マスターな乾巧がサーヴァントと云々 (うろまる)
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フロイライン・アビー

リハビリ中のオルフェノクです。やめて、フォトンブラッド流し込まないで


 

 

 とうとう眠ることが出来ず、乾巧はゆっくりと目を開けた。用意されていた暖かい毛布と柔らかなベッドに文句はひとかけらも無く、むしろ出来ることなら一生引き籠っていていたいぐらいである。だが、なぜか、眠れない。いつもは待ち構えていたように素早く走り寄ってくるはずの眠気が、今夜に限っては姿を見せない。瞼をいつもより固く閉じ、柄に合わず胎児のように丸まっても、ただ徒らに体力が浪費される無駄な時間だけが流れるだけだった。クソ、と小さく呟いて、カルデア製の充電器に繋がれたファイズフォンを開ける。一瞬の眩光の後、擦り傷が残る液晶に数字列が並ぶ。午前三時。草木も眠る丑三つ時に、携帯片手に不機嫌ヅラをする男。こんなことなら草木に生まれたかったと、巧はこの上なく思う。

「――水」

 不意に喉の渇きを覚えて、巧はベッドを軋ませながら飛び起きた。ファイズフォンをポケットに突っ込み、床に投げ捨てられていたコートを羽織り、無機質なまでに白い扉を開けて、同じ色調が延々と続く廊下に足を踏み出した。

 こつ、こつ、こつ、と。ひとりぼっちの足音が、カルデアの広大な回廊にさびしく響く。点々と等間隔に配置された蛍光灯さえも、眠るようにその灯を消している。そのせいで暗闇がこびりつき、廊下の見通しは普段から比べれば、驚くほど悪い。だが、巧の足取りは迷うこと無く正確に、食堂への道を辿っていた。それは、オルフェノク特有の超感覚を無駄に発揮しているせいもあるが、本来なら存在すら知らなかった施設の構造に慣れてしまうほど、ここで生活して来たということもあると巧は思う。

 常人がおよそ立ち寄るべきではないこの施設――カルデア。あのクリーニング店とは違って、やけに構ってくる喧しい店主も、理髪師という夢を目指していた喧しい同居人もいない。猫舌だと逐一言っているのに、鍋焼きうどんを出されることもない。しなくてもいいお節介を焼いて、クリーニング屋のくせに牛乳配達をする必要もない。面倒くさいとしか思わなかったそれらをなぜか、巧は無性に懐かしく思い出していた。

 足が止まる。ずいぶん長い間物思いにふけっていたらしく、気がつけば、目の前には食堂に通じる扉があった。何も考えず手をかけようとして、止まった。

 誰かが、座っている。

 僅かに開いた隙間から、頼りない光が漏れている。デスクライトか何かを持ちこんできたのだろうか。誰がいるのか。そこまで考えて、やめた。どうせ、考えたところで無駄だ。それにあの危ない三人組の誰かだったら、さっさとずらかればいいだけの話。巧は一切気後れすることなく、一気に扉を開いた。

「誰っ! ……って、マスター」

 そこには、蜂蜜色の髪を背まで伸ばし、無機質な白に映える黒衣を纏った少女が、ちょこんと座っていた。

「おまえ……確か」

「アビゲイルよ。アビゲイル・ウィリアムズ。もしくはフォーリナー。……後者はあんまり、好きじゃないけれど」

「何してたんだ、こんな時間に」

「……眠れなかったから、少しだけお散歩してたの。そうしたら、ここを見つけて」

 少女――アビゲイルは、恥じらうように告げた。

「マスターは?」

「俺もそんなところだ」

「そう! ……いえ、何でもないわ。ふふっ、それにしてもマスターも悪い子だったのね。こんな時間に散歩するだなんて。ふふふ」

 叱られるのを待っているような表情をしていたアビゲイルは、放たれた言葉にぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。何がそんなに楽しいのか、巧にはわからない。がしがしと頭を掻き毟り、

「――邪魔したんなら、帰るが」

「いいえ。そんなことは無いわ! むしろ、マスターが来てくれて、わたしとっても嬉しいのよ。本当に。……ねえ、もしよかったら、いっしょにお話でもどうかしら? ……だめ?」

 いじいじと指先をこねくり合わせて、伺うような顔でアビゲイルはそう告げた。めんどくさい、と正直思う。だが、少女の不安げな様子と、何処かに消え去ってしまいそうな雰囲気が、飛び出しそうになった言葉を止めた。

 はあ、と大きく溜め息を吐く。びくり、と身体を震わせ、恐る恐る俯いたアビゲイルに、巧は言い聞かせるように、

「おまえが期待してるほど話せないぞ」

「……っ。ええっ! 構わないわ!」

 屈託の無い笑みを浮かべたアビゲイルに、巧はふたたび溜め息を吐く事しかできなかった。

 

 

 ○

 

 

「はいっ」

 熱々の湯気を放つホットミルクを差し出されて、思わず舌打ちを漏らしそうになった。なんとかそれを抑えて、巧は真正面に座って話し始めたアビゲイルを見る。アビゲイルは巧の様子に気づかず、カルデアに来てからあった出来事を夢中で話していた。子供の話とは大概、順番と時系列がとっちらかっていて、何がなんだか分からない方が多い。しかし中々聡明な頭をお持ちらしく、巧ですら知らなかったカルデア内での出来事を面白げに語り、他人の話をまともに聞くことが滅多にない巧も、珍しく耳を傾けていた。

 そういえば、初めて会話した時も、ずいぶん話が上手いな、と思った記憶がある。

 霧に覆われ、隔離された村――セイレムでの出来事は、長いようでほんの刹那だった。たった七日間とは思えない密度で過ごしたあの村での日々は、苦く辛い記憶がある。ただ――それだけだったと言うわけではない。確かにそこには、輝かしい何かがあったはずなのだ。例えそれが、特異点という泡沫の夢の中だったとしても、救いはあったはずなのだ。

「――ねえ、マスター。マスター?」

 アビゲイルの呼びかけに、巧は意識を引き戻す。見ると少女は話を止めて、心あらずな巧に対して頬を膨らませていた。

「……なんだ」

「わたしの話聞いてた?」

「聞いてた」

「ほんとに?」

「ほんとだ」

「じゃあ、誰の話してた?」

「…………………………」

 返って来た沈黙にはあ、とアビゲイルは巧を真似たような溜め息を吐いた。開き直ってしかめっ面をする巧に対して、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、人差し指をぴっと立てる。

「いい? マスター。レディの前でぼーっとするなんて、紳士失格よ?」

「レディ? おまえが?」

 ぶっ、と吹き出す巧。失礼極まりない男の態度と言葉に、アビゲイルの心はかっと燃え上がった。

「そうよ。わたしもう十二歳の立派なレディなのっ」

「まだガキじゃねーかよ」

 巧、半笑い。ますますアビゲイルはむきになっていく。

「年齢は関係ないのっ。大事なのは、心なんだから」

 ふん、と顔を背けるアビゲイルに構わず、巧はミルクに手を伸ばす。熱い。だが、掴めないほどではない温度だった。手の皮を透かして、神経を浸食する熱さを睨みつけ、意を決して、軽く縁に口をつけてみた。

 ――まだだ。

 もうしばらく待たなければならない。

 コップを戻しかけたところで、さっきから大人しいと思っていたアビゲイルが、自分の一挙手一投足を注視しているのがわかった。少女は、恐ろしい秘密を目撃したかのように、低くゆっくりと囁いた。

「――もしかしてマスター。猫舌?」

「……」

 無言のまま、コップを傾ける。

「熱っ!!」

「きゃあっ!?」

 軽くこぼした。くだらない意地を張ってしまった自分が、今さら恨めしくて仕方なかった。くそっ、と口内で吐き捨てて、再び湯気立つミルクを睨み始める。少女はその様子を信じられないとでも言いたげに見ていた。突き刺さる視線に、巧は居心地の悪そうな顔を返す。

「……なんだよ、大の男が猫舌で悪いか?」

「ううん……実は、わたしもなの」

 ちろ、と赤くなった舌先をひかえめに出して、少女は笑った。さっきは我慢して飲んでただけなの――

「そうか!」

 同類を発見した巧の表情が、露骨に明るくなる。得てして猫舌仲間というのは意外に少なく、百を超えるサーヴァントが在籍しているカルデアでさえ、ほんの数人しか、巧と同じ舌を持つ者はいなかった。数少ない同志を見付けた巧の心に、暖かな何かが満ちていった。

「だからね、マスター。あなたのために、わたしがフーフーしてあげるっ」

「お断りだ」

「ふーぅふぅ」

「おいっ」

 いつの間に取り上げていたのか。気配も感じられないまま、巧のコップはアビゲイルの手中へ収められていた。実に楽しげにふうふう吹いてる様に、怒鳴る気力すら無くして、巧は憮然と頬杖を突くことしかできなかった。

 

 

 ○

 

 

「――マスターは、怖くは無いの?」

 すっかり冷めたミルクを飲み干す直前、そんな言葉を投げかけられ、巧は呷る手を止めた。

「怖い? なにが」

「その、色んなひとから聞いたの。マスターは、マスターらしくないマスターなんだって。――本当なら、マスターは前に出て戦わないんでしょう? それなのにマスターは自分から前に出て、色んな怪物と戦って、いっぱい傷だらけになって、それでも戦ってるって……だから、すごく気になったの」

「死ぬのが怖くないかってことか」

「……うん」

「さあな。考えたことも無い」

「……嘘でしょう」

「嘘じゃねえよ」

「嘘よっ」

 素っ気なく答えた男の瞳に、どうしても拭いきれない恐怖の色が奔り抜けた瞬間が、アビゲイルには良く見えていた。途端、目の前の男に対する、義憤にも似た何かが心の底から溢れ出た。感情が激しく乱れている。どうして戦えるのか。どうして立ち上がることが出来るのか。逃げ出したって良い筈だ。自分はここに来てまだそれほど経ってはいないけれど、目の前の男が、自分達とは違って日向を歩いて行けるということだけはよく分かる。彼は戦って、戦って、戦い続けて、もう駄目だと弱音も吐いたかもしれないのに、それでも立ち上がって。アビゲイルは、どうしても理解できなかった。とうに死んでしまった亡霊であるサーヴァントとは違って、彼は生きているのに――なぜ、自ら苦痛に身を投げ入れようとするのか。どうして苦しんで、失い続けて、それでも前を向けるのか。

「――どうして?」

 その時の声が、かつてセイレムの末路に君臨した異星の魔女に酷似していた事を、アビゲイルは覚えていない。

 だが、巧は覚えていた。だから巧は、あの時と全く同じ答えを少女に返した。

「――守るって、約束したからな」

「――なにを」

「人間を。おまえもだ」

 静かながら、雄々しく力強い断言に、強張っていたアビゲイルの表情が、ゆっくりと解れていく。その信じられないものを見るような目つきのせいで、自分が言った台詞が今さら恥ずかしくなった。巧はもぞもぞと身じろぎしながら、照れを隠すように吐き捨てる。

「――大体な。難しいこと考えずに、ガキはガキらしくワガママしてりゃそれでいいんだよ」

「……それって慰めてるつもり?」

「好きに受け取れ。眠いからもう帰るぞ。おまえ、部屋は何処だ」

 言うだけ言って立ち上がり、ともすれば置いて帰りかねない男の裾を、すっとか細い手が握り締めた。視線を向けると、どこか怯えた空気を纏っていた先ほどとは違う、ふっ切れたような少女の表情があった。

「……おい」

「これぐらい、許してくれるでしょ? これでも精一杯ワガママしてるつもりなの」

「あのな……」

 何か言いかけた巧の視線と、少女の瞳がかち合った。しばしぶつけ合う。しかし、少女の眼差しに籠められた純粋無垢な光を跳ねのけられるほど、男の精神は硬くはなかった。というより、早く部屋に帰りたい。はあと何度目かも分からない溜め息をついて、巧はふりほどこうとした腕を止めた。

「勝手にしろ」

「――ええ。わたし、勝手にしちゃうからっ」

 そう宣言するや否や、アビゲイルは立ち上がって、ぐいぐいと巧の腕を引っ張って歩き始めた。風に流される凧のように頼りなく連れられ渋い顔をした巧は、前を向くアビゲイルの表情にきっと気づかなかったに違いないだろう。カルデアに来てから、ついぞ見たことのなかった、万物を魅了する魔女の微笑み。自分が少女にどんな影響を与えたのかを巧は知らず、ただ暢気に欠伸を漏らすばかり。

 それらすべてを、つけっ放しにされたライトだけが、知っている。

 

 



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テイク・ザ・バジン・ウィズ・ザ・メイヴ

今回は解釈違いあるかもしれないので注意お願いします。俺はメイヴちゃん様を持ってねえ!文句あっか!


 

 頬に、不思議な感覚を覚えた。柔らかい何かが、自分の頬をしきりに突っ突き回っている。ぼんやりとした意識のまま、むずがるように顔を背けるが、正体不明のそれは、その仕草をあからさまに面白がる気配を纏って、しつこくついて回ってきた。やがて何もかもがひどく鬱陶しくなって、乾巧はレスポンス無しで目を開けた。

 そこには、常識外れた世界が広がっていた。

 艶やかな桃色が視界の隅々を覆い尽くし、その中天に座しているのは、琥珀色に塗れた満月。鼻腔に漂うのは、顔を思わず顰めてしまうほどむっとした、滴るような女の臭い。寝起きの頭痛に歪んだ視線を空とかち合わせた瞬間、巧を見下ろす満月が、溶けてしまいそうなぐらい、滑らかな半月を描いた。

「――随分遅いお目覚めじゃない。ま・す・た・あ?」

「――おまえは」

 ぼんやりとした意識が、覚醒と同時にゆっくりと焦点を合わせていき、やがて桃色の幕が垂れ落ちる髪の毛で、満月は見つめる眼球だということに気づく。無理やり起こされて憮然とした巧の様子に、恋多きコノートの女王――メイヴは、くすくすと悪戯を成功させた童女のような無垢な微笑みを浮かべた。圧し掛かってくる肢体はシルクのように柔らかく、かすかに触れ合っている皮膚の下には、男の情動を煽る色気がはち切れんばかりに押し込められている。だが、想像を絶するほど鈍感かつ唐変木な巧に、女の行動に含まれた意図が分かるはずもなく、ただひたすらに迷惑そうな面を晒していた。それを見たメイヴの顔が、愉快そうに歪んだ。

「ダメじゃない、こーんなに隙だらけの格好してちゃ。ちょっと目を離したらふわふわ消えちゃいそうな貴方が、こんなに無防備になってるのを知ったら、あの三人組が黙ってないわよ?」

「いいから、どけ。邪魔だ。重い」

「あら、女王にそんな口利くなんて、フケイ、ってヤツね。打ち首、獄門、晒しちゃおうかしら」

「勝手にやってろ」

 素っ気なく吐き捨てられた言葉にメイヴは面食らい、やがてふふふと、とうとう堪え切れなくなった笑いを零した。あまりにも似つかわしくない無邪気なその笑顔に、嫌な予感が巧の背筋を走り抜けた。

「何がおかしい」

「だって、わたしはコノートの女王。無数の勇士達と情を交わして、伝説に残る戦争を興した女なのよ? それなのにあなたったら! わたしが召喚されてしばらく経っても、ずーっとしかめっ面の無愛想で、そのうえ、素っ気なくて乱暴で猫舌のまんま! ――これがおかしくないわけないでしょう?」

「……猫舌は関係ねえだろ。何の用も無いんなら、いい加減どけ」

 蠱惑的な女の気配に微塵もたじろがず、巧は心底から鬱陶しそうな態度を貫いて、邪魔な荷物を押し退けるような手つきでメイヴの肩を押した。そのあまりの雑さに、さすがに頭に来たのか、殊更造った女の媚を纏って、彼女はふらっとしな垂れかかった。

「おいっ!」

「ふふっ、ほんっとにツレない男」

 白魚のような細い指先が、何かを確かめるように、巧の胸板をつつ、となぞる。やめろ、と半ば怒声に近づいた男の声を無視して、メイヴは掌を広げた。分厚く、雄々しく、逞しい。さすがに、クー・フーリンやフェルグスとまではいかないが、それでも皮膚を透かして見える重ねられた年季は、並大抵の物ではない。巧自身はトレーニングとは一切無縁の人生を送ったが、争い続けた身体には、必ず闘争の痕跡が刻み込まれるものだ。

 ――優れた勇士、素敵な男を、あまねく自分のモノにしたい。

 それは、英霊メイヴの霊基に深く刻み込まれている、拭いきれない癖のようなものだ。もちろんメイヴは自分のそれを悪癖などと思ったことは一度も無いし、聖杯にかける願いからもそれとなく知れるように、何度召喚されようとも、この根幹が揺らぐことは決してないだろうと思う。

 そして、揺らがないからこそ。

 ――狂った朱色の槍を持つ男が。

 ――生涯振り向くことは無かった男の心を振り向かせた、自分ではない自分が。

 否――違う。

 自分に靡かない男の存在が、どうしても我慢ならないのだ。

 ゆっくりと、メイヴの顔がにじり寄ってくる。巧は、なんとかして振り払おうと試みるが、いくら人間の進化系であるオルフェノクとはいえども、変身もせず、英霊相手に力比べで勝てるはずもなかった。それを無言の肯定と受け取ったのか、メイヴは頬に朱を走らせて、ん、とか細い吐息を漏らした。

「――おまえ、っな」

 巧の顔、既に赤黒い。この状況に我慢ならず、渾身の力を全身に込めた瞬間。

「――――――え」

 がたん、と何が落ちる音。

 巧とメイヴの視線が、音の方向へ同時に重なった。そこには、凍ったように立ち尽くす、清姫の姿があった。からからと、床上で落とされたタブレットが、控えめに身体を揺らして抗議している。しかし、貴重な備品であるはずのそれすら気にならないほど、少女の意識は目の前の光景に、釘付けになっていた。

 個室。男女が二人きり。片方が押し倒されていて、片方は頰を紅潮させている。

 状況を理解するにつれて、ひくひくと口元を踊り始めさせた清姫を見て、メイヴは誰もが見惚れてしまう、満面の笑みを浮かべながら、巧の身体をそっと抱き締めた。

「なっ、なっ、なっ、ななな――――――」

 様々な意味で、爆発する寸前。

 今日は厄日でしかないと、巧は心の底から思った。

 

 

 ○

 

 

「そりゃあ、オタクが満場一致の有罪で閉廷でしょ。情状酌量の余地ナシ。罪状はさしずめ、女誑しの罪ってかい? ニクいねえ」

「待ちなよグリーン! 我らがマスターに、女誑しなんて器用なこと出来るわけないじゃないか。頑張っても、鈍感猫舌罪が良い落とし所だ」

「おっと、そりゃそうか。悪ィなマスター。オレはまだまだアンタを見くびってたらしい」

「殴られたいのか、おまえら」

 表情に露骨に不愉快さを示した巧の顔を、炎に巻かれた薪が照らし出した。控えめに揺れる焚き火を突っ突きながら、緑衣を身に纏った弓兵――ロビンが控え目に告げる。

「大体ねえ。アンタが無防備に部屋ァ開けっ放しにしてたのがそもそもの発端でしょうが。腹空かせた肉食獣の目の前に、丸焼きにした肉を置くようなモンですって。せっかくあの別嬪な画家さんが用意してくれたもん無駄にした天罰っすよ天罰」

「ええっ、君鍵掛けてなかったの? 西部だったらやりたい放題じゃないか! そりゃ、マスターの方が悪いよ」

 焚き火を囲むもう一つの影――ビリーは、大げさに両手を挙げて驚いて見せた。そのわざとらしい仕草に、巧の腹の中の苛立ちが掻き立てられる。

「だろ? まったく、我らがマスターは一体何考えてんだか。前の一件で学ばなかったのかねえ」

「ほんとに殴るぞ」

 ぎろりと視線を向けた途端、二人は引き際を心得た兵士のごとく、そろそろと話題を撤回した。そして、荒野の夜に無言の時間が訪れる。三人は特段沈黙を苦にする人種ではなかったし、自然と、ぱちぱちと薪が弾ける音だけが、断続的に響いた。

 あの後、思い出すも憚れるほどの面倒事が起きた結果、巧はほとぼりを冷ますために、素材集めを兼ねたレイシフトの刑を喰らっていた。シフトするたびに起こる、船酔いにも似たあの気持ち悪い感覚は苦手だったが、カルデアに残って死ぬほどめんどうな後処理をするぐらいなら、吐き気を覚えた方が幾分かマシだった。

 なぜ、メイヴがあんな事をしでかしたのか。

 今も巧には、全く見当がつかないでいる。まさか、生理だからというわけでもあるまい。そもそも、既に死した身であるサーヴァントに、生理などあるのだろうかと疑問に思うが、巧はそのうちめんどくさくなって考えるのを辞めた。どうせ、自分に女の気持ちなど分かるわけがない。ただでさえ、同居人の機敏にすら、鈍感を貫いていたのだから。

 ただ、自分の圧し掛かっていた時の、あの瞳の微細な揺らぎだけが、妙に焼きついて離れない。

「――そういえば、知ってるかいロビン。特異点での僕達が残した記憶はね、召喚された僕達にとってほとんど他人事に近いんだぜ」

「へえ。ってこたァ、アレですかい? せっかく全てを賭けて、好きな男を振り向かせられたってのに、相手は覚えてないわ自分じゃない自分が意中の相手の視線を奪ってる記憶もあるわで、もう散々な女がいるかもしれないってわけか」

「さすがグリーン! 話が分かるねえ」

 二人は身を寄せ合って、話の種を見つけた主婦のように、ぺちゃくちゃと盛り上がっている。火の番のために俯いているから見えないが、厭らしい笑顔が自分に向けられていると考えると、巧は今すぐなにもかもが木端微塵に爆発しないか、と切に願った。

「……あのな」

「おや、マスターも話に入りたいんですか? どうぞどうぞ。ケチなアーチャー同士のくだらねえ戯言ですが、寄ってってくださいよ」

「コイバナってやつだね! いやあ、僕そんなのとは無縁の人生だったから楽しみだよ」

 巧、ひたすら渋い顔。それに気づきながらもなお、二人はぺらぺらと思ってもいないことを話す、清々しいまでの虚無の時間が流れ始めた。帰りたい。だが、カルデアには面倒事が待ち構えている。前門の虎、後門の狼。同じ獣ならどちらがマシか。

 巧は、はああ、と深く長い溜め息をついて、鉛のように重い腰を持ち上げた。夜も深くなっている。ポケットに突っ込んでいたファイズフォンを取り出し、5821、と素早くコードを入力する。首を左右に振ると、ごきごきと鈍い音が鳴った。

 ロビンが、予想と同じくニヤニヤと笑いながら、巧に問いかけた。

「小便ですかい?」

「野暮用だ」

 用件だけ告げて、さっさと立ち去ろうとした巧の背に、ビリーが声を投げかけた。

「メイヴなら、ここを真っ直ぐ行った先にいると思うよ」

「――」

 振り向いて、焚き火を見つめる小柄な背中を見た。突き刺さる視線にもたじろがず、かつて悪漢王と呼ばれた少年は、ひらひらと手を振った。

「今夜は獣のにおいがする。気をつけてね、マスター」

「――余計なお世話だ」

 遠く響いた、エグゾーストノイズ。今度こそ巧は振り返ることなく、その場を後にした。

 

 

 ○

 

 

 目当ての人物はすぐそこにいた。

 バジンを走らせるまでもなく、歩いて数分の場所に、メイヴは何をするわけでもなく、一人で立っていた。茫漠と広がる夜の荒野を見つめる瞳に、乾いた月光が反射して、琥珀色の輝きが一層増している。巧は、黙ったまま数歩だけ近寄ると、真似るように押し黙りながら、同じく荒野に目を向けた。

「――もしかして、夜のお誘いかしら? マスター」

 振り返りもせずに、言った。

「そういうガラじゃないだろ。俺は」

「それもそうね。あなたみたいな唐変木は、その仏頂面がいちばん似合ってるわ」

「馬鹿にしてんのか」

「褒めてるのよ? これでもね。女王直々に褒められるなんて、光栄に思いなさい!」

「アホか」

 ばっさりと会話を切り捨てて、再びふたりは空を見上げた。寂れた風が、力強く吹いている。荒野の空に遮るものは何一つない。あるのは恐ろしいほどに輝く月と、無数に散りばめられた星屑の群れだけだ。天蓋のごとく空を覆い尽くすそれらに魅入られてしまったかのように、メイヴは微動だにせず、ただじっと空を見上げていた。巧は頭を掻くと、何を思ったか反転して近くのオ―トバジンに戻り、掛けてあった毛布をひったくると、メイヴの隣に並んだ。

 意識さえ向けないメイヴに、巧は無言のまま、腕の中の毛布を差し出した。メイヴはほんの僅かに一瞥して、いらない、と呟いた。

「腹壊すぞ」

「他ならともかく、わたしはそんな無様晒さないわよ。それに、夜はわたしの時間なんだから――。……用件はそれだけ? だったら」

「あのな」

 巧は、そこで言葉を断ち切って、幾分か柔らかい語調でゆったりと告げた。

「だったら、その腐った面をやめろ。鬱陶しい」

「――なに、それ。わたしは、別に」

 突き刺さる言葉に呆然としたメイヴが、ようやく顔を向ける。が、既に巧は背を向けて、止められた鉄騎の元へ帰っていた。不意に伸ばしかけた手を、震えながら下ろす。一体、あの言葉足らずが過ぎるマスターは、何がしたいのか。メイヴにはわからなかった。下ろした手は、小刻みに震えている。それはきっと、北米の乾いた風のせいではないだろう。

 ――割り切っている、つもりだった。

 今の自分ではない「メイヴ」が第五特異点の主だった頃。彼女は魔術王と名乗る男から、万能の杯――聖杯――を与えられたらしい。曰く、願えばどんな巨大な望みでも一瞬で手に入るという、垂涎ものの代物。けれどメイヴは誰もが手を伸ばすそれを、ただ金色に輝いているだけな杯としか思えなかった。元より全ての至宝は自分の物なのだから、聖杯とやらが自分の手にあるのも当たり前。それに、誰かの手によって叶う願いなんて、面白くも何ともない! わたしの願いは、わたし自身で叶えてこそ輝くのだから――。だからこそ、今のメイヴには信じられなかった。かつての自分が、あんな願いを叶えたことが。どんな気持ちで、「メイヴ」は無数の選択肢の中からそれを選んだのか。理解できなかった。自分の事は、自分が一番よく分かっているつもりなのに。

 コノートの女王。永久の貴婦人。無垢にして清楚。淫蕩にして悪辣。この世全ての勇ましき愛を、手に入れられる女。

 そして――たった一人の男に、とうとう生涯振り向いてもらえなかった、哀れな女。

 逃れようのない毒が、じわじわと爪先から、全身に浸透していく。らしくないのは分かっている。だが、自分自身だからこそ、我慢できない物もあった。俯き、唇を噛んでいるメイヴの目に、長く伸びてきた光が、低い轟音を連れて来た。弾かれたように振り返ると、そこにはメットを被る己がマスターが、上げたシールドの下から、じっとメイヴを見つめていた。

「……なによ」

「乗れ。帰るぞ」

 くい、と親指で後部座席を後ろ手で指して、男は何も言わずシールドを下げた。メイヴはしばし、透明な膜に映る自分と睨み合っていたが、やがて諦めて、雑に投げ渡された毛布を受け取って、唸る鉄騎の後部座席に座り込んだ。巧はそれを確認すると、スタンドを蹴り、グリップを握り込んで、アクセルを勢いよく開けた。

 ごつごつとした岩道を、オ―トバジンのタイヤが噛み締める。切り裂く夜気は冷たく、羽織ったコートの隙間を通り抜け、巧の体温を剥ぎ取っていく。しばらく無言のまま、指定されたアクセスポイントに向かって走り続けていると、不意に背中が叩かれた。振り返らず、なんだ。と呟く。

「……ひょっとして、ずっとわたしの後ろにいたの?」

「そんなに暇じゃない」

 素っ気ない男の返事から、メイヴはようやく、目の前の男が、弱音を吐くまいと堪えていた自分を、じっと見守っていた事に気づいたのであった。自分の恥部を見られたような感覚に、メイヴは頬を赤らめて、勢いよく巧の背中を引っ叩いた。いてえ! と響いた叫び声など無視してやっても構わない。相手はクー・フーリンでもないのに、まさか自分のあんな姿を見せてしまうとは。

 つまり、一生の恥でしかなかった。

 それなのに、男は不器用なまでに、知らない振りを突き通そうとしてくれている。それが何故か無性に恥ずかしくもあり、恨めしくもあり、――嬉しくもあった。

「―――もおっ! この、ばかっ! 大ばかっ! 無愛想っ! 猫舌っ!」

「暴れんなっ。振り落とされてえのかおまえはっ!」

 べちべちべち、と目の前のヘルメットをメイヴが叩く。巧の頭が、怒りに震える。しばらくしてから、女の甲高い笑い声があたりを包み、そこに男の憮然とした文句が重なって、それらすべてを低いノイズが持って走り去っていく。

 目撃していたのは月と、星屑と、荒野の風。二人と一騎はそれに気づかず、ぎゃあぎゃあ叫びながら疾走し続ける。

 何処までも遠く、残響が鳴り響いていた。

 

 



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メドゥーサ・アポイントメント・イン・ザ・ウルク

初期タイトル案は「はじめてのおつかい」でした


 

 

 いきなりドアが開かれて、響いたのはこの言葉だった。

「手を貸して下さい」

 アポも無しに突然そう言われてはいと頷ける程、乾巧は出来た人間ではなかった。というかそもそも、何に力を貸すのかという事さえ、明らかにされていない。そんなあからさまに怪しい依頼に、無類の不精者である巧が腰を上げる筈が無かった。嫌だ、と雑誌から顔も上げず、おざなりに返事を寄越す。長い沈黙。諦めて帰ったかと、再びページに敷き詰められた文字列に目を通そうとした瞬間、視界に映るものが猫舌対策を纏めた特集記事から、猫耳のついた黒いフードを目深に被る、紫色の少女――メドゥーサに切り替わっていた。

「もう一度だけ言います。手を、貸して下さい」

「他を当たれ」

 強張った声をばっさり切り捨てて、寝転んでいた身体をソファから起こし、少女の横を通って雑誌を拾う。そこには、古今東西に存在する猫舌の改善及び対処法が、胡散臭いぐらい事細かに記載されていた。部屋の本棚に突っ込んであった所を見た時は、何らかの作為的な悪意をひしひしと感じたが、一度目を通してみればなるほど、びっしり書き込まれた文章には、筆者の猫舌に対する並々ならぬ熱意が込められている。

 これはひょっとして、もしかするならば。

 巧は「もし」や「ならば」といったifの類を、なんとなく嫌っていたが、猫舌に関しては別だと自分を無理やりごまかした。随分と都合の良い好悪もあったものだが、自分くらいは都合良くあるべきだと巧は思う。

 そんなこんなで、今日一日は羅列されている方法を残らず実践する日と今決めたのだ。だから、胡散臭い頼みなどに関わっている暇など無いのだ。幼い少女の必死な頼み事よりも、己の猫舌治療の方に天秤を傾ける。それに対して、我等が乾巧は、何ら罪悪感を抱いてはいなかった。同居人の罵倒が鮮明に思い出されたが、沈黙をもって黙らせた。

 僅かな期待に胸を躍らせながら、ドアに手をかけた巧に、フン、と聞き捨てならない嘲弄の声が響いた。顔を顰めながら振り返ると、そこには明らかな悪意が籠った、齢に似つかわしくない、妖艶な笑みを浮かべた少女の姿があった。メドゥーサは、普通の子供なら泣き出しかねない巧の眼光に、微塵も動揺する事なく、口に手を当てていやらしく笑ってみせる。

「……何がおかしい?」

「いえ、別に。ただ、まだそんな迷信を信じる人間がいたなんて、不思議に思っただけです」

「迷信?」

 巧は、握られすぎて、しわくちゃになった雑誌を見た。表紙には、ヤクをキメた中毒者のごとく舌を垂れさせたトラ猫が、泣き喚きながら器用に「猫舌を無くそう」との旨を訴える姿がある。確かに、この表紙をデザインした奴の精神は疑って然るべきだ。だが、それと中身の真偽は別々だ。そんな巧の思考を読み取ったかのように、メドゥーサは言葉を続けた。

「確かに、そこに書いてある内のどれかは本物で、あなたのその、極めて救いようのない猫舌を治してくれるかもしれません」

「おい」

「ですが」

 メドゥーサは、そこで言葉を一旦切ると、打って変わり厳かな様子で続けた。

「その作業は、ただ時間を無駄にするだけではありませんか?」

 確かに、と巧は思う。目録に載せられた項目は、百や二百は下らない。というか、多過ぎる。正解に辿り着くより先に、逃れようの無い飽きが来るのではないか。と、巧の顔に過ぎった、僅かな不安を見逃さず、メドゥーサは更に追撃を続行する。

「そんなあなたに、耳寄りの情報があります。わたし達ゴルゴン族には、万病に通じる霊薬の製法が代々伝えられるのですが――その薬は、猫舌も治すことが出来ると言われているんです」

「……本当かよ?」

 嘘である。

 製法どころか存在すらしていない。大体そんな物が本当に継承されていたならば、姉のどちらかの宝具になっていてもおかしくは無い。少し調べれば分かること。しかし、神話や伝承などには欠片の興味すら見せない我等がマスターにとって、自分の言葉は充分信用するに足る物だと判断したらしい。露骨に明るくなった顔に、ほんの少しだけ罪悪感を覚えたが、必死で自分を鼓舞した。

 ここで怯めば、おそらく自分は、一生成し遂げる事が出来なくなる。

 メドゥーサは、気を抜けば震えそうになる腕を抑え、心を奮い立たせてから、小さな掌を巧に差し出した。

「――わたしのお願い、聞いてくれますか?」

 少しの沈黙。

 やがて訪れた返事は、望み通りのものだった。

 

 ○

 

 つまるところがただのおつかいであった。

 しかし、目の前で溢れ返る人の波に圧倒されて、巧は一瞬、猫舌の完治など放り捨てて帰りたいと願った。具材を大量にぶち込んだ大釜の湯気のごとく、雑種多様な気配が熱を持って渦巻いている。くん、と鼻を少し動かした瞬間、暴力的なまでに混沌としたにおいが、鼻腔を激しく殴りつけてきた。花。酒。肉。泥。

 それもそのはず、

 何故ならここは、世界最古の防衛都市。賢なる王のお膝元。かつて魔獣戦線と呼ばれた街――ウルクなのだから。

 勿論、魔獣と共に暴挙を振るっていたゴルゴーン――もといティアマトは滅ぼされたと同時に、特異点は修正されたため、騒々しい活気の中に潜んでいた、あの凄まじいまでの死臭は何処にも感じない。ただただ、純粋な笑顔と生気で満ち溢れている。

 特異点での記録は、世界には残されない――改めて、ロマンの言葉の意味を実感する。ここで暮らす人々は、ティアマトの事など覚えてはいないし、短いようで長い間、共にこの街で暮らした記憶など欠片も残していない。だが、と巧は思う。それでも確かに守れた物はあるのだ。例え、誰から忘れ去られたとしても。しばらく郷愁に駆られていると、背後からコートの裾を引っ張られた。無視していると、くいくい、と控え目だった勢いは段々と強くなっていく。このままいけば引き千切られる。そう確信した巧は渋々、何だよ、と呟きながら後ろを振り返った。メドゥーサは、いつまでも棒のように突っ立ったままの巧を、じれったく見つめていた。

「何ぼーっとしてるんです。目的地は言いました。さっさと行きましょう」

 フードの奥で、紫紺の髪を靡かせた少女は、そう語調を強めながらも、決して自分から前に踏み出そうとはしない。怯えきった子猫のごとく、人混みから隠れるように、巧の裾をがっしと掴んで縮こまっている。

 何なんだ、こいつ。

 巧は、振りほどこうと、右腕の筋肉を緊張させたが、少女の噛み締めた唇が視界に入り、ゆっくりと弛緩させていった。

「――なあ」

「はい?」

「何で、俺なんだ? 別に、おまえの姉妹の誰かでも良かっただろうが」

 メドゥーサは、巧を横目でじっと見ると、控え目に溜め息をついた。

「なんだよ、その態度。間違っちゃいないだろ」

「間違ってます。そもそもわたしの個人的な事情に、姉様達を駆り出して、ご迷惑を掛けるわけにはいきません。大人になったわたし達は論外ですし。となれば、残るはマスターであるあなたしかいないでしょう」

「あいつ……マシュは」

「マシュさんは休暇中の身ですよ? こんな雑事で、せっかくの休日を潰してはかわいそうではありませんか」

「俺はいいのかよ」

「はい」

 巧とメドゥーサはしばし視線をぶつけ合わせていたが、やがて根負けした巧がふいと視線を逸らすと、少女はどこか、得意気に鼻を鳴らして胸を張ってみせた。往来を行きかう人々は、そんな二人を兄妹とでも勘違いしているのか、生暖かい空気がじんわりと伝わってくる。その視線に耐えきれず、巧が嫌々ながら人混みに足を紛れこもうとした瞬間、ぐいと思い切り裾を引かれた。

「今度は何だ!」

「あなたがはぐれてしまわないよう、ちゃんと握っててあげますからね。心配は要りません。末妹ですが、これでもわたし、しっかり者なんです」

「あのな……」

「さ、急ぎましょう。時は金なり、です」

 急げと言っておきながら、一歩も前に踏み出す事は無く、じっと巧を見上げている。連れていけというのか。視線でそう語れば、少女がこくり、と頷き返してきた。前途多難だ。思わず空を見上げる。清々しいほどの青空が、広がっていた。

 

 ○

 

 歩けども歩けども、露店と人の姿が尽きることはない。所狭しと敷き詰められた茣蓙の上に広がる、食品。家具。日用品。装飾品。数え始めればキリがなかった。どこまでも続く土色を覆い隠すように並べられたそれに、巧はほんの数秒で飽きてしまって欠伸を洩らしているが、メドゥーサにとっては違ったらしい。お気に入りのおもちゃを目にした子供のように、俯かせた顔をきょろきょろと動かし、全身から好奇心を発していた。気になる方向へ倒れ込みそうになるのを止めるのは一体誰だと思っているのか。

 渡された地図を見つつ、ふらふらどこかへ行きかける少女を引っ張り、やがて疲弊した巧の眼が、ひと際小さい屋根付きの店を捉えた。店前に立てかけられた板の表面には、意図不明の装飾品の数々が引っかけられている。地図に書かれた特徴と同じ。多分、あれに違いないはず。伝えるために後ろを振り返ると、少女は通り過ぎたばかりの、バターケーキの露店を、食い入るように見つめていた。

「おい」

「……」

「おいって!」

「――はっ。いえ、何でもありません。別に、食べてみたい、などとはひと言も言っていませんから。本当に」

 じゅるりと口元を拭う姿に、説得力は泣きそうになるぐらい無かった。

「ほんとに、ほんとになんでも無いんですからっ」

「わかったっ。わかったから。まず涎拭け」

 必死に否定するメドゥーサに、巧はうつろに返事を返して、ポケットの中で化石のように眠っていたハンカチを手渡した。睨みつつ、幼児のように従順にそれを受け取ったメドゥーサは、なんでもないですから、としつこく呟きながら、巧が見つけて来た店の外観を観察している。

「あれだろ」

「……ええ。おそらく。位置的にも、店の特徴にも、あそこで間違いないでしょう」

 まるで、その場では少女以外には見えない誰かに納得させるかのように、メドゥーサは深く低く呟いた。巧は、何処か他人事のようなそれに疑問を抱いたが、またぞろ面倒事に首を突っ込みたくないと、黙っていた。

「……ありがとうございます、マスター。わたし一人では、ここに辿り着けませんでした」

「ずっと食い物に張りついてたかもな」

「……ひと言、余計です。そんなのだから猫舌無愛想男って影で呼ばれるんですよ」

「んなもん言わせとけ。……で、どうする」

「どうする、とは?」

「ひとりで行くのか? おまえ、あいつらが怖いんだろ」

 巧の疑問に、メドゥーサは石にされたように固まった後、ぎぎぎと油を注し忘れた工具よりも鈍い仕草で、渋い顔をしている巧を見上げた。

「なんだよ」

「……気づいて、いたのですか?」

「気づかないわけ、あるか?」

 いくら恐竜並みの感覚しか持たない巧でも、端々の行動と言動からさすがに、少女の抱いている人間へのかすかな恐怖心は察せられた。そういえば、ウルクで会った頃の少女も、人間が怖いと呟いていた気がする。そう考えた瞬間、今の少女の姿に「アナ」の幻が重なって、少しだけ、巧は唇を歪めた。

「……で、どうするんだ。一人で入るのか、また俺がついてくのか」

 思わず見せた逡巡を隠すように、問う。メドゥーサは、しばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、几帳面に畳まれた地図を開き、その中の何かを確認すると、意を決したように頷いてみせた。

「これは――多分。わたし一人で、行かなきゃならないと思うんです」

「そうか」

「改めて、ありがとうございます。マスター。ここまでついてきてくれて」

「よせ。ガキが何度も頭下げんな」

「本当に感謝してるんですよ? これでも」

 巧の、どう反応を返せばいいのか分からないといいたげな表情に、メドゥーサはフードの下から、控え目に笑顔を向けた。そして、震える足を鼓舞させて、ゆっくりと店に歩を進め始める。背中には、極めて雑に見守る視線。大丈夫、と少女は心の中で頷き返すと、再び地図を開いて、一番端に小さく書かれた、何行かの文章に目を通した。

 ――「アナ」の残した、文章を。

 

 ○

 

 売り切れていた。

 石化したように固まったメドゥーサを引きずり、二人は建物の階段に座り込んでいた。尋常じゃなく凹んでいるメドゥーサの傍で、巧は我関せずと、自腹で買ったバターケーキをもぐもぐと頬張っている。男の蛮行に気づきながらも、少女は何をするわけでもなく、ただ行き場の失った感情をどうすべきか、ずっと持て余し続けている。

 かつて花冠をくれた老婆に、お返しがしたい――という旨で、「アナ」が最後に残した文章は書き連ねられていた。もちろんメドゥーサの頭の中にも、かつてウルクで過ごしてきた日々の記憶はある。といっても、それはほとんど他人事に近く、あの花屋の老婆と顔を合わせたからといって、あの世界のようにまた親交を深められるとは限らないし、そもそもあちら側が覚えている筈が無いのだ。だからこれは誰かの自己満足に過ぎず、例え果たされなかったからと言って、世界が滅亡するわけでもない。ただ、一人の少女が残した想いが無常に消え去っただけの話。

 それが、どうにも我慢ならなかった。

 自分がいつまで経っても引きずってばかりいたからだ――と、メドゥーサは今になって思う。人間に対する、拭い切れない恐怖心。いつか、後戻りが出来なくなるほどに、誰かを裏切ってしまうのではないかという、恐れ。

 この世でたった三人きりの姉妹で、いつまでも穏やかに静かに、暮らしていたかった。それだけあれば、充分だったのだ。だが、世界はそれほど狭くは無かった。カルデアに来て、人間がそれほど悪くはないことを知った。姉妹達との繋がりにも劣らない、暖かな何かがある事を知った。――知ってしまったのにも関わらず、未だに自分は踏み出せずにいて、その末路がこれだとすれば、なるほど確かにお笑い草である。

 多大な自己嫌悪に浸っていると、近くにあった気配が遠のいていくのに気づいた。マスター。確かに、いきなり連れて来られて、散々連れ回されたかと思えば、何もかも無駄足でしたとなれば、怒ってしまうのも当然だ。メドゥーサ、更に深く蹲る。数秒ほどそうしていると、不意に、甘ったるい匂いが、そろそろと忍び寄ってきた。顔を上げても、誰もいない。横に気配。そちらに顔を向ければ、二つもバターケーキを抱え、胡坐を掻いて座っている己がマスターの顔があった。

「ほら」

 いきなり手渡されたバターケーキを、どうしていいか分からず、マスターの顔を見る。しかし巧は、喜色満面の笑みを浮かべながら、バター色の生地を頬張っている。猫舌で、甘党。つくづく子供っぽいその姿に、メドゥーサは気が抜けたように笑った。そして、自分も恐る恐る口に入れてみせる。柔らかくとろけるような舌触りと、程良く抑えられた甘味。美味しい。たちまち夢中になって食べているうちに、隣に座っていた男が、ぽろりと言葉を零した。

「あいつもな、人間が怖いって言ってた」

 動きを止める。あいつ――十中八九、アナの事だろう。止まった少女にも構わず、巧は食いかけのバターケーキを見ながら話を続けた。

「人間なんて大嫌いだって。――けどな。最後には、婆さんにさよならを言うことが出来なかったって、言ってたよ。あいつは」

「マスター……」

 巧は今でも鮮明に思い出す事が出来る。星空の下で話した、あの瞬間を。人間なんて嫌いだと言い張っていた少女が、何処にでもいる平凡な誰かとの別れを、最期の最期まで惜しんでいた事を。ちっぽけな花飾りを抱いて、温かいと言っていたあの少女の姿を。

 だから、

「……」

 それ以上、言葉が見つからなくて、巧はそれっきり黙り込んだ。こういう時、自分の語彙の少なさが、心底恨めしくて仕方ない。歯痒い気分に見立てて、バターケーキを口に放り込んだ。

「わたしも……」

 黙っていたままの少女が、ぽつりと呟く。巧は、何も喋らず、ただ耳を傾けている。

「わたしも、人間との別れを惜しいと思えるように、なれるでしょうか?」

「――さあな。そういうのは、自分で決めるもんだろ」

 それだけ言って、座り込んでいた階段から、巧は立ち上がった。ズボンについている砂を払って、ファイズフォンを開ける。まだ、時間はある。

「おい、行くぞ」

「? ……何処に?」

「プレゼント探すんだろ。あいつだって、全部回ったとは限らねえんだ」

「ですが……」

「いい加減ウジウジすんな。置いてくぞ」

 そう吐き捨てて、巧は歩き始めたが、歩調は緩やかだった。駆け出したメドゥーサは、マスターの一見険しい言葉の中にある、隠し切れない優しさに胸を温かくし、同時に彼を騙してしまった事に対して、ひどい罪悪感を覚えた。彼は自分を気遣ってくれたというのに、自分は騙した事をずっと隠し続けている。嫌われても仕方ない。それでも、謝りたかった。

 意を決して、話しかけようとした瞬間、先んずるように巧は言った。

「してねえよ。そんな約束」

「え――」

「だから、してねえよ。俺がおまえに勝手についていった。それでいいだろ」

 信じられない物を見たかのように立ち止まるメドゥーサの手を強引に取って、巧は照れを隠すように、ずんずんと乱暴に人を掻き分けながら歩き続ける。引っ張られるだけだったメドゥーサの足が、ゆっくりと変化していき、次第にバラバラだった二人の歩調が、ぴったりと合わさっていく。

 やがて、二人の姿は風に揉まれるようにして、雑踏へと消えていった。

「アナ」の最後の願いが果たされたのかは、二人だけが知っている。

 

 

 



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サーカムスタンス・ジャンヌ・ダルク・オルタ

 

 

 咆哮と同時に、肉厚の刃がファイズエッジを吹き飛ばした。

 じん、と重苦しい衝撃が腕を伝わる。舌打ち。得物を失った巧――ファイズを、獣人の剥き出した粘っこい悪意が包み込む。横殴りに振るわれた鈍器をぎりぎりで躱し、がら空きになった脇腹に、左のフックを叩き込んだ。分厚い肋骨を折る鈍い音が、拳を伝わって骨を這い上がる。しかし獣人は怯まず、下段から、掬い上げる一撃。かろうじて反応した反射神経が、倒れ込むように身体を仰け反らせた。

 凶悪な風音が目の前を通り過ぎたと同時に身体を引き戻し、体毛に覆われた肩を引き寄せ、鳩尾に膝をぶち込む。苦悶の声と同時に吐き出された反吐を避けず、突き出された顔面に、追撃の右。豪速で振るわれたそれは、降伏の意思を示す事すら許さず、獣の頑丈な顎を打ち砕き、鋭い牙をへし折った。

 思ったよりも鈍い手応えに、後一歩だと判断し、ファイズはバックステップ。痺れる右を軽くスナップしながら、意識と戦意を失い、心体共に揺れている敵の土手っ腹に、容赦のない蹴りを入れた。内臓ごと潰す気で放った一撃は、完膚なきまでに、相手の戦闘能力を叩き潰した。

 崩れ落ちた敵を最後まで見ず、ファイズは更なる敵を求めて、刃矢が飛び交う戦場を駆け始める。

「は、はは、ははははは――!」

 流れる視界でふと目についたのは、煮え滾る炎で獣人の群れを焼き払う、漆黒の甲冑を纏ったサーヴァント――竜の魔女、ジャンヌ・オルタの姿だった。嗜虐の哄笑を奏でる少女を、見なかった事にしようとして、思わず動きを止める。背後に微かに見えた、弓をつがえる獣の姿。猶予はない。ファイズは、足元に落ちていた取っ手の折れている槍を蹴り上げると、束の間宙に浮かんだそれを掴み取り、ロクに前も見ずに投げ放った。

 人智を超えた膂力を生み出すフォトンフレームが、単なる一投を高速の銃丸へと変貌させる。即席の弾丸は、ジャンヌの耳元を掠めていくと、一直線に敵の喉仏を刺し貫いてみせた。

「……」

 断末魔と共に大量に噴き出した血液をモロに受け、ジャンヌの白銀の髪が、鮮やかな紅色に染まっていく。やがて突き刺さる、抑えきれない激怒の視線。常人なら血管が沸騰したのち粉々にブチ切れかねないその視線を受けてなお、巧は、鋼鉄の仮面の下で、どこ吹く風といった面をしていた。良い度胸である。

 ジャンヌはぷるぷると口端を震わせながら、どうしても我慢ならない存在を目の前にしているような、憤怒の表情を浮かべていた。

「アンタ――さっきのわざとでしょ」

「気のせいだろ」

 木を鼻で括ったような巧の言葉に、ジャンヌは青筋を立てつつ、抑制するような口調で話し続ける。

「へえ。という事は、顔のすぐ真横を狙った事も、声を掛ければ済んだのに槍投げてきた事も、ドロドロの血塗れにした事も。全部、わたしの気の所為ですか」

「ああ」

 巧、ひたすら適当な返事。ぷつん、と何かが切れる音が、唐突に響く。

 臨界点を越えたジャンヌは、万人が見惚れるような、聖女の如き微笑みを浮かべた後、

「――ンな訳、無いでしょうがっ!!」

 ほとんど無拍子で放たれた旗の横薙ぎが、後方からファイズに飛びかかろうとしていた獣人の脇腹をしたたかに打ち据えた。衝撃に堪らず標的が地面へ叩きつけられる瞬間、振り向いたファイズの蹴りが顎を捉え、再び宙に浮かんだ死に体を、ジャンヌの上段からの振り下ろしが迎えた。

 間髪入れず、激しい殺気。無言で飛び退いた瞬間、二人が今居た場所に、鉄矢の群れが降り注いだ。野生の獣人には有り得ない、明らかに組織立った行動に訝しむも、ひたすら降り注ぐ矢の雨が思考をこそぎ落としていく。避けながら、彼我の距離を推察。一方的にやられるのは、一番気に喰わなかった。

 だからこそ、

 真正面から、潰す。

 ファイズは即座に態勢を立て直したと同時に、ろくな防御もせず、弾丸のように低姿勢で駆け始めた。一歩踏み出すごとに、弾かれた土塊が宙を舞い、黄金に光る眼光が歪な流線を刻む。手負いの獣の如き獲物を仕留めんと、再度死の雨が放たれた。だが、ファイズは止まらない。串刺しになる騎士を夢想し、獣達の眼に残虐な光が宿った瞬間、

 ――全てを、紅蓮が包み込んだ。

 焼き尽くされた矢の残骸が、灰燼と化して宙を舞う。煌々と燃え盛る炎の向こうに見えるのは、心底嫌そうな顔をしながら、己が力を存分に奮うジャンヌの姿。掌から吐き出される業火の壁が、渦巻きながら哀れな獲物達目がけて押し寄せる。

 その狭間で、

 

 

                        ――『Start Up』――

 

 

 断罪の鐘が、静かに終わりを告げた。

 凍りついた炎の壁。それを、リストウォッチ型コントロールデバイス“ファイズアクセル”を換装したファイズが、超高速形態――アクセルフォームと化して突き破った。銀色のシルバーストリームが、空中に残影を残す。まるで、銀色の流星の如く。五感は音速を突き抜けた時から消え去り、戸惑う意識すら追い抜いて加速。この瞬間、ファイズはこの世の誰よりも孤独になった。無数の標的を、鮮血と炎が入り混じったレッドアイが、静かに補足する。十秒あれば、充分だった。ファイズは更に加速を深め、一気に跳躍。大地を叩き割り、宙で旋転を繰り返した結果、数えるのも馬鹿らしくなる程のポインターが、空間その物に刻まれた。右足に、電撃の意思が込められた。逃がしはしない。赤く輝く右足に印されたΦの刻印が、ファイズに呼応するかの如く、光り輝き、

「――――――――!」

 裂帛の意思と共に、解き放たれた。

 ファイズ、必殺の一撃。

 ―――アクセル・クリムゾンスマッシュ。

 刹那の瞬きすら許さない連撃が、獣人の胸を一瞬で貫いた。注入されたフォトンブラッドが細胞を食い尽くし、苦悶の叫びすら上げず、灰の山がひたすら積み重なっていく。

『――3、――2、――1、――Time Out』

 やがて、『Reformation』の電子音と共に、開かれていた胸部装甲――フルメタルラングが閉じ、銀色の身駆が赤く遡っていく。静かに降り立ったファイズの後方に、最早生命の吐息は無かった。

 

 

 ○

 

 

 煤けたベルトからファイズフォンを抜き取った瞬間、赤色の白光が全身を包み込み、ソルメタル製の装甲が解除される。その下の巧の顔は、これ以上無い程に、ゲンナリと歪んでいた。いくら超金属の装甲を纏っているとはいえ、自ら高熱の炎の壁を突き破れる程、開き直れるわけではない。そもそもから言って、巧は度を超えた極度の猫舌である。

 ひりひりと痛む舌に、顔を顰める。それを見たジャンヌが、ざまあみろと、あからさまな嘲弄を白皙の相貌に浮かべた。

 弓なりに曲がる黄金色の瞳を睨みつけると、逃れようのない確信を得たように、巧は呟く。

「おまえ……わざとだろ」

 苦虫を噛み潰したような問いに、ジャンヌ、それはもう良い笑顔。放っておけば、スキップでもしかねない程の機嫌の良さで答えた。

「あら。それこそ気のせいです。サーヴァントが、マスターに危害を加える訳が無いではありませんか。ええ、わたしは、とおっても、貴方を大事に思ってますから」

 他人の不幸は蜜の味でしかなく、更に言えば、気に喰わない奴の不幸は人生唯一の愉悦である。ジャンヌが欠片も思っていない事をほざきつつ、ニコニコ満面の笑みを浮かべているのを見ると、毒すら吐きかねない形相で巧は告げた。

「ヘラヘラすんな。気持ち悪い」

「性根が安っぽいと、挑発まで安くなるのですね。ふふふ。今のアンタが何を言っても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないのよっ!」

 巧の鋭い視線に動じず、ジャンヌは揺るがない価値を誇示するかのように、高らかに笑った。放っておけば、手の甲を口の前に持っていかねない。正直言って、死ぬほどムカつく。

 おーほほほほ。延々と響く高笑いに、巧はとうとう我慢が出来なかった。

「バカ」

「……何ですって?」

「バカだって言ったんだ。バカ、バカ、バーカ」

 一瞬固まったジャンヌであったが、自分が身体的にも精神的にも有利な位置にある事に気付き、吠え返そうとした口を噤んで、今にも剥がれそうな余裕をぺたぺたと張り付けた。

「ふん。精々ワイバーンのようにみっともなく吼えてなさい。お似合いですよ」

「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ!」

「……あのね、アンタガキじゃ」

 あるまいし、と言い掛けたジャンヌの精神の均衡を、巧の鋭い舌鋒が易々とぶち抜いていった。

「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ! 突撃バカ女」

「――あんですってえっ!?」

 一瞬で沸騰したジャンヌに、もはや優位に立つ者特有の驕りは無い。それを目敏く確認した巧は、とどめを刺すように、はっ、と鼻で笑ってみせた。

「突撃バカって言ってんだ。猪みたいに所構わず突っ込みやがって。まさか、体型までそっくりじゃ無いだろうな」

「い、い、いのっ、いのしっ!」

「いや、猪に悪いか」

 その言葉に、かろうじて保たれていた精神の糸がブチ切れた。

「――っの、バカ無神経っ! バカ無愛想っ! バカ猫舌っ!」

「バカ、バカ、バカ、バカ、バカバカバカバカバカ!!」

「バカ、バカ、バカ、バカ、バカバカバカバカバカバーカっ!!」

 子供でももう少し頭を捻る。

 ともすれば取っ組み合いにまで発展しかねない二人の間に、背後からそっと忍び寄った痩身の男が、人好きのする笑顔を浮かべながら挟まった。

「まあまあ、お二人さん。そこらで一旦打ち止めにしときましょうぜ。帰りが遅くなりゃ、あの怖ぁいご婦人に怒鳴られまさァ」

 男――新宿のアサシンは、そう二人に告げる。暫しアサシンを挟んで野良犬のごとく睨み合う二人であったが、やがてお互いがひどく不毛な争いをしていた事に気づき、不満たらたらな表情のまま渋々引き下がった。それを確認したアサシンが、仕切り直すように掌を合わせた。

「さっ! 用事は済んだんだ。帰って仲良く酒でも酌み交わしましょうや。ひひひ、拳闘の後に飲む酒は格別だからなあ。楽しみだ」

「何馬鹿げた事をほざいているのですか? 貴方達と食事を共にするぐらいなら、便所隅の鼠と仲良くした方がまだマシです」

「ツレないお嬢さんだねえ。マスター。あんたから言ってやって下さいよ。俺ならともかく、懐かれてるマスターならまだ芽があるでしょ」

「はあっ!? 誰がこんな情けない猫舌男にっ! 大体っ、さっきの有様を見てどこをどう見れば懐いてるように――!」

 騒ぐ二人を余所に、巧は殆ど第六感に近い何かで、突き刺さる害意を感じていた。獣のように荒れ果てた粗雑な殺意ではなく、明らかに精錬された、戦士の殺意。だが、何処にあるのか分からない。周囲を囲む木々の群れが風にそよぐ度に、殺意は蜃気楼のように気配を消す。感覚を尖らせていく。握り締めたファイズフォンが、音を立てた。

 そして、影。

 無理だ。

 間に合わない。

 はためく襤褸切れが視界の端を横切った瞬間、巧は目の前の黒い背中を蹴倒していた。相手が戦車砲の直撃にすら耐えるサーヴァントだという事は頭から消え去っていた。後方からの突然の衝撃にもちろんジャンヌは反応出来ず、無様に顔面からこけた。熱した怒りも度を超えればかえって冷める。ただ、冷たい殺意が脳髄を支配した。立ち上がって振り返ったジャンヌの眼に躊躇の色はなく、この瞬間、彼女はこれ以上ない程にキレていた。

 そして、眼に入ったのは、嘲笑の姿でも無ければ、激怒の姿でも無く、

 自分を庇い、内臓を抉られ、片身を半ば無くした己がマスターが、糸の切れた人形のごとく倒れ込む姿だった。 

 

 

 ○

 

 

 熱々のお湯を入れたコップが、長い手足を生やして追いかけてくる夢を見て、思わず巧は布団から上体を起こした。自分の荒れた呼吸が無性に腹立たしく、同時に、あの光景が夢だったことにたまらなく安堵を覚えた。クソ、と呟き、再び横になる。ひりひりと、僅かに痛む脇腹に、自分がどうしてここにいるのかを思い出した。どうやら腹を抉られて意識を失った後、医務室に運ばれてしまったらしい。すん、と動かした鼻に、医務室特有の薬品臭い香りが漂う。それにしては、不格好に包帯が巻かれている、自分の腕がやけに気になった。

 まあ、いいか。

 手持ち無沙汰なまま、しばらく天井を見上げていると、やがて扉が開かれる軽い音が響く。そして、

「――頭は冷やせましたか」

 時間が凍った。

 巧の身体に降り注いだのは、言葉の隅々を絶対零度で数時間凍えさせたような、硬く鋭く容赦の無い女の声だった。巧は、一瞬で声の主に思い当たると、思いっきり顔を顰めた。うんざりだ。あからさまなそれに気づいているのかいないのか、声の主――ナイチンゲールは、気丈な表情を動かさないまま、かつかつと大きく靴音を立てて寝転んだ巧に近寄った。

「前線に出撃するのは、確かに許しました。しかし、無謀まで許した覚えはありません。勇気と蛮勇を履き違えば死ぬ――そう何度も教えた筈ですが。司令官」

「……」

「油断は傷を生み、傷は病を呼び、病は死を引きこみます。何も、一度も傷つくなと言っている訳ではありません。戦いには、必ず犠牲と死傷が付いてきます。心身共に傷つかぬ争いなど、この世には存在しません。ですが、無為な犠牲は最も忌避すべきです。わたし達サーヴァントは死んでも次はありますが、人間である貴方に――次は無いのですから」

「……ごちゃごちゃ言うだけなら帰れ。眠れねえだろ」

「司令官」

 巧は布団を引き上げて潜り込むと、外界の全てをシャットアウトし、僅かに通る明かりが照らし出した、灰色の壁を見つめた。

 次なんて無い。それは、巧自身が一番よく分かっている事だった。刻々と時間が過ぎる度に、砂時計のように緩やかに減っていく己の寿命。朝を迎える度に自分の掌が灰と化していないかを確認しては、安堵する日々。抗い切れない苦痛よりも、優しく流れ落ちていく灰の方が何よりも恐ろしかった。誰よりも近くに死という物は忍び寄っていて。それは、ふとした瞬間に巧にすり寄って、こう囁くのだ。次はお前の番だと。何も為せないまま、呪われて死んでいくのだと。

 だからといって、それが、誰かを助けない理由にはならなかった。

「――もう、いいから。俺のことはほっとけ」

「司令官……」

 張り詰めたようなその声色に、ナイチンゲールは何かを言おうとして、止めた。よく分かっていた。真に確固たる信念がある者が、他人の言葉で揺らぐ筈が無いのだ。かつて戦争で死んでいった、あまりにも無力で、誰よりも勇気のあった戦士達のように。止める為には、それこそ殺す以外に方法は無い。彼女は自分を棚に上げて、はあ、と溜息を吐くと、思いの外柔らかな口調で告げた。

「……とにかく、しばらく安静にして、睡眠をきちんととっていれば、貴方なら数日で回復するでしょう。ただし、それなりに重傷ですから、しばらくはレイシフトは禁止します。抗議はわたしが黙らせます。どんな正論が出てきても、必ず黙らせます。わたしの患者に手出しはさせません。何を以ってしても。――それで構いませんね」

「願ったり叶ったりだ」

 ふん、と鼻を鳴らした巧の背を見て、ナイチンゲールは無意識に笑みを浮かべた。そして、弛んだ頬を触りながら出て行こうとした彼女に、巧は振り向く事無く尋ねた。

「これやったの。おまえじゃないだろ」

「――ええ。貴方が運ばれてきた時には、既に。恐らく彼女でしょう」

「……だったら、一つ頼みが」

「嫌です」

 望みをばっさりと切り落とされた巧は、身体から不平を垂れ流し始めるが、ナイチンゲールは意にも介さない。なんでだよ、と響いた言葉に、彼女は力強く答えた。

「それは、自分で伝えて初めて、形になる物ですから」

 今度は笑顔を浮かべる事なく、そして、ナイチンゲールは医務室を後にした。

 

 

 ○

 

 

 明かりの消された医務室は、隙間なく暗闇で塗されている。それでもその闖入者は、まるで昼間に出歩いているかのように、迷いなくベッドに歩いていく。やがて立ち止まり、静かに吐息に耳を潜ませた。乱れが無かった事を確認すると、密かに安堵のため息を吐き、闖入者がそのまま何事も無かったように出て行こうとした瞬間、巧は寝るフリを辞めた。

「――おい」

「―――ッ! ―――ッ!」

 本気で驚いたのか、漏れ出そうとした悲鳴を抑えようと躍起になっている様子が、暗闇から伝わってきた。しばらく待っていると、やがて落ち着いたのか、普段とは比べ物にならない程の小声でジャンヌは怒鳴った。

「アンタ、起きてるんなら言いなさいよっ! ほんっと悪趣味な奴ね」

「おまえこそ、ノックぐらいしたらどうだ? そっちの方が趣味悪いぜ」

「アンタね――じゃなかった。そうよ、そう。こんな場所に来てまで、貴方と愚痴愚痴言い合ってる暇無いのよ。わたしにはっ」

「おまえから吹っ掛けて来たんだろうが。大体、こんな時間に何しに来たってんだ?」

 妙に高いテンションのジャンヌに、巧が平素通りに話しかけた。ジャンヌ、行き場を無くしたかのように凍りつく。急に言葉数が少なくなった事に何の疑問も持たず、巧は布団に包みこまれながら、ふあと大きな欠伸をした。

「あ――えと」

 ジャンヌは激しく動揺しながら、どうにか筋の通った理由を探そうとしたが、肝心な時に限って脳味噌は役目を果たさなかった。思い浮かぶのは罵倒と痛罵と毒突きばかり。これでは突撃女とバカにされたって文句は言えない。ただ、気に喰わない男が自分を庇って内臓を抉られ医務室に運ばれていった瞬間が頭に焼きついて離れないから。という極めて自分らしくない理由を正直に話すぐらいなら、死んだ方がマシだった。幸いにも、男は少女の動揺の裏に隠れている真意を見抜ける程、人の機敏に目敏い訳ではなく、ただひたすら眠たそうに目を瞬かせている。

「そうっ! その、何で来たかってのはね。――そうよっ。わたしはアンタを、その。……見下しに来てやったのです」

「はあ?」

「サーヴァントをわざわざ庇って馬鹿じゃないのってアンタに言いに来たのよっ! わたし達サーヴァントは死んでも座に本体さえあれば、幾らでも復活する事が出来るのですよ? それに、カルデアでは霊基だけを現地に送り込んでいるから、死んでも別に問題は無いのに――それを、貴方は」

 フラッシュバック。撒き散らされる鮮血。飛び散る臓物の破片。何かが抜け落ちたように倒れ込んだ身体。命が亡くなる瞬間など、数え切れないほど見てきた。かつてジルに作られた、自分ではない自分――復讐の裁定者だった頃の記憶は、男の様相などよりも遥かに血と痛苦に塗れていた。だから血生臭い光景にはとっくに慣れていた。はずなのに。

「――とにかく、あんな真似は二度としないでくれる? 目の前で血反吐を吐いて死なれるのは、心底迷惑でたまりません」

 こんな言い方しか出来ない自分が、恨めしい。それでもどうしようもなかった。暗闇で相手の顔が見えない事を、心の底から安堵する。そのまま早歩きで立ち去ろうとしたジャンヌの背に、案じるような巧の声がかかった。

「おまえだろ。これ、やったの」

 眼には見えないが、何を指しているのかはすぐに分かった。怒りと後悔と歓喜と諸々が入り混じる複雑な感情を持て余し、血まみれになりながら無我夢中でやった応急処置だ。一度もやってみた事は無かったが、幸いにも大本になった聖女サマはそういった手当はお手の物だったらしく、多少は手間取った物の、概ね水準の出来ではあったような気がする。ただそれも、この医務室に陣取る赤色の婦人には遠く及ばない物だ。

「何。文句でもありますか?」

 当然、文句のひと言でも飛んでくるかと思った。

 ――が。

「――ありがとう」

 その言葉に、今度こそジャンヌは崩れ落ちそうになった。

 この男は、この男は、この男は――。

 その瞬間、ジャンヌは目の前の男を焼き尽くしたくてたまらなくなった。身体が熱く煮え滾っている。炎の波が一気に押し寄せて来たような感覚だった。かつて、言ったあの言葉――地獄なら一緒に堕ちてやるとほざいてみせたこの男の魂を、自分の物にしたくてたまらない。それこそ、全てを敵に回してでも。身の底に焼きついて離れない、復讐者ゆえの破壊衝動。それを必死に抑えて、ジャンヌはばかじゃないの、と震える声で呟いた。そこが限界だった。

 ばたん、と勢い良く閉められた扉に呆気に取られながら、巧は礼を言ったにも関わらず、急に不機嫌そうになったジャンヌに、女に対するどうしようもない不可解さを感じ、布団に潜り込んだ。元から疲れていたのか、たちまちすうすうと寝息を立て始めた巧は、明日以降のジャンヌ・オルタがどのような態度を取ってくるのか、まるで分かってはいない。起きている時はいつも不機嫌そうに歪められている眉は、ありのままの姿になっていた。

 願わくば、彼が明日も良い夢が見られることを。

 

 

 



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ジャック・ザ・リッパー・ウォント・トゥ・スポイル・イット

 

 

 ジャック・ザ・リッパーは暇を持て余していた。

 未成熟な幼い身体つきを覆い隠している、擦り切れた黒い外套からちらつく足取りは、自分の興味を惹いてくれる物を絶え間なく探しているせいか酩酊者のように頼りなくふらついている。あまりの退屈さに湧き出る欠伸をぐっと噛み殺し、浮き出た涙を拭う様はどこからどう見ても、かつて19世紀のロンドンを震撼させた伝説の殺人鬼――切り裂きジャックとは何の関係のない幼い童女にしか見えない。それはジャック・ザ・リッパーという英霊の霊基に“誰でもあって、誰でもあり”、“誰でもなくて、誰でもある”という極めて複雑怪奇な可能性が秘められているからなのだが。

 それはさておく。

 平素通りの彼女ならば、カルデア内に設置されてあるレクリエーションルームをうろつき回っているか、おかあさんを探し回るか、ナーサリーやサンタ・オルタ・リリィあたりと一緒にいるのだが、今日はどれにも食指が動かなかったらしい。これまで持て余した事の無い退屈への処分に対して、悩ましげに眉を歪めていた少女の顔が、唐突に華やいだ。水子の集合体である彼女たちの精神年齢はほとんど子供のそれに近く、遊び場と友人以外で暇を潰せる場所といえば、「おかあさん」であるマスターの自室しか思いつかない。そして確か、かなりの無精者である「おかあさん」は、この時間帯はまだ寝ぼけているはずだと彼女たちは記憶していた。

 つまり、胎内に帰る事が出来る。

 そうと決まれば話は早く、行先にあてが無く頼りなかった足取りは、スキップじみた軽さに変わった。ふんふんと微妙に外れた鼻歌すら奏でて考えているのは、いかにうまく腹を掻っ捌いて、母親の臓物の奥に潜り込むかという事だ。恐ろしい事この上ないが、思考回路に邪なものは一切無く、その笑顔は極めて純粋無垢な明るさに満ちている。

 ぼやけた記憶を辿りながら歩いていると、やがて見覚えのある扉の前にたどり着いた。ジャックは高鳴る心臓を抑えながら、万が一にも気づかれないよう、音を立てずにそっと扉を開けた。覗き込むように少しだけ顔を出して、隙間から室内を見渡す。

 ――いた。

 こちらに背を向けて、何やらごそごそやっている丸っこい猫背。期待通り居てくれた嬉しさと、起きていた物珍しさから思わず、おかあさん、と叫びそうになった口を危うく閉じ、限界まで気配を遮断して近づいていった。取り巻く無限の霧を思う。距離、もはや半歩も無い。懐から分厚いナイフを取り出し、じっくりと狙いを定めていく。気配すら悟らせず、確実に切り開ける確信があった。手の中で器用に柄を回し、滑ったように鈍く光る歪な切っ先を、無防備な背中に向けた。

 そして少女が殺意なき刃を、無音で振りかざした瞬間。

 ――崩れ落ちる灰になる、男の寂しげな背中を見た。

「だめっ!!」

「あぶねえっ!」

 ジャックはナイフを床に放り捨て、加速度的に勢いを増していく崩壊を止めるべく、細い腕を懸命に伸ばした。もちろん、身体の崩壊は単なる幻覚である。だが、ワイシャツのアイロン掛けに没頭していた巧にしては、一体何がどうなっているのか分かる筈も無い。精々が突然背後に出没した誰かに体当たりを食らったぐらいしか理解できず、手に持ったアイロンから、その顔も見えない誰かを庇うだけが精一杯だった。

 無理な体勢のまま、どうにかアイロンを明後日の方向に投げ飛ばした瞬間、安堵した精神が張り詰めていた全身を緩ませる。途端、支える力を無くした巧の上体は、飛び込んできたジャック諸共ベッドから転げ落ちた。それも頭から。

 轟音。

「いっ―――つぅ」

 二人分の重量を伴って打ち付けられた後頭部から、火傷のような爛れた痛みが、熱を持って全身に伝わる。耐え難い痛みに丸まるよりも先に、この理不尽な状況に対する怒りがこみ上げた。こんな真似をするのはどこの馬鹿だ。半ば反射的に怒鳴ろうと起き上がった瞬間、胸元に縋りつく白黒が入り混じった物体が目に入った。

「――おまえは」

 声にも気づかず、ジャックはまるで食い止めるようにして、巧の腹に引っ付いている。引き剥がそうと試みたが、サーヴァント特有の膂力がそれを許さない。ほとんど悲鳴に近い声を聞かされながら、肩を強く揺さぶられるのは、一種の責め苦に近かった。

「おかあさんっ! だめ、だめだよっ! 死んじゃやだよっ!」

「おい」

「ねえっ、大丈夫っ? どこが痛いの? おなか? それともあたま?」

「聞け」

「これからちゃんといい子にするからっ! おかあさんのいうことちゃんと聞くからっ! だから、わたし達を置いてかないでよぅっ!」

「だから、聞けって」

「おかあさんがいなくなっちゃうなんて、そんな、そんなの――やだよぅ」

 嗚咽混じりの呟きが、掠れた調子で室内に響いた。

 力の込められたジャックの小さな手が、死人めいた青白い色へと変わっていく。巧は、その手をゆっくりと引き剝がしながら、落ち着かせるようにして震える肩に手を置き、ひたすら青褪める少女に視線を合わせた。

「あのな」

「……うん」

 ずび、と鼻を啜る音。一拍置いて、

「まだ死んでないし、当分死ぬつもりもない」

「……ほんと?」

「ああ」

「ほんとにほんと?」

「しつこいぞ」

 投げ掛けられた言葉をどうしても信じられないのか。ぺたぺたと何かを確かめるように、ジャックは男の荒れた頰を触った。巧は、振り払おうとしたが、潤んだ瞳が目に入って辞めた。やがて少女の相貌に戸惑いが浮かび、それから感極まったかのように顔を緩ませて、勢いよく抱きついた。

「お、おいっ」

 僅かなしゃくり上げと共に胸が熱く濡れそぼっていく。身動きすら許されないこの時間が一刻も早く過ぎる事を、巧はただひたすらに願った。

 

 

 ○

 

 

 渡したハンカチは一瞬でぐちゃぐちゃになった。

「落ち着いたか」

「うん……」

 気遣いから引っ込められようとしたハンカチを無理やり取り上げて、見上げる視線にそっぽを向きながらポケットの中に突っ込んだ。たちまち濡れていく気味の悪い感触は無視しながら、ベッドに座り込んで俯くジャックの隣に腰かける。スプリングが軋む鈍い音が、薄らがかった静寂を破る。巧は銀色のつむじを見下ろしながら、案ずるように問いかけた。

「いきなり、どうした」

「……」

「――言いたくないなら、良いが」

 投げ掛けられた巧の言葉に、少女がふと顔を上げる。そこには、隠し切れない躊躇いが、あからさまに見えた。巧は催促もせず、ひたすら待っている。やがて、視線に耐え切れなくなった少女は、逡巡しつつも意を決し、秘めていた胸の内をたどたどしく明かした。

「あのね、あのね。わたし達、おかあさんのおなかに入ろうとしてたの」

「…………」

 聞きたくなかった。巧が、露骨に顔を歪めた瞬間、ふたたびジャックの翡翠の瞳が潤む。あ、と思わず性根が見え透いた声が漏れた。とはいえ、後戻りはできない。首を振って、続きを促す。

「……でもね。わたし達、できたんだけど、やれなかったんだ。おかあさんが、そのね。……砂みたいに消えちゃうところをみちゃったから……」

「……そうか」

 小さく呟きつつ、巧は己の掌を見た。荒れ果てて筋張った、男の掌。そこに、無数の灰がこびりつく光景を幻視しかけて、眼を瞑った。

 いつ来ても、おかしくはないと思っていた。

 あまりにも急激な進化に対し、人間の細胞はその脆弱さを極める事しか出来なかった。魂の奥底にまで刻み込まれたオルフェノクの紋章――オルフェノクレスト。それがじわじわと範囲を広げる度に、ここまで無理に生き永らえさせられていた生体機能は、その強さにとうとう耐える事が出来なくなり、結果、身体に逃れられないガタが訪れる。

 無数の咎、幾多の死を存在に詰め込まれた“ジャック・ザ・リッパー”だからこそ、乾巧に待ち受けている必然の死を幻視する事が一瞬だけでも出来たのだが、それをこの二人が知る由は全く無い。

 巧は灰色の幻影を振り払うと、思いのほか柔らかな口調で告げた。

「大丈夫だ。俺は死ねない――まだな」

 ほんの小さな嘘をつく。ありのままの真実など、言える筈が無かった。

 力強い断定に安心したのか、ジャックはうん、と小さく呟き、浮かんでいた涙を拭った。そして、床に落ちた白いワイシャツを見て、申し訳なさそうに眉を歪めた。

「……ごめんなさい。おかあさん。なにかやってた途中だったんでしょ?」

「ああ……まあ、どうでも良いだろ。……つか、なあ、俺はおまえのお袋じゃねえだろ」

「でも、おかあさんはわたし達のマスターでしょ?」

「らしいな」

 だったら、とジャックは花が咲いたような笑顔を見せた。

「――だったら、おかあさんはおかあさんだよ。やっぱり」

「……もうそれで良い」

 めんどくせえ、と吐き捨てなかったのは、僅かに残った良心か。その代わりに大きく鼻を鳴らして、巧は落ちていたコートを拾い上げ、再び白い机の上に置いた。放り投げた時に外れたコンセントを元の位置に指し込み直し、アイロンの電源を入れた。袖口から肩に沿って、ゆっくりと重心をかけていく。仄かな熱さを感じながら、巧はかつて同居人だった男の言葉を、思い出していた。

 ――父さんが言ってたんだ。アイロンがけも出来ない人間は、ロクな奴じゃないって。

 少しは、様になっただろうか。

 柔らかい郷愁に駆られながらアイロンを往復させていると、不意に、視線が突き刺さった。背中がたまらなくむず痒い。無視しようと決めたが、堪え性のない巧はとうとう我慢できなかった。勢いよく振り向く。そこには好奇心をありありと漲らせた少女の姿があり、無垢な瞳と視線がかち合った瞬間嫌な予感がして、巧は無意識に腰をずり下げた。

「何ジロジロ見てんだ」

「なにやってるの?」

「アイロン掛けだ」

「あいろん?」

「……服を綺麗にしてんだよ」

 それ以上説明が面倒臭くなって、おざなりに答えた。その態度に逆に興味を掻きたてられたのか、ジャックは一層身を乗り出した。 

「――わたしもやりたいっ」

「そうか」

 顔を背けて、作業に没頭する。フリをした。あからさまに用意された面倒事に、関わりたくなかった。誰だってそうだ。近寄るな。男の儚い願いを通り抜けて、興味津々な様子のジャックは、ちょこちょこと巧の周りにまとわりつき始めた。

「やりたいのっ」

「勝手にやってろ」

「……」

 ジャックはじめついた抗議の視線を送るが、巧はひたすら無関心を貫き続けた。

 やがて我慢できなくなった少女が、巧の背中に勢いよく圧し掛かった。

「――もおっ。おかあさんっ! おんなごころがわかってないっ!」

「やめろ。危ない」

 どうとでもするがいい。ゆらゆら控え目に揺らされる彼の背中は、全てを受け入れる準備を整えていた。やがて強請りが通じないと知ったジャックは、目元を掌で覆って泣き出したフリをした。

「うぁ~ん、おかあさんがいじめるよう」

「……」

「ねこじた。ぶあいそ。とーへんぼく。だれとくつんでれ」

「――おまえ、それ誰から教えてもらった」

「旗もってる黒いおんなのひと」

 あいつ、いつかぶん殴ると心の中で決意した。

 しばらく続く嘘泣きに、巧はそれでもとり合わずにいたが、それ以上続くと先に参るのは自分だとわかったのか。クソ、と呟くと、渋々といった様子で振り返った。

「おい」

「うぇ~ん」

「その下手くそな泣き真似をやめろ。教えないぞ」

「ほんとに教えてくれるのっ!」

 塞いでいた両手を退けた下には、いっそ清々しいぐらいの満面の笑顔が隠されていた。分かっていた事だが、脱力する。溜息を吐きながら机を移動させ、すぐ横に座ってきたジャックに啓太郎から教わった――耳にタコが出来るまで教えられた――アイロン掛けの極意を教え始める。すべて受け売りに過ぎなかったが、それでも少女は「おかあさん」と一緒に何かを出来る事が嬉しいらしく、てかてかと目を輝かせて、巧を見上げている。

 しばらく続けていると、ジャックがぼそりと呟いた。

「ね、おかあさん」

「なんだ」

 どこか、遠い故郷を見ているかのような表情で、ジャックは続ける。

「いつかね。わたし達も、誰かのせんたくものを、洗えるようになるかな?」

 儚く笑ってみせた少女の姿に、巧は何も言えず、そっと唇を噛み締めた。少女の素性を詳しく知っている訳ではないし、これからも紡がれるであろう少女の過酷な運命に、何かが出来るわけでもない。それでも、自分が思いつけるだけの言葉を、やっとの思いで吐き出した。

「知ってるか。真っ白な洗濯物はな、人を幸せにしてくれる。らしいぜ」

「……」

「幸せになっちゃいけない奴なんて、この世にいないんだ。だから――おまえも、いつか出来るようになるだろ」

 それ以上言うのは照れ臭くなったのか、粛々と作業をし始める巧に、ジャックはにへらと笑いかけた。そして、心無しかぴったりと寄り添って、机を行き交うアイロンを見つめる。静謐とした空間に、服が掠れる音と吐き出される蒸気の音だけがずっと響いている。

 不意に、この空間をたまらなく心地よく感じて、今はまだ、帰らなくてもいいやと。

 ジャックは眼を瞑りながら、そう思った。

 

 

 



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スリーピング・ウィズ・ワンズ・ヘッド・イン・ライコウ・ニー

たっくんの過去捏造注意です


 

 

 夜も深まり、満ちた静寂を響く遠吠えが時折破る頃になってようやく近場の街に辿り着いたが、夜更けに門を開けてくれる街は、あまりにも貴重なものなのかがその時の巧には分かっていなかった。扉にかかった円環の音に叩き起こされた門番の、腐った卵黄のように濁った目つきが今でも鮮明に思い出される。何度か交渉を交わしたが、結局、住人に迷惑をかける訳にはいかない、という理由から村の近くで野宿する事が決まった。

 他はどうだか知らない。だが、巧は、あの門番の瞳の奥に宿る、得体の知れない異邦人に対する憂鬱、嫌悪、不快……そういったあからさまな負の光に気づいていた。別に邪険に追い払われた事に対して、文句は言うつもりは無かった。本来なら立ち寄る事さえ許されない時間に訪ねてしまったのは巧達の方だ。それに野宿なら一人で旅をしていた頃に嫌というほど経験していたし、幸い、寒空を凌ぐ為の火種となる物はそこらからいくらでも見つけられた。問題は、あの悪意が溢れんばかりの眼だった。

 有り触れた、それこそ日常の何処にでも見出せる、ほんの小さな悪意。しかし巧にとってあの眼に宿る微細な光は、滅んでいなければならないくせに、今もこうしてのうのうと無様に生き残ってしまっている自分を、責めている物のような気がしてならなかった。勿論、それがほぼ被害妄想だとは承知しているし、いつまで経っても引きずり続ける自分が悪いのも分かっていた。

 この世には結果しか残らない。生きてしまった以上は、自分にやれるだけの事をやるだけだというのに。

 どうしても、割り切れない自分がいる――

「マスター」

 案じるような調子の声に、霧散しかけていた意識を引き戻された。ふと横を見ると、微かに揺れる焚き火によって、顔に端正な陰影を刻まれた紫紺の女――源頼光が、神妙そうな面をした巧を慮ったのか、かすかに湯気立つマグカップを差し出していた。

 人ならざる意思の介入さえ感じられる、均整の取れたしなやかな体躯。理知的な光を宿す切れ長の瞳。夜露に浸されたように滑らかな黒髪が、闇に緩くたゆたっている。絵画のごとく艶やかなその光景に見惚れる事無く、巧は気だるげに手を振って、不要の意を表してみせる。だが、女は微動だにせず、にこにこと可憐な笑みを浮かべた。それを見た巧、ひどく鬱陶しそうに顔を歪ませた。

「いらねえ」

「いいえ。飲んでもらいます。束の間とはいえども、身体に区切りを覚えさせておくことは大切ですよ?」

「いらねえ、って言ってんだろ。しつこいぞ」

 そっぽを向きながら強く示された断絶を、頼光はたおやかな笑顔と共に切って捨てた。

「大丈夫ですよ。こおひぃ、という名の南蛮の物品だそうですが……ちゃんとふうふうして、適度に冷ましておきましたから」

「だからな……」

 そういう問題では無かった。

 巧はなおも拒否しようと努めたが、なおも絶やされない女の笑顔に根負けし、断る方が面倒くさくなるだろうと判断して、渋々受け取る事に決めた。もっとも、否定し続けていたとしても、無理やり飲まされていただろうと思う。奪い取るようにしてカップをかっさらわれたにも関わらず、頼光は不貞腐れていても手は決して離さない我が子を見るような目つきで、巧を見ていた。もちろん、巧は気づいていない。

「……」

 冷まされたと言われても、まだ油断は出来ない。茶褐色の表面を睨みながら、ゆっくりと口を縁に近付けていく。そして、唇の表面に僅かに訪れた、生温い感覚。すっかり安堵した巧はずずず、と控え目に飲み始めた。たちまち、なんともいえない苦味が口の中に広がる。しかし、ちょうどよく収まっている熱さは、寒々しい夜気に冷えた身体によく効いた。

 じわじわと上がる体温に目を緩ませていると、それを目敏く見つけた頼光が、口元を綻ばせた。

「――おいしいですか?」

「……」

 無視を決め込む巧の様子に対し、頼光は屈託の無い笑みを浮かべながら、得心がいったかのように頬に手を添えてみせた。

「……まだ何も言って無いぞ」

「何を言うのですか。わたしは、貴方の母なのですよ? 何を感じ、何を思っているのか。それぐらい、手に取るように分かります」

「あんたのガキになったつもりはない」

 吐き捨てるように呟いた巧にも構わず、頼光はいつの間にか自分の分を注いで口をつけていた。一瞬舌打ちしかけたが、いくらこの女に抗議しても暖簾に腕押しだと途中で気づき、胸の内に湧いたどうしようもない諦観を飲み干すように、カップを傾けた。思えば、赤の他人の子供におかあさん呼ばわりされたり、クリスティーヌとかいうもはや原型を留めていない名前で呼ばれたり、散々だった。いっそ、名前なんて無くしてやろうかとさえ巧は思う。

 放り込まれた薪が炎に巻かれて、軽快な音を響かせている。元々巧はあまり口を利ける方では無いし、頼光もまた、目の前のマスターの性質を充分理解していた為、しばらくはお互い黙り込んだままの、なんともいえない無言の行が続くかと思われた

――が、

「ええい、さっさと歩けこのウスラトンカチめっ。せっかく主殿の為に拵えた首が台無しになってしまうではないかっ」

「しかし義経様。年頃の男子がみな首級を望んでいるというのは、酷く偏見に塗れた見方な様な気が拙僧してならぬのですが」

「何を言うか、阿呆。主殿が後方支援を主としているのなら話は別だが、此度の現界における主は、戦火飛び交う英霊たちの前線を、摩訶不思議な力を以て見事切り開いてみせる勇士なのだぞ? きっと諸手を挙げて喜んでくれるに違いないっ」

「ううむ、どうも的が外れているような……」

 がさごそと草むらが賑やかな音を立てて、そこから飛び出した少女――牛若丸がそれを打ち破った。その背後から、のそりと現れた長身の男――武蔵坊弁慶の肩には、巨木の幹ほどの大きさはある、首の無い獣が粛々と鎮座していた。

 獣耳をぴょこぴょこと動かし、全身を粘っこい鮮血に染め上げた牛若丸は、断末魔に歪んだ首を樽のようにひっ抱えながら、巧のすぐ目の前に腰を落とした。飛び散る生臭い血に、巧の眉間に皺が寄った。

「主殿っ! 不肖牛若丸、ようやく罷り越しましたっ! 無論獲物もこの通りっ!」

「ああ」

 血に塗れながらきらきら輝くその笑顔に対して、巧は実に素っ気なく返すのみだった。そこに、削げた頬に引き攣らせたような笑みを浮かべて、弁慶が入り込む。

「まあまあ、マスター殿。義経様もここ数日は良き獲物に巡り会えず、運動不足解消と称して拙僧の首を狙う無為な日々が続いておられた所に、ここまでの大物首をお獲りになったものですから。その体型と同じように、軽やかに弾んでしまうのも致し方無き事。出来れば拙僧の首が飛んでしまう前に、ほんの少しでもお褒めになられては如何か。いやむしろ拙僧を助けると思って」

目は離さなかった、と思う。微かな風切り音と同時に両手を上げて、額から冷や汗を垂れ流す弁慶。そのごつごつとした首筋には、いつの間にやら抜かれていた刀の切っ先が、寄り添うようにして突きつけられていた。牛若丸、実にいい笑顔を浮かべる。

「そんなに獣と同じ末路を辿りたいか、弁慶? ん? もしや仙人は首を失っても動き続けるのか? それは興味深い! 実はわたしも、幾度も刎ねられる都合の良い的を探していた所なのだ」

「灯台下暗しというやつですな」

 言ってる場合ではなかった。

「なあに、心配する事は無い。牛若丸渾身の八艘なます切りを心ゆくまで堪能させてやる。嬉しかろう?」

「拙僧はあまり肉付きの良い方ではありませんぞ!」

「戯け。新たな獣をおびき寄せる為の餌と成るに決まっているだろう!」

 すわ血を血で洗うスプラッタが繰り広げられるのかと、巧がそろそろと下がろうとした瞬間、黙り込んでいた頼光が無音で立ち上がった。

 まるで屹立する日本刀のように雄々しい、英霊と呼ばわるに相応しい立ち振る舞いだった。女性にしては長身な身体から放たれているのは、遠雷のように計り知れない気配。牛若丸と弁慶の顔に、やらかした、の五文字が深く刻まれているのが巧にはよく見えた。

「貴方達……」

 煮え滾る感情を必死になって抑えた、低い声がやけに耳元で轟いた。振るう先を探しているように握り締められた拳は、絶え間なく震え続けている。俯いた顔には森の深い闇が塗り込まれていて、表情の判別は稀に見ないほど難しい。ただ一つ、背中しか見えなくても、巧にも分かる事があった。

 ――キレている。

 ごくり、と誰かが喉を鳴らした音が鮮明に響く。三人はほとんど無意識で、頼光との間合いを計っていた。一歩間違えば己の首が堕ちる。囮を押し付け合う二人を尻目に、巧はベルトを納めてあるスーツケースを手に取り、本格的な逃げ腰へと入っていた。

 すう、と大きく息が吸われた瞬間、巧達の足に力が込められ――

「――よくぞご無事に、戻られましたね」

 思いの外やわらかな声につんのめった。

 困惑が入り混じる微妙な空気を、巧と牛若丸に促された弁慶の窺うような咳払いが打ち破った。

「そのう……頼光殿?」

「はい?」

「……御怒りになっては、いませぬのか?」

 恐る恐るといった弁慶の様子が可笑しくてたまらないとばかりに、頼光は口に手を当てて、少女のように微笑んだ。

「称賛こそあれ、何を叱る事がありましょうや。これほどの大物は、生前でも滅多にお目にかかれませんでした。加えて、実に見事な太刀筋――源氏の雄々しき血筋は絶たれていなかったのだと、わたしは誇りに思いますよ」

「さ、左様でございますか」

 一応は遠ざかったらしい危機に露骨に安心した弁慶の、無残な空笑いが虚しく響く。さすが源氏の棟梁は器が違う。己が主君と色々な部位を比べつつ、彼が思わず胸を撫で下ろした瞬間、

「ですが――血抜きはしっかり済ませておかなければなりませんね」

 いかづちを纏った鞘鳴りが、木霊した。

 

 ○

 

 その夢はいつも、両親の笑顔から始まった。

 巧がまだ幼かった頃――年に二度。誕生日とクリスマスの日に、両親は近くの高級ホテルに外食に連れて行ってくれた。子供の背丈では見上げる事さえ苦痛なほど巨大な高層ビルの、瀟洒な意匠を施された回転扉をくぐるのが楽しみでならなかった事を憶えている。苦笑した父に窘められ、穏やかな母に手を引かれながらホテル内に足を踏み入れた巧を待っていたのは、ただひたすらに明るく、ただひたすらに幸せに満ちた光景だった。吊るされた巨大なシャンデリアが、昼間と見紛うばかりの暖かな光が降り注ぐ風景。すれ違う度に、友人と過ごす時間への幸福、家族と過ごす時間への幸福、恋人と過ごす時間への幸福をありありと感じた。種類は違っていても、大切な誰かと共にいるという、平凡だがなによりも尊ぶべき幸せが確かに存在していたのだ。

 二人の手を握り締めながら、子供ながらに思った――自分はなんて幸せなんだろうかと。厳格だが誰よりも優しい父がいて、穏やかだが誰よりも頑固な母かいて。

 ずっと、この幸せは続くのだと、巧は何の疑いもなく思っていた。

 有り触れた光景。

 ――その全てを、炎が押し流していった。

 巻き起こった阿鼻叫喚に、幼かった巧はついていけなかった。混沌という名の狂気に飲み込まれた人々は、誰かを思いやる気持ちをかなぐり捨てて、自分のみが生き残る資格があると言わんばかりに、剥き出された己の生存本能に従った。黒煙と同時に立ち込める聞くに耐えない罵声と怒号。炎の波が迫る度、必ず蹴落とされる誰かの痛苦が木霊した。逸れた父と母を捜して人の波に抗う巧は蹴飛ばされ、押し退けられ、殴られた。それでも、巧は両親を捜し続けた。「見つかりさえすれば、きっとまた元通りになれると。けれど、とうとう残骸すら見つける事は叶わず、その最悪な後味を引きずって起きるのが常だった。

 しかし、今日は違っていた。

 巧が意識を取り戻した瞬間、目の前には茫漠とした暗闇が広がっていた。上下左右に限りは無く、声を張り上げても、応えるものはいない。じっとしているのは性に合わず、不機嫌に眉を歪めながら、巧は闇の中を歩いた。

 不思議な心地だった。まるで雲の上を歩いているかのように、踏みしめる地面に手応えを感じられない。何処へでも飛んでいけそうだと、巧は根拠も無く思い、勢いよく地を踏みしめようとした瞬間。

「――巧」

 誰かに腕を掴まれて、巧は振り返った。

 一見、先程とは何も変わらない闇が、広がっているように見える。だが巧には、誰が虚無に近い暗闇の中から自分の腕を掴んでいるのか、はっきりと分かっていた。

「巧」

 頑なな男の声と柔らかな女の声が混ざり合っている。目に見えなくても、炎の中に消えてしまった両親の声だと、はっきり区別できた。思わず、声がした方向に手を伸ばした。

「巧」

 穏やかな声。ようやく見つけられたと、巧は深い安堵に包まれた。

「――俺は」

「巧」

 そして、

 問い掛けるような、母親の声が、巧の真横から響いた。

「どうして、お前なの?」

 世界が一瞬で変貌した。

 ひたすら続く漆黒に白い亀裂が走り、そこからぷつぷつと小さな気泡が生じ始めた。思わず立ち竦む巧を取り囲むと、やがてその気泡はゆっくりと膨れ上がり、その中でも一際大きな気泡が、唐突に血走った眼球へと変化した。同時に、大小様々な気泡も例外なく眼球へと変貌していく。数えるのも馬鹿らしくなるぐらいの無数の眼が、この無限に広がる闇の中、乾巧だけを見ていた。それを呆然と眺めていると、不意に一つの眼が大きく歪んだ。

 憎悪。

 呼応するかの如く、他の眼もまた血走ったそれに憎悪の光を宿らせていく。逃げ道は無かった。進むべき道も無かった。巧は、立ち止まる事しか出来なかった。

 炎の臭いがする。眼球の隙間を見れば、暗闇を覆すかのように、彼方から火の波が迫り来ていた。逃げなければ。そう思っても、足は言う事を聞いてくれない。やがて巧は、その場に跪いた。

「どうして?」

 ――判らない。

「どうして?」

 ――判るはずが無い。

「どうして?」

 ――判りたくも、無い。

 込み上げた酷い吐き気に身体を丸めて、その場で嘔吐した。それでも視線はずっと巧の背中に突き刺さっている。振り払いたかった。今すぐこの無数の目玉を握り潰して、押し寄せる火に背中を向けてしまいたかった。

 それを乾巧が出来ないという事は、誰でもない自分が一番わかっていた。

 全てを飲み込む火炎が渦を巻き、ゆっくりと闇を焼き尽くしていく。

 炎に包まれ焼き焦げていきながらも、眼球は巧を睨み、両親の声はずっと、問い掛け続けていた。

「――どうして?」

 その答えを、巧は今も出せずにいる。

 

 ○

 

 虚ろに響き渡った自分の咆哮で目を覚ますのは最悪の気分だった。

 思わず飛び起きかけた身体をぐっと優しく抑えられるが、無意識に弾き飛ばそうと両手を暴れさせた。しかし、なおも押さえつけてくるそれは、まるで慈しむかのように、やんわりと巧の身体を包み込んでいく。

「――あ、あ」

 幻覚。

 やがて、混乱に煮え立っていた精神がゆっくりと落ち着きを取り戻し、後頭部に当たるふくよかな感触に気がついた。朧げに霞む目を擦ると、見下ろしてくる女の顔が目に入った。

「酷く、魘されていましたから」

 見下ろす女――頼光は言い聞かせるようにして静かに囁いた。垂れ下がる前髪の奥に隠れる、黒褐色の瞳には、深い慈愛の色が込められていた。その体勢でようやく、自分の後頭部にある物が、女の膝だということに気づいた。

「――おま、え」

 乾いた喉を無理に動かそうとした瞬間、すっと陶磁器のような白い指先が、巧の髪を撫でた。振り払おうと力を込めた腕は、全く微動だにしない。

「あの門番がかけた呪詛の影響でしょう――本来ならこの一帯に近づく事を忌避する程度の威力しか無い筈でしたが……おそらく、魔獣の血臭が貴方の精神を緩めてしまったのですね。わたしの失態で、要らぬ迷惑をかけてしまいました」

 心底申し訳なさそうに呟かれた言葉が、しんしんと降り積もる。誰かに、心の底から案じてもらえるという事が、これほど安心する物だと初めて分かった。いや、今まで分かっていながら、避けていたのかもしれない。誰かに信じられるという事が怖いから、俺には荷が重すぎると跳ね除けて、逃げ続けていたのだ。きっと。

 深く、もう一度目を閉じる。しかし、訪れた暗闇の奥には、悪夢の残滓が残っていた。焼け落ちた大量の眼球、黒く焦げた焼死体、散らばる瓦礫、無限に落とされる怨嗟の叫び。それでも、今はただ目を閉じていたかった。

「無理に向かい合う必要は無いのですよ? この程度の呪詛、しばらく大人しくしておけば抜け落ちます」

「ほっとけ」

 心地のいい感覚だった。やわらかな光。できれば、ずっと沈んでいたい。だけど、それは多分、今の自分には許されない物なのだと思った。

 渾身の力を込めて、どうにか身体を上げた。等間隔で響く拍動がやけに五月蠅い。全身は、鉛を塗りたくられたかのごとく重かった。伸ばされた手を振り払い、どうにかして起き上がる切っ掛けを掴んだ所で、不意に肩を引き寄せられた。

 元々呪詛で弱っている巧が、万全の状態――しかもその身はサーヴァント――である頼光の膂力に勝てるはずもなく、あえなくさっきと全く同じ体勢に戻された。

「おい」

「いけませんよ、動いては」

「離せ」

「離しません」

「離せって!」

「いいえ、離しませんとも。我が子の無意味な無茶を止めないほど、わたしは愚かではありませんから」

 その言葉に、巧の視界は一瞬白く染まった。

「――あんたの家族ごっこに、俺を付き合わせんな。迷惑なんだ」

 そう吐き捨てた瞬間、胸の中にどす黒い靄が湧き出た。目の前の女が、何故まったくの赤の他人である巧を、「我が子」と呼ぶのか。特異点を回り、生前の記憶を見せつけられれば、嫌でも察せられた。それでも、どうしても我慢できなかった。ぐらりと視界が歪む。殺されたって、文句は言えないはずだった。

 ――しかし、

 頬に手を添えられた巧は、頼光のまっすぐな瞳に魅入られて、動けなかった。

「――では。今だけは、貴方の母としてではなく、一人のサーヴァントとして、あなたと向き合います。――どうか、休んでください。マスター。かつてあなたは、金時と共に我が秘めたる邪悪を打ち破ってくれました。その時の借りをどうか、わたしに返させて頂けませんか? それとも貴方は――従僕に借りを返させないほど、臆病な男なのですか?」

「――」

 声を出せなかった。あまりにも力強い意志は、人の口を噤ませる物なのだと今知った。おそらく本気で言っているのだろう。女の眼の中に普段渦巻いている熱情にも似た情念は消え去り、そこにはただ、巧を案じる、純粋なまでの思慮があった。茹だった脳はそれでも否定の言葉を発しようとしたが、かつて見た母の微笑みを思い出して、留まった。身体と精神が乖離しかけていた。立ち上がれると叫ぶ身体と、疲れ果てたと崩れ落ちる精神。今、どちらを選ぶべきなのか。巧は逡巡の末、ようやく選び出した。

「――勝手に、しろ」

「はい。勝手にしますから」

 目を閉じていても、頼光が柔らかく笑っていると巧には確信できた。そういう声だった。

 再びの暗闇。その奥にこびりついた残滓が、たちまち巧を取り囲む。響くのはやはり、恨みを募らせた暗い声音。絶えず降り注ぐそれに眉を顰めた瞬間、砂漠に束の間訪れる一筋の雨のように、その言葉は差し込んで来た。

 

 眠れ 眠れ 母の胸に

 眠れ 眠れ 母の手に

 こころよき 歌声に

 むすばずや 楽し夢――

 

 思わず、苦笑した。結局女は、霊基に染みついてしまっている歪み切った狂信の愛情を、変える事など出来はしなかったのだ。それは多分、この世界が終わりを迎えても、決して変わる事は無いだろうと巧は思う。人ではあらず、さりとて魔性でもない源頼光が、源頼光であり続ける限りは。

 礼は言わない。大体、巧はそういうガラではなかった。

 それでも、今だけは。

 この温もりに、有り難く浸っていようと思う。

 いつか、あの問いに対する答えを出す事を夢見て。

 乾巧はゆっくりと、訪れた眠りに沈みこんでいった。

 

 

 

 



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シャンブルズ・カーミラ・アンド・メカエリチャン

前後篇になったのは乾巧って奴の仕業なんだ…


 

 

 ――別に怒っている訳ではありません。ただ、ようやく正規パイロットとして認めてやったというのに、肝心の貴方がわたしに対して何も変わらない無愛想な態度のままだというのが、どうしても我慢ならないだけです。別に、構ってもらえなくて寂しいとか、そういう甘ったれた理由では決して無い事をよく念頭に置くように。――今の貴方は、カルデアに所属する人類最後のマスターという身分。そうである以上は、魔術王の野望を阻止すべく、わたし達サーヴァントを使役し、立ちはだかる敵と戦わなければならないのです。何故マスターである貴方があんな鉄鎧を着て、前線へ出ているのは甚だ疑問ですが、あの医務室のバーサーカーが何も言わない以上はわたしもそこに触れるつもりはありません。問題はそこでは無いのです――良いですか。いくら頑丈な鎧を着込み、多少の戦いの心得を備えているといえども、所詮貴方はちっぽけな人間に過ぎない事を最近忘れているのではありませんか? サーヴァントにはサーヴァント。神秘は同じ神秘でしか打倒し得ない――仮に貴方が単独で核クラスの戦力を備えていたとしても、貴方がこの世界に生きる人間である以上――ましてや魔術のまの字も知らないど素人である貴方が、神秘の塊であるわたし達にかすり傷一つ付ける事は億が一にも有り得ません。つまり、貴方がこの戦争を制する為には、わたし達の協力が必要不可欠だという事を充分理解するように。そして、いくら人類史が誇る一騎当千の英雄といえども所詮は人間。そこにはどうしても拭い去る事の出来ない感情があります。かつて過去に行われた聖杯戦争においても、名の知れた魔術師が高名なサーヴァントを召喚したにも関わらず、主従仲が極めて劣悪だった為にあえなく敗北してしまった、というケースはそう珍しい物では無かったようです。つまりですね。人理修復を手際良く進める為にも、サーヴァントとの調和の取れた関係は必要不可欠だという事です。無論、この完全無欠の鋼鉄魔嬢、メイガス・エイジス・エリザベート・チャンネルに、感情などという隙はありません――ありませんが。やはり、機械にもメンテナンスは必須だという事をお忘れなきように。では、わたしに対する正しいメンテナンス方法を貴方に教えてあげましょう。正座をして背筋を伸ばし、一言一句聞き漏らさず有り難く拝聴しなさい。まず一つ、私の勇姿をしっかりと見つめること。次に二つ、私の整備は最優先で行うこと。そして三つ、尻尾のやすり掛けは丁寧に。最後に四つ、スキ……んんっ、いえ、メタルシップは忘れずに。これらを厳守していれば、貴方はいずれ、メカエリチャンのパイロットであるという事実を生涯の誇りと思うようになる――

「という訳です。理解できましたか?」

「おまえがおかしいって事は充分わかった」

 並べ立てられた長広舌の半分以上を意図的に聞き漏らし、巧はほとんど適当に答えてみせた。その視線は絶え間なく、泡立てられたオ―トバジンの車体に向いている。照明に照らされた銀色の車体をいやに眩しく感じ、額から垂れ落ちた汗を首にかけたタオルで拭った。右手に持ったホースで泡を洗い流す。後ろから複雑な諸々が入り混じった、強い抗議の視線が突き刺さったが、巧は一切構うことなく、オ―トバジンの洗車を再開した。確実に面倒事が待っていると分かるのに、どうしてわざわざ関わりに行けようか。

 ――この、男は。

 その乾ききった対応に、メカエリチャンは一瞬蓋をしていた極悪な本性を開きかけたが、領主である自分の在り方を思い出し、こほんと咳き込む事で抑え込んだ。そして、ひたすら無心で車体を拭いている巧の背中をじっと見つめた。

 ほんの一カ月程度の付き合いとはいえ、仮にもメインパイロットだと認められる程度の関係は築いてきたつもりだった。だからわかっていた。自分のマスター兼パイロット両方を兼ね備えた男が、あまりにも不器用で、あまりにも無愛想な男であるという事は。

 鉄である自分より笑顔を刻まぬ表情筋。

 極めて粗忽かつ乱暴な立ち振る舞い。

 不精でだらしない平素の生活態度。

 かと思えば、最古参であるマシュやロマンなどには何処か心を許しているような顔をしているし、押し付けられた洗濯物に渋々といった様子で手をつけて――中々サマになっている――いる所も見るし、分厚い壁を物ともしないサーヴァントにひっつかれて、鬱陶しそうにしつつも邪険にできない光景もよく見る。

 要するに、一旦仲間だと判断したものには、隙を見せてしまう男なのだろう。あくまで例えだが、自分をとことん追い詰めた腹黒い誰かの死を、心底から悔やんでしまいそうなほどには。

 不貞腐れた横顔から、ある意味的確な解釈をされているとは露とも知らず、巧はただめんどくさそうに手を振るのみだった。

「おまえ、疲れてんのか?」

「機械に疲労という概念はありません。わたしが言いたいのはですね……」

「仮病使ってでも休みたいんだったら、ロマンの奴に言ってこいよ。あいつなら何とかできるだろ。俺にそんな権限無い」

「人の話を聞きなさいっ! エリザ粒子を打ち込まれたいのですか、おまえはっ! ――取り乱しました。いえ、違います。だから、わたしが言いたい事はですね」

 はあ。

 勢いよく深いため息を吐き、巧は蛇口を捻って水を止めた。

「わかった。なんか、わかった事にするから、な。それでいいだろ」

 素っ気ない態度と言葉に、脳髄が炸裂するかと思った。というか、爆発した。高性能AIが満場一致で目の前の男をぶちのめせと指令している。野蛮の兆候だった。これはいけない。あくまでもわたしは完全完璧な統治を行う領主であり、領民に手を上げるなど――それが例えどれほど愚民であろうとも――以ての外である。

 メカエリチャンは手を出せない自分に内心歯噛みしながらも、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように続ける。

「――全く、まるで、これっぽっちも分かっていません。今のおまえには、わたしのパイロットであるという自覚が著しく欠けています」

「別に、パイロットになったつもりはない」

「あれだけわたしを酷使しておいて、その言い草は何ですかっ。――大体ですねっ! 常日頃から、おまえの生活態度には改善すべき点が、多過ぎると思っていたのです。なんですか。せっかくの休日をいつまで経ってもダラダラと……普段からダラけているのですから、休みの日ぐらいはきちんとしたらどうなんですかっ」

「なあ」

 巧は手を止めて、睨むような目つきでメカエリチャンを見上げた。

「何がしたいんだ、おまえ?」

 見上げる瞳と率直な意見に、ぐっと息が詰まった。すぐさま声を上げようとしたが、喉の奥に石でも詰まってしまったかのように、意味も無く口が開閉するのみ。いったい何をしたいのか。それは自分にも分からなかった。ただ、自分を視界の端にすら掛けずに、感慨深げに白銀の鉄騎を見つめていたその顔が、どうしても気に入らなかったから声を掛けただけ。要は自分の基本構成要素であるオリジナル――エリザベート・バートリ―の衝動的な性格が、ここぞとばかりに顔を出したまでの事だった。いくら秩序・善を装い、鋼鉄らしいクールと思慮深さを纏っていたとしても、所詮彼女の根本はエリザベート・バートリーでしかなかったのだ。

 つまりは何も考えていなかった。

 それでも、ここまで来て引き返す訳にはいかない。というより、引き返す方法を知らないと言った方が正しい。猪突猛進にも程があるが、支離滅裂に散らばり続ける思考を無理やり纏め上げ、そこはかとなく高圧的に、メカエリチャンは言い切った。

「……とにかくっ。おまえがわたしを使役している以上、おまえにはわたしの専属パイロットという、重大な役割が課されているのです。そのようなバイクにかかずらわっている暇があるのなら、もっとわたしを上手く操作できるよう、血反吐を撒き散らす努力をなさい!」

 その言葉を聞いた巧は、訝しそうに歪めていた眼を、じんわりと緩ませた。

 やけに意味ありげな微笑に、ようやくこの分からず屋と通じ合えたのかと、少女が顔を明るくする。

 その瞬間、すっと顔を真顔に戻して、巧は言った。

「やだね、バカ」

 思わず笑ってしまいそうなほど、遠慮のない言葉。

 ぴしりと、鉄の身体が鈍い音を立てて固まった。

 

 ○

 

 酷い目に遭った。

 襤褸切れと化したシャツをゴミ箱に放り捨てた瞬間、不意に不審なにおいが巧の鼻をつっついた。見れば、ズボンの裾がぷすぷすと黒く焦げている。あいつ、俺を殺す気じゃなかっただろうな。脱ぎ捨てるわけにもいかず、やけくそにポケットに手を突っ込んだ。

 あの後に起こった事はそう難しくはない。巧のひと言にとうとうキレた鋼鉄魔嬢が、格納庫を丸々焼き尽くさんばかりの兵器を解き放っただけの事――その結果がどういった結末をもたらすのかは、カルデアに所属しているのなら容易に予想できた。馬鹿げた騒ぎに飛び込むのは赤い婦人――医務室のバーサーカーことナイチンゲール。飛び交う怒声。立ち込める粉塵。そして弁解の余地無くぶん殴られ、間抜けなたんこぶをこさえる二人。生身の巧はともかく、鉄塊丸出しのアレを一切躊躇なく殴りつけ、制圧できるあの女は果たして本当に人間なのかと、巧は心の底から疑問に思った。

 まあ、いい。

 ふんと鼻を鳴らしながら、カルデアの廊下を歩く。途中ですれ違った面々からはひどく好奇心を滾らせた瞳で見られたが、無愛想な面を貫き通す事で無理矢理追い返した。そのままふと目に入ったベンチに早足で向かう。周りに人影が無い事を確認すると、ため息を吐きながら座った。

 さすがに疲労の限界だった。今なら、このままここで横になって永遠に眠りこめる気がする。というか、出来るはずだった。目の前の自販機からぼやけた光が漏れているのを見つめながら、湧きだしたまどろみに身を任せて冷え切った壁に凭れかかった瞬間、

「――ようやく、わたしの痛苦を分かってくれたみたいね」

 深く濃い陰りに彩られた、女の妖艶な声が聞こえた。

 まさか誰かがいるとは欠片も思わず、一瞬硬直した巧のすぐ隣で、床を叩くヒールの甲高い音が響く。じろりと窺うとそこには、彫刻のように隅々まで精巧に整えられている、円熟しきった女の横顔があった。

「お隣。失礼させてもらってもよろしいかしら? マスター?」

「……おまえ」

 薄く光る白磁のような髪が、淀みなく垂れ落ちていた。引き結ばれた唇は熟した柘榴のように紅く、見るも鮮やかなその色を、雪花のごとく白くしなやかな肢体が引き立たせている。透き通っている鼻梁から溢れる、人間離れした高貴さ――微かにもたげられている顎には、高圧的な感情が色濃く宿っていた。

 つまり、巧の苦手なタイプの女である。

 めんどくさそうに歪む巧の顔を見て、座り込んだ女――カーミラの黄金色の瞳が、冷徹な光を帯びて弓なりに曲がった。明らかに巧の様子を面白がっていた。ますます不機嫌になる巧を余所に、女は愉悦を深めていく。

「……」

「あら。わたしを睨んだ所で、問題解決の足しにはならないのは分かっているでしょう? だったら精々みっともなく足掻いてなさいな。あなたにはそれが一番似合ってるわ」

「どうでもいいから、アレをどうにかしろ。おまえも元を辿りゃあいつなんだろ」

「……」

「……なんだよ」

 巧のなにげない言葉に、今度はカーミラに拭い切れない陰が差した。顔を勢いよく顰め、長々と伸ばした爪で眉間の皺をとんとんと叩いている。今にも脱力してしまいそうなその様子に、巧は触れてはいけない――厄介極まりない――部分に触れてしまったと、今さら気づいた。

「……確かに、若い頃の自分は見ていて吐き気さえしてくるわ。何も考えてない能天気な笑顔も、聞くに堪えない独りよがりな歌も、叶う筈も無い馬鹿げた夢を持っている所も――全て、何もかも、気に喰わない。ええ。それはあの…………変な衣装を着ていても変わらないわ。けれど、けれど……」

 重い暗い吐息が、薄く埃の積もった床に落ちる。

「どうして、機械になってるのよ……!」

 それもそうだった。

 もし過去の自分と顔を合わせる機会が出来たとして、そいつが見るからに機械的な物に成り果てていたとしたら、どう思うだろうか。とうとう両手で顔を覆い、口から血を吐き散らしそうなほど暗くなったカーミラの肩に手を置きそうになって、やめた。中途半端な同情など、巧が一番嫌いなものだった。

 とはいえ、気の利いた言葉を思いつけるわけもなく。そもそもそんなに器用な人間だったのなら、乾巧の人生は、もう少し楽な物になっていただろう。がしがしと頭を掻きながら、巧はベンチから腰を上げた。そのまま近くの自販機に近寄り、取り出した財布から数枚の硬貨を抜く。

 背を向けたまま、声を投げかけた。

「おい」

「――なによ」

 振り返るとそこには、年頃の少女のように唇を尖らせて上目遣いで見上げてくる、カーミラの姿があった。巧は気にせず、親指で自販機を指した。

「――おまえ、猫舌か?」

 重大な機密を握らせる瞬間のように、男の顔は真摯な光で満ちている。

 

 ○

 

 プルトップを引き開ける軽快な音が、二度続けて響いた。

「缶コーヒーって……貴方つくづくセンス無いわね」

「うるせーな。嫌なら飲むな」

「別に嫌だとはひと言も言ってないでしょう? 人の話はきちんと最後まで聞きなさいな」

「――やな奴だな」

「お生憎さま、自分でも嫌ってぐらい自覚してるわ」

 捻り出した精一杯の巧の抵抗を歯牙にもかけず、すまし顔でカーミラは缶を傾けた。こくこくと上下に動く白い喉をしばらく睨んでいた巧も、やがて諦めたように冷えたコーヒーに口をつけた。酸味の混じった苦さが、通り抜けていく。

「……あっま。何、これ」

「ブラック」

 言われなくても分かっているのに、でかでかとBLACKをゴシック文字で表面に印刷してあるそれを、カーミラは忌々しげに睨みつけた。

「……だから苦手なのよ、缶コーヒーは。苦いのか甘いのかハッキリさせなさいよ」

「言ったろ。嫌なら飲むなって」

「うだうだうるさいわね。飲むわよ」

 カーミラは、半ばヤケになってさっきよりも大きく顎を上げた。良い気味だ。そう思って、再び缶を傾けた。誰も通りかからない廊下に、空調の音と啜る音だけが響く。巧、どう切り出そうか迷ったが、何も思いつけず真っ向から聞く事に決めた。

「いったい何の用だ」

 飲み干した缶を開けっ放しにされてあるゴミ箱に放り投げた。数秒後、スチールが叩きつけられる甲高い音が鳴り渡り、見事ゴールを決めた事に対して密かに巧は満悦した。

「何の事かしら?」

 巧と同じようにゴミ箱に投げ捨てながら、カーミラはすっと目を細めた。雪白の幕に覆われた金色の光が、僅かに陰を帯びる。巧はふんと鼻を鳴らすと、手持ち無沙汰にファイズフォンを弄り始めた。

「とぼけんな。――いったい何企んでんだ?」

 巧の知る限り、目の前の女が用事も無く自分に話し掛けてきたことなど、過去に一度も無い。そもそも、こいつはそういうガラではない筈だと、巧は根拠も無く思った。確信を深めるように、カーミラは薄い笑みを頬に浮かべた。

「いくらわたしが混沌・悪だからといって、偏見を持ち過ぎじゃないかしら。わたしにもひとり黄昏てる誰かを見たら、隣に座って慰めてあげたくもなる程度の感性はあるつもりだけれど」

「おまえに? 馬鹿馬鹿しい。似合わねえよ」

 巧の言葉に、カーミラは図星を突かれたように面食らった後、からころと笑った。

「か弱い女に、ずいぶん酷い事言ってくれるじゃない」

「本当にか弱いんならな。……で、どうなんだ。面倒事なら別のやつに押し付けてくれ」

「――いいえ。とっても簡単な事よ」

 どんな、と言葉を吐く暇など、ありはしなかった。

 まさしく瞬く間だった。弛んだ意識の僅かな狭間を縫って伸ばされた手によって、巧は軽々と押し飛ばされた。ベンチに背中を叩きつけられ、意識が一瞬空白に染まる。我に返った巧が当たり前のように何すんだ――と怒声を張り上げたが、それらを一切無視したまま、カーミラはゆっくりと巧の身体に覆い被さった。豊満な胸が、筋張った胸板とぶつかり合って押し潰され、軟体動物のように形を変えていく。全身を隅々まで燃やされているかのように、自分の体温が上昇している事を彼女は自覚していた。ひどく、暑くてたまらない。空調は利いているにも関わらず、陶磁器のように滑らかな素肌から、細かい汗がぷつぷつと湧き出して始めていた。男の胸にぽたりと、数個の染みが生まれる。異様なまでの高揚感に身を委ねながら、やがて彼女の白く細長い指――その先にある鋭い爪が、酔ったようにふらついた動きで、筋張った胸板をそろそろと撫で上げて行く。

 ――強い、臭いがしている。

 そして、首筋に辿り着いてようやく、カーミラの指は動きを止めた。

 ――蜜のように、甘い。

 くすぐる様に首をなぞり、ようやく探り当てた頸動脈に爪先を当てて、

 ――血の、臭い。

 躊躇なくひと息で引き裂こうとした瞬間――

「――なにを、しているのですか?」

 ――強張った、少女の声が響いた。

 二人の意識が、同時に声の方向に向いた。そこには茶褐色の袋を横抱きにしたメカエリチャンが、ぼうっと立ち尽くしていた。照明に照らされて鈍く光るのは、見る者全てを感嘆させる鋼鉄の身体。その見た目に違わぬ鉄の如き精神を備えている筈の彼女はしかし、到底信じられない物を目撃したかのように、ひどく無防備に固まっていた。

 のろのろと彷徨っていた少女の視線は、マスターに覆い被さっている、未来の自分――語弊あり――に向いた。いつの間にかカーミラの瞳も、少女をじっと捉えていた。二人の視線がかち合う。その間は、恐ろしいまでに冷え切っていた。やがて、女があからさまな侮蔑を示し、呼応するかのように少女がまなじりを吊り上げる。そして巧は、ひたすら置いてけぼりで、

 ――いわゆる、修羅場というやつであった。

 

 

 

 



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