル提督の船から降りてきたジョアンさんは、いかにも悔しそうな表情で席についた。

「すまねえ、リオン。シードラゴン討伐の懸賞金の権利だが、三分の一は向こうの船に持って行かれちまった。向こうの取り分は五分の一くらいにしたかったんだが……援護砲撃で助かったのは確かだから、強く言えなかった」

 確かにいきなり撃ってきた時は驚いたけど、あの遠距離から状況を正しく見極めて迅速で的確な対応をしてきたのには、もっと驚いた。そのイザル提督が三分の一。妥当な取り分だと思う。むしろこれ以上減らしたら気の毒だ。

「リオンには、残りのうち三分の一を送るぜ」

 俺にも三分の一。これは逆に、もしかするともらいすぎじゃないかと思うけど、俺の攻撃が決め手になったのは事実。クレールとステラさんは「三分の一は当然もらうべきで、むしろ半分くらいもらっていいはず」と言っていた。……まあ、領地経営のことを考えると、たくさんもらえると嬉しいのも確かだ。

 三分の一で二人は納得するだろうかと視線を向けると……

「……ジョアンの取り分が多く、リオンの取り分が少ない」

 ステラさんがそう指摘した。

 ん? 俺とジョアンさんとイザル提督で三等分……だと思ったけど。

「嘆涯の海都の提督に三分の一。残っているのは三分の二。言葉通り『残りのうち三分の一』だと、リオンは全体の九分の二。ジョアンが九分の四を得ることになる」

 ……なるほど? 正直、よくわからない。あとで改めて詳しく聞かないと……。

 ともかく、ステラさんの計算では俺の取り分が一番少ないらしい。

 ステラさんの冷たい視線にさらされて、ジョアンさんは何食わぬ顔で「さて、なんのことやら」と言いつつ、目を逸らした。……いかにも怪しい態度だ。

「三者で三等分が筋じゃない?」

 クレールもそう詰め寄ると、ジョアンさんは両手を挙げて苦笑した。

「冗談だよ、冗談!」

「ほんとかなぁ」

 疑わしげな声が向けられ、そこから顔を背けたジョアンさんはぼそぼそと何か呟いている。

「くそ、惜しかったな。ステラの嬢ちゃんがいなけりゃ、上手くいってたのに」

 聞こえてるけどね。からかって遊んでるだけなんだろうけど。

「やっぱり騙そうとしてたのかな?」

「……実際に懸賞金を受け取るまで油断はできない」

 クレールは苦笑。ステラさんは……真剣に警戒しているかもしれないけど。

「リオンの旦那、それにお嬢さん方。あっしがちゃーんと見張っておきますんで、どうぞご安心を」

 ジョアンさんの横に立っていたクリストバルさんが、自分の胸をこぶしでドンと叩いた。とてもいい笑顔だ。顔の造りは怖いけど、だからこそ頼もしく見えるな。

「クリストバル。お前は俺の副官なんだから、俺の利益を確保するのが仕事だろ?」

 ジョアンさんが苦々しげに呻くと、クリストバルさんはいい笑顔のまま頷いた。

「ええ。ですが、信用を失うってえ損害を未然に防ぐのも仕事でしてね」

 さすがに長く副官をしているだけあって、ジョアンさんの扱い方がわかってるな。



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勝利の味

 イザル提督の船が出港するのを遠くから見送った。ラムーさんとは挨拶をする暇もなかったな。

 後で聞けば、桟橋の使用料と共に手紙も届けられていた。その内容はおおよそ『この港の益々の発展をお祈りする』というもので、ジョアンさんによれば、お互い立場があるから親密な交流はしないが敵対もしない、という程度の意味らしい。

 さて、そのジョアンさんの方だ。

 あの『親方』ってやつに会う、と言われて、俺が案内することになった。何だか、渡したいものがあるとか。担ぐように持っている革袋の中身が、そうらしい。

 ジョアンさんのことだから何か悪だくみってことはないだろう……多分。

 クリストバルさんは事情を察しているようで、ただ「お気を付けて」とだけ言って、自分は出港準備のために船に戻っていった。

 事情っていうのは……親方がかつて〈赤毛の女海賊〉と呼ばれた人らしい、ってことだ。話を聞いた限り、その可能性は結構あると思う。俺の領主としての公式の見解は『別人』ということにしているけど。

 親方は避難所にいた。

 村の西にある遺跡で、古王国時代にはここに砦があったらしい。古いわりに造りが頑丈だから、こういう時の避難所には適している。

「おー、リオンさん! 村のやつらはもーほとんど家に帰ったぜ。あたしは後始末」

 こういう時に最後まで残ってるのは親方らしい。だからこそ村のみんなに慕われてるんだろう。

「それで、そっちの男は?」

 そっちの男、とはもちろんジョアンさんのことだ。

 ジョアンさんは頭を掻きながら、俺の横から何歩か進み出て、親方の前に立った。

「久しぶりだな、赤毛の」

 その口調ははっきりとしていて、親方が〈赤毛の女海賊〉なのは間違いないと確信している様子がうかがえた。久しぶり、というからには以前に会ったことがあるんだろう。それは、穏やかな場面ではなかったかもしれないけど。

 言われた親方の方は……

「なんだよその、どこかで会ったことありませんかー、みたいなのは。使い古された口説き文句かってーの」

 そう言って苦笑するだけで、まともに取り合おうとしない。

 それにしても、ジョアンさんはまさか、親方の過去のことをはっきりさせに――悪く言えば、過去を暴きに来たのか? 少し心配になった。

 親方が実は有名な女海賊となれば、商人であるジョアンさんはあの人に恨みがあるかもしれない。

 何か騒動になるなら、俺が止めないと……

 そう警戒した俺の目の前で、ジョアンさんは、持ってきていた革袋を親方に差し出した。

「これ、お前にやるよ」

 そういえば親方に渡したいものがある、と言っていた。これがそうか。中身は何だろう。俺は聞いていない。

 怪訝な顔で受け取った親方がその袋の口を開けると……

「これはっ」

 そう叫んで急に喜色を浮かべた。

 そのまますぐに袋に手を突っ込んで、取り出されたのは一本の瓶。

「……火酒じゃねーか! なんでくれるのか知らんけど、くれるんならもらうよ!」

 なるほど、お酒か。この火酒っていうのは普通のお酒とはちょっと違って……火をつけると燃える、らしい。蒸留という特別な工程を経て酒精を強めてから瓶詰めされているんだそうだ。詳しい人からの聞きかじりだけど。

「酒はいいよな……嫌なことを忘れさせてくれる」

 折れて倒れていた石柱を椅子代わりに腰掛けて、ジョアンさんがしみじみと呟いた。

 夏至を過ぎて間もないとはいえ、さすがにもう遅い。日も傾き始めている。西の空を見上げたジョアンさんの顔にも夕陽の色が落ちる。

「あぁ? あんたはそんな気持ちで酒を飲んでんのか」

 火酒の瓶を楽しげに眺めていた親方が、ジョアンさんの意見に異を唱えた。

 ジョアンさんは、そんな親方の方へ軽く視線を向けた。

「お前は違うのか」

「酒はなあ、明日への活力なんだよ。酒を飲めるってことの喜びなんだよ。未来への感謝なんだよ。だから今日も乾杯、明日も乾杯、明後日もカンパーイ!」

 親方は酒瓶を持った手を、夕陽に向かって掲げてみせた。ガラスの瓶の中身が揺れて、キラキラと輝きを放つ。これが、親方の活力源というわけだ。

 親方らしくて、俺は苦笑。

「……早死にするぞ」

 ジョアンさんは苦笑を通り越して、本気で心配そうな声だ。

 それを、親方は笑い飛ばした。

「これまでの生き方からしてみりゃー、すでに十分長生きだと思うぞー……っと」

 そう言いながら酒瓶の首を握って、その底を手近な板に軽く打ちつけること四、五回。浮き上がったコルク栓を、親方は素手で引っこ抜いた。

 この栓の抜き方も何やら親方の特技らしく、俺を含めて、館の何人かも試してみたものの成功した人はいない。酒場のマスターですらできないそうだ。道具がないまま酒瓶の栓を抜く、なんて機会の多い親方だからこそ身に付いたんだろう。

 俺がそんなことを思っているうちに、親方はもう瓶に口を付けていた。ラッパ飲みというやつで、中の液体をぐいっと喉に流し込んでいる。

「かーっ! きっつぅー!」

 その様子を見て、ジョアンさんは顔色を変えていた。

「そういう飲み方すんじゃねえよ! その一瓶でいくらすると思ってんだ!」

「もらったもんだからタダだよ!」

 間髪入れずに反論された。確かにそれについては親方の言う通りだけど。ジョアンさんの言い分もわかるな。さすがに火酒の飲み方ではない気がする。本来は果汁とかに少しだけ混ぜて飲むんじゃないかな……。

 ジョアンさんは頭を掻いて、ため息。

「……変わらねえな、お前は」

 こうなると、俺にも何となく察することはできる。親方が〈赤毛の女海賊〉と呼ばれていた頃も、ジョアンさんとはどうもただ敵対していただけじゃないらしい、ってことくらいは。

 親方はそんなジョアンさんの方は見ずに、酒瓶の口にもう一度栓を詰めた。

「……あたしは変わったよ。あたしの旦那のおかげで。それと、リオンさんのおかげでね。たぶん、いい方に」

 そう言って、親方は笑った。

 俺がどのくらい役に立ったかはわからない。親方が変わるところにたまたま居合わせただけのような気もするけど……。そこはまあ、親方本人の感じ方次第か。

「そうか。そりゃ……良かったな」

 そう言ったジョアンさんは、続けて何か言いたそうにしたけど……

 しばらくの無言の時間を経て、結局は、もう一度ため息をついただけだった。

「……ま、俺とは関係ない話だな」

「だな。あたしとあんたは、特に関係ない同士だ」

 二人とも、近くで話してはいるけど、お互いに顔を合わせようとはしない。

 俺も何か声を掛けようとは思ったんだけど、どうも、近寄れない雰囲気がある。

 二人の間に横たわっているのは、距離ではなくて時間だ。そこに、俺が割って入ることはできない。

「だけど」

 と、親方が言った。

「少しは聞いてる。名前はジョアンで、リオンさんの冒険の仲間で、船乗り。それと、いま覚えた。火酒をくれた男ってことはさ」

 そうして酒瓶を指で弾くと、ガラスの澄んだ音が響いた。

「今、港を整備してるところさ。この村はもっともっと大きくなる。いつか、あたしの旦那が夢見たように。……だから、また来なよ。今度は酒樽をたくさん積んでさ」

 親方の元々赤い髪が、この夕暮れにさらに真っ赤に染まる。その顔は、屈託のない笑顔。

「……ああ、そうだな。また来る。積荷が全部酒樽ってのも、まあ、悪くはないな」

 そう言って立ち上がったジョアンさんも、今は笑っていた。

 

       *

 

 港へ戻る頃には、すっかり暗くなっていた。俺はこの後にまだ酒場で会合……という名の飲み会があるけど、ジョアンさんは明日の出港に備えて早めに休むそうだ。

 その道すがら、ジョアンさんが少しだけ、昔のことを話してくれた。

「……十年くらい前はな、海の王者っていやあ二人の名前が挙がった。〈白鯨〉ペス・ヴィエントと〈赤髭〉バルバトス・ローラディン・レイスだ。二人は敵同士だったが、好敵手ってやつでもあった」

 その二人の名前は俺も聞いたことがある。〈白鯨〉はジョアンさんの育ての親だということだった。そして〈赤髭〉は〈赤毛の女海賊〉の――つまり、たぶん親方の、父親だ。

「その二人が、お互いの後継者同士を結婚させて、ふたつの船団を統合させようと計画したことがあったんだ。その話は結局、じいさん……〈白鯨〉が死んじまって、お流れになったんだけどな」

 つまり……ジョアンさんと親方は、言うなれば婚約者同士だった時期がある、ってことか。そう考えると、さっきの二人のぎこちない態度も、何となく納得できる……ような。

「まあ、だからどうって話じゃねえんだ。ただ……」

 そこまで言って立ち止まり、ジョアンさんは、暗くなり始めた海へと視線を向けた。

 ちょうど、丸い月が水平線のあたりに見え始めたところだ。こんな満月の日だから、シードラゴンなんかが襲ってきたのかもしれない……というのは、さすがに考えすぎだろうか。

「お前も考えてみろよ、リオン。あの海に大艦隊がいる、その姿をだ」

 ジョアンさんが、海の方を指差した。

「俺の〈赤鯱〉と同じくらいの大きさの船が何隻も――ああ、総勢三十隻を超える大艦隊だ。揃いの紋章が描かれた帆に風をはらませて、整然と列をなして進んでいる。その姿は海の竜、シードラゴンに喩えられるほどだ……」

 それは……。

 ジョアンさんの船が一隻近付いてきただけで、昨日の騒ぎだ。

 それが三十隻。相当の威圧感がある光景だろう。

「……たまには考えるのさ。あの話がうまく行ってたら俺は、今頃は大艦隊を率いてたかもしれねえ、ってな」

 その可能性も本当にあったからこそ、気になってしまうんだろう。無くなってしまった可能性だけど……〈赤毛の女海賊〉の姿を見たから、思い出してしまったのか。

 ……でも。

 と俺が口を開きかけると、ジョアンさんは少し笑って、それから、頭を振った。

「わかってるさ。その代わりお前とは出会わなかったかもしれねえ、ってことはな。……もしどっちかを選べたんなら、昔の俺なら何も迷わず、大艦隊の提督になるのを選んだだろうが……」

 ジョアンさんの笑みは、これは、苦笑だろうか。何か、いろいろな感情がない交ぜになって、ようやくぎりぎり、笑顔が勝った。そんな感じの顔だ。

「今の俺なら言えるさ。……お前と出会えたこっちの航路も悪くなかった」

 そう言った顔は本当に真剣なものだった。

 でもそれが長く続くことはなく……

「なんてな。まあ……酒の肴さ」

 すぐにまた苦笑に戻ったジョアンさんは、がしがしと頭を掻いた。

 

       *

 

 ジョアンさんと港で別れて酒場に向かうと、会合はもう始まっていた。……まあ、ほとんど飲み会なんだけど。

「おー、リオンさん! 遅かったじゃねーか! こっちこっち!」

 親方が声を掛けてきた。明らかに、もう飲んでいる。さっきの瓶もテーブルの上にあるな。ただ、栓はされている。まだ飲みきったわけではなさそうだ。

「よーし、リオンさんも来たから改めてカンパーイ!」

 いつも通り、真面目に会合をする感じじゃない。

「で、議題はー……あー、あれだ! あたしからの提案をはっぴょーする!」

 親方がそう言って立ち上がった。

 何だろう。海賊船かもしれない船の来航、シードラゴンの襲撃とあったから、正式に避難所を整備したいとか、そういう話かな。

 と思っていると……

「広場の銅像の近くに、リオンさんの偉業を刻む石碑を建てたいとおもーう! 一万年先まで遺るように、ひっじょーに頑丈なやつにする! 建造の費用は村人から広く寄付を募って、税は使わないよーにする! 以上!」

 あ……あーあー、その話があった。シードラゴンの件があってすっかり忘れてた。すぐに反論してやめさせないと――

「異議なし!」

 周囲からすぐさまそんな声が上がって、盛大な拍手。

 ……異議なし、じゃないよ。

「全会一致でけってーい! よし、じゃあ改めてカンパーイ!」

 いったい何度乾杯するのか。

「かぁんぱーい!」

 なぜか村の会合にネスケさんが紛れ込んでお酒を飲んでいる。まあ、会合といっても店を貸し切りにしてるわけじゃないから、そういうこともあるか。

 それはともかく、反論するにしても今ここでは多勢に無勢。ここは一旦流しておいて、具体的に動き始める前のどこかで広場への石碑建立を禁止する命令を出そう。それがいい。

「いやー、今日はあのヘビ野郎も退治されてほんっとーにめでたい! リオンさんもじゃんじゃん飲んでじゃんじゃん食べてくれよ! リオンさんの分は奢るからさ!」

「そうですか。それじゃ、何か料理をいただこうかな」

 正直に言うと、空腹感はある。あれだけのちからを使えば腹も減るというもの。

 でも、この店で食べ過ぎないようにしないとな。館ではニーナも何か用意してくれてるかもしれないし。

 ……と思っているうちに、親方が大皿から取り分けてくれた。ちょっと多いけど今の空腹具合なら食べきるのは問題ないし、断るほどでもないか。なにより美味しそうだ。

 親方から皿を受け取って、空いている席に座る。ちょうどネスケさんの横。……いつ吐くかわからないから空いてるのかな……。

「パエリア、おしいそうっすー……」

 ネスケさんが俺の皿を見て、そんな感想を漏らした。ひたすら飲むばっかりじゃないんだな。そりゃそうか。

「ちょっと多いくらいなので、少しどうぞ」

 勧めるとネスケさんはにへらっと笑った後、自分のさじでそのパエリアをすくって食べた。

「あー、これは海の味っすねー、おいしーっすー」

 というのが、しまらない笑みを浮かべて口をもぐもぐさせた後のネスケさんの感想。海の味って。確かに魚介類が入ってるみたいだけど、そのことかな。

 やっぱり結構酔ってるな、これは。何か問題が発生しないうちに、場所を変えた方がよさそうだ。

 そう思いながら、俺もその料理をひとくち。

 それから、もうひとくち。

 そしてさらに、……ひとくち……。

 

 …………。

 

 味を、感じない……?



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味覚の変化

 大昔の誰とかという人の分類によると、人間には五感というものが備わっているそうだ。

 すなわち、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

 そのうちの二つ……聴覚と味覚に変化を感じている。

 この変化を単純に『一時的な異常』と片付けることはできない。

 俺の身体が人間から竜に変わろうとしている、その前兆だろうからだ。

 聴覚の変化に気付いたのは、冬の終わり頃だった。館の近くに現れた悪竜を追い払ったときだ。それまでも『人間の言葉を喋る竜』の話は理解できていたけど、『竜の言葉を喋る竜』の話がわかるようになったのはその時が最初だ。

 味覚に変化を感じたのは……つい昨日のことだ。

 

 酒場で、料理を食べた。その料理が何だったのかはさほど重要なことではないと思うけど、まあ、パエリアだ。一緒に食べたネスケさんは、酒飲みだから俺とは多少好みの差はあるにしろ、「美味しい」と言っていた。

 その料理の味を、感じなかった。

 理由には心当たりがある。

 俺の身体が竜に近付いていることのそもそもの理由は、俺が竜を倒しすぎたことだ。それで得た竜気(オーラ)が、身体を作り替えている、らしい。特に、竜の血を浴びたのが良くなかったみたいだ。

 その竜気(オーラ)が活性化しないように、なるべく気を付けてきたつもりだったけど……

 味覚に変化を感じた昨日、まさにその日に、シードラゴンと戦って、勝った。

 その敵の方も、これまで多くの竜を食ってきたと言っていた。元はウミヘビだったそいつは、すでに竜になっていた。

 そんな相手を倒したことで俺には大量の竜気(オーラ)が流れ込んできて、それで一気に変化が進んだ、というところだろう。

 不安はある。

 酒場でどの料理を食べても、味を感じなかった。右の料理と左の料理が『違う』ということは何となくわかるけど、今の俺にとってはそれが美味しいとか不味いとかには結びついていない。その程度の感じ方すらも、見た目からそう思い込んでいるだけかもしれなかった。

 俺にとって幸いだったのは、館で食べたニーナの料理は明確に『美味しい』と感じられたってことで、察するに、料理に含まれてる霊気(マナ)の量なんかが関係あるのかもしれない。

 そんなことを考えながら食べていたからか、食後のお茶の時間にニーナが声を掛けてきた。

「ねえリオン。もしかして、さっきの料理おいしくなかった?」

「いや、おいしかったよ」

 それは事実だから何をはばかることもない、という気持ちだったけど、

「そう? ……あんまり楽しめてないように思ったんだけど」

 指摘がそこまで及ぶと、正直なだけじゃ乗り切れないな。

 美味しいか美味しくないかで言えば、美味しかった。でもその美味しさが、今朝まで感じていたそれとは違う。

 ニーナが違和感を覚えたのは、俺がそういうことを確認しながらゆっくりと咀嚼してたからかもしれない。

「酒場でも結構食べちゃったからね。それに今日は疲れてるから、そう見えたんじゃないかな」

 俺が言ったのはどっちも本当の理由ではないけど、嘘ではないって程度の真実味は含んでる。

「そうだね。大変だったね」

 気遣う言葉に「うん」と頷いて、お茶をすする。……味はしないけど、熱いってことはわかる。もちろん、ニーナの入れ方が悪いわけじゃなく、俺の方の問題だ。

 こうなると、みんなにもちゃんと話した方がいいんじゃないかって気持ちも、ないではない。

 でもそうすると、きっと心配させてしまう。

 俺はみんながそれぞれ自分の目標に向かって頑張っているのを応援しているし、その歩みが俺の事情で遅れてしまうことを、他でもない、俺自身が望んでいない。

 ……まずは、霊峰の聖竜に相談してみよう。港の整備もひとまず済んだし、俺が数日程度ここを離れても大きな問題にはならないはずだ。

 本当は相談するのにもっと適した知り合いがいるんだけど、今どこにいるかわからない人をあてにはできないしな。

 そう思案していると、ニーナが手を打った。

「そうだ。そんなに疲れてるなら、お風呂の時に手伝おうか。背中とか洗ってあげられるし。濡れてもいい服で……」

 ……妙なことを言い出したな。普段だとそういうのはだいたいクレールやナタリーから出てくるんだけどな。ニーナがそんなことを言ってしまうくらい俺の様子がおかしいってことなのかもしれない。

「気持ちはありがたいけど、他のみんなが面白がって真似し始めると大変だから」

「そっか、そうだね……」

 ニーナなら節度を守ってやってくれると思うけど、他の子たちもそうだとは限らない。特に不安なのはユリアかな……。

 ともかく、ニーナの提案は実行には移されなかった。よかった、ということにしておこう。タオル一枚じゃ、身体の変化を隠しきれないかもしれないし。

 背中……自分じゃよく見えないな。

 まだ翼はないと思うけど。

 

 そんなやりとりを経て、今日。

 シードラゴンと戦って疲れがあったのは事実で、ベッドに入っても寝付けないなんてこともなく、ぐっすり眠った。

 朝の鍛錬のために起き出した頃には気力も体力も充実していて、昨日の違和感も単に疲れが原因だっただけなら今日は問題ないだろう、と楽観することもできた。

 ……朝食の時にはやっぱり味覚がおかしいことを実感したけど。

 こうなってしまったものは仕方がない。シードラゴン討伐は昨日やらなかったとしてもいずれ必要になりそうだったし、そうなれば他人に任せて見ているだけってのは俺自身が耐えられなかっただろう。何にしても俺が倒すことになったはずだ。

 だからそのことを悔やむより、今後どうするかを考えないと。

「近いうちに、神託の霊峰に行こうと思うんだけど、いつなら空いてるかな」

 みんなの今日の予定を確認する席で俺がそう訊ねると、ステラさんが小さく首を傾げた。

「特に急ぎの用事は無い。いつでも空けられる。そのはず。……しかし何故、神託の霊峰に?」

 理由を訊かれると、まだ正直には言えない。適当な理由が必要だ。もちろん、訊かれることはわかりきっていたから、あらかじめ考えておいた。

「シードラゴンを倒したから、一応、あそこの聖竜にも報告しておこうと思って」

「名前はシードラゴンでも、実態はウミヘビ」

 ……そういえば、ステラさんからはそう言われたきりで、そのウミヘビが竜気(オーラ)を溜めていた話はしてないな。そこを話すと、俺の身体のことも話さないといけなくなりそうで。

 用意していた回答が不発に終わって、どうしたものかと悩んでいると……

「いい。わかった。……私も行く」

 ステラさんがそう提案してきた。

 いや、提案というよりは「追求しないかわりに、連れて行け」ってことか。

「えっ、いいなー。僕も行きたい!」

「クレールは以前に行った」

 確かに、冬に行った時にはクレールが一緒だった。あの時もかなり駄々をこねてついてきたんだったな。そこを指摘されると、さすがのクレールも押し黙った。

「あ、私、行ってみたいです」

 続けて言ったのはユリア。

「神託の霊峰って、占いをしてくれるんですよね? 私も自分の身体のこととか、あと、運命の相手のこととか訊きたいです。昨日のシードラゴン討伐にも連れてってもらえませんでしたし、いいですよね?」

「確かに、冥気(アビス)を帯びている体質について、何か助言がもらえるかもしれないね」

 そういう事情もあるから、ユリアが一緒に行くことに明確な反対意見は出なかった。

 ただ、クレールがステラさんに「よく気を付けておいてよね」なんて言っていたのは聞こえた。ユリアは「やだなあ、大丈夫ですよ」と笑っていたけど、俺としても気を付けることにしよう。

「おみやげは、おにくがいいです!」

 ナタリーの要望はいつも通り。でももう夏だから、肉と言っても塩漬けや燻製になってしまうかな。生でも、その日の内に焼いて食べられる程度の量なら、大丈夫か。

 そんな感じで大まかな方針は決まった。とはいえ、霊峰まで往復すると順調にいっても四泊五日。それなりの準備が必要だ。今日すぐに出発というわけにはいかない。例えば、村の方に貸してる馬車と馬を使えるようにしてもらう必要がある。他にもいろいろ揃えないといけないな。

 久しぶりに旅をするってことには何となく開放感を覚える。と同時に、霊峰に行きたい理由のことを思うと、やっぱり少し気が重い。

 行けばきっと聖竜が何かいい助言をくれるはずだ。……そう信じたい。



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霊峰への旅

 予定通り、俺の他にはステラさんとユリアという、合計三人。出発は日の出前で、ユリアは少し眠そう……と思っていたら案の定、出発してすぐにはもう馬車の荷台で眠りこけていた。

 旅程は、前にクレールと一緒に行った時と同じ。

 まずは自前の馬車で北にある荒水の町に向かった。そこは大陸の東西を結ぶ天駆の街道が通っているから、ここでなら駅馬車が探せる。自前の馬車と馬は預けて駅に向かうと、雷王都市方面に行く馬車にちょうど「あと三人」と叫んでるのがあった。幌付きの八人乗りだ。牽く馬も大きくて元気そうだし、これに決めた。

「どうしてそのまま自前の馬車で行かないんですか?」

 馬車が出発してすぐの頃、ユリアが御者に聞こえないくらいの小声で不思議そうに訊ねてきた。でも、そんなに難しい理由はない。

「駅馬車の方が楽だから。乗ったら後は寝てても着くし」

「そのくらいの理由なんですか」

「御者台に半日いたら、俺がそう言いたくなる気持ちをわかってもらえると思うな……」

 硬い座席で腰と尻が痛いってのもあるけど、これは駅馬車の旅客座席も大差ない。

 理由の一番は、とにかく常に外気にさらされ続けるから大変だってことだ。春ならともかく、夏は暑いし冬は寒い。当たり前のことだけど。でもその当たり前の単純なことが一番の問題。

 駅馬車ならそこは専門の人に任せて、俺は座っているだけでいい。楽だ。もちろん、大変なことを駅馬車の御者が代わりに引き受けてくれているからだ。ありがたい。

「その分、俺は景色や会話を楽しむ余裕ができる」

 以前はどこへ行くにも基本的には徒歩だったことを考えると、領主になって少し贅沢になったかな、と思ったりもする。

「冒険の旅っていうより、旅行ですね」

 ユリアが言ったのは、まさにその通りで、俺はこれを冒険の旅だとは思っていない。ちょっと散歩に行く感じ。

 ……行先は、竜の営巣地として有名なところだけど。

 ちなみに、ステラさんの口数が少ないのは、乗り込んだら早速、持ってきた本を読んでいたからだ。

 

 乗り合わせた他の乗客もいい人ばかりで、街道は穏やか。空はよく晴れていて爽やかな風も吹く……。終始そんな感じで、内も外も大したトラブルなく、夕方には宿場町にたどり着いた。

 宿をどうするかと悩む間もなく、乗客全員が馬車ごと同じ宿に案内された。この宿には馬車にあるのと同じ屋号の看板があって、商売上手というかなんというか。その乗客全員が同じ大部屋に入れられたのはちょっと閉口したけど、衝立くらいはある。

 全体的にはまあ、文句を言うほど酷い宿でもない。特別に良いわけでもないけど、値段なり、と言える程度はあった。食事は、さすがにニーナの料理と比べるのは宿が気の毒だろう。

 翌朝、昨日の馬車は東にある雷王都市に向けて出発したけど、俺たちは別の馬車を探すことになる。神託の霊峰に行くには北に向かう馬車に乗らないといけないからだ。

 そっちの方へ向かうという馬車はすぐに見付かったけど、なかなか席が埋まらない。仕方なく、空席分の料金も俺が払うことにして出発してもらった。

 そうして街道を進む間も、神託の霊峰の偉容は目に入る。よく目を凝らせば、竜の姿も見える。あれは飛竜で、厳密にはドラゴンとは違う……ってのはステラさんの解説。ステラさんは何でも知ってるな。

 道中、馬車が魔獣に襲われそうになるトラブルがあったけど、俺が出るまでもなく、ステラさんが氷の術法の一撃で倒していた。

 毒蛇の、大きめのやつだった。ビッグバイパーと呼ばれている魔獣で、確かに普通のヘビと比べると十分大きいのは確かだけど、この近くに限っても他にもっと大きい蛇はいる。モンストラススネークとか。この前のシードラゴンもそうか。だいたい、近くに竜がいる土地なんだから、ビッグバイパーくらいならかわいげがあるとさえ思ってしまう。

 それでも馬車の御者や乗客には感謝された。もちろん俺じゃなく、一撃で倒したステラさんがだ。年若い、幼いとさえ言える少女が、大人の腕くらいの太さがあるヘビを一撃で倒したら、物珍しさもあるだろう。

「別に、大したことではない」

 無愛想とも言える態度でそう返したステラさんは席に戻って読書を再開したけど、俺の目には、ちょっと得意げな様子も見えた。……一応言っておくと、視覚が竜に近付いてるからじゃ、ない。

 

 霊峰の最寄りの宿場町につく頃にはちょうど夕方。街道沿いの宿場町同士を駅馬車で移動すれば、そうなるのは必然ってやつだ。

 宿は前にクレールと着たときにも泊まったところにした。

「あれ?」

 俺の顔を見て、宿の受付にいた女性が首を傾げた。

「以前にもいらした方ですよね」

「はい。半年くらい前、年が明けてすぐくらいの頃に」

 別に隠すこともないから正直にそう言ったけど、どうしたんだろう。再訪する人がいないってほど酷い宿とは思わないけど……

「いや、すみません。お部屋はご一緒で?」

「二部屋、お願いします」

「別に、一緒でいいですよ?」

「構わない」

 ユリアとステラさんがそう言うと、二対一になって押し切られてしまった。一部屋で済む方が安いのは確かだけど……うーん。とりあえず寝台がふたつに長椅子がひとつはあるから、俺が長椅子で寝るのは確定だ。

「さっきの人……」

 部屋に入って荷物を下ろすと、ユリアが呟いた。

「あれ絶対、こう思ってましたよ。『前の時と連れの女が違う。しかも今度は二人も。いったい何があったんだろう』って」

 ……そうか。そういう顔だったのか、あれは。

「あはは。でもクレールさんを置いて出てきたのは事実なんですし、新しいカノジョとの仲を深める旅ってのも事実にしていいんじゃないでしょうか」

 よくないけどね。

「私もいる」

 と、それはステラさんの訴え。

 そうだ。ステラさんがユリアの見張り役をクレールから依頼されてる以上、ユリアもあまり露骨な手出しは出来ないはずだ。

「私は半分ずつでもいいですよ? 二人で食べちゃいましょう。クレールさんには内緒にしとけば大丈夫ですって」

 ユリアが物騒なことを言ってステラさんを懐柔にかかった。ステラさんもすぐには拒否せず、頭の中でリスクとリターンを計算している様子……。

「…………成功させるには綿密な計画と準備が必要。そのはず」

 それは遠回しの拒否だけど、実際にそういう計画をステラさんが作ると俺は罠にかかってしまうかもしれない、という意味では安心できる言葉ではない。

「時には勢いも大事ですよ?」

 そう言って俺に視線を送ってくるユリアは、並みの魔獣よりよほど手強そうに見えた。

 

 ともかく、明日はもう神託の霊峰。ふもとのほこらまで行けば、上の方で気付いて、飛竜を迎えに寄越してくれるはずだ。

 霊峰の聖竜が、今度は何と言うのか。

 期待と不安でなら不安の方が多い、そんな夜を過ごすことになった。

 

       *

 

 神託の霊峰は決して観光地なんかじゃない。

 竜の営巣地として知られる場所で、数多くの竜がそこら中を飛び回っている。当然、おとなしい竜ばかりではなくて、悪竜も多い。不用意に近付いてきた人間は、やつらにとっては餌でしかない。

 それで、ふもと近くには監視所がある。竜の動向を監視すると同時に、霊峰に近付く人をも見張っているというわけだ。

 ここには主に雷王都市から派遣されてきた騎士たちが詰めているらしい。ただ、毎日竜の叫び声を聞いていると気が休まらないそうで、若手が送り込まれてきてはすぐに交代するってのを繰り返している。……と、この話をしていたのは雷王都市の将軍であるヴォルフさんだったから、たぶん本当のことだろう。

 そんな監視所の人に軽く事情を話して、通してもらった。普通はよほどの理由がないと通さないそうだけど、俺が名乗ると後はあっさりしたものだった。俺がこの霊峰で聖竜と戦って勝ったのは、雷王都市ではそこそこ有名な話だ。

 夏の旺盛な草木でほとんど見えなくなっていた山道を進んでいくと、目印になるほこらがあった。そこにある鐘を鳴らすと、迎えが来てくれるはずだけど……

「待っていましたよ、リオン」

 そこにはすでに二頭の飛竜と、それから、ティータさんがいた。



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星読みの宮へ

 神託の霊峰の中腹には星読みの宮という石造りの建物があって、星読みと呼ばれる人たちが住んでいる。大天空に浮かぶ星々の姿から未来を視て助言をしてくれるという、そういうちからのある人たちだ。

 その中でも特に能力が高く、若くしてその筆頭とされているのが、このティータさん。俺の冒険の仲間の一人でもある。

 とはいえ、本人は一歩引いた形で俺と接していた気がするな。何でも、星読みが自ら未来を変えようとするのは〈歪み〉に属する行為だとかで、禁止とまではいかなくても、本来なら避けるべきとされていることらしい。それでも、随分たくさん協力してもらった。

 一連の戦いの後は元の生活に戻って、星読みの宮で暮らしている。前にクレールと来たときにもここまで迎えに来てもらった。会うのはそれ以来だから、およそ半年ぶりか。

 俺より少し年上で、仲間内だとクルシスと歳が近いのかな。夜の闇を溶かしたような長い黒髪には星のような光沢もあって、神秘的な雰囲気を添えている。

「お久しぶりです、リオン、ステラ。それと――」

「あ、ユリアです。初めまして」

 ティータさんがステラさんと顔を合わせるのは邪神討伐の一党(パーティ)を解散して以来で、ユリアとは初対面だ。胸に手を当てて挨拶をしたユリアがそのまま自己紹介。

「危ないところをリオンさんに助けてもらって、今はリオンさんのところでお世話になってます。いろいろと」

 その内容はそんな風にあいまいなことだった。自分が〈歪みの御子〉だったことを一応隠しているみたいだけど……

 実は、関わった事件のことは俺が前に来たときに話しちゃったんだよな。だから、ティータさんもユリアの事情はだいたい知っている。

 聖竜やその巫女であるティータさんは、もしかしたら俺が〈歪みの御子〉であるユリアを助けたことを良く思わないかもしれない、とも考えたけど、実際に話してみたら、二人とも俺の決断を尊重してくれた。

「リオンの星のすぐ近くに、貴方の星も輝いていますよ」

 ティータさんがそう言ってユリアに微笑みかけたから、ユリアも安心したみたいだ。

「それにしても、どうしてここに? 合図の鐘はまだ鳴らしてませんけど」

「貴方が来ることはわかっていましたので」

 その言葉に、ユリアが驚く。

「えっ、星読みってそこまでわかるんですか。すごいですね」

 星読みは未来を視る力だ。それは知ってたけど、ここまでの精度があるとは、俺も初めて知った。

 なんて感心していると……

「監視所の人がのろしを上げてくださったので」

 ……なるほど。種明かしをされれば簡単なことだった。

「驚きましたか?」

 ティータさんの表情から察すると、どうも、わざと勘違いさせるような言い方をしてからかっていたらしい。そういう冗談を言うようになったなんて、初めて会った時とは随分変わったな……という感じはする。

 ともかく合流はできた。目指す星読みの宮はまだ上の方で、そこまでは飛竜で行くことになる。

 歪みの影響が強かったときには山中の洞窟を使って登ったけど、そっちは元々は人の通る道じゃなく〈奈落這い(アビスクロウラー)〉っていう巨大なイモムシの魔獣が掘ったトンネルで、今でも時々そいつと遭遇するっていうとても危険なところだった。

 飛竜での移動が復旧して本当によかった。

「リオンは飛竜に乗れますね?」

 言われて、俺は頷く。得意というほどではないけど、何度か乗って扱いは覚えた。放すと巣のあるこの霊峰に戻ってしまうから、普段の移動には使えないけど。

「後のお二人は、リオンの方とこちらにひとりずつ分乗していただくことに」

 飛竜は二頭しか来てないから、まあそうなるか。ティータさんがひとりずつ送り届けるよりは早い。

「あ、じゃあ私はリオンさんの方に」

 ユリアがさっと手を挙げてそう宣言したけど、ティータさんが止めに入った。

「まだ不慣れなリオンの方には、おとなしい方が乗られるのがいいかと」

 確かに俺の技量は、たびたび飛竜に乗っているティータさんほどではないだろう。同乗した人が「わー!」とか「ひゃー!」とか大騒ぎしたら気が散ってミスをしてしまうかもしれない……というのは、確かに。

「それって、私がおとなしくないって言ってるみたいに聞こえますよ?」

「ステラよりおとなしい自信がおありでしたら」

 ユリアは少し不満げだったけど、ティータさんが残るもう一人であるステラさんに視線を向けながら反論すると「うーん」と唸った。

「……さすがに、それはないかもですね」

 結局、俺の飛竜にはステラさんが同乗することになった。

 

 飛竜に乗って空の旅、と言うと何やら優雅に聞こえるかもしれないけど、そう感じられるようになるのは俺よりもう少し経験を積んでからだと思う。俺にはまだゆっくり景色を楽しむ余裕はない。

 ただ、前に乗った時より楽になった。

 星読みの宮の建物が見えて、そこに飛竜が降りられる広場を見付けると、ティータさんはうまく手綱を操ってそこへ向かう。俺の乗っている飛竜はそれについていく感じだ。よく訓練された飛竜だと思う。

 そしてそれだけでなく……

「さすがにティータさんは上手いな」

『私の方がもっとうまくできますよ。任せてください』

 ……誰かが俺の独り言に返事をした。ステラさんでは、ない。

 

『またのご用命をお待ちしております』

 そう言って、飛竜は飛び去って行った。

 ……うん、礼儀正しい飛竜だったな……。

 ステラさんにどう聞こえていたかはわからないけど、特に驚いている様子もないから、やっぱり竜への変化のせいで俺にだけ聞こえていたんだろう。

 一方、ユリアの方は飛竜を降りたところでへたり込んでいた。

「死ぬかと思いました……もし落ちたら死んでましたよね?」

「そうですね」

 ほんの短い間の飛行だったけど、相当怖い思いをしたらしい。初めてなら当然か。地面がみるみる遠ざかって、足下にはもう何もない、という中を風に煽られて左右に傾きながら飛ぶわけだから、それは怖くて当たり前だ。俺とステラさんは初めてじゃないから心の準備が出来ていたけど。

「毎年何人か死んでるんじゃないですか?」

 ユリアがそう言いたくなる気持ちはわかる。ただ、ティータさんは首を左右に振った。

「不慣れな人が飛竜に乗ること自体が滅多にありませんし、どちらかと言えば、乗る前に死ぬ人の方が多いのではないかと」

 ……飛竜は狭義のドラゴンからははずれた種で強さも控えめとはいえ、豚や羊くらいなら両脚で軽々と掴み、巣に持ち帰ってから引き裂いて食べてしまうという程度のどう猛さはある。しかもそれが一頭ではなく、群れをなしている。軽い気持ちで飛竜に乗ろうとすればどうなるかは、想像できる。

 神託の霊峰っていうのは本来、そういうところなんだよな。

 

       *

 

 星読みの宮はまだ中腹。ここから聖竜の寝所がある頂上までは、まだ険しい山道を登っていく必要がある……のは確かなんだけど、今回は聖竜の方が中腹まで降りてきてくれていた。

 星読みは前回と同様、ひとりずつ聞くことになって、まずは俺が案内された。

「まだ明るいですけど、星読みはどうするんですか」

 案内される道すがら、ティータさんにそう訊ねると……

「リオンの星は定期的に見ていますが、やはりよく見通せない状態のままなのです。周囲の……貴方の仲間たちの星を見て、貴方のこともおおよそは把握できているつもりですが、完全ではありません。今夜まで待ってもそこは同じことかと」

 という返事をもらった。なるほど。

 確かに前に来たときにも、俺の未来は見通せなくなっていると言っていた。その時から状況は変わっていないわけだ。

 ……俺の身体の異変については、星読みをあてにはできないな。



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聖竜との対話

 石造りの建物の最奥。大扉を越えた先の廊下を抜けると、ただ石畳が敷かれただけの、屋根もない広場がある。

 頂上にある聖竜の寝所に見立てて造られた場所。

 上のものと同様、ここも星見の間と呼ばれていて、夜になればここから満天の星空を見ることができるようになっている。もちろん、星読みのためだ。南側の空が少し見えにくいから、精度が必要なときにはやっぱり頂上まで行くらしいんだけど。

 そのだだっ広い空間に、聖竜がいた。鳥に似た翼がなければ巨大な犬にも見えそうな、真っ白な毛に覆われた生き物だ。他の竜たちよりさらに一回り大きいくらいだから、顔が犬みたいでも迫力はある。

 総じて他の竜とは違う雰囲気があって、これが聖竜ってものかと思う。犬みたいだけど。

 その聖竜とティータさんに、数日前にシードラゴンを倒したことと、俺の身体に出始めた変化について話した。

 聖竜はしばらく無言で、俺をじっと見つめてきた。

『……確かに、竜気(オーラ)が増しておる。そなたを竜と思うものがいても仕方あるまいな』

 聖竜ともなれば、そういうのは見てわかるのか。いや、竜だったら竜気(オーラ)が見えているものなのかもしれない。あのシードラゴンも、俺をというよりは竜気(オーラ)を見ていたようだったし。

 まあ、竜に間違えられるくらいになってるのは、聖竜から見ても確からしい。

「以前に忠告を受けてなるべく戦いから離れていたんですが、どうしても戦わないといけなくなって」

 言い訳がましいとは思いつつ、俺はそう付け加えた。

 ただこの聖竜は、最初から俺が竜になるのを止めようとはしていない。だから返事もあっさりしたものになる。

『力あるもの同士はいずれ衝突する。それも世の道理であろうよ。そこから外れるというのならば、相応の努力と我慢は必要であろうな』

 我慢が足りない、と言われているわけだけど、事実だから反論のしようもない。ただ、どうにも納得いかない部分もあって、そこは訊いておくことにする。

「戦いから離れていればいずれは竜気(オーラ)も遠のく、と言われましたけど、そうやってどのくらいの時を過ごせばいいのか、なるべく具体的に教えてもらいたいんですが」

 思えば、これも前回訊いておくべきだった。

 我慢するのはとにかくがんばるにしても、いつまで続ければいいのかはっきりしないままなのは、どうも落ち着かない。

 すると聖竜は『こふぅ』と息を吐いて肩を揺らした。……笑ってるのかな、これは。

『せっかちなあたりを見ると、その心はまだ人間のようだな』

「笑い事じゃないですよ」

 心まで竜になってしまう前に、何とかしたいんだけど。

 その気持ちを視線に込めると、聖竜は咳払いにも似た吐息(ブレス)を空に向かって吐いた。

『確かに、人の心こそはそなたのちからの源であったな。人同士の繋がりによって、そなたは竜をも越えるちからを発揮するのであった』

 それはかつてこの聖竜自身が言ってくれたことで、俺も納得した話だ。ただ……

『そのちからを失いたくないと望むのも当然のことであろう』

 聖竜のその理解は、ちょっと違う気もする。

 自分が自分じゃなくなるかもしれないっていう不安、もしくは、恐怖。言葉にすれば、そんなところだ。

 竜は、そういうこと考えないんだろうか?

『質問の答えだが、さて、このように時間を掛けて変化した例を知らぬので、そなたをその最初の例とするところよ。ゆえに、今は語る言葉を持たぬ』

 ……うーん。肝心なところであてにならない。

『いずれにせよ、そう努めても竜気(オーラ)が増えてしまうようでは、変化は止められぬ。いつまで我慢するかではなく、いつまでもつかということになるな。竜となった後のことを考えておく方が有意義ではないか?』

 この聖竜は確かにちからのある竜で俺も何度か助けられたけど、基本的に人間にあまり興味がないみたいだって気はする。俺が人間から竜になるとして、それの何が問題なのか、とまあそんな感じだ。

 ただ、だからこそある意味では冷静な意見でもあって、俺としても真っ向からの反論はしづらい。

「じゃあ、もう少し、知っていたら教えてほしいことがあるんですが」

『ふむ。何を訊きたいのだ』

 以前にここに来たときに聖竜自身も言っていた。竜になっても人化して暮らすことはできる、って。

 そのことを相談するなら、この竜よりも信頼できる人がいる。

 どこにいるのか知らないだけだ。

「ヴァレリーさん……〈蒼空を征くもの〉の居場所を」

 

 ヴァレリーさんとは異界での冒険で知り合った。

 クレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイさんとは古くからの付き合いだそうで、クレールはその人のことを「ヴァレリーおじさん」と呼んでは「お兄さんだ」と訂正されていた。実際、見た目は二十代くらいに見えたな。

 その正体は〈蒼空を征くもの〉という名の古竜で、普段は人の姿で暮らしていると言っていた。

 今の俺にとって、あの人以上の相談相手はいない。

 ただ、その冒険の後で、ヴァレリーさんはルイさんを心配して街に残り、俺は邪神討伐に向かって……と、行動を別にすることになった。再会を約束はしたけど、それ以来、まだ会えていない。そもそもどこにいるかもわからない。

 ルイさんが回復したのを見届けてから旅立った、というのが仲間内で目撃された最後だ。ルイさんもその後の行先は知らないらしい。

 でもこの聖竜なら知っているかもしれない。

 

『あれは天突く槍の山にいる。あれの故郷だ。だが、人の身ではとてもあの山は登れまい』

 聖竜の答えはそれだった。

 ティータさんの補足によると、雷王都市よりももっと東にある山だということだ。飛竜で近くまでは行けるけど、その名前の通り槍のように鋭く切り立った山容は降った雪が積もらず滑り落ちるほどで、人が降りられる場所があるかどうかというと難しいという。

『会いたければあれをここに呼ぶ方が良いだろう。我が呼んでも来はせぬが、そなたの呼びかけになら応じるやもしれぬ。使いを送るとしよう。距離だけならば飛竜にとってはさほどでもない』

「その返事は、いつ頃に?」

 距離以外のところで時間がかかりそうだ、という含みを感じた俺が具体的な数字を要求すると、聖竜は少し唸ってから、口を開いた。

『せっかちなそなたのために、明日のうちには何らかの報せを持ち帰らせよう』

 言い方はともかく、そうしてくれるのはありがたい。

 館に帰るのは予定より遅くなってしまうけど、旅にはそういうこともつきものだ。数日延びる程度なら、俺が留守の間はクレールやニーナがうまくやってくれるだろう。

 

       *

 

 聖竜が放った飛竜がヴァレリーさんの情報を持ち帰るのを、この星読みの宮で待つことになった。まあ、ステラさんとユリアの星読みのためにどうせ夜まで待つわけだから、一晩ここに泊まるのはもともと確定的ではあったけど。

「みなさんには、まだ話されていないのですね」

 聖竜から離れて星見の間を出る直前、ティータさんが立ち止まって、口を開いた。

 口調からすると、それは質問ではなくて確認だ。俺の星が読めなくても、仲間達の星を読めば俺のこともある程度はわかると言っていた。確かにこれほどの重大事を誰かに話せば、まったく影響がないってことはさすがにありえない。その程度にはみんなから気にされてると思っても自惚れではないだろう。

「話した方がいいと思いますよ」

「それは、星読みですか」

「いえ。私の個人的な意見です」

 普段あまり自分の意見を出したがらないティータさんでさえそう口を挟みたくなるくらい、ということだろう。

「竜神も言っていましたが……貴方の強さ、その重要な部分を占めているのは、仲間の力を借りられるということです。そのことはどうか忘れないでください」

 言われるまでもない、というところだけど……

 ティータさんの先見の明は、俺からすればほとんど魔法みたいなもの。何しろ、故郷の村から雷王都市に出てきたばかりでまだ何も成し遂げていなかった頃の俺を見付けて、道を示してくれた人だ。クレールあたりが思い付きで言うのとはわけが違う。

 そのティータさんが、俺に勧めてくれていることだ。

 ヴァレリーさんに話を聞いても解決の糸口がなければ、いよいよみんなにも話すべき時なのかもしれない。



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霊峰の景色と食事

 星読みの宮の端にあるテラス。さすがに霊峰の中腹となると、視界を遮るほどの木々や山はなく、はるか遠くまで見渡すことができる。近くを竜が飛ぶのも見える。その中にはいかにも悪竜という風情のやつもいるけど、ここには聖竜の守護があるから襲いかかってはこない。

 ティータさんは席を外している。星読みが出来るようになる日没まで間があるから、「ささやかながら」夕食を用意してくれるそうで、その準備に行ってしまった。あまり盛大になるようなら断るつもりだったけど、こういう時の夕食は普段清貧に過ごしている星読みの人たちにとってもたまの楽しみだそうで、そういうことならとお言葉に甘えることになった。

「日が落ちるまで暇ですよねえ。もう少しゆっくり来ても良かったんじゃないですか?」

 ユリアは石のベンチに腰掛けてそんなことを言っていた。

 言いたいことはわかる。でも、ここまですんなり来られたのはたまたまだ。この星読みの宮自体はともかく、道中は必ずしも安全じゃないから一体どんなトラブルがあるかわからない。冒険慣れしていないユリアを連れたまま山中で野宿ってことになる可能性もあった。早めに出発して早めに着いた。いいことだ。

「ここ、いい景色だと思うんだけど」

 俺が言うと、ユリアは「それはそうなんですけど」と言ってため息をついた。

 長い銀髪と紺色の襟巻きが風になびいている。そのくらい、風が強い。今が夏だってことを忘れそうなくらいに冷たい風だ。

「雲海っていうんですか? 確かに綺麗なんですけど、雲しか見えないんですよね」

 ……確かに、今日の天気だと、そうだ。

「雷王都市の方に不自然な雲が立ちこめてるのも最初は面白かったですけど、ずっと見てられるってほど雲好きじゃないですね、私」

 この東にある雷王都市の上には確かにユリアの言う通り明らかに異常な大きさの雲があって、前にここから見た時にもあった。雷王都市に雨を降らせている原因の雲らしい。

「本来、あの場所にあれほどの雲が常時留まるはずがない地形。非常に興味深い」

 ステラさんはその雲を観察しているだけで夜まで暇を潰せそうだけど、ユリアはそうでもないみたいだし、俺もたぶんそうだ。

 と、ユリアが「そうだ」と手を叩いた。

「頂上に行く洞窟を探検するのはどうでしょう。中にもドラゴンとかいるんですよね? リオンさんがかっこよく戦うとこ、見たいです」

 無茶なことを言ってきたな……。戦って勝てるかどうかで言えば、勝てるけど。

「さすがに危ないよ。やめておいた方がいい」

 ありきたりだけど一番常識的な理由を挙げて、俺はユリアの冒険心を諫めた。

「そりゃ、ドラゴンなら倒せるけど。あそこの危険はそれだけじゃないから」

「他にも何かいるんですか?」

 そりゃあ、いろいろいる。ドラゴンが数多く棲んでいるところだから、当然、ドラゴンの餌になるようなやつらだってドラゴンの何倍もいる。そしてそいつらも、普通の人間の基準からすると十分に強い魔獣だったりする。俺ひとりならともかく、ユリアの安全までは保証できないかもしれない。

 ――ということを説明すると、ユリアもわかってくれた。

「〈紫電(マッドサンダー)〉の試し撃ちにちょうど良さそうかなって思ったんですけど」

 ……軽々しく試し撃ちとかしていいものかどうかは、この際置いておこう。

「それとあともうひとつ、魔獣以外にも気になることがあって」

 俺がそう言うと、ユリアは「何です?」と首を傾げた。

 実のところ、アレが何なのか俺も全貌を知っているわけじゃないけど。

「これより上に進むと、悪いまぼろしを見ることがあるんだ。仲間内では『悪夢の霧』とか、単に『霊峰の霧』とかって呼んでる……」

「えっ、怪談ですか?」

 ユリアがそんな反応をするのも当然か。確かに妙な話ではある。

「それがね、実際に起きたことなんだよ。俺も見たし、他にも何人かが遭遇した」

 そうでなければ俺だってユリアと同じような反応をしたかもしれない。

「見たもの自体はみんなばらばらだけど、過去の不安や恐怖を記憶から掘り出されて突きつけられるような、そんなまぼろしってことは共通してた」

「えぇ……そんなのがあるんですね」

「でも、あれの原因が何なのか俺たちもよくわかってないんだよね。だから対処が難しい」

 ティータさんは、あの頃の聖竜を蝕んでいた〈歪み〉のせいで起きたんじゃないかって言っていたな。この霊峰にあれほどのことを起こせる存在は聖竜しかいないって。

 ただ、正気に戻った聖竜本人には心当たりがないらしくて、真相はわからないままだった。実際にその時の聖竜と戦った俺としても……歪みに蝕まれていてさえ、聖竜は神聖属性の魔術や煌気(エーテル)による天術を繰り出してきた。人の過去の絶望を掘り出すような陰湿な感じではなかったんだよな。

 まあ、原因はともかく、そういうことが起こったところだってことだ。

「怖いですね。過去の不安や恐怖って、心当たりがありすぎて……しかも、どれが来ても嫌な感じです」

 そう言って両手で自分の肩を抱いたユリアは、霊峰の洞窟へ探検に行くのは諦めてくれた。

「しょうがないから、雲でも見てます。ステラさんに解説してもらったら私も雲のこと好きになれるかも」

 それは……どうだろう?

 

       *

 

 みんなで「ささやかな」夕食をいただいた。ただ、俺たちよりも星読みの人たちの方がたくさん食べていた気がする。ナタリー並みに食べていた人もいたな……所作はナタリーよりもずいぶん穏やかだったけど。

「この後の星読みで何を言われるか心配すぎて、あんまり入らないですね」

 と言ったのはユリア。だけど、そんなに食欲がないようには見えない。それどころか、結構なハイペースで食べているようにも見える。

 まあ、三人分の星読みのために『寄付』した金額を思えば、ここでわかりやすく取り返しておこうという気持ちもわかる。

 とはいえ、ステラさんが相変わらずの小食だってのを差し引いても、食事だけじゃどうやったって元は取れない。あんまり気にしても仕方ないな。

「みなさん。その肉のことですが……」

 ティータさんが皿のひとつを示した。確かに、肉だ。厚めに切って焼いたものがドンと乗せられている。一人で食べる量じゃないな。切り分け用のナイフもあるし。

「これが何か? 美味しそうに焼けてますけど」

「ドラゴンの尾の肉です」

 ……言われなかったら食べてたところだった。そうならないように教えてくれたわけか。実際、どのくらい影響があるかはわからないけど、避けられるなら避けた方がいいな。もちろん、身体に溜まっている竜気(オーラ)への影響の話。

「ドラゴンって食べられるんですか」

「俺が前に食べたときは固くてとても食べられたものじゃなかったけど」

 驚いた声をあげたユリアに、俺は自分の体験談を話した。もっとも、俺の時は自分で適当に切り取って焼いただけだった。臭みがあって固かった思い出だ。

「時々、竜神が退治した悪竜を食材として提供してくださるのです。適切な処理をすれば美味しく食べられますよ。食べれば寿命が延びるとも言われていて、高級食材となっているそうです。霊峰には無謀な猟師が来ることもあります」

 生きて帰る人はほとんどいませんけど、と最後に付け加えて、ティータさんは薄く笑った。食うか食われるか、まさに弱肉強食だ。

「んー、鶏肉みたいな味ですね」

 早速食べてみたユリアがそう言うと、普段はあまり肉を食べないステラさんも好奇心に押された様子でそれを口に入れた。

「……ドラゴンの荒々しさに似合わない、あっさりした味と言える。美味。興味深い」

 ステラさんもそう言うくらいだから、実際美味しいんだろう。前にミリアちゃんも食べたがってたな。真夏の暑さの中だから、お土産に持って帰るわけにはいかないだろうけど。

「リオンさんは食べないんですか?」

 その美味しいドラゴン肉ってやつ、確かに俺も食べてみたいけど……

「……今は肉の気分じゃないかな。こっちの果物をもらうよ」

 竜気(オーラ)のことさえなければなあ。



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二人の星読み

 星読みにはまずステラさんが呼ばれていった。俺とユリアは星見の間の外のテーブルで待つ。

「やっぱり不安なので、しばらく手を握っててくれませんか?」

 ユリアがそう懇願してきたから、言う通りにした。握った手は確かに少し震えていた気がしたし、普段と比べると口数も減ってる感じはする。不安だっていうのは嘘じゃなさそうだ。

 日が落ちて、この場を通り抜ける風も冷たさを増した。冬に来たときよりはマシなはずでも、薄着になっているから、やはり肌寒さは感じる。ユリアの震えはそのせいでもあるかもしれない。

「正直に言うと、私の冥気(アビス)のことをなんて言われるか不安なんです。わかってくれます?」

「うん、わかるよ」

 俺も竜気(オーラ)のことがあるから、わかるつもりだ。もちろん、ユリアの場合は『穢れた霊気(マナ)』とも言われる冥気(アビス)のことを聖なる竜に相談することになるわけだから、不安はさらに大きいだろうけど。

「まあ、悪いようにはしないと思うよ。俺の仲間だって紹介してあるし……」

「もしも」

 俺の言葉を遮って、ユリアが口を開いた。

「……もしも、聖なる竜が私を邪悪なものと決めつけて殺してしまおうとしたら、リオンさんは、どうします?」

「その時は聖竜と戦うよ」

 そのことには迷いはないから、即答した。

「いいんですか? そんな軽々しく」

 自分で訊いたくせに、ユリアは呆れた様子で苦笑した。

「ユリアは俺の仲間だから、傷付けようとするやつがいたら、その相手が聖竜でも戦うよ。もちろん、そうはならないとも思ってるけど」

 だからまあ、口約束に過ぎないってことでもある。

 ただ、あの聖竜とは前に一度戦ってる。それを考えれば、もう一度戦うことになったとしても、そういう流れなら仕方ない。あの聖竜とまた思いっきり戦ってみたいっていうのも、まあ、理由のひとつではある。……ユリアには秘密にしておくけど。

「やっぱり、リオンさんといると安心します」

 自分の指を俺の指に絡ませて、ユリアが言った。

 そして、ため息。

「あーあ。リオンさんのこと、独り占めできたらなー」

 その願いはちょっと簡単に叶えてあげるわけにはいかないから、俺は苦笑を返すしかない。

 しばらくそんな風に他愛もない話をしていると、ステラさんが星見の間から戻ってきた。

「どうでした?」

 俺より早くユリアがそう訊ねると、ステラさんはあまり表情を変えずにただ一言。

「……普通」

 とだけ言った。

 それだけじゃよくわからない……と俺は思ったけど、ユリアの方は少しほっとした顔になった。

「悪いことばかり言われるわけじゃないんですね」

「……うん」

「ちょっと安心しました」

 そう言うユリアとは対照的に、ステラさんはどうも落ち着かない様子だ。付き合いの浅いユリアは気付いていないみたいだけど……声も何となく元気がない。

「次は私の番ですね。……よし、行ってきます!」

 繋いでいた手を離してユリアは立ち上がり、星見の間へ歩いて行った。

 大扉のところにはティータさんが立ってこちらに視線を向けていて、どうも……ステラさんを気に掛けているのか。そんな気がする。

 やっぱり、星読みで何かあったのか。

 ユリアとティータさんが星見の間へ入っていった後、ステラさんは俺と隣り合って座った。

 表情を見ただけでは、何を言われたのかまではわからないけどきっと何か良くないことを言われたんだろう。心配だし、話を聞いておきたいけど、さて、どう切り出そうか。

 そう悩んでいると、ステラさんがぽつりと口を開いた。

「……手」

 手? 手について、何か言われたんだろうか?

 視線を向けると、俺の前にステラさんは手を差し出した。手は、普段と特に違わないように見えるけど……

「ユリアと手を繋いでいた。私にも繋ぐ権利がある。そのはず。その権利を行使する。今」

 ……ステラさんの言い回しとしては素直な方か。

 星読みで何を言われたのかはわからないけど、やっぱり不安なんだろう。

 俺がステラさんの方へ手を差し出すと、ステラさんも手を伸ばしてくる。そうした手を一旦戻して少しためらってから、結局は握った。

「迷い、葛藤、逡巡……」

 いくつかの単語を、ステラさんは並べた。すっきりしない心の様子を感じさせるものばかりだ。

「何かあったんですか」

「うん。……内容を貴方に話すべきかは検討中」

 それ以上の言葉は続かなかった。握った手からも特に変化は感じない。いつも通りの、少し冷たい手だ。そして、俺の手よりずっと小さい。俺の手だってそんなに大きいわけじゃないのに。

 体の大きさと心の強さは必ずしも一致しないものだし、ステラさんは見た目のか弱さと比べると心の方はずっと強い。普通の人なら目にしただけで足がすくむような魔獣と何度も戦ってきたし、その冷静な判断には俺も何度も助けられた。

 自分の問題に自分ひとりで立ち向かってもきちんと処理できるかもしれないけど……

 前に来た時にクレールが言っていた。他人に話すと星が変わるかもしれない、って。クレールは自分の幸運を逃さないために秘密にするとも言っていたけど。

 逆に言えば、何か悪い話だったなら、いい方に変えられる可能性があるってことだ。

「もし俺が役に立つなら、遠慮なく頼ってください」

 俺がそう言うと、ステラさんは「うん」と頷いて、手を握るちからをほんの少しだけ強くした。

 

 ユリアが戻ってくるのには少し時間がかかった。

 抱えている事情が事情だから少し心配していたけど、特に怪我をしたとかではなさそうだ。

 ただ、その表情は暗い。

「ごめんなさい。私、ひとりで試練の門っていうのに挑戦することになっちゃいました。それやらないと死ぬんだそうです、私」

 死! と驚いたけど、隣にいたティータさんが冷静に補足するには、

「試練をこなせばより安定するというもので、やらなかったからといってそれが原因で死ぬというわけではありません」

 ということだった。そう言われれば、だいぶ意味合いが違う。まあ、やった方がいいってのは確かか。

「でも、ひとりでというのは?」

「彼女自身のちからを高めるのが目的なので、他人の手助けを受けると適切な効果が得られません」

 それは、そういうものと言われれば納得するしかない。俺も魔剣技を得るために一人で試練に挑んだことはあった。細部は違っても理屈は同じか。

「それで、やるつもりなんだね?」

「はい。一応、やれるだけやってみます。帰るのが少し遅くなっちゃいますけど、リオンさんたちはどうします?」

 ティータさんによれば、この星読みの宮にも休める場所はあるから、数日泊まる程度は大丈夫らしい。それ以上に延びると、下界の人間だと暇すぎて耐えられないそうだけど……。

 俺には幸い、ステラさんという話し相手がいるから、困ることはないだろう。

 その、ステラさんだ。

「私も行くべきところができた」

 背筋を真っ直ぐにして顔を上げ、ステラさんはそう切り出した。

「この霊峰から遠くはない。飛竜で行けばさほど時間はかからない。そのはず。……リオンが一緒だと助かる」

 飛竜。確かにステラさんは乗り慣れていないしティータさんはここを軽々しく離れるわけにはいかないから、俺がついていくのが一番いいだろう。

「じゃあ別行動ですね。済んだらここに集合ってことで」

 ユリアがそう提案して、誰からも異論はなかった。

 

 ティータさんから竜笛を渡された。比較的小さめの角笛に見えるけど、竜の牙を加工したものらしい。これを思いっきり吹けば、人を乗せる訓練を受けた飛竜を呼ぶことができるそうだ。もちろん笛の音の届く範囲ということで、実質、この霊峰の周囲でしか使えないわけだけど。

「ステラさんの行きたいところって、どこですか?」

 行きの飛竜を貸してもらい、空の寒さへの十分な備えをしてその背にまたがった。ステラさんは俺の後ろに乗って、俺の胴に腕を回している。

 あとは行先だ。おおまかに『北西の方角』とは言われてるけど、雷王都市とは反対側になるから、どんな土地なのか俺はよく知らない。

「訂正を求める」

 背中の方から、ステラさんの声が聞こえた。

「行きたいところではない。行くべきところ」

 つまり、行きたくはないのか。ユリアの方も試練とか言ってたし、ステラさんのもそんな感じなのかな。

「魔獣の被害が確認されているそう。放っておけないので行く」

 なるほど、人助け。それも緊急に、という感じだ。

 ただ、疑問は残る。

 魔獣はどこにだっている。どうして今回の魔獣だけを、ステラさんがそうまで気にする必要があるのか。

「星読みで言われた。私の心の弱さ。私一人ではそこへたどり着くことはできない。貴方のちからが必要」

 さっき、話すべきか悩んでいると言っていた、ステラさんの星読みのことか。

 そこまで話してもまだためらっている様子が、背中の方から伝わってくるけど……

 やがて、小さな小さな囁き声で、行先が告げられた。

「……故郷。私の」



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襲い来る脅威

 神託の霊峰の北西。近くを通っている大きな街道は『芽吹きの街道』というもので、霊峰の西側を南北に貫いているそうだ。クレールの故郷である輪廻鳥の街や、ペトラの先祖が住んでいたっていう白風の町なんかがその上にある。

 そういう話を、飛竜での移動の間、ステラさんがあれこれ語ってくれた。ステラさんにしては饒舌なのは、空の旅の緊張からか、それとも故郷への不安からだろうか。俺の腰に回されたステラさんの腕からも、少し震えが感じられた。いつも冷静なステラさんにしては珍しい。

 今回の目的地はその街道よりももっと霊峰に近くて、大きい街道からははずれている。その意味では竜牙の村とも似たところがあるな。さほど大きくない村だ。

 村の人たちを驚かせないようかなり離れたところで飛竜を降りて、そこからは徒歩。少し距離はあるけど、昼前には着くだろう。

 村へと向かう間に、ステラさんから改めて話を聞くことができた。

 

 ステラさんは幼い頃、両親に捨てられた。

 一番の理由は、その黒髪と赤目が両親のどちらとも似ていなかったことだという。

「私の存在が原因で家の中は荒れていた。父だった男は、母だった女の不貞……つまり浮気を疑ったのだと思う」

 というのは、ステラさんの推測だけど……そう疑念を持つのも無理はないか。もちろん、そうだとしてもステラさんの責任じゃない。

「それでも男はなるべく良い父であろうとしていたようではあったし、多くの場合は実際にそうだった。女は私を放置したりせず育ててくれた。あの日までは、そうだった」

 ステラさんは淡々と話す。俺はそれを黙って聞きながら歩いた。

「私が六歳の頃のある日、ささいなことから始まった喧嘩で男は怒鳴り、女は泣き、やがて、男の両手が私の首に添えられた。私が森へ捨てられたのは、その夜のこと。しかし、それはむしろより確実な死から私を遠ざけようとする女の配慮だった。そのはず。だから、恨んではいない。その時まで私を育ててくれたことには感謝しているし、その対価を支払えていないことは心残り」

 ステラさんが語ったことは、ステラさん自身の願望を多分に含んだ見方であるとはいえ、すでに遠い昔に終わったこと。わざわざつらい見方を押しつける必要もないだろう。俺ならそう言える。

 でも、ステラさんがこうして故郷に足を運び、その結果、両親と会うことがあれば。

 成長したステラさんの目で、過去を冷静に判断したら。

 その時には違う側面が見えてくることもあるかもしれない。

 そしてそれは、ステラさんの『幻想』とは違うものかもしれない……。

 

       *

 

「ここが?」

「そう……故郷。そのはず。……覚えがある。この向こう」

 ステラさんの案内で進むと、小道の向こうに確かに集落があった。

 ただ、遠目にも少し異様な雰囲気が目に付く。前の領主の圧政を受けていた頃の寒寂の村と似た感じだ。

 具体的に言うと、例えば、村の周囲に即席の柵があることだ。柵の隙間からは先の尖った木製の杭が延びていて、魔獣対策のために作られたものだと想像される。それに……

「誰だ! この村に何の用だ!」

 こうして、怖い顔の門番が二人も立っている。平穏なときならここまでの反応はしないだろう。

 魔獣の被害があるとは聞いていたけど、これほどとは思わなかったな。

「道に迷った。水と食料を少し分けて欲しい。見知らぬ旅人に対して警戒心は当然。村の中まで入らなくても良い」

 ステラさんが何食わぬ顔でそう嘘をつくと、門番二人は顔を見合わせた。

「子供二人でか?」

「子供ではない。二人とも成人している」

 成人の定義は土地によって違うと思うけど、竜牙の村では十五歳なら一応成人だ。その点では、ステラさんの言い分は間違っていない。

 門番の男二人は、見たところ、装備は貧弱で練度も高くない。おそらく戦いを専門としている人ではなくて、普段は農作業に従事している人たちだろう。たぶん、竜牙の村の自警団の方が、経験もあるぶん強い。

 魔獣の被害があるのに門番がそうってことは、かなり状況が悪い。そのくらいの察しはつく。

「物々しい雰囲気ですけど、何かあったんですか」

 俺がそう訊ねると、門番の一人が頷いて事情を話してくれた。

 要約すると、少し前に大きな虫の魔獣がこの近くで目撃されて、やがて家畜が襲われ、先日ついに死者が出た。それで警戒を強めているらしい。いつ襲ってくるかわからないから、気が休まらないそうだ。

 どんな魔獣なのか訊ねてみると、人間の大人より大きいくらいの虫で、全身が固い殻で覆われていて、毒を吐き、大きく強力な顎は木製の盾くらいなら真っ二つにしてしまうという。

「それって……」

「おそらく、ストライキングシザー」

 ステラさんが推測した魔獣は、俺が思い浮かべたものと同じだった。

 確かに、恐ろしい魔獣だ。しっかり武装した冒険者たちでさえ、駆け出しばかりだと苦戦は免れない。こいつ一匹を四、五人がかりで倒せてようやく初心者卒業、というところだ。俺も以前は苦戦した。村の自警団くらいだと歯が立たないのも無理はない。

 とは、いえ。

 今の俺とステラさんにとっては大した相手じゃないのも確かだ。

 ステラさんが要求した水と食料は相応の値段で売ってもらえることになって、俺たちはそのまま門の外に待たされた。

 一人残った門番は、疲れ切った表情で椅子に座り、大きなため息をついた。

「あんたたちが討伐隊の人だったらよかったのにな。救援要請はとっくにしたのに、討伐隊はまだ来てくれないんだ。でもきっと、二、三日のうちには……」

 その言葉は、どうも本人がそう信じたがってるだけで根拠はないように思えた。

 

 変化が起きたのはそのすぐ後のことだった。

「……来た」

 ステラさんが顔を上げると、直後に村の鐘が打ち鳴らされた。

「西に魔獣が見えたぞ! みんな集会所に避難しろ! 急げ!」

 見張り台からだ。その声で、村の人たちが慌ただしく動き始めたのはここからでもわかった。門番も慌てて椅子から立ち上がって、槍を握り直している。

「あんたたちも早く避難した方がいい! 村の集会所まで案内するから!」

 この状況で見知らぬ旅人にもそう言えるのは、この人の人柄を感じるな。

 ただ、俺もステラさんもそれに従うつもりはない。

「申し出はありがたいんですが」

 俺が言う間に、ステラさんはもう西へと歩き出している。

「……道はわかる。行こう。魔獣……討伐する」

 ステラさんの言葉に門番は驚いたようだったけど、俺はそのつもりだったから驚きもない。

「はい」

 頷いて、俺とステラさんは魔獣が出たという西側へと急いだ。

「ま、待つんだ! 死ぬぞ!」

 門番はそう言って、俺たちを止めようと追ってきた。村の人たちと逃げてくれた方が気が散らないでいいんだけど、と思いつつ、彼の正義感に感心もした。

「近くにいる」

 魔獣の気配。ステラさんだけでなく、俺も気付いた。

 人が追われていた。三人……両親とその子供か。その後ろにいるのは大きなムカデのような魔獣だ。

「――〈絶凍(ディープフリーズ)〉」

 ステラさんの杖が動いた。詠唱もなく放たれたのは冷気の上位魔術。過剰なくらいの威力があるその魔術を食らえば、ストライキングシザーがそれなりに強敵とは言っても、かなりの負傷を与えられるはずだ。

 俺は一気に距離を詰めて、さらに追撃を――

 いや、もうその必要はなかった。

 ステラさんの魔術だけで、魔獣はその活動を止めていた。もう少ししぶといやつだと思っていたけど、と、よく確認してみれば……。

「……ストライキングシザーではない。下位種のシザービートル」

 ステラさんの指摘の通りで、ストライキングシザーなら真っ赤な甲殻をまとっているものなのに、砂色の体をしていた。砂地に隠れて獲物を待ち伏せるタイプの魔獣だ。こいつもこいつで駆け出し冒険者には少し強敵ではあるし、砂地を出て村にまで襲ってくる凶暴性は危険だけど、ストライキングシザーと比べれば大した強さじゃない。

 こいつだけのはずがない。

 そう警戒する俺とステラさんに、やっと追いついた門番の男が呟いた。

「すげえ、一撃だ……」

「他にどのくらいいる?」

 訊ねるステラさんに、門番は首を振った。

「目撃されてるのは一匹だけだ。こいつだけだ。村は助かったんだ!」

 そう言って大喜びする門番に、俺は少し呆然とした。ステラさんもたぶん、同じ気持ちだったと思う。でもこの喜びようが演技だとは思えないし、そもそも俺たちにそんな嘘をついて何になる、っていう話でもあって。

 ……本当に、このシザービートル一匹だけらしい。

 俺たちにしてみれば拍子抜けの相手だったけど、まあ、そういうこともあるか。



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ステラの家族

 酒宴が催されることになって、俺とステラさんはその主賓として村に滞在するように告げられた。準備が出来るまではここで、と今は村長さんの家に招かれている。

「……もう用は済んだ。行こう」

 ステラさんはそう言って、椅子にも座らない。とはいえ俺もここに長く滞在するつもりはないから、ステラさんに頷いた。このまま宴会になったらいつまで引き留められるかわからないし。

 村長さんが何かの指示に出て行った隙に、俺とステラさんは窓から外へ抜け出した。

 まだ日は高い。飛竜を呼べば、夜までには星読みの宮に戻れるだろう。

 道を知っているらしいステラさんに従って進むと、村から少し離れたところに、飛竜を呼ぶのにちょうどよく開けた場所があった。

 一面の花園だ。飛竜が踏んでしまうと少し申し訳ないな。そう思いながらも俺は、ティータさんに渡された竜笛を荷物から取り出して……

 と、そこにいた人物と目が合った。

「おねえちゃん!」

 小さな女の子だ。どこかで見た覚えがあると思ったら、さっき魔獣に襲われかけていた家族の子だ。

 歳は、ミリアちゃんよりもまだずっと下。五、六歳ってところか。ブラウンの髪と瞳で、驚きの表情に、喜びの表情も浮かべている。

「いまね、おはなでかみかざりをつくってたの。おねえちゃんにあげたくて!」

 言ってその子は、手にしていたものを掲げて見せた。作りかけの、花かんむりだ。この後の宴会までの時間があれば完成したかもしれないけど、俺たちはもう出発するところだからな……。

 ステラさんに目を向けると、ステラさんはじっとその子を見下ろしていた。

 と……

「エマ!」

 大人の声が聞こえた。

「一人でこんなところまで来ちゃだめでしょ。姿が見えなくなって心配したんだからね。さあ、家に戻りましょう」

 この人もさっき魔獣に襲われていた人で、おそらく、このエマと呼ばれた女の子の母親だろう。娘とよく似たブラウンの髪の女性だ。

 俺たちに気付いて、その人は深く頭を下げた。

「さきほどは危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました。村を挙げて歓迎しますので、どうぞくつろいでいってください」

 どうも善意で言ってくれているから、俺としても少し断りづらいところだ。ここは「後で行く」くらいの返事でやりすごしておくのも手か。

 なんて考えていたら、隣にいたステラさんが首を横に振った。

「その必要はない。用は済んだ。私たちはもう出て行く」

 きっぱりとした口調だ。

 確かにそのつもりではあったけど、そうはっきり言ってしまうと逆に強く引き留められるんじゃないか。

 そう思った俺が相手の顔に視線を向けると、女の子の母親は、驚きに目を見開いていた。その目はステラさんを見ている。見つめている。ステラさんも、真っ直ぐに相手を見つめている。

「あなたは……」

 視線を交錯させたまま、ようやく、という感じで相手が口を開いた。

「間違っていたらごめんなさい。あの、あなたはもしかして、シエル、という名前では……?」

 急に何のことかと、一瞬だけ、思った。

 でも、よく考えれば『その可能性』は確かにあって、俺としては「まさか」と対面する二人を見比べてみたりするのだけど。

 当のステラさんはまったく表情を動かさず、

「私の名前はステラ。他の名で呼ばれたことはない」

 そう断言した。

 何の動揺もないので、女性の方からはそれ以上の追求はない。

「そうですか……ごめんなさい、変なことを言って」

「構わない。……行こう、リオン」

 そう言うステラさんにもやはり大きな感情の動きは見られない。

 でも、俺にはわかってしまう。ステラさんが心に受けた衝撃を悟らせないようにことさら無表情を装っているってことが。

「飛竜を呼ぶ。私たちの近くにいると危ない。離れることを勧める」

 そう言って二人を下がらせてから、ステラさんは俺に飛竜を呼ぶよう促した。頷いた俺が竜笛を吹くと、南東に見える霊峰の方から一頭の飛竜がぐんぐん近付いてきて、俺たちの頭上を何度か旋回した後、意外に軽い足音で花園に降り立った。

 女の子はその姿に目を輝かせていて、その母親の方は……飛竜ではなく、ステラさんを見つめている。

 そんなことはお構いなしという様子のステラさんが飛竜の背に乗るのを助けてから、俺も乗った。飛竜は出発の合図を待っていて、すぐにでも飛び立てる。

「ステラさん」

 何となく事情を察していた俺は、背中の方にいるステラさんを呼んだ。

 名前を呼んだだけだけど、俺が言いたいことは、ステラさんもわかってるはずだ。

「……シエルという娘に、何か伝えたいことでもあるのか」

 ようやくステラさんがそう言うと、女の子の母親は目の端に光るものを溢れさせた。そして言った。

「ごめんなさい、と」

 それを聞いたステラさんは、小さく頷いた。

「どこかで会ったら伝える」

 

       *

 

 女の子に手を振られながら、飛竜は飛び立った。

 日はまだ高い。雲も多くはなくて、地上がよく見える。ただ、この高空にいて足下には何もないってことを思い出すと、薄ら寒くも感じるな。

 ステラさんは黙っていた。

 俺の腰に手を回して背中にしがみついているから、俺からじゃ表情は見えない。でもその無言が、ステラさんの葛藤を示してる。落ち着いてるんだったら、ステラさんはこの空からの眺めに深い興味を示してあれこれ語って聞かせてくれたはずだから。

「あの人、ステラさんのお母さんだったんじゃないですか?」

 俺が一番気になっていたのはそのことだ。触れない方がいいかもしれないと思いながらも、訊かずにいられなかった。

「……おそらく、そう」

 変に飾った言葉は使わず、ステラさんは端的にそう言った。そして、それ以上は何も言わない。そうだからどうしたなんて突き放してるわけじゃなく、ステラさん自身もまだ心の整理が付いていないんじゃないかと思う。

「名乗り出ないんですか?」

 ステラさんにそのつもりがあるなら、今ならまだすぐに引き返せる。星読みの宮に帰るのは明日だって、明後日だっていい。別に期限のある旅じゃないんだから。

 だけど、ステラさんはそれを、少なくとも口に出しては、望まなかった。

「そうしたところで誰も喜びはしない。構わない」

 はたして本心から言っているのかどうか。かすかに感じる声の震えは、不安定な空にいるからかもしれないし、判別できない。

「でも……」

 俺は何か言おうとしてそこまでは口の外へ押し出したけど、続ける言葉がなかった。考えれば考えるほど、ステラさんの指摘は当たっていると、俺も思ってしまったからだ。

 それでも、口を開いたからには一応何か言おうと悩んでいると……

「命を救えた。自分がそのために行動したことを、私は知っている」

 俺でないとわからないくらいに、ほんの少しだけ、明るい声音。ステラさんのその呟きは、俺の愚考を断ち切った。

 俺が思いつくようなことは、ステラさんは全部考えた後だったわけだ。当然か。そして、ステラさんは自分の心の奥底に残っていた棘を、自分自身の手で引き抜いた。

 そういう試練……だったのかな、これは。

「私の家族はあの村にはいない。私のではないが幸せな家族がいただけ。そして、それで良い。見るべきものは全て見た」

 背中の方から聞こえてくるステラさんの声に暗い調子は全くなく、俺の腰に回された腕にも、もう震えはない。

「帰る。……私の家族がいるところに」

 それはもちろん、さっきの村じゃ、ない。

 

 ユリアは星読みの宮の客間にあるベッドでぐったりしていた。といっても、疲れからのもので、生命に関わるような怪我をしたとかではないらしい。

「あー、試練、大変でした。ねぎらってくださーい」

 どう大変だったかはわからないけど、この消耗具合を見れば大変だったこと自体は事実だろう。内容は、本人が話したくなったら話してくれるはずだ。

「よく頑張ったね」

 俺がそう言うと、ユリアは満面の笑顔で応じた。

「はい、頑張りました。あと、ご褒美もほしいです」

「ご褒美?」

 訊き返す間に身を起こしたユリアは、少し首を傾げ、指のひとつを自分の唇に当てた。

「キス……」

 ユリアの口からそう吐息が漏れたところに、俺の後ろに控えていたステラさんが、持っていた杖の端で床を鳴らした。

「……は誰かに怒られそうなので、ハグでいいです」

 両腕を伸ばして、ユリアはそうねだった。

 そのくらいならまあ、キスほどには波風も立たないか。

「……仕方ないな」

 俺がベッドの縁に寄ると、ユリアは俺の腰のあたりに両腕を回して引き寄せ、自分の頬を俺の胸に当てた。

「リオンさんって、鼓動はけっこうゆっくりなんですね。でも私が抱きついてるんだから、もう少し胸が高鳴ってもいいんじゃないですか?」

 そう言われてもね。これでも俺としては結構緊張してるんだけどな。

 その鼓動がたぶん五十を数えたくらいで、ユリアが息を吐いて俺から離れた。

「はー、満足しました。あ、ステラさんもどうぞ」

 ステラさんが俺の後ろでどんな顔をしているか、俺からは見えていなかったけど、ユリアは何か察したんだろう。

 ユリアは試練をこなした。そしてステラさんも、それは同じ。

 ステラさんにも同じご褒美をもらう権利はある、か。これが十分なご褒美かどうかはともかく。

「じゃあ、その、どうぞ。俺でよければ」

 ステラさんに向き直って言うと、ステラさんはしばらくためらっていたけど。

「…………うん」

 やがて頷いて、ユリアがしたのと同じように抱きついてきた。

 ……よく考えるとこれ、飛竜の上では背中側からされてたことのような気がするな。もちろん、気分は少し違うけど。

「これでステラさんも共犯ですよ。クレールさんには内緒にしときましょうね」

 ユリアはそう言って笑った。そういう魂胆だったか。



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ヴァレリー

 星読みの宮の夜。星見の間にまで行かなくても、テラスからは満天の星が見える。

 その星空を、一瞬、飛竜の影が覆い隠した。そして、その影の一部がわかれて、テラスの石畳にふわりと降り立った。

 漆黒の姿。夜闇から染み出てきたかのようなその人影は、固い床に足音を響かせながら、真っ直ぐに俺へと近付いてくる。

 見た目には二十代くらいの男だ。姿が黒く見えるのは上下共に黒革をまとっているから。そして、その長い髪が闇色だからだ。

 俺はそれが何者なのか知っている。

「お久しぶりです、ヴァレリーさん」

 それを聞いた男は、少し首を傾げてみせた。

「久しぶりというほどだったか? まだ一年くらいだろう」

 最後に会ったのは確かにちょうど一年くらい前だから、人生をまだ十六年しか生きていない俺としては十分『久しぶり』と言えると思う。

 ただ、共通の知人から聞くところによると一千歳は軽く越えているっていうヴァレリーさんからすれば、たいした期間ではなかったかもしれない。

 ヴァレリーさんは、その本性は竜。しかも、古い時代から生きている竜だ。古竜としての名前は〈蒼空を征くもの〉というそうで、ここ央州の竜の中では最強格だと聞いてる。

 そして、普段は人の姿で暮らしている。

『竜になっても人化して暮らすことはできる』

 冬に聖竜と会った時にも言われたことで、ヴァレリーさんはその実例、いわば竜人、というわけだ。

 だから、今、話を聞きたかった。

 

 聖竜の守護があるこの星読みの宮に入ってこられるヴァレリーさんは、もちろん、悪竜じゃない。人の姿で暮らしていることからもわかるとおり、人間に協力的な竜だ。といっても、それは全ての人間に対してそうなのではなくて、個人的に付き合いのある範囲に限られているけど。それが逆に、竜であるはずのヴァレリーさんから『人間味』というものを感じさせる。

「身体が竜に近付いていると聞いたが、なるほど」

 目の前に立った俺を見下ろして、ヴァレリーさんが呟いた。

「わかるんですか」

竜気(オーラ)がお前の周りで渦巻いているからな。お前の目には見えないか」

 これが見えるようになったら、視覚も竜に近付いたことになるわけだ。後のために覚えておこう……。

 ヴァレリーさんを奥に案内する前に、まずは少し話を聞いてもらうことにした。奥に行くとステラさんやユリアにも話を聞かれてしまう。俺の竜気(オーラ)に関してはまだみんなには明かしていないから、それは少し困る。

 ヴァレリーさんは長い足を組んでベンチに座った。長身だからそういうのが様になるな。長い髪や切れ長の目もあって、座っているだけでも一幅の絵画のようだ。

「お前が竜になったとしても、仲間たちはこれまでと変わらず接してくれるだろうに」

 ヴァレリーさんのその意見は、きっと正しい。

 でも……

「みんなにはなるべく自分の目標に向かって頑張るようにして欲しいから、俺の事情で煩わせたくないんですよ」

 俺の仲間たちはみんな何かしら秀でたところがあるから、そのちからを広く世の中の役に立てて欲しいと、まあそれは俺の勝手な希望だけど、そう思ってる。みんなのちからを信頼しているからこそ、だ。

「その気持ちもわからんでもないが……」

 心配げな顔で、ヴァレリーさんがため息をついた。

「一人で背負い込んだルイがどうなったか、お前だって見ただろう」

 確かに、クレールのお父さんであるルイさんは、難問を解決するのに誰かを頼ることができず、代わりに〈魔杯〉のちからに頼って〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉になってしまった。今でこそ以前よりは穏やかに暮らしているようだけど、俺との勝負の後には、死ぬとか灰になるとかを通り越して、そのまま一気に消滅してもおかしくない状態だった。

 俺はまだそこまでにはなっていないはずだ。だからって決して安心はしていないけど。

「俺ひとりの手に余るようなら相談します。いまヴァレリーさんにしてるみたいに。でもまだもう少し、みんなには秘密のまま頑張ってみようかと」

 半分以上は俺のわがままのような気もするけど、俺の身体のことだし、まあいいだろう。

「それで、俺としては竜に変わらないように食い止めたいんですが、何かいい方法はないでしょうか」

 ヴァレリーさんみたいに『竜ではあるけど人化して生きる』というのは最終手段にして、まずはそうなる前に止めたい。

 その意志を伝えると、ヴァレリーさんは腕組みをして「ふむ」と唸った。

「竜石、というものがある。竜気(オーラ)を封じることができる石だ。……これは私の竜石だが、こういうものだ」

 ヴァレリーさんが腰のポーチから取り出した黒い石は、拳ふたつ分くらいの大きさで、黒曜石のような光沢があった。透けて見える中には、黒い炎のようなものがちらちらとうごめいている。

「お前の役に立つものなのは間違いない。竜気(オーラ)をこちらに移してしまえば竜への変化は止まるかもしれんし、竜になるまで行き着いた時には人化に必要だ。ちからのある竜はこれに竜気(オーラ)を封じることによって、より『小さな』生き物の姿をとれるようになる。その中には人間も含まれる」

 その説明に、俺の期待は高まった。

 竜気(オーラ)を封じておける石か。もしそれで俺の変化を止めることができなくても、その時は竜からの人化のために必要になる。いずれにしても手元にあった方がよさそうだ。

「これは、どこで手に入るんですか?」

 その質問に、ヴァレリーさんは渋い顔をした。

「そこが難題だな……」

 聞けば、まず最初の問題は、この竜石を造れる者が今の世にはいない、ということだ。ヴァレリーさんによると、古王国時代の技術と設備がなければおそらく製造できないだろう、とのことだ。

 さらに、材料の問題もある。材料は魔石と近いそうで、宝石ならサファイアで代用できる。とはいえ、この大きさのサファイアはそう簡単には用意できないし、そもそも材料があっても造れないんじゃ仕方がない。

 なので、結局、すでにあるものをどこかから見付けてくるのが一番簡単、というわけなんだけど……

「人間には価値がわからないものだからな。かつて造られた物も、いくつ現存していることか」

 そうなると、それを見付け出すのも簡単ではない。と、ヴァレリーさんの話はそういうことだった。

「そうなんですか。うーん」

 できれば今すぐにでも手に入れて、心配事を減らしたいところだけど、どうもそうはいかないみたいだ。これは、気長に探すことになりそうな予感がするな。

「お前が竜になるまではまだ猶予がありそうだ。その間に、私からも知人に当たってみることにしよう。ルイには相談したか?」

「いえ」

「あいつなら何か良い知恵を出してくれるだろう」

 それはそうかもしれないけど、ルイさんに話すとそのままクレールにも伝わってしまう気がするな……。

「あとは、気が進まんが、〈移ろうもの(ヒュドラルギュルム)〉か……やつには私から訊ねておこう」

「誰です?」

 知らない名前だったから訊き返すと、ヴァレリーさんがため息をついた。

「〈十星珠〉の一員たる古竜だ。知恵者ではあるが、気性が好かん。お前に会わせると何をしでかすかわかったものではない」

 なるほど。能力は認めているけど気が合わない、か。竜同士でも案外、人間と変わらないような悩みがあるものなんだな。

 で、竜石のことだ。

 俺の知り合いでそういうのに詳しそうなのは、やっぱりまずはルイさん。それから、ステラさんの師匠である〈西の導師〉。特に〈西の導師〉は、もしかしたら現物を持っているかもしれない。そうでなくても、その情報や、もしかすると造り方を知っている可能性はある。

 でも、ルイさんに相談すればクレールに、〈西の導師〉に相談すればステラさんに、俺の相談事は漏れてしまう気がする。

 みんなに秘密にしたままで事を運びたいなら、頼りになるのは商人のユウリィさんか。何に使うか教えないままでも、竜石を探してくれるだろう。ただ、それをどこからか見付けてきてくれたとして、その値段のことを考えると憂鬱になるな。

 でも、うん。今の俺は竜石を探しに冒険の旅に出かけることはできないし、誰かに頼まざるをえない。そのことは、覚悟しないといけないな。

 あと、そうだ。もうひとつ気になっていることがあった。この際だから訊いておこう。

「今は竜気(オーラ)を活性化させないように戦うことを控えているんですが、逆に、戦って竜気(オーラ)を使い果たす、ってことはできないんでしょうか」

 訊かれたヴァレリーさんは、苦笑した。

「お前がそこまで消耗するほどの相手が竜以外にも大勢いるというなら、試すこともできるな。またどこぞの神にでも挑むか?」

 ……そうか。うーん。

 異界まで出かけていけば何かしらいるだろうけど、手近なところでというとやっぱり相手は竜になってしまうな……。



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ユリアとの衝突

 困ったことになった。

「リオンさん! この人は危険です!」

「リオンに取り入って何を企んでいる、〈歪みの御子〉ッ!」

 ステラさんとユリアにヴァレリーさんを紹介しようと引き合わせたところだ。すると、いきなりこんなことになった。

「二人とも落ち着いて……」

 間に立たされた俺はそう声を掛けるけど、二人の間に垂れ込めた一触即発の空気は張り詰めていく一方だ。

 会わせる前に気付くべきだった。

 ヴァレリーさんはかつて自分が守護していた輪廻鳥の街を襲った邪神〈歪みをもたらすもの〉を憎んでいる。そしてユリアはその邪神を信奉する〈歪みの民〉に選ばれた〈歪みの御子〉。

 その二人が出会えば当然、こういう衝突もある。

「ユリアは〈歪みの民〉のところから逃げてきたんです。奴らとはもう関係ないんですよ」

「そういう手口かもしれんだろう。〈歪みの御子〉が〈安定をもたらす者〉にこうまで近付いているのだから、用心するに越したことはないぞ」

 ヴァレリーさんの懸念もわからないでもない。実際にユリアは強い冥気(アビス)を持っているわけだし。ヴァレリーさんがそのことを見抜いていないはずはない。

 でも、ルイさんのところで学び、聖竜から出された試練もこなして、冥気(アビス)を抑えようと練習しているところだ。俺としてはユリアを信じてる。

 それに、冥気(アビス)のことだけを言うならルイさんだって相当だったし……

 あ。そもそもヴァレリーさんだって本性は暗黒竜じゃないか。むしろ助言をしてあげてほしいくらいだ。

 見れば、ユリアの右手が妖しく光を放っている。そこには確か、骸竜の紋章がある。ヴァレリーさんの竜気(オーラ)に反応してるのか? ユリアの危機だからか?

「ヴァレリーさん、落ち着いてください。この子は大丈夫ですから」

 言って、ユリアを庇うように立つ。

 もし二人が激突したら大変なことになる。そして、力量差で言えばヴァレリーさんの方が圧倒的に強い。勝負にならないどころか、一瞬でユリアの命を奪いかねないくらいだ。口げんかで収まっている内はいいけど、万が一の時は、俺がヴァレリーさんを止めないといけない。

 そう覚悟を決めたところ――

「そもそもリオン、お前も悪い」

 ヴァレリーさんの怒りの矛先が、いきなりこっちに向いた。

「お前が女にだらしないから、そこにつけ込まれるのだ」

「えぇ……」

 そんなにだらしないつもりはない……と、俺自身では思うんだけど。

「あ、それはそうかもしれないです」

「……一理ある」

「だろう?」

 ユリアとステラさんが小さく頷くと、ヴァレリーさんは我が意を得たりという顔つきになった。

「いいかリオン。ルイが今のお前くらいの歳の頃はな……」

「ちょ、待ってください」

 昔話を始めようとするヴァレリーさんを、俺は声と手振りで制止した。

「いろいろ言いたいことはありますが、まずひとつ。その言い方は話の長いおじいさんみたいですよ」

 構わず話を続けるそぶりも見せていたヴァレリーさんが、その指摘に呻いた。

「……おじいさんではない。お兄さんだ」

 一千歳どころか二千歳を越えてるって噂もあるヴァレリーさんがなぜそこまで若作りにこだわるのか、俺にはいまいちよくわからないけど。

「わかりました、ヴァレリーお兄さん。……それで、話の要点は」

 ヴァレリーさんは腕を組んで、しばらく黙考。その間に俺はユリアに身振りを送って、ヴァレリーさんとの距離を開けさせる。

 しばらくするとヴァレリーさんも思考の空から戻ってきて、いかにも長そうだった話を短くまとめて話してくれた。

「つまり、ルイもそろそろ孫の顔を見たいと思っているはずだ、ということだ」

 …………そういう流れだった?

 いや、ヴァレリーさんがそう言い出すのはわからないでもない。

 ヴァレリーさんは輪廻鳥の街の守護竜だったから、あの街の領主だったルイさんやクレールのことをとても気に掛けている。そして、ルイさんのことを弟のように、クレールのことは姪かもしかすると自分の娘のように思っている。それは俺も知ってる。

 でもなあ。

 ルイさんの子供はクレールだけだから、ルイさんの孫の母親というのは必然的にクレールになるわけで、それを俺に言うってのは……。

「やっぱり敵じゃないですか、この人」

 ヴァレリーさんの発言を受けたユリアの反応は、俺の予想の範囲内だった。

 いつだかクレールが言っていた「気が合う友達ではあるけど恋敵でもある」っていうのはユリアから見ても同じはず。

 これは、この対立は簡単には終息しないぞ……と覚悟し始めたその時。

 続けてユリアがとった行動は、俺の予想とは違った。

「でもわかりました」

 ぽん、と手を打って、ユリアは笑った。

「ヴァレリーおじさんとしては、姪のクレールさんに幸せになって欲しいんですね?」

「おじさんではない。お兄さんだ」

 ヴァレリーさんがユリアを睨んだけど、ユリアの笑みは崩れない。

「いいですよ。私、クレールさんのことも結構好きですし、大事な友達だと思ってます」

 そう言われて、ヴァレリーさんの険しい表情が、少し緩んだ。

「そうか?」

「はい。クレールさんも私のこと友達だって言ってくれてますし。心の広い人ですよね。可愛くて、頭もいいし、気配りができて、行動力もある。リオンさんとはお似合いだと思います」

「……うむ。私もそう思っている」

「なので私、クレールさんとリオンさんがくっつくの、応援してあげられます。早くそうなってくれたらいいのにって、私も思ってますよ」

「そうか」

 ここまで来ると、ヴァレリーさんがユリアに向ける視線はだいぶ好意的になっていた。

「……あの子にも悲しい過去があったが、乗り越えて頑張っている」

「何となくわかります。つらかったでしょうね……」

 ヴァレリーさんの呟きに応じたユリアの目には、なんと涙。演技派だ……。

「でも、今はリオンさんがいますから」

「そう、そうなのだ。リオンと出会って、あの子はようやく幸せを掴みかけている。あの子には幸せになってもらいたいのだ……」

「私に任せてください、ヴァレリーお兄さん」

 最後にはなんとがっちり握手して意気投合してしまった。

 

「こんな友人がいるなら安心だ。クレールのことを頼むぞ」

 とまあそんな感じのことを言って、ヴァレリーさんはテラスの手すりを乗り越え夜の闇に跳んだ。飛竜がそれをすくい上げて、ヴァレリーさんは星空へ旅立っていく。

 ……何だか、疲れたな。

「一時はどうなることかと思いましたけど、わかってもらえて良かったです」

 ユリアは安堵した表情でそう言って、俺に笑いかけてきた。

「ヴァレリーさん、完全に騙されてたよね……」

 ユリアの口がうまかったのもあるけど、ヴァレリーさんがクレールの話題に弱いのが俺の予想以上だった。ルイさんには「クレールをあまり甘やかすな」なんて言ってた人が……なあ。

 まあともかく今回は、ユリアの機転のおかげで衝突を免れたってことになるのかな。

 で、そのユリアだけど。

「えっ、騙してないですよ。クレールさんは友達ですし、応援してます。どっちも嘘じゃないです」

 ……本当かなあ。だって確か、ユリアだって俺のことを……いや、うーん。

 と、俺は少し困惑しているけど、俺とユリアの話を聞いていたステラさんは……

「…………」

 無言。

 ただどうも、雰囲気から察すると、ステラさんも納得していないみたいだ。

「ステラさんは異議がありそうですね」

 ユリアが視線を向けてそう言うと、ステラさんは「うん」と小さく頷いた。

「心配しないでください。私、クレールさんを応援するって言いましたけど、クレールさん『だけ』を応援するとは言ってないですし、ステラさんのことも応援してますよ?」

 小首を傾げるステラさんに、ユリアは言葉を続ける。

「私としてはですね、リオンさんのこと独り占めしたい気持ちはもちろんありますけど、繋がってられるなら一番じゃなくてもいいかなあって気持ちもありますから」

 ユリアは右手で髪をかきあげて、俺に流し目を送ってきた。

「だから、リオンさんはみんなのもの、でいいんじゃないかなーって」

 そう言ったユリアの口元は、うっすらと笑っている。

「……一夫多妻。遠い地方にはそうした婚姻形態が存在すると、本で読んだ。現代の王国法上で可能かどうか、検討に値する」

 話を聞いたステラさんが真面目な顔つきでそんなことを言って、ユリアは「それです、それ」と手を叩いた。

「あの、俺の意見は反映されない?」

 小さく手を挙げて主張すると、ユリアはぐっと顔を近付けてきた。

 のけぞった俺の目を上目遣いに見ながら微笑を浮かべたユリアが、ひとこと。

「多数決にしても構いませんよ?」

 ……勝てるわけない、そんなの。



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急な帰還と思わぬ災難

 神託の霊峰から竜牙の村に戻ってすでに数日が経った。留守にしていた間に溜まっていたあれやこれやもようやくだいたい片付いたな。

 ユリアとステラさんが言い出した一夫多妻の件、館に戻ったらすぐにみんなにも話すんじゃないかって恐々としていたけど、今のところその様子はない。ただ、二人で何やらこそこそと相談している姿は見かける。油断は禁物、というところだ……。

 村の自警団からは報告も受けた。俺が出かけている間に現れて自警団に退治された魔獣のことだ。その内の一匹がシザービートルで、ちょっと苦笑。自警団のみんなも成長してる。

 

 その日は雨。天気が良ければみんなで海水浴をする予定になっていたけど、延期になった。前の晩から水着を着てたっていうナタリーは特に残念がってたな。そんなに早く準備してたって、朝風呂の時にはどうせ脱ぐと思うんだけど。

「そうだ! 海に入ったら結局濡れるですから、雨が降ってても気にせず海水浴してもいいのではないですかっ? 特級いい考えです!」

 ナタリーはそう主張したけど、受け容れられなかった。

「せっかくリオンと遊べると思ったのにひどいです!」

 そう言われてもね……俺が雨を降らせたわけじゃないし。

「海水浴は無理でも、館の中でなら遊べるよ。急ぎの用事は、今日は入れてないはずだし」

 俺の予定を管理してくれているステラさんに視線を向けてみても、そのことは確かみたいだ。

「じゃあアルカナ札で遊ぶです!」

「あたしもやる!」

 ナタリーに続いて、ミリアちゃんも手を挙げた。これにクレールとユリアも加わって、五人。ハスターもついてきたけど、スペースハムスターの手じゃさすがにカードを使った遊びには参加できないだろう……。

 一応、勝ち点を記録して遊んだけど、午前中いっぱいではミリアちゃんがトップで、俺は最下位。

「んふ。リオンはねー、手札がすぐ顔に出るから負けちゃうんだよ」

 とはクレールの指摘。自分ではなるべく出さないようにしてるつもりなんだけど……

「出さないようにしてるのがわかっちゃうから、それで、きっとピンチなんだろうなーって」

 ……なるほど。

 

 昼を過ぎると、雨はだいぶおさまった。ただ、これから海水浴をしようって気にならない程度には降ってる。

 それなら今度は賽子(ダイス)を使った遊びを、とナタリーが準備を始めた頃……

「……リオン!」

 俺を呼ぶ声が聞こえた。エントランスの方からだと思う。

 見回すと、みんなもその声に気付いた様子だった。幻聴ではないらしい。

 でも今の声は……

 不思議に思ってともかくエントランスに向かうと、そこに雨に濡れた人影があった。

 白い鎧、青い外套、聖騎士の身分を示すはちがね、そして長い金髪。

「……レベッカさん?」

「リオン! ああ、よかった。ようやく会えた……」

 この村の教会を再建する話のために天命都市へ行っていた、聖騎士のレベッカさんだった。

 騒ぎを聞いて駆けつけたニーナが差し出したコップの水を、レベッカさんは一気に飲み干して、大きく息をついた。

 様子がおかしい、という気はする。

 まずそもそも、天命都市での用事を済ませて戻ってくるのは夏の終わり頃になるだろうと言っていたはずだ。戻ってくるのが、予定よりかなり早い。

 そして、それだけじゃない。

「ペネロペは? 一緒じゃないんですか?」

 そう。レベッカさんの後輩で聖騎士見習いのペネロペがいない。一人前に認められるまではレベッカさんが指導することになっていたはずだけど。

 何かあったんだろうか。

 心配する俺たちに、レベッカさんは言った。

「今は、村のはずれにある魔女の店にいるわ。マリアさんがついてくれてる」

 魔女の店。マリアさんが手伝いに行っているそこは、教会が機能していない今、村に唯一の診療所だ。

 そこに、ペネロペが? なぜ?

 俺のその疑問に、肩を落としたレベッカさんが、沈痛な面持ちで答えた。

「……意識を失ったまま、目を覚まさないの」

 

 レベッカさんの白馬に同乗して、俺はみんなより一足先に魔女の店に向かった。

 魔女の『おばさま』は俺たちの姿を見ると、奥の扉を示した。そこにペネロペが寝かされているようだ。

「雨に打たれて身体は少し冷えていますけど、生命活動はほぼ正常です。呼吸も心拍も十分安定しています。ただ、それなのに意識がないというのは、逆に危険な状態である可能性もありますね……」

 というのがマリアさんの診断だった。

 原因は怪我か、病気か、魔法か、毒か、呪いか……いろいろな可能性があって、これから詳しく調べることになるそうだ。

 枕の上にストロベリーブロンドの髪を広げて、ペネロペは眠っている。その顔には苦痛は見えないけど、楽しい夢を見ている様子でもない。

「何があったんですか」

 説明を求めて声を掛ける。その相手は、ペネロペではもちろんなくて、レベッカさんだ。

 レベッカさんは、ベッドで眠るペネロペの髪を撫で、ひとつため息をついてから、俺に説明してくれた。

 ここから天命都市への船旅は波乱もなく快速で、予定よりも早く着いたそうだ。

 村の教会の再建についても、後任の司祭の候補者名簿は大教会がすでに用意してくれていたという。その中から顔見知りの女性司祭を指名して、聖意物のことも含めた再建のための書類を提出したら、その翌朝にはもう、再建を許可する勅許状が出来上がっていた、と。……妙にあっさりしている。

「きっと〈聖女〉なんてのが大教会で大きな顔をしないよう外に追い払っておきたかったんでしょうけど、そのおかげで煩雑な手続きが簡単に済むなら願ったり叶ったりよね」

 それで、その後任の人の準備ができてから出発するつもりだったらしいけど……

「ペネロペが、妙なことを言い出したの。リオンに危機が迫っているから、すぐに戻らないといけないって。夢でそうお告げを受けたんだそうよ。ちょうど夏至の頃だったと思うわ」

 危機って何のことだろう……と考えてみると、夏至の頃だったらあれか、シードラゴンか。俺にとってはそんなに危機でもなかったけどね……。

 ともかくそれで、後任の司祭のことは聖騎士団に道中の護衛を出してもらうよう頼み込んで、取り急ぎ、レベッカさんとペネロペの二人だけで天命都市を出てきたんだという。

「この南にある迷香の街まで船で来て、そこから街道を北上してきたの。その途中に、ほら、西に砦が見えるでしょう。あれを過ぎたあたりで……」

 砦か。確かに、ある。

 昔は北にある荒水の町と南の迷香の街が相当はげしく喧嘩していたそうで、砦は二つの町のちょうど中間あたり。五十年ほど前に迷香の街がその砦を建設して、今も管理している。最近は戦争の気配はないから、行き来する旅人から街道警備費の名目で通行税を取る拠点でしかないけど。

「その砦で何かトラブルが?」

 訊ねると、それにはレベッカさんは「いえ」と首を左右に振った。

「砦とは関係ない……と思うけど、正直、何が起きたのかは私もよくわからないの。突然、濃い霧の中に入ったみたいに視界が悪くなって……隣にいるはずのペネロペも見えないくらい。少し前まで激しく降っていた雨の音も全く聞こえなくて、ただ真っ白なだけの無音の世界になった。私は馬を止めて、ペネロペを呼んだけど返事がなくて……」

 レベッカさんはその時のことを思い出したのか、右手で自分の頭を押さえた。

「霧はすぐに晴れたけれど、ペネロペは意識を失っていたの。最初は、馬から落ちたせいだと思っていたけど、それにしては様子がおかしくて……ともかくそれで、まずはここに連れてきたの」

「そう判断してくれてよかったです。ここならお薬も調合できますし、検査のための道具もありますから」

 意識を失ったままのペネロペを見つめるレベッカさんの肩に、マリアさんがそっと手を置いて、そう声を掛けた。

「ミリアにも来てもらって、法術での治療も試してみましょう。それで治るといいんですが……」

 その頃になって、館からも何人か魔女の店にやってきた。その中の一人、ペトラは館からタオルや着替えを持ってきてくれている。

「ペネロペ、まさか死んだりしないよな?」

 お互いにライバルと認め合っている仲でもあって、ペトラはペネロペのことを心配そうに見つめている。

「顔色は悪くないな。そろそろ目を覚まして『まあ、皆さん大げさですわね』とか言うんじゃないか?」

 と、それは希望的な見方にしても、確かに今すぐにも命を落とすというような様子には見えない。実際にどうなのかは、俺にはよくわからないけど。

「俺にもできることがあればしてあげたいけど……」

 得意なことといえば戦うことくらいだ。こういう時にどうしてあげたらいいか、よくわからない。もっと詳しい人が身近にいるし、出番はないかもしれない。

 そう思っていると、部屋に入りきれずに廊下にいたクレールが一言。

「頭でも撫でてあげたら?」

 なるほど。そのくらいなら俺にもできる。

 そう納得して、ペネロペの額に左手を添えると……

「わっ、な、なんだ! なんだこれっ!」

 突然の変化に、ペトラが慌てた。

 その原因は俺の左手。ペネロペの額に添えたその手の甲に、正三角形の紋章が浮かび上がって、強い光を放っている。

「おい変態! 大丈夫なのかそれ!」

 俺は慌てて手を引っ込めようとするけど、何か不思議な力で押さえつけられている……いや、吸い寄せられている感じで、ペネロペから手を離すことができない!

 そうしているうちにも紋章の光はさらに強くなっていき、俺の視界を真っ白に塗りつぶしていった。



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ペネロペと白い狼

 周囲の空気が変わった。それがはっきりとわかった。

 少しひんやりしているし、なにより、周囲にいたみんなの気配が感じられない。

 左手の紋章から溢れた光で白く塗りつぶされていた視界はようやく元に戻りつつあったけど、それはより困惑を深める結果にしかならなかった。

 ここは……どこだろう……。

 見覚えのない、石造りの小部屋だ。天井近くにある採光窓からかろうじて弱々しい光が降ってきてはいるけど、ひどく暗い。

 その暗がりの先に、頑丈そうな扉があった。近付いて、その扉に手を伸ばすと……

「うっ」

 思わず呻いてしまった。指先が扉に触れた途端、バチッと音がして火花が散ったからだ。

 何らかの魔法によって閉ざされている、というところか。

 

 一体、何が起きたんだろう。

 俺は意識を失ったペネロペの様子を見るために、魔女の店にいたはずだ。そこでペネロペに触れたとき、急に左手の紋章が輝き始めて……気が付いたらここにいた。そういうことになる。

 村のどこかではなさそうだ。もしかすると、村の外れにある遺跡か竜牙館に秘密の地下室があって……ってことはあるかもしれないけど。少なくとも俺の記憶にはない場所だ。

 深く考えるには材料が少なすぎる。まずはもう少し調べてみてからだ。

 そう思って部屋を見回してみると……

 扉の反対側の壁際に、何者かがうずくまっている。暗くてまだよく見えないけど、たぶん、一人だ。

 少し警戒しようとして、気付いた。……武器がない。魔女の店に行ってペネロペの様子を見るだけのつもりだったから、何も持ってきてなかった。こんなことになるなら短剣くらい持ってきておけばよかったな。

 まあいいや。相手が一人なら、素手でも何とかなるだろう。

「そこに誰かいるのか?」

 声をかけると、これまで無言でうずくまっていたその人影が顔を上げたのがわかった。

「……リオン様?」

 返ったのは、聞き覚えのある声だ。

「ペネロペ?」

「はい! リオン様の愛の奴隷こと、ペネロペですわ!」

 ……そんな異名は知らないな。でも声だけでなく、立ち上がった姿も間違いなくペネロペだった。その服装にも見覚えがある。愛用の大盾も一緒だ。

 でも、変だな。

 ペネロペは意識を失って魔女の店で休んでいたはずだ。それが、見たところまったく元気そうだ。何が何だか、さっぱりわからない。

「ペネロペは、どうしてここに?」

「お姉様と共に街道を進んでいましたら、急に霧が濃くなって、はぐれてしまったのです。……そのはずなのですけど、なぜだかこの部屋に閉じ込められていて。何を言っているのかおわかりいただけないと思いますが、私にもよくわからないのです。頭がどうにかなりそう……」

 途中までは、レベッカさんから聞いた話と同じだ。でも、問題はその後だな。

 原因はたぶん、霧、か……。

 以前、俺も神託の霊峰で深い霧に迷い込んだことがある。普通の霧じゃなかった。それは過去の不安や恐怖、後悔や絶望を暴かれる、悪夢の霧だった。

 俺はそこで、かつて倒したはずの〈剣鬼〉の亡霊に襲われた。俺の故郷を滅ぼした相手。俺は確かに一度は勝っていたけど、あの時の恐怖と絶望までも乗り越えていたわけじゃなかった。闇雲に振るう剣は亡霊の身体をすり抜けるだけだった。

 ペネロペが遭遇した霧が、あれと同じものだったら?

 ……嫌な予感がする。

「リオン様が単身私を助けに来てくださるなんて……これは夢? まぼろし? まさか現実? きゃー!」

 そう言って身体をくねらせるペネロペは、今のところ、まだ悪夢に出会ったわけではなさそうだけど。

「正直に言っておくと、俺も迷い込んだ、という感じかな……」

 言われたペネロペは「まあ」と驚いたけど、すぐに気を取り直した様子。

「それでも、リオン様が一緒にいてくださるのは本当に心強いですわ。一人でいるのは心細くて」

 それは、そうかもしれない。戦う以外には大して取り柄がない俺でも、話し相手くらいにはなれる。

「レベッカさんもペネロペのこと心配してたよ。……どうにかして連絡できたらいいんだけど」

 そうすれば少しは安心……いや、余計に不安になるだろうか。

「お姉様は無事なのですね?」

「うん。レベッカさんが意識を失ったペネロペを魔女の店に連れて行って……」

 俺が知っている通りのことを説明すると、ペネロペが首を傾げた。

「私はここにいますけれど」

 ……確かにそうだ。でも、俺が魔女の店で見たのも間違いなくペネロペだった。

 ペネロペが二人いる。

 うーん。……まあ、たまにはそういうこともあるかな。

「そういえば私、不吉な夢を見まして、それでリオン様のもとへ急いでいたのです。その夢のお告げは、リオン様に危機が迫っている、というもので……」

 そういえば、そんなことをレベッカさんも言ってたな。

「夏至の頃だよね? ちょうどその頃、シードラゴンと戦って倒したよ」

「もう倒してしまわれたのですか」

 驚きの声を上げるペネロペに、俺は「その日のうちに」と頷く。

「リオン様のその活躍をぜひこの目で拝見したかったですけれど……無事に乗り越えられたのでしたら、それでよしとすべきなのでしょうね」

 まああの時は海の中で戦ったし、船上からどのくらい見えたかはわからないけどね。活躍というなら嘆涯の海都のラムーさんの方が派手に戦っていた気がする。

「ともかく、ここから抜け出さないと」

 難しいことを考えるのはその後でもいいだろう。

「はい。ですが、この部屋の扉は……」

 うん。何か不思議な力で閉ざされていたな。

 そう思って、改めて扉を見ると……

 てのひらの形をしたくぼみが二つある。

「これは、二人で押せば開くようになってるんだと思う」

 くぼみの形からすると、左には右手を、右には左手を、だ。一人では無理だけど、二人なら問題ない。

 ペネロペと二人がかりで押すと、扉はすぐに開いた。

 開かれた扉の先には、薄暗い地下道が続いている。

 これが恐怖への入口というわけか……。

 

       *

 

 久しぶりの迷宮探索だけど、今のところ大した罠はない。ときどき分かれ道くらいはあるけど、その程度だ。魔獣とも出会った。ただ、いかにも肩慣らしというか……はっきり言うと、弱い。

「リオン様は本当にお強いですわね」

 まあ、そう言われれば悪い気はしないけど。でも本当に相手が弱いだけなんだよな。聖騎士見習いとして訓練してるペネロペなら普通に勝てるはずだ。相手が大蜘蛛だと生理的な嫌悪感はあるかもしれないけど。

 俺としては、もう少し手応えがあってもいいんじゃないかという気がする。

 それでもペネロペにとっては初体験のことが多いらしくて、こんな状況だけどわりと楽しそうだ……。

 幸いだったのは、ペネロペが旅の荷物の多くを持ったままだったこと。俺がいま持っている短剣はそこから借りたものだ。他にはランタンもあって、おかげでこの地下道でも視界に不自由しない。

 そうして進むことしばし。

 通路の先に、新たな影が現れた。シルエットは四つ足の獣。たぶん、犬が魔獣化したアタックドッグあたり……

 いや、違う。

「白い狼……?」

 とすれば、ダイアウルフか? 体が大きくて、これまでのやつらとは明らかに雰囲気が違う。このくらいになるとさすがにペネロペには荷が重い。

 俺はペネロペを守れる位置に立って、敵が動くのを待ち構える。竜気(オーラ)の活性化をなるべく抑えるために、相手の突進の威力を逆利用して倒す構えだ。狼もそれがわかっているのか、俺の短剣の間合いに不用意に近付いてきたりしない。

 彼我の間で緊張の糸が張り詰めていく。

 と――

 突然、俺の背後で愛用の大盾に隠れていたペネロペが「あっ」と声をあげた。

「ガルム! あなた、ガルムではないですかっ!」

 その声に狼は確かに反応し、俺との睨み合いを中断した。

「ガルム?」

「私が飼っていた犬の名前ですわ! こんなに大きくなって……」

「え、犬? こいつが? ……そうかなあ……」

 体が大きくてがっしりしているし、俺には狼に見えるけどな。

「まだ仔犬の頃に、猫に追い回されているのを助けたのです。私が故郷を離れる原因になった災害の後は、姿を見ていませんでしたけれど……無事だったのですね!」

 そういうことなら、『仔犬』の頃は間違えても仕方ないくらいだったかもしれない。

 ペネロペがしゃがんで手を伸ばすと、狼はゆっくりと寄ってきてペネロペの前に行儀良く座ってから、ペネロペの手に自分の前足を重ねた。ペネロペは感激した様子で狼に抱きつき、首周りを「よしよし!」と撫でまくった。

 俺は一応、いつでも間に割って入れるように警戒していたけど、どうも本当にペネロペのかつての飼い狼らしい。こんなところでなあ。不思議なこともあるもんだ。

 しばらくそうして再会を喜んだ後、狼はペネロペから離れた。奥へ向かって進み、そうして、ペネロペを振り返る。

「もしかして、案内してくれるのですか?」

 ペネロペの言葉に狼は頷き、そしてまたゆっくりと奥へ進んでいく。

「行きましょう、リオン様!」

 ……まあ、他にあてがあるわけでもないからいいか。



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もう一人の迷子

 急に景色が変わった。さっきまでは暗い地下道にいたのに、扉をくぐるとそこは見覚えのないどこかの町、しかも大通りの真ん中だった。

 振り返ると、確かに通ってきたはずの扉がない。扉どころか建物すらない。

 やっぱりこれは現実ではない気がする。まぼろしか、あるいは夢か……。

 ただ、これまでのことを考えると、ここでの行動は現実の俺やペネロペにもきっと影響がある。どうせ夢だから、なんて油断はしていられない。

 気を取り直して、改めて周囲を見回す。

 そこそこ大きい町に見える。いま俺たちが立っているここも、大きな街道の一部だろう。

 ただ、人の気配がない。そこかしこについさっきまで人がいたような生活感があるのに、人が誰もいない。そのせいで地下道の無音よりも不気味にすら感じる……。

「どなたか! どなたかいらっしゃいませんか!」

 ペネロペが声を張り上げても、どこからも返事はない。ペネロペの狼……ガルムも、案内に立たずにペネロペの横にいる。

 どうしたものかな。

「ペネロペ、ここはどこか知っている場所?」

「いえ、見たことがない……と思いますわ」

 以前に遭遇した悪夢の霧と同じ現象なら、この町のどこかに俺かペネロペに繋がる場所があると思ったんだけど、手がかりは無しか。こうなれば全ての建物をひとつひとつ調べていくしかない……

 ため息をついた時だった。

「リオンさん……?」

 誰かに名前を呼ばれた。ペネロペからじゃない。だけど聞き覚えのある声。

 声のした方へ視線を向けると、路地から大通りへ、女の子が顔を出していた。

 少し赤みがかった金髪。背は低くて、歳は十歳くらい。

 知っている子だ。だけど……

 あれ?

「リオン様のお知り合いですか? ……私もどこかでお会いしたような気もしますけれど……」

 ペネロペが首を傾げる。確かに、ペネロペとこの子も会ったことがある……と言えなくもないな。

 何がどうしてこうなったのかはともかく、知っている子で間違いない。顔見知りどころか、俺の冒険の仲間だったこともある子だ。

「マリアちゃん」

 名前を呼ぶと、女の子はぱっと顔を明るくして頷いた。

「はい……お久しぶりです」

 確かに久しぶりだ。俺もそう思うから、マリアちゃんにはなおさらだろう。

 ペネロペは不思議そうな顔をしているけど、どう説明したものか少し迷うな。

「この子は……まあ、前に手伝ってもらったことがあるんだ」

 それは間違いない。ただ、事情はちょっと複雑だ。

 

 マリアちゃんは、マリアさんが幼い頃はこうだったんだろうなっていう感じの子だ。外見だけでなく、内面もそう。ある意味、当然だけど。

 なにしろ、俺の冒険の仲間であるマリアさんと、たぶん、同一人物。

 違う現れ方をしただけで魂が同じ、とかなんとか……〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイさんからはそんなよくわからない説明をされた。

 簡単に言えば『異界のマリアさん』ということだ。

 その異界では『姉のミリアさん』と『妹のマリアちゃん』の姉妹が揃って俺を手伝ってくれた。

 当時の俺は元々の記憶を封印されていたから違和感がなかったけど、記憶も完全に戻ったいまでは、やっぱり少しややこしい。

 

「どうしてここに? ミリアさんは一緒じゃないの?」

 訊ねると、マリアちゃんは首を横に振った。

「さっきまでは姉と一緒だったんですけど、急に霧が出てきて、はぐれてしまったんです……」

 また、霧か。

 やっぱりそれがこの現象を引き起こしていると考えられそうだ。

「もしかして、マリアちゃんはこの町に見覚えがある?」

 この質問には「はい」と肯定が返った。

「以前、住んでいました。母が亡くなるまで」

 なるほど。マリアちゃんに繋がる場所だったか。それで俺とペネロペには見覚えがなかったんだな。

「あの、いったい何が起きたんでしょうか。どうして私はここにいて、どうしてリオンさんがここにいるんでしょう」

 もっともな疑問だけど、説明は難しい。俺だってよくわかってないから。

「俺も詳しいわけじゃないけど」

 マリアちゃんもそれはわかっていると思うけど一応、前置きして……

「夢の世界、というところかな。ただ、夢といっても悪夢かもしれない」

 この後、どんな危険があるのかわからない。危険があるなら、それは俺がかつて神託の霊峰で経験したときのように、過去の恐怖や絶望を形にしたものになるかもしれない。そのことを、覚悟しておいてもらわないといけない。

 言うと、マリアちゃんは笑った。

「悪夢ってことは、ないと思います」

 それは何か根拠があるんだろうか。だとしたら心強いけど。

「だって、リオンさんに会えました。悪い夢のはずないです」

 ……期待を裏切らないように、がんばらないとな。

 

 ペネロペとマリアちゃんもお互いに自己紹介をして、三人と一匹でマリアちゃんの家へと向かう。かつて母親と一緒に暮らした家だ。この町で何かあるならそこだろう、というわけだ。

「あの後、一緒にいたみなさんと連絡をとろうと思ったんです」

 道中、マリアちゃんが口を開いた。

 あの後……俺が異界に封じられていた偽神〈運命を生成するもの(フェイトジェネレータ)〉を倒した後、か。

 異界での仲間たちとは、そこで別れた。偽神の異界が消滅したから、それぞれ本来いるべき世界に帰ったんだと説明されたけど、別れの挨拶もできなかったのは心残りだったな。

 マリアちゃんもそれは同じだったんだろう。

「でも、お会いできたのは雷王都市にいたニーナさんだけで……」

 ん。ニーナには会えたのか。少し意外だ。俺が異界に行った時の仲間はそれぞれが別の異界から集まっていたと思ってたけど、繋がってるところもあったのか。

「はい。でもリオンさんは行方がわからないままだって、そう言われて……」

 その異界の俺は、どうなったんだろう。

 確か、ニーナ……異界のニーナは剣鬼に村を襲われて行方不明になったいとこを探していた。それは、異界の俺のことなんだと思うけど、その後も見付かっていないとなると……。

 もう生きてはいないかもしれないな……。

 俺自身、いつそうなってもおかしくなかった。剣鬼が村を襲ったあの日、両親と一緒に死んでいた可能性は、確かに俺のすぐ近くに横たわっていた。

「ニーナさん、心配していましたよ?」

 それはこの俺のことではないとはいえ、『俺』のことなので申し訳ない……という、妙な気分だ。

「ニーナさんは竜牙館にいるはずでは……?」

 ペネロペの認識としてはそれで間違っていない。

 一方で、マリアちゃんの認識も間違ってはいない。

 二人ともが納得するように話したいけど、今の俺にはちゃんと説明できる自信がない……。

「……いずれ、会いに行けたらいいけどね」

 マリアちゃんとはこうしてまた会えたし、異界のニーナとも、もしかしたらどこかで会うことがあるかもしれない。

 

 マリアちゃんの家には、何もなかった。入口の扉を開けると、中は真っ黒だった。

 真っ暗、ではなく、真っ黒、だ。

「どうしたことでしょう、これは」

 ペネロペが不安げな声をあげる横で、マリアちゃんはふらついて、ついには足下にへたりこんでしまった。とっさに支えなかったら倒れていたかもしれない。

「……思い出しました」

 マリアちゃんが、青ざめた顔で呟いた。

「母がいなくなった後のことを思い出せない、ということを、思い出しました……」

 そのマリアちゃんには、母親のいない家がどうなっているのかわからない。それで、黒く塗り潰されてるってわけか。

 異様な感じではあるけど、いつまでも外から眺めていたってしょうがない。

 マリアちゃんをペネロペに預けて、俺はその家の中に一歩踏み込む。……まるで見えないけど、床はある。

「リオンさん……!」

 マリアちゃんの声が俺の背中に向けられた。俺はそれに片手を挙げるだけで応えて、さらに進む。

 と、手探りの先に硬いものが当たった。壁……ではないな。扉だ。

 腕に力を込めると、その扉はきしんだ音を立てて開いた。黒一色の中に切れ目ができて、その境界の向こうは、今度は真っ白か。

 この先に何が待ち受けているかはわからないけど、まあ、進むこと自体はできそうだ。

「行こう」

 振り返って声をかける。するとまずはガルムが、黒く塗り潰された部屋の中を悠然と歩いてきた。

「マリアさん、立てますか?」

 ペネロペがマリアちゃんを支えて立たせる。だけど、マリアちゃんはそこから家の中へと踏み込むことはできないでいる。

 これがマリアちゃんの悪夢か。幼い頃に経験した母親の死を、今もまだ受けいれられていないことが。

 でも……

「今は俺がいるから心配ないよ」

 俺にだって、そう声をかけてあげることくらいはできる。

 顔を上げて俺を見たマリアちゃんの方へ、俺は手を伸ばす。

「おいで」

 マリアちゃんがその手をとるのに、そう長い時間は必要なかった。



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偉大なる魔術師デューク

 真っ白い空間をしばらく進むと、急に景色が戻ってきた。

 何か大きな建物の中庭、という感じだけど、俺は初めて見る場所だ。規模の大きさや建材の質からすると、どこかの宮殿だろうか。

「天命都市の、大教会ですわね。聖女の広場という場所です。あちらの石碑が、ルクレツィア聖歌碑ですわ」

 大教会か。規模が大きいのも納得だ。

 とすると、ここにはペネロペの悪夢があるのか? 俺は大教会には行ったことがないし、マリアちゃんもたぶん同じだ。そう考えてちらりとペネロペの様子を窺ってみるけど……別に、恐怖や絶望を刺激された様子はない。

 俺がそう思った直後。

 

 グルルルル……。

 

「……ガルム?」

 ペネロペが狼の名前を呼んだ。さっきのは狼の唸り声だ。何かを嗅ぎつけたのか、俺たちの前に立って行く先を警戒している。その視線の先で……

 

 ――ガサガサガサッ!

 

 花壇の草花が大きな音をたてて揺れた。

 何者かが隠れている!

 そう思った瞬間にはガルムはすでに駆け出していて、さらに次の瞬間には目標に向かって飛びかかっていた。

「キシャーーーーーーーーッ!」

 花壇に隠れていた何者かが悲鳴を上げた。ふたつの影がもつれ合いながらドタバタと転げ回り、よく手入れされた花壇から無残にも草花がちぎれ飛ぶ。たぶんまぼろしの世界だとはいえ、ちょっと心苦しい光景だ……。

 あまりの乱闘に手を出せないでいると、やがて両者は弾かれたように距離を取った。ガルムはまだ歯をむき出しにして唸っているものの……

「フゥフゥ、いきなり何をするんだ。ひどいじゃないか」

 相手の方はというと、くたびれた灰色の長衣(ローブ)の乱れを直し、片手で自分の顔を撫でながら、わりとのんきな調子でそんなことを言った。

 かなり小柄な人物だ。俺も大きい方じゃないけど、その俺よりもまだ頭ふたつ分くらい小さい。マリアちゃんよりもまだ小さいってところだ。そのわりに老成した感じの声で……

 そして、猫だ。後ろ足だけで直立している、黒い猫。

「おや、君は確か……」

 その猫が、俺たちに視線を向けた。その隙にガルムがもう一度飛びかかったけど……

「ええい、やたらと噛みつこうとするんじゃない、この犬っころが」

 黒猫は悪態をつきながらその突進を大慌てで避けた。ただそれだけでも、顔が猫ってだけで何だか笑える。

 ペネロペがガルムの名前を呼んで自制を促すと、それでようやく、猫の方も落ち着いた。

「オホン。私のことを覚えているかね」

 その黒猫はグリーンの目を俺に向けて、そんなことを言った。

 俺には喋る猫の知り合いなんてほとんどいないから、記憶を探るのは難しくない。

 

 この猫は、自称『偉大なる魔術師』で、名前はデューク。俺が探索した迷宮に住んでいた。後ろ足での二足歩行ができて、人語を喋る。くたびれた灰色のローブと猫の手を模した飾りがついた杖がお気に入りらしい。

 魔獣というよりは、精霊とか妖精とかそういう生き物だと思う。

 最後に会ったのは確か、そう、異界で偽神の封印殿に入るためにカギとなる魔導器を探していた時で、そのカギはこの猫が持っていたから、俺の持ち物のひとつと一時的に交換したんだ。

 一時的に、というのはお互いにそう約束していたことで、封印殿の結界を解いた後には返しに行ったんだけど……

 

「……俺の地図を持ち逃げされたんだよな……」

 なんとその頃、この猫は行方をくらましていた。どこに行ったのか誰も知らなくて、ただ書き置きに『旅に出ます。そのうち戻ります』とだけ書いてあった。そのうちっていつだよ……。

「持ち逃げとは失敬な」

 デュークは憤慨した様子で目を見開いた。

「借りた地図をちょっと試してみたくなっただけで、すぐ戻っただろう。いつまでも取りに来なかったのは君の方じゃないか。私からすれば君に大事な羅針盤を持ち逃げされているんだぞ」

 それをお互い様というのは何だか釈然としないところだけども。

「まあいい。こうして再会できたからには、今こそこの地図を君に返そう」

 そう言った後、黒猫は背負った荷物袋から丸めた羊皮紙を取り出して、俺に差し出した。

 受け取って開いてみると、いくつもの部屋や通路が細かく描かれていた。でも、それは俺の目の前でじわじわと消えていき、やがてほとんどの部分が見えなくなった。かろうじて残っている部分は……おそらく、この中庭か。

 間違いなく、俺がこの猫に預けていた地図だ。

 これは『夢路見の地図』というもので、歩いたことのある場所が勝手に書き込まれる不思議な地図だ。一瞬見えたのはこの猫が歩いた場所で、今は俺が歩いた場所だけが記録されている、というところだろう。

「それで、オホン、ええと……そう、ライオン君?」

 うーん、惜しい。

「俺の名前はリオンなんだけど」

「大して変わらないじゃないか。細かいことは気にするな」

 まあいいよ。いいけどね。言い間違えた方がそれ言うと格好悪いよな……。

 デュークはそれをごまかすかのように、手で顔を洗う動作を繰り返してる。

「ともかく地図は確かに返したから、君に貸していた黒猫の羅針盤を返してくれないかね」

 ようやく気を取り直した黒猫がそう言ったけど……

「羅針盤は館に保管してあるんだ。最初からこんなことになるとわかっていれば持ってきてたかもしれないけど、なにしろ急なことだったから。無事にここを脱出できたら返すよ」

 以前の冒険が終わったあと、手元にあった荷物はかなり整理した。聖竜に預けただけじゃなく、商人のユウリィさんに買い取ってもらった物もある。

 でも、その『黒猫の羅針盤』はいつかデュークに返す時が来ると思って、ちゃんと保管してある。

「そうなのか、しかたないな。ではその館とやらまで一緒に行くとしよう」

 そういうことになった。まあ、何が起きるかわからない場所だし、仲間が多いのは心強いか。

「マリア君はお久しぶりだね。しばらくよろしく頼むよ」

 デュークとマリアちゃんが挨拶を交わす。マリアちゃんは俺と一緒にいた頃にデュークには会ってる。

 一方、ペネロペは初対面のはずだ。

「そちらのお嬢さんには、お初にお目にかかる。オホン。私は偉大なる魔術師デューク。といっても、最近は魔法より製図を専門にしているのだがね。もちろんかつて猫魔王と呼ばれた魔法の腕はいささかも衰えてはいない。君もいずれ私の恐るべき魔法を見ることになるだろう……」

 ちなみに、デュークのその『恐るべき魔法』とやらは俺もまだ見たことがない。

 ペネロペはしばらく無言のままじっとデュークを見て、何度か首を傾げた後で、ようやく口を開いた。

「ねこがしゃべった……!」

 ……今さらそこか。確かに珍しいことだけど。

「あなた、いま喋ってましたわよね!」

 ペネロペがそう詰め寄ると、デュークは逆にさっきまでの饒舌さを失って、耳を寝かせた。変に期待されるとうまい言葉が出ない、みたいな様子で、ペネロペから視線を逸らしている。

 でも、ペネロペの期待のまなざしを受け続けると、黙りこくっていることもできなくなったらしい。やがて小さく一言。

「……にゃおん」

 今度はそれを聞いたペネロペが目を見開いて驚く番。

「あぁぁぁぁぁぁしゃぁべったぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ……その驚き方はどうなのかと思うけど。

「にゃおんと言っただけじゃないか」

 まさにデュークがぽつりと言った通りで、あのくらいなら普通の猫でも言いそうだよな……。

 

 デュークの案内で大教会の中を進むと、礼拝堂にたどり着いた。ここだけでも村の教会の何倍もの広さがある。集まる人数の規模が全く違うから自然とそうなるんだろうけど。

 デュークは灰色のローブの裾を引きずりながら祭壇へと向かい、その下に隠された空間があることを教えてくれた。これが完全に猫サイズだったら危ないところだったけど、人間が入れる程度の広さはある。人間だけでなく、狼のガルムも何とか通れそうだ。

「この中だ」

 デュークがその入口へ杖の先を向けて言った。でも、率先して入っていこうとはしない。

「ここは?」

「聖意物を収めておく場所だと思いますわ」

 俺の問いにはペネロペが答えてくれた。

 そんなところに勝手に入っていいんだろうか。そもそも、デュークはどうしてここに案内してきたんだろう。

 みんなの視線が集中すると、デュークは「オホン」と咳払いをした。

「かつてこの中を探検した時のことは忘れられない。あれは一生の不覚というやつだった。暗がりへと臆することなく進んでいく私の背後で扉が閉まって、閉じ込められてしまったのだ。昔の教会なら猫が通れる程度の隙間は常に開けていてくれたものだが、いつ頃からだろう、ぴったり閉めてしまうのが美徳とされるようになってしまっていたのだ……」

 ……迷い込んだのは、デュークの悪夢だったか。



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可能性の世界

「それにしてもまた妙なところで会ったものだな」

 三人と二匹で洞窟の中を進む。あの祭壇の下にこんな広大な空間が収まっているはずはないから、またどこかへ移動したんだろう。周囲の壁ではコケやらキノコやらが光を放っていて、ランタンがなくても平気な程度には明るい。

「デュークはこれが何なのか知ってる? 俺は、夢の世界なのかなと思っているけど」

 とはいえ、夢と言い切ってしまうには、あらゆる感覚が現実的すぎるし、本当の夢ほど脈絡がないわけでもない。

「近いが、違う。ここは可能性の世界だ」

「可能性?」

 訊き返すとデュークは頷き、一度咳払いをしてから続けた。

「夢の世界よりは現実に近い位置にあって、現実への影響力が強い。完全に夢であるよりも手が届きそうに見えるのが厄介で、それ故に多くの人間が囚われているところだ。前にライオン君と会った暗黒卿の箱庭もそういう場所だった」

 うーん? よくわからない。

「かつてあの時ああしていれば、というような後悔は誰しも少しくらいは持っているだろう? それは可能性の泡として現実と夢の間に漂っている。現実との乖離が大きくなってはじけてしまうまではね」

 後悔か。それは、もちろんある。俺はみんなと比べると後悔の少ない方かもしれないけど、それでも、特に故郷の村のことを思い出すときは後悔でいっぱいだ。

 ペネロペやマリアちゃんもそれぞれに心当たりがあるようで、頷き合っている。

「察するに君たちは悪い可能性の方にばかり触れてきたようだが、良い可能性だってもちろんある。例えば、死んだはずの家族が実は生きていた可能性、などというものは誰かの強い想いに支えられているから、かなり長いことはじけずに漂っている。そうして夢にも現実にも影響を及ぼす。良いにしろ悪いにしろ」

 それは……わかる。その想いに、俺も巻き込まれたことがある。『死んだ娘が生きている可能性』のために、〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉は五百年以上もの時間かけた。それをデュークは『囚われている』と表現した。きっと実際、そうだったんだろう。全てが終わった今となっては、結果的には上手くいった、と言えるけど。

「そういえば、オホン、ひとつ思い出した」

 言ってデュークは立ち止まり、杖を持っていない方の手で顔を洗うしぐさをした。左右にのびたヒゲがふるふると震える。

「このさらに深いところには〈悪夢王〉というものが棲息しているという。私は、見たことはないがね。時には深い霧とともに現実の世界に現れることもあって、人間の悪夢を喰って生きているのだそうだ」

 深い霧。ペネロペもマリアちゃんもそのことは口にしていた。霧が出て同行者とはぐれたんだって。全く関係がない、なんて断言できる要素はない。むしろ、そう言われれば思い当たることだらけだ。

「ライオン君。我々はそれに捕まったのかもしれんぞ」

 デュークの推測が正しかったとして。その悪夢王とやらが俺たちの近くにいるとして。

 そいつは、剣で斬れるんだろうか……。

 試す機会があれば、試してみよう。

 

       *

 

「どうやらこの洞窟も終わりらしい」

 夜目の利くデュークが、そう言いながら奥の暗がりを示した。

 魔獣とも言えないようなヘビやコウモリを追い払いながらここまで進んできたけど、最後の関門はそれよりもう少しだけ手応えがありそうだ。

 両開きの扉の前には、守護者らしき影が見えている。

 石で造られた人形だ。うずくまった状態でも俺と同じくらいの大きさで、立てば見上げる大きさになるだろう。

 たぶん、ストーンゴーレム。古王国時代に魔法で造られた疑似生命体で、簡単な命令を愚直に実行する。今回の場合は、扉に近付く侵入者の排除、ってところか。強さは様々だけど、この大きさなら幼竜より強いってくらいはあるだろう。

 幸い、近付かなければ攻撃してこない設定らしい。俺たちは一旦立ち止まった。

「前衛が三、後衛が二。バランスはまあまあ、というところですわね」

 ペネロペが、仲間を数えてそう言った。

 前衛は俺とペネロペ、それにガルム。後衛にはマリアちゃんとデューク。回復の法術を使えるのが俺だけってことには少し不安があるけど、ストーンゴーレム一体だけなら問題はないだろう。

「私の戦力をあてにしているのかね」

 デュークが少し面倒くさそうにぼやいた。

 俺はデュークが戦うところは見たことがない。偉大なる魔術師を自称しているから魔法にはそれなりに自信があるんだと思うけど、だからって戦闘用の魔法が得意だとは限らないか。

「戦闘に自信がないなら、無理にとは言わないけど」

 ストーンゴーレムくらいなら俺ひとりでも倒せるし、無理に手伝ってもらう必要もない。巻き込まれないように離れていてくれた方がむしろ戦いやすいかもしれない。

「自信がない? はっはっは。またまたご冗談を」

 うーん。もしかしたら侮ってると思われたかな……。そういうつもりじゃなかったんだけど。

「まあ、頼りにしてるなら仕方がない。ちょっとばかり本気を出してやろう。私の両手で放つチョップ攻撃は魔獣ですら一撃で葬り去る」

 チョップ? 両手で? デュークが?

「……デュークは後衛のつもりだけど」

 俺の言葉にペネロペも頷いている。当のデュークはというと……

「え……」

 え、じゃないよ。

「だって、魔術師……」

 見た目が猫とはいえ、自称『偉大なる魔術師』がなんで前衛でチョップ攻撃をするんだ。おかしいだろう。

「別に殴ってもいいし、蹴ったっていいだろう」

 そうかな? いや、まあ魔術師を名乗っていても猫なんだから、本来の野生的な戦技まで失ったわけではないんだろう。ひっかくとか、かみつくとか、すてみタックルとか。その中に大上段からの両手チョップなんかがあってもおかしくはない。……のか?

「私の閃光魔術は物理打撃属性なのだ」

 そう言って、デュークは胸を張った。

 わけがわからない。

 

       *

 

 ストーンゴーレムは強敵じゃなかった。戦う前からわかってはいたけど。俺はほとんど出番もなかった。「上達したところを見せたい」というマリアちゃんの魔術がゴーレムの機能を破壊したからだ。

 複雑な表情なのはペネロペ。明らかに年下のマリアちゃんがこれほどのちからを持っているとは思っていなかったらしい。差を付けられている気分なのかもしれない。

 俺が異界で冒険した時、マリアちゃんは俺と一緒にかなり多くの魔獣を倒したから、その経験もあって見た目の年齢に似合わないくらいに強い。冒険の後も研鑽を続けていたようで、戦いに使う魔術に関しては、成長した姿のマリアさんにも匹敵する。

 ……振り返ると、その二人とそれぞれ合計ふたつの大冒険を繰り広げた俺は、そりゃあ、闘気(フォース)竜気(オーラ)が限度を超えて強まっても仕方ないところだよな……。

 それで、ストーンゴーレムが守っていた扉。

 どこかに本物が実在していたら、誰かがゴーレムを設置してまで守りたかったくらいの宝物が収められていたかもしれないけど、今回はまぼろし。

 宝物を手に入れる夢を見た、というのは、目覚めた後で少し残念な気持ちにはなっても悪夢とまでは言えないかな。



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災いの前兆

 扉を開くとその先は洞窟ではなく、草原が広がっていた。

「ここは……?」

 またしても俺には見覚えのない場所だ。そしてこういう開けたところだと、夢路見の地図はあまり役に立たない。自分の目で確かめるしかない。

 見回すとまず目に入ったのは大きな山。俺たちがいるのはその麓の、傾斜が緩やかな場所だ。上の方を見れば、草木も生えず地肌がむき出しになっている。その威容は、でも何やら自然の造形の美しさも兼ね備えていて、総じて霊峰の雰囲気がある。

「あれは、刃義の赤竜山ですわ!」

 ペネロペが驚きの声をあげた。

 どこかで聞いた地名だと記憶を辿ると、ペネロペの故郷の近くにあるっていう山だった。ペネロペが真っ先に気付いて指摘するのも当然だ。確か、かつて火の竜が棲んでいたとか言っていた。

「あの山の向こうには温泉で有名な狼宴の町があって、こちら側には私の故郷の村が……」

 ペネロペの故郷の村。確かに、麓に集落がある。大きめの村だな。竜牙の村より人口も多そうだ。人より多そうなのが羊。この山麓の草原で放牧されているらしい。

「これは、まぼろし……? それとも、まさか……」

 ペネロペが呟く。まぼろしなのは、これまでの経緯からしても確かだろう。それはペネロペもわかっているはずだ。

 それでも、そう言うのは……

 すでに滅びたはずの故郷の村が、本当は今も昔と変わらず存在してるってことを、そういう可能性を、信じたいってことか。

 

 止める間もなく、ペネロペが駆け出していた。

 真っ先にその後を追ったのはガルム。俺とマリアちゃんはさらにその後ろを追った。デュークは完全に出遅れているな……。

 追いつくことはできる。無理に止めることもできるだろう。

 でも、これがペネロペの悪夢に繋がっているなら、結局、目的地はあの村ってことになる。それなら、せめて本人が納得できる形の方がいいかもしれない。

 ペネロペは時折足をもつれさせながら、それでもひたすらに走った。

 ガルムは完全に追いついて併走している。やっぱり止める気はなくて、ペネロペを補佐しようという姿勢だ。

 と……ついにペネロペが転んだ。

 起き上がろうとしたその前に、黒い影。

「ひっ」

 ペネロペが息を呑んだのがわかった。目の前にいたのは、ペネロペの悪夢。

「ネ、ネズミ! ネズミがこんなところに! こわい! やだやだ! キャーキャー! こわいこわい!」

 大げさな……と、普段なら言ったかもしれないけど……

 正気を保つことが困難になりつつあったペネロペの服をガルムがくわえて、ほとんど引き摺るようにして俺たちの元へ連れ戻した。そうしてようやく降ろされたペネロペは、俺の足にすがりついて、恐怖からか肩を震わせている。

「毒と病を持つ、プレイグラットの群れだ」

 デュークが呻く。

 そんなに強い魔獣じゃない。駆け出しの冒険者たちでも、このネズミを相手に討伐なんて言葉は使わない。退治とか駆除とか、そんな感じだ。

 でも、この数はなんだ。

 地面が波打っているように見える、その正体が、プレイグラットの大群だった。それは草原を覆い尽くさんばかりで、ネズミ嫌いを公言しているペネロペでなくても、この光景を見ればネズミ嫌いになっておかしくない。

 いや、そもそも……ペネロペのネズミ嫌い自体が、かつてこれを見たからなのかもしれないのか。

「どこへ向かっているんだ……?」

 この大群が村へ向かうのかと思ったけど、そうでもなく、どちらかと言えば近くの森を目指しているように見える。

「これは、何かから逃げているように感じます……」

 マリアちゃんが、そう指摘した。

「ネズミは住処に危険を感じると一斉に逃げ出すことがあるそうなのです。ここで何か、おそろしいことが……」

 言われて、ネズミの大群が何から離れようとしているのか確かめると、それはあの赤竜山だ。

『数年前に大きな噴火があって、私は家族と離ればなれに……』

 以前、ペネロペは確かそう言っていた。

 ペネロペは今、その時のことをはっきりとした実感と共に思い出しつつあるところかもしれない。

 その古傷を刺激するようで申し訳ないけど、これはこの場の全員で共有しなくちゃならない話だ。でないと、俺たちまで悪夢に呑み込まれかねないから。

 怯えて震えているペネロペの代わりに、多少は事情を知っている俺が、話した。

「これはペネロペの過去の体験が元になってる空間だと思う。そしてきっと、大災害が起きる。あの火山が噴火するんだ。それが、あの村を巻き込む。何者かがペネロペの記憶から悪夢の体験を掘り起こそうとするなら、それを見逃すはずはない」

 

 プレイグラットの大群は、俺たちにも、村にさえ目もくれず、走り去っていった。

 そうなるとようやく、ペネロペも多少は落ち着きを取り戻したようだ。

「故郷を放ってはおけませんわ。これがまぼろしだとしても、手を尽くしても何も変わらないとしても、村に報せにいかなければなりません」

 まだ恐怖も抜けきってはいないだろうに、その毅然とした態度は、先輩であり師匠でもあるレベッカさんによく似ている。

「だったら急いだ方がいい」

 デュークが周囲を見回しながら言った。

「地鳴りだ。地面の下で何かがうごめいている。もうどこかから噴き出した頃かもしれない。だとすれば、オホン、のんびりしている暇はないぞ」

 言われて意識すれば、確かに不気味な音が聞こえる。さっきのネズミたちもこれに気付いて逃げ出したのかもしれない。

 一刻の猶予もない。少なくともそのつもりで覚悟をして、村へと急いだ。

 見れば、村の人たちも異変に気付き始めていた。山の方へ意識を向けていて、でも、具体的に対策や避難を始めた様子はない。

「……皆様!」

 ペネロペが叫んだ。

「私は自由と光の教団の聖騎士……見習い……ですわ! いまこの村に危機が迫っています! 皆様もすでに不気味な地鳴りにお気付きでしょう。これはあの赤竜山が噴火する前兆です! すぐに避難してくださいませ!」

 見習い、の部分だけは小さく言って、ペネロペは訴えた。でも、それですぐに村の人たちが動き始めることはなく、さて、どうすればいいんだろう。もうあまり時間はないはずだから、どうにかして避難させないといけないけど……

 と、ここで、ペネロペが続けて叫んだ。

「……これは、猫の導きですわ!」

 何だかよくわからないことを口にしてから、ペネロペはすぐ近くにいたデュークを抱え上げた。

「この不思議な猫が突然私の前に現れて言ったのです! もはや猶予は少ないが今すぐに避難すればまだ助かると! さあ、この猫がもう一度口を開くのを、よく聞いて下さい!」

 …………。

 大教会では猫が『聖者を聖地へと導いた生き物』としてとても大事にされているのは、レベッカさんから聞いて知ってるけど。

 その伝説の猫の役をやらされるのか、デュークは……。

 村人たちから注目されて、デュークは耳を寝かせている。急に引き出されるとは思っていなかったらしく、まるで借りてきた猫のようだ。助けを求めるように俺に向けられた顔は「知らなかった、そんなの……」ってところか。乗り気じゃないのは明らかだ。

「……早く何とか言ってくださいな」

 ペネロペがこそこそと耳打ちすると、デュークは諦めたようにため息をついて、そして……

「……にゃおん」

 ようやく口は開いたけど、なんだよ「にゃおん」って。それじゃ村の人たちが納得するはずがない。その証拠に、デュークに注目していた村の人たちは避難に走り出すこともなく、近くにいる他の村人とひそひそと囁き合っている。漏れ聞こえてくる声はざっとこんな感じ。

「ねこがしゃべった……!」

 ……ん?

 思っていたのと違う反応が聞こえて、俺はデュークと顔を見合わせることになった。

 デュークはペネロペに抱えられたまま、ぽつり。

「にゃおんと言っただけじゃないか」

「あぁぁぁぁぁぁしゃぁべったぁぁぁぁぁぁぁ!」

 さっき見たぞ、この流れ。

 

 村人たちが避難を始める中、ペネロペは村の中を駆け回った。みんながなるべく安全な場所に避難できるよう手伝うためだ。その行動と指示は的確だったし、みんなが妙に素直に従うから、大きな問題も起きていない。

「猫がしゃべったのが効いたみたいですわね」

 とは、ペネロペの指摘。そういうものかな……。

 俺やマリアちゃんもペネロペについてまわって、いろいろ手伝った。村の人たちには『聖騎士様とおともの人たち』に見えただろうな……。

 そんな中で、気になることがひとつ。

 ……『ペネロペ』がいない。



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赤竜山の災害

「ペネロペ!」

 名前を呼ぶ声がして、ペネロペはもちろん、俺たちもそっちを振り向いた。

「どうかなさいましたか?」

 ペネロペがすました顔で訊ねると、男は駆け寄る足を緩めた。

「あ、いや、すまない。娘によく似ていたから……。しかし、うちの娘がこんなに凜々しいわけがない」

 そう言う男の顔を見て驚いたのは、ペネロペよりもむしろ俺。

「アゼルさん?」

 そう。俺の仲間で、暗黒司祭のアゼルさんだった。

 と思ったんだけど……

「アゼルは俺の弟だ。あんた、あいつの知り合いなのか」

「あっ、あー……ええ、まあ、そうです」

 ……なるほど、兄弟か。そうだった。ペネロペは、アゼルさんにとっては姪。アゼルさんのお兄さんの娘だと言っていた。そのお兄さんがここにいるのはまったく不思議じゃない……どころか、いない方がおかしい。

 それにしても、似てるなあ。言われてよく見ればアゼルさんよりも肌が日焼けしているし、瞳の色は同じでも目つきは生気に溢れているし、黒髪もアゼルさんより短く切りそろえている。そうまで差があれば普通は見間違えるわけないんだけど……

 うーん。やっぱり、一瞬だけ視界に入ったくらいだと、ふと間違えてしまいそうになるな。

「娘さんをお探しなのですか」

 俺とその人との間にペネロペが割り込んだ。確かに、今はアゼルさんの話をしている場合じゃない。

 それで、目の前にいるのも間違いなくペネロペなんだけど、いまこのあたりにはもうひとり『ペネロペ』がいるはずで、この人にとってはそっちが『本物の娘』ってことになる。

「親父と出かけたんだが、まだ戻ってない。普段なら夕方まで帰ってこないから当たり前なんだが、こんな時だから心配で……」

 それはそうだろう。今も不気味な地鳴りが響いてきている。その異様さを理解しているからこそ、村の人たちも避難に積極的な協力をしてくれたわけだ。

 その中で自分の親と娘の行方が知れない。心配になって当然だ。

「歳は十一歳。髪はストロベリーブロンド……ちょうどあんたの髪と同じ感じの色で……」

 娘の特徴を話してくれたけど、数年前のこととはいえペネロペには違いないわけだから、実際に見れば一目瞭然だろう。

 話を聞いたペネロペが頷く。

「わかりました。こちらでも探してみます。お見かけしたら、両親の元へ戻るよう伝えておきますわ」

 大教会の聖騎士が、なお冷静で、落ち着いている。

 その様子は安心感を与えたようだ。ペネロペのお父さんは「よろしく頼みます」と頭を下げて村人の輪に戻っていった。

「居場所はわかっているので後回しにしていたのです。ですが、そうですね。親は心配ですわよね……」

 ペネロペにとっては過去の出来事。その時に自分がどこにいたのか、何気ない日常の中でのことならともかく、こんな大事件の時のことだ。はっきり覚えていても不思議じゃない。

 それで、動じず落ち着いているように見えるというわけだ。

「親が心配してくれているというのは、少々申し訳ない反面、嬉しくもありますわね」

 ペネロペは微笑を浮かべて、父親の背中を見送った。

「あの、もしかして、と思ったんですが……ペネロペさんのご両親はまさかこの時に……?」

 マリアちゃんがこっそりと俺に囁きかけてきた。この災害でペネロペの両親に不幸があったんじゃないか、という疑問をさすがに本人には訊けない、ってところだろう。

 でも、実はそこのところは心配なかったりする。

「ご両親は、無事だったんだよね」

 俺がそう言うと、ペネロペは笑いながら「はい」と頷いた。

「両親だけでなく、祖父もです。つい最近ですけれど、手紙が届きまして。村の復興に関わりながら元気に暮らしている、と書いてありましたわ。そうと知らないままだったら、父の顔を見て泣いていたかもしれませんわね」

 ちなみにペネロペは「聖騎士としての修行を途中で投げ出したくはありません」と言って、まだ故郷には帰っていなかったはずだ。こんな形とはいえ父親に会えて嬉しくないはずはない。

 それでも、私情は後回しに、まずは住民の避難を優先した。

 俺はそれを、立派だと思う。

「ペネロペはこの時、どこで何をしてた?」

「祖父と一緒に草原にいましたわ。祖父は羊飼いでしたので、羊たちと。幼い頃のガルムも一緒です。祖父によくなついていて……」

 うん、ということは……羊飼いのところに狼がいたってことになるのか?

「大丈夫なのかな、それ」

「地形の関係か、私と祖父がいたあたりは難を逃れていましたから。むしろ今から向かう私たちの方が危険かもしれません」

 そのことについて言ったつもりじゃなかったけど、いや実際、今はそのことの方が大事だな。

「故郷の方は、手は尽くしました。あとは『私』を迎えに行きましょう!」

 

       *

 

 赤竜山が火を噴いた。

 俺はすでにその予兆に気付いて山を注視していたから、その瞬間をはっきりと見た。

 頂上より少しこっち側の斜面を地中から突き破って、まず噴き上がったのは真っ黒な煙。それはみるみるうちに空へと延びていき……

 そして、轟音。

 とっさにペネロペとマリアちゃんを支える。デュークのことまでは支えきれなかったから斜面を転がっていってしまった。

 噴火の轟音が届いただけでこの衝撃。とんでもないことだ。

「――ッ! ――――ッ!」

「なんだって?」

 ペネロペが何か言っているけど、よく聞こえない。それどころか、俺自身の声も遠く感じる。どうも、噴火の轟音に耳が驚いたらしい……。

 それでも身振りで意志を伝えようとするペネロペが、山の方を指差した。

 見れば、噴き上がった煙の中から石のつぶてが降ってきてる。みんな大急ぎで岩陰に隠れたけど、全員が完全に隠れられるほど大きな岩じゃない。

 ペネロペが大盾を頭上に掲げて、小柄なマリアちゃんとデュークをも守る体勢になった。これで三人は大丈夫だろう。俺とガルムは自力でなんとかしなくちゃならない。

 幸い、俺たちの能力を超えるような大岩は降ってこなかった。せいぜい拳大というところで、これなら衝突の瞬間だけ闘気(フォース)を高めていれば軽く小突かれた程度の衝撃で済む。闘気(フォース)を込めた短剣で弾けそうな物はそうした。

 そうしてどのくらい経ったか。ようやく石の雨がおさまった。

「みんな、大丈夫?」

 声をかけるとみんなそれぞれ頷いた。どうやら無事らしい。

 ペネロペの大事な大盾は表面がぼこぼこになってしまっていたけど、壊れはしなかった。それを支えていた腕もかなりの衝撃を受けたはずだけど、骨折したりはないみたいだ。

 ……本当に幸いだった。近くには俺たちが隠れていたのと同じくらいの大きさの岩も落ちてきていた。そもそも防壁としてあてにしていたその岩自体、以前の噴火で降ってきたものだったのかもしれない。

「山の方で、何かが赤く光ってます。あれは?」

 そう言ってマリアちゃんが指差したのは、ちょうど噴火のあったあたりの斜面。その上の空には噴き上げられた煙が黒雲となってたちこめているせいもあって、赤い輝きがいっそう目につく。

「オホン。アレは溶岩流だ。炎の川とでも言おうか。いずれ斜面を下ってくる。侵攻はさほど速くなく走って逃げられる程度だが、止めることは、我々のちからではできないだろう。森は焼かれ、川は涸れる。村も畑もあれに呑まれたらおしまいだ。強大な氷の魔術の使い手でもいれば別だが」

 それは……ここにステラさんがいれば何とかしてくれたかもしれないわけか。でも、今それを言ってもどうしようもないな。



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ペネロペを追って

 幼いペネロペとその祖父が隠れているという岩場は、その近くにあった。

 周囲には羊が何頭かいて、仔狼のガルムも先輩の牧羊犬と一緒にそれを見張っている。

 その中心あたりの岩陰にいるのが、一人の男性。

「じいちゃ……そこの方! ご無事ですかっ?」

 その人物を見たペネロペが一瞬、気安い呼び方をしてしまいそうになっていた。

 見れば、歳を重ねてきた顔にはアゼルさんにも近い面影がある。ペネロペの父方の祖父ってことで間違いないだろう。

「私は自由と光の教団の聖騎士……見習い……ですわ。足を怪我されたのですね?」

 祖父の傍に屈み込んで、ペネロペが確認する。

 どうも、ここでは『謎の聖騎士見習い』で通すつもりらしいな。まあ、いちいち説明している時間がないせいでもある。

 足の怪我は、さっきの石つぶてを足に受けてしまったようだ。片足だけとはいえ、これでは全力で走ることはできないだろう。それでここに身を潜めていたのか。

 でもこのくらいの傷なら。

 俺は進み出て、その人の足の怪我に〈回復(ヒーリング)〉の法術を施した。このくらいの外傷ならすぐに治る。どういう仕組みでそうなってるのかはよく知らないけど。

「あんた法術が使えるのか。助かる……」

 仲間内では『あまり法術が得意ではない方』の俺だけど、世間的には魔法を使えるというだけで珍しいそうだ。魔法の素質がある人がざっと百人に一人で、そのうち魔法を学べる環境にいる人となればもっと少ない……ということらしい。

 俺の法術の先生は、最初はニーナだったな。ニーナはいとこだし、学べば使える程度の素質がある家系なのかもしれない。他の仲間たちがすごすぎるから「魔法が得意だ」なんてとても言えないけど。

 まあ、そんな俺の法術でも、この人の怪我は治った。

「俺はもう大丈夫だ。ちょっと休めばすぐ元気になる。それより孫が心配だ。町まで助けを呼びに行くと言って、一人で走って行ってしまった」

 孫というのはもちろん、幼いペネロペのことだ。

「……もう行った後でしたのね」

 村の人たちの避難にはテキパキと立派に行動していたペネロペだったけど、肝心なところで手抜かりがあったな……。

「追いかけます。ですがじいちゃ、んんっ、この方をこのままにしておくのも心配ですわね……」

 そう言ったペネロペの横で、ガルムが一声鳴いた。しきりに背中を気にしている様子で、その意図は明らかだ。

「背中に乗せて村まで送っていくつもりらしい」

 デュークがそう『通訳』してくれたから間違いない。

「ねこがしゃべった……!」

 おじいさんが驚いているけど、今は時間が大事だ。放っておこう。

「……また、会えますわよね?」

 ペネロペの問いかけに、ガルムは頷いたように見えた。

「狼に乗るのは初めてだ」

「犬ですわ」

「そうか、犬か」

 そんなやりとりの後で、ペネロペのおじいさんはガルムの背に乗った。というより、しがみついた。ガルムは体が大きいし毛は長いから、何とか大丈夫そうだ。

 幼いガルムもその足下にいる。村へは羊と共に大移動だ。災害に怯えた様子の羊たちに対して、先輩の牧羊犬ともどもやる気に満ちている。

「いっておいで!」

 ペネロペが声をかけると、ガルムたちは出発した。

 心配げに見送るペネロペの背中に、デュークが声をかける。

「あれは一匹だけでもうまくやるだろう。元は力の強い精霊だし」

「精霊?」

「かつては信仰を集めていたくらいのやつだ。私とは属する勢力が違って、上同士はあまり仲が良くないのだが、個人的にはお互いさほど恨みもない」

 単に狼にしては頭がいいとかでなく、そうか、精霊か。察するに、デュークも同じような存在なんだろう。

 それにしても、恨みがないというのは、どうだろう……?

「さっき噛まれてたけど」

「私もひっかいてやったからお互い様というものだ」

 出会い頭のあの攻防は恨みからのものではなかった、ということか。じゃあまあ、それはそれでいいとして。

 もうひとつ疑問があるな。

「デュークって、自称は魔術師なのにぜんぜん魔法使ってないような……」

「オホン。魔術師ではない。偉大なる魔術師、だ。安易に手の内を明かさないのが『デキる』魔術師というものだぞ」

 それは……そう言われるとそうなのかもしれない。

「それになライオン君。かつては猫の国を統べた私がたかだか犬っころ一匹に本気を出すのは、いかにもおとなげないじゃないかね」

 そういうものかな?

 考えてみれば俺も、例えばさっき遭遇したプレイグラットが一匹でうろついていたとしたら、それに魔剣技を使おうとは思わないな。似たようなものか。

 

       *

 

「そもそも、おじい様も悪いのですわ!」

 幼いペネロペを追って草原を急ぐ俺たちに、ペネロペがそんな言い訳を始めた。

「お前だけでもなるべく遠くへ逃げろ、なんて言うものですから、私はとにかく本気で走って走って……それで帰り道がわからなくなってしまったんですもの!」

 おじいさんが言っていた話とちょっと違う気がするな。幼いペネロペが助けを呼ぶために駆け出していったと、そう言ってたような。

 どっちの話が本当にしろ、ペネロペらしい行動だと思う。前を向いて突き進む感じと、そのせいでちょっと周りが見えてないことがある感じ。それがどちらかというと欠点であるよりも美点になっているのは、人一倍努力しているからでもあるだろう。

 そんな話をしながら進むと……

「魔獣がいます!」

 いち早く気付いたマリアちゃんが警告の声を発した。

 確かに、何かいる。一匹じゃない。少なくとも六匹。

「リザードマンだな。奴らもあの噴火で住処を捨ててきたのだろう」

 デュークがそう指摘した。

 リザードマンとは、二足歩行のトカゲだ。自由になった両手……両前足、で武器を操る。群れを作って暮らしていることが多く、ときどき人間とも縄張りを巡って争う。

 そんな感じのことをデュークが解説してくれたけど、正直、のんびり聞いている場合じゃなかった。

 リザードマンの集団は、俺たちと幼いペネロペの間となる位置にいる。避けて通れば戦いにはならないかもしれないけど……

「俺が先頭を行くから、遅れずについてきて。――押し通る」

 突っ切った方が早い。

 マリアちゃんは以前俺の冒険を手伝ってくれていたこともあって、俺がそう言うのを予想していたかのようにすぐに「はい」と頷いてくれた。

「相手が六匹、こちらは四人。少々不利なのでは?」

「問題ない」

 ペネロペの懸念はわかるけど、それは個々の力量に大きな差がない場合の計算だ。でも今回の相手はリザードマン。駆け出しには辛い相手でも、俺とマリアちゃんなら一気に倒せる。

 駆け寄ると、相手もこっちに気付いた。それでいい。幼いペネロペに気付いて追って行かれると困るし。

霊気(マナ)よ、輝き荒ぶる雷となりて吹き荒れよ! ――〈雷嵐(サンダーストーム)〉!」

 マリアちゃんの魔術が発動して、放たれた稲妻がリザードマンたちを打ち据える。

 その威力にうろたえる敵のただ中に跳び込んで、俺は闘気(フォース)を高めた。……まあ、ちょっとくらいは大丈夫だろう。持ってるのも魔剣じゃないし、やりすぎることはないはずだ。

 右手の短剣を振り抜くと、溜めた闘気(フォース)がリザードマンたちをなぎ払った。威力はまあ、こんなもんだろう。これ以上になると短剣がもたない。

 俺とマリアちゃんの攻撃で、リザードマンたちは逃げ散った。死なせないように手加減したのは、必ずしも博愛の気持ちからじゃなく、リザードマンが群れで復讐に来ないようにするためだ。痛めつけるだけで帰した方が、群れが人間の危険性を覚える。……というのは、以前ステラさんに言われたことだけど。

「ご苦労、マリア君、ライオン君。私が魔法を使うまでもなかったな」

 デュークはどうもあてにならないな。本人が言うとおり実際はとても強いのかもしれないけど、今のところその片鱗も見えない。

 いいけどね。今のところは猫の手を借りなくても問題ない程度の相手ばかりだ。

「リザードマン……こんなにも簡単に倒してしまえるのですね」

 半ば呆然と、ペネロペが呟いた。

「やはり、リオン様はお強いですわね。今のでも本気ではないのでしょう?」

「魔剣でもないしね」

 ここ半年で魔剣が必要だと思ったのはシードラゴンくらいだしなあ。他はそもそも本気を出す強さじゃなかった。油断は禁物とはいえ、その程度の相手に魔剣を使うのは、デュークの言葉を借りると「邪神を倒した俺がそのくらいの相手に本気を出すのは、いかにもおとなげない」ってところか。

「幼い私は、一匹のリザードマンに追われていました。小さい私にはその一匹でもとても大きく見えて、本当に恐ろしかった……」

 幼いペネロペを探して進みながら、ペネロペがそんなことを言った。

 そんな危険な状況なら早く追いつかないと、と驚いたけど……

 ペネロペは「心配要りませんわ」と続けた。

「もう追いつかれると思ったその時、助けが現れるのです。白い鎧に身を包んだ聖女……大教会の聖騎士、レベッカお姉様ですわ!」

 なるほど、レベッカさんならリザードマンの数匹くらい……

 いや……いやいや。

「それ、数年前ってことだよね? レベッカさんもまだ聖騎士になって日が浅いんじゃ……」

 そうなると、うーん。

 レベッカさんも俺との冒険で急激に力を付けたと言っていた。それ以前のレベッカさんなら、今のペネロペと大差ないくらいの強さだと思う。

 とても一人でリザードマンと戦える力量じゃないはずだ。

「確かに今にして思えば、あの時のお姉様は、戦技に関してはまだ今ほどお強くはありませんでしたけれど、それでも、大先輩が駆けつけてくるまで私を護り、勇気づけてくださいました。誰かを守りたいという意志と決意……私はお姉様から感じたそれに、とても感銘を受けましたの。そして、私もお姉様のようになりたいと……」

 なるほど。他人を勇気づけるのに、ちからは必ずしも必要じゃない。その意志があれば、伝わることだってある。

 そういうのって、俺にも経験あるな。確かあれは――

 と、記憶を辿ろうとした時。

 金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。戦いの音だ。近い!

 俺たちは駆ける足を速め、その場へとたどり着いた。



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目標とすべき人

「くっ!」

 金髪の女聖騎士――レベッカさんが、盾を構えて立っていた。その背に、幼い少女を庇っている。珍しい色だというストロベリーブロンドの髪。間違いなくペネロペだ。さらにその後ろには大樹がある。背後から攻撃される危険がないようにそこに立ったんだろうけど、追い詰められている格好でもある。

 その二人を取り囲むように、リザードマンが三匹。

 ……三匹だ。

「そんな……あの時は確かに一匹だけで、レベッカお姉様が」

 呆然と呟く声が聞こえる。

「知らない……私は、こんな記憶は……」

 うっすらと感じてはいたけど、ここはどうやらペネロペの記憶の中じゃないみたいだ。それなら多分、デュークが言った言葉によると『可能性の世界』ってやつなんだろう。

 あり得たかもしれない可能性。

 それは当然、悪い方に転ぶことだってある、ってわけだ。

「俺があのでかいのを引き受ける。ペネロペはレベッカさんの援護を」

 三匹の中で一番大きいのに狙いを定めて、俺は飛び出した。

「気を付けろ、ライオン君。そいつはただのリザードマンじゃないぞ。リザードロードだ。他の二匹はリザードバトラーに違いない」

 リザードロードか。リザードマンの中でも特に大きい、群れのリーダー格。竜とはわりと近い種らしくて、魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉の魔剣技である〈竜殺剣(ドラゴンバスター)〉が強い効果を発揮する。それで、竜に挑む前の練習として何匹か狩った記憶があるな。

 ただ、今は魔剣がない。俺には何の変哲もない短剣があるだけだ。

 対してリザードロードの方は、人間なら両手で使うような剣を片手で握っている。体が大きいだけじゃなく、武器の扱いが巧みな奴だ。盾も持つ。どっちも群れが獲得した武具の中で最上級のものを使っているそうだけど……今回の得物は、魔剣ではなさそうだ。

 ……それならまあ、いけるか。

 今にもレベッカさんに大剣を振り下ろそうとするリザードロードに、俺は躍りかかった。敵も気付いて、俺に向かって剣を振るう。でも遅い。もちろん、この重量の剣にしては速いけど、クルシスと比べるとなあ。

 隙を狙うのは簡単だ。ただ、一撃で済まそうとすると短剣が壊れる気がする。こいつを倒してもあと二匹いるから、それはちょっとまずい。全開にせず抑えないとな。

「あ、あなたたちは……?」

「味方なので安心してください」

 レベッカさんが不思議そうに見つめてきたけど、簡単な説明だけにした。

 俺がよく知ってるレベッカさんより数年分若返って見えるから、今は俺より年下か。とても小さく見える。いくら勇気で立ち向かうといっても限度があるな。

 まあ、俺たちが間に合った。問題ない。

「盾も鎧もないし、短剣ひとつじゃ無茶よ!」

 普通ならレベッカさんの言う通り。さすがにリザードロードはちょっと手強いと言えるだろう。

 でも、俺にとってはせいぜい「少しは歯ごたえがありそうだけど、ドラゴン未満だろ?」という程度だ。倒したことがない相手でもないし。

 リザードロードも俺を無視はできないと理解した様子で、さらに打ちかかってきた。

 それを待ち構えて、隙を見せたところを打つ。敵が怯んだ一瞬に、短剣が壊れない程度の闘気(フォース)だけを込めて、連撃。刃が通った瞬間だけ、短剣を通して闘気(フォース)をぶち込む。

 思えば、短剣の戦技は仲間の中ではメルツァーさんが得意だったな。真似できる気はしないから、自己流になるけど。

 いける。

 数度の衝突でそれを確信して、あとは思い描いた線をなぞるだけだ。

 力なく「あしゃっ」と叫んだリザードロードは、ほどなくして逃げていった。もちろん、それまでにかなりの流血を強いたし、対する俺は敵の斬撃を全て防ぎきった。逃がさないで倒してしまうこともできたけど、そうまでする意味もない。力量の差は十分、骨身に染みただろう。

 他の二匹もペネロペとマリアちゃんの連携でうまく追い払えたみたいだ。

「今の戦技は初めて見るものだったな。なかなか面白い。うーむ、よし。名前は獅子乱闘(ライオンブロウル)というあたりでどうだろう」

 デュークは相変わらず何もしてないのに偉そうだ……。

 短剣は無事にこの難局を乗り切った。なるべく闘気(フォース)を使わないように、竜気(オーラ)を活性化させないように、っていう俺の悪あがきが、ちょっとは実を結んできたかな。

「ありがとうございます。助かりました」

 ようやく戦いの緊張から解放されたレベッカさんが、そう言って頭を下げた。

「この子が追われているのが見えて、一人で飛び出してきてしまったんです。でも、こうして助けてもらえなければどうなっていたか……」

 大教会の聖印である陽光十字の刻まれた盾には、大きな傷ができてしまってるな。でも、あのリザードロードの攻撃を受けたんだから、真っ二つにならなかったというだけでもかなりの幸運だと言えるだろう。

「本当に間に合って良かった」

 気持ちが言葉に出ると、ペネロペも頷いていた。

「あの……今の戦いぶり、さぞ名のある方だと思うのですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 訊かれて、少し悩んだ。

 名乗っていいんだろうか。この異界の俺が迷惑したりしないかな……。

 でも結局、これで名乗らないのも不自然だと思い直した。

「俺はリオン。それにマリアちゃんとペネロ……」

「ペネロピですわ」

 ぴ? ……まあ、近くに幼いペネロペもいるから混乱させないためには仕方ないか。

「それと、この猫はデューク」

「〈偉大なる魔術師〉デュークだ」

 その肩書きは絶対に必要なのか? どうしても何か必要なら〈しゃべるねこ〉で十分だと思うけど。

「喋る猫のいる土地から来たのですね。その服装からすると、南の方でしょうか」

 ……レベッカさんは猫が喋っても落ち着いてるな。

「あぁぁぁぁぁぁしゃぁべったぁぁぁぁぁぁぁ!」

 幼いペネロペの方はいつもの反応だった。

「私たちはその子の家族に頼まれて、その子を探しに来たのですわ。無事でよかった。村には噴火の被害がありますけれど、住民の方々は避難済みです。赤竜山の様子がもう少し落ち着いたら、村へ送っていってあげてください」

 ペネロペがそう要請すると、レベッカさんは「必ず」と頷いた。

「私たちはもう行かなければ」

 その視線の先には、レベッカさんが背にしていた大樹。そこに不自然な扉が現れていた。

 これまでの流れからすると、この異界からの出口だろうというのは予想がつく。

 この扉がいつまであるかわからない以上、軽い気持ちでここに留まっているわけにはいかない。

 それはわかっていても、ペネロペとしてはやっぱり、少し足が鈍ってしまうようだ。

「ペネロペ」

 名前を呼ぶと、二人が振り向いた。そういえば、そりゃそうだ。うかつだったな。

 まあ、動き出すきっかけにはなったみたいだ。

 大きいペネロペが、幼いペネロペの肩に手を掛けて屈み、そして、少しためらってから、相手の目を見て口を開いた。

「ペネロペ。あなたには今後も様々な困難があります。ですが、目標とする人に追いつこうと努力すればきっと報われる時が来ます。目標とすべき人に、あなたは今日、出会ったはずです」

 この日、ペネロペは聖騎士のレベッカさんに出会った。そしてその人を目標にして、自分も聖騎士の道を目指した。今のペネロペがあるのはそのおかげだ。

 そのことを一番よく知っている本人が、これからその道を進む幼い自分自身へかける言葉。

 幼いペネロペは「うん」と頷いた。

「あたし、がんばる。そしていつかリオンさまみたいな立派な戦士になる!」

 ……ん?

 どうも、可能性の世界に良くない影響を及ぼしてしまった気がする……。

「……それもいいですわね。ぜひ、そうなさい。ですが、そのためにはまず聖騎士を目指すのがおすすめですわよ」

 ペネロペはそう言って自分が歩いた道の方を示したけど……

 俺たちはその幼いペネロペがこれからどうなっていくのか、見届けることはできない。

 それが本当の悪夢、なんてことにならないといいけどね……。



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異界の出口

 宮殿……いや、神殿か? そんな感じの廊下を進んでいく。

 これもどこかに実在する建物なのかもしれないけど、俺には見覚えがない。列柱の向こう側は崖、そして雲海だ。星読みの宮みたいにかなり高いところにある建物らしい。夏の服装では肌寒いけど、見晴らしはいい。

 ガルムが抜けたままの四人でそこを歩くうち、ペネロペが嘆息した。

「あの頃のお姉様より今の私の方が強い……と思うのは自惚れというものですわね。だって私は、魔獣からお姉様や私自身を守るためにとっさに飛び出すことができませんでしたから」

 さっきの出来事について、ようやく、ある程度までは気持ちの整理ができたらしい。

「戦って勝てるのかどうか。最近はそれを考えてしまうようになって……かつての私は、考えるより先に行動していましたのに」

 彼我の力量差。わかっていて挑むならともかく、考えもしないのは必ずしも賢明な行動とは言えないだろう。戦う前にそれを考えて、見極めてから動く。必要なことだと思うけどね。それはペネロペもわかってるはずだ。

 その上で……。

「助けていただいたあの日、私はお姉様のように強くなりたいと思い、願い、お姉様に訊ねたのです。どうしたら強くなれるのかと。すると、お姉様は仰いました」

 ペネロペは過去の情景を思い浮かべるように目を閉じ、語った。

 レベッカさんの――敬愛し尊敬する聖騎士の言葉を。

「聖騎士のちからは弱き者を守るためにあり、そのことを忘れずにいてこそ聖騎士は強くなれるのだ……と」

 聖騎士の教え。

 他者を守るために自分の危険を顧みず行動することも時には必要だ、ということだ。

 そうだからこそ人々から敬意を払われているし、その姿に憧れて聖騎士を目指す人もいる。そう、ペネロペみたいに。

「その言葉を胸に、私は鍛錬しました。いつか聖騎士になってお姉様と肩を並べるために。あれから随分と時が経って、大災厄に備えるための聖戦準備法が発効したのが昨年の春。そのおかげで聖騎士見習いになれたのがその秋……」

 ……その頃はもう邪神は倒されていたな。ちょっと遅かった。まあ、大教会ほど大きな組織だと即断即決というわけにはいかないものなのかもしれない。

 でもともかくその法律ができたおかげで、ペネロペは平時なら存在しない『聖騎士見習い』として滑り込むことができた。

「お姉様から指導を受けたいという見習いは大勢いましたのよ。けれど、お姉様はその中から私を選んでくださいました。一番の理由は、あの災害の時にお姉様に助けられた私がその姿に憧れて聖騎士を目指していたことへの嬉しさ、だと仰っていましたけれど……」

 いまや大教会で〈聖女〉と呼ばれるレベッカさんが、その名声に惹かれてきた人たちよりも、聖女ではない素の自分を慕ってきたペネロペを選んだ……。

 なるほど、いかにもレベッカさんらしい話だ。

「けれど、それだけではない、とも」

 そう言って、ペネロペは自分の胸に手を当てた。

「もうひとつは、私の心」

「こころ?」

 訊き返した俺に、ペネロペが頷く。

「お姉様は集まった見習いたちの心技体を試験されましたけれど、最も重視したのは心だと仰いました。他人のためにちからを尽くすことができる、そういう気持ちが、私の中に見えたからだと」

 ペネロペはそういういわば『がむしゃら』な気持ちを、かつては持っていたのに失ってしまった、と考えているらしい。

 かつてのレベッカさん、そして、かつての自分に会って、それを思い出した。

 そんなところか。

「……初心忘れるべからず、というところですわね」

 そう言ってペネロペは笑った。

 ちょうどその直後。

「うむ。このあたりだ。可能性の世界からようやく出られるぞ、ライオン君」

 デュークが杖を持ち上げてそう言った。

 

 自称が偉大なる魔術師であるところのデュークはここから出られると言ったけど、行き止まりだ。

 俺たちの前には大きな鏡が三枚並んでいる。それ以外には特に目立ったところもない石造りの部屋。

「この鏡は異界に通じている。行先を調整するから少し待ちたまえよ」

 デュークがそう言うので、俺たちはその作業を見守ることになった。

 そうして改めて部屋を見回すと、その壁際に斧が立てかけられているのに気付いた。何やら意味ありげだけど……

「その斧には触れるんじゃないぞ。それは鏡の精の斧。ちからは強いが呪いのある武器だ」

 とはデュークの解説。

 何の変哲もない斧に見えるけど、魔斧だったのか。うっかり触ってしまうところだった。

 俺以上にうっかりしてそうなのはペネロペ。よく見ておかないといけない。

「ようやく戻れるんですね。大変でしたね」

 マリアちゃんが呟く。俺はそれに「うん」と頷いたけど……

 俺が戻る世界にはマリアさんがいるし、マリアちゃんは元々いた世界があるわけだから、そっちに帰ることになるのが自然かな。

 となれば、一緒に行けるのはここまでか。

「マリアちゃん」

 名前を呼ぶと、マリアちゃんは振り向いた。

「元の場所に戻ったら、またしばらく会えないかもしれないけど」

 またしばらく、で済むかどうかはわからない。一度こうして会えたから、もしかしたらまた次の機会があるかもしれない、という程度だ。当然、これが最後ということもあり得る。

「少しの間だったけど、会えて良かったよ。マリアちゃんも元気だってわかって安心した。ミリアさんやそっちのニーナにも、俺は元気だったって伝えてくれる?」

 実際、あの異界が消滅した時に、もしかしたら冒険の仲間たちも一緒に消えてしまったのかもしれない、って心配はしてたんだ。

 マリアちゃんは小さく頷いた。

「……そっか。お別れ、なんですね」

 結局、今回のことについて詳しい説明は出来ていない。俺だってよくわかっていないことの方が多いくらいだし。

 それでも、元の場所に戻るということが別れを意味することくらいは、俺もマリアちゃんもわかっている。

 前の時には別れの挨拶もできなかったから、今回は随分マシだと思う。

「調整が終わったぞ」

 デュークがそう言った。見れば三枚の鏡のうち二枚が何やら不思議な光を放っている。

 光の扉だ。

「マリア君はあちらの扉から元の世界に帰れる。迷わないよう、猫の導きをつけてあげよう」

 デュークが杖を一振りすると、マリアちゃんの足下から音もなく影が立ち上がって、黒猫の姿になった。

 ……デュークが初めて、魔術師らしいことをしたな。

「ライオン君とペネロペ君はこっちだ。さあ行こう。ライオン君から大事な羅針盤を返してもらわねば」

 そういえば、デュークはそのために一緒に来ていたんだった。デュークの言う『黒猫の羅針盤』は、いつかデュークに返そうと思って館の金庫にしまってある。

「待ってください。ガルムがいませんわ」

 ペネロペが立ち止まって、あの狼のことを訴えた。

 確かに追いついてきてない。危険のただ中に飛び込んでいったわけではないから、狼の速さなら追いついてもおかしくないだけの時間は経ってる。

 でも、ここはまともな場所じゃない。いくら本性は精霊とはいえ、物理的に繋がっていない場所へ追いついてこられるものだろうか。

「あまりのんびりしているとこの扉も消えてしまうぞ。まあ心配するな。あれはこの程度のことで消えたりはしない。天命が交わるときにはまた会える」

 デュークにそう言われて、ペネロペも覚悟を決めたようだ。

 あとは……

 

「マリアちゃん」

 もしかしたらこれが今生の別れかもしれないけど、それを言うときっともっとつらくなる。そして、別れがつらいからって、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。

 住む世界が違う。……文字通りの意味で。

 だからこそ、なるべく気軽に。

「それじゃあ、またいつか。それまで元気で」

 言われたマリアちゃんは今にも泣き出しそうで、俺も胸が締め付けられる思いだ。

 デュークが「オホン」と咳払いをした。早くしろっていう催促だろう。わかってるよ。でも、マリアちゃんも放っておけない。

 俺はマリアちゃんに近付き、目線を合わせるために屈んで、それから、その赤みがかった金髪を撫でた。

「マリアちゃんは大丈夫。自分の運命を自分で決められる強さがあるよ」

 それは、俺がマリアちゃんくらいの歳の頃には持っていなかったものだ。

 あの頃の俺にその強さがあったら、故郷を救えたのかな……。

 そう思うから、俺は今のマリアちゃんが少し羨ましい。

「だから、自分が進みたい道を進めばいい。将来の自分が後悔しないように」

 俺がそう言うと、マリアちゃんはいっぱいの涙を溜めた目で俺を見て、そして微笑んだ。

 

 改めて鏡の前に立った。デュークとペネロペはもう準備が出来ている。

 この光に飛び込めば、元の世界に帰れる。デュークの説明では、そうだ。

「世界を移動する時って、障壁があるんじゃないのかな」

 俺にそんなイメージがあるのは、過去に三度、そんな障壁にぶつかったから。

「障壁なんか滅多にないぞ。邪神の領域に踏み込むわけでもあるまいし」

 ……一度はまさに邪神を倒しに行った時だったし、他の時も似たようなものだったな。そのせいか。そういうことならそこは安心しよう。

 その光の扉に、まずはデュークが飛び込んだ。次にペネロペ。

 そして最後は俺。

 心配になって振り返ると、マリアちゃんは笑顔だった。

 これなら、大丈夫だろう。

 互いに頷きを交わし合って――

 俺も光の扉に踏み込んだ。



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異界からの帰還

 視界を覆い尽くした光が消え去っていくと、今度こそ見覚えのある場所に出た。

 村の西のはずれにある遺跡。千年以上前、古王国時代には砦があったという場所で、シードラゴンが襲ってきたときには避難所にもなった。

 もちろん、この場合の村っていうのは竜牙の村のことだ。

 あちこちに水たまりはあるけど、雨は降っていない。太陽は西の低い位置にあって、そろそろ夜になろうというところだ。

 周囲に人の気配はない。もちろん、俺たち三人の他にはってことだけど。

「ようやく戻ってきた……かな。まさか、竜牙の村によく似た異界ってこともある?」

「ちゃんと君のいるべき世界だ。私にはわかる」

 俺の問いにはデュークが答えた。デュークの保証にどれほどの効力があるのかは、難しいところだけど。

 まあ、もし違ってたら、そのうち違和感があるだろう。

 今のところは「帰ってきた」って感じがする。勘だけど。

「ペネロペさんがいません」

 言われて、デュークが「オホン」と咳払いをした。

「あの子は精神だけが向こうに囚われていたから、身体に戻ったのだろう」

 なるほど。それはそうかもしれない。見れば、ペネロペから預かっていた短剣が消えていた。使ってる間は本物だと思ってたけど、あれもペネロペの夢の産物だったらしい。

「とりあえず魔女の店に行ってペネロペの様子を確かめよう。それから館に戻って、デュークに返す羅針盤を金庫から……」

 ――ん?

 なんだろう。今、何か違和感があった。

 その正体を確かめようと、周囲を見回してみて……

「あれ?」

 ようやく気が付いて、俺は声をあげた。

 俺とデュークの横にいる『三人目』。ペネロペじゃない。

 赤みがかった金髪の、幼い女の子だ。

「……マリアちゃん?」

 訊ねると、その子は笑顔で「はい」と頷いた。

「来ちゃいました」

 まさか! なぜ? どうして?

 俺には何の心の準備もなく、ただ呻くしかなかった。

「来ちゃったのか……」

 ようやくそれだけ言うと、マリアちゃんは頷いた。

「リオンさんが言ったんです。自分が進みたい道を進めばいい、って。だから、そうしました」

 それは、確かに言った。こういうつもりじゃなかったけど。

「……ミリアさんが心配してるんじゃないかな」

 確か姉のミリアさんと霧ではぐれたと言ってた。ミリアさんはわりとその場のノリで生きてるような人だけど、妹のことはちゃんと大事に思っている。それは知ってる。だから今はきっとマリアちゃんを探しているはずだ。と、そう言ったけど……

 マリアちゃんは「はい」と頷いて受け止めた。

「姉には手紙を書きます。きっとわかってくれます」

 手紙。……異界に届くわけがないけど、どうしたものか。

「まあその話は後だ。心配するな。羅針盤さえあれば何とかしてあげられる。だからまずは羅針盤を返してくれ」

 デュークがそう訴えてきた。何とか、と言ってもデュークのことだからなあ。とはいえ、ここで悩んでいても仕方ないのは確かだ。もう光の扉もないわけだし。

 ……みんなには、なんて説明しようかな……。

 

       *

 

「あっ、リオン! どこに行ってたですか! 急にいなくなったのでみんな特級心配してたですよ! あ、ペネロペは目を覚ましたです! ちょっとまだ混乱してるみたいですが、命に別状はないようです!」

 魔女の店の前で出迎えてくれたナタリーが、そういうことを一気に喋った。

「目を覚ましたならよかった。中に入っても大丈夫かな」

「ちょっと人が多いですが、なんとか大丈夫です!」

 俺の後ろにはデュークとマリアちゃんもいる。二人とも面識のあるクレールに話を通すまで遺跡で待っていてもらおうかとも思ったけど、すぐ夜になってしまう頃だから、諦めて連れてきた。

 ペネロペが寝かされていた部屋に入ると、寝台から半身を起こしたペネロペと目が合った。

「まあ、リオン様! ご心配をおかけしました。私、いま目覚めましたわ。つい先ほどまで私、リオン様と一緒に冒険をするという楽しい夢を見ていまして、爽快な気分ですの」

「夢じゃないけどね。まあ、元気そうでよかった」

 ペネロペの傍に座っているレベッカさんも、今は安堵の表情だ。

 他にはクレールとペトラ、それにナタリーがいる。

 そしてそこに、俺と、あと二人が加わった。

「オホン。ペネロペ君は心配なさそうだな」

「今、猫が喋らなかったか?」

 ペトラがデュークをじーっと見つめると、デュークは耳を寝かせた。

「にゃおん」

「気のせいか」

 ……杖持って二足歩行してることに気付いて欲しいところだけどね。

「ところで、リオンはどこに行ってたの? 何でマリアちゃんとデュークが一緒にいるの?」

 俺の同行者が誰なのかすぐにわかるのがクレール。何しろクレール自身、この二人とは面識がある。

「簡単に言うと、霧が異界に通じていて、ペネロペと同じく巻き込まれたマリアちゃんとデュークも一緒に力を合わせて切り抜けてきたんだ」

 だいたいそんな話。

「そっかー。大変だったんだねえ」

 クレールは異界について理解が深いから、そのくらいの感想で済む。

「ええっ。ということは、あれは夢ではなかったのですか?」

 驚いているのはペネロペ。

「わけがわからん」

 ペトラは首を捻るばかり。それはまあ、普通はそうだろうと思う。

「でも、変態領主が今度は幼女を誘拐してきたってことはわかった」

 ……人聞きの悪い言い方はやめていただきたい。

「ともかく二人とも無事でよかったわ。本当に心配した……」

 その言葉通り、レベッカさんは眠っていたペネロペよりもむしろ疲れた様子。二人の顔が並ぶと、休息が必要なのはどちらかというとレベッカさんに見えるくらいだ。

「目が覚めたからといって、あまり騒がしくしてはいけませんよ。本当に大丈夫かどうか、検査はこれからなんですから」

 言いながら部屋にやってきたのはマリアさん……。

「まあ、皆さん大げさですわね」

 ペネロペの表情は明るくて、やっぱり具合が悪そうには見えない。

 だから、ペネロペのことは、まあ、いい。

 問題は……

「……お母さん……?」

「え?」

 女の子の呟きに、マリアさんが振り向いた。

 そして、二人が顔を合わせた。

 

 さすがに、マリアさんとマリアちゃんの年齢差は親子ってほどじゃない。そもそもマリアちゃんはミリアちゃんと同じ年頃のはずだ。だから、ちょっと年の離れた姉妹。

 だけど、二人は『同じ』だから、言うなれば『年の離れた双子の姉妹』という感じになる。実際、マリアさんとミリアちゃんや、ミリアさんとマリアちゃんより、マリアさんとマリアちゃんの方が似ている。当たり前だけど。

 それで『成長した自分』を母親と見間違えた、か……。

「あの、この子は……」

 マリアさんが呆然と呟く。二人ともまだ事情を理解していないから、これから説明しなくちゃいけない。

 どう話したものかな……。

「その子はマリアちゃん。僕やリオンと一緒に冒険した仲間なんだー」

 俺の代わりに、クレールがそう説明した。

「マリアちゃん。その綺麗なお姉さんはマリアさん。リオンと一緒に冒険した仲間なんだよ。僕はまだあんまり一緒には出かけられてないけどね」

 二人とも俺の仲間には違いないし、クレールの説明は間違ってはいないけど、何だかややこしいな。それに、肝心なところは説明できてないように思う。

 他のみんなもどうもすんなりと受けいれてはいないみたいだ。

「まずはねえ、呼び方をなんとかしようよ。二人とも『マリア』じゃ大変だよ」

「いい考えだ。二人はどう思う?」

 マリアさんとマリアちゃんに訊くと、二人は顔を見合わせた。

 少し考える間が空いて……

「亡くなった母は私のことを――」

「母からは、マーシャ、と呼ばれていました」

 二人はほとんど同時に口を開いて、そういうことを言った。

 マリアさんは自分の言葉を遮る形になったマリアちゃんの発言に、

「そう、そうです……」

 と、驚きの声をあげた。提案するつもりだった呼び名を、自分が思ったのと全く同じ「母親が自分をそう呼んでいたから」という理由で逆に提案されて……

 マリアさんはもう、外見が少し昔の自分と似ているだけの子、とは思っていないだろう。

「じゃあ、ちっちゃいマリアちゃんのことはマーシャって呼ぶことにするね。で、二人が似てるのにはわけがあるけど、それはひとまず置いといて、単によく似た者同士ってくらいの認識で問題ないよ」

 ふむ。確かに、周囲の人間にとっては原因や理由より接し方が問題だ。本人たちにはまた違う視点があるだろうけど、それは後で話すってわけだ。

「それで、マーシャはしばらくここにいるの?」

 マリアちゃん――マーシャは、訊ねられて首を傾げた。

「そもそもここがどこなのかよくわかっていないので、今後どうするかは、少し考えます」

 それはこれからちゃんと話さないといけないな。



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マリアとマーシャ

 マーシャは結局、しばらくは竜牙館に住むことになった。元々、姉妹で旅から旅の暮らしだったというし、そもそもここはマーシャからすれば異界。他に頼れるところもないだろう。

 部屋は、マリアさんのところに一緒になった。これはマリアさんからの申し出だ。マリアさんの部屋は、ミリアちゃんと二人で使っていることを差し引いてもかなり広いから、それでだろう。

 そうしてひとまず落ち着く先が決まったところで……

 

 執務室には俺とデューク、それにマリアさんとマーシャがいる。

「これが羅針盤」

 俺がテーブルに置いたのは、デュークから借りたままになっていた『黒猫の羅針盤』だ。名前の通り、黒猫の意匠がある。

 封印殿への扉を開くためにこれが必要になって、その用が済んだら返しに行ったんだけど、デュークは俺が羅針盤の代わりに渡した『夢路見の地図』を使ってみたくなったとかで行方知れずになってた。

 どっちが悪かったのかというと、俺としてはデュークの方だと思うけど……

 まあ、もういいか、どっちでも。

「間違いない」

 デュークはその羅針盤を自分の目でよく確かめて、本物だと認定した。ちゃんと金庫に入れてあったし、俺は偽物とすりかえたりはしていないから、当然、本物のはずだ。

「それで、あの……いったい、どういうことなんでしょう」

 デュークとの話が終わったところで、それを待っていたマリアさんが口を開いた。具体的な質問ではないけど、どこから訊いたらいいかわからないんだろう。

「ちゃんと説明できるか自信がないけど……」

 俺はそう前置きしてから、二人のことについて俺が知る限りのことを話した。

 マーシャは『異界のマリアさん』で、姉のミリアさんと一緒に俺の冒険の仲間だったこと。逆にマーシャからしてもマリアさんは異界の自分だってことも。

 二人はよく似ている。外見はわかりやすい方で、赤みがかった金髪は色合いも髪質もまるで同じだ。もちろん、身体的にはマーシャはまだ発育途上という様子ではある。でもそれは歳が歳だから仕方がない。本人が言うには、十一歳。ちょうどミリアちゃんと同じ年頃だ。

 稲妻系統の魔術に関しては、マーシャもマリアさんに劣らない。年齢差を考えると驚異的なことだ。一方、薬の知識や弓矢の腕前ではマリアさんの方が上。

 総じて、当然だけど、マリアさんはマーシャが成長した姿、という感じ。

 ただ、クレールが言った通り、普段からそう意識する必要はない。二人は二人。別々の存在だから、二人でひとつの身体を共有したりはしない。

 そういう事情だから、マーシャが必ずしもマリアさんと一緒に行動する必要もないし、もちろん、マリアさんの経験をなぞる必要もない。

 その上で、マーシャが今後どうするのかは、よく考える必要がある。

 ……というような話を、まずは俺から一方的に、した。

「それと、そうだ」

 大事なことを言い忘れるところだった。

「ここにはマーシャも見覚えのある人たちがいるけど、ほとんどはこっちの世界のみんなだから、マーシャの知り合いじゃないってことになる。ややこしくて最初は戸惑うと思うけど、これは慣れていかないとね」

 マーシャと一緒に組んだことがあるのは、俺の他にはクレールだけ。……いや、スペースハムスターのハスターもそうか。それでも少ないのは確かだ。きっと心細いだろうな。

「オホン。帰るつもりがあるなら、あまり長く滞在するのは勧められないぞ」

 横で話を聞いていたデュークが、咳払いをしてからそう言った。

「離れがたくなるのももちろんだが、それ以上に、本来の居場所との繋がりが細くなるのが問題だ」

「繋がり?」

 訊き返すと、デュークは「うむ」と頷いて返した。

「本来いるべき世界との間には特別な絆や縁がある。そしてそれがあるうちは、帰るだけなら大きな問題はない。この黒猫の羅針盤さえあれば、偉大なる魔術師である私ならそのくらいはできる。ただ、時が経って縁がなくなれば、元の世界を探し出すのが難しくなるのだ」

 デュークが話したことを完全に理解したとは言えないけど、ともかくこの分野に関してデュークは詳しいようだし、頼りにしていいだろう。

「それは、どのくらいの期間なのかな」

「私の経験から言うと、最長で五十日。それを越えると今回のような偶然を待つことになる。だがそれをあてにするのはまったく勧められないぞ。普通に生活していて可能性の世界に迷い込み、しかも目的の異界へたどり着くなんて、普通はあり得ないことだ。今回、たまたまマリア君とライオン君が合流したのは、まさに奇跡と言うほかない。そのことは肝に銘じておきたまえ」

 五十日が最長。そのぎりぎりまで大丈夫と期待するのは危ない気がする。となれば……

「夏の間には結論を出した方が良さそうだね」

 そういうことになる。

 俺の言葉に、デュークもマーシャも頷いた。

「夏が終わる頃にまた来るから、それまでに身の振り方を決めておきたまえ。元の世界へ帰るつもりなら、その時に送ってあげよう。このままこの世界に残るというのも、まあ、選択肢のひとつではあるが」

「はい。わかりました」

 マーシャは素直に頷いたけど、すぐに顔を曇らせた。

「……あの。姉が心配していると思うので、ひとまず手紙だけでも送れないでしょうか」

 確かに、姉のミリアさんからは妹のマリアちゃん――マーシャが、急にいなくなったように見えているはずだ。心配しているだろう。

 でも異界に手紙を送るなんて、できるものだろうか……という当然の疑問に答えるように、デュークが頷いた。

「すぐに書きなさい。私が届けよう」

「そんなことができるのか」

 俺があげた驚きの声に、デュークは得意げな顔で返した。

「黒猫というのは荷物を運ぶこともあるものなのだ」

 そういうものなのか?

 

       *

 

「ところでデューク。訊きたいことがあるんだけど」

 マリアさんとマーシャが退室した後、椅子の上で自分の顔を撫でていた黒猫にそう声をかけた。

 するとデュークは杖を持ってその場に立ち上がり、余った手でピンとヒゲを弾いてポーズを取った。

「この偉大なる魔術師デュークに何でも訊きたまえ」

 何やら機嫌がいいらしい。羅針盤が手元に戻ったからかな。理由はともかく、この態度なら訊きやすい。気が変わらないうちに済ませてしまおう。

「竜石ってものを知ってる? どうにか手に入れたいと思ってるんだけど、俺には在処がわからなくて」

 少し前に神託の霊峰でヴァレリーさんから聞いた話だ。竜石があれば身体に溜まっている竜気(オーラ)をそっちに移し替えることができる……かもしれない、らしい。不確かな話ではあるけど、今は他に頼るものもない。

 俺が自分の不調のことをみんなには隠しているのもあって、他の人に話すのは少しためらっていたけど、その点デュークなら相談しやすい。

 デュークは「竜石か」と呟き、少し考えてから、俺の質問に答えた。

「昔どこかで見たぞ」

 驚くほどまるで参考にならない答えだ……。

 俺の表情から失望を感じ取ったのか、デュークは慌てて続けた。

「まあ待て。もう少し詳しく思い出すから。確かあれは……そう。輪廻鳥の街の領主のところに黒服の男がいて、そいつが持っていた。名前はヴァリ、ヴァレ……まあ、ヴァ某だ」

 輪廻鳥の街はクレールとルイさんの故郷。そこにいた黒服の男。名前はヴァ某。

 ヴァレリーさんのことだとしか思えない。

「それ以外で」

 デュークには悪いけどそう言わざるをえない。だって、ヴァレリーさんが竜石を持ってるのは知ってるし、譲ってもらえるものじゃないこともわかってる。

「それ以外!」

 デュークが目を丸くして呻いた。

「竜石がそんなに何個もあると思っているのかね、ライオン君」

 うーん。考えてもわからない。そんなに多いわけではないだろう、というくらいは察することができるけど。

「何個くらいあるのかな」

 デュークに教えを請うつもりでそう言うと、デュークは目を閉じ、耳を伏せた。

「とんと見当がつかぬ」

 ……うーん。デュークは肝心なところであてにならない。

「仕方ないだろう。竜石は私の研究対象ではないんだから」

 俺の態度に憤慨した様子で、デュークが顔を背けた。

「詳しく知りたければ、隠者の書庫を調べてみるといいぞ。あそこなら何でもわかる」

「隠者の書庫か……」

 デュークが口にしたのは、輪廻鳥の街の地下迷宮に繋がっていた異界の書庫だ。

 本来は天界を追放された堕天使を閉じ込めておくための牢獄らしい、と言っていたのはクレールだったかな。その堕天使が外に出る気が起きないように、本が湧いて出るんだとか……。

 俺も立ち入ったことがあるけど、中は本棚が連なる迷路になっていて、確かに本好きなら出てこられなくなるような場所だった。例えば今のステラさんなら、入ると危ないかもしれない。

 あそこなら、どんな本でも、探せばある。探すのは大変だけど、奥には『その時に最も必要としている本が光って見える』と言われる部屋がある。そこまで行けば何らかのヒントを得られる可能性はあるか。

 ただ、問題はその場所だ。

「今はどこにあるんだろう」

 俺が見たのは、異界化していた時の輪廻鳥の街……暗黒卿の〈箱庭〉でのことだから、その箱庭が消滅した今となってはどこにあるのかわからない。

 でも異世界のことに詳しいデュークなら……

「とんと見当がつかぬ」

 ……うーん。やっぱりあてにならない。

 でも、隠者の書庫のことを思い出させてくれたのはよかった。あの書庫を再び見付けるよりも、竜石が見付かる方が早いかもしれないけど。



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海水浴

「海だー!」

 はしゃいでそう叫んだのはクレール。そのすぐ傍ではナタリーとミリアちゃんもそれぞれ両手を挙げて喜びを表現している。

「館のすぐ裏の浜辺だけどね……」

 いつでも来られると思うと「急ぐこともないかな」って気持ちになるものだけど……

 異界からこっちに来てしまったマーシャがみんなの輪に入っていけるように、今こそ延期していた海水浴をやるべきだ……と、クレールが提案したのが昨晩。天気もいいし、その翌日の今日に早速実現することになった。

「そもそも海に入るの自体も初めてじゃないよね」

「うん。親方と牡蠣を取ったりしたっけなー」

 その時には俺は執務室で書類の整理をしてたな。そんな仕事がその日に組み込まれていたのはフューリスさんの策略だった、ということが後でわかったけど、いずれはやらないといけなかった作業。後回しにしていたのも悪いし、あまり強くも言えない。

 それで結局、俺が海に入ったのは海竜と戦った時。入らざるを得なかった。その前に少し慣らしておくべきだったよな……。

 今日はようやく、のんびり海水浴を楽しめる気分になれそうだ。

 すでに海を泳いでいるのは、スペースハムスターのハスター。意外と泳ぎが上手い。どうも頬の内側にある袋にたっぷり息を溜めることによって浮いているらしい。驚きの生態だ。

「砂で夢のマイホームを作るです!」

「あたしはお城をつくる! お姉ちゃん、手伝って!」

「じゃあマーシャはあたしの手伝いをするです!」

 騒々しく言い合って、ミリアちゃんとマリアさん、それにナタリーとマーシャが、浜の砂をかき集め始めた。海水浴はどうしたんだろう。ナタリーたちは前の時に海には入ってるはずだし、いいのかな。

 それにしても……

 当然だけど、みんな水着姿で、少し目のやり場に困るな。水着と下着の違いは水に濡れて透けるかどうかだ、なんて話を前にしたけど、肌の露出は大差ないわけで……

 水着なら平気らしいから俺が見ててもいいんだろうけど、あまり注目しているとペトラあたりに怒られそうではある。……この言い方にはもちろん、本当はもっとよく見たいんだけど、という気持ちが込められている……。

 ともあれ。

 砂浜には麦わらの屋根がついたあずまやがある。ニーナから預かったお弁当なんかの荷物はひとまずここに置いておくことになってる。

 中はそこそこ広くてベンチもある。風も通るし、休憩にはちょうどいい。

 ステラさんは早速そこで本を読み始めてしまった。みんなに合わせて水着は着たみたいだけど、その上にもう一枚羽織っているし、どうも海に入るつもりはないらしい。ただ、その格好はどうも……本人は水着を隠しているつもりなんだろうけど、普段より少し脱いでいるとも言えるわけで、逆に気になってしまうな。

 やっぱり、あまり意識しないようにしないと、身が保たない。

「リオンさん、タオル持ってきましたよ。どこに置きます?」

「ああ、ありがとう。そっちの台の上に置こうか」

 ユリアがタオルを運んできてくれた。このユリアの格好も――いや、意識しないと決めた。意識しないぞ。……なるべく。

「リオンさんは泳がないんですか?」

 そう言ってユリアが顔を近付けてくると、俺の視線はその胸元、黒の水着に隠された谷間へ向いてしまう。ユリアはきっとからかってるんだろうから、あまり反応するのも悔しい。なるべく平常心で対応する。

「まあ、みんなが危なくないように見張ってる役かな……それに、野良猫なんかにお弁当を荒らされるかもしれないし」

「見張りならステラさんがいるじゃないですか」

 ユリアの指摘は、これがステラさんじゃなくてニーナなら「それももっともだ」と安心して任せるところだけど。

「ステラさんは本を読んでるから……」

 野良猫が来てお弁当を開けても気付かないかもしれないし、猫好きを公言しているステラさんは、猫がお弁当を食べていてすら気にしないかもしれない。積極的に勧める可能性すらある。

「じゃあ私もここでみんなを見てることにします」

 言って、ユリアは俺の隣に座った。

「私ってほら、冥気(アビス)体質だから、日光浴びると痛いんですよね、たぶん」

「たぶん?」

「そういうことにして、屋根の下にいようかなって」

 少し秋めいてきたとはいえ、まだまだ日差しは強い。

 あまり日を浴びない生活をしていると日光に弱くなるのは確かだそうで、止まない雨の降る雷王都市から来たヴィカは日光浴を避けていたな。

 それと別に、太陽の光は煌気(エーテル)を含んでいるから、魔界の生き物は太陽の光を嫌うと言われている。本当に冥気(アビス)体質なんてものがあるなら、つらいかもしれない。ユリアのは、どうも冗談らしいけど。

 まあ、無理に海水浴を勧めることもないか……

 ……と思っていると、浜の方からクレールが小走りにやってきて、ユリアの前に立った。

「ユリアも来る!」

 クレールにしてはちょっと強引だ。ユリアはクレールから腕を掴まれて、あずまやの外に引きずり出されていく。

「えぇー。私、泳げないんですよ?」

「ユリアが昨日そう言ってたから、僕が練習に付き合ってあげるってことに決めたじゃん! 本人が来ないでどうするのさ!」

「そうでしたっけ?」

 ユリアはとぼけているけど、そういえば、二人がそんな話をしてたのは俺も聞いてた。もし口論になるようならその証言をするところだったけど。

「しかたないですね。クレールさんの暇つぶしに付き合ってあげます。それじゃリオンさん、また後で」

 どうも俺の証言は必要なさそうだ。

 クレールに引っ張られながら、ユリアは空いている方の手をひらひらと振った。

「あー! 負けちゃった! 悔しいからもう一回! もう一回やろ!」

 ミリアちゃんが大きな声で嘆いていた。

 確か砂の城を作ってたはずだけど、その作業に何の勝ち負けがあるのか……と見てみると、かき集めた砂で作られた山の上にぶすりと木の棒が立てられるところだった。

 ……いつの間に棒倒しになったんだろう?

 たぶんミリアちゃんが築城に飽きたからだと思うけど、勝負を通じてマーシャも輪に馴染んでるみたいだから、それはそれでいいのかもしれない。

 一方、ユリアとクレールの方は、どうも苦戦しているみたいだ。

「ユリアって本当に泳げないんだね……水に顔をつけることもできないなんて……」

「仕方ないじゃないですか。海に入るの、初めてなんですから」

 これなら、シードラゴンとの戦いには連れて行かなくて正解だったかな。

 でも、比較的安全な範囲でなら、新しいことに挑戦してみるのはいいことだ。

「まずはお風呂で慣らさないとだめかなあ」

 クレールもそう言って、ユリアが泳げるようになるまでの具体的な計画を考え始めている。

「別に、私が泳げなくても困らないんじゃないですか?」

 ちょっとうんざりした様子でユリアが呟くと、クレールは首を横に振った。

「出来なくてもいいんだよ……って言ってあげてもいいけど、それはユリアの未来の可能性を減らすことになるかもしれない。それってもったいないよ。だからもう少し頑張ってみようよ!」

 ユリアは今必要でないことにはあまりちからを使いたくないみたいだけど、クレールは後のためにちからを使っておくべきだと考えているらしい。

 どっちかというと、俺はクレールの意見に賛成かな。

 ユリアはこれまで長い間、外の世界とは隔離されて歪みの民の神殿に暮らしていた。今後のためにも、多くの経験が必要だと思う。

「でもほら、あんまり厳しくして海自体が嫌いになったら逆効果じゃないですか」

 その言い分もわからなくはないけど。

「あーっ! なんでー! どうしてー!」

 ミリアちゃんはまた負けたらしい。棒を支える砂が少なくなってるのに一気に取りすぎなんじゃないかな……。

 それにしても、賑やかだな。

 今日はあいにく仕事や療養で来られなかった子もいるけど、それでもこの騒ぎ。みんな揃ったらどうなってしまうのか。

「……巻き込まれない限り、見ているだけなら、心地良い」

 いつの間にか本から顔を上げていたステラさんが、そう呟いた。巻き込まれない限りは、ね。その気持ちはちょっとわかるから、俺も苦笑。

 ステラさんは積極的に輪に入っていこうとはしていないものの、それでもこの場にいて楽しいとは、思っているみたいだ。

 そのうちみんなでまた来たいな。今はいない仲間たちや、雷王都市にいるヴィカも、来られたらいいんだけど。難しいかな、とは、もちろんわかってるけど。

 でも、いつかは。

 そう思うくらいはいいだろう。



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お兄ちゃんと妹たち

 ある日の朝食の後で、ミリアちゃんとマーシャがそろって俺の前にやってきた。

「お兄ちゃん」

 そう言ったミリアちゃんの深刻そうな表情を見るに、何やら悩み事らしい。

 俺はこれから村の方に行く予定にしてたけど、港や漁の様子を個人的に視察するつもりでいる程度で、ミリアちゃんの悩みを放って出かけるほど重大なものじゃない。

 場所を執務室に移して、俺は二人と向かい合って座った。

「どうしたの、ミリアちゃん」

 マーシャが一緒にいるところを見ると、ふむ、もしかして喧嘩でもしたかな。……という俺の予想は外れた。

 ミリアちゃんが、深刻な顔で口を開く。

「マーシャがお姉ちゃんみたいなの……」

「急になに」

 マーシャは『異界のマリアさん』にあたる子だから、ミリアちゃんの姉であるマリアさんとはよく似ている。それはそうだろう。説明を聞いてミリアちゃんも一応は理解していると思ってたけど。

 でもどうも、そういう話じゃないらしい。

「話してるだけでもちょっとオトナっぽいとは思ってたけど、今日の朝、ケッテイテキなことがあったの」

「決定的なこと?」

 訊ね返すと、ミリアちゃんは神妙に頷いた。

「うん。あのね……マーシャが、あたしより早起きして、あたしが今日着る服を用意してくれてたの……」

 ……そこまで深刻な話だろうか。隣にいるマーシャに視線を送っても、マーシャも困り顔をするだけだ。

「それって、お姉ちゃんのやることだと思う! でね、あたしはマーシャのお姉ちゃんなんだから、それはあたしがやらなくちゃいけなかったの……」

 そういうものかな?

「マーシャは、どう思う?」

 もう一方の当事者に発言を求めると、その子は困り顔のまま応じた。

「姉の支度をするのは慣れてますから……妹の仕事だと思ってました……」

 ああ、異界のミリアさんは確かに、身のまわりのことは妹のマーシャに任せっきりだったな。俺の目から見ても、正直なところ、家庭的な面での生活力があるようには見えなかった。法術に関しては天才的だったけど、その分、他のことは疎かというか、適性がないというか……。

 こんなことがあった。異界での冒険の時だ。

 ミリアさんが「リオンくんに手料理をふるまうよっ!」と言って宿の厨房を借りに行った。そうして出てきた料理はとても美味しかったけど、ミリアさんはその料理の名前はもちろん、自分で扱ったはずの食材も答えられない始末。俺も途中で気付いたけど、実は、その料理を作ったのは妹のマーシャだった……というわけだ。

 ミリアさんもかつては、姉として、マーシャのために料理をしてあげたことがあったらしい。だけど最終的には、当のマーシャ本人から厨房への立ち入りを禁止されたんだそうだ。

 ただ、だからってミリアさんが姉として失格なのかというと、もちろんそんなことはない。

 俺たちが出会ったきっかけは、マーシャの病気を治すために薬を取ってきてくれと頼まれたからだった。そのあたりの事情は、マリアさんとミリアちゃんの時とよく似てる。

 最終的に『一番活躍している冒険者』の俺を指名して依頼を出すまでに、ミリアさんは手間を惜しまず東奔西走した様子だった。俺が話した限りでも、妹のことをとても大事に思っていることは伝わってきた。

 だから、そうであろうと思うなら、ミリアちゃんだってマーシャの『お姉ちゃん』になる素質は十分にあるはずなんだけど。

「ミリアちゃんは、どうしたいの」

「お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんらしくしたいの!」

 ……抽象的でよくわからない。

 ミリアちゃんの言う「お姉ちゃんらしく」の基準はたぶん実の姉であるマリアさんだから、そこで『異界のマリアさん』であるマーシャと張り合うのは、分が悪いんじゃないかな。

 そして二人が『ミリアとマリア』である以上、基本的には、ミリアがマリアのお世話になるって構図は変わらないんじゃないだろうか。

 それ以外のところで何か、ミリアちゃんが納得するようなことがあればいいんだけど。

「私は……ミリアさんのことはちゃんと姉だと思っています。実の姉と同じ感じというか……他人とは思えないです。姉と歳が近かったらこんな感じなのかな、と」

 マーシャのそれは、本当に正直な気持ちだろうと思う。

 二人の間で『姉』と『お姉ちゃん』のイメージがすれ違ってるのが問題なんだよな……。

 と、そこに……。

 バーン! と、勢いよく扉が開け放たれた。

 そうして現れた人物は手を腰にあて、胸を反らし、得意げな顔で言い放った。

「話は聞かせてもらったよ! 僕に妙案があるっ!」

 クレールが、何やらまた妙なことを思いついたらしい……。

「やっぱりここは二人で対決するべきだと思う!」

「ややこしくなるからもうしばらく離れてて」

 俺がそう言うと、クレールはショックを受けた顔で口をぱくぱくさせた。そしてそのまま、後からやってきたレベッカさんに連れて行かれた。

 もしかしたら本当に妙案かもしれないから、後でフォローはしておこう。でも、対決とか聞こえたな。あんまり期待はしないでおく。

「あの……」

 と、小さな声をあげたのはマーシャ。

「ちょっと、今の話とは、あまり関係ないことなんですけど……」

「うん。なに?」

 続きを促したけど、マーシャの反応は鈍い。何か言おうとはしているみたいだけど、口に出せないでいる様子だ。考えがまとまりきっていないのか、それとも何か俺には言いにくいことなんだろうか。

「……やっぱりいいです」

 しまいにはそう言って俯いてしまった。

 まあ、言いたくないことを無理に言わせることもない。

 ……と俺は思ったけど、ミリアちゃんの意見は違った。

「思ったことはちゃんと言わなくちゃだめだよ! のみこんじゃだめ!」

 ミリアちゃんは、そういうところあるな。思ったことはどんどん口にする方だ。

 ただ、姉のマリアさんはそうでもなくて、言ってもいいのかよく考えて結局言わない、ということがあるタイプだ。マーシャもどちらかというとマリアさんに近い性格みたいだけど……

 ミリアちゃんに言われて、思い直したみたいだ。

「あの、ミリアさ――姉が、さっき言ってて、私も……」

 それでも一気にとはいかず、途中で言葉を切って、少し迷って、それからようやく続けた。

「……私も、リオンさんのこと『お兄ちゃん』って呼んでみてもいいですか……?」

 そういえば、ミリアちゃんからはそう呼ばれてるな。俺はミリアちゃんの兄じゃないけど、そのくらい親しみを持ってくれてるってことだ。

 マーシャもそうしたいならすればいい。

「好きなように呼んで構わないよ」

 俺を呼ぶとき必ず『変態』って言う子もいるしね……。『お兄ちゃん』くらいは全然問題ない。

「それじゃ、えと……」

 それでもマーシャは少しためらったけど、ミリアちゃんが拳を握って応援する姿勢でいるのを見て降参したらしい。

「おっ……お兄ちゃん……」

「うん」

「……ちょっと恥ずかしいです……」

 別に、恥ずかしがる要素はないような気がするけど。実の兄と妹ではもちろんないわけだから、それで抵抗があるのかな。ミリアちゃんくらいまるで気にしない方が少数派なのかも。……俺もそっちか。

「あ!」

 そのミリアちゃんが突然、声をあげた。

 俺とマーシャがなにごとかと視線を向けると、ミリアちゃんが両手をぱちんと合わせた。

「んっんー! そうだ! あたしとマーシャが二人ともお兄ちゃんがお兄ちゃんなら、先にお兄ちゃんって言ったあたしがお姉ちゃんだ!」

 …………?

「マーシャが妹だねっ!」

 ミリアちゃんから確認されて、マーシャは「えと、はい」と頷く。

「そっかー。あたしがお姉ちゃんで、マーシャが妹なんだー。これで解決だね!」

 解決……なのかな。ミリアちゃんが何を言っているのか、実のところいまいちよくわからない。でも、それを聞いたマーシャが微笑を浮かべて頷いて。

「そうだと思います……」

 なので、そうなんだろう。

 ……お兄ちゃんがお姉ちゃん? やっぱりよくわからないけど、訊き返してまたこじれても困る。だから俺も微笑んだ。

 これで解決!



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ウェルースとメルツァー

 それは突然のことだった。

「おい、リオン! ウェルースのやつは来てないか?」

 エントランスから俺を呼ぶ声が聞こえて駆けつけると、そこには一人の騎士がいた。

 紋章が刺繍された黒いマント。鈍色の鎧。そして、見覚えのある顔。

 間違いない。俺の冒険の仲間の、メルツァーさんだ。

 

 くすんだ色の長い金髪に、特徴的なのは金色の瞳。背が高くて、人好きのする微笑を浮かべていることの多いこの人は、遠く東にある鉄騎都市の出身。聞くところではそこの騎士団長の息子だったそうで、本人も特殊な訓練を受けた守護騎士(ガードナイト)という戦士だ。

 俺がまだ駆け出しの頃、たまたま一緒に魔獣を退治することになった。それ以来の仲だ。出会った時期で言うとニーナの少しあとで、レベッカさんやステラさんより早い、というあたり。

 歳は俺より少し上で、二十歳くらいだろうと思う。

 わりと調子の良いことを言う人ではあるし、普段はだらけているように見えるんだけど、それは『努力を他人に見せない』という性質の人だからだ。本当は人一倍努力しているのを、俺は知ってる。ウェルースさんから、そう教えてもらった。

 ウェルースさんというのは、メルツァーさんの同郷の親友で、俺の仲間でもある。この人も魔術騎士(メイジナイト)として訓練を受けていたそうだ。二人はよく行動を共にしているし、ときどき大喧嘩もするけど、いつの間にかまた組んでいるっていう……まあ、そんな感じの人たちだ。

 邪神との戦いの後は、西への旅を再開すると言っていた。何だか「けじめとして、西の外海までは見ておきたい」ということだった。

 それでも、俺がここに館を構えたことは冒険者の宿を通して連絡しておいたし、ここを訪れたこと自体に疑問はないけど。

 

 それにしても、この慌てようはどうしたんだろう。

「ウェルースさんは来ていませんよ。どうしたんですか、そんなに慌てて」

 俺が言うと、メルツァーさんはそれに直接の返事はせず、自分の背後……正門の方を振り向いて、小さく呟いた。

「くっそ、あいつほんとに大丈夫なんだろうな」

 メルツァーさんもウェルースさんも、俺の仲間として一緒に邪神に立ち向かったほどの人たちだ。それがこうも焦りを滲ませるとは……

 どうも何かあったらしいのは確かで、しかもただ事ではなさそうだ。

「はぐれたんですか?」

 事情を訊ねると、メルツァーさんは「ああ」と呻いた。

「久々にちょっとやばいのに出くわしてな。ここで落ち合うことにして、別々に逃げたんだが……」

 それでメルツァーさんが先に着いた、というわけだ。

 そして、ここにたどり着いていないウェルースさんがどうなったのか、俺たちにはまだわからない。

 二人はかなりの実力者だ。何者かに不意打ちされたとしても、そう簡単に致命傷は受けないだろう。ただ、その二人で戦ってさえ危険だと判断して逃げを選択したほどの敵。追いつかれて一人で対峙しなくちゃならなくなった場合は……

「心配ですね」

 俺の言葉にメルツァーさんは頷く。そうしてから、思い直したように首を横に振った。

「……いや、あいつなら大丈夫だろうとは思うんだけどな」

 そう口に出して言ったのは、不安の裏返しだろう。メルツァーさんはウェルースさんを信頼しているけど、それでも無事に逃げ切れたと確信できない。

 となれば、ドラゴンより強い。

 この村にも被害が出るかもしれないし、俺ものんびりしているわけにはいかない。

「ともかく、少し休んでてください。みんなを呼んで来ます」

 俺の提案にメルツァーさんは頷いたものの、館の奥へは入ろうとしない。そしてついには――

「敵が追ってきてるかもしれねえ。門のあたりに場所を借りるぜ」

 そう言って俺に背中を向けて出て行ってしまった。

 ……それほどの相手、というわけだ。

 

 まずは食堂にいたニーナに声を掛けて、メルツァーさんのための軽食と飲み物を頼んだ。それからペトラに館のみんなを集めるよう伝えて、俺は取り急ぎ、魔剣だけを準備した。

 魔剣を手にするのはシードラゴンと戦ったとき以来で、あれからまだそんなには経っていない。これを振るうべき強敵があらかじめスケジュールを調整してくるわけないから、時期が偏ることもあるだろう。本当は全く使う機会がない方がいいと思うけど、必要となれば躊躇するわけにはいかない。

 そうして正門へと戻ってくると、門の柱に寄りかかるようにして倒れている人影が見えた。メルツァーさんだ。まさかもう襲撃されたのか、と近寄ってみると……

「……寝てるのか」

 あまり真面目なところは見せないメルツァーさんだけど、一度見張りに立つと決めたらそれを疎かにしたことはない。守護騎士としての矜持なのだろうと思う。

 それでもこうして眠り込んでしまったのは、相当疲れてたんだろう。

 隣にはスペースハムスターのハスターが勇ましく立っていた。その様子は、どうやらメルツァーさんの代わりに門番をやっているらしいけど、メルツァーさんがハスターにやられたようにも見えるな……。

 その頃になると、館にいたみんなも集まってきた。ペトラには危急のことだと伝えてきてもらったから、みんな冒険に出るほどの重装備ではないとは言え、それぞれ得意の武器くらいは持ってきているみたいだ。となれば伝承武具(レジェンダリーアーム)も複数あるから、普段このあたりに出る程度の魔獣ならひとたまりもない。

 だけど、今回の相手はどうだろう。結局、詳しいことはまだ聞けていない。メルツァーさんが起きたらもっと話を聞かないといけないな。それとも、今は少し無理矢理にでも起きてもらった方がいいのか……

 その考えを実行に移す前に、館には新たな来訪者があった。

「リオン! メルツァーは来ていないか?」

 鈍色の鎧と、紋章の刺繍された白いマントをまとった騎士だ。その姿と声だけでもそれが誰なのかはわかったけど、兜を脱いでブラウンの髪を見せてくれたらもう間違いない。

 俺の冒険の仲間で、メルツァーさんの親友でもある、ウェルースさんだ。

 

 ウェルースさんは鉄騎都市出身の魔術騎士(メイジナイト)

 俺と知り合ったのは魔獣討伐の時、というのはメルツァーさんと同じ。ただ性格はまるで違って、ウェルースさんは騎士らしい騎士とでもいうか、とても真面目な人だ。身だしなみにもそれがよくあらわれていて、いろんな意味でメルツァーさんとは対照的。

 前に話してくれたところでは、鉄騎都市で騎士の中の騎士とまで呼ばれた英雄〈貫きの騎士(ペネトレイター)〉ガウェインの息子として、幼い頃から騎士を目指していたらしい。その父親が騎士王暗殺を企てた反逆者として都市を追放になってからは、他人の何倍もの努力と研鑽を積んで騎士になったと言っていた。規律を重んじる性格はその過程で形成されたそうだ。反逆者の息子はそうでなければ生きにくかった、と。

 そして、メルツァーさんがあの性格で気さくに接してくれたから随分救われたと言ってた。だからこそ、メルツァーさんの奔放さにたびたび苦言を呈しながらも相棒として頼りにしてもいるんだろう。

 

「メルツァーさんならそこで寝ていますよ」

 塀に寄りかかって眠っているメルツァーさんを示すと、ウェルースさんは安堵の表情を浮かべた。

「良かった。ここまでたどり着いていたのだな」

 ウェルースさんも相当無理をしてきたんだろう。顔色があまりよくない。

 そして、いま気付いたけど、よくよく見れば二人とも旅の荷物がまったくない。身軽にするためにどこかへ放り出してきたのか。

「何があったんですか? 手強い魔獣から逃れてきたとは聞きましたけど……」

 事情を知りたがっているみんなを代表して俺がそう訊ねると、ウェルースさんは「ああ」と頷いた。



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脅威

「いや、あれを魔獣と言っていいのだろうか。かつてあの〈天地大乱(メイルストローム)〉の中で見た、四つの腕に四つの魔剣を持つもの……この世ならざる存在だった」

 それは……俺にも覚えがある姿だ。ウェルースさんが言うように〈銀の玉座〉を覆った歪みから発生した〈天地大乱(メイルストローム)〉でも見たし、偽神の封印殿でも見た。

「デーモン。魔界(アビス)に棲息するとされる伝説上の生物。仮想世界だった〈天地大乱(メイルストローム)〉の外にはその存在を確認できていない。そのはず。……実在?」

 ステラさんが補足する。封印殿のことを言わないのは、こっちのステラさんは異界にあった封印殿には行っていないから。行ったのは、この場では俺とクレール、それにマーシャの三人だけか。

「実在を信じたくはないが、事実だ。……準備が不十分な俺たち二人だけでは勝てない相手だった」

 ウェルースさんがそう言うのも無理はない。

 過去に戦ったときにはいずれも、伝承武具(レジェンダリーアーム)や貴重な霊薬の十分な準備があって、戦闘を想定した複数人で行動していて、それでもなお苦戦した相手だ。

 おそらく、シードラゴンの方が耐久力では上だし、総合的には強敵だと言えるだろう。

 でも、デーモンの恐ろしさはその瞬間的な攻撃力だ。四刀流。しかも全て魔剣。容易に防ぎきれるものじゃない。

「歪みの影響がまだ残っているのかな。そのせいで発生した?」

 クレールが推測を呟いたけど、今その証明ができる人はここにはいない。

 発生した原因の調査とその対処は確かにいずれ必要だ。でも、現段階では後回し。まだ情報が少なすぎるし、何より、まずはすでにいる個体の討伐だ。

 実際に遭遇したウェルースさんの証言は参考になる。

「最初からアレを討伐するつもりで準備をしていけば、おそらく勝てる」

 俺が過去に戦った印象でも、デーモンの強さというのはそのくらいだ。

 侮るつもりはない。村の自警団では相手にならない。それどころか、雷王都市ですら滅亡の危機を迎える程度の強さはある。

 でも俺たちは、それよりもう少しだけ強い。やれるはずだ。

 ただ、ウェルースさんは気になることを言い足した。

「相手があの一匹だけとは限らないが……」

「他にもいる可能性がある?」

「いるともいないとも、確定的なことはまだ言えない。だが、他にもいるという心構えで行くべきだと思っている。デーモンが現れる、何らかの原因があるはずだ。それを突き止めて塞ぐまでは」

 確かに、ウェルースさんの意見はもっともだ。

 デーモン討伐と調査。そのどちらも、今の自警団ではまだ力量不足。俺たちで行くしかない。

「急な話ですまないが、リオン。手伝ってくれるだろうか」

「とっくに、そのつもりですよ」

 ウェルースさんに改めて言われるまでもない。

 さて、そうすると次の問題は討伐隊に参加するメンバーだ。

 この場にいるのは俺の他に、ウェルースさんとメルツァーさん、クレール、ステラさん、ナタリー、ミリアちゃん、レベッカさんとペネロペ、ユリア、マーシャ、それにハスターか。

「それじゃ、みんなで行くですか!」

 ナタリーが拳を握ってそう言ったけど、それは止める。入れ違いに館や村が襲われると困るから、こっちも空にはできない。

 六人くらいまでにしたいけど……

「志願者は?」

 訊いたら、まだ気を失ったように眠っているメルツァーさん以外の全員が手を挙げた。ミリアちゃんやハスターまで。

「だってそいつ、すっごく強いんでしょ? あたしの法術がきっと必要になると思う!」

 ミリアちゃんはそうアピールしてくる。

 最上位の回復法術である〈救世(トータルヒーリング)〉を扱えるのはミリアちゃんだけだ。その下位の〈救命(エクスヒーリング)〉でさえ、魔石の補助なしで扱えるのはミリアちゃんの他にはティータさんくらいしかいない。他の人から隔絶した才能なのは、俺もよく知ってる。

「……危険なのはわかってるんだね?」

 訊くと、ミリアちゃんは真剣な顔で「うん」と頷いた。

「わかった。確かにミリアちゃんの法術は助かる。一緒に行こう」

「やったー!」

「でも、絶対に前に出ちゃだめだよ」

 本当はミリアちゃんのような小さい子を戦闘に連れ出したくはないけど、本人の希望でもあるし、かつての冒険でミリアちゃんが得た霊気(マナ)は他のみんなとも遜色なく、デーモンの魔剣にも何度かは耐える。もちろん、そんな事態にならないように俺も力を尽くすし、その前提でなら、ミリアちゃんの回復の法術は本当に心強い。

「……俺も行くぜ」

 そう言ったのはメルツァーさんだ。目を覚ましたらしい。

「メルツァーさんは無理しない方がいいんじゃないですか」

「俺たちに任せて休んでおけ。お前、何度か斬撃を食らってただろう」

 俺の言葉にウェルースさんも賛同したけど、メルツァーさんは首を縦には振らない。

「頑丈なのが取り柄なんでね。普段休んでる分、こういう時は活躍しなくちゃな」

 正直なところ、すでにデーモンの攻撃を何度か受けたっていうウェルースさんの証言は無視できないものではある。

 でも、メルツァーさんもこういうときは頑固だ。すでに回復の法術を済ませたのか大きな傷はないように見えるし、頑丈だっていうのもはったりじゃないのは知ってる。

「わかりました。お願いします」

 俺の返事にウェルースさんは渋い顔をしたけど、メルツァーさんはこういうのに慣れた人だから、自分の状態と力量だけでなく敵の強さもちゃんとわかった上で、いけると判断してるはずだ。

 さて、あとは……

「僕の天術はデーモンにも効くと思うよ!」「魔術……得意」「捜索なら任せてください!」「聖騎士としてデーモンの存在を放っておくわけにはいかないわ」「私もお姉様と一緒に参ります!」「冥術ってデーモンにも効くんですかね?」「私は……ええっと……」「きゅい!」

 それぞれが自分の長所を主張しているけど、村の防衛もあるし、全員を連れて行くわけにはいかない。すでに決まったメンバーとのバランスもあるから……

「レベッカさん、それと、クレール。二人はデーモン討伐の方に」

「まーかせといてっ!」

「全力を尽くすわ」

 ナタリーとペネロペは見るからに落胆しているけど、特にペネロペは、デーモンと戦うにはまだ力不足だ。

「他の人たちは村への連絡と、念のために防衛の準備を頼むよ。そっちの細かい指示はステラさんに任せる」

「任される。……気を付けて行ってくるといい」

 こうして、この日の午後の予定は『デーモン討伐』になった。

 

       *

 

 まともな装備で全身を包んだのは久しぶりだ。

 竜革の胸当て(ドラゴンレザー)鬼人の手甲(オーガブレイサー)腕力の指輪(パワーリング)再生(ハイヒーリング)の魔石、そして魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉。防具は伝承武具(レジェンダリーアーム)ではないけど、十分に強力な魔法の品ばかり。他のみんなも相応の装備で全身を固めている。

 相手が野良ドラゴンくらいならここまではしない。実際、シードラゴンの時には魔剣だけだった。

 デーモンというのはそれほどの相手だ。



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デーモン討伐

 南北を結ぶ街道を踏み越え、その西側。まだ切り開かれていない林が広がっているあたり。この中を通る細い旧道で、ウェルースさんとメルツァーさんはデーモンから攻撃されたのだそうだ。

 視界はいいとは言えない。ただ……

「……近くにいる」

「わかるのか?」

 メルツァーさんの問いに、俺は頷いて返す。

「あっち。だよね?」

 そう言って指を伸ばしたのはミリアちゃん。この子は霊気(マナ)の流れが見えているんだそうだ。それでデーモンの位置に気付いたんだろう。示した方向は、俺が得た違和感と同じ。

 俺のこれは多分……竜化のせいだよな。ついに視覚にまで影響が出始めたか。

 でも、今はそれがちょっと助かる。

 俺たちは林の奥に感じる異質な気配から少し距離を取って、まずはその姿を確認した。

「封印殿で見たことある……間違いない。デーモンだ……!」

 クレールが呻いた。

 四つの腕、四つの魔剣。紫色の身体に、赤く光る目。背中にあるのはコウモリのような翼。

 確かに、俺の記憶にある姿とも一致してる。

 でも、まさかこんなところに。

 駆け出し冒険者たちが林にいる野犬を追い払いに出かけて、その道中に出会ったのがデーモン……なんてことになったら、悪夢以外のなにものでもない。

 本来なら日の当たる場所に現れるはずがない脅威。

 それが、首をぐるりとこちらへ向けた。……気付かれたらしい。

「来るぞ!」

 ウェルースさんが警告の声を発し、俺たち六人はすぐさま陣形を整えた。

 前衛に俺とウェルースさん、それにメルツァーさん。レベッカさんを中央に、後衛がクレールとミリアちゃん。

 狭い迷宮を探索していた時には四人行動が多かったけど、外でならこのくらいの人数でも互いに邪魔にならない。

 万全の態勢でデーモンを迎え撃つ。

物質界(マテリアル)に属する生命体を発見。排除行動を開始』

 デーモンが喋った? いや、他のみんなは気付いた様子はない。これも俺の竜化の影響なのか。

「一度でも食らうとやばいぜ。来るとわかってりゃ、防ぎようはあるが……」

 メルツァーさんが、油断なく敵を見据えながら言う。

 俺も魔剣を構えた。あまり積極的に戦いたくはないし、戦うにしてもこの魔剣は避けたいところだったけど、これでないと、万が一ということもありうる。仕方がない。

 デーモンは滑るように音もなく距離を詰めてきた。

 そして初撃。

「俺が受ける! ウェルース、続けよ!」

 メルツァーさんが盾を構えて、デーモンの四つの魔剣を受け止めた。デーモンはかなりの巨体でもあって、その衝撃はすさまじいものだ。並の戦士なら盾ごと切り刻まれていたに違いなかった。

 でも、メルツァーさんは騎士たちの国である鉄騎都市で生まれ育った守護騎士で、その極意は身体に染みついている。とてつもない衝撃を、メルツァーさんは巧みな防御で足下に受け流していた。

 ズンッ、と地面が沈み込み、割れた。でも、メルツァーさんはしっかりと耐えている。

「砕けろッ!」

 ウェルースさんが、矢のように飛び出した。

 本来なら馬上で使うほどの大槍を、ウェルースさんはその身ひとつで操る。その強撃一閃(パワーストライク)は、獲物の装甲がどんなに硬くても一気に貫く。その威力は邪神の眷属たちを相手に戦っていた頃から、まったく衰えてはいない。

 でも、それでも――

「くそっ、障壁か!」

 ウェルースさんとデーモンの間に波紋が広がった。魔法的な障壁で、突進の威力を減衰しているらしい。

 デーモンはウェルースさんとメルツァーさんの連携を受けて、背後に跳びすさった。

「こっちもそう何発もは耐えられねーぞ!」

 盾を構え直し、メルツァーさんが叫ぶ。

 デーモンも魔剣を構え直し、ゴフゥーッと長い息を吐いてから『排除する』と呟いた。

 もちろん、排除されるわけにはいかない。こっちがデーモンに勝っているのは人数だ。その手数で押す。

「いっくよー! 〈煌天(シャインフォール)〉!」

 クレールの杖の周囲から空へと舞い上がった光球がデーモンへと降り注いでいく。これはデーモンの魔法障壁を抜けて、その紫色の身体に突き立ち、苦悶の声をあげさせた。

「……これでもだめかー……!」

 クレールが悔しがった。倒しきれなかったのは確かだけど、これは、かなり効いてる。

 デーモンは数歩離れたその距離のまま、大きく息を吸い込んだ。人間とはつくりの違う巨体が、吸い込んだ息でさらに膨れあがる。

「――〈結界(レイヤードシールド)〉!」

 ミリアちゃんのとっさの機転で、結界が張られる。

 デーモンが極寒の息を吐いたのはその直後だった。周囲の木々が凍てつき、その葉が氷の粒になって砕けていくほどの冷気を、ミリアちゃんの法術はかなり弱めてくれた。

 吐息(ブレス)が決定打にならないことを悟ったか、デーモンは魔剣に闘気(フォース)を……こいつの場合は冥気(アビス)か? ともかく、ちからを溜め始めた。

「させない!」

 レベッカさんの傍から鋭く尖った剣の形の光が放たれた。神聖属性を持つ法術〈光剣(ライトセイバー)〉だ。戦鎚(メイス)の指し示す先へと光の尾を曳きながら飛んだそれは、デーモンの腹のあたりを貫通した。

 デーモンがまた、苦悶の声をあげた。効いてる!

 ……でも、それでもまだ倒れない、か。

 咆吼したデーモンは四つの魔剣を縦横無尽に振り回し、俺たちを切り崩しにかかった。それをメルツァーさんとレベッカさんが二人がかりで押しとどめる。二人の大盾から火花が散った。

「もう一度っ!」

 クレールの詠唱が始まった。それに気付いたのか、デーモンは至近距離でメルツァーさんたちに絶凍の吐息を浴びせると二人の頭上を飛び越え、クレールへとその剣を向ける。

 デーモンの魔剣が迫った。

 それがクレールの喉元を斬り裂く寸前。

 俺はそこに割り込んで、デーモンの致命撃を自分の魔剣で受け止めた。

 メルツァーさんがやったような、衝撃を逃がす防ぎ方はできなかった。

 しなかったと言うべきか。

 全部、受け止めた。

 そうしたら、身体に駆け巡った衝撃に反発したかのように、全身の闘気(フォース)が爆発した。

 身体が震えている。多分、きっと、全力で戦える喜びを感じたせいだ。

「応えろ、〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉……!」

 力を込めて押し戻すと、デーモンは弾かれて数歩分を下がった。

 それはちょうど、俺の剣の必殺の間合い。

 魔剣が哭いた。俺の闘気(フォース)に、魔剣が応えた。

 高まった全身の闘気(フォース)が右手の魔剣に集束していく。それは目に見える輝きとなって、魔剣の周囲で瞬いた。

 魔剣の哭き声はさらに高まっている。

 あとはこれを放てば、終わる。

 魔剣技〈竜牙砕き(ファングクラッシュ)〉。そして、クレールの〈煌天(シャインフォール)〉。

 ふたつの秘技がほぼ同時にその身体を貫くと、デーモンは叫びを上げる間もなく、一瞬で塵になった。

「……やったか?」

 ウェルースさんはそう言いながらも、周囲への警戒は続けている。

 対して、メルツァーさんは盾を下げて大きく息を吐いた。

「さすがにこうなりゃ蘇ってはこねえだろうよ」

 塵になったデーモンは、さっきまで確かにここにいたっていうのに、完全に消えてしまった。斬撃でえぐれた地面や、吐息で凍った木々が、戦いの痕跡を残しているだけだ。

「一匹だけなら余裕だったね」

 というクレールの言葉は、戦いの結果だけ見れば、まあ、そうだ。

「でもクレール。いくら天術の発動に集中してたって、さっきのは避けないと危なかったよ」

 無防備に食らっていたら死んでいたかもしれない、強烈な斬撃だった。

 そう指摘すると、クレールは笑った。

「んふ。それは、リオンが何とかするって信じてたから。その通りになったね?」

 ……期待に応えられて良かったけど、あんまりいい傾向じゃない気がするなあ。

 

 その後に周辺を調査してみたけど、デーモン発生の手がかりは何もなかった。探索や捜索に向いているナタリーや、小さな痕跡も見逃さないステラさんと一緒に、もう一度詳しく調べてみることになりそうだ。

 ただ、デーモン自体もあの一匹以外には姿も気配もなくて、まずは一安心、といったところ。

「そういえば、このあたりなのよね……あの霧が出たのは」

 レベッカさんがそう呟いていたのは、少し気になるけど。

 もしかして、何か関係があるんだろうか?



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無銭飲食の無頼漢

「食い逃げ?」

 その話が出たのは、デーモン討伐のその日、夕食前のことだった。買い出しから戻ったペトラが、執務室にいた俺のところまで持ち帰ってきたんだ。

「酒場にいたんだ。そいつ、自分は変態領主の知り合いだから変態領主を呼べ、ってうるさくてさ。店のマスターからどうにかしてくれって頼まれたんだ。どうしたらいい?」

 食い逃げするような知り合い、いたかな。ナタリーが貧乏だった時には、何度か立て替えたことはあるけど、そのナタリーはいま、食堂で夕食が出てくるのを待っている。他には……心当たりがない。俺を『変態領主』なんて呼ぶのはペトラくらいだし。

「その人、本当に『変態領主』って言った?」

「いや、別の言い方だけど?」

 報告してくれるのは助かるけど、できればもう少し正確にしてほしいところだ……。

 まあ、そこはじゃあ、いいとして。

「どんな人?」

 見た目の特徴で確認するしかない。

「二十代くらいの男。ぼさぼさの黒髪でするどい目つき、それから赤いバンダナをしてて……冒険者みたいなやつだった。それと、魔剣を持ってたな」

 ペトラがその食い逃げ犯の特徴を並べていくと……

 その場で一緒に聞いていたクレールも、何かに気付いた様子で俺に視線を向けてきた。

「……知り合いかもしれない。会ってみるよ。帰りが遅くなったら、夕食は俺に構わず済ませるようにニーナに伝えておいて」

 ペトラにそう言付けて、俺は魔剣を準備する。

 戦いを避けた方がいいって、頭ではわかってても、やっぱり避けられないこともある。

 避けられないなら手早く。そのために魔剣は役に立つ。使わないで済めばその方がいいけどね。

 でも、その食い逃げ犯……

 俺が思っている通りの人なら、何か厄介事を持ち込んできたのかもしれないんだよな……。

 

 心当たりがあるらしいクレールも、俺と一緒に行くことになった。

 そうしてたどり着いた酒場の前には、人だかりができていた。そろそろ夕食時だけど、中には入りにくい雰囲気……ということらしい。

 こっちに気付いて手を振る親方に先導されて、俺とクレールは酒場の中へ。

 目的の人物は……いた。食べ終わって空になった皿を塔のように積み上げたテーブルで、それでもまだ何か食べている。

「おう。来たな、リオン」

 俺に気付いた様子で、その男は俺に向かって手を挙げて見せた。

 やっぱり、知っている人だ。

 俺がそれを確信する間に、同じ人物を予想していたクレールが反応した。

「スレイダー! 何で生きてるの?」

「会っていきなりそれか? 何でも何も、死んでないからに決まってるだろ」

 ……間違ってない答えだけど、正しい答えでもないな。

 

 黒髪の無頼漢(デスペラード)であるスレイダーさんは、凄腕の剣士でもあり、俺の異界での冒険の仲間の一人でもある。

 俺が最初に出会ったときには、輪廻鳥の街の領主であるルイさんの直属の部下だと紹介された。その立場で、俺とクレールの冒険に便宜を図ってくれたりもした。

 それが実は、ルイさんの〈箱庭〉にあった強力な魔導器〈煉獄の魔杯(アンホーリーグレイル)〉を狙う、異界からの来訪者だった。一連の騒動の中で、俺たちは何度も争った。

 魔杯に関しては、最後には俺が競り勝ったけど、スレイダーさんはちからを封じられている状態だったと言っていた。負け惜しみとは思えなかったな。

 その後に行った偽神の封印殿では、強力な魔剣と魔剣技で俺たちを助けてくれたな。

 スレイダーさんの魔剣〈嵐を呼ぶもの〉は、俺の〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉やクルシスの〈極北の魔神〉と並べても遜色ない名剣だったけど、この大陸の歴史には現れてこないもので、どうも異界の魔剣だったらしい……とは、俺とクレールの推察。

 偽神を討伐した後は、再会を約束してそれぞれの世界に帰った。

 次に会うときはまた敵同士かもしれない、なんて物騒なことも言っていたけど……

 どうも、それは現実にはならなかったらしい。

 

「スレイダーさん。お久しぶりです。……どうして食い逃げを?」

 食い逃げ、というのも変かな。まだ食べてるし。今はパンにソーセージを挟んだものを食べてる。普段このあたりではしない食べ方だけど、まあ、美味しそうに食べている。

「別に逃げちゃいないさ。食うのは食ったが金はねえと正直に言った」

「……お金、ないんですか」

「ちょうど拠点に送金したばかりだったんでな。お前に会う前に腹ごしらえと思ったら、もうなかった」

 それなのにまだ食べているのはどうしたことかと思ったら、魔剣を担保にしているらしい。そんな馬鹿な。スレイダーさんがその魔剣を手放すはずがないから、俺の財布をあてにしてるってわけだ……。

「仕方ないな。ここの支払いは俺が立て替えておきます」

 その旨をマスターに伝えて、ひとまずその場はおさまった。請求は後ほど、館に請求書を届けてくれるそうだ。かなり食べた様子とはいえ、村の酒場で、一人。そこまで酷い額でもないだろう。

 納得いかない様子なのはクレール。

「やめときなよ、リオン。スレイダーのことだから、ほんとは持ってるに違いないし。この場できっちり払わせればいいんだよ」

 ……まあ、クレールの指摘はたぶん正しい。スレイダーさんほどの人が残金ゼロってことは、さすがにないだろう。魔剣以外にだって高価な品を持っているはずだ。スレイダーさんも否定せずに笑ってるし。

「クク。相変わらずだな、お嬢は」

 二人とも、お互いの呼び方は以前のままだ。スレイダーさんがルイさんの部下として振る舞ってた時、こんな感じだった。一時は敵対したこともあったけど、もう済んだ……ということなんだろう。俺もそういう気持ちだし。

 全面的に信頼できるかというと微妙なところ。でも、敵か味方かなら、どちらかというと味方。そのくらいの距離感だ。

「そんなところに突っ立ってないで座れよ」

 言われて、俺とクレールはスレイダーさんと同じテーブルにつく。マスターがその俺たちにお茶を持ってきてくれた。

 近くのテーブルの下にネスケさんが隠れてるな。どうも記者としてこの事件を注視しているらしい。……近くに酒瓶も転がってるから、後までちゃんと覚えていられるかはわからないけど。

「それで、俺に何か用があって来たんですか?」

 他に思い当たるところはない。スレイダーさんもすぐに「ああ」と頷いた。

「お前が領地を持ったって聞いたんでな。お前の作る理想郷がどんなもんか、見てみようと思ってな」

 なるほど。異界にいたはずのスレイダーさんがどうしてそんなことを知ってるのかはわからないけど、わからないでもない理由だ。

 スレイダーさんはこう見えて実は、異界の国では王様らしい。そしてそこを理想郷にしようと努力している。他の異界からちょっと強引な方法で魔導器を集めていたのもその一環だ。奪われる方としては「ふざけるな」というところだろうけど、理屈はわかる。

 まあそれで、俺に何か先達としてアドバイスでもしに来たのかもしれない。というのは甘く考えすぎかな。

「メシはまあまあだな」

 どうやら食べるのには満足したらしい。

「理想郷かどうかはともかく、前よりは良くなってると思うし、これからもっと発展していくと思いますよ」

「僕がついてるからね」

 俺の素直な感想に、クレールが自分の手柄を主張した。

 スレイダーさんはそんな俺たち……特に、得意げな顔のクレールを見て苦笑した。

「何だ、お前ら。まさかとは思うが、結婚でもしたのか?」

 ぐう。スレイダーさんまでそんな話をし始めるとは……。何か年上の仲間と会うたびに同じようなことを言われている気がする。ヴォルフさんとか、ジョアンさんとか、ヴァレリーさんとか。

「んふ。それはまだだけど、おおむね順調、かな?」

 クレールがそう言ったから、俺はめまいを感じてこめかみを押さえる。視界の端では親方がクレールを応援するしぐさをしているのが見えた。近くの床に寝転がっているネスケさんも何事か熱心にメモしている……。

 スレイダーさんは俺たちを見比べて、また苦笑。

「リオン、こんなんでいいのか? もっと選びようがあるだろうに」

 その言いぐさに、クレールは衝撃を受けた様子で呆然と口を開けている。

 そういえばスレイダーさんは箱庭でもよくクレールをからかっていたな。

「いや、クレールはよくやってくれてますよ」

 ここはさすがにフォローを入れた。

「少なくとも領地運営に関しては大事な戦力です。結婚はまた別の話ですけど」

 故郷の田舎村で平穏に暮らしてたら絶対に出会わなかったというくらい素敵な女の子なのは確かだ。スレイダーさんは俺より人生経験も豊富だから別の感じ方があるのかもしれないけど。

 ということを口には出さずに、それとなく態度に込めた……つもり。

 しばらく俺と視線を交わした後、スレイダーさんは笑った。

「成長したってことなのかね。ずいぶん時間も経ったしな。お嬢、あれから何年だ?」

「え」

 あれから……というのは、偽神〈運命を生成するもの(フェイトジェネレータ)〉を倒して異界の冒険が終わってから、ということになるけど……

 これがまた、異界の話だからややこしい。

 俺にとってはちょうど一年くらい前の出来事だった。去年の夏だ。不思議なことに、異界での長い冒険を終えて戻ってきても、こっちではほとんど時が経っていなかった。こっちと異界では時間の流れ方が違うと説明されたけど、それがどういうことなのか、俺はいまいちよくわかっていない。

 異界育ちのクレールの方はさらに複雑で――

「あの頃の僕は十四歳くらいだったはず……そして今は実質十七歳……つまりあれは三年前のこと……」

 クレールがそう言うのは、実際にはそれ以上の時間を過ごしてきたからだ。

 確か、異界〈箱庭〉がこの世界に実体を持って現れるのに『しかるべき時』を待つ必要があって、それで時間がかかったと言っていた。

 噂を聞く限りでは、俺がこっちに戻った頃に、あの街もこの世界に現れたはずなんだけど……

 クレールの体感では三年どころじゃないらしいのは、何となく察した。クレールは煌気(エーテル)の影響で加齢が遅い体質だとかで、見た目からはあまり感じない。でも本人としては実際の数字が気になるようで話題にしたがらないし、俺も正確なところは聞いていない。

「クク、まあそういうことにしといてやるか」

 スレイダーさんもそれをことさらに追求するほど悪辣ではなかった。

 ただ、その時間のおかげでクレールはルイさんから領地経営について教わる時間が持てたとも言っていたから、悪いことばかりじゃない。

 輪廻鳥の街の領主の地位と侯爵位を相続して、領地の経営と同時に大きな改革もやって、いまあの街は合議制で運営されているのだそうだ。

 そうして住民に全て任せるようにした結果、クレールもルイさんもいまは自分の目的のために街を離れることができるようになった。

 この村もいずれはそうしていきたいけど、クレールからすると「まだ時期尚早」ということらしい。そうかもしれない。



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まだ、大丈夫

「……ところでお嬢、領主サマは元気なのか?」

 スレイダーさんが以前と同じ呼び方でルイさんのことを訊ねた。

「父様は元気だよ。今はちょっと遠くにいるけど」

 ルイさんとはしばらく会っていないけど、ときどきルイさんの使い魔が手紙を持ってくるし、仲間内で一番最近会ったユリアも特に何も言っていなかったから、元気なんだろう。

「輪廻鳥の街じゃねえのか。遠くってどこだ」

 スレイダーさんが続けて訊ねた。

 ……でも、それを訊いてどうするんだろう。

 スレイダーさんとルイさんは、今はもう主従関係ではないし、むしろ魔杯を巡って敵対していたくらいだ。再会しても碌な事にならないんじゃないかという気が――

「ずっと北の方にある、〈風の終焉地〉っていう遺跡を調べに行ったみたい。って、最近の手紙に書いてあった。すっごい遠くらしいよ」

 俺が止める間もなく、クレールが話してしまった。

「そうか。で、お前の言う最近って何年前だ」

 さらに質問を重ねられると、クレールは何やら憤慨した様子。

「春頃だよ!」

「最近だな」

「だから、最初からそう言ってるじゃん! またばかにしてー!」

 今の、ばかにしてたかな。クレールが考えすぎなんじゃないかな……。

 ともあれ、ルイさんの居場所を知って、スレイダーさんは思案顔。

「ま、気が向いたら行ってみるさ」

 スレイダーさんはそう言ったけど、そんな気軽に行ける距離じゃない気がする……。でも、この人は普通の人間じゃないから、何か手段があるのかもしれないな。

「それにしても、驚きました。お互い住む世界が違うから、もう会うことはないだろうと思ってたので。それがこんな急に訪ねてくるなんて」

 最近、マリアちゃん――マーシャとも再会したばかりだから、あり得ないことじゃないとはわかっていても、こんなに立て続けに……という気はする。

「ちょっとな。心の奥で『冒険の虫』が騒ぎ始めた、ってところか」

 よくわからない理由だ。……いや、わかる気もするけど、異界まで出かけていく理由にしては、ちょっと軽いような。

「お前が暇そうなら大冒険の仲間に誘うつもりだったが」

 詳しい内容も聞かないまま、ただそう言われただけでも、少しワクワクした気分になってしまう。俺の中にも、その『冒険の虫』とやらはいるんだろう。

 ただ、受けるわけにはいかない。

「それは……すみません。面白そうだとは思うんですが、今はちょっと」

「構わねえさ。理想郷の建設には時間と手間がかかるってこたぁ、俺も知ってるつもりだ」

 スレイダーさんはそう言ってコップの麦酒を呷った。

 それにしても、スレイダーさんが大冒険か。気にはなるけど、内容を聞いてしまうと参加したくなってしまいそうだ。知らないでいた方がいいだろうな。

「ただな、油断はするんじゃねえぞ」

 と、言葉が続いた。

「理想を実現するためにはどうしても戦わなくちゃならないこともある。平和になった気分でせっかくの魔剣を鈍らせてないだろうな?」

 少し前なら「強敵がいないからなまってしまいそうですよ」なんて言ったかもしれないけど、今日なら、

「さっきデーモンを倒してきたところですよ」

 と言える。もちろん邪神ほどではないものの、最近の敵の中では強い方だった。闘気(フォース)竜気(オーラ)の出力を抑えているからではあるんだけど。俺の身体のこと以外にも、もし何かデーモンが現れる原因があるなら周囲にまだ他にもいるかもしれない、という中で、全部使い果たすわけにはいかなかった事情もある。結局、デーモンが異界から現れた原因はわからないままだったけど……

「……ん?」

 今、ちょっと何かひっかかったぞ。

 ――そう思った瞬間。

「あーっ!」

 クレールが叫んで椅子から立ち上がった。その視線はスレイダーさんへ向いている。

「なんであんなとこに異界のデーモンがいたのかと思ってたら、もしかして……!」

 クレールに少し遅れて、俺もそのことに気付いた。

 急に異界から現れたという点で、スレイダーさんとデーモンには共通点がある。デーモンの発生にも、スレイダーさんが関わっている……?

「もしかして、俺が転移した時に境界をこじ開けたせいかもしれん、と思ってるのか?」

「そうだよ!」

 スレイダーさんの顔には、痛痒を感じている様子はまったくない。

「……ま、そういうこともたまにはあるさ」

 そう言って肩をすくめただけだ。

 この態度から察すると、クレールの予想はたぶん、正解だな。

「リオンがいなかったらこのあたり一帯が滅びてたかもしれない強敵だったよ!」

 クレールの言い分は確かにそうで、このあたりでは特に精強とされる雷王都市の騎士団ですら、もしデーモンと戦えば壊滅するだろう。たまたま俺と仲間たちがいて、特にウェルースさんとメルツァーさんがすぐに知らせてくれたから、ほとんど被害がなかったけど。

「倒せたんならいいだろ。細かいことは気にするな」

「デーモン出現は細かいことじゃないよ!」

 クレールはそう言うけど、スレイダーさんにとっては大したことではないのかもしれない。魔杯を巡って一時敵対したとき、敵としてはとんでもなく強かった。異界〈箱庭〉の外から『本来のちからが戻ってきている』と言っていたな。

「スレイダーさん、今は力を制限されてないんですか?」

「ある程度はこっちのルールにも縛られるんで、全開ってわけでもねえが――箱庭にいた時ほど弱くはねえな」

 ……それならまあ、デーモン一匹くらいは『細かいこと』なんだろう。

「異世界人ってそういうものなんですか?」

「ここよりも原初の混沌に近いから、まあ、振れ幅がでかいってとこだ。無茶苦茶強えやつもいるし、無茶苦茶弱えやつもいる」

 無茶苦茶強いはなんとなくわかるけど、無茶苦茶弱いっていうのは何だろう。吹けば飛ぶ、が文字通りの意味だったりするくらいだろうか。……そんなので生きていけるのかな……。

「不思議なところなんですね」

 正直な感想を言うと、スレイダーさんは「ああ」と頷いた。

「住みにくい所だが、何とかマシになるように整えてる。今はまだまだだが、いつかは……ってとこだな」

「うちと同じですね」

「ああ、まあそうだな」

 この村がスレイダーさんの『理想郷』と同じくらいになるのにどれだけの年月が必要かはわからない。ただ、規模は違うかもしれないけど、似たような悩みがある者同士、ということにはなる。

 スレイダーさんの国は、いったいどんなところなんだろう。興味はあるな。異界にあるわけだし、行く機会はちょっとなさそうだけど。

「じゃあまあ、お前らの顔も町も見たし、俺はもう行くぜ」

 言ってスレイダーさんが立ち上がった。

「もう行くんですか?」

 突然の訪問と再会。会う前はまた敵味方になるかもと心配していたけど杞憂だった。それなら、話したいことはある。別れてからどうしていたのかとか、それに……

「少しゆっくりしていったらどうですか。館にはあの時の仲間もいるし」

 そう、あの時のことを懐かしむのもいいだろう。

 でもスレイダーさんは首を横に振る。

「知った顔はいるかもしれねえが、『こっちの』とは知り合いでもねえしな」

「あれ? ……そうか、そうなるのか」

 そうだった。スレイダーさんと一緒にした冒険は、異界でのこと。館にいるみんなは、それには関わっていない。同じ姿の仲間はいたけど、その記憶が共有されているわけじゃない。

 となると、あの時の仲間といったら俺の他はクレールくらいで……

「あ、そうだ」

 今はもう一人いた。

「マーシャ……マリアちゃんは、一緒でしたよね?」

「だから……」

「いや、ちょうど異界から来ているんです。あの時に一緒だった子が」

「そうなのか。そりゃ、珍しい偶然だな」

 スレイダーさんは少し興味を示したみたいだったけど、そこまでだ。

「それなら確かに知り合いじゃあるぜ。だがな、そうは言っても、別に今さら話すこともねえだろう? もし元の世界に帰れないでいるってんなら、案内くらいはしてやってもいいが」

 そう言うからには、スレイダーさんはかなり自由に異界を行き来できる手段を持っているんだろう。

「一応、迎えが来る予定にはなってます」

 マーシャの場合は、デュークが元の世界へ案内すると言っていた。猫はきまぐれと言うけど、あそこまで言っておいてすっぽかすなんてことはさすがにないだろう。うん、多分……。

「そんなら、俺からは特に何もねえな」

 うーん。あの頃のことを思い返しても、スレイダーさんとマーシャが特に親しくしていたという感じはなかったかな……。なにしろ二十人近いグループだったから、付き合いにいくらか濃淡があるのは無理もない。

 立ち上がったスレイダーさんは、愛用の魔剣を腰に、長旅をするとは思えない程度の荷物袋を肩に掛け、出口へ。外から様子を窺っていた村の人たちが、さあっ、と散って道を空ける。

「ああ、そうだ。念のため言っておくが……」

 店を出る直前、俺たちを振り返ったスレイダーさんがそう切り出した。

「もしかしたら俺を追って誰か来るかもしれねえが、そいつらは俺の敵だ。あんまり俺のことをべらべら喋るんじゃねえぞ。いいな?」

「追われてるんですか」

 この人はすごい人だけど、言葉や行動でかなりの恨みも買っていそうだ。敵対者くらいは当然いるだろう。一時は手を組んだ俺でも、それは思う。

「ま、お宝の争奪戦ってところだ。勝った奴が総取りするゲームなんでな。まずは一歩でも先を行く必要がある。わかるだろ?」

 さっき言ってた『大冒険』のことか。相変わらず、安息の日々からは遠い生活をしているみたいだな。それも面白そうではあるけど。

「それじゃあな。メシはうまかったぜ。ごちそうさん」

 と、今度こそ店を出ようとしたスレイダーさんの足が止まって――

「おっと、そうだ。メシ代のかわりに、こいつをくれてやる。受け取りな」

 その手から拳大のものが俺に向かって放られ、とっさに掴もうとしたクレールの手をすり抜けてその頭で跳ねた後、最後には俺の手におさまった。

 魔石、に見える。魔法の回路が刻まれていて、魔法の素養のない人間でも霊気(マナ)を込めるだけで魔法を発動することが出来るようになる、魔法の品。

 中の魔法は、何だろう。外見からはよくわからない。

「これは?」

「紫電の魔石」

「え」

 〈紫電(マッドサンダー)〉は……霊気(マナ)でなく冥気(アビス)を使う術法、冥術で、その威力は普通の人間なら即死、よく耐えた場合には地獄の苦しみを味わう……というあたりだ。

 でも、魔石で冥術の回路を外付けしても冥気(アビス)を持たない人間じゃ冥術は扱えないだろう、と言っていたのはステラさんだったかな。それで、たぶん、酒場の支払いには使えない。世の中のほとんどの人には無用のものだし、価値を理解されないだろう。

 ただ、館には冥気(アビス)を扱えるユリアがいる。冥気(アビス)の流れを安定させるのに役立つ、と言っていた気がするな。と同時に、すでに自力で〈紫電(マッドサンダー)〉を扱えるユリアがこの魔石を持つと、さらに上位の〈終極(アポカリプス)〉までも扱えるようになるんじゃないか、という懸念も出ていた。ちなみにその〈終極(アポカリプス)〉は『おとぎ話で魔王が使って街を滅ぼす』って程度の冥術だ……。

「クク。ま、管理にはせいぜい気を付けるこった」

 ……確かに貴重なものではあるし、スレイダーさんなりに感謝を込めたお土産なのかなって気は、まあ、する。

 スレイダーさんのために開いた人垣の間を歩き去って行く背中に、見送りに出た俺とクレールは声を掛けた。

「スレイダー! たまには顔出しなよ!」

「今度は、ゆっくり遊びにでも来てください」

 二人分の声に、スレイダーさんは片手を挙げて応えた。

「気が向いたらな」

 それがいつのことになるかわからないけど。

 スレイダーさんがこれから向かう大冒険の話、次の時には聞かせてもらおう。

 

       *

 

 ……失敗した。夜に自室で日記を書く段階になって、ようやく思い出した。

 スレイダーさんに竜石のことを聞くのを忘れていた。

 あの後、スレイダーさんからもらったのが間違いなく紫電の魔石であることをステラさんたちと確認した。その上で、ユリアに渡すかどうかは一時保留になった。

 冥気(アビス)の制御を助けるらしいとは聞いてるけど、具体的にはどうするべきなのか、手紙でルイさんに訊ねてみてからということにしたんだ。クレールは早速、その手紙を書いていたけど、こっちから送る手段はない。向こうから使い魔が来るのを待つことになる。

 それから、ウェールスさんとメルツァーさんのことだ。

 二人の西への旅は順調に終わったそうで、これからどうするかは少し考える、と言っていた。しばらくはここで疲れを癒やすのもいいだろう、と俺は思う。

 それで少し話し合って、クルシスが滞在していた客室を二人で使ってもらうことに決まった。

 ウェルースさんは「もっと質素な部屋でいいんだ。使用人が使うような」と言っていたけど、その使用人部屋は今はペトラが使ってる。ウェルースさんたちは俺の仲間ではあるけど、ペトラからすれば初対面の男二人。いくら寝台が四人分あると言っても、いきなり同じ部屋に放り込むわけにはいかないよな。

 というあれこれを済ませて、自分も浴室で疲れを流し、部屋に戻ってきて……

 で、ようやく、竜石のことを思い出した。もう今からスレイダーさんを追いかけても捕まりはしないだろう……。

 スレイダーさんの活動範囲は異界にも伸びているし、紫電の魔石みたいに、こっちでは珍しい物でもスレイダーさんなら持っていたかもしれない。

 そう考えると、うーん……失敗したなあ。今更言っても仕方ないんだけど。それでも、うーん。

 いや、もう悔やんでも仕方がない。

 デーモンとの戦いでは、新たに竜気(オーラ)を取り込むことはなかったはずだ。今すでにある分が活性化した、というのは、あるかもしれないけど。デーモンに対して魔剣と魔剣技を使わないわけにはいかなかったから、これも仕方がない。

 

 ――まだ、大丈夫のはずだ。

 

 そう信じて、俺はこの日を終え、眠りについた。

 ……夢見はあまり良くなかった。



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石碑建立の申請書

 暦によると、夏の終わりは近付いてきてる。

 とはいえ、俺の体感ではそんなことはまるでなく、この暑い日はいったいいつまで続くのか、と半ば諦め気味の感想が漏れたりもする。

 俺の故郷と比べると、とにかく日差しが強い。ただ、海の近くなのに意外と乾いた風が吹くから、それで少し救われている感じだ。

 この執務室も、窓や扉を大きく開けていると、爽やかな風が吹き抜けていく。

「次はこれね」

 吹き抜けた風になびいたふわふわの長い金髪を少し面倒くさそうにかきあげながら、クレールはそう言って、俺の目の前に新しい書類を広げた。

「これは?」

「葡萄の畑を作るのにリオンの土地を貸すことに関しての許可証だよ」

 そういえばそんな話もあった。

 館の西の荒れ地は、ナタリーが調べてくれた結果、危険な魔獣は棲息していないらしいと確認された。それで、自分たちで開墾することを条件に、村の人たちにしばらく無償で貸すことになった。この『しばらく』ってのは、植え付けた葡萄を収穫して葡萄酒にして売れるようになるまで……ということだ。ステラさんによると、短くても五年はかかる。

 領地に関わることって、そんな感じの、結果が出るのに時間がかかるものが結構ある。

 先見の明、というのがあれば俺も自信を持ってそういうのを進められるんだろうけど、あいにく俺はそんなにすぐれた人間じゃない。

 やっぱり、戦って勝てば万事解決、って日々を懐かしく感じるな……。

「ちゃんと読んだ? 大丈夫?」

 クレールの声で、俺は視線を許可証に戻した。

 なんだか難しい言葉が並んでるのはわかる。その意味は、よくわからないところもあるけど。

「だいたいわかった」

「ほんとかなぁ」

 疑わしげな目を向けられてるけど、真面目な顔で頷いておく。

 こういう書類はだいたいクレールかステラさんが作ってくれてる。それに目を通して署名をするのは俺の仕事だ。

 もし俺の隣にいるのが愚鈍な領主を隠れ蓑に私腹を肥やそうとする奸臣だったら、ここがまさに領地が傾きはじめる瞬間なのかもしれない。だけど、クレールとステラさんがそんなことをするはずはないから俺としては気楽だ。

 いい葡萄酒が造れるようになるといいな、との願いを込めて、その許可証に署名。

 あまり学はない俺だけど、ここに来てから署名の機会はとにかく多くて、自分の名前を書くのだけは上手くなった……と思う。

 フルネームで、リオン・ドラゴンハート。

 ……仕方ないから慣れたけど、やっぱり『ドラゴンハート』って俺にはちょっと派手すぎるよなあ。

「次はこれ」

 さらに次の書類が差し出されて、それにもサラサラと署名。……うん、よく書けてる。

「やっぱり読んでないんじゃない?」

 クレールが重ねてそう訊いてきた。

「読んでる読んでる」

 うん。そういうことでいいだろう。どうせ読んでもよくわからないから、それなら時間がかからない方がいいというものだ。

 すると、俺が署名したばかりの書類を摘まみ上げたクレールが……

「これ、リオンの銅像のとこに大っきな石碑を建てる計画の申請書だけど、本当に読んだ?」

「えっ?」

 言われて、嫌な汗が出た。

 そんな、まさか?

 親方がかねてからやりたいと言っていた件だ。それは知ってる。でも俺自身はあの銅像を観光地みたいにして目立たせるのは反対だから、俺のところに話が来たら領主の権限で止めるつもりだったんだ。

 それが今、もうすでに通っていった?

「署名したし、読んで理解して承認したってことでいいんだよね?」

 俺は腰を浮かせて手を伸ばしたけど、クレールは執務机の向こう側。届かない。

「ちょっと待って」

 そう言ったけどクレールは取り合わない。

「親方、喜ぶだろうなー」

 あからさまに聞こえてないふりをしながら、クレールは書類を決裁済みの箱へ収めようとしている。その箱に入れられたからといってすぐに取り出せなくなるわけじゃないけど、その箱自体の管理を任せきっている以上、いつまでも訂正が可能だとは思わない。

「それ取り消すから待って」

 椅子から立ち上がり、机を回り込んでクレールの前に立つと、さすがにクレールも足を止めた。

「潔くないなあ」

 大きなため息の後で、問題の書類はようやく俺の手元に戻った。

 あとはさっきの署名を消せばいい。石碑の建立は却下ということで――

 と、その書類を広げて、違和感。

「……これ、橋の架け替えの件だけど」

 俺が言うと、クレールはすぐに「うん」と頷いた。

 少し内陸にある湖から海へと繋がる川。そこに架かっている橋をもっと大きくて丈夫なものにしたいという話を、これも俺は親方から聞いていた。そうすれば船の行き来がしやすくなって、湖の方も港として活用できるようになるって。それでその建設費用が捻出できそうか、ステラさんに調べてもらっていて……

 うん。だからこれは、通していい書類だ。

「石碑の申請書は?」

 訊ねると、クレールはまた大きなため息をついた。

「ないよ」

「ない?」

 どういうことだろう。さっき署名した書類が、もうない?

「そう言ったら真剣になるかと思って。当たりだったね? 次からはよく読んでよね。石碑の件はそのうち本当に来るからさ」

 呆れ顔で、クレールはそう説明してくれた。

 つまり……要するに……

 石碑の件の書類はここにはない。そもそも、まだ来てもいない。

 騙された! なんてクレールのせいにはできない。俺が書類をちゃんと読んでいれば、クレールが冗談を言っているのはわかったはずだ。

 だから俺は、自分の行いを反省しつつ肩を落とすしかない、というわけだ。

 優秀な補佐がいて助かるな、本当に……。

 

 そうして書類を今度こそちゃんと読みながら進めていると、遠くからラッパの音が聞こえた。

「配達人じゃない?」

 同じ音を聞いたクレールの予想は、たぶん合ってる。

 そして、わざわざ配達人を使って荷物を送ってくる人となると、候補は限られる。きっと、雷王都市からだろう。だからそろそろ――

「おい変態! 手紙が届いたぞ!」

 ペトラがそう言いながら、配達人から受け取ったらしい荷物を執務室まで持ってきてくれた。早い。お礼を言って受け取ると、思ったとおり、雷王都市にいるヴィカからの手紙だ。

 ヴィカ……雷王都市のヴィクトリア王女は、しばらくこの館に滞在していた縁で、ときどきこうして手紙をくれる。

 そしてこの館でそれを一番待ちわびているのが、ヴィカの侍女であるペトラ。それで、配達人のラッパの音には敏感に反応するというわけだ。

 大きい包みは俺に宛てられた分……ではあるけど、実際のところ、館のみんなに宛てたものがひとまとめになっている。ここはときどき住人が入れ替わるから、そういうことになった。

 小さい方の包みは……

「これはペトラに宛てられた分」

 二人の主従関係は切れていないし、ペトラがヴィカに断りなく勝手に出て行くことはないから、ペトラ宛ての荷物が行先不明になることはない。加えて、ヴィカはペトラのことを単に侍女としてだけでなく友人とも思っているみたいだから、特に個別の手紙があっても驚くようなことじゃない。

 ペトラの方は、失礼にならないように少し遠慮してるみたいだったけど、今はヴィカがそばにいないこともあって、口元がほころぶくらいは隠そうとしない。微笑ましいことだ。

「それと、これは返事を書くのに使ったらいいよ」

 この時のために用意しておいたものを、俺は引き出しから取り出して机の上に広げる。

 それを見たペトラは目を見開いた。

「真っ白な便せん!」

 まさに、それだ。普段の俺たちが私的に使うにはちょっと気後れするような、高品質のもの。公的なものにしても、さっきの許可証くらいだとここまでのものは使わない。

 それでも、普段のペトラの頑張りを思えば、こんな機会にちょっといいものを使うくらいは構わないだろう。

「い、いくらだ」

 ペトラが震えた声で訊ねてきた。

「値段? いくらだったかな」

 高品質のものとはいえ、特別に頼んで用意させたとかではなく、普通にユウリィさんの店で買ってきたものだ。そんなに高いものではなかったと思う。正確には確か、銀貨で――

「そうじゃないでしょ」

 と、クレールの指摘が入って、俺は「ん?」と首を傾げることになった。

 ただ、それも一瞬のこと。クレールが何を言おうとしてるのかはすぐにわかった。

「ああ……」

 見ればペトラ、自分の財布を取り出してる。

 この便せんの代金を払わないといけないと思ってるのか……。

 律儀というか、なんというか。根は真面目な子なんだよな。

「それはペトラにあげるから、お金のことは気にしなくていいよ」

 そう告げると、ペトラの顔には笑顔が戻った。

「本当か! やったー! 変態にしてはなかなか気が利くじゃん!」

 うーん。余計な一言が出たな。

 悪い子じゃないし、仕事はちゃんとしてくれてるんだけど、俺のことを変態呼ばわりするのだけはどうしても直らない。ペトラはヴィカのためにここで修行をしているだけだそうで、相変わらず俺のことを雇い主とは思っていない。変態呼ばわりもそのせいだろう。

 でもまあ、そのくらいで一度出したプレゼントを引っ込めるのも大人げない。

 小さくため息。

「ちょっと見直した! ありがとな!」

 これで見直されるっていうのも、元はどれだけ低評価だったのかと思うと素直に喜べないけど。……まあ、いいか。



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マーシャのリュート

 夕食後の中庭が、最近、少し賑やかになった。

 その発端は数日前。マーシャの歓迎会だ。ミリアちゃんが歓迎の歌を披露すると言って、縦笛を持ち出してきた。

 ……笛という楽器を知っていればすぐにわかると思うけど、あれを演奏しながら歌うのは、普通の人間にはちょっとつらい。

 それで、ミリアちゃんの歌の伴奏を、マリアさんがリュートでやることになった。

 ミリアちゃんの歌は、上手い方と言えると思う。何度も繰り返した法術の詠唱のおかげで、音程は取れてるし、声もよく出てる。これはクレールやステラさんにも同じ傾向があるな。

 マーシャもその歓迎の歌に頬を緩めていた。

 その後だ。

 存分に歌い終わったミリアちゃんが拍手を受けながら一礼して満足げな様子で席に戻った後。

 マリアさんの演奏が、もう少しだけ、続いた。

 ミリアちゃんやクレールたちの音楽隊が好んでる飛び跳ねて踊るような早い曲調じゃなくて、ゆっくりめで、なんだか、優しさや懐かしさを感じさせるような……

 俺がそう思っている傍で、マーシャには劇的な変化があった。

 涙。

 マリアさんの演奏を聴きながら、マーシャの目からはぽろぽろと涙がこぼれはじめた。本人もそのことに戸惑っている様子で、おろおろと周囲を見回した後、ついには両手で顔を覆ってしまった。

「どうしたの? だいじょうぶ? おなか痛い?」

 びっくりした様子のミリアちゃんが声をかけているけど、マーシャは首を左右に振るだけ。

 それに気付いたのか、マリアさんも演奏を止めた。

「この曲が、わかるんですね?」

 マリアさんのそれは、質問ではなくて確認だ。

 手で涙を拭ったマーシャは顔を上げて、一度マリアさんと視線を交わしてから、頷いた。

「……お母さんの曲……」

 そこまで言われれば、俺にも察することはできる。

 マーシャはこことよく似た異界から来た子で、こっちの世界のマリアさんに相当する魂を持っているんだそうだ。向こうでは名前もまさに同じ『マリア』で、こっちに来た時に、まぎらわしいから呼び名をマーシャに決めた。

 その『マーシャ』って名前。

 お母さんからそう呼ばれていたんだそうだ。それはこのマーシャだけでなく、マリアさんも、幼い頃はそうだったと言っていた。

 二人のお母さんは、別人だけど、同じ人でもある。

 だから、二人にはよく似た思い出もある……。

 そういう、ややこしい話。

「母から習ったんです。リュートの弾き方も、この曲も」

「覚えがあります……。家族四人で暖炉を囲んでいて……母がリュートを弾いて、父と姉が歌っていました……」

 二人の違うところは、年齢。なぜか姉妹が入れ替わっているせいで、マリアさんには妹のミリアちゃんが、マーシャには姉のミリアさんがいる。その関係で、両親と死別した年齢も違うらしい。

 両親との記憶はマリアさんの方が多く、マーシャには少なくて、マーシャの方にはおぼろげな記憶しか残っていない。

 それが不意に刺激されて、それで、涙が出てしまった。そういうことみたいだ。

「あの……」

 マーシャが、少しためらいながら、口を開いた。

 でも、続く言葉がなかなか出てこない。

 それで俺たちは、マーシャが続けるのを黙って待っていたけど……

「少し練習すれば、弾けるようになりますよ」

 マリアさんがそう言うと、マーシャはぱっと顔を上げた。

「やってみたいです……」

 マリアさんにはマーシャの心の内もお見通しのようで、そこは、さすが『本人』というところだ。

 

 そういうことがあって、夕食の後にほぼ毎日、二人がリュートを練習する時間が設けられた。

 食後しばらくはもともと歓談の時間だったから、マリアさんとマーシャ以外のみんなも近くにいて、練習の音を聞いたり聞かなかったりしてる。

 みんなで練習、とならないのは、なにしろリュートがふたつしかないから。

 この村でリュートを扱ってるのはニコルくんの店しかない。そして、在庫はひとつしかなかった。

 ニコルくんは「注文すれば近いうちに用意する」と言ってくれたけど、そこまで熱意のある子はいなかった。まあ、そのつもりならとっくに始めてただろう。

 それで、新しい方のリュートはマーシャの物になった。

「こうですか?」

「そうです、そう」

 マリアさんの指導で、マーシャも上達してる。ほんの数日で、俺でも知ってるような有名な曲のいくつかも、遅めのテンポではあるけど、演奏できるくらいになった。

「もう少し基礎練習を続ければ、あの曲も弾けますよ」

 マリアさんが言う『あの曲』というのは、もちろん、マリアさんのお母さんが弾いていたって曲のことだ。あまり速い曲ではなかったし、マリアさんがお祭りの時に音楽隊の一員として弾いてた曲よりは、簡単そうに感じたな。

 

「ねーねー」

 と、練習を見守る俺に声をかけてきたのは、クレール。

「あの曲って、僕、どこかで聴いたことある気がするんだよね。でも、他のみんなは知らないって。リオンは心当たりない?」

「ああ。それは、俺も思ってたよ」

 俺とクレールは聴いたことがあって、他のみんなは知らない……となれば、可能性は絞られる。

「たぶん、ミリアさんが歌ってたんじゃないかな」

「そっかー。そうかも」

 ミリアさんはマーシャのお姉さんで、俺の冒険の仲間でもある。異界の人だから、ここにはいないけど……

 この館にいるミリアちゃんが大人になったような人だと思えば、ほぼ合ってる。

 こっちとは姉妹が逆だから、そうなる。

 だから、マーシャが両親と過ごした時間が短い分、姉のミリアさんは家族の記憶を少し多めに持ってるはず。

 マリアさんが母親の曲をリュートで弾けるようになった時間で、ミリアさんは歌を覚えた……ってところか。

「ちょっとうらやましいなあ。僕、母様のこと、あんまり覚えてないんだよね……」

 クレールが少し寂しそうに呟く。

「父様やヴァレリーおじさんは、すごく綺麗な人だったって言ってたけど」

「それは、そうなんじゃないかな」

 俺がそう言えるのは、時間の流れが乱れた異界の冒険の中でクレールやルイさんの過去に触れたからで、その時に、クレールのお母さんの姿も見た。一言で言うと、ありきたりな言葉になるけど、気品を感じる人だったな。

「んふ。そっかー。リオンが言うなら、そうかもねー」

 と、クレールが妙に機嫌のいい声になって、笑った。

 何がそんなに響いたのかと首を捻っていると……

「僕がこーんなに美人だから、僕の母様もきっとそうだったはずって話でしょ?」

「ああ……」

 納得した。

 まあ、親子が似るのは普通によくある話だ。だからクレールの解法も間違ってはいない。機嫌がいいならあえて水を差すこともないだろう。

 と、そんな話をしている間にも、マリアさんとマーシャは練習を続けている。

 マリアさんも魔女の店の手伝いで忙しいだろうに、それでも、ほぼ毎日。

 ……もしかしたら、マーシャは夏の終わりには自分が元々いた異界に帰ることになるかもしれない。

 そして、もしかしたら、それは何らかの理由でもっと早まるかもしれない。

 特に、向こうでひとり待ってるであろうミリアさんのことは、やっぱり心配だし。

 そういう事情はマリアさんもわかっていて、もちろんマーシャもわかっていないはずはなくて、だから、この練習は決して遊びじゃなく、本当に熱心だ。

「弾けるようになるといいね」

 一生懸命に取り組んでいるマーシャを眺めながら俺が呟くと、クレールも「そうだね」と頷いた。



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賭け金の行方

 もう何度目だろう。村の発展を祈願する会合、と題した飲み会だ。

 村の酒場でときどき開かれている集まりで、村の有力者はなるべく参加、ということになってる。一応、今後についての議題がいくつか出て、場合によっては採決もする。

 正式には村の住民ではないネスケさんなんかも紛れ込んでいるけど、もうみんな別に気にしてない。採決にも参加してる。おかしいよな……。

 ちなみにそのネスケさんは飲むだけ飲んで寝てしまっている。ここに宿泊してるせいもあって毎日こんな感じだ、とはよく一緒に飲んでる親方の証言。

 俺としては、ちょっと呆れつつ……

 そんなおおらかさが今のこの村のいいところでもあるかな。活気がある時ってそういうものかもしれない。

 それにしても、相変わらず味覚は戻ってこない。

 ニーナの料理が美味しいってことは、いろいろ食べ比べたらわかった。少なくとも『他と違う』ってことはわかった。

 たぶんだけど、飲み食いしたものから何らかの『生命力』を感じる時に『美味しい』と感じてるらしい。

 とすると、生きてる獲物にそのまま噛みつくのが一番いいのかな……。

 やっぱり竜に近付いている感じはする。

「リオンさんに訊きたいことがあるんだった」

 同じテーブルを囲んでいる親方が、麦酒を飲み干して泡をくっつけた口を開いた。

「何ですか」

「最近、館に女の子が増えただろ? あのマリアちゃんに似た雰囲気のある」

 この場合のマリアちゃんというのは、大きい方のマリアさんのことだろう。俺からは年上でも、親方からすると年下だから、ちょっと子供扱いした呼び方になる。

 で、そのマリアさんに似た雰囲気の女の子というと。

「マーシャのことかな」

 そうとしか考えられない。存在を秘密にしてるわけじゃないから、親方が知ってても不思議じゃないし。

 三人で囲んでいるテーブルで、ネスケさんは寝てる。周りも周りで盛り上がっていて、特に俺たちに注目してるという人はいない。俺と親方が、ほぼ一対一。

 それでも親方はさらに頭を近付け、声を潜める。

「マーシャちゃんね。あの子ってさー……もしかしてーって話だけども……」

 そんなに言いにくいことなんだろうか、と思っていると。

「リオンさんとマリアちゃんの娘さんなのかなーとか思ったりして……」

 …………。

 飲み物を口に含んでたら危うく噴き出してしまうところだった。

「あの子が俺の娘だったら、俺が何歳の時に生まれたんですか」

「五歳か六歳か……」

「ありえないでしょう」

 そこは常識的に考えて欲しいところだ。

「いやー、リオンさんは伝説とか神話とかになる人だから、なくはない、かもしれねーじゃん?」

「ありえない……」

 もはや女癖が悪いとかそういうレベルじゃない話になってきた。人間業じゃない。……いや、今の自分がちゃんと人間かというと自信はないけど。そうなったのは最近だ。マーシャが生まれた頃には俺も故郷の田舎村で普通に暮らしてた。だから親方が言うようなことは絶対にない。

「でもあの子、マリアちゃんとは何か関係があるんだろ? あれだけ似てるんだし」

 うーん。これは本当に、どう説明していいかよくわからないんだよな。

 同一人物だけど異界では現れ方が少し違ったらしい、みたいな説明をしてもわかってもらえないだろう。俺も前知識なしにそう言われて理解できる自信はない。

 それで少し考えて。

「まあ、離れて暮らしてた妹、みたいなとこです」

 真実じゃないけど、そのくらいの認識でも特に問題はないだろう。

 親方は「なるほどなー」と頷く。

「こんな時代だからいろいろあるわな」

 俺の返答で親方なりに納得したようで、それ以上の追求はなかった。離れて暮らしていた妹が急に一緒に暮らすことになった……となれば、悲しい話かもしれないから気を遣ってくれたんだろう。

「まーわかった」

 と、親方はまた頷いた。

「よし、それじゃー解禁ってことで」

「何を解禁?」

「人気投票」

「ああ……」

 誰が俺の正妻になるか賭けをしてるってアレか。

 俺には一応秘密でやってることになってるらしいから、それで『人気投票』なんてぼかした言い方をしてるんだな。

 で、マーシャもその候補者になる、と。あの子の歳を考えるとさすがにどうかと思うけど……。

 そういえばヴィカ――雷王都市のヴィクトリア王女は、幼い頃から許嫁がいたと言ってたな。貴族だと珍しくないことかもしれない。

 将来そうなると決まったら賭けは成立、って処理になることはあり得るか。

「結果が出るまでまだまだかかると思うんですけど、集まった賭け金はどうしてるんです」

 俺がその賭けの存在を知ったのは今年に入ってからだったけど、それにしたってもう半年。人の出入りがあるたびに賭けが活発になってお金が動いてるとすると、かなりの額になってるはずだ。

 親方は「んー」と考え中のような態度。……まあ、ジョッキの中の葡萄酒を飲みながらじゃ明確な言葉では返答できないだろう。

 空になったジョッキがドン、とテーブルに置かれてからようやく。

「互助会の予備費になってる。でも今んとこ、そこまで食い込んできてねーからさ、ユウリィにでも貸し付けて利息取る方がいい気がすんだよなー」

 互助会というのは、村の人たちが共同で積み立てたお金から万が一の時に見舞金や葬式代を出す仕組みだそうだ。前の領主の頃には完全に崩壊していたから、俺が領主になって村が落ち着き始めた頃合に新しくなった。

 ただ、新設されてからの時期は平和だったし、争乱での死者はいない。もともと高齢だった人が亡くなったくらいで、互助会はそれ自体で十分に機能している様子。

 それで、まとまったお金をその金庫に眠らせておくのはもったいない、というわけだ。

 でも、親方の案はどうかな。

「ユウリィさんは自分でもかなり貯め込んでると思うので、乗ってこないかも」

「んー、それはそーかもしれねーなー」

 あの人は商売と金儲けが『趣味』なだけで、生活のために働いてるわけじゃなさそうなんだよな。お金が足りなくて困っているとは聞いた覚えがない。

 他にそういうのに興味がありそうな人というと……、心当たりはある。

「確か、ジョアンさんは出資者を募集してましたよ」

「あー商船なー」

 俺の仲間のジョアンさんは大きな船で貿易を行ってる。大量の荷物を扱うから、必要なお金もまさに桁が違う。それで俺も「三倍にして返すから」と出資を頼まれて、いくらか貸してる。

「でもあれ、沈んだ時には返ってこねーからなー」

「商船への出資って、そうなんですか」

「だなー。基本的に貿易航海一回ごとの精算で、無事に戻ったら出資額を利息を付けて返してもらう。海賊にやられたり沈んだりしたら出資金もパーってー感じ。利率はすげーけど、リスクもそれなりになー」

 なるほど。相手がジョアンさんだからあんまり気にせずに貸してたけど、本来はそういう仕組みなのか。商船の側からすると、出資者に高い利子を払っても自分の儲けが残るってことだよな。三倍にするって言ってたのも調子の良いでまかせじゃなかったのかもしれない。

「あの船は頑丈そうに見えましたよ」

 俺が預けたお金がジョアンさんの役に立って、なおかつ俺にもいずれ大きく育って返ってくることを期待しつつそう言うと、親方は渋い顔を返してきた。

「んー、まーあれも悪い船じゃねーけどさ。海都の私掠船を見た後だとなー」

 ああ、嘆涯の海都に所属するイザル・ヘイラー提督の船か。あれは確かに練度が違う感じだったな。この前は一応味方だったから良かったけど、敵に回ると厄介そうだ。

「さすがになー、あんまりハイリスクになっちまうと、みんなに申し訳ねーしなー」

 言って親方は果実酒を呷った。……何杯目だろう。

 で、まあ、結論を言うと。

 賭けの胴元はやっぱり親方だったわけだ。そうだろうとは予想してたけど。

 とはいえ、候補者になってる子は村の男の人たちからしつこい求婚を受けなくて済んでるらしいから、俺たちにとっても無益じゃない。領主の強権を使ってまで止める必要はないかな。お金の管理もそれなりにしっかりしてるみたいだし。

「……あー、そういえば俺、シードラゴン討伐の取り分まだもらってないな」

 そこそこ大きい額だったし、ジョアンさんも忙しいだろうから時間がかかるのは仕方ないと思ってるけどね。念のためつくった証文もあるから深刻には思ってない。

「そーゆーのルーズなやつには貸せないよなーやっぱ」

 そんな感じにとりとめのない会話をしつつ、最近の村の活気が凝縮されたような会合を俺なりに楽しんだ夜だった。



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ヨハナとテオドーラ

 その日、昼を過ぎたあたりで急な来客があった。

 まあ、近いうちに来るのはわかってたから、それが今日だったからって驚きはない。

 ひとまず陳情受付のときなんかに使ってる広間に入ってもらった。俺が奥の椅子に座って、左右にクレールとステラさん。それから、レベッカさんとペネロペも立ち会った。

「こちらが、この村の教会を預かることになるヨハナ司祭」

 レベッカさんがそう紹介すると、来客の一人が少し進み出て、頭を下げた。

「ヨハナと申すのでして。よろしくお願いするのでして」

 言葉にはちょっと訛りがあるような気がするけども、礼儀正しい挨拶だ。

 司祭というだけあって、服装はきちんとしてる。青と白を基調とした服なのは聖騎士であるレベッカさんたちと同じ。裾が長いから、あまり活動的ではなさそうだけど。

 事前に聞いていたとおり、女性の司祭だ。俺より少しだけ年上に見える。もっと上の人を想像してたけど、レベッカさんとあまり変わらない年頃。顔見知りだと言ってたのもそのあたりが理由かな。

 髪は黒寄りのブラウンで、肩より上に切りそろえられてる。特段目立った特徴はなくて地味な印象。

 ただ、何だか、ものすごく睨まれているな。理由には心当たりがないけど……。

「あの。私、少し目つきが悪いので、お気に障ったら申し訳ないのでして……」

 少しではない気がするけど、元々そういう顔だというなら、俺から言うほどのことはない。

「一応、領主であるリオンには拒否権があるけど……」

 そう言ったのはレベッカさんで、クレールから前もって聞いてた話とも一致してる。

 とはいえ。

「レベッカさんの推薦なら断る理由はないですよ」

 大教会の方で作成された候補者名簿の中からレベッカさんが選んだと言っていた。何も問題ないだろう。

 俺のその返事に、ヨハナ司祭は改めて頭を下げた。

「微力ながら、村の発展に助力させていただくのでして」

 ちなみに、以前この村にいた司祭は前の領主の横暴に耐えかねて村を離れてる。今は天命都市にいるらしいけど、もともと田舎暮らしに不満を持っていた上、そろそろ高齢なのもあって、この村に戻るつもりはないそうだ。

 一方、かわってやってきたヨハナ司祭はやる気に満ちあふれている様子。

 これはこれで天命というものなんだろう。

「それと、お願いしていたものを」

 レベッカさんが促すと、ヨハナ司祭は「はい」と頷いて、懐から一通の書状を取り出した。

「こちらがリオン様の男爵位を認める書類なのでして」

 ああ、ついに来たか。

 俺の左隣にいたクレールが進み出て、ヨハナ司祭からそれを受け取った。すぐに内容も確認して、どうやら間違いないらしい。

「これで、三つの都市から認められたな……」

「今後益々のご活躍をお祈りするのでして」

 ヨハナ司祭はそう言ってくれたけど、俺としてはそこまで大活躍したいとは思ってないんだよな。気が向くままに強敵と戦ったら、結果的にそうなってしまうかもしれないけど。

 とはいえ、今は竜気(オーラ)のことが心配であまり大暴れはできない。思いがけず大活躍してしまう、なんてことはないだろう。

「次は子爵だね」

 クレールが笑いながらそう言っても、苦笑するしかない。

「それはまだいいかな……」

 この村の人口が二千をこえて『町』の規模になる頃には子爵になる必要があるけど、常備軍の設置も条件になってるのが困りものだ。あまり大勢に給金を払う余裕は、たぶんないし……。

 常備軍、総勢一名でいいなら、なんとかなるかな? その一名はもちろん俺だから、給金は必要ない。ありかもしれない。そのへんは後で王国法に詳しいクレールに相談してみよう。

 さしあたっては……。

「ヨハナ司祭は、教会の方にはもう?」

「いえ。まずはご挨拶をと思いまして」

 これから自分が住む場所が気にならないはずないだろうに、それより先にこんな村はずれの高台にある館まで、馬がいるとはいえ、大変だな……。

「わかりました。このあと案内しましょう。構わないよね?」

 後半は俺の予定を管理しているステラさんに向けた言葉。ステラさんはすぐに頷いて返してくれた。

「影響は、明日の仕事が増える程度に留まる。そのはず」

 ……まあ、それは俺ががんばればいいことだ。

 教会の建物は前の領主とのいざこざでかなり壊されていたけど、最近、村の職人たちが腕を振るって修復した。レベッカさんとペネロペもその出来映えに満足してたし、親方も「前より綺麗になってる」って言ってた。

「領主様自ら……ありがたいことなのでして」

 ヨハナ司祭も気に入ってくれたらいいけどね。

 

 ということで、新しくこの村の教会を預かるヨハナ司祭との初顔合わせはひとまず滞りなく済んだわけだけど……。

 やっぱり気になるなあ。

「私のことはお気になさらず」

 本人はそう言ってるけど。

 ヨハナ司祭の護衛の人だ。それがなんで気になるのかというと、さっきからレベッカさんがしきりに口をぱくぱくさせて身振り手振りでその相手と無言の会話をしているから。

 レベッカさんより年上の女性だ。親方よりもまだ少し上かな。同じくらいか。

 少し赤めの髪を短く刈り揃えていて、活動的な印象を受ける。

 飾りっ気のない金属製の胸当ての他に、同じく金属製の戦鎚を腰に下げ、背中にはペネロペが持ち歩いてるような聖騎士の大盾。ただ、ペネロペのものよりかなり使い込まれているのがわかる。

 聖騎士団の人だろう。それも、相当の実戦経験を積んだ人だ。右頬にある刀傷の痕もその印象を強めている。

 本人は正体を明かすつもりがないみたいだから、俺はレベッカさんに視線を向けた。

 それに気付いたレベッカさんは、大きくため息。

「……こちらは、聖騎士団に二人いる副長の一人、テオドーラ先輩。私の聖騎士としての先生でもある人よ」

 副長。というと、聖騎士団で二番目に偉い人なのか。今の装いだと、そんなにすごい人には見えないけど。レベッカさんの方がいかにも聖騎士という姿だし。でも、レベッカさんがこんなことで嘘をつくとも思えない。

 相手の……テオドーラさんの方も、指摘を受けて観念した様子になった。

「なんでバラしちゃったんです?」

「むしろなんで隠すんですか?」

 レベッカさんからの当然の質問返しに、テオドーラさんは頭を掻いた。

「今は長期休暇中だから、問われてもいないうちから聖騎士だとは言えないのですよ」

 詳しい素性はともかく、聖騎士だってことは大盾でほぼバレてると思うけどね。

「その規定は知ってますけど、休暇ってことはないでしょう。ヨハナ司祭の護衛だなんて、どう見ても任務中じゃないですか」

「そう睨まないでください。わかりましたから」

 テオドーラさんは首をすくめたけど、レベッカさんの言い分はもっともだ。

「どうぞ、名乗ってください」

 クレールが促すと、テオドーラさんは一歩進み出て聖騎士らしく優雅に一礼した。

「最初に名乗らなかったのは失礼しました。んんっ。では改めて。すでに紹介があった通り、名はテオドーラ。自由と光の教団に所属する聖騎士団副長の一人。過去には聖騎士レベッカの指導を担当しました」

「そんな人が、こう言ってはなんですが、こんな田舎村への護衛を?」

 確か、レベッカさんとペネロペがここへ来る前に、新任の司祭の護衛を聖騎士団から出してもらうように頼んでおいた、と言っていたはずだ。田舎村のことだし少人数なのは想定内だったけど、それが副長というのは、少しやりすぎなんじゃないだろうか。

「護衛は趣味ということで」

「趣味」

「聖騎士団は善良な組織なので、ちゃんとまとまった休暇が取れるのですよ。そしてそれは副長も例外ではないのです。その副長がたまたま護衛が趣味ということは大いにあり得る……と、そういう事情でして」

 実際には聖騎士としての任務なのに、休暇をとってる扱いになってるってことか……。

「いや実際、長旅の果てにたどり着いたこの土地で風光明媚な景色と人々の笑顔を見たら、心身の疲れも癒やされましたよ。あっはっはっ」

 うーん。無理矢理いい話にまとめたな。

「まあ、事情はわかりました。レベッカさんの先生とのことですし、信用することにします」

「ありがとうございます。持つべきものは優秀な教え子ですね。あっはっはっ」

 そういうことになった。

 

「ごめんなさいね、リオン」

 出かける準備の間にそう囁いてきたのは、さりげなく俺の傍に立ったレベッカさん。

「テオドーラ先輩は、ちょっと、ああいう人なの。やる時はやる人なのだけど、普段はあまり真面目でないというか……」

「あっはっはっ。聞こえてますよー」

 まあ、師弟仲が悪いというわけではなさそうだ。



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聖騎士の師弟

 修繕した教会にはヨハナ司祭やテオドーラさんも満足したようで、一安心。

 このことで俺にも少しいいことがある。村での揉め事、その仲裁の一部が、教会の担当になることだ。

 今は俺が数日に一度の陳情受付の時に処理しているけど、今後は家庭や商取引での揉め事は教会でも処理できるようになる。

 それは、村の人たちにとっても「いちいちあの坂を登らなくていい」という利点のある話だ。

 ちなみに、犯罪の容疑に関しては今後も領主の権限で対応する。

「そういえば、この教会、隠し部屋があったんですが」

 俺がその件を指摘すると、ヨハナ司祭は驚いたようだったけど、テオドーラさんはそうでもなかった。

「ほら。身近な例では、家庭内で暴力を振るわれる、ということはあるでしょう。そんなとき被害者を一時的に保護しておくために避難所(シェルター)は必要なので。わざと外から見えにくくしてある部屋もある、と」

 なるほど。ちなみに今は部屋の入口を隠していた本棚を取り払った後なので、隠し部屋はもうない。……そのはずだ。

 そんな感じで内部の確認も一通り済み、いよいよ、ヨハナ司祭が聖意物を祭壇の下に収めた。

 聞くところによるとこの聖意物は聖アラリコという聖人の右腕の骨の一部なんだそうだ。

 ステラさんの師匠である〈西の導師〉から譲り受けたものだけど、調べてみるとこの聖人、意外とこのあたりに逸話のある人で、西の山脈の方に巡礼路を整えた人らしい。それが開通したのは本人の死後ということで、なんとも気の長い話だけど。でも今の俺なら、大規模工事ってそういうものかもしれないと思ったりもする。

「聖アラリコ、どうぞこの村に自由と光の加護をお与え下さいますよう……」

 ヨハナ司祭のそんなお祈りが捧げられた教会開き。

 この規模の村の教会は規定で『華美華麗を慎む』とされているとかで、教会開きもお祭り騒ぎにはしないことにしていた。

 で、村からはただ一人、代表として親方だけが参加していたんだけど……。

 その親方を、テオドーラさんが驚いた顔で二度見してたな。でも結局〈赤毛の女海賊〉の話題は出なかった。

 

 少し付き合って欲しい、とテオドーラさんから言われた俺は、教会の建物から出てその裏手に回った。

 北側で日陰がちというだけでなく、墓地が近いのもあって少し暗い雰囲気の場所だ。

 こんなところで、いったい何の話だろう。

 そう思っていると、先を歩いていたテオドーラさんが振り返った。

「護衛の任務……っとと、護衛の趣味も無事に済みましたし、明日には発とうかと」

 口が開かれて、まず最初に出たのはその話だった。

「そうですか。やはりのんびり休暇というわけにはいかないんですね」

「聖戦準備法で見習いが増えた分、聖騎士団も大わらわで、あまり長く留守にもできないのです」

 聖戦準備法。最近、どこかで聞いたな……と思い返してみると、ペネロペからだ。確か普段は『聖騎士見習い』というのは存在しなくて、この聖戦準備法で特別に増員されたんだと言っていた。

「肝心の聖戦はもう終わってしまったのに人ばかり増えて、いやはや、困ったものです」

 確かに、あの邪神〈歪みをもたらすもの〉はもういない。それとも偽神〈運命を生成するもの(フェイトジェネレータ)〉の方かな。どっちにしろ俺が倒したんだけど。

 実のところ、ペネロペくらいの力量の聖騎士見習いがものすごく大勢いたとしても、あの邪神との戦いに直接役に立ったとは思えない。

 だけどそこから派生した小災厄ともいうべき問題の中には、ともかく人手が必要というものもあるはず。人手を増やした判断は間違いじゃないと思うから、その育成や教育にはがんばってもらいたいところだ。

 ……でも、これが本題って雰囲気じゃ、ないな。

「さて、いくつかやり残したことがあります」

 言うと、それまでの気さくな雰囲気はなりを潜め、すう、と周囲が冷えた。

「少々、お付き合いいただきたく……」

 テオドーラさんから差し出されたのは、足下に落ちていた何の変哲もない枝だ。

「構えるだけでいいので、お願いします。……戦うつもりで」

 そう言われると、俺は少し気後れする。

 構えとか見られるの、やっぱり恥ずかしいんだよな。っていうのも、俺は正式に剣の型を学んだことがないから。クルシスは「戦いをちゃんと血肉にしている」と言ってくれてたけど、そのクルシスと俺がならんで構えた時、どっちが達人に見えるかと言ったら当然、クルシスの方だ。そんな格好良さは、俺には備わってない……。

 まあ、言われたとおりにするか。

 目の前に敵がいるつもりで。

「こうですか」

 とはいえ、やっぱり興が乗らない。実際に戦うわけじゃないし、仕方ない。だいたい、今の俺があんまり常在戦場の気持ちでいても周囲の人たちは困るだろう。

 そんなことをもやもやと考えながら、しばし……。

 

 闘気(フォース)――いや、殺気ともいうべきものが俺に向けられた。

 瞬間、俺は手にしていた木の枝を振るってその気配を斬り裂く。

 一呼吸の後、勢いを失った何かが俺の左右にぽとりと落ちた。

 

 テオドーラさんの拍手が聞こえた。

「よくわかりました。あの子が絶賛するのも納得というものです」

 どうやら試験は終わったらしい。

「……飛んできた何かを払っただけですが」

 構えるだけでいいと油断させておいて何かを投げつけてきたのは、ちょっと意地悪だな。

 そういう気持ちを言葉にして投げかけたけど、テオドーラさんは涼しい顔。

「殺気を感じることができて、それにとっさに対処できる。この二点だけで十把一絡げの有象無象でないのは明らかなので」

「なるほど」

 俺は息を吐いて、さっき斬った物を確認した。真っ二つになった小石だ。……自分でやったことだけど、この太さの木の枝を振ってどうして小石が真っ二つになるのか、よくわからないな。砕けるならまだしも。

「でも、領主を襲撃するなんて……いくら聖騎士団の副長でもお咎めがあるんじゃ」

 指摘すると、テオドーラさんは首を傾げた。

「襲撃でしたか? ちょっと手が滑っただけのことだったような。そうでしたよね? あっはっはっ」

 ……確かに俺なら何も問題ない程度のことではあったけど、笑って済ませていいものかどうか。害しようという意図そのものが問題なんじゃないか……。

 とは思うものの、テオドーラさんも俺の力量は聞いて知ってるだろうから「このくらいなら大丈夫」という、ある種の信頼を持って仕掛けてきたんだろう。

「もし怪我をしたなら法術で癒やしましょうか。こう、キラッ☆ と」

 言いながら片目をつむったテオドーラさんに、俺は苦笑するしかない。

 レベッカさんも、この人の相手をするのは苦労してそうだな。

「……ヨハナ司祭の護衛を引き受けて良かった」

 ふと、テオドーラさんが真剣な顔に戻って呟いた。

「これが本当の目的だったんですか。俺のちからを見極める、っていう……」

 そう考えれば、聖騎士団の副長であるテオドーラさんがわざわざ休暇という名目を使ってまでこんな田舎まで来たのも納得できる。俺も自分がそのくらいの有名人だっていう自覚はある。

 でも、テオドーラさんの返事は――

「いえ。近いですが、ちょっと違います。あの子の、人を見る目を確かめるため、ですね」

 というもので、つまりそれは。

 俺じゃなくレベッカさんの試験だったってことだ。

 レベッカさんもとっくに一人前の聖騎士なのに、過保護だな……という気はする。

 俺も弟子をとったらそんな気持ちになるのかな。今のところ、予定はないけど。

「……いい勇者を見出したようです」

 テオドーラさんはそう言ったけど、さっきのでそこまでわかるものかな。教え子可愛さに眼が曇ってたりしないだろうか。

「俺なんか、ただ強いだけかもしれませんよ」

 心配した俺が一応そう言ってみると、テオドーラさんは微笑。

「本当に腕力だけで思慮のない人間は、自分からそんなことは言いませんね」

 それは……そう言われると、そうかもしれない。

「じゃあもうひとつ。逆に、俺がこれに対処できない程度だったら、その時はどうしたんです?」

 その問いへの答えもすぐに返った。

「あの子の見る目の無さを叱りに行くつもりでした」

 ……それはそれで、やっぱり過保護のような気がするな。

「レベッカさんに、何か思うところがあるんですか?」

 思い切って直接訊いてみることにした。

 テオドーラさんは聖騎士団の副長で、となれば多くの経験をしてきてるだろうけど、レベッカさんだって俺と一緒に激戦をくぐり抜けてきた。今では後輩のペネロペを指導してもいる。とっくに自主性に任せていい頃で、先生が口を出す段階じゃない気がする。

 ……という俺の考えに、レベッカさんへのひいきが全くないとは言えないけど。

 テオドーラさんは、小さくため息をついた。

「ご存じでしょうが、あの子の方がもう私より強いんですよ」

 それはテオドーラさんの謙遜とかではなく、実際にそれだけの差があるんだろう。

 レベッカさんは確かに強い。

 具体的に言うのは、状況にもよるから難しいけど……レベッカさんが本気で戦鎚を振るえば、馬車がすれ違える程度の幅がある石造りの橋を一撃で破壊して通行不能にできる程度はあるだろう。

 もちろんその戦鎚は強力な伝承武具ではあるけど、それは苦難の結果に得たもので、レベッカさんの強さの一部だ。

 竜に変わりかけている今の俺ほどではないにしろ、普通の人間の基準ではとんでもなく強いと言える。

「聖騎士団の歴史上でも十指に入るというところでしょうね。これが何を意味するかというと、将来の聖騎士団副長候補、ということなんです。それ相応の見識はやはり身に付けさせておかねば」

 テオドーラさんが語るそれも、わからなくはない。やっぱり、上に立つ人は周囲が納得するくらいの器量を見せてほしい……なんて、今の俺はそれを見せないといけない方なんだけど。

「あの子の心にはまだ未熟さがある」

 そう指摘しつつ、テオドーラさんの言葉は「それでも」と続いた。

「それは成長の余地でもあります。その先へと続く道を示すところまでは、師としての私の仕事だと思っているのです」



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自由軍の記憶

 教会の中に戻ると、ヨハナ司祭とレベッカさんが熱心に話し込んでいた。

 漏れ聞こえてくるのは、村の人たちについての話だ。正式な司祭が来るまでの間、レベッカさんが聖騎士として司祭の代理を務めていたから、その引き継ぎってことらしい。テーブルに広げてるのもその資料か。

 ペネロペはレベッカさんの後ろでただニコニコしている。話題に積極的には加われないけど席を外すわけにもいかない、というところかな……。

「まだ時間がかかりそうですし、あの子について少し話しましょうか。せっかくだから貴方からも聞いておきたいですし」

 テオドーラさんからそう言われて、俺は頷いたけど……。

 そういえば、レベッカさんは陰口が嫌いだと言ってたな、と思い出した。

 自分の言葉には気を付けようと思いつつ。

 俺と出会う前のレベッカさんのことは、やっぱり少し気になる。ちょっとだけなら本人からも聞いたし、この前ペネロペと行った異界でそれに近いものは垣間見た。でも、先生の立場としてはまた違った見方もあるだろう。

 長椅子に隣り合って座り、先に口を開いたのはテオドーラさん。

「あの子が聖騎士になって、私がその指導を引き受けたのはもう五年前になります。他の聖騎士の下につく予定だったのを、わざわざ私が取り上げて」

 五年前というと、その頃のレベッカさんは今の俺よりも年下だ。ペネロペよりも下だろう。

「レベッカさんはその頃から特別な才能を?」

 聖騎士団副長が……当時はまだそうではなかったかもしれないけど、そのテオドーラさんが、他の聖騎士から取り上げてまでとなると、やっぱり相当に見所のある新人で――

「いえ、何しろ危なっかしくて、黙っていられず」

 ……うーん。

 まあ、わからないでもない。

 俺と出会った時のレベッカさんも、雷王都市の西の巡礼塔にいた強力な魔獣キマイラをたったひとりで討伐しようとしていた。

 俺もまだまだ未熟だった頃だから、加勢してもなお歯が立たなかった。そのくらいの強敵。

 その時はなんとか逃げ切ることができたけど、レベッカさんは本当に悔しそうだった。あのまま一人で戦い続けていたら、大怪我をしていたか、もしかすると命を落としていたかもしれないのに。

 そういう危なっかしさは、気質として持ってる人だ……。

「昔、北方に『自由軍』というのがあったんですが、ご存じですか?」

 テオドーラさんが続けた。

「名前くらいは」

 それを聞いたのは、アゼルさんからだった。あの人は一時期、その自由軍というのに参加していたそうだ。あまり話したくなさそうだったから、詳しくは聞いていない。

 ただ、善良からはほど遠い集団だった、とは、言っていた。

「その自由軍が、レベッカさんと何か関係あるんですか」

「ええ。間接的にではありますが、あの子の根幹を形作ったのがまさにその自由軍」

 ひとつため息をついて、テオドーラさんが続ける。

「もう十年くらい前になりますか……発端は領主の重税に耐えかねた民衆の蜂起。貴族領主を廃して民政を勝ち取り『万民自由』の世を実現する、と喧伝していました。そいつらが実際に悪徳領主を打倒して、はい、めでたしめでたし……とは、ならず」

「ならなかったんですか」

「領主を打倒した自由軍が次にしたのは、協力金という名目で重税を課し、そして、若者たちを自由軍の兵として無理矢理かき集めることでした。それは彼らが打倒した『悪の領主』が行っていたものより苛烈ですらあったそうです。ついにはそれに反対した集落を襲撃し、略奪を行う事態になった」

 それが、アゼルさんの言った『善良からはほど遠い』って言葉の意味か。

「ここに及び、周辺の領主たちはこの野盗集団を討滅するために連合しました。そして、聖騎士団は領主の連合を支持していました。自由と無法は違う、というのが教団の見解ですので。そしてほどなく、自由軍は壊滅しました」

 それは、そうせざるを得なかっただろう。俺もその場にいてどっちかに力を貸すってことになれば、やっぱり無法者を討伐する側になると思う。

 そう思う一方で――

「ですが」

 俺の考えがまとまる前に、テオドーラさんが続けた。

「あの子は、噂に聞いただけの自由軍を美化しすぎていた。いや、噂だけだから逆に、かもしれませんね。自由軍が騙った万民自由の理念を完全に信じ切っていた。そして壊滅した自由軍に代わって、自分がそれを実現しようと、自由と光の教団の聖騎士を目指した」

 言って、大きなため息。

「疑うことを知らないというか、騙されやすいというか……」

 テオドーラさんがレベッカさんを『危なっかしい』と言った理由はそのあたりか。そういうところはある。わかる。

「でもそれを無理に押さえつけずに、自主性を重んじて指導しました。我ながら上手くやったと思います。一人前の聖騎士として単独任務に送り出すのはやはり少し心配でしたが、その信念と行動力で魔獣から一人の少女を守り切ったこともある子でしたから、大丈夫だろうとも思っていました」

 その視線の先にはペネロペ。リザードマンに追われていたのをレベッカさんが助けてくれたと、そう言っていた。その時のことを言ってるのか。

「そして暗黒神復活の気配を探る任務の途中……そこで出会ったのが貴方だった」

 そう。順番ではそうなる。

「邪神討伐の活躍は聞きました。素晴らしいことです。あの子もそれに同行して、立派に成長した。基礎を指導した身としては安心しましたよ」

 確かに、レベッカさんは急激に力を付けた。

 聖騎士は魔獣と戦う経験も多くて、テオドーラさんのような熟練の聖騎士なら多くの霊気(マナ)を得ているはずで、その分、普通の人より強くて当たり前。

 レベッカさんはそれすら凌駕する成長をした。俺と挑んだ戦いの激しさがそうさせた。俺もレベッカさんには随分助けられたな。

 その活躍は、指導したテオドーラさんとしては鼻が高いというものだろう。

「ですが、その後のことを聞くと、また心配になりました」

 その後。……その後か。

 言いたいことはなんとなく予想がつく。

「雷王都市を離れた貴方はこの寒寂の村を訪れ、悪徳領主から弾圧されていた村人たちを助け、貴族である領主を打倒して、ついには新たな領主になった。なってしまった。……どこかで聞いたような話ですね?」

 俺自身でも思ったことだから、レベッカさんを心配していたテオドーラさんからすればなおさらだろう。

「それで、俺が『自由軍』になっていないか心配したんですね」

「ええ。そしてあの子がそんな貴方を妄信していないかと」

 それで、俺を直接見定めたいと思っていたところにちょうど、ヨハナ司祭の護衛の話が出てきた、と……

「どうでしたか。実際に見て」

 そんなに酷い姿は見せなかったと思うけど、何しろ教団の〈聖女〉に絡むことを聖騎士団副長が見定める、という状況だ。基準が甘いはずはない。

 息を呑んで待つ俺に、テオドーラさんがゆっくりと口を開く。

「まあ、八割くらいは納得しました」

 もっと厳しい評価を覚悟していたから、八割ならそこそこ健闘した方じゃないかと思う。

「あとの二割は?」

 改善の余地があるならなるべく期待に添えるようにしたい、と前向きに捉えて、訊ねてみた。返答は――

「女癖が悪いという噂なので、そこのところがもう心配で心配で……」

 ……それは、俺としてはそのつもりはないんだよなあ……。

 

「二人で何を話してるのかしら?」

 声を掛けてきたのはレベッカさん。その顔に少し疑念が浮かんでいるように見えるのは、俺の気のせいじゃないだろう。

「もしかして、また私のプライベートなことをぺらぺら喋ってたんじゃ」

 レベッカさんがそう疑うのは……前科があるんだな、これは。

「ただの世間話ですよ。そうでしたよね? あっはっはっ」

 この人と付き合いの浅い俺でも、それが何かを誤魔化すときの顔だってのはわかってきた。レベッカさんなら当然、よくわかってるだろう。

「はあ……。ねえリオン。テオドーラ先輩が何を言ったか知らないけど、あまり真剣に受け取らない方がいいわよ。その場のノリであることないこと口にして、後で団長に叱られてるような人なんだから!」

 ため息に始まってだんだんと口調が激しくなったあたりに、何か積もり積もったものを感じるな……。

 対するテオドーラさんは、肩をすくめて「やれやれ」と応じた。

「他人の欠点を指摘するばかりではいけないと、何度も言ったでしょう。なのでこの件に関しては、全部でまかせでないところを褒めてもらいたいですね。あ、大丈夫ですよ。貴女が枝毛をとても気にしてるということは、ちゃんと伏せておきましたから」

 言ってる言ってる。

「先輩!」

「あっはっはっ」

 ……レベッカさんも大変だな。

「それで、引き継ぎは終わったんですか?」

 俺が訊ねるとすぐに、ヨハナ司祭が頷いた。

 レベッカさんが「ええ」と頷いたのは、それより少し後だ。

 その表情がすぐれない気がするのは、どうしてだろう。

 理由はすぐに明らかになった。

「では、次の任務に向かう時ですね」

 長椅子から立ち上がったテオドーラさんが、そう言ったからだ。

「……はい」

 葛藤を感じさせる間が空いてから、レベッカさんが頷いた。



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新たな任務

 ……そうだな。それが自然だ。

 レベッカさんの、今後のことだ。

 村の教会の再建が済んで、レベッカさんは次の任務へ向かう。

 いつかこうなるとは思ってた。

 共に戦った縁があってここを手伝ってくれていたけど、今や聖騎士団でもトップクラスの実力を持ち、大教会からは〈聖女〉とも称される人。いつまでもこんな田舎にいるのは、たとえ俺やレベッカさん本人が望んだとしても、周囲は放っておかないだろう。

 それはわかってる。

 でも、やっぱり少し寂しさはあるな。

 レベッカさんもそう思ってるからこそ、あの表情なんだろう。

 テオドーラさんが、レベッカさんの前に立った。レベッカさんは拳を胸に当てて敬礼。後ろのペネロペもそれに倣った。

 テオドーラさんは腰の鞄から一通の封筒を取り出した。指令書ってやつだろう。

 その内容が聖騎士団の副長によって読み上げられるのを、俺たちは静かに待った。

「よいしょ……んん。では、聖騎士団副長テオドーラより、次の任務を言い渡します。聖騎士レベッカ」

 名前が呼ばれ、レベッカさんは「はい」と背筋を伸ばした。

「聖騎士見習いペネロペの指導を最優先に、追加の任務が言い渡されるまで竜牙の村にて待機」

「はい……」

 言い渡された指令に、少し覇気のない返事があった。

 ……何か、思ってたのとちょっと違うな。

「え? この村で待機?」

 レベッカさんも、内容が耳から入って理解へと繋がるまで、しばらくかかったみたいだ。きょとんとした表情で、テオドーラさんを見てる。

 竜牙の村で待機、が新しい任務。

 ……確かに、そう聞こえた。

「聖騎士メイヴィスは貴女の同期でしたね」

 テオドーラさんが口にしたのは俺の知らない名前だったけど、レベッカさんは「はい」と頷いた。

「彼女はいま西にある赤塞都市で任務にあたっています。しかしあまり状況が良くないらしく、いずれその支援に動いてもらうことになるかもしれません。そうなった場合、現地はすでに急を要する事態となっているはず。本隊が到着する前に尖兵として即座に行動できるよう、準備しておくように」

 そこまで説明されると、俺にも待機の意図はわかった。赤塞都市の方から要請を受けて急行するということなら、大教会にいるよりはこっちの方が近い。

「拝命いたします」

 レベッカさんは安堵の見える顔でそう言って、テオドーラさんから指令書の入った封筒を受け取った。後ろに控えているペネロペの表情も明るい。

「後進の育成も大切な任務。決して気を緩めず、しっかりやりなさい。聖騎士見習いペネロペは、聖騎士レベッカと共に行動すること。以上」

 テオドーラさんがそう言って、この件は決着。

 

 ただ、俺には少し心配も残った。

「赤塞都市って、そんなに状況が悪いんですか」

 そう訊ねたのは無理もないだろう。

 心配の種は、初夏の頃に赤塞都市へ向かったフューリスさんのことだ。

 あの人が探している〈太陽の聖石〉は、ステラさんの妹弟子が持っている。その人物を見付けるために、念のためと言って、所有者を喰い殺すという邪鋼の短剣まで用意して旅立っていったフューリスさんが、それ以来、何の便りもない。噂すらも届いてこない。

 フューリスさんなら心配ないとは思うけども、だからって心配しちゃいけないってこともないはずだ。

 テオドーラさんは「まだ確実な話ではないのですが」と前置きした上で――

「このまま事態が悪化すれば、古王国遺産の魔導器が暴走して大災害になる。……というのが聖騎士メイヴィスからの報告です。が、そうならないよう! すでに! 動いています! ので、リオン様はどうぞご心配なく……」

 聖騎士団としてはいたずらに不安を煽るようなことは言いたくないんだろう、ってのはわかる。

 俺やこの村にまでは影響ないってのも、少なくともそういう見通しなのは、本当のことなんだろう。

 ただ、そうだとしても、現地にいるはずのフューリスさんのことはやっぱり気になる。

「いやいや、本当に大丈夫ですよ? いざとなれば私も出向いてキラッ☆ と解決しますので。あっはっはっ」

 ……その一言で何だか余計に不安になったな。

 とはいえ、この村のことを放り出して駆けつけるほどの緊急事態ではなさそうだ。まあ、今のところは。

 レベッカさんに要請が来た時には俺からも何か手伝えるように、今から考えておこう。

 

 ヨハナ司祭とテオドーラさんは、館での夕食への誘いを一旦は断ったけど、最終的には受けてくれた。ペネロペがぽつりと口にした『温泉』の響きが、テオドーラさんには致命打(クリティカルヒット)だったらしい。

「温泉、それは人類に残された最後のオアシス……」

 とはテオドーラさんの弁。最後ってのは大げさだと思うけど、それだけ普段の副長の仕事に疲れているのかもしれない。

 そうして二人を招き、夕食を待つ間に、ふと、俺とヨハナ司祭の二人だけになるタイミングがあった。

 ……ちょっと気まずい。

 まだお互いをよく知らないから、会話のとっかかりがないというか。俺自身、もともとそんなに社交的な方じゃないし、見たところ、ヨハナ司祭の方もそうだ。

「あー……あの、この村はどうですか」

 一応、二人の間にある共通の話題に触れてみたけど、

「なかなか良い村だと思うのでして」

 そのくらいの返事で終わってしまった。ヨハナ司祭はまだこの村をあまり見ていないから無理もないか。

 村でおすすめの場所とか訊いてくれたらなあ。俺だってそれならひとつやふたつ答えることができる。もちろん、俺の銅像がある広場以外でだ。料理の美味しい酒場と、何でも揃う雑貨店と――

 俺が心の中でそう指折り数えているところにひょいっと入ってきたのは、金髪金眼の同居人。

「おっ、ここにいたのか。なあリオン、今ちょっといいか?」

 メルツァーさんだ。

 デーモン騒動の後は自警団の訓練に付き合っているそうだけど、熱心なのはどっちかというと相棒のウェルースさんの方で、メルツァーさんはこのくらいの時間だと館にいることも多い。

「どうしたんです? メルツァーさん」

「書庫でちょっと本を探してたんだが、見付からなくてさ。もしかして手放したんじゃないかって。ほらあの時の、覇王の――」

 本はなるべく手放さずに書庫に保管してあると思うけど、その正確な所在となると、たぶん俺よりステラさんの方が詳しいな。

 そんな風に考えながらも、メルツァーさんの説明はとりあえず聞くつもりだったけど……

「あっ」

 視界の外で、声がした。

 メルツァーさんの視線が、その声のした方へ向く。その金色の眼が捉えた人物は、俺が振り返って確かめるまでもない。

「ん? ――あっ! お前……ヨハナか!」

 意外だったのは、メルツァーさんがその名前を口にしたこと。俺はまだ紹介してないのに。

 対して、ヨハナ司祭の方はぼそぼそと小さな声で返事をした。

「……人違いなのでして……」

 顔を見たメルツァーさんが名前を言い当ててるのに、その言い訳はどうなんだろう。何か顔をあわせたくない事情があるのは、なんとなく察したけど。

「知り合いなんですか」

 メルツァーさんに訊ねると、頷きが返った。

「鉄騎都市にいた頃に少しな。いやしかし、ここで会うなんて思いもしなかった。何年ぶりかなあ」

「だから! 人違いなのでして!」

 鉄騎都市はメルツァーさんの故郷だ。そこにいた頃というと、ええっと、少なくとも三年以上前になるか。

 それにしても、ヨハナ司祭がこうまで関わりを否定するのはどういうことだろう。

「親父さんは元気か? また怪しい商売に手を出したりしてるんじゃ――」

 メルツァーさんはそれに構わず、親しげな態度でヨハナ司祭に言葉を向けてる。

 と――

「――だのでして」

 俯いたまま、ヨハナ司祭が何事かを呟いた。

「うん?」

 俺と、言葉を切ったメルツァーさんとが注目する前で、ヨハナ司祭は立ち上がった。

「父は死んだのでして。一昨年の秋に」

 メルツァーさんもさすがにそれを茶化すようなことはせず、普段の笑顔を引っ込めて、頭を掻いた。

「……そりゃ……すまない。お悔やみ申し上げる」

「別に、謝られるようなことではないのでして」

 言った言葉はそうだけど、口調は厳しい。

「少し、外の風を浴びてくるのでして。また後ほど」

 何と言っていいか、何と言うべきか。決めきれないでいるうちに、ヨハナ司祭はさっさと部屋を出て行ってしまった。

「……そうか。あのおっさん死んだのか」

 ヨハナ司祭を無言で見送ったメルツァーさんが、そう呟いた。

「どんな人だったんです?」

 俺の問いかけに、メルツァーさんは目を細めた。昔を懐かしんでいるのかもしれない。

「確か、大教会の……司教だったかな。で、ものすこい吝嗇(けち)だった。高価な絵なんざ絶対に買うもんかって、教会の壁には子供の落書きを飾ってたんだぜ。稼ぐ方にも熱心でな。うちの親父もなんやかんやいろんな名目で寄付金を絞られてた」

 まあ、教会の運営もタダじゃないってのはわかる。この央州のほとんどの土地では、領主よりも教会の方が住民たちの生活に近くて、特に冠婚葬祭に関わることは教会が取り仕切ることが多い。墓地はだいたい教会が管理してるし、その維持には手間もお金もかかる。

 それにしたって、司教といえば司祭よりもさらに上の地位の人。あまり強欲なのは、どうなんだろう。

「それでな。俺とウェルースの二人。幼いながらも正義感は一人前。義憤に駆られておっさんのとこに乗り込んだんだよ。みんなの金を返せー! ってな」

 そこは、幼くてもメルツァーさんとウェルースさんだ。欲深い悪徳司教はさんざんに懲らしめられて、改心する……みたいな話だろう。

 ――という俺の予想は、外れた。

「そこで、おっさんがそうやって貯めた金で孤児院や施療院をいくつも運営してたのを知ったってわけだ。壁に飾ってた『子供の落書き』も、そっから届いたやつなんだと。人は見かけによらない、ってのをあの時ほど実感したことはねえな……」

 うーん。俺はその人と会ったことはないけど、メルツァーさんの話の前半分だけ聞いて、強欲な悪人だと思ってしまっていた。

 一面を見聞きしただけで全部知ったような気持ちになってしまうのには、気を付けないといけないな……。

「おっさん本人は、それもこれも全部金儲けのためだって言ってたが、本心だったのかは、わからずじまいになっちまったな」

 メルツァーさんはそう言って、また頭を掻いた。



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ヨハナの過去

 教会開きの翌朝、テオドーラさんは村を後にした。天命都市へはかなりの距離がある。帰り着く頃には『休暇』も終わりだそうだ。昨晩の温泉が少しは息抜きになってればいいけど。

 一方、ヨハナ司祭はこのままこの村の教会に留まる。そのために来たんだから当然のことだ。

 それでひとまずしばらくの間、レベッカさんとペネロペが、竜牙館でなく教会の方に寝泊まりすることになった。

「慣れない土地に一人では、きっと心細いと思うの」

 レベッカさんの意見はもっともだ。

 

 ヨハナ司祭と改めてちゃんと話す機会を得たのは、しばらく経ってからだった。

 なにしろ、こんな小さな村でも教会の司祭は忙しい。

 お祈りはまだ日も昇らない早朝に始まって、一日五回。うち朝夕の二回は村の敬虔な人たちも教会にやってくる。

 朝昼夕を知らせる鐘も、教会が機能していない間は自警団が鳴らしていたけど、元は教会の仕事。

 もちろん、教会やその敷地の清掃も必要で、そこには併設の墓地も含まれる。結構な広さだ。

 村の生活や商取引でのトラブルも、教会が仲裁する。それを一時的に引き受けていた俺の経験で言うと、こんな田舎村でも一日一件くらいはそういう相談がある。その場で簡単には解決できないものも、まあ、ごくまれに。

 俺の場合は館のみんなが手伝ってくれるからなんとかこなしていけてる。

 一方、教会のことは、ヨハナ司祭がほとんど一人でやる。レベッカさんたちも手伝ってはいるけど、司祭の資格がないとできないことも多いそうだ。

 それに加えて自己研鑽の時間も必要……となれば、睡眠時間は俺の半分もないんじゃないかな。

 俺が教会を訪ねていった時には、その忙しさのちょうど隙間だったらしい。

「お忙しい中ご足労いただき、ありがたいことなのでして」

 と言ったのは俺じゃなくて、ヨハナ司祭の方。俺の方はヨハナ司祭ほど忙しくはないと思うけど、まあ、常套句ってところだろう。

「これ、ニーナが作ってくれたので、差し入れです。レベッカさんたちと三人で食べてください」

 そんなにやることが多いなら、あまり料理に手間をかけられないんじゃないか。ニーナがそう心配して用意してくれたものだ。

 その味については……

 竜気(オーラ)のせいで変化した俺の味覚は、相変わらず人間の食事に対していまいちあてにならない。

 だけど、作ったニーナと味見をしたナタリーの肯定的な意見の方は信じてもいいだろう。

「それと、ここの生活で何か足りない物があれば、遠慮なく言ってください。できる限りは用意しますから」

「これはどうもご丁寧に……」

 と、本題はこれで済んだものの。

「教会開きの時にも来たけど、修繕前と同じ教会とは思えないな」

 改めて見回してみると、そんな感想が出てくる。

 何しろ酷いありさまだった。村の集会所として使われていた教会に、前の領主が手下を使ってかなり嫌がらせをしたという話で、外壁は落書きだらけ、窓は割られ、扉は壊され、中の調度品は持ち去られたり、壊されたり。

 それが今はぴかぴかだ。

 内装に派手さはなくて、シンプル。それは必ずしも潤沢ではなかった修繕費用の関係でもあるけど、上手い具合に静謐な雰囲気になっていると思う。

 俺はそんなに敬虔な方ではないけど、それでも、誰かにとっての祈りの場がこうしてあるべき姿に戻ったのは、素直に嬉しい。

 心なしか、教会の聖印である陽光十字を背負った聖者の石像も、表情が穏やかになったように感じられるな。

「こうして教会の活動を再開できたのも領主様のおかげなのでして」

 祭壇に向かって祈りを捧げ、ヨハナ司祭が呟いた。

「村の人たちからの寄付もあったので、俺だけの手柄じゃないですよ」

 それは実際、そうだ。雷王都市くらいの都会ならともかく、田舎村だと教会は役所と学校と施療院を兼ねてるような場所だから、ないと困るよな。

 そんな風にあれこれ考えると、お金にこだわる聖職者の気持ちも、わからないでもない。

「メルツァーさんから聞きました。ヨハナ司祭のお父さんの話。吝嗇(けち)だとか守銭奴だとか言われながら、そうして集めたお金で、弱い人を助けてもいたって」

 きれい事だけじゃ回らないところには、やっぱりお金も必要だ、っていう話。美談とまではいかなくても、そういうこともあるよなって……教訓話、かな。

 ただ、ヨハナ司祭はその話題を気に入らなかったらしい。こっそり舌打ちして「あの男、余計なことを」と呟いたのが、俺の耳には聞こえてしまった。……なんでそんなにメルツァーさんのことが嫌いなんだろう。よくわからない。

「一方の言い分だけ聞いて誤解をされても困るのでして」

 ため息をついて、ヨハナ司祭は俺を振り返った。

「……私の父は聖職者でありながらお金のことが大好きでして。父が救った人間がどれだけいたとしても、父に泣かされた人間が大勢いるのは変わらないのでして。私の母も、その一人なのでして」

「お母さんが?」

「父の家柄。母の家の資産。愛のない結婚。そして出世……とまあ、そんなところなのでして」

 それは……並べられた単語から想像できる事情には確かに、子の立場では思うところがあって当然か。

「そうしてお金が大好きな父は、あの男が言ったとおり、よく怪しい商売にも手を出していたのでして……ついには〈鉄騎〉の密輸に手を出したのでして」

「鉄騎、というのは?」

 俺の質問に、ヨハナ司祭は『中に人が乗り込んで動かせる鉄巨人(アイアンゴーレム)』が鉄騎と呼ばれてると説明してくれた。

 アイアンゴーレムなら見たことがある。鉄巨人の名前の通り、鉄を材料に作られた人型の兵器だ。血のかわりに霊気(マナ)が体中を巡っているとか……。単純な命令を受けて自動的に動くのが普通だけど、ゴーレムを製造した古王国はとっくの昔に滅びたから、今の時代にはもうゴーレムに命令できる人はいないんだそうだ。

 それが、鉄騎は最初から人が乗り込んで動かす仕組みになってたおかげで、今でも動かせるんだな。千年以上前の兵器がまだ使えるっていうのはすごいな。

 俺からするとさほど強い相手じゃないけど、竜牙の村の自警団では全員でかかっても歯が立たないかも。並みの魔獣なら寄せ付けないくらいの強さはある。

 お金で買えるなら欲しい、って人はいくらでもいるだろう。値段は想像もつかないけど、決して安くはないはずだ。

「古王国時代、国境防衛のために製造されて、現存しているのは鉄騎都市だけなのでして。あの都市の象徴で、名前の由来で、現役の防衛兵器……となれば当然、都市外への持ち出しは厳禁。密輸なんて明らかになれば死刑は免れないのでして」

 ……それは、怪しい商売というよりは、危ない商売と言うんじゃないか?

「あの二人がその密輸に気付いて、父を説得してくれたので、おおごとになる前に収まったのでして……これでも感謝はしているのでして」

 そんなことがあったのか。そこまでは、メルツァーさんも話してなかった。自分の活躍は語りたがらないっていうのは、いかにもあの人らしいけど。

「でも」

 と、ヨハナ司祭が肩を震わせた。

「父が……父が、私をあの男と結婚させようとしたのだけは、いまでも許していないのでして!」

 ……そういうことか。

「あの男は鉄騎都市の騎士団長の息子なのでして。父の魂胆はおわかりになるはずなのでして」

 つまり、鉄騎都市での地盤を固めるために娘を嫁がせようとした、と。

 ヨハナ司祭はそう感じて、それでメルツァーさんのことを避けていた、ってことなんだろう。

「それで父と会うのを避けていたら、急死してしまって……少し後悔もしたのでして……」

 それは、気の毒だし、気持ちはわかる。

 俺も、ある日突然、両親を喪った。こんなことになるなら生きてる時にもっと……と思うことは、もちろん、あった。

「でも、あの男は無理なのでして……」

 うーん。亡き父親が生前に望んでいたことだから、それで思い出してしまうのか。

 でも、薄情かもしれないけど、もう亡くなったんだから無理に望まない結婚までする必要はないだろう。

 だから、メルツァーさんをそこまで嫌わなくてもいいんじゃないか、とも思う。

「メルツァーさんは俺の仲間ですし、一応擁護しておくと、ときどき不真面目そうに見えても根はいい人ですよ」

「それは、ええ、悪人でないことは、わかっているのでして」

 ヨハナ司祭の返事はそうだったけど、その後に深いため息も続いた。

「ですが、人格とかそういう部分ではないところで、いろいろ、無理なのでして……」

 となると、考えられるのは……

 ひらめいた。メルツァーさんはウェルースさんと一緒にいることが多い。ヨハナ司祭のお父さんと関わった件でもそうだったと言ってた。ヨハナ司祭は、その二人のどっちかならウェルースさんの方を気に入って、それで――

「あら。お二人で何のお話を?」

 俺の考えがまとまる前に、俺たちに気付いて近付いてきたのはペネロペ。ほうきを持っているところを見ると、掃除でもしていたんだろう。

「大したことではないのでし……ありませんよ。お互いに自己紹介をしていただけです。これからこの村でお世話になるのですから、当然のことです」

 答えたのはヨハナ司祭。そんな話だったかな、と思いつつ……まあ、ヨハナ司祭のことは、少し知ることができた。自己紹介と言えば、そうだったかな。

「そうでしたか。熱心ですわね。素晴らしいです」

 言って、ペネロペはにっこりと笑った。

「お二人はどちらも私にとって大切な方。お二人が仲良くなってくださると、私も嬉しいですわ。リオン様、ヨハナ様のこと、どうかよろしくお願いいたしますね」

 ペネロペはレベッカさんや俺のことになると少し、時々、自分を抑えきれなくなる瞬間があるみたいだけど、それ以外のところではおおよそ模範的な聖騎士見習いと言っていい女の子だ。

「ほうきを片付けてきますわね。また後ほど」

 小走りに駆けていく後ろ姿も、まあ、悪くない。

 そう思っていると、ヨハナ司祭がぽつりと呟くのが聞こえた。

「……天使……」

 天使? どこに?

 視線を向けると、ヨハナ司祭が見ていたのはペネロペの後ろ姿。

 ……天使はどこに?

 俺に気付くと、ヨハナ司祭は「んんっ」と咳払いをした。

「念のため言っておくのでして。領主様であろうと、ペネロペ様に手を出したら、さすがの私も許さないのでして……」

 ペネロペ……様? 聖騎士見習いより司祭の方が立場は上だと思うけど。

 いや、ああ、うん。

 どうしてメルツァーさんだと駄目なのか、わかったような気がする……かも……。



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自警団の訓練

 領地の視察という名目で執務室の書類の山から逃げ出してきたからには、自警団の訓練くらいは見て行かないといけないだろう。

 この村も、領主が先々代の頃には、小さいながら常設の警備隊があったんだそうだ。

 領主が代替わりして、その警備隊ががらの悪い傭兵ばかりになると、村は自衛の必要に迫られた。そして、当時の村長の呼びかけで自警団が結成された。

 それが、今の自警団の母体になっている。

 俺が領主になってしばらく経つけど、まだ常備軍は整っていない。これは維持費の問題でもあるけど、村の人たちに威圧感を与えないためでもあって、そのことは親方を始めとした村のひとたちと共有できているから、自警団もそのまま存続している。主に戦う相手が領主じゃなくて魔獣に変わっただけだ。

 ヴォルフさんが来た時には、雷王都市の騎士たちとの共同訓練もやった。

 魔獣との戦いは、最初は俺や館のみんなが手伝いながらだったけど、最近は俺たちが助力しなくても魔獣を倒せるようになってきてる。実際に戦う経験も積み重なってきたってところだ。

 そして今は、ウェルースさんとメルツァーさんがいる。

 二人は遠く東の鉄騎都市の出身。本場の騎士の技を自警団に伝授すると言っていた。

 数日前にメルツァーさんが探していた本も、その指導のために読み返したかったらしい。ちなみにその本は、やっぱりステラさんに訊ねたらすぐに見付かった。

「なかなかよく訓練されてる」

 訓練の様子を眺めながら、ウェルースさんが呟いた。

 場所は、村のはずれにある古王国時代の砦の遺跡。広々とした石畳の一角だ。

 自警団の人たちが、今は長い棒を槍みたいに扱ってる。実際に戦うときにはこの棒を銛に持ち替える。

 連携の訓練中らしい。掛け声でタイミングを合わせて一点を集中攻撃する。一糸乱れぬ、とまではいかないけど、まあまあ合ってる。みんな専従ではなく、本来の自分の仕事をやりながら手が空いたときに参加する、という訓練だから、それにしてはよくできてると思う。

「少し前にヴォルフさんが滞在して指導してくれました」

 銛を使うのも、漁でも使ってるから扱い慣れてるだろう、とヴォルフさんが提案したからだ。それまでにも個人的に使ってる人はいたけど、本格的に訓練に取り入れられてからは練度も上がって、魔獣討伐でも実際に効果が出てる。

 という話をすると、メルツァーさんが「うへぇ」と渋い顔をした。

「ヴォルフのおっさんか。容赦ねえからな、あのおっさんは。それでこんなに鍛えられちまったのか」

 鍛えられちまった、って。そんな悪いことみたいに言わなくても。

 でも、メルツァーさんが個人的な感想としてそう思ってしまうのは理解できる。まだ鉄騎都市にいた頃、ヴォルフさんから実際に指導を受けた経験があるそうだから、その時の苦難を思い出してしまうんだろう。

「その話は何度も聞いたが、そんなに厳しかったのか?」

 付き合いの長いウェルースさんもよく知らないってことなら、思い出して語るのもつらいくらいの体験だったのかも……と思ったけど、そこまでではないようで。

「厳しいなんてもんじゃなかったぜあれは」

 メルツァーさんはそう答えた。

「喩えるなら、訓練中の若者を千尋の谷に突き落として――」

「這い上がってきた奴をまた突き落とす、でしたっけ」

「それだよ。あのおっさん、新兵を人間と思ってねえからなマジで」

 以前、メルツァーさん自身が言ってたことだ。確か元の言葉では、千尋の谷に落として這い上がってきた者だけを育てる、ってやつで、それでも十分厳しいと思うけど、それ以上というわけだ。ヴォルフさんの指導が相当過酷だったってのは伝わってくる。

 ただ、ヴォルフさんの方の事情も、俺は本人から聞いたんだよな。

「未熟な新兵はいつ死ぬかわからん。新兵どもに情は移すまい。人間とは思わず、故に名前は覚えん。奴らの生存率を上げるのは、とにかく訓練だ」

 ――と、そうなると、とんでもなく厳しい訓練になってしまうんだろう。

魔術騎士(メイジナイト)の方には行ってなかったんだよな。不公平だ」

 もう何年も前のことだろうに、未だにそんな恨み節が出てくるほどだから、ちょっと、うーん。想像を絶する、というやつかな……。

「それをよく生き残れたものだな、お前」

「続々脱落の報告を聞いたのか、親父と兄貴がそれぞれ励ましに来てくれたんだ。異口同音、『家名に泥を塗るなよ』ってさ。思わず涙したね、あの時は」

 何だか、殺伐とした会話だな……。これじゃ、メルツァーさんが親に反抗心を持つのも当たり前だ。

「以前に話したことがあっただろうか。こいつの父上は鉄騎都市で騎士団長をされている方で……」

 ウェルースさんの補足が入ったけど、そのことは以前にメルツァーさん本人からも聞いたことがあるし、ヨハナ司祭も言っていた。

 そういう地位の人だと、息子だからって甘い対応はできない、というのはあったかもしれない。

 メルツァーさんが父親のことを嫌ってる理由はそれだけじゃないってのも知ってるけど……

「クソ親父の話はどうでもいいんだよ。やめだ、やめ」

 ヴォルフさんのことを話す時とはまるで違う本気の嫌悪感を滲ませて、メルツァーさんが吐き捨てた。

「今はおっさんの指導の話。全体的に根性論で、ありゃあ時代遅れだ。ナンセンスだ」

 口ではこんなことを言ってるけど、メルツァーさんが強力防御(ハイパーディフェンス)の極意に至ったのはヴォルフさんの指導のおかげだとも言ってたはずだ。それで感謝してるのも間違いない。まあ、複雑な心境、というところかな……。

「ちゃんとした理論に基づいた訓練を取り入れたら、もっと伸びると思うぜ。まあ俺たちに任せとけよ」

 メルツァーさんは自信満々にそう言っているし、任せたい気持ちはあるけど。

「俺はいいんですけど、自警団の人たちが納得するかどうか」

 名前の通り、あくまで村の人たちが自主的にやってる活動、という位置付けだ。俺からも『お願い』まではできるけど、望まないことを強制はしたくない。

 そこに関して、ウェルースさんの意見は簡潔。

「それは、すでに実力を見せてわかってもらった」

 ……まあ、この二人と自警団との間で力量に差があるのは事実だ。

「自警団の方はそれでいいとして、防衛全体のことで言や、城壁がないのが落ち着かないんだよな」

 というのがメルツァーさんの意見。

 城壁か。確かに、この村にはちゃんとした城壁はない。それに類するものというと……

「魔獣除けの柵くらいはありますよ。それと、古王国時代の城壁なら少しは……」

 とは言ったものの、古王国時代の城壁は古すぎて崩れてるところがあるし、そもそも遺跡周辺にあるだけだ。村全体の防衛には不足だろう。

 一方、柵は木製だけど、人の背丈は超えるくらいの高さがある。大きな魔獣が通り抜けられるほどの隙間はないし、何度か体当たりされた程度なら防げるように補強もされてる。十分だと思う。

 でも、メルツァーさんの評価は厳しい。

「いやあ、あんなんじゃ防ぎきれないんじゃないか? ドラゴンだって飛ぶんだろ?」

「そりゃ、ドラゴンくらいになると防げないですけど。でも、一回しか見てないですよ。シードラゴンを入れたって二回」

 わざわざ城壁を建造するほどの頻度じゃないと思うし、だいたい、飛んでくるなら堅固な城壁だってあんまり意味がないような。

「築城の専門家を呼んで造った方がいいぞ。防衛兵器もつけられるから。高射バリスタならドラゴンも狙える」

「ええぇ……」

 こんな田舎村にそこまでの城壁が要るかというと、要らないと思うけどなあ。



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鉄騎都市の城壁

 昼を過ぎると日差しが強くなってきて、自警団の訓練は一旦休憩になった。

 みんな日陰に入って、持ち寄った飲み物や軽食に手を付けている。酒精がある飲み物も多いけど、雨水が豊富な雷王都市と違って、このあたりでは真水よりも果実酒の方が安いから仕方ない部分もある。

 メルツァーさんもそういう飲み物で喉を潤している。

 一方、ウェルースさんが飲んでいるのは水だ。

 選ぶ飲み物が違うのは二人の性格だろうけど、逆に、飲み物がこうだから性格がああなったのかもしれない、とも思う。

「悪くはないんだが、もう一手間かけると、雑味が減って美味くなりそうな気がする」

 とは、メルツァーさんの意見。

 そういうものかな。俺は酒にはあまり詳しくないから、同意も否定もできない。親方あたりに聞いてもらった方がいいだろう。話を通しておこう。

「それで、さっきの続きで訊きたいんですけど。鉄騎都市の城壁って、どんな感じなんですか」

「いや、あのレベルのを造れとは言ってねーよ?」

 即座にそんな返事があって驚いた。

 メルツァーさんがこの村に欲しいと思ってる城壁の規模。てっきり、故郷の城壁を思い浮かべてるんだと思ってたけど。

「そこまで言うほどすごいんですか」

「あれは古王国時代に造られたやつだからな、今の技術じゃ無理無理」

 なるほど。古王国の時代には今よりももっと霊気(マナ)が潤沢だったとかで、魔法も今とは比べものにならないくらい発達していて、もっと日常的に使われていたんだそうだ。建築でもそうなんだろうってのは想像できる。

 それで、魔剣や魔石と同様、今の時代に同じものを造ることはできない、と。そういうことか。

「あの壁はな、高さは見上げてると首が痛くなるくらいで、上までは確か人の背丈の十倍は越えてるとか言ってたな。そんで厚みが四馬身くらい……厚みがだぜ? そのばかでかい壁が、南北に端が見えないくらい長く長く伸びて、央州と東の荒野とを隔ててる」

 メルツァーさんが語る城壁の姿を思い浮かべてみると、確かに、とてつもない規模だ。

「この村には、そんな城壁を造るちからもお金もないですね」

「だから、この村にそこまでは要らねーって」

 そこはメルツァーさんも認めるところか。

 それにしても。ということは。

「鉄騎都市には必要だったんですか。その規模の城壁」

 メルツァーさんの話しぶりだと、そういうことになるだろう。

「同じ田舎でも、こことはちょっと事情が違うからな」

 鉄騎都市が田舎? そんな馬鹿な。都市を名乗るだけの規模があるのに田舎ってことはないだろう。

「辺境、というやつだ」

 俺の納得いかない気持ちが伝わったわけでもないだろうけど、ウェルースさんがため息をついてメルツァーさんの意見に補足した。

「それだよ。外敵ってのがいるんだ。それで壁を必要としてる。あそこは天駆の街道の東端で、まあ、央州の東の果てってとこだな。で、それより向こうは荒野。そこを闊歩する魔獣どもが『こっち側』に入ってこないよう防衛するために、壁と、鉄騎兵の街が建造されたんだ。古王国時代だ」

 それは、ヨハナ司祭との会話でも少し出た話だな。都市の名前の由来にもなった〈鉄騎〉は国境防衛のために使われてるって。相手は辺境の魔獣か。

「成り立ちがそうだから、とにかく強いことが求められる気風はあるな。都市を治める騎士王にも、親である先代を決闘で倒さなくては即位できない、という決まりがあって――」

「それで、先代がヨボヨボになるまで待ってからってわけだ。今のニタニタひげ面のジジイもそろそろ……」

「俺が真面目に説明してるのに、話の腰を折るな」

 ウェルースさんから少し不機嫌な声で言われて、メルツァーさんは「へいへい」と肩をすくめた。

 まあ、建前と実際は違うこともあるよな……。

 それにしても。

 そうやって強さを美徳とする気風、それに鉄騎の存在。となれば……

「荒野の魔獣って、このあたりのやつより強いんですか」

 そう想像するのは突飛なことじゃないだろう。

 俺のその質問にはウェルースさんが答えてくれた。

「単体の強さで言えば、こちらと大差ない。ただ、数が多いんだ。それで人間側も『一人の力でなく集団の力で対処する』という方向でまとまってる。東の荒野は迷宮の通路のように狭くはないから、そういう戦い方ができる」

 そういうことなら納得。敵に倍する人数がいれば、ひとりひとりは半分の強さでもちゃんと戦いになる。単純な計算ではそうだ。やっぱり数は強い。

「そのせいでだよ。同調圧力ってーの? 周りとちょっとでも違うことするとすっげー嫌われんだよ。いま思い出してもうんざりする」

 うーん。メルツァーさんはあまり故郷のことを褒めないな。ほとんど追放みたいに旅立たざるをえなかったそうだから、無理もないかと思うけど。

「精強さでは央州でも随一だとか自称してたが、ものは言いようだよな。央州側にはあんな田舎に攻め込む奴いねーんだから負けようがねえだろ」

 確かに、それはそうかもしれない。

 鉄騎都市に攻め入って、うまいこと陥落させられたとして、一時は何らかの利益があるにしろ、荒野の魔獣からの防衛はきっと重荷だ。そっちに気を取られている間に背後を襲われることもあるだろう。

 そういうリスクを背負い込むより、鉄騎都市にそのまま役目を全うしてもらうのが一番いい、というのは常識的な結論だと思う。

「東からなら、鉄騎都市の長い歴史では何度か攻められたことがあるらしい。東の荒野やその向こうにも人は住んでいるからな」

 というウェルースさんの補足は、俺にとってはめまいがするような話だ。

「鉄騎都市でも想像できないくらい遠くなのに、その向こう? 理解が及ばないな……」

「東の人々も魔獣の荒野を越えてくるのは骨が折れるようで、細々とした交易があるくらいだ。軍を率いて攻めてきたのは嵐寧国が最後だな。およそ三百年前だ」

 距離もだけど、三百年って時間もぴんとこない。ぎりぎり、とにかく昔の話ってことまではわかった。上出来だろう。

「ま、そういうわけだ。鉄騎都市にはあの規模の城壁が必要だし、あれほどのじゃないにしろ、この村にも相応の壁は要るってことは、十分に理解してもらえたと思う」

 と、メルツァーさんが主張した。

 鉄騎都市での必要性はさっきの話でわかったけど、この村には……どうだろう?

「このあたりは他の領主から攻め込まれたりはしないし、魔獣もそんなに頻繁に出るわけじゃないので、木製の柵でも十分、役目を果たせると思うんですが」

「必要になってからじゃ遅いんだよ。今日欲しくなって明日には完成、なんてあり得ないからな? 頑丈な壁は村を守るって意志の現れなんだ。だから、存在するだけで村に安心感を与えてくれる」

 う、うーん。そう言われると、あった方がいいのかな、って気になってくるな。

 

       *

 

 というわけで、その日の内に早速、壁のことをクレールたちに相談してみた。

「今の木製の柵も結構頑丈に造ってあると思うよ? 魔獣が出るって言ってもそんなに強くないのばっかりだし、強度は十分じゃない?」

 クレールの意見は、俺の本来の意見とほぼ同じだった。

 一方、ステラさんの返事は、これも俺が思っていたことで……

「現在は他に優先度の高い案件が多く、城壁建造の予算を確保できない」

 当然ついてくる、お金の問題だ。あるにはあるけど無限ではない、って中では、使い道は慎重に決める必要がある。そういうことだよな。

「しかし、柵の補強や改修はいずれ必要。将来の課題として記憶しておく」

 なので、この村にも石造りの城壁ができるかもしれない。……遠い未来には。



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記憶の欠落

 ある日の執務室。

 俺の今日の仕事はひとまず片付いて、夕食までの時間は自由。

 とはいえ、こんな風に不意にぽっかりと空いた時間ってどうもうまく使えない。夕食には間に合うように戻るから、あまり遠出もできないし。

 仕方がないから絵本を読むことにした。古王国語で書かれているから、内容は子供向けでも俺が読むには少し苦労するやつだ。

 同じ部屋で、ステラさんは自分のメモ帳に何事か熱心に書き込んでいる。

「それは、何を書いてるんですか」

 絵本を読むのに疲れた俺がそう訊ねると、ステラさんは書き物用の眼鏡を通した視線を少しだけこちらに向けて、口を開く。

「……伝記。貴方の。しかしまだ材料を集めている段階」

 ああ……そういえば、そんな話もあった。いつだったかな、ステラさんが俺の伝記を書くと言い出したのは。

 俺自身は大げさだと思ったけど、周りのみんな……特にフューリスさんは、ぜひ書くべきだと勧めていた。記憶がしっかりしているうちに書くべきだって。

 まあ、どうせ書かれるなら、なるべく事実に沿った内容であって欲しい。

 その点は、ステラさんなら安心して任せられる。少なくとも、よく知らない人から変な書かれ方をするよりはいいだろう。

「しかし、数が合わない」

「ん?」

 ステラさんの呟きが何を意味しているのか、俺にはよくわからない。

 視線を送って続きを促すと、ステラさんは小さく首を傾げた。

「〈銀の玉座〉に生じた歪みである〈天地大乱(メイルストローム)〉。四方の凶獣。その討伐メンバー……」

 ステラさんの言葉は断片的だけど、俺に関わることだから、もちろん俺にはわかる。

 

 雷王都市近郊の古代遺跡の奥に〈銀の玉座〉っていう魔導器が安置されている。

 これは大昔の人が邪神〈歪みをもたらすもの〉に対抗するために魔法技術の粋を集めて造ったものだそうで、魔剣〈真竜の牙〉を持つ〈安定をもたらす者〉がこの魔導器を起動すれば、周辺の霊気(マナ)闘気(フォース)に変換して身体を強化したり、竜を支配したり、〈天の火〉を降らせたりできる……らしい。

 らしい、というのは、俺は結局ほとんど使えていないから。資格はあったはずなんだけどね。

 使えなかった原因はわかってる。

 俺より先にそこにたどり着いた〈剣鬼〉が、歪みを帯びた魔剣〈極北の魔神〉で無理矢理起動したせいで、〈銀の玉座〉にも歪みが入り込み、育ってしまったからだ。

 それが〈天地大乱(メイルストローム)〉。

 邪神にも匹敵するちからを持つそれは最奥に巣くっていて、そこへ進むには四方を守護する四体の凶獣をほとんど同時に討伐する必要があった。

 この四方の凶獣が、また、とんでもなく強い。

 それで俺たちは四人組を四つ編成した。

「だから、全部で十六人でしたよね。俺と、ステラさんと――」

 ステラさんと二人で、指折り数えてみた。

 館にいる人から。ニーナ、ナタリー、ミリアちゃんとマリアさん、レベッカさん、ウェルースさんとメルツァーさん……。

 いまこの館にいない人だと、暗黒司祭のアゼルさん、船乗りのジョアンさん、雷王都市の将軍のヴォルフさん、霊峰の星読みのティータさん、あとは旅をしてるフューリスさんとクルシスか。

「一人足りない」

 ステラさんがそう指摘する。確かに、ここまでで十五人。

 ……ええっと、待てよ。誰を数え忘れてる?

 あのとき一緒にいた、というと、スペースハムスターのハスターもだけど、さすがに討伐メンバーの一人に数えてたはずはないだろう。他には……

「どうしたの、二人で難しい顔して」

 そう言ったのはクレール。

「あ、クレール?」

「ん?」

 クレールだ。確か、クレールも一緒だった。それでそう、スレイダーさんもいて……

 あれ? クレールだけじゃなくスレイダーさんも足したら今度は多すぎる。それに、よく考えたらそれは異界の偽神封印殿の方だ。

「クレールではない」

 ステラさんの指摘もあって、結局また悩むことになった。

 でも、こんなことってあるかな。

 邪神にも匹敵する巨悪に一緒に命を懸けて立ち向かった仲間を、顔も名前も思い出せないなんて。

 しかも俺だけじゃない。ステラさんもだ。

 ……何だ、これは。

 

 その後、あのとき一緒に戦ったみんなにも訊ねてみたけど、誰の反応もほとんど同じで、最後の一人が誰なのかはわからないままだ。

 何かがおかしい。何かが――

 気味の悪いことに、その『何かがおかしい』という気持ちすら、日記に書き留めておかないと忘れてしまうくらいなんだ。

 

       *

 

 それが急に繋がったのは、さらに数日経ってからだった。

「リオンか。こんなところで会うとは奇遇だな」

 村の南の外れ、湖の近くを一人で散歩していたところに、声を掛けられた。

 今後架け替えようと思ってる古い木造の橋。ちょうどその上だ。

「……ええっと……」

 親しげに話しかけてきたけど、誰だろう。

 中背の男だ。スタイリッシュなレザージャケットに細身のズボン。このあたりではあまり見かけない異様に都会的な服装で、一目で外部の人間だとわかる。

 特徴的なのは緑色の髪。草原の色、と言おうか。普通に出る髪色ではないと思う。少なくとも、俺はこんな髪の人には覚えがない。男にしては長めの髪で手入れもされているから、色を着けているのかもしれない。

 そして、もっと特徴的なのは黒眼鏡。そのせいで表情が読みにくい。

 歳は、二十歳くらいに見える。そこは、黒眼鏡をはずしたら印象が変わるかもしれないけど。

 そして、たぶん……凄腕の剣士だ。

 腰に剣を下げてる。魔剣だ。それも、かなり強力なもの。

 そのわりに闘気(フォース)をまるで感じない。それがあまりに不自然すぎて、逆に、この男の底知れなさを感じさせる。

「……いや、そうか。奴の目的はお前だったのか。それでここを訪れた……」

 男が呟く。

 奴って誰だろう。こんな村でも最近は人の出入りがそこそこある。俺に会う目的で来る人も何人かはいた。でも、これほどの剣士が気に掛ける人物というと、かなり限られるはずだ。

 ウェルースさんかメルツァーさん? それとも聖騎士団副長のテオドーラさんか? まさかデュークではないよな……。

 深く考えるほどの間もなく、男が訊ねてきた。

「最近、スレイダーが訪ねてきただろう。何か言っていなかったか?」

「スレイダーさん?」

 ――失敗した!

 意外な名前が出て、つい反応してしまった。

「その様子だと、奴に最近会ったな? どこに行くとか、言っていなかったか?」

 男が、無造作に見える動きで俺との距離を詰めつつ、続けた。

 こうなるとさっきの一瞬のミスが悔やまれる。

 思い出されるのは、先日俺を訪ねてきたスレイダーさんが言ってたことだ。

『もしかしたら俺を追って誰か来るかもしれねえが、そいつらは俺の敵だ。あんまり俺のことをべらべら喋るんじゃねえぞ。いいな?』

 その『敵』が、いま、目の前にいる!

 すぐに使える武器は、ごく普通の短剣しかない。一応、腰にあるその存在を確かめる。いつでも抜き放てるようにだ。

 これで、あの魔剣と戦えるか?

 やってみないとわからないけど、……厳しい気がする。

 それでも、いざとなればやるしかない。

「スレイダーさんは俺の仲間です。たとえ行先を知っていても教えられません。そんな、仲間を売るようなことは――」

「待て。リオン、何を言ってる?」

 俺の言葉を遮って、黒眼鏡の男が眉根を寄せた。

「……俺が誰だかわからない、というところか。くそっ。あいつめ、大雑把な処理をしやがって」

 前半は独り言、後半は誰かへの恨み言だ。

 何のことだろう。何を言っているんだ?

 困惑する俺の目の前で、男は何も持たない右手をあげて俺に向けた。

 まずい。腰の魔剣に気を取られすぎてた。術法か何かで仕掛けてくるッ!

「いま封印を解いてやる。――思い出せ、全てを!」

 言葉と共に。

 その手のひらがギラリと光った。



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ガルナシリア

「うっ……」

 酷い頭痛を感じて、俺は呻いた。そして、その自分の呻き声で目を覚ました。

「ここは……どこだろう……」

 見覚えがない小部屋だ。そんなところでどうして寝ていたのか、よく思い出せない。

 空の倉庫、といった感じの殺風景なところだ。扉がひとつと、窓は……外から鉄格子がはまっている。

「気が付いたか」

 不意に、声を掛けられた。視線を向けると、壁に背を預けて立つ男が一人。

 緑色の髪で、黒眼鏡を掛けている。俺が住んでいた田舎村では一度も見たことがないような、異様な風体の男。

 その男が言うには、ここは雷王都市のはずれ、警備兵の詰め所、その牢の中……だそうだ。

「お前はこの雷王都市に潜り込もうとして、警備兵(ガード)に見付かったんだ。今は〈剣鬼〉とやらのせいで警戒が強まっているらしい。運が悪かったな」

 言われて、俺はそのことを思い出した。

「そうだ……故郷の村は〈剣鬼〉に滅ぼされて……」

 ほんの数日前のことだ。でも、もうずっと昔のような気もする。

「俺、ここに知人がいるって言ったのに、全然信じてもらえなくて……他に頼るところもないのに……」

 両親は〈剣鬼〉に殺された。雷王都市には叔父のダックスさんがいるはずだから、その助けを借りるために、ひとりで街道を歩いてきたんだ。

「お前からは不思議な力を感じる」

 と、黒眼鏡の男が言った。

「どうやら、何かを成す運命の者――のようだな」

 ひどく大雑把な評価で、具体的なことは何も言ってない。

 でも、俺に何かを感じたことだけは、わかった。

 後にして思えば、ティータさんよりも先に、俺の未来を見通していたのか。

 ……後? 後って……いつのことだろう。

 また、酷い頭痛を感じた。

 

       *

 

 意識が『今』に戻ってきた。

 その俺の目の前にいたのは……

「……あれ。ガルナシリアさん……?」

 

 ガルナシリアさんは俺の仲間の一人で、凄腕の剣士だ。緑色の髪と、黒いレンズのついた眼鏡が特徴的。背は俺よりは高いけど、戦士としては小柄な方かな。

 雷王都市での冒険では何度も力を貸してくれた。ただ、何しろ剣鬼騒動の当時のことだから、あれほどの剣士だと剣鬼に間違えられることが多くて活動しにくいと言ってた。

 一方、異界での冒険では、一時的にだけど敵対した。

 その時は俺と一緒にスレイダーさんがいたからだ。属する勢力が違うらしくて、よく敵対するんだと言っていた。

 ……そう。後で知ったことだけど、ガルナシリアさんもスレイダーさんと同様、異世界の人だ。

 何らかの目的があって、このあたりを調べていたらしい。それがどんなことなのか、俺はよく知らないけど……

 でも、味方になると頼もしい。

 後に〈銀の玉座〉に育った歪み〈天地大乱(メイルストローム)〉と戦う時にも、討伐メンバーの一人として参戦してくれた。

 ……どうしても思い出せないでいた、十六人目だ。

 

「お前の記憶に施されていた封印を解いた」

 ガルナシリアさんが、俺に向けていた手を下ろした。

 頭痛は急速に消えていった。記憶にかかっていたもやも、もう晴れている。

「うちの勢力の方針で、異世界で関わった人間がいれば、関わった記憶に封印を施すことになっているんだ。お前達は対象から外すように言っておいたんだが、どうやら巻き添えになっていたらしい。すまなかった」

 ……事情は、単純化すれば、実際そんなところなんだろう。

 でも、その『記憶の封印』というのは、決して簡単なこととは思えない。俺や俺の仲間たちにまでそんなことができるなんて。ガルナシリアさんが属する組織の強大さを嫌でも感じる。

 ただ、俺の中では、恐怖よりも興味の方が強い……かな。

「思い出せたから、構いませんよ」

 何にせよ、ガルナシリアさんに文句を言っても仕方ない話のように思う。

「他の奴らの封印の解除は……少し急ぎなのでな、お前に任せる。このカードを見せればいい。記憶封印解除のための魔法陣、といったところだ。即効性はないが半日程度で効いてくる」

 言って、ガルナシリアさんはジャケットの内側から一枚のカードを取り出した。

 これは、渦だろうか。そんな感じの図案が描かれていた。

 その図案より、カード自体の方に驚いた。薄いのにしっかりとした硬さを持った、不思議な材質でできてる。これも異世界の魔法で編まれた物なんだろう……。

「早速で悪いが本題だ。スレイダーを見たんだな? どこに行った?」

 俺が受け取ったカードを懐にしまうのも待たずに、ガルナシリアさんが続けた。

 ……スレイダーさんから軽く口止めされてるのは確かだ。二人が敵対してるのも、これまでの様子を見てると、間違いないだろう。

 ただ、他の誰かならともかく、ガルナシリアさんは俺の仲間でもある。嘘はやめておこう。

「訪ねてきたのは確かですけど、どこに行くとは言っていませんでしたよ」

 これならまあ嘘じゃないし、全部を話したわけでもないから、スレイダーさんに対しても一定の義理は果たしたと言えるだろう……。

「何かあったんですか?」

 逆に俺から訊ねると、ガルナシリアさんは片手で黒眼鏡の位置を直しながら応じた。

「奴の勢力とはいろんな所で競争してる間柄だからな。いつでも『何か』はあってるさ。今回は、魔導器の争奪戦というところだ」

「ああ、それはスレイダーさんも言ってました。勝った人が総取りするゲームをやってるって」

「ふん。やはり、目的は同じか」

 二人とも、何かを探している。それはわかった。

 思い返せば、異界での冒険の時もそうだった。

「前の時は〈煉獄の魔杯(アンホーリーグレイル)〉だったけど、今回探してるのも、あのくらい危険な物なんですか」

「奴からは何も聞いてないのか」

「同行を軽く誘われはしましたけど……」

 そう。今回のことも、もしかしたらスレイダーさんの側について参加してたかもしれない話なんだよな。

 ただ、今は村のことで忙しいし、なにより、溜まりすぎてる竜気(オーラ)のことがある。

「俺もちょっと事情があって、断ったので」

 こうなると、それで正解だったのかな。

 スレイダーさんとガルナシリアさん。俺にとっては二人とも冒険の仲間だ。一方の味方をすることでもう一方の敵にならざるをえないなら、やっぱりちょっと心苦しい。

「いいだろう。教えてやる。お前も何か知っているかもしれんしな」

 ガルナシリアさんはそう前置きしてから、続けた。

「俺たちが探しているのは、特大の煌気(エーテル)結晶体――エセリアルハート。神話時代の戦争で行方が知れなくなっていたのだが、最近、その存在を示唆する波動が検知されてな。実在するなら他の勢力には渡せん、というわけだ。中でも特にスレイダーの動きは早く、すでに何らかの手がかりを掴んでいると見ている。ここを訪ねてきたのにも理由があると思うのだが……」

 それでスレイダーさんの足跡を追ってきたところ、俺と遭遇したってわけだ。

 事情はわかった。でも……

「すみません。心当たりはないです。神話時代のことだなんて、正直、俺の理解を超えてる」

 ガルナシリアさんの方もそんなに期待はしていなかったらしく、軽く肩をすくめて苦笑、という程度の反応だ。

「お前ほどの戦士なら、単に補強が目的だった可能性もある。何にせよ、奴に追いついて問い詰めればわかることだ」

「戦いになるんですか?」

 二人の立場の違いを考えれば、平和的な話し合いだけで済むとは思えない。ガルナシリアさんも否定しない。

「意思を持つ者が集まれば、それぞれの思惑と利害がぶつかり合うのは当然のことだ。奴の勢力とはこれまでも数え切れないほど戦った。その数が今回またひとつ増えるとして、ためらう理由にはならんな」

 二人の因縁、かなり根が深いみたいだ。付き合いの浅い俺が遠く離れたところから少し口を挟んだくらいじゃ、これが変わる気はしないな……。

「俺と奴の一対一なら、こちらがやや優勢だろう。だが、仲間の質ではこちらが不利だな。向こうは少数精鋭で士気が高い。対して、こっちの奴らは最近だらけているからな……」

 ガルナシリアさんがため息交じりにそう言ったから、俺は苦笑。

「本当に、笑い事じゃないんだぞ。お前達が記憶封印の対象から外されていなかったのも、そういった気の緩みが原因だ。このままではいつか大災厄を招きかねん」

 異界のとてつもなく強大な組織にも、そういう悩みはあるらしい。

「今回は念のため、部下をひとり連れてきてるんだが、こいつがまた――」

 もう一人の人物がこの場に現れたのは、ガルナシリアさんがそう言った時だった。



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フラーヤ

「リオン、ここで何やってるの?」

 俺の背後から、よく知っている声が聞こえた。

 視線を向けると、長いふわふわの金髪を風になびかせながら駆け寄ってくる。転ぶんじゃないかと少し心配になったけど、今回は大丈夫だった。

「クレールこそ、こんなところでどうしたの」

「天気がいいからお散歩。リオンも暇なら誘えばよかったね」

 夏の海辺に似合う、上品な白のワンピースで、リボンのついた麦わら帽をかぶっている。どこから見てもお嬢様だ。腰に下げてる魔法の短杖(ワンド)以外は。

「で、えと、一緒にいる人は――」

 クレールの目が、俺の先へと向く。

 そしてすぐに、驚きの表情を浮かべた。

「あーっ! 魔杯を狙ってきた〈災渦(ウォルテックス)〉の勢力のやつ! 今度は何をしに来たんだっ!」

 言ったクレールはすぐに俺の横に立って短杖を構えた。

 ガルナシリアさんと一緒に戦ったこともある俺と違って、クレールがガルナシリアさんと会ったのは異界での冒険の時だけだ。そしてその時、二人は対立する立場だった。

「……そんなこともあったような気がするな」

「とぼけるなっ! リオンから離れろっ!」

 こういう反応になってしまうのも無理はないだろう。

 でも、不思議だな。

「クレール、この人のことがわかるの?」

「当たり前だよ! またばかにしてー!」

「いや、別に馬鹿にしてはいないけど」

 ……記憶を失っていないのか。

 どういうことかとガルナシリアさんに視線を向けると、最初に返ったのはため息。

「スレイダーあたりの妨害があったのかもしれん。だが、封印した奴はその道ではエキスパートだ。ちゃんとやったなら容易に干渉はできまい。となれば、ここと違う世界のことで確認を怠ったのだろう」

 言葉の後でまた、ため息。

 力量は信頼してるけど人柄は信用してない、というあたりかな……。

 俺たちがそう言葉を交わす間も、クレールは警戒心をむき出しのままガルナシリアさんを睨んでいる。

「クレール。ガルナシリアさんは悪い人じゃないよ」

「悪人じゃないなどとは、俺自身でもまったく思わないが」

 この人は……俺がせっかく擁護してるのに、自分からぶち壊しにして。

「でも今は敵じゃない。剣を抜くつもりもなさそうだし」

「まあ、そうは言えるな」

 そんなやりとりを経て、ようやく、クレールも少し落ち着きを取り戻した。

「リオンがそう言うなら――」

 それを言い終わる前。

 ――殺気。

 

 俺はクレールの腰を背中側から抱いて、一気に後方に跳んだ。

 ガルナシリアさんもほとんど同じタイミングで俺とは逆へ跳躍する。

 次の瞬間、俺たちが立っていた木造の橋に、何かが突き立った。

 そして、爆発。

 

 俺たちが川を挟んで着地すると、それに少し遅れて、ガルナシリアさんの方にもう一人がふわりと降り立った。

「今、原住民に攻撃されてたわね。私が助けてあげたわ。せいぜい感謝なさい?」

 女性だ。紫色の長い髪。切れ長の目。宵闇色のロングドレス。そして……右手にあるのは、魔槍だ。ただならぬ妖気を放っている。

「フラーヤか。状況をよく見てから動け。攻撃はされていない」

「あらそう? 評価値アップのチャンスだと思ったのに、残念ね」

「浅慮なところでむしろダウンしたぞ」

 そんな会話の間に、魔槍の直撃を受けた木製の橋が崩落した。架け替えの話はあったけど、具体的な建造計画が出来上がってない今、まだ壊すつもりはなかったんだよなあ……。

「いきなり攻撃してきて、やっぱり敵なんじゃない?」

 小脇に抱えられたまま、クレールがそう主張した。……これには反論できない。

 ガルナシリアさんは、大きなため息。

「あいつはこちらでの友だ。名はリオンという」

 紹介されたから一応「どうも」と頭は下げたけど、相手の反応の方は……

「ふーん。要するに原住民なんでしょう? 田舎くさい顔だもの」

 そう言って、長い髪をかき上げたくらい。どうも、俺たちの存在にそもそもあまり興味がないらしい。

「またばかにしてー!」

 今のは、うん、馬鹿にしてたな。俺は実際に田舎の出だから、そんなに腹は立たないけど。

「こいつは俺の部下の一人でフラーヤという」

 ガルナシリアさんが言う間も、フラーヤと呼ばれたロングドレスの女は俺たちをほとんど無視して髪の乱れを整えている。

「……本人がいるところで言うのも何だが、出来が悪くて扱いにくいやつだ」

 そう愚痴を言いたくなるくらい、ってことなんだろう。

「私だって幹部なのにその言い方は酷いわね。埋めさせるわよ」

 幹部なのか。この……ちょっと自己中心的な感じの人。

「うちの勢力の悲しいところは、これがまだ使える方の人材だということだな」

 ガルナシリアさんがまたため息をつくと、女は苛立った様子で魔槍の先をガルナシリアさんの顔に向けた。

「おだまり。私の悪口言うだけならもう行くわよ」

 女はそう言ったけど、俺はガルナシリアさんの言葉に別の意味も感じた。つまり……

 この難ありな性格でも幹部に数えられるくらい、強い。

 目立つのはあの魔槍だ。おそらく、異界の伝承武具(レジェンダリーアーム)だろう。

 そして本人も、かなりの強者。

 橋を一撃で破壊した手際を見るに、あの魔槍を使いこなしている。いくら強い武器でもただがむしゃらに振り回す、振り回されるだけじゃ、ああはいかない。

「それで、あのバカはどこに行ったのかしら?」

 そのフラーヤが、ガルナシリアさんに訊ねた。まだ他にも仲間がいるのかと思ったけど、どうやらそうでもないらしい。

「スレイダーの行き先については知らないそうだ」

「あら。やっぱり田舎の原住民はあてにならないわね」

 なるほど。スレイダーさんのことを『あのバカ』呼ばわりしてただけだったか。

 その名前に聞き覚えがあるクレールが、俺の隣で首を傾げた。

「スレイダーと知り合いなの?」

「仲良くはないが、まあな」

 言われて、クレールは唸った。

「スレイダーなら確か…………うーん。やっぱり知らない。知ってても教えない」

 ガルナシリアさんとスレイダーさん。二人とも俺の仲間だったことがあるけど、クレールにとってはそうじゃない。ルイさんの部下という立場を長いこと隠れ蓑にしていた分、スレイダーさんの方が心理的な距離は近いってことだろう。

「……まあいい。当初の予定通りにやるだけだ」

 ガルナシリアさんはそう行って引き下がった。

 ただ、その隣のフラーヤは不満があるらしく、あからさまに見下した目を俺たちに向けてきた。

「生意気ね。少し痛い目にあわせて、話したくなるようにしてあげましょうか」

 フラーヤの全身から闘気(フォース)がじわりと湧き出て、魔槍に集まる。さすがに大組織の幹部級。俺の仲間たちに劣らないくらいの圧力は感じる。

 魔剣が手元にないのが痛い。あの魔槍を相手に普通の短剣だけじゃ、長くは耐えきれないだろう。

 いっそ、こっちから仕掛けて先手を打つか?

 緊張の糸が張り詰める中――

「やめておけ、フラーヤ。そう容易い相手ではない」

 ガルナシリアさんがそう割り込んだから、フラーヤは「ふん」と鼻を鳴らしてから、闘気(フォース)の圧縮をやめた。

「命拾いしたわね、原住民」

 フラーヤは捨て台詞。

 まあ、ほっとした。……と同時に、異界の戦技を体験できなかったことには少し残念な気持ちもある。少しだけ。

「迷惑を掛けたな、リオン。詫びに何か……そうだな、これをやろう」

 言って、ガルナシリアさんは懐から取り出した何かを俺の方に放った。

 布製の袋に入った、円盤状の物だ。形や大きさからするとコップ敷き(コースター)かな。いや、それにしては金属製でずっしりと重い……。

「俺のいる世界で使われている金貨だ」

「金貨? こんなに大きいんですか」

 さすが異世界だ……。

「何の魔法もないが、純度はまあ高い。橋を修繕するのには、換金しやすいものの方がいいだろう」

 袋から取り出して見ても、やっぱり大きい。普段使ってるコップの口より広いというと、その大きさが伝わるかな。まあさすがに、手を目一杯に広げたほどはない。

 図案は……中央の円に何やらしたり顔が描かれていて、その周囲には放射線状に広がる、炎? これは、太陽かな。うん、太陽の金貨だ。

「ではリオン、またいずれ会おう」

 別れの言葉が聞こえて顔を上げると、ガルナシリアさんたちの姿は渦巻く黒いもやに覆い隠されるところだった。

「――できれば敵としてではなく、な」

 強い風が吹いてそのもやが吹き散らされると、その場にはもう誰もいなかった。

 

 騒ぎを聞きつけてきたらしい親方たちに橋が崩落したことを伝えると、ここは通行止めになった。元々、新しく大きな橋を造る予定ではあったけど、その前に仮の橋を架けた方がよさそうだ。

 それにしても、せっかくの機会をまた逃してしまった。

 竜石について異世界人のガルナシリアさんに訊けたらよかったんだけどな。その余裕がなかった。

 また会えたら、次こそは訊いてみよう。

 

「……クレール、さっきは何を言いかけたの?」

 館へと戻りながらそう話を向けると、クレールはいちおう周囲をうかがってから、小さめの声で答えた。

「あのときのスレイダー、僕に父様の居場所を訊いたから、もしかしたら父様の所に行ったのかもって」

「ああ……」

 そういえば、そんなこともあったな。

 クレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイさんは、今は確か遠く北方にある〈風の終焉地〉という遺跡を調べてるらしい。ときどき使い魔が届けてくれる手紙に、そう書いてあった。

「でも、ルイさんとスレイダーさんって、落ち着いて話ができる間柄なのかな、いま」

「んー、どうだろうね……」

 〈煉獄の魔杯(アンホーリーグレイル)〉を巡る騒動の時、二人はかなり激しく争った。どちらかが死んでいてもおかしくないほどだったし、あれだけのことを『水に流す』ってことができるんだろうか。俺ならどうだろう。自信はないかも。

 まあ、目的はともかく、ルイさんを訪ねていくこと自体はありそうな気はする。

「平和的に済むといいけどね」

 そう願っているのは本心からだけど、その一方で、きっと戦いになるんだろうという予感も、あるなあ……。



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キノコ祭り

 館の裏庭。なんともいえない、いい香りが漂っている。調理炉で何かが焼かれているからだ。それで俺もつられて来てしまった。

「特級おいしそうです!」

 ナタリーがその調理炉の近くで踊っている。ミリアちゃんも一緒に踊っている。マーシャも巻き込まれて踊らされている。

 実際に焼いているのはニーナ。その様子を、マリアさんとステラさんが見守っている。

「色がすごい……」

 ニーナが呟いたから、俺もその手元を覗き込んでみる。

 確かに。白や黒や暗褐色のものの他に、極彩色と言えるようなものも焼かれている。全部、キノコだ。

「毒性がないとされるもののみを選び出したため、問題はない。……そのはず」

「私も確認しましたし、大丈夫ですよ」

 ステラさんとマリアさんがいるのはそのためか。

「特級キノコ祭りです!」

 この様子からすると、ナタリーが近くの森で集めてきたんだろう。

「毒性がないということが必ずしも美味を保証しない点には、留意する必要がある」

「あたしが採ってきてニーナが焼いたらだいたい美味しいです!」

 ステラさんのは一般論、ナタリーのは暴論。

 でもこの館ではナタリーの言い分が勝つこともある。ニーナの調理の腕はいまやそういう次元にある。

 それにしてもこの極彩色のキノコは……本当に食べても大丈夫なのかな。

「いざとなればニーナちゃんやミリアが〈解毒(アンチドウテ)〉の法術を使えますので……」

 俺の不安を見透かしたように、マリアさんがそう言った。

 確かにそうだ。だったら安心……とまでは行かなくても、死にはしないだろうとは思える。

 あとは味だ。俺は味覚が他の人とは違ってしまってるから、あんまり期待はしないけど。

「これはもういいかな。はい、ナタリー」

「んっんー! ナタリーちゃんいいなーっ!」

「何か調味料つける?」

「まずはそのままいただくです!」

 黒っぽいキノコが串刺しにされて、ナタリーに渡された。最初のひとくちは調達してきた子の権利、ってところか。

「はふっ! あひゅ、あひゅいれふ! れもおいひーれふ!」

「食べ終わってから喋ろうね」

 ナタリーは実に美味しそうに食べてる。色もおとなしいやつだったし、見たことがある形でもあったから、村でも普通に食べられてるやつだな。無難なところだろう。

 そんな感じで、十分に焼けたキノコからみんなに分配されていき――

「その特級いいやつはリオンのものです!」

 よりにもよって、あの極彩色のキノコが俺のところへまわってきた。

 ……本当に大丈夫なのか?

「問題ない。……と期待される。……たぶん。そのはず」

 いつもは頼もしいステラさんの言葉も、今回ばかりは頼りない。

「勇者らしく、思い切っていっちゃって」

 ニーナはそう言ったけど、勇気と無謀は違う。

「あの、心配しないでください。〈解毒(アンチドウテ)〉の法術はありますから……」

 マリアさんが改めてそう言ったことからも、毒があること自体は確定事項のような雰囲気を感じる……。

 でも仕方ない。この場の誰かが食べることになるなら、生命力からいって俺が一番適任だろう。仮に毒があったとしても即死はしないはずだ。

 串に刺さった極彩色の物体に、思い切って噛みつく。

 ……んー……うん? ……ふむ……。

「案外いける」

 俺の変化してしまった味覚では味はよくわからないけど、少なくとも食べられないものじゃない。毒はなかったみたいだ。ほどよい弾力のある食感で、何だか癖になる。

「そうなのですか! それならあたしもリオンのキノコ欲しいです!」

「いいけど、ナタリーの好みとは違うかもしれないよ」

「食べられるものなら、チャレンジです!」

 そう言って食べてみたナタリーの感想は……

「特級にがいです!」

 どうやら気に入らなかったようだ。

 

       *

 

 最近の様子を見ていて、気付いたことがある。

 異界からここへ来たマーシャのことだ。まだ、俺の推測でしかないけど……

 いい機会だから、このキノコ祭りの席で確認しておくことにした。

 次のキノコが焼き上がるのを待つ輪から少し離れたところにいたマーシャの横に、俺も並んで立つ。

 それに気付いたマーシャが、少し首を傾げて俺を見上げた。

 俺の推測というのは、つまり、こうだ。

「マーシャはもしかして、このままこの世界に残るつもりなのかな」

 その問いに、小さな頷きが返った。

「私は最初からそのつもりで、この世界に飛び込みました……」

 ペネロペの悪夢を越えてきた時のことか。なるほど。マーシャからすれば、決断はあの時すでに済んでいたってわけだ。

「こっちに来て、どう? 気が変わったりしてない?」

「ここが異界だとは思えないです……。初めて見る景色なのは確かですけど、それは旅をしていればよくあることですし……」

 それは確かにそうかもしれない。異界とは言っても元々よく似た世界。上下が逆さまとか、呼吸のしかたが違うとか、そんな違いは全くない。

「ずいぶん気に入ったみたいだね」

「はい。みなさん良くしてくれます……特にマリアさんからは教わることも多くて……尊敬してます。その、おかしいでしょうか。何だか自分で自分を褒めているみたいで落ち着かないですけど……」

「いや、変じゃないよ」

 マリアさんはマーシャよりも多くの経験を積んでる。しかも、マーシャと全く同じ傾向のある身体だ。やって良かったこと、やってみたかったこと、挑戦したけど失敗したこと。マーシャの参考になる話はいくらでもあるだろう。

「それに……」

 続く言葉を口にする前に、マーシャは一瞬だけ俺を見た後、恥じらうように目を逸らした。

「それに、リオンさんがいてくれます……」

 うん、まあ、マーシャからすればこっちにいる知り合いらしい知り合いは俺とクレールくらいだったし、頼りにされて悪い気はしない。……それ以上の意味もあるかもしれないけど、あまり深く考えないようにしておこう。

「気がかりなのは、姉のことです……」

 と、マーシャは顔を曇らせた。

 マーシャが姉と言ってるのは、この場合はこの館にいるミリアちゃんやマリアさんではなく、異界に残っている本当の姉であるミリアさんのことだろう。

「手紙、ちゃんと届いたでしょうか。食事はちゃんとしてるでしょうか。洗濯は……」

 異界に手紙が届くはずない、と俺は思っていたけど、異界へ渡れるデュークが届けてくれることになって、マーシャはすぐに手紙を書いていた。詳しい内容は聞いてないけど、近況を報告するとは言っていた。

 その返事はまだ届いていない。デュークは姿を消したままだ。心配なのはわかる。ミリアさんの生活力のなさは俺も知るところで、マーシャがいなくて平気だとは到底思えない……。

「……姉もここへ来たらいいのに、と思います」

 賑やかに調理炉を囲むみんなの方へ視線を向けて、マーシャは呟いた。

「もともと旅から旅の暮らし。その行先が異界でもそんなに変わらないと思うんです……」

 それは実際そうだろう。今のマーシャとは逆に異界に行ってた頃の俺も、普通に過ごしてた。少し事情は違うけど、今のクレールも似た境遇だ。

「デュークは行き来できるみたいだから、連れてきてもらうこともできるかもしれないね」

 クレールの場合は住んでいた街ごとこっちへ来ることになったからか時間がかかったけど、ミリアさん一人だけなら、デュークがついていれば比較的簡単かもしれない。少なくとも、マーシャを元の世界に戻すことはできると言ってたし。

「今度、そういうことも話してみます……」

 マーシャの選択がどういう結果になるのか。それがわかるのはまだ先だろうけど、なるべくいい方向に向かうように、俺も手助けできたらいいな。



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マリアの心配

 キノコ祭りは、ちょうど居合わせなかったクレールあたりから不満の声が出たから後日また開催されることになった。キノコ狩りの担当になったナタリーは張り切っている。

 調理される前に取り分けられた毒のあるキノコは魔女の店へ持っていくことになった。寄付、というと聞こえは良いけど、実態を言うと『始末をお願いする』ってところかな……。いくつかでも薬として役に立つ物があるといいけど。

 そのあたりのことを引き受けてくれたのは、もちろん、魔女の店によく出入りしているマリアさんだ。

 ――そのマリアさんが最近、何か言いたそうにしてるのには俺も気付いていた。

「あの、リオンさんに伺いたいことがあるのですが……」

 ついにそう訊ねてきたのは、俺と二人だけになる時を待っていたのかもしれない。とすれば、かなり口に出しにくい話なんだろう。気をつかって温室を見に来たかいがあった。

「何ですか?」

 俺はこの温室にはたまにしか来ないけど、育てられている南方の植物たちは瑞々しい生命力に満ちていて、その色の鮮やかさにはいつも圧倒される。

 それを管理しているのはマリアさん。……どうも、温室の花たちと比べると儚げな人だ。

「もしかして、その……」

 こうして話しかけてくる声も、どこか弱々しい。話したい内容のせいでもあるだろうけど、ようやく口に出そうと決心したはずの言葉を――

「……いえ、やっぱりいいです。気にしないでください」

 こうやって呑み込んでしまうことすらある。

 似た傾向のあるマーシャはそんなところを少しずつ変えていこうとしているみたいだけど、マリアさんはマーシャよりかなり長い月日をこの性格でやってきてるから、なかなか、今から変えようというのも大変かもしれない。

 もちろん、こんな性格じゃいけない、なんて言うつもりはないけど……

「そこで止められると気になるんですが」

 これは、今の俺の正直な気持ちだ。

「……では、言いますけど……」

 少し悩んだ末、ひとまず今日のところは口を開く気になったみたいだ。

 それで、その内容はというと。

「その……リオンさんはもしかして、ミリアやマーシャのような小さい女の子にしか興味がないのでしょうか……?」

 ……わけがわからない……。

「どうしてそんな風に思っちゃったんですか」

 もちろん、ミリアちゃんやマーシャのことは嫌いじゃない。一緒に苦難を乗り越えた仲間だ。どちらかと言ったら好きに決まってる。

 でも、マリアさんが言ってるのは、どうもそういうことじゃなさそうだ……。

「リオンさんに好意を寄せている子はたくさんいますし、それはリオンさんだって気付いているでしょう。それなのに、そういう点ではリオンさんはみんなとの間に壁を作っています……」

 マリアさんのその意見は、その部分に関しては、ほぼ正解だ。

 俺の身体は竜気(オーラ)によって竜へと変化し始めてるし、もしかしたら周囲にも影響があるかもしれないから、他の誰かに直接触れることをなるべく避けてる。

 そんな状態で誰かと、たとえば恋人同士みたいな、そういう深い関係になるなんてありえないだろう。そうなればきっと絶対触れ合いたくなってしまう。

 それで確かに、ほんの少しだけど、気持ちの上でも距離を取ってるし、決定的なところには踏み込ませないようにしてる。そのへんが『壁』に見えてしまうんだろう。

「でも、ミリアやマーシャには何だか、とても親しげに接している気がして。それで、だから……」

 だから、俺が『とても年下の女の子』にしか興味がないんじゃないかと疑うに至った、というわけだ……。

「もしそうなら、二人の姉として少し心配なので、リオンさんからお話を伺わなければいけないと……」

 今回は誤解を発端にした行動だったけど、妹たちのためとなれば勇気を振り絞れるのがマリアさんだ。些細な違和感も放っておかないという決意だ。

 竜気(オーラ)のことを秘密にし続けている俺にも責任がある。

 話せる範囲のことでマリアさんが納得するかどうかわからないけど、ともかく、なるべく誠実に説明しないといけない。

「ええと……逆なんです。みんなのことは意識してしまうから、どうしても少しだけ距離をとってしまうんです。ミリアちゃんやマーシャに自然に接してるように見えるなら、まだそういう対象でないことの表れで……」

 いけない……あんまり必死に抗弁するのも逆に怪しいような気がしてきた。

「まあ、妹みたいな感じです」

 なるべく短い言葉で正直に言うと、そうなる。

 俺には本当の兄弟姉妹はいないけど、ミリアちゃんは俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶし、そう呼ばれた時に俺が感じているのは兄の気持ちってことで合ってるはずだ。

 マリアさんはその言葉に「ああ」と声を上げて頷いた。

「そういうことだったんですね。よかったです。安心しました」

 どうやら納得してもらえたらしい。俺としても、ほっと一息。

 ……と思ったのも束の間で。

「えっ、あれ? でも、それでは……」

 何かに気付いた様子で、マリアさんは俺から視線を逸らして何事か考え始めた。

「ミリアとマーシャが妹……」

 漏れてきた呟きから察するに、さっきの俺の言葉を反芻しているらしい。

 おかしいところがあったかな。何も思い至らないけど。

「マリアさんと同じですね」

 思った通りのことを言い足すと、マリアさんの困惑顔はさらに深まった。

「それは、どういう意味で?」

「意味?」

 マリアさんが何を言いたいのかよくわからなくて、つい訊き返してしまった。

「……あ、その……深い意味はないんですね?」

「そのままの意味ですけど」

 深い意味って何だろう。俺に何を答えさせようとしているんだ?

 よくわからなくて首を捻っていると、マリアさんは小さくため息。

「そうですね……リオンさんはそういう人です……」

 何やら、ちょっと呆れられてしまった。

 でもともかく、俺が小さな女の子だけに特別な好意を向けてるわけじゃないってことはわかってもらえた。そのはずだ。うん、たぶん。

 

 温室の世話の邪魔にならないよう俺だけ外に出ると、ちょうど爽やかな風が吹いた。夏の暑さはまだまだつらいと思っていたけど、温室の中は蒸し暑いというやつで、それよりは外の方がいくらかマシに感じる。

「……聞いちゃいました」

 背中の方から急に言われて、俺は一瞬、どきりとした。

 振り返ると、温室の入口の近くにマリアさんがいて……

 いや、よく見たらマーシャだった。大きさが全然違うのに、一瞬、見間違えてしまった。

「聞いたって、何を?」

 温室の中でマリアさんと話してたのを聞いた、ってことかな。だとしても、聞かれて困るような話はしてないはずだけど。

 俺の問いかけに、マーシャは少し憂いを帯びた顔で答えた。

「この村では十五歳で成人だって、聞きました」

 それは、俺にとってはいまさらの話だった。でもマーシャは今日はじめて聞いたんだろう。ただ、その表情が晴れない理由は、いまいちわからない。

「あと四年……とても長い時間だと思います……」

「もしかして、早く大人になりたい?」

 そう訊ねると、マーシャは頷いた。その顔はやっぱりちょっと暗い。

「誰かに先を越されちゃいそうで、心配です……」

 マーシャはそう言ったけど、誰にとっても一年は一年。年を重ねるのはもともと競争するようなことじゃない。誰かに先を越されるなんてあり得ない。

 ……これはやっぱり、中での話を聞いてたんだろう。その上でこの発言となれば、あまり突っ込んで訊くと俺も言葉を選ぶのが難しくなりそうな気がする。

 そのあたりには気付かなかったことにして、俺は言った。

「慌てなくても大丈夫だよ。目の前のことを頑張ってれば、その時は自然と来るからね」

 それを受け取ったマーシャは、やっぱり少し、これは不満の顔かな。

「……リオンさんは、そういう人ですね……」

 そう言ったあとのマーシャから、小さなため息が漏れた。



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凄腕の旅商人は竜石を扱うか

「いい買い物したよ、あんた」

 ユウリィさんはそう言って今回の取引を締めくくった。

 この人は、ときどきこの館を訪ねてきて必需品や備蓄の補充をしてくれている旅商人。経営するお店はこの村にあるんだけど、そっちは弟子のニコルくんに任せて、自分は今でも荷馬車での旅を続けている。そういう商売が趣味なんだそうだ。

 久しぶりに会った、と思ったけど、日にちを数えると案外そうでもなかった。前の時にはフューリスさんとヴィカがいて、その二人はもうこの館には滞在していない。身の回りに起きたそういう変化のせいで、長い時間に感じられていただけらしい……。

「荷物は俺が運んでおくから、仕事に戻っていいよ」

 そう言ってペトラを下がらせてから、俺はユウリィさんと一対一で向き合った。

「……実は、ユウリィさんに頼みたい物があるんですが」

 俺がそう切り出すと、ユウリィさんは「ふむ」と鼻を鳴らして俺を見た。

「その顔。どうやらかなりの稀少品らしいな? 自分で探し回ったが見付からず、頼れるのはもはや凄腕の旅商人しかいない……と、そんなところか」

 顔からそこまでわかるものなのかと思ったけど、それっぽいことをためしに言ってみて反応を探っているだけかもしれない。ただ、実際に凄腕の商人であるユウリィさんならわかってもおかしくはないな……。

 いずれにせよ、目的の物をはっきりと言わずに依頼するのは難しい。少しは事情を話す必要がある。それでも、他の人たちと比べた時、口が堅いことは期待できる。

 それに、フューリスさんの依頼で邪鋼の短剣を仕入れてきた手際を俺も信頼してる。スレイダーさんやガルナシリアさんに頼みそこねたから、ユウリィさんには確実に依頼しておきたい。

「竜石、というものを探してるんです。どうにか手に入りませんか」

「竜石?」

 俺の身体は竜に近付きつつある。大量の竜気(オーラ)を溜めてしまったせいだ。

 その竜気(オーラ)をどうにかできないかと、古竜でありながら今は多くの時間を人間の姿で過ごしているヴァレリーさんに相談したところ、竜気(オーラ)は『竜石』という物に移すことができると教えてもらったんだ。

 でもこれが見付からない。そもそもここを離れて探しには行けない俺じゃ、どうしたって限界はある。

 それでデュークには相談した。でもあまり有益な話は聞けなかったな。

 スレイダーさんとガルナシリアさんは異界にも顔が広いみたいだから相談できたらよかったけど、まあ、運に恵まれなかった。

 頼れるのはもはや凄腕の旅商人しかいないってのはほぼ正解、という状態だ。

「噂には聞くが、領主様がなんだってそんな物を欲しがる?」

「ええっと……」

 身体のことをみんなには秘密にしてる。あまり心配させたくないからだ。

 それで、竜石について知ってる可能性がありそうだと思いつつ、クレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイさんや、ステラさんの師匠である〈西の導師〉には相談できていない。

 ユウリィさんは口が堅いだろうとは思いつつ、館のみんなとも面識があるから、やっぱり少し慎重にならざるをえない。

「まあ、贈り物、というところです」

 ……たまには、頑張っている自分にだって贈り物をしてもいいだろう。うん。

 ユウリィさんは俺の言葉の真意を探るような目で俺を見る。

「ふぅん? まあ、余計な詮索はしないでおこうか。オレにとって大事なのは、それがいくらになるのかだ。……期待していいんだろうな?」

 おおよそ、俺の予想通りの話になった。

 ユウリィさんは商人だけど、ただ金を積むだけじゃ積極的には動いてくれない。

 でも、稀少な品物を頼まれるとやる気が出るらしい。そしてその結果としての報酬が『商人としての力量に対する評価の数字』ということで、そうなると額が大きい方が嬉しい……と、そういうことになる。

 だけど今回は、それに対してちゃんとした数字では返事ができない。

「俺が自由に出来る範囲の金額なら」

 ユウリィさんは俺の資産額をひょっとすると俺自身より知ってる。だからこれでも俺が出してもいいと思ってる額の大きさは伝わると思う。

 ただ、俺から明確な数字が提示されなかったのはやっぱり不満らしい。

「褒美は望むまま、か。ずるい言い方だな? それを全部むしり取ったらまるでオレが悪党みたいじゃないか」

 まあ確かに「有り金全部置いていけ」は悪党の常套句だし、ユウリィさんの言い分もわかる。……とはいえ。

「竜石の相場なんて俺は知らないので、ユウリィさんが不満に思わないだけ出そうと思ったら、そういう言い方しかできないんですよ。でも、そのくらいのことと理解してもらえれば」

 俺に説明に、ユウリィさんは腕組み。

「それじゃあ引き受けられないな?」

「えっ」

 意外な返答に驚いた。これで受けてくれると思ってたのにあてが外れた。

 ユウリィさんはそんな俺の顔を楽しげに眺めてから、続けた。

「あんたは実のところ、究極的には、金なんかなくても暮らしていけるやつだ。そうだろう? そんなやつが金をどれだけ積むと言ってもオレの心には響いてこない」

 そう言われても……最大限の提示をしたつもりなんだけど。

 でも、ユウリィさんの言うことは、確かにそうかもしれない。俺一人が生きていくってだけならそんなにお金は必要ない。竜気(オーラ)に影響ない範囲で適当に魔獣を狩ってればまた貯まるだろうし。

「オレがこの仕事を引き受けたら、あんたの求めるモノを探すのに多くの時間と、手間と、もちろん金も費やすし、危険も冒すだろう。あんたはどうだ? それに対してどう報いるつもりなんだ?」

 それはなかなか、頭が痛いところだ。

「俺の一存だけで譲れる範囲の物なら、お金以外の物でも何でも、とは思うんですが」

 その気持ちは確かだ。

「でも、その中にユウリィさんが欲しい物があるかどうか。例えば俺の爵位なんか、ユウリィさんは欲しがらないでしょう」

 そもそも俺自身もさほど必要とは思ってないから、その意味ではお金と同じ。

「なら、出せるモノの中で一番失いたくない物は?」

 失いたくない物、無くなると困る物。それはいろいろあるけど……。

 一番、というなら、仲間たちとの絆や思い出になるかな。でも、それは形のあるものじゃないし、出せない。

 形のあるもので、となると……

「着てる服全部をその場で剥ぎ取られたら、さすがにしばらく困りますね」

 俺がそう言うと、ユウリィさんは「くっ」と笑った。確かに笑った。

「……なるほど? あんたはオレの働きに対して、自分の人間としての尊厳を賭けることになるわけだ。うんうん、面白そうだ。よし、それで手を打とう」

「それは……ええぇ……」

 思ったよりはるかに受けが良かったから、俺としては逆に困惑してしまった。でも、ユウリィさんが乗り気なのは、これはいい徴候だ。

「いや、わかりました。十分な額のお金と、そのとき俺が着ている服全部で」

「うん? やけに素直だな?」

 ユウリィさんはもう少し俺が抵抗するのを予想……というか、期待、していたのかもしれない。何しろ着ている服をその場で渡すってのは、人前で全裸になるってことだ。もちろん、普通なら絶対やらない。だからこそ、半分冗談とはいえ『出せる物の中で一番失いたくない物』に挙げた。

 だから……

「まさか、本当は見られたい欲があるとかじゃないだろうな?」

 ……人聞きの悪い言い方はやめていただきたい。

「それが誠意だと思ったので」

 俺がそう説明すると、ユウリィさんは「ふむ」と考えを巡らせるしぐさをした。

「贈り物にそれほどの決意、とすると――なるほど。奥手な領主様もようやく誰かに求婚する意志を固めた、という理解でいいか?」

「そうではないです」

「おっと、それは残念だな? お祝いの特需があるかと期待したんだが」

 改めて考えてみると確かにそんな誤解をされる要素はあったけど。そうじゃない。

「報酬のことはわかった。その条件で受けよう。期限は?」

「なるべく早く。現物はなくても、この村に立ち寄ったときには噂話だけでも届けてください」

 大枠が決まったところで、情報交換。俺からは、知人……ヴァレリーさんが持っていた竜石の特徴を思い出しながら伝えた。ユウリィさんは頷き、少し考えて――

「オレが聞いたのは、確か……竜のちからを封じた石で、それを手にした者は竜になれるんだとかいう話だった。そういうモノだな?」

「ともかくちからのある石なのは間違いないと思います」

「わかった。心当たりを調べてみるとしよう」

 今のところ、所在についての情報はない。見付けるのは困難だろう。ユウリィさんに頼んだからもう安心、というほどの期待はしてない。

 でも、ユウリィさんならもしかしたら、というくらいの期待はしてる。

「この滞在中に契約書を作るが、立ち会いは?」

「いえ。他の人には秘密に。……その、後で驚かせたいというか……」

「贈り物だものな?」

「そうなんです」

 実際の理由は逆で、驚かせたくないから秘密にしているわけだけど……

 ユウリィさんはそこまで感付いているのかもしれない。それでもあまり詮索しないで引き受けてくれた。俺としてもそういうころを信頼してユウリィさんに依頼した。その判断が正しいことを祈ろう。

「直前のサプライズにかき消されないといいな?」

 それって、ああ……。

 ユウリィさんが本当に竜石を見付けてきたら、俺は全裸にならないといけないんだった。

 ……ちょっと複雑な気持ちになった。



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竜石の行方

「竜石……」

 そう呟いたのはステラさん。

「得意先から注文を受けてな?」

 ユウリィさんが訊ねた、その反応だ。

 俺が竜石のことを頼んだ直後。ユウリィさんは早速、まずはステラさんから話を聞きたいと言い出して、俺がステラさんをエントランスまで連れてきた。

 もちろん、俺からの依頼ということは伏せてある。ユウリィさんもそこはわかってる。あくまで、ユウリィさんがどこかで受けてきた商売の話、というていだ。

 ステラさんなら何か知っているかもしれない、とは俺も考えてた。ただ、俺が訊くと逆に「なぜそんなことを?」と質問を返されるのは簡単に予想できるし、それをうまくごまかせる自信がないから黙っていた。

 今のこの形なら、俺が同席して話を聞くのも、まあ自然な流れだろう。

「何でもいい。知っていることがあれば教えてくれ。もちろん、情報料は払う。金以外でもいい」

 ユウリィさんがそう言う間、ステラさんはぴくりとも動かないまま、ぼんやりと遠くを見ている。でも、ステラさんが知識を探っている時にはよくこうなってるから、心配することはない。

 しばらくして、ステラさんの視線がユウリィさんに向いた。

「古王国の文献に、王家の秘宝のひとつとして『翠竜石』の名がある。この宝石は古竜がその死に際して遺したものだという。しかし古王国の滅亡によってこの石も失われ、現在の所在は不明」

 古王国の滅亡……以前に聞いた話だと、確か千年くらい前のことだ。その頃から行方知れずとなれば、簡単に見付かる気はしないな……。

「他には、何かないか? 強いちからを秘めている石だ。おそらく、見た目でもそれとわかるような」

 ユウリィさんが続けて訊ねる。

 ……このやりとり。覚えがあると思ったら、フューリスさんが〈太陽の聖石〉についてステラさんに訊ねたとき、同じような話をしてた。改めて思い返すと、あの石自体も竜石と似た特徴があるみたいだったな。何か近い関係にあるのかもしれない。

 俺がそんなことをぼんやりと考えている内に、ステラさんの思考の旅は終わった。

「……その条件に合う石を、師匠が所有していた。名称は〈月光の聖石〉。これはフューリスの探し物であった可能性が高く、フューリスは〈太陽の聖石〉と呼んでいた。竜石ではないと判断している」

 返事もまさに、俺が思っていたあの時に話題にしたものだった。ユウリィさんは初めて聞くかもしれないけど、俺にとっては新しい話じゃない。少し落胆していると――

「もうひとつ」

 ステラさんの言葉は、そう続いた。

「師匠が所有していた中に、あったかもしれない。師匠にしては珍しく、尽きない興味を傾けて手元に置いているようだった。正式な名称は私も聞いていないが、その石を指して『竜のちから、竜気(オーラ)が封じられている石』だと言っていたのは聞いた。不用意に触れてはいけない、とも」

 竜気(オーラ)という言葉を、俺はステラさんに話していない。そのことはステラさんの証言を補強する。

「触れるとどうなる?」

 ユウリィさんの質問に、ステラさんの返事は早かった。

「石が内包する竜気(オーラ)が身体に流入し、ほとんどの場合、耐えきれず死ぬと言われた」

 ……そうなのか。

 いや、でも考えてみれば確かにそうだ。

 竜石が内包している竜気(オーラ)がいま俺の身体にある量より多いほどなら、それが一気に流入してくれば、竜への変化も一気に進んでしまうだろう。身体にどれほどの負担がかかることか。

 俺は多くの魔獣を倒してきた経験で身体が丈夫なのと、多くの竜を倒すことで少しずつ竜気(オーラ)を溜めてきたから、何とか耐えられてるのか。

 そういえば霊峰の聖竜も「ゆっくり変化した例は知らない」と言ってたな。一気に変化してしまうかその場で死ぬかの、分の悪い二択であることがほとんどなんだろう……。

「師匠はその影響を避けるため、特殊な手袋を使っていた。他の危険物への注意と同じ口調と態度だったこともあり、私はそれを真実だと理解した。ただし、その竜気(オーラ)というものは私には見えなかったし、感じなかった。無色透明で無味無臭、ということになる」

 竜気(オーラ)は見えない、というのはどうやら確からしい。ステラさんがすぐ近くにあるはずの竜気(オーラ)に気付いた様子はない。俺自身にも見えない。視覚が竜のものに変わってしまうと見えるらしいけど……俺自身の竜気(オーラ)は、まだ、見えない。魔剣〈真竜の牙(ドラゴンファング)〉くらいに冴えた竜気(オーラ)を放っているならともかく。

「ふむ。なかなか手強い品物らしいな?」

 さすがのユウリィさんも、少し思案顔になった。

「その話、フューリスさんには?」

「した。そして彼女の探し物とは外見的特徴が一致しないとの結論を共有した」

 ええと……太陽の聖石とは見た目が違う。そのことをフューリスさんも納得してるってことか。

「水晶のような透明な石の中に、銀色の液体がヘビのようにうごめいていた。今になって思い返しても不思議」

 ステラさんが語るその様子は、確かにヴァレリーさんが見せてくれた竜石に近いところはある。石の内部に何かが見える、というのは竜石の共通の特徴なのかもしれない。

 となると、確かにこれが竜石……その一種である可能性は高いと思える。

「それは、金で譲ってもらえるものなのか?」

 ユウリィさんが訊ねると、ステラさんは首を左右に振った。

「困難であると推測される。貴方からそのような要請があったことを師匠に知らせても良いが、その返信がいつになるかはわからない」

 気の長い話ではあるけど、ステラさんの師匠はときどき住処を変えているそうで、直接訪ねていくのは難しいんだそうだ。まずは手紙のやりとりで情報を得るしかない。

 この場でステラさんから聞き出せたのはそのくらいだったけど、館にある本の中から情報を探してくれることになった。ありがたい。

「それで、あんたは情報の対価に何を望む?」

 ユウリィさんが言うと、ステラさんは少し悩んでから、告げた。

「店にある品から選ぶ。後で行く」

「なるほど? では、ご来店をお待ちしております――というところだな? ニコルにも伝えておこう」

 そういうことに決まった。

 

 ユウリィさんを正門まで見送ると、すでに日は傾きかけていた。ステラさんがユウリィさんの店を訪ねるのは後日になりそうだ。

「言っておきたいことがある……」

 荷馬車の御者台に乗る直前、ユウリィさんが俺に言葉を向けた。

「もし本当に危険そうだと感じたら、オレはあんたに品物の在処を伝えるところまでで、この件から降りる」

 それは、……さすがに無理は言えないな。

 さっきのステラさんの話。触れるだけで死ぬかもしれない、ってものだった。危機感を持って当然だろう。そういう嗅覚があるからこそ、旅商人としてやっていけるんだと思う。

「正直に言うと、依頼人があんたじゃなければもうとっくに降りてる。だが、ことはあんたからの依頼。それを、まだ正式な契約の前、口約束だけとはいえ、すでに引き受けた。あんたをぬか喜びさせるわけにはいかないな?」

 ユウリィさんは、そう言って薄く笑った。

「ここまでするのはあんただけだ」

 特別扱い、というわけだ。そう言われると悪い気はしない……けど、ユウリィさんのことだから当然、俺がそう思うところまで計算して喋ってるんだろう。

「それでだ。これから情報を集めようというオレには、あんたからぜひ受け取っておきたい物がある」

 まあ、こういうことを言うための前振りだったわけだ。いいけどね、別に。俺としても頼んだ仕事が円滑に進む方がいいし。

「できる限りの手助けはします。何が必要なんです」

 俺が言うと、そうもったいぶることもなく、ユウリィさんはすぐに必要な物を口にした。

「雷王都市の、とある高貴な人物への紹介状。あんたなら快く用意してくれると思うが?」

 とある高貴な人物、ね。心当たりはある。ここに滞在していた時にユウリィさんと直接話したこともある、ヴィカ……王女ヴィクトリアのことだろう。その人脈は俺とは比べものにならないくらい広いはずだ。助力を得られれば、確かに心強い。

「それは、わかりました」

 俺はそういうのをすらすらと書ける方じゃないけど、クレールに手伝ってもらえば失礼のないものを用意できるだろう。

 竜石については、少し進展……というところかな。



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傭兵組合の商談会

「いたな。準備は? 済んでるか?」

 そろそろ太陽が真南に来るというお昼時の、執務室。そのドアが乱暴に開かれたと思ったら、見知らぬ女性が入ってきた。

「ちょっ、何なんです、これは」

 俺はいつものように書類に目を通していたところで、こんな来客がある予定だったとは聞いてない。ステラさんやクレールに視線を向けても、二人とも首を傾げるばかり。

「この人たちがいきなり来て、変態領主に会わせろって。私は止めようとしたんだけど、勝手に」

 遅れて執務室に入ってきたのはペトラ。この人たち、と言われてよく見てみると、最初に入ってきた女性は左手で誰かを引きずってきていた。ネスケさんだ。その関係者とすると――

 ……傭兵組合の人か。

 他の仲間ならともかく、さほど戦闘経験のないペトラじゃ抑えきれないのも仕方ないだろう。

 改めてその女性の姿に目をやる。

 長身で、豊かな栗毛を首の後ろで雑にまとめている。淡褐色の目には強い眼光を秘めていて、油断ならない感じがするな。身体のラインが露わなレザーのスーツを着込んでいて、腰には片刃の剣を帯びている。もちろん、抜いてはいないけど。

「もう開催は明日。急がないと間に合わなくなる」

 明日? 何の予定があったかと、もう一度ステラさんに視線を向けたけど、ステラさんは首を左右に振って返してきた。俺と同じで、心当たりがないらしい。

 その頃には他のみんなも騒ぎに気付いて駆けつけてきた。でも、この人について知ってそうな素振りは誰からもなかった。

「何の話です? いや、そもそもあなたは誰なんです?」

 退路が完全に塞がれていることに、気付いていないわけはないだろう。それでも動じないあたり、相当の胆力は感じる。

 でも、本当に何者なんだ。

 しばらく間があってから、相手の方も首を傾げた後で、ようやく。

「……聞いてない?」

 それは返事というものでもなく、独り言に近い呟きだった。

 次の瞬間。

「ネスケー!」

「は、はいれしゅ」

 片手で引きずられてきていたネスケさんが改めて襟元を掴まれ、謎の女は互いの額がぶつかるほどに顔を近づけて、怒鳴った。

「何で言ってないんだ!」

 ネスケさんは首が動かせないので視線だけを目の前の女から逸らしながら……

「い、言いましたれしゅ。たら、ちょと、そのぉ、いきちがいがあったといいましゅか……」

 と、しどろもどろな返事をした。これは、また……

「また酔ってやがるなてめえ」

 俺が思ったこととまったく同じことを、謎の女が口に出した。

「酔ってないれしゅ!」

 ネスケさんは強く否定したけど、どう見ても嘘だ。

「酒の匂いがしてんだよこのアホがあ!」

「ぐえぇー! ギブ、ギブアップれしゅ! グエェー!」

 少し強く揺さぶられて、ネスケさんは顔を歪めた。……ここで吐かれるとちょっと困るな。

 俺の心配が現実になる前にネスケさんは解放され、謎の女は改めて俺に視線を向けた。

「自己紹介が必要か。私はロウシェ。傭兵組合で広報に関わっている」

 やっぱり傭兵組合か。広報、というと記者であるネスケさんの所属している部門だろう。この人……ロウシェさんは、ネスケさんの上司ってところか。

「あー、それで説明すると。我が傭兵組合主催の商談会が、明日、迷香の街で開催される」

「商談会」

 というのは武具の取引でもやるのか、と思ったけど違った。

「雇われたい傭兵と雇いたい貴族との間を繋ぐ催しだ」

 傭兵は買われる側というわけだ。

「それで事前に、組合に所属する傭兵に話を聞きたい貴族の名前を挙げさせたところ……新顔で特に注目度が高かったのが、リオン・ドラゴンハート男爵」

「はあ」

 最近はそんなに大暴れはしてないはずだけど……雷王都市で大暴れした時の話を吟遊詩人が広めてるからそうなってしまうのかな。

「ってわけで、組合としてはまず番記者であるネスケに対して、男爵に参加を促すよう指示を飛ばして、ネスケは『内諾を得た』と返事をしてきた。ここまでは合ってるな?」

 ロウシェさんがそう確認してしきたけど、そんな話、あったかな。もしかしたら他の誰かが聞いてるかもしれない、と思って見回してみたけど、知ってた様子の人は誰もいない。

「……初耳です」

 俺がそう言うと、ロウシェさんは「チッ」と舌打ちした。そして。

「ネスケー!」

「は、はいれしゅ」

「どういうことだよ、これはよ」

 矛先がまた、ネスケさんに向いた。一応は弁明の機会を与えられて、ネスケさんは「にへらっ」とした薄ら笑いを浮かべながらそれに答えるも。

「ちゃ、ちゃんと話はしたんれしゅ……そしてしゅぐに快諾をもらったんれしゅ……こんなにうまくいくなんて、まるで夢のようれした……」

 内容はそんな感じで、俺には覚えのない話だった。酒の席でそんな話があったかもしれないけど、少なくとも正式に日程を伝えられたとかそういうことはない。

 ロウシェさんはそんな俺の表情を見て、ネスケさんに裁きを下した。

「夢だ、そりゃあ!」

 ネスケさんは痛飲のせいでよく記憶が曖昧になってるしな……。俺とネスケさんの言い分が食い違った時、こうして信憑性に差が出てしまうのは普段の行いのせいだろう。俺もこれに驕らず気を付けたい……。

「ああぁもぉお!」

 ロウシェさんが頭を抱えて叫んだ。

「商談会はもう明日。今日になってもまだ迷香の街に来てないと聞いて、慌てて様子を見に来たわけだ。それがこんなことになって……」

 その事態には、まあ、同情する。するけど……

「本当に急で申し訳ないが、何とか都合を付けて参加してくれないか。相応の埋め合わせはするから!」

 そう言われてもね。今回は俺のせいじゃないからなあ。

 なので、相手の事情はともかく。

「今のところ傭兵を雇うつもりはないので……」

 という返事になるんだけど、ロウシェさんも簡単には引き下がらない。

「もう大々的に宣伝してしまってるんだ! 顔を出すだけでも!」

 悲鳴に近い声とともに差し出された多色刷りのチラシには、確かに『あの〈剣の王〉リオン・ドラゴンハート男爵も会場に?』と大きな文字で書いてある……。

 ちなみに〈剣の王〉というのは剣鬼の騒動を収めた時に雷王都市でもらった称号だ。こうやってわざわざ書かれるってことは、他の称号より知られてるのかもしれない。

「会場入りが確定してる書き方じゃないよね?」

 横から同じチラシをのぞき込んだクレールの指摘は、確かにそうだ。

「だが、本当にいなかったら、納得しない傭兵たちが大挙してこの村まで押し寄せてくるかもしれない……」

 ロウシェさんのそれは脅しではなく、注意喚起か。傭兵には強盗と変わりないような乱暴者もいるそうだから、本当にそうなると村の治安が心配だ。

 その商談会に出て、きっぱり断ってくるしかないか……。

 俺がため息をついたところで、クレールが「ダメだよ」と口を挟んできた。

「リオンはダメだよ。行くときっと女傭兵のアタックを受けて雇っちゃうから」

「そんなことは……」

「絶対ないかな?」

 そこまで言われると、どうかな……絶対とまでは言い切れない気がしてきた。

「……たぶん、ないよ」

 その弱々しい返事に、今度はクレールがため息。

「それなら俺たちが代わりに行ってきてやるよ」

 そう言ったのは、部屋の端で話を聞いていたメルツァーさん。

「売り込みを全部断ってくるだけでいいんだろ? 簡単簡単。なっ、ウェルース」

「ああ。任せてくれ」

 一緒にいたウェルースさんもそう請け負ってくれた。

 この二人ならこっちの事情はわかってるし、傭兵たちにも軽く見られない風格と実力がある。俺としても安心して任せられる。

「二人は俺の仲間で……」

「ま、騎士隊長とその補佐ってところかな」

 俺からロウシェさんに紹介しようとすると、メルツァーさんが笑ってそう自己紹介した。

「お前が? 騎士隊長?」

 驚いた声をあげたのはロウシェさんではなく、ウェルースさん。

「騎士隊長はお前に決まってるだろ。俺がそんな面倒くさい役をやるかよ」

 メルツァーさんも自ら公言してるほど無責任な人ではないけど、二人の関係性からすると、ウェルースさんをメルツァーさんが補佐する形が収まりがいいのは確かだろう。

「信頼できる仲間です。商談会のことは全て二人に任せます。それでいいですか」

 言うとロウシェさんは明らかにほっとした様子になって、一瞬だけど、笑顔も見せた。会場入りするのは俺本人ではないけど、一応の形は整ったか。

「こっちの不手際なのにすまんな。この埋め合わせは後日必ずさせてもらう。とりあえず、商談会が終わるまではネスケを自由にこき使っていただくということで……」

「えーっ!」

 ネスケさんが抗議の声をあげたけど、ロウシェさんはまた鬼の形相に戻ってネスケさんに怒鳴った。

「反省しろこの飲んだくれ!」

 その覇気だけでネスケさんはまたへたりこんでしまう。ネスケさんは傭兵組合に所属してるといっても記者で、傭兵として強い様子はないけど、ロウシェさんはなかなかの手練れに見える。直接激突したらネスケさんに勝ち目はないだろう。

 で、急に元気になったのがペトラ。

「そっか。じゃあ短い間だけど私の後輩だな! よし、まずは浴室の掃除でもしてもらおうか!」

「ええーっ!」

 わりときつめの仕事を振られて、ネスケさんはまた抗議の声をあげた。



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戦乙女の記憶

 夕食後。マリアさんとマーシャがリュートの練習をしているのを眺めつつ、迷香の街に向かったメルツァーさんとウェルースさんのことを思う。傭兵組合主催の催しに出るために慌ただしく出かけていくことになったけど、まあ、あの二人なら心配はしなくても大丈夫だろう。

「隣、いいですか?」

 慌ただしくなった元凶の一人が、そう声をかけてきた。

 傭兵組合の記者の、ネスケさんだ。手には飲み物の入ったコップを持っていて、一瞬、また何かやらかしそうな気配を感じたけど……。

「あ、お茶です」

 それならひとまず安心かな。俺は安堵のため息。

 ネスケさんがここにいるのは、ロウシェさんから「お詫びにこき使ってくれ」と言われたからだ。

 それをとても喜んでネスケさんをあちこち連れ回して酷使していたのがペトラ。普段からよくがんばってくれてて俺としては助かってたけど、腹の中には鬱憤がたまっていたのかもしれない……。まさにこき使うという表現がぴったりな激務が、ネスケさんに降りかかっていた。

 ようやく解放されたネスケさんは他のみんなと一緒に夕食の席についた。つきあいもそこそこ長くなったけど、普段から一緒に住んでるってわけではないから、久しぶりに食べるニーナの料理には感激していたな。

 それで今夜はそのまま泊まっていくことになって、食後のお茶を……

 ……何か、酒精(アルコール)の香りがした気がする。

 と思った直後、ネスケさんが「にへらっ」と笑った。

「香り付けにちょっとだけ。ちょっとだけです」

「……やっぱり入ってるんですか」

「お酒なしだと眠れない体で……でへへぇ」

 今回のミスもお酒が原因だったようだし、そのことを本人もわかってないはずないのに、それでもお酒はやめられないらしい。かなり重症だと思う。

 普段は村の酒場で親方と飲んでるんだよな。親方もお酒好きで、しかもかなり強い方だから、ネスケさんが飲み過ぎてしまうのはそのせいもあるだろう……。

「それにしてもネスケさん、いつの間に俺の番記者になってたんですか」

 今回のことで不思議に思ったのはそこだ。少なくとも俺はそのことを聞いた覚えがない。

 番記者というのは特定の誰かに密着取材する記者のことだそうで、確かに一応、継続して取材を受けているのは感じるけど。

「最初の記事を書いて送った後、先輩からの返信で、そうなりまして」

 言われてみれば、その兆候はあった気がする。ネスケさんがクルシスの取材をした時だったかな。それでひと仕事終わったし、ネスケさんも次の取材に旅立つんだろうと思っていたけど、そうはならなかったんだ。

「確か、俺のことを秘密裏に調べろって言われてたんでしたね」

「……それは気のせいです」

 ネスケさんがそう指示されたことを自分の口からうっかり漏らしてしまって、俺もしばらくは傭兵組合のことを警戒していた。結局、今日までは何事もなかったけど。

 本来なら間のどこかの時期に、今回の商談会に出席するよう要請があったはずなんだよな。ネスケさんが夢と現実の区別をちゃんとしていれば。

「リオンさんがいざ傭兵を雇おうとなった時に『ネスケの紹介なら安心』と思ってもらえるくらい親しくなっておけ、って先輩が」

 確かに、気心の知れた仲というくらいには言えるようになったと思う。ただ、ネスケさんの紹介なら安心と思えるかどうかは……正直に言うと、そこまでの信頼はしてないな。主にお酒のせいで。

「先輩って、ロウシェさんのことですか」

 前々からネスケさんの話にときどき出てきて、気になってはいた。

 俺の問いに、ネスケさんは頷く。

「すっごい有能な人で、私にもいつも的確な助言をくれるんですよ。私が傭兵組合に入ったのって、先輩に憧れたからなんです」

 俺から見るとネスケさんは傭兵に向いてない気がしてたから、どうして傭兵組合に所属することになったのか疑問だったんだ。どうやら、目標にしてる人を追いかけたらそこだった、ということらしい。

 ロウシェさんは確かに、立ち居振る舞いや眼光から手練れの傭兵の雰囲気を感じた。とはいえ、俺より強いってことはないだろうけどね。……これは、自慢じゃなくて事実だ。

 ネスケさんが続ける。

「初めて会った時は先輩も現役の傭兵で、なんと自分の傭兵団を率いる団長だったんです。先輩は小規模な団だって謙遜してましたけど、これがもう、精鋭揃いで!」

 興奮して語ったのは、過去のロウシェさんのこと。

「誰が呼んだか、通り名は〈漆黒(クロ)キ虚無ノ戦乙女(ヴァルキュリア)〉ロウシェ……!」

漆黒(くろ)き虚無の戦乙女(ヴァルキュリア)……」

 うーん……何やらすごそうだ。

 そんな称号があるってことは、俺が会ったあの場で感じたより強いのかもしれない。興味が湧いてきたな。

 ただ、ネスケさんがさらに口にした言葉を聞くと、そうとばかりも言ってられず……。

「私の住んでた町も先輩の活躍のおかげで平和になったんです。領主様が魔獣の駆除のために先輩の傭兵団を雇い入れて、それはもう、ものすごい大活躍だったらしいです」

「……ふむ」

 熱っぽく話すネスケさんを、俺は少し警戒した。

 これは、あれか。

「もしかして、俺が傭兵を雇いたくなるように、宣伝してるんですか」

 俺がそういう気持ちになるくらい仲良くしておけと先輩から言われた、という話の直後だ。そう感じるのも自然だろう。

「いえいえ、そういうつもりではありません。先輩はすごいってだけの話です」

 ふむ。酔ってないネスケさんがそう言うなら、そこは信じてもいいか。酔ってないなら。

「それでですね、幼い頃の私、先輩に……まだ当時は私の先輩じゃなかったですけど、とにかく、どうしてそんなに強いのか訊いてみたんです」

 それは、幼いペネロペもそうだったな。レベッカさんに助けられて、その質問をした。レベッカさんの答えは確か、弱い者を守るという気持ちで聖騎士は強くなるんだ、というものだったそうだ。

 一方、ロウシェさんは……

「そしたらなんと! 先輩の右腕には〈終焉ノ朧月・滅〉という大悪魔が封印されていたんですよ! そのチカラが時折溢れ出してくるんだって!」

「ほう」

 終焉の朧月……滅? 何やらすごそうだ。

 名前からすると、大陸を滅ぼすほどの能力か、少なくともその意思を持った魔神のような存在なんだろう。そいつの力を借りて使えるとすれば、確かに強いはずだ。

 俺の知り合いだと、クレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉が魔杯の悪霊から力を借りていたな。かなりの副作用もあったようだけど、確かに邪神に匹敵するほどの尋常でない強さだった。

 ロウシェさんもまさか、それほどの力を……?

「でも私は〈邪眼〉がないから見えなくて」

「邪眼?」

「先輩が『邪眼を持たぬ者にはわかるまい……』って言ってたのでそういうものなんだと思います。〈終焉ノ朧月・滅〉のチカラが満ちている時は邪眼の方の瞳だけ色が変わるんだそうです。すごいですよね!」

 何か特別な素質を持って生まれて、その上で、その素質がなければ使いこなせないような力を、封印したなにものかから吸い出しているわけか。

 聖竜から「特別な素質も血筋もなかった」なんて断言された俺より、よっぽど伝説の人物だな……。

 そんな人がなんで傭兵組合の広報担当なんかにおさまっているのかはわからないけど、俺も邪神を倒した大冒険の後で田舎村に住んでるし、そこは人それぞれというもので、何かしら理由があるんだろう。

「あっ、でもこの話は秘密ですよ。傭兵組合で先輩と再会した時に『その話はもうするな』って言われたので」

 ネスケさんが付け加えた。

「そうなんですか」

「邪眼のチカラを狙っている組織があるから、絶対に秘密なんだそうです」

 なるほど。確かに話の通りの能力があるならそれを狙う輩は後を絶たないだろう。

 そんな重大な秘密の話を俺にするなんて……

 それだけ信頼されてる、ということかもしれない。でも、ネスケさんの口が軽いだけって可能性もある。

「リオンさんなら大丈夫ですよね? その組織の人間じゃないですよね?」

 真剣な顔で訊ねてくるネスケさんに、俺は「大丈夫」と答えたけど、そこは秘密を話す前に確認した方が良かったと思うな。

 ……もっとも、本当にその組織の人間だったら正直に答えるわけないし、結局は同じことか。



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未来の征服王

 傭兵組合のロウシェさんが急に押しかけてきたあの日から数日が経過して、その間ペトラにこき使われ続けたネスケさんが「もう限界だー!」と泣き叫んで俺の執務室に逃げ込んできた。そのネスケさんに机の下を占拠されたので、俺は応接用のテーブルで書類の確認。

「おい変態! ネスケを見なかったか!」

 突然飛び込んできたペトラが、俺にそう怒鳴った。

「……いや、見てないよ」

 机の下に隠れているのは言わないでおく。

 俺から見てもネスケさんに振られた仕事は激務だったし、今朝も早くから何事か申しつけられて館中を走り回っていた。ロウシェさんからはこき使っていいと言われているけど、さすがにどうかと思う仕事量だったな。ただ、同じ仕事をペトラも一緒にやっていたから、俺からはどうも止めにくかった。

 だけど、それを自分の仕事として取り組んで経験を積んでるペトラと比べると、ネスケさんの手際が悪く見えてしまうのも、同じ仕事をして余計に疲れてしまうのも、無理ないところだろう。

「ふーん?」

 俺に疑わしげな視線を向けた後、ペトラはゆっくりと執務室の中を見渡して……

「……結構がんばってたから、一緒にお菓子でも食べようかと思ってたのになー? まーいないならしかたないかー、一人で食べちゃおう。そうしよう」

 顔にしても声にしても、これはあからさまな罠だ。ネスケさんもさすがにこれに引っかかるほどぼんやりはしてないだろう。

「えーっ! そんなあー!」

 …………あーあ。

「そこにいたか! 次は庭木の剪定をやるぞ!」

「あぁぁぁぁぁぁだまされたぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ……せめて、働きに報いるくらいの謝礼金は用意しておこう……。

 

       *

 

「リオーン。いま戻ったぞー」

 メルツァーさんたちが帰ってきたのはその日の午後だった。声に気付いた俺がエントランスに向かうと、馬から荷物を下ろし終えた二人が並んで立っていた。

「予定通り、すべて断ってきた」

 そう言ったのはウェルースさん。

 もちろん、二人が俺の代理で参加していた、傭兵組合の『商談会』のことだ。

「一応、希望者は俺とメルツァーで腕試しをしてみたんだ。なかなかの強者もいたよ。常備軍を編成するつもりなら採用したいくらいだった」

「ま、俺とウェルースに勝てるほどの奴はいなかったけどな」

 それはそうだろう。二人に勝てるくらいの傭兵がいたら、こんな田舎村の領主に売り込まなくても、もっといい条件のところで雇ってもらえるはずだ。

 という想像を裏付けるように……

「逆に、俺たちを雇いたいという貴族が現れて、それを断る方に苦労したよ」

 ウェルースさんがそんな話をした。

 二人が傭兵たちの売り込みを断るために実力を見せつけたなら当然だ。騎士として戦い方を学んだ、というだけでまず基礎が違う。二人と初めて出会った頃は俺も駆け出しだったから、二人の戦技には驚かされた。今でも単純な力比べならともかく、戦技の多彩さではまだまだ及ばないほどだ。

「目ン玉が飛び出るくらいの金額を提示されたぜ。断ったの、惜しかったかなあ」

 メルツァーさんがそう言うと、ウェルースさんは鼻で笑った。

「今からでも行ってきたらどうだ?」

「冗談冗談。リオンも本気にするなよ」

 今から雇われに行くってのは冗談でも、ものすごい金額を提示されたのは本当だろう。それだけの価値がある人材だ。

 その点、俺は二人を正式に雇っているわけではないから、給金のようなものを出したことはない。前にその話をした時には、二人ともから断られてしまった。まだこれからどうするかはっきり決めていないし、もしかしたらまた旅に出るかもしれないから、と言っていた。

 どこかから誘われたなら、そっちに仕える選択肢もあったと思うけど……

 今のところ、そのつもりもないみたいだ。

「あっ、そうだ、リオン! 向こうでの飲み食いは全部、傭兵組合に払わせたから心配すんなよ。ま、迷惑料ってやつだよなあ。それでせっかくだから豪遊してきたんだぜ。なあ?」

「お前は、かなり飲んでいたな」

「お前は飲まない代わりに食ってただろ」

 突然のことだったけど、二人は二人なりに楽しんできたらしい。

 その分、ネスケさんがかわりに苦労していたってことになるな……。メルツァーさんたちは戻ってきたし、ロウシェさんが戻るのは待たずに解放しよう。さっき確か、庭木の剪定をするとか言ってたな……と、庭の方へ意識を向けようとしたところで。

「……リオン。君はこの村をどのくらい大きくするつもりなんだ?」

 ウェルースさんに、そう声をかけられた。

「もっと大きくするには爵位を上げるべきで、そのためには常備軍が必要なんだろう? 傭兵組合のロウシェがそう言っていたよ。そういうことなら今回、何人か雇い入れても良かったと思うが」

 なるほど。あの人は傭兵を雇って欲しい立場だから、そういう話をしたんだろう。ウェルースさんたちは俺が頼んだとおりに全部断ってくれたみたいだから、その宣伝は実を結ばなかったわけだけど。

 でも、このまま領主を続けるなら、いつかは考えないといけない話ではある。

「具体的にどのくらいと決めてはいないですけど、村の人たちが不幸にならないようにはしたいなと。まあ、予算の都合もあるので、村の復興や発展を優先して、ちゃんとした軍備はその後になりますね。……橋もひとつ、早めに造り直さないといけなくなったし」

 橋はまだ壊すつもりはなかったのに壊されてしまったから、とりあえず仮の橋を架けるつもりではいる。その分、他のところに遅れが出てしまうとステラさんが言っていたけど、橋は生活に直接関わるから放ってはおけない。

 そんな中だから、常備軍が後回しになってしまうのは仕方ないだろう。今のところ自警団が問題なく機能しているし、それにほとんどの場合、いざとなったら俺が出向けば済む。もっと住人が増えたら治安の維持なんかにも人手が必要になってくるんだろうけど、今のところ急激な人口増加の兆候はない。準備は進めるにしろ、今すぐに傭兵を雇って、ってほどまで急ぎの話ではないな。

「ふむ……」

 俺の話を聞いたウェルースさんは、思案顔で黙ってしまった。

「そんなにすごい人材がいたんですか」

 なかなかの強者もいたと言っていたし、この機会に雇わなかったのは惜しかった、と思うほどの傭兵。いてもおかしくないよな。それも全部断ってしまったから、それで残念がっているんだろうか……

 そんな風に考えていたら、メルツァーさんが軽く握った拳でウェルースさんの脇腹を小突いた。

「こいつな、リオンが大陸統一する道筋を考えてやがるんだよ」

「えぇ?」

 大陸統一? 無茶苦茶なことを言い出したな……

「おい、メルツァー」

「リオンにその気はないだろ。いい加減、夢と現実の区別は付けろよ」

 ウェルースさんからあがった抗議の声に、メルツァーさんがすぐさま追撃の言葉を放って、観念した様子のウェルースさんはそれにため息で応じた。

「……能力的には可能だと思っている。信頼できる仲間もいる。君がこの村の領主になったと聞いた時に、もしかしたら君が大陸に覇をとなえるつもりかもしれないと、想像してみただけなんだ……」

 ……なんとも壮大な話だ。

 古王国の後にあらわれた新王国すら滅び、今は多くの都市国家が並び立つ時代。でも、それらの都市も繁栄の裏には多くの問題を抱えていて、一部には救世主――あるいは、勇者――というものの出現を望む空気があるそうだ。

 その空気は、俺が雷王都市を離れざるを得なかった理由の一つでもある。

 そして、少し前に、雷王都市では俺の名を騙った何者かが実際に行動を起こそうとしていた。それは未然に防がれたらしいから、ひとまず良かったけど。

 事の善し悪しは、俺にはまだよくわからないこともある。ただ、もし本当にそれをやろうと思ったら大きな戦いになるだろう。それはきっと、流血なしには済まない。

 そう考えると、メルツァーさんの言ったとおり、俺にはその気はない……。

「すまない。忘れてくれ。だいたい、最初に言い出したのはメルツァーだ」

「はあぁ? 俺にせいにするなよな」

 まあ、二人とも単に雑談の種にしただけなんだろう。

 そう考えて、俺は苦笑を返した。

「そのつもりはないですよ。この村のことでも手一杯だし、戦う相手が魔獣ならいいけど、人間が相手だと遠慮してしまって」

「そうだな。そうなのだろう」

 少人数での戦いならある程度は加減ができるけど、相手が大人数だとどうかな。やりすぎてしまうかもしれない。

 この館で前の領主の手下たちと戦った時なんかは、結構あちこち壊してしまったし、大怪我もさせた。ただその件に関しては、そうなる前に村の人たちがされていたことを思えば、相手にも因果応報って面はある。

 でも、大陸統一……そのために他の都市を攻める、となると相手は悪人ばかりじゃないだろう。古竜にも匹敵するようになった自分の力を、そんな時でも遠慮なく振るえるほど魔道を歩んではいないつもりだ。

 ウェルースさんも、そのことはわかってくれているだろう。

 だから、この話題はもう続かないし、俺が征服王になる未来はない。

「ただ……」

 と、真剣な表情のウェルースさんが呟いた。

「俺は、君がどんな選択をしても、それを助けるために力を尽くす。そのことは覚えておいて欲しい」

 それはウェルースさんの忠義とでもいうもので……

 こんないい人を道連れにしてまで魔道を行く気にはならないな。



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ロウシェ

 メルツァーさんとウェルースさんが戻ってきて、ネスケさんが激務から解放された日からさらに数日が経って……

「今回は本当に申し訳なかった」

 ロウシェさんが、改めて挨拶に来た。

 それでいくらか堅苦しい話をして、こっちからは事前に作っておいた請求書を手渡した。

 この請求書についてはクレールやステラさんが事前に話し合った結果、

「優秀な騎士を二人も向かわせたから、不在中の特別態勢を急いで整えるのにかなりの手間とお金がかかったよね? って方向でどう?」

「そのようにする」

 ……ということになったから、そのあたりのことと、ネスケさんがこの館で働いた分の給金を立て替えておいたのの返済と……と、あれこれ突っ込んでいったら結構な額になった。まあ、ここから向こうも値切ってくるから、最終的にはこの半分くらい出してもらえればちょうどいいだろう、という感じだ。

「請求額は承知した。こちらで用意した金で足りそうだ。数えたいから、そこのテーブルを借りてもいいか?」

「えっ、あ、はあ、どうぞ……」

 ……言い値であっさり決まって、俺の方が逆に驚いた。安すぎたわけじゃないと思うんだけどなあ……。

 

 ロウシェさんが鞄から取り出した大量の銀貨がテーブルに積まれている。その並べ方から察すると、ロウシェさんは丁寧な仕事をする人だ。地味な作業だけど、無駄のない動きで無駄口もなく黙々とこなす姿からも、それが感じられる。ステラさんに似たタイプかな。ネスケさんが尊敬しているというのも頷ける。

「商談会のことは聞いたか?」

 ロウシェさんが銀貨を数え終わった後、念のため、ステラさんとクレールが手分けして数え直している。その間の雑談に、ロウシェさんがそう切り出した。

「力比べをして全部追い返したとか」

 俺の代わりに参加してくれたメルツァーさんとウェルースさんが、実力試験という名目で、会場を埋め尽くすほど大勢の傭兵たちを相手に大喧嘩を繰り広げて、全員を完膚なきまでに叩きのめしてきた……と、メルツァーさん本人は言っていた。どこまで本当かは知らないけど。

「あの二人、まさに一騎当千というやつだな。苦戦らしい苦戦もなく、軽く百人は倒していたぞ。組合の担当者たちも唖然としていた」

 ……真面目なウェルースさんも否定してなかったから、近いことはあったんだろうと思ってたけど。

「あれほどの人材がいたら傭兵に必要性を感じないのも無理はない。しかし我が傭兵組合には元は騎士だったという傭兵もいるから、そういう人材をあの二人の下に雇って、騎士隊の拡充をな――」

「ええ、ええ。それは必要になったらこちらからネスケさんを通して連絡しますから」

 商談会での売り込みは二人のおかげで回避できたけど、ロウシェさんはまだ諦めていないらしい。話題を変えよう。

「……そういえば、ロウシェさん。以前は傭兵だったんですよね。小規模ながら精鋭揃いの傭兵団を率いていたとか」

 ネスケさんがそう言っていたことを思い出して振ってみると、ロウシェさんは小さく頷いた。

「ああ、まあ。だが本当に小規模で、傭兵団などと名乗るのは憚られるような、単に徒党(パーティ)という程度の集団だった」

 そうなのか。俺と仲間たちみたいな感じだったのかな。血盟の団とかではなくて、たまたま目的が同じだからとか、一緒にいて楽しいからという具合で、なんとなく集まって一緒にいる感じ。

「組んで数年やったが、少人数で続けるのに限界が見え始めた頃、ちょうどメンバーに移籍の誘いが来てな。それを機に解散したんだ」

 俺と仲間たちとの関係と比べるとやけにあっさりしてる……なんて思ってしまうけど、そういうところにあまり拘らず集まったり離れたりできるのは傭兵にとって大事な資質なのかもしれない。ロウシェさんも元は凄腕の傭兵だったらしいから、そのあたりは割り切っているんだろう。

 ……凄腕の傭兵……。

 そういえばこの人、何か異名があったな。ネスケさんが言ってた。確か……

「ああ、思い出した。確か〈漆黒(クロ)キ虚無ノ戦乙女(ヴァルキュリア)〉でしたよね、ロウシェさんの異名」

「グェフッ!」

 俺がその話題を出すと、お茶を飲んでいたロウシェさんがいきなり咳き込んだ。

「どうしたんですか?」

「い、いや。少し古傷が痛んでな……」

 顔を伏せてそう言ったロウシェさんの右手には不自然に力が入っていて、お茶の入ったカップが揺れていた。

「……もしかして、右腕に封印している大悪魔が暴走を?」

「うぐっ、ぐうぅ……」

 苦しそうに呻くロウシェさんだけど、俺には原因がわからない。少なくとも冥気(アビス)が溢れているわけではなさそうだけど……。

「大丈夫なんですか?」

「大丈夫、大丈夫だ……」

 ロウシェさんはそう言うけど、やはり様子がおかしい。

「俺にも邪眼があれば、何とかできるかもしれないのに……」

「――ッ、はあっはあっ」

 荒い息を吐いて、ロウシェさんが左手で頭を抱えた。

 そして、かすれた声。

「そ、その話……ネスケから……?」

 訊かれて俺は「はい」と頷いたけど、そういえばこの話は秘密なんだったと思い出した。

「あっ、安心してください。俺はそのちからを狙ってる〈組織〉とは無関係なので……」

 慌てて付け足したけど、ロウシェさんの耳には届いていないらしく……

「ネスケェ……! 後で絶対泣かす……ッ!」

 どこか遠くを睨みながら、底冷えするような声で怨嗟の言葉を吐いた。

 ……組織と関わりがなくても、他人に話すのは禁止だったらしいな……。

 やがて、カハァーッ! と長い息を吐いたロウシェさんは、少なくとも表面上は落ち着きを取り戻した顔で、俺に向き直った。

「心配には及ばない。ネスケが言ったことは嘘だ」

「嘘?」

 そうなのか。結構、信じてたんだけどな、その話。

 でも、ネスケさんが俺にそんな嘘をつく理由がわからない。

 首をひねっていると、ロウシェさんがため息。

「もっと正確に言おう。私がそういうことをネスケに言ったのは本当だ。あいつも騙そうと嘘をついたわけじゃないだろう。だが、そもそも私がネスケに語った内容が、嘘なんだ」

 なるほど。経緯はわかった。ネスケさんは悪くは……いや、他人には話すなと口止めされてたのに話しちゃったあたりが悪かったのか。

「じゃあ、大悪魔〈終焉ノ朧月・滅〉はいないんですか」

「ああ。だからその名をそんなに正確に覚えてなくていい。むしろ忘れろ」

 うーん。ちょっと残念だ。大悪魔のちからを封じる仕組みがわかれば、俺の竜気(オーラ)を抑えるのにも役に立ったかもしれなかったのに。

 まあ、いつ暴走するかわからない大悪魔なんて、存在自体が嘘ならその方が平和でいいんだろう。

「でもどうしてそんな嘘を?」

 訊ねると、ロウシェさんは俺から目をそらして、片手で顔を覆った。

「詳しく語るのは少々恥ずかしいんだが、これは若い傭兵にはよくあることで……」

 その口から語られたのは、そう遠くない過去の話だ。

「私がまだ傭兵として駆け出しだった頃、全く仕事に恵まれなくてな。割のいい依頼があると傭兵同士で取り合いになるんだが、そうなるとベテランの傭兵や大手の傭兵団には勝てない。ようやく私の手の届くところまで降りてくるのは、他の奴らが手に取らなかった条件の悪い仕事ばかり。危険は大きいくせに報酬は少なくて、その上、依頼主の性根が最悪。そういう仕事だ。……苦労するんだ、駆け出しの頃は」

 それは……仕方ないのかな。依頼する方も、同じ金額なら実力のある人に来てもらいたいはずだし、これといった実績のない傭兵を雇うなら報酬は安くするだろう。

「それでだ。とにかく名前を知ってもらわないといい仕事の指名は来ないと考えて、たまたま食い逃げ犯を捕らえた一件を『盗賊団を壊滅させた』なんて大げさに言ってみたり、仰々しい二つ名を自称したり、他の傭兵にない特別な能力があると言ってみたり……」

 ……そうして生まれたのが、大悪魔〈終焉ノ朧月・滅〉のちからを振るう凄腕の傭兵、〈漆黒(クロ)キ虚無ノ戦乙女(ヴァルキュリア)〉ロウシェだったというわけか……。

「身近にベテランがいればそういう過度の脚色はやめるよう若手に指導するんだが、同年代が少人数でやってる傭兵団だとなかなか目が届かなくてな。仲間内の冗談で留めておくべきほら話が、宣伝文句に入ってしまうんだ。……若い傭兵には、よくあることなんだ……」

 ロウシェさんは自嘲するように笑って、そう締めくくった。

 どうやら、あまり思い出したくない過去だったらしい。これはもうあまり話題にしない方がよさそうだな……。



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情報の対価

「貴方の意見も聞きたい。一緒に来て欲しい」

 ステラさんからそう言われて、この日の午後にはユウリィさんの店に行くことになった。

 ユウリィさんに竜石の情報を教えたことで約束されていた『報酬』の件だ。

「事前に店を訪れ、三つまでは絞った。しかし、さらに絞り込むのは困難」

 それで、俺に同行を求めてきたというわけだ。

 でもステラさんはきっと俺よりも品物の目利きはできるはずだし、はたして選択の役に立つようなことを言えるだろうか……と考えていると、ステラさんが付け加えた。

「貴方は率直な意見を言ってくれれば良い。それを参考にするかどうかは私が決める」

 そういうことなら気楽だ。

 

 村にある、ユウリィさんのお店。といっても、店番はほとんど弟子のニコルくんだ。今日もニコルくんが応対した。

「あ、ステラさん。お待ちしていました。先日の件ですよね? そこのテーブルに並べておきました」

 手で示された方を見ると、大きなテーブルに品物が飾られていた。

 ステラさんがあらかじめ三つまでは絞ったと言っていた。ここにある品物も、三つ。値札は……少し探してみたけど、見当たらない。

「値段を気にしない意見が欲しいというご要望でしたから」

 ニコルくんの補足が入って、ステラさんが頷いた。

 ……迷ってるならとりあえず高い物にすればいい、とは、やっぱりちょっと思ってた。先手を打たれたな。

「今回は僕が解説してもうるさいばかりでしょうから、決まったら呼んでください」

 ニコルくんはそう言って、少し離れた。といってもさほど広くない店だからすぐ近くだけど。一応、帳簿を開いて聞いていない振りはしてくれている。

 改めて、品物が置かれたテーブルに気持ちを向ける。

 ステラさんが最初に選んだのは、一番左の置物。凝った装飾が施された金色の台座が、大きな球体を支えている。

「地球儀。大地が球体であるという説に基づいて作られている」

 そういうものがあるのは知ってた。どこで見たんだったかな。思い返してみると、古き契約の宮にあったデュークの書斎のような。あそこにあったのはもっと小さかったけど。

「これは新しい物で、使われている地図も近年のもの。竜牙の村はこのあたり。ここが雷王都市、こちらが天命都市、鉄騎都市、そして救世の都、渇きの都、さらに東には朱華、聖桜まで」

 全く想像も及ばないくらい遠くの地名が語られて、ちょっと理解が追いつかない。この地球儀によると、俺が暮らしているのは本当に大陸のごく小さな一地方でしかない。俺からすると世界の果てみたいに感じていた鉄騎都市や渇きの都ですら、大陸の西半分に収まっている。

「詳細な地図は外敵の手に渡ると危険なので、どの都市もあまり公開したがらない。これは船乗り達が作った地図が元になっている。そのため、内陸部にはやや曖昧な部分が多いが、許容範囲」

 使われている地図のことはわかった。気になるのは、この球形……。

「これ、横の方に行ったら落ちるんじゃないですか」

 上に立つことはできるだろう。でも横の方……地図でいうと、ええと、南の方か。行けば行くほど傾斜が急になって、落ちてしまうんじゃないか。落ちたらどうなってしまうのかは、わからないけど。

 俺の質問に、ステラさんは首を横に振った。

「落ちない。大地には中心に向かってものを引きつける力があり、その上にあるものは常に大地を下と認識する。なぜそうなのかはこれから解明されるべき事象だが、ともかくそういうもの」

 何でもよく知っているステラさんですら『そういうもの』としか説明できないなら、俺が考えてもどうにもならないな。納得するしかないらしい。

「私の検証では大地球体説は正しい。いずれ実際に一周したという者が現れれば、検証も進み、世間にも広く知られるようになる」

 それは、ジョアンさんみたいな船乗りから、そういう人が現れるんだろう。この大陸の裏側にある、海しかない半球を突破するのが大変そうだけど……。

「欲しい……」

 ともかく、ステラさんがこれを欲しがっているのは理解した。

 さて、二つ目……。

「これは、宝石ですか?」

 そんな感じの物。綺麗な織物の上に、大きめの石が、どん、と置かれている。きらきらと不思議な色合いで輝いているけど、特徴的なのは形の方か。

 不自然なほどに真っ直ぐで、それでいて複雑な構造は、まるで小さな迷宮を上から覗いているかのよう。それが何層も連なっていて、じっと見ていると吸い込まれそうになる。

「金属の一種。蒼鉛の骸晶。その中でも特に色鮮やかなものは『とこしえの虹』とも呼ばれる。非常に脆いため、慎重な扱いが求められる」

 ステラさんが解説してくれた。

 確かに、とても綺麗な物だ。ただ、ステラさんが欲しがるくらいだから、綺麗なだけってことはないだろう。

「これは、何かの素材になるんですか」

 脆いと言っていたからこれを武具に加工するってことはないだろうけど、何か魔法の品を作るために必要だとか、そういう物だろう。

 俺に質問に、ステラさんは頷いた。

「なる。……が、これは観賞用の工芸品。これほど大きい物は私も初めて見る」

 改めてその石をじっと見つめたステラさんが、小さく呟く。

「……欲しい」

 どうやら、単純に綺麗だから欲しかっただけらしい。

 俺もまだまだ、ステラさんについて知らないことがあるな……。

 気を取り直して、最後のひとつ。

 本だ。題名は、俺にも読める字で書かれている。どうやら動物譜というもののようだ。

「これは、すでに館の書庫にある本……内容は動物の図鑑……」

 ステラさんの説明は、他の二つと違って少し頼りない。

「もう持ってる本なのに、外せないんですか」

 気になったのはそこだ。ステラさんも自覚はしているようで、そこが、珍しく歯切れが悪い原因らしい。

「館の書庫にあるものと、文章はほぼ同一。異なるのは挿絵。全ての挿絵が彩色されている、特別な版……珍しい本……」

 なるほど。確かにこれだけ厚みのある本で、全て色が着いているとなると、かなりの手間がかかっているだろう。それに内容は図鑑。色がある方が理解も深まるだろうから、無意味とは言えない。

「……欲しい……」

 ステラさんがほとんどため息のような声で呟いた。

 これで、三つ。これ以上は絞れない、とステラさんが言っていた理由はわかった。どれもそれぞれ欲しい理由があって決められないというわけだ。

「きっと気に入ると思って、持ち出さずにここの倉庫に保管しておいた。どれもいい品だ。オレが改めて説明するまでもないだろう?」

 いつの間にか店内に来ていたユウリィさんが、そう言って笑った。自宅とも言える店でくつろいでいるせいか、ユウリィさんらしからぬ軽装……だけど、それは今はいい。

 ステラさんがこの三つからはどれがいいか決められなくて、それで俺の意見が欲しい、という状況。とすれば、ステラさんが本当に欲しいのはどれか、なんて俺が推測して選ぶのは間違いのような気がする。

 今回は難しく考えない方がいいだろう。

 それなら、これだ。

「本がいいんじゃないですか」

「理由を聞きたい。言える?」

 俺に悩んだ様子がなかったからか、少しいぶかしんだ様子で、ステラさんが訊ねてきた。

 直感、と言えばそうだけど、理由は一応ある。

「他のふたつは、後でも似た物なら手に入るかもしれないから。でもその本は特別に珍しいものなんですよね? この機会を逃すともう手に入らないかも」

 合理的な考え方のできるステラさんが、挿絵以外の内容はほぼ同じという本をすでに持っているのに、それでも欲しがるくらいだ。それほどの物なんだろう。

 ステラさんは俺の言葉を吟味する間を少しだけとってから、すぐに頷いた。

「……わかった。その言い分は正しい。本にする」

 そういうことになった。

 多分、俺がどれを選択しても、それに決めるつもりだったんだろうと思う。コップいっぱいに満ちた水に、最後の一滴を注いで欲しかった、というところかな。

「他のふたつは俺が買います」

 俺がユウリィさんにそう告げると、本に手を伸ばしていたステラさんが急に振り返った。

「…………?」

 何も言わないけど、説明を求める視線なのはわかる。

「地球儀は俺も興味があるし、執務室に飾りたいと思って。虹色の石は……ステラさんにプレゼントしようかと」

「……もらう理由がない」

「いえ、いつもお世話になっているので」

「しかし……」

 ステラさんは渋っているけど、一度プレゼントすると言ったのを引っ込めるのも気まずい。どう説得しようかと悩んでいると、ユウリィさんが助け船を出してくれた。

「ははっ。いいじゃないか。領主様は他人に感謝を伝える方法をそれしか知らないんだ。なあ?」

「言い方は気になるけど、まあ、だいたいそんなところです」

 倒すべき敵がいる時なら身体を張った戦いぶりで恩返しができるんだけど、なかなかそうもいかないこの頃。こういう時に返さないと、溜まる一方だ。

 今回の場合、ステラさんがこの品物を欲しがってるのはわかってるから、その点では楽をしてるとも言える……。

「……ありがとう。自室の机に飾る……」

 根負けしたステラさんがそう言うと、ユウリィさんが手を叩いた。

「話がまとまったところで、領主様は答え合わせだな? これが今回の品物につけてあった値札だ」

 差し出されたそれには、……えぇ……。

「……こんなに高いんですか」

「まさか、今さら『やっぱりやめます』なんて格好悪いことは言わないよな?」

 ユウリィさんがそう煽ると、ステラさんが少し申し訳なさそうに呟く。

「無理をする必要はない」

 まあ、無理かと言われるともちろんそんなことはない。ただ、ちょっとした魔剣なら買えてしまうという値段に、少し驚いただけだ。今の財布の中身だけじゃ足りないけど、館にある貯えを引っ張り出してくれば十分に足りる。

「余裕です、余裕」

 ステラさんもユウリィさんも、俺よりも俺の資産のことについて詳しいから、強がりじゃないことはわかってもらえてると思う。

 支払いは地球儀を届けてもらった時にまとめてすることに決まって、ユウリィさんは笑った。

「いい買い物したよ、あんた」



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マリアの後悔

 ある日の午後……。

 中庭の方から言い争うような声が聞こえて、駆けつけた。

 ような、と言ったのは、声を聞いただけだともしかしたら一人で騒いでいるだけかもしれなかったからだ。

「どうしてわかってくれないんですか?」

 一方がそう言うと、もう一方も負けじと言い返した。

「マリアさんこそ……横暴です……」

 マリアさんとマーシャ。

 同じ声を持つ二人が、テーブルを挟んで言い争っていた。

 

 マーシャはこことは違う異界の出身で、マリアさんと同じ魂を持っている一方、年齢的にはまだ幼い。見た目には姉妹のようで、実際、ほとんどそんな感じで普段を過ごしている。俺が見ている限りでは、仲も良かったはずだ。少なくとも、今日までにこんな言い争いは見たことがない。

 二人の様子に驚いたのは俺だけじゃなく、俺とは反対側から駆けつけてきたミリアちゃんも、二人のただならぬ雰囲気に戸惑っている。

「どうしたの? なにかあった?」

 ミリアちゃんがそう訊ねたけど、マリアさんは首を左右に振る。

「何でもないの。何でも……」

 マーシャは何も答えずに、しばらく無言でマリアさんに睨むような強い視線を向けてから、ため息。

「……少し、外を歩いてきます」

 もう話すべきことはない、という態度。それを見たマリアさんも、大きくため息をついて席を立ち、マーシャとは反対側に向かっていった。

 ……心根の穏やかな二人がこんな風になるなんて……。

「ふたりとも、どうしたんだろ?」

 俺の考えとまったく同じ事を、ミリアちゃんが呟いた。

 俺とミリアちゃんはもう言い争いも終わる頃にようやくここに来たから、かなり出遅れていて、どうしてこんなことになったのかわけがわからない。

 でもとにかく、このまま放っておいていいとは思えない。

「俺はマリアさんを追いかけてみるよ。ミリアちゃんにはマーシャのことを頼んでいい?」

「いいよ! あたしはマーシャのお姉ちゃんだもん!」

 というわけで、この件はひとまず二人が二手に分かれて追ってみることになった。

 

 マリアさんは裏庭の、温室に近いベンチに座ってうなだれていた。

 あまり驚かせないように少しばかりわざとらしく足音をたてながら近付いてみると、マリアさんも俺が追ってきたことに気付いたみたいで、顔を上げて力なく笑いかけてきた。

「お見苦しいところを……」

 細い声でそう言うマリアさんの隣に座った。

 夏の昼間だけど、このあたりは風が通るから暑すぎるってことはない。空も青く晴れていて、嫌な湿気も感じない。

 でも、マリアさんの気持ちは、この空のように晴れ渡ってはいないみたいだ。

「マリアさんがけんかなんて、珍しいですね」

 どう声をかけようか迷ったけど、迂遠な物言いができるほど気の利いた性格じゃないから、思ったことをそのまま伝えた。マリアさんはそれに苦笑を返す。

「それは……リオンさんが見ているところでは、そうですね……」

「見てないところでは」

「まあ、それなりに……」

 そうだったのか。気付かなかったな。あまり他人と争わない性格だと思ってた。

 確かに俺はマリアさんのことをずっと見張ってるわけではないから、まだ知らない面もたくさんあるんだろう。

 それでも、とにかく、俺が見ているところでけんかをするのが珍しいのは本人も認めた事実だ。それほどのことがあったんだろう。

「何があったんです? いや、話したくないなら、無理にとは言いませんけど」

 正直、俺からすると何の前触れもなかった。昨日まで、どころか、今朝まで仲が良かった二人が急に言い争いになった……という感じに見えた。

 俺から見えないところで、何かが積もり積もっていたんだろうか。

「私が悪いんです」

 マリアさんはまず、それだけを言った。そして、黙った。

 どういうことなのか、詳しくはわからない。でも、無理に聞き出そうとはしないと言った手前、俺から言えることはもうない。

 俺も黙ったまま、ただ二人でベンチに座って空を見た。

「……リオンさんは、後悔してることって、ありませんか……?」

 やがて、ぽつりと、マリアさんがそう言った。

「故郷の村のことを思い出す時には、いろんな後悔がありますよ。友達のことや、両親のこと……」

 俺の故郷の村は、もうない。

 雷王都市の北東にあった、地図にも載らないような田舎村。そこが外からどんな名前で呼ばれていたのかも俺は知らない。そのくらい、俺にとっては世界の全てだった場所。

 剣鬼に滅ぼされて、なくなった。

 あの頃の俺は弱くて、ただじっと息を潜めていることしかできなかった。

 俺以外に生き残りがいたとは聞かない。

 ……誰も救えなかった。その後悔は、今も俺の中にある。

「私にも、たくさんあります……それで、だから……」

 マリアさんが、うつむいたまま続けた。

「あの頃の私にもっと知識があったら。経験があったら。ちからがあったら。……大事な……とても大事な、たった一言を、言う勇気があったら。そうしたら何かを変えられたんじゃないかって」

 それと同じような経験は、俺にもある。

 あの頃の俺に、今の俺のちからがあれば。今の俺なら、あの日……故郷の村の最後の日。あの時の剣鬼にだって勝てる。

 もちろん、そんなのはあり得ないことだ。

 マリアさんの後悔の多くも、そうだろう。今さらどうしようもない。だからこそ後悔している。

 だけど……マリアさんの目の前には、昔の自分を思い出させるマーシャが現れてしまった。

 それで、か。

「マーシャを変えれば、自分の過去も変えられるんじゃないか、って?」

 俺の問いに、マリアさんは力なく頷いた。珍しく苦笑すらもなく、ただただ沈痛な顔。

「あの子の可能性は、私の結果とは関係ない。でも、もしかしたら。……そういうことが、頭の中をぐるぐると回っているんです……」

 マリアさんの気持ちはわかる。無益なことだと頭ではわかっていても、心はすがってしまう。後悔が大きければ大きいほど。

 それをマーシャにぶつけてしまったのはよくなかったけど、マリアさんもそれは自分で気付いてる。ここで俺が責め立てる意味はない。

「なかなか、割り切れないですよね」

 俺がそう言うと、マリアさんは無言で肩を震わせた。

 少し……落ち着くのを待とう。

 風が吹いた方を見やると、何も遮るもののない、夏の海の青い空が広がっている。

 故郷の空はこうじゃなかったな。山や林に囲まれていて、もっと狭かった。それが普通だったから、その頃には何とも思っていなかったけど。

 思い返すと……。

 故郷にいた頃は、今考えればとても些細なことでけんかをした。同じ年頃の子と見せ合った石のどっちが格好いいかなんて、なんでそんなことで殴り合いのけんかにまでなったのか。もうよく覚えていない。

 ただ、それがきっかけでその子とは何だか疎遠になって、結局そのままになってしまった。

 そういう小さな後悔なら、それこそいくらでもある。

 それを全部ひとつひとつ取り上げて、幼い自分にあれはダメこれもダメと言い聞かせたら、言われた方はうんざりするだろうな、とは、思う。

 マリアさんがそれをわからないはずはないから、それでも言ってしまうくらい、自分でも止められない衝動だったんだろう。

「ごめんなさい……こんなこと、話すつもりじゃなかったのに……」

 涙をぬぐったマリアさんが、少しだけ顔を上げてそう言った。

「俺は聞けてよかったですよ。マリアさんはそういうことをあまり話してくれないので」

 何か困っていることがあったら遠慮なく言って欲しいし、俺が手伝えることがあれば手伝いたい。俺はそう思っているけど、戦いのことじゃないから、あまり頼りにされていないのかもしれない。

 そんな風に考えていると、俺の方を向いたマリアさんが、微笑んだ。

「だって……リオンさんは優しいので、話すと絶対、甘えてしまうんです……」

 マリアさんはそれを自分の弱さだと感じてしまうのかもしれない。

 それについて、俺がもう少し何か気の利いたことを言おうと思った、その時。

「お姉ちゃん! お兄ちゃん!」

 マーシャを追いかけたはずのミリアちゃんが、大慌てでやってきた。

 そして――

「マーシャが……マーシャが、たおれちゃったの!」

 焦りのこもった声で、そう言った。



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マーシャの不調

 マーシャが倒れた。

 ミリアちゃんにそう言われて駆けつけると、マーシャは前庭の木陰に横たわっていた。

 名前を呼んでも反応がない。ただ、息はしているし、脈もある。苦しげな様子はない。ミリアちゃんがその瞬間を見ていなかったら、眠っているだけだと思っただろう。

 ひとまずマリアさんが様子を確認してから、その指示で屋内に寝かせることになった。

 抱え上げると、見た目の通り、軽い……。

 ……いや、軽すぎる。

 マーシャは同年代の子と比べても少し細い方だと思うけど、それにしても、これはおかしい。

 そのことを告げると、マリアさんもマーシャの重さを確かめた。

「食事はちゃんと摂っていましたし、見た目にも痩せすぎではありません。こんなに軽いはずはないんですが」

 とはいえ、この場で原因がわからない以上、ここで悩んでいても仕方がない。

 俺がマーシャを抱えて、マリアさんたち姉妹が三人で使っている部屋のベッドに寝かせた。

 まずはマリアさんが簡易的な検査をすることになり、俺は桶いっぱいに水を汲んでくるよう指示を受けた。

 もしも容態が悪化するようなら、ここよりも設備の整っている魔女の店に連れて行く必要がある……。

 

       *

 

「原因らしいものは特定できませんでした。ですが、心拍や呼吸などは正常で高熱もありませんし、ミリアも法術を施してくれましたから、しばらくここで様子を見ます」

 検査を終えたマリアさんが、そう報告した。

 まだ安心はできないけど、そういうことならあまり深刻になるのも良くないかもしれない。

「マーシャの身体が妙に軽いのは、どうしてなんですか」

 気になっていたことを訊くと、マリアさんは首を左右に振った。

「今はその症状がなくて……見た目通りの重さに戻っているんです」

 不思議な話だ。倒れたのと関係あるんだろうとは思うけど、原因がわからないのは少し不安になる。

 でも、マリアさんにもわからないとなると、今は見守るしかないのかもしれない。

 マーシャを寝かせたベッドの方から小さなか細い声が聞こえてきたのは、その時だ。

「……姉さん……」

「ここにいるよ!」

 すぐさま、ミリアちゃんが応じた。

 マーシャの言う『姉さん』が誰のことかは、少なくとも三人は候補がいるから俺にはよくわからないけど、ミリアちゃんが応じるのは間違ってはいない。

「……ここは……私は……」

「あたしと話してたら急に倒れたんだよっ! でも、目が覚めたならよかったね! どこか痛いところはない? ちからが入らない? 熱はどうかなっ?」

 呆然とした様子で呟くマーシャに、ミリアちゃんが一気に問いかけた。マーシャは表情をほとんど動かさずに視線だけを周囲に向けて、俺やマリアさんの顔を見た。

「ご心配を……おかけしました……もうだいじょうぶ、です……」

 言って起き上がろうとするマーシャを、今度はマリアさんが手を伸ばして止めた。

「無理をしてはいけません。しばらく休んでいるべきです」

 マーシャは不服そうな顔でマリアさんを見詰めている。マリアさんもマーシャの視線を受け止めて、それでも「ダメです」と付け加えた。

 ……と、マーシャの視線が俺に向いた。

「リオンさんも、同じ意見ですか」

 いきなりそう言われても、俺は病気に関して特に詳しくはない。こういう時の処置はマリアさんが専門だ。

 でも……うん。事情はわかる。

「俺も、マーシャは無理せず休んだ方がいいと思うよ」

「わかりました。少し……休みます」

 俺の言葉に、マーシャはほとんど即座に返事をした。

 マリアさんの指示が正しいのはマーシャも理解してるけど、ついさっきけんかした仲だから素直には聞けない……というところだったんだろう。

「あとで念のため、ステラちゃんにも診てもらいましょう」

 続いたマリアさんの言葉には、もうマーシャは返事をせず、目を閉じてしまった。

 

       *

 

 その後しばらくしてからステラさんによる魔法的な検査があったけど、そこでも特に異常らしい異常は確認できず、単に疲れが出ただけだろうということになった。

 休んでいるマーシャの邪魔にならないように、集まったみんなは二階の談話室にいる。マリアさんたちの部屋のすぐ隣だけど、同じ部屋で騒いでいるよりはマシだろう。

 かなり広々した部屋で、北側は透明度の高いガラスの窓。通して見える空はまだ明るいけど、気持ちの方はなかなか、空と同じようには晴れていない。

「きっと、私のせいです……よくできる子だからと、無理をさせすぎたのかも」

 そう言ってうなだれているのは、もちろん、マリアさん。

「マーシャの疲れは、マリアのせいではない。本人が望んで多くの挑戦をしていた」

「今後は気を付けるようにしましょう。俺も注意して見ておきます」

 ステラさんと俺でそう声をかけて、マリアさんを落ち着かせた。

 事情を聞いて集まってきた他のみんなも、少なくとも今後しばらく、マーシャの様子に異変があればすぐ知らせてもらうようお願いして、館にいる全員が納得した。

「心配ですよね。今朝は元気そうに見えたのに、急に倒れるなんて」

 ユリアが呟いた。今も冥気(アビス)の侵食を受けている身として、他人事ではないのかもしれない。

「あの子は、私にとっても妹みたいなものなんですよ。ほら、私ってマリア、ミリア、ユリアの三姉妹だったじゃないですか」

 ……そういえばミリアちゃんがそんなことを言ってたな。

「なので今は四姉妹なんです。本気で心配してますよ?」

 その四人の中でユリアだけは明確に血縁関係がないけど、姉妹のように仲がいいというだけの話だから細かい指摘をする必要はないだろう。

「でも、本当にただの疲れなのかな?」

 首を傾げたのはクレール。

「僕がもしかしたらって思うのは、異界から来たマーシャはこの世界にまだうまく適応できてないんじゃないかってこと。リオンなんか、僕が最初に見つけた時は自分の名前以外はぜんぜん覚えてなかったしさ。マーシャにもそういうのがあるんじゃない?」

 それは、確かに考慮に入れるべきかもしれない。

 俺やステラさんがそのことについて考えを巡らせ始めたところに、クレールは「僕はねえ、こう見えても結構時間をかけて準備をしてから来たんだよ」と付け加えた。確かクレールのお父さんである〈暗黒卿(ロードオブダークネス)〉ルイさんが「しかるべき時を待つ必要があった」って言ってたな。

「でも、あのとき俺の記憶がなかったのは、ルイさんが持ってた魔杯に力を奪われたのが原因だったような」

 クレールはわかっていると思うけど、そのことは一応改めて言っておきたい。

 一方、マーシャにはそういうトラブルはなかった。偉大なる魔術師を名乗る黒猫、デュークの用意した扉を通ってこの世界に来た。どこからも誰からも特に妨害はなかった。そうだったはずだ。

 でも……確かに、何かひっかかる。

 思い返してみると、マーシャは本来なら自分がもともといた世界に戻ることになっていた。デュークも、マーシャのためにもうひとつ扉を開いていたはずだ。それなのにマーシャは、俺やデュークと一緒にこっちの世界に繋がる扉へ飛び込んだ。

 クレールの言うように、何か準備が足りなかったというのはあるかもしれない。でも、それならそうとデュークが言うような気も……いや、うーん。そういえば、肝心なところであまりあてにならないやつではある……。

 と、そんなことを考えていた時だ。

 

「キシャーーーーーーーーッ!」

 

 獣の威嚇が聞こえた。廊下の方だ。続けて、ばたばたと走り回る音。

「ええい、どこから現れたこの毛玉ネズミ! 私はここのライオン君に用があって来たのだ! おとなしく通さないとパイ生地に練り込んで食ってしまうぞ!」

 聞き覚えのある声。

 慌てて廊下に出ると、そこには両手を広げて立ち塞がるスペースハムスターのハスターと……

 〈偉大なる魔術師〉デュークがいた。



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魂の迷い子

 廊下で睨み合う二人……あるいは、二匹。

 スペースハムスターのハスターと、〈偉大なる魔術師〉を自称する黒猫のデューク。

「どうしたの、デューク。そんなに慌てて」

「どうもこうもない! 私はライオン君に用事があると言ったのに、このネズ公がいきなり噛みついてきたのだ! 私を怒らせていいのか? 使うぞ極大爆裂呪文を! 相手は死ぬ!」

 杖を振り上げてよくわからないことをわめく猫のデュークと、今にも必殺の前歯攻撃を放とうと身屈めて構えるハスター。絵本の中で小動物同士がするような光景だけど、この二人にやらせると周囲にどんな被害があるかわからない。

「ハスター、デュークは敵じゃないから」

「きゅいきゅい!」

 俺が止めようとしたらハスターはそう返事をしたけど、何と言っているかはわからない。これにはデュークが反応した。

「はあぁーっ? 何を言うかと思えば、所詮ネズ公はネズ公だな! 私は偉大なる魔術師だぞ! ネズ公から木の実なんぞ盗むわけなかろう! どうせそのへんに埋めたのを忘れてるのだ、ネズ頭が! 木の根でもかじってろ!」

 一気に言いつのって、デュークはフゥフゥと荒い息を吐いた。

 それを聞いたハスターにはもはや反論の言葉はないらしく、フンッと鼻を鳴らして手すりを乗り越え、吹き抜けから下の階へと飛び降りていった。

「酷い目に遭った」

 デュークは杖を持っていない方の手で灰色のローブの乱れを直してから、猫らしく顔を洗った。

「……それで、何か用があったんじゃないの」

「そうだった!」

 ようやく毛繕いを中断して、デュークが顔を上げた。

「オホン。ライオン君と、マリア君に話があって来た。マリア君はどこに?」

 名前を呼ばれて、マリアさんが進み出た。その姿を見たデュークは一瞬、怪訝な顔をして、ピンと尖った耳をひくつかせた。

「ああ、いや、失敬。小さい方のマリア君だ」

 となれば、マーシャのことだ。デュークはマーシャの頼みを受けて、異界にいる姉のミリアさんに手紙を届けに行った。その件だろう。

「今はちょっと具合が悪そうで休んでる。しばらく待ってくれる?」

 俺がそう言うと、デュークはごく小さな声で「やはりそういうことか」と呟いた。

 やはりって、何のことだ?

「……ならば、まずはライオン君と大きい方のマリア君に話をしたい。他の者のいないところへ行こう」

 そのデュークの態度で、何やら良くない話らしいってことは、察することができた。他のみんなに聞かれないようにしたいというからには、よほどのことなんだろう。

 要望通り、談話室からも近い俺の部屋へ移動して、三人で丸テーブルを囲んだ。

「失念していた」

 と、デュークが切り出した。

「マリア君はまだ迷い人だったのだ。可能性の世界からこちらへ来てしまったが、オホン、ライオン君はあの時、ペネロペ君がどうなったか覚えているかね」

「あの時?」

 始まりは、意識を失って魔女の店に寝かされていたペネロペに触れたことだ。気付くと俺もペネロペが迷い込んだのと同じ可能性の世界にいて、そこを進む内に、マーシャやデュークと合流した。いろいろあったけど、ともかく出口までたどり着いて、そして、それぞれの世界に帰れるってことになった。俺とデュークとペネロペはこの世界に、マーシャも自分が元々いた世界に帰ることになっていた。だけど結局、マーシャもこっちに来ることになった。

 その一連の出来事の、どの時のことを言っているんだろう。

「あの世界からここへ戻ってきた時だ」

 デュークの返事を聞いて、その時のことを思い出す。

 本来ならこっちに来るはずじゃなかったマーシャが一緒にいて、それと……

「ペネロペがどうなったか、だったね。確か、同じ扉をくぐって一緒に戻ってきたはずだったけど、ペネロペはいなくなってて、それは魔女の店に眠っていた身体に戻っていたからで……あ!」

 俺がここまで話すと、デュークは重々しく頷いた。

 マーシャは悪夢の霧で異界に迷い込んだと言っていた。それはペネロペと同じ。

 ある程度自由に行き来できるらしいデュークや、おそらく〈安定をもたらす者〉としてのちからで身体ごと迷い込んだ俺とは、違って――。

「私は彼女からの手紙を彼女の姉に届けるためにあちらへと渡り、そして、マリア君の肉体がそこで眠っているのを見た。私は全てを悟った。彼女はまだ可能性の世界に囚われたままの、精神に属する存在なのだ、と。……おそらく、もうすぐ肉体と精神の縁が切れる」

 縁、というのは前にも聞いたな。元々いた世界との間には縁……特別な繋がりがあると言っていた。肉体と精神についても、そういう繋がりがあるってことか。

「縁が切れると、どうなるんですか……?」

 マリアさんが、おそるおそる訊ねた。

 確か、元々いた世界との繋がりが切れると、帰り道が見つけられなくなって、帰れなくなると言っていた。

 それが、肉体と精神の関係において起きた場合は……

「死ぬ」

 デュークの返答は、実に簡潔で、重かった。

 

       *

 

 他のみんなも話を聞きたそうだったけど、まずはマーシャに聞いてもらうまでは言えない、と告げるとおとなしく引き下がった。ただ、マリアさんの表情を見れば楽しい話でないのは明らかだっただろう。

 マーシャの不調と一時的な重さの変化も、デュークに言わせれば、存在が不安定になっている証拠で、縁が切れる前兆らしい。マリアさんの顔に不安が出てしまうのは、無理もない。

 夜になって目を覚ましたマーシャに、さっきと同じ話をした。

 マーシャはそれを蒼白になった顔で聞いて、しばらくは何も言えなかった。

「……ここに、戻ってこられるんですよね……?」

 ともかく一度戻って体調を整える――デュークに言わせると「存在を安定させる」必要がある、という説明があって、長い黙考の後でマーシャが発した問いがそれだ。

 訊ねられたデュークは、重々しく頷いた。

「偉大なる魔術師である私がいれば、戻れる」

 それなら、そんなに深刻なことではないのかもしれない。俺は少し安心したし、マーシャとマリアさんの様子も、そうだった。

「が、多少問題がある」

「問題?」

「オホン。異界神の眷属たちがこの世界に近付くものを見張っているのだ。理由は知らないがね。私も散々追い回されたが、ようやく撒いてここに来た。マリア君を連れて同じことをやるのは、いくら私が偉大なる魔術師でもなかなかに厳しいものとなろう」

 ……つまり「いずれは戻ってこられるだろうけど、すぐではない」ということだ。

 でも、その原因が異界からの監視……というのは。

 何だか、最近の出来事と繋がる気がするな。

「スレイダーさんやガルナシリアさんが何かを探してるみたいだった。確か、エセリアルハート、ってものがこのあたりにあるらしいって。そのせいかな」

 俺の言葉を聞いて、デュークの顔色が変わった。

「エセリアルハート! それが本当ならとんでもないことだ。手中にすればあらゆる願いが叶うという代物だ。警戒が厳重なのはそのせいに違いない」

 ガルナシリアさんはそれを、特大の煌気(エーテル)結晶体だと言っていた。わざわざそれを探しに来ていたからには、異世界にも滅多にないくらいの物なんだろう。それを巡る争いとなれば、スレイダーさんが言っていたように、相当の大冒険になってるはずだ。

「その騒動が収まるまではこの世界に戻ってくることはできないと心得たまえ」

「いつ頃まで、かかるんですか……?」

 マーシャが訊ねると、デュークは目を閉じ、耳を寝かせた。

「とんと見当がつかぬ」

 返事自体はいつもの、肝心な時にいまいち役に立たないデュークのものだ。

 だけど何しろ異世界の神々同士の戦いに発展するかもしれない事態だから、これはデュークを責めるわけにもいかないだろう。

 ここから出て行くことはできても、戻ってくることはできない。

 それを嫌がってこのまま滞在していても、そう遠くないうちに縁が切れて、デュークの言う通りなら、……死ぬ。

 理性的に考えれば、選択肢は無いと言っていいだろう。

 それでも、マーシャはまだ黙ってうつむいている。

 マーシャはこのままこっちにいるつもりだったし、まだここでやり残したことが多いのかもしれない。それを今すぐに帰ろうと言われても、準備も何もない。

 でもそこに、デュークが諭すように言った。

「姉のミリア君も心配していたぞ」

 それはマーシャにとって無視できない言葉だったようだ。

「……わかりました」

 やがて、マーシャは頷いた。

「でも、もう少しだけ……待ってください。あと一日だけ……」

 懇願するように言うマーシャに、でも、デュークは同意しなかった。

「早い方がいい。でなければ――」

「デューク。……マーシャもわかってる」

 改めて危険性を説明しようとするデュークを、俺は止めた。

 マーシャは頭のいい子だ。帰るしかないことは理解してるはず。あとはそれを納得できるかどうかで、そのために、もう少しだけ時間を必要としている。

 そのくらいは、何とかしてあげたい。

 俺とマーシャからの訴えに、デュークは大きな溜息で応じた。

「一日だけだぞ。明日の日没までだ。ゲートの再計算が必要になると、本当に間に合わなくなるかもしれないからな。また倒れるようなら、それが日没より前でも、私はそのままの君を勝手に連れて行く。それでもいいな?」

 デュークの確認に、マーシャは強い視線を向けて「はい」と頷いた。



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幸せな悪夢

 夜が明けた。

 今日の夕方までには、マーシャはこの館を出ていく。

 あまり深刻な話にはしたくない、というマーシャの要望で、みんなには単に「姉が心配しているので帰る」とだけ伝えることになった。これも決して嘘ではない。

 朝食の席でそのことが伝えられて、みんなそれぞれに別れを惜しむ言葉をかけたけど、マーシャはちょっと困ったような笑顔で応じた。

「落ち着いたら戻ってきますから……」

 それも嘘ではないし、マーシャ自身、そのつもりでいるんだろう。

 でも、それがいつになるかはわからない。異界の神の眷属たちがこの世界に向けている警戒を解かないことには。

 戦って全部倒してしまえたらいいのかもしれないけど、デュークの話しぶりだとかなりの強さと数で、一度倒したとしてもすぐにまた湧いてくる不死のものたちらしい。いくらなんでも多勢に無勢か。あまり刺激しない方がよさそうだ。もちろん、向こうから攻めてきたら話は別だけど。

「荷物は持って行ける?」

 そう訊ねたのはクレール。

 マーシャの旅立ちは、今朝に言い出して今夜にはもういないという慌ただしさだけど、それ自体はみんな納得してる。旅に生きていればそういうこともあるとわかってる。それでも……いや、だからこそか。お土産くらいは持たせてあげようというわけだ。

「基本的には持って行けない。マリア君にとってここでのことは夢の出来事になる。だが、オホン、私が持てる程度の荷物なら、私が預かっておけば消えないぞ」

 デュークはうっかりそう言ってしまったせいで、かなりの大荷物を背負わされることが確実になった。

 

 マーシャのことと同じくらい気にかかるのは、マリアさんのことだ。

 二人は昨日、けんかをした。その後、マーシャが急に倒れて、もちろんマリアさんもすぐに駆けつけたし心配そうだったけど、二人の仲はまだぎくしゃくしたままだ。

 ただ、今朝早く……まだ日も昇らないうちに、マリアさんが俺を訪ねてきて、

「今から魔女の店に行ってきます。マーシャが出発するまでには必ず戻りますから、心配しないでください」

 と言ってきた。気にならないわけじゃないけど、マーシャのために何かしようとしているんだろうってのは想像できる。俺としては信じて見守るしかないのかもしれない。

「私が様子を見てきましょうか? ほら、四姉妹なので」

 ユリアがそう言ってくれたから、お願いした。マリアさんは一人だとこういう時には頑張りすぎてしてしまう人だけど、ユリアならそのあたりをうまく緩めてくれるはずだ。

「それじゃあ、貸しひとつってことですね?」

 ……ちょっと高くついたかな。

 

 朝食の席での騒動がひとしきり落ち着くと、ひとまず解散の運びになって、普段ならのんびり過ごしているミリアちゃんやナタリーも、マーシャにあげるお土産を探しに慌ただしく飛び出していった。

 

       *

 

 俺はマーシャに誘われて、砂浜を二人で歩いた。

 頬を撫でる風、穏やかな波の音、砂を踏みしめる感触。

 肌に刺さる陽光はまだ夏のものだけど、季節がうつろう気配も感じる。

 でも、次の季節には、マーシャはもういない。

「みなさんには心配しないでって言いましたけど、やっぱり寂しいです。こんなに急にここを離れることになるなんて……」

「そうだね」

 軽く砂を蹴って不満を表すマーシャに、俺も頷いた。

「もっともっと、やりたいこと、たくさんありました」

 マーシャは元の世界には戻らないつもりでいたから、思い描く未来は当然、館にいるみんなと行く先にあった。

 それが突然、断たれてしまう。

 いつかは戻ってこられる一時的な別れだとデュークは言った。その『いつか』まで、俺やデュークはなんとなく過ごしてしまえるかもしれないけど、マーシャにとってはきっと、もっと長く感じられるだろう。

 マーシャが立ち止まって、空を見上げた。

「私はまだ霧の中にいます。深い、悪夢の中に……」

 俺も一緒に見上げた空は、晴れている。

 霧はマーシャの心にかかっているものだ。きっと、あの可能性の世界からずっと。

 あの時に見たマーシャの悪夢は、母親を亡くしたあとの心にわだかまっていた虚無感だった。それを、俺がマーシャの手を引いて乗り越えた。

 そのはずなのに。

 マーシャはまだ悪夢の中にいると言う。

「やっとわかりました。私の悪夢の正体……」

「それは?」

 訊ねると、マーシャは俺に視線を向けて、困ったような顔を見せた。

「私の……本当の私の近くには、リオンさんがいないということ」

 寂しさと諦めが入り交じる、乾いた笑顔。

「宝物を手に入れる夢が、一夜限りのまぼろしではなくて、だから、ここで過ごす時間が幸せであればあるほど、この宝石がいつ夢になってしまうのか怖くなって、失うことが、怖くなって……」

 それ以上は言葉を続けられず、マーシャは俺から顔を背け、砂浜にしゃがみ込んだ。

 かけるべき言葉が見つからない。何と言っても陳腐になりそうで。だから、ただ無言で隣に立った。

 マーシャが手で砂をすくい上げる。それはさらさらと指の間から落ちていく。

 しばらくはそうして過ごした。近くには他に人もいなくて、ただ潮騒だけが響いている。

「……リオンさん」

 ふと、マーシャが、うつむいたまま俺の名前を呼んだ。

「一緒に行きませんか?」

 その問いかけは、もちろん、散歩のことじゃない。マーシャはこれから、元いた世界に渡る。そのときのことだ。

「いいよ。行こう」

 俺の返事に、マーシャはパッと顔を上げて、そして、大きな溜息を吐いてまたうつむいた。

「……そういう人ですよね、リオンさんは……」

 そう言われてもね。

「この村のことはどうするんですか?」

「確かに俺はここを気に入ってるし、村のみんなも俺を立ててくれてるけど、本当は親方さえいればこの村はもう大丈夫なんだよ。前の領主を追い払ってもう一年になるし」

「館のみなさんのことは?」

「みんな自分の人生があるわけだから、俺の都合でいつまでもここに留めておけないとは、思ってるんだ」

 言ったことはどれも嘘じゃない。村も、みんなも、もう俺がいなくたって平気だろうし、それどころか、俺が構い過ぎてるんじゃないかとすら思ってるくらいだ。

 だから、いい機会かもしれない。

 マーシャと一緒に向こうに渡って、かつて一緒に冒険した向こうのミリアさんやニーナたちに会って、それから……向こうの世界にもいたはずの『俺』がどうなったのか、調べてみたい気持ちもある。

 異界神と戦う、なんてのよりは、よほど現実味のある話だろう。

 でも、マーシャの評価は厳しかった。

「……リオンさんは、自分勝手です」

「そうかな」

「はい。……私も、そうですけど」

 そう言ったマーシャは立ち上がり、濡れた頬を手の甲でぬぐってから、俺に向き直った。

「ごめんなさい。試したんです、リオンさんの心を」

 まあ、本気じゃないだろうとは思ってた。

 でも……完全に冗談でもなかった。

 マーシャだけじゃない。俺も、そうだ。

「嬉しかったです。一緒に行くって言ってくれて。でも、やっぱり……忘れてください。リオンさんは、まだここに必要な人です。……それに……」

 途切れがちに、だけど一生懸命に、マーシャは喋った。

「それに、わかってるんです。リオンさんは私とずっと一緒にはいてくれないってこと。今は私が困ってるから、一緒にいてくれますけど……私よりももっと困っている人を見付けたら、きっとその人を助けに行ってしまう。そういう人ですよね」

 それは……他の人からもたまに言われるな。クレールなんかはもっと辛辣に「リオンは困ってる女の子が好き」なんて言うくらいだ。俺としては女の子に限ってるつもりはないんだけど。

 ……それはともかく。

 お節介かもしれないけど、俺が手を伸ばせば助けられる人がいたら、俺は手を差し出したいと思ってる。これまでそうしてきたように、これからも。

「そこがリオンさんのいいところで、欠点でもあって……私は……」

 マーシャの目の端に、また、涙が大きな粒を作った。

 だけどマーシャは、それでも、泣きはしなかった。

「私は、ずっと困ったままでいられるほど強くないので」

 俺の顔を真っ直ぐに見て、そして――

「だから……心配しないでください」

 マーシャは、笑った。



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マーシャとマリア

 館に戻ると、正門を入ってすぐのところでデュークが憤慨していた。

「私がこんな大荷物を持てるはずがないだろう! 花を鉢ごと持たせようとするな! 減らせ!」

「んっんー! でもこれは二人で水をあげてたお花なんだよっ! だからマーシャも持っていきたいはずだねっ!」

 口論の相手はミリアちゃんらしい。ミリアちゃんの気持ちもわかるけど、確かにこの量の荷物を猫のデュークが苦もなく運べるとは思えない。

「おお、マリア君。この荷物の山を見たまえ。皆が君を気にかけているのは喜ばしいことだな。しかし、オホン、この袋に入るだけの量に減らして、残りはお断りしてくれ!」

 デュークからそう頼まれたマーシャは、苦笑しながらお土産の山に近付いていった。

 テーブルの上の物だけでもそこそこの量なのに、その下を見れば樽も置かれてる。聞こえてくる会話によると、中身は温泉水らしい。徒歩での旅にこれを抱えていくのはなかなか難儀だろう。持っていくのがマーシャじゃなくてデュークだからって、みんな遠慮がなさすぎだ。

「うわっ、すごい量ですね」

 俺たちに後れて館に戻ってきたユリアが、積まれた荷物を見て目を丸くした。

「これも持っていって欲しいんですけどー……まだいけます? 大丈夫そう?」

 そう言うユリアの手には、紐で綴じられた紙の束。

「それは?」

「確か、薬草学の本から一部を抜粋して写したものだって」

 そう聞いて、ユリアと薬草学ってあまり繋がらないなと思ったけど……

 魔女の店に向かったマリアさんの付き添いを頼んでいたんだった。この紙束はマリアさんが筆写したものなんだろう。薬草学の本に関しては館の書庫よりも魔女の店の方が体系的に揃ってる。それで朝早くから魔女の店に行ってたのか、と納得した。

 でもそれにしては、肝心のマリアさんの姿が見えない。

「どこにいるんですか?」

 俺たちのやりとりに反応したマーシャが、荷物の仕分けを中断してまで駆け寄ってきて、ユリアに詰め寄った。

 かなり端折った言葉だったけど、俺が思ったことと同じ。ユリアにも十分伝わっただろう。

 俺とマーシャに視線を向けられると、ユリアは肩をすくめた。

「それが、そのー……合わせる顔がないって言って」

 それを聞いたマーシャが、きっ、と正門の方へ視線を向けたから、俺もつられてそうした。

 正門の、柱のそば。

 柱に隠れていてその姿を直接見ることはできないけど、いる。少し西に傾いた太陽が、そこにいる誰かの影を地面に落としている。

 マーシャが駆けだして、俺も後を追った。

 隠れていた誰かが少しだけ顔を覗かせて、たぶん駆け寄ってくる俺たちに気付いたんだろう。慌てて引っ込んだけど、もう遅い。

「……どうして隠れてるんですか?」

 マーシャが、その場にしゃがみ込んでいたマリアさんを見下ろして、そう言った。

 そう。そこにいたのはマリアさんだ。

「どんな顔をすればいいかわからないから、いっそもう、会わない方がいいと……」

 マリアさんは頭を抱えていたけど、やがて、おそるおそる顔を上げた。

「怒っていますか……?」

「当たり前です」

 ぴしゃりと言われて、マリアさんは余計に縮こまってしまった。それでももう逃れられないと観念したらしい。大きく深呼吸をして、マーシャに向き直った。

「ごめんなさい。やっぱり昨日は、きつく言い過ぎてしまって……」

「そういうことじゃありません!」

 さっきよりもさらに強い口調で、マーシャは怒鳴った。

「マーシャ、落ち着いて」

 俺が声をかけると、マーシャも一度、深呼吸をした。

「……私が怒っているのは、あなたが自分を悪く言うからです。さっきの謝り方だってそう。どうして?」

 少しは落ち着いても、マリアさんを問いただす口調はまだ厳しい。

 マーシャのその指摘は、俺も内心は思っていたことだ。ただ、それも個性だから、俺としてはその性格を変えたいとまでは思っていなかった。

 マーシャは『自分』のことだから、気になってしまうのか。

「だって……事実だから、仕方ないんです……」

 マリアさんが、また俯いた。

「あなたには、何度も、偉そうなことを言いましたけど……それは、あなたが私の幼い頃にそっくりで、だから、あなたより年上の、成長した私は、きっとあなたよりも何でも上手くやれてるはずだって、思って……」

 少しずつ溢れてくる言葉を、マーシャは黙って聞いている。

 どうも、俺が口を挟める様子じゃない。ユリアに至っては、半歩くらいは関わってたはずなのに、ただならぬ雰囲気を察したのか離れたところからちらちらと視線を送ってくるだけだ……。

「でも、でも……」

 マリアさんの声が、揺れた。

「だめだった。私が無くしたものを持っているあなたを見ていたら。できなかったこと、やりたかったことを、できるようになっていくあなたを見ていたら。だんだん……胸の奥から、黒い感情が溢れてきて……苦しく、なって……」

 その両手は、胸の真ん中に添えられている。胸から溢れ出てくるものを止めようとするかのように。

「あなたさえ……」

 口からは、呻きが漏れた。

「あなたさえいなければ……私は、この気持ちに気付かずにいられたのに……!」

 マーシャに過去の自分を重ねて、自分と同じ後悔はしてほしくないという思いと……

 自分ができなかったことをできるようになっていくことへの、嫉妬や羨望。

 どっちも、本当のことなんだろう。

 そして、マリアさんにとってマーシャは『自分』だったから、比べずにはいられなかった。

 俺は、デュークが可能性の世界で言っていたことを思い出した。

 可能性は、完全に夢であるよりも手が届きそうに見えるのが厄介で、それ故に多くの人間が囚われている……。

「この際だから、正直に言います」

 マリアさんの目の前にしゃがみ込んで、マーシャが口を開いた。

「私も、羨ましかった。……あなたは、私が欲しいものを、今の私じゃ手が届かないものを、たくさん持ってる。なのに、自分は何も持っていないみたいに言うから、だから……腹が立ちました」

 そこまで言ってから、マーシャは右手の指を揃えて挙げた。それでマリアさんの頬を平手打ち――とはならず、その手はマリアさんの頭の上にそっと置かれた。

「……お互いに、ない物ねだりをしていただけだったのかもしれないね」

 マーシャは、まだうなだれたままのマリアさんを抱きしめた。

 そして、優しい声で、囁くように言った。

「ねえ。あなたが無くしたと思っているもの、もう一度、よく探してみて。私にはわかるの。それは心の奥の方で眠っているだけで、誰かが起こしてくれるのを、待ってる。今でも……絶対に、無くしてなんかいない」

 マリアさんは泣くのを堪えているけど、目の端はもう濡れている。

 喘ぐように開いた口が、言葉にならない声を発した。

「マーシャ」

 そう相手の名前を呼んだマーシャは、マリアさんをその小さな身体で強く抱きしめ、その背をさすった。

 マリアさんの両手が、何かを求めるように伸び、さまよう。

「自分を信じて」

 マーシャが、マリアさんを……もう一人の自分を、励ました。

「だってあなたは――私がなりたかった大人に、なれているから」

 マーシャを強く抱きしめ返して、マリアさんは泣いた。

 

       *

 

 一方、みんなはデュークと口論を続けていた。

「ええい、服を詰め込もうとするな! 向こうでも手に入るだろうが! オホンオホン! そっちの包みはなんだ!」

 訊かれて答えたのはクレール。

「今朝とれた魚を親方がくれたから、ステラの魔術で凍らせておいたんだよ。脂がのってておいしいらしいんだー」

「ヨシ! それは私がもらっておこう!」

「ダメー!」

 ……結局、荷物はあんまり減ってない気がするな。

「えと……お気持ちだけ、いただいていきます……」

 マーシャは結局、マリアさんが用意してくれた薬草学の本の写しと、こっちで買ったリュート、それとニーナが作ってくれたお菓子を少し……というくらいだけを選んで、デュークに託した。

「その紙にも、書いておきましたけど……」

 みんなの前に姿を現す前にどうにか落ち着きを取り戻したマリアさんが、付け加えた。

「こちらでは、母が持っていた特許の使用料が〈魔女の同盟(ウィッチクラフトアライアンス)〉に預けられていました。そちらでも同じかどうかはわかりませんが……お姉さんに、相談してみてください」

 そういえばそんな話もあった。かなり大きな額だったと言っていたし、あれば助かるだろうな。

「オホン。そろそろ刻限だ。行こうか」

 やがてデュークがそう言う頃には、日が傾き、空には赤みが増してきていた。

 ……旅立ちの時だ。

「これ以上いると、離れたくなくなってしまいますね」

 デュークの催促に、マーシャは笑って答えた。

 旅立ちの門は、この偉大なる魔術師が杖をひと振りすると地面に落ちた影から立ち上がってきた。境界の向こうは、様々な色に輝くもやが見えるだけで、景色らしい景色はない。だけど、可能性の世界の出口もこんな感じだった。心配ないだろう。

 マーシャは、集まったみんなの方へ向き直り、微笑んで軽く手を振った。

 そして最後に――

「リオンさん」

 俺の目の前へとやってきて、マーシャは……俺に軽く抱きついてきた。でもそれはほんの一瞬。すぐに体を離し、少し赤らんだ頬を緩ませて、マーシャは俺を見上げた。

「お世話になりました。……いってきます」

「うん。気を付けて」

 ごく簡単な言葉を交わして、マーシャはくるりと背を向けた。

「また来てね! 待ってるからね!」

 その背にミリアちゃんが声をかけると、マーシャは最後にもう一度だけ振り返った。

 笑顔だ。

 次に会えるのがいつになるかはまだわからないけど……

 マーシャのことを想う時には、みんなきっと、この笑顔を思い出せるだろう。



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墓参

 解放記念日を目前に控えたこの日、俺は教会の裏手にある墓地に来ていた。

 俺の他には、二人。

「リオン様、お待ちしておりましたのでして」

「おー。来てくれたね、リオンさん」

 今回のことを取り仕切ってくれるヨハナ司祭と、そして、親方。

 本来ならもっと大勢いてもいいはずだけど、親方が認めなかった。せっかく解放記念日に祭りをやるのに、その前の日に暗い顔はして欲しくないって。

 それで、たったの三人。

 目の前の墓石にはこう刻まれている。

『寒寂の村の最後の長。平和を望み、平和を見ずに逝き、平和の中に眠る』

 ……今日は、前村長の命日だ。

 

 前の村長は、親方の旦那さん。元からこの村の住人で、代々村長の家系だったんだそうだ。

 一年とちょっと前、俺がこの村に来た時にはもう病床にあった。それで俺も直接は会っていない。

「旦那は……まー、人の良いやつだった」

 花束が供えられた墓の前で、親方が呟いた。

「けど、身体が弱かった。人が良くて病弱って、こんな時代だから早死にすんのも仕方ねーわな」

 親方が言うことは、そうかもしれない。

 邪神を倒したことで本当の大災厄は免れたとはいえ、邪神の降臨が間近に迫っていた大陸では多くの災いが起きた。俺の村を滅ぼした剣鬼の騒動もたぶんそのひとつで……もしかするとこの村のことも、元凶を探れば、世界にはびこった〈歪み〉のせいだったのかもしれない。

 そんな時代だから、平和な時ならもっと生きられたかもしれない人が、命を落とすこともあった……。

「他人の悪口を言わねーやつだった。あのクソ領主とですら、争いは話し合いで解決したいって言ってた。そのクソ野郎が村の稼ぎを全部吸い上げたせいで薬が手に入らなくなって、旦那は死んだ」

 その顛末を知った村の人たちは、すぐにでも領主を打倒しようと集まった。

 親方はそれを止めた。みんなをなだめて、解散させて……

 そしてその夜、自分一人だけで館に乗り込んだ。

 俺がたまたま気付いたからよかったけど、そうでなかったら親方も一年前のあの夜に死んでいたかもしれない。

 もしかしたらそれを望んでいたのかも、と感じたこともある。

 でも俺は、あのとき親方を助けたのが間違いだったとは思わない。

 もし親方がいなかったら、今のこの村もこんなに明るく前向きな雰囲気にはなっていなかっただろう。

 何かをぶち壊すことでしか他人を助けられない俺とは違う、親方みたいな人が、平和な時には必要なんだよな。

「思い返せば、リオンさんとも少し似てるとこあったな。身体が弱かったから、リオンさんと同じことはできなかったろーけどさ」

 俺は、そうだな。身体が丈夫なのは確かだ。ドラゴンに思いっきり殴られてもまあまあ耐える。記憶はときどきなくしてることもあるけど、大抵それは俺のせいじゃないし。

 親方の旦那さんと似てるところがあるかどうかは……

 本人と会ったことがないから、俺からは何とも言えないな。

「あと何日か早く動いてたら、もー少しだけ、安らかな気持ちで死ねるよーにしてやれたのかねー」

 うーん。そう言われると……

「……それは、すみません。俺がもう少し早く……」

 俺自身、思わなくもなかったことだ。

 実際、俺はあの日より少し前からこの村に滞在してたし、どうせやることになるなら、もう少し早くても良かった。

 俺がもっと早く決断していれば……

「あー、リオンさんを責めてるわけじゃーないよ」

 親方がそう言って、俺の肩を叩いた。

「あたしが言いてーのはさ」

 墓を見下ろしながら、親方は寂しげに笑う。

「旦那が最後に見たあたしの顔、酷い顔だったんだよな。そこだけは、できればやり直してーなって、それだけなんだ……」

 ささやかな願い、というものだろう。

 でも、時間を遡りでもしない限りは、その願いが叶うことはない……。

「今の貴女が笑顔でいれば、それをきっと故人も見ておられるのでして」

 ヨハナ司祭がそう慰める。

 決まり文句ではあるけど、そうだといいな、というものでもある。だからこそ、よく使われるんだろう。

「そーゆーもんかねー」

 そう応じてから、親方は持ってきていた酒瓶を手に取り、その中身をぐいっと呷った。

「……それ、こういう時はお墓にかけるんじゃないですか」

「そのつもりで持ってきたけどさー、よく考えたらあいつ下戸だったわ。あっはー」

 あっはー、って。……まあ、親方がそれでいいならいいけど。

「それじゃー司祭さま。忙しいだろーし、お祈りは簡単でいーから。ひとつ頼むよ」

「では……」

 ヨハナ司祭は首から提げた聖印を握り、目を閉じて、祈りの言葉を紡いだ。

 ――人は、死んだらどうなるんだろう。

 それについては、多くの人が頭を悩ませてきたに違いない。

 大教会の教えでは、こうだ。

 死者の魂は肉体から別れてまず冥府へと向かい、そこで生前の行いによって裁きを受ける。その結果、善人の魂は天国へ昇り、悪人の魂は地獄へ落ちる。どちらに行くにせよ、行った先で魂を清めた後、ふたたびこの世界へ生まれ変わる……。

「それって、何日くらいなもんなのかね」

「生前の行いのみならず死後の行いによっても変わるそうなので、決まった日数というものはないようなのでして」

「ふーん。じゃー旦那が生まれ変わる頃には、あたしは地獄にいる可能性もあるのか」

「一説にはおよそ千六百日だとか」

「ってーと、えー……あと三年半くらいか? さすがにまだ死ぬ予定はないわなー」

 今は村も平和だし、そう期待してもいいだろう。ただ……

「親方は、長生きしたいならお酒を少し控えた方がいいんじゃ」

 さっきも飲んでたし。会う時はだいたい飲んでる。同じお酒好きでもネスケさんは弱い方だから実際の量はそう多くなさそうだけど、親方はものすごい量を飲んでる。

 でも親方は笑うだけ。

「別にそんな長生きしたいわけじゃーないね。だいたい、好きなこと我慢してまで長生きして、それの何が楽しーのかって話だよ」

 ……うん。その意見もわからないではない。親方らしいと言えばそうだ。太く短い人生が好きそうな感じ。この人の経歴を考えると、仕方ない部分もあるな。

「でもまー、だからって早死にしたいってーわけでもない。最近は、そう思うよーになった。村が活気づいてくのが面白くってさ。これは、リオンさんのおかげかねー」

 言われて、俺は苦笑。

「それは俺を買いかぶりすぎです。村のことは、俺はほとんど見守ってるだけなので。たぶん、親方の手腕だと」

 確か、前に親方が言ってた。親方の旦那さんは、村の発展を夢見ていたって。

 その夢を引き継いだんだろう。そして、その結果が出てきている。まあ、そういう話だ。

「んーまーとりあえず、旦那が生まれ変わってくるってーなら、もーしばらくはここにいてやらねーとな。戻ってきたときあたしがいなかったらさびしいだろーしさ」

「それがよろしいと思うのでして」

 ヨハナ司祭が頷くのに笑顔を返してから、またお酒を一口。……やっぱり、お酒をやめるつもりはないらしい。

「ありがとーよ、司祭さま。今ごろ旦那もあの世で嬉し涙におぼれてるだろーと思う」

「そう思うのでして。あなたがた夫婦に、自由と光の加護があらんことを」

 ヨハナ司祭はほほえみ、その言葉でこの集まりを締めくくった。

 

 村の方へと戻ると、いろんな場所に祭りの準備が目についた。

 明日は解放記念日。

 俺が前の領主を追い出したのが、ちょうど一年前の今夜だ。

「……今度の祭はリオンさんが主役だ。その前にこんなことに呼んで悪かったけどさ。どーしても今日、リオンさんにも来て欲しかったんだ」

 一年経って、親方はいろんな気持ちに決着を付けて、そして、ここにいる。

 ……俺はどうだろう。

 俺は、一年前よりも成長したと言えるんだろうか。

 何かを成し遂げたと、胸を張って言えるだろうか。

 正直、自信がないな。

 でも、そんなことはお構いなしに、時は経つ。



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