【完結】満開の空の下で (月島しいる)
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前編

「美奈と寝たんでしょ」

 屋上から眼下の崩れたビル群を見下ろしていると、後ろから冷たい声が届いた。

 振り返ると、煤で頬を汚した東堂遥(とうどう はるか)が立っていた。

 吹き付ける風で、彼女の後ろで括られた髪が大きくたなびいた。

「絵梨花とも、由良とも、京香とだって。全部知ってるよ」

 僕は答えに困って、彼女の言葉の続きを待った。

「四人とも、死ぬの?」

「それは分からないけど、次の作戦行動に組み込まれてる」

 彼女たちは、首都奪還作戦の尖兵に選ばれている。

「そう……」

 彼女の暗い瞳が、僕を見る。

「もし私が次の作戦に志願すれば、私とも寝てくれるの?」

「……遥。僕たちは兄妹なんだよ」

「それが、なんなの」

 遥の視線が絡みついて離れない。

 開いた瞳孔が、瞬きする事もなく僕を注視している。

「このコミュニティにいる男は兄さんしかいない。近親婚を禁止してた国だってもう残ってない。兄妹なんて鎖、いまさら何の意味があるの?」

 遥の足が一歩、僕に向かって踏み出す。

「それに私は」

 彼女の揺れるポニーテールの向こうで、胞子が舞っていた。

「世界がこんな事になっちゃう前から、ずっと兄さんのことが好きだったよ」

 辺り一帯を胞子が舞う中、遥は真正面からはっきりと好意を告げた。

「私、ずっと我慢してたんだよ。でも、もう良いでしょう? だって――」

 空から舞い降りてくる胞子が、大雪のように数を増す。

「――もう、世界なんて殆ど滅んでるんだから」

 遥の肩越しに、空を飛ぶ花が見えた。

 白く、このビルよりも大きい花だ。

 高度二百メートルほどを巡航するそれを、僕たちは飛行船と呼んでいる。

 それがばら撒く胞子は、災いを起こす。

「……遥。中に入ろう。胞子が強くなってきた」

 彼女の手を取って、歩き出す。

「誤魔化さないでよ。私と寝てくれないの?」

 僕は少し考え、それから目を閉じた。

「いいよ。添い寝しようか」

「兄さんはすぐにそうやって私を子供扱いする」

 遥が頬を膨らませる。

 そういう仕草が子供っぽいのだけれど、指摘すると不機嫌になってしまいそうだったので、僕はただ笑って繋いだ手を引っ張った。

 最後に屋上を振り返ると、雲間から無数の飛行船が降りてくるところだった。

 

 

 

 はじめて飛行船が下りてきたのは、僕らが小学生の時だった。

 空に咲いた花を、人々は物珍しそうに見上げていた。

 それがばら撒く胞子は雪のようで、みんな呑気に写真を撮っていた。

 紛れもない死の合図だったというのに、誰も気づかなかった。

 少なくとも僕たち男にとって、それは死の象徴だった。

 胞子がもたらす災いは、男だけを狙って命を奪う。

 不思議と女性は狙われない。

 と言っても、世界人口の半分は男で構成されていて、男女が一組になってはじめて子孫を残せるのだから、世界そのものが死滅しようとしていた。

 最早国家という枠組みは崩壊し、コミュニティと呼ばれる数百人単位の集落で分かれて細々と生き残っているのが実情だ。

 そして、今のコミュニティで生き残っている男は僕一人だった。

 だから、こんな嫌なことだって我慢しなければならない。

「亜希(あき)くんは可愛いね」

 僕を後ろから抱きかかえるように包む彼女は、そう言いながら僕の身体をゆっくりと触っていた。

 西村明美。二十九歳。

 工学部出身で、彼女は生き残った非常用発電機の操作方法や、非常用バッテリーに汎用コンセントを繋ぐ電気工事などに詳しい。

 つまり、このコミュニティに必須の人材であり、支配層に君臨していた。

「腰も細くて、女の子みたい」

 彼女の腕が、腹部を撫で回す。

 僕は黙ってそれに耐えていた。

 耳元に彼女の熱い吐息がかかる。

「ねえ。今日の夜は空いてるの?」

「……今日は、静香さんに呼ばれています」

「そうなんだぁ。残念」

 明美さんはそう言いながら、そっと服の下に手を潜らせてくる。

 冷たい手が、ゆるりと蠢いた。

「……あの、お腹すきました」

「そうなんだ。お姉さんもお腹すいてるんだ。目の前に美味しそうな食事があってね。ずっと我慢してるの」

 背後で明美さんが舌なめずりするのがわかった。

 腹部を撫でていた手が、そっと下におりてくる。

「……ッ……あの、明美さん」

 その指が、ベルトに触れる。

 金属の擦れ合う音が小さく響いた。

「なぁに?」

 彼女の荒い息が耳にかかる。

 そっと明美さんの手を止めると、途端に後ろの気配が変わった。

「なに? 抵抗するの? 私に?」

 低い声だった。

「お姉さんショックだなぁ。お仕事やる気なくなっちゃうかも」

「あの、ちが、ぼく、お腹が減って、ご飯、食べたくて」

「ちょっとくらい我慢しようよ、ね?」

 明美さんは、どこか調子を外した明るい声でそう言った。

 そこにノックの音が響く。

「兄さん、いますか? 食事です」

 遥の声だった。

 明美さんの舌打ちの音が届く。

「あーあ。時間切れ。行っていいよ」

「あの、ごめんなさい」

 明美さんの膝の上から立ち上がり、小走りでドアへ向かう。

 廊下に出ると、遥が泣きそうな顔をして待っていた。

「嫌なことされなかった?」

「ううん。何も。雑談してただけだよ」

 にっこり笑うと、遥も安心したように笑った。

 遥と並んで、食堂へ向かう。

 いつも通り、そこにはコミュニティの支配層が並んでいた。

「亜希くん。こっちへいらっしゃい」

 その中で、コミュニティのリーダーである静香さんが僕を手招きした。

 隣に座ると、五十歳を超えた彼女はやや疲れた笑顔を見せて、僕の腕を撫でた。

「いつ見ても可愛いねえ。孫がいたらこんな感じなんだろうね」

 そう言いながら、彼女はどこか粘着質な撫で方で僕の腕を触り続ける。

 その触れ方は孫に向けるようなものではなく、明らかに性的な意味が混じっていた。

 おぞましさに寒気を感じながら、作り笑顔を浮かべる。

 僕は、この人達の可愛い人形でなければならない。

 お気に入りだからこそ、妹の遥に良いものが食べさせてもらえる。

「スープが冷めてしまいますよ」

 向かいに座った遥が無表情に言う。

 静香さんはにこにこと笑いながら、そうねえ、と僕から手を離した。

「では頂きましょう」

 みんなが一斉にスプーンをとり、食事を始める。

 僕たちのそれは、缶詰のような保存食が多い。

 劣化しづらい粉スープと合わせたそれは豪華とは言えないが、お腹を満たすのには十分な量だった。

 コミュニティの下位に位置する女性たちは、満足な食事が与えられていない。

「ちょっとすっぱいねえ。そろそろスープは限界かもしれないねえ」

 静香さんが溜息混じりにそんな事を言う。

 僕もスープを食べてみたけれど、あまり良くわからなかった。腐ってはなさそうだけれど、あまり状態が良くないのかも知れない。

 そのまま食事を終えると、すぐにまた静香さんが僕の腕を握ってきた。

「亜希くんは、ここの生活に不便を感じていないかい? なにか嫌なことをされたりしていないかい?」

 僕はいつもの作り笑顔で、首を横に振る。

「静香さんのおかげで、何一つ不自由ない生活をさせて頂いています」

「そうかい?」

 静香さんが穏やかに笑う。

 その時、誰かの吐く音が聞こえた。

 見ると、斜め向かいの席で食料管理を担当している花子さんがテーブルの上で吐き出しているところだった。

「おい、どうした」

 誰かがすぐそばに駆け寄っていく。

 同時に、僕の手を握っていた静香さんの手が震え始めた。

 視線を向けると、どこか青白い顔をした静香さんが僕を見ていた。

「あ、亜希くん……」

「……静香さん?」

 震えが大きくなり、視線が定まらなくなっていく。

「静香さん!」

 声をあげると、花子さんに注意を向けていた周囲の人たちがようやく異変に気づいた。

「リーダー! 大丈夫ですか!」

 口の端から、小さい泡が漏れ出る。

 震えが手だけでなく、全身に広がっていく。

 その異常な様子に僕は椅子から立ち上がり、思わず一歩下がった。

「おい!」

 誰かの怒声。

 声のした方に目を向けると、更にもう一人誰かが嘔吐したところだった。

「食中毒か?」

「いや、これは……」

 三人目の嘔吐が始まる。

 既にほぼ全員が顔色を悪くし、どこか調子が悪そうな様子を見せていた。

「兄さん!」

 不意に遥が僕の手を取った。

「逃げるよ!」

 彼女はそう言って、僕の手を引っ張るように走り出す。

「遥?」

 後ろから悲鳴が聞こえた。

 誰かの昏倒する音。

「毒、盛ったの」

 前方を走る遥が、泣きそうな顔でいう。

「逃げよう。こんな所、ダメだよ。おかしくなっちゃう」

 僕は呆気に取られて、前を走る遥を見つめる事しかできなかった。

 毒?

 遥が?

 暗い階段をおりて、そのまま一階を目指す。

 途中ですれ違う女性たちが、怪訝な顔で僕たちを見ていた。

「遥、どこへ行くつもり?」

「わかんない!」

 悲鳴のような声だった。

 泣き叫ぶように顔をくしゃくしゃにして、彼女は走り続ける。

「こんな所、もういやだ!」

 入り口に立っていた見張りの女性たちが、僕を見て驚いた顔をあげる。

「亜希さん? ちょ、ちょっと、一体どこへ――」

 制止の声を無視して、外の世界へ飛び出す。

 胞子が雪のように舞っていた。

「ずっと遠くまで行こう」

 駆けながら、遥が叫ぶ。

「二人だけで生きていこうよ!」

 空には、花が咲いている。

 白い花だ。

「こんな世界、私、どうでもいいもん!」

 白い花はたしか、死と再生を意味していた気がする。

 なんという皮肉なのだろう。

 遥は、止まらない。

 降り注ぐ胞子が、視界を奪っていく。

「兄さん!」

 ようやく足を止めた遥が、振り向く。

 それから、唇が軽く触れ合った。

 遠くで災いの音がした。

 もう、どうでもいい。

 どうせ、この世界は壊れてしまう。

 滅ぶ世界の中で遥の体温だけが確かに存在していて、僕の身体を温めてくれた。

 満開の空の下、今日も世界はゆっくり死んでいく。



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中編

「小さい頃は、こうやってよく手を繋いだよね」

 割れたアスファルトの上を進みながら、遥が懐かしそうに呟いた。

 地面の割れ目からは、新たな生命が顔をのぞかせている。

「遥が幼稚園くらいの時かな?」

 答えながら、ボクはアスファルトの間から生える植物たちを注意深く観察していた。

 ヨモギは食べられるし、止血や痛み止めにも使える。

 あらゆる物資が経年劣化していく中、こうした自然の恩恵は年々無視できなくなってきていた。

「うん。引っ込み思案な私を、兄さんは色々なところに連れていってくれた」

 いまは反対だった。

 遥がボクの手を引っ張って、前を歩いていた。

 彼女の背中を、ぼんやりと見つめる。

 あんなに小さかった後ろ姿が、いつの間にか大きくなっていた。

 今にも崩れてしまいそうな世界で、遥は立派に成長した。

「兄さんは」

 遥の声が低くなった。

「だんだん私とは遊んでくれなくなったよね」

 あまりにも遥がボクにべったりだったからだ。

 寝る時も、登下校の時も、お風呂の時だって、遥はボクから離れようとしなかった。

 父も母も、遥のことを心配していた。

 妹が自立できるように、ボクは自然と距離をとるようになった。

「私はね、ずっと寂しかったよ」

 知っていた。

 知らないはずがなかった。

 家の中では、いつも遥の視線がまとわりつくのを感じていた。

 リビングでテレビを見ている時だって、遥の目は画面ではなくボクに向けられていた。

「私が悪いのはわかってる。物事には限度があって、ちょっと普通じゃなかったのかなって今は思う」

 でもね、と遥は言葉を続けた。

「本当に寂しかったの。兄さんが遠くに行ってしまったような、ずっとそんな気がしてた」

 肺腑の奥から、ゆっくりと息を吐き出す。

 辛い思いをさせているのは知っていた。

 けれど、必要なことだと思っていた。

 不意に遥が足を止める。

 振り返った遥は、唇の端を釣り上げていた。

「だからね、世界がこんな風になった時、嬉しかったの」

 強い風が吹いた。

 遠くから胞子が流れてくる。

 胞子の向こうで、遥は微笑んでいた。

「兄さんは、また私を見てくれるようになった。いつも気にかけてくれるようになった」

 ずい、と遥が距離をつめてくる。

「世界がこんな風にならなかったら、きっと兄さんは冷たいままだったよね。私を突き放そうとするんだ」

 すぐ目の前に、遥の目があった。

 透き通るような瞳だった。

 僅かに広がる瞳孔に、自然と視線が吸い込まれていった。

「冷たくしていたわけじゃないよ。ただ、心配だったんだ。あの頃の遥には、自主性がなかったから」

 まるで親鳥に引っ付いていく雛鳥のように、遥はボクにべったりだった。

 事実、遥にとっての親はボクしかいなかったのかもしれない。

 父と母は悪い人ではないけれど、愛情表現の薄い人だった。

 幼少期の遥にもっとも長く接していたのは、多分ボクだった。

「一緒だよ。そこに思いやりがあろうとなかろうと、兄さんは一度、私を突き放そうとしたでしょう」

 遥の瞳に、怒りの色はない。

 そこにあるのは、深い哀しみだけだった。

「このまま緩やかに滅んでいくんだって思った。兄さんに突き放されてしまうのと、世界が滅んでいくのなんて変わらないもの。なら、兄さんが私を見てくれる最期のほうがいい」

 けど、と遥は目を伏した。

「結局、滅ばなかったね。男の人だけが次々死んじゃって、生き残った兄さんに色目を使う女の人ばかりになっちゃった」

 遥はそう言って、空を見上げた。

 釣られて上空を見上げると、見慣れた白い花が空に咲いていた。

 花の色は白いままだ。

 他の色に染まる様子はない。まだ大丈夫なはずだった。

「私ね、我慢できなかったんだ」

 空を見上げたまま、遥は懺悔するように言った。

「コミュニティの人たちは、兄さんを道具みたいに扱ってた」

 道具。

 多分、その通りだった。

 ボクは人間として扱われていなかった。

「たった一人の男の人になった兄さんを傍に置くことは、権力を誇示する分かりやすい方法になってた。貴金属も紙幣も価値を失ったいま、兄さんは王冠に似た役割を押し付けられていた」

 支配層以外の人に気軽に話しかけることは許されなかった。

 まるで、ペットのようだった。

「性欲とか支配欲がぐちゃぐちゃになって。汚いものがいっぱい兄さんにぶつけられて。あそこにいると兄さんが壊れていく気がしたの」

 だから、と遥は掠れる声で言った。

「殺しちゃった」

 目の前の小さい身体を抱きしめる。

 嗚咽が聞こえた。

「ごめん」

 手を汚させてしまった。

 綺麗な手を持つ人なんて、きっと今の世界にはいない。

 けれど、遥はまだ人殺しを経験していなかった。

 その一線だけは超えないようにしていた。

「私は」

 しゃくり上げる遥が、腕の中で震えていた。

「後悔してないよ」

 遠くで爆発音がした。

 遥を抱きしめたまま、音のした方を振り返る。

 黒煙が見えた。

「兄さん?」

 遥も顔をあげて、泣き腫らした目で黒煙を凝視していた

 首都奪還作戦だ。

 生き残った多くのコミュニティが継続している軍事行動。

 ボクが知る限り、計六つのコミュニティがこれに参加している。

 そして、これまでに軍事的勝利を得たことはなかった。

「また、人が死んだのかな」

 食料は日に日に消費されていく。

 各コミュニティが貯蔵している食料は、目減りし続けていた。

 首都奪還作戦の本当の目的は、人員の整理にある。

 地域一帯の食料の接収が完了したコミュニティは、どこも似たような末路を辿っていた。

 抵抗運動と称される多くの軍事行動は、支配層の権力の誇示と食い扶持の削減以外の意味を持たない。

 空に咲く花が落ちるのと同時に、多くの人命が失われていく。

「胞子が、強くなってきたね」

 風に流されてくる胞子の量がみるみる増えていく。

 首都奪還作戦で加えられた攻撃に対して、報復準備が始まったのだろう。

 災厄は基本的に男性を標的にするが、報復行為では例外的に性別が関係なくなる。

 

「災厄に襲われる時は、苦しいのかな」

 

 脳裏に、京香の声が甦った。

 首都奪還作戦に参加する女性たちは、最後に男性と謁見する権利が与えられる。

 随分と安上がりな報酬だった。

 けれど、コミュニティが志願者に差し出せる報酬はそれくらいしかない。だからこそ、支配層の人たちは生き残った男性を希少物として扱い、その価値を高めようとする。

 美奈。絵梨花。由良。京香。

 最後に会った彼女たちは、それぞれの不安をボクに零していた。

 泣いていた子もいた。

 特に、由良はまだ十二歳の子供だった。

 コミュニティは殆どの場合、長期的な視点では運営されない。

 独自の知識を持たず、他のコミュニティとの衝突でも使いみちのない子供は足手まといでしかなかった。

 死の戦場に送り出される彼女たちを、ボクはずっと見送ってきた。

 

「亜希くんは男の子だし、きっと辛いことがいっぱいあると思う。でも。生きていればきっと楽しいこととか嬉しいことも、いっぱいあると思うんだ。だから、諦めちゃダメだよ。私の分まで長生きして、いつか私のお墓作ってよ」

 

 出兵の前日に笑顔でそう言ったのは、果たして誰だっただろうか。

 随分と前の出来事で、すでに記憶は曖昧だった。

 忘れてしまうくらい、多くの人の背中を見送ってきた。

 みんな、死んでしまった。

「兄さん?」

 二度目の爆発音があがった。

 ボクは抱きしめていた遥を離して、黒煙のあがる方へ歩き出していた。

「遥」

 歩きながら、後方の遥を呼ぶ。

「助けに行こう」

 何もかもが、うんざりだった。

 死地へ向かう人たちの背中を見送るのは、もう耐えられなかった。

「ダメ! 報復の災厄が降りてくる!」

 遥がボクの腕にしがみつき、叫び声をあげた。

 それでもボクは足を止めなかった。

 名前すら覚えていない誰かは、お墓を作って欲しいと言った。

 ボクは一体、いくつのお墓を作れば良いんだろう。

 名前も人数も、正確にはもうわからない。

 ここ数年で死んでいった人は、あまりにも多すぎた。

「大きなお墓を作ろうと思うんだ」

 名前のないお墓をつくろう。

 誰もが見上げるような、無銘のお墓を。

「支配層も、末端も関係ない。大人も子供も関係ない。男も女も関係ない。そういうお墓を作ろう」

 たった一つあれば、きっとそれだけで十分だった。

「誰もが平等なお墓だ。生前に、みんなでそこに入ることを誓う。誰も切り捨てない、見捨てないことを誓う」

 しがみつく遥に視線を向ける。

 遥は驚いたようにボクを見上げていた。

「兄さん、もしかして……」

「遥。ボクたちでコミュニティを作ろう。たった一つのお墓に集う人たちを集めよう」

 遠くない未来、人類は滅ぶだろう。

 きっと、その運命を覆すことは難しい。

 けれど、死に場所は自分で決めることが出来る。

「あたらしい、コミュニティ……」

 遥が呆然と呟く。

 ボクは、十六歳になった。

 遥は、十五歳になった。

 身体は大人になりつつある。

「ボクたちはもう、子供じゃない」

 当たり前のように大人たちに支配される必要はない。

 死にいく人たちの背中をぼんやりと見ている必要は、どこにもない。

「遥。一緒についてきてくれないかな。支配されるのは、やめてしまおう」

「私は――」

 遥の透明な瞳が、ボクを見上げていた。

 掠れた声が、力強く調子をあげていった。

「――いつだって、兄さんの後をついてきたよ。それはこれからも変わらないし、できれば隣を歩いていきたいと思ってる」

 三度目の爆発音がした。

 遥の手をとると、彼女も力強く握り返した。

 最後に一度、確認するように頷きあう。

 それから、ボクたちは走り出した。

 割れたアスファルトの上を飛び越えていく。

 ふと、視界の端にヨモギが見えた。

 アスファルトの割れ目から顔を出すそれは、太陽に向かって真っ直ぐ成長している。

 命の息吹は、尊い。

 こんな世界でも、生き続けている命が無数にある。

 夏がくれば、セミが大声で鳴く。

 夕方になれば、カラスが鳴く。

 満開の空の下、生命の灯火は消えることなく揺れ続けている。

 こんな世界になったからと言って、全てを諦めて理不尽を受け入れる必要はない。

 美奈。絵梨花。由良。京香。

 あの四人が死ななければいけない理由など、どこにもない。

 

「私のお墓を建てたらね、花を添えて欲しいの。黄色いチューリップ。もうお花屋さんなんてないし、探すの大変だよね。でも見つけて欲しいな」

 

 いつか、誰かがそう言った。

 黄色いチューリップの花言葉は、たしか「望みのない恋」だった。

 死の間際で、彼女はいったい何を想っていたのだろう。

 彼女が涙を見せることはなかった。

 最期まで笑顔だった。

 交わした言葉も、表情までも鮮やかに思い出すことができる。

 けれど、彼女の名前を思い出すことはできない。

 夜空に咲いた青い花が、ボクの記憶の一部を食い破ってしまった。

 災厄の形は、一つではない。

 命を奪われないものもあるし、一度災厄に巻き込まれれば生存が困難なものだってある。

 ボクは、男だ。

 数多くの災厄を間近で見てきた。

 それがどのように命を奪うのか、周囲にいた女性の誰よりも知っているつもりだった。

「兄さん! 花の色が!」

 遥が叫び声をあげる。

 上空の花の色が変わるところだった。

 純白の花が、黄色く染まっていく。

 黄色に染まった花は、これまでに四回見たことがあった。

 広範囲の命を奪う危険な色だ。

 けれど、生存が困難な色ではない。

 四度目の爆発が起こった。

 黄色の花が、黒煙に包まれていく。

 おそらく、迫撃砲だろう。

 ボクたちの所属していたコミュニティは、立ち上げ初期に元自衛官の男性がいた。

 実質的なリーダーだった彼は、抵抗運動の象徴だったという。

 彼の指揮により、多くの女性が空を支配する花の撃墜を試みた。

 結論から言えば、火砲による攻撃は有効だった。

 しかし、飛行船の報復は性別を問わない。

 抵抗運動で多くの人たちが亡くなり、リーダーだった彼も災いに呑み込まれた。

 残った装備は同じ人間に向けられるようになり、周囲のコミュニティを接収するようになった。

 腐敗した組織によって抵抗運動は形骸化し、いまでは食い扶持を減らすための口実にされてしまった。

 人々のために自由を取り戻そうとした彼の意志は、誰にも引き継がれることなく失われてしまった。

「兄さん!」

 前方に人影が見えた。

 地面に固定した迫撃砲を中心に、影が四つ。

 そのうちの一人は、背丈が極端に低かった。

 十二歳の由良だと一目でわかった。

「報復攻撃が来る! 建物の中へ!」

 砲撃音があがる中、叫び声をあげる。

 ボクの声に気づいた四つの影が一斉に振り返った。

「亜希さん!」

 由良が真っ先に駆け寄ってくる。

 ボクは彼女を抱きとめながら、残りの三人に向かって怒声をあげた。

「はやく! 胞子が強い! 報復がはじまる!」

 残った三人が弾かれたように駆け出す。

 頭上で爆発音が聞こえた。

 見上げると、別の場所から撃たれたらしい迫撃砲によって黄色い花が堕ちていくところだった。

 今回の攻撃に参加しているコミュニティは、恐らく六つ。

 二十五人から三十人ほどの女性が戦いに参加しているはずだった。

 別コミュニティの女性たち全てを助ける時間はない。

「中へ!」

 近くにあったビルへ走り、自動扉を両手でこじ開ける。

 空いた隙間から最年少の由良を中へ押し込んだ時、後方から金属音が響くのが聞こえた。

 はじまった。

 報復の狼煙だった。

「はやく!」

 開けた自動扉に、残りの三人と遥が入る。

 最後に空を見上げると、舞い降りる胞子が閃光に包まれるところだった。

 考える余裕なんてなかった。

 次の瞬間、空を舞う胞子が一斉に爆発を起こした。

 連鎖するように空が爆発に包まれていき、熱風が吹き荒れた。

 思わず顔を背けながら、ビルの内部へ身体を滑り込ませる。

 咄嗟に自動扉を閉めると、ガラスが熱風で震えるのがわかった。

 表通りの電柱や標識が爆風で吹き飛ばされていく。

 どこかのガラスが割れる音がした。

 振り返ると、破れたガラスから胞子が流れ込むところだった。

「ガラスから離れて!」

 遥と由良の腕を掴んで、奥へ飛び込む。

 一面ガラス張りになっていた側面が次々と粉々に落ちていき、熱風が吹き荒れた。

 遥を守るように抱きしめながら、広範囲を焼き尽くす胞子を観察する。

 黄色の花をはじめて見たのは確か、この国がまだ国家の形を維持していた時だった。

 紫の花によって国中の通信が途切れている中、国道を多くの戦闘車両が通過していった。

 誰が花を攻撃したのか、記憶は曖昧だった。もしかしたら誰も攻撃なんてしていなくて、戦闘車両が集結すること自体が攻撃とみなされたかもしれない。

 とにかく、それは急にはじまった。

 街中に積もった胞子が一斉に爆発し、戦闘車両を薙ぎ倒していった。

 胞子は、街中に堆積していた。

 爆発はどんどん連鎖していって、信じられないほどの広範囲が一度の攻撃で焼け野原になった。

 大多数の人たちは、自らの死因を理解する余裕すらなかったと思う。

 爆心地の上空を巡航する花の色を確認できたのは、極僅かの生存者だけだった。

 いまでも覚えている。

 地獄絵図みたいな地上を、黄色の花が悠然と空から見下ろしていた。

 黄色いチューリップが欲しいと言った彼女は、そういえばあの攻撃で家族を亡くしていた。

 彼女が欲していた花は、もしかして空に咲く満開の花だったのだろうか。

 黄色いチューリップには仇をとってほしい、という意味が込められていたのかもしれない。

 熱風でガラス片が舞う中、ボクは彼女の真意について今更ながらぼんやりと考えていた。

「次の攻撃がくる!」

 熱風が弱まると同時に、遥を抱えて前方に駆け出す。

 黄色い花の報復攻撃は、一度だけでは終わらない。

 割れたガラスを超えて、外に躍り出る。

 空に咲く黄色い花の中心部が、黒く染まっていくところだった

 まるで、鮮やかに咲き誇るルドベキアのようだった。

 ルドベキアの花言葉は、正義、公平。

 もう名前も思い出せない彼女は、いつか僕にそう教えてくれた。

 報復の攻撃は、性別を問わない。

 相応しい花言葉だと思った。

 公平なる正義の鉄槌が、空から堕ちてくる。



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後編

「ラットレース、という言葉を聞いた事はあるか?」

 空にまだ花が咲いていなかった時。

 自室で僕に勉強を教えてくれていた父は、ふとそんなことを言った。

「ラットレース?」

「ネズミが回し車を回すように、一抹の生活費を稼ぐために働き続けることだ」

 僕は首を傾げた。

「サラリーマンは皆そうなんじゃないの?」

「ああ。働いても働いても定年まで終わりがない。誰もそれを疑問に思わず、回し車を回し続けるんだ」

 ネズミと一緒だな、と父は自嘲するように笑った。

「雇われるということは、自分の時間を切り売りするということだ。ラットレースから抜け出すには自ら事業を起こすしかない」

 くるくる。

 老いるまで、回し車を回し続ける。

 籠の中のネズミは、それを疑問に思わない。

 きっと、僕もそうだった。

「世界経済は、毎年約3%の成長を続けている」

 父は小さく息をついて、視線を外した。

「富める者の元には自然と富が集まっていく。持たざる者は回し車を回し続けるしかない」

 だから、と父の唇が歪むように波打った。

「今は勉強に力を入れろ。人の上に立てるようになるんだ。それが籠の中に閉じ込められず、自由になれる唯一の方法だ」

 たしか、父の実家は経済的に苦しい状況だったはずだった。

 父は優秀だったが、大学には進学できなかった。

 若い頃は苦労したのだと何度も母から聞いた。

 だから僕は小学校から受験して、私立に通うことになった。

 自分が経験した苦労を子供にさせたくない、という父の思いはよく分かっているつもりだった。

 けれど。

 遥は私立小学校の受験に失敗した。

 たぶん、僕たちに必要だったものは教育ではなかった。

 ありふれた家庭的な愛情があれば、それだけでよかった。

 きっとこれは、我儘なのだろう。

 父と母は仕事が忙しい中、僕たちに根気よく勉強を教えてくれた。

 苦労させたくないのだという気持ちも、わかっているつもりだった。

 ただそれでも、もう少しだけ遥に構ってあげて欲しかった。

 受験に失敗した後の遥には、どう考えてもケアが必要だった。

 その役割に回ることができるのは僕しかいなくて、遥は僕に依存するようになった。

 くるくる。

 回し車を回すように、机に向かって勉強をして、遥を甘やかせる。

 代わり映えのない暮らしの中、遥の依存心だけが膨れあがっていった。

 父と母は、悪い人ではなかった。

 自分たちがした苦労を、僕たちには決してさせまいと誓っていたのだろう。

 ただ少しだけ、僕たちが欲しいものと違っていただけ。

 くるくる。

 働き続ける両親は、まるでレースをするネズミのようだった。

 籠の中、みんなそれぞれの回し車を回し続けている。

 誰もそれに気づいていない。

 今だってそうだった。

 大人たちに支配されて、道具のように利用されていた。

 コミュニティの下位の人たちは、使い捨ての道具のように抵抗運動に駆り出されていく。

 

「今は勉強に力を入れろ。人の上に立てるようになるんだ。それが籠の中に閉じ込められず、自由になれる唯一の方法だ」

 

 父の言葉が、脳裏に蘇った。

 僕はもう、子供じゃない。

 回し車から下りて、籠の外へ出る時期だった。

「走って!」

 上空の黄色い花が、ゆっくりと回転を始める。

 僕は大声をあげて、遥の手を引っ張った。

「次はなにがくるの!」

 後ろで美奈が叫ぶ。

 頭上で回転速度を早めていく飛行船を確認しながら、僕は叫び返した。

「花弁が飛んでくる!」

「花弁?」

 全体が見渡せる開けた場所に出る必要があった。

 大通りから離れて、低い雑居ビルが並ぶ裏道を駆け抜ける。

「飛行船が!」

 誰かの声に頭上をもう一度確認すると、回転速度をあげた飛行船から金属音が響くところだった。

 くるくる。

 まるで回し車のようだった。

 ふと、思う。

 空に咲くあの花たちも、何かに支配されているのだろうか。

 籠の中に閉じ込められ、回し車を回し続けることを強いられているのだろうか。

 金属音が一際大きくなる。

 次の瞬間、巨大な花弁が飛行船から切り離されていった。

「冗談でしょ?」

 誰かの呆然とした声。

 ミサイルのように、花弁が次々と打ち出されていく。

 どこかを狙うわけでもなく、四方に放たれた花弁がビル群に激突し、轟音が響いた。

 瓦礫が飛散し、複数の巨大な建物が崩れていく。

 大地が揺れ、後ろを走っていた四人がその場に座り込むのが見えた。

 遥が手を引っ張り、何かを叫ぶ。しかし、轟音で彼女の声は掻き消されてしまった。

 百メートルほど離れた地点で、一つのビルが倒壊を始める。

「離れよう!」

 叫ぶ。

 たぶん、僕の声は届いていない。

 それでも遥は何かを察したように大きく頷いた。

 崩れ落ちるビルから粉塵が舞い上がり、四方へ広がっていく。

 由良を抱え起こし、後ろから迫る粉塵から逃げる。

 信じられない速度で広がる粉塵が瞬く間に僕たちに追いつき、視界が灰色に染まった。

「飛行船はッ!?」

 遥の声。

 粉塵で視界が遮られて、飛行船どころではなかった。

 咳き込みながら、ただ闇雲に走る。

 こうしている間にも花の色が変わっているかもしれない。

 飛行船の報復パターンは、まだ不明なことが多い。

「亜希さん!」

 数メートル先すら見えない粉塵の中、由良が腕にしがみついてくる。

 遥と由良を引っ張りながら、崩れたアスファルトの上を無我夢中で駆けた。

 息が切れ、口内に鉄の味が広がった。

 金属音が響く様子はない。

 徐々に粉塵が薄れていく。

 僕は足を止め、息を整えながら空を見上げた。

 薄っすらと見える飛行船。

 全ての花弁を落としたそれは、鉄球のような奇妙な形になってゆっくりと墜落を始めていた。

 命を散らすように、球体が崩れていく。

「終わったの?」

 後ろから京香が恐る恐るといった様子で声をかけてくる。

「たぶん」

 種子が割れるように、球体に亀裂が入った。

 中には、何もない。

 ただ空っぽな空洞を晒して、墜落していく。

「ねえ、ほかの人たちは?」

 美奈の声。

 誰も答えなかった。

 荒い息遣いだけが、そこにあった。

 右腕に絡みつく遥の腕が、小刻みに震えていた。

 上から手を包み込むようにそっと握る。

 縋るような目で、遥が僕を見上げる。

「遺体を探そう」

 また一つ、花が堕ちた。

 英雄たちに捧げる手向け花を探さなければならない。

 青空にはまだ、無数の花が咲いていた。

 当分、摘む花には困りそうにない。

 

 

 

 

 遺体は、残っていなかった。

 胞子の爆発は、地表の殆どを吹き飛ばしていた。

 ひとつだけ、自動小銃が落ちていた。首都奪還作戦に使われたものだろう。

 高熱で歪み、もう使い物になりそうになかった。

 瓦礫の山に、壊れた自動小銃と花弁を添える。

 死者の数すら正確にわからない、無銘のお墓だ。

 これまでに散っていった仲間たちと、これから散ってしまう仲間に向けて、手向け花を送る。

 黄色いチューリップは見つかりそうにない。

 いまは、飛行船の花弁の切れ端で我慢してもらおう。

 少なくとも、仇を討つ事はできた。

「兄さん」

 遥の声。

 振り返ると、分解した迫撃砲を抱えた遥がじっと僕を見ていた。

「弾もある。私たちはまだ戦えるよ」

 煤で頬を汚した僕の妹――東堂遥の双眸には、強い意思が宿っていた。

 一瞬、言葉を失った。

 遥は自分の足で立とうとしていた。

 僕に寄りかかる事をやめ、自立した精神性を獲得しようとしていた。

 僕たちはもう、子供ではない。

 回し車から降りて、籠の外に出ていく時期だった。

 空を見上げる。

 満開の空が広がっていた。

 死と再生を意味する白い花たち。

 この世界は、滅びつつあるのだろうか。

 それとも、再生しつつあるのだろうか。

 わからない。

 けれど、遥は確かに再生の道を歩もうとしていた。

「亜希さん」

 由良の声。

 見ると、遥を含めた五人全員が僕をじっと見ていた。

「リーダー」

 絵梨花が茶化すように言う。

 どうやら指示を待っているようだった。

 息を吸う。

 冷たい空気が肺腑を満たした。

「西へ行こう。三度目の大震災以降、西の情勢がわからなくなってる」

「了解」

 一斉に移動の準備を始める彼女たち。

 僕は最後に、無銘のお墓を見やった。

 添えられた黄色い花弁。

 いつか、本物の黄色いチューリップを捧げよう。

 君が好きだった色々な花を育てて、満開の空を彩ろう。

 さようなら、好きだった人。



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