DIO Frandre (海のあざらし)
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第一話 フランドール

 ── 美鈴。その花、とっても綺麗ね。

 

 ── 小悪魔。ちょっと本を見繕ってちょうだい。

 

 ── パチュリー。その魔法、どんなのかしら。

 

 ── 咲夜。お腹が空いたわ、クッキーを焼いて。

 

 

 

 

 

 ── お姉様。絶好の外出日和よ、遊びましょ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「おはようございます、妹様」

 

 透き通った氷のように玲瓏たる声によって、フランドールはやや懐かしくなりつつあった光景が夢であったのだと悟るに至った。

 

「……今、何時よ」

 

「午後七時にございます」

 

「良く寝たわ」

 

「午前十時にお眠りになりましたから、九時間のご休憩でございました」

 

 まだ少し彼女の袖を引く眠気に抗い、ベッドからむくりと身を起こす。従者の淹れてくれたらしいミルクの甘やかな香りが、ふわりと鼻腔を擽る。このミルクが無ければ、彼女の夜は始まらないと言っても過言ではない。

 そう言えば、お姉様は目覚めの一杯に紅茶を選んでいたっけ。フランドールはふと、もうしばらくは顔を合わせていない姉のことを思い出す。麗しい紅茶の香りに包まれるのは何だかカリスマ性のある女傑みたいだからなんていう理由で飽きもせず毎朝紅茶を楽しみ、まるで人間のように日中活動する。彼女も興味本位で姉の生活習慣を真似てみたことがあったが、二日目で体調を崩してうーと寝込んでからはとんと御無沙汰であった。

 太陽の光は妖力を纏ってある程度軽減し、さも当然のように川に架けられた橋を歩いて渡り、挙句の果てには大蒜の効いたパスタに舌鼓を打つ始末だ。あの吸血鬼はそろそろ自分の種族を忘れてきているように思えてならない。これは弱点を克服した進化と呼ぶべきか、それとも吸血鬼的に耄碌したと捉えるべきか。

 

「妹様。起きたばかりで申し訳ありませんが、一つご報告をば」

 

「何かしら」

 

「先日妹様がお戯れに魅了(チャーム)を掛けた男についてでございます」

 

 その男については、フランドールも覚えている。若々しく、見るからに血が美味しそうだった。丁度かぷりと行きたい気分だったし、一口くらい頂いても良いかと思ったので、抵抗されないようチャームを使った上で事に及んだ。

 別に眷属にする気もなかったし、増して命を奪ってやろうとは欠片も考えていなかった。ただ吸血鬼として血を吸いたくなる時間というのは必ず来るのだから仕方がないだろう。事実彼の血はさらりと癖がなく、彼女が知る人間の中では三番目くらいに美味しいと言えるものであった。

 

「あぁ、花京院(かきょういん) 典明(のりあき)と名乗った彼ね。何かあったの?」

 

幽波紋(スタンド)が発現したようです」

 

「……、……」

 

 フランドールにしつこく纏わりついていた眠気が、この瞬間ぱっと霧消した。意識が急に元気良く回転を始め、くりくりと大きなルビーの瞳が見開かれる。

 

「えっ」

 

法皇の緑(ハイエロファントグリーン)という名を付けられた彼のスタンドは、他者に取り憑き操ることを可能としています。現状判明しているのは、この他にはありません」

 

 主の妹君の驚きっぷりには構わず、従者は滔々と確認されている範囲内の事実を報告していく。フランドールの平常心を乱すのは二つ、即ち血を吸った相手に後天的なスタンドが現れたということと、従者がそれを彼女より早く知ったことである。

 一体いつ彼のスタンドの概略を確認したのだろうか。呼べば彼女はいつだって即座に馳せ参じたというのに。彼女の有能さは良く知っているが、つくづく非の打ち所のない完璧超人だとフランドールは密かに舌を巻いた。

 

「スタンドが発現したのは、私のチャームが原因なのかしら。世界(ザ・ワールド)、貴女はどう思う?」

 

「他に誰もいないのです、咲夜(さくや)とお呼び下さい」

 

 ザ・ワールド。彼女の従者である十六夜(いざよい) 咲夜は、現在表向きにはこう呼ばれている。世界などという大層な呼び名からも分かることだが、大凡の者は彼女をフランドールの操るスタンドだと認識している。

 言語による意思疎通が可能である、行動範囲に制限がないなど従来のスタンドの概念をひっくり返す異質な存在である咲夜だが、その実彼女はスタンドではない。浮世離れした戦闘力と超人的な頭脳を兼ね備えているだけの、ただの人間である。故に会話ができたってあちこち出歩けたって、何もおかしくはないのだ。おかしいと言えばおかしいが、おかしくはないのだ。

 

「恐れながら、可能性はあるかと。ですがご安心下さい、花京院 典明はスタンドに飲まれることなく見事自分の力と変えてみせました」

 

「それは良かった。死なれていたら、寝覚めが悪くなるところだったわ」

 

「以後、軽率にチャームを使うのはご遠慮なさった方が良いかと。濫りにスタンド使いが増える可能性は、やはり避けておくべきですから」

 

「仕方ないわね。今度からは双方合意の上で頂くとしましょう」

 

 優秀な付き人がそう言うのであれば、聞き入れるのが吉だろう。何せ彼女がいなければ、今頃フランドールは当てもなく中東の片隅を彷徨うはめになっていたはずだ。今こうしてゆったりと暮らせているのはひとえに咲夜の手腕のお陰である。

 ティーカップに手を伸ばし、じわりと手に浸透する温かさを感じつつ口を付ける。例え如何なる状況にあろうとも、この一杯を飲む時には心は穏やかでなければいけない。誰に教えられたわけでもないが、他ならぬ自分の心がそう制限を課してくる。

 

 だからフランドールは、カップを置いた。

 

「……」

 

「妹様?」

 

「見られた。また誰かに、見られた感じがした」

 

 この地で生活を始めてから、フランドールは既に何度も誰かに見られる気配を感じていた。視線を感じるのとはまた違う、何とも説明のしようがないがとにかく自分がここにいることが確認されているように思えるのだ。

 この違和感は時と場所を選んでくれず、以前は入浴時にまでやってきたことがあった。湯浴みを覗かれるなど数百年生きてきたフランドールも初体験のことであり、恐怖のあまり大声で咲夜を呼んだ程である。

 当然、フランドールはこの気配を良く思っていない。誰かのスタンドの仕業だというのなら、その人物の下へ行って文句を言いたいくらいには不快感を募らせている。しかし残念なことに、手掛かりは一つもなかった。思い当たる候補がいるわけでもなし、それも致し方のないことと言えよう。

 

「ジョナサン……?」

 

 否、フランドールの頭にとある人名が突発的な乱入を果たした。その名に聞き覚えはなかったが、それが人の名前であると認識した瞬間に彼女の肌はざわりと粟立った。あたかも宿命の大敵と邂逅を果たした強者が、形容し難い感情に全身を震わせるように。

 

「どうされました」

 

「ジョナサン・ジョースターの一族が、私を見てる」

 

「新しい名前が出てきましたね。妹様の記憶に痕跡を残す何者かにも、きっと関連性のある人物なのでしょう」

 

 体の中、或いは頭の中と言うべきかも知れないが、そこには誰か別の人間の記憶がある。この人物の名前などを思い出すことには今のところ成功していないが、何年もの間棺に収められて何処か人目に付かない所で眠っていたらしいということだけは判明している。

 ジョナサンの名を心の中で唱える度に、フランドールの体は言い得ぬ震えに襲われる。高揚か、それとも恐怖か。現時点では、この二択に対する答えは出せそうにない。出せる日が来るのかも、分からない。

 

「ジョナサン・ジョースターという人物について、私の方で調べておきます。妹様はどうぞごゆっくり、エジプトの夜を堪能なさいませ」

 

「お願いするわ」

 

 そう言って、咲夜はお辞儀をしてから部屋を退出した。早速ジョナサンについての情報を探りに行ったのだろう。元来主人の身の回りの世話をするという役目を預かっているはずのメイドが、諜報員の職務を模倣しているのがそもそもおかしな話ではあるのだが、咲夜は全く気にする素振りも見せず今宵も元気に万能の天才ぶりを発揮していく。

 部屋にはフランドール一人が残された。もう一度仕切り直しとしてティーカップを手に取り、口を付け今度は嚥下することができた。少しばかり飲むのが遅くなったお陰かミルクは正に彼女の好む温度となっており、こくこくと喉を鳴らしてすぐに飲み干してしまった。

 

 一息吐き、ことりとカップをプレートに直した。四隅に花のあしらわれた、簡素で人受けの良さそうなプレートだ。こちらへやって来てから、咲夜は食事や飲み物を運んでくる時は決まってこれを使っている。装飾過多でないデザインが、彼女のお眼鏡に適ったのだろうか。

 すっ、と音もなくプレートが上に乗せられたカップごと消失した。見慣れた光景であるからフランドールも驚きはしないが、どうやって飲み終わったのを察知しているのかについては興味がある。ドアを一枚挟んだ向こうで静かに陶器が置かれた音なんて、如何に耳の優れた人間であっても聞き取るのは困難を極めるはずなのだが。それに、置いたからといってそれが飲み終わったという宣言になるとは限らない。だが、ほんのちょびっとだけでも中身が残っていれば、咲夜はプレートを下げない。成程、あの大雑把かつ繊細で気難しい姉が絶えず側に侍らせているわけだ。

 

「妹様。咲夜でございます。朝食ができましたのでお越し下さいませ」

 

 それと、件の情報につきましてもお食事の後に報告致します。ベーコンエッグの食欲をそそる香りを引き連れ、まるでそれが当然のことであるように咲夜はそう言った。

 そう来たか。実は咲夜は十人くらいいるのではないかと疑いたくなるような手際に、フランドールは呆れに近い感情を覚えて、それを隠すかの如き微かな苦笑を浮かべながらベッドを降りた。



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第二話 花京院 典明 その①

「……どうしよう」

 

 フランドールは困惑した。至急どうにかして、かの一人合点の花京院 典明を止めねばならぬと焦った。

 フランドールには極東の島国への行き方が分からぬ。フランドールは、欧州出身の吸血鬼である。血を吸い、姉達と共に暮らしてきた。けれども日々進化を続ける交通機関に対しては、人一倍にぽんこつであった。

 

「普通に考えれば、船よね」

 

 最近では飛行機なる鉄の塊が空を自分達に比肩する速度で飛んでいるとか聞くが、あれには重大な欠陥がある。構造面において、吸血鬼に対する配慮が致命的に欠けているのだ。よって、移動手段として選択するには能わない。

 

「でも私、吸血鬼よ」

 

 彼女は自身の種族故に、流れる水の上を歩くことができない。厳密にはできなくもないのだが、強烈な倦怠感と吐き気に襲われるので絶対にやりたくない。

 船は当然ながら海の上を進む。つまり、一度船に乗ってしまうと彼女はその場から一歩も動けなくなってしまうのだ。例え船が波に揺られたことでバランスを崩したたらを踏んだだけでも、恐らく彼女は船酔いよろしくその日の朝食にお別れを言うはめになるだろう。誇り高き吸血鬼として、それ以前に羞恥心と常識を備える一人の生き物としてそんな辱めに耐えられるだけの図太いワイヤーのような精神は持っていなかった。

 

「恐れながら申し上げます。飛行機で日本まで向かうのが宜しいかと」

 

「えぇ……嫌よ、飛行機の中では日傘を広げられないんでしょ。日光を防ぐ手立てがないじゃない」

 

「妹様。飛行機の窓には、遮光性の極めて強いカーテンが取り付けられています。吸血鬼にも優しい設計となっているのです」

 

 それに、と咲夜は言葉を続ける。

 

「機内では映画を鑑賞することが可能です。それも誰にも邪魔をされることなく、妹様の世界に没入しながら好きな映画を楽しむことが許されるのですよ」

 

「……『Tom and Jerry』はある?」

 

「子供向……こほん、童心に帰りたい者のために用意されている場合が多いかと」

 

「成程」

 

 そのまま五文字目を言うとフランドールの機嫌を損ねるかと思い、咲夜は急遽予定を変更して違う言葉をお届けした。その甲斐あってか主の機嫌は急降下せずに済み、咲夜は心中で安堵した。

 姉に比べれば良識もあり尖った性格をしていないフランドールだが、やはりあの姉にしてこの妹かと思わせてくることも多少ながらある。その度に咲夜を始めとした吸血鬼姉妹の従者達は、血は争えないものだと諦め半分納得半分の複雑な感情を抱くのである。

 

「飛行機を使いましょう。咲夜、付いてきてくれるかしら」

 

「妹様が足を運ぶのなら、何処へでも。ですが妹様、飛行機に乗るにはチケットの購入が必須でございます」

 

「ふむ。まぁそうよね」

 

「今より購入して参ります。出発は三日後辺りになるとお考え下さいませ」

 

「準備もしなきゃいけないものね。分かったわ」

 

 それでも、ここで思い立ったが吉日だと良く知りもしない極東の小さな国の慣例をあたかも現地の人間であるかのように持ち出してこない辺り、フランドールは素直で聞き分けの良い性格をしていると思う。これでこの場にいるのが姉の方だったら、咲夜の出発はプチ旅行における準備の必要性の説明によって十五分は遅れていただろう。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ここが日本ね。見渡す限り人間で、心休まる場所がなさそう」

 

「世界で五十番目にも入らない国土に、十指に数えられようかという程の人間がひしめき合っております。特に都市部の混雑ぶりは、時にロンドンの市街地をも上回りますわ」

 

 飛行機に乗り、豊富な猫と鼠のお笑い寸劇に囲まれること約半日。フランドールと咲夜は、エジプトと違って湿気のある蒸し暑さが何とも嫌らしい四季と雨の国・日本に降り立った。

 堅苦しい黒のスーツに身を包んだビジネスマンらしき男が、同じく黒一色のキャリーケースを転がして搭乗口へ急いでいる。団体客だろうか、一つところに集まった数十人の男女がガイドの説明を談笑混じりに聞いている。実に性別から職業、果ては国籍まで十人十色の人間が右に左に前に奥にと忙しない。

 しかし、これ程多くの人間が行き交っているにも関わらず、二人に注目するものはいなかった。それもそのはず、フランドールは魔法で翼を隠し、傍目には欧州から観光目的でやって来た少女の出で立ちであった。一方の咲夜は普段のメイド服ではなく純白のワンピースを着用しており、フランドールの歳の離れた友人のような格好になっていた。

 勿論咲夜が振りとはいえフランドールの友人のように振る舞うなんてことはあるはずもなく、彼女は正体を隠してなお主の斜め後ろに控えるように立っている。それが原因だろう、向日葵のような明るい可愛さとナイフのように冷たい美しさが互いに激しく自己主張を繰り返している。ある意味二人は、この場の誰よりも雰囲気的に目立っていた。

 

「して妹様、花京院 典明を探すとのことですが」

 

「そう。早く止めなければ、彼は殺人を犯すかも知れないの」

 

「手に入れたスタンドで、ジョナサン・ジョースターの系譜に連なる者達を殺そうとしている。物騒な話ですわ」

 

 フランドールがわざわざ日本まで足を運んだのには、他でもない理由がある。つい数日前に交流を持った男の蛮行を、何とかして阻止するためである。

 チャームが彼の中に眠っていた才能をスタンドという形で掘り当ててしまったと聞いてから、フランドールは内心彼に申し訳なく思っていた。花京院からすれば、別段望んでいたわけでもない特殊な力を、見ず知らずの吸血鬼によって無理矢理に発現させられたわけだ。自分が彼の立場にあったとしたら、文句の一つくらい言いたくもなるだろう。

 だから、咲夜の力も借りつつフランドールは花京院の所在を探した。取り敢えず彼に一言謝罪する義務が、自分にはあると思ったが故の行動だ。

 幸いにして、彼はフランドール達の仮初の居館から程近いホテルに家族と共に宿泊していると発覚した。夜を待ってホテルまで赴き、花京院の親族だと断って彼のいる部屋の番号を聞き出した。

 向かってみると、折良く家族は出払っていたらしく部屋には彼一人であった。少々控え目なノックの音に気が付いてドアを開けた花京院は、さぞかし驚いたことだろう。自分の首筋に噛みつきちゅうちゅうと血を吸った幼女が、再び眼前に姿を現したのだから。

 彼の硬直は、しかし一瞬であった。何もできず、朦朧とする意識の中で好き勝手に吸血されていたあの時とは状況が違う。花京院は自身を庇うようにスタンドを出し、抵抗の意思を見せた。

 

 ── その、ごめんなさい。

 

 おずおずと、しかし目を逸らすことなく紡がれた言葉に、まさに先手を打たんとしていた花京院も気を削がれた。まさか謝罪されるとは、思っていなかった。

 良く良く話を聞いてみれば、フランドールは自分のせいでスタンドに目覚めてしまったことに罪悪感を覚えているらしかった。故意でなかったとはいえ、申し訳ない。声を乱すこともなく、静かに彼女は二度謝った。

 誠意を見せる相手に追撃を掛けられる花京院ではない。これも奇怪な星の下に生まれた運命と納得し、彼女を許すことにした。第一、スタンドが出せるようになったことでデメリットを被ったことは特になく、花京院はフランドールに恨みなど一欠片も抱いてはいなかった。だから許すといっても、至極形式的なものになった。

 

 自身を手玉に取った幼い少女が、今度は遠路かどうかは知らないが遥々謝りに来るとは。花京院はフランドールに対する敵対心を打ち消し、代わって浅はかならぬ興味を抱いた。

 少し話をしないか、家族は暫く帰ってこない。そう誘ってみれば、フランドールは快く頼みを承諾してくれた。その直後に音もなくメイド服を着た銀髪の少女が姿を見せて鋭い視線を送ってきたのにはさしもの花京院も動揺の声を上げたが、フランドールが大丈夫だと言うと銀髪少女は覇気じみた殺気を飛ばしてくるのを止めてくれた。

 話してみると思いの外フランドールと花京院は波長が合った。互いの日常について笑いを含めながら話すようになるまで、五分と掛からなかったように思う。

 

 今にして思えば、予想外に花京院と馬が合ったのが良くなかったのかも知れない。話の中で彼女はついうっかりあの話題に触れてしまったのだ。そう、最近誰かに見られることがあるという話題に。

 不埒な輩がいるようだ。花京院はまるで自分のことのように不快感を示した。何処の誰がそんな下衆なことをしているのかという彼の問いに馬鹿正直に答えてしまったのは、フランドールのやらかした二つ目にしてより大きなミスであると言えよう。この時の彼女に、のっぴきならない失敗をしたという自覚は毛程も無かったのだが。何か後ろで咲夜があっ……みたいな感じになっているなぁくらいにしか考えていなかった。

 

 わたしが日本に帰って、もしその下衆な輩を見つけたらしかと忠告しておく。花京院の心強い言葉に、フランドールは素直に礼を言った。常識的に考えて日本へ戻った彼がジョースター一族に出会う可能性は殆ど零に等しいものであったが、それでも彼の誠実な態度はフランドールにとって嬉しいものであった。

 彼は良き友になってくれそうだ。そう思い、フランドールは現在居住している館の住所を伝えた。もし何かあったらここへ手紙を寄越しなさい、可能な限りで貴方の力になってあげるという約束付きで。

 花京院もその宛先を受け取り、その夜は彼の家族がそろそろ帰ってくるだろうということでお開きとなった。面白い人間と知り合えたと上機嫌なフランドールの横で、咲夜は何とも言えない引き攣った笑みを浮かべていたのだが、当時の彼女が従者の常ならぬ様子に気がつくことはなかった。

 

「果たして事は予想通りに進む。これ程嬉しくない予想の的中も、そうはないわね」

 

「何か言った?」

 

「いえ。それより妹様、急ぎ彼の下へ向かわなければ」

 

「おっと、そうね。彼が手紙で言ってた男……えぇと」

 

空条(くうじょう) 承太郎(じょうたろう)ですわ」

 

「そう。その空条とやらが通う学校に、多分花京院はもう到着しているはずよ」

 

 彼から初めて送られてきた手紙の冒頭には、無事何事もなく日本へ帰ることができたという旨の内容が書かれていた。まだ十五、六程の少年が書いたにしてはえらく達筆だなと感心しながら手紙を読み進め、中盤の内容でフランドールはOh My God(なんてこった)と天を仰いだ。

 ジョースターの一族の一人を見つけた。そいつもスタンドを開花させているらしい。わたしのスタンドで、灸を据えてやるつもりだ。大まかにはこんな感じのことが書かれていた。

 花京院は、スタンドを対人戦にて用いるということがどれだけ危険な行為か正しく認識できていない。幾ら相手も同じ土俵に立っているとはいえ、精神エネルギーが形を持って現界しているスタンドは使用者と感覚を共有しているのだ。スタンドが傷つけば使用者も同じ部位を損傷してしまう。

 花京院の考えとしては、空条 承太郎なる男のスタンドを叩きのめすことで反省を促すつもりなのだろうが、それを実行に移してしまうと彼は傷害ないしは殺人の咎で投獄されるという憂き目に遭ってしまう。彼の友人として、何よりスタンドを目覚めさせた者として、それだけは何としてでも防がねばならない。

 

「この空港のターミナルから出るバスに乗れば、空条 承太郎の通学している高校に約一時間で到着します。勿論空を飛べば数分の道のりですが、只でさえ一悶着の有り得る場所に余計な騒ぎを引っ提げて行くのは宜しくないと存じます」

 

「分かっているわ」

 

 バスの出発時刻は、今より五分後となっている。これに乗り遅れるわけにはいかないと、二人はやや早足にてターミナルを目指すのであった。



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第三話 花京院 典明 その②

 突然だが皆々様、バスというものをご存知だろうか。

 どうか、待って欲しい。舐めた問いだと石を投げ唾を吐くのを、待って欲しい。正しくは、バスというものの保有する恐ろしさについてご存知かと問いたいのである。

 

 バス。人々の足として日夜運行される、代表的な公共交通機関である。何十人もの人間を乗せた四角い鉄の塊は、今日もタイヤを擦り減らしながら全国津々浦々を回っている。

 とりわけ田舎では人々の主要な移動手段として重宝されているバスであるが、そんなバスにも一つ大きな弱点が存在している。運賃が必要だとか数分置きにしか乗れないとか、そんなちゃちなことでは断じてない。

 バスは、揺れる。もうそれは、ぐわんぐわんと揺れる。特に舗装の甘い道を走っている時など、筆舌に尽くし難い縦横斜の揺れが乗客を翻弄する。

 

 バスが揺れれば、何が起こるか。蓋をしていない飲み物が零れるとか気になるあの娘の胸に視線が吸い寄せられるとか、そんな程度の話では断じてない。

 三半規管の弱い者は、例外なくバス酔いを起こすのだ。バス特有の篭もりがちな空気も、それに拍車をかけてくる。車であれば窓も開けられるだろうが、バスに乗っている者の大半は勝手知ったる仲にない。特に女性などは、髪が乱れると言って風が吹きつけるのを嫌がる傾向が強い。

 結果、外の空気を吸うこともできないまま、酔った人間は苦痛の時間を味わうはめになるのだ。それはまさに地獄の責め苦と呼ぶべき一時であり、いっそ殺してくれと懇願したくなるような悪魔的暗黒面(ダークサイド)の精神世界へと不運な弱者を引き摺り込むのである。

 

 

 

 

 

「……うー

 

 フランドールもまた、三半規管弱者の一人に過ぎなかった。友の人生に一生消えない傷が付けられるのを防ぐため、格好良く日本までやってきた吸血鬼は、予想だにしなかった激しい揺れの前に屈することとなった。

 バス酔いにも種類がある。猛烈な吐き気と背筋の悪寒に襲われるタイプもあれば、吐き気よりは寧ろ頭痛に苛まれるタイプもある。今フランドールを苦しめているバス酔いは、後者の型であった。

 いっそ胃の内容物をリバースしてしまえば、すっきりできるだろう。しかしフランドールには、それさえ許されない。決して嘔吐くには至らない、しかし言い得ぬ不快感を募らせながら、あたかも暑がる犬のように短い呼吸を繰り返し必死に命を繋いでいた。

 

 傍から見ると、何をしているんだこの幼女は、と不審な目を向けられる光景だろう。しかし、フランドールにとっては今この時こそが生きるか死ぬかの瀬戸際であり、周囲の目など気にする余裕は全くなかった。尤も、咲夜の配慮によって人目に付かなそうな日陰まで運ばれているので、彼女は思う存分苦しみ悶え抜くことができるのだが。

 勿論苦しみ続けるのはお断りだ。吸血鬼の圧倒的な回復力に物を言わせ、フランドールは急速に酔いを覚ましていく。過呼吸じみていた呼吸が少しずつ穏やかなものへと変わっていき、死人の如く青褪めていた顔にも仄かに赤みが差してきた。

 

「……し、死ぬかと思ったわ」

 

 五分程地面に仰向けになっていただろうか。久方ぶりにまともな言語を話し、フランドールは何とか死の淵からの脱出を果たした。未だに唇の血色がやや青白く見る者の不安を誘うが、もうどん底は過ぎた。ここからは快復していく一方である。

 

「申し訳ございません。まさか妹様が、乗り物に弱いとは露知らず」

 

「言ってなかったと思うし、私自身半ば以上忘れてたから良いわよ。それより咲夜、ここが目的地の学校ね?」

 

「はい。こちらに空条 承太郎と思しきスタンド使い、そして花京院 典明の存在も確認できます」

 

「あら、仕事が早いこと」

 

「ありがとうございます。ですが、今回は時間を止めて確認をしたというわけではないのです」

 

 ザ・ワールドの性質と言うよりは咲夜の持つ能力と言った方が正しいだろう。彼女は、流れる時間を止めることができる。

 あらゆるものが動きを止めた世界の中で、咲夜ただ一人だけが自由に活動できる。例え周囲を百頭のライオンに囲まれていようと、脱出も殲滅も選択できる能力を強いと言わずして、他のどの能力が強いとされようか。

 しかし、咲夜もやはり人の子なれば無限に時を止めていられるわけではない。能力を使用する際の体調に大きく左右されるが、普通の状態で使ったなら凡そ三十秒を彼女の時間と為すことができる。

 一見三十秒とは短い時間のように感じられるが、使い手たる咲夜の身体能力をもってすれば、一般人に一時間の猶予を与えているようなものだ。時間が再び流れ始めた時には、既に決着はつけられている。相手は突然視界から咲夜が失せたことに驚愕するか、突如として体中に白銀のナイフが突き立てられているのを呆然と見ながら絶命することしか許されないのである。

 

 だが、今回は時間を停止して学校の中の様子を見に行ったわけではないらしい。

 

「じゃあ、どうやって?」

 

「スタンドの気配を感じ取ったのです」

 

「また難しいことを、さらりとやってのけるわねこのメイドは」

 

「それがそうでもないのです。スタンドとは使い手の精神エネルギーが具現化した存在。言ってみれば、異常に自己主張の激しい気配のようなものなのです」

 

 無作為に集めた九十九人の中にお嬢様を加えても、何処にいるのかすぐに分かるのと原理的には変わりませんわ。くすりと冗談めかしながら、咲夜はそう言った。

 

「納得できるような、そうでないような」

 

「説明する力に長けておらず、汗顔の至りでございます。名誉挽回のため、この私に数言を付け加えさせて頂いても宜しいでしょうか」

 

「別に怒っても責めてもないけど、まぁどうぞ」

 

「恐悦至極。空条 承太郎と花京院 典明は、現在直接接触している状態にあります」

 

「しまった、一足遅かったか。これはちょびっとだけ不味いわね」

 

「しかし、戦闘状態には突入しておりません。あくまで感じ取った気配から推論を述べているに過ぎませんが、まだ両者は明確には敵対していないと思われます」

 

「成程。なら何とか争いは未然に防げ」

 

「……あっ」

 

 平和的な解決の望みが繋がり、少し安堵していたところに、咲夜の不穏な『……あっ』である。フランドールは、察した。それはもう、察してしまった。恐れていた事態の発生により希望の糸がぶつりと切れてしまったことを。

 

「妹様、残念なお知らせが二つございますがどちらからお耳に入れることをお望みでしょうか」

 

「大したことない方からで」

 

 またしても痛み出した頭を押さえながら、フランドールはまず程度の軽い方を要求した。

 

「承知致しました。まず一つ目ですが、二人が交戦を開始しました」

 

 そんなところだろうとは思っていた。できれば回避したい事態であったが、勃発してしまった以上は仕方がない。二人を止めるべく学舎へ早足で向かいながら、より重大な悪い報告を行うよう咲夜に促す。

 

「二つ目も聞こうかしら。あんまり聞きたくはないけど」

 

「はい、空条 承太郎のスタンドについて誤算が生じていたことが発覚してしまいました」

 

「誤算?」

 

「彼のスタンドは、妹様や私が予想していたよりもずっと強大で確立されたものだったのです」

 

 花京院と実際に顔を合わせた咲夜は、彼のスタンドであるハイエロファントグリーンについて弱くはないと評した。肉弾戦向きとは言えないが、様々なものに潜み操る力は中々に有用なものであろう。立ち回り次第では、かなり強いスタンドを相手にしても充分渡り合えるだけのポテンシャルがあると睨んでいた。

 スタンドにも、格の優劣がある。咲夜は鋭敏にそれを感じ取っていた。多少の差なら戦術で埋められなくもないが、これが決定的な差となってくると小手先の技術だけで賄うのは難しくなってくる。とどのつまり、元から比類なき力を誇るスタンドもあれば、存在自体は頂点クラスから見れば劣るものの技術でそれを補うことである程度の強さを保っているスタンドもあるということだ。

 

 咲夜などは、形式上前者の中でも群を抜いた天性のモンスタースタンドである。一方でハイエロファントグリーンは性質が強さの源となっている、典型的な後者だ。まともなぶつかり合いさえ避ければ、凡百のスタンドに遅れを取ることはあるまい。そう考えていたからこそ咲夜も花京院()相手を殺傷してしまう可能性について考慮していた。

 だが、どうやらその考えは間違っていたらしい。空条 承太郎の繰り出すスタンドからは、咲夜をして油断ならないと気を引き締めさせる程の存在感が放たれていた。如何に技巧派のハイエロファントグリーンとはいえ、この力の差をカバーするのは至難の技であるはずだ。

 

「咲夜の主観で良いわ。空条 承太郎のスタンドに対する認識は、どれだけ上方修正されたかしら」

 

「力だけなら私より上かも知れません」

 

 その一言で、フランドールも空条 承太郎のスタンドの強さについての私見を改めた。これは、想定し危惧していた状況と逆だ。

 花京院()、危ない。

 

「急ぐわよ、咲夜」

 

「畏まりました」

 

 咲夜の感じ取るスタンドの気配を頼りに、主従は戦いを始めた二人の少年の下へと向かう。

 既にバス酔いは、ほぼ十全に回復していた。故にフランドールは、しっかりとした足取りで歩み続ける。甚大な頭痛と震度七の視界にうーと唸っていたか弱い乙女は、もういない。金城鉄壁、鎧袖一触のメイドを従えた夜の王の出陣である。因みに、現在時刻はお日様燦々の十四時である。



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第四話 花京院 典明 その③

「てめー、それは何の真似だ」

 

「転校生からのささやかなサプライズだ。驚いてくれたかね」

 

 通う学校の医務室にて、空条 承太郎は花京院 典明と、互いにスタンドを顕にしながら対峙していた。

 実に四日ぶりに学校へと登校し、彼はいつものように左手を学生服のポケットに突っ込みながら歩いていた。筋骨隆々の長身の男がそうして歩いていれば、誰しも怖気付いて近寄ることなく遠目に見るだけとなろうが、何故かこの承太郎だけは違った。彼を見かけた女子生徒は、皆一様に彼に朝の挨拶をしていく。

 

「おはようJOJO」

 

「おはようJOJO」

 

「おはようJOJO」

 

「おはようJOJO」

 

「おはようJOJO」

 

「おはようJOJO」

 

 ……という風に、承太郎は女子生徒からの人気が極めて高い。長身でルックスも良いのだから当然と言えばそうなのだが、当の本人はそんな現状を特に喜ぶわけでもない。それどころか後ろで彼を巡って不毛な顔面胸囲の雑言を飛び交わせ始めた女共に対してやかましいッうっとおしいぞォ!と怒鳴りつける始末である。女に靡かないのも、きっと彼の周りに女性が絶えない理由なのだろう。

 閑話休題(それはさておき)、JOJOもとい承太郎は学校へ通学するための道を、様々な考え事と共に歩いていた。

 先日ニューヨークから急遽やってきた彼の祖父は、奇怪な友人を連れてきた。その友人は当時スタンドを悪霊か何かと考えていた承太郎に、初めてスタンドを見せることとなった男だ。魔術師の赤(マジシャンズレッド)と名付けられたらしい彼のスタンドは炎を操り、一時的に承太郎のスタンドを弱める程の強さを見せつけた。

 その男と祖父、そして同伴していた母親を交えての話し合いの中で、承太郎には幾つかの衝撃的な事実が知らされることとなった。まず、自分が悪霊だと思っていたものは幽波紋(スタンド)と呼ばれる生命エネルギーの集合体であるということ。そして、ジョースター一族と深い因縁を持つ男の存在。

 ディオなるその男は、自身の祖父であるジョセフ・ジョースターのさらにまた祖父の首から下を乗っ取って、百年を太陽の光の届かない海底で過ごしたという。しかもその上、ディオは目を覚まして百年前の大願に再び手を掛けようとしているとか言うではないか。

 信じるに能わない与太話だと言い切る他にはなかった。ニューヨークの不動産王だと畏怖されていても所詮は齢七十も目前の耄碌爺だ、頭の機能が弱って妄言を吐くようになってしまったのだろう。承太郎はそう信じたかった。

 だが、現実に超常の能力(スタンド)は発現している。自分にも、そしてジョセフにも。ディオの復活とやや時間的なラグはあるものの、この二つの出来事の間に何の関係もないと言い切るには少々出来過ぎているように思える。何よりジョセフに見せられた写真に写るディオは、首のところに縫ったような跡があった。それも一針や二針ではなく、首を一周しているのではないかという程に縫われていた。

 

「あぁ。びっくりし過ぎて、おまえの横っ面を張っ倒してぇよ」

 

 承太郎は、ジョセフの話を()()()信じていた。そして同時に、()()()信じていなかった。

 確かに祖父の話には筋が通っている。ディオが目覚め、その影響で因縁あるジョースター家の人間がスタンドを目覚めさせつつある。ジョースター家の人間は首の付け根に星型の痣があり、この痣はディオの写真にも確認できる。

 ただ、ジョセフが言ったことはあくまで筋が通っているだけだ。論理的には大凡破綻していないというだけで、信じられるかと言われれば話はまた別になってくる。最終的に祖父の言葉を信じるかどうかは、もう少し考えなければいけない。

 

 ……彼にしては珍しく、脳味噌を秒間三回転位のペースで回して考えていた矢先に、彼は何者かによる襲撃を受けた。丁度降りていた階段を踏み外し、あわや通学途中の大惨事かというところであったが、ぎりぎりのところでスタンドを活かし死中に活を見出した。

 最初の襲撃で、承太郎は膝の上を切った。幸いにも病院へ直行しなければいけないような大怪我ではなかったが、一先ず消毒等の治療を受けようと訪れた医務室で、彼は襲撃の犯人 ── 花京院と向かい合うに至った。

 

「直情的な男だ。盗視などとてもできそうではないが、人は見た目に依らぬと言う」

 

「盗視だ?」

 

 当初、承太郎は花京院のことを、ディオが差し向けてきた刺客だと思っていた。ジョセフがディオを追っているように、ディオもまた宿命の敵であるジョースターの血を根絶やしにするつもりであるはずだ。話の中でそう聞いていたから、随分と早いお出ましだと内心舌を巻いた。

 ところが、良く話を聞いてみると、この花京院はディオとの接点はないと言う。私がここにいるのはあくまでも自分の意思の表れであって、目的は私の新たなる友人を苦しめる一族に灸を据えることだ。不敵に、しかし油断なく承太郎を見返す花京院の言葉に、嘘はないように思えた。

 

「さてはてめー、おれのことをじじいと間違えてやがるな?隠者の紫(ハーミットパープル)とかいうスタンドを探してんなら、生憎おれはお呼びじゃねぇぞ」

 

「何?」

 

 ジョセフのスタンドは、手に茨を纏い、一台三万円もするとかいう高級なカメラを叩き壊すことで遠い地の物体をフィルムに写すというものだ。より分かりやすく言えば、念写能力となろう。花京院が探している盗視のスタンド使いに性質が近く、それでいて承太郎が知っていて、尚且つ承太郎の一族である。この三つの条件を満たすのは、祖父をおいて他にはいない。

 

「そうか、それは失礼した。ではきさまの祖父に直接問いただすとしよう。JOJO、きさまの祖父は何処にいる」

 

「聞かれてはいそーですかとばかりに教えると思ったか」

 

 いきなり孫の下を訪れたと思えば、宿命の大敵が甦っただの何だのと言い、かと言って承太郎には何をしろと指示するわけでも依頼するわけでもない。全くもって意も解し難い上に訳も分からない『じじい』だが、それは彼の下に敵意を隠そうともしないスタンド使いを案内する理由にはならない。

 

「仕方ない、力づくで聞き出してやろう」

 

「やってみやがれ」

 

 ハイエロファントグリーンの手から、緑色をした液体が滲み出る。ぼどぼどと床に滴り落ちるそれには構うことなく、承太郎はスタンド諸共固く拳を握った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「あそこね」

 

 二人が校内に入ったのとほぼ同時に、耳を劈くような破砕音が聞こえてきた。並々ならぬ事態が起きていることは明白であった。

 音のした方へ向かってみれば、ドアの取り付けられていない部屋が一つあった。肝心のドアはあたかも激痛に苛まれた人間が腰を折るように折れ曲がっており、備え付けられていたはずのガラスは縁の各所に鋭く尖った一部を残すのみである。部屋の中から強い衝撃を与えられて吹き飛ばされたことが、容易に想像できた。

 上の手摺りに貼り付けてあったプレートから、部屋の名前は医務室だと分かった。怪我を治療するための場所で争うとは、何の皮肉だとフランドールは呆れた。

 

「咲夜」

 

「畏まりました」

 

 フランドールが名前を呼ぶだけで、咲夜は敏捷に反応した。とん、と静かに地を蹴り、それだけで吸血鬼たるフランドールが目を丸くする程の超スピードを出した。瞬きするよりも早く医務室前に到着し、そのまま何の躊躇いもなく中へと歩を進めていった。

 

「……いや、『行って』じゃなくて『行ける?』って聞きたかったんだけど」

 

 姉なら前者を選んでいただろう。大きな差はないが、どちらかと言うと姉の近くに控えている時間の方が多い彼女は、無意識的に姉専用の対応を取ってしまったと考えられる。

 どの道先行をお願いしようと思っていたので、問答を一つ短縮できたのは良かったけど。ちょっと気の利き過ぎるメイドに大きな感謝と小さくない驚愕を覚えつつ、遅れて着いたフランドールも足元に散乱するガラスの破片に気を配りつつ……入ろうとしたが、何故か破片の一欠片も落ちていなかった。おかしい、入口付近には粉砕されていたガラスが無数に散らばっていて然るべきだと言うのに。

 ふと部屋の中心付近にあった椅子を見れば、そこにはやたらと蛍光灯の光を反射して煌めくちりとりが置かれていた。良くやってくれたとメイドを褒めるべきタイミングなのかも知れないが、しかしフランドールは十年ぶりに体が意識を超えてぷるぷると震えるのを抑えられなかった。些細なことから姉と喧嘩になり、彼女に向かってAAA(トリプルエー)の女と言ってしまった時以来の、体の震えであった。

 最早これは気が利くという次元にはない。未来を予め知り、フランドールに及び得る危険を全て事前に排除しているのだと言われた方が納得できるレベルである。

 

「そこまでよ」

 

 主が自身の能力について、本当に時を止めるだけしかできないのかと疑っているとは思いもよらない咲夜は、双方向から自らを押し潰さんとするスタンドの攻撃を止めていた。承太郎のスタンドが振るった拳は右の掌で受け止め、ハイエロファントグリーンの撃ち出した緑の結晶は左の掌で掴んでいた。

 

「なっ!き、きみはッ!」

 

「暫くぶりね、花京院」

 

 家族が帰ってこないのを良いことに、妹様を部屋に連れ込もうとしたのは忘れていないわよ。ぎろり、と銀の瞳に睨み付けられ、花京院は咄嗟に弁解の言葉を口にすることもできなかった。

 彼は単に話がしたかっただけであり、二人っきりになった上で如何わしい行為に及んだりなんて微塵も考えてはいなかった。もし実際に事を起こそうとしていれば、今頃彼は体を細切れにされた上で蠍の餌にされていただろう。

 大体、フランドールくらいの見た目の少女に()()()()()()をしたがる不逞の輩のことを、世間一般ではロリコンと言うのである。天地神明に誓っても良い、花京院 典明はロリコンに非ず。

 

「……何者だ、おめー」

 

「そちらにいらっしゃる妹様と、ここにはいないお嬢様に仕えるメイドですわ。以後、お見知りおきを」

 

 スタンドに触れているのだから、この女も人間ではなくスタンドだということか。しかし、これ程細い体躯でどうしてこの一撃を止められたのか。余りに予想外の現実に、承太郎は混乱する。

 間違っても、陶器のように儚く砕け散ってしまいそうな細腕で止められる攻撃ではない。彼のスタンドは、太い鉄柵を炎天下の中に放っておいたソフトキャンディのように曲げるだけの怪力を有しているのだ。では、怪力が自慢のスタンドが手加減ほぼ無しで振り抜いた拳は、何故筋肉や破壊力といった言葉からは無縁の存在でありそうな咲夜と拮抗したのだろうか。

 

「妹様が戦いの終着をご希望よ」

 

 答えは至極簡単である。外見は内面と違う、以上。



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第五話 Frandre's Bizarre Adventure その①

 広大な和風屋敷の、その一室。畳敷きの部屋に、六人の男女が集まっていた。数時間前に初めて顔を合わせた者同士もいれば、血縁関係にある者達もいる。おまけに主人と従者の関係もあったりと、様々な人間関係が一つの部屋に詰め込まれていた。

 

「ふむ。つまり、わしの能力でそこの女の子が不快な思いをしているとな」

 

「そういうことです。聞けばあなたは、盗視ではないが念写のスタンドを持っているとか。申し訳ないが、控えて頂けませんか?」

 

「……おれの時と態度が全くちげーぞ」

 

 自分より歳が上の人物と話すに相応しい慇懃な口調で、花京院はジョセフに能力の使用を取り止めるよう頼んだ。スタンドを出して白地に威嚇することもなく、かと言って媚びた態度を取りもしていない。花京院はこの時、毅然とした一人の青年であった。

 対して初っ端からオラオラ行かれた承太郎は、不機嫌そうに花京院とジョセフの顔を交互に見る。てめーのスカした顔面にオラオラ行ってやろうかと、額に青筋を浮かべる彼に気がついていないのか、はたまた気にしていないだけなのか、花京院の表情は涼しげなものであった。

 

「うーむ。言い訳するわけではないが、それは恐らくわしではない」

 

「どういうことです」

 

「確かに花京院、お前さんの言う通りわしには念写を行えるスタンド、ハーミットパープルがある。だがな、わしが念写をすると浮かび上がってくるのは決まってとある男なのだよ」

 

 こんな可愛らしい女の子なんぞ、ちらりと写ったこともない。フランドールの方を見ながら話すジョセフは、軽く困惑しているようだった。

 フィルムに写る立ち姿は、ともすれば孫の承太郎にも匹敵する程に鍛え抜かれている。筋肉達磨ではないが、写真越しにもひしひしと感じられる万力のような圧迫感はこの肉体と迸る覇気の成せる業だと言えよう。何を間違おうとも、ジョセフの腰程しかない背丈のあれからこれまでちみっこい幼女とは空目しない。

 それにしても、不思議な少女ではあると思う。ザ・ワールドは、彼女を護ることが生きる理由の半分だと言った。承太郎のスタンドと張り合ってなお余裕を醸し出すだけのパワーを誇るザ・ワールドにそうまで言わしめるとは、このフランドールなる少女は何者なのか。ぱっちりとした紅い瞳に大仙古墳の埴輪くらいは自己主張しているチェストサーフェス、そして真っ赤なスカートからちらりと覗く健康的で瑞々しい太腿。正直見た目は、将来的にどえらい美少女美女へと成長することを約束された幼き大器と言うしかないのだが。何なら今からしっかりと教育して自分好みの女に仕立て

 

「な゛」

 

 邪な考えは、文字通り身を滅ぼす。咲夜がジョセフに向けて放った殺気は、少なくとも彼女にとっては威嚇程度のものでしかなかった。だが、ジョセフは尿道に熱した薬缶の注ぎ口を突っ込まれたかの如き悪寒を覚えた。これは、多分ラーメンの上の葱ばりに意外な主張をしている小さな安産型のヒップについて深く考察していたら意識を飛ばされていたかも知れない。人知れずジョセフは、危ないところだったと冷や汗を拭った。

 

「それを証明できますか?」

 

「っと、あぁ。あれは手が痛くなるんで、余りやりたくはないんだがなぁ」

 

 怪しまれるのは好きでないし、まぁ仕方ないか。そう言ってタオルを脇に置いたジョセフが指をぱちんと鳴らすと、隣に座っていた亜種的ドレッドヘアの彫り深い男が彼に何かを手渡した。

 良く見ると、それはカメラであった。Sun670という型番の、ポラロイドカメラであった。それを畳の上に置き、左手で位置が変わらないよう固定する。何をするのかと事情を知る承太郎とドレッドヘアの男以外が注目する中で、ジョセフは右の手を開き指を揃えた。

 手刀を放つ際の、手の形であった。ジョセフの視線は、ぶれることなく真っ直ぐに高そうなカメラへと向いている。まさか、と花京院が一秒後のカメラの悲劇を予想したのと同時に、彼は右腕を思いっきり振り下ろした。

 

 ぐしゃ、という鈍い破砕音が部屋にいる全員の耳に届いた。カメラを叩き壊す老人という、普通に生きていれば十中八九お目にかかれない光景に、フランドールは目を点にした。そのせいで大事な一場面を見逃すことになってしまったのだが、流石に今のをちゃんと見ておくべきだと詰るのは酷であろう。あの咲夜でさえも、突然の暴挙を前にして瞳に僅かながらに困惑の色を浮かばせたのだから。

 殴打の瞬間、ジョセフの手を覆った茨をフランドール以外は目撃した。あれこそが彼のスタンド『隠者の紫(ハーミットパープル)』の正体である。この茨は遠い何処かにある物を写し出すことができ、突き刺すことによってその性質を発揮する。

 明らかにカメラとしての役割を果たせないはずのカメラだった破損物体が、不思議なことに一枚の写真を吐き出したのだ。承太郎が出てきた写真を拾い、表情を変えることなくじっと凝視している。

 

「おー痛……。年を食うと体が弱くなっていかんわい」

 

「良く言うぜじじい」

 

 曲がりなりにも機械を素手で壊せる男が、何をほざくか。やれやれだぜ、と呆れながら承太郎は写真を放って花京院にパスした。

 宣言も何もないキラーパスだったが、花京院は冷静に人指し指と中指で縦に順回転する写真を挟んでみせた。さらに余裕の現れか、有り難うと感謝まで述べるときた。

 つい数時間前に突然喧嘩を吹っ掛けられたこともあり、その腹いせから半分本気で花京院の眉間を狙っていた承太郎は、いけ好かねぇ男だと小さく舌打ちをした。だがしかし、写真は四隅が尖っているので、無闇に人に向かって投擲してはならない。

 

「この男は?」

 

「ディオと言ってな。ちょいと訳ありの男で、今わしが追っているのだ」

 

 写真をじっくりと見た花京院だったが、成程ジョセフの言う通りフランドールの姿は写っていなかった。ならば彼はフランドールが感じるという謎の気配とは無関係ということか。

 しかし、では何故フランドールは違和感を感じるのだろうか。誰かに見られているという感覚、突如として脳裏に浮かんだジョースターの一族。スタンドというものを知った今では、ジョースター一族の誰かによるスタンド攻撃であるとしか考えられない。

 ジョセフが元凶でないとすれば、ジョースター家の他の誰かを当たるべきなのかも知れないが、既に二人空振っている上でさらに候補を探っていくのは失礼に値する行為だ。できれば避けたいし、やるにしてもこれまで以上に慎重な挙措が求められる。

 

 そもそも、どうして自分はフランドールに不快感を与えている人物を探しているのだろう。彼女とはつい最近エジプト旅行の中で知り合っただけで、別段十年来の親友というわけでもないのに。

 どうしてか、フランドールのために動いてやりたくなる。思うにこれは、彼女の持つ不思議な魅力のせいであろう。恐らく先天的に、彼女は周囲の善良な人間を味方につける才能を持っている。手を貸したい、助けになりたいと思わせる力がある。

 支配ではなく協調によって人と並ぶ。これは、奇跡的な才能ではないか。誰もが確固たる己の意思で、進んでフランドールの仲間になるだなんて、下手をすれば彼女のスタンドであるザ・ワールドにも増して強大な武器となり得る。

 しかもこの武器、何と使い所を選ばない。剣や矛の扱いに長けていても社会の中で役立つ場面はほぼ無いに等しいが、仲間を作る能力は有事であるか否かを問わない。いつ如何なる時においても使用者に対して有利に働いてくれるのだ。

 

「それにしても、ホリィが遅いのぉ」

 

「わたしが様子を見てきましょう」

 

 ドレッドヘアの男が立ち上がり、人数分の菓子を用意しているはずの女性の元へと向かう。女性の名は空条 ホリィ、承太郎に底無しの愛情を注ぐ母親にしてジョセフの愛しの娘である。

 

「とまぁ、こんなところじゃ。花京院、わしの疑いは晴れたかな?」

 

「えぇ。申し訳ありません、こちらの思い違いだったとは」

 

 花京院は既に、ジョセフへの疑いを消していた。目の前で証拠を見せられては、疑いようもないというものである。

 本人曰くフランドールは英国出身で、今はエジプトでのんびり羽を休めているのだと言う。日本へ足を運ぶのは今回が初とのことだが、それにしては苦もなく正座をしたりと日本の文化に則るのが中々堂に入っている。きちんと両手で湯呑みを持ち茶を飲む姿から、視線を感じているような様子は見受けられない。

 

「わしは気にしとらんよ。友達のために行動できるその心、大切に育ててやりなさい」

 

 一同に、一時の穏やかな休息がもたらされる。ジョセフは花京院の友人思いなところが気に入ったのか自ら話を振っているし、花京院もそれに対して嫌そうな顔をせずに応じている。フランドールはジャパニーズ・グリーンティーがお気に召したようでいて、傍らに控えるザ・ワールドに帰ったら作ってみて欲しいと頼んでいる。スタンドに給仕を頼むとは何とも面白い少女だが、当のザ・ワールドが微笑を浮かべて恭しく頭を垂れているので交渉は成立したのだろう。

 ここで唯一ちょっと心情的に面白くない男がいた。何を隠そうこの男、空条 承太郎であった。彼にしてみれば、今日は散々な一日であったとしか言えない。珍しく朝からきちんと学校に出向いたかと思えば突然スタンド使いと戦うことになり、挙句の果てに謎の女に中途半端なところで勝負を切られる。成り行きで早退きして実家まで帰ってきたら花京院の態度が自分と祖父で全く違う。承太郎の機嫌が悪くなるのも、仕方ないことであった。

 

「……だからおれと対応が違い ──」

 

 

 

「ホリィさんッ!?」

 

 だが、散々な一日はまだ終わっていなかった。寧ろここからが本番であると言わんばかりに、束の間の平穏は袈裟斬りにされた。

 

「む?今のはアヴドゥルの声か」

 

「何かあったようです。行ってみましょう」

 

「ちっ。文句も言い終えられねぇうちに」

 

 知覚のジョセフ、提案の花京院、不満の承太郎。三者相違の様子を引っ提げて、男衆は立ち上がり台所へと歩いていった。

 

「咲夜。私達も行きましょう」

 

「承知致しました」

 

 男共に遅れること十数秒、紅魔主従も席を立ち皆の後を追った。部屋を出た時には既に誰の背中も目に入ってこなかったが、彼らが歩いていった方向は分かっている。そちらに向かえば、何処かで出会えるだろう。それくらいの軽い気持ちで、フランドールは木張りの床をきしきしと踏みしめていった。

 

 或いは、この瞬間が運命の分岐点だったとも言える。ここで皆の帰りを待たず自分の足で現場へと向かったことは、フランドールと咲夜の未来を決定付ける重要な要素だったのかも知れない。

 運命とは、得てして変わりどころを見つけられないものだ。階段を降りる時に右足と左足のどちらを一歩目にするか選ぶだけでも、待ち受ける結末は全く異なるものとなるのだから。

 あたかも青き春真っ只中の乙女の心のように、運命は刻一刻とその様相を変容させていく。己の行為が運命にどのような影響を及ぼすかなど、他ならぬフランドールの姉以外に理解できようはずもなかった。しかし単なる偶然か神の悪戯か、その姉とフランドールは今現在において近くも遠い地面を踏んでいる。

 

 故に、誰も知らなかった。

 

 幾つもの国や地域を舞台にした、奇妙な冒険。

 

 その幕が、密かに上がったことを。

 

 

 

 

 

 フランドールの奇妙な冒険、ここに開幕。



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第六話 Frandre's Bizarre Adventure その②

「おいアヴドゥル、声を荒らげてどうした。きみらしくも……ッ!?」

 

 モハメド・アヴドゥルは、そのスタンドに似合わず冷静沈着な男である。滅多なことでは声を荒らげもしないし、冷や汗をかくこともない。

 そんな彼が、あれ程までに切迫感に溢れた叫びをあげた。只事ではない何かが、台所で起こっているのではないか。彼と付き合いの長いジョセフは、承太郎と花京院に少し歩を早めるように促した。

 やや急ぎ足で台所まで赴き、アヴドゥルの声がする方へと行く。そこで彼らが目にしたのは、荒く浅い呼吸を繰り返しながら床に倒れ伏すホリィと、彼女に必死に呼びかけるアヴドゥルの姿であった。

 

「ホリィ!ホリィッ!?」

 

「凄い熱です!何らかの病気でしょうか?」

 

「まさか!ほんの数分前にわしが人数分の茶と菓子を持ってくるよう頼んだ時には、ホリィは元気なわしの娘だった!」

 

 自らも駆け寄り、娘に殆ど叫ぶように声をかける。花京院の言う通り、ホリィの体温は明らかに異常だとすぐに理解できるものであった。

 間欠泉のように汗が体中から噴出し、あれよという間に彼女の肌の上で蒸発していく。肌に付着した白い結晶は、ジョセフが体を揺らすのに合わせてぽろぽろと剥がれ落ちる。

 尋常でない体温は、ホリィの生気を燃料にして維持されているようであった。事情は何も分からないが、とにかく体を冷やさなければいけない。ジョセフは急ぎ冷凍庫から余っていた保冷剤を掴めるだけ掴み取り、彼女の額や首筋に押し当てていった。

 

 フランドールと咲夜が熱に魘されるホリィを目撃するに至ったのは、ジョセフが冷凍庫を開けた丁度その瞬間であった。何事かと駆け寄って事態を観察する中で、咲夜はすぐにホリィの身の異常事態を視認した。

 

「ジョセフ・ジョースター。そちらの女性、首元に植物と思われるものが見えるわ」

 

「なにぃ!……これは、まさかっ!!」

 

 済まんホリィ!一言断ってから、汗で重くなった上半身の服を取り払う。ぐっしょりと汗をかいたホリィの背中から広がっていたものは、一同から言葉を残らず奪い去った。

 時が凍ったかのように、誰も小さな挙動一つ取ることができなかった。しかし、開けっ放しにされていた冷凍庫から鳴らされた二度の警告音が数秒の沈黙を打ち破り、漸く幾人かは口を動かすことができるようになった。

 

「す……スタンドッ!」

 

「ホリィさんにもスタンドが発現しているっ!」

 

 ホリィの背中を覆い尽くしていたのは、いっそ引きちぎってしまいたいくらいに青々とした植物であった。手を伸ばせば、しかしその手は虚しく植物の茎をすり抜けるのみ。

 例えばジョセフのハーミットパープルのように。例えば花京院のハイエロファントグリーンのように。空条 ホリィはスタンド能力を発現していた。

 

「JOJOとジョースターさんにだけDIOの肉体(ボディ)からの影響があり……ホリィさんには異状がないというので、安心しきっていた」

 

 だが、これは決して喜ばしいことではない。事実、この場にいる誰もが険しい表情でホリィの背中を苗床としているスタンドを睨んでいる。

 

「違った!ホリィさんにとっては、スタンドは『害』になるだけだ!」

 

「おい、どういうことだ」

 

「す……スタンドとは、本来闘争の本能によって動かすもの。強靱な精神力が無ければ、逆にスタンドに飲まれてしまうのだ」

 

 当人の意思に関係なく現れて、気質穏やかな人間であればそれに付け込み害を与える。まさに卑劣な悪霊と同じではないか。

 ある日突然現れた超常の力、対抗し己の武器とするには強く勇猛な精神力が要求される。あんまりな話だとフランドールは憤った。何故真っ当に母親としての役目を果たしていた彼女が、苦しみ喘がなければならないのか。

 

 できるなら自分が生まれ持ってきた能力でスタンドの『目』を潰し、ホリィをこの苦しみから救ってやりたい。ただ、そうした場合スタンドの使用者に当たるホリィ諸共爆散させてしまう可能性が極めて高くなってしまう。スタンドとは言わば異能を持つ精神エネルギーの塊としての自分であり、傷つけられれば使役者も同様のダメージを負うからだ。構えて下手な真似はできない。

 

「抵抗力が」

 

 愛する娘を苛む辛さを少しでも軽減してやりたい、その一心で保冷剤を当て続けていたジョセフが、ぽつりと呟く。ぽたり、ぽたりと水滴がホリィの腕に落ちていき、それさえも乾き微かな痕跡を残すのみとなる。

 

「抵抗力が、ないんじゃあないかと思っておった。DIOの魂からの呪縛にさからえる力が、ないんじゃあないかと思っておった……」

 

 DIOが復活した影響で、ジョースターの一族が次々にスタンドを発現していく。この事実に気がついた時点で、ジョセフはホリィもまたこの流れには逆らえないだろうということに思い至っていた。心優しい彼女ではスタンドを使いこなすのは至難の業だろうから、スタンドが芽吹く前に何としてでもDIOを倒す必要があると分かっていたし、もし万一間に合わなかったとしても数十日の時間的な猶予はある。自分のなすべきことは、事態がどう変容していこうともDIOの無力化である。心にそう決めて、これまでずっとジョセフは世界を舞台として行動してきた。

 だが、いざ娘にDIOの呪いが忍び寄ってくると、ジョセフはとても冷静さなんて保ってはいられなかった。片手で額を冷やしながら、もう感覚を脳に伝えることもない義手でホリィの熱い手を握る彼に、在りし日の勇敢なる面影など何処にも見えなかった。そこにいたのは不動産王でも剽軽な老人でもなく、ただ只管に可愛い娘の快復を祈ることしかできない無力な父親であった。

 如何にスタンドがあろうとも。如何に人より数段喧嘩慣れしていようとも。……如何に波紋という技術を会得していても、彼とて結局は人の子なのだ。そして同時に、人の親でもある。我が子が目の前で高熱に苦しむのを見て、まだなお感情を内側に隠していられる程強固な神経を持ってはいなかった。

 

 

 

 

 

「言え」

 

 嗚呼、何と気丈なことか。肉親の悲劇を目の当たりにしても、承太郎は涙の一筋も流すことがない。そればかりか、この閉塞感に満ちた状況を打開しようと行動を起こしたではないか。

 無情なのではない。勿論承太郎とて血の通った一人の人間だ。母親の弱り果てた姿を見て、何も思わないはずがない。

 だが、彼は理解している。声の限りを尽くして嘆き悲しもうとも、誰も助けてはくれないということを。そして、それが故に彼は俯かない。まるで立ち止まっている時間が勿体ないとでも言うかのように。

 

「『対策』を!」

 

 承太郎の熱意が、ジョセフに立ち直る力を与えた。涙を乱雑に拭い、ホリィの容態を平時のものに戻す唯一の方法を口にした。

 

「……ひとつ。DIOを見つけ出すことだ!DIOを殺してこの呪縛を解くのだ!それしかない!!」

 

 やはりか。ジョースターの一族がスタンド能力に目覚めたのをDIOの影響とするなら、すべきことは影響源を叩く以外にあるまい。承太郎は驚くこともなく、そうする必要があると心に留めた。

 

「じじい、念写で居場所を探れ」

 

「わしの念写では、居所までは分からん。やつはいつも闇に潜んでいる。アヴドゥルと共に様々な方法を試したが、どれも失敗に終わっているのだ」

 

「成程な」

 

 DIOは、随分と深い闇の中に身を隠しているらしい。この祖父が色々やったと言うのだから、それこそ最新鋭の解析技術を試しもしたのだろう。それでも所在を明かさないとは、大したものだ。

 

「ならおれが、新たな方法を提示してやるッ!」

 

 だが、例え科学技術が見逃しても承太郎は見逃さない。スタンドを繰り出し、DIOの写る写真を丹念に見せる。やがて写真のある一箇所に、スタンドの目が留まった。何かを見つけたような反応を受けて、承太郎は己のスタンドに紙とペンを渡した。

 

「スケッチさせてみよう。おれのスタンドは、脳の針を正確に抜き弾丸を掴むほど精密な動きと分析をする」

 

 スタンドは果たして、見たものを正確にスケッチしていく。人の何倍ものスピードで、人の何倍も精密にペンを走らせるその姿は、あたかも早送りの映像を見ているかのようであった。

 数分で、スケッチは終了した。完成した絵を見たアヴドゥルは、あっ、と驚いた。そこには、自分が良く知っているあの生き物が描かれていたのだ。

 

「ハエか!」

 

「それもツェツェバエね。ナイル川流域に生息する、吸血性の蝿よ。更に付け足すなら、脚に縞模様があることからアスワンツェツェバエの可能性が高いってところかしら」

 

「その通り!これでDIOの居場所は大きく絞れたぞ。エジプト、それもアスワン付近だ!」

 

 何故潜伏地にエジプトを選んでいるのか、そこまではまだ誰も分からないだろう。たまたま行き着いたのか、それとも確たる理由を持って赴いたのか。

 だが、今はそんな瑣末事について考える必要のある時ではない。どのような目的を掲げて行動していようとも、DIOを倒しさえすれば万事が解決する。悪しき野望は未然に阻止することができるし、ホリィの命だって助けられる。

 

「じじい、目的地は絞れたぜ。それで、いつ出発するんだ」

 

「勿論、すぐにだ」

 

 ジョセフの顔には、今や活力が戻りつつあった。娘の体を冷やしながら、強い口調で即時の出発を宣言する。

 

「花京院、そしてフランドールちゃん。突然こんなことになって済まない。わしと承太郎、そしてアヴドゥルは速やかにエジプトへと向かう」

 

 タクシーを手配するから、悪いがそれで帰ってくれんか。アヴドゥルにタクシー会社と連絡を取るよう伝え、自身はホリィを抱き上げて寝室へ運ぶ。皆がその後に続く中で、彼の提案に否と声を上げる者がいた。

 

「いえ。ジョースターさん、私も同行しましょう」

 

 花京院は、いると分かっている悪の前を素通りできない質だ。彼自身がDIOに恨みを抱いているわけではないが、怒りなら体が打ち震える程に煮え滾っている。何の罪もない女性に無理矢理スタンドを押し付け苦しめる男には、必ずや何らかの制裁を加えてやらねばなるまい。

 自分のスタンドは、随所で役に立てるはずだ。承太郎のよりは非力であるが、一方で射程範囲や頭脳戦においては一日の長がある。チームに不足している要素を補うことがメンバーの勤めであるとすれば、自分こそチームの一角を成すに相応しいと自信を持って言える。

 

「咲夜」

 

「妹様の意のままに」

 

「流石、貴女は話が分かるわ」

 

 そして、彼女もまた強き意志を備えた戦士であった。敷かれた布団に横たえられたホリィに響かないよう抑えた声で、しかしはっきりとフランドールはジョセフに己の意思を伝えた。

 

「ジョースター、私も行くわ!」

 

「なっ……いや、それは」

 

「何よ。私と咲夜じゃ力不足だとでも?」

 

「いや、そんなことはない。しかしだな、花京院はともかくとして、きみはまだ年端もいかない女の子じゃあないか。幾ら強力なスタンドを持っているとはいえ、とても危険な旅路に連れていくわけには」

 

「私、貴方より年上よ」

 

「……なに?」

 

 赤いスカートに可愛らしく彩られる、十になるかどうかという外見に騙されるべからず。この少女が経てきた年月は、十年や二十年という()()()()ものではない。勿論積み上げてきた年月に相当するだけの経験をしてきたし、経験は糧となり超人的な力を彼女に授けた。

 力とは腕力のみに非ず、知った魔法や練り上げた技術などの全てを引っ括めた『総合力』である。フランドールは、自身の保有する力に大きな信頼を寄せていた。それこそ、度々登場するDIOという名前に一切怖じない程に。

 

 一方、フランドールの後ろに控える咲夜は心中やや穏やかでなかった。元々花京院の蛮行を止めるために来日したのであって、長旅をする予定など組んでいなかった。無論主君の妹君が望むならば最大限にその願いを叶える所存ではあるが、それにしたって可能な限りフランドールに関する情報は秘匿しておきたい。

 旅の中で彼女の特異性が幾つか露見してしまうことについては、咲夜も仕方ないことだと妥協できる。例えば生身で空を飛んだり、突進してくる車を真正面から蹴り返したりしたとしても、それはもう妹様は特殊な人間なのですと押し切るつもりでいた。納得しない者がいれば、納得させれば良いだけの話である。

 だが、フランドールが吸血鬼であるという最後の一点だけは彼女自身よろしく白日の元に晒すわけにはいかない。遠い昔の御伽噺に出てくる存在だと思われている吸血鬼が、まさか実在して元気に人間と旅をしていたなんて知られたら、()としては大問題だろう。吸血鬼がいるならあれもいる、あれもいるならこれもいる、という風に連鎖的に存在が信じられていけば、あちらの世界にどのような影響が出るか分かったものではないからだ。

 基本的に、向こうではこちらの世界の住人の大半が人外について存在を否定しているというのを前提条件にしている。この前提を崩せば、下手をすれば厳しいお叱りが飛ばされかねない。その時に矢面に立たされることになるのは、立場上我らが主を置いて他にはいない。

 

「信じるかどうかはこの際貴方に任せるわ。でも、このフランドール・スカーレットの名に誓って言いましょう。

 

 ── 私は、そして咲夜は相っ当に強いわよ?」

 

 妹様、咲夜はそれだけは何に代えても防ぐつもりです。故にどうか、御自身が人外の存在であると露呈してしまう発言は御自重下さいませ。それと、ここではどうかザ・ワールドと。そんな咲夜の願いは、諸共星に届く前に爆散して大気圏の塵と化した。



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第七話 灰の塔

(……あら)

 

 エジプトへ向かう飛行機の中で密かに開催されていた猫と鼠のどたばた二人アンサンブル・プレイは、一人の熱心な観客が遂に眠気に屈したことによって一時中断と相成った。

 初めの四、五十分は起きていられるだろうが、そこからは慣れない飛行機での移動の疲れでぐっすりと寝込むだろう。咲夜は事前にそんな予測を立てていたが、概ね正解であった。

 多分、眠りに落ちる間際はろくに画面も見られなかったはずである。とろんとした目にぽかんと半開きの口を引っ提げて、頭できいきいとスローテンポに船を漕いでいたし。ある話の途中で再生を止めているが、起きたらこの話を最初から上映した方が良さそうだ。

 

 しかし、この子供向けアニメーションは如何にして御年四百九十五歳の天真爛漫な少女の心を掴んだのだろうか。フランドールの姉も彼女程ではないがこのアニメーションを好いている。二人の主人が揃って興味を示しているものがあれば、それについての情報獲得や考察は欠かさないのが十六夜 咲夜というできるメイドである。

 例を挙げて考えてみよう。フランドールが特に好きな話の中に、猫がピアノの演奏を衆目に披露するというものがある。この話の中で鼠は猫の邪魔をすることに専念しているのだが、そこは猫もやり手というかメルヘンチックなお子様アニメの運命というか、足でピアノを演奏したり某欧州の楽聖も大汗震身の超絶技巧でもって演奏を進めていく。最終的に猫は怒涛の妨害を潜り抜けて演奏をやり遂げ、満身創痍の様相を呈してピアノに伏すのだが、そこですかさず鼠が姿を現して聴衆の割れんばかりの拍手を一身に集めてこの話は幕引きとなる。

 この話の見所は、やはり猫と鼠の頓智の効いた応酬だろう。互いが互いをあの手この手で封殺しようと目論み、時に物理法則の壁すら豪快に叩き壊して攻防を繰り広げる様は確かに見ていて胸のすくような気分にならないこともない。

 

 だけど、特にフランドールはこのアニメーションの熱烈なファンである。咲夜のように論理的な思考でもって各話を捉えてはいない。ただ純粋に登場人物というか動物に感情を移入し、素直に喜怒哀楽を表現する。

 自分が主と似た背格好をしていた時間は、確かに存在する。では、当時の自分をこの飛行機の中まで連れてきたとして、アニメーションを目を輝かせながら鑑賞するだろうか。咲夜はその自問に、ほぼ即座に否と結論を出した。

 長い時を吸血鬼の館で過ごした今の自分よりは多少強い感動を覚えるかも知れないが、それまでだ。きっと忘我の域に達することはできないだろう。だから、咲夜は心からこの映像作品を素晴らしいと思うことができない。フランドールの混じりけのない楽しいという気持ちを、完全には理解し得ない。

 だが、それで良い。主人が何を好もうと、従者の関するところではない。咲夜がすべきはフランドールや彼女の姉の行為を最大限にサポートし、立ち塞がる障害を手早く始末することである。そう、丁度鼠が猫の謀略を鮮やかに出し抜くかの如く。

 

(……横道に逸れたわね)

 

 そう言えば、どうして吸血鬼姉妹がこのアニメーションに強い興味を示しているのかについて考えていたのだった。それなりに脳のリソースを割いて導いた答えが『分からないが、それで良い』では、他ならぬ咲夜自身が納得できない。

 せめてもう少しだけでも実や肉のある推論をしなければと目を閉じ再び沈思黙考の体勢に入った咲夜は、コクピットの方から香ってきた匂いに見事に邪魔をされた。

 

 この匂いには、職業柄慣れている。毎日毎夜嗅いでいては、微かな匂いにも敏感に反応してしまうというものだ。特に鼻をつく悪臭とも感じないが、目下の問題はこの匂いがどうして飛行機操縦の要たる場所からやってきたのか、である。

 

「まさか」

 

 飛行機の中で起こり得る最悪の事態が、今まさにここから歩いて十数歩のところで発生しているように思える。フランドールを起こさないよう静かに席を立って、添乗員に見つからないよう気配を殺しつつコクピットへ歩いていくと、匂いはより一層強くなっていく。

 錆びた鉄のような、やや酸を思わせる匂い。それも、一滴や二滴垂れ落ちているというレベルではない。これはもう、ほぼ確定したようなものだ。溜息を吐きながら操縦室のドアを開けた咲夜の目に、思っていた通りの光景が映った。

 

 一人は操縦席に突っ伏していて、もう一人は椅子から転げ落ちていた。両者共に後頭部付近からの出血が酷く、損傷部位はそこだろうと容易に想像できた。室内に争ったような形跡はなく、一瞬のうちに行われた殺人であると咲夜は判断した。

 しかし、それは問題ではない。いや操縦がされていないという点では何百人もの命運を左右する大問題なのだが、更に看過できないものが部屋の中でがさごそと蠢いていたのである。

 

「鍬形虫……?」

 

 床に倒れ伏していた方の男の背に、見たことのある鎌のような大顎を持つ虫がいた。黒々とした体は機内の光を反射して鈍く煌めき、さながら彫刻家の手によって精巧に形作られたオブシディアンのようでもあった。

 ただ、そのサイズは余りに異常と言う他になかった。一般的な鍬形虫は掌に余裕を持って乗せられるくらいのサイズだが、この鍬形虫はとんでもなく大きかった。咲夜の顔を遥かに上回る体長を誇る鍬形虫など、幾ら発育の良い大型種であってもいるわけがない。

 加えて、歯並びがまるで人間のそれである。もしこんな虫が見つかれば、恐らく昆虫界の常識をひっくり返す世紀の大発見となるだろう。当然、そんな型破りな虫がよりによって機内で偶然発見されるはずもない。この異形の鍬形虫の正体は、故に特定するに難くなかった。

 

「スタンドか」

 

「ほう!おれが見えるのか、小娘」

 

 人語を解した上で喋る鍬形虫など、最早世紀の大発見どころではない。何百年とかけて構築されてきた人類の常識に派手に喧嘩を売る禁忌の発見である。斯様の悍ましき虫は、ここで世俗に知られないうちに始末してしまうのが吉だろう。

 

「ということは、きさまもスタンド使いだな。まさかジョセフ・ジョースターのお連れ様ってわけじゃあ……ないよな?」

 

「お連れ様だとして、不味いことでもあるのかしら」

 

「そりゃある。きさまがどれだけ弱っちい日和りスタンド使いであろうと、スタンドってのはそれ自体が既に人間の限界を超えてるものだ。勝てるにせよ、無駄なリスクは負わないに越したことはない」

 

 随分気の早い甲虫だこと。咲夜は静かに心の中で嘲笑った。自信を持って戦いに臨むのと、勝負の前から勝利を確信しているのは違う。後者を人は過信と呼び、今に至るまで長く苦いお付き合いをしてきた。

 思えば、数ヶ月前まで咲夜達がいた屋敷にも時折腕試しをしに来る妖怪が割といた。やれ吸血鬼を出せ、腸を引き摺り出してどうのこうのと喧しかったが、前座の前座である門番すら誰も突破できていなかった。

 門番を務めているのは体術を得意とするスタンダードな妖怪だ。これといった特殊能力があるわけでもないが、その身体能力と切れのある技の数々は咲夜も高く評価するところである。

 だが、かの館にはこの妖怪すら圧倒的に上回る怪物(吸血鬼姉妹)が住まう。彼女には悪い言い方だが、門も破れないのではまるでお話になりやしないのだ。過信を捨てて実力の向上に励んでこいとしか言えない。

 

 そして、この鍬形虫のスタンドを使役する人間からも隠し切れない傲慢を感じる。自分が負けるはずがないと絶対的に確信しているのが、ひしひしと伝わってくる。一体何処の誰がそんな保証をしたのか、聞いてみたくすらあった。

 

「そんなわけだ。おまえのような上玉の舌はさぞかし引きちぎり甲斐があるんだろうが、おれは心を無にして欲に抗う。だからおまえも、大人しくこの飛行機と運命を共にしてくれよ」

 

「成程。交換条件ね」

 

「あぁ。悪くない話だろう、せめて痛みもなく死なせてやろうって ── 」

 

「浅学非才とはこのことね」

 

 舌を千切る暇があるなら、樹液でも吸いに行ったら良いのに。やれやれと言わんばかりに肩を竦め、白銀のメイドは薄氷の如き微笑を浮かべた。

 

「何?」

 

「お気に障ったなら失礼。だって貴方、等価交換という言葉を知らないみたいだったから」

 

「ほほう。どうやらきさま、はっきり言ってやった方が良いクチらしいな!学無きはどちらだという話だ!」

 

 スタンドの口から、顎型の突起に内包された鋭い針が現れてきた。舌云々は、多分この針で刺すなり斬るなりするのだろう。しかし出し方はもう少しどうにかならなかったのか。涎か何か分からない液体が口元をびしょびしょに濡らしている上に、うじゅるべちゃべちゃと気色の悪い水音を鳴らさないでもらいたい。咲夜とて感情ある人間だ、気持ち悪いものに進んで近づきたくはないのだが。

 

「折角おれは、オブラートに包んでやってたのによ。『惨たらしく死ね、乳臭い餓鬼』って言葉をよぉ!」

 

「どうも澱粉の足りないオブラートだったみたいね。薄いものだから、向こう側がくっきり透けていたわよ」

 

「そうかい。じゃあきさまの舌は、もう少し薄いスライスにしてやるとしよう!」

 

 オブラート以下の厚みしかない肉。ヘルシーではあるのだけれど、と些か頓珍漢なことを考えながら、咲夜は高スピードで顔目掛けて突っ込んでくる鍬形虫に視線を定めた。

 成程、そこそこ速い。昆虫の世界でなら、最速を狙えたかも知れないだけのスピードはある。この速度で不規則に動く小さな的は、まだ発現したばかりの承太郎のスタンドでは少々捉え辛いだろうか。アヴドゥルの魔術師の赤(マジシャンズレッド)なら範囲にものを言わせて焼き甲虫にしてやれるだろうが、サイドディッシュとして四、五人の丸焼きが付いてきかねないので得策ではない。

 咲夜の舌まで、一m足らずの所にスタンドは到達していた。彼女の舌を引き千切るまで、もうあと一秒もかかるまい。徐ろに、トパーズの瞳が隠される。咲夜の視界に、一寸先も見通せない闇が訪れる。

 

 

 

 

 

「オブラートを作る時に必要なのは、勢いよ。まごついていたら、澱粉が劣化してしまうから」

 

 再び彼女の瞳が光を得た時、そこには()()()()()()()()()()()()()()()。顎と針を突き出し、咲夜を害せんとするところで、それはぴたりと動きを止めていた。

 否、止められていた。咲夜を悪魔のメイドたらしめる無二にして無敵の能力によって。

 

「まず、求めるサイズにさっと斬る」

 

 何処からか取り出したナイフは、一点の曇りもない一方で光を反射し煌めくこともなかった。輝きも陰りもない、只金属であるだけのそれが空恐ろしい程の速度で舞い踊ったとして、閃光が走ったと表現するのは少しばかりそぐわないかも知れない。

 自らの体の中で軽快に踊り狂ったナイフを、スタンドは認知することができなかった。命なき置物が台座に乗せられているかのように、ぴくりとも反応することなく空中で静止を続ける。

 

「それから、乾燥させる。澱粉が劣化するより早く水分量を一定以下にできれば、立派なオブラートの完成よ」

 

 くるりと踵を返し、指をぱちんと鳴らす。その瞬間、凍ったように止まっていた世界に温度が戻ってきた。

 

「ごばぁっ!?」

 

「でも残念。急速に乾燥させる手段が、今ここには無いわ。貴方の行く末は、血と加齢臭と死臭の酷いスライスベーコン擬きね」

 

 こんなもの、お嬢様達には出せたものじゃあありませんわ。咲夜が台詞を言い終える頃には、鍬形虫のスタンドだった数十枚の薄肉はびしゃ、べちゃと水気のある音を立ててコクピットの床へ叩きつけられていた。

 鍬形虫のスタンド使いからすれば、敵の舌を持っていったと思った瞬間に自分が殺されていたことになる。死後の世界というものがあるのかは疑問だが、もしあったならそこでスタンド使いは底知れぬ恐怖に震えているだろう。理解の及ばない力は、何にも増して人間を恐怖させるものだから。

 

「さて、敵は倒したけれど」

 

 目下の問題は、恙無く片付いた。だが、まだ事が完全に済んだわけではない。操縦士を失った飛行機は、まさに騎手のいない暴れ馬に同じ。乱高下を続け、最後には海面か陸上に叩きつけられることになる。落ち行く鉄の塊と運命共同体になる趣味はないので、次はこれを何とかしなくてはいけない。

 旅客機には自動操縦装置が付いているが、コクピット内のこの惨状を見るととても機能しているようには見えない。機器が余すところなく破壊されており、飛行機の専門家でない咲夜にも自動での飛行が困難な状態であると一目で分かった。

 かと言って、咲夜は機体の操縦などしたことがない。大体の造りは把握しているが、ぶっつけ本番で安全な高度を保ちつつ安定した飛行を行い、それから指定された空港への着陸を成功させる自信は流石の咲夜にもなかった。

 

「さく……ザ・ワールド」

 

 さて、どうしたものか。腕を組み悩んでいると、コクピットの方へやって来る一団が見えた。室内へと踏み込んだ彼らは、まず二人の人間が息絶えている様に驚きを隠せないようであった。

 

「妹様。それに、ジョセフ達も」

 

「ザ・ワールド。突然眠っていた老人が血を噴き出したから何事かと思えば、これは一体」

 

「刺客とでも言おうかしら。大きな鍬形虫のスタンドが、操縦士と副操縦士を殺してこの機体のコントロールを奪ったようなの」

 

「なんと!……その虫のスタンドとやらは、何処へ?」

 

「それよ」

 

 咲夜の手が向く先に、湯葉より薄い肉片とやたら立派な一対の大顎が転がっていた。顎を拾い観察していたアヴドゥルが、何かに思い至ったようにあっという表情を作った。

 

「まさかこいつ、灰の塔(タワーオブグレー)か!」

 

「タワーオブグレー?」

 

「事故に見せかけて、大量殺人を犯す下劣なスタンドだ。わたしもそういう虫のスタンドがいると噂に聞いていた程度だったが……使用者がぐっすり眠りこけていたというのに、よく倒したものだ」

 

「ふふん。ザ・ワールドは最強のメイ、こほん、スタンドだもの。そんじょそこらの敵に遅れは取らないわよっ」

 

 ── 妹様、そこは私の力を誇るところではございません。どうぞ、熟睡中の姿を見られていたことをお咎め下さいませ。

 彼女の姉であれば、レディの寝顔をまじまじと見るなんて、と視覚的な不逞を働いたアヴドゥルを詰っただろう。だが如何せんフランドールは、姉にプライド傲慢さその他諸々の大半を吸い取られた状態で世に生を受けた気質穏やかな吸血鬼である。じっくり見られていたわけでないなら、寝ているところを目撃されてもさして気にしない無邪気さ、おおらかさが彼女にはあった。

 

「ところで、そこそこ重大な話を一つ良いかしら」

 

「何じゃ?」

 

「さっきも言ったけれど、この機体は現在制御下を離れているの。放っておけばいずれ海か陸に墜落するわ。誰か、操縦の経験がある者は?」

 

 咲夜の問いに、一同は互いの顔を見合わせた。

 承太郎、十七歳の高校生が経験済みであれば逆に当時の事情を問い質したいレベル。花京院、同じく。アヴドゥル、占い師に操縦スキルは必須でない。フランドール、ラジコンヘリを動かなくなるまで天井に垂直衝突させる女。

 最早選ぶべき人物は、一人しかいなかった。選ぶというか、消去法を用いたら最後まで残ったのが彼だけであったということに過ぎないが。

 

「じじい、機体を海上に不時着させろ」

 

「うーむ。プロペラ機なら経験あるんじゃがの……」

 

 その経験があるだけでも活かせるだろうが、プロペラ機というものを見たことがない世代からすれば何だその時代の遺物は、という思いを抱くわけだ。花京院など露骨に表情筋が引き攣っており、自分の命をジョセフの操縦技術に委ねて良いのか迷っている様子が明確に見て取れる。助手席を陣取った承太郎も渋い表情をしていたが、どうできるわけでもないので大人しく静観を決め込むことにしたようだ。

 機内にいる数百名の乗客を危機的状況から救うべくレバーに手をかけたジョセフが、反対の手で頬を掻きながら承太郎に声をかける。目線を寄越した彼に、ジョセフはぼやくように衝撃的な事実を話し聞かせた。

 

「しかし承太郎、これでわしゃ三度目だぞ。人生で三回も飛行機で墜落するなんて、そんなヤツあるかなぁ」

 

「……二度とテメーとはいっしょに乗らねえ」



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第八話 香港へ降り立つ

「……うー

 

 吸血鬼とは、広義には妖怪の一種である。悪魔の眷属だと言われたり、時に悪魔そのものと捉えられることもあるが、全人類の共通認識として強大な力を持った人ならざる存在というものがある。

 実情は全くもってその通りであり、東洋の鬼に匹敵する力と天狗に肩を並べる飛行速度を武器にしてあらゆる敵を降す恐ろしい物の怪こそが吸血鬼だ。加えて凄まじい自己再生能力をも有しており、例え体の半分が吹き飛ばされても立ち所に治ってしまう。

 

 だが一方で、吸血鬼は人一倍もとい妖怪一倍弱点の多い種族でもある。有名所だと日光をまともに浴びるとその部位が灰になって崩れ落ちる、大蒜を嫌う、十字架に弱いなどが挙げられるだろう。他にも流れる水の上を歩けないとか流水を受けると肌が爛れるとか、銀製の武器に付けられた傷は極端に治癒するのが遅れるなんてものもある。酷いものでは招かれなければ門の内へ侵入できないなんて間の抜けた弱点もあるくらいだ。

 無論彼らは望んでそんな強いのか弱いのか分からない体を得たのではない。そもそも吸血鬼という人外が複数の妖怪や魔物をルーツに持つものであり、そのルーツとする物の怪達が抱えていたウィークポイントをざっくり丸ごと受け継いでしまったが故の、悲劇的なまでの弱点の数なのである。

 ざっくばらんに纏めると、彼らは岩も砕けるし残像が見える速度で動けるし腕の一本くらい消し飛んでも意に介さないが、部屋に差し込んだ西日で死ぬし銀製のフォークで口内を傷つければ長引くし、挙句の果てに初対面の相手の家の前で臍を噛んでいる。偉大な夜の王でもあり、また日常生活に危険が多く潜んでいる大変な種でもあるというわけだ。

 

「妹様、気を確かになさって下さい」

 

 そんな吸血鬼が、船に乗せられたらどうなるだろうか。増して、その吸血鬼の三半規管がへっぽこであったら。

 

「だいじょーぶよ、さくや」

 

「お言葉ながら、凡そ妹様の大丈夫を信じる要素がございません」

 

 流れのある水の上にいるという状況と乗り物酔いのダブルコンボが、フランドールを襲っていた。彫刻刀を振るわれる木材ばりにごりごりと削れていく体力を感じながらの航海は、彼女にとって忘れたくても忘れられない旅の思い出の一つとなるだろう。

 凄まじい頭痛と体の嫌悪感は、小一時間程フランドールを苛んだ後に何の謝罪もすることなくゆっくりと去っていった。お前達今度あったら覚えてろよ、なんて強気な捨て台詞の一つでも吐ければ良かったのかも知れないが、生憎上陸直後の彼女に吐けたのはどうしてか姉より遺伝した短い唸り声のみであった。物理的に液体を吐くはめにならなかったのは不幸中の幸いだが。

 

「フランドールちゃんは船が駄目なのか」

 

「私の生における大敵の一つよ。私の弱点をツインキルしてくる不届き者でねぇ」

 

 咲夜におぶられながら、なおフランドールはジョセフを見上げなければならなかった。咲夜とて女性にしては長身な方だと思うのだが、この老体はやたらと大きい。背負われている自分が小さ過ぎて、大したプラスになっていないという結論には至らなかった。隣の芝生は青いと言うか、秘事は睫と言うか。

 承太郎と殆ど等身長なので、少なく見積もっても百九十センチメートルはあるだろう。空条の血筋が大きいのか、ジョースターの血筋が大きいのかは分からないが、そのせいで歳に似合わぬ威圧感が凄い。フランドールだからこそ怖気付きはしないが、彼女と背格好の近い人間の子供なら下手をすれば近づかれただけで泣いてしまうのではなかろうか。

 

「スタンドは強ぇが、本体がひ弱じゃあ世話ねぇぜ」

 

「承太郎、そう言ってやるな」

 

 フランドールを苦しめているのが船酔いだけだと思っている承太郎は、軽く揶揄うように呟く。言っていることは間違っていないのだが、世間一般的に見て幼女に分類される姿を取っているフランドールにかける言葉としては、余り適切でない。アヴドゥルがほんの少し苦笑いを浮かべながら、彼の口が走るのを諌めた。

 

「やれやれ。てめーのスタンドが常時顕現できる程に強いのは、ラッキーってやつだぜ」

 

「うるさぁい……」

 

 憎まれ口に噛みつき返す体力は、今のフランドールには無かった。自分の足で歩くこともできず、ただ従者の背中に負われ運ばれるのみであったから。

 それに、フランドール本人が自身の弱点を忌々しく思っているので、例え元気であったとしても強くは反駁できなかっただろう。三半規管が強ければ精々気怠げな姿を見せるだけで済んでいたのに、ぽんこつなせいで要らぬ辛さまでもをセットで付け加えられるのだから、彼女としては堪ったものではない。

 今からでも誰かと三半規管だけ交換してやりたい気分である。フランドールの同居人の魔女ならできるだろうか。もし可能なら、適当な人間を捕まえて交換してもらってから血を少し頂いて帰したいところなのだが。尤も、今近くに彼女はいないので絵に描いた餅、取らぬ狸の皮算用である。

 

「む。ジョースターさん、ここなどどうでしょう」

 

「おぉ。ここで良かろう」

 

 搭乗していた飛行機の墜落後、船にて一行が到着したのは近年急速な発展を遂げている港湾と商業の地、香港であった。もしあの飛行機にタワーオブグレーがいなければ、今頃はエジプトへ降り立っていただろうが、済んだことを悔やんでも仕方がない。一先ず香港で作戦を練り直そうと提案したのは経験豊富にして冷静沈着なジョセフであった。

 

 しかし、何故タワーオブグレーは()()()()()()()自分達の乗った飛行機にいたのだろうか。あのスタンドと出会った瞬間から、咲夜はずっとこの疑問を胸に抱えていた。

 確率は零ではないが、天文学的な低確率ではある。偶然乗り合わせたと言うならまだ運が悪かったのだと諦めも付くが、これがもし先読みされていたとしたら大事だ。どうしてかと言うと、DIOは何日の何時に何空港を出発する、何処行きの何便に一行が搭乗するというところまで把握できるということになるからだ。その情報は刺客に伝えられ、こちらの内情が筒抜けになってしまう一方、フランドール達は何の情報も無いままの旅を強要される。圧倒的なディスアドバンテージは、言うまでもない。

 

 この問題も含めて話し合う必要がある。咲夜はそんなことを考えながら、花京院に続いて料理店のドアを潜った。

 すぐに店員がやって来て、ジョセフが人数を伝えた。六人が座れる席が空いているのかという心配は、彼の表情を見るにどうやら杞憂だったようである。案内役の後をすたすたと歩いていけば、果たして六つの椅子が並べられているテーブルがあった。しかも他のテーブルとは若干だが距離があり、会話を聞かれ辛いという利点もある。

 別に聞かれたところで一般人に分かる話ではない、と開き直るのは危険だ。繰り返すがタワーオブグレーは意図的にジョースター一行の前に現れてきた可能性がある。DIOに従う他のスタンド使いが同様に一行の居場所を把握している可能性は、無視できないレベルであると言えるだろう。

 

 よしんば見つかったとして、五人のスタンド使いと一人の遠近両特化・時を止めるオールストロングメイド型スタンドがいるのだから負けるなんてことは更々ないだろう。だが、こんな場所で争いを起こせばどうやっても人目に付いてしまう。()に何を言われるか分からないので、フランドールと咲夜は特に表立って戦うのを避けたいのだ。

 

「咲夜、もう良い。席に座るから下りるわ」

 

「畏まりました」

 

 咲夜に掴まっていた手を離し、ひょいと背から飛び降りる。まだ若干唇が白かったりとダメージは残っているものの、自らの足でふらつくことなく立てる程度には回復したようだ。椅子に座って水でも飲めば、完全復活はもう目前であろう。後は間違って大蒜料理でも口にしない限り、承太郎にまた毒を吐かれる心配も無い。



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第九話 J・P・ポルナレフ その①

 何処にいるのか。

 

 

 

 

 

 何処にも、いないのか。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……うー

 

 油断という言葉が世間に浸透して久しい。

 むかしむかし、中国か何処かの偉い人が配下に油を持って歩かせ、一滴でも零したら殺すと言ったのがこの言葉の語源だと言われている。器に油がなみなみと注がれていたわけでもなし、普通に歩けば特に一滴たりとも零すことはないはずだ。

 だが、他のことに意識を集中させながら歩くとどうなるだろう。例えば脳内で最近好みの音楽を思い出したとしよう。音楽には当然リズムがあり、人は半ば無意識的にリズムに乗って体を揺らしたり合いの手を入れたりする。

 勘の良い諸兄は、もうお分かりなことだろう。ふいと意識の焦点が油から逸れた瞬間、易行は難行と化すのである。

 

「おい。何を這いつくばってやがる、はしたねぇ」

 

「承太郎、妹様は()()()()()()()()()

 

 フランドールの頼んだ料理は、大蒜の香りが芳しい一品であった。何故注文する時点で気がつけなかったのか、よしんばその時見逃したとしても料理を目の前にすれば鼻をつく大蒜の香りが危険を知らせてくれるはずなのに。

 

 彼女が頼んだ料理は二つあったが、そのうち一つが炒辣蟹というものであった。その起源は避風塘という台風接近時に漁師や船舶が高波を避けるために集まった比較的波の穏やかな地域にある。この地域に人が集まることで店ができて、やがてちょっとした海鮮料理の集合地帯となったのだが、そうした中で香港のメジャーになっていった料理が炒辣蟹である。

 香辛料などでやや辛めの味付けを為された蟹に、ガーリックチップがたんまりと振りかけられている。蟹のぷりぷりとした身は甘く、そこに香辛料の辛味とガーリック特有の刺激が加わると頬が落ちそうなくらいに美味しいのだ。美味しいのだが、問題はこのガーリックチップである。

 

 garlic。語るまでもなく、大蒜である。

 

「……ッ、ッッ」

 

「おい、ザ・ワールド。お前の本体が蟹よろしく泡を吹いてるぜ」

 

「ごめんなさい、少し席を外すわ」

 

 妹様、しっかり。フランドールを抱きかかえるようにして、咲夜は手洗いへと消えていった。二つ空席ができて、途端に彼らの座るテーブルの雰囲気が(いかめ)しいものになる。

 どれだけ大蒜が嫌いなんだ。承太郎の中ではフランドールについて、強大なスタンドを発現する精神力を持ちながらも弱点の多いへっぽこ少女というイメージが固まりつつあった。戦力になるのかならないのか、いざという時に背中を預けて良いのか避けるべきなのか、もう少し時間をかけて見極めていく必要があると感じた。

 

 強いからといって、頼りになるとは限らない。本当に強いのは、その場その場でベストを尽くせる者だから。そう、覚悟というものがある奴こそ真の意味で強いと称されるべきである。その意味で、承太郎はフランドールの真価を測りかねていた。

 

「やれやれ。フィジカル面で不安があるのはじじいだけで充分だぜ」

 

「言ったな承太郎、わしとてまだまだ動ける年頃じゃぞ」

 

 確かに歳の割には動ける部類にいるだろうが、血気盛んな若者とは比べるべくもない。昔取った杵柄を過信するとすぐさま腰や膝辺りに致命的なダメージが齎されることになるので、どうか老成した振る舞いに留めておいてもらいたい。

 

 ジョセフも、五十年前ならば承太郎や花京院に匹敵する運動量を誇っていた。ジョースターの血の運命か、彼もまた強大な敵と戦い、片腕と引き換えに辛くも勝利を収めたという過去を持っている。

 あの時の記憶が鮮明に残っているからこそ、まだ自分はやれるという思いが心の底で固形化している。しかし、幾らジョースターの一族で不動産王であっても、老いは逃れられぬカルマである。旅の過程で派手なアクションを要求されたなら、是非とも十七の若者勢にお譲り頂きたいところだ。

 

 尤も、その若者の片割れである花京院は年に似合わぬ『静』の雰囲気を強く纏っている。今だって承太郎に中国の飲食店で罷り通る暗黙の了解を教えているくらいだ。台湾含め中国には何度も足を運んでいるジョセフでも、茶瓶の蓋をずらしておいたら再度注いでくれるなんて聞いたことがない。

 学びへの欲があり、そのために知識も豊富なのだろう。学び舎に通う者としては良い欲求を持ち合わせているようなので、腐らせることなく更に磨き上げていって欲しいものだ。花京院の博識に感心していたジョセフの元に、特徴的な頭髪をした男が一人近づいてきた。メニューを片手に、少し困り顔に見える。

 

「すみません。ちょっといいですか?」

 

 銀の髪を縦に纏めたヘアスタイルは、奇抜と言う他にない。トレーニングの趣味でもあるのか、体躯もかなり筋肉質で締まっている。加えて頭の先まで測れば承太郎にも匹敵する長身の男は、おかしな程に流暢な日本語でこう話しかけてきた。

 

「わたしは、フランスから来た旅行者なのですが」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「お姉様が見えたわ」

 

 化粧室の鏡の前で、フランドールはぜえぜえと荒い息を吐いていた。息も絶え絶えに語る声には覇気が篭っていない。鏡に映った自分がげっそりと窶れて見えたのは、きっと彼女の気のせいではないだろう。

 そんなフランドール、どうやら先程生死の狭間を彷徨っている時に、今となっては懐かしくなりつつある姉の姿を認めたらしい。それにしては忌々しげに話し始めたが、何か良からぬちょっかいでも掛けられたのだろうか。

 

「向日葵か何かのお花畑の向こうで手を振ってたけど、笑顔が鬱陶しかったから頬を引っぱたいてきたの」

 

 酷いことをなさる。おいたわしや、と咲夜は心の中でもう一人の主を憐れまずにはいられなかった。妹に向けて笑顔で手を振った返礼がビンタだなんて、報われないにも程があると言えよう。これが本人でないのがまだ救いと言ったところだろうか。何にせよ彼女にとっては余りに惨い仕打ちである。

 とは言え、フランドールの気持ちも全く理解できないではない。良くも悪くも姉であろうとする彼女は、フランドールからすれば時に疎ましく映るものだ。彼女本人が至って真面目に研鑽を重ねているので従者としてはどうにも口出しし辛かったが、流石に常々姉妹であることを意識させられては、苛々も雪の如く積もり積もるというものである。

 

 実のところ、咲夜には姉妹の間に流れる微妙にぎすぎすとした空気を改善するための良案がある。あるのだが、それを実践するのは姉の方が三も四も足踏みをすると分かる。分かってしまうのだ。故においそれと進言することもできず、先日まで彼女らは日夜、主に夜だがぴりぴりとしていた。

 

「ほんっと訳分かんない。こっちにまで、それも私がダウンしている時に出張ってくるなんて」

 

「恐れながら、それはお嬢様の非とは言い難いかと」

 

「例え偶然でも、嫌なものは嫌よ」

 

 歯に衣着せぬ物言いのせいで、けんもほろろと言った様子だ。あの穏やかなフランドールがここまで毛嫌いするのだから、姉により蓄積されたストレスは相当な量に到達しているのだろう。彼女の胃にいつか穴が開かないか、心配にもなる。

 勿論、絆よ途絶えろとフランドールが渇望しているわけではないと咲夜は理解している。口であぁだこうだと言うに抑え、実際に力で以て排除しにかかりはしないのが何よりの証拠となる。言ってしまえば、ちょっとした姉妹喧嘩に過ぎないのだ。態度も険悪そのものじゃあないかという突っ込みは、野暮そのものなのでお控えなすって。

 

「まぁ、はっ倒せたから良しとしましょう」

 

 咲夜、戻るわよ。先程よりは幾分か生気の戻った声でメイドに帯同を促す。大蒜による甚大なダメージは、粗方抜けたようだ。短時間で船酔い水上大蒜と強烈な弱点を突かれに突かれたせいか、はたまた直視を躊躇うナニカを見てしまったからか、小さな唇がきゅっと真一文字に結ばれているが。

 これで咲夜が本当にフランドールの操るスタンドだったら、今頃出力が弱るなどのデメリットを被っていただろう。強大な精神力こそスタンドを発現させる鍵であり、如何に才能に溢れていようともメンタルが伴わなければスタンドを駆使することは叶わない。

 

 しかし、主人の精神が部分的に脆かろうとも、それを補うために咲夜というメイドがいるわけだ。主の不調一つ……一つと断定はし難いが、そんなものくらい無駄に帰さずして何が付き人か。主達が最大限の力を発揮できるような環境を整えるのも、立派なメイドの務めである。常ならぬ空間に置かれようとも、咲夜は変わることの無い確かな誇りを抱いてその役目に従事し続ける所存であった。

 

 健気で献身的なメイドの思いを分かっているのか、特に後ろを気にする素振りもなく小さな歩幅を横に重ね、十数分ぶりに手洗いから帰還したフランドール。元いた席を目指して歩くが、店内に起こっていた異変に気がつくまでにそう時間は掛からなかった。

 

「……わぁ」

 

 つい先程まで承太郎達がいたはずのテーブルが、無残にも上半分を残すのみとなっていた。更に明らかに普通でない焦げ跡が辛うじて形を留めているテーブルの残骸に広がっており、かなりの温度の炎がここで噴出したことを如実に示している。

 炎と言えば、占い師ことモハメド・アヴドゥルが操るスタンド、魔術師の赤(マジシャンズレッド)が真っ先に思い浮かぶ。テーブルの下半分だけを器用に焼くような真似は自然界の炎にはできるはずもなく、故に二人は一瞬のうちにアヴドゥルがスタンドを使ったのだと悟った。

 

「妹様。敵のスタンドが、先刻ここへ」

 

「見たら想像くらい付くけれど……それにしては素知らぬ顔をしてたわね、咲夜」

 

「妹様の容態を安定させることが最優先でしたから」

 

 相手がこちらに気付いた様子もありませんでしたので。真顔で目を逸らさずに言われると、呆れを越して何だか申し訳なくなってくる。不注意から意識混濁に陥りまして、どうもすみません。次からは美味しそうなどという安易な理由でメニューを選ぶのは控えます。

 

「こほん。貴女が言うんだからそうだとして、えらく断定したわね。見たわけでもないのに」

 

「急に一つ、感じたことの無いスタンドの気配が現れましたので」

 

 あぁ、そう言えばこのメイドはスタンドの気配を探ることができるんだった。それなら入店してきた敵スタンド使いに気がついてもおかしくない。

 フランドールも、スタンドが目の前にあればその気配を感じ取ることはできるし目視も可能だ。だが、咲夜は彼女の何倍もの精度でスタンドの気配を察知している。ナイフのように研ぎ澄まされた感覚あってこそのサーチ力は、とてもじゃあないがフランドールには真似できなさそうだ。

 

「彼らの居場所は分かる?」

 

「店を出て暫く歩いたところに、珍妙な石像の並ぶ石庭がございましたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。敵と思しきスタンド使いも含めて、皆そちらにいるようです」

 

「良かった。それじゃさっさと行きましょう」

 

 石庭のことは、フランドールも覚えていた。どぎつい色彩の奇抜な動物が沢山石造りにされていたので、何だこの姉にも比肩する悪趣味さは、と驚き半分呆れ半分で見ていたのだ。この店を出れば石庭ははっきりと見えるだろうから、今からでもすぐに彼らの元へいけるはずだ。

 そこまで遠くに行かれていなかったのは、ラッキーである。こんな人だらけの街中で白昼堂々メイドと二人で空を飛ぶわけにもいかず、必然的に距離があれば追いかけるのが大層面倒になるから。

 

「お待ち下さい、妹様」

 

 店の出入口へと向かおうとしていたフランドールに、咲夜が待ったをかける。はて、このメイドには何か気掛かりなことでもあるのだろうか。

 

「彼らは食事の代金を払ったでしょうか。敵のスタンドに襲われた可能性が高く、あまり形振りに構っていられなかったであろう状況下において、精算という言葉が脳裏を過ぎった者はいなかったと思われます」

 

「……あー」

 

 ご尤もな指摘であった。彼らからすれば刺客に命を狙われているのだから支払いどころの騒ぎではないのだが、スタンドを見ることのできない一般人からすれば承太郎達は無銭飲食犯でしかない。彼らに対する心象は当然最悪に近いものになるだろうし、高い確率で警察も呼ばれるから、一刻も早くエジプトへ入りたい一向には大きなデメリットとなり得る。まさか警察をスタンドで蹴散らすわけにもいかないし。

 

「店が被った損害の分も考慮して、支払いをしておくのが吉かと」

 

「そうね」

 

 さっき出ていった四人組の連れですとでも言えば、支払いを受理してくれるだろう。やたらとごつい男衆の連れが美麗なメイドと小さな幼女というのは些か違和感を覚えられるかも知れないが、店側としては出した食事が相当の利益を稼ぎ出しさえすれば良い。払い手が誰かなんて、殆ど気にしやしないはずだ。

 だが、この場で支払うべき額は結構なものになると思う。合わせて六人分の料理に、破損したテーブルの弁償も含まれてくるので少なくとも普通に食事をするよりはずっと高く付くのが確定している。

 

「ご安心を。持ち合わせには余裕がございます」

 

 やたらと可愛い兎がそこかしこに散りばめられた財布をぱかりと開き、中を見せてくれた。お前それいつ買ったんだと言いたいのを堪えて覗いてみると、何とそこには財布を内から弾き飛ばさんばかりの新台幣(新台湾ドル)紙幣が。

 財布ごと渡しても良いかも知れませんね。微かに口の端を上げていたので、きっと冗談で言っているのだろう。咲夜にはそんな癖があった。だけど、フランドールは限りなく確信に近い予想を立てていた。例えここで全ての財産が蒸発したとしても、このメイドは次の瞬間には数十日の旅をするに余りある財を築くと。

 

 何処でどうやって稼いできた、とは問わなかった。聞くのが妙に空恐ろしくて問えなかったとも言う。



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第十話 J・P・ポルナレフ その②

 あれっ、これはもしかしてもしかすると風前の灯というやつではないのか。かっ飛んでくる十字(アンク)の炎を呆然と見つめながら、フランドールは思った。火だけに。

 

 店にて代金の清算を済ませ、奇妙な石像が並ぶ庭へと向かった吸血鬼の主従。年中無休で開園しているという案内人の言葉にそこはかとないブラックな気配を感じつつ、礼を言って中へ入れてもらった。

 人の頭の生えた青い蟹、中年女性の上半身を持つ人魚、瞳孔の開き切った虚ろな瞳で相対する者を見つめる虎頭のスカート女。どれもこれも色彩やデザインが常軌を逸していて、趣味が悪いどころの話ではない。幻想郷の魑魅魍魎にも劣らない造形物の百鬼夜行に囲まれているのだと思うと、胸が締め付けられるような圧迫感を覚えた。

 

 心做しか早足になっていたフランドールに、咲夜は何も言わず歩調を合わせてくれた。そのお陰で然程時間をかけずに一行のいる場所へ到着することができた。アヴドゥルの筋肉質な鳥のスタンドが見えたので、どれどれと覗き込んだところ、まさかの流れ弾ならぬ流れ炎が高速高温で馳せ参じてきたというわけである。

 決してアヴドゥルとて、フランドールで吸血鬼の丸焼きを作るつもりはなかった。ただ相手が手加減込みでは倒せない強者であり、全力で行使したスタンドの力が勢い余ってしまっただけに過ぎない。誰が悪いかと言うなら、店で喧嘩を吹っ掛けた敵のスタンド使いが第一候補に挙げられるべきであろう。

 

 だが、フランドールにとってそんなことは瑣末事。よりによって何故十字架を模した形をしているのか、ただの炎であれば特に苦も無く霧散させられたと言うのに。何だろう、花京院を止めるべく日本へ行ってから吸血鬼フランドール・スカーレットの弱点に会心の一撃が叩き込まれ過ぎではないだろうか。極東の島国には数多のゴッドやブッダが闇鍋の如く渾沌として混在していると聞くが、一人くらいフランドールの不運を解消してあげても良いだろうに。

 

「妹様を焼くには、火が強過ぎるわ」

 

 或いは、どうせそこのメイドが何とかするだろうと分かっているから、神も仏も彼女に加護を与えないのかも知れない。それ以前に、彼女は悪魔なので聖なる加護なんてものからは全くの無縁だけれど。

 

「妹様は肌もきめ細かく、脂肪も控えめながら無いわけではない。ミディアムくらいが、最高の焼き加減でしょう」

 

「咲夜?」

 

「ご安心を。例え焼肉として館の晩餐を御身で以てお飾りになられようと、咲夜は妹様を美味しく頂く所存ですわ」

 

「このサクヤ・ザ・カニバリストめ」

 

 妹様は吸血鬼ですから、カニバリズムには当てはまりませんわ。フランドールの苦言にも、咲夜は嫋やかな微笑を浮かべているのみであった。その笑みのままにセ氏何度だと問いたくなるような紅蓮の炎を、あろうことか素手で消し飛ばしているのだから主としては笑うに笑えない。

 フランドールも人間という種族についてほんの最近まで詳しくなかった身だが、炎を素手で触ったら大火傷を負うくらいは想像がついていた。だが何と摩訶不思議奇々怪々なことか、このメイドは炎に触れた右腕に炎症の一つも負ってはいなかった。

 

「聞くだけ無駄な気はするけど、どうやって生身であれを消したの?下手をすればレーヴァテインより熱そうだったのに」

 

「直に触れれば私も脆き人間、骨肉から神経まで漏れなく溶け落ちますわ。今回は少々、知人より貰ったヒントを思い出しましたので、それを試したみたのでございます」

 

「ヒント?」

 

「はい。自身の霊気を装甲のように体に纏うことで、攻防を共に強化できるとのことです」

 

 霊気による武装を施し、戦闘力を高める。その発想に至った人物は相当突飛な思考回路の持ち主だろうし、ぶっつけ本番で試しに行った咲夜の度胸もまた螺子が飛んだものである。上手くいったからめでたしめでたしと言えたものの、構築された理論通りに事が運ばなかったら危うく大惨事という所であった。

 しかし、熱を霊気で遮断するというのは一体どういう原理でそうなっているのだろうか。衝撃ならまだ分かる、霊気によって作られた結界の一部が対物理衝撃に優れているという実例があるから。だけど、フランドールの知る限りにおいて熱気や冷気を通さない霊気は存在しない。もしそんなものが実在するなら、彼女の切り札の一つである神剣が形無しになってしまうではないか。

 

「試運転の段階にしては上手くいきましたわ。分散されていたとはいえ、この温度の炎に対しても有効に機能してくれたのは嬉しい収穫ですね」

 

「まだ強くなるのね、貴女。人とはかくも恐ろしい生き物だ」

 

「お戯れを。私など妹様やお嬢様の前では無力な子羊にございます」

 

「無力な子羊は今のでジンギスカンよ」

 

 素で妖の類にも勝る肉体能力を誇る彼女が、より一層の徒手空拳性能を得るとは驚きだ。洒落や酔狂ではなく、条件次第では吸血鬼と雖も降されかねない領域に、咲夜は足を踏み入れたと言えよう。げに心強いメイドであるのと同時に、彼女が敵でないことに心の底から安堵した。

 

「す、済まんザ・ワールド、無事か!」

 

「今貴方が立っているのが、何よりの証拠」

 

 万が一にも妹様に当たっていたら、今頃そこらの愉快なオブジェの仲間入りをしていたわね。焦って走り寄ってきたアヴドゥルに、咲夜はフラットな声色で告げた。咲夜なら本当に全身を赤黒い液体で塗られたドレッドヘアの男を創作しそうなので、つくづくあの燃える十字架がフランドールに直撃しなくて良かった。彼女が冗談や揶揄いを口にしているわけではないと悟り、アヴドゥルも口元を大きく引き攣らせた。

 

「フランドールも、悪かった」

 

「良いよ、気にしていないし。それより咲夜、あの傷を治療してやりなさい」

 

「畏まりました」

 

 敵のスタンドにやられたのか、アヴドゥルの頬には幾つもの痛々しい聖十字架が刻まれている。多分相手は剣でも使っていたのだろうと推測できた。血が流れていたので一瞬吸血鬼としての性がじくりと疼いたものの、傷痕の形状の問題で血を頂くのは憚られた。

 飲血の衝動に火が点いたので、後で咲夜の血を三吸い程貰うことにしよう。自分が吸血鬼であると他のメンバーに露見してはいけないので、フランドールは男性陣からの吸血を避けた。これまでも()()()()()()()()旅の同行者に牙を突き立てたことは無いし、今後も気を付けさえすればそうそう簡単にばれることもないはずだ。この時の彼女は、至極楽天的であった。

 

「敵のスタンド使いは?」

 

「何とか倒した。だが、やはりというか厄介なものがそいつに埋め込まれていてな。手を拱いているところだ」

 

 厄介なものとは、何だろう。頭の中に爆弾でも仕掛けられたのか。フランドールの疑問に応えるように、アヴドゥルは話し始めた。

 

「肉の芽、というものは……まぁ知らんだろうな」

 

「えぇ。教えてちょうだい」

 

「私も詳しいわけではないのだが。まず、あれはDIOの細胞から作られている。そして次に、肉の芽を脳に植え込まれた者はDIOに心酔し、奴の言うままに動く手駒となる。洗脳という言葉が、最も適しているだろう」

 

 DIOの細胞からできた、彼の駒を増やすための肉塊。侵略した相手を服従させる辺り、コントローラーのような役割でも果たしているのだろう。相手が身動きできる小型コントローラーだと考えれば、対処のしようもありそうだが。

 

「話を聞く限り、肉の芽とやらが脳に何らかの形で干渉しているのかな。なら、それを取り除けば良いだけの話じゃないの?」

 

「そうもいかん理由がある。あれは、生きているのだ」

 

「成程。下手に取り出そうとしたら脳を傷つけるってわけね」

 

「そういうことだな。加えて、肉の芽は接近してきた生命体の脳にも侵入しようとする。摘出は困難を極めるのだ」

 

 秘策・操作関連機器破壊は無念にも即時却下の流れとなった。それもそうだ、脳まで到達している生き物を無理に排除しようとすれば抵抗されて脳が傷付いてしまう。承太郎のスタープラチナ並の精密性と速度があれば、もしかすれば肉の芽による脳の損傷を回避できるかも知れないが、近付いただけで第二第三の標的にされるのでは駄目だ。

 まさかハーミットパープルを巻き付けて引っこ抜くわけにもいかず、万事休すかと思われた。だが、構えてお忘れなきように。こちらには、不可能すら可能に変えてみせる悪魔の従者がいる。

 

「アヴドゥル、敵の肉の芽は抜くべきかしら」

 

「うむ。抜けるのなら、そうした方が良いのは当然だ」

 

「なら、ザ・ワールドがいるじゃない!」

 

 そう、動かれて困るなら動けなくすれば良いのだ。麻痺や昏睡だなんて生易しいものではなく、時ごと肉の芽を縛り付けてやれば一ミリの挙動を起こす余地すら与えることは無い。

 名を挙げられた咲夜は、フランドールの方へと向き直った。恭しく頭を垂れて主の指示を待つその姿は、忠犬にも通ずるものがある。彼女を犬に例えるのであれば、鋭角より時を超えて現れ来るティンダロスの猟犬が最適解であろうか。標的を決して逃がさないというところも一致しているし、丁度良い。

 

「ザ・ワールド。貴女なら肉の芽に微かな震えすら許さず瞬時の摘出が可能でしょう」

 

「問題は無いかと」

 

「Good!なら早速、しゅぴんと抜いてくるのよ!」

 

 ばっ、と腕を振り咲夜に命じる。腕を振ったのに意味は無く、ただ単に格好良いかなと思ってやっただけである。

 だが悲しいかな、発しているプレッシャーが弱いせいで子供がヒーローの変身シーンを真似しているようにしか見えないのはご愛嬌か。咲夜も陶磁器のような冷たい美を湛える顔に微笑ましげな笑みを浮かべつつ、命令に対して返答する。

 

「恐れながら、その必要はもうございません」

 

「……えっ?」

 

 あちらを。右手で咲夜が指し示した方を見ると、こちらに向かって歩いてくる男が三人。うち最も体格の良い男は奇妙なヘアスタイルの大男を肩に担いでいる。

 その男の額にどれだけ目を凝らしても、肉の芽と思しきものは見当たらなかった。代わりに血の細筋が額から鼻先へと伝っており、誰かがもう既に引き抜いた後だとフランドールに知らしめた。出番だ、さぁ行ってこいと咲夜を送り出したのに、まさかの不発で終わって非常に恥ずかしい。

 

「フランドール。大蒜はもう大丈夫なのか」

 

「え、うん。その男が、敵って奴かしら」

 

「そうだ。DIOに掛けられていた支配も承太郎が解いたから、もうこちらを襲ってくることはないだろう」

 

 旅を妨げる要素が一つ減ったのだから、花京院が少し安堵したように話すのはごく自然なことだ。渋柿を丸々一個食べたような顔をしているフランドールが、この場において浮いていた。

 承太郎が担いでいた男を地面に下ろす。下ろしたと言うよりは投げ捨てたと形容すべき雑な挙動で、流石に敵であったとは言っても可哀想な気がしてきた。顔から真っ逆さまに落ちたので、尚更である。

 

「やれやれ。箱入りのお嬢様は事が済んでからのご登場ってわけだ」

 

「む。貴方達がすっぽかしたご飯のお金、誰が払ったと思ってるのよ」

 

 承太郎の憎まれ口に、今度はすかさず反応し反撃する。国家権力のお世話に預かる危機を回避してやったのだから、寧ろ感謝しろと目をぱっちり開いて訴えかける。だがしかし、彼は冷静であった。

 

「ザ・ワールドじゃねぇのか」

 

「……ぐぅ」

 

 彼の言う通り、フランドールは一銭も出していない。おのれ正論を振りかざす若造めが、とばかりに忌々しげに睨みつけてみたところ、承太郎が寄越したのは冷ややかな上から目線であった。互いの体格差からしても、さながら小学生とプロスポーツ選手が睨み合っているような構図となった。

 今のところ、良いように言われっぱなしだ。次こそはその小馬鹿にしたような顔をくしゃりと歪ませてやる、とリベンジマッチに燃えるフランドールであった。



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第十一話 J・P・ポルナレフ その③

「さぁ、行くのよポルナレフ!」

 

「『行くのよ』じゃなくて『行くわよ』だろせめてそこはよォーッ!」

 

 肩車。古くは日本の武士なるブレイブファイターの書物、義経記にも肩首の名で登場する行為である。乗る側は乗せる側の首にするりと足を絡め、官能的かつ蠱惑的な太腿でもって締め上げ……失礼、肩を車の座席に見立てられるというところからこの名称が誕生している。

 子が親に乗るタイプの肩車が、恐らく最も頻繁に見られるだろう。親の方の上できゃっきゃと燥ぐ子を見ると、何とも微笑ましい気持ちを覚えること請け合いである。

 

「それより、何でお嬢ちゃんはおれに乗ってるんだ。そこが一番でかい疑問だぜ」

 

「乗り心地が快適だから」

 

「おれは車か!」

 

 フランドールの身長から見て、ポルナレフなる男 ──つい数分前まで敵対する関係にあったJ(ジャン)P(ピエール)・ポルナレフは丁度大柄な父親くらいの体格を有している。それはもう、肩車なんてされようものなら余りのフィット感に腰を浮かせられなくなるのも仕方がない。

 一生をこいつの上で終えても良い。至上の幸福を味わっていたフランドールに、メイドが向ける視線は複雑なものだ。今の今まで咲夜を信頼し、片時も手放すことなく手元に置き続けてくれた主が目の前でまさかの浮気に走ったのだから、焦りも一入である。

 

 筋肉か、ついに妹様も鍛え上げられた筋肉に憧れることを覚えなさったのか。今後のフランドールの反応次第では、筋力トレーニングも辞さない覚悟を決めた。

 

「ジャン・ピエール・ポルナレフ。そろそろ妹様を下ろしなさい」

 

「って言ってるぞ、お嬢ちゃん」

 

「や!」

 

「おぐぅぇっ!?」

 

 余程ポルナレフの肩上が気に入ったのか、足を首に絡ませ居残る意志を見せる。咲夜の瞳が、驚愕の一色に染まった。それと、見えそうです。いえ、見えています。何がとは申しませんが、足を交差させたせいで全体面積の二割程衆目に晒されております。

 

「お、おめー窒息死させる気かよ!」

 

「ポルナレフ。私は下ろせと言ったわ」

 

「ぬぉうッ」

 

 最早一刻の猶予もなかった。一秒でも早くフランドールに降りてもらう必要がある。己の内に渦巻く嫉妬心を鎮めるために、そして赤いさくらんぼを隠すためにも。

 幸いにしてポルナレフは草食動物ではないので、然程横や後ろの視界が広くはない。こんなしょうもないことが知らない内に自分の生死を分けていたなんて、彼に言っても絶対に信じやしないだろう。

 とにかく早く肩に乗っている幼女を降ろさなければ、自分が人生からドロップアウトしてしまう。それだけは避けるという一心で説得にかかる。

 

「早く降りやがれ!おれが死んじまう!」

 

「きゃー♪」

 

 だが無情にも、フランドールは焦り荒れるポルナレフを騒がしい玩具としか認識していないようにさえ思われた。彼の首元に添えられた白銀のナイフが見えていないのか、貴女が退かなければこの座り心地抜群の座椅子は二度と立ち上がらなくなってしまうぞ。誰かがそう警告してやれば彼女も大人しく二本の足で地を踏んだかも知れなかった。

 尤も現実は儚いものであり、承太郎もジョセフもアヴドゥルも、花京院までもがこの事態に対して静観を決め込んでいた。敵だったという経緯を含めても、ここまでポルナレフに味方がいないのは如何なものか。この場合はただ単に面白がって口を挟んでいないだけという可能性の方が大きいけれど。

 

 駄目だ、言葉で説得しても効果は無い。一瞬の判断でポルナレフは自身のスタンドの名を呼んだ。

 

「チャリオッツ!」

 

 同時、鋼の甲冑に身を包む騎士のようなスタンドが現出した。左手に持つ剣は振るわず、空いた右手でフランドールの襟を掴んで猫のように持ち上げる。そのままひょいと地面において、シルバーチャリオッツは音もなく消えていった。

 

「あぁー……」

 

「下ろしたぞ。これで良いだろ、クールなメイドさん」

 

 冷や汗の滴るポルナレフの首筋から、ナイフは離された。真正面まで迫ってきていた死の恐怖から解放され、彼は大きな大きな安堵の息を吐いた。

 この女、一体何者なんだ。咲夜がフランドールのスタンドを務めていると知らないポルナレフは、彼女を単純に恐ろしく強いメイドだと認識した。ある意味一行の中では、フランドールの次に正しく咲夜を理解していると言えた。

 

「何じゃ、中々面白いじゃあないかポルナレフ」

 

「おれは何にも面白くなかったけどな。危うく死ぬとこだったぜ」

 

 見る分にはさぞかし愉快なコメディであっただろう。体験者としては、愛想笑いも出ないが。シルバーチャリオッツ程の高速スタンドを操るポルナレフの動体視力を以てしても捉え難い咲夜の敏捷性に、ただ恐れを為すことしかできない恐怖はきっと万言を尽くしても伝えられないだろう。

 

「それでジョースターさん、この後は?」

 

「おお、そうじゃ。それについて喋ろうと思っていたところよ」

 

 ぽん、と手を打ち、ジョセフが今後の動きについて説明を始める。タワーオブグレーの一件から分かるように、空路は一歩間違えば一般人をも戦禍の渦に巻き込みかねない。早急にエジプト入りするにはもってこいなのだが、他者の人命が脅かされるとなれば控えるべきであろう。

 必然的に、選べるのは陸路か海路となる。それぞれに長所と短所があり、状況に応じた柔軟な使い分けが要求される。常人であればどちらが良いのかと途方に暮れる場面で、ジョセフは速やかに判断を下した。

 

「まず、船をチャーターする。ホーチミンを経由して、シンガポールに入る予定をしておる」

 

「海上ルートを辿るというわけですね」

 

「うむ。陸だと国境が面倒だし、その点海ならそんな心配をする必要も無いからな」

 

 国境というのは存外に面倒なもので、国を国たらしめる重大な要素の一つである。何処から何処までが王の支配領域なのか明確にできなければ、それは領地の所有権を賭けた紛争、ひいては他国の領域を奪う侵略戦争の火種となり得る。

 関わらないのが、一番良いのだ。例えば中国と韓国の間で国境線について揉めたとして、まさかイギリスが責任を問われるはずもない。我関せず、我知らずの態度がこうしたデリケートな問題から身を守ってくれるのである。

 

「無論、海上が絶対に安全とは言えん。ただ、危険性はほぼ間違いなく低くなるじゃろうて」

 

 水にまつわるスタンドを使う敵がいる可能性もある。だが、ジョセフはシンガポールまでの道程にごく限られたメンバーしか伴わせない算段を立てていた。

 正体と性質を少しでも早く暴くことが、スタンド使い同士の戦いにおいて重要であるが、そんな時に味方が実はDIOの間者ではないかと疑っている暇は無い。つまり、信用できるメンバーを揃えることは最低限必須となる条件である。

 

「じじい。フランドールが戦力外になるが良いのか。ザ・ワールドは本体の影響を受けねぇようだから、大丈夫だろーが」

 

「馬鹿にしてくれるわね、承太郎」

 

「馬鹿だと思ってるからな」

 

 スカーレット家の由緒正しき次女に対して、あんまりな言い草である。流石に言ってくれたな、と顰めっ面を作るが、すぐに彼女の表情はしたり顔になった。

 その突っ込みを待っていたのだ。待っていた割にはご立腹な様子を見せてもいたが、兎に角待っていたのだ。口の減らない承太郎に一泡吹かせる、絶好のチャンスを。

 

「お馬鹿はお前よ、承太郎!私には元気に航海を終える秘策があるわ!」

 

「……あん?」

 

「私は確かに船酔いをするタイプよ。では問おうじゃない、恐ろしく三半規管の弱いカモメが空を飛んでいたとして、その子は酔いでグロッキーになるかしら」

 

 三半規管の弱いカモメが実在するかはさておくとして、成程船酔いはしないだろう。飛んでいる時に景色が流れるのを見て、それで酔うという可能性は捨て切れないだろうけど。

 景色酔いの影響で上手く飛べず、船に墜落して波に揺られたら、船酔いをするかも知れない。つまりカモメも船酔いに苦しむ可能性がある。Q.E.D.。だが求めたい答えと違うのでこの証明は破棄する。数学や化学ではないので、証明者に都合の悪い真実が明るみに出そうなら事前に抹消してしまっても問題は無いだろう。問題は、自分の中で消去したとしても、他者が異なるプロセスから隠したい結論に辿り着く危険があるということである。

 

「フランドール、まさか」

 

「Yes!ちょっと浮いていれば、船酔いもへまちも無いってわけよ!」

 

 妹様、ウリ科の一年草のことでしたらそれは糸瓜(へちま)です。薄いが無くはない胸を張り、むふーと得意げに笑う主に、咲夜は訂正の文言にて横槍を入れるのを躊躇った。時には間違いに目を瞑り、主人を立てるのもメイドの仕事である。

 

「妙案と言えばそうじゃが。お前さん、どうやって何も無い空中に浮くつもりをしておる?」

 

「……?普通に空を飛ぶ時の要りょ」

 

「ジョースター、私が背負うのよ」

 

 おっと、危ない。寸での所で口を挟み、フランドールが単独で滞空できるという真実の隠蔽に成功した。いずれ白日の元に晒されそうな真実ではあるが、可能な限り長期間隠しておくに越したことはないだろう。

 

「成程。考えたのぅ、フランドールちゃん」

 

「妹様は頭の切れるお方ですもの。当然ですわ」

 

 うふふ、と笑い、和やかな雰囲気を装う。真っ白なお腹の中では、あれやこれやと黒い魂胆がぐるぐるしている。船に乗り込む前に妹様を背負い、シンガポールに到着するまでの間その状態を保ち続ければ妹様は苦しまずに済むし吸血鬼だとばれてしまうリスクの低下にも繋がる。とても打算的に、咲夜は動こうとしていた。

 そんな咲夜の気苦労を知ってか知らずか、フランドールは顎に人差し指を当てて考え込む素振りを見せる。たっぷり十秒は沈黙を保ち、それから徐にポルナレフに声をかけた。

 

「ねぇ。貴方のスタンド……えっと、シルバーチャレンジャーズだっけ」

 

「チャリオッツ。銀の戦車(シルバーチャリオッツ)だよ」

 

 タロットカードにおける第七番、戦車を象徴するスタンドこそがシルバーチャリオッツである。戦車は正位置においては勝利や征服を意味しており、近距離の制圧能力が極めて高いこのスタンドとの親和性は高いと言える。

 

「そう、それ。それって、人を二人一気に持ち上げられる?」

 

「あー?そいつの重さによるけどよ、それが何だってんだ」

 

()()()()()()どうかしら」

 

 その時、咲夜に激震走る。さながら二度目の浮気をも眼前で堂々と行われた妻のように、心のマグニチュードは二桁へ到達せんという勢いであった。普段は凪の海の如く静かで波風も立たぬ彼女の精神が、この時は天まで届くような大津波に襲われていた。

 

「また肩車しろってか」

 

「できるならね。どう?」

 

「ぎりぎり行けるくらいだな。チャリオッツはそこまでパワーに優れてるわけじゃねぇが、お嬢ちゃんなら何とかなるだろ」

 

 何とかするな、今すぐに筋力を落とせ。咲夜が抱くにしては、余りに無茶な願望であった。

 ほぼ全てのステータスにおいて極高の性能を誇る咲夜だが、そんな彼女であっても体の形を自在に変えることはできない。フランドールが気に入ったあの体格は、逆立ちしたって得られやしないのだ。

 

「やった。交渉成立ね」

 

「今のが交渉になるのかよ。怖ぇなぁ、大英帝国のオジョーサマってのは」

 

 こればっかりは男女差としか言いようがないし、寧ろ男なんて目でもない力を持ちながら女神彫刻のように美しい体を維持しているのは女性として快挙なのだろう。だが、今咲夜が望むはフランドールによる使役ただ一つである。この身を使ってもらえるなら、例え数秒を稼ぐための肉壁にされようとも望外の喜びを覚える。それ程に咲夜は吸血鬼という存在に魅了され、自ら身を砕くことすら厭わない。

 

 故に、彼女が黙っていられなかったのは運命であったのだろう。

 

「妹様。僭越ながら、妹様を負うはこのザ・ワールドにお任せを」

 

「どうして?」

 

「私は貴女様のスタンドであり、そしてメイドにございます。お役に立つことこそが私の生き甲斐にございますれば」

 

 人がそれを忠義と呼ぶか、それとも嫉妬と呼ぶかは分からない。或いは、過ぎた忠心によって生じた独占欲か。いずれにせよ咲夜の世界が二人の吸血鬼によって構成されているのは現状覆せない事実である。

 

「なら、主として命じましょう」

 

「はい」

 

 もし咲夜が犬であったなら、多分耳は攣り尻尾は千切れ飛んでいただろう。彼女が耳も尻尾もない純粋な人間であったことは、喜ばれても良いかも知れない。

 

 この時の、咲夜が浮かべた嬉しそうな無表情は。

 

「偶には私のことを忘れて、ゆっくりと羽を伸ばしなさい」

 

「……はい」

 

 一瞬にして崩れ去り、無残な瓦礫の山と化することとなった。高低差数㎞のジェットコースターに乗せられたように、気分が乱高下した咲夜は身体的な疲れを錯覚した。ロンドンからイーストボーンまで全力疾走したかの如く、息が切れて体には倦怠感が付き纏っている。

 比喩ではなく、現実に肩を落とす女を見て、何もしない奴がいればそいつは人の心を持たない機械かサイコパスである。男共が寄って集って咲夜を慰め、ポルナレフは八つ当たりの爪先踏みによりごろごろと地を悶え転がる。

 

「やれやれ。ひでーことしやがる」

 

「何処がよ。あそこで『じゃあザ・ワールドお願い』って言う方が人でなしじゃない」

 

 咲夜も超人なれど人間だから、疲れくらい溜まるもの。本心からスタンドを気遣い暇を渡したらしいフランドールに、承太郎はそれ以上何も言うことができなかった。何気に初めて承太郎を口で言い負かしたわけだが、果たしてこれを勝ち数にカウントして良いものか。



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第十二話 暗青の月

「……はっ」

 

 咲夜の胸に抱かれうとうととしていたフランドールは、正に眠りに落ちるというタイミングで奇跡的な意識の浮上を見せた。眠気については昼時だから仕方ないとして、そもそも何故彼女は付き人に抱かれているのだろうか。

 そうしなければ黄泉比良坂をまともに視認してしまう可能性が極めて高いというのが、唯一にして絶対の理由となる。フランドールの出自を考えるなら、見るのはもしかしたら十字架を背負う幻覚かも知れないが、どちらにせよ臨終の危機に立たされるのに変わりはない。

 

「妹様、どうぞお眠りに」

 

「悪いわね、結局あんまり休ませてあげられなくて」

 

 普段から働き詰めで休息の少ない従者を慮って、新参の乗り心地抜群男に代役を任せたのだが、フランドールは一つ大きな失念をしていた。何故船が出航する前にこのことに気がつけなかったのか、今となっては甚だ疑問である。

 フランドールは、ポルナレフに背負われている。ポルナレフは、二本の足で船の上に立っている。船は、海上を不規則に揺れながら進む。この三つの条件を組み合わせれば、自ずとフランドールの失策について理解することができるはずだ。……そう、ポルナレフに背負われたところで船の揺れを無効化することはできなかったのである。

 

 ならばシルバーチャリオッツでポルナレフごと空中に浮かせれば問題は無いと考えることもできようが、ここで一度立ち止まって前提に戻って頂きたい。スタンドとは精神力の具現であり、使用者の精神エネルギーが不足してくれば、スタンドを保つことはできなくなる。

 つまり、ポルナレフを用いた咲夜休養計画はどう頑張っても僅かに数十分でおじゃんとなるのだ。このことに船上で気がついたフランドールは、それはもうがっくりと項垂れた。主人として、メイドに適切な休息を与えられないとは何たることか。

 

「何を仰いますか。お嬢様や妹様に尽くすことこそが私めの最上の喜びにございます」

 

 しかし、当の本人は短い休憩を厭わなかった。それどころかやっと為すべき仕事が戻ってきてくれたと言わんばかりのきらきらとした目で、フランドールを優しく抱き上げてくれた。貴女、それもしかしなくてもワーカホリックよ、とは流石に面と向かっては言えなかった。

 咲夜に休みをあげなくては。頭ではそう思っていたのだが、彼女の胸は余りに居心地が良過ぎて、すぐに思考をぼやけさせる濃い眠気がやって来てしまった。その快適さたるや、ポルナレフの肩上にも全く引けを取らない程であった。

 

「ほんとに見上げた忠誠心だこと」

 

 抗いこそしたものの、やはり魅惑の柔肌には勝てなかった。最後に感心の言葉を残し、フランドールの意識は夢の世界へと旅立っていった。微かに開いた口からすう、すうと小さな呼吸音が聞こえてくる。咲夜の体に回した細い腕と足は、ここが絶対不可侵たる自らの領域であると他者に示す標のようでもあった。

 

「ザ・ワールド。きみ、ずっと浮いているがフランドールは疲れないのか?」

 

「私と妹様はエネルギーも感覚も共有していないわ。今浮くのに消費しているのは、私個人のエネルギーよ」

 

「ふむ。だとすれば心配なのはザ・ワールドだが」

 

「心配は要らないわ。三日宙に浮くくらい、どうってことないもの」

 

 エネルギーを共有していないというのも中々に衝撃的な事実だったが、それよりも花京院としては心の中でつっこまずにはいられないことがあった。ザ・ワールドよ、君は三日間ぶっ続けで浮いているつもりなのか。彼女が言うなら本当にできてしまいそうなのが怖いが、流石に彼女とて疲れはするはずだ。

 フランドールと別個にエネルギーを保有しているなら、通常では起こり得ないスタンドの疲労が発生してくる可能性が高い。例えば花京院や承太郎なら、精神力の続く限りスタンドを駆使することができるわけだが、ザ・ワールドはそうもいかない。フランドールの状態に関わらず、彼女は独自に戦闘可能と不可能の二領域を行き来する。

 

 このことは強みでもあり、また弱みでもあるだろう。どちらに転ぶかは時によりけりだが、もし後者になってしまった時、仲間によるサポートが必須であることは良く理解できていた。

 ここにいるメンバーの中では最も早く二人と知り合ったのがこの花京院 典明なのだから、ピンチの際には男らしく助けに入り、敵を打ち倒すべきだ。邪な感情など無い。無いったら無い。人知れず勇壮な決意を固めた花京院の傍らで、既にレム睡眠を享受し始めた主を抱く咲夜は新しい話題へ関心を移そうとしていた。

 

「それより、ジョースター。この船には私達の関係者のみを乗せるのではなかったのかしら」

 

「ん?如何にもその通りじゃがどうした」

 

「部外者がいるわ」

 

 この船が出航するに当たって、ジョセフはある決まり事を設けていた。それは、一行と船の関係者以外を絶対に乗せないというものである。

 海上なら陸に比べてスタンド使いに襲われる危険性も低いとはいえ、十割安全であると保証することはできない。加えて、何らかの要因で転覆や座礁が起こることだってある。万が一を考慮し、スタンドのスの字にも掠らない一般人を遠ざけたのである。

 

 英断を下したと咲夜も考えていたし、出航前に乗員となる全員が顔合わせを済ませている。見知らぬ顔の輩がいれば、そいつは間違いなく密航者となる。唯一船長であるキャプテン・テニールだけは機器の整備をしているということであの場にはいなかったが、事前にジョセフが個別で挨拶をしに行っているので、さしたる問題でもあるまい。

 

「部外者だと!」

 

「えぇ。承太郎、階段の影に隠れているから捕まえてきて頂戴な」

 

「……ちっ」

 

 何故俺が。承太郎としては見つけたお前がとっ捕まえて来いと言いたかっただろうが、面倒を理由に断るのは承太郎の主義に反する。別に女性第一のフェミニストではないと言っても、味方である女の頼みを無碍に突っ撥ねるのは気が咎めるところもあるわけで、仕方無しに承太郎は船内へ入るための階段へ向かっていった。スタンドの手綱くらいてめーで取りやがれ、という苦々しい文句は喉元までせり上がってきたが、寝た子に言う意味の無さを考えると口を突く前に自然消滅していった。

 

「よし。このまま乗ってればいずれ……!?」

 

「いずれ、何だ」

 

 密航者は、咲夜の言った通り階段に隠れて様子を伺っていた。ばれないよう細心の注意を払っていただけに、承太郎が目の前に現れた時の驚きは如何程のものだったことか。

 承太郎の体の大きさを考慮したとしても、密航者は一般的に小さいと言われる身長であった。思い切り見あげなければ顔も見えないような巨漢が目と鼻の先で自分を冷ややかに見下ろしているのだから、一瞬彼女がびしりと硬直してしまったのも当然だ。

 

「あ?ガキじゃねーか」

 

「や、やばいッ!」

 

 承太郎としては、部外者が年端もいかない少女だというのは意外だった。もっと大人の、それも男をイメージしていただけに、拍子抜けであった。

 その隙を狙ったわけではないが、少女は上手く大男が塞ぐ脱出口の僅かな隙間を掻い潜ることに成功した。船内に戻れば乗組員達に見つかるリスクが高くなる。それなら、まだ客として船に乗っているジョセフ一行に存在を知られた方がましだ。咄嗟の判断で、少女は残る六人の前に姿を見せた。フランドールが眠っていたので、実質五人であったけれど。

 

「て、てめーら大人しくしろい!これはナイフだ、斬れ味鋭いナイフだッ!」

 

 光を反射してきらりと輝くナイフは、確かに斬れ味が良さそうだ。だが、怖さというものは誰一人として欠片も感じなかった。予め全てを知っていた咲夜を除く四人は、突然飛び出してきた少女の予想遥か上方の奇行に困惑した。いやナイフだと言われても、そんなもの見れば分かる。

 取り敢えず落ち着かせた方が良いか。男衆四人がひょいひょいとアイコンタクトを交わす。妙にポルナレフへの視線が多いのは、多分適任だからお前がやれという意思表示なのだろうが、彼からすれば良い迷惑だ。フランドールがたまたま懐いただけであって、子供を手懐けるのなんて得意でもなければ好きでもない。刃物を取り出す程に興奮した子供を宥める自信は、全くと言って良いレベルで無かった。

 

 ナイフを構えたまま、じりじりと少女が距離を詰めてくる。そこは距離を取る場面じゃあないのかと教えてあげたかったが、下手なことを言うとどうなるか分かったものではなかったので、大人しく場所を入れ替えるように全員が動く。しかし彼女はとにかく近寄らなければいけないと決めているようで、再度忍べていない忍び足にてにじり寄ってくる。唐突に始まった奇妙で何処かコミカルな睨み合いは、暫く続くかと思われた。

 

「おれのことは船員には……うわっ、いだぁっ!」

 

「この女の子かね、密航者というのは。ジョセフさんが叫ぶので、何事かと思えば」

 

 階段より現れ出た男は、ジョースターの一族にも匹敵しかねない巨躯を誇っていた。キャップを被り、青い半袖のシャツで身を飾る男こそが、この船のトップを務めるキャプテン・テニールである。

 大きな手で少女の諸手を掴み、万力の如く締め上げる。堪らず手元から落ちたナイフを、彼は遠くへと蹴り飛ばした。鮮やかな手並みは、彼がこうした荒事に慣れていることを証明しているようであった。

 

「こんな小さな子と雖も、密航者には変わりない。心が痛むが、すぐに海上警察に来てもらおう」

 

 手を掴んだまま、少女を引き摺るようにして階段まで歩いていく。海上警察の到着まで下の船室に監禁でもしておくつもりなのだろう。近くにいたクルーに警察への連絡とナイフの回収を指示し、彼らは迅速に行動に移っていった。

 

「驚いたが、ともあれ部外者問題はこれで解決したな」

 

 ザ・ワールドには感謝せんとなぁ。鷹揚に笑うジョセフであったが、実のところまだ懸念は残っていた。もし警察の到着までに敵のスタンド使いに遭遇した時、一行はこの少女が怪我を負わないよう配慮しつつ戦う必要性が生じてしまったのだ。そして、この制約の影響を最も強く受けるのはアヴドゥルであることも明白であった。

 下手に炎を駆使すれば、少女まで巻き込みかねない。最大出力での大技など、以ての外となる。単純故に明快な強さを誇るアヴドゥルが満足に力を発揮できないとなると、チームとしては中々手痛い枷だ。

 

()()()

 

 だがしかし、これで終わりではなかった。この上咲夜は、ジョセフに向けて第二の枷の存在を明かした。

 

「そこの女の子の他にも、部外者はいる。そうよね、承太郎」

 

「けっ。おめーも分かってたか、ザ・ワールド」

 

 咲夜の他に承太郎も二人目の侵入者の存在を悟っていたようだ。ジョセフ達は全く気がつけなかったが、今度は一体何処に隠れているのだろうか。

 しかし、乗った人間全員の顔合わせまでしてあって、二人も密航者を出すなんてことがあるのだろうか。SPW財団を介している以上テニール船長を疑う余地はなく、他の船員にも怪しい輩はいなかったはずだ。

 

「まだいる、とは?」

 

「言葉をそのまま捉えてもらって結構よ」

 

「何処にいるか、分かるのか?」

 

「貴方が鏡を見れば、そこに」

 

 否、咲夜が有罪判決を下したのは最も疑われる可能性の少ないはずのテニールであった。何せ鏡に映るのは真正面にいる人間のみである。

 当然、彼としては密航者の扱いを受けるのは御免被る。余りに唐突なキラー・ショットに驚かされつつも、無実を証明するためにほんの僅か上擦った声で話し始めた。

 

「有り得ない話だ。何か証拠はあるんだろうね」

 

「無論」

 

 短く言い切った咲夜の瞳は、嘘をついている者のそれではなかった。あたかも世の中には重力というものがあると学生に説明する教師のように、自身が言っていることに一欠片の間違いも無いと確信していることを声高に主張する瞳であった。

 両腕にくぅくぅ眠りこけるフランドールがいるのが、非常に絶妙なミスマッチの感を醸し出している。咲夜も咲夜で、氷点下の冷徹な瞳をしながら時折ぽんぽんと彼女の背中に触れるようなタッチをしているものだから、傍から見れば異質極まりない光景である。例えるならば、赤子を宝物の如く抱っこするジャック・ザ・リッパーとなろうか。

 

「貴方は、つい先程初めて私達と顔を合わせた」

 

「そうだ。それが何だ」

 

 機器のメンテナンスをしていたことが、どうして自分を部外者だと判断させる材料になったのか。心底不思議であると言わんばかりの口振りで、テニールは咲夜に問うた。

 

「どうしてこの女の子が密航者だと分かったのかしら」

 

 咲夜の指摘に、誤差と言われても納得できる程小さくテニールの眉が顰められた。その場にいた全員がそれを知覚するより早く、彼は一瞬前のぽかんとした中年男性の顔へと戻っていた。

 

「誰もそうだとは言っていなかったと私は記憶しているわ。だと言うのに、貴方は迷わず女の子を密航者と断定した」

 

「こんな小さな女の子が、きみたちと共に旅をしているだなんて普通に考えて変だろう。だからだよ」

 

 テニールの言も、最もである。贔屓目無しに見て、圧倒的な巨躯を誇る老人と学生、三者三様の独創的なヘアスタイルの目立つ若者三人が一同に会していれば嫌でも目が引かれる。そこにこれと言った特徴の無い平凡な少女が混ざっていれば、逆に普通が過ぎて浮いてしまうだろう。密航者が彼女だと直感的に判断するのも、変ではないように思える。

 出航前から現在までのテニールの行動を纏めてみても、違和感を感じるような点は見受けられない。それどころか、船長としての責務を充分に果たしていると賞賛されるに足る程である。場のほぼ全員がザ・ワールドの発言を奇妙に思っていたところで、沈黙を保っていた男が一人口火を切った。

 

「それがおかしいって言ってるんだぜ」

 

 襟に、そして胸部に付けられた鎖を鳴らしながら承太郎は一歩前へと進み出た。猛獣がにじり寄ってくるような威圧感に、テニールの体が自然と硬くなる。

 

「おめー、あの時一番近くにいた()()()()()()とフランドールを無視して真っ直ぐあのガキの所へ行っただろ。女子供がどうとか言うなら、どうしてこの二人には目もくれなかったのか説明してもらおうか」

 

「同行者に女性が二人いるとは聞いていたからな。メイド服を着た女性に、ツインテールで金髪を纏めた幼子は連れだから問題無いと、確かにジョースターさんから伺っている」

 

 ですよね?ジョースターさん。彼の確認に、ジョセフは首肯を返した。確かにジョセフは、最初に会った際に七人の名前と特徴を伝えていた。テニールはそれを知っていたからこそ、フランドール達は関係者であると判断したと言う。何の論理破綻も起こしていない、真っ当な弁明だ。

 

「お前達、彼が関係者でない可能性はゼロじゃ」

 

 現にジョセフは、余りに突飛な二人の詰問を咎めようとしていたところだ。そりゃあ自分も若い頃は色々やったが、それはそれと脇に置いておこうではないか。過去の業で後進に注意する権利を失うなんてことは無いのだから。

 彼とて承太郎や咲夜が狂人だとは思っておらず、何らかの理由があってテニールを部外者と断じたのだと信じているが、それにしたって敬うべき人生の先輩に対して酷い態度を取っているのは変わらない。年長者として、そこはびしっと忠告し諭してやらねばならないと思いかけていた。

 

「いや、マヌケは見つかったぜ」

 

「えぇ。Checkmate、そう言っておきましょう」

 

 後ろで事の成り行きを見守っていた花京院やアヴドゥルまでもが、困惑の色を明確に強めた。ここまで強固なアリバイがあって、まだこの二人は己の意見を一ミリも曲げるつもりが無いのか。口を挟み、まだ収集の付くうちに事を収めた方が良いのではないかと考え、ジョセフに相談しようとした。

 航海を行う上では操舵技術を持つ者が必須であり、船長の気分一つでこの船旅はいつ如何なる時においても前触れなく終了し得る。だから、彼の機嫌を損ねるような真似は可能な限り避けなければならないというわけだ。

 

「貴方、私の名前を言えるわよね」

 

()()()()()()と聞いている。偽名かね?それにしては大層なものだが」

 

 事態が大きく転換したのは、アヴドゥルがジョセフに向けて声を掛けようとする正に一秒前であった。舵を取ったと小粋な表現をしても良かろうが、船の進路に些細な変更の一つも無いのだから、言葉と真実の間でややそぐわない所も出てきてしまう。今回に限らず、直面した状況をどう言い表すは、個々人の裁量に全て任されるのである。

 

「ジョースター。私の名前を、彼に何と伝えたの?」

 

「おかしいな。わしはお前さんが前に言った通り、サクヤという名前で伝えてあるんじゃが」

 

 全世界に存在する二百近い国々に住まう六十億人以上の人間を全て洗い出しても、ザ・ワールドなどという名前の人間は見つからない。行く先々で一々怪しまれていては面倒なので、名を出す必要が生じた際には本名より用いてサクヤと名乗ることをジョセフに伝えてあったのだ。勿論、サクヤが本当の名前であることは伏せたままにして。

 

「なにぃっ!」

 

「ジョースターと貴方の発言の齟齬、どう説明して下さるつもりで?」

 

 一転して、咲夜達が攻勢に立ち始めた。いや、この二人は自分達が防戦一方を余儀なくされていたなど微塵も思いやしなかったのかも知れない。彼らとしては、絶対的な確信の元にテニール船長を偽る何者かを追い詰めたと認識していそうなものだ。ある意味で傲慢な程に、二人がテニールに向ける視線は威風堂々としていた。

 体の良い言い訳でも考えていたのか、テニールは暫く俯き口を固く結んでいた。しかし最早口で争っても勝ち目は無いと思い直したようで、開き直ったかのように打って変わって横暴な口調で白状を始めた。

 

「成程、言い逃れは効かんようだな。そうだ、おれは船長じゃねぇ」

 

 本物のテニール船長を何処へやったのか。聞くまでもなく、無事でないことは想像がつく。加えてSPW財団の斡旋で船長を務める予定だった彼になりすましたということは、間違いなくDIOの差し向けてきた刺客である。

 襲撃の可能性こそ考えていたものの、まさか船員、それもその中の長に擬して接近してくるとはさしものジョセフにも予想できなかった。テニール擬きの何者かが傍らに繰り出した半魚人めいたスタンドが、彼を敵であると確信させるに足る証拠となった。

 

「おれのスタンドは、月。潜在的な危険を暗示する、暗青の月(ダークブルームーン)だ!」

 

 思うに一同を纏めて相手取るのは不利だと判断したので、疑われる危険の最も低い船長を装うことで警戒されないままジョセフ達の頭数を減らそうと画策していたのだろう。実際に咲夜と承太郎を除くメンバーは気がつけなかったのだから、効果はあったと言って差し支えない。計画を失敗せしめた彼の不運は、獣のような嗅覚を持つ二人に目を付けられたことであった。

 

「今から、この小娘と一緒に鮫の海に飛び込むぞ。当然てめーらは海中へ追って来ざるをえまい!」

 

 鰭が付いた腕で、授与されたトロフィーよろしく少女を掲げる。スタンドが見えない一般人からすれば独りでに体が高く持ち上がっていったに等しく、訳も分からずじたばたと藻掻くが、その程度で戒めを解かせないくらいの力はあるらしい。

 

 無関係の子供を救いに来たところを、本領の発揮できる海中というフィールドにおいて討ち取る算段だ。冷静な戦力分析に基づく合理的な判断と見るか、敵の強みを消しに掛かる卑怯な手段と見るかは人それぞれである。

 

「人質なんかとって、なめんじゃあねーぞ」

 

「なめる……これは予言だよ!」

 

 陸で速度を競っても、スタープラチナやシルバーチャリオッツ、そして咲夜には大きく水を空けられるだろう。しかし、水を得た魚とは言い得て妙らしく、水中では別人のような強さを振るうようだ。それこそ、七人を同時に相手取っても尚勝てると自信を持って宣言できる程に。

 

「着いてきな!海水たらふく飲んで死ぬ勇気があるならな!」

 

 少女を拘束したまま、ダークブルームーンは甲板を蹴り空中へ跳んだ。不味い、このままでは無関係の少女が危険だ。ジョセフが咄嗟に茨で引き留めようとするも、間に合いそうにはなかった。

 

「承太郎」

 

「手出しは無用だぜ」

 

 だが、ここにおいてもこの二人は冷静であった。二言のみの会話で互いの意思を疎通させ、咲夜は承太郎の言に従い半歩後ろへと下がった。彼女は空中に浮いているので、より正確には半歩分となる。

 承太郎の体から、煌めく男が飛び出てくる。無比の力と速度を誇る、彼のスタンドだ。実際に相見えたことがあるのは花京院のみであり、敵が彼のスタンド(スタープラチナ)を過小評価してしまったとしても致し方ないところがある。寧ろ刺客はスタープラチナについて素早く力強いと認識しており、決して侮ってはいなかった。

 

『オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァ!』

 

 それでも、誤算だったと言わざるを得ない力の暴力が、敵スタンド使いを襲った。一発が体を折る程に重く、だというのに秒間何発もの拳が全身を殴打する。

 荒々しいスタンドだ、と咲夜は呆れた。本人の気質は多少なりともスタンドにも反映されるものだが、これではまるで承太郎の生き写しではないか。一度牙を剥けば決して容赦しない猛獣を連想させるラッシュは、見る者に幾重もの残像を見せる程であった。

 

『オォラァ!』

 

 止めと言わんばかりに力を込めた一撃が、顔を激しく打ち据える。耐え切れるはずもなく、力なく海の上に浮かぶ羽目になった。

 

「ら、落下するより、早く……攻撃してくるなんて」

 

「海水をたらふく飲むのは、てめー一人だ」

 

 海に落ちたのは敵ただ一人であり、正に承太郎の言う通りになったわけだ。彼の予言は、他ならぬ彼自身の未来に言及していたのだと気がつくことができたなら、人質を取って海へ飛び込むという選択肢を選ぶことはなかったのかも知れない。尤も、DIOの間者と暴かれている時点で命乞いでもしない限り打つ手無しなのだが。

 

 タワーオブグレーと言い、何故DIOが差し向けてくる敵は一人なのだろうか。まだ二例目なので単なる偶然ということも考えられるが、襲い来るならもっと頭数を揃えてからにすれば成功率も上がるだろうに。

 例えばこのダークブルームーンとやらが鍬形虫と手を組んで襲撃してきたとしたら、中々手強いコンビと化すと思う。狭い船舶の上で縦横無尽に飛び回る鍬形虫は充分に脅威となるし、海に逃げたくても鰓男が待ち構えているためおいそれと判断は下せない。

 

 個々人のプライド、情報秘匿の優先など、彼らがタッグを組まなかった理由は幾つか思い当たる。だが、本当に一行をDIOの元へ辿り着かせたくないのなら、戦力と作戦をきちんと纏め上げた方が良いのは言うまでもない。敵側がこのことに思い至らない間は、楽に旅をすることができるだろう。

 

「アヴドゥル。何か言ってやれ」

 

「占い師のわたしをさしおいて予言するなど」

 

 占い師とは言うが、咲夜はまだアヴドゥルが占いを行ったシーンを見たことがない。今のところ抱いている印象としては、髪型から服装まで胡散臭い若者である。しかもスタンドまで占いとは無縁ときたものだから、ますます信憑性に欠ける。炎を操る占い師、それは最早魔法使いの領域に足を踏み入れていると見なければならない。

 

 十年早い。アヴドゥルはそう続けるつもりだった。咲夜達は聞けなかったが、ポルナレフを降した時にも同じようなことを言っていたので、彼の決め台詞なのかも知れない。何故百年とか千年とかにせず十年というえらく現実的な時間を設定したのかは、彼に聞く他なしだ。

 

「十年早いぜ!」

 

 まさか、この男(ポルナレフ)に横取りされるとは思いもよらなかった。わざわざ声の調子や高さまで似せてきた努力は認めるし割と本物に近いところまで来ているのは大した技術だと感心するが、お前はそれで良いのか。アヴドゥルとしては、何とも複雑な気分になった。



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第十三話 ???

 明晰夢。夢であると明確に自覚できる夢のことで、多くの場合意図的に内容をコントロールすることができる。この性質から現実逃避にも用いられることがあり、運良く明晰夢を見た者は夢の中でやりたいことを次々に為していくのだとか。暴飲暴食、気になるあの子にダイレクトアタック、何でもござれだ。

 所詮現実に非ず、雀の声か目覚まし時計の音で目が覚めればいつもと変わらない日常がまた幕を開ける。しかし、そうだと分かっていても明晰夢は人を惹き付けてやまない魅力を有している。限定された範囲内において、人は一時の間全能の神足り得るのだから。

 

 しかし、一方で意のままにならない明晰夢も中にはある。操作の可不可を決定付ける要素が何であるのか、未だに誰も解明できていない。つまり、狙って夢の支配者になろうという目論見は全くの無駄に帰するというわけだ。

 

「夢ね」

 

 今フランドールが体験しているのは、後者のパターンである。一筋の光も差し込まない暗黒の世界に包まれて、彼女はゆらゆらと宙を漂っていた。

 

「……趣味悪っ」

 

 自分の脳が見せる夢に、苦言を呈さずにはいられなかった。どんな夢だこれは、とっとと醒めて寝直した方が良いのではないか。楽しくも辛くもなく、ただ延々と広がる闇を眺めながらふわふわしていることに、何の意味も見出すことができなかった。

 史上稀に見る意図不明な夢だ。姉の服選びばりにセンスが無い。こんな夢を見てしまう自分が、少しばかり恥ずかしくなってしまうくらいである。思いつく限りの酷評を叩き付け、どうにかして夢から醒められないか思案していたフランドールの目に、初めて黒以外の色が飛び込んできた。

 

「何これ……人?」

 

 透明の結晶の中に、人間が埋め込まれている。結晶がぼんやりと光り輝いており、この空間における唯一の光源となっていた。頼りない光だが、無いよりはましと言ったところか。

 結晶自体目立つのだが、一際目を引くのはそれに巻き付けられ黄金の南京錠で固定された鎖であった。まるで中にいる人間を封じ込めているかのように、鎖からは何処か閉塞的な印象を受けた。

 

 もう少し近づいて見てみよう。興味を惹かれたフランドールは、空間を泳ぎ結晶体に接近していく。近づくにつれて、新たな事実が幾つか発覚した。

 まず、結晶体は非常に多角であり、それぞれの面は研磨されたかのような滑らかさであった。そして、中の人間は横たえられていた。逆立つ金髪が、妙な生命の鼓動をフランドールに伝えた。

 顔は中々整っている。彫りも深く、典型的なヨーロッパ系統の美男子だ。ふむふむと感心しながら観察していたフランドールは、ふとあることに気がついた。

 

 頭部と胴体が、変にちぐはぐに見えたのだ。サイズ感がおかしいのだろうか。体が恵体過ぎるのか、首から上が細過ぎるのか。どちらにせよ、バランスを欠いた肉体だと思った。異なる二つの彫刻から、それぞれ頭と胴体をピックアップしてできた石の塊というのが、彼女の抱いたイメージにかなり近いものであった。

 まぁ、世の中には様々な人間がいる。構成比が多少おかしいくらいで一々注目するのも良くない。小顔になった承太郎だと思えば納得もできる。違和感ばりばりでちゃんちゃら可笑しい気がしなくもないが、少なくとも理解を及ぼすことは可能だ。

 

 それから暫く観察を続けていたが、特に進展も無かった。呼び掛けても金髪の男は反応せず、新たな発見も無いので、初め興味津々であった彼女も次第に退屈そうにし始めた。

 見つかるかは分からないけれど、新たな余興を探そう。フランドールは眠る人間にその旨を伝え、じゃあねと手を振ってから泳ぎ出した。北がどちらかも分からないため方向を東西南北で表すことはできないが、結晶体に背を向けて離れていった。

 

 彼女がいなくなった後も、結晶はそこに浮き続けていた。相変わらず内部には人間を閉じ込めたままで、淡い光を放ちながら。鎖はその光を受けて、鈍い銀の色を与え暗闇へと放つ。錠前付近の僅かな欠損の他に、鉄の縄には一つの傷も付けられていなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……うとさま」

 

 綺麗な音に耳を擽られる感覚は、嫌いではない。寧ろ幸せな気持ちになるので、好きであった。心地好く、それでいて溶けるように引いていく眠気に別れを告げる暇は用意されていなかった。こうもはっきり意識が覚醒すると、在りし夢の時が少しばかり勿体ないようにも思える。

 

「妹様、咲夜でございます」

 

「見なくても分かる」

 

「恐悦至極。シンガポールへ到着致しましたので、ご報告をば」

 

 道路が張り巡らされ、そこを何千何万もの車が隙間を縫うようにして走っている。車道との区画がやや曖昧な歩道には人が溢れ返り、さながらロンドンの昼下がりにも似た盛況具合を呈している。

 東 ── アジア世界と西 ── ヨーロッパ世界とが交わる地であり、双方の文化が独自のアレンジを加えられて併存している極めて珍しい国だ。世界の文化の集約点とも言えるこの場所はフランドールも本で知っており、一度訪れてみたいと思っていたところである。

 

 しかし、腑に落ちない点が一つだけあった。見ていた夢の内容を上手く思い出せないのも何だかすっきりとしないが、それよりももっと追求すべきことがある。

 

「予定ではあと二日くらいかかるんじゃなかったの?」

 

「予定が変更になったのです」

 

 水の流れるような咲夜の答えに、一瞬そうなのかと納得しかけたが、いや待てと理性が待ったを掛けた。元々数日程度を予定していた船旅が、予定の変更があったとしても二日短縮されるなんてことがあるのか。常識に照らし合わせれば、台湾でチャーターした船より速度の出る別の船舶に乗り換えたと考えるのが妥当であるように思える。

 船を乗り換えたと仮定しよう。して、その理由とは。人一人の命を左右する旅だ、単純な時間短縮という目的もあろう。他には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とか。

 

「……もしかしてだけど」

 

「はい」

 

「敵、来た?」

 

「二人、正確には一人と一匹が我々を襲撃しました」

 

 フランドールが眠りに落ちてからすぐに、承太郎がダークブルームーンと交戦。策を弄され海中へ引き摺り込まれるも、機転を利かせて環境的な不利を覆した。しかし、敵は万一を考慮して船に爆薬を仕掛けていたらしく、その爆発と衝撃によって船は大破してしまった。

 

 船員を含めた一同は辛くも救命ボートに乗って脱出に成功し、漂流すること数時間にして戦艦級の全長を誇る巨大な船舶を発見した。助けを求めるために船へ登ったのだが、何とそこでアンカーが独りでに作動したのだ。

 鋭い先端が勢い良く振られて船員の一人の顔を貫いたが、誰もスタンドの気配を感じ取ることができなかった。アンカーの一番近くに立っていたアヴドゥルでさえも。

 

 結局のところ、やはりと言うかスタンド使いの仕業であったわけだが、そいつは何と人間ではなかった。霊長目ヒト科オランウータン属の、オランウータンであった。驚くべきことに皆の上陸した船そのものが彼ないしは彼女のスタンド(ストレングス)であり、誰も気配に勘付けなかったのは余りに発現させている『もの』が巨大であったが故であると考えられる。

 咲夜をしてすぐには檻の中の猿がスタンド使いであると気がつけなかったが、最終的にはまたも承太郎の活躍によって難を逃れることができた。相手が相手であるだけに、DIOの刺客であったかは判明しないが、何にせよ今までにない強力なパワーを誇る強敵であった。

 

「ごめんなさい」

 

「妹様が謝罪を述べられる必要はございません。貴方様の所有物たる私めが僭越ながら代役を努めさせて頂きましたから」

 

 そんな強敵と対峙していた一行を他所に、気持ち良く安眠を享受していたのだ。しかもご丁寧に、咲夜に背負われたままで。役に立てなかった以前に紛うことなきお荷物の様相を呈してしまい、大変申し訳ない気持ちに苛まれることになった。

 すぐさま咲夜がフォローを入れてくれたのだが、それがまた心に刺さる。歳の差で言えば天と地レベルで離れている少女に、一体何をさせているのか。あと咲夜、貴女は私の持ち物じゃあない。

 

「そんな気にする必要はないぜ。俺達全員見ての通り無事だし、言ってもお嬢ちゃんが寝てたのなんか一日くらいだからよ」

 

「一日かぁ……十二分に寝坊じゃないのッ!」

 

「はは……ま、まぁあれだ。子供は寝て育つって言うしな」

 

 特に疲れていたわけでもないのに、丸一日ぐっすりと寝こけていたのか。夜行性を遵守している吸血鬼ということで昼間はまだ致し方ない部分があるとして、君臨すべき夜においてまで爆睡していては、お前何のために着いていってるんだと詰られても反論できやしない。

 日がな一日寝ていたところで、規則正しい睡眠時間による成長度には及ぶべくもない。寝る子は育つ、確かに道理だが寝過ぎた子はその限りでないのだ。

 

「おめー本当にザ・ワールドの本体なんだろうな」

 

「奇遇ね。今丁度その自信を喪失しかけてたところよ」

 

 敵が襲い掛かってきた際、寝ている確率が高過ぎやしないか。タワーオブグレー、ダークブルームーン、ストレングス。今のところ三発三中で敵の動いている姿を見ていない。こんなにも不名誉な百パーセントもそうあるものか。

 承太郎の視線が、痛い。責めたり詰ったりといった行為に出てくれた方が、まだ精神ダメージ的には軽減されると思うのだが、今彼がこちらに向けてきているのは純粋な疑問の目線であった。咲夜はメイドであってスタンドじゃあないのだから両者の間に乖離があっても変ではないはずだ。できることなら、声高にそう叫びたかった。



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第十四話 悪魔 その①

 今日は久し振りに羽を伸ばして休憩できそうだ。ホテル12階のとある一室で、アヴドゥルは背もたれ付きのソファに腰掛けていた。傍らではジョセフが荷物もそこらに放ったままでベッドに寝転がり、早くも鼾をかき始めていた。

 

 海路を取れば襲撃される可能性は減るだろう。そう見込んでの船旅だったが、結果は散々なものとなった。立て続けに二つのスタンドと戦闘をする羽目になり、承太郎の活躍もあって切り抜けこそしたものの全員が軽くない疲労を溜め込むことになってしまった。それだけに、今日だけでもこうして休息を取れるというのは有り難いことだ。

 部屋が良い具合に空いておらず、同じ階に7人が泊まることはできなかったものの、そんなものは些末な問題である。どうせ同じ建物の中にいるのだ、逸れるような心配だって無い。唯一懸念事項があるとすれば、フランドールがとことこと物見遊山気分で出歩いて迷子になりそうなことくらいか。ザ・ワールドには彼女を制する名監督の役割を期待したい。

 

 午後8時に夕食を摂り、その後これからの予定について話し合うことになっている。エジプトへの道のりや密航者の少女をどうするかなどの問題を議論していくことになるだろう。少女をエジプトまで連れて行けるわけはなく、可能であればシンガポールで警察にでも保護してもらうのが一番良い。思えばポルナレフの荷物を遺棄物と勘違いしていたあのユーモラスな警官に彼女を引き渡しておくのが手っ取り早かったのだが、残念なことに誰もその発想に至らなかった。

 

「あと4時間か」

 

 一眠りするくらいなら、丁度良い残り時間だ。眠気も溜まってきていたことだ、少しばかり体力回復に努めさせてもらおう。空いているもう一つのベッドに向かいかけたその時、部屋備え付けの電話がけたたましく鳴り響いた。

 ジョセフは音の届かない深域まで意識を沈め込んでいるようで、目を覚ます気配は感じられなかった。本当なら部屋の主である彼に取ってもらいたかったが、熟睡している手前起こすのにも気が引ける。仕方ないかと思い直し、受話器を上げて通話状態にした。

 

「はい」

 

「その声、アヴドゥルかッ!」

 

「いかにもそうだが」

 

 えらく切羽詰まった声で捲し立ててきたのは、912号室に泊まっているポルナレフだった。目にシャンプーでも入ったのか、それなら擦らず痛みが引くのを待てと揶揄ってやろうかと思っていたアヴドゥルは、予想だにしない言葉を続けられることとなった。

 

「スタンド使いがおれの部屋に潜んでいた!」

 

「……何だと?」

 

「不可解なヤツなんだ。強いのか弱いのかも分からんが、とにかく不気味だった!」

 

 馬鹿な、その日に泊まることを決めたホテルにまでDIOの刺客がいるなんて。有り得ないと思いたいが、冗談でポルナレフがこんな電話をしてくるとは考えられない。敵は何らかの方法でこちらの動向をほぼ完全に把握していると結論付ける他に無かった。

 最早眠気など風の前の塵よろしく吹き飛んでいた。ポルナレフに幾つか質問を投げかけ、敵の情報を探り出す。

 

「敵はどうした?」

 

「済まん、逃げられた」

 

「分かった。どんな奴だったか教えてくれ」

 

「スタンドをチラリとしか見てねぇが、本体は体のあちこちに傷がついてたな」

 

 あと、悪魔(デビル)のカードの暗示とか言ってやがった。ポルナレフが付け加えたこの一言が、アヴドゥルに襲撃者の正体を勘付かせた。

 話し声に反応してか、ジョセフが大きな欠伸と共に目を覚ます。呑気に頬をぽりぽりと掻く彼を他所に、アヴドゥルは内心不味いことになったと僅かながらの焦りを生じていた。

 

「悪魔のカードの暗示……確かにそう言ったのか」

 

「あぁ。だが、どうにも納得がいかん。攻撃された形跡など無いのに、足を抉られたんだ」

 

「怪我をしたのか。平気か?」

 

「何とかな。とにかく5分後にそっちへ行くから、花京院と承太郎にも連絡をしてくれ!」

 

 それを最後に、電話は切られた。厄介な相手が現れたものだと、冷や汗を流す。これまでの相手とは気色の違う、紛うことなき殺しのプロが出てこようとは。

 

「アヴドゥル、今の電話は何じゃ」

 

「ポルナレフからです。敵のスタンド使いが、彼の部屋に侵入していたと。……暗示するカードには、覚えがあります。相手は呪いのデーボでしょう」

 

 過去に1度だけデーボの素顔を見たことがあるが、顔から腕まで全身傷だらけの痛々しい体をしていた。とは言っても歴戦の勇猛な戦士というわけではなく、わざと相手からの攻撃を受け、それに対する報復の心情を動力としてスタンドを駆使していると聞く。スタンドが見えない一般人からすれば、あたかもデーボの恨みを買った者が呪い殺されるかのように見えるであろう。故に彼は、呪いのデーボと呼ばれているのである。

 ポルナレフも、彼に対して先手を仕掛けたはずだ。厄介なことに、それが敵を動かすトリガーであると気がつくより先に。しかしシルバーチャリオッツ程のスタンドの攻撃に晒されて死ぬことなく戦闘を継続できるとは、大した体力と身体能力である。伊達に闇の世界で大きく名を売ってきたわけではないということだ。

 

「ポルナレフをひとりにしておくのは危険です。そして、我々も!」

 

 暗殺向きのスタンドは、得てして一対一の勝負に滅法強い。単純な戦闘力に加え、相手の得意とする土俵を避ける能力が高いのだ。如何に近接主体のシルバーチャリオッツと雖も大苦戦を強いられるだろう。

 

「そういうことなら、こちらからポルナレフの部屋に向かおう。悠長に待っているのは、不味いかも知れん」

 

「私が先行します。ジョースターさんはポルナレフ、それからあとの2人にも連絡をお願いします」

 

 アヴドゥルは自分が行くと言うが、いやいやそれは逆だろう。狭い部屋の中でマジシャンズレッドが暴れれば、確かに相手は倒せるだろうが1人要らぬ巻き添えが出てしまう。それならジョセフが向かい、ポルナレフのサポートに徹する方が何倍も上策である。

 呼び止めようとしたが、それより早く彼は部屋を出ていってしまった。本当に直情的な男だと首を2、3度横に振り、それから912号室へ電話を鳴らす。熱い男がそっちへ行った、燃やされないよう気をつけろと伝えるために。

 

「……繋がらんじゃと」

 

 しかし、電話はうんともすんとも言わなかった。電話が繋がらない理由は、2つ考えられる。ひとつ、電話機が故障している。ふたつ、電話線が切断されている。どちらにせよこの状況下では、敵のスタンドの仕業を強く疑うべきだろう。この短時間で連絡手段が絶たれるとは、随分頭の回る敵であるらしい。

 急がなければ、更に良くない事態に発展しかねない。すぐさまジョセフは、承太郎の宿泊する部屋へと1コールの電話をかけた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……」

 

 煌々とライトが照らす廊下を、1人黙々と歩く。太陽の光ではないため、浴びたところで何の問題も無い。精々がふとした瞬間に軽い眩しさを覚える程度である。

 

「……迷った」

 

 問題はそこではなく、只今の現在地が全く把握できていないことである。こんなことなら咲夜に黙ってこっそり館内散歩なんてしなければ良かった。遅過ぎる後悔に、フランドールは物憂げな溜息を漏らした。

 

 喉が渇いたので下で飲み物でも買ってこようとしたところ、咲夜がそれを許してくれなかった。妹様がわざわざ出向かれる程のことではありません、私が行きますからお好みの飲み物を仰って下さい。彼女はそう言って、フランドールが希望の飲み物を言いつけるのを恭しく待った。

 楽をさせてくれるのは嬉しいのだが、別に飲み物くらい1人で買って帰ってこれるから今くらいゆっくり休んで欲しい。そんな思い遣りの心が働いたので、やっぱり今は良いと嘯いてから隙を見て部屋を抜け出してきた。2回階段を降りたら1階に到着するのだから、迷うわけがない。高を括って意気揚々と歩き出したフランドールは、33歩目にして己の認識の甘さを思い知らされることとなった。

 

 フロアが、広い。想定していたよりも、ずっと。歩き回ってどうにか階段を見つけ、地階に辿り着くことができたものの、この時点で部屋を出てから結構な時間が経っていた。早く戻らなければ咲夜に無断外出がばれてしまうからと急ぎ足で元来た階段まで向かったのだが、そこに悪魔が罠を仕掛けていた。

 

「……9階」

 

 意外、それはエレベーター。

 

 勿論と言うとやや失礼かも知れないが、フランドールはエレベーターの搭乗経験など一切無い。乗った際にどうすれば良いのかなんて、全くもって理解していなかったのだ。更に悪いことに、エレベーターに乗れば階段を使うより早く上昇できるという事実(エサ)だけは彼女の知る所であった。

 取り敢えずボタンと思しきものがあるので、適当に連打していたらどうにかなるだろう。至極楽観的に考えてボタンを押しに押した結果、箱入り娘は鉄の箱によって9階まで運ばれていた。

 アクセントに癖のある英語でここが9階であるとアナウンスされた時のフランドールの心情は、察するに余りある。エレベーターを1歩降りて、暫くの間呆然と突っ立っていたくらいである。何故だ、私は3階に行きたかったのに。それなら迷わずに『3』のボタンを押せば良かったのだが、不幸なことに誰もそれを彼女に伝えることができなかった。

 

「待った。確かポルナレフが912号室にいたわね」

 

 しかし、まだ神はフランドールを見捨ててはいなかったようだ。そう言えば、あの頭髪棒男がこの階にいるではないか。何となく気が向いて全員が滞在している部屋の番号を記憶していたのが、まさかこんな所で役に立ってくれるとは思いもしなかったが、今この瞬間においてこれが重要な情報であることは疑いようがない。デメリットも無いことだ、是非とも有効活用させて頂こうではないか。

 丁度良い、彼に3階398号室まで連れて行ってもらおう。リカバリープロポーズを瞬時に頭の中で組み立て、程近い場所にあった目的地に感謝の念を抱きつつドアを2度ノックしてからかちゃりとドアを開いた。

 

「ポルナレフ、入るわよ」

 

「ッ、その声フランドールか!来るな、殺されるぞッ!」

 

 第一声にて脅しめいたことを言われ、思わず本当に踏み留まってしまった。いきなり何だと部屋を見れば、何故かベッドの脚が斬られており、鏡は割れるわ物は倒れるわで台風一過の街中の如き荒れようであった。

 

「何言ってるのよ。と言うか、何してるのよ」

 

「来るなーッ、殺されると言ってるだろーがァ!」

 

 喉を裂くような迫真の叫びに、もしや緊急事態発生中かと遅まきながらに察した。一口だけ飲んだフルーツオレを片手にさてどうしたものかと呑気な思案をしようとしたところで、ふと足元に映る人影が1つ多いことに気がついた。

 怪訝に思って振り返ってみると、そこにはある意味目を離せなくなる下品な顔できらりと煌めく銀の包丁を振りかぶる人形がいた。この人形こそがデビルの憑依している依代であり、ポルナレフをベッドの下に拘束した張本体であると彼女が知るのは、もう少し後の話となる。

 

 ほぼ真後ろを取られた状態では、碌な回避行動も取れない。人間の限界をきちんと理解した暗殺者らしい合理的な方法でジョセフ側の戦力を削ろうとしてきた。いや、デーボが彼女のことを戦力と判断していたかは定かでない。もしかすれば、ポルナレフに対する見せしめにでもしてやろうという程度の気持ちでいたかも知れない。

 

「何よこの人形。趣味悪いわね」

 

 空を斬った包丁の軌道を見る限りでは、顔の皮膚を1枚刃のピーラーよろしく削ぎ落とそうとしたのだろうが、デビルはフランドール(人外の怪物)の動体視力を完全に見誤っていた。船や車に酔ってさえいなければ、並の攻撃で吸血鬼を捉えるのはほぼ不可能に等しいのだと、デーボは事前に情報を仕入れておくべきだった。

 軽やかなワンステップで見事に凶刃を躱し、振り抜かれた刃物は勢い余って床にその一部を埋め込む。力任せに引き抜かれるより早く、かわいいおみあしの激甚なる剛撃 ── 本人基準では牽制程度の様子見キックが人形を見舞った。為す術なく人形はかっ飛び、無抵抗のまま壁へと叩きつけられる。そして、受身を取れないまま顔面からぽてんと地に落ちた。

 

「ははぁん。分かったわ、こいつスタンドね」

 

 動いてるのは初めて見たわ。ウォール街でニホンオオカミでも見たかのような興味と関心の目で、デビルの憑依した人形をまじまじと見つめる。咲夜は表面上だけのスタンドなので除くとして、記念すべき初見のスタンドがこんな台詞にも困る不気味な人形で良いのかと言いたくもなるが、本人は気にするどころか寧ろチャンスが巡ってきたと息巻いていた。

 

「フランドール!おいフランドール、無事か!?」

 

「それは貴方に聞きたい質問よ」

 

 思い返せば、これまで彼女はただのぽんこつマスコットキャラクターであった。バスに酔い、飛行機で熟睡し、船に酔い、大蒜で瀬戸際を見てきた。従者が鍬形を斬り偽物を問い詰める八面六臂の大活躍をする一方で、良いところなしのぱっぱらぱーであった。何百歳も歳下の若造に虚仮にされ、何度涙を飲んだかも分からない。

 しかし、そんな悲しみの込み上げてくる境遇も今日までだ。ここで一発ばしっと活躍すれば、自分に対する評価も変わってくるに違いない。彼女がこうも打算的な行動を起こすのは意外であるが、それだけ一行の役に立てていないことが気がかりだったのだ。例え動機が些か不純だとしても、皆に貢献したいという一途な願いは決して責められるべきではないだろう。

 

「待っていなさいポルナレフ。このゴーストドールを倒して、貴方を助けてあげるわ」

 

 彼女が責められるとすれば、咲夜の目を盗んだプチ冒険についてであろう。今頃主の不在に気がついた咲夜が大慌てで部屋を飛び出しているとは露知らず、名誉挽回の意気込みは心の内に熱烈峻厳であった。どうせすぐに、大嵐で吹き消される炎だと言うのに。



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第十五話 悪魔 その②

 何だ、この餓鬼。ずきずきと痛みを訴えてくる腹部を押さえ、デーボはスタンド越しにフランドールを睨みつけた。恨みの力を込めることさえ、予想外の事態を前に一時の間忘れていた。

 第一の標的は、ポルナレフただ1人だった。わざと見つかりやすい場所に隠れて殺気はだだ漏れにしておき、予定通り発見されて攻撃を受けた。あの一瞬で目と舌を潰されたのは流石に肝を冷やしたが、逆に言えばそれだけ彼を強く恨めるということだ。敢えて計算の内だと呵呵大笑し、何故笑っているのか分からず戸惑っている隙を突いて部屋から脱出した。

 

 その後はトイレの個室に篭もり、デビルを遠隔操作してポルナレフを文字通り手も足も出ない状況まで追い込んだ。事前に仕入れていた情報からシルバーチャリオッツは本体と視覚を共有していることを知っていたので、ポルナレフの視界さえ奪ってしまえば後は赤子の手を捻るような簡単な仕事になる。騎士も見えねば西瓜も割れぬと彼が勝利を確信したのも、まるっきり分からないでもない。

 

「た、倒す?」

 

「えぇ」

 

 突如戦場に乱入してきた小さな少女が、盤石の勝利を土台から粉々に打ち砕いた。余裕の笑みは消え失せ、浮かぶのは乱入者(イレギュラー)への怒りと凄まじいパワーへの焦りであった。

 見た目からは想像もできない力で、壁まで蹴り飛ばされた。これ程の力、下手をすれば近距離パワー型のスタンドにも匹敵するのではないか。職業柄相手を侮らないよう常に心がけてはいるが、流石にこの展開は予想の遥か上方を行っている。こんなことを真面目に想定するのは、未来予知のできる占い師か杞憂を極めた阿呆だ。

 

「バカ言ってんじゃねぇ!幾ら敵が小さいっつっても、スタンドだぞ!」

 

「でも蹴れたわよ。触れられるなら、こっちのものってね」

 

 どちらでもない、名うての殺し屋であるからこそデーボは一撃を貰ってしまった。そして、プロフェッショナルということで状況を整理するのも早かった。

 

「触れて倒せるならナウマンゾウもシロアリも同じだろーがよぉ!とにかく、ザ・ワールドを出してくれッ!」

 

「……へっ?」

 

「ザ・ワールドだよザ・ワールド!あいつ滅茶苦茶強いんだろ?このコードとベッドを何とかしてくれよーッ!」

 

 まずポルナレフだが、現状ほぼ完全な無力化に成功している。但しベッドの下にシルバーチャリオッツを出されたら、コードを切断されてしまうため予断を許さない状況ではある。意識を完全に外してしまうのは、よした方が良さそうだ。

 次に最大の問題たる謎の少女だ。雇い主の代行者を名乗った老婆は、ジョセフ・ジョースター率いる一行に金髪の女がいるなどと教えてはくれなかった。本当に知らなかったのか意図的に隠していたのかはここで明らかにできないが、とにかくあれを攻略しないことには今回の殺しは成功を収められないだろう。

 

「さ、さくじゃなかった、ザ・ワールドは今いなくてねぇ」

 

「はァーーーーーーーーッ!?」

 

「そ、そんなに驚かなくても良いでしょっ。だから私が倒してあげるって言ってるじゃない」

 

「それを止めろってさっきから言ってるだろーがよこのオタンコナスーーッ!」

 

 未だに信じ難いが、幼女が非力であるという常識は今ばかりは捨てるべきである。相手を筋骨隆々のゴリラだと思え。デビルの鋭い殺気を孕んだ視線が、ぴしりとフランドールの艶ある頬を捉えた。

 怪力が自慢のターゲットは、これまで何十人と相手にしてきた。その中の誰をも、生かして帰しはしなかった。戦闘パターンを確立していたというのが、大きな要因である。どう戦えば力で自分に勝る敵を殺せるのか、研究とトライアンドエラーを怠らなかった結果が今自分の持つ戦績であるという自負がデーボにはあった。

 

「ぎゃいぎゃいと茶番してるところ悪ぃけどよ」

 

 同じようにやれば良い。今相手は背を向けているから、首にこの包丁を突き刺してやればジ・エンドだ。複雑な思考を排除し、人形に意識を集中させる。

 よしんばポルナレフが次の瞬間にチャリオッツを繰り出したとしても、ベッドの下から脱出するより自分が少女を殺害する方が早い。慌てさえしなければ、この場をイーブンに、いや優勢な状態に戻すことは決して難しいことではない。

 

「おれのこと、お忘れじゃあありませんかねぇーッ!!」

 

 思い切り地を蹴り、勢いそのままにフランドールへ肉薄する。最短距離を、最高速で駆け抜ける人形を肉眼ではっきりと追い、迎撃までしてのけるのは至難の業だ。どれだけ運動神経が良くても、初手を辛うじて避けるので精いっぱいであろう。無論、第2波第3波を躱せないのは言うまでもない。増してや手練の操るスタンドだ、討ち取り漏らしなど最早無いと断言しても差し支えない領域である。

 

 但し、そこに『人間なら』という前提条件は立ち塞がってくるが。

 

「あ、スタンドのこと忘れてた」

 

 ひょいっと振り返った彼女は、ほんの一欠片たりとも焦ってはいなかった。あぁいたのね、とでも言いたげなふんわりとした大きな瞳が、デーボの見た最後の光景であった。

 

「そりゃっ」

 

「おぶぅぇっっッ!?」

 

 その一閃が手刀か蹴りかすら分からないままに、人形は再度壁に叩き込まれた。答えはスナップの効いた手首の一撃なのだが、知ったところで彼に何ができるわけでもない。壁と接触した瞬間に、意識が猛スピードで落ちていったからである。

 K.O.。この言葉がこの上なく似合う決着であった。フランドールが心優しい性格をしていたので命までは奪われなかったのが、デーボにとっては不幸中の幸いである。これがポルナレフなら躊躇い無く地獄に送られていただろうから、是非とも良い機会として真っ当な道を歩むという選択肢を考慮して頂きたい。

 

「ぬおおぉ……ッあぁ!ちくしょう、何つー重さのベッドだ」

 

「甲羅から出てきたわね」

 

「亀じゃねぇよ」

 

 フランドールの揶揄いに悪態で返しつつ、とても一端のホテルとは思えない荒れ果てた部屋を見渡す。原因の9割が奴なので罪悪感は欠片も湧きやしないが、912号室は彼の部屋だ。このまま放っておくと落ち着いて眠れもしない。

 待ち受けている面倒な後片付けに溜息を吐いていると、やたら損傷の激しい人形が床に横たわっているのが見えた。こいつの姿は、数分前にちらりとだけだがシャンプーの染みた目で見ていた。

 

「……マジに倒してやがる……」

 

「ふふーん。どんなものよ、これが私、フランドール・スカーレットの力ってやつね」

 

 無くはないがなだらかと言うべき胸を張り、どんなものだと言わんばかりに ── 実際言っているのだが、己の功績を自己賛美する。生意気に勝ち誇ってんなよお子様がよォーッ!と言い返してやりたい気はアルプス・ピレネー山脈の如く縦横に膨らんでいるのだが、如何せん彼女の活躍は贔屓無しに見ても評価に値するものであった。戦果を否定し貶めるつもりは一切無いので、つまるところポルナレフは何一つ言い返すことができなかった。

 

 満面の笑みを浮かべてVサインを作る無邪気な幼女は、可愛いことには可愛いのだがそれ以上にいらっとさせられる。このおじょーサマめ、船の船首に括りつけて太平洋一周の旅にでも送り出してやろうか。額にぴきぴきと青筋を浮かべるポルナレフの耳に、ノックも無くドアを開け放つ乱暴な音が届いた。

 

「ポルナレフ!無事かッ!……何故フランドールがここに」

 

「彷徨い歩いてたら、たまたま」

 

「良く分からんが、そんなことよりデーボはどうした」

 

「敵なら倒したぜ」

 

 そこにいるおちびがな。けっ、と吐き捨てられた台詞は部屋を新たに散らかすことなく空間に溶けて消えた。自分と歳の近い男がまるで子供のようにやさぐれているのは正直見るに堪えない光景だったが、そこは冷静であることを望むアヴドゥル、何とか踏みとどまり功労者であろうメイドスタンドへの当たり障り無い褒め言葉を述べた。

 

「成程。ザ・ワールドの仕事の早さには驚かされるな」

 

「いや、私が倒したわ。ザ・ワールドじゃなくて」

 

「は?いやいや冗談がきついぞ、その言い方だとまるで君が生身で倒したみたいじゃあないか」

 

「正解をあたかも不正解みたいに言わないでよ」

 

 むくれる少女を最初は半笑いにて迎えていたが、どうにも横で座る男の様子がおかしい。冗談に笑うでもなく、何となく面白くなさそうにむっつりと黙り込んでいる。それに、これまで片時もフランドールの傍を離れなかったザ・ワールドが今は何処にもいない。姿を消しているのかと思い声をかけてみたが、何秒待っても返事は返ってこなかった。

 おいまさか。目で訴えかければ、彼は何処か不服そうな面持ちですっと目を逸らした。肯定を示す何よりのサインに、思わず天井を仰ぐ。

 

Oh My God(なんてこった)……」

 

「その反応はおかしいでしょ!」

 

 無礼者め、喉を噛み切ってやろうかしら。尖った犬歯をちらりと覗かせて威嚇する。まさに負けず嫌いの女の子といった見た目相応の所作だが、最大の相違点はその気になれば人の首くらい上質なフレンチトーストみたいに軽く噛み切れるということだ。誰が言ったか朝飯前。

 

「は、ははは。ところでポルナレフ、おまえ足を切られたとか言っていたな。大丈夫なのか」

 

「あぁ」

 

 ヤなこと思い出しちまったぜ、傷を縛ったのは履いて洗ってない……。ここまで口に出して、残り6文字は心の中に留め置かれた。

 

 鋭利な切り傷は既に止血され、外から見えないよう清潔な包帯を巻かれていた。未だにじくじくと幾らかの痛みを訴えてくるが、全く歩けない程ではない。もし仮に今この瞬間新たな戦闘が始まったとしても、ある程度の戦力にはなり得ると推測された。

 

「何だ、もう自分で応急処置していたのか」

 

「いや、おれはそんな暇無かったぜ」

 

 彼の言う通り、手当てをしている余裕は無かった。シルバーチャリオッツは誰にも気づかれず傷の治療ができるなんて特殊能力は有していない。第一本体であるポルナレフも気が付かなければ、何と奔放な戦車かと言ったところだ。

 

「うーん……?」

 

「どうした、フランドール」

 

「や、何か忘れてるような気がしてねぇ」

 

 誰の目にも留まらない早業が、自分に何かを語りかけてきている気がしてならない。声が小さ過ぎて吸血鬼の聴力を以てしても聞き取れなかったので、きっと大したことは言っていないだろうと結論付けて()()()()()()()()()()()()()()()

 やはりフルーツオレはこの世の全ての飲み物の中で最も美味である。ある型の血が1番美味しいとか姉は前後ろ逆のネグリジェ姿で抜かしていたが、この果物とミルクが力を合わせた飲料の前ではプライドだけ一流の下級悪魔みたいなものである。お淑やかで受けの良い悪魔見習いにこの話をすると、吸血鬼らしくはないが個人的には同意だと言ってくれた。そら見たことかお姉様、フルーツオレは唯一にして絶対の正義なのだ。

 

 

 

 

 

 「イモウトサマ」

 

 「ふぁっ」

 

 蓋の空いたフルーツオレを零さなかったのは愛故か、それともただの偶然か。そうだ、思い出した。できることなら忘れて踊りたかったくらいだが、その前に本人が出てきたので叶わず終いとなってしまった。

 何故今の今まで忘却の彼方にあったのか、自分が絶賛脱走中の身であったことを。真後ろで燻る不穏な気配に、少し遅れて体がぷるぷると震え始める。気分はさながら、南極の氷山が陸上選手ばりの健脚で走り来るのを呆然と見ている感じだ。このまま冷え切ってしまう前に、逃げなければ。刹那の判断で採用された乾坤一擲の手段は、異言語の登用であった。

 

「しぇ、しぇんましー?」

 

「妹様从房间里失去了、所以我找了太多」

 

 嘘だろうこのメイド。突然の中国語をホームランで返すとは、何たる教養の高さか。余りに教養深過ぎて、中国語初心者のフランドールでは何を言っているのかてんで分からなかった。不気味な程の無表情から、取り敢えず常ならぬレベルで怒っていることだけは推察できた。

 

「しかし流石は高貴なるスカーレット一族の御君。このザ・ワールド、貴女様の外出に全く気が付きませんでした」

 

「それはありがとう。それからザ・ワールド、その手に持ってる無駄にきらきらしたリードは何かしら?主を飼い慣らしたいなら、お姉様でやってちょうだい」

 

「お嬢様はお喜びになって下さいませんでしたので」

 

「実践済みとはまぁ」

 

 あの高慢ちきな姉が、幾ら煌びやかとはいえ首輪を付けられるのを是とするはずがない。咲夜は当然それを知っており、知った上で尚装着に及んだわけだ。余程のことがなければ斯様な凶行には走らないはずだが、一体何をしでかしたんだか。

 写真でもあればそれに向かって盛大にせせら笑ってやりたいところだが、自分も今まさに同じ憂き目を見ようとしているので笑えたものではない。姉妹揃ってメイドに飼われて堪るか、私は断る。強い意志を持ってそう言えれば良かったのかも知れないが、今の萎縮し切っている彼女にそんな大胆な真似は期待できなかった。

 

「ザ・ワールド。首輪をつけるより先に、一旦1212号室に集まるぞ。花京院も承太郎も、既に部屋に着いているそうだ」

 

「承知しましたわ。では妹様、()()

 

「……時よ止まれ」

 

 止まれと唱えたら、こう、何か上手く世界が停止してくれないだろうか。しかし実際に時を止められるのは咲夜なので、いつの間にかちゃらちゃら煩いビッグサイズのネックレスが付けられている可能性の方が遥かに大きいわけだ。こんなことなら一時の誘惑に負けて我儘っ気を出すんじゃあなかった。後で己の愚行を悔いるから後悔とは、よく言ったものである。



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第十六話 不穏

 男は問うた。『生きる』ということは何かと。

 

 老婆は答えた。『欲する物を手に入れること』だと。

 

 男は再度問うた。欲する物を手に入れる時、必ず戦いが起こるなと。

 

 老婆は再度答えた。確かに、と。

 

 ……生きる上で、争いは避けられない。当然のことだ。男はそれを理解し、更に進んで争いに敗れる恐怖を克服した。それ即ち、敗北など有り得ないという絶対の自信を備えたということに他ならない。

 順当な結果だ。老婆は笑う。男にはスタンドの存在を教え、その動かし方、性質まで習得させた。そうしてものにさせたスタンドは、幾多の異能をその目で見てきた老婆をして途轍もないと感じさせた。

 まさに『化け物』と表現するのが相応しい程の、規格外のスタンドを守護霊の如く従える男は、紛れもなく世界の頂点に君臨する逸材である。故にその人生は数奇で悪運強く、老婆はそんな男の一生を見届けることに至上の喜びを見出していた。

 

 そんな男は、ある日を境に忽然と姿を消した。居館はおろか、国中探し回っても痕跡さえ見つからない始末だ。おまけに嘗て彼がいた館に妙な女が2人住み始めると来たので、さてどうしたものかと頭を悩ませた。

 女など、スタンドでどうともできる。問題は、男が何処へ行ったのか全く足取りが掴めないことだ。大方興味を惹かれるものを見つけてそちらへ足を運んでいるのだろうが、こうも長く行方を眩まされると老婆も気を揉んでしまう。

 

 いない者に文句を言っても仕方が無い。一旦捜索を打ち切り、老婆は7人のスタンド使いを呼び寄せた。何れも彼女と面識のある、確かな腕の持ち主だった。特に異彩を放っていたオランウータンは、彼女が戯れに力を与えたのだが、何故か人間をも凌ぐ強大な力を手に入れていた。男以外では負けるかはいざ知らず、手は焼かされるだろうと目されるパワーでならジョースターの連中の抹殺も充分可能であるはずだった。

 

 しかし、この猿は予想に反して誰も戦闘不能にできないままやられてしまった。次いでシンガポール入りしていた名うての暗殺者とも連絡が取れない状況となった。かれこれ数時間も音信不通となれば、もうやられたと考えた方が良いだろう。まだ5人残っているとはいえ、些か予定外の事態となってしまった。男がこのことを聞けば、弱きものよと静かに嘲笑していたはずだ。

 かくなる上は、彼に期待するしかない。『吊られた男(ハングドマン)』のカードを暗示し、徒労や欲望への敗北を意味するあのスタンド使い ── 老婆の息子に。どうやら一行の中の1人と因縁浅からぬようだし、お誂え向きではないか。

 

 息子の殊勲を期待する老婆に連中と接触したという報が入ったのは、ついさっきである。知らせてきたのは『節制』を暗示するスタンド使いだった。一時期こちらに与していた日本人の少年に変装し、現在孤立しているジョースター一族の孫の方を狙うということであった。

 男はジョースターの血統を侮れないと警戒していたが、17やそこらの未熟者に何ができるのか。これであの血筋も打ち止めだ。さも愉快そうに、それでいて醜く老婆は大嗤いした。膝を打つしわがれた左手は、一番外側に親指を覗かせていた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「お?見て咲夜、何の人集りかしら」

 

「催し事でも行っているのでしょうか」

 

 デーボ戦から一夜明け、久しぶりに思う存分睡眠を享受した一行はかなり疲れを回復することができた。部屋を飛び出した咎で飼われかけていたフランドールも咲夜に謝り倒し、何とか主従関係の逆転だけは避けられた。分かってはいたが怒らせると怖いメイドだ、二度と要らぬ怒りを買わないようにしよう。そう心に誓った。

 しかし実の所、別に怒ってはいない。咲夜は単に主の不在に焦っただけで、リードについても鉄面皮な彼女なりのちょっとした冗談に過ぎない。寧ろフランドールが思っていたより過剰にびくびくしていたので内心やらかしたと戦々恐々していたくらいだ。如何に付き合いの長い二人とは言っても、完全に以心伝心とはいかないらしい。

 

「ね、咲夜。少し見ていきましょうよ」

 

「御意」

 

 とは言っても元々仲は良く ── 咲夜にしてみれば強い従属心があって、仲違いなんて話には掠りもしなかった。フランドールが望むからとホテル近辺の観光に付き添い、欲しいという物があれば分け隔てなくお買い上げと相成っているので店側としては末永くお付き合いしたいレベルの上々客である。

 尤も、長いお付き合いなど望めないが。現在承太郎と花京院が家出少女を連れてバスか列車のチケットの予約に向かっている。出発は恐らく明日の早朝、マレー鉄道を経由するつもりならば鉄道での移動となるだろう。国境を列車に乗って越えられる、EU領域内の諸国以外では珍しい例だ。

 

 まさかこの行動までDIOが察知しているとは、咲夜も思わない。デーボについてはシンガポール最大の港から程近いホテルを宿泊先に選択したこちらの浅慮もあるので、まだ分かるのだが。彼の襲撃を躱したくばもう少し内陸に入っておけば良かったのだが、事はもう済んでしまったので悔いても仕方が無い。次から留意しておけば良い話である。

 陸路によるインドへの移動までばれているのだとしたら、いよいよ敵側にこちらの内情を詳しく把握する何らかの手段があると見なければならなくなる。スタンドか科学力か、それによって対応も変わってくるはずだ。何にせよ最低限の警戒はしておくに越したことはない。イギリスや向こうでは見られない珍品に目を輝かせるフランドールに微笑みの相槌を打ちながら、密かに気を張り巡らせた。

 

「あれ見て、真ん丸な果物。もしかして、噂に聞くcoconut palmかしら」

 

「恐らくお間違いないかと。ご賞味されますか?」

 

「する!」

 

 2つ買って、その辺で飲みましょ。うきうきしながら売店へ歩いていくフランドールの後ろを着いていく。店主に椰子の実のジュースを2つ注文し、飲みやすいよう割ってもらう。1つ4シンガポールドルは一見ぼったくりな値段にも見えるが、天然物ということを考えればまぁ妥当な範疇に収まっているのかも知れない。

 

「まいど!さっきお嬢ちゃんくらいの歳の子も、こいつを買ってってくれたんだよ。値切られて焦っちまった」

 

「安くしてあげたの?」

 

「んーにゃ、ちゃんと適正価格で買ってもらったぜ」

 

「悪どいなぁ」

 

 いやいや、こちとら商売人だよ。値切り交渉には慣れているらしく鷹揚に笑う店主だったが、ふと思い出したように声を潜めひそひそと話しかけてくる。

 

「その女の子の連れ……東洋系の男2人だったんだが、片方がまぁ喧嘩っぱやくてなぁ。皆唖然としてたよ」

 

「失礼、その男は特徴的な前髪をしていたかしら」

 

「何だ、もしかして知り合いかい!そうだ、東洋人にしては身長もあったし何より喧嘩が強いのなんの。財布をすった野郎にバックブリーカー決めてたし、しかも相手が血を吐いてもやめねぇときてたぞ」

 

 前髪が特徴的とくれば、この男しか候補はいまい。何を隠そう花京院 典明その人である。しかし店主から聞いた話で考える限り、どうもらしくない行動を取っていたらしい。荒業で盗人を痛めつけるような性格ではないとフランドールも良く知っているのだが。

 小さくない困惑を抱えながら咲夜に視線を寄越すと、彼女は1つこくりと頷いた。それから店主に話しかける。

 

「その男、何処へ行ったか分かるかしら」

 

「追うつもりかい。危ないしやめときな……と言いたいところだが、知り合いなんだよな。シンガポール駅だ、チケットがどうとか言ってたな」

 

「成程。感謝しますわ」

 

 シンガポール駅というと、タンジョン・パガー駅の俗称で間違いなかったはずだ。シンガポールの鉄道の終着点ともなれば規模は国内最大級であり、ここでチケットを購入するのは合理的な判断だと言える。彼らがここへ向かったのは、ほぼ確実である。

 礼を言い、人の喧騒から離れる。時折車が通る以外はとても静かな街の中を歩きながら、フランドールはぴょこんと人差し指、そして中指を立てた。口元は得意げに緩んでおり、もしかすると名探偵気分を味わっていたのかも知れなかった。

 

「考えられる可能性は2つね。花京院が物凄くいらいらしていたか、何かに取り憑かれているのか」

 

「恐れながら妹様、もう1つ可能性がございます。そもそもその男が、花京院ではない危険もありましょう」

 

「花京院じゃない?するとつまり……敵かしら」

 

「もし化けているのだとすれば、十中八九DIOの手の者でしょう」

 

 咲夜としてもフランドールの予想が的中していて欲しいが、何処と無く胸騒ぎがする。いや彼女の推理力がお粗末極まりないなどと言うつもりは一切無いが、そう単純な話ではない気がひしひしとしているのだ。根拠は現時点では示せず、ただの勘であるとしか言い様がないのだが、こういう時の勘より当たるものも無いのではないか。熱を通していない馬肉よりよく当たるというのが所感である。

 まずはあいつらの所に行ってみましょう。妹君の提案に首肯を返し、2人は当初の予定を変更してホテルから遠ざかる道を歩き出した。椰子の実の果汁が温くならないうちに果肉ごと頂いてしまうのも忘れない。ジュースとアイスを一纏めにした感じで、新手のデザートにはうってつけであった。



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第十七話 黄の節制 その①

 青い空。

 

 照り映える太陽。

 

 心做しか壊れているように見えるケーブルカー。

 

 

 

 

 

 そして、片手で命を繋いでいる制服の男。

 

「じょ、承太郎ーっ!?」

 

「ぶら下がり健康法ですわね」

 

「冗談言ってる場合かっ!」

 

「申し訳ございません」

 

 この日常非日常交々入り交じった渾沌のオンパレードに、フランドールの突っ込みも5割増しで切れっきれである。崖っぷちどころか転落寸前の人間を見てぶら下がり健康法とか呑気に宣った咲夜が、どちらかと言えばずれている気もするが。

 何がどうなったら、駅の柱の中間部に宙吊りになるんだ。まだ17の子供がやる無茶じゃあ到底ない。上がれ、せめて2本の足でしっかり立つんだ。

 

「咲夜、助けに行くわよ」

 

「畏まりました……あっ」

 

「今度は何をやらか何で跳んでるのよ!?」

 

 数mは距離のあるケーブルカーへ、あろうことか落ちたら即死の高所から飛び移った。丁度ジャンプした瞬間を目の当たりにしたので、目を剥く程に驚いた。心臓の鼓動が急激に加速した彼女の心情など知らず、彼はそのままスタープラチナで器用に窓を開け、車内へとお邪魔する。

 ジョータロー・イズ・フライング。勿論何か目的あってのことだろうしそうだと信じているが、お前は空を飛べない人間だろう。無茶をしないでくれ、見ているこっちが冷や汗ものだ。

 

「は、はあぁー……」

 

「不味いですね」

 

「ほんとだわ」

 

 上手く飛び移れたから良かったものの、特級の危険行為だ。見方によっては、平時は冷静沈着な承太郎にそこまでの無茶を強いるだけの難敵がいるとも取れるのだが。ホテルでポルナレフを襲撃したあの人形憑依型スタンドよりも、下手をすれば厄介なのかも知れない。

 加勢しに行かなければ。気持ちの逸りかけたフランドールを制するように、咲夜は己の見解を伝えた。

 

「いえ、そうではなく。承太郎は、跳んで火に入ってしまったように思われます」

 

「どういうこと?」

 

「あのケーブルカーに腰掛けている2人のうち、女性の方をご覧下さい」

 

 景色を眺めている、恰幅の良い女か。確かにいるが、彼女に何か気になることでもあるのだろうか。他に乗っているアイスキャンディを持った少年、うたた寝をしている犬連れの男と合わせて、特に不審な所は見受けられないが。

 

「恐らく敵のスタンド使いです。先程女性の姿に化ける場面を目撃致しました」

 

「成程。それは良くないわね」

 

 敵が待ち構えているとは露知らず、行動を起こしてしまったのか。今頃計画通りとほくそ笑んでいることだろう。相手の土俵に立たされては、さしもの承太郎であっても不利な戦いを強いられる危険性が非常に高い。

 咲夜の発言と花京院がらしくない行動を取っていたという証言を組み合わせて考えてみると、今回の敵は花京院になりすましてターゲットを承太郎に絞っていたようだ。彼についても綿密な調査をしたはずだから、スタンドであるスタープラチナの性能や性質も聞き及んでいたと考えて間違いはあるまい。その上でわざわざおびき寄せているのだから、余程接近戦に自信があるのだろう。肉弾戦を好むのか、それとも防御面で優れているのか。

 

「地上から追いかけるのが宜しいかと。承太郎としてもある程度の空間と足場は欲しいでしょうから」

 

「終点まで粘るってわけね」

 

「その可能性が高いと思われます。もしくは途中で敵の攻撃に耐え切れなくなり、強引にケーブルカーから脱出するかも知れません」

 

 その際に、私達が下にいなければ助けることは困難です。慧敏な従者の提言を、彼女は受け入れることにした。途中まではあくまでサポートに徹し、もし承太郎が終着駅まで耐え抜いたならすかさず加勢し敵を圧倒する。シンプルではあるが、現状これが最善手であろう。

 

 できることならばホテルに残り皆の帰りを待っているジョセフ達にも連絡を取りたいところだが、生憎通信用の手段が近くに無い。この場は、3人で切り抜ける他になさそうだ。小さな鉄の箱を見失わないよう、絶えず上方を確認しながら、シンガポールの雑踏の中を駆け抜けていった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「や、やろー……」

 

 面倒なもの付けやがって。右手をぶちぶちと食い進めていく黄色いスライム状の物体を前に、忌々しげに恨みの言葉を零す。

 熱で焼き殺してやろうと思い、少々の火傷を覚悟の上で炙ったものの、右手全体に飛び散ってしまい逆効果となった。熱するのは不味いということだ。さてどうしたものかと思案を巡らせていた所に、アイスキャンディを舐める子供が目に入った。下に着いたら新しいのを買ってやるからと子供のアイスを譲り受け、熱が駄目ならという逆転の発想で直当てして冷やしたところ、何と尖って手に食い込んできた。

 

 血がぽたぽたと滴り落ちる。痛みはあるが、出血が軽度なのが救いだ。しかし肝心の黄片を剥がさなければ、奴の言葉通りになるなら指を()()る羽目になってしまう。極道でもあるまいに、そんな真似は真っ平御免だ。とにかく、対抗手段を。熱でも氷でもない第3の方法を考案しなければならない。

 

「ちょいと、あんた!」

 

 突然外から乗り込んできて、更にアイスを手にべったり付ける男が怪しくないはずもない。その気持ちは分かるが、今の立て込み具合からして悠長に会話をしている暇は無い。悪いがよしてくれ、と景色を眺めていた女性に対して言おうとした。

 

「『熱』も『氷』も無駄だよ!」

 

 一瞬、ぎくりと体が硬直する。その台詞が今このタイミングで出てくるのは、世界全体を見渡したとしてもたった1人しかいないはずだ。

 不味い、先回りされた。咄嗟にスタンドを繰り出すよりも早く、女性の外皮がぐばりと裂けて本体(ラバーソール)が姿を現した。同時に勢い良く放出された黄色のゲル状物体が全身に纏わり付いていく。

 

「だからおれのスタンドは無敵だと言ってるだろうがよォー!ほんとに耳クソ吸い出したのかい承太郎先輩ッ!」

 

 単に動きを制限され、攻撃目標として定められただけでは済まない。これだけでも充分に危機ではあるが、このスライムめいた物質は触れた肉を食い、服であれば溶かしてしまう能力を持っている。このままではいずれ、骨まで食い尽くされてしまうだろう。

 現実離れした光景に子供が仰天し、寝ていた男性を慌てて揺り起こす。どうやら父親であったようだが、彼が目覚めて1番最初に見たものは、眠りに落ちる前には確かに乗っていなかったはずの見も知りもしない2人であった。視線の先には黄色のどろどろした半固体がぐちゃり、べちゃりと蠢いており、何やらしゅうしゅうと焼けているような、或いは溶けているような音までもが聞こえてくる。

 

 イエローテンパランスは、その性質上一般人の目にも見えるスタンドだ。とは言っても使用者であるラバーソールの歪んだ性格を反映してか相当に質も気持ちも悪く仕上がっており、見ずに済むならそれが最も良いのは言うまでもない。それだけ気味の悪いスタンドを、よりにもよって目の前でまざまざと見せつけられた親子の心情は如何程のものであっただろうか。反射的に息子を庇うよう抱き寄せ、驚き叫んでしまったのも無理はない。

 

「『スタープラチナ』ッ!」

 

 とにかく、これ以上触れてしまうのは避けなければならない。車内の鉄棒を1つ引き剥がし、間髪入れずにラバーソール目掛けて振り抜く。まるでプラスチックの棒でも振り回しているかのような超スピードは、人間の頭など一撃でへし折り砕き割るだけの威力を体現できる。

 

「むッ、早い!……しかァーし!」

 

 瞬時に彼を守る盾のように展開されたスタンドが、鉄棒を受け止める。ぼすん、と布団を殴った時に近い音しかせず、碌なダメージを通せなかったことを思い知らせた。流動する防壁は、強烈な衝撃さえも分散させて無力化してしまう。これを真正面から力で打ち破るのは、不可能かどうかはさておき困難を極めると思われた。

 

「もう1度だけ言っておこう!このおれの『黄の節制(イエローテンパランス)』に弱点は無い!

 幾ら速かろうが力が強かろうが、そんなものは何一つ関係ないィィ!」

 

 攻撃手段と防御手段が一纏めにして確立されているというたった1つの特徴が、何とまぁ厄介なことか。さしずめ攻撃する防御壁と言える。

 相手を食い物真似ができる他に特筆するような特質も無い、ただ気持ち悪い上に地味なスタンドではあるが、こと近接主体の相手に対してはほぼ絶対的な優位を占めることができる。これが炎を操るアヴドゥルだったなら話はまた変わってきていただろうが、如何せん承太郎では相性が徹底的に悪いのだからやりようも何も無い。

 

「つまりどういうことかってーと、てめーはおれを倒せねぇってことだ!

 

 ドゥー・ユー・アンダスタアアアンンンンッ!?

 

 勝ち誇り、自称ハンサムな面を歪ませて高らかに笑うラバーソールは、傍からではそこらの小悪党にしか見えない。だが実際問題袋小路に追い立てられているのは彼ではなく承太郎だ。真綿で首を絞めるような、迂遠とすら言われ得る戦法は、間違いなく一定以上の成果を発揮していた。

 

「……やれやれだ。こいつぁマジに弱点のねーやつだな。全く最強かも知れねぇ、恐ろしいやつだ」

 

「今更おれの強さを分かっても、船はもう出航してるぜ。抵抗できねぇままじわじわと食っていって ──」

 

 無理非道のラバーソールとて一応人間の端くれ的な位置に引っかかっている以上、慈悲の心というものはほんの屑か欠片か程度とはいえ持ち合わせている。恥も外聞も捨ててみっともなく泣き叫びながら命乞いをしてくれば、ここから地上に叩きつけて即死させてやるつもりだ。まぁそんな真似をしてくるようには見えないので、大人しく養分となって頂く算段しか立てていなかったが。

 

「だから、おれもやり方を変える」

 

「あん?」

 

「おめーは知らないだろうな。ジョースター家の伝統的な戦いの発想法をよ」

 

 まだ打つ手を残している、とこの少年は言った。やれるものならやってみろ。思わず鼻で笑ってしまった。例えば全身にダイナマイトでも巻き付けていて、奥歯に起爆用のスイッチでも仕込んでいると言うのなら、成程それを奥の手と称するのも分からないでもない。全身をスタンドに這われ、粘液が少なからず付着しているであろう爆発物を、それでも満足に起爆できると信じ抜けるなら試す価値もあるのではないだろうか。

 勿論、そんな賭けに出られる装備をしていないことはとうに把握済みだ。今、承太郎は危険物どころかカッターナイフの1本さえポケットに入っていない。切り札(スタープラチナ)が通じないという現実は既に教えており、もしその上でスタンド頼りの作戦を立てていたならば、その突き抜けた愚かさに敬意を表してコブラの如く丸呑みにしてやる所存であった。

 

「ほう?中々どうして自信ありげなようだし、ここは1つ最期の輝きとしておれに見せてくれよ。ジョースター家の伝統的なナントカカントカってやつをな」

 

「てめーは必ずこいつに対応できねーぞ。何せてめーは今、()()されると思ってねぇからな」

 

「おめーの✕✕✕✕みてぇに小せぇ御託をちまちまドミノみてーに並べて頂かなくても結構だぜ!男ならどんと組み上げたジェンガ・タワーをぶっ壊すくらいの勢いで来いやァーッ!」

 

「やれやれ。それは……

 

 

 

 

 

『逃げる』」



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第十八話 黄の節制 その②

 人間の里を捜索した。

 

 収穫は、無かった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「飛っ……、」

 

 危うく真っ昼間の往来で飛んだァーッ!?と妙ちくりんなことを叫ぶところであった。事前にそうなる可能性をきちんと認識していなければ、叫んでいただろう。ちなみに奴は重力に身を任せて落ちるだけなので、飛んだというか跳んだである。

 

「よ、よしキャッチ・アンド・リタ ──」

 

 一緒に、何かべたべたしていそうな物体に身を包んだ人間らしき造形の物も落ちてきているが、取り敢えずそっちは無視で良い。多分それが今回の敵だろうし、承太郎だけ助けられれば合格点だ。名も知らぬ敵は大人しく真下のプールにでも落ちておけ、濡れたタオルで全身を殴打されるに等しい痛みがあるだろうが、それで死ぬわけでもないし。

 飛び立つために、大きく翼を広げようとする。しかし彼女の小さな身長から見れば、少々サイズ感を間違えているのではないかと勘繰りたくもなる。何せ片方の翼の全長でフランドールの身長に迫る勢いがあるのだから。何事も大きければ良いというわけではない。手狭な場所でなど、翼が引っかかって動くのにも四苦八苦するに違いない。

 

「──イア……?」

 

 地球に引かれて落ち行く承太郎。水面ぎりぎりで掻っ攫っていけるだろうと目算を立てた所で、突如物理の法則に抗い始めた。何だお前、飛べたのか。飛べなくたってただの男子高校生では済まない程にキャラは濃いが、まだ隠し技を持ち合わせていたのとは。

 いや、そこから動く気配が全く無い。言うなれば標本の蝶、化石のアンモナイトである。スタープラチナは空中で静止するという技が使えるのか、と一瞬驚いたが、その横のイエロースライムマンも仲良く空間に縫い付けられている。はて、これは如何なることだろう。と言うか黄色い方、落ちる時のフォームが致命的に()()()。何だそのポーズ、瀕死の蝉か。

 

「承太郎の身を案じる妹様のお気持ちは賞賛に値するものですが、そのまま飛翔なされれば、妹様は衆目に飛行の姿を晒すこととなってしまいます」

 

 後ろから届いた声に、あぁ成程そういうことかと得心する。流石は配慮の天才、フランドールが人でないという秘密が露見してしまうのを未然に防いでくれたわけだ。

 万物は時間という姿無き流れの中にある。世界が自然に流れていくのは、時間が不羈独立にして雄大であるからだ。嘗て、こんな話を友人から聞いたことがある。彼女はまたこうも言った、極稀に因果律の重厚な枷から抜け出す異質(イレギュラー)が現れることもあると。流れに逆らい過去へ向かう者も、流れそのものを堰き止めてしまう者もいるそうだ。

 

 咲夜はきっと、そんな異質な存在の1つ。その言葉で話を締め括った友人は、すぐに1つだけ訂正を加えた。曰く、『物扱いは良くない』。礼儀を弁えた魔女だ、面白くて笑ってしまった。

 

「そこで僭越ながらこの咲夜、暫しの間だけとはいえ帳を下ろした次第にございます」

 

「ありがとう。助かったわ」

 

 大した能力だ。何なら金を払ってでも欲しいくらいだ、用途は極めて多岐に渡る。しかし他ならぬ咲夜だからこそこの力に愛されているとも思うのがまた微妙な所である。もし時止めの異能が宿主を選べるとして、自分と咲夜とが選択肢に上がっていれば、きっと導かれるように彼女の元へ向かっていくのだろう。絶対にそうなる、私が異能の立場でもそうするから。

 

「効果時間は、あと10秒程。救出には充分ですわ」

 

 ココナッツミルクでも飲みながら、ゆったり向かいましょう。軽快なジョークと共にふわりと浮き上がった咲夜に続く形で、フランドールも足を地から離した。……おい待て、何故今()()が出てくる。まさか冗談の類ではなかったと言うのか。

 

 第一、10秒でこの量を飲み干すとなると、一息にぐいっと行く心構えが必須となる。それはちょっと英国淑女としてはしたないので、外ではやりたくない。結局、ちびちびとまろやかな甘味を堪能しながら救助に向かうことになった。こんな救助隊が現実に組織されていたら、寄って集って袋叩きにされること請け合いである。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ケーブルカーの底に大穴を開け、自ら落下するという選択をした。目的は2つ、先の宣言通りこの場を離脱することと、真下にあるプールに諸共飛び込むことである。

 承太郎としては、速やかに一定の空間とイエローテンパランスを取り除く方法が欲しかった。これらを同時に得るために、短時間で練り上げた賭けではあったが水中にステージを移すことにしたのだ。

 

 ラバーソールが顔まできっちりと防御壁で覆ってくれたのは、承太郎にとって不幸でも幸でもあった。スタープラチナによる打撃が通らなくなりはしたが、一方でそれは彼が外界と完全に遮断されたに等しい。あれだけ緊密に守りを固めている中で、満足な呼吸が得られるとは考え辛かった。

 この1点を狙うしかないと判断してからの行動は、迅速であった。素早く呼吸を整え、作戦を実行に移した。ひゅっ、と内臓が押される感覚に襲われる。1寸たりとも浮上することがないのが、ジェットコースターとの大きな差だ。

 肺活量には自信がある。敵が耐え切れなくなり、ガードを解いて水面に顔を出した時が、反撃の絶好機だ。体を食われる痛みを堪えながら、数分後の一転攻勢に向けて酸素の温存を図る。

 

「……なに?」

 

 水面がもう目と鼻の先にまで近付いてきた時、もう1度息を吸い込んだ。肺に酸素を充填し、消耗戦に臨もうとした承太郎は、次の瞬間に自分がプールサイドに横たわっていることを漸時受け止められなかった。

 がばっと起き上がろうとして、視界の端に見慣れた赤いミニスカートが映る。横を見れば、想像通りの人物が手をぶんぶん振っていた。

 

「何これくっついた!ちょっとほんとに取れないっ」

 

 認識と現実の乖離が余りに衝撃的で、残像が見える速度で腕をぶん回す姿には驚かなかった。まるで自分が無意識に水中への没入を拒んだかのようで、しかし回避行動を取った記憶は一切無かった。

 これもスタンドの暴走の一貫として考えて良いのだろうか。母がスタンドに侵されて倒れるより前、自身が牢屋の中に入っていた段階では、スタープラチナは承太郎の意思を殆ど完全に超越して動いていた。現在では充分戦闘に利用できる程度に操作できるものの、完全な制御が完了したという感覚は掴めていなかった。

 

「待って痛い痛い、溶けてない?溶けてないこれ!?」

 

 まだ晴れていない霧はある。今回の謎の移動は、もしやこの不明瞭な部分の瞬間的な発現だったのか。敵のことも忘れて思案に耽る承太郎だったが、幼い女声に呼び掛けられて考えを纏められず終いになった。

 

「ねぇ、これどうやって取るの?」

 

「それを知るために動いてたんだがな」

 

 訳の分からんことになっちまって、取り方も分からねーときた。肩を竦めながら言ってやれば、彼女は呆然と立ち尽くした。それから躍起にでもなったのかより一層激しく腕を振り回し、肩で息をするまでやっても無駄だと悟り明確に表情を歪ませた。

 

「こ、このっ。……弱火レーヴァテインで炙ってきゃあああああ!?」

 

 あの飛び散り方を見るに、火でも使ったらしい。大した度胸だが、それは既に逆効果であると証明されている。当然そんな情報を持ち合わせていないフランドールは、腕全体どころか顔にまで少し飛散したべとべとの物体に背筋を凍らせた。単純に気色悪い。離れもせず焼けすらしないなんて、尚更だ。

 

「と、飛び散ったぁ……」

 

「余計なことすると拡散していくらしいぜ」

 

「どうしてそれを最初に教えてくれないの?」

 

「教える前に馬鹿やったのはおめーだろーが」

 

 ごもっともなご意見に、ぐうの音も出ない。言葉に詰まるフランドールの肉体を、スタンドは容赦なくちくちくと侵食していった。食う速度が遅いため激痛とまではいかないが、絶えない痛みのせいで順調に苛々が募っていくためかなり質が悪い。

 スライム塗れの2人は暫く睨み合っていたが、ざぱぁんと立つ水音に視線が惹かれた。そこにはびしょ濡れになりとてもハンサムとは呼べなくなった身なりの良い落ち武者が、ぜえぜえと荒い息を吐きながら立っていた。髪まで濡れたせいでヘアスタイルがぐちゃぐちゃなのが、敗残兵っぷりを一層際立たせている。

 

「まぁ、こいつがスタンドってのは確実なわけだ」

 

「エレガントな方法ではないけれど」

 

 2人の目が、獲物を捕捉した猛禽類の如くきらりと光る。承太郎だけでは分の悪かった敵スタンド使いも、援軍込みで戦えば打って変わってこちらが有利だ。何と言ってもその援軍はザ・ワールドだ、戦闘においては極めて頼りになる。

 

 あれこれとじれったい策を弄するのは、やめだ。ここで新しく安直な作戦を立案しよう。これ以上無い程に単純で、解釈の間違いも決して起こらない、それでいて使う者が使えば凄まじい成果を上げられる魔法のアイデアだ。

 

ぶっ飛ばせば解決だ(倒せば解決ね)

 

 意外……でもないだろうか。それは、正面突破。



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第十九話 黄の節制 その③

 手に持ったココナッツミルクが、微かな漣を立てる。風が吹いたわけでも地震が起きたわけでもなく、その原因はカップの保持者である咲夜にあった。

 承太郎の繰り出すスタープラチナが、何やら折れ曲がった鉄の棒らしき凶器を振り回して敵を追い立てている。ガードされているようでダメージが通っているようには見えないが、苛烈な攻撃の連続に防御へ専念する他に無いという印象を受けた。

 それだけなら良い。攻撃こそあのスタンドの真骨頂だ、彼が攻勢に出ていることを不思議とも思わない。特攻を仕掛けているようで何気にフェイントや威力の強弱、狙う部位などにも気を配っているのが見えるから、冷静さも充分に保っていると考えられる。

 

「そおおぉぉーりゃぁっ!」

 

 妹様、貴女は何をしておられるのですか。1番初めにこの光景を見た時、咲夜は危うくティーカップを取り落としそうになった。

 同様に細長い鉄塊を振り回し、気味の悪い粘体を打ち据えているフランドール。パワータイプのスタンドにも劣らない力任せの攻撃でラバーソールを封じ込めている彼女の表情は、気のせいかきらきらしているように思えた。いや本当に気のせいであってほしいが、近年稀に見るのりのりな様子で技も糸瓜もない棒術を披露する彼女は、最高に楽しそうだった。

 

「ヌウッ……効かねーと何度言えば」

 

「そうね。確かに打撃は意味が薄いみたいだけど」

 

 腹部に鉄塊を思い切り叩きつけ、それに留まることなくより一層の力を込める。同時に大きく1歩前に踏み出し、最大限の力を発揮できる体勢を取る。そんな足をがばっと開いた体勢は、彼女のような可憐な少女が取るべきでは断じてないので、どうかその役目は承太郎に譲って頂きたい。彼がする分には、まだ似合わなくもないだろうに。

 

「それは最早さしたる問題でないのよっ!」

 

 あらん限りの力で以て、鉄の棒を振り抜く。イエローテンパランスが処理できる上限を超える巨大なエネルギーをもろに受けたラバーソールは、あたかも力士の突進を受けた子供の如く宙を舞うこととなった。そしてそのまま頭からプールに落ち、水面下に沈んでいく。

 

「承太郎!」

 

「任されたぜ」

 

 間髪入れず、承太郎が水の中に飛び込んでいった。どうやら2人の間で、何か作戦が設けられていたらしい。水中では満足に力を出せない彼女は、無理をして彼に続くこともなく、ぺたりとプールサイドに体育座りでしゃがみ込む。

 

「……ふう」

 

「妹様」

 

「あら、咲夜。丁度良い所に」

 

 軽く運動してたから、喉が渇いてたの。ココナッツミルクを受け取り、ふんわりとした甘味を堪能する。味が気に入ったらしく、すぐに飲み干してしまい2杯目を要求した。この場にはティーセットも無いのに随分な無茶を要求しているが、それでニーズに応えてしまえる咲夜も咲夜だ。お茶が出るならそれは無茶でなく有茶ではないか。いや、ココナッツミルクはお茶の類ではないから無茶のままでも良かった。無茶ではなかったのに無茶とは、これ如何に。

 すぐそこでは未だ承太郎が敵と交戦中だと言うのに、まるで戦勝を慰問する1杯を頂いているかのようなリラックスムードを醸し出している。これも承太郎を信頼してこその落ち着き払った態度なのだろう。ならば口を挟むべき所でも無いと判断し、従者はただ斜め後ろに控えるに留めた。

 

「承太郎は、怪しまなかったのですか?」

 

「ほへ?」

 

「やや本気で殴打しているように見えましたが」

 

「あぁ。それなら大丈夫よ、貴女を宿してパワーアップしてるって言ってあるから」

 

 上手く嘯いて場をしのいだらしいが、咲夜は憑依型のスタンドではない。そもそもスタンドですらないが、一先ずそれは棚の上にでも置いておくとしよう。アヴドゥル曰く、近接主体のパワー型に分類するのが無難だということなので、間違っても誰かの体に取り憑くような真似はできない。

 何か聞かれたら、上手く口裏を合わせておかなければ。聞いておいて良かったと、内心胸を撫で下ろしていた。

 

「……!」

 

 半分人間の霊体の方なら、或いは可能な芸当なのかも知れない。向こうへ帰ったら適当な人間を見繕って試してみるかと思い立つ。自分は実験材料にしない辺り、強かな女である。

 

 さて、誰に憑依させてみようか。巫女は宿った霊の方が昇天させられる気がするし、魔法使いが丁度良さそうだ。彼女なら面白そうだと言って乗ってきてくれるだろうし。そんないっそ下らないと言えるような考え事をしていても、フランドールが唐突に目を見開いたことに気がつける観察力は、従者として過ごした長い年月の賜物である。

 

「妹様?」

 

「この感覚……」

 

 浮かべていた微笑が一瞬にして引っ込められ、代わって美しい造形の顔に浮かんだのは明確な嫌悪だった。承太郎が敵をノックアウトし終えたのか、体にへばりついていた黄色いスライムがいつの間にか跡形もなく消え去っていたが、それすら気にするまでもない瑣末事と言わんばかりの、苦虫を噛み潰したような面持ちであった。

 

「もしや、()()()()のですか」

 

「えぇ。暫くぶりだけど、相も変わらずやな感じだわ」

 

 憮然とした表情を和らげるため、一息に2杯目のココナッツミルクを飲み切る。流石に少し味を変えたいと思い、3杯目には紅茶をオーダーした。すぐさま供給された温かいそれを両手で持ち、飲むわけでもなく手元でゆらゆらと揺らめかせる。紅茶に映るフランドールの顔は、依然として硬いままに崩れていく。

 

 余程嫌いでいらっしゃる。彼女に見えないように、そっと苦笑した。しかし何の前触れもなく突然見られている気配をぶつけられて、良い気分でいられるはずはない。当然怒るだろうし、元凶を叩きたいとも思っているはずだ。もし原因が特定されたなら、解決のため一肌脱ぐことになるだろうから、今のうちから心構えを作っておくのが良いかも知れない。

 彼女は姉君のように人使いが荒唐無稽の領域に達していたりはしないが、なにぶんとことん追い詰めるということを苦手としているので、序盤は優勢に進められても後半で手痛い巻き返しを食らいかねないのだ。それなら初めから咲夜が対処した方が早い。

 

 やはり彼女に悪意を抱く何者かによる、故意ありきの悪行と考えるのが1番しっくりと来る。その相手はほぼ確実に彼女と自分が外の世界へ弾き出されてしまったことに関与しているはずだ。問い詰める理由は、咲夜にもあるというわけだ。

 結局の所、この旅の最終討伐目標であるDIOなる男に全てが帰結する。この男を倒さない限り、外界追放の真相は何も明らかにできない。そんな気さえしてくる。DIOが不審な気配を寄越してくる犯人である可能性だって、現時点では否定しきれやしない。恐らくスタンド使いだろうと見当を付けられるだけで、具体的にどういったものを駆使してくるのかは、咲夜はおろかジョセフでさえ知らないと来ているのだから。

 

 そうだ。直後の出来事に掻き消されていたが、この問題はまだ解決していなかったじゃあないか。ジョセフ・ジョースターの念写(ハーミットパープル)が原因ではないかという推測は、彼自身が行った証明によって否という結論が出されている。承太郎のスタンドであるスタープラチナに遠隔干渉の能力があるとは甚だ考え難い。

 

 ならば、誰だ。我が主に視線を送っている不埒者は、一体誰になるのだ。消去法に則れば、彼ら2人以外のジョースターの一族を疑うのが筋だろう。DIOの復活がこの一族にスタンドの発現という影響を及ぼしている以上、彼ら以外にも特殊性に目覚めた者がいるはずだ。

 

 

 

 

 

 ──ジョナサン・ジョースターの一族が、私を見てる。

 

 ──だがな、わしが念写をすると浮かび上がってくるのは決まってとある男なのだよ。

 

()()()

 

 咲夜の脳裏に、1つの仮説が現出する。産声を上げたそれは根拠に乏しく、その質も信用には足りないものばかりだ。仮定ばかりの夢物語と揶揄されても、何も言い返せない。

 

「どうかした?」

 

「……いえ」

 

 こんな与太話を主人にするのは、躊躇われる。己の意見に真っ黒なカバーを覆い被せた咲夜を、彼女は特に怪しむことも無くプールへと視線を戻した。

 ぷかぷかと力無く浮かぶラバーソールは、交通事故にでも遭ったのかと言う程に顔がひしゃげていた。水に沈め、酸素補給のため面部のガードを解かせる作戦は、成功を収めたようだ。

 

 濡れた学生服を重そうに引きずり陸上へ帰還してきた承太郎に、フランドールが駆け寄っていく。不躾な視線に苛まれたことなんて、もう過去の話であるかのように。労いの言葉を掛け、それから小さくすべすべな手のひらを差し出す。彼が返したハイタッチは、しかし疲れていたからか他の理由からか、目線も合わされないぞんざいなものであった。



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第二十話 吊られた男 その①

「綺麗な風景ね」

 

 揺れも少ないから、快適だわ。車窓から外の景色を眺めながら、フランドールは上機嫌に賛辞の言葉を口にした。

 マレー鉄道を経由するインドへの陸路も、折り返し地点を過ぎた。もうあと数時間もすれば、目的地のカルカッタ──インド屈指の巨大都市までの中継点の1つへ到着するだろう。道中何事も無く、極めて平和な鉄道旅であった。

 木々の間を縫うように線路が走っているため、視界が緑で目に優しい。時折線路沿いを行く人々を眺める毎に、ほんの僅かずつ服装や移動手段が変化していくのが分かる。こうした徐々に進む変化を観察するのが好きな彼女にとって、眠気も吹き飛ぶような楽しい時間となった。

 

 とは言え既に日も落ちて、時刻はシンガポール時間で22時を回ろうという頃だ。幾ら頑健な吸血鬼と雖も、流石に長旅の疲れも露わになってくる。満月の光を浴びる表情は、いつにも増してとろんとしていた。列車は峡谷に掛けられた橋に差し掛かるところであった。

 

「って、聞いてないか」

 

 隣で静かな寝息を立てる咲夜は、ついさっきまで起きていたのだけれど。彼女とて人間であり、疲れもすれば眠りもするのだ。吸血鬼の独り語りに付き合わせるのも忍びない。

 

「……よく考えたら、私が今眠いのっておかしいわね」

 

 吸血鬼という種族は、夜行性だ。いつだったか、姉が人間に合わせた生活習慣を取り入れたことがあったが、たった1日真似をしてみただけで体調を崩して寝込んだ苦い記憶がある。人間には人間、吸血鬼には吸血鬼のライフサイクルというものがあり、それを安易に逸脱すると痛い目を見ることを学習した。

 しかし、ここ数日は日中に活動していても体調の不良を感じることがない。これで良いのかと自分でも思うが、ジョセフ達の旅路に同行する上では昼間に動けるということが最低限の条件となる。DIOを倒すまでは、昼夜逆転の生活を受け入れる他にないわけだ。

 

「私も寝ましょ」

 

 既に一行は、フランドールを除いて皆眠りに落ちている。車内の明かりは光度を落とされ、眠る者に優しい配慮がなされている。歴史ある鉄道なだけあり、客への気配りも高水準だ。肝心要の客が、約1名大鼾をかいて寝ているのは玉に瑕である。

 今から寝ても仮眠程度にしかならないが、それでも睡眠時間ゼロよりはまだましだ。最後に美しい自然の原風景を目に収めて、それから深々と座席に座り直す。

 

「……ん?」

 

 窓に何か映ったように見えた。一瞬の出来事だったので細部までは意識が届かなかったが、確かに人の形をした何かをフランドールの目は捉えていた。

 咄嗟に振り返ったが、そこには仄暗い空間が広がるのみであった。ただ1人を除いて寝静まった列車の中で、実体とも幻影ともつかないものを目撃したのはその1人だけだった。

 

「気のせいかしら」

 

 眠気が順調に高まってきて、夢現になりつつあるのだろう。精神力の塊(スタンド)なんて常識外れな概念体を見過ぎた節はあるから、きっとそうした経験が網膜に虚像を浮かべさせたのだ。一眠りしさえすれば、綺麗さっぱり忘れ去る。おかしな虚影を見たことさえも。

 軽く苦笑いして、再度窓の方へと視線を向ける。煌々と地上を照らす天蓋からの月光、リズミカルに聞こえてくる車輪の回る音、そして()()()()()()()()()()()()()。手にはナイフを持ち、明確にガラスの中の咲夜を見据えていた。

 

「違うっ」

 

 これは虚像でも幻影でもない。嫌な感覚が全身を光の速さで駆け巡ったのと、咲夜の肩の前に手が出たのはほぼ同時のことであった。

 

「ぐっ……ぁ!」

 

 ずぶり、と手の肉を貫き開いて異物が侵入してくる感覚が、背筋を大きく震わせる。一拍遅れて脳が発信し始めた大音量の痛みのシグナルを体で受け止め、あっという間に冷や汗がぐっしょりと顔を、そして背中を濡らし尽くす。その中でただ手だけが、汗とは異なる真紅の液体で薄くコーティングされていった。

 手を障害物として置いただけでは、彼女にナイフの刃先が届いてしまう。目を固く閉じて俯き、歯を思い切り食い縛って激痛を凌駕し、右手を前へと押した。力んだせいか、傷口から液体が噴出する感覚があった。

 ガラスに映る人影も押し返されたが、今ここでのこれ以上の攻撃は意味が薄いと判断したのか、深追いを止めて忽然とその姿を消してしまった。ぐちゅり、と手に入っていたものが抜けて、急速に嘔吐感がせり上がってくる。唇を噛んで、さらに左手で口元を覆った。

 

「妹様?如何なされ……!?」

 

「あ、あら。起こしちゃったわね……っ」

 

 とにかく、意識を傷口以外の所に向けなければ本当に吐いてしまう。刹那的な判断で口内の粘膜の一部を噛み切った。口に広がるずっしりと重いしょっぱさのような味は、嘔吐くのを寸での所で押さえ込んでくれた。

 ぼたぼたと血が床に落ち、瞬く間に仄紅い水溜まりを形成する。斯様な光景は、たった今起きたばかりの咲夜の意識を十全すら振り切って覚醒させる程に衝撃的であった。取り乱し叫ばなかったのに理由も何も無く、ただ偶然彼女が叫ぶという運命の流れにいなかっただけである。

 

「反撃しようと思ったんだけど、逃げられちゃった。悪いわね、また役に立てなくて」

 

「何を仰いますか」

 

 一瞬さえ惜しむかのように時を止め、救急箱を開き縫い糸と針を取り出す。鋭利な刃物で刺されたらしいが、その鋭利さ故に傷跡が潰れていないのが、不幸中の幸いであった。縫い付けさえすれば、後は体の機能が自動的に傷を塞いでくれる。とにかく今は、血を少しでも多く主人の肉体に残すのが最優先だ。針を踊らせ、掌を穿つ裂け目を縫合した。

 

「ありがとね。後は吸血鬼の回復力に任せておいて」

 

「承知しました。私が見張りますから、妹様はどうぞごゆっくりお休みになって下さいませ」

 

 時を動かし、傷に響かないようそっと楽な姿勢を作る。激痛に苛まれてとても寝られやしないだろうが、動かさないことが最も重要だ。何処からフランドールを襲った暴漢が再び現れるか分からない、全方位に集中を向ける必要がある。

 咲夜の警戒の網は極めて細かく、すり抜けることなどできそうにもなかった。例え名うての暗殺者であったとしても、今の彼女に気取られず接近することなど不可能に等しかった。彼女の唯一の誤算は、今回の敵が気配という本来物体とは切っても切れない関係のある標準装備と無縁であったことだった。

 

「っ!」

 

 またしても、フランドールだけが襲撃を察知した。椅子から跳ね上がり、咲夜の腰を持ち上げて走り出す。突然の運動に右手が驚き、じんじんと痛みを訴えてくるが、構ってやる暇は無い。体の発する危険のサインを無視しなければ、この窮地を脱することはできないと彼女の本能が絶叫していた。

 車両から車両へ、咲夜を横抱きにして駆ける。しかしスタンドを振り切ることはできず、絶え間の無い攻撃に晒される。窓を見れば相手の攻撃のタイミングは分かるので、それに合わせて現実世界の彼女が回避行動を取ればナイフは当たらない。

 

 しかしそれはあくまでも理論上の話である。手に深手を負いつつ少女を抱え、尚且つ疾走しながら凶刃を躱すのは、幾ら圧倒的な運動能力を誇る吸血鬼であっても容易に継続できる行為ではない。少しずつ回避は乱れ、ナイフが彼女の体を掠め始めた。

 

「窓から離れなきゃ!いつまでも奴の射程圏内ってわけね!」

 

 辛うじて咲夜だけは庇えているが、それももう時間の問題となりつつある。このまま逃げ続けていたら、待ち受ける結末は共倒れの他に無い。

 振り払えないなら、防御を固める方向に舵を切らなければ。気合いで顔狙いのナイフを避けて、今にも崩れ落ちそうな体に鞭を打ち、微かに笑う膝を曲げた。

 

「咲夜!口閉じてなさいよ!」

 

 矯められた足が生んだ爆発的なエネルギーは、瞬間的に追手の視界から2人の姿を消失させた。最短で車両に備え付けられているトイレのドアまで辿り着き、ドアノブを捻って中へ入る。足による後ろ蹴りでドアを閉じ、何とか籠城に成功した。

 

「ふぅーっ……何とか逃げ切れたかしら」

 

 安心した途端、漸時忘れていた激痛が右手に走る。危うく咲夜を取り落としそうになり、慌てて高価な壺のようにそっと抱え直した。それからふと気がつく、もう抱えなくても良いではないかと。

 数分ぶりに地に立った彼女は、すぐさま開きかけたフランドールの傷に処置をした。無茶をなさらないで下さいませ、そう迫る彼女の声は、珍しくも少しばかり上擦っていた。無理をした自覚はあったので、反論の余地は残念なことに紙1枚程度も存在せず、怪我人の分際ですいませんでしたと頭を下げなければならなかった。だって逃げなきゃやばかったんだもん、それが考えられた最善手なんだもん。自己弁護の文句は脳内に浮かんでくれども、それを言葉にして彼女に聞かせる度胸は無かった。

 

「窓に映るスタンドで、しかも映ってるものを攻撃すれば実体にダメージが通る」

 

 甚だ面倒なスタンドと言う他に無い。スピードもシルバーチャリオッツに並ぶのではないかと思われる。加えて複数の車両を隔てても追跡できる射程距離の長さが、ますますあのスタンドの面倒さを増長させている。性質からして完全な初見殺しである上に、ある程度の情報が集まっても有効な対策を練り倦ねるとまで来るか。

 フランドールの奥の手の1つを用いて周囲一帯ごと焼き付くそうにも、列車の乗客を巻き込むわけにはいかない。本体を見つけられれば魅了(チャーム)を掛けてこちらへの敵対心を消すこともできようが、これだけの大怪我を負わせた相手を魅了するのも何だか嫌だ。無論必要に駆られれば、厭いはしないけれど。

 奴の映る窓を割れば、或いはダメージを与えられるかも知れない。確かにそこにいる……と言い切って良いのかは怪しいが、少なくとも逃げ回っているよりは劣勢打開の糸口を掴めそうではある。次に出くわしたら、隙を伺って試す心積もりをした。

 

 それにしても、先程の逃走劇で新たな生傷が幾つか増えてしまった。お気に入りの服も、随分と切られてしまっている。女の肌と服を何だと思っているのか。卑劣な輩に憤慨しつつ、顔に付着していた血を洗い流そうと手洗い場へ向かった。

 痛みは程度が過ぎれば体の平衡感覚にまで干渉してくると言うが、全くもってその通りであり、現に手洗い場までのたった数歩を歩くだけでも体が右へ傾きかけた。この度合いの怪我なら完治まで1日程度と言ったところだろう。それまでの辛抱だと水を出し、咲夜に血を落としてもらう。

 

 心身共に休まる暇がなく、そのせいで大分熱を持っていた頬に、冷えた水は心地の良いものであった。ほんの少しだけではあるが、活力も戻ってきたように思える。取り敢えず、これで顔は綺麗になったか。鏡を見て確認する。

 

 正直、直撃を回避できたのは幸運だった。

 

「妹様!」

 

 多分、脊髄反射より俊敏な反応経路が働いた。そうでなければ、至近距離からの刺突で首を貫通されていただろう。辛うじて喉を数ミリ掻っ切られただけで済み、そのままたたらを踏み後退する。鏡の中の包帯男は、何処か冷たく嗤っているかのように見えた。

 

「逃げるわよ。今は分が悪過ぎるわ!」

 

「御意」

 

 鏡へのダイレクトアタックを試せる状況ではない。そして、形振り構っていられる場面でもない。タックルで扉を吹き飛ばし、速やかにトイレから脱出した。この一瞬で窓に飛び移った敵のナイフを躱し、この車両に乗る人間が開けっ放しにしていたらしい窓から車外へ飛び出す。

 流石に汽車の外まで追いかけてこれるだけの射程は無いようで、2人は煙を噴き上げながら走り去っていく16両の大型列車を見送った。

 

「映るもの全てから離れてしまえば追って来れないってわけね」

 

 明確な弱点であるとは言い難いが、これで相手が所構わず瞬間移動してくるわけではないと証明できた。あのスタンドは、言ってみれば『反射の世界』を自由に移動できるらしい。

 

「でも、迂闊に汽車に戻れないのよね」

 

 1度も実体で追いかけてこなかったのが、何よりの証拠だ。反撃を恐れて実体化しなかったのではなく、そもそも空間に出現することができない可能性だって否定し切れない。

 但し、『反射の世界』を渡る能力は相当なものがある。窓や鏡は言うまでもなく、液晶画面、プラスチックのカード、ペットボトルであっても恐らく移動や攻撃をこなせるのだろう。

 

 

 

 

 

 そう、()()()()()()()()()()()()

 

「別ルートでカルカッタを目指すのが宜しいかと。勿論、妹様のお怪我が癒えてからの話とはなりますが」

 

 咲夜としても、あの汽車に戻って鉄道の旅を続けるのは反対だ。あの危険なスタンドが潜んでいるという事態をジョセフ達に伝えられなかったのが悔やまれるが、あの状況下で一行のうち誰かを起こして危機を知らせてといった複数の手間取る手順を踏んでいる余裕は一切無かった。連絡を取る手段も無いままに分断されてしまった以上、彼らが上手く窮地を乗り越えてくれることを願うしかない。

 そう悲観することもないだろう。実力者揃いのパーティだ、乗り切るだけの総合力はあると見て間違いないはずだ。今はとにかく、フランドールがゆっくりと翼を休められる環境を確保しなければならない。

 

 隣で、呻き声が聞こえた。くぐもった、小さな声だった。また吐き気を催しておられるのかと思い、せめて背中を擦って差し上げようと手を伸ばした。

 

「……なっ」

 

 浮遊能力を失い落ち行くその背中からは、鮮やかな紅の血が飛び散っていた。フランドールの肉体よりも軽いが故に、そしてそれと同じく重力に囚われたが故に、血はあたかも命を削って生成される翼の如き形状を表現した。信じられない皮肉だ、まさに彼女は蝋の翼を失ったイカロスの如く水に落ちんとしているのに。

 

 2人が浮いていたのは、丁度峡谷に掛かる橋の地点であった。橋からは降雨によって形成された大きな天然の湖を俯瞰することができる。そして折しも今宵は雲一つない満天の星空であり、星も月も思い思いに輝いていた。

 湖と月、そしてその間のフランドール。三者が一直線に並んでしまったことを神の悪戯という一言で片付けられるならば、神とは何と残酷な上位者であろうか。果たして彼女は、これ程酷い目に遭わされる理由を有しているのだろうか。

 

 どんどんと加速していく主人に、咲夜は全速力で追い縋った。水面が近づいてくる。手を伸ばせば届く。湖はもう目前だ。赤子のように抱き護る──。

 

 

 

 

 

 静かで穏やかな、夜更けの峡谷。鈍い着水音は、岩肌に反響して消えていった。



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第二十一話 Frandre wasn't here その①

「ジョースターさん!そちらは」

 

「駄目じゃ……何処にもおらん」

 

 シンガポール時間では午前1時も半分が終わろうとしている中で、ジョセフ達は騒然としていた。フランドールが、何処にも見当たらないのだ。

 初めはトイレにでも行っているのだろうと思った。夜ご飯の時に美味しい美味しいと喜びながら果汁60%のオレンジジュースをぐい飲みしていたのが、今になって効いてきたと見える。ポルナレフなど如何にも面白そうにけらけら大笑いしていたくらいだ。

 

 だが、花京院がフランドールのいた席の下に乾きかけた血溜まりを見つけたことで、和やかだった状況は一変した。自分達が眠っていた間に、敵がやって来ていた可能性が一気に浮上してきたのだ。

 

「無事だと良いのですが」

 

 彼女が列車内に残っているのだとしたら、怪我を負い動けなくなっているかも知れない。総出で全車両を探したが、捜索も虚しく彼女を発見するには至らなかった。

 黄の節制(イエローテンパランス)に見つかったのが、やはり痛かった。承太郎が駅に向かっている段階で既に花京院のふりをしていたことから、彼が承太郎の動向を観察し、次に用いる交通手段を予測していたのだろう。敵サイドがその情報に基づき、一行と同じ汽車に刺客を潜ませたと考えるのは妥当であるはずだ。

 

「ザ・ワールドも付いているのですから、最悪の事態は避けられているはずです」

 

 花京院の言う通り、フランドールはあの規格外のスタンドに護られている。並大抵の危機くらい、簡単にあしらってしまえる程の戦闘力を有しているし、万が一劣勢に立たされたとしてもその場から彼女を守護しつつ撤退するだけの機動力もある。さながら100人の屈強な兵士に囲まれたお姫様みたいなものだから、彼女を討ち取るだなんて夢のまた夢レベルの話と言えよう。

 だが一方で、特異な性質故に生じてしまう弱点もある。ザ・ワールドは、時折人間に極めて近い様子を見せるのだ。咳払いをしたり、微笑んだりと、スタンドに無縁の一般人から見れば人間にしか思えない所作をごく自然にこなす彼女は、1度だけ小さく欠伸をしていたことがあった。

 

 つまり、彼女には眠いという感覚が存在しているわけだ。そして、彼女のことをいたく大切にしているフランドールなら、咎めもせずに彼女に睡眠を取らせるだろう。この瞬間、堅固な盾は一時的に消失することとなる。無防備な時間帯を突かれれば、フランドール本人はか弱い女の子でしかなく、スタンドの攻撃を退けるのは困難を極めるはずだ。

 

「じじい。どうするんだ」

 

「……フランドールちゃんは心配じゃが、我々も先を急ぐ身じゃ。乗船を予定より1つ遅らせ、彼女達が来るのを待とう」

 

 もしそれでも来なければ、我々だけでもカルカッタへ出発する。ジョセフの下した決断を非情なものだと責めることは、誰にもできなかった。仲間の安全を確かめたいという気持ちは皆持っているが、それでも旅の最終的な目標が動くことは無い。

 比べるべきものではないと綺麗事を並べ立てるのは簡単でも、人は時に誰かの命に関わることすら天秤に掛ける必要に迫られる。きっとそれが、今なのだ。DIOを打ち倒しホリィを救うために、彼らは何があろうとも止まってはならないのだ。

 

「おい、じじい。ちっとばっかし話がある」

 

 わりーが皆はそこで待っててくれ。承太郎がジョセフを連れて、人混みの向こうの少し離れた所まで行く。少なくとも皆にこの段階で聞かせるべきではないと考えたのか。一体孫が何を語り始めるのか、見当も付かなかった。

 

「どうかしたか?承太郎」

 

「列車に血痕が点々と落ちていた。辿ってみたんだが、男子トイレに繋がっていた」

 

「ふむ」

 

 襲われて、咄嗟にそこへ逃げ込んだ可能性がある。しかしそこでもフランドールを見つけられなかったことから、彼女はトイレからさらに逃走を図ったと推測される。或いは……こう考えたくはないが、そこで何者かに捕まってしまい、何処かへ連れ去られてしまったのか。

 

「それと、2つ向かいの車両にいた客が情報をくれたぜ。昨日の夜、綺麗な銀髪をした女を抱えて、帽子を被った小さなガキが走っていたらしい」

 

「銀髪……はっ!」

 

 そのまさかだろう。静かに承太郎が、首肯を返す。承太郎の腰程までしかない幼女が、女性型としてはそれなりに長身のザ・ワールドを抱えながら走っていたとは、俄かには信じ難いことだ。しかし目撃証言もあった以上、全くの世迷言と切り捨てるわけにもいかない。

 

「もし仮に走っていたのがフランドールで、あの血痕もあいつのだとすれば、ちと不味い程度の怪我をしたのかも知れねーな。血痕はほぼ等間隔で、隙間も余り無い状態だった」

 

「それだけ血が酷く流れていたということか」

 

 大きな怪我を負いながら、ザ・ワールドを抱えて走った。現実性はさて置き、これを一先ず真実と仮定しよう。フランドールに掛かった負荷は、想像を絶するものだったに違いない。幼い少女にそこまでの無茶を強いるとは、それでも心ある人間か。ジョセフの中で、彼女を襲った不埒者への怒りが沸々と湧き上がってくる。

 

「ザ・ワールドで何とか車内を抜け出したってところだろう。おれたちとの合流は、はっきり言って望めねーな」

 

 承太郎には、ジョセフの怒る気持ちが良く分かった。何せ同じ血が流れているのだから。現に彼も今、卑劣な輩に対する憤りを心の中で煮え滾らせていた。

 しかし、怒りを露わにしたところで状況が好転するかと言われれば、答えは否だ。もし再会する道があるとすれば、それは他ならぬ彼女自身が『覚悟すること』だろう。目の前の壁を越える覚悟こそが、人間に最も大きな力を与えるものだ。

 

「じゃろうな。だからわしも、便を1つ遅らせるに留めた」

 

「じじい。考えられる最も厳しいパターンは、『今後もフランドールがおれたちに合流できねぇ』だ」

 

「違いない」

 

 承太郎は、どうにも助けてやれない。ただ無事であると思い、その身をエジプトに向けて進めるだけだ。もし彼女が本当の意味で『強い』少女であるなら、きっと帰ってくる日がやってくる。承太郎は、そして一行はその日を待つのみである。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「アヴドゥル。あの2人は?」

 

「向こうだ。承太郎が、話したいことがあると言ってな」

 

「そうかい」

 

 右手に3つ、左手にも3つ紙コップを持っている。どうやら気を利かせて全員分の飲み物を買ってきたらしい。1個多いぞ、と声をかけるのはどうしようもなく躊躇われた。

 アヴドゥルと花京院に飲み物を渡したところで、余分な購入に気がついた。とてもぎこちない笑顔になって、余った分を一口で飲み干した。何と言うか、不器用な男だ。花京院達もコップに口を付ける。中身はコーラだった。駅の売店らしく質より量を優先している、炭酸の刺激が抜けかけた甘ったるいコーラだった。

 

「騒がしいオジョーサマだったが、いないと寂しいもんだぜ」

 

「あなたには特に懐いていましたもんね」

 

「ありゃ懐いてたって言って良いのか……?」

 

 肩車したり、適当に持ち上げてやったくらいだが、確かにフランドールは楽しそうにしていた。そう言えば、シルバーチャリオッツと駆けっこに興じたこともあったっけか。シンガポール滞在中のことを思い出すと、どうしても納得がいかない。知らず歯ぎしりが漏れる。

 あんなにも楽しそうに笑う娘が、どうして危険に晒されなければならないのか。まだあどけない少女を脅かすのは、ポルナレフにとって許し難い悪行であった。3年前、もう2度と開かない妹の目に悔し涙を落とした時から、女性を害する鄙陋な輩は彼の敵だ。

 

「まぁ、死んじゃいねーだろーさ!何たってザ・ワールドを使えるんだからよ!」

 

 暗くなってしまった雰囲気を払拭するように、明るい調子で言い切る。お調子者も、こういった場面では役にたつらしい。体に纏わりつくような重苦しい空気が、少しだけ緩和されたような感覚を3人は覚えた。

 

 生きていれば、何か連絡をしてくるはずだ。エジプトへの道を急ぎながらそれを待つのが、最上の策であろう。もしこちらに合流できそうなら、全員でそれを歓迎したい。

 反対する者など、誰一人としていないに決まっている。その理由は強大なスタンドを駆使できるから、なんて冷たく合理的なものではない。彼女が興味本位、好奇心を満たすことだけを考えてチームに帯同しているわけではないと、皆がしっかり把握している。

 

 話が終わったのか、承太郎とジョセフが帰ってきた。彼らにもコーラが渡る。両者共に豪快に飲み切って、同時に味の感想を呟く。花京院が気紛れに予想した通りの3文字であった。

 

「アヴドゥル、次の船は何時に来る?」

 

「午前1時54分です」

 

 あと15分程で、ここベイからパテインへと向かう船がやって来る。一行はそれに乗り、さらにシットウェを第2の経由港としてカルカッタへ入るという海上ルートを想定している。

 暗青の月(ダークブルームーン)(ストレングス)の例もあり、海上の安全性は今や保証できなくなっている。だが、これ以上陸路を取ると、国境だの紛争だのややこしい問題に直面してしまう。多少の危険はあれども、海を行く方が時間としては陸より遥かにハイスピードなのだ。

 

 そう言えば、フランドールは船が苦手だったな。荷物を纏めている最中、花京院はふと船上で呻く彼女の様子を思い出した。もし彼女が今この場にいたら、ザ・ワールドかポルナレフ辺りに私を背負ったまま浮かんでおいてくれと頼み込んでいただろう。それを承太郎が、やれへっぽこだ何だと馬鹿にしていつもの口喧嘩が始まる。自分とジョセフ、そしてアヴドゥルは、面白そうに恒例行事と化しつつある口論を観戦する。

 

 彼女がいないだけで、とても静かに思える。あの無邪気で可愛らしい笑顔を見られないのが、どうしてか無性に辛い。願わくば、一刻も早く元気な姿を見せて欲しいところであった。



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第二十二話 Frandre wasn't here その②

 Eutji:w!#Σ(s^tan

 

 

 

 

 

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 此yCMacfl出HQarIcE

 

 

 

 

 

 此処から、出せッ!!

 

 

 

 

 

「……!」

 

 何か、途轍もなく良くない夢を見ていたようだ。心臓は秒間2ビートを刻み、体中を血液が我先にと大疾走している。大釜でぐつぐつと茹でられているかの如く、血が熱い。スタッカートで区切られたかのような荒く短い呼吸は、高熱に浮かされた重病人を想起させた。

 

 ここは、何処だ。目を彷徨わせると、視界に入るのは真っ白な天井であった。いや、天井だけではない。壁も床も、そして纏っている布団でさえも白一色に染められていた。

 

「妹様」

 

 傍らから掛けられた声は、ひどく懐かしいような気がした。温冷を問われれば間違いなく冷たい声質ではあるけれど、確かに自分への親愛が篭っている。この綺麗な声を、例え覚醒直後とはいえ聞き間違えるようなことはあるまい。

 

「ざ……んんっ、咲夜?」

 

「はい」

 

 幾つか不思議に思われる所はあるかと存じますが、一先ずはごゆっくりなされますよう。乱れた布団をそっと掛け直すその手は、見れば所々に傷が生じている。至上の宝玉を不完全たらしめた不逞の要素は一体何だ。あんなにも美しかった白い手を汚したものを、許せそうになかった。

 

 意識が鮮明になるにつれて、徐々に記憶が脳裏へと戻ってくる。あの夜、列車を舞台に繰り広げられた命が賭け金の逃走劇。手の激痛を堪えて車外まで逃げ、月明かりに照らされながら浮かぶ2人。

 

 突如失われた飛行能力、そしてその結果として齎された墜落。視界が暗転する直前に、誰かが近くにいた気もするが確証はない。

 

「……っ」

 

 時間を置いた今なら分かる。背中を深く刺されたのだ。恐らく車内で自分達を追い回してきたのと同一人物であろう。どうやって背後を取られたのかは不明であるにせよ、油断していたのは否めない。

 あの一瞬を思い出すと、体が勝手に震え出す。為す術も無く落ちゆくことがああも恐ろしいとは、想像だにできなかった。声を出そうにも息が吸い込めず、筋弛緩の魔法にでも掛かったみたいにぐったりとしながら落下した記憶は、次に眠った時に夢に出てきそうなくらいにどす黒く濃いものであった。

 

 普段から息をするように飛んでいたから、落下の恐怖も一入だったのだろう。何百年も生きてきた世界屈指の年長者だと言うのに、情けない。咲夜にも要らぬ心配をかけてしまったはずだ。

 

「申し訳ございません。私が役目を十全に果たせなかったが故に、妹様に多大なるお怪我を」

 

「貴女のせいじゃないわ」

 

 どう考えたって、あの場で逃げ仰せたと油断していた自分が悪い。寧ろフランドールからすれば、よくぞ助け出してくれたと彼女に礼を言いたかった。あの峡谷の地形を鑑みるに、湖へと落ちたのだろう。水に濡れてでも救い出してくれたのは、本当に忠臣であるとしか言いようがない。

 もしかすると、手の細かな傷はその際に付いたのかも知れない。だとすれば、自らの手で彼女を傷付けたにも等しい。余りの申し訳なさに、彼女を直視できなくなってしまった。俯くフランドールを見て怪我が痛んでいると思ったのか、当の彼女本人は心配そうな目線を主人に送っている。従者の心、主知らずだ。

 

 いつまでもうじうじと下を向いてばかりいたら、さらなる迷惑を彼女に掛けてしまう。心を覆う暗黒色の靄を力づくで薙ぎ払い、無理矢理に能動的な主人の外郭を形成した。今すべきは、現状の把握に尽きるだろう。それを手助けしてくれるのは、状況を良く理解できている賢いメイドに他ならない。

 

「咲夜。教えてちょうだい、あの夜何があったのか。そして、ここは何処なのか」

 

「ここは首都シンガポールの総合病院です。私が、妹様をこちらまで運びました」

 

 今療養している場所は、首都の病院か。エジプトへの道のりを考えれば、些か逆戻りをしてしまったことになる。承太郎達との物理的な距離は、かなり開いてしまっただろうが、まだ追いつけないという差でもあるまい。

 あの夜からどれだけ経ったかと尋ねたところ、現時点でほぼ丁度24時間が経過しているとのことだった。何日も寝込んで無駄にしたわけではないと分かって、少しほっとした。

 

「あの夜のことは、僭越ながらお忘れになるべきかと」

 

 あと知りたいのは落水直前についてだが、これについて咲夜は口を噤んだ。わざわざ絶対に欠かせないとも言えない情報を提供して、心の傷を抉りに行く必要は無いと考えているのだろう。

 

「いえ、聞かせて」

 

 気遣いは嬉しいが、その気持ちだけで充分だ。当事者として、起きたことはできる限り詳しく把握しておきたい。それに、フランドールにはもう1つ詳細を知りたい理由が存在している。

 

「妹様」

 

「咲夜。私が抱く感情を、貴女は説明できるかしら」

 

 突然の要領を得ない質問に、咲夜は数秒の間押し黙った。結局意図は掴めず、一先ず求められている回答を出すべく、彼女の表情や雰囲気などを観察し始める。ややあって導かれた結論を採点するなら、10点満点で7点と言ったところであった。

 

「幾許かの恐怖。そして、致命的な焦燥」

 

「ま、まぁそれで間違ってはないんだけど。私はね、今凄く腹が立ってもいるの」

 

「敵は手段を選ばぬ矮小な輩でした」

 

「そうね。そんな奴にまんまと、それも2度刺された自分(わたし)がいる」

 

 つまり、怒りの矛先が向けられているのは彼女自身だ。1度目は何の前兆もない奇襲で、さらに咲夜を庇い刃を受けたのだが、それを言い訳にはしたくなかった。彼女を()()にして妥協するなんて、それこそ包帯男並に卑怯な真似だから。

 

「はっきり言って、今私は猛烈に怒っているわ。それこそ恐怖を掻き消し、致命的な焦燥を生み出す程にね」

 

 だからこそ、フランドールは少しでも多く事件当時の記録が欲しい。次に出会った時にそれらを全て許されざる咎として徹底的にあげつらい、罪をじっくりと数えさせた上で一発豪快に殴り飛ばすために。無論、この拳でだ。手加減などという有情措置を設定するつもりは一切無い、顎の骨が砕け散ろうが歯が根こそぎへし折れようが最早完全なる対岸の火事である。

 天真爛漫で自他共に認めるおっとりさんな彼女が、これ程までに憤慨するとは。余程真っ赤な憤懣が鬱積しているらしい。正直気は進まないが、主人の激憤を解消するのもメイドの務めである。

 

「畏まりました。主命には逆らえません、お話し致しますわ。……まず列車より脱出し、走り去っていく汽車を見送っておりました」

 

「うん」

 

「妹様の背中を刺したのは、車内でこちらを追いかけてきた()()と同じでした。間違いなくスタンドでしょう」

 

 それについては、諸手を挙げて同意する。恐らく花京院のハイエロファントグリーンに近い遠距離ばっちこい型のスタンドだろう。尤も、あのメロン風味溢れていそうな細身軟体とは違って陰湿で卑しい性格をしているようだが。

 

「ここからは私の想像が混ざるのですが、奴はスタンドを月の像に潜ませたのではないかと思われます。妹様もまた月面に映ってしまわれ、そのために攻撃を受けたのではと」

 

「成程。そう言えばあの日は雲も無い満月だったわね」

 

 雅なものだと眺めていたのに、それがまさかスタンドの隠れ蓑にされるだなんて、何たる皮肉か。日本には月に叢雲花に風という絶妙に邪魔な物を喩えた言い回しがあるそうだが、叢雲どころではない傍迷惑男だ。きっと月の女神セレーネも、野鄙な闖入者に怒り心頭であるに違いない。拳を叩き込む回数が、1回加算された。

 

「それから水中に落ちた妹様を引き上げ、急ぎ医療施設の整っているシンガポールまで戻ってきた次第でございます」

 

「分かった。ありがとうね、貴女は命の恩人よ」

 

「勿体なきお言葉です」

 

 恭しく頭を垂れる彼女に、全く謙虚な娘だと感心する。何か褒美をあげたいのだが、フランドールが渡せるものはほぼ全て自分で手に入れられるのが咲夜という少女である。どうしたものか、館へ帰ったらジャパニーズ・カップメーカーこと轆轤とやらを回して作ったお椀でもあげようか。……形が歪な上に欠けた所もあり、ただの嫌がらせにしかならないので、やめておこう。メイド業務1日交代権辺りが無難だろうか。

 

「今は傷を癒すのに専念するわ。全治まで、どれくらいか分かる?」

 

「医者は最低でも3ヶ月と診断しましたが、これは人間に当てはまる診断ですので、実際の所は2日程度と思われます。1日完全な休養を追加するとしても、3日を超えることはないでしょう」

 

「ふぅん……ちょっと待って。その治癒基準、お姉様が参考資料?」

 

「はい。妹様は私の知る限りにおいて重大なお怪我をされたことがありませんので、肉体的にほぼ同じであるお嬢様の経験を引用して参りました」

 

 どの程度だったのかは分からないけれど、どんな回復力をしているんだあの姉は。人間の数倍もの治癒力は吸血鬼の強みの1つだが、それにしたって3ヶ月が2日ってどうなんだ。まぁ、スピーディにジョセフ御一行と再合流できる可能性が高まったと、ポジティブに思うことにしよう。

 今頃、恐らくベイを出てパテインへ向かう船にでも乗っているのだろう。船は弩級の弱点なので乗る機会が無くなったのは素直に喜ばしいことだが、どの道傷が癒えてエジプトを目指すことになった時はお世話になるのだから、結果的に機会の平等は守られる。単に苦しみが後日に回っただけの話だ。

 

「ちなみに、お姉様はどんな大馬鹿をやらかしたの?」

 

「脳漿の6割程度の損失、左眼球の喪失、背筋断裂、肋骨のほぼ全ての骨折、及びその破片による肺への二次的ダメージにより呼吸不全。他にも様々ございましたが、全て語るのはここでは差し控えさせて頂きます」

 

「そうしてちょうだい」

 

 おかしい、私はゾンビの妹ではなかったはずなのだが。第一、それは怪我とは言わないと思う。何と呼べば良いのかはぱっと思いつかないが、それにより出来上がる物体は死体と呼称されるべきであるはずだ。煽りではなく真剣に問いたい、何故生きている。そして、何故それが2日で治った。

 言われてみれば、喧嘩をしても次に見たら与えたはずのダメージの痕跡が見当たらないことが往々にしてあった。向こうは殆ど攻撃らしい攻撃をしてこないので、それに乗じて乱れ引っ掻きを食らわせてやったりしたっけか。

 

 帰ったら彼女の耐久値の限界を調べてみるのも一興かも知れない。上手く行けば、それを題材に本が1冊出版できると思う。印税で小金を得て、料理もお酒も美味しいと評判の練り歩き屋台で残らず落としていければ万々歳である。



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第二十三話 Frandre wasn't here その③

「うー……」

 

 ざあざあ、などという擬音が如何に生易しいものか、とくと思い知らされる降水量だ。無理矢理音にするならどぅがががが、となるだろうか。天から放たれた散弾銃か何かか、と半笑いになってしまうくらいだ。建物に穴が開くんじゃないかと本気で心配したのは、ひょっとしたら彼女の長い生においても初めてかも知れない。

 ここ数日、酷い日が続いている。雨が地面を殴る音しか聞こえず、雷はぴかぴかどごぉんと威勢が良い。こんな日には外に出ようという気力が根こそぎ持っていかれる。というか出たら雨風雷の荒天三重奏(トリオ)で亡き者にされる未来しか見えない。

 

 曇天、大泣きであった。

 

「妹様。天候の問題はどうともならぬことです」

 

「分かってる。分かってはいるのよ」

 

 天が無聊を託つ時、このような大荒れの天気になるのだとすれば、無聊を慰めてしまえばたちまち空から太陽が久しぶりだなとばかりに顔を覗かせてくるのではないか。吸血鬼的に余り歓迎できないが、この爆発的な豪雨よりはまだましだ。日本には人形に首を吊らせて雨が止むのを願うという、オカルティックでバイオレンスな風習があるらしいので、それに乗っかって窓枠にぶら下がってみた。翼を上手く使って枠に引っ掛け、ぷーらぷーらと揺れてもみた。

 

 案外楽しかったのでスイングスピードを速めたりして遊んでいたところ、翼が滑ってすぽーんと吹っ飛んだ。あっ、と思った時には、既にフランドールは部屋備え付けのクローゼットと熱い接吻をしていた。鼻まで密着させて、そんなにも木で作られた年代物の服収納庫が魅力的だったのだろうか。ただまだまだ初心だったようで、キスを終えたばかりの顔を押さえて床で身悶えている姿は何ともいじらしいものがあった。のたうち回っていたとは、言ってはいけない。

 

「ただ、何でこのタイミングなのかなって」

 

 人外の回復力が人間にばれると事だ。フランドールの意識が回復してから僅かに半日後、2人はシンガポール総合病院から忽然と姿を眩ませた。元々治癒に必要な最低限の下地さえ得られればそれで良いと咲夜が考えていたため、この失踪は手際良く進行した。療養するために、都市部の一軒家を既に購入済みだと伝えられた時は、流石に感謝より先に疑問符を返してしまった。

 今頃、病院では右へ左へてんやわんやの大騒ぎをしているだろう。重傷を負って動けるはずのない患者が突如として行方を眩まし、未だ足取りさえ掴めていないのだから。シンガポール内でも不可思議なニュースとして大々的に取り上げられているようで、今朝の1面はフランドールが掻っ攫っていった。大見出しは『Unfortunate girl who was hidden!(薄幸の少女は隠された)』。中々に言い得て妙である。

 

「ほんと、こんなに降る必要ってあるの?」

 

「必要は無いかと」

 

「でしょうねぇ」

 

 現在、マレー半島周辺海域を、季節外れの大時化が襲っていた。それも船を出せるかどうかなどというレベルに収まらない、シンガポールやミャンマーが統計を開始して以来の記録的なモンスターストームであった。

 幸いにも、陸上への影響は致命的なものではない。1時間あたり400mmの雨や風速50mを超える暴風も時折観測されるが、土砂崩れや河川の氾濫などの災害は今のところほぼ報道の場に上がってきていない。治水がしっかりなされていることを、図らずも証明したわけだ。

 

 ただ、交通網は史上稀に見る甚大な被害を受けた。乗客及び職員の安全を考慮してマレー鉄道は暫時の全線運転中止を決定し、船についてはシンガポール・ミャンマー両政府が公私を問わずあらゆる出港を禁じた。勧告ではなく禁止である以上、この時点での出航は生命も安全も全く保証できないと国家レベルの判断が下されたのは疑いようもない。如何に吸血鬼と超人メイドのコンビであっても、臍を噛まざるを得なかった。

 

「もう3日は足止めされてるわ。咲夜、これはあとどれだけ続くのかしらね」

 

「峠は越えたと発表されておりました。今日の午後にかけて徐々に終息していき、明日には天候的悪条件がほぼ解消されるであろうとのことです」

 

「お、やっと止んでくれるのか。なら出発は明日ね」

 

 初めはじっとしているだけでも痛んだ怪我も、既に傷跡が消滅するレベルで完治し3日が経つ。つまるところ、完全復活を遂げたその日にスーパー暴風雨がやってきた計算になる。持っていないとは、このことか。いそいそと纏めた荷物が、おい旅行はまだかと訴えかけてきているような錯覚を覚える。大人しく待っていて欲しいし、第一旅行じゃなくて人の命が左右される討伐遠征みたいなものだ。常に肩肘張ってとまでは行かずとも、物見遊山な浮かれ気分がデフォルトではいけない。

 

 とまれ出発の目処が立ったのは、喜ばしいことだ。咲夜の淹れてくれたミルクココアを飲み、小さく一息吐く。再びマレー鉄道を利用するのもありだと思うが、咲夜は飛行機による大幅な時間短縮を彼女に提言している。

 曰く、敵は現段階では妹様の殺害に成功したと思っており、飛行機を用いるリスクが減少しているとのことだ。言われてみればその通りだと彼女も考え、最終的な決定として明日夕方頃のインディラ・ガンディー国際空港行きの便への搭乗を確定した。

 

 これによりインドの首都デリーへと辿り着き、そこから陸路でカルカッタを目指す方針だ。遅れは、充分に取り戻せるだろう。船が苦手なフランドールにとって、これ以上は無いと言って良い程のプランであった。

 

「雨が止んだら、飛行機のチケットを取りに行きましょうか。勿論、並んで座れる席よ」

 

「妹様、チケットの方は既にこちらで用意しておりますので、わざわざ自らお出向きにならずとも問題はございません」

 

「ありゃ、仕事が早い。なら街へ散歩にでも行く?美味しいご飯を食べてこれからの旅に弾みをつけるだなんて、良いんじゃあないかしら」

 

「しかし妹様、今この国で貴女様は相当に注目されておられます。下手な外出は騒ぎの種となりましょう」

 

 可愛いお尋ね者が変装もせずにのこのこと出歩けば、たちまち身元が露呈して優しい大人が病院に連絡を入れるだろう。そうなれば面倒極まりない。逃走自体は別に難しくもないが、手と背中を刃物で深々と刺された少女が数日後にけろっとした顔で歩いていたら、大半の人間が違和感を覚える。フランドール・スカーレットは実は人間ではなかったなどと、根も葉もどころか程良く熟れた果実まである情報が拡散されようものなら、飛行機に乗るのにも支障をきたしかねないのだ。

 

「ままならないわねぇ」

 

「私めが、シンガポールの料理を再現してご覧にいれます。どうかそれでお手打ちを」

 

 シンガポール料理については詳しくないので、どんなものがあるのかも分からないが、咲夜が作るなら美味しいに決まっている。系統を聞くと、肉7割野菜3割であるそうだ。楽しみに夜ご飯を待つとしよう。

 相も変わらずドラム缶の水をひっくり返したかのような瀑布が、都市地域に降り注いでいる。都市の排水機能の限界を超えてしまう前に降り止んでもらいたいが、果たしてどうなるか。空から一筋の閃光が走り、低く響く轟音と共に家全体を振動させた。荒れる空模様は、まだ衰える気配を見せない。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ウォッカ入りのグラスを揺らす。中で氷がからん、からんと小気味良い音を立てる。ライムを絞り、ちょっとした味付けが完了したら、いよいよ飲むべき時だ。

 躊躇はせず、一息で半分を飲み干した。半ば叩きつけるように、グラスをカウンターに置く。漏れ出す息は、火を近づけたら燃えるのではという程のアルコールを含んでいた。

 

 

 男の他に、店内には数名の客が見える。皆思い思いの酒を飲み、また隣の客や店主に向かって愚痴を飛ばしていたりする。やれ仕事が忙しいだの、家内が口煩いだの。1度付いた火がそう簡単には消えないのと同じように、時に彼らは普段に倍する勢いで口を回転させる。

 何とも煩雑なBGMだ。だが、それが良い。落ち着いた雰囲気の中で酒を嗜むのも好きではあるが、やはりこうした俗塗れの雑音が最も落ち着く。再びグラスに口を付け、残った半分程度の高度数液体を流し込む。ほんの微かなライムの風味の他に、如何なる味もしない飲み物が果たして美味しいのか疑問ではあるが、少なくとも男にとっては何杯も飲むに値する代物であるようだ。

 ウォッカをもう1杯注文する。もうそろそろやめておきなよ。そんな言葉と共にカウンターに置かれた生命の水は、今度はレモンで風味付けをするとしよう。男はウォッカのお供として、レモンとライムが至高であると信じて疑わなかった。

 男はどうしてこうもアルコール度数の高い酒を浪費し続けているのか。過剰な酒類の摂取は、ただただ肝臓を痛めつけ、後々の内蔵状態に大きな悪影響を及ぼすだけだと言うのに。……人は嫌なことがあると酒の力に頼って忘れようとするが、彼もまた多分に漏れなかった。

 

 数日前、老婆の命を受けて、ジョースターの一行を追うため列車に乗った。DIOはまだ行方が知れないらしく、代わりに母たるあの老人が指揮を執っていた。DIO本人が命じてこないのが少しばかり癪に障るが、金さえ貰えれば文句を言うつもりはない。予想以上の前金に機嫌を良くしながら、汽車に揺られていた。

 非常に飽きっぽい性格の男は、列車が動き出して数十分後にはもう鉄道移動を退屈に感じていた。適当な女でも引っ掛けて遊ぶか。そんな邪なことを考えながら、車内で吟味を始めた。しかし乗務員は皆彼の好みではなく、客にも中々めぼしい女がいない。畜生め、と悪態が口から零れつつあったその時、男は奇跡的な出会いを果たすことになった。

 

 さらりと流れる銀髪に、生後間もない幼児のような滑らか肌。瞳は斬れ味鋭く、氷の気配を漂わせていた。服装がメイドめいているのは、恐らく隣の席に座っている幼女の召使いか何かなのだろう。最高の上物だ、男は知らず舌舐めずりをした。

 最早他の女など、崩れかけの泥人形にも等しかった。ただあの美しい少女を手に入れたい。だが一方で、彼女は蟻の這い出る隙間も無いような隙の無さをしていた。明らかに只者ではない。白昼堂々襲ったとしても、気が付かれて逃げられる可能性がある。どす黒く下劣な欲望を内に押し留め、男は夜を待った。

 

 果たして夜、その少女は座席でぐっすりと眠っていた。この時を100年待ったと言わんばかりに、自身のスタンドを繰り出して、少女を攫おうとした。だが、ここで予想していなかった事態が起こる。

 隣の主人らしき娘が、それを止めたのだ。しかも偶然ではなく、窓を見てそこに映るスタンドの像を確認し、慌てて妨害に入ってきた。こいつ、スタンド使いだったのか。それにしてはエネルギーを感じなかったが、ともかくこの金髪幼女が自分の存在を察知しているのは確定的に明らかだった。一先ず引き下がって、調子を整えることにした。

 

 先の攻防で、小さな邪魔者の右手を使用不可能にした。あの歳の餓鬼が手を刺される激痛に苛まれて、まともにスタンドを発現できるとは思わない。すぐに戻れば目的の女を持ち帰るのは、容易い。一転してその醜劣な容貌をさらに気持ち悪く歪ませた男は、再度魔の手を少女達に向けて伸ばした。

 

 ここから、彼は幾つもの信じられない光景を目撃することとなった。

 

 重度の刺し傷を押して、娘がメイドを横抱きにしてその場から逃げ出した。途轍もない精神力だと目を剥いたが、それ即ち無茶をしてでも助けたいくらいに女のことが大事だということだ。ならば尚更奪い取り、己の欲をその艶やかな肢体に叩きつけてやろう。

 間髪入れずに追跡を開始し、死なない程度に全身を切り刻もうとした。倒れ伏し動けない中で、大切な従者が汚され壊されていく様を目の当たりにさせ、とことん絶望させてから幼女の方も楽しませてもらうつもりだった。まだ年齢も2桁に届いていないちんちくりんが使()()()のかは不明だったが、無理なら無理で殺せば良い。

 ところが、幼女は窓に映る敵を正確に捕捉し、危ういながらもほぼ全ての攻撃を躱し切った。終いには運良く──男にとっては運悪く、空いていた窓から2人揃って脱出してしまった。

 

 メイドの方も飛んでいたことから、両者共にスタンド使いであることが発覚した。そう言えば、あの老婆が、謎の2人組がジョースター達に同行していると連絡を寄越してきていた。となると、彼女達がその謎めいたコンビで、且つこの列車には殺しの方のターゲット達も雁首を揃えて乗ってくれているわけか。相手側に2人戦力が増えたとはいえ、女に遅れなど取るはずもない。男は己の強運に感謝せずにはいられなかった。

 幼女は、恐らく自身に憑依させることで身体能力を向上させるスタンドの使い手だ。それも生半可なものではなく、一端の実力があると男は見ていた。酷い痛みと出血の中で大変ご苦労なことだったが、残念なことにまだ彼女は射程圏内だ。一足早い性なる夜の邪魔をするアンチ・キューピットにはここらでご退場願うのが頃合いだろう。この時点で、男は下衆な欲の標的を銀髪の少女1人に絞っていた。

 

 だが、まさかあの場面で主人と共に落ち行くとは、想像できなかった。見上げた忠誠心のお陰で、最高の一夜が最悪の徒労に終わってしまった。あの夜程、怒り狂い暴れたこともなかったかも知れない。この際死体でも、と妥協しかけた。気落ちの余り承太郎達を襲撃できなかったのは、彼らにとってはラッキーか。

 女を見繕い、欲の捌け口にして、使い終わったら残らずと殺す。こんな生活が常態となっている男だったが、あれ以上に美しく気高く、故に屈服させたくなる魔性の女には出会ったことがない。もしまだ生きていると知れたら、ジョースター達の殺害を後回しにしてでも追って大願を成就させたいとまで希った。

 

 今回のターゲットにも、過去に体で余興を演じてくれた女の兄がいると聞いている。まずはそのJ・P・ポルナレフなる者を殺そう。その際には、彼の愛した妹の味を、あったこともなかったことも交えて耳元で囁いてやろうと考えた。どうせ何年も前の話だ、正直正確には覚えていない。彼は当時の体験を誰かと共有したいわけでは全くなく、ただ死にゆく者に最後の絶望・怒り・悲しみといった感情を与えたいだけだった。

 

「よぉ」

 

 この仕事は、以後ある男とツーマンセルでこなす予定だ。今酒を飲んでいるこのバーで、男と落ち合う。聞いたところによると、すかした女好きの気障男らしい。気が合うのだか合わないのだか、判別を付けかねていた。

 

「あんたがJ・ガイルで間違いないかい?」

 

 成程、実際に見ると如何にも風来坊気取りのガンマンだ。まぁ事実、『皇帝(エンペラー)』は銃のスタンドであるらしいので、格好については間違ってはいないのだろうが。テンガロンハットを指でくいくいと上げているが、多分サイズが大き過ぎるのが原因なので新しいものを買った方が良いと思われる。いざという時にずり落ちてきた帽子が邪魔で狙撃ができないなんて阿呆らしいミスを犯した日には、まずこいつから始末しなければいけなくなってしまう。

 

 馴れ馴れしく隣に座り、何食わぬ顔でギムレットを注文したこの銃士は、名をホル・ホースと名乗った。



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第二十四話 吊られた男 その②

 はて、この木の棒は何だろう。くるくると回してみるが、別に光りも伸びもしない。いや実際にそうなったら慌てて棒を取り落とすだろうけれど。

 店員に渡されたのは、何の変哲もないただの木の棒であった。手洗いに行くのに、これを必要とする場面があるだろうか。少なくともフランスでは、トイレに必要なのは便器とトイレットペーパーなので、ポルナレフにはとんと見当がつかなかった。

 

 暫く手元で弄っていたが、どうにも分からないので、諦めてトイレに入った。便器の形が妙なのは気になるが、中は清潔に保たれていた。ポルナレフ的には、合格ラインである。扉を閉めて、プライベートな空間が創出された。

 

「うっ……うわああああぁ!」

 

 折角の誰にも干渉されない心安らぐ時間が、僅か30秒程で消失してしまった。しかしそんなことなど頭の片隅にも無いと言わんばかりの表情で、ポルナレフはトイレを飛び出した。彼の叫び声を聞いた店員が、どうかしたのかと声をかける。奇しくも彼に棒を手渡したのと同じ店員であった。

 

「ト、トト、トイレの中に」

 

「はい」

 

「『豚』が!いるぞッ!」

 

 豚。ブタ。pig。哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の、豚であった。何故小屋ではなくトイレにいるのだ。ポルナレフが逃げるようにして……実際逃げていたとは思うが、酷く焦りながら出てきた気持ちも良く分かる。

 

「あぁ。何だと思ったら」

 

「何だと思ったら、じゃねーッ!おまえらの店ではトイレの便器に豚が顔を出すのが普通なのか!」

 

「まぁ、そうですね」

 

「そうだろう!だから……はいィ!?」

 

 店員の曰く、特に珍しいことでもない。1日5回か6回は顔を出しているとまで宣った。有り得ない、そんなトイレが罷り通るわけがない。膝から力が抜けていくのを感じた。

 

「このトイレの真下に豚小屋があるんですが、設計ミスで豚が顔を出せるようになっちまってましてねぇ」

 

「気がついた時点で作り直さんかーッ!ど、どう考えたっておかしいと思わんのか!」

 

「改修にも金がかかるんですよ。あぁ、お客さんよその人だから、この棒の使い方を言っとかなきゃ駄目でしたね」

 

 こいつは失敬。棒を手に取り、両手で構える。何をするつもりだと恐る恐る見ていたポルナレフは、ある意味予想できた光景を目にすることとなった。

 

「これを、豚に向けて!」

 

 思い切り棒を突き出し、豚の顔面に刺突を食らわせる。ぶぎーっ、と豚が悲鳴を上げて、出していた顔をそそくさと引っ込めた。すると、何だ。棒はそのためにあったと言うのか。事前の説明も無しでそんな使い方を想像できるか。そもそも説明されていたら、その時点で彼はこの店のトイレを使うのを控えていたに違いない。

 

「……と、豚が怯んで中に引っ込みますので、その隙に用を足して下さい。うちの店長なんか、尻を豚に舐めてもらえるから綺麗で良いだとか言ってますけどねぇ」

 

「は、はは」

 

 シルバーチャリオッツは騎士のスタンドなので、突きは大の得意だが、便器の中の豚に向けて披露したくはない。ポルナレフ本人も、絶対にそんなことはしたくない。顔を変な形に引き攣らせながら棒を店員に返し、承太郎達の元へ戻ろうとする。トイレについては、宿泊するホテルまで我慢することを心に誓った。

 

 あな恐ろしや、インドのカルチャーショック。フランスの常識でこの国に臨むと、今後も痛い目を見そうだ。余りの習慣や感覚の差に、一生を賭けても馴染めない気がした。

 

「っと、水道は外にあるのか」

 

 正直この魔界への門にも等しき扉は2度と開きたくなかったので、これについてはラッキーであった。蛇口を捻り、冷たい水で手を洗う。それから濡れたタオルで顔を拭き、波の立った心を落ち着かせる。

 向こうでは他の4人が料理を注文していたようで、店員がお辞儀をして去っていくのが見えた。自分もそろそろ戻らないと皆に遅れてしまいそうだ。やや足早に席へ戻ろうとした。

 

「む?」

 

 ふと見た鏡に、妙なものが映り込んでいた。鏡の中の窓に、変な模様が付いている。言葉にするのであれば、包帯で全身を隠した人間のような()()となるだろうか。インドは窓のデザインまで独特なのかと半ば呆れたが、豚・イン・ザ・便器の衝撃に比べればてんで大したことではない。実物をこの目で拝んでやろうと勢い良く振り返った。

 

「ありゃ?」

 

 しかし、目で確認した窓は至ってシンプルなものであった。変な模様など、何処にも付いていない。模様と見間違えそうな装飾も特にはなされていなかった。

 先程のショックが大き過ぎて、まだ尾を引いているのかも知れない。幻でも見たのだろうと結論付けて、でもやはり気になるので鏡に視線を戻した。今さっき視認したばかりの窓がそのまま映り込んでいるのを見て、それでお終いのつもりだった。

 

「な!」

 

 模様が、先程の位置から動いている。より具体的に表現するのであれば、ポルナレフの方に近づいてきている。慌てて再度振り返るも、やはり透明な窓がそこにあるだけだ。窓を開けて侵入しようとしている包帯人間の姿など、何処にもない。

 1度目は幻覚で片付けられても、流石に複数回続けばおかしいと分かる。現実に異変は起こっていない。カルカッタは騒々しくも平和である。しかし鏡に映された虚構の世界では、異常な事態が着々と進行を続けている。包帯男はもう窓から中に入り、ポルナレフの真後ろに立つところまで来ていた。ジャマダハルのような形状の得物を携えたその姿に、言い知れぬ危険を感じた。

 

「何か、何かやばいッ!『シルバーチャリオッツ』ッ!」

 

 突進してきた包帯男の攻撃が自分の像を捉える直前、細身のレイピアが唸りを上げて鏡を突き割った。刺した点を中心にして蜘蛛の巣型の罅が入り、そして粉々に砕け散る。正体不明の()()は、完全にポルナレフの視界から消え去った。

 鏡がばらばらと地面に落ち、床との接触によって硬く鋭い音を連続させる。シルバーチャリオッツを出現させたまま、破壊された鏡の欠片から目を離せなかった。目を逸らしたら、あの恐ろしい格好をした化け物に首を掻かれる気がしたから。

 

 もしやこれは、スタンドではないのか。少し落ち着いてきた脳が、1つの結論に到達する。カルカッタへ到着するより時を幾らか遡ったある日、鉄道での移動の中で、承太郎は非常に重要なことを教えてくれた。何でも交戦したスタンド使いから聞き出したそうだが、その情報はポルナレフが3年前からずっと探し求めていたものだった。

 彼の口からそれが語られた時、彼は神に感謝せねばなるまいと思った。承太郎達と出会うまで世界中を飛び回り、一心不乱に追いかけてきた怨敵が、DIOに雇われて自分達を狙っていると知った時の怒りと喜びは、共に地獄の業火の如く心を焼き焦がした。

 

 ──なんでも鏡を使うスタンドらしい。

 

「ちぃッ!」

 

 すぐさま店の外へ出る。しかし往来は人の数が凄まじく、全員の手元を確認することもできなかった。もしかすれば、この雑踏の中に妹を殺した憎き大敵がいるかも知れないと言うのに。間近にまで迫りながら見失ってしまったことに、思わず舌打ちをした。

 ()()()が両手共に右手であることは、妹と共に襲われながらも生き延びた友人の証言もあって、調べがついている。指の配列が、両手でコピーしたかのように一緒であるということだ。左手さえチェックできれば、すぐに判別はできる。

 

「どうした、ポルナレフ!」

 

「何事だ!」

 

 鏡の割れる音と、直後に店を飛び出していったポルナレフに、何か尋常ではない事件の発生を感じ取ったのだろう。一行が揃って彼の元まで走ってきた。だが、彼は4人の方には目もくれず、必死に道行く通行人の左手を確認し続けていた。

 

「ポルナレフ」

 

「よぉ、承太郎」

 

 その行動で、承太郎は事情を察した。ジョセフ達を制し、単独でポルナレフの側まで歩いていく。彼はポルナレフが追っているのが2本の右手を持つ男であると知っていた。さらに『鏡が割れた』という状況から、推察は容易であった。

 

「遂に、遂に来たぜ!お前の言っていた、鏡のスタンド使いだ!」

 

 どうやら、邂逅の時がやってきたようだ。彼の最愛の妹を、卑怯にも襲い辱めた上で殺した卑劣な男との、邂逅の時が。全身に滾る怒りのエネルギーは承太郎にも伝わり、彼が『吊られた男(ハングドマン)』のスタンドを有する暴漢に、死を以て罪を償わせる心積もりだと知らせた。

 しかし、ポルナレフは同時に危うかった。砂上の楼閣の如き不安定さであった。焦点が完全にハングドマン1人に絞られてしまっている。敵が1人であるとは限らないのだから、視野は常に広くしておかなければならない。尤も、言って聞かせたところで彼が納得するとは思えなかった。

 

 激情が齎す力は、その場限りの極めて限定的なものだ。それが良く分かっているからこそ、承太郎には何か嫌な予感がする。このチームに大きな確執が訪れる、そんな気がしてならなかった。

 

 後にこの予想は、的中することとなる。今はまだ誰も、それを知らない。



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第二十五話 吊られた男と皇帝 その①

「ジョースターさん。おれはここで、あんたたちとは別行動を取らせてもらうぜ」

 

 長い時間がかかった。妹を殺された兄は、誰の助けも借りることなく独力で戦い続けた。その期間、実に3年にも及ぶ。ここまで折れずに犯人を探してきたことは、間違いなく手放しの賞賛に値する。

 

 しかし、今こそ冷静(クリア)な思考を働かせるべき時だ。一時の激情に飲まれ、己のするべきことを見失ってしまっては、折角積み上げてきた土台が目標の寸前で瓦解してしまう。彼のこれまでの戦いぶりを全て目撃したわけではなく、それでも立派だったと誉めそやすに足るだけに、最後の最後を穢すような真似はするべきではない。承太郎は当初、ポルナレフを止めるつもりでいた。

 

「馬鹿なことを。敵の姿も見えていないんだぞ」

 

「だからだよ。いつまでも攻撃されるだけじゃあ不利なのも変わんねーし、次に仕掛けてくるのを茶でも飲みながら悠長に待ってられる程、今のおれは辛抱利きやしねぇぞ」

 

 それこそ、殴ってでもポルナレフの蛮行は阻止する気だった。チーム分離の危機に黙っているわけにはいかないという面もあったが、それ以上にシンガポールでラバーソールが言っていたことが、妙に頭を過るのだ。

 ポルナレフは勝てねーだろう。彼は確かにそう言った。彼の頭の中では、ポルナレフと『吊られた男』のスタンド使いが差しで対決した場合の結果が浮かんでいたのだろう。正直なところ、その予想を愚かなものだと哀れむことは承太郎にはできない。

 

「頭を冷やせ!敵がおまえを誘っているのが分からないのか!」

 

「んなもん百も承知だ。敵はおれが1人になるのを待ってる。今も何処かでアルバート・フィッシュめいた気色悪い顔しながら覗いてんだろうよ」

 

「それが理解できるだけの冷静さはあるんだな。なら意地を張らずにチームを組め、おまえ1人で勝てる相手ではないぞ」

 

 シルバーチャリオッツは、ハングドマンとの相性についてははっきり言って最悪の部類に入ると思われる。鏡を割ったら勝てるような軟弱なスタンドが、ポルナレフに勝てると見込まれるはずがない。例え正々堂々戦ったとしても、敵はその性質を活用することで彼を翻弄し、圧倒することができる。そう考えざるを得なかった。

 アヴドゥルも同じ結論に達していたらしい。彼には珍しく、声を荒らげてポルナレフを制止しようとした。

 

「あぁ?てめーおれに向かって説教垂れてんじゃねぇッ!香港でたまたまおれに勝っただけの、ラッキーボーイの分際でよーッ!」

 

「何だと?」

 

「ほォ~~敵前逃亡かました腰抜け野郎が、ここでプッツンくるかい!だが忘れるな、おれの方が今遥かにブチギレている!」

 

 ポルナレフの煽りに、一瞬頭に来たような表情で睨みを利かせるが、アヴドゥルの方が幾分か堪える理性を有していた。今は挑発を真面目に受け取るタイミングではない。そんな逡巡が彼の中ではあったようで、売られた喧嘩を買うのは回避した。

 彼は、下手をすればアヴドゥルを返り討ちにする算段すら立てている。咄嗟に口をついた喧嘩腰の現れにしては、言い回しが組まれ過ぎている感がある。ご丁寧に怒気を誘い、反撃の上という名目を作る気があったなら、余りに卑怯であると言わざるを得ない。相手が以前彼を騎士道精神に則った男と評したアヴドゥルであるのが、皮肉により一層の拍車をかける。

 

 ()()()()()。今のポルナレフは、何処までも()()()()()。それだけ彼にとって敵が許せない存在であるのだろうが、それは決してパーティの輪を掻き乱す正当な理由足り得ない。道理に横車を押して突っ込むべきではないと理解し納得するだけの理性を持ちながら、彼はその善良な理性を悪しき心によって押さえつけている。

 ポルナレフに、反吐が出るような『悪』を感じる。己の欲望のためならば他者への攻撃をも厭わない、自己中心的な『悪』だ。この知覚は、しかし最も承太郎を苦しめた。ほんの数分前まで背中を預けて戦えるだけの男だと思っていただけに、一瞬にして生じた地割れのような齟齬はそう簡単に受け入れられるものではなかった。背中を、無数の鋭利な針が覆っていた。

 

「今のおまえは無策なミイラの盗掘家だ。間違いなくミイラにされるぞ」

 

「ハッ!お得意の占いでおれの将来占ってくれたところ悪いけどよ、てめー平行世界(パラレルワールド)のおれを占ってどうするよ!」

 

「ポルナレフ、わたしが見ているのは今のおまえだ。占う必要も無い、おまえの選択した道の先には切り立った崖しかないんだッ!

 妹の敵を一刻も早くという気持ちは分かる、だがその過程でおまえが死んでどうする。そんな結末を彼女が望──」

 

 

 

 

 

「おめーよ」

 

 宣言されることもなく、ただ瞬間的に出現したシルバーチャリオッツ。重い甲冑は脱ぎ捨てられ、細身の騎士がその身を露わにした。しかし言葉もなく、感情も見せず、ただ神速を以てレイピアを閃かせた。使用者を除き、誰もその軌跡を目で追うことができなかった。

 アヴドゥルの頬を血が伝い、ぽた、ぽたと滴り落ちる。辛うじて直撃を外す程度の慈悲は見せたが、冗談でも仲間に傷を負わせるような真似は断じて推奨できない。逆に言えば、もうポルナレフは目の前で呆然と立ち尽くしている優男を仲間と考えていないということだろう。そうでなければ、刃の先なんて向けられるものか。

 

()()()()()()()()()

 

「……!」

 

 この瞬間、承太郎は理解した。最早この男は枷を抜けた猛牛に等しい。例え如何なる手段を用いたとしても、彼はその全てを乗り越えて復讐に走るだろう。それこそ、息の根が完全に止まり肉体が生命活動を停止するまで。

 

 どんな制止も、無駄だ。もし運命の神がフランドールを探し出して八つ裂きにしろと囁けば、今のポルナレフはそれを実行するに違いない。止められない、いや、最大の目的のために()()()()()()()()のか。

 

「熱くなってんなよ」

 

 どんと構えてやがれ。その言葉を最後に、シルバーチャリオッツを下がらせる。そのまま荷物を担ぎ、ポルナレフは4人に背を向けて街の外れの方へと歩いていった。大きなトラックが灰色の排気を巻き上げながら彼らの間を横切り、通過した時には既にその姿は見えなくなっていた。

 共に戦った戦友達を力で脅すまでして、単独行動を選んだ。一体、誰かと手を組んで戦うことの何が気に入らなかったのか。アヴドゥルも承太郎も、ジョセフだって花京院だって、敵討ちに臨むこと自体を反対しやしなかったと言うのに。

 誰の力も借りずに1人で怨敵を倒すことが妹への唯一の弔いだとでも考えているのか。いつか彼が言った通り、魂の尊厳とやすらぎは、憎悪の対象を殺すことでのみ取り戻せると、本気で信じているのだろうか。そんなはずはない、自分の胸から憑き物が落ちた()()()感覚があるだけだ。

 どうして考え至らないのか。自身の行動が必ずしも死者への餞となるわけではないことに。承太郎の口から、知らず舌打ちが漏れる。

 

 列車内で突如としてフランドールが行方知れずとなり、そしてポルナレフが喧嘩別れの形でチームを去った。立て続けに2人の仲間が消えてしまい、アヴドゥルを含めた一行の心には癒え難い黒い影が差していた。咲夜がいないため、アヴドゥルの頬の傷は誰に治されることもなく赤黒い涙にも似た血を流し続けていた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ポルナレフについてだが」

 

 街の外れの一角。中心部とは打って変わって人の気配が無く、時折荷物を運ぶ人間がちらほら散見される程度である。以前はこの辺りにも住宅が幾つか建てられていたらしいが、既に住民はその家を捨てて何処かへ行ってしまった。

 

 今はもう屋根すら無くただ完全に崩れるのを待っているだけの木組みの下で、男が2人言葉を交わしている。1人はかつて壁だったレンガの集合体に背を預けて座り、もう1人はよく躾られた象に乗っている。

 

「単独行動をしているらしい。おまえにまんまと誘き出されてるってわけだ」

 

 壁にもたれる男の手は、何故か両方とも親指が一番左に付いている。まるで左腕を切除し、右腕のコピーを移植したかのように。

 彼こそがポルナレフの妹とその友人を襲い、それでは飽き足りずフランドール達をも付け狙った非道な男その人である。名をJ・ガイル、使用するスタンドはハングドマン。鏡と関係の深いスタンドである。

 

 象上の男から情報を提供され、徐ろに立ち上がった。成程、まずはそいつからというわけだ。テンガロンハットの男も象から降りて、後に続く。

 

「よし、行くか」

 

 自身の『皇帝(エンペラー)』と、奴の『吊られた男(ハングドマン)』が手を組めば、ジョースター御一行の中に勝てない相手はいない。1人ずつ確実に始末していき、今回の仕事を完遂するとしよう。そのためにもまず、釣られた男をさくっと狩って勢いをつけたいところだ。

 

 何も、ポルナレフを格下と舐めているわけではない。この世界では油断と慢心こそが何にも優る強敵だ。極端な話、赤子に対してすら躊躇なく殺しを実行するくらいの緊迫感が要求される。

 増して相手は修行を積んだ手練のスタンド使いだ。如何に相性の面で圧倒的なリードを得ているとはいえ、油断は禁物である。途中で仲間が乱入してこないとも限らない。特に『魔術師の赤(マジシャンズレッド)』のアヴドゥル辺りに来られると、本音としては結構な障害になる。手早い始末が望ましいのは、言うまでもない。

 

「……ヒヒ」

 

 全員倒し終えたら、適当な女の所へ遊びに行くか。未来の話をしても無駄だとはよく言われるが、未来に希望くらい持っていたって神の怒りには触れないだろう。目標あってこその活力、活力あってこその目標だ。

 聞けばこのJ・ガイルなる旦那はポルナレフの妹の敵なんだとか。こんな作ったような好条件を利用しない手は、仕込み試合でもない限りは無い。両右手の男の後ろを歩くホル・ホースの表情が、良いことを考えたとばかりににたりと歪んだ。



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第二十六話 Frandre wasn't here その④

「成程、ここがインドね」

 

 シンガポール・マレーシア両国を襲ったはぐれ巨大台風も過ぎ去り、交通網も数日ぶりに恙無い機能を取り戻した。連日の大雨暴風で足止めを食らっていた観光客達が我先にと目的地へ向かい出し、それが原因でマレー鉄道の利用者数が過去2位を記録したなんてニュースが大々的に報じられてもいた。

 一方フランドールも、少し斜陽気味ではあるもののまだまだテレビ番組に取り上げられており、一部の過激なコメンテーターによって殺害説が実しやかに主張されている。犯人は行きずりの強盗、反国家的組織の構成員、幼女嗜好者などなど枚挙に暇が無いご様子だ。

 

 警察も必死の捜索を続けてはいるものの、全くもって手掛かりを発見できていないそうだ。それは当然だろう、だってフランドールは何食わぬ顔でインドの首都へと足を踏み入れたところなのだから。例え1万人体制でシンガポール国内を隅々まで探し尽くしたって、彼女達の痕跡を発見することは不可能である。

 

「ロンドンなんてものじゃあない雑踏ね。何と言えば良いのかしら、街いっぱいに喧騒という概念が広がっているって感じがするわ」

 

「至妙の比喩にございます」

 

 こう表現してはインドの人間達に失礼かも知れないが、カルカッタの街並みは無秩序であった。ロンドンの混雑ともまた違う、自由で無法的な印象を受けた。整理された区画内での想定された範疇に収まる混雑か、そもそも想定のその字も無い場所での混雑か。両者の違いはこんなところか。

 空港がとても綺麗だったので、何だ身構えて損をしたと思っていたのだが、衝撃(カルチャーショック)は遅れてやってきた。寧ろ思っていたよりも煩雑で、今は街をあげての祭りでも開催しているのかと錯覚したくらいだ。これが平時の雰囲気とは、恐れ入る。

 

「して妹様、ここから承太郎達を探す必要がございます」

 

「そうね。でも、その前に」

 

 ぴっ、と人差し指を立てる。はて、何かしなければならないことでも残っていただろうか。ご飯は済ませたし、休憩を要する程に体力を消費するような労働にも勤しんでいないのだが。

 フランドール曰く、少し付き合って欲しいとのことだった。言い方からして、買い物や観光の類ではないと判断した。人目につかない場所が望ましいということなので、2人は裏路地を抜けて人の波から遠ざかっていく。

 少女2人で薄暗く不気味な路地を歩くのは危ないようにも思えるが、咲夜の放つダイヤモンドさえ串刺しにするような鋭い殺気が、屯していたごろつき達を漏れなく圧していたので、幸いにして襲われるなんて事態にはならなかった。あの一件以降、彼女の発する威圧の気配が益々鋭さを増しているように思えてならない。そんなにぴりぴりしていたら疲れそうだけどなぁ、と当の本人は何処かずれた考えを脳内で手慰みに揉んでいた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「よし、ここなら人も滅多に来ないでしょう」

 

 歩いて数分、辺りに人の気配が無い場所に到着した。街を抜けてすぐの、妙にだだっ広い草原だ。

 

 街の中央部は人間の活力と熱気に満ち溢れている一方で、少し核を離れれば見えるのは街の暗部が殆どとなる。気がついていないのだろうか、自分が歩いている大通りからほんの数十mの所で濁った瞳をした同胞が息を吐くように安っぽい煙草で紫煙を揺蕩わせているのを。

 

 或いは気がついた上でpretend not to see(見て見ぬふり)のスタンスを決め込んでいるのだとすれば、この街は明らかな異様に成り下がる。まるで一部の排斥された者達から奪い取った熱気に電球を括りつけ、さも明るい生命力豊かな空気のように見せかけて都市に充満させているかの如き所業は、思いがけずフランドールに人間の醜さを再認識させることとなった。

 

 だからと言って、彼女が何をするわけでもない。卑俗な言い分ではあるが、所詮彼らは現実の住人だ。虚構に生きる彼女達が、無闇矢鱈に口を出し手を貸して良い存在ではない。フランドールもそれは当然の道理として理解している。闇に押し込められた者への同情も、光の中の透明な悪意も、彼女に憐れみ以上の感情を齎さない。

 

「貴女に付き合ってもらってるのは他でもないわ。私のリハビリテーションを、ちょっと手伝って欲しいのよ」

 

「リハビリテーション、ですか」

 

「えぇ」

 

 国の、人の闇を垣間見たところで、ここへ来た目的は変わらない。早い話が、フランドールは戦闘時の動きの勘を取り戻したいのだ。何せ数日前に咲夜を抱きながらナイフを躱すというアクロバティックなダッシュを敢行して以来、ろくな運動ができていなかった。そのせいか、何となく肉体が鈍っているようなずっしりとした感覚がずっと付き纏ってきている。

 イエローテンパランスの時のように、自ら戦いに臨まなければいけない場面が、今後無いとは言えない。その場面に際して、運動不足が祟って上手く体が動きませんでしたなんて子供じみた言い訳は通用しないのだ。

 

 ……彼女自ら戦場に立つ機会は、最低でも1度ある。そう、あの憎たらしい反射スタンドへのリベンジマッチだ。どうせなら最高の力で、地平線の彼方まで吹っ飛ばしてやりたい。そんな私怨ありきの考えも、こっそりと持ち合わせていた。

 

 彼女の頼みを聞いた咲夜は、こくりと頷く。それからやおら膝を折り、そっと地面に正座した。背筋は金属の棒でも入れたのかという程にぴんと伸ばされており、非常に凛々しい座り姿であったのだが、まずどうして座ったんだ。そこから問うていく必要があった。

 

「脆い私めでよろしいと仰って頂けるのでしたら、如何様にもお使い下さいませ」

 

「何故そうなるんだか。無抵抗の咲夜をサンドバッグにしてもリハビリテーションにはならないわ」

 

 そもそも、大切な従者を心ゆくまで嬲るつもりが毛頭無い。従順な人形になれと言ったら本当になってくれるのだろうけど、そんなこの世で最悪クラスの外道めいた暴言を生成する主人がいたら、そいつは心に致命的な悪魔が住み着いている可能性が極めて高いので、とっとと処分してしまった方が良いと思う。

 

「シミュレーティッド・バトル。日本では組手、というんだったかしら。それをしてほしいなって」

 

「ふむ。組手となりますと、私が妹様に手や足の攻撃を繰り出す場面もありましょう。それは宜しいので?」

 

「勿論。あっ、でもナイフは駄目よ。危ないから」

 

「畏まりました」

 

 特に、彼女が使うナイフは銀でできている。吸血鬼にとって、それはリーサルウェポン足り得てしまうのだ。また大怪我を負って出発が遅れてしまうのは勘弁して頂きたいので、今回は単純に互いの肉体だけで手合わせを行いたい。

 

「妹様。模擬戦に際しまして、私のレベルを設定してくださいませ」

 

「あら、便利な機能。どんなのがあるの?」

 

「一般人咲夜、武闘家咲夜、下級妖怪咲夜、中級妖怪咲夜、大妖怪咲夜などがございます。ニーズに合わせてのさらに細かい設定も可能となっております」

 

 バリエーション豊富だな。人間から妖怪まで、幅広い面々の対戦相手を務める用意があるのは、大したものだと褒めたい。持っている力を何も考えずに振るうのは簡単でも、自分よりレベルで劣る相手と良い勝負を演じるためには手加減が必要になってくる。そうした出力の調節は、苦手とも思わないが、咲夜より上手くできる自身はなかった。

 

「じゃあ、中級妖怪咲夜で」

 

「承りました。それでは早速、狡猾な妖怪は先手を打たせて頂きますね」

 

 言うや否や、走って突っ込んできた。右腕を振りかぶっているので、パンチを繰り出すつもりなのだろう。狙っているのは、顔面らしい。

 こんな見え見えの攻撃に当たるか。少し顔を動かすだけで容易に回避し、カウンターとばかりに顎をめがけてアッパーを撃ち出す。ごぃん、という鈍い殴打音が聞こえ、続いて咲夜が糸の切れた操り人形よろしく地面に倒れ込んだ。

 

「……、……?」

 

「流石は妹様。そこらの雑魚に毛が生えた程度では、相手にもならないですね。ばたり」

 

 えっ、今ので中級妖怪咲夜は終わりなのか。真ん中程度の妖怪というと、まぁそれなりには身体能力もあり種ごとの特性もより強く発現しているイメージがあったのだが。それを踏まえて半分くらいの力を込めた攻撃をしてみたら、何と一撃で倒してしまった。

 世界を支配しようとする魔王に対抗すべく、何年も必死に修行を重ねて、いざ魔王と戦ったら2分で勝負を決してしまった勇者の気持ちは、こんな感じなのではなかろうか。こんなにも虚しい勝ちは、初めての経験であった。

 

「妹様のお考えになっている『中級』とは、具体的にどれくらいのものでしょうか」

 

「そうねぇ。美鈴くらいかしら」

 

「ふむ。恐れながら、あれは片足とはいえ『上級』の領域に踏み込んだ妖怪かと。私は白狼天狗程度をイメージしておりましたが故、こうも圧倒的な勝負になったのではないかと思われます」

 

「認識の相違が大きかったってパターンね。じゃあ、美鈴咲夜をお願いしようかな」

 

 詳細設定のオプションを利用して、具体的な妖怪を指定した。これで、期待する戦闘力の咲夜に設定されたはずだ。命令を受理した咲夜は、そのまま速やかに構えを作った。

 重心が僅かに落とされており、どの方向にもすぐ動き出せる姿勢だ。腕は両方とも胴体より前に出されており、左腕の方がややフランドールに近くなっていた。何度か見たことのある、彼女の臨戦態勢だった。

 

「構えまで似せるとは」

 

「付け焼き刃ではございますが、本物と見紛うハイクオリティを追求しておりますので」

 

「貴女って、たまに愉快よね」

 

 彼女が求めているのはあくまで実力であって、体術の癖まで真似をしろだなんて指示は一切していない。この銀髪クールな瀟洒メイドは、つまり、その方が面白くなるという自己決定に従って華人小娘の構えを模倣したということになる。

 主に絶対の忠誠を誓う中で、極稀にお茶目な一面を見せる愉快さは、彼女が人間たる証の1つか。咲夜の感情の動きは怪文書に匹敵する程に読み取り辛いので、往々にして誤解されがちであるが、彼女は案外喜怒哀楽に富んでいる。機嫌の良い時は鼻歌を歌いながら館内の掃除をしていることもあるし、何故かどんよりとした重い気配を漂わせながらそこらをふらふらしていることだってある。表情を一切変えることなくお惚けを捩じ込んでくるのは、面白いやら怖いやらで綯い交ぜになってしまうのでご遠慮頂きたいところではあるが。

 

 ともあれ、今度こそ肉体の錆を落とすための舞台は整えられた。待っていろ、名も知らぬ多分陰湿で賢しい卑劣漢。次に会った時が、お前の顎ないしは鼻の骨の命日だ。言葉にはしないまま、密かに復讐の炎を燃え上がらせた。

 骨はいつか元通りにくっつけられるので命日と表現するのに違和感を覚える者もいようが、フランドールは此度の擬似的な戦闘とは違って、本番には保有しているポテンシャルの全てを尽くすことを心に誓っているので、強ち間違いでもない。妖怪の並外れた膂力で思い切り殴られた日には、たかだか幾らかの骨芽細胞の集合体など2度と元に戻せないレベルでばっきばきにへし折れること請け合いだ。

 哀れ不埒者、喧嘩を売る相手を見誤ってしまうとは。だがこれも自業自得、斯様な非道を為した時点で実現が確定していた運命なのである。大人しく過去の科への報いを受けて、然るべき施設で骨を針金で繋ぐべし、だ。



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第二十七話 吊られた男と皇帝 その②

「こいつか?」

 

「おー……だろうなァ」

 

 手元の顔写真と、歩いていく後ろ姿を見比べる。顔は見えないが、あの特徴的な頭髪は見間違えようもない。間違いなく、あれがファーストターゲットだ。

 思いの外、早く見つけることができた。今日中に暗殺まで済ませられればと計画を立ててはいたが、まだ日の明るい時間帯に発見できたのはラッキーであった。後は人の目が少ないところまで歩いていくのを待って、任務に取り掛かるだけである。

 

「追いかけるかい?」

 

「無論」

 

 別に、人混みの中で殺してやっても良い。どうせスタンドは見えないのだから、一般人からすればポルナレフが突然血を吐いて死んだとしか考えられない。たった1発の弾丸で結構な額の報酬が自分のものになると思うと、今あのコック帽みたいな頭髪を支えている頭に銃弾をぶち込んでやりたくもなる。

 だが、J・ガイルはそれを望まないだろう。彼がポルナレフに望むのは単なる死去ではなく、激しい怒りを滾らせどす黒い憎悪を胸に抱かせた状態での無念の死なのだから。ただ鉛玉を撃ち込みナイフで刺すだけでは、楽しい殺しにならない。実際にそう言っていたわけではないが、そんな心の声が聞こえてくるようであった。

 

 殺せさえすればどちらでも良いホル・ホースとしては、J・ガイルの決定に従うつもりであった。趣味の悪い旦那だ。彼は密かに笑いを零した。

 

「……ん?」

 

 相棒が何かに気がついたかのような声を発する。どうしたのかと思い彼の目の向く先を追ってみると、ポルナレフが振り返って2人の方を凝視していた。よく見れば目線がやや下がっており、手の辺りにまでなっていた。

 成程、こいつ今()()()()()()()()()()。どうして自分達が怪しいと勘づいたのかはこの際瑣末事なので置いておくとして、渦中も渦中、原子核レベルの中核重要人物であるJ・ガイルはこの状況にどう対処するつもりなのか。ホル・ホースが横目でちらりと見たところ、彼はにたにたと下卑た笑みを浮かべて立っていた。

 

「あんさん、誘う気だな?」

 

 不敵に笑う男からの返事は無い。だが、ホル・ホースは彼の意図を正確に把握していた。人目の少ない適当な場所に誘き出して、それから憎しみだの怒りだのが破裂寸前まで込められた言葉を受け取り、満足したらスタンドで殺す。

 迫真の罵倒を受けて愉悦に顔を歪ませるのだから、ある意味真正のマゾヒスティック・アクションだ。まぁ人の性癖など千差万別なので、口を出すつもりは毛頭無い。どの道殺すのだから、最期に鬱積していた昏い負の感情を思う存分発散してもらっても良かろう。

 

 J・ガイルの両手を確認し、疑いが確信に変わったのだろう。鬼気迫る表情になり、大股で彼らの方へと詰め寄っていく。それとほぼ同タイミングを見計らって、偶然を装い手近だった細い路地へと進入する。そこには都合の良いことに誰も屯しておらず、すぐに追いついてきたポルナレフを含め3人のみが存在する空間であった。

 

「おい、そこの。ちょいと、聞きてーことがある」

 

 尤も、J・ガイルは路地に入るやすぐに近くの建物へと姿を消してしまったが。まずは隠れて様子見というところか。そういうことならと、少しばかりポルナレフの相手をしてやることにする。

 

「おめーの連れ……どこへ行った?」

 

「連れだ?何言ってやがる、おれは1人でのんびりとインド観光をしてるただの風来坊だぜ。連れなんざいねー」

 

「惚けはいらねーんだわ。ぶっ飛ばされるか居場所を吐くか、好きな方を選べや」

 

 一先ず何も知らない体を装ってみたが、流石にこれで騙される程の超弩級の阿呆ではなかったようだ。しかし物言いは完全に知性なき遅れた蛮族のそれである。自分が今、文字通り袋小路に追い詰められつつある鼠だと想像もしていないふてぶてしさに、思わず吹き出してしまった。

 

「あ?何がおかしいんだ」

 

「いや、なに。おめーのスタンドで、どうやっておれを『ぶっ飛ばす』んだかなぁって考えてたらよ。ちゃんちゃらおかしくて、笑っちまっただけさ」

 

 スタンド、確かにこのテンガロンハットの男はそう言った。間違いない、先程見つけた両右手の男と共に、こいつもDIOからの刺客だ。確信を強めるポルナレフの目に、彼のスタンドが姿を見せる。

 船を模していたストレングスを除き、今まで出会ったスタンドは軒並み人に近い形を取っていたが、こいつは拳銃型だった。攻撃方法は、恐らく見ての通りなのだろう。片手で銃を構えるその立ち姿は、まるで熟練のガンマンのように熟れていた。

 

「ならおれの方が、まだ吹っ飛ばせるぜ」

 

「何だ、そのオモチャは。もしかしてそれが、おれを吹っ飛ばせるとか宣ったてめーご自慢のスタンドかい!」

 

「あぁ。カードは『皇帝(エンペラー)』、統治や防御に関したカードなんだってなァ」

 

 ホル・ホース自身、タロットカードについては興味が無いため疎い。暗示する意味はカルカッタへの道中に本を読んで初めて知ったし、このスタンドがどうしてエンペラーの名を冠したのかというバックグラウンドの事情にも踏み込んでいない。

 ただ、最低限の強ささえあれば問題は無かった。このスタンドは誰かとバディを組んで初めて真価を発揮するサポート上等タイプであると、これまでの経験から理解し納得もしていた。……或いはこのようなスタンド使いこそ、恐れるべき相手なのか。なまじ強力なスタンドを適当に使う使用者よりも、特質を正しく把握できている者の方が危険値という意味では高くもあり得る。

 

「一応聞いておくかな。ポルナレフ、引き下がる気はあるか?今すぐここから尻尾巻いて、きゃんきゃん鳴きながら逃げ出すってんなら、()()()追うつもりは一切ない。去るもの拒まずってのはおれのモットーだからよ」

 

「ほざけ!てめーのような自信家は、常におれに負けるぜ!」

 

「そうかい」

 

 じゃあ、死にな。引き金にかけた指に力を込めて、どぉんという重い音と共に弾丸が射出された。直径数cmの流線型の鉄は一直線にポルナレフを目指し、空気を割って突き進んでいく。その速度たるや、音にも迫らんという程であった。

 しかし、シルバーチャリオッツは本体であるポルナレフが認識できるものを何だって切り伏せられる。本体の視覚に依存したスタンドというのは中々に珍しく、エボニーデビル戦ではこの特性を逆手に取られて大いに苦戦したが、今は寧ろ有利に働く条件となっている。元よりスタープラチナにも匹敵する高速スタンドの使い手だ、ただ速い物体などとうに見慣れている。さらに甲冑を脱げば、速度はいよいよもって尋常ならざる領域に到達する。1つの弾丸を切り落とすことなど、造作もなかった。

 

「なっ、なにィーーーーッ!」

 

 余りに、早計であった。銃がスタンドであると理解していながら、どうしてその弾丸について考えを巡らせなかったのだろうか。普段のポルナレフなら用心深く立ち回った可能性もあったが、今の頭に血が上った彼は、ただそれなりに強いスタンドを考えも無く振り回す愚者でしかなかった。

 弾丸は、甲冑を脱ぎ捨てたシルバーチャリオッツの剣を避け、瞬時に軌道を再変更してポルナレフの額中央部に照準を合わせた。あっ、と思った時にはもう遅い。凶弾は、彼の目と鼻の先にまで迫り来ていた。人間の身体能力で、10cm先から飛んできた弾丸は躱せない。至極現実的な道理から、ホル・ホースは自らの勝利、そして1人目の死を確約された。

 

「『魔術師の赤(マジシャンズレッド)』ッ!」

 

 だが、約束は寸での所で反故にされた。ホル・ホースの見立てが甘かったわけではないだろう。まさかこんな絶好のタイミングで、よりにもよって邪魔が入るだなんて普通は考えつかない。不意を突かれたのも、仕方ないと言える。

 

「ぐおゥッ……こ、この野郎」

 

 至近距離まで迫ってきた炎の熱さに、呻き声が漏れた。炎ということで誰が駆けつけてきたかは分かっていたが、一先ず後退し新手の顔を確認する。思っていたのと違いなく、色黒で長身の若造だった。

 

「ポルナレフ!無事かッ!」

 

「あ、アヴドゥル」

 

 九分九厘掴みかけていた勝ちが、熱で溶かされてしまった。やってくれたな、と心の中で吐き捨て、まだ制御可能な範囲を飛んでいた弾丸を呼び戻す。普通の銃とは異なり、本体に近ければ近い程銃弾の威力は向上する。この時、弾の移動距離は一切関係してこない。

 

「心配してきてみれば、これだ!だからわたしは言っただろう、チームを組めと。そうでなければ、ここから先を勝つことなどできんぞ!」

 

「て、てめーこの期に及んでおれに説教垂れる気か」

 

「ぶつくさ言っている暇があったら、スタンドに意識を向けろ!幸いなことに、数の上ではこちらに利がある!」

 

 弾丸が戻ってきたのは、アヴドゥルもしっかりと気がついていた。やはり冷静な男だ。登場してすぐポルナレフを救い、敵が銃型スタンド使いであると見るや弾丸の出戻ってくる可能性を検討する聡明さは、ホル・ホースも敵ながら天晴と評価せざるを得ない。

 炎を唸らせて、弾丸を迎え撃つ。凄まじい熱量を誇るアヴドゥルのマジシャンズレッドなら、飛来する弾丸を空中で融解させることだって可能だ。全身を炎の盾で囲まれれば、背後を取ることもできなくなる。やはりホル・ホースにしてみれば、()()()()荷が重い相手であった。

 

「数の利、ねェ」

 

 ホル・ホースは、己のスタンドが必ずしも最強ではないと認められるだけの心の余裕を持っている。ペアで勝利を収めるのが彼の基本的なスタイルであり、そのためなら我を消すことだってできる。ここまでアヴドゥルが知っていれば、状況はまた変わっていたのかも知れない。

 マレー半島周辺海域を襲った、連日の大嵐。その雨雲の一部は、インドにも流れ込んで少なくない降雨を齎していた。特に陽の当たり辛い裏路地など、溜まった水が乾くのにも時間がかかるわけで。

 

「な……!」

 

 足元にできていた水溜まりは、アヴドゥルの背中をくっきりと映していた。彼にとってはこの上ない不幸で、また隠れていたJ・ガイルにとっては思いがけない幸運でもあった。

 どすり、と背中を貫かれる感覚。咄嗟に振り返れば、そこには何もいない。否、自身の映り込んでいる水溜まりが、真相を雄弁に物語っていた。水ではなく水面に潜み、反射の世界で暗躍する恐ろしいスタンド。これこそがJ・ガイルのハングドマンであり、幾ら彼でも事前の知識が無ければ対処など不可能であった。

 

 背中が大きく仰け反る。痛みと驚愕とでスタンドの制御が乱れ、炎が揺らぐ。密度を失った疎らな炎では、弾丸を溶かし切ることはできなかった。

 

 彼の額を、凶弾が穿つ。真紅の血が、彼の体の周りにスプリンクラーで撒かれたかのように飛散した。受身を取ることもなく、衝撃そのままに地面へと倒れ込んだ。

 

「悪いな、アヴドゥル。残念なことにイーブンだ。いや、逆におれたちがアドバンテージを頂いちまったな!」

 

 フォーティー・オールにゃあ戻らんぜ。揶揄うような口調で宣言したその文言は、あたかも死神による宣告のようであった。

 J・ガイルはスタンドを引き下げて、次はポルナレフを仕留めようと機を窺い始めた。ホル・ホースもまた銃を構え直し、照準を脳天に定めた。

 

「おい。おい、アヴドゥル。

 

 モハメド・アヴドゥルッ!?」

 

 絶体絶命の状況下で、それすら目に入らないとばかりに倒れ伏す男の名を呼ぶ。半ば叫ぶようでもあったが、男は答えない。頭部からはとめどなく鮮血が溢れ出し、瞬く間に鈍い紅の池を作る。瞼は完全に帳を下ろしており、開く気配を見せなかった。



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第二十八話 吊られた男と皇帝 その③

「よう、ポルナレフ。何年も熱心に、おれの追っかけをしてくれたらしいじゃねェかァ~~~~ッ!おれは嬉しくて、涙がちょちょ切れちまいそうだぜ!」

 

 承太郎、ジョセフ、花京院。3人ともこの場に姿を見せてはいない。強敵であるアヴドゥルは既に脳天を貫かれて沈黙しており、この場で戦えるのは双方にとって非常に相性の良いシルバーチャリオッツのみであった。

 ここぞとばかりにポルナレフを煽ろうと、J・ガイルは隠密行動を止めて彼の前に姿を現した。不自然に縦へ伸びた痣だらけの顔、瞳の見えない細い目。直視を躊躇う醜悪な外見が、初めてはっきりと晒される。

 

「教えてくれよ。今どんな気持ちだ?妹を凌辱の末に殺され、仲間も無残に失い、後者はどう考えても自分のせいだ!

 言え、救いようの無い大阿呆!今のてめーの、飾らぬ率直な気持ちをよ~~~~ッ!」

 

 外見に違わない、いや、それ以上の下衆な性格をフルに発揮してポルナレフを精神的に追い詰めていく。彼を倒すのに必要な過程ではない。単なる道楽、人が苦しむ姿を見て愉悦を覚えるという趣味の発露であった。

 卑劣漢により徹底的に虚仮にされたポルナレフの心は、感情の大規模な氾濫に苛まれていた。妹を殺した男への怒り、目の前で一瞬のうちに命を散らしたアヴドゥルへの衝撃、そして悲しみ。それら全てが複雑に混ざり合い、とても現時点での自身の感情を言葉で説明することはできなかった。

 傍らに出したシルバーチャリオッツを、ぴくりとも動かせない。精神力の具現化たるスタンドを操るには、当然安定した精神が求められる。これだけ乱れに乱れたメンタルで、スタンドなんて到底意のままにはできない。甲冑に身を包んだ騎士は、最早無用の置き物と化していた。

 

「その表情(カオ)だ。それが見たかったんだよ。あぁ、良い。満足できたぜ」

 

 本人の意思を遥かに超えて感情は荒れ狂い、表情はそれを如実に表現し得なかった。どうとも付かない曖昧で奇妙な面持ちは、まさにJ・ガイルの望んでいたものであった。醜怪な容貌をさらにぐしゃぐしゃに歪ませて、まるでこの世の醜さを全て結集したかのような悍ましい笑顔らしき何かを顔に貼り付けた。

 

 ポルナレフの足元にある水溜まりへ、ハングドマンが移動する。肩に手を掛け、逆の手でナイフを構える。首を後ろから穿つ準備が、整えられてしまった。

 1秒でも早く水溜まりから離れて難を逃れなければならないのだが、昂りに昂った心が体の動きを完全に阻害してしまっていた。頭が真っ白になるとは言い得て妙なもので、思考が脳漿の上面を上滑りし続けているような状態であった。ポルナレフ本人がそれを自覚し修正を試みるのは、心ここに在らずであったが故に不可能であったけれど。

 

「ありがとよ!兄妹揃って死ぬ直前におれに貢献してくれて ──」

 

 

 

 

 

「エメラルドスプラッシュ!」

 

 セメントでも流し込まれたかのように硬直していた体が、裂帛の気合いを込めた声と飛来してきた煌めく塊によって束縛から解き放たれた。若々しい男の声には、聞き覚えがあった。弾かれたように、急ぎ後方へと引き下がり、安全な場所を確保する。

 

「下がってな、当たりそうなやつだけ撃ち落とす!」

 

 またしても想定外の闖入者が現れたが、2度も焦りを見せるホル・ホースではなかった。すぐさまエンペラーの引き金に指を掛けて、飛んでくる結晶を次々に撃ち落としていった。1発たりとも無駄に撃つことはなく、放たれた弾丸は正確無比に襲撃物を退けていく。

 黒い餓鬼の次は、黄色の餓鬼か。拳銃に意識を集中させながらも、悪態は吐かずにはいられなかった。仲間の危機に駆けつける情熱とやらは大変ご立派だが、こうも割り込まれては仕事に小さくない影響を及ぼすので、極力遠慮頂きたいものだ。もし恙無く事が進んでいたら、今頃その辺りにポルナレフの死体が転がっていただろうに。

 

 暫し遠距離型のスタンド同士が飛び道具によるラッシュ合戦を繰り広げた。エメラルドスプラッシュは2人に届かないが、一方のホル・ホースも弾丸の軌道を曲げてハイエロファントグリーンの使い手──花京院を直接撃ち抜く余裕まではなかった。戦況は俄かに拮抗の気配を見せ始めていた。

 だが、このまま撃ち合いを続ければ利はホル・ホースの方にある。スタンドのエネルギー消費量の観点に立つと、エメラルドスプラッシュという大技を継続している花京院と通常攻撃で往なしている彼とでは、どうしてもじわじわと体力面で差がついてしまう。幸いなことにこれ以上熾烈な攻撃を仕掛けてくる様子はないので、このまま粘って花京院のペースが落ちてきた隙を突く。これで2人目も頂いたようなものだ、とホル・ホースは微笑を浮かべた。

 

「今です!()()()!」

 

 正直、花京院のことを甘く見ていた節はある。まだ17かそこらの、それも命の危険が少ない平和な島国で育ったとんちき野郎なんぞ相手にもならないと考えていた。彼の洞察力についても、恐るるに足らずと無意識のうちに決め込んでしまっていた。

 急に翠玉の雨が止む。それと同時に、身の丈2mに迫ろうかという巨躯の男が突っ込んできた。短距離走でなら世界を獲れるのではないかという程のスピードで地を蹴り、瞬く間にポルナレフとアヴドゥルをそれぞれ肩に抱えるに至った。

 

「しまった!狙いははなからその2人だったかッ!」

 

 成程、ポルナレフ達を救うに当たって一計を案じていたらしい。ジョセフ・ジョースターの姿は2人からは見えていないが、何処かに控えていると考えた方が無難であろう。まさか単身突撃してくるとは思わず、対処が遅れたホル・ホース達を他所に、承太郎は来た道を戻ろうとする所であった。

 

「こいつが『星の白金(スタープラチナ)』か!させねぇぞッ」

 

 ハーミットパープルを過剰に恐れていては、獲物をみすみす取り逃してしまう。多少のリスクを覚悟して、3発の弾丸をスタープラチナ目掛けて叩き込んだ。

 だが、それらの銃弾は全て一挙に指でキャッチされてしまった。そのままあっさりと握り潰されて操作不能になる。

 

「ヒューッ!こいつぁグレートだな!」

 

 銃弾さえ防ぐとは、スタープラチナは相当に俊敏で正確な動作を可能とするスタンドらしい。DIOの傍にいる老婆から話は聞いていたが、これは想像以上だ。複数の軌道を描いて襲えば、荷物お抱えの身くらいどうとでもできるだろうが、既に承太郎はホル・ホースからかなり距離を取ってしまっている。これでは仮に全弾命中させたとしても、威力が大きく落ちてしまうのでさしたるダメージにもならないだろう。

 これ以上やり合うつもりはないらしく、学生コンビは足早に雑踏の中へと引き上げていった。追いかけようにも、この人混みの中に逃げ込まれては見失う可能性が高い。舌打ち1つ、彼は発現させていたエンペラーを消した。

 

「あーあー、逃げられちまったなァ。こりゃ参った」

 

 当初の予定ではポルナレフをさっさと仕留めて、それからジョセフ、花京院、承太郎と来て最後に1番の難敵たるアヴドゥルを片付けることになっていた。それが狂いに狂って、何故かアヴドゥルだけを潰したというのは、偶然を超えた何かの意思というか皮肉を感じなくもない。結果論だけで見ればより多くの敵対戦力を削れたわけだが、どうも納得がいかない。

 差し当たっては、これからどうするかを決めなければ。1人殺されたということで、ジョセフ側も警戒を強めるのは分かりきっている。如何にしてその網を潜り抜け、標的(ターゲット)を殺すかだ。やりようは幾つかあるだろうが、いずれにせよパートナーであるJ・ガイルとの相談は必須である。

 

「J・ガイルのだんな……ん、追ったのか?」

 

 とことんポルナレフを始末する気らしい。インドへ来るまでの道のりでも1人の美しい女に執着していたとか言っていたし、もしかして1度狙った獲物は絶対に逃がしたくない質なのだろうか。女好きとして気持ちは理解できないでもないが、今は2人1組で行動しているのだから勝手な単独行動は慎んで欲しいところだ。

 我の強い、それもなまじ行動力のある奴だと扱いが難しい。溜息混じりに愚痴を零して、ホル・ホースは往来の方へと歩き始めた。今日泊まるホテルを1人分だけ予約しておくために。彼の分は知ったことではない、勝手に野宿でもしていろというものである。もし列車の中で出会った絶世の美少女について話をしてくれるというのなら、それに免じてもう1部屋予約を取ってやっても良いのだけれど。

 



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第二十九話 吊られた男と皇帝 その④

──とやらに、■■を行かせた。

 

成果は、無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この人集り、歩くのですら難しいわ」

 

人を掻き分けえっちらおっちら、分速30m程度のスローペースでフランドール達はカルカッタの街を歩いていた。路脇では様々なご飯の露店が出され、数mおきにがらりと変わる良い匂いが、程良く空いてきたお腹に甘い誘惑の言葉を囁いてくる。

模擬戦で体の感覚も充分に取り戻し、良い汗をかいたということでホテルを目指しているところだ。だが、折しも人の往来の激しい時間帯と重なってしまったようで、前に進むのも一苦労といった苦境であった。

 

「咲夜、手を繋ぎましょ。逸れたら面倒だわ」

 

この人混みで互いを見失ったら、地上から見つけるのは一苦労だ。高い所、例えば空中からなら発見もある程度は容易になろうが、まさかこれだけ人の目がある中で白昼堂々と空を飛ぶわけにもいかない。近くに往来を見下ろせそうな高さの建物も立っていないし、高所からの捜索は非常に現実性に乏しい。

リスクを想像し、予めそれを打ち消しておくのは、賢き者だけが思いつく完璧な作戦だ。ちょっとだけどんなものだと言わんばかりの表情になりながら、横にいるはずの咲夜に向けて左手を差し出す。

 

「……咲夜?」

 

しかし、数秒待っても彼女はその手を握らなかった。それどころか、返事もしない。不審に思って彼女のいる方向を向いてみたところ、何と隣にいるはずの咲夜の姿が何処にも無い。

フランドールを放り出して何処かにふらふらと歩いていくようなお惚け者ではない。何せ行動の全てがきっちりとしていて、そうする理由も他者から見てなお明白だ。寧ろこちらが理由も無い漫然とした外出を咎められるくらいだ。つまるところ、成程これはあれだな、

 

「……逸れた」

 

フランドール・スカーレット。御歳500歳目前。インド第3の都市、カルカッタにて迷える子猫と化した。

人が多過ぎて、立ち止まって探せそうにもない。取り敢えず流れに従って前に進み、人の量が減ってきたところで咲夜を待つのが良いだろう。そう考えて、一流サーファーよろしく人の波に上手く乗って歩いていった。ただ単に体がちみっこいから、その分人と肩や足がぶつかる可能性が低いだけとは言わぬが花である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何処よここ……」

 

咲夜と逸れたことが発覚して、はや15分。適当に入った裏路地の中で、フランドールは忌々しげにぼやいた。路地内で反響するような声量ではなかったため、彼女の愚痴はそのまま空間に溶けて消えていった。

計画通り、人の流れが途切れた一瞬のタイミングを見計らって、とある路地の中へと踏み入っていったまでは良かった。そこは幸運にも──どちらが幸運なのかは推して知るべしだが、素行の悪いごろつきや変質者がいなかったため、安心して通行することができた。

 

問題はその後である。無闇に歩き回らずじっとしていれば、いずれ咲夜が見つけてくれただろうものを、あろうことかフランドールは自分の足でもメイドを捜索すると決断してしまったのだ。土地勘の無い地で、ホテルすら満足に歩けなかった方向音痴少女が当てもなく彷徨い歩けばどうなるか。結果など火を見るよりも遥かに明らかではあるが、敢えて言葉にしてみるとしよう。

 

「これは失敗だったかなぁ」

 

事態は、いよいよ複雑に捻じ曲がってしまった。咲夜はフランドールが通りそうな道を計算しつつどちらの方向へ向かった可能性が1番高いかも交えて行方を追っている真っ最中なのだが、当の彼女は『何となくこっち』のスタンスで歩き続けたため、奇しくも咲夜の組み上げた綿密な計算を根底から否定するかの如きルートを辿っていた。天才が極限まで理論的に動いた場合、その動きを先読みできるのはさらなる天才か、もしくは完全なる無意識下において取られる全く出鱈目な行動であると言われているが、今回フランドールはその身でもって後者を証明したことになる。

まぁ、一刻も早く合流したいという気持ちがあったが故の選択なので、余り茶化したり責めたりとはできないが。こんな時に彼女の姉なら、痺れを切らして奥の手を使う(空を飛び出す)だろうから、そうしなかっただけまだ理知的な判断とも言えよう。己の迷子性能については、事前にちゃんと把握しておくべきだったろうとはいえ。

 

「……うわぁ」

 

この裏路地は、どうやら()()()であったらしい。怖そうな男や見るからに怪しい薬を売り捌く行商人こそいないけれど、戦闘行為はさっきまであったんだろうなぁと思わせる痕跡が残っていた。足元に、血が飛び散っている。中々にスプラッターな光景に、思わずどん引きの声をあげてしまった。

吸血鬼なんだから、血を見たら寧ろ興奮するんじゃないか。確かに種としての特性を考えてみればそんな気がするが、では人間が地面に落ちてもう既にかなりの時間が経過していると思しき腐敗した牛肉を見て、美味しそうだなんて思うだろうか。それと同じで、地に落ち腐った血など、吸血鬼の食欲を微かたりとも刺激しやしないのだ。

 

「んー。あまりここに長居はしたくないなぁ」

 

犯人は必ず現場に戻ってくる。以前読んだ本の中で、東洋人の刑事がハマキなる煙草らしきものを咥えながら言い放っていた。東洋的な観念がこのインドで通用するかは微妙な感じがするが、可能性として無くはないだろう。時間を置いて様子を見に来るくらい、あったって不思議ではない。

そんな奴らと鉢合わせになったら、絶対攻撃される。断言しても良い、何なら命を奪いにかかってくるかも知れない。それは何としても避けなければならないだろう。フランドールの身の安全のためでもあるにはあるのだが、もし戦闘中に咲夜がフランドールを見つけたらどうなるだろう。言うまでもない、襲っていた連中は漏れなく、土の下行き片道チケットを無料で進呈されることになる。こと吸血鬼姉妹のことになると判断が過敏になりがちな咲夜は、止める間もなく時間を停止して()行に及びかねないのだ。

 

血の見える場所でじっとしているのは御免だ、気が滅入る。ここの出口付近で、ちょっと待ってみよう。もしかしたら咲夜も、今頃この近辺を探しているかも知れない。希望を胸に、出口を目指して再びてくてくと歩き出す。

 

「おォー。可愛いお嬢ちゃん」

 

後ろからかけられた声に、おやと振り向く。気配は無かったと思うのだが、背後に誰かいたようだ。見落としていたかとちょびっとだけ反省しながら、話しかけてきた男の目を見る。

 

「あら、結構良い男。貴方はだぁれ?」

 

「嬉しいこと言ってくれんじゃないの。おれはホル・ホースってんだ。お嬢ちゃんのお名前も是非聞きたいもんだねぇ!」

 

「私?フランドール。フランドール・スカーレットよ」

 

「良い名前だ、かっちょいいぜ」

 

如何にも西部劇に出てくるガンマンといった服装の男は、フランドールの名前を格好良いと評した。いやそこは可愛いじゃないのか、と当の本人には疑問を抱かれていたが。褒めてくれているのは何となく分かるので、まぁ良いかと気にしないでおいた。

あの本に書いてあったことが、少なくとも今回は的中していた。それにフランドールが気がつくのは、もうあと暫く先の話であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「時にフランドールちゃんよ」

 

裏路地での邂逅を経て、2人はとある酒場に場所を移していた。個人経営だがそこそこ広い敷地を持ち、まだ日の明るい時間帯から飲んだくれ共が集まって席の7割程度を埋めていた。

店を選んだのはホル・ホースであり、理由は『雰囲気が良さそうだと思った』から。選択眼は結果的には間違っていなかったが、見た目子供を連れてアルコール飲料が主として出される店へ入るのは如何なものか。各国によってアルコール摂取の許可が下りる年齢がまちまちであるとはいえ、流石に10歳にも満たないような幼子に飲酒を許している国は無い。選んだ彼も彼だが、店に入れた側もやや倫理的な視点に欠けた所があると言わざるを得ない。

尤も、年齢的にはフランドールはとうに酒を飲めるゾーンにいるのだけれど。何せ見た目が童女なものだから、もし警察にでも見られようものなら1発でホル・ホースはお縄確定である。罪状は幼女拉致と幼女飲酒強要未遂などになるだろうか。恐らく世界で初めてであろう逮捕されたスタンド使いになる危険を、彼は果たして充分に承知しているのか。こんな不名誉な称号も、そうそう無い。

 

「フランドールで結構。何かしら」

 

「何でおまえさん、裏路地なんかにいたんだ。危ねぇぜあぁいう所は、暗いし女が1人でひょいひょい入る場所じゃねぇ」

 

「人を探してたのよ」

 

正確には、今も探してるんだけど。そう言ってから、オーダーしたオレンジジュースに口を付ける。この店では非アルコール飲料の品揃えも良く、フランドールが愛してやまないフルーツオレまで用意されていた。

酒場の体を取っているので頼む者は少ないそうだが、これは即ち品切れを起こしている可能性が限りなく低いということ。安心して好きな飲み物を注文できる喜びを、オレンジの爽やかな酸っぱさと共に味わっていた。

 

「ほう?どんな奴だい、もしかしたらおれが覚えてるかも知れねーな」

 

「銀髪の美人。歳は16かそこらでメイド服を着てて、カチューシャも付けてるわ。目の色は透き通った青、まるで綺麗な海のように」

 

「ふーむ。そんなかわい子ちゃんがいたら、おれは絶対見逃さねーんだが」

 

ホル・ホースは、咲夜を見かけていなかった。彼の言った通り、もしすれ違いでもしていたら、するすると口説きに行っていたはずだ。世界中に利用できる女を持っておけば便利だと考えてはいるが、それはそれとして美しい女は好きだから。一緒に食事などを楽しんで自分に好意を持たせ、何か用事ができたらその女に頼むというのがホル・ホースの常套手段であった。

 

「ま、飲めよ。ここは人の集まる酒場だ、待ってりゃフランドールちゃんの探し人も来るかもしんねぇぜ」

 

「……まぁ、そうかもね」

 

だからちゃん付けで呼ぶなと言っているのに。一々否定するのが面倒に感じたので、言われるがままに流したが、本音は普通に呼び捨てにしてもらいたい。ジョセフのそれと違って、この男のちゃん付けには何か強烈な違和感を感じるのだ。嫌とまでは断言できないが、背筋をぬるぬるしたものが這っていくような怖気にも似た感覚があるので、苦手である。

しかし、この男の言い分も尤もだ。大通りを粗方探して見つからないとなれば、次に咲夜が探す所は人が集まりやすいという条件を備えているだろう。ここへ足を運ぶことも有り得るので、幾らかの時間を待たせてもらっても良いかも知れない。

 

「貴方は」

 

「ん?」

 

「貴方は、どうしてあそこに来たの?危ないと分かっていて」

 

「おれかい。あー……物を落としちまってな」

 

落し物を拾いにきたのか。一瞬納得しかけたが、ここで新たな疑問がフランドールの脳裏を過ぎる。以前にも1度あの路地を訪れていなければ、あそこで落し物をすることはできないじゃあないか。では1度目に、本人が危険だと認識している場所へ立ち入った理由は何か。

プライベートな領域にも関わり得る話だ。あまり深く掘り下げない方が良いのはフランドールとて理解している。だが、妙に引っかかった。根拠など薄っぺらいものですら用意できず、彼女自身どうしてこうも後ろ髪を引かれるのだろうと訝しんだくらいだ。

 

「ふぅん。見つかったのかしら」

 

「残念ながら、まだ。後でもう1度探しに行くつもりだぜ」

 

「Good luck to youと言っておきましょう」

 

「You tooってところか」

 

結局、脳内で疑問を消去して、ホル・ホースの幸運を祈るに留めておいた。突っ込み過ぎて彼に不快感を抱かせては悪いし、彼女もいたたまれなくなってしまうから。別に足を踏み入れてたって、それが必ずしも悪事に繋がるわけでもない。単に近道をしたくてささっと通ったと考えるのが、1番自然ではないか。今のところ彼からは危険な香りを感じないので、最低限の警戒以外はしなくたって問題無い。

心に微量残ったもやもやを洗い流すかのように、オレンジジュースを一息に飲み干す。それから間髪入れずにフルーツオレを注文した。お腹壊すぜ、というホル・ホースの真っ当な忠告には、強い体だから大丈夫だと答えておいた。



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第三十話 吊られた男と皇帝 その⑤

 カルカッタでも最大の経営規模を誇るホテルの、7階の一室。そこには、張り詰めた重い空気が立ち込めていた。

 男が4人、円陣を組んで床に座している。皆の表情は硬く、隠し切れない緊張が見て取れた。それもそのはず、男達が今戦わねばならぬのは仲間の敵だ。これまでの戦いとは、意義が異なってくる。事は単なるDIO配下のスタンド使い撃退に留まらない。

 

「各々考えていることはあろうが、まずはJ・ガイルとかいうスタンド使いへの対処じゃな。それと一緒にいたガンマンも合わせてかの」

 

 最も歳を重ねているジョセフが、場を仕切っていた。率先して立候補したわけではなく、自然とそうなっていたが、彼はこの役目を降りなかった。今際の際を目の当たりにしてしまった若い者達、そんな彼らにこの上負荷をかけたくないという気持ちも彼の中にはあった。

 共に戦い、時に喧嘩もしながら笑い合った仲間がいなくなってしまう悲しみを、ジョセフは身をもってよく知っていた。50年経った今でも、心に隙ができればふと脳裏を過る光景がある。激闘の末に岩の下敷きになり、血の他に最期の姿も拝めなかった無二の友人は、結局そのままだ。それでも、泣き叫んでも、当時の彼は師と共に前へと進んでいった。立ち止まれないから、大きな使命があったから。

 

 頭を振り、意識を今に集中させる。旧友を思うと感傷的になりがちなのは、ジョセフ自身良くない癖だと思っていた。今この瞬間に、為すべきことがある。それに全力を注がなければ、命より大切な可愛い一人娘が呪いに耐え切れず落命してしまいかねない。

 

「承太郎、花京院、それからポルナレフ。わしはそいつらを見ておらんから何とも言えんが、どんな奴らじゃった?」

 

「スタンドかい。J・ガイルは知っての通り鏡を使う。鏡に潜み、そこから奇襲をかけてくる。横にいたのは、多分だが拳銃のスタンドだな。銃弾の軌道を操れるらしい」

 

 救出当初はアヴドゥルの悲劇が原因で錯乱していたポルナレフだったが、既に平時の落ち着きを取り戻していた。アヴドゥルとの口論を振り返り、激情の余り協調性を失っていたと認められるまでに理性が回復していた。絶対に奴ら2人を許してはならない、その気持ちを確かに胸にしまい込み、承太郎達に対して真摯に謝罪をした。

 J・ガイル達を許せないのは、彼らとて同じことだ。ここに一行は、再び強く団結した。アヴドゥルの無念を晴らし、またポルナレフの復讐を遂げるために。

 

「それも、複数個同時の操作ができる。承太郎のスタープラチナだから止めはできましたが、ぼくたちでは難しいでしょう」

 

「そうじゃな。不規則に飛ぶ銃弾を止めるというのは、中々に難儀よの」

 

 対多数の戦いにおいて、攻略する順番というのは中々に大切になってくる。大将首を真っ先に狙うのか、周囲の雑兵から処理するのか、はたまた参謀的な役割を担う者を最優先対象とするのか。順番を変えれば戦況も変わり、勝敗さえ動き得る。故に、見誤るはご法度だ。

 

 ジョセフは、参謀及びサポート役を先に討ち取ることを選択した。コンビのうち頭脳がやられれば、他方にも焦りが生まれるはず。そこを叩くのが最も安全にして確実であると判断した。

 タッグを組んでいるからと言って、24時間行動を共にしているとは考え辛い。必ずそれぞれが1人でいる時間があるはずだ。話を聞くに、先に攻め立てるべきは拳銃を武器にしている方か。厄介な能力ではあるが、鏡を駆使してトリッキーな攻撃を可能とするJ・ガイルよりは算段が立てやすいと見ていた。

 

 ジョセフの提案に、異を唱える者はいなかった。J・ガイルの能力は現状底が知れず、謎の拳銃型スタンド使いの力添えもあって無策で戦えばさらなる犠牲者を出してしまう可能性があった。敵の主体をJ・ガイルとし、彼に付随する戦力を削るのが得策ということで皆の意見が一致した。

 

「花京院、おまえのエメラルドスプラッシュと奴の早撃ちでほぼ噛み合ったんじゃな」

 

「えぇ、撃つペースはほぼ互角でした。ですのでぼくが奴と撃ち合い、足止めしている所を誰かが仕留めるという形はどうでしょうか」

 

「ふむ。しかし、そうするのであれば1番危険なのはおまえじゃぞ?」

 

 前面に出て撃ち合えば、その間だけはまさに1対1。小細工無しの真っ向からの勝負を強いられることとなる。一瞬の迷い、判断ミスがそのまま命取りだ。スタンドさえ封じてしまえばスタープラチナなりシルバーチャリオッツなり、近距離型のスタンドで本体を倒せば良いだけだが、仮に花京院が撃ち始めてから10秒で誰かが背後を取り敵を撃破するとしても、10秒間は亜音速で飛ぶ銃弾の前に無防備な姿を晒していなければならない。効果は期待できるが、極めて危険な方法だ。

 弾入りの銃を向けられて、焦らない人間などいない。ごく一部の銃弾に対応してしまう超人はその限りでないが、特殊な訓練を積んでいない一般人はまず逃げようとするだろう。銃口を向けられるのを極端に恐れ、遮蔽物などに身を隠しやり過ごそうとするだろう。……だが、花京院は違った。己の勇気を奮い起こして、危険な道へと足を踏み出す強さを見せた。

 

「問題ありません。必ず全うしてみせます!」

 

「……そうか。あいわかった、花京院に足止めを任せよう」

 

 誰が花京院の決断を蛮勇と嘲笑えようか。万丈の覚悟を示した男に、危ないから引き下がれとは言えなかった。勇気ある若者の決断により、一行の作戦は概形を与えられた。確かな形が作られ中身が充填されるのも、この分では時間の問題であった。

 だが、計画をそのまま遂行すること程に上手くいかないものもそうそう無い。これもまた事実であった。ジョセフ達がJ・ガイル組の動向を考えながら作戦を練っているならば、その逆とてあるのだから。

 4人の滞在しているホテル、その玄関口に忍び寄る暗い影。果たして何者か、敵か味方か。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 1度小休止を挟もう。ジョセフの進言により10分の休憩時間を得た承太郎は、外へ飲み物を買いに出てきていた。1時間ぶりに吸うホテル全体の空気は、特に美味いとも不味いとも感じなかった。ただ少しだけ、室内よりはひんやりとしているように思った。

 トイレ横に設置されている自動販売機に10ルピーの紙幣を入れる。日本円に換算すればおよそ150円、これで缶が1本と考えると少々お高い気もするが、喉の渇きには逆らえない。コーラを選び、落ちてきた缶のプルタブをかしゅっと開けて一息に飲み干した。強い炭酸、甘さは控えめで、総じて日本のものより彼の好みだった。

 

 ついでだから、他の3人にも何か買っておいてやるか。代金は倍の額をジョセフに請求するとして、無難に水で良いだろう。3本分丁度の金を入れようと財布の小銭を見繕っていたところに、向こうから1人やってきたので顔を上げた。

 

「ポルナレフ」

 

「よう、おまえも飲みモンか?」

 

「あぁ」

 

 ポルナレフも飲み物を求めてここまで来たらしい。一旦場所を譲り、その間に金を整えておくことにした。彼が買ったのはミルクたっぷりのコーヒーであった。意外にも、甘口を好んで飲むらしい。面食らった表情の承太郎に、彼は気がつく素振りを見せなかった。

 壁際の椅子に腰掛ける。ペットボトルの蓋を開け、これまた一息で半分以上を飲み干した。一気飲みなど品が無いと注意する係は今ここにいないので、心置きなく大量のミルクコーヒーを胃へと輸送してやれる。やれやれだぜ、そう呟いて承太郎はひしゃげさせたコーラの缶をゴミ箱に向けてぶん投げた。缶は綺麗な放物線を描き、見事ゴミ箱の中にシュートされた。それを見届けてから、彼もポルナレフの隣に腰を下ろす。

 暫くの間、ポルナレフが茶色の液体を浴びるように飲んでいるのを横目に見ていた。やがて飲み終えて、同じようにペットボトルが捨てられてから、彼はぽつぽつと語り始めた。

 

「おれぁよ、しょーじきな所まだ完璧に冷静だとは思わねー」

 

「そうか?」

 

「そうだとも。泣いて謝っといて何だがよ、まだ腸煮えくり返ってんだぜ?おれはよ」

 

()()()()()()()()()()()()

 

 人間は感情を切り離せない。何千年も昔から、そういう風にできていないからだ。故に、苛立ちの余り叫びたくなることだってあるだろう。路傍の石を力の限り蹴り飛ばしたくなることだって、あるかも知れない。

 だが、今のポルナレフはそうした負の衝動を押さえ込むだけの精神力を会得していた。1度脆くも崩れ去りかけた彼のメンタル的な強さは、仲間の支えもあってより強化を施された状態で戻ってきた。ポルナレフ自身それは薄々ながらも実感しており、まるで神経が剥き出しになったかのように鋭敏な感覚を捉えていた。

 

「その通り。これ以上は無いってくらいにムカついてるが、おれはこのチームのメンバーだ。『和』ってぇのは乱せない、そうだろ?」

 

「……」

 

「ふふ。あの気障っぽいテンガロンハットの野郎を倒すのは、おれに任せてくれや。承太郎、おめーに万一があっちゃあいけんしジョースターさんに無茶はさせらんねぇ」

 

 じじいはご丁寧に扱わなきゃ、バチが当たんぜ。けけけ、と笑ったポルナレフに、承太郎の頬も少しばかり緩む。一瞬で距離を詰め、刹那で戦闘不能に陥らせることができるスタンドとなれば、最適解はシルバーチャリオッツだ。彼の言う通り、任せてしまうのが良い。それにポルナレフ自身、修行を積んだスタンド使いだ。ここ一番でしくじるようなこともあるまい。そういった意味でも、安心して一任できる。

 姿勢を直そうと少し動いた拍子に、財布がポケットから落ちてしまった。幸いにも落下の衝撃で中身が四散なんて憂き目は見ずに済んだので、身を屈めて拾うだけだ。磨いたように光沢のある床、そこに映る影は3つあった。

 

「ぬおォ!」

 

「ンなッ!こいつはッ!」

 

 脊髄反射が、承太郎を救った。普段の反応に倍する速度で体を横に逸らし、鼻先にまで迫っていたナイフを寸での所で躱した。刃先が頬を掠り、浅い切れ込みを承太郎に刻み込む。少量の出血と鋭い痛みを無視し、すぐさまスタープラチナを繰り出した。だが、床の中の承太郎を襲った謎の包帯男──J・ガイルの『吊られた男(ハングドマン)』は既に行方を眩ませていた。

 

「ちくしょう、追ってきたのか!迂闊だった!」

 

「野郎ッ」

 

「待て!承太郎!」

 

 床ごと砕き割ろうとスタープラチナの拳を握った承太郎を、ポルナレフが止めた。徐ろにその場でたんたんと軽快なステップを踏み、同時に承太郎から少しずつ距離を離していく。何を考えているのか、意図が分からず困惑するが、すぐにその行為が音の撒き餌であることに気付かされた。

 音に反応してか、何処からか現れたハングドマンが彼の方へと向かっていった。承太郎の方が近くにいたのだが、何故か彼のことは無視していった。

 

「やはり、こいつの狙いはおれだ。おまえは戻ってあの2人にこのことを伝えてくれ!」

 

「なにィ!それじゃあてめーは」

 

「引き離す。何もここで共倒れする必要は無い、そうだろーッ!」

 

 承太郎の制止も聞かず、ポルナレフは長い廊下を全力で駆け抜けていった。それを追う形でハングドマンも消えていく。あっという間にスタープラチナの射程距離を超えていった両者を、承太郎は追跡できなかった。

 

「馬鹿野郎ッ、無茶を」

 

 1度敗れた相手に、あろうことか差しでの戦いを挑むだなんて。無理の過ぎる選択に、思わず舌打ちが漏れる。しかし、ここで悪態を吐きながらじっとしていてはいけない。危険を覚悟で時間を稼いでくれたポルナレフの意志を、無駄にするわけにはいかない。来た道を急ぎ戻る彼の瞳には、様々な思いを綯い交ぜにした熱い炎がゆらめいていた。



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第三十一話 吊られた男と皇帝 その⑥

「お嬢ちゃん、意外にいけるな!ほれもう1杯」

 

「何でまたカシスオレンジなのよ」

 

 幼女と風来坊の奇妙なペアが酒屋に居座ることもうじき1時間。流石にジュースの類にも飽きつつあったフランドールに、ホル・ホースが寄越したのはカシスオレンジだった。なお、フルーツオレについてはまだまだ腹3分目くらいだったので酒に移行する必要は無かったのだが、そんな密かな嗜好までは彼でも読み切れなかった。

 アルコール度数が低いとはいえこれも立派な酒、飲ませようとする行為は紛れもない犯罪であった。だが別段悪びれる様子も見せず、店主にオーダーしてフランドールの前にことりとグラスを置かせた。添えて出された小盛りのサラダは、店主の粋なサービスであった。一見気が利く有能な酒場の人間めいた空気を醸し出してはいるが、彼女にアルコール飲料を提供している時点でお天道様と警察が黙ってはいないだろう。果たして彼は社会的立場とこの場の面目とをきちんと天秤にかけたのか。後で肩を落として悔やんだって、それは手遅れになるのだけど。

 

 これでへろへろになったフランドールを揶揄うつもりだった。初めて飲む酒に耐性も糸瓜も無い、体温が上がって目も回りまっすぐに座れなくなった彼女は見ているだけで酒の肴にはうってつけだ。嫌らしい笑みを浮かべ、かと言って急性アルコール中毒で殺す気は無かったため差し当たり軽めのものをオーダーしたのだが、予想に反して彼女は水みたくそれを飲み干してしまった。体にも特に影響は無さそうで、直後に平気な顔をしてサラダを食べ始めた。

 

 もしや稀に見る酒豪の卵か。少々大袈裟なことを考えて、もう1杯飲ませてみることにした。これで平気そうならいよいよ大の酒好きへ化ける可能性が出てくる。将来彼がイギリスへ旅行にでも出かけた時、飲み交わせる相手がいれば夜も退屈しなくて済むわけだ。

 開花を待つ蕾の時点で大層可愛い顔立ちをしており、この分なら数年が経つ頃にはさぞかし美しい淑女に成長しているだろう。飲んだ後の()()()()()()にも付き合ってくれればもう言うことなんて無い。取らぬ狸の何とやらだが、ホル・ホースの中では既に狸は狩猟されて毛皮を剥がれていた。

 

「だってよ、他のは流石にアルコールきついぜ?おめめもぐるぐるだ、そんで『ばたん』よ」

 

「そんなに弱くないわ。せめてブルーハワイくらい飲ませてよ、カシスオレンジなんて入門者用じゃないの」

 

「そいつァいけねぇな。誇り高き大英帝国のお嬢様なんだから、18まで待たんといけんぜ」

 

「もう超えたわ、そんな歳」

 

 ご馳走様、とサラダを食べ終わったフランドール。初めはホル・ホースも、彼女が適当な相槌を打っているのだと思っていた。そうかいそりゃあ結構じゃねぇか、一頻り笑ってからふと彼女の顔を見ると、何を笑ってるんだこの男はと言わんばかりのきょとんとした表情であった。まるで嘘という概念を知らないかのような、明るく透き通った瞳が光を放つ。真っ当に生きてきたとは胸を張って言えない彼には、その光が酷く眩しかった。目を庇いながら視線を逸らす中で、彼はふと思い当たる節を見つけた。

 

 もしかしてこの嬢ちゃん、本当のことを言ったのではないか、と。

 

「……レディに失礼と承知の上で聞くぜ。お嬢ちゃん、幾つだ?」

 

「20」

 

「……、……マジ?」

 

「何、その顔」

 

 どう好意的に見ても10代前半でしかないちびっ娘が、実年齢は20歳だと言えば誰だって驚く。ホル・ホースも危うく持っていたギムレットを取り落とすところであった。

 周囲ではアルコールが脳まで進出してきた男達がやんややんやと騒ぎ立てており、その喧騒の中に彼女の告白──随分と鯖を読んではいるが、それは静かに溶けて消えた。失せ際に、1人の男を驚嘆させるというプチ・サプライズ込みで。

 

「童顔チビの女なんぞ星の数程見てきたつもりだったが……世界ってのは広いもんだ」

 

「あら。まるで私が童顔チビを極めたみたいな言い方じゃない」

 

「みたいも何もその通りだぜ!8歳とか9歳とかでもおれぁ納得するさ」

 

 彼の意見は、世間一般の声と称しても不都合でないだろう。あれで20歳だなんて、アンチエイジングの技術はいつの間に異次元の地へ到達したのか。これでは最早時間逆行の領域である。

 それはそれとして、癪に障る物言いだったので何も言わずに脛を蹴る。大仰に痛がるホル・ホースを横目に、フランドールは本日2杯目のカシスオレンジを一息にて空にした。口の中が、砂糖のブロックでも噛んだみたいに甘ったるくて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 銀疾風(しろがねはやて)、街を翔ける。カルカッタの街では、こんな噂が流行りつつあった。突如颯爽と現れて、目にも止まらない驚異的なスピードで銀の風が吹き抜けるというこの噂は、真偽を確かめたい多くの人間を街のあちこちに動員した。そのうち殆どは何も見つけられないままに好奇心が薄れ、やがて飽きて日常生活へと戻っていくのだが、極一部の市民は疾風をこの目で目撃したと証言した。細部は多少の差異が認められるが、運良く目の前で見られたらしい人々が口を揃えて言うには、こうだ。

 

 あれは人間だった。銀髪の人間だった。

 

 

 

 

 

「……」

 

 自身が今まさに人々の口に膾炙されているとは露知らず、咲夜はほぼトップスピードで日の落ちつつある街を駆け抜けていた。人と人の間を縫い、急加速と急停止を幾度となく繰り返した彼女の体は、しかし大して疲労を溜め込んでいなかった。これくらいで音を上げていては、吸血鬼の従者はとても務まらない。

 尤も現状、彼女の隣に主はいない。露店に沿って歩いていたのだが、何故かふらふらと横へ逸れていってしまったのだ。無論咲夜ではなく、フランドールが。声をかけても反応はなく、着いていこうにも人の波に逆らえない。結局大きな流れから逃れた時には、彼女は影も形も無くなっていた。流石の咲夜でも、数瞬唖然として立ち尽くす他に無かった。

 

 広くて人口密度も高い場所で逸れた時の怖さを、咲夜はやや甘く見ていた。数分で歩けるであろう範囲を絞り、その範囲内を隈無く走り回っておけば、いつかは見つかるだろうと捜索開始直後までは思っていた。この考えが楽観的であり過ぎたと思い知らされることになるのは、裏路地を10本程探し終わった段階でのことであった。

 

 手を抜いて探してはいない。目まぐるしく視線を動かし、フランドールがいないか確認してきた。だが、全くもって姿が見えない。足跡などの追跡用証拠さえ、1つも残っていないときた。もしかしたらと思って上空にも目を向けたが、オレンジ色の夕日が地平線に沈もうとしているだけである。あの日が完全に沈み込んだ時、彼女の気持ちも完全に水面下へと没するのだ。いやどうしろと。

 力無く頭を横に振る。あの咲夜がこうも弱気な挙動に出ているのだから、相当に参っているのだろう。十六夜 咲夜、迷子の恐ろしさを身をもって痛感したインドの夕暮れであった。

 

 もうこの頃になってくると、咲夜も意地だか強迫観念だか分からないものに突き動かされつつあった。見つけなければならない、探さなければならない。そんな思考は精神的にも肉体的にも悪影響しか及ぼさないのだが、そこまで頭を回す余裕は今の咲夜には無かった。人は何故いけないと分かっていながら焦るのかという問いに対して『強迫観念が、水が地面に染み込むみたいにゆっくりと心を蝕むから本人も気がつけない』と唱えた者がかつていたが、成程その通りである。真に恐れるべきは焦ることでなく、焦るのを止められないことだったのだ。

 

 そんなこんなで、咲夜は再び動き出した。今どっちから来たのか、次はどの方向へ探しに行けば良いのかなど、そろそろ冷静な判断にも限界が生じつつあったが、そこは瀟洒なメイド。脳をフル回転させて記憶の復元に成功した。差し当たってはこの路地を抜けて、左に曲がろう。気のせいかやたらと重い足を前に踏み出そうとした。

 

「あーーーーっ!」

 

 後ろで発せられた幼い大声に、反射的に振り向く。実に数時間ぶりに顔を拝めた主人は、傍らに如何にも我こそはガンマンであると言わんばかりの男を置いていた。安堵、詰問、そんなものを遥か後ろに置き去りにして、咲夜の胸に去来したのはただただ虚無なる脱力感であった。危うく主と知らぬ男の前で膝から崩れ落ちるところだった。

 

「ホル・ホース、あのメイドが咲夜よっ」

 

「おぉ。あの子がお嬢ちゃんを探し回ってる苦労人ってわけだ。しかし話に聞いたような、いやそれ以上の別嬪じゃねぇか」

 

 どうよ、彼女も交えてもう1軒行かないか?ホル・ホースは軽薄な誘い文句を口にしたが、それに対する抗議の言葉が出てこなかった。多分、心的な疲れのせいだ。思いの外乗り気でいるフランドールに、今日は疲れと酒でよく眠れそうだなぁと現実から華麗に逃避した。



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第三十二話 吊られた男と皇帝 その⑦

「ふぅ、これで巻いたろ」

 

 J・ガイルの追跡を振り切って、ポルナレフは人混みの中で一息つきながら歩いていた。鏡だけでなく、反射像を確認できるあらゆる場所に出現するスタンドを巻くのは困難を極めたが、最後は人混みに逃れて鏡面に映るのを避けた。

 一般人の集団に紛れ込むのは、万一ハングドマンに現実世界の中での殺傷能力があった場合を考えればリスクの高い方法だったので、極力取りたくない手段だった。しかし、誰もいない平地ではただ逃げるのにすら苦労させられた。途切れない3次元的な攻撃に晒され、ポルナレフの体には幾つもの小さな傷が付けられていた。致命傷となる大怪我を食らわなかったのが、不幸中の幸いである。

 

 これまでにない厄介なスタンドだ。本体かスタンドそのものを攻撃すれば相手にダメージを与えられるという特性を、完全に逆手に取られてしまっている。どれだけハングドマンの映る鏡を割ったところで、所詮は紛い物。彼にまでダメージが届くことはない。シルバーチャリオッツ、或いはスタープラチナであっても、操り元を叩く他に有効な手段は無いのかも知れない。

 今はとにかく、ホテルまで戻る必要がある。自身の無事を皆に知らせるためにも、そして逃げ回る中で見つけたハングドマンの特性を伝えるためにも。J・ガイルに見つからないルート構築が難点だ、慎重に考えなければいけない。人混みの中を歩き、息も整ってくる。どんな順路で帰ろうか、敢えて逃げてきたのと全く同じ道を辿ったりすれば意表を突くことができるだろうか。危険な賭けにはなるが、二の足を踏んでいる暇は無い。その場でくるりと踵を返し、再度ホテルまで走り抜けようとした。

 

()()で逃げたつもりかい!ポルナレフッ!」

 

 真後ろから聞こえただみ声に、ぎょっとする。いや、まさか。否定したくとも、『ポルナレフ』が『逃げた』と知っているのは、たった2人だけだ。承太郎の落ち着いた重みのある声でない以上、彼の背後を取っているのは()以外に有り得なかった。

 反射的に足が前へと動く。人の流れに逆らって、後ろにいるらしいハングドマンから距離を開ける。荷物を両肩に乗せて運ぶ男、子を連れた母親、皆そのただならぬ様子にざぁっと道を譲った。だが、全速力で走るポルナレフを嘲笑うかのように、濁った声は真横へと移動してきた。

 

「おいおい、また追いかけっこかァ~~~~!?ガキのお遊びにいつまでもたらたら付き合ってる程おれも暇じゃあねーんだぜ!」

 

 何処だ、何処に潜んでいる。聞こえてくる声からして数m程度の距離しか無いはずなのだが、その姿は影さえも確認できない。近くに光を良く反射する物体も無く、ハングドマンの隠れている場所に検討もつかなかった。

 とにかく、一般人を巻き込むのは避けなくてはいけない。急いで手近な裏道に入り、間髪入れずにシルバーチャリオッツを出現させる。奴に対してはあまり意味の無い抵抗であると分かってはいたが、出さない方がましということもあるまい。それに、武器は多い方が精神的な安定にも繋がる。

 

「おい!姿を見せやがれJ・ガイル!何処にいやがる!」

 

「逃げ足も二流のへなちょこが、口だけはよく回るときてるぜ」

 

 声のする方へ、必死に目を凝らす。いると分かっていながら見つけられない焦りは尋常ではなく、大量の冷や汗が額から顔へと伝っていく。汗を拭うことも、瞬きすらも忘れて憎たらしい大敵を探し続けた。

 

「キヒヒ、よーく探しな。そうだ、おまえの目にゃあもうおれが映ってるはずだぜェ?」

 

 それでも、ハングドマンは見つからない。敵の姿が見えないままに行動するリスクは無視し難いものだが、こうなってしまっては身に降りかかる多少の危険を承知の上でJ・ガイル本人を見つけ出す以外の打開策は無いのだろう。覚悟を決めて更に奥へと入ろうとしたポルナレフの肩を、誰かが掴んだかのような感覚が襲った。

 余りに突然で、それでいてあたかも屍生人(ゾンビ)に触れられたような、本能的な恐怖と嫌悪を煽ってくるこの感覚は一体。瞬時に出しかけた足を止めてしまったポルナレフは、次いで齎された首へのひやりとした金属質な感触に今度こそ総毛立つのを抑え切れなかった。

 

「さて、今からおまえの首に()()()を突き立てて殺すわけだが!まぁ冥土の土産というやつは欲しかろう。というわけで、答えくらいくれてやる。おまえの足くらいの高さに鉄パイプが張り巡らされてるだろう!おれはそこにいる!

 ……まぁ分かったところでどうなんだって話なんだがよーッ!」

 

 鉄パイプの中に映るスタンドなんて、見えるはずもない。だが、彼には分かる。今自分が突きつけられているのはナイフだ、銀色に鈍く輝くナイフだ。これがあと数センチでも押し込まれたら、そう考えるだけで血の気も引く思いがしてくる。嘔吐くのにも似た下腹部の気持ち悪さは、真に恐怖した時に味わう異常な感覚だった。

 救いの手など差し伸べられるはずもなかった。ポルナレフ自身、そんな不確かなものに期待などしなかった。己の道は己で切り開く、そう捉えれば格好は良いが実際は追い詰められ足も失った鼠が猫を噛みにいくようなものだ。

 

 シルバーチャリオッツに全神経を集中させたポルナレフを、逆境に負けない勇気ある男と評するには無理があろう。人間は如何なる状況下においても無謀と勇猛を履き違えてはならないのだ。それにも関わらず、しばしば両者の境界を曖昧に濁してしまう者が現れ、その最期は悲劇的なストーリーに舞い上がった者達によって武勇伝とされる。

 笑い話として噺家などの持ちネタにでもなる方が、まだ理に適っている。それが嫌だと言うのなら、どうしてこの手の蛮勇者達は生き延びることに全力を尽くさないのだろうか。命を脅かされているために冷静な判断ができなくなってしまっているから、と言われればそれまでだが。

 

 窮した鼠が猫を噛む確率は、天文学的なものだ。追い詰められた者は強いだとか、普段以上の力を発揮できるとか、そんな言説は総じて都合の良い瞞しに分類する他にない。頭が冷静なら誰だって理解できるはずなのだ、そもそも相手の方が圧倒的に強いからこそ自分は生きるか死ぬかの危機に瀕しているのだと。

 仮に土壇場で多少動きが良くなったとしよう。力も一回り上昇したとする。鼠界のエリートは、果たして凡なる猫に一矢を報いることができるのか。勿論因果的に有り得ないとまでは言わない。あらゆる事象の発生する確率は完璧な零足り得ないが故に。……しかし、こうも言えるのではなかろうか。

 

「おぉーッ、勇気ある若者の最期の輝きが目に眩しいぜェーッ!そーいう向こう見ずなのはおれもよー、なんつーかよー!

 

 まぁある意味スキだぜ?」

 

 ──零に等しい。

 

 

 

 

 

「あれ?……ポルナレフ?もしかしてポルナレフっ!?」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 この先に、美味い酒と飯を出す店がある。ホル・ホースの先導の元、フランドール達はその店へと向かっていた。こんな大通りから外れた秘密の名店みたいな場所を、よく知っているなぁと思ったが、美味しいご飯が食べられるなら何だって良いかと疑問を頭の隅に追いやった。

 

「ここを曲がったら到着だ。サクヤちゃん、もうちょいだから頑張りなよ。何なら抱っこしてやっても良いんだぜ?」

 

「妙な真似をしたら刺す、そう言わなかったかしら」

 

「ヒューッ!氷みてーに冷たいお嬢ちゃんだ!」

 

 この子はいっつもこんなんかい。にべもない態度にたじろぐこともなく、寧ろにやにやと笑いながらフランドールに尋ねる。付き合い浅いからじゃないの、一先ず無難な答えを返しておいた。多分こいつの性格だと、いつまで経ってもおんなじような対応をされて終わりだろう。そう思ったのは口には出さないでおいた。悪い奴ではないと思うけど、如何せん軽薄過ぎる。

 

「あん?誰かいるな……」

 

 そりゃあ細いとはいえ道なんだから、誰かいるくらい普通だろう。目までぱっちりと見開いて、何をそんなに驚いているのかフランドールには分からなかった。ただ歩いているだけで驚かれるなんて、向こうも可哀想なことだと苦笑した。

 ホル・ホースがびっくりさせられた歩行者は、男だった。銀髪を塔状に纏め上げ、筋肉質な肉体を強調するかのような肩出しウェアに身を包んでいる。片紐タンクトップとでも呼ぼうか、あの世界に2枚と無さそうな服。

 

「あれ?……ポルナレフ?もしかしてポルナレフっ!?」

 

「妹様、お待ちください。ポルナレフに相違ないですが、何か様子が」

 

「きっと立ちくらみとかそんなところよっ!」

 

 ポルナレフだ。目の前にいるこのフランス人青年は、J・P・ポルナレフだ。列車での不幸な別離から実に何日ぶりだろうか、フランドールは遂に一行のうち1人と再会を果たした。

 笑顔を浮かべ、たたたっと駆け寄っていく。まるで仕事から帰ってきた父親に甘える娘のように、にこやかに。彼への確かな信頼を裏付ける証拠の1つにもなるであろう。肩車の乗り心地が良いのを信頼と表現して良いのかは、中々に不透明だけれど。

 

「おーいポルナレフっ、私よ。フランドールよ!」

 

「ふ、フランドールッ!?おまえ無事で……いや、来るな!危ねぇぞ!」

 

「はぁっ!?」

 

 あと数歩で飛びつけるくらいの距離に来て、まさかの来るな宣言。これにはにこにこ笑顔も掻き消えて、思わず荒い抗議の声が漏れる。久しぶりに会った友人に何てことを言うんだ、このフレンチ。こっちに来るな殺されるぞなんて脅し文句を叩きつけられたごく最近の記憶が、ふっと墓場から甦ってくる。あの時は部屋の惨状やらでまだ理解できたが、今は別にどうともなっていないではないか。本人はぴんぴんしているし、近くにやばい男がいたりするわけでもない。

 シルバーチャリオッツが、感情の読めない瞳でフランドールを見つめる。何だ何だ、お前までご主人サマの意向に従って私に冷たく当たるのか。移ろう人の気持ちの儚さに、淑女らしからずやさぐれそうになった。

 

「おまえは……!馬鹿な、確かに背中を刺して殺したはずッ!」

 

「うん?他に誰かいるのかしら」

 

 ポルナレフではない人間の声がしたので周囲を見渡してみたが、特にそれらしき人影も見つからない。怪訝に思っていると、後ろからぴりっと鋭い気配が軽快なフットワークで支配領域を拡大していった。この斬れ味鋭い感じは咲夜か、いきなり臨戦態勢に入ってどうしたんだろう。振り返りかけて、不意に先程の声の一部に引っかかりを覚えた。

 背中を刺した。男は確かにそう言った。思い出すのも躊躇われる非常に嫌な記憶ではあるが、フランドールにはこの言葉に覚えがある。いや、覚えどころか実体験すらしている。彼女をジョースター一行から引き剥がした悲惨な事件だった。目を覚ましてから暫くは、手と背中の痛みのせいで涙が滲むこともあった。傷が癒えてからは復讐の炎に駆られ、絶対に顔面めがけて全力の一撃をお見舞いしてやると心に誓いもした。

 

「まさか。……まさか、()()()()

 

「思い出してくれたようで何より!あの高さから落ちて生きてるたぁ思ってもみなかったが、おまえはとことん不幸な星の元に生まれたと見える!折角取り留めた命を、すぐに捨てちまうんだからよーッ!」

 

 疑惑はすぐに確信へと変貌を遂げた。吸血鬼主従を最も苦しめた敵が、付近に潜んでいる。ポルナレフの言葉の意味を、遅ればせながら汲み取った。彼もまた、この陰湿なストーカー気質の男に付け狙われていたというわけだ。

 まぁそうだろうなとは彼女も事前に予想していたが、男は欠片も反省の意思を見せなかった。それどころか、今度は確実に殺すと声高に決意表明してくると来た。咲夜がフランドールを庇うように前へ出ようとする。全身から霊気を迸らせ、敵を威圧せんとする彼女は、そうそう見られるものではない。事実、フランドールもここまで攻撃的な従者を見た経験はほぼ皆無に等しかった。

 

 そんな咲夜を手で制するのに、恐怖心が全く無かったなんて見栄は張れない。だが、男に対する怖気は心の中を隅から隅まで探し倒しても存在しない。これだけは断じて言い切ることができる。抱くは怒り、自身を命の危機に陥れ従者に要らぬ手間をかけさせた不逞の輩への燃え上がる憤怒ただ一種のみであった。

 

「──おいで」

 

 魔力による眷属の召喚、使役。しばしば魔法使いのみに許された特権だと思われがちなのだが、吸血鬼も同じことができる。呼び出す眷属の種類は魔法使いが選ぶそれとはかなりかけ離れているものの、プロセスも理論も何ら変わりは無い。魔力で造るのではなく、ここではない世界より召喚するという点において、錬金術や魔道工学とは一線を画した技術である。

 フランドールも彼女の姉も、召喚するのは大抵の場合蝙蝠だ。自身の体の一部を蝙蝠にすることもできたが、そいつが帰ってくるまで指なり手なり、肉体のいずこかが欠けた状態になるわけで。彼女達のことを人間だと認識しているホル・ホースもいるのだから、それは控えておこうという賢明な判断あっての召喚であった。

 

「ぎゃあああああーッ!?」

 

「そっちね」

 

 フランドール、咲夜、ホル・ホース、そしてポルナレフを除いて1番近くにいる生命体を襲ってこい。蝙蝠に与えた命令が問題なく実行され、そしてその所在が遂に明らかとなった。手付かずなせいでぼろぼろになっている1軒の家屋から上がった悲鳴を頼りに、臆することなく確かな足取りでもって建物内部へと突入した。主人を先行させたままというのは不味く思ったのだろう、慌てた様子で咲夜が後を追う。

 

「ようやくご対面ね」

 

 フランドールにしては珍しい、抑揚のない醒めた物言いだった。光源の無い暗がりの中で床に尻餅をついた男は、その姿勢においてさえ彼女と目線をほぼ同じ高さにできた。頬から垂れる一筋の血は、つい先程何かに噛まれたことを物語る動かぬ証拠となり、彼女に男が何者であるかを改めて伝える役目をも果たした。

 

「会えるのをとても心待ちにしていたわ、unknown guy(名も知らぬ貴方)



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第三十三話 吊られた男と皇帝 その⑧

(な、何だ今の殺気!?)

 

 真横から極太の鞭で思い切り打たれたような、目眩のする強烈な衝撃。裏稼業に身を投じて長いホル・ホースだが、ある意味ここまで単純な殺気を体感したのは初めてだった。

 例えるなら、蛇だった。それもアナコンダなどの、巨躯を誇る獰猛な種だ。相対していようがいまいが、近くにいる生物を例外なく蛙にしてしまう絶対強者の覇気を、何故か東洋人の小娘が放っている。普通の人間は殺気どころか怒気だって扱えたものでないことを鑑みれば、間違いなく只者じゃあない。

 

 フランドールは、ポルナレフのことを知っていた。そして、咲夜は彼女のメイドだと言う。インドへ発つ前に老婆に与えられた情報が、脳裏を過ぎった。

 

(するってーと……Oh no(なんてこった)!あのババアが言ってた女2人ってのは、あいつらかッ!)

 

 ジョセフ達に同行している謎の女2人組がいる。老婆はそう言った。スタンド使いであるかどうかは不明だが、処遇については他の5人と同じく始末で構わないと聞いていた。表向きは承知していたが、もし美人だったら相方(J・ガイル)に見つからないようガールフレンドにしても良いなぁ、なんて内心異なことを考えながらインドまでやってきた。

 

(わりぃが死んでもらうぜッ)

 

 この女、危険過ぎる。美人だから助ける、好みでないから殺すだなんて次元で判断して良い存在ではない。容姿の善し悪しやスタンドの有無など端から度外視して、可及的速やかに仕留めなければ、下手をすればこちらが大火傷を負いかねない。判断は一瞬で、殆ど直感に等しかった。

 主人を追って建物の中へと走りゆく咲夜に、拳銃を向ける。識者には、虚空より1丁のハンドガンが現れたように見えただろう。これがホル・ホースの愛用するスタンド、エンペラーである。使い勝手の良さと安定した威力もさることながら、1番の強みは撃つ弾丸まで含めてスタンドであるというところだ。

 

 背後から丸腰の女を撃ち抜くことを、ホル・ホースは僅かたりとも恥じない。背中を見せた敵は格好の的でしかなく、相手の準備が整うまで待ってやる騎士道精神なんぞはとうの昔にそこらのドブにでも捨てた。切り替えが早くなければ、彼は今まで生き抜くことができなかっただろう。例え今後一生お目にかかれない美しい少女であったとしても、依頼の達成はあらゆる事項に優先する。

 一瞬にて照準を合わせ、躊躇せず引き金を引いた。消音器(サイレンサー)の効果かそれともエンペラーの特性なのか、乾いた発砲音無しに放たれた弾丸は直線的軌道を描き、寸分違わず咲夜の頭部に迫った。

 

「んなにぃーッ!?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ホル・ホースの判断は素早く、そこからの動作も機敏であった。頭を狙うのは最善手で、弾丸の軌跡も完璧なものだった。故に、至極当然の結果として咲夜の頭部からは鮮やかな赤い華が咲くはずだった。その華が萎れる頃、彼女は生命無き肉塊として異国の地に倒れ沈むはずだった。

 

 その、はずだった。

 

「貴方から、微弱なスタンドの気配がずっと漂っていた。いつ尻尾を出すかと思ったら、存外早かったわね」

 

「てっ、てめぇ知ってて」

 

「ええ。大変失礼ながら泳がせていましたわ、もしかしたら何かぽろりと喋ってくれるのではと考えまして」

 

 その時間は無駄に終わってしまったけれど。くるりと振り向いた咲夜の瞳は、()()()()冷たい色を湛えていた。最初から、咲夜はホル・ホースを信用していなかった。スタンド使いだというのはファーストコンタクトの段階で露見しており、敵であるという九分九厘の可能性にあと1厘を追加するためだけに黙っていたに過ぎなかった。

 尤も、彼には咲夜の思惑を推し量る機会が幾度もあった。彼女かフランドールに悪戯なことを囁くたびに、毎度毎度欠かすことなく言われていたのだから。『下手なことをしたら刺す』と。この文言を寡黙な少女なりのきつい冗談だと勝手に曲解したのが、彼の犯した唯一にして痛恨のミスであった。

 

「クソッ!おめー何者だッ!」

 

「妹様が従者(スタンド)、ザ・ワールド」

 

 何者かを問う質問に対する回答は、およそ信じるに値しないものだった。人語を解し、意思疎通の可能なスタンドなどいるはずがない。だが一方で、ホル・ホースにとっては嘘としか思えない突飛な発言を、信じざるを得ない状況でもあった。確かに自分が撃った銃弾が、目の前で彼女の指から落ちる光景を見れば、否応もない。からん、と金属同士がぶつかる軽い音が2人の間を走った。

 

 すぐに咲夜へ注目を戻したホル・ホースは、連続して目を剥く羽目になった。彼女の右手には、いつの間にか3本のナイフが握られていた。そんな素振りは無かったはずだが、一体いつどうやって得物を手に取ったのか。

 主は鏡のスタンドに用がある。咲夜と雖も、邪魔をするのはご法度だ。つまるところ、為すべきは外野の排除に尽きた。彼女が思う存分に積もり積もった恨みを晴らせる環境を作るのも、メイドの立派な務めの1つ。

 

「クソッ!おれを甘く見るなよ!」

 

 とは言えホル・ホースも伊達に殺しの世界で生きてきたわけではない。咲夜が武器を持った過程に、いつまでも固執している程愚かではなかった。すぐさまエンペラーを構え直し、立て続けに3発の銃弾を撃った。それぞれを複雑に操り、ランダムな軌道を通しながらも狙うは1点への集中だった。

 

「せめて痛みを感じねーようにはしてやる!」

 

 初めから心臓付近を狙うように見せる引き付け役の弾丸、頭部狙いに見せかけた弾丸、そして足を撃ち抜くかと思わせる弾丸。位置的に離れた3箇所への対応は、さしもの彼女であっても即座にとはいかないと考えた。焦りから生じる意識的・身体的な硬直。刹那であっても良い、これこそがホル・ホースの真の狙いだ。

 全てが彼女の体表面の直前で収束し、一気に心臓を貫く。亜音速で飛翔する物体が至近距離で急激な進路変更を行って、十全な対応がされると考えるのは杞憂の領域であろう。それに、万一避けられた弾丸があったとしてもそれすら彼の操作の範疇にある。即興の案ではあったが、100%の成功を確信するに足る妙案だった。

 

 凶弾は咲夜に迫る。彼女は立ったまま動かない。弾も操られる対象にあることを知り、ならば直前まで引き付けてから最小限の動きで躱すしかないと見たか。冷静な思考は天晴であるが、その判断は彼の目論見から外れてしまっている。彼の意趣通り、弾丸は彼女に到達する直前で中央へと集まり絶大な殺傷力を得た。

 だが、妙だ。それでも咲夜は、大した反応を示さなかった。飼い猫が欠伸をしながら尻尾を揺らめかせた時くらいの、あぁ動いたのかと言うかの如き無感動な双眸が3つの小さな鉄を捉える。穿たれれば即死、銃弾の到達まであと100分の数秒。マネキンめいてそこにあり続ける少女の群を抜いた異常性は、逆にホル・ホースを困惑させた。

 

 結局、何事も起こらないままに3発全ての銃弾が咲夜の胸に直撃した。訳の分からない最期ではあったが、何にせよこれで決着がついた。自分の立てた作戦は、見事成功を収めたのだ。着弾から遅れること約5秒、まだ引き攣ってはいたものの徐々にホル・ホースの表情に笑みが浮かび始める。

 スタンドを名乗る咲夜を撃破したのだから、自動的にフランドールも戦闘不能に陥っているはずだろう。あんな小さな餓鬼1人くらい、動けようが動けまいがどちらでも良いけれど。末恐ろしいスタンドの操り主を封じられたという点では、大きな収穫であった。

 

 さて、ここからどうするか。ホル・ホースには2つの選択肢が用意されていた。ひとつ、J・ガイルと合流して体勢を整えた後にジョセフ達を襲撃する。ひとつ、向かいのバーで一旦休憩する。彼としては後者を選びたいが、J・ガイルの執念深い性格からして前者を好むだろう。ここは交渉術が試されるところだ。新しい煙草に火をつけ、紫煙を燻らせながら廃屋の奥にいるらしい相棒の元に向かう。

 

「……!?」

 

「斬り落としても良かったのだけれど。折角の機会だから、少し練習台になってもらったわ」

 

 もっと早くおかしいと思わなければならなかったのかも知れない。狙い過たず胸を撃たれた咲夜が、その傷口から鮮血を噴き出さなかったことに。膝を折り血を吐き、地に倒れ伏さなかったことに。慌てて後退しながら弾丸を撃ち込み続けたが、評するならば『遅きに失した』の他にはあるまい。もう既に彼は、沼に首元まで嵌ってしまい自力で這い上がるのは不可能だった。

 

「しゅっ、瞬間移動ッ……!?」

 

「客観的には正解」

 

 咲夜は真正面にいる。幾ら焦っているとはいえ、流石に見間違うことはない。脳、喉元、肩、心臓、腰、足、およそ全身と表現するべき広範囲に狂いなく弾丸は飛んだ。そのまま時が経過すれば、咲夜と銃弾は物理的に接触する。現時点で視認できている彼女が、()()()()()()()()()()()()()

 どれだけ速かろうと、所詮無限に存在する3次元の座標点を瞬間的に行き来しているに過ぎない。『触れる』とは2つの物体が座標点を共有している状態であり、逆に言えば共有していなければ『触れない』わけだ。そして座標点にはもう1つの性質がある。ある物体が座標点1、2、3のみを有していたなら、その物体は同一時刻において座標点4を有することができない。換言すれば、構成から状態まで全く同じ物体は世界に2つと存在しないということになる。

 

「お゛っ゛……」

 

「でも主観的には不正解。私はきちんと数秒をかけて貴方の弾丸を避けているもの」

 

 もし時間の止まった世界があったとして、その中で自由に動き回れる存在がいれば、この定理は覆るのか。咲夜はこの荒唐無稽な疑問に答える能力(ちから)を行使できる。外から見れば、咲夜が突如掻き消えて見えるはずだ。その代わりに、別の場所へと彼女は出現する。あたかも初めからそちらにいたかのように、平然とした顔をして。それから無表情のまま、握った拳を悪漢の鳩尾にでも叩き込むのだろう。あの細い腕が生み出したとは思えない強烈なエネルギーが敵の腹部を容赦なく押し上げ、嘔吐感と激痛を強制的にプレゼントするのだ。

 ちなみにこの疑問の解は、不可能である。咲夜の時間だけは流れ続け、他者においても移動した咲夜の認識を0秒で完了することはできないために。

 

「少し、取引をしない?」

 

「ど、どりひぎ……?」

 

「ええ。DIOについて、そして彼が送り込んでいる刺客について教えてちょうだいな。喋った情報次第では、この場だけは見逃してあげるわよ」

 

 天使の微笑みから悪魔の提案が飛び出せば、充分に人間の恐怖を煽ることができる。だが、胸の奥の喜怒哀楽を読ませないポーカーフェイスから繰り出される悪鬼羅刹じみた提案には敵うまい。鍵となるのは表情の不気味さだ、ここでどれだけ相手を圧することができるかが恐れに直結すると言っても過言ではない。人を飲み込むのに長けた彼女は、やはり蟒蛇であった。



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第三十四話 吊られた男と皇帝 その⑨

「ぐえッ……!」

 

 丁度咲夜の尋問タイムが始まったくらいで、廃屋の壊れそうな壁を豪快な破砕音と共に男が突き破った。大柄な男が与えた衝撃は凄まじく、建物の無事だった部分も軽く揺れる程であった。男は飛び出した勢いのまま数m程度地を滑り、やがてその場に横たわる形となった。

 男──J・ガイルが空けた穴から、フランドールも遅れること3秒にして姿を現す。鼻血を流す彼とは対照的に、彼女には少しの外傷も着衣の乱れも認められなかった。いつも明るく優しい彼女にしては大変珍しく、痛みを堪えて起き上がろうとするJ・ガイルを見る目に心配などという感情は全く篭っていなかった。

 

 では、目に湛えるは如何なる感情か。決して機械人形の如く虚無な瞳をしてはいない。そこらの詩人を掴まえて今の彼女を表現させれば、或いはこうもなろう。

 

 ──暫くぶりに檻から出された女豹。

 

「お、おめーどうやってこんなデカブツを」

 

()()()()ザ・ワールドの力を借りてるの」

 

 向こうでホル・ホースと喋ってるのは残り半分。息をするようにそれらしい理由をつけたからか、フランドールは疑われなかった。ちらりと咲夜が視線を寄越してくる。大丈夫よ、と言う代わりに、左目でぱちんとウィンクを返した。あともうちょっとだけ、()()()()()()()()()()()()。まだ奴には、立つ余力が残っている。

 フランドールが繰り出した攻撃は、たった1発のパンチだけだ。ふにふにと柔らかく、仄かに暖かい小さな手が生み出したエネルギーは、J・ガイルの歪な顔面の内部を何百と往復し駆け巡った。鼻は折れて脳は揺れ、一瞬にして顔を9割の血と1割の涙に塗れさせながら、訳も分からないままに宙を舞った。尤も、地面を離れていた時の記憶は彼に無い。フランドールが目の前で手を閉じたと思ったら、何故か体験したことの無い顔面の激痛に苛まれていた。

 

「半分でホル・ホースを圧倒してたのか……なんちゅーパワーだ」

 

「圧倒って、また喧嘩でもしてたの?」

 

「……ん?おまえ、もしかしてあいつのこと味方だと思ってんのか?」

 

 きょとんとしたような目は、往々にして意外という感情を表す。ポルナレフは、フランドールの認識が意外なものであったようだ。1度J・ガイルと共に自身を襲撃してきたからこそ彼はホル・ホースを敵として正しく把握することが可能になっているが、当の(ホル・ホース)と一緒に酒を飲んでそれなりに話し込んでいた彼女は残念なことに未だ真実を知らなかった。

 

「味方かは知らないけど、敵にも非ずでしょ。あれよ、胡散臭い中立者(ニュートラル)

 

「あるんだよ、これが」

 

「……What the」

 

 何てことだ。おちゃらけてはいたが悪人ではない、そう思わされていたというのか。いやでもあの陽気さで敵なのかという疑いが心の中にまだ残っていたが、よく見れば確かに咲夜はナイフを構えているし、ホル・ホースは酷く怯え切った表情をしている。あの光景が2人仲良く親睦を深めようとしている風に見えたら、ちょっと頭か精神の病院に通わなければいけないだろう。

 2人の動向も気になるが、今注意を向けるべきは数分ぶりに2本の足で立ち上がった巨漢だ。状況はフランドール達の方が有利だが、決着がつくまで油断は禁物である。何せハングドマンはまだ全貌の知れないスタンドだ、一瞬の気の緩みで大逆転ホームランを浴びかねない。

 

「まぁ、思うところは一旦置いとけや。わりーが勝手に加勢させてもらうぜ、おれもこいつには晴らさにゃならん恨みがある!」

 

「あら。じゃあ私達、タッグを組みましょう」

 

「いらん!……と、前までのおれなら言っただろーが。そいつは名案だ、乗ったぜ」

 

 だが、彼女らには集中を高いレベルで継続させる能力がある。継続しなければいけない理由がある。負けるのではという不安は、両者とも1mmたりとも抱いていなかった。

 フランドールが差し出した手を、ポルナレフは跳ね除けずに握った。チームを組むことの意味を見直し、単独で突っ走らない慎重さを優先順位の上位にランクインさせた彼にとって、目の前の少女は復讐に水を差す邪魔者ではない。厄介な相手に共に立ち向かい、勝利を分かち合うに足る味方だ。

 

「ちくしょうッ」

 

「む、逃げた」

 

「追いかけるぞ!」

 

 流す涙は生理現象としてか、それとも底知れぬ力への恐怖か。ぎょろりとした目は腫れ上がり、依然として鼻からの出血は止まりそうにもない。だが、悪のカリスマに見出されるだけあってということか、徐々にではあるが痛みへ順応しつつあった。

 顔の痛みは引いていないが、もう動けるまでには適応していた。意思が脳へ信号を送り、血をぽたぽたと落としながらも、全速力でフランドール達から離れていった。すぐさま追いかけようとしたポルナレフだったが、頭上で連続して鳴り響いたガラスの割れる音に思わず足を止める。J・ガイルとの距離は開いてしまったが、彼の直感的な判断は正解であった。そのまま走っていたら、彼は降り注ぐガラスに打たれ全身に無数の切り傷を負っていただろうから。

 

「うおッ、こりゃひでぇ。歩けたもんじゃなし、どうやって向こう側に行けってんだ?」

 

「ポルナレフ、シルバーチャリオッツを出しなさい」

 

「ぬおォ!?お、おめーいきなり真横に立つんじゃ……おい待て、何でおれを持ち上げてんだ。おかしいだろ今解決すべき問題とおまえの行動がまるでそぐわなあああああぁぁぁッ」

 

 道いっぱいに広がったガラスの破片を踏まないように歩くのは、至難の業だ。かと言って今から隣の裏路地へ回っているような時間もない。シルバーチャリオッツはポルナレフを抱えて大跳躍できる程のパワーは備えていない。どう足掻いても時間の浪費が避けられない状態になってしまっているわけだが、ではどうするべきか。

 急がば回れと言うが、どうしても迂遠な道を行けない場合とてあるのが世の中というもの。そんな時に多少の無茶を強引にやってしまえる者がいれば、問題は解決できるかも知れない。例えば大風を起こしてガラス片を根こそぎ吹き飛ばしたり、高熱でガラスを融解させたりできるスタンド使いがいるならば、この状況においてもタイムロスを最小限に抑えられよう。咲夜にそのような芸当は不可能であり、彼女は並外れたパワーを駆使することでJ・ガイルの妨害策の効果を大幅に削ったに過ぎない。

 

「ナイスキャッチー!」

 

「何すんだ!!」

 

 ポルナレフをガラス散乱地帯の向こうに投げた。たったそれだけ、されどそれ程のことを咲夜は眉一つ動かすことなくやってのけた。それも両手ではなく、片手で。まさかこんな方法で足止めを振り切るとは想像だにしていなかったポルナレフは、危うくスタンド諸共地面に叩きつけられるところであった。

 上手くシルバーチャリオッツで受け身を取れなかったら、今頃大怪我は免れなかった。遅れて背筋がぞわりと震えたポルナレフの横に、フランドールを抱えた咲夜がふわりと降り立つ。恭しく片膝をつき、そっと主を降ろした彼女に、悪戯な猫のような扱いを受けた男は納得いかないと言わんばかりの刺々しい目線を飛ばす。

 

「おれはどーしてそう運ばれなかったんだ」

 

「ザ・ワールドに赤ちゃんみたいな運ばれ方されたかったの?」

 

「唐突にぶん投げられるよりはマシだ」

 

 一時の恥で命の危機が回避できるなら、安い代償だろう。戦いを前にして要らぬ汗を絞りに来ないでほしいものだ。憮然としたポルナレフを先頭に、3人は路地を抜ける。いつの間にか陽は完全に落ちており、雲1つ無い満月の夜空の下には何処までも似たような光景が広がっていた。

 

「……いない?」

 

「スタンドと一緒に隠れてるんじゃないかしら」

 

「成程な。ありえるぜ」

 

 だだっ広い荒野のような場所だが、遮蔽物は多くない。隠れる場所には大分不自由するはずなのだが、一体何処へ潜んだのか。月明かりの他に光源は無く、それも手伝って目視での発見は困難を極めた。スタンドの発している精神エネルギーを肌で感じ取り、奴の大凡の位置を感覚的に把握するしかなかった。

 

「ねぇ」

 

「何だ」

 

「あのスタンド、変よね」

 

 咲夜にレーダーの役割を任せ、自身は夜の王(吸血鬼)としての能力をフルに発揮して怪しい箇所を探す。その中で、ふとフランドールは隣で緊張した面持ちを見せるポルナレフへと話しかけた。

 彼女は、とある1点をずっと疑問に思っていた。もしやJ・ガイルはスタンド使いではなく、何か別の尋常ならざる力を有しているのではないかと推測したことさえあった。だが実際に相対したことで、この推論は間違っていると証明された。証明『されてしまった』と言った方が、フランドールの内情を考えれば適切か。

 

「そりゃ確かにワケ分からんが、急にどうした」

 

「スタンドは精神力の具現化した存在なのよね。変よ、これはありえないくらいに変だわ。そもそもが『具現』って、現実に現れるから『具現(うつつにつぶさなる)』ではなくて?」

 

「言いたいことがまるで分からんぞ!もっとこう、何だ、とどのつまりおれにも分かるように言ってくれよーッ!」

 

「ポルナレフ、妹様の話はまだ終わっていないわ。最後まで聞けば、貴方もきっと妹様が言わんとする所を理解できる」

 

 スタンド使いが必ず厳守している、とある法則。承太郎も花京院もジョセフも、アヴドゥルもポルナレフも。皆が皆、彼女が発見した法則に従っている。

 だが、J・ガイルだけが何故かこの理論から逸脱しているのだ。傍から見れば小さな、しかし理論提唱者(フランドール)からすれば看過できない齟齬。この齟齬がハングドマンを攻略する重要な鍵となる。そう思い立ち、彼女は仲間内で情報を共有する。

 

「良いこと、ポルナレフ。具現という言葉が持つ意味を考えた時、あのスタンドに明らかな異常性が見出せるの」

 

「な、何だその異常性ってのは?」

 

「あのスタンド……ハングドマンだっけ。あいつ、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 鏡、水面、鉄パイプ。こうした光を良く反射する物体に潜む能力だというところまでは、既に理解が及んでいる。だが、()()()()()()()と思い至るまでには時間がかかってしまった。周知の事実にも翻って目を向けるべき時があると、何の因果かここにおいて学ぶ結果となったことを、彼女は少しだけ面白くさえ思っていた。

 

「そーゆースタンドだからってことではなく、か?」

 

「そう言われたらそれまでではある。でも、私の知るスタンドの定義にはそぐわないわね。だって反射の世界って、現実とはまた違うもの」

 

「……ははぁん。なーんとなくだが、おめーの言いたいことが分かってきたぞ」

 

 創作物に名を残すのみの人物──好例として『千夜一夜物語』よりシェヘラザードを挙げるとしよう。彼女は生娘殺しの暴君シャフリアールに千と一つの物語を語り、やがて王を改心させた女傑であるが、舞台となるササン朝が歴史に名を残す一方で彼女本人は実在しない。誰に教えられるでもなく独りでに理解していく当然の知識だが、これを言い換えればハングドマンの持つ矛盾点が見えてくる。

 

 虚構の中で『具現化している』。シェヘラザードが作中で実在の人物であると紹介されていたら、西洋史学者はそんなはずはないと挙って反駁するだろう。ハングドマンは、これと同様の違和感をフランドールに与えたのだ。

 そして、法則に照らし合わせてみると、ここに奇妙な仮説がぼんやりと遠慮気味に顔を覗かせてくる。根拠は薄い、何せここ数日で急速に、それもたった1人の脳内で組み立てられただけの理論を元とした仮説に確かな根拠など求めるべくもない。

 

 だが、そうであってほしい。否、そうであってくれなければいけない。人間の屑を討つために、そして人智を超えた伝説的な存在が構築した法則を守るためにも。

 

「そして!」

 

「えぇ、私の予想が外れていなかったら。

 ……ハングドマンもまた現実(リアル)との接点を持つ」



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第三十五話 吊られた男と皇帝 その⑩

「ポルナレフ、一旦ホテルまで戻りましょう。承太郎達と合流して作戦会議よ」

 

「おお。深追いはやべーって相場で決まってるしなぁ」

 

 その言葉を待っていた。多勢に無勢のせいで出るに出られず逃げるに逃げられず、故にじっと不動を貫き好機が訪れるのを待っていた。

 もしものために手鏡を常備していたのが、役に立ってくれた。不用意に歩き回っては背後から刺されかねないと危惧している3人は、岩陰を覗ける所まで踏み込んでこない。彼らが慎重に行動している限り、手鏡の中に潜むJ・ガイルを見つけることはできないわけだ。どちらも手を出せず、事態はまさしく膠着状態に陥っていた。

 

 息の詰まる均衡を破ったのは、フランドールの一声だった。J・ガイルにとっては憎むべき因縁の相手だ。これまで楽しんだどんな女よりも美しく、粉々にへし折りたくなる高貴さをいっそ重厚な鎧のように纏った美女。手中に収める直前で、あの小娘は幾度となくそれを阻んできた。手を刺されても喉を掻っ切られても、彼女はメイドの少女を最後まで守り通した。

 

 結局得られた成果はと言えば、餓鬼1匹の始末だけ。対して失ったものは、極上の女を一晩中好きに犯し虐げる権利。あまりに釣り合わず、暫くは酒を浴びるようにかっ食らって苛々を辛うじて内面に押し留めていた。会うことはもう二度と無いだろうが、もしあの親離れもできなさそうな雛餓鬼を5分だけ好きにできるなら、ずたずたに切り刻んだ上で豚の餌にでもしてやりたかった。スタンドを持ちながら女1人ものにできない、そんなずれた考えがJ・ガイルの歪な自尊心をどうしようもなく燃え上がらせる。

 

 やがて時間の経過と共に炎が燻り、やがて微かな火種を残して燃え尽きようとしていたまさにそのタイミングで、神はまた2人を引き合わせた。有情か、それとも残酷か。当人のみが、後々になってそれを知ることとなる。尤も、J・ガイルは口元に三日月を描いて神に感謝していたが。今の彼にとってフランドールは、ポルナレフ以上に惨たらしい方法で殺さなければならない憎悪の宛先であった。

 メイドも彼女に付き従って、ここカルカッタまでやってきた。1度落とした何百カラットものダイヤモンドが、偶然にもそのまま手元へ戻ってきたかのような気持ちを覚えた。嬉しいというより、興奮している。心臓が高鳴り、普段より多く速く血管(ルート)を辿っていく血液の流れさえ感じられる。彼の運命に起きた奇跡は、次こそ絶対に無駄にしてはならない。強く固く、決意を固めた。

 

 そのためには、まず余計な虫の駆除が必要になる。シルバーチャリオッツなどいつでも始末できるが、問題はフランドールの方だ。不幸にも蝙蝠に喉元を噛まれてしまったせいで居場所が割れて顔面を殴り飛ばされてしまったが、その時の衝撃たるや車と正面衝突したのかと錯覚してしまう巨大で強烈なものだった。鼻の骨はまず間違いなく砕けたし、強烈なダメージとそれに伴う激痛のせいで今も目の前がちかちかする。

 何らかのスタンドを有しているのは確定だ。J・ガイルはその姿を見たことは無いが、きっとはっきり表に現れるタイプではないのだろうとすんなり納得することができた。彼自身そういった性質のスタンドを持っており、故に表面化しないスタンドがあるということは人一倍良く理解していた。

 今のところ発覚している能力としては、幾らかの格闘性能と飛行くらいか。あの歳で既に使用に足る精神力を供えているのはJ・ガイルも評価しているが、かと言って若き芽を開花させるつもりは毛頭無い。寧ろ早急に摘み取りぐちゃぐちゃに踏み潰したくて仕方がなかった。

 

 3人は来た道を戻り、ホテルへと帰っていく。気が付かれないよう充分な距離が開いてから能力を解除して、鏡の中から現実世界へと現れた。彼女らの姿が見えなくなったところで岩陰から出て、反射体から反射体へと移り飛んでいく。ひとたび路地に入れば、街灯の薄明かりで煌めくものはそこかしこにあるので、追いつくのにさしたる時間はかからなかった。

 

「ポルナレフ、そこ危ないわよ」

 

「おっと、サンキュー」

 

 3人は並んで歩いている。帰路を急ぐ様子はない。J・ガイルの奇襲については警戒しているのか、足元の小さな水溜まりを回避した。油断なく進まれるのは中々に厄介だが、しかし彼はそこに潜んでいるわけではない。では、彼は一体何処に隠れているのか。

 

「あいつ、追ってくるかしら」

 

「おれは追ってこれねーと思うけどな。おまえのパンチ、相当効いてるはずだぜ」

 

 J・ガイルはもう、3人の目と鼻の先にいる。それどころか、ポルナレフには()()()()だ。主従が彼を見つけようと思えば不可能ではないだろう。だが、()()にいると意識してみなければ発見は困難である。

 ポルナレフの薄い青色の瞳、その中にハングドマンと共に潜んでいた。人体の構造の中で最も光や反射と関わりの深い場所に、ハングドマンが干渉できないはずもない。目を動かしても、瞬きをしても違和感など感じない以上、目視以外での彼の発見は不可能であった。

 

 像を攻撃することはできても、隠れた母体そのものをナイフで刺したりといった芸当はできない。故に、ポルナレフの瞳から突然血が噴き出すなんてことにはならない。だが、己のスタンドの特質はJ・ガイルとてとうに把握済みだ。彼が狙うは騎士ではなく、その隣を歩く幼子であった。

 

()()()()()()()()

 

「あぁ」

 

 ポルナレフがフランドールの方を見て、瞳に姿を映したその時が彼女の最期となる。J・ガイルは待った。ただひたすらに待った。事を焦っても2人を殺すのは可能と考えていたが、残る咲夜については傷1つ付けずに確保しなければいけない。殺害と捕縛の両立を果たすのであれば、第1段階(フランドール暗殺)のタイミングは慎重を期して測る必要があった。

 夜になり、賑わいの大元であった人々も各々帰宅した静かな大通り。裏路地を抜ける直前、ポルナレフがちらりと視線を横に向けた。瞳の中で怨敵がしめたとばかりに口角を上げたのには、気がつけなかった。

 

 視界の端に、頭より少し大きめのナイトキャップがかかる。それから僅かに0.01秒、金色の絹めいた髪が瞳に映った。この時既に、J・ガイルはハングドマンを構えていた。フランドールの全身像が捉えられた時点で、ハングドマンは手に仕込んだナイフを真っ直ぐに突き出していた。ナイフの軌道は、彼女の首を左横からざくりと貫通していくものだった。ぬるりと刃物が皮膚を裂き、水気のある音と共に押し込まれていくあの感覚を、ほんの少しだけ先んじて味わっていた。俄かに空を覆い始めた黒雲が、真円の月を翳らせた。

 

「ザ・ワールドっ!」

 

 叫んだのは、フェイク。J・ガイルを、そして()()()()()()()()()()()()掛け声だ。今より起こる如何なることも、我がスタンドであるザ・ワールドによって引き起こされたのだと彼らに錯覚させるという目的は、彼女の想定通りに達成された。人間離れした芸当も、スタンドになら可能である。このスタンド使いにとっては常識的な認識を、フランドールは逆手に取った。

 咲夜が主の声に呼応し、忽然と姿を消す。3人が密かに1つの作戦を示し合わせていたのを、息を潜めていたJ・ガイルは知る由もない。唐突にやってきた予想外の展開に、思わずナイフを繰り出す手が止まる。

 

 或いはそこで構わず手を突き出せていたら、J・ガイルは彼自身の大願を成就させていたかも知れない。だがそんなものは、所詮はたらればの話に過ぎない。現実にもたらされた結果は、フランドールへの攻撃の意図せぬ停止であった。

 

 その紅い霧は、何処からともなく滲み出てきた。訳の分からない機械も怪しげな紋章も無い、ただカルカッタの乾いた空気を湛えた空間からじわじわと。あたかも魔法のような現象は、事前にそうなると知らされていたポルナレフをして息を呑まざるを得なかった。

 周囲が鮮血に染められていく。ポルナレフには正しくそう見えた。バケツに入れられた血がばら撒かれるのではなく、最初からそこにあった血が徐々に濃くなり、やがて目に見えるようになったかのように感じた。霧は少しひやりとしており、死体から抜き取られた冷たい血液を噴霧しているかの如きであった。

 

 それは奇しくも、かつて彼女の姉を有名たらしめたものと同じであった。構成の術式は異なるものの、使用用途まで同一となると、彼女も少しばかり運命というやつを感じないでもない。何となくこの魔法が姉のお下がりみたいに思えてきて、以後使うのは控えようと思った。多感で反抗的、そういうお年頃なのである。

 

「そろそろよ!」

 

 周囲を紅霧で覆うという突拍子もない作戦を提案したのは、フランドールだった。ハングドマンが持っているはずの現実(リアル)との接点を極限まで大きくし、実体をこの世界に引きずり出すために、彼女は霧にとある効果を求めた。

 最初に言い出したのはポルナレフだった。ハングドマンは光を移動するスタンドであり、ならば光が無くなればその場所へは行けないのではないか。彼の提案は信憑性に富んでいた。フランドールの背中を刺した時は月に、アヴドゥルを倒した時は水溜まりに。どんな場合であっても、攻撃は反射体の中で行われてきたのだから。光の中において強大、言い換えれば光に絶対的な依存をしている可能性は充分に考えられた。

 

 この説を応用し、3人が纏め上げた作戦。それは、J・ガイルを適当な場所まで誘き出し、それから一気に周囲の光度を限界まで落とすというものだった。充分な光が無ければ、鏡などに潜むことはできないに違いない。一筋の光も差さない真っ暗な闇の中で、物体に像が映るはずはないのだ。

 J・ガイルが近くまで接近していることは、咲夜が察知していた。虚構に存在するスタンドの気配を感じ取るのは彼女にとっても難行であり、故に歩きながら全ての意識を半径5m以内に集中させた。現代技術の粋を結集した超高精度レーダーにも引けを取らないであろう圧倒的な探知性能が、真横まで迫るハングドマンを辛うじて捉えることに成功していたのだ。

 

 血の海にゴーグルをつけて潜ったら、今の彼女達と同じ視界を体験することができる。限りなく黒に近いグロテスクな紅で、隣にいる仲間の顔とて輪郭さえ見えない。無論光の通る余地など、ほぼ存在していないに等しかった。

 次の瞬間に奴が目の前に出てくると、ポルナレフは確信をもって判断した。何故そう思ったのかは分からない。ただそんな気がして、弾かれるようにシルバーチャリオッツを出現させた。霧の範囲内の光度がハングドマンの隠れていられる最低ラインを下回ったのは、レイピアの先端が正面に向けられたのとほぼ同時だった。

 

「そんな所にいやがったかァーッ!」

 

 ポルナレフが飛び出してきた──否、追い出されてきたJ・ガイルを視認できたのはほんの一瞬だけだった。虚無より突然現れた男は、音もなく霧の中へと消えていった。程なくしてざしゃあっ、と重量のあるものが地面に落ちた音が聞こえてきた。

 

 人間の感覚は、時に加速する。五感がより多くの情報を取得し、脳は平時に倍するスピードでそれらを処理していく。人はそれを『研ぎ澄まされた』と表現し、常にそうあれるよう望む。

 

 あの刹那、ポルナレフは確かに『研ぎ澄まされた』のだろう。J・ガイルの姿を捉えてから射程圏外に飛び出すまでに、凄まじい数の突きが彼の顔面を襲っていた。マシンガンと形容するに相応しい、太刀筋などぼんやりとしか見えない音速の連撃であった。

 

「さて!その面拝むのは初めてだな!」

 

 26秒の魔法が解けた。霧の濃度が急速に薄まっていき、やがて完全な視界が戻ってくる。J・ガイルは3人の前で倒れ伏しながら顔を押さえ、殴り飛ばされた時以上の甚大な痛みに喚き散らしていた。

 見れば、目があるはずの2箇所にも陥没がある。他の箇所同様に血が流れ落ち、視覚を得るという目の機能を果たしているようには到底思われなかった。ポルナレフの突きのラッシュは、J・ガイルの両目をも正確に抉っていたのだ。しかも偶然ではなく、狙い澄ました2撃で美しくも非情に。

 

「た、助けてくれェ~~~~ッ!」

 

「あん?」

 

「もう狙わん!おまえたちは狙わない、ホル・ホースにも話は通す!」

 

「ほう。つまりこういうことだ、おめーはおれとの敵対をやめる」

 

 顔を覆ったまま、首を何度も何度も縦に振る。霧が消えて辺りに光が戻った今、J・ガイルには無限にも等しい逃げ道が用意されている。にも関わらず、彼は逃げようともしない。

 ハングドマンで光の中に入る際に必要とされる、視認というたった1つの手順(プロセス)。このスタンドもシルバーチャリオッツと同様に、本体の視覚に依存していた。スタンド使いとしては弱点になり得るこの性質に、これまで彼が苦しめられたことはない。何処だって良い、とにかく反射率の高いものさえ目で確認できれば、そこに逃げ込み幾らでも体勢を立て直すことができる。逆を言えば、なんて付け加えるのは野暮ったいだろうか。しつこくならないよう留意しつつ言い表すのであれば、彼は逃げないのではなく逃げられない。

 

「そうかい、そりゃ殊勝な心がけじゃないの」

 

「な、ならッ」

 

「あぁ。おまえの素晴らしい心変わりに対して、おれもこの言葉を送ろうじゃねーか。良いか、1回しか言わねーから耳おっ広げてよーーーーく聞けよ。

 

 

 

 

 

 ()()()()!」

 

 1度抱いた希望が粉々に砕け散った時、人間はその気持ちを言葉にできず絶句する。それが窮地においてのことなら、尚更だ。J・ガイルだって理解していたのだ、ポルナレフが絶対に自分を許すことはないと。その激情を利用して彼を弄んでもいるのだから、言い訳など利くわけがない。

 

「おれの妹もよ、多分おめーに言ったと思うぜ。許して、助けてってな。大人しくて優しい子だった、知らない男に襲われてる中で噛み付いたりなんてできなかったはずだ」

 

「んなもん覚えてッ」

 

「なぁ、J・ガイル。()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ポルナレフの発する声が、変わった。ずしりと重く、その重量で鼓膜を揺らすかの如き声だった。視覚を失い、代わりに聴覚で情報を得る男は、些細な変化を鋭敏に悟った。そしてそれが何を意味するのかについても、一拍遅れて思い至る。がちがちと奥歯が硬く鳴り、動揺による心拍数の乱増加がさらなる出血を招く。青白くなりつつある顔色も相まって、まるで冬のアルプス山脈で熊に襲われた登山者のようであった。

 

「んなわきゃねーわな。もしおまえに僅かでも善人の心があったなら、あいつは今もおれに笑いかけてくれてるはずだよなァ!?」

 

「ひいいぃーーーーッ!?」

 

 怒りは余計な力みに繋がるとして、しばしば格闘技などにおいて不要とされる。だが、感情をコントロールして怒りと上手く向き合えば、その人物の秘められた才能を引き出す起爆剤ともなる。ある意味で凍った湖のように凪ぎ、また大時化の海のように荒れ狂うポルナレフの内面は、憤怒を最大限に力へと変換した。

 彼が肉の芽を抜かれて承太郎達の仲間となった際、妹について話をした。犯人は両腕とも右腕の男、スタンド使いである、そして妹の魂の尊厳と安らぎはその男(J・ガイル)の死によってしか取り戻せないと。この話を加害者たる彼が知る術は無いが、無知は情状酌量の要素たり得ない。ポルナレフは代行者として、愛した妹に代わって魂の安寧を奪還するのみ。

 

「おれはおまえの『体』を裁く」

 

 この瞬間を、彼は夢にまで見た。悪夢とも吉夢とも言い難い夢だった。ただ思った、()()()()()()()()()と。そして今、ポルナレフは夢の軌跡をなぞる。

 これまでとは打って変わった静かな剣さばきだった。しかし、これまでのどんな剣撃よりも疾かった。声はなく、ただ肉の切れる微かな音が連続した。

 

 レイピアが踊る最中でも叫び声を上げることはなく、J・ガイルは恐怖に満ちた表情をポルナレフに向けていた。やがて剣舞が終わりシルバーチャリオッツが虚空に消えた後、その顔のまま糸が切れたように血溜まりに沈み込み、動かなくなった。巨大な肉塊に成り果てた不倶戴天の敵を見下ろす瞳は、決して溶けない絶対零度を湛えていた。

 

「その心底腐った『精神』は地獄で裁かれな」



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第三十六話 女帝 その①

 ──に拾われているのではないか。私が向かった。

 

 だが、いなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 カルカッタの一角で、まさにポルナレフ達が卑劣な男J・ガイルとの攻防を繰り広げていたのとほぼ同時刻、ホテルに滞在していた残り3人も彼らの元へ向かっていた。息せききって部屋に飛び込んだ承太郎だったが、持ち前の冷静さを活かして的確にポルナレフの危機を伝え、花京院とジョセフを動かした。

 ホル・ホースのいる場所を、どのようにして探るか。裏道など人目の少ない場所を重点的に探す方が、見つかる可能性は高いだろう。皇帝(エンペラー)征伐へ向けての作戦調整は最終段階へと入りつつあった。だが、メンバーの1人がJ・ガイルを単身引き付けているとあれば、9割完成済みの作戦であっても一旦脇に置かねばならない。今この瞬間にすべきことは、刻一刻と変化し得る。故に、見誤るわけにはいかなかった。

 

「しかし、何て無茶を。相性が悪いと分かっていながらッ」

 

「だがそのお陰で、おれはおめーらに事を伝えられた」

 

「……そうでしたね。失礼」

 

 ポルナレフの勇気が、最悪の事態から一行を救った。それは間違いないのだ。もし彼が囮を務めなかったら、あの場で承太郎諸共やられていただろう。2人のうちいずれかが状況を打開する逆転の一手を思いつきそれを打つか、それともハングドマンのナイフが2人の喉元を掻っ切るか。どちらが早いかと考えれば、希望的観測込みで不透明。歯に衣着せず言うのであれば、絶対に後者の方が早いに決まっている。現実で実際に襲われるのなら──彼らの運動能力を鑑みればいざ知らず、床に映る自分に迫る凶刃を躱せなどと要求されて、果たしてぶっつけ本番で上手くいくだろうか。

 結果として誰もJ・ガイルの襲撃をジョセフ達に知らせられず、彼らもまた順に殺されていたかも知れない。ポルナレフの迅速な決断は、誰も責め詰ることなどできない。花京院とて良く理解していた。

 

「ここから裏道じゃ。慎重に進むぞ」

 

「光を反射しやすいものにも注意……ですね」

 

 等間隔に設置された街灯が、路地を薄ぼんやりと照らす。ガラス、水溜まり、街灯そのもの。ハングドマンが隠れる場所には全く不自由しない。ポルナレフと戦闘になっているであろう現状、陰に隠れて襲撃してくる危険性はそう高くないが、警戒するに越したことはない。ジャパニーズ・アサシンこと忍者よろしく足音を殺して慎重に、自分達の姿を映すものがないか確認しながら歩いていく。

 普通に歩けば30秒程度で通り終えられる道だが、彼らはその倍の時間をかけてやっと中間地点まで進んだ。早くポルナレフを助けに行かなければと逸る気持ちを宥めすかしながら、全員で確実にルートを攻略していく。残るは約半分、このまま何事もなければとスムーズな突破が見え始めていた花京院だったが、ふと落とした視線が流れる赤い液体を捉えた。

 

「2人とも、あれを」

 

「……血、じゃな」

 

 わしが先に行く。そう言ってジョセフが先行していく。道に流れる血とは、明らかに尋常でない。乱雑に積み上げられたダンボールの影に、誰かいるのか。息を殺し、そっと影を覗き込む。

 

「おっ、おい!大丈夫かおまえさん!」

 

 倒れていたのは、褐色の肌を持つ美しい女だった。右手で押さえられている左腕から、どくどくと大量の血が溢れ出している。顔色は頬を中心にやや青みを帯びており、怪我をしてから数分は経過していると思われた。

 すぐさまジョセフが着ていた服の片袖を破って、即席の包帯とする。手早く腕に巻き付けて止血を試みるが、刃物が半端に錆びていたのか出血量はかなり多く、すぐに服の上から血が滲んできてしまう。すぐさま救急車を呼ばなければならないのは、明白だった。

 

「鏡……ッ」

 

「鏡がどうした?」

 

「鏡を持った大男に、刺されました」

 

 腕を襲う強い痛みに声を震わせながらも、女性は犯人についての証言をジョセフに託した。今この瞬間、カルカッタにおいて鏡を持ち歩いている可能性のある男は1人しかいない。ただでさえ明かりの少ない夜の街を歩く人はそうおらず、特定するのはさして難しくもなかった。

 

「J・ガイルか!」

 

 何のスタンドも持たない一般人にまで手を上げるとは、いよいよ性根まで腐り切った外道であるらしい。滾る怒りが花京院の心の内に湧き上がってくる。何としても奴に報いを受けさせねばならない、だが目の前で力なく座り込む女を見捨てることもできない。どうするべきか。一瞬、次に起こすべき行動を迷った。

 

「じじい、そこで女の手当てでもしてやりな……」

 

「何を。では、おまえたちは」

 

「おれたちは先に行く。傷の手当てなんぞ、やり方も知らねーからな」

 

 花京院が決断を下すよりも早く、承太郎がメンバーの2分割を指示した。歳若い2人は怪我を負った女性に対して何もせずに先へ進むと言っているのだから、一見すれば冷酷とも取られかねない判断だ。しかし、彼は決して面倒だからなどという非道な理由で治療への参加を蹴ったわけではない。

 承太郎が言う通り、彼らは治療の手順というものを知らない。ずぶの素人が場に残ったとして、どれだけ役に立てるだろうか。それならば、彼と花京院はポルナレフの元へ急いだ方が何倍も効率的かつ現実的だ。適材適所、この言葉に則ったのである。

 

 ちらりと女性の方を見る。奇遇なことに、彼女もまた自分を見ていた。瞳はしっかりと据わっているし、意識は朦朧とせずはっきりしている。迅速な治療さえあれば、命に関わる大事にはならないだろう。この場はジョセフに託し、先を急がねばならない。だが、承太郎の中で奇妙な違和感が燻っていた。

 何か、目の前の女が()()()()に見える。1つの頭と胴体、四肢を備えるありふれた人間であるはずなのに、どうにも薄っぺらさというか虚しさを感じてしまう。個々人によって持っている雰囲気は異なるものだ、彼女の雰囲気が退廃的なものだというならおかしくはない。しかし、強引に納得してしまっても良いのだろうか。個性という単語でこの胸騒ぎを片付けてしまって良いのだろうか。

 

「戦う際は慎重に、じゃぞッ!」

 

「……分かってるぜ、じじい」

 

 頭を振り、為すべき目標を再確認する。自分は花京院と共にポルナレフの援護及びJ・ガイルの撃破、ジョセフは女の応急処置。定めたのは他の誰でもない承太郎であり、彼自身が二の足を踏んでいるわけにはいかなかった。

 不可抗力的に生じてしまった若干のタイムロスを取り返すため、歩くペースを早める。確認は依然として注意深いままで、しかし先程よりは幾分か手短に行う。結局道を渡り切る過程でJ・ガイルと遭遇することはなく、一方でポルナレフがいたという証拠も見当たらなかった。この道を通った可能性は、低い。そう結論づける他になかった。

 別の大通りを横断しながら、2人は一番近くにある建物と建物の隙間道へ突入していった。そこに彼に繋がる痕跡があると信じて。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「おぉ。救急車が来よったな」

 

 もう片方の袖も破り、既に血で浸されたような布に重ねて巻き付ける。大怪我などによって出血が激しい際は、止血のために可能な限り患部への圧迫を強めたいわけで、例え血塗れになっていても外さない方が良いのだ。かつて仲間達とアメリカを冒険していた頃、彼に波紋の使い方を教え一流の戦士となるまで鍛えた師匠がそんなことを教えてくれた。50年越しでも役立つ知識を授けてくれた彼女には、感謝しかない。

 そうこうしている間に、甲高いサイレンが遠方から聞こえてくる。女性にここでじっとしているよう伝え、隊員に分かるよう路地から出る。数秒後にやってきた救急車を誘導し、後のことは救急隊に任せることにした。

 

「すみません。()()()()()()()()()()

 

「気にするな。今日のことは忘れて、早く怪我を治しなさい。難しいことかも知れんがな」

 

 担架に乗せられる中で、女性から贈られた礼に鷹揚な返し。流石は(amore)の国出身の男、女を安心させる口の回しが達者である。老いてなお盛んと言うか、ますます熟練していると言うか。

 再びサイレンが夜のカルカッタの静寂を切り裂いていくのを見送り、それからジョセフも承太郎達を追っていく。若者の脚力には流石にもう着いていけないとはいえ、70手前という年齢を考えれば充分驚愕に値する足腰を持っている。惜しみなく頑健な肉体を駆使して、承太郎達との距離を縮めていく。

 

 腕に付着した、1滴程度の微量の血液。介抱の際に付いたそれは注視しなければ気がつけるものでもなく、故にジョセフの右腕から洗い落とされることなく乾いた夜風で水気を失っていった。



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第三十七話 女帝 その②

「承太郎!あれはッ!?」

 

「おれには分からねーな……」

 

 一帯を覆い尽くすどす黒い紅。血の壁と評してもあながち間違ってはないそれが、承太郎と花京院の行く手を阻む。触れるべきではない、様子を見なければと判断した花京院の牽制ありきのエメラルドスプラッシュは、音もなく残らず飲み込まれてしまった。壁ではなく、空間が着色されていると考える方が自然と思われた。

 自然界の中で、これに限りなく近い現象の発生は決して珍しくない。夜間と朝の大きな温度差が生むそれは、霧と呼ばれている。色こそ異常だが、これは紅い霧と見て良いだろう。地獄へ通じる門に見えなくもないが、それにしてはぞっとするような恐怖を煽られることもない。

 

「近づくのは危険と見た!承太郎、回り込める道を探すかここであれが晴れるのを待つか。きみはどちらが良いと考えるッ!?」

 

 霧より数m手前で足止めを食らっている状況を打開するか、もしくは静観し自然消滅を待つか。2人に用意された選択肢は、この2つしかなかった。敵が霧の中にいるとほぼ確定しているのに、承太郎は待って花京院は回り込んでなどと分かれて行動するのは危険過ぎる。彼らは共に、同じ決断をする必要があった。

 

「おれは待つぜ」

 

「ほう。理由を聞いても?」

 

「もしあれがJ・ガイルのスタンドによるもので、あの中でポルナレフが襲われていたとしたら、だ。回り込んでる間に霧が晴れちまうとタイムロスになるぜ」

 

「……成程」

 

 紅の範囲はかなり大きいが、向こうの方へ視線を移していくにつれてやや薄くなりつつあるのが見て取れた。それでも充分にグロテスクな光景なのだが、承太郎の目は注視しても分かり辛い微かな違いを逃さなかった。誰の仕業だと断定するには至らないが、色の濃い部分にこの悪趣味な隠れ蓑を創り出した犯人がいると考えるのが最もしっくりと来る。……最も濃密な場所に、今彼らは可能な限り近づいている状態だった。急がば回れもケースバイケース、時に待たねば海路の日和に巡り会えないことだってある。

 

「花京院。消え次第カチ込むぜ」

 

「良いでしょう」

 

 スタープラチナとハイエロファントグリーンを繰り出し、霧が散るのを待つ。血の海で何が起こっているのか、彼らに知る術はない。ただ、強大な悪の存在だけは肌で感じ取っていた。吐き気を催す邪悪は、近くにいるだけで肌を粟立たせる。ある種カリスマティックな、それでいて相容れない邪気は、かつて如何なる悪人からも感じたことのない未体験のダークゾーンであった。知らず2人の拳に、力が入る。

 彼らと霧を隔てる、3m程度の短い距離。その間に不意に降り立った少女は、ほんの一瞬だけ遅れて花京院に甚大な動揺を与えた。近くの建物の屋上から飛んだのだとしたら、あまりに異常だ。だって、人間は4階建ての建築物の最上部からジャンプして平然と着地できる程に頑丈に作られていないのだから。

 

 予想だにしないことが起こると、誰しも硬直する。体も、そして頭もだ。目の前にいるのが誰なのか、()()()()()()()()()()()()()()()()。花京院はただ、突然少女が目の前に現れたとしか認識できなかった。

 

「──おおおォッ!」

 

 きっと承太郎も、乱入者の登場に驚いていたはずだ。だがこの男、やはり肝が据わっている。ジョースターの継承者は伊達ではないということか。一気にスタープラチナのパワーを最大限に引き出し、猛然と殴り掛かる。相手が華奢な少女だ、不意打ちがああだこうだなんて余計なことは一切考えず、ただ目の前に立ち塞がった何者かを排除するために。

 振りかぶった拳を、少女の顔面目がけて撃ち抜く。この場に姿を現している時点で只者なわけがなく、故に遠慮の必要性など皆無。例え少女の顔面が惨たらしく陥没しひしゃげたところで、だから何だ。彼らの前に不用意に立ったのが悪いし、運の尽きでもある。

 プロボクサーの放つ左ストレートは時速40kmに達すると言われているが、スタープラチナの右腕はそれを遥かに上回る速度と圧倒的な破壊力を対象に叩き込むことが可能であった。最早痛みではなく潰されるかどうかを真剣に考慮されるべき、脅威の威力。

 

「戦闘態勢な所を悪いけれど」

 

 腕を交差させ、スタープラチナの正拳突きを止める。鉄球を壁にぶつけたかのような馬鹿げた衝突音もそうだが、スタンド越しに感じた感触が人間のそれではない。今殴ったのは本当に人間だったか、そんな疑問が承太郎の脳裏を過ぎる。サイボーグが適当な肉と服をくっつけて擬態していると教えられたら、恐らく疑いを持ちながらも納得していただろう。

 人間離れしたパフォーマンスを披露した少女は、痛みに七転八倒するでもない。声の限り叫び、ここにいない何者かに許しを乞うでもない。腕を交互に見比べて僅かに顔を顰めはしたが、それ以上の反応は見せないまま、徐ろに喋り始める。抑揚に乏しく、しかし照る絹のように美しい声を、2人は知っていた。

 

「今は取り込み中よ」

 

「ザ・ワールド!きみ、追いついてこれたのか!」

 

 優れた精神を持つ一方で、少し抜けたところのある幼きお嬢様に仕えるメイド。1度は行方知れずとなり、生死さえ危ぶまれた銀髪の少女。そんな彼女が、今再び自分達の目の前に立っている。警戒から一転、花京院は相好を崩し笑いかける。

 

「久しぶりね、花京院。一時離脱したのは悪かったわ」

 

「構わないさ。フランドールも元気かい?」

 

「勿論。貴方達もお変わりなくってところかしら」

 

 仲間であるスタンドに拳を向ける理由が無い。承太郎もスタープラチナを引っ込めて、花京院の横に並び立つ。全員で共有できていた確実な予定はカルカッタ到着までで、そこを越えれば戦線復帰は絶望的になっていただろう。いやそもそも、パーティがカルカッタを発つ前に何とか追いつけたとして、合流できる可能性は限りなく低い。人口大国インドの中でもトップクラスの規模を誇るメトロポリスで、連絡を取り合う手段の無い5人と1人が数日以内に再会できる確率など考えるだけ無駄なのではとすら思えてくる。

 覚悟がなければ、こんな真似はできない。必ず舞い戻り、諸悪の根源たるDIOを打ち倒すという確固たる決意がフランドールを突き動かし、また引き寄せたのだろう。全く、大した小娘だ。承太郎の中で、彼女への評価が緩やかに改まっていく。

 

「この建物の向こうに、妹様とポルナレフがいるわ。それとJ・ガイルも」

 

「そうかい。おめーがここに来てるってことは、向こうの決着はついたんだろうよ。それで気になるのは、あの霧だが?」

 

「邪魔になってたらごめんなさい。私の能力で生み出したものよ」

 

 川の流れが落ち葉を運ぶように、滞りなく滑らかな語り口。ぶれない視線に落ち着いた体。嘘とは大抵の場合取るに足らないしょうもないもので、稀にご大層な大義名分を与えられ、美談を好む人間により美しさを得ることもある。

 嘘は時に、真に美しい。決して愛する者を守るための嘘がこれに該当するわけではない、ということを初めに断っておかねばならないだろう。如何なる大義名分も、それが未熟な雛の言葉である時点で酷く色褪せてしまうのだ。

 

 ではどのような嘘が美しいのか。簡単な話だ、極めた者が駆使する嘘こそ美麗にして極地である。例えにテニスを拝借しよう。世界ランキングトップ8に君臨する猛者達は、年度末にある場所に集結する。最強の8人で、本当の最強を決定するために。そこで繰り広げられる激闘の数々は、1試合1試合がウィンブルドンやローランギャロスの決勝戦にも比肩する凄まじいものばかりである。当然だ、集まっているのは伊達でも酔狂でもなく世界の頂点に位置する男達なのだから。

 彼らの試合は獰猛で苛烈で、しかし芸術的でもある。強烈な攻撃に対する目も覚めるようなカウンター・パッシング、意表を突くドロップショット、そして快音響く鮮やかなシングルバックハンドのダウン・ザ・ライン。彼らの打つショットはそれぞれが美術品であると言っても過言ではない。

 この領域に達するために、何が必要か。そう、天賦の才能と決死の努力である。2つの融合によって極められた技術こそが人々に寝ても覚めぬ感動をもたらすのであって、この点は嘘も同じなのだ。

 

「おめーはスタープラチナと同じタイプだと思ってたんだがな」

 

「あら、仲間意識の芽生えかしら。ごめんなさいね、私の方が少しだけ多才なの」

 

「けっ。ほざけ」

 

 華麗なる瞞しに、承太郎までもが眩まされる。スタープラチナと同系統の、近距離パワー型のスタンドと見ていた咲夜が駆使した能力は、彼を少なからず驚かせた。実際には紅い霧を発動したのは彼女の主なので、彼の見立てもあながち根底から間違っているわけではないのだが。

 スタープラチナが、ひいては承太郎が決して力一辺倒ということではない。本体の柔軟な発想と機転は、紛れもなく武器となる要素の1つだ。しかし、万能な悪魔の下僕に比べれば手札の数で劣るのは否めない。

 何も恥じるようなことではないが、自分の得意分野で張り合ってくる実力者がさらなる技を見せてきたら、やはり血気盛んな男子高校生として敵愾心を擽られるのは当然の反応だった。冷静沈着な彼と雖も、たまには俗な気持ちに囚われたりする。

 

「……あら。終わったわね」

 

 行きましょうか。ぱちん、と咲夜が指を鳴らせば、霧は急激に薄まっていく。彼らには、あたかも彼女が能力を解除したように見えたはずだ。

 次第に向こうの様子も朧気ながら見えてくるようになり、一帯を覆っていた不気味にして不可思議なプレッシャーも弱まっていく。意味するところなど、他にあるわけがない。

 

「殊勲をあげた英雄のお出迎えというわけだ!」

 

「言い得て妙ね。妹様とポルナレフ、どちらも素晴らしい活躍でしたわ」

 

 3人は連れ立って歩いていく。霧の立ち込めていた場所へ、仲間達が戦っていた戦場へ。気がつけば鳥肌の立つ邪悪な気配が感じられなくなっていた。予想はついていたけれど、この勝負は彼らの勝利で幕を下ろしたらしい。

 

「来たか」

 

 路地を出た通りの壁際に、もたれかかって2人は座り込んでいた。双方共に疲れの滲みながらも輝かんばかりの笑顔を浮かべ、屈託なくハイタッチで互いの健闘を讃え合っている。承太郎達の到着に気がつき、片方はひょいと手を挙げ、片方はお前本当に疲弊していたのかと突っ込みたくなるくらいに機敏に走り寄ってきた。受け止めた時のぽふっと軽い衝撃は、いつかのそれと変わらない。本人が自覚できない程に小さく、承太郎の頬が緩む。

 フランドールは承太郎によじ登り、もとい背負われ、遅れてポルナレフも歩いてくる。ぺたぺたと膝をあまり曲げずに歩いている辺り、こちらは明確に疲れているのが見て取れる。見れば深手ではないものの切り傷が全身に幾つも付いており、一連の戦闘が如何に紙一重であったかを如実に物語っている。

 

 ()に知らせるために。ここにいない者にも届くようにとありったけの願いを込めて。花京院に肩を借り、僅かに声を震わせながらも、彼は高らかに終戦を宣言する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終わったぜ。全て、な。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「そういやーよ。ジョースターさんはどうした?留守番してんのか?」

 

 すたすたと、重くも軽い足取りでホテルへの帰路を行く。月を隠していた雲は晴れ、欠けるところのない完全なる満月が煌々と5人を照らす。スポットライトを当てられる表彰者の如く、暗い街の中で彼らは一際輝いていた。

 ポルナレフは疲労が足にきているために自力で歩くのも困難であり、承太郎と花京院が挟み込んで肩を貸している。乗りやすい肩を追われたフランドールだったが、今は咲夜と手を繋ぎつつ男共との久しぶりな会話を楽しんでいる。

 

「おれたちと来たんだが、途中に怪我をした女がいてな。そいつの手当てをしてるぜ」

 

「へぇ、じゃあ途中で拾って帰って……と!」

 

 言い終わらないうちに、ジョセフは向かいからやってきた。彼らを見つけて慌てて駆け寄ってくる。

 

「ポルナレフ!無事じゃったか!」

 

「あぁ、終わったぜ」

 

「そうか。本当に、よう頑張ったわい」

 

「へへ。素直に褒められると、なんつーかな……照れるぜ」

 

 積年の大願が漸く成就したことへの熱暴走しそうな喜び、そして安堵は時間を置いたことで少しだけポルナレフの心から引き上げていた。他の感情を持つ余裕が生まれたわけだが、その隙間に捩じ込まれてきたのは照れであった。ぽりぽりと、照れくさそうに頬を掻く。実感らしい実感はまだ彼に訪れていないけれど、今暫くは気持ちの浮つくのを抑えられまい。きっとそうなるのが人間として普通で、無理にこんな場面で理性を働かせなくても良いのだろう。

 

 称えられ、冗談を飛ばし、そして笑いが起きる。男達は最上の喜びを享受していた。

 

「……」

 

「咲夜。眠いの?」

 

 そんな彼らを横目で見ながら、より正確にはジョセフの腕付近に視線を向けながら、たった1人咲夜だけが何やら難しい顔をしている。彼女が空気を読めない無粋な女なのではなく、当然気にかかることがあるから思案顔なのだ。先んじて補足しておくのであれば、筋肉隆々な彼の腕に見惚れていたわけではない。

 流石付き合いが長いだけあって、すぐにフランドールが違和感を察知する。眠いという推測は的から外れること1光年だが、歓喜の輪の中にあって彼女だけが心からその喜びを分かち合えていないのは何となく分かってしまう。見られている張本人であるジョセフは彼女の視線に気がつくことなく、今から飲みにでも行くかと豪快にジョークをかっ飛ばしていた。阿呆か。

 

「申し訳ございません」

 

「何で謝るのよ。人間って普通は朝起きて夜に寝るんでしょ。じゃあ何もおかしくないじゃない」

 

 生理現象を咎めるのはお門違いも甚だしいというやつだ。勝手に納得してくれた主に内心感謝して、視界からジョセフを外す。本当であれば彼に言うつもりだったが、この戦勝ムードをぶん殴って破壊する勇気はさしもの咲夜にも無い。ホテルに着いて、機を見ての伝達を予定に組み込んだ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「心拍数は?」

 

「70から75bpmで安定しています。命に別状はありません」

 

「うむ」

 

 J・ガイルに襲われ重傷を負った女性。彼女は今、救急車で病院まで搬送されている。目を瞑り、眠ったように横たわる彼女の命に別状は無かった。救急隊員達はそれを喜びながらも、軽い疑問が薄ぼんやりと頭をもたげている。無論口に出したりはしないが。

 左腕から大量の出血がある。救急車を呼んだ老人の話では、見つけた時には既に顔色も少し悪かったそうだ。それにしては、脈拍が安定し過ぎているのではないだろうか。汗もかかないし、体の震えだって起きていない。数多の病人負傷人を見てきた彼らだからこそ感じられる妙な不審さは、言葉なくとも全員の間で一致していた。

 

「……ん?おまえ、顔腫れてるぞ。どうした?」

 

「えっ、顔ですか」

 

 救急車に乗り込んだ時、こいつの顔は別に腫れていなかったはずだが。見間違いかと隊員の男は見直したが、やはり右頬の一部が膨れ上がっている。こんな短時間で皮膚を膨張させようと思ったら、薬物か火傷くらいしかない。勿論どちらにも心当たりはない。おかしなこともあるものだと首を捻った彼は、次の瞬間に信じ難いものを目にし息を呑んだ。

 

「ちょ、ちょっと待て。その腫れ、今動いたぞッ」

 

「やめてくださいよ先輩、患者も乗って──」

 

 苦笑いは、唐突にひしゃげた。文字通り、顔が弾け飛んで頭が割られた西瓜のように縦に真っ二つになる。血と脳漿と零れ落ちた眼球が撒き散らされ、車内に血腥い吐き気を催す重厚な匂いが充満する。

 

「う、うわあああぁぁ!」

 

「何だ、どうしたッ!」

 

「マイネンが、マイネンが死んだッ!」

 

「なんだと!?」

 

 彼らにとっての日常が、脆くも瓦解した。努力家で、将来は後輩に慕われる救急救命士になるんだと息巻いていた後輩は、その夢半ばにしてあっさりと死んだ。あまりにもスムーズに、いっそ予定調和なんて言葉が男の頭に降りてくるくらいに。

 職務の中で想定されるものとは全く異なるが、とにかく異常事態であるのに変わりはない。運転席に座る同期に、無線で緊急を伝えるよう頼む。血塗れになった車内に傷病者を乗せておくのは、衛生上も倫理上も宜しくない。困惑の渦に飲まれても、医療的判断は呼吸をするようにできる。できてしまう。

 

 同期の返事はない。無線で通信をしている様子も見られない。何をしているんだ、焦りのせいで肩を叩く力が強くなってしまう。悪い、と謝ろうとした彼は、同期の体が横にぐらりと傾くのを見た。あ、死んでる。不思議とすんなり把握し理解できた。彼の脳は僅か1分程度の間に発生した2つの突然死を受け止めきれず、キャパシティオーバーを起こしていた。どさっ、と倒れ伏した手には無線機が握られており、そこから微かに声らしき音が聞こえてくる。

 ふと竹刀で殴られたような鋭い頭痛に見舞われる。反射的に手を頭に持っていき、べちょりとした水気のある感覚に腰を抜かした。尻が床に接触した時には、男はもう息絶えていた。後輩と同じように、首から上の原型を失った状態で。

 

 ちゅみみん、と蝿の羽音がする。それが本当に蝿なのか、確かめられる人間はもう誰もいなかった。



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第三十八話 女帝 その③

「おォーい、ザ・ワールド。何処におるんじゃ?」

 

「ジョセフ、こっちよ」

 

 激闘から僅かに数時間、彼以外の男3人衆はベッドで深く深く眠り込んでいる。1つ隣の部屋では、フランドール(夜の王)がくうくうと可愛らしい寝息を立てている。生活リズムが人間寄りになりつつあるようで、良いのやら悪いのやら。

 

「何じゃ、こんな時間に。子供はしっかり寝なきゃいかんぞ、育つものも育たんからの」

 

「時と場合によってはセクシュアル・ハラスメントで訴えられるわよ貴方。遅い時間にこうして来てくれたのには感謝しているけれど」

 

「しかし、おまえさんがわしを個人的に呼び出すとはな。……まさかとは思うが、わしにはスージーQという愛する妻がおるからな?」

 

「寝惚けてるなら話は明日にしても良いわよ」

 

 一行のうち、起きているのはジョセフと咲夜ただ2人だ。無論2人とて差はあれど疲れは出ているし、できるなら早く横になって体力の回復に務めたいとも思っている。だが、そうもいかない事情を咲夜だけが知っている。彼女はそれを、ジョセフに伝えるべきだと判断した。

 

「ジョセフ、自分のスタンドの名前を言えるかしら」

 

「藪から棒によー分からんのぉ。ハーミットパープル、じゃな」

 

「良かった、まだ頭は正常みたいね。いえ、状況として良くはないかしら」

 

「あァ~ン?今のってもしかして、ボケてないかのテストじゃったんかァ!?」

 

 そんなわけがあるか。痴呆が進んでいるかどうかなんて、正式な医療機関で看てもらえば良いこと。のっぴきならない重要な要件だからこそ、主の傍を一時離れてでもジョセフに伝えに来たのだ。

 

「右腕に、何か違和感を感じたりはしないの?」

 

「右腕……別に普通じゃが」

 

「そう。ならまだ急を要する段階ではないのかもね」

 

「おいおい、そろそろ要件を教えてくれても良いんじゃあないか?」

 

 咲夜にも考えはあるのだろうが、結論を温存されるのはジョセフの性格上苦手だ。まどろっこしいことをせず、何かあるならはっきりと言い切ってほしい。本人にも伝え、彼女はそれを了承した。確かに、過程を冗長に伸ばしても中弛みするだけだ。

 

「ごめんなさい。貴方の右腕からハーミットパープル()()()()スタンドの気配が感じられるから」

 

「なに?」

 

 ジョセフと再会した時から、咲夜は異変を察知していた。気のせいなんかではない、確かにハーミットパープル以外の精神エネルギーが潜んでいる。それも、彼のものとして宿っていると言うよりは、肉体に間借りして巣食っているように見える。

 憑依型のスタンドだとすれば、前例としてシンガポールで遭遇したデーポの『デビル』がある。だが、少なくとも現時点においてジョセフの意識まで乗っ取られているわけではない。だとすればこれは憑依以外の言葉を用いて表されるべきだ。

 

 そう、例えば寄生とか。

 

「スタンドは1人につき1つ、というのが原則。わしに限って2つ目が発現するとは思えん」

 

「なら確定ね。何処かのタイミングで、スタンドを植え付けられたのでしょう。心当たりは……なさそうね」

 

「あぁ、全くないわい。ったく、気持ち悪いの。こんな時はコーラでも飲んで落ち着くのが正解よ、おまえさんもどうじゃ」

 

「お誘い頂いて申し訳ないけれど、妹様のお傍にいないといけないの」

 

 取り敢えず、気をつけておきなさい。くるりと踵を返し、むさくるしさ0%の女部屋に戻る中で、咲夜はそう忠告を残しておいた。多分どころかほぼ確実に敵のスタンド使いの仕業なのだが、今のところ彼らが打てる有効な対策は無い。精々が宿られているという事実をジョセフ自身が把握し、有事に備えて警戒しておくくらいだ。

 先手を取られたら、どうすれば良いのか。げんなりとした顔で自販機に金を投入し、真っ黒な缶をがこんと落とす。プルタブを開けて350mlの糖類・炭酸・カラメル色素及び少しのカフェイン混合液を飲み干す。取り付いているというスタンドも、この炭酸で溶けてくれないものか。

 

 「チュミミ~ン」

 

「む?」

 

 今宵はえらく喉が渇く。何故だか知らないが、そんな時には水分を沢山取るのがベストだ。喉の渇きは体が発する危険信号の1つで、この段階では既に体内の水分が深刻に不足しているケースが多い。痩せ我慢などせずに、速やかに身近な飲料を摂取するべきである。

 だからって、ジョセフみたいに2本目のコーラに手を出すのはどうなのか。1日に何本もしゅわしゅわする砂糖水に手を出していたら、将来糖尿病かで苦しむことになるのは他ならぬ彼自身である。折角ここまで大きな病気もせず生きてこれたのだから、余生も同様に送るのが良いはずだ。

 

 ある意味そいつは、ジョセフの健康を守ったと言えなくもない。だがしかし所詮は捻りに捻った曲解でしかなく、害意を持って彼の腕に取り憑いた悪霊(スタンド)であるのに変わりはない。

 

「ジョセフ。今の音は……いえ、声は」

 

「あぁ。()()()()()()()()()()()!」

 

 部屋のドアノブに手を伸ばしかけていた咲夜も、ここにいるはずのない第三者の声に気がつく。()()気配は、この廊下に咲夜とジョセフだけだ。彼女の索敵に引っかからない人間は、この世界では零に等しい。下手をすれば本当に零かも知れない。

 ここで本性を表してくるとは、咲夜も思っていなかった。彼が1人になったのを狙って姿を見せてくるだろうと踏んでいたので、そこを間髪入れずに叩くつもりでいた。何気に彼女の予想を掻い潜るというラッキーを披露したスタンドは、しかしその幸運に気がつくことはない。

 

 《ヘーイ聞こえるかい?ジョセフじじいッ!》

 

「なッ!何だこれはッ!?」

 

 《自分の肉に向かって()()はないんじゃないかいハニィ~~~~!》

 

 腕の一部が、火傷でもしたかのように不自然に膨れ上がっている。この肉が独特な鳴き声をあげた元凶だ。目と鼻と、それから口を取り揃えたそれは、どう見ても立派な人面疽であった。

 咄嗟に呼吸を整えて、久方ぶりに波紋を練る。特殊な呼吸が血液に生み出す波紋は、生命力に溢れた太陽のエネルギーとなる。太陽を嫌う一族にとって、波紋戦士はまさしく天敵なのだ。

 

 《あたしが女帝(エンプレス)よ!まず血祭りにあげるのはあんたってこと、理解したかい老いぼれじじいッ!》

 

「こ、この(アマ)ッ」

 

 《おっと、先に良いこと教えといてあげるかねェ。ひとつ、あたしはおまえの肉の一部だからじじいご自慢の波紋疾走(オーバードライブ)とやらは効かねーよ》

 

 だが、この力は吸血鬼や更なる上位種族に有効であっても、スタンドに対しては特攻性を有していない。しかもこの人面疽、あくまでもジョセフの肉体であると判定されているらしく、波紋は全く通じないと来た。

 どれ程優れた波紋使いであったとしても、自身に通用する波紋を練ることは絶対にできない。それを良く知る彼は、歯噛みしてエンプレスを睨みつける。ハーミットパープルで締め上げることも考えたが、元より出力はかなり低いスタンドだ。何処かにいるはずの本体の意識を落とすまで締め付けるのは難しい。

 

 《そしてもうひとつ、エネルギッシュなオトウサマのお陰で娘は立派に成長しましたァーッ!》

 

 目を閉じ、がくがくと小刻みに震え出す。何が起こるのかと見守ることしかできないジョセフの目の前で、エンプレスはより立体的な肉体を形成した。上半身だけが腕から自生してきたような、本能的な怖気を擽られる気味の悪い姿であり、また現象であった。

 

「おおおおォーッ!腫瘍に腕が生えるとは!」

 

 《おっ、じじいあんた今あたしのこと気持ち悪いって思ったでしょ。いけないね、娘にはきちんと愛情を注いであげなきゃねェ!!》

 

 どうやらジョセフの生命力を糧として発達しているらしい。このままだといずれ下半身も生成されるだろう。終いには彼の腕から分離して、人間と同じように活動を開始するかも知れない。

 ロイコクロリディウムという寄生虫が、近年日本でも確認されている。この虫、何とカタツムリの触覚に寄生し母体の脳を自在にコントロールすることで白昼堂々宿主を目立つ所へ向かわせるのだ。触覚の中で緑色の体が蠢く姿は、捕食者である鳥から見れば好物である芋虫のように見えてしまう。結果カタツムリは鳥に捕食され、ロイコクロリディウムは体内で成虫へと育っていくのである。

 現在のエンプレスは、丁度こいつの幼虫段階みたいなものだ。そう考えると益々鳥肌ものだ、立毛筋も普段ではありえないフル稼働で体毛を逆立たせていく。

 

 《ヘイ!これからあんたの心臓に取り付いてぐっちゃぐちゃのミンチにしてやるよ!》

 

 彼らは知らないことだが、エンプレスは同様の手段で3人の救急隊員を殺害している。そう、裏路地でジョセフが助けた美しい女性こそが老婆の命を受けて遥々インドまでやってきたスタンド使いだったのだ。その外見すらも張りぼてに過ぎず、正体は巨大な肉を纏って醜い本体をカモフラージュしている醜女である。

 つまるところカルカッタにはDIOの配下が3人いたわけだ。しかし、立場上は仲間であるホル・ホースもJ・ガイルも、ネーナと名乗る女性の一切を把握していなかった。何せ彼女は、このコンビを駒として泳がせて、一行にスタンドを植え付けられる隙を見計らっていたのである。だが巡り合わせの悪いまま2人は倒され、痺れを切らした彼女は直接的な方法に打って出た。

 

 腕、足、顔。体のうち、何処でも良い。血が付きさえすれば、エンプレスはいとも簡単に萌芽する。そう、雑草が芽吹くかの如く。目論見通り成長のための拠点を手に入れ、宿主から失敬したエネルギーで着々と形態変化を達成していくその様は、教科書か辞書に掲載されても良いくらいの他力本願ぶりである。

 

 1度人間にくっついたエンプレスには、大別して2つの選択肢がある。その場で成長するか、別の場所へ移動するかだ。脳なり心臓なり、主要な部位へ移動すれば迅速に対象を始末してしまえる。今回ジョセフの腕でパワーアップしていったのは単に彼を言葉で挑発するためであり、この段階であっても自身の一部を別部位に送ることくらい何てことのない易行だった。

 ここでジョセフを殺し、血を弾き飛ばして後ろにいる咲夜にも感染すれば、この場はミッション・コンプリート。彼女がホル・ホースを圧倒したことはネーナも知っている。非常に強力で、また独特なスタンドと言えよう。だが哀れ、如何に強いスタンドであってもエンプレスからは逃れられない。

 

 ジョセフ、ザ・ワールドの本体。アヴドゥルも含め、3人がこの地で骨を埋めることになる。こんな簡単な仕事で、莫大な報酬は独り占めだ。ホテルから遠く離れた所でネーナは高笑いを抑えられなかった。

 

 《あ?てめー何買って……ぎゃああああーッ!?》

 

 つらつらと御託を並べた所で、不変の事実が1つ。エンプレスが彼の肉だと判定されている以上、彼らは全ての感覚を共有している。痛覚も、温覚も。

 

「注ぐ側にも選ぶ権利がある。おまえにわざわざ愛情なんて注ぐ理由がない、この安いコーヒーで充分じゃ。……次にきさまは『調子に乗るなよ老いぼれ』と言うッ!」

 

 《あ゛、あ゛つ゛ッ゛!この、調子に乗るなよ老いぼれェ~~~~ッ!!》

 

 ピンチに陥っても、ジョセフ・ジョースターは冷静だった。エンプレスを引き剥がす術はもう考えついている。目には目をということで買いたてのコーヒーを食らわせてやる。

 勿論ジョセフ自身も熱さは感じているが、悲鳴をあげる程でもない。対してネーナは、上半身が覆い隠されるくらいの大量のコーヒーをかけられたことになる。呻き悶え、瞬時に逆上して彼へと殴りかかる。首に手が届く距離、頸動脈を掻っ切れば彼を殺すことも可能であろう。事実そうするだけのパワーは持っている。

 

 ──きぃん、と甲高い音が僅かな残響を響かせた。誰もそれに気がついた素振りを見せない。依然明るいホテルの廊下で、事態を動かしたのは咲夜ただ1人であった。

 

「……なに?」

 

「貸しにしておくわ、ジョセフ」

 

 ハーミットパープルにて迎え撃つ構えはできていた。主導権は完全に引き寄せた、後は作戦を実行してスタンド使いを撃破するのみ。密かにほくそ笑んでいたジョセフだったが、自ら罠へ嵌ろうとしていた愚かな獲物はその直前で自壊した。断末魔など無く、目を滾らせたまま唐突にそれは彼から剥がれ落ちた。

 慌てて周囲を見渡したが、敵の破片すら見当たらない。おまけにエンプレスがあったはずの部分は丁寧に縫われており、微かにちくちくするだけで寝るのにも支障が無いくらいだ。日本風に言えば、狐か狸に化かされたみたいに摩訶不思議で、奇々怪々。ぽかんと間抜けな表情で、部屋へ戻っていく咲夜を目で追うしかできなかった。



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第三十九話 運命の車輪 その①

「のぉ、ザ・ワールド。わしは今、とても気になっとることがあるんじゃが」

 

 インド屈指のメトロポリス、カルカッタ。西を見れば聖地ベナレス、そして首都デリーがその容貌を覗かせる。一行はこの3都市を経由して、隣国であるパキスタンへ向かっている最中である。鉄道も飛行機も便が悪く、代案としてレンタルした四輪駆動車を走らせている。中々パワフルで、乗り心地も悪くない。

 

「何かしら」

 

「率直に聞こう。おまえさんはどんなスタンドなんじゃ?」

 

 その車内で、ジョセフはかねてからの疑問を咲夜にぶつけた。前々から不思議だったのだが、ホテルでの1件を経て疑惑の念は一層深まった。疑惑の念と言うとあたかもジョセフが咲夜に対して良くない予想を立てているようだが、彼は異色のスタンドをきちんと信用している。心配はご無用であった。

 

「少しの間だけ時間を止められるわ」

 

「……なんじゃそりゃ。時間を止めるって、もう少し詳しく教えてくれんかの」

 

「詳しくも何も、これが全てよ。私には時を止める力がある」

 

 言葉にすれば単純明快、されどその原理は複雑怪奇。とても現世の物理学では解明できない理論に基づいて、咲夜は他の全てを沈黙させる。効果時間はおよそ30秒──凍った世界で30秒も何も無いように思えるが、他ならぬ彼女の時だけは動き続けている。つまるところ、ここで言う30秒とは彼女にとってのものとなる。

 世界が流動的であるとすれば、凪いだ湖面の如き()()は世界と呼ぶに足らぬ矮小なものだろう。ほんの片手間程度、だがその間確かに咲夜は世界(ザ・ワールド)なのだ。彼女はそれを誇らないし、誰も零なんて認識できやしないのだけれど。

 

 スタンドは尋常ならざる特殊な力を有するとはいえ、幾ら何でも突飛が過ぎる。だが、本体であるフランドールが咲夜の説明を後押ししたことでジョセフ達も納得せざるを得なくなった。

 

「ほんとよ。ザ・ワールドの能力は時間停止で間違いないわ」

 

「そりゃまた、とんでもない力じゃの。エンプレスが突然倒れたのも?」

 

「えぇ。止めた時の中で、私が」

 

 相手の抵抗力を零にする。それは例えるなら、ある人間の体内から免疫細胞を根絶するようなものだ。あらゆる感染症が体を蝕み、抗う術も無く死にゆく。そう考えると、中々にホラーな特性ではないだろうか。

 

「ザ・ワールド。ひとつ、聞きてーことがある。おまえ、あの紅い霧は自分で出したとか言ってたな」

 

「時間停止と何の関係があるのか、ってことね」

 

「あぁ」

 

 時の流れを堰き止められるという異能では、あの決戦場を覆い隠していた真紅のベールに説明がつかない。咲夜の説明から、霧を操る能力がある、或いはそれが能力の一部であると予測していた承太郎だったが、思わぬ回答を受けて急遽の質問を決めた。

 味方ができることを把握していれば、状況に応じての戦いがより幅広くなる。特に咲夜のように概要すら掴み難いスタンド能力のことは、可能な限り詳らかに知っておきたい。そんな承太郎の思惑は、しっかりと彼女にも伝わったようだ。

 

「私にとって、時の止まった世界は無数のピースで構成されるパズルのようなもの。認識できる範囲内ならば()()()()()()()()()()()()

 

「では、あの霧は世界の何処かで実際に発生していたと言うのかッ!」

 

「そうよ。だから正確に言えば、私の力で生み出された霧ではないわね。失礼、貴方達には嘘を言ってしまったことになる」

 

 ここで所謂嘘を一同に吹き込んだのは、果たして誠実さに欠ける行為と言えるだろうか。話は滞りなく前へ進んでいるし、チームの中に謎が残ったり、また新たな謎が生まれたこともない。皆を混乱させないための配慮であったと考えれば、寧ろ気の利いた偽り言ではないか。

 

「しかしよー、とんでもないスタンドだな。ザ・ワールドが味方にいる幸せを今噛み締めてるぜ」

 

「勘違いしないで。現状、貴方は私の敵よ」

 

「ぬぉゥ!?う、運転中にナイフ突きつけてくるノータリンがいるかァーッ!?」

 

 その場の機転で鮮やかなマジックめいた煙巻きを見せる咲夜でも、敵に向ける感情は凡百と変わらず単純なものだ。特にその敵が、敬愛する主を誑かす不埒者だとすれば、怒りの色はいよいよ濃くなっていく。怒りと言うか、嫉妬と表した方が合っているかも知れない。

 どんな形であれ、自分を差し置いて他の誰かが主人に頼られるのを彼女は嫌う。恐れていると言っても良いだろう。乗り心地なんて殆ど変えられないのだから諦めれば話は早いのだが、そこは従者として譲れない一線らしい。その辺りの線引きには、彼女にしか理解できない妙がある。

 

「フランドーーーールゥ!降りろ、おれが死んで次に全員死ぬぞ!」

 

「貴方が死んだら運転はザ・ワールドにしてもらうから平気よ。ほら前見なさい、車がいるわ」

 

「ぶっとばすぞこのガキャア!!」

 

 口角泡を飛ばして肩に乗る小さな暴君に降壇を命じるが、生粋のお嬢様を相手にその物言いでは通らない。運転している人間に乗りかかるなというポルナレフの主張は至極真っ当だが、生まれついての高貴さは正当性をも超越するのだ。

 のしかかられているせいで、絶妙にハンドルが切りにくい。これで事故を起こしたらフランドールの責任にしてやろうと心の中で恨み言を呟く。口に出したら、忠誠心に溢れたメイドの手でどんな目に遭わされるかとても想像がつかないので。

 

 今一行の前を走る車に接触しないよう、適当な速度調整をする。アクセルやブレーキを踏むのに支障がないのは幸いだ。だが、何故か車間距離はぐいぐいと縮まっていく。おかしいと思いさらに速度を落とすが、それでも前方のナンバープレートは絶えず近づいてくる。

 こうなるとかちんと来るのがポルナレフという男。後続のことを顧みず無闇にスピードを落とすと言うなら、彼にも考えがあった。ぎりぎりまで接近し、触れるか触れないかの距離を保つ。喧嘩っ早い、辛抱が利かないとも言う。

 

「こんな狭い道で、とろとろ走ってんじゃねーぜ!」

 

「おいポルナレフ、煽るようなことはッ」

 

「これは遅い方に問題があるだろーよ!あっという間に追いついちまったし、あいつ40km/hも出してないんじゃねーの?」

 

 挑発的な運転は、事故率を飛躍的に高くする。つい数秒前の事故をしないという心がけは何処へやら、既にポルナレフの脳内では迷惑な運転を後悔させてやるというベクトルにしか思考が向いていなかった。これではどちらが迷惑行為の犯人か、分かったものではない。

 煽られては堪らないのか、スピードを上げて承太郎達から離れていく。それができるなら初めからそうしろ、ポルナレフがぼやくように吐き捨てる。砂煙をあげながら、流線型の車体が小さくなっていく中で承太郎がふと呟く。

 

「ちと妙だな……」

 

「まぁ、のろい運転してるってのは確かに妙だな」

 

「いや、違うぜ。おい花京院、()()()()()()()()()()()()?」

 

「運転手、言われてみれば見えませんでしたね」

 

 フロントガラスから内部の様子は確認できる。舞い散る砂埃のせいで少し霞んではいるが、全く見えない程ではない。だが、運転手の姿を発見することができなかった。

 加減速、そしてハンドル操作など、人の手で行われなければならないことは多岐に渡る。まさか車が人工知能よろしく知性を習得し、自動で運転されるなんてことはないから、必然的に選択肢は1つにまで絞られていく。

 

「成程。承太郎、貴方」

 

「あぁ。あれはスタンドじゃあねーか?」

 

 南シナ海で衝突したスタンド、(ストレングス)。船そのものがスタンドの産物という特異な敵であった。あれと同タイプであるとすれば、奇妙な無人自動車の不思議は解明できる。

 既に姿が見えないところまで離れており、咲夜でも相手の精神エネルギーを捉えられない。故にスタンドであると断定するには至らない。だが、承太郎の直感は新たなる敵の出現を知らせてきた。未熟な運転技術は、偽装に過ぎない。奴はこちらの油断を虎視眈々と測っているのだ、と。

 

「あいつとは距離を取った方が良さそうだぜ」

 

「気が付いているのを悟られると面倒ね。適当な所で撒いてからパキスタンへ入るのが得策かしら」

 

「うむ」

 

 あれがもし敵だとしたら、余計な戦闘は避けたいところだ。かなり距離も空いたとは思われるが、念の為休憩も兼ねて食事処にでも立ち寄るのが良いだろう。ジョセフの提案により、四輪駆動車は進路を変更して手近な街の方へと向かっていった。欧米や日本ではもう存在しない、細部まで漏らすことなく木で造られた店や住宅が、質素な佇まいにて彼らを出迎えた。



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第四十話 運命の車輪 その②

「ん?おい、何か後ろから聞こえねーか?」

 

「エンジン音ですね。かなりの勢いで接近してきているようですが」

 

「かぁーッ、トロ車の次は飛ばし屋かよ!この辺の治安どうなってんだ!」

 

 パキスタンへと向かう道中、妙な車に出会った一行。大事を取る判断で、小さな街へ立ち寄って暫し時間を潰してから移動を再開した。

 何のことはない、ただの難癖野郎であれば心配はいらない。問題は、あの車がスタンドであった場合だ。1度見失ったくらいで諦めるとは考え辛く、再び彼らを探し出して陰湿な妨害行為をしてくる可能性が高い。咲夜や承太郎は、念の為辺りを警戒しながら車に揺られていた。彼女については、ポルナレフの荒々しい運転のせいで若干酔ってきている主人のケアも並行してやっているので、忙しいったらありはしない。

 

 船よりはまだましと雖も、事態は予断を許さない。フランドールの残存体力を考えれば、次に止まる地点まで持つかは怪しいのだ。咲夜とて無策でこの長距離ドライビングに臨んだわけではなく、酔い止めという希望の星を主に服用させていた。だが、人間を基準に作られた薬が吸血鬼にまともに作用するはずもなく、半ば予定調和的に彼女はぬるめの死線へ置かれた。

 

「な、なにィーッ!」

 

 騒がしくするな、妹様の胃に障る。ポルナレフに注意するより早く彼が言葉を続けた。大声を出さなくても、()()くらい把握しているから取り敢えず落ち着いたらどうか。

 さっき幾らか聞いたエンジン音が、音量を上げて後ろから追い上げてきている。15分の休憩を挟んだのだから、あの車はかなり前を行っているはずなのだ。それでも、承太郎達を()()()()()()ということは、確実に彼らにご用事があるわけで。

 

 間違いなく、スタンドだ。(ストレングス)と同じ、物体そのものが顕現しているタイプの。海で出会ったオランウータンは非常に強力なスタンドを操り皆を苦しめたが、さて今回はどれくらいの手合いになるのだろう。

 

「あの車だ!追いついてきやがったッ!」

 

「ポルナレフ、スピードを上げて。敵意ありと見て間違いないわ」

 

「上げてる!だがこれ以上は本気で事故になるッ!」

 

 スピードメーターを見たところ、四輪駆動の時速は現在102km/h。法定速度も糸瓜もないかっ飛ばしっぷりだが、後ろから迫る件の厄介な車はぐんぐんと距離を詰めてくる。恐らく四輪駆動の5割増し程度は出ているだろう。

 放っておいても、向こうが勝手に事故を起こす可能性もある。もう少し適当に走らせておいたら、と提案しようと思ったが、場の雰囲気はどうにかして迎撃するという方向で一致している。やむなし、咲夜もそちらに同調しておいた。チームの和を乱さないのは、メンバーの鉄則である。

 

「なら、スピードを落として。安全な速度の運転で良いから」

 

「そりゃ極端過ぎるぜ!んなことしたら、たちまち後ろから追突だ!」

 

「それは私が防いであげる。……さて妹様、これより私があの騒がしい下郎を制して参ります。如何様にもご命令を」

 

 事も無げに、暴走車との追突を躱すと明言した咲夜に、全員の注目が集まる。これまでの活躍を知る彼らだからこそ可能なのだろうと思い、だが一方で陶磁器の如き脆さを感じさせる美しくも儚い体が見えるからこそ微かな不安は残る。

 

 本当に止められるのか。止められたとして、大きな怪我を負ったりはしないだろうか。

 

「人が死ぬのは避けて」

 

 咲夜と共にいる時間が、承太郎達とフランドールとでは何倍何十倍も違う。彼女のポテンシャルを良く知る者が、この発言を受ければ何と答えるだろう。例えば、フランドールよりもさらに少しだけ長く咲夜と歩んできたもう1人の吸血鬼なら。

 

「その上で、衝突を阻止してちょうだい」

 

「承りました」

 

 ──ぶっ飛ばしといて。彼女はきっと、何でもないことのように命令する。今日の晩ご飯の献立はカレーにしておいて、と指示の重みは変わらない。だって、咲夜にとって暴れ車の鎮圧がその程度の些事だと完璧に理解しているのだから。路傍の石を拾えと言うのに、裂帛の気合を込める阿呆はいない。

 

 フランドールは優しい。姉と対比すれば、丁度天使と悪魔となる程に。だからわざわざ命じるのに、人死には回避するよう付けた。

 咲夜は主人の心を正しく把握できるのだから、必要最低限の言葉でスマートに言付けたって良かった。……咲夜はふっ、と誰にも分からないくらいに微笑み、それから一礼して掻き消えた。

 

 時間を止めたんだ。一同が理解して、それからばっ、と後ろを振り返る。そこには予想だにしない衝撃の光景が繰り広げられていた。

 

「あれっ!?」

 

 カー・イズ・フライング。それもセンチ単位ではなく、メートル単位でかっ飛んでいる。フィギュアや模型を投げているかのように、車の重量感が全く感じられない。

 最高到達点は何メートルになっただろう。あの車の運転手、もといスタンド使いはさぞかし生きた心地がしなかったに違いない。

 

「……車、飛んどるぞ」

 

「……人はどう頑張っても無事でなさそうですが」

 

「……やれやれだぜ」

 

 というか、生きているのだろうか。ちょっとした崖から車で落ちたら、中にいる人間は問題無く死ねる。いや問題大ありなのだが、とにかく死ぬことは疑う余地が無い。

 目の前で一瞬のうちに始まり終わった驚愕の流れに、誰しもが呆然と口を開けるしかできなかった。1tクラスの鉄の塊がああも容易に宙を舞うなんて、誰一人予見していない。フランドールなんて、驚き過ぎて酔いさえ忘れてしまった。

 

「お待たせ致しました。只今戻りましたわ」

 

「さ、咲夜。人が死ぬのは避けてって、私言ったわよね?」

 

「はい。仰せの通りに、スタンド使いは生かしてあります」

 

 車体は原型を留めない程にひしゃげており、とても乗っていた人間が生きているようには見えないが、咲夜曰く殺してはいないそうだ。……死んでいないだけで、瀕死の重傷とかになっているのではないか。そんな危惧が頭を過ぎったので、もう一歩踏み込んだ質問を投げかける。

 

「そのスタンド使いって、どうしたの?」

 

「気絶させておきました」

 

 ふむ、意識を落としたのか。正直怖さはあるが、聞かないというのも謎を残すので方法を尋ねる。手刀で首筋を、そう言いながらポルナレフの首に白磁の手を添える。

 あぁ、従者が無益な殺人を犯さなくて良かった。1人を除く全員が、安心したように目を伏せた。或いはそれは、目の前で冷や汗をだらだらと流す男から目を逸らしたかったのかも知れない。

 

 真相は土埃に塗れ、荒野に置いていかれた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ホウィール・オブ・フォーチュンがやられた。それを知った時の老婆の怒りようたるや、大の男でも恐れを為して近づけない程であった。

 老婆が責任をもって送り込んだ、7人のスタンド使い。ジョースター一行のうち、アヴドゥルしか倒せないままにその全員が敗れ去った。彼等は依然としてパキスタンへの道を歩み続ける。

 

 最早老婆のプライドはずたずたに引き裂かれていた。これ以上ない大敗、さらに失われた愛すべき息子の命。怒りが深い絶望に飲み込まれ、溶けていく。顔を上げた老婆の瞳に、感情の色は無かった。

 

 深過ぎる絶望、そして虚無。老婆の理性は、この瞬間に燃え尽きた。DIOへの償いも、息子の敵討ちも、全てが収束して1つに溶け合う。最悪の一意専心が、ここに産声を上げた。

 

 最後に残されたそれを、人間は上手く形容できない。古今東西、全ての言語をひっくり返しても、言い表すのは不可能だ。無理矢理に言語化すれば、底無しの殺意とでもなろうか。

 何があっても、とか刺し違えてでも、のような前置きは不要。殺す、たった2文字が今の老婆を操るように動かす。黒くどろどろとした液体が心を満たし、律するための思考は溺れて力尽きた。

 

 闇の中に、1人佇む骸の如き老女。金切り声もなく泣きもせず、彼女はただそこに座り込んでいた。



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第四十一話 正義? その①

 咲夜の活躍もとい手刀により──自己申告に過ぎないが一先ず信用するとして、運命の車輪(ホウィール・オブ・フォーチュン)を多分殺すことなく撃破した一行。パキスタン国境を目指してなおも車を走らせるが、落陽が進むにつれて辺りには霧が立ち込めつつあった。

 

「ポルナレフ、貴方ちゃんと見えている?」

 

「正直言って怖えーぜ」

 

 横は柵のない崖だしな。その言葉通り、四輪駆動の右タイヤからほんの4、5mも行けば切り立つ崖が哀れな犠牲者を飲み込まんと馬鹿でかい大口を開けて待ち構えている。少し運転を間違えたら、崖下に真っ逆さまだ。落ちてはたまらないので、流石のポルナレフでも徐行運転で安全確保を優先している。

 

「なぁ、ジョースターさん。そろそろ適当な街で止まろうや」

 

「それが良いかの」

 

 この速度ならポルナレフが居眠りでもしない限りは落ちるとも思えないが、霧が晴れるまで待った方が安全なのは確かだ。次に通りかかったところの宿を取り、そこで一夜を明かすことに決めた。

 狙ったかのように丁度良いタイミングで街が見えてきた。霧が深く内部をじっくりとは見れないが、中々良いくらいの大きさではないか。ここなら良い宿にも巡り会えそうだ、ジョセフがほっとしたように一息つく。

 

 入口から車を進入させ、少し広くなっている所に止めておく。エンジンまできちんと切って、環境への配慮も忘れない。特に四輪駆動はそのパワー故に排気ガスの多くなってしまう車種だ、こまめなエンジンの停止は運転者の義務である。

 車を降りて、街の中へと入っていく。霧のせいか外にいる人は少ないようだが、店自体は凡そOPENの看板を掲げているので宿泊の問題も無さそうだ。ホテルを求めて歩いていく男衆に付いていた咲夜だったが、スカートの端をくいくいと引かれたので振り返る。あまり聞かれたくないらしく、自分の耳を触って『耳貸して』のハンドサインを送ってきた。結構独特な合図なので、彼女でなければ分からなかったに違いない。

 

「ねぇ、咲夜」

 

「はい」

 

「すっごく変なこと聞いて良い?」

 

「私めにお答えできるものでしたら」

 

 周囲をきょろきょろと見渡すフランドールは、何処か居心地が悪そうに見える。はて、霧が苦手ということはなかったはずだが。首を傾げる咲夜に、彼女はある一点を指し示す。靴屋の窓を拭いている男がいるが、何か気になることでもあるのだろうか。

 

「あれ、何に見える?」

 

「人ですね。男性で、歳の頃は30代後半程でしょうか」

 

「……生きてるように見える?」

 

 続けられたのは、意外な問いだった。見えるも何も、動いている人間が生きていないなんてことはない。別段嗄れた死体の様相を呈しているわけでもなく、そのために咲夜はフランドールの言葉の真意を注意深く測らねばならなかった。

 

「申し訳ございません、私にはおかしな点は見当たりません」

 

「ありがと。いやさ、ぱっと見てあれが動く死体に見えたのよ」

 

 たはは、と頬を桃色に染めて恥ずかしそうに笑う主人。無理もない、普通の人間を動く死体と見間違えて、剰え他者に意見まで求めてしまったのだから。彼女は内心、咲夜に小馬鹿にされていないか不安に思っていたくらいだ。

 しかし、当の咲夜はフランドールの意見を一笑になど付さない。人智を超えた種である吸血鬼、その王に君臨する血統の怪物。彼女の直感は、常人が数時間をかけて形作った予測に勝る信憑性を有している。

 

「気をつけた方が良いかも知れません」

 

 元より知らない街だ、例え何も無かったとしても警戒しておくに越したことはない。言い出した本人がそこまで注意しなくても、と苦笑いする程の集中力で、一帯の様子を探る。

 近くにいるジョセフ達以外の人間は、4人。うち3人は知覚できる霊気の強さからして屋内にいるようだが、1人だけ外へ出ている。移動速度を鑑みるに、それなりに全力で走っているらしい。()()が如何なる目的を持つかは露知らず、されど真っ直ぐに咲夜の、或いはフランドールの所を目指しているようで。

 

「あらー……言ったそばね」

 

「全くです。しかしどうやらこの街、私達を歓迎してはくれない様子」

 

 背後から飛びかかってきた大柄な男を、目にもとまらないスピードの回し蹴りで迎撃する。顎を的確に捉えた痛打は、めきりという鳥肌の立ちそうな音を残して男を向かいの民家まで吹き飛ばした。とんでもない反発エネルギーの負荷を食らったであろう咲夜のしなやかな右足には、擦り傷の1つたりとも付いてはいない。

 可哀想に、即死とはいかないにせよ数ヶ月は病院のベッドでおねんねだ。つい先日生まれて初めてちょっとだけ療養というものを経験したフランドールは、ある種若干の仲間意識を男に持った。咲夜じゃなくて自分の方に来ていたら、その場で悶絶するくらいで済ませてあげられたのに。2分の1の外れを引いたな、と憐れむ彼女だったが、仮にあそこで見た目弱っちい幼女を襲う理性が男にあったとして、間違いなく横のメイドが暴力的な介入をしてくる。どちらにせよ、彼女達を襲撃した時点で奴さんの運命は石の如く強固に決定されていたのである。

 

「おい、フランドール。そいつは」

 

「襲いかかってきたの」

 

「なに?」

 

「ここ、何か変よ」

 

 フランドール達が付いてこないので様子を見に来たらしい。承太郎には今あったことをそのまま伝えておく。それと、自身の主観も併せて。

 目の前で男が豪快に蹴り飛ばされたというのに、周囲の反応が薄過ぎる。誰も彼も俯いたままで、警察を呼びも場から離れもしない。まるで反応という行為だけがこの場から忘れ去られているかのように。

 

 承太郎の鋭敏な嗅覚が、街に潜む異常を彼に悟らせた。スタンド云々は置いておくとして、取り敢えずここは彼女の言うように不審だ。滞在すべきか否か、よく話し合う必要がある。

 

「じじいたちを呼んでくるか。そこで待ってな、2人とも」

 

「待った待った承太郎、単独行動は危ないわ。一緒に行きましょ」

 

「ちっ。勝手にしやがれ」

 

 やられるやられないではなく、気味の悪い所で単騎はまずかろう。幽霊なんて出るわけのない明るい夜道でも、何となく1人では歩きたくないのと同じだ。人間もそれ以外も、ほんの小さな下地があるだけで変わらず怖気を感じ取る。

 とは言っても怖いもの知らずの男子高校生、増して彼は空条 承太郎だ。後ろに女2人を侍らせての移動はお望みでない。1人は物静かな撫子なのでまぁ良いが、金髪ちびの方が喧しいわ騒がしいわで怒髪が今にも天を穿ちそうになる。あの状況を見れば誰だって襲われたことくらい理解できるし、この霧が妙な不安を煽ってくるのも分かるから取り敢えず壊れたラジオのような口を閉じろ。

 

 暫しフランドールがやいのやいのと思い至ったことを話し続け、咲夜がそれに相槌を打つ。こいつは聞き手に回りっ放しで嫌になったりしないのだろうか、見上げた忠誠心だ。やれやれ、と帽子を被り直した丁度そのタイミングで先を行っていた連中が焦って戻ってきた。

 

「どうした」

 

「承太郎!フランドールも、街を出るぞッ!」

 

「ジョセフ、貴方も襲われたのね」

 

「訳知りのようじゃな。いかにもよ!」

 

 彼らも街の住人に手を出されたようだ。こうなるともう宿泊という選択肢は消さざるを得なくなる。この街は明らかに一部、下手をすれば全体的に普通ではない。こんな場所で寝泊まりするなんて、ライオンかニホンオオカミと同じ檻に入って焼肉パーティーでも開くレベルの自殺行為である。

 6人は車を目指して逃走。多少霧が怖くても、次の泊まれそうな所を探すつもりだ。やがて遠目にタイヤの大きなごつい車体が見えてきたが、そうすんなりと通してくれはしなかった。

 

 車への道を塞ぐように、老若男女様々な人間が何処からともなく現れ出てくる。皆が無表情で、そして無感動な瞳を一同に向ける。殺意ある人形が醸すかの如き異様な雰囲気は、決して平和な日本で味わえるものではなく、花京院が気圧されたのも仕方ないと言えよう。

 

「な、前にもッ!」

 

「慌てるんじゃあねーぜ、花京院」

 

 彼らは同じ日本人だったとフランドールは記憶しているのだが、こっちのジャパニーズは幾ら何でも肝が据わり過ぎている。極めて冷静に、スタンドを発現させてから群衆の中に突っ込んでいった。断言しても良い、他のアジアンにもヨーロピアンにも、こんな度胸のある男は殆どいない。

 

「『スタープラチナ』!」

 

 呆気に取られる花京院の目の前で、ジョースターの血を継ぐ男は勇気とはかくなるものだと示す。言葉など必要無く、ただ躊躇なく振るわれる拳と吹き飛ぶ人間共が無言の語り手としてそこにいた。……男の戦いざまにけちをつけるようで大変心苦しいが、ほぼ蛮勇に両足を突っ込んだ愚行すれすれのプレイングなので真似は構えて非推奨である。

 

「後ろの数も減らしておきますッ。『ハイエロファントグリーン』!」

 

 勇気に溢れた、溢れてコップの外側まで濡らしてしまっている承太郎の戦いぶりに触発されて、花京院も己のスタンドを傍らに出現させる。周囲に繰り出される煌めく緑色の塊は、さながら研究のために怪しい液体から取り出された翡翠のように艶やかに光を弾く。それがマシンガンばりの勢いで次から次へと撃たれていき、背後から追いかけてくる人間を文字通り滅多打ちにした。

 子供が投げた石でさえ、大の大人の足を止められるのだから、プロ野球選手の本気のストレートに匹敵する速度でかっ飛んでくる硬質な物体はさぞかし痛いことだろう。だが、手加減無しのエメラルドスプラッシュに晒されてなお、住人達の表情はぴくりとも動かない。無抵抗のままに緑の雨に打たれ続け、立ち上がろうとしては物理的衝撃による失敗を繰り返している。

 

「花京院、そんなもんにしとけ!ガキも混ざってるし、何よりこいつらに効いてる感じがしねぇ!」

 

「そうですね」

 

 人々の異常がもしスタンド使いの仕業なのだとしたら、そいつは確実に街の何処かに隠れている。スタンド使いと交戦する可能性を想定すると、ここで体力を浪費するのはよろしくない。攻撃はやめて、車への到着を最優先にする。折り良く承太郎が道を切り開いてくれたので、全員揃って倒れ伏す人間の脇を抜けていく。

 

 できるだけ視線は向けないように、真っ直ぐに前を見ながら走っていたが、強烈な違和感に引っ張られて花京院は一瞬だけ横へ視界を持っていった。そこに倒れていたのは腰の曲がった老婆だったが、そのしわくちゃの額にはぽっかりと綺麗な、人に空いた穴を綺麗と表現するのはどうかとも思うが、真円が空いていた。

 直径は10cmにもなろう、どう見たって即死をもたらす致命傷だ。では何故、その傷口から一滴の血も滲むことがないのか。そもそも、あれは傷口と呼称すべきものか。花京院の脳内に入り込んだ数多の情報は、逃走劇の最中にも関わらず彼の意識を深い思考の海へと沈めた。

 

「な、なにィ!?」

 

「車が壊されておるじゃと!」

 

 ポルナレフとジョセフの驚愕の声に、一瞬埋没しかけた意識が急浮上する。短時間での乱高下に軽い頭痛を覚えながら車を見ると、いつやられたのかありとあらゆる箇所が殴打を加えられひしゃげていた。タイヤは全てパンクしており、フロントガラスからミラーまで漏れなく粉々という徹底ぶりだ。

 

「これで脱出は不可能になったな。どうする、じじい」

 

「どうするってなぁ」

 

 溜息混じりに後ろを振り向く。さっき承太郎と花京院が退けた連中に合わせて、新たな追手までもがやってきている。全員が無表情を取り揃えて、しかし屍生人(ゾンビ)みたいにのろのろ歩いては来ない。全力のダッシュだ、100mを13.5秒くらいで走れるであろうかなりの高速だ。若干のシュールさと大きな生理的嫌悪を認識させる変にせかせかした動きは、反応に困るのでやめてほしい。というかやめさせる。

 

「操ってるのか動かしとるんか知らんが、元凶(おおもと)を叩くしかあるまいて」

 

 後のことは後で考えよう。成程ジョセフの言う通りだ、今は大挙して押し寄せてくる死体擬きから逃れるのが先決である。イエローテンパランスの時みたいに咲夜を憑依させたとでも言えば良し、フランドールも数の不利を打開するためにひと暴れするつもりであった。

 恐らくこれまで生きてきた495年間で最も不味い血を飲む羽目になるので、吸血だけは絶対にしないでおこうと心に誓う。血なら何でも良いわけではないのだ、血にも食材と同じく味の優劣というものがある。



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第四十二話 正義? その②

「うーん」

 

 うろうろ、てくてくと石造りの床を踏み鳴らす。辺り一面石、石、また石でお目当ての場所からはどうも程遠い気がしてきた。そういえばデーボに遭遇したホテルでも、フルーツオレを片手にあちこち彷徨い歩いていたっけ。つくづく宿泊施設に良い縁の巡り合わないことである。

 

「ここ、お手洗いよね」

 

 フランドールが行きたいのは、売店だ。地階には見られなかったので地下に設置されているのか、珍しいホテルもあるものだなぁと感心しながら階段を降りてきたのだが、どうやら当てが外れたらしい。地下は粗方探索し終えて成果無し、もしやここに売店は置かれていないんじゃあないか。伝えられた夕食の時間まで残り1時間、小腹を満たしたい彼女には少々酷なことである。

 今回はきちんと咲夜に断って出てきたので、首輪をちらつかせての脅しに怯える必要は無い。ただ、外にはあの穴開き人間が群れを為して徘徊しているため、全員が外出を控えている。1人だけ和を乱す行動は取りたくない、このまま見つからないようであれば夕食時まで我慢するしかない。

 

 結局、あの人間達は何だったのか。スタープラチナに殴られても平然と立ち上がる恐ろしい耐久力を誇る一方で、攻撃力は生身のそれと変わりない。開き切った瞳孔に攻撃を耐えるタフネスは、やや時代を降ったゾンビの如き印象を彼女に与える。死体なら火に弱いと相場は決まっているし、レーヴァテインで燃やしてみるのも一手かとは思うのだが、承太郎達がいる前で迂闊なことはできない。

 全てスタンドで操られている死体では、という仮説が彼女の中にある。人間の様子が不自然過ぎるし、先程の乱闘の中において彼らは誰一人として血の1滴たりとも流さなかった。血の抜けた死体を、何者かがスタンドで無理矢理に使役していると考えれば一応の説明はつくのだ。諸々の不可解な点も、彼女が薄々感じている死の気配にも。

 

「……ん?」

 

 とはいえ死体云々は根拠の無い単なる想像だ。敵のスタンド使いがこちらを襲撃しており、その能力が人間の自由な操作なのはほぼ確定しているので、警戒しておくに越したことはない。咲夜曰く、このホテルに一行以外のスタンドの気配は感じられないとのこと。そうでなければ短時間とはいえ羽を休めるのは難しかったし、フランドールの単独行動にも許可が降りなかっただろう。

 人をけしかけておいて自分は姿を見せないとは、卑怯な輩だ。見つけ次第とっちめてやろうと意気込んでいた中でも、ごく小さな乾いた破裂音を聞き漏らさなかった。いや、それは確かに破裂音であったが、より正鵠を射るのであれば発砲音と言うべきか。

 

「何かしら」

 

 屋内で発砲音とは、穏やかでない。誰か巻き込まれていたら大変なので、様子を見に行くことにする。歩いている間に耳をそばだててみたが、最初の1発以外に銃弾が放たれたのを示す音は聞こえなかった。取り押さえられたのか、1発で片がついたのか。

 階段を登り、ロビーへ続く扉を押し開ける。見渡したところ、ここにいるのは2人で間違いないようだ。ポルナレフが尻餅をついている()を助けているのか、しかし彼は遠慮しつつ自力で起き上がろうとしている。

 

「お? フランドールか、そんなとこで何してんだ」

 

「ちょっとね。そちらの方、大丈夫?」

 

「あぁ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 どんくせーなぁ、軽口を叩きながらも手を貸す辺り、ポルナレフは優しい部類の人間なのだろう。心温まるフェアな精神を目の前にしながらも、フランドールの心に生じた違和感は拭えない。

 

「変ね」

 

 ロビーの何処にも拳銃は落ちていないし、弾痕も無ければ硝煙の匂いもしない。聞こえてきた方向に、この場所以外の部屋や空間は無さそうだ。よしんばあったとして、そこへ入るためのドアが見当たらないのは腑に落ちない。

 では、あの銃声は一体。聞き間違いとは思えない、小さかったとはいえ音を明瞭に捉えられたのだ。何を撃ったのか、もっと言うなら誰を撃ったのか。そして狙撃手は何処へ身を潜めているのか。

 

 引っかかる、物凄く引っかかってくる。大事なことを見落としている、まず疑うべきは誰だ。音が聞こえてから自分がロビーに入るまで30秒として、こんな短時間で射撃の痕跡を隠蔽して立ち去るのは不可能に近い。

 なら、犯人はどうする。決まっていることだ、応急処置的に撃ったものを手近な場所に隠すはずである。例えばロッカーの中、或いはソファの下。とにかく人目のつかない所へ放り込んで、それから隙を見てじっくりと処理するのが妥当な方法だろう。

 

 男は既に立ち上がっていた。肩を貸そうとするポルナレフを制し、少しの照れが入った笑顔を浮かべている。その視線が一瞬カウンター付近のソファに向いたのを、フランドールは見逃さなかった。違和感という幼虫が疑惑()へ発展していく。

 

「ソファがどうかしたの?」

 

「え、あぁ。少しずれてるから直そうかなと」

 

「ふぅん」

 

 見れば、確かに真っ直ぐではない。大したずれでもないが、ホテルのボーイとしては模範的な意識と言えよう。少し確かめたいことがあって、ソファの方へ歩き出すと、何故か男はあからさまに慌て始める。蛹の先端に、ぴしりと1本の筋が走った。

 

「待った待った、僕が直すさ」

 

「転んだんでしょ。大人しくした方が良いんじゃなくて」

 

「お客さんに直させたら駄目だよ、っと!」

 

 腰を打ったとは思えない機敏な動きでフランドールの前に出る。そのまま椅子をぴしりと修正し、一息吐く。長袖の服で快適に過ごせるくらいの温度が保たれているフロアにおいて、男だけが首元を汗で濡らしている。

 

「あら、靴が」

 

「靴って、そりゃ気のせいだ」

 

「そうかしらね」

 

 はてさて、ほんの数mを急いだだけで襟がじっとりと汗ばむことなんてあるのだろうか。殻は半ば以上開かれて、真っ白に透き通った中身が姿を現しつつある。その気配を悟られないように奥へ隠し、フランドールは1つの疑問を投げかける。

 答えられる範囲なら、そう男は条件を設定した。それで問題は無い、何故なら今問おうとしている疑問はきっと彼にしか答えられないものだから。少し迂遠を軽減した形に言い換えよう、答えられたならその時は。……そういうことである。

 

「貴方、どうして靴を気のせいだと?」

 

「どうしてって、ソファの下に人がいるわけないじゃないか。今このホテルに、かくれんぼをするような子供は泊まってないしね」

 

「成程。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 男の表情が、びきりと凍った。狙った通り、フランドールの口角が上がる。一体何のことを言っているのか分からず、ポルナレフだけが怪訝な顔をしながら男と幼女を交互に見比べている。後で話してあげるから待っておいてほしい。

 安易な誘導尋問だが、思いの外あっさりと引っかかってくれたから助かった。咲夜のように捕縛の罠を幾重にも仕掛ける技量はとても無いので、仕方がなかったのだ。もし男がもう少し冷静でいたら、軽々とトラップを飛び越えられていた可能性が高い。

 彼女までとはいかずとも、口が上手くて損はしない。今度時間のある時にでも、テクニックを教えてもらおうか。更なる修練を検討するフランドールの中で、成体は今や完璧に姿を見せ切っていた。

 

「貴方、発想力が豊かだわ。『ソファの上に靴が置かれてる』でも『私が貴方の靴に何かを見つけた』でもなくて、『ソファの下から靴を履いた足がはみ出してる』って意味で取るなんて、ね」

 

「……」

 

 あの黒く塗られた椅子がほんの少し横に動かされた時、下から顔を覗かせるのは足か頭か。どちらにせよ、第3の人間が物言わぬ骸と化してこの空間に存在しているのは殆ど確定した。

 押し黙るのが何を意味するのか、分からないわけではあるまい。疚しいことが無い潔白の身であれば、論理武装によってフランドールを撃退することができるはずだ。男が装備しようとしているのは、しかしその場凌ぎの詭弁に過ぎなかった。

 

「あ、そうか」

 

 ひどく静かな声だった。まるで憑き物が落ちたかのような、ある種の晴れやかさをも感じさせた。完璧に追い詰めたと高を括っていた彼女も、あまりに瞬間的な変貌に小さな動揺を見せる。窮鼠猫を噛む、ジャパニーズ・コトワザが脳裏を掠めた。

 ポルナレフの拍子抜けした声に振り向くと、甲冑の騎士がレイピアを構えていた。いやちょっと待て、何の真似だ。どうして一切の躊躇なく距離を詰めてくるのか。彼を問い質す暇は作れなかった。

 

「きみが要注意の子供ってわけだな。あぁ、良い。こっちの話ですので」

 

 シルバーチャリオッツの紫電の如き一閃を、凄まじい反射神経が繰り出す後退のステップで辛うじて躱す。吸血鬼の身体能力を以てしても完全な回避とはならず、服だけが真一文字に斬られていた。肌まで到達しなかったのは幸運だったが、ひらめく布だけを斬るのは逆に難しいと思う。それだけこの騎士が優れた腕を有している証拠となろう。男の高い操作精度も、勿論脅威の1つとなり得る。

 

鋼入りの(スティーリー)ダン。どうぞよろしく」

 

盗っ人(スティーラー)ダンね。覚えたわ」

 

 お気に入りの服に傷をつけられたのがお冠なのか、思い切り皮肉を込めた挨拶を交わす。人のスタンドで相撲を取る不埒者など、泥棒扱いで充分だ。暴走チャリオッツと睨み合いながらも、視界の端に男を捉えておく。

 どうせ先の奇襲もこの男の仕業なのだし、遠慮することは無い。後顧の憂いは今ここでばっさりと断つべし。あの澄ました顔面を吹き飛ばすということで方針を固めた。



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第四十三話 恋人 その③

「うおああああぁ────ッ!?」

 

「うるさい、集中が切れる」

 

 体が脳の命令を無視して独りでに動く感覚は、怖気がする程気持ち悪い。しかも独立機関と化した肉体が勝手にスタンドを発現させ、仲間の少女を攻撃しているとあっては、いよいよ洒落にならない。何とかしてシルバーチャリオッツだけでも引っ込めたいのだが、飢えたじゃじゃ馬の如く言うことを聞いてくれない。

 

「ザ・ワールド! 許してくれ────ッ! おめーのご主人サマ殺す気はおれにはねーんだッ!」

 

「まず私に謝りなさいよ、っと、この頓珍漢」

 

「大変済まん、しかし何でおめーチャリオッツの剣を避けれるんだ!」

 

「ザ・ワールドの、力を、ほっ、借りてんのよ」

 

 最近高頻度で使わせてもらっている言い訳は、汎用性に富むから有り難い。超人的な動体視力で斬撃も刺突も完璧に避け続ける。体力はまだまだ続くので、息切れしたところを狙われる心配は薄い。

 しかし、やはりスタンドとは人の身に余るものだ。ポルナレフという至って普通の青年が操るには強過ぎる。今はフランドールに牙を剥いているからまだ対応もできるが、これが無力な人間であったらどうなるか。最強の妖怪でさえ、怒涛の剣戟を前に油断ならないというのに。

 

 頭狙いの突きを紙一重で躱し、レイピアを繰る右手をキャッチ。力自体は彼女が優に上を行くので、1度捕まえてしまえば抑え込むのは容易だ。

 

「安心しなさい。まだばれてないから」

 

「本当か! 頼む、ばれないうちにあのスケコマシ野郎をぶっ飛ばしてくれ!」

 

「言われなくてもそのつもりよ」

 

 腕を取ったままレイピアの刀身を思い切り壁に突き刺し、シルバーチャリオッツの武器を封じる。そこから地を蹴って後ろへ跳躍、虚を突かれたダンの顔面を殴り飛ばす。ごろごろと転がり、暫くロビーの床を滑ってから停止した。

 

「加減してあげたけど、次はもう少し強くいくわよ」

 

「っち、脅しかい? 怖い女の子だ」

 

「まぁ、そうね」

 

 これ以上妙な真似をするのであれば、鼻と顎を砕くくらいは視野に入れなければなるまい。対象の意識を残したままで、その対象を自在に操るとは中々に面倒な性質である。万一承太郎に魔の手が伸びたなら、スタープラチナとラッシュ比べをする羽目になるということなのだ。

 

 できるだけ早く片付けてしまおう。決心を固めるフランドールの眼前で、口の端からたらたらと血を流しながら燕尾服の男は立ち上がる。相当の加減込みとはいえ、かなり効いているのは瞭然であった。

 

「きみに1つ、聞きたいことがある。そのスタンド、()()()()()()と言っていたが」

 

「それが何よ」

 

「いや、なに。私の敬愛するお方と、全く同じ名を与えたのだね」

 

 ダンが敬う相手については、大体想像がつく。何となしにスタンドとしての咲夜の名前を決めたのだが、まさかDIOと丸っきり同系統のネーミングセンスを発揮していたとは思わなんだ。恥ずかしいというか、胸の奥が嫌な感じにざわつく。

 この感覚を彼女は知っている、可愛いと思って選んだ服が姉とそっくりそのまま被った時のあれだ。何でそれを選んだ、自身と相手にそれぞれ5回は問う。

 

「いやはや、全く偶然だ。驚き過ぎて()()()()()()()()()()

 

「急に口が悪くなったわね。それが本性?」

 

「ちっ、口の減らないガキだ」

 

 やたらと軽薄な印象を受けるので胡散臭いとは思っていたが、やはりあの紳士面はメッキに過ぎなかったようだ。舌の黒い激情家というのが、ダンの嘘偽り無い性格なのだろう。化けの皮は剥がした、後はまだ姿を見せていないスタンドの正体が分かれば、それを叩けるのだけど。

 がしゃがしゃ、と後ろが煩い。シルバーチャリオッツが復帰したか。振り向けば既に切っ先は目と鼻の先、すぐさま構えて回避しようとした。ダンに背を向けることにはなるが、恐らく彼は単体ではそこまでの脅威にならないと判断して、動く甲冑への対応に集中の殆どを注ぎ込んだ。自らに戦う力があるなら、わざわざ他者を駒と扱う必要は無い。

 

「おい、これは一体どういうことだ」

 

「ポルナレフが操られてて、私がピンチだった」

 

 両者の間に素早く割り込んできた筋骨隆々の男が、突撃を止めた。素手で抜き身を相手に渡り合うのは、見ていてひやひやするので是非止めてほしいところだが、それが承太郎の戦闘スタイルだと言うなら無理強いはできない。

 この場にいる(エネミー)が誰なのか、理解するのに1秒も必要としなかった。獣めいたぎらつく眼光を受けて、ダンがたじろぐ。

 

「目の前の男を倒せば解決(オールグリーン)

 

「成程な」

 

 承太郎は心強い味方だ。自分も操られる可能性を考慮し、そうならないよう最大限の注意を払って立ち回ってくれるだろう。背中を預けられる相棒の登場で、フランドールは俄然勢いづいた。

 

「そう簡単に倒せるとは思わないでほしいな」

 

「今のところ、貴方は大したことないみたいだけど。まだ披露できる芸は残っていて?」

 

「癪に障る口だ。泥と石を詰め込んで……いや、わたしの『恋人(ラバーズ)』の恐ろしさを存分に味わってもらおう」

 

 安い挑発に乗らない程度の理性はあったか。それでも額に青筋を走らせはしたが、明確な隙を見せるまではしてくれなかった。そこで下手なアクションでも取ってくれたら儲けものだったのに。

 スタープラチナにかかる負荷が一気に無くなったのを、承太郎は俄かに感じた。それもそのはずであり、チャリオッツが引っ込められている。ダンによって強制的に表へ出されていたのが実体化を解いた、即ち彼による支配は終わったということだ。

 

「お。おぉ〜ッ? 体が動くぞ!」

 

「あら。貴重な戦力を解放して良かったの?」

 

「さっきまでのはただの様子見だよ。フランドール、きみはわたしが考えていた以上に強かったのでね」

 

 あんな素早いスタンドをけしかけておいて様子見とは、不遜な男だ。第1段階で倒せないとなれば、当然第2段階へ移行する。さて次は何をしてくるか、構える2人に向けて薄く笑う。

 

「ふむ。仕込みは完了だ、これよりわたしに手を出すことはお勧めしない」

 

「強烈なカウンターでも飛んでくるのかしら」

 

「そんなことはない。きみが殴ろうと思えば、その通りにいくさ。わたしには反撃する手段が無い、神に誓おう」

 

 それはやめておけ、という話でね。くつくつと卑近な嘲笑を浮かべるダンには、確たる自信が備わっているようだ。殴れるがやめておけ、捻らずに受け取ればただの態度が大きい請願である。だが、弱者の立場にいる人間がこうも自信満々に佇んでいられるだろうか。

 考えられる可能性は3つ。ひとつ、ダンが嘘をついており迂闊に殴りかかれば迎撃される。ふたつ、奴の言う通り手を出せば殴れる代わりに何らかのデメリットを被る。3つ、そもそも自信ありげな様子自体が虚勢である。

 

 確認する方法については、心当たりが無いでもない。絶対に答えを導き出せる優秀な方法だが、フランドールはあまり実践したくない。薮に潜んでいるのが虎でないという保証は無く、噛まれたら痛い思いをしそうなので。

 

「どう思う、承太郎?」

 

「殴ればはっきりするぜ」

 

 流石は承太郎、彼女が二の足を踏む一方で堂々と虎の尾を踏んでみせた。スタープラチナの拳がダンの顔を捉え、またしても地に伏す憂き目となった。

 2度も顔を殴打される1日は、人生のうちでそう多くない。彼が行くべきはお祓いか、それとも黄泉か。いずれにしても死人に口なし、真相が明るみに姿を現すのはもう少し後となろう。

 

「ぐわぁッ!?」

 

 問題無く彼にダメージを与えられた。承太郎の様子にも、おかしな所は見受けられない。もしや本当に単なる張りぼての威勢だったのか、拍子抜けしかけた意識が背後に引っ張られた。

 ポルナレフがうつ伏せで床に倒れている。まるで左方向から押されたかのような格好で。何してるの、という疑問は至極当然のものだった。

 

「わからんが、()()()()()()()()()()()んだよ!」

 

 予期せぬ事態への焦りから微かに声の震えるポルナレフ、その口からは鮮血が垂れ落ちている。状況は完全に何者かが彼に拳を振るったと物語っているのだが、その『何者か』が何処にもいない。いきなり後ろに現れたら、フランドールも承太郎も気配で気がつける。仕込みの内容は、もう明らかだった。

 

「ラバーズはスタンド使いを操る以外にも幾つか使い道がある。そこのポルナレフは、今わたしと感覚を共有している。わたしが受けたダメージは、彼に何倍にもなって跳ね返るというわけだ」

 

「道理でいきなり弱気になったわけね」

 

「そうだとも。何せラバーズは最弱のスタンドだ、髪1本も動かせないスタンドで蛮勇を振るう程わたしは阿呆ではない」

 

 このラバーズなるスタンド、先程の人間操作に輪をかけて厄介な性質を持っている。髪にすら負ける程度のエネルギーでも、スタンドの強さは物理的方面に限られない。少しばかり極論となるが、つまりは。

 

「だが教えてやろう。スタンドに『(パワー)』など必要ない、ということをッ!」

 

 ……と、いうわけである。咲夜をカウントするなら、彼女が最たる好例となろう。時を止めるという行動に、物理エネルギーは一切発生していない。いやまぁ、彼女が非力かと言えば全くもって否。パワフルにしてビューティ、エレガントにしてストロングなウルトラガールなのだけれど。

 簡潔かつ当たり障りの無い言葉で纏めるなら、スタンドは十人十色ということである。ダンも己の得意分野と苦手分野を熟知し、得手でないフィールドを避けている。戦う上での基本が疎かでない輩は、中々どうして軽視できない。

 

 かくしてポルナレフを人質に取られた2人、まずはどうにかしてラバーズを無力化できないか考えるだろう。そう予測していたし、事実承太郎は思案を巡らせていた。射程距離はほぼ無限、例えここからジャパンのトーキョーに逃げられようとも効果は持続する。どれだけ離れても付き従い続けるその様は、恋人よりは愛人と言うに相応しい強固で何処か邪悪な比翼連理である。

 

 取り戻すこと能わぬ人質を手に入れたのだ、多少慢心したってどうもこうもならない。彼の唯一の誤算は、人間の思考回路では到底想像できない怪物の論理を見落としてしまったことだ。産声を上げた論理はきょろきょろと左右を見渡し、喰らうべき獲物を一に定めた。

 

「よっ」

 

「ごはぁッ!? ……き、きさま! ポルナレフにはわたしの受けた何倍もの痛みが飛ぶと言ったろーがァ!」

 

「えぇ、聞いてたわ。でもポルナレフは、貴方よりずっとタフだからね」

 

 肉を切らせて骨を断つ。ただし、肉の提供者は本人に非ず。黒魔術の使い手も顔面蒼白で逃げ出すであろう、悪魔の所業である。

 横で承太郎が唖然と彼女を見下ろし、後ろで哀れな犠牲者が腹部を押さえてもんどりうっている。耐久力で競り勝て、私は取り敢えず敵をぼこぼこにする。そんな不公平極まりない取引に応じられるはずはなく、抵抗の声をどうにか絞り出した。

 

「お、おれ生贄かよ──ッ!」

 

「私のこと斬ろうとしてきたでしょ。お返しよっ」

 

「ち、ちくしょう……ッ!」

 

 たった一言で鎮圧されてしまったけど。



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第四十四話 恋人 その④

「な、なんじゃこいつは!」

 

「それが分からねーから外へ逃げてるんだぜ」

 

 霧が晴れるのを待つため、立ち寄った街に滞在していた一行だったが、今彼らはその街で見つけたホテルを駆け足で離れている。ゆっくり羽を休められるはずの場所を離れる理由はたった1つだけだ。

 

「ポルナレフ、もっと足動かさないと遅れちゃうわよ」

 

「誰のせいで今おれの体痛てーと思ってんだこのバカタレッ!」

 

 巧妙な変装で彼らに近づいた、策士(スタンド使い)の襲撃を受けたからである。数の上では承太郎達の方が圧倒的に有利ではあるが、ホテルは意のままに改造され得る城と言って差し支えない。どんな罠が仕掛けられているか、分かったものではない。

 

 順にさっさと外へ避難し、少し遅れながらもポルナレフが脱出する。決して彼の足が遅いというわけではなく、先程まである男──その男こそまさに対峙している敵だ、そいつの受けたダメージを鏡に映したかのように食らっていたのだ。

 体のあちこちに打撲を負って、走るだけでも全身が痛む状況を作ったのは、卑劣なるダンただ1人ではない。何せ、痛覚を共有している状態の彼に殴る蹴るの暴行に相当するダメージを加えたのはフランドールだから。

 

 かくして全員の退避が済み、手早く息を整える。やがて、誰からともなくホテルの方を振り返る。一行がホテルを離れるに至った元凶が、戴冠し不気味な笑みを湛えて彼らを見下ろしていた。

 

 かなり大きい。霧状なせいで密度が薄いことを考慮しても、見下ろされているからか受ける威圧感はかなりのものである。ホテルの全貌を覆い尽くせる規模ともなると、そのパワーは『ストレングス』にも匹敵し得る。

 ここまで姿を見せなかったにも関わらず、遂にお披露目となった理由は明白だ。ダンの中で、承太郎達はいよいよ全力を挙げて倒さねばならない天敵のような存在になった。スタンドの発現は、威嚇の意味を露わにするためでもあろう。

 

 [私のスタンド『ラバーズ』はお気に召さなかったようで。残念だよ]

 

「貴方と私は感覚を共有して、まさに()()()()ってわけ? 趣味の悪い奴ね」

 

 [ほう、乳臭い小娘の割に頭も回るな。その通り、付け加えるなら他人のスタンドを使えるのも、そういうわけだ。ふむ、恋人のものは自由に使える、とでも言っておくか]

 

 貴方が使うものは、私にも帰属権がある。何と押し付けがましい恋人か、面と向かってそんなことを言われたら即刻絶縁ものだ。命長い吸血鬼、取っかえ引っ変えも利くとはいえ、1度だってそんな傍若者は傍に置きたくない。そもそもが由緒正しき英国淑女たるフランドール、爛れた交換作業に勤しむなんて発想は微塵も湧いてこないけれど。

 

 [時に小娘、おまえ今怪我をしていないな]

 

「……してないと思うけど、何?」

 

 [一方ポルナレフ、おまえは手酷くやられたなぁ! 後は花京院、少しばかり顔を擦りむいているのが見えるぞ。逃げる時に躓きでもしたかな? ]

 

「いや答えてよ」

 

 怪我が何だ、お前こそ手酷くやられた筆頭格だろう。壁に遮られた向こう側で、口から鼻からぼたぼたと血を流しているダンを想像すると、失笑も漏れようというものだ。呆れたようなフランドールの表情には気がつく様子も無く、スタンド越しに不快な笑い声が響く。

 

 [丁度良い。この『()()()()()()』の実践練習台となってもらおうッ! ]

 

「『ジャスティス』?」

 

 確かに彼の所有物である、そう公言された恋人(ラバーズ)とはまた違う名が、ダンの口から飛び出した。

 臨戦状態にある現状からして、『ジャスティス』とはスタンド名であると考えるのが妥当ではある。あるのだが、そもそもの大前提として1人の人間が有するスタンドは1つだ。ジョセフからそう聞いていたし、事実これまで複数の異能を発現した者には、敵味方を問わず出会ったことも無い。

 

 まるで前提を覆すかのような物言いだ。一体何をしてくるのか、これまでにない敵の予感に警戒を強める。ぴりりと張られた緊張の糸、それを断ち切ったのは横から上がった叫びにも似た悲鳴だった。

 

「うわああぁッ!」

 

 ほぼ反射で声のした方に向き、思わず花京院の右頬を二度見してしまった。頬の過半を覆うように、べこりと開いた穴からは、しかし1滴の血も流れ落ちない。ただの無害な穴開けパンチめいた能力なら、さしたる脅威にもならないのだが。

 

「や、やめろ、顔が勝手にッ」

 

「おい、花京院! ポルナレフもッ」

 

「おれが抑えるぜ」

 

 やはり、そう簡単には卸されない。渋い問屋(ウォールセラー)には、そう無愛想なことをしないでくれ、と苦言を呈したくなる。穴を開けてお終い、ではスタンドとしてのインパクトに欠けるので、何かしらの追加要素は予見していたが。

 先程の気が触れた恋人然り、もしやダンは人を操るのが好きなのだろうか。突然豹変する性格辺りからも、奴の紳士的な態度は上っ面だけに過ぎないのは明らかだ。きっと、自分は他人より優れていると信じており、それが揺らぐことを許せないタイプなのだろう。DIOはよくこんな男を配下にしたなぁ、ある種の感心を覚えた。

 

「ダン、貴方のスタンドは『ラバーズ』でしょう。……まさか、2つのスタンドを?」

 

 [そうだとも。人間が1つしか持てないはずのスタンドも、このわたしにかかれば2、3と自由自在なのだよ! ]

 

 武器を2つ持っているかも知れない。嫌な予想は、見事に的の真ん中を射抜いた。どんな原理で定説を越えたのか。突飛過ぎて、頭痛さえ覚える。

 フランドール達の元いた世界に当て嵌めれば、咲夜が時を止めながら火を吐くみたいなものだ。凡そ現実的ではない。 ……小規模程度なら、彼女は火も吐けるかも知れないけれど。口に燃えやすい液体を含んで、そこに点火するとかのピエロチックな方法で。

 

 度数の強いワインを飲んだ後みたいに、きんきん、と脳を鋭く刺激する頭痛が止まらない。思っていた以上に、彼に呆れ返っているようだ。視界が揺れる、目眩までも──

 

 

 

 [おまえたちでは、この『ジャスティス』には触れないだろう。生き残りたければ、分かるな? ]

 

「きさま、懐に飛び込んで倒せというのか!」

 

 [あー、ご名答だMr.ジョセフ。わたしは別にモハメド・アリでもない、喧嘩でもすればおまえたちの方が強いだろうなァ]

 

 単に腕っぷしが強いだけが、優秀なスタンドの条件ではない。ジョセフ自身、体得したスタンドは力とは無縁の茨だ。故に、搦め手や使用者の機転まで含めてこそ、スタンドは真価を発揮できると考える。

 

 [来るが良いさ、花京院やポルナレフのようにわたしの下僕となりたければなッ! ]

 

 だが、他者を無闇に害するのを搦め手とは言わない。あくまで己の知恵を細い糸のように張り巡らせるのが作戦というものであり、直接関係しない第三者を故意に傷つけた時点で、どんな大義名分を掲げていようとも、卑怯者のレッテルは避けられない。増してDIOに従うだけの小悪党、人間を弄ぶことに躊躇いを持たない真正の屑男。

 

 このままここで手を拱いているわけにもいかない。『スタープラチナ』は大の男2人を纏めて抑えられるパワーがあるとはいえ、彼らから離れられないせいでダン討伐の戦力とはなり得ない。かと言ってジョセフ1人で、あの5階構造ホテルの何処かに潜んでいるダンを見つけ出し、無力化する所まで行くのは困難を極める。『ハーミットパープル』は、情報収集や偵察はお手の物だが、残念ながら戦闘向きの性質をしていない。

 

「フランドール、ザ・ワールド」

 

 残るメンバーでまともに動けるのは、たった1人。幼い少女に危険をもたらすのは心苦しいが、何もしなければ状況はじり貧だ。可能な限りの補助に徹するつもりで、フランドールに協力を求めようと、彼女へ視線を向ける。

 

 だが、彼女はそこに立っていなかった。

 

「な、どうしたッ!」

 

 地に片膝をつく咲夜に抱き留められ、フランドールはその肢体をだらりと弛緩させていた。まるで一瞬にして筋肉が衰えたかのように、首が力なく垂れ下がる。うっすらとも開かぬ目に、普段の快活な光は見えもしない。

 

 [んん~~~~? おいおい、面倒なガキが勝手にダウンしてくれるとは! 熱病か、それとも風邪でも引いてしまったか? ]

 

 汗の量が尋常ではない。顔を嫌に照らし、着の身着のままで海に飛び込んだかの如き勢いで服が濡れていく。荒く浅い呼吸を繰り返すフランドールは、叩かれる肩にも呼び掛けにも応えない。

 彼女の体を支える咲夜の表情は、一目見てそうだと分かる程の焦りに満ちていた。これまでの如何なる敵襲やハプニングにも、欠片たりとも動じなかった彼女が、こうも焦燥を募らせる意味を理解できないはずはない。

 

 [随分苦しそうだな。フフ、中にはベッドもある。中々に柔らかく上質だぞ、快適な永劫の眠りをプレゼントしてやれる。どうだいMr.ジョセフ、ここはひとつ、彼女を担いでチェックインと洒落込まないか? ]

 

「ふざけたことを! ちくしょうめッ」

 

 理由は不明。ダンの反応を見る限り、彼が何かしたわけでもない。だが、彼女の突然な失神は、奴に精神的な余裕を取り戻させた。自ら面倒と評した相手が、どうしてかは知らないが勝手に倒れたら、そうなるのも当然と言える。

 咲夜は完全に自律したスタンド、つまりフランドールの意識が朦朧状態にあっても、活動自体は可能と思われる。だが、今の彼女を()()から切り離すべきではない。少なくともジョセフでは、彼女の苦しみを1ミリだって和らげてはやれないから。

 

 虚に浮く彼女は、一刻も早く病院へ連れていくべきか。とはいえ、斯様な好機をダンが見逃すはずはない。事実、ジョセフ達の背後を塞ぐように、街の住人が大挙してじりじりと迫り来る。その目に生気は無く、到着直後に一同を襲った無感情で無感動な恐怖性を完璧なまでに再現していた。

 

 前門も後門も、ぴったりと閉ざされた。どちらを破る、額に脂汗を滲ませて、無情にも減り続ける制限時間に心の中で悪態を吐く。掠れた濁声が、雫1つ落ちるかの如く漏れたのは、霧の骸がぐにゃりと容貌を醜悪に歪ませた、まさにその時であった。

 

「レ、よ」

 

 熱に浮かされた少女の、辛うじて紡がれる譫言のような。

 

 いや、譫言そのものだった。依然として瞳は隠されており、もし何かを見ているなら、それは瞼の裏にいる。実在も認識も不可能な存在への詰問を、重篤な悪夢の産物と言わずして何と言うのか。

 

「誰よ……っ!」

 

 少女は問う。

 

 目には見えない誰かへ。

 ここにはいない、何者かへ。



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第四十五話 恋人 その⑤

 鋼入りの(スティーリー・)ダンは知恵が回る。自己をそう評し、他者からの評価も概ね違わない。

 

 勝つためには、手段を選ばない。時に残忍でさえあれるその柔軟性は、ダンが心から崇敬する男の信頼を勝ち取らせた。

 男の体細胞から生み出された、他者を操る芽。幾つか預けられた目的を、語られずとも正確に把握していた。

 

 かつて、男はジョースターの手にかかり死の淵を彷徨った。その子孫を生かしておく必要は、ダンにも、増して男には全く有り得ない。つまるところ、見つけ次第芽を植え付けてしまえば良いのだ。

 脳内で急速に成長する芽が、寄生媒体にもたらす効果は大別して2つ。潜在的な能力──スタンドを発現させるか、脳を激しく傷つけて殺すかだ。使い分けるのは至極簡単で、植え付ける前にどちらかの効果を望むだけである。後は宿す側の意志を汲み取り、独りでに成長していく。

 

 きっと男は神の遣い、いや、神そのものだと思った。他者を意のままに操り、或いは取り殺す能力は、まさに人間が知覚することのできない神がかった力ではないか。人は神に縋り、その威徳を称え崇める生き物なのだから、自分が彼に惹かれたのは必然だ。盲目の確信を胸に、これまで男から下される指示を全て完璧にこなしてきた。

 

 そんな折、男がいなくなった。いつ、何処で、何故いなくなったのか。何もかもが謎のベールに包まれて、生死さえ不明な状況。陣頭指揮は嗄れた老婆にその権利を譲渡し、彼女はあたかも自分がかの男であるかのように振る舞い始めた。

 目につく、そんな程度ではなかった。男への篤い忠誠は、反動として老婆への暗く燃える憎悪を滾らせた。

 

 彼女が男に、さして信頼されていないことを、ダンはよく知っていた。スタンドを開花させ、使い方を教えた。()()()()()、そんなものは遅かれ早かれ男が自身で習得していたものだ。それを、自らの不動の功績だと顕示すれば、疎まれるのは当然。

 

 だから殺した。運命の車輪(ホウィール・オブ・フォーチュン)が敗れ、復讐に狂った醜悪な骸のような老婆に、芽を寄生させた。

 脳を荒らし、頭部を食い破って血と共に飛び出す無数の触手は、あまりに悍ましいものだった。背筋が震えたのは、しかし恐怖からではない。粋がった紛い物を容易に粛清してしまえる男からの贈り物に、体が歓喜に打ち震えた。

 

 一頻り興奮の余韻に浸り、少し落ち着いてから老婆を見た。ぴく、ぴくと痙攣しているのは、まだ微かに命を繋いでいる証拠か。頭を踏み潰してやろう、引導を渡す足を上げたが、そこでふと別案が頭に浮かんだ。

 

 そういえば、彼女はスタンド使いだった。それも、陰険な勘違い女には似つかわしくない、強大なスタンドを有しているとか。少しばかり確かめてみるとしよう、興味を持ってダンは老婆の頭に穿たれた小穴へと指を伸ばした。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 老婆から奪ったスタンド──『ジャスティス』は、力での勝負を苦手とし、代わって策を弄するのを得意とするダンに良く馴染んだ。直接的な攻撃力は皆無に等しいが、『ラバーズ』より遥かに多くの人間を同時に、かつ高精度に操ることができる。

 相手が見える範囲で怪我を負っていることが、操る条件にはなる。だが、そこさえ突破してしまえば、誰も彼もがダンの思うままに動く。何も重傷を与える必要など無く、ほんのちょっとした掠り傷から『ジャスティス』は侵入してしまえる。

 

 最高のスタンドだ、ともすれば自身のものよりも。あの時、興味本位で死にゆく老婆から奪ったものが、こうも自らをパワーアップしてくれるとは、さしもの彼も想像だにしていなかった。精々が手札の1枚、そう考えていた。

 自らの信じる正義の名のもとに、万人を従える。この快感に囚われてしまえば、抜け出すのはほぼ不可能である。ダンもまた、征服に魅入られた虜囚の1人となった。

 

 自分なら、この力を男のために使える。あんな醜い狂人よりも、ずっと有意義に尽くせる。

 

 彼女は、ダンの協力を仰ぐため、こんな辺境の街を訪れたのだろう。全く、良い土産を持ってきてくれたものだ。唯一それだけは、感謝しても良い。

 スタンドでとどめを刺すまでもない。腰に差していた拳銃を、うつ伏せで震える老婆の首に突きつけた。特に反応も無かったので、問答もせず撃った。

 

 運命の車輪(ホウィール・オブ・フォーチュン)がやられたということは、ジョースターの一行は、遠くないうちにこの街を訪れるだろう。予め可能性には思い当たっており、故に下準備は整えられていた。

 果たして、彼らは街へ乗り込んできた。思い通りであり、後は1人ずつ確実に始末するだけだ。唯一脅威となり得たアヴドゥルは既に撃破済みで、最早姿すら見せずに任務を遂行できる。狭い部屋に反響する哄笑は、混沌の泥めいて昏かった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ホテルの中を、白銀の風が翔ける。1階から2階へ、そして3階に。目で追うのも難しい程の速度を一瞬たりとも緩めることなく、上へ上へと昇っていく。

 内側から凍りついたかのように、侵入者を阻むはずの見張りは動かない。視線を一点に固定し、横を抜けていく止めるべき敵に気がつく様子もない。尤も、察したところで彼らが役目を果たせる可能性は限りなく零に等しいが。

 

 主人の勘は、やはり正しかった。最上階を踏み、最奥の部屋を眼前に捉える中で、咲夜は数時間前のフランドールとの会話を思い出す。

 

 動く死体に見えた。街の住人を指して、彼女はそう言った。あの時は違和感こそあれど、その正体にまでは行き着いていなかった。だが、実際に傍を通り抜けて分かった。

 誰も彼も、もう生きていない。比喩でも何でもなく、死体が外部から操られていた。ポルナレフや花京院に開けられたのと同じ穴で、体を埋め尽くす程に覆われた状態で。

 

 ダンがこの街に死体を持ってきたとは考え辛い。現実的な線で考察するのであれば、()()調()()したと見るのが最も妥当なはず。どちらにせよ、怖気を掻き立てる話に変わりはないけれど。

 

 廊下の突き当たり、他の部屋より一際重厚な造りの扉を開く。時の止まった世界の中で、軋む音も引き摺る音も聞こえやしない。極めてシームレスに、ダンの不意を打てる。実際問題、別に音がしても、それこそ大音量でジャズを撒き散らすラジオを持っていっても、どの道気が付かれる危険は無い。

 

 陽気で騒がしいジャズは、咲夜の好みではない。ゆったりと流れる、穏やかなクラシックを聞きながら、紅茶の香りを楽しむ。これ以上に幸せな音楽の聞き方なんて、彼女は知らない。

 だが今は、ゆったりとしたクラシックさえ聞く気分ではない。咲夜が己に課した制限時間は30秒、それは彼女が唯一の『動』でいられる時間。部屋に入った時点で残された時間は14秒、この残り時間で始末する。

 

 ダンはソファに腰掛け、コーヒーの入ったカップを傾けていた。足まで組んで、随分と余裕なことだ。真後ろにナイフを構えたメイドがいるだなんて、知らないままに。

 

 するり、とナイフの刃が首を走った。まるで水の中を通したかのように、抵抗は無い。赤黒い内部が、切った部分から覗いてはいるものの、血は流れず悲鳴も上がらない。

 時の動きが戻ったその瞬間、ダンの首から血が噴き出すのだろう。ナイフの到達した深さからして、致命傷となるのは避けられない。何が起きたのか理解することもできず、呆然とした表情を浮かべながら、床に崩れ落ちる。最後に1口、香り豊かなコーヒーを飲めればまだしも幸せだったのか。生憎、それを悠長に待ってやる度量を、咲夜は持ち合わせていない。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 光の一筋も差し込まない、真っ黒な空間。この界に、フランドールは以前も踏み入ったことがある。

 そう、明晰夢だ。姉の服選びばりにセンスの皆無な、あの退屈極まりない明晰夢である。以前は、ほんの暫くだけ退屈を紛らわしてくれるものがあったけれど、今回もそれがあるとは断言できない。

 

 前と同じように、夢の中をゆらゆらと漂う。空を飛ぶ感覚で、ここでもスピーディに移動できそうなものだけれど、飛行能力は残念なことに発揮できないらしい。腕や足を動かすのには支障無いのに、どうしてそこも認めてくれないのか。謎の判定には、苦笑混じりの苦言を禁じ得ない。

 

 暫くふよふよと、人間が泳ぐような低速移動を続ける。普段からは想像もできないような、亀めいたスローテンポにいい加減飽きてきた頃、目の前にいつぞやの結晶が浮かんでいるのを捉えた。確かあの中には、彫りの深い西洋系の美男子が眠っていたはずだ。今回も無聊を慰めてもらおうと、えっちらおっちら近寄る。

 

 果たして、男は同じように眠っていた。声をかけても反応は無いけれど、暗がりを進み続けるよりは何倍もましだ。ただ漠然と広がる荒野を、目が覚めるまで歩む覚悟なんて、夢の中に持ってきてはいないから。

 前回よりも入念に、男の様子を観察してみる。悪質に粘着するストーカーめいた行為だが、夢の話ということで1つお許しが出ても良かろう。……やたらと人間離れした色気を放っているので、ことフランドールが惹かれるのも無理はない。

 

 全体的に、黄色い。彼は黄色が好きなのか。そして服を内側から押し上げるとんでもない量の筋肉、さながらラグビーのスター・プレイヤーの如し。種族からして圧倒的に優位とはいっても、真正面から殴り合いの喧嘩をしたくはない。

 承太郎より筋肉質な男も、珍しいと思う。体格骨格の小さなジャパニーズから現れた規格外、さらにそれをも超える重戦車男に、少し触れてみたくもあった。別にとりわけ筋肉が好きなわけでもないけれど、これだけの逸材を前にして見るだけというのも、些か勿体なく感じる。

 

 夢の良い所は、何をしても現実に悪影響が出ないことだ。人を殴ろうが物を壊そうが、可愛い女の子を抱き締めようが、全ては個々人の脳が見せる一時の瞞し。夢において、誰しもが極限の大胆さを得られる。

 というわけで、手荒に結晶を叩き壊す。現実では咲夜辺りにはしたないと咎められるせいでできないことも、今ならしたい放題のやりたい放題だ。常識人たる彼女とて、偶には羽目を外したくなる時もある。

 ちょっとばかり力を込めた拳が、振られた鉄球のように、男を護るバリケードを粉砕する。これで間を隔てるものは無くなった、直接のご対面と相成る。結晶が硬かったら、壊すのにも一苦労だったろうが、思っていたくらいの硬度で良かった。

 

「……?」

 

 いざ立派な肉体に触れようと、手を伸ばしかけたところで、ノイズのような()()が目の前を駆け抜けていった。はて、と鳴かない雷を見送り、背筋が須臾遅れてぞわり、と粟立つ。

 今のに触れていたら、危なかった。確証はなく、だけど直感で悟る。接触した腕が異常なエネルギーを受けて消し飛ぶような、危険なイメージが脳内に雪崩込んでくる。

 

 もしや、今のは警告だったのか。この男には手を出すなという、何者かの威嚇行為だったのか。だとすれば何者かとは、ほぼ間違いなくフランドール自らの潜在意識であり、男が有する意味は単なる夢舞台の出演者に留まらなくなる。巡らせた思考は、しかし次に瞬きをするまでに、針を刺された風船のように弾け飛んだ。

 

 空間が明滅している気がした。ブラックホールもかくやという完全な暗黒の中で、明滅なんて起きるはずがない。そう分かっていても、1度抱いた認識を変えられない。いつの間にか男を乗せた結晶は何処かに消え失せ、黒以外の色も光も無い世界の中で、フランドールは確かに高速連続的な点滅を見た。

 暗闇に恐怖を覚えるのは、彼女の生のうち初めてのことだった。夜を支配する吸血鬼が、闇を恐れる理由は無い。だけど、今自分が属するこの晦冥は、まるで亡者と怨嗟満ちる冥府のようだ。1秒だって、ここにいたくない。

 

 

 

 

 

 ──さま。

 

 

 

 

 

 知らず呼んだのは、信頼の置けるメイドではなかった。歳の割に頼れる高校生でもなく、よく話をするおっとりとした門番でもない。

 

 言い知れぬ恐怖を煽る、悍ましい暗晦に1人。出口は見えず、頼れる者がいないなら。もしそうなってしまったなら、何を心の拠り所にするか。親しい、愛しい誰かの名前を口にして、自らの声にその誰かを幻視することは、決して狂っていないし、恥ずべき痴態にもならない。例え虚構であろうとも、それは今にも道を外れそうな正気を、際で繋ぎ止める最後の鎖たり得るのだから。

 

 

 

 

 

 ──えさま。

 

 ぶづん。弦の切れるような音が、フランドールに残る最後の記憶となった。



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第四十六話 恋人 その⑥

 ──フラン。

 

 あぁ、懐かしい声が聞こえる。

 

 ──フラン、久しぶりね。

 

 いつも高慢ちきで、我を押し通すことしか頭に無い。自分が全ての上に立つ存在だと、信じて疑わない。そんな彼女が、好きになれない。

 

 ──何処へ行ってるの、全く。

 

 でも、2人きりで話す時は。誇り高き王の仮面を外した彼女と喋るのは、そう嫌悪感を催す程のことでもない。ふらふらと、光に導かれる蛍のように、声のする方へと彷徨い行く。

 

 ──あら、まだよ。

 

 落ち着いた声に止められて、それ以上距離を詰められない。くつくつ、と笑う彼女の意図を、掌中の鰻よろしく掴めない。

 

 ──やることが終わったら、帰ってきなさい。

 

 私はそれを待ちましょう。ゆるり、と()()()()()微笑みを、その麗しい容貌に湛える。姿は見えず、声だけが聞こえる状態にあっても、今彼女は淑やかに佇んでいる。そう容易に理解できるのは、自分が彼女の唯一の肉親であるが故か。

 

 ──帰った暁には、沢山褒めてあげるから。

 

 今、一転して悪戯っぽく笑ったな。声の調子だけで表情の推移まで把握できるくらいには、長い付き合いのある年長者だ。

 自分の内心を見透かされているようで、腹立たしい。ぷい、と踵を返して、彼女から離れていく。あらあら、と大根極まりない三流の気落ち真似をしているのには、ただの欠片たりとも取り合わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 夢を見ていた。もう内容は大まかにも思い出せないけれど、酷い悪夢というわけではなかったと思う。背中は寝汗でぐっしょり濡れてもいないし、動悸も激しくなっていないから。

 一体どれだけ寝ていたのだろう。微かな頭痛は、長時間の睡眠に堕していた感覚的証拠として、フランドールを細やかに苛む。体は少し怠いけれど、寝不足の時特有の、粘り気強く纒わり付くような眠気は感じない。バック・トゥ・ドリームはしなくて済みそうだ。

 

 時間が経つに連れて、眠りに落ちる前の記憶も戻りつつある。卑怯なスタンド使いとの戦闘、ポルナレフと花京院が魔の手にかかり──死んではいないと思われるが、そして彼女を襲った突然の頭痛。

 脳に直接銀の杭を打ち込まれているかのような、全身を巡って余りある衝撃と激痛に、抗えず薄れゆく意識の途切れ際に聞こえてきた、恨みの篭った恐ろしい声。誰だと問うても、声の主は答えなかった。

 

 何と言っていたかまでは思い出せない。だけど、碌なことは言われなかったはずだ。言葉の仔細を覚えていなくとも、向けられていた鮮烈な敵意まで忘れてはいない。

 

 何をしでかせばあそこまで憎悪を抱かれるのか、フランドールには想像がつかない。家宝の壺を割られたって、あの領域には達しないだろう。まさしく末代まで恨み抜く、そんな負の気概さえ感じた。

 

 

 

 かつかつ、と地面を叩く硬質な音が聞こえてくる。誰かが、自分の眠るこの部屋に近づいてきている。寝起きを襲撃されるのでは、だなんて不安は無い。何故なら、フランドールにはそれが誰なのか分かっているから。

 

 ……あれを熱に浮かされての幻覚、で片付けるのは、彼女の中に弱くない疑問を残す。そもそも、どうしてあの場で突然自分は意識を失ったのか。十中八九、ダンの仕業ではないだろう。今こうして、冷静に思い返してみても、彼に何らかの、もっと踏み込めばスタンドによる干渉を受けたとは考えられない。

 

 別の理由が、フランドールの理解できていない区域(ゾーン)の何処かに潜んでいる。彼女の直感が、そう囁いてくる。しかし来訪者に気がついている以上、深みに嵌るのが分かりきっている考え事をするのはよろしくない。一旦頭に掛かる靄を無視して、体を起こす。

 

「咲夜」

 

 おはよう。扉を開けて入室してきたメイドに、先手を打って起床の挨拶を投げかける。濡れた手拭いを携える彼女は、まるで植物状態の息子が起きているのを見た母親のように、目を見開き手の内のタオルを落とした。

 べしゃり、と水気のある落下音が聞こえるより早く、咲夜の姿が掻き消える。それを認識した時には、彼女は既に文字通り目と鼻の先にまで詰め寄ってきていた。べしゃり、と予定調和な音を立ててタオルが床に接触したのは、フランドールが肩を跳ねさせたのとほぼ同時のことであった。

 

「ぅわっ!?」

 

「目を覚まされましたかっ」

 

「覚ました、覚まされました。待って近い近い」

 

 ほんの須臾、彼女の輪郭がざらり、とぶれたのを見た。時を操っての、客観的な瞬間移動はしていない。だとすれば、咲夜は足だけで、上位種族たるフランドールが目で負えない程の超スピードを発揮したことになる。まぁ彼女ならできても不思議は無い、いきなりかまされると驚きを隠せないが。

 いつも通りの、友人知人でなければ感情の機微を判別できない鉄面皮。だがフランドールは、咲夜の目を彩るトパーズが、いつもより誤差程度大きいのを見逃さなかった。どうやら感情が昂っているようだ、彼女にしては珍しい。焦り混じりの思考は、全くもって他人事めいていた。

 

「む……申し訳ございません、取り乱しました」

 

「あ、うん」

 

 困惑しようが驚愕しようが、突然我に返って嬋媛に振る舞うのだから、この咲夜という少女は良く分からない。単純に気の切り替えが途轍もなく早い、というのもまた違う気がする。かといって情緒不安定なわけもなし、どうにも言い表し辛い難儀な性格である。尤も、それが咲夜の面白い所でもあるので、難色は示さない。

 

「承太郎達に、妹様のお目覚めを伝えますわ」

 

 暫しお待ちを。そう言い残して、一礼と共に部屋を去る。歩く音が遠ざかっていき、完全に聞こえなくなってから一息つく。耳元で騒がれてもいないのに、何だかどっと疲れた。朝食に油っこいローストビーフを5枚食べたら胃もたれするみたいに、寝起きから瀟洒の高低差が激しいと、頭が処理し切れない。

 静寂を糧に休息を得ていたが、それも暫くだけの話。どたばたどたばた、と喧しい騒音が近づいてくるのを、半眼にて待ち受けた。できれば待ち受けたくなかったが、起きて移動するより奴の到着の方が何倍も早かった。

 

「おォーい、フランドールゥ! 何だ何だ、起きてんじゃねーかッ!」

 

「ザ・ワールドがそう言ったでしょ。何を今更」

 

「ドライなやつめ。心配してやってたこのおれに対してよーッ!」

 

 言葉だけ取れば軽口を叩いているのだが、声のトーンは平時より高い。喜色を隠せないといった様子だ。別に死に瀕する大怪我から奇跡の生還を果たしたのでもないし、ちょっと大仰な反応ではないだろうか。喜んでくれるのは有り難いのだが、如何せん大袈裟なリアクションのせいで、答えに困る。

 ポルナレフの後に続いて、花京院も病室へ入る。フランドールを見るなり、こちらも──ポルナレフよりは勿論控えめだったが、笑みを浮かべる。

 

「フランドール! 良かった、もう4日は目を覚まさないから、どうなるかと」

 

「お陰様で……えっ、4日?」

 

「あぁ。ダンが倒されてから、ほぼ丸々4日になる」

 

 そんなにも長い間、1回も意識を戻さず眠りこけていたのか。それなりには長く眠っていたのだろうと当たりを付けていたけれど、これには流石に開いた口が塞がらない。最早冬眠みたくなっているが、それにしても傍迷惑な冬眠だ。自分に本気で呆れたのは、久しぶりではないか。

 ジョースター一行に加わってからというものの、何だか寝続けることが多くなったように思う。今回はその中でも、群を抜いた最長記録だ。また咲夜に役目を全て投げてしまったのか、フランドールの面子を脅かす心配を解消するかのように、花京院の頬が緩む。

 

「安心してくれ。この4日、専ら移動していただけだからね。いや、スタンド使いも襲ってはきたんだが、えぇと……まぁ、何も無かったに等しい」

 

「それなら良かったわ」

 

 少し言い淀んではいたものの、彼が言うから問題は無かったのだろう。足でまといの小娘役は終わったので、再出演オファーは断らなければいけなかったところだ。胸を撫で下ろすフランドールの左斜め後ろで、咲夜がすっかりいつもの瀟洒を取り戻して控えている。花京院の視線は、気のせいか2人の間を乱れ飛ぶ。

 

「今、ジョースターさんが船を抑えに行ってるぜ。ここからエジプトまでは航路を行くんだとよ」

 

……うえぇ

 

 現在地が何処かを、まだ把握できていないが、最終の目的地であるエジプトには着実に近づいている。だが、ここで大きな問題が立ちはだかってくる。より強い敵が現れるとか天候が荒れるとか、そういった類のものではない。南アジアとアフリカ大陸を結ぶ陸路は、存在しないのだ。

 地図上では、ともすれば両者が接しているようにも見えよう。だがそれは、世界地図作成者の巧妙な罠。実際にはスエズ運河や紅海といった、『水』によって隔てられているのである。

 そも地球上の7割は海なのだから、確率の概念において何ら不思議は無い。寧ろ2地域が陸続きな方が珍しい。……今からプレート完全無視の地殻変動でも起きて、スエズ運河の辺りがぴたっと閉じてはくれないか。スエズ運河庁の職員が聞けば、失礼な子供だと眉を顰めるであろう、荒唐無稽な願望であった。

 

 弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂。そんな東洋の言い回しが、頭に浮かぶ。数日ぶりに復活したばかりの肉体に、あまりに酷な仕打ちではないか。非道なイベント回避のために、あの男を頼る。

 

「ポルナレフ。ちょろっとお願いが」

 

「やなこった! おめーの言いたいことは分かるぞ、肩車だろ。んなもんザ・ワールドにでも頼みな、おれぁ肩が凝るのはキライだぜ」

 

「けちな男は好かれないわよ?」

 

「ちみっこいお子様は射程圏外だからなぁ」

 

 ま、あと10年後くらいに仕掛けてこいや。にやにやと、虚仮にするように眉を曲げるポルナレフに、頬を膨らませて抗議の意思を飛ばす。だが、特に決心の揺れる様子も見えない。可愛らしいおねだりも、何処吹く風と流されてしまった。

 肩車くらいしてやれ。花京院の援護射撃に一転、慌ててポルナレフが噛み付く。これで水を得た魚のように勢い付かれると、彼の肩が要らぬ疲労を負う羽目になる。謹んでご遠慮願いたいフレンチマンの、怒涛必死の弁舌が、ジャパニーズガイにそれ以上の支援攻撃を許さない。

 

 丁度やってきた承太郎が、喧々諤々の場を目の当たりにする。やれやれだ、漏れた溜息は喧騒に掻き消され、誰の耳にも届かない。

 時間は、平穏に流れる。12月といえば日本では分厚いコートが手放せない厳寒の季節だが、アフリカ大陸目前ともなると、薄着で過ごしていても何ら寒さを感じない。世界を股にかけなければならない、厳しい旅の中で、束の間の息抜きは重要だ。ジョセフが戻るまで、病室はわいわいと騒がしくも楽しげな雰囲気に包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Discomfort is veiled under the ──



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第四十七話 審判 その①

 粗方探し尽くした。だが、目撃者も手がかりも、何も無い。

 

 ……そもそも、2人は()()いなくなった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 アフリカ大陸とアラビア半島の間を隔てる海、紅海。透き通った美しい水を湛える屈指の美海として、世界中の観光客やダイバーの羨望を集めている。生き物の個性も豊かなこの海を渡って、一行はとある島を訪れていた。

 

「咲夜。どうかしたの?」

 

「恐れながら、気にかかることがあります」

 

 当初、船で直接エジプトへ上陸する予定が立っていた。だが、船が恙無く航路を行き、咲夜に背負われるフランドールがうつらうつらと、首を海面に遠く届かないオールにし始めた時、ジョセフは何も言わず進路をエジプト方面から逸らした。

 ある男を迎えに行く。ジョセフはそれだけを皆に伝えた。旅の仲間を増やすのは、戦力という意味においてはほぼメリットしかない好事だろう。では何故、彼が多くを語ろうとしないのか。麗らかな日差しがもたらす陽気に包まれ、眠りに落ちつつあった頭では、はっきりとした考えに至ることもできなかった。

 

「この島、然程の大きさはないようです。しかし、我々以外のスタンドが……少なくとも2体、潜んでいるようです」

 

「2体って、穏やかじゃないわね」

 

「両者共に敵なのか、それは今の時点では分かりませんが、警戒はするべきでしょう」

 

 咲夜の優しい囁き声で、滑らかな起床を果たした。寝ぼけ眼をくしくし擦るフランドールの眼前では、全景を容易に見渡せる程度の小島が、砂浜の門戸を大きく開き来訪者を迎えていた。順々に上陸し、各々景色や海への感想を呟いた。だが、観光を目的にしてこの島を訪れたわけではないことを、皆が忘れず覚え留めていた。

 それなりに長い船旅となったが、小休止などは挟まれなかった。それだけ迅速にある男、とやらを迎え入れたいようだ。この旅に同行するのだから、きっとスタンド使いであろう。一体何者なのか、幾許かの興味をそそられた。

 

 歩き出した男連中に着いて、フランドールも日傘を開きつつ、柔らかい砂を小気味良く踏み鳴らす。きゅっ、きゅっと鳴る砂の音と独特の踏み応えは、長く生きてきた彼女も多くは経験していないもの。少しうきうきしているようにも見える足取りで、島の内部へと進んでいく主人を、従者が呼び止めた。彼女が掲げる手には、妹君愛用の真っ赤なポーチが。しまった、持ち忘れていた。

 受け取りに戻り、振り返ってみると、承太郎の学生帽がちらりと覗く。すぐに木々の中に隠れてしまい、そこで2人して置いていかれたことを悟った。すぐに追いつける距離ではあるから、先に行った彼らを責める理由も無いけれど、待っててくれたって良かったのに。肩を竦めて苦笑を浮かべ、ふと隣のメイドに目が移った。

 

 視線が、島の中央部へと向いていた。距離もあって、さらに手付かずの自然が天然のバリケードとなっているので、無論咲夜と雖もはっきりとした実体をその蒼い瞳に捉えてはいない。だが、瞳のピントがある一点に集中していた。彼女は確かに、何かを()()()()

 

 こういう場合、大抵は皆に先んじて不穏の予感を発見している。これはもしやと思って尋ねてみると、今回も多分に漏れなかった。咲夜の鋭敏な……過ぎる気はしないでもないが、それのお陰で前もって注意を持つことができる。たまには主人たるもの、彼女より早く気配を察知したくはあれども、強大な種をして並大抵の難易度ではない。

 

「ジョセフ達に伝えましょう。きっとまだ勘づいてはいないだろうし、予防線の張り上げは大事だわ」

 

「……」

 

「あれ、咲夜?」

 

「は。申し訳ございません、承知致しました」

 

 いつも超速のレスポンスを披露する咲夜にしては珍しく、ぼんやりと立ち尽くしていた。まるで、物思いに耽る童女のように。

 

 まぁ、咲夜だって人間なので、ぼーっとすることくらいままあることだ。そんな時、積極的に引っ張ってこその『できる』主と言える。いつだったか、居館の門番役にそんな振る舞いを聞いた。

 

 成程、今こそあの指導(アドバイス)を活かす機会と見た。ててっ、と前を行き、手招きにて咲夜を導く。少しばかり主の威厳というか、格好を追求したかのような蠱惑の微笑みを、彼女はどう受け取ったのか。表情からほんの一瞬だけ硬さが消えたのは、果たして証左か偶然か。

 

 スタンドの気配を探りつつ、2人は並んで歩く。潮風が海の香りを運び、砂浜は硬い土へと変わる。目の前を多足の虫がのんびりと横切るのを、何処か面白そうに目で追っていく。しゃかしゃかと、〆切直前の売れっ子漫画家のようにせわしない動きがお気に召したのか、手を伸ばし一時の捕獲を試みるが、毒持ちの生き物であることを咲夜から聞いて、触れかけた手が止まった。綺麗な薔薇には刺がある、やや意味合いの違うずれた文句であった。

 

 木々の生い茂るゾーンを抜けて、フランドールを悠々と見下ろせるくらいに伸びる、大きな植物の群に差し掛かる。上は半袖下はミニスカート、このまま進めば手やら足やら顔やらが草にかぶれそうだ。困ったなぁ、禁忌の剣で一帯丸ごと焼き払ってしまおうか。ふと浮かぶ雑念を振り払って、一気に駆け抜けてしまおうと覚悟を決めた。接触時間が短ければ、その分肌へのダメージも軽く済むだろうし。

 

 乙女の柔肌を守れるか否か、重要なファスト・ランの第1歩を踏み出そうとする。だが、視線の先に見慣れた細長い銀髪を認め、始動を中止。随分と気落ちしたように、とぼとぼと歩いてくるものだから、どう声をかけようか迷ってしまった。

 

「あれ? ポルナレフ、どうしたの」

 

「あぁ、フランドールか。いや、実はさっきよ、アヴドゥルの父親に会ってきてな」

 

 結局月並みになった質問への返答は、予想の範疇から遥かに逸脱していた。……あの日、カルカッタで何があったのか。フランドール達が遅れて合流する直前に起こった惨い悲劇を、パキスタンへ向かう道のさなかに聞いていた。

 彼の肉親が、この島に住んでいたとは。ジョセフが多くを語るのを避けた理由が、ぼんやりと理解できた。

 

「……アヴドゥルの、父親」

 

「まぁ話はできなかったんだがよ、やっぱり責任はおれにある。おれは腹ァ括ってあの人に謝らなきゃならんぜ」

 

 ま、いなかったおめーに言ってもって話なんだが。自嘲の言葉を呟くように、重苦しく笑えない軽言が口の端から零れ落ちる。気にするな、貴方のせいではない。そんな二束三文にもならない安い慰めが効くなら、存分に使っていただろう。

 本当に落ち込んでいる人間にかけるべき言葉を、フランドールは知らない。言葉に正解も不正解も無い、そう理解してはいても、解を求める無意識が口述を妨げる。咲夜までもが何も言わず、暫し場に鈍重な雰囲気が漂う。

 

 暗く重い空気を入れ換えねば。脳内の話題を搾りに搾って、差し当たり無難なものを幾つかピックアップする。ここで真面目にポルナレフの責任とやらを議論したところで、彼の精神が鑢でもかけられているみたいに削れていくだけだ。合理主義者でも何でもないが、無駄があるなら省いた方が良いのは道理である。

 

 選び出した空気置換の循環装置(パイプ)は、しかし隠す気の無かったであろう第四者の接近により、機能せず終いとなった。

 

「ッ」

 

「無神経なスタンドね、こんな時に!」

 

 2人がほぼ同時に、俊敏な動作で振り向く。俯いていたポルナレフも、視界の上端に女性でないと明白な大きく太い足を映し、反射的にシルバーチャリオッツを繰り出して身構える。

 

「おいおい、そんなに殺気立つなよ。確かにおれはスタンド使いだ、しかしおまえたちの敵ではない!」

 

「け、分かりやすい嘘だぜッ! てめーはDIOの刺客だ、間違いねーだろッ!」

 

 フランドール達より13、4歩程度後方に、得体の知れないスタンドが立っていた。3人の冗談には思えない警戒を見て取るも、特に臨戦態勢に入るわけでもなく、焦った様子さえ見せない。至って普通の会話をこなすように、自らを中立の存在(ニュートラル)であると称した。

 姿形は、三本指で肩幅が異様に広いロボット、とでも言い表せるか。のっぺりとした表情からは、如何なる感情をも推測し難い。本体は姿を見せておらず、何処かに隠れてスタンドだけを操っていると目される。はっきりと感じられるエネルギーからして、潜伏場所はそう遠くはあるまい。

 

「ディオ? 人名か、誰だそれは」

 

「てめー、惚けてんじゃあねーぞッ!」

 

「惚けてなんぞいない。おれはカメオ、そのディオってやつと俺とは無関係だ」

 

 DIOの名前がポルナレフの口から飛び出すも、動揺無しに応対する。これまでの敵が奴について言及する時、例外なく異様なまでの崇敬をもって彼について語っていた。それが、このカメオなる男は、DIOとの関係を否定し、剰えそんな人物は知らないと宣った。

 

 そんなはずがあるか、ポルナレフの疑いはまだ晴れていない。しかし一方で、小さな揺らぎを見せてもいた。旅を始めてから1度も出会ったことの無い、諸悪の根源との真なる無関係を主張する相手に、問い詰めている彼が寧ろ狼狽えを露呈してしまう。

 謎多き新手の本性を見定めるように、睨みつけるかの如き鋭い眼光をスタンドに注ぐ。その様子を、初めて見るものを警戒する子犬にでも幻視したのだろうか。くつくつ、とくぐもった笑いがスタンドを通じて3人の耳に届いた。



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第四十八話 審判 その②

 フランドール達の前に突如として現れた、カメオと名乗る男。不気味なスタンドだけを見せる彼に、ポルナレフは注意を解こうとしない。

 何と言うか、言動の1つ1つが浮ついているようにも感じる。カルカッタではしがない風来坊を装ったホル・ホースに完膚なきまでに騙されているフランドール、恥ずかしい前例があるからか、カメオをすぐに信用していない。彼らが疑惑の色を残す中でただ1人、咲夜だけが目を瞑って、静かに思案に没入していた。

 

「カメオ、貴方のスタンドの名は?」

 

「名前? 何故そんなことを気にする」

 

「敵ではない、そう言ったわよね。なら私達にスタンドの名から詳細まで、包み隠さず教えても問題は無い。違うかしら」

 

 ややあってから、すっと目を開く。咲夜がカメオに為した質問は、彼が敵かどうか簡潔に、かつかなりの正確性をもって判断できる妙案だった。彼女が言う通り、ジョースター一行と敵対しないなら、彼女らに自らのスタンドの情報を開示したところで、何の悪影響も及ぼさない。

 だが、スタンドの仔細を語るということは、即ち自らの弱点を知らせる行為に他ならない。どれだけ強大な、それこそ『スタープラチナ』のようなスタンドであっても、相性の良し悪しからは逃れられない。それは『エンペラー』でも、自称弱点の無い『イエローテンパランス』でも同じこと。例え一行を襲撃する気が本当に無かったとしても、カメオにとっては渡りたくない危ない橋で、二の足を踏む提案だ。

 

「では、私から先に教えて差しあげますわ」

 

「おっ、おい」

 

「大丈夫。……『ザ・ワールド』、30秒程度時を止められるわ」

 

 そこまで承知の上で、咲夜はかの問いを投げかけた。相手にばかりあれこれと条件を付けたって、中々乗ってきてくれないのは当然だ。ならどうすれば釣れるのか、答えは簡単で、同じリスクを背負えば良い。身銭は切れば切る程に、報酬(リターン)が豪華になっていくものである。

 第一、咲夜の能力へ対処するのは容易ではない。というか、はっきり言うなら殆ど不可能だ。時間を止められる前に倒すのが唯一の解決策だろうが、ではそれが実践できるスタンドは、世界に果たして何体いるだろう。とどのつまり、一見同額のチップを賭けたようで、その実彼女が背負う爆弾の威力はごく小規模に済む。

 

「この情報だけでは不安かしら。もう少し詳しく話しても良いけれど」

 

「いや、ちょいと考え込んでた。おまえ、スタンドか?」

 

「いかにも。こちらにいらっしゃる妹様のスタンドよ」

 

「それにしては、完全に自律してやいないか。おれたちはスタンドを通じて会話できるが、おまえは確固たる意思で喋っている。これじゃあ、まるで生身の人間と変わらんぜ」

 

「特異とは、よく言われるわ」

 

 もしカメオがDIOの寄越した刺客なら、フランドールと咲夜についての情報もとうに把握しているはずだ。西洋の少女がジョースターの血統に力を添え、極めて異例のスタンドを従えている。実際、恋人(ラバーズ)のダンは、そこまで知っていた。彼だけが敵一派の中で並外れて情報の収集に長けていたと考えるのは、些か現実的でない。……彼女がスタンドであるのを訝しんだことは、DIOの手の者ではないという証明の一助たり得るか。

 

 罠は念入りに敷いた。ガラスケースに入れた真っ赤な林檎のように見え透いているので、寧ろ故意でなければ嵌れない、しかし咲夜達に仇為すのであれば引っかからざるを得ない。

 これ以上のだんまりは、カメオが倒すべき敵であるとの大音量自白でしかない。喋れば中立、黙れば敵対。両者の関係を設定するのは、非常に容易である。

 

「あいわかった! おれもスタンド名と能力を教えよう! 『審判(ジャッジメント)』、3つの願いを叶えることができるぜ」

 

「成程」

 

 ここからどう出るか。仮面の下に隠された真の面は、善か悪か。指で弾かれたコインが回り回って裏を示した時、即座にナイフで首を掻っ切る用意はできていた。

 だが、文字通り黙って死の片道切符を切られる程、カメオは間の抜けた男ではない。自らの存在位置の立証と喋ることによるリスクとを天秤にかけ、下がった皿に従って、スタンドの名とその概要を語った。

 

「証明したぜ、おれがおまえたちを傷つけたりなどしないとな。……いやしかし、何の繋がりも無かったおれたちがここで会ったのも、きっと神の思し召し。おまえたち、願いを言え。1つずつ願いを叶えてやろうッ!」

 

「あら、お試しサービスにしては豪勢ね」

 

「本当は疲れるんでやりたくはねーが、まぁ実演というやつだ。有り難く受け取って、有効に使うんだぞ」

 

 往々にして用いられる、お近付きの印に、という前口上なるものだろうか。予期せぬ大盤振る舞いな贈り物に、ポルナレフが感心の声を漏らす。彼のカメオへの警戒心が薄らいだのを、隣にいるフランドールは察した。

 ちらり、と咲夜が視線を送ってくる。好きなようにやってくれて良い、返した首肯の意味を受け取り損ねる鈍感では、人外の存在に侍るメイドは務まらない。

 

「では僭越ながら、私から。貴方の中立宣言に嘘はない、そう誓って」

 

「疑い深いやつだ。しかし、そんな願いで良いのか? おれは巨万の富を生む財宝だって出せるし、食いきれねー量のトルコアイスも生み出せるんだぜ」

 

「大したスタンドだこと。あぁ、そうね。『もし嘘なら、私が貴方を再起不能にする』という条件も加えようかしら」

 

「怖い女め。それが願いだというのなら、おれに是非はない。神の独り子イエスに誓おう」

 

 これで1つ目の願いは叶えられた。フランドールとポルナレフが、それぞれ1度ずつ願望を実現する権利を残している。

 漫画家とガールフレンド、どちらを望むか。何処ぞのエンターテインメント施設を超える売れっ子漫画家となって、その収入でポルナレフランドなる理想世界(テーマパーク)を創立するのが、幼い彼が描いた空曹だった。しかし、自分のことを好いてくれる可愛い女の子も捨て難い。2つの夢に板挟みにされて、腕を組みながらあぁだこうだと悩みに悩む。

 

「勿体ねーことすんなぁ。折角願い事が叶うチャンスだってのに。ふりふりの可愛いお洋服が欲しいんですゥー、とかねーの?」

 

「切り刻んで鮫の餌にするわよ。……カメオはこう言ったわ、有り難く受け取って有効に使え、と」

 

 私はそれに則ったに過ぎない。溜息混じりに、自身の用途が理に適ったものだと説明する。あの条件を付け足した時点で、意図を察してほしいものだ。普段から軽薄さばかり前面に押し出しているから、ふとした時に頭が切れ味良く働かないのだ。敵との戦いでは機転を利かせる場面もあるのだし、それを何故継続しないのか不思議でならない。ままならないものだ、やれやれと肩を竦める。

 ふわり、蝶の舞うように空中へと踊った咲夜を、カメオは果たして目で捉えられただろうか。流れるように動き出す物体の、その初動を目で追い難いという動体視力の不可避の穴は、突かれずに済んだのか。

 

 答えは否。肌を刺す危険の予兆に気がついた時には、咲夜のか細く白い脚は既に眼前まで迫っていたのだから。

 

 甲高い風切り音に耳を傾ける余裕は、カメオには無かった。全身を駆け抜ける凄まじい衝撃が、巨体を滑らせ砂浜に数mのデュアルラインを引いた。

 

「な、何をするかきさまッ!」

 

「契約不履行。だから()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 神に対する冒涜を、どうもご苦労様でした。聖母を連想させる麗しい笑みは、ぐにゃりと蠢く濃い嘲りで彩られていた。

 居合切りめいた瞬閃の蹴りを、咄嗟に両腕でガードしたが、大規模な雪崩のように駆け込んできた衝撃は、とても往なし切れるものではなかった。痺れる腕に舌打ち1つ、眼光鋭く咲夜を睨みつける。

 

「きさま、どうしておれがDIO『様』の刺客だと分かった」

 

「貴方のスタンド名、『ジャッジメント』。タロットカードの20番目に、全く同じものがあるのをご存知で?」

 

 これまでジョースターの一族達と戦ってきたスタンド使いは、例外なくタロットカードを己の精神分体の名に流用している。この状況下で現れたスタンドが『ジャッジメント』なら、タロットカードを知る誰もが新たな敵の出現を確信する。

 

「それに、貴方の最初の一言も不自然だったもの。『いかにもスタンド使いだが、()()()()()()』だなんて、初めから衝突する可能性を考慮していなければ出てこないわよね」

 

「ヌウゥ……ばれちまってはしょーがない! そうとも、悪い報せや悔恨を暗示する『審判(ジャッジメント)』とはおれのスタンドッ!」

 

「それは先程聞きましたわ。今知りたいのは……そうね、DIOのスタンド能力について、かしらね」

 

 過酷な旅の最終目標なだけあって、駆使するスタンドも他とは一線を画する独自性を有していると思われる。もしかすれば、その場で対応できる範疇を超えているかも知れない。1人の生殺与奪を握る大事な一戦を危ういものにしないためにも、前もっての情報収集を欠かさないことが大切だ。

 

 闘志など風前の塵よろしく吹き消えた冷蒼の目が、ジャッジメントを容易く射抜く。まるでカメオなど物の数にも入らない雑魚だと言わんばかりに、全く感情の殻を剥かない。強者特有の余裕というやつであろうが、慢心故に思わぬ痛手を負う未来は、後ろで趨勢を見守る2人には想像できなかった。



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第四十九話 審判 その③

「もうだいぶ、日も落ちてきましたが」

 

「うむ……何処へ行ったんじゃ、あの2人は」

 

 名も知らぬ小島へ上陸し、アヴドゥルの父親との接触が芳しい結果を残せないままに終了してしまった。彼らはまだ、実の息子の身を冷たくて暗い土の下に追いやった、耳を塞ぎたくなる不幸事を伝えられていない。

 彼の死に対する自責の念はそう易々と拭い去れるものではない。少しだけ1人にしてくれ、そう言い残してポルナレフは海岸の方へと彷徨うような重い足取りを運んでいった。

 

「まさか敵に襲われてるんじゃあねーだろーな」

 

「可能性がないわけではないが、しかしこんな小島くんだりまで追いかけてくるかのォ」

 

「どうだかな……」

 

 無論、悪はかの2人であって、ポルナレフは何も悪くない。相違のない、全員の共通見解だ。しかし、死の瞬間をその目で捉えた、捉えてしまったのは彼ただ1人。受けた精神的ショックは、察するに余りある。だから今だけはそっとしておこう、承太郎達と相談した上で彼を見送った。フランドールと咲夜が帰ってきたくらいのタイミングで、もう1度声をかけに行くことも予定の中に織り込んだ。

 

 だが、待てど暮らせど3人共が戻ってこない。上陸時に燦々と地を照らしていた太陽は、もう地平線の下へと沈みつつある。乱れた気を落ち着けるにしても長きに過ぎるし、フランドール達に至っては行動を別にした理由そのものが不明だ。こうなっては、揃って何らかの不祥事に巻き込まれてしまったと考えざるを得ないだろう。

 

「ジョースターさん、承太郎。探しに行きましょう、完全に暗くなれば危険です」

 

「そうじゃな。敵がいるかも知れない状況で手分けするのは愚策、効率は悪いが纏まって動くぞ」

 

「あぁ」

 

 ここから更に闇は濃くなっていく。もし敵もこの島にやってきているのだとすれば、個々に分けての捜索は非常に危険だ。花京院のハイエロファントグリーンで周囲の状況を探りつつ、比較的遅いペースでじっくりと捜索の手を広げていくのが現状における最適解(ベスト)であるはず。

 

 手始めに、前方の茂みへスタンドを忍ばせる。粗方這い回らせた限りでは、敵の気配は無い。ジョセフ達に伝え、差し当たっては海辺を重点的に確認していくことにする。

 

「あ、ジョセフ」

 

「花京院と承太郎もいますわ」

 

 3人がひょっこり帰ってきたのは、奇しくも方針が固まった、その瞬間であった。特に悪びれはせず、いつも通りの可愛らしい笑顔で合流する。

 安堵3割、呆れ7割の溜息が、島の温い空気に溶けて消える。誰も怪我をしていないのを、せめてもの救いとしておこう。ポルナレフはともかく、先頭とその隣は半ば気紛れ的に姿を眩まさないでもらいたい。我儘な猫じゃああるまいに。

 

 取り敢えず何をしていたのか、事情聴取を開始する。フランドール曰く敵のスタンド使いと戦っていたそうだ。相手はタロットカードの20番目である審判、勝敗は最早尋ねるまでもなかった。

 これで残すスタンド使いは、21番目『世界』を除けば『女教皇(ハイプリエステス)』のみとなった。……これまで考えてもみなかったが、随分な数の敵を倒してきたものだ。ホル・ホースだけは、明確に撃破したわけではないにせよ、もう襲ってくることもあるまい。

 

 DIOは焦っているのだろうか。普通ならば顔面蒼白ものだ、張り切って用意した20人の刺客が、皆突破されてしまったのだから。

 

 しかし、不可思議な所はある。奴は何故、敵を1人ずつ、ないしは1ペアで送り込んできたのか。それでも勝てる、そう高を括っていたかも知れない。或いは我の強い連中なので、とてもチームでの戦闘なんてできないだろうという戦術的な判断だった可能性もある。

 

 どちらにせよ、DIOが失策を打ったのに間違いは無い。せめて4人1組とかで波状的に襲撃をかけていれば、奴が最も目の上の瘤と忌み嫌うジョースターの血統を途絶えさせられたかも知れない。とはいえ所詮はIFの話、仮定は未来についてするから意味があるのであって、過去の仮定など妄想か、そうでなければ言い訳だ。

 

 勿論、ジョセフ達が無被害かと問われれば、答えは否。

 

 

 

 

 

先の戦いにおいて、彼らは重要な仲間を喪った。地獄に堕とすべき卑劣漢を征伐したって、故人を甦らせることはできない。生と死は一方通行で、帰り道を行くための切符なんて用意されていないのだ。

 

そう分かっていても、やりきれない。どうしてあんな死に方をしなければいけなかった。これが運命だったと神が宣託を下すなら、この世界はもう善も悪も綯い交ぜになった無自覚下のディストピアに他ならない。

 

そうではない。悪を討つ旅は、この世界がまだ虚ろに崩れていないことを証明するためでもある。己の信じる正しい正義は、吐き気を催す邪悪に屈しないと、この身をもって実証することこそが、彼に対する1つの花向けとなる。

 

共に大義達成のため奔走してきた仲間の、志半ばでの離脱は、まだ抜けそうにない黒い楔を各々の心に打ち込んで──

 

「おぉい、荷物は運び終えて……っと!」

 

 船の方から歩いてきた、それなりに大柄な男。先程より増えたメンバーに気がつき、これはこれはと歩み寄ってくる。怪しむ者はおらず、それぞれが鷹揚に手を挙げ軽妙に振る舞う。

 承太郎や花京院達と挨拶を交わす、ドレッドヘアの色黒男性。この男を、彼らは知っている。スタンドも精神も燃える炎のように熱い、砂の国エジプトからやってきた彼を。

 

「ア、アヴドゥルゥ~~~~ッ!?」

 

「ポルナレフ、久しいな。慢心する癖は治ったか?」

 

 変わったようには見えんがな。再会の挨拶は揶揄いの口調で、あっさりと済まされた。変に湿っぽいのは彼らのイメージにそぐわない。

 2人の再会は、大きな意味を持つ。即ち、贖罪と感謝。アヴドゥルが命を賭して生かしたポルナレフが、圧倒的な精神成長を経て大敵への怨を晴らした。DIOを倒す旅が終わったら、インドに戻って墓を設けると決めていただけに、幻覚症状を第一に疑ってかかる必要があった。

 

「お、おまッ、おまえッ! カルカッタで、死んだはずじゃあ」

 

「確かに撃たれはした。だが直前にハングドマンがわたしの背を刺してな、それで仰け反ったせいで銃弾が上手く脳へ届かなかったのだよ」

 

 まさにナイスアシスト、というやつだ。皮肉めいて笑うアヴドゥルの額には、肉を抉り取ったと一目で分かる銃創が、まるで刻印のように残されている。

 脳まで届かなかったとはいえ、拳銃で撃たれたのだから1日や2日で元通りとはいかない。増して背中の刺し傷は、それ以上に治癒期間を要する大怪我だ。カルカッタを発ってからさして時間が経ったわけでもなく、故に彼が全治を迎えたとは思い難い。

 

 しかし、病院を辞して一行に合流できるくらいには回復している。スタンドでの戦闘にはまだ『しこり』も残っていようが、多少出力を制限されたところで魔術師の赤(マジシャンズレッド)は相当に強大なスタンドだ。頼れる戦力となってくれるに違いない。

 

「するってェーと、ちょっと待て。アヴドゥルの父親はこのことを知ってんのか? もし知らねぇなら、教えてやらなきゃいかんぜ!」

 

「ありゃわたしの変装だ」

 

 こうしてはいられないとばかりに、勢い良く走り出したポルナレフ。アヴドゥルのさらりと流れる種明かしが、しかし彼をユニークな漫画のキャラクターらしく盛大に転ばせた。

 どしゃーっ、と砂浜を滑走していく長身の男に、咲夜が抱いたイメージはペンギン。確かにあの脂肪まるまるのお腹で滑走してはいそうだが、彼らがエフゲニー・プルシェンコじみた氷上のアイススケーターを演じることはほぼ無いに等しい。彼女のメルヘンチックな妄想は、残念なことに妄想の域を出ないのだと、本人が知る日は来るのか。

 

「えっ、アヴドゥル生きてたの!?」

 

「……ん? フランドール、おまえさんザ・ワールドから聞いとらんのか?」

 

「全くもっての初耳なんだけど! ねぇちょっと、ザ・ワールド」

 

 あっ、しまった。そう言いたげな、微妙極まりない表情が咲夜の顔を彩る。真実は時にミルウォーキーの殺人鬼や満月の狂人よりも残酷で、今がその時だ。従者として、真そのままをフランドールに伝えてはいけない。数瞬言い淀んで、それから心做しか窺うように喋り出す。

 

「妹様は誠実なお方。アヴドゥルが本当に死んだのか、敵が確認してきた時、嘘を貫き通すよりは真実を話されるでしょう」

 

 目と目を合わせたまま、一言一句を確かめながら話す。彼女は隠し事が苦手……いや、好きでない気質だと良く存じ上げている。彼女の姉は強者にそんなものは不要だ、とばっさり斬り捨てているが、そんなある種の潔さは遺伝要素でなかったらしい。

 

「妹様のご好意を無碍にし、それどころか悪用する不埒者がいるやも知れません。故に私の判断で、アヴドゥルについてのあらゆる情報を止めておりました。……妹様お1人を埒外に置くようなことになってしまい、申し訳ございません」

 

「ま、まぁ考えあってのことなら良いわ」

 

 要するに、『口が軽いお喋りちゃんに教えるのは不安』と、遠回しに言われているわけだが。理由があったなら仕方ない、情報を秘匿した従者を咎めはしなかった。

 勿論そんな不敬を咲夜が考えているわけはないが、彼女へ真実を伝えるのに躊躇いがあったのは間違いないだろう。そうでなければ、今頃驚愕しているのはポルナレフただ1人だけだった。

 

「って、待てよ」

 

 これまでの人生で三本指に入る程の、衝撃の事実を突きつけられたポルナレフ。砂を払って立ち上がり、ぽかんと口を開けて突っ立っていたが、ふと脳裏を疑問が掠めて我に返った。

 咲夜は知っていた。フランドールと自分は知らなかった。それでは、残りの面々は。特に驚くこともなく、アヴドゥルと再会していた彼らは一体。

 

「ジョースターさんたちは、このこと」

 

「ん? あぁ、知っている」

 

「……除け者にしやがったなこのクサレネギド畜生がッ!」

 

 把握まで2秒。そこから活火激発するまでコンマ3秒。クサレネギド畜生という、1万年にもなる人類史の中で恐らく誰も口にせず、思いつきすらしなかった罵倒の言葉を放つくらいには、彼の中で真っ赤な興奮が大渦を巻いていた。クサレネギって、それはただの消費期限が過ぎて萎びた葱だ。

 地面に座り込み、指先で砂を弄る。流石に哀れんでか、アヴドゥルも合わせてしゃがみ、肩を組む。そこは同年代同性のよしみか。

 

「まぁそう拗ねるな、言ってなかったのは悪かった。ちょっと買い物をしていたんだよ」

 

「けっ、その髪整える整髪料でも買ってたのかよ。良いの知ってるぜ、ボンドってんだけどよ」

 

「髪が洗えなくなるだろう。……そんな安い買い物じゃあないぞ」

 

 何せジョースターさんから言いつけられた買い物でな。やれやれ、と肩を竦めるアヴドゥルに浮かぶのは苦笑。どうやら癖の強い買い物だったらしいが、何を買ったのか。そこまでは承太郎達にも知らされていないので、学生が2人して顔を見合わせる。飛行機か、さもなくばスペースシャトルか。大気圏を超えて、宇宙から直接エジプトに乗り込むと言い出したなら、流石に正気の沙汰を疑うが、ジョセフなら宣ってもおかしくはない。

 

「頼んだのはあったようじゃな」

 

「えぇ。そこの岩陰に泊めてあります」

 

「どれどれ……うむ、完璧じゃ」

 

 岩陰の方を見に行き、()()を目で確認。お気に召したようで、上機嫌そうにサムズアップする。

 わざわざ買ってきたものを、何故隠すみたいに置いているのか。勿体ぶってお披露目するつもりなら、拍手も驚愕も無い白けた反応を返してやる。矢でも鉄砲でも持ってこい、意気盛んに岩陰へと走っていったポルナレフは、様々な意味で規格外の代物に圧倒された。

 

「な……んじゃこりゃあ!?」

 

「何って、潜水艦じゃよ」

 

「見たら分かるわッ! アヴドゥルの買い物ってのはこいつのことかーッ!」

 

 何てことはなかった。スペースと用途の都合上、あの場所にしか置いておけなかっただけである。驚かざるを得なかった、それはまぁ誰だっていきなり潜水艦と出会ったら心臓が跳ねるだろう。

 フランドールも、実物を見るのは初の経験だ。水中を進む船がある、と話には聞いたことがあったが、その形状は非常に独特であると感じた。特に乗り込み口が上部の1箇所だけというのは、船舶と似ても似つかない。そう設計した意図は良く分からないが、秘密基地に突入するみたいで何だか格好良いとも思える。

 

「アヴドゥル、こいつ幾らしたんだ」

 

「明細があるぞ、見るか?」

 

 ポケットを探り、皺の寄った1枚の紙を取り出す。開いてポルナレフに見せ、完全英語表記の用紙のうち右下をちょいちょい、と指示。フランス出身フランス育ちとはいえ、多少の英語くらい読み書きできるので、そこに記されていた額を取り間違えることはなかった。

 

「ご、ご、5億……!?」

 

「潜水艦にしては安い方じゃろ。原子力タイプならこれの3倍はするぞ」

 

 それ、乗り込むぞ。下ろされていた縄梯子から、スムーズに艦内へと入っていく。こんな買い物をぽん、とできてしまうジョセフ・ジョースターの財力とは如何程のものなのか。世界一の不動産王は、巨大企業の年間収益に匹敵する巨額さえも意のままに操ってしまうのである。

 ……下手をすれば、財団と銘打っている彼らを上回りかねない総資産だ。転んでもただでは起きないタイプ、いつか彼をそう評した波紋の師の見立ては、正鵠を射ていた。



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第五十話 女教皇 その①

 屈指の美しい海である紅海を渡る途中、進路を変更し立ち寄った小島にて、アヴドゥルと合流。2名程状況に置いてけぼりを食らった可哀想なのがいたが、潜水艦が出発する頃には、予想だにしていなかった再会イベントを飲み込めていた。

 空、海、陸。ここに来るまでに、三界を移動している。通っていない場所といえば宇宙空間か、或いは水の中土の中くらいか。いずれも通行する機会に恵まれることは滅多にないであろう、通行順路としてはマイナーに位置付けるべき面々だ。

 

「む、陸地が見えたぞ」

 

 操縦を担当しているのは、アヴドゥルだ。意外なことに、彼は潜水艦を運行させる技術を有していた。ジョセフも操作できるそうなので、7人中2人が希少な免許を付与されていることになる。そういう組織、例えば海軍でもない限りは、異例の割合といえる。

 陸地が近くなり、それに比例して海深が徐々に浅くなっていく。装置を動かして僅かずつ浮上させていくのを、フランドールが興味深そうに後ろから覗き込んでいる。あれは何かしら、これは何かしら。無邪気なお嬢様の質問攻めに、従者が逐一細やかな解説を返す。過去に乗艦経験があったのだろうか、そう思う程に彼女は内部構造に通暁していた。

 

「……いよいよ、というわけだ」

 

「あぁ……」

 

 旅の目的地は、エジプト南東部に位置するアスワン付近。諸悪の根源が、そこを根城にしている可能性は高い。否応なしに、ジョースターの血が疼く。

 タロットカードに則って考えれば、奴に辿り着くまでに襲ってきそうなスタンド使いはあと1人だ。だが、もしかすれば大アルカナの使徒以外にも、帝王傘下の敵がいるかも知れない。DIOの息の根を完全に止め切るまで、油断は禁物である。

 

「上昇させるぞ」

 

 機器を操作して、タンク内の海水を排出する。同時に空気を注入することで、艦の浮上スピードが早まるという寸法だ。空気の多少で風船の浮かんでいる時間が変わるのと、原理は同じである。単純なシステムではあるが、空気と海水の比率がずれてしまうと、最悪の場合海底を躱し切れないで激突してしまうこともある。故に要求される技術は、並のものではない。

 その辺りの加減は、体で覚えている。段階的に注入されていく空気が、潜水艦を順調なペースで海面へと導いていく。

 

 水の上に出るまで、あと50m。まだ太陽の光が満足に差し込む深度ではないため、周囲は夜のような闇に包まれている。曙を迎え、そして清々しい朝になるには、今暫く待たねばならない。やや海底が切り立ってきたのをレーダーで探知し、さらに空気の比率を増やそうとしたアヴドゥルは、手に妙な柔らかさを感じた。

 

 今まで触っていた機器は、こんなに柔らかくない。当然だ、金属でできている装置は硬いに決まっている。ではこのぐにゃりと指が沈み込む感触は何だ。まるで人間の顔を指で押し込んでいるみたいな。不可思議な事態に、訝しみながら手元を見る。

 

「なッ!」

 

 アヴドゥルは確かに計器の操作をしていた。だというのに、いつの間にかそれは人面へとすり変わっていた。大口を開け、視線は彼の指に固定されている。

 指を食い千切る気だ。急いで手を離そうとするが、間に合わない。嫌な予感が極大の寒気を伴って、背筋を貫く。

 

 剣山じみて鋭く細い歯で噛まれれば、切断は免れ得ない。歯と指の接触が目前まで迫り、そこで第三者の介入が無ければ、アヴドゥルの右手の指は3本になっていただろう。

 

「す、すまんザ・ワールド。助かった」

 

「お気になさらず」

 

 体内を循環するエネルギーを、鎧のように纏う。いつぞやのタイガーバームで実践した技を、咲夜はさらなる熟練度で再披露した。人差し指と中指を、躊躇なく挟み込む。アヴドゥルより靱やかで細く、一層簡単に噛み千切られるはずの指は、金属同士の衝突の如き音を立てて切断機を食い止めた。

 

 予想外の硬度に面食らったのか、計器の中へと退避する。深追いはせず、僅かな擦り傷さえ無い指をじっと見つめる。充分な出来に満足しているのか、それともまだまだ改善の余地があると反省しているのかは、分からない。

 

 注意が他所に向いたのを隙ありと見て、横の壁からスタンドが飛び出してきた。咲夜の肩へ噛み付く軌道、すかさずポルナレフがシルバーチャリオッツを繰り出すも、小さな金属片に化けることで突きを躱した。出し抜かれて仰天する彼を後目に、スタンドは何ら妨害されることもなく彼女との距離を詰める。

 

 ……それで勝ったと確信するのは、些か事を急いている。咲夜の探知網を潜り抜けるには、あまりにも大雑把が過ぎた。

 

「おォ! 見もせず掴みよった!」

 

「味な真似をするじゃあねーか」

 

「ありがとう、と言っておきますわ」

 

 視界外からの奇襲を無碍にするノールック・キャッチは、さながら映画か小説の中の主人公だ。光り輝く彼らなら、ここからばったばったと悪を薙ぎ倒していくのだろうが、咲夜は指示を仰ぐべき主がいるし、そもそも敵が1人では薙ぎ倒すも苦瓜もない。

 

「さて、このスタンド。恐らく『女教皇(ハイプリエステス)』で間違いないかと思われますが、如何になさいますか」

 

「えっ? そうね、取り敢えず何か箱みたいなものに閉じ込めておきましょう」

 

 そう言って、適当なサイズの入れ物を探し始める。しかし、そう都合の良い大きさの入れ物は見つからない。咲夜にずっと持っておいてもらうのもあれだし、さてどうしようか。見えない所で余計なことはされたくないので、できれば常時監視できる場所に置いておきたいのだけれど。

 

「ここでブッ飛ばすのが1番早えーけどよ、どうして閉じ込めるだけなんだ?」

 

「何でもかんでも倒せば良いってものじゃないでしょ。別に被害は出てないんだし、エジプトに上陸したら逃がしてあげれば良いわ」

 

「いやいやおめーなぁ、敵だぞ敵。情けってのは無用だぜ、こいつらは幾らでもつけ上がるんだ」

 

 フランドールとて極端な平和主義者ではない。向かってくる敵に対して無抵抗ではいられないし、必要とあれば自分から仕掛けだってする。だが、ハイプリエステスによる潜水艦、もしくはメンバーへの損害は零であり、言うなれば軽く噛み付いてきたやんちゃな犬のようなものだ。

 些事に一々目くじらを立てなくても。ある種呑気に構えている彼女とは対象的に、ぴりぴりと鋭い雰囲気を醸す者もいる。どれだけ潜在的危険性が低くたって、不穏分子は排除するに越したことは無いのだ。

 

「ポルナレフの言う通りじゃ。ここはきちんと戦闘不能にしておくべきかの」

 

「うぅん……分かったわ」

 

「御意」

 

「まだ何も言ってないわよ」

 

 主人の意志を汲み、先んじて行動に移せるのは天性の才能だと思う。あの我儘で気紛れな姉に鍛え上げられているのだ、フランドールの素直な思考を先読みするくらい訳はない。

 チームの意志は、彼だか彼女だかを迂闊無く倒しておく方向に固まっている。折角硬化が終了しつつあるコンクリートに、再度熱を加える真似は宜しくない。最年長の幼女としての柔軟な協調性を発揮して、多数意見に巻かれておく。とはいえ実際に手を下すのは咲夜であり、フランドールはといえば、喉が渇いたので即席(インスタント)のミルクコーヒーを承太郎に要求していた。ポルナレフでも花京院でもなく、承太郎に頼む辺りに彼女の図抜けた胆力が垣間見えよう。

 

 

 

 

 

「……ッ」

 

 呻くようなくぐもった声に、何かあったのかと振り返る。微かに引き攣った頬、握りかけた手から滴り落ちる液体が、事態の急展開を告げた。

 

「なにッ!」

 

「刃に! 剃刀のように鋭い刃になって逃げた!」

 

 内壁の中に潜り込んで隠れたのを、花京院とジョセフが目撃した。少しでも場所を移動されたら、もう目では絶対に追えない。瞬きも忘れたように、食い入って壁に視線をぶつけ続ける。動いた様子が無いのは、敵も彼らを牽制しているのか、それともとっくに全員の把握の範囲外に出ているのか。

 

「そうか、迂闊だった! ハイプリエステスは金属に化けるスタンドッ!」

 

「金属に化けるだと? ちょい待ちな、ここは潜水艦の中だぜ」

 

「そうだ。これはかなり不味いぞ!」

 

 船に乗っている以上、周囲は金属に囲まれている。ハイプリエステスにとっては、何処にでも潜んで好機を窺える環境が整っている。

 この上なく厄介、そう言わざるを得ない。死角から突っ込んでこられても、例えばスタープラチナなら充分に余裕を持って対処できるのだが、問題はかのスタンド自身が変質性能を会得している所にある。迂闊に触れれば、咲夜の二の舞になるだけだ。

 

「ちょ、大丈夫っ!?」

 

「問題ありません。少し切れただけですわ」

 

 ハイプリエステスが刃物に変質するや、寸での所で握り込むのを止められたのは、流石の反射神経だと言う他に無い。その甲斐あって、と言うと、少しばかり不謹慎にはなろうか。

 右手の真ん中辺りを、真一文字に横断する傷。ぽたぽた、と鮮血が垂れ落ちている。表情は既に平時と変わりないが、怪我の度合いを考えれば激痛に苛まれているのは明白だ。

 

 くすみの無い綺麗な手を、グロテスクなまでに鮮やかな紅が侵食していく。それはまるで、宿主の生気を糧に急成長する彼岸花の如し。無感動な瞳で咲き誇る流血を見据える咲夜の、その内心は推し量るに能わず。



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第五十一話 女教皇 その②

 潜水艦による渡航中に襲撃してきたスタンド、ハイプリエステス。咲夜をも出し抜いた狡猾なスタンドは、潜水艦の計器に化けて一行の目を逃れている。

 下手に手を出せば、外壁に穴が空いてそこから海水が雪崩込んでくる。脱出口をハイプリエステスに抑えられようものなら、全員揃って紅海で黄土色の土左衛門だ。特にアヴドゥルなど、溺死体に焦げという相容れないにも程がある要素を付け足しかねないため、とてもじゃあないが戦力とはカウントできない。復帰早々活躍の場を奪われるとは、難儀なものである。

 

「ザ・ワールド。傷は平気か」

 

「騒ぐ程の大怪我でもないわ。それに、あまり目を離していると」

 

 視線が外れた一瞬の隙を突いて、今度は予めナイフに変形した状態で花京院へ迫る。背後の不穏な気配に振り向いた時には、既に咲夜が凶刃への対処を済ませていた。

 

「危ないわよ」

 

「そ、そうみたいだ」

 

 深く大きな切り傷を負ったとは思えない、躊躇の無い右手のスナップが、飛来する小刀を叩き落とした。どの一瞬で処置をしたのか、咲夜の右手にはぴっちりと清潔な包帯が巻かれていた。衛生面での問題も、一先ずは最低限のラインを越えられたと言える。

 深追いはせず、再度金属の中へと隠れた。こうなると咲夜も手が出せなくなる。外壁が1000℃を優に超える超高熱にも耐えられる仕様なら良かったのだが、そんな都合の良い材はこの地球上に殆ど存在していない。増して潜水艦に転用するなど以ての外である。

 

 相手の攻撃は、咲夜やスタープラチナで迎え撃てる。しかし一方で、艦内を傷つけずハイプリエステスだけを倒す手段が無い。完全に膠着状態に陥った戦線で、遂に恐れていたことが引き起こされた。

 

「な、何だ! 今の重い音は」

 

「壁に穴がッ!」

 

 外部、つまり海中と艦内を隔てるのは、たった1枚の壁だけだ。金属に干渉できる力があると分かった時点で、恐らくは全員が危惧していただろうが、考え得る最悪の事態を、敵は苦もなく現実のものとした。

 均衡が崩れた以上、この場に留まり続けるのは良策でない。手先を叩けないなら本体を、スタンド使い同士の戦いにおける鉄則の1つと言えよう。

 

 そうするには、まず浸水の始まったエマージェンシーな挺内から脱出しなくてはならない。しかし現在の水深は約50m、出てすぐ浮上では水圧の差で内蔵や骨が潰れてしまう。かと言ってゆっくり体を慣らしつつ上がろうにも、人間の水中での活動限界は長くて2分程度だ。

 

「全員、こっちへ来るんじゃ」

 

 打つ手は2つ。水中でも呼吸できる環境を整えるか、物理法則の寛大さを信じて最速で海面を目指すかだ。どちらが生き残る可能性が高いのか、リスク削減の大原則に従うなら、答えはもう出ているようなものである。

 緊急事態に備えて、スキューバダイビングの器具が幾つか用意されているのを、ジョセフは知っていた。器具の故障は無く、また酸素ボンベの残量も充分であることを予め確認済みだ。これで体への負荷を最小限に抑えながら、陸へ上がることができる。Cカード未取得でのダイビングは危険も伴うけれど、四の五の言っていられる状況ではないのでやむを得ない。

 

 用具室へ向かうためのハッチを開き、全員が急ぎ潜り抜けていく。殿を務めたジョセフまで、何とか襲われることなく自分達の隔離に成功した。だが、時間の余裕はほぼ無いに等しい。如何に分厚い鉄のハッチだって、ハイプリエステスは破壊せずにすり抜けてこれるだろうから。

 

「この中で、スキューバダイビングの経験がある者がおらんと仮定する。わしの指示通り、装置を着けていってくれ」

 

 ジョセフの指導のもと、かちゃかちゃ、と手早く装備していく。1人並外れたスピードで装着し終えた咲夜が、フィンに手こずるフランドールを手助けする。まだ奴はハッチを越えられていないようだ、気配が向こう側に残っている。

 

「いいか、我々は脱出後スタンドで会話を行う。ちなみにだがザ・ワールド、おまえさんは水中でも喋れるか?」

 

「えぇ」

 

「……えっ」

 

 それはまぁ、大抵のことはできるけど、幾ら何でもそれは無理だろう。どんな勝算があって水中会話の可否を肯定したのか、注がれる疑問の視線に咲夜は微笑みでもって応えた。

 

 両手を開いて合わせ、数秒完全に静止する。こうしている間にも、ハイプリエステスが障害物を乗り越えて接近してきている可能性はある。それを理解し、一方で自らの鋭敏な察知能力から未だ心配の域を出ていないと正確に把握していた。故に焦らず、掌をそっと離していく。

 

 2つの掌に挟まれて、特別に豪華で派手な演出を与えられるでもなく、ごく静かに色の異なる空間が現れた。特徴らしい特徴に乏しく、灰色である以外は周囲の空間と何ら変わりは無い。咲夜の手と手の間が灰色世界であると定義されているようで、彼女の動きに寸分たりとも狂わず合わせて動く。

 

 咲夜にそんな特技があるなんて、聞いたことも無かった。そもあの空間が如何なる効果をもたらすのかさえ不明であるが、興味を惹く性能に長けていることだけは分かる。本人にどんな意味があるのか尋ねてみたところ、この薄墨ゾーン限定で時間を止めているそうだ。

 

 曰く、時の止まった世界の中では、水に阻害されず呼吸ができるし、高濃度の毒ガスに呑まれながらでも関係なく息を吸えるのだとか。……おかしい、新しい情報が手に入ったのに、むしろ謎が増えたではないか。流石は『ミステリアスの似合う女』3年連続第1位、審査役のフランドールも認定役のフランドールも、彼女の3度目の王座防衛を確信せずにはいられなかった。

 

「よし、全員準備できたな。水を入れるぞ」

 

 上部のハッチまで、承太郎が手を伸ばしても届かない。梯子も無いのにどうやって出入りするのかと訝しんでいたが、ここで漸く合点がいった。室内に溜めた水が、脱出口へと連れていってくれるということらしい。

 服はもれなくびしょ濡れになるわけだが、足元に膜を張り始めた水に、誰も突っ込もうとしない。それくらいは覚悟の上、厄介な敵から逃れることを考えれば仕方の無い代償と割り切っているようだ。フランドールの偽らざる気持ちを表現するのであれば、業火の剣でじゅわぁっと蒸発させたい。

 

 下手な行動を自制する天使と、遠慮などなく力を振るいたい悪魔が心を舞台に戦う間にも、ざばざばと海水が流れ込んでくる。床でびっちびちびちしていたクマノミに似た魚も、今では充分な水深を得て悠々と泳いでいる。

 

「な、中々浸水ペースが早いわね」

 

「……フランドール、おめー泳げるんだろうな」

 

「まぁ溺れない程度には」

 

 承太郎の膝下まで溜まってきた海水は、フランドールのスカートの下端をじわじわと濡らしつつあった。浮力の力を借りて、頑張って背伸びを継続してはいるが、まさしく焼け石に水の無駄努力。こんな時に飛行能力を使えたら、できることをしてはいけないストレスは、思ったよりも強い。

 赤、青、緑。迷い込んできた色鮮やかな魚達が、男達の足を器用に避けながらさらさらと泳ぐ。海洋博物館を連想させる綺麗な光景だ、できることなら外から見ていたかった。過去の仮定になど目もくれず、遂にフランドールの肉体の過半が水面下に隠された。温かいような冷たいような、極めて筆舌に表し難い温度の水は、不思議と不快感を感じさせはしなかった。

 

「フランドール、そろそろシュノーケルをつけな」

 

「ん。こんな時に身長があると良いわねぇ」

 

「どの道おれもつける。数分の誤差でしかねーぜ」

 

「その数分が羨ましいってことよ……っと」

 

 かぽっ、とシュノーケルを装着し、水中での呼吸がきちんとできるか確認する。10秒程の潜水を経て浮上し、咲夜に機器の問題は無かったことを伝える。

 最早首下まで水に囚われた今、フランドールにも服が濡れることへの忌避感や抵抗感は無くなっていた。流水でもないので弱点を突かれたりはしない、開き直って中々経験できない海のアトラクションを堪能してやろうという魂胆だった。水を吸った服の重さだって、彼女からすれば無いに等しい。ただ1つ、服のべたつきさえ無視できれば。

 

「しっかしよー、今更だが何でここには梯子が無いんだ? 正規の出入り口にはあるんだし、こっちにもつけろって話だよなぁ」

 

「単に設計ミスとかでは?」

 

「かぁーッ、大事な部分が抜けてるぜ! 例えるなら、そうだな……甘みと色の無いマカロん゛ッ゛」

 

 出身地ということで適当なフランス発祥の料理を思い浮かべ、それっぽい喩えを捻り出す。心做しか得意げな顔は、次の瞬間にシュノーケルだけを綺麗に吹き飛ばした蹴撃によってぴたりと固まった。3拍遅れてポルナレフの脳が事態の処理を終え、体がかくかく小刻みに震える。

 彼のことを小心者だとか()()()だとか言わないで頂きたい。目の前を、突如目にも止まらない速度で撃ち抜かれたら、驚きで尻餅だってつきたくなるだろう。そうしなかっただけ、寧ろ彼の胆力は評価されるべきである。尤も、もう尻餅なんてつける水深ではないけれど。

 

「何すんだおめーコラッ!? フランドールは背負ってねーし蹴りかかられる謂れは無いぜッ!」

 

「違うわよ。やはり気がついていなかったのね」

 

「あぁ? 気がつかないうちにガキ1人背負ってるはずがねーだろーがよこの盲目近視スタンドがッ!」

 

「喧嘩を押し売りするのはやめてほしいわね。私は貴方を危機から救ったのに、酷い言われようですわ」

 

 怒りの気炎を吹き上げるポルナレフに、後ろを見ろのジェスチャー。何なんだよと言わんばかりに、とても不機嫌そうに振り向いた彼が見たのは、焦りながら潜水艦の壁に同化していく敵スタンドの姿だった。口の端からは血が垂れ落ち、咲夜を警戒するように鋭い視線を逸らさない。そして同時に気がつく、口から外れたシュノーケルが何処にも浮かんでいないことに。

 さして重いものでもないので、水に沈むとは思えない。この場に落ちたなら、まず間違いなくぷかぷかと半損状態か全損状態で浮かんでいるはずだ。……こうなれば、ポルナレフも咲夜の狙いを知らざるを得ない。

 

「あっ……おう、サンキュな」

 

「貸しにするわ。今度宝石でも買ってもらおうかしら、ほんの20カラットくらいの」

 

「高過ぎんだろ!」

 

 カラット、英表記でcarat。主にダイヤモンドの質量を表す単位で、1カラット200mgと定義されている。何だ、20カラットでもたったの4gじゃあないか、それくらい買ってやれと呆れる者もいよう。だがしかし、少し待ってほしい。ダイヤモンドの価値を決めるのは、何もカラットだけではない。

 4Cという鑑定基準が、ダイヤモンドには設けられている。透明度、重さ、色、そして形。これら全てを総合的に評価して、価値が決められているのだ。咲夜のような瀟洒美人には、4C全てが最高評価の逸品こそ相応しい。

 

 ここで1つ、1カラットのダイヤモンドが大凡幾ら程度になるのかを示しておく。勿論品質によってばらつきはあるが、平均値を日本円に換算すると、約60万円程度となろうか。……繰り返そう、約60万円である。

 単純に計算しても、20カラットのダイヤモンドは1200万円相当の価値を有する。増して無言のうちに求められるのは、前代未聞の完全無欠な4Cを兼ね備えた国宝級の輝石。さて、ポルナレフの生命保険満額で支払える額か否か。

 

「よし、水が溜まった。脱出するぞ!」

 

 自分の死後に残される遺産の全額を、反射的に脳内で計算してしまう。まさかこのメイド型スタンド、助けてやったから死んででも宝石を寄越せと本末転倒なことを言っているのか。宝石が欲しいだなんて、可愛い所もあるじゃないかと揶揄してやりたくはあったけれど、命が惜しいので踏みとどまる。

 そうこうしているうちに、脱出に必要なだけの水が室内に蓄積された。背の高い男共から順に艦外へ出て、残る花京院や咲夜、フランドールといった比較的背の低い面々を引っ張りあげる。

 

「ハイプリエステスは追ってきているか?」

 

「いや……今の所は大丈夫そうだぜ」

 

 潜水艦を離れ、一先ず危機は抜けたとはいえ、追ってこないとも限らない。見える範囲に金属がないか、スタープラチナで確認しつつ、エジプト沿岸を目指して泳いでいく。

 ここから海岸までなら、距離にしてそう遠い目的地ではない。最も不安視されるジョセフの体力でも、泳ぎ切るのは可能だ。最悪力尽きたとしても、がたいの良い孫が背負って泳ぐだろうし。

 

「ハイプリエステスは金属に化けるスタンド。逆に言えば、金属でないものに化けたり伝ったりはできん」

 

「距離さえ開けられたら、海中では一先ず安全というわけですね」

 

「うむ」

 

 水が余程透き通っているのか、太陽の光が半減する水深においても、ある程度の視界が確保できる。人間には慣れているのだろうか、周囲の魚達に動じる気配は無い。あるものは1匹魚を貫き、またある種は群れをなして自由に薄暗い透明の中を回遊する。

 その中でも一際大きな魚を1番初めに見つけたのは、フランドールだった。のべっとした顔を気に入ったのか、列が乱れない範囲で近づいていく。主人のプチ寄り道に気がついた咲夜、はて何か面白いものでも見つけられたのかと左を向いて、一瞬で真顔になった。

 

 あの撞木のような特徴的な頭部は、一目で科まで判別できる。シュモクザメ、通称ハンマーヘッドシャーク。主に南半球の海域に生息する、その名の通りハンマーに近い形状の頭をした鮫である。体長は承太郎より僅かに大きいくらいなので、成長途中の個体であろう。鮫の噛む力は、しかし例え発達途上であったとしても侮れはしない。如何に途轍もない肉体強度を誇る吸血鬼であっても、全力で噛み込まれればそれなりには痛い。

 

 にこにこしながら鮫に近寄る幼女を見て、度肝を抜かれない者はいない。花京院のスタンドがフランドールに巻きついて、辛くも接触する前の引き戻しに成功する。

 美味しそうな肉が目の前で海老よろしく後退していったので、何となく不満そうにしながらも、数の不利を見て取ったのか追撃はせずゆらゆらと別の獲物を探しに行った。内心胸を撫で下ろしている花京院の隣で、咲夜による鮫についての即興授業が始まった。

 

 聞いたこともない魚なのだから、それが危険なのか判断できないのも仕方ないといえば仕方ない。だが自分より遥かに大きな生き物に躊躇いなく近づくのは、よした方が良かろう。何せ自然界において、大きさは強さにほぼ直結するのだから。

 

 一部の魚は、海底に沿うように泳ぐ。自身の位置を把握しやすいように、外敵に発見され辛くなるようになど、理由には諸説ある。ハンマーヘッドシャークもその仲間らしく、お腹を擦らない絶妙な感覚を保ちながらマリンブルーの向こうへ消えていく。

 もう上陸は目前なのだろう。差し込む陽の光が海をきらきらと照らす。まさか泳いでエジプトに上陸するとは想像だにしていなかったけれど、結果として誰1人欠けず、それどころか戦線復帰した勇士を迎えての乗り込みとなったのだから、不思議なものである。

 

 あと5mも上へ行けば、そこはエジプトの陸だ。旅を始めてから、思えばもう1ヶ月以上経った。飛行機なら1日で着く場所に、さんざ回りくどくも遠い道を進み続けた結果、200年前の人類でももう少し早く着けるのではないかと方々から失笑と諦観を寄越されそうな珍記録が生まれたわけだ。

 全ては、エジプト行きの飛行機を落としたあの老人から始まった。奴がいなければ、今頃ホリィは承太郎に愛を注いでいただろうし、花京院は自宅に帰っていたはずなのだ。罪は重い、きちんと地獄で閻魔大王に精算してもらおう。

 

 心の雑念まで清めるかのような、翡翠の海。咲夜の眼前で、それは()()()()()()()()()()

 

「っ、馬鹿な」

 

 鮫が、あのフランドールを喰い損ねた鮫が、突如として何者かに胴体を食い千切られた。濛々と辺りに広がっていく紅は、薄まる気配も無い。

 ハイプリエステスの仕業であることは明白だった。ほんの数秒前まで咲夜の探知能力の圏外にいたはずのスタンドが、前触れなく瞬間的に一行の後方にまで迫ってきていた。

 

 移動スピードが、咲夜の予想を上回ったのか。いやしかし、艦内でここまで機敏な動きは見せていなかった。完全に虚をつかれ、さらに最悪なことに、ジョセフ達はまだ異変に気がついていない。

 

「全員、海底から離れて」

 

[もう遅いよッ! ]

 

 すぐさま発された警告も、寸分間に合わなかった。海底に浮き上がった巨大な顔面は、何度も襲撃を仕掛けてきたあの憎たらしい猿めいた醜悪面そのものだった。

 

「うあッ、飲み込まれッ……!?」

 

「馬鹿な、海底に化けるとは!」

 

 タピオカミルクティーの中に散りばめられているタピオカを吸い込むように、逃げ遅れた吸血鬼主従以外の面々を造作もなく引き込んでいく。抗えるはずもなく、口内へ飲み込まれていく中で、寸での所でフランドールが掴んだ手は角張った『男』だった。

 

 引っ張られる感覚が、焦りを生む。承太郎とフランドールの体重を合わせたって、吸引はただの1秒たりとも遅らせられない。そんなことは百も承知、それでも、承太郎だけでも救い出す策はあった。

 

 空いた左手に、妖力を凝集させる。早く、強く集めた力をジェット機のエンジンのように噴出し、その反動で逃げ出す算段だ。承太郎、咲夜と陸に上がって速やかに敵スタンド使いを倒せば、何とか喰われてしまう前に救助できるかも知れない。

 

 一方で、自身の正体を勘繰られるというリスクを考えれば、かなり危ない橋を渡ることになる。スタンドとはまるで別物の、明らかに人外の力を行使すれば、承太郎は当然疑惑の念を抱くだろう。

 だが悠長にそんなことを言っていられる状況ではない、彼の手を掴んだ以上はやらなければ纏めて呑まれるだけだ。後に控える咲夜の説教に覚悟を完了させ、超常のブーストを発生させようとした。

 

「……!?」

 

「フランドール! 上がれ、そんでもってこの陰湿なスタンドの使い手をぶっ倒しな。おれたちは極力粘るからよ」

 

 まさか掴んだ手を振り払われるとは思っていなかった。唖然とするフランドールに、一方的に早口で捲し立てて、承太郎はそのままジョセフ達の後を追っていった。



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第五十二話 女教皇 その③

 それはあまりに奇妙な違和感だった。

 

 それを咲夜が知覚したのは、スティーリー・ダンを撃破してから数時間後のことだった。際限なく体温の上がり続けるフランドールの体を冷やすため、時を止めて1秒さえ惜しみながら濡れたタオルを当てていた。

 

 ある時、静止時間は27秒になった。連発し過ぎたために勤続疲労を起こしているのだろう、さして気にもとめなかった。次に時を止めると、24秒。その次は17秒となる。

 おかしいと思った。思わざるを得なかった。使用を重ねるごとに、明らかに異常なペースで制御力が低下していく。体調に問題は無く、急激な能力劣化の原因は分からない。唯一、能力の副作用としてもたらされる負荷のせいか、脳の疲労はそれなりに蓄積していたが、これとて初めての経験ではない。

 

 時を止めた後、咲夜の体に何かしらの異常が起きたということはない。いつもと変わらない平均的な調子を維持して、ただ能力の効果時間だけが短くなっていく。

 確証は持てないが、恐らくフランドールが突然倒れたことと何らかの関係があるのだろう。彼女達は元いた世界からの迷い子であり、密に関わり合う主従だ。

 

 原因不明の不調(バグ)は改善されそうにない。次に時を停止させたなら、きっと15秒と止めていられないはずだ。大事を取って、暫く使用を控えることにした。

 2、3日休養を挟めば、元の通り使えるようになるだろう。その見立てが甘かったことを、潜水艦にてハイプリエステスを掴んだ際に知った。

 

 手の中で変質が始まったのを、むざむざ見逃す程に甘くはない。敵が刃物の性質を持つより早く、咲夜は時を止めた。歪な形を保ったまま動かないスタンドを潰すべく、手に力を込めた。

 

 瞬間、時は動き出した。静止時間にして僅か3秒、あまりに早過ぎるリスタートに、咲夜は虚をつかれた。熱さを伴う鋭い痛みに、瞬間的に我に返って握り込む手を止めたが、遅かったとしか言いようはなかった。

 ぽたぽた、床に落ちていく血を半ば呆然と眺めていた。時が動き出す直前に、それを知らせる予兆が咲夜に届くのだが、今回はそれさえ届かずまさしく『勝手に』能力が解除されてしまった。

 

 幼心地の頃、まだ自身の並外れた能力(さいのう)を上手く制御できなかった時期があった。だが、それはもう昔の話。今、時は完全に手中にある。

 

 ある、はずだ。思い違えていなければ。

 

 

 

 

 

「あいつね」

 

 ふと我に返る。視線の先には、ほくそ笑みながら紅海を見つめる女の姿があった。

 彼女が見ているのは、綺麗な海ではない。高純度のガラスのように透き通った海水、それでも見通せない深く暗い場所を見ていた。ざっ、とフランドールが砂を踏み鳴らすまで、彼女達の存在には気がついていなかったらしい。何だって海の奥なんて見えもしない領域に集中を傾けていたのか、わざわざ答えの分かり切った問答をする時間が惜しい。

 

「お、おまえはッ!」

 

「ご機嫌よう。濡れたままで失礼だなんて、言わないわよね」

 

 頭から爪先まで完膚なきまでにびしょ濡れとなった少女が、雲一つ無い晴天の中で日傘を片手に立つ姿は、異様と言っても差し支えないだろう。一目見て彼女を言い表すなら、滑って海に落ちた鈍臭い令嬢だ。

 今彼女の服を絞れば、小さな水溜まりができる。魚を入れても、1時間くらいなら生きていられるかも知れない。

 

「このメスガキ!」

 

「あら。穏やかでないこと」

 

 全員飲み込んだつもりが、1人取り逃していた。スタンドの口内では、今まさに歯を舞台にしてスタープラチナとの力比べが始まろうとしている。この状況でハイプリエステスを消すわけにはいかないが、かと言って咲夜と肉弾戦をしても勝算は零。

 女が狙える穴は、本体(使役者)の脆さただ一点のみ。スタンドで攻撃してくる前に、フランドールを殺す。十かそこらの子供なんて全く怖くない、承太郎達より一足早く天国に送ってしまおう。

 

 ナイフを構えて、フランドールに向かい走り出す。咲夜はそれをちらりと一瞥し、それからそっと目を伏せた。無理もない、刃物を持った大人が突っ込んでくれば怖いだろう。恐怖は行動を縛る不可視の縄となり、スタンドの操作を妨げる。

 

 もしここで対峙していたのが承太郎だったら。いや、誰であってもフランドール以外であったなら、こうはいかなかった。計画は若干正規のルートを外れたが、到達した結果に変わりはない。少々奇妙な形の幸運に、心の中で感謝した。

 

「そのナイフ、何製?」

 

「はぁ?」

 

「だから、原材料は何って聞いてるの。……ま、少なくとも銀()()()()かしら」

 

 姉の掃除より()()()攻撃なんぞに竦み上がる理由は無い。あぁ、そういえば館の面々は総じて片付けが苦手だったっけ。フランドールが普通で咲夜ができ過ぎる以外、皆散らかるに任せる始末だ。

 普段、そうした汚部屋ーズのフォローもしていた咲夜が、今はこちらにいる。外出期間にして実に数ヶ月、それはつまり、館に足の踏み場が残っているか怪しいということで。ぞわり、と嫌な未来を憂う怖気がした。

 

 振り払うように打った拳が女の顔をクリティカルに捉え、腕を突き出した不格好な姿勢のまま吹き飛ばす。軋んだような感覚が伝わってきたが、多分鼻の骨でも歪んだのだろう。ご愁傷様である。

 

「ああああぅああぁッ! 卑怯よ、わたしはスタンドも無いってのに!」

 

「心外ね。私もスタンドなんて使っていないわ」

 

 正直に打ち明けつつ、ちらっと咲夜の方を見る。あまり()()()()()()()発言だった恐れがあるが、彼女は静かに目を伏せたままだ。よし、訂正の必要は無い。

 

 倒れた女を気遣いはしない。馬乗りになって、躊躇なく殴打をお見舞いする。一撃が大男の全力にも匹敵しかねないものを、何発も顔面で受けていては、いずれ名うての外科医に整形手術を頼まねばならなくなるだろう。既に鼻は曲がるべきでない方向に曲がっているので、針金を入れるのは確定だ。

 DIOから受け取っている前金で工面できるか、できなければ余生を醜く歪んだフェイスで生きることになる。哀れなことだ、元来それなりの容姿というものを女は持っていたのに、最早見る影も無いとは。

 

「私のメイドに傷をつけた下臈の分際で、吐き出す言葉は罵倒と来たか」

 

「あげっ……や、やえへ」

 

「貴女、教育はきちんと受けていらして? 悪いことをしたらまずどうしなければいけないのか、知らないってことはないでしょう」

 

 大きく振りかぶって、手をぐっと握る。空気の抜けた懇願には耳を貸さず、フィニッシュの一撃を叩き込む。聞くに堪えない薄汚れた断末魔なんて、上げさせない。

 

めしゃあ、と明らかに人間の顔から聞こえてはいけない音が鳴る。無論この世界で不殺を掲げているのだから、女もその例に漏れていない。眼球から出血し、顎骨が粉微塵の灰塵と化しても、彼女は生きている。……それは幸運と喜べようか。

 

「DIOに謝る時の文言でも習ってきなさい」

 

 彼にとっても、良い予行演習になるわ。皮肉を利かせたその言葉は、果たして潰れた蛙のようにぴくぴくと痙攣する女に届いただろうか。

 

 いつの間にか砕けていた歯らしきものが、周囲に散らばっている。歯を折った覚えはフランドールには無いが、吸引されたメンバーが内側からへし折りでもしたのか。できそうなスタンドといえば、スタープラチナが第一に思い浮かぶ。あのおらおらおらぁ、みたいなラッシュ攻撃なら、多少歯が健康で硬くても鍾乳石のように砕き割れるに違いない。

 

 ばしゃん、水音と共に浮上してくる5人の男達。上陸したそばから乱雑にシュノーケルを取り外し、久方ぶりに外界の空気を肺いっぱいに吸い込む。全員無事そうで、何よりだ。

 

「やっほー、承太郎。倒しといたわよ」

 

「もう少し早く倒してくれたら、おれはきたねーベロにどつかれずに済んだんだがな……」

 

「飲み込まれて消化されるよりましでしょ。文句言わないのっ」

 

「……やれやれだぜ」

 

 確かに胃の中まで運ばれなくて良かったとは言える。酸を無力化できるスタンドは、味方にいない。だが、あの舌に酸素ボンベからシュノーケルまで、主要な器具は軒並み壊されている。お陰でスキューバダイビングにおいてはずぶの素人が、生身着衣でぶっつけ本番だ。生兵法は怪我の元なら、無知は死の元だろうに。

 

 花京院がぐったりと座り込んでいる。流石に想定できなかった敵の襲撃で疲れている様子だったが、彼の表情にはそれ以上に安堵の色があった。駆け寄ったフランドールに小さく笑いかけ、ハイタッチを1つ。

 

「これでみんな無事にエジプトへ上陸できたわけだな」

 

 エジプト──この旅の最終目的地にして、承太郎の母ホリィを救うために避けられない勝負の舞台である。冷静に考えれば異常な数のスタンド使いに襲われたのに、結果として誰一人も欠けずにこの地面を揃い踏みできたことを、花京院は神に感謝した。

 逃げ出したホル・ホースを除けば、タロットカードを暗示するスタンド使いはもう残っていない。つまり、決戦の時は近い。それは花京院にとっては、最も会いたいと同時に最も会いたくない恐怖の象徴との再会でもある。恐怖とも興奮とも称せない複雑な気持ちに、心が曇天の如くざわつくのを感じた。

 

「色々な所を通ったなぁ。海、砂漠、果てには夢まで」

 

「夢? 何だそりゃ」

 

「あぁ……みんなは知らないんでした」

 

 恐怖を克服することで、人は強くなる。だとすれば、DIOとの戦いは花京院にとって大いなる試練でもある。1度は膝を屈した巨悪を、頼れる仲間と共に撃破してこそ、花京院 典明という男は上のステージへ昇れるのだ。故に逃げられない、ホリィの命のためにも、そして己を高みに導くためにも。

 

 エジプト南部のアスワン。D()I()O()()()()()()()()()()()



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第五十三話 ゲブ神 その①

 朗報だなんて、何ヶ月ぶりだろう。私の最愛の友人が、──の手記を持ってきた。何でもとある本に挟まっていたのを、書架の掃除に際して見つけたらしい。

 

 他人のプライベートを勝手に覗き見るのは趣味ではないが、行方の手がかりが見つかるかも知れない。……許せ、──。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「きゃー! 可愛いーっ!!」

 

 幼女と犬の組み合わせは素晴らしい。小型犬を抱える幼女、中型犬と並ぶ幼女、大型犬に撓垂れ掛かる幼女。どれも双方の存在を食い合わず、良い絵になる。

 フランドールが抱き上げているのは、渋い仏頂面が特徴のボストン・テリアだ。お世辞にも可愛げがあるとは言えないが、十人十色でこその感覚である。この広い世の中に1人くらい、彼を愛おしがる物好き、もとい慈愛者がいたって良いだろう。

 

「この子が冒険の仲間になるの?」

 

「へぇ、良く分かったね」

 

「砂漠の真ん中に野良犬はいないでしょ」

 

 砂漠を渡っている最中に、いきなり轟音を鳴らすヘリコプターが後を追ってきた。大型機械に憑依するとは、今度の敵は随分と豪快な手合いだ。先制攻撃の構えを取るフランドールを、咲夜が制止する。

 ヘリコプターに刻まれたロゴマークから、当該機体がジョセフと関わりの深いSPW(スピードワゴン)財団であると見抜いていたのだ。当然味方には手出し無用、フランドールも打ちかけた先手を引っ込めた。

 

 台風並みの暴風を吹かしながら、着陸できそうなポイントを探す。髪を整えようにも、手櫛を入れたそばから四方八方に掻き乱れるので、誰からともなく全員が吹かれるままになった。結局、プロペラが完全に停止するまでには数分を要したので、帽子を被っていた承太郎以外の髪型は、寝起きの方がまだ何倍もましという惨状であった。

 

 食料や着替えなど、旅を継続するのに必要な物資を粗方補充してくれたが、財団が運んできたのはそれだけではなかった。ジョセフ曰く、助っ人も連れてきたのだという。この局面で加わる味方なら、十中八九スタンド使いだ。想像には難くなかった。

 しかし、降りてきたパイロット達はスタンド使いでもなさそうで、彼ら以外の人間は乗っていない。事情を分かっているらしいジョセフとアヴドゥル以外は、首を傾げる他に無かった。

 

 連れてき忘れたのか、そう聞いてもジョセフ達は首を横に振る。間違いなく、この場に助っ人はいると断言した。嘘をつかれる理由は無いが、そうは言っても姿が見えないのは明らかに変だ。近寄って機内を確認しようとしたフランドールを、慌てた様子でアヴドゥルが止めた。

 揺られながらの長距離移動で気が立っている、とのこと。何だか犬や猫のことを言っているみたいに聞こえるが、まさかヨークシャーテリアやスコティッシュフォールドが助太刀してくる、なんてことはないだろう。動物にスタンドが使えるとは、フランドールには思えなかった。

 

 ストレングスとの戦いのさなか、彼女はぐっすりと寝こけていた。そのために、人間でない生き物がスタンドを操る例を知らなかった。……ごく稀にだが、知性ある生き物はスタンドを体得する。それが必ずしも人間であるとは定義されていないのである。

 

 何処からともなく突如飛び出してきた黒い弾丸を、じっと見つめる。成程、気が立っているとはそういうことか。先の言葉に納得がいった所で、突進をもふっと受け止める。ただ柔らかいだけではない、適度な硬さをも併存させている毛並みは、腕に確かな抱き心地を与えてくれた。

 

 かくの如きが、彼女の胸に抱かれる犬が誕生した経緯である。操るスタンドは『愚者(ザ・フール)』、タロットカードでは0番目のカードとして特異な立場を有する愚者を象徴したスタンドである。正位置であれば自由や可能性、逆位置なら我儘などを表すとされる。

 彼の性格が、タロットカードそのものとさえ言えることを、ジョセフ達は知っている。自由気ままに行動し、誰の制約も受けはしない。そしてこの上なく我儘で、気に入らない人間に対しては軽率に牙を剥く。一言で言い表せば、難だらけの性格をしているのだ。

 

 シンプル・イズ・ベストを体現したかのようなスタンドを持ってはいるが、果たして戦力になってくれるのだろうか。これまでの破天荒ぶりを、特にアヴドゥルは嫌という程に見てきたのだから、不安になるのも仕方がない。そんな性格を懸念される彼は、しかし意外なことにフランドールの腕の中で暴れもせず抱かれるままを保つ。

 

「ねぇアヴドゥル、この子の名前……」

 

「あぁ、そいつにはイギーという名が」

 

「ジョンとポチ、どっちが良いと思う?」

 

 アヴドゥル、閉口。たった今その犬の名前を言ったのに、まるで無かったことのように勘案を始められたら、それはまぁ誰だって言葉を失うだろう。嫌がらせや揶揄いならまだ良かったのに、フランドールには何の邪な気持ちも無いのが、逆に彼の心を傷つける。ナチュラルな無視は、存外大きなダメージをもたらすのである。

 

「花京院、日本では犬をポチと名付けるのよね」

 

「ポチありきではないけど、まぁ多い名前ではあるね」

 

 花京院や承太郎の故国では、確かに多い名前だ。歳若い少女が初めて犬を飼った時、高い確率でこの名が授けられる。ちなみに最近は傾向が変わりつつあり、クラスの気になる男子の名をつける子もいるとかいないとか。()()()子供達である。

 

「お、おいフランドール。そいつの名前はイ」

 

「でもスカルも捨て難いなぁ」

 

「ス、skull(頭蓋骨)……!?」

 

 可愛らしく思案し、出てきた名前が『スカル』。アヴドゥルは驚いて良いし、考え直せと彼女の肩を掴んで説得しても許されよう。但しメイドは許さないだろうが。

 彼女はきっと、自身の姓であるスカーレットを短縮したのだろう。ScarletがScal、という具合に。初対面の犬に頭蓋骨と名付ける抜群のセンスは、持ち合わせていないことが切に願われる。

 

「フランドール、そいつにはイギーって名前があるぜ」

 

「あれ、もう名前あるのね」

 

「おめーの後ろにいるのがさっきから何回か言ってたがな」

 

 持ち上げて名前を呼んでみる。反応こそ無かったものの、ちらりと視線は寄越したので、この名前で間違いないらしい。頭の中で考えていた7つの候補は棄却せざるを得なかったが、『イギー』も中々どうして可愛い名前ではないか。やんちゃな男の子という感じで、好感が持てる。

 彼に集中していたので、後ろで少ししょげているアヴドゥルには、残念ながら気が付かなかった。哀れアヴドゥル、無垢な刃の斬れ味を予期せぬ形で思い知らされた。

 

 顔は可愛げが無いにせよ、そこそこ人慣れした賢い犬だと見て、ポルナレフが手を伸ばす。多分撫でようとしたのだが、無骨な男の手では触れる資格を得られなかった。とても甘噛みなどではない、指を食い千切りそうなハイドロキシアパタイト集合体の圧迫行為に、仰天して振り払おうとするも、犬は噛み付いたまま離れない。

 あまりの痛みに涙まで浮かんできたところで、フランドールが仲裁に入る。やはり彼女に対しては素直で、大人しく噛むのをやめた。寸での所で残った右手人差し指を、ふーふーとファンファーレの1つも吹けそうにない肺活量で吹き、どうにか熱を逃がさんと必死である。

 

「改めて、よろしくねイギーっ」

 

「……噛みませんね」

 

「わしも今驚いとる。まさか手懐けるとは」

 

「ずるくねーか、あいつだけよォーッ!」

 

 ぎゅっと抱き締め、頬擦りまでしても、イギーは別段嫌がる素振りを見せない。彼が親密な触れ合いを認めたのは、財団が彼を保護して以降初めてのことで、財団職員もジョセフ達も驚くばかりだ。

 大好物であるコーヒー味のチューインガムが無ければ、味方まで撹乱しかねない制御不能の荒くれ者である。だから補給された物資の中にはチューインガムが10箱あるし、万一にも勘付かれて、一気に食べられては堪らないため、存在を知るのはジョセフただ1人だけという徹底ぶりだ。

 しかし、ここに来てまさかまさかのそのまたまさか、切り札(チューインガム)無しでイギーと仲良くできる猛者がいた。味方をてんてこ舞いにしさえしなければ、彼のスタンドは強力なものだ。大きな戦力の増加を期待できる。

 

「あら、行く方向はこっちよ。気になるものでもあったのかしら」

 

「これは良い。フランドールちゃんはあの暴れ者を制御できるというわけか」

 

「まー納得だわな。あんなとち狂った化け物スタンド従えてる時点で只者じゃねーぜ、あのガキんちょおおおぉぉる゛っ゛」

 

 雄弁は銀、沈黙は金。軽口上等のポルナレフにとっては、喋れば喋る程に各方面に対して負うリスクが増えていくので、もう銀どころか銅ですらない。黙っていれば咲夜に無言の足払いをかけられることも無いのに、彼はどうしてその口から彼女の白鱗に触れる言葉を吐き出してしまうのだろうか。

 適切なリスクマネジメントは大人の嗜みだ、是非とも口を慎む、という言葉を胸に旅を続けてほしいものである。寡黙な騎士使いへと路線を変更すれば、きっと女性からの好感度も上がっていくだろうし。

 

「なにしやがるてめーッ! つーかあの距離で聞こえるとか地獄耳……サソリィ~~~~!?」

 

 ……傍を歩く蠍に怯えて、シルバーチャリオッツを出しているようでは、まだまだ先は長いといったところか。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 SPW財団の職員がヘリに乗って帰っていく。ジョセフ達に物資と幾つかの情報を提供し、彼らの任務は終了した。ここからの数時間のフライトの後に、彼らは愛すべき国のもとへ、或いは家族のもとへ帰り着くのだ。

 

 医師の診察から概算し、ホリィの余命がもう1ヶ月も無いことは、この件に関わるほぼ全ての職員が知る所である。エジプトに上陸し、旅もぼんやりと終わりが見えつつあるこのタイミングで、焦らせてしまうことを言いたくはなかった。

 しかし、父親には病床に伏せる娘の容態を知る権利がある。だから彼らは、葛藤の末にありのままの真実を話した。

 

 職員の予想に反して、ジョースターの一族は静かにその話を受け止めた。聞きしに勝る、精神的に強靭な一族だ。

 財団の創始者であるロバート・E・O・スピードワゴンは、ジョセフ・ジョースターとその祖父、2人がかつて繰り広げた戦いを知っていたそうだ。勇猛果敢、決して怖気付くことなく敵と戦った、と財団の碑には刻まれている。かの血脈には勇気が流れている、その一端を目の当たりにしたような気分で──。

 

「なぁ。エンジンの音、おかしくないか?」

 

 隣に座る相方の声で、浅い夢見心地から醒める。耳をよく澄ませてみると、確かにがたがた、と振動しているような音がする。

 

「言われてみれば……バードストライクでもしたか」

 

「おいおい、こんな砂漠のど真ん中でかよ」

 

「一旦降りる、原因さえ分かればどうにかできるだろ」

 

「不器用な癖にエンジニアの真似事なんざしないでくれよ……何だ、床が濡れて……」

 

 余計な一言を付け加えて、お気に入りのコーヒーを啜る。不器用なのは認めざるを得ない、ついこの間も書類を積もうとして盛大に崩したところだ。とはいえ何か不調を起こしているらしいエンジンを放っておけば、帰路の途中で墜落してしまうかも知れない。

 お前はどうせ機内でコーヒーを飲んでいるだけなのだから、せめて大人しくしていろ。やれやれ、と溜息を吐く職員の顔に、びちゃり、と液体がかかる。

 

 この場にある液体といえば、1つしかない。どうやらこの男、コーヒーを零したらしい。服について染みになったらどうしてくれる、クリーニング代の請求が頭を過ったが、ふとおかしな感覚が首をもたげてくる。

 奴さんはホットコーヒーが好きだ。魔法瓶に入れて、それを持ち歩いている。今日も愛用の魔法瓶を持参していたはずだ、如何にも美味しそうに真っ黒な液体を嚥下していく姿を何度か見ているから。

 

()()()()()()()()()()。熱々のコーヒーなんぞ頬にかかったなら、軽い火傷くらいしそうなものだが、今日は趣向を変えてきたのか。火傷せずに済んだのは不幸中の幸いだ、こうなれば後は服が汚れていないかが気になる。操縦を誤たぬよう、ささっと手早く体の左側を確認する。

 

 

 

 

 

 頭を、水の腕が貫いていた。

 

「うっ……うわああああぁぁぁッ!」

 

 声が裏返るのも構わず、高い悲鳴が上がる。その悲鳴に反応するように、5秒前までは生きていたはずの相方の頭部を貫通したままで、腕がにじり寄ってくる。武器なんてない、拳銃を携帯していたら迷わず全弾撃ち尽くしていた。

 あぁ、そうか。この液体は。頭が鈍くたって、気がつける。気がついてしまう。そして3秒後に自分がどうなっているのかも。腕は何も語らず、僅かに指先を丸めた。



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第五十四話 ゲブ神 その②

「……」

 

《……》

 

「なぁ花京院。……あれ、何してんだ?」

 

「さぁ。睨み合っているようにも見えますね」

 

 財団職員との合流によって、充分な物資と幾つかの情報を得た。今はジョセフの運転のもと、エジプトの首都カイロを目指しジープを走らせている。

 

「お、唸ってんな」

 

「ザ・ワールドの眼力が強くなりましたね」

 

「互いに警戒しあっているようだが……?」

 

 車内では、メイドと犬が無言で視線を戦わせている。8人乗りのジープの中を、不穏な揺蕩いがぞわぞわ満たしていくのは、部外者からすれば中々に居心地が宜しくない。ここで仲裁役の登場が望まれるが、さて6人の中で最も適任なのは誰か。

 ジョセフは運転中なので除外しよう。承太郎は少しでも手こずればその拳(スタープラチナ)で解決しにいくだろうし、実直なアヴドゥルは咲夜を宥められる程口が回る男ではない。花京院は何と言うか、彼女より1歩引いた立ち位置を確立しているし、ポルナレフはもう論外だ。仮に今1音節でも喋ったら、頭から足の先まで50等分されて砂漠にばら撒かれる。()()は、蠍か蛇の餌くらいが妥当か。

 

「咲夜、イギーを威嚇しちゃ駄目よ。毛が逆立ってるわ、きっと緊張してるのよ」

 

「は、申し訳ございません。ですが妹様、犬は私め1匹で充分でございます」

 

「随分人間らしい犬ね」

 

 ならもう、残すは1人しかいないわけで。双方を刺激しないで済むフランドールが白羽の大命を受けるのは、ある種当然のことであった。苦笑いを1つ、調停に乗り出す。

 小さい方を抱えて撫でつつ、意思疎通ができる方を宥めてみる。こう言っては何だが、犬1匹を対等な敵と認めるのは、咲夜らしくない感情の昂りを感じる。確か愚者を暗示するスタンドの使い手だったか、それについて思う所でもあるのかと予想したのだが、返ってきた答えはスタンドのスの字も関係の無い、拍子抜けするのを抑え切れないものであった。

 

 平坦な言葉の節々に、僅かに憮然の心情を滲ませた物言いだった。咲夜は時折自らのことを犬と自称し、フランドールや彼女の姉を飼い主に幻視することがある。多分忠犬としてのプライドみたいなものが擽られたが故の、イギーへの敵対心だったのだろうが、別に犬が2匹いても良いと思う。まず第一に、吸血鬼の下僕(メイド)に犬を登用した覚えは無い。

 

 彼女の主張は、極めて単純なものだ。私こそ貴女の犬に相応しい、じゃあ彼女の望みは一体何だろう。咲夜を一先ず人型の犬と仮定して、喜びそうなことを脳内でピックアップする。1番手っ取り早く実行できる『撫で』を選び、彼女の頭に手を置いた。ふわりと沈み込む絹のような髪にうっとりとしながらも、掻き乱さぬよう慎重になでり、なでり。

 

 あっ、咲夜が項垂れた。まるで学校の定期試験で5教科総合21点を取ってしまった学生のように、がっくりと頭を落として顔を覆っている。選択を間違えたのか、助けを求めて前にいる承太郎の肩を叩く。ここで1番力にならなさそうな承太郎を頼る辺り、フランドールの焦りが如実に浮かんでいる。

 やれやれ、そう言わんばかりに肩を竦める。他にどんなこともできないし、かける言葉も無い。別の世界線にいる100人の承太郎をこの場に集めて、1人ずつ反応を試してみても、全員が肩を竦めて無表情になるはずだ。助けには到底なれないというか、助ける必要が無いというか。

 

 微かに赤みをさす頬に、相当なレベルで怒らせてしまった可能性を察知する。綺麗な御髪においそれと触ったのが不味かったか、思い返せば確かに手を拭いてはいない。おろおろと狼狽えるフランドールは、確かに重かった車内の空気を変えた。外の空気より生温い雰囲気に包まれて、全員苦笑か呆れ顔という始末だ。腕の中で、イギーが大きな欠伸をした。

 

「ん、あれは」

 

 和やか……まぁそう評して相違ないであろう空気を取り戻し、暫く車を走らせていると、唐突にジョセフが車を止めた。目的であるカイロまではまだまだ距離のあるここで、どうして止まったのか。エンジントラブルでも起こったなら、面倒この上ない。

 

 承太郎で前が見えないので、首を目一杯伸ばして横から様子を覗く。陽の光で明るく輝く丁子色の景観を無視して、銀色の鉄塊がその存在を声高に主張している。あの形はつい最近何処かで見たが、何だったか。

 

「SPW財団のヘリじゃと!」

 

「墜落したのか? パイロット達は」

 

 そうだ、さっきお世話になったSPWなる財団のヘリコプターだ。操縦ミスか不慮の事故か、帰り道に墜落してしまったらしい。残念だが空から落ちたなら、人間では生きていられないだろう。

 つい先程会ったばかりの人間に降りかかる不幸事は、かなり堪えるものだ。ちくりと胸を刺すような心の痛みに、自然と目が伏せられる。

 

「おい、こっちにいたぜ。2人とも死んでいるがな……」

 

「うぅッ、これは惨いのぉ」

 

 エンジンをストップさせ、全員で外の様子を見に行く。かなり凄惨な死に姿であるらしく、フランドールは見ない方が良いとして車に戻された。死体を好き好んで眺めたくはないので、彼らには悪いとも思うけれど、有り難い判断だった。

 非道な現場から、男勢で遺体を運ぶ。少し離れた所で再度下ろし、各々がスタンドを使い簡潔ではあるが墓穴を掘る。できることなら、生まれ故郷に亡骸を埋めてやりたいが、一行は先を急ぐ身だ。さらに、死体を故郷に送るといっても、それは全くもって容易ならざることだ。

 

 申し訳ないが、この砂漠に埋めることを許してくれ。膝をついて2人の後生に祈りを捧げるジョセフだったが、穴を掘り終えたポルナレフの指摘が事態を俄かに動かした。

 

「ジョースターさん。この2人、頭を()()()()()ぜ!」

 

「なんじゃと!」

 

「おれも頭を『打った』んだと思ったが、こいつはどうも違う。穴が空いてるな、直径は5cmあるかないかってところだ」

 

 ヘリコプターの落下によって死亡したとして、頭に穴が空くだろうか。よしんば尖ったものが刺さったとして、その尖ったものは何処へ行った。発見した時点で頭部に刺さっているか、2人のすぐ近くに落ちているはずの凶器は、しかし誰も見ていない。

 

「まさか9人の男女、という奴らでしょうか?」

 

「その可能性が高い。全員、周囲を警戒しろ!」

 

 不運な事故ではなく、狙われた故意の殺人である可能性が一気に浮上してきた。機内で2人が揉めた末の墜落ではないだろう、もしそうなら、2人ともの頭部が貫通されている理由を説明できない。まさか病的な愛を分かつ恋人のように、同時に鋭利な刃物を互いの頭に突き立てたわけでもあるまい。

 

 辺りを見渡すも、怪しい影は無い。一先ず近くに敵はいないと判断し、承太郎が慎重に死体へと近づく。他に何か、状況を推察できる証拠は残っていないか。極力体には触れないよう、ゆっくりと確実に探っていく中で、ふと口の端から漏れる液体を見つけた。

 

「水だ……口の中から、水だ」

 

「いや、この量……肺にまで溜まってそうだぜ」

 

 体を少し傾ければ、水筒から麦茶をこぼすように水が出てくる。次から次へと砂の中に染み込んでいき、粗方を排水し切るのに1分以上を要した。

 

「馬鹿な、何Lの水があればこうなるのかッ!」

 

「分からんが、こいつは確かに溺れ死んでいるぜ! この砂漠のど真ん中で……!」

 

 それは、あまりにも非現実的な現実だ。大雪原で焼死体が見つかったり、海の底で乾涸びたミイラが出土するようなものである。直接の死因かどうかは不明とはいえ、およそ周囲の環境に相応しくない死に様が、何処かに潜んでいるのであろう敵の異常さを静かに物語っている。

 

 血の匂いに誘われてか、体躯の大きな蛇がしるしると近づいてくる。だが近くに多数の人間を認め、ある程度の距離を保ったまま動こうとしない。舌を出して周囲の様子を探り、隙を伺う蛇を、フランドールだけが気に留めていた。折しも咲夜の視線は、鉄屑と化したヘリコプターに向いていた。

 

 だから気がつけた。チャンスは無いと見た蛇が撤退していくのを、そして住処へ戻る遥か手前で何かに切り裂かれたのを。

 刃物で斬ったというよりは、腕に付随する指の動きで切断したように見えた。蛇に勘づかれることなく暗殺を遂行した隠密者の姿は、まるで右手のようであった。当然、あんな生き物は砂漠どころか地球上隈無く探したって見つかるわけがない。

 

 敵が来た。そう認識すると同時に、手は再び姿を引っ込めて移動する。進路の先には、鳴り出したパイロットの腕時計を止めようと手を伸ばす承太郎が。

 

「承太郎! そこから離れて!」

 

「なに?」

 

「スタンドがそっちに向かってる!」

 

 はっ、と振り返り、そこには虫の如き機敏な動作の小さな水溜りが。音も無い急な襲撃に、一瞬の狼狽が生まれる。此度の敵は、その細かな隙を逃さない素早さに恵まれていた。

 スタープラチナを発現させ、パンチで迎撃するよりも一瞬だけ早く、指のうち1本が肩を掠める。ほんの僅か飛び散った鮮血は、妖しくも悍ましい色だけを砂に映し残す。

 

「ヌゥッ……」

 

「承太郎、こっちに!」

 

 追撃が来れば、避けられないかも知れない。咄嗟に車から飛び出したフランドールの意図を汲んでこその、付き人だ。何処からか繰り出した白銀の短刀を、目にも止まらないスピードで振り抜いた。

 衝撃波(ソニックブーム)。音速を超えた物体が生み出す膨大なエネルギーを、一人間がその身一つで体現できるとは考えられない。内在する力を刃の形に固めて飛ばした、と見るのが最も妥当である。彼女ならできるという盲目な信頼も、あながち間違ってはいないが。

 

 斬撃は飛んで、承太郎に迫る腕を斬り落とした。しかし表面は波打ち、あたかも水分の多いジェルを一刀両断したかのように、効果の程を実感させない反応を示す。第2波を撃ち込む前に、2つに分かれたそれぞれが砂に隠れて、その姿を完全に見失ってしまう。

 

「切られても行動は可能ってわけね。当然か、水っぽいしそもそも切れてないかも」

 

「水なら、アヴドゥルの炎で燃やすのはどうだろう?」

 

「名案じゃな。アヴドゥル、頼めるか」

 

「お任せを」

 

 マジシャンズレッドの炎は、空中で鉄の棒をどろどろに融解させるだけの熱量を有している。あのくらいの水、消すのに訳は無い。

 さっき、距離として最も近かったのは花京院だった。だが、敵が襲ったのはその向こうにいた承太郎。DIOと因縁の深いジョースターの血統を狙っていると考えられよう。ならばターゲットは、ジョセフか承太郎に絞られる。2人に固まっているよう指示し、出てきた所を燃やせるように待ち伏せる。

 

 だが、その予想を裏切って、次に現れた水は2人に見向きもしなかった。

 

「えっ、こっちに来るの!?」

 

 仰天しつつも寸前で躱し、やたらと足の取られる柔らかい砂の上で数歩限りのダンスを踊る。体勢を整えるのとほぼ同時に、今度は槍を模して突きを仕掛けてくる。間に割り込んだ咲夜が、ナイフで刺突を弾くも、まだ標的を変えるつもりはないらしい。

 

「目も無いのにやたらと追跡してくるわねっ」

 

 怒涛の攻撃だけでなく、反撃が全く通用しないという厄介な特性まで持ち合わせている。砂に引っ込んで、足元からでも攻めてこられるのは、面倒極まりない。しかもフランドール達の傍を離れないせいで、アヴドゥルによる燃焼作戦が使えないという要らないおまけ付きだ。せめて5秒止まってくれれば、水だけを蒸発させるくらいの器用さはあるけれど、1秒と同じ場所にいないから打つ手が無い。

 

 このまま終わりの無い攻防を続けていれば、いずれは劣勢になる。フランドールを抱え、大きく跳躍し莫大な砂の海を眼下に捉える。スタンドは特に見失ったと思しき挙動を見せず、先端は咲夜の胸を寸分違わず打ち貫く向きであった。

 何か策は、脳内で幾つもの失敗パターンを組み立て、やがてある記憶に至る。咲夜の友人が、かつて酒に酔いながら零した愚痴に近い独り言を思い出したのだ。

 

『雨を斬るには30年かかる』。推定50代の銀髪少女はそう言った。年齢からしてもう斬れるのかと問えば、是と答えた。あの時は半信半疑……いや、9割信じていなかったけれど、話の流れは切りたくなかったので一先ず方法を問うた。

 

『水を斬るんじゃなくて、その中に含まれてる水滴と水滴の間を斬るの』。確かそんなことを口にしていたと思う。要するに水分子の間を縫うように刃を動かせば、液体とて切断できないわけではない、ということだろう。情報元が情報元なので、信憑性には怪しいものがあるけれど、やるしかないのもまた事実。少し息を吸い込んで呼吸を止めて、瞬発的に発揮される極限の集中にて結合分離を期す。

 

 迎え撃つ心積りを決め、形状を手に戻したスタンドに、切り入れる直前だった。

 

「イギーが、吠えた?」

 

「見ろ! スタンドがイギーの方に!」

 

 低くも凛とした吠声が、刹那の邂逅を妨げる。こっちを向け、そう言わんばかりの挑発的な態度に応えてか、水は進路を変えてイギーを追う。

 直後に咲夜が着地し、危険が離れていくのを確認してからフランドールを地に下ろす。日傘がきちんと主を隠しきれているか、ちらりと目視して、それから砂漠の向こうに消えていく2つの影へ視線を移す。

 

 フランドールを助けたのだろうか。図々しくも彼女の膝の上を独占した生意気な犬だが、もしそうなら多少の気概はあるらしい。老いた珊瑚の微細な欠片に等しい、幽かな評価の上方修正をしてやった。



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第五十五話 ゲブ神 その③

《やれやれ。めんどくせーのに目ぇ付けられたってわけか》

 

 彼を襲う災難を、降って湧いたとは言えない。降らせてしまった結果、必然的に湧き上がってきた憂き目だ。互いのスタンドを駆使したデスレースにエントリーする気は、更々無かった。

 どうしてあそこで吠えてしまったのか、自分の甘っちょろさに反吐が出そうな気分だ。あの凍てつく氷のようなメイドは腹立たしいが腕は立つ、独力で切り抜けられただろうに。野良犬達の帝王として君臨していた頃なら、あんな失態は犯さなかったはずだ。

 

 不如意の後悔を胸にしまい込み、いつの間にか落ちてきていた高度を上昇させていく。自らのスタンド『ザ・フール』で宙を舞い、砂に足跡1つ残さない。尤も、空中を移動する理由は足跡の抹消ではない。

 あのスタンドが音を頼りにジョースターの一行や自分を襲撃していると、イギーはほぼ確信に近い推測を得ていた。最初は腕時計の鳴っているのに反応し、次は直前に大きな声を出していたフランドールへ向かったことを考えれば、自ずと導き出される結論だろう。

 

 敵は、並外れた聴力の持ち主というわけだ。驚きこそすれ否定はしない、だってイギー自身が人間など遥か後方に置き去りにできる嗅覚の保持者なのだから。同じ超人的な器官の所有者同士、寧ろちょっとしたシンパシーさえ感じなくもない。

 だからこそ、対策も思い描ける。自分がされたら嫌なことが、強く参考になってくれる。イギーの場合、それは大きく分けて2つ。ひとつ、全く匂いのしないものを用意されること。ひとつ、鋭い嗅覚を逆手に取られて強烈な刺激臭を嗅がされること。

 

 ザ・フールで飛行するイギーは、地面を歩く音と無縁だ。さらに羽ばたきもせず、ただ空気の流れに乗っているだけだから、飛行音さえ零に等しい。如何に素晴らしい耳を持っていようとも、彼の現在地を音だけで知るのは不可能と言って良いだろう。その証拠に敵のスタンドは、蛇行しながらスロー・スピードで彼に辛うじて追随している。

 大雑把な向きだけでも把握しているのが、寧ろ奴の聴力の脅威を雄弁に物語っている。まぐれではなく、明らかに『その辺りにいる』という確信を持って、イギーを朧気ながらに追跡している。もしザ・フールが飛べなかったら、そう考えると足の裏がむずむずと痒くなってくる。

 

《は? 何してんだあのでけーの》

 

 極めて静かに飛行するイギーの耳に、砂を掻き分けるような音が聞こえてくる。その音は瞬く間に大きくなり、スタンドが何かを仕掛けようとしているのではないと彼に容易に悟らせた。

 エンジン音だ、誰かが車を運転している。攻撃される前に敵の居所を突き止めたいのか知らないが、相手が車の速度くらいに追いつけないとでも見誤ったのか。追いつかれるわ攻撃されるわ、おまけに敵の所在も掴めないという愚行中の愚行である。

 

 何処の誰が勇気と無謀を履き違えた、運転席を確認してみると、そこには暑苦しそうな服に身を包む恵体の若者がいた。この砂漠の気候で、どうして全身しっかりと隠している彼が汗の一滴も垂らさないのか、不思議ではあったがそれ以上にイギーの注目を集約した箇所があった。

 承太郎が運転するバギーの後方から、スタンドが猛烈な勢いで追ってきている。バギーもかなり速度を出しているようだが、それでも振り切るには至らない。

 

《言わんこっちゃねー!》

 

 2者の距離は、じわじわと縮まっていく。そして、攻撃が後輪に届く位置まで詰められてしまった。まさか気がついていないはずもあるまい、どうする気かと趨勢を見守るも、承太郎は何らのリアクションを取ることも無い。そのまま鉄をも切断する鋭手が振り抜かれる。

 タイヤが破損して、まともな走行が不可能になる。そうなれば、承太郎は最早ただの大きな的だ。イギーにとっては敵に近づく時間を稼げるので有り難いが、それだけのために体を張ったなら、救えない阿呆と酷評を下すしかない。自身の安全を天秤に乗せるタイミング取りが下手な馬鹿を、勇者とは呼べない。

 

 だが、黙って低い評価に甘んじる程、承太郎は大人しくない。

 

《お、おぉ……? すげー運転だな、あの素早いのを躱してやがる》

 

 タイヤが切り裂かれて破壊される直前、大きくハンドルを切った。1トンを優に超える鉄の塊が、グリップの弱い表面を火花混じりに滑っていく。一見制御不能に陥ったようにも見えるが、ハンドルを取る承太郎の動きに焦りは無い。この暴走さえも、予定されていた結果の範囲内だと言わんばかりだ。

 バギーはイギーの真下で激しい演舞を繰り広げている。どうもややこしい状況だが、ともかくこれなら安全に近づけそうだ。運転技術だけであれを躱し切れるかは、また別問題だけど。

 

《いてっ、何だ砂か……ハッ!?》

 

 ぱらぱら、と頭に連続して小さな粒らしきものが当たる。砂漠の上空を滑空しているのだし、こういうこともあるかと納得しかけたが、見逃せない明らかな違和感がイギーの思考に閃く。

 空を舞うイギー()()()()砂が()()()()()はずがない。遥か天空に浮かぶ幻の砂漠でも無ければ、よしんば風に乗った砂が体に当たるとして、下か横からだ。

 

《これは潜水艦でいうソナー! 音を反響させて、おれの位置を探ってやがるんだッ!》

 

 登ってきた予感と悪寒が、イギーを即座に振り返らせる。矛先を変えたのではない、奴は相手取る数を増やしたのだ。迫る流体、先端はまるでミディアムレアのステーキを切るナイフのようで。思考を反射が上回るのに、須臾だけを消費した。

 人間以上の機敏さのお陰か、何とか直撃だけは免れた。だが、斬れ味鋭い水は掠っただけの彼の頬を一直線に斬る。痛みと驚きに上がりそうな声を堪えて、居場所を特定されないよう探知の圏外に出ていく。ソナー代わりの巻き上げられた砂も追ってくるが、こちらはスタンド本来の素早さを再現というわけにはいかないらしい。

 

《くそーッ、ジープの音もある中でどんな耳してやがる。おれの鼻より『きく』んじゃねーのか》

 

 じわりと滲む血に、心中舌打ちを1つ。この血がもし地面に滴り落ちるくらいのものだったら、そこから居場所を特定されていたのだろうか。有り得ないとは言い切れないし、これは勘に過ぎないが多分場所は割られていた。

 瞬間の判断力に救われたイギーだったが、彼の受難はまだ終わらない。一難去ってまた一難とは、昔の人間も上手く踏韻しつつ評したものである。

 

「イギー、こっちへ来な!」

 

《はァ~~~~ッ!? 頭パープリンかよおめーッ!》

 

 脱したとはいえ、まだ窮地は隣人の間柄に収まっている。そして、それは承太郎にも言えることである。今、事もあろうに、彼は施錠されているライオンの檻を開けた。

 束縛から解き放たれた猛獣が、まず初めに何をするか。決まっていよう、周囲の生き物に見境なく襲いかかる。或いは飢餓を逃れるために、また或いは何日も狭い場所で監禁されていた鬱憤を晴らすために。

 

「おい、イギー! さっさと来な、長くはじっとしてらんねーぜ……!」

 

《あぁもう分かった! 行ってやるよ、行くから声出すなデカバカ野郎ッ》

 

 承太郎に大声を出されると、近くを舞っているイギーにとっても大変都合が悪い。このまま居場所を高らかに唱え続けられるよりは、覚悟を決めて暫くぶりに砂を4本の足で踏む。時既に遅し、そんな気がしないでもないが、worst(最悪の事態)だけは回避できたと思っておきたい。

 

《で、何だよ……何でおれを掴んでるんだ?》

 

「ここからなら届くぜ」

 

《何が? おい待て何が何処に届くってんだ。その投擲みてーな姿勢は何だ》

 

「ちと風が強いだろーから、舌を噛むんじゃねーぜ」

 

 かくして承太郎と合流したイギーだったが、するや否やスタープラチナが彼をがしっと鷲掴みにした。そこから右手を大きく振りかぶり、左足を上げて上半身を真横に捻る。メジャーリーグでここ最近注目の集まっている独特な投法の投手、ヒデオ・ノモが丁度こんな投げ方をしていたと思うけれど、いやだから何だ、球界の麒麟児を真似たって()()を許す理由にはならないだろう。

 

 ここで諸兄に問う。野球選手が投げるのはボールだが、この場合のスタープラチナが投げるものとは。

 

「──オラァッ!」

 

《このクソカスが────ッ!》

 

 ……そういうことである。



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第五十六話 ゲブ神 その④

 勇気、波紋。頭に浮かんでくるそんな言葉達に、首を傾げても関連性は浮かんでこない。

 フランドールの脳内に巣食う、誰のかも分からない記憶の断片。燃え盛る炎、向かい合う男、全て彼女のものではない。彼女は、何も知らない。

 

 思い出す度に、頭の奥がちりちりと痛む。復元を待つ再誕の卵は、未だ孵化を見ない。

 

 全て思い出せたら、この混沌めいた不快感を散らせそうな気がして。蓋しそれは先のことで。

 

 奇妙な冒険は、まだ続く。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

《おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉッ!?》

 

 風を切り裂き飛翔する、犬。まるで獲物を見つけて加速する鷹のように、一直線に翔ぶ、犬。どうも信じ難い光景だ、世の中に犬種の多しと雖も、未だかつて犬が生身で空を飛んだことはない。

 

《今おれ、流れ星みてーになってんのかな……》

 

 スタープラチナによる投擲が、イギーにひとときの高速飛翔を体験させる。風を受けて漂うのとは比較にもならない、頬がぺったりと潰される感覚に湧き上がるのは怒りか嘔吐きか。人間だろうが犬だろうが、許容限界を置き去りにする速度を生身で受ければ気は遠くなるし吐き気も催す。生物としての常識に苦しめられながら、彼の脳裏にぼんやりと走馬灯が浮かぶ。

 

 あぁ、向こうに残してきた仲間達は元気にしているだろうか。かつてイギーが君臨していた野良犬グループの幹部勢は、彼にとって特に思い入れの深い面々だ。対外的にも、そして味方にも冷酷な面ばかり見せてきたけれど、それでも仲間を思いやる気持ちまで捨て去ってはいなかったと自負している。

 何と言うか、彼らといるとボスとしての重圧が和らぐようだった。右腕としていつも助けてくれたヨハン、狂気撒血の斬り込み隊長ジョニー、お調子者だが仲間思いの熱血漢クレイ、そして唯一惚れた腫れたを意識させられたシモナ。皆本当に良い仲間だった。

 

《……ん?》

 

 ──拝啓、かつての仲間達へ。ボスは今、日本とかいう東洋の()()()な島国出身の若造に投げられている。ジョニー、助けてくれ。おれの目に急速で迫る敵スタンドを、自慢の牙で噛み砕いてくれ。

 

《あッ……ぶねぇーな!?》

 

 通じるはずのない願いに縋りながらも、やはりイギーは何処か現実的であった。自らもザ・フールを出して防御の姿勢を取り、衝突ダメージを最小限に抑える構えだ。敵も戯けではなく、水を周囲に展開して同じく防御態勢を固めている。両者ともに堅実な選択肢を取った時点で、進展が至って簡潔なものとなるのは必定であった。

 

《こいつがさっきから襲ってくる奴か。あのクソ東洋人諸共髪を毟ってやりてーぜ》

 

 イギーも襲撃者も、ほぼ痛み無し分けで次の展開へと進む。接敵した以上、互いに無視するわけにはいかず、自ずと次なる一手を打つ。

 

「さっきので承太郎を見失ったか……ならば犬から仕留めるのみ!」

 

《来やがるなッ!》

 

 迷いの無い、機敏な判断だ。経験上肌で分かる、この男は慣れている。多人数を相手にする殺し合いに、そして殺しそのものに。単純に能力の秀でた輩よりも、自らに迷わないという要素は厄介極まりないのだ。

 

《確かに速い、しかもスタンドが水と砂だ。相性ははっきり言って最悪だろーよ》

 

 こうした相手を制する手段はたった1つ。即ち、より早く迷いなき判断を下すしかない。ほんの須臾の逡巡が隙を生み、それはすぐさま致命的なバッド・フィードバックとして津波の如く襲い来る。血と肉脂で体を洗う世界に身を置いていれば、誰に習うでもなく知る一種の真理だ。

 

《だが甘めェー! おまえそんだけ耳が良いんならよ》

 

 スタンドに追われる少女を助けるため、咄嗟に吠えた。その後で深く深く後悔したのは事実だ。しかし、冷静さと機転を失ってはいなかった。一気に不利になった状況を覆す策を、イギーは忘れていかなかった。

 

 ぱぁん。乾いた破裂音が莫大なる砂の海を揺らす。リード・バレットは瞬きするより早く虚空に消えていき、音だけが鼓膜を縦横無尽に駆け巡り波紋を創る。

 

「なッ、なにィーッ!」

 

《この距離で爆音聞いたら、シャレになんねーよなァ!》

 

 イギーの効き()()()鼻も、狙われることがあった。慢心から招いた最悪のピンチを、今でも鮮明に記憶している。僅かに1器官を封じられただけで、ああも脆く弱くなるとは想像できなかった。思い出すだけで、体毛に隠された首元がじくりと痛む。

 長所も過ぎれば弱点となる。こんな当たり前のことを、言われなければ気がつけない者の何と多いことか。イギー自身、その身に刻まれた苦々しい記憶が荒っぽく教えてくれた立場にいる。

 

《ちくしょう、思ってた以上に足が痛むな。やっぱり犬が銃なんて撃つもんじゃねーぜ。だが》

 

「く、くそッ! 何も聞こえんだとッ!?」

 

《ビンゴォ! えげつねー聴力が仇になったな地獄耳野郎ッ》

 

 至近距離での、消音器(サイレンサー)無しでの発砲。敵の強烈な利点を、逆に付け入るチャンスと扱うには並々ならぬ度胸が必要だった。まるで昔を思い出したかのように、久方ぶりに体が緊張に打ち震えた。だが、イギーは乾坤一擲の一瞬を制した。

 ここまで聴覚に頼るということは、目が不自由な可能性がある。もしこの予想が当たっているなら、耳さえ潰してしまえば戦況はあっという間にこちらのものだ。懸念事項は拳銃の音で本当に耳の機能を妨げられるのか、そして敵の目が如何程に不自由であるかの2点に絞られていた。

 

 結果として、発砲音は敵の刀を折るに充分であったし、鉄さえ斬る刀の代償は相応に払っていた。完全に賭けだった、歯車が1つ狂えばイギーは砂上の熱く冷たい骸として転がっていたかも知れないのだ。自身の歯車調節技術を、今だけは手放しに褒めてやりたい気分だった。

 

《さーて、奴がまたスタンドで周囲をカバーし出す前に仕留めっか》

 

「──オラァッ!」

 

「ゲフッ……!」

 

《ハァ────────ッ!?》

 

 ザ・フールは高い変幻自在性と引き換えにするように、攻撃力を大幅に諦めたスタンドだ。多分、人間が本気で拳を振るった方がまだしもダメージは与えられるだろう。だから決定打を食らわせる時、彼は自らの体を相手に踊らせてきた。翻弄し疲弊させるスタンドと攻め込む本体、分業が肝要であると痛い程に学んできた。

 

 だが、承太郎が学びの成果を発揮する晴れ舞台を粉々に破壊してしまった。例えるなら、そうだ、海で苦労して鮪を釣り、さぁ捌いて食べようと思ったら寿司がデリバリーされてきたようなものだ。絶対に許せない、マハトマ・ガンジーでも憎しみの鉄拳で顔面を陥没させること請け合いである。

 

《おいクソデカブツ!! おまえ、おまえ何してッ》

 

「イギーを投げる、ってのは我ながら良案だったぜ。お陰で隙を作れた」

 

《喉元噛みちぎってやろーかてめーッ!》

 

 図らずも漁夫の利を取られた形となった。到底許せる行為ではなく、睨みも露わに刺々しい視線を承太郎にぶつける。遠慮も何も無い裂帛の視線に、だが勇気の血統を継ぐ男は怯みもしない。

 

「あん? イギーてめぇ、何睨んでやがる」

 

《誰でも睨むわド阿呆が! おれの手柄返せや極小ヘニャチン野郎!》

 

「怒ってるってことか。悪かった、いきなり投げたのは謝るぜ。とは言っても、人間の言葉なんて分かんねーか」

 

 それもサボテンで頭を打って死んでほしいレベルの案件だが、だがもっと、更に重要なことがある。そこだけでも回避できていたら、彼がここまで烈火の如く怒りをばら撒くことはなかっただろうに、承太郎は半分以上見えていた地雷を勢い良く踏み抜いてしまったのだ。

 

 殴り飛ばされた男は、口から血が流れ出ている。あの一撃で内臓が激しく損傷したらしい。小刻みに震え、意識があるかも怪しい状態だ。

 決着をつけたのがイギーか承太郎か、終盤だけを目撃した第三者がジャッジするなら、前者の手が上がる可能性は低い。さんざ場を引っ掻き回しておいてそれは無いだろう。許される限り理不尽を嘆き続けたかった。

 

 視界の端で、微かに動くものがあった。怒りは万丈でも注意力は散漫になっていない、すぐさま倒れ伏す男に向き直る。咳き込み血を吐き出しながら、しかし未だ正確に操られる液体の矛先は、彼を追い詰める1人と1匹のいずれでもない。

 男の操作に躊躇いは感じない。まるでそれが元より用意されていた最後の手段であるかの如く、濁った液体は惑いなく対象()へと迫っていく。その攻撃は絶対に外れない、何故なら標的はもう立ち上がり避ける気力さえ残っていないのだから。

 

《ちょ……ちょ、待て待て!》

 

 もう使わないで良いと思っていたザ・フールを、急遽再招集する。まともに受け止めればイギーの方がやられかねないので、水の側面を足で蹴って軌道を男から逸らす。砂を穿ち消えたスタンドは、数秒経っても現れなかった。

 

「な、何故止める……犬」

 

《いきなり目の前の奴が自殺始めたらそりゃ止めるだろーが! ここにはノータリンのパッパラパーしかいないのかよ!?》

 

 別に聖人でなくたって、余計な血が撒き散らされるのは気が滅入る。それが例え襲ってきた刺客のものでも、見ないで済むなら見ないでいたい。食卓が血塗れで食欲の湧く人間はほぼいないはずだが、全く同じことである。

 

「ジョセフは……おれの考えまで読み取るかも知れん……このンドゥール、DIO様に不利になることを、話すわけには」

 

《んなもんキョーミねーんだわおれッ! 死ぬなら俺の見てねーとこで死んでくれや、寝覚め悪いどころじゃなくなるぜ》

 

 イギーの教義からして、目の前で生き物に死なれるのは到底許容し難い。だって、まさに死ぬ瞬間を目の当たりにすれば、暫くは脳裏にこびりついて忘れられなくなってしまう。ふとした時に思い出すのは、シモナの綺麗な笑顔だけで充分だ。

 だから自殺を止めた。助けたつもりは無い。照れ隠しでも謙虚さの発揮でもなく、彼は装飾できない程に利己を重視してンドゥールが自ら命を絶つのを妨げた。

 

「イギー……おまえ」

 

《何だよ、何か文句あっか。おれにはおれのやり方ってもんがある、ケチつけるんならタマ噛み切るぜ!》

 

「意外だぜ、骨のある野郎だったとはな」

 

《……んん?》

 

 何もしなければ、敵は勝手に自滅していた。意外な形とはいえ、難敵を危険無く葬ることができる千載一遇の大チャンスを、言ってみればイギーはふいにした。承太郎は詰ってくるかも知れない、分かってはいたがそんなものは己の精神の前に無力。彼は自身の気が向くままに行動し、何者にも縛られず生きていくだけだ。ちっぽけな国の少年が怒りを顕わにしたところで、だから何だと言うのか。

 さぁ怒ってこい、おれの怒りはそんなものじゃあない程に積もり積もっているぞ。準備を万端に整えて迎えた言葉は、想定していたいずれの罵倒も含んでいなかった。『バカ』『阿呆』『クソ犬』は確実に入ってくると読んでいたのだが、当てが外れた。

 

「おい。てめーをあと2、3発殴ってでも仲間のことを吐かせようと思ってたが、気が変わった。てめーのスタンドについてだけ教えな、それで勘弁してやるぜ」

 

「なに、を」

 

「てめーからは読み取らん。じじいにはおれから言っといてやる……」

 

「おれを、生かす気か。正気を失いでもしたか、承太郎!」

 

「おれはまともなつもりだ。……なに、おめーの見上げた愚直さと、イギーの意外な男気に免じるってやつだぜ」

 

 何言ってるんだこいつ。足で体を掻きながら、退屈そうに2人を眺める。何を言い出すかと思えば、所謂センチメンタルというやつだ。人間はやれ心を動かされたと言って敵に情けをかける。イギーからすればちゃんちゃら可笑しくて仕方がない、敵に情けをかける馬鹿があるか。彼も相対した同種を見逃したことはあるが、それは向かい合ったのが敵ではないからだ。

 1度敵と見定めた相手を、人間はどうして情に絆されて甘く扱うのか。文化、人情なんて言葉で誤魔化したって丸分かりだ、人間は甘っちょろくない。甘っちょろく()()ない。それ以前に、生物として致命的な欠陥を有した、自称生物会の頂点に過ぎない。

 

「変わった男だ」

 

「言われたかねーな」

 

「……承太郎。おまえはDIO様の敵、つまりおれの敵だ。それは何処まで行っても同じよ」

 

 冷めた様子のイギーを他所に、承太郎とンドゥールの視線がぶつかる。火花を散らすような熱さは無く、しかし体を滾らせる不思議な熱を帯びた視線が、2人の男を突き動かす。

 

「だが、あくまで個人としておまえを評するならば、低いものではそぐわない」

 

「……」

 

「『ゲブ神』。おれのスタンドの名だ。タロットに詳しいやつ……アウドゥル辺りか、聞いてみれば見えてくるものもあろう」

 

 この瞬間、男達は互いを認め合った。敗者は勝者に報酬を与え、勝者はそれを謹んで受け取った。どちらかにならなければ決して理解できない、言語と非言語による賞賛の交換。『人間性』に惚れ合ってこそ成立する特異なコミュニケーションは、だからこそ彼らにのみ許された特権のようなものなのだろう。

 

「これは敬意だ。空条 承太郎という人間への、おれが向けられる最大限の敬意だ」

 

「そうかい」

 

 もしンドゥールがDIOより早くジョースターの一行と出会っていたら、もしかすれば仲間に加わっていたかも知れない。奇妙なシンパシーを感じずにはいられない。あまりに愚直で、一本柱の通った男であった。

 地に伏すンドゥールに背を向けて歩き出す。向こうからジョセフ達が駆け寄ってきている。話を通すのは骨が折れようが、男の約束は反故にできない。帽子を深く被り直して、6人の到着を待った。



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第五十七話 pillar その①

「もう砂漠を抜けるぞ」

 

 水を操るスタンド使い、ンドゥールを撃破して、一行はなおも砂漠を突き進む。視線の先にはまだ小さいが灰色の建物群が揺らめきながら浮かんでおり、暑い砂上の旅には終わりが見えてきていた。

 8人乗りのジープに乗るのは、名目上6人と1体と1匹──正確には7人と1匹だが──だ。乗車定員的に丁度であり、開放感も閉塞感も感じないといったところか。

 

「……」

 

「どうかした?」

 

「強いエネルギーを感じました」

 

 車内では、イギーとポルナレフがじゃれ合っていた。指を噛まれ、目の端に涙を浮かべるポルナレフについて喜んでいると仮定するなら、間違いなく彼らはじゃれ合っていた。お調子者と一匹狼気質の秀犬、中々良いコンビで結構ではないか。少々仲が悪いのが、唯一の難点である。

 どたんばたんと騒がしい車内の中では、そう簡単には眠れない。目を閉じている承太郎も、意識ははっきりと持っていた。ちらりとポルナレフ達の方を一瞥して、やれやれと再び瞼の帳を下ろす。咲夜が妙な気配を察知したのは、そんな喧騒の雰囲気の中であった。

 

「スタンド使いか!」

 

「おいおい、連続で襲ってくるのは反則じゃねぇのーッ!?」

 

「気が付かれる前に抜けてしまうのが吉じゃろうて。全員舌を噛むなよ、飛ばすからの」

 

 必ずしも戦わなければならない、ということもない。躱せる戦闘があるなら、遠慮なく恩恵に与っていくべきだ。無駄な消耗は避けられるだけラッキーだし、余計な戦いをこなせば大怪我のリスクは増大する。

 賢明な判断を下したジョセフが、アクセルの踏み込みを強める。多人数を乗せてもそこはジープ、力強い駆動で順調に速度を上げていく。やがて速度計の指し示す数字が3桁の足元を捉え、より一層の唸りが喧騒に拍車をかける。

 

「ジョセフ。恐らくスタンド()()()()と思うわ」

 

「なに?」

 

「生命エネルギーそのものが、人間とは桁違いなの」

 

 そもそもこれが人間の気配なのか、甚だ疑問でさえあるわ。淀みなく言い切ったその台詞は、大きな建前を隠している。一見おかしな所は無いように聞こえる台詞だ、ノーヒントで見つけるのは不可能に近い。

 咲夜はこの存在が人間でないと確信している。根拠など自分の感覚だけで充分だ。人でないものたちの気配になんて、何十何百と晒されてきた。そんな彼女は、濃く漂う人外の匂いに疎くはいられない。

 

「人間じゃないって、このダメ犬みだだだだだァッ!!」

 

「何をしてるんだ……。あー、ザ・ワールド、それは動物という意味かい?」

 

「いいえ。明らかに生物分類を逸脱した、人間よりも遥か上の存在と評するべきではないかしら」

 

「人間より遥か上、か。済まないけどいまいち想像できないな、もう少し詳しく頼む」

 

 人間の領域を超えたとなると、神とか仏とかの次元なのか。確か神を宿した人間のことを現人神というらしいが、或いはそうした半神的なものかも知れない。花京院は基本的に現実主義者なので、見えないものはいないと思っているが、一方でいた時の世界がどうなるかは興味がある。

 つまり、メイドの評を非現実的な戯言だと嘲笑う思考には至らない。咲夜にも花京院の純粋な疑問は伝わっている。やや考えて、端的かつ上手く言い表せる言葉を模索した。

 

「物の怪」

 

「……成程。少し掴めたよ、つまりそいつは友好的ではなさそうなんだね」

 

「そうね。ついでに言うと、私達は()()()()()()()()()()わ」

 

「いやそれを先に言うべきじゃねーのッ!」

 

 意識には向きがある。ベクトル、と表現しても間違ってはいないはずだ。何も達人の域に達しなければ悟れないものでもなく、例えば誰かに見られているようなあの感覚は、半ば以上無意識のうちに自分に向く意識を感受しているのである。

『気配に敏感な人』は人間が誰しも有するこの受信能力を、大幅に発展させている。抽出して簡単に言えば、周囲の意識の向きを把握できる。それが例え自分を指していなくたって、探知の網は細かくて漏れ落ちをそうそう許しはしない。

 

「訳分からんのがおれたちを補足してるんだろ? だったらよ、先制攻撃ってやつをかけた方が良いんでねーの?」

 

「全くありえない手段ではないわね。でも私は反対よ」

 

「えっ、そりゃ何でだ。敵らしきやつがいるんなら、やられる前にやらねーと」

 

「さっきも言ったけれど、謎の存在は大きなエネルギーを身に溜め込んでいるわ。こちらに気がつかれている以上奇襲は通用しないでしょうし、だからって真っ向から張り合えば、それ相応の危険が伴う」

 

 人間離れした特技に、咲夜はさらに進んだアップデートを施している。一定範囲内にいる生物の保有するエネルギー量までもが、彼女の知覚の対象となる。

 原則として長く生きればその分蓄積されていき、量の多少は発揮できるパワーに凡そ比例する。無論例外は山程あり、技術や戦術で力の差を補えることは論を俟たない。特に人間の場合、40年や50年など生命エネルギーの貯蓄の観点から見ればほんの些細な誤差であり、故に肉体が最盛期を迎える20代が最も高い身体能力を発揮できるのだ。

 

 しかし、明らかに人間の範疇を突き抜けた怪物がこの世には実在している。奴らは華奢な服を着て食事を嗜み、なんてこともないみたいに拳で地を割る。咲夜が嫌という程に見てきた光景だ。

 咲夜のように天性の才能を腐らせずに磨き上げたならともかく、至って普通に生きてきた人間では、1000人いたってあんな桁外れ共を倒せやしない。全員が鋼鉄で武装したって、かすり傷1つ付けられるかどうかの勝負になるだろう。……今こうして一行の注目を集める未確認生命体は、まさに化け物の中でも上位に位置するエネルギーの持ち主だ。

 

「ザ・ワールド。おめーの時止め、まだ厳しいのか」

 

「申し訳ないわ。まだ使用に耐える安定が戻ってないの」

 

 エジプト上陸を目前に控え、咲夜の時間停止能力は突如原因不明の不調を起こした。主たるフランドールの意識混濁とほぼ時を同じくしており、何らかの関係が推測されはするが、未だ彼女の中でも推測の域を出ない。

 

 現在彼女の能力は小康状態であり、10秒程度の時間停止が可能だ。上陸してから初めての夜に異能の調子を測っており、そこで確認は済んでいる。だが、消費する体力量が異常なまでに跳ね上がっていた。

 たった1度時を止めただけで、体全体を激しい疲労が襲った。指先が震えて、思わず膝に手をつきそうになった。夜闇に消えた呼吸は早く浅く、体内の酸素が不足しているのが鮮明に実感された。この異常事態を受けて、咲夜は今暫くのタイム・ストップ禁止を己に課している。

 

「じじい、急ぐのが良さそうだぜ。ザ・ワールドがここまで警戒するってのは、普通じゃねー」

 

「わしもそう思っておったところよ。案ずるな、とうに100キロを超えておる」

 

 砂埃を上げて疾走するジープには、豹であっても追いつきようもない。不穏な気配はこの砂上で撒いて、暫しの安全な旅を享受するのが最上の策だろう。

 実際に戦っても、それどころか姿を見てすらいないのに、中々に強くその存在を脳裏に刻みつけてきた。もし矛を交えればどうなるか分からない、ザ・ワールド(おっかないメイド)の分析は過剰評価か適切か。スタープラチナにマジシャンズレッド、そして彼のチャリオッツという戦闘向きのスタンドがいるのだから、案外そこまでの苦戦もなく倒せそうな気はしている。

 

 もしかしたら、去り際に外見の一つくらい拝ませてくれるかも知れない。良い女だったら、ちょっとした目の保養にもなる。淡桃の期待を抱きつつ、ペットボトルを傾けながらふと普遍的な視力で振り返る。

 

 まさか、そんな。飲んでいた水を噴き出さなかったのは、奇跡に近い。

 

「なにぃィーッ!」

 

「走っている! 走って車に追いつこうとッ!」

 

 新品らしく物映りの良い大きなバックミラーが、あまりにも異常な光景をはっきりと車内へ届けている。間違いなく110km/h以上の高速領域を指しているスピードメーター、だというのに車と男の距離は広がるどころか縮まるばかりだ。

 幻覚だと思いたい。だが、車内にいる全員が同時に同じ幻覚を見るなんてことがあるはずもない。疑いたい、疑わなければならない瞞しのようなものが、恐ろしいまでの速度で一行へと迫り来る。

 

 息のひとつも切らしていない。近づくにつれて、男の表情もはっきりと見えるようになってくる。棚の上のブルーベリージャムを取るみたいに、ごく平然とした顔で、生物界の最高速度に肉薄を続ける。ぞわり、背筋の震えを抑えられなかった。

 

「ジョセフ、減速して。このスピードでなお相手は私達より速い、こんな速度のまま襲われたら余計に危険よ」

 

「一理あるのぉッ」

 

 咲夜の判断に、体が瞬時に反応する。踏み込まれたブレーキペダルが慣性に強烈な待ったをかけ、その影響をもろに受けた車体がスリップする。極めて高得点の4回転サルコウを決めて、しかしそこで止まりきれずに、さらなる半周を加えてようやく停止に成功した。

 

「ぬッ……ッ」

 

「ポルナレフ、大丈夫か」

 

「くっ……平気だぜ」

 

 ほぼフルスロットルからの急停車だったが、惚けている暇は無い。後ろからやってくる服を着た異常に、全員で対応しなければいけない。あのイギーでさえも、乱暴な運転に目くじらを立てることなく警戒を顕わに真正面を睨みつける。

 

 黒いローブに身を包み、男は悠然と立っていた。周囲を力で屈服させるような、まるで捩じ伏せるかの如き不思議な圧力は、貫禄と称するのが最も近いのだろう。覇気と呼ぶにはあまりに黒い。

 

「何者だ……おめー」

 

「ふむ。良い、素晴らしいな」

 

「答える気は無いってわけか」

 

 承太郎の静かな問いに、男は答えず一行を見渡す。一頻り眺め終えて、満足したように頷く顔面に、岩をも砕く拳が突き刺さった。

 問答無用(話にならない)。そう判断したのか、スタープラチナを繰り出すのに迷いは無かった。防御をしない男を、手加減無しのラッシュで畳み掛ける。体に降り注ぐ幾撃もの拳を、しかし男は無感動な瞳でぼんやりと捉えるに過ぎなかった。

 

 どぷん、とスタープラチナの腕までが男にめり込んだ。肉を千切りながら突き破ったわけではなく、あたかも嚥下するように滑らかな動作だった。さしもの承太郎もぎょっとした表情を制御できず、狼狽したように短く鋭い息を吐く。引き抜こうにも完全に嵌り込んでいるようで、力ずくではどうともなりそうにない。

 

「な、何だぁあれは~~~~ッ!?」

 

「めり込んでいるッ! 体の中に、まるで食われているみたいだッ!」

 

「承太郎、スタンドを消せッ!」

 

 只ならぬ事態へ、人間としては驚異的短時間で向き合う覚悟を決めた。すぐにスタンドを消して、自分の体に何か悪影響が出ていないかを確認する。何処も怪我はしておらず、イエローテンパランスの時よろしく訳の分からないものを付けられていたりといったこともない。

 

 散弾銃の如きスタープラチナの連撃を受けた男の肉体には、一片の傷も刻まれていない。怒涛の無慈悲な衝撃に為す術なく破れたローブが男の腕に光を届け、それを歓迎しているようには感じられない。露出した部分の体色が、鉄分を多く含んだ岩のように変色していく。太陽光を反射しやすい黒の衣で身を隠していたのは、単なる悪趣味で暑苦しいファッションではないというわけか。

 

「……何だ? 食えない、不思議な奴め」

 

 首を傾げる男から、目を離せない。どう考えたって人間の生身だけでは成し遂げられないにも関わらず、誰もスタンドの姿を見ていない。そんな中でジョセフは、ただ1人奇妙な違和感を抱いていた。

 

 誰かが何処かで、似たことをしていたように思える。いや、それどころか()()()()()()()()()()()()()()。狙い通りだったとはいえ、あのぞっとする博打は二度と打ちたくはないと切に願った。無知は勇気なり、まさしくその通りだ。

 

 1つ思い出せば、あとは雷のような閃きが連鎖的に続き重なっていった。奴と会ったのはたった1度、場所は第二次世界大戦期のドイツ軍基地の地下。そこで経験したのは、初めての対怪物戦闘だ。50年前にジョセフ達が織り成した、誇張抜きに世界の覇権を賭けた大激戦の序章を、例え半世紀経とうとも忘れることはできない。

 

()()()。……()()()()()()ッ」

 

「わたしを知っているのか、老いぼれ」

 

 あの時辛くも封じた邪悪が、今になって地獄から舞い戻ってきた。科学の力で阻止していた復活がどうして制止の手を振り切ったのか、脂汗が全身から滲む。

 人間と向かい合っているとは思えない、冷たく凍った瞳。当然だ、奴は人間ではない。パワー型スタンドの猛ラッシュをも無効化する肉体。当然だ、承太郎はかの呼吸法を教わっていない。

 

「50年前、おまえを石に戻した」

 

 声が震える。異様と形容すべき生への執着は、未だジョセフの記憶に爪痕を残す。男と同じ種族で、かつより強大な面々を撃破したが、こうも恐ろしいと怖気付いたことはなかった。膝を笑わせながら答える彼に、寄越された視線は漸く僅かばかりの興味を含有していた。



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第五十八話 pillar その②

「50年前……きさま、ジョジョか」

 

 こんな所で再び会うとは、奇妙な縁だ。くつくつと、静かに男は笑う。対してジョセフの表情は、石のように硬い。

 

「何故蘇っておる。おまえが復活する可能性など、万に一つも無かったはず!」

 

「わたしを復活させた者がいる。DIOとかいう吸血鬼だ、きさまなら知っているか?」

 

 DIO。その名が男の口から出てくるのは、意外な程に意外でなかった。世界を脅かさんとする巨悪と同時に特級の危険生物が復活するなんて偶然に、そうそう納得できはしない。

 考えられる範囲を完全に超越した、誤魔化しようもない最悪の事態が現実になってしまった。ジョセフをして外面も無く狼狽の様子を曝ける。祖父が命と引き換えに100年の封印を施した吸血鬼を、彼はよく知っているわけでもない。だが……いや、だからこそと言うべきか、男をともすればDIO以上の脅威と恐れる。

 

「おいジョースターさん! ちょいと待ってくれ、吸血鬼ってどういう」

 

「奴の正体じゃ。DIOは吸血鬼、人間を遥かに超えた身体能力と異常な再生力を有する化け物ッ!」

 

「は……はぁ!?」

 

 生物界の頂点は人間ではない。種として明らかに人間が後塵を拝するものが、最低でも2つある。そのうちの1つが、吸血鬼という種族である。

 大別すれば、フランドールのように先天的なものと後天的なものに分けられる。では後天的に吸血鬼『になる』だなんてことが可能なのかというところに疑問が移るわけだが、結論を言えば可能である。種の壁を越えるためのツールが、この世界には幾つか存在している。但し変化は一方通行、効果が発動したが最後、最早人の身に戻れないが。

 

 DIOとて、生まれついての吸血鬼ではない。古代の秘具を利用して、人から化け物に成ったという経歴を持つ。無論人間が進んで怪物と化す理由は無く、そこには第三者の意図が混在していたわけだが、その第三者こそが男の分類される種族となるのだ。

 そいつらは、吸血鬼を喰う。何故なら、吸血鬼は内包しているエネルギー量が多いからだ。言ってしまえば、高スペックな肉体(ハード)を動かすためのカロリー(ソフト)を求めているのである。人外が人外を喰う、あまりにも狂気的で気を違えそうな──。

 

 違和感が、剃刀めいてジョセフの脳裏を掠める。確かにあの場所で休止状態(スリープモード)に留め置かれていた男、DIOとの関連性。事実が生み出す微かな疑問を見逃せない。

 

「あれは美味そうだったのでなァ。隙を見て喰うつもりだが、全く何処へ行ったのか」

 

「待て。SPW財団にDIOが侵入し、きさまを蘇らせた……だと。そうじゃ、財団の職員はどうしたッ」

 

「しかしもう数ヶ月は姿を見ていないな。よもや何処かで野垂れ死んでいるのではあるまいな」

 

「質問に答えろッ!」

 

 彼らしくない、荒ぶった怒声だった。想像してしまう凄惨な結末が、現実に貼り出され得るからこその、焦燥に満ちた苦しげな叫びであった。男の言葉を信じるなら、祖父以来の大敵に復活『させられた』ことになる。その方法はたった1つ、男の弱点である太陽光を模した紫外線の照射を止めるのみ。

 当然、財団としてもそれを見逃すわけにはいかない。あの時代よりも発展した科学の力で、撃退を試みただろう。……凡人を素体にした吸血鬼なら、充分に圧倒できるだけの技術を駆使して、しかし相手は狡猾な暴帝で。さらに悪いことに、再生した男は吸血鬼さえ超越した祟り神の如き存在で。

 

「当然ながら不味かったぞ」

 

 ……ぷつん、と張り詰めた糸が切れたような音を聞けたのは、承太郎が彼と血の繋がった孫だからか。

 

「きさまァッ!!」

 

「じじい、待て」

 

「止めるな承太郎、わしはこいつを許すわけにはいかん!」

 

「おれも血の上ってるあんたを放ってはおけねーんだ」

 

 ヘリコプターで物資を届けてくれた彼らは、彼らに配慮して真実を隠してくれたのだろう。ジョセフにとっては幼い頃世話になった恩人の築き上げた組織だ、そこが襲撃されて痛手を負ったとは言い難い。

 ジョセフ・ジョースターには伝えるな。きっと財団の上層部がそう判断したはずだ。旅の余計な重荷になりたくない、その勇気ある意志は尊重しなければならない。

 

「あんたとヤツの間に何があったのかは知らん。だがちょいと危険過ぎるぜ、能力の底が知れねぇ」

 

「おれも承太郎に賛成だ。喰うだの吸血鬼だの、ありえねー単語が出過ぎて理解が追いついてねーんだよ」

 

 これまで戦ってきたどんなスタンド使いとも一線を画する異様さに、アヴドゥルや花京院は先手を取れないでいる。咲夜もフランドールの前に進み出て、主人を守護する忠獣の眼光を光らせる。

 分からない、それは恐怖を生む母体である。咲夜が知る者の中にも、未知への恐怖を糧にする少女がいる。何でもその昔、日本の古代首都である京の都を壊滅寸前にまで追い込んだ極悪人だそうだが、そんな彼女曰くは次のようであった。

 

 ──『未知其れ脅威也』。賽も盤も見えない双六を、正しく動かすのは不可能でしょう。

 

 今思い出した言葉の重みを、改めて実感していた。攻めにくいどころか、攻められない。判明しているのは超人的な身体能力と捕食のような吸収行為のみで、まだ何本の刃を隠し持っているか検討もつかない。

 

「激情家なのは相変わらずだなぁ、ジョジョ。そんなのでよくあの傑物たちを倒したものだ」

 

「あやつらは強かったよ。きさまとは大違いじゃった」

 

「そうだろうな。あの3人は、我々の中でも常軌を逸していた」

 

 過去に如何なる因縁があったのか、その時代を生きていない者に分かるはずもない。語り継がれもしなかった激戦の証人達は、不可視のプレッシャーで他を圧する。承太郎が制止に入ったから辛うじて緊張状態に留まっているだけで、もう1つ何か決定的な亀裂が入れば瓦解する程度の壁でしかない。

 

「そんな化け物共を、わたしも含めれば4人倒したのだろう。それが老いさらばえたものよ、僅か50年程度の間に。……後ろのそれは孫というやつか?」

 

「ッ、承太郎がどうした」

 

「中々面白い技を使ってきただろう。波紋ではない故にわたしには効かないが、わたしもまたあれを消化できなかった」

 

 男の言葉に、承太郎への敵意は無い。そこにあったのは、単純な興味。奇しくも男が初めて波紋を目の当たりにした時と全く同じ反応であった。

 思うにスタンドは()()エネルギーの具現したものであるから、吸収されずに済んだのだろう。男が喰うのはあくまで実体のあるものに留まるということだ。だが一方で、承太郎は波紋を練ることができない。とどのつまりはrolling rabbit(永遠に捕まらない尻尾)、スタープラチナの剛力があっても決定打にはならないのである。

 

「ジョジョとその血統の者よ、きさまらと戦うのもまた一興。だが、わたしにはそれよりも優先すべき目的がある」

 

 一見して互角、しかしあくまでスタンドと男の関係である。勝負に飽きた男が、気まぐれにでも承太郎を襲おうものなら、その瞬間に均衡は音を立てて崩れ去る。

 だが、幸いにと言うべきか、承太郎達と事を構える気は無いらしい。では一体何の目的で襲ってきたのか、訝しむ諸々の視線にまるで無関心のまま、瞳の中心に小さな少女を捉える。

 

「……何よ」

 

()()()()()()()()

 

 彼の、彼らの常食は吸血鬼だ。そしてフランドールは、生まれついての吸血鬼。養殖ものとは別格の凄まじい生命エネルギーを保有している。

 人間が最高級のディナーに垂涎するように、男もまたフランドールに惹かれたのだ。未だかつて味わったことの無い究極の美味をみすみす逃すわけにはいかない。喰うだけで、きっと更なる力を得られよう。そこに探し求めている石を合わせれば、或いはかの天才が夢見た最強生物を超えた何者かになれるかも知れない。

 

 だが、財宝が剥き出しにされているケースは非常に少ない。大抵の場合、それを守護する門番やガーディアンが配備されている。男がもしフランドールを喰いたいのであれば、咲夜を突破するのが絶対至上命題として立ちはだかってくる。

 

「ヌ……凶暴な女め」

 

「その口は閉じていただきますわ。永遠にね」

 

「きさまからも、かなりのエネルギーを感じるぞ」

 

()()()()()()()、食料とするには充分だ。再度蹴りかかってくる咲夜を躱し、拳を大きく引く。あからさまな隙を見逃さず、ナイフを構えて突撃しようとした体を、寸前で引き留める。それは重なり合いながら背筋を駆け巡った悪寒のために。

 刹那が咲夜の命運を決定付けた。足のバネを最大限に活用して、反発の少ない砂を蹴る。咄嗟の判断で身体の正面を離れたのは、その後に起こった事象を見れば正解だったと言わざるを得ない。空気が鞭打たれたような音が耳に飛び込み、壁の如き風圧が咲夜を僅かに揺らす。

 

「ッ」

 

「ん~~む、惜しい」

 

 今のは、何だ。陥没し巻き上がっていく砂塵を傍らに感じながら、男から目を離せない。攻撃を外しはしたものの、焦りを見せないのは自信の表れか。やはり侮れない、さらに集中力を引き上げた。

 

「女、我が流法(モード)を見切れるか」

 

流法(モード)、ね。大層なお名前ですけれど、拳撃を飛ばすだけなら私でもできましてよ?」

 

「ふむ。たった1度、今放っただけの攻撃でそこまで辿り着くとは」

 

 ぎりぎり、弓のように引き絞られた腕が爆発的な唸りをあげた。魔法や陰陽術のような所謂超常の技ではなく、身体能力を活かした類のものだろう。咲夜の想像が的中しているなら、化け物じみた筋力だ──実際化け物であるが。

 

「だがまだ不正解よのォ。『飛ばす』といえば、直線軌道上にしか破壊は発生しない」

 

「不正解で結構。衝撃波を飛ばしてくると思っておけば充分でしょう」

 

「お、先程より答えに近づいたな。良い判断力よ」

 

 直撃はおろか、掠るだけでも軽くない痛手を負いそうだ。加速させていた闘争心を抑え、この場は回避に専念する。ここで息の根を止めるのが困難である以上、無理は禁物。最優先は主の身の安全であり、それが達成されるなら引き分けだろうと問題ではない。

 近づいてしまえば、あの技を封じることは可能だろう。再度放たれる衝撃波めいた暴風を躱しながら、早くも弱点と思しき箇所に思い至る。見たところ発射までに数秒の溜めを要するらしい、それだけの時間があれば奴に密着し厄介な攻撃を打たせないこともでき得る。

 

 だが面倒なことに、男へ接近できない理由がある。あの妙な吸収への対応を、彼女としても未だ決めかねている。霊気で武装したとして、男はそれごと彼女を体内に取り込むだろう。或いは食事に相当する行為なら、次に待ち受けているのは消化という手順になる。物理的・霊的衝撃には強い霊力武装でも、酸などによる腐食はどうなるか。確かめたことはなく、故に一瞬で溶かされる危険をも予測しておく必要がある。

 

「ザ・ワールド!」

 

 視線は男から切らず、意識だけを主に向ける。攻撃命令なら仕込んだナイフを煌めかせる準備はできているし、撤退命令なら。

 

「戻って、この場は退きましょう」

 

「はっ」

 

 無論、これ以上は相対しない。フランドールとしても、対策を練り難い相手とリスクを負ってまで渡り合うのはローリターンだという結論に至ったようだ。穏健派の彼女らしい、手堅い判断である。

 彼女の姉であれば迷わず討伐を命じてくる。どちらが良いとか姉君が無謀凶暴脳筋坊だとかいうわけでもなく、姉妹の愛おしく興味深い個人差である。戦闘を開始したばかりで恐縮だが、今回は()()も良いのでお開きとさせていただく。

 

「逃がすと思うか?」

 

「逃げますわ。それが主命ですもの」

 

 お前に決められる謂れは無い。言外に滲ませた本音を悟れない鈍物ではあるまい。薄い笑みを湛えながら猛然と地を蹴り突撃してくる男を、咲夜は酷く冷めた目で見つめていた。『彼』の迎撃準備が整っているのを、既にスタンドの気配から察していた。

 

 超高音の炎が、一瞬で真昼の砂漠に重厚な陽炎を生み出す。自然界にほぼ存在しない温度の猛火に体を焼かれ、流石に平気ではいられずたたらを踏み、それでも顔を顰めるのみだ。纏っている衣服が焼け落ち、太陽の元に晒された素肌は、艶々とした光沢を失いつつあった。

 

「……ちっ、随分と直接的な炎だ」

 

 全身から放つ振動で炎を弾き飛ばす。まだ充分追える範囲内にいるが、火傷の疵を癒す時間も欲しい。何せ男のかつての仲間程ではないにせよ、強烈な炎熱だった。肉体のコンディションが万全でない状態で戦うには少しばかり厳しいものがある。

 決して諦めてはおらず、今回限り引き下がるに過ぎない。一先ずは日光から逃れるのが先決なので、近くにあった岩場へと身を潜めた。

 

 夜はそう遠くない。不自由なく動けるようになれば、次は逃がさない。



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第五十九話 クヌム神・トト神 その①

「ちくしょーッ! 待てーッ!」

 

「ほら捕まえてみろよ、こっちだぞ!」

 

 様々な事情を抱える世界各国と雖も、子供の元気ぶりは万国共通である。それはここエジプトでも例外ではなく、今日も元気に外ではしゃぎ回っている。この年頃では体を動かすのが何よりも楽しいのだろう、瞳はきらきらと喜びに満ち輝いていた。

 

「……あれ、誰だ?」

 

「どうしたのさ」

 

「あの岩のとこ」

 

 追いかけっこをしていた子供達のうち、鬼役の少年がふと足を止める。釣られて全員が訝しげな少年の視線の先を追う。

 恐らく10歳程度の少年が、岩にもたれかかっている。近くで楽しそうに遊ぶ同年代の子供達には目もくれず、一心不乱に手に持つ本を読んでいる。活気が生み出す陽の雰囲気のすぐ近くでは、夜の帳のようによく目立つ静けさを醸し出していた。

 

「ひぇーッ、黙って本読んでるぞ」

 

「無視しようぜ、無視無視!」

 

「気持ち悪ぃ~~~~ッ」

 

 多少の分別がついてきたとはいえ、まだまだ自分と違う在り方を理解できない年の頃。口々に心無い言葉を投げかけて、さっさと何処かへ行ってしまった。『自分達』を保持し、『他』を排するのは子供のみならず人の常とは言うけれど、見ていて気分の良くなるものでもあるまい。

 

「……」

 

 あからさまな排斥を受けた少年は、しかしちらりと黒目を向けるだけで特別の興味を示しはしなかった。うるさい奴らがいなくなったとばかりに、寧ろやれやれという心の声が聞こえてきそうな溜息を吐きつつ、再度本に目を落とす。

 暫し漫然とページを繰っていた手が、ぴたりと止まる。面白いページに行き当たったのだろうか、真一文字の口角が吊り上がり。

 

 

 

 [口の悪い、いけ好かない子供たち]

 

 [遊ぶ場所を変えようと移動をしました]

 

 [しかし子供たちは前を見ておらず]

 

 

 

 

 

 [走ってきたトラックに轢かれてしまいました]

 

 ……くひはっ、と小さく笑った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「お、救急車だ。事故でもあったか」

 

「あのトラックが絡んでいるようだな。前の部分がひしゃげている」

 

「こいつはひでぇ。……ま、ここから数分で病院だ。手早い治療で助かるのを願うしかねーな」

 

 砂漠を抜けている最中に、謎の男の襲撃を受けた一行。男の不気味な底知れなさに、小さな町への緊急の避難を敢行した。辛くも追手を振り切って、町の通りを歩く中で漸く人心地つく。

 

「ジョースターさん。……あの男は」

 

「……」

 

「スタープラチナで殴っても、ザ・ワールドが仕掛けても、あいつは焦りさえしなかった」

 

 安心すれば、思考を割く余裕のなかった方面にも頭が回る。男と会ったこともなければ噂を聞いたこともない花京院にとって、正体を知りたいのは当然であるし、他の者達も抱く気持ちは全く同じだ。彼を静止するものはおらず、幾許かの勇気でもって切られた口火の行く末を見守る。

 

「アヴドゥルの『魔術師の赤(マジシャンズレッド)』も、倒すには至っていなかった。ザ・ワールドも言っていましたが、やつは人間ではないようだ!」

 

 息切れするまでエメラルドスプラッシュを当て続けても、奴を戦闘不能には追い込めない。花京院の中には後ろ向きな確信があった。右の頬を、一筋の汗が伝う。

 承太郎のスタープラチナに殴られて平気でいられる敵なんて、今まで見たことがない。恐るべき相手だ、小細工無しの純粋な肉体性能でスタンドに比肩しようとは。破格の脅威を見せつけた男のことをよく知るジョセフに、話を聞いておく必要があるだろう。何を得意とし、またどのような弱点があるのか可及的速やかに把握しておきたい。

 

「……やつは人間ではない」

 

 花京院の問いかけに、ジョセフはすぐさま答えを返さなかった。話して良いのか悩んでいるようでもあった。ややあってから、瞳にはっきりとした覚悟が映る。この若者に、そして共に旅をする仲間に話すべきことだ。葛藤の果てに彼はそう断じた。

 

「わしの恩師は、やつらのことを地球上で最も進化した生物と言っておった」

 

「地球上で、最も……」

 

「それって、人間よりもってことか?」

 

「遥か上だ。比較にもならん」

 

 明らかに人の姿形をした人外の生物がいて、しかもそれは自分達を襲撃してきた。SF映画のような絵空事も、実際に体験したのだから現実と信じる他にない。或いは精神力の具現(スタンド)という非現実チックな存在が、目眩を起こすような衝撃を和らげていたのかも知れない。

 

「50年前、わしらはあの化け物共と戦った。アヴドゥル、ポルナレフが生まれるよりずっと昔。その時のことを知っておるのは、きっともうわしだけじゃろう」

 

「そ、壮大なスケールの話だな」

 

「戦ったとは、スタンドで?」

 

「いや、また別の……そうじゃな、見せた方が早いか」

 

 ジョセフ達に怪物と渡り合う力を与えた技術は、いきなり語っても説明し難い。非常にシンプルな一例を実演することで、多少なりとも理解の深度を深められよう。

 ペットボトルの蓋を開け、口を下に向ける。当然ながら重力に引かれて落ちていく水は、地面からある距離を取った地点で唐突に物理法則に抗った。手品顔負けの不可思議現象に、全員の目が釘付けになる。

 

「ペットボトルの水が、宙に!」

 

「ジョースターさん、これは一体!」

 

「『波紋』という。呼吸のリズムが生み出す、太陽と同じエネルギーよ。わしの祖父もこの力を用いて、DIOと戦ったと聞いている」

 

 波紋。古くは超人の技として人里離れた幽世に細々と伝えられ、後には人間賛歌を象徴する太陽の技法となった。独特な呼吸のリズムによって体内に蓄積され、一気に放てば岩をも砕く程であるが、特筆すべきは人でないものどもへの特攻性だろう。彼らは総じて太陽を嫌い、その克服を至上命題とさえ置いた。

 

 ジョースターの一族で初めて波紋を体得したのは、ジョセフの祖父だ。師の教えにより波紋法を成長させ、遂に大敵を打ち倒した彼は、しかし悪の異常な執念によって思いもしない最期を迎えることとなった。ジョセフも事の大凡は母親から聞いており、それまで単なる武器としか見ていなかった波紋との数奇な縁を感じずにはいられなかった。

 

「え、ちょっと待ってくれよ。ジョースターさんのじいさんがDIOと戦って、今あんたの孫の承太郎がいて……な、何年生きてんだDIOはッ!」

 

「やつはジョースターの血統の宿敵、とでも言えば良いかの」

 

 ジョナサン・ジョースターは、その命と引き換えに巨悪を長きにわたり封印してきた。その息子ジョージ・ジョースターはDIOの作ったゾンビに襲われて一生を終え、ジョセフと承太郎は過去の因縁に決着をつけるため果敢に敵陣へと乗り込んでいる。

 考えてみればみる程に、奇妙な宿縁だ。しかし袖の振り合いと大切にするのではなく、粉微塵に破壊しなければならない悪しき繋がりである。散っていった血脈に報いるためにも、そして無辜の女を死の呪縛から解き放つためにも。

 

「ともかく、わしはこの波紋であの男を倒した。その後は再生しないようSPW財団で厳重に管理されていたと聞いていたが……」

 

「それをDIOが知ってしまった、と」

 

 財団の本部はワシントンD.C.にある。スタンドがジョセフ達に発現してから奴がエジプトを離れていないことから、男が復活してから少なくとも数ヶ月は経っている。あんなにも危険な生物が数ヶ月野放しになっていたとは、いよいよ背筋が薄ら寒くなってくる。

 

 道を急いだ方が良いだろう。DIOは太陽を嫌って外へ出てこないようだが、男は話が異なってくる。次に襲われればどうなるか分からない。

 着々と残してきた痕跡を一旦消すために、車を乗り換えるのも手だろう。問題はアメリカや日本のように、比較的簡単に販売している自動車に巡り会えるか否かだ。最悪の場合は徒歩も検討すべきか、脳内で組み立てた幾つかの発生・対策パターンを、飛んできた警告が瞬時に塗り潰す。

 

「全員、気をつけて。スタンド使いの気配がするわ」

 

「なにッ!」

 

「驚きの連続ってやつだなァーッ! 間の悪いヤローだぜ」

 

 言葉は鋭敏で()()()が無い。直前に襲われたからだろう、彼女の警戒が紙越しに滲む墨のようにじわりと浮かんでいる。ひやりと震えてしまいそうな雰囲気を渦巻かせているのは致し方ないだろう、状況は未だ予断を許さないわけだから。

 イギーも敵スタンドの気配を感じ取り、低く唸り声をあげる。方角は一行から見て南西、距離はそう遠くはない。それはつまり、敵側も彼らの動きを補足している可能性があり、いつ仕掛けてくるか分からないということだ。

 

「あの店の中にいるわ」

 

「どうする、先にやるかッ!」

 

「待て、一般人もいるかも知れん」

 

 間違っても無関係な人々を巻き込むわけにはいかない。抵抗する術を持たない者達では、いとも簡単に命を落としてしまうだろう。一般的な人間からすれば、男達が入ってきたと思ったら突然テーブルが吹き飛び窓ガラスが割れていくのだ。不可視の不穏分子が引き起こしたテロ行為と誤解されたって仕方ない。

 

「じじい」

 

「うむ。避けていこう、敵の本拠地で無闇に消耗したくはない」

 

 それに、エジプトへ上陸してからスタンド使いとの戦いが連続している。黒衣の男は厳密にはスタンドを有していないけれど、望まない連戦になっているのは確かである。

 倒せば後顧の憂いを断つことができる。それは確かにその通りなのだが、本来争いを避けるよう務めるのが賢人というもの。どうやっても避けられない、その時にだけ全力で闘争をこなすFlexibility(柔軟さ)が、息を長くする秘訣なのだろう。



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第六十話 クヌム神・トト神 その②

「全員、ちょっと聞いてくれ」

 

 急遽立ち寄った街で、幸運にも大型の乗用車を確保できた。勿論盗んだり脅して奪い取ったわけではなく、中心部に程近い店で売っていたものを買ったのだ。

 旅の奴らだと舐められてか、高級外車ばりの法外な値段を吹っかけられた時には、ポルナレフが怒り詰め寄りかけもした。しかし不動産王たるジョセフ・ジョースターにとって、ポケットマネーでさっと買えないものは豪華客船か月面探索ロケットくらいだ。言い値通りで買って、唖然とする商人を他所に慌ただしく街を出た。

 

「我々はカイロに程近い街で1泊する。半日しかないが、ゆっくりと体を休めてくれ。最高の状態で朝を迎えてほしい」

 

「最高の状態って……まさか!」

 

「うむ。……明日の朝一番でカイロに入り、一気にDIOを打ち倒す」

 

 日本を出発して40日弱が経過した。ホリィの命はSPW財団の見立てではもって50日、既に危険域へと突入している。間に合わなくなってしまう前に、迅雷の速度で決着をつける必要性に迫られていた。

 

「遂に来たか、この時が」

 

 ポルナレフとしても、DIOを許すわけにはいかない。肉の芽を植え付けられて操られ、剰え妹への愛情を利用されたとあっては、チャリオッツの剣でずたずたに引き裂かねば気も収まらない。

 昂っていく感情に反して、彼の心は理性の制御下にあった。『吊られた男(ハングドマン)』の時とは違い、仲間と共に勝つという協調性が明確にあった。吸血鬼だかチスイコウモリだか知らないが、このメンバーなら負けやしない。そう確信できた。

 

「ジョースターさん、『9人の男女』はもう置いておくということで?」

 

「うむ。さっきも言ったが、消耗するのはひたすらに愚策よ」

 

 全員を避けられるとは思わない。数名はジョセフ達の行動を知ってDIOの根城に戻ってくると見ておくべきだろう。

 だからこそ急ぐのだ。待てば待つ程敵は集結し、準備を固めてしまうから。奴らの態勢が整い切らないうちに撃破せねば、DIOを討つ好機はもうやってこないかも知れない。

 

 Xデーは、明日だ。車内に緊張が走る。張り詰めた空気を察して、イギーが何処か居心地悪そうに身を捩る。音楽で言えばまだ前奏曲(プレリュード)、低音の打楽器が一定のリズムで言い知れぬ不安や恐怖を煽ってくる段階である。半日間の序章に精神が参ってしまわないように、誰からともなくゆっくりと深呼吸をする。

 俄かに重苦しいものとなった車内の空気を外に逃がそうと、花京院が窓を開ける。とは言っても清涼感のある冷えた外気は好晴の砂漠には望めない。滲む汗は気候からか、それとも。

 

 

 

「オインゴ兄ちゃん、来たよ」

 

「おー……()()()()()()()()()

 

「トト神の予言は絶対だもの」

 

 剥いたオレンジを口に運ぶ。ペットボトルの水が簡単に手に入らない砂漠地帯では、喉の乾きを癒すのに瑞々しい果物が重宝される。まだ紙袋の半分以上を占めるだけの量は残っているので、しばらく水分には事欠かないであろう。

 咀嚼しつつ、岩場の影から地平線の方を覗く。接近してくる自動車が双眼鏡に移る。面々の顔も間違い無い、奴らが悪の帝王に歯向かう正義の子鼠共だ。

 

 絶対的カリスマの不在と紛い物の死を受けて、彼らは独自に集まった。議題はDIOの捜索と、ジョースターの殲滅。各々細かい主義主張こそあれど、DIOに心酔しているという点では皆が共通しているので、この決定に異を唱える者はいなかった。

 アスワン近郊を3人のスタンド使い……厳密には2人と1本だが、彼らが調べている。この兄弟とンドゥールが対ジョースターを担当し、残った面子で館を守るという算段だ。

 

 既にンドゥールは敗れ去ったと聞いている。あの水スタンドはかなりの達人と言って差し支えないだけに驚かされたが、例え奴らが強かったとしてもトト神の予言は確実に的中する。力も技も、確定された未来をひっくり返せはしない。

 

「今だ、さっき見たあの男に化けてッ!」

 

「アイアイサー」

 

 予言に従って、ボインゴの姿が変わっていく。細身だった体にはボディビルダー並の筋肉が付き、身長も大きく伸びる。髪の色や長さ、果ては表情までもが原型を留めない程に変貌を遂げる。

 路地裏で見かけた黒ローブの男に化ける。第一要件はそうなっていた。えらく筋肉質だが、どれだけ鍛えればこんな鋼の肉体を得られるのか。体の内外に感じる妙な違和感は、多分大幅な身体変化のせいであろう。

 

「よし、これで、奴らは、警戒を露わにしてくる!」

 

「ンドゥールの仇討ちってところだなァ」

 

 創造の神・クヌム神のスタンドを操る兄オインゴ、書物の神・トト神の加護を受けた弟ボインゴ。様々なものに化け、或いは未来を読む力は、直接的な戦闘力以上に支援的性格を強く有する。戦えば生身のずぶずぶ素人でも、1歩下がれば暗躍撹乱はお手の物。

 

 次なる宣告は、車の前に立ちはだかると出ている。走行中の大型自動車の前に立つのは中々怖いものだが、それが勝利に繋がるのだから四の五の言ってはいられない。何故か肌を突き刺してくる日光に首を傾げながら、砂煙を上げる鉄塊の真正面に躍り出た。

 

 車がスリップしつつ急停止し、続いて乗員が軒並み降りてくる。揃いも揃って信じられないものを見たかのような目をオインゴに向けるが、もしやあの男はジョースターの一行と浅からぬ関係にあったのか。だとすれば、警戒させるにはもってこいの変装になったわけだ。こっそりほくそ笑みたいが、ガスバーナーでも押し付けられているかのような肌の痛みを堪えるので精一杯。

 

 日光に弱い体質か。道理でこの暑い砂漠地域に似つかわしくない格好をしていたわけだ。お陰で汗は噴き出すわ肌は痛いわ、デメリットが踏んだり蹴ったりである。しかしここを耐えれば勝ち筋一直線、帆を張り風を受けて全速力で進む覚悟を決めて。

 

「……ん?」

 

 はたと思い至る。確かにボインゴによるお告げへと邁進している。風向きは良好、スピーディに事を運べている。

 ジョセフ達の警戒レベルを跳ね上げられる。予言かく示しき。それはつまり、まだ先(敵対イベント)があることを公然と暗喩している。再度強調しておくと、オインゴの保持する戦力は一般的な成人男性レベルである。

 

(ボ、ボインゴォ~~! この後は! 警戒させた()()()()()()()()()()()ッ!?)

 

(しまったァッ! その後の予言を確認し忘れていたッ!)

 

 ……みたび繰り返すが、この兄弟に()()()()()承太郎達を打ち破る力は無い。無限のパターンを持つ未来をボインゴがほぼ無意識的に取捨選択し、それが確実に起こることとして定められるのだ。彼らはそうなるように動くだけ。

 逆転させて考えてみよう。予言が絶対なら、もし自分達に都合の悪い予言がなされても受け入れる他に無い。何せトト神に未来を変える能力は付与されていないので。

 

 次なる予言の出現を急ぐ。手に持つ漫画形式の書物が彼の思いに応え、数秒後のオインゴの状態を知らしめた。さぁっ、と頬が青白く染まったのは、非常によろしくない予知を見てしまったが故か。

 

「あんぎゃあァ────ッ!」

 

(に、兄ちゃんッ!)

 

 ──[黒い服を着た男は、アヴドゥルに燃やされてしまいました。とってもアツイ! ]

 

 人間に放ったとは俄かに信じ難い程に、マジシャンズレッドの炎は加減されなかった。非人道的だと彼を責めるのはお門違いだろう、生半可な火では傷も残らない桁外れの化け物と相対しているつもりで彼は足止めをかけたのだから。

 

 無抵抗の青年をまっくろくろすけになるまで燃やし、彼らは謝りもせず即座に自動車へと戻った。喧しくエンジンを噴かせ、トップスピードで場を離れていく。後には黒焦げた重傷人と目を見開く少年だけが残された。

 

「兄ちゃん、大丈夫!?」

 

 呼び掛けにも反応を返さない。どうやら完全に気絶しているらしい。変身は解け、見慣れた顔がフライパンで40分間熱した目玉焼きみたいな色をしている。

 

「ジョースター……!」

 

 唯一心を許して向き合える兄を、こんな目に。滅多に湧かない怒りが、今ばかりはこんこんとせり上がってくる。正確には加害の実行犯はアヴドゥルで、ジョセフも承太郎も無実ここに極まれりなのだが、そんな事実は些末な欠片でしかない。ついでに言えば、オインゴは化ける相手を明らかに間違えた。

 兎にも角にも、早く病院へ連れていかなければ。ジョセフ達への復讐については、その後でゆっくりと考えれば良い。手持ちの携帯電話で近場の病院へコールをかける。

 

 だが砂舞うだけの砂漠に電波なんて便利なものが通っているはずはなく、聞こえてくるのは医療関係者の声ではなく圏外を知らせる機械音声。何度かけ直したって結果は変わらない。苛立ちから携帯を地面に叩きつけようと振りかぶる。

 

「おっと、物は大切にしねーとな」

 

 手首の辺りをがっしりと掴まれている。背を撫でる怪しげな声。本能的な恐怖が一瞬で怒りを書き換え、嫌な冷や汗が体のあちこちから噴出する。恐る恐る振り返り、背後を取っている人物の顔を覗き見る。

 

「だ、誰……?」

 

「ホル・ホース。『皇帝(エンペラー)』のスタンドを使うって言やぁ分かるかい」

 

 テンガロンハットを被った男は、自らをそう呼称した。この前集合したメンバーの中に、こんな風来坊チックな男はいなかったはずだ。敵か味方か、次の挙措を読めないホル・ホースを前に足がかくかくと笑い始める。

 そうだ、書物を見れば奴の動きは一目瞭然。素早くページを繰り、現れた絵と文字を注視する。頼りの兄が倒れていたって、この未来予知があればあらゆる困難を乗り切ることができる。無理をして他者と話す必要なんて無い、鋭い先見の明に導かれて常に最善手を打ち続けるだけ。

 

「根性引っ込んだガキだぜ。だがこいつがいればおれは負けねぇッ!」

 

 

 

 

 

 [突然現れた、西部劇のガンマンみたいな男]

 

 [未来なんて見たって避けられなきゃ意味も無い]

 

 [結局、ボインゴは()()()()()()()()()()()()()()()()()()]

 

 

 

 

 

 とある筋から手に入れた、必中の予言を行う少年の存在。狙った的を誤たないエンペラーと組み合わせれば、スタープラチナにもザ・ワールドにも勝てる。特に彼女の方は、胃の内容物を吐き散らす程こてんぱんにされた上に今のホル・ホースの雇い主と全く同じスタンド名をしているので、是が非でも復讐を遂げたいところだ。

 にたりと邪悪な笑みを浮かべる。目の前で腰を抜かして怯える少年など気にも留めない。神に感謝しなければ。J・ガイル以上の拾い物を得たことに、そして恨み積もる因縁の連中と再戦できることに。



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第六十一話 幕間

 エジプトの首都カイロから僅かに数十kmの小さな街、コム・オンボ。昼間の活気はなりを潜め、耳を打つような静寂が街全体を包んでいる。

 

 とあるホテルのテラスに備え付けられた椅子に、少年とも青年とも取れる顔立ちの男が腰掛けている。眠れない退屈な夜を厭い、せめて涼しい夜風に当たろうと外へ出てきたのか。手元に1杯の水があるのみで、他は部屋に置いてきたと見える。

 

 ぼんやりと朧な月を眺める。花京院の目は風流を楽しんではおらず、また眠たげにとろんとしてもいない。叢雲を疎ましがりもせず、感情を読めない無表情(ポーカーフェイス)で遠い天上を捉える。

 

「夜更かしは体に悪いわよ」

 

「……驚かせないでくれ」

 

 特段気配を消して驚かそうともしていなかったが、余程気も漫ろだったのだろう。彼がこうも隙だらけでいるのは珍しく、それもまた人間らしくて好ましい。

 

「ちょっとだけ、お話をしましょ」

 

「夜更かしは駄目なんじゃないのかい?」

 

「意地悪い男性は嫌われるわよ」

 

「それは困った」

 

 つい先刻の自身の言葉には責任を持たず、あっけらかんとした振る舞いのまま花京院の隣に座る。彼女もジュースを持ち込んでおり、一々喉が渇いたと室内に戻る必要は無い。

 

「今はね、ザ・ワールドもいないわ。今頃は夢の中かしらね」

 

「きみこそ夢を見るべきだとは思うけどね」

 

「夜には強いの」

 

「だから朝に弱いわけか」

 

 これまで度々眠りにつく姿を目撃されてきたフランドールだが、明日は絶対に寝坊できない。きっと総力戦になるはずだ、いざという時にザ・ワールドの使い手たる彼女が布団の中でぐうぐうでは洒落にならない。尤もかのスタンドは完全に本体から自律しているそうなので、所有者が寝ていようが影響は少ないか。

 

 眠りの森の美女、という童話を思い出す。あれは確か悪い妖精が姫を100年眠らせて、王子により起こされるというありきたりなオールド・ラブロマンスだった。もし定刻に起きられなかったら、ザ・ワールドがそっと口付けをして起こすのだろうか。何となくそれだけでは目を覚まさない気もするけれど。

 

「きみと知り合って、もう1ヶ月を超えた。エジプトで出会ったぼくたちは、回り回って帰ってきたようなものだ」

 

「そうね」

 

「覚えているかい? ぼくの中に眠っていたスタンド、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 たまたま休日と祝日が続いたので、良い機会だと家族でエジプトへ旅行に来ていた。生でピラミッドが見たい、そう言っていたのは父だっけか。有名な観光地を幾つか回り、予約したホテルで夜を過ごしていた花京院は、退屈しのぎに外の空気を求めた。コーラの空き缶をごみ箱に捨てて、フロントに断ってから夜のカイロへ繰り出した。

 

 まさかあんなことになるとは、当時の彼は想像だにしていなかった。澄んだ空気の中を、ほんの数分散歩するつもりだったのに。体の自由がいきなり利かなくなったと焦れば、目の前には小柄な少女。首筋に噛み付かれ、走った悪寒とは裏腹にあまり痛くはなかった。

 

 血を吸われる獲物みたいな気分だったよ。きっと意味を尋ねても無益な悪戯を振り返り、冗談めかしてひょいっと飛ばした軽口を、花京院は数秒で口内に引き戻したくなった。グラス片手に浮かべた微笑が、不自然に引き攣っている。

 

「ごめんなさい」

 

「何を謝っているんだ」

 

「スタンドを発現したのは、多分私が噛んだから。貴方の日常を非日常に変えたのは、つまるところ私というわけ」

 

 家族の元を離れて危険な旅を続ける花京院に、小さくない罪悪感を感じていた。まだエジプトにいた時、咲夜が持ってきた情報の正確なことを、遠く離れた東洋の島国で確認した。あの時にはまさか、世界を脅かさんとする巨悪に立ち向かうなど考えもしなかった。

 主にサポート面で、花京院は大きな貢献をしてきた。彼がいなければ乗り越えられなかった場面もあった。だが、彼には祖国で穏やかに過ごす権利があるはずだ。決して悪人ではなく、それ故に平和な世界で思う存分成長していく前途洋洋の雛鳥。

 

 その権利はフランドールが奪ったに等しい。何度命を狙われたか、まだ20年も生きていない人間にはあまりに過酷な旅路だろう。彼女とは違い、刻まれた傷は半日やそこらで治らない。何日も痛みに耐えながら歩き続ける苦悩は、果たして如何程のものか。

 

「だけど、この力が無ければ旅に同行できなかった」

 

「命懸けの世界周遊なんてして楽しい?」

 

「そうだね……ホリィさんの命を救う、これが最前提だ。でも同時に、このメンバーで共に苦難を乗り越えていくのは好きだね」

 

 花京院 典明はほんの1粒たりとも後悔していない。真っ直ぐに前だけを見て、そう宣言できる。だらりと口を開けた死の恐怖に襲われた瞬間もあったけれど、髄まで怯えはしなかった。

 

 そも恐れが勇気を上回っていたならば、承太郎邸で同行など申し出なかった。成程義憤の熱気に当てられていたと解釈もできよう。だが、その熱病は何十日と経った今も変わらず続いてきている。然らばそれで良い。熱の滾る限り、花京院は戦える。

 

 自分が誰かを救える、それは彼を突き動かすに充分過ぎる動機である。口数の少ないクールな印象があっても、芯の部分で彼は正義の精神を備えているのだ。だから悪に怯まず、チームの一員として確かな働きをもたらす。

 

 変わった人間だこと。少し苦々しく、しかし憑き物が剥がれたように笑った。

 

「それに、きみも同行している。ぼくだって行くさ」

 

「あら。真っ直ぐなプロポーズは好きよ」

 

「どうしてそうなる。友人として、あくまで友人としてきみと行動を共にしているんだ。きみくらいの年頃の女の子が()()()()()のは知ってるけど、あまり揶揄うようなことを言うものじゃあない」

 

 くすくす、何処か蠱惑的な挑発がペースを乱す。さっきまでの落ち着き風格さえ見せていた話し口は何処へやら、自動小銃めいた早口で捲し立てる。

 1つ喋る間にコップへ口を付けること2回、おまけに空となったグラスへ水を補充し一息に飲み干した。そう汗ばむ温度湿度でもないわけで、彼の渇きは外的要因に無いと明らかであった。安易に色恋沙汰なる言葉を使うのは避けるべきと雖も、夜山の静けさを好む彼はその手の経験値に乏しい。

 

「月が綺麗ね」

 

「死にたくはない」

 

「あら、残念」

 

 彼女はイギリス出身だというが、日本の文学にも興味をお持ちのようだ。見た感じは10歳程度の小娘、しかしその実花京院より幾らか年上だというのだから、人は見た目によらないものである。博識なお嬢様だ、少々憮然としつつフランドールに細目を向ける。

 

 そこからは言葉数が少なくなり、溶け込むように2人の存在が闇へと隠れる。決して気不味くはなく、ちょっとだけ擽ったい時間が流れていく。

 

「ジョースターさんは、明日で全て終わらせるつもりだね」

 

「えぇ」

 

「きみは、どう思う?」

 

 至極ふわりとした、捉え難い問いであった。花京院自身、その感覚を否めないでいる。日本語を17年間使い続けてきた彼であっても完璧には表現できない難しい質問に、しかしフランドールは柔軟な対応で真意を把握した。

 

「急ぎ過ぎ、かしら」

 

「やはりか。ぼくもだ、そんな簡単に事は運ばないと思ってる」

 

 それに、あの男(サンタナ)が言っていた。『DIOは今行方が知れない』と。エジプトまでやってきた面々に危機感を覚え、身を隠して襲う機会を伺っている可能性は充分に考えられる。

 DIOからすれば、ジョセフ達は脅威以外の何者でもない。送り込んだ刺客は尽く敗れ去り、結果として誰1人倒せないままに本拠地への到達を許している。そろそろ形振り構っていられなくなる段階に来ているのでは、花京院はそう推測している。

 

 プライドの高い悪の暴帝。これまでに形成してきた奴に対するイメージは、空想の産物とはいえ的を大きく外してはいないだろう。そんな男がもし一時的にでも『逃げ』を選択したなら、怨念のような怒りに苛まれるのは必定ではないか。例えそれが無意味で醜く逆恨みめいていたとしても、歪んだ精神はあらゆる(ストッパー)を破壊してしまう。

 

「フランドール。ぼくはここから、積極的に敵スタンド使いを倒していった方が良いと考えてる」

 

「その意図は?」

 

「DIOと戦っている最中に、避けて通った9人の男女が襲ってきたらぼくたちは一気に壊滅してしまう」

 

 脅威たりえる相手は先に倒しておく方が、本命に集中して臨めるというもの。挟み撃ちという危険極まりない策に陥るのを防ぐためにも、敢えてこちらから配下のスタンド使いに仕掛けていく攻撃性が必要なのではないか。

 

 コップに少し残っていたジュースを飲み切る。大好きなフルーツオレも残量は半分を切った、楽しめる時間はもう長くない。今暫くの夜伽話と共に終わるくらいか。

 

 口に残るまろやかな甘味を愛おしく思いつつ、一方で花京院の案に魅力を感じていた。闘争心から1歩分距離を置ける彼らしい見地からの作戦である。

 

「へぇ。友達同士、考えることは一緒ね」

 

「きみもだったか。明日の朝一番、ジョースターさんに提案してみないか?」

 

「乗ったわ。あと10日程度でDIOを含めて最低でも9人、多少骨は折れるでしょうけど」

 

 注いだジュースをゆらゆら揺らす。不規則に映るフランドールは、言葉とは裏腹に不敵な笑みを浮かべていた。



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第六十二話 バステト神・アヌビス神 その①

「……おまえたちの意見はよく分かった。承太郎達にも考えを聞くとしよう」

 

 昨夜のプチ会談で決めた通り、作成の変更について具申に来ていた。無論事が事だ、ならそうしようと即決されないのは当然である。全員の意思を明確にし、皆が納得できる決断を下さなければチーム内に不和が生じてしまう。

 花京院から話を切り出されたジョセフは、驚く様子を見せなかった。或いはそうした意見が出てくるのを予想していたのかも知れない。腕組みをして静かに耳だけを傾け、瞑目沈思の後に彼は最終的な決断を保留した。

 

「我儘を言って申し訳ないです」

 

「なに、意見も切磋琢磨させた方が良質になるからの」

 

 人間と同じじゃ。豪快に笑うジョセフに釣られて、花京院達も自然と笑みが浮かぶ。大敵を目前にしているとは思えない落ち着き払った態度は、重ねた年の為せるものだろう。数奇な運命に巻き込まれてきたジョースターの血統だからこそ、例え相手が人間でない化け物だったとしても怖気づきはしない。

 

 心強い人だ。彼が実質的な旅のリーダーで、本当に良かった。この立場をもし自分が任されていたなら、そう考えただけで鳥肌ものだ。改めて尊敬と感謝の念を抱きつつ、ジョセフの部屋を辞する。

 

 彼の決定に従おう。もし今日攻め込むというなら、もう反対はしない。それが最上の策だと判断された上は、全力を尽くして戦うのみ。

 くしゅん。隣で可愛らしく口を抑える少女に、緊張が解される。寝坊助の次は風邪引きか、くつくつと堪え気味に笑った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 上半身を裸でいられるのは、ここが承太郎に宛てがわれた部屋だからだろう。惜しげも無く晒される筋肉質な巨躯は、まだ若獅子を連想させる歳に似合わず官能的でさえあった。

 彼は先程まで、部屋に備え付けのシャワーを浴びていた。今日はここから体を清める時間など無い、つまり今が最後のチャンスだ。まさかこれが人生最後のシャワー利用だとは微塵も思っていないけれど、ふと名残惜しくなるのは人の性なのか。後ろ髪を引く手を払い除け、ドライヤーをコンセントに繋ぐ。

 

「ぐ……!」

 

 差し込み口に挿入した瞬間、鋭痛を伴う衝撃が体中を走った。咄嗟に手が跳ねて、ドライヤーを取り落とす。がらん、と硬い床に落下したときには、僅かに衝撃の余韻が残るのみであった。

 漏電したのだろうか。外装も内側も綺麗なので比較的新しいホテルのはずだが、まさかこうも初歩的な調整でミスがあるとは。日本のもっと年季が入った民宿でもこんなことは滅多に無い。

 

 迷信(オカルト)を信じる()()ではないにせよ、少しばかり縁起が悪い。やれやれ、肩を竦めながら別のコンセントに電力供給を頼む。そちらは問題なく挿せたので一安心であった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「お、コンテストとかいうやつね」

 

「妹様、コンセントでございます」

 

 イギリスを世界一の大国家へ押し上げた歴史上の最重要イベント、産業革命より先輩という長寿の少女……少女なんて歳では絶対にないが、彼女は近代の機器に疎い。現代人とてやり方を教わらずに電報を打てる者はごく少数なので、生まれた時代からの齟齬が大きい利器を使いこなせないのは至極真っ当なのだ。寧ろ最初の2文字を言い当てただけ知識の幅が広いとも言える。

 

「しかしどうやらあれはスタンド、妹様方が打って出るよりも早く敵が仕掛けてきたようで……」

 

「うわっ!?」

 

「……?」

 

 知識の幅が広くても、危険察知能力は付随するとは限らない。非常な好例を示したフランドールに、咲夜も思わず言葉の続きを見失う。彼女は確かに触るより早く警告したのだが、好奇心の発露は注意を低濃度の食塩水に含まれる食塩よろしく散漫にした。

 まだどうなるか分からないとはいえ、今日での決着も有り得る現状。そうも呑気にコンセントで感電して照れ笑いできるのは、流石延年転寿の悪魔だ。姉に今の可愛いうっかりを見せてあげれば、きっと何をしてるんだかと苦笑して喜ぶだろう。

 

 どてっと尻餅をついて、ふりふり手を振って痛みを逃がす。幸い聞き分けは良いらしく、駄々もこねずに手を離れて空中へと溶けていってくれた。

 

「あ、あはは……ばちっと来たわ。それで、何か言いかけてたみたいだけど?」

 

「それは敵スタンドの仕掛けた罠、なのですが」

 

「えっ」

 

 これが罠なのか。びっくりして漏電危険配線用差し込み接続器に目を向ける。綺麗さっぱり、元から無かったかの如く痕跡を残さない消失によって、神隠しが行われていた。

 幾ら見識の浅いフランドールでも、一対の穴が自由にあちこちを移動するわけがないのは理解できる。それを達成するために乗り越えなければいけない物理的障壁は、バベルの塔のように遥か天高くまで聳え立っている。誰が言ったか物理の摩天楼。

 

「咲夜、スタンド使いを探すわよ!」

 

「畏まりました」

 

 とにかく、咲夜が言うならさっきのは手の込んだ巧妙な設置トラップだったわけだ。手を襲ったあの衝撃からして、触れただけで起動してしまったと思しい。興味を惹いて隙をばちん、鮟鱇のように卑怯な敵である。

 痛みより先に肩が跳ねるくらい、かなり鮮烈な衝撃だった。この分だと、本体はそう遠くない場所にいる。フランドールの様子を見て次なる一手を考えるとすれば、逆説的にスタンド使いは彼女を観察できる場所──ホテル内に潜んでいるはずだ。他者感情の悪用に灸を据えるべく、地階から隈無く捜索していく。

 

「あっ承太郎、良いところに来たわね! 敵襲よ、敵スタンド使いが多分近くに潜んでいるわっ」

 

「なに?」

 

「えっと、コンスタントには注意しなきゃいけないのよ」

 

「妹様、コンセントでございます」

 

 本日2度目の訂正もクールにこなす、それが咲夜という女。かの姉と比較すれば地上に舞い降りた天使のようなおっとりさんだが、時折奇跡的なタイミングで他人の話を聞かないのは血筋と言えるか否か。結局の所、根底で彼女達は似た者姉妹と評せなくもない。

 2階にて出歩いていた承太郎に敵の出現を知らせれば、たちまち纏う雰囲気がぴりぴりと肌を荒々しく撫でる。スタープラチナを操るだけあって、凄まじい闘争本能である。これで見敵即必殺に走らないだけの冷静さも兼ね備えているのだから、本体もスタンドも文句無しに優秀だ。

 

 じじいに知らせてくる、そう言い残して同階の祖父の部屋へと向かった。今更なのだろうけど、『じじい』呼ばわりはあんまりだと思う。ちゃんと『お爺様』とか呼んであげた方が、ジョセフも嬉しいはずだ。……承太郎の『お爺様』は、聞きたいような聞きたくないような。

 

 早足で歩いていく承太郎の背を見送りながら、服をちょちょっと直す。着衣が乱れて()()わけではない、フランドールも立派な英国淑女なのだから。着ている服が心做しかずれて()()感覚が、彼女におかしくもない身嗜みを整えさせた。

 

「咲夜、時を止めて私の服を引っ張ったりしてない?」

 

「しておりませんわ。かくいう私も、少しばかり妹様に引き寄せられる感覚があります」

 

 服が体に張り付いてくる。フランドールの違和感を一言で言うならばこうなる。窓の軒並み閉め切られた屋内で、風で押し付けられることはない。謎の視線といい、この世界に来てから見えない何かの影響を受けがちなのは困りもの。

 気味の悪い感触に苛まれていたせいか、知らず鋭敏になっていた察知能力。咲夜のそれと同レベル程度にまで引き上げられた探知の網が、異質な気配を捉えて見逃さない。

 

「あら、凄まじい反応。まさか後ろに立っただけで気が付かれるなんて。……でも、安易にナイフを投げたのは失敗よ」

 

 振り向くのと同時に咲夜の手を離れたナイフ。切っ先はフードを被った女に指して、眉間を寸分違わず刺し貫く直線軌道を描かせる。飛来する刃物に、だが女は身動ぎもせず咥えた煙草に火を付けた。

 

 ナイフの勢いが、急激に失速する。女に届く前に地面へ落ちてしまい、さらにあろうことか床を滑って投げ手である咲夜へと戻ってくる。高速で飛来しているわけでもないので回収は容易だったが、手に取った後も妙に後ろへ引かれる。まるで最終目的地は彼女の手の内ではないと言わんばかりだ。

 

「ナイフが戻ってきたわね。どんなトリックを使ってるんだか」

 

「飛び道具は危険、という判断で間違いないかと」

 

「落ち着いてるじゃない、お嬢ちゃん。今ので全然びびらないなんてさ!」

 

 煙草の煙は大の苦手。趣味嗜好分かれることの多い姉妹において、意外と数少ない共通点の1つだ。匂いが許容できないし、吸い込むと頭痛がするわ目眩を起こすわで良いことが無い。何なら所構わず喫煙する輩の思考が理解できないまである。

 

「ときに異色のスタンドさん、あなた服の中にナイフを仕込んでるのね」

 

「ナイフ投げが好きなの。今は使えないみたいですけど」

 

「お手前拝見したかったわ。まぁ、自慢じゃないけどわたしもできるのよね」

 

 個人的な理由から女への嫌悪感(ヘイト)が順調に溜まっていく。ただの通りすがりの喫煙者ならまだしも、スタンドまで駆使してやるというなら容赦はしない、その綺麗な顔面を2週間くらい腫れさせてやる。咲夜が。

 

 互いに敵愾心を隠そうともせず、薔薇のように刺々しい美女同士が睨み合う。フランドールではとても割り込めない、様々な意味で。棘を出そうと思っても、出てくるのは丸くてぷにぷにした寒天みたいな半固形物体でしかない。

 こんな脆弱な装備で乱入したが最後、双方から串刺しのカツサンドにされてご先祖様の倍の軌跡をなぞる羽目になる。但しあちらは主体、こちらは客体という真反対の立ち位置にいるが。

 

「まさかっ」

 

「百発百中、絶対に外れない投擲って案外強かったりするのよ。まぁわたしは投げているわけじゃあないから、貴女には負けるわ」

 

 ふわりと咲夜のスカートが内側から膨らむ。フランドールの目の位置からだと彼女に良く似合う真っ白なあれこれが見えそう、いや見えるし見えた。あぁいや、似合うとは彼女の清楚で純白なイメージに合っているという意味であって、決してしなやかな肢体と黄金の美貌がホワイティ・ナニガシのエロティシズムを最大限に発揮しているということでは

 

「……妹様、私から離れてください。あれは磁力のスタンド使い、妹様は恐らく磁石の性質を付与されています」

 

「分かった、あとこれ渡しておくからできるだけ早くスカート隠すのよ!」

 

 フランドールに引き寄せられるように、隠しナイフが露出する。その際に、ついでのように柔布を切ってくるものだから、隙間から瑞々しい白磁の御御足が際どく覗いている。頬の1つや2つ……頬は2つしか無いが、赤らめるくらいしたってあざとくはないのだ、咲夜。

 応急手当に使え、そんな思いで着ていた真っ赤な上着を放る。これで半袖のパジャマ1枚めくればぷにぷに素肌という軽装になった。勿論こんな薄着では心許ないし恥ずかしいけど、従者の女性的尊厳には代えられない。自分はとっとと服を取りに帰れば済む話だ。

 

 駆けていく主を隠すように、より深刻な衣服ダメージを負った方が刃物より鋭い視線で牽制する。ナイフは壁に刺して固定し、渡された上着を皺一つ寄せず丁寧に畳む。こんな殺気じみた雰囲気を放つ化け物から意識を逸らすなんて馬鹿と自殺志願者のみの特権だ。女はどちらでもないから、走り去る少女に目もくれない。

 

「驚いた。あなた、サーカスに出られるんじゃない?」

 

「DIOのピエロに言われると恐れ多いわ」

 

「罵倒したいんでしょうけど、そんなのじゃ無駄無駄。わたしは目の開いた道化、いわば自覚あるピエロなのよ」

 

 この手の鼻につく高慢ちきが躊躇いなく自らを卑下するとは、余程DIOに心酔しているらしい。個人の信条は個人の自由、もっと言うなら知ったことではない。尊敬すべき王(マジェスティ)の露払い、それだけが咲夜に課せられた使命である。彼女はそう認識している。

 

「さぁーて、それじゃわたしはお暇させてもらうわ。精々磁石なご主人サマを大事にね?」

 

 これ以上用は無い、宣言するかの如く踵を返す。多少のアドバンテージを握った状況で追撃をしてこない辺り、やはり直接的な戦闘力は無い。

 躊躇なく蹴りかかる。殺すと国家権力に足がついて面倒なので、首の骨を折る程度の威力に抑える。本当ならフランドールに煙草の煙を吸わせた咎で肋骨を5本くらい粉砕しておかねばならないのだが、服を一刻も早く返さねばならないのでそこまではしない。畢竟人間は首の骨を折られれば動けない。

 

「おォッと、すげぇ蹴りだな」

 

「ほんとに。後は任せたわよ、『アヌビス神』」

 

 咲夜は人体ではなく細身の鉄を蹴った。加減込みでなお常識破りな破壊力に、剣を構えた男が堪らず数歩たたらを踏む。この蹴撃の威力は織り込み済みだったのか、表情には余裕が滲んでいた。

 初めから2人1組(バディ)で行動していたということだ。疑似餌をばら撒く撹乱係と肉弾戦役、ここに来て何気に初めて互いを補い合う役割分担が為されている。

 

「次から次へと、切りの無いこと」

 

「まぁそう言うな。結構強いって聞いてるんでな、ちょっとばっかし遊ぼうや」

 

 マナーレスな割り込み剣士に、最低限の作法を文字通り叩き込んでやる。女を追うのは、現状が維持できるならその後で構わない。この男、いやこの剣を彼女に近づけるのは極力避けたいところだ。

『アヌビス神』とやらはこれまであまり出会うことのなかった、純粋な実力が油断ならない敵スタンドだ。しかも奇妙なことに、本体を有しておらずスタンドだけで存在している。遠隔操作型とは異なる、剣そのものに宿る強烈なエネルギーがそれを裏付ける。

 

 今『アヌビス神』を構えている口髭の立派な男は、剣の握り方や立ち方を見ても明らかに戦い慣れていない。このスタンドは他者を洗脳し、自らの意のままに操る支配型と思われる。つまりは妖刀、刀に詳しい咲夜の友人に曰く相手を殺して自分も死ぬタイプの迷惑ここに極まれりな剣らしい。

 

 剣に堕ちる時に握るもの。高みを目指す彼女が用いた堕ちるという表現、つまりそういうものなのだ。従って、咲夜の一存で粉々に砕き割っても問題は無い。



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第六十三話 セト神 その①

「ん?」

 

「あ」

 

 メイドの後始末を剣のスタンドに任せ、ホテルの外まで撤退した女。小綺麗な外装を見上げながら少しだけ乱れた息を整えている最中に、関係上の仲間にばったりと出くわした。

 

「マライア、何してるんだおめー。そのスタンドで罠仕掛けに行ったんじゃないのか?」

 

「そのつもりだったけど、予想以上に強くてね。あの()()()()()()()()が、ね」

 

「あァ……あれか」

 

 エジプトの女神『バステト神』の名を冠するスタンド使い、マライア。彼女が心の底から崇敬を誓う皇帝(カイザー)と同名のスタンドなど、とても生かしてはおけない。できればこの手で仕留めたかったけれど、目標はあくまで奴らの始末。敗北してDIOに失望されるのは、死ぬよりも辛いことだ。

『アヌビス神』との勝負は、もう終わる頃合いか。実力の程が見えない不気味なスタンドだという情報が上がってきていたが、底知れなさならあの刀の方が上だ。理論上際限なく強くなり続けるあの怪物は、いずれ憎たらしい首を刎ねてくれる。

 

「取り敢えず承太郎とフランドールはじき戦えなくなる。アレッシー、残りは任せるわ」

 

「おいおい! 残りっておまえ、ジョセフにポルナレフにアヴドゥルに花京院に……4人もいやがるじゃねーかよッ!」

 

「男なんだから頑張りなさい」

 

「おれ、そーゆー奴キライだぜッ! 男だからとか言って押し付けてくる奴だ。ッたく、これだから女は」

 

 言ってるじゃあないか。鳥の翼みたいな髪型の男に、呆れたような視線を投げる。自分のことも嫌いですというアンチ・ナルシスト的性格の暗示でもあるまいに、数秒で自分の発言に矛盾を起こさないでほしい。

 

「ちっ、しゃーねーな。DIO様のためだ、手始めに殺りやすそうなポルナレフから行くか」

 

「へぇ……あんたのスタンドだとポルナレフに相性が良いのね」

 

「おれのスタンドについて探ろうってんなら、30歳ほど遡る覚悟をしな。もっかいしょんべんくせーガキとして生き直すのは嫌だろう」

 

「……1つ訂正するなら、30も若返ったらわたしの存在が消えるよ」

 

 彼女のことを何歳と見ているのか。発言からして35か6辺りだろう。そんな中年域にはあと10年待っても届かないというのに、失礼な男である。

 とはいえ先にスタンド使いのタブーを示唆したマライアにも非はある。知れば即ち対策が立てられる、相手のスタンドを知ろうとする行為はともすればその相手への宣戦布告か挑発と取られ得る。彼女だって自身の能力を暴かんとする輩に出会ったら、まず例外なく処分へ乗り出す。

 

 ひょこひょこ、猫背で歩いていくアレッシーを見送る。異常なまでに姿勢が悪いのは、きっと普段から背を丸めて動いている証拠だ。女運が無いなどとほざく前に、まずは自分の生活習慣とか身嗜みとかを見直してはどうなのか。

 

 尤も、そんなアドバイスをする間柄でもないけれど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「うおッ、なんじゃこりゃッ!」

 

 ホテルへ乗り込む前に、腹拵えをしていこう。事前に調べておいた手近なレストランへ足を運ぶ。美味しいエジプト料理が比較的廉価で堪能できると評判で、アレッシーも楽しみにしていた。

 路地を曲がったところで、何か脆いものが足に当たる。ぼふん、と足が少し飲み込まれる感覚、間髪入れず靴に雪崩込んでくるさらさらとした細かい物体。それが砂だと認識するのに1秒もいらなかった。

 

「なんだよこの小汚ねーおっさんッ!」

 

「折角作ったお城が……」

 

「えぇーッ!? 頑張ったのに!」

 

 どうやらここは、子供達の遊び場になっていたらしい。そんなことまで調べられるはずもないとはいえ、灯台の下が暗くなければ避けられた。残念ながら、アレッシーの注意不足であった。

 そんな引っ掛けるような所で砂の城なんて作っていた子供達も色々と見直すべきではあろう。だが純粋無垢な彼らにとって、制作物を壊されたという事実それ自体こそが最も重要だ。『子は傲慢な太陽、成長するにつれ落ち着いた月になる』と何処ぞの古書も評する。故にまだ貧相な語彙をフル回転させてアレッシーを罵倒の嵐に放り込む。

 

 下を向き、体を震わせる。それが怒りの挙動で、自分達が怒らせているのは大人であると、彼らは早く悟っておくべきだった。力を持つ大人の怒りが、仲間内で散見するそれとは比較にならない暴威で襲い来ると、前もって知っておくべきだった。

 

「ときにきみたち、お父さんやお母さんは何処に?」

 

「はぁ、お父さんは仕事でお母さんは家にいる」

 

 だから何だ、変わらぬ非難の目を向ける。無知のもたらす力はときに強く、それでいて甚だ危険だ。

 

 もう俯いてはいなかった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 アレッシーの影がぐにゃりと蠢いたのを、何人が見ただろう。例えこの時点で身に迫る危機を察知し、一目散に逃走を図ったとしても、時は既に遅きに失している。増して影の揺らめきなど大人ですらそれ自体が異常事態だと思うには難のある現象だ、脳内に逃走という案を浮かべるのは不可能に等しい。

 

 目線が下がっていく。しゃがんでないのに、どうして。不思議に思った時にはもう立つ力さえ奪われかけていた。

 

「あれ、何だろ、上手く喋えあ……」

 

 ほんの10秒かそこらの出来事だった。アレッシーは1歩も動いていない。ただ下卑た笑みで散乱する衣服を見ているだけである。

 

 子供達は消えた。神隠しにでもあったみたいに、突然に。では何処か別の世界で生きており、時間が経てば帰ってこられるのかと問われると。

 

「静かにできるじゃないか。

 

 

 

 

 

 えらいねェ~~~~」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 部屋にいたジョセフ達に敵の接近を伝えた承太郎。スタープラチナも通じない謎の男ではない、そう分かると皆はある程度落ち着きを取り戻せた。

 2人1組でホテル内を探そう。アヴドゥルの提案により、彼とジョセフ、ポルナレフと花京院のバディが結成された。承太郎はフランドールと組んで、1階の探索を担当することとなった。

 

「……変だ」

 

 彼女を探して1階への階段を降りるさなか、どうも違和感が拭えない。自動販売機の前を通ると心做しか引かれるような感覚を覚え、床に落ちていた金属の欠片が靴の側面にくっつく。学生服のボタンは肌にぴったり張り付こうとしてくるし、承太郎が通りがかった瞬間にドアの向こうからラジオのノイズ音が聞こえる。

 

 明らかにおかしい。ちょっとした不思議な数分間、そんな曖昧な言葉で誤魔化すにはあまりに不審な現象が連続している。スタンドの影響の現れかも知れない、警戒しながら1階に下りると、丁度向こうに探し人がいるのを見つけた。

 

「おい、フランドール」

 

「あっ承太郎、伝えれた?」

 

「確かに伝えておいたぜ……ッ」

 

 ぱたぱたと駆け寄ってくるフランドールが、いきなり猛ダッシュ並の高速で突っ込んできた。小さな子供の体だ、幾らハイスピードでも承太郎からすれば腰を曲げる程の衝撃でもない。しかし予兆のほぼ無い急激な加速を目の当たりにして、ほんの僅かの焦りと驚きを味わった。

 

「……いきなり突っ込んでくるんじゃねー」

 

「いや、今貴方の方に引き寄せられたのよ!」

 

 訳の分からないことをほざいているが、じじいがかっ飛んでくるよりはましか。妥協して、一先ず引き剥がそうと肩を掴む。体格差を考えて、うっかり傷をつけたりしないよう引っ張るが、何故かフランドールは承太郎に抱きついたままだ。彼女の手は胴に回ってもおらず、いとも容易に離れるはずなのに。

 もう少し力を込めてみる。やはり彼女は剥がせない。まるでフジツボが岩場に張り付いたかのように、ここを住処と主張しているとさえ見える。

 

「しかもくっついたわ。凄い、蝙蝠よりしっかり掴まってる」

 

「……成程な。さっき電気の漏れるコンセントに触った、おめーらに忠告される前だ」

 

 敵が操るというコンセント型のスタンド、承太郎の身に起きた種々の珍妙な現象、そして現在進行形で磁石のように結びついた2人。総合すれば考えられる可能性は1つだけだ。あのスタンドは、触れた者を磁石化してしまう。

 

 灼熱の炎を操るとか、何でもかんでも破壊できるとかよりは物理的影響力も高くない。だが、体が金属と引き合うのは厄介……もっと率直に言うと面倒くさい。そこに立っているだけで金属を引き寄せていたら、街中なんてまともに歩けやしない。一見大したこともなさそうに見えて、その実無視できない性質を備えたスタンドである。

 

「承太郎、取って。この体勢だと力が入らないのよ」

 

「そりゃあおまえはコアラじゃねーからな」

 

 ぐっと力を入れて、お腹についた幼女をひっぺがす。痛そうな素振りは無いので、きっと大丈夫だ。コアラ扱いに満更でもなさそうなのは、まぁ年端もいかない子供なので分からなくもない。

 

「ザ・ワールドはどうした」

 

「えぇと……スタンド使いと戦ってるわね。磁石の使い手とはまた別の、結構強めって感じかしら」

 

 自分が退却した後、新たな刺客が到着したということか。咲夜に想定外の負担をかけてしまっているが、彼女なら大丈夫。気配を探ってみた限りで戦闘の場に磁石女はいないので、承太郎とフランドールは逃げ去った彼女の方に専念するのが得策と思われる。

 

 先程ジョセフから、花京院達が本日中の強行突破を諌めたという話を聞いた。結果論にはなるが、英断だったと言わざるを得ない。ここで9人の男女のうち2人を戦闘不能に追い込めれば、形成は一行に微笑んでくれる。闘志を滾らせる承太郎の肩に、雰囲気丸潰れな軽い様子でひょいっとライドオン。

 

「……おい」

 

「さぁ行くわよ。探すのは褐色の肌をした冷たい感じの美人、きっと近くにいるわ」

 

「やれやれだ、このオジョーサマはよ」

 

 折角のチャンスで足を引っ張ったら叩き落とす──引っ張るのは肩か頭になりそうだが。深く深く溜息を吐いた。



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第六十四話 バステト神・アヌビス神 その②

「ねぇ、承太郎」

 

「……」

 

「ねぇってば」

 

「……何だ」

 

「あの女の気配がするわ」

 

 ホテルを出る際、承太郎はフランドールを下ろした。何故自分が齢2桁に届くかどうかという少女を担ぎながらフロントの前を通らなければいけないのか、最早羞恥の公開と言う他にない。磁力のせいで剥がしにくかったのが、あの時は舌打ちする程に苛立った。

 結局ホテルの外に出るや否や、またしても同じポジションに飛び乗ってきたので元の状態に逆戻りだ。今日は厄日だ、日本を出発してからこんなにも厄に塗れた日は無かった。ポルナレフの乗り心地を気に入っていたのだから、妥協せずにそっちへ行ってくれれば良かったものを。

 

「隠れる場所がたくさん。これは骨が折れそうね」

 

「さっさと気配を探って見つけ出しな」

 

「人を都合の良い探し屋みたいに言わないでよ」

 

 彼女はスタンドの気配を何らかの『感覚』として察知する特殊な能力を有する。ザ・ワールドも同じ能力の持ち主で、かつ本体よりも数段優れた鋭敏さを誇る。1度気になったらしいポルナレフが便利な芸当を身につけようと修行していたことがあったが、あえなく失敗という結果に終わった。どうやら単に人の気配に敏感なだけでは、彼女達のように見えない敵を見つけることはできないようだ。

 

 異常なまでに強い磁力、というわけでもない。道を走る車が吸い込まれてきたりとか、マンホールの蓋が飛んできたりとかはない。ただ所々面倒な弊害が発生しているので、さっさと倒すに越したことはない相手だ。

 それに、面倒で済んでいるのも今の時点での話でしかない。時間経過と共に、もしくはマライアとの距離が狭まる程に強くなっていくのだとすれば、いよいよ磁力が身の安全を害するレベルに達している何よりの証拠である。ザ・ワールドが抑えているとはいえ、もう1人敵がいるなら厄介者は早めに処理しなくては。

 

 フランドールの視線が、ひょいひょいとあちこちを動く。警察犬が特定の匂いを追跡していくように、彼女も気配の軌道を見ているのか。やがて乱れ飛んでいた目が唐突に止まる。ただ一点を見続け、承太郎に発見を知らせた。

 

「あ、いた。いたわよ承太郎っ」

 

「頭の上で大声出してんじゃあねーぞッ!」

 

 面倒な弊害の半分以上は、耳元でやんやと騒ぐ声である。こんなに煩いカー・ナビゲーションは無い。しかも何が酷いかって、音量調節はナビゲーション側の操作なのだ。幾ら承太郎が声を尽くしたって、聞き入れられるかは完全に彼女次第となる。

 人を乗せて走らされている馬の気持ちが分かるような気がした。鞭で叩かれないだけ、まだ身体的にはましなのかも知れないけれど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 がきん、金属同士のぶつかる音がホテルの廊下に響く。突然の騒音を何事かと覗きに来る者もいたが、異様な光景を目の当たりにして一目散に逃げ去っていった。人気の無い空間で一切絶えず鳴り響く金属音から、人間同士が打ち合っていないのは明らかだ。

 

「ぐぉッ……!」

 

 何百合を凌ぎ合ったか、尻餅をついたのは男だった。防ぎきれなかった斬撃の数々を示すように、裂かれた衣服には少量の血がこびり付いていた。

 

「力が覚えきれねぇ。何者だ」

 

「ご存知の通り、ザ・ワールドと申しますわ」

 

 刀を構える男を、咲夜が見下ろしている。手にナイフを携え、明らかなリーチの不利があるにも関わらず1つの傷も負ってはいない。鈍く銀色に煌めくナイフにも、細かな打ち傷さえ刻まれていない。

 激闘だったと誰もが言うだろう。事実双方途轍もない速度で得物を振るい敵を斬ろうとしていた。その結果を見て互角とは、やや言い難いように思える。素直に場の状況を捉えるなら、咲夜が圧倒的に優勢に立っての勝利だ。

 

「ちいッ!」

 

 刀身に受けたダメージは小さくない。耐久度の落ちたままやり合えば、身が砕け散るだろう。それを回避するため、男は逃げの一手を選択した。素早く立ち上がり、窓に向けてダッシュ。その勢いを保ったままガラスを体当たりで突き破って、ホテル外への脱出を果たした。

 無論、あからさまな逃亡を黙って見てはいない。即座に後を追い、男の背中を射程圏内に捉える。人混みに逃げられると手が出し辛くなるので、さっさと仕留めるのが良い。窓から身を投げ、足が地面に着く前に、次の行動を決めた。

 

 着地していた時間は、コンマ数秒。次の瞬間には、咲夜は地を蹴って急激な加速を生んだ。依然背を向けたままの男を狙い、続けざまに3本のナイフを投擲する。1本が男の目の前で壁に刺さり、咄嗟に動きの止まった足の間に1本、そして耳の真横に最後の1本が突き刺さった。

 

「チェック・メイト。覚悟しなさい」

 

「……ふっ」

 

 4本目で脳天を撃ち抜く。言外にそう警告したのだが、男は命乞いも焦りもしなかった。まだ策があるのか、警戒を解かない咲夜に向けて……否、その()()()()刀を力の限り放り投げた。

 

 フランドールがここへ戻ってきている。他者を操るというスタンドの性質上、『アヌビス神』にはそれが分かる。飛び降りた所で彼女の接近に気が付き、まさしく天啓を得たと言わんばかりにほくそ笑んだのは、さしもの咲夜でも見抜けなかった。

 

(前もって『バステト神』に触っておいたのは我ながらナイスな判断だったぜ!)

 

『アヌビス神』もまた磁石の体質を得ていた。咲夜とてそれには気がついていた、戦闘のさなかでナイフの引かれる独特な感覚を幾度となく覚えていたから。しかしそれは咲夜の攻撃テンポを乱して隙を作るための姑息な罠であると考えていた。

 まさか同状態の他者へ飛んでいくために使うなど、想像が及ばなかったからといって誰が責められようか。あまりに奇天烈な、作戦と呼ぶべきかも怪しい一手は、しかしその奇想天外さ故に咲夜をも欺いた。

 

 反応が数瞬遅れた咲夜、ぐんぐんと距離を離していく妖刀。果たしてお望み通り、脇の路地から出てくる2()()

 

(じょ、承太郎~~~~ッ! てめー何を肩車してやがるッ!?)

 

 そう。フランドールは現在、承太郎に肩車をさせている。しかも彼までもが『パステト神』の影響下にあり、刀は無情にも着弾点を彼に変更する。自ら動く能力は『アヌビス神』には無いので、もはや趨勢を見守る他になくなってしまった。

 

(待て、冷静になれ。承太郎の心を乗っ取って『スタープラチナ』を使えたら)

 

「よっ」

 

(……いや掴むんかッ!)

 

 承太郎より先に飛来する物体を認めたフランドールが、小さな手でひょいっと掴む。これにより、道中軌道修正を強いられかけた計画は、不思議なことに当初の予定そのままに収まった。二転三転の事態に突っ込まずにはいられなかったが、取り敢えず彼にとっては疑いようもなくラッキー・ハプニングだ。気を取り直し、次なる作戦の段階へと移る。

 

(悪いがきさまの精神はジャックさせてもらうぜ、フランドールゥ!)

 

「日本のカタナ、だったかしら。結構綺麗な見た目だけど、こんなものが飛んでくるなんて危な……」

 

「やれやれ、磁石ってのは面倒なものだぜ」

 

 精神に直接語りかけることで、その精神を支配できる。そうして『アヌビス神』により征服された精神の持ち主は、如何なる身体的条件や肉体年齢をも振り切って剣豪と化す。例え老衰で死ぬ間際の老人であっても、ひとたびこの魔刀に魅入られたならムサシ・ミヤモトやヨハネス・リヒテナウアーも驚きの剣捌きを披露できるようになる。

 

(フランドール、おまえは最強の剣士。誰にも負けることはない。承太郎を殺せ、そのスタンドでジョセフも花京院もポルナレフもアウドゥルも、DIO様に歯向かう愚か者共を殺せ…………)

 

「おい、フランドール。どうした、顔色が悪いぞ」

 

 例え肉体が比喩でなくダイヤモンド並の硬度を有していたとしても、精神までその堅牢さを及ぼせはしない。この世に蔓延る数億数兆の心を持つ生物に共通するごく僅かなポイントの1つに、精神は身体より脆いというものがある。もう何万と人間を見てきたこのスタンドは、未だかつて自らの呪縛を振り払った者を知らない──()()()1()()()()()()()

 

「……あぁもううるさいっ!」

 

(にゃにィーッ!? じゅ、呪縛を抜けただとォ~~~~!?)

 

 ここに来て2人目の登場だ。凡百の人間なら抵抗できずに支配下に取り込まれていただろう、惜しむらくは重要局面で例外を引いてしまった彼の奇跡的なまでの悪運である。

 磁力の静止を振り切って承太郎の肩から降りる。よろめきながら刀に向く目は、彼女らしくない険しさを露わにする。

 

 少し目が回っているような感覚がある。姉に無理矢理ワインなどを飲まされて酔わされたことがあるが、気持ち悪さはその時に近い。このまま握り続けていれば、いずれ精神を持っていかれるに違いない。震える体を叱咤して、制御権を取り戻していく。

 

(フランドール! おれに身を委ねろ、そうすれば最高の力を与えてやる。今なんて目じゃない、何倍も何十倍も素晴らしい力だ)

 

「嫌よ。貴方なんか私の下僕にいらない」

 

(考え直すんだ。DIO様に仕えよう。あのお方の右腕として、いつまでも、永遠に)

 

「それもお断りよ……!」

 

 魅力なんか微かも無い、路傍の石めいた提案だ。世界を揺るがす巨悪に仕えて、フランドールに何の得があるというのか。それならかの邪智暴虐の姉に仕える方がまだ……どちらも御免蒙るけれど、二者択一を迫られたなら耐えられる。こんな溺死か焼死を選ぶみたいな選択は絶対にしたくないけれど。

 

 ふわり、浮遊感を味わった。それが『アヌビス神』の得た最後の感覚となった。己の細い身がばらばらに砕き割られたのは、知覚できなかった。

 

「ナイスタイミングよ」

 

「はっ。お体はもう障りませんか」

 

「暫く休めば大丈夫」

 

 かなり精神力を消耗した。肉体にその疲れが痙攣や発汗として発露してくる程に。体を屈めた咲夜に肩を貸され、紅潮した口元が浅い呼吸をハイテンポで繰り返す。所謂酸素欠乏症にも類似するような様相だが、嘔吐感は無い。

 このコンディションで連戦は厳しいので、少しだけ休憩してからマライアを追おう。フランドールの提案に、やれやれと肩を竦めて座り込んだ。



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第六十五話 セト神 その②

 ──の手記は、毎晩更新されていた。今日は何があった、明日の予定はあれこれ。彼女らしい整った字で淡々と、しかし時折軽妙なジョークも交えつつ書き出される独特の世界観に、思わず笑ってしまう。

 

 いなくなった前日、次の日の予定は大図書館の掃除手伝いとあった。成程、掃除中に何らかのトラブルに巻き込まれ、手記だけを残して失踪してしまったというわけだ。……しかし肝心の行方について、手掛かりを得ることはできなかった。皆の前だと分かっていても、渋面になるのを抑えられない。

 

 とん、と目の前に1冊の本が置かれる。奇妙な魔力を感じるが、魔導書ではなさそうだ。無地の白いカバー、そして背面に印字されたBizarre Adventureの文字。見覚えはない。

 

 図書館の主曰く、今朝になって突如魔力を放ち始めたそうだ。もしかすれば何か関係のある書なのかも知れない、そう思い持ってきたとのこと。しかし急な魔力の発露と2人の失踪に、因果関係を見るのは──。

 

 

 

 

 

 ……()()()

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「おん?」

 

 これまでにない程にすっきりとした朝を迎えた。後を引く眠気も無く、一切の抵抗なくベッドから起き上がった。

 今日の突貫決着を見送る可能性がある、アヴドゥルからそう聞いてもポルナレフは動揺しなかった。事前にそうなることを考えなかったわけでもない。あの謎の男が現れてからというものの、ジョセフは明らかに勝負を焦っている節があったから。

 

「おーい、ジョースターさん。何か探し物か?」

 

「おぉ。承太郎とフランドールが、さっきから見えなくての」

 

「結構珍しい組み合わせだねェ」

 

 一旦落ち着いてやれば良い。娘の命のリミットが近いこともきっと彼の焦燥に拍車をかけているのだろう、その心情は理解しなければならない。だが急いては事を仕損じる、こんな急場だからこそ冷静になる必要がある。

 

 サポートできそうなことは、どんどん手を出していこう。彼の力になるべく、まずできることを洗っていると、廊下にて当の本人を見つけた。話を聞くと、承太郎達の行方が知れないという。

 

「ホテルの中は粗方探したんじゃが、外にでも出たんかのー?」

 

「ふぅん。ちょいと見てくるぜ」

 

 まぁ連れ立って何処かをほっつき歩いているのだろう。驚異的なスタンド使いが2人いるのだし、あまり心配しなくとも良さそうだ。朝の散歩がてら、外をちょろっと覗いておこう。これも手伝えることの1つになるはずだ、ちょっとしたヘルプの気持ちでホテルから出ていった。

 

 ポルナレフの背中を見送って、一旦部屋へと戻る。ホテル中を歩き回ったので、少々老体に堪えた。自室で少しばかり休憩して、それから皆を招集し予定の変更を伝えよう。その頃には承太郎達も帰ってきているはずだ。

 義手をきりきりと回して調整しながら、部屋までの妙に長く感じられる道のりを歩く。いつか技術が発展してドア前までワープなどできたら、どれ程便利か。50億ドル出すから世の科学者諸兄には新技術の開発に勤しんでほしい。

 

「こんな時間から清掃か」

 

 階段を上がったところで、作業着姿の男が窓を拭いている。日の高いうちからご苦労なことだ。ご苦労さん、心の中で労いの言葉を送りつつ後ろを通り過ぎる。

 入り込む日光が、歪んだ窓枠の形を床に移す。ヨーロッパやアメリカには見られない独特な形の窓は、或いは伝統的な造形を昔から受け継いでいるのかも知れない。左右非対称で美しいとはとても言い難いが、どうも見ていて癖になる。

 

「なッ!」

 

 自宅の窓にも取り入れてみたら、妻も面白がってくれそうだ。感心しながらゆっくりと進む足元を、鳥肌の立つ怖気が駆け抜けていく。咄嗟に飛び退いて、ばっと背後を振り返る。着ていた皺だらけの作業着は、いつの間にか脱ぎ捨てられていた。

 

 翼を広げた鳥のような髪型、そして大き過ぎるせいでずり落ちているサングラス。歳の頃は40代くらいか、()()()()()()()とごく自然に思い込む。

 

「スタンドの発現は、今から数ヶ月前……だったよなぁ? ジョセフ・ジョースターさァん?」

 

「き、きさまスタンド使いか!」

 

「大正解。えらいねェ~~~~」

 

 にやにやと気色の悪い笑みを揺らす。まさか敵だったとは、送った労いの言葉を返せ。毒づきながらも自らの体に付き纏う違和感には気が付かずにいられない。

 悪い変化かと問われると、そうでもないように感じる。まるで腰と四肢から5キロの重りを外したみたいに、体が軽い。敵を問い詰める声も、えらく若い男のものだ。

 

 窓に映る自分の姿が目に入る。それが本当に自分なのか、じっくり2秒は考え込んだ。前に進むしかないはずの年齢がこの短い邂逅の中で半世紀分も逆行することなど、幾らスタンドの仕業といっても考え難い。

 

「おっと、肉体が若くなったからって自慢の拳で殴ろうだなんて思わないことだ。目も良くなって、こいつがはっきり見えるだろう?」

 

「ちィッ、面倒な輩じゃの」

 

「その姿でその口調は似合わねーなッ!」

 

『ハーミットパープル』があれば、撃たれるより早くアレッシーの握る拳銃を奪えたはずだ。だが、ジョースターの血統にスタンドが発現したのはDIOの復活と時を同じくしている。

 外見だけでなく、能力も戻されている。発砲を止める術はない、そう悟って即座に横へ飛ぶ。サイレンサーを忘れない抜け目のなさに舌打ちを1つ、古びた木のドアをばたんと閉める。一応中から鍵を閉められるが、がたがたと手荒く扱われればその拍子に空いてしまいかねない緩さだった。

 

「Oh My God! 躊躇のねー野郎だぜッ!」

 

 口調まで若々しくなっている。どうやら完全に20歳前後にまでタイムリープを食らっているようだ。どうせなら彼女と一緒に時をかけて、一夜限りの情熱的な夜を過ごしたかった。それがお相手は気色悪い男、しかも命のやり取りを強いられるなんてナンセンスにも程というものがあろう。

 

「来やがるな」

 

 喧しい足音を隠そうともせず、ドアの前に立つ。そのままノブをがちゃがちゃと捻り、それで開かないと見るやすぐさま衝撃で強引に開こうとしてくる。恐らく蹴っているのだろう、鉄製ならそれでもさして心配はなかったけれど、ぼろい木組みのドアで耐えられる負荷ではない。

 

 4度目の蹴りを浴びた時点で、早くも錠前がノックアウトされる。湿気をふんだんに吸ってしまったのか、やたらと重いドアを開き、内部を一瞥。雑に片付けられたモップやティッシュの予備を見れば、誰だって掃除用具をしまっておく部屋だと一目で分かる。

 

「ジョースター、あまり逃げるなよ。おれァさっさとてめーを仕留めて、ポルナレフ辺りでも殺ろうかって考えてんだよなァ~~~~」

 

 ポルナレフ、かなり強く聞き覚えのある名だがどうにも顔が思い出せない。それどころか、自分がエジプトのホテルで名も知らぬ中年男性に襲われている理由さえ曖昧になっている。記憶まで過去に戻りつつあるということか。アンチエイジングは女かてめー自身にやってろ、こんな状況でなかったら真正面から突きつけてやったものを。

 

「ま、こんな狭い部屋の中じゃあ隠れる場所もねーよな。咄嗟の反射神経は褒めてやるが、逃げた先がバカだったぜ!」

 

 ロッカーが2つ、その他に身を隠せそうな場所はない。この一瞬で天井備え付けの換気口に上がる化け物じみた身体能力があれば話は別だが、どちらかに入っていると決めつけても問題はあるまい。確率は2分の1、どちらを先に開けるか暫し悩む。

 最終的に殺せば良い。余程でなければ通過点の質なんて問われない。いわばこれは余興、殺伐とした殺し合いの中で心の休息点となってくれる。

 

「こんにちはァ~~~~……ちッ、外したか」

 

 手前のロッカーには、使い古されたバケツとホース。お求めの男は入っていない。今日の運勢は微妙なようだ、そういえば最近の占いでも数ヶ月以内に災いがやってくるとか言われた。これのことだったら可愛いものだ、潰れた蛙のような声で笑う。

 これでジョセフのいる場所は特定できた。後は開けた瞬間の反撃に注意しつつ、脳天に一発撃ち込んでやるのみ。圧倒的な優位は美味いイタリアン料理よりも大好きだ、決して揺るがない安心と余裕をもたらしてくれるから。

 

「グッバイ、JOJOォ~~~~!」

 

 スタンド『セト神』がロッカーを開放し、中が見えてくる。既に拳銃は突きつけており、引き金を引けば何千万ドルもの大金が確約される。この世のどんなギャンブルより安全で利益確実だ、顔が醜く歪むのも忘れて呵呵大笑が止められない。

 

「なに?」

 

 力を込めた指が、トリガーを弾く寸前で止まる。見間違いか、目を擦り再度ロッカー内部を見る。無論それだけで現実が都合良く置き換わるはずはない。

()()()、ジョセフの姿がない。余裕綽々の笑みから一転、厳しい表情にすり変わり辺りを見渡す。まだ老眼を憂う歳ではない、事実この部屋のどこにも殺害対象はいない。まさか本当に換気口へ潜んでいるのか、有り得ないと思うがもう可能性としてはそこしかない。スタンドを操って、鉄網の蓋を取り外そうと手をかける。

 

「ごふぁッ!?」

 

 突然後ろから強打され、受け身も取れずに床と鼻が熱烈な接吻を交わす。突き抜ける激痛に涙を滲ませながら振り返れば、そこには惨たらしく殺されるはずの男が五体満足でアレッシーを見下していた。顔をしたたかに打ち付けたせいだろうか、全身をゆらゆらと揺らめくオーラが包んでいるように見える。

 

「バカはてめーだ。扉を開ける時、妙に重くはなかったかい?」

 

「てめぇ、扉の裏に……ちくしょう!」

 

「おっと、こんな狭い場所で銃弾なんて撃たない方が良いぜ」

 

 震える手で無理矢理照準を合わせるが、下手な発砲は跳弾による自損の危険をも伴う。すぐさまそれを思い出し、咄嗟にヘッド・ショットを躊躇う。

 

 その刹那があれば、ジョセフにとっては充分だった。さり気なく手に持っていた、別に隠そうとしていたわけでもない瓶の蓋に波紋を流す。本来生物に擬似的な太陽エネルギーを与えるものであり、金属を流れるものではないが、波紋戦士として対策くらい如何様にも立てられる。そこらのバケツにちょびっと残っていた水で濡らしており、波紋伝導率は申し分のない程度であった。

 

「あげェ~~~~ッ!」

 

「撃つならこれくらいが丁度良いよなってことよ!」

 

 過去にやばい死ぬとかくるピーィとか文句を吐きながら修行に明け暮れた甲斐があった。多少加減しても、大の男の指を纏めて3本へし折れる程の威力で射出できてしまう。これじゃジュースを買うだけで凶器所持罪を食らっちまう、それは自慢か自嘲か。兎にも角にもアレッシーの右手はほぼ封じた。

 

「おまえは次に『勝った気でいるなよジョースター!』と言うッ!」

 

「ぐぬゥ、勝った気でいるなよジョースター! ……ハッ!?」

 

 ジョセフ・ジョースターは先読みにおいて天才である。生まれ持った才能とは恐ろしいもので、この能力を活かし彼は数多の窮地を乗り切ってきた。そして、単にアレッシーの言葉を予知しただけではなく、既にその先の準備も終えている。

 

「悪いが勝った気でいるぜ、何せおれはてめーを完璧に追い詰めてんだからよォーッ!」

 

「追い詰めてるだァ!? そりゃこっちのセリフだ、いざとなりゃおめーの眉間をブチ抜けんだぜ!」

 

「……ほう?」

 

 確かにその通りだ。右手を潰したとは言っても、左手がまだ残っている。もう攻撃に転用できそうなものは手元に無く、拾ってくるより撃たれる方が早いのは目に見えている。

 

「よし、撃ってみな」

 

「な、てめー正気か!」

 

「あぁ、正気だとも。撃ってみろ、おれの眉間をアーチェリー種目のオリンピック選手みたいに正確になッ!」

 

 だが、ジョセフの余裕は崩れない。先手を打てると勘違いしているようだが、その考えは残念ながら甘い。何故なら、素早さ比べにおいてアレッシーは()()()()()()()()()()()

 

「ぐわぁッ!?」

 

「銃身にスポンジなんて詰めてたらそりゃ暴発するぜ! このスカタンがーッ」

 

 トリガーを引いた瞬間、銃が爆ぜ無骨な男の手を焼いた。小型の手榴弾が手元で爆発したかのように、強烈な熱と衝撃で左手までもが使い物にならなくなってしまう。耐えられない激痛に呻くアレッシーの前に、かつんと靴を鳴らして立つ。

 

「さて……すげー久しぶりだが、感覚まで若返ってんのかな。サイコーの波紋が生み出せるぜ」

 

「ヒエッ、待て待て待ってくれ。もう抵抗しねぇ、降参だ」

 

「降参? てめー、降参するのか」

 

 こくこく、壊れた玩具のように首を縦に振り続ける。波紋について詳しくは知らないが、並外れて頑強な吸血鬼の肉体をも破壊する技だと聞いている。そんなプラス補正をかけられた攻撃など、受けようものなら冥府が明瞭に見える。

 痛い思いも死ぬのも真っ平御免、故に額を地につけて許しを乞う。負けというおいそれと受け入れ難い事実を認め、慈悲を希う。真摯に謝り倒す彼を、何処か冷めた目で見下ろしていた。

 

「もう二度とおれたちに敵対しないと誓うか!」

 

「誓う、誓います。絶対手は出さねー」

 

「よーし、よく分かった!」

 

 くるりと踵を返し、一層ぼろくなってしまったドアに手をかける。もう施錠の機能は果たせないので、出入り自由な用具置き場と思ってもらえたら嬉しい。防犯能力の低下について同情はするけれど、弁償はしない。犬にでも噛まれたと思って諦めてくれたら幸いだ。

 

 ジョセフが後ろを向いたのは、最後にして絶好のチャンスでしかなかった。口と上辺だけ真摯そうに見せて、その実彼の隙を伺っていたに過ぎない。逆転ホームランの機会を眈々と探り、最悪反撃できそうになくともまんまと逃げ遂せるつもりだった。

 影を伸ばし、ジョセフの足元に迫る。一瞬触れただけでも5、6年、接触が長引けばそれこそ胎児の時代にまで遡らせることが可能だ。証拠は残さず、秘密裏に1人ずつ抹殺してやれる。それから病院に行って手を治療し、DIOから支払われる莫大な報酬のごく一粒で治療費を賄えば良い。

 

 冷静に考えれば明確()()()チャンスなのだが、四の五の思考を広げる余裕は無かった。

 

「飛ん……!?」

 

 足のばねを活かしたわけでもなく、プロボクサーが試合前に踏むステップくらいの軽さで跳躍する。たった百分の数秒で完了される動作に、波紋は絶大なエネルギーを与えてくれる。ワイヤーアクションを思わせる人間離れした跳躍が、ジョセフを影の魔手に触れさせない。

 

 アレッシーの立場になれば、唖然とするのも頷ける。背後を取ったと思ったら真正面から蹴られようとしているのだから。理性を超えて脊髄反射が背筋を逸らすが、蹴撃が鈍音をあげて顔面を捉える方が早かった。

 

「あんぎゃあ~~~~ッ!」

 

()()()()!」

 

『セト神』のスタンド使い、アレッシー。38歳独身、彼女経験無し。波紋疾走(オーバードライブ)をまともに受け退場とあいなった。端正な悪は時に栄えることもあろうが、不細工では勝利の女神もそっぽしか向かないのだ。ジョセフが非常に男前なので、今回はきっとそちらに()()()()だったのだろう。

 鏡が立てかけてあったので覗いてみる。やはりモデルを務められる紅顔だ。この顔だったからあの妻を持てた面もあるわけで、全く幸福者である。

 

「あー……戻っちまったわい」

 

 気絶が効果切れの条件だったらしく、肉体と精神が本来の年齢へと戻っていく。今は今でハリウッド俳優並に格好良いが、もう少し若い時分のワイルドさを楽しんでも良かったか。少し勿体ないことをした気分だった。



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第六十六話 バステト神・アヌビス神 その③

「おー……いねぇな」

 

 承太郎とフランドールを探して外に出てきたのだが、近場を見た限りでは見つけられなかった。砂場で城でも作って遊んでるんじゃないのか、冗談半分で覗いてみたが服が散乱しているだけだった。サイズからして子供だろう、畳みもせず脱ぎ捨てているのはマナー的によろしくない。かといって見ず知らずの子供に世話を焼く義理もポルナレフには無かった。

 取り敢えず近辺にはいなかった、そう報告するため一旦ホテルへと戻ることにした。もしかしたら入れ違いになっていたかも知れないし、灯台もと暗しではないが1番の足元を見に行くついでだ。

 

「あ?」

 

 何故細い路地の方を向いたのか、問われていたらポルナレフは答えられなかっただろう。まるで数秒時間を飛ばされたかのように、気がついたら首が横を向いていた。微かな違和感を覚えながら、導かれるかの如くふらふらと煌めく金属片の元へ歩く。

 

「使えるわきゃねーが……何だ、妙に惹かれるぜ」

 

 刀と称するには、あまりに破損が目立つ。所々に罅が入っているなんてものではない。まるで完全に壊れたものを接着剤かで無理矢理貼り付けたみたいな、最早寒天も野菜も斬れない有様であった。

 ぼろぼろの刀を手に取って、値踏みする商人みたいにじっと眺める。ややあって、お呼びでない敵を認めた武人のようにすっくと立ち上がった。目付きは剃刀じみて細められ、敵などもういないはずの街の中で異様な雰囲気を醸し出している。

 

「ふうゥ~~~~……幸運ってのは、こういうことを言うんだなぁ」

 

 咲夜に完膚無きまで破壊された『アヌビス神』だったが、彼自身想定していなかった嬉しい誤算が起きた。マライアが付与した磁力が、彼の肉体……というか刀身を再構築したのだ。流石に損傷が大きく、暫くフルパワーでの戦闘は回避しなければならないが、元の姿を取り戻せただけ儲けものである。

 

 辛くも脈を繋いだとあれば、復讐する他にない。相手はもちろん、憎々しい冷徹なるメイドだ。真っ向勝負で打ち負かされた挙句破片にされたのだから、もう生きたまま四肢を斬り落とすくらいしなければこの怒りは収まらない。美人だとか女だとか、知ったことか。

 噴火せんばかりの怒りを胸に秘めて、ずんずんと歩き出す。ポルナレフに持たせる本体が、かたかたと小刻みに揺れた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

『アヌビス神』の破壊に成功した咲夜、そして承太郎とフランドール。次なる目標、『バステト神』のマライアを撃破するべく、スタンドの気配を追っていく。路地を回って逃げているらしく、どんどん人通りの多い地帯から外れていく。

 向かいから歩いてくる人影を認め、2人は足を止めた。ホテルに残っていると思っていたのだが、どうやら出歩いていたらしい。もしかしたら有力なものが得られるかも、期待込みで目撃証言を募ることにした。

 

「ポルナレフ。褐色でローブを被った女を見なかったか?」

 

 1度見た美しい女をそうそう忘れないという、気障っぽい特技がある。フランドール曰く美人といえば美人らしいので、行方を聞ける可能性は高いと踏んだのだが、ポルナレフは答えない。氷を思わせる冷えた瞳で承太郎を捉えているだけだ。

 旅の仲間に向ける目ではない。まして記憶を遡っているふうでもない。漠然とした違和感が燻り始める。訝しみながら、半歩距離を取った。

 

「……ポルナレフ?」

 

「承太郎、離れて!」

 

 ポルナレフが見せた異質な気配に、フランドールが一瞬早く気がつく。承太郎に危険を知らせ、すぐさま咲夜に目配せ。鋭敏に反応してくれたので、目にも止まらぬ超速の剣戟は辛うじて受けられた。ぎぃん、と濁った金属音が周囲に響き渡る。

 

「まぁ、おめーもいるよな」

 

「失せなさい。彼我の実力は、さっき互いに示したはずよ」

 

「癪に障るスタンドだぜ! あぁ、確かにおれァ劣勢だったな。別にさっきから強くなったわけでもない」

 

『シルバーチャリオッツ』の一閃は、咲夜のナイフで受け切った。手に伝わる衝撃は、ホテルの中で躱していた『アヌビス神』本体の実力と変わらない。まともにやり合えば、結果は先程の焼き写しにしかならないだろう。

 

「だがおめー、()()()()()()()()

 

「……」

 

 だが、奴を止めるということは即ちポルナレフの殺害を意味する。よしんば殺さないとして、超高速戦闘の中で握られる『アヌビス神』だけを叩き落とすのは、如何に咲夜でも不可能に近い。勝てないわけではないが、勝つ方法に問題があるという状況は、美麗なポーカーフェイスに苦みをもたらす。

 かつ、かつと距離を詰めてくる。ゆっくりと、しかし確実に。3人と体2つ分の距離まできた所で、動きを止めた。これが俺の間合いだとでも言わんばかりに空けられた空間が、見えざるものへの恐怖を煽る。

 

「こいつは強い……ザ・ワールド、手を組むぜ」

 

 2人でかかれば、ポルナレフを安全に呪縛から解き放つ確率は上がる。例えば咲夜が鍔迫り合いに集中して、承太郎は『スタープラチナ』で隙を見て弾き落とす役に専念すれば、決して達成できない難易度のミッションでもない。

 

「徒手空拳で挑んで良い相手ではない。承太郎、貴方手加減無しの『シルバーチャリオッツ』と真っ向からやり合うの?」

 

「……」

 

 だが、『スタープラチナ』と『シルバーチャリオッツ』の相性は最悪に近い。幾らスタンドが怪力なる精密機械であっても、超人的な剣捌きに晒されれば豆腐が切られるのと何ら変わりない。特に、防御甲冑を脱いだチャリオッツのスピードは、ともすればあらゆるスタンドの中で最高峰に位置する。

 承太郎がこの場にいるのは危険だ。故に役割を分担する。1つの傷もつけずに彼を解放するのは半ば以上に絵空事なので、多少の斬り傷は後で謝ると決意。幸いなことに、救急手当用の薬品にはまだ余裕がある。

 

「ここは私に任せて、承太郎。妹様をよろしくお願いしますわ」

 

「……無茶はするんじゃあねーぞ」

 

 極力善処したいが、はてさて。走り去る承太郎を背に、ポルナレフ(アヌビス神)と相対する。似合わない粘着質な笑みで彼女を嘲り、咲夜は鋭刃の威風にてそれに抗する。

 傍らに控えるチャリオッツが双刀使いになっている。二刀流の剣士と模擬戦くらいはしたことがあるけれど、流石に殺し合いの経験は皆無。先程以上に気を引き締めてかからなければ、地に崩れ落ちるのは咲夜の方かも知れないのだ。

 

 畏敬する主の贄となるなら喜べようが、こんな場所ではただ緩やかに朽ちゆくのみ。彼女達の役に立てないまま別世界の片隅で息絶えるだなんて、そんな地獄より悍ましい運命に身を置くのは真っ平御免である。

 

「良いのか? 折角の援護を断っちまって」

 

「あら。承太郎までいたらやり過ぎ(オーバーキル)じゃない」

 

「つくづく舐めた口の女だな!」

 

 威嚇するように見せつけられる切っ先が、異様な怖気を放つ。侵食してくる気配を退けるように、構えたナイフは1本のみだった。練達していない技巧に挑戦できる状況ではなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「次の角を左に」

 

『アヌビス神』との戦闘を咲夜に任せ、再び黙々とマライアを追跡する。痕跡が徐々に濃くなってきているので、姿を捉えるのも時間の問題だろう。最早承太郎とフランドール、そして彼女の他に誰の気配も感じ得ない。

 

「っ!」

 

「フランドール?」

 

「……いえ」

 

 背筋に走った、擽られたみたいな感覚に馴染みがある。()()()()使()()()()()。いや、使ったとしか考えられない。他のどんな現象が同じ感覚をフランドールにもたらすというのか。

 まだ使用に堪えない。そう言って彼女は特殊な異能に封印をかけた。この国に到達する直前の、自身に起きた突然の異変はきっと何かの関係を有しているのだろう。彼女の代名詞とも言える力を制限してしまうことに、罪悪感を得ずにはいられなかった。

 

 焦りから軽率に封を解くとは思えない。あの彼女が、熟慮に基づく自らの選択を覆すものか。そも意図的な解放かすら断言できない状況にある。

 

「承太郎。私に策があるわ」

 

 冷や汗が頬をしっとりと撫でていく。ぐいっと拭って、気持ちを建て直した。きっと大丈夫だ、彼女は強い。その腕前も精神も、充分に。主人として彼女を傍に置くのだから、十全に信用し行動しなければ主人の面目丸潰れだ。

 

 様子がおかしいのに、承太郎は気がついていた。肩の上で体を跳ねさせたら、嫌でも勘付くというものだ。でも、尋ねなかった。何も言わずフランドールの作戦に耳を傾ける。

 

「成程な……」

 

「乗ってくれる?」

 

「あぁ」

 

 無闇に挑みかかるより建設的で現実的な案だ。実行するだけの期待値はある。彼女の寄越した船に乗るべく、『スタープラチナ』を繰り出した。



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第六十七話 バステト神・アヌビス神 その④

 間髪の入る隙間も無い双刃が、白銀のナイフとぶつかり合う。およそ常人では目で追えない瞬撃の連続を、彼らだけが操り創り上げていく。

 

 狂騒の交響曲(シンフォニー)めいた甲高い金属音を奏でながら、2人の体は止まらない。確実に蓄積しているはずの疲れなど噯気にも出さず、それどころか互いに加速していく。秒ごとにまともな剣士の世界を離れていく彼らは、まだ底を隠したままだ。

 

 否、早期の決着を望む者がいた。先へ行った主を追わねばならない。こんな場所で交響曲を売ったって、観客もいなければ融資家もいないのに。

 

 この場に承太郎を残さないで良かったと、今でも思える。彼はきっとポルナレフを殺すから。躊躇いはするだろうし、悩みもする。でも間違いなく、最後には仲間を手にかける。母を救うために決められた覚悟は、最早何をもってしても止められない。

 

 彼の命を奪わずに決着を付けられるのは、自分しかいない。こればかりは例えフランドールであっても困難を極める。高速で動く奴の動きを完全に止められる咲夜にのみ受注が許可される、特別な任務なのだ。

 

 能力の不調は百も承知。コンマ2秒、たったそれだけ時間を止めれば『アヌビス神』をポルナレフの手から叩き落とすには充分だ。暴れ馬の如く手綱を取れない現状でさえ瞬きする程度なら造作もない。

 

 かちん、咲夜の中で時計の針が僅かに強く刻まれた。それは時の止まる合図。誰にも見えないし分からない、彼女だけが支配する世界への鍵である。

 

 がきん、咲夜の中で時計の針が外れた。それは何を意味するのか、彼女も理解し得ない。ただ襲い来る明白な悪寒が、事態の把握を一瞬遅らせる。

 

「あ」

 

 ──ことこの2人において、一瞬は長時間に過ぎた。趨勢を決定付けるのに、須臾さえも要しなかった。

 

 かしゃ、と何かを引っ掻くような音が聞こえた。がしゃ、と何かを引っ掻くような音が聞こえた。がしゃん、と何かを引っ掻くような音が聞こえた。ざしゃ、と何かを引き摺るような音が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、

 

 ずぶり、体が細身の何かを飲み込んでいく。獲物を呑む蛇のように、しかしそれよりは早く嚥下を続ける。無感動なターコイズブルーの瞳が、自身の捕食にも似た行為を捉える。

 背中が突っ張るような違和感の後に訪れる、ぷちんと膜の千切れるような感覚で、咲夜は我に返った。もっと言葉を発するつもりだったけれど、粘着質で水気のある一音に留められた。

 

「ヒヒ……やぁ~~~~~ッと捕えたぜ」

 

 こぽ、と水が湧き上がるのに近い音を聞いたような気がした。口元を伝うものを拭い、その紅の鮮やかさに目を奪われかけた。指に咲いた彼岸花は、恐怖を覚える程に美麗であった。

 

「む、これは……マライアの野郎、負けたな」

 

 するりと体内を動かれ、引き抜かれた喪失感のまま膝から崩れる。受け身を取らなければ顔を強かに打つだろうと傍目からでも分かる場面で、咲夜の手は一切動かなかった。果たして顔面が大きな衝撃を伴って地面に激突した。俯せの状態になったせいで、目の前でぼろぼろと身を剥離させていく『アヌビス神』は見えなかった。

 

 創作中の死闘の結末を模倣しているかのように、あまりに絶妙なタイミングで12時の魔法(cinderella magic)が解けていく。魔女の敗北を意味する自らの瓦解に、しかし不満げな様子を醸しはしない。蓋し悲願を達成したために、寧ろ声に達成感さえ滲ませていた。

 

「おれはまた蘇る。てめーは死んでバッドエンドだがな!」

 

 紛うことなき捨て台詞に違いない。もう一度復活できる保証なんて何処にも無いし、二度と原型に戻れないままエジプトの砂に埋もれる可能性の方が高い。頼みの綱のマライアは、今頃人目につかない路地の奥で意識なく横たわっているのだから。

 そう教えてやることはできなかったし、例えできていたとしても刀は既に無数の破片へと戻り切っていた。

 

 折しも北上してきた雲が太陽を隠し、俄かに曇天へと移り変わる。灰色の空の下を駆ける2人は、まだ事の顛末を知らない。

 

「てめーのスタンドは強い……そうそうやられはしねーぜ」

 

「分かってる。あの子はとても強いわ」

 

 フランドールの表情が不安に満ちているのを、とても黙って見ていられなかった。安心させるためにかけた言葉は、意思の半分も届かなかった。彼女の強さは主人たるフランドールが最も良く知っており、それでも異様なまでの胸騒ぎが止まらない。

 足は前へ前へと出て、大股で走る承太郎をも追い抜かさんとする。曲がり角の所にふと見えた真っ白なスニーカーに、無意識のうちに減速していた。

 

 この旅を始めてから暫くして、立ち寄った靴屋で買ったスニーカーだ。主従お揃いのものを、色とサイズだけ各々に合わせて頂いてきた。貴女様には相応しくありません、そう言ってきらきらしたハイヒールを勧めてくる彼女を苦笑いしながらどうどうと宥めていた記憶は未だに鮮明である。あぁ、確かメイドと吸血鬼が同じものを履くなんてとんでもないとか思っていたんだっけ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()。それ自体はおかしくないとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。焦りが当然浮かぶ疑問に回答する余裕を奪う。

 

「ザ・ワールド! 無事っ」

 

 あちこちに刻まれた斬撃が、激闘の名残として色濃く残る。散らばる欠片、それよりも早くフランドールの目に飛び込んできた倒れ伏す人影。まるで真紅そのものに沈むかのようで。隣で承太郎が息を飲んだ。

 

()()?」

 

 雨が、降り始めた。

 鮮紅は薄紅に希釈されて流れゆく。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「彼女本人の生命力もあって、容態は安定しています。この分なら退院まで最短1ヶ月半といったところでしょう」

 

「そうか」

 

 雨はまだ止まない。しとしと降り続け、もう丸一日にはなろう。全く気の滅入ることだ、深々と溜息を吐きかけて寸前で留まった。

 

 ジョセフよりも遥かにショックを受けた少女の前で、これ見よがしな溜息は憚られた。彼女は、昨夜からずっと眠り続けるスタンドに寄り添っている。寝ていない証左になる腫れぼったい目元を気にもせず、じっとその場を動かないでいる。

 

 寝た方が良いのは明らかだ。でも、誰も彼女に話しかけられなかった。これ程に深い悲しみを背負うフランドール・スカーレットを、未だ誰も見たことがなかった。これが十かそこらの少女がする目か。色を失い、ただ白と黒があるだけの目が、果たして人間のものと言えるのだろうか。

 

 ベッドで眠る銀髪の少女は、スタンドというよりは人間に見える。そのうちにふと起きるのでは、そう思えるくらいに寝顔は自然だ。ただ肌だけが白磁を通り越して蒼白になっている。外から補填されていく血液は、まだ全身に回るには至っていないということか。

 

 ぎゅっ、と咲夜の手を握っていた。それが回復に直結するはずもないと焦げ付いた脳でも理解できる。だからその行為は、フランドールの潜在意識が精神の正常性を求めた結果なのだろう。大切な従者が生きている、それを実感できなければ心の面から崩壊してしまうのだろう。

 

 フランドールが一晩をかけて枯れるまで泣き果てたのを、皆が知っている。しかし──だからこそかけるべき言葉が思いつかない。全員が押し黙り、沈痛な静寂が病室を包み込む。初めて彼女の視線が咲夜から外れたのは、重く刺々しい雰囲気に耐えられなかったポルナレフが何か一声喋ろうとした、まさにその時であった。

 

「少しだけ待ってて」

 

 可憐な少女らしくもない、嗄れた声で囁く。そのまま椅子から立ち上がり、ふらふらと覚束無い足取りで病室の外へ出る。ポルナレフだけが声をかけられたが、まるで聞こえていないかのようにドアを開けた。

 

 千鳥足ともまた異なる不安定な足取りで廊下を歩く。小さな体躯が発する幽鬼の如き威圧感に、周囲の人々が挙ってそっと道を譲る。知らず広くなった道をゆらゆらと進み、彼女はやがて1階の待合室に到着した。

 緩慢に辺りを見渡し、やがて定まった視線の先には、並んで座る2人組の男。無論知り合いではない。だが用はあるので躊躇なく近づいた。

 

「貴女達、DIOの刺客よね」

 

「……いかにも」

 

 指の骨が砕けそうな程に、拳を固く握る。頂点に君臨する『王』の片鱗が、等しく凡百を竦ませる。暫くぶりに瞳の奥で揺らめいた感情は、火も焼き付くさんばかりの怒りだった。



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第六十八話 ダービー兄弟 その①

「たった1人で見知らぬ男2人の前に立つ、その勇気は認めようか。しかしきみだけ立ちっぱなしというのもなんだ、椅子なら余っているぞ?」

 

「結構。そう構ってあげられる程暇でもないの」

 

「何とも勝気な娘だ!」

 

 病院の使われていない一室で、フランドールはDIOの差し向けた男達と相対していた。濃厚なスタンドの気配が漂っている。一体どんな性質を持っているのか、1人で対処できるのか。

 今のフランドールにとって、それらはあまり重要な問題ではない。花京院が提案した『積極的な敵の排除』論に賛同した時よりもさらに高い攻撃性を体得している。俗な言い方をすれば、かなり気が立っていた。

 この場で男達に致命的な拳を叩き込まないのは、まだ理性が息をしているからに過ぎない。呼吸が止まって脈まで静かになった時、彼らの顔面は果たして原型の3分の1でも留めていられるのか。

 

「フランドール?」

 

 聞き慣れた若い声。いきなり病室を出たので、心配して探しに来てくれたようだ。巻き込むつもりはなかったのに、仏頂面が苦々しく歪む。

 

「いるのか……ッ、その男達は」

 

「あぁ、名を言っていなかったな。わたしの名はダニエル・J・ダービー」

 

「わたしがテレンス・T・ダービーと申します」

 

 存在を想定していなかった2人の男に、反射的に身構える。彼らが醸し出すただならぬ雰囲気に、来襲を悟った。次から次へとやってくる刺客に、ここがDIOの本拠地なのだと改めて思い知らされる。

 エジプト上陸後に撃破したスタンド使いが全員『9人の男女』に当たるとすれば、現時点で()()()()()4人を倒している。『ゲブ神』、『セト神』、『バステト女神』、そして『アヌビス神』。未だ残る5()()のうち2人が彼らなのだろう。

 

「さて。わたしたちはきみたちの命を狙いに来たわけだ」

 

「しかしわたしたちのスタンドは戦闘向きではありません」

 

 直接の力ではなく搦手を用いる輩は、今までもいた。だが、自ら戦闘には不向きだと告白するスタンド使いに遭遇したのは初めてだった。自らに不利な情報を口軽く喋られる心の余裕の現れか。

 戦わない命のやり取りについて、花京院にすぐ思い当たる節は無い。どんな土俵へ引き摺り込もうとしているのか、動向に気を配りつつ『ハイエロファントグリーン』を出しておく。現状咲夜の力は借りられず、フランドールは年相応の能力しか持ち合わせていないのだから。

 

「そこで、『スケルトン』で対戦していただきたいのです。とはいえあまり有名でもないトランプゲームですから、お尋ねしておきましょう。ルールはご存知ですか?」

 

「いいえ」

 

「では説明をば。ジョーカーを抜いた52枚のトランプ群を山札として、その山札から各々1枚ずつ取る。その数の合計を競うゲームです」

 

 成程、カードゲームの舞台で戦うスタンドか。しかし花京院もスケルトンなるものは知らなかった。テレンスのルール解説を信じるなら、数を競うシンプルな勝負のようだ。

 非常に単純なルールで運用できるにも関わらず、どうしてポーカーなどに陽の当たる地位を譲ったのか。実の所、発祥さえも分かっていない謎多きトランプゲームなのである。スケルトンという名前も、何を意味しているのか怪しいと言わざるを得ない。

 

「本来は1on1のゲームだが、今回はきみと花京院の2人でチームを組む。わたしたちが対戦相手というわけだ」

 

 一般的に想起されるメジャーなものを選ばない辺り、この勝負に相当の自信ありというわけか。勝てるという確固たる確信をもって挑みかかってくる敵は、なまじ強力なスタンド使いよりも厄介である。

 

「そんな話に乗る必要は無い。ここでぼくがおまえたちを倒してしまえば済むこと!」

 

 故に勝負の舞台に上がってやる理由が無い。敵の強みを封じたからといって卑怯と罵られる筋合いはないだろう。事実『ハイエロファントグリーン』なら大人の男2人を仕留めるくらい容易だ。

 

「花京院。駄目よ」

 

「駄目って、相手の土俵に入っては不利だ。逆にこの場でなら、ぼくたちが圧倒的に有利と言えるッ!」

 

 だが、意外にもフランドールはその意見を制する。絶好の好機を逃すわけにはいかない、説得しようとする花京院よりも早く口を開いた。

 

「ここは病院よ。人の出入りは少なくない。あいつらを叩きのめす所を見られてしまったら、私達は立ち所に追われる身になる」

 

「フランドールの方が冷静よのォ!」

 

 幾ら使われた形跡の無い部屋とはいえ、全く人が訪れない保障まではできない。現場を目撃されれば、フランドールと花京院が何らかの手段でこの兄弟に危害を加えたと通報される。まだ若い花京院が警察に追われるという事態は、極力避けねばならない。彼らの人生は、DIOを撃破してお終いではないのだ。

 

「花京院。貴方はジョセフ達にこのことを伝えてきて」

 

「きみをこの場に置いていけと?」

 

「えぇ。平気よ、私は私で何とかするから」

 

「それこそありえない相談だ!」

 

 本音を言うなら実力行使をしたいけれど、足並みが揃わないなら仕方がない。フランドール1人に勝負を任せるよりは遥かにましだと言い聞かせ、奴らの手中に飛び込む覚悟を決めた。にやにやと意地の悪い笑みが癪に障る。

 

「あぁ、そうだ。勝負中のスタンドの使用は一切禁止だと誓ってもらおうか。手癖の悪い『ハイエロファントグリーン』にイカサマでもされたら困るんでね……」

 

「何を馬鹿な。そう言っておまえたちだけ使う魂胆だろう!」

 

「使いませんとも。我々にはギャンブラーとしての矜持があります」

 

 そんな口先だけの言葉を信じられるか。この手のスタンド使いは騙し合い化かし合いが常套、言葉だけ真に受けていては思う壷だ。

 とんとん、肩を叩かれて振り向く。耳を貸せというジェスチャーに従ったところ、奴らが持ちかけてきた約束をきちんと守らせる術があるそうだ。しかしDIOの配下である奴らがそんじょそこらのギャンブラーとは思えない。果たして術とやらは、歴戦の勝負師達をしてすり抜けられないだけの細かな網目となっているのか。

 

 悩んだ末に、彼女を信用することにした。こうも断言する以上、確実に相互を縛る枷が用意できるのだろう。そして何より、今のフランドールには恐ろしいまでの()()がある。とても幼い少女のものとは思えない、それこそ承太郎に勝るとも劣らない圧倒感を放っている。

 

「分かった。だがこちらからも条件を設けさせてもらおう」

 

「ふむ。こちらからばかりというのも不公平か」

 

 1歩身を引いて、続く条件設定の宣言を任せる。俄かに雨足が強くなる中で、抑揚のあまり無い呪文のような声は、不思議と全員の耳にすんなりと届いた。

 

「スタンド使用が発覚したら、その使用者の指を折るわ。スケルトン続行が不可能なように、両手ともね」

 

「随分と怖いことを言ってくれるが、きみにそんな力があるようには見えないね。まさかスタンドを使う、なんて言わないだろう?」

 

「スタンドは使わない。でもスタンドの力は使うわ」

 

 そう言って、古ぼけたベッドの縁を掴む。そのまま手を握り、全力からは程遠いであろう具合で力を込める。一体何をしようとしているのか、花京院だけがあっと驚きの表情を浮かべた。

 鉄製の縁が、熱された飴細工よろしくねじ曲がった。それでいてフランドール本人は部屋に来た時と一切変わらない、感情に乏しい瞳を宙に彷徨わせている。さしものダービー兄弟も、人間の限界をあっさりと振り切った離れ業に冷や汗を禁じ得ない。

 

「先に言っておきましょう。私はザ・ワールドからスタンドのエネルギーを引き継いでいる。但しあくまで力だけ、だからザ・ワールド固有の技能までは範囲外よ」

 

「つまり賭けに何ら有利を持ち込んではいない、と?」

 

「その通りね」

 

 こんな途轍もない握力で握り込まれたら、指の骨を折られるだけでは済まない。恐らく二度とその腕は使い物にならなくなる。手を離すまで僅か5秒ばかりだったが、実演威嚇の効果は充分だった。

 

「良いだろう! その条件、乗った!」

 

 とても面白い。汗を拭い、しかし気取った風に付け加える。あの光景を目の当たりにして逃げ出さないのだから、舌先三寸ばかりではなく肝の座った兄弟だ。

 話に聞いた限りではかの『アヌビス神』を相手に一時は優勢に立っていたそうだ。その動体視力は驚異的と言う他になく、彼女の性能を十全に引き継いだフランドールを前に下手なイカサマや誤魔化しは通用しないという証明であった。

 

 如何にギャンブルが自らの得意分野だとはいえ、油断していられる手合いではなさそうだ。先程までの余裕綽々な顔つきから一転、目付きが鋭く引き絞られた。



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第六十九話 ダービー兄弟 その②

「ここに封を切っていないトランプがある。花京院、シャッフルでもどうかな」

 

「良いだろう」

 

 ジョーカーを抜き、熟れた手つきでカードをシャッフルしていく。きっかり30回をそつなく終えて、テーブルの中央に据える。対戦の準備はこれで整った。

 

「勝負を始める前に、細かいルールの確認だ。まず1つ、自分と味方のカードは見てOKだ。そして2つ、その合計値に自信が無ければ()()()くれて結構」

 

()()()際は相手に1ポイント。互いに勝負したなら、勝利した側に2ポイントが加算されます。そして勝負するかやめておくか、1ラウンドごとに決定権は移るものとします」

 

 52枚の山札から、1ラウンドごとに4枚が使われる。丁度13ラウンドが終了した時点で勝敗が決する仕様になっている。比較的短期の決戦になりがちなスケルトンだが、同点で終えることは非常に稀と言えるだろう。勝敗であれやこれやと揉める心配が無いのは、ゲームにおいて優秀な要素だ。

 

「ご理解頂けましたか?」

 

「えぇ。花京院も、大丈夫よね?」

 

「あぁ」

 

「Great! それでは始めましょう、第1ラウンドです!」

 

 異色の対決が幕を開けた。全員がカードを取り、互いのペアと数字を共有する。フランドールと花京院は真剣な表情で、ダービー兄弟は掴めない薄笑いを各々顔に浮かべている。

 

「先決は差し上げましょう」

 

「では遠慮なく、勝負だ」

 

「私達も勝負よ」

 

 互いに勝負できる数字だと判断した。この対決で最もポイント効率の良い『真っ向勝負での勝ち』を1手目に引き当てるのはどちらか。端から熱気が最高潮になることはなく、カードのオープンはまだ静かに行われる。

 

「わたしたちが7とJで18、おまえたちが6と8で14。1ラウンド目はわたしたちが2ポイントだな」

 

 フランドール達も悪い数字ではなかったが、ダービー兄弟の方が1歩上をいった。使用済みのカードは全てカードケースに戻し、第2ラウンドに入る。

 ダービー兄弟から2-0。出だしとしては最悪の展開だが、まだ点差は大きくない。巻き返すには充分な猶予がある。

 

「勝負だ」

 

「迷いなく宣言するとはかなりの自信あり、と言ったところでしょうか」

 

「答える義理は無い」

 

「ごもっとも。……わたしたちは降りましょう」

 

 これで負けることは無いと断じて良い。引き分けにされてもイカサマを疑わねばならない、それ程の素晴らしい2枚を得られた。だがそれを悟ってか、彼らは安全策を取った。1ポイントの上納を生贄に、追加課税を回避する。

 

「ほう。K(キング)Q(クイーン)とは、勝負しなくて良かったよ」

 

 ダニエルが7、テレンスが9。結構な数を引いた割に、勝負はしてこなかったか。あわよくば一気に同点へ持ち込めるかと期待したが、そこまで甘くはないらしい。これでダービー兄弟から2-1、試合展開はまだまだ先を読めない状況が続きそうだ。

 

「兄さん、どうします?」

 

「これなら勝負しても良いだろう」

 

 第3ラウンドは彼らの方に運が向いたようだ。勝負を即決し、彼女達の判断を待つ。

 ちらりとフランドールの方を見たテレンスだが、何を言うでもなくすぐに視線を戻す。プレッシャーでもかけようとしているのか。確かに勝負事の中で不意に相手と目が合うと焦りを感じることもある。こうした場外での駆け引きも含めてのカードゲームということか。

 

「迷いどころね」

 

「ここは降りておくべきだと思う。あいつらは自分達のカードに自信を持っている」

 

「そうしましょうか」

 

 挑むにしてもやや心許ない数字だ。無理に冒険して大きなロスを被る必要は無い、そう決めてダービー兄弟に1ポイントを譲る。引いたのはフランドールが9、花京院が2であった。

 相手もカードを表に返す。ダニエルが8、テレンスが4()。これで3-1と形勢は劣化の様相を強めたわけだが、結果的に彼女達は支払う犠牲(サクリファイス)を最小限に留めたことになる。

 

「……」

 

「フランドール、わたしの顔に何か?」

 

「失礼。小さな虫が止まっていたから」

 

「ご親切にどうもありがとうございます」

 

 取り出したハンカチで軽く頬を撫でる。虫が止まっていたとしても、これで何処かへ飛んでいっただろう。雨風はより一層強くなり、雨が散弾のように閉め切られた窓を撃つ。

 

 仕切り直して第4ラウンド、そろそろぼんやりと対決の中間地点が見えてきた。点差は依然どちらに転ぶか分からないが、両者の浮かべる表情には対称性が見え隠れしつつある。

 余程に勝利する自信があるらしく、ダービー兄弟は開幕から余裕の笑みを崩さない。対して花京院は、険しい顔のまま固まっている。本人もきっと気がついていない、完全な無意識のうちに彼は自らの精神を苦境へ追い立てていた。ほんの少しだけ冷静になる心の隙間があれば、未だ焦るべき局面に達していないと理解できるはずなのに。

 

 焦りの覗く手でトランプを取る。あまり期待できるカードではなかったのか、目元がさらに細められて渋面を作り出す。2回連続にはなるが、ここは引いておこう。フランドールに自分の札を見せるよりも、彼女からの勇猛果敢な提案の方が先を行った。

 

 かなり強力なものを引き当てたようだ。花京院のカードを見た上で逡巡なく勝負を持ちかけてくるなら、最低でも絵札を引いていると見られる。つまるところ合計値は14から16、勝負したって勝てないわけでもない。

 

「さて、勝負されますか? ちなみに、我々も悪くない結果でしたよ」

 

「……あぁ」

 

「おっと、これは中々のカードを引いた様子。……仕方ありません、『降りましょう』」

 

 祈るような気持ちで決闘を申し込む。伸るか反るか、もし前者だったなら花京院の頬を伝う冷や汗は一筋では済まなかったに違いない。

 

 全員のカードが衆目に晒された。あっ、と声が漏れるのを抑えられなかった。

 フランドールが1、花京院が3。こんなもので勝負するなど、玉砕か自殺と揶揄されたって何も言い返せない。彼女を指さして口元をもごもごと動かすも、すぐには言葉が出てこなかった。

 

「お、一杯食わされたな」

 

「中々の演技でございました」

 

 持ちカードは、両者同じく10。もし挑戦を受けられていたら、点差を4にまで拡充されていた。なんてリスキーな賭けに走るのか、目の前に座る少女が少女に思えなくなる。

 敵のスタンド能力も分からず、負ければどうなるのか予想もつかない状況下だというのに、目を疑う胆力だ。ダービー兄弟としても些か予想外の豪胆さだったのか、感心した風に称賛を送る。

 

 フランドールはさしたる反応を示さなかった。片手間に賛辞を受け取るでもなく、皮肉を言うなと反駁もなく。頭を僅かに傾け、ただじっと考え込むかのようだ。

 

「どちら?」

 

「どちら、とは」

 

「心を読めるのはどちらかと聞いているの」

 

 ……雷が落ちて空間を揺らす。音からしてかなり近くへの落雷か。轟く雷鳴の中で、奇しくも皆の注目は静かなる少女に集中する。

 

「心を読むだって!」

 

「えぇ。さっきのダービー達の合計、20だったでしょ。既に出たカードは12枚。その内訳はK、Q、J、2枚の9、2枚の8、2枚の7、6、4、2。花京院、この内訳を聞いてどう思うかしら」

 

「どうって、規則のようなものは何も見当たらないし不思議な点も無いぞ。強いて言うなら多少強いカードが序盤に集まっているくらいだ!」

 

「そこよ。あぁ、誤解のないようにしておくけれど、イカサマは疑ってないわ」

 

 シャッフルをしたのは花京院で、その後仕込みをするような真似は見られなかった。きちんと目を光らせていたのだ、このゲームの開始時点での不正混入は有り得ない。

 

 そう、あくまで()()()()()()()()、彼らは紳士的な言動に違わぬフェアな勝負師だった。

 

「残る40枚のカードの中で、20を超える組み合わせが出現する確率は決して高くない。最高でも26までに制限されているこのルール下において、20は幸運の類よ」

 

 第3ラウンド終了時に山札に残っていたカードを勘案すれば、20超えを引き当てる確率の低さが想像できよう。無視できると言えるかは微妙だが、少なくとも勝負するという選択を変更する程の要素ではない。

 駆け引きとは、どれを選ぶとしてもある程度の合理性が認められる複者択一に際して発生するものだ。充分に高い数字を得ていながらの相対逃避は、駆け引きではなく臆病者の石橋叩きでしかない。

 

「お嬢さんにはまだ分からないかも知れんな。大きい数字が出たから勝負する、というものではないのだよ」

 

That's Right(その通り)。でも貴方達、あの時点で2点リードしていたわ。仮に私達がKを並べて勝ったとしても引き分け(イーブン)に戻るだけ、そんな有利な場面でむざむざ1点を私達に献上するなんて素人でも取らない愚策ではなくて?」

 

 オブラートに包まれない、名刀の如く斬れ味鋭い指摘であった。ここにきて初めて兄弟が見せた真顔は、何を意味しているのか。

 花京院は、或いは刑事ドラマより唐突に始まった推理を理解しようとフル回転で脳を働かせている。確実な把握を待たずしての攻勢転換に申し訳なさを感じないではないが、まだ追撃を緩めるわけにはいかない。

 

 あと一押し、それできっと尻尾を出す。己の直感を信じ、ラスト・ブロックに手をかける。

 

「つまり何を言いたいんだね、きみは。さっきから思ったことばかり口に出しているようだが」

 

「多分テレンスの方よね。私の心を読んで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 1ラウンド目から貴方、私ばかり見てるもの。その言葉を否定しなかった時点で、フランドールはほぼ勝利を確信した。スケルトンにではなく、花京院と組んでのタッグマッチそのものに。

 

「さっきの第4ラウンド、私は間違いなく勝てるって思ってたの。()()()()()()()()()ね。そうしたら案の定引っかかってくれたわ」

 

 もしあの場面で花京院に視線を移されていたら、作戦の修正を要していた。やたらと感じる視線、そして奇妙な立ち回りを関連付けて考えたとき、既にテレンスの心読みを強く疑っていた。

 

 第2ラウンド以降、テレンスは必ず何か一言発していた。誰に向けての発言かは恐らく無関係で、彼の声が届いた人間の反応を読み取っている可能性がある。その反応からフランドール達のカードに見当をつけ、最善策を打ち続ければ、勝利への大きなアドバンテージとなる。

 

「これだけはまったくの予想だけど、制限つきの読心能力なのかしら。無秩序に人の心を暴けるだなんて、人間には荷の重い力よ」

 

「勝負に関係ないことをあまり言わないで頂きたい。そもそも証拠があるとでも!」

 

「あら。出しても良いの? 確実に貴方達の息の根を止められる、決定的な証拠」

 

 最後まで底の底で彼女を侮っていたのだろう。所詮は多少精神の成熟した少女でしかなく、敵になるはずもないと。そうでなければ、すぐさま冷静な否定で突っぱねられた。テレンス本人が言った通り、物的な証拠なんてないのだから。

 

 決定的な証拠だなんて、言いくるめの大嘘(ブラフ)でしかない。他ならぬ自身が思い至っていながら、しかし自らを信じ抜くことはできなかった。敗因として挙げるなら、その1つとなろう。

 

「言ってみろッ」

 

「言葉が乱れていましてよ。落ち着いてはいかが?」

 

「言ってみろと言っているのだッ!」

 

「スタンド見えてるわよ」

 

 凄まじい速度で背後を振り返った。たっぷり3秒は何もいない空間を見つめ、安堵したように長く息を吐きながら顔を戻す。フランドールが浮かべた侮蔑の薄笑いは、直前で淡雪のように消えていた。

 

「いないじゃあないか。何を……ハッ!?」

 

「『馬鹿と気狂いは真実を話す』。私の生まれ故郷ではこんな言い回しがあるの」

 

 弟の踏んだ失態を、兄はどうもフォローしてやれない。ただそこにいるだけで創り出す異様な雰囲気に、ダニエルをも呑みつつあった。彼は空いた口を塞がない。

 

「さて。最初に明示していたわね、『スタンド使用は厳禁』」

 

 かたん、フランドールが椅子を引いた。いよいよ暴風雨の様相を呈しつつあるエジプトの街の片隅で、その音は総毛立つ程の耳鳴りをもたらした。

 

「──破ればどうなるかもね」

 

 彼女の背丈は、お世辞にも威圧感を与えられると言えない。テレンスを怯えさせるのは、背後に見える名状し難い靄のような集合体。幻覚なのか現なのか、1度見えてしまった者に判別する術は無い。

 目を見開き、椅子を体で押し退ける。最大限に開けた距離は、しかし病室の狭さ故にテレンスの望みを成就させない。壁に張り付き、裸で南極に放り込まれたかのように全身を震わす。猛獣と同じ檻に入れられても、ここまでの戦慄は味わえない。

 

 ぎり、と砕けるくらいに歯を食いしばった。覚悟を決めたわけでもなく、ただ吹けば飛ぶような蛮勇の欠片を授けるのみであった。

 

「クソァ! 死にやがれこのメスガキがァ~~~~ッ!」

 

 追い詰められた動物が、最も恐るべき脅威である。成程確かに道理だが、今回ばかりは多分に漏れた。極限まで進退が極まらない限り、人間が理性の束縛を免れることはない。

 

 猛然と地を蹴ってフランドールに迫る。麻薬中毒の患者よろしく血走った目で襲いかかってくる大の男から、ふいと冷めた目を逸らした。

 味方への危害は、花京院が許さない。即座にスタンドを繰り出し、テレンスの耳から内部に侵入させる。耳を通り頭部に辿り着かれた感覚が、荒ぶる男の動きをぎくりと止める。

 

「うぅッ……」

 

「動くなよ。ぼくの『ハイエロファントグリーン』は非力だがきさまの脳味噌をハンバーグみたいに捏ねるくらいはできるんだ」

 

「に、兄さん。助けてくれ」

 

 呼ばれる声で我に返ったようだった。弾かれるように腰から拳銃を取り出して、続けざまに2発フランドールへ撃ち込む。到底目では捉えられない速度の薬莢は、彼女の顔へと吸い込まれるように突き進んだ。直接の戦闘力を有しない兄弟の、いざという時の最終兵器は、喧しく突撃の合図を響かせながら柔肌に接触した。

 

「なッ……!?」

 

「貴方は特段何かしていたわけでもなさそうだし、見逃してあげても良かったのだけど」

 

 そして勢いを殺され、からんと地面に転がった。刹那に何が起きたのか、きちんと把握するのに少なくない秒数を費やした。

 或いは銀で作られた銃弾だったなら、多少の効果はあったかも知れない。現実にそんなものを用意しようとしても、現代技術では難しいどころの話ではないだろうけど。第一あまりに重過ぎて真っ直ぐ飛びそうにない。

 

 こんな馬鹿なことがあるか、何かの間違いだ。半狂乱に陥りながら拳銃を構え直したが、彼女は既に銃身を握り込んでいた。一瞬で最終兵器を無用の鉄屑にされ、いよいよ唖然とする他にないダニエルの鳩尾へ、少し強めに一撃。体をくの字に折り、仰向けに倒れて泡を噴いた。

 

「残念ね。弟より一足早く脱落ですわ」

 

 倒れ伏す男に一瞥をくれて、緩やかに向き直る。わざわざ尋ねて心を読む必要もなかった。2秒か3秒後には兄と同じようになっていると、理解を超越して納得せざるを得なかった。黒い靄の魔物が、惨たらしく嗤ったような気がした。



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第七十話 ホルス神 その①

 街の外れを歩く。人の姿はあまり見られず、中心部の賑わいが遠く感じる。別に目的あっての外出でもない。ただあんな辛気臭い場所にいたくはなかった。

 

 犬がいたって、珍しくもないのだろう。街の人間は誰もイギーを気に留めない。少し雲のかかってきた空の下を、心做しか急いた足取りで歩く。

 

(スタンドがやられて落ち込む……よくよく考えてみると変な話だ)

 

 咲夜とのファーストコンタクトは、狙ってもそこまでにはならないという程に最悪なものだった。イギーとしては、自分は悪くないと声高に主張したい。だって物好きな幼い少女に抱き上げられ撫でられていただけなのに、不条理な敵愾心を抱かれたのだから。

 それからというものの、彼女との関係は針山のように刺々しかった。フランドールと戯れる度に真横から睨まれていては気が滅入ってしまうから、彼女にあまり近寄らないようにもしたけれど、結局向こうからにこにこ笑顔で来るものだから終いには諦めて撫手と鋭利な視線を享受した。

 

 メイドにも、イギーにも屈託のない笑顔を振り撒いていた。彼らの不仲なんぞ知る由もなかったのだろう。あんなにも罪作りで可憐な少女を知っているからこそ、あの時に見た顔が忘れられない。

 

 もし感情が1つの箱に入っていて、それを大切に握っていたなら、フランドールは箱を落としていた。いつ何処で落としたのか、拾いに戻りたくても手から離れた瞬間に砕けて無くなってしまうもの。誰にも、どうしようもない。

 

 可哀想と言って良いのだろうか。病室のベッドに顔を埋めるフランドールを見た瞬間、憐れみより先に恐怖を覚えた。酷く粘度の高い液体で構成された死神が、下品に笑いながら鎌を携えていた。

 或いは、危険ではなく不安定なのかも知れない。空き缶の上に片足で立つみたいに、いつバランスを崩して落ちるか分からない人間は、その時がやってきたら()()()()()()()()()()()()。こればかりは、聡明なイギーにもまるで見通せない。

 

(……ん?)

 

 昨晩からずっと胸の内で燻り続ける違和感。たかだか人間1人の精神状態に振り回されるなんて、らしくない。切り替えようと上向けた瞳に、おかしなものが映り込む。

 

(な、なんだあの鳥公。目付きやべーぜ、コカインでもヤってんのかァ?)

 

 目で殺すと言わんばかりの眼力だ。アンパイアと舌戦を繰り広げている時のジョン・マッケンローにも劣らないレベルである。しかも気のせいだろうが、イギーを捉えて吟味しているようにも思える。

 いやいやまさか、狙われる理由が無い。『仮に』あの鳥がDIOのペットで、『仮に』イギーがスタンドを使えると知っていて、『仮に』黒い体毛のグッド・フェイス・ドッグが彼だと識別できたならありえないでもないけれど。

 

(げ、こっちまで雨が来やがった)

 

 額を雨粒が打ち、反射で顔を引く。雨季からはずれているものの、時折こうしてぱらぱらと降ることもあるという。病院のあった方では結構な勢いの風雨だったが、それが移ってきたなら暫くは外を歩きたくない。

 

(ちょいとお借りしてっと)

 

 鷹か鷲か、判別の難しい鳥から目線を外し、軒下に入って雨を凌ぐ。あれよあれよという間に強まっていく雨足に、とっとと避難して正解だったと呆れ顔になる。

 現在はさながら土砂降り1歩手前といったところか。風向きによってはここでも濡れてしまうので、できることなら屋内へ避難したいが、見渡しても丁度良さそうな建物は見当たらない。歩き犬に優しくない街だ、溜息を吐く。

 

(……ん?)

 

 からん、と目の前で砕けたものがあった。はて烏が木の実でも落としたか、ふいと見上げて壮絶な光景に一瞬息を飲んだ。

 

 氷だ。雪でも雹でもない、氷が降ってきている。幾ら空模様が気まぐれとはいえ、恐らく25度近い気温における最低限の常識が守られていない、なんてことがあるはずはない。唖然と空に釘付けになった瞬間、無数の凍った涙が軽快なタップダンスのようなリズムを奏でる。

 

 恐らく敵のスタンドが起こしている異常気象なのだろうけど、これは一体どんな性質と言えるか。天候を操っているのか、周囲の水を凍らせる力があるのかも知れない。いずれにせよ中々お目にかかれない、物質の状態変化を司るスタンドである。

 

 全身を震わせる悪寒に、空へ向けていた集中が逸れる。氷雨の中に悠々と佇む鳥は、強者という言葉を連奏させた。(ヴィジョン)は見えない、というよりは見せないように隠しているのか。

 

 笑って流せる限界はとうに超えた。『敵』と話し合いなんてするつもりは無い。牙も露わに睨みつけ、いつでもスタンドを出せるように身構える。

 しかし、まともにやり合えば分が悪い。奴が操るスタンドそのもののエネルギー量も、天候に干渉するくらいだからかなり多いはずだ。敗北の気配が濃厚に漂う勝負には、頼まれたって挑みたくはない。

 

(あばよ!)

 

 三十六計逃げるに如かず。下手な策を打つくらいなら、初めから大人しく逃げていた方が万倍ましだ。逃走を選んだところでイギーのプライドは傷つかないし、何より命に勝るものは無い。クイックターンの要領で踵を返し、氷の弾幕を突っ切っていく。羽ばたきの音は遠ざからず、追ってきているのを振り向かずとも悟った。

 

(エラそーに上を飛ぶんじゃねーッ)

 

 見た目に違わず飛行能力が高く、とてもではないが振り切れそうにない。間を縫うように逃げ去っていくイギーに通行人が思わず注目し、次いで頭上を切り裂く隼と霰に急変する空模様に驚く。

 スタンドを知らなければ、犬と鳥が不可思議極まりない天気を運んできたようにも思えるだろう。時代が時代なら、神の使いだとして併せて崇められたかも知れない。エジプトの人々にとって、空から雨以外のものが降ってくるのは珍しいどころの話ではないのだ。

 

 がぱん、と嘴を開く。生物の動作とは思えない機械的な開き方に、良い予感はしない。ビームかナパーム弾でもぶっ放してくるのか、笑えない冗談混じりに警戒するイギーに向けて、本当に撃ち出されるから目を剥いてしまった。まるでミサイルのように迫り来る氷に、あの鳥は今まで培ってきた常識だけで捉えてはいけない危険物だと認識を改訂。

 

(くそッ! そんなもんありかよッ!)

 

 フットワークで回避して、厳しいものは『ザ・フール』で叩き落とす。ノーダメージに抑え切ったが、攻撃しながらでも氷雨は止む気配を見せなかった。つまり、あの鳥にとっては両立できる()()()技なのだ。桁違いのエネルギー含有量に、心中悪態が止まらない。

 元が小さな雨粒だから、雹じみた天候は直接的なダメージたり得ない。全身を絶えず指先で軽くノックされている程度のものである。とはいえ氷を浴び続けていれば体温は下がるわけで、いずれ体の機能に影響が及ぶのは必然だ。そうなる前に奴の補足から逃げ切る必要がある。

 

「イギー! こんな所にいたのか。探したぞ」

 

(アヴドゥル。ここは危ねぇ……いや待て)

 

 それは単独では高難度の目標だった。周囲を広く見渡せる上空からの追跡は、イギーが何処に逃げようがぴったりと真上に張り付いてくる。あの隼を直接叩かない限りは逃げ遂せられる気がしないが、そもそも戦って勝てそうにないから背を向けて走っているわけで。つまるところ、イギーは手詰まりに陥っていた。

 

「そら、とっとと病院に……っと、何だあの鳥は?」

 

(敵だよ、ぼけっとしてんな!)

 

 ブ男……と言われる程の顔面はしていない炎の占い師、モハメド・アヴドゥルは、スタンドにより非常に強い炎を操ることができる。特に火力を最大限に発揮できる中近距離の戦闘では、ポルナレフの『チャリオッツ』さえも打ち破っている。

 多量のエネルギーを自在に操れたら、当然ながら利点といえる。アヴドゥルのスタンド『マジシャンズレッド』は、そんな単純かつ明確な強さを有している。この特徴、奇しくも殺意に染まった鳥野郎と同じであり。

 

「なッ、何だ! 『マジシャンズレッド』ッ!」

 

 ならば、ディスアドバンテージを解消する駒になってくれるのではないか。イギーの見立ては、的の中心付近を射たはずだ。新たな闖入者に向けて放たれた氷点下のミサイルを、咄嗟の判断で薙ぎ払う。まるで固体から直接気体に変化したかのように、瞬時に溶けて消えていった。

 短時間で現れた凄まじい熱量が、上昇気流を生み出し暴風をもたらす。さしもの奴も煽られたのか、がくんと姿勢を崩した。しかし墜落までは至らず、すぐさま態勢を立て直して予想外の邪魔者を鋭く見据える。先程まで見えていた余裕は掻き消えていた。

 

(ヒュー……火力だけはすげーよなぁ、こいつのスタンド)

 

「イギー、おまえあの鳥に追われていたのか」

 

(あぁ。マジにやべーぜ、あいつはよ)

 

 相性という意味では、何とか形勢逆転に成功した形だ。氷を使った攻撃は脅威だったが、無効化できる味方がいるなら恐るるに足らず。いつもなら探しになんて来るんじゃねー、とけんもほろろに突き返していただろうが、今回ばかりはベストタイミングでの助っ人参戦に感謝しつつ、ひょいっと彼の背後に隠れる。

 

()()()イギー。こちらを襲うスタンド使いなら、鳥であろうと容赦せん!」

 

(おう、頑張れよ……んん?)

 

 はじめは単なる聞き違いかと思った。たった今の攻防で、敵のスタンドが氷に関するものだというのは明らかになった。そして出力も、イギーでは歯が立たない。そんな彼も一緒に戦おうものなら、どう考えたって物の数には入らない。それどころか、アヴドゥルの足を引っ張る危険すらある。

()()()()()()()。確認の意を込めて、短く唸る。振り返ったアヴドゥルは、ニヒルに微笑んでいた。あっ、これは駄目だ。非情な現実を悟りながら、ざっと彼が真横に並んだのを確認。違うそうじゃない。おれが求めたのはそーゆーことじゃないんだ。

 

(なァんでおれも戦う羽目になってるんですかねーッ!?)

 

「イギー、おまえの砂ならガードできるだろう。そっちまで完全に守ってはやれんからな、頑張れよ」

 

(できねーよ! 相性最悪なの見て分かんねーかおまえ!)

 

 アナコンダと蛙に匹敵する相性の悪さは、アヴドゥルも把握しているはずだ。そして、1人で対処した方が早く済むことも織り込んでいるだろう。その上で共闘を選んだなら、多分だが『さんざ追いかけ回されて怒りの積もっているイギーに、やり返す機会をやろう』くらいの心持ちなのだ。激動の戦後期を乗り越えて、そろそろ終点の見えてきた20世紀だが、今世紀にこれ程余計な気遣いがあっただろうか。

 

 いや待て、焦らなくても良い。考えてもみろ、アヴドゥルがあの鳥をジューシーに焼いてくれたら済む話ではないか。過程で少しごたごたは生じたが、それまでほんの数秒耐えるだけ。

 あの飛行高度なら、問題なく炎の射程圏内だ。イギーは保身に徹して、この場を凌ぎ切るだけで良い。あわよくばアヴドゥルと共にスタンド使いを撃破したことになって、褒美としてコーヒー味のチューインガムが貰えるかも知れない。ポジティブに捉えれば、彼の発言もちょっとした冗談に解釈できなくもない。

 

「しかし、相手が動物だと調子が狂うな。敵とはいえ流石に燃やすわけにはいくまい」

 

(容赦しねー心構えは何処行きやがったこのドヘナチン野郎めッ!)

 

 折角持ち上げた意気を秒でへし折られた。本日付けで、鬱陶しいドレッドヘアの占い師からクソブ男に格上げだ。最早排水溝のコックローチを見るような目をされているのに、気がつく様子はなかった。

 人と犬、種族が違うだけで意思はこんなにも伝わらないものか。遥か昔から両者は共に生き、良好な関係を築いてきたとはいうけれど、いざという時に(Now the time)通じ合えないなら意味も黄身もない。掻き混ぜられた卵白めいた渋滞大混乱の心は、自棄により存外早くイギーに覚悟を決めさせた。



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第七十一話 ホルス神 その②

 巨大な氷塊が降り、それを猛火が一瞬で溶かす。間髪入れずに発射される氷のブレスは、聖十字(アンク)の防壁に阻まれる。炎と氷、対極に位置する力の使い手達が激しい攻防を繰り広げる。

 

 この世の終わりめいた光景を、遠巻きに眺める。強大なスタンドエネルギーの保持者同士が争えば、こうも手の出し難い激戦に発展するのか。イギーが見てきたスタンド使いの戦いの中で、間違いなく最も苛烈である。

 距離は充分に取っているはずなのだが、それでも時折アヴドゥルの炎の余波が熱風として吹き付けてくる。その勢いは衰えるところを知らず、それどころか現在進行形で盛んになっているようだ。正直意思を持った兵器同士の戦争なのではとさえ思ってしまう。

 

 周囲に一般人がいないのが、唯一の幸いだ。こんな化け物の戦いに巻き込まれたら、命なんて簡単に奪われてあの世行きである。それに、誰を巻き込む心配もないからこそ、アヴドゥルも思う存分真価を発揮できる。

 

 一際強い熱波に思わず目を庇い、もう大丈夫かと細目を開けたイギーの視界に飛び込んできた、3階建ての建物に倍する巨躯の巨人。唖然とするイギーを他所に、隼も迎撃の準備を整える。これまでで最大の氷柱を頭上に作り出し、炎の魔人を貫かんと猛禽の眼光でもって睨みつける。相手に不足なし、とでも言わんばかりに、巨人が唸り声を上げた。

 

 打ち出された拳を迎え撃つように、氷柱が落ちていく。溶かされて突破されるか、腕を穿つか。息を飲んで見守るイギーの前で、魔人の腕は完全に打ち抜かれた。途轍もない体積を有していたはずの氷柱は、1回も瞬きをしていない彼があっ、と思った時には跡形もなく消滅していた。

 

 振り抜いた姿勢のまま、一瞬だけ魔人は硬直した。それからぐにゃりと姿を崩し、水を加え過ぎた泥人形のようにぼろぼろと瓦解していった。剥離していく破片に交じって、1匹の鳥が力なく落ちゆくのが見えた。慌てて駆け出し、アヴドゥルの元へ行く。

 奇跡か意図的か、周辺の空き家と思しき家々や草木には殆ど被害が及んでいなかった。まるでこの場自身が先程まで戦場であったのを否定しているかのようで、驚きともつかない複雑な感情を覚えた。

 

「全身を焼いた。致命傷ではないが、暫くは飛べないだろう」

 

 多少息は上がっていたが、目立つ外傷は無い。あの鳥の攻撃は悉く届かなかったのだろう。もはやアヴドゥルの完勝であると言っても過言ではない。

 隼は見た目には焼け焦げていた。だが意識はあるらしく、か細く開かれた覇気のない目がアヴドゥルをぼんやりと捉えている。咄嗟にスタンドでバリアでも張って、命だけは守りきったのだろうか。

 

「命までは取らん。養生するんだな」

 

 否、アヴドゥルが手心を加えたのだ。幾らスタンド使いに襲われたとはいえ、人間でない動物の命を奪うのは気が咎めた。だからこそ療養で治る程度の、かつ当分は一行を襲撃できないダメージに留めた。

 寡黙ではあるが、心優しい男なのだ。ジョセフや承太郎、ポルナレフや花京院よりも情を知る。だからこそジョセフと数年来の友人でいられている一方で、それは『情け』から『詰めの甘さ』に悪転してしまうこともある。

 

「なにッ!」

 

 再び翼を広げ、飛びかかってくる。硬直という明らかな隙を晒し、その間に嘴が喉元を抉れる距離まで迫る。

 全身を焼かれた以上、羽ばたく余力は残されていない。火傷は皮膚を超えて、一部筋肉にまで到達していた。しかし隼は、スタンドで氷の翼を創造した。それを動かすことで最後の力を振り絞った特攻に出たのだ。

 

 あと数センチ嘴を動かせば、アヴドゥルの気管をぱっくりと斬り裂ける。敗れるにせよ、せめて1人だけでも戦闘不能にしておきたいのだろう。DIOへの忠誠心か、それとも生まれ持った異常なまでの執念か。光を取り戻した瞳は、強張る男だけを射抜いていた。

 

 邪魔さえ入らなければ、彼の執念は実っていただろう。だがイギーは、ここに来て冷静であった。己が為すべきことを理解し、すぐさま実行に移した。

『ザ・フール』で突進してくる隼の体を掴む。嘴が首に触れる、まさに直前であった。そのまま両手で持ち上げて、最大点から一気に振り下ろす。ばきん、ぐしゃあ、と骨肉を砕く感触がスタンド越しに伝わってくる。

 

 まだやる気があるとは、イギーも思っていなかった。恐るべき闘争心だった、そう言わざるを得ない。尊敬の念なんて、欠片程も浮かび上がってこないけれど。

 

「……死んだ、か。ともあれ助かったぞイギー。感謝する」

 

(ケッ。受け取っといてやるぜ)

 

 歩み寄り、しゃがみ込んで隼の死を確認する。瞳の光は再び消えていた。嘴をだらしなく開き、全身を火傷と血とはみ出した肉でグロテスクに彩る惨死体。吐き気を催す凄惨な亡骸を、そっと手で抱える。

 

(……何してんだ?)

 

「イギー、わたしはこの隼を弔ってくる」

 

(弔うっておめーなぁ)

 

 手を汚してまで敵を弔うなんて、突き抜けたお人好しだ。燃え上がる炎のスタンドと、性格が真反対になっている。死骸なんて普通なら放っておかれて、いずれ風化して骨だけになるのを待つのみであるのに。

 彼の慈悲深い一面を、イギーは知らなかった。普段は冷静だがちょっとしたことですぐ熱くなる未熟者、そんな視点でしか彼を見ていなかった。へなへなと甘ったれた男は唾を吐きかけたいくらいに嫌いだが、アヴドゥルはそういった連中とも異なる気配を纏わせていた。

 

(ま、好きにしろよな。おれは先に帰ってるぜ)

 

「悪いがジョースターさん達の所へ戻っていてくれ。道は分かるな?」

 

(当たり前だろーが)

 

 まぁ何にせよ、死骸から来る悍ましい匂いをこれ以上嗅いでいたくはない。自分でやっておいて何だが、あまりに臭いので鼻が曲がってしまいそうだ。埋葬したいなら勝手にしてろ、吐き捨てた台詞はアヴドゥルには伝わらない。

 そういえば、もう雨は止んでいる。いつから止んでいたのか、勝負に気を取られ過ぎて気が付かなかった。もう日も地平線の下へと沈みつつある時間帯だ、完全に暗くなる前にとっとと帰ろう。あちこちにできている水溜まりを避けながら、心做しか早足で帰還の途に就いた。

 

 彼女の機嫌が、多少なりともましになっていれば良いのだけれど。そんな願いを心中に抱いて。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……」

 

 酷く長い夢を見ていた、ような気がする。起き上がろうとしたけれど、体に力が入らない。

 

 嫌な夢のせいで、汗をかいてしまった。全身がぐしょぐしょで、気持ち悪い。着替えようにも指先が僅かに痙攣するのみで手も上がらない。

 

 辛うじて満足に動く顔を傾け、ベッドの傍らに置き手紙があるのを見つけた。起きたばかりで覚醒しきっていない頭でも、それが自分に宛てられたものだと分かる。

 力を入れて、抜いて、ただひたすらに繰り返して体が命令に従ってくれるのを待つ。やがて腕がある程度しっかりと動くようになり、やや覚束無いながらも手紙を手に取った。

 

 [咲夜へ

 

 貴女がこれを読んでいることを願います。そして読んでくれたなら、もう少しだけ待っていてください。

 すぐに終わらせて、貴女の元に帰ります。]

 

 差出人の名前はない。だけどそれが誰かなんて、冒頭の一単語で分かる。たった数行の、ごく短い手紙の文字は、微かに乱れていた。

 

 彼女は手紙を書き、そして終わらせに行った。

 

 

 

 

 

 何を? 

 

 

 

 

 

 決まっている。この旅を、そして因縁を。

 彼らは、彼女らは終わりにするのだ。

 

 もう体の怠さは消えていた。上半身を起こして、すっ、と目を瞑り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イザヨイ・サクヤさーん……」

 

 部屋に入った看護婦が見たのは、開け放たれた窓から月光が差し込む無人の病室であった。夜風にたなびくカーテンが、漣のように微かな音を立てた。



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第七十二話 ヴァニラ・アイス その①

 本の解析に取り掛かかっていた親友から、進捗状況を聞いた。予想通り、下手をすれば想定以上に難航しているらしい。

 全体が不可解な言語で構成されている上に、魔術的な『防衛』も各所に織り込まれていて、1ページを読み切るのも満足にはいかない。眉間を摘みながらの愚痴に、一刻も早くと急かすことはできなかった。

 

 いなくなってしまった最愛の妹、そして愛しいメイド。彼女達の手がかりは、現状あの本しかない。引き続きよろしく頼む、そう言って図書館を辞した。

 

 ……私にできることは、何も無い。その事実に首を絞められたかのような窒息感を覚えた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 イギーが病室に帰ってきたのは、雨が上がり陽の沈む直前だった。いつの間にかいなくなっていたせいで要らぬ心配をかけており、苦々しい表情での短説教を頂戴した。フランドールの精神は多少持ち直していたらしく、朝程の居心地の悪さは感じなかった。

 だが、太陽が完全に姿を隠し、街から人の気配が薄くなっても、アヴドゥルが帰ってこない。ここらは比較的無軌道に道が走っているので、地理勘を失い迷ってしまったのか。まぁ彼なら大丈夫か、幾らか身を案じながらも一行は楽観していた。

 

 イギーだけが、あの隼を埋葬しているのを知っていた。しかし、それにしても戻るのが遅過ぎる。簡易的な埋葬に数十分、さらに1時間以上をかけることはないだろう。何せ穴を掘り死骸を入れて埋め直せば終了するのだから、時間的にはもう帰ってきているのが普通だ。

 

 釈然としない気持ちを抱えながら、ガムを噛んで暇な待機時間を潰す。願いが通じたのか、程なくして尋ね人の匂いが近づいてきているのに気がついた。入り口の方に一声吠えておいてやれば、ジョセフが意図を汲んでくれる。

 

 ばたばた、と焦ったように駆け足で近づいてくる彼に、怪訝そうな様子を見せる。他の一行は遅れたから急いでいるのか、くらいに考えてこっそり笑ったりしていたが、彼の優れた嗅覚は微かに匂う血の気配を鋭敏に察知していた。先刻嗅いだからはっきりと言える、この血は氷を操ってきた鳥のものではない。

 第三者の血か、それとも彼自身の手傷か。前者だとすれば彼を追ってきている手勢がいるかも知れない。一応念入りに嗅覚を働かせた限りでは、その可能性は無さそうだったけれど。

 

 未だ目を覚まさない怪我人がいるのを考慮すれば、些か配慮に欠けた扉の開け方であった。切らした息を整えながら、少し申し訳なさそうに扉を閉める。負っていた手傷が、彼の遅れた理由を示していた。

 

「どうした、怪我をしているじゃないかッ!」

 

「敵に襲われていました……ッ」

 

 椅子に座り、自身を襲った命の危機について証言する。怪我は深手こそ無いが、細かいものがかなりの数を数えている。差し当たっては出血のある箇所に限定し、花京院が急いで手当てを始める。

 

「得体の知れないスタンドです。姿が見えない上に、障害物を貫通して襲ってきます」

 

「どうするジョースターさん。話を聞くに相当厄介だぜ!」

 

「うむ。皆の意見を聞こう」

 

 一存で対策は決められない。全員の意見を仰ぎ、花京院が口火を切った。

 

「打って出るか迎え撃つか、ならぼくは打って出るべきだと思います」

 

「おれも花京院と同じ意見だ。もし先手を取られたら、対処するのはかなり難しいんじゃねーか?」

 

 ポルナレフと共に攻勢を選んだ。先に倒してしまうべき、成程確たる根拠もある。アヴドゥルも頻りに頷いており、この場で意見を聞くのは残り2人となった。

 

「承太郎、おまえは?」

 

「……この街に入ってから、急に襲われる頻度が上がった」

 

 話し始めるまでに、数拍間を置いた。少しばかりの沈黙で何を思い考えていたのか、感情の抑揚の乏しい顔つきから推し量る他にない。

 敵スタンド使いとの遭遇率は、確かにこれまでの旅の行程と比べれば異常といえる程だ。数日に1度でも高頻度だったが、この街へ来てからはたった1日の間に複数のスタンド使いによる襲撃を受けている。いずれも手練であり、余裕の勝利とはとても言い難い辛勝が続いている。

 

「いよいよ近いんだろう。DIOの本拠地、ってやつがな……」

 

 DIOが今何処にいるかは分からない。だが、一行が迫ってきているのは気がついているはずだ。だとすれば、最も信用できる配下に周辺を守らせるだろう。古の戦において、手薄な大将の陣など有り得ないのと同じである。

 

 SPW財団職員から聞いた9人の男女のうち、大半は撃破したと考えられる。残すはそう多くない。如何にプライドの高いDIOでも身の安全を最優先するはずで、残存する敵のほぼ全てが本拠地に集結している可能性は極めて高い。

 母ホリィの体力を鑑みれば、もう一刻の猶予もない。ならば配下を全て打ち倒し、そのままDIOとの決戦に雪崩込むしか選択肢はない。あくまで決着までの一過程として、承太郎は積極的なスタンスを望む。

 フランドールも先制攻撃に反対せず、結果スピーディに目下の方針が決まった。丁度アヴドゥルの応急手当ても終わり、各々が出立の準備のためホテルへと戻る。狭い病室に大柄な男共が入っていた分、彼らの退出で元以上に部屋が広がった錯覚を得た。

 

 がらんどうな部屋の中で、じっと佇む。機械の音が小さく聞こえてくるだけで、他のどんな音もしない。でも眠る少女の口元に耳を近づければ、微かな吐息が一定のリズムで耳を撫でる。ぴりぴりと擽ったくて、頬が緩む。

 

「……」

 

 そういえば、今から暫くここを空けるわけだが、咲夜にそれを伝えておかねばならない。起きて誰もいませんでは、あまりに不親切だから。さてどう伝えたものか、考えた末に1つ名案を思いついた。

 真っ白な紙に、さらさらとペンを走らせる。そのままだと大雑把なそれを、折り畳んで便箋っぽくしておく。あとは枕元に置いておけば、目覚めた彼女が手に取ってくれるはず。寝相まで綺麗な彼女なら、寝返りで潰してしまうこともない。

 

 手紙を添えて、後ろ髪を引かれながらも迷わず病室を辞した。足音の反響する廊下を歩くフランドールの目には、漸く平時の溌剌さが戻りつつあった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「この付近か?」

 

「えぇ。……あれを見てください」

 

 少し蒸し暑いエジプトの夜を歩き、アヴドゥルが襲われた現場へとやってきた。指された場所に目を向け、思わず驚きの声が漏れる。

 壁が綺麗にくり抜かれている。まるで無駄な破壊をもたらさないライフル弾のように、何かが壁を特殊な方法で貫通していた。近寄って跡を見ても、荒削りな部分が全く無い。丁寧に鑢をかけたって、こうはならないだろう。

 

「ここより奥には、あの建物しかないようですね。あとは地平線の果てまで砂漠だ」

 

「あの屋敷を調べるぞ」

 

 一行の前に、大きな屋敷が聳え立っている。人の住んでいる気配はせず、一方で心をざわつかせる異様な緊迫感を醸し出している。ただの無人屋敷ではないと確信するに充分だ。

 スタンドの力を感じはしない。フランドールの探知の網には、何も引っかかっていない。だが、中に何かあるのは確定していた。或いは()()のか、いずれにせよそこを調べないわけにはいかなかった。

 

「妙な気配、足音、光景……どんなものにも注意しろ」

 

 この廃屋がDIOの住処である可能性は、現実的なレベルで存在している。脳が前に進めと命令を出しながら、心の何処かで躊躇っている。その躊躇は、1歩を踏み出すごとに強くなっている気さえする。

 邪悪な空気が館から漂う。シンプルながら精緻なデザインを施された石造りの門が、大口を開けた悪魔にも思える。吸血鬼を狩るヴァンパイア・ハンターは、こんな気持ちだったのかも知れない。ちょっと血腥い昔の記憶の断片を思い出した。

 

「1歩ずつ、ゆっくりと進むのだ」

 

 先頭のジョセフが門に手をかけた。長い年月を放置されたのか、とうに錆び付きぼろぼろになった門は、不快な金属音を立てながら開いていく。生温くて気味の悪い風が、何処からともなく吹き付けてきた。

 

 正直、気がつけたのは幸運だった。

 

「承太郎っ!」

 

 捉えたのは、気配ではなく敵意だった。何かが右方から高速で接近してきた。早くも敵のお出ましか、迎撃のため構えたフランドールだったが、予想外の事態に怪訝な目をすることとなった。

 右側には、人間の姿を認められなかった。それだけなら遠隔操作型のスタンドを疑えたのだが、当のスタンドさえも見当たらない。体躯が極めて小さいのだろうか、目を凝らしてみても立派な蛇の石像があるのみだ。しかし敵意は依然として減速したりせず、真っ直ぐに向かってきている。

 その進路上には、承太郎がいた。開きかけている門に注意を払っており、真横まで迫るスケルトン・エネミーに気がついた風ではない。未だにフランドールの目にも映らない不可思議な敵の接近に、あれこれと迷っている暇はなかった。

 

 咄嗟に承太郎の腰を抱き、後ろへ放り投げる。怪我が酷くならないよう、できる限り高さは出さないよう配慮したつもりだったが、果たしてどうだったろう。気にする余裕もなく、今度は自分が回避をしなければいけない番となった。

 

「フランドール! 何をしてッ」

 

「待て花京院。()()()()()()()()!」

 

 一瞬だけ姿を拝めた。攻撃範囲をその一瞬で絞り、辛うじて直撃は躱したが、怖気をもたらす謎のエネルギーが腕を掠っていく。魔術系統のエネルギーではなく、人間の霊力にも吸血鬼の妖力にも当てはまらない。長く生きたフランドールが正体を見極められない、未知の力が腕の皮膚を削り取る。滲み出る血と痛みを無視して、すぐさま態勢を整える。

 誰も気配を感じ取れず、イギーの嗅覚にすら捕まらない。俄かには信じ難いが、能力を発動している間は全くもって探知不能ということか。これ程に反則じみた輩を従えるには、どれだけの悪のカリスマが必要になるのだろう。或いは肉の芽を植えて強制服従を強いているかも知れないか。

 

 近づかれても分からないのは、戦うにおいてかなりの脅威だ。例えスタンドに大した殺傷能力が無くとも、ナイフや拳銃を持って背後を取れる強みは他になく、ほぼ全てのスタンド使い垂涎のアドバンテージとなる。ましてや領域内のあらゆるものを消し飛ばすらしい()()()の怪物は、明確な防御手段を見いだし得ない。

 

「成程……不思議な女がいるとは聞いていたが」

 

 何の変哲もない空間に、まるでタネのないマジックのように現れ出る。その姿は古書に登場する悪魔を具現化したかの如く不気味で、不明な力の出処は怪物(スタンド)の口内だった。飲み込んだものを跡形もなく破壊するさまは、ブラックホールを彷彿とさせる。

 しかし本体だけは崩壊の影響を受けない。当然か、自分の毒で死ぬ蛙はいない。とはいえ己のスタンドに食われた状態で奇襲を仕掛けてくるなど、予想できた者は皆無であろう。誰もが動揺を隠せずたじろぐ中で、歯を鳴らして威圧する。

 

「きさまがフランドールか。承太郎諸共消し去り、DIO様への手土産にしてくれる」

 

「消したら手土産は残らないと思うけれど」

 

 フランドールの冷静な指摘には取り合わず、再びスタンド内部へと姿を消していく。これ以上話をするつもりは無いようだ。まだ二言三言しか喋っていないのに攻撃の準備を始めるとは、余程承太郎達へ強い殺意を向けている何よりの証拠である。見上げた忠誠心だと褒めるべきか、それとも最低限の会話すらこなせないせっかちな奴だと揶揄うのが良いか。数秒間の熟慮の末、面倒なスイッチを入れたくはないので、黙って対処することにした。



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第七十三話 ホル・ホース再び

「得体の知れないヤツですが……」

 

 館の中を走る。僅かに反響する足音に混じって聞こえてくる戦闘音が、後方で繰り広げられる勝負の激しさを物語る。

 不可思議なスタンドを駆使する男は、承太郎とポルナレフ、そしてイギーが相手をしている。残った4人は館の奥を目指し、DIOの行方に繋がる手がかりを探していた。

 

 ホリィの体力を考慮すると、猶予は多くて50日だとSPW財団の医師に伝えられている。期限までに残された時間は、もうほんの少ししかない。故に何としてでもここで有益な情報を掴まねばならない。例えスタンド使いを数名倒しても、それは今回ばかりは主たる戦果の枠外なのだ。

 

「あの3人なら大丈夫だ」

 

「分かっています」

 

 戦闘を専門にする彼らとトリッキー型の『ザ・フール』なら、誰にだってまず負けやしない。あのスタンドの能力もきっと解き明かして、弱点を突けることだろう。『スタープラチナ』でも『シルバーチャリオッツ』でも、一撃入れさえすれば敵を戦闘不能に追い込める。信頼を胸に駆け、やがて大きく開けた場所へ出た。

 

「こんなに広かったか?」

 

「かなり入り組んでいますね」

 

 外から見た屋敷の大きさと明らかに釣り合っていない、見渡せない程に広大な空間が一行を戸惑わせる。ある場所まで行くのに、何十通りものルートが構築できる。正解ルートは1つで、それ以外を通れば何か罠が作動するのか。難くない想像を巡らせ、暫し逡巡する。

 周囲を警戒しつつ相談した結果、一先ず上へ上へと進んでみることにした。ここにDIOがいたなら、自室は最上階に設けるだろう。最短で証拠を得るために、1階であまり立ち止まりたくはない。

 

 上へと登る階段にしても、あちこちにかけられている。単に1階の何処からでも上がれるための工夫なら、こうも悩まずに済むのだけれど。そんな茶目っ気のあるワンポイントを取り入れるような奴ではないと、これまでの冒険の中で痛い程に理解している。

 近い場所から調べていくのが、やはりオーソドックスだろう。一先ず真正面の階段へ向かおうとした。

 

「なッ……」

 

「銃声かッ!?」

 

 背後に薄ら寒い気配を感じたフランドールが振り向いた時には、既に1発の弾丸が丁度中間点を飛んでいた。()と彼女、弾丸との距離関係は瞬くよりも早く逆転していく。迎撃準備の完了と着弾は、人間の目では同時としか捉えられない。

 指に感じる不快な熱を厭うように、くしゃりと指先で脆い鉄を潰す。多少火傷を負ったようだが気にもならない。どうせ次に見たら無くなっている程度のものだ。

 

「きさま、ホル・ホースか!」

 

「よお、久しぶりじゃねーの御一行さん」

 

 静かな空間を斬り裂いた鋭い音が、皆の足を地に縫い付けた。上半身だけで咄嗟に振り返って、すぐにあっと驚かされた。

 他の誰にも興味が無いのか、フランドールだけが視界に収まる。獲物を見定めた蛇のような、不敵なあの目を知っている。ただ1つだけ前と異なっていたのは、その中に恨みが内包されていたことだ。

 

「インドでの借り……きっちり返しに来たぜ」

 

「慌てなくても、貸しておくわよ」

 

「ほう。しかしよ、例えばここでおれが帰り、道中引っ掛けたかわい子ちゃんと洒落たバーで1杯やるとして、だ」

 

 以前インドで咲夜に叩きのめされたのが、相当腹に据えかねているようだ。聞いた話では、撃たれたので沈静化するために鳩尾を殴ったそうだが、きっと想像もしたくない激痛だったに違いない。彼女は死なないための加減はできるが、抱える怪我や痛みの程度を考慮して適宜加減する優しさを備えていない。

 浮かべる笑顔が上辺だけだと隠そうともせず、緊張した空気が周囲を覆う。銃口は突きつけたまま、いつでもフランドールの脳天を撃ち抜けると暗に示す。高い殺傷力を有する拳銃に補足(ロックオン)され、それでも彼女に焦りは生じない。

 

「おれのこの()()()()()怒りは、一体何処の誰にぶつけりゃ良い?」

 

「さぁ。破裂するくらいまで溜め込んでたら、そのうち良いことがあるかもね」

 

「言ってくれるねェ!」

 

 結局のところ、ホル・ホースがどう思おうがフランドールの知ったことではない。彼は敵であり、気を遣う理由は皆無。再び行く手を阻もうと立ち塞がるのであれば、再度撃破するのみだ。

 

「フランドール。おれはてめーに、1対1での決闘を申し込むぜッ!」

 

 だから、彼の申し出は非常に好都合であった。そして同時に予想外でもあった。誰かとチームを結成して、過度に目立ちはせず、かといって置物同然とも言えない程々の活躍をするのがホル・ホースという男だと印象づけられていたから。

 

「フランドール、乗るなよ。数で優位を取り、確実に倒すのだ」

 

「おいおい、ちょいとそりゃ卑怯だと思うがなァ~~~~ッ」

 

「『卑怯』? その言葉、きさまから聞くとは想像だにしなかったぞ」

 

 かの憎きJ・ガイルと手を組んでいたり、無害な中立者を装って近づいてきたりと、卑劣の代名詞みたいな男である。No.2に甘んじることを厭わず、自らの身の丈を超えない範囲でポテンシャルを発揮する堅実なガンマンは、聞きようによっては頼れる味方とさえ思えるのに、その実これまで交戦してきた中でも屈指の卑劣漢なのだから奇妙だ。

 

「受けましょう」

 

「そう来ると()()()()()ぜ!」

 

 だからこそ、この手で戦闘不能にしたくもある。特に手酷く斬ったり刺したりしてくれたJ・ガイルには、浅からぬ怒りがまだ叩きつけ足りない──ホル・ホースには然程関係の無い件なのかも知れないけれど。

()()あってこの場は請け負う。後から追いかける、その意志をジョセフ達に伝える。アヴドゥルが言ったように、全員でかかって手早く倒すのも取り入れ得る策の1つだろう。既に承太郎を始めとした戦闘特化のメンバーが別の相手と交戦しており、これ以上の戦力分散に危険が伴わないわけではない。

 

「先へ進んでいて。まだ何人かいるようだし」

 

「……任せても良いか?」

 

「4人で食べるオードブルでもないわ」

 

 ホル・ホースの眉間に皺が寄った。気障を気取ってはいてもやはりまだまだ若造か、侮蔑をたっぷりと込めて鼻で笑う。『皇帝(エンペラー)』を握る手に力が入ったのを見逃さなかった。

 

「分かった、おまえに任せる。だが約束してくれ、くれぐれも無茶をしてはならんぞ。今は強いとはいえ、ザ・ワールドのおらん状況じゃ」

 

「心配は不要よ」

 

 確かに咲夜は今ここにいない。旅の間、彼女には幾度となく助けられてきた。彼女がいなければフランドールはエジプトの地を踏めずして無念のリタイアを強いられていたかも知れない。

 だが、咲夜がいなくとも戦うことはできる。少なくとも肉体の耐久力、そして再生力は彼女を上回っているし、破壊力に至っては並び立つ者などいない。ホル・ホースだけが相手なら、勝算は二十分にある。

 

 指を2度曲げ、フランドールを挑発する。折角お招き頂いたのだから有り難くトップスピードで突っ込もうかと一瞬迷ったが、流石に白地が過ぎたので見送った。奴と彼女との間に設けられる約30mに、どんな仕込みがなされていても無碍にする自信はあるが、現在は別段リスクを取るべき局面でもない。

 

「さァーてッと。別れのご挨拶は済んだらしいな」

 

「待たせたわね」

 

「気にすんな。些細な時間よ」

 

 ゆっくりと遠ざかっていく気配を背後に捉えながら、集中をホル・ホースに収束させる。会話が主であったここまでの間、ずっと照準をフランドールの額に合わせていた。隙あらばいつでも発砲し、彼女の命を奪えるように。アヴドゥルやジョセフ、花京院とも同時に相対しておきながら大した気の研ぎ澄ましようだ、飾らない素直な賞賛を贈呈しても良い。

 トリガーに掛けた指が、ぴくんと揺れた。人間の目では捉え難い僅かな力の変化を、吸血鬼の優れた観察眼は明白に見て取れる。如何に冷静であっても、銃を撃つのにはある一定以上の圧力が必要だ。

 

「わりぃがサクヤちゃんに遺言残す時間までは取ってやれねー。ま、すぐ後を追うよう伝えておくから許せよな」

 

「それはそれは」

 

 撃たれる、そう思った時には既に腕が動いている。視認なんて絶対にできないはずの亜音速飛翔体を、たった2本の指で完全に停止させてみせる。

 いつもなら口笛でも吹いて煽り立てていただろうが、今日は紅いラップスカートが可憐な少女と舞踏会にやってきたわけではない。小さく舌打ちを1つ、狙いを心臓へと定めなおす。

 

「余計なお世話様ですわ」

 

「つれないねぇ」

 

 申し訳ないが、冥府への付き添い(エスコート)はまだ必要ない。フランドール本人にも、当然咲夜にも。よってテンガロンハットを被った貧弱そうな死神様にはお帰りいただくことになる。

 手を固く握る。先例に倣って鳩尾を殴るか、趣を変えて鼻骨を小気味良く鳴らしてみるのも一興か。どちらにせよ、これまで出会った憎たらしい輩についてのリストを作れるとすれば、ホル・ホースは2ページ目までには入ってくる。気兼ねも遠慮もせず、癪に障る気障男の自尊心を木っ端微塵に砕く用意はできていた。



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第七十四話 ケニー・G

 列をなし、壁に沿ってそろそろと歩く。真っ直ぐ進めるなら30秒で階段まで辿り着けるところを、迷路解読を始めてから現在10分近くが経過していた。

 

 何処を見ても似たような景色であり、知らず知らずのうちに方向感覚が狂わされそうになる。今自分達がどちらの方角を向いているのか、1度角を曲がるごとにきちんと確認しながら進まなければ、冗談ではなく遭難しかねない。

 

「迷路とは『壁に手をつけながら歩けば必ずゴールできる』ものだ。例え皆既日食ドンピシャの真っ暗闇でも、壁が消えるわけではないからな」

 

 他の面々とは積み重ねてきた年季が違うのがジョセフ、故に迷路の攻略方法だって心得ている。これまで世界各国様々なアミューズメントパークなどで用意された数多の迷路に挑み、未だ負け知らずの輝かしい戦績を誇っている。

 

 娘にあちこち連れ回された経験が、まさかこの重要な場面で活きてくるとは、人生分からないものである。心中複雑ながらも感謝はしつつ、通路を右へ曲がる。相変わらずの一本道だが、突き当たりには上階へ続く階段があった。これが正解の階段とも限らないが、最低でも選択肢を1つ潰せるのだから無駄ではない。

 

 ゴールが見えると、人間の目は無意識にそちらへ向いてしまう。足元の確認を怠り、そのせいで普段なら躱せるトラップにも引っかかるのだ。目的地に近づく程慎重に行動するのが、結果的にはどんな近道試行よりも効果的である。

 

「ん?」

 

「今何か、スイッチを押したような音が」

 

 ……ただ、気をつけていようが躱せない罠も中にはあるわけで。今回の場合、壁に仕掛けられようものなら、解法上当然に陥ってしまう。気にしていないではなかったが、まさか迷路も最後の最後という所でとは、仕掛け人の性格の悪さが伺い知れる。

 

 ぎくり、と体が強張る。良い予感は全くしない。明らかに何か作動させてはいけないものが働き始めている。直感が今すぐにこの場を離れろと大声で訴えかけてくるが、1度固まってしまった体は瞬時に動きを取り戻せない。何も彼らだけにかかった悪しき魔法ではなく、人間ならば誰しも甘受せざるを得ない枷が、命運を決定づける。

 

 体を襲う浮遊感に鳥肌が立った時には、もう遅い。急速に遠くなっていく天井を呆然と見つめながら、光の届かない深い所に落ちていった。やがてゆっくりと床が閉じていき、元の変哲ない地面に戻った。

 

 俄かに人の気配を失った迷路。そのゴールに男が立っていたのは、誰も気が付かなかった。男は迷路を歩いている()()()()ジョセフ達をずっと見ていたし、術中の獲物だとほくそ笑んでもいたが。

 

「『壁に手をつけながら歩けば必ずゴールできる』。成程その通りだな。それは目的地(ゴール)出発地(スタート)が、必ず壁で繋がっているからだ」

 

 3人を飲み込んだ地点へと歩く。通路を仕切る壁の存在を無視するかのように、硬い足音は僅かたりとも反響しない。上着のポケットに手を入れ、六十の老人のように背を曲げて歩く姿に、所謂『凄み』は無い。

 

「だが甘い! おれはジョセフ・ジョースターの老獪さをも計算に含めていたッ!」

 

 だが、只者ではないと知らしめる気配は放っている。ンドゥールのように鋭くはなく、『アヌビス神』のように人ならざる妖気を漂わせてもいない。彼の雰囲気を例えるなら、丁度ホル・ホースに類似している。即ち、頭の切れる戦略家だ。

 

 右手法の発展形であるトレモー・アルゴリズムならあの罠は回避できた。無論それさえも折り込み済みで、例え如何なる手段を用いられたとしても、創り出した迷路を突破されない自信がある。そう、五感を幻惑させる『ティナー・サックス』に隙はない。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ぬう……皆無事か」

 

「えぇ、何とか」

 

 生まれて初めてこうも自らのスタンドに感謝したと思う。もしジョセフに授けられたのが波紋だけだったなら、今頃館の地下に死体が3つ転がっていたところだ。

 

 落ちながらもジョセフ・ジョースターの咄嗟の爆発力は健在だった。脊髄反射で繰り出した『ハーミットパープル』を掴むことで、全員辛うじて落下死を免れていた。大の男が3人ぶら下がっても千切れなかったのは、嬉しい誤算といえよう。

 

「まさか落とされるとはの。アヴドゥル、明かりを」

 

「はい」

 

 光源も届く光もなければ、声で互いの存在を認識する他にない。目が利かない不便さは何にも勝るもので、一先ず明かりの用意を優先したかった。その点アヴドゥルの能力は色々と使い勝手が良いので助かる。多少狭くても視界が確保されている有難みは、普段では得られないだろう。

 

 視界の端で何かが震えたように見えた。全員が即座に向き直る。スタンドを前面に押し出し、戦いへの準備を相手に見せるかのようだ。

 

 しかしその相手は、意外にも応戦の意志を見せたりはしなかった。

 

「ン! なんだこの小僧は、何故ここにいる!」

 

「ヒィッ、誰ッ……!?」

 

 尻餅をついて驚いたのは、まだフランドール程度の歳の頃と思しき子供だった。手には少々不格好なくらいの大きい本を持っている。ついさっきまで熱心に読んでいたのだろう、親指がページの間に挟まり栞の役目をしている。

 

 目線はアヴドゥルの方に向いていた。より正確に言えばアヴドゥルの少し奥、それも上方だった。それが何であれ、3人以外のものを見ているのは確実だ。

 この場でジョセフ達の他に目を引き寄せるとすれば、スタンドしかない。そしてもし少年が館の住人に誘拐され幽閉された普通の子だったなら、スタンドは視認できない。

 

「小僧、DIOを知っているな? 心苦しいがおまえを放ってはおけん」

 

(うわぁーッ! 兄ちゃんンン~~~~ッ!)

 

 間違いなくこの危険な館に関わるスタンド使いだから、それなりの対処を要する。演技でなく怯え切っている子供に手を上げるのは心が痛むが、不穏要素は躱しておくに越したことはない。

 

「ま、待って」

 

「気張らなきゃ15秒で終わるからのッ!」

 

 音もなく細い首に絡みつく。慌てて外そうと手をかけるが、非力な少年の腕力で引き裂けるものではない。たちまち首を絞められ、喉に餌を詰まらせた鶏のような声が漏れ出る。

 

 顔を真っ赤にしながら必死に藻掻くも、茨は緩むわけでもなし。気道を完全に潰され、酸素が体内を充分に循環できず、指先から震えが伝播していく。そして目の焦点が上向いたかと思えば、だらりと脱力して無抵抗になった。当然ながら殺してはいない、一時的に気絶させただけだ。

 

「少し可哀想でしたが、仕方ありませんね」

 

「うむ」

 

 白目を剥いた少年を部屋の隅に寝かせる。目を覚まされる前にここを後にしたいところだが、そこではたと行き詰まってしまう。アヴドゥルの炎が放つ光も上までは届かず、何処が天井なのかも見えない。少なくとも視認できる範囲内に、脱出の鍵は落ちていないようだ。

 

「さて、我々はここから脱出せねばならんが」

 

「周囲を調べてみます」

 

「頼むぞ」

 

『ハイエロファントグリーン』を這わせ、縦に長い地下空間を調べる。何処かに抜け穴でもあればそこからの脱出もできるし、ギミックを解除することで出られるならそれでも良い。

 

 ヤモリよろしく壁面に張り付いて現状打破の手がかりを探る。丁寧に調べているせいか、数メートルを登るのに存外時間を要した。暗がりに半ば以上呑まれているスタンドを見つめながら、ふと思い出した独り言のように零す。

 

「ところでこの少年……どうやってここにやってきたのでしょう?」

 

「どうやってって、そりゃあ……どうやって?」

 

「言われてみれば不思議だな」

 

 あの開く床から落ちてきたと考えるのが普通だが、ではどうやって彼は怪我ひとつなく降りきったのだろう。空を飛べるならその力で脱出を図るはずだし、何らかの手段で落下のダメージを無効化できるなら何故ジョセフに抵抗しなかったのかという疑問が残る。

 

 或いは試した結果がこの場所への残留だったのか。だとすればここを出るのは困難を極める可能性がある。暗澹たる気持ちに襲われながら真剣な表情の花京院を見守る。

 

『その音』を聞き逃すのは、無理があった。街中だったら気がつけなかったかも知れないが、何せここはあまりに静かだ。

 

「……これは、ホル・ホースの?」

 

「恐らく。いや間違いない、奴だ」

 

 スタンド使いが跋扈するこの屋敷で、銃声が聞こえることはない。たった1つ、ホル・ホースのスタンド『エンペラー』を除いて。

 

「軋んだ……が、開きそうにはないか」

 

「外からだけ開けられるのかも知れん。アヴドゥル、この石壁を溶かしてくれ」

 

「はい」

 

 早く駆けつけたくて、無意識に押した部分だけが、ぎしりと軋んだ。まるで建て付けの悪いドアみたいだ。漫ろに考えてから一拍遅れて思い至る、『みたい』ではなくその通りなのでは、と。つまり石壁の一部分が入口になっていて、落ちてきた開閉式の床は脱出に何ら関係がない。

 

 だとすれば不可解な点の全てに辻褄が合う。少年は何者かの手により石の扉を通ってここに連れてこられたある種の被害者で、石数個分の厚みを超えた先ではホル・ホースが誰かと……十中八九フランドールと戦っている。

 

 押して動く程度の分厚さなら、『マジシャンズレッド』に突破できない道理はない。派手にやると後ろの花京院やジョセフが危ないので、逸る気持ちを抑えながらじわじわと融解させていく。霤のように滴り落ちる赤熱液体が冷え止むのに、1分も要しなかった。

 

「てめーら……そこにガキが1人いたはずだが」

 

「意識を落とさせてもらった。きさまの知り合いか?」

 

「チッ! そうかい、ボインゴが……」

 

 言葉を交わしながらも、フランドールから視線は離さない。『エンペラー』が通用しないだけあって、相当に彼女を警戒していた。

 

 ホル・ホースにとって、ジョセフ達の登場は予定外だった。この先に進めば、DIOに仕えるあらゆるスタンド使いの中でも異質で強大な者がいる。そいつに全員やられて終わりだろう、そう見越していたが当てが外れた。

 

「甚だ不本意だが、もう一度きさまらに背を向けるとしようかッ!」

 

「それをわたしたちが許すとでも?」

 

「バカ言っちゃいけねーぜ花京院クン。おれの行動を決めるなんざ、おめー神にでもなったつもりか?」

 

「戯言を。観念するんだな」

 

 しかも、最終手段として用意していたボインゴまで無力化された。悉くを無駄にされ、歯噛みするなという方が無理である。奥歯が欠けそうなくらいに噛み込んで、それでも袋の鼠にはならない。

 

 彼さえ無事だったなら、フランドールにも勝てただろう。かのスタンドは絶対の未来を予測できる。つくづく余計なことを、睨む目に苛立ちを込めながら冷静に手元でピンを抜く。いつの間に取り出したのか、手には鈍い銀色の物体を握っていた。

 

 もしフランドールが銀の球体の正体を察せたら、なすがままにはさせなかった。だが、何かも分からないものを取り出され、ひょいと投げられたところで、静観する他になかった。結果としてそれは、障害なく地面へ落ちた。

 

「伏せろッ!」

 

 一瞬早く気がついたのは、ジョセフだった。耳を塞ぎ伏せ、直後瞼の上から眼球を焼くような、鮮烈な光が走った。同時に耳の奥へ綿棒を突っ込まれたかの如き激痛と嫌悪感に襲われる。それが桁違いの爆音だと気がつくのに、幾らかの時間がかかった。

 

 ややあって、ゆっくりと目を開く。少しちかちかと点滅する視界が戻っていくにつれて、眼前の状況が明らかになってくる。

 

「くそッ、逃げられたか!?」

 

 テンガロンハットの後ろ姿は、何処にも見えない。酷い頭痛を堪えて立ち上がる。暫く時間を置かないと、スタンドもろくに出せそうにない。

 

 さっきのは、恐らくスタングレネードの類だろう。あんなものを隠し持っているとは。攻撃ではなく逃げるために使われたのは、まだ幸運だったのかも知れない。

 

「待て。フランドールは何処だ?」

 

「いない……追いかけたか!」

 

 音と光の痛烈なショックからいち早く回復し、即座に追跡していったらしい。インドで一悶着あったのが関連しているのか、ホル・ホースへの執着心はかなり強いようだ。

 

 音速で飛ぶ弾丸を素手で摘むだけの身体能力がある以上、フランドールに任せるのが最適解なのだろうが、奴の強みはスタンドに留まらない。様々な策略を駆使された時、果たして単純なフィジカルだけで対応し切れるのか。

 

 人の命を奪うのに躊躇いを持たない。それはきっと、女子供を問わず。カルカッタでは何の躊躇もなくアヴドゥルの眉間を撃ち抜かんとした。数多の刺客の中でも、あれは抜きん出て明らかに異常な精神を有している。手を替え品を替えて人間の一生に幕を引いて、どうしてあんなにも凪いでいられるのか。

 

「先へ行こう」

 

 不安がないと言えば嘘になる。まだ幼く未熟で、だがただのお転婆で快活な少女ではない。ザ・ワールドから受け継いだ能力に感けず、確たる自身の勇気と頭脳でこれまでも道を切り開いてきた。例えばデーボ、そしてミドラーの時も。加えて大事なスタンド(メイド)の負傷が、奇しくも真価を引き出そうとしている。

 

 だからこそ信じる。庇護の対象というだけではない。覚悟を持って戦う仲間を信じて任せるのも、敬意の示し方の1つとなる。

 

 姿を捉えられない謎の敵は承太郎達に、性懲りも無く立ち塞がる卑劣なガンマンはフランドールに。そして彼らは、あの迷路を突破するか、或いは別のルートを探してDIOに続く道をこじ開ける。後方は抑えた、ならば前に進むのみ。

 

 太陽は既に真上を過ぎ、やや傾きつつある。日没まで、およそ数時間。



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第七十五話 『目覚め』

 外に出た時、太陽は既に傾き始めていた。館の主がそろそろ動き出す頃か、息を整えながらふと思う。陽の出ている間は行動せず、夜になって漸く起きてくるなんて、御伽噺の吸血鬼のようだ。

 

 今何処にいるのか、誰にも知らせず気紛れな猫のようにいなくなってしまったことへの腹いせとして、今日こうして襲撃を受けているのでは。かねてから散々ジョースターの血を滅するだの何だの言っておきながら、いざその機会になって姿が見えないとはどういうつもりなのか。今更怖気付いて逃げ出した、とかでなければ良いが。

 

 承太郎とポルナレフ、そしてイギーは今頃塵も残さず消え去っている頃だろう。残りはついさっき撒いてきたから、可能性として追ってくるか上の階へ進むかのどちらかになる。だが、彼らが全員で最上階を目指していくと確信している。

 

 常人であるホリィの生命力を考えれば、ジョセフ達に残された時間は僅か。呪いのように体を蝕むスタンドを取り除きたければ、DIOの心臓の鼓動を完全に止める他にない。だから確信できるのだ。例え敵の数を減らすという大義があっても、この時点でホル・ホース撃破に割ける『無駄な時間』はない。

 

 大分落ち着いてきた。多勢に無勢、加えて奥の手が封じられた時はどうなることかと思ったが、辛くも切り抜けられた。そして、これ以上彼らの戦いに関わらないという選択をするなら、今が最後のチャンスだとも分かっている。

 

 目も眩む莫大な報酬があればこそ、ホル・ホースはDIOの手足として数えきれない程の人間を葬ってきた。だが、契約者はおらず報酬の支払いを期待できる状況ではない。第一、今回の依頼は標的(ターゲット)1人殺すのも簡単ではない。リスクとリターンの釣り合っていない仕事に、これ以上従事する必要性は全く感じられない。

 

 合意なき契約の破棄ではあるが、元はと言えば勝手にいなくなったのが悪い。恨むなよ、一言呟いて踵を返す。一先ずタクシーが拾える大通りまで行こう。それから列車か飛行機か、いずれにせよ晴れて奴らとは手切れだ。DIOを倒すなりやられるなり、好きにしてくれれば良い。

 

 安心したからか、無性に喉が渇いてきた。空腹も若干は感じている。安全圏まで逃げ切るまでの我慢だ、自分にそう言い聞かせる。何せ窮地を脱しただけで、まだ予断は許されない。

 

「とにかく」

 

「『お酒が飲みたい』」

 

「酒が……ッ!」

 

 自分の疲れ切った草臥れ声に重なる、幼い少女の声。抑揚はなく、少し風が強ければその音に掻き消されてしまいそうなか細い声が鼓膜に触れる。それが誰の声かを理解して、瞬時に体を衝撃が貫いた。即座に振り返って構えられなかった。隙だらけの数秒間に仕掛けてこなかったのは幸運という他にない。

 

 フランドールはホル・ホースを追った。彼は切り抜けてなどいなかった。館の中で引き金を引いた時点で、賽は投げられていたのだ。真に平穏を手に入れたくば、最早彼女を殺す他にない。何という論理破綻か、それができないから逃げてきたというのに。

 

「……てめー」

 

「貴方は放っておくと面倒なことになりそうよね」

 

 どうする。ホル・ホースの頬を脂汗が滴る。スタングレネードはもう使った、『エンペラー』はほぼ通じないに等しい。逃げるにしても身体能力で大きく水を開けられており、現実的な案ではない。

 

 ヴァニラ・アイスは近くにいない。役目を終えたからか、館の中へ戻ったらしい。せめてあいつさえいれば化け物同士をぶつけるという選択肢も取れたのに。急に天気が悪くなって落雷が彼女に直撃するとか、そんな奇跡でも起きなければ覆しようのない、完全な詰み(チェックメイト)を突きつけられた。

 

 いっそのこと戦いを選択して、一縷の望みに賭けるか。手にしたスタンドへ指をかけ、しかし撃ったコンマ数秒後の未来を想像してしまう。可能な限りの連射で、しかも全ての弾丸を精緻に操って全方位から強襲して、それでも悉く防ぐ化け物相手に、今更どうしろというのか。

 

「アヴドゥルのこともあるし、ここで退場してもらうわ」

 

 まさに八方塞がりで、ホル・ホースは袋小路に追い詰められた鼠だった。絶対的な優位を保持しながら、ゆっくりとフランドールは距離を縮めてくる。背後の壁に阻まれて、後ずさるのももう限界だった。整えた呼吸も気持ちも、逃れようのない敗北を前にしてぐちゃぐちゃに乱れていた。

 

「殺す気はないわ。貴方とは違ってね──」

 

 ……強運、というやつなのだろうか。不運だったらここまで生きてこれていないとは思うが、流石に自らの悪運を自覚せざるを得なかった。

 

 大なり小なり善なり悪なり、何かを成し遂げる者は大抵運に恵まれている。2択の決定で悪手の方は選ばないし、咄嗟の判断がピンチをチャンスにひっくり返す。そうして神に愛されるがままに栄光の階段を登り続けて、いつしか雲を見下ろしていたのが偉人というやつらなのだろう。そう考えれば、ホル・ホースもまた偉人の端くれである。

 

 目の前で、小さな体が頽れた。糸の切れた操り人形のように地面へ倒れて、そのままぴくりとも動かない。事態が飲み込めずに数瞬呆然とする。背中に感じる壁の硬さが、急に存在感を増した。

 

「……は?」

 

 何の冗談だ。初めは転んだのだと思った。陽が沈んできて辺りも暗くなりつつあるから、足元の障害物を躱せなかったのだろうと。最後の最後で締められない馬鹿め。意識を飛ばされる前にせめてもの報いを射ようと思った。

 

 だが、止まっていた呼吸に限界が来て、荒く浅く酸素を巡らせていく中で、フランドールが再び立ち上がらないことに気がついた。敵の目の前で派手にすっ転び、恥ずかしさのあまり立ち上がれないのか。それとも転んだ拍子に頭でもしたたかに打ちつけて脳震盪を起こしたのか。

 

 とにかく、千載一遇の大チャンスだ。立ち上がられる前に殺す。彼女は人を騙す道化の類ではないから、この醜態を誘い餌にしているとか深読みするのはご法度。『隙だらけ』──目に見えているものを信じる、為すべきはただそれだけだ。

 

 閃く指先が最速で弾丸を叩き込む。標を脳天に定めて、迷いなく描き出される直線軌道に運命を託す。このまま1秒経ってくれれば大逆転勝利、だが万一にも回避されたら。彼女が目を覚まして、或いは予想しない仲間の援護によって窮地を脱したら。もしそうなったら、今度こそ逆転の目は完全に潰えたといえる。

 

 弾丸が小さなナイトキャップに触れる。伝わってくる感覚だけで全身が粟立つ。薄めの布時を通り抜けて、少し癖のついたふわふわな髪の間を縫う。かつてなく鋭敏になった神経がそよ風さえも痛みに変えて、それでも微動だにせず撃ったままの姿勢で固まる。

 

 ……放った精神力の弾丸は、確かに頭部を貫通した。長年の相棒が発した命中のシグナルを、幾ら動転していようとも間違えるはずがなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 2階へ続く階段を駆け上がる中でジョセフが感じたものを、悪寒と呼んで良いのだろうか。本人さえ全容を把握できない巨大な感情など、禍福のどちらにも分けられない。ただ、全身に粟立つ鳥肌を、吉兆とは思えなかった。

 

「どうしました?」

 

「分からん。途轍もなく恐ろしい『何か』が現れたような、そんな感じがした」

 

 体が強ばったのは、花京院達にも見えた。ジョセフにしては珍しい、曖昧で要領を得ない答えに、怪訝さを覚えながらもそれを心の片隅に追いやる。階段は終わり、舞台は新しい階層に突入した。

 

「あの破壊……ジョースターさん、ヤツです!」

 

 承太郎達が相手を買って出た謎のスタンド使い、その破壊の痕跡が残されている。テーブルが不自然に抉り取られ、壁には型を嵌めてくり抜いたかのような綺麗な穴が空いている。ここを通ったのは確実だ。そればかりか、近くに潜んでいる可能性もある。互いに背を合わせ、周囲を警戒する。

 

 かつん、と足音。反射的に全員が階段側を向く。

 

「おい……おれだぜ」

 

「承太郎!」

 

「ん、あいつこの部屋を通ったみてーだな」

 

 少し息が上がっている。無理もない、見えない敵を相手に戦っていたのだから。学ランの一部が切られているが、彼自身は大きな傷を負っていないらしい。まずは彼が無事で良かった。

 

 少し遅れてポルナレフとイギーも階段からやってくる。これで全員が合流するに至った。……ただ1人、ホル・ホースを追ったフランドールを除いて。

 

「全員無事のようじゃな」

 

「あぁ。だがあいつを取り逃したのは痛いな」

 

「でもよ、脇腹を突き刺したぜ。少なくとも全力は出せないくらいのダメージになってるはずだ」

 

「どうだかな……」

 

 脇腹を貫通したとなると、かなりの重傷だ。少なくともまともに戦闘を続行できるようには思えない。しかし、承太郎は何か思うところがあるように唸る。

 

 スタンドは使用者の精神状態に大きく依存する。精神力の爆発はスタンドを時に覚醒させ、反面精神的に衰弱すれば本来の力を発揮できなくなる。大怪我による身体的・心的ダメージを鑑みれば、奴の脅威は薄れたと言えよう。揺るぎ得ないこの事実をもってして、なお承太郎が懸念する『可能性』とは。

 

「じじい、強烈な悪寒を感じたか?」

 

「あぁ。お前も感じたようじゃの」

 

「あれの直後にあいつは逃げた……いや」

 

 言葉を切り、適切な言葉を探すように数秒黙り込む。半身を喪ったクローゼットからぼろぼろの服が落ちて、微かに埃を舞い上げる。

 

「逃げたかは怪しい、といったところか」

 

「どういうことだ?」

 

「この館には、随分と偉いやつがいる。あのスタンド使いが教えてくれたぜ」

 

 姿を消し破壊を振り撒くかの敵は、これまでにない強大さを誇る。それが呼応する従たるならば、君臨する主たるは。

 

 これまで撃破してきた数々のスタンド使いはいずれもタロットカードに由来するスタンド名を冠していた。22枚のカードのうち、ほぼ全てを撃破してきた承太郎達が、唯一残す1枚は。

 

 ……ジョセフと承太郎が感じた寒気が、DIO(ワールド)に起因するものなら。全てが1本の線で繋がるのは偶然だろうか。この館にDIOはいない、そう断言できるだろうか。

 

「この階の上が、最上階じゃな」

 

「登るしかないか」

 

 真実は最奥に。知りたくば足を踏み入れるしかない。例えそこが危険だと察せても、知りたいことはやってきてなんてくれないから。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 結晶の檻が砕けていく。周囲の暗黒が引いていき、徐々に視界が明度を上げる。やめて、やめて。

 

 指が動く。腕が、足が、首が動く。悠久にも等しい意識だけの『世界』から解き放たれようとする。やめて、くるしい。

 

 呼吸を思い出した。久方ぶりに吸い込んだ空気は、泥に投げ込んだパンのように不味い。いやだ、いたい。

 

 目の前に広がる亀裂を押し広げて、外へ出る。この場所には覚えがある。体中から滴り水溜まりとなる深紅が、急速に乾いていく。まるで初めからそんなものはなかった、そう言わんばかりに。

 

 双眸に光が宿る。生気を得て、或いは取り戻し、そして獰猛に笑った。手を握り締め、指が食い込み隠れようとも、気に留めることもなく。

 

 

 

 

 

 いたイ、たすケて。



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第七十六話 DIO BRANDO その①

「なんだ……この部屋は」

 

 螺旋階段を登った末に、奇妙な部屋に辿り着いた。大柄な男を収めて余りある巨大な棺が安置されている。石造りの台座の上に乗せられ、重厚な蓋で閉ざされる中身が一体何なのか、知りこそしないが想像はできる。

 

 鳥肌を誘う異様な気配が充満している。生身で50m素潜りをしたかのような、全方位から押し込んでくる圧力に、顔を歪めずにはいられない。

 

「ここより上には行けない。やつがいるとすれば、ここだけだ!」

 

「潜んでいるのじゃろう。全員、気を抜くなよ」

 

 四方を警戒し、慎重に部屋の奥へと歩を進める。不気味なくらいに冷えた空気が纏わりついてくる。明らかにこれまでの階層とは様子が違う。

 

 閂で厳重に封鎖されている窓からは、一筋の光さえ入らない。いつから点いているのか、誰が点けたのかも不明な燭台が、この部屋の唯一の光源になっている。周囲に飾られる鏡も、ぼんやりとした像を映すだけだ。部屋の主が太陽の光を嫌っていると、嫌でも分かる。

 

 極限の緊張が男達を包む中、初めに発見したのは、花京院だった。物音も立てずに横たわっていたから、少し奥に入るまで見つけられなかった。

 

 金の糸束が、無造作に床に散らばっていた。凡そ似つかわしくない光景に、視線が吸い寄せられる。暗い部屋の中で目を凝らし、飛び込んできたのは、見慣れた華奢な体だった。

 

「フランドールッ!?」

 

「おい、花京院! 待てッ」

 

 名を呼ぶ声にも反応はなく、完全に意識を失っているように見えた。頭の辺りにある、ぼんやりと澱む水溜まりが、何よりも不安を煽った。承太郎の静止も耳に入らず駆け出す。

 

 取り逃したホル・ホースを追って、屋敷の外へと向かったはずの彼女が、どうして最上階の床に横たわっているのか。怪しむべき点は幾つかあったが、焦りに囚われた頭では考慮できなかった。

 

 ふと、視界に何か映ったような気がした。大口を開けた悪魔が、頭から飲み込まんとしてくるような(ヴィジョン)。反射的に膝を曲げて、殆ど転んだように地面に倒れ込む。意思を越えた体の動きには感謝する他になかったが、災厄は過ぎ去ってはいない。すぐにでも引き返してきて、花京院に危害を加えられる。

 

「ぐあ……!」

 

「チッ、肩か。しかし浅はかだったな花京院、ここにおれがいると勘づいていながら、1人で動くとは」

 

 悪魔の中から身を乗り出してきた男を、承太郎達は知っている。戦闘を途中で切り上げて、何処かへ去っていったスタンド使い。この部屋に潜んでいる可能性が高いから、と全員が警戒していた。

 

「おまえたちの死体は串刺しにでもするか? せめてもの慈悲だ、並べておいてやる」

 

 結論として、その想定は的中した。男は最上階にてジョセフ達を待ち伏せていた。フランドールが仲間だというのは聞き及んでいたので、敢えて消し飛ばさずに餌として使った。外に倒れていた彼女を部屋まで運び、乱雑に投げ捨てる。如何にもな『()()()何かあった』を演出するには、それで充分だ。後は心優しい誰かが、勝手に慌ててくれる。

 

 ヴァニラ・アイス。スタンド名は『クリーム』、甘そうな名前に反して情け容赦は一切ない。DIOを盲目的に崇拝し、彼の右腕として君臨する強大なスタンド使いである。

 

 口内に出現する異空間は、触れたものを全て分解する。例外はなく、例え重厚な鉄の塊であっても、接触は消滅めいた分解の餌食となることを意味する。捻じ曲がった歪な精神が生み出した、この世で最も悍ましいスタンド能力である。

 

「ここで全員死んでもらう。DIO様はそれをお望みだ……!」

 

 足から再び口内へと飲み込まれていく。彼だけは異空間の影響を受けないのか、足首から膝へ、そして腰が虚空に消えていく。あれに篭もることで姿を見えなくしているらしい。判明したところで、それがヴァニラ・アイスを倒す鍵になりはしないけれど。

 

「ジョースターさん、逃げよう! あいつは気配のない、触れた部分を消滅させるスタンド使いだ!」

 

「しかし、しかしフランドールはッ」

 

「助けに行ったらその分お陀仏増やすだけだろッ! 今の花京院は運が良かっただけだ!」

 

 少女を見捨てて、他の全員で逃げる。ポルナレフはその選択を是とした。ともすれば批判に晒されかねない非情さを内包していたが、一方で最も合理的な判断でもあった。

 

 最小限の犠牲で抑えたければ、ここでフランドールに背を向ける必要がある。道義とか人情とかで測ってはならない。彼女を救おうとすれば、ほぼ間違いなく1つ以上の命が犠牲となる。

 

 考えるべきは算数であって、道徳ではない。1つの命と2つの命、1≠2であって価値は同等ではない。どちらかを失わねばならないなら、より少ない数を選択しなければいけない。ヴァニラ・アイスは、打ち倒すべき最大の相手ではないのだ。

 

「ポルナレフ、やつの接近を感知できる方法は!?」

 

()()ッ! おれも承太郎も、イギーもほぼ完全に撹乱されてたんだ!」

 

 姿を消している間、ヴァニラ・アイスは視覚以外の存在情報も隠してしまう。索敵の切り札となり得るイギーの嗅覚でさえ、ひとたび『クリーム』に隠れられれば及ばない。だからこそ手練の3人が協力していながら苦戦を強いられ、辛うじて一撃を喰らわせるに留まったのだ。

 

 舌打ちを1つ、承太郎が走り出した。引っ込まれる前に、攻撃を入れるしかない。既に頭部と肩の一部を残して無敵の世界に隠されてしまっているが、それでも頭がまだ見えているなら攻撃はできる。最速で一撃を喰らわせて、怯んだ隙にフランドールを回収して撤退する──立てた算段の勝率は、贔屓目に見て5割。

 

 彼は仲間を見捨てる選択をしなかった。できなかった、と言うべきだろうか。1ヶ月を超える長旅で、彼女が見せた様々な顔が、脳裏に浮かぶ。年相応に笑い、怒り、悲しむ少女だ。乗り物に乗れば体調を崩し、朝起きてくるのも大抵最後。一見ただのお荷物だけれど、彼女がいなければ危うかった場面もある。承太郎の中で、フランドールは紛うことなく仲間だ。

 

 肩を掴まれた。落ち着け、そう言いたいような手だった。

 

「アヴドゥル……」

 

「頭に血が行き過ぎているな。普段の冷静なおまえはどうした」

 

 完全に『クリーム』へ埋没されたが最後、一切手は出せなくなる。それどころか、どこにいるかさえも分からない。だからこそ、今こそが攻撃する希少にして絶好のチャンスだ。

 

 ここで仕掛けるのは悪手だ。アヴドゥルはそう言いたげである。成程、確かに得体の知れないスタンドへ先手を打つのは、相応の危険を伴うだろう。ポルナレフの『チャリオッツ』とは違って、拳を直接叩き込むのだから、あの分解能力に晒される危険性が高い。

 

 だが、戦闘態勢を整えられてしまえば、それこそノーチャンスになってしまう。アヴドゥルはさっきまで奴と戦っていなかったので、『クリーム』の特徴や戦闘スタイルなど想像のつかないことも多い。さりとてそれらを一から説明している時間は、承太郎にはない。

 

「わたしがおまえの頭を冷やしてやれれば良いのだが。生憎わたしでは燃やすしかしてやれん」

 

 不自然なくらいに穏やかな口調で、静かに苦笑を浮かべた。大敵を前にして、まるで動揺も焦りもしていない。為すべきことを悟った修行者のように、凪の心でヴァニラ・アイスを見据えている。状況にそぐわない落ち着きぶりを感じてか、彼は初めて怪訝な顔をした。

 

 何か大変なことをしようとしている。取り返しのつかない、大きなことを。承太郎の感覚が警鐘を鳴らす。その予感を裏付けるかの如く、アヴドゥルは数歩前に歩んだ。迷いの見えない、確かな足取りだった。

 

「ッ、おいアヴドゥル」

 

「承太郎。これは5歳児でも分かる簡単な問題だ。並べられた5つのコインがあり、そのうち1つだけが本物だとしよう。本物を確実に手に入れるには、どうするべきか?」

 

 脈絡のない質問に、その意図を理解しかねた。巫山戯ているわけでもなく、さりとて必死に問うてもいない。まるで承太郎からの答えを期待していないかのような、彼に向けながらも半ば独り言めいた問いかけだった。

 

 唐突に視界が紅に染まる。何処からともなく噴き上がった炎の壁が、彼と他とを遮った。一瞬で姿が見えなくなり、代わって襲い来る熱気に、堪らず数歩後ずさる。

 

「アヴ──」

 

「行け! 外へ!」

 

 轟々と唸る業火の向こうから、声ははっきりと届いた。時間を稼ぐ気だ、自らに迫る危険を承知の上で。やめさせなければ、でもどうやって。この炎は『スタープラチナ』では突破できないし、言葉だけで今の彼が止まるとも思えない。

 

 体に茨が巻きついた。それがジョセフのスタンドだと理解するより早く、承太郎の体は窓から飛び出していた。炎が、熱気が急速に遠ざかっていく。手を伸ばしても、到底届かない距離。何も見えないまま、次に味わったのは秒に満たない程度の浮遊感だった。

 

 

 

 

 

「館の荒れ具合を見て、疑問だったんだ」

 

 承太郎達の脱出は済んだ。3階から跳ぶと流石に着地はままならないが、あちらにはジョセフもいる。『ハーミットパープル』で命綱を代用するとかしてくれるだろう。何せそれなりの期間交友を育んできた、彼よりもずっと聡明な男だ。

 

 聡明にも、幾つかの形がある。種類と言っても良いだろう。頭の回転の速さ、理解力、そして咄嗟の機転。前半2つはジョセフの得意分野だが、最後だけは彼にも負けていないかも知れない。自分で言うのも何だが、打った一手は第2の最善手である。

 

「おまえは途中に障害物があっても飲み込んでくる。言い換えれば()()()()()()()()()()()()。違うか?」

 

「ほう。ヤケになって仲間の死期だけを遅らせた、というわけでもないのか」

 

「諦めの悪い性分でな」

 

 敵のスタンドが有する性質の1つを、既に見破っていた。決して幽霊のように壁をすり抜けるわけではなく、寧ろ豪快にくり抜いていく──言い換えればくり抜いていかなければならないのが、かのスタンドである。

 

「だがそれが分かってどうする? きさまをこの暗黒空間に飲み込むのに、まさか1時間かかることはあるまい」

 

 その言葉を最後に、口は閉じられた。同時に不気味な生首も、異様な殺気を放つ男も、視界から掻き消える。それはアヴドゥルを粉微塵に解体する用意が全て終わったという確たる証拠だった。

 

 死刑宣告にも等しい消失を、しかしアヴドゥルは待っていた。乾坤一擲の大博打を打つには、それが不可欠だったから。

 

「どうするって?」

 

 炎を部屋の全域に広げる。自分も燃えることを厭わない。骨の髄まで溶かすような熱に、苦悶の表情を浮かべながらも、火力を落としはしない。ここで妥協してしまったら、ヴァニラ・アイスに一矢報いることもできなくなるから。

 

 アヴドゥルの駆使する炎は、自らをも燃やす。かつてポルナレフにも揶揄されたことがある。あの時は内心やってくれたな、と歯噛みしたが、今思えばあれも大切な教訓だった。

 

 炎の影響をある程度シャットアウトできることも、その時に併せて知った。普通の人間は、炎に包まれれば悶え苦しむ他にない。しかしアヴドゥルは、身を焦がされながらも、ある程度冷静な思考を保てていた。無論数分燃え続けていたら死んでいたはずだし、あくまで軽減であって無効ではない。

 

 でも、それで良い。ほんの数秒、熱烈なハグで大火傷は間違いない。奴が攻撃の際に顔を出すのは、偶然ながら花京院が暴いてくれた。外から見えないように、中からも外の様子を知るのが難しいのだろう。だから必ず攻撃の瞬間に姿を現し、目標を補足できていることを確認するのだ。

 

 つまり、スタンドに隠れている限り、何も分からない。炎が部屋を覆い尽くしたことも、それが一世一代の諸刃たるトラップであることも。揺らめく光と熱の集合体に風穴を作り迫り来るヴァニラ・アイスに向けて、してやったり、と笑ってやった。どうせ見えやしないのだろうし。

 

 果たして、顔を出したヴァニラ・アイスを、猛火が襲った。アヴドゥルと違って、一切軽減されることのない熱の暴力が、顔面を蹂躙する。恨まれる筋合いこそないとはいえ、目の前で焼かれゆく男に、一抹の同情を覚える。

 

 熱で焼き、痛みで刺し、水分と引き換えに乾きを与える。太古より人間が畏れてきた、最も身近な自然にして際限のない脅威となり得るものの恐ろしさを、己の身で味わうこととなった。悲鳴を上げて、再度スタンドへと避難したが、大ダメージを与えるには充分な時間があった。

 

「こうするのだ」

 

 5枚のコインを総取りすれば、そこに必ず本物がある。何も勘に頼ったり、天秤や古代ギリシア発の理論などを用いて理論的に1枚だけを選び抜く必要性はない。

 

 この状況についても、同じことが言える。相手が何処にいるか皆目検討もつかないなら、考えられる限りの範囲を覆ってしまえば良いのだ。どうせ敵は放っておいても接近してくるのだし、待ち構えていた方が余程効率的といえる。

 

 ここまでは順調で、ここからが正念場だ。アヴドゥルの真の狙いは、2つ。片方は達成したが、もう片方がまだ手付かずになっている。

 

 炎の縄を伸ばす。頼む、間に合ってくれ。神に祈りながら、最速でスタンドの炎を操る。できる限り熱くないように、それでも素早さを優先して。

 

 背後から、炎を突き抜けてくる音が聞こえてくる。予想より少しだけ早い回復に、心中で舌打ちを1つ。あわよくば混乱に乗じて逃げ遂せるつもりだったが、それを認めてくれる程運命の神様は優しくなかった。

 

 縄で括ったそれを、遮るもののなくなった窓から垂らして、振り子の要領で放り投げる。勢いからして擦り傷や打撲は避けられないが、男2人と火で心中するよりは何倍もましだろう。この場にあのおっかないメイドがいないのは、その意味では幸運だった。

 

 刹那、ガオン、と独特な音がした。それは猛火と崩れる瓦礫に掻き消されて、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 目の前で屋敷が燃え落ちていくのを、呆然と見つめるしかできなかった。1分前にいた場所が火に包まれて、割れた窓から手を伸ばすように噴き出る。

 

「アヴドゥルが、残って」

 

「あの野郎ッ……」

 

 ジョセフが周囲のメンバーを連れ出したのは、刹那の判断だった。もし少しでも遅れていたら、皆あの場でやられていたかも知れない。

 

 突破できない壁で真っ二つに分断した時点で、覚悟を決めたのだと悟った。死すらも視野に入れて、せめてもの足止めに徹するのだと。

 

 死を賭しての一役を、ジョセフは反吐が出る程に嫌っている。初めから死ぬことを予定する阿呆がいるか。生きてこその人間が選ぶ作戦としては、最低最悪のものである。……それでも、男の決めた覚悟を無碍にできるはずもない。歯が欠けるまで噛み締めて、一心不乱にスタンドを操った。最後に顔を見ることさえ叶わない悲しみは、彼にとって初めてではなかった。

 

「フランドール!」

 

「今のは、赤い荒縄(レッド・バインド)

 

 燃えるロープで括られて、殆ど投げるように地面へ放り出される。とはいえ地面に極力近づけての投擲だったから、到底大事には至らないだろう。自身のスタンド能力に苛まれ、対処の確立できない強敵を前にして、なお最大限にフランドールの身を案じた。

 

 立派だった。体の奥底から溢れてくる涙を堪えて、視線を上げる。火は下の階層にも届きつつあり、もう消火したって間に合わないのは明白だ。『マジシャンズレッド』の膨大な火力をフルに活かして、アヴドゥルは一行の前に立ちはだかった大敵を道連れにした。口にすべき言葉などなく、沈痛な面持ちで立ち尽くす。

 

「……え?」

 

 背後で素っ頓狂な声を上げた。ポルナレフ自身、何が起きたのか分からないというような、呆気に取られた表情だった。微かに落とされた視線、肩に深々と刺さるナイフ。

 

「ぁ、」

 

 心臓を握られたって、こんな怖気を覚えることはない。弾かれるように振り向いた先、そこにいたのは、『悪そのもの』だった。

 

 顔に大火傷を負い、左の脇腹に痛々しい刺し傷のある男が、跪いて恭順を示す。痛覚を遮断しているかの如く、平然と片膝を地に付け頭を垂れる。

 

「イヤな……」

 

 ヴァニラ・アイスをして平伏を選ばせる男。承太郎をも上回る体格に、どす黒く妖しいオーラ。名乗られなくたって、それが誰か理解(わか)る。目にしただけで、体中の神経が裏返ったかの如く鋭敏になる相手は、たった1人しかいない。

 

 承太郎とジョセフが、共に感じる『悪』の気配。ジョースターの血統は、生まれた時からこの男と戦うことを宿命づけられている。過去に結ばれた血の運命はあまりにも強固で、100年経とうと切れそうにもない。

 

「嫌なことを思い出したぞ、()()()()

 

 崩れ落ちる屋敷を一瞥し、ディオ・ブランドーは苦々しく吐き捨てた。

 

 

 

 

 

「顔を合わせるのは初めてか。Welcome to Egypt(エジプトへようこそ),ジョースター御一行よ!」

 

 上位種たる余裕の現れか、明確な敵意を露わにはしなかった。夜の街を歩く中で、たまたま昔馴染みに再会したかのように、鷹揚な歓迎を投げかけた。諸手を広げての皮肉な労いに、先程の不機嫌さは影もない。

 

「遠路はるばる大変ご苦労。仕向けたスタンド使いも、悉く破ってくれたそうじゃあないか。なぁ、ヴァニラ・アイス」

 

「派遣した者達が弱者だっただけのことです。DIO様の期待を裏切るとは、使えないクズ共め」

 

「まぁそう言うな。ジョースターの一行は中々に優秀な者達が多いぞ」

 

 タロットカード、そしてその起源たるエジプト九栄神に準じた多数のスタンド使い達を集め、ジョースターの一行へ差し向けたが、結果は惨敗としか表現できないものだ。屋敷に辿り着くまで誰一人として欠けることはなく、黒幕の側近が相応のダメージを受けてようやく1人を戦線から切り離せたに過ぎない。

 

 目を奪う報酬、精神まで縛りつける真っ黒なカリスマ、そして肉の芽による直接の支配。あらゆる手段で配下にしたスタンド使いは、いずれも一癖の強い能力を有していた。だからこそ目の前に5人……否、4人と1匹が立っているのは、全くもって想定外だ。取り繕う気はない、花京院もポルナレフも、イギーもまた確かな実力を示した。

 

「そこでどうだ。1つ、取引を持ちかけよう」

 

「てめーとする商談があるか!」

 

「話は簡単だ。ジョースターの一族以外、全員我が部下となれ。ポルナレフについては、もう一度ということだ」

 

 そうすれば、これまでのことは水に流そう。いつしか日も沈み切って、周囲を包む暗闇においても、なお見紛うことのない蠱惑的な微笑みを携えた。

 

「無論! ジョセフと承太郎は生かしておけん。我が覇道に纒わりつく鬱陶しいハエは、この手で叩き落とさねばならん。だがポルナレフ、花京院、イギー。果たしておまえたちは死ぬべきか?」

 

 金色の双眸が、爛れた光を放つ。人心をいとも容易く掌握する、端麗な容姿と甘い言葉、そして妖しきオーラ。強靭な精神の持ち主でなければ、まともに相対することさえ許されない、まさに『帝王』に相応しい男だ。

 

 DIOは、生まれついての悪だ。環境が生んだ化け物とか、悲しき過去を背負った義悪とか、そんなものを圧倒的に超越した悪のカリスマである。蓋し人間が必ずしも善でいられない限り、彼の魅力(しはい)からは逃れられないのかも知れない。

 

「実に惜しいとは思わないか? いや、本音を言うなれば、アヴドゥルも本当に悔やまれる。世辞ではない、これはわたしの飾らない『気持ち』なのだよ」

 

 取るに足らない弱者を蹂躙する一方で、一定以上の力を示した者へは、それに相応しい敬意を払う。それがDIOという男の歪んだ精神の一面である。使えると判断すれば、例え敵であっても彼の下へ引き込むことを躊躇わない。元が敵であろうが、逆らう意志を純黒の忠誠心で塗り潰し、駒とするのに僅かの苦労さえ要しない。

 

 人間は何のために生きるのか。人類の誕生より考察されてきたあらゆる命題においても、最も答えを出し難いものだろう。人の身を外れたDIOに言わせれば、人間は『安心するために』生きる動物である。

 

 人助けは、自らが正しいことをしているという『安心』を。結婚は、傍に信頼できるパートナーが着いてくれるという『安心』を。名声を手に入れるのは、強固な立場を得られるという『安心』を。突き詰めれば、人間の行動は安心に集約されていく。

 

 DIOはそうした心の安らぎを餌に、人間を意のままに操る。彼に従いさえすれば、不安を覚えることはない。そう確信させることで、意識下と無意識下の双方に忍び込み掌握してしまう。

 

「あぁ、そうだ。そこに倒れている女。フランドールといったか、そいつも駄目だな。だから選んでもらおうか、半々(half and half)皆殺し(over)かをな」

 

 肉の芽まで植え付けておきながら、1度裏切ったポルナレフをも、再び迎え入れんとする。優秀なスタンド使いへの評価を惜しまず、過去の経歴や反逆には囚われない。時代が違えば、聡明にして公正な賢王として後世に名を残した可能性だってあるだろう。

 

 それ程の度量を有するDIOが、ジョースターの血統に対してだけは、容赦せず殺害するという態度を変えない理由とは。

 

「DIO……1つ訂正がある」

 

「訂正? フン、命乞いなら聞けんなァ」

 

「死ぬのは2人。ヴァニラ・アイスと、てめーだ」

 

 こういった手合いが現れるからなのだ。殆ど折れかかった心を持ち直させ、反撃に転じ得る厄介な因子が、高確率で生まれ落ちて野望の妨げとなる。それがジョースターという血であり、故にまず何をおいてでも根絶しなければならない一族である。

 

「わりーがおれは、1の次が3だと思ってるバカ野郎には従いたくねーな。まだイギーの方が賢いぜ」

 

(ッたりめーだ!)

 

 彼らは心の安寧を求めていない。いや、常人と同じく求めはするのだが、それにも優先する何かを心に抱いている。例え一寸先も見えない闇の航路を行くとしても、それが必要だというなら、躊躇わない。

 

 さらに面倒なことに、この気高い志は他者にも伝播する。関わった者に勇気を与え、共に死力を尽くして挑みかかってくる。この世界で最も警戒し恐れるべき才能であると認識しており、事実1度は勇気の象徴の前に敗れ去った。

 

「そうか。……残念だ」

 

 優秀な部下は手に入らず終いか。ポルナレフの剣術も、花京院のサポート力も、イギーの応用性も高く買っていたのだが。全くジョースターが絡むとままならないものだ、深く溜息を吐いた。

 

「ヴァニラ・アイス。やれ」

 

「はっ」

 

 手に入らないなら、後はもう殺す他にない。部下でなければ敵であり、そこに1つの例外も認めない。わざわざ究極のスタンド能力を披露してやる義理もなく、異空間にばらまいてやるのがお似合いだ。傷の跡は、また別の誰かの血で癒せば事足りる。

 

 この時、DIOは久方ぶりの天敵の子孫との邂逅を終えたつもりでいた。それを油断というには、あまりにも彼に有利な状況が出来上がっていた。ヴァニラ・アイスの『クリーム』は、未だ攻略されておらず、発動すれば全員を容易に殺せる。99%の勝利を得たならば、逆転される可能性を検討するのは用心深いを超えて杞憂である。慎重でこそあれ、進んで杞憂を犯しはしない。

 

「フラン、ドール?」

 

 1と0は違う。当然の論理が、新たな歯車を運命に追加した。

 

 背後で膨れ上がる気配。人ならざるものが眠りから覚めて、首をもたげた。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 いつの間に帰ってきたんだろう。前後の記憶があやふやな中で、彼女は懐かしささえ覚える場所に立っていた。尽きることのない紙の香り、さりとて嫌悪感は覚えず、寧ろ癖になる。……ドアを開けた記憶さえ、彼女にはないのに。

 

「あら」

 

 目の前で分厚い本の読破に勤しんでいた友人が、フランドールに気がついた。たまに疲れ顔の司書は、ここからでは姿が見えない。奥の方で作業をしているのか。

 

 椅子を出してくれたので、有り難く座らせてもらう。読んでいた本に栞を挟んで、少女はそっとそれを脇に置いた。

 

「お久しぶりね。元気?」

 

 こくり、と頷く。別に体の不調もないし、痛む傷もない。ごく普通の調子であった。

 

「暫く見ない間に、少し大人びたわね」

 

 ころころと、楽しそうに笑う。いつもは目の前の本が第一、それ以外が第五といった風で、親友の呼びかけにさえ適当極まりない生返事しかしないのが常だ。その本の虫ぶりは、我儘な姉をして『多分世界で1番私のことをぞんざいに扱う女』と言わしめる程。だから、こんなにも感情を表にして話すのは、意外に思えた。

 

 何も話さないフランドールを、むくれていると思ったのか。微笑みを湛えながら、釈明する。

 

「違うわよ。お気に障ったならごめんなさい、落ち着きが出たって言いたいのよ」

 

 怒ってはいない。ただ意外なものを見て驚いていただけだ。人混みの中をごく自然に象が歩いていたら、中々言葉が出てこなくなると思うが、気分的にはそれに近い。

 

美鈴にはもう会った?」

 

 ざっ、と走る僅かなノイズのせいで、名前をよく聞き取れなかった。聞き返す前に、少女は従える司書に紅茶を所望した。程なくして、心安らぐ香りが漂ってくる。彼女が好きな、少しだけ味の濃い種類だ。

 

 そういえば、姉はどうしているだろう。随分と長く顔を見ていないような気がする。誓って会いたいんじゃない、仮にも唯一の肉親だから、義理として顔見せくらいは必要かと思うだけだ。それに、早めに出向いておかないと、あっちから冷たいじゃないかだの引っ提げてこられかねない。

 

 場の主導権を手放したが最後、奴は鬱陶しく絡んでくる。妹可愛さ故のことだから、と従者2人組は宥めてくるが、もし本当にそうなら速やかに態度を改めてほしい。

 

 多少のボディタッチくらいを許容するとして、何分もぴったり横にくっつかれ、まるでフランドールを介護するかのように、何処へ行くにも着いてこられたら、幾らおっとり気質の彼女でも嫌気が差す。これが反抗期だとしたら、最も正当な反抗期だ。

 

 持ってきてくれた紅茶を、1口喉に通す。体の芯に温度が与えられて、複雑な気持ちが解れていくのが分かる。記憶に残る最後の顔は、

 

 

 

 最後の顔は。

 

 思い出せない。カップを持った姿勢そのままで、ぎくりと固まる。どんな顔で別れたかでなく、記憶に嫌という程刻み込まれているはずの、血を分けた姉の顔そのものが、白い靄に覆われている。

 

 背格好は分かる、フランドールと同程度。バストサイズは辛勝、愛嬌の良さは圧勝。自称偉大なる夜の王、その実プライドだけは一級品の我儘な暴君。

 

 では、顔は? 姉はどんな目鼻立ちをしていたか? ……復元できる記憶の全てから、その情報だけが抜け落ちていた。まるで一斉に検閲をしたかのように、ごっそりと。

 

 凍りついた脳が、雷で撃ち抜かれたにも等しい衝撃で動き出した。今この瞬間まで、フランドールの思考は止まっていたも同然だった。聞かれたことに反応して、僅かに考えを巡らせるだけの、生きた肉人形だった。

 

 どうしようもない焦燥に駆られて、跳ねるように立ち上がる。カップから零れた紅茶の雫が、テーブルクロスに点々と染みを作るけれど、気はそちらに回らない。頭まで痺れる息苦しさの中で、自然とフランドールの足は動きかけていた。

 

「駄目よ」

 

 影を踏まれたように、勢いが零になる。振り返った先、少女は静かに(かぶり)を振った。フランドールの心を知り、それでも彼女は進むことを是としない。

 

 少女は何ら強制をしていない。魔法で足を縫い付けてもいなければ、肩を掴んで引き止めてもいない。動こうと思えば動ける、彼女の言葉を無視することなんて簡単だ。

 

 簡単な、はずだ。だけど、脳の指示は跳ね除けられ、爪先さえ上げられない。腰から下が石化したとさえ感じる。先程までと打って変わって、口を真一文字に結んで、少女は断言した。まるで、1つしか答えがないと証明された数式を解く数学者かのように。

 

「まだ貴女には、為すべきことがあるじゃない」

 

 為すべきこと。その具体的な内容は語られない。言われて思い出せるくらいに、都合の良い記憶でもないらしい。それでも、少女の言葉はすっと飲み込めた。時化を起こす感情の波が、さぁっと引いていった。

 

「そうよ。戦いなさいScarlet(スカーレット)、己が誇りを賭けて、盛大に」

 

 少女は、誰よりも近くで『Scarlet』を見てきた。その血を引く者が、あまりに大きな台風の目となることを、親友を通じて理解させられていた。お世辞にも調停者とは言えなくて、寧ろ人間が決めた秩序なんて脆い飴細工みたいに捻じ曲げて踏み砕く悪魔。そう、だからこそScarlet devilは今でさえも夜の王と謳われる。

 

 天災、という単語がこうもよく似合う血筋が、他にあるのか。この血の運命に囚われてしまったら最後、もう平穏な一生なんて望むべくもない。善とか悪とか、そんな次元にはなく、()()()()は人を、世を、運命を狂わせる。

 

 体がどんどん透明になっていく。それに伴い、意識も希薄化する。もうここには留まれない。名残惜しくはあれども、後ろ髪を引かれはしない。いずれまた戻ってくる、そう確信できているのだから。

 

 ……最後に急いで紅茶を流し込んで、フランドールは居慣れた場所から消失した。彼女は戦場へと戻ったのだ。決して勝利をもたらす戦乙女(ヴァルキリー)ではなく、吹き荒れて掻き混ぜる大嵐。その結末がどうなるかは、当の本人でさえ不確定である。本に再び宿った妖力に、あるかなきかの微笑を捧げた。

 

 ドアがノックされる。様式美めいたすれ違いに、面白そうに背を震わせた。司書に命じて招き入れた渦中の小さな悪魔は、らしくない慮りを見せながら傍らの本を指した。

 

パチェ。進捗はどう?」

 

「まぁまぁね。この分なら、今夜には完成するでしょう」

 

「そう」

 

 務めて冷静でいようとしているが、喜色を隠しきれていない。背負う翼がゆらゆら揺れて、本人無自覚のうちに口角が上がる。

 

 Bizarre Adventureと題された本に描き出されるストーリーに、フランドールと咲夜は巻き込まれているらしい。外からでは全く姿なんて見えないけれど、様々なページから微かに彼女達の妖力が感じられるのだ。それならと案じられた一計が、本の世界に潜り込んで直接連れ出すというものである。

 

「ん、誰か来ていたの?」

 

 出されたままの椅子、そして空のカップ。来客がいた証拠となる。術式を組み、かなり変則的かつ無理矢理に連れ戻そうとしている手前、さっきまでのことを馬鹿正直に話すわけにはいかない。

 

 神にでも誓えるが、少女はフランドールが一時的とはいえ帰還してきた時、柄にもなく目を丸くした。そこで引き止めて、ついでに咲夜も確保できていたら、今頃姉妹はハッピーエンドを……妹にとっては少々ほろ苦い終幕となっていただろう。

 

 だが、少女はすぐさまそれを尚早だと判断した。本のページは、まだ後ろに僅かばかり控えている。彼女達は、未だ物語の最後を知らない。例えるなら、映画のクライマックスに差し掛かったところで、続きはまた来週とか言って館内から客を追い出すようなものだ。そんな非道な真似ができるか、そう考えてしまうのは、本の虫たる少女だからこそなのか。

 

「えぇ。ついさっきまで、魔理沙が」

 

「……美鈴、また通したの」

 

 なので、ささやかな主観を込めて誤魔化した。親友は疑いもせず、深い溜息を吐いた。

 

 栄えあるScarletの屋敷の門番が、高々コソ泥に何度も出し抜かれていては云々かんぬん。お高い御託を語り始めたのを、話二割に聞き流す。適当に相槌を打っていれば、気が済むまで話し続けてくれるから、そういった意味では扱いやすい。

 

 門番を任される妖怪には、後で説教が飛ぶかも知れない。全く身に覚えのない件についてのお叱りで、さぞかし混乱するだろう。ごめんなさい、心の中でぺろりと舌を出した。



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第七十七話 DIO BRANDO その②

 目が覚めて、はじめに彼女の注意を引いたのは、傍らにて燃え崩れゆく館だった。目の前には邪悪な気配を隠そうともしない男が、鋭い視線を投げかけているが、そちらに十全の集中を傾けられなかった。

 

 フランドールは、この炎を知っている。自然の炎よりも苛烈で、何となく重厚な色合いにも見える。何十日も共に旅をしてきた、幾度か目にする機会があった。そして今、モハメド・アヴドゥルは、この場にいない。明らかに倒さなければならないであろう相手が2人、そこにいるにも関わらず。

 

 凪いだ瞳が、館を捉える。否、その奥にあるものを見ているかのように、フランドールの目は溶け落ちる外壁にも、煌々と夜闇を照らす炎にも向いていない。漸時そのままで静止して、それからそっと目を閉じた。数秒の瞑目はせめてもの祈念か、それとも。

 

 兎にも角にも、()()()()()()()()。右手を固く握り締め、ヴァニラ・アイスに近づいていく。真紅の瞳が爛々と放つ光に、明確な怒りの色が乗った。

 

「おッ、おい」

 

「ポルナレフ。肩、怪我を」

 

「そんなもん後で良い。とにかく下がれ、あいつは今までのスタンド使いとは違う」

 

 ぽたぽた、と肩の傷口から血が滴る。浅くはない痛手に思えるが、それでもフランドールを庇い前に立とうとする。あの男と相対し、危険度を実際に体感した上での制止なのだろう。ポルナレフにそう言わしめるとは、一体如何なる能力の使い手なのか。

 

 程度も楽観視できるものではないのだから、怪我人を戦わせるわけにはいかない。丁度フランドールと咲夜が、彼らにそう扱われたように。『シルバーチャリオッツ』を繰り出そうとする彼を、そっと手で制した。

 

「へぇ。異空間に消えるのね」

 

 男は面妖な顔……恐らくスタンドであろうものに喰われていく。足から順に、えらくスローペースで。たっぷり10秒は待っても、まだ頭が見えていた。こうも露骨に隙を見せてこられると、わざと空けて誘っている穴にしか思えなくて、先制攻撃を仕掛けるのは躊躇った。

 

 こことは全く異なる位相に移っているようで、肉眼では捉えられない。確かにどう攻略すべきか、頭を悩ませなくてはならない能力だと言える。幾らスタンドといえども、別の空間にいる何かを攻撃するのは困難を極める。

 

 しかしたまに自宅にやってくる知り合いが似たようなことをできるし、彼女の方がスピーディでスマートで、それでいて不可思議に姿を眩ます。あれに比べたら、ただ気持ち悪いだけの劣化コピーでしかない。驚く理由など、ただの1つもなかった。

 

 飛んでくるボールを止めるかのように、右手を前にかざす。実に数ヶ月ぶりに使う力だが、錆びも衰えもしていないようで安心した。掲げる手の先、掌握するべき『もの』がはっきりと見える。そこそこのスピードで接近してきてはいるが、彼女が1つアクションを起こす方がずっと早いのは言うまでもなかった。

 

 開かれた掌を閉じる。掌中のものを握り潰すように、力強く。悪の使者に始末をつけるには、それだけで充分だ。

 

「でも貴方は()()()()()

 

 空間から血が吹き出した。赤い液体を詰め込んだ風船が、針を刺されて破裂したかのように。承太郎達には、そう見えた。ひしゃげた肉体が虚空からぼとりと落ちるわけでもなく、明らかに大きな傷を負ったであろうヴァニラ・アイスは、その姿を依然として現さない。まるで異空間の中で突如息絶えたように。

 

 常軌を逸した光景に、ジョセフ達は絶句する他にない。余裕の笑みを浮かべていたDIOもまた、口元を引き締めていた。ヴァニラ・アイスがこうもあっさりと殺されるとは、さしもの彼でも想像できなかった。

 

 彼自身を除けば、議論の余地もなく最も強いスタンド使いだった。その力に飲み込まれれば、DIOであっても無事ではいられないと認識させられる。しかし、だからこそヴァニラ・アイスを右腕として重宝していたのだ。それは、彼が過去にとある連続殺人鬼を配下に加えたのと同じようなものだった。

 

 ほぼ全ての人間は、善のリミッターが働くせいで、悪に振り切れることができない。中途半端な悪事に手を染め続けて、ようやく人を1人殺したくらいで自らを猟奇殺人の担い手だと思い上がる。そんな程度は、DIOからすれば青二才にも劣る稚拙さだ。

 

 真の悪は、人間を殺すことに躊躇などしない。それでいて、無用な殺人を嫌う。無用、それは即ち無駄であり、進んで無駄を犯すなど愚の骨頂である。殺すべきものを殺し、利用すべきものを利用する。そこにリミッターの制約などなく、常人の視点でもって評するなら『箍が外れた』となるのだろう。

 

 ヴァニラ・アイスは、非常に希少な『箍の外れた』男だった。DIOを盲信し、あらゆる期待に応える悪の大器。気に入り手元に置くのは、当然の帰結といえる。

 

 そして、DIOは優秀な配下を失った。1度は倒れ、無様に血を流していた、華奢な少女の手によって。

 

「貴方がDIOね。まさか夢で見た美男子が打倒すべき相手だったとは、妙なこともあるものだわ」

 

「よくもこのDIOを、長々と縛りつけてくれたものだ。きさまはジョースターの血統と同じ、万死に値するゴミカスよッ!」

 

「あら。それはまた、失礼を」

 

 そのことすら頭から離れる程に、激しい怒りが彼の中で湧き上がっていた。DIOはたった1人だけ絶対に許されない男を記憶している。まだ歳若い少年の頃から、その男──ジョナサン・ジョースターとはある意味において表裏一体で、そしてまたある意味において不倶戴天であった。

 

 世界の支配か、野望の粉砕か。互いに譲れない信念を賭けた戦いは、今にまでジョースターの血統への最大級の警戒を残す結果となった。喉を撃ち抜き、武器たる波紋を九分九厘封じたにも関わらず、決して屈せず最期の時まで戦い続けた男を、心のどこかで評価してもいた。

 

 だが、紳士ぶった仮面を保てなくなるようなどす黒い怒りを露わにするのは、フランドールをおいて他にはいない。かの男のように半ば無意識下の領域で敬意を表しているわけもなく、純然たる憤怒だけが向けられるに相応しい。

 

 かつて彼女以上に、DIOという存在を愚弄した者はいなかった。唯一肉薄できるとすれば、とうに地獄へ堕ちた実の父親くらいか。それでも、フランドールに押し付けられた無間地獄すら生温い『苦』には及ばない。

 

 屈強な虎も恐怖に怯えさせる獰猛さ、その威圧を真っ向から受け止めてなお揺るぎない静。周囲に無遠慮に緊張をばら撒きながら、吸血鬼と吸血鬼とが睨み合う。呼吸を忘れた聴衆が固唾を飲んで見守る中で、DIOは徐ろに踵を返し飛び上がった。

 

 事態の不利を悟ったのだろう。いっときの感情に飲まれる愚か者ではない。旅を始めた当初から、一貫して最大の敵と位置づけられてきただけあって、感情と行動の切り離しを弱点として突けそうにはない。

 

 退くDIOを、勇んで追いかけはしない。それより先に、やるべきことがあったから。事ここに至って、彼らに隠し事はできない。まだ振り返らず、そっと待った。彼らのうちから、声が上がるのを。

 

「ヴァニラ・アイスに何をした。捉える方法がないスタンドを、どうやって捉えた?」

 

 やはりというか、追求の手は伸ばされた。さてどう説明したものか、いい言葉を考える。フランドールは、自らの能力を理論的に説明できるだけの知識を保有しているけれど、話す相手は哲学者でも科学者でもない。なるべく平易な言葉で、それでいて分かりやすい説明を要する。

 

 ゆっくりと振り返る。全員の注目が視線となって集まっているのを感じた。年季が違うとはいえ、一切緊張しないとまではいかないが、臆してはいられない。

 

「核を潰したわ。『もの』を『もの』たらしめる核が壊れたら、全ての性質と形は崩れ去るの。私はその核を見て、掌握できるのよ。文字通りね」

 

「……フランドール」

 

 口火を切ったきり、言い淀む。ジョセフには珍しく、言葉に苦しんでいるようだった。彼女としては、思った通りのことを言ってくれて問題なかったけれど、何も言わずに続く彼の台詞を待つ。

 

「おまえ、スタンド使いではないのか?」

 

「えぇ」

 

 果たしてこの質問が正鵠を射ているのか。それすら不透明なまま、YES or Noの2択を示す。ジョセフの内なる葛藤に反して、驚く程にあっさりと肯定された。

 

「スタンドを持たず、かつ異常な力を振るえる少女が、人間だとは思えん。人間とは別の存在、別種なのか?」

 

「そうよ。私は吸血鬼」

 

 夢の中で友人に発破をかけられて、覚悟を決めた。彼女の声も、急いで飲み干したアールグレイも現実感に溢れていたけれど、全てが終わるまでは帰るわけにはいかない。だからあれは、夢だった。

 

 このタイミングで種族を明かすことが、どれ程彼らを動揺させるか、理解できないはずもない。数十日もの間共に旅をしてきた仲間は、敵の黒幕と同体質だなんて知ったら、スパイを疑われたって仕方ないとさえ思える。現に承太郎さえ、驚きをはっきりと表に出している。

 

 DIOの存在によって、吸血鬼に対するイメージは、最悪に近いものとなっているはずだ。承太郎やジョセフの立場に立つなら、血を分けた親族が死の危機に瀕しているのは、弁論の余地なく吸血鬼のせいである。そこまで落ち切った心象を水平(フラット)まで戻すのは難しいが、せめて信用してもらえるくらいには回復させなければ、話にもならない。

 

 圧倒的な力で人間を畏怖させてきた上位の存在が、人間から自身の信用を勝ち得ようと言葉を尽くす。随分と皮肉なようにも聞こえるが、フランドールは己を恥じもしない。彼女にとって承太郎達は、背中を預けて戦える仲間だ。この思いを一方向から双方向へ、願うはたった1つの単純にして一筋縄でいかない結果。

 

「騙していたわけではない。明かせなかったの。虫が良すぎるかも知れないけれど、誓って私は貴方達の味方よ」

 

 既に戦いは始まっている。DIOの討伐を本戦とするなら、いわゆる前哨戦か。恐らく今揺らいでいるであろう彼らの信頼を繋ぎ留め、共に最終決戦へ臨まなければならない。妥協や撤回は許されない、何せ約束をしてきてしまった。『己が誇りを賭けて、盛大に戦う』と。

 

 どちらかというと、監督者寄りのポジションを担っているからか、彼女は提言がやたらと上手い。思えば館ごとの盛大な引越しの直後、引越し先の有力者達に協力しておこうと真っ先に主張したのも彼女だった。その一言が、提携関係を作るべきか悩んでいた姉の背中を押して、結果的に吸血鬼はかの箱庭で一定の立ち位置を獲得するに至った。

 

 あそこで檄を飛ばされていなかったら。勇気を持って私は吸血鬼だ、と告白できていただろうか。フランドールに、そんな確証はない。まだもう少しいたいけな少女という外装に甘えていた可能性は、否定できない。まだ幼子だと評価されるのはちょっぴり不満で、でも妹として長く振る舞ってきたからか居心地が良くて。

 

 それでは駄目なのだ。マントを脱ぎ捨てるような壮麗さなど求めてはならず、蓋し皮膚を裏返すかの如くグロテスクに正体を明かさなければならない。無力な子供扱いを嫌い、確かな実力を示してきたようで、その実今まで甘ったれていた(おこさま)へ、与えられる罰はこれくらいのものだ。

 

 ……館は未だ轟々と燃えている。遠くから聞こえてくるサイレンの音は、誰かが消防機関へ通報したのだろう。ここに人が来るまで、もう時間的猶予はない。

 

「それでは、ザ・ワールドは」

 

「私達の従者よ。本名は十六夜(いざよい) 咲夜(さくや)、正真正銘の人間」

 

 ごめんね、勝手に話しちゃって。心の中で謝って、ジョセフ達に真実を伝える。つまるところ、フランドール・スカーレットは数百年を生きる夜の王の系譜であり、十六夜 咲夜はスカーレット姓の姉妹に仕える人間のメイドである。

 

 彼女がスタンドだと信じてもらえたのは、今思えば幸運だった。完全な自律行動を取り、フランドールと一切の感覚共有をしていない彼女は、傍から見れば人間としか見えなかっただろう。幾ら異色だと説明したとはいえ、か細い綱を渡り続けていたようなものだった。

 

「分かった」

 

 フランドールが伝えたいことは、たった一言に凝縮された。もっと沢山の説得材料を用意したかったのだが、ジョセフは厳かに頷き沈思黙考に耽る。これ以上の追加に意味はないと悟って、以後一切合切は運命の流れるままに委ねた。

 

「全員、話は聞いたな。フランドールは味方だ!」

 

「あぁ」

 

「疑いやしませんよ」

 

『味方』。その二文字を脳が理解した時の心情を、言葉で説明するのは難しい。喜びとも安堵ともつかない、捉え所のない浮ついた感情が、少女の小さな心の器を溢れんばかりに満たした。

 

 体中から力が抜けていくように錯覚する。膝から崩れ落ちそうになるのを堪えて、頭を振り気を引き締める。何せまだ最終決戦への準備が整ったに過ぎないわけで、肝心の決戦はこれからだ。

 

「皆、魔法で私が運ぶわ。車を調達するより早いでしょうし」

 

「魔法ぅ?」

 

「大なり小なり、純正の吸血鬼は魔法が使えるの」

 

 言うが早いか、全員の体が浮かび上がる。この世の物理法則に真っ向から反逆する浮遊感に、ポルナレフが驚愕の声を上げる。じきに慣れるだろう、不快な感覚をもたらす魔法でもないし。

 

 この移動方法では目立たないか。即座に適応した承太郎からの指摘はごもっともだが、外から姿が見えないように式を調整しているので問題はない。動画を撮られてSNSとかいうバーチャルな空間に投稿されることも、眼下に野次馬が集まってくることもない。

 

 魔法は、いうなれば正しく組めば正しい効果を発揮する数学の式である。5a=25ならa=5、魔法はこうした当然の理論と発動に必要なエネルギーさえあれば、誰にだって行使できる。特に後者が大きな問題として立ちはだかってくるから、一般的な人間にとって魔法は縁遠いものなのだが。

 

 西洋が本場というだけあって、吸血鬼は基本的に魔法を操る能力に長けている。その中でもフランドールはとりわけ高い才覚を現しており、この点においては姉を凌駕していると評して差し支えない。

 

「逆に言えば、DIOは吸血鬼に『成った』。魔法は使えないでしょうね」

 

「何だよ、その、先天性と後天性みたいなのはよ」

 

「まさにその通りよ。噂には聞いていたわ、人が吸血鬼になる手段があるって。随分と非人道的なやり方らしいけどね」

 

 ポルナレフと花京院の怪我を治癒しながら、昔姉がしていた話を思い出す。丁度姉妹が生まれ落ちた頃、北米大陸のとある集団内で人の身を超えるための秘術が執り行われていたという。その秘術の実態は仮面であり、着用することで吸血鬼になれるのだとか。

 

 人間の分際で生意気なことするわ。呆れたような口ぶりだったが、こればかりは同意する。種の壁を超越することで、どれ程のリスクを負う羽目になるか。莫大なデメリットを賭け皿に乗せられて、なお成りたいと言わしめる魅力が、吸血鬼にあるかと問われると首を傾げたい。

 

「む。これは……DIOか。承太郎」

 

「あぁ。こいつはかなり近いぜ」

 

「OK。降りるわよ」

 

 地面に降り立ち、魔法を解除。ここからでは、DIOの気配を感じ取ることはできない。だがジョースターの血を引く2人は、この近くに潜んでいると見抜いている。そしてそれは、向こうも同様である。

 

 互いに互いの大体の位置を把握しているなら、すぐに仕掛けてくるよりはまずこちらの出方を窺ってくるに違いない。こういう時は、焦って無理に先制攻撃を目論むのではなく、根気強く待って隙を狙わなければならない。いつ読んだか、キリストより前時代の人間が執筆したという兵法書にもそう著されていた。

 

「チームは分けない。全員で探すぞ」

 

「それが良いだろーな」

 

 下手に戦力を分散させても、各個撃破という最悪の事態を招きかねない。正確な実力を量るには短時間の邂逅だったが、凡そ並の吸血鬼を超えるエネルギーを有している。加えて奴には、未だ秘匿されるスタンドがある。纏まって行動するのがベストだろう。

 

「しかし……何か静かだな?」

 

「確かに、活気が感じられませんね」

 

「注意して進もう」

 

 きらきらと輝くネオンを見れば、街の顔が昼から夜に変わったのだと分かる。この街は、歓楽街のような所らしい。だが、それにしては人の姿を見かけない。まるで誰もいないのに光り続けるミラーボールのようで、強い違和感が滲み浮かぶ。

 

 慎重に歩を進める中で、地面にホットドッグが落ちていた。ケチャップとマスタードがかけられ、3割程度食された肉の棒からは、微かに湯気が上がっている。作られてからそう時間は経っていない。これを購入した人物は、何処へ行ってしまったのか。嫌な予感は秒毎に増幅されていく。DIOを、追わなければ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 女がやってきたのは、丁度書類に目を通していた時だった。一旦書類を横に置いて、来訪者を出迎える。

 

「珍しい客だ」

 

 事前にこちらへ来る旨を聞いていたわけでもない。それでいて遠慮なく自室に現れた女を、部屋の主は排斥する様子もない。彼女が門をきちんと通ってくる確率は低く、こうした唐突な訪問も随分慣れたものだ。

 

八雲

 

「ご機嫌よう。早起きね、それとも朝更かしかしら」

 

「生活習慣は人間と変わらんよ」

 

 飲み物と軽い食べ物を用意しようとしたら、お構いなくとのことだった。ふと思い立って友人宅に遊びに来たわけではない、それは彼女にも分かっていた。

 

「話は1つ。■■■を抜け出したフランドールと十六夜 咲夜についてよ」

 

「……そうか。賢者の意向を教えてくれ」

 

「発見次第処分します。探そうと思えば、そう難しいものでもないでしょう」

 

 2人がいなくなってから、ずっと頭の片隅に漂っていた答えだった。だから従者の協力も得ながら、考えられる限りの場所を探し続けてきた。さりとて納得などできず、縋るように食い下がる。

 

八雲。待ってはくれないか、今夜には戻ってこれるよう手を尽くしているんだ」

 

「分かっているわよね。そもそも■■■の民が、別世界に行って何ヶ月も帰らないこと自体、勢力取り潰しが普通の罰則。そうなっていないのは、貴女達のこれまでの功績を鑑みてのことよ」

 

 艶かしい金色の髪を惜しげもなく垂らし、女は無情にも現実を突きつけた。紅い瞳が、苦しげに歪むのを表情なく見据える。この場において、強者は絶対的に女であった。

 

 少女が率いる面々には、多方面において協力を受けている。現在のこの世界を規定する重要なルールの制定然り、その他彼女たちがいなければもっと取り決めに手間取っていたであろう規則の類は少なくない。故に幾らかの期間、目を瞑ってきた。

 

「我々は規則の護り手よ。条理を捻じ曲げておいたままにはできないの。今この屋敷にいる者達を処断しないだけ、有情と思ってほしいわ」

 

 ただ、そんな論理が通用する時期は過ぎた。幾ら■■■に貢献したとはいっても、横車を見逃す回数には限度がある。例外とは容易に発生しないからこそ例外なのであって、彼女の頼みをこれ以上認め続けることは悪しき慣例を作り出す危険に富む。

 

「そうねぇ。どうしても、と言うなら相応の態度を頂くわ。額を地に付けて懇願したら、考えて差し上げても良くてよ? 賢者が事態を静観する期間の延長を、ね」

 

 目の前にちらつかせた餌へ食いつく権利を、法外な値段で売った。依然逸らさない黄金の目も、薄く上がった口元も、嫌味な気配を醸してはおらず、寧ろ仄かな優しさで彩られていた。

 

 こいつに限って、するはずがない。金剛石よりも硬く、火を見るよりも明らかな確信があった。

 

 待つのももう限界。青髪の少女にはそう伝えたが、それはある種のポーズであった。確かに規則に照らして考えれば、少女が担う勢力は存続できないことになるのだが、女の属する組織は、今回ばかりは目を瞑ろうと大方の意見を決めていた。

 

 フランドールと咲夜を血眼になって探す者達の姿が、あちこちで目撃されていた。悪巧みのために2人を何処かへ送った、というわけではなさそうだった。『仕方ないから待つけど急いでね』──数回の会議を重ねて、得られた総意はかくの如しであった。あとは個人的に、メイドの作るクッキーと紅茶はここを訪問する際の密かな楽しみだし、中々に聡明な妹君と交わす論議は大いに意味を持つ。

 

 では何故、少女を急かすようなことを伝えるのか。やはり形式的に、発破はかけておかなければならないのだ。少々精神的に堪えるであろう言葉をかけるのだって、本当ならあまり気が乗らない。土下座云々は、女のちょっとした揶揄い兼元気付けだけど。

 

「なんてね。まぁ、あれよ。待ってあげるから早く──」

 

 言い終わるより先に、少女は椅子を降りた。はじめ、戦闘態勢にでも入ったかと思った。やばい、逆撫でし過ぎた。冷や汗が幾筋か背を伝う。

 

 吸血鬼は反則的な種である。鬼の力と天狗の飛行速度を兼ね備え、挙句の果てに魔法まで使える。設定だらけで扱えたものではないキャラクターが、しかしこの世界では2人生きている。しかもこの2人、吸血鬼の中でもとりわけ強力な血筋の生まれであり、少なくとも肉弾戦をして女が勝つ可能性はない。

 

 軽口に対して、相応の軽さで怒ってくれると目算を立てていた。溜め込んだストレスを少しでも発散できれば気も晴れるだろうし、ちょっとくらい過敏な反撃をされても黙殺してあげる心積りをしていた。だがこれは不味い、カテゴライズするなら激怒(No joking)。早くボルテージを下げなければ、このまま命のやり取りに発展しかねない。

 

 とにかく謝らなければ。口は災いの元、豊富な生の経験からよく知っていたはずなのに最大級の失態を踏んでしまった。しどろもどろになりながら、謝罪の言葉を繋ぎ合わせていく前で、しかし少女のエネルギーが跳ね上がることはなかった。

 

 ぺたり、床に膝をつける。元より人間換算で10歳未満程度の身長しかない小さな少女は、正座をしたせいで女を大きく見上げることとなった。はて、彼女は何をしているのか。聡明な女の頭脳が、数瞬虚をつかれた。

 

 背筋をしゃんと伸ばしたまま、少女は両の手と額を地につけた。迷いなく、それが意味するところを理解しながら。ナイトキャップが絹のように柔らかい髪からずり落ちるのも、構いやしない。

 

「あと数時間、待ってほしい。必ず2人を見つけ出して、連れ帰る」

 

 あぁ。言った通りにしたのか。バベルの塔より高く聳え立つ自尊心に、陽の光のように煌びやかな帳を落としてまで。

 

 力が抜けてしまって、背もたれに思い切りもたれかかる。それから大きな溜息を肺の奥底から吐き出した。こうも鮮やかに予想を裏切られたのは、一体いつぶりだろうか。

 

「ほんとにやるとは……」

 

 家族(ファミリー)への思い入れについては、女も知っている。だが、ことプライドの高さにおいて、並び立つ者はいないに等しい。何だかんだで付き合いやすい部類ではあるが、こと己とその家族(ファミリー)に関することだけは、絶対に妥協しない。

 

 少女とはそれなりに長く、そして友好的な関係を築き上げてきたという自負がある。しかし、1度冗談で首輪をはめて飼ってみて良いか聞いた際に、能力行使まで含めた大喧嘩に晒される羽目となった。正直女側に大分の非があると言わざるを得ないが、それでも少女の怒りようは並大抵ではなく、この前咲夜にやられただの喚きながらの大暴れを繰り広げた。最終的に調停者に見つかり、2人揃って手酷いお仕置きを喰らったのだけは、未だに納得していない。

 

 そんな彼女が伏して懇願するとは、想像だにしなかった。生まれながらにして王者であることを約束された、生粋の上位者。他者に下げる頭など持っているわけがない、ある種括っていた高は、全くの的外れでしかなかった。

 

 一勢力の当主に膝をつかせた。これで何もしなければ、潰れるのは女の面子だ。私に一杯食わせるなんて、生意気な。むすっと憮然顔になりながらも、そっと席を立つ。

 

 落ちた帽子を拾い、頭に乗せる。いつも被っているからか、このナイトキャップなしだとどうにも違和感が拭えない。

 

「絶対よ。次の延期は首輪付き土下座だからね!」

 

「恩に着る」

 

 せめてもの意趣返しも、華麗にスルーされる。いつの間にこんな『やり手』になったのか。心中苦虫を100匹纏めて噛み潰したかの如くであった。繋いだままの()()()()の向こう側から、含みのある笑いが聞こえてきたような気がした。きっと、気の所為ではない。



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第七十八話 DIO BRANDO その③

「えっ……だっさ……」

 

「黙りなさい」

 

 普段は年頃の……実年齢的にそぐわない者も一定数はいるが、とにかく少女達の溜まり場となり、美味しいクッキーやケーキの並べられる一室。しかし今宵、焼けた肉と如何にも高級そうな酒の匂いで嫌という程に満たされていた。

 

 賢き人は、考え得る最高の肉と酒、ついでに幾許かの野菜を携えて顔馴染みの元を訪れていた。揶揄って元気づけようとした相手から、無意識かつ痛恨の反撃を喰らってしまい、精神的に大ダメージを負ったのだ。騒がしくないが姦しい2人きりの宴会は、癒しを求めてのものだった。

 

「あんた、それあれよ。1番かっこわるいやつ」

 

「黙りなさい」

 

「頭下げさせた挙句主導権は向こうとか……えぇ……」

 

「黙りなさい」

 

「ごめん。何とか擁護してあげたいんだけど余りにもださい。私もまだまだ勉強が足りないのね、身に染みて分かったわ」

 

「お願いだから黙ってくれないかしら」

 

 黙れと言いつつ、ここに来ているではないか。大方ざっくりと刺してほしかったのだろう。やり切れない思いが蓄積し過ぎて、自分だけではどうもできず。だから遠慮なくぐさぐさしている。賢者は娘のように可愛がってきた少女で癒されたいのだが、これはこれで気持ちが晴れるのでたちが悪い。

 

「今日という日をなかったことにしたいわ」

 

「最高の一日じゃない」

 

「私を揶揄う材料ができて良かったですわね」

 

 恥も外聞もなく、机に突っ伏して呻き声をあげる。他の者が見れば、普段見せる姿とのギャップで頭痛がしてくるだろうが、酒付き焼肉に付き合う少女は賢者に潜むはしたない一面も知っている。もう10年以上の交流があるのだから、当然だ。

 

 突っ伏しているので、豊満な胸がぐにゃりと潰れている。もしや当てつけなのか、剣呑な視線に気がつくことなく女は酒を胃に流し込んでいく。容姿はおよそ10代後半、20歳には至らないであろう。しかし醸し出す雰囲気は若く瑞々しい少女のそれではなく、苦労を重ねた老人のものに近い。実際、重ねた歳は老人が軽く数十回は転生できるくらいである。

 

「これ広めて良い?」

 

「まだ貴女の後任は見つけてないわ」

 

 おぉ、怖い怖い。下手に口を滑らせたら、後が怖いというやつだ。襲いかかってくるなら返り討ちにすれば良い話だが、こいつのことだから陰湿な手段でねちねちと報復をしてくるに違いない。仕方がないので黙っていてあげることにした。

 

「どうせ処罰する気なんてない癖に、無駄に格好つけようとするからそうなんのよ」

 

「……2人の処罰については本気よ。そりゃ流石に殺したりしたくはないけど、規則違反は規則違反。帰ってきたら追って通告するつもりなの」

 

「できないに1票」

 

 情に絆されて規則のひとつも守れないへっぽこ妖怪とでも思われているのか。甚だ心外だ、必ず罰を言い渡してやる。まだ10代前半、高く見積もって15歳くらいの少女を見返すべく、硬い決心を決める。

 

 そのまま暫くはお互いに口数も少なく、肉を食み酒を煽る。やがて空き瓶の数が2桁に到達した頃、思い出したように少女がぽつりと零す。

 

「あいつ、どうしてた?」

 

「どいつよ」

 

「土下座ちゃん」

 

「どうも何も、いつもと同じよ。ちょっとしおらしいけど」

 

 しゃきしゃきとした食感のレタスをもさもさ食べながら、何の気なく返す。いい加減酒から酒の味がするのに飽きてきたので、新しい味のやつでも用意しようか。アルコールに侵食された脳味噌で、ぼんやりと考える。

 

「大丈夫かしら」

 

 ぱちり、と瞬きをした。驚きのせいか、少しだけ酔いが覚めた。聞こえるはずのない文言が聞こえたのは、酩酊による幻聴だったりしないだろうか。そこまで浴びるように飲んだ覚えはないが。

 

「なによ」

 

「貴女が人の心配をしたら、周りが驚くのは当然ではなくて?」

 

「むかつく。別に良いでしょ」

 

 何処かばつの悪そうに、そっぽを向きながら最後の1杯を飲み干す。幼い頃からちょっとずつ慣らしてきただけあって、少女は蟒蛇といかずとも中々酒を窘める()()だった。

 

 実際、冗談抜きで女は驚かされた。この世界のパワーバランスを担うため、人外に対して見敵必殺の如き対応を取る少女が、他ならぬ人外を慮ったのだから。明日はベーコンをその細身に纏ったアスパラガスでも降ってくるんだろうか。

 

「友達を心配して悪いかしら」

 

「いえ。貴女にも権利がありますもの」

 

「……いつか何処かで泣かす」

 

 ぎろりと睨めつけてくる目は無視して、新しい酒を注いでやる。10本あればちょっとした家が建つ程の逸品を、大胆にも3本持ってきた。家にまだストックはあるけれど、他の友人と飲み交わす時のために置いておきたい。幾ら立場に物を言わせても、レア物はレア物なのだ。

 

 恐らく世界で最高級の酒は、少女の怒りをいとも容易く鎮めてみせた。人間、酒と端麗な異性には敵わないものである。ほくそ笑みながら、自らも奇跡の逸品を味わう。やはりというか、こいつと焼かれた肉の相性はあまりにも良過ぎる。知己と食べて飲んで、心の傷を癒すには最適である。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 街に降り立ってからしばらく経つが、まだ生きた人間の気配はしない。食事途中で放り出されたスパゲッティ、OPENの札を掲げながらも店員のいない服屋。逸る気持ちを抑えて、異様な静けさの中をゆっくりと進んでいく。

 

「近づいてるかしら」

 

「相当にな……目と鼻の先、といえるぜ」

 

 まだ姿どころか影も見えないにも関わらず、肌に纏わりつく嫌な気配だけはひしひしと感じる。DIOの首から下はジョセフの祖父、つまり承太郎から遡るならば祖父の祖父がかつて保持していた肉体だという。互いに呼び寄せ合うジョースターの特性が、悪意ある方向に振り切れてしまっている。

 

 それにしても、首から下が別人のものという状況が、どうやって生まれたのか。決して個人的な興味ではなく、そこにDIOを撃破する、もしくはそこまでいかずとも弱点を突ける手がかりがあるかも知れない。例えば、まだ首と肉体の接着は完全でなく、衝撃に対して脆いとか。

 

 ただ、首だけになっても生きていられるのは、ほぼ確定している。相手がとうに人間を辞めている以上、有り得ない話ではない。流石に首だけにしたら大幅に弱体化させられるとは思うけれど。

 

 生首が数秒で肉体を取り戻すと仮定すると、失礼ながらご先祖様が勝てるイメージが湧いてこない。承太郎の想像を遥かに上回ってご先祖様がパワフルだったか、再生には一定の時間がかかるか。前者の方が現実的なのは、言うまでもない。

 

「人だ……しかし様子が変です」

 

「あぁ。歩き方が妙だな」

 

 やっと人を発見できたようだ。考え事を一時中断する。成程、ポルナレフの言うように奇妙なステップを踏んでいる。酔った故の千鳥足としては、些か不気味である。体幹が弱くたって、あそこまでふらつきはしない。

 

 警戒を怠らず、背後から声をかける。思いの外素早い反応に驚く暇はなかった。

 

「な、なんだッ! あの顔は!」

 

「おいおい、こいつマジで人間か!?」

 

 火傷痕なんてものではない。炎天下に数日放っておいた肉のように、顔が腐り落ちかけている。片方の目はなく、眼窩からは真っ黒な穴が覗く。

 

 明らかに入院しなければいけない様相でありながら、男は一行へと突進してくる。先程までのふらつき具合は何処へやら、成人男性の平均を超えるであろう健脚でぐんぐんと距離を詰める。

 

 男の体に、刺々しい茨が巻き付く。ジョセフのスタンド『ハーミットパープル』が、幾重にも絡みついて動きを阻害する。なおも向かってこようとしていたが、男は突然苦悶の声を上げ始めた。

 

 体表面で何か弾けているように見えた。化学反応、そんな言葉が脳裏を過ぎった。足から頭へ、止まることなく粒になって吹き飛んでいく。やがて反応が終了した時、身につけていた服の他には何も残っていなかった。

 

「じじい、今のは」

 

「うむ。波紋で肉体が崩れるということは、こいつらは屍生人(ゾンビ)。吸血鬼が人間から作り出す、人でなしの化け物じゃ」

 

 今ジョセフが見せたものが、人呼んで波紋疾走(オーバードライブ)。波紋とは人が体内で生み出す太陽の力であり、吸血鬼やゾンビといった陽の光を嫌う者共を滅する技術だ。1度だけジョセフが実演してみせたことがあり、存在は皆が知っていた。実際に攻撃に使うのを見たのは、これが初めてだけど。

 

「大元も近いのでしょうか」

 

「断言はできん。用心深いヤツのことだ、まずはゾンビを送り、様子を見ている可能性も──」

 

 真後ろ。ジョースターの血統でなくたって、ここまで接近されれば嫌でも分かる。スタンドを出して、臨戦態勢を取った。

 

「待ち侘びたか? このDIOの登場を」

 

「きさま……!」

 

 彼から姿を現してきた。例えここにいる全員を相手にしたって、負けるわけがないという自信があるのだろう。凱旋する将軍の如く、威風堂々と歩く様は、隙だらけにも穴がないようにも見える。

 

「臆するこたぁねー。あの格好付けもハッタリだ。そうだろ、花京院」

 

「えぇ。無勢に怖じて退却する程度の男など、恐るるに足らず、というもの」

 

「フン! 言ってくれるな……」

 

『ハイエロファント』と『チャリオッツ』が、大きく前へ踏み出す。決して彼らは油断などしていない。花京院が動きを制限するようサポートをして、機が来た瞬間にポルナレフが十の刺突を見舞う。優れたスタンド使いたる2人のコンビネーションを単独で捌くのは、困難を極めるだろう。

 

 挑発したのだって、狙ってのことだ。DIOという男は、平時こそ冷静さを保つけれど、要因さえあれば怒りを露わにするタイプである。現にフランドールに対して、感情を剥き出しにしていた。少なくとも精神面において、ヴァニラ・アイスよりも付け込む機会は多い。

 

「待って」

 

「どうしたフランドール。ヤツは吸血鬼としてのプライドに胡座をかいてやがる、ドタマぶち抜いてやるなら今がチャンスだぜ!」

 

「違う、この気配は」

 

 花京院もポルナレフも、全く油断をしていない。DIOが発する暴君の覇気を感じ取れない程に低俗な精神をしてはいないのだ。持てる限りの集中を金髪の大男に注ぎ、その目はコンマ1秒の隙だって見逃さないと言わんばかりにぎらぎらと光を放つ。

 

 そう、DIOに集中し()()()いた。疑わなければならなかった、1度は数の不利を認めて引き下がった敵が、再び単騎で登場したという事実を。凄まじい速度で稼働させた脳のシナプスは、しかしそれでも致命的に出遅れていた。

 

「全員下がって! ゾンビに囲まれてるわ!」

 

 建物の中、障害物の影、周囲四方から無数の化け物が湧いてくる。ずっと隠れていたのだ、フランドール達を急襲するために。

 

 チームでDIOを追い詰めた、無意識のうちにそう認識してしまった。実際は全くの逆で、仕掛けられた罠を踏み抜いてしまったのは彼女達の方だった。膂力において人を超え、まともな理性など消え去ったゾンビは、いわば一人ひとりが暴力的な鉄砲玉だ。

 

「歓迎するぞ。かつてイギリスのとある(ロット)にしたように、盛大になッ!」

 

 開戦の火蓋が切って落とされた。我先にと殺到する屍を近づけないように、各々のスタンドが惜しみなく能力を発揮する。斬りつけて、受け止めて、殴って。ゾンビは不死ではなく、ダメージを与えれば確実に倒せる。

 

 それでも足りない。圧倒的なまでの、数の暴力。じわじわと包囲網は縮まっていき、文字通り背中を合わせての交戦が現実のものになろうとしている。

 

 ……あんな小さな町とは訳が違う。ゾンビはゾンビを生み、鼠算式に増えていく。こうして承太郎達と戦っている奴らだって、この街に誕生した尖兵の一部に過ぎない。今夜のうちに、街は彼の手に落ちるだろう。

 

「そしてきさまらをそのままにしておくのは、時間の無駄よ。殺して屍生人(ゾンビ)に喰わせる方が万倍早かろう!」

 

 スタンドの顕現。筋骨隆々の肉体は黄金に輝き、あたかも格闘技の絶対的な世界王者の如きである。劣勢を強いられる中で、見上げる余裕があったのは、フランドールだけだった。

 

「せめてよく見ておくが良い。全てのスタンド使いを圧倒的に超越したスタンド、『ザ・ワールド』の力を!」

 

 咄嗟の判断で、右腕にエネルギーを蓄積する。凝縮もしていない単なるエネルギーの塊だが、奴を怯ませるくらいはできる。

 

『ザ・ワールド』の能力発動は止めなければならない。どういった性質なのかは不明だが、DIOの動作に呼応するように出力が跳ね上がった。あれが危険なスタンドであることくらい、理解するのに苦労もない。

 

 ……これだけの手勢に囲まれながら、妨害にも力を割く度胸と力量は大したものだ。確かにこの幼い見た目をした吸血鬼は、凡百とは一線を画する傑物といえる。

 

 だからこそ、嬉しく思う。今日という日のうちに、最上級の危険分子を闇に葬れることを。時の流れが遅くなっていき、やがて完全に停止するのを感覚で把握する。ゾンビ達も、承太郎もジョセフも花京院もポルナレフもイギーも、フランドールまでもがリアリティ溢れる彫像のように硬直して動かない。

 

「ンッン~……最初は花京院といこうか」

 

 焦ることはない。時間停止は『ザ・ワールド』のみに許された技能。1人につき1回使ってやるなんて贅沢な使い方も可能だ。訳も分からないうちに仲間が1人ずつ倒れていき、恐怖に引き攣る様を真正面で堪能できるのだから、このスタンドは帝王に相応しい。そして、このスタンドに選ばれた以上、DIOは世を支配する帝王なのである。

 

「Good-bye! 花京院 典明ッ!」

 

 世界に当たり前に流れる時間を止める。『ザ・ワールド』の持つ異常性は、あらゆるスタンドを圧倒的に超越した。静止時間は5秒、だが首元の傷が塞がっていくに比例して伸びてきた。この傷が完治した時、一体どれだけの時間を支配することができるようになるのか。

 

 思い返す程、DIOにとって時間とは不敬なものであった。操ることはできず、指示もできず、ただ一定の感覚で流れていくだけの悠然たる大河。時間さえ支配できれば、それは世界を手中に収めたも同然ではないか。そう考えるなら、悪の暴君として君臨するためには、『ザ・ワールド』が必要なのだ。

 

 河に棲まう生き物共は、今や無力な人形に等しい。凍った河を泳げないように、止まった時の中では動けない。DIOのやることは至極単純で、哀れな愚か者達を河の外から操り殺すのみ。

 

時よ、思い出せ(リメンバー・ザ・ワールド)

 

 だから、粉雪のように溶け消えた声に、僅かに反応が遅れた。凍りついた時の中で、自分の他に動くものなどいない。強固な自信は能力の行使を可能とし、一方で想定外(イレギュラー)への対処に困難をきたす。

 

 凍る程に寒いなら、粉雪も舞おうというものだ。常識を超えた者に、自然の摂理を考えるのは不可能なのかも知れない。

 

「なに?」

 

 白銀が手刀を止めている。花京院には、そうとしか思えなかったし見えなかった。0.1秒時間を遡れば、DIOは集団の外側にて傍観していたし、まして彼女の姿なんて影もなかった。まるで途中から再生されるビデオテープのように、何が起きているのかさっぱり理解できなかったけれど、とにかく彼女は危ないところを助けてくれたらしい。

 

 少女は『ザ・ワールド』の腕を弾いた。半分の太さもないか細い腕で、顔色ひとつ帰ることなく涼しげに。あの凛々しい立ち姿を、吸い込まれるようなターコイズブルーの瞳を、花京院は知っている。

 

「今のはっ」

 

 フランドールの超人的な感覚が、時の静止と再動を捉える。そして、2つの時間への干渉は、それぞれ別の人物によってなされたことも知覚する。片方はDIOだとして、他方は誰か。そんなの、火を見るより明らかだった。

 

「遅くなりまして、大変申し訳ございません」

 

 フランドールの眼前に跪き、恭しくお辞儀をする。周囲を取り囲む化け物を警戒する素振りは見せない。否、累々と倒れ伏すのは、つい先程まで彼女達を襲っていたゾンビの亡骸だ。

 

 清浄な人間の力は、神聖なものとされる。濁り澱むことなく、白く清らかな霊気こそ、外法の賜物を滅する最良の毒である。その上、ゾンビにとっては甚だ不幸だが、毒の使い手は目にも止まらない速度で斬りかかってきた。未来予知でもしていない限り、死を振りまく風を避けるなんて到底不可能だった。

 

「後はこの私にお任せを」

 

「咲夜!」

 

『アヌビス神』との激闘の末に、戦線離脱を余儀なくされる大怪我を負った。だが、十六夜 咲夜は折れることなく戦場に舞い戻った。仲間を救うために、そして敬愛する主の盾となるために。

 

「理性を失った人間は、貴方の仕業かしら。DIO」

 

「きさまは……ザ・ワールドを名乗った紛い物か」

 

「悪党に紛い物呼ばわりされるなんて、心外ね」

 

「殺す人数を上方修正だ。我が『時止め』に干渉してくる辺り、きさまは早めにご退場いただいた方が良さそうだ、イザヨイ・サクヤ」

 

 DIOが復活を果たすまで、咲夜は仮初の名を名乗っていた。命名したのは主人であり、曰く真っ先に思いついたし貴女にぴったりだと思った、とか。まさか1文字違わず一緒だったなんて、きっと偶然以外の要素も絡んでいるのだろうけど。

 

 以来40と数日間、偽りの存在を演じてきた。世界的な大女優も敵わない程の、寸分の隙もない完璧な演技をこなしながらも、心の内においてただの一瞬たりとも『十六夜 咲夜』を捨てはしなかった。

 

 咲夜にとっては遠い昔、2人の恩人に名を与えられた。まだ年端もいかない頃の記憶は、しかし鮮やかな色のまま保存されている。あの夜、十六夜 咲夜は産声を上げた。吸血鬼に仕え、彼女達のために身を尽くす人間として。

 

「ヌゥッ……!」

 

「私の名前を、気安く呼ぶな」

 

 大切な思い出を汚す不逞の輩へ、手心を加えてやる理由なんてない。整った容貌に、真っ赤な彼岸花を咲かせて然るべきだ。霊気による不可視の武装は、ただでさえ強力な彼女の体術に更なる伸び代を授ける。

 

 嵐の如き連撃が、『ザ・ワールド』を、DIOを襲う。腕をクロスさせて防御に徹する堅固な壁を撃ち崩さんとする猛ラッシュに、さしものDIOも苦しげに表情を歪ませた。辛うじて凌ぎ切ったものの、薄氷の鍔迫り合いだったのは否めない。

 

「フウウウゥー……大した攻撃力だ。『ザ・ワールド』を名乗ってさえいなければ、多少強引にでも仲間にしたかったな」

 

 DIOの見立てでは、『ザ・ワールド』の力は同系統のスタンドである『スタープラチナ』を上回っている。故に、承太郎と本気で打ち合ったなら、多少手こずりこそすれども、確実に押し切る自信がある。

 

 咲夜の一撃は、『スタープラチナ』よりは強さに欠けるだろう。体格や体重からして、それは当然導かれる結論だ。一方で、彼女の掌底や蹴撃は重い。受けた腕に振動が響き、たった数発まともに防いだだけで軽い痺れに襲われる。承太郎が同じことをしてくるとは考え難い。

 

「だが、いやに息が上がるのが早いんじゃあないか?」

 

 とはいえ、咲夜の戦闘スタイルは、正しく諸刃である。一見付け入る隙もないように思える華麗な体術は、そう長く続かないと確信していた。

 

「当ててやろう。『時止め』を解除するのに、相当体力を使ったな? このDIOが時を止めるよりも、遥かに多くの」

 

「……」

 

 咲夜の呼吸は、平時より早く荒い。万全の状態なら、あれくらいの運動量で呼吸を乱すことはない。無論怪我から復帰していきなり全力で動いているのだから、体が追いつかないというのも理由として挙げられるべきだろう。

 

 しかし、最たる要因は別にある。時間を再動させるにおいて、咲夜はある最悪のケースを想定していた。ただ時間を停止するのに比べて倍以上の力を消費してしまい、かつDIOにそれを見抜かれてしまう。もしこのケースが実現してしまったなら、できる限り速やかに決着をつける他の解決手段はない。長引かせれば、その分不利になっていくのは咲夜なのだから。

 

「『ザ・ワールド』ッ! 止まれ時よッ!」

 

 幾ら頭で綿密な計画を練っても、相手が想定通りに動いてくれる保証はない。DIOのように狡猾な男なら尚更だ。またしても時間が停止され、彼女に背を向け猛然と駆け出した。最悪に最悪を重ねたような展開に、苛立ちを感じずにはいられない。

 

 インファイトで止めようにも間に合わない。やむなく時を動かす。束縛から解放され、いち早く反応したフランドールが、振り抜かれた黄金の腕を受け止めた。瞬時拮抗し、深入りはしないと言わんばかりにDIOの方から引き下がる。

 

「やはりな。順序通りに物を組み立てるより、構造を無視して壊す方が、遥かに力を要するものだ。

 面白い能力だ。静止した時の中で振るわれるその特殊なパワー、素晴らしい芸当だと認めてやろう。だがちょいとスタミナが足りなかったなァ!」

 

 傍らの街灯を根元から握力でへし折り、木の枝でも持っているかのように軽く手で弾ませる。槍よろしく投擲してきたとして、避けるに充分な距離はあるが、十中八九追撃を仕掛けてくるだろう。今の体力で捌けるかは、かなり危険な賭けとなる。

 

 果たして街灯だったものは振りかぶられ、咲夜をひしゃげた血と肉に変えるに足る威力をもって彼女へと迫る。彼女にできるのは、DIOの次なる挙措に気を配りながら最小限の動作で回避することだけだ。覚悟を決めて、ほんの少しでも呼吸を整える。息が乱れれば、そのまま弱点として露呈してしまうから。

 

 咲夜が動き出すより一瞬早く、彼女を庇う形で、フランドールが両者の間に割り込んだ。投擲された金属塊を空中で掴み、横へ放る。

 

 能力を発動させようとしている間、『ザ・ワールド』は他のことにほぼスペックを割けない。唯一突かれ得るとすればこの一点であり、故にDIOは迂闊に時間を止めようとするわけにはいかない。相当に疲労した咲夜はともかく、フランドールの身体能力であれば、今開いている物理的距離など瞬きの間よりも刹那に零とできる。

 

 両者共においそれと仕掛けられず、睨み合うまま1分は経過しただろうか。先手を打てないのは承太郎達も同じであり、場の緊張は際限なく張り詰めていくかに思われた。

 

 奇しくも殆ど同時に新手の気配を感じ取った。どちらにとっての味方というよりは、どちらにとっても現状相手をしたくない敵である。

 

()()に意識を向けると、どうしても互いへの集中は散漫になる。かといって放っておけるような雑魚でもなく、寧ろ警戒すべき強者だ。まさに3流の劇作家がアルコール漬けで書いた稚拙な台本の如く、脈絡も何もないタイミングでの乱入であった。

 

 

 

 

 

「やっと見つけたぞ。しかも美味そうな吸血鬼が2人もいるとは、おれは今日ツイてるらしいな」

 

「サンタナ……引っ込んでいろ。そこにいるやつらは、このDIOが殺すべき者共だ」

 

「好きにしろ。どの道きさまはおれが喰らう」

 

 彼を復活させたのは、何も世界支配の手駒を求めてのことではない。あの時、手札は充分に揃っていた。

 

 単に興味があったのだ。吸血鬼を餌として、太古の昔より生きる地球の支配種が、一体どんな奴なのか。甦らせる前に、それに関する資料やレポートを血と硝煙の匂いが充満する部屋の中で一読したが、詳しいことまでは記されていなかった。財団も把握していなかったのか、それとも更なる文書が何処かに隠されていたのか。

 

「サンタナ……何故!」

 

 液状のスタンド『ゲブ神』を撃破した直後、砂漠で一行を襲ったサンタナが、道路を1つ挟んだ向こうに佇んでいる。太陽の隠れた夜において、以前その身を護っていた黒いローブなど必要ない。癖のある長髪と筋肉質な肉体を、眩しいネオンの光に惜しげもなく晒す。

 

 ジョセフは聡明で、機転に富む。豊富な人生経験と予想の正確性を最大の武器とし、例え新手が登場しようともそれだけでは動じない。かつて波紋戦士として戦いに身を投じていた時も、彼の明晰な頭脳はしばしば敵を欺き味方を救った。

 

 かの男を唖然とさせるなど、並大抵のことでは有り得ない。そして『並大抵のことではない』事態が現実のものとなった。チームのリーダー的役割を担う彼の焦りは、ただちに他のメンバーにも伝播する。大将の惑う集団程に、脆く瓦解するものはない。

 

「フランドール」

 

 危機的な状況への対処に、その人間の本質が現れるといわれる。誓ってジョセフが対応力に欠ける凡才というわけではない。彼の脳内では幾つもの対策が浮かんでは消えてを繰り返している。彼はまだ、諦念から遠い場所にいる。

 

 胆力では、承太郎の方が上を行くのだろうか。或いは、年老いて僅かながらに衰えが現れつつあるのか。どちらにせよ、この絶体絶命のピンチに悠々と彼女の元へ歩いていくという選択は、あまりに常軌を逸している。諌めようとするポルナレフにも、構う様子を見せない。

 

 作戦か相談か、いずれかを承太郎は持参している。そうでなければ、あぁも堂々と歩けない。信じようじゃあないか、彼はこれまで素晴らしい戦果を挙げてきた。共に茨の道を行こうというなら、様にならないプロポーズだと笑い飛ばして着いていく覚悟はできている。

 

「おめー、あの得体の知れねぇサンタナとやらをやれるか?」

 

 流石に1人であいつらを相手取るのはちときついんでな。事もなげに言い放った台詞は、傲岸不遜と言われても文句の言えない代物だった。サンタナにはスタンドによる攻撃が通じない。()()()()2()()()()()()()()()()()()()()()()()、ダメージが通せない以上は仕方がないので、彼はフランドールに任せたい。そう捉えても、文脈上間違いではない。

 

 さて、今の宣戦布告はDIOに聞こえていたのか。サンタナと会話をしていたのが悔やまれる。面と向かって挑戦状を叩きつけられた奴の反応を見たかった。

 

「いけるわ」

 

「よし」

 

 そもそもあの得体の知れないマッスルマンと戦えるのが、咲夜かフランドールしかいない。メイドに休みをあげるとして、はなから彼女はサンタナを抑えるつもりだった。餌だとか言われて、良い気分もしていなかったことだ。生意気な輩に、口の利き方を教えてやらねば。

 

 固く握手を交わす。次に承太郎と目を合わせる時、それは互いに敵を打ち倒した後のハイタッチとなるに違いない。どちらも難しい戦いになるのは目に見えており、それでこそ越え甲斐がある。

 

 フランドールは、絶対に勝たなければならない理由に乏しい。強いて言うなら、失礼な口をきかれたお返しとなろう。承太郎のように、生まれつき戦うことを宿命づけられている血の運命もなければ、ポルナレフよろしく洗脳されていた期間があるわけでもなし。

 

 それで良い。動機は戦いの必要条件ではない。本当の最終決戦は承太郎vs.DIOであって、フランドールとサンタナは従物的な勝負をするに過ぎない。主役の他に、物語に終止符を打つに足る役者は存在しないのだ。

 

「承太郎。気をつけなさい、さっき咲夜は時間を動かした。つまりDIOのスタンドは、時を止められるのでしょう」

 

「あぁ」

 

 交わす言葉は多くなく、やがて互いに背を向けた。宿命の対決と喰われるか否か、二大決戦の幕が同時に上がろうとしていた。

 

 

 

 

 

「DIOは任せな……じじいたちは周りのゾンビを何とかしてくれ」

 

「承太郎、待て。策を練るのだ。闇雲に向かっていって勝てる相手ではない」

 

「策ならあるぜ」

 

 DIOを撃破する道筋は、もうできている。帽子を深く被り直して、不敵に告げる。まずは時間停止能力を如何にして攻略するかが、奴と戦う上で重要となる。承太郎の狙う穴は、攻略法と呼ぶには些か直接的過ぎるか。

 

「じじい。あんたにあまり無茶をさせるとおばあちゃんが怒る。おれは怒られたくねーな」

 

「そんなこと言っとる場合か! 全員で戦う、とにかくおまえの考えた策とやらを──」

 

「まぁ待てよジョースターさん」

 

 惚けたような返答を繰り返す承太郎に、遂にジョセフが声を荒らげた。今はまだDIOの意識の過半がサンタナへ向いているが、いつ標的を変更して襲ってくるか分からない。咲夜の体力を温存させるなら、襲われた時の対処法さえ、実質有していないのと同じだ。眼力強く睨むジョセフに、氷のような瞳の承太郎。険悪な雰囲気が濃密になっていく。

 

 敵との戦いではなく、味方との口論でヒートアップしていても意味がない。一旦落ち着け、そんな気持ちを込めて肩に手を置く。あのジョセフ・ジョースターでも感情に任せた表情(かお)をするのか。ちょっと意外だった。

 

「承太郎に任せようや。こいつがやってくれる男だってのは、おれたち皆知ってるだろ?」

 

「それに『ザ・ワールド』とやり合えるスタンドなんて『スタープラチナ』しかいませんしね。われわれはゾンビを倒し、被害の拡大を防ぐのが良いかと」

 

 花京院とポルナレフの言うことも、もっともだ。波紋が使えるとはいえ、ジョセフの手に負える相手ではない。並大抵の吸血鬼とは一線を画する怪物に、波紋を送り込む隙があるかさえ怪しい。よしんば波紋を流せたとして、DIOは過去に他でもない波紋に敗れ去っている。かつての堕ちた波紋戦士のように、対策は万全であるとみるべきだろう。

 

 正直なところ、時を止められたら承太郎もジョセフも変わりないとは思う。だが、彼は作戦があるという。十中八九、あれをどうにかできるものなのだろう。その上で1人でやるというのなら、参戦はかえって妨げにもなり得る。まさか未成年の双肩に因縁だとか世界の命運だとか、空恐ろしく重い責任を乗せることになるとは。思い切り溜息を吐いた。

 

「……頼むから死ぬんじゃあないぞ。万一おまえが死んだら、それこそスージーQに何を言われるか分からんからな。わしはあいつの気持ちだけは一度も裏切ったことがないんじゃ」

 

「フン……」

 

 何とも美しい夫婦愛だ。ジョセフの格好良い決め台詞が何処まで本当かは知らないが、死んだら怒られそうという予感は承太郎にも納得できる。向かうところ敵なし、怖いもの知らずの空条 承太郎でも、母と祖母の説教は苦手であった。

 

「承太郎。持っときな」

 

「これは……」

 

「勇気の出るアクセサリーだ。ポケットにでも入れとけ」

 

 なくしたりしたら承知しねーからな。一方的に大切なものを預けて、剰え去り際に釘まで刺してきた。理不尽ここに極まれり、である。やれやれ、そっと嘆息した。

 

 取り敢えず言われた通り、ハートを真っ二つに割った形のイヤリングをポケットにしまう。……承太郎は所謂リアリストに属しているが、それでも縁起の悪い形だと思ってしまったのは流石に許されよう。

 

 

 

 

 

「咲夜」

 

「はい」

 

「貴女を信じてるけれど、たまに専行しちゃうから、先に言っておくわね」

 

 ぴっ、と指をさされる。彼女にそうされたって、一片の不快な感情も浮かんでこない。寧ろ自分がフランドールの『もの』であると扱われることに、無上の喜びさえ覚える。

 

 体を呑み込む倦怠感も、昼間の霧のように散っていく。誇りを胸に片膝をつき、指示を待つ。

 

「無茶は駄目よ。貴女にはジョセフ達と一緒に戦ってもらうけど、貴女の命を最優先に守ること。これは命令、分かった?」

 

「承知しました」

 

 つまりフランドールの命令はこうだ。無茶の範疇に入らない程度の本気度で、街に蔓延るゾンビを蹴散らせ──。

 

 無論そんな無理難題を突きつけているわけではない。彼女はただ可愛いメイドのためを思って、わざわざ言い慣れない命令なんて言葉をかけた。そうでもしておかないと、忠誠心が限界を振り切っているこの少女は、予測不可能なある時点で軽率に命を危機に晒しかねない。

 

 咲夜はある種の狂人だ。とても本人に言えやしないが、そう前置いて姉はかつて憂えた。その時は言葉の真意を測りかねて、あんな常識人で優しい少女に何てことを言うんだと憤慨し抗議した。いずれ貴女にも分かる日が来る、そう言った姉の目は妙に生優しかったっけ。

 

 成程、彼女は正しかった。決して命を軽んじてはいないし、自殺願望に取り憑かれてもいない。ただ、主人の身の安全が自分の命よりも高い優先度を設けられている。だから言葉にして聞かせてやらなければならないのだ、お前の命を守れ、と。主命とあらば咲夜は遵守する、言い換えれば主命でもなければ比較的容易に死の選択に至る。

 

 忠誠という概念は、フランドールには理解し難いものである。そういうものがあると納得し、その存在を肯定的に捉えながらも、吸血鬼という強大な種族ゆえ理解にいたく難儀する。どうして咲夜は自分や姉のために力を尽くしてくれるのか、もしかして自分達は無自覚なエゴで彼女を縛りつけていないか。昔はそんな悩みを抱えてもいた。結論から言えば、咲夜は自らの意志で戒めを受けているのだが、従の心主知らずとは友人の言だ。

 

 背後に降り立つ音。追憶に耽る時間もくれないのか。無遠慮な男に呆れながらも気を切り替えた。

 

「貴女は、何者? とても強いけれど、思い当たる節が全くないわ」

 

「知る必要はない……と切って捨てても良いが」

 

 一気に2人の吸血鬼を発見できて、機嫌が良かったのが功を奏したのか。サンタナは自らの情報をあっさりと話し始めた。常人であれば1割も信じられず、壮大なスケールに唖然とするか、与太話だと笑い飛ばすかのどちらかだろう。

 

「我々は闇の種族。人間は『柱の男』とか呼ぶがな」

 

「そんな種がいるなんて、初耳だわ。あの子に教えてあげたら喜びそう」

 

「我々は2000年以上前に眠りにつき、そして目覚めた。その時点で残っていたのはおれを含めて4人、だがおれ以外の3人はとある波紋戦士に殺されたのだ。そいつこそがあの老いぼれ、ジョセフ・ジョースター!」

 

 健康で壮健なおじいちゃんというイメージの強いジョセフだが、若い頃は凄かったのか。そういえば砂漠での激突で、常軌を逸した奴が3人いるとか言っていた。最低でも現在のサンタナに匹敵する闇の種族とやらを3人撃破したのなら、それはもう人間業ではない。

 

 この世界の吸血鬼とは定義を別にするフランドールに、波紋とやらは通用するのか。聞くに太陽のエネルギーを模しているらしいので、恐らく問題なく波紋が伝わってあのゾンビのようにやられてしまうだろう。人間もとんでもない技術を生み出してくれたものである。

 

「たくさんいて、4人しか目覚められなかったの? それ、大分睡眠時間に問題があるんじゃあないかしら」

 

「闇の種族は、内紛でほぼ死に絶えた。まだ幼かったおれを残し、あの3人が皆殺しにしたのだ」

 

「つまり社会性に難ありの支配者層なのね」

 

 四捨五入すれば5世紀は生きたフランドールが名前を知らないくらいだから、そう数の多い種族ではない。内紛なんてしたら、存亡の危機に立たされることくらい想像できそうなものだが、男女一対でもいれば再建可能なくらいに繁殖力に長けているのか。それとも、そこに知恵の回らない直情的な輩共か。

 

 強くなる程、個体数は減少する。疑いようのない自然の摂理には、当然ながら理由がある。弱小は生存確率が低いので母数の増加が急務であり、強豪は特権を享受する限られた枠の獲得を求めて互いに争い殺し合う。ピラミッド型の階層構造は、かくして絶妙なバランスの上に維持されるのである。

 

「お喋りはこの辺りで良いな。人間はエネルギーが弱くて、一度に何人も喰わねばならん。いい加減嫌気が差していたところだ」

 

「案外少食なの?」

 

「きさまは不味い肉を延々と喰い続けられるか?」

 

「ちょっと納得したわ」

 

 確かに食べるなら、上質な肉が良い。グルメな一面を覗かせるサンタナには同意できる。吸血鬼としては、人間を食べるなとも言えないし。

 

 だが、それはそれとして彼は敵だ。捕食者として襲い来るなら、迎え撃たねばなるまい。自らにかけてきた魔法を消去して、翼を解放する。独り合点して暴走機関車と化した花京院を追って日本にやってきた時から、ずっと隠していた。久方ぶりの顕現に、意思ある生物のようにぶるりと震えた。

 

 背中から生えていることを除けば、それは翼とは言い難い形状をしていた。上部の骨格だけが取り残されたかのような、異様な様相を呈している。ほぼ等間隔に宝石のようにきらきらと輝く結晶がぶら下がっており、夜闇にシルエットを浮かび上がらせる。凡そ飛行という目的を果たせそうにない異形の翼は、何を意味するのか。

 

 フランドールと咲夜が元いた世界では、超常現象の具現化みたいな怪物が、割とその辺りを歩いていた。総エネルギー保有量において、フランドールをも凌駕する者も少ないとはいえ零ではない。最たる例が身近どころか身内にいるのだから、自分こそ最強だなんて驕り高ぶるなんて出来の悪い御伽噺のようなものである。

 

 だが、ある1点への特化に関して、彼女の右に出る者はいない。力の化身たる人外、論理的な創造と破壊を司る謎多き怪物、日本神話に名を残す戦神。その全てを異次元の彼方に置き去りにする。

 

「でもごめんなさい。もう時は夜、貴方も眠る時間よ」

 

 それは『破壊』。姉に比べて遥かに穏健な性格をしており、誰かと明確に敵対しているわけでもなく、寧ろ各地に友人を持つ彼女が、ともすれば姉よりも脅威であるとされる理由など、これだけで充分だ。

 

 物質的・概念的を問わず、あらゆる防壁を無視して対象を破壊する。対象が生命なら、何の捻りもなく命を奪う。ただ一つ受ける制約は、破壊対象の核の硬度のみ。神の領域に届くと謳われる、生殺与奪を司る規格外の能力。

 

「子守唄はお好きかしら。鎮魂歌(レクイエム)なんて、よく眠れるわよ」

 

「ほざけ。きさまは我が糧となる運命、余計な抵抗などするな」

 

「運命、ねぇ」

 

 遠慮はしなくてOK。思い切りやったって、誰も咎めやしない。こんな好条件での戦いは、一体何年ぶりだろうか。体を膨大なパワーが巡り、急速に整う戦闘準備に比例して、翼が煌きを増していく。

 

 先に動いたのは、サンタナだった。腕を引き、空を殴る。手応えなどないはずの拳は、確かな感触を捉えて撃ち出す。急激に捻じ曲げられた大気が苦しげな唸りを上げて、波がフランドールを飲み込まんと迫る。

 

 彼の流法(モード)は『振動』。昔は未習得だったが、こと攻撃範囲において、他の3人をも上回る。少なくとも現代に生きる軟弱な波紋使いくらい、簡単に全滅させられるだろう。

 

 何の意味も持たない想定だと、サンタナ自身理解していた。100人の波紋戦士を纏めて虐殺できたって、この美味そうな少女(フランドール・スカーレット)を殺せなければ無用の長物だ。

 

 彼女とDIOを喰らうことで、新たなステージに到達することができる。自分は今、長いトンネルの中を歩いている。身に莫大なエネルギーを宿すことで、きっと出口に辿り着けるはずだ。闇の種族は、或いは本能的にそう悟る。

 

「咲夜に披露していた振動攻撃ね。当たれば痛いでしょうけど、弾速は遅い。まるでS波だわ」

 

 挨拶代わりの1発は、軽々と回避されて掠りもしなかった。ただ餌となるだけの、そこらの吸血鬼とはレベルが違う。絶品にありつきたければ、相応の労力を支払え、ということか。不敵な笑みがサンタナの容貌に浮かんだ。



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第七十九話 DIO BRANDO その④

 ぱちん、と指を鳴らす。静かな読書空間は、広大過ぎるせいか音が響きそうにもない。指を弾くのは、従える使い魔を呼ぶ時に使う合図だ。書物の整理に勤しんでいた彼女は、合図から程なくして少女の元へとやってきた。

 

「はい、何でしょう」

 

「ちょっと話し相手になってほしいの」

 

「話し相手、ですか」

 

 にこにこと、愛想良く振る舞う赤髪の少女は、主人と反対に近い性格をしているといえよう。彼女から話しかけにいくことは日に何度もあっても、主人にかけてもらう言葉はほぼ全てがお茶汲みか本の片付け、もしくは指定された本を持ってくるかだ。それが仕事だとはいえ、少々寂しい思いをすることもある。

 

 だから主人の方から話をしようと持ちかけてくれたのは、驚きもあったがそれ以上に嬉しかった。無論そんなことを口にすれば、偏屈な彼女は機嫌を損ねるだろう。故に喜色をおくびにも出さない。カップの中身が空だったので、彼女の好きな薄めの味の紅茶を補充して、ついでに自分用のも注いで対面に腰掛ける。

 

「さっきの会話、聞いてたわね?」

 

「うっ……声を潜めてもないんですから、聞こえますよ」

 

「咎めてはないわ。貴女に隠す意味もないし」

 

 紅茶をちびちび飲みながら、ばっさりと切り出される。猫舌な癖に熱々の飲み物を求めてくるせいで、たまに熱過ぎると苦情が飛んできたりもする。同胞達が皆そこそこの待遇で派遣されていくのに比べたら、何とも理不尽な職場である。これで主人が可愛い女の子で、給金が破格の高額でなかったら、ストライキからの里帰り待ったなしである。

 

「貴女も本を読むでしょう」

 

「突然ですね。えぇ、貴女様の前でこう返事して良いのかはさておき」

 

「物語ってなに?」

 

 質問するの下手っぴか。突っ込みたい欲をぐっと抑えて、考え込むふりで凌ぐ。視線を落としてちょっとうーん、とか言っておけば、大体真剣に考えているんだなと思ってもらえることを、働く中で学んでいた。労働者は厳かなのである。

 

 恐らく『貴女の好きな』物語『の展開』ってなに? と聞きたいのだろう。今更物語の定義なんか説いたって、釈迦に説法みたいなものだ。全く、口下手な主人を持つと苦労する。心の中の自分に溜息を任せて、外面は愛想を保って答える。

 

「うーん、私はそんなに内容を選り好みしませんけど……起承転結がはっきりとしているか、そうでなくても惹かれる文章であれば、良い展開だと思います」

 

「そう、基本的に物語には起承転結がある」

 

 読みは正しかった。伊達にこの無口で投げやりなパープル・ガールに仕えてきていない。彼女の従者として労働に勤しむのは、さながらピース数の多い難解なパズルを常に解き続けているようなものだ。予想力も咄嗟の判断も、鍛えるに事欠かない。

 

 名言そうに聞こえて、その実当たり前のことを大仰に語る、全体的に紫に包まれた少女。ほんの一瞬、白い本に目が移ったのを見逃さなかった。先程からフランドールと咲夜以外の、かなり強力な気配を発し始めており、歯車が遂に大きく動き出したことを示唆している。

 

「では、起承転結のうち最も削るべきでないのは?」

 

「それは『結』かと」

 

「そうね。一流の文学作品だって、そこが欠けたら幼稚な児童書みたいなものよ」

 

 つまり、最後の幕引きがきちんと為されてこその物語であると。それを聞けば、もう唐突に始まったお話会の意図は分かったようなものだ。この少女は無頓着(ずぼら)に見えて、案外世間体というか、他人からどう見られているのかを気にするタイプである。

 

「あー……何となく言いたいことが分かりましたよ。要するに()()()()()()ですよね」

 

「……」

 

 すっ、と視線を横に逸らした。ささっと動いて覗き込んでやれば、反対に逸らし直した。表情はいつも通りのポーカーフェイスだが、紫色の瞳がせわしなく上下左右をランダムに向く。

 

 さっきの賢者と友人のやり取りを、魔法を使って遠隔から見ていた。門番は気がついていなかったか、もしかすれば敢えて見逃した可能性もあったが、とにかく干渉しなかった。彼女達の会談は10分と少々に過ぎなかったが、濃ゆいアクシデントの連発だった。

 

 フランドールと咲夜の処分について話が出た時は、さしもの2人も動揺した。だが、賢者が一瞬悪戯な笑みを浮かべたので、揶揄いに来ただけなのだろうと分かった。もう暫く待ってくれるらしいので、連れ戻すのは充分間に合うのが確定した。心の中で感謝して、次に魔法を覗き込んだら、とんでもない光景を目にすることとなった。

 

 まさか高潔なプライドが服を着て歩いているような彼女が、地に膝と額をつけて懇願するとは思わなかった。普段なら、例え仲睦まじい妹にもおいそれと頭は下げないのに、あの時の平伏には一切の躊躇いを感じなかった。まるでそうするのが正しい運命なのだと示したかのようだった。

 

 あんぐりと口を開けて、事態を見守る中で、少女はふと考えた。あの数分間、フランドールが帰ってきていた時に引き止めていたら、また違った未来になっていたかも知れない、と。そうでなくても物語の結末を重く見て真相を隠したのは、他でもない彼女である。……率直に言って、少女は自らの責任が小さくないことを悟った。

 

「堂々としていたら良いかと。黙っていればまず露見しないことですし、万一ばれたところで今の台詞を焼き増せば主張としては通るでしょう」

 

「……私が言うべきではないけれど、貴女結構ドライよね」

 

「悪魔ですから」

 

 珍しく話し相手に選んでもらったと思ったら、私そんなに悪くないわよね、だって重要な部分は削れないんだし、と押しつけがましく確認されたのだ。ちょっとくらい意趣返しをしたって許される。若干引かれたような目を向けられたが、少女の鬱憤はまだ晴れ切っていない。

 

「ま、実際そうするしかないのよね。私は賽の出目を操作できても振る前に時間を戻せはしない。振ってしまった以上、できることは限られてくる」

 

「出目を操作した結果が、ご友人の土下座ですか。何とも魔女らしいことで」

 

「……意地悪」

 

「悪魔ですから」

 

 言葉の隙を見つけ出して、ねちねちと攻撃する。良心の呵責から、主人は現在そこまで強く反撃できない。滅多にない攻勢のチャンスを、みすみす逃がすわけにはいかない。

 

 少女は、弄られるよりは弄る方が好みだ。しかし従者という立場上、誰かを揶揄う機会には恵まれない。言うなれば飢えた獣であり、目の前に肉が吊り下げられたら喜んで食いつく。その目敏さ、まさに悪魔の如し。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ゾンビは不死ではない。致死的なダメージを与えれば、人間と同様に殺害することができる。理性が希薄で身体能力が高く、複製を作り出せる人間と思えば対処は困難ではない。前提として、不気味な容貌に怖気付かない度胸と相応の腕前が要求されるが。

 

 理性に乏しいのだから、誰彼構わず襲いかかる。怯えて立てない子供でも、明らかに手を出すべきではない相手でも。彼らは如何なる動物よりも、本能に忠実なのだ。

 

「大丈夫?」

 

 咲夜がそのサラリーマン風の男を発見したのは、平時であってもそこまで人が通らないであろう、薄暗く不衛生な路地だった。アジア人らしいすっとした目鼻立ちに、清潔感のあるビジネススーツは、周囲に全く馴染んでいない。ゾンビに追われて、ここまで逃げてきていたのか。周辺に奴らもおらず、一時避難する場所としては正解であろう。

 

 咲夜の手から視線が離れない。かなり緊張しているようだ。無理もない、仕事のため海外にやってきてこんな事件に巻き込まれては、混乱するなという方に無理がある。

 

「ここは危ないから、遠くへ逃げて。西の出口から街を出て、車があるならそれに乗って」

 

 最も近い出口を教え、路地を去った。入口で待機していたイギーは、丁度近寄ってきたのを倒したところだった。砂にうずもれた朱殷色の肉塊が、僅かに姿を覗かせている。

 

 以降、纏まって行動していては効率が悪い。そう判断したジョセフは、チームを2つに分けた。直接の戦闘に長ける咲夜とポルナレフを軸に、残った各々を割り振る。

 

 承太郎の近くで、露払いに徹するのがポルナレフ・花京院・ジョセフ。危険な役目ではあるが、万一の時には承太郎へ助け舟を送れるということもあり、サポート能力に優れた2人が適任であった。

 

 そして街の外縁にいる人々をゾンビの侵攻から守りつつ、外へと避難させるチームは咲夜とイギー。単独でも彼女は数十を相手取るに足る戦力だが、イギーの『ザ・フール』は攻防に優れている。不測の事故を防ぐには充分だ。

 

「この辺りはある程度片付いたかしら」

 

(片付いたって言い方がコエーよ)

 

 消費したのは、肉体の持久力とは別に存在するエネルギーだ。多少は回復したが、全快にはもうしばらく時間を要する。これ程までに消費が激しいとは、予想していなかった。()()()時を止めるより、何倍も疲労が蓄積している。

 

 心臓の締めつけられるような痛みは、果たして彼女に隠し通せていただろうか。咳き込む度に吐息に混じった鮮血は、既に治まっている。どうやら咲夜の能力の限界を超えた使用方法であったらしく、体が内側から歪んでいく感覚さえ覚えた。

 

「イギー、行くわよ」

 

(次は向こうってわけか)

 

 次に時間再始動を試みたら、自らの肉体にどんな代償を要求されるか未知数である。命令も授かっているので、3回目は厳禁だ。体術とナイフ捌き、そして小さな相棒のスタンドだけを頼りにこの戦場で生き残るのが、現在の咲夜に課せられた任務であり、何に代えても遂行しなければならない。

 

 今いる場所からは、ゾンビの姿を確認できない。だが人々の悲鳴は途切れることなく聞こえてくる。早く向かわなければ、その分多くのゾンビが生み出される可能性が高まってしまう。薄情な物の見方なのかも知れないが、この状況下で敵が無用に増えていくのは避けたい。

 

 しかし、すぐさま駆けつけるわけにもいかない。眼前に現れた3人組が、無視できない武装を施していたからだ。いつでも仕掛けられるよう、全身に気を張り巡らせる。徒手空拳のプロフェッショナルたる同僚に教わった、最大限にまで瞬発力を跳ね上げる集中法で、眼光鋭く彼らを見据える。

 

 味方に収まる部隊、もしくはDIOの雇った傭兵。彼らは確実にどちらかに属している。見た限りではどちらとも判別しかねるが、少なくとも咲夜達を前にして敵意を発しはしない。

 

「うわ、これは相当……あーっと、ごめんなさい。貴女がザ・ワールドさんね?」

 

 敵ではないと証明するように、銃を足元に置いた。目配せされた他の隊員も、それに倣う。スタンドの気配は感じず、あの銃がブラフであるとは考え難い。

 

 3人の中でリーダー格と思しき女は、咲夜に話しかけながらも、周囲の様子に気を配ることを怠っていない。咲夜とそう変わらない、もしくは幾つか歳上という程度の若者だが、きちんと訓練を受けた手練の雰囲気を醸し出している。

 

「新手……ではなさそうだけど」

 

(あン? あの服とマーク……)

 

 イギーには、あの真っ黒な重装備と刻まれたアルファベットに見覚えがある。というか、野良犬として気ままに暮らしていた自分を拾った、厄介なあいつらじゃあないか。大方非常事態を察知して、メンバーを派遣してきたというわけだ。

 

 スタンドが使えるからって拉致まがいのことをされたのだから、イギーの心象が良くないのは致し方ない。だが、彼らの技術は世界でも最先端を行く。しかも世間には流布されていない裏事情にも詳しく、吸血鬼やゾンビといった存在についても把握しており、奴らに特化した武器も揃えている。味方になってくれるなら、かなり心強い。

 

(サクヤ。あいつらは味方だぜ……一応な)

 

「貴女達は、イギーの知り合いかしら」

 

「えぇ。()()()()()()()()

 

 はて、イギーは何処かの組織に所属していたっけか。思い返せば、彼は砂漠のど真ん中にヘリで輸送されてきた犬である。そのヘリが掲げていたロゴは、確か。

 

「西側の出口近くに、わたしたちの本拠地がある。簡単な設備しかないけど、体は休められるわ。見たところ結構疲れてるみたいだし、使っていいわよ」

 

 まだ聞きたいことはあったが、銃を拾い走っていってしまった。真面目に仕事をしている人間の背中に、呼び止める声をかけるのも躊躇われた。とにかく、彼女達は敵でなく味方だ。

 

(どうするんだ? おめーは休んでもバチ当たらねーと思うけどな)

 

「……休めとでも言いたげね。休憩したいなら貴方だけで行ってきなさい、私に立ち止まっている暇なんてない」

 

(おれは元気だよバカ野郎ッ!)

 

 気を遣って提案したのに、すげなく斬り伏せられてしまった。憤慨しつつ、3人が走り去っていったのとは別の方向に視線を移す。歪な走り方をする人型が、複数見えた。

 

 たん、と軽やかに地を蹴った音がイギーの耳に届く。瞬間、咲夜の体は数メートル前に躍り出ていた。人間とはこんなにも身軽に動ける種族だったか、数秒惚けてからはっと我に返る。

 

(置いてく気かあのクソアマーッ!?)

 

 どうせ着いてくるとでも思っているのか、はたまた休憩してくると早合点されたか。今程に人間と言葉が通じ合わないのを恨めしく思った一瞬はない。慌てて走り出すが、もう彼女の後ろ姿さえ何処かの建物の影に隠れてしまっていた。視覚ではもう捉え切れないので、嗅覚で追う他にない。

 

 何ともまぁ、独断専行を地で行く女だ。こんなのを従えるフランドールは、毎日苦労してたりしないのだろうか。尤も、このメイドが彼女を困らせる絵面は想像できない。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 細身のレイピアが閃き、ゾンビを容易く斬り伏せる。肉弾戦以外に手段を持たない彼らに比して、射程は長い。とはいえ少々のダメージでは怯まないので、攻撃を喰らわないよう素早く倒す必要がある。或いは、反撃されないよう背後から仕留めるかだ。

 

「数もそうだが、元人間ってのは斬りにく過ぎんなッ!」

 

「致し方ない。被害を拡大させないためにも、殺さねばならん」

 

「Oh no! 許してくれよカミサマ!」

 

 この辺りには、もう逃げ遅れた人はいない。果たして何割の人が逃げ切ったのか、少しでも多くの生存者がいるのを願うしかできない。1度ゾンビになってしまった人間を元に戻す方法は、見つかっていないのだ。

 

 ジョセフ達は全能の神ではない。襲われる全員を救えれば言うことなしだが、それは雲を掴むような話である。故に心を痛めながらも、元人間を倒していく。

 

 誰も彼もが、つい数時間前までは人間として生活していた。仕事終わりに、恋人と共に、様々な人が思い思いに夜の街へと繰り出して、人間としての尊厳を奪われていった。きっとデートの最中だったのだろう、爪にマニキュアまで施し、綺麗に着飾った女性が、悪鬼の如き容貌で突っ込んでくることもあった。波紋で溶けていく細い指先に、知らず歯噛みをした。

 

 この街の住人の人生を狂わせるのがDIOなら、終わらせるのは自分達である。初めに考えていたよりも、ずっと重くて辛い事実だった。彼らはDIOを撃破するために、自らを危険に晒す覚悟はできていた。だが、何の罪もない無辜の人々に手を下すことを、必要だからと簡単に割り切れる程強靭な精神を有してはいない。

 

 新たなゾンビが姿を現した。彼らの役目は、承太郎がたった1人だけに集中できる環境を作ることだ。気持ちを切り替えて、目の前の敵に臨む。異形化の影響なのか、舌の長さが常軌を逸している。捕まれば、吸血は避けられない。

 

「ん? 何だ、撃ってるヤツがいるッ!」

 

 真横から抑えられた銃声が聞こえた。頭を正確に撃ち抜き、対象を瞬く間に無力化していく。数体のゾンビが全員行動不能になるまで、僅か1分足らずの出来事だった。市民の決死の反撃というには、あまりにも冷静で手慣れている。

 

「ゾンビを制圧し人々を救え! 3人1チームの鉄則を崩すなよッ!」

 

()()、あなたが前線に出ていてはわれわれが不安で仕方ないのです。さしあたっては、安全な本拠地まで避難をば」

 

「何を言うか。わたしだってまだまだ現役だ!」

 

「御歳60幾つですかあなた……」

 

 いつの間にか近くに乗り付けていた、黒塗りの如何にも高級そうな車から降りてきたのは、市長と呼ばれた黒人の男性と、部下と思しき若い女だった。男は確実に年齢を重ねてはいるが、言葉の通りまだまだ壮健な体つきと精悍な表情を保っている。

 

 女の呆れたような顔には構わず、歳に似合わぬ若々しい活力で武装部隊へ指示を出す。すぐさま各地へ散っていった面々を見送り、それからジョセフ達の方へと向き直る。

 

「さて。花京院にポルナレフ、そしてジョセフ・ジョースター!」

 

「おっ、おい。何かおれたちの名前知ってるぞあのおっさん」

 

 援軍として現れた部隊が信頼できる味方だと、ジョセフは理解できた。見慣れたロゴがくっきりと自己主張しているので、見紛うことはない。強力な助っ人が来てくれたのは、喜ばしいことだ。

 

 だが、男には何となく既視感を覚える。以前何処かで会ったような懐かしさだった。加勢してくれた組織──SPW財団に付き合いの長い職員は数名いるが、そのうちの誰かだろうか。記憶を遡ってみるが、どうにも該当しそうな人物に思い当たらない。

 

「ん~~~~?」

 

「わたしのことは覚えているかい? ジョジョ。きみの元に駆けつけるのは、これで2回目かな」

 

 わたしが大学を卒業する時に会ったのが、最後だったな。厳格な容貌を崩し、穏やかに男は笑った。きっと覚えていないだろうな、そんな寂しげな感情が言葉の節々から透けて見えた。

 

 大学、ジョジョ、駆けつける。幾つかのワードが鍵となって、ジョセフの記憶を解放していく。『柱の男』の件が終結してから数年、当時目を覆いたくなる様相を呈していた黒人への差別を打開すべく、進んで茨の道へ歩んでいった猛者がいた。そいつは青年時代にアメリカで出会った男で、財布を盗られたところから始まるという珍妙なファーストコンタクトを経た。

 

 祖母の世話に勤しんでくれもした。そのお陰で、ジョセフはニューヨークを離れて『柱の男』達との決闘に集中することができた。奴らのうち最後の1人との決戦に際して、当時の科学戦闘隊と共に駆けつけてくれもした。彼自身が戦ったわけではないが、間違いなく戦友であり、そして祖母の恩人でもある。

 

「おまえッ! スモーキーか、ジョージア大学政治学部卒業のスモーキー・ブラウンか!?」

 

「ハハ、よく覚えてくれてて何よりだ」

 

 知己との再会は、この歳になると嬉しいものだ。スモーキー・ブラウンはそう言ってにこやかに笑った。隣に立つ秘書らしき女が、やれやれと言いたげな目で彼を見る。前線から下がるよう提案するのは、一先ず諦めたようだ。

 

「きみとは洒落たバーで一晩中語り合いたいところだが、この状況をどうにかするのが先決だ」

 

「SPW財団の連中を連れてるってことは……おまえ財団に入ったのか」

 

「あぁ。もっともつい最近の話だがね」

 

 SPW財団は、世界有数の総合的な研究機関だ。主に医療分野で世界をリードするが、もう1つにして裏の主軸が超自然現象部門である。設立に関わったのは、19世紀後半に起こったとある事件──DIOという吸血鬼を生み出してしまった最悪の不運。設立者の遺志を継ぎ、彼らはジョースターの一族を様々な形で支援する傍らで、吸血鬼にまつわる研究を進展させてきた。

 

 超自然現象部門の存在は、公にされることはない。市井に露出して良い情報ではない、財団はそうした立場を堅持している。故に同じ財団の中でも、他部門の職員は存在を知らないという、身内にまで徹底した統制が敷かれている。

 

「花京院、ポルナレフ。こいつはスモーキー、わしの古い友達で現職のニューヨーク市長だ」

 

「ぅえッ……市長サマか!」

 

「スモーキー・ブラウン氏……そうだ、テレビで見たことがありますね。まさか実際に会うとは」

 

 ともあれ、ニューヨーク市のトップとしてのスモーキーは著名な人物である。名前さえ聞けば、世情の動きに聡い花京院はすぐに顔と名前を一致させられる。そして、そんな権力者と『古い友達』らしいジョセフの繋がり(コネ)について、新たな疑問が浮かんでくるのである。

 

 実際のところ、ジョセフとSPW財団との間には密接な関係がある。超自然現象部門でも、例外ではない。彼がかつて撃破したサンタナの確保収容、世界各地に散らばる吸血鬼を生む仮面の収集など、この部門は特にジョースターの血統との関わりが強いのだ。

 

 考えてみれば、奇妙な話ではある。確かに財団の創設者はジョセフの祖父と親交が深く、今後もその一族を支援するよう言い残すのは、さして不自然ではない。だが、現実にその遺志が受け継がれているのは、奇跡と呼ぶべきだろう。既に財団の設立より1世紀が経過しようとしており、幾らカリスマ性の高い指導者がいたとしても、時の流れに希釈されて別の価値観が樹立されるのが普通である。

 

 それだけ『ジョジョ』は財団にとって魅力的なのだろう。互いに敬意を払い、協力を惜しまないからこそ、長きに渡り付き合える黄金のコンビが完成したのである。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「成程。DIOはきみの孫が、サンタナは彼女か」

 

 スモーキーの乗ってきた車で、秘書の女による運転のもと街を移動する。目的は彼に伝えた上で、承太郎とDIOから離れ過ぎない位置を巡り、ゾンビを発見し次第撃破している。より広い範囲を、移動にかかる体力を節約して守れるようになったのは有り難い。

 

 今は街の東側へと向かいながら、情報を共有している。承太郎とフランドール、それぞれの臨む勝負を聞き、スモーキーは難しい顔をして唸る。

 

「正直なところを聞いて良いかい、ジョジョ」

 

「どうした」

 

「フランドールなんだが、彼女は何者なんだ?」

 

 財団は直近3ヶ月以内に誕生した新生児を含め、戸籍を持つあらゆる人間を把握している。無論各国の憲法が定める人権規定に真っ向から反するレッドデータであり、その取得には明るみに出せない方法を使ってもいる。世界平和の維持のためには、こうした所謂汚い手も、ある程度は仕方あるまい。

 

 だが、その中にフランドール・スカーレットなんて人物はいない。出生も母国も、来歴の1つさえ秘密のベールに包まれている。分かっているのは彼女の名前が『フランドール・スカーレット』であり、見たところ10歳に満たない幼子の姿をしているということだけだ。

 

 本人談では、イギリス出身の20歳。だがロンドンの支部に問い合わせても、結果は未検出(エラー)。これが意味するのは3通り、即ちデータを改竄されているか、()()()()()()()()()か。

 

「あいつらは吸血鬼とその従者。戸籍なんぞなかろう」

 

「吸血……なんだって」

 

「おー、待て。平気じゃ、フランドールはわしらの仲間。わしらがよく知る吸血鬼とは、そもそもの土台が違うんじゃ」

 

 もしくは()()が人間でないか。人外が戸籍なんて持たないから、財団のリストから漏れているのに何の不思議もない。 寧ろ漏れるべくして漏れている危険因子は、それこそ財団が最も警戒すべき者達に他ならない。

 

 事情を知らなければ、困惑するのも無理はない。彼女が話してくれたことを、偽りなく話す。DIOとは異なるタイプの、より純粋な吸血鬼であること。従えるメイドはスタンドなどではなく、特殊な才能を有する人間であること。

 

「純正の吸血鬼……そんなものが」

 

「まぁわしもビビったが、柱の男が実際にいたことを考えれば有り得ない話でもない」

 

「そうか……そうだな」

 

 生物の限界を振り切った、ある種の神に直面した経験があるからこそ、納得も早い。財団とて人ならざるものの全てを解き明かしてはおらず、あの仮面が吸血鬼を『作り出す』ものならば、正当な吸血鬼は前提的に存在すると考える方が自然である。

 

 ジョセフが信頼を置き、サンタナとの勝負を任せているなら、スモーキーに意見を挟む気はない。どんな経緯で味方になったのか興味はあるが、今は深く問う時ではない。

 

「オーケー、納得した。しかしあれだな、きみが老人みたいな言葉遣いだと違和感があるな」

 

「年相応っちゅー言葉があるじゃろ」

 

「きみも歳を取るんだなぁ」

 

「当たり前だ」

 

 人でない存在が人間に味方するケースは、スモーキーの知る限りではこれまでなかった。しかもジョセフの言葉から、単なる協力関係に留まらない信頼が窺える。昔から分け隔てのない性格だったが、遂に吸血鬼まで引き込んだか。全く大した男だ、感心しながら錆びない軽口の応酬を交わす。

 

「そもスタンド自体が、いまいち解明の進んでいないものだ。それこそ吸血鬼などよりも、な」

 

「実体がないからの。わしなんか何度研究に協力したか」

 

「だが推測くらいは立てられる。例えばポルナレフ、きみのスタンド『シルバーチャリオッツ』は、騎士の姿をしているね。それは恐らく『護る』という精神の顕現……言わば意志の半実体化とでもなるのか」

 

 何故スタンドは発現するのか。そして、性質の差異は何を根拠にしているのか。スタンドに主眼を置いた調査も、超自然現象部門の担当である。中でもジョセフは、財団が最も早く確認できたスタンド使いの1人であり、現在保有するデータの重要な礎となった。

 

 心理テスト、会話分析などから導かれたジョセフの性格は、『狡猾』。正直もう少し言い方があっただろうと思わないでもない。立ち回りにおいては褒め言葉だが、財団は彼のことをイカサマ師かペテン師と認識しているのか。

 

「ぼくだと『目立ちたくない』気持ちの現れになるのでしょうか」

 

「サンプルが少ないから、保証はできないな。ただ、所有者の性格や信念にスタンドが寄る傾向はある」

 

 花京院は、人の前に立ち導いていく気質の人間ではない。やろうと思えばそうするだけの能力は備えているが、自分と同じ価値観にない人々をも導こうという、ある種寛容な宗教的思想は彼には適さない。

 

 同じ価値観とは、心から信頼し合えるか否か。上辺の気持ちだけが通じ合ったところで、それに何の意味があるのか。人間は信頼できる者と真に交流を深めるべきであり、だからこそ彼は承太郎達と共に旅を続けている。

 

「DIOは『支配願望』がスタンドとして露出しているのだろう。時さえ手中に収めたい、そう考えていてもおかしくはない」

 

「支配を崩すことができれば、精神的には大きなダメージになり得る……何か良い方法はないものか」

 

 承太郎が話していた作戦が、DIOを精神的に揺さぶるものであれば、或いはスタンドの出力を削げるだろう。万全の状態で繰り出される奴のスタンドは、脅威の一言に尽きる。

 

 人間が作り上げた思想形態の最たるものが、神話であろう。ありもしない登場人物を神と呼んで、大規模な戦いなどをさせて物の名前の由来とする。人類が考える能力を獲得して以降、ほぼ間違いなく最初の純粋な創作物であり、数多くの文明や文化の基礎をなしてきた。

 

 北欧神話に姿の見えるスクルドは、時間にまつわる神だ。人間は時間という不可視のものを仮想存在に仮託するという、突飛ともいえる程の想像力を有していたわけだが、それでもスクルドは時を止めはしない。フォルトゥーナは壺を持ち歩き続け、事戸渡しは現と虚を分け隔てたに過ぎない。ゲーテはそれを願うに留まり、シェイクスピアはそれと対極に立った。誰も時間を『止めよう』などとは思わなかったのだ。

 

 DIOの行く道は、DIOの軌跡によってしか創られない。あの男は今、前人未到の道を歩んでいる。止めなければならない、未来よりはまだしも希望の残されている今のうちに。



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第八十話 DIO BRANDO その⑤

 完璧な満月だ。漫然と見上げる空には、景色を妨げる叢雲の1つもない。守るべき門の横、赤煉瓦造りの壁にもたれかかりながら、特に意味もなく宇宙からの贈り物を眺める。

 

 少し前の彼女だったら、この景色を肴に1杯できたらと夢想していただろう。実際、澱みの限りなく少ない清浄な空気のお陰で、景色は抜群に美しい。だが、彼女の心を占めていたのは、吸い込まれそうな程に綺麗な原風景ではなかった。

 

 今まさに、館の中では一大作戦が実行されようとしている。既に行方を眩ませてから久しいフランドール、咲夜の所在が遂に明らかになった。これを受けて彼女の属する勢力は、持てる知識と人員を総動員して、2人をこちらの世界へ戻す手段を確立した。その手段が実行に移されるのが、今夜なのである。

 

 女は館の門を守る、門番とでも言うべき役を担う。主人からは、事が済むまで誰も中に入れないよう仰せつかった。彼女は彼女の任務を全うするだけだ。

 

 直接には奪還作戦に関わらないのに、女の心臓は平時より僅かに早鐘を打っていた。それが緊張によるものだと分からない程、愚鈍ではない。失敗する可能性など万に一つもないだろうが、大きなイベントを控えた知性ある生物は、どうしたってプレッシャーに晒される。

 

 大きく息を吐き、鼓動を落ち着ける。万一にも侵入を試みる者がやってきたならば、絶対に退けなければならない。緊張があったせいで負けました、なんて口が裂けても言えないのだ。ましてや現在、万一は額面以上に起こり得る。

 

 当主が精神的に弱っている。そんな噂が、あちこちでまことしやかに囁かれている。根も葉もない流言かというとそうではなく、身内の失踪は彼女の精神を大きく揺さぶった。人間とは異なり、精神の状態に依存する存在。だからこそ、討ち取るならばこれ以上はないくらいに絶好の機会なのだ。現に噂を門番が知ってから3度、思い上がった愚か者が無謀な殴り込みをかけてきた。

 

「邪悪な気配なし、っと」

 

 同職の仲間がいないからか、どうにも独り言が多くなっていけない。水筒の蓋を開けて、乾いた口に冷えた液体を流し込む。喉を通っていく冷たさに、少し冷静さを取り戻せた気がした。

 

 ふわり、と目の前に少女が降り立つ。銀髪を短めに切り揃えた、如何にも真面目そうな少女だ。背丈は小柄で、門番の肩くらいまでしかない。一見髪色以外は人目を引かないようだが、腰に佩く二振りの刀が異様な存在感を放っている。本人曰く妖刀、だったか。

 

「こんばんは。聞きましたよ、あの2人の行方が判明したそうじゃないですか。良かったです」

 

「ありがとう……だけど、誰から聞いたの?」

 

「主人が言っておりました」

 

 彼女の主人は、専ら自らの世界に篭っているイメージがある。いつもふわふわとしていて、外界の情報には疎そうなのだが、何らかの入手ルートでも持っているのかも知れない。もしくは、さっき門をすっ飛ばして来ていた賢者様から聞いたかのどちらかである。確かあの2人は、友人同士だったはずだ。

 

「ちなみに、どちらへ行かれてたんです? ■■■中探し回っても見つからなかったのに、もしかして外界とかですか」

 

「いや……まぁ貴女になら言っていいかな。でも他言無用でお願いね」

 

「分かりました」

 

 真面目そうな見た目通り、口は固いので大丈夫だろう。自由上等の連中が多いこの世界で、珍しいとまで言える『まとも』な感性の持ち主だ。下手ににこやかな奴らより信用できるし、他にそう思っている連中も結構いるようで、実は各勢力の秘密をかなり知っていたりもするらしい。

 

「本の中だって」

 

「……本の中?」

 

「うん。物語に組み込まれて、攻略するまで出られないって言ってたわ。迷路に迷い込んじゃった感じ、なのかな」

 

 館の地下には、当主の友人が個人的な書斎を有している。書斎と言って良い規模のものではないと思うが、大図書館は通称で外部に公開もされていない以上、定義上は書斎になる。

 

 蔵書の量と種類たるや、本のタイトルを眺めているだけで1日過ごせる程だ。魔術関連の本、小難しい哲学書、歴史史料、果ては少女趣味な漫画まで、多種多様な書物が揃えられている。漫画については、お館様たってのご希望があったとか。

 

「大図書館の書物ですか。恐ろしい本もあるものですね」

 

「でも、あんな本を見た覚えはないって言ってたなぁ。外部から持ち込まれた可能性の方が高いって」

 

「あそこの本の数は相当ですし、把握し切れていないとかではないんですか?」

 

「有り得なくはないけど、どうなんだろ」

 

 全ページが異なる魔術的保護をなされていて、読み進めるのにも一苦労だとか彼女は言っていた。自分の本に、自分でも解くのに難儀する防御を設けるだろうか。他人の手に渡った時を考慮しても、もし門番が魔法使いだったら、そんな面倒なことはしない。

 

 まだまだあの白い本については、謎が多い。だが、解析を成し遂げた彼女なら、きっと多くの情報を手に入れているだろう。門番にわざわざ調査結果を聞かせる理由もないし、彼女に語られた話の内容は全体の一部分だとみるのが妥当である。

 

「そうだ。何か用ありで来たんだと思うんだけど、生憎今夜は立ち入り禁止。申し訳ないけど日を改めてもらいたいのよ」

 

「あぁ。確かに用のある身ですが、強いて誰にと言うなら貴女宛ですよ」

 

 ひょいと地面に腰を下ろす。背の高さも相まって、1人だけ立っていては、思い切り見下しているみたいになってしまう。釣られて座った門番に、意外な人物の名を口にする。

 

「フランドール・スカーレットさんについて色々とお聞きしたく」

 

「妹様? 貴女になら構わないけれど、どうして?」

 

「お2人が失踪する直前に、咲夜さんと話す機会がありまして。その時にフランドールさんの話をしてくれたんですけど、それはそれは楽しそうに喋るんです。どうせお2人が戻ってきたら宴会になるんですし、私もちょっと縁を持たせてもらいたいなぁ、と」

 

 要するに興味を持ったので、仲良くなりたいというわけだ。彼女自身、人懐っこく誰からも好かれる気質の少女なので、同系統のフランドールに惹かれたのかも知れない。

 

「良いじゃない。妹様もきっと喜ぶわ」

 

「知らない人がいきなり話しかけても大丈夫な方ですかね。お姉さんは違う意味で危なかった記憶がありますけど」

 

「お嬢様から気難しさと付き合いにくさと威圧感を抜いたら、妹様になるわよ」

 

「それはもう別人というか、対極では?」

 

 訝しむ言葉を投げかけられたが、否定できる材料はない。従者として、主の面子を立てたいのは山々なのだが、不妄語戒は社会の鉄則である。門番にできたのは、せめて曖昧に微笑みそっと話を元に戻すことだけだった。

 

「妹様は、穏やかで陽気な方よ。毒気がなくて、私達従者にも良くしてくださるわ」

 

「ほうほう、普通に喋れそうですね」

 

「それでいてスカーレットの誇りはお持ちだから、いざという時はお嬢様と二枚看板を張れるの。……お嬢様が圧倒的なカリスマ性で他者を突き動かすなら、妹様は万民に支持される名君かしら」

 

 真反対のタイプだが、それでも2人ともが頂点に君臨する『王』の素質を有している。姉は強き頃のナポレオンを連想させる、魔女はかつてそう言った。破竹の勢いで勝ち進み、欧州の覇権を握ったあのカリスマ性と天運が、呼吸をしているだけでずっと続いているようなものだと。

 

 比してフランドールのようなタイプの王は、あまり史実にいない。彼女はそうも言っていた。門番もそれに同意できる。下々の者共と同じ目線に立とうとした王は数少ないながらも存在するが、ほぼ全ての場合においてそれは叶わず、否応なく思い知らされるのだ。

 

 ──王は孤独だ、と。

 

 だがごく稀に、それでも挫折しないで身近な人々と立場を同じくする王が現れる。にこにこと笑いながら良き友人を増やしていき、臣下と喜怒哀楽を共にする。まるで庶民のような、優しい王様。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。常に波乱の中心であり続けるScarletは、絶対的な権力と光り輝く個の魅力によってのみ栄華を得られるのだから。当時求められていたのは、赤さえ飲み込み喰らい尽くす、暴力的なまでに鮮やかな紅であった。

 

「話を聞く感じでは、姉妹喧嘩とかしなさそうですね。咲夜さんや貴女以外であの人と仲良くやれるのは、稀有な才能というか」

 

「それが意外とそうでもないのよね。いや、仲は頗る良いんだけど」

 

「あら。やっぱりちょっとくらいは喧嘩するものなんですかね、姉妹って」

 

 ちょっとというよりは、結構な頻度でしている。ある日にはおやつのメニューを賭けて。またある日には、面倒な会議への要らない出席枠を賭けて。様々な動機のもとに、2人は主に取っ組み合いの喧嘩をしてきた。

 

 大抵の場合頃合いを測って止めに入るのは、咲夜か門番の仕事だ。戯れとはいえ吸血鬼同士の喧嘩だと、他のメイドや召使い達では満足に止められないことも多い。たまに流れ弾ならぬ流れ手足が体に当たって、ちょっぴり痛い思いをしているのは、きっと咲夜も同感してくれるところだ。

 

「理由は大したことないし、お2人とも全然本気じゃないけどね。微笑ましい程度に収まってる、収めてるというべきか」

 

「当然のことですね。いやしかし、とても仲良くなれそうな気配がしてますよ」

 

「それは良かった」

 

 少女は確か兄弟姉妹はいなかったはず。気質で言えば、姉よりは寧ろ妹寄りだ。フランドールに興味を持つのは、ある種自然な流れでもあった。

 

 門番としても、健全な付き合いが増えるなら諸手を挙げて歓迎できる。彼女とてもう分別のつかない子供ではなく、交友関係は自身で構築して然るべきだが、未だについつい気を回してしまうのは昔の癖が残っているからか。

 

 片や得意とするのは西洋の魔法、片やお家芸は剣術という東洋娘。互いに殆ど知識のない領域であり、それだけに話は和気藹々のまま弾んでいくだろう。何せ2人とも、知らないことへ進んで食指を伸ばせる好奇心の持ち主である。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 強い。あらゆる個人的な感情を排して評するならば、DIOが発するスタンドのエネルギーは──そして彼自身の纏う雰囲気は、いずれも圧倒的な力を感じさせる。これまでに出会ったスタンド使いとは、一線を画するパワーだ。近接戦闘タイプのスタンド、例えば『アヌビス神』と生身でやり合ったとしても、DIOは優位に戦いを進めるだろう。

 

 吸血鬼という種族の性能を、承太郎は詳しく知らない。超人的な身体能力、幾つかの技能と弱点。知っていることなんて、それくらいだ。少なくともスタンド抜きの徒手空拳で咲夜と渡り合う以上、本体の方にも相当の注意を払う必要がある。

 

「きさまが空条 承太郎……我が大敵、ジョナサン・ジョースターの血筋を引く男か。中々の体をしているようだが、やつよりはややスマートか?」

 

「ご先祖様の筋肉事情なんぞ、おれの知ったことじゃあねーな」

 

「ラグビーをやっていた時のやつは、まるで重戦車だったなァ。どうだ承太郎、少しわたしと昔語りでもするか?」

 

「てめーの葬式についてなら、喜んで話に乗ってやるぜ」

 

 無駄話をする気もない。承太郎にも、DIOにも。獣も恐れ怯む闘気を漲らせながら、不敵に相対する。爆発寸前の手榴弾のような、膨れ上がった緊張を冷ややかな笑みが斬り裂く。

 

「フン。どうしてジョースターの血統はこうも血気盛んなのか」

 

 顕現。ザ・ワールド。最強にして最悪のスタンド、それでいて避けて通れない試練。母の命のために、そして100年続く因縁を断ち切るために。

 

 対抗するように、『スタープラチナ』を繰り出す。これから戦う相手に不躾な視線を向けて、それから斬って捨てるように一笑に付した。DIOの纏う覇気が、一段と力強さを増す。

 

 ──最後の戦いの幕が、今ここに上がった。

 

「承太郎! きさまとジョセフはこの『ザ・ワールド』で殺すと宣言しておこうッ!」

 

「ならおれもここに誓っておくぜ。てめーはこの空条 承太郎が直々にブチのめす」

 

「キャンキャンと威勢は良いが、実力はどうかな?」

 

 先に仕掛けたのは、DIO。近接戦闘型としては破格の射程を有する『ザ・ワールド』は、容易に承太郎へと肉薄する。そして始まったのは、力と速さに物を言わせる純粋な肉弾戦だった。

 

 突き、躱し、殴り、蹴る。その全てが、常人の目では捉えられないハイスピードで展開される。高まっていくエネルギーが黄金のオーラとなり、両者の肉体を宙に浮かばせていく。あっという間に数十の打ち合いを繰り広げた2人、優位を獲得するのはどちらか。

 

 正拳突きを逸らして、カウンターを顔に叩き込む。承太郎の顔から、勢い良く血が噴き出した。最初の一撃については、『ザ・ワールド』に女神が微笑んだ。

 

「ン~……弱い、弱いぞ承太郎。その程度のパワーとスピードで、一体何処の誰を直々にブチのめすと言った?」

 

 パワーもスピードも、『ザ・ワールド』が上回っている。予想通り、承太郎と雖も自らと並ぶには至らない。この調子だと、警戒すべきは他にフランドールと咲夜くらいだ。そのフランドールとて、今相対している怪物に喰われる可能性がある。どちらにせよ、敗れる未来は見えていない。

 

 強烈な一打を喰らいながらも、表情を歪めない。DIOから目を逸らさないまま、鼻から流れる血を拭う。たった1発のパンチでは、戦意を削ぎ落とせるわけもない。

 

 大きく吠えた。そのまま猛然と襲いかかる。まさしくギアの1つ上がったというべき猛攻に、さしものDIOも防勢を強いられる。顔面狙いの拳を躱し切れず、頬に一筋の傷が走った。

 

「ヌゥ……」

 

「100年寝てたせいで耳が遠くなってるらしいな。もう1回だけ言ってやる、『空条 承太郎』がきさま『DIO』をブチのめす」

 

「そうかそうか。よく分かったぞ、承太郎」

 

 戦闘のさなかでも、成長して敵を超えていく。これこそが、DIOがジョースターの血統を恐れる最たる理由だ。気合いだとか根性だとか、そういった精神論的な根拠なき支柱を一切信用していなくとも、1度でも対峙すれば嫌でも分かる。確実にこの戦いで消しておくべき将来的な天敵だ、と。

 

(パワー)勝負はこんなもので良いだろう。『スタープラチナ』のパワーとスピードはよく分かった!」

 

 故に、加減などしない。様子見に時間を費やせば、その分だけ承太郎に成長する機会を与えてしまう。悪の暴帝に慈悲も情けも不要だと、とうの昔に学んでいる。

 

『ザ・ワールド』にエネルギーを集中させる。嫌な気配を察してか、妨害に入ろうとするが、それよりも発動の方が早い。口元を邪悪に歪めて、敢えて悠々と呪文にも似た文言を唱える。

 

「『ザ・ワールド』! 止まれ時よッ!」

 

 時計の針が、不気味な音を立てて進む。否、それは進んでいるのだろうか。軋み、歪な叫び声のようでもあるそれは、時をどの方向へ動かしているのか。

 

 答えはDIOにも分からない。彼のスタンドは時を止め、静止した世界の理に縛られない自由な翼を使用者に授けるから。相対性理論に基づいた極限の加速ではなく、ただ時を止める。子供が列車の玩具を手で掴むように、自分以外の全てに動くことを許さない。

 

「思えば100年前、この力があればジョジョに敗れることはなかった。我が覇道にジョースターなどという鬱陶しいハエが纏わりついてくることもなかったものを」

 

 過去の忌まわしい記憶が姿をちらつかせる。苦々しく吐き捨てるが、それで冷静さを失う程に小さな器ではない。形容のし難い、赤とも紫ともつかない瞳が、承太郎へと向き直る。

 

「まぁ良い。静止時間は残り3秒、きさまの余命でもある。といっても聞こえてないんじゃあ意味がない、そうだろう承太郎ッ!」

 

 最も確実で、絶対に反撃を受けないと保証された攻撃手段を、卑怯だとか姑息だとか息巻いて使わないのは、DIOに言わせれば馬鹿げた考えだ。そんな殊勝で悠長な心がけが、次の瞬間にも終わり得る殺し合いで活かせるわけがない。勝利するためにあらゆる手を尽くす鋼鉄のメンタルこそ、DIOを悪のカリスマに引き上げたものの1つである。

 

 ……強過ぎる思い込みは、瞬間的な反応を鈍らせる。撃ち出した拳が横から砕かれるまで、まさに目の前で起こっている異変に気がつけなかった。DIOに慢心などなく、事実如何なるスタンド使いであっても例外なく殺害できる。『スタープラチナ』が()()()スタンドだったなんて、未来予知でもできない限りは知りようがない。

 

KUAA(クアァ)……!」

 

「そんなにでけー声で独り言呟かなくても聞こえてるぜ」

 

 思わず手を抑え、たたらを踏むDIOを、威圧的に見下ろす。同時、制限時間の到来により時が動き出す。粉微塵になった小指と薬指は、既に半ば程度再生していた。

 

「馬鹿な、何故きさまが止まった時の中で動ける」

 

 承太郎は答えない。いや、答えられないと言う方が正しいのかも知れない。自分が止まった時の中で動けると気がついたのは、咲夜とDIOの一連の攻防のさなかだった。それらしい理由なんて思いつかず、唐突に承太郎は静止した世界を認識した。そして思った──『おれはこの空間でも動ける』と。

 

「何と厄介な男よ、承太郎。やはり今ここで確実に息の根を止めるべきらしいッ!」

 

 スタンドは、操る者の発想力と精神的成長に比例して強大になっていく。その過程でできることが増えていき、スタンドとして完成されていくものだ。では承太郎は、土壇場でスタンドを発展させたのか。無論それもあろうが、ここで話を終わらせてしまうと、大きな問題が1つ残される。

 

 承太郎は何故時間の流れを認識するに至ったのか。スタンドの限界を超えたくば、できると思わなければならない。そして思考するには、どうしたって時間経過が必要ではないか。

 

「さて……おまえは()()()()()()()()。1秒、いや2秒と少々が妥当なところか」

 

 対抗する手段こそ発見できたが、かといって時止めを破ったわけではない。起き抜けに全力で走ったかの如く、かなりの疲労を覚えていた。思えば咲夜もそうだった。本来あるべき形を外れる行為には、多大な労力を要するらしい。

 

 しかし、真に恐ろしいのはDIOの観察力だろう。手を粉砕された直後とは思えない、冷静で正確な態度を崩すのは、困難を極めるといっても差し支えない。痛覚で判断能力を鈍らせるのは、あまり現実的ではなさそうだ。

 

 奴の言う通り、『ザ・ワールド』に抗える時間は2秒。承太郎が制限時間の4割を共有できるからといって、状況は僅かに好転したに過ぎない。未だ圧倒的な有利をDIOが握っており、承太郎は劣勢を跳ね除けるためのパーツを1つ手にしただけだ。

 

 ここから更に幾つかのパーツを集めて、それを適切な順番と方法で組み合わせ、使ってようやく勝ちの目が見えてくるといったところか。空条 承太郎の17年の人生は、決して順風満帆なものではなかったが、これ以上の苦労をした記憶はない。そして将来に同等の苦しみを味わう可能性も、零に等しいだろう。

 

 ──やれやれだ。自覚できるくらいに重い溜息が、口をついた。



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第八十一話 DIO BRANDO その⑥

 準備も整ったことだし、当主を呼んできましょうか。気をきかせた使い魔に、まだ必要ないと伝える。図書館司書には、最後にやっておきたいことがあった。

 

 長机の端に置いてある水晶をとん、と指で叩く。淡い紫色に光り染まったそれは、司書とは違う声をこの場に繋ぐ。

 

「……あー、まだ起きてたのね」

 

【用があったから繋いできたんでしょ。聞いたげるから話しなさい、まだあと2時間くらいなら起きてられるから】

 

 不純物を一切含まない鈴のような、それでいて甘ったるくはない綺麗な声。優しい音の波長が、ざわつく心の波をゆっくりと鎮めてくれる。まるで魔法みたいだ、皮肉げに笑った。

 

「妹様と咲夜を呼び戻すための術式が完成したわ」

 

【できたのね。流石は大魔法使い様】

 

 揶揄うような軽い調子だが、嫌味な気配はしない。怒らせなければ穏当な魔法使いだ、夜更けに繋いだラインが彼女の気分を害していなくて良かった。内心軽い安堵を覚えながら、話を進めていく。

 

【それで、珍しく私に連絡してくると思ったら、まさか手伝えなんて言わないでしょうね】

 

「えぇ。わざわざ来てもらうのも悪いしね」

 

 手伝ってほしい、そんな気持ちも確かにある。本から人間1人と吸血鬼1人を掻っ攫う魔法は、簡単に扱える初心者用のものではない。寧ろ彼女のように、豊富な知識と才能を有していても困難を伴う、極めて高度な魔法である。

 

 だが、編まれた術式は編んだ者に行使されなければならない。少女はそんな持論を胸に抱えている。所謂プライドと呼ばれるそれは、彼女を彼女たらしめるのに大きな役割を果たしている。

 

 きっと水晶の向こう側にいる金髪碧眼の魔法使いも、同様の矜恃を持っているだろう。魔法とは、俗な例えをするなら門外不出の調味料みたいなもので、本来他者に見せるのはその相手を潰す時だけだ。ある魔術の式はある人間にしか生み出せず、言うなれば自身の捧げてきた艱難辛苦の集大成である。

 

「聞きたいことがあるのよ」

 

【ふぅん。知識の魔女に諭せることなんて、私にあるのかしら】

 

「聞こうと思った候補は3人。中でも貴女が1番私の望む答えをくれると思ってね。ま、心理テストとでも思ってちょうだい」

 

 心理テストなんか、明日でも良いじゃあないか。もう少しいつも通りの口調で言われていたら、にべもなく通信を切って就寝準備を始めていた。最近研究で忙しくて、纏まった睡眠時間を取れていなかったのもある。

 

 しかし彼女の言葉からは、何やら真剣味を感じる。ちょっとした研究サンプルの確保とか、とにかく些細な目的で連絡を繋げてきたわけではないらしい。それなら聞いてあげても良い、何といっても2人は切磋琢磨するライバルにして、時折お茶を楽しむ程度には良好な関係を築いているのだから。

 

【性格診断かぁ。久しぶりにやるわね】

 

「経験済みなのね」

 

【向こうにいた時に、暇だからって付き合わされたわ】

 

 この世界の連中は、基本的に自分の性格くらい自分で把握している、というタイプだと思う。最たる例が身近にいるので、説得力は高い。故に定型的な質問で性格を推測されるのを、寧ろ厭う者も多いのではないか。

 

 彼女は『気にしない』部類だ。好みも遠ざけもしない。必要に駆られたらやるかも知れない、そんな最も淡々としたスタンスに立っている。魔女の予想は、概ね正しかった。

 

「それじゃ聞くわよ。……貴女、血縁上の兄弟姉妹はいなかったと記憶しているけど」

 

【そうね、寂しい一人っ子ですわ】

 

「じゃあ妹がいると仮定してね。その妹が何ヶ月も家に帰ってこない。連絡もつかず、目撃情報の1つもない。姉として、貴女はどう考えるかしら」

 

 随分と風変わりな診断を投げかけてきたものだ。トロッコ問題よろしく妙に具体的だし、何百何千もの回答の選択肢が用意されている。現状彼女の意図を推し量る材料は足りないので、一先ず思った通りを嘘偽りなく答える。

 

【不安になる。それで、もっと探す範囲を広げるでしょう】

 

「ふむ。……その妹が、あるとき貴女の友人の元に帰ってきたとしましょうか。妹はすぐにでも姉である貴女に会いたがった、でも友人はそれを良しとしなかった。『為すべきことが残っている』と言って」

 

 あぁ、成程。そこまで聞けば、眠気でやや鈍っている頭でも、彼女の真意を理解できる。つまるところ少女は『不安を覚えている』のだ。彼女は『友人』で、『姉妹』は吸血鬼両人。心理テストとは言ったけれども、題材は架空のストーリーではない。

 

 話を纏めるに、原理は全く不明だが、どうもフランドールは1()()()()()()()()()らしい。そして姉に会おうとしたが、魔女はそれを時期尚早として留めた。その結果、フランドールは書物の中へと戻り、物語を完結させるため再び動き始めた──というのが、筋書きとしては妥当か。

 

「姉として、どう感じる?」

 

 どう好意的な色眼鏡をかけたって、あの姉なら怒りも露わに彼女へ掴みかかる。殺すかどうかは怪しいが、立ち上がれない程に叩き潰すくらいは賭けても良い。それから関係を修復不可能なまでに断絶するまでが、一連の流れとなる。

 

 あれは妹を護るためなら手段を選ばないし、害されたなら過剰なまでの報復を加える。陽気で破天荒で無茶を周りに押し付けて、それでもいざという時には頼れる名君だが、ことフランドールのことになると途端に不安定になる。彼女の言葉を借りるならば、『姉妹愛』を脅かす者へかけられる情けも躊躇もない。

 

【……『為すべきこと』があると】

 

「うん」

 

【それが正しい選択だと真摯に信じていたなら、責められないわ。隠すことなく打ち明けてくれたなら、きっとその友人を許すでしょう】

 

 そう、黙ったままなら少女は下手をすれば命を落とすだろう。だが、あの当主は自らの『身内』に全幅の信頼を置いている。包み隠さず理由と共に事情を話し、臆せず向き合えば、決して話の分からない暴君ではない。

 

 少女とて、それは理解しているはずだ。それでも連絡を寄越してきたのは、踏ん切りがつかないからだろう。早く謝れ、傷が浅くて済むぞと発破をかけるのは簡単だが、彼女の気持ちを思えば軽率な追い立ては躊躇われる。戯れを排した吸血鬼の王と真正面から相対するのは、精神的に相当持っていかれる。

 

「興味深い回答だわ」

 

【参考にはなったかしら】

 

「えぇ。とても」

 

 少女がこれから1日をかけて歩む道のりは、易しく捉えても茨の道となる。友人として、せめて彼女のメンタルが掻き乱されないのを願おう。きっと大丈夫、下手に誤魔化したりしなければ苦言くらいで済ませてくれる。あの小さな夜の支配者は、あれでも器が大きいのだし。

 

 微かに息を吐く音が聞こえる。体の力が抜けたのだろう、緊張が解れたならまぁ良かった。何事にも動じない凍れる知識人も、親友の怒りを買うのは御免蒙るようだ。

 

 人ならざる超人の、人間らしい一面を垣間見たので、これを協力の対価としよう。今度会った時に、タイミングを見計らってつついてやれば、さぞかし愛い反応を返してくれるだろう。……いや、今度と限定しなくても良いか。

 

【ねぇ。色々言いたいことがあるんだけど、集約するから言って良い?】

 

「どうぞ」

 

【難儀な性格してるわね。ほんとに】

 

 呆れを多分に含んだ苦笑が、綺麗な声に乗って届く。反駁しようとした時には、通信が切られていた。これ以上は付き合わないぞ、という意思表示か。仕方ない、彼女との会話で覚悟を決められたのだし、文句を言うべきではない。

 

 背後に気配を感じて振り返れば、図書の整理をしていたはずの使い魔がにやにやと下卑た笑みを浮かべている。あらあらまぁまぁ、なんて声が聞こえてきたのは、本当に幻聴だったのだろうか。口は動いていなかったけれど、やたらと器用なこいつなら腹話術紛いのこともやりかねない。

 

「……なに?」

 

「いえいえ。大魔道士様も心の平穏を求められるのだなぁ、としばし感慨に」

 

「そう」

 

 さっきから調子に乗り過ぎだ。戒めの意味を込めて、軽く拳骨を落とす。きゃー、なんて楽しそうな声をあげたので、もう1発強烈なのを見舞ってやろうかとも思ったが、フィジカル勝負に訴えても勝算は薄い。何せこちとら平凡な人間と変わらないのに、向こうは悪魔。当然の権利の如く、常人を上回る身体能力を有している。

 

 もし殴りかかっても、抵抗はしないだろう。冷淡な主人が珍しくじゃれついてきた、くらいの認識しかされないに違いない。こめかみを抑えて、気を落ち着けながら指示を出す。今宵はこれからが本番だというのに、疲れるわけにはいかない。

 

「門番に伝えてきて。もしあの子が来たら──」

 

「了解しました。うふふ」

 

 書斎のドアを開けて、傍らに立つ。花が咲いたような満面の笑みは、まるで出かけるのを見送るメイドのようだ。『お嬢様の所へ行くんですよね』──言外のメッセージがひしひしと司書を圧する。

 

 事が全て済んだら、きついお仕置きをしなければ。上下関係というものを、この不埒者に思い出させねばならない。復讐を心に誓い、ドアを抜けた。さりげなく寄越したひと睨みは、分かってはいたが無駄に帰した。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 停止した時間に順応した──俄かには信じ難いが、これ以外に考えられる可能性はない。かの凶悪な能力は、小手先の小細工では絶対に突破できないのだから。

 

 時を止めて戦うのは、寧ろ悪手である。完全に適応されたが最後、真の意味で承太郎は天敵となる。並ぶ者のない圧倒的な支配を望むDIOにとって、例え殺せるとしても、例え数分の命であったとしても、そんな存在を認めることはできない。

 

『ザ・ワールド』の最も強大な能力をおいそれと使えなくなった。戦況を覆しかねないディスアドバンテージだが、焦るには及ばない。人間1人を殺害する手段など、他に幾らでもあるのだから。

 

「フン……」

 

 鼠を前にした獅子のように、歩を乱すことなく悠然と迫り来る。一体何を考えているのか。意図が読めず、さしもの承太郎も困惑の色を表面に出す。

 

「承太郎、おまえはこう思っているな。『こいつ、スタンドより前に出て何を企んでいるんだ?』『生身で勝負を仕掛けてくるつもりなのか?』……と」

 

 承太郎との距離が縮まる。互いに手を伸ばせば触れ合える距離にまで迫り、さながら拳銃を抜くのを待つガンマンの如き緊迫感が極限まで圧縮されていく。

 

D()I()O()()『スタープラチナ』とやり合うつもりなのか。スタンドを差し置いて自ら前線に出るなど、本来特級の自殺行為である。DIOは仕掛けてきている、精神的な揺さぶりを。何もしなければ吸血鬼のパワーで承太郎を殺せるし、先手を打たれても対処できるといわんばかりの余裕を醸し出している。

 

 普通なら緊張と恐怖に呑み込まれて足が竦むだろう。すぐさま次なる選択をできたのは、承太郎の度胸あってこそだ。この距離まで詰められた時点で、掌の上と分かっていても先制する他になく、強いて言うならばおいそれと接近を許してしまったのは、彼の判断ミスといえるかも知れない。

 

『スタープラチナ』が殴りかかった。プロのボクサーが放つストレートは、時速40~50kmであると検証されたが、スタンドの一撃が人間の範疇に収まるはずもない。まさしく目にも留まらない速度の拳が、DIOを撃ち抜かんと迫る。

 

「蛮勇とは愚かなものだ。彼我の戦力差も見極められないなど愚の骨頂。そうは思わないか? 承太郎ッ!」

 

 両手で挟み込むようにして、腕を止められる。それが承太郎には、不思議な止め方に思えた。武術の知識なんて多いわけじゃあないけれど、少なくともパンチを打たれた時の効率的な防御ではない。

 

 DIOは確実にこの戦いで彼、そしてジョセフを殺し、歯向かい得る者をゼロにするつもりだ。故に侮りはなく、本気で命を奪いに襲いかかってくる。そんな戦いのさなかで、手を抜き遊ぶ様子を見せるような『遊び心』は持っていないはずだ。奴が望むのは誰の目にも明らかな、絶対的な圧勝であり、手加減など勝利という珠につく傷でしかない。

 

()()()、と体が震えた。このまま第二波を仕掛けるのは不味い、背筋を貫いた危機に瀕した動物のような直感。腕を引き、DIOとの距離を広げた承太郎は、腕に違和感を覚えた。

 

 感じたのは、痛みとも痒みともつかない重たさだった。ずっと正座をしていて、30分後くらいに解いて立ち上がった時に足を襲う痺れが、そのまま手にやってきたような感覚だった。血の通っていない底冷えのする感覚に、腕へ視線を移す。

 

「なッ……!」

 

 思わず目を疑った。街のネオンに照らされて、承太郎の右腕は結晶のように輝いていた。光に彩られて鮮やかに、そしてグロテスクに。

 

 気化冷凍法。水分を一気に気化させて、相手の体温を奪い凍らせる技であり、かつての戦いにおいても波紋封じの手段として用いられた。

 

 肉体の凍結は、直ちに人命に多大な影響をもたらしはしない。無論凍結の規模にもよるが、火傷などと比較するとダメージは軽いようにも思える。だが、身体の一部が芯まで凍りついてしまえば、その部位はもはや氷の塊となる。それは人の骨肉よりも、遥かに容易に砕かれてしまう。

 

 スタンドは体温という概念に乏しい。故に凍ったのは、指先から手首の少し先までに留まった。だが、近くに腕を炙って溶かせるような火もない。どちらにしろ、右腕を封じたことに変わりない。

 

「さて、どうする承太郎。使い物にならない右腕を放って戦うか……」

 

 スタンドがDIOの隣に並ぶ。痛くはない、ただ不可視の力で圧迫されているかのようだ。全身から汗が噴き出すのを感じる。この凍傷を放置していれば、そう時間もかからず右腕は壊死した肉塊と化すだろう。齢17にして隻腕義手とは、全く穏やかでない。

 

「それとも……尻尾を巻いて逃げてみるか? すぐに追いついても面白くない、5秒程度なら待ってやらんこともないぞ」

 

 前門の虎、後門の狼。そんな言葉が頭を過ぎる。両腕が健在だった時でさえ、パワーとスピードで僅かに劣っていたのに、今攻めるなど以ての外である。かといって逃げても事態は一切好転しない。都合良く御伽噺のようなヒーローが助けに来てくれるわけはなく、街から出る前に承太郎の命は尽き果てるだろう。死因が凍傷の進行なのか、はたまた失血死になるかの違いでしかない。

 

 思考を纏めるのに、さして時間はかけなかった。今一度気を強く引き締めて、狼と対峙することを選んだ承太郎は、DIOを視界に入れることなく一目散に駆け出した。追撃されれば迎え撃つのも難しいから、端から攻撃されないよう逃走に集中している──そんなところか。端正な容貌、その口元が邪悪な弧を描いた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 砂の剣が爛れた肉を斬り裂く。顔から地面に崩れ落ちる成れの果てを見下ろし、スタンド『ザ・フール』を一旦解除する。連戦につぐ連戦で、さしものイギーも疲労が蓄積しつつあった。

 

 今倒したのが、辺りを彷徨っていた最後のゾンビらしい。他に奴らの気配は感じない。伝家の宝刀たる嗅覚は、あまりにも四方八方からゾンビの匂いが流れてくるせいで、まともに機能してくれない。なまじ嗅覚が優れているせいで、はっきり言って鼻が曲がりそうだ。

 

「次の場所に行くわよ」

 

(……)

 

 イギーと彼の相方が討伐したゾンビの数は、2桁後半に突入しただろう。競うものでもないが、どちらが多く仕留めたかと聞かれたら、相方である。つまるところ、より疲れているのは彼女の方であって然るべきなのだ。

 

 だというのに、咲夜は汗のひとつもかいていない。足元に何体もの屍を転がしながら、傷もなければ服装が乱れてもいない。まるでたった今身支度を整えて自室から出てきたかのような、瀟洒たる落ち着きをずっと維持している。

 

 咲夜は何のために戦っているのだろう。彼女と行動を共にするようになってから、疑問に思っていた。フランドールもそうだが、DIOと戦わなければいけない強い理由に欠けているように思えてならない。否、これまでの戦いだって彼女達に何の責任もないものばかりだった。ゲブ神だってバステト神だって、敵対したから戦ったのであって、元来『彼女達が倒すべき相手』ではない。

 

 確たる理由はある──イギーの予想では。だがその内容まで推し量ることはできない。そうするには、些か付き合いが浅い。たったひとつ分かることといえば、もし理由があるとするならば、フランドールに起因するものである。

 

 咲夜自身には、スタンド使いとの因縁に関わる動機はない。普段の主従を見ていれば、当然に辿り着く仮定だ。十六夜 咲夜という少女の行動理由──もっと言えば存在理由は、全てがフランドール・スカーレットという『点』に収束する。

 

 咲夜は意思を持つに至った道具である。時折、そう考える他にない行動を起こすことがある。『アヌビス神』に致命的な重傷を負わされて、それでも()()()()()()()()()()完治を待つことなく戦線に復帰するのだから、見上げた従者根性だ。

 

(やっぱり人間って訳わかんねーな)

 

 承太郎やジョセフらとの関係は、決して険悪ではない。寧ろ正体を知られてからも共闘が続いている辺り、強い信頼関係を結んでいるといえるだろう。

 

 だからこそ不思議に思うのだ、どうやってフランドールに全幅の忠義を誓っているのか、と。上限量が100の感情という器があって、その中の100をある相手に捧げていたら、残りはゼロでしかないのに。

 

「イギー?」

 

(……やれやれだぜ)

 

 謎は深まれども、今思考を巡らせることではない。全てが片付いてから、ゆっくりと考えれば良い。歩き出したイギー達の背後で、噴火の如き爆炎が天へと昇っていく。まるで天上世界にさえ届きうる神の火のように、桁違いのスケールをもって暗黒の空が焼き尽くされていく。

 

 あちらは決着が近いのかも知れない。暫し咲夜と並んで、空に目を奪われる。蹂躙するように燃やし、焦がしながらも、燃え移るもののない空はやがて紅蓮から漆黒へと戻っていった。



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第八十二話 DIO BRANDO その⑦

 今宵だけは、たとえ神が徒党をなして侵攻してきたって退けなければならない。つい先程伝え預かった1人の特例と、明らかに用事があって門を経由しなかった1人を除き、門前に立つ者は侵入者と同義である。

 

「……どうして私は酒盛りに興じているんでしょうかね」

 

「私が誘ったから」

 

 誰も来ないからといって、暇な時間を過ごしているわけではない。少なくとも知人と蜂蜜酒を飲んで駄弁を交わしている暇などない。無論理由あっての接待だと頭では理解しているが、表情が普段の快活さなど影も見えない苦々しいものであるのは当然だろう。

 

「こんな筋書きはどう? 貴女は優しい美人から酒を貰って、楽しく飲み交わし始めた」

 

「そんな説明しようものなら、私の首が吹き飛びますよ。2つの意味で」

 

「じゃあもしばれたら、どう言うの?」

 

「怖い怖い女の子に無理矢理引き込まれて、抵抗できませんでした……ですかね」

 

 不気味にご機嫌な──不気味なのはいつものことではあるが、そんな少女を見やる。楽しそうにグラスを満たし、結構なペースで空にしていく目の前の少女が、その気になれば細い木の枝を手折るように自分を殺せる。

 

 持って生まれた才覚の差というものだ。何処から見ても隙しかない、脱力した寛ぎ姿を露わにしているのは、その隙を活かせる手練などいないと分かっているから。……何故こうも面倒な手合いが今日に限ってやってきてしまったのか、巡り合わせの悪さに文句のひとつでも言いたい気分だ。

 

「こんな美人が誘ってるんだから喜びなさいよ。酌までしてあげてるのに」

 

「美人というか美少女でしょ。見た目的に」

 

「何よ、ちょっと良い体してるからって……腹立たしい女ね。私はまだこれから育つの、自然系妖怪の伸び代舐めんじゃないわよ」

 

「もしかしてもう酔ってます?」

 

 ぷんすか怒りながら、本日何杯目かの甘い液体を喉に流し込む。恐らく自家製であろう蜂蜜酒はそこまで強くなく、事実門番はまだ酔いの気配すら感じていないのだが、少女は案外下戸寄りなのかも知れない。となれば、適当に煽てて酔い潰れるように仕向けるのが最良か。

 

 ……いや、幾ら何でも量が足りない。残りを全て彼女に飲ませても、潰れるところまでは行かないだろう。つまるところ、少女の舵取りは依然として門番の責務である。露骨に目が細まったのを自覚できた。

 

「どうせばれやしないわよ。今忙しいんでしょ?」

 

「ばれなければ良いってものでもないと思いますがね」

 

「気を張り続けて何になるのかしら。緊張した弦は容易に切れると、幼子でも分かるのに」

 

 焦って何になる。痛い所を突く問いに、返す言葉に詰まった。残念ながらそこに関しては彼女の言う通りで、門番が泰然として構えていようと焦燥に駆られていようと、一切の助けにも妨げにもならない。ならば堂々と構えて待っていろ、と言外に諭されても、反駁のしようがないのだ。

 

 だからって飲酒が許されると考える程に、門番の頭の螺は緩んでいない。暖を取りたいからって、そこらの家に火をつけて良いはずがないのと変わらない。じっとりとした視線を気にすることもなく、緑髪の少女はふと右後ろを振り返るように首を捻った。

 

 もしかしたら来るかも知れない。その程度の確実度だが、そんな前置き付きの来訪者予定は無駄にならなかった。紅と緑の奇妙なプチ酒宴に、向けられた関心はそう大きくない。周囲で揺れる2体の人形が、そっと彼女達に会釈をした。

 

「珍しい……って程でもない組み合わせね」

 

「あら。貴女も飲む?」

 

「悪いけど先約があるの。あと門番係は飲んでて良いの?」

 

「飲まなきゃいけないんです。機嫌を損ねた強者に、館を破壊されたくはないので」

 

 実際、この少女はやると言ったらやる。もし誘いを頑なに突っぱねていたら、館の何割かは今頃瓦礫の山と化している。折角完成した帰還の魔術も、征服者(conqueror)を撃退するために一旦の中断を余儀なくされていただろう。

 

 然して殴り込みをかけてきたわけではなく、目的は門番と酒込みで語らうこと。それが必要なことであり、門番がそこまで完全に理解できるという信頼の元に、この奇妙な酒盛りは成立している。

 

 幾ら自由な花愛好家とはいえ、全くの気まぐれで今宵の館を訪れることはないだろう。目的あってのことだ、ではその目的とは。今のところ門番の苦心が順調に蓄積されている以外、功も罪も見受けられないが、そろそろ話してくれたって良いのではないか。

 

 尤も、聞いたところで納得のできる答えが返ってくる確率は低い。投げた石が寸分違わず手元に返ってくるようなもので、ないと思うのが賢明である。引き摺ることなく諦めて、重厚な鋼鉄の門を引く。並の人間ならば一寸も動かせない重量の鉄塊は、門番の厚くも女性的な丸みを覗かせる腕に引かれ、ゆっくりと開いていく。

 

「用があると聞いています。どうぞお通りください」

 

「ん、ありがと」

 

 優雅に一礼をして、館内に消えていく。その所作は、人形よりも人形めいていると専らの噂になる少女には似つかわしくない、ごく自然なものだった。

 

 同じ魔法使いとして、今回限定で手を組むことも有り得る。どうか彼女達の力になってくれるよう、心で願う。そして自分は自分の役割を果たさなければ。

 

「またこれ見よがしな溜息ですね」

 

「最近あの子、素っ気ないのよねぇ。誘っても遊びに来ないし、冷たくなっちゃって」

 

「単に忙しいだけでは? この前貴女の話をしましたけど、別に嫌そうでもなかったですよ」

 

 確か2人は、出身地が似通っているだかでの知り合いだったか。詳しく聞いたことはないが、かなり昔からの交流があるらしい。互いに人付き合いに遠慮するタイプではなく、おしどり夫婦の如く常にべったりくっついてはいない。不即不離の関係は、寧ろ彼女達にとって最も心地良いものだろうに。

 

 ぐい、と瓶を傾ける。グラスの半分を満たすより早く、注ぎ口から流れる液体は勢いを衰えさせ、やがてぽた、ぽたと雫を落とすのみとなった。

 

「あ、なくなった」

 

「やっとですか。蜂蜜酒ばっかりで口の中がハニートーストみたいです」

 

「幸せじゃない」

 

「素直に甘ったるいって言った方が良いです?」

 

 酒の切れ目が宴の切れ目。酔いより遥かに強い胸焼けを堪えながら、ここまで甘味の暴力に耐えてきた自分をこっそり褒めちぎる。後は向こうから『そろそろ帰るわね』の一言が出るのを待つだけだ。穏便に、それでいて自然な形でお帰り願うとしよう。

 

「じゃあここからはガールズトークの時間ね」

 

「……」

 

「あらあら。何とも嫌そうな顔だこと」

 

 靴でも地面でも舐めるから、閻魔を呼びたい。恐らく初めて、心の底からそう思った。何だって今からこのほろ酔い気分な怪物と少女チックに話さなければいけないのか。上位者は上位者同士ということで、境界の賢者辺りとでも語らえば良いものを。

 

 こちらの事情など歯牙にもかけない閻魔様の御説教が、今だけは恋しい。この自由過ぎる少女に嵌められる、ほぼ唯一の首輪だろう。何度だって主張するが、ここに咲かせる話の種はない。

 

「私、あのお子様吸血鬼と真っ当に友達してる数少ない聖人の1人じゃない?」

 

「お嬢様に些細なストレスをちくちくと与え続けていく、意地の悪い花好きなら知ってますよ」

 

「そこで思うわけよ。妹さんとも仲良くなりたいなって」

 

 少女と館の主は、半ば意外ながら友人付き合いをしている。半ばというのは、『両者の性格の噛み合わなさ』という枷、そして『共に頂点に君臨する傑物』という共通点故である。階層構造の原則に漏れず、強さに比例──或いは反比例していく理解者の総数を思えば、彼女らの交流は不思議という程でもない。

 

 吸血鬼の王は、分厚いオブラートに包むなら真意を悟らせない物言いを好む。そんな彼女が花の少女を指して言うには、『何故あいつと戦争になっていないのかが不思議で仕方ない』。多分これは飾らない本音なのだろう、曖昧な笑みを返した覚えがある。

 

「気は合うか知りませんけど、噛み合うとは思いますよ。明るい常識人と冷静なおふざけ少女ですし」

 

「まぁ、酷いこと言うわ。私のことどう思ってるのか聞いてみたいくらいね」

 

「つい数秒前に言いましたが?」

 

 少女は、性格上フランドールの対極に位置しているといっても過言ではない。普段は凪いだ湖面のような落ち着きを見せ、如何にも頼れそうな雰囲気を醸し出しているのに、その実顔色ひとつ変えずに相手を揶揄う。相手が偉大なるスカーレットデビルであろうと片腕有角の仙人であろうとお構いなし、蓄積された性向(ハビトゥス)はその程度では押し負けない。

 

 アルコールを入れ過ぎて火がついたのか、あれやこれやと語り出す。やれメイドとも仲良くしたい、やれ御館様と2人旅をしてみたい。これまで幾多の来訪者を迎えてきた経験から予想するなら、これは当分止まらないだろう。真に楽しそうに語りかけてくる者を話途中で制止するのは、幾ら何でも躊躇われる。

 

 そっと息を吐く。嗚呼、夜は長い。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 倒すべき敵に背を向けて逃げている。承太郎は、恥じたりはしない。逃げることも時には必要だと理解しているから。

 

 静かな市街地を、息を僅かに切らしながら走る。片方の腕は半ば凍りつき、少しの衝撃で粉々に砕け散るだろう。例えば角を曲がる時に、不注意で壁に手が当たっただけでも、指が欠ける危険がある。転んだりしようものなら、仮にDIOに打ち勝っても翌日からは義手頼りの生活の始まりだ。

 

 承太郎が為すべきことは、現状2つ。逆転の一手の発動と、腕の解凍。そのどちらにも当てがあるからこそ、今全力である場所へと向かっている。

 

 小さな石造りの橋を渡ったその先に、目的の物が見える。DIOは彼と付かず離れずの距離を保っている。出方を窺っているらしい、手を出してこないのは好都合だ。

 

 最速で袋の一部を引きちぎる。中身が容易に露出するようになった大袋を、DIOに投げつける。最初の袋は平然と叩き落とされ、中に入っている粉が周囲に舞う。

 

 一瞥もくれず、承太郎へ向けて踏み出す。だが、『スタープラチナ』はなおも袋を投げる。DIOの足元に着弾した袋から、大量の粉が漏れ出て瞬く間に彼を包み込む。人間であれば咳き込んでしまう程の粉塵量に晒されて、顔を顰めもしないのは吸血鬼の身体的ポテンシャル故か。

 

「フン……目眩しのつもりか? 粉を撒いてこのDIOから逃れようなど、クロカンブッシュみたく甘ったるい作戦が──」

 

 その油断が欲しかった。言葉が繋がるより早く、ズボンのポケットから取り出したライターを投擲する。そして即座に身を翻し、一段低くなっていた川沿いの道に伏せる。

 

「ッ……」

 

 刹那、響き渡る爆音。承太郎の想像していた以上の、それこそ相手がDIOでなければ使うのを躊躇う破壊力に、数秒は耳が遠くなったような感覚を覚えた。

 

 すぐ近くを流れる川に、凍った右腕を突っ込む。聴力はもうほぼ完全に戻った。本当はもっと急速に解凍したいが、生憎手段がない。それに水に浸すだけでも、氷の解けていく速度はそれなりに上昇する。流れのある川なら、尚更だ。

 

「上手くいったみてーだな……」

 

 粉塵爆発の原理が充分に解明されたのは、そう遠くない過去のこと。高校で頬杖をつきながら聞いていた授業のことを思い出したのは、DIOが突如現れたサンタナに気を取られた僅かな時間の中だった。

 

 あの場所へ行くまでに、この道を通った。向かいの店の商品だったのだろう、小麦粉の袋が無造作に置いてあったのを思い返し、承太郎は即興の策を練った。

 

 100年のブランクを持つDIOが粉塵爆発を知っており、なおかつ舞う小麦粉を見てそのワードに思い至る可能性は低い。承太郎はそこに賭けた。幾ら吸血鬼の身体能力とか再生能力とかが人智を超えていたとしても、熱と衝撃の渦中に巻き込まれて即座に回復とはいかないはずだ。

 

『スタープラチナ』の打撃でDIOの頬を切った後、その傷が塞がるまでおよそ2秒だった。傷跡の大きさと時間が必ずしも比例するわけではないにせよ、大きな火傷の痕は、完治させるのに数秒では済まないはずだ。

 

 問題は、今の爆発がDIOにどれだけのダメージを与えられたか、である。元よりあれで決着をつけるつもりもないが、すぐさま再生できてしまう程度の火傷しか負っていないとなると、承太郎も以降の戦い方を再考せざるを得ない。せめて暫くまともに動けないくらいの手傷とはなっていてほしいものだ。

 

 煙が晴れていき、中の様子が肉眼で見えるようになってくる。DIOの姿は見えない。まさか粉々に吹き飛んだわけもなく、何処かへ身を隠したようだ。道沿いに店が立ち並んでおり、隠れる場所には事欠かない。

 

「つまり効いてるってわけか」

 

 仮にもう完全に再生できていたなら、奴は煙幕の中から堂々と歩いて出てくる。承太郎の経験則からして、あの手の輩は、少なくとも余裕がある間は闇討ちの類は採らない。そうしなかった、そう()()()()()()ということは、一時的に隠れる必要のあるダメージを受けた何よりの証拠だ。

 

 川から腕を引き抜き、状態を確認。まだ底冷えのする感覚は残っているが、戦う分には問題なさそうだ。DIOが再び動けるようになる前に、畳み掛けなければ。

 

 

 

 

 

「ヌゥア……!」

 

 超人的な耐久性と再生力を有するDIO。それでも先程の爆発は、彼の肉体と感覚に大きなダメージを与えた。

 

 極度に大きな音は、平衡感覚を阻害する。吸血鬼と雖も、耳で聞き脳で処理をする以上、耳を劈き脳を揺らす爆音をノーダメージでやり過ごせはしない。

 

 加えて、熱と衝撃をまともに喰らった肉体の損傷も酷い。指は幾本かが消失、あるいは大きく欠損しており、体の至る所から白みがかった筋肉がグロテスクに覗いている。

 

 ただ燃えただけなら、回復にそう時間は要しない。焼けた皮膚を新しいものに取り替えるだけの話だ。しかし、こうも深手を負うと、再生にかかる時間は決して短くない。最低限戦闘を続行できるようになるまででも、数分はかかるだろう。

 

 この隙を承太郎が見逃すはずもない。彼は今、建物の影に隠れたDIOを探している。足音が近くまで迫ってきている。ある程度の()()()は付けているはずだ。負傷した体で遠くまでは逃げられない、と。

 

 DIOは、自らの悪運に縋る他に何もできなかった。無論頭では現状取れる対策を必死に考えていた。そんなものがないと、片隅で理解していながらも、生への本能的な執着が彼に諦めることを許さなかった。

 

 細胞を繰り出して、不用意にやってきた承太郎を乗っ取る。彼がそもそも不用意に姿を現すわけがない。体液を高圧で発射する。駄目だ、起点となる目が火傷から回復しきっていない。『ザ・ワールド』での時間稼ぎ。万一このタイミングで完全に適応されてしまったら、寧ろ殺してくれと相手に言っているようなものだ。

 

 

 

 

 

「怪我の具合はどうだ?」

 

 冷水を頭からかぶったかのような、ぞくりとした寒気が全身を襲う。声は頭上から発せられた。咄嗟に見上げた建物の屋根の上に、紺衣の死神は酷く冷めた表情で立っていた。

 

「てめーの場合、すぐに回復するんだろうが」

 

 ようやく出血が止まりつつある。そんな段階で『スタープラチナ』とは戦えない。頼みの綱の『ザ・ワールド』も、精神の不安定さに煽られて最大火力を出せはしない。精々が攻撃を防ぐので限界である。

 

 たん、と軽いステップで承太郎が跳んだ。一瞬の判断でスタンドを繰り出して、落下の勢いを加味した一撃を辛うじて受け止める。左腕に複雑な亀裂が走り、粉砕される。あげた苦悶の声に、彼の眉根は微動だにしなかった。

 

「そんな時間はくれてやらねーぜッ!」

 

 裂帛の気合いを込めた雄叫びと共に、ラッシュがDIOの全身を容赦なく打ち据える。技巧を感じさせはしない、だがそれ故にパワフルに乱れ咲く連撃が、吸血鬼の再生速度を上回る。

 

 久しく忘れていた恐怖が、DIOの脳裏に蘇った。自らを殺すべく、全力を尽くす者がいる。それが恐ろしいことだと、今更ながら思い出した。

 

 いつの間にか、ラッシュは止んでいた。そこで初めて、自分が吹き飛ばされて仰向けに横たわっているのに気がついた。僅かに反響する足音、死神は真にDIOを殺すことを厭わない。もはやまともに動かない体で、脳だけは妙に冴え渡って。

 

 

 

 

 

 あぁ、

 

 

 

 

 

()()()()()()。口元が歪な円を描いた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 柱の男は、地球における旧支配者である。人類が社会を発展させ、生物史上類を見ない栄華を誇っていられるのは、ひとえに彼らが『絶滅』したからだ。

 

 銃火器で彼らを殺すのは不可能である。機関銃の雨に晒されても平気で戦闘を続行できる怪物に、有効な兵器があるとすればそれこそ核くらいのものだろうか。その核でさえ、確実に柱の男を滅することができるという保証はない。

 

 仮に数人の柱の男が存命であり、人類に対して宣戦布告をしたならば、人類のできる選択は2つ。隷属か絶滅のいずれかを受け入れなければならない。もしくは何処か遠い星へ逃げれば、それが第3の選択肢となる可能性はある。諸々の生存条件を全て満たす地球以外の星が、人間の宇宙航行範囲内にあればの話だが。

 

 

 

 

 

 ……激しい衝突音を響かせながら、拳と拳がぶつかり合う。片や大柄な男の無骨な手、片や儚く白い細指の手。互いに全力で打ち合ったなら、勝敗は火を見るよりも明らかだろう。

 

 何度目かも分からない激突の果てに、男はたたらを踏みよろめいた。目の前で涼やかに自分を見下す小さな悪魔へ、憎悪を込めた眼光を飛ばす。流石に街中を飛び回ったせいか、髪型こそ乱れてはいるものの、少女の呼吸は未だ正確なリズムを刻み続けていた。

 

「貴様ッ……! 調子に乗るなよ蝙蝠風情がッ!」

 

「威勢の良いこと。あとは実力が伴えば、立派な強者の完成ですわ」

 

 フランドールの力の総和を、サンタナは勘違いしていた。優劣の次元ですらない。全く問題にならなかったのだ。

 

 確かに柱の男達は、人間など及びもつかない知的・身体的スペックを有している。そしてその関係は、吸血鬼との間でも変わらない。闇の種族にとって、彼らは容易に生産できる効率の良いエネルギー源でしかない。

 

 故に気がつくことができなかったのだろうか。フランドールはただ少し強い吸血鬼ではないことに。闇の種族がよく知る吸血鬼と、かの少女を同一視するべきではないことに。

 

 柱の男は特殊な仮面を用いて吸血鬼を生み出す。その時素体になるのは、生きた人間だ。たとえ死にゆく老人であっても、肌は潤いを取り戻し、筋肉は増強され隆起する。そうして高いカロリーを保有するに至った元人間を、餌として喰らう。

 

 そう、吸血鬼とは人為的に生み出されたものである。元から吸血鬼として存在しているわけではない。その名称とて呼びやすいように闇の種族が付けたものだ。それがサンタナの知る世界の常識であり続けた。これからもそうあり続けるはずだった。

 

 突然現れたイレギュラーが、全てを破壊してしまった。彼の目論見も、変わるはずのなかった道理も。怒りに震える腕を、荒ぶる感情に任せて思い切り引く。

 

 打ち出した腕が空気を打ち据えて、唸らせる。波が海岸に近づく程に大きくなるように、サンタナの操る振動もまた末広がりに破壊範囲を広げていく。『振動』──サンタナの習得した流法(モード)は、攻撃範囲であれば他の柱の男を上回っている。

 

「力はあっても、貴方には芸がない。1つのパターンを読み切ったら、後は同じことの繰り返し」

 

 血管を自在に伸縮させ、相手に送り込んだ血液を沸騰させる者がいた。両腕を高速回転させ、竜巻を生み出す者がいた。鉄をも斬り裂く刃を、四肢から繰り出す者がいた。……誰もが非常に多様な能力を駆使して、若かりし頃のジョセフを追い詰めた。

 

 50年前に起こったことを、フランドールは知らない。だが、サンタナはほぼ確実に3人いたという仲間より数段劣るのだと思う。そうでなければ、今よりも若さとエネルギーに満ち溢れていたジョセフは、大した苦労もなく柱の男達を葬っただろう。

 

「それじゃあ面白くないわ」

 

 この勝負の目的は、承太郎に要らない邪魔が入るのを避けることにある。あとは餌呼ばわりされたフランドールの個人的な鬱憤晴らしも含むのだが、そうした戦いが必ずしも面白くある必要はない。

 

 だが、折角数ヶ月ぶりに本気を解放したのだから、もう少し楽しみたいとも思ってしまう。無論ここは市街地で、被害を最小限に留める必要はあるけれど。

 

 サンタナの撃つ振動を飛んで躱す。一瞬で市内のほぼ全ての建物を見下ろす高さにまで飛翔し、まるでそれが当然かのように空中で姿勢を変える。振り返った視線の先、肉を突き破った肋骨が檻のようにフランドールへと迫る。

 

「うわ。何かあれね、蜘蛛みたい」

 

 意思を持つかのように、肋骨はフランドールを挟んで潰さんとする。痛くないのか、不思議に思いながら両の腕で受け止める。中々の力具合だ、これでマッサージでもしてもらったらさぞかし凝りが解れることだろう。今のところ、解す凝りはないけど。

 

「ヌゥ……!?」

 

「お生憎様。貴方よりずっと強い力でハグしようとしてくる奴が、私の家族にいるのよね」

 

 右手の近くにあった適当な1本を掴んで、さらに上へ放り投げる。どうやら飛ぶことはできず、単純な跳躍力で追い縋ってきたに過ぎないらしい。つまり1度投げてしまえば、空中で自身の軌道を修正する術を持たない。何とまぁ、無謀な真似をする奴だ。

 

 上昇速度が落ちていったのは、投擲してから数秒後。憤怒の形相で上から睨みつけてくる表情には、何処となく見覚えがあった。いつだったか、元いた世界での宴会の中で、食べ頃の肉を横から攫われた友人があんな顔をしていた。

 

 要するにサンタナの怒りなど、その程度のものなのだ。真に殺意を抱けば、それは実力の差など関係なく相手を圧する。たとえ取るに足らない鼠でも、明確な殺意をもって突っ込んでくれば恐怖を感じる。

 

 きっと、そうする必要に駆られなかったのだろう。古来より上位存在として振る舞ってきて、適当なポーズを見せるだけで人間が勝手に畏怖してくれたのだから。錆びついたか、あるいは元より情動を有していないなら、少なくともサンタナは動く肉の入れ物である。

 

究極生命体(アルティミット・シイング)、ねぇ」

 

 戦いの中でサンタナが語った、究極の生物。黄金比を体現して美しく、地球上のあらゆる生物の特徴を兼ね備え、しかも質でそれらを上回る。そして極めつけに、太陽をも克服して、日中に堂々と活動できるという。

 

「そんなに良いものかしら」

 

 彼女の語彙でアルティミット・シイングを評するなら、キマイラである。構成要素たる種類だけは豊富だが、逆に多過ぎて持て余すのでは。彼の話ではいまいち理解できなかったが、例えば鳥として空を飛びながらライオンの力で噛み付く、みたいな使い方になる──そう解釈した。

 

 それで究極を名乗るのもどうかとは思う。確かに人類を超越した存在にはなれるが、歴戦の波紋戦士が数人集えば倒せないこともない気がする。ましてや現代に発展してきた科学技術は、空中戦をも容易にする。まだ話されていない能力で逆転を狙えるならまだしも、聞いた限りではどうにもならないと膝をつくまでの絶望は感じない。

 

「──『レーヴァテイン』」

 

 フランドールの手元に、ぼんやりと光を放つ炎が現れる。僅かに夜闇を照らすばかりの、心もとない光源が放つ異様な力を、果たしてサンタナは感じ取れていただろうか。

 

 Lævateinn(レーヴァテイン)──雄鶏ヴィゾーヴニルを唯一殺すことのできる()()()。剣であるとある者は言い、またある者は杖と称する。その正確な姿は、原典の記述の少なさもあって明らかでない。

 

 彼女の持つそれは、およそ定まった形を有していない。ゆらゆらと揺らめき、細い鞭のようでも、無骨な直剣にも見える。天に掲げられ、爆発的な魔力を放出するまでは、まるで薄暗い松明のようであった。

 

 一条の光の筋が迫ってくる。サンタナが見た最後の光景は、さぞかし煌びやかだったに違いない。外縁が紅く、それでいて内側が白く発光する光線の熱量は、如何程になるのか。

 

 一切の抵抗なくサンタナを飲み込んだ光線は、遥か上空で炎になって広がっていく。原典では、神々の世界を焼き尽くす炎は、唯一ギムレーまでは及ばなかった──この炎とレーヴァテインに恐らく関係はないとはいえ──という。

 

To be or not to be(生きるべきか、死ぬべきか)──貴方は後者よ、敵だもの」

 

 あたかも神話をなぞるように、フランドールは静かな街の夜空を明るく彩る。街のネオンよりも、それは眩しく妖しい光を発した。

 

 空を焦がし、地上にまで熱波を届ける。真下に誰かいたら、反射的に顔を庇う程の熱量があった。炎が闇に溶けていって、再び夜闇が訪れた時、フランドール以外の生命は近くにはいなかった。

 

 空中で最大火力を放出する。地上の建物や人間に被害を与えず、かつ確実に相手を消滅させる最良の方法だった。これで良い、この勝負は感動も興奮も巻き起こさない。単なる返り討ちと、少しばかりの鬱屈の発散に過ぎないのだ。

 

「……」

 

 承太郎とDIOの勝負は、まだ続いているらしい。だが互いにパワー型のスタンドとなれば、勝負が長引くことはないだろう。最後の戦いは互いに死力を尽くして長時間に及ぶ、だなんて創作の中のこと。大軍同士の戦争ならともかく、個と個のぶつかり合いは大抵の場合数分で決着がつく。

 

 血が定めた邂逅。あまりにも奇妙な因縁。勝敗が決する時は、そう遠くない。胸の内からじんわりと滲み出るそれを、きっと高揚感というのだろう。

 

 ひとつの運命の終点を、己の目で見る。長命な吸血鬼にとって、退屈を吹き飛ばす興奮の源泉である。激しくも荘厳な雰囲気の中で演じられる劇の聴衆にでもなった気分だ。お気に入りの俳優(アクター)が勝つことを祈るところなんて、特に。

 

 ……ともあれ、フランドールの仕事はこれで終いである。一旦咲夜と合流して、市街地のゾンビ掃討に協力するとしよう。真っ白なスニーカーをぱたぱた、歩き出した少女の背に翼はもう見えなかった。



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第八十三話 DIO BRANDO その⑧

 初めからあの子に全力の愛を注げていたかと問われれば、答えは否。お前に姉を名乗る資格はない、そう突きつけられても私は跳ね除けられない。

 

 何を言っても言い訳にしかならないのは分かっている。だからせめて弁明にならないよう白状するなら、私はあの子を守らなければいけなかった。あぁ、どうやっても憎たらしい自己弁護は残るのか。ならばせめて嘘偽りなく、己に言い聞かせよう。

 

 あの子は、人を疑えなかった。あまりに純粋で、穢れなき魂を備えていた。そして、大人しい気質を嘲笑うように恐ろしい力を持ってこの世に産声をあげた。

 

 私とあの子がいれば、未来を知り万物を破壊できる。まだ幼く、思い通りにコントロールできるであろう武器。今にして思えば、狙われない方が不思議ではある。

 

 私は、まず擦り寄ってくる不埒な輩を退けなければいけなかった。初めは極力争いを避けようとしていた、朧気な記憶もある。そんな配慮が無駄だと知ってから、一体幾つの言葉を周囲と交わしただろう。

 

 殺して、棄てる。そんな毎日だった。悔いなんてない。そうしなければ、私はあの子を守れなかった。だけど、時に同族さえも惨たらしく引き裂いて踏み潰した私を、優しいあの子はどんな気持ちで見ていたのか。

 

 あの子は、至って普通の性格を得た。温和でちょっとだけ意地っ張りな、可愛い少女へ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、心の底から悍ましいまでの恐怖に襲われた。

 

 どうして優しいままでいられるのだ。私を知っていながら、死をその目で数多見続けながら。数百年の昔に抱いた疑問を、私は未だ解決できていない。あるいは狂っているのは私で、彼女は踏みとどまれた側なのか。

 

 ひとときの安寧を得て、私は次にあの子に不純物を混ぜんと試みた。他者を疑え、協力者の仮面を下げてやってくる敵は多いのだと教えた。

 

 結論から言って、教育には失敗した。あの子は最後の最後でどうしても他者を疑い切れなかった。私は時に力をもって彼女を叱り、それでもあの子は私を疑うことさえできなかった。疑えない自分が悪いのだと考えて、私に謝るのを見て、私は自らの失策を知るに至った。

 

 それからは、あの子の意思を最大限に尊重してきた──そのつもりだ。あの子はもう覚えていないだろうけど、私には一貫して姉としての振る舞いを求めた。優しくて面白くて、でも何かあった時には頼りになる『お姉様』でいてほしい、と。私に是非はなかった。

 

 私の心配を他所に、あの子は歪むことなく育った。喜怒哀楽のいずれも欠けず、ころころと笑う。心の片隅に浮かぶ靄を見ないようにして、私は『お姉様』を演じ続けてきた。やがてそれは私と完全にひとつになり、暴君だった頃の私を思い出すのは、今では難しい。

 

 あの子が歪む気配は見えない。ならばそれで良いのだろう。()()()()、私は見守るのみだ。

 

 

 

 

 

 もうすぐあの子は帰ってくる。可愛い人間のメイドを連れて。ぐっすりと眠らせてあげよう。それから皆で卓を囲み、食事をとる。

 

 それでいつも通り。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「なぁ、ジョースターさん。DIOが吸血鬼って、お嬢サマも言ってたし当たり前に受け入れてたけどよ。人が吸血鬼になる方法なんかあるのか?」

 

 ポルナレフが胸の内に抱えていた疑問を表出したのは、街の中央部付近からゾンビが粗方掃討されたのとほぼ時を同じくした。

 

 SPW財団の加勢もあって、当初の予想を大きく上回るペースでゾンビの討伐と人々の避難が進んでいる。無論まだ気は抜けないが、気になっていたことについて尋ねるくらいの余裕はある。

 

 それを知ったところで、彼らの役目に僅かの追い風ともならない。どの道ポルナレフと花京院は波紋を使えないのだから。だがジョセフは咎めなかった。彼らにはDIOの、吸血鬼の背後に広がる事情を知る権利がある。そう判断し、小さく頷いてから話し始める。

 

「ポルナレフ、花京院。石仮面というものを聞いたことはあるか?」

 

「や……ねーな」

 

「ぼくも初めて耳にします。その石仮面とやらが、吸血鬼になるアイテムですか?」

 

「うむ。石仮面から伸びる針が脳を刺し、その刺激によって人間が吸血鬼に変わるんじゃ」

 

 人間を怪物に変異させるメカニズムを、ジョセフも最初は信じ切れていなかった。摩訶不思議なアイテムを名乗るただの石製の仮面ではないのか、自らの目で吸血鬼を見るまではそう思っていた。

 

 機関銃で体中に穴を空けられ、手榴弾でばらばらに吹き飛び、それでも再生し戦いを継続する。まさしく人智を超えた化け物だった。もう少し警戒心が強かったら、勝てたかは怪しいだろう。図らずもあの戦いが、ジョセフに吸血鬼のスペックの高さ、そして恐ろしさを教えることになった。

 

「脳なんて刺しても頭おかしくなるか死ぬだけじゃねーのか……」

 

「石仮面については、まだ分からんことも多い。だが、人を異形の存在に作り替える悪魔のような道具であることは確実なんじゃよ」

 

 吸血鬼そのものにも、成るための手段にも、常識は通用しない。そも現代に語られる吸血鬼伝承は、元を辿れば彼らの記録なのだ。幾つかは時代の流れと共に変容して、真実でない情報へと変わってしまったが、日光が弱点であるなど、今も潰えず残っているものもある。

 

 とかく吸血鬼についての幾点かを2人に話したわけだが、この程度の語量で言い表せる程彼らは浅い存在ではない。伝えるべきことは、まだ沢山ある。言葉を繋げようとしたジョセフを遮るように、無線機が短いノイズと共に上擦った声を拾う。小さな緊張が一同に走った。

 

『ジョジョッ! 聞こえるか!』

 

 無線を繋いできたのは、スモーキーだった。焦りを隠し切れない声に、嫌な予感が胸中に満ちていく。無線機の音量を上げて、2人を手招く。

 

「どうした」

 

『DIOが……DIOの様子がおかしい。一旦やつから離れるんだ!』

 

 DIOが不穏な動きを見せている。これまで数十年にわたって吸血鬼の調査研究を進展させてきた財団の超常現象部門が、恐らくは把握していなかった動きなのだろう。そうでなかったら、表に出す動揺は決して大きくなかった。

 

『財団の戦闘部隊が、脇目も振らず走り去るDIOと思しき化け物を確認した。どうも切羽詰まっている、いや、理性を失った様子だったらしい』

 

 思しき、という言葉がやけに耳に残った。DIOの姿形は当然財団も把握している。だというのに走り去った人影が奴だと確信を持てていない、ジョセフにはそう聞こえる。

 

「承太郎は無事か?」

 

『大丈夫だ、こちらに待機してもらっている。目立った怪我もしていない』

 

 真っ向から激突していた彼の孫は、別段ダメージを負ってはいない。そのことに一先ずは安堵した。隣でポルナレフが小さく息を吐く。

 

 場合によっては、承太郎に加勢する必要がある。まだゾンビは残っているけれど、財団の規模と武装なら、これ以上被害を広めずに鎮圧できる程度になった。気がかりな要素たるサンタナはフランドールが抑えており、今や彼らとDIOの激突を妨げるものはない。

 

 確かに時間停止は凶悪な能力だ。防御も回避も不能の強制停止を侮るべきではない。だが、不意さえ付けたら彼らにも攻撃の機会はやってくる。財団の報告通り、理性を欠いた状態でいるなら、付け入る隙は充分にあり得る。未だ充分な脅威ではあるが、ジョセフは現状を寧ろ好機と捉えた。

 

『とにかく、今は戦わないでくれ。街の西側に財団のキャンプを設けているから、そこまで来れるか?』

 

「分かった。今から向かうぞ」

 

『頼む』

 

 どう動くにせよ、財団の面々と今後の対策を話し合わなければならない。ここから街の西部まで、最短かつ最速で10分程度か。通話の切れた無線機をポケットにしまって、ポルナレフ達と共に駆け出した。

 

 

 

 

 

 ことり、小さな機器を机に置く。先程まで友人の声を届けていたそれは、役目を終えて静かに休止状態(スリープモード)に入る。

 

 SPW財団の行動拠点たる仮設キャンプは、俄かに騒がしくなっていた。基地内を走り回って情報を求め、あるいは出払っている部隊に仔細指示を送る。それでも混乱にまで至っていないのは、彼らが平時より重ねてきた想定の成果か。

 

 未知の事象の発生を受けて、誰もが慌ただしく動いている。そんな外の喧騒と、最奥のテント内部とはまるで対照的な雰囲気であった。

 

「ジョジョたちがここに来るまでの間、きみに聞きたいことがある」

 

「DIOがあぁなった理由、か」

 

「ふむ。流石に彼の孫だけあって聡いな」

 

 向かい合って座る17歳の少年を、スモーキーは子供だとは思えなかった。幾ら大人びているといっても、こうもあどけなさが見えないなんてことがあるのか。まるで歴戦の勇士のように、彼を見据える目は鋭い。

 

 この目は、何ともジョセフに似ている。若かりし頃の記憶が見せる彼の(ヴィジョン)もまた、飄々とした物腰の裏に猛禽類のような目を隠している。星型の痣と同じく、きっと彼らの一族に受け継がれる遺伝なのだろう。

 

「あいつは()()()()()()()()()()()()。更なる覚醒のため、とか言ってたな」

 

「なに?」

 

 承太郎は充分以上に冷静な男である。DIOとの戦いの中でも、その落ち着き具合に翳りはなかっただろう。見間違いの線は薄いだろうし、そもそも脳に指を突っ込んだのを何と見間違うのか。

 

 常識の観点に立つならば、自殺の線が最も濃くなる。脳を損傷した生物は、基本的に死亡するからだ。運が良くたって……それを『良い』と言うべきかすら微妙であるが、植物状態は免れ得ない。それは普遍性と非代替性を兼ね備えた掌中の玉であって、一筋の傷だって許容してはならないもの。

 

「……先に言っておくと、これから話すことに確たる証拠はない。もしかすれば、DIOは単にきみに敗れる恐怖から狂ったのかも知れん。だからこれは推論だ」

 

 覚醒という目的、頭部への刺激。スモーキーには思い当たる節があった。節というには荒唐無稽で、しかしながらどうしても排除し切れない可能性だった。

 

「やつは()()()()()()()()()()()可能性がある」

 

 有り得ない、と断言はできない。DIOはかつてジョセフの祖父──石仮面研究の第一人者と共に暮らしていたと聞く。その中で研究結果を見ていたって、何もおかしくはない。旧ジョースター邸が焼け落ちた今、原初のノウハウを知り得る者は奴をおいて他にいない。

 

「石仮面は、針で脳を刺激することで、恐らくは人間に眠る潜在能力を引き出している。それをもう一度行うことで、より強い力を引き出そうとしたのではないだろうか」

 

 自分で口にしながら、とんでもない話だと思う。もし他者からそんな話を大真面目にされたら、スモーキーとて怪訝な顔をする。

 

 そんな前例はこれまでにない。そも石仮面が、人に人を超えた力を与える悪魔の道具であって、更なるパワーアップの手段など誰も──恐らくは仮面の製作者達でさえ思いもよらなかったはずだ。

 

 柱の男達にとって、吸血鬼は試行錯誤を繰り返していたら運良く創り出すことに成功した、まさに偶然の産物である。活きの良いエネルギー源、丁度人間にとっての獲れたての魚のように。故に、力を石仮面に求めた人間自体、これまでたった1人だけだった。

 

 人間の昏い欲望は、時に幻覚を見せながら危険な橋を渡らせる。大抵は足を踏み外して奈落の底へ落ちていくが、ごく一部の悪運強い者は橋を渡り切ってしまう。周囲に多大な影響や被害をもたらすのは、得てしてそんな者達だ。人を人たらしめる欲望の箍が外れた、無限大に膨れ上がる渇望の化け物。

 

 ……スモーキーの知識と最悪の可能性を結びつけた仮説が、重く苦しげな口調にて語られ終わる。承太郎は何も言わず、腕組みをしたままただじっと何処か一点を見つめている。キャンプの中がしん、と静まり返った。

 

「DIOの奇行は気になるが、最優先はジョジョたちとの合流だ。済まないが今暫く待機を──」

 

 言葉を続けさせず、発砲音が立て続けに喧騒を斬り裂く。承太郎が眼光鋭くキャンプの外へと目を向ける。

 

「どうしたッ!」

 

「ッ、DIOです! やつの襲撃ですッ!」

 

 

 

 

 

「……」

 

 なんで急に立ち止まったんだこいつ。つい数秒前までとても追いつけないようなスピードで駆けていた女と、本当に同一人物なのか怪しくさえなる。息を切らしたイギーの訝しげな視線を知ってか知らずか、咲夜はそっと目を閉じた。

 

 その姿は、まるで哀れんでいるようでもあった。あたかも黙祷を捧げるかのように。少なくとも、侮蔑の感情は感じなかった。

 

 憐憫、哀悼、共感──如何なる言葉で表せようか。違和感とも言えない奇妙な感覚に浸る。

 

「イギー、SPW財団の本拠地へ行くわよ」

 

 いつの間にか再び動き出していた咲夜に、軽く驚かされる。これ以上の驚愕を、今日という短時間で嫌になる程味わっていたから、たじろぐ程度で済んだ。これをラッキーと評するつもりはない。

 

 全くもって疲れた様子もない。よって休憩しに行くわけでもなさそうだが、財団のキャンプに用なんてあるのか。

 

 財団謹製の最新鋭武器を借りて、より効率的にゾンビを倒そうと目論んでいるのかも知れないが、多分徒手空拳で薙ぎ倒した方が早い。素の身体能力が異常に高いのだから、それを活かせば良いだろうに。

 

「咲夜!」

 

 知った声は、上空から降ってきた。そういえば、何故空を飛べるのかについての説明はされていない。翼があるから、と言われれば、地を走る獣としてはそれまでだが、その形状の翼で飛行は不可能ではないだろうか。

 

 辺りにサンタナの姿はない。あれも立ち居振る舞いや気配からして圧倒的な威圧感を放っていたが、人外対決はフランドールに軍配が上がった、といったところか。どんな勝負だったのか、イギーには知る術がないが、彼女から血の匂いがしないので、力量差を見せつけての完勝だったのかも知れない。

 

「貴女もイギーも、無事で良かった」

 

「問題ありませんわ。して妹様、かの気配についてですが」

 

「えぇ。DIOだとは思うけれど」

 

 手短に言葉を交わし、それから咲夜もまた宙へと浮かんだ。通じ合える者同士、今の会話だけで凡そを把握できたのだろうけど、生憎脳内に疑問符多数な(イギー)もここにいる。できればもう少し、いやもっと詳しい説明が欲しい。

 

 ひょい、と落とした500mlのペットボトルでも拾うみたいに、咲夜がイギーを抱える。割れ物を扱うように胸に抱かれながら、こうも安心できないのは初めての経験だ。これまでなら不意をつけばいとも簡単に脱出できていたが、彼女に同じことをしようものなら、あの氷点下の蒼白眼で射抜かれるわけで。イギーは恐らく生まれて初めて、人の胸に恐れを覚えた。

 

 かなりのスピード、間違いなく先程までの咲夜疾走を上回って、少女は空を飛ぶ。眼下で街の灯りが線状に流れていくのを、暫し呆然と眺めていた。

 

「咲夜。あれを一言で言い表してご覧なさい」

 

「はっ。『渾沌(カオス)』かと」

 

 間髪を入れず、簡潔に答える。全幅の信頼を置くメイドの回答に、フランドールは真剣な表情で考え込む。宇宙(そら)の月は、いつの間にか黒く厚い雲に隠れつつあった。

 

「真の意味で『妖怪』になりつつある、と思う」

 

 その言葉の真意は、イギーには測りかねた。とはいえ、それが歓迎できないことくらいは、彼女の反応を見ていれば嫌でも理解できる。DIOは『ヨウカイ』なるものへ変貌している途中なのか、或いは既に変わり切っているのか。燃え落ちる館の傍らで、見せた蠱惑的な笑みが、ふと彼の脳裏を過ぎった。

 

 2人の飛ぶ速度が、ゆっくりと落ちていく。まだ些か遠いが、朧気にキャンプが見えてきた。内部の様子を窺うよりも早く、イギーの鼻をつくある匂い。野良犬だった頃から幾らか覚えはあるが、こうも濃いものを嗅ぐのは初めての経験だ。

 

 硝煙、そして人間の血と脂の匂い。それらが歪に混ざり合って、ともすれば嘔吐いてしまいそうな、甘ったるささえ感じさせる匂いになっている。見るまでもない、数十メートル先が如何なる惨状を呈しているかなんて。一体何人を供すれば、ここまで悍ましい異臭が出来上がるのか。

 

「一足遅かったようです」

 

「みたいねっ」

 

 可憐な少女に、およそ似つかわしくない語気の調子が、フランドールの内心の焦燥を表しているかのようだ。一方で咲夜は何処までも静かで、あらゆる感情を排しているとさえ思えた。

 

 中は惨憺を極めていた。分かっていても、思わず顔を顰めてしまう。最早人だった肉塊を視界に入れないために、努力を要した。人工の光源に照らされて赤黒く煌めいている血が、まだ乾かない程につい先刻の惨劇であると物語っていた。

 

 体温の残る亡骸を踏まないように、奥へ向けて慎重に歩いていく。DIOの気配はしなかった。こんな場所ではイギーご自慢の鼻も頼れないが、嗅覚が封じられていたって、あの恐怖を煽り立てる気配を取り違えるはずはない。ここで暴れ、もう何処かへ立ち去った後なのだろう。

 

 承太郎は無事だろうか。きっとDIOの根幹が揺らぐ瞬間を目の当たりにしている彼は、最も暴力に晒される危険性が高い。

 

 理性や感情という律的概念を持たず、まさしく本能のままに行動する不可解な化け物──フランドール達はそれを本当の『妖怪』と呼ぶ。力もさることながら、その躊躇いのなさから来る凶暴性こそが、真に恐れるべきものである。

 

 とにかく、生存者を探さなければいけない。今のDIOについてのどんな情報も、優先して得ておきたい。弱点が見つかれば幸運で、最悪奴の行き先に検討をつけられればそれで良い。

 

「……貴女は」

 

「あぁ……強いメイドさん。休憩かしら?」

 

 九分九厘が息絶えているこの場で、数少ない──もしかすれば唯一の生存者を発見できたのは、その人間が微かに身動ぎをしたからだ。そうでなかったら、フランドールや咲夜でも見つけられていたかは怪しい。

 

 左の脚に、大きなガラス片が刺さっている。肉どころか、骨まで貫通しているだろう。出血量からして、直ちに命に関わる大怪我で、もたらされる激痛は想像に難くない。それでも弱さを隠して、女は震えた声で軽口を叩いた。

 

 脚以外にも、女はあちこちに傷を負っていた。彼女が着ている服の袖を破り、肩の傷を縛る。噛み殺された小さな呻き声を聞きながら思う。こんなものでは、焼け石に水だ。

 

「きみたちはDIOを追っているのよね」

 

「えぇ」

 

「……やめた方が良いわ。幾らきみたちが強くても、()()は何か決定的におかしい」

 

 きちんと訓練を受けた兵士を、こうも無惨に殺し尽くせるのか。人として、いや、生物としての制限が外れていなかったら、こんなことはできない。

 

 腕前だけならフランドールも、咲夜だってクリアしている。異なる世界の怪物達は、人体を容易にへし折れた汚らしいオブジェに変えられる。だが、そんな行為にも必ず終わりがやってくる。

 

 生きているものの命を奪う行為は、実行者の精神を削る。鑿で掘り進めていくように、少しずつ、ともすれば本人が気がつけない程の遅々としたペースで。1度の振りで削れる幅が小さいだけで、それは咲夜でも同じことである。殺し続ければ、いつかはその業に狂い果てるのだ。

 

「貴女、覚悟はできてるかしら。本物の怪物に睨まれる恐怖を。折れずに立ち向かう勇気を」

 

 今夜が勝負だ。日を跨がないうちに、何としてもDIOを殺さなければならない。被害が拡大しないように、そしてこれ以上進化をしないうちに。

 

 財団は、総力をあげての殺害を目論んでいる。科学と人員を集結させて、塵のひとつも残らないまで消し飛ばさんとするはずだ。当然、攻撃に対してDIOは無抵抗ではいないわけで。

 

 もし少しでも恐怖を覚えたなら、引き下がっても誰も咎めはしない。女自身、もう一度奴と相対するのは真っ平御免である。

 

 戦闘部隊に所属する者として、己の研鑽に余念はなかった。周囲の同期、先達、後進よりも強くありたかった。性別なんて関係なくて、強くなった先に何があって、何を為すことになるのか、特段考えはしなかった。目的が単純明快だからか、財団の同僚で彼女よりも戦闘に長ける者は、いつしかいなくなっていた。

 

 思い上がっていた節もあった。誰と訓練しても勝つのは自分で、いつしか勝つのが目標から日常になっていって。だからこれは罰なのだろう。端的に過ぎる解釈だと自分でも思うけれど、思わずにはいられない。

 

 数年をかけて構築していった、堅牢なつもりだった自尊心と輝き。舞い込んできた吸血鬼討伐の任務、女にとって初めての人外との戦闘になった。

 

 そして今宵彼女は現実を思い知った。プライドは粉々に砕き割られて、千々に引き裂かれて、塵になったそれは何処かへ飛んでいってしまった。後に何も残っていない自らの心を見て、漏れ出た笑いは乾き切っていた。

 

「無論」

 

「……貴女は強いのね」

 

 あぁ。私よりも強い貴女は、勇敢にも挑みかかるのか。人間の限界なんて歯牙にもかけない『異常』へと。吐き出した吐息に、燃え尽きそうなまでの羨望を乗せた。

 

「市長と空条 承太郎を乗せた車は、街の中心部に向かったわ。行くならお気をつけて」

 

「感謝しますわ」

 

 ふと瞬きをした。ぼんやりと視界が歪んだのは、血を流し過ぎたからなのか。目眩にも似た感覚が消えて、次にはっきりと前を見た時、そこには誰もいなかった。あれは死に瀕した肉体が最期に見せた幻覚だったのか。

 

 否、肩には即席の包帯が巻かれてある。脚を貫いていたガラス片も、全く気がつけないうちに抜き取られていた。何処から取ったのか分からない布で止血がなされているお陰で、まだ暫くは命を繋いでいられそうだ。

 

 星のひとつも見えない真っ暗な空を見上げて、それからそっと目を瞑る。心を乱す暗い気持ちに、少しでも整理をつけなければ。そうしなければ、やがて耐え切れずに破裂してしまいそうだった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ずっとお姉様のことを疎ましがっていたかと問われれば、答えは否。寧ろ私はお姉様のことが好きで、尊敬している。

 

 言い訳なんてしたくない。だからせめて恥ずかしくないよう白状するなら、私はお姉様に守られていた。あぁ、私は愛を供給されるだけの令嬢だった。ならばせめて嘘偽りなく、私の気持ちと向き合おう。

 

 お姉様は、長女として生まれた。あまりに重い立場で、気を休める暇なんてあまりなかったと思う。そして、重苦しい責任に拍車をかけるように異質な力を持って私より先に自我を得た。

 

 私とお姉様がいれば、運命を読み破壊を振り撒ける。確保しておけば、大きな抑止力になる盾。今にして思えば、狙われない方が不思議ではある。

 

 お姉様は、まず擦り寄ってくる不埒な輩を退けていた。初めは極力争いを避けようとしていた、お姉様も昔は丸かった。そんな配慮が無駄だと知ってから、お姉様は私以外と言葉を交わす機会がめっきり減った。

 

 涙して、項垂れる。そんな毎日だった。後悔しかない。そうしていただけだったから、私はお姉様に守られ続けた。だから、時に同族さえも手にかけたお姉様を、私は呆然と見ていた。

 

 私は、至って普通の性格を得たと思う。温和でちょっとだけ意地っ張りな少女へ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、心の底から悍ましいまでの恐怖に襲われていた。

 

 私は優しいままでいられた。お姉様を知っていながら、お姉様を知っていたから。数百年の昔に身についた性格は、私にとって奇跡にも等しいものだ。あるいはお姉様が全力を賭して授けてくれて、あの人には残らなかったのか。

 

 ひとときの安寧を創ったお姉様は、次に私に不純物を混ぜようとした。他者を疑え、協力者の仮面を下げてやってくる敵は多いのだと言った。

 

 結論から言って、私はお姉様の期待に応えられなかった。私は最後の最後でどうしても他者を疑い切れなかった。そんな私を、お姉様は時に力をもって叱った。そうまでしてくれるお姉様も、私は疑えなかった。疑えない自分が悪い。謝った私を見て、お姉様は何か誤解をしたように思えた。

 

 それからは、私の意思を最大限に尊重してくれた──私はそう感じている。今でも鮮明に覚えているけれど、私はお姉様に姉としての振る舞いを求めた。優しくて面白くて、でも何かあった時には頼りになる『お姉様』でいてほしい、と。押し通してしまった我儘に、胸が痛んだ。

 

 お姉様とは対照的に、私は爛漫に育った。喜怒哀楽のいずれも欠けず、ころころと笑える。心の片隅に浮かぶ靄を見ないようにして、私は『手のかかる妹』であり続けた。生来付き合い方を貫徹させていたお陰か、泣き虫だった頃の私を思い出すのは、今でも簡単だ。

 

 お姉様は、私に無償の愛を注いでくれる。ならばそれを甘受していたい。()()()()、私は愛されたいのだ。

 

 

 

 

 

 もうすぐ私は帰る。凛々しくもちょっと常識からずれた人間のメイドを連れて。ぐっすりと眠りたい。それからお姉様と2人で、久方ぶりの語らいを存分に楽しむ。

 

 それでいつも通り。



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第八十四話 DIO BRANDO その⑨

 酒の飲み過ぎで潰れた少女が、後ろでこんこんと眠りについている。最後の方は完全にへべれけ状態で、頼んでもいないのに勝手に酔拳なんて披露していた。普段の陽気だったり寡黙だったりする彼女が、そのまま感情の振れ幅を大きくする。それが、彼女と嗜む酒の席での常である。

 

 まぁ、気晴らしにはなった。思い切り飲み食いするというのは、単純な方法ながら中々に有効だ。少し財の蓄えのある者なら、美味なるものを用意することで、更にその効果を高められる。こういった形の食事が必ずしも必要なわけではないが、精神的娯楽としてみればやはり捨て難い。

 

「お楽しみだったわねぇ」

 

「んー。流石に飲み過ぎたわぁ……ゔぁ」

 

「ちょっと淑女」

 

 揶揄うようにくすくすと笑う、淑やかな少女。無論さっきまで呵呵大笑していた知己ではない。どうやら良いタイミングで宴会がお開きになったようだ。

 

「そっちどう?」

 

「動いたわよ。本の世界へ繋がる穴なんて、童話めいてること」

 

 数時間以内に、フランドールと咲夜を連れ戻す。あの時彼女はそう言った。有言実行は善きことなのだが、期せずして急かしてしまったのかと思うと、今更ながら欠片程度の罪悪感が胸に去来する。まさに今更なそれを、意識の内から追い立てる。

 

 隣に腰掛けた桃色髪の少女が、あの美酒をねだる。確かまだ半分くらい残った瓶があるはずだ。ひょいと掴んで渡してやれば、いつの間にやら手に取っていたグラスになみなみと注いでいく。多少炭酸は抜けてしまっているだろうが、味の方は保証できる。

 

『──生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである』

 

「うわぁ。酔っ払いの戯言が始まったわ」

 

「酔っ払いになら何言っても良いわけじゃないのよ?」

 

 1口でグラスの中身の大半を嚥下してみせた蟒蛇に、賞賛とも恐れともつかない眼差しを送る。これで実際信じ難い程の大酒飲みなので、半瓶程度ではほろ酔い気分すら味わえない。少女の好む辛口の酒を、数本持ってきた方が良さそうだ。

 

「昨日の革新は今日の常識。現状に決して甘んじることなく、変化を恐れないで誠実に進むものにだけ、幸運は舞い降りるのかも知れないわ」

 

「あの子達は変われたと?」

 

「さぁね。一筋縄じゃあいかないと思うけど」

 

 そうとだけ答えて、酔い醒ましの水を飲む。井戸から拝借してきた冷たい水が、体中を巡って酔いの素を希釈してくれる。休眠状態真っ只中の頭脳が、少しだけ覚醒した。

 

『かぎりを行うのが人の道にして、そのことの成ると成らざるとは人の力におよばざるところぞ』って昔の偉い人も言ってるわ」

 

「歳上でしょ貴女。しかも渦中の小娘は人間でなし」

 

「でも妖怪風情が自分の運命を決められるなんて、不遜じゃない。ましてや私の半分も生きていない()()()()()()が、なんて」

 

 あいつに恨みでもありそうな物言いだこと。曖昧に苦笑いを返す。2人に交流があるとして、振り回しそうなのは目の前の少女なのだが。普段は高慢ちきなおちびちゃんが、癪に障ることでも言ったのかも知れない。

 

「ま、成功してもらわなきゃ困るわ。あの2人は(うてな)の半座を分かつのだから」

 

「どうせ万一の場合には助け舟出すんでしょ。はーこれだから、妖怪って半端主義のお馬鹿さん」

 

「やだぁ……いつになく辛辣……」

 

 あぁ、成程。別に小さな吸血鬼個人に恨みがあるわけではない。その実、単に気が立っているだけだ。

 

 涼しい居住地でのんびりしているところを駆り出されて、纒わりつくような暑さの現世をあちこち奔走させられたら、機嫌も悪くなるだろう。寧ろ友人たる女が相手だから機嫌を損ねるだけで済んでいるともいえる。

 

「機嫌直してちょうだいな。怒ってる貴女も可愛いけれど、次に何をするか分からなくて怖くもあるのよ」

 

「幽霊がいつも透けているとでもお思いで?」

 

「そしてこの斬れ味。指南役より鋭いってどうなのよ」

 

 こうなった少女は、言えやしないが面倒臭い。教養ある娘が本気で捻くれたらどれだけ厄介か、ましてやその教養は千年ものの代物である。

 

 気まぐれにやってくる嵐みたいなものだから、大人しく過ぎ去るのを待つしかない。言葉の鞭をひゅんひゅん、1番痛い場所を眈々と狙ってくる少女から目を逸らす。できれば早めに鎮まってくれると嬉しいのだけど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 家屋と思しき、2階建ての建物。その外壁は数mにわたって荒く削られ、その傷跡の終点には1台の車が横転していた。ひしゃげた車体が煙を上げ、左後輪が吹き飛んでいるそれを見て、中にいたはずの運転手や同乗者が無事だと考えるのは、些か楽観的であるといえよう。

 

「やれやれ。危ねーやつだ……」

 

 承太郎が咄嗟に機転をきかせて、『スタープラチナ』で同乗者諸共車外へ脱出していなかったら、今宵命を落とした人間が2人増えていたことだろう。異形に成り果てても、瓦礫を飛ばすくらいの知恵は残っていたわけだ。

 

 数軒隣の民家の屋根に、2人は辛うじて避難していた。事故現場がそこからはよく見える。大破した車も、それにゆっくりと歩み寄る化け物も。

 

 変化していく一部始終どころかほぼ全容を、承太郎はその目ではっきりと見ていた。だから確信を持って言える、あの人ならざる姿へと変貌したものがDIOである、と。しかし、目の当たりにした紛れもない事実とはいえ、すんなりと受け入れられるかはまた別の問題だ。

 

 最初に相対した時、奴は2本の足で歩いていた。外形は人間のように振る舞い、流暢に言語を操っていた。元が普通の人間だったなら、それくらいできて然るべきである。

 

 今、奴は腕という機能を捨てた。四肢を用いて地に這いつくばり、恥も外聞もなく四の脚で敵を追い回している。体毛は皮膚を覆い隠し、知性に欠けた獰猛な獣のように叫ぶ。

 

 

 

 

 

 ……否、それは最早獣であった。彼らの知る如何なる動物にも似つかない姿をしているが、吸血鬼と認識できる外見的要素はおよそ喪失している。あたかも日本の古典籍に名を残す『鵺』のようだ。

 

「おい、じいさん。街の方まで走りな……ちょいと探せばうちのじじいと合流できるだろう。あんたも多少体が動くのは、ラッキーってやつだ」

 

「街へって、きみは」

 

「わりーが付き添えねーぜ。おれはDIOを倒さないといけないんでな」

 

 車に爪を立て、乱暴に引き裂く。その反動で車がほぼ直角に横転した。とんでもないパワーだ、『スタープラチナ』を優に上回っている。下手をすれば、単純な膂力だと『ザ・ワールド』以上かも知れない。

 

「きみがジョースターの一族として、DIOを倒そうとしているのは理解したい。ジョジョもそうだった、自分の戦うべき相手を本能で知っていた」

 

「……」

 

「だが承太郎くん、よく考えてくれ。あまりに危険過ぎる、今のDIOはまさしく狂った獣! 単独で対処して良い相手ではないッ!」

 

 財団職員を相手に、殺戮の限りを尽くせるだけの戦闘力ともなると、並の吸血鬼とは比較にならない危険度である。人外との戦闘に特化した財団部隊は、例え時間を止められる『ザ・ワールド』を加味したとしても、制圧できるだけの装備と人員を兼ね備えている。人類とて、ただ消費されるのを待っていたわけではないのだ。

 

 ……スモーキーは退却する中で、交戦する同胞達を垣間見ていた。携帯型の紫外線照射装置に照らされたDIOは、それを意に介することなく若い隊員の頭を跳ね飛ばした。皮膚の爛れすらなく、暴力と破壊を振り撒く怪物に、弱点の克服を悟った。これまで培われてきた常識が通用する相手ではない。

 

「じいさん。あんた、うちのじじいの友達なんだってな」

 

「……急に何だ。確かにそうだが」

 

「なら分かりそうなもんだがな。おれが血統なんざこれっぽっちも気にしてねーことくらいは」

 

 未曾有の危機に直面しているとは思えない、淡々とした語調の一言に、思わず返す言葉に詰まる。何か誤解を生んだとでも感じたのか、彼にしては珍しく、スモーキーが調子を立て直すより早く第二言を繋ぐ。

 

「誓って言うが、おれはご先祖さまのことを馬鹿にしちゃいねーぞ。ここで血筋だのつまらんものに拘るつもりはない、それだけだ」

 

「だったらッ! もしきみの言う通りだとして、尚更きみがここで意地を張る理由がないだろう!」

 

 ジョセフがどれだけ己の血統に宿命を感じていたかは分からない。襲われたので『ジョセフ・ジョースターとして』応戦した、と簡潔に片付けるのは、きっと早計である。彼とて、ジョースターの血を意識しながら敵と戦っていたこともあるはずだ。

 

 ただ、それだけではない。1か0かの二元論ではなくて、共に理由として存在している。食事のメニューに応じて箸とスプーンを使い分けるような、至極当然の理屈だ。承太郎とて例外ではなく、一方で血の運命に縛られたままでいる気もない。

 

「意地、か。こいつだけは許せねぇ──おれのおふくろを苦しめて、何人もスタンド使いを送り込んできた。その度に戦って、楽な勝負なんて何一つなかった。……そしてアヴドゥルはここまで来れなかった」

 

 承太郎が抱く感情の矛先は、スモーキーには向いていない。怒髪天を衝かんばかりの激しい怒りは、察するだけで老練の男を怯ませる。

 

 損得だとかリスクだとかを超えて、体を突き動かす強烈な動機。それを彼は『意地』と呼んだ。成程、彼の言わんとすることが漸く見えてきた。

 

 DIOを撃破するという結果は同じでも、その主体は『ジョースター家の末裔』ではない。一個人、『空条 承太郎』という燃え上がる意志を有する少年が、()()()()()()()()()()()()()()巨悪へ挑むのである。

 

「それが意地を張る理由じゃあ、あんたは不服か?」

 

 世界を救った英雄(ヒーロー)なんてものになるつもりはなく、ただ怒りを煽った不埒者に制裁を下さんとしているに過ぎない。まるで仲間思いのマフィアかギャングのような、応報的な動機だ。

 

 これ以上喋ることはない、そう言わんばかりに背を向けて歩いていく。咄嗟に止めようと手を伸ばして、肩に触れる寸前で躊躇った。

 

 歳若い者を保護監督する立場として、例え怒鳴られてでも肩を掴まなければいけなかった。スモーキーはより広い視野で事態を見ていたから、財団の応援部隊の到着を待って、綿密な戦略を練ってDIOを滅する心積りをしていた。大局的には、減点の余地のない解答である。

 

 何故あの一瞬で躊躇したのか。屋根を降りて、歩を乱さず堂々と歩いていく大きな背を、歯噛みしつつ見つめる。とかく賽は投げられた。なお追い縋れば、戦闘技術に乏しい彼は無駄死にしかねない。

 

 故意か偶然か、承太郎の望む通りの展開になっている。スモーキーにできたのは、せめて彼の無事を願いながら更に中央部へ向かうことだけだった。……親友の孫に何かあったら、詫びても詫び切れない。今程戦いに通じていないことを恨めしく思うことはなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 あんなに速く飛べるなら、わざわざ車に乗る必要なんてなかったのでは。押し寄せてくるゾンビを『ザ・フール』で撃破しながら、イギーは思う。

 

 さっき咲夜に抱かれて束の間の空中遊覧と洒落こんだ。彼女がどれくらい本気の出力をしていたのかは分からないが、あれでもうヘリより明らかに速かった。時速表記で3桁を下りはしまい。しかも馬力ばかりのぼろい車と違って、揺れないという最高のおまけつきだ。

 

 フランドールが日和って奥手に入らなければ、この旅は数日短縮できた。あの()()()め、次顔を合わせたら指を噛んでやる。人間を遥かに超越したフィジカルの持ち主なのだから、本気で噛んだって許されよう。

 

「時間稼ぎをご苦労様」

 

 隣で平坦な声がした。前を向くと、さっきまで休息を取っていた──あぁ見えて疲労困憊だったらしい──少女が、倒れ伏す屍体を背に佇んでいる。何気に一瞬で真横から正面へ移動しているのは、いい加減見慣れてきた感さえある時間停止だろう。

 

「充分休めましたわ。ありがとう」

 

(てめーッ! 折角のイイトコ取るんじゃねー!)

 

 街の中央に向かう中で、フランドールとは別れた。ここから先は私一人で行く、そう言って彼女は1人と1匹にある仕事を託した。

 

 予想していた通り、露払い役だった。共にDIOと激突しろと言われるよりは、生存率的にはましなのだが、延々と湧いてくる学習能力ゼロのヒトモドキを淡々と倒し続けていると、どうしても気を張り続けられない。飽きが来るのとは違うけれど、集中が持続できないという点では同じだ。

 

 なのでせめて格好つけて折り合いもつけたいのに、それさえ吸血鬼の専属メイドが妨害してくる。時を止めて、その間に一帯のゾンビを残らず掃除するなんて、絵になる他ないではないか。

 

 何とも腹立たしい女め。苛立った時に人間がする舌打ちなるものを、眼前で思い切りしてやりたい気分だ。しかしこの怒りも、寡黙で瀟洒な白銀には一寸も通じていないのだろう。そう考えると、怒気がしおしおと萎びてくる。

 

「さて、妹様にお任せ頂いたお仕事はこれで完了だけど」

 

 口元に手を添えて、考え込むポーズを取る。普通の少女がすれば、可愛げのある仕草といえようが、感情の機微に乏しい彼女にはどうも似合わない。ロボットがいきなりユーモラスに振る舞い始めたみたいな、ぐっと言葉に詰まるタイプの齟齬を感じる。

 

「これからどうしましょうか」

 

(……あいつらと合流で良いんじゃねーのか)

 

 粗方街に蔓延る敵を片付けた。ここからはジョセフ達と合流して、DIOと激突する承太郎・フランドールの支援に回るのが定石であろう。

 

 フランドールが危機を覚えるような変化が、奴に起きている。咲夜はその気配を『渾沌(カオス)』と評した。イギー達がフランドールと別行動を取っているのは、それだけあの小さな吸血鬼が変化を重く捉えている証左だ。

 

 驚異的なパワーとスピードを有していても、咲夜の体は人間のそれである。人外にとっては無視できる程度のダメージでも、人間の命を充分に奪い得る。ほんの僅かなボタンのかけ違いで、容易に命を落としてしまうのだ。

 

 手分けしたというよりは、同行を許さなかったのだろう。そしてそれを、咲夜本人もいたく理解している。ゾンビの亡骸が幾つか原型を留めないまでに切り刻まれているのを見るに、大分()()()()()()らしい。……元はこの街に暮らす善良な人間だったわけだが、敵だからと割り切ったのか。まさか頭から抜け落ちていた、なんてことはないと信じたい。

 

「──」

 

 咲夜が空を見上げた。釣られて上げた視線の先、真っ黒な雲が月を覆い隠している。雨でも降りそうな天気だが、そんなに驚くことがあるのか。ちらりと横目で覗き見た彼女は、宙の何処も見ていなかった。

 

 呆然と立ち尽くしている。そう表現するしかない、隙だらけの佇まいだった。それでいて干渉することを躊躇う、不可思議で冥々たる雰囲気を纏っていた。まるで上空にいる何かに、意識を持っていかれたみたいな──

 

 ぽつり、と頬に雨粒が落ちる。流れ落ちていくそれは、涙のようでもあった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 人より獣の方が強く見えるのは、比較対象がマンチカンかトイプードルでもない限りは正常である。動物園で飼い慣らされている野生を忘れた虎でさえ、その気になれば簡単に人間を殺せるのだから。

 

 一説によると、最古の人類は野生動物とその身一つで渡り合える程に屈強な肉体を有していた。太古の昔、銃も化学兵器もない時代において、獲物を狩り生き永らえるために、肉体の力強さが絶対的に求められていたのだとすれば、現在の人類が相対的に貧弱であるのは真っ当な逆説といえよう。

 

 ボクシングのヘビー級チャンピオン、世界最高のボディビルダー、100mを10秒未満で走る韋駄天。人間としては、これ以上ない栄えある名誉だろうが、自然界においてそんなものが何だというのか。熊と殴り合って、ゴリラと真正面からぶつかり合って、豹と徒競走をして、どれか1つでも人間が勝てるのか。

 

 吸血鬼だった頃のDIOは、用心深く戦略を巡らせる策士だった。一対多の戦いは避け、ゾンビの増殖によって手駒を増やし、自らは因縁の相手である承太郎に焦点を絞っていた。高いポテンシャルに溺れない厄介さに、大いに苦しめられた。

 

 脅威度でいえば、()()()()()()()()()()()。攻防共に隙がないのだ。しなやかさと豪胆さを兼ね備えた攻撃は苛烈を極め、僅かな好機を逃さず反撃しても分厚い筋肉がダメージを打ち消す。走行している大型トラックをも跳ね飛ばす『スタープラチナ』が数度殴りつけても、小さく怯むだけだ。

 

 戦いが始まってから、数分。既にぼろぼろになった制服の袖を引き千切り、口端に垂れる血を拭う。まだ何処の骨も折れていないのは、正直なところ幸運だ。もう少し攻撃に欲を出していたら、どうなっていたことか。

 

 怪物がその右前脚を振り上げる。脊髄反射で後退した承太郎の目の前が、爆心地の如く抉れ消える。遅れてやってきた耳を揺らす轟音に、構っている余裕なんてない。DIOの一挙一動に気を配らなければ、次の瞬間に体が消し飛んでいてもおかしくはないのだから。

 

 反対の脚が引き絞られる。上に跳んでも躱し切れない、左右は民家の壁があって充分な回避スペースに欠ける。つまるところ下手な回避を捨てて、受けざるを得ない。流石に腕の1本くらいは持っていかれるだろうか、覚悟を決めて防御姿勢を取り、歯を食い縛った。

 

 5秒が経過し、怪訝な表情を浮かべる。何故撃ってこない。慎重に奴の動きを観察していると、全身が小刻みに震えているのが見えた。まるでいきなり真冬のモスクワに叩き込まれたかのように、震えはどんどん大きくなっていく。

 

 遂に怪物は脚を地につけた。震えは困惑を覚える程のものになり、承太郎を攻撃するどころではない。今こそ攻め時、とてもそうは思えなかった。不気味に痙攣を続けるDIOから、そっと距離を取った。

 

 限界を超えて見開かれた目は裂け、血の涙を流している。DIOは何かに苦しんでいるらしい、そう結論づける他になかった。突然の苦悶の様態に、呆気に取られないよう気を張るので精一杯だった承太郎の目が、ふとある変化を捉える。

 

 脚が短く、細くなっている。気のせいかとも思ったが、戦闘開始時に比べれば萎んでいるのは明らかだった。風船の空気が抜けていくように、剛健な肉体がそのエネルギーを失っていく。やがて、矮小化は肉眼で判別できるまでの速度に達した。

 

 奴の体に、何が起きているのか。固唾を飲んで見守る中で、DIOの姿が更に変貌していく。鋭利な爪が、体毛が、急速に消えていく。そして筋肉質な肉体は丸みを帯び、不自然に柔らかくなる。

 

 あまりにも異様で冒涜的な光景に、呼吸さえ忘れて魅入るように見つめる。肺の空気を全て吐き切るような声が止んだ時、承太郎の目の前にいたのは──。



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第八十五話 DIO BRANDO その⑩

 一体何処で間違えたのだろう。

 

 石仮面を再現しようと目論んだ時か。承太郎の腕を封じながら、仕留め損なった時か。最も信頼できる部下を失った時か。……それとも、人間を辞めて吸血鬼として君臨することを選んだ時か。

 

 帝王に過ちは存在しない。決して行為に正義などという下らない箔を付けるつもりはなく、自らの為すことがこの世界にとって逆らえない絶対のものであると、心の底から信じていた。

 

 だから石仮面の力を欲した。貧弱な貧民街の人間が、簡単に人の骨を砕く程の恐るべき力を手に入れたのだ。自分が魔物となれば、さぞかし強大なパワーを振るえるだろう。それこそ、世界の支配を可能にする程の。

 

 仮面を被った時のことは、今でも思い出せる。視界が暗がりに包まれて、指が血を塗る感覚が妙に手へと染み込んでいった。周囲を囲んでいた警官隊に銃を構えられたのは、感覚的に把握していた。

 

 石仮面がかたかたと震えたのを感じた。まるで意思を持ったかのように。その直後、激しい歪みと共に視界が『明転』した。一寸先も見通せない闇に包まれたわけでもなし、こう表現する他にない。

 

 スピリチュアルな光景、とでもいうべきか。周囲には白光が広がり、眼前には薄紅に明滅する巨大な脳が鎮座していた。邸宅の一室も銃を構えた人間達も、そして自らを追い詰めた宿敵たる幼馴染もいない。

 

 そこには地面があった。しかし、体は重力を無視したかのように宙を漂う。水の中で泳ぐように、藻掻けば少しずつだが移動は可能だった。呼吸はできなかったが、不思議と問題はなかった。

 

 近寄る、観察する──何かのアクションを取ろうとした。だが、それよりも早く巨大な脳が一際強く輝いた。刹那、津波の如き勢いで流れ込んでくるものがあった。

 

 頭が軋み、苦痛を感じる程の、莫大なイメージの奔流。『ディオ・ブランドーは人体をいとも容易く引き裂く』『ディオ・ブランドーは何者をも心酔させる威厳(カリスマ)を持つ』『ディオ・ブランドーは銃弾などでは痛みも感じない』『ディオ・ブランドーは鋼鉄の壁を粉々に打ち砕く』『ディオ・ブランドーは一夜にしてどんな生物をも圧倒的に超越した』『ディオ・ブランドーは決して老いることもなく死ぬこともない』『ディオ・ブランドーは』『ディオ・ブランドーは』『ディオ・ブランドーは』『ディオ・ブランドーは』『ディオ・ブランドーは』『おれは』『わたしは』

 

 

 

 

 

 ──記憶にノイズが走る。

 

 筋肉質な体に抱かれていた。掴んで離すまいと言わんばかりに、爆発寸前の船の一室で(ファイヤー)(アイス)はひとつになる。炎が部屋を走り、高まっていく温度を肌で感じながら、自身を捕らえる者へと語りかける。和解できたなら傷を癒してやろう。愛するものと永劫に添い遂げさせてやろう、と。

 

 だが、既に男は息絶えていた。如何に魔性の魅力を備えていても、死者はあらゆる言葉に聞く耳を持たない。愛する女を無事逃がすため、己の命を賭して死出の旅へ連れていく。その覚悟に、心から寒気を覚えた。

 

 だが、万策尽きたわけではなかった。抱き留めたとて、封じ込めたことにはならない。それは男も理解している。故にこの心中は、乾坤一擲の大博打なのだ。身体を乗っ取り安全圏まで避難するのが先か、爆発に飲み込まれて焼き尽くされるのが先か。

 

 永遠の天敵に向けて、首から蠢く触手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 ──記憶にノいズが走ル。

 

 ジョナさンに撃ち込マれた波紋が、体を溶カしていク。感じるハずのない激痛と、体ガ失われていく恐怖。

 

 不遜にも吸血鬼ト真っ向かラ撃ち合オウとする男を、(モンキー)と侮ッた。だが、諦めナい心が生んダ最大の爆発は、想像を遥カに上回る威力をもたラシた。波紋に対抗するため、封じ手として生み出した技が、まさか純粋な激突に敗れ去ろうとは。

 

 は紋が首まで届く前二、首を落とサなければ。落チゆく中で、腕に力を込メる。そウして首を切ッた。受ケた甚大なダメージに、意識が遠ノいていく。

 

 自ラを打ち破った怨敵へ、残さレた体は無意識に手を伸ばシていた。

 

 

 

 

 

 ──きおクにのイズガはシる。

 

 じょなサんのジしつニあッタのートにハ、いしカめンにつイテのジょうほウがコとこまカニしルサレてイた。カメんのきゲんから、ノウのドノブぶンヲしげキスルのカマで、オヨそノジョウほうヲてニイレられタ。

 

 これヲジョナさンにかぶセたラ、かンぜんハンざいガせイリつスる。ないフやピすトルトはチがっテ、ようギがカけられるコトモない。もットもアんぜんにヒとヲこロス、さイリょウのしゅだんダ。

 

 こうコがクなどケンきュウして、イっタイなニニナるのか。まッたくもッテバかばカしい、コいんイチマいのトクにモなリヤしない。だガ、ソノむダがこううンをハこんデキてクれた。ひとノみとは、ナにガエいキょうシあッテいルかワからナいもノだ。

 

 ジブんのケんきゅうセいカデこロサれるなラ、やツもシアわセだロウ。ジゃあクなエミをウカべテ、イしかメンにテをノバシタ。

 

 

 

 

 

 KIOKUNINOIZ

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 道は無事に繋がった。硬い地面に足をつけて、ぐるりと周囲を見渡す。種々の見慣れない建造物群などから、人間が構築した街であろうことは察せる。だが、肝心の人の気配は感じられない。代わりに肌を撫でる、陰鬱で奇怪な空気。

 

「嫌な気配だ」

 

「妖怪かしら」

 

「この世界にもいるのかね」

 

 長命の種といえども、見てきた『世界』は決して多くない。何万年と生きられる悠久の遺物共でもなければ、全ての『世界』を知ることなんてできやしないだろう。まだ数百年しか歩んでいない()()の見識では、ここに奴らのような連中がいたって、何ら不思議ではない。

 

 文明の発達と人口の爆発は、多くの場合連動して起こる。これまでの常識を打ち破る便利な技術が現れて、その恩恵に預かろうと人間が居住域を移動させる。そして、高い技術力はより強固な安寧を生み出し、子孫の出生率を向上させる。

 

 この世界にもし妖怪がいるならば、それはそれは生き辛いことだろう。人間は数多く跋扈し、かつてない次元にまで科学を発展させてきた。その中で、かつては超自然的現象とされてきたものが原理とやらに当てはめられ、解明されたことになった。人間の畏れと不可分な彼らにとって、技術の革新はじわじわと蝕む毒のようなものだ。

 

「あの子達の位置は?」

 

「既に把握してる。ここから東へ数km、人間数名と一緒にいるわ」

 

「うぅん……ここの人間に姿は見せたくないわ」

 

 同行人の寄越した情報に腕組みをしながら、()()は悩んでいるようだった。身長は大きくなく、10かそこらの幼子と並んでも変わらないくらいだろうか。()()を人外たらしめるのは、背中より発現する不釣り合いな程に大きな翼。そして、浮世離れした重いオーラだった。

 

 青く柔らかな髪を、ナイトキャップで覆い隠す。その服装といい容姿といい、フランドールを強く想起させるものである。それも当然だろう、()()は、少女はフランドールと姉妹の関係にある。即ち、少女もまた夜の王者たる吸血鬼であった。

 

「どうするの?」

 

「そうねぇ。歩いていくか」

 

「……僭越ながら、貴女には翼があるのだけど。私も飛べるわけで」

 

「すぐに着いたら余計な人間にまで見つかるわ」

 

 少女の提案に、同行する紫髪のスロッピー・ガールは怪訝な顔をした。言わんとするところは理解できる。余計なトラブルを防ぐためにも、可能な限り目撃されるのは避けておきたい。

 

 しかし、それなら速度を落として飛べば良いではないか。他者に認識されない方法くらい、豊富に取り揃えている。観光に来たわけでもなし、のんびりと歩いていく理由はないように思える。

 

「まぁ、()()()()はこれで帳消しにしてあげる。悪くない条件でしょ」

 

「素晴らしいわ」

 

 皮肉なんかではない、本心からの返答だった。悪魔に粗相を働いて、ちょっとばかり長い距離を歩かされるだけで済むなんて、前代未聞に緩やかな罰だ。しかも隣を歩く悪魔は、少女の長年の友人である。これはもしかすると、散歩に該当しやしないか。

 

 また何かの予感を感じ取ったのかも知れない。少女は時に未来を見たかのような、傍から見れば突飛な行動を取る。周囲に白い目で見られることさえあるそうした行動は、しかし暫くの後に効力を発揮する。そして、驚いたり感心したりする面々に、少女は決まってしたり顔でこう言うのだ──『運命は絶対なのよ』と。

 

 この吸血鬼、運命を操る力を有する。とはいっても、あくまで自己申告であり、運命という無形のものに対する干渉が目視できるはずもない以上、その真偽や具体性は謎に包まれている。しかし、彼女の未来視めいた先読みの力を知っている同居人としては、どうも強く疑問を呈することができない。元より現在意見できる立場にはなく、渋々ではあるが徒歩での移動を受け入れた。

 

 手に1冊の本を持ち、自分の肩くらいまでしかない小さな吸血鬼と一緒に、本の中の街並みを歩く。幻想的というか、奇妙な経験になること請け合いだ。そんないつもとは異なる雰囲気を吹き飛ばすかのように、吸血鬼少女はぺらぺらと軽妙に喋り始めた。

 

 知識にない建造物が立ち並んでいるのだから、ゆっくりと観察したい気持ちはある。だが、当の本人がつい先程これは観光ではない、と気を引き締めたばかりである。更に言うなら、話しかけてくる友人を無視するわけにもいかないので、話に付き合う。

 

 曰く、この地には東洋的な五大元素と西洋的な四大元素が混在しているらしい。それも偏りが少なく、ほぼ均衡状態にあるとか。探ってみると、確かに両方の要素を感じ取れる。

 

 少女達の知る世界で、こういった特徴を持つ地は、ヨーロッパよりさらに南の地域。所謂アフリカ大陸や中東地域である。基本的な特徴が同じなのだとすれば、ここは少女のような元素を主軸とする魔女にとっては比較的好ましい地であるといえよう。

 

 反面、要素が放つエネルギーは多くない。気質が大人しいとでもいうべきか。フランドールのような、魔術的元素のエネルギーそのものを抽出して使うタイプの魔法使いには、少しばかり手厳しい場所である。まぁそこはScarletの血を引く上位者だ、多少周囲のエネルギーが乏しくても、生まれ持った地力で強引にカバーできるはずである。

 

「おや」

 

 基本的に魔法使いというのは、どちらの素養も持っているものだ。魔道を極めていく中で、どちらかに偏っていくのか、もしくは併存させるのかを選択する。少女はどちらかというと前者で、フランドールは後者である。少女の知り合いには、あと後者が1人いる。

 

 神の炎の名を冠したあの魔法なんて、属性魔法の終着点のひとつと称しても不敬ではあるまい。比喩ではなく、地上を火の海に沈めるスペックを有している。技巧面ならまだしも、火力においては大きく水を空けられている。つくづく反則の代名詞みたいな種族だ、軽く呆れていると、隣で悪魔が何かに気がついた。

 

 少し遅れて少女も気がつく。数ヶ月ぶりに触れる、懐かしいエネルギーだ。大方彼女達がやってきたのを察知して、出迎えにきてくれたのだろう。もうひとつ、小さな獣と思しき反応もあるが、こちらでペットでも飼い始めたのか。

 

 くつくつ、と噛み殺したような笑いが右下から聞こえてくる。長い付き合いだから分かる、今この少女はかなり喜んでいる。猫の尻尾ではないが、大きな翼が体の震えに合わせてゆらゆらと揺れる。フランドールと共に名を授け、最高のメイドとして育て上げてきた可愛い人間と、実に数ヶ月ぶりに再会できるのだ。彼女の喜びようも一入である。

 

「お嬢様」

 

「久しぶりね。この時を待ち侘びたわ──咲夜」

 

 厚い雲の切れ間から、煌々たる月が覗く。恭しく跪く従者を、王は尊大に、それでいて満面の笑みで迎えた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 空条 承太郎は、並大抵のことには驚かない。生まれ持った度胸が、彼を精神的な強者たらしめている。加えて、ここまでの旅の中で経験してきた激闘の数々が、強固なメンタリティをより一層のものにしていた。

 

 そんな彼をもってしても、呆然とかの帝王の姿を眺める他になかった。最早成れの果てという言葉が最も似合うであろう姿となったDIOへ、攻撃することすら忘れて暫し膠着状態を保つ。

 

 フランドールは、DIOのことを後天的な吸血鬼だと言った。つまり、この男には人間として生きていた時間が存在する。母に育てられ、父の背を追いかけた時期が確かにあるのだ。

 

 信じられない。人型に化けた異形と言われた方が、万倍も納得できる。こんなものが元来人間であったなど、人類に対する最大の冒涜だ。微かに膝の笑う承太郎を前にして、まるで意に介していないかのように、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 異常な現実に呑まれてはならない。深呼吸をひとつ、今にも跳ね出しそうな精神を強く押さえつける。『スタープラチナ』が再び現れて、そこで初めて自らのスタンドが消えていたことに気がついた。

 

「ご丁寧に2回目を見せてくれたお陰で、あの時の変貌にもようやく合点がいったぜ。あの時点でてめーはもう退化し始めていた、ってわけだ」

 

 古代ギリシアにおいて、哲学者アナクシマンドロスが構築したとある理論がある。それ以前にも、類似の思想は存在していただろう。だが、根拠の有無強弱はともかくとして、確固たる理論として後世に伝達されたという枠組みで捉えるならば、彼はその思想の先駆けである。

 

 進化(evolution)。ジャン=バティスタ・ラマルクは、それを科学的な視点から観察した最初の人物であろう。取捨選択の過程の中で、生物は単純なものから複雑なものに変わっていくという用不用説を唱えた彼の研究成果は、後の巨頭に多大なる影響を与えた。

 

 チャールズ・ダーウィンは、進化論を大規模な論争の舞台に押し上げた。以後、DNAの解明などがあって、生物が進化することはほぼ自明の理と考えられるようになった。より合理的に、より生存に特化した能力を。完璧なものへの憧れにも似た感情が、進化論を後押しした。

 

「このまま放っておいたらどうなるかな……もしかすると、生命の起源ってやつを見せてくれるのか?」

 

 一方で、こうした歴史の中で、『退化論』なるものは生まれなかった。産業革命、政治制度の確立、平和主義──空前の繁栄を謳歌する人類が、非合理な方向への変化などするはずがない。表に出ないだけで、きっと考えられていたことだ。

 

 一夜にして進化の過程を逆方向になぞっていく存在など、一体誰が想像できただろう。生物の倫理に真っ向から反する禁忌の化け物にして、難解な道順を解き明かし得る貴重な鍵。

 

「だがてめーを生かしてまで……そんなものを知りたいとは思わねーぜッ!」

 

 いずれにせよ、承太郎には関係のない話だ。彼の母の命を脅かし、それに飽き足らず世界征服にまで乗り出してきた大馬鹿者は、ここで確実に倒さねばならない。彼の向けた敵意に、或いは反応したのか。

 

「ッ!」

 

 不意に液体状の体から放たれた水を、さしもの承太郎も躱し切れなかった。直撃は避けたものの、剃刀のように鋭い液体が頬を斬り裂いていく。流れる血を乱雑に拭い、拳を握り固める。それに呼応するかのように、DIOだったものから2本の触腕が伸びる。

 

「まだやる気があったか……」

 

 アメーバが乱暴に叩きつけてくる腕を、スタンドで凌ぐ。単調な連撃から抜け出し、返す刀で殴りつける。吹き飛ばすことはできたが、飛び散った破片が再びDIOへと還っていく。再生能力だけは失っていないようだ。

 

 悪態を吐くのを堪えて、後ろへと下がる。追い縋ってくる腕に注意を払いながら、屋根の上へ。実体もない超再生生物と、真っ向から殴り合うなんて愚行は犯さない。

 

 執拗に承太郎を狙ってはいるが、新たな腕を出してはこない。同時に操作できる数は決して多くないらしい。頭の中で当たりをつけ、そこで気がつく。今躱しているのとは別の、2本目の姿が見えない。

 

 迂闊だった。判断するより早く、屋根を蹴って宙へ飛んだ。直後、真下から突き上がってくる深紅の腕。重力に逆らう術を持つそれは、徐々に承太郎との距離を詰めていく。多少のリスクを覚悟してでも、殴って退けなければ。その1本に集中した彼の目の前に、きらりと光るものが割り込む。

 

 激しく動いたせいで、ポケットから落ちたのだろう。ほぼ無回転で、奇しくも面を地表と平行にして落ちていくイヤリングは、鋭く尖った長い槍に突き刺された。内部から砕き割られ、散り散りの破片となり果てる。

 

 槍の形を取った腕は、それ以上伸びようとはしなかった。刺したものが何だったのか、把握する機能は喪失しているのか。事実がどうであれ、降って湧いたラッキーに変わりはない。ポルナレフに感謝と罪悪感を覚えながら、地面に着地。すぐさまDIOへと駆け出す。

 

「良いタイミングだぜ。サンタナは倒したのか?」

 

「勿論。それより……随分弱々しくなったわね。あの子達、危ないと思って置いてきちゃったわ」

 

 着地の準備をしつつ、彼女の到着を視界の端に捉えていた。散々攻め立ててくれたが、ここからは彼らの順番だ。そして、DIOに行動順が回ることは二度とない。

 

「承太郎。真っ直ぐ走りなさい。それで、あの気色悪いゲルの黒い部分を全力で撃ち抜くのよ。貴方がすることは、それだけ」

 

「あぁ」

 

 フランドールを信用し、共に敵に立ち向かう。旅を始めた頃ではできなかった芸当を、今は自然に受け入れている。ひとえに彼女を心の底から信用できたから、承太郎の返事に迷いはない。

 

 ただ一直線に走る。妨害を試みる紅い腕が弾かれ、水圧のカッターはフランドールの掌に触れた瞬間、金属同士が擦れるような音を立てて無力化される。策も陽動もなく、ただひたすらに振るわれる暴力が、悉く無駄と帰す。

 

 DIOとの距離が縮まっていく。『スタープラチナ』の拳を振りかぶる。戦慄くように蠢く液体の頂点、丁度承太郎の拳程度の黒い塊が見えた。それに向けて渾身の力を込めた拳を突き立てる。

 

 僅かな反発性を押し切って、腕の埋もれていく感覚。そして、何かを割った手応えを、確かに感じた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 スモーキーと合流したジョセフ達が駆けつけた時、2人はぐったりと座り込んでいた。

 

「承太郎! フランドールも、無事かッ!?」

 

 声をかけながら走る。呼びかけに対して、両者共に緩慢な反応を返した。距離が縮まるにつれて、街灯の薄明かりに照らされた2人の姿が明瞭になっていく。夥しい、それこそ人体の血液を全て用いてもこうはならないだろうという程に、血に濡れた服。

 

「なッ……」

 

「あー、待った待った。返り血なのよこれ。ちょっと派手に飛び散ったもので」

 

 絶句した一同に、慌てて血濡れのフランドールが説明を入れる。よく見れば、承太郎も疲労困憊の様子ではあるが、大怪我を負ってはいない。ジョセフが安堵の息を吐いた。

 

 周囲の光景は、この場所で局地的な戦争があったと言われても信じられる様相を呈していた。建物はほぼ軒並み破壊されて瓦礫と化しているし、地面には至る所に罅割れが走っている。そして、水風船を突然割ったかのように、辺りに四散する大量の血液。2人にかかった量も合わせれば、その総量は一体何十Lになるのか。

 

「フランドールに殴れと言われた部分を殴ってやったら、このザマだ。……もうこの制服は着れねーぞ、どうしてくれるこのお子サマ吸血鬼」

 

「わ、私もまさか爆発するなんて思わないわよ」

 

 じろりと睨めつける視線に、ばつが悪そうに返す。核を破壊されたものは、多くの場合その場で緩やかに瓦解する。たまに弾けて最期を迎えるものもあるが、それにしたってあんなに激しく爆ぜられた経験はなかった。やはり自分で破壊せず、承太郎に任せたのが不味かったのか。

 

 もっとも、服の汚れを落とす手段は持っている。効果範囲を2人の全身に設定、あとは彼女が汚れと認識するものを除去する魔法を使えば、さっぱり元通りである。埃ひとつ付いていない、新品同然の学生服を一通り見て、承太郎も視線から棘を除いた。

 

 それにしても、この魔法を最後の最後で使うことになるとは、流石に想像だにしていなかった。あれば何かと便利だろう、と考えたいつかの自分を褒めてやりたい。

 

「割って入って悪いが、DIOは」

 

「ん、消滅したわ。承太郎が核を破壊したから」

 

 フランドールの終戦宣言を聞いた一同は、糸が切れた人形のようにがっくりと脱力した。飛び跳ねて仲間と勝利を喜び合う体力は、残っていなかった。

 

 およそ50日にも渡った、世界を股にかけた長旅は、何とも静かに最後の目的を達成された。DIOは散滅し、承太郎の母ホリィは瀬戸際で命を繋ぎ止めた。

 

 ホリィが病床に伏せていたのは、DIOの復活によって発現したスタンドが彼女の生命エネルギーを凌駕していたからだ。いわば、暴れ馬に対する新米ジョッキーのような関係であった。スタンドの暴走を止めることに成功し、じきに彼女の快復の一報も入ってくることだろう。

 

「承太郎くん。よくぞ無事だった、そしてよくぞやってくれた。きみに何かあったらジョジョに顔向けなんてできなかったし、きみが負けていればこの世界の命運は分からなかった」

 

「どうだスモーキー、我が孫は遂にやりおったわ!」

 

「……決戦前にキレて睨みつけてきたのを忘れてねーからな。じじい」

 

 孫の功績で相撲でも取りそうなジョセフに、ぽつりと串刺しの一手を指す。承太郎とDIOが一対一(サシ)で激突するのに、最後まで反対していたのは彼だった。終いには胸ぐらを掴みそうな勢いで睨み合っていたのは、承太郎のみならずポルナレフや花京院も覚えている。

 

 数秒前の浮かれ具合から一転、目を泳がせて曖昧な笑みを浮かべる。ジョセフの経験上、都合の悪いところに突っ込まれた時、何かを言うより笑っていた方がまだましな展開になりやすい。これが六十余年で培われた処世術のひとつであり、成功率は体感で7割程度である。

 

 今回引いたのは、3割の方だった。年少者の真っ白な視線に方々から晒されて、無骨な頬を汗が伝っていく。何をしているんだか、呆れ顔のフランドールに向けて、踏み出される大きな1歩。

 

「フランドール。きみも勝利に貢献してくれたのだろう。財団の人間として、礼を言う。……だが」

 

「『素性が知れないから信用できない。情報を寄越せ』……かしら」

 

「分かっているなら話は早いな」

 

 両者が顔を合わせたのは、これが初めてだった。フランドールは彼について知る機会がなかったし、スモーキーは彼女の名前と種族に言い知れぬ不安を感じていた。俄かにぴりぴりと帯電し始めた空気に、気の抜けていた他の面々も神妙に見守る姿勢を取った。

 

「残念だけど、期待には添えないわ。私はフランドール・スカーレット、種族は吸血鬼で承太郎達の味方。これ以上言うことなんて、何もない」

 

「それは『言えないこと』じゃあないか? きみの、もっと言えばきみの背後にいる何者かにとって、情報を明かし過ぎるのは不利益になる」

 

「さぁ。どうかしら」

 

 自らの素性を隠していては、皆の信用を得られない。乾坤一擲の大博打を打つ覚悟を決めた上で、あの時フランドールは自身と従者の正体を白状した。

 

 スモーキーからすれば、それだけの情報では不十分だ。彼女は何処の組織に所属しているのか、その組織での地位は高いのか低いのか。あるいは、トップとして組織に君臨しているのか。DIOとの最初の邂逅で見せたという、姿を消すスタンド使いをも容易く葬った異能の詳細は。……そもそも、フランドールと咲夜は真にジョースターの血統に味方しているのか。

 

 知りたい、知らなければならない情報は多い。その開示もなしに、どうしてかの参加者(ゲスト)を信用できるか、という話だ。途中でのメンバー加入とはいえ、素性の分かっているポルナレフともまた違う。財団のアクセスできる如何なるデータベースにも、『フランドール・スカーレット』『十六夜 咲夜』の名前がない。はっきり言って、この2人へのスモーキーの信頼性は皆無であった。

 

「そうね。じゃあ1つ、とっておきの情報を明かしましょう」

 

 問い詰めるような厳しい視線に、暫く感情に乏しい瞳をやっていた。やがて小さく頭を振り、緩やかな動きで立ち上がった。ぱんぱんと汚れのない服を払い、一度背後を振り返ってから、静かに話し始める。

 

「私には姉がいるの。やたらと私のやることに口を挟もうとするし、私の行く場所に着いてこようとする、それはそれは面倒な姉が」

 

 すわ何が語られるのか。知らず身構えていたスモーキーは、その情報にさぞかし拍子抜けしたことだろう。言うに事欠いて家族構成とは、非力な人間と侮られているのか。声を荒らげ、より威圧的に詰問しようとした彼に、幼くも蠱惑を湛える声がそっと先んじた。

 

「来たわね」

 

 気勢を削がれたスモーキーが、調子を整え再び話し出すチャンスはなかった。音もなくフランドールの背後に立った白銀のメイドが、耳打ちをして彼女に何かを伝える。それを聞いた彼女は、寂しげに微笑んだ。誰も見たことのない表情に、皆が呆気に取られる。

 

「ありがとう。……承太郎。突然で悪いけれど、私達は帰らなきゃいけなくなったわ」

 

 何処へ、とは問えなかった。何処か遠く、そしてもう二度と鉢合わせることのない場所へ、彼女達は行こうとしている。

 

 尋ねても、2人ははぐらかすだろう。()()()()()()を別つ、まさしく『答えられないこと』だ。

 

「ジョセフも花京院も、ポルナレフもイギーも。この数十日、過酷なこともあったけれど、今ならはっきりと言える。……楽しかったわ」

 

 性急な別れに直面して、彼女の言いたいことを全ては残せない。務めて明るく、それでも僅かに震えた声で、少し継ぎ接ぎな言葉を紡いでいく。彼女の背後で、咲夜が顔を伏せる。

 

 一瞬、言葉に詰まる。言ってしまえば、それで終わりになる。一癖も二癖もある連中と共に送る、刺激的で楽しい時間が。年甲斐もなく、失うのが惜しい。

 

 

 

 

 

 そしてフランドールは満面の笑みを浮かべた。旅の道程で幾度も見てきた、綺麗な花が咲いたような笑顔だった。

 

「Good Luck──1000年先にも残る思い出を、どうもありがとう」

 

 その言葉を最後に、2人は振り返って歩き出した。後ろ姿が曲がり角に消えて、ようやく呪縛が解けたようにポルナレフが駆け出す。彼女達が曲がったその角の向こうには、誰もいなかった。膝上の赤く可愛らしいミニスカートも、気品に溢れる白のメイド服も、その影さえ見えない。

 

 最初は頼れるのか怪しかった。咲夜は恐ろしく強かったけれど、当の本人は船酔いに寝坊助に勝手気まま。常人の想像を絶する過酷な道のりにおいて、時に愛嬌を振りまき、時に頼れる仲間として背中を預けた。戦友でもあり、手のかかる子供でもあった少女。彼女は従える者と共に、唐突にいなくなってしまった。

 

 彼らから返事をしてやることもできなかった。フランドールが一方的に喋って、去っていってしまった。ここで別れるのだと分かっていたなら、かける言葉は幾つもあった。いつもみたいに軽口を叩きながら、笑って見送れたはずだ。

 

 DIOの撃破から一転、悲痛な空気に包まれる。迎えが来たって、そこまで急いで行かなくたって良かっただろうに。誰も言葉を発さない、重苦しい雰囲気の中で、それは羽のように軽やかに舞い落ちてきた。

 

「手紙、か?」

 

「Frandre Scarlet……置き土産のつもりかよ」

 

 真っ白な手紙が、可愛らしい熊のシールで閉じられている。差出人は、フランドール。拾い上げた承太郎が封を解いた。

 

「『まず最初に、この手紙は妹様が貴方達に向けてこっそり残そうと画策していたもの──』」



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終幕 A letter written by Frandre Scarlet

 まず最初に、この手紙は妹様が貴方達に向けてこっそり残そうと画策していたもの。だけどどうにも置いておくタイミングを見つけられないご様子だったから、私の独断で渡します。

 

 スペースが微妙に余ったから、僭越ながら私からも一言だけ。どうもお世話になりました。貴方達の目的に、少しでも貢献できていれば幸いね。ただひとつ、悔いが残っていることがあるとすれば、色々と失礼なことを言ってくれたポルナレフを刺身にする機会を逸したわ。20カラットのダイヤモンドも結局貰えていないし。

 

 

 

 

 

 こういった手紙の冒頭は難しい。書きながらひしひしと痛感しています。咲夜にばれても恥ずかしいし、相談できる相手がいないのも考えものよね。

 

 まずは、みんなお疲れ様。長い旅だったわ。時に船、時に列車。幾つもの国を駆けて、何人ものスタンド使いと戦った。私自身、その中で苦い経験もしたけれど、それも含めてきっと成長の糧となってくれるでしょう。みんなにも言えることだから、ポジティブに捉えてみるのも良いかもね。あらゆる経験が進歩に資するのよ、人間は特に。

 

 この手紙が貴方達の手に渡ったということは、DIOを撃破して承太郎の母親も助かっているはず。喜ばしいことね。しかしまぁ、戦う理由があるとはいえ、まだまだ年齢的には子供な承太郎と花京院はよく旅を乗り切ったわ。歳をある程度重ねたものには分からない、少年ならではの葛藤もあったことでしょう。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ジョセフが最初にカメラを叩いて壊した時、正直言って引いたわ。いきなり何をしだすかと思えば、幾らスタンドを見せるためだからって突飛過ぎるでしょう。

 

「なんじゃ、もう帰るのか」

 

「やらなければいけないことが、山のようにあるんだ。名残惜しいけどね」

 

 チームで最年長……まぁ私は子供扱いだったし、貴方が最年長ってことで良いでしょう。ともかく、あぁも癖の強いメンバーを纏め上げて1つの目標に向かわせたのは、貴方の功績ね。お疲れ様。

 

「ジョジョ。済まないが承太郎くんたちに謝っておいてくれないか。フランドールとの別れを後味悪くしてしまった、と」

 

「ん? あー、気にするな。……あいつは良いやつなんじゃが、腹に一物抱えている。下手に触ったら大火傷するのをな。それを承知の上で、わしらは信用した」

 

 年齢の割には、あちこち走り回ったり軽快に冗談を飛ばしたりと、若々しいのよね。自前のスタンドでアクション映画みたいに飛び回ってるのを見た時は、結構びっくりしたわ。でももうおじいちゃんなんだから、あんまり無茶したら駄目よ。承太郎がやれやれ、って気を揉むだろうし。

 

 承太郎といえば、彼との掛け合いは見ていて面白かったわ。祖父と孫って、あぁも気持ちが通じ合っているのね。その辺り、私は疎かったものだから、参考になりました。

 

「あいつにとっても、難しいことだった。話しても良い、わしらに迷惑がかからんラインを慎重に見極めておった。流石に見た目以上の歳を重ねただけはある」

 

「……それなら良いんだが」

 

 何となくだけど、ジョセフは長生きしそうな感じがするわ。活力が漲ってるからかしら。健康には気をつけて、是非私の歳までお元気で。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 イギーに手紙を残しても、あの子字が読めないと思うんだけど、どうなのかな。ジョセフ辺りが上手い具合に纏めて通訳してくれると信じて、一筆しめた しため『したため』ましょう。

 

「おいイギー。ガム食うか?」

 

(おう。……何か久しぶりにこれ食った気がするぜ)

 

 砂漠で貴方が加入してくれた時、凄く嬉しかったわ。旅に癒しの枠ができたんだもの。私ね、貴方くらいのサイズの犬か猫を抱くのが夢だったのよ。夢というにはささやかだけど、生憎私の家は毛の落ちるペットが禁止されててね。

 

「フランドールが帰ってから、おまえ大人しくなったのーッ。なんじゃ、寂しいんか?」

 

(ぬかせ、このじじい!)

 

「おッ、痛たたたッ! 噛むんじゃあないこのアホタレ!」

 

 何故か咲夜とは、微妙に険悪なのよね。あの子も大分威嚇していたけれど、許してあげて。大方私があの子より貴方に構ってるものだから、むくれちゃったのよ。私は咲夜も可愛がってるつもりなんだけど、ままならないこと。

 

 でも私の見立てだと、貴方達そんなに相性悪くないわ。日本の言い回しを使うなら、『喧嘩するほど仲が良い』気がする。……これ咲夜に言ったら、何年ぶりかの冷たい視線を貰ったんだけど、イギーなら分かってくれるって信じてるからね。

 

「全然元気じゃないか……心配して損したわい」

 

(おめーに心配される程落ちぶれた覚えはねーよ)

 

 ガムが好きなのは結構だけど、あまり食べ過ぎては駄目よ。栄養に気を配って、虫歯にならないようご飯の後には歯を磨いてもらうこと。虫歯は怖いからね。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ポルナレフは、何というか面白いわよね。ジョークと女が大好きな、模範的なフレンチマン。あと、ちょこちょこ咲夜にちょっかい出してたわね。あれ本当に度胸あると思う。

 

「おーい、ジョースターさん。メシできたぜ、食うか?」

 

「あぁ。この香りは……ペペロンチーノじゃな」

 

「大正解! J・P・ポルナレフ特製、ニンニク増量ペペロンチーノだ。完食以外は認めねーからな!」

 

「また胃に来そうなものを……」

 

 操られていたとはいえ、『シルバーチャリオッツ』で斬りかかってきたのは、一言物申したいわね。あんな強いスタンド、我ながらよく捌き切ったわ。まぁ過ぎたことだし、貴方には何度か担いで運んでもらったから、許しちゃうけど。安心なさい、咲夜には言ってないし言わないから。

 

「ん。意外に美味い! 本当に意外にッ!」

 

「一言二言余計だぞじーさん!」

 

 貴方の車の運転は、直した方が良い。絶対にね、ガールフレンド乗せて何処かへ出かけるって時に、あんな運転してたら5秒で破局よ。それに、他の車も怖くて近くを走れたものじゃない。

 

 ポルナレフのガールフレンド……想像つかないわ。いやできるとは思うわよ。どんな女の子が貴方を見初めるのかなって。貴方は女の子を引っ張っていきたいタイプだろうけど、外野としてはお尻に敷かれておいた方がお似合いかしら。そうねぇ、まさに咲夜がイメージ通り。

 

「程よく辛味がきいとる。フランドールにでも食わせてやりたいわ」

 

「おいおいジョースターさん、知らねーのか? 吸血鬼はニンニクが苦手なんだぜ」

 

「知っとるよ。ちょっと食べただけで泡吹いて倒れよったからな」

 

「んことあったっけな……?」

 

 まぁ、貴方は優しいから。これから多くの出会いを……経験したら駄目よね。恋は一途よ、多くの経験よりひとつの純愛。浮気なんて以ての外よ、もし発覚したら張り倒しにいくからね。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 アヴドゥルは占い師をやっているって言ってたけど、最近の占い師ってアグレッシブに相手を燃やしたりするのね。あれかしら、相手の燃え方で運勢を占うみたいな。

 

 ジョセフに聞いたら結構的中するって褒めてたし、私の運も占ってもらおうかしら。一先ずは向こう300年くらい。

 

「アヴドゥルにも食わせてやりたかったぜ」

 

 冷静そうな雰囲気を出してるけど、根は熱血漢。炎を駆使して、体術もできる『マジシャンズレッド』は貴方の気質を端的に現しているわ。あと意外にあたふたするというか、人間味があるのも貴方の魅力のひとつ。

 

 そういえば、不気味な造形物のある台湾の何とかって庭で、私危うく丸焼きにされかけたっけ。貴方のスタンドは広範囲を巻き込めるんだから、使い方は注意しなさいよ。咲夜がいたから良かったけど、あれ当たってたら私大火傷間違いなしだったからね。

 

「あいつはもう少し濃い味の方が好きじゃな」

 

「……そうかい」

 

 途中で敵のスタンド使いと戦って、大怪我をしたと聞いた時は焦ったわ。私もチームに戻ったばかりの時で、丁度中盤くらいだったから、改めてこの旅は簡単じゃないんだって考えさせられた。

 

 結果、元気な姿で戻ってきてくれた。良かったわ、後に尾を引く怪我もしていないみたいで。この旅のメンバー、一緒に長くいるからか、1人でもいないと上手く噛み合わないというか、落ち着かないの。

 

「味付けのバリエーションは増やして損もない。それに、案外近いうちに有用になるかも知れんぞ」

 

「……?」

 

 しかし、貴方の髪型って独特のクールさがあるのよね。ドレッドヘアっていうのかな。私の家族でどんな感じになるか試してみたいから、参考にさせてもらうわ。まずは適当な長さに切って、そこから三つ編みの要領で──

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 承太郎はいつもいつも、それはもういっぱい私のことをちび呼ばわりしてくれたわね。貴方の30倍くらい長生きしてるのよこちとら、そしてまだ数千年くらい余命があるの。1000年後には高身長でスタイル抜群の美しい吸血鬼令嬢になるわ。貴方に見せられないのが残念。

 

「おっ、承太郎! 丁度いい、ポルナレフ様のペペロンチーノ食ってけ!」

 

「フン……朝から喋ってばかりで、丁度腹も減ってたところだ」

 

 多分、旅の中で1番敵と戦ったのは貴方よね。まぁ若者なんだし、きびきび働くのは当然だわ。私のことを咲夜頼りのぽんこつ呼ばわりしてたし、ね! 

 

 冗談はさておき、チームの主戦力として最後まで皆を支えてくれたのは感謝しています。貴方の『スタープラチナ』は戦う度にどんどん洗練されていって、まるで倒すべき大敵がいると分かっていたみたい。勝負を決める時のおらおらぁ、ってラッシュも格好良かったわ。

 

「あん? 何だ、おめー料理できたのか」

 

「まぁ本気を出せばちょちょっと、こんなもんよ」

 

 船の上とか車の中とか、海の生き物の本をよく読んでたわね。興味があるのかしら、実は私もなの。偉い学者になったら、ためになる本でも書いてちょうだいな。いつかきっと、私の手元にもやってくるでしょう。

 

「花京院にも食わせてやりてーくらいだぜ。なにせ人生でもう一度は作れねーであろう自信作だ」

 

「自宅に送ってやるかの。あいつの家族の分も、着払いでな」

 

「色んな意味でひでーじいさんだな! おい承太郎、何かガシッと言ってやれ」

 

「やれやれ……ゆっくり食わせろ」

 

 日本では素行の悪い、不良少年ってやつなんでしょう。ジョセフから聞いたわよ、ちゃんとやんちゃしてるって。想像に容易いわ、あれだけ人を殴り慣れてると。

 

 その方が承太郎らしいけど、親孝行は忘れるんじゃないわよ。特に貴方はこういうの不器用なんだから、きちんと親に分かる形でしなさいな。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 貴方と出会っていなかったら、私はこの旅に加わっていなかったでしょう。そういった意味で花京院、貴方との出会いはある種運命的だったわ。日本まで行ったのも、元はと言えば貴方を止めるためだし。

 

 ダービー兄弟との『スケルトン』、貴方は覚えている? あの時の私、頭に血が上ってたのよ。取り敢えず目の前にいる2人を倒すことしか考えてなくて。貴方が来てくれなかったら、私は多少でも冷静さを取り戻せなかったし、勝負にも勝てなかったと思う。

 

 エジプトのホテルで、コム・オンボの夜のテラスで、ジュース片手に色々と喋ったのを覚えているわ。貴方はグラス1杯の水だったっけ。……もう察しはついているだろうけど、貴方のスタンド『ハイエロファントグリーン』を発現させたのは私。本来平和に生きて学びの園に通っていたはずの貴方を、この長く困難な旅に引き込んだのは、紛れもなくフランドール・スカーレット。

 

 貴方は言ってくれたわ、『このメンバーで苦難を乗り越えていくのは楽しい』って。それで私は憑き物が落ちたみたいだったわ。本当にありがとう。

 

「……懐かしいなぁ。50日か」

 

 そんな優しい貴方に、もう1つだけお願いしたいことがあるわ。DIOとの戦いが終わったら、すぐに家に帰ってほしいの。それで、両親に自分は無事だって報告してあげて。この旅は世間に知られることもなく始まって、そのまま終わっていくもの。つまり50日近く、貴方は失踪していることになってるはずよ。

 

 身近な人を安心させてあげて。花京院、貴方はそれができる。そうすることで、貴方は大切な誰かを守ることができる。

 

 何処かで誰かが、貴方の幸せを願ってる。忘れないでね。貴方の両親も、そして私もそうよ。貴方は多分、自分で思っているより周りに気にかけられるタイプだから。

 

 

 

 

 

「──ただいま」



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