勇者の記録(完結) (白井最強)
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登場人物紹介

大まかな登場人物紹介です。

挿絵の画像はPicrewの「ななめーかー」を使用して作成しました。
https://picrew.me/image_maker/41329


勇者と覇王と怒涛からの登場人物

 

アグネスデジタル 本編の主人公、チーム プレアデス所属 

 

 プレアデスのトレーナーにスカウトされトレセン学園にやってきたウマ娘LOVE勢。

レースにおいてはウマ娘を感じることを主軸に置き、身体を合わせての根性勝負が大好きであり、その際は予想外の力を発揮する。脚質は差し自在で先行でも差しでもいける

 

トレーナー  チームプレアデスのトレーナー。

 

 デジタルからは白ちゃんと呼ばれている。イメージはアグネスデジタルの調教師。親族に関係者がおらず、サークル外からレースの世界に身を投じる。年齢は50代。

 チームの成績はそこそこ。常識に囚われず柔軟な発想の持ち主。

 海外のレースについて精通しており、暇があればアメリカやイギリスなどの国に行きレースを見て現地のトレーナーと交流し、優秀な人材が居ないか目を光らせている。

 

テイエムオペラオー チーム ロックブック所属 アニメとは違いリギルには所属していない

 

 年間無敗、古ウマ王道完全制覇を達成した世紀末覇王。将来の夢はキングジョージと凱旋門賞を勝ち芝GIレースの完全制覇。

 ナルシストだが王者である自覚を胸に相応のふるまいを心がけている。それはデジタルに影響を与えた。レースを通してデジタルと友人になる。

 脚質は先行自在、追い込みもできるが体に負担がかかるので封印、直線で抜け出しその比類なき勝負根性で後続をねじ伏せる。

 

メイショウドトウ 初登場話 勇者と覇王と怒涛

 

チーム チープパディーフィールド所属

 

 偉大なる挑戦者、テイエムオペラ―の後塵を拝すこと5回、6度目の挑戦でついにテイエムオペラオ―を下す。それ以降少しだけ前向きになり自信を持てるようになった。オペラオーに憧れの念を抱いている。レースを通してデジタルと友人になる。

 脚質は先行自在、オペラオーと同じタイプで安定した実力を発揮する。

 

エイシンプレストン チーム プレセペ所属

 

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アメリカ出身のウマ娘、デジタルのルームメイトであり親友。

自己分析に優れており、身の丈に合っていない目標は決して立てない。

脚質は差し。その末脚は一級線、ある特定の条件で世界屈指のレベルの実力を発揮する。

 

 

 

 

勇者パーティー魔都香港へからの登場人物

 

ダンスパートナー チーム プレアデス所属

 

トレーナーに初めてのGIを与えたウマ娘、既に現役を引退、一般企業に就職しレースとは無縁の生活を送っている。旅行がてらデジタルのレースを観戦しに香港へ。

かつてはゲート難を克服する為に、トレーナーにゲートに約20分括りつけられる苦行を強いられた。その悲惨さは語り継がれており、チームプレアデスでは言うことを聞かないメンバーにはゲートに括りつけるぞと脅され、即座に態度を改めるほど恐れられている。

 

 

 

勇者と皇帝と求道者からの登場人物

 

ヒガシノコウテイ 岩手ウマ娘協会所属

 

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 岩手の皇帝

 

 デジタルが所属している中央ウマ娘協会とは別の組織に所属。地方至上主義。

 地方が注目され客を集まるようにと懸命にレースを走る。普段は温厚だが時々地方愛が行き過ぎて感情を爆発させてしまうこともある。

 メイセイオペラとは幼馴染、プライベートではオペラお姉ちゃんと呼んで慕っている。

 脚質は逃げ先行

 

メイセイオペラ 岩手ウマ娘協会所属

 

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 岩手の英雄

 

 史上初、地方所属で中央のGIを制覇したレジェンドウマ娘。既に現役を引退している。

 虫を殺さないを地でいく性格でいるだけで空気が和らぎ、多くの岩手のファンや現役ウマ娘に慕われている。

 ヒガシノコウテイとは幼馴染、プライベートではテイちゃんと妹のように可愛がっている。

 

セイシンフブキ 船橋ウマ娘協会所属

 

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 南関の求道者

 

 史上初無敗の南関東四冠を達成した地方のホープ。ダート至上主義。

 日本における芝至上主義を憎み、ダートの地位向上のためにレースを走る。最近はアグネスデジタルなどの芝とダートを走れるオールラウンダーがダートGIに勝つことでダートが芝の2軍扱いされていることに強い憤りを覚えている。

 脚質逃げ先行

 

アブクマポーロ 船橋ウマ娘協会所属

 

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 南関の哲学者 

 

 歴代ダート最強ウマ娘と称されたウマ娘、既に現役を引退している。

ダートとは何かと常に考えている姿から南関の哲学者と呼ばれていた。セイシンフブキと親しかったがある一件をきっかけに袂を分かった。セイシンフブキはアブクマポーロを憎んでいるが、アブクマポーロはそうではなく、今も気にかけている。

 脚質追い込み差し

 

アジュディミツオー 船橋ウマ娘協会所属

 

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 セイシンフブキのレースを見てダートに惹かれ、一方的に弟子入り志願する。

 

 

 

 

勇者と太陽と未完の大器からの登場人物

 

サキー チーム ゴドルフィン所属

 

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太陽のエース

 

 世界有数のチームゴドルフィンのナンバー1。世界最強の一角。

 凱旋門賞に勝利し、BCクラシック2着の実績を誇り、芝とダートの4大GI制覇のグランドスラムに最も近いと言われるウマ娘、デジタルとは思わぬ場所で出会った切っ掛けで興味を持っている。

夢はレースの素晴らしさを世界中に伝えること。全てのウマ娘と関係者の幸福。

 

 脚質先行、テン良し、中良し、終い良しを実践するウマ娘、隙は全く無い

 

ストリートクライ チームゴドルフィン所属

 

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未完の大器

 

 ゴドルフィンのダートのナンバー2。4着以下無しという堅実な走りを見せる実力者。

 フィジカルとテクニックは世界屈指、だがメンタルの問題でその真の実力を発揮できていない 

 

勇者と隠しダンジョンからの登場人物

 

ティズナウ チーム ウォーソング所属

 

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リアルアメリカンヒーロー

 

 史上初BCクラシック連覇の偉業を成し遂げたアメリカダート界最強のウマ娘。

 アメリカが暗く沈むなか、外敵からアメリカレースの誇りであるBCクラシックを守り多くの国民に勇気と希望の灯を照らした。アメリカでは絶大な人気を誇っている。

 ゴドルフィンが嫌い

 

勇者と慈悲の心からの登場人物

 

アドマイヤマックス チーム ルイ所属

 

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悩める信者

 

 所属しているチームを日本一にして、アドマイヤの名を持ったウマ娘達が集うアドマイヤ軍団を日本一にしたいという夢を抱き走るウマ娘

 だがある日を境に心境は一変する……

 

勇者と宴からの登場人物

 

シンボリクリスエス チーム プライオリティー所属

 

漆黒の帝王

 

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 チームプライオリティーのトレーナーである藤林を名実とともに日本一にするためにプロ契約を結んだウマ娘、自他に厳しい。

 

ネオユニヴァース チーム エンクルージ所属

 

宇宙の伝道者

 

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 皐月賞と日本ダービーを制覇した2冠ウマ娘、レースを通して自分の中にある宇宙を皆に伝えたいという想いを持って走る。世間からは理解されず不思議ちゃん扱いされている

 

タップダンスシチー チーム ラピスラズベリ所属

 

遅咲きの勝負師

 

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 デジタルと同世代、同期が華々しく活躍するなか条件戦で自分の走りを模索し続け、近年結果を出し始めた苦労人、

1着以外は価値が無いという考えで、1着になれないと分かれば露骨に手を抜く。

競艇が好き

 

ヒシミラクル チーム ロンズデーライト所属

 

灰色の奇跡

 

【挿絵表示】

 

 菊花賞と天皇賞春を制覇した現役屈指のステイヤー、だが世間からフロックで勝ったウマ娘として評価されている。そのせいで自身の実力を信じられずラッキーだけで勝ったと思うようになり自分の運の良さを恨んでいる。

 

 



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勇者と覇王と怒涛♯1

この作品ではアニメ版や漫画版のウマ娘と設定が違うところがあります


テイエムオペラオーはリギル所属ではない


『さ~あ、直線に入りどのウマ娘が飛び出すのか!?』

 

6月最終週に行われるGIレース宝塚記念。

 

阪神レース場2200メートルで行われ、ファン投票で選ばれた精鋭ウマ娘が鎬を削る夏のグランプリ、この夢の舞台で数々の激闘が繰り広げられてきた。そして今日行われる激闘を見ようと多くのファンが阪神レース場に押し寄せる。ファンの熱気と初夏の熱気が合わさりレース場は圧倒的な熱を帯びていた。

 

『先頭に躍り出たのはメイショウドトウ!ドトウ先頭!ドトウ先頭!ドトウの執念が実るのか!?』

 

 メイショウドトウ。

 

 中長距離のレースを得意とし、GIIレースを複数勝利。GIも二着五回と誰もが認める実力者である。本来ならば間違いなく主役になれるはずだった。だがウマ娘の神様はそれを許さず彼女は準主役で甘んじ続けた。

 彼女は後ろに一切目をくれずゴールを目指す。主役になるために、自分を負かし続けた相手に勝つ為に。

 

『だがテイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!冬のグランプリを彷彿とする末脚だ!』

 

 テイエムオペラオー

 

 GI7勝ウマ娘、一年間出るレースすべてに勝つという前人未到空前絶後の偉業を成し遂げたウマ娘。絶対王者にしてウマ娘界の主役。そしてメイショウドトウのGI二着五回のうちすべてのレースでオペラオーが一着だった。今日も勝利の凱歌を歌うためにメイショウドトウに襲い掛かる

 

『しかしメイショウドトウ依然先頭!ついに一矢を報いるのか!夢の一矢を報いるのか!』

 

 ゴールまで残り200メートルまで迫るがオペラオーは依然捉えきれない。いつもと違う。オペラオーはドトウを抜き去ろうと歯を食いしばる力を振り絞る。またドトウもリードを守り切ろうと歯を食いしばり力を振り絞る。

 

 ゴールまで100メートル、50メートル、10メートル、5メートル。0メートル

 

『メイショウドトウだ!やった~!やった!やった!メイショウドトウだ!ついにオペラオーを倒した!』

 

 ゴールを最初に駆け抜けたのはメイショウドトウ。6度目の挑戦でついにオペラオーに先着する。ついにドトウがオペラオーを負かした。あの絶対王者のオペラオーが負けた。驚愕、喜び、困惑。様々な感情が渦巻き会場はざわついている。まるでどう反応してよいのか分からないようだった。

 

『あ~、ドトウが蹲っています!いったいどうしたのか!?』

 

 ドトウがゴールを駆け抜け30メートルほど進んだところで両膝を地面につき顔を芝に埋めた。その様子を見て会場は一気にざわついた。会場の観客たちにある言葉が脳内に過る。

 

 故障

 

 宿敵オペラオーを倒すために100%以上出してしまった代償なのか?軽度の怪我ならまだいい、だが重度の怪我、まさか競争能力喪失するほどの怪我か、観客たちは祈りながら固唾を飲んで見守っていた。

 するとオペラオーはドトウの様子に気づき踵を返し戻り心配そうにドトウの顔を覗き込む。その顔は最悪の状況を想像しているのか険しい、だが数秒すると表情は弛緩し笑みすら見せていた。その目に映ったのは泣きじゃくるドトウの姿だった。

 

 勝てました。やっと勝てました。

 

 ドトウはそう呟きながら芝を涙で濡らし続けていた。GI連勝記録をストップさせた相手が目の前にいる。恨み言の一つや二つでも言いたいところだが恨みや憎さはまるで湧かない。何度も負けても立ち向かい一矢報いた。その精神力その走りに敬意に似たような思いを抱いていた。

 

 オペラオーは労うようにドトウの背中を優しく擦る。そして立つように促すとドトウの片手を掴みその手を高らかなに上げる。その行動は『ボクに勝ったのだから胸を張れ、そしてファンの声援に応えてやれ』と言っているようだった。

 

『ドトウ!ドトウ!ドトウ!』

 

 その姿を見た観客たちは自然発生的に勝者の名を叫ぶ。ドトウの勝利を望んだ者も、それ以外のウマ娘の勝利を望んだ者も、オペラオーの勝利を望んだ者すらドトウの健闘を称え拍手を送っていた。先ほどまでの重たい空気は吹き飛び会場は興奮の坩堝と化した。

 

───

 

 チームプレアデスのチームルームでも阪神レース場と同じような雰囲気に包まれていた。 

 レースを見ていたウマ娘達も感動を噛みしめるように画面を見つめてる。何回も敗れた相手に一矢報いる。

 フィクションでも使い古されたシチュエーションだがそれ故に普遍的で心に響く。彼女たちはこの時はレースを走る競技者ではなくレースを愛する一ファンになっていた。皆が余韻に浸っているとそれをぶち壊すように一人のウマ娘が声を張り上げる。

 

「オペドトキテル!」

 

 チームメイト達は一斉に声の主の方に首を向ける。栗毛の髪色に赤い大きなリボンをつけている小柄なウマ娘は興奮で息を弾ませ顔を紅潮させている。その姿を見たチームメイトはすぐにモニターに視線を向けた。彼女の奇行はいつものことだった。

 

 彼女の名はアグネスデジタル、GIレースマイルCSに勝利しているチームプレアデスの看板ウマ娘だ。

 

「ねえ見た見た白ちゃん!ねえ見た白ちゃん!」

 

 

 デジタルは幼子のように声をかける。白ちゃんと呼ばれる中年の男性はデジタルに首を向ける。彼はチームプレアデスのトレーナーだ。トレーナーは興奮状態のデジタルとは違い冷静に答える。

 

 

「ああ、あの先行策。ドトウの作戦勝ちやな。だがドトウの走りは見事だった」

 

 

 勝利はカトンボを獅子に変える。ドトウの実力は元々認めているところだったがこの勝利で化けるかもしれない。

 そしてオペラオーも久しぶりの負けという屈辱を味わいさらに強くなるだろう。秋での二人の対決が楽しみだ。トレーナーではなくウマ娘レースの1ファンとして思いをはせる。しかしその答えはデジタルが求めているものではなかった

 

「違う!あのオペドトの絡み!最初は自分の勝利を邪魔するナルシストのいけ好かない奴と思っていたドトウちゃん!でもワンツーフィニッシュを繰り返し心を通じ合わせていくうちにオペラオーちゃんに魅かれていくドトウちゃん!そんな時オペラオーちゃんは宝塚に勝ったら海外挑戦ということを知りショックを受けるドトウちゃん!もっとオペラオーちゃんと走りたい!掲示板の一着と二着は私とオペラオーの指定席!オペラオーを他のウマ娘に渡さない!そのためには自分が勝ちオペラオーの海外挑戦を白紙にさせるしかない!そして魂の激走!そして一方オペラオーちゃんは負けたショックで放心状態!それで……」

「わかった!わかったから」

 

 先ほどよりさらに興奮状態で捲し立てるデジタルをトレーナーは手で制した。顔は数センチまで近づき興奮状態で話しているせいか唾が飛んできて汚い。

 

 何回も負け続けた相手に雪辱を果たす。判官贔屓心を擽る状況であり、その相手が自分を倒した相手を讃えて大歓声に包まれる会場。確かに感動的な場面で確かに胸が熱くなる。だがここまで興奮できるものなのか?

 さらにデジタルは事実に有ることないこと自分の妄想を付け加える。カップリングがどうのこうのなど、攻めだの受けだの専門用語をよく聞かさられる。

 最初はトレーナーはもちろん同じチームのウマ娘もそのデジタルの情熱、いや奇行に引いていたが、今ではすっかり慣れてデジタルがトレーナーに自分の妄想をぶつけるのは日常の光景になっていた。むしろデジタルに感化されたのか他のウマ娘がデジタルとカップリングについて話しているのもよく見かける。

 

「ほら、インターバル終了!宝塚記念見終ったならトレーニング再開や!」

 

 デジタルの妄想トークから矛先を逸らそうとトレーニング再開を促す。チームメンバーはトレーナーの言葉に従いチームルームからトレーニング場に向かう。デジタルも妄想トークを止めトレーニング場に向かう。だが名残惜しそうに振り返りモニターに映るドトウとオペラオーの姿を見つめる。

 

「宝塚記念は録画予約しているから後で見ろ、さっさとトレーニング行って来い」

 

 デジタルはその言葉に納得したのか渋々トレーニング場に向かう。チームルームから退出する際にデジタルは小声で呟いた。その言葉はトレーナーの耳に届かなかった。

 

「あたしもオペラオーちゃんとドトウちゃんの絡みをもっと近くで見たいな」

 

 

───

 

「突き抜けた!突き抜けた!アグネス!アグネス!アグネスデジタル完勝!」

 

 盛岡レース場で行われるダート1600メートルのGIレース南部杯、デジタルなどの中央ウマ娘と各地にあるトレセン学園に似たような学園に所属している地方ウマ娘、その中央と地方のウマ娘が一緒に走る地方交流レースで、中央で行われるGIレースとはまた違った盛り上がりを見せるレースだ。

 そしてデジタルはこのレースに出走して地元の強豪ヒガシノコウテイを抑え勝利した。

 

「ようやったなデジタル」

 

 トレーナーはデジタルにタオルを渡し勝利をねぎらう、デジタルは他のウマ娘の返り砂を拭き満足げな表情を見せる。

 

「食べ物も美味しいし、レース場のロケーションも綺麗だし、いいところだね。何よりヒガシノコウテイちゃん!あの体つきは中央のウマ娘にないもので眼福!それにあの中央ウマ娘に絶対に勝つっていうあの眼!たまらない~!」

 

 デジタルは満足なレースが出来たのか笑顔見せて相変わらず興奮気味に喋りかける。

 

 トレーナーはデジタルの能力に少なからず感嘆していた。

 デジタルは東京や京都など中央のウマ娘が走るレース場以外に、船橋、川崎、大井、名古屋などの地方ウマ娘協会が主催するレースに出走していた。

 ウマ娘は人間と比べて多少神経質なところがあり、中央では実力が発揮できても地方の独特な環境に戸惑い力が発揮できないウマ娘も多い。

 だがデジタルは地方でも変わらず実力を発揮している。精神力が強い、いやマイペースというべきか。環境の変化に戸惑うことなくただ一緒に走るウマ娘に関心を向けている。それがデジタルのマイペースの所以だろう。

 

「ねえ、次はどのレース出るの?」

「次はJBCの予定や。2000メートルは勝ったことがないが今のお前なら十分やれるやろ」

「白ちゃん。あたし秋の天皇賞に出たい!」

 

 トレーナーはデジタルの思わぬ発言に目を見開く。

 

 天皇賞秋。東京レース場で行われる芝2000メートルGI。秋の中距離GI三連戦の初戦のレースの最近のウマ娘界は中距離を重視する傾向があり、秋の天皇賞の価値は高まっている。

 このレースにデジタルを走らせる選択肢は今までまるでなかった。

 

 デジタルはかつて芝の1600メートルのGI、マイルCSで勝ったことがある。だがデジタルはマイルCSに勝ってから芝のレースで三回走ったがいずれも勝つことができなかった。

 その敗戦もさることながらデジタルはダートの方に若干適正があると考えて、ダートで走らせていた。だが今なら良い戦いできるだろう。だが。

 

 

「けどオペラオーが出てくるからな」

 

 天皇賞秋にはテイエムオペラオーが出走してくる。宝塚記念でドトウに負けたといえど中長距離NO1ウマ娘の座は揺るがない。比類なき勝負根性、ゴール前で計ったように差し切るレースセンスと瞬発力。その力は歴代ウマ娘の中でも屈指であると評価していた。

 さらに2000メートルという距離。ありえない位置取りから差し切った皐月賞。他のウマ娘に完勝した去年の天皇賞秋。オペラオーのベスト距離は2000メートルであると考えていた。

 やるからには目指すは勝利のみ、勝負を放棄しライブに出られる2着3着を狙うのは主義に反しチームのウマ娘にもそんなレースはしてもらいたくはなかった。

 

 2着3着狙いなら可能だろう。だがオペラオーを倒して一着になるには少々分が悪い。

 

 

「お願い!あたしオペちゃんとドトウちゃんと一緒に走りたいの!」

 

 

 いつものあっけらかんな態度と打って変わり真剣に頼み込む。デジタルは今までトレーナーが提案したレースに出走することに異議をとなえることがなかった。

 他のウマ娘は憧れのこのレースに勝ちたい、あのウマ娘に勝ちたいとレースの変更を求めることがある。そんなウマ娘はトレーニングにいつも以上に力を入れている。だがデジタルは一切しない。ただ指定されたレースに出走し、普段通りトレーニングしていた。

 だが今デジタルは初めて執着を見せた。その執着がデジタルを強くしオペラオーを打ち負かすかもしれない。トレーナーはデジタルの執着に可能性を賭けた。

 

「ちょっと待っていろ、今調べるから」

 

 トレーナーは手持ちのタブレットを立ち上げる。天皇賞秋は外国で生まれたウマ娘、俗にいうマル外は二人しか出られない。そして出走を決めるのは各レースの着順で得られるポイントの多さで決まる。

 一人はメイショウドトウで決定的である。そしてアグネスデジタルが南部杯に勝ったことによりポイント数で二位になり出走が可能だ。

 

「デジタルは出走可能か、よし次は天皇賞秋や」

「ありがとう白ちゃん!」

「抱き着くなや!」

 

 デジタルは喜びのあまりトレーナーに抱き着き、その様子を見たウマ娘や関係者が如何わしいものを見るような視線を向ける。

 

 トレーナーはしっかりと抱き着くデジタルを必死に引きはがした。

 

───

 

「フェラーリちゃん今月号のユウシュン読んだ!?」

「読んでないけど。何か面白い記事でも有ったの?」

「面白いも何も、オペラオーちゃんとドトウちゃんの記事でしょ!やっぱりオペドトキテル!」

「へえ~。じゃあ次読むから貸してよ」

「いいよ。あたしがオペドトの素晴らしさをたっぷり解説してあげる」

「それはいいわ。しかし本当に楽しそうね」

「うん。早く天皇賞秋で生絡みを見たいな」

 

 チームルームではメンバーがトレーニングの準備をしながらそれぞれ思い思いに雑談に興じる。昨日のTVの話題、今日の授業の内容について、来週のGIの予想。会話は弾みチームルームは和やかな雰囲気に包まれる。すると扉をノックする音が辺りに響く。

 

「お~い、着替え終わったか?」

 

 トレーナーが来た。デジタルは皆が着替え終わっているのを確認すると入っていいよとドア越しに伝え、トレーナーは入室し後ろに設置されているホワイトボードの前に立つ。それに反応するようにウマ娘達は床に座り話を聞く体勢を作る。

 トレーニング前だけあり先ほどまでの和やかな空気は薄れ真剣みが増していた。トレーナーは全員がいる事を確認し言葉を発しようとするが、それは思わぬ来訪者によって邪魔される。

 

「アグネスデジタルとそのトレーナーはいます!?」

 

 扉を蹴破らん勢いで一人のウマ娘が鼻息荒く入室する。白髪のロングヘアー、肌も新雪のように白い。だがその肌は興奮で赤みを帯びていた。ある者は不安そうに、ある者は警戒心を募らせながら見つめる。誰しもが少なからずこの来訪者は友好的ではないことを理解していた。場は剣呑な雰囲気に変わっていく。

 

「私はチームリギルのウラガブラック。それでアグネスデジタルとトレーナーはどこです!」

「あたしだよ」

「俺がデジタルのトレーナーや」

 

 デジタルとトレーナーはウラガブラックの敵意に満ちた空気にあてられることもなくいつも通り鷹揚と答える。

 ウラガブラックは二人の姿を確認し、トレーナーの方にツカツカと歩み寄り顔を近づけ睨むように目線を定める。

 

 

「単刀直入に言います。アグネスデジタルを天皇賞秋から回避させてください」

 

 

 トレーナーはその言葉を聞きすべてを理解した。

 

 ウラガブラック。ジュニアクラスでGIレースNHKマイル一着などの輝かしい成績を誇る世代屈指の実力者。そしてマル外である

 ウラガブラックは天皇賞秋に出走登録していがデジタルが出走登録したことでレースポイント所持数で登録から弾かれる。弾かれるウマ娘のことは考えていなかったがウラガブラックがそうだったのか。そして出走する為に直談判しに来た。

 

「私なら一着になって、テイエムオペラオーとメイショウドトウがいつも一二着の退屈で停滞した中長距離レースに風穴を開けられます。ファンもきっとそれを望んでいます。ですから回避してください!」

 

 自分ならオペラオーとドトウに勝てる。その自信家ぶり、そしてわざわざ直談判しに来る心意気。トレーナーはその心意気を買っていた。

 自分が出走登録し、デジタルが天皇賞秋への気持ちがいつもと同じ言われたから走る程度だったら譲ってやらないことはないが、このレースはあのデジタルが始めて自ら走りたいと志願したレースだ。譲ることは出来ない。

 

「すまんな。デジタルは天皇賞秋に出走させる。協会に枠を増やせと直談判するなら俺も少なからず協力する」

 

 協会に頼み込めばマル外の枠が増えるかもしれない。だがそれは少なくとも来年のことだろう。天皇賞秋まで残り三週間弱。その期間でマル外の出走枠を増やせるほど協会のフットワークは軽くは無い。そしてウラガブラックもそれは重々承知していた。

 視殺戦のようなにらみ合いが数秒続きウラガブラックのほうから目線を逸らす。トレーナーを説得するのは無理だと察した。

 ウラガブラックはアグネスデジタルに向かって歩み寄りトレーナーの時と同じように目線を定める。ウラガブラックのほうがデジタルより身長が高く見下ろすようになっておりその場面だけを切り取れば上級生が下級生をカツアゲしているようだった。

 

「天皇賞秋を回避してください。貴女ではテイエムオペラオーには勝てません。ですからマイルCSに出走すればいい。マイルCS連覇。偉業じゃないですか」

「偉業?」

「そうです。偉業です。ですが天皇賞秋に出走すれば疲れが残りマイルCSに勝てないですよ」

「そんなの興味ない。あたしはマイルCSに勝つよりオペラオーちゃんとドトウちゃんと一緒に走ることのほうが重要だから」

 

 ウラガブラックはデジタルの言葉に違和感を覚えた。一緒に走ることのほうが重要?何故天皇賞秋に勝つと言わないのか?すると脳内である結論に達しそして激怒した。

 

「何で私の夢を邪魔するの!一緒に走りたい!?そんな下らないことのために出るなら枠を譲りなさいよ!」

 

 ウラガブラックはデジタルのトレーニングウェアの襟首を掴みヒステリックに叫ぶ。こいつは勝つ気がさほどない。そんな奴に私の夢を邪魔されるのか!

 ウラガブラックにはある夢がある。それは凱旋門賞に勝つこと。そして今年は国内で文句なしの実績を積み国内最強の座を勝ち取る、来年は同じチームのエルコンドルパサーのように長期遠征で凱旋門賞に望む。それが描いていた計画だった。

 国内最強の座を得る為には秋の三冠。天皇賞秋、ジャパンカップ、有マ記念を全部勝つか、最低でも二つは勝たなければならないと考えていた。

 

 一つ目のジャパンカップ。このレースには現時点では出走不可である。同チームから一レース四人まで出走可能と定められており、リギルからはシンボリルドルフ、ナリタブライアン、エルコンドルパサー、グラスワンダーが出走をきめている。四人のレースポイントはウラガブラックのポイントを遥かに上回っていた。

 そして有マ記念はファン投票で出走ウマ娘を決めるレースである。このレースならポイント数の有無に関係なくファン投票が上位なら出られるが、NHKマイルしか勝っていないウラガブラックが選ばれることはほぼない。

 

 このままでは天皇賞秋ではマル外の枠で弾かれ、ジャパンカップではポイント数で弾かれ、有マ記念では人気投票で弾かれ、秋の三冠レースに一つも出られない。

 だが天皇賞秋に出走できれば道は開ける。天皇賞秋で一着か二着にならばジャパンカップへの優先出走権が与えられる。そうならばポイント数も関係ない。弾かれるのはリギルで一番ポイントが少ないウマ娘だ。出走さえできれば誰にも負けないという自負があった。

 

「下らないこと?」

 

 デジタルはウラガブラックが発した言葉を鸚鵡返しし、その顔を見上げる。その表情と目つきはいつもの陽気で鷹揚とした雰囲気とはまるで違っていた。

 

「それが何よりも重要なの!あなたにはオペラオーちゃんとドトウちゃんの尊さが分からないの!?宝塚記念を経て二人の関係は変わっていく!ドトウちゃんはオペラオーちゃんが今まで勝利だけで自分事を見てくれなかったが今は自分を見てくれていることに気づく!それを喜ぶドトウちゃん!けど何故喜ぶの?それはライバルとして見てくれるから?それとも別の感情?いつの間にか芽生えていた恋心に無意識に蓋をして苦しむドトウちゃん!一方オペラオーちゃんも……」

 

 デジタルは一方的に妄想トークを繰り広げる。極度に興奮しているせいか、目が血走り鼻血を出し口元から涎が出ている。それはまるで薬物中毒者のようだった。その姿にいつも見慣れているはずのチームメイトやトレーナーすら引いていた。

 

「躍動する肉体!弾む呼吸!滴る汗!歯を食いしばる表情!レースを通して心を通わせる二人!その極上の光景が特等席で見られるんだよ!それ以上に何が重要なの!?ジャパンカップは距離が長いから勝負所で千切られて二人の様子が見られない!でも天皇賞秋なら千切られないし二人の様子がよく見られる!ここを逃したら一年は待たなきゃいけないんだよ?待てるわけないよ!あなたの夢なんて知らない!知らない!知らない!」

 

 この豹変に慣れているはずのチームメイトとトレーナーが引いているのであればウラガブラックはさらに引いていた。いや恐怖すら覚えていた。このウマ娘は何を喋っている。尊い?恋心?言っている事が何一つ理解できない。

 そしてこの圧倒的熱意。自分には夢がありそれを叶えようとする情熱がある。だがデジタルはただ一緒に走るということに自分以上の熱量を注いでいるように感じた。

 ウラガブラックは未知の恐怖と熱意の前に無意識に襟元から手を放し、後ずさっていた。

 

「マイルのダートウマ娘がオペラオーに勝てるわけ無いでしょ!この変態!」

 

 ウラガブラックは涙ぐみながら脱兎のごとくチームルームを後にする。捨て台詞のように吐いた言葉は涙声でせめてもの抵抗だった。その様子をトレーナーとチームメイトは呆然と見つめていた。

 

「全く、オペドトの尊さがわからないなんて。でも顔を真っ赤にして詰め寄るウラガブラックちゃんも可愛かったな~あたしも大人気なかったし嫌われたくないから謝りに行ってこよう。白ちゃん、ちょっとウラガブラックちゃんのところ行ってくるね」

「待たんかいデジタル」

 

 我に返ったトレーナーはデジタルに詰め寄り後ろから肩を掴み行動を阻止する。デジタルは何故止めるのかと振り返りながら不思議そうに見つめる

 

「大丈夫、トレーニングをサボるつもりはないから」

「いや、そういう問題じゃない。今のウラガブラックにお前みたいな変態が詰め寄ってきたらトラウマになる」

「変態?あたしが?」

「今の様子を見て確信した。お前変態やわ」

「白ちゃんヒドイ!あたしはウマ娘が大好きなだけだよ」

 

 デジタルは賛同を求めるようにチームメイトに視線を向ける。だが向けられる視線の意味はトレーナーの意見への賛同だった。

 

「あたしもトレーナーと同じ意見」

「ちょっとこれから距離置いていい」

「女性同士でもセクハラは成立するから気をつけなよ」

「え~」

 

 次々と投げつけられる手厳しい言葉にさすがに気落ちしたのか。その日のトレーニングは実が入らず時計は良くなかった。

 

 

──

 

「おはよう!」

 

 デジタルは教室に入るといつもより元気よくクラスメイトにあいさつする。

 

 天皇賞秋まで残り3週間、あと3週間でオペラオーとドトウの絡みが生で見られる。そう考えると自然とテンションが高まっていた。

 だがクラスメイト達の反応が鈍い、それに何か視線が若干の敵意が含まれている。まあ月曜だから機嫌が悪いのだろう。デジタルは気に留めることなく授業を受ける。だが気のせいではなかった。

 日に日にクラスメイトや他のウマ娘の敵意めいた視線は増していた。普通なら気づくだろう。しかしデジタルはオペラオーとドトウのことで頭がいっぱいな全く意に介してなかった。

 

「あんた本当に図太いというか鈍感ね」

 

 

 デジタルが食堂で食事を摂っていると対面側に一人のウマ娘が座り込む。

 

エイシンプレストン。

 

 クラスメイトの一人で同じマル外さらに同室ということもありデジタルとは親しい友人である。

 

「どういうこと?」

「あんた今陰口叩かれているのを知っている?」

「そうなの?」

「知らないってことは原因も知らないわね。ずばりあんたがウラガブラックを弾いて天皇賞秋に出走するからよ」

「ウラガブラックちゃんか、そういえば天皇賞秋に出たいってチームルームに来たっけ。で、それが何の関係があるの?」

 

 プレストンは天皇賞秋に出ることと陰口を叩かれることの因果関係を説明する

 

 中長距離路線はオペラオーとドトウが一二着を独占していた。同じような顔ぶれ、同じようなウイニングライブ。その現状にウマ娘ファン達は嫌気がさしていた。そしてファンは停滞した現状を壊すニューヒーローを待ち望んでいた。

 それがウラガブラックだった。圧倒的なポテンシャルを持ちオペラオーとドトウとまだ戦っていない新勢力。ファンは二強を倒してくれることを期待した。

 だがそこにアグネスデジタルが出走を決め、マル外の二人の枠から弾かれてしまった

 

 それが片や数々のGIウマ娘が所属している最強のチームのリギルに所属し、チームの期待のルーキーであるウラガブラック。

 片や全体で見て中位ぐらいの成績のパッとしないチームプレアデスに所属し、GIは勝っているもの抜群の成績をあげているわけではなく、芝よりランクが低いと認知されているダートで走り、2000メートルのレースで実績がないアグネスデジタル。

 

 両者ともオペラオーとドトウとは初対決であるが、ファンとマスコミがどちらに期待するかは一目瞭然だった。

 

 

「であんたは『ダートのマイラーが勝てるわけない』『ウラガブラックの可能性を摘んだ』『ウラガブラックのレースが見たいんだよ!空気読めよ』とファンに思われて、そして少なからず同じ気持ちのウマ娘がいるわけ。わかった?」

「ふ~ん」

 

 あの視線はそういう意味だったのか。しかしどうでもいい。その程度の敵意でオペラオーとドトウの生絡みが見られる特等席を退くほど二人に対する想いは安くない。プレストンの説明はさらに続ける。

 

「それにリギルやスピカのメンバーが海外挑戦しているなか、オペラオーさんとドトウさんは国内でずっと走っているのも気にいらないみたい。弱い者イジメするなよってさ。まあヒール的な扱いをされちゃっているわけよ」

「オペラオーちゃんとドトウちゃんのどこがヒールなの!」

 

 デジタルは食卓を全力で叩き激昂し食堂の視線は二人に集まる。プレストンは注目が集まるのが耐え切れなかったのかデジタルを宥め席につかせる。一方デジタルの胸の中には怒りが渦巻いていた。

 何故オペラオーとドトウの美しいライバル関係に心惹かれない。この関係はウマ娘史上でも最も素晴らしい関係だ。自分達は歴史の証人なのだ。それなのに何故嫌気がさす?何故関係が壊れることを望む?自分ならこの関係がいつまでも続いてほしいとすら願っている。デジタルは世間の感性がまるで理解できなかった。

 

 そして翌日からデジタルを取り巻く空気が変わる。

 

 デジタルを見る視線は敵意から憐れみに変わっていた。時には「かわいそうだね」と直接声すらかけられた。さすがに鈍感なデジタルも空気の変化を感じ取った。何かが起きている。

 周囲の変化に目敏いプレストンなら何か知っているかもしれない。デジタルは授業とトレーニングが終わるとすぐさま自室に向かう。すると一足先にトレーニングが終わったのか部屋着でくつろいでいるプレストンの姿があった。

 

 

「どうしたのデジタル?」

「最近あたしに対して、こう……優しいというか憐れんでいる感じがするけど何か知らない?」

「ああ、きっとこのことだよ。というよりあたしも事の真相をデジタルに聞こうと思っていたんだよ」

 

 プレストンは携帯端末を操作し画面を見せる。画面に映っているのはウマ娘について意見を交わしている掲示板だった。

 

 

『プレアデスのトレーナーまじムカつく!』

 

『ウラガブラックの枠つぶしの真の犯人はデジタルじゃなくてトレーナー』

 

『記念出走のためにデジタルを利用した無能トレーナー』

 

 

 目に飛び込んでくるのはトレーナーに対する罵詈雑言だった。

 

 

「ある雑誌でデジタルの天皇賞秋出走を決めたのは自分だ。デジタルは出たくないと言ったが強制的に登録したってインタビューで語っていたの」

「こんなのデタラメだよ!」

「あたしもそう思うけどトレーナーさんは一切否定しないし。それを信じたファン達がこうやって掲示板でああだこうだ言っているわけ」

 

 デジタルはすぐさま部屋を飛び出し書店に向かいその記事が掲載されている雑誌を購入し内容を確認する。

 確かにそのようなことが書かれていた。だがそれでも記事の内容を信じられなかった。トレーナーは出走レースを指定するが自分やチームメイトにレースに強制的に出走させることは一度もなかった。

 何故こんな嘘をつく?デジタルは脳細胞を最大限働かし考えるが答えは出ない。答えが出ないなら答えを聞けばいい。それが脳細胞の導き出した答えだった。

 

 デジタルは全速力でトレーナーの家に向った。

 

 

───

 

 

 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。ピンポーン

 

 

「何やこんな夜に」

 

 時刻は22時をまわっているこんな時間に訪問販売か、というよりどれだけチャイム鳴らしている。トレーナーは機嫌を一気に悪くさせながら扉を開け。、

 

「呼び鈴は一回押せば充分って……デジタル!」

「白ちゃん説明!」

 

 扉の前にはまるでレース後のように息を乱しているデジタルが立っていた。なんでいる?格好も外用の服というより近場のコンビニに行くようなラフな格好である。この息の乱れ具合とこの格好。まさか寮から来たのか?

 

「お前寮から来たのか?」

「白ちゃん説明して!」

 

 デジタルはトレーナーの言葉を一切聞かず大声で説明を求める。このままでは近所迷惑だ。トレーナーは半ば強引に家に入れた。

 

「まあ、とりあえず飲め」

「ありがとう」

 

 

 ちゃぶ台に座ったデジタルは差し出された麦茶を口につける。寮からここまで数十キロの道のりを給水無しで走った体は水分を欲していたのか瞬く間に飲み干す。

 水分を摂取し人心地つき余裕が生まれたのか辺りを見渡す。アパートの間取りだった。普通のちゃぶ台、普通のテレビ、普通の座布団、だが普通のものではないもあった。

 ちゃぶ台の横にある積み重なった雑誌や紙束、それらは全部ウマ娘についてのもので中には英語で書かれているものもあった。そして壁に飾られている数々の写真、それらも被写体はすべてウマ娘だった。

 写真の中にはチームメイトや自分自身、中には見知らぬ者の写真もあった。

 

「で、なんの用や」

 

 対面に座ったトレーナーはデジタルに質問する。その声色には夜分遅くに訪れたことやチャイムを連打したことへの怒りはなく、ただ何故ここに来たかという疑問が含まれていた。

 

「これはどういうこと?」

 

 デジタルは有無を言わさず例のインタビューが掲載されている雑誌に投げる。トレーナーはその雑誌を眼で確認すると気づいたかとバツの悪そうな顔を見せた。

 

「何であんな嘘つくの?天皇賞秋に出るって言ったのはあたしだよ。それなのに雑誌では『俺が無理やり天皇賞秋に登録した』なんて。ねえ何で?」

 

 デジタルは身を乗り出し額と額がくっつきそうなほどに顔を近づける。一方トレーナーは目線を一瞬逸らす、嘘で煙巻くか、それとも真実を言うか。数秒間の沈黙の後話を切り出すように息を吐く。

 

「デジタル、ウラガブラックが天皇賞秋に出走できなかったことでファンやマスコミの間で騒ぎになっているのは知っているか?」

「うん、プレちゃんから聞いた」

「そうか、それでウラガブラックが出走できなかった不満や怒りがどこに向かうと思う?」

「あたし」

「そう、それでマスコミがそのことについてインタビューしにくるだろう。それでお前がウラガブラックを押しのけたことについて聞かれたら『知らない、あたしはオペドトが見たいだけだから』とか言ってファンやマスコミを逆撫でするのは目に見えていた。お前は空気読まないというか周りに目を向けないからな」

 

 デジタルは思わず頷いてしまう。図星だった。もしそんなことをインタビューされていたらまさにトレーナーが言ったようなことを答えるだろう。

 オペラオーとドトウの生絡みを見ることが最優先で、他のウマ娘のこと、ましてやファンのことなど欠片も考えてなかった。

 

「いくら鈍感でマイペースなお前も世論で悪役にされたらさすがにキツイやろ。だから俺が天皇賞秋に無理やり出させたということにした。それならファンやマスコミの怒りは俺に向くし、お前はトレーナーの被害者ということでいろいろと言われることもないだろう。というわけや、だから記事のことが本当か聞かれたらそうだと答えるんや」

 

 まさにトレーナーの読みどおりだった。ある日を境に周囲に向けられていた怒りや不満は哀れみに変わる。あの変化は自分がトレーナーの被害者と認知されたからだったのか。

 説明を聞き理屈はわかったし、その効果もわかった。だが納得はいかなかった。

 

「嫌!おかしいよ!何で白ちゃんが悪口言われなきゃいけないの?まずあたし達がなんで悪口を言われなきゃならないの?そもそもオペラオーちゃんとドトウちゃんが悪者扱いなのがおかしい!」

 

 デジタルは不満をぶつけるように声を張り上げる。

 何故やりたいことをしようとしただけで文句を言われる。それにこの騒動の原因はオペラオーとドトウという憎まれ役を倒すウラガブラックというヒーロー候補が出られなくなったということだ。まずその前提自体がおかしい。

 デジタルに対しトレーナーは教え子に対する教師のように諭すように話した

 

「デジタル、ファンは常に刺激を求めて停滞を拒む。絶対王者、オペラオーとドトウのワンツーフィニッシュはファンにとってまさに停滞の象徴なんや。人気があればここまで打倒オペラオードトウの空気にはならないだろうが、如何せんあの二人は人気がない。勝ち方は地味で着差も少ないし」

 

 仮にメイショウドトウがサイレンススズカのような逃げウマ娘、テイエムオペラオーがミスターシービーのような追い込みウマ娘ならもう少し人気が出ていただろう。だが二人は先行抜け出しか好位差しという面白みのないレーススタイルである、しかもぶっちぎって勝つというわけではなく、ハナ差やクビ差、開いても一バ身差という地味なものだった。

 

「俺みたいな関係者、お前みたいなプレイヤーには二人がいかに凄いか分かる。だがファンにはあの凄さは伝わりにくい。この流れはある意味必然なのかもしれん」

 

 トレーナーはウマ娘の関係者であると同時にウマ娘レースのファンでもあった。だからこそファンの主張も理解できる。もしトレーナーではなく1ファンだったら同じような気持ちを抱いていだきデジタルが出ることに文句を言っていたかもしれない。

 

「だから世間の不満は俺がすべて受け止める。デジタルは何も気にせずオペラオーとドトウのことを妄想してグフフと気色悪く笑いながら、指折り数えて天皇賞秋まで待っていればええんや」

 

 トレーナーは笑顔をつくりながらデジタルの髪をクシャクシャと撫で、それを無言でうつむきながら受け入れる。

 なんて不器用な人なのだろう。自らが盾になり誹謗中傷を受け止めるなんて。そんなやり方ではなく自分が傷つかないもっとかしこいやり方があったはずだ。それに気にするなと言っているが誹謗中傷を受ければつらいに決まっている。それなのに。

 今まで好きなことをやって好きなように生きていたつもりだった。だがそれは周りにいる人々がフォローしてくれたからできたことなのかもしれない。デジタルはトレーナーの不器用な思いやりに嬉しさと感謝の念を抱く。そしてその気持ちを言葉に出した。

 

 

「わかった。ありがとう白ちゃん」

 

 

───

 

 レース前々日の金曜日。GIレースが行われる日はレース場近くの会場を借りて枠順決定の抽選と記者会見を行われる。ウマ娘達は豪華絢爛なドレスに身を包み場の雰囲気はGIレースに相応しく華やかだ。

 

「テイエムオペラオー選手くじを引いてください」

 

 司会の声に促されピンクと黄色を基調としたドレスを身につけたオペラオーが壇上に上がりくじを引く。抽選方法は今までのレースで獲得したレースポイントが多いものからくじを引いていき、オペラオーは獲得レースポイントが一位なので最初にくじを引く。

 

「テイエムオペラオー選手。5枠6番です」

 

 周りから儀式的な拍手が起こる、枠としては可もなく不可もないポディションだ。

 

 

「メイショウドトウ選手。くじを引いてください」

 

 青とピンクを基調にしたドレスを身に纏ったメイショウドトウが猫背気味に壇上に上がる。すると壇上から降りるオペラオーとすれ違いざまに視線を合わせ、くじを引いた。

 

「メイショウドトウ選手。2枠2番です」

 

 次々とウマ娘達がくじを引いていきデジタルの番が回ってくる。しかしデジタルは一向に壇上に上がる気配を見せない。

 

「おいデジタル!呼ばれとるぞ。早ようくじを引いてこい」

 

 デジタルはトレーナーに促されて赤青黄の色を散りばめたドレスをはためかせ小走りで壇上に向かう。オペラオーとドトウが一瞬交わした視線。あの視線で多くを語ったのだろう。さすがオペドト。ウマ娘史上最高のカップリングだけある。

 

「アグネスデジタル選手。7枠10番です」

 

 

 デジタルは壇上に上がりオペラオーとドトウに視線を配らせながらくじを引き、そそくさと自分の席に戻った。

 

「7枠か、もう少し内枠が良かったんだがな。て聴いてんのかデジタル」

「オペラオーちゃんと目が合っちゃったよ白ちゃん。あの紫にキリリとした瞳、それにこっちが目線を外すまで視線を晒さなかったよ。あの勝気なところがいいよね~。ドトウちゃんは一瞬あったけどすぐ逸らしちゃった。そのぶんいっぱい見れたけどグフフ」

 

 気味が悪い笑みをこぼすデジタルを見てトレーナーは思わず笑みをこぼす。自分の枠よりオペラオーとドトウの様子が気になるか。相変わらずの平常運転だ。

 そうこうしているうちに出走ウマ娘の枠順が決まり、記者会見に移り始めウマ娘達は再び壇上に上がるように促される。

 

「デジタル、不用意なことを喋らないように気を付けろよ」

「大丈夫大丈夫」

 

 トレーナーはデジタルが少しスキップ混じりで壇上に上がって行く後ろ姿を不安そうに見つめる。

 会見でファンやマスコミ受けが悪い、煽るようなことは言わない様に打ち合わせをしたが全く安心できない。頼むから余計な事を言うなよ。祈るように記者会見を見つめる。

 流れとしては全員が一言二言喋り、その後は記者たちが質疑応答に移り、全員が無難に答えていくなか、一人だけ空気を読まず喋るウマ娘がいた。

 

「降着にされたがオペラオーに先着したのは紛れもない事実。オペラオーの底は見えたし、宝塚でオペラオーにまぐれで勝ったドトウ、その他は問題なし!このレースを勝つのはあたしだ!」

 

 喋り終ると椅子にもたれ掛るように行儀悪く座る。黒と黄色のドレスは明らかに着崩している

 

 キンイロリョテイ

 

 中長距離のGIレースで三着以内に何回も入っている実力者。潜在能力はオペラオーすら凌ぐとも言われているがこの気性の荒さ故にレースで実力を発揮できていなかった。だが今年になって海外で行われたGIレース級のメンバーが集まったGⅡに勝利するなど本格化の兆しを見せて、トレーナーも警戒していた。

 

 しかしプロレスラーのマイクみたいだな。協会からは煙たがれ注意を受けているがファンの受けは意外と良いらしい。まあ興行という意味ではこういう者が一人ぐらいいたほうがオモシロい。

 キンイロリョテイのコメントが終わりデジタルの番が回ってくる。

 

 

「テイエムオペラオー選手やメイショウドトウ選手などの一流の選手と走れて光栄です。GIレースに恥じない走りをしたいと思います」

 

 トレーナーは胸をなで下ろす。打ち合わせ通りのコメントだ。さすがのデジタルもここではアドリブを入れてこないか。

 だが次の記者質問がやっかいだ。打ち合わせはしたが、こちらが想定していない質問をしてきてデジタルが不用意なことを言うかもしれない。そして質疑応答に移った。

 

「オペラオー選手、前哨戦では勝利しましたが降着繰上りでした。去年より不安要素が有るように見受けられますが?」

「問題ないね。調子も好調を維持している。宝塚では足元をすくわれてしまったが、もう一つも落とさない。秋のGIは全部勝ち、来年の春のGIも全部勝ち、文句なくキングジョージ、そして凱旋門に行かせてもらうよ」

 

 オペラオーのコメントに会場がどよめく。国内のレースに全勝して世界最高峰のレースに挑むと言い放ったのだ。ビックマウスだがもしかするとオペラオーなら。場の空気はそんな期待感に包まれる。そのコメントにキンイロリョテイがすかさず反応を見せる

 

「無理無理、ドトウ程度に負けるような奴に勝てねえ。というよりあたしがお前らを負して国内に引きこもらせてやるよ」

「相変わらずのビックマウスだねリョテイ。だがドトウはキミより強いよ。第一キミはボクとドトウに一度も先着していないじゃないか。いつになったら本格化するのかな?」

 

 売り言葉に買い言葉。キンイロリョテイは椅子から立ち上がりオペラオーに詰め寄り睨みつける。場は一触即発の空気に包まれる。数秒間両者の睨みあいが続きリョテイが視線を逸らし自分の席に座った。

 

「え~質疑応答を再開します」

 

 ザワザワと周囲がざわめくが司会が何事もなかったように進行する。

 

 

「ドトウ選手ははれてGIウマ娘になりましたが、何か心境の変化はありましたか?」

 

 先ほどの剣呑な雰囲気に委縮しているのかドトウはいつも以上にビクりと体を震わせ、いつも以上に恐る恐る口を開く。

 

「私がGIウマ娘なんて信じられないです。いまだに夢なんじゃないかって思っています。でも……でも……まぐれでもオペラオーさんに勝てましたのでそれに恥じないレースをして……また勝てたら嬉しいです」

 

 ドトウの丸まった背中が少しだけ伸びている。そのコメントにオペラオーの発言とは別の意味で会場がどよめく。インタビューでも会見でもつねにネガティブな発言しかしなかったドトウがオペラオーに勝ちたいと言った。この心境の変化に記者たちは驚いていた。

 

 質疑応答はオペラオー、ドトウ、キンイロリョテイの有力ウマ娘を中心に進んでいく。キンイロリョテイも言葉遣いは荒いものも比較的に大人しく質問に応えつつがなく進み、ついにデジタルに質問が回る。

 

「デジタル選手は久しぶりの芝ですが不安はありませんか?」

「……あっ、はい、すみませんもう一度お願いします」

「デジタル選手は久しぶりの芝ですが不安はありませんか?」

「えっと。芝のGIも勝っていますし、芝に対して違和感はありません。大丈夫です」

 

 デジタルは急に振られたせいか慌てながらも質問に答える。これはトレーナーが想定した質問であり答えをあらかじめ考えていたおかげで何とか答えられた。

 

「ウラガブラック選手を押しのけて天皇賞秋に出走するということは、余程自信がおありですか?」

 

 やはり来たか。トレーナーは内心舌打ちをする。デジタルとウラガブラックのことは切っても切れない話題だ。ゆえにこの質問にたいする答えも想定している。頼むぞデジタル。余計な事を言うなよ。トレーナーは祈るように見守る。

 

「レースに絶対はありませんので確実に勝てるという保証はありません。そしてウラガブラック選手が出走できないことは心を痛めております。ですが私も勝算を持ってこのレースに臨んでおりますのでご理解いただきたいとしか申し上げることができません。これ以上このようなことが起こらないようにマル外の出走枠拡大について協会の皆さまが御検討していただければ幸いです」

 

 よし練習通り、トレーナーは思わずガッツポーズをした。

 デジタルのこの応答に対しこれ以上突っ込めないと察したのか記者は質問を止め、ウラガブラックについての質問はされなかった。そして質疑応答は終了した。

 

「お疲れさん。ちゃんと答えられたな。あとオペラオーとドトウの妄想していただろう。だから最初の質問の時に聞き返した。違うか?」

「あれ分かる?いや~生オペドトでこんな濃密な絡みが見られるなんて!ドトウちゃん…」

「言うな。お前の妄想はだいたい分かる。」

「じゃあ言ってみて」

「リョテイにドトウを侮辱されたことに反応したオペラオー、そしてドトウがオペラオーに勝ちたいといったところから妄想してたんやろ」

「うん、だいたい正解。白ちゃんもわかってきたね」

「散々妄想トークを聞かされたから嫌でもわかるわ。よし帰るぞ」

「ちょっと待って、あと白ちゃん預けたスマホ貸して」

「何するんや?」

「オペラオーちゃんとドトウちゃんと話してくる!」

 

 

 デジタルはトレーナーからスマホを受け取るとそそくさと2人のもとに向っていく。

 周りを見渡すと雑談している二人の姿を発見した。二人の世界に割って入るのは大分気が引けるがチャンスは今しかない。意を決して二人に話しかけた。

 

「オペラオーちゃん、レースではよろしくね」

「ああ、ボクのレースを盛り上げてくれるように期待しているよ」

 

 デジタルは笑顔見せながら手を差し出す。オペラオーも一瞬デジタルを見るとにこやかに笑みを見せて手を握り返す。サラサラとして余分な脂肪がなく見た目通りのさわり心地だ。

 

「ドトウちゃんもよろしくね」

「GI二勝のアグネスデジタルさんによろしくなんて恐縮です……」

 

 ドトウも背中を丸めて恐る恐るデジタルの手を握る。プニプニとして肉感が良い、これまた見た目と同じような感触だ。

 これがあのオペラオーとドトウの手の感触。デジタルは憧れのアイドルの手を握ったファンのように舞い上がっていた。そしてその高揚した気分のままに今思っている率直な気持ちを二人に伝えた。

 

「外野が色々と言っているけど気にしないでね!あたしはオペラオーちゃんとドトウちゃんが好きだし、二人が一二着なのをつまらないと思っていないから!むしろずっとそうであってほしいと思っているから!」

 

 二人は予想外の発言に目を点にする。初対面の相手に好きと恥ずかしげもなく言い放った。それに二日後には一緒に走る相手に一二着であって欲しいと言うだなんて。変なウマ娘だ。

 だがその直球に伝えられた想いは嬉しくもあった。

 

 オペラオーとドトウはそれぞれリギルやスピカといったような有力チームに所属していない。それぞれ若手のトレーナーが率いているチームに所属していた。

 出る杭は打たれる。有力チームなら勝ち続けるのは仕方がないことだと済まされ周囲からの不満は軽減される。だが若手であるトレーナーは勝ち続けることで募ってしまう不満を軽減させる、トレセン内での地位もパワーも無かった。そしてそれは少なからずオペラオーとドトウにも影響を与える。

 超がつくほどのナルシストのオペラオー、引っ込み思案でネガティブ思考のドトウ。その性格ゆえにオペラオーは反感を買いやすく、ドトウは非難の的にされやすい。二人はそれなりに陰口や不満をぶつけられた。

 一二着を独占し続けることで外のマスコミからも中のトレセンからも不満をぶつけられる。それだけにデジタルの純度100%の好意は二人の心に響く。

 

「ふふふ、ありがとう。しかし質疑応答の時とは大分印象が違うのね。もう少し大人びた印象も抱いていたのだが、随分フランクだね」

「あれはマスコミにネチネチ言われない様の外面。普段はこんな感じだよ」

 

 デジタルはあっけらかんと喋るがその苦労はオペラオーとドトウにとって推し量れるものがある。

 リギルのウラガブラックを押しのけたことで物議を呼び、空気を読めと陰口を叩かれている場面を見ていた。マスコミからもトレセン内でも不満をぶつけられている、その環境に多少なりのシンパシーを感じていた。

 

「デジタルさんごめんなさい。私がマル外だったばかりに……私が出なければウラガブラックさんも出走できてデジタルさんとそのトレーナーさんも非難されなく……」

「それはダメ!ドトウちゃんはオペラオーちゃんと一緒に走らなきゃいけないの!それにあたしは平気だし二人が一緒に走るレースに出られるだけで充分だから」

「あ…はい」

 

 デジタルの勢いにドトウは思わず後ずさる。その姿を見てオペラオーは思わず笑みをこぼした。

 本当におかしなウマ娘だ。

 

 

「ところでデジタル。キミはレースに勝つ気はあるのかい?キミの気持ちは嬉しいが、ただ賑やかしで出走するのならそれはそれで不快だ。去年のドトウだって一応ボクに勝つ気でいたからね」

 

和やかな雰囲気が急激に引き締まる。その雰囲気に反応してかドトウがオペラオーとデジタルに交互に視線を配る。

 デジタルの言動から今一勝つ気が感じられない。去年散々負かし続けたドトウも言動はネガティブだが勝つ意志は感じられた。勝つ気がないウマ娘がいられては自分の勝利で終わる美しいレースが汚される。

 

「あたしは…あたしは…」

 

 デジタルの脳内ではオペラオーの質問がリフレインする。

 天皇賞秋に出走しようと思ったのはオペラオーとドトウのレースを、二人の絡みを生で間近で見たいからだ。そして…

 

「あたしはオペラオーちゃんとドトウちゃんと一緒に走って、そして二人に勝ちたい!」

 

 

 デジタルはオペラオーの目を見据えて決断的に言い放つ。

 オペラオーとドトウと一緒に走る天皇賞秋を存分に楽しめと周りの非難を一身に引き受けてくれたトレーナーのために。そしてレースに勝ちたいというウマ娘の本能が勝利への渇望を呼び起こした。

 

「そうか、これならボクの勝利で終わるレースが美しいものになりそうだ」

 

 オペラオーは満足げに笑った。デジタルの目に闘志が宿った。これはドトウとキンイロリョテイと同じぐらいの脅威になるかもしれない。

 

「ドトウもウカウカしていられないぞ。二着はデジタルになるかもしれないな」

「はい……いや、いいえ……私が一着でオペラオーさんが二着です……生意気言ってすみません」

 

 ドトウは気恥ずかしさからか二人から背を向けていつも以上に背を丸める。オペラオーはその様子を見てクスりと笑い、デジタルは鼻を抑えながら急に背を向けた。

 オペラオーが二着はデジタルと言った時にドトウはすぐに反応し、いつもと違うビックマウスを言った。そして思わず言ったビックマウスに気付き恥ずかしさで身を丸めた。一二着は自分とオペラオーのものであり、泥棒猫は引っ込んでいろということだろう。

 これが生のオペドト!何て破壊力だ!デジタルは鼻血が出ないように必死に興奮を抑える。

 

「ハァ…ハァ…ところで二人の写真を撮っていい?」

「ああ、かまわないよ。だがスマホのカメラじゃボクの美しさが伝わらないな」

「ごめんね。ちゃんとしたカメラ持ってないの」

「しょうがない。ほらドトウ」

「私はいいです……」

 

 オペラオーは座って丸まっているドトウを無理やり立たせる。

 

「じゃあ撮るよ。はいチーズ」

 

 デジタルは声をかけてシャッターボタンを押す。画面に映るのは俯き加減で猫背気味のドトウと、ビシッとポージングしているオペラオーの姿だった。何とも二人らしい姿だ。

 すると後方からオペラオーとドトウを呼ぶ声が聞こえてくる。それぞれのトレーナーが二人に会場から出るように催促していた。

 

「トレーナーが呼んでいる。じゃあデジタル、東京レース場で」

「デジタルさん、さようなら」

「じゃあ~ね~」

 

 デジタルはブンブンと手を振りながら二人の姿を見送る。するとトレーナーがデジタルの肩をぽんと叩いた。

 

「終わったか?」

「うん!生のオペドト、いやドトオペを見ちゃったよ!もう最高!それに二人のツーショットも撮っちゃった!見る!?見る!?グフフフ…」

「お…おう…」

 

 トレーナーは若干デジタルのハイテンションに引き気味になりながらスマホの画面を覗き込む。二人と会話できたことが相当嬉しいようだ。これなら良いテンションで天皇賞に臨めそうだ。いや逆に入れ込みに注意しなければならないな。

 写真をみると不思議なことに気付く。デジタルが映っていない、普通なら憧れの人と写りたいとオペラオーとドトウのスリーショットで撮ってもらうはずだが。そのことを尋ねるとデジタルは『こいつ何もわかってないな』と大きなため息をついた。

 

「白ちゃんは何もわかっていない!オペドトにあたしはいらないの!二人のツーショットにあたしが写ったら穢れちゃうでしょ」

 

 

 めんどくさいというか拗れている。

 

 トレーナーは半ばあきれながら、デジタルはプンプンと擬音がつきそうな怒り具合で会場をあとにした。




想定より文量が多くなってしまったのでレースは次になります


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勇者と覇王と怒涛♯2














(眠れない!)

アグネスデジタルは目を開けベッドから上半身を起こした。

 

天皇賞秋前日、レースの前日はいつもより早めに寝るのが鉄則である。だがデジタルの意識は眠りに落ちることなく覚醒し続ける。

ついに!ついに!オペラオーとドトウと一緒に走れる!二人はどんな会話を交わす?どんな表情を向ける?二人のことが頭に浮かび全く眠れなかった。このままでは睡眠不足でレースを迎えてしまうことに若干の危機感を抱き始める。

 

気分転換に散歩でもするか。

 

デジタルは同室のエイシンプレストンを起こさないようにこっそりと部屋を抜け出す。すると夜の学園は昼とは別の顔を見せていた。

日中は生徒の声で騒がしかった場所はまるで別世界のように静かだった。聞こえるのは風に揺れる紅葉や銀杏の葉の音と鈴虫の鳴き声ぐらいである。静かで心安らぐ音だ。そのかすかな音に耳を傾けながら当てもなく散歩する。

するといつの間にかチームプレアデスの部屋にたどり着き窓から光が漏れているのが目に入った。

テレビの消し忘れか?それとも誰かいるのか?

デジタルはチームルームの扉の前に立ちドアノブをまわすとドアノブはすんなりと回った。ということは誰かがいるのか?チームメイトかそれとも…

何が起きてもいいように警戒心を募らせながら入室する。そこには見知った後ろ姿があった。

トレーナーだ。モニターに映るレースを集中して見ており自分の存在に全く気付いていない。デジタルのなかにふとした悪戯心が芽生え、音をたてないように忍び足でトレーナーの背後に近づきいつもより少しだけ大きい声で呼びかけた。

 

「白ちゃん!」

「デジタルか、脅かすなや」

 

トレーナーは声をかけられた瞬間背中をビクりと震わせて慌てて映像を停止し、勢いよく後ろを振り向く。そしてデジタルの顔を確認すると安堵の表情を浮かべた。

 

「こんなところで何しているの?家に帰らないの?」

「今日は緊張して眠れそうにないからここで夜を過ごすことにした。ここなら東京レース場に近いし、朝になったら誰かしら来るから寝坊をする心配もない。デジタルは?」

「あたしも明日のことを考えると眠れなくて、学園を散歩していたらチームルームから明かりが漏れているのが見えたから来たの」

「そうか」

 

早く寝ろと小言を言おうと思ったがそれを止めた。

トレーナーは過去のことを思い出す。史上二人目の三冠ウマ娘のシンザン、その三冠がかかる菊花賞が行われる前日の夜、あの時も三冠達成の歴史的瞬間を生で見られると思うと楽しみと興奮で眠れなかった。

オペラオーとドトウと一緒に走れる明日はあの時の菊花賞以上に楽しみなのだろう。その興奮を抑えて寝ろというのは無理な話だ。

 

デジタルはトレーナーの真向かいに座ると何気なく喋り始める。

 

「もう明日なんだね。楽しみなイベント前は時間があっという間に過ぎちゃう」

「そうだな、それに色々あった。まさか出走するのにここまで言われるとは正直思っておらんかった」

「そうだね…そういえばチームのみんな何か言っていなかった?」

 

デジタルは声のトーンを少し落とし俯きかげんで質問した。

トレーナーは質問の意味を推察する。この質問の意味はチームメイトが自分のせいで迷惑がかかっていないかということだろう。

 

「心配するな。マスコミはお前が出走する件は全部俺のせいと信じているから、他の奴らに取材しに行っていない。それにお前が出ることに文句を言っている者はチームで一人もいない」

 

トレーナーは励ますように少し大きめな声でデジタルに伝える。

ウラガブラックの件でデジタルと一緒のチームだからと謂れの無い非難を受けているかもしれない。それを危惧してプレアデスのメンバー全員に聞き取り調査したところ、数人陰口を叩かれたと答えそのメンバー達はこう言った。

 

ほんのチョットはデジタルが出走しなければ陰口を叩かれないのにと思ったことはある。けどあれだけオペラオーとドトウと一緒に走るのを恋焦がれているのを見ているとそんな気持ち吹き飛んでしまう。

 

デジタルの情熱はチーム全員が知るところだった。デジタルにはオペラオーとドトウと一緒に走ることに集中してもらいたい。陰口を叩かれたメンバーはデジタルに心配かけまいとそんな様子を一切見せなかった。そしてチーム全員が天皇賞秋に向けてトレーニングなど献身的にサポートしてくれていた。

 

その言葉を聞きデジタルは安堵の表情を浮かべる。図太い神経の持ち主だと思っていたが人並みに周りのことを気にしていたのか。だがこれで少しは不安が和らぐだろう。

そしてデジタルの興味はテレビの映像に移っていた。

 

 

 

「それで何を見ていたの?」

「ああ、天皇賞秋に出る他のウマ娘のレースの最終確認だ。オペラオーやドトウの脅威になるとは思わないが癖とかを把握しておけば思わぬアクシデントも回避できる。まあそれをやらなきゃいけないのはお前やけどな」

「そういうのは白ちゃんに任せるよ。あたしは走るのが仕事、白ちゃんは考えるのが仕事」

 

トレーナーはデジタルの悪びれることない様子を見てオーバーリアクションでため息をつく。

まあ、全ウマ娘の動きを詳細に把握してレースを運ぶという離れ業は超一流と言われるウマ娘でなければできず、デジタルは明らかにそういうタイプではない。

逆に本来の力を発揮できなくなってしまう。調べてデジタルにもわかるように伝えるのが己の仕事だから問題ないが、せめて把握しようという努力は見せてほしいものだ。

 

「それよりオペラオーちゃんとドトウちゃんのレース映像ある?二人のレース見よ」

「近三走分の映像しかないぞ」

「え~何で二人の全レース持ってきてないの?まあいいや、とりあえずそれ流して」

「しゃあないな」

 

トレーナーはディスクを取り替えてとオペラオーとドトウのレース映像が入っているディスクを再生機に入れる。すると今年の天皇賞春のレース映像が流れた

 

『今年も覇王の強さは衰えない!テイエムオペラオー!春秋春の天皇賞3連覇達成!』

 

「はぁ~オペラオーちゃんはかっこいいな、泥まみれのこの姿がまた絵になる。それにドトウちゃんの2着になって、ほっとしたような嬉しいような悔しいような複雑な表情。いいよね~」

「オペラオーが完璧にレースを運んだな。あのレースをされたらどうしようもないわ。ドトウも中距離寄りのウマ娘だが3200でよく二着にきたな。やっぱり地力がある」

 

今年の天皇賞春のレースを見ながらデジタルはアイドルを見るファンのように、トレーナーは評論家のような顔をしながらそれぞれの見地でレースの感想を述べた。

 

「ねえ白ちゃん」

「なんや?」

 

デジタルはトレーナーに視線を向けず、画面から目を離さず質問する。トレーナーも同じように目を離さず相槌を打つ

 

「ねえ白ちゃん。そんなに緊張してるの?いつもだとそんな様子は無いのに」

 

トレーナーはデジタルの思わぬ質問に驚く。オペラオーとドトウにしか目が向いていないと思っていたが、こちらを気にかける余裕があったのか。

 

「チームのみんなが出るレースのたびにやり残しはないかって緊張しとる。だが明日は特別やな。何ていったってガキのころからの目標、いや夢が叶うかもしれないからな」

「夢?天皇賞が?」

「ああ、天皇賞はどうしても取りたいタイトルの一つで夢や」

「そうなの?白ちゃん海外かぶれだから取りたいのは凱旋門やブリーダーズカップとかで、国内のタイトルなんてどうでもいいと思っていた」

 

トレーナーはデジタルの反応に苦笑する。

確かに海外志向ではあるし、チームのウマ娘達に海外のレース事情などを語っていたりはしたが、そこまで国内のことを軽視していると思われていたのか。

 

「どうでもいいとはなんや。まあそこらへんも取りたいのは否定しないが、それ以上に欲しいのが天皇賞や」

「そんなに天皇賞が欲しいの?なんで?」

「それはGIレースのなかで一番古いからな、その分だけ歴史が積み重なり権威は増す。」

「へえ~そうなんだ」

 

トレーナーは感心している様子を見てデジタルの姿に思わずため息をつく。

おそらく授業で教えているはずだ、忘れているなこいつ。そんな様子を見ながら天皇賞に思いをはせる。

昔の天皇賞は日本で一番強いウマ娘を決めるレースだった。だが今は時が経つにつれ天皇賞の持つ意味も変わっていった。

最強ウマ娘を決めるレースは天皇賞ではなく、東京レース場でおこなわれる日本ダービーと同じ2400メートルのジャパンカップという認識になっており、注目度でも人気投票で出走ウマ娘を決める有マ記念のほうが天皇賞に比べて高い。

 

そういった意味では天皇賞は最も重要視されるレースではないのかもしれない。

だが、生まれる前から行われたという歴史に対する敬意、そして天皇賞を取る為にトレーナーが心血を注ぎウマ娘を鍛え、そのウマ娘たちが全力を尽くしてレースの数々。それらを幼き頃に見てその姿は心に強く刻み込まれ、憧れと夢を生んだ。いつか天皇賞に勝ちたいと。

 

そしてその夢を叶えてくれるかもしれないウマ娘、アグネスデジタルが出走する。

天皇賞秋に出走登録した時はオペラオーとドトウ相手に勝ち一着をとるのは難しいと思っていた。

だが天皇賞にむけて稽古を積むごとにデジタルは成長し仕上がりも万全だ。これならば充分勝機はある思えるほど手ごたえがあった。

 

一方デジタルも天皇賞に思いをはせるトレーナーについて考えていた。

トレーナーの言葉の一つ一つに想いの重さが感じられた。年は確か50代後半ぐらい、それでトレーナー免許を取得してから20年近く、どれほど想いこがれてきたのだろう?正直想像もできない。

 

「ねえ、白ちゃん。あたし昨日オペラオーちゃんに勝つ気があるのかって聞かれたの」

「それで何て答えた?」

「あるって答えた。正直言えば最初は勝敗には興味なかったの。ただオペラオーちゃんとドトウちゃんと一緒に走れればそれでいいって。でも今はかなり勝つ気あるよ」

 

デジタルはテレビ画面から目線を外しはっきりとトレーナーに視線を向ける。それは一種の決意表明だった。その決意を察したのかトレーナーもデジタルに視線を向けた。

 

ただオペラオーとドトウと一緒に走り間近で二人を眺めたいと思って出走を決意した天皇賞秋。今ではその初志に多くの想いが加わった。

天皇賞秋に出走する事で向けられる非難を一心に受けてくれ、長年の夢を叶えたいトレーナーの為。

同じチームに所属しているがゆえに色々と言われていたかもしれない、それでもそんなそぶりを見せずに接してくれたチームメイトの為。

次第に芽生えてきたウマ娘の本能として勝ちたいという自分の為。

 

勝ちたい。二人に勝ちたい。

デジタルの胸中には初志と勝利への欲が加わった。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「ふぁ~何だか眠くなってきちゃった。部屋に戻るね」

「ああ、気をつけて帰れよ」

「うん。白ちゃんも夜更かしはほどほどにね。じゃあお休み」

「お休み」

 

デジタルは30分ほどレース映像を見ながら雑談に興じると眠気が来たようで欠伸をかきながらチームルームを出て行った。

 

「かなり勝つ気があるか」

 

一人になったトレーナーはデジタルの言葉を自ら口にする。

デジタルの口からこのような言葉が出るとは思ってもいなかった。

勝利への執着が出てきたことはウマ娘として嬉しい変化だ。この言葉を聞いてデジタルの勝利が一歩近づいた気がした。

 

暫く映像を見ているとトレーナーに眠気がくる。

俺も寝るとするか。テレビの電源を切り、腕を枕代わりにして机に突っ伏し目を閉じた。

トレーナーは眠りに落ちる前に明日のレースを想像する。

思わぬ結果にどよめく東京レース場、そしてしばらくしてその走りを称えるように観客たちはその名を呼ぶ。

アグネスデジタルと

 

 

ピピピピ、ピピピピ

 

トレーナーは携帯電話から流れる電子音によって意識を強制的に覚醒させられる。その不快な音を止めようと半覚醒状態で携帯電話を手に取り音を止めた。

椅子に座った状態で体を大きく伸ばす、すると部屋が少し暗いことに気づく。

電気を消したが朝のこの時間ならもう少し明るいはずだ。トレーナーは窓を開けて目に飛び込んできた冷気と風景を見て思わず舌打ちをする。鈍色の空に地面を打つ水滴。外は雨だった。

天気予報では雨は18時過ぎと予想されていたが外れたか。この雨の勢いだと天皇賞秋がおこなわれる11レースではバ場状態は重だろう。

テイエムオペラオーは重バ場に強いウマ娘である。アグネスデジタルもダートGIに勝てるほどなので苦手というわけではないが芝で走るならキレを生かせる良バ場でやりたかったのが本音だ。これは天がオペラオーに勝てと言っているのか?そんなネガティブな思考が頭をよぎる。

 

「おはよう白ちゃん!」

 

すると笑顔を見せながらデジタルがチームルームに入室する。その笑顔は外の天気とは打って変わって快晴の様なニッコニッコの笑顔だった。

 

「おはよう。体調はどうだ?」

「ちゃんと眠れたし、絶好調!」

 

デジタルは鼻息荒く答える。様子からして言葉通りまさに絶好調なのだろう。仕上がりは完璧と言っていいだろう

しかしデジタルの様子はまるで遊園地にいく小学生のようだ。そしてこの姿を見ているとネガティブな思考が消し飛びポジティブ思考になっていく。

 

「よし、じゃあ行くか愛しいオペラオーとドトウが待つ東京レース場に!」

「うん!」

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「あ~疲れた」

 

一人のウマ娘が疲労困憊の様子で控室に入室し近くの椅子に腰をかけ息を吐いた。少女の服と体は泥でひどく汚れている。トレーナーは少女にタオルを渡し労いの言葉をかける。

 

「お疲れさんライブコンサート。厳しい展開だったがよう踏ん張った。」

「きつかったです。前の東京も重でしたけど前以上に足が止まりますね。まあ皆が勝っているしデジタルの前に負けられないですよ」

 

ライブコンサートは緊張感から解放されたのか、ホッと息を吐き笑顔を見せる。

 

ウマ娘のレースはメインレースの前に10個のレースが行われ、チームプレアデスのメンバーは2レース、3レース、9レース、そして天皇賞秋が行われる11レースにエントリーしていた。

そしてチームプレアデスは好調で2レース、3レースを勝利し、この9レースも勝利していた。

 

「おい、デジタル。チームメイトが勝ったんだから祝いの言葉でも言ったらどうや」

 

トレーナーは控室の隅でタブレットを凝視しているデジタルに声をかけるが反応は一切返ってこない。その態度を不満に思ったのか再度声をかけようとするがライブコンサートはそれを制止した。

 

「いいですよ。今のデジタルはオペラオーとドトウとのランデブーで頭がいっぱいみたいです。それに気に入ってくれて良かったです」

「どういうことや?」

「なんでもないです。じゃあシャワー浴びてきます。お疲れ様です」

「おう、お疲れさん」

 

ライブコンサートは一礼すると控室を後にしていく。トレーナーはその後姿を見送りデジタルに視線を移す。相変わらず脇目も振らずタブレットを凝視している。恐らくライブコンサートが来たことも気づいていないだろう。凄い集中力だ。

 

「11レースのパドックを開始します。関係者の皆様は準備してください」

 

すると控室のスピーカーからアナウンスが流れトレーナーは没入しているデジタルの肩を叩き大声で呼びかける。

 

「デジタル!デジタル!パドックが始まるぞ、準備しろ」

「え、もうそんな時間?」

「そんな時間だ。しかしそんな集中して何を見ていたんだ?」

「オペラオーちゃんとドトウちゃんの画像集。ライブちゃんやフェラーリちゃんが渡してくれたの。いや~見たことないものばっかりだよ」

 

デジタルのタブレットのなかにはレースやウイニングライブなどの公式な写真や、チームごとのブログに掲載されているオフショットのような日常の写真から学園の裏ルートで仕入れた盗撮まがいの写真まで様々なものが入っていた。

気に入ってくれて良かったとはそういうことか。デジタルのテンションをあげようと渡してくれたのだろう。トレーナーはチームメイト達の気遣いに感謝した

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「それでは第11レースのパドックを開始します」

 

場内アナウンスとともにウマ娘達の姿を写真に取ろうと集まったファン達がカメラや携帯電話を一斉に取り出し始める

 

パドックとはレース前のウマ娘たちが周回しながら準備運動などをする場所であり。パドックの中央にはランウェイが設置されており、ウマ娘たち一人ずつが姿を現し調子を確認するお披露目会のようなものである

パドックは第1レースから11レースまですべて行われ、第1レースはメイクデビュー戦や未勝利戦がおこなわれ余程熱心なファン以外はパドックには来ない、そして第2レース第3レースとレースのランクが高くなるごとにパドックを見に来るファンが増え、GIが行われるレースとなれば多くのファンが集まり人口密集度でいえば都心の満員電車と変わらないほどだ。

姿を見せる順番はファン投票数が少ないウマ娘から始まり、ファン投票数が一番多い者が最後に姿を現す。人気下位のウマ娘達から姿を現しそしてアグネスデジタルの名前が呼ばれる

 

「続いてアグネスデジタル選手です」

 

アナウンスとともにランウェイに姿を現すと歓声とシャッター音とフラッシュがデジタルを出迎えた。デジタルは最後から四番目、つまり四番人気である。過去数回GIには出走しているがここまで注目を受けるのは初めてだった。だがデジタルはそれらに動じることなく悠然とランウェイを歩く。その姿をトレーナーは関係者スペースでじっと見つめていた。

 

肌つやも良く、表情も過度な緊張も無くトレセン学園を出た時と同じくレースが待ちきれないといった表情である。いい状態だ。

 

デジタルのパドックが終わると交代するように三番人気のキンイロリョテイが現れた。このレースの3強と位置づけられるだけあって歓声とシャッター音とフラッシュの量はデジタルより多い。リョテイは気合満々といった具合にノッシノッシとランウェイを歩く。他のウマ娘なら入れ込んでいると判断されるところだがリョテイはいつもこんな感じである。

そしてキンイロリョテイと交代するようにメイショウドトウが現れた。

 

トレーナーは今まで何百、何万のウマ娘のパドックを見てきた。日本のレースだけではなく凱旋門賞やブリーダーズカップなどの世界のビックレースでのパドックも見てきた。その経験からごく稀にウマ娘から後光が差しているように光って見えることがある。そしてトレーナーの目にはドトウは光って見えていた。

光って見えるときはそのウマ娘が強いか調子がすこぶるいいときである。その感覚は100%正しいとは限らず光って見えていてもそのウマ娘がレースに勝たないこともしばしばある。だがトレーナーは楽観的に捉えることができなかった。

今日のドトウは強い、宝塚の時のオペラオーだったら完勝できるほどに。

オペラオーに勝つ事で成長すると思っていたがこれほどまでか。これはオペラオーよりドトウをマークしたほうがいいかもしれない。頭の中でレース展開をシミレーションしていくうちにパドックはドトウからテイエムオペラオーの番に変わっていた。そしてオペラオーの姿を見てドトウの出来のよさで険しくなったトレーナーの表情がさらに険しくなる。オペラオーの姿もまた光って見えていた。

 

昨日まで、いやパドックの姿を見るまでは正攻法で互角の勝負が出来ると思っていた。だがその認識は甘いことを思い知らされる。これはまともにいっては負ける。出し抜き奇襲奇策といわれる戦法をとらなければ勝てない。

 

トレーナーは脳細胞をフル稼働し勝利への道筋を探し始める。

相手、バ場状態、天候。様々や要素を考慮し思考する。パドックが終われば一旦控室に戻りそこからレース場に入る、それまでの時間は15分弱、それまでに見つけなければならない。

思考の海に没入する中トレーナーの脳内にある言葉が浮かび上がる

 

―――――重でしたけど前以上に足が止まりますね

 

ライブコンサートが何気なく言った言葉。確かに今日は普段の重と比べてタイムもいつも以上に時間がかかっている。コースの内側は相当荒れているのだろう。その瞬間ある一つの方法にたどり着く。まさに奇襲といえる方法だった。だがこれはデジタルに伝えるには躊躇してしまう作戦だった。これはデジタルの想いを踏みにじる方法だ。他に方法はないのか?残り少ない時間で必死に考えるが他の方法が思い浮かばず時間は無情に過ぎていく。そして選択肢は二つしか残されていなかった。伝えるか、否か。トレーナーの脳内では葛藤が渦巻いていた。

 

――――――――――

 

「デジタル、レースの作戦はどうするつもりだ」

 

控室に戻るとトレーナーが重々しく尋ねる。デジタルはレース前の高揚感からかその様子の変化を感じ取ることはできなかった。

 

「たぶんレースはドトウちゃんが宝塚みたいに抜け出してオペラオーちゃんがそれを捕らえる展開になると思う。だからオペラオーちゃんの後ろについて一緒に仕掛けようと思う。二人の叩きあいに加わって間近で見るの」

 

正攻法といえる戦術、それはトレーナーが数十分前まで考えていた戦術だったが今は状況が変わってしまった。トレーナーは一つ深呼吸をして苦々しい顔を作りながら言葉をつむいだ。

 

「デジタル…直線に入ったら…外埒に向かって走れ…」

「え?」

「オペラオーとドトウとの競り合いに参加したら勝てない。バ場状態が良い外に回ってお前の末脚のキレを生かしつつ二人の勝負根性をすかせ」

 

今日のバ場は予想以上に重い、だがすべての場所が重いとは限らない。それこそ誰もが通っていないルート、外埒付近ならまっさらな状態で走れる。デジタルは長く良い脚よりマイルCSに勝ったときのようにキレ味で勝負したほうがいい、そしてそのキレ味を生かせるのは荒れていないバ場だ。

そしてこの作戦の利点はオペラオーとドトウの勝負根性を最大限発揮できないことである。外埒付近を走るということは内側を走る二人から十数メートル離れることになる。内側ならデジタルの末脚で抜き去ろうとしても勝負根性を発揮し食らいつき抜き去ろうとするが、外ならデジタルが離れており、その比類なき勝負根性を持つ二人でもどうして弱くなってしまう。

 

その言葉を聞きデジタルの高揚感は急降下し、楽しみで待ちきれないという笑顔は真顔になっていた。

 

「やだ。それじゃあオペラオーちゃんとドトウちゃんの近くで一緒に走れないってことでしょ」

 

外埒に向かって走るということはまさに二人から離れるということである。仮にドトウが外埒に向かえばオペラオーがマークする為に外埒に向かうことがあるかもしれない。だが伏兵扱いのデジタルをマークする為にオペラオーかドトウが来ることはありえない。オペラオーとドトウの近くで走り二人の様子を観察する。それがデジタルにとっての大前提だった。

 

「大丈夫だよ!二人の勝負根性が凄いなら、あたしの勝負根性だって凄いもん!二人の近くで走れば二人以上に勝負根性を出せる!あたしを信じてよ!」

 

デジタルは懇願するがトレーナーは決して首を縦に振らなかった。デジタルが言うように二人以上の勝負根性を発揮するかもしれない。だがそのイメージを持つことができなかった。勝つためには叩きあいの勝負に持ち込むより外に出してのキレ味勝負しか考えられなかった。

 

「もういい、わかった……」

 

デジタルは観念したように呟く。そしてその表情はいつもアッケラカンとして朗らかなデジタルが見せたことが無いような冷たい表情をしていた。

 

「今日ばかりは白ちゃんの言うことは聞けない。あたしの好きなように走らせてもらうから」

 

デジタルの胸中は深い失望に満ちていた。トレーナーなら自分がどれだけ二人と走るのを待ち望んでいたか知っているはずだ。だからこそ負い目を感じないようにマスコミからの非難を庇ってくれた。そんなトレーナーを心から信頼していた。それなのに!トレーナーは二人の近くで走るなと言った!

今日ばかりは好きに走らせてもらう。例え指示に背いた事でチームをクビにされたとしてもかまわない。

デジタルはトレーナーと目線を合わせず控室を出ようとする。だがトレーナーはそれを止めるように両肩を握りしめ強引に目線が合うように振り向かせた。

 

「デジタル!お前はルール上問題ないにせよウラガブラックの夢を摘み取った!お前には勝利を目指す義務がある!自分の力を最大限発揮するのが勝利を目指すことやない!自分の力を削いでも相手の力をそれ以上に削ぎ上回ることが勝利を目指すことや!」

「そんなこと知らない。あたしはあたしの好きなようにするから」

「ならお前を応援し勝利を望むファン達、何よりチームのみんなを裏切るんか!」

「あたしだって!」

 

デジタルはトレーナーを睨むように顔を上げる。その目にはうっすらと涙を浮かんでいた。

 

「あたしだって勝ちたいし白ちゃんやみんなの期待に応えたいよ!でも……それ以上にオペラオーちゃんとドトウちゃんの近くで走りたいの……」

 

デジタルにも皆への感謝の念やその期待に応えたいという気持ちは充分にある。だがそれ以上に二人を感じたいという願望が強かった。なんて自己中心的なのだろう。それでもあふれ出す衝動を抑えることができない。デジタルの願いとレースへの勝利を計りにかけ苦しみ選択したトレーナーと同じようにデジタルも苦しんでいた。

 

デジタルの悲痛な顔を見てトレーナーの決意が揺らぐ、本当に、本当にこれ以外方法はないのか?考えろ!脳細胞が焼ききれるまで!トレーナーは必死に考える。人生でこれほど脳細胞を酷使したのは初めてかもしれない。そしてあるアイディアが脳内に閃く。

このアイディアが浮かんだときは自らの正気を疑った。だが勝利とデジタルの願いを叶えるためには常識はずれ奇想天外と言われるような方法をとるしかない。

 

「デジタル、勝利とデジタルの願いを叶える方法を思いついた」

「本当?」

「今から言うことはかなりアホで突拍子もない方法だ、いや方法とすらいえないもんや。こいつ頭イカれたかと思ってもとりあえず聞いてくれ」

「うん」

「この方法はルドルフでもブライアンでも出来ない。日本中、いや世界中探してもお前にしか出来ない方法だ」

「わかった」

「じゃあ言うぞ」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

各レース場には観客席の最上段のさらに上に関係者スペースが設けられている。レースではゴール版近くで観戦する者もいるが、大半のトレーナーやチームメイトや親族はこの関係者スペースで観戦する。そしてこのスペースにはトレセン学園所属のウマ娘及びトレーナーなら出入りは可能である。

 

「どうやら間に合ったみたいね」

 

その者達がスペースに入った瞬間周囲がざわめく、入ってきたのはトレセン学園ナンバーワンのチームリギルのトレーナー東条ハナ、そしてそのメンバーのシンボリルドルフ、ナリタブライアン、エルコンドルパサー、グラスワンダー、ウラガブラックだった。

六人は空いている観覧席に座りガラス越しにレース場を見下ろす。

 

「それぞれこのレースに出たならどこに位置取りどこで仕掛けるか、シミュレーションしながら観戦しろ」

「はい!」

 

メンバーはハナの言葉にしっかりと返答する。ウラガブラック以外は全員オペラオーとドトウが出走予定のジャパンカップに出走するメンバーだった。ここにきたのもテレビ観戦以上にレースを俯瞰的視点で見られるからだった。

 

「ちなみに誰が勝つと思う?」

「オペラオーが勝つと思います」

「同じくオペラオー」

「私は同じマル外としてドトウに期待しています」

「あたしもデース」

 

ハナの質問にそれぞれが答える。ルドルフとブライアンはテイエムオペラオー。グラスワンダーとエルコンドルパサーはメイショウドトウと答える。

 

「ウラガブラックは?」

「アグネスデジタルが負ければ何でもいいです……」

 

そしてウラガブラックは若干ふてくされ気味で答えた

 

「いつまでふてくされているんデス。じゃあ何で来たのデスか?」

「分不相応に出たアグネスデジタルが負けるところを見に来ただけです。というより痛いですエルコンドルパサー先輩」

 

エルコンドルパサーはヘッドロックを極めながら人差し指でウラガの頬をつついていた。

 

「でもそのおかげでダートの素質が分かって良かったじゃないデスカ。え~っと日本でいう~」

「怪我の功名?」

「それデス、グラス。怪我の功名デス」

「そうだな。せっかく仕上げたからとためしに出したがあそこまで適正が有るとは思わなかった。私の見る目のなさで危うくウラガの才能を潰すところだった。まさに怪我の功名だ」

 

エルコンドルパサーの言葉にハナは賛同する。

天皇賞秋に出走できなかったウラガは天皇賞の前日に開催されるダート1600メートルのGⅢレース、武蔵野ステークスに出走する。すると圧倒的なパフォーマンスを見せ一着になった。

 

「あっ、入場が始まりますよ」

グラスの言葉を聞きメンバーはレース場に注目を向けた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「お~いこっちだこっち!」

 

東京レース場ゴール板付近、男性が手を振るとそれに気づいたウマ娘二名が男性の下に駆け寄る。

 

「間に合ったな。傘をしまってこれを着ろ。ゴール前は傘を差さないのがマナーだ」

 

男性はレインコートを渡し、二人のウマ娘はそれを着用する。二人のうち一人はスペシャルウィーク、もう一人はサイレンススズカ、そして男性はチームスピカのトレーナーである。

サイレンススズカ、スペシャルウィークの二名もリギルの四人と同じくジャパンカップに出走予定しており、テイエムオペラオーやメイショウドトウの敵情視察も兼ねて東京レース場に訪れていた。

 

 

「トレーナーさん。わざわざ雨にぬれなくても関係者スペースで見ればよかったでは?」

「まあ、そうだがレース映像は後で見られるし、近くでしかわからないことも有るからな。何よりレースを見るならガラス越しじゃなく生で見るゴール前だろ」

「そうですね。皆が走るドッドッドッドって音の迫力は興奮します」

 

『各ウマ娘の入場です』

 

アナウンスが流れると観客達の歓声が上がり会場の興奮と緊張が高まっていく。それに呼応するように三人の鼓動が少しだけ速くなった。

入場はゲートの若い順番が行われ、一番のウマ娘が入場してくる。そして二番のウマ娘が入場すると歓声は大きくなった。

 

『今日も勝って政権交代なるか!?覇王の宿敵!二枠二番メイショウドトウ!』

 

メイショウドトウは体を小さくしながら入場するが、観客席を見ると何かを決意したかのように背筋を伸ばしその雄大な体をファンに見せる。

 

『潜在能力はメンバー屈指!その情熱を解き放て!四枠四番キンイロリョテイ!』

 

バ場に入場すると観客席に向かって雄叫びのようにシャアッと叫ぶ。その後返し運動をしながらゲートに向かう途中に突然サイレンススズカ達のほうに近づき何かを叫び、再び返し運動に戻った。

 

『府中に覇王が帰ってきた!前人未到の天皇賞四連覇へ!五枠六番テイエムオペラオー!』

 

オペラオーが入場するとこの日一番の声援が出迎える。オペラオーはその声援に舞い上がることなく動じることなく淡々と返し運動をしながらゲートに向かう。その風格はまさに王に相応しいものだった。

 

『物議を呼んだ出走、黙らせるには勝つしかない!七枠十番アグネスデジタル』

 

アグネスデジタルの表情は真剣みを帯びて険しく、一歩一歩踏みしめるごとに何か覚悟を決めるようだ。バ場の真ん中に立つと観客席、そして上部にある関係者席に目線を向ける。数秒ほど見つめるとゲートに向かった。

 

そして全ウマ娘が入場し、あとは発走まで待つのみになる。その間ファン達の予想や希望を話す声でレース場は騒がしくなりスペシャルウィーク達もその例に漏れなかった。

 

「ドキドキしますね!スズカさん!トレーナーさん!」

「そうねスペちゃん」

「そうだな。お前達が走るレースの時のこの時間は緊張で胃が痛むが、ファンとして迎えるこの時間はワクワクで楽しみだ。しかしリョテイがこっちに来たときは驚いたな」

「急に来てびっくりしました。何か怒らせたかと思いました」

「ごめんねスペちゃん。リョテイも悪気があったわけじゃないと思う。ただ感情が高まっているところに私を見つけたからそれをぶつけただけだと思う」

 

リョテイが迫り来る形相を思い出し少し怖がっているスペシャルウィークをサイレンススズカはあやすように声をかける。

リョテイの闘争心、いや気性の荒さは同期でもずば抜けていた。その気性の荒さゆえに様々なトラブルを招いていたな。スズカは数々の気性難エピソードを思い出し懐かしむように笑った。

 

「スペとスズカは誰が勝つと思う?」

「う~ん。メイショウドトウさんかテイエムオペラオーさんだと思います」

「私も無難ですがその両者だと。あとは同期の縁でキンイロリョテイにもがんばって欲しいです。トレーナーさんは?」

「まあ、その三強だろうな。あと個人的にアグネスデジタルを期待している」

「アグネスデジタルですか?」

「というよりトレーナーの白さんにかな」

 

デジタルじゃなくトレーナー。二人は思わぬ答えに驚きの表情を作る。

あの人の考えは破天荒で予測不能だ。

例えばアグネスデジタルがマイルCSを勝ったとき。芝では結果が出ずダートで結果を出していた。このままダート路線をいくと思いきやのことだった。関係者がその出走に戸惑っているなか勝利した。大半のトレーナーはマイルCSには出さないだろう。それほどまでに意外なことだった。

そしてこの天皇賞秋もダートを走ってから芝のレースに出走。マイルCSと同じ状況だ。何かしら勝算があるのだろう。だがアグネスデジタルは三強より劣っている。それがトレーナーの見立てだった。そうなるときっと奇襲や奇策をしかけてくるだろう。何を仕掛けてくる?トレーナーは作戦を予想しながら発走を待つ。

 

 

 

各ウマ娘がゲートに入る前に準備運動を行いながら集中力を高めていく。キンイロリョテイは内にある闘志を抑えきれないとばかりに他者を威嚇している。メイショウドトウはテイエムオペラオーを見つめながら何回も深呼吸を繰り返している。テイエムオペラオーは悠然と自然体に準備運動をおこない集中力を高めていく。そしてアグネスデジタルはメイショウドトウとテイエムオペラオーの様子を凝視していた。

二人の表情、呼吸、すべての要素を観察する。このときは観客の声も他のウマ娘の存在もデジタルの世界には存在しない。存在するのはドトウとオペラオーだけだった。

 

暫くするとファンファーレが鳴り響き観客席から地鳴りのような歓声が上がり、各ウマ娘達がゲート入りしていく。汚名返上、リベンジ、実力の証明、葛藤。様々な思いと願いを秘めながらゲートを開く瞬間を待ち続ける。その時間は長かったのか短かったのか?それぞれの体感時間とは裏腹に時間は過ぎてゲートが開く。

 

天皇賞秋が始まった。

 




この話で終わらせるつもりでしたが思った以上に長くなったので
レースは次の話になってます


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勇者と覇王と怒涛♯3

『ゲート開いて各ウマ娘一斉にスタートしました。さあどのウマ娘が飛び出るか。お~っとサイレントハンター出遅れた!』

 

観客席のファン、そしてレースに出る全ウマ娘に思わぬ展開に動揺が走る。

サイレントハンター

逃げの戦法を得意とするウマ娘であり、どのレースも果敢に逃げを打っていた。だが今日は大きく出遅れてしまう。ここから先頭まで駆け上がり逃げをするのは不可能ではないがそれだけで力の大半を使いレースに勝つ可能性はほぼ0%になる。それ故にサイレントハンターは後ろから走ることになる。

このまま予定通りレースをするか、それとも変更するか。ここでの方針決定が勝負を左右する場面であり各ウマ娘に判断が迫られていた。

 

『サイレントハンターの代わりに先頭に立つのは…メイショウドトウです』

 

ドトウは本来なら逃げをするウマ娘ではない。だがスタートが思ったより上手くいったこと、そしてサイレントハンターが逃げに失敗してスローペースが予想され、この状況ではいつもの位置取りより不慣れでも前にいったほうが、むしろ先頭に立った方がいい。瞬時に判断したドトウは先頭に位置付けた。

そのすぐそばにテイエムオペラオーが二三番手につけ、オペラオーにすぐ後ろ四五番手にキンイロリョテイがつける。そしてその3バ身後ろにアグネスデジタル。三強が前に、デジタルは中団に位置を取った。

 

『今、1000メートルを通過し1分2秒02といったところでしょう。先頭から最後尾まで約八バ身そこまで差が開いておりません。一団となっております』

 

これはバ場が重としても遅いペースだった。だがドトウは逃げウマ娘ではないのでこれはある意味必然なのかもしれない、直線のために力を温存するように溜めて逃げる、このペースで行くから前に行きたい奴は行け。それがドトウの主張だった。そして他のウマ娘達もドトウの主張に従うように後についていく。ペースが遅いならば前に位置したほうが有利でありドトウより前に、むしろ早めに仕掛けたほうがよいと思うかもしれないがことはそう簡単ではない。

ドトウを含めすべてのウマ娘達がこのスローペースに折り合うために行きたい気持ちを抑えて必死に我慢している。もし我慢できずスパートを掛けてしまえば予想以上に体力を消費していることに気づかず直線で力尽きてしまうだろう。

 

 

「ああ!うぜえ!」

 

 

『おおっと!ここでキンイロリョテイがなんと三角で仕掛けた!』

 

 

キンイロリョテイが三コーナーからドトウを抜き去り二バ身三バ身と差をつけて先頭に躍り出る。そして誰ひとり追走せずその様子を集団は見送った。リョテイは元々気性が荒いウマ娘だ、このスローペースに我慢できずに飛び出したのだろう。それに東京レース場ではタブーと言われる三角からの仕掛け、持つわけがない。これでこのレースから脱落した、それが集団の見解だった。

 

 

(オペラオーさんは……動かない)

 

 

オペラオーは王者としての誇りを持っており、相手を動いたのを見送ってそのままゴールされるというレースは絶対にしないウマ娘だ。もしオペラオーが動くなら動く準備をしていたが動かない。これは最後に垂れる、もしくは差し切れる自信があるということだろう。ならばこちらも動かない。マークするのはオペラオーでありキンイロリョテイではない。

 

 

『最終コーナーに入りキンイロリョテイ先頭!このまま押し切ってしまうのか?』

 

 

キンイロリョテイが内ラチ沿いにピッタリとくっつくように最終コーナーを曲がり直線に入る。その五バ身後ろからメイショウドトウを先頭にした集団がコーナーを抜けて直線に入った。

そしてメイショウドトウは道中ペースを抑え溜めていた力を一気に解放し宝塚記念と同じようにオペラオーより先に仕掛けた。そのスピードは集団を一気に置き去りにしみるみるうちにキンイロリョテイとの差を縮め残り300メートルで並んだ。

 

「てめえドトウ!あんなどスローにしやがって!こっちとはイライラして血管切れそうだったわ!レース後シメる!」

「ひい!ごめんなさい……」

 

 

キンイロリョテイは並んだドトウに睨みをきかせ噛み付かんばかりの形相を見せる。ドトウもその形相に驚くが、態度とは裏腹にスピードは全く衰えずリョテイを抜き去り半バ身リードした。

 

 

『ここでメイショウドトウがキンイロリョテイを抜き去り先頭に立った!』

 

 

「あっという間にリョテイさんを捉えました。すごい反応とスピードです」

「常識破りの三角からの仕掛けだが、並みの奴ならあの展開のリョテイを捉えられないし、捉えられても追い抜けない。強いウマ娘だ」

「本当にドトウは運がないデス。オペラオーが居なかったら覇王の称号はドトウだったデス」

「それはどうかな」

 

 

観客席上部の関係者席で観戦していたブライアンとグラスワンダーとエルコンドルパサーが私見を述べているとトレーナーのハナが口を挟んだ。

 

 

「オペラオーがいたからここまで強くなれたのだろう」

「なるほどオペラオーが引っ張り上げたってことデスね」

「いやドトウ自身が押し上がった。宝塚と天皇賞秋でオペラオーの二着になり周りからオペラオーのライバルと認知され始めた。本来ならオペラオーのライバルになれる器はなかったがそうあろうとした。その覚悟と自覚が彼女を押し上げオペラオーに一矢報いるほどになったんだ」

 

 

ハナの言葉を受け自らの体験を振り返る。シンボリルドルフとナリタブライアンは3冠ウマ娘として、エルコンドルパサーはダービーウマ娘として、グラスワンダーは周囲から怪物と賞賛されるウマ娘として周囲の期待にこたえようと努力してきた。それぞれがドトウの姿をどこか重ねていた。

 

 

「だが、覚悟と自覚なら彼女だって負けてない」

 

シンボリルドルフは呟いた

 

『残り300メートル、このまま二人の一騎打ちか?』

 

 

「一騎打ちだってよドトウ。それだったらお前相手なんて楽勝だ」

「それはないです。あの人は来ます」

「だよな」

 

 

残り300メートルとなり抜け出した二人の一騎打ちの様相を見せていた。後続を引き離しお互い雌雄を決しようとしているように見えるがまだ余力を残していた。

 

これで決まれば楽なのだが、そんな考えが一瞬過るがすぐさま打ち消した。あいつは必ず来る、そのために力を残しておかなければならない。二人は全く同じことを考えていた。そして二人は同じタイミングで後ろを振り返る。キンイロリョテイはうんざりとした顔を、メイショウドトウはどこか嬉しそうに笑う。予想通りそのウマ娘はやってきた。

 

『そしてやはり上がってきた!テイエムだ!テイエムオペラオーだ!真打登場だ!』

 

 

「やあ、リョテイにドトウ。露払いご苦労」

「来たなバカ王子!今日もあたしの方が強いってことを思い知らせてやる!」

「今日は真っ直ぐ走ってくれよ。このまま斜行したらドトウが巻き込まれる。まあキミの小さい身体じゃあドトウに弾かれるけどね」

「ハハハ!あの無駄に重い体重とデカイ胸で弾かれそうだ」

「私はそんなに重くありません……」

 

遅れてくるようにテイエムオペラオーが集団を抜け出し二人に迫り並んだ。二人はオペラオーが並んだのを見てすべての力を解放する。

だがそれでもテイエムオペラオーの速度は二人を上回りクビ差ほど前に出た。だがそこから差が広がらない。ドトウとキンイロリョテイはオペラオーに懸命に食い下がった。

 

 

三人による叩き合い。そのデッドヒートに観客は興奮し握りこぶしを固め、声を張り上げる。

 

『残り200メートルで三人の叩き合い!やはり三強で決まるのか!?』

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

『最終コーナーに入りキンイロリョテイ先頭!このまま押し切ってしまうのか?』

 

 

四コーナーを回り各ウマ娘が直線に入る。チームプレアデスのトレーナーは上部にある関係者スペースからアグネスデジタルの動きをただ静かに見守っていた。

あの時はあのようなことを言ったが時が経ち冷静に考えればかなり無謀で無茶、いや実現不可能なことをデジタルに課したのかもしれない。

仮にそれができたとしてもデジタルの願いが叶えられるかと言われればかなり怪しい。自分がやった行動は詭弁を弄してデジタルを騙しただけかもしれない。

あの時はデジタルに勝ってもらいたいから外を回れと言った。だが本当は自分が天皇賞の盾が欲しいから言っただけではないのか?

だとしたら何とも未熟だ。優先すべきはウマ娘であり己は二の次三の次なはずではないか!

結局作戦だけを伝えどのように走るかの最終決定はデジタルに委ねた。

だがデジタルにはオペラオーとドトウと併走して欲しいとすら思っていた。己の過ちで本意ではない走りで勝つぐらいなら、好きなように走ってもらいたい。勝利だけがすべてではない。何を目標にして何を重きに置くかはそれぞれの自由だ、それは他者が押し付けるものではない。そんな当たり前で重要なことを今さら思い知った。

 

『残り200メートルで三人の叩き合い!やはり三強で決まるのか!?』

 

そして直線に入って暫くして二人の人物がデジタルの異変に気づいた。一人はトレーナー、もう一人はウラガブラックだった。多くがオペラオーとドトウとキンイロリョテイの動向に注視しているなか二人はデジタルに注視していたから気づけた。

 

――――鼻血を出しながら笑っている!?――――――

 

『いや?外から?大外から?アグネスデジタルだ!』

―――――――――――――――――――――――――――

 

「外埒ぞいを走りながら限りなくリアルなオペラオーとドトウのイメージを作り出し併走しろ、それができれば実在する二人と一緒に走るのと変わらない。これでオペドトも堪能できるしレースにも勝てる」

 

この言葉を聞いた時はトレーナーの正気を心底疑った。まるで一休さんの頓智ではないか。いや頓智どころではない、強引にも限度がある。だがトレーナーはお前の妄想力ならきっとできると懸命に説得していた。

ふざけるな!もう少し真面目なことを言え!

この言葉が喉まで出かかったその時ある考えが頭をよぎる。これは試練ではないのか?

もし自分のオペラオーとドトウへの想いが本物なら現実と変わらないイメージ像の一つや二つぐらい作り出せると。

外に出せと言われたときはトレーナーに失望した。何故あたしの想いを理解してくれない。だがあの時の表情は魂を鑢がけされたような苦しく悲痛な表情だった。トレーナーも自分の想いとあたしの想いとの板ばさみで苦しんでいるのだ。

そしてトレーナーは苦しんで第三の方法を考え出し、そして最終決定はあたしに委ねた。

 

それは方法とすら呼べないものかもしれない。だが自分には到底考え付かないアイディアだった。そしてこの荒唐無稽な方法を世界中でもお前にしかできないと心の底から信じてくれた。

確かにオペラオーとドトウの間近で走りたいという想いは、勝ちたい、トレーナーやチームメイト達の気持ちに応えたいという想いより勝っている。だがそれは天と地の差ではない。ほんの僅かな差だ。

そしてトレーナーの提案を聞き想いに対する妥協が生まれた。現実と変わらないイメージを作り出しその二人と併走すればオペドトを堪能できるし問題は無い。それで勝てれば皆も喜びあたしも嬉しい。

デジタルは外埒に向って走りながら、今まで知りえた二人の情報を脳内からすべて引きずり出しイメージを構築する。だが二人の姿は目の前に現れない。

あたしの想いはこんなものか?もっとだ!もっと深く想像しろ!

さらに詳細なイメージを構築しようと脳を酷使する。そのせいかデジタルの鼻から血が流れていた。

 

(((……私は……たくない……たい)))

(((……い…トウ……ル……だ……く……くで)))

 

すると耳に誰かの声が届く、それはノイズが酷く聞き取りにくかった。だが次第にその声はハッキリと聞こえてくる。

 

(((私はオペラオーさんに負けたくない。勝ちたい)))

(((こいドトウ。ボクのライバル!今日もワンツーフィニッシュだ。ボクの一着、ドトウの二着で)))

 

聞こえた!

デジタルの耳には本来なら聞こえるはずの無い二人の声が鮮明に聞こえていた。するとそれと同じくして半バ身先にオペラオーとドトウの姿が現れていた。

息遣いの音、流れる汗の臭い、躍動する筋肉、一心不乱に走る表情。デジタルが作り出したイメージは圧倒的なリアリティを有しており、それは自分自身すらも錯覚に陥れていた。

これでオペドトを思う存分堪能できる!

デジタルは嬉しさのあまり無意識に笑っていた。

―――――――――――――――――――――――――――――

『アグネスデジタル!大外からアグネスデジタルが三強に襲い掛かる!』

 

「あのチビ!」

「え!?」

「一応警戒していたが、本当に来るのか」

 

三人も大外から猛然と迫り来るアグネスデジタルを視界の端に捉えていた。まさかそんな場所から来るのか!?思わぬ強襲に三人に動揺が走る。それぞれは全力で走っているが故に大外に視線を向ける余裕は無く詳細な情報を得られない、だが視界の端に映るアグネスデジタルの走りは三人に敗北の予感を与えるには充分だった。

 

「うぉおおお!」

 

負けてたまるか!勝つんだ!勝つんだ!勝つのはあたしだ!

キンイロリョテイは吼えながら体に鞭を入れる。限界、いやそれ以上の力を出す為に。その形相その威圧感はまさに獲物を狙う肉食獣のそれだった。

 

ーーーブロンズコレクター、シルバーコレクター

 

 

それが周囲からキンイロリョテイに与えられた称号だった。

数多くのGIレースに出走し多くの二着、三着。シルバーメダルとブロンズメダルを得てきた。

多くの精鋭が集まるGIレースで二着や三着に何度も入着できるということはそれだけで高い実力を持っている証であり、純粋に賞賛の意味で言う者もいる。だが多くのものは皮肉の意味を込めていた。

当然本人はこの称号は不名誉そのものだった。何とかその称号を払拭しようとするものも勝ちたいという気持ちが空回りしさらにGIで負け続ける。さらに同じシルバーコレクターと言われていたメイショウドトウですらついにGIを勝ち取った。

もうこれ以上負けられない!

 

周囲への嫉妬、自分の不甲斐なさ、世間への反骨心。それらを起爆剤に変えキンイロリョテイは一着を狙う。

 

『残り150メートルを残しメイショウドトウ食い下がる!懸命に食い下がる!』

 

メイショウドトウはすぐ内側を走るキンイロリョテイ、大外から迫り来るアグネスデジタルの存在を意識からかき消した。そしてクビ差ほど先に走るテイエムオペラオーだけに意識を集中させる。

最初はオペラオーのことは好きではなかった。超がつくほどナルシストで勝つたびに自分相手に自画自賛してくるのは本当に嫌だった。何度も何度も負かされ、オペラオーとのレースのたびに胃が痛む日々で最終的には悪夢で出てくるほどだった。

 

だが今では嫌いではない。

一年通してGIの舞台で何回もウイニングライブを歌ったことで親近感も沸いてきた。そのせいかナルシストぶりも生暖かい目で見られるようになり、良い所も目に付くようになった。何よりそのうんざりするほどの強さは尊敬できるものであり憧れていた。

オペラオーは本当に強い。キンイロリョテイやアグネスデジタルより速く走るだろう。だからオペラオーに先着することだけを考えればよい、そうすれば勝利はついてくる。

宝塚記念で勝利したときは本当に嬉しかった。オペラオーと一緒に主役としてライブを行ったときは本当に楽しかった。だから今日も勝って主役としてオペラオーと一緒にライブをするんだ。

 

宿敵への憧れ、勝利への欲望。それらを推進力に変えメイショウドトウは一着を狙う。

 

『オペラオー先頭!オペラオー先頭!このまま押し切れるか!?』

 

アグネスデジタルの姿を視界の端に捉えたとき嫌な記憶が強制的に呼び起こされた。同じ東京レース場でおこなわれた日本ダービー、あの時も直線で先頭に踊り出た。このまま押し切れると思ったが結果的には早仕掛けであり直線半ばで同期の天才アドマイヤベガに差し切られる。あのレースは今でも夢に出てくるほど悔しかった。リベンジしようにも天才は一等星のように輝き瞬く間に駆け抜けてしまい今はトレセン学園にいない。

 

後方のウマ娘が猛然と迫っているこの状況はダービーの状況と似ている。だがあの時の自分ではなく多くの敵と激戦を繰り広げ成長してきた。今なら押しきれる。

 

宝塚ではウイニングライブを望んでいるボクのファンの期待を裏切ってしまった。そして何より悔しかった。長く味わっていなかった敗北の味がこんなにも苦く苦しいものとは思っていなかった。もうあんな思いはたくさんだ。そして世界に行く為に秋のGIも全部勝って春のGIも勝って日本の王者として世界の舞台に行く!ファンのために、ボクのために勝つ!何よりドトウには負けたくない!

 

応援する者の期待、王者としての誇り、過去の清算。宿敵へのライバル心。それらを燃料に変えテイエムオペラオーは一着を目指す。

 

『しかしアグネスデジタル凄い脚!凄い脚!このまま三強を差しきれるか!?』

 

(((待って!待ってくださいオペラオーさん!私を置いていかないでください!)))

(((頑張れドトウ。今日のレースも、ジャパンカップも、有マ記念も一二着はボクたちのものだ。二人のライブで観客達を虜にしよう)))

(((はい!)))

 

(キテるキテるキテるキテる!オペドトキテる!)

 

脳内で作り上げたオペラオーとドトウの心の声はナレーションとしてデジタルの耳に届く。これだ!これがオペラオーとドトウの絡みだ!レースに出て本当に良かった!けどもっと近くで見たい!感じたい!

デジタルは一バ身先をいる作り上げた理想の二人に近づこうと全力で走る。だがチームメイトやトレーナーの為に勝ちたいという勝利への願いが無意識に作用し永遠に縮まらない一バ身差を作り上げていた。それに気づかないデジタルはニンジンをぶら下げられたウマ娘のように永遠に追いかけ続ける。

その結果本来のキレ味と二人に追いつくために発揮する勝負根性が合わさりデジタルは圧倒的な速度で三人に迫っていた。

二人への執着、個人的願望、周囲の期待。それらをエネルギーに変えアグネスデジタルは一着を目指す。

 

『さあ、残り100メートル、勝つのは誰だ!誰なんだ!?』

 

キンイロリョテイ、メイショウドトウ、テイエムオペラオー、アグネスデジタル。

それぞれが思いを秘め天皇賞の盾を勝ち取る為に全力で駆け抜ける。それぞれの心情を知る者がいれば四人全員に勝って欲しいと思うだろう。だが現実は勝つのは唯一人。そしてその審判は下された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『勝ったのは……アグネスデジタル!二着にテイエムオペラオー、三着にメイショウドトウか?オペラオードトウ王朝崩壊!アグネスデジタル三強を見事に撫で斬った!これでウラガブラック陣営も納得でしょう』

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

「まさか」

「すげえ切れ味」

「ワオ!ファンタスティック!」

「これは予想外です」

 

チームリギルの面々から困惑、驚嘆、賛美の声が漏れる。まさかアグネスデジタルが勝つとは。フロックの勝利ではと頭を過ぎったがすぐに打ち消す。確かにアグネスデジタルは三人を出し抜いたと言っていいかもしれない。だが出し抜いたからといって勝てるほど三人は弱くは無い。これはアグネスデジタルが強いのだ。

 

「トレーナーはこの結果の予想はできたか?」

 

ルドルフの言葉にハナは言いよどむ。

データとしては勝つ可能性はあったが交通事故レベルの話だった。

アグネスデジタルが2000メートルでこれほどの切れ味を発揮するとは思ってもいなかった。そして通ってきたルート、結果的に見れば切れ味を生かす為に大外を通ったのだろうがあそこまで極端に外を回すとは。なんと斬新な発想だろう。

 

「勝っちゃった……」

 

ハナとルドルフ達と離れた処でウラガブラックは呆然とレース場を見つめながらポツリと呟いた。

まさか、本当に勝つとは。今日この場に来たのは秋の天皇賞に出られなかった鬱憤をデジタルが負ける姿を見て晴らすためだ。デジタルがマスコミに色々と言われていたのは知っている。その様子を見てもいい気味だ、ざまあみろと内心で嗤っていた。

だがデジタルは前評判や世間の罵倒を跳ね除け見事に勝利した。この結果を見せられれば世間も黙らざるを得ない。そしてウラガブラックも。

ウラガブラックは無意識に賞賛の拍手を送っていた。

 

「うおおお!スペ!スズカ!オペラオーとドトウが負けたぞ!アグネスデジタルが勝ったぞ!」

「はい!アグネスデジタルさん凄かったです!」

「まさか二人が負けるなんて」

 

アグネスデジタルの勝利で困惑に包まれる東京レース場でスズカは会場の空気と同じように困惑し、反対にスピカのトレーナーとスペシャルウィークはレースの様子を見て興奮を抑えきれないという様子を見せていた。

アグネスデジタルは外埒に向かうように走った。その姿はスペシャルウィーク達がいた最前列からはもっとも近く見えていた。泥しぶきを巻き上げながら間近で走るその姿はスペシャルウィークに今までの観戦で味わったことのない迫力と興奮を与えた。

そしてスピカのトレーナーはそのレース内容に興奮していた。

アグネスデジタルのトレーナーは奇策をうってくる。逃げを打つか?それとも常識破りの三コーナーからの捲りか?

 

だがその予想すら外れていた。文字通り大外に出しての強襲。誰も通ってない真っ新なバ場のところまで外に出す。これで切れ味を発揮できオペラオーやドトウの根性もすかすことができる。結果を見れば合理的考えと言えるだろう。だが大半のものは常識が邪魔し思いつかないだろう。

このルートはオペラオー達に比べ恐らく50メートルは余分に走っている。

仮にオペラオー達が全くロスなく走ったと仮定すれば20バ身のハンデを背負うことになる。20バ身とはとてつもない差である。20バ身差あればデビューしたばかりのウマ娘でもGIウマ娘に勝つことが可能であり、それほどまでの差でもある。

 

レースの道中は距離損をできるだけ無くすのが鉄則だ。それを20バ身の大回りをして外に回せと勝算があったとしてもどれほどのトレーナーが言えるだろうか?

トレーナーのアイディアと胆力、そしてそれを実行したアグネスデジタルの実力。その二人が合わさりあのオペラオーとドトウに勝った。トレーナーはその勝利に酔いしれていた。

「デジタル!」

 

チームプレアデスのトレーナーはアグネスデジタルが一着で駆け抜けた瞬間、すぐさま地下検量室に向かう直通エレベーターにすぐさま飛び乗った。デジタルが一着になった時は人生で最高の感動と興奮が去来した。だがその興奮はあっという間に引き後悔が押し寄せる。

 

デジタルは自分の意志を曲げてまで走った、いや自分が曲げてしまった。トレーナーの胸中に後悔と懺悔の気持ちが渦巻く。どんな顔であいつと顔を合わせればいい、何と言葉をかければいい。様々な言葉が脳裏に過る、そしてその多くの言葉のなかでかける言葉は謝罪の言葉だけであると悟った。誠意を持って謝りどんな対応を受け入れる。それが自分の見せる誠意だ。

トレーナーは地下検量室にたどり着き地下バ道から降りてくるデジタルを待つ。デジタルは怒っているだろうか?悲しんでいるだろうか?トレーナーは自分に向けられる表情を想像する。すると地下ウマ道に歩行の反響音が聞こえてくる、デジタルが来た。トレーナーはどんな表情や罵声を向けられても挫けないように深呼吸する。だがトレーナーに見せた反応は完全に予想外のものだった。

 

「白ちゃん!」

 

デジタルがトレーナーを見つけると満面の笑みを見せながら駆け寄る。その様相は興奮覚めやらぬ。いや極度の興奮状態といっていいものだった。

 

「いや~オペドト最高!あんなに間近で見れちゃった!このレースに出られて本当に良かった!ありがとう白ちゃん!」

「デジタル……お前その鼻血は大丈夫か?」

「ああ、これ?それは二人の走りを間近に見られたんだから鼻血の一つや二つ出るよ!」

 

 

デジタルは今気づいたというように無造作に鼻血を手で拭いとる。一方トレーナーはデジタルの極度なハイテンションに戸惑っていた。そしてその言葉に違和感を覚えていた。

あんな間近で見たと言ったが道中はそこまで近くにいなかった、それに直線でも大外に出たからオペラオーとドトウとは離れていたはずだ。まさか自分が言った突拍子もないアドバイスを実行し実現させたというのか?

 

その時ある考えが過る。

デジタルは指示通りオペラオーとドトウのイメージを作り出し一緒に併走した。そしてそのイメージを作ったことで催眠術をかけられた状態のように強い自己暗示をかけてしまった。その結果オペラオーとドトウと一緒に走ったと思い込んでいるのだ。

確かにデジタルはオペラオーとドトウに対する執着が強く。そして思い込みが強く妄想癖がある。そういった性格を踏まえてイメージを作り出せるのではと作戦を提案した。だがここまで効果を発揮するとは思っていなかった。

 

「デジタル…その……」

「お互い一緒にウイニングライブ歌いたかったみたい!そうレース中に言っていたの!だからずっと一着二着を取れたんだよ!いや~あの二人の愛の力は偉大だね!あたしも頑張ったんだけどね~たぶん三着かな?二人の愛の力には勝てなかったよ!」

 

デジタルはどこか嬉しそうに笑顔見せる。だがまるで薬物中毒者のように目は血走っておりその笑顔はどこか薄気味悪さを醸し出していた。

確かにアグネスデジタルは一着でゴールを駆け抜けた。だがその目の前にはイメージで作り上げたオペラオーとドトウの姿があった。そのイメージはデジタルにとって真実であり、ゴールを一着で駆け抜けたのはオペラオーとドトウだった。

 

「それでね!それでね!」

「デジタル!」

 

なおも喋ろうとするデジタルをトレーナーが遮るように声をかける。その声は計量室に響き渡りそこにいた人たちは思わずトレーナー達に視線を向ける。

 

 

「デジタル。お前は勝ったんや」

「え?違うよ。一着と二着はオペラオーちゃんとドトウちゃん。あたしは三着以下だよ」

「違う。それはお前が生み出した幻や。オペラオーとドトウが内側で走るところお前は大外に出して全員を差し切った。あれが答えや」

 

デジタルはトレーナーが指を指したほうに視線を向ける。ホワイトボードには書かれているのは1着の場所に10番、2着には6番、3着には2番。10番はアグネスデジタル、6番はテイエムオペラオー、2番はメイショウドトウだ。そして数字の下には確定の文字。これは着順が確定した証しである。

 

「あ…あたしが勝った?」

 

デジタルは事実を再確認するように呟く。

レース中の興奮状態と2人に対する執着と強い思い込みがデジタルに自己暗示をかけさせた。ただ時が経ち興奮が治まってくることで解けていき、それと同時に記憶が鮮明になっていく。

そうだ、直線に入りトレーナーの指示通り外埒に向ってそして二人の姿をイメージしたのだ。

 

「うん。そうだ。そうだった。オペラオーちゃん達は内を走ってあたしは大外を走ったんだ」

「すまなかったデジタル!」

 

物悲しそうに頷くデジタルの姿を見てトレーナーは90度近く頭を下げて謝罪した。

妄想で幻覚を見るほどにデジタルは二人と一緒に走ることを望んでいた。それを自分の指示でぶち壊した。デジタルの表情を見て後悔と罪悪感がトレーナーを責めたてる。

 

「顔を上げてよ白ちゃん。あたしは……怒っていないよ。勝てたことは嬉しいから。これを選んだことに悔いはないよ」

 

デジタルは少しばかりの後悔を押し込めるように白い歯を見せるような笑顔を作った。

オペラオー達の近くで走らなかったことに後悔が無いと言えば嘘になる。だがチームメイト達やトレーナーの為に勝てたことは嬉しく、選手としてオペラオーとドトウに勝てたことは嬉しい。

 

それに自分が作り上げた二人のイメージ。あれは我ながら良いものだった。だがあれはチームメイト達がオペラオーとドトウの資料を集めてくれたから。そしてトレーナーが天皇賞秋に出走を許可してレースに集中できるようにしてくれたから。だからこそレースに向けて二人を想い、前々日会見で二人と会話できた、パドックなどで間近で見られてより精巧なイメージを作り上げることができた。天皇賞秋に出られなければここまで二人を想うことなくこんな体験はできなかった。

 

「ほんまか?」

「ほんま!ほんま!それより少しは褒めてよ『お前はほんま凄いやっちゃやな!』とか『天才ウマ娘』とかさ!」

「ああ、お前はほんまに凄い奴や。こんなアホみたいな作戦実行できるのは日本中、いや世界中探してもお前だけや」

 

デジタルの明るい口調に合わせる様にトレーナーは軽口を言い放つ。しかしトレーナーはデジタルの一瞬表情が曇るのを見逃さなかった。デジタルは許してくれたがその好意に甘えてはならない。今回のようにチームのウマ娘の要望を切り捨てるようなことはならない。要望に応えつつ勝たせる。それができるように鍛え作戦を考えるのがトレーナーの仕事だ。

デジタルの一瞬曇った表情、それを脳裏に深く刻みつけた。

 

「あ……」

「どうした?」

「あたしが勝ったっていうことは……オペドトのワンツーフィニッシュが途絶えたんだよね」

「そうやな」

「あたしが……オペドトの…あの美しい関係を壊しちゃった……」

 

突然デジタルの目から涙が流れ思わず手で顔を覆った。

オペラオーとドトウのワンツーフィニッシュ。それは二人の想いの、友情の、愛の結晶である。成績に並ぶ1着テイエムオペラオー2着メイショウドトウ、もしくはその逆の結果は美しくすらあった。レースに勝つことはその美しい結果を壊すことになる。それは分かっていたつもりだったが、いざ目の当たりにすると罪悪感と悲しみがデジタルを襲う。

 

「なあ、デジタル。永遠に続くものはそうあらへん。お前が1着にならなくてもいずれは誰かが1着になっていたかもしれん」

「そんなことないもん!」

「それに二人のワンツーフィニッシュが崩れたからこそ、二人の関係に変化が生じ生まれるものがあるんやないか?それもお前の言うキテる要素なのかもしれんぞ」

「なるほど……」

 

確かにそうかもしれない、デジタルは思わず頷く。

3着になったことに不甲斐なさを感じるドトウ、その負い目からオペラオーと会っても思わずその場を立ち去ってしまう。それを不審に思ったのかドトウの後を追うオペラオー。考えるだけ色んな展開が予想できる。

二人のワンツーフィニッシュは美しい関係だと思っていたがそれはマンネリ、倦怠期を生むこともある。時には刺激も必要だ、それによって二人の関係はより素晴らしいものに変わっていくかもしれない。

 

「じゃあ、あたしは少女漫画で出てくる恋のライバルキャラってことね」

「よくわからんがそういうことや」

「二人の関係に関われるなんて光栄だな~グフフフ」

 

トレーナーはデジタルが元気になった様子を見て胸をなで下ろす。

デジタルの態度は敗者に対する憐れみに見られてしまうかもしない。だが憐れんではいない、本気で悲しんでいるのだ。

例えば憧れの選手と対戦しその選手に勝ってしまった、越えてしまったと悲しむことはあるかもしれない。だがデジタルにはそういう気持ちはなく、ただ二人のワンツーフィニッシュを壊してしまったことに本気で悲しんでいる。こんなことを考えるのはデジタルだけだろう。本当に不思議なウマ娘だ。

 

「やられたよ。アグネスデジタル」

 

 

二人が声をかけられた方を振り向くとそこにはオペラオーが立っており、勝負服と顔は泥にまみれていた。右手に着いた泥をふき取り差し延ばす。デジタルもそれに応じる様に右手を差出し握った。

 

「あの末脚は凄かったよ。じゃあウイニングライブで」

 

オペラオーは手を振ると自分のトレーナーのもとに歩を進める。その後ろ姿は背筋がピンと伸び凛々しさすら感じられた。

 

「オペラオーの手を見たか?」

「うん」

 

右手を差出し握手し何気なく会話をしているなか、左手は握りこぶしのまま震えていた。あれは悔しさの抑える為に力一杯手を握っていたのだ。本来なら悔しくて口を利きたくないはずなのに、己の流儀か敗者としての流儀かは分からないが勝者に賞賛の言葉を送ったのだ。

 

「今回は紛れもない不意打ちや2度目は無い。あんな負け方したオペラオーにとってたまらないのに一切言い訳を言わずお前を讃えた。強いウマ娘や」

「うん。本当にかっこいいよ」

 

グッドルーザーという言葉があるがテイエムオペラオーの姿はまさにそれだった。

誇り高き王者。デジタルはオペラオーに尊敬の念を抱いていた。一方ドトウは背中を丸め悔しそうにしておりトレーナーが慰めている。その刹那デジタルに恨めし気に視線を送りそれを受けて思わず身震いする。

ワンツーフィニッシュを崩されて相当悔しかったのだろう。再び罪悪感が去来し胸が苦しくなるがそれを懸命に耐えた。二人にはこれを糧にして強くなってもらいたい。そしてジャパンカップや有マ記念。そしてウインタードリームトロフィーに出てくる強敵からワンツーフィニッシュをもぎ取ってもらいたい。それが二人のファンとしての切なる願いだった。

 

「ところでデジタル、代えの勝負服持っているか?」

「うん、持っているよ」

 

デジタルは質問に答える。GIレースに出走するウマ娘達は不測の事態に備えて予備の勝負服を持っていた。

 

「なら、表彰式が始まるからすぐに着替えて来い」

 

 

トレーナーの言葉を聞き自身の勝負服を確認する。バ場が荒れていないところを通ったのでオペラオー達のように泥まみれにはなっていないが、道中の他のウマ娘達が蹴り上げた芝などでそれ相応に汚れていた。デジタルは着替えてくると言い残すと足早に控室に戻っていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

『これより秋の天皇賞の表彰式を行います』

 

厳かな音楽をBGMにデジタルは真新しい勝負服、トレーナーは一張羅といえるスーツを身に纏いコースの中央に設けられた表彰台に上がる。するとプレゼンターが促すとともに観客席から盛大な拍手と多くのフラッシュ光が二人を出迎える。トレーナーの表情は緊張の色を見せ、デジタルはいつも通りの日常と変わらないといった具合の平静とした表情だった。

 

『それでは中央ウマ娘協会理事長より天皇盾の贈呈を行います』

 

 

理事長が白手を装着しデジタルも係員から白手を受け取り装着する。GIレースに勝利すると優勝トロフィー、またはそれに類するものを受け取るが天皇盾のみ白手を装着する。素手で盾に触れてはならず白手を着けるのが慣例になっている。

盾を渡す前に両者が握手を交わしその後に盾を渡すという流れになっており、予定通り握手を交わす。するとデジタルが理事長に何か喋りかけている。トレーナーは聞き耳を立てるがデジタルから距離が遠く雨の音のせいでよく聞き取れない。理事長は一度首を横に振りデジタルは尚も懸命に頼み込む。すると理事長は首を縦に振った。するとデジタルは白手を外しトレーナーに渡した。

 

「あたしはいいから、白ちゃんが盾を受け取りなよ」

 

普通ならトロフィーはレースの主役であるウマ娘が受け取るものであり、トレーナーが受け取ることはまずない。それをトレーナーが受け取ることは異例の事態でもある。

 

「あかんやろ、お前が受け取れ」

「だって小さい頃からずっとずっと欲しかったんでしょ。ならあたしより白ちゃんが先に受け取るべきだよ」

「あかん。理事長が許さん」

「さっき頼んだらいいよって言ってくれたよ」

 

さっき何か二人で話していたのはこのことだったのか。トレーナーは理事長に視線を送ると無言で頷き早くしろと視線で語る。天皇賞秋でのマル外出走枠は増やさないのに、こういうところは融通が利くのか。デジタルに視線を向けると行ってこいとばかりにウインクを見せる。

 

観念したトレーナーは白手を装着し天皇盾を受け取る。それは想像していたより重かった。これが歴史の重みなのか。すると脳裏に様々な記憶が蘇る、三冠ウマ娘シンザンが勝った天皇賞のレースを始め数々の激闘、そしてトレーナーになってからの日々。楽しいことも嬉しいことも辛いこともあった。そして今日アグネスデジタルという素晴らしいウマ娘によってこの天皇盾を受け取ることができた。トレーナーの目には一瞬涙が浮かぶ、だがそれは雨粒で見えなくなった。

 

その後表彰式はつつがなく終了する。するとチームプレアデスの面々がコースに集まってきた。GIレースでは表彰式の後に記念撮影を取ることが許されており、参加者としては本人、トレーナー、所属チームのメンバー。優勝ウマ娘の親族などである。

 

「やったなデジタル!」

「あのオペラオーとドトウに勝つなんて凄いです!」

「会場のあのどよめき。痛快だったよ!」

 

チームのメンバーがデジタルに抱きつき祝福の言葉を送り時には手荒く祝福した。その様子をトレーナーは嬉しそうに眺めていた。皆の喜びがオペラオーとドトウの近くで走れなかったデジタルの悲しみを癒してくれればいいのだが。

そしてデジタルはそれに満面の笑みで応えていた

デジタルへの祝福が終わると記念撮影を取るために列を作り、デジタルとトレーナーが中央で天皇盾を二人で持ちそれを囲むようにチームのメンバーが並んだ。トレーナーは中央にいくことを拒んだがチームメンバーが強引に位置取らせ写真を撮らせる。写真に写るすべての者は満面の笑みを浮かべていた。

 

 

天皇賞秋 東京レース場 GI芝 重 2000メートル

   

着順 番号    名前       タイム    着差      人気

 

 

 

1   10  アグネスデジタル   2:02.0           4

 

 

 

2   6  テイエムオペラオー  2:02.2    1       1

 

 

 

3   2  メイショウドトウ   2:02.2   クビ     2

 

 

 

4   4  キンイロリョテイ   2:02.3   クビ      3

 

 

 

5   8  トイキガバメント    2:03.1    5      5

───

 

 

「フフフ~ン。フフフ~ン」

 

アグネスデジタルは授業が終わり鼻歌交じりで自室に向かう。本来は天皇賞秋での激走によるダメージで体中が傷んでおり歩くだけで痛みが走る、だが昨日のオペラオーとドトウと一緒に行ったウイニングライブのことを思い出しただけで顔はニヤケ痛みが消える。あのオペラオーとドトウと一緒にライブができた。二人のライブを外から見るのもいいが二人と一緒にライブをするというのは格別の体験だった。改めて天皇賞秋に出走した己の決断と周りのサポートに感謝の念を抱く。

 

デジタルは自室に着くと制服をクローゼットにしまい部屋着に着替えるとベッドに飛び込んだ。今日明日は体を癒すために完全休養日である、いつもだったらトレーニングをしているのに部屋でゴロゴロしているのは妙な気分だ。だがせっかくの休日を思いっきり満足しよう。とりあえず昨日のライブをじっくり見ようと手持ちのタブレットを起動するとトップ画面にライン通知が届いていた。

 

 

「白ちゃんからだ」

 

送信相手はトレーナーからだった。メッセージには『16時に視聴覚室に行け』と端的に書かれていた。『何があるの?』とメッセージを送っても返信は帰ってこない。デジタルは数十秒ほど悩み制服に着替えなおし視聴覚室に行くことにした。多少怪しいが特にやることもないし、ライブは後でも見られる。デジタルは痛む体を労わるようにゆっくりと起こし、ゆっくりとした歩調で視聴覚室に向かう。

 

「白ちゃん何の用だろう」

 

 

デジタルは視聴覚室に着くと扉をゆっくりと開ける。最初に考えたのは祝勝会が開かれることだが、祝勝会はチームのメンバーとレースが終わったその日の晩に行った。だとしたらそれ以外の人物か?友人のエイシンプレストンはチームプレアデスの祝勝会に参加していたし目ぼしい人物は思いつかない。だとしたら天皇賞秋の取材か?まあ開けばわかるだろう。

デジタルが扉を開き飛び込んできた光景に目を見開く、そこには思わぬ人物がいた。

 

 

「やあ!よく来たねデジタル!つつつ」

「こんにちはデジタルさん……」

 

 

テイエムオペラオーとメイショウドトウの二人がデジタルを出迎える。二人は挨拶をするがどこか動作が重くレース中に感じたようなオーラがなく弱々しい。彼女らも天皇賞のレースの激走でダメージを負っていた。その様子を見てデジタルは思わず微笑んだ。二人も自分と同じ状態なことに親近感を抱く。

 

 

「オペラオーちゃんにドトウちゃん!イタタタ…どうしたの?白ちゃんに呼ばれたの?」

「白ちゃん?デジタルのトレーナーのことか。企画したのは彼だが、ここにはいないよ」

 

 

企画した?ここにいない?デジタルはオペラオーの言葉に疑問符を浮かべる。

そうしている間にドトウが部屋のカーテンを閉め電気を消しプロジェクター下ろし映像を再生する。画面には昨日行われた天皇賞秋のレース前映像が流れていた。

 

 

「昨日はデジタルのトレーナーに『ドトウとデジタルとの三人で昨日のレースを見てくれないか』と頼まれてね。まあ勝者と反省会をすることは有意義だろう。さあ見るぞ」

「私も一人でいても塞ぎこむだけだってトレーナーに行ってこいって言われました」

 

 

オペラオーとドトウは席に座りデジタルも二人の隣の席に座る。そして映像ではゲート入りが終わりレースは始まっていた。

 

 

「まさかサイレントハンターが出遅れるとは思わなかったな、そしてドトウがハナを主張したと」

「どうしようかと迷ったんですけどペースが遅くなりそうですし、慣れていなくても逃げたほうがいいかなと。それに宝塚では前に位置づけて勝てたので」

「デジタルは何を考えていた」

「えっと、とりあえず二人より後ろに位置取ろうと思っていて細かいポジションを気にしてなかった」

 

 

オペラオーが映像を逐一止めてそれぞれが心境を語っていく。

正直言えばこの反省会は一人で行いたかったし当時の心境を語りたくもなかった。ただデジタルのトレーナーにレース当時の心境を詳細に語ってくれと頼まれた。断ろうと思ったが中年のトレーナーが小娘相手に何の躊躇もなく頭を下げて頼み込む真摯さと真剣さに心打たれて提案に承諾した。

ドトウも同じようにそれ以上にこの反省会に来たくはなかった。だがオペラオーと同じように頼み込まれて、押しに弱いということもあるが同じように心打たれていた。

 

オペラオーは包み隠さず当時の心境を語った。アドマイヤベガを思い出したこと、レースに勝って世界に打って出たいということ。ドトウには負けたくないということ。

 

ドトウも包み隠さず語る。レースに勝つのはオペラオーだからオペラオーだけを意識していたこと、勝ってオペラオーと一緒にウイニングライブをしたいということ。

 

そしてデジタルもレースの二人と同じように語った。本当は二人と叩き合いに参加したかったこと、けどトレーナーに外に出せと言われ突拍子もないアイディアをもらったこと。ゴールしたときは自分が一着ではなかったと思い込んでいたこと。

 

 

「へえ~二人はそんなことを考えていたんだ!オペドトキテる!」

「デジタルさんも凄いですね。あたしだったらそこまで思い込めません」

「妄想のボクはさぞ美しかっただろう。でも実物のボクのほうがもっと美しいだろうデジタル」

「もちろん」

 

 

三人はレース映像を見終わりそれぞれの心境について感想を述べる。

オペラオーもドトウもお互いについてここまで本音を赤裸々に語ったのは初めてだった。本来なら気恥ずかしくて言わないのだが、デジタルがあまりにも目をキラキラと輝かせて聞いてくるのでつい喋ってしまった。だが妙な開放感と心地よさがあり今以上に親密になれた気がする。

 

そしてアグネスデジタルというウマ娘。オペラオーとドトウを想うあまりに精巧なイメージを作り出し一緒に併走した。そのあまりある想いは一歩間違えれば相手にドン引きされてしまうものだ。だがオペラオーとドトウは不思議とそうは思わなかった。そこまで純粋に想えることはある意味凄いことであり、何よりレースで戦った者同士だけがわかる奇妙な友情のようなものを感じていた。

 

 

「さあ、前座はここで終わりだよ。ここからは美しく強くて速いボクの輝かしい栄光の記録と少しだけドトウの勝利の瞬間の上映会だ!今日はオフだし特別にたっぷりと語ってあげよう!」

「本当に?!やったー!」

「ドトウ早く準備をするんだ」

「はい……」

 

 

ドトウは渋々とディスクを切り替える。こうなったオペラオーは止められない。今逃げようとしても捕まえて椅子にくくりつけてでも参加させられるだろう。それに元々おこなう予定でもあった。

二人で走ったレースの回顧をできればやって欲しい。それもデジタルのトレーナーのリクエストだった。元々自分のことを語るのが好きなオペラオーは二つ返事で了承し、ドトウもオペラオーの勢いに押され渋々と了承していた。そしてオペラオーの独演会が始まった。

 

 

 

「夜遊びかデジタル。っていうより今までどこで何をしていたの?」

「オペラオーちゃんとドトウちゃんと一緒にDVD見てた」

「もう22時回ったわよ。こんな時間まで見てたの?それに何見てた」

「二人のレース!」

 

デジタルは上機嫌で同室のプレストンに返事をする。16時から寮の門限の22時ギリギリまで食事休憩を挟みながらも6時間ぶっ続けでオペラオーのレース回顧はおこなわれた。大概の者にとって一種の苦行であり、オペラオーの自慢話になれているドトウすら終盤はぐったりとしていた。だがデジタルにとっては苦ですらなく、好きなタレントのトークイベント並みに楽しいものだった。雑誌のインタビューでは語られなかった心境や当時の背景を数多く知れ二人の連絡先も教えてもらい一気に親密になれた。まさに最良の一日だ。

デジタルはパジャマに着替え携帯のアラームをセットしようとし思い出す。そういえばまだお礼をしていなかった。ラインアプリを起動しトレーナー宛にメッセージを送る。

 

 

ピロロロ~ン

 

部屋で明日のトレーニングメニューを考えていたトレーナーの携帯から着信音が流れる。作業を中断し手に取るとデジタルからのラインメッセージが送られてきた。

 

『白ちゃん、今日はオペラオーちゃんとドトウちゃんを呼んでくれてありがとね。楽しかったよ』

 

トレーナーはメッセージを見て顔を綻ばせる。今朝方レース中にオペラオーとドトウと併走させられなかった罪滅ぼしとして二人にレース中のことを語ってもらおうと思いついた。そこでオペラオーとドトウのトレーナーに連絡を取り二人に会わせてもらい二人に交渉した。負けた直後でレース中の心境を詳細に語ってくれるかという不安があったが、どうやらデジタルは喜んでくれたようだ。

するとメッセージの後に画像が送られる。ファイルを開くと自撮した三人の写真が写っていた。

オペラオーはばっちりとポーズを決め、ドトウは疲れているのか引きつった笑顔を見せている。そしてデジタルは満面の笑みを見せてピースサインをしている。この画像だけでデジタルの心境が手に取るように分かった。

 

 




これで天皇賞秋編は終了です。
白ちゃんがどんな作戦をデジタルに授けるか注目していた方。
すみません!精神論でした!
筆者の頭ではモデルの調教師が考えた作戦を超えるアイディアを考えるのは到底無理でした!

レース描写は書いていて楽しかったです。
最初に書いたものとは結構内容が変わり、展開も史実のレース通りに書いていたのがキンイロリョテイが三コーナーから捲ったり、レース中も最初と比べキャラクターたちが多く喋っています。そして好きな競馬漫画のセリフとかもそっくり引用してしまいました。
大好きなセリフだけにどうしても入れたかった!

天皇賞秋編が終わり、次は香港編の予定です。


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勇者パーティー魔都香港へ#1

「デジタル、香港ウマ娘協会から香港国際競走のレースに招待されたがどうする?」

 

 アグネスデジタルが秋の天皇賞を走ってから一週間が経った。

 数日の休養を終え徐々に運動強度を増やしていく。そんな矢先トレーナーはトレーニングが終わり制服に着替え部屋に帰ろうとしているデジタルに伝えた。

 

 香港国際競走。

 

 香港ウマ娘レースの最大イベントであり、12月に行われる同日複数GIレース競争である。

 

 芝1200メートルの香港スプリント。

 芝1600メートルの香港マイル。

 芝2000メートルの香港カップ。

 芝2400メートルの香港ヴァーズ。

 

 これらのGIレースに4競走が一日でおこなわれる。

 

 創設されてから日は浅いが関係者の努力により業界内での地位が高まり、今では世界中の強豪が集まるレースになっている。そしてレースに招待されることは世界的に評価されている証でもあった。

 そのなかでデジタルは香港カップと香港マイルのレースに招待されていた。

 

「香港…香港か~」

 

 デジタルは招待されたことを聞き腕を組み悩ましげに首を曲げ唸る。

 香港国際競走に招待されることが名誉なことは知っている、だが正直乗り気ではなかった。

 まず海を越えて見知らぬ土地で走るということに多少なり不安を感じていた。そしてなにより懸念しているのは相手のことをまるで知らないことである。

 今まではトレーナーに指定されたレースをそのままに走っていたが、それでも相手のことを調べときめくポイントを知り好感度を高めていくなどして、モチベーションを高めていた。

 だが海外のウマ娘となると得られる情報の量も質も国内のウマ娘と比べると劣り、入手できるといえば簡単なプロフィールとレース映像ぐらいだろう。

 デジタルが知りたいのはそのような表面的な情報ではなく、もっとディープなものであった。

 

「白ちゃんはあたしの次走は何を考えているの?」

「マイルチャンピオンシップかジャパンカップダートか香港マイルか香港カップ。この四つや。デジタルは何に出たい?」

「そうだね~マイルチャンピオンシップかジャパンカップダートのどっちかかな」

 

 天皇賞秋を走ってからデジタルにある心境の変化が生じていた。レースを選ぶ際に重要なのは誰と走るかである。

 現役ウマ娘のなかで一番好きな選手でありカップリングでもあるテイエムオペラオーとメイショウドトウとのレースは楽しく素敵な体験だった。その体験を基にいかに心ときめく相手と走るかに比重を置くようになっていた。

 その観点から次走はマイルチャンピオンシップかジャパンカップの二つに候補にしていた。

 マイルチャンピオンシップにはエイシンプレストンが出走する。

 ウラガブラックがチームルームに乗り込んできた時はマイルチャンピオンシップを連覇することに興味がないといったがプレストンが出るとなれば別だ。

 プレストンは1番の友人であり4回も一緒に走っている。漆黒長髪を2つのお団子にし、その毛先を垂らしている独特のヘアースタイル。その毛先を靡かせ走る姿はレースの度に見とれてしまう。

 そしてレースでは普段とは全く違う顔を見せてくれ、その度に心をときめかしてくれる。ゴール前で友達と競り合えればそれは幸せな時間だろう。

 

 ジャパンカップダートにはウラガブラックが出走する。天皇賞秋の出走の件で揉めた相手がレースに出走してきたらどんな感情を向けてくるだろう。それにあの白髪と新雪のような白い肌に美しいプロポーションを誇る体を間近で見てみたい。

 デジタルが二つのレースに思いを馳せているとトレーナーはポケットから何かを取り出し手渡した。

 

「USBメモリー?」

「これには香港カップと香港マイルに出走予定のウマ娘のデータが入っている。一応目に通しておけ。それを見てからどのレースに出走するか決めても遅くはないだろう」

「うん。わかった。それじゃあね」

 

 デジタルはUSBメモリーをカバンにしまうと手を振りながら寮の自室に帰宅していく。トレーナーは視界から消えるまでその後ろ姿を見送った。

 

「さあ、どうなるかな」

 

 トレーナーの希望としては天皇賞秋で現役屈指のウマ娘であるテイエムオペラオーとメイショウドトウを打ち負かしたデジタルには世界に打って出て欲しかった。

 しかし自分の願望をチームのウマ娘たちに押し付けてはならないと骨身にしみている。だが押し付けなくてもデジタルに情報を与えることはできる。

 デジタルには海外のウマ娘の情報を入手することは難しいが、トレーナーが持つ世界各国のコネクションを活かせば入手することは難しくない。

 もしかすると香港マイルや香港カップにはオペラオーやドトウのようにデジタルの心をときめかすウマ娘がいるかもしれない。それを知れないのは可哀想だ。

 デジタルにはより多くの情報と選択肢を与えた状態で悔いの残らないレース選びをしてもらいたい。それがトレーナーの願いだった。

 

「それじゃあ早速見てみようかな~」

「何を?」

 

 ノートパソコンにUSBを差込み中に入っているファイルを見ようした時、誰かがデジタルの肩に手をかける。後ろを振り向くとそこにはエイシンプレストンがいた。勝負服と同じ赤と黒で彩られたパジャマを着て長髪はタオルで巻かれていた。

 

「香港カップと香港マイルに出走予定のウマ娘ちゃんのデータ」

「香港カップと香港マイルに招待されたの?」

「うん。あまり乗り気じゃなけど、白ちゃんが一応見ておけって」

「へえ~あたしにもちょっと見せてよ」

「いいよ」

 

 デジタルは座っている椅子を横に動かしスペースを開けるとプレストンはそこに椅子を入れて2人並ぶように座る。そして香港マイルと書かれているファイルフォルダーを開き、そこからウマ娘の名前が書かれている個人ファイルを順々に開いていく。

 

 よく調べている、それがプレストンの抱いた感想だった。

 レース映像やレース後のコメントは記録されている。それだけでもよく調べたと思うが目に付いたのはそれ以外の情報だった。

 好きな食べ物やマイブームなどパーソナルな情報が細かく網羅されている。しかも活字だけではなく写真やホームビデオのような動画まである。この質と量を見るとレース映像やコメントがおまけのように思えてくる。

 しかしレースに関する情報が本当に少ない。もし同期のエアシャカールがレースに向けてこのUSBをもらったら『もっとトレーニング動画とかとってこい!使えない情報よこすな!』とメモリを叩き壊すほどレースに使えない情報ばかりだ。

 だがデジタルにとってはこれでいい。レースの度に『相手のウマ娘ちゃんを愛でるためにはこういう情報が必要なの』と専門誌で掲載されているインタビューや特集でパーソナルな情報を集めていた。

 その甲斐あってかデジタルは目をらんらんと輝かせ食い入るようにファイルを見続ける。そんなデジタルを尻目にプレストンは椅子から立ち上がり髪の手入れを始めた。

 少し興味が有ったのでデータを一緒に見ようとしたが、悪いがそんな熟読するほど興味が持てない。デジタルはプレストンが離れたのを気づかないままデータを見続ける。

 

「う~ん、読み応えあった」

 

 デジタルは画面から目を離し椅子の背もたれに寄りかかり体を伸ばす。読み始めていたから数時間が経っていた。

 このファイルを見るまでは次走に香港マイルと香港カップは選択肢に入っていなかった。だがこれを見てパーソナルな部分を知れたことで愛着も湧いてきた。海外のウマ娘で眼福を得るのも悪くないと思い始めていた。

 

「読み終わった?それで気に入ったウマ娘はいたの?」

「UAEのドブーグちゃんがあたしの推しかな。トブーグちゃんはCクラスであのチームゴドルフィンの出身なの。ジュニアBクラスではGIレース2勝したんだけどCクラスではなかなか勝てなくて、名門のチームに相応しい成績があげられなくて落ち込むけど、それでもビッグマウスを言い続けて頑張る姿がグッときちゃう!」

「それはよかったわね」

「白ちゃんもいい仕事しますね~」

「本当ね。こんなしょうもな……レースに使えそうにないデータを集めてくれるなんて」

 

 プレストンはしょうもないと言いかけた言葉を飲み込んだ。ほかの人にはゴミみたいな情報だがデジタルにとっては宝なのだ。現に一度パーソナルな情報をしょうもないと言って説教を食らったことあった。

 

「しかしこうなると次走をどうしようかな~マイルチャンピオンでプレちゃんと走りたいし、ジャパンカップダートでウラガブラックちゃんと走りたいし、香港カップでトブーグちゃんとも走りたいしな~」

「じゃあいっそのこと全部走る?」

「それいいねプレちゃん」

「冗談よ。そんなローテーションで走ったら間違いなくパンクするわ」

 

 デジタルはそうだよね~とうんうんと唸りながら首を傾げ悩んでいる。プレストンはその姿を大変そうだなと他人事のように眺めていた。暫くするとプレストンは世間話のような軽い感じで話を切り出す。

 

「そういえばデジタルって将来はトレーナー志望だよね」

「うん。将来はウマ娘ちゃんとのハーレムを満喫するの。グフフフフ」

「それだったら香港カップに出れば?」

「どういうこと?」

「いやテレビの番組でさ、海外で活躍した日本人のスポーツ選手が指導者になってその活躍を見ていた子供がその人の指導を受けに海外まで来たって話があってさ。香港カップは結構世界的に有名だし。もし勝てば番組みたいなことがおこるかもよ」

 

 プレストンはとりあえず思いついたことを言ってみただけだった。だがデジタルは言葉を聞いた瞬間に体中に電流が走ったような感覚が駆け巡る。

 

「それ!それいいよプレちゃん!何でこのシチュに気付かなかったんだろう!」

 

 デジタルは椅子から立ち上がり絶叫する。

 現役を引退しトレーナーになった自分のチームに新入生が入ってくる。そのウマ娘は香港出身で自分が勝った香港カップを現地で見ていてその姿に憧れて、はるばる海を越えて日本のトレセン学園に入学してきた。

 何と心トキめくシチュエーションなのだろう。デジタルの脳内ではそのウマ娘を起点にした自分好みのシチュエーションが次々と思い浮かんでくる。

 

「はいはいドウドウドウ。そしてもう消灯時間だから寝なさい」

 

 プレストンは興奮状態のデジタルを一旦座らせ背中をさするようにして落ち着かせてベッドに誘導した。これ以上騒がれたら近所迷惑だし同室の自分も寮長に怒られる。きっと自分の妄想で興奮したのだろう、こういう奇行は珍しいことではない。

 そしてプレストンもベッドに入ると消灯時間になり部屋の電気が消えた。二人の部屋に響くのは寝息ではなく、デジタルのグフフフという不気味な笑い声だった。

 

 

「次は香港カップに出ることにしたから、手続きお願い」

 

 翌日、デジタルは練習前にトレーナーに自分の意志を伝える。わずか1日でのこの心変わり、あのデータのなかにオペラオーやドトウのように心惹かれるウマ娘がいたのか?香港カップを選んだ理由を尋ねると学生に自らの理論を聞かせる教授のような偉そうな態度で答え始めた。

 

「トブーグちゃんとかそれなりにグッとくるウマ娘ちゃんも居たしね。それより白ちゃん、物事は長期的な視点で見なければダメなのだよ」

「どういうこっちゃ?」

「この国際化社会において国内だけではなく世界にもアピールできなきゃ。その点香港カップなら世界的な知名度も高いし、勝てば一気にあたしの名前が広まる」

「まあ、凱旋門やブリーダーズカップやドバイワールドカップと比べれば劣るが、それでも注目度は高いし、アジア圏やオーストラリアにはかなり名が売れるだろう」

「そしてあたしがトレーナーになったとき世界中の関係者はこう思うの『ヘイ、あの香港カップに勝ったアグネスデジタルがトレーナーになったって?そんな凄いウマ娘がトレーナーになるんだ。きっと名トレーナーになるに違いない。それだったらウチの娘を預けてみるか』『え?あの憧れのアグネスデジタルさんがトレーナーになったって?それならあたしも日本のトレセン学園に行かなきゃ!ママ!あたしは日本に行くわ!』って。そしてあたしのチームの元に世界各国のウマ娘ちゃんが集まってきて、国際色豊かなハーレムができるの!グフフフフ」

 

 デジタルは持論を語りながら妄想の世界に入り込み不気味に笑う。トレーナーはその様子に苦笑いを浮かべながらデジタルが言わんとすることを察していた。

 デジタルが将来トレーナーになりたいことは知っていた。そして香港カップを勝つことを就職活動の一環と捉えているのだ。

 日本のウマ娘達の実力は先人の努力の甲斐もあって欧州やアメリカなどのトップに勝るとも劣らないものになっている。だが知名度の面では劣り、世界的には日本のGIレースに勝つより世界のビッグレースに勝つほうが知名度は上がるのが現実である。

 そして通説ではウマ娘のトレーナーは人間のトレーナーと比べウマ娘の間に特別な絆を築くことができず、良い成績を出すことができないと言われている。だがそれを知ってなお憧れの名ウマ娘の元で指導を受けたいとチームの門を叩く者は少なくない。

 その名ウマ娘が海外のビッグレースに勝ったならば海を越えてやってくるウマ娘もいても不思議ではない。つまりデジタルは香港カップをトレーナーとしての広告塔としようとしているのだ。

 デジタルは刹那主義と思っていたがこのような長期的考えができるとは思っていなかった。

 

「そうか、ならマイルチャンピオンシップとジャパンカップダートはいいのか?走りたい相手がいるんだろう」

「それは悩んだよ。プレちゃんとも走りたいし、ウラガブラックちゃんとも走りたいしね。でもウラガブラックちゃんはフェブラリーステークスに出てくるだろうし、プレちゃんは安田記念に出てくるでしょ。なら2人とはそこで走ればいいや」

 

 デジタルが香港を選んだ理由は言葉通りだったがそれだけではなかった。香港カップを勝つことで早く心トキめくシチュエーションを迎えられる環境を整えたい。それだけですでに頭がいっぱいで来年までとても待てる心境ではなかった。

 

「そうか、そう言うなら香港カップに登録しておこう」

「じゃあお願いね。よ~し、未来のハーレムのために練習頑張るぞ~!」

 

 デジタルは気合をみなぎらせて練習場に向かう、オペラオーとドトウと走ったことでもしかしたら燃え尽きてしまうかと思ったが杞憂だった。

 むしろ新しい目標を見つけてモチベーションを上げている、ならばさらに燃料を与えてやろう。恐らく喜んで参加するはずだ。

 

「おい、デジタル。そういえばオペラオーとドトウから一緒に練習してくれないかと誘いがあったぞ。どうする?」

 

デジタルは目を輝かせ即答した。

 

「もちろん参加する!」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 11月下旬、寒さも深まり日中でも吐く息は白く身を震わせる。週末にはGIレースジャパンカップが行われる。GIレースの花形である中長距離レースにおいても重要視されているレースであり、トレセン学園もレースが迫るにつれて活気付き騒がしくなる。そして出場者も大一番に向けてトレーニングに励んでいた。

 

「はぁはぁ」

 

 ウッドコースで2人のウマ娘が息を弾ませながらウッドチップを跳ね上げながら駆け抜ける。テイエムオペラオーとメイショウドトウである。

 2人は歯を食いしばりながら全力で走る。心臓を限界まで脈打ち太ももや脹脛が悲鳴を上げる。だが隣で走る相手よりも1センチでも前に、その一心が彼女達を突き動かす。

 2人がコーナーを曲がり直線に入るとコーナー前で待機していた1人のウマ娘が2人を追走する。スタート直後でその差は5バ身あったが見る見るうちに差は縮まりゴールまで残り50メートルで半バ身まで迫っていた。  

 2人は粘りこもうと、追走者は差しきろうと力を振り絞り3人は横一線でゴールする。

 3人はゴールすると同時に徐々に減速し50メートル先で完全に停止した。

 

「この1本は……ボクのクビ差勝ちかな……デジタル、ドトウ……」

「はい……オペラオーさんが若干体勢有利だったと思います……」

「さすが……オペラオーちゃんは……速いね……」

 

 テイエムオペラオーは肩で息をしながら勝ち誇るように2人を見つめる、メイショウドトウはその結果を受け入れるように頷く。そして二人を追走していたアグネスデジタルは満足げに笑った。

 

 天皇賞秋が終わって1週間が経ったころ、オペラオーとドトウはチームプレアデスのトレーナーにある打診をした。

 

『ジャパンカップまでデジタルをボク達の練習に付き合せて欲しい』

 

 テイエムオペラオーとメイショウドトウが出るジャパンカップには多くの強豪がエントリーしていた。その中にはナリタブライアン、スペシャルウィーク、グラスワンダーなど2人と同じ末脚、それ以上の末脚を持つメンバーも参戦している。

 その仮想相手として先の天皇賞秋でキレ味鋭い末脚をみせたデジタルが選ばれたのだった。

 

 ウマ娘の練習というものは基本的に個人単位あるいはチームメンバー内で行い、他のチーム同士で合同して練習するというのは珍しい。言動から察するにオペラオーとドトウは一緒にトレーニングをするようだ。そこにデジタルが加われば3チームのメンバーが一緒にトレーニングをすることになる。

 それは異例な事態だった。チームのトレーナー同士親交が深い、また弟子師匠の間柄ならあるかもしれないがオペラオーとドトウのトレーナーとはそこまで深い関係でもなく、何よりトレーナーから連絡を受けていない。ということはオペラオーとドトウの独断専行か。

 トレセン内の暗黙の了解を破るほどにジャパンカップに懸けているということか。トレーナーはチーム練習を終えてから、そしてデジタルが承諾したらという条件でオペラオー達のトレーニングに参加させることを承諾する。

 トレーニングには刺激が必要である。そういった意味ではレベルが高く大好きなオペラオーとドトウとトレーニングするのはデジタルにとって良い刺激になるだろう。そしてデジタルに影響されたのか2人を応援してやりたいという気持ちを抱いていた。

 

「じゃあ、クールダウンしようか」

 

 3人は本日の最終追い切りが終わり、ウッドチップコースの外周をクールダウンのためゆっくりと走り始める。

 

「いよいよ明後日だね。2人とも調子はどう」

「パーフェクト。と言うよりこのボクが調整ミスするなんて有り得ないよ」

「悪くないです。でも相手は強い人ばかりで私が絶好調でもダメかもしれません……それだと一緒に練習してくれたオペラオーさんとデジタルさんに申し訳が…」

「大丈夫!ドトウちゃんは強いよ」

「そうだドトウ。このボクと一緒にトレーニングしたんだ、君は強くなっている。次のレースでも2着に入れるさ。1着はボクだけど」

 

 デジタルは力強い言葉で励まし、オペラオーは励ますように背中をポンと叩いた。ドトウは二人のエールに応えるように自然と笑みを見せていた。

 天皇賞秋、そしてオペラオーとドトウのジャパンカップへのトレーニングで接する時間が多くなった3人は親交を深め友人と呼べる関係になっていた。

 

「そういえばデジタルはいつ日本を発つのだい?」

「事前調整とかイベントとかもあるから明後日には出発かな、本当なら現地で2人を応援したかったけど、白ちゃんが団体行動だから時間はずらせないって言うの。少しぐらい融通利かせてくれてもいいのに」

 

 デジタルは頬を膨らませて怒りを表す。その子供っぽい仕草に二人は思わず笑みをこぼした。

 

「それは残念だったね、ボクの晴れ姿が見られないなんて!でも楽しみは有マ記念まで取っておけばいいさ」

「そうだね。どうせ2人のどっちかが勝つんだし現地観戦の楽しみは有マ記念に取っておくよ」

「ドトウじゃなくてボクだけどね」

「じゃあ同着でいいや」

「まあ同着なら百歩譲って認めよう」

 

 2人は示し合わせたように笑う。その様子をドトウは不思議そうに見つめていた。

デジタルは2人の勝利を、オペラオーは自分の勝利を前提に話している。何故2人は勝てると言い切れるのだろう?この豪華メンバーで勝利を確信できるなんてよほどのビックマウスか自惚れ屋だろう。自分なら口が裂けてもいえない。

 だが2人の会話を聞いていると自分のネガティブな感情を打ち消してくれて不思議と勝てそうな気がしてくる。こんな感覚初めてだ。ドトウは初めての感覚に戸惑いながらも心地よさを噛み締めていた

 

「さようならデジタルさん、香港カップ頑張ってください」

「帰ったら香港カップとジャパンカップの祝勝会だ」

「うん、香港土産と一緒に持ってくるね」

 

 3人はトレーニングを終えて帰路に着く。デジタルは帰りの道中の考え事は海外に行くという不安や期待ではなく、オペラオーとドトウが走るジャパンカップのことだった。絶対に勝てると言ったが相手の強さは理解しているつもりだ。厳しいレースになるだろう。

 だが2人には勝負根性がある。お互いが体を併せれば2人の友情とライバル心から生まれる勝負根性は凄まじく、その勝負根性がお互いの限界を引き出し超えていく。そうなればレースには勝てる、2人にはそれができると信じていた。

 

「帰ってきたわね。早速準備するわよ」

「ちゃんと準備したよ」

「再確認よ。海外だと忘れ物しても日本みたいに送ってもらったり買うのが難しいんだから」

「は~い」

 

 部屋に帰ったデジタルを出迎えたのは床一面に広がる荷物とエイシンプレストンだった。デジタルは渋々と香港行きのために荷造りしたキャリーケースを開き荷物を床に広げ2人は必要な荷物が入っているか指差し確認していく。

 

「ねえプレちゃん。オペラオーちゃんとドトウちゃんジャパンカップ勝てるかな?」

 

 デジタルは確認の手を止めて問いかける。2人の力を信じているが、それでも不安を紛らわすために友人にそうだと言って欲しかった。

 

「厳しい戦いになるでしょうね。人気も恐らく6番か7番ぐらいだと思う」

「やっぱりプレちゃんもそう思う?」

「けど、あたし達ができることはあの2人を信じて祈ること。そしてオペラオーさん達のことを気にするあまり忘れ物をしてレースに重大な支障をきたさないこと。もしそんなことになったらオペラオーさん怒るわよ」

「そうだね」

 

 デジタルは荷物確認を再開する。もうここまでくればふたりを信じるしかない、そしてプレストンはあたし達と言った。プレストンもオペラオーとドトウも勝利を信じて祈ってくれる、それだけで嬉しかった。

 

「まさか、プレちゃんと一緒に香港に行けるとは思わなかったよ」

「あたしも正直招待されると思わなかった」

 

 2人は荷物を整理しながら香港国際競走について話題を変える。

エイシンプレストンは前々走のGⅡレース毎日王冠に勝利し、前走GⅠのマイルチャンピオンシップは2着に入線する。その結果が評価され香港マイルに招待されていた。

 

「しかしマイルに出るんだったら言ってよ。そしたらあたしもそっちに出るのに」

「招待状が来たのがエントリー期限ギリギリだったんだから仕方がないでしょ。それにマイル走ったらトブーグと走れないわよ」

「トブーグちゃんとプレちゃんだったらプレちゃんを選ぶよ。プレちゃんの方が好きだし」

 

 プレストンはデジタルの言葉に思わず顔を背ける、当人を目の前によく言えるな。

 デジタルの直球な好意を少し戸惑っていた。その戸惑いを隠すために話題を変える。

 

「た…たしか香港ヴァーズにはキンイロリョテイさんが出るんだよね。あの人気性が荒いらしいしちょっと不安なんだけど」

「キンイロリョテイちゃんか、オペラオーちゃんがバカだけど悪い奴じゃないって言っていたし大丈夫じゃない」

「そうだといいんだけど」

 

 プレストンは思わずため息を漏らす。

 制御不能のウマ娘、肉食。気性難を表すあだ名を数多く、気性難のエピソード挙げていけば両手で足りない。それほどまでに気性が荒いウマ娘がキンイロリョテイだ。何がきっかけで理不尽な目にあうか分からない。極力接しないようにして細心の注意を払おう。

 2人は荷物を確認し終えると、早めに就寝した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 日曜日の国際空港となると人が多く、いかにも海外出張に向かうビジネスマン、旅行に行く家族連れだなどがロビーのベンチで待っている。そしてアグネスデジタルのトレーナーも同じように椅子に座り時計をチラチラ見ながら待っていた。

 そろそろ集合時間だがまだ来ない。デジタルはともかくプレストンが一緒なら問題なく来るはずだが、トレー内に一抹の不安が過る。すると携帯電話が振動する、電話が来ており相手はアグネスデジタルだった。

 

「もしもし、デジタル今どこだ?」

「もう着いたよ、真正面にいる」

 

 トレーナーは周囲を探るとデジタルが手をぶんぶんと振りながら小走りで駆け寄り、その後を追うようにプレストンも駆け寄る。

 

「ん?どうしたの?」

 

 デジタルはトレーナーの視線がいつもと違うので問いかける。

 

「いや、スーツを着ているデジタルってのがな」

 

 デジタルとプレストンは黒色のスカートタイプのスーツを着ていた。海外遠征の際にはスーツを着用する決まりだが、普段や制服やトレーニングウェアを身につけているのでスーツ姿に違和感があった。

 

「どう?できるキャリアウーマンみたいでしょ?」

「エイシンプレストン君は似合っているが、お前は中坊が背伸びしているようにしか見えん」

「白ちゃんひど~い」

「デジタルが似合ってないのは置いておいて、キンイロリョテイさんはまだ来ていないのですが?それにキンイロリョテイさんのトレーナーは?」

「池さんは前準備で香港に前のりしている。そしてキンイロリョテイは今駅に着いたと連絡があったからすぐに来るだろう。そして噂をすれば……」

 

 トレーナーは目を見開きただ前を見つめている。様子もしゃべるのを辞めたというより思わぬ事態に絶句したようだった。デジタルとプレストンも不審に思いながらも後ろを振り向きトレーナーと同じように目を見開いていた。

 

 キンイロリョテイがトレーナーの元に近づいてくる。格好は規定通りパンツタイプのスーツを着ているので問題は無いがその着こなしが問題だった。

 シャツのボタンを外し胸元が大きくはだけており首元には趣味の悪い金色のネックレスを着け、丸メガネのサングラスを着用しガムをクチャクチャと噛みながら肩を切って歩いている。

 その姿は完全にチンピラだった。周りも関わりたくないといった具合にキンイロリョテイを避けている。

 

「うっす。よろしく」

「お…おう」

 

 リョテイはトレーナーの元に来ると挨拶する。本来ならその言葉遣いを注意するところだが驚きのあまりにできなかった。するとデジタルの姿を確認すると近づいてくる。

 

「ようデジタル、秋天以来だな。あの時は世話になったな」

「よろしくねキンイロリョテイちゃん」

「マグレでもオペラオーとドトウとあたしに勝ったんだ。気張れよ」

 

 まるで威嚇するように睨みつけるリョテイ、デジタルは全く臆することなくいつも通りだったがプレストンはデジタルが何かされるのではと警戒態勢をとる。言葉は荒いがデジタルを激励するようだった。意外と良い人かもしれない。僅かばかし警戒心を解くと今度はプレストンの元に近づいてくる。

 

「初対面だな、キンイロリョテイだ」

「どうも…」

「マイルCSは2着だったな。死ぬ気でやれ」

 

 リョテイはプレストンにも激励のような言葉を贈る。第一印象でチンピラみたいだと思っていたが案外いい人なのではと思い始めていた。するとリョテイは2人の間に立ち啖呵をきった。

 

「デジタル!プレストン!あたし達は日本を代表して香港に乗り込むんだ!『よく頑張ったね』って言われるような温いレースするんじゃねえぞ!最近は日本ウマ娘はなめられているからな!ヴァーズとマイルとカップを3タテして香港国際競DAYをジャックする!これはチームジャパンのカチコミなんだよ!」

 

 リョテイの啖呵はロビーに響き渡り人々は何事かと一斉に振り向き、デジタルとプレストンはその啖呵を聞き驚きのあまり口をポカンと開けていた。

 これが気性難で名高いキンイロリョテイか。公衆の面前だろうが関係ないといわんばかりに自分の思いをぶつけてきた。そしてこの口上、カチコミだなんて物騒極まりない言葉が出てきた。香港でのレースをヤクザの抗争か何かと思っているのか?

 だがその溢れんばかりの情熱は2人の心にしっかりと伝わっていた。

 

「ええこと言うな、キンイロリョテイ」

「デジタルのトレーナー」

「次のレースは国内のレースと違い少なからず国の威信を背負うことになる。不甲斐ないレースをしたらお前たちの評価が下がるだけじゃなく日本ウマ娘界の評価も下がる。そこを覚えておけ」

「はい」

「うん」

 

 プレストンの表情は引き締まったものになり、デジタルもほんの僅かだが引き締まった気がする。2人共海外遠征が初めて気持ちの持っていきかたが分からずどこか若干観光気分なところがあったのかもしれない。

 だがそれはリョテイの言葉で完全に吹き飛んだ。この他人に伝播する溢れる闘争心は短所であると同時に最大の長所で魅力だ。

 

「よしキンイロリョテイ、日本の威信を守るために服装を直すか」

「え?なんで?」

「そんなチンピラみたいな格好で香港に行くつもりか?そんな格好を香港のマスコミに撮られたら日本の恥だ」

「やだよ。かっこいいじゃん」

「ダメだ。俺は池さんに引率を任せとるんや。日本の恥を連れて行くわけにはいかん」

 

 そこから搭乗ギリギリまでトレーナーとリョテイの服装を直す直さないの口論は続き、この格好じゃなきゃ飛行機に乗らないという言葉が決め手となりトレーナーが折れる。

 こうして4人は香港へ旅立った。

 




変態と狂犬と普通人がいざ香港へ!
現実の競馬ですとダイタクヤマトとメジロダーリングも香港スプリントに出ていますが
話の都合で出てきません。ダイタクヤマトとメジロダーリングのファンの方には申し訳ございません。
あとリョテイも現実ですとジャパンカップの後に香港ヴァーズに出走していますが
この話ではジャパンカップは走らず、天皇賞秋から香港ヴァーズのローテです

ちなみにプレストンのビジュアルは今年放送された某NHKアニメのキャラをモデルにしてます

追記
あとゼンノエルシドも話の都合上香港マイルに出走しません。
コメントでエルシドのことを書いていないとご指摘を受け気づきました。
ゼンノエルシドのファンの方に不快な気持ちを与えてしまい誠に申し訳ございませんでした


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勇者パーティー魔都香港へ#2

「オラオラオラ待てデジタル!」

「ちょっとキンイロリョテイちゃん怖い~」

「いつもそんな五月蝿いんですか?」

 

 ウッドチップコースで3バ身先を先行しているアグネスデジタルをキンイロリョテイは猛然と追走する。その様子はまるでサバンナで獲物を追い立てる肉食獣のようである。

 デジタルは追い抜かられないように走る、いや逃げると表現したほうが適切かも知れない。その証拠にデジタルの表情が珍しく恐怖で少しばかり引き攣っていた。

 そしてエイシンプレストンはキンイロリョテイを並走しながらデジタルを追走する。感情を爆発させるリョテイとは対照的に体の細部に意識を配らせ最大限に力が出せるフォームを維持しながら走る。

 

 香港国際競走がおこなわれるシャティンレース場、一体はレース場だけではなく日本のウマ娘が生活するトレセン学園のようなものもあり、そこで生活するウマ娘達はすぐにレース場に向かうことができる。

 また海外から遠征にきたウマ娘達にもトレーニング場を開放しており3人も本番にむけて調整をおこなっていた。

 

 今はアグネスデジタルを先行させ、リョテイとプレストンが後から追走する追い切りメニューである。そしてこの1本はデジタルが半バ身ほどリードを保ちゴールした。

 

「ちくしょう差し損ねた!もう1本行くぞ」

「ねえプレちゃん、今度はプレちゃんが前走ってよ。怖いんだけど」

「先行するデジタルをあたし達が追走する。これはトレーナー達が本番を想定したメニューなんだから勝手に変えちゃだめよ。それにこっちだって目をギラギラ光らせるキンイロリョテイさんと並走するの怖いし」

「ゴチャゴチャ言ってねえで行くぞ!」

 

 リョテイはデジタルを引きずるように追い切り開始地点に移動し、プレストンはその後をついていく。その様子をトレーナー達は専用のスペースで双眼鏡越しから真剣な眼差しで見つめていた。

 

「みんな調子はまずまずと言ったところやな。しかしリョテイはこんなに五月蝿いんか池さん?まあらしいといえばらしいが」

「すまんな、白。まあいつもこんな感じだ。最近じゃうちのチームの奴も怖がって前に置くことも並走させることもできず単走ばかりさせていたからな。久しぶりの並走追い切りできて楽しいのだろ」

 

 リョテイのトレーナーはデジタルのトレーナーの言葉に苦笑しながら謝る。二人は同じ年のトレーナーの試験に合格し比較的に年齢が近いこともありプライベートでも仲が良かった。

 

「しかし稽古でもこんな闘争心を見せるのだから大したものです。けどこの気性は苦労するでしょう」

「ええ本当ですよ北さん。いつも生傷が絶えません。その点エイシンプレストンは真面目で大人しくて羨ましいです」

「でも結構神経質なところがあって意外と苦労します、その点キンイロリョテイは無縁そうです」

「確かに。神経質という単語はあいつの辞書にはないですね」

 

 プレストンのトレーナーの言葉にリョテイのトレーナーはさらに苦笑いを浮かべた。プレストンのトレーナーは2人より年上で定年を間近に控えるベテラントレーナーである。

 

「しかしあのじゃじゃウマ娘との付き合いもあと少しだと思うと寂しくもありますけどね」

「本当にこれで最後なんか池さん?天皇賞秋のレースを見る限りまだまだやれそうだが」

「俺もそう思うのですけど、本人の意思は固いし尊重したいと思う」

 

 デジタルのトレーナーの言葉に物寂しそうに答える。キンイロリョテイは香港ヴァーズを最後にウマ娘レースからの引退を表明していた。

 

「そして香港ヴァーズがGIレースに勝つ最後のチャンスだ。ですから迷惑かけるかもしれないが協力頼む白、北さん」

「もちろん。チームジャパンですからお互い協力し合いましょう」

「名前に金がついているんだ。最後は金メダルで終わらせんといけないですね」

「うまいこと言うな白」

 

 デジタルのトレーナーの言葉に皆は笑みを浮かべる。そうしているうちに2本目の追い切りが始まりトレーナー達はウマ娘たちに目を向ける。

 1本目と同じようにデジタルを前に置きリョテイとプレストンが追走する。今度はゴール前でプレストンがデジタルを差し切っていた。

 

「エイシンプレストンが差し切ったか、強いですね」

「ええ、デジタルもいつもプレちゃんは凄いって言っていますし。俺もそう思います」

「ありがとう。私もプレストンの才能はトップどころに負けていないと思っています。本来ならもう1つ2つはGIを取れる才能があるのですが」

 

 プレストンのトレーナーは溜め息をもらす。エイシンプレストンはアグネスデジタルと同期でジュニアBレースのGIに勝利し将来が嘱望されていたウマ娘だったが骨折で半年間休養を余儀なくされる。そして復帰してもなかなか結果を出すことができず1年間勝利に見放された。

 しかし陣営の努力もあり、夏のGⅢレース秋のGⅡに勝利し先のマイルチャンピオンシップでは勝ちウマ娘にコンマ一秒差という好走をみせていた。だがトレーナーとプレストンにとって喜べる結果でなかった。

 

「本人も理想が高いせいかマイルチャンピオンシップを落としてカリカリしているのが気がかりです。そういった意味で遠征先で友人のアグネスデジタルがいるのはありがたい」

 

 環境の変化に敏感なウマ娘にとって遠征先でいかに平常心でいられるかということは重要な要素である。

 その点同室のデジタルと一緒なのは幸運であった。プレストンの話を聞く限りデジタルとは良い関係のようだし、気心知れた仲間と一緒というのはプレストンにとって好材料だ。現に追切を終えクールダウンしているプレストンの表情はどこか柔らかい。

 

「よし、そろそろあいつらを迎えに行こうか」

「そうですね」

 

 3人は双眼鏡をしまいトレーナースペースからデジタル達がいるグランドに降りていく。

 

「あ~あ疲れた。早くホテル帰って肉食いてえ。ステーキ食いてえ」

「あたしもデザート食べた~い~。でも食べられな~い……」

「デジタルのトレーナーさんは体重管理に厳しいからね」

「本当だよ。やたら体重にうるさいの」

 

 3人はクールダウンを終えトレーニング上からトレーナー達が待っている駐車場に向かっていた。するとリョテイが突如立ち止まり耳を立て辺りを見渡す。

 

「どうしたのキンイロリョテイちゃん?」

「誰かあたしの名前を呼んだような」

「それはあれだけ騒いで走っていたなら嫌でも注目されますよ」

 

 リョテイが立ち止まり聞き耳をたてる。それに続くようにデジタルとプレストンと立ち止まり聞き耳を立てる。すると自分たちの噂話している声が聞こえてきた。

 

「くそ!何言っているかわからねえ」

 

 リョテイは思わず舌打ちを打つ。このトレーニング場では香港国際競走に出る各国のウマ娘が集まっている。そして喋る言語も様々であり日本語では誰ひとりしゃべっていない。日本生まれ日本育ちで勉強の成績が悪いリョテイには何一つ聞き取れなかった。

 

「えっと。『あれがファンタスティックライトに勝ったキンイロリョテイか、強そうだ』ということを言っていますね」

「プレストン外国語わかるのか?」

「一応アメリカ生まれですから英語ならそれなりに」

 

 英語がわかるプレストンに感嘆しているリョテイ、そしてプレストンはデジタルにむけてリョテイに見えないように唇に人差し指を立てた。それにたいしデジタルは無言で頷いた。

 

 周りのウマ娘達は「あれがファンタスティックライトに勝ったキンイロリョテイか、なんか頭悪そうだな」と言っていた。だが正直に言えばあの気性からして喧嘩を売りに行く可能性が高い、なので少しだけ嘘を加えた。

 そしてデジタルもアメリカ生まれだけあって多少なり英語を聞き取ることができ、同じくケンカになりそうだと思っていたのでプレストンの意図を理解し黙っていた。

 

「しかしキンイロリョテイちゃんも有名なんだね」

「あのチームゴドルフィンのファンタスティックライトに勝ちましたからね」

 

 デジタルとプレストンはリョテイに真意を知られないように持ち上げるように褒め、リョテイも満更でもないという具合に胸を張った。

 

 チームゴドルフィン

 

 UAEに本拠地を置く世界でも有数のチームである。

 

 莫大な資金で作られたトレーニング施設とスタッフの元に世界中からスカウトされたウマ娘達がトレーニングで鍛えられ、所属しているウマ娘達はヨーロッパやアメリカのビッグレースに度々勝利している。そしてファンタスティックライトもゴドルフィンに所属していた。

 ファンタスティックライトは世界中をビッグレースに参戦しGI6勝した名ウマ娘である。かつてはジャパンカップに参戦しテイエムオペラオーとメイショウドトウと激戦を繰り広げた。直線での3人の叩き合いは凄まじく見る者の魂を震わせるもので今でもベストレースと語るものも少なくない。

 そしてキンイロリョテイはそのファンタスティックライトのホームで勝利した。環境の変化に敏感なウマ娘にとってホームとアウェイの差は大きい。そして有利なホームで走るファンタスティックライトを国内のGIにも勝っていないウマ娘が負かした。

 このニュースは世界中に衝撃を与えキンイロリョテイの名を世界中に轟かせた。その評価は高く先のアグネスデジタルが勝った天皇賞秋では国内ではテイエムオペラオーが1番人気だったが、海外ではキンイロリョテイが1番人気だったほどである。

 

――――そしてあれがファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオー、キンイロリョテイ両方に完勝したアグネスデジタルか、思ったより小さいな

 

「おっ、デジタルの噂もされているわね」

「なんか照れるね。でも今でも噂されているんだから、香港カップに勝ったら評価は爆上げ!そしてあたしの元にウマ娘ちゃんがやってくる~」

 

 デジタルは未来を想像し楽しげにニヤつき、プレストンはその様子を微笑ましそうに見つめる。しかし身近な友人がいつの間に世界のウマ娘に噂されるほどになったのか。誇らしくもあり、差をつけられてしまった悔しさと寂しさを感じていた。

 

――――それでキンイロリョテイとアグネスデジタルの隣にいるウマ娘は誰?

――――知らない。2人の帯同ウマ娘じゃないの

 

 プレストンはその話声に対して目を見開き反射的に振り向いた。

 

 帯同ウマ娘

 

 環境の変化に敏感なウマ娘が海外遠征先で安心できるように仲の良いチームメイトを連れて行くことがある。そのついて行くウマ娘を帯同ウマ娘と呼んでいた。先のエルコンドルパサーの遠征においても帯同ウマ娘がついていった。

 帯同ウマ娘は基本的に遠征に向かうウマ娘より格下なものが多く、メインのビッグレースで走る一方、現地のOPクラスやGⅢのレースを走ることが大半である。

 

 あたしがデジタルとリョテイの帯同ウマ娘!?あたしが格下!?

 

 確かに2人より世界での名声はない。だがそれでも帯同ウマ娘に見えるほど弱く見えるのか!

 デジタルにはその声は聞こえていなかったのかリョテイと雑談しながら歩いている。その後ろでプレストンは歯を食いしばり手のひらを力いっぱい握る。

 勝つ!必ず勝って周りを見返してやる!プレストンは静かにそして激しく怒りを燃やしていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「プレちゃんどうしちゃんだろう……」

「どうしたものか」

 

 午前11時過ぎ、ホテルのロビーのソファーに座りながら宿泊客は地図を広げ今日の観光予定や旅先で食べる食べ物の美味しさを想像し胸を膨らませ楽しげに喋っているなか、その1席のスペースの空気はひどく重かった。

 香港に着いてから数日後、調整は順調に進んでいた。ひとりを除いて。

 

「プレちゃん落ち着いて」

「おとなしくしろガキ!」

「離してデジタル!キンイロリョテイさん!あたしはトレーニング場に行くの!」

 

 キンイロリョテイはプレストンを羽交い締めし、デジタルが前から抱きつくようにして必死に動きを抑える。それでもなおプレストンは拘束から脱出しようともがき続ける。それは香港から来て数日が経った頃だった。

 ホテルのロビーでデジタルとリョテイとそのトレーナー達が雑談していると聞き覚えがある声が響き渡る。

それはプレストンの声だった。

 どうやらトレーナーと練習に行く行かないで口論となっているようだった。あの真面目なプレストンが声を荒らげながらトレーナーと口論している。それは長い付き合いのデジタルにとっても初めて見る光景だった。

 とりあえず傍観していたが口論はヒートアップし、プレストンが立ちふさがるトレーナーを押しのけて出口に向かう。これは何かまずいと感じたデジタルとリョテイはプレストンの動きを拘束した。

 

「プレストン落ち着きなさい、今日は疲れを取りなさい」

「追い込まなきゃ…もっと追い込まなきゃ勝てない!」

 

 トレナーの言葉に対してプレストンのヒステリックな声がロビーに響き渡る。

 

 初日のトレーニング以降プレストンは明らかなオーバーワークだった。リョテイの闘争心が伝播し、友人のデジタルに張り合おうと気合が入ってしまったのだろう。プレストンのトレーナーはそう考え、2日目から単独でトレーニングさせることにした。

 だが1人でトレーニングしていても必要以上にトレーニングをおこない、時には自ら隠れて斤量を装着し負担を増やし、その結果体に負荷がかかりすぎて調子を落としていた。そして今もトレーニングを休みと言われてもホテルを抜け出してでもトレーニングを行おうとしていた。

 そしてプレストンは拘束されても尚強引に練習場に向かおうとしたため、リョテイが実力行使でプレストンを無力化し自室に拘束していた。

 

「どうしよう……」

 

デジタルは深くため息を吐き、デジタルのトレーナーは眉間に皺を寄せながら天を仰ぐ。

 

 場の空気はことを大きく左右する。

 場の空気が良ければ練習にも身が入り試合でも実力以上の結果を出せることもある。そして逆もしかりである。

 プレストンが抱いている負の感情は2人に伝播していた。友達であるプレストンが追い詰められている姿はマイペースで図太いデジタルにも悪影響を与え、図太く友人と言える間柄でもないリョテイにも僅かばかしの影響を与えていた。

 このままではレースに向けて無視できない悪影響を与えることになってしまう。そのことをトレーナーは充分に理解しており、何とかしたいという思いはある。だが何をすればいいのか思いつかなかった。

 2人の間に重い空気が流れる。だがその重い空気を1人の能天気な声が切り裂いた。

 

「あっやっぱりここに居た!白先生見っけ~!」

 

 1人のウマ娘が2人のもとにやってくる。そのウマ娘は小柄で薄暗い茶髪にショートヘア、赤黄黒のトリコロールカラーのヘアピンで前髪がまとめられている。トレーナーはそのウマ娘に見覚えがあった

 

「おお!?ダンスやないか!何でここに!?」

「旅行。先生も元気そうだね」

「まあ、ぼちぼちと言ったところや」

 

 ダンスパートナーはトレーナーの手を取りぶんぶんと振り回す。トレーナーも思わぬ再会に自然と笑みをこぼしていた。

 

 ダンスパートナー

 

 かつてデジタルが所属しているチームプレアデスに在籍し、オークスとエリザベス女王杯に勝利し当時では珍しく海外GIにも果敢に挑戦した名ウマ娘であり、トレーナーに初めてのGI勝利をもたらしたウマ娘でもある。今は現役を引退している。

 

「何でここに居るのがわかった?情報は公開していないはずだぞ」

「前に香港に走りに来た時はここに泊まったし、もしかして居るかな~って寄ってみた。そしたら本当に居るなんて!いやーラッキーラッキー!」

 

 ダンスパートナーはテンション高く笑うと座っているデジタルに目線を定める。

 

「これが噂のデジ子か、小さくてめんこいな~ヨーシヨシヨシヨシ」

 

 ダンスパートナーはデジタルをに抱きつき顎と頭を撫でる。デジタルも一瞬戸惑ったが合法的にウマ娘ちゃんにお触りできる好機と身を委ねる。

 冬の厚着でもわかる肉感、案外着痩せするタイプだ。それに漂う石鹸の匂いは香水とは違う自然な香りで落ち着く。デジタルは五感を集中させ匂いや体の感触を味わっていた。

 

「ところでデジ子、私のこと知っているか~?」

「うん、知っているよ。ゲートに括りつけられた話は皆から聞かされた」

「やっぱり、その話か。酷いよね~うら若き乙女をゲートに括りつけるなんて」

「いや……あれはすまんかった……」

 

 大根役者のような嘘泣きをみせるダンスパートナーにトレーナーは申し訳なさそうに謝る。

 かつてダンスパートナーはゲートが下手で何回もレースで出遅れ、重要なレースを何度か落としていた。

 このままではGIに勝てないと思ったトレーナーは対策としてダンスパートナーを長時間ゲートに括り付ける事にした。

 これによりゲートに慣れてスタートの出が良くなることを期待していた。しかしこれは荒療治である。

 ウマ娘は基本的にゲートのような閉所に閉じ込められることを嫌う。さらにダンスパートナーのようなゲートが嫌いなウマ娘にとってはかなりのストレスである。

 現にゲートに括り付けられた際は暴れ叫んだ。だがトレーナーは心を鬼にして括りつける。その結果オークスに勝つことが出来たが、その荒療治は物議を呼び上層部から叱責を受けていた。

 そしてその時の壮絶な光景はチームプレアデスのメンバーに脈々と伝えられ、ヤンチャな後輩には『言う事聞かないとトレーナーがゲートに括り付けるぞ』と言えば、恐怖で震え上がり誰もが言うことを聞き、今ではチームの伝統的教育方法になっていた。

 

「しかし秋天は凄かったなデジ子。大外をビューッと駆け抜けてテイエムオペラオーとメイショウドトウを倒しちゃうんだもんな。うちの上司も記念出走で走るなよとか散々文句言っていてさ、勝った時は嘘~って感じで驚いていたよ。あれは傑作だった」

 

 ダンスパートナーはその上司の顔を思い出し笑う。上司に対して強く言えないが後輩のデジタルが文句言われていたのには相当腹に据えかねていた。それだけにデジタルの勝利は痛快だった。

 

「ダンスはいつまで香港にいる予定や?」

「月曜の昼には帰るよ」

「それだったらシャティンにレース見に来いや」

「当然。旅行の主目的はそれだもん。チームの後輩がレースは違えど私が走った同じ場所、同じ距離のレースに出るなら応援しに行かなきゃ嘘でしょ」

 

 ダンスパートナーの言葉にトレーナーとデジタルは思い出す。春に行われるシャティンレース場でおこなわれる芝2000メートルのGIレース、クイーンエリザベスカップに出走していた。

 

「私の敵をとってよデジ子」

「でもレースが違うよ」

「細かいことは気にしない気にしない。…どうした?何か悩み事でもある?」

 

 ダンスパートナーはデジタルに何気なく言葉をかける、じゃれあいながらもデジタルの様子を観察していた。意外と目ざといところがあり現役時代もチームメイトの様子の違いには敏感だった。

 

「うん…まあね…」

「まあこの年頃の乙女には悩みは沢山有るもんね。でもそういう時は美味しいもの食べて遊べば大抵は解決する。今日のトレーニングは終わった?」

「うん、今日はもうオフだよ」

「じゃあこれから遊ぼうか、私が連れて行ってあげる」

「それもいいな。デジタル行ってこい」

 

 ダンスパートナーの提案にトレーナーが賛同する。その意外な賛同にデジタルは驚く。

 

「え?いいの白ちゃん?あんな観光気分じゃないんだぞって言ってたのに」

「どうせ今日はやることはないし、せっかく香港に来たのだから遊んで来い。ほれ小遣い、あまり暴飲暴食するなよ」

「サンキュー白先生!それじゃ行くぞデジ子!」

 

 ダンスパートナーはデジタルの手をとり半ば強引にホテルから連れ出して行きトレーナーはその後姿を静かに見送った。

 デジタルはエイシンプレストンのことで気を病んでおり、このままではふさぎ込んでしまう。

 ならば強引に息抜きさせたほうが良い、ダンスパートナーの明るさと強引さならデジタルを程よく息抜きさせてくれるだろう。問題の根本的な解決にはなっていないがしないよりマシだ。

 

「さて俺はデータでも調べなおすか」

 

 トレーナーは椅子から立ち上がりホテルの自室に戻っていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「いいよ!いいよ!もっと大胆なポーズとってダンスパートナーちゃん!艶かしく色気たっぷりに!」

「それより別の服にしない?ミニはさすがにちょっと…」

 

 ダンスパートナーは恥ずかしそうに提案する。彼女は今黒のチャイナドレスを身に纏っておりそれは伝統的なものではなく、いかがわしい店の店員が着ているような丈が短くスカートのスリットが深いタイプだった。

 

「大丈夫!似合っているから!はやく!」

「こう?」

 

 デジタルはダンスパートナーの提案を取り付く島も無く却下する。それに観念したのか少しばかり顔を赤くしながら生脚を強調したポーズをとる。

 デジタルをその姿にウフフと興奮しながら自前の携帯で一心不乱に激写していく。

 

 ホテルを出ていった2人はショッピングや食べ歩きをしながら過ごしていく。

 デジタルは表面上楽しそうにしていたが目の光がくすんでいるのをダンスパートナーは見逃さなかった。どうすれば楽しんでもらえるだろうかと悩んでいるとデジタルがある店の前で止まり陳列されているチャイナドレスに目を輝かせて見つめていた。

 こういうものが好きなのか。値段さえ手ごろなら買ってもいいと思っていたが価格は予想を遥かに超えていた。あきらめかけたその時店員からあるサービスを薦められた。

 どうやら低価格でチャイナドレスが試着でき写真が取れるらしい。それを薦めるとデジタルは自分ではなくダンスパートナーに着てもらいたいと言ってくる。まあ後輩の頼みならと気軽に受け最初は露出が少ない伝統的なチャイナドレスを着る。

 デジタルはカワイイー!と言いながら喜びながら写真を取りその様子を微笑ましく見ていた。だが次第に要求はエスカレートし、服はどんどん露出度が高いものになりポージングまで要求するようになっていた。

 

「ウフフフ~良いものが撮れた」

 

 2人は撮影会が終わるとオープンカフェでお茶を飲みながら休憩する。デジタルはダンスパートナーお勧めのエッグタルトに口をつけず写真に収めたチャイナドレス姿を満足げに眺めていた。

 

「デジ子は着なくてよかったの?」

「あたしはいいの。あたしは着るより、着ているウマ娘ちゃんの姿を見たいの。本当は買って帰ってオペラオーちゃんやドトウちゃんとかに着せさせたかったな~」

 

 デジタルは2人がチャイナドレスを着る姿を妄想し笑みを浮かべる。その楽しげな姿にダンスパートナーは笑みをこぼす。

 

「やっと楽しそうに笑ったな」

「あたし、そんなつまんなさそうにしていた?」

「うん。雑誌の写真や映像で見た楽しそうな大分印象が違って、写真撮る前までは思いつめている顔してた。デジ子の悩みはそんなに深刻なの?」

「うん…」

「もし良かったら相談に乗ろうか、先生にも話せないことはあるだろうし」

「…あのね」

 

 デジタルはダンスパートナーに悩みを打ち明けるか迷っていた。

 プレストンの悩みを解消する為にはネコの手でも借りたかったが、友人のプレストンの苦しんでいる姿を今日初めて会った人間に知られたくもなかった。

 だが短い時間だが接することでこの人になら打ち明けても大丈夫だという安心感があった。

 

「なるほど」

 

 ダンスパートナーは注文していたコーヒーを飲み干し静かに深く息を吐いた。

 

「デジ子、この一件私に預けてくれない」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

シンフォニーライツ

 

 香港島、九龍半島の主要な高層ビルから放たれる色とりどりのレーザーが加わり、世界中から訪れる観光客を魅了し続ける香港が誇るナイトイベントである。その夜景の美しさはまさに100万ドルの価値があるといえるだろう。

 この景色を見るためにダンスパートナーはトレーナー達の許可を得てアグネスデジタルとエイシンプレストンとキンイロリョテイを連れ出し、公園側から湖をはさんでライトアップされるビル群を眺めていた。

 

「うわ~キレイ」

「これはすげえな」

 

 その夜景の美しさにデジタルとリョテイは目を奪われている。よく例えで夜景を宝石箱と表現するが今見える景色は本当に夜空に宝石箱をばら撒いたようだった。

 だがエイシンプレストンは目を奪われることなく虚空を見るように漠然と眺めていた。

 

「どうしたの?楽しくない?」

 

 景色をボーっと見ているエイシンプレストンの後ろからダンスパートナーが現れホットの缶コーヒーを手渡した。

 

「ありがとうございます。いやつまらなくはないのですが…あたしの今の気分じゃ楽しめないというか…」

 

 プレストンはコーヒーを受け取ると言葉を選びながら返答する。せっかく誘ってくれた先輩の気分を害さないようにと考えているのだろう。真面目な娘だ。

 

「この景色を見ても悩みは晴れないか」

「ええ……」

「ずばり、デジ子に追いつこうと焦っているね」

 

 プレストンは目を開きダンスパートナーを凝視する。その顔には「何故分かった!?」と書いてあるようにわかりやすかった。

 

「ちょっとだけ昔話を聞いてもらえるかな?」

 

 プレストンは無言で頷くとポツリポツリと語り始める。

 ダンスパートナーが現役のころ、かつてはトレセン学園の寮で生活し、同室には同学年のあるウマ娘がいた。そのウマ娘は明るくお茶目で多くの人に好かれており、ダンスパートナーも彼女のことが好きだった。

 また能力も素晴らしく、ダンスパートナーがメイクデビューに向けてトレーニングを続けていくなか、ジュニアB級の重賞に連戦連勝しクラシック最有力とも言われていた。

 しかしジュニアC級に昇格すると2人の立場は逆転した。ダンスパートナーはメキメキと実力をつけクラシック戦線をGI桜花賞2着、GIオークス1着という好成績を挙げる。一方同室のウマ娘はクラシックを走り掲示板にのることができない凡走続きだった。

 その後もダンスパートナーはコンスタントに重賞を好走しGIエリザベス女王杯に勝利するが、そのウマ娘は重賞で掲示板に載る事はできなかった。

 

「世間はあの娘がただの早熟だったというけど、それは違うと断言できる。才能は私以上だった」

 

 ダンスパートナーの手には無意識に力が入り持っていた缶がベコベコと音を立てて凹む。

 ある1つの負けが彼女の歯車を狂わせる。そのレースはダンスパートナーと一緒に走ったレースでダンスパートナーが2着、彼女は6着だった。

 レースに負けた彼女は次のレースには絶対に勝つんだと入れ込み、ハードトレーニングをおこない体調を崩し、その体調不良が原因で負ける。そして入れ込みハードトレーニングをして体調を崩して負けるか、怪我をするかという悪循環の繰り返しで最後まで抜け出すことができなかった。

 そして敗北の連続は彼女の性格まで変えてしまった。明るくお茶目だった性格はすっかり荒み友人も徐々に減っていった。

 何故彼女があそこまで入れ込んでしまったのか?当時は理解できなかったが今では理解できる。それは自分への対抗心だ。

 初めての敗北、そして格下だと思っていた自分に先着されその相手がどんどん先に行く。それが彼女のプライドを傷つけられ、焦りを生み出した。

 

「あの娘は自分のことを信じ切れなくて自滅した…私になんかに1回ぐらい先着されたぐらいであんなに焦んなくたっていいのにね…。そしてその娘とエイシンプレストンちゃんがダブるの。だからエイシンプレストンちゃん、もっと自分を信じたほうがいいよ。そんなに自分を追い詰めなくたって大丈夫だよ」

 

 ダンスパートナーは諭すようにプレストンの肩に手を置き、プレストンは地面を見るように俯く。分かってくれたか。だがプレストンは顔を上げ睨みつけるようにダンスパートナーを見つめた。

 

「そんな、分かったようなこと言わないでください!デジタルは才能も有って凄く強い。そんなデジタルに追いつくにはあたしはもっと練習しなきゃダメなんです!」

 

 その言葉と声量にダンスパートナーはハッと驚き、そして優しく笑った。

 

「そうだよね。部外者が知った口利いてもしょうがないよね。じゃあ部外者じゃない人に説得してもらおう」

「プレちゃん!」

 

 するとデジタルが2人の後ろから声をかける。その顔は不安で今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「プレちゃんは強いよ!可愛くてかっこよくて速くて憧れで、それは今でも変わらない!今はあたしのほうがGI勝っているけどそれはプレちゃんの調子がちょっと悪いだけでプレちゃんを超えたと思っていない!そんなに追い詰めなくてもあたしより強いよ!嫌味に聞こえるかもしれないけどこれは本心だから。だから自分を信じて!それでもダメならあたしが信じるプレちゃんを信じて!」

 

 デジタルは自分の思いを赤裸々に告白する。ダンスパートナーはデジタルにたいしてプレストンが強いと思っているということをストレートに伝えろとアドバイスをする。

 そのアドバイスに対して嫌味に聞こえるかもしれないと難色を示した。そんなデジタルに対してこう告げた。

 

 想いというのは想っているだけでは伝わらない、口に出して初めて相手に伝わると。

 

 かつての自分もデジタルと同じようなことを想っていた。だが嫌味や憐れみと捉えられるかもしれないと思い彼女に自分の気持ちを伝えられなかった。

 だが今思えば自分の思いを伝えるべきだった。そうすれば彼女はその言葉を糧に自分を信じられたかもしれない。彼女とプレストンのケースが同じとは限らない、だが後輩のには自分と同じ悔いをして欲しくなかった。

 

「デジタル…」

 

 プレストンはデジタルをじっと見つめる。高い自分への理想。自身のマイルチャンピオンシップでの敗北。香港での格下扱い。そしてデジタルのここ最近の活躍。

 早く勝ってデジタルに追いつきたい、早く負けを払拭したい。早く見返してやりたい。それらがプレストンの焦りを生み出す。GIを勝てない自分から速く脱却したいという弱さがハードワークをすればGIに勝てるという安直な思考に結びつき練習に逃げ込ませた。

 今自分に足りないのは練習することではなく、自分の現状から目を晒さず、自分を信じる強さだったのだ。

 

「わかった…あたしはあたしを、そしてデジタルが信じるあたしを信じる」

「プレちゃん!」

 

 デジタルはプレストンの元に駆け寄り抱きつく。

 想いが伝わってくれた。日々追い詰められていくプレストンを見ているのは辛かった。そして何もできないのはもっと辛かった。でもこれでいつものプレストンに戻ってくれる。

 プレストンも不安から解放されたかのか安堵した表情を見せる。

 こんなにも心配かけていたのか、いつもはデジタルの心配をしていたのに立場が逆ではないか。デジタルには後で謝らなければならない、そしてトレーナーにも。

 自分の弱さのせいでトレーナーが考えに考えてくれた最善を信じることができなかった。

 

「おうおう学園青春ストーリーだな。ドラマだったら『エンダ~』ってボーカルをBGMにバックから湖の水が噴水みたいに噴射しそうだ」

 

 すると近くの屋台で買ってきた焼き鳥をつまみながらリョテイがダンスパートナーの元に近づいてくる。リョテイはプレストンと2人で話し合っているのを見てデジタルに気づかれないように場を離れていた。

 

「キンイロリョテイちゃんも空気が読めるんだね。そんな乙女思考が有ったとは思わなかったよ。メディアの印象とは違うね」

「プレストンが立ち直るのは香港3タテには必要不可欠だからな。それにウジウジされると部屋での居心地が悪い。おいプレストン!」

「はい…なんですかキンイロリョテイさん」

 

 プレストンはデジタルを引き剥がすと姿勢を正しリョテイの方を向いた。

 

「あたしもついでに言っておいてやる。トレーニングは地続きなんだよ。そんなマンガじゃあるまいし2日3日猛練習したって必殺技を覚えて強くなるわけねえんだよ。やるんだったらレース前の3ヶ月からその猛練習をしろ、それぐらいでやっと力になるんだよ。ジュニアクラスのガキじゃねえんだからそれぐらい気づけ」

 

 プレストンはリョテイの言葉に深々と礼をしてリョテイは鼻を鳴らし見つめる。

 全く世話のかかる後輩だ、これだから真面目ちゃんは。リョテイも現役生活のなかでそうやって潰れたウマ娘たちを多く見ていた。

 

「よし問題ごとは解決したし!何か美味しいもの食べに行こうか!今日は私の奢りだ!」

「そんなの当然だろ!とりあえず肉!」

「あたしはウマ娘ちゃん喫茶!」

「あたしはエッグタルトを……」

 

 ダンスパートナーの呼びかけとともに3人は歓声を上げ夜の繁華街に消えていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「明日の健闘を祈って乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯!」

 

 ホテルの部屋にグラス同士がぶつかった際に生じる澄んだ音が響き渡り、3人はグラス注がれていた野菜ジュースを一気に飲み干した。

 

「しかし野菜ジュースにつまみがスティック人参ってしけてるな、肉もってこいよ肉」

「レース前にそんなもの食べてどうするんですか、明日のレースに勝ってから食べればいいじゃないですか」

「そうだよリョテイちゃん。ご馳走は明日までとっておこうよ」

 

 キンイロリョテイはTシャツ短パンのラフな格好ベッドに腰掛ける、エイシンプレストンとアグネスデジタルもパジャマ姿で部屋にある椅子を移動させて三角形を作るように座っている。

 リョテイが中心に置かれている机からスティック人参をつまむとデジタルとプレストンもそれに倣う様に人参をつまんだ。

 

 レース前日の夜。トレーナー達が作戦会議と言いながらも酒を持っている姿を目的したアグネスデジタルはならばあたし達もと女子会を開催することを提案する。

 キンイロリョテイは乗り気で、エイシンプレストンは満更でもないといった具合に了承した。

 本来ならばジュースやお菓子などをつまみながらするものだが、レース前に暴飲暴食はよろくないということで自粛し健康的な野菜ジュースとスティック人参に変わっていた。

 

「なんか夜のホテルでお喋りするなんて修学旅行みたいだね」

「じゃあ修学旅行名物の猥談でもするか、どギツイのを聞かせてやるよ」

「レース前夜に何話そうとしているんですか、やめてください」

 

 顔を赤らめながら拒否するプレストンに対してリョテイを冗談だよと笑いながら話を流す。

 

 香港ウマ娘協会から用意されたのはホテルの3人部屋だった。キンイロリョテイは個室を用意しろと駄々をこねたがそれは叶わなかった。そして3人はトレーニングや寝食を共にすることで互いを知り距離が近づいていた。

 

 アグネスデジタルとエイシンプレストンがキンイロリョテイに抱いた第一印象は恐怖だった。

 初遭遇ではチンピラファッションで登場し、2人に啖呵をきるその姿はヤクザのようだった。だが一緒にいるうちにつれキンイロリョテイに対してのイメージは変わっていく。

 キンイロリョテイとは良くも悪くも姉御肌だった。ガサツで時々奇行に走る面もあるが、情熱的で血気盛んで面倒見もよく、プレストンとデジタルが他の国のウマ娘に絡まれているときは即座に駆け寄ると二人を庇い喧嘩寸前までの言い争いを巻き起こしていた。

 ウマ娘界きっての気性難と言われ、本来なら近寄りたくない人物である。

 だが何故かファンにもウマ娘達にも愛されているのが不思議だったがこの性格故にということを理解できた。

 

 リョテイはデジタルとは天皇賞秋で一緒に走ったが特に接点はなく、香港に来るということで最近デジタルと一緒いるオペラオーとドトウからデジタルのことを聞いていた。2人いわくウマ娘マニア、ウマ娘大好きっ娘。聞いたときは何だそれは思っていたが、一緒に行動する事でその言葉を理解することはできた。

 練習中でも他の国のウマ娘を粘着質な目線で凝視し、部屋ではウマ娘の画像を見ながらグフグフと気色悪い笑みを浮かべ、毎晩毎晩一緒に走ったウマ娘について聞いてくる。

 好きなものに夢中になり、他人の迷惑を顧みずそのことに聞いてくる。まるで無邪気なガキのようだ。そしてプレストンから天皇賞秋でオペラオーとドトウの妄想を具現化させながら走っていた聞いたときは大笑いした。  

 なんて気色悪さだ。完全な変態の所業だ。だがそこまでの突き抜け具合はリョテイに好印象をもたらせていた。

 プレストンに抱いた印象はくそ真面目だった。他のウマ娘に余所見するデジタルや時々手を抜いている自分と違い、2人を注意しつつ必死にトレーニングしていた。その真面目さゆえに香港に入ってからオーバーワーク気味であったがあの夜からオーバーワークをやめて、今は万全の状態だそうだ。本当に迷惑をかけるやつだ。

 

「キンイロリョテイさん。1つ聞いていいですか?」

「ん?何だ?」

「明日のレースで本当に引退するのですか?」

 

 プレストンの言葉に和やかな空気がピリつく。リョテイは香港ヴァーズを最後に引退を表明している。トレーナーもデジタルもそのことに触れずにこの日まで過ごしてきた。

 個人的な理由があるのだろう、だがプレストンは気になっていた。

 

「ああ、どんな結果になっても明日で引退だ」

「何故ですか、トレーニングで一緒に走っている限りまだまだやれると思います。力があるのに引退しても悔いはないのですか?」

「それはだな。これから衰えるからだよ」

「はい?」

 

 プレストンは思わず聞き返す。衰えたじゃなくてこれから衰える?言葉の意味がまるでわからない。そんなプレストンにリョテイはめんどくさそうに説明する。

 

「お前らウマ娘の身体能力が衰えるのは知っているよな?」

「はい」

「うん」

 

 2人はリョテイの言葉に頷く。

 ウマ娘も人間のように老いで徐々に身体能力が衰え、人間の老いのように何十年かけて衰えるものではなく、数年間で衰えていく。

 その原因は未だに解明されておらず、いつ衰えが始まるのかも個人差があり、長年衰えず走るものもいれば、すぐに衰えるが者もいる。

 

「それでたぶんあたしの衰えはそろそろ始まる。もって来年の4月ぐらいまでだろう」

「何でそんなことが分かるんですか?」

「勘」

 

 リョテイはきっぱりと答える。生来から動物的勘が鋭く、他の人物にはわからないことも未来予知めいて予想できることがある。そして多少の誤差はあれどこの予想は外れないだろう。

 

「それだったら結論を急がず衰えが確認できるまで走ればいいのではないですか?キンイロリョテイさんもGIが欲しいんですよね?昨年勝ったドバイシーマクラシックもGIに昇格しましたし、4月の1週にある大阪杯もGIに昇格しました。香港ヴァーズで引退しなくてもそのどちらかを走ってから引退しても遅くはないはずです」

「まあ普通ならそうだろうな」

 

 プレストンは言うことはごもっともであり合理的だ。だがそれではダメなのだ。リョテイは野菜ジュースを一気に飲み干しグラスを叩きつけた。

 

「あたしはGIを何が何でも取りたい。だから退路を断つ!香港ヴァーズにすべてを掛けて真っ白に燃え尽きるまで力を出し尽くす!出し尽くして衰えが来てもかまわない!」

 

 リョテイは頑丈なゆえに何回もGIに出走できた。それ故に今回負けても次が有ると無意識に思っていた。

 だが衰えという唐突な終わりを予知したことで自分は何故今までGIを取れなかったのかに気づいた、覚悟が足りなかったのだ。必要なのはすべてを掛ける捨て身の精神だ。

 

 2人はリョテイの雰囲気に身震いする。

 プレストンもGIを取りたいという気持ちは負けてないつもりだった。だがリョテイのほうが遥かにその気持ちが強かった。もし自分が同じ立場だったらリョテイと同じ覚悟できるだろうか?恐らくできない。1回より2回とチャンスの多さという合理的考えを選択してしまうだろう。

 デジタルもリョテイがそこまでの覚悟を持っていることは気付けなかった。明日を捨て今日に全てを賭ける。滅びの美学だろうか、その覚悟を持ったリョテイのその姿に美しさすら感じていた。

 

「なあ、GIを取るってどんな気分だ?」

 

 リョテイは唐突に二人に質問を投げかける。2人は思案し答え始める。

 

「あたしの場合は人気薄で気楽に走っていたから、勝ったというより勝てちゃった感じで実感が沸かなかった。でも白ちゃんもチームの皆も喜んでくれて、パパとママも国際電話でお祝いしてくれて、凄く嬉しかった」

「そうですね見える景色が変わった感じです。上手く言えないのですが勝った後だと見えるものがすべて違って見えました」

「凄く嬉しいに、見える景色が変わるね」

 

 嬉しいとはどれぐらいだろう?宝くじで1等が当たったぐらいか?景色が変わる?どんな風にすべてがピカピカに輝くのか?

 リョテイは想像するがすぐに辞めた。明日GIを取ればわかることだ。

 

「オペラオーちゃんがあのバカは潜在能力なら物凄いって言ってたし。そのキンイロリョテイちゃんが本気の本気で走れば楽勝だよ」

「そうです。貴女ほどの人がこれほどの覚悟で臨むのですから、それで取れなきゃウマ娘の神様はとんだ3流作家です。そんな脚本速攻で焼却炉行きです」

 

 明日はGI取りたいな。

 そう口から出かかった刹那の2人の言葉にリョテイは自身を自嘲する。何弱気になっている。何センチメンタルになっている。取りたいじゃない。取る!奪い取るんだよ!

 

「よし、前夜祭はこれで終わりだ!万全を期すために少し早いが寝るぞ」

「りょうか~い」

「はい」

 

 キンイロリョテイの言葉とともに三人はグラスや飲み物を片付け寝床につく。

 デジタルもベッドに行き目をつぶる。いつもなら寝る前は自分がグッとくるシュチュレーションなどを妄想して楽しむのだが今日は別のことを考えていた。

 

 引退

 

 今までそんなことを考えたことはなかったが、キンイロリョテイがその言葉を口にしたことで今は意識していた。

 能力が衰え引退する日が必ずやってくる。そうなれば2度とレースで大好きなウマ娘達と走れなくなる。感じたのは幼い頃死について考えたときのような得体の知らない恐怖だった。

 デジタルは思わず背筋を震わせる。このままではダメだ。恐怖を取り除こうと強引に脳内妄想に没頭する。そして気づけば意識は途絶え眠りに落ちていた。

 




アニメなどのメディア作品では引退について触れられておりませんが、この世界観では引退します。
やはり競馬には引退要素はなくてはならないと思っていますので、引退要素を入れました。

設定としてはウマ娘に宿ったモデルの競走馬の魂、ウマ娘ソウル(勝手に命名)が徐々に衰えていき、その結果身体能力が衰えていきます。その衰えは人間の老いによる衰えとは違い短期間で衰えていきます。



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勇者パーティー魔都香港へ#3

『セイエイタイシ!セイエイタイシ!世界よ刮目せよ!これがセイエイタイシだ!』

 

 香港国際競走第1レース香港スプリント。連勝記録を伸ばし続ける香港のセイエイタイシが世界各国から集まった快速スプリンターを完封。地元の英雄の圧勝劇に観客たちのボルテージは一気に高まり、割れんばかりの歓声が起こり勝者を称える声がレース場内に響き続ける。その音量は凄まじく地下にある関係者控え室にも届いていた。

 

「強いと思っていたがこれほどまでか、寒気がしたわ」

「これが世界ですか」

「これに勝てるウマ娘なんておるんか?」

 

 椅子と机程度の最低限の用具しかない質素な控え室でトレーナー達はセイエイタイシの強さに畏敬の言葉を吐く。 控え室にはレース映像を映すモニターが設置されており、関係者もレースを見ることができた。

 

「さてと、地元の英雄さんが会場を温めてくれたしさらに盛り上げてくるか。いや、あたしが勝ったら盛り下がるか」

 

 控え室にいたキンイロリョテイが椅子から立ち上がり獰猛な笑みを浮かべる。

 この後はOPクラスのレースを挟みキンイロリョテイが出走する香港ヴァーズがおこなわれる。リョテイがパドックに向かおうとするがアグネスデジタルが制止した。

 

「ねえ、せっかくだから、みんなで円陣組もうよ。こういうのやってみたかったんだ」

「いいぜ、軍団対抗戦前みたいでテンション上がるぜ。やるぞジジイ」

「しょうがない」

「あたしもちょっと憧れていたのよね。あたし達もやりましょうトレーナー」

「何か学生に戻った気分です」

 

 リョテイとプレストンとそのトレーナー達が次々と肩を掴み円陣を作る。デジタルのトレーナーも小っ恥ずかしいと嫌がっていたがデジタルが強引に腕を掴み輪に入れた。

 

「で、誰が音頭取るんだ?」

「じゃあキンイロリョテイちゃんお願い」

「よし」

 

 リョテイは了承すると鼻から大きく息を吸い声を張り上げた。

 

「あたし達の目的はヴァーズ、マイル、カップの3タテだ!ぶっちぎりで勝って香港の英雄さんの勝利なんて観客の頭から吹き飛ばしてやろうぜ!いくぞー!!

「「「「「おう!」」」」」

 

 6人の声が控え室に反響する。有終の美を飾るため、自身の強さの証明と周りへの感謝を示すため、将来の夢と個人的嗜好のため、そしてパートナーの願いを叶えるためにそれぞれが勝利を目指す。

 チームとして戦うという今までに味わったことのない体験と連帯感が皆を高揚させていた。

 

「デジタル、プレストン。あたしが後輩のために露払いしておいてやるよ。後に続けよ」

「うん。頑張ってね」

「期待しています」

「リョテイ、悔いだけは残すなよ。真っ白に燃え尽きてこい」

 

 3人の言葉にリョテイは無言で腕を上げて答える。

 香港ヴァーズ。キンイロリョテイ出陣。

 

──

『そして先頭はゴドルフィンのエクラールが先頭だ。後続から5バ身から6バ身のリードをとっている。そしてキンイロリョテイが集団から抜け出してきた、捕らえることができるのか、キンイロリョテイ?』

 

 香港ヴァーズはエクラールに支配されていた。 道中は絶妙なペース配分でレースを引っ張り、3コーナーあたりからややペースを上げると、後続を引き離しにかかる。

 不意打ちを受けた格好になった2番手以下もペースを上げるが4コーナーを回ったときには7~8バ身のリードをとっておりエクラールにとってはセーフティーリードだった。そして見ているものにもこの差がセーフティーリードであることがわかっており、実況の声にも悲壮感が漂っている。

 

「キンイロリョテイちゃん…」

「キンイロリョテイさん…」

 

 デジタルとプレストンは祈るように名前を呟く、この差を差し切るのは相当厳しい。だがキンイロリョテイなら、日本ウマ娘界屈指の潜在能力を秘めているといわれるリョテイならやってくれるかもしれない。そんな期待を込めながら2人は再びキンイロリョテイの名を呟いた。

 

『キンイロリョテイも懸命に追う!残り200メートルを切ってその差は3バ身から2バ身!頑張れキンイロリョテイ!』

 

(これ、無理かもしれねえ…)

 

 キンイロリョテイの心に諦めが去来する。キンイロリョテイは計算してレースを走るタイプではないが、50走という豊富なキャリアから自分のスピードと相手のスピードとリードを考えて差し切るのは無理であるという答えを無慈悲に出していた。

 

(結局最後も銀メダルかよ…あたしらしいと言えばらしいか)

 

 その時エクラールと目線が合いその顔は笑っていた。レース中にウマ娘同士の視線が合うことは滅多にない。あるとすれば横に並んだときぐらいだ。だが何故前と後ろの位置で目線が合う?その答えは一つだった。

 

(てめえ勝った気でいやがるな!)

 

 エクラールは勝利を確信していた。この差を詰められるはずがない。レースをすべてコントロールしての勝利は格別なものだった。そしてその余裕と優越感から敗者の姿を確認しようと思わず後ろを振り向いたのだった。だがその行動がリョテイの中に潜む爆弾に火をつけた。

 

「調子乗ってんじゃねえぞ!」

 

『先頭との差が2バ身、1バ身半、1バ身!』

 

 リョテイは雄叫びをあげる。

 すべてを燃やし尽くす!自分も知らない体中のすべての力を燃料にするかのような激走。そのブースターがついたような走りはエクラールとの差をみるみるうちに縮めていく。

 そして迫り来るリョテイの足音を聞きエクラールの表情から笑みは消え失せていた。なんでそこから伸びる!?ありえない!?

 

 エクラールも懸命に食い下がる。だが潜在能力をすべて開放したリョテイの末脚に対抗する力を持ち合わせていなかった。

 

『キンイロリョテイ差し切った!なんとあの絶望的な位置から差し切りました!何というウマ娘でしょう!長い旅路の終着点は金メダルだ!』

 

 エクラールは肩をがっくり落とす。その表情は信じられないものを見てしまったという表情だった。そしてリョテイはエクラールに勝ち誇るように笑いながら吐き捨てた。

 

「ざまあみろ」

 

 リョテイは立ち止まり周辺を見渡す。これがプレストンの言っていた1着の、GI1着の景色か。気のせいかいつもよりすべてが綺麗に見える。そして嬉しいという感情がマグマのようにこみ上げ体中を駆け巡る。それは心地よいものだった。

 すると正装に身を包んだウマ娘がリョテイの元にやってきた。 香港ではレース直後歩きながら勝利インタビューをすることになっている。

 

『優勝おめでとうございます』

「あっ?何言ってるかわかんねえよ」

 

 インタビュアーは全世界で放送していることもあり英語で喋る。だがリョテイには全く理解できず心地よさを味わっている最中に邪魔されただただ不快だった。それでもなお英語で喋るインタビュアーにだんだんとイライラしてきたリョテイはマイクを奪い取る。

 

「おい見たか!これがあたしの!日本ウマ娘界の実力だ!アイ、アム、ナンバーワン!」

 

 リョテイは日本語で叫び人差し指を天高く突き上げた。 その瞬間観客席から耳がつんざくような歓声があがる。あの位置から差し切ったレース。そしてこのインタビュー。この破天荒さがシャティンレース場の観客の心を一気につかんだ。

 

「リョテイよくやったぞ!」

「やればできるじゃねえか…」

 

 リョテイが意気揚々と引き揚げてくると日本人のファンが一斉にスタンド前に駆け寄り大歓声を上げる。中には涙をこぼしながら歓声を上げるファンもいた。

 するとリョテイは突如勝負服を脱ぎだす。上着、ズボン、装飾品、レース用シューズなどを日本人ファンに投げ入れる。これはリョテイなりの応援してくれたファンへの感謝の気持ちをこめたプレゼントだった。ありとあらゆる物を投げ入れ気づけば装着しているのは下着だけだった。それでもリョテイは全く意に介することなく地下バ道に降りていく。

 

「ジジイ!ジジイやったぞ!金メダル取ってきたぞ!」

「ああ…よくやった…お前は世界一だよ…」

 

 計量室でトレーナーを見つけたリョテイはいの一番駆け寄り抱きついた。トレーナーもその勢いと同じように強く抱きしめた。下着一丁のウマ娘と中年のトレーナーが熱い抱擁を交わしている。その光景は異質であった、普通なら戸惑う場面だが2人から溢れ出す感情を感じたギャラリーは祝福するように拍手を送った。

 

――――――――――――――――――――

 

「すごい!すごいよキンイロリョテイちゃん!」

「あそこから差し切るなんて!」

「だろ。あたしは凄えんだよ」

 

 控え室に帰って来たリョテイにデジタルとプレストンが賛辞の言葉を送る。

 信じられない!あんな位置から差し切るとは!あの位置はプレイヤー目線からしてまさに絶望的だった。だがリョテイはその絶望の壁をぶち破って勝利をもぎ取ったのだ!なんて精神力!なんて潜在能力か!リョテイのレースは2人の魂を揺さぶりボルテージを一気に高めた。

 

「さて、露払いはやっておいた。次はお前だ。気張れよプレストン」

「プレちゃんなら楽勝だよ」

 

リョテイは力強く、デジタルは優しくプレストンの背中を叩く。プレストンはそのエールに力強く頷いた。

 

「プレストン。君なら勝てます」

 

 プレストンのトレーナーはエールを送る。その言葉は短く端的だったがその中には100の励ましの言葉が込められておりそれをプレストンはしっかりと感じ取っていた。

 

「はい、勝ってきます」

 

 香港マイル エイシンプレストン出陣

 

───

 

『さあ4コーナー回ってエイシンプレストンは大外を回した。この位置取りは厳しいか』

「おいおい内つけよ。そんな大外ぶん回しちゃだめだろ」

 

 キンイロリョテイが思わず愚痴をこぼす。勝つとしたらレースの流れに乗ってロスなく回り内を突くべきだ。 

 だがリョテイの考えとは反対のプレストンは大外を回していた。その考えはリョテイとデジタルのトレーナーも同じく思っていた。

 3人が不安そうに見つめるなかデジタルは平然とモニターを見つめている。

 

「デジタル随分余裕だな」

「不安じゃねえのかよ」

「プレちゃんならあそこからでも差し切れるよ。大丈夫大丈夫」

 

 デジタルのトレーナーとリョテイの言葉に笑顔見せて答える。何故そこまで自信満々に答えられる。盲信かそれとも確信なのか、リョテイとトレーナーにはデジタルの心境を推し量れなかった。

 

『先頭はチャーミングシティだ、チャーミングシティが先頭だ。しかしそこにゴドルフィンのチャイナヴィジットが襲いかかる』

 

 逃げ粘るチャーミングシティに青色がトレードカラーのゴドルフィンが猛然とせまる。脚色は完全にチャイナヴィジットが優っており抜き去ろうとした瞬間、さらに外から次元の違う脚で突っ込んでくるウマ娘が一人いた。

 

『外からエイシンプレストン!?エイシンプレストンだ!チャイナヴィジットを一気に抜き去った!』

 

 残り150メートルで先頭に立つとそこからは独走だった。他のウマ娘も食い下がろうとするがそのスピードの前に抵抗すら許されない。最後50メートルは完全に流し自分の力を見せつけるように観客席に向かって派手なガッツポーズを決める。

 

 2着との着差は4バ身。これが後の香港で最も有名な日本所属ウマ娘になるエイシンプレストンの衝撃のデビュー戦だった。

 

「おい、あいつこんなに強かったのかよ!」

「これは北さんも惚れ込むわけだ」

「こんなのが同期か、ダート走れてよかったなデジタル。ダート走れなかったら今後は路線が被って全部持っていかれるかもしれへんぞ」

「でしょ~!プレちゃんは本当に強いのだ!」

 

 あまりの圧勝劇に言葉を失っている三人の前にデジタルは自慢げに笑みを見せる。

 どうだ!あたしの友達は凄いんだ!もっと褒めろ!デジタルの表情はそう言いたげだった。

 

 レースが終わりプレストンへのインタビューが始まるがレース場はいまだにザワザワついている。リョテイの勝利が熱狂ならプレストンの勝利は困惑だった。

 リョテイのあの差し切りは凄まじかったが、あの世界トップレベルのファンタスティックライトに勝つポテンシャルを有しているリョテイならまだ分かる。

 だがプレストンは何だ?追加招待で選ばれた脇役がゴドルフィンのウマ娘をぶち抜き、超一流のようなパフォーマンスを見せた。これほどのウマ娘がGI1勝しかしていないなんて、日本のレベルはどれだけ高いのだ。観客たちはただただ困惑していた。

 

『優勝おめでとうございます。物凄い末脚でしたね』

『ありがとうございます。後方で脚を上手く貯められました』

 

 ウマ娘のインタビュアーの英語にプレストンも英語で答える。アメリカ生まれなだけあって流暢な英語だった。インタビューが進みインタビュアーから一言ありますかと聞かれ、プレストンは力強く答えた。

 

『レース場に来てくださった皆様。私がエイシンプレストン!是非この名前を覚えていてください!』

 

 これは追加招待扱いにした香港ウマ娘協会、そして帯同ウマ娘と勘違いした名を知らぬウマ娘たち。覚えておけ、エイシンプレストンの名を。 最後の言葉は無名扱いした者達に対するささやかな恨みから出たものだった。

 そしてプレストンはキンイロリョテイに倣うように指を2本天高く突き立てた

 ざわめきが収まらないなかプレストンは胸を張りながら地下バ道をおり計量室に向かう。そしてそこにはプレストンのトレーナーの姿があった。

 

「お疲れさま。まあこれぐらいプレストンならできると思っていました」

「ありがとうございます。この度は色々とご迷惑をおかけしました」

「これだけぶっちぎって勝ったのだから多少は自信を持てたでしょう。これからが大変ですよ。今じゃアグネスデジタル以上に世界から注目されるウマ娘ですから」

「はい!」

 

 プレストンは力強く返事をする、自分への自信のなさ、デジタル対しての嫉妬と劣等感、すべて見透かされていたのか。流石トレーナーだ。 でもこれで自信を持つことができた。そしてデジタルと肩を並べられたような気がする。

 プレストンはこの勝利によって自分にまとわりついていた何かが取り除かれた気がした。 それはとても爽やかな気分だった

 

「さすがプレちゃん!信じてたよ!」

「ありがとう。これもデジタルのおかげね」

 

 控え室に戻ったプレストンにデジタルはその胸に飛び込むように抱きつく。 あの時の強くてかっこいいプレストンが戻ってきた。それが堪らなく嬉しかった。

 プレストンは胸に飛び込んできたデジタルの頭を優しく撫でていると、後ろからリョテイの手が迫り頭を乱暴に撫でる。

 

「すげえじゃねえか!あたしの舎弟にしてやるよ」

「キンイロリョテイさんにもご迷惑おかけしました。あと舎弟にはなりません」

 

 手荒く労を労うリョテイに謝罪の言葉を述べながら舎弟入りはきっぱりと断る。 リョテイはその様子にニヤリと笑みを浮かべるとデジタルの方に向き話を切り出す

 

「さて、あたしがど派手に勝ち、プレストンもど派手に勝った。香港ジャックの計画は順調に進んでいる。そして最後の大とりだ!しくじるなよデジタル!」

「頑張ってね。デジタル」

「うん。ちょっとパドック行ってくる」

 

 デジタルは二人の言葉にVサインで応じるとパドックに向かっていった。

 

 シャティンレース場は異様な空気だった。

 最初は香港の英雄による圧勝劇で幕を開けお祭り騒ぎになると思っていた。

 香港ヴァーズと香港マイルではゴドルフィンでもなくフランスやイギリスやアメリカでもない日本のウマ娘が素晴らしいパフォーマンスを見せて勝利する。この展開はレース場にいる誰ひとり予想していなかった。

 そして最後の締めをくくる香港カップに日本のウマ娘が出てくる。となれば注目されないわけがない。

 パドックでデジタルに向けられる視線に含まれる期待感は日本では感じたことがないほど大きかった。デジタルもその視線の圧を感じていた。

 香港ではパドックを終えたらすぐに地下バ道を通って本バ場入場が始まる。地下バ道に行くこの僅かな時間でトレーナーとウマ娘は最終確認をおこなう。

 

「作戦は昨日の打ち合わせ通りや」

「うん。わかった…」

「どうした?まさか緊張しているのか?」

「う~ん。ちょっとだけ不安かな」

 

 デジタルは人差し指と親指で僅かな隙間を作るジェスチャーを見せる。

 

「キンイロリョテイちゃんとプレちゃんがあれだけ派手な勝ち方したから、あたしも派手な勝ち方しなきゃいけないでしょ。でも白ちゃんの作戦だと勝ち方が地味だから文句言われそうかな~って」

「なんやそんなこと心配しておったのか。香港カップは格が高い分マイルやヴァーズと比べてメンツのレベルが高い。だから勝つだけでも充分や。気にするな」

「へ~じゃあキンイロリョテイちゃんとプレちゃんには『弱メンツに派手に勝っただけで調子乗るな』って言ってたって伝えておくね」

「それは勘弁してくれ、エイシンプレストンはともかくキンイロリョテイに伝わったらマジでど突かれる」

「冗談冗談」

 

 2人はおどけるような口調で喋り、示し合わせたように笑った。デジタルとトレーナーも周囲の期待と日本ウマ娘の連勝の勢いに乗って勝たなければならないというプレッシャーを程度の差はあれど感じていた。

 

「そういえば知っとるかデジタル?ヴァーズとマイルでの2着はゴドルフィンの所属で、トブーグもゴドルフィンや。きっと目の色変えてお前を負かしにくるぞ。」

「うん。名門ゴドルフィンがジャパニーズ相手に三タテされるわけにいかない!そんな感じの視線を向けてくるんだよね~。これであたしを注目してくれる。やっぱり一緒に走るんだったら意識してもらいたいのが乙女心だよね~」

「それに他のウマ娘もお前に注目している、モテモテやんけ。勝ってくれたキンイロリョテイとエイシンプレストンに礼言っておけよ」

「本当だね」

 

 2人は引き続き軽口を叩き合う。だがそうすることでプレッシャーが薄れフワフワしていた感覚が地に足がついた感覚に変わっていた。そうしているうちに地下バ道入口まで着く。

 

「じゃあ、行ってくるね」

「あっちょっと待て」

 

 トレーナーは入口に向かうデジタルを呼び止めその手にものを握らせる。中には赤黄黒のトリコロールカラーのヘアピンがあった。

「香港で買ったヘアピンや。よかったらそれを着けて走ってくれ」

 

 それはダンスパートナーのヘアピンだった。

 ダンスパートナーが走ったクイーンエリザベスカップ、あの時は未熟で海外のことをわからずその結果は5着。だがダンスパートナーの実力は勝ったウマ娘に劣っていなかった。

 負けたのはダンスパートナーではなく自分だ。だからこそせめて罪滅ぼしに負けた舞台と同じ距離のレースでダンスパートナーの私物だけでもゴール板を一着で通過して欲しい。それが願いだった。

 だがこれでプレッシャーを感じてしまっては元も子もない、なので真意は伏せる。

 

「なに?香港カップ用のおしゃれアイテム?」

「まあ、そんなところや」

「白ちゃんにしてはセンス良いね」

 

 デジタルは礼を述べて前髪にヘアピンを着ける。そしてトレーナーは関係者専用の観覧席に、デジタルは地下バ道に向かっていく。

 

(白ちゃんもセンチメンタルだよね~)

 

 デジタルにはトレーナーの真意は筒抜けだった。一目見ただけであのヘアピンがダンスパートナーの物だとわかった。この計らいを知ったダンスパートナーはどんな反応を示すだろう。恥ずかしがるか?喜ぶか?だが嫌がることはないだろう。

 どのウマ娘達も愛おしく喜ぶ姿は見るのは至福である。たった数グラムの斤量でウマ娘の喜ぶ姿が見られるなら着ける以外の選択肢はない。

 

『各ウマ娘入場です』

 

 入場してくるウマ娘を大歓声が出迎える。香港カップは香港国際競走の大とりのレースだけあって観客の歓声も一際大きい。

 

『ゴドルフィンの欧州ジュニアクラスチャンピオン!惜敗が続くがこのレースを勝ち飛躍なるか?トブーグ』

 

 トブーグの入場で1番の大歓声が上がる。観客席を一瞥するとブロンドヘアーを靡かせ返し運動をおこなう。トブーグはこのレースの一番人気である。ここ最近では勝てていないもののイギリスダービー3着、イギリスチャンピオンステークス2着が評価されてのものだった。日本ウマ娘躍進が続くなかでの1番人気、それだけ欧州のレースのレベルが高いという評価だった。

 

『地方ダート、中央芝の次は海外だ!テイエムオペラオーとメイショウドトウを撫で切った末脚は炸裂するか?2番人気アグネスデジタル!』

 

 デジタルが入場するとトブーグに劣らないほどの歓声が上がる。

 デジタルは周りを見渡す。一方を眺めれば高層ビル群が立ち並び、一方を眺めれば山が見える。自然と人工物が交じり合う不思議なレース場だ。そして観客席を見渡し目当ての人物を見つけるとそちらに駆け寄った。

 

「デジ子~頑張れ~!」

 

 スタンド前ではダンスパートナーが大声で応援している。そしてお手製の垂れ幕を手すりにかけている。

 そこには「プレアデス魂!アグネスデジタル」と書かれており自分をデフォルメしたイラストも描かれていた。文字は毛筆で書いたように荒々しくデフォルメイラストとのギャップに思わず笑みをこぼす。するとダンスパートナーと目線があった。

 その瞬間デジタルは装着したヘアピンを指さす、伝わっただろうか。そしてデジタルは返し運動に向かう。

 全ウマ娘の入場が終わり全員はゲート前で準備運動をしながらゲート入りを待つ。するとトブーグがアグネスデジタルに話しかけてきた。

 

『ヘイ、あんたがアグネスデジタルか?』

『そうだよ。よろしくねトブーグちゃん』

『英語がわかるのか、丁度いい。私はマイルやヴァーズで負けたチームの三下とは違うからな。覚悟しておけ』

 

 デジタルはトブーグの言葉にほんの少し不快感を表す。同じチームメイトを馬鹿にするのは好かない。 その態度をみたトブーグはデジタルを鼻で笑う。

 

『ファンタスティックライトに勝ったテイエムオペラオーとキンイロリョテイの両者に勝ったアグネスデジタルというから注目していたがあまちゃんだな。チームメイトは友達じゃない、ただの競争相手だ』

『そんなこと言っちゃだめだよ。ウマ娘ちゃんはみんな仲良くしなきゃ』

『私に勝てたら仲良しこよししてやるよ』

『あっ言ったね。じゃああたしが勝ったら仲良くするんだよ』

『ああ、無理だけどな』

 

 トブーグは高笑いをあげながらゲートに入っていく。そしてデジタルもゲートに入っていく。

 一緒に走るメンバーではトブーグを推していたが少しばかり評価を下げなければならない。プロポーションは日本で言えばタイキシャトルのような感じで素晴らしい。

 だが心が荒んでいる。だがこういう跳ねっ返りを自分の友情パワー走りでレースに勝利し、その走りに感銘を受けたトブーグが改心する。そして自分のことをお姉さまと言って慕ってくれる。うん中々良いシチュエーションだ。

 デジタルは様々な妄想を巡らせる、これがデジタル流の集中力の高め方である。 そしてスターターの準備終わりゲートが開く。14人立てによる香港カップが始まった。

 

『さあゲートが開いて飛び出したのは…アグネスデジタルです。アグネスデジタル好スタート』

 

 デジタルは誰よりも早く飛び出し先頭に立つ。だがトブーグがスピードを上げハナを主張しデジタルはそれに付き合わず先頭から3番手のポジションにつけた。

 

「おいおいおい、あいつの脚質は差しだろう。あんな前につけていいのか」

「デジタルは差しだけではなく先行もできます。現にダートでは先行で南部杯に勝っていますが……」

 

 日本チーム控え室では思わぬ展開に騒めく。マイルチャンピオンシップや天皇賞秋では豪快な差し切り末脚の印象が強いデジタルがまさかの先行策。これは狙い通りなのか?

 

「どう思いますトレーナー?」

「アグネスデジタルほどのウマ娘ならある程度ゲートを出るタイミングを調整できます。後方待機しようとしたが間違ってゲート良く出てしまったということはないでしょう。これは意図的です」

「白が周囲の予想に反した行動を取るときは何かしら勝算がある場合だ」

 

 プレストンの問いにトレーナー達が見解を述べる。そしてその見解は正しかった。

 デジタルのトレーナーはデジタルに先行するように指示したのだ。理由は3つ

 

 1つ目はバ場の性質。

 シャティンのバ場は粘っちこく時計が掛かるバ場である。このようなバ場では天皇賞秋のように直線一気で差し切ることは難しい。

 

 2つ目は走る相手

 トレーナーは香港カップに出てくるウマ娘達を調べあげ、今回のウマ娘達に逃げの脚質はおらずレース展開はヨーロッパのように団子状態になることが予想される。そうなると前が有利で後ろは明らかに不利だった。

 

 3つ目はコースの形状

 シャティンレース場でおこなわれる2000メートルのレースはスタートからしてすぐに第1コーナーを迎える。すると遠心力で外に振られて距離ロスしてしまう。それを防ぐにはハナに立つ勢いで先行するか、早々に後方待機してゆっくりと回るかである。

 

 この3つの理由から先行したほうが有利であると判断しデジタルに指示した。そしてこの先行策は思わぬ利点を生み出す。

 デジタルは枠抽選で外枠を引く。トレーナーとしては内枠を引きたかったがそれは結果的に幸運だった。

 リョテイとプレストンの活躍によりデジタルへの警戒度が想定以上に増していた。そのことによりデジタルを恐れ囲まれて身動きが取れなくなる危険性が増えていた。だが外側なら多少外を回せば囲まることはなく、逆に内枠だったら先行しても囲まれて身動きが取れなくなる可能性があった。

 

(アグネスデジタルが先行?差しじゃないのか?)

(うん、ここはトブーグちゃんの後ろ姿が見られる特等席だ。さあ、あたしにすべてを見せて)

 

 トブーグは粘着質な視線を受け薄気味悪さを覚えながらも逃げを打つ。絶妙なペース配分でレースを引っ張り、スローペースの流れを作る。レースは特に動かず淡々と進んでいき4コーナーに入るところでデジタルは一気にとペースを上げ直線に入った際には先頭に躍り出た。

 

『先頭はアグネスデジタル!残り400メートルを押し切れるか!?』

 

 全ウマ娘がスローペースによって貯められた末脚を解放する。全員がデジタルを目標に猛然と追い詰めるがデジタルとの差は一向に縮まらない。

 残り300メートルをきりデジタルは1バ身のリードをキープする。このまま押しきれるか?デジタルを応援するものに希望が宿る。だがそれを打ち砕くようにトブーグがジワジワとデジタルとの差を縮め、そしてついにクビ差まで追い詰める。

 

『追いついたぞジャパニーズ。根性勝負だ。お前みたいなあまちゃんに負けない!』

『いいよ。あたしだってオペラオーちゃんとドトウちゃんの日本一のど根性ウマ娘ちゃん達と一緒にトレーニングしたんだから』

 

 デジタルが引き離しにかかるがトブーグも影のようにぴったりと離れない。まさに根性勝負といえるデッドヒートだった。

 

『辛いだろう?苦しいだろう?だがあたしは耐えられる!これがゴドルフィンの力だ!お前みたいな島国でぬくぬくしている奴とは鍛え方が違う!』

 

 ゴドルフィンに所属しているという誇り、ゴドルフィンの厳しいトレーニングに耐え抜いた自信がトブーグに力を与える。並みのウマ娘ならとっくに心が折れるが歯を食いしばり懸命に耐える。その形相は鬼のようだった。

 だがその差は縮まらない。トブーグは思わず並走しているデジタルに視線を向ける。そして驚きで目を見開く、デジタルは笑っていた。

 

 何故笑っていられる!?

 

 デジタルもトブーグのように苦しかった。だが苦しさより多幸感が優っていた。

 汗の臭いは柑橘系のような爽やかで、弾む息遣いは少しハスキーボイスで胸をトキメかせ、躍動する肉体は興奮させる。そしてこの絶対に負けないというこの情念は体をゾクゾクさせる!トブーグのすべてがデジタルに幸福感を与えていた。

 

『残り100メートルでアグネスデジタル僅かに先頭!がんばれ!ゴールはもうすぐだ!』

 

 デジタルは依然クビ差のリードを保っている。

 もっと!もっと一緒に走りたい!だがデジタルの願望とは裏腹にゴール板は目前に迫っていた。楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまう。一抹の寂しさを覚えながらデジタルは最後の力を振り絞る。

 

「トブーグちゃんとの根性勝負楽しかったよ。また一緒に走ろうね」

 

 デジタルは日本語で語りかける。無論トブーグには言葉の意味はわからない。だがその言葉は死刑宣告のように聞こえていた。

 

『アグネスデジタル香港カップ制覇!ヴァーズ、マイル、カップの3連勝!』

 

 日本のウマ娘による香港国際競走3連勝

 その歴史的偉業に日本の応援団から歓声が上がる。そしてそれが波紋のように広がりレース場の観客たちも次々に歓声を上げる。そしてデジタルは日本チームの偉業を誇るように指3本を天高く突き上げた。

 

『くそ……強い……』

 

 勝ち誇るデジタルの後ろ姿を見つめながらトブーグは言葉を吐き捨てる。

 デジタルとの差はクビ差か半バ身差といったところだろう。見ているものには逆転可能な僅差に見えるかもしれない、だが本人にはとてもそう思えなかった。

 どこまで行っても追いつくことができない永遠の着差。こんな気分を味あわされたのはあのウマ娘と走った時以来だ。

 トブーグを尻目にデジタルの状態が落ち着いたのを見計らい、インタビュアーが近づきインタビューが始まる。 デジタルは息を整えながらインタビューに応じた。

 

『おめでとうございます。大変タフなレースでしたが』

「サンキュー」

『4コーナーを抜け出すスピードは素晴らしかったですね』

「あー、アイム…パワフル…フォースコーナー……ストレート……パワフル……」

 

 レース上では勝者のアグネスデジタルがどんな言葉を語るか固唾を飲んで見守る。そして発せられた言葉は意味不明な英語だった。

 こいつは何を言っているんだ。予想外の出来事にレース場はざわついている。

 

『はい!素晴らしいレースでした!ありがとうございます。アグネスデジタル選手に今一度声援を!』

 

 インタビュアーの言葉に促されるようにレース場の観客は再び歓声をデジタルに送った。

 

「何だよあのインタビュー!あたしの英語よりひでえな!何だよ」

「ねえ、何て言おうとしたの……」

 

 香港国際競走の大とり、香港カップに勝利し控え室に凱旋するアグネスデジタルを迎えたのは笑い声だった。

 キンイロリョテイはひとしきり大笑いした後デジタルのインタビューの様子を滑稽に演じる。

 エイシンプレストンは必死に笑いを耐えようとするがリョテイのモノマネを見て我慢できずに吹き出してしまう。トレーナー達も同じように笑いを必死にこらえていた。

 

「う~違うの!あれはあたしの英語回路があの時だけいかれたの!本当ならペラペラなんだよ!」

「何だその言い訳!いかれているのはお前の頭だ!」

 

 デジタルの言い訳を聞きリョテイはさらに笑い転げる。デジタルは恥ずかしいのか悔しいのか思わず地団駄を踏んだ。

 インタビュアーの英語の質問に『はい4コーナーを回ったときには余力は充分にありましたのであのまま押し切れる自信はありました』と答えようとしていた。

 だがいざ話そうとすると単語が全く頭に浮かび上がってこなかった。ヒヤリングはできるのに全く言葉が浮かび上がらない。それはデジタルにとって未知の体験だった。

 それでもデジタルは懸命に英語で答えようとした結果が『アイム、パワフル、フォースコーナー』だったのだ。

 インタビュアーもデジタルがアメリカ出身だったのでプレストンのように流暢な英語を話せると思っていたが、あまりに拙い英語だったのでインタビューにならないと早々に切り上げてしまった。

 

「いや~俺もモニターで見ていて唖然としたわ……これじゃあ将来トレーナーになっても海外のウマ娘は来ないな、なんたってアイム、パワフル、フォースコーナーやからな…そんな英語しか喋れないトレーナーには預けたくないわ」

「違うの!白ちゃんはあたしが英語喋れるって知っているでしょう!」

「そうなんかパワフルフォースコーナー」

「ううっ!プレちゃんも何とか言ってよ」

「そうなのパワフルフォースコーナー」

「プレちゃんまでひどい!」

 

 デジタルはさらに地団駄を踏む。その姿は全員の笑いを誘い控え室には笑い声がいつまでも響き渡った。

 

 レースが終了しある意味メインイベントといえるウイニングライブが始まる。

 ライブの順番もレースの順番と同じでスプリントに勝ったセイエイタイシのライブから始まった。

 

 香港の英雄セイエイタイシの持ち歌はもはや香港の誰もが知っている曲であり、観客の完璧な合いの手とコールアンドレスポンスで大会史上一番の盛り上がりを見せた。

 そして次はキンイロリョテイのライブがおこなわれ、ハードロックな曲は言語の壁を越えて会場を盛り上げる。

 エイシンプレストンの持ち歌は典型的なJポップだが海外用にと英語で歌い上げる。インタビューと同様な流暢な英語で観客を満足させた。

 最後にデジタルのライブが行われ自身の持ち歌をプレストン同様に英語で歌い上げる。今度は英語回路が正常に作動しちゃんと歌えることができた。インタビューの時とは別人のような英語に観客は誰しも驚いていた。

 

「いや~日本語で盛り上がるかとちょっと心配していたけど思った以上にノリが良くて盛り上がったな」

「はい、あたしもシャティンの雰囲気が好きになりました。また香港でウイ二ングライブしたいです」

「じゃあ来年も一緒に行こうよ」

「それもいいわね」

 

 ウイニングライブが終わりジャージに着替えて意気揚々とホテルに引き揚げる。3人ともライブの手応えの良さに満足気な顔を浮かべていた。

 初めて聞く曲で本来なら好きでもない外人の曲のライブなど空気が冷め切ってもおかしくないはずなのに、観客たちは盛り上げようと勤めてくれた。

 これがライブを盛り上げなければならないという勝者への敬意なのかわからない。だがその心遣いは3人に届いていた。

 

「プレちゃん、キンイロリョテイちゃん。ちょっとトイレに行ってくる」

 

 急に尿意を催したデジタルは急ぎ足でレース場にあるトイレに向かう。確かまだ空いているはず、だがこれで空いていなかったら結構やばいかも、そんな不安を感じながらトイレに駆け込む。幸いにもトイレは空いており無事に用を足すことに成功する。

 洗面台で手を洗い2人の元に向かおうとした瞬間、個室から出てきた人物と鏡越しに目があった。

 その人物はウマ娘だった。同い年ぐらいで身長は170センチほどで青い瞳に褐色の肌、髪は茶髪のポニーテール、服装は上下青のジャージだった。

 

「貴女は香港カップに勝ったアグネスデジタルさんですか?」

「うん、そうだけど」

「レース見ていましたよ。強かったですね」

 

 ウマ娘の少女はデジタルに握手しようとするが手を洗っていないことに気づき、手を洗いハンカチで拭いてから一方的に手を握ってきた。

 人懐っこくて一気にコミュニケーションの間合いを詰めてくる娘だな。それがデジタルの抱いた第一印象だった。

 

「そしてライブも驚きました。インタビューでは拙い英語だったのにライブではあんな流暢な英語が喋れるなんて、何でインタビューの時はああなったのですか?」

「あの時はあたしの英語回路が壊れちゃって、上手く喋れなかったの。今はもう大丈夫だけど」

「英語回路ですか、でも言いたいことはわかります。私も母国語は英語なのですが、アラビア語ばっかり喋っていると時々英語が出なくなるんですよ」

「アラビア語?てことは」

「はい、ゴドルフィンに所属しています」

「へえ~チームゴドルフィンの選手なんだ。でもヴァーズとマイルには出ていなかったからよね。スプリントに出ていた?」

「違います。今日はチームメイトの応援に来ました」

 

 今日走っていないということはゴドルフィンに入団したばかりのジュニアクラスだろう。それなのにわざわざ異国まで応援に来るなんて頭が下がる。

 そして今日のヴァーズ、マイル、カップの2着は全員ゴドルフィンの選手だ、デジタルは目の前のウマ娘にチームメイトと勝利の喜びを分かち合わせることができなかったことにわずかばかりの罪悪感を覚える。

 

「気にしないでください。結果は残念でしたがアグネスデジタルさんが気に病むことじゃありません」

「そう言ってくれると助かるな」

 

 デジタルは心境を見透かされた動揺を隠すように愛想笑いをする。ここまでピンポイントに読めるのか、その洞察力に舌を巻く。

 

「ところでゴドルフィンの中で推しのウマ娘って居る?」

「推し?推しってなんですか?」

「ええっと……例えばキレイだなとかカッコイイなとかカワイイなとか思うチームメイト居る?」

 

 ゴドルフィンは世界中からウマ娘が集まる人材の宝庫だ。ネットでも情報を手に入るがせっかくゴドルフィン所属のウマ娘に出会えたのだから実際に体験した生の声を聞いておきたかった。

 

「そうですね……憧れなのはドバイミレニアムさんですね」

 

 そこから褐色のウマ娘から様々な情報が語られた。話すことはすべてデジタルの興味を引くものだった。最初は冷たいイメージを持っていたが、誕生日に逆ドッキリをしかけたなど所属選手たちの年相応でチャーミングな面を聞くことでイメージが変わっていた。

 そして話の中で一番興味を引いたのはファンタスティックライトの話だった。

 ジャパンカップでテイエムオペラオーとメイショウドトウと走った際に二人の強さをクレイジーと賞賛したらしい。

 この情報は今まで聞いたことがなかった。あのファンタスティックライトがクレイジーというほどの強さを持っていた2人のことが友人として誇らしかった。

 

「うん。ちょっと待って」

 

 ポケットのなかで振動する。携帯電話を見るとラインメッセージで『早く帰ってこい』と書かれていた。時計を確認するとトイレに入ってから10分以上経過していた。いつの間にこんなに喋っていたのか。

 

「友達に呼ばれているから出るね。長々と話を聞かせてもらってごめんね。楽しかったよ」

「いえ、こちらこそ」

 

 デジタルは小走りでトイレの出口に出る。すると出口付近で立ち止まり振り返る

 

「あっそうだ。トブーグちゃんのこと知っている?」

「はい」

「もし良かったら『チームメイトとは仲良くして』と伝えておいて」

 

 レース前に交わした約束。これは所詮口約束で強制力は何一つない。だがもしかして約束を守ってくれるかもしれない。

 その意志を確かめたかったがライブの最中でも会話を交わすことができず意思確認をできなかった。ならば約束を思い出してくれるように伝言を頼みたかった。

 

「分かりました。伝えておきます」

「ありがとう。練習がんばってね。アナタならきっと凄く強くなれるよ」

「何でそんなことが分かるのですか?」

 

 走り出そうとしたデジタルの動きが止まる。妙なところで食いついてきたな、社交辞令と受け取るかと思っていたが。

 

「なんというか、スター性があるというかオーラを感じたの、もしかしたら凱旋門賞取っちゃうかもね」

 

 冗談めかして言うと褐色のウマ娘もクスクスと笑いだす。

 

「はい、アグネスデジタルさんの言葉通り凱旋門賞が取れるように頑張ります」

「じゃあね、またどこかのレースで会おうね」

「はい、さようななら」

 

 デジタルは出口を出て走り出す。そして褐色のウマ娘もデジタルの後に続くようにトイレを出た。

 

「ずいぶんトイレ長かったけど大丈夫?」

「いや~ゴドルフィンのウマ娘ちゃんと偶然あってね、色々と聞いていたの。いい話が聞けてよかったよ」

 

 デジタルは二人と合流し車に乗ってホテルに向かう。その車中でプレストンは事情を聞いていた。相変わらずデジタルの行動に頬を緩ませる。そしてデジタルはトイレで会ったウマ娘のことについて考えていた。

 少ない時間での交流だったが楽しかった。気に入ったというか波長が合う感じだった。日本のトレセン学園にいれば友達になれただろう。

 そして彼女が成長したら本当にどこかでレースができるかもしれない。そうなったら楽しいだろうな。そういえば名前は何ていうのだろう?聞き忘れていた。

 デジタルはトイレで出会ったウマ娘に思いを馳せながら車窓から流れていく香港の夜景を眺めていた。

 

──

 店内で流れるジャズの生演奏に客たちはその心地よい音に耳を傾けながら酒を楽しむ。

 ここはデジタル達が止まるホテルにあるバー。ホテルのロビーに店がありその音は店内の客たちだけではなくロビーにいる宿泊客たちにも届いていた。

 

「じゃあデジ子の勝利を祝して乾杯~!」

「乾杯」

「乾杯」

 

 トレーナーとダンスパートナーはカクテルを、デジタルはジュースを片手で持ち乾杯する。

 ホテルに帰ったウマ娘達とトレーナー達はそれぞれ勝利を祝っていた。大々的な祝勝会は日本で帰ってからおこなう。それだったら今日はそれぞれのパートナーと静かに祝おうじゃないかと自然とそういう流れになり各々が好きに祝っていた。

 そしてデジタルとトレーナーもどこで祝おうか考えていると、トレーナーがダンスパートナーも祝いの席に呼んでいいかと提案しデジタルもそれを了承した。

 

「デジ子~凄かったぞ~かっこよかったぞ~可愛かったぞ~」

 

 ダンスパートナーがデジタルに抱きつき頭と顎をペットのようになでる。その感触は心地よかったが若干酒臭かった。

 

「ダンスパートナーちゃん飲んでた?」

「おう!ホテルで祝い酒していたら白先生に呼ばれてここに来た!バーテンダーさん!この子が香港カップに勝ったジャパニーズ・ストロングフォースコーナーのアグネスデジタル!」

「それはもう止めて…」

 

 ダンスパートナーは酔っぱらいのノリでバーテンダーに話しかけ、デジタルは恥ずかしさで俯く。バーテンダーは『おめでとうございます』と爽やかな笑顔でいなしていた。

 

「しかしレースは心臓に悪かったぞデジ子。エイシンプレストンみたいにもっと圧勝してよ」

「あのメンツで圧勝しろなんて無茶言うな」

 

 トレーナーが異を唱える。

 香港カップにはゴドルフィンのトブーグだけではなく、アメリカのGIアーリントンカップに勝ったドイツのシルバノ。去年の覇者フランスのジムアンドトニック。アメリカGIブリーダーズマイル3着のアイルランドのバッハ。フランスGIオペラ賞に勝ったフランスのルーラテールと数多くの強豪がいた。その相手にプレストンのように圧勝できるウマ娘なんて世界中でもひと握りだ。

 

「レースだって先行策とるしさ、お前差しウマ娘じゃなかったんか~いって思っちゃったよ。直線だって叩き合いで心臓バクバク」

「そうか?俺は負ける気が全くせえへんかったぞ」

「そうなの?いいな~白先生にそんなに信頼されて」

 

 ダンスパートナーは泣き真似をしながらデジタルの胸に飛び込み、デジタルはよしよしと頭を撫でる。髪は手入れが行き届いており予想以上にサラサラで役得とばかりに感触を楽しむ。

 

「ところでダンスパートナーちゃん。ヘアピンに気づいた」

「気づいたよ。白先生が貸してくれって言うから貸したけど、デジ子が着けていたのか」

「じゃあヘアピンの意味は分かる?」

「意味?」

 

 ダンスパートナーは目をキョトンとして首をかしげる。意味はわかっていなかったか。デジタルはトレーナーの方を向いた。

 

「だって、白ちゃん。直接口で言ってあげなきゃ」

「ええわ。恥ずかしい」

「思っていることは言葉にしないと伝わらないよ」

 

 楽しげなムードで緩んでいたデジタルの表情が真剣味を帯びる。

 思っていることは口にしないと誰にも伝わらない。それがエイシンプレストンの件でダンスパートナーから教わったことだ。

 トレーナーの想いは素敵なものだ、それを知れないのはダンスパートナーにとって残念なことである。 デジタルの雰囲気に押されたのかトレーナーはカクテルを一気飲みした後思いを伝えた。

 

「ダンス。お前のクイーンエリザベスの5着はお前のせいじゃない。俺の未熟が招いたことや。だからせめてもの罪滅ぼしでお前の魂が入ったヘアピンだけでも1着を取ってもらいたかった。香港での調整方法もシャティンのバ場もスローペースになるのもダンスが走ったから分かったことや。デジタルの勝利はダンスのおかげでもありダンスの勝利でもある。ありがとう」

 

 トレーナーは深々と頭を下げ、恥ずかしかったのかダンスパートナーからそっぽを向いた。

 

「そうだったんだ、知らなかった。ありがとうダンスパートナーちゃん」

 

 デジタルもトレーナーに倣い深々と頭を下げた。あの作戦はダンスパートナーとの経験を元に考案したのか、あの作戦がなければ勝てなかったかもしれないし、トブーグとの素敵な体験はできなかった。

 

「デジ子の勝利は私の勝利か…」

 

 ダンスパートナーは噛み締めるように言葉を繰り返し天を仰いだ。

 自分がやってきたことは無駄じゃなかった。自分の経験が後輩の糧になり、その後輩の経験がそのまた後輩の糧になる。ああウマ娘のレースは何て素敵なのだろう。そして自分の経験を後輩に生かしてくれるトレーナー。そんなトレーナーと一緒に走れて自分は幸せだったのだな。

 

「じゃあ!インタビューではそれを強調しておいてね。香港カップ勝利の偉業の要因が私だって知ったら会社も特別ボーナスくれるかもしれないし」

「ああ、大々的に言っておいたる」

「よし!改めて乾杯だ」

「おう乾杯」

「乾杯」

 

 3人は再び乾杯する。グラスがぶつかり澄んだ音が発する。その音はいつもより澄んでいた気がした。

 

 

 

 

香港カップ シャティンレース場 GI芝 良 2000メートル

   

着順 枠順    名前       タイム    着差      人気

 

 

 

1   12  日 アグネスデジタル  2:02.8           2

 

 

2   8  UAE トブ―ク      2:02.9    クビ     1

 

 

3   13  仏 テラーテール    2:03.1    1     7

 

 

4   4  英 ホークアイ      2:03.3   1      6

 

 

5   5   仏 ジムアンドトニック  2:03.6   2     3

───

 

 チームゴドルフィンが使用する遠征用ジェット機の機内の空気はひどく重苦しかった。

 全勝を目録見み臨んだ香港国際競走は全敗に終わる。

 

 香港スプリントは歴代スプリンターでも5指に入ると評判の地元の英雄セイエイタイシのまえに破れた。建前上全勝を掲げていたがある意味仕方がないと割り切っていた。だが残りの3レースは予想外だった。

 

 完璧にレースを運びながら常識はずれの末脚に屈した香港ヴァーズ。

 脇役に子供扱いされた香港マイル。

 期待のホープが負けた香港カップ。

 イギリス、フランス、アイルランド、アメリカなどの先進国ではなく、最近の活躍は目を見張るものはあるが本音では後進国と思っていた日本に3タテを喰らったのだ。その屈辱は耐え難きものである。

 

「すみません遅れました」

 

 そんな重苦しい車中に明るく朗らかな声が響き渡る。そのウマ娘は身長170センチほどで青い瞳に褐色の肌、髪は茶髪のポニーテール、服装は上下青のジャージだった。

 彼女は申し訳そうにしながら自分の席に向かう。その際に時々止まりながら声をかけていた。

 

「エクラール、上手くレースをコントロールしていたよ。あんな大駆はそうそう出ないから次もこのレースみたいにできれば勝てるよ」

「ありがとう」

「チャイナヴィジットも離されても最後まで心が折れなかったね。その気持ちは必ず次に繋がるから」

「がんばるよ」

 

 褐色のウマ娘はレースで走ったウマ娘たちに労いと励ましの言葉をかける。その言葉は力を与え彼女の雰囲気が車内の重苦しい空気を変えていく。声をかけ終わると指定席であるトブーグの隣に座った。

 

「お疲れトブーグ」

「次は勝ちますよ」

 

 トブーグはぶっきらぼうに答える。レースに負けた苛立ちもそうだがこの人の存在が苛立ちを加速させる。

 自身はトップクラスの実力を持っているのに、どのウマ娘もすべて尊いと重賞にも勝っていないウマ娘にも聖母ぶって接してくるのが気に入らなない。はっきり言って嫌いだ。

 

「そういえばアグネスデジタルから伝言を預かったよ『チームメイトとは仲良くして』だって」

「チッ。あいつまだそんなこと言っているのかよ。というよりあいつと会ったのですか?」

「ええ、面白い人だよね。出会ってすぐにゴドルフィンで推しのウマ娘を教えてくれって聞かれたよ、そんなこと聞かれたのは初めて」

「あんなの笑いながら走っている気持ち悪い奴ですよ」

「それに私に『アナタなら凄く強くなれるよ』って、私も少しは名が知れていると思っていたけどまだまだだな~」

 

 褐色のウマ娘は楽しげに語りだす。するとトブーグは悔しげにつぶやいた。

 

「次同じレースで走ったら絶対に勝ちますけど、今日の香港カップはどうやっても勝てなかった…走っても走っても絶対に追いつけない感覚を味わいました。あの感覚はレースの着差は違いますけど、あなたと一緒に走って以来ですよ、サキーさん」

 




以上で香港編は終了編です。

巷ではキンイロリョテイのSSを見かけるなか、香港ヴァーズのシーンだけ書くのが何か美味しいとこだけ頂いてしまった感があって恐縮です。

あとこの話で香港スプリントに勝ったウマ娘のモデルは当時の香港スプリントには出ていません。
出したのは作者の趣味です。


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勇者と去りゆく英雄たち、そして新たな出会い

 香港国際競走が終わり年を越した1月、部屋の窓から外を見渡すとそこは一面銀世界に覆われていた。葉がすっかり枯れ落ちた木々に雪が乗っかり、その重さに耐え切れず枝が折れる。そのベキベキ折れる音は窓を閉め切っている部屋の中でも聞こえてきた。

 アグネスデジタルとエイシンプレストンは木が折れる音を聞きながら、積雪も寒さも無縁な自室でココアと茶菓子を片手に映画を見ていた。

 

「かなりオモシロかったね。やっていることはベタなんだけど、ついついハラハラドキドキさせられちゃう」

「でしょう」

 

 アグネスデジタルの言葉にエイシンプレストンは満足げな表情を見せながらリモコンを操作し映像を停める。

 トレセン学園では記録的積雪により複数のトレーニング施設が使用不可になっていた。屋内のトレーニング施設は使うことは可能だが、元々屋内施設を使用予定のチームに屋外でトレーニングができなくなったチームが加われば、屋内施設の定員は明らかにオーバーしてしまう。

 それを避ける為に屋内施設利用権利を抽選で決めることになり、デジタルが所属するチームプレアデスは抽選から漏れてしまう。そうなるとトレーニングも碌にできないので急遽オフになった。

 だがオフになってもこの積雪では行動は大幅に制限されこれといってやることもなく部屋に戻る。すると同じく抽選にもれてオフになったプレストンも居て、暇つぶしに映画をみることになった。

 

 2人が見ていたのはとある香港映画である。香港国際競走から帰ってからプレストンは香港映画を何本も見るなどやたら香港文化に興味を示していた。香港マイルの勝利がよほど嬉しかったのか、それともよほど香港の空気が合ったのか。

 そして度々香港映画を一緒に見ようと薦められていた。デジタルにとってさほど興味がなかったが、自分もウマ娘関連の映像などを一緒に見ようとなかば強引に誘っていたので断りづらくもあった。いざ見てみると予想以上にオモシロく満足できるものであった。

 

「でも、ウマ娘ちゃんが足りなかったな~それがあればもっとよかった」

「結局そこなのね」

 

 デジタルの言葉を受け流しながらプレストンはディスクを取り出しケースに入れ、何気なくテレビをつけてザッピングする。昼の3時を過ぎたこの時間では大半の局がワイドショーを放送し、著名人の不祥事や今日の積雪について話している。

 

「そういえば1ヶ月前まではあたし達のことをいつも報道していたのよね」

 

 プレストンはココアを啜りしみじみと呟く。日本ウマ娘による香港国際競走GI3連勝という偉業に世間は大いに沸いた。

 空港では多くの人に出迎えられ、帰ってからも祝勝会や取材などで多忙な日々を過ごしていた。だが1週間も過ぎれば有マ記念やWDTの話題に関心が移り報道量は減少した。

 

「そうだったね。でも白ちゃんが『なんでうちのデジタルがキンイロリョテイより扱いが低いんや!日本のマスコミはレースの格よりドラマを優先するんか!』って怒ってマスコミに抗議しようとするんだもん」

 

 デジタルはトレーナーの真似をしながら喋り、ものまねのクオリティが思った以上に高くプレストンは思わず笑みをこぼす。

 

「フフフ、愛されているじゃない。でも言ったら悪いけど、デジタルやあたしよりキンイロリョテイさんのほうを特集したほうが視聴率取れそうだし、仕方が無いでしょ」

 

 スランプを経てGI勝利。

 南部杯、天皇賞秋、香港カップの破竹のGI三連勝。

 それに比べればシルバーコレクターが引退レースで劇的な勝利、なによりキンイロリョテイのキャラクターのほうが視聴者にとっては魅力的だった。

 特集でも2人よりリョテイに時間を割き、現役時代の気性難エピソードや香港ヴァーズ勝利後の脱衣事件などもう見飽きたよと言ってしまうほど報道していた。

 

「そうだよ、それなのにそこのところ全く理解しようとしないんだもん。それにあたしに時間を割くぐらいだったらプレちゃんやキンイロリョテイちゃんの魅力を紹介したほうがいいよ」

 

 そのことを思い出したのか腹を立てる仕草を見せ、プレストンは過去の事を思い出し思わず頬を緩ませる。

 デジタルもトレーナーと同じように自分よりプレストンの扱いが小さいと抗議しようとしていて、恥ずかしかったので全力で阻止する。

 2人とも抗議しようとするところをみるに、やはり似たもの同士なのかもしれない。

 そしてデジタルは自身を過小評価し、無頓着な傾向がある。

 そこはある意味美徳なのかもしれないが、報道量が削られることで応援している者や気にしている者が悲しむことを忘れないで欲しい。

 現にプレストンもデジタルが番組や記事で賞賛されているのを見ると自分のことのように嬉しかった。

 ワイドショーでは今年は何が流行するかという話題になり、2人も今年の話になっていた。

 

「そういえば、プレちゃんは今年のローテはどうするの?」

「まずはGⅡの中山記念から始動して、次は香港のGIクイーンエリザベスカップで次は安田記念、で調子がよければ宝塚記念。デジタルは?」

「あたしはフェブラリーステークスでウラガブラックちゃんと走って、大阪杯でオペラオーちゃんとドトウちゃんと走って、安田記念でプレちゃんと走って、宝塚でプレちゃんとオペラオーちゃんとドトウちゃんと走る。うん完璧なローテーション。今から楽しみだな~」

「さらりと言っているけど、フェブラリーから大阪杯って凄いローテーションね。もういっその事フェブラリー、大阪杯、かしわ記念、安田記念ってダートと芝交互に走れば」

「う~ん、確かに、かしわ記念にウラガブラックちゃんが来るかもしれないし有りといえば有りかも。でもそれだと宝塚がキツイな…」

 

 プレストンは冗談めかして言ったがデジタルは本気で自身のローテーションを検討し始める。

 ダートと芝のレースはまるで別物である。芝で速くてもダートでも速く走れるというわけではなく、芝でGIに勝ったウマ娘がダートのGIで同じように力を発揮し勝てるものでもない。

 それだけ求められるものもと適正が異なり芝とダートの間には大きな壁があると言える。

 普通ならこのようなローテーションを走ることはできないし、走れたとしてもトレーナーも提案しない。だがこの2人ならやりかねない。改めて常識外れなウマ娘とトレーナーだなと思っていた。

 すると緊急速報のテロップと音が流れる。プレストンは思考に没頭するデジタルをよそにテレビに意識を向ける。

 何が起こった?災害か、訃報か、歴史的快挙か?

 おそらく自分には関係ないことだ。今までもそうであり、速報を見てもへえ~と呟く程度のことだろう。だがそのニュースは密接に関係のあることだった。

 

「うそ?」

 

 プレストンは反射的に呟いてしまう。テロップが出ている時点で嘘なわけはないがそれでも信じられることではなかった。このことは噂話すら聞いていない。寝耳に水とはまさにこのことだ。

 

「どうしたの?……うそ?」

 

 プレストンの呟きにデジタルは思考の世界から現実に意識を取り戻された。そしてはテロップを見た瞬間持っていたマグカップは手から離れフローリングの床に落ちる。ゴンと鈍い音とともにココアが茶色いシミを作った。

 

――――――――テイエムオペラオー選手、メイショウドトウ選手、現役引退を表明

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

カツ、カツ、カツ

 

 蹄鉄の音が反響しトンネル状の空間に響き渡る。いつもは18人分の音が響くのだが今日に限り2人分の音だった。

 

 1人は宝塚歌劇団の主役が着そうな華やかな服を身に纏った栗毛の小柄な少女が背筋を伸ばし悠然と歩いていた。

 その栗毛の少女の後ろからもう一人少女がついて来る。髪は鹿毛で緊張か不安のせいかビクビクと辺りを見渡している。身長は栗毛の少女より8センチ程度大きいもののも猫背のせいか同じ、むしろ低いような印象を抱いてしまう。

 自信ありげに悠然と歩く者、その後ろをおっかなびっくり歩く者、まるで行進する王様とそれに仕える従者のようだった。栗毛の少女が何気なく後ろを振り向きビクビクと歩く鹿毛の少女が目に映りやれやれとため息をついた。

 

「ドトウしっかりしてくれよ、ウマ娘のなかで最も美しく最も速かったこのボクの引退ライブなのだからさ」

「ごめんなさい……でも私なんかがオペラオーさんの引退ライブに参加どころか、合同だなんて畏れ多くて……」

 

 ドトウはオペラオーの言葉に委縮したのかビクついて縮こまった身体がさらに縮ませ、相手の顔色をビクビクと覗っていた。

 その様子を見てさらにため息つく、だがその様子は嫌悪ではなく、相変わらずだというあきらめといつも通りであるという安堵の心情が混じっていた。

 

「確かに!本来ならボクの豪華絢爛なオンステージな予定だったのに残念だよ」

「ごめんなさい……もう帰ります」

「でも君はボクに勝った。その実力と功績は僕の華麗なる引退ライブに参加する資格は充分にある。胸を張りなよ、でないとボクの引退ライブがみすぼらしいものになってしまうだろう」

 

 オペラオーは激励するかのようにドトウの肩に手を置く、それに呼応するように背筋はピンと伸びオペラオーを見下ろした。その様子を見て満足気に頷く。

 

「それでいい、ウマ娘は美しく、そして観客達には美しい姿を見せないと」

「はい」

 

 2人はコースに向かって歩みを進める。その威風堂々とした姿は先程までの王様と従者ではなく、王様ともう1人の主役の姿だった。薄暗い地下バ道を抜けると出迎えたのは眩しいばかりの太陽光と観客の声援だった。

 

『今入場してきました!テイエムオペラオー選手とメイショウドトウ選手です。温かい拍手と声援でお迎えください』

 

 アナウンサーの声とともに万雷の拍手と声援が2人に降り注ぐ。オペラオーは堂々と、ドトウは少し恥ずかしながら声援に応えコースを回り始める。

 

 テイエムオペラオーとメイショウドトウが引退発表した数日後、2人の功績を称え中央ウマ娘協会は阪神、京都、中山、東京レース場で2人による合同引退式と合同引退ライブを開催することを発表する。

 今までの引退ライブは1人で行われていたが、2人による合同ライブは歴史上初めてのことだった。

 まるで2人のライバル関係を象徴するかのような合同ライブ、その姿を一目見ようと多くの人が集まり、そして最後のライブが行われる東京レース場にもGIとかわらないほどの観客が集まっていた。

 

『数々のレース場で走ってきた2人ですが、この東京レース場でも素晴らしいレースを見せてくれました。日本ダービーではテイエムオペラオー選手、ナリタトップロード選手、アドマイヤベガ選手の3強対決で注目を集めました。そしてレースも3強による直線での攻防は手に汗握りました』

 

「ボクも若かったな。あの時のボクじゃあそこから仕掛けてトップロードとアヤべさんを押しきれるわけないのに。ちなみにドトウはあの時は何をしていた?」

「テレビでダービーを見ていました。あの時は羨ましいというより別世界の出来事を見ているようでした」

 

 2人は思い出話に花を咲かすが肌寒さに身を震わす。そういえばこの時期で東京レース場を走ったことは無かったな、そんな他愛も無いことを考えながらキャンターで第1コーナーを回る。

 

『テイエムオペラオーが連勝で迎えた秋の天皇賞、1番人気は勝てない。そのジンクスはシンボリルドルフ、メジロマックイーン、サイレンススズカなど数多の名ウマ娘を飲み込んできました。しかしその魔物すらテイエムオペラオーの勢いを止められませんでした。1番人気での勝利を果たしジンクスに終止符をうちました』

 

「オペラオーさんはジンクスのことは知っていたのですか?」

「もちろん。でもボクのように強いウマ娘には関係ないことさ!」

「私は気にしちゃうタイプです。あの時はジンクスでもいいから縋りたかったです…」

 

 2人は第2コーナー、3コーナーを回る。レースだったら直線に入るに向けて様々な想定を考え思考をめぐらせながら走る。しかし今は過去を振り返り目に映る景色を目に焼き付け思い出をかみ締める。

 そして4コーナーを回り直線に入る。ファンは東京で行われたレースを見た当時の興奮を思い出すように歓声を上げる。

 

『そして秋の天皇賞を勝って迎えたジャパンカップ、後のGI6勝ウマ娘、ファンタスティックライトがやってきました。ゴドルフィンという名の黒船の襲来、しかし2人はその脅威から日本の威信を守ってくれました。この府中の直線での3人の競り合いは後世に語り継がれることでしょう』

 

「あの時はついに勝ったと思ったんですけど」

「あれは危なかった。ドトウが予想以上に粘るし、後ろからもファンタスティックライトが来るし」

 

 ゴール板から残り数メートルのところでオペラオーは突如停止し、それを見たドトウも動きを止めた。するとオペラオーはドトウの前に手を差し出す。その意図を察したドトウは手を握りながら歩調を合わせゴール板を通過した

 

『今はゴール板を通過!最後は同着です』

 

 お互いを讃え合うかのような同着、その心憎い演出は観客の心を震わせ歓声を上げる。

 ゴール板を通過するとホームストレッチには仮設の表彰台が設営され、そこにオペラオーとそのトレーナー、ドトウとそのトレーナーが立つ。そして司会進行が壇上に上がった。

 

『これより引退式を執り行います。では2人の活躍を振り返ってみましょう』

 

 すると東京レース場に設置されているオーロラビジョンに映像が流れる。2人の競走人生を振り返るものであり、ドラマチックに仕上げられたその映像は観客を興奮させる。そしてオペラオーとドトウもその映像を見ながら過去を振り返っていた。

 映像が終わると、2人のトレーナー達を交え現役生活を振り返っての話が始める、それが暫く進行すると進行が話を切り出した。

 

「それでは、ここで花束贈呈です。今日は去年の天皇賞秋で激闘を繰り広げた。アグネスデジタル選手がお越しくださりました」

 

 司会の声とともにデジタルが入場し、笑顔を浮かべながら花束を2人に渡した。そしてデジタルは司会からマイクを受け取る。

 阪神ではキンイロリョテイ、京都ではナリタトップロード、中山ではアドマイヤベガとそれぞれに縁が深い人物が花束を贈り、コメントを残していった。そして東京では2人の希望もありデジタルがその役に指名された。

 

「え~皆さんこんにちはアグネスデジタルです。あたしは一競技者であると同時に2人の大ファンでした。その思いは皆さんにも負けません!」

 

 デジタルの開口一番のファン宣言に観客から『知っているぞ~』『俺のほうがファンだ!』野次のような合いの手のような言葉が投げかけられ会場の笑いを誘う。

 

「かっこよくて、可愛くて、強い2人はあたしの憧れで天皇賞秋に出たのも一緒に走りたいからという思いで決めました。そして幸運にも2人に勝つことができました。これは一生の自慢でおばあちゃんになっても自慢します!あたし達はオペラオーちゃんとドトウちゃんの活躍をリアルタイムで見られた世界一の幸せ者です!そしてこの後ウマ娘ファンになる人たちに自慢しようよ!そして語り継ごう!オペラオーちゃんとドトウちゃんは最高のウマ娘だって!」

 

 デジタルの言葉に観客は歓声を上げ拍手がおこる。そうだ自分達は伝説を目撃した幸せ者だったのだ。ファン達が心のどこかで思っていたことをデジタルは代弁していた。

 デジタルのコメントが終わり引退式もドトウとオペラオーの言葉で最後となる。観客はその姿と言葉を焼きつけようと集中し緊迫した空気を作り上げる。ドトウがマイクを受け取り喋り始めた。

 

「皆さま今日はわざわざお越しくださりありがとうございます。私はどんくさくて臆病で何の取り得もないウマ娘でした。でもそんな私に辛抱強くトレーニングに付き合ってくれたトレーナー。そして何度負けても声援を送ってくださったファンの皆様。皆様は負け続けても声援を送ってくださいました。そのおかげで私は立ち上がることができGIを取る事が出来ました。

そしてオペラオーさん。貴女と何度も一緒に走っている時は辛く苦しいと思った時もありました。でも今は楽しかったとはっきりと言えます。一緒に走った時間は一生の宝物です。本当にありがとうございました。」

 

 ドトウは深々と観客にお辞儀し、オペラオーにも深々とお辞儀をする。その姿は今までで一番凛々しく堂々としていた。ファンの中ではその姿と成長ぶりに涙を流す者も居た。

 そしてマイクはドトウからオペラオーに渡された。

 

「ボクのファン達!今日は着てくれてご苦労だね!ボクの華麗なる伝説は今日で閉幕だ。皆の声援はボクの華麗なるレースを華やかなものにしてくれた。それは少しだけ感謝しているよ。ありがとう。

そしてドトウ。最初はどんくさい奴だとは思っていたけど、気づけばいつもボクの隣に居て、ついに一度だけ追い抜いた。それは賞賛に値するよ。ボクがウマ娘界で最高のナンバー1なのは当然として、キミは最高のナンバー2だ!」

 

 最高のナンバー2。

 それはオペラオーにとって最大の賛辞だった。オペラオーからライバルへの言葉に観客達は湧きあがる。そしてその言葉に感極まったのかドトウは手のひらで顔を抑えていた。

 

「さあ、湿っぽいのはここまでだ!これからはボク達の最高のライブをお送りしよう!ドトウ!」

「はい!」

 

 オペラオーの言葉に反応するように持ち歌のBGMが流れ始め、2人はマイクを持ち壇上に上がる。しんみりとした空気は一気に熱を帯びる、この日のライブは今までのどのウイニングライブよりも盛り上がっていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「お疲れオペラオーちゃん、ドトウちゃん。今日のライブはほんと~に良かったよ!」

「ありがとうございます」

「観客のノリもよかったし最高のライブだった。ボクの最後に相応しいものだったよ」

 

 ライブが終わり控室に帰った2人をデジタルが出迎える、差し入れのペットボトル飲料水を手渡すと2人はタオルで汗を拭き椅子に腰掛けながらペットポトルのキャップを開け中身を飲む。

 

「これで観客の前でライブをするのも最後なのですね…最初は恥ずかしかったですけど、今はもうできなくなると思うとさみしいです」

「ああ」

 

 ドトウの言葉にオペラオーも相槌を打つ。これほどまでの観客を前にしてのライブ、それは日常では体験する事ができない興奮と快感をもたらす。

 そして非日常の体験をすることがないことを二人は改めて実感していた。

 

「そしてトレーニングもしなくていいのですね」

「そうか、もうあの厳しいトレーニングをしなくていいのか。でもドトウの場合だとすぐに肉がつきそうだから、節制しないとダメだぞ」

「オペラオーさんも節制せずポッチャリした姿を見せたらファンが悲しみますよ」

「フフフ、言うようになったな」

 

 仲むつまじい姿にデジタルも笑顔見せる。2人の顔はどこか穏やかで満ち足りている表情を見せていた。2人は今後の事を話題にしているとデジタルが会話に割って入るように話しかけた。

 

「オペラオーちゃん、ドトウちゃん。ねえ知ってる?大阪杯がGIになったんだって。距離も2000だしさ…二人ともまだ衰えていないよ…だからね、三人でまた一緒に走ろうよ…」

 

 デジタルは涙で声を詰まらせながら喋る。言ってはならないと脳が命令するが、口が勝手に動いてしまっていた。

 

 2人が引退するという緊急速報の後に引退会見が開かれた。

 それを見た後デジタルはすぐさま2人の元に向かい真意を問いただそうとした。何で相談してくれない、友達ではないのか?そんな気持ちでいっぱいだった。

 そしてデジタルは引退に全く納得していなかった。だがそれはプレストンに止められる。

 考えに考え抜いて引退を決めたはずであり口を出すべきじゃない。それに友達だからこそ相談できないこともある。できることは意志を尊重し笑顔で送ってやることだ。

 そのように諭されデジタルは想いを心の奥に押し込め、笑顔で送り出そうと努めた。だがその想いは奥に押し込めただけであり解消されたわけではなかった。

 

 デジタルの言葉にオペラオーとドトウは顔を見合わせる。そしてオペラオーが一つ息を吐き語り始めた。

 

「デジタル、確かに衰えたといってもそれはほんの僅かだと思う。今後のGIでも展開や運が良ければ勝てるかもしれない、でもそれじゃダメなんだ。ボクはファンやデジタルにラッキーで勝つような姿じゃなく、実力で勝ってきた全盛期の姿で皆の記憶に残りたい。だから引退を決めた」

 

 かっこ悪くないよ。言葉に出かかったがそれを口に出す事はできなかった。

 オペラオーはナルシストであり、そして誰よりもかっこいい王者であろうとし続けた。そのナルシズムが衰えてもなお玉座にしがみつくより、潔く去り後に続くものに玉座を明け渡すことを良しとした。

 

「ドトウちゃんは?ドトウちゃんもそうなの?」

 

 オペラオーの言葉に込められた意志から説得は無理だと感じ取ったデジタルはドトウに話題を振る。ドトウはデジタルの目をまっすぐ見て答えた。

 

「私は少し違います。GIに向けて厳しいトレーニングをして当日を迎えます。でもパドックにもゲートにもそしてレース中にもオペラオーさんの姿がいない、もうオペラオーさんと一緒に走る事は無い。そう考えたらフッとやる気がなくなってしまいました」

 

 デジタルはドトウの言葉を聞き、何も言う事ができなかった。

 ドトウの理由は他の人が聞けば甘いだの、軟弱だの言うかもしれない。だがドトウにとってオペラオーはそれほどまでに大きい存在だった。2人には外野には分からない絆が有り、それを絶たれたドトウにもう一度走れと言うことは口が裂けても言う事ができない。

 

「わかった。ごめんね、わがまま言って。今までお疲れ様。オペラオーちゃん、ドトウちゃん」

 

 デジタルは改めて労いの言葉を掛ける。その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。

 オペラオーは自らの美学から、ドトウはライバルへの想いから引退を決める。それはじつに2人らしい引退の理由であり納得がいくものだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「どうしたものか」

 

 デジタルのトレーナーの独白がチームルームに反響する。

 オペラオーとドトウが引退した翌日、デジタルは気落ちする様子も無くトレーニングに励む。一見普段とは変わらない様子だった。だが人の目は騙してもデータは騙すことができない。

 タイムが落ちている。これはフェブラリーステークスまで日にちがあり仕上がっていないということを加味しても見過ごせないものだった。オペラオーとドトウが引退した事が無意識に影響しているのだろう。それにウラガブラックが怪我によるフェブラリーステークス回避も不味かった。

 主目的であるウラガブラックの回避により、デジタルのモチベーションは一気に下がった。

 フェブラリーのウラガ、大阪杯のオペラオーとドトウ、組んでいたローテーションの中でデジタルは2つのレースの主目的を失った。

 残るは安田記念のエイシンプレストンだけだ。このまま気が抜けた状態でレースに出ることは危険であり、他のウマ娘の枠をつぶすことになる。このままの状態が続けばレースを回避すべきだ。

 そうなると安田まで3ヶ月以上間を空ける事になる。それまでモチベーションを失ったままトレーニングをさせれば効果は薄く何より怪我をする可能性が増す。ここはリセットを兼ねて実家に帰郷させるか。トレーナーの悩ましい声が再びチームルームに反響する。

 

――――どうしよう

 

 エイシンプレストンも布団に包まりながらデジタルのトレーナーと同じように悩んでいた。

 デジタルは元気が明らかに無い。自分を心配させまいとしているのか表面上は平静を装っているが、すぐに分かるものだった。

 楽しみにしている3つのイベントのうち、1つがいつ再開するか分からない延期状態、1つはもう2度と行われる事は無くなった。無理もない事である。

 デジタルは自分と走る事を楽しみにしていると言ってくれた。ならばオペラオーとドトウが出ない大阪杯にエントリーするか、だがそうなると中山記念、大阪杯、香港のGIと三回走る事になる。

 大目標が香港のGIであり、そこまでタフではない身体の自分としては万全を期すために消耗するGIの大阪杯は挟みたくない。

 しかしデジタルと走る予定の安田記念まで待つ事なれば腑抜けてしまうかもしれない。友人が腐っていくのは見たくはない。自分を優先するか、友人を優先するか。プレストンはその2つの間で悩んでいた。

 

―――どうしよう

 

 デジタルも布団に包まりながらトレーナーとプレストンと同じように悩んでいた。

 何だか力がわかない。オペラオーとドトウの引退に納得し笑って送り出したつもりだが予想以上にダメージが有る様だ。まるで身体にぽっかり穴が開いた気分だ。それにウラガブラックも怪我でフェブラリーを回避しいつ復帰するか分からない。

 ならばフェブラリーのウラガブラック、大阪杯のオペラオーやドトウの代わりになる、ときめくウマ娘を探そうと思ったがそうはいなかった。以前なら妥協できたがオペラオーとドトウと一緒に走った至極の幸福を体験してしまったこの身体では妥協はできなかった。

 楽しみは2つ消えて残りはエイシンプレストンと走る安田記念だけだが、その長い間楽しみの無く宙ぶらりんで待つのは正直辛い。

 

 デジタルはふと携帯電話を手に取りネットを立ち上げて調べ始める。

 楽しみが無ければ探せばいい、香港カップの時の様に将来のステータス+ときめく相手の合わせ技でオペラオーとドトウがいる大阪杯並みの楽しみが見つかるかもしれない。デジタルは海外のレースを調べ始めていると3月に行われるドバイミーティングについて調べ始める。

 ドバイミーティングとは毎年3月下旬の土曜日にアラブ首長国連邦のドバイにあるメイダンレース場で開かれる国際招待競走の開催日、および同日に行われる重賞の総称である。一日に多くのGIレースが開催され、レースの規模、質ともにデジタル達が出走した香港国際競走より上とも言われている。

 ダートの1200から芝の3200と様々なレースがあるが、調べるレースを自分が走れそうなドバイターフは1800メートル、ダート2000メートルのドバイワールドカップに絞った。

 ドバイターフは1800メートルという距離ゆえに世界中の強豪中距離ウマ娘やマイルウマ娘が参戦するレースになっている。そしてドバイワールドカップは今ではアメリカのブリーダーズカップに並んでダートの最高峰と位置づけられているレースである。

 

「あっ!」

 

 デジタルは驚きのあまり大声を出してしまい慌てて口を押さえた。プレストンを起こしてしまったか?聞き耳を立てるが特に起きた様子は無く胸をなでおろす。

 ドバイワールドカップについて調べていると凱旋門賞に勝ったサキーというウマ娘が出るということで、サキーについて検索し画像を見た瞬間声を出してしまった。

 それは香港のトイレで出会ったあのウマ娘と同じだった。応援に来ていたと言っていたのでデビュー前のジュニアの選手だと思っていたがまさか凱旋門賞に勝ったウマ娘だったとは。しかも自分と同世代である、あまりに初々しかったので勘違いしてしまった。

 そしてレース内容は初々しい姿とは裏腹に凄まじかった。

 イギリスのヨークレース場で行われる芝約2100メートルのGIインターナショナルステークス、夏のヨーロッパレース界のビッグレース、各地の中距離の強豪が集まるレースでは2着に7バ身。そしてエルコンドルパサーが挑戦した芝世界最強を決める凱旋門賞では2着に歴代最大着差の6バ身。圧倒的な強さだ。

 

 スタートを上手くきり、道中はロスなく先行し、好位から素早く抜け出し、直線で鋭く伸び相手を突き放す。

 完璧なレース運びで相手に絶望感を与えの心を砕くその走りはデジタルに衝撃を与えた。初々しい外見と凄まじい走り、そして何よりデジタルが興味を示したのは彼女が醸し出す雰囲気だった。

 サキーの表情、声色、所作、それらはデジタルを惹きつけ見ているこちらの気分を明るくさせてくれる。生まれ持った天性の陽性、そしてトイレで会った時に感じた人懐っこさと安心感、まるで太陽のようだ。それがサキーに抱いた印象だった。

 興味が沸いてきた、他には情報がないのか。デジタルは引き続きサキーについて調べ続けた。

 

 

「おはよう」

「おはよう…ってどうしたのその顔?」

「うん…携帯で調べ物していたら止まらなくて」

 

 プレストンはデジタルの顔を見て目を見開く。顔色が悪く目の下にクマができている、一晩中起きていたのだろう。

 

「それで何を夜中まで見ていたの?」

「いや~サキーちゃんのことを調べていたら、朝になってたよ」

「サキーって凱旋門賞に勝った?」

「そう、実はあたしシャティンのレース場のトイレで会ってたんだよ!友達になれそうだなと思っていたけどまさか凱旋門に勝ってたなんて!それで…」

 

 デジタルはなおも矢継ぎ早に喋ろうとするがプレストンがそれを手で制した。

 

「話は教室で聞いてあげるから学校に行く準備しなさい」

「は~い」

 

 デジタルはパジャマから制服に着替え登校の準備を始める。徹夜しているせいか瞼は落ちかけ着替えている最中でもフラフラしている。体調は最悪そうだがそれでもデジタルから生命力や活力のようなものが漲っているのをプレストンは感じていた。

 それはオペラオーとドトウと走る前のデジタルの雰囲気と似ていた。何があったか知らないがもう大丈夫そうだ。プレストンは友人の復活を嬉しく思いながら登校の準備を進めた。

 

 

 

「白ちゃん、あたしがサキーちゃんとドバイワールドカップで走ったらどうなる?」

 

 授業の大半を熟睡して過ごしたデジタルはチームルームに向かいトレーナーを見つけるといの一番で尋ねた。  

 唐突の質問に面を喰らいながらもトレーナーはシミュレートを開始する。ドバイのダートの特徴、サキーとデジタルの持ち時計、様々な要素を考慮し答えを導き出す。

 

「まあ、最低5バ身差はつけられるだろうな」

「5バ身差?マジで?」

「大マジや」

 

 デジタルは半信半疑で聞き返しトレーナーは力強く頷いた。GIを3連勝しオペラオーとドトウに勝ち、トブーグにも勝った自分ならもう少し着差は小さく、もしかしたら勝てると言ってくれると密かに期待していた。

 しかし相手は世界のトップクラスが集まる凱旋門賞で六バ身もつけて勝ったのだ。それぐらいの差はつけられるかもしれない、だがトレーナーの答えは少なからずショックだった。

 

「なんや?ドバイワールドカップに出たいんか?」

「うん!サキーちゃんと一緒に走りたい!」

 

 デジタルは訴えかけるようにトレーナーを見つめる。サキーは調べれば調べるほど魅力的なウマ娘だった。その存在はオペラオーやドトウと同等にデジタルを魅了していた。

 一方トレーナーはデジタルのドバイワールドカップへの出走を二つ返事で許可できなかった。香港カップに勝ったデジタルならドバイワールドカップへの招待状も届くかもしれない。

 だがサキーはとんでもなく強い。もし自身の想定通り5バ身差という大差で負ければプライドが砕かれ今後の競走生活に影響が出るかもしれない。そんな懸念があった。

 

「ねえ白ちゃん。どうやったらサキーちゃんとの五バ身差を埋められる?5バ身も離されたらサキーちゃんを近くで見られないし感じることもできない。それじゃ出る意味がないの、サキーちゃんに近づくためならどんなことだってやるよ」

 

 デジタルの言葉と眼差しに決断的な意志が込められており、トレーナーの懸念は消し飛んだ。5バ身差と言われ落ち込むどころか、どうその差を埋めるかを考えすでに前を向いている。

 何を弱気になっているのだ。プライドが砕かれる?そんなもの砕かせなければいい。自分の知識と経験を総動員させその差を埋めればいいだけだ。

 デジタルなら自分のどんな作戦に応えてくれる。デジタルならどんなハードトレーニングにも耐えられる。そして世界一にも届くはずだ。

 

「よし、今日からどギツイ練習メニューになるぞ。覚悟はできているな」

「勿論!サキーちゃんに近づくためなら例え火の中水の中!」

 

 トレーナーの言葉にデジタルは力強く答える。こうして二人の世界一への旅は始まった。

 




競馬でもオペラオーとドトウは合同引退式をおこなったそうです。粋ですよね

あとオペラオーとドトウの引退報道が速報テロップで出ました。
ウマ娘レースは国民的スポーツということでサッカーのカズが日本代表に落ちたときもテロップで速報が出ましたので、オペラオーとドトウほどのウマ娘なら出るでしょうと判断しました


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勇者と皇帝と求道者#1

個人的にジャパンカップよりチャンピオンズカップのほうを注目しています


「あ~疲れた!」

 

 アグネスデジタルはトレセン学園に設置されたダートコースに大の字になって倒れこみ空を見上げる。

 日は完全に落ち空は真っ暗になっていた。満天の星空でも見えれば最高なのだが生憎この場所では星が見えない。故郷のケンタッキーなら空気が澄んでいるので満天の星空をいつも見られるのにと懐かしむ。

 そういえば小さい頃は目一杯駆け回り疲れ果てて草原に大の字になって寝そべっていたな。草原は草のクッションが利いていてその場で眠れそうなほどに心地よかった。その点ではダートも足元が悪いウマ娘が出るレースに選ばれるだけあってクッションが利いていて柔らかく寝心地では劣らない。だが髪の毛への影響は雲泥の差だ、このまま寝そべれば髪に砂が付着し痛んでしまう。髪は女性の命であり早く立たなければいけないことは分かっているが体は女の命より休息を優先してしまっていた。

 

 サキーと走りたいとトレーナーに伝えた翌日からトレーニングの負荷は大幅に増えた。体感としては今までの1.5倍ぐらいキツイ、ここまでの負荷がかかるトレーニングはチームに所属してから初めてだった。今は追い込み時期でこのトレーニングはドバイワールドカップがある3月末までは行わないだろう。いやトレーナーは基本的にスパルタ指導だ、このまま3月末まで行う可能性は充分にある。デジタルは暗い未来に悲観して大きなため息をついた。

 

「こんなところで寝ていると風邪引くぞ。はよ起きろ」

 

 すると夜の空で支配されていたデジタルの視界にトレーナーの顔が割り込んでくる。トレーナーが寝そべっているデジタルに手をさし伸ばし、その手をとり何とか体を起こし立ち上がると億劫そうに歩きコース外にある木にもたれかかった。

 

「白ちゃん疲れた~部屋まで運んで~この際オジサンのお姫様だっこでも文句言わないから」

「無理言うな。お前みたいな斤量背負って歩けるか」

「女の子を斤量扱いってひどくない。それに羽のように軽いあたしを持てないなんて白ちゃん貧弱~」

「普通の50過ぎのおっさんはお前ぐらいの体格の女を持って長距離は歩けんわ。それで今後のローテーションについて話す。座りながら聞いてくれ」

 

 トレーナーの表情が真剣みを増し、それにつられるようにデジタルも表情を引き締める。

 

「まず2月4週のダート1600のフェブラリーステークスに出走する。これは当初の予定通りや。そして3月5週のドバイワールドカップに出走。ドバイには1週間前ぐらいに現地に入って調整をおこなうつもりや」

「うん」

「そしてドバイワールドカップに出走するためにはUAEウマ娘協会から招待状が届かなければ出られない。そして現時点では招待状は来ていない」

「そうなの?」

「それで俺の見立てとしてはフェブラリーステークスで1着になれば出走確実。ウイニングライブ圏内なら5分5分と言ったところだ。そしてフェブラリーはメイチで仕上げん。仕上げたらドバイを100%で走れないからな。ドバイを100%としたらここは90から95といったところにするつもりだ」

「フェブラリーステークスに全力でいかなくていいの?ここで負けたら招待状来ないんでしょ?本末転倒じゃない?」

 

 デジタルの指摘はトレーナーにとって痛いところだった。

 未来を重んじすぎればフェブラリーで負けてドバイワールドカップに出走できなくなる。今を重んじすぎればフェブラリーにピークを持っていき勝利しても、その反動でドバイワールドカップではピークに持っていけず間違いなくサキーに負ける。

 

 今を取るか未来をとるか

 

 どちらを取っても現時点では間違っているとはいえずトレーナーは難しい選択を迫られていた。どれがデジタルにとって正しい選択なのか?数日間熟考を重ねた結果未来をとることにした。

 

「悩んだ結果そして俺はドバイを優先することにした。だがデジタルがドバイに出走することを優先したければ反対はしない。フェブラリーを取るためにメイチで仕上げる。お前の意見も聞きたい」

「う~ん」

 

 デジタルは腕を組み目を閉じて熟考する。サキーとは走りたいがただ走るだけではダメだ、より近くで感じなければ。だが一緒に走れなくのは困る。

 

「ところでフェブラリーで100%に仕上がったらドバイではどれぐらいになる?」

「まあよくて90%ぐらいだろう」

「それで95%でフェブラリーを走って勝算はどれぐらい?」

「詳しくは言えんが出走予定メンバーが全員出てくるならウイニングライブ圏外になることも十分考えられる」

 

 去年のフェブラリーステークス3着、ドバイワールドカップ2着、エリザベス女王杯1着のトゥザヴィクトリー。

 去年のフェブラリーステークス1着のノボトゥルー。

 去年のジャパンカップダート2着のウイングアロー

 去年の東京大賞典1着の地方ウマ娘ヒガシノコウテイ

 そして史上初の南関4冠を達成し東京大賞典3着のセイシンフブキ

 今年のGI川崎記念1着のリージェントブラフ

 

 フェブラリーステークスには去年のジャパンカップダートを圧倒的なパフォーマンスで勝ったウラガブラックは出走しないがそれでも出走メンバーのレベルは高い。

 

「だが、デジタルの底力なら1着を取れる。俺はそう信じている」

 

 トレーナーは真っ直ぐ見据えデジタルも視線を逸らすことなく見つめ、その状態が数秒間続きデジタルが口を開く。

 

「……わかった。白ちゃんがそう言うなら信じるよ。白ちゃんのプランでいこう」

 

 デジタルにとってどっちが正しいのか分からない。ならば相手と自分をより詳しく知っているトレーナーの判断に委ねることにした。

 

「ありがとうデジタル。なら未来を勝ち取るために今から練習に行くぞ」

 

 その言葉を聞いた瞬間デジタルの表情は引き攣る。このハードな練習の後にまだ練習をおこなうのか?鬼かこの男は。視線でこれ以上無理だと必死に訴えかけるが、だがトレーナーも視線でその訴えを却下した。

 

「20分後に迎えに来るからな」

 

 トレーナーはデジタルに背を向けて歩き始める。せめてもの抗議として鬼~悪魔~人でなし~と罵倒するがトレーナーは手をひらひらと振り意に介すことなくことはなかった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「着いたぞ」

 

 車が止まるとデジタルは助手席からゆっくりと車内から出る。そして目の前に見える意外な物に意表を突かれる。

 

「高校?」

 

 車が止まったのはとある高校の正門だった。トレーニングというからにはもっと漫画に出てくるような仰々しい修行場のように連れて行かれると思っていたがまさか人間の高校生が通う学校とは。

 しかし何故に高校だ?トレセン学園はウマ娘がトレーニングするうえで最適な環境で、このような高校にトレセン学園以上の設備があるとは思えない。

 デジタルが思案しているなか、トレーナーは正門付近に設置されているインターホンを鳴らし誰かと会話する。すると数分後に警備員がやってきて正門の鍵を解錠しトレーナーは敷地内に入っていきデジタルも戸惑いながらも続いて敷地内に入っていく。

 

「ねえ白ちゃん?この学校に何があるの?」

「まあすぐに分かる」

 

 デジタルの質問にトレーナーははぐらかし進んでいき、トレーナーに着いていきながら周りを見渡す。

 日中のようにはっきりと見えないが外灯が点いているのでうっすらと見える。

 左手には屋外プールがあり、プール開きが始まっていないせいで苔や藻がびっしり生えているのだろうか独特の臭いが鼻腔を刺激する。

 右手には校舎が見える、その外観などはトレセン学園にあるものと変わらない。高校は漫画の舞台でよく出てくるが実際は見た事が無いのでどんなものかと少し期待していたが驚くほど普通で感慨はわかなかった。

 2人は正門から直進して階段を上っていくにつれ人の声が聞こえてくる。そして階段を登りきるとそこにはグラウンドがあった。

 端から端までは目測で約200メートル、だとすれば2万平米ぐらいだろう。トレセン学園の広大な敷地に比べればネコの額程度と言えるかもしれないが、普通の高校に比べれば広大といえるスペースだった。

 そのグランドにはサッカー部が練習していたようで、練習が終わり部員達は後片付けをしていた。

 

「ここが目的や」

「グランドが?ここで何をするの?」

「それは走るに決まっているやろ」

「何で?トレセン学園で走ればいいのに、何で車まで使ってこんな場所に来るの?」

 

 デジタルはいぶかしみ質問を投げかける。見た目は普通の高校だが中には最新鋭の設備でもあるのだろうと予想していた。だが来てみれば何の変哲も無いグラウンドで練習すると言っている。意図がまるで読み取れない。

 そしてトレーナーはその反応を見越したように逆にデジタルに質問を投げかける。

 

「ドバイワールドカップはどのコースで走るか知っているか?」

「バカにしているの白ちゃん。ダートの2000メートルに決まっているでしょ」

「じゃあ日本のダートとドバイのダートの違いは?」

「え?違うの?」

 

 デジタルは意外そうに答える。ダートは万国共通ではないのか?トレーナーはその答えに大仰にため息をついた。

 

「サキーのことを調べるのはかまわんが、自分が走ろうとするコースぐらい知っとけや。いいか日本のダートは砂浜にあるような『砂』、世界的にはサンドと呼ばれとる。そしてドバイで走るダートは『土』、丁度このグランドのようなやつに似ている。触ってみろ」

 

 デジタルは言われたとおり屈んで手でグランドの土を掬う。確かに硬い。普段走るダートならすんなり砂を掬えるが、この土はある程度力を入れなければ手に取れない。

 

「日本のダートは芝と比べて足抜けが悪くパワーが必要となり時計が掛かる。だがドバイで走るダートは固くて足抜けはよく速い時計が出る」

 

 足で土を踏みつけながら感触を確かめる。確かに芝コースに芝がなくなったらこの校庭の土のような感じだろう。これだったら日本のダートよりスピードが出るはずだ。

 

「トレセン学園にはこの土のコースは無いからな、といより作る意味がない。レースでは全く使わないし足への負担は芝と大して変わらん」

「じゃあ何でこの学校にしたの?土の校庭がある学校ならそこらじゅうにあるでしょ?」

「それは単純にこの学校の校庭が広いからや。この校庭を斜めに走れば約400メートル、丁度ドバイの直線と同じだ」

「なるほど」

「ということで挨拶するぞ」

 

 するとトレーナーは指導者らしき人物の元に歩み寄りデジタルもそれについて行く。

 

「初めまして。この後グランドを使用させて頂く中央ウマ娘協会トレセン学園のトレーナーです。隣がアグネスデジタルです」

「初めましてアグネスデジタルです」

「どうも初めまして、話は聞いております」

 

 トレーナーは指導者に名刺を渡し、デジタルも深々と頭を下げる。指導者もそれに応じる様に丁寧に頭を下げる。

 

「では照明の操作方法やトンボの置き場所を教えますのでついて来てもらえますか?」

「かしこまりました。デジタル、アップがてらグランドの端を軽く回っておけ、あとこれ履いてな」

 

 トレーナーは手荷物からシューズを取り出してデジタルに手渡すと指導者の後についていく。自分のレース用シューズを持っているがとりあえず言われたとおりトレーナーに渡されたシューズに履き替えるとある違いに気づく。

 渡されたシューズ、正確にはシューズの裏に装着されている蹄鉄は自分のシューズと違い大きい歯のような出っ張りがある。履き心地と土の感触に多少戸惑いながらもトレーナーに言われたように走り始めた。

 

 グラウンドにはサッカーゴールに野球に使うバックネット、それにバスケットゴールまで複数あった、それを物珍しそうに眺めながら走る。

 トレセン学園はウマ娘が速くなるための設備はあるが、このように様々なスポーツをおこなえるような設備はなく、それだけに新鮮だった。

 それに毎日ウマ娘やそのトレーナーに囲まれているだけあって、近い世代の人間の男子高校生がこんなにも見るということも珍しかった。

 走っている途中に部員たちが片付けの手を休めデジタルを見ながらヒソヒソと話していた。それに対し笑顔で手を振る。すると部員たちは思わぬ対応に慌てて目を背け片付けを始めた。

 

 デジタルがグラウンドの端を3周した頃には部員たちの片付けが終わり着替えに部室に入っていく、そしてトレーナーも話を聞き終えデジタルを呼び寄せた。

 

「よし、トレーニングを始めるか、どうや、土の感触とシューズの感触は」

「芝の感じに似ているような気がするし、ダートのような感じもあるし、何か変な感じ。それにこのシューズ走りにくい。何これ?」

「それはスパイク蹄鉄や。日本では使用が禁止されているがアメリカでは許可されていて、ドバイでも使用可能だ。出っ張りのおかげで引っ掛かりがよくなってこれを使えばタイムが伸びる」

「確かに引っ掛かりはいいね」

 

 デジタルは確かめるように土を踏みしめる。

 

「ここでのトレーニングの目的はこのスパイク蹄鉄と土に慣れることだ。これからはアップでも芝の走りかたの感覚のほうが走りやすいか、ダートの走り方の感覚のほうが走りやすいか、それとも両方の走り方を混ぜたほうが走りやすいか。意識しながら色々な走り方で走りやすいのを見つけろ」

「面倒な要求するね、まあ色々試してみるよ」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に何気なく返事する。だがこの要求の難易度はかなり高いものである。

 芝を走るウマ娘でもトレーニングでもダートで走ることがある。たがあくまでもトレーニングでありレースに勝つための速さは求めない。

 例えダートに適した走り方をしていなくとも矯正することはない。逆にダートの走り方を覚えてしまうとフォームを崩し芝での走りに悪影響を与えてしまうこともある。

 しかしデジタルはその天性の才能で芝とダートで十全の力を発揮できる走り方を会得し、芝とダートのGIに勝利した数少ないウマ娘の一人である。

 そして中央の芝とダート、地方ダート、香港の芝と数多くのバ場を走ってきた経験がある。その天性の才能と経験の引き出しを駆使し土という第3のコースでの最適な走りを導き出せというのがトレーナーの要求である。

 この要求は他のウマ娘にはしない、デジタルになら出来るという確信があるから要求したのである。

 

「というわけや、とりあえず今日は初日だし疲れとるだろうから、グランドの斜めから斜めを5割程度の力の2本で勘弁してやる」

「はいはい」

 

 デジタルは嫌みったらしく言いながら、トレーニングを開始する。

 言われたとおり5割程度の力で走っている、だがいつもの5割程度と比べて明らかに遅く動きも躍動感が無い。この原因は疲労のピークであることより土とスパイク蹄鉄の違和感によるものだろう。その証拠に表情もしっくりこないというような顔をしている。

 しばらく違和感は拭いきれないだろう。だがデジタルなら次第に慣れて最適な走りを見つけるはずだ。だがこれでやっとサキーとの勝負の土俵に立てた程度だ。

 サキーはドバイと同じバ場のBCクラシックで初の土で僅差の2着に入着した。さらにいうならば凱旋門賞から中3週という厳しいローテーションでだ。ドバイワールドカップは相手の地元であり同じコースのステップレースを使い、さらに土の走りを身につけてくるだろう。厳しい戦いになる。

 するとデジタルは2本走り終え少し息を乱しながら帰ってくる。

 

「タイムはまあ…こんなもんだろう。よしトンボして帰るぞ」

「トンボ?なにそれ?」

「ああ、この言い方じゃ分からんか、グランドを整地するってことだ」

「それあたしがするの?」

「当たり前やろ。見てみい。お前が走ったところは土が掘り返されてボッコボコや」

 

 芝のコースでも普通の蹄鉄を装着したウマ娘が走れば芝は捲れ上がる。さらにスパイク蹄鉄をつけたとならば地面はさらに抉られる。デジタルが走ったルートのグランドの土は抉られ所々で穴が出来ている。

 

「やだ~めんどくさい。白ちゃんやってよ。あたしはその間ストレッチやっておくからさ。そのほうが時間を有効活用できるでしょ」

 

 トレーナーはブーたれるなと言おうとしたが言葉を呑み込む。

 確かにデジタルの言う事には一理ある。ウマ娘に最高の環境を与えるのがトレーナーの仕事だ、雑務を押し付けるぐらいならストレッチでもして体をケアすることのほうがよほど有意義だ。

 

「よし、じゃあ俺がやっとくわ」

「本当に?」

「ああ、そのかわりしっかりやっておけよ」

 

 トレーナーは整地をするために道具を取りにいく、そして自らの提案に後悔することになる。

 デジタルが掘り起こした土を集めトンボと呼ばれる用具を使いならしていくことを繰り返すのだが、50メートル、100メートルなら何とかなりそうだが、400メートル分をならすのは予想を遥かに超える重労働だった。それにトンボは鉄製で50代の体で扱うには重かった。

 トレセン学園の造園課はいつもこんな苦労をしながら芝やウッドチップのコースなどを整理してくれたのか。今度お礼と感謝の品でも持っていくべきかもしれないな。トレーナーは造園課に感謝の念を抱きながら整地作業を黙々とおこなった。

 

「いや~ご苦労白ちゃん。日頃運動不足そうだし良い運動になったんじゃない」

 

 整地が終わりグラウンドの照明を落として帰ってくると出迎えたのはグランドのフェンスを背に踏ん反り返りながら座りニヤニヤと笑うデジタルの姿だった。疲労している体にどこぞの社長のような偉そうな態度はトレーナーの神経を少しばかり逆なでさせる。

 

「おう、ええ運動になったわ。デジタルもトレーニング量増やしてもっとええ運動するか」

「え?今の量からさらに増やすの?それは勘弁してよ」

「冗談や冗談」

 

 デジタルはトレーナーの提案に表情が慄く、一方トレーナーはその怯えた表情を見て溜飲が下がったのか表情をほころばせる。

 

「なあデジタル?ドバイワールドカップや凱旋門賞に出るべきウマ娘は誰だと思う?」

「急にどうしたの?う~ん?別に出たいウマ娘ちゃんがいれば誰が出ていいんじゃない」

「そうか、それもそうだな」

 

 トレーナーは思わぬ答えに一瞬驚いた後笑みをこぼす。デジタルらしい答えだ。

 

「だが俺の考えは少し違う。ドバイや凱旋門は芝やダートでそれぞれの日本の王者が出るべきだと思う」

 

 ドバイのダートが砂ではなく土であるように海外で求められる適性は違う。日本の芝やダートで強いウマ娘より適性が有るウマ娘のほうが勝てる可能性があるかもしれない。

 だがこれらのレースは世界一を決めるレースで有り、日本のチャンピオンである者が行くべきとトレーナーは考えていた。

 

 ダートでの王者とは何か?

 

 ダートのGIレースはシニアクラスで1600メートルが3レース。2000メートルが2レース。2100メートルが2レース。1200メートルが1レース。このうち半分勝てば文句なし、レベルが高いと言われているジャパンカップダートとフェブラリーステークスに勝利すれば王者と名乗る資格はあると言える。

 

 ドバイのダートと日本のダートは質が違う。だがダートで一括りされているからにはダート王者として出走しなければならない。

 そしてデジタルはダートでは南部杯しか勝っていない。王者として認められるためには最低でもフェブラリーステークスは勝ってほしかった

 

「だからフェブラリーステークスには勝ってもらいたい。全力に仕上げないで勝てなんて勝手なことを言っているのはわかっている。だが勝ってダートチャンピオンとして世界一の戦いに挑んでもらいたい」

「まあ、白ちゃんの拘りはわからないけど、どっちみち勝たなきゃならないんだから勝ってダートのチャンピオンになってあげるよ」

 

 デジタルは手を差し出すとトレーナーはその手を取って起き上がらせた。

 トレーナーの持論には完全には賛同できなかった。だが自分の拘りというものは分かる。推しウマ娘の推しポイントを言ってもチームメイトやプレストン等の友人に言っても理解してくれないこともある。だがそれは自分にとっては重要なことでありそれと同じなのだろう。

 

 トレーナーとデジタルは帰り支度を始める。すると今から帰ろうという様子の運動部員の集団から抜け出した男子生徒がデジタルに近づきソワソワしながらデジタルに話しかけてきた。

 

「あの……ウマ娘のアグネスデジタル選手ですか?」

 

 トウィンクルシリーズを走り複数のGIを勝ったウマ娘であれば世間での知名度は相当なものだ、こうして声をかけられるのは不思議ではない。しかしこのタイミングで声をかけてしまうとは運が悪い。

 デジタルはウマ娘が大好きであるが、自分の人間のファンなどにはさほど興味がなく、俗に言う塩対応なきらいがある。以前ファンと出会った時の対応の悪さを注意したことがあり多少マシになったが、それでも塩対応に分類される方だ。

 さらに練習終わりで疲労が溜まって機嫌が悪く、声を掛けられて億劫なはずだ。とりあえずは最低限の対応はするだろうが男子生徒もあまり良い印象を抱かないだろう。自分のしごきで疲れて機嫌が悪かったとフォローしておくか。

 トレーナーはそのあとの対応を考えているとデジタルの反応は予想を反するものだった。

 

「はい、あたしを知っているんだ、嬉しいな」

 

 デジタルは一瞬面倒くさいという表情を見せるが、すぐに笑顔を作り声も半オクターブ高い声で返答する。その仕草にときめいたのか男子生徒は顔を紅潮させている。

 

「香港カップ見ていました!優勝おめでとうございます!凄い粘りでした!」

「ありがとう」

「もしよろしければサインを頂けませんか?」

「いいよ」

 

 男子生徒はショルダーバッグからノートを取り出そうとするが、緊張と動揺とノートが見つからない焦りからか荷物をぶっ散らかしながらノートを探している。デジタルはその様子にイラつくことなく笑顔を崩さず待っている。

 やっとこさノートを見つけた男子生徒はデジタルに手渡し空きページにサインを書く、さらにデジタルは写真を一緒に撮らないかとまで提案してきた。

 このファンサービスの良さは何だ?一体何が起こったのだ?

 トレーナーはその変貌にキョトンとしているとデジタルからスマホを手渡されて言われるがままに写真を撮り男子生徒に渡す。男子生徒は撮られた写真を見ると目を輝かせ礼を述べると喜々した様子で集団の元に帰っていく。

 

「おい、どうしたデジタル?何だあのファンサービスの良さは、悪いもんでも喰ったんか?」

 

 トレーナーはデジタルに詰め寄る。ファンに対しての対応は素晴らしいものだった。だが自分が知るデジタルとはあまりにも違いまるで別人のようだ。

 

「悪いもの食べたって、ちょっとした心境の変化ってやつだよ。オペラオーちゃんとドトウちゃんに言われてさ」

 

 デジタルはトレーナーの言葉を一笑しながら二人との会話を思い出す。オペラオーとドトウの引退式の時に言われたことを話し始めた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「デジタル。キミは天皇賞秋でボクとドトウに勝ち、香港カップでも勝利した。もはやウマ娘界のメインキャストと言っていいだろう。そうなれば望む望まないに関わらず責任が生じる。ウマ娘界の顔としての責任がね」

「どういうことオペラオーちゃん?」

 

 オペラオーとドトウの東京レース場での引退ライブが終わり、デジタルとオペラオーとドトウの三人でトレセン学園に帰っている最中にオペラオーが仰々しく語り始めた。

 

「以前3人で出かけてファンに囲まれたことがあっただろう。覚えているかい?」

「ああ、あの時だね。オペラオーちゃんとドトウちゃんがファンサービスして映画の上映時間ギリギリで駆け込んだんだよね」

「あの時のデジタルの対応はあまり良くなかった」

 

 デジタルはその当時のことを思い出す。数人のファンがオペラオーとドトウにサインや握手などを求めてきて、その中にもデジタルのファンがいた。だがオペラオーとドトウとの至福の時間を邪魔された怒りからかファンへの対応お世辞にも良いと呼べるものではなかった。

 

「プライベートの時間に声をかけられて不愉快な気持ちはわかる。だがキミの対応にファンはどう思う?きっと嫌な気分なはずさ。そうなるとレースに出るウマ娘自体が嫌いになってしまうかもしれない」

 

 デジタルはオペラオーの言葉に相槌を打つ、確かにそうだ。第一印象で植えつけられたものを覆すのは難しくファンとウマ娘は複数回会話することは滅多にない。そこで嫌な印象を抱いてしまったらそのウマ娘に好感を持てないだろう。

 

「そしてその感情が周りの人に伝播してしまうかもしれない。それはウマ娘界にとって損失だ。だが逆に良い印象を与えればファンになってくれ、そのファンはさらにボク達ウマ娘を応援してくれるかもしれない。それはウマ娘界にはプラスになる。知名度が上がり今後はファンたちと交流する機会も多くなるだろう。だからこそ振る舞いには気をつけなければならないのさ」

 

 デジタルはウマ娘としての意識の高さに思わず感嘆の声を上げる。ここまで業界のことを考えていたのか。

 

「その点ボクは完璧さ。ボクのファン、ついでにウマ娘のファンには最高級の対応をおこなっている」

 

 オペラオーは髪をかきあげ自慢げに語る。その対応は意識の高さはもちろんだが、興味のないファンにも丁寧な対応をおこない自分に興味を持ってもらいたいという打算的考えもあった。

 

「そしてドトウも結構頑張ってファンサービスしていたよ」

「え?ドトウちゃんが?」

 

 デジタルは思わず聞き返した。あの引っ込み思案のドトウが積極的にファンサービスするとは思えなかった。

 

「はい、私もオペラオーさんに同じことを言われました。でも初対面のファンの方と会話するのは恥ずかしいし、どうせ笑い話にされていると思っていました。でも少しずつ愛想良く振舞う努力をするとファンの方が嬉しそうな顔をしてくれるんです。その顔を見ると心が暖かくなりました」

 

 ドトウはその場面を思い出し優しげな笑顔を見せる。ファンの中にはただ顔を見たことがあるからという程度で声をかけてくるものもいる。

 だが自分のファンで自分と同じように臆病で引っ込み思案の人が必死に勇気を振り絞って声をかけてくれることもある。そんな人に一声かけると嬉しそうな顔をしてくれる。それはドトウにも嬉しいことであり勇気を持って一声かけたことが報われた瞬間であった。

 

「デジタルさんはその何というか……好き嫌いが人よりはっきりしているというか……ウマ娘に比べてファンの方には興味が少しだけ薄いと思います。でもファンの方の嬉しそうな姿を見るのも気分がいいものですよ」

 

 ドトウは言葉を選びながら諭す。デジタルのウマ娘への興味と愛情は凄まじくそれはある意味美徳だ。それと同時に人やファンへの興味の薄さは悪徳でもある。

 デジタルのトレーナーやチームに属する人間には興味を持ち心を開いているが他の人物には驚く程関心がなく、それはいずれ災いをもたらすかもしれない。

 ファンとの交流を通してその気質を改善してもらいたいという思いもあった。

 

「そうか。オペラオーちゃんやドトウちゃんがそう言うなら、あたしも少しは頑張ってみるね」

 

 それからデジタルはできるだけファンサービスを行うようになった。

 先ほどの男子生徒へのファンサービスはもちろん、グランドの端を走っていた時男子生徒達に見られながらヒソヒソ話をされた時もいつもなら不快感を顕にしていたが、それに堪え笑みを浮かべながら手を振ったのもファンサービスの一環だった。

 

「そんなことがあったんか」

「オペラオーちゃんやドトウちゃんが頑張ってやったことをあたしがぶち壊すわけにはいかないもんね。自分でできる範囲でやってみるよ」

「そうか、よし、今日は初日だし甘いもんでもおごってやる。しかもハーゲンダッツや」

「本当に?やったー」

 

 デジタルは思わぬ提案に喜びを露にしてトレーナーはその様子を見つめる。

 

 トウィンクルレースに出るウマ娘というのはある意味特殊な立場に居る。

 まだまだ未熟な年頃の女性が世間の注目を浴びチヤホヤされる。その注目がストレスになり自分勝手な振る舞いをすれば世間からバッシングを浴びてしまう。ウマ娘でも別のスポーツでもそんな対応で潰された有望な若人は多い。

 それでもオペラオーやドトウのように若いながらも個を犠牲にして業界全体のことを考えて行動できる者もいる。そしてデジタルも2人によって業界の主役としての振る舞いを自覚するようになった。それは好ましい変化だった。

 

 そして月日が過ぎデジタルのドバイの土とスパイク蹄鉄になれるトレーニングとフェブラリーステークスに向けてのトレーニングは順調に進んでいった。

 そしてフェブラリーステークス前々日。2人は前々日会見の会場に向かった。

 




この話からフェブラリーステークス編になります
フェブラリーステークスで印象に残っているのは09年のレースですね
競馬観戦でのベストレースと聞かれたらこのレースと言っています。

復活したカネヒキリ、
カネヒキリの復活により暫定王者扱いされ復権を狙うヴァーミリアン
強いはずなのにヴァーミリアンとカネヒキリの歴代屈指のダート馬によってGI勝利から遠ざかるサクセスブロッケン
アメリカ遠征という路線を歩んできたカジノドライブ
当時の上がり馬であるエスポワールシチー
根岸ステークス覇者のフェラーリピサ

様々なダート路線から集結し、人気どころが全部上位にきての決着
直線の叩き合いは痺れました。

そしてあの時はダイワスカーレットが参戦するかもと話題になっていましたが怪我で回避したんですよね。もし参戦していたらどうなっていたか今でも思いを馳せます


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勇者と皇帝と求道者#2

この話ではアグネスデジタルはもちろん実装ウマ娘はいっさい出てきません。



「準備はできたか?」

「はい」

 

 トレーナーの言葉にウマ娘が答える。長い黒髪は三つ編みにメガネ、一昔前のステレオタイプの文学少女のような容姿である。彼女の名前はヒガシノコウテイ、岩手ウマ娘協会に所属する俗に言う地方ウマ娘である。

 ヒガシノコウテイは振り返り自身が住む寮を見つめる。朝の5時を回っているがこの季節は日が短くまだ夜のように暗く、外灯の薄暗い光が学生寮を照らしていた。鉄階段の塗装は完全に剥がれており、外壁も薄汚れてヒビが入っている。今まではトレーニング設備の充実のために資金を回しているらしく学生寮の修繕は後回しになっていた。

 だが自分が次のフェブラリーステークスに勝てばグッズが売れて岩手に人が集まる。そうなれば修繕費をすぐに賄えるはずだ。ヒガシノコウテイは決意を新たにし寮を後にして駐車場に向かう。車で駅まで向かい新幹線で東京に向かうことになっている。

 ヒガシノコウテイは辺りを見渡す。夜にかけて雪が降ったせいか一帯は銀世界になっている。これは今日のトレーニングは中止でみんなで雪かきをすることになるだろう。しかしフェブラリーステークスの前々日会見のために東京に向かわなければならず雪かきに参加できない。そのことを心の中で謝罪しながら新雪に踏みしめながら歩いていく。

 2人は駐車場に着くと思わぬ光景が待ち受ける。

 

「ヒガシ先輩頑張ってください!」

「岩手の力を見せてやれよ!」

 

 駐車場には多くの人が待ち受け二人に激励の言葉を投げかける。岩手トレセンのウマ娘達はもちろんトレセン近くの近隣住民までが出迎えていた。

 

「みんなどうして?」

「それは地元の星が中央に殴り込むんだ。出迎えないわけにはいかないだろう」

 

 ヒガシノコウテイの言葉に行きつけのケーキ屋の店長が威勢よく答える。だが言葉とは裏腹に寒さで体を震わせ歯がカチカチと鳴っている。さらに周りを見てみると店長と同じように手に白くなった息を吐きかけながら寒さを凌いでいた。

 岩手の2月の朝の気温は氷点下を下回る。寒くないわけはない。それなのにわざわざ激励に来てくれたのか。皆の気持ちにヒガシノコウテイは思わず涙ぐむ。

 

「おねえちゃん!おねえちゃん!」

「なに?」

 

 声がした足元に視線を向けると幼女のウマ娘がいた。膝をつけて視線を合わせ笑顔で答えた。

 

「これあげる!幼稚園で作ったの!」

 

 幼女は満面の笑みで手渡す。それは円形の木材に金色の折り紙を貼り付けた物だった。これは金メダルだろうか?本来金メダルは1位になってから貰うものであり、レースが終わっていないのに貰うのはまだ早い、だがそれを言うのは野暮である。少女に礼を述べると金メダルを懐に大切にしまった。

 

「テイちゃん」

 

 1人のウマ娘が声で呼びかける。そのウマ娘は栗毛のロングヘアーで肌は雪のように白く、鈴の音のような声色とおっとりとした笑みは周囲の人を癒す不思議な雰囲気を醸し出していた。

 彼女の名前はメイセイオペラ。かつては岩手ウマ娘協会に所属しており、唯一地方ウマ娘でありながら中央のGIを制した。そしてヒガシノコウテイとは幼馴染であった。

 

「オペラお姉ちゃんも来てくれたの!?」

 

 ヒガシノコウテイはメイセイオペラの元に駆け寄り手を握り嬉しそうに笑顔を見せる。その表情はヒガシノコウテイをいつも以上に幼く見せ2人が話し合う姿は本当の姉妹のようだった。

 

「あまり気負わず腕試しの気持ちで気軽にね。あと怪我にも気をつけてね。テイちゃんは真面目で頑張り屋さんだから地方のために岩手のためにって無理しそうだから」

「うん」

「あとこれあげるね。いらないかもしれないけどお守りとして」

 

 メイセイオペラは懐からあるものを取り出しヒガシノコウテイの手を包むようにして渡す。それは赤色と黄色のリストバンドだった。赤色の物には「明」黄色のものには「正」と文字が刻まれていた。これはメイセイオペラが現役時代につけていたものであり両親の手作りである。

 父親の名前と母親の名前の漢字を一つとって繋げれば明正となりメイセイと呼べる。一種の語呂合わせのようなものである。

 母親はレースでつらいこともあるが明るくいて欲しいという意味を込めて「明」

 父親はレースで真っ直ぐに走り心も真っ直ぐでいて欲しいという意味を込めて「正」

 2つの意味と愛情を込めて両親はメイセイオペラに手渡し、それをお守りとしすべてのレースで装着していた。

 そのメイセイオペラに対する深い愛情は幼じみで家族ぐるみの付き合いをしていたヒガシノコウテイも分かっていた。

 

「いいの?だっておじちゃんとおばちゃんがオペラお姉ちゃんに渡してくれた大切なものでしょ?」

「私はいいの。お父さんとお母さんが自分たちの込めた念はレースの時しか発揮しないって言っていたから。だからレースで走るテイちゃんにあげる」

「ありがとう…」

 

 メイセイオペラは2つのリストバンドをヒガシノコウテイの手を包み込むように渡す。そのリストバンドには喜びや悲しみな体験したすべての感情、そして今まで背負ってきた皆の想いがレースで詰まっているように重かった。

 

「では皆様行ってきます!必ずフェブラリーステークスの優勝レイを岩手に持って帰ります!」

 

 ヒガシノコウテイは少し声を大きく出して挨拶をする。すると皆は囃したて照れくさそうにはにかんだ。

 

「みんなが出迎えるなんてメイセイオペラがフェブラリーに出たとき以来か?」

「はい、あの時の私は出迎える側でした。今は選手として送られる側なんて少し感慨深いです」

 

 ヒガシノコウテイは助手席に座り皆が見えなくなるまで後ろを振り向きながら、感傷に浸るようにつぶやく。そういえばあの時も雪が降っていたな。

 車は10分ほど走ると駅に到着し2人は東京行きの新幹線に乗り込んだ。新幹線が発車して数分後ヒガシノコウテイは大きなアクビをかく。早起きと緊張のせいであまり眠れなかった。

 

「すみません。少し寝ていいですか」

「ああ、いいぞ」

 

 トレーナーの許可を得てから瞼を閉じる。すると睡魔によって瞬く間に眠りの世界に落ちていく。そして夢の世界で過去のことを思い出していた。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 ヒガシノコウテイは岩手で生まれたウマ娘である。そして同世代のウマ娘と比べて体が弱く幼少期の健康診断で将来はレースに出ることは無理だと医者から通告されていた。

 その通告は少なからずショックであった。その姿を見かねた医者が地方には中央で走れないと宣告された者が集まり、ヒガシノコウテイのように体が弱いものでも走れるかもしれないと教えた。

 各地にある地方が運営している地方ウマ娘、そこは中央ウマ娘協会が運営しているトレセン学園に入学できなかった者が門を叩く。医者の言葉から地方に興味を持ち始める。

 幸運なことに岩手ウマ娘協会のウマ娘達が走る盛岡レース場は家のすぐ近くにあった。近所の年上の幼じみである姉のような存在のメイセイオペラと一緒にレースが開催されるたびに盛岡レース場に足を運んでいた。

 

 地方に所属するウマ娘はアグネスデジタルなどが所属している中央ウマ娘協会が運営するトレセン学園に入学できなかった者、中央のレースで結果ができなかった者などである。それゆえに都落ちなどマイナスなイメージがついてしまう。

 だが岩手レース場で走るウマ娘たちは自分の境遇に悲観することなく走る歓びを噛み締めるように懸命に、そして楽しそうに走っていた。

 その姿にヒガシノコウテイの心は強くうたれ、そして同じように心打たれたファンが熱心で暖かい声援を贈る。ウマ娘とファンたちが作り上げるどこか暖かな雰囲気はあっという間に虜になり、同じようにメイセイオペラも虜になっていた。

 大人では中央より地元の地方に熱中することはあるが、ヒガシノコウテイのように幼い子供が中央ではなく地方に熱中することは珍しいことだった。

 この年頃の子供は大人より郷土愛が弱く、地方よりレベルも人気も高い中央のほうに興味を示すことは自然なことだった。そんな地方に興味を持つヒガシノコウテイはマイノリティであり学校でも浮いた存在だった。

 それでもかまわない。同じように岩手のウマ娘たちを愛するメイセイオペラというたった一人の理解者がいるだけで充分だった。

 レースを見始めてから数年の月日が経った頃、岩手ウマ娘界の伝説となったスターウマ娘が彗星のごとく現れた。

 

トウケイニセイ

 

 デビューから連戦連勝し、瞬く間に岩手ウマ娘界のトップに君臨する。その存在と強さは2人を夢中にさせていた。同級生たちのアイドルが中央のダービーウマ娘であるならば、2人のアイドルはトウケイニセイだった。

 ある日イベントとしてトウケイニセイのサイン会と握手会が二人の住む近所で開催されると知った。

 

「どうしよう、すごく緊張してきた」

「私もだよテイちゃん」

 

 2人は緊張を紛らわすようにお互いの手を握りながら列に並ぶ。

 会場は近くのスーパーのイベントスペースで行われ、トウケイニセイが来るであろうスペースはパーテションで簡易的にスペースを作った質素なものであり企画の予算の無さが伺える。

 買い物客も何のイベントだろうと視線を向けるがトウケイニセイのサイン会だと知ると興味なさそうに次々と去っていく。それが岩手ウマ娘レースの現状の知名度だった。

 

 定刻になるとサイン会が行われ列が徐々に前に進んでいき、それに比例するようにヒガシノコウテイの心拍数も上がっていく。そして順番が回ると係員に促されてブースに入り憧れのトウケイニセイとついに対面した。

 

 いつも応援しています。

 

 そう言おうとするが緊張のあまり頭が真っ白になり言葉が吹き飛んでしまう。それでも何とか思いを伝えようとアタフタしているとトウケイニセイはその様子を笑うことなく優しげな声で話しかける。

 

「確かメイセイオペラちゃんと一緒にいつもレース場に来てくれている子だよね?」

「え、あ、はい。えっと何でオペラお姉ちゃんのこと知っているの?」

「さっき軽く話したからね、いつも応援に来てくれてありがとう」

「はははい!」

 

 ヒガシノコウテイは外に並んでいる人たちに聞こえるほどの大声で返事をする。あのトウケイニセイが自分の事を知っている。それだけで天に昇るほど嬉しかった。

 

「小さい子供が何度もレース場に来てくれるのは珍しくてさ、みんな中央で興味を持って会場に来てはくれるんだけど、いざ見るとなるとレース場の施設やライブがしょぼいって来なくなるんだよね」

「そんなことない!盛岡レース場で走る皆はかっこいいです!」

 

 トウケイニセイが自虐気味に語るがそれを即座に否定する。その速さと勢いに目を見開きそして嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう。じゃあ将来は中央じゃなくて盛岡で走ってくれる?」

「はい!あ……でも……あたし体が弱くてお医者さんからレースには走れないかもって言われて……」

 

 最初の勢いよく返事するが、次第に勢いと声量は小さくなり最後は消え入りそうな小さな声で目には涙を溜めて今にも泣きそうだった。するとトウケイニセイは人差し指でヒガシノコウテイの目元をそっと拭き白い歯をみせ励ますように肩に手を置いた。

 

「大丈夫!私も体が弱くて小さい頃医者にレースに走れないって言われたけど、こうしてレースを走れている。だからヒガシノコウテイちゃんも大きくなったら体が丈夫になって走れるようになるよ」

 

 トウケイニセイもヒガシノコウテイのように体が弱く、それゆえに中央のトレセン学園の入学試験は不合格となり中央で走る道は絶たれていた。

 

「本当に!?」

「本当本当」

 

 その言葉を聞きヒガシノコウテイは飛び跳ね先ほどまでの暗い表情が嘘のように明るくなる。

 知らなかった。完全無欠だと思っていたトウケイニセイが幼少期は同じように体が弱く医者にもレースには走れないと言われていたなんて、それならば自分もトウケイニセイのようになれるかもしれない。それは暗闇のなかで見つけた一筋の光のようだった。

 

「あたしガンバル!好き嫌いしないで一杯食べて一杯練習してトウケイニセイさんみたいになる!」

「おお、未来のエースの登場だ。これで岩手は安泰だ」

「そして速くなって岩手レース場で走って、オペラお姉ちゃんと桐花賞で一緒に走るの!オペラお姉ちゃんはすっごく速いんだよ」

 

 桐花賞とは年末岩手レース場で行われるレースであり、中央の有マ記念と同じようにファン投票の数で出走ウマ娘を選出する岩手で一番のビッグレースである。

 そしてそのレースを走ることは夢でもあった。だが医者に体が弱いと診断されこの夢は実現できないと思っていた。だがトウケイニセイの話を聞き実現可能であると思い始めていた。

 

「よし、それじゃあ私も混ぜてよ。3人で桐花賞走ろう」

「うん」

 

 ヒガシノコウテイは小指をトウケイニセイに差し出し、それを同じように小指に絡ませて指きりの約束を交わした。

 

 すると係員がトウケイニセイに無言の圧力を与える。気づけば1人に与えられている時間をオーバーしていた。もう少し話していたいが他のファンを待たせるわけにはいかないと急いで色紙にサインを書き手渡した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「頼んだぞトウケイニセイ!」

「中央を止めてくれ!」

 

 10月の盛岡レース場、天気は曇りで空は鈍色に染め上がる。ゲート入りを前に集中力を高めるトウケイニセイに声援が飛ぶ、その声色は声援というより祈りの声だった。

 

 地方交流元年

 

 中央ウマ娘協会のウマ娘は今まで地方のレースには出られなかったが、制度改革により中央のウマ娘でも出られる地方のレースが設立され、それと同時にあるウマ娘が頭角を現した。

 

ライブリラブリイ

 

 南は佐賀から北は門別まで地方のダートレースに出走し次々とその地域の地方の強豪ウマ娘を撃破していく。その戦歴は全国を平定していく豊臣秀吉を髣髴させ『将軍』の異名をとっていた。そしてここ盛岡で行われる重賞レース南部杯に勝てば九州、四国、中国、関西、中部、関東、北信越、東北、北海道の地方ウマ娘とレース場で勝利することになる。それは地方の完全敗北を意味ことだった。

 だが岩手には地方にはまだトウケイニセイがいる。42戦42勝。圧倒的な成績を誇る岩手の怪物。その強さは他の地域の地方ウマ娘ファンにも知れ渡っていた。

 中央の将軍と岩手の怪物のレース。果たしてどちらが勝つのか?その結果を見届けるために、何より岩手の怪物を後押ししようと岩手ウマ娘ファンはもちろん他の地方のウマ娘ファンもレース場に足を運び、その日の入場者数は過去の最大記録を更新していた。そしてメイセイオペラとヒガシノコウテイも盛岡レース場に訪れていた。

 

「大丈夫、大丈夫だよテイちゃん」

 

 メイセイオペラは観客席に座りヒガシノコウテイの手を握り締めながらトウケイニセイの様子を見つめる。その声は微かに震え手もいつもより冷たい。メイセイオペラはレース場を包み込む重苦しい空気に呑み込まれていた。何より憧れであるトウケイニセイが負けるかもしれないという不安と恐怖に押し潰されそうだった。

 

「心配しないでオペラお姉ちゃん。トウケイニセイさんは勝つよ」

 

 一方ヒガシノコウテイは何の憂いもないと言わんばかりにメイセイオペラに笑顔を向ける。メイセイオペラを不安がらせるライブリラブリイは敵であり、トウケイニセイはそんな敵をやっつける正義の味方だ。ならば負けるはずが無い。

 正義の味方が敵をやっつけて皆が喜ぶハッピーエンドを迎える。それは太陽が東から昇り西に沈むことのように当たり前のことだった。

 

 

 

『ライブリラブリイ先頭!ライブリラブリイ1着!中央の将軍が全国平定!トウケイニセイは2着!トウケイニセイ敗れる!』

 

 ライブリラブリイが一位で入線した瞬間に観客がおこした行動はライブリラブリイへのブーイングの声を浴びせることでもなく、トウケイニセイが負けた事に対する嘆きの声をあげることでもなく沈黙だった。正確に言えばあまりのショックで言葉を発する事ができずにいた。それはヒガシノコウテイも同じだった。

 

 負けた?あのトウケイニセイが負けた?これは何かの間違いだ、きっと夢に違いない。ヒガシノコウテイは同意してもらおうとメイセイオペラに視線を向ける。するとメイセイオペラは泣くでもなく嘆くでもなく周りの人と同じように虚空を見つめ唯呆然としていた。

 そのショック状態はライブリラブリイのウイニングライブまで続き、観客達は会場を後にする事もなく唯ウイニングライブを呆然と見つめ続ける。その異様な光景は後日ライブリラブリイにこの世の地獄と言わしめるほどだった。

 ライブが終わり会場から出るようにアナウンスされた後金縛りが解けたように次々と席を立ち会場を後にする。そして観客達は幽鬼のようにフラフラとした足取りで歩いていく。

 人はあまりのショックの出来事が起きると状況を整理する為に交通機関を使わず歩いて帰路に着くという話がある。そしてその説を立証するかごとくファン達は駅に向かわず大通りをフラフラと歩いてく。それはホラー映画のゾンビの行進のようだった。

 そしてメイセイオペラとヒガシノコウテイもお互いの手を握りながら同じようにフラフラと歩いていく。手を握っていないと魂がこの世から離れてしまう、そのような錯覚に陥っていた。

 

「くそ!あともう1年早ければトウケイニセイが負けるわけはなかったんだ!」

 

 ある1人の中年のファンが電柱を力いっぱい蹴りつけ喚き散らす。多くのファンはその様子に関心を示さず幽鬼のように歩き続ける。だがヒガシノコウテイは手を離しその中年のファンに歩み寄る。

 

「どういうことオジさん?」

「トウケイニセイは足元の爆弾に年齢による衰えでとっくにピークを過ぎていた!本来ならとっくに引退していてもおかしくなかった!けど、中央に対抗できるのは自分しかいないって体に鞭打ってレースに出て……」

 

 トウケイニセイはサイン会で幼少期は体が弱かったと言った。それは過去形ではなく現在進行形のものだった。

 体の弱さ、足元の弱さは克服できていなかった。その足元の弱さゆえに練習もろくにできず怪我と折り合いながら走り続けていたのだった。

 そして衰え。ライブリラブリイの走りは凄くピーク時のトウケイニセイでも勝てるとは断言できないものだったが今日のトウケイニセイは明らかに峠を過ぎていた。ヒガシノコウテイはむせび泣く中年のファンを見ながら呆然と立ち尽くす。そして突如走り出した。

 

「テイちゃん?」

 

 放心状態だったメイセイオペラがふと我に帰る。すると手にあったヒガシノコウテイの感触がなくなっていた。いつの間に居なくなったのだろうトイレにでも行ったのかな。そう考え逸れないようにその場に留まっていた。だが5分、10分経っても現れない。そして顔から血の気が引いていくとともに事の重大さに気づいた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 時刻は18時をまわっており日は完全に落ちていた。辺りは薄暗く普段なら河川敷を照らしてくれる月の光は雨雲で覆われ雨粒が河川敷に降り注ぐ。

 そんななかメイセイオペラは栗毛をなびかせながら河川敷を走っていた。レインコートも着けていない体と顔面に雨粒が容赦なく打ち付けられる。普段であれば雨粒などうっとおしいと感じるぐらいだが今は違う。ウマ娘は最高時速であれば70キロを出せるが今はその半分程度の30キロで走っている。その際に雨粒が当たればそれは相当な衝撃であり走ろうとする意思を挫くには充分な痛みである。それでも走り続けた。

 

 ヒガシノコウテイがいなくなった。それに気づいたメイセイオペラはすぐに自分の親とヒガシノコウテイの両親に連絡する。その際は混乱で支離滅裂に泣きそうな声で必死に状況を伝えた。

 ヒガシノコウテイの両親から引率を任されたのに何をやっているんだ!自分があれだけショックを受けているのだから幼いヒガシノコウテイはもっとショックを受けているはずだ。だからこそしっかりしていなければならないのに、トウケイニセイが負けたショックで放心状態になってしまっていた。

 メイセイオペラの胸中は後悔恐怖不甲斐なさなど様々なネガティブな感情が渦巻きいつの間に涙が流れていた。だがすぐに涙を拭き行動を起こす。交番にいる警察に状況を伝え自らも探し始める。

 学校、商店街、図書館など居そうな場所は片っ端から探したがそれでもヒガシノコウテイはいなかった。そして探しておらず心当たりがある場所は一つしかなかった。

 

 メイセイオペラは息を切らしながら河川敷下の土手を見下ろす。川と川を繋ぐ橋の下、スプレーで壁に落書きされているスペースにはダンベルや雑誌などが散乱していた。

 メイセイオペラは将来に岩手ウマ娘協会でレースを走るためにこの場所でトレーニングをしていた。走り込みをおこない、ウェイトトレーニングをおこない、ヒガシノコウテイがそれをサポートする。そして2人でトウケイニセイのウイニングライブの真似も何十回もおこなった。ここは2人だけの秘密のトレセンだった。

 するとそのスペースに少女が倒れていた。その姿は見間違えるはずもない、ヒガシノコウテイだ。

 

「テイちゃん!」

 

 メイセイオペラは血相を変えながら土手の斜面を下りて駆け寄り体を抱き抱える。呼吸は異常に荒く歯を食いしばりながら足首に手を当てている。患部に触ると熱を帯びていた。

 ヒガシノコウテイは体が弱く、過度な運動をしてしまうと喘息のように呼吸が荒くなり足首が痛くなると言っていた。まさに同じ症状だった。

 

「オペラお姉ちゃん……」

「テイちゃん!ダメじゃないそんなに運動したら!お医者さんにも言われたでしょ」

 

 メイセイオペラは安堵な気持ちとは裏腹に強い語気で叱責してしまう。ヒガシノコウテイにとって過度な運動は命に関わることだった。それを知っているがゆえの叱責だった。

 

「オペラお姉ちゃん……どうしてあたしの体はこんなに弱いの?どうしてこんなに足が遅いの?……体が強かったら、足が速かったらトウケイニセイさんの代わりにライブリラブリィなんてやっつけてやるのに」

 

 ヒガシノコウテイは大声を上げて泣き始める。それは体の苦しみや足の痛みによるものではなく悔しさからだった。中年の男性からトウケイニセイの話を聞いた瞬間すぐさま自分たちの練習場がある土手に向かって駆け出していた。

 トウケイニセイさんを!オペラおねえちゃんを!レース場で応援していた皆を悲しませたライブリラブリィが許せない!あたしがやっつけてやる!

 そのためには強くならなければならない、速くなければならない。悔しさと怒りに身を任せて自らの症状を忘れ強く速くなるためにひたすらに走る。結果症状が発症し倒れ込んでいたのだった。

 

「でもトウケイニセイさんでも勝てなかった……。そしてこれからも中央のウマ娘が岩手に来るんでしょ……あたし達は勝てないの?岩手の…地方の皆はまたいじめられるの?中央に意地悪されて地方に来て、それでも楽しく走っていたのにまたいじめられるの?悔しいよオペラお姉ちゃん……」

 

 メイセイオペラは悔しさと自らの無力さに震えるヒガシノコウテイを力いっぱい抱きしめた。

 

「テイちゃんは必ず病気が治って、強くて速いウマ娘になれる。だから焦らないでゆっくり治していこう。テイちゃんが病気を治して一緒に走るまで私が岩手を……地方を守るから、中央のいじめっ子をやっつけてあげるから。そして地方のウマ娘は中央に負けないってことを証明してあげるから」

 

 ヒガシノコウテイの耳元で優しくそして力強く宣言する。腕の中にいる同じく岩手のウマ娘を愛する幼き少女の姿を見て決意を固めた。

 地方交流が始まり今後も中央のウマ娘が岩手のレースに参加してくるだろう。あのトウケイニセイですら勝てなかったのだ、今後は厳しい戦いを強いられ負け続けるかもしれない。

 そうなればファンたちも岩手のウマ娘達の弱さに愛想が尽いた。岩手のウマ娘達が負ける姿を見たくないと客足は離れるだろう。そうなれば自分とヒガシノコウテイが愛した岩手は暗く閉ざされる。

 そうならないためには光が必要だ。トウケイニセイのように、いやそれ以上の光が必要だ。ならばなってみせる。メイセイオペラの性格は大人しく主役になるようなタイプではなかった。だがヒガシノコウテイを見て覚悟を決めた。これ以上幼じみを悲しませるわけにはいかない。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「がんばれ!がんばれオペラお姉ちゃん!」

 

 東京レース場のゴール板付近でヒガシノコウテイは力の限りの声でメイセイオペラに声援を送る。喉が枯れてしばらく声が出なくてもいい。力いっぱい声を出してやる。その大声に呼応するように周囲の人間もそれに負けじと大声でメイセイオペラに声援を送る。

 

 トウケイニセイが負けて引退してから数年後、メイセイオペラの予見通り中央のウマ娘が盛岡でおこなわれるレースに参戦し圧倒的な力で蹂躙していく。

 それでも悔しさを胸に押し込め雌伏の時を過ごし、岩手ウマ娘協会に所属すると少しずつ着実に力をつけていった。そしてトウケイニセイが務めていた岩手のエースの座にはメイセイオペラがつき、エースとして中央のウマ娘を迎え撃ち、ほかの地方のレースに参戦していく。

 アブクマポーロ、コンサートガールなどの地方の強豪とも数々の激闘を繰り広げ、盛岡でおこなわれた重賞マーキュリーカップでは中央のウマ娘を返り討ちにする。  

 その実力は現役のダートウマ娘で最強とも呼び声高かった。中央を返り討ちにし盛岡を守るその姿は岩手ウマ娘ファンが待ち望んでいた英雄の姿だった。そして岩手の英雄はついに中央に打って出る。

 

 フェブラリーステークス

 

 2月の東京レース場でおこなわれるダート1600メートルでおこなわれるGIレース。そのレースにメイセイオペラは参戦することを表明した。その一報に岩手ウマ娘ファンは一気に活気づいていた。

 地方所属のウマ娘で中央のGIレースに勝ったものは誰ひとりもいない。地方ウマ娘にとって出るだけでも困難なのが中央のGIレースだ。そのレースに出るどころか勝つ可能性が充分にある。

 地方ウマ娘が中央の舞台で勝つという歴史的快挙を一目見ようとファンたちは一同に東京レース場に訪れる。その一団の中にヒガシノコウテイもいた。そして東京レース場に岩手の一団を迎えたのは会場に訪れた観客たちの好奇の目線だった。

 勝てないのにわざわざご苦労だな。地方でいいレースをしているかもしれないが中央は違うぞ、せいぜい思い出でも作ってくれと観客たちが視線でそう語っている気がした。

 それに対してヒガシノコウテイは胸を張る。オペラお姉ちゃんは強い、必ず勝ってくれるはずだ。だがトウケイニセイがライブリラブリィに負けた時の光景がフラッシュバックする。

 絶対が絶対でなくなった瞬間、だが頭を振りその映像を打ち消す。オペラお姉ちゃんはあの時宣言通り中央から岩手を守ってくれた。そして地方の強さを証明してくれる。ならば信じるのみだ。ヒガシノコウテイは悠然とゴール板付近に向かう。

 

『完全に抜け出した!完全に抜け出したのはメイセイオペラ。やりました!ついに!ついにやりました!東北の英雄が中央の壁をこじ開けました』

 

 レースはメイセイオペラの2バ身差の勝利、まさに横綱相撲と呼べるほどの内容だった。ゴール板を駆け抜けた瞬間ヒガシノコウテイは絶叫する。そして岩手の応援団も絶叫する。その絶叫は地方ウマ娘の実力にどよめく東京レース場によく響いていた。

 そして地下バ道に戻る前に岩手の応援団を見つけたメイセイオペラは深々と頭を下げる。夕日を背に茜色に染まったその姿は神々しかった。ヒガシノコウテイはメイセイオペラの姿を脳内に強く焼きつける。この光景を忘れることは一生無いだろう。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「着いたぞ」

 

 トレーナーの声に呼び起こされてヒガシノコウテイは目を覚ます。倦怠感を感じながらもゆっくりと新幹線を降りる。やはり岩手と比べると暖かいというのが降りた際に感じた印象だった。

 

「相変わらず凄い人ですね。初めて来たとき人の多さに戸惑ったことを思い出します」

 

 ヒガシノコウテイは忙しなく歩く多くの通勤者を目で追いながら懐かしむように呟く。メイセイオペラの応援のために初めて東京駅に降りたときは人の多さに酔い迷子になりかけたことを思い出していた。

 

「それでどこに行くのですか?」

「東京レース場の近くに有るホテルだから府中に向かう。府中はここから中央線で新宿に行ってそこから京王線に乗るみたいだ。中央線は…あっちだな」

 

 トレーナーはスマートフォンを見ながら中央線のホームに向かいヒガシノコウテイもそれについて行く。そしてホームについた2人はしばらく待つと電車がやってくるとその電車の外装に驚く。

 

「わあ、すごい」

 

 2人が乗るのはラッピング電車だった。フェブラリーステークスのラッピング電車で1両ごとに出走するウマ娘の写真やらプロフィールが書かれていた。自分のものはあるだろうかと発車時間ギリギリまで探したが見つけられず慌ただしく乗車した。

 

「中央はこんな宣伝しているのですね」

「ああ、岩手じゃ逆立ちしてもできないな。これが中央の資金力か、おっ、このテレビでもフェブラリーステークスのCMをやっているぞ」

 

 トレーナーは車内に取り付けられているテレビに視線を移す。一方ヒガシノコウテイは流れゆく車窓の景色を眺めながらフェブラリーステークスについて思いを馳せる。

 

 フェブラリーステークスを勝利した後のメイセイオペラはGI南部杯や帝王賞に勝つなど地方の大将格としてふさわしい活躍をみせる。

 メイセイオペラが活躍するなか、ヒガシノコウテイも辛抱強く治療に励んだことで体質も徐々に強くなりレースを走れるほどに強くなっていた。そしてヒガシノコウテイはウマ娘レースに出られる年齢になると中央のトレセン学園に受験することなく、岩手ウマ娘協会の門を叩いた。

 これでメイセイオペラと一緒に走れる、その日を夢見ながらトレーニングに励む。だがそれは叶うことがなかった。

 メイセイオペラは怪我により入れ替わるようにして現役を退き、その跡を継ぐようにヒガシノコウテイは力をつけ岩手ウマ娘の頂点となった。

 そして岩手の頂点として迎え撃つGI南部杯。中央からはGIフェブラリーステークス覇者ノボトゥルー、ジャパンカップダート覇者ウイングアロー、ダートの強豪ゴールドティアラ、そしてアグネスデジタルも参戦していた。

 相手は強い、だがこの南部杯はメイセイオペラが決死の思いで防衛してきた岩手ウマ娘の誇りだ。自分の代でそうやすやすと渡すわけにはいかない、この日のために万全の準備を行い全身全霊で迎え撃つ。結果はヒガシノコウテイは2着だった。

 盛岡レース場から思わずため息が漏れる。岩手の至宝の流失、それは岩手ウマ娘ファンにとって少なからずショッキングな出来事だった。

 メイセイオペラが守ってきたものを手放してしまった。悔しさと自身の不甲斐なさに幼少期以来泣いていなかったヒガシノコウテイは思わず涙した。そして追い打ちを掛けるがごとく衝撃の事実を知る。

 アグネスデジタルは本気じゃなかった。南部杯をステップレースとして目標はGIレースJBC(ジャパン・ブリーダーズ・カップ)であった。

 行きがけの駄賃で岩手の至宝は奪われたのか!ヒガシノコウテイは激怒した。この借りはJBCで必ず返すと心に誓う。

 だがアグネスデジタルはJBCから急遽天皇賞秋に参戦を決め、次走は香港カップと芝路線を歩みダート路線に戻ってくることはなかった。

 このままリベンジの機会は訪れず終わってしまうのか、そう思った矢先にアグネスデジタルがフェブラリーステークス出走の一報を受ける。

 それを知りすぐさまフェブラリーステークスに出走登録をおこなった。リベンジの舞台はメイセイオペラが勝ったフェブラリーステークスということに何か運命じみたものを感じていた。

 

「オペラお姉ちゃんごめんね。無茶するから」

 

 ヒガシノコウテイは呟く。

 

 現状では厳しいレースになることは必至であり勝つためには無茶をするしかない。その無茶の代償に競走寿命を縮める、いやここで終わるかも知れない。だがそれでもかまわない。そうしなければアグネスデジタルには勝てない、それほどまでの相手だ。

 ヒガシノコウテイはおもむろにポケットに手を入れてメイセイオペラからもらったリストバンドを強く握った。

 




まさかのすべてオリキャラ!
一話でちょいキャラで出したヒガシノコウテイがこんな形で出てくるとは一話を書いている時は全く思っていませんでした。

一応解説をしておきます。ヒガシノコウテイのモデルはトーホウエンペラーです。


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勇者と皇帝と求道者#3

またまたデジタルはもちろん、実装ウマ娘は一切出てきません


「行ってくる」

 

 ウマ娘の少女は玄関先で呟く。だが家には誰もおらず暗闇の空間に声だけが虚しく響いた。ウマ娘はボストンバッグを片手に背負い家を出発する。おでこが完全に露出するほどの黒髪のベリーショート、身長も170センチ台後半とウマ娘としては比較的に大きく筋肉質な身体が印象的である。そして三白眼でありその目つきの鋭さは反骨的な気質を想像させる。

 

 彼女の名前はセイシンフブキ、アグネスデジタル達が所属している中央ウマ娘協会とは異なり地方公共団体が運営する組織、船橋ウマ娘協会に所属しているウマ娘である。

 セイシンフブキは中央クラシック3冠にあたるレースの南関3冠に勝利し、さらに中央のウマ娘たちも参加するジャパンダートダービーにも勝利し史上初の無敗で南関4冠を達成した。船橋、いや地方ウマ娘界の期待のホープである。

 

 そして東京レース場でおこなわれるダート1600でおこなわれるGIレース、フェブラリーステークスの前々日記者会見に出席するために東京レース場近くに有る会場に向かおうとしていた。

 

 セイシンフブキは扉の鍵を閉め外に出るとひんやりとした風が体を刺激し薄汚れた黄色の落ち葉が脚に当たる。

 今日はいつもより風が強い。その証拠に地面に落ちている枯葉が渦を巻いて常に動いている。セイシンフブキは寒さに耐えるためかマフラーを首元にしっかりと巻き、手をコートのポケットに突っ込みながら歩き始める。するとトレーニングを終えたウマ娘たちが前方から歩いてくる。両者は視線を合わすことなく何事もなかったようにすれ違った。

 

 セイシンフブキは船橋にいるウマ娘全員と親しいというわけではない。今すれ違ったウマ娘も顔を見たことある程度で声を掛け合う関係ではなく、無言ですれ違うのはおかしくはない。

 だが彼女たちが纏う雰囲気にはセイシンフブキに対する嫌悪のようなものが感じられた。そして彼女たちが抱く感情は船橋にいる大半のウマ娘たちは抱いている。セイシンフブキはある発言により船橋にいるウマ娘から嫌われていた。

 

 自分は思っていたことを素直に口にしただけだ、それで嫌うなら嫌うがいい。その感情に気にも留めることなくひび割れたアスファルトを歩き寮の敷地内出口から駅に向かう。すると出口の門付近に二人のウマ娘が待ち構えていた。

 1人はピンク色のコートに緑のマフラーに髪はベージューカラーのロングウェーブ、そのウマ娘は気怠そうに門に寄りかかっている。

 もう1人は赤色のコートに茶髪のショートヘアーで白の星型のヘアピンをつけており、もう1人とは対照的に背筋を伸ばし腕を組み待っている。その2人はセイシンフブキがよく知る人物だった。

 

「お疲れ様ですコンサートガールさん」

「頑張ってこい、南関の意地と力を中央に見せてやれ」

「ありがとうございます。南関ではないですけど、ダートウマ娘の力は見せつけてやりますよ」

 

 コンサートガール

 

 大井所属の地方ウマ娘であり、地方で最も権威のあるGIの一つである帝王賞に勝利したことがある。中央のバトルラインと船橋のアブクマポーロとの激戦は地方ウマ娘ファンに語り継がれており、その勇姿はセイシンフブキに強く刻み込まれていた。

 コンサートガールの言葉にセイシンフブキは笑みを見せる。それは今までの醸し出していた剣呑な空気とは違い好意的な態度を見せる。

 

「で、何のようですか?」

「そんなツンケンしないでくれたまえフブキ、後輩が中央GIに出走するのだ、先輩が激励するのは不自然ではなかろう」

 

 コンサートガールの時のような友好的な態度とは一転し、舌打ちし睨みつけて敵意を全開にする。それに対してピンク色のコートのウマ娘は自分の髪を弄りながら全く意に介することなく話しかける

 

 アブクマポーロ

 

 かつてセイシンフブキと同じ船橋ウマ娘協会に所属し、地方のダートGIに複数回勝利して、中央のウマ娘たちを蹴散らし、同時期のコンサートガールとメイセイオペラと名勝負を繰り広げ地方を盛り上げた船橋のレジェンド的存在である。

 そしてダートとは何かという疑問をレースで走りながら考え続けるその姿から『南関の哲学者』と呼ばれていた

 

「いりませんよ。アンタが地に落としたダートの価値をアタシが勝って上げてきますよ」

「お前まだそんなことを。あれは…」

 

 セイシンフブキの悪態にコンサートガールは反論しようとするが、アブクマポーロが手で制す。

 

「期待しているよ」

 

 アブクマポーロの言葉にセイシンフブキは地面に唾を吐きかけ返答する。そして一瞥をくれることなく2人に背を向けて歩みを進める。その背中を寂しそうに見送った。

 

(クソッ!朝から嫌なことを思い出せやがって!)

 

 セイシンフブキは舌を打ちしながら住宅街を通り駅に向かう。

 すると足元にあった小石を衝動的に蹴りつける。ウマ娘の脚力で小石を全力で蹴ればそれは立派な凶器になる。小石は勢いよく前方に飛びゴミ捨て場にあったガラス瓶に当たりガシャーンという音とともに粉々に砕けた。

 その様子を見ていた犬を連れた男性が思わずセイシンフブキを見つめ、それに対して八つ当たりのように男性を睨みつけた。その怒気に慄いた男性は即座に視線を逸らし犬はク~ンと情けない声で鳴いた。その様子を一瞥すると舌打ちしながら歩き始めた。

 

 セイシンフブキはダートが好きだった。

 

 砂塵を巻き上げながら走るウマ娘たち、雨が降るなか泥まみれで走るその姿、足に沈み込む重厚な感触、蹴り上げられた砂の痛さ、レースが終わり口に入った砂に気づいた時の気持ち悪さ、それらはすべて戦いの象徴であり、血潮を沸き立たせ興奮させるものだった。

 ダート競走こそ真の戦いであり、それに比べ芝のレースなどただスピードが出るだけの軟弱者のゴボウがするレースに過ぎなかった。その持論を力説するが周りは誰ひとり賛同しなかった。

 セイシンフブキがレースを見ていた時はダートのGIレースもなく、ダートレースに対する注目度が極端に低かった。

 さらにダートレースは地方で多く行われ、地方は中央ウマ娘協会に入れなかったウマ娘達が走る2軍という印象がウマ娘ファンたちに有った。それゆえにダートは芝で通用しなかった落伍者が走る2軍レース扱いされていた。それゆえに変わり者のレッテルを貼られた。

 何故皆分からない!?理解してくれない!?その事実は幼いセイシンフブキを傷つけ涙で枕を濡らさせた。

 そして世論に憤りその怒りを紛らわすように地方のダートレース場を見に行き次第に中央の芝のレースを見なくなった。地方のダートレースを見続けるなかある夢を抱くようになる。

 ダートレースは芝の2軍じゃない、ダートを芝と同等、いやそれ以上の価値に押し上げる。

 

 そして月日が経ちトレセン学園に入学できる年になったセイシンフブキは中央や地方のウマ娘関係者がみるトライアウトを受けそこで好成績を叩き出す。

 それを見た中央ウマ娘協会の複数のトレーナーからトレセン学園で自分のチーム入らなかいかと誘われるほどだった。だが即答で拒否する。

 セイシンフブキは未だに根付く中央の芝至上主義を嫌悪していた。それにダートレースが少ない、それだったらダートレースが多い地方に入る。

 こうして中央ではなく地方の船橋ウマ娘協会に所属することとなり、デビューに向けてトレーニングを積んでいるなかある制度改革が行われる。

 

 地方指定交流重賞。

 

 以前は地方ウマ娘が中央に出られるレースは極端に少なく、また中央ウマ娘も地方のレースに出られなかった。

 だが地方のレースにも中央の枠を設け中央のウマ娘も出られるように制度が改正され、そ多くの中央ウマ娘が地方のダートレースに参戦する。

 それによりライブリラブリィ、ナントベガなどの強豪が中央の強さを見せつけ地方を蹂躙していった。そんななか1人のウマ娘が頭角を現し始める。

 

 アブクマポーロ。

 

 船橋のレースを走りながら実力をつけたアブクマポーロは地方交流重賞にも参戦し連勝街道を驀進する。

 勝ったレースには帝王賞や東京大賞典などのGIレースも含まれ、圧倒的な強さで中央のウマ娘を倒していく姿は地方ファンを大いに魅了し熱狂させる。

 その連勝の始まりであるGIレース川崎記念を見て雷に打たれたような衝撃が駆け巡った。

 

 なんて強さだ!

 

 今まで多くのダートレースと名ウマ娘を見てきたが、そのなかでも別格の強さだ!この人についてければ自分の夢を叶えるほどの強さを手に入れられる!

 

 その日からセイシンフブキはアブクマポーロに舎弟のように付きまとった。

 アブクマポーロも最初は邪険に扱っていたがそれでも付きまとう情熱に観念したのか一緒に行動するようになっていく。

 セイシンフブキにとってアブクマポーロは師匠であり友人であり同志でもあった。

 いつも小難しいことを考え、はっきり言えば変わり者だ。

 難しいことを考えることが苦手な自分とは正反対の性格であり、普通に過ごしていたら関わることもなかっただろう。

 だがある一点でアブクマポーロとセイシンフブキは繋がっていた。それはダートが好きであるということだ。

 

 考え方は違うにせよダートに対する愛と想いは自分と同等またはそれ以上だった。

 この人と一緒ならダートを芝以上の価値に上げられるかもしれない。幼き頃に抱いた夢は現実味を帯び始めていた。

 そして翌年の川崎記念を勝ち連勝記録を伸ばしたその日の夜のことは今でも覚えている。

 アブクマポーロの部屋の中は埃っぽく、書きなぐったメモ用紙が一面に貼り付けられ書類は塔のようにそびえ立っていた。そんな部屋でセイシンフブキは牛乳を、アブクマポーロはコーヒーのブラックを飲みながら語り合った。

 

「フブキ、ダートとは何だと思う?」

「ダートとは戦い!真の強者が戦う最高のレースです!」

 

 アブクマポーロの問いにセイシンフブキは即答する。このような問いを思い出したように行い、その度にセイシンフブキはいつも同じ答えを出していた。その答えを聞きアブクマポーロは一笑する。

 

「あいかわらず実にフブキらしい答えだ」

「これしかないですよ。それでアブクマ姐さんはなんだと思います?」

「それはまだ分からない」

「分からない?こんなに考えているのに?」

「ああ、まるで分からない。もしかしたら一生分からないかもしれない」

「それじゃあ考えるのを止めたらどうですか?疲れちゃいますよ」

「だからこそ考えるのだよ」

「わかんね~」

 

 セイシンフブキは思わず部屋の床に倒れこみ床に散らばっているメモ用紙を手に取り読み、すぐにメモ用紙を床に放り投げた。

 これ以上読んだら難しすぎて頭がパンクしそうだ。辛うじて日本語に書いてあることが分かるが内容はさっぱり分からない。

 こんな難しいことを考えているのにダートが何か分からないほど深いのか。自分の愛しているモノの底の深さが無性に嬉しかった。

 

「ところでフブキ、実はドバイワールドカップに招待されてね。受けようと思う」

「マジですか!ドバイってあの!」

「そう、ダート世界一を決めるレースだよ」

「じゃあアブクマ姐さんが世界一じゃないっすか!」

「フフフ勝てばね、ドバイのダートは日本のダートとは性質が違う。私が求める答えは得られないかもしれないが、世界一になれば別の視点で物事が見えてくれるだろう」

 

 アブクマポーロは淡々と話すとは対照的にセイシンフブキは興奮を隠しきれないといった具合にソワソワと体を動かす。

 アブクマ姐さんがついに世界一だ!セイシンフブキにとってアブクマポーロの強さは絶対であり、世界一になるのは決定事項だった。

 

「そして世界一になればこの称号を奪いに芝で走っているウマ娘達も挑みに来るかもしれない。そうなったらダートを理解する手がかりになるかもしれない」

「そうなったらダートを芝の2軍なんて言うバカを黙らせられますよ!」

「その可能性は充分にある」

 

 セイシンフブキはさらに体をソワソワさせる。もしそうなればそれは思い描くシナリオのなかで最高のものだ。

 

「アブクマ姐さん!アタシはまだ弱いです。でも必ず強くなります。だから勝ち続けてください!そして強くなったアタシと連勝記録を伸ばすアブクマ姐さんと走りましょう。そしたらダートの価値は必ず上がります!」

「そうだね。強くなったフブキと走れればダートの本質に一歩近づけるかも知れない。その日を楽しみにしているよ」

 

 その言葉にアブクマポーロは真剣に頷く。セイシンフブキの抱く夢は中央の3冠レースに勝つより難しいかもしれない。だがそれを実現できると一点も曇りもなく信じている。

 その情熱は刺激を与えダートの本質にたどり着くために重要な要素だった。何より自分と同じようにダートを愛するウマ娘がいるのは心の底から嬉しかった。

 

 2人は無言のまま示し合わしたようにお互いのカップを当てる。それは2人が一緒に走ることを約束した証だった。

 だがそれは叶うことはなかった。その翌日セイシンフブキは今後の人生において絶対に覆らない最もショックな報せを受ける。

 

――――――アブクマポーロ芝に参戦!日経賞から天皇賞春へ

 

「姐さん!どういうことっすか!」

 

 セイシンフブキは文字通り扉を蹴破ってアブクマポーロの部屋に入っていく。その鼻息は荒く目も興奮で血走っていた。

 

「姐さんドバイワールドカップを走るんじゃないんすっか!?芝を走るだなんて嘘ですよね!」

「本当だ…私は日経賞から天皇賞春を目指す…」

 

 アブクマポーロは昨日の生命力に満ち溢れた表情とは別人のように弱々しく返事をする。

 その態度に激高しセイシンフブキは胸ぐらをつかみ体を揺らしながら喉も張り裂けんばかりの声で叫び拳を振り上げた。

 

「ダートで世界一になってダートの本質を理解するんじゃないんですか!そんなに芝が羨ましいか!?答えろアブクマ!」

 

 セイシンフブキの拳は驚く程あっさりアブクマポーロの頬に突き刺さる。憧れの人を全力で殴った。それに対して罪悪感や後悔は一切沸かなかった。湧き上がるのは怒りのみだった。

 その騒ぎを聞きかけつけた人々によりセイシンフブキは取り押さえられ暴行により謹慎処分を受けることとなる。そして謹慎中にアブクマポーロは日経賞で大敗したことを聞き、その数日後トレーニング中に怪我をしてそれが原因で引退をしたのを知った。

 

 アブクマポーロの芝での大敗はダート界にとってマイナスイメージを植え付けることとなる。

 

――――アブクマポーロ、所詮低レベルのダートで粋がっていただけだろう、だから日経賞で大敗したんだよ。やっぱりダートは芝の2軍だよ。

 

 一部のファンからこのような意見があがってくる。これは極論であり断じてダートのウマ娘が芝のウマ娘に劣っているわけではない。

 だが日本ウマ娘界全体に蔓延る芝至上主義がこの意見を肯定する雰囲気を作り出した。

 

 同じようにダートを愛しながら、芝を走り惨敗しダートの地位を貶めたアブクマポーロの存在はセイシンフブキにとって許しがたい存在だった。奴も所詮芝至上主義に染まった軟弱者だ。

 その憎しみからアブクマポーロを声高に徹底的に批判する。慕っていた分だけ反動は大きくその批判は苛烈だった。

 そして船橋の英雄に対する侮辱的な発言は周囲の反感を買ってしまう。それがセイシンフブキの嫌われる原因だった。

 

 志を同じくした同志の突然の裏切り、それはセイシンフブキを深く傷つけた。幼き自分だったら悔しさと悲しみの涙で枕を濡らしていただろう。

 だが今は違う!この感情を力に変える!ダートは自分ひとりの力で引っ張り上げる!

 それから病的なほどに練習に打ち込みそれによって急激に力を付け史上初の南関4冠を達成するまでになる。そして病的なほどに芝を嫌悪していた。

 

 芝至上主義は未だに覆らない、いやむしろもっとひどくなっていた。

 その証拠に南関4冠を達成した後ある関係者が中央クラッシクのトライアルであるセントライト記念に出走しろと提案してきた。何故ジュニアC級ダートチャンピオンがわざわざ芝に出なければならない。その関係者を力づくで黙らせておいた。

 

 そして芝至上主義によってダートウマ娘は被害が及んでいる。

 GIレースジャパンカップの1着に与えられるレースポイントが3億ポイント、一方同じGIでダートのフェブラリーステークスの1着に与えられるレースポイントが1億ポイント。この例の通り芝のレースのほうがダートに比べ与えられるポイントが高い。その結果起こることが芝ウマ娘による出走枠の強奪だ。

 最近では芝で勝てないウマ娘が新しい活路を求めてダートを走ることがある。それによってポイント数が少ないダートウマ娘が枠から弾かれる。

 中央にもダートに真剣に挑んでいるウマ娘はいる。そういったウマ娘は例え強くなくともセイシンフブキは嫌いではなかった。だがそういったウマ娘が芝ウマ娘のダート初参戦により除外に追い込まれる。それはひどく気に入らないことだった。

 

 さらにその芝至上主義に拍車がかかっている。その拍車をかけているのがオールラウンダーの存在だ。

 NHKマイルとジャパンカップダートに勝ったウラガブラック。そしてマイルCSと南部杯と天皇賞秋と香港カップに勝ったアグネスデジタル、この2人が芝とダートのGIに勝ったことにダートは芝の2軍論が有力視されてしまう。

 この風潮を止めるにはその2人にダートで勝つしかない。ウラガブラックは怪我をしたがアグネスデジタルはフェブラリーステークスに出てくる。

 アグネスデジタルは天皇賞秋や香港カップなど芝中距離のビッグレースに勝利し、これからは芝路線を選択するだろう。このレースに出たのもドバイワールドカップへのステップレースだ、恐らく交わることはない。

 ならばここで勝つしかない。もし負ければ再戦の機会は与えられずダートは芝の2軍理論にさらに拍車をかけられる。それは何としても阻止しなければならなかった。

 それにセイシンフブキはアグネスデジタルのことが大嫌いだった。芝を走っていたら突如ダートに顔を出して勝利し地位を貶める。アブクマポーロ、いやそれ以上に嫌悪している。

 

「絶対に勝つ…あいつは絶対に倒す…」

 

 歯を食いしばりポケットに入った両手を血が滲むほど握り締め敵意を高める。その膨れ上がった憎悪は周囲を威圧し行き交う人々は無意識にセイシンフブキを避けていった。

 

 

「やっぱり怒っているな」

 

 アブクマポーロはセイシンフブキが去った後乾いた笑いを見せる。刺すような敵意はあの一件からまるで変わらない。

 

「なあ、いい加減真実を伝えたらどうだ?真実を伝えれば分かってくれるはずだ」

「いい、裏切ったことは事実だ」

 

 コンサートガールの言葉にアブクマポーロは寂しそうに笑った。

 セイシンフブキと仲違いしてしまった原因でもある日経賞への出走、直前まではドバイワールドカップに出走するつもりであった。

 だがその直前トレーナーからドバイワールドカップではなく日経賞に出走してくれと懇願するように頼まれる。

 

 日経賞への出走はトレーナーではなく船橋ウマ娘協会の意志だった。アブクマポーロの活躍により船橋は活気づいていた。だが協会はそれでも物足りなかった。

 かつてオグリキャップというウマ娘がいた。地方の笠松ウマ娘協会に所属していたが、中央に移籍し数々のGIに勝ち多くの名勝負を演じた。

 その活躍に世間は大いに湧き社会現象と呼べるほどのオグリキャップブームを沸き起こし、笠松ウマ娘協会を潤した。

 そして船橋ウマ娘協会はその幻影を求めていた。アブクマポーロが仮にダートのドバイワールドカップに勝っても業界内で賑わう程度だ。

 だがオグリキャップのように芝で勝てばブームを、いや地方所属であればさらなるブームを巻き起こせると考えていた。

 さらにドバイへの遠征はリスクが高い。ドバイに遠征したウマ娘は軒並み体調を崩し、なかにはレース中の怪我で選手生命が絶たれてしまったウマ娘もいた。それも協会がドバイに行かせたくない理由でもあった

 

 自分にはドバイワールドカップに勝ちダートの本質を理解したいという欲求がある、それに同じ志を持ちダートを愛するセイシンフブキを裏切ることができない。

 アブクマポーロは断固たる意志で断る。その態度に対してトレーナーは苦虫を噛み潰したような顔で告げた。

 

―――ドバイワールドカップに出走するにあたって経費が発生する。その経費を協会は一切払わず個人で負担してもらう。さらに出走した場合はトレーナーを解雇する。

 

 思わぬ言葉に激昂し地面を全力で踏みつけた。その足跡は地面にくっきりと残っている。

 

 そこまでのことをするのか!

 

 アブクマポーロの怒りをよそにトレーナーは経費の詳細を語る。

 その経費は家の台所事情を知らないアブクマポーロでも捻出不可能とわかるほどの大金だった。

 さらにトレーナーのクビまでかかっている。夢のために自分が苦労するのはかまわない、だが家族やトレーナーを巻き込むわけには行かない。

 頭を抱え悩むアブクマポーロにトレーナーは協会の言葉を伝える。ずっと芝を走れとは言わない、日経賞で好走できなければ芝を走らずダートを走ってもいい。

 その妥協案にアブクマポーロの心は揺れ動く。自分の夢か家族やトレーナーの未来か。数十秒か数分か、時間は定かでないが悩み続けついに答えを出した。

 

「日経賞に出ます……」

 

 眉間にシワを寄せ搾り出すように声を出した。アブクマポーロは自分の夢のために他人を犠牲にできるほどエゴイストになれなかった。

 

「クソ!今思い出しただけでも腹が立つ!何で告発しなかったんだアブクマポーロ!」

 

 コンサートガールは拳と手のひらを力いっぱいぶつける。その言葉に雲一つない青空を見上げ達観したように答えた。

 

「私は船橋が好きだし世間に醜態を晒したくない。今思えばリスクを回避したい協会の気持ちもわかる。それに出たかったら募金でもして金を集めれば良かったし、ドバイに勝てばそのトレーナーをクビにすることを世論が許さないことも分かっていたはずだ。たぶん無意識で勝てると思っていなかったし、芝への憧れがあったのかも……」

「そんなわけないだろう……」

 

 お前ほどダートを愛していたウマ娘はいない。それなのに芝に憧れていたなんてあるわけない。

 コンサートボーイはアブクマポーロの言葉を否定するように腕を軽く殴った。その思いが伝わったのか優しげに笑った。

 

「でもフブキのダートへの愛は私以上だ。私が『ダートの哲学者』ならフブキは『ダートの求道者』だ。同じ立場になってもどんな手を使ってもドバイワールドカップに出るだろう」

 

 アブクマポーロは思いを馳せるようにもう一度空を見上げた。セイシンフブキの強さとダートへの愛は本物だ。この情熱がダートの地位を押し上げるという夢を実現させるかもしれない。そしてその走りは己が求めていた疑問の答えを出してくれるような気がしていた。

 

 フブキの夢の実現と無事を

 

 アブクマポーロは空に向けて東京レース場で走る後輩に祈りを捧げた。

 




またまたすべてオリキャラ!

今回も一応元解説しておきます。
コンサートガールはコンサートボーイです。
アブクマポーロはそのままで、セイシンフブキはトーシンブリザードです。


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勇者と皇帝と求道者#4

やっとデジタルが登場します


 ヒガシノコウテイは駅構内から外に出ると体を大きく伸ばし深く息を吸い込み吐いた。長時間での移動により凝った筋肉が伸び、暖房で温められた体の熱が冬の外気で冷やされ心地よい。

 周りを見渡すと左手には地元には全くないおしゃれな外観の建物があり、外壁には大型の液晶モニターが設置されており映画の予告映像が流れている、

 右手には地元にもある百貨店があるが都心だけあり外装の華やかさも規模も雲泥の違いだった。

 

「ここから会場は何分ぐらいですか」

「歩いて10分ぐらいだな、こっちだ」

 

 ヒガシノコウテイはトレーナーの後についていく。本来なら一休みでもして近くにある美術館で絵画鑑賞でもしたいところだが、あと1時間半後にはフェブラリーステークスの前々日会見がおこなわれる。

 遅刻したとなれば岩手の、地方ウマ娘の評判を落としてしまう。それはあってはならないことだ。

 すると視界に1人のウマ娘が入る。170センチ台後半の身長に黒髪のベリーショートに鋭い目つき。その姿には見覚えがあった。

 史上初の南関4冠を達成した地方の若きエースのセイシンフブキだ。

 年の瀬のGI東京大賞典では先着したが骨折明けで本調子ではなかった。今回のフェブラリーステークスでは万全でくるだろう。

 ヒガシノコウテイは数秒セイシンフブキに視線を向けた後すぐに視線を外しながら早足で歩く。

 同じ地方所属として声を掛けようとしたが見送ることにした。元々社交的な性格ではなく、何より発せられるヒリつく空気に萎縮していた。

 横をすり抜ける瞬間セイシンフブキが横を振り向くと反射的に顔を向けてしまいお互いの視線がばっちり合う。

 

「あっ…どうも」

「こんにちは」

 

 セイシンフブキは軽く会釈を、ヒガシノコウテイは行儀よく頭を下げてあいさつをする。

 

「ヒガシノコウテイさんも今から会場に行くんっすか?」

「はい」

「一緒に着いていってもいいっすか?スマホが電池切れで道がわからなくて」

「かまいませんよ」

「あざっす」

 

 セイシンフブキは了承を得るとヒガシノコウテイの隣につき歩き始める。するとヒガシノコウテイはある変化に気づく。

 ピリピリした空気が感じない、いや雰囲気が和らいだというべきか。

 声をかけられる前の雰囲気なら居心地が悪いので、さりげなくトレーナーの横に並ぶつもりだった。だが今なら隣にいても悪くはないと思っていた。

 セイシンフブキはヒガシノウテイのことは嫌いではなかった。

 本調子ではなかったとはいえ初めて自分に先着したウマ娘であり、同じ地方の、ダートのプロフェッショナルとしてある程度の尊敬の念を持ち、その敬意が刺々しい雰囲気を和らげていた。

 

「東京は初めてっすか?」

「いえ、オペラお姉……メイセイオペラ選手が出走したフェブラリーステークスを見に来たことが」

「あのレースですか、あたしも現地で見ていました」

 

 セイシンフブキは当時の思い出し感慨深げに語る。アブクマポーロのライバルであったメイセイオペラ。東京レース場は嫌いだがメイセイオペラが出るレースとならばダート愛好家として見なければならない。

 メイセイオペラがダートプロフェッショナルとして芝のクラシックレースに勝ったキョウエイマーチに勝ったのは痛快だった。

 芝で結果を出せないからダートならという反吐が出るような考えを叩き潰してくれて胸がすっとした。

 そしてあの先行抜け出しという横綱相撲での勝利は見事だった。あの強さは尊敬に値する。

 

「そうなんですか!?地方の威信を背負っての勝利!あのレースでたくさんの勇気をもらいました!」

 

 ヒガシノコウテイは目を輝かせて喋り始める。大人しい人だと思っていたが勢いよく喋る姿には戸惑う。

 メイセイオペラの話題から2人の会話は弾む。過去の地方ウマ娘についてなど共通の話題が多く、会場までの道中はあっという間に過ぎていった。

 

「じゃあアタシの控え室はこちらですので」

「はい」

 

 2人は会場があるホテルに入り控え室前までたどり着く。そこから正装に着替えて会見をおこなうのが本日の流れである。するとヒガシノコウテイがセイシンフブキの前に手を差し出す。

 

「私たちもメイセイオペラさんやアブクマポーロさんのような偉大な先輩達のように中央を蹴散らし、地方を盛り上げて行きましょう」

 

 今回のフェブラリーステークスは完全なアウェイであり、出走ウマ娘はほぼ中央所属だ。だがセイシンフブキだけが唯一の地方所属である。

 レースでは自分以外は敵である。だが矛盾しているようだがセイシンフブキは敵ではないと思っていた。

 味方、いや地方のために尽力する同志だ。その同志と健闘を誓うための握手だった。

 だがセイシンフブキはその手を見つめたまま握手することはなかった。

 

「ヒガシノコウテイさん、一つ訂正させていただきます。アブクマポーロは……あいつは偉大な先輩じゃない。ただのカスだ」

 

 今まで穏やかだった雰囲気が一変する。怒気と侮蔑の感情が溢れ出しヒガシノコウテイに伝わる。

 先ほど遠巻きで見て感じた威圧感を何倍に濃縮したようだ、今すぐに立ち去りたい。だがその場に留まり真っ直ぐ目を見据え反論する。

 

「どうしてそんなことを言うんですか!?アブクマポーロさんは中央から南関を守り地方ウマ娘に勇気を与えてくれたヒーローじゃないですか!貴女もそうだったんじゃないですか?」

 

 メイセイオペラのライバルであるアブクマポーロ、何度もその前に立ちふさがりGIの勲章を奪い取ってきた。もし居なければあと何個の勲章を積み重ねることができただろうか。本来なら憎いはずだった。

 だがあのすべてのウマ娘をねじ伏せる四角からの捲くりも一瞬でちぎり捨てる末脚も好きだった。

 もし自分が南関に住んでいたらメイセイオペラに憧れたようにアブクマポーロに憧れていたのだろう。

 ヒガシノコウテイにとってアブクマポーロは敵ではなくもう1人の憧れだった。その憧れをカスと言うことはメイセイオペラを侮辱することと同じだった。

 

「あいつは……あたしを……ダートを裏切って日経賞に出やがった!それをカスと言わず何をカスって言うんだ!」

「何でそれがカスなんですか?」

「ドバイワールドカップに…ダートじゃなくて芝を走ったんだぞ!」

「ですが日経賞に出て勝てば天皇賞春に出られます。天皇賞春に勝てば地方所属での芝GI勝利です。そうなれば南関は一気に盛り上がります。南関のことを考えれば一回は芝の適正を試すのも悪くはないと思います」

 

 激昂するセイシンフブキに対してヒガシノコウテイは毅然とした態度で意見を述べる。

 ヒガシノコウテイも当時はアブクマポーロがドバイワールドカップでは日経賞を選んだのは疑問だった。しかし現状のダートより芝を重視する日本ウマ娘界の風潮を考えればまだ理解できる。

 もし天皇賞春に勝つようなことがあれば社会現象と呼べるブームを巻き起こせるかもしれない。そうなれば南関や地方への影響は計り知れないだろう。

 だがその一言がセイシンフブキの逆鱗に触れた。ヒガシノコウテイの襟首を荒々しく掴み吊るし上げ憤怒の表情を見せる。

 

「あんたは違うと思っていたが、しょせんそっち側かよ」

 

 セイシンフブキは手を離しヒガシノコウテイは思わず尻餅をつく。そしてゴミを見るような侮蔑の視線を向けると自分の控え室に入る。ヒガシノコウテイはその様子を呆然と見つめていた。

 2人は同じ地方所属でダートを主戦場としている。一見似たもの同士かもしれないが主義主張は異なっていた。

 

 ダートをとるか地方をとるか?

 

 その質問を両者にしたとしたらヒガシノコウテイは地方、セイシンフブキはダートと答える。

 だからこそアブクマポーロの日経賞への出走についてヒガシノコウテイは理解を示し、セイシンフブキは理解することを拒絶していた。

 

───

 

 中に入るとそこは豪華絢爛と呼べる空間だった。白を基調にし無駄な装飾を施さず落ち着いた雰囲気を醸し出す。

 そして高さ6mの天井にはシャンデリアが設置され華やかさを演出する。そしてフロア正面には3台のせりステージを設置され天井付近には「フェブラリーステークス前々日会見」と書かれた横看板が吊るされている。

 

「相変わらず豪華なところだね」

「ほんまやな。こんな機会しかこんな場所来れへんわ」

 

 アグネスデジタルは会場の雰囲気にマッチした赤青黄の色を散りばめたドレスを身にまとっている。一方トレーナーも会場に相応しい一張羅のスーツを着ている。

 

「来たのは天皇賞秋以来か」

「オペラオーちゃんとドトウちゃんとのふれあいを思い出すな~」

 

 初めて面と向かって会話したのが天皇賞秋の前々日会見だった。今では2人とは友人だがあの当時の自分はこうなることを想像できただろうか。

 

「あの時はお前が何を言うかヒヤヒヤしたわ」

 

 一方トレーナーはウラガブラックの出走問題でデジタルが失言をしないかヒヤヒヤした当時の心境を思い出していた。

 

『ではこれよりフェブラリーステークスの枠順抽選会及び前々日会見を始めます。出走ウマ娘の選手は壇上にお上がりになって指定の席についてください』

 

「あっ呼ばれてる。じゃあ行ってくるね」

「おう、粗相するなよ」

 

 会場アナウンスに促されデジタルは壇上に向かった。

 枠順抽選は滞りなく進み、アグネスデジタルは5枠9番、ヒガシノコウテイは4枠8番、セイシンフブキは6枠12番を引いた。

 

『では続いて、このレースのプレゼンター兼中央ウマ娘協会広報部所属のオグリキャップさんからお言葉を頂きます』

 

 その言葉を聞き壇上のウマ娘から歓声のようなざわめきがおこる。

 

オグリキャップ

 

 笠松ウマ娘協会でデビューしたウマ娘であり、ジュニアC級になると中央に所属を移し中央所属のタマモクロスやスーパークリーク、同じく地方の大井ウマ娘協会から所属を移したイナリワンなどと激戦を繰り広げる。

 その実力と地方から中央に殴り込み成り上がるというシンデレラストーリーはブームを巻き起こし、興味がなかった人すらオグリキャップの名は知れ渡り、元々知名度があったトウィンクルシリーズの人気をさらに爆発的に上げた。

 トウィンクルレースでは3冠ウマ娘のシンザンなど歴史的ウマ娘は数多くいるが、知名度という面ではオグリキャップを凌ぐ者はいないと言われている。

 そして壇上に上がっているウマ娘の大半はオグリキャップの活躍を見ていて、直撃世代の彼女らには嬉しいサプライズだった。

 オグリキャップは新雪のような白のロングドレスを身にまとい壇上に上がる。何を話すのか?会場にいる全員が固唾を飲んで見守る。

 

「オグリキャップです。明後日には今年初めてのGIレース、フェブラリーステークスが行われます。真冬の肌寒い季節ですが、そんな寒さすら吹き飛ばすようなレースを一人のウマ娘レースファンとして期待しています」

 

 オグリキャップは喋り終わると一礼し会場から拍手が起こる。話として無難な内容といえるものだった。だが壇上のウマ娘達は憧れのオグリキャップからエールを受け気持ちが高揚していた。

 

『ありがとうございます。では各選手の方々一言お願いします』

 

 壇上のウマ娘は司会に促され一言ずつ意気込みを語っていく。そしてヒガシノコウテイの番が回ってくる。

 

「岩手ウマ娘協会所属ヒガシノコウテイです。このフェブラリーステークスは同じ岩手所属のメイセイオペラ選手が出走し歴史的快挙を達成したレースです。私も偉大なる先輩と同じようにレースに勝ち、フェブラリーステークスのレイを岩手に持ち帰りたいと思います」

 

 ヒガシノコウテイは静かに落ち着いた声色で淡々と抱負を語り隣に座るアグネスデジタルに渡す。

 岩手の至宝を奪い取った相手が目の前にいる。今での闘志が溢れ出し睨みを利かせてしまいそうだが必死に押さえ込む。

 その努力が実ったのかデジタルはヒガシノコウテイの内に秘めた闘志に気づくことなくマイクを手に取る。

 

「アグネスデジタルです。ウラガブラックちゃんと一緒に走れないのは残念ですが、このレースに出走するウマ娘ちゃん達はどの娘も魅力的で一緒に走れるのは楽しみです。そしてこのメンバーとレースを楽しんで勝ってドバイに行きたいと思います。サキーちゃん待っていてね~」

 

 デジタルの願望垂れ流しのコメントに会場が笑いに包まれる。

 本来ならもう少し真面目にコメントをすべきと批判を受けることもあるのだがデジタルのキャラクターはある程度浸透し始め、これぐらいのくだけたコメントは許容範囲だった。

 そして各ウマ娘が抱負を語りセイシンフブキの順番が回ってくる。

 

「え~あたしは非常に不機嫌です。フェブラリーステークスってダート1600のGIだよな?なのに何でスタートが芝なんだ?おかしくね。これじゃあ芝150メートル、ダート1450メートルだよな。これじゃJAROに訴えられるぞ。こんなクソコースで走らきゃならないと思うと腸煮えくり返る思いです。今すぐこのクソコースを改修するか、芝スタートじゃないコースでレースしろよ。まあ芝至上主義の中央じゃそんなことするわけないけどな。あとトゥザ…ルーザーにアグネス…ポンコツだっけ?芝の奴がダートに来るんじゃねえよ。大人しく芝で軟弱なゴボウ共と走ってろ。それともドバイワールドカップに出たいからフェブラリーで勝ちたいってか?ふざけるな。ここはあたし達の場所だ。最近は芝で勝てないからってダートに来る奴が多すぎる。芝で勝てないからダートで勝てると思ってんじゃねえよ。とりあえず感覚で来るな。ダートプロフェッショナルとして叩きつぶしてそいつらと同じように恥さらしにしてやる」

 

 喋り終わるとマイクを隣のウマ娘に荒々しく渡しふんぞり返る。そして会場は水を打ったようになる。

 中央ウマ娘協会への批判は無いわけではなく、ゴシップ雑誌やネットの個人ブログでは文句を言っている者もいる。だがセイシンフブキは公然と中央ウマ娘協会を批判した。

 何という大胆不敵さ。その言葉遣いと内容は中央ウマ娘協会に喧嘩を売っていると言われても仕方がないものだった。

 そしてトゥザヴィクトリーとデジタルへの言動。気性の荒いウマ娘がいる場合は舌戦のような煽り合いになることはある。だがこれは明確な侮辱だった。

 

何より芝からダートを走ったウマ娘への言及、トレセン学園のウマ娘は入学前に適正テストを経てある程度自分の得意分野を知る。

 だがテストだけでは本当の適性はわからないものだ。芝の適正が出てもダートで走って芝以上の強さを見せるなど例を挙げれば星の数ほどある。

 芝のレースに走っていたウマ娘が自分の適性を測るためにダートのレースに走ることは当然の選択である。

 だが病的なまでに芝を憎むセイシンフブキにとってそれは当然の選択ではなく、ダートを侮辱する憎むべき行為だった。

 一方批判されたトゥザヴィクトリーは予想外の出来事に一瞬呆けた後詰め寄ろうとするが隣のウマ娘たちに押さえつけられていた。場内は騒然となるが何とか会見は進行し無事終了し、ウマ娘たちはそれぞれトレーナーやチーム関係者の元に帰る。

 

「全くトゥザヴィクトリーちゃんをトゥザルーザーなんて言うなんて感じ悪い!」

「お前はポンコツ扱いだがそれでもええんか?」

「あたしは別にいいの。それより白ちゃんこそ『うちのデジタルをポンコツ扱いするとは舐めとんのか』って壇上に上って詰め寄るぐらいの甲斐性見せてくれてもいいんじゃない」

「人の名前をあんな風に言って神経を逆撫でさせるのはある意味常套手段や、褒められたもんではないが、それにポンコツ程度なら中央ウマ娘協会への罵倒に比べたら可愛いもんだ」

 

 天皇賞秋のキンイロリョテイもオペラオーやドトウに中々のトラッシュトークをした。

 あれは闘争心が抑えきれず言ってしまったという感じだがセイシンフブキは明確に憎悪をぶつけたという感じだ。なんであそこまでウマ娘を憎めるのだろう。デジタルにはその心境が理解できなかった。

 そしてトレーナーもセイシンフブキという存在を強く印象づけられる。トウィンクルシリーズという一大興業を仕切る中央ウマ娘協会にあそこまで苛烈な文句を言うとは何という怖いもの知らず。

 しかも東京ダート1600をクソコースとは。よほどこのコース形態に不満が溜まっているのだろう。実際外側は30メートル芝が長く先行する際は外枠が有利というように多少不平等でもある。しかしクソコースはないだろう。

 

「さてと次は記者達の取材か、デジタル、不機嫌なのはわかるがそれを表に出すなよ」

「わかってる」

 

 デジタルは言われたそばから不機嫌さを隠し切れない様子で返事をする。

 すると早速2人の元に誰かが近づいてくる。記者たちだろう。2人は心の準備をするがそれは意外な人物だった。

 

「こんにちはアグネスデジタル。少しいいかな」

「オ…オグリキャップちゃん!いいよ!何分でも何時間でも!あのオグリキャップちゃんが目の前にいる!幸せ~」

 

 セイシンフブキの件で下がったデジタルの機嫌はオグリキャップの登場により一気に良くなる。

 目を輝かし興奮気味に喋るデジタルに対しオグリキャップは動じることなく淡々と話す。

 

「私のことを知っているのか?アグネスデジタルは確かアメリカ出身で私が走っていた頃はアメリカで生活していたと思うのだが」

「うん。けどレース映像やライブ映像やオグリキャップちゃんに関するエピソードは白ちゃんから聞いて色々知っているよ」

「それは光栄だ。ではすまないが幾つか質問させてもらう」

 

 オグリキャップはメモとペンを取り出す。広報として独自に話を聞いてまとめたものをブログなどに掲載することも仕事の一つである。

 質問はアメリカ時代のことや今後のことなどなど当たり障りのない質問でデジタルは詳細に答え、逆にオグリキャップに質問をしてきたがトレーナーがそれを止めるというのを繰り返していた。

 

「それではこれで以上だ、協力感謝する」

「うん、こっちも楽しかったよ」

「今日本ウマ娘界でドバイワールドカップに勝つとするなら、芝とダートの両方を走れるアグネスデジタルだろうというのが業界での評価だ。期待している」

 

 オグリキャップは2人に一礼すると他のウマ娘の下へ向かっていった。

 

「聞いた?聞いた?オグリキャップちゃんが期待しているって!感激~!もうこれだけで会見に来た甲斐があったよ」

「よかったな」

「帰って皆に自慢しよ~グフフフ!」

 

 デジタルはその後の記者の取材も上機嫌で答えた。

 

 一方セイシンフブキとヒガシノコウテイの元には記者が集まり取材を受けていた。

 メイセイオペラに続いての快挙を期待してか多くの記者が着ており、特にセイシンフブキは過激な言動もあり多くの記者達が集まり取材を受けていた。

 そして記者達の取材が終わるのを見計らってヒガシノコウテイはセイシンフブキの元に近づいた。

 

「あの、セイシンフブキさん」

「何だヒガシノコウテイ?」

 

 セイシンフブキは言い争った時、いやそれ以上の怒気をヒガシノコウテイにぶつける。

 最初は敬称をつけていたのに今はタメ口、よほどあの時の言葉が許せなかったのか。別にそこまで怒られることを言ったつもりはないが。

 ヒガシノコウテイは身長差からか見上げるようにして喋る。

 

「今後はあのような言動は慎んでください。地方ウマ娘の品位に関わります」

 

 ヒガシノコウテイは人見知りのきらいがあり、セイシンフブキには関わりたくなかった。

 だがあのような態度を注意して直しておかないと地方全体のイメージが著しく下がってしまう。彼女の地方を愛する気持ちと地方を代表しているという責任感が勇気を生み行動を起こさせた。

 だが勇気を振り絞って発した言葉はセイシンフブキには届かない。

 

「なんで?実際クソコースなんだから、クソコースをクソコースって言って悪いのかよ」

「別に主義主張を持つのはかまいません。ですがもっと穏便な言動で抗議してください」

 

 セイシンフブキは何も悪い事をしていないという態度を見せ、それがヒガシノコウテイの神経を逆撫でした。 

 場の空気は剣呑なものとなっていき一触即発となり、その空気を感じたのかさらなるゴシップを入手できると聞き耳を立ていつでもシャッターをきれるように準備をとる。

 

「こんにちはセイシンフブキ、ヒガシノコウテイ。少し話を聞かせてもらっていいか?」

 

 この剣呑な空気を感じていないのか、それとも感じていたのか分からないがオグリキャップが間に入り話しかける。

 2人は同時にオグリキャップの方に視線を定める。その表情は他のウマ娘達が抱いていた憧れとは別の感情が宿っていた。

 

「すみません、オグリキャップさんにセイシンフブキ選手にヒガシノコウテイ選手。こちらに視線向けてもらっていいですか?」

「すみません。こちらもお願いします」

 

 すると記者たちが3人の下へ押し寄せる。地方から中央に移籍し成り上がった元祖地方の英雄と地方から中央のGI制覇を目指す新時代の地方の英雄の邂逅、この絵は記事の一面になる題材であり是非とも写真に撮っておきたかった。

 オグリキャップは笑顔を作り視線を向け、ヒガシノコウテイも一拍置いて笑顔を作り目線を向ける。一方セイシンフブキはノーリアクションだった。

 

「オグリキャップさん同じ地方出身として激励の言葉はありますか?」

「セイシンフブキ選手、ヒガシノコウテイ選手。元祖地方の英雄と対面してどんな気分ですか?」

 

 記者たちは矢継ぎ早に質問を投げかける。だがその質問はヒガシノコウテイの地雷を的確に踏み抜いていた。

 

「……してください」

「ヒガシノコウテイ選手何と言いました?もう一度お願いします」

「訂正してください!私はこの人と同じ地方出身でもないし!この人は地方の英雄でもない!訂正してください!」

 

 ヒステリックな金切り声は会場全体に響き渡り皆が一斉に振り向く。大人しげな印象のヒガシノクテイの豹変、その豹変に記者一同はもちろん、ふてぶてしい態度をとっていたセイシンフブキすら驚いていた。

 

「ヒガシノコウテイ選手、それはどういう意味でしょうか?」

「まずオグリキャップさんは地方から中央に移籍したマル地。私達は地方に在籍しているカク地です!オグリキャップさんはもう笠松のウマ娘ではありません!そして英雄ではなく地方から逃げただけです!」

「地方から逃げたというのは違うのではないでしょうか、ヒガシノコウテイ選手」

 

 すると40代ほどの記者がヒガシノコウテイの主張に異を唱える。ヒガシノコウテイは言葉を止め、それを喋ってよいという合図とみなし自身の主張を語り始める。

 

「当時は中央のほうが圧倒的にレベルは高かった。その中央に移籍し挑んだことは挑戦と捉えるべきではないでしょうか?このまま地方に留まって勝ち続けていてもそれこそ中央から逃げたということになるのではないですか?そしてオグリキャップさんはダートより芝のほうに適正が有ったと思います。ですが中央にしか芝のレースは有りません。それに当時は地方から中央に挑戦するにしても出られるレースは限られていた。ならば中央に移籍することは自然な流れだと思います。それにオグリキャップさんも苦渋の決断で中央を選びました。それを逃げたとくくるのは失礼なのではないでしょうか?」

 

 オグリキャップは当時中央に移籍するか地方に留まるか悩んでいた。そんな中笠松の人々が『お前はこんなところで留まる器ではない』と後押ししてくれた話は美談として有名であった。

 40代の記者の言葉に一同が頷く、逃げではなく挑戦。それは世間一般のオグリキャップへの解釈だった。だがヒガシノコウテイの解釈は全く違っていた。

 

「出るレースが無かった?当時はオールカマーとジャパンカップは地方所属でも出られました。ジャパンカップをとるならこのローテーションで充分でしょう。そして芝のレースに出たかったら、ジャパンカップに勝った自分を他のGIに出さないのか?中央はそこまでして地方にGIを取らせたくないのかとでも言って大々的に主張すればいい。そうすれば世論が後押しして中央も出走させざるを得なかったと思います」

 

 ヒガシノコウテイの主張はやや乱暴といえるものだ。ルールを変えればいいというのは口にするのは簡単である。だがそのためには多大な労力と困難が付き纏い、それでもルールを改正できないかもしれない。

 そうなればオグリキャップの稀有な才能は存分に力を発揮できなかった。そういった意味では選択は間違っていない。

 だがヒガシノコウテイは仮にオグリキャップと同じ時代同じ立場に生まれたとしてもこの考えを実行していたという自負があった。

 

「ですがオグリキャップさんはそれをしなかった。本当に笠松を愛していたならこの考えにたどり着いたはずです。それに笠松の人々は本当に中央に行く事を望んでいたのでしょうか?確かにその稀有な才能が笠松で埋もれるより中央で羽ばたいてほしいという親心と罪悪感はわかります。ですが本当に見たかったのは『笠松で育ち中央で活躍するオグリキャップ』なく『笠松所属で中央に立ち向かう『私達』のオグリキャップ』ではないでしょうか!?」

 

 もしメイセイオペラが中央に移籍とすると言っていたら、岩手の皆も自分も笑って送り出そうとするだろう。  

 それでも心の奥底では岩手を捨てないでくれ、私達のメイセイオペラで居てくれと思っていたはずだ。そして思いを汲み取り岩手に残り続けてくれた。

 そして自分の主張を話していくうちに感極まり始め言葉にも熱が帯びてくる

 

「そして地方の英雄というのはピークが過ぎ体に爆弾を抱えながらも地方を守ろうと懸命に走ったトウケイニセイさん!中央のGIに挑み勝利し地方ウマ娘に光を示してくれたオペラお姉ちゃん!なにより地元のレースで懸命に走り、ウイニングライブで工夫を凝らしお客様を盛り上げ、交流重賞で地方の誇りを守るために中央を迎え撃ち、そして地方の力を示す為に中央に挑んでいったウマ娘達!そして地方を盛り上げようと努力している関係者の方々!そしてそんな地方を応援してくださるお客様すべてが地方の英雄なんです!オグリキャップさんは英雄であっても、断じて地方の英雄ではない!」

 

 ヒガシノコウテイは熱弁を振るったのか息を切らしながら記者一同を見渡す。

 地方は中央という強大で眩い光にかき消されそうになっている。現にいくつもの地方レース場は客足が遠のき中央があるから存続させる意味が無いと潰れていった。それでもアイディアを振り絞り懸命に努力していることを知っている。

 オグリキャップは確かに素晴らしい競走成績を残し、地方から移籍し成り上がったというドラマ性を含めても英雄と称しても文句は無い。

 だが地方から出て行ったものが『地方の英雄』であってはならない。その認識は正さなければならないという想いがヒガシノコウテイに熱弁を振るわせた。

 そして視線を記者からオグリキャップに向ける。高揚した精神が普段押し留めていた思いをさらに吐き出させる。

 

「オグリキャップさん、私が何より許せないのが笠松で引退式をしたことです。偉大な成績を残した貴女が引退式をあげるのは当然の事です。中央で引退式をあげるのは分かります。ですが何故笠松で引退式を行ったのですか?貴女はもう中央のウマ娘でしょう。笠松からオファーが有ったと聞きますがそこは絶対に拒否すべきでした。もう笠松の地を踏みしめる事は二度と無いと言う覚悟で移籍したのではないですか?それじゃ笠松にも中央にもケジメがつかないでしょう。実際は多くのファンに温かく迎えられたそうですが気分が良かったですか?私なら絶対に行きません、いや行けません。そんなことをしてしまったら恥ずかしすぎて腹を切ります。それに……」

 

 ヒガシノコウテイは普段の口少なさから想像できないほど喋り続ける。そして言葉は主張ではなくオグリキャップへの罵倒に変わり始めていた。

 それを察知したのかヒガシノコウテイのトレーナーは即座に手で口を押さえ文字通り口を封じた。

 

「オグリキャップさん、度重なる非礼な言動を陳謝いたします。記者の皆様も取材はこれで終了という事でお願い致します」

 

 トレーナーはオグリキャップに深々と頭を下げると、ヒガシノコウテイを引きずる様にして会場を後にし記者たちはその様子を呆然と眺めていた。

 

「フッ。人には品位を落とすような言動をするなと言っておきながら自分がやってるじゃねえか」

 

 困惑と戸惑いが満ちている空間のなかセイシンフブキはおかしそうに笑った。

 現役を退いてもなお絶大な人気を誇る稀代のアイドルウマ娘オグリキャップ、誰もが褒め称え賞賛するウマ娘に対してあそこまで文句を言った人物はそうは居ないだろう。

 ダートを軽視するその主義は気に入らないがオグリキャップに噛み付いたその気質は嫌いではない。

 

「セイシンフブキ選手はオグリキャップ選手についてどう思いますか?」

 

 するとスポーツ新聞の記者が質問を投げかける。大人しそうなヒガシノコウテイがあれほどのことを言うならばセイシンフブキはもっと苛烈なことを言うに違いない。その言葉を引き出し、見出しにして部数をあげるのが狙いだった。

 

「ガキの頃親戚の家に行ったついでに笠松レース場に行ってさ、そこで物凄い走りをするウマ娘がいたんだよ。痺れたね。あたしの中で歴代ダートウマ娘ベスト10には確実に入るね。それがオグリキャップだった」

 

 セイシンフブキは昔話から話を切り出しオグリキャップを褒め始める。

 苛烈な言葉が繰り出されることを不安と期待していただけにある記者は安堵を、ある記者は落胆の様子を浮かべる。

 

「けど、そのオグリキャップは中央に、芝に移った。あの当時はダートから逃げやがってと泣き喚いたもんだ。オグリキャップはダートより芝のほうが向いていると言う奴も居るがあたしはそうは思わない。あの強さならダートを変えてくれると期待していた。それこそヒガシノコウテイの言うとおり中央の奴を煽りまくってダートに引きずり込むぐらいのことをしてもらいたかったけどな!」

 

 セイシンフブキはオグリキャップに挑発的に視線をぶつける。この主張はヒガシノコウテイの主張より乱暴なものだった。

 オグリキャップが走っていた当時は今よりもダート路線は冷遇され、地方以外走るものが皆無と言っていい状態だった。

 その時代にいくら挑発しても芝を走っている一線級のウマ娘がダートに走る可能性は皆無と言っていい。

 だが病的とまで言っていいほどダートに執着するセイシンフブキには関係ない事であり、ダートで力がある者がダートを盛り上げようとせず、ダートを走らないことは万死に値することだった。

 

「話しているとむかっ腹が立ってきたから帰る」

 

 一方的に主張を述べると出口に向かって踵を返す。もっと話を聞きだしたい記者たちは食い止めようと考えるが、怒りの矛先が向きそうになるので思い留める。そんななか1人の記者が意をけして問いかけた。

 言動の節々から感じるダートへの思い。そのセイシンフブキがこの質問に何と答えるか興味があった。

 

「セイシンフブキ選手。貴女が考えるダート最強ウマ娘はだれですか?」

「アブクマポーロ」

 

 ノータイムでの答え。その答えは質問を投げかけた記者を大いに驚かせた。

 アブクマポーロとの確執は知るところであり、普通ならば名を答えたくないのが心情である。

 だが即答でアブクマポーロの名をあげる。記者にはその心情を推し量ることができなかった。一方セイシンフブキは質問に答えるとすぐさま足早に会場を後にした。

 

 2人の地方ウマ娘が嵐を巻き起こし、瞬く間に去っていった。その残した爪あとは大きく翌日のスポーツ新聞やウマ娘のニュースは2人の話題一色なった。

 

――――――――――――――――――――――

「この電車は船橋行きの電車です」

 

 セイシンフブキは車内のアナウンスを聞きながら目を閉じて後頭部を窓につけて眠ろうとする。しかし自分が発した言葉について思考が傾き睡眠を邪魔する。

 

―――――アブクマポーロ

 

 最強のダートウマ娘について答えた時熟考することなく反射でその名を答えた。ダートの強豪は数多くいる。

 

フェイトノーザン、カウンテスアップ、トウケイニセイ、メイセイオペラ、

 

 だがアブクマポーロを選んだ。アブクマポーロはダートを裏切ったカスでありその名を口にしたくも無いはずなのに。だがその強さは本物だった。

 強いものを強いと認められず私情で答えを曲げ違う者の名前をあげたらダートプロフェッショナルとして誇りは失われてしまう。だから名をあげたのだ。

 

 その強さを持ちながらどうして?どうしてダートを裏切った!

 セイシンフブキはあの日の出来事を思い出し、歯を食いしばり拳を強く握った。その体から発せられる怒気を察したのか隣に座っていた乗客は無意識に席を立ち離れていった

 



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勇者と皇帝と求道者#5

 2月4週の日曜日。暦では最後の冬の日曜であり、冬という季節に相応しく気温は低くさらに太陽は雲に覆われ木枯らしも拭いている。

 その冷風は東京レース場に来た観客達の体温を容赦なく奪う。一部の観客は建物のなかに避難する。風は来なく暖房が利いている館内は外に比べれば極楽だった。

 だが多くの観客は遮蔽物がないパドック周辺、あるいはパドックが見られる客席の2階や3階の外側に出て肩をすぼめ寒さにたえ待っていた。

 

「これより第11レース、フェブラリーステークスのパドックを開始します」

 

 アナウンスが流れると観客達はカメラや携帯電話を構えウマ娘達の姿を撮ろうと準備を始めシャッターを押す。数多くのシャッターからたかれるフラッシュ光がウマ娘達を照らす。その数は例年より明らかに多かった。

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキ二人の地方ウマ娘の言動は話題を呼んだ。

 1人は中央ウマ娘協会への批判、1人はウマ娘界きってのアイドルウマ娘オグリキャップへの批判、これらの話題を公の場で批判する者はまずいなかった。

 その言葉は賛否両論を呼びその地方のウマ娘を一目見ようとウマ娘レースに興味の無い者も東京レース場に足を運び、その結果観客動員数はいつもより増えていた。

 

「続いて6番人気、ヒガシノコウテイ選手」

 

 フェブラリーステークス出走選手が続々とパドックで姿を見せるなか、ヒガシノコウテイが現れると観客達のざわめきとフラッシュの量が多くなる。

 赤色を基調にしたセーラー服に左右に濃紺の襷、両手首には赤と黄のリストバンド。青色に白の横一線が入ったマントはボタンで左肩に縫い付けられている。

 観客達は好奇の目線を向ける。中央レース場に来るファンは地方のレースに疎いものが多く、ヒガシノコウテイの姿を始めて見ると言うファンも多かった。

 

――――あれがヒガシノコウテイか、オグリを侮辱しやがって

――――当時の人間じゃなかったなら何とだって言える

 

 ざわめきの中ヒガシノコウテイの耳に中傷の声が聞こえてくる。

 地元の岩手だけではなく、同じ地方の大井や浦和や中央の札幌レース場で走ったこともある。大井や浦和では外敵として認知されてもいたが、同じ地方ということもあり観客達からどこか仲間意識のような感情を向けられていた。

 札幌でも敵意は向けられていなかった。だが先日のオグリキャップへの言動もあってより多くの敵意を向けられることになる。それは初めての経験だった。

 身から出た錆とはいえ気持ち良いものではない。少しばかりの辛さを感じていると声が聞こえてきた。

 

「頑張れ!お前なら頂点をとれるぞ!」

「大井ファンだが今日は応援するぞ!地方の意地を見せてくれ!」

 

 周囲のざわめきをかき消すようにヒガシノコウテイへの檄が飛び、それを一帯から皮切りに次々とエールが送られ思わず顔を向ける。

 大多数とは言えないが何人かのファンが声援を送っていた。そしてある一角からそれ以上声援が飛んでき馴染みの顔が多くいた。岩手から来た応援団だ。

 ヒガシノコウテイの体に熱いものがこみ上げてくる。あれほどの暴言を吐き岩手の、地方の品位を落としてしまったのにそれでも自分を応援してくれることに感激していた。

 そして憧れのメイセイオペラと同じ舞台に立っていることに感慨にふけっていた。すると岩手の応援団の中からメイセイオペラの姿を確認する。お互い目が合いメイセイオペラは笑みを浮かべながら手を振り、ヒガシノコウテイはメイセイオペラから貰ったリストバンドに触れた。

 

───

 

(やってしまった……)

 

 前々日会見の後トレセン学園にある地方ウマ娘出張宿舎の一室に着くやいなやヒガシノコウテイはベッドに飛び込み枕に顔をうずめ後悔した。

 気分が高揚してとんでもないことを言ってしまった。セイシンフブキに地方の品位を落とすなと言っておきながら自分が落としているではないか。

 きっとスポーツ新聞やテレビ番組では自分の主張はより刺激的なものにする為に多少誇張されてしまうだろう。そうなればオグリキャップファンを敵に回してしまい、地方ウマ娘界のイメージダウンは計り知れない。

 するとテーブルに置いていた携帯電話が振動しブルブルと音が鳴る。携帯電話を手に取り液晶を見て思わず顔をしかめる。そこにはオペラお姉ちゃんと記されていた。恐らく会見のことだろう。このまま居留守しようかと逡巡するが意を決して着信ボタンを押し電話に出た。

 

「もしもし…オペラお姉ちゃん」

「テイちゃん、私が言おうとしていることわかるよね?」

「うん……」

「ああいう言葉は誰かを傷つけるんだよ」

 

 怒るでもなく責めるでもなく、ただ悲しそうに呟いた。

 メイセイオペラは誰よりも優しかった。人の悪口は言わず、皆に気を配り、誰よりも人を傷つけるのを恐れて嫌っていた。幼い頃も間違ったことをしたら悲しそうに言われ、それが何よりも辛かった。

 

「でも…でも…世間は…皆…オグリオグリってオペラお姉ちゃんのことをどれだけ凄いことをやったのかちっとも理解しない!オペラお姉ちゃんのほうがずっと凄いのに!」

 

 ヒガシノコウテイは幼子のように喚く。オグリキャップへの言動は自身の主義主張も勿論あった。だが根底にあるものはオグリへの嫉妬だった。

 オグリキャップとメイセイオペラの人気はヒガシノコウテイの理想より大きく隔離していた。

 メイセイオペラはもっと賞賛されるべきウマ娘である。だが世間の認知度は断然オグリキャップが上であった。オグリキャップは日本のアイドルウマ娘なら、メイセイオペラの知名度はせいぜい知る人ぞ知る程度だった。それが何よりも許せなかった。

 

「トレーニング施設の質が中央より遥かに劣っている地方で育ったウマ娘がどれだけ大変なのか理解していない!中央から何度移籍を打診されても岩手の皆が、私が悲しむからって残ってくれたオペラお姉ちゃんの優しさもちっとも理解してない!それなのにオグリだけ美談扱い!おかしいよこんなの!」

 

 ヒガシノコウテイの独白は続きそれをメイセイオペラは口を挟まず黙って聞いていた。そして喋り終わり荒い呼吸音を聞きながらそっと切り出した。

 

「テイちゃんありがとう。でも私はそんな良い人じゃないよ。中央に移籍しなかったのもテイちゃんや岩手の皆と離れるのが嫌な唯の甘えん坊だからだよ。それに中央の設備でトレーニングするより岩手の皆でトレーニングするほうが強くなれると思ったから。全部自分のため、美談扱いすることじゃない」

「そんなことないよ……」

 

 どうしてそんなに謙虚なのだ、どうしてそんなに自分を卑下する。自分のために動く人ではなく、他人の気持ちを思いやれる優しい人であることは岩手の皆には周知の事実だ。

 

「それに私は岩手が、岩手の皆が大好きだから残っただけだよ。テイちゃんだってそうでしょ?知っているよ、テイちゃんも中央に移籍しないかって打診されていたこと」

「違うよ、私はオペラお姉ちゃんみたいになりたいから」

「それこそ違うよ。テイちゃんが岩手のことが大好きだからだよ」

 

 ヒガシノコウテイも同じように誘われ、同じように拒否していた。

 自分自身もメイセイオペラのようになりたいからと思っていた。だが本心では岩手を愛しており離れたくないだけだった。

 

「みんなそれぞれ同じように苦悩を持っている。そこに上も下も凄い凄くないは無いんだよ」

「うん」

「それにオグリキャップさんが笠松で引退式をしたのだって、テイちゃんは恥知らずみたい言ったけど、その恥を忍んでも自分を育ててくれた笠松の皆にお礼を言いたかったんじゃないかな」

「うん」

「だからレースが終わったら謝ろう。私もついて行ってあげるから」

「そこまで子供扱いしないでよ」

 

 ヒガシノコウテイが不機嫌そうに呟くとごめんねとお茶目に笑う。それにつられてヒガシノコウテイも笑った。ひとしきり笑った後がいつもより低く真剣みがある声で語りかける。

 

「私はテイちゃんの心情が分かっているからオグリキャップさんへの言葉の意味が分かる。でも世間の皆はそう思わない。テイちゃんの言葉に怒ってフェブラリーステークスでもブーイングや文句を言われて、それが終わってからでも文句を言われるかもしれない、それは覚悟して」

 

 メイセイオペラの言葉に無言で頷く。もしメイセイオペラは地方に引き篭もった弱虫だと誰かに言われたら烈火のごとく怒るだろう。そのようなことをオグリキャップのファンに言ったようなものだった。

 そのことに気づかず感情に任せて喋ってしまった。何と愚かで幼稚な行為をしてしまったことを認識する。

 メイセイオペラは話を続ける。低く真剣みのある声からいつもの優しげな声に変わっていた

 

「地元のレースで懸命に走り、ウイニングライブで工夫を凝らしお客様を盛り上げ、交流重賞で地方の誇りを守るために中央を迎え撃ち、そして地方の力を示す為に中央に挑んでいったウマ娘達、そして地方を盛り上げようと努力している関係者の方々、そしてそんな地方を応援してくださるお客様すべてが地方の英雄なんです。良い言葉だよね。泣きそうになっちゃった」

「ちょっとオペラお姉ちゃん、やめてよ」

 

 メイセイオペラはヒガシノコウテイの声を真似て先の発言を喋る。すると羞恥心を感じ、アタフタしながら止めさせようとする姿が思い浮かびクスクスと笑う。

 

「地方での活動は中央に比べて少ない人の目にしか留まらない、交流重賞で無残に負けて、中央で最下位をとってバ場掃除と言われたウマ娘も一杯いる。でもみんな一生懸命やっている。そんな娘達をテイちゃんは英雄と言ってくれた。皆すっごく報われて勇気を貰ったと思う。オグリキャップさんへの言葉で敵を作った。でもそれと同じぐらい、それ以上に味方も作った。レースで苦しくなったら思い出して。私は、岩手の皆は、地方の皆はテイちゃんを応援している味方だよ」

「うん」

「じゃあ、レース頑張ってね。私も東京に行くから」

 

 通話は終了しヒガシノコウテイは息を深く吐いた。あの時咄嗟に出た言葉、その言葉をメイセイオペラは勇気をもらってくれたと言ってくれた。

 このレースに出る理由は南部杯での借りを返すために、岩手の皆を喜ばせるためだった。そして自分が言った地方の英雄達が報われるように、喜んでもらうために勝つという意志も加わった。

 ヒガシノコウテイは岩手のため、地方のため、他人のために走る。

 一流のスポーツ選手はエゴイストで自分のためにやらなければ大成できないという意見もあり、その意見から考えると勝てないことになる。

 だが我欲はない。すべては周りのために走ることを今この場で決意した。

 

「続いて4番人気、セイシンフブキ選手です」

 

 セイシンフブキが姿を現す。上には白色の空手道着に下は緑のハーフパンツ、道着には桜吹雪が散りばめられている。

 

――――芝ウマ娘は芝以外走っちゃいけねえのかよ!

――――ダートなんて芝の二軍だろ!

 

 セイシンフブキがパッドクから出てくるともブーイングが飛んでくる。

 その殺気立った空気はヒガシノコウテイが登場した時の雰囲気よりさらに殺伐としたものだった。そしてセイシンフブキを応援するものはなかった。

 普段の言動から船橋のウマ娘、はては船橋のファンにも嫌われていた。

 唯一の味方といえるトレーナーも他人ごとのように見ている。以前はチームに居ながら1人でトレーニングを続けるセイシンフブキに態度を改めさせその気性を改善しようと試みていた。

 たが頑なに態度を変えないセイシンフブキに愛想が尽きた。そしてセイシンフブキに何も関与することがなくなった。今この場に味方は誰もいなかった。

 一方そのブーイングに対し声が聞こえたほうに一瞬向けるが何も反応を示すことはない。

 今までの言動や前々日会見の様子からこの殺気立った空気に反応して観客たちに噛み付いてくるとこの場にいる者たちは思っていた。

 だが静かすぎる。あの烈火のような気性が完全になりを潜めている。その様子は不気味さすら醸し出していた。

 しかしセイシンフブキは大人しくなったのではない。その激情を必死に押さえ込んでいたのだ。

 

(これでいいんですか、コンサートガールさん)

 

 前々日会見が終わった翌日、コンサートガールから電話が掛かってくる。

 

「もしもし」

「ずいぶん派手にかましたな」

「昨日のことですか?事実を言っただけなんですけどね」

「上からは何か言われたか?」

「グチグチと言われました。知ったこっちゃないですけど」

 

 コンサートガールは愛想笑いをする。あれほどのことを言ったのだ。船橋ウマ娘協会への苦情は多く来ただろう。その分だけ対応を強いられた船橋ウマ娘協会の上層部はセイシンフブキに説教をしたはずだ。

 そしてその説教を蚊が刺された程度にも感じず平然と受けた。それどころか説教すら受けずトレーニングに行く姿が思い浮かぶ。

 

「それでだセイシンフブキ、フェブラリーステークスに向けたアドバイスがある」

「本当ですが?是非教えてください」

「怒りを溜め込め」

「はい?」

「芝への怒り、ダートの扱いへの怒り、色々思う所があるだろう。だがそれを昨日の会見みたいに怒りを発散させるな。その怒りを溜め込みレースに使え」

「わかりました」

「話はそれだけだ。明日は期待しているぞ」

「ありがとうございます」

 

 セイシンフブキは電話を切り言葉の意味を考える。確かに今まで怒りを発散しすぎたのかもしれない。

 芝至上主義、ダートへの冷遇。レースを走っていると気に入らないことばかり出てくる。それに対し怒りをぶつけた。その怒りの発散が東京大賞典の敗北をよんだのかもしれない。

 ならばすべてを溜め込む。溜め込んで溜め込んだ怒りをレースで爆発させ、芝ウマ娘をたたきつぶしダートウマ娘の強さを見せつける。

 ダートを芝以上の価値にあげるという目標がある。そのためには勝ち続けなければならない。地方のことやファンのことは関係ない。すべて自分のために走る。

 セイシンフブキは決意を固めた。

 

「どうやらお前のアドバイスを聞いてくれたようだな」

「ああ、これで勝つ確率が少し上がった」

 

 パドック場の3階観客席、アブクマポーロとコンサートガールは双眼鏡を使いセイシンフブキの様子を見ていた。

 コンサートガールの口から語れたアドバイスはアブクマポーロのアドバイスだった。

 そのアドバイスを伝えようと考えたが門前払いを食らうのは目に見えていたので、懐いているコンサートガールの口から言ってもらうことした。

 

「フブキの強さの源はダートへの強い執着とそれ以外への憎しみだ。ただそれを無駄に発散させすぎるきらいがあった。しかしそれを内に押し込めれば大きな爆発力を生むだろう。そうなれば充分勝算がある」

「でもそれでいいのかよ。アブクマポーロ?」

「何がだい?」

 

 コンサートボーイは声のトーンを下げて問いかける。

 

「セイシンフブキはもっと夢のためとか、仲間のためとか明るい要素を持って走れないのかよ。それこそお前への誤解を解けば芝への憎しみは薄れるんじゃないのか?」

 

 コンサートガールも現役時代はライバルに勝ちたい、1着になりたいと夢や希望を持って走っていた。それがウマ走る理由であり、だからこそ多くの人を惹きつけていると思っていた。

 だがセイシンフブキはまるで違う。元々芝を嫌っていたがアブクマポーロが芝に挑み袂を分かってから芝を病的に憎むようになっていた。セイシンフブキは怒りという負の力で走っている。それは何か違うような気がしていた。

 

「フブキは今でもダートを芝以上の地位にするという夢は持っている。ただ袂を分かってから怒りの感情の比率が多くなった。そしてそれがフブキを強くしていた。その強さは私の想像を超え、あのまま袂を分かっていなかったらあの強さを得られなかったかもしれない。フブキの夢を叶えるためには勝ち続けなければならない、そしてそのためには怒りは必要不可欠だ。ゆえに私から誤解を解こうとは思わない」

 

 アブクマポーロは涼しげな顔を浮かべ髪の毛を指で巻く。

 本音を言えば以前と同じように接したかった。だが理由はどうあれ裏切ってしまったことは変わりない。どんな形でも夢を叶えるために手助けする。それが唯一の償いであると考えていた。

 コンサートガールは反論しようとしたが口をギュッと噛み締め双眼鏡を手に取りパドックに目を移した。

 

 

「続いて1番人気、アグネスデジタル選手です」

 

 アグネスデジタルがパドック場に姿を現す。すると大きな歓声がデジタルを出迎える。

 

――――頑張れデジタル!

――――勝ってドバイ行きを決めて来い!

 

 初めての中央GIでの1番人気のせいか、いつも以上にフラッシュが眩しい。そして気のせいかいつもより観客のことがはっきり見える。

 あの女子高生ぐらいの女の子と目があった。すると隣の女の子に嬉しそうに喋っている。小さい男の子がお父さんに持ち上げられて自分を見ている。手に持っているのは自分のミニチュア人形だ。なかなか可愛く作られているな。

 

 不思議な感覚だった。今までは一緒に走るウマ娘のことを考えてパドックの時の記憶も薄かった。だが今は細かいところまで見えている。

 オペラオーとドトウにファンサービスしろと言われ意識し始めたせいだろうか。デジタルは観客の声に応えるようにランウェイを歩く。

 そしてトレーナーはじっくりとデジタルの姿を見ている。天皇賞秋ではウラガブラックを押しのけての出走で心無い声も浴びせられた。だが同じ東京レース場で1番人気として大きな歓声を浴びる姿に感慨にふけっていた。

 デジタルのパドックが終わると各ウマ娘がトレーナーの元に集まり最後の指示を受け、指示を受けたウマ娘達は地下バ道を通りコースに向かう。

 

「で、白ちゃん作戦は?」

「細かい作戦はない。前目につけろ」

「了解。それでパドックを見て白ちゃん的に推しウマ娘は?」

 

 トレーナーはパドックでのウマ娘の様子を振り返る。さすがGIウマ娘が何人もいるだけあり抜群の仕上げと言っていい体だった。判断に迷うところだ。

 

「みんな良さそうだが強いて言うならトゥザヴィクトリーの調子が良さそうだ。もし逃げるようだったらある程度マークをしろ」

「了解。ちなみにあたしはヒガシノコウテイちゃんかな!スポーツ新聞見て知ったんだけどオグリキャップちゃんへの発言でメイセイオペラちゃんのことをオペラお姉ちゃんって言ったんだよ。冷静沈着なウマ娘ちゃんがついプライベートの場での呼び方するいいよね!推しポイントが爆上がりだよ」

 

 なんだ推しポイントという意味不明なポイントはと言葉に出かけるが胸に押し込む。

 

「そういえば白ちゃん、あのサッカー部の部員達がいたよ」

「本当か?どこらへんだ?」

「あそこらへん、あっ、もう居ない。中に入っちゃったみたい」

 

デジタルは思い出したように指差すが、その方向にはそれらしき人物はいなかった。

 

「お前の応援に来たのか、それともウマ娘のレースに興味を持ったのか。どっちかは知らんが興味のない人間をレース場まで運ばせた。オペラオーの言う主役の責任を果たしたんちゃうか」

「そうかもね。ねえ白ちゃん。あたしは人よりウマ娘ちゃんが好きだし、人のファンにはそんなに興味ないし頑張ってくださいと言われてもちっとも嬉しくなかったし、ふ~んって感じだった。でもオペラオーちゃんやドトウちゃんのように振舞うようになったせいか、今日のパドックで観客の顔がよく見えたの」

 

 デジタルは自らの変化に少し戸惑いを感じながら喋る。確かに今までならウマ娘に夢中でサッカー部員に気づくことはなかった。それはデジタルの強さの1つでもあるウマ娘への執着が薄れていることなのかもしれない。だが1人のスポーツ選手としてはいい変化なのかもしれない。

 

「よし!サキーとのランデブーチケット取って、他のウマ娘を存分にしゃぶり尽くして、ついでにドえらいレースしてサッカー部員をお前のファンにしてこい!」

 

 トレーナーは激励するように背中を軽くたたく、だがデジタルは不満そうにしながら振り向いた。

 

「白ちゃんしゃぶり尽くすなんて下品すぎ~、ウマ娘ちゃん達は可憐で繊細なんだよ。愛でるっていわなきゃ。それにそんな言葉言うとセクハラで訴えられるかもよ」

「すまん」

「ちょっとそんな本気トーンで謝らないでよ」

「いや、セクハラはマジでシャレにならないから、気をつけなあかんと気を使っていたんだが…」

 

 デジタルは思った以上に真剣に謝るトレーナーに肩透かしをくらう。もう少し誂おうとおもっていたが興が削がれた。トレーナーも案外大変なんだなと僅かばかし憐れむ。

 

「大丈夫だよ白ちゃん。うちのチームにそれぐらいでセクハラと言わないから」

「ほんまか?」

「ほんまほんま、じゃあ行ってくるね。ドバイ行きを確定させて、ウマ娘ちゃんを存分に愛でて、ついでのついでで初めて見に来た人を楽しませてくるよ」

 

 デジタルはトレーナーに手を振ると地下バ道に降りていった。

 

───

 

『さあ、今年初めてのGIレースが始まります。冬のダート王を決めるフェブラリーステークス。各路線から様々なウマ娘が参戦してきました。出走ウマ娘の入場です。1番、近走は凡走が続きますが周囲をあっと驚く秘策はあるか?イシヤクマッハ。2番、去年のこのレースの覇者、ディフェンディングチャンピオンの意地を見せるかノボトゥルー』

 

 出走ウマ娘が次々と入場していく。歴戦の猛者達が集まっただけあり会場の大歓声にも動じることなく淡々とゲートに向かっていく。

 

『東北の英雄が扉を開いた!その後に続けるか?東北の皇帝が東京に初見参!東北から日本の皇帝へ!8番ヒガシノコウテイ!』

 

 ヒガシノコウテイがバ場に入るとある一帯から大歓声が上がる。

 それは岩手から来た応援団によるものだった。その存在に気づくと応援団に向かって手を交差し高々と上げる。その意味は岩手のウマ娘ファンにはすぐにわかった。

 リストバンドに書かれた「明」と「正」の二文字。それを観客席に見えるようなこのポーズ、かつてメイセイオペラが本バ場入場時、そしてウイニングライブで見せるものだ。

 リストバンドをくれた両親をアピールするかのようなこのポーズは、大人しいメイセイオペラが見せる唯一のパフォーマンスだった。

 そしてヒガシノコウテイがとった意味はメイセイオペラの、岩手の想いを背負って走るという決意表明だった。その意味を察知したファンたちはさらなる歓声を上げた。

 

『地方ダート、中央芝、海外芝、次に挑むは中央のダート!誰も歩んでこなかった道を未だに邁進中、ここを取りドバイへの道を切り開けるか!?本日の1番人気アグネスデジタル!』

 

 アグネスデジタルは観客席を一瞥すると、駆け足でヒガシノコウテイちゃんの隣を並走した。

 

「久しぶりだね、ヒガシノコウテイちゃん。あたしのこと覚えている?」

「ええ、もちろんです」

「オグリキャップちゃんとの問答の記事見たよ。いいよね、オペラお姉ちゃんって呼び方。胸がキュンキュンきちゃったよ!普段はその呼び方なの?」

「想像にお任せします」

 

 デジタルはフランクに喋りかけ、ヒガシノコウテイはデジタルを振り切るために加減速することなく、普段通りにゲートに向かう。

 デジタルはあることに気づく。南部杯では張り詰めていた感じだったが、今はどっしりと構えている落ち着きがあった。前回の感じも好きだがどちらかといえば今の雰囲気が好きだな。

 ヒガシノコウテイは今の心境を振り返る。南部杯の時は中央に取られてはならない、岩手の大将として守らなければならない。

 何よりトップとしての責任を果たさなければならないという気持ちはあった。今思えばそれは自分のためだった。

 今は違う。すべては岩手のため、地方のためにフェブラリーステークスに勝つ。そこには我欲はなかった。

 

『ダートは私の庭!庭を荒らす者はたたきつぶす。ダートに青春を捧げ、ダートに命を燃やすダートの鬼!史上初の無敗の南関4冠ウマ娘、真夏の吹いたブリザードが冬の東京でも吹き荒れるか?南関の求道者!12番セイシンフブキ!』

 

 会場の一部からブーイングが飛んでくる。だがセイシンフブキはそれが聞こえていないようにゆっくりと歩く。怒りがこぼれ落ちないようにと。

 ゲート付近に視線を向けると一瞬足に力が入り足首が深く砂に沈む。ダートレースなのに芝を走らなければならない。それは屈辱以外のなにものでもなかった。

 芝を走ったウマ娘はたたきつぶす。地方でダートを走りながらもアブクマの芝出走に理解を示した軟弱者はねじふせる。怒りを懸命に押し込めゆっくりとゲートに向かう。

 

───

 

「まずいね」

「ああ、まずいな」

 

 アブクマポーロとコンサートガールは困っていた。パドックを見終わりコース側の観客席に移動するが予想外のことが起こる。レースを見る空間が無いのだ。

 座席は埋まっているのは立ち見するスペースぐらいはあるだろうとタカをくくっていたが、物の見事にスペースが埋まっており人の多さで通路は埋まっており見るどころか移動するのすら一苦労である。

 パドックのモニターで見るという手もあるがそれではあまりにも味気なく、折角なら自分の目でレースを見たい。

 どこか、どこかスペースは無いのか。人をかき分け当てもなく探す2人だが思わぬ人物に出くわす。

 

「あっ」

「あっ」

 

 2人は思わず声が出た。メイセイオペラだ。自分たちと同じように後輩を応援しに来ていることは不思議ではないがこの広い東京レース場で出会うとはなんという偶然だろう。

 

「こんにちはアブクマポーロさん、コンサートガールさん。奇遇ですね」

「ああ奇遇だね。ところでどこか空いているスペースはないかい。予想以上に人が多くて」

「そうですか。ちょっと待ってください」

 

 岩手の応援団に声をかける。すると椅子に座っていた子供が大人の膝上に乗り、座席に置いていた荷物をどかして2人分のスペースを作り上げた。

 

「どうぞ」

「すまないね」

「ありがとう」

 

 2人は礼を述べて一心地つく。この大人数をかき分けて移動するのは予想以上に体力を消耗した。

 

「助かったよ。実は東京レース場に来たのは初めてでね。ここまで人が多いとはおもっていなかった」

「私も観客として来るのは初めてですから、皆と来ていなかったら同じようになっていたでしょう」

 

 コンサートガールは談笑しているメイセイオペラとアブクマポーロの姿を眺める。かつて競い合ったライバルが現役を退いても偶然の出会いで肩を合わしているのは不思議な気分だった。

 

「君の後輩のヒガシノコウテイは強いね。君に続いての中央GI制覇を期待できそうだ」

「ありがとうございます。それを言うならセイシンフブキさんも勝てる可能性は充分にありますよ」

「ありがとう。しかし新聞で読んだが意外だったよ。フブキとは違い優等生な印象があったヒガシノコウテイがオグリキャップに噛み付くだなんて」

「なんというか……地方に対する想いが強すぎてちょっとだけ過激な言動をしてしまうんです。本当は大人しくて優しくて良い子なんですよ」

「あのオグリに言った言葉は地方出身として胸に響いたよ」

 

 アブクマポーロの言葉にメイセイオペラは笑みをこぼす。

 オグリキャップという稀代のアイドルウマ娘に過激な言葉を投げつけたことでイメージを悪くもたれていないか心配だったが杞憂だった。想いはちゃんと伝わっている。

 

「それに比べフブキはもう少しオブラートに包むことを学んで欲しいものだ。そうすれば少しは理解してくれる人もいるだろうに」

「そうですね、確かにセイシンフブキさんの言葉は過激で人を傷つけるものです。そこは直さないといけないと思います。ですがダートへの想いとダートへの誇りが伝わってきました。あの主張はダートウマ娘の誰しもが思っていることだと思います。彼女は言いたいけど言えないことを代弁してくれたのです」

 

 メイセイオペラもセイシンフブキの言葉に共感できることがあった。

 例えばフェブラリーステークスの芝スタート。現役時代にスタート対策で練習をしていたが何故ダートレースなのに芝の練習をしなければならないのかという若干の理不尽さは感じていた。

 そしてその言葉に今度はアブクマポーロが笑みを浮かべる。過激な言動に隠れたダートへの純粋な想いを理解してくれる人がいること嬉しかった。

 

 一方出走ウマ娘はゲートに次々と収まっていく。レース開始がすぐそこまで迫っている。

 

「結果はどうあれ悔いの残らないレースを欲しいですね」

「ああ、勝利を願っているが負けたとしてもこれを糧にして強くなって欲しい」

 

 2人はゲート付近に視線を向け喋られなくなった。

 

 メイセイオペラと同じように岩手を愛し地方を愛するヒガシノコウテイ。

 アブクマポーロと同じようにダートを愛し誇りを持つセイシンフブキ。

 2人は紛れもなくメイセイオペラとアブクマポーロの魂を受け継いだ後継者だった。自分の後継者がどのようなレースを走り、このレースの後どのような競走生活を歩んでいくのか。そのことに思いを馳せる。

 

 そしてレース場ではファンファーレが鳴り響き各ウマ娘達のゲート入りが終了する。

 

『次は東京レース場、第11レースGIフェブラリーステークス。ダート1600メートルです。凄まじいパフォーマンスを見せつけたウラガブラックは残念ながら怪我でここにはいません。ですがGIウマ娘10人というダート王を決めるのに相応しい猛者が揃いました。公営の刺客か、中央のダート猛者か、それとも芝からの来訪者か。答えが出ます。今…スタートしました』

 




次でフェブラリー編は終わりです。
今後のアイディアはある程度有りますが書くスピードが絶望的に遅い!
ウマ娘のアプリが配信されるまでに書き終わりたいですが果たして……


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勇者と皇帝と求道者#6

『さあ、スタートを切りました。先頭は奪うのは外枠ノボジャック、それに続くのはトゥザヴィクトリー、サウスヴィグラス、ノボトゥルー昨年の覇者です、そして公営のヒガシノコウテイ、その1バ身後ろに1番人気アグネスデジタルはここにいます。そしてその後ろはセイシンフブキだ、これはアグネスデジタルをマークしているのか?』

 

 東京ダート1600メートルは芝スタートしてダートコースに入るまで芝を150メートルほど走る。内と外では30メートルほど芝部分が長く、芝を走るほうがスピードが出る。その利を活かしてノボジャックが先頭に立った。

 

(これぐらいかな。ここならトゥザヴィクトリーちゃんの動きも見られるし)

 

 デジタルはトレーナーの指示通り前目のポジションをとる。

 スタートは上手く飛び出しもう少し前目につけられたのだが、トレーナーの言葉を思い出すと少しスピードを落としトゥザヴィクトリーを先に行かせる。この位置ならマークでき、その後ろのヒガシノコウテイも見られる。ただ。

 

(勝負服のマントが邪魔でよく見えない……マントが無ければうなじが見えるんだけどな~)

 

 ヒガシノコウテイの左肩に縫い止められたマントがはためきその後ろ姿が覆い隠される。

 気分がわずかに落ち込むが気を取り直して、ヒガシノコウテイの少し外側の誰も前にいない位置に付ける。

 ダートでは芝と違い蹴り上げられた砂が飛んでくる。その影響はバカにはならず当たればそれなりの衝撃であり、目に入ればスピードは一気に落ちる。それだけにポジション取りは重要だった。

 

 ヒガシノコウテイはアグネスデジタルの様子を気にしながら前を行く3人を見据える。トゥザヴィクトリーにノボトゥルー、両者ともこのレースで好成績をあげている要注意だ。いつでも動けるように準備をする。

 

 セイシンフブキは先頭から7人目、中団とも言えるポジションだった。

 勝った南関4冠のレース、そして前走の3着に破れた東京大賞典などはすべて3番手以内につけており、この位置でレースをするのは初めてだった。だが動揺や焦りは一切ない。淡々とレースを運んでいく。

 

『そしてその後ろにはイシヤクマッハ、プリエミネント、その後ろにスノーエンデバーにゴールドティアラにワシントンカラー、その1バ身後ろに川崎記念覇者リージェントブラフに一昨年のジャパンカップダート覇者ウイングアロー、そしてイーグルカフェ、ゲイリーイグリットが続きます』

 

 先頭から最後尾まで約20バ身で前半3ハロン35秒1。1000メートル58秒8。緩みのないペースでレースは進んでいく。このペースでは前も後ろ有利不利はなく、どの位置からでも実力が発揮できる流れになる。

 

『さあ3コーナー向こうの大欅を通過し16人が直線に向かう。半数以上がGIウマ娘!ダートの頂点を勝ち取るために体と魂を燃やす。その熱気は冬の冷気をかき消すぞ』

 

 各ウマ娘が府中の直線500メートル、高低差3メートルの坂を駆け上がる。

 先頭のノボジャックが下がってくると先頭にトゥザヴィクトリーが躍り出る。それを追走するノボトゥルーにヒガシノコウテイ。そして2人分の外からアグネスデジタルが猛然と駆け上がる。

 スタートを上手く切り、道中は不利を受けない良い位置につけ、直線で良い足を使う。

 

 テン良し、中良し、終い良し。

 

 それはデジタルが恋焦がれるサキーのようだった。ダートで走り先行していてもテイエムオペラオー、メイショウドトウ、キンイロリョテイを撫で斬った切れ味は変わらない。あっという間に差を広げていく。

 

『1番人気がやってきた!アグネスデジタルがトゥザヴィクトリーを抜き去り先頭!その差は2バ身、3バ身ダート王者の称号を手に世界最強に挑むのはアグネスデジタルか!?』

 

(強い……)

 

 あの位置でこれほどの切れ味、これが中央のトップの力なのか。

 ヒガシノコウテイはトゥザヴィクトリーとノボトゥルーと横一線に並びながら懸命に食い下がっていた。今でも精一杯なのに、これでアグネスデジタルを抜き返そうとするならば、さらに力を出さなければならない。無理だそんなこと、体が壊れてしまう。

 

(無理しなくていいよね……私頑張ったよね……)

 

 ヒガシノコウテイの心はデジタルの切れ味の前に切り伏せられていた。

 

―――地方を守るから、中央のいじめっ子をやっつけてあげるから。そして地方のウマ娘は中央に負けないってことを証明してあげるから

 

 突如脳内で声がリフレインする。この声はオペラお姉ちゃん?そしてこれはあの時だ。

 トウケイニセイさんがライブリラブリィに負けて、悔しくて悲しくて。秘密のトレーニングセンターで我武者羅に走って体調を崩した時だ。

 そして視界にリストバンドが入る。目に映る「明」「正」の二文字。

 

―――今の走りが皆を『明』るくさせられるのか?今の走りが『正』しいのか?

 

違う!

 

 トウケイニセイはライブリラブリィに負けた時でも最後まで諦めなかった!メイセイオペラはどんな逆境でも諦めなかった!そして中央のGIを制した。

 中央に挑んだ地方ウマ娘達、結果は散々だったかもしれない。それでも彼女たちは地方の力を示すために一つでも着順を上げるともがいたはずだ。決して今の自分みたいに諦めなかったはずだ!

 

 こんな走りが正しいわけがない!

 

 皆を明るくさせる正しい走り。それはすべてを懸けてデジタルに挑み1着を勝ち取ることだ!

 そして自分は地方の代表として走っている。2着では中央に勝ったことにはならない、それは敗北であり地方の敗北を意味する。

 

――――所詮地方は中央に勝てない

 

 それを覆したのがメイセイオペラだった。

 メイセイオペラとそのライバルであるアブクマポーロが現役時代はダートの頂点はこの2人であり地方ウマ娘であった。

 メイセイオペラとアブクマポーロは地方が中央の2軍ではないことを証明した。2人のおかげで多くの地方ウマ娘は勇気と誇りをもらった。それはヒガシノコウテイも同じだった。

 ならば今度は自分が地方の力を示し勇気と誇りを与える番だ。レースに勝って次世代のウマ娘が来るまで地方が中央に負けていないと証明し続けなければならない。

 

 

「私はトウケイニセイさん、オペラお姉ちゃん。東北の怪物と東北の英雄の魂を継いだ東北の皇帝!ヒガシノコウテイだ!」

 

 故障しても構わない、この体が砕けてもかまわない!命懸けでアグネスデジタルに勝つ!

 ヒガシノコウテイ今この瞬間走ったレースの中で最も力を振り絞っていた。

 

 命懸けで頑張るという言葉がある。

 

 ただ人は自分のために命懸け直前までは頑張れるが、真に命懸けで頑張ることはできない。自分で自分の命を投げ出すことができないからだ、それが一人の限界である。

 だが他者のためになら命を投げられる、限界を超えて命を懸けられる。

 メイセイオペラが作り上げた流れを途絶えさせないために、地方を愛するすべての者に勇気と誇りを与えるために、すべては他者のためにヒガシノコウテイは命懸けで頑張っていた。

 

『ヒガシノコウテイが盛り返す!アグネスデジタルとの差を3バ身、2バ身に縮めていく。そしてこれは?セイシンフブキだ!セイシンフブキが猛然と襲いかかる!東京にブリザードが吹き荒れる!』

 

 ヒガシノコウテイが抜け出すと同時に中団に控えていたセイシンフブキが地鳴りを上げ、砂塵を巻き上げながら追い上げてくる。

 その勢いは凄まじく、ノボトゥルーとトゥザヴィクトリーの3番手グループあっという間にたどり着く。

 

「失せろ芝ウマ娘」

『セイシンフブキがトゥザヴィクトリーとノボトゥルーを抜いて3番手に上がった!』

 

 セイシンフブキはトゥザヴィクトリーに吐き捨てると次なる獲物に意識を向ける。

 

 パドックでダートは芝の2軍と言った奴は血祭りにあげたかった。芝ウマ娘の顔を見ただけで吐き気がした。芝の上に立ちながらゲートに入ったときはあまりに不愉快で気が狂いそうだった。普段だったら数回は爆発し暴れまわっていただろう。

 だがセイシンフブキは耐えた。アブクマポーロのアドバイスを信じその怒りのエネルギーのすべてをこの直線で爆発させる。

 ダートのGIレースというのはダートにすべてを懸けて命を燃やすダートプロフェッショナル18人が集まりおこなうもの、それが本当のダートGIである。いわばダートの聖域だ。

 そのレースに見て感動したものがダートプロフェッショナルへの道を志す。それが正しいあり方であり理想だ。

 

 だが負け続けた芝ウマ娘がダートの才能があるかもという淡い希望を持って挑み破れて、それに懲りず芝ウマ娘が挑んでくる。そして聖域が汚されていく。

 ダートに本気なものに芝で走っていた生半可な気持ちの者が勝てるわけがない。それが真理であり、そうでなければならない。だからこそダートの未来のために勝つ、いや殺す。

 圧倒的なレースで勝ちアグネスデジタルにダートに挑む気力をへし折る。そして次は復活してくるであろうウラガブラックだ。

 それでも挑む芝ウマ娘がいればたたきつぶし、何度でも何度でも息の根を止める。そして芝ウマ娘は誰も寄り付かなくなり聖域は完成し、いつしかダートを芝の2軍という奴はいなくなる。そしてダートは芝と対等の価値になり、いずれダートが上回る。

 

 レース前日、セイシンフブキはファンや地方のためにではなく自分のために走る決意した。だがそれは正確に言えば違っていた。

 自分のためではない。自分が愛したダートの為に走ることだった。ここにもまた1人、他の者のために命を懸けるものがいた。

 

『そしてセイシンフブキがヒガシノコウテイに並んだ!東北の皇帝と南関の求道者が中央に襲いかかる!』

 

「芝ウマ娘のついでにあいつを擁護するお前もついでにたたきつぶす。これはダートの明日を懸けた戦いだ。お前は盛岡や中央の芝で走っていろ!」

「いやです。私には芝の才能は無い、でもダートの才能はあります!この才能で中央に勝ちます。これは地方の明日を懸けた戦いなんです!地方の総大将は私です。勝たなきゃいけないのは私なんです!」

 

 2人は示し合わせたように接近し、今にも接触しそうなほど近づいた。

 地方ウマ娘でありながら1人は地方の為に、1人はダートの為に走る。同じような境遇に生まれながら目指すものは違う。

 こいつには負けられない。その気持ちがお互いの勝負根性を引き出しさらなる力を生み出す。そのためにお互いは無意識に共闘を選んだ。2人の目標は違うがいま達成すべき目的は一つ。

 

打倒アグネスデジタル

 

 

(((アグネスデジタルさんドバイで待っていますよ)))

(うん。勝ってそっちに行くから待っていてねサキーちゃん!)

 

 デジタルの意識にはいま後ろで走るウマ娘は存在しない、意識は前にいる作り上げたイメージのサキーに向けてイメージが話した言葉に返答する。

 これに勝てればサキーと一緒に走れる。どんな素敵な体験が待っているのだろう。楽しみで今からワクワクが止まらない。息苦しさを忘れて笑顔を見せる。

 

(((ア……グ……ネ……ス……)))

 

 急に音にノイズが混じりほとんど声が聞こえない。そしてイメージのサキーの姿が崩れていく。

 そして急に息苦しくなった、それに寒気もある。何が起こっている?

 デジタルは引き寄せられるように後ろを振り向く。そこには地方とダートのために命を懸ける護国の鬼がいた。

 その護国の鬼達が徐々にそして確実に迫ってきている。息苦しさと寒気はこの2人によるものか、近づくにつれ息苦しさと寒気がどんどん増してくる。

 

―――近寄らないで、こっちに来ないで!

 

『公営二人がアグネスデジタルに迫る!ドバイへの道は閉ざされてしまうのか!?』

 

───

 

『公営二人がアグネスデジタルに迫る!ドバイへの道は閉ざされてしまうのか!?』

 

「どうしたんやデジタル!?」

 

 デジタルのトレーナーは出走ウマ娘のトレーナーが一同に集まっている部屋でモニターを見ながら思わず叫ぶ。

 デジタルが右に数メートルほど斜行した。レース中にバ場の状態が良いところを走りたいので斜行することもある。

 だが今のは違う。あれは意図せず斜行、寄れるという状態だ。

 寄れるのは主に全力で力を出すあまり真っ直ぐ走れなくなって起こることである。だが見ている限りそこまで苦しいレース展開には見えない。

 第一どんなことがあっても寄れないように鍛えている。疲れでデジタルが寄れることはないはずだ。だとすれば故障?故障したウマ娘が寄れてしまうことがある。  

 するとある変化に気づく。デジタルはこのレースではいつも通り笑っていた。だが今はその笑顔は消え失せていた。

 この表情から察するに怪我による寄れではない。怪我であったならもっと痛みに耐え歯を食い縛るはずだ。しかし今の表情は何かに追われて怯えているようだった。

 

何が起こっている?

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

(なにあれ?怖い怖い怖い怖い!)

 

 デジタルが寄れたのは恐怖によるものだった。

 このまま並ぶことがあれば、あの2人に接近して走らなければならない。それを拒絶したデジタルの体は無意識に右に寄れて2人から距離を取ることを選んだ。

 デジタルは他のウマ娘と体を合わせながら走る根性勝負が好きだった。5感で愛しいウマ娘を感じられる極楽スポットが走っているウマ娘の隣であり、そのウマ娘を感じたいという情念が勝負根性を生む。

 今迫っているのはヒガシノコウテイとセイシンフブキであることは辛うじて分かっている。レース前ならヒガシノコウテイは推しウマ娘ポイントトップであり、是非とも体を合わせ隣で走ってみたいウマ娘だった。だが今は違う。

 

 横顔も見たくない、息遣いも聞きたくない、匂いも嗅ぎたくない。

 

 デジタルは競走生活で初めて根性勝負を拒否したのだった。その結果3人分ほどの横幅を取ることに成功した。だがその代償に僅かなタイムロスを生み2人は差を縮めていく。

 

 残り100メートルを残してデジタルと2人の差は1バ身、だがデジタルにはそのリードはゼロに等しく感じていた。

 脳裏には敗北の二文字が過る。そして同時にサキーの姿が思い浮かんでいた。

 ここで負けたらサキーと会えない。サキーと一緒に走れない。やだ!やだ!そんなの絶対にやだ!

 デジタルはサキーと一緒に走りたいという願望を心の奥底からかき集め自らを奮い立たる。その僅かばかりの勇気で地方とダートの鬼達の恐怖に対抗する。

 

『差が詰まっていくが僅かに残った!アグネスデジタル1着!2着はわずかにセイシンフブキか?アグネスデジタル前人未到のGI4連勝!しかも地方ダート、中央芝、海外芝、中央ダートでの4連勝!』

 

 最後はデジタルの勇気と地力がダートと地方の鬼達の恐怖と猛追を打ち払った。

 2人に煽られながらも何とか粘り込んでの勝利、テン良し、中良し、終い良しのレースで見方によっては完勝に見える内容だった。だが勝ったデジタルは全くそう思ってはいなかった。

 薄氷の勝利、それどこらか勝ったとすら思えなかった。その証拠にゴール板を1着で駆け抜けた後の表情は喜びではなかった。まるで死地から生還したような安堵の表情だった。

 デジタルは観客席にアピールすることなく逃げ帰るように地下バ道に降りていく。

 

「お疲れさんデジタル。直線で寄れたけど大丈夫か?」

「うん……」

 

 デジタルはトレーナーの元にゆっくりと近づくが体が蹌踉めく。トレーナーは反射的に体を支え、その時際に腕に触り異変に気づく。

 体が冷たい。全力で走った体は体温が上がっているはずだ、それなのに想像より遥かに冷たい。それに顔も血の気が失せている。こんなデジタルは初めて見た。

 

「デジタル何があった?」

「あたしは逃げたの……迫り来る2人が怖くて……」

 

 その言葉でトレーナーはデジタルに起こったことをすべて察する。あの寄れは並走を拒否した結果、この体の冷たさは冷や汗によるものだ。

 

「あたしはウマ娘ちゃんが大好きで大好きで、自分に向けられる感情は無関心以外ならどんなものでも受け止められるつもりだった。嫉妬だって、大嫌いって気持ちだって。でもあの2人から向けられる気持ちは受け止められなかった。あれは何なの?分からないけどとっても怖かった……」

 

 デジタルは直線で感じた恐怖を思い出し両手でスカートの袖を強く握った。

 セイシンフブキとヒガシノコウテイの何に恐怖したのか?それは2人の執念だった。自分が愛するものを守るために絶対に勝利するという殺意にも似た執念。その濃縮された2人の執念をもろに受けたデジタルは萎縮してしまったのだ。

 

「デジタル、本来なら早く家に帰ってゆっくり休めと言いたいところだが、勝利者インタビューとウイニングライブがある。酷かもしれんが何とか気持ちを切り替えてくれ。とりあえず着替えて来い」

「うん」

 

 デジタルは砂で汚れた勝負服を着替えるために控え室に向かう。その後ろ姿はひどく小さく弱々しかった。

 このレースはある意味デジタルがもっとも追い詰められたレースだった。

 トレーナーにはメンバーが強いことは分かっており油断も慢心もなかったつもりだった。だが心のどこかでテイエムオペラオーとメイショウドトウと走った天皇賞秋より楽な戦いとは思っていた。

 そしてデジタルを追い詰めた地方ウマ娘の2人、地方に入る者は能力が低いか、体に重大な疾患を抱えているなどという理由で中央のトレセン学園に入れなかった者だ。

 そして地方のトレーニング設備は中央に比べて劣っている。その差は大きく、普通に考えれば地方のウマ娘が中央のウマ娘に勝てないと考える。

 だがヒガシノコウテイとセイシンフブキはデジタル以外の中央のウマ娘に先着し、デジタルをここまで追い詰めた。これが地方でしか培えない力なのか。

 トレーナーは改めてウマ娘レースの奥深さを痛感していた

 

 そしてデジタルは新しい勝負服に着替え設置されている姿見に向けて作り笑いをする。だがその笑顔はすぐに解けてしまった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ウイニングライブが終わり観客達は家路に着くなか、ヒガシノコウテイとそのトレーナーも関係者口に向かう。

 

「よく頑張った」

「ありがとうございます…」

 

 トレーナーは慰めと労いの言葉をかけるがヒガシノコウテイの耳には届いており機械的に返事をするが、頭には全く届いていなかった。

 

 負けた。絶対に負けてはならないレースだったのに。このレースで地方は中央に負けていないということを証明しなければならなかった。

 だがアグネスデジタルに負けて2戦2敗。これで格付けが済んでしまった思う人もいるだろう、そしてもう再戦の機会は訪れないだろう。

 あそこで一瞬でも心が挫けなければ!もっと上手く立ち回っていれば!

 ヒガシノコウテイの後悔が渦巻く、ふと窓から見える景色を見ると空には満月が浮かんでいる。その模様はいつもなら兎に見えるのだが今日に限って髑髏が自分を嘲笑っているように見えた。髑髏から目線を外すように下を向く

 

「お疲れ様ヒガシノコウテイ!」

「顔を上げてくださいヒガシ先輩!」

 

 俯きながら歩くヒガシノコウテイを出迎えたのは東北の応援団だった。コーンで仕切られ警備員が警備している外側から声をかける。

 彼らはウイニングライブが終わるとすぐに関係者口に向かい出てくるのを待っていた。岩手を代表して懸命に走ったウマ娘に激励の言葉を送る。ヒガシノコウテイは一瞬顔を上げるがすぐに俯いた。

 気持ちはありがたい、涙が出るほど嬉しい。だが今だけはその心遣いが辛かった。

 みんな貴重な時間を削って東京レース場に来てくれた。それなのに歓喜の瞬間を味あわせることができず、落胆させてしまった。とても合わせる顔がない。

 

「テイちゃん」

 

 暖かみのある優しい声が聞こえてくる、メイセイオペラの声だ。優しいメイセイオペラなら慰めの言葉をかけてくれるだろう、だがその分だけ惨めになる。ヒガシノコウテイは頑なに下を向く。

 するとメイセイオペラはコーンを飛び越え警備員の制止を振り切り近づくとほっぺを掴み強引に上を向けさせ真っ直ぐに目を見つめる。

 

「テイちゃんは本当に頑張った。今日の走りは多くの地方ファンや地方ウマ娘に勇気を与えたよ。責める人なんて誰ひとりいないよ。もしそんな人がいたら私がやっつけてあげる。だから自分を責めないで」

 

 メイセイオペラは力こぶを作る。その細腕と似つかわしくない姿にヒガシノコウテイの口角が若干上がる。それを見て同じように笑みを浮かべた。

 

「そして前を向こう。負けても前を向く姿だって多くの人に勇気を与えてくれるんだよ」

 

 その言葉を聞いてヒガシノコウテイは目を見開く。

 そうだメイセイオペラだってアブクマポーロに何度負けても立ち上がり前を向いてきた。強いだけが英雄じゃない、逆境にも挫けず何度でも立ち上がれるのも英雄だ。

 

「ありがとうオペラお姉ちゃん」

 

 ヒガシノコウテイの目に光が宿る。それを見てメイセイオペラは手を離した。そしてヒガシノコウテイは応援団に近づき一礼する。

 

「今日は応援ありがとうございました。そして岩手に優勝レイを持ち帰れず申し訳ございませんでした。ですがこれから私のレースは続きます。かしわ記念、帝王賞で中央から地方を守り、マーキュリーカップ、クラスターカップ、そして南部杯で岩手を守る戦いが待っています。弱い私でも皆様の応援が力になり戦うことができます。負けた私ですがこれからも声援のほどよろしくお願いします」

 

 これかも地方と中央の戦いは続く、フェブラリーステークスに負けた相手が捲土重来をはかり、まだ成長途上の中央の強豪が牙をむいてくる。

 すべての交流重賞に出走できるわけではない。だが一つでも多くのレースに出て地方を守る。自分は地方の大将格なのだ。下ばかり見ていられない。

 

「当たり前だろう!」

「ヒガシ先輩だけに負担をかけさせません。私達だって頑張ります」

 

 ヒガシノコウテイの言葉に暖かい声援がとびその言葉に涙ぐんでしまい手で涙を拭った。岩手に所属していて本当によかった。ヒガシノコウテイは心の底からそう思っていた。

 すると応援団以外の出待ちのファン達からざわめきの声があがる。何が起こっているのかと辺りを見渡すとその原因はすぐに分かった。

 

 オグリキャップがヒガシノコウテイの下に近づいてきている。その表情は真顔で現役時の近寄りがたい雰囲気は健在だった。一歩ずつ近づくたびに緊張感が増し、誰もが言葉を喋らずオグリキャップの様子を見守っていた。

 

「オグリキャップさん。先日の失礼な発言の数々申し訳ございませんでした」

 

 ヒガシノコウテイが45°の角度でお辞儀をして最敬礼をする。

 あの時は感情に任せて暴言を吐いてしまった。許してくれないかもしれないが謝罪するのは人としての筋だ。そしてオグリキャップはその後頭部を見ながら微動だにしない。

 その態度がさらに周囲に緊張感を与えヒガシノコウテイも思わず唾を飲む。

 

「良いレースだった」

 

 オグリキャップはぶっきらぼうに言うと踵を返していく。

 これは許されたのか?ヒガシノコウテイは足音で離れているのを察知し頭を上げて深く安堵の息を吐いた。

 一方オグリキャップは今日のレース、ヒガシノコウテイの走りについて思い出していた。

 現役時代、笠松から中央のトレセン学園に転校した。

 そのことについて何一つ後悔はない。

 多くのライバルに出会い充実した設備で鍛え上げ多くの中央のレースで勝つことができた。そして勝つことで間接的に笠松の知名度をあげることができた。

 中央に入り多くの強さを得られた。それと同時に多くの強さがこぼれ落ちた気がした。

 もし笠松に残り『私たち』のオグリキャップとして走っていたとしたら同じぐらいに強くなれたのだろうか?その答えの一端をフェブラリーステークスで見られた。

 ヒガシノコウテイのあの走りを見て誰ひとり弱いと言うものはいない。あの強さは地方に残り『私たち』のヒガシノコウテイとして走り続けたことで得た強さだ。

 

 自分の道も間違っていなかったが、もう一つの道も間違っていなかった。それをヒガシノコウテイが証明してくれた。次の公式ブログで書く記事は決まった。タイトルは

 

―――もう一人の自分が示してくれた強さ

 

───

 

 

 体が鉛のように重く節々が痛い。いつもなら軽々と持てるレース道具が入ったショルダーバックがとてつもない斤量に思えてくる。

 セイシンフブキはヒガシコウテイが向かった関係者出入り口とは別の関係者出入り口に向かっていた。

 トレーナーに荷物を持ってもらえれば楽だがもう居ない。恥さらしと一言告げて1人で帰ってしまった。そのことを責めるつもりはサラサラない。

 実際あれだけの口を叩いておきながら負けた、恥さらしの何者でもない。むしろ恥さらしでもまだマイルドなほうだ。自分だったら「かっこよすぎて、あたしなら自殺するわ」ぐらいの罵倒をしているだろう。

 レースに負けたセイシンフブキの心中を占めているのは怒りである。勝ったアグネスデジタルにではない。芝ウマ娘に負けた自分の弱さにだ。

 これでますますダートは芝の2軍という奴が増えるだろう。だが実際反論のしようがない。それに言ったとしても負け犬の遠吠えだ。

 

 関係者口を出ると他のウマ娘を出待ちしていたファンが一斉に目線を向けて、ヒソヒソと話し嘲笑の目線と言葉をむける。

 それどころか空に浮かぶ満月の兎に見える模様すら遥か上から嘲笑しているようだった。

 

 セイシンフブキは関係者口を抜けて敷地内から公道に出る。ここから駅まで徒歩だ。徒歩10分ぐらいだがこの状態じゃ長い道のりになりそうだ。

 すると1人のウマ娘が寄ってくる。袖は白色で胴の部分は青色、青の部分には横一文字に赤色のイナズマが入っている。背格好からジュニアの一番下か、入学前といったところか。

 

「セイシンフブキさん、いや師匠!私を弟子にしてください」

 

 突如そのウマ娘は往来の前で土下座する。行き交う人は奇異の目線をむけるがセイシンフブキはそれに動じることなく見下ろす。

 

「断る。帰れ。それにあたしは負けた恥さらしだ。得るものなんて何一つない。弟子入りしたいならアグネスデジタルのところでも行け」

「嫌です!私はセイシンフブキさんの弟子になりたいんです!」

 

 セイシンフブキの冷徹な言葉を頑なに断る。その強固な意志に興味を示したのか問いかける。

 

「何故あたしなんだ?」

「私は今日のレースを見て…セイシンフブキさんのレースを見て…ダートは凄えと思いました!なんでか分からないですがとにかく凄え!ダービーよりジャパンカップより今日のフェブラリーステークスのほうが心が熱くなったんです!今までダートより芝のほうが好きでした!今では違います!このダートを極めたい!そして中央じゃなくて船橋に入って私を熱くさせてくれたセイシンフブキさんの下で学びたいんです!」

 

 その言葉を聞き過去の記憶が掘り起こされる。

 

――――姐さん、アブクマポーロ姐さん

――――しつこいねキミも、もう付きまとうのはやめてくれないか

――――いやです!ダートを極めるまでずっと付きまといます!

 

 今目の前にいるウマ娘は過去の自分だった。アブクマポーロはダートを裏切ったカスだ。それは紛れもない事実だ。

 だが一緒に過ごして学んだことは有益であり、何より志を同じくする同志として過ごした日々は楽しかった。

 アブクマポーロとは違う、ダートを裏切ることはない。そして目の前のウマ娘に自分と同じ思いを味あわせることは断じてない。このウマ娘がダートを裏切るまで付き合ってやるか。

 

「おい、とりあえずあたしの荷物を持て」

「それは弟子入りしていいってことですか!?」

「勝手にしろ」

「ありがとうございます」

 

 セイシンフブキはウマ娘の前に荷物を置いて駅に向かって歩いていく。するとウマ娘は嬉しそうに目を輝かせ荷物を持ちセイシンフブキの後を追った。

 

「そういえばお前名前は?」

「はい、アジュディミツオーです!」

 

 

「意外な展開に出くわしたな」

「全くだ。これは予想できなかった」

 

 アブクマポーロとコンサートガールは一連のやり取りを一部始終見ていた。

 

「これでフブキも少しは救われるかな」

 

 アブクマポーロはコンサートガールに聞こえないように呟いた。

 セイシンフブキの深いダートへの想いと誇りは彼女を孤独にさせた。深すぎる愛と高すぎる誇りは誰にも理解されず周りから人が離れていく。

 だがこうしてセイシンフブキの走りに感化されダートプロフェッショナルへの道を志した若者が現れる。これで1人でなくなった。コンサートガールはこう言った。

 

――――もっと夢のためとか、仲間のためとか明るい要素を持って走れないのかよ。

 

 今のセイシンフブキは芝への憎しみで走っている。だがいずれアジュディミツオーの存在がそれを変えてくる。

 今後芝ウマ娘がダートに挑んできても憎しみではなく、アジュディミツオーが憧れたダートの地位を高めるために、弟子にカッコ悪い姿を見せたくないと考えながら走るだろう。かつての自分のように。

 この出来事によってセイシンフブキは弱くなってしまうかもしれない。だがコンサートガールの言うように憎しみを抱えて走るより良いはずだ、そうあって欲しかった。

 

「コンサートガール、この後どこかで飲もうか?」

「いいね。どうせお前が喋って私が聞き役になるんだろうけど。それで今日は何を喋るつもりだ」

「ダートのあり方、ダート界の今後の未来と展望、そしてフブキの新しい門出を祝して」

 

アブクマポーロは微笑し、コンサートガールはニカっと笑う。2人は夜の府中の街に消えていった。

 

 

フェブラリーステークス 東京レース場 GIダート 良 1600メートル

 

着順 番号    名前       タイム     着差      人気

 

 

1   9   アグネスデジタル   1:35.1         1

 

 

2   12  地セイシンフブキ   1:35.2   クビ    4

 

 

3   2  地ヒガシノコウテイ   1:35.2   ハナ    6

 

 

4   4   ノボトゥルー     1:35.6   2     2

 

 

5   3   トゥザヴィクトリー   1:35.7   1/2    3

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 フェブラリーステークスから数日後。

 トレーナーは自室で自分のノートPCの電源を入れてメールを立ち上げる。

 トレセン学園に向かう前に新着メールを確認するのは日々の日課だ。だが毎日メールが何通も来るわけではなく、時々中央ウマ娘協会や雑誌の取材依頼のメールが来るぐらいだ。

 すると一件新着メールが来ていた。件名が英語で書かれており、少しばかり翻訳するのに苦戦しながらもメールを読み終え安堵の息を吐いた。

 確率としてはほぼ100%とは思っていたがイチャモンをつけられて弾かれる可能性を危惧していた。だがそれは杞憂だったようだ。

 端的に言うとメールにはこう書かれていた

 

―――アグネスデジタル選手をドバイワールドカップに招待いたします

 

 アグネスデジタル、ドバイワールドカップ出走決定

 

 




以上でフェブラリー編は終了になります。

今回は地方対中央、ダート対芝をコンセプトをテーマにして書きました。
地方も中央も芝もダートも走ったアグネスデジタルだからこそのテーマだったと思います。

地方はみどりのマキバオーのサトミアマゾン、ダートについてはたいようのマキバオーのアマゾンスピリットを大いに参考にさせてもらいました。
サトミアマゾンもアマゾンスピリットも本当にかっこいいですよね。

日本ダービーでのアマゾンの「勝負から逃げるなんてそれ以下じゃねえか!」のくだりはかっこよすぎて丸パクリしようかと思いましたが、友人にそれはやりすぎと言われ自重しました。
そしてアマゾンスピリットの「オレたちはオレたちの頂点決めんだろうが!」のくだりのセリフはダートプロフェッショナルとしての誇りを感じる熱いセリフです!

そしてデジタルはいよいよドバイへ!
ドバイ編も現実のドバイミーティングに間に合うようにと書いています


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勇者のサブクエスト#1

ここからIF要素が入っていきます


 チームプレアデスのチームルーム内でカメラのフラッシュが炊かれ、シャッター音が響き渡る。カメラの先の被写体はアグネスデジタルだった。

 服装はトレセン学園の制服や普段のトレーニングウェアでもなく、GIレースの際に使用する勝負服を着装していた。

 そして左手にはUAEの国旗がついたフラッグを持ちカメラから背を向け、その後ろ姿をチームプレアデスのメンバーであるフェラーリピサが写真に撮っていく。

 

「ねえピサちゃん、なんで写真撮ってるの?というより何に使うの?」

「直に分かる。それよりもっと背筋伸ばして胸を張る感じで」

 

 デジタルは言われたとおり背筋を伸ばすと、後ろから数回ほどシャッター音が鳴った。

 フェブラリーステークスが終わり、休息期間が終えてからのトレーニング開始日、デジタルの携帯電話に通知が届く。

 チームプレアデスのグループラインでチームメンバーから「放課後勝負服を持ってチームルームに集合」というメッセージが送られてきた。

 勝負服はGIレースに着る以外は使う事が無いもので、何に使用するのかといぶかしみながらもバッグに服を入れてチームルームに行く。すると勝負服に着替えさせられ写真を撮られていた。

 

「よし、こんなもんか。もう終わったから振り向いて良いよ」

 

 フェラーリピサの指示にデジタルはポーズを解き振り向く、目線の先にはフェラーリピサと話しているチームメイトのライブコンサートが居た。

 

「ピサちゃんにライブちゃんその写真を何に使うか教えてよ。被写体としての権利的な何かで知る権利があると思うんだけど」

「なにそのフワッとした言葉は?まあ悪用しないし楽しみにしておいて」

 

 デジタルの言葉にお茶を濁す。トレーナーなら知っているかと問いただすがトレーナーも知らなかった。なんに使うか知らないが言葉通り悪用されることはないだろう。僅かな不安と大きな期待を抱きながら勝負服からトレーニングウェアに着替えて、トレーニングの準備を始めた。

 

───

 

 季節は3月になり暦上春を迎えるが冬の寒さは一向に衰えず、大半の木々花々は寒さにより花は咲いていない。

 そんななかで梅はちょうど開花時期を向かえ白や薄桃色の花が咲き、冬のコートを着て寒さを凌ぎながらトレセン学園に登校するアグネスデジタルとエイシンプレストンの目を奪う。

 チームルームで写真を撮られた後数日経つがこれといった出来事は起きておらず。デジタルの頭の中から写真を撮られた記憶は薄れ始めていた。

 下駄箱につき室内履きに履き替え教室に向かう。それがいつもの行動パターンであるがプレストンの手が止まる。

 

「なにあれ?」

 

 プレストンは階段近くに貼られている掲示物に目を凝らす。

 階段近くには掲示板のようなものが設けられ、チームの勧誘ポスターや学園行事の報せなど様々なものが掲示されている。その場所には貼られているポスターには見慣れたものが映っていた。

 あの色合いの勝負服にあの姿はデジタルだ。そのデジタルが写っているポスターに文字が書かれている。 プレストンの視力では下駄箱からでは文字が読み取れない、室内履きに着替えポスターに近づくとその詳細が明らかになる。

 ポスターにはデジタルがGIレースで走っている姿が正面から写っている。レース中かゲートに向かう前かは分からないが、普段の生活の時とは違う真剣みある表情を見せている。その写真も良いものだったが印象に残ったのは文字のほうだった。

 

――――真の勇者は、戦場を選ばない

 

 2つの国に10にも及ぶレース場を駆け巡り獲得してきたタイトルのバリエーションは、どんな名ウマ娘の追随を許さない。

 芝とダートの垣根を、そして国境さえも乗り越えて、チャンピオンフラッグをはためかせてきた勇者。貴女が刻んだ空前の軌跡、そのひとつひとつが永遠に輝く。

 

「へえ、かっこいいじゃない」

 

 プレストンは思わず感嘆の声を漏らした。 キャッチフレーズの真の勇者は、戦場を選ばないという言葉が良い。

 ありとあらゆる状況場所でも戦い抜くという力強さと誇り高さのようなものを感じられる。 戦場を選ばないという言葉はデジタルの為にある言葉なのかもしれない。

 

ダート、芝、地方、中央、海外、右回り、左回り、

 

 それらの要素関係なくレースを走り勝利してきた。ここまでのバリエーションで勝ったウマ娘は記憶に無い。その未開のローテションを歩み切り開いた姿は勇者と言っていいかもしれない。

 

(けど、勇者ねえ)

 

 プレストンは勇者と称された友人を見る。 勇ましく凛々しくたくましい正面切って戦い仲間を守るというのがプレストンが持つ勇者のイメージだった。

 ウマ娘ならシンボリルドルフやナリタブライアンなどのイメージがあるが、デジタルにそのようなイメージはない。

 レースではそうかもしれないが、普段の生活で見る姿はウマ娘が好きという欲望に忠実でウマ娘のことを考えてグフフフと笑っている印象が強く、とても凛々しく勇ましいとは思えない。

 

「プレちゃんどうしたのって……何これ!?」

 

 プレストンの後を追ったデジタルもこのポスターに気づき感嘆の声を上げる。

 

「誰が作ったか知らないけど、かっこいいじゃない勇者様」

「勇者なんてこそばゆいな、あっもう1つポスターがある」

 

 このポスターに気を取られて気付かなかったが、もう1つポスターが掲示されていた。これもデジタルが写っていた。

 

 背景は暗く月があることから夜にとったのだろう。それに足元は砂だ。砂漠か何かで撮ったのか?

 中央には勝負服を着たデジタルの後ろ姿が写っていた。左手側には5本のフラッグが砂に突き刺さりはためいている。右手にはUAEのフラッグを持っている。そして「勇者約束の地へ」という文字が記されており、その下にドバイワールドカップの日本時間での日時が記されていた。

 

「どう私たちのヒロイン列伝風ポスター、手前味噌だけどかっこいいでしょう」

「あっ。ピサちゃんにライブちゃん。2人がこれ作ったの?」

「そう。うん。我ながらよくできている」

 

 デジタルが振り向くとそこにはチームメイトのフェラーリピサとライブコンサートが居て自慢げに胸を張っていた。

 

「デジタルがフェブラリーに勝って祝勝会やった後、風呂場でもしデジタルのヒロイン列伝ポスターが作られたらどんなものになるだろうって考えていたの」

 

 ヒロイン列伝ポスターとは素晴らしい成績や人気があったウマ娘達の功績を称えて作成される。

 初代3冠ウマ娘セントライト、2代目3冠ウマ娘シンザン、稀代のアイドルウマ娘オグリキャップなどの偉大なウマ娘のポスターが作られていた。

 

「それで頭のなかで『真の勇者は、戦場を選ばない』ってキャッチフレーズを思いついたの。いや~我ながら良いキャッチフレーズだ。で、創作意欲がムンムン湧いて私とピサでデザインや紹介文的なものを考えて作ったわけ」

「本当にかっこいい。デジタルには勿体無いぐらい」

 

 プレストンの混じりっけのない賞賛の言葉を送り、二人は満更でもないという表情を見せ、さらに胸を張った。

 

「それでこの後ろ姿のあたしのポスターがチームルームで撮ったやつか、でも風景違わない?」

「それは加工した。ドバイワールドカップだから夜の砂漠を風景にしたの」

「そして左の5本の旗はデジタルが勝ったGIで右手のフラッグはドバイワールドカップを取るというのを表現したのかな?列伝風ポスターの文に合わせた感じ?」

 

 プレストンの解釈にフェラーリピサが頷く。まさにプレストンが言ったとおりだった。

 

「それでこれはどういうポスター?」

「これは宣伝ポスターかな。これでデジタルがドバイワールドカップに出ることを知ってもらえるし。この2つは学園中に貼っておいたから。これで有名人だ」

 

 ライブコンサートとフェラーリピサはデジタルに向けて親指を立て、それに対しデジタルは少し恥ずかしそうに頬をかいた。

 

「しかし、そんなに貼っていいの?」

「サイレンススズカが復帰戦やるときだってスピカのメンバーが告知ポスター貼っていたって話でしょ、こっちだって貼っていいでしょ」

 

 プレストンは公共のスペースを独占する事に難色を示したが、フェラーリピサとライブコンサートは平然と答える。前例があるのならやってもかまわないという考えだった。

 

「ありがとうフェラーリちゃん!ライブちゃん!こんなかっこいいポスター作ってくれて凄く嬉しい!」

 

 デジタルは二人に満面の笑みを浮かべながら手を握ってブンブンと上下に振り回す。その笑みに2人は苦労が報われたような気がしていた。

 

「ねえデジタル、このポスターを作ったのはネットとかで話題になって私達の承認欲求が満たされればな~とかいう考えもあるんだけどさ。それにアンタのことをもっと知ってもらいから作ったの」

「GI4連勝ってだけで凄いのにさ、南部杯、天皇賞秋、香港カップ、フェブラリーステークスって地方ダート、中央芝、海外芝、中央ダートってめちゃくちゃなローテで勝っちゃうんだから、もう凄いを通り越して笑っちゃうよ」

 

 フェラーリピサとライブコンサートはお互い顔を見合わせて思わず笑みをこぼす。

 

 最近のウマ娘はダートのスペシャリスト、マイルのスペシャリスト、中距離のスペシャリストとそれぞれのテリトリーで走り専門性が高まっている。

 それだけにそれぞれのテリトリーのレベルは高くなっていることを実感していた。だがデジタルはそのテリトリーにあっさり侵入し、その分野のレースに勝っていく。

 その凄さと異能さはレースに走るウマ娘であるからこそ理解できる。この成績は世間が思っている以上に難易度が高い、だがそれに対してデジタルへの評価は高くないと感じていた。

 

──それはおかしい、我がチームの勇者は凄い!

 

 ならばデジタルの知名度を上がればこの偉業への評価も変わってくるだろうと考え、その一環としてポスターを作ったのだった。

 

「単純に言えばさ、3冠ウマ娘は数人居るけどこのローテを全部勝ったウマ娘はデジタル以外ゼロでしょ。ということは3冠ウマ娘より凄いってことじゃない」

「確かに、そしたら国民栄誉賞もらえるかも。デジタル選手、国民栄誉賞をもらっての感想をお願いします」

 

 2人は突如リポーターの真似をすると、デジタルもそのノリに応じてインタビューに答えてふざけあう。

 

「でも待って、3冠に挑んだウマ娘はそれこそ数百数千いるけど、デジタルのローテに挑んだのは恐らくゼロ。分母の数が違いすぎるから比較できないんじゃない」

「言われてみるとそうだ」

「それにこの走りも変態、性根も変態のウマ娘を公共の電波に出したら放送事故になるか」

「放送事故ってそれ酷くない!」

 

 プレストンの意見にフェラーリピサとライブコンサートは自分の考えを改める。それに 抗議するデジタルの様子に3人は思わず笑う。そして4人は暫く談笑すると教室に向かった。

 

 フェラーリピサとライブコンサートが作ったポスターは多くの学園にいるウマ娘の目に触れられることになる。

 作ったポスターをネット上にあげるとデザインの良さは話題になり、特に列伝風ポスターは大きな反響を呼ぶ。

 そしてデジタルの引退後2人が作ったものが正式にヒロイン列伝に採用されることになったのは後の話である。

 

 

───

 

 白く塗装された壁は若干黒ずみ、床も所々汚れが目立っている。これは掃除をしていないというわけでもなく、長年使用され続けたことにより生じたもので業者を呼ばなければ取れないレベルになっていた。

 だが業者を呼ぶ金もなく、使用するのに支障はないと放置されている。そして部屋の中央には安い木の長机と7人分のパイプ椅子があった。そのパイプイスに2人のウマ娘が座り、机にスクールバッグを置いた。

 

 1人は栗毛のツインテールを赤いリボンでまとめたウマ娘、もう1人は鹿毛の髪に一部が白色のウマ娘だ。栗毛がダイワスカーレット、鹿毛がウオッカ。チームスピカのメンバーである。

 

「そういえばあのポスター見た?」

「見た。オレもGI勝ちまくってかっこいいポスター作られてえな」

 

 2人は今日目撃したアグネスデジタルのポスターを話題にする。ライブコンサートとフェラーリピサが学園中に貼ったというだけあって学年が違う2人の目にも止まっていた。

 

「特にあの『真の勇者は、戦場を選ばない』ってキャッチコピーが痺れるぜ、なあスカーレット、もしポスター作られるならどんなキャッチコピーにする?」

「そうね『明日も、緋色の風が吹く』なんてどう?」

「おっ、スカーレットにしてはまあまだな」

「何よ、まあまあって!じゃあウオッカは何にするの?」

「オレは『その強さに、心酔』だな、どうだカッコいいだろう!」

「アンタにしてはまあまあね。どうせキャッチコピー負けしそうだけど」

「なんだと!」

 

 お互いイスから立ち上がり机をはさんで手四つの状態になる。これは本気で争っているわけではない。お互いライバル視しているが故にこのような小競り合いはしょっちゅうである。

 

「あたしは『史上最強ゴルシちゃん』だな」

「何ですかその恥ずかしいキャッチコピーは」

 

 すると2人の葦毛のウマ娘がチームルームに入室する。ゴールドシップとメジロマックイーンである。二人もスカーレットとウオッカの小競り合いを見ながら同じようにパイプイスに座りスクールバッグを机に置いた。

 

「じゃあマックイーンは何にするよ?」

「そうですわね。『メジロの誇りを胸に優雅に舞う』かしら」

「だっせ」

 

 ゴールドシップはマックイーンの言葉を一言で切り捨てる。マックイーンもこいつには言われたくないと掴みかかりそうになるが懸命に抑える。

 

「みんな盛り上がっているみたいだけど、何話しているの?」

 

 チームルームに鹿毛の髪の小柄なウマ娘が明朗な声を発しながら入室する。彼女はトウカイテイオーである。 

 テイオーはイスに座ると会話の輪に入っていく。その明るい雰囲気にマックイーンは毒気が抜かれゴールドシップに対する怒りは失せていた。

 

「ごきげんようテイオー、もしヒロイン列伝を作られるならどのようなキャッチコピーにするかという話題ですわ」

「僕なら『帝王は皇帝を超えた』だね!絶対会長と同じように、いやそれ以上のウマ娘になるんだ!」

「じつにテイオーらしい回答ですわ」

 

 トウカイテイオーは鼻息荒く高らかに宣言する。マックイーンはその言葉に予想通りといった表情を見せる。テイオーがシンボリルドルフに強い憧れを抱いているのは公認の事実であった。

 

「お疲れ様です!」

「お疲れ様です」

 

 さらに2人のウマ娘が入ってくる。元気よくあいさつしたウマ娘がスペシャルウィーク、物静かにあいさつしたのがサイレンススズカである。二人が入室すると部屋にいた5人の話題はスペシャルウィークとサイレンススズカのキャッチコピーの話題になっていた。

 

「スペ先輩につけるなら何だろう?」

「これなんてどうだ『王道を歩み続ける強さ』」

「いいじゃん。スペちゃんはクラシックと古ウマ娘中長距離王道を皆勤して好成績を収めてたもんね」

「じゃあスズカ先輩は?」

「『異次元の逃亡者』とか『スピードの向こう側の住人』とかどうかしら」

 

 5人は話に熱中するなかスペシャルウィークとサイレンススズカはその様子を眺めていた。

 

「何の話をしているかわかりませんが皆楽しそうです」

「そうねスペちゃん。でもチームルームで皆のやりとりを見ていると落ち着くわね」

「はい、心がポカポカします」

 

 チームメイト達が賑やかに喋る光景、それは日常でありとても心地いいものだった。そしてチームメイト達は家族のような存在だった。

 

「そういえばスペちゃんの次走は何?やっぱり王道路線の大阪杯?それだと一緒に走れるわね」

「えっと……その……」

 

 スズカの言葉にスペシャルウィークは口ごもる。その様子をいぶかしんでいると、またまたチームルームに入室してきた。

 

「楽しそうにお喋りするのもいいが、練習の準備を始めろよ」

 

 入室してきた人物は黄色のシャツを着た男性である。彼はスペシャルウィーク達が所属しているチームスピカのトレーナーだ。

 

「まあ全員揃っているなら丁度良い、今後の日程について話すぞ」

 

 トレーナーはホワイトボードを皆の中心に持ってくるとボードに書き始め、全員がボードに視線を向ける

 

「まずはスカーレットとウオッカはクラシック路線でチューリップ賞から桜花賞と考えている。まあ王道路線だな」

「おいスカーレット、別にチューリップ賞じゃなくてフィリーズレビューやフラワーカップに回避してもいいんだぞ。チューリップ賞でぶっちぎりで勝って格付けを済ませるのも可哀想だし桜花賞まで待ってやるよ」

「冗談!逃げるのはアンタよ!」

「やる気があるのはいいがレースにとっておけよ」

 

 2人は額を合わせながらにらみ合いを開始するがいつも通りとトレーナーは間に割って入り淡々と処理する。

 

「そしてゴルシとマックイーンは阪神大賞典から天皇賞春のローテだ」

「楽勝だな、軽くとってやる」

「させません。再び盾をメジロ家に持ち帰ってみせますわ」

 

 ゴールドシップは挑発的にマックイーンに話しかけるが、それに応じることなく冷静に受け流す。

 

「それで今年からGIになった大阪杯にはスズカとテイオーが出る」

「悪いけど会長に並ぶ為に勝たせてもらうよ」

「私も負けません」

 

 テイオーの不敵な笑みに、サイレンススズカも同じような笑みを見せた。

 

「あれ?スペちゃんは?阪神大賞典にも大阪杯にも出ないの?じゃあ日経賞?」

「いや、そのどれでもない。スペ、オファーが受諾されたぞ」

「はい」

 

 トレーナーの言葉に頷く、その声の声色と所作は力強く何か決意を秘めているようだった。

 

「スペの次走は、ドバイの芝2400のドバイシーマだ」

 

 トレーナーの声に一同は驚きの声を上げる。

 

「どういうことスペちゃん!?」

「スペ先輩ついに海外デビューですか!?」

「マジっすかスペ先輩!?」

「お土産はラクダでいいぞスペ」

 

 矢継ぎ早に質問を受けその勢いと数の多さはスペシャルウィークの処理能力を上回り、質問に答えられず気圧されていた。

 そしてサイレンススズカは困惑の表情を向けていた。質問に対する歯切れの悪さはこのことだったのか。大阪杯というGIの舞台で、親しいルームメイトと一緒に走れることを楽しみにしていただけに落胆は大きかった。

 するとトレーナーが間に入ってくれたおかげで質問攻めから逃れたスペシャルウィークはサイレンススズカに向けて頭を下げる。

 

「ごめんなさいスズカさん。黙って次のレースを決めてしまって。本当はスズカさんと走りたいです。でもそれ以上に強くなってスズカさんに勝ちたいんです。ですからもっと強くなる為にはとトレーナーさんと相談して、海外で走ることに決めました」

 

 真剣に話すスペシャルウィークが発するシリアスな雰囲気に、さきほどまでの賑やかな空気は鳴りを潜めていた 。

 サイレンススズカはそのスペシャルウィークの姿を黙って見つめる。

 強くなる為に海外で走る。その感覚はサイレンススズカには理解できるものであった。以前アメリカに長期遠征をしたが、未知の環境で走る事で心身ともに強くなれたという感覚を抱いていた。

 ルームメイトが己に勝つために鍛え牙を研ごうとしていることは複雑な気持ちでもあった。

 親しい友人が牙をむこうとしていることへの悲しさ。だがそれ以上に嬉しくもあった。

 大切な友人でもありそしてライバルでもあると思っている。そのライバル全力で挑もうとしている。

 

「わかったわスペちゃん。ドバイのレース頑張ってね」

「はい!頑張ります!」

 

 サイレンススズカは頭を下げ続けるスペシャルウィークの肩に手をそっと置き、優しく語りかける。スペシャルウィークは嬉しそうに返事をした。

 

「え~スペちゃんは大阪杯でボクと走りたくはないってこと」

「いや……そういうわけではなくて……」

「いいよ、スペちゃんがスズカのことが大好きだってことは知っているし、そのかわり宝塚で走ろうよ。ぶっちぎってあげるから!」

「いいえ、大阪杯も宝塚も私が勝ちます」

「よ~し、じゃあオレも桜花賞とオークス勝って宝塚に出る」

「は?何言っているの!私が桜花賞とオークスに勝って出るのよ」

「宝塚の優勝レイもメジロ家に持ち帰りますわ」

「なあスペ。ラクダの唾液には日焼け効果が有るらしいぞ」

 

 重苦しい空気は一転していつもどおりの賑やかな空気に戻っていく。トレーナーはそれを満足げに眺めていた。そして賑わいのなかふとゴールドシップが呟く。

 

「おいスペ、お前ドバイに行くってことはあのド変態と一緒ってことじゃねえか、あれだよ、あれ。ポスターに貼られていた」

「アグネスデジタル?」

「そう、それだよ」

 

 マックイーンの言葉にゴールドシップは手を叩き頷いた。

 スペシャルウィークのアグネスデジタルへの印象で一番強いのは去年の天皇賞秋のレースだった。

 直線で1人大外に出して埓沿いを走りテイエムオペラオーとメイショウドトウを撫で切ったあのレース。鼻血を出しながら何とも楽しそうに走るその姿は印象に残っている。

 

「でもポスターに勇者なんて書かれている人が変態?そんなわけねえだろ」

「勇者と変態なんて真逆じゃない」

 

 ウオッカとダイワスカーレットがゴールドシップの言葉に反論し、スペシャルウィークも内心で頷く。ポスターで見た表情は引き締まっており、自身のイメージの挙動不審で緩んでいる感じの変態像とはかけ離れていた。

 

「まあ聞け、アグネスデジタルはうちのトレーナーみたいにふくらはぎや太ももを触るなんて変態初心者とはレベルが違うらしいぞ」

「おいゴルシ、俺は変態じゃない」

「女の体を無断で触る奴のどこが変態じゃないんだ」

 

 ゴールドシップの言葉に一同はトレーナー方向を向き視線で肯定する。トレーナーも否定しようとしたが事実であるがゆえに反論できない。そして話を続ける。

 

「奴は視姦してくる。じっくり舐めまわすように見つめ、その視線の気色悪さで精神がやられちまうんだ。そのせいでウラガブラックも休養に追い込まれ、香港で走った奴はトラウマを植えつけられ引退に追い込まれたとか」

「まじかよ…」

「スペちゃんドバイ行くのやめたほうがいいよ……」

 

 ゴールドシップの言葉を聞きスペシャルウィークとトウカイテイオーとウオッカは思わず唾を飲む。

 なんという悪魔的所業、そんな危険人物が野放しになっていることに恐怖を感じていた。

  今言ったゴールドシップの言葉の情報ソースはネットでおもしろおかしく書かれたことや、日付しか合っていないと揶揄されるスポーツ新聞から得たものであり、事実無根である。

 少し冷静に考えればそんなことはないと分かるはずだが、ゴールドシップのその場を見てきたかのようなリアリティがある口調はよく言えば純粋、悪く言えば猜疑心が足りないスペシャルウィーク、そして物事を深く考えないウオッカとトウカイテイオーを信じさせるには充分な効果を発揮していた。

 一方サイレンススズカとメジロマックイーンとダイワスカーレットのスピカの中では比較的に思慮深いメンバーはその言葉を眉唾だと言わんばかりに疑いの目を向けていた。

 

「そんなわけないでしょウオッカ、そんなの誰かが面白おかしく言っているだけでしょ」

「でも最近廊下でグフフフって気味悪い笑い方奴がいたじゃん。そういえばあれ思い出してみるとアグネスデジタルだったぞ」

 

 ダイワスカーレットはウオッカの言葉を頼りに記憶を遡る。

 あのグフフフと気色悪い笑みと笑い声をあげていたウマ娘。すれ違った瞬間悪寒が走ったのをよく覚えている。

 そういえばピンクの髪に赤いリボンだった。その姿は今日見たポスターのアグネスデジタルの姿だった。それだったら変態と言われていても頷ける。

 ちなみにダイワスカーレットとウオッカが見た光景はデジタルがサキーのことを考えて妄想し思わず笑みを浮かべた光景だった。

 

「スペ先輩!あの人に関わったらダメです!ドバイ行くのやめましょう!」

「どうしたのですスカーレット、貴女あの与太話を信じるのですか?」

「嘘じゃない本当なの!」

 

 ダイワスカーレットは突如怯えるようにしてスペシャルウィークに辞退を勧めた。

 その変化にメジロマックイーンとサイレンススズカは思わずお互いの顔を見る。

 あの3人なら兎も角ダイワスカーレットが信じるなら本当なのか?2人のなかでゴールドシップの与太話に信憑性が帯び始めていた。するとメジロマックイーンはあることを思い出す。

 

「そういえば聞いたことがありますわ。アグネスデジタルは天皇賞秋の時にテイエムオペラオーとメイショウドトウのイメージ像を脳内で作り上げて走り、あまりに精巧過ぎてゴールを通過しても自身が1着ではなく先に走っていたイメージ像のテイエムオペラオーとメイショウドトウが1着と2着で自分は3着だと言っていたと」

「まじかよ…クスリでもやってるんじゃねえの?」

「ウマ娘協会はドーピング検査をちゃんとやっていないんじゃない?」

「病院行ったほうがいいよそれ」

 

 メジロマックイーンの言葉に一同は震え上がり、話のきっかけを作ったゴールドシップすら引いていた。この瞬間スピカのなかでアグネスデジタルは変態のヤバイ奴という認識になった

 

「スペちゃん、ドバイに行くのやめましょう」

「だだだ大丈夫ですスズカさん!私は海外に行って強くなります!」

「スペ先輩めっちゃ震えているじゃないですか!?」

「これは……武者震いです!」

「アグネスデジタルと2人きりのスペ、その舐め回すような視線がスペを襲う……」

「おやめなさいゴールドシップさん。スペシャルウィークさんの震えがさらに増していますわ」

「いい加減にしろ!」

 

 スピカのメンバーが騒ぐなかトレーナーが少し声を張り上げる。その声でメンバーは話をやめ静かになる。それを見計らって話し始める。

 

「そんなのデタラメに決まっているだろ。なんだよ変態過ぎて再起不能になるって、白さんが育てたウマ娘がそんなド変態なわけがないだろう。どうせゴルシがテキトーな情報を掴んだだけだ」

「おお、変態がド変態を庇っている」

「うるさいぞゴルシ、それより早く練習に行った行った」

 

 トレーナーはメンバーの背中を押しチームルームから退出させようとし、それに応じるように退出していく。

 

「全く。仮にアグネスデジタルがド変態だとしても、あの白さんがそんなド変態を野放しにするわけないだろ。ないよな……」

 

 トレーナーは携帯端末を取り出し、アグネスデジタルが所属しているチームプレアデスの予定を確認する。

 

「そんなわけはないが、そんなわけはないが……確認するにこしたことはないよな」

 

 トレーナーはチームルームから出ると自転車に乗りチームプレアデスが練習している場所に向かってペダルを漕ぎ始めた。




JRAのヒーロー列伝かっこいいですよね。
特にキャッチコピーはどれも素晴らしく、見たことない方は是非見ていただきたい。


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勇者のサブクエスト#2

 トレセン学園にある栗東寮から離れた空き地、そこは手入れがされていなく、地面にところどころ雑草が生えている。

 そして人が通ることは少なく、夜では寮に続く道を照らす街灯が唯一の光源になりその光は弱い。その微かな光にエイシンプレストンが映し出される。直立不動の姿勢で目を閉じて静かに息を吐く。

 

 吸って吐いて吸って吐いて。

 

 そして3回目の深呼吸と同時に目を開き右手に持っていた物を動かす。短い棍棒2つを鎖で繋いだ武器、ヌンチャクである。

 プレストンはゆっくりとしたヌンチャクワークから徐々にスピードを高めていく。右肩から右脇を通り左肩から左脇へ高速で動くヌンチャクは、素人ではどう動かしているかわからないものだ。

 ヌンチャクを操作するプレストンの10メートル前にアグネスデジタルが現れ、手にはバケツを持っており中から何かを取り出す。

 その両手には球体のような物体を持っており、全力でプレストンに投げつける。球体が体に当たる瞬間、ヌンチャクで球体を弾き飛ばす。すると球体は破裂し液体が体を濡らした。

 デジタルはそれを見ると2球目3球目と次々と球体を投げつける。その球体のうち2つはヌンチャクで撃墜されるが、最後の1つはプレストンの腹にぶつかりポトリと足元に落ちた。

「1つミスしたか。残りの水風船を投げて」

「わかった。いくよ~」

 するとデジタルは水風船を取り出して振りかぶり全力で投げつけた。

 それは年が明けて少し経った頃、デジタルとプレストンの部屋にプレストン宛に宅配便が届く、その中身はヌンチャクだった。

 プレストンが見た香港のアクション映画で、主役が巧みにヌンチャクを操り敵を倒していくシーンがあり、目を輝かせて見ていたのをデジタルは覚えていた。

 きっとそのアクション俳優に憧れ購入したのだろう。デジタルも好きなウマ娘の人形や勝負服のレプリカなどを購入していたので気持ちは理解できた。

 次の日からヌンチャクを部屋の中でアクション俳優のように振り回し始める。だがその技術は拙くヌンチャクはすっぽ抜けてデジタルの私物を破壊していく。それを悪く思ったのかプレストンは次の日から外でヌンチャクの練習をし始めた。

 ここ最近プレストンは香港に傾倒しすぎている気がする。ヌンチャクを購入したきっかけの映画も香港の映画だった。

 これでは香港製と言われればどんな物でも買ってしまいそうな勢いだ。だが聡明でありそういった詐欺には引っかからないだろうし、このマイブームも一過性のものであると思っていた。

 だが練習は毎日行われ、ふと様子を見てみると見間違えるほど上達していた。そしてある程度ヌンチャクを扱えるようになったプレストンは第2段階として投擲物をヌンチャクで弾く練習をし始めた。

「今の水風船で終わりだよ」

「わかった」

 プレストンはヌンチャクを地面に置くと空手の型のような動きを始め、デジタルは地面に座りながらそれを眺める。

 これはとある香港のアクションスターが作り上げた武術の型らしく、これもヌンチャクの練習を始めた頃から並行してやり始めた。最近はトレセン学園の近くの道場に通っているそうだ。

「プレちゃん、上手くなったね」

「わかる?自分でも上手くなっているのを実感している」

 喋りながら型の動きをする。最初のぎこちない動きに比べれば動きが洗練されてきている。そして一通りの練習を終えると、デジタルの元に近づき持ってきたタオルで汗を拭きながら隣に座る。

「しかしプレちゃんがここまで影響を受けやすいと思わなかったよ」

「いや、あたしもレースに勝つために何か新しいことしなきゃなって思っていたところに映画を見てさ、それで試しにやってみたらハマっちゃった」

 プレストンは自分でも驚いていると他人事のように語る。しかしここまで香港文化に熱中するとは思わなかった。きっと前世で相性でも良かったのだろうと突拍子の無い考えが頭に過ぎっていた。

「うん?レースに勝つために新しいことをやる?どういうこと」

「ずっとレースのトレーニングばかりしていたら凝り固まるというか、視野が狭まるというか。何か全く関係ないジャンルから新しい要素を取り入れれば、速くなれるかもしれないって考えてさ、あれよ、ガラス拭きをしていたら実は防御の練習になっていた的なやつ」

「それでヌンチャクと武術の練習なんだね。それでレースの役に立っているの?」

「たぶん……」

「そこは言い切ろうよ」

 デジタルは軽くツッコミを入れる。だがきっかけは何であれ新しい趣味を見つけ楽しそうだ。それに趣味なんて役に立つ立たないでやるものではない、楽しいからやるものだ。

「新しいことか…」

「デジタルも悩んでいるの?」

「あたしもプレちゃんと同じように何か劇的で新しいことしなきゃサキーちゃんに勝てないかなって」

 デジタルは思わずため息を吐く。ドバイワールドカップに向けてトレーニングは積み、スパイク蹄鉄と土に慣れる練習も行っている。

 できることは最大限やっているつもりだが、それでも足りないという漠然とした予感があった。それをトレーナーに伝えたが、気持ちは分かるが今は地道に練習していくしかないと言われた。

 確かにそうだ。そんな方法があればトレーナーがとっくに気づきやっているはずだ。無意識の焦りが近道を求めているのかもしれない。だがそれでもなにかしなければならないという焦燥感だけが募っていた。

「よし!帰ってウマ娘ちゃんの映像でも見て気分を変えよ!今日はプレちゃんも付き合ってね」

「今日もでしょ。いいわよ、こっちも付き合ってもらったから」

 デジタルは気持ちをリセットするかのように声を張り上げ部屋に帰る、プレストンは道具を片付けて後についていく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「今日はどのウマ娘ちゃんを見ようかな~」

 部屋に帰ったデジタルはどのウマ娘を見ようか、自分のPCに入っているウマ娘ファイルを物色していた。いつもならどのウマ娘を見ようかと直感で決められるのだが、今日は決められなかった。

「プレちゃん、1から99のなかで好きな数字を言って」

「何唐突に、じゃあ75」

「次は1から12」

「5」

「次は1から5」

「5」

「えっと75、5、5っと」

 デジタルはプレストンの言った数字をもとに自身のウマ娘ファイルを検索していく。自分で決められないなら他人に決めてもらう。指定された数字は西暦の下二桁と月とその週を決める数字だった。そしてその数字から検索されたレースは75年の5月の第5週のレース。

「75年の日本ダービーか、ということはカブラヤオーちゃん。いいよねカブラヤオーちゃん!」

「カブラヤオーか、名前は知っているけど詳しくは知らないのよね」

 デジタルはファイルを開き、レース映像が再生されるとプレストンもPCに近づき肩を合わせてレースを見始めた。

「やっぱり映像古いな、というより何人立て?」

「この当時は28人立てらしいよ」

「28人!?昔の人は大変ね」

「そう?それだけ多くのウマ娘ちゃんが見られると思えばラッキーじゃん」

「そう思うのはアンタだけよ」

 プレストンは思わずため息をつく。人数が増えればその分だけ各ウマ娘の思惑が絡まりレースは複雑になっていく。

 さらに勝つためのポジション取りも熾烈さも増す。その労力と苦労を考えただけで気が滅入る。だがデジタルにとってそれは苦労ではなくご褒美だった。

「それに芝もボコボコ」

「当時は造園課の技術も今と比べると発展途上だったみたい」

 レース画面では28人のウマ娘が通り過ぎると芝はめくりあがり、ダートを走ったかのように砂煙が立ち込めている。

 現在では造園課の技術の進歩により、ウマ娘の強靭な脚力で踏みしめても芝がめくれることはないが、当時はそうではなかった。

「おお逃げ切った。でもカブラヤオーもそうだけど走っている全員ヘロヘロじゃない。もの凄いタフなレースだったのね」

「前半の1000が58秒6で1200が71秒8だったみたい」

「58秒6に71秒8!?このバ場で!?」

 プレストンはその数字を聞き驚愕で目を見開く。最近の日本ダービーの1000メートルの平均が大雑把にまとめて60秒、1200メートルが73秒ぐらいである。それを当時のバ場で58秒6は恐ろしい程のハイペースと言える。

「それはフラフラになるわ、でも最後まで並ばせないなんて凄い根性ね」

「う~ん、根性とはちょっと違うみたい」

「どういうこと?」

「カブラヤオーちゃんは幼少期に色々あって人ごみで走るのが苦手になっちゃって、レースでもとにかくウマ娘ちゃんと離れたかったんだって」

「だから逃げの戦法をとっていたのね。怖いから逃げる、それで物凄く強い。面白い人」

「あたしもそういう趣味は無いつもりだけど、このカブラヤオーちゃんの怯えながら逃げる表情いいよね~それに他のウマ娘ちゃんのハイペースに巻き込まれながらも懸命に走る姿もそそられる!」

 デジタルは興奮がある一定のラインに達し妄想の世界に突入する。

 怖い物凄く怖い、でも愛する人達に勝利を約束したから頑張って走る。家族、トレーナー、友達。うんベタだが良いシチュエーションだ。

 そして他のウマ娘が迫り来る恐怖に立ちすくむのではなく、逃げる力に変えてゴールに突き進む。逃げる力?逃げる力……

「これだ!」

「キャッ!急に大きな声を出さないで」

 プレストンは妄想の世界に突入したデジタルを生暖かい目で眺めていると、突然の大声に反射的に悲鳴をあげてしまう。

「これだよプレちゃん!あたしがやらなきゃいけない新しいことだよ!」

「ちょっといきなり結論に飛ばないで順序建てて説明して」

「あっそうだね。まずドバイでは天皇賞秋での走りを使おうと思うの」

「ああ、あのトリップ走法ね」

 デジタルが天皇賞秋でオペラオーとドトウの精巧なイメージを脳内で作り上げ、自分の前に置くことで追いつこうと勝負根性を発揮させた。

 その話をデジタルから聞いたプレストンは麻薬を摂取した人が幻覚を見ることをトリップすると言うので、トリップ走法と呼んでいた。

「あれはオペラオーちゃんとドトウちゃんに引っ張ってもらう感じなんだよ。2人を追いかけるイメージ。それにカブラヤオーちゃんのように、怖いものから逃げる力を加えるの!」

 プレストンはデジタルの持論を頭のなかで整理する。恐らく火事場の馬鹿力を使うと言いたいのだろう。

 人は緊急事態に直面した時に普段脳で制限をかけているリミッターが外れ信じられない力を発揮する。それを俗に火事場のバ鹿力と言う。

 レース中にそんな命に関わることは起こるわけがなく、火事場のバ鹿力を使うことはできない。

 だがオペラオーとドトウの精巧なイメージを作り上げ、そのイメージが自分より先着すれば負けてしまったと思い込めるような妄想力、いや死に直面するようなシーンを想像できるかもしれない。

「それで何を想像するの?」

「フェブラリーステークスの時のヒガシノコウテイちゃんとセイシンフブキちゃん」

 

 嬉々と話していたデジタルの表情が真顔になり僅かばかし青ざめ、プレストンはその意味を察する。

 デジタルのことだ、追いつかれたら怪物に食べられるとかもっと妄想チックなイメージをすると思っていたが、予想以上に現実味があるイメージだ。

 フェブラリーステークスで感じた恐怖については聞いていて、映像で確認したら今まで見たこともない表情をしていた。

 

「あれは本当に怖かった……」

 

 デジタルは当時を思い出し僅かに唇を噛み締める。フェブラリーステークスで感じた恐怖と悪寒、あれは恐ろしかった。

 その恐怖に屈し途中で寄れて萎縮してしまった。だが今度はその恐怖をカブラヤオーのように恐怖から逃げる力に変える。

 

「あたしは反対だな。今のトリップ走法で良いと思うし、失敗したら体が萎縮して火事場のバ鹿力どころか普段の力も出せなくなる」

 

 プレストンはデジタルのアイディアを否定する。その方法が成功すれば大きな力になるだろう。

 だがその想像した恐怖を逃げる力に変えられず、恐怖に呑み込まれてしまったら?それは逆効果になることはわかりきっている。

「分かっているよ。でも白ちゃんが差は5バ身もあるって言っていた。新しいことを、リスクをとらなきゃサキーちゃん追いつけない。サキーちゃんに勝てない」

 

 デジタルは自分の意志を固めるように言葉を紡ぐ。リスクは重々分かっている。それでも今の自分は挑戦者だ、何も賭けずリスクを負わずに望んだ結果を得られるわけがない。

 

「さすが勇者様ね」

 

 プレストンは予想通りと言わんばかりに笑みを見せる。挑む相手は世界一だ、その相手に挑むのであればリスクを負うのは当然のことである。

 デジタルと比べれば安定を求める性格のせいか野暮な発言をしてしまった。

 その後2人はカブラヤオーの映像をしばらく見て、切りのいいところで就寝した。

 

──

 地方所属のウマ娘達はどこでトレーニングをしているのか?

 中央のウマ娘達は広大な敷地を保有しているトレセン学園ならば、ポリトラックやウッドチップなど様々コースで充実したトレーニングを行える。

 だが地方ではトレセン学園のような施設を保有しておらず、野外でおこなうか各地方ウマ娘協会が保有しているレース場でトレーニングをおこなう。

 3月になったことで気温も暖かくなり、さらに今日は一段と暖かい。船橋レース場も例外ではなく5月上旬並みの気温だった。

 コース前に、身長170センチ台で黒髪のベリーショートで三白眼のウマ娘は、顔を顰めながらトレーニング前の準備運動をしていく。彼女の名はセイシンフブキである。

 フェブラリーステークスから1週間が経ち、レースの疲労を抜くことを優先してトレーニングは行っていなかった。

 その結果疲労は抜くことができたが、その代わり体のキレが落ちている。トレーニングを開始して数日が経ったが未だにキレは取り戻せず、そのことを今日の準備運動の段階で感じ取っていた。

 だが焦ることはない。次のレースに出走予定のGIかしわ記念は数ヵ月後だ。その間に体のキレを取り戻しピークに持っていけばいい。

 セイシンフブキは逸る気持ちを押さえ込むように入念に準備運動をしていく。

 芝ウマ娘のアグネスデジタルに負けたことでダートの価値を下げてしまった。それは悔しく屈辱的なことであるが過去には戻れない。

 自分がなすべきことは鍛え上げ、デジタルの勝利に影響されダートに乗り込んできた芝ウマ娘からダートを守りぬくこと、そして今年のダートGIをすべて取り来年は自分がドバイに行き勝利しダートの価値を上げることだ。

 

「フブキ師匠!準備運動終わりました。早くトレーニングをしましょう」

「ダメだ、終わってない。お前もまだやれ」

 

 するとセイシンフブキの隣で準備運動していた黒髪に白のメッシュが入ったウマ娘が、待ちきれないとばかりに急かすがそれを却下し、そのウマ娘は少し肩を落としながら準備運動を続行する。

 彼女の名はアジュディミツオー、セイシンフブキが走ったフェブラリーステークスに感動し一方的に弟子入りし、今はトレーニングをともに行っている。

「今日も船橋でひたすら走るんですか?他の皆はウェイトとかなんか色々やっていますよ」

「嫌なら帰れ。それにダートの走り方を真に理解していないのに他のことをするのはバカのすることだ。」

「生意気言ってすみませんでした」

 

 セイシンフブキは厳しい声色で返答し、アジュディミツオーは勢いよく頭を下げた。ダートに必要な要素はダートを走ることでしか身につかない。それが持論だった。

 そしてダートの完璧な走りは存在し、それを自身は会得していないと感じていた。それなのに他のことをするのは有り得ないことだった。

 そして入念に準備運動をおこないトレーニングを開始しようとした時思わぬ形で遮られる。

 

「お~い、セイシンフブキちゃん!」

 

 聞き覚えなのない声が呼びかけてくる。セイシンフブキとアジュディミツオーは声の主の正体を確かめるために後ろを振り向く。

 アジュディミツオーは数秒間その人物を見つめ、誰だが思い出したのか手を叩き指差す。そしてセイシンフブキは苛立ちを表すように舌打ちを打つ。

 あのピンク髪に赤いリボン、忘れるはずもない。あれはアグネスデジタルだ。勝負服ではなく私服を着ていたので一瞬誰だかわからなかった。だが何の用だ?2人は駆け寄ってくるデジタルを注視する。

 

「ここに居たんだね。こんにちはセイシンフブキちゃん」

「何のようだ?」

「ちょっとお話を聞きにきたよ」

 

──

 

「う~ん、なんか違う……」

 

 デジタルはベンチに座りながら空を仰ぎ唸り声をあげる。空は雲一つない快晴だがその心は澱んでいた。

 カブラヤオーのレースから着想を得た翌日からさっそく試してみた。

 だがいくらやっても、フェブラリーステークスの時に感じた寒気と威圧感を再現することができなかった。

 2人はレース前までにどのように過ごし、レース中に何を思えばあの威圧感を出せるのか全く想像できなかった。

 何か情報を知ればわかるかもしれないと、資料集めに奔走するが、地方ウマ娘の情報は中央のウマ娘に比べて質も量も少ない。簡単なデータは調べられてもパーソナルな深い情報は得ることができなかった。

 オペラオーとドトウを再現した時のように、トリップ走法をするためには詳細な情報は必要不可欠である。

 そして情報を得られないということは、新しい要素を取り入れるためには大きな壁だった。だがデジタルはその壁を打開する方法をあっさりと思いつく。

 

 知りたい情報がないなら自分で直接話を聞けばいい。

 

 善は急げとばかりに行動を起こす。トレーナーから数日ほど休みをもらうと、船橋レース場近く向かう電車に飛び乗った。

 

「聞きにきた?何をだ?」

「全部かな。セイシンフブキちゃんが今までどんな体験をしてきて、フェブラリーステークスの時は何を思って走っていたのかとか色々。お願い教えて!」

 

 デジタルは上目遣いで手を合わせながら懇願し、セイシンフブキはその様子を見下ろしながら冷淡に言い放つ。

 

「いやだ。お前に教えることなんて何一つない」

 

 セイシンフブキはアグネスデジタルのことが嫌いである。芝ウマ娘でありながらダートの世界に侵入してくる敵と言っていい存在だった。そんな敵に教えることなど何一つなかった。

 

「え~そんなこと言わないで教えてよ」

「いやだ」

 

 デジタルは縋り付くように懇願するがセイシンフブキは一蹴する。

 フェブラリーステークスで負けたのは、自分が弱かっただけということはわかっているが、それでも勝った相手に友好的に接せられるほど大人ではなかった。

「お願い教えて!どんなことだってするから!」

「いやだ。例え大金積まれたって教え……」

 

 再度断ろうとするが脳内であるアイディアを思いつく。

 この分だとずっとまとわりつかれそうだ。ならば一度条件を提示し承諾させて、その条件を達成できなくさせて断る。そうすれば相手は一度条件を飲んだ手前強く出にくくなるはずだ。

「じゃあこの条件を達成できたら話してやる」

「本当!?」

「ただし条件を達成できなかったら、話すことはない。さっさと消えろ。いいな?」

 

 デジタルは顎に手を当て考え込む。相手が提示する条件を知らないまま承諾していいのか?

 だがこの様子では教える気は一切ない。条件付きで教えてくれるこの状況を良しとすべきか?

 是が非でも話を聞きたいデジタルにとっては不利な立場と分かっていてもこの条件を呑むしかなかった。

 

「いいよ」

「よし、条件だがあたしと勝負して勝つことだ。勝負方法はこのコースをお互い一緒に走り3バ身差つけたほうが勝ちとする。スタートでもコーナーでも直線でもいい、とにかく3バ身差だ。勝負が付いたらまた2本目を開始して3回連続で勝ったほうが勝者だ」

「3回じゃなくて3回連続なんだね。2回勝っても1回相手に勝たれたらリセットになって3連勝しなきゃいけないってこと?」

「そうだ」

 

 セイシンフブキの脳内ではアグネスデジタルに負けた憂さ晴らしとして、もっと不利な条件をつきつけて達成させないことも考えた。

 だがどうせなら対等な条件で戦ってアグネスデジタルの願いを打ち砕く。

 

「いいよ」

 

 デジタルは即答で了承する。想定ではもっと不利な条件を提示されると思っていたが、条件はほぼ対等と言っていい。

 強いて不利な点を言うならば私服ということだ。気温が高く比較的に軽装だが、ロングスカートを履いていて走りにくい。

 だがそんなもの縛って走りやすいようにすればいい。それでも走りにくければ脱いで走ればいい。サキーに追いつき堪能し勝つために必要なことであれば、羞恥心や女性としての尊厳など捨ててやる。だが問題があるとすれば……

 

「お互い靴は脱いで素足で走るぞ。いいな?」

 

 デジタルの危惧した問題はセイシンフブキの提案で解消された。セイシンフブキはトレーニング用のシューズ、デジタルはレディースシューズを履いている。もしこの状態で走ったら勝負にならないほどだった。

 デジタルは了承すると勝負を始める前に、準備運動の時間をもらいストレッチを始める。

 アジュディミツオーはデジタルの様子を見つめている。先程まで鷹揚していたのに集中力を一気に高めたのか、レース前のように真剣な表情をしている。トップクラスになると瞬時にスイッチを入れられるのか、素直に感心していた。

 デジタルの集中力が高まっているのは本人の性質もそうだが、この勝負はレースと同じぐらい負けられない一戦と位置づけていた。

 そしてセイシンフブキも体を冷やさないように再び準備運動を開始する。その集中力はレースさながらである。デジタルと同じように負けられない一戦であった。

 

「こっちは準備万端だよ」

「わかった。アジュディミツオー、お前が計測しろ。3バ身差がついたら大声で伝えろ」

「わかりました」

 

 セイシンフブキとデジタルはゴール版付近に着くとスタートの準備をする。そして合図とともに勝負は始まった。

───

 

「これで……やり直しだね……セイシンフブキちゃん……」

 

 デジタルは震える膝を抑えるように手を置き、頭を下げ肩で息をしながら喋る。顔は出た汗が付着し砂が泥のようになり、白のブラウスも砂まみれで元の色が白とはわからないほどに変色していた。

 アジュディミツオーは2人の壮絶な勝負に言葉を失っていた。

 以前に砂浜を裸足で走ったことがあったが、僅かな時間で足がパンパンになり走ることをやめた。後で調べてわかったことだが、砂浜を素足で走ることで普段シューズを履いて走るだけでは鍛えられない筋肉が使われ、靴を履いて走るより負荷がかかるそうだ。 

 そんな素足での走りを2人は1時間近くしている。それはアジュディミツオーには驚愕すべきことだった。しかしこの勝負はもう終わるだろう、デジタルの敗北によって。

 始まってから暫く2人は互角だった。だが徐々に差が出始め、セイシンフブキが2連勝しデジタルが辛うじて3連勝を止めるという展開がずっと続いていた。デジタルとセイシンフブキの差、それはパワーの差だった。

 デジタルはジュニアクラスの時に地方の大井レース場で走ったことがあったが、結果は惨敗、その理由は砂の深さによるものだった。

 レース場によって砂の深さが違い、砂が深い分だけパワーが必要になってくる。船橋でのレースに勝ったことはあるがその時は砂が浅く、今の船橋レース場の砂は勝った時より深かった。

 

「お前も……わかっているだろう……もう勝機はないって……」

 

 セイシンフブキは息を乱しながら語りかける。最初は深い砂に足を取られ疲弊していく姿に溜飲が下がるおもいだった。だがボロボロになり万に一つ勝ちがない状態になりながらも抗い続けている。

 すぐに諦めていれば体への負荷は少なくすんだものの、ここまで負荷をかけ疲労をためてしまったら今後にも影響するだろう。

 

「だって……勝負はまだついていないでしょ……セイシンフブキちゃんに唐突なアクシデントが訪れて走れなくなったら……あたしの不戦勝……セイシンフブキちゃんの話を聞きたいって気持ちは……疲れたからって勝負が決まる前に諦めるほど……軽いことじゃないんだよね」

 

 デジタルの体は限界を迎えていた。気を抜けばすぐにその場に倒れ込んでしまうほどの疲労度だった。だが足腰に力を入れて懸命に堪える。

 セイシンフブキは得体の知れない何かを見た時のような未知の恐怖を抱いていた。

 

「その0に等しい可能性のためにお前は体を痛めつけるのか……そこまでしてあたしの話を聞きたいのか?」

「それはサキーちゃんに勝つためだからね……労力は厭わないよ……それに……折角セイシンフブキちゃんと一緒に走れるのに……止めちゃうのはもったいないでしょ……」

 

 疲労で億劫になりながらも顔を上げセイシンフブキに笑みを浮かべる。最初はサキーに勝つために必要であるからこの勝負に挑んだ。だが今は違う、それにさらに理由が加わった。

 一緒に走っているうちに色々なものを感じ取った。ダートを駆ける力強さ、この勝負にかける想い、心を惹きつける。

 少しでも長い時間一緒に走りたい。勝って話を聞いてセイシンフブキのことをもっと知りたい。それが体を動かすエネルギーになっていた。

 

「そうか、じゃあ次だ」

 

 セイシンフブキは僅かに目を見開くと、スタート地点に向かって歩き始めデジタルもその後についていく。そして次の走りが始まり、セイシンフブキが3本連続で取り勝負は終わる。その瞬間デジタルは倒れ込んだ。

───

 

「いや~ごめんね、アジュディミツオーちゃん。服を借りちゃって」

「別にいいですよ。師匠の命令ですし」

 

 船橋に所属しているウマ娘はトレーニング場や学校に自宅から通っている者もいるが、大半のものは船橋ウマ娘協会が建設した学生寮で暮らしていた。

 そしてその寮の廊下をデジタルはヨタヨタと歩きながら移動している。

 服は私服ではなく船橋所属のウマ娘達が所有している指定ジャージを着ていた。その後ろをアジュディミツオーがついて行く。

 セイシンフブキは勝負が終わり倒れ込んだデジタルを見ながら、アジュディミツオーにこう告げた。

 寮に連れて行き汚れを落とさせたら部屋まで連れてこい。

 これは勝負に勝ったのにデジタルの要求を飲むということなのか?

 アジュディミツオーは思考を巡らすがすぐに止めた。師匠がしろと言ったのだから弟子の自分が断る権利はない。動けないデジタルを担いで寮まで運び、シャワーを浴びさせ服を貸し、セイシンフブキの部屋まで誘導した。

 

「失礼します師匠。アグネスデジタルさんを連れてきました」

 

 アジュディミツオーはドアをノックすると部屋の中から声が聞こえてくる。それを合図にドアを中に入るように促す。

 デジタルは中に入ると辺りを見渡す。内装は飾りっけもなく調度品も質素で必要最低限のものしか置いていなく、とても年頃の女性の部屋には思えない。

 目を引いたのが書きなぐられたメモ用紙だった。メモは特に整理されておらず机に散らばり、片付けていないことからデジタルを客として扱っていないことが伺える。そしてメモには読み取れる限りでは『大井レース場、海砂、砂厚8センチ』などと書かれていた。

 セイシンフブキは上座の座布団に座り、デジタルは玄関側の下座に置かれている座布団に座りテーブル越しで対面し様子を観察する。

 雰囲気からして怒っている時独特のピリピリした感覚はないが真意は読み取れない。どのように切り出そうかと探っているとセイシンフブキが先に切り出した

 

「それで何を聞きたい?」

 

 世間話も前置きをおかず単刀直入に切り出す。それに対してデジタルは本題にすぐ切り出さなかった。

 

「ちょっと待って、話してくれるのはありがたいけど何で喋ろうと思ったの?あたしは負けたんだよ」

「そうだな、だが気が変わった。代わりの条件を飲むのなら話してやる」

「いいよ」

 デジタルは即答する。一度提示された条件を達成できなかったにも関わらず、再度条件を提示してもらい話を聞くチャンスを得られた。拒否する余地はない。

 

「あたしが提示する条件は今年中にもう一度日本のダートで走ることだ」

 

 デジタルは話を聞くのはサキーに勝つためと言っていた。何を聞けば勝つことに繋がるかは見当がつかないが重要なことらしい。

 仮にデジタルがサキーに勝つことがあればダート世界一という称号を得る。その世界一のウマ娘を日本のダートで走れば世間の注目度が一気に高まり、ダートの価値も上がる。

 そして世界一に勝ち自らがダートのトップになり、ダートの価値を更に上げるという計画を思い浮かべていた。

 デジタルはそれを了承し、レコーダーのスイッチを入れ質問を投げかける。幼少期のこと、船橋で過ごした体験、フェブラリーステークスで何を思っていたのか。その質問に一つずつ答えていった。

―――次は門前仲町、門前仲町

 デジタルは車内アナウンスの声で眠りの世界から現実に引き戻される。

 携帯電話の画面を見て乗り換えを確認する。ここの駅で降りて乗り換えなければ。座席から立ち上がりセイシンフブキとの勝負で疲弊した体にムチを入れながら電車から出て、ホームに降りる。

 エスカレーターの手すりにもたれ掛かかりながら、バッグからレコーダーを取り出しイヤホンを耳につけセイシンフブキのインタビューを再生する。

 ダートに懸ける想い、ダートにかける情熱。それは途轍もなく大きく素敵だった。あのフェブラリーステークス前々日会見での攻撃性はダートへの愛情から出たものだったのだ。       

 そして自分が鬱陶しく目障りで憎い存在であるかも聞かされた。ダートを犯す侵略者から愛すべきものを守る。あの時の寒気はそのダートに対する愛情から発生したものであると理解できた。

 

 自分はウマ娘を、セイシンフブキはダートを。

 

 好きなものに違いはあれど、執着し愛情を注ぐという点では似た者同士なのかもしれない。そして好きなものに情熱を注ぐセイシンフブキはとても素敵で尊い。

 今後の競走生活で走る楽しみがまた増えた。疲弊した体と対照的に心は弾んでいた

───

 

「ずいぶんと喋ったな」

 

 デジタルが居なくなった自室でセイシンフブキは床に仰向けになりながら、自嘲的な独り言を呟く。

 質問は今まで聞かれたことないようなパーソナルな部分に踏み込んできた。最初は話すことを戸惑ったが、興味深そうに真摯に聞く姿についつい口が軽くなってしまった。

 セイシンフブキが語った理由。ドバイワールドカップに勝って日本のダートに参戦させ価値を上げる。それが主な理由であるがそれだけでもなかった。

 芝を走る奴は名声に目がくらみダートという真の戦いから逃げたゴボウだと思っていた。だが勝負で見せた執念と根性、サキーに勝つためかそれ以外の理由かは分からないがあれは認めざるを得ない。

 芝ウマ娘は嫌いだ。芝からダートに参戦してくる奴は反吐が出る。だがアグネスデジタルというウマ娘への評価は多少改めなければならないかもしれない。



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勇者のサブクエスト#3

 盛岡レース場では冬の間は積雪が多いせいで、レーススが開催できない。

 その間岩手ウマ娘協会に所属しているウマ娘たちはトレーニングに励み、他の地方に遠征しレースを走る。

 そして3月になると春の芽吹きとともに盛岡レース場でもレースが開催される。

 

 盛岡レース場の正門前、そこにはスイフトセイダイ、トウケイニセイ、グレートホープ、メイセイオペラ、岩手ウマ娘界において活躍してきたウマ娘たちの偉大なる功績を称えて、銅像が建てられている。

 盛岡レース場に来る人たちの待ち合わせ場所として親しまれ、その銅像前に続々とウマ娘達が集まっていた。

 

「おはよう、昨日は降ったね」

「本当、冬将軍は大人しく帰ってくれればいいのに、何で開催日前日に頑張るかな」

 

 ウマ娘たちは防寒装備で身を震わせながら愚痴をこぼす。3月になったが岩手県では昨晩に冬のピークと同程度の季節はずれの積雪に見舞われた。

 そのせいで岩手レース場は新雪に埋もれ、偉大なる先人たちの銅像も雪にうもれていた。

 

「みなさんおはようございます」

 

 メガネに飾り気のない防寒具を着た三つ編みのウマ娘が周囲に挨拶する。すると周囲のウマ娘が三つ編みのウマ娘の方へ振り向き挨拶をする。

 彼女の名はヒガシノコウテイ。先日のフェブラリーステークスでアグネスデジタルと南関の求道者セイシンフブキと激闘を繰り広げた岩手のエースである。

 

「皆さん、明後日は盛岡レース場の開催日です。私たちのレースを楽しみにお客様達がやってきます。お客様たちが快適に過ごせるようにがんばりましょう」

 

 ヒガシノコウテイの言葉に周囲のウマ娘が号令で返す。だが1人のウマ娘がふてくされたように座り込みそっぽを向いていた。彼女は今年協会に入ったジュニアクラスのウマ娘だった。

 

「おい、いつまでふてくされているんだ」

「何で私たちが雪かきしなきゃいけないんですか?そんなの選手じゃなくて他の人の役目でしょ。もし中央だったら絶対やらないですよ」

「それは中央と比べて協会にそんな人手はいないし、それにこの雪の量じゃ私たちウマ娘がやらなきゃ間に合わないだろ」

「それに今日も『あれ』やるんでしょ。あんなの絶対意味ないですよ。もっと科学的なトレーニングしましょうよ」

 

 先輩ウマ娘が宥めるがジュニアクラスのウマ娘はそれでもふてくされたままだった。するとそのウマ娘にヒガシノコウテイが近づき視線を合わすように屈んだ。

 

「気持ちはわかります。ですが私たちがやらなければレース場に来る人が不快な思いをしてしまいます。それにレースが開催できなくなり協会の人は困りますし、何よりレースを楽しみにしているお客様を悲しませてしまいます」

 

  ヒガシノコウテイは諭すようにゆったりとした口調で語りかける。その言葉に自身の我が儘を責められたようで思わず視線を外し項垂れる。

 

「それに雪かきだって悪いことではありませんよ。普段では鍛えられない箇所が鍛えられます。それに『あれ』だってメイセイオペラさん等の多くのウマ娘を強くした素晴らしいトレーニングです。『あれ』は中央ではほぼ出来ないトレーニングですからチャンスだと思いましょう」

 

 その言葉にジュニアクラスのウマ娘は立ち上がり用意されていたスコップを手に取る。

 ヒガシノコウテイは岩手ウマ娘界のトップだ。こんな雑務は他のウマ娘に任せていい立場なのに、誰よりも率先して誰よりも多く雑務をこなす。それに『あれ』を誰よりもやっている。

 結果を出しているだけに自分の我が儘だと分かっている。それでも非科学的という理由に拒否したいほど負荷がかかるトレーニングだった。

 

「ではA班はレース場周りの雪かきを、B班はレース場内の雪かきを、残りの人たちは私と一緒に『あれ』をやります」

 

 ヒガシノコウテイの指示に従うように各ウマ娘が準備を始める。すると1台のタクシーが盛岡レース場すぐ近くに停車する。関係者ならわざわざタクシーでは来ずに協会の車で来る。開催日を間違えたファンか?一同はタクシーから出てくる人物に注目する。

 

「うわ~寒い!いくら岩手だからっていっても、もう春でしょ!」

 

 その人物はこの気温には不釣合いな薄着で腕を摩り歯をカチカチと鳴らしながら車中から出てくる。それだけで地元の人物ではないことは推測できる。

 地元のものなら家にある防寒着を着るはずだ。そうしてないということは服を持っていない外から来た者だ。そしてその人物はウマ娘だった。

 ピンク髪に赤いリボンのウマ娘は周りを見渡すとヒガシノコウテイに視線を定め駆け寄ってくる。

 

「おはようヒガシノコウテイちゃん……岩手ってこんな寒いの?」

「おはようございます。この季節だと普段はこんな寒くないです。そしてアグネスデジタルさんはどうしてここに?」

「話せば長くなるけど、ヒガシノコウテイちゃんから色々話を聞きたくて来ちゃいました。まあ話したくない気持ちはわかるけど、そこを何とか、何か条件があれば可能な限り頑張るけど…」

「何かよく分かりませんがいいですよ。話せることでしたら話します」

「いいの!?」

 

 デジタルは全開で目を見開く。セイシンフブキの件があるので、何かしら条件を提示されると身構えただけに肩透かしを食らう。

 そしてヒガシノコウテイには態々東京から岩手まで話を聞くためだけに来た人を追い返すほど非情ではなかった。

 

「ですが話すのはトレーニングが終わってからでいいですか?」

「いいよ。というよりあたしも参加していい?」

 

 ヒガシノコウテイは思わぬ提案に戸惑いながら周りに視線を向ける。暫くしてもデジタルがトレーニングに参加することに反対の声が上がらないので承諾したと受け取った

 

「かまいませんが」

「じゃあ決まり、ちょっと着替えてくるから待っててね」

 

 デジタルは建物の影に行くと持ってきたリュックからジャージとシューズを取り出し着替え始める。

 トレーニングをするということは2~3時間はかかるだろう。その間何もせずに待っているのは暇でつまらない。

 ただ待っているよりかはトレーニングをしたほうが有意義であり、何よりヒガシノコウテイを始め岩手のウマ娘と触れ合えるチャンスだ、これを逃す手はない。

 セイシンフブキの件があるので万が一にと考えトレーニング道具を持ってきていたが功を奏した。

 

「お待たせ、じゃあさっそくトレーニングを始めよっか。皆よろしくね」

「ではアグネスデジタルさんは私と同じグループということで付いてきてください」

 

 デジタルはグループのウマ娘達に挨拶をするとヒガシノコウテイ達は並びコースに向かう。

 

「それでどこでトレーニングするの?スタンドの中で筋トレでもするの」

 

 コースに着いたデジタルはヒガシノコウテイに尋ねる。

 右手を見れば昨日の積雪で埋もれている野外観客席。左手には同じく雪化粧を纏った山と同じく雪で埋もれたコースが有るだけだった。こんな所ではとてもトレーニングができない。

 

「いえ、ここのコースを走ります」

「ここ?どこのコース?」

「ここです」

 

 ヒガシノコウテイは雪に埋もれたコースを指差し、デジタルもその方向に視線を向ける。そしてヒガシノコウテイの表情を見て、もう一度コースを見て、さらにもう一度ヒガシノコウテイを見た。

 

「でも雪に埋もれているよ?」

「はい、雪を掻き分けながら走ります」

 

 ヒガシノコウテイはさも当然のように告げる。雪が60センチ以上積もり、どう考えてもウマ娘が走るコースではない。

 これは岩手のジョークなのかな、ヒガシノコウテイは真面目そうだと思っていたがこんな茶目っ気が有ったのか、そんなことを考えながら周りを見ると周囲のウマ娘達も億劫そうにしながら雪に埋もれたコースに入っていく。

 その様子を見て冗談を言っているのではないことを察した。

 岩手のウマ娘たちがゴール板付近に続々と並んでいき、ヒガシノコウテイはコースの一番に並ぶ。そしてデジタルはヒガシノコウテイの隣に並んだ。

 

「では、各々ペースで大丈夫ですのでスタートしてください」

 

 ヒガシコウテイの号令とともに一斉にスタートする。デジタルはスタートから数メートル走っただけで顔をしかめた。

 コースに入り軽く歩いただけでも負荷が強くキツイと思っていたが予想をはるかに超えた負荷だった。

 感覚としてはプールでのウォーキングに似ているが水は液体であり浮力がある。だが雪は固体で浮力もないぶんさらに負荷がかかる。

 ヒガシノコウテイは雪に埋もれたコースを誰よりも速く走っていく。一方デジタルも雪に悪戦苦闘しながら懸命についていく。

 

「ねえ…岩手の皆は雪が降ったら毎回これやっているの?」

「はい。今日はまだいいほうです。ひどかった時は1メートルぐらい積もった時にやりましたよ」

「1メートル!?それ走れるの?」

「無理でした。誰も1周を走りきれませんでした」

 

 当時を思い出し笑みをこぼす。あの時は足が進まずウマ娘たちは次々と雪に埋もれていき、コース途中で走る力を使い果たし、歩いてゴールに向かった時はまるで雪山で遭難したような気分だった。

 あの時は辛かったが今では無茶をしたなと仲間たちの間では笑い話になっている。デジタルもヒガシノコウテイの笑顔につられ笑みを作る。

 

「そうなんだ。それにしても前に走った時も思ったけど、このコースは本当に良い景色だよね」

 

 雪に埋もれたコースを走ることに慣れてきたのか周りに視線を向ける。

 南部杯では山々は紅葉で赤く染まっていたが今は山々は雪化粧を纏い真っ白だ。空の青と雪の白のコントラストは秋の色鮮やかさとはまた違った彩で目を奪わせる。

 

「このレース場は山の中に囲まれて人工物はほとんど有りません。春、夏、秋、冬と山々はそれぞれの季節ごとに変化し来たお客様を楽しませてくれます」

「でもレースを走っていると景色を見ている余裕はないんだよね」

「そうですね。私たちはトレーニングのアップの時に走るときは景色を見る余裕があるのですが」

 

 ヒガシノコウテイは思わず苦笑する。だがこの山々に囲まれた景色は盛岡レース場のアピールポイントだと思っておりデジタルに褒められたことは嬉しかった。

 

「それにしても岩手のウマ娘ちゃん達は凄いよね。こんなキツイトレーニングを雪が降るたびにしているんでしょ。あたしだったらコタツの中に入って絶対出ないな」

「フフフ、このトレーニングは雪国でしかできませんから、折角だから利用させてもらっています」

 

 デジタルとコウテイは会話を弾ませながらトレーニングに励む。

 デジタルは並走しながらヒガシノコウテイの横顔を覗き見る。その懸命に走るその表情は恵まれた環境で逆境を力に変える逞しさと精神が出ているようだ。

 レースでは並走するのが怖かった、でも今は一緒に走っていると不思議と落ち着きいつまでも一緒に走りたいとすら思っている。

 この温かさと素朴さが魅力なのかもしれない。この一面を知れただけでも岩手に来てよかった。その表情は自然とニヤけていた。

 

「お疲れ様でした」

「お疲れ~」

 

 デジタルとヒガシノコウテイは席に座ると購入した缶飲料に口をつける。2人がいるところは盛岡レース場にある来賓客を出向かるゲストルームである。

 スタンドの最上階にあり、ここはコースと山々を一望できその景色は絶景と言える。その景色に相応しく机もソファーも質が高いものだった。

 

「いや~雪のなかを走るのもそうだけど、雪かきもこんなに疲れるなんて思ってもみなかったよ」

「そうですね。私たちは雪かきし慣れていますが、普段やっていない人には辛いかもしれませんね」

 

 デジタルは雪に埋もれたコースを走ったあと、除雪作業もおこなった。

 これもトレーニングの一環ということで一緒にやったかが普段使っていない筋肉を使ったせいか体の節々が痛い。しかし岩手のウマ娘達はこの重労働を難なくこなし、時には地域で除雪作業ができない家庭のところに行き代わりにやっているそうだ。その体力と地域に対する貢献性には頭が下がる。

 プレストンは速くなるために何か別の分野からアプローチを試みていた。だがトレセン学園では最新の理論と最先端の施設と設備でトレーニングを行い、これ以上の最善は無いと思っていた。

 だが船橋で裸足でダートを走り、盛岡では雪で埋もれたコースを走り、雪かきをした。

 有効であるかは正確には分からないがこれらはトレーニングに活用できるかもしれない。新しい要素というものは少し視点を変えればそこら辺に転がっているかものだとデジタルは考えていた。

 

「じゃあインタビュー始めるけどいい?」

「はいどうぞ」

「じゃあそうだね、まずは……」

 

 デジタルはレコーダーのスイッチを入れると何を聞こうかと考え始める。すると扉からノック音が聞こえてきた。

 

「すみません。ちょっと出てきます」

 

 ヒガシノコウテイは訪問者に応対するためにソファーから立ち上がり扉を開ける。

 すると扉の間からスーツを着た中年の男性が見え手を招くような仕草でヒガシノコウテイを部屋の外に呼び扉を閉める。

 何か喋っていることは辛うじてわかるが会話の詳細は分からない。そして1分ぐらい経った頃に扉が開きヒガシノコウテイと中年の男性が入室してきた。

 

「初めましてアグネスデジタル選手。私こういう者です」

 

 男性は座っているデジタルに近づき丁寧な所作で名刺を渡す。そこには『岩手ウマ娘協会広報部 最上太郎』と書かれていた。

 

「アグネスデジタル選手はヒガシノコウテイにインタビューしに此処まで来られたと聞きましたが」

「うん、ちょっとヒガシノコウテイちゃんに聞きたいことがあって」

「誠に申し訳ありませんが、岩手ウマ娘協会に所属しているウマ娘に取材を行う際には前もって手続きをしていただき、それ相応のものを支払っていただけないとインタビューを行うことができません」

 

 最上は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。その後ろでヒガシノコウテイもさらに申し訳なさそうに深々と頭を下げている。

 どうやらインタビューはヒガシノコウテイとしては良かったのだが、組織としては認められないらしくその仕組みを知らなかったらしい。

 

「え~っと今から許可をとることはできますか?どうしてもしたいんです」

「私の一存では決められないもので、上司に掛け合ってから決めますので数日はかかると思われます」

「そうですか」

 

 デジタルは腕を組みう~んと悩ましげな声をあげる。すぐに許可を取れそうな気がするが無理そうである。これがお役所仕事か。

 ヒガシノコウテイと岩手もウマ娘達とトレーニングや雪かきを行えたのは貴重な体験で楽しかった。だが本命のインタビューができないとなるとそれは困る。

 何とかして許可を取れないかと思考を巡らせていると、最上がデジタルに声をかける。

 

「しかしヒガシノコウテイの話を聞くために態々岩手までお越しくださったアグネスデジタル選手を追い返すのは私としても心苦しいのは事実です。私が提示する条件を了承して下されば責任を持ってヒガシノコウテイにインタビューをできるように取り計らいます」

 

 最上は任せろと言わんばかりに胸を張り背筋を伸ばしてデジタルに提案する。

 また交換条件か、船橋の時といい交換条件に縁がある。だが船橋の時と同じように断るという選択肢はない。二つ返事で提案にのると広報の最上は条件を提示した。

 

───

 

 

「差せ!差せ!」

「そのまま!そのまま!」

 

 盛岡レース場に観客たちの声が響く。岩手では冬の期間は積雪のためレースが開催できず、今日が今年入って初めての開催日になる。

 一昨日の大雪で開催が危ぶまれたが、岩手のウマ娘達や業者の除雪作業によって開催にこじつけ、最初の地元のレースを観戦しようと多くのファンたちが足を運んだ。

 

 レースは残り100メートルで先頭を走る鹿毛のウマ娘を芦毛のウマ娘が猛追し、ゴール間際で芦毛のウマ娘が追いつき二人はほぼ同時にゴールする。

 写真と判定になりウマ娘も観客たちもこの後流れるアナウンスを聞き逃すまいと耳をすまし、オーロラビジョンに注目する。結果は1着鹿毛のウマ娘、2着は芦毛のウマ娘、鹿毛は飛び跳ねて喜び、芦毛は悔しそうに頭を垂れる。

 その2人に対して観客たちは健闘と激励のエールを送る。その観客たちの中でコースに一番近い外埓通路に陣取るウマ娘が一際大きな声でエールを送り、もう1人のウマ娘がその様子を微笑ましく眺めている。

 エールを送っているのはアグネスデジタル、もう1人はヒガシノコウテイである。2人はウマ娘用のニット帽とマスクを装着している。

 

「いや~久しぶりに1ファンとしてレースを見るけど、楽しいね」

 

 デジタルは上機嫌でヒガシノコウテイに語りかける。地方のレースには走ったことはあるが、観客としてレースを見るのは初めてだった。

 そこで走るウマ娘たちは地方も中央も関係ない、一途で一生懸命で走り光り輝いていた。

 そしてこのレース場の空気、訪れた観客たちはすべてのウマ娘に声をかけ激励し、まるで娘や近所の小学生の運動会を見に来たようだ。良い意味で中央とは違い牧歌的で大らかな雰囲気に包まれ、この空気は好きだった。

 

 デジタルは広報の最上が出した交換条件として、今日のイベントに出席するために盛岡レース場に訪れていた。

 イベントはすべてのレースが終わったあと行われ、その間は来賓席でレースを観戦することを勧められる。

 だがデジタルはどうせならガラス越しではなく近くで見て感じたいと、観客に紛れるように観客席に降りていき、同じくイベントに参加しレースがないヒガシノコウテイが解説と案内役としてデジタルの側にいた。

 

 ヒガシノコウテイはレースの度にコースの特徴や出走ウマ娘の情報や小ネタを教え、それらの情報、特にウマ娘の話は興味を惹いた。

 レースの合間にはレース場グルメを堪能し、岩手ウマ博物館で過去の名ウマ娘達を知り目を輝かせる。デジタルは岩手レース場を満喫していた。

 

 すべてのレースが終わりウイニングライブの準備が進んでいくなか、観客たちはパドックに集まり始める。

 イベントはパドックスペースで行われ、人がみるみる内に集まり、後から来た観客は録に見えない状態で、イベントの様子を映すターフビジョン付近に移動し始めていた。するとパドックの中にマイクを持った男性のMCが現れる。

 

「皆さまお待たせしました。それでは只今よりトークショーを開始します。では本日の主役をお呼びしましょう。ヒガシノコウテイ選手どうぞ!」

 

 MCの呼びかけとともに、ヒガシノコウテイが少しはにかみながらパドックに現れる。すると大歓声がヒガシノコウテイを迎えた。

 

「いや~凄い歓声ですね。人気の高さが伺えますね」

「ありがとうございます。そして今日は足元が悪いなかレース場に訪れ、レースを走ったウマ娘たちに暖かい声援を送ってくださりありがとうございました」

 

 ヒガシノコウテイは集まった観客たちに一礼し、その姿に観客は拍手を送る。

 いつでも応援してくれるファンたちに感謝の念を示す。それがヒガシノコウテイの美徳でありファンから愛される理由の一つでもある。

 

「そして、ご存知の方もいるかもしれませんが今日は特別ゲストもお越しくださりました!昨日急遽出演が決まったそうで、正直姿を見るまでは嘘だと思っていました」

「私もそうです」

「ではアグネスデジタル選手の登場です!」

 

 MCの呼びかけに応じるようにアグネスデジタルが登場する。すると観客から歓声ともどよめきともつかないような声が漏れた。

 本来このイベントはヒガシノコウテイのフェブラリーステークスの祝勝会、または残念会の予定だった。

 だが昨晩、岩手ウマ娘協会のツイッターでアグネスデジタルも参加すると告知される。それを見たファン達は半信半疑だった。

 基本的に中央と地方の交流はほぼ無く、来るとするならばオグリキャップやイナリワンなど、元地方出身のウマ娘が地元のレース場でゲストとして呼ばれるぐらいだ。

 そんななか中央でもトップクラスの実績を誇り、縁もゆかりもないアグネスデジタルが来るわけがない、ましては都心に比較的に近い南関ではなく盛岡、しかも重賞もない開催日に尚更来るわけがない。

 ファン達はどうせ岩手ウマ娘協会の広報が間違えたのだろうと思っていた。

 

 だが翌朝になっても誤報の報せはなく、駅前にはアグネスデジタルも来るという内容のポスターが大量に貼られていた。これを見たファン達は来ることに現実味が帯び始めていた。

 中央のステータスは効果が大きかった。アグネスデジタルが来るという宣伝効果は大きく、地方に興味がなかった中央ウマ娘ファン達も盛岡レース場に足を運ばせる。

 ヒガシノコウテイの残念会にアグネスデジタルが来るということで、今日の盛岡レース場には普段の倍以上の客入りだった。

 

「え~、去年の南部杯で見た人はお久しぶり、今日初めて盛岡レース場にきた人は初めまして、アグネスデジタルです」

 

 デジタルの挨拶に拍手と若干の黄色い声援が飛ぶ。

 

「今日はよろしくお願いします。いきなりですが、このイベントに出演した経緯を教えてくれますか?」

「ヒガシノコウテイちゃんに用が有って盛岡に来て、広報さんにイベントに出てくれないかって頼まれた」

「なるほど、しかし、それは中央としては有りなのですか?中央所属が地方のイベントに出ることはあまり前例がありませんので、権利的にアウトだったりして」

「広報さんが白ちゃんと交渉していたし、大丈夫じゃない?」

「本当ですか広報の最上さん?」

 

 MCの言葉でターフビジョンに映る映像がMC二人とヒガシノコウテイとアグネスデジタルから、広報のアップに代わる。それに気づいた広報の最上は大きな○を作り、ファンから笑いと拍手が起こった。

 

「どうやら、大丈夫そうなので始めたいと思います」

 

 そこからトークショーが開始する、内容としてはデジタルの盛岡レース場についての印象の話から始まり、南部杯で初めて来た時の印象、昨日の雪かきとトレーニング、今日のレースを見た感想を喋る。

 デジタルが楽しそうに喋る姿は中央に多少なりの敵対心を持つ、地方ファンたちにも好意的に受け取られ、トークショーは和やか雰囲気で進む。そして話題はフェブラリーステークスに移る。

 

「では、フェブラリーステークスについて映像を見ながら振り返りましょう」

 

 MCの言葉にビジョンにはフェブラリーステークスの映像が流れる。映像では直線に入りデジタルが抜け出し先頭に躍り出る映像が映し出される。

 

「直線でアグネスデジタル選手が一気に抜け出しました」

「凄い切れ味でした。これが中央のトップレベルかと実感させられました」

 

 ヒガシノコウテイが映像を見ながら振り返る。映像でも凄さは分かるが、体感した切れ味は凄まじかった。この瞬間心が挫けかけたことを思い出していた。

 

「ですが、ここでヒガシノコウテイ選手が驚異的な粘りを見せ盛り返します」

 

 映像は先頭に出たアグネスデジタルに猛追するヒガシノコウテイが映る。

 あの時挫けかけた心が、昔にメイセイオペラが自分に言ってくれて言葉で立ち直り、地方のために頑張るという思いで心を奮い立たせた。あの気持ちを忘れないようにしよう。

 

「あの時のヒガシノコウテイちゃんとセイシンフブキちゃんは怖かった」

「怖かったとは?」

「直線で何か息苦しくて寒気がして、それが後ろで走っているウマ娘ちゃんのせいだって感じて後ろをチラッと振り向いたの、そしたら2人が居た。2人共すごい気迫で怖くて怖くてビビって直線で寄れちゃった。ほらここ」

 

 デジタルは映像を指差す。そこには丁度右に寄れた姿が映し出されていた。

 

「初耳ですね。あの寄れは疲れからではなかったと」

「うん、映像で見てもビビっているのがよく分かるね。あれは初めての体験だったよ」

 

 デジタルの言葉にファンたちもデジタルを注視する。よく見れば確かに怯えているような表情だ。

 地元の英雄が中央トップをそこまで追い詰めたことが少しだけ誇らしかった。そして自分の醜態を恥ずかしげもなく語る姿に、多少驚いていた。

 

「そしてヒガシノコウテイ選手が懸命に追い詰めますが、アグネスデジタル選手が1着でゴール、ヒガシノコウテイ選手は2着のセイシンフブキ選手からハナ差の3着に終わりました」

 

 レース映像は終わるがフェブラリーステークスの回顧は続く、その途中でアグネスデジタルはふと何かを思いついたのか、懐から携帯電話を取り出す。

 

「アグネスデジタル選手どうしましたか?まさかこのイベントを出るのがNGでトレーナーさんからお怒りの電話とか?」

 

 MCの軽い口調の言葉に周りから笑いが起こる、デジタルは笑みで返すと電話をしてよいかとMCに尋ね許可を貰う。すると電話をかけ始めた。

 

「もしもし、今大丈夫?それで例の約束なんだけどさ」

 

 観客、MC、ヒガシノコウテイが一斉に耳を傾ける。自分には気にせず話を続けてくれと言ったが、とてもそんな気になれなかった。

 すると電話が終わりデジタルは携帯電話を懐にしまう、その顔には嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 

「え~っと皆さんにお知らせがあります。今喋っても大丈夫?」

「はい、どうぞ。何ですかね、気になります」

 

 MCが期待を煽るようにして許可を出す。

 

「あたしはセイシンフブキちゃんとある約束をしたの。『今年は必ず日本のダートで自分と一緒に走れって』って。その舞台が南部杯に今決まったよ」

 

 思わぬサプライズにMCとヒガシノコウテイは思わぬ発表にデジタルを見つめ、観客からは歓声が起こる。

 地方の英雄達と中央の勇者が繰り広げたあの激闘が再び見られる。その興奮で自然と声を上げていた。

 

「何というサプライズでしょうか!というよりローテーションをそんな簡単に決めていいのですか?こういうのはトレーナーさんとよく話し合うものだと思っていましたが」

「他のところは知らないけど、白ちゃんはあたしのお願いを聞いてくれるし、大丈夫だよ。怪我とかしない限り出るつもりだから、当日は盛岡レース場に来てね~」

 

―――――絶対見に行くからな!

―――――嫁を質に入れてでも見に行くぞ!

―――――

 デジタルの言葉に周りのボルテージはさらに上がる。周辺はレース後のような熱狂に包まれる。

 

「衝撃の発表で盛り上がっていますが、そろそろお時間です。では最後のお二方一言お願いします」

 

 MCが名残惜しそうにしながら2人にコメントを求め、喋り始める。

 

「今日はアグネスデジタルさんやMCさんや見てくださった皆さんのおかげで、楽しいトークショーになりました。アグネスデジタルさん、ドバイでの健闘をお祈りします。そして南部杯で一緒に走ることを心から楽しみにしています」

「今日はレースで一杯ウマ娘ちゃんを見られて、ヒガシノコウテイちゃんとお話できて楽しかったです。南部杯はドバイワールドカップでサキーちゃんと走るぐらいに楽しみ!」

 

 2人は感想を言うと自然とお互いの今後の健闘を祝すように握手をし、その日一番の歓声があがり、トークショーは大盛況で幕を閉じた。

 

───

 

「アグネスデジタルさん、今日は本当にありがとうございました」

「気にしないで、それよりあたしが出たせいでトークショーが冷え冷えになったら、どうしようと思っていたよ。それじゃあヒガシノコウテイちゃんがかわいそうだもんね」

 

 トークショーが終え、盛岡レース場内にある来賓室に入るやいなやヒガシノコウテイは深く頭を下げた。一方デジタルは畏まることなく、顔に泥を塗らなかったことを喜んでいた。

 デジタルは急な依頼にも快く引き受け、サプライズまで用意して会場を盛り上げてくれた。自分ひとりだったら、ここまで盛り上がらなかっただろう。改めて深々と頭を下げる。

 数秒後ヒガシコウテイは頭を上げる、正直に言えば怒られたくないし、このまま黙っておきたい。だがこのまま黙っているのは人の道に反する。自分たちの罪を知らせなければならない。それが人の道だ。

 

「そしてアグネスデジタルさんに、謝らなければいけないことがあります」

「うん?何?」

「広報がインタビューする際に、事前に手続きをして相応のものを支払わなければならないと言っていたことを覚えていますか?」

「うん」

「あれは嘘です。雑誌に掲載するならばともかく、個人で利用する分には何の問題もないのです」

「じゃあ今回はタダ働き?」

「そういうことになります」

 

 ヒガシノコウテイは己のしたことを包み隠さず話した。

 広報がデジタルと約束を交わした後、ヒガシノコウテイは広報の言葉を不審に思い問い正す。広報はシラを切ったが、執拗に問い正すとそんなルールは無いと口を割った。

 それを聞きヒガシノコウテイはすぐさまデジタルの元へ向かい、インタビューに応じようとした。だが広報がその手を止め、こう言った。

 

―――そんなルールは無いが、君がそういう条件を出したことにすればいい。

 

 不正をしろというのか。ヒガシノコウテイは思わず睨みつける。だが広報は柳に風と言わんばかりに受け流し、自身の言い分を説明し始める。

 

 アグネスデジタルがイベントに来るとなれば、普段より来場者数が増えるだろう。

 ヒガシノコウテイとアグネスデジタルがイベントに参加するとなれば、GI南部杯と同じほどの来場者数が見込める。その実績を県に示せば、援助金が見込める。今が岩手ウマ娘協会の瀬戸際と説明した。

 広報が豪腕で時々問題を起こしているのを知っていた。だがそれはすべて岩手ウマ娘協会の為にと行動しているのも知っていた。

 ヒガシノコウテイの心は揺らぐ。自分が黙っていれば岩手ウマ娘協会が潤い、仲間たちも幸せになれる。

 自分の倫理観と周りの幸福、様々な葛藤を経て黙っていることを選んだ。

 

「別にいいよ」

「え?」

 

 重苦しく語るヒガシノコウテイに対し、驚く程あっさりした口調で許した。そのあまりの軽さにヒガシノコウテイは拍子抜けし思わず声を漏らす。

 

「今日はヒガシノコウテイちゃんとレースを見て、色んなところを回って、トークショーに出て楽しかった。依頼を受けなきゃできなかったし、タダ働きだと思っていないよ。寧ろ依頼してくれてありがとうって言いたいよ」

「いいのですか、アグネスデジタルさんを利用したのですよ」

「例えヒガシノコウテイちゃんにインタビューできなくて、一緒に遊べなくても依頼を受けていたよ。あたしはウマ娘ちゃんが大好きだし、ウマ娘ちゃんの味方だよ。よく分からないけど、あたしがイベントに出れば岩手のウマ娘ちゃんが喜ぶんでしょ?なら問題ない!」

 

デジタルはあっけらかんと話す。その言葉には気遣いなどは一切ない、純粋な本心だった。

 

「ありがとうございます。ではそろそろインタビューを始めましょうか」

「待っていました!」

 

 デジタルは意気揚々とレコーダーを準備する。デジタルは普通の記者が聞かないようなことを根掘り葉掘り聞いてきた。

 それに対しヒガシノコウテイは一つ一つ丁寧に詳細に答えていく。インタビューは長時間に及んだ。

 

───

 

「見送りありがとう。じゃあねヒガシノコウテイちゃん」

「はい、お気をつけて」

 

 早朝の盛岡駅改札前で2人は別れの挨拶をつげる。デジタルの両腕には大量の紙袋がぶら下がっていて、中身は盛岡レース場で販売されているお菓子だ。

 ヒガシノコウテイからお土産にと大量に渡される。デジタルもこんなに貰えないと一旦断るが、迷惑をかけたお詫びにと半ば強引に渡されていた。

 

「デジタルさん、私は今まで中央を少なからず敵対視していました。でも、一緒にイベントに参加して考えが変わりました。中央を敵対視することはないんだと」

 

 ヒガシノコウテイは心境の変化をデジタルに打ち明ける。トウケイニセイが中央のライブリラブリィに負け、失意のどん底に落ちた盛岡レース場。そして中央の存在によって閉鎖していく地方のレース場、その体験から中央は地方の敵だと思っていた。

 だがそうではない、アグネスデジタルのように、地方の利益になる行動をしてくれたウマ娘もいる。

 中央でも地方を味方と言ってくれる。その姿を見て自らも偏見を捨て歩み寄る大切さを実感する。そしてお互いが歩み寄れば、地方と中央が共存共栄できるのかもしれない。

 

「なので、また何かあったら頼っていいですか?その分私も何かあれば手伝います」

「喜んで、あたしは地方も中央も海外も関係ない、すべてのウマ娘ちゃんの味方だよ」

 

 2人はトークショーの終わりの時のように自然と握手をする。その握る力は前よりも力強かった。

 




ドバイワールドカップまでに間に合うか微妙なところ……


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勇者のサブクエスト#4

 ウマ娘達は今日も今日とてトレーニングに励む。さらなる高みを目指すために、己が望む舞台に。それはGIを複数勝っている者であろうが、デビュー前のウマ娘だろうがそれは変わらない。

 ある葦毛のウマ娘がトレーナーの指示を受けて、ウッドチップコースに向かう。

 トレセン学園は広大な敷地と様々なトレーニングコースを有している。多くのウマ娘が在籍し、施設でトレーニングに励んでいるのでコースも貸切りというわけにはいかない。コースには顔見知りや初めて見る顔のウマ娘が多くいた。

 トレーニングに向けてウォームアップを始めようとするが、コースに漂う空気がいつもと違う事に気付く。

 何だろう?浮ついているというか、ざわついているというか兎に角空気が違う。しばらく周りを観察していると、ウマ娘達がある2人のウマ娘に視線を送り、その姿を確認するとそのことについて周りと喋っている。原因はその2人のウマ娘だ。

 1人は栗毛の小柄なウマ娘、もう1人は鹿毛の大柄なウマ娘、鹿毛のウマ娘が栗毛のウマ娘の背中を押し柔軟運動をしていた。

 あの2人どこかで見た事がある。だが今見えているのは後姿だけで誰なのかは思い出せない。正体が気になったのか、さりげなく前に回りこみ顔を確認すると予想外の正体に驚いていた。

 

 1人は年間無敗を達成した覇王テイエムオペラオー。

 もう1人は覇王と何度も激闘を繰り広げたメイショウドトウ。

 

 先日引退式をおこない現役を退いた2人が何故ここにいる?

 

 するとオペラオーとドトウはあるウマ娘に呼びかけられると、ストレッチを止めて呼びかけに答える。その先には2人のウマ娘がいた。

 1人はピンク髪に赤い大きなリボンを着けたウマ娘、もう1人は漆黒長髪を2つのお団子にし、その毛先を垂らしている独特のヘアースタイルのウマ娘。

 あの2人は知っている。先日のフェブラリーステークスに勝利したアグネスデジタルと、去年の香港マイルに勝ったエイシンプレストンだ。

 

「デジタルさんにエイシンプレストンさん、これから暫くよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。デジタルのわがままに付き合ってもらってすみません」

「デジタル、ボクもドトウもやっと仕上がったよ。これならある程度キミを満足させられるんじゃないかな」

「付き合ってくれてありがとう、オペラオーちゃんにドトウちゃん。しばらくよろしくね。あと岩手のお土産買ってきたからトレーニング終わったら皆で食べよ」

 

 4人は和気藹々と会話をしている、この4人は仲が良かったのか。

 会話から察するにアグネスデジタルがテイエムオペラオーとメイショウドトウをトレーニングに呼んだようだ。しかし何故現役を退いたものをわざわざ駆り出した?葦毛のウマ娘は推理するが一向に答えは出なかった。

 

───

 

 授業が終わっての中休み、勉学から開放され束の間の休憩を満喫するようにそれぞれが近くの学生達と会話を楽しむ。

 メイショウドトウとテイエムオペラオーも同様だった。するとクラスメイトから声を掛けられる。

 どうやら来客が訪れているようだ、クラスメイトが指差すほうに目を向けると扉には見知った顔がいた。友人のアグネスデジタルだ。

 

「どうしたデジタル、何の用だい?」

「2人にちょっと頼みたい事があって」

「何ですか?出来る事なら手伝います」

 

 2人はデジタルの元へ行き用件を聞く、デジタルは一呼吸すると話しながら次に話す内容を考えているようなゆっくりとしたスピードで喋り始める。

 

「フェブラリーステークスの時はさ、サキーちゃんをイメージしながら走っていたんだよね。でもヒガシノコウテイちゃんとセイシンフブキちゃんの威圧感というかオーラにビビっちゃって、それでサキーちゃんのイメージが消えちゃった」

 

 デジタルの発する言葉は他人が聞いたのならば意味が分からないだろう、だが2人には言わんとしていることは理解できた。

 2人が走った天皇賞秋ではデジタルは大外を走りながらオペラオーとドトウの近くで走りたいという願望を叶える為に、内側で走っていた2人のイメージを作り出し、大外を走りながら2人の近くで走っていると自身を錯覚させていた。

 おそらくフェブラリーステークスではサキーのイメージを作り出し走っていたのだろう。そして言葉通り威圧感によってイメージをかき消された。

 

「次のドバイワールドカップではオペラオーちゃんとドトウちゃんもイメージしようと思っているけど、サキーちゃんもそんな感じの威圧感を出してくるかもしれない。だから挫けないために2人のイメージをより強くすることが必要だと思ったの、だからあたしと一緒にトレーニングに参加してくれない?」

 

 デジタルは2人に向かって頭を下げる。サキーをより近くで感じ堪能し勝つために、トリップ走法でヒガシノコウテイとセイシンフブキの圧力から逃げる力を加えようと考えた。

 それがサキーに立ち向かうための新しい武器、だがそれだけでは足りない。

 既存の武器、デジタルの言葉を借りれば追いかけるイメージ、新しい武器と既存の武器を駆使する事が必要であると考えていた。

 だがドバイワールドカップではセイシンフブキやヒガシノコウテイのような強い威圧感を発するウマ娘がいて、既存の武器が砕かれるかもしれない。

 そうならないように鍛えなおす。二人と一緒に走る事でよりイメージを強固にしようとする狙いがあった。

 

 2人はデジタルの言葉を聞き、数秒ほど沈黙する。言いたい事は何となく理解できた。だがある懸念があった。

 

「あの、そのイメージを強化するトレーニングをおこなうのでしたら、私達とデジタルさんが体を併せるほうがいいですよね」

「うん、それなりに走って直線で2人と体を併せる感じかな」

「それだと出来る限り体を併せるのは時間が長いほうがいいですよね」

「うん、そうだね」

 

 ドトウはデジタルの言葉を聞くと、顔を伏せ何か言いづらそうな態度を見せる。

 デジタルは不思議そうにしているとドトウの考えを代弁するようにオペラオーが口を開いた。

 

「デジタル、悪いがそれは厳しいかもしれない」

「どういうことオペラオーちゃん?」

「今のボク達ではキミのトレーニングにはついていけない」

 

 オペラオーが現役を退いた理由は衰えによるものだった。そしてドトウもオペラオーがターフを去ってしまってはモチベーションが保てないという理由で引退したが、またドトウも同じように衰えていた。

 そして衰えは現在進行形で続いている。仮にデビュー前のウマ娘のトレーニングに参加するならば2人は十二分に通用する。

 だが現役でもトップクラスのデジタルのトレーニングに参加するには荷が勝ちすぎていた。

 

「ボク達の今の力ではあっという間に千切られるだろう。それに今のボク達では現役時のイメージとは隔離がある、イメージするならピークの時がいいだろう?今のボク達と走ったら逆効果になる恐れがある」

 

 オペラオーの言葉を聞きデジタルはわずかばかり意気消沈する。

 天皇賞秋のことを思い出しレース映像を見てイメージを構築する事もできなくもない。しかし自分の目で近くで見る事が一番の方法だった。

 だがそういった理由ならしょうがない、それに断る理由が自分の事を思ってくれてのことは嬉しかった。デジタルは2人に礼を言い立ち去ろうとする。

 

「待った」

「待ってください」

 

 だが、オペラオーとドトウが同時に呼び止め、同時に顔を見合し数秒ほど間が開く。ドトウからきりだす。

 

「2週間、いや3週間ほど時間をくれませんか?」

「今のボク達はピークではない、だがピークに限りなく近づける事は可能だ。3週間後にキミが判断してくれ」

「うん!」

 

 デジタルはその言葉を聞き表情が一気に明るくなった。2人に何度も感謝の言葉を述べ、スキップ交じりで自分の教室に帰っていく。

 

「よかったねドトウ、これでダイエットできるじゃないか」

「そうですね」

 

 オペラオーの軽口にドトウは笑みで答える。現役を退いて、もうあの厳しいトレーニングをする必要がないと思っていた。

 だが再び現役と変わらず、それ以上にトレーニングすることになるだろう。

 しかし悪い気はしない、衰え現役を退いた者でも必要としてくれる友人がいる。それは何よりも嬉しかった。

 

───

 

「それでオペラオーさんとドトウさんが居るのは分かるけど、何であたしも駆り出されているの?」

「それはプレちゃんもイメージするからだよ、一緒に生活していても走る姿は見ているわけじゃないしね」

「そう、後でお金払ってね」

「何で?」

「それはあたしのイメージを使用しているからよ。ライセンス料を払ってもらうから」

「え~自分の脳内で想像しただけでお金払わなきゃいけないの?」

「権利にうるさいアメリカ育ち、そこらへんにぬかりなし」

 

 2人はじゃれあいながらトレーニング前の準備運動をおこなっていく、するとデジタルのトレーナーが4人の元にやってきた。

 

「オペラオー君にドトウ君にプレストン君、デジタルに付き合ってくれてありがとう。暫くよろしく頼む」

 

 トレーナーが3人に頭を下げると、オペラオーは会釈程度に、プレストンは普通に、ドトウは過剰なまでに頭を下げた。

 

「それで、どんなトレーニングするの?」

「そうだな、このコースは一周2000メートルだから、まずスタート地点からデジタルとプレストン君が併せて1000メートルまで走る。プレストン君は7割ぐらいの力で走ってくれ。そしてデジタルはそのまま走る。オペラオー君とドトウ君は直線で陣取って、デジタルが直線に入ったらスタートして全力で走ってくれ。それを数本やる感じや。デジタルは1000メートルから直線に入るまでは少し緩ませていいが、レースのつもりで走れ、先着しろよ」

 

トレーナーの指示に4人は了承し、それぞれの場所に移動しトレーニングを開始する。

 

「じゃあ、プレちゃん準備良い?」

「いつでも」

「じゃあ、よ~い、ドン」

 

 デジタルの合図で両者は同時にスタートする。出だしはデジタル自ら合図を出したことで好スタートをきれ、100メートル通過してクビ差ほどリードする。

 全力で走りながらもチラリと横を見る。無駄の無い美しいフォーム、風でなびく艶のある漆黒の髪、一歩でも前に行こうとする意志を秘めた瞳、併せて走るのは香港以来だが、相変わらず素敵な姿だ。隣で走っているだけで心が躍る。

 このままずっと併走したい。 だが200メートル、400メートルとハロン棒を通過していくごとにハナ差、クビ差、2分の1差と距離が開いていく。

 デジタルはレースまで残り3週間、プレストンはレースまで約7週間、仕上がりとしてはデジタルが早い。

 だがプレストンは1000メートル走るのに対し、デジタルは途中緩めるといえど2000メートル走らなければならない。それが広がっていく差の原因であった。

 1000メートルのハロン棒をプレストンが1バ身リードで通過する。デジタルも必死に追走したが体を並ばせることはできなかった。プレストンはそのままスピードを落とし立ち止まる、

 デジタルは走りをとめず、オペラオーとドトウが待つ地点まで向かう。トレーナーは緩めながら向かえと言ったが、緩めすぎてもトレーニングの意味が無い。直線で力が発揮できるギリギリの緩いペースに調整する。

 最初はペースを上げ、中盤でペースを緩ませ、直線でペースを上げる。これはフェブラリーでのペース配分と同じで、トレーナーが考えるドバイワールドカップでの勝率が高い走りでもあった。そしてこれはサキーの走りと同じペース配分でもある。

 残り500メートルに着いた瞬間、1バ身先に居たオペラオーとドトウがスタートを切る。それを合図にデジタルはペースを上げ、イメージを作り出す。イメージするのはフェブラリーでの直線に感じたあの圧力。

 2人から聞いた話を思い出し、何を想い、どのような覚悟と決意を秘めて走っていたのかを想像する。

  すると背筋に悪寒が走り、後ろから2人の心情が声になって聞こえてくる。イメージはできた。あとはそれを逃げる力に代える。

 デジタルの感覚としては想像の発せられる重圧を上手く逃げる力に代えられる感覚があった。だが徐々にゴールに迫りながらも、オペラオーとドトウとの差が一向に縮まらない、むしろ広がっている。

 実は上手く逃げる力に代えられていないのか?不安からか思わず意識をイメージから前を走るオペラオーとドトウに意識を向ける。そこには天皇賞秋で想像した理想の姿と寸分と狂わない後姿があった。

 上手くトリップ走法ができていないから差が縮まらないのではない、2人が全盛期と変わらないからだ!その姿に感動したせいか、デジタルのイメージはいつの間に消えていた。

 結局オペラオーとドトウが先着し、デジタルは3バ身をつけられてゴールする。デジタルは息を整える間を惜しんで、2人に駆け寄る。その瞳は歓喜に満ちていた。

 

「凄いよ!凄いよ二人とも!全盛期の姿と変わらないよ!」

「ありがとうございます、そう言ってくれて嬉しいです」

「いや、全盛期からはまだまだだよ。でもこれぐらいのハンデをもらえれば、デジタルの練習相手には充分なれそうだ」

 

 ドトウは謙遜し、オペラオーは満足げに答える。2人のスピードはタイムから見れば全盛期と変わらないものだった。

 だがそれは500メートルだけしか走っていないからである。これをデジタルと同じ距離を走っていたならば、たちまちフォームは乱れスピードは落ちていくだろう。

 しかし、500メートルでも全盛期の姿を取り戻せたのは3週間のハードワークによるものだった。

 

「よし、2人は息を整えてくれ、デジタルはジョグでプレストン君の位置まで戻れ、あと中間ペースは少しペース緩めすぎや、もう少し締めていけ」

「あれで緩めすぎ~?厳しいな」

 

 デジタルは若干愚痴をこぼしながらプレストンの位置に戻り、2本目を開始する。その後3本目をやって、この日のトレーニングは終了する。

 

 

「飲み物って何がいいかな?部屋の冷蔵庫には牛乳しかないけど」

「あたし達は牛乳でいいけど、オペラオーさんとドトウさんは好きじゃないかもしれないし、ベタなところで緑茶とか紅茶とか?」

「でも両方淹れ方知らないけど」

「じゃあ、コンビニでペットボトルとかで買えばいいでしょ」

 

 デジタルとプレストンは雑談に興じながら、クールダウンをしていく。その姿を見つめながらオペラオーとドトウもクールダウンをする

 

「お疲れさん。ジェルパックはこれでいいかドトウ君」

 

 するとデジタルのトレーナーがドトウにジェルパックを手渡す。

 ジェルパックとはジェルを冷やしたもので足首や腿裏につけていく部位を冷やす事で疲労回復を速め、怪我の防止にもつながっていく。ドトウは自分の分をつけ終わり、オペラオーの分を手渡し着けていく。

 

「アイシングはきちんとしておきませんと」

「そうだね、しかしアイシングなんて現役時代やってないから、未だに馴れないな」

「今までアイシングやっていなかったと聞いて驚きましたよ。それであの頑丈さですから羨ましいです」

 

 ドトウは過去のやりとりを思い出し、思わず笑みを浮かべる。

 2人で自主トレーニングをした後、ストレッチをしてジェルパックをつけるドトウに対して、オペラオーは何もつけておらず、思わず質問する。すると一回つけたけど、冷える感覚が嫌だからそれ以来つけていないと答えた。

 それはドトウにとって衝撃的な答えだった。チームではアイシングは常識であり、どのチームもそうだと思っていた。

 だがオペラオーは一切やっていないと言う。それでデビュー後の骨折以来、怪我無くシニアクラス中長距離路線を皆勤したのか。なんという頑丈な体だ。

 ドトウはオペラオーにアイシングするように薦めた。最初は拒否したが、もう現役ではないから体のケアはしっかりすべきである。

 そして怪我をして、デジタルに負い目を感じさせるわけにはいかないと強く迫り、オペラオーはアイシングするようになった。

 オペラオーはジェルを着け終わるとトレーナーに問いただす。

 

「それでデジタルのトレーナー、デジタルの新しい走りはできているのかい?」

「正直言えば分からん。出来ているか否かは可視化できるものでもないしな」

 

 トレーナーは思わずため息をもらす。 デジタルのトリップ走法は脳でウマ娘をイメージし、勝負根性と潜在能力を引き出す走りである。

 それは他者からの目では出来ているかは判別できない。例えば走りのフォームが乱れているとかならば、視覚情報として見え、トレーナーなどの他者が正しフォームと照らし合わせ修正することが出来る。

 だがデジタルが脳内のイメージは他者の視覚情報としてとらえることができない。

 判別する客観的データが有るとするならばタイム、または本人の口からイメージが上手くいったか、そうではないかを聞くぐらいだ。恥ずかしながらアドバイスできることは何も無い。

 

 するとデジタルとプレストンがクールダウンを終えてやってくる。オペラオーとドトウは出迎えようと立ち上がる。トレーナーは2人が来る前に告げた。

 

「もし、少しでも体に不調を感じたらデジタルには遠慮なく休んで、私に相談してくれ。君たちを怪我させるわけにはいかない」

「ありがとうございます」

「まあ、ボクは怪我をするようなやわな体じゃないけどね」

 

 2人はそう返すとデジタルとプレストンを出迎え帰路につく。4人の表情はレースに向けてトレーニングするアスリートとしてのウマ娘ではなく、たわいも無いお喋りを楽しむ年相応のウマ娘の表情をしていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

『テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!』

 

 プレストンは最近の日課であるヌンチャクを使ったトレーニングを終えて、自室に戻る、すると大音量の実況が出迎えた。

 また見ているのか。プレストンは感心半分呆れ半分といった笑みを見せる。

 ここ最近のデジタルはずっとレースの映像を見ている。授業中、休み時間、トレーニングの合間、自室、僅かな時間をみて、むしろ僅かな時間を作ってでも映像を見ている。

 見ているのはテイエムオペラオー、メイショウドトウ、エイシンプレストン、ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、サキーの映像だ。

 トリップ走法のイメージ構築のために繰り返し繰り返し見ており、回数も数十回じゃきかないだろう。

 例えでテープが擦り切れるまで見るという言葉があるが、もしデジタルが見ているものがビデオであれば間違いなく擦り切れているだろう。

 そのせいか今のデジタルは世俗から離れている。最近起こった国民的男性アイドルグループの解散報道も知らないだろう。

 その執着と集中力にはデジタルと長く付き合っているプレストンにすら、狂気じみたものを感じ薄気味悪さを覚えている。

 プレストンですらそうなのだから、最近ではチームプレアデスや親しい人物以外は近寄ろうとしない。

 

 デジタルは映像がひと段落ついたのかふと時計を見ると目を見開き、慌てて別のウェブページを立ち上げる。

 

「あぶない、あぶない。見逃すところだった」

「何を?」

「ネットでサキーちゃんのインタビュー番組を流すんだよ」

「へえ~、そんなのどこで知ったの?」

「ツイッター」

「でもサキーってゴドルフィンでしょ、ツイートもアラビア語なんじゃないの?アラビア語読めるの?」

「サキーちゃんのツイートはアラビア語のほかに英語でもツイートしているの!1人でも多く読んでもらうためにだってさ、意識高いよね!英語できて本当によかったよ」

 

 デジタルは自慢げに、そして楽しそうにサキーのことについて語る。

 これから勝敗を競う相手になるのにまるでファンのようだ。恐らくトレセン学園で一番サキーに詳しいだろう。そして番組が始まった。

 画面に映るのはインタビュアーとサキーの二人、インタビュアーはスーツで、サキーはゴドルフィンの指定ジャージを着ている。

 テロップを交えながらインタビュアーの質問にサキーが答えていく。内容としては日本でもよくあるインタビュー番組だが、セットや雰囲気からして民法のバラエティ的なインタビューではなく、国営放送の少し硬い感じのインタビュー番組のようだった。

 生い立ちから今までの経緯を語り、話題はドバイワールドカップに移った。

 

「ドバイワールドカップに出走されますが、警戒している又は注目しているウマ娘はいますか?」

 

 インタビュアーの質問にサキーは数秒間沈黙した後、喋り始める。気のせいかその声は弾み、ブルーサファイアのような青い瞳が光度を増したような気がした。

 

「私が気になっているウマ娘は日本のアグネスデジタルです」

 

 アグネスデジタルという名前がサキーの口から出た瞬間、プレストンとデジタルは顔を見合わせる。

 日本の放送ではない番組でデジタルの名前が出た。全く予想していなかっただけに心臓の鼓動が跳ね上がり、驚きで少しばかりあった眠気が吹き飛んだ。2人は一層集中して番組を見る。

 

「意外ですね。同じゴドルフィンのストリートクライの名をあげると思っていたのですが」

 

 ドバイワールドカップの前哨戦であるマクトゥームチャレンジで、2着に8バ身半もの大差をつけたストリートクライが関係者の間ではサキーの対抗と目され、それだけにサキーはその名前をあげると思っていた。

 

「ストリートクライは強いですし警戒もしています。ですが気になるという面ではアグネスデジタルですね。何と言ったってファーストコンタクトが印象的でしたから」

「どのようなファーストコンタクトでしたか?」

「始めて会ったのは香港のシャティンレース場のトイレでした。少し話した後、彼女は私に尋ねました『ゴドルフィンで推しのウマ娘っている?』と最初は意味がわかりませんでした。強いウマ娘がいるかということかと思いましたが、違いました。彼女はウマ娘の速さではなく、ゴドルフィンのウマ娘達の趣味やマイブームや周りで起こったエピソードなど、パーソナルな部分が気になっていたようです」

「それは珍しいですね」

「アグネスデジタルは目を輝かせて聞いていました。あそこまで興味を持って話を聞いてくれる人は初めてでした。そのせいか沢山喋ってしまい、集合時間に遅れそうになってしまいました」

 

 サキーは笑い話のように楽しげに過去を振り返る、そして思いだし笑いを堪えるように話を続ける。

 

「そして去り際に彼女はこう言いました『貴女ならすごく強くなれるよ、将来は凱旋門賞取れるかもね』と、どうやら私をジュニアBクラスだと思っていたようです」

 

 サキーは喋り終えると我慢できなくなったのか、クスクスと笑い始める。

 凱旋門に勝利し、周りの人々は少なからず畏敬の念を抱いて接してくる。

 現役のウマ娘なら誰でも知っているだろうという驕りがあった。だがアグネスデジタルは自分のことを知らないのか、畏敬の念を見せず、まるで気心知れた友達のように接してきた。

 デジタルの態度は不快ではなく、新鮮で心地よいものだった。

 そして海外所属とはいえど現役の選手に知られていないとは、自分の認知度とPR活動はまだまだであるということを実感させられた貴重な体験だった。

 

「凱旋門に勝ったサキーをBクラス扱いって、下手したら滅茶苦茶キレられる案件よ」

「いや~あの時はオペラオーちゃんとドトウちゃんに夢中で、海外には全く目が行ってなくて。それに会った時も良い意味で初々しかったから」

 

 プレストンは呆れ半分でデジタルに苦言を呈す。サキーが笑い話にしてくれているが、他の人だったらその場で怒られている可能性がある。

 いやサキー自身も実は腹綿煮えくり返っているかもしれない。その言葉にデジタルは悪気がなかったと言い訳する。

 映像ではインタビュアーはサキーの笑いが治まるのを待ち、話を切り出す。

 

「凱旋門賞ウマ娘を新人扱い。それは印象に残りますね」

「はい、印象に残っていますし、僅かな時間での交流でしたが、何となく気が合うのを感じました。もし機会があればお茶でも飲みながら話したいです」

 

 その後はドバイワールドカップへの意気込みを語って番組は終了した。

 

「これって相思相愛ってことだよね!プレちゃん!」

「それは言いすぎでしょ」

 

 デジタルはプレストンに鼻息荒く話しかける。声のボリュームが大きく、近所迷惑にならないように必死に宥める。

 恋焦がれている相手に存在が認知され、社交辞令とは言え一緒にお茶したいと言われたのだから、興奮しないわけが無い。気持ちは分かる。

 その後デジタルは興奮冷めやらぬのか、プレストンにサキーのことについて語り続ける。テンションが落ち着き話をやめたのは30分後のことだった。

 

───

 

「そういうことが有ったんだよ」

「それはよかったですね」

「さすがのサキーも、ボクの魅力には敵わなかったみたいだね」

「でも、注目されていないほうが良かったんじゃない。ノーマークでコソコソしたほうが勝てる確率が上がりそうだし」

「う~ん、ドバイでサキーちゃんに勝って『何なのアイツ!』って注目されるパターンも悪くないけど、折角の晴れ舞台だから、最初から注目された状態で走りたいのが乙女心かな」

「乙女心は複雑ね」

 

 ウッドコース場で4人はウォームアップをしながら談笑し、話題は昨日のサキーの話に移る。

 デジタルはサキーが出ていた番組のことを嬉しそうに話し、ドトウはデジタルがはしゃぐ様子を微笑ましく眺め、オペラオーは当時のデジタルの興味がサキーではなく、自分達にあったのを嬉しそうに胸を張り、プレストンはデジタルの乙女心を若干皮肉るように賛同する。

 するとトレーナーが4人に準備が出来ているかと声を掛け、先のトレーニングと同じように持ち場に移動する。デジタルも移動するがトレーナーに呼び止められた。

 

「現地ではビシと追えるのは1本か2本ぐらいで、後は調整や。今日が最後になると思っておけ、新しいトリップ走法は完成できているのか?」

「うん、ほぼ完璧」

「そうか、なら最後ぐらい先着せえよ」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に手をヒラヒラと振りながら、持ち場に戻る。

 タイムも伸びているし、直線でのオペラオーとドトウとの着差も縮まっている。デジタルの言葉通り、トリップ走法での逃げる力を引き出せることは出来ているのだろう。後は結果だ。

 このトレーニングで、この面子相手に先着できる現役ウマ娘はほぼいない。それほどまでにデジタルにはハンデがあるトレーニングだ。だが世界最強のサキーに勝つためには結果が欲しかった。

 

「今日で最後だね、付き合ってありがとう」

「だったら抜いて恩返ししなさい、まあ、抜かせるつもりはサラサラ無いけど」

 

 プレストンは言葉を交わしスタートをきる。スタートはデジタルが若干有利だが、すぐに盛り返し横一線に並ぶ、そこから200メートル、400メートルとハロン棒を通過していく、まだ横一線だった。

 プレストンは併走するデジタルの横顔を覗く。その横顔は自分との併走を堪能するように笑顔だった。

 トレーニングというものは基本的に辛く苦しいものだ。だが辛いからこそ力がつき、その分レースに勝てれば何倍も嬉しくなる。そう思えば苦しい事は悪くは無い。

 だがデジタルと走っていると不思議と苦しいではなく、楽しいと思えてくる。デジタルの嬉しいという感情が伝播していくのかもしれない。それは心地よい体験だった。

 

 1000メートルを同着で通過し、プレストンはスピードを緩め抜き去られていく。

 デジタルは名残惜しそうに一瞬振り返り眼が合う。プレストンはサムズアップサインを見せ、デジタルはそのサインに頷いた。

 オペラオーとドトウまでの500メートル、デジタルは最低限のペースの緩みで走りながら、息を入れ力を溜める。

 そしてオペラオーとドトウの1バ身後ろにつくと2人はスタートをきる。デジタルはそれを見て瞬時に脳から情報を引き出し、イメージを作り出す。

 オペラオーとドトウの間にはある1人分のスペース、そこにデジタルは入り込み併走する。3人は横一線になり直線を駆け抜ける。

 

 オペラオーとドトウは併走するデジタルを一瞥する。3人で走った唯一レースである天皇賞秋では、こうして肩を並べて併走することはなかった。

 だがジャパンカップのトレーニングでは、後ろから迫るデジタルに抜かれまいと力を振り絞りながら体を合わせ、ゴールではいつも僅差だった。そして今も3人で横一線になりながら併走している。

 今日でトレーニングは終えデジタルはドバイに旅発つ。そして勝つにせよ負けるにせよ、いずれ次のレースに向けてトレーニングを再開する。

 その時は衰えがさらに進行し、デジタルのトレーニングの相手にはならなくなる。これが本当に最後の走りだ。

 ゴールに迫ると感覚は沼に入ったように鈍化し、感傷的な気分と名残惜しさが増してくる。

 2人はさらに力を振り絞る。一秒でもデジタルが理想とする自分達であるように、一秒でもデジタルの目に焼き付けてもらうように、そして先着して理想の自分達を心に刻んでもらうように。

 残り100メートルでオペラオーとドトウはデジタルからクビ差ほど抜き出て、その差を維持したままゴールした。

 

「今日は……先着できると……思ったんだけどな……」

 

 ゴールを駆け抜けると3人は同じ位置で止まり、呼吸を整え、デジタルは息絶え絶えで話しかける。

 言葉では悔しさを表しているが、表情と声色はまるで違う。嬉しさを全面に現していた。

 

 3人は暫く呼吸を整えていると、トレーナーと戻ってきたプレストンが近づき、飲み物とタオルを手渡し労う。

 

「結局、最後まで先着出来んかったな」

「プレちゃんだって……オペラオーちゃんだって……ドトウちゃんだって……強いんだから……しょうがないじゃん」

「まあ、よくよく考えれば、この面子とハンデで勝つなんてサキーでも無理だったな」

 

 トレーナーの言葉にデジタルは『そうだよ~』と満足げな笑顔を浮かべながら答える。

 本音を言えば先着して欲しかったが、プレストンとオペラオーとドトウを過小評価しすぎていたということだろう。それにオペラオーとドトウという憧れを抜けないほうが良かったのかもしれない。

 デジタルがイメージする際、抜いた相手より抜けない相手のほうが、相手に近づこうとして、より力を引き出してくれるだろう。数分ほど4人は休憩を取る。その間トレーナーはデジタル息が整っていることを見計らい声を掛ける

 

「デジタル、ドバイ前の総仕上げだ。最後に一人で、もう一回2000メートル走って来い。本番を想定して、トリップ走法の逃げる力と、追う力を合わせたやつでな」

「うん」

 

 デジタルは寝そべっていた体を起こし、スタート地点に向かう。

 逃げる力と追う力を融合させたトリップ走法。デジタルがサキーに近づき堪能し勝つために生み出した走法。だがまだ完成していなかった。

 オペラオー達と走った後に何回か単走で実践してみたが、逃げる力から追う力にイメージを切り替える際の継ぎ目が甘く、若干タイムラグが出てしまった。それはイメージが固まっていなかったからだろう。

 だが今日まで逃げるイメージを構築し続け、追うイメージの相手である、プレストンとオペラオーとドトウの走る姿や息遣いを体験し脳に刻み込んだ今なら、完成できそうな予感があった。

 

 デジタルはスタート地点に着くと走り始める。本番と同じように序盤はスピードを速め、前目に位置取り先行する。中盤は若干ペースを緩め、残り600メートルになった瞬間、トリップ走法を使う。

 最初は逃げる力、ヒガシノコウテイとセイシンフブキをイメージし、余力を引き出す。

 200メートルを通過した瞬間に、逃げるイメージから追うイメージに替え、プレストンを出現させる。そこからは100メートルごとにドトウ、オペラオー、サキーとイメージする相手を代えていく。

 イメージを替えるタイムラグはなくスムーズに出来た。そして余力を引き出し、体のすべてのエネルギーを使いきった感覚があった。

 

 デジタルは走り終わり、コースの外でタイムを計測していたトレーナーの元に近づく。

 その歩様は千鳥足で今にも倒れそうだった。その様子を見てトレーナーとプレストン達はすぐに駆け寄り、デジタルがコースに倒れ伏せる前に抱きかかえた。

 

「できたよ皆……でもこれ……脳も体も目一杯使うから……かなりしんどい……」

 

 プレストンの腕の中でゆっくりと喋りかける。トレーナーは膝や足首などを触診して痛みがないかと問うが、デジタルは無いと答えた。

 故障という最悪の事態を想定したが、どうやら力を使い果たしただけのようだ。

 

「お疲れデジタル、明日は完全オフだ。ゆっくり休め」

「そうさせてもらうね。プレちゃん部屋まで送って」

「はいはい。わかりましたよ、お姫様」

 

 プレストンはお姫様だっこでデジタルを運び、トレーナー達はその後をついて行く。

 

「タイムはどうだったのだい、デジタルのトレーナー」

「タイムは普通だが、トレーニングの最後の一本と考えれば自己ベストに近い。言葉通りトリップ走法は完成したのだろう」

 

 トレーナーはオペラオーとドトウに計測したタイムを見せる。全体は今までどおりだったが、トリップ走法を使った3ハロンのタイムは通常より伸びていた。

 これでサキーとも充分に戦えるだろう。あとは現地での調整しだいだ。トレーナーは今後のことについて思考をめぐらす。すると携帯電話に着信が入り、思考は中断される。

 液晶には番号だけが表示されている。何回か電話をかけたり、受けたりする番号であれば電話帳に登録している。名前が出ていないということは、初めて電話をかけてくる相手だ。トレーナーは僅かばかし緊張しながら電話に出た。

 




現実のドバイワールドカップに間に合うか微妙なところ…
がんばります


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勇者のサブクエスト#5

これにてサブクエスト完了!
いざドバイへ!


「しかし昨日は驚いたわね。まさかテイエムオペラオーさんとメイショウドトウさんがトレーニングに参加しているなんて」

「ああ、思わず2度見しちまったよ」

 

 ウオッカとダイワスカレートは授業が終わりチームルームでトレーニングウェアに着替えている最中昨日のことを振り返っていた。

 2人がポリトラックコースに移動している最中にウッドチップコースでテイエムオペラオーとメイショウドトウが準備運動をしている姿を目撃していた。

 引退したウマ娘が健康や美容のため、または普段の習慣が抜け切らないからとトレーニングすることは多々ある。

 だがそれらのウマ娘は暗黙のルールとしてトレセン学園の施設は使わず施設外で行うことになっている。

 施設はレースに本気で走る現役が使うものであり、真剣勝負をすることがない者は使うべきではないという一種の敬意から暗黙のルールに従っていた。

 2人もその暗黙のルールは知っており、それを破るということは余程のことであると思っていた。

 

「しかもレース前さながらの気迫とスピードだったらいしいわよ。見ていた娘も『あれほど走れて何で引退したんだろう』って言っていたわ」

「マジかよ、見たかったな~」

 

 ウオッカは残念そうに呟く。オペラオーとドトウの走る姿を見たいという思いに駆られたが、クラシックの1つである桜花賞に勝つために、目の前に居るライバルに勝つために油を売っている暇は無いと泣く泣く自分のトレーニングを優先したのだった。

 

「しかしあのアグネスデジタルと一緒にトレーニングに参加してなんて3人は仲が良かったんだな」

「テイエムオペラオーさんは極度のナルシストだし、あの変態と仲が良いということは相当の変人なのかもね、でもメイショウドトウさんは何で仲が良いんだろう?ちょっと引っ込み思案そうな普通の人だと思っていたけど……」

「それはドトウがドMだからだよ」

 

 2人は後ろを振り向く、そこにはゴールドシップの姿があった。

 

「ゴールドシップ!?どこから話を聞いていたの?それにドMってどういうこと」

「最初から。現役時代はオペラオーに何度何度も負けて、バッキバキに心折られているはずなのに何度も挑むなんてドMだろ。きっと夜な夜なデジタルとオペラオーに責められて悦んでるんだ」

 

 2人はゴールドシップの言葉からボンテージに鞭を持った典型的なS嬢スタイルのオペラオーとデジタルに鞭を振るわれて悦ぶドトウの姿をイメージしていた。

 普通ならこの名誉毀損に値するような憶測は即否定されるのだが、アグネスデジタルを変態と見抜いたゴールドシップの洞察力にある程度の信頼を置いており、この言葉は真実になっていた。

 無論メイショウドトウの名誉のためにゴールドシップの言葉は全くのデタラメであると明記しておく。

 

「変態にナルシストのSにドMか。ある意味お似合いかもな」

「アグネスデジタルは勿論だけど、この2人にも近づかないほうがいいかもね。よしトレーニングにいきましょ。今日もチューリップ賞のように完封してあげるわ」

「あれはスカーレットに花を持たせただけだ。本番はそうはいかねえからな」

 

 いつものように言い争いをしながらコースに向かう。こうしてゴールドシップの手によって誤った結論にたどり着いてしまった。

 

----------------------------

 

 

 3月の4週目のある日、桜の開花が近づくにつれ気温は温かくなり、晴れということもあって絶好のトレーニング日和だった。

 

「みんな順調そうだな」

 

 チームスピカのトレーナーはコースで走るスピカのメンバーの様子を見つめながら思わず呟く。陽気のせいか声の調子が明るい。

 

 チームスピカのメンバーのレースは続く。先々週はウオッカとスカーレットがクラシックの前哨戦のチューリップ賞を走りスカーレットに軍配が上がった。

 レース後にウオッカは心底悔しがりスカーレットは勝ち誇った。だが2人はすぐに気持ちを切り替え本番の桜花賞に向けてトレーニングに励む。

 メジロマックイーンとゴールドシップは今週阪神レース場芝3000メートルGⅡ阪神大賞典に出走予定である。

 今年から4月の1週目でおこなわれていた阪神芝2000メートルGⅡ大阪杯がGⅠに昇格したことでメンバーが分散したが、それでも天皇賞春に向けての重要なステップレースであることは変わらず多くの強豪が集まっていた。

 マックイーンはもちろんのこと気分屋のゴールドシップもそれなに真面目にトレーニングに励んでいた。だがあの気分屋のことだからレース当日、いや発走した瞬間やる気を無くすことがあるから油断なら無い。

 次の週ではスペシャルウィークがドバイの芝2400メートルのドバイシーマクラシックに出走する。

 自身が志願したレースだけあって気合も入っており調整も順調に進んでいる。あとは現地入りしてどれだけ今の好調をキープできるかだがそこは自分の腕次第だろう。

 その次の週にはGⅠ大阪杯にトウカイテイオーとサイレンススズカが出走する。

 

「全く嬉しい悲鳴とはこのことかね」

 

 トレーナーは嬉しさ8割気だるさ2割といった具合のため息をつく。

 GⅠにベストの状態で迎えるための調整メニューの作成、GⅠに出てくるウマ娘のスカウティング、メンバー達の取材対応、やることは山積みで目が回るような忙しさだ。

 その多忙な日々を送っていたせいか不健康な生活を送っており最近わき腹が頻繁に痛む。

 本来なら病院に行くべきだがその時間が惜しい。幸いにも我慢できる痛みだ、一段落着いたら病院に行こう。  

 トレーナーはわき腹に手を当てながらメンバーの様子を観察する。

 

 

「スペちゃんはパスポートもう取ったの?」

 

 トレーニングは小休止に入りコースの端で座りながら水分補給をしているスペシャルウィークにトウカイテイオーが近づき座り込む。

 

「はい。先週取って来ました」

「パスポートか、ボクも取ったほうがいいかも、いずれ会長と一緒に凱旋門賞を走るからね」

 

 テイオーはこの予定は確定事項だと言わんばかりに自信満々に胸を張る。

 するとスペシャルウィークの隣に座っていたサイレンススズカは笑い声が出ないように手で口を押さえながら2人から視線を逸らすように下を向く。

 

「ボクは可笑しい事言ったつもりはないんだけど」

 

 テイオーはスズカの様子を見ており不機嫌そうに言い放ち、スズカは笑いを堪えながら謝罪する。

 

「ごめんなさいテイオー。別に貴女の事を笑ったわけじゃないの、ただパスポートの話でスペちゃんのことを思い出して……」

「あのことはもう忘れてくださいスズカさん!」

「何かあったの?」

 

 恥ずかしそうに狼狽するスペシャルウィークに興味を示したのかテイオーはスズカに問いかけ、その質問に答えた。

 思い出し笑いしていたのはパスポートに写るスペシャルウィークの写真のことだった。

 普段では取材などで写真を撮られることに慣れているはずなのだが、海外で使う公的な身分証明書ということを妙に意識してしまい、写真を撮るたびに妙な顔になる。

 その度に撮りなおし、四度目の試みでスペシャルウィークは諦め、その妙な顔の写真をパスポートに載せる。その顔写真がスズカの笑いのツボに入っていたのだった。

 

「へえ~じゃあ今晩部屋に行くからパスポート見せてよ」

「ダメです!」

 

 テイオーがからかう様に言うとスペシャルウィークは力いっぱい拒否する。2人は暫くじゃれているとスズカが心配そうに声を掛ける。

 

「スペちゃん、本当に大丈夫?」

 

 大丈夫という言葉は海外に行くのは大丈夫だという意味だった。

 スペシャルウィークは北海道の田舎から東京のトレセン学園にやってきた。その際に北海道と東京のカルチャーショックに戸惑い馴れるのに時間が掛かっていた。

 今回は海外だ、カルチャーショックの度合いはさらに上だろう。

 UAEは中東にあり日本人にとってアメリカやヨーロッパと比べて馴染みが薄い。自分もアメリカに行ったときも戸惑ったので気持ちは理解でき、それだけに心配だった。

 

「そうですね。心配ないと言えば嘘になります。でもやることは日本に居たときと変わりません!どこで走ろうがレースはレースです!それに1週間程度ですから馴れなくても我慢できます!」

 

 スペチャルウィークは力強く答えた。良い意味で開き直っている、これなら大丈夫そうだ。

 

「その意気よスペちゃん。それにトレーナーさんだって居るし大丈夫……」

 

 スズカの笑顔は一変し、目を見開き動揺の表情を浮かべる。スペシャルウィークとテイオーも話の流れでトレーナーが出たので何気無く視線を向け、スズカと同じように動揺の表情を浮かべていた。

 そこには地面に膝をつき脇腹を押さえ蹲るトレーナーがいた。3人は一斉にトレーナーの下に駆け寄り様子を伺う。トレーナーは脂汗を流し苦悶の表情を浮かべていた。

 

「お~い。何かあったか?」

 

 すると3人の様子が気になったのか、別の場所で休んでいたウオッカ、スカーレット、マックイーン、ゴールドシップが駆け寄ってくる。

 

「みんな大変だよ!トレーナーがすごくお腹が痛そうで!」

「腹が痛い?どうせ下痢か何か…やべえなこれ」

 

 ゴールドシップのにやけていた表情はトレーナーの様子を見て険しくなる。この痛がり様は冗談やドッキリではない。

 

「マックイーンとゴールドシップは養護教諭を呼んできて!」

「養護教諭?何だそれ?」

「保健の先生ですわ。行きますわよゴールドシップさん!」

「なら最初からそう言え!」

「スカーレットとウオッカは正門に、テイオーは裏門に向かって。そして救急車が来たらここまで誘導して!」

「わかった!」

 

 スズカは迅速に判断し指示を出す。メンバーもトレーナーの容態の変化に動揺しながらも指示に従い行動に移す。

 

「スペちゃんは自分か私のでいいから携帯電話を持ってきて!」

「はははい!」

 

 スペチャルウィークは全速力でチームルームに向かう。コース以外での全力疾走は足に負担もかかり行きかう人に接触すれば大事になるので非常に危険だ。だがそんなことは頭の中には全くなかった。

 何が起こった?トレーナーは無事なのか?不安と困惑で頭の中がグチャグチャになりながらも、それらを断ち切るように全力で駆けてゆく。

 

───

 

 

 制服に身を包んだスペシャルウィークは病院の受付で必要事項を記入し、バッチをつけて階段を上っていく。  

 足取りに迷いはない、向かっていく先はかつてサイレンススズカが怪我で療養していた病室のすぐ近くそばだ。何度も通った道のりであり体が覚えている。病室の前にたどり着き扉をノックする。

 トレーナーが入院している病室はスズカとは違い大部屋だ。中は4床のベッドがあり、目を向けるとそれぞれお見舞いにきた友人や親族と談話をしている。他にはカーテンを閉めて様子がわからない入院患者もいる。それらの人の邪魔をしないよう音を極力たてないよう、ゆっくりとした足取りで病室の奥のベットに向かう。

 

「トレーナーさん起きてますか?」

 

 スペシャルウィークはカーテン越しに小さな声量で声を掛けるとカーテンが開き病院着のトレーナーが姿を現した。

 

「おう、スペか。忙しい中わざわざ悪いな」

「トレーナーさん体の調子はどうですか?あと頼んでいた雑誌持って来ましたよ。あと、これは皆からのお見舞い品です」

「助かる。病院だと何もする事が無くて暇で暇で。ついこの間までは休みが欲しいと思っていたが、いざ休みがあるとそれはそれで微妙だな」

「わかります。私もインフルエンザで休んでいた時熱は下がっているのに、あと数日は大人しくしていろと言われてやることがなくて暇でした」

 

 スペシャルウィークはトレーナーにウマ娘の専門雑誌数冊を手渡し、皆で金を出して買った花を花瓶に入れる。トレーナーの様子は普段と変わらない。そのことに胸をなでおろした。

 

 トレーナーは救急車で病院に運びこまれ手術をおこなった。腹痛の原因は虫垂炎、一般的に盲腸として知られている病気だった。

 その結果を聞いてスピカの面々は思わず安堵の息を漏らした。

 スピカのなかでは盲腸は軽い病気という認識だった。もっと胃に穴が開いたなどの重い病気を想定していただけに拍子抜けな感が有り、ゴールドシップにいたっては『盲腸ぐらいで倒れるなよ、ビビらせやがって』と悪態をついていた。

 そして手術から数日後、最初はスピカ全員で見舞いに行く予定だったが、喧しいのとレースに向けてトレーニングに励めというトレーナーの指示を受け、代表者1人が行く事になりくじ引きの結果スペシャルウィークが行く事になった。

 

「もうお腹は大丈夫なんですか?」

「ああ、痛みはほぼない」

「よかった。それでいつ退院できるんですか?」

「1週間後だ」

「1週間後ですか。それじゃあドバイ入りはレース直前ですね」

「そのことで提案、いやお願いがある」

 

 トレーナーは切り出しづらそうに口を開く、スペシャルウィークはその瞬間察する。

 これは自分にとって良くないお願いだ。唾を飲みこみどのような事を聞いても動揺しないように体を緊張させる。

 

「俺は直前に現地入りするが、スペは1週間前に現地入りして欲しい」

 

 スペシャルウィークはトレーナーの言葉を聞いてから数秒後顔を引き攣らせた。この言葉の意味はUAEで数日間たった1人で過ごし、レースに向けて調整しろということだった。

 

「私もトレーナーさんと一緒に現地入りじゃあダメなんですか?」

「初めての海外でのレースだ、現地になれるためには1週間前には着いていてもらいたい。直前に現地入りすることになればドタバタして慣れる時間が足りない」

「退院を早める事はできないんですか?」

「俺も何度も頼んだが、最低でも1週間は入院しろの1点張りだ」

 

 懸命に食い下がり代案を出すがすべて却下される。スズカには日本でも海外でもやることは変わらないと強気の発言をしたが、それはある意味虚勢だった。

 初めての海外でのレースということで不安が一杯だった。だが信頼できるトレーナーが一緒にいるなら大丈夫と自分を奮い立たせていた。だがその前提条件は崩れた。

 

「もし、それが嫌ならドバイは回避して大阪杯に出走してもかまわない。今ならまだ間に合う」

 

 トレーナーの言葉に心が揺らぐ、大阪杯なら異国での不安やストレスを抱えることなく気楽に走れる。

 そして走る相手にはトウカイテイオーが居る。何よりサイレンススズカがいる。何もそんな困難に向かわなくてもいいではないか、皆も自分の不安も分かってくれるし誰も責めはしない。

 

 だがすぐさまその考えを否定した。サイレンススズカはトレーナーも帯同せずたった一人でアメリカの地で過ごしレースに出走した。

 同学年のエルコンドルパサーもフランスに長期の遠征をおこなった。2人も不安や寂しさもあったに違いない。だが電話や手紙などではそんな様子を全く出さなかった。

 そのことを思い出すと異国で過ごすことへの不安で弱気になり、レースを回避しようとしている自分が情けなく恥ずかしかった。

 

「大丈夫です!ドバイに行きます!やることは日本に居たときと変わりません!どこで走ろうがレースはレースです!」

 

 スペシャルウィークはサイレンススズカに言い放った時と同じ言葉をトレーナーに言い放つ。

 憧れのサイレンススズカに勝つと心に決めた。それをこの程度の困難で挫けていた勝てるわけが無い!

 自らを奮い立たせるように喋ったせいか予想以上に大声になっており、すぐさま病室にいる人間に向けて深々と頭を下げた。

 

 トレーナーはスペシャルウィークの姿を見せて一笑すると、携帯電話を取り出し電話をかける。

 話からして何かを頼み込んでいるようで、その真剣な声色にスペシャルウィークは固唾を呑んで見守る。話が終わりトレーナーは電話を切ると深く息を吐いた。

 

「スペはドバイに1週間前に、俺は直前に現地入りだ。申し訳ないが頼む」

「はい」

「それで俺が現地入りするまでの間は調整や世話は別のトレーナーに頼んだ。その人は海外についての知識も豊富で何回も海外遠征をおこなっていて信頼できる人だ。海外遠征という意味では俺より頼りになるはずだ」

 

 スペシャルウィークは思わず安堵の息を漏らした。てっきり自分ひとりで過ごし調整しなければならないと思っていた。

 それだけにスピカのトレーナーではないといえど、別のトレーナーが世話をしてくれるということは不安をある程度取り除いてくれる要因だった。

 

「ありがとうございます。てっきり自分ひとりでやるものだと思っていました」

「おいおい、外国語もろくに話せないで海外に行くのが初めてのスペを1人でドバイに行かせるわけ無いだろう。そんなことしたらトレーナー免許剥奪だ」

「それで代わりのトレーナーさんは誰なんですか?」

「それはだな……」

 

───

 

 午前6時

 スペシャルウィークは目覚ましを止め、まだ寝ているサイレンススズカを起こさないように少しだけカーテンを開ける外を確認する。

 目に飛び込んできたのは雲ひとつ無い青空だった。これなら飛行機の窓から見える景色は素晴らしいものだろう。北海道からトレセン学園に向かう際に乗った飛行機の景色を思い出す。

 ベッドから起き上がると洗面台で顔を洗い髪形を整え、クローゼットに向かいスーツを取り出す。

 トレセン学園では海外遠征する際はスーツ着用が義務付けられていた。スーツを着て洗面台に向かい姿を確認する。スーツを着て外に出るのはこれが初めてであり、着心地もそうだが鏡に映る自分の姿にも違和感があった。

 

「スペちゃんOLさんみたいね」

 

 スペシャルウィークが後ろを振り向くと寝巻き姿のサイレンススズカの姿がいた。

 

「ごめんなさい起こしちゃいましたか?」

「いいえ、それよりスーツ似合っているわね」

 

 サイレンススズカは振り向いたスペシャルウィークを改めて見渡す。妹のようなスペシャルウィークがスーツを着ているだけで何だか年上のように見えてくる。服装一つでこれだけ印象が変わるものなのか。

 一方スペシャルウィークも褒められた事が嬉しかったのか、鏡で自分の姿を再確認していた。

 

「成田までは車で移動だったかしら?」

「はい、正門前に集合でそこから成田空港までです」

「じゃあ、そこまで一緒に行きましょう」

 

 サイレンススズカは寝巻きを着替えて準備をする。自分も海外遠征する時は不安だったが、1週間程度チームメイトが海外に向かうだけなのに、こんなに不安になるものか。普段ならそこまで心配しないが今回は事情が若干違う。

 スペシャルウィークも断ることなく、サイレンススズカが着替えるのを待つ。スペシャルウィークも同じように不安と名残惜しさを感じていた。

 

 外に出る準備が整うと2人は部屋を出ると同時に春風が肌を刺激する。

 この風を感じると春になったことを実感する、そろそろ正門前の桜が開花する頃だろう、ドバイから帰ったら咲いているかもしれない。

 そしたらチーム皆でお花見でもしたいものだ。スペシャルウィークは未来のささやかな楽しみに思いをはせる。

 寮の階段を下りると3名がスペシャルウィークを出迎える。ダイワスカーレット、ウオッカ、トウカイテイオーだ。三人もスペシャルウィークを見送るために来ていた。

 

「うわ~スペちゃんスーツだ」

「かっこいいです」

「OLさんみたい」

 

 3人はスペシャルウィークのスーツ姿に驚き率直な感想を述べる。

 どれも好意的なものでスペシャルウィークは思わずはにかんだ。そしてサイレンススズカもはにかむスペシャルウィークの後ろで自分のことのように嬉しそうに笑う。

 そこから5人は学園の正門まで歩いていく。時間としてはほんの僅か時間でいつも通りの会話をしていたが、トレーナーが居ないなか海外に行くという不安が和らぐようだった。

 10分ほど歩くと正門が見えてくる、正門前にはすでに車が停まっており、50代の男性とスペシャルウィークと同じようにスーツを着ているウマ娘が話している。 

 するとそのウマ娘はスペシャルウィーク達の存在に気づいたのか、顔をパッと明るくさせ駆け寄ってくる。

 スペシャルウィークは体をびくんと震わせ緊張し、テイオー、スカーレット、ウオッカは『ひぃ』など『うわぁ』など『こっちに来るよ~』と悲鳴のような声を漏らしながらスズカの背に隠れ、スズカは眉をピクリと動かし厳しい表情を向ける。

 

「初めまして、スペシャルウィークちゃん。あたしはアグネスデジタル。ドバイでは1週間チームメイトだね、よろしくね」

 

 デジタルは満面の笑みを浮かべながら手を伸ばす。

 

 スピカのトレーナーがドバイでのスペシャルウィークの世話を頼んだのはデジタルのトレーナーだった。

 その依頼にデジタルのトレーナーは了承し、事は上手く運ぶと思ったがそうはいかなかった。

 

 依頼した翌日、トレーナーの下にスピカのメンバーが押し寄せ抗議した。

 あのデジタルとそのトレーナーにスペシャルウィークを預け、一緒に行動させるわけにはいかない。考え直せと。

 ゴールドシップの言葉から、チームスピカのなかでアグネスデジタルのイメージは偏見や曲解が絡み合い、恐ろしい怪物へと変貌していた。

 

 ど変態、マインドクラッシャー

 

 本人の知らぬところで、名誉毀損級のありがたくない称号が与えられ、デジタルには関わらないでおくことがスピカの共通認識になっていた。

 本来ならそこまで過剰に反応する事はないのだが、言霊のせいなのか、チームで一番思慮深いであろうサイレンススズカさえそう思っていた。

 

 トレーナーも以前デジタルに対するネガティブなイメージの話題で盛り上がってたのは知っていたが、ここまで本気で信じ込んでいたとは知らなかった。

 デジタルはそこまでひどいウマ娘でもないし、仮にそうであってもデジタルのトレーナーは信頼できる人物であり、スペシャルウィークに害が及ばないように配慮してくれる。そのようにスピカのメンバーを説得し引き下がらせた。

 だがメンバーのなかでは不安の火種は燻っていた。

 関西のレースに走るために遠征しているゴールドシップとメジロマックイーン以外のメンバーがスペシャルウィークを見送りにきたのは、アグネスデジタルとトレーナーを見定めようという意図もあった。

 

 スペシャルウィークは危険物にふれるように恐る恐るゆっくりと手を伸ばす。

 デジタルの噂を信じ込んみ握手することへの抵抗感があったが、握手に応じないのは失礼だという礼儀正しさが勝り、握手に応じようとしていた。

 

 2人は握手を交わす。ごく普通の握手であり、スペシャルウィークは必要以上に触られていないことに安堵する。

 一方デジタルはスペシャルウィークの不振な様子を始めて会う人物と海外遠征で緊張していると判断した。

 

「あっ、ウオッカちゃんに、ダイワスカーレットちゃんに、トウカイテイオーちゃんに、サイレンススズカちゃんだ。スペシャルウィークちゃんの見送り?仲が良くていいね。あたしのチームメイトなんて今頃ベッドでぐっすり寝ているよ」

 

 デジタルはスピカのメンバーを一瞥した後軽い口調で不満を言う。

 ウオッカ達はデジタルが視線を向けると『目を合わせるな、見るだけでセクハラしてくるぞ』とこれまた名誉毀損級の言葉を発しながらさらにサイレンススズカの背に隠れ、サイレンスズカはデジタルを鋭い目つきで見据える。

 

「始めましてスペシャルウィーク君、私はスピカのトレーナーからトレーナー代行から任されたチームプレアデスのトレーナーだ。デジタルのこともあるから、付きっきりというわけにはいかないがドバイでは可能な限りサポートさせてもらう」

 

 デジタルのトレーナーがスペシャルウィークに近づき物腰柔らかな笑顔を向けながら手を伸ばす。その様子をサイレンススズカ達は観察する。

 

 服装、容姿、仕草、表情。

 

 まるで初めて彼氏を家に連れてきた時の父親のごとく審査していく。

 スペシャルウィークは年下にも礼儀正しい態度に警戒心を緩めたのか、デジタルの時と比べるとすんなり手を伸ばし握手をした。

 

「じゃあ、皆さん行ってきます」

 

 スペシャルウィークはスピカのメンバーに挨拶し車に乗り込むと、学園を出発した。

 

「行っちゃったね」

「スペ先輩大丈夫かな?」

「トレーナーの言うとおり、デジタルのトレーナーがまともであることを祈るしかないわね。今見た限りまともそうだし希望はあるわ」

 

 4人は離れていく車を心配そうに見つめる。だがもう賽は投げられた。できることはまさに祈るのみである。

 こうして思わぬ形で結成された急造チームは灼熱の地ドバイへ旅立った。




まさかのチーム白ちゃんにスペシャルウィーク参入!
デジタルのトレーナーのモデルの調教師は数々の名馬を育ててきましたが、私のなかではやっぱりスペシャルウィークとアグネスデジタルです!
ですが漫画でもアニメでも、スペシャルウィークが主人公故にメインキャラと絡みが多く、接点がない!、
ならば自分で接点を作ればいいとIF展開にしました


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勇者と太陽と未完の大器#1

ドバイまでに終わらそう思っていましたが、構成の大幅な変更などが有り
いつの間に4月の下旬になってしまいました……



  メイダンレース場、1週間後にはドバイワールドカップ等多くのGIレースが行われる。当日は数多くの熱戦が繰り広げられ、レース場は興奮の坩堝に化すだろう。だが今現在は嘘のように静かだった。

 そのメイダンレース場で、トレーナーはコース前に待機しながら時計を見る。時刻は午前6時を回ろうとしている。

 日本ならば日が出ている時間だが、ドバイの地では日は出ていなく辺りは薄暗い。気温も日本ならこの時間では少し肌寒いが、ドバイは暖かく初夏のような気温で過ごしやすいと言える。

 するとトレーナーの元に、半袖のウエアとズボンを着たアグネスデジタルとスペシャルウィークが歩み寄ってくる。

 

「おはよう、デジタル、寝心地はどうや?」

「おはよう白ちゃん。バッチリだよ。ベッドはフカフカだし、内装もゴージャスで香港のホテルより上かな。何よりレース場と隣接しているのが凄いよね。あと意外に暑い」

 

 デジタルはホテルで快適に過ごせたのか、いつもより少しだけテンションが高い。

 3人が一週間宿泊予定のザ・メイダンホテル。ドバイミーティングを見に来る著名人やセレブを満足させるに充分なサービスと施設を誇る五つ星ホテルである。

 最大の特徴としてはレース場と隣接しているという立地であり、ホテルを出ればすぐにレース場足を運べ、それどころか部屋の窓からレースを見ることすら可能だ。

 

「おはようスペシャルウィーク君、体調はどうや?」

「飛行機から降りた時よりはマシになりました。あと豪華すぎて落ち着かなかったです……」

 

 一方スペシャルウィークは覇気がなく若干億劫そうに歩いてくる。成田からドバイまで12時間に及ぶ飛行機での移動が体に堪えたようで、ホテルに着くとすぐにベッドに飛び込み就寝していた。

 デジタルはアメリカに里帰りする際に、トレーナーは各国のウマ娘レースを見るために長時間での飛行機での移動に慣れているが、スペシャルウィークにとっては初体験であり、体調を崩していた。一晩寝れば治るかと期待していたが、そうはいかなかった。

 スペシャルウィークは実家でも質素に暮らしていたのだろう。慎ましく暮らしていた人間が、豪華な場所に行くと戸惑うということはよく有る話だ。

 

「それで、こんな朝早くから何するの?」

「散歩がてらのスクーリングや、それで軽く食事をすませてトレーニング」

 

 スクーリングとは海外から来たウマ娘達が本番で走るコースの感触を確かめる為に、歩きでコースを回ることである。デジタルはその言葉に若干不満そうに異議を唱える。

 

「別にこんな朝早くじゃなくてもよくない?正直ちょっと眠いんだけど」

「日が出てくると気温が上がり始め、昼頃には真夏並みになるぞ。高校球児みたいに頑張りたいなら別やが」

「それは嫌」

 

 デジタルはその辛さを想像したのか、渋々と了承する。

 真夏並みとなると気温は30℃を超えてくる。そんな炎天下では歩いてコースを回るのもしんどい、トレーニングなど真っ平御免だ。3人はまずドバイシーマクラシックがおこなわれる芝コースを歩き始める。

 

「コースはコーナーに傾斜があるだけで、基本的に平坦や。芝も東京よりちょっと時間がかかるが、ほぼ東京の芝と同じ。スペシャルウィーク君に合うやろ。スタートからコーナーまで250しかなく、もし外枠で先行しようと思うなら、少し忙しくなる」

 

 トレーナーが先導しながら、コースについて説明する。デジタルとスペシャルウィークはその後ろを歩いている。

 

「スペシャルウィークちゃんは枕が変わると眠れないタイプ?」

「そうかもしれません」

「そっか。でも家から枕を持ってくるのも嵩張るし、難しいところだよね」

「そうですね」

「あと今日の自由時間どっか行かない?」

 

 デジタルはスペシャルウィークに気軽に話しかける。スクーリングはコースを知るために重要な作業なのだが、芝のレースには出ないのでそっちのけである。

 一方スペシャルウィークは若干の警戒心を持ちながら、会話に相槌を打つ。チームスピカ内でのデジタルは変態であるという、認識をスペシャルウィークも抱いていた。

 体調不良も飛行機移動の疲れもあるが、相部屋という緊張感からくる疲れも起因していた。

 トレーナーはその会話に聞き耳を立てる。どうやらスペシャルウィークは若干人見知りなのか緊張しているようだ。自分も会話に参加しようか考えるが、今様子見と静観する。2人の雑談しながら歩き続けコースを1周する。

 

「これでゴールと、どうだった?コースを歩いてみて」

「やっぱり芝が日本と違う感じがしました。あと平坦だからか、京都に似ているなと思いました」

「そうやな。走ったことあるレース場なら京都が似ているかもな、直線はメイダンのほうが長いから、ちょっと長い京都のイメージを持ったほうがいいかもしれん。次はダートを回るがどうだ?将来走るかもしれんから参考にはなるぞ」

「はい」

 

 芝を走らないデジタルが付き合ってくれたのだから、付き合わないわけにはいかない。スペシャルウィークは2人の後についていく。コースに入ろうとするとレース用のシューズを徐に脱ぎ始めるデジタルの姿があった。

 

「アグネスデジタルさん、靴を履かないのですか?」

「裸足のほうが色々とわかるでしょ。半分は裸足で歩いて、もう半分はシューズを履いて歩くっていうのをいつもやっているの」

 

 素足で歩けば、靴を履いて歩いていたら分からない何かが分かるかも知れない。そう考えていたデジタルは初めてのコースをスクーリングする際は、いつもこのようにしていた。

 その様子を不思議そうに見ながらコースに入る。するとスペシャルウィークの表情が変わる。

 

「え?固い!?」

 

 足を踏み入れるとダート特有の沈み込むような感覚はない、まるで芝のような硬さだ。スペシャルウィークが戸惑っていると、デジタルがしたり顔で説明する。

 

「スペシャルウィークちゃんも、ドバイのダートは日本のダートと一緒と思っていたタイプか。日本のダートは砂でサンド。ドバイやアメリカは土でダート。ドバイのダートは固いんだよ」

 

 デジタルは僅かばかり自慢げに説明し、スペシャルウィークは土の違いが興味深いのか何度も足踏みする。

 一丁前に説明しているが、自分も数ヶ月前まで知らない側だっただろう。トレーナーは内心でツッコミを入れながらダートコースを歩く。

 

「どうやデジタル、初めてドバイのダートを確かめた感触は?」

「う~ん、校庭より粘りっけがあるね。でも若干固いかな。まあ、感覚の調整はできそうかな」

 

 デジタルの言葉はトレーナーの考えと同じだった。校庭とドバイの土の若干の違いは想定済みであり、対応できると言っているので問題ないだろう。

 

「ダートは日本のダートと違って塊だからな、土のキックバックに気をつけろ。痛いぞ」

「そんなに?」

「ああ、ちょっと手を出せ」

 トレーナーの指示に従うようにデジタルは手を広げる。するとトレーナーは土を掬うと手のひらめがけ全力で投げつける。

 

「イタッ」

「ウマ娘の脚力でのキックバックはもっと痛いぞ。位置取りはキックバックが来ない位置か、キックバックが弱まるように距離を開けろ」

「分かったけど、口で言えば分かるよ」

「口で聞くのと体験するのとでは違うもんや。この痛みを覚えておけ」

「ウマ娘に対する虐待だ、協会に言いつけてやる。スピカのトレーナーなら、そんなことしないんだろうな」

 

  デジタルはトレーナーの愚痴を言いながら、スピカのトレーナーの話題に移し、会話をしていく。

 芝のコースのスクーリングと同じようにコースの特徴を聞き、スペシャルウィークと会話をしながら回っていく。1周した頃にはいつも間に日が昇っており、トレーナーの体からうっすらと汗が浮かんでいた。

 

「これで終わりや、あ~しんどい」

「ちょっと歩いただけだよ」

「4.2kmは普通のオッサンには結構な距離や、ウマ娘の感覚と一緒にするな」

「だらしな~い」

 

 内側の埓に背中を預けぐったりとしているトレーナーをデジタルは誂い、スペシャルウィークは少し距離を置いて眺めていた。

 今まで他のトレーナーとウマ娘のやり取りを見たことは少なかった。僅かなやりとりでも、デジタルとトレーナーの間に確かな信頼関係が築けているのが分かる。

 そしてデジタルのトレーナーは自分を気遣ってくれているのは分かる。しかし自分が2人の間に混ざっていいのだろうか?スペシャルウィークは2人と自分の間にある壁と疎外感を僅かに感じていた。

 

「よし、この後は軽く食事を取ってトレーニングだ」

「はいは~い。スペシャルウィークちゃん行こう」

 

 デジタルは離れて見ていたスペシャルウィークに呼びかけ、それに応えるように2人の元に駆け寄った。

 

───

 

 メイダンレース場に隣接するトレーニング施設、普段はゴドルフィンなどが使用しているが、ドバイ国際競走が開催する際には、各国から集まる出走ウマ娘も使用することができる。

 そのトレーニング施設を使い、スペシャルウィークとデジタルはトレーニングを終えると、日本や現地のメディア取材を受けていた。

 ウマ娘たちのインタビューや取材に立ち会うのも、トレーナーの仕事だ。

 主にウマ娘達が過激な発言をしないか、または記者たちがウマ娘たちの害になるような質問をしないかなどをチェックする。取材が終わったのは午後3時を過ぎたころだった。

 この時間から気温も下がってくる。スペシャルウィークとデジタルは来て2日目ということで、トレーニングはしていないが、ゴドルフィンや早めにドバイ入りしているウマ娘たちはトレーニングをしているだろう。

 

 

 トレーナーは2人が走るレースの相手の様子を見ようと、ホテルからトーニング施設に向かう。するとデジタルに声をかけられる。

 

「白ちゃんはこれからトレーニング施設に行くの?だったら一緒に行かない?」

「なんや。スペシャルウィーク君と一緒にどこか行くんじゃなかったのか?」

「そうだったけど、フラれちゃった」

 

 デジタルはため息を吐いて肩を落とす。

 予定としては取材が終わったら、ホテルなり近くを散策するつもりだったが、スペシャルウィークの体調が優れず休みたいということでホテルの自室で休憩をとっていた。 溜息を吐き落ち込んでいたが、すぐに顔を上げる。

 

「まあ、まだ時間が有るし、これから仲良くなっていけばいいや」

「そういえば随分と積極的に話しかけているな、スペシャルウィーク君にご執心か?」

「うん、前々から気になっていたしお近づきになりたかったんだよね。でもチームスピカのメンバーや、グラスワンダーちゃんとかの同級生との絆が深そうで、ちょっと気が引けるというか」

「出来上がったグループに入っていくのは難しいからな」

「でも、今のスペシャルウィークちゃんは1人、しかも初めての海外遠征で心細くて、それを利用すれば仲良くなれるはず」

 

 デジタルはスペシャルウィークと仲良くなった明るい未来を想像しているのか、グフフフと不気味に笑っていた。

 

「相手が心理的に不安定なところを狙うというのは、何だか詐欺師みたいな手口だな」

「詐欺師ってヒドくない。というのは冗談で、あたしは初めての海外遠征では仲が良いプレちゃんが居たし、ついでに白ちゃんも居た。けどスペシャルウィークちゃんは仲が良いウマ娘ちゃんも居ないし、トレーナーも居ない。だから少しでも不安を和らげてあげたいかなって」

「そうだな」

 

 デジタルの言葉にトレーナーも同意する。確かにスペシャルウィークが置かれている環境は苛酷だ。

 それだけに大人である自分がケアしなければならない、そのことに気づかされていた。

 するとデジタルは真面目に話したことが気恥ずかしかったのか、おどける様に喋る。

 

「で、スペシャルウィークちゃんの寝顔を観察するプランもあったけど、さすがにダメだと思って外に出て、それで夕食までの暇つぶしで各国のウマ娘ちゃんを見ようと思ったわけ」

「そうか、じゃあ一緒に行くか」

「うん。しかし、スペシャルウィークちゃんは良いよね。間近で見れる機会はそうそう無いから、トレーニング中ガン見しちゃったよ」

「そういうのほんまにやめとけ、何れセクハラで訴えられるぞ」

 

 2人は肩を並べトレーニング施設に向かっていく。その道中の会話でスペシャルウィークの話題になると、ふと思い出したかのように、トレーナーが語り始めた。

 

「スペシャルウィーク君はもしかしたら、ウチのチームに入っていた可能性があったんや」

「え?初耳。どういうこと?」

 

 思わぬ発言にデジタルは驚きの声を上げ、トレーナーを凝視する。トレーナーは懐かしむように過去を振り返っていく。

 

「いつも通り電車でトレセン学園に向かおうとしたら、1人のウマ娘がおった。それがスペシャルウィーク君だった」

 

 スペシャルウィークの姿は一目で分かるほど、お上りさん感丸出しだった。

 トレセン学園に向かおうとしていたが、降りる駅を間違えたらしく、駅員に道を教えられると小走りで駅構内を出て行く。

 その姿は強く印象に残っていた。時期はずれの編入生で、お上りさんということもあるが、その立ち姿と小走りするのを見て、このウマ娘は走るという漠然とした予感を感じていた。

 

「次に見たのがリギルの選考レースやった。レースでもポテンシャルを秘めた走りを見せ、予感は確信に変わった。レースが終わり、すぐに口説きに行った」

「で、フラれたと」

「いや、口説く前にスペシャルウィーク君が拉致られた」

「それはヨハネスブルグの話?トレセン学園は日本だよ、白ちゃん」

 

 デジタルはボケた老人の戯言を聞くような生暖かい目線を送る。

 だがそれは事実であり、目の前でゴールドシップとダイワスカーレットとウオッカにより、袋詰めにされている姿を目撃した。

 

「その翌日、スペシャルウィークはチームスピカに所属していた。あれは勿体無かったな、もう少し早く声をかけていれば、ウチのチームに所属していたかもしれん」

「本当だよ、白ちゃん行動が遅い。駅で見かけた時にスカウトするぐらいのアグレッシブさで行かなきゃ」

「かもな」

 

 トレーナーはデジタルの言葉に自虐的に笑う。もし新人のころだったら真っ先に声をかけていただろう。

 だが自分の直感を信じきれず、もうレースなどを見て、もう少し確証がほしいと先送りにしてしまった。

 その結果スペシャルウィークをスカウトできず、トレーナーなら誰しもが憧れるダービートレーナーの称号を逃した。

 選考レースが終わった後に数分速く声をかけていれば、それ以前に直感を信じきれていれば。

 だが所詮過程の話だ。それにウマ娘とトレーナーには相性がある。

 自分のチームにいたらダービーに勝てなかったかもしれない。スペシャルウィークというウマ娘は、チームスピカのトレーナーが育てたウマ娘だ。

 

「でもこうして、一時期的でもスペシャルウィークのトレーナーになれた。それだけで充分や」

「それもこれも、ドバイワールドカップに出るあたしのおかげだよ。お礼の言葉は?」

「まあ、風が吹けば桶屋が儲かるしな」

 

 デジタルはニヤニヤしながらお礼を要求するが、トレーナーははぐらかす。そんな会話をしているうちに、トレーニング施設にたどり着く。

 

「サキーちゃん走っているかな~」

 

 トレーニング施設入口につくと、デジタルは待ちきれないと言わんばかりに小走りで中に入っていき、トレーナーはその後をゆっくりと追っていく。

 トレーナーはスペシャルウィークのことを考えていた。

 スペシャルウィークのことは、スピカのトレーナーの次に評価しているという自負がある。その存在は日本ウマ娘界の宝であり、実力は日本一、いや世界一になれると思っていた。

 それだけにドバイシーマクラシックにも勝てる実力があり、負ければ自分の責任だ。

 デジタルと一緒に、ドバイワールドカップとドバイシーマクラシックを走るウマ娘の様子を観察したが、頭の片隅には常にスペシャルウィークのことがあった。

 

───

 

 部屋は金色を基調にしていた。カーペットも机も壁紙もすべて金色であり、ベッドのファブリックに金色の唐草模様を使われている。

 空間全てが金色であれば派手派手しく落ち着かなそうだが、調度品の金色も彩度が薄く、間接照明に上手く照らされ派手派手しさは薄れどことなく落ち着いてたラグジュアリーな空間になっている。

 ここはザ・メイダンホテルのデジタルとスペシャルウィークが宿泊している部屋である。風呂からあがったデジタルは部屋のクローゼットにあったバスローブを着ていた。着たのはドラマのセレブみたいで、1度は着てみたかったという単純な理由だった。

 

 デジタルは部屋にあるグラスに紫色の飲料を注ぎ、バルコニーの椅子に腰掛け景色を眺める。

 そこからは薄暗いがメイダンレース場が見えた。ドバイミーティング当日はライトに照らされ幻想的な風景を楽しめるらしい。当日はレースに出ているのでその風景は楽しめない。

 デジタルは暫く薄暗いメイダンレース場を眺めるが、すぐに部屋に戻った。砂漠地方特有の昼は熱く夜は寒いという気温は健在であり、バスローブ一枚では寒かった。

 そして徐にベッドに身を投げる。高級な品を使っているのかクッションがよく、デジタルの体は数回ほど跳ね上がる。跳ね上がりが治まると、うつ伏せになりながら布団の生地の柔らかさを堪能する。

 だがすぐに意識は浴槽から聞こえるシャワーの音、正確に言えばシャワーを浴びるスペシャルウィークに思考が移る。

 トレーニング施設でトレーナーと他のウマ娘の様子を見た後、部屋で休んでいたスペシャルウィークと合流し夕食を食べて、トレーナーの部屋で簡単なミーティングをした。だがその間どこか余所余所しかった。

 まだ緊張しているのか?こちらとしてはフレンドリーに話しかけているつもりだが、警戒心が強いのか心を開いてくれない気がする。

 まあ、時間はたっぷりあるし、このまま話しかけていればいずれ心開いてくれるだろう。

 デジタルは楽観的な結論を導くと、ベッドの上であぐらをかき、目を閉じる。今から行うのはトリップ走法のためのイメージトレーニングである。

 

 まずはドバイワールドカップで走るコースを再現する。スクーリングでコースを回った事で砂質、コーナーの角度などが今までより鮮明に再現できていた。

 レースが始まり、サキーがスタートよく飛び出し前目につける。自分もサキーの後ろにつけて様子を伺う。道中は土のキックバックが飛んでくるが、対処できる位置に着け最低限の動作で回避する。

 直線に入りサキーが抜け出しその差は5バ身。自分も直線に入りトリップ走法を使う。最初は逃げるイメージ、そして追うイメージ。代わる代わるイメージする相手を切り替えて差を縮めていく。残り100メートルでサキーと並び、根性勝負。躍動する肉体、弾む息、飛び散る汗を堪能し、最後は差しきる。

 

 その瞬間、意識は現実世界に帰還する。デジタルの口元から涎がたれており、表情も弛緩しきっていた。

 想像といえど、サキーとの体を併せて走るのは至福の時間だった。

 これが現実ならさらに凄いのだろう。デジタルは本番の幸福感を想像しベッドでグルグルと転がり、身を悶えていた。すると視界に風呂上りのスペシャルウィークの姿が入る

 

「スペシャルウィークちゃんお風呂上がったんだ。どうしたの?」

 

 だがその姿には違和感があった。風呂に入れば体が温まり顔色も良くなるはずなのだが、その顔は青ざめて引き攣っている。

 

「もしかして霊感体質!?お化けでも見たのスペシャルウィークちゃん!よしホテルに言って、今から部屋を変えてもらおう!」

 

 デジタルは勝手に結論を出しホテルの受付に直行しようとするが、スペシャルウィークが慌ててとめる。

 

「大丈夫です。問題有りません」

「でも、顔色真っ青だよ。何かあったんじゃないの?」

「これは……あれです。最後に水のシャワーを浴びたからです。知っていました?お風呂の最後に冷たい水を浴びると健康に良いんですよ」

「へえ~そうなんだ」

 

 スペシャルウィークは捲し立てるように弁明し、デジタルは特に疑うことなく信じる。

 すると、まだ疲れが取れていないのでと、スペシャルウィークはデジタルから逃げるようにベッドに入っていく。その迅速さは寝る前におしゃべりしようとしたデジタルに取り付く島すら与えなかった。

 夜更けのガールズトークをしたかったなと、残念がりながらデジタルもベッドに入り就寝した。

 

───

 

「すみません。相談が有るのですが」

 

 午前7時、昨日と同じように朝のトレーニングを始めようとするトレーナーの前に、スペシャルウィークが声を掛けてきた。

 トレセン学園から成田空港に向かう間から行動を共にしてきたが、スペシャルウィークから声を掛けてきたのは初めてであった。少しは打ち解けてくれたようだ。

 

「どうした、スペシャルウィーク君?」

「トレーニングのことなのですが……1人のほうが集中できるというか……入れ込まないというか……」

 

 スペシャルウィークは手を弄り、しどろもどろで喋り続ける。

 トレーナーも言葉の真意を計ろうとするが要領が得ず、もう少し情報が欲しいと言葉に耳を傾ける。

 スペシャルウィークも直球で言うのも憚られるので、察して欲しいという期待を込めて主題をぼやかした感じで喋ったが、言葉を待つトレーナーの視線に耐えかねたのか本題を切り出した。

 

「これからは、アグネスデジタルさんと離れてトレーニングさせてください」

 

 一呼吸で言い切り頭を下げる。そして数秒後頭を上げると、思わぬ言葉に面食らったトレーナーの表情があった。いきなりデジタルを近づけさせるなと言ったのだ。当然の反応だ。

 さすがに直球過ぎた、これでは相手を怒らせてしまう。スペシャルウィークは固唾を呑んで見ていると、トレーナーが見せた反応は予想に反したものだった。

 

「すまない!配慮が足りなかった!」

 

 トレーナーは自分の失態に気付いたかのように、スペシャルウィークに頭を下げる。

 

「トレーニング中にペチャクチャ喋り掛けられたら集中できへんもんな。昨日のうちに釘を刺しておけばよかった。後で言っておく」

「えっと……その……」

「言いづらいことを言ってくれて、ありがとう。今後もデジタルや俺への苦情は遠慮なく言ってくれ」

 

 トレーナーは再び頭を下げると、デジタルの元へ向かっていく。

 これで真意を悟られず、デジタルと離れるという目的は達成できそうだ。

 スペシャルウィークは胸をなでおろす。だが不満そうにするデジタルと軽い説教をするトレーナーの姿は罪悪感を刺激する。だが自身にとっても抜き差しなら無い状況だった。

 

 昨日、スペシャルウィークがホテルの部屋の風呂に浸かっていると、浴室に着信音が響く。携帯電話を手に取った瞬間、表情は明るくなった。

 

「もしもし」

「もしもし、スペ先輩ですか。スカーレットです。聞こえますか?」

「うん、スカーレットさん、聞こえるよ」

 

 電話の相手はダイワスカーレットだった。すると電話先から複数の声が聞こえ、聞き覚えのある声だった。

 ウオッカ、ゴールドシップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー。そしてサイレンスズカだ。

 

「スペ先輩が寂しがっていると思うので、毎日この時間に電話させてもらいます」

 

 すると電話越しに『寂しがっているのはスカーレットのほうだろう』とウオッカの声が聞こえ、スカーレットとウオッカのいつもの小競り合いが始まったようだ。その姿を想像して思わず表情が緩む。

 初めての海外で親しい人は1人も居ない。そんな緊張の日々の中で、電話越しに繰り広げられている光景は、いつもの日常が戻ってきたようでスペシャルウィークの心を癒した。

 スピカのメンバーが交代交代で会話していく。今日のトレーニングでスカーレットに勝ち越した。ゴールドシップがまたやらかした。テストが返って来て、予想以上に点数が良かった。そんな取り止めの無い内容だったが、どれも聞いているだけで、心地よいものだった。

 

「もしもし、スペちゃん。元気?」

「スズカさん!はい、元気です!」

 

 スペシャルウィークの声と表情が一段階明るくなり、その威勢の良い声を聞いて電話越しのサイレンスズカが笑みをこぼす。 会話はスペシャルウィークが話し手となる。

 天気は日本と違い暑かった。部屋が豪華だった。ホテルには日本食の店があり、美味しかったなど、ドバイで体験したことを話しスズカは聞き手となり相槌を打つ。 いつものような会話だが、それがとても愛おしかった。

 

「そう、今のところで何か不安なことや、嫌なことはある?」

 

 その質問を聞いた瞬間、わずかな空白が生まれる。

 

「ありません。アグネスデジタルさんもプレアデスのトレーナーさんも良くしてくれています!」

 

 懸念、不安材料、そういった言葉でくくれることは有る。だがスズカに心配掛けてはならないと嘘をつく、そのせいか無意識に声が高くなっていた。

 

「そう……じゃあスペちゃん明日ね。お休みなさい」

 

 スペシャルウィークは電話が切れると、深く息を吐いた。 懸念、不安材料。それはアグネスデジタルのことだった。

 スピカメンバーでの会話でデジタル=変態という認識を植えつけられ、トレセン学園から成田空港の道のり、ドバイに着いてからの時間は警戒しながら接し、スペシャルウィークの精神を多少疲弊させていた。

 だが共に過ごしていくうちに初めての海外遠征の自分を和ませようと、積極的に話しかけるデジタルに対して評価を改め始めていた。

 

 しかし、それはすぐに払拭されてしまう。

 

 トレーニング中、やけに視線を感じていた。最初は気のせいかと思っていたが、その纏わりつくような視線は無くならない。

 その発生源を探しているとすぐにアグネスデジタルだと分かった。 スペシャルウィークの中でデジタル=変態説が脳裏に浮上するが、すぐに否定する。

 

――――きっと親切心から、自分に何か不調がきたしていないか観察していただけだ。

 

 そう言い聞かせ、強引に好意的解釈していた。でなければ変態と1週間近く過ごすことになり、耐えられなくなってしまうから。だがその精神の防衛機構は崩れ去る。

 

 風呂から出て寝室でデジタルの姿を見た瞬間、全身に悪寒が走った。

 

 デジタルの顔は弛緩し、口元から涎がたれている。それだけでも恐怖だが、何より怖かったのはその目だった。

 見たことはないが、まるで麻薬中毒者のようだ。あの目はどう考えても常人がする目じゃない。

 スペシャルウィークの中でデジタルは変態ではなく、おぞましい何かに変貌した瞬間だった。 そして逃げるようにしてベッドに飛び込んだ。

 

 印象は固定されてしまうと覆すことは難しい。デジタルの印象が定まってしまったことで、好意はすべて悪意に転換されてしまう。

 デジタルの思いやりと気遣いの行動は、すべて下心がある悪意有る行動に返還されてしまった。

 

ーーーーーーこのままではマズイ!何とかしてこの変態から離れなければ!

 

 スペシャルウィークはベッドの中でデジタルの脅威に怯えていた。

 



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勇者と太陽と未完の大器#2

 メイダンレース場近辺にあるドバイ・モール、ここは世界最大級のショッピングモールであり、1200もの店舗が並んでいる。

 カジュアル系ブランドからブルーミングデールズなどの注目のデパート、さらに高級ブランド専門のセレクションモールまで、一般観光客から世界中のセレブまで満足する品々が揃っている。

 ここには世界最大級の水族館、ドバイ水族館も入っている。特徴としてはギネスで有名な巨大水槽があり、見るだけならなんと無料だ。

 その巨大な水槽とその中を優雅に泳ぐサメやエイなどの魚達を見ようと、多くの観光客が訪れ、足を止める。

足を止め鑑賞している観光客の多くは、普段では見られない光景に心躍らせ笑顔を見せている。そんなか1人のウマ娘が浮かない顔で、水槽を泳ぐ魚を眺めていた。

 2日目のトレーニング、スペシャルウィークは徹頭徹尾アグネスデジタルから、物理的にも心理的にも距離をとった。

 コースでのトレーニングでは併走ではなく単走にしてもらい、体幹トレーニングなどの補強運動もデジタルの視線に入らないように、後ろで行っていた。

 トレーニングが終わり自由時間になると、逃げるようにドバイ・モールに向かっていった。異国の地で1人になる不安も有ったが、禍々しい変態とそのトレーナーから、一刻でも早く距離を取ることのほうが遥かに優先度は高かった。

 いざ着くが、ドバイ・モールはスペシャルウィークにとって退屈な場所だった。目的も無いので、当ても無くぶらついた。

 案内も英語などで書かれているが、日本語では書かれておらず、物の値段も日本円でいくら程度なのかもわからない。それは少なからずストレスであった。

 30分ほどぶらつくが欲しいものもなく、興味が引かれるものもなかった。

 そんな矢先にドバイ・モール内にある巨大水槽を見つける。ショッピングモールの中に水槽、その非日常的な空間は興味をひいた。吸い寄せられるように水槽に向かい、魚達が泳ぐ姿眺める。

 最初の数分は楽しかった。チームスピカの面々でこの光景を見たら、ダイワスカーレットとウオッカとトウカイテイオーはサメに興味を示し、ゴールドシップはエイの顔が不細工だと1人で笑っていそうだ。メジロマックイーンとサイレンススズカはカラフルな小魚に興味を示すかもしれない。そんなことを想像しながら眺めていた。

 だが突然心寂しさがスペシャルウィークを襲う。北海道ではウマ娘の友達はいなかった。だが、育てのおかあちゃんが居たので寂しくはなかった。

 トレセン学園ではスピカの面々やクラスメイトと出会った。気付けば多くの人と触れ合い、周りには常に人がいて寂しさとは無縁だった。

 だが今は違う、スピカの面々やクラスメイトも居なければ、トレーナーもいない。それがこんなにも辛いことだったなんて。

 周りに居るのはアグネスデジタルとそのトレーナー。だが2人はスペシャルウィークの寂しさを埋めることはない。

 トレーナーが来るまで数日の間デジタルと共に過ごさなければならない。その未来を考えると気が重く、腹が締め付けられるように痛んだ。

 

「何でここに居るんだろう」

 スペシャルウィークは独り言を呟く。日本に居れば、環境の変化にストレスを感じることなく、デジタルと共に過ごすこともなかった。大阪杯に出走することを選択していれば、トウカイテイオーとサイレンススズカと一緒にトレーニングに励み、何のストレスも感じることなくレースを迎えられただろう。

 だがドバイシーマクラシックを走ることを選択した。何故ドバイを選んでしまったのだろう。胸中には後悔が渦巻くのに対し、魚達は気ままに泳いでいた。

───

 

「今送ったのが、今日のトレーニングの様子だが、気付いた点はあるか?」

 ホテルの自室、そこは1人部屋である以外はデジタル達が泊まっている部屋と内装は変わらない。

 デジタルのトレーナーはコーヒーを啜りながら、PCに映るスペシャルウィークの映像を確認する。これは現地の日本のメディアに協力してもらい、撮ってもらった映像をスピカのトレーナーに送ったものだ。

 デジタルのトレーナーは一日ごとに、スペシャルウィークの様子を撮った動画を送り、報告をしていた。

 

「そうですね……いつもより集中力に欠けている感じがします」

「やはりそう思うか」

 

 デジタルのトレーナーは受話器から聞こえる答えに同意する。

 1日目のスペシャルウィークは体のキレが悪かった。2日目は体のキレは戻ってきていた。

 だがコースを走っている時も、後ろや周りをキョロキョロと眺めめ、それは集中していないとうより何かに怯えているようで、その姿はどこか見覚えがあった。

「まだドバイに馴れていないせいですかね」

「いや違うと思う。集中力に欠けているのは、恐らくデジタルのせいや」

 デジタルのトレーナーは歯切れ悪く伝える。今朝のスペシャルウィークの提案にトレーニング中の様子。あれはデジタルに対して恐怖を抱いている。

 特にコースを走っている時の様子は、デジタルのフェブラリーステークスの直線の時に似ている。

 

「今後はデジタルから離して別々にトレーニングさせようと思う。迷惑をかけて申し訳ない」

「いえいえ、気遣い恐れ入ります」

「しかし、何でデジタルなんかにビビッているんやろな?」

 

 身内贔屓かもしれないが、デジタルの見た目や物腰は人を威圧するようなものではなく、到底萎縮するような相手ではない。

 もしかすると裏でスペシャルウィークにヤキでも入れたのかと、それとなく尋ねたが即否定し、そんなことするわけないと烈火のごとく怒られた。

 様子から察するに嘘をついているとも思えず、何よりウマ娘ラブなデジタルがそんなことをするはずもない。それだけに萎縮振りは不可解だった。

 

「あの……そのことについて心当たりがありまして」

「スペシャルウィーク君がデジタルにビビッていることか?」

「はい、実は先月あたりのことで……」

 

 デジテルのトレーナーの疑問に、スピカのトレーナーは申し訳なさそうに答え始めた。

───

 デジタルはスペシャルウィークの様子を横目に見ながら、頭を悩ましていた。

 スペシャルウィークは夕方になりホテルに帰ってきたが、その様子は明らかに気落ちしていた。3人での食事もまるで早食い競争のように食べ、逃げるように部屋に戻っていく。

 何か悩み事でもあるのだろうかと声を掛けようと思ったが、未だに声を掛けられずにいた。

  昨日まではまだコミュニケーションの余地があった。だが今朝がたから自分から距離を置き、話し掛けても素っ気無い返事で、すぐにでも会話を打ち切りたい様子だった。 

 ホテルから帰ってきた後は話しかけるなオーラが全開で、完全にコミュニケーションを拒絶していた。そうなっては取り付く島もなく、お互いの会話はなく部屋の中は沈黙が支配していた。

 すると携帯電話の着信音が沈黙を破る。デジタルは自分の携帯電話を確認するが、音はなっておらず、スペシャルウィークの携帯電話から音は鳴っていた。

 

「もしもし、今日はウオッカさんの電話からですね」

 

 スペシャルウィークは笑顔を見せながら電話に応対する。その声はデジタルが聞いたなかで1番明るい声で胸はチクリと痛む。スペシャルウィークは会話しながら部屋を出て行き、その後姿をただ眺めていた。

 

「へ~そうなんですか」

 

 スペシャルウィークは部屋を出ると、階層ごとにある公衆電話があるスペースに向かっていく。そこでなら会話の内容を聞かれることなく、思う存分話せるからだ。

 昨日と同じようにスピカの面々との取りとめもない会話をしの、寂しさと不安を癒す。会話をしている時間は日本のいつもの日常そのものだった。

「もしもし、スペちゃん」

「スズカさん。今日はショッピングモールに行きましたけど、凄かったです!中に水族館が有ったんですよ!」

 

 電話の相手がスズカに代わると、スペシャルウィークは饒舌に喋る。その声色は無理矢理空元気を出しているようだった

「スペちゃん、何か不安なことや隠していることはない?もしあるなら言って、話せば楽になることもあるからね」

 

 スズカはそのことに気づき、優しい声色で問いかける。スペシャルウィークも最初はそんなことはないと否定していたが、その声に押し込めていた不安が浮き上がり、今の心境を話し始めた。

 異国での不安、いつも周りに居た人物がいないことへの不安、思いの丈を存分に吐き出す。そしてアグネスデジタルのことも話していた。

「あの噂話は嘘だと言い聞かせしていました。でもベッドで薄気味悪く笑う姿を見て、噂は本当だったと思うようになって、今じゃ怖くて仕方がありません」

「そう……」

 

 スズカは相槌を打つとお互いの数秒間の沈黙が流れ、その後スズカが言葉を発する。

「スペちゃん、もし寂しくなったり、話したくなったらいつでも電話してね」

「はい」

「あとアグネスデジタルのことは私に任せて、じゃあ、お休みなさい」

「はい、お休みなさい」

 アグネスデジタルの件は任せてとは、どういう意味だろう?スペシャルウィークはその言葉の意味を考えながら部屋に戻っていく。

 部屋に戻ったスペシャルウィークはデジタルと会話せず、携帯電話のチームメイト達の写真を見て、昔を懐かしんでいた。

 すると今度はデジタルの携帯電話から音が鳴り、同じように部屋を出て行く。スペシャルウィークはデジタルが居なくなると、無意識に安堵の息をついていた。

「もしもし、プレちゃん。どうしたの?」

「今どこに居る?」

「ホテルの部屋だけど」

「隣にスペシャルウィークはいる?」

「いるけど、それが?」

「じゃあ、スペシャルウィークから離れて、電話できるところに移動して」

 

 電話の相手はエイシンプレストンだった。デジタルは指示通り移動し、スペシャルウィークがスズカ達と喋っていた同じ場所に移動する。

 何か様子が変だ。いきなり移動しろという指示もそうだが、声が重苦しいというか、明らかに世間話をしようとして電話を掛けた声のトーンではない。

「もう移動した?」

「したよ。プレちゃん何か変だよ、何かあった?」

「何かあったというより、あんたが何かやらかしたみたい。電話変わるから」

 プレストンの言葉の後に、別の人間の息遣いが聞こえ声を発する。その声は聞き覚えのない声だった。

「アグネスデジタルさんですか?」

「うん」

「初めまして、サイレンススズカです」

 デジタルは思わぬ人物が出てきたことで、体が緊張し体が少し固まる。

──サイレンススズカ。

 

 トレセン学園でも屈指の有名人であり、スペシャルウィークのチームメイトであり、ルームメイトである。

 そんな有名人が何のようだ?電話を掛けてきた意図がまるで読めない。デジタルは唾を飲み込み、聴覚に神経を集中させる。

 

「どうも」

「では、単刀直入に本題に入らせてもらいます。スペちゃんとは部屋を離れて、トレーニングでは離れて別々におこなっていただけますか?」

 あまりにも予想外の言葉に一瞬放心する。スペシャルウィークと離れろとはどういうことだ?

 スペシャルウィークとは仲良くなりたい。それなのに何故引き離そうとする?デジタルは動揺で反応できずにおり、その間にスズカは言葉を続ける。

 

「スペちゃんは貴女のことを怖がっています。貴女に悪気が無いにせよ、これは事実です。これではレースに影響が出る恐れがあります。もしスペちゃんをおもいやる気持ちがあるならば、考慮してください」

「うん……わかった」

「では失礼します」

 

 デジタルはショックのあまり、壁に背を預けズルズルと崩れ落ち座り込む。何となくそんな気はしていた。

 だがそれを認めたくないので思わないようにしていた。しかし第3者から言われて強制的に自覚させられる。

───スペシャルウィークは自分に恐怖している。

 デジタルはフラフラとした足取りで自室ではない方向に歩いていった。

「電話ありがとうございます」

「デジタルが何かやったんですか?」

 

 プレストンはスズカから携帯電話を受け取り質問する。その声色は若干の不機嫌さをはらんでいた。

 日課の武術の練習が終わり部屋でくつろいでいると、ノックの音が聞こえてきた。扉を開けると目の前にはサイレンススズカがいた。

 あの有名人が自分に何のようだろう?思い当たる接点は何一つなく、訪問してきた理由が何一つわからなかった。

 するとサイレンススズカはデジタルと話さしてくれと頼んできた。

 デジタルとスズカに何の接点があるのか?その要求を不思議に思いながらも、自身の携帯電話からデジタルに電話した。

 そしてスズカはもしスペシャルウィークが傍にいたら、離れたところで話したいと頼み、その言葉通り誘導しスズカに電話を渡した。

 プレストンはスズカに電話を渡し会話内容に耳を傾ける。すると顔をしかめ、機嫌はみるみるうちに悪くなる。

 いきなりスペシャルウィークはデジタルを怖がっているから、部屋から離れろと言ったのだ。

 

「事情は分からないですが、デジタルは人を怖がらせたり、危害を与えるような人間ではないですよ」

「そうかもしれません。ですがスペちゃんはアグネスデジタルを怖がっているのは事実です」

 

 プレストンの若干の敵意が含まれた言葉に、スズカは表情を崩さず返答する。一見温和に対応しているようだが、僅かばかりの苛立ちが含まれているようだった。

 スズカはプレストンにもう一度礼を述べると、部屋から出て自室に向かっていく。

 スペシャルウィークが思いを打ち明ける声、その震えた声は初めて聞くものだった。それほどまでにアグネスデジタルのことが怖かったのか。スズカの心にデジタルへの怒りが芽生える。

 自分にとってスペシャルウィークは可愛い妹のような存在だ。その妹はアクシデントでトレーナーすら居おらず、1人で異国の地で頑張っているのに気遣うどころか、逆に怖がらせ害を与えている。

 姉分として守らなければ、そんな想いからデジタルへ電話し、言葉も無意識に厳しいものとなっていた。

───

 

「ブッハハハハハ!」

「申し訳ございません。これも俺の指導不足です」

「いや、謝ることじゃない。確かに当たっている部分もある……しかしデジタルがそんな風になっていたなんてな……それはスペシャルウィーク君も怖がるわ……」

 スピカのトレーナーの話しを聞いた瞬間、デジテルのトレーナーは大笑いをした。

 デジタルに見られたものは精神がやられ、再起不能に追い込まれる。

 本来なら名誉毀損だと怒るべきなのだが、荒唐無稽すぎて怒りを通り越し笑いになっていた。スピカのなかではデジタルは物の怪の類扱いのようだ。

 だがある意味そういう扱いにされても仕方が無い部分もある。

 例えばデジタルの天皇賞秋での様子。デジタルと過ごす事で感覚が麻痺していたが、1着になったはずなのに自分は3着で、2着と三着のオペラオーとドトウが一二着だと真顔で言う様子は完全に狂人の所業だ。

 

「スペには事実無根だと何度も言ったのですが、まだ信じていたみたいで」

「いや、こちらにも多少心当たりがある。デジタルにはその点を矯正させておくわ」

「すみません。アグネスデジタルは悪くないと伝えておいてください」

「わかった」

 トレーナーは電話を切ると息を深く吐いた。

 デジタルも悪気があったわけじゃない、だが状況と間が悪いせいで完全に裏目に出てしまった。

 これをどう伝えるべきか。トレーナーは頭を悩ませていると、ドアからノック音が聞こえてくる。扉を開けるとデジタルの姿があった。

 

「おお、どうしたデジタル」

「ちょっと相談が有って……」

 

 デジタルは明らかに気落ちしており、その様子を気にしながら部屋に入れて、椅子に座らせた。

 

「何か飲むか?」

「いい、歯磨いたし」

「そうか」

 

 トレーナーは冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしたがデジタルが拒否したので、そのまま机を挟んだ対面に座る。

 

「デジタル、スピカのトレーナーから聞いたが、どうやらスペシャルウィーク君にとってお前は物の怪の類のようやぞ」

 

 トレーナーは笑い話を話す口調で切り出す。デジタルは物の怪の類という言葉に体をピクりと動かすが、トレーナーはそれに気付かず話を続ける。

 

「スピカの中ではウラガブラックが休養しているのも、お前の変態さ加減にメンタルをやられたせいらしいぞ。久しぶりに大笑いしたわ。どんだけ尾ひれがくっついとんのや。まあ事実無根だが、それでもスペシャルウィーク君にとってデジタルは妖怪みたいなもんや。だからあまり関わらず、少しは距離を置いてくれ」

 トレーニング中ガン見しちゃったよってデジタルは言っていたが、それもスペシャルウィークが恐怖している理由の1つだろう。だれだって妖怪から見られたら怖いに決まっている。

 デジタルがスペシャルウィークに対し好意と興味を抱いていることは知っている。だが相手は好意を抱いていない。

 それを知ればショックなはずだ。なので笑い話のように喋り、さりげなく距離を離すように促す。

 トレーナーはデジタルが『妖怪と一緒じゃしょうがないよね。わかったよ』とこちらの気持ちに反応するように、笑い話で済ましてくれる事を期待していた。

 だがトレーナーの想いと裏腹にデジタルは乾いた笑みを浮かべながら相槌を打つ。

 

「そっか。妖怪が一緒ならサイレンスズカちゃんも心配して電話するわけだ」

「なんや、サイレンススズカと話したんか?」

「電話でスペシャルウィークちゃんが怖がっているから、部屋を別々にして、トレーニングも1人でやってくれってさ。あの反応はあたしのことを怖がっていたからなんだね。納得したよ」

 

 デジタルは悲しそうに乾いた笑いを浮かべる。そしていつものテンションで話を切り出す。

 

「それでサイレンスズカちゃんの言うとおり、部屋を替えて一人用の練習メニューを組んで欲しいって相談しに来たわけ。部屋はスペシャルウィークちゃんを白ちゃんに部屋にして、白ちゃんがあたしの部屋に移動しよう。できるでしょう?」

「フロントに言えばできるやろ」

「じゃあ決まり、全く、ウマ娘ちゃんじゃなくてオジサンと一緒の部屋なんて嫌だけど我慢してあげる。変なことしないでよ」

「するか、したらカミさんに怒られるわ」

 

 デジタルに応じるように、トレーナーも軽い口調で応じる。

 一見気にしていない体を装っているが、空元気なのは誰の目を見ても明らかだった。すると何かを閃いたようで指でスナップを鳴らし、トレーナーに話しかける。

 

「あとスペシャルウィークちゃん元気ないから、明日辺り練習なくして白ちゃんが気晴らしさせてあげて」

「俺がか?」

「本当はあたしがやりたいけど、妖怪と一緒じゃ嫌だろうしね……白ちゃんに任せたよ!」

 

 デジタルはトレーナーの背中をバシバシ叩く。思いのほか力が強く、トレーナーはむせながら提案について思案する。

 確かに気分が晴れずトレーニングをして本番を迎えるより、1回リフレッシュしてほうがいいのかもしれない。それにスペシャルウィークと2人っきりで話すには良い機会だ。

「わかった。デジタルはその間どうするんや?」

「あたしはテキトーにトレーニングしたり、妄想したりして暇つぶしているよ」

「そうか」

「よ~し、スペシャルウィークちゃんにはフラれちゃったけど、あたしにはサキーちゃんがいる!これからはサキーちゃん1本でいくぞ!」

 

 デジタルは自分に言い聞かせるように呟きながら部屋を出て行く。その声と後姿はどこか悲しげだった。

 

───

 スペシャルウィークはティーにゴルフボールを置くと一回息を深く吐き、視線をボールから前方に向ける。

 そこには青空に対しドバイが誇る超高層ビルが天を貫くようにそびえ立っているのが見える。ゴルフ場とはもっと自然に囲まれた場所にあるものだと思っていたが、こんな都会のど真ん中に建っているものなのか。

 スペシャルウィークは違和感を覚えながら足幅を整えゴルフクラブを持ちながら腰を後ろに捻る。

 可動域限界まで捻ると、そのエネルギーを解き放つように一気に振り抜いた。クラブにボールが当たり、鈍い音ともに勢いよく転がっていく。

 

「おお、上手いもんや」

「テレビで見たみたいに飛んでいませんけど」

「初めてでトップなら充分や。俺は初めて暫くはまともにボールが飛ばなかったからな。才能あるんやないか」

「そうですか」

 トレーナーは拍手を送りながら褒め称える。一方スペシャルウィークは釈然としないよう様子を見せながら、ティーにボールをセットしスイングの動作に入る。

 デジタルにスペシャルウィークを気晴らしに連れて行けと言われ、その任を任されたがある悩みを抱く。

 

───どこに連れて行けばいいのだ?

 

 トレーナー仲間だったら、テキトーに飲み屋でも行けば気晴らしになるだろうが、年頃の女性は何をすれば気晴らしになるのだろう?

 まず思いついたのが映画館やショッピングモールに行くことだが、映画は日本語吹き替えで上映しているものは恐らく無い。ショッピングも昨日行ってきたらしいが、あまり楽しめなかったようだ。

 しばらく悩んでいるとあるアイディアを思いつく、いっそのこと年頃の女の子が行かないで場所や、やらないことをやらせてみるのはどうだろう。そして思いついたのがゴルフだった。

 翌朝、トレーナーはスペシャルウィークをホテルから車で15分ほどにあるゴルフ場に連れて行く。

 スペシャルウィークも今日のトレーニングは休みで、どこかに行く気にもならず、部屋に篭るのも乗り気ではなかった。

 そんな時にトレーナーから誘われゴルフ場に向かった。ゴルフにはさほど興味がなかったが、アグネスデジタルと離れる理由があれば何でもよかった。

 スペシャルウィークはボールを打ち続ける。トレーナーから才能が有ると言われても、所詮今日グラブを握った素人だった。

 10球中2球は空振りし、6球は最初のように鈍い音を出しながら勢いよく転がり、2球はそれなりに飛んだが右に大きく曲がっていった。

 やはりテレビで見たように真っ直ぐ飛び飛距離が出るようなボールを打てない。ふと隣でボールを打つトレーナーを見ると、10球中8球は真っ直ぐ飛んでいた。

「上手ですね」

「付き合いで何度行っていればこれぐらいわな。まあ、それなりに練習もしたわ。スピカのトレーナーはゴルフするんか?」

「たぶんやってないと思います」

「そうか、今度誘ってみるか、藤沢先生や大久保先生も若い者が加われば、喜ぶかもしれんし」

 デジタルのトレーナーの言葉を聞きながら、スペシャルウィークは自身のトレーナーについて考える。

 そういえば普段のトレーニングや合宿などで接する時間は長いが、プライベートについてはあまりよく知らない。今度聞いてみるのもいいかもしれない。

 暫くの間2人はボールを打ち続け、トレーナーは打つのを止めてスペシャルウィークを指導し始める。1球ごとに悪かったところを伝え、身振り手振りで修正していく。

 そしてある1球、スペシャルウィークの体に稲妻のような衝撃と心地よさが駆け抜ける。

 打った瞬間今までとは違うというのがすぐに分かった。球はグラブの芯に当たり、打球音も今までの鈍い音ではなく、澄んだ音で打球は空を切り裂くように勢いよく真っ直ぐ前方に飛び、今までより遥かに飛距離を出していた。

「おお!まるでプロ並みの飛距離や!凄いでスペシャルウィーク君!」

 

 トレーナーは素直に賞賛の声を上げ、周りでボール打っていた者たちの視線を集まる。

 ボールを打った瞬間、ゴールを1着で駆け抜けた時とは違った心地よさが体中に駆け巡った。

 もっとこの感触を味わいたい。スペシャルウィークはすぐにボールをセットしスイング動作に入った。

 

 ゴルフ場のクラブハウスにはレストランも有り、室内はもちろん室外でも食事を楽しむことが出来る。

 外に出るとドバイの海風が汗をかいた利用者の体を冷まし、その心地よさから外で食べる者も多い。トレーナーとスペシャルウィークも同様だった。

「初めてのゴルフはどうだった?」

「はい!楽しかったです!また機会があればやってみたいです!」

「スピカのトレーナーに言ってみたらいい。トレーニングの一環とかテキトーに理由をこじつければ、やらせてくれるかもしれんぞ。何なら俺が理由を考えておこう」

「その時はお願いします」

 スペシャルウィークは昼食に注文したクラブサンドイッチを食べながら、嬉々とした表情で返事をする。

 2時間ほど打ち続けたが、グラブの芯に当たったショットを打てたのは5球ほどしかなかった。それでも芯に当たった感触は今でも手に残っている。

 最初は乗り気じゃなかったが、ゴルフがこんなにも楽しいとは思っていなかった。

 何より、ゴルフに集中していた時間は今まで感じていた、異国への不安やアグネスデジタルへの恐怖などの雑念を一切忘れていた。今は不思議な爽快感すら感じていた。

 一方トレーナーはスペシャルウィークの表情を見て胸をなでおろす。楽しんでくれて良かった。

 体験したことのない何かをやらせようと考えゴルフを選んだが、成功だったようだ。これでデジタルに顔向けできる。

 トレーナーはスペシャルウィークとスイングについて喋りながら機会をうかがう。

 ゴルフに連れて行った目的は2つある。1つは気晴らしのため、そしてもう1つを達成するために話を切り出した。

 

「ど変態、マインドクラッシャー。うちのデジタルも随分な言われ様やな」

 トレーナー笑い話を喋るように明るい口調で喋る。一方スペシャルウィークは飲んでいた水を噴出すという、まるでコントのような反応を見せ、トレーナーの笑いを誘った。

「誰に聞いたんですか?」

「スピカのトレーナーからや、最初はうちのデジタルは妖怪かってツッコンだが、話を聞いていくうちに、思い当たることが何度もあったわ。確かにこれなら妖怪扱いされても仕方が無い」

 トレーナーは話しながら笑いを堪え、腿を手で打つ。笑っているのは多少本心も有るが、スペシャルウィークを責めているのではないというパフォーマンスだった。 

 その効果か、怒られると思っていたのか体を強張らせていたスペシャルウィークだが、そういう雰囲気ではないと感じ取り、リラックスしていく。

「これからはスペシャルウィーク君が俺の泊まっている1人部屋で寝てくれ、トレーニングも極力デジタルから離すし、極力接触させないようにする」

「いや……そこまでは……」

「前世で何かあったのかというぐらいウマが合わない人間が居るし、俺もそういう人は居るから気持ちは分かる。それを我慢してスペシャルウィーク君が不快な思いをすることはない」

 

 トレーナーは軽い口調で極力責め立てないように喋る。スペシャルウィークは罪悪感を覚えながらも、デジタルから離れられることに対し安堵していた。

「ところでカマイタチって知っとるか?」

「カマイタチって、妖怪のですか」

「何も無いところで人の皮膚が突然斬れて出血する。その不可解な現象を昔の人は妖怪の仕業と思ったそうや。でも今ではある程度化学的に原因が解明されておる。妖怪物の怪の類への恐怖は未知からくるもので、知ってしまえば怖くないかもしれんな」

「……そうかもしれませんね」

「よし、そろそろ帰ろか」

 

 トレーナーは席を立ち、スペシャルウィークもその後について行く。パスは送った、あとは伝わるかどうかだ。己の意図が伝わっていることを祈りながら帰路に着いた。

───

「う~ん、ダメだ!」

 

 デジタルは叫びながらベッドに大の字に寝転んだ。

 トレーナーとスペシャルウィークが外出したのを確認した後、トレーナーが作成したメニューを一通りこなし、トリップ走法のための妄想トレーニングに入る、だが妄想の精度が悪い。

 スペシャルウィークには嫌われたのを仕方が無い、その分サキーに集中すればいい。

 そう割り切ったつもりなのだが、まだ後ろ髪引かれているようで、その結果がこの精度の悪さだ。何と女々しいのだろう。うつ伏せになると、己の雑念を立ちるようにベッドに頭を打ち付け、手足をジタバタさせる。

「あっ」

 

 デジタルは思わず声を漏らした。いつの間にかスペシャルウィークが部屋に帰っていて、お互いの眼が合った。

 恐らく己の奇行もばっちり目撃しているのだろう。この分だとますます怖がられる。まあ、いまさら怖がられても大して変わらないか。

 自虐的な考えが頭を過ぎりながら、目線を逸らし乱れたシーツを整頓していく。

 一方スペシャルウィークはそんなデジタルを見据えながら深呼吸をおこない、叫ぶように喋る。

 

「私の名前はスペシャルウィーク!好きなことは食べること!好きな人は生んでくれたおかあちゃん!育ててくれたおかあちゃん!スズカさんやトレーナーさんやチームスピカの皆さんです!デジタルさんは何ですか?」

 デジタルは突然の言葉に思わず振り向き目を丸くする。スペシャルウィークはそんな様子を気にすることなく、鼻息を荒くしながら顔を近づけさせ問い詰め、気圧されながらも語り始める。

「え~っと……好きなものはウマ娘ちゃん。好きな人はパパとママ、プレちゃんにドトウちゃんにオペラオーちゃんにチームの皆、あとすべてのウマ娘ちゃん」

「私の夢は日本一のウマ娘になることです。デジタルさんは?」

「えっ?……将来の夢はトレーナーになって、ウマ娘ちゃんのハーレムを作ること」

 突然の自分語りと質問攻め。いったいどうしたというのだ?戸惑いながらも質問に答えていく。

 

 スペシャルウィークはトレーナーの言葉である決意に至った。妖怪の怖さは未知から来るものである。

 自分にとってデジタルは妖怪の類のようなものだ。噂話も恐ろしいし、ベッドの上で常軌を逸した目をし、恍惚の表情を浮かべる姿を見たときは寒気が走った。

 だがすべてを知ったわけではない。あの様子をしていたのにも理由があるかもしれないし、噂話が本当でも納得できる理由があるかもしれない。

 デジタルを拒絶するのはそれらを聞き、知ってからでも遅くはないはずだ。

 それをせずに一方的に拒絶することは人を傷つける行為だ。スペシャルウィークの優しさと勇気が質問するという行為に及ばせた。

「トリップ走法ですか?」

「うん、あたしは大好きなウマ娘ちゃんと近くに走るイメージを想像して力を出すの。それで、その練習の一環としてイメトレしてたわけ。サキーちゃんの間近で走る想像してたらついついね」

 スペシャルウィークは様々なことを聞き、先日目撃したよだれを垂らし弛緩した表情に、麻薬中毒者のような目をしていた訳を問いただした。そして返ってきたのが今の答えだった。

 トリップ走法にイメージトレーニング、理屈はわかったが自分には理解できない世界だ。

 それでもサキーに勝つためのトレーニングの一環と知ることにより、不思議と恐怖が薄れ、自分の常識外の理屈で走り、結果を出しているデジタルに奇妙な尊敬の念抱いていた。

 それから2人の語らいは続き、数時間に及んでいた。

 

───

「それでプレちゃんがよく分からない武術に嵌っちゃってさ」

「そうなんですか、格闘技といえばエルちゃんはプロレスが好きでよく技の研究をしていて、たまに実験台にされます」

「エルコンドルパサーちゃんのプロレス技!?いいな~代わりたいな~」

「相当痛いですよ」

「随分と仲良くなったな」

 夜になり、ホテルの日本食店で3人は食事を取る。そこでは先日までとは違い、和やかな雰囲気で会話を交わすデジタルとスペシャルウィークの姿があった。

「それはもうスペシャルウィークちゃんとは友達だから」

「そうですね」

 

 2人は互いに向き合って頷き合う、その光景に今度はトレーナーが笑みをこぼす。

 どうやらデジタルへの誤解はある程度解けたようだ。

贔屓目はあるがデジタルは悪い奴ではない。

 だが蓄積された悪評と誤解が少なからず、スペシャルウィークの目にバイアスをかけさせていた。それを取り除いて向き合って欲しい。それが親しくなりたいというデジタルへの親心だった。

 だが直接それを言えば、スペシャルウィークが悪いと感じてしまう。なので、妖怪の例え話で知ろうとする努力をしてもらおうと仕向けたが、上手くいったようだ。

 これでデジタルのスペシャルウィークへの好意は正しく伝わるだろう。

 しかしスペシャルウィークの笑顔、愛想笑いでは無い笑顔をドバイに来て初めて見たが、何とも人の心を挽きつける笑顔だろうか。

 スピカのトレーナーがスカウトした理由は能力ではなく、この笑顔なのかもしれない。

 この日の食事は3人にとって、ドバイに来てから初めて楽しいといえる食事となった。



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勇者と太陽と未完の大器#3

『』は英語で、「」は日本語で喋っています


「よし、今日はこれで終いや」

 

 アグネスデジタルとスペシャルウィークは肩で息をしながら、トレーニングコースの外にいるトレーナーの元に近づく。

 今日の練習はドバイに来てから最もキツイメニューだった。スペシャルウィークは海外遠征では調整程度で済ますと思っていただけに、体力的には疲労困憊だが、精神的には昨日と比べると疲れていなかった。

 

「お疲れ様でした」

「お疲れって、ちょっとやりすぎじゃない?本番まであと3日だよ、このペースでやり続けたら疲れが残っちゃうよ」

 

 デジタルはトレーナーからペットボトル飲料を受け取ると、愚痴をこぼしながら飲み干す。

 この強度のメニューは香港遠征でもしなかった。これを明日もやることを想像し、若干気が滅入っていた。

 

「心配するな、今日がピークであとは軽く調整程度だ」

「それはそうでしょ」

「私は何だか今日のトレーニングでスッキリした感じですので、明日もこれぐらいでいいですよ」

「やめてよスペちゃん。そんなこと言ったら白ちゃん本気にしちゃうよ」

 デジタルはスペシャルウィークに詰め寄り訂正を求め、スペシャルウィークはどうしましょ~とはぐらかす。トレーナーはその様子を見ながら笑みをこぼす。

 

 二人の関係は良好になった。悪いイメージと先入観がなくなり、純情で人懐っこい性格であるスペシャルウィークは、デジタルの好意を素直に受け止めるようになった。

 名前の呼び方にも変化が生じ、デジタルちゃんスペちゃんと呼ぶようになっていた。

 そしてスペシャルウィークの爽やかな表情、自身でも充実したトレーニングができた実感があるのだろう。

 昨日までは集中力に欠けていた。だが、デジタルへの誤解が解けたことで、トレーニングに集中できていた。

 その変化に気づいたトレーナーは急遽トレーニングの強度を上げ、併走トレーニングの本数を増やした。それがお互いにとって良い刺激だったようで、2人調子を上げていく。

 本番前に1回強めにトレーニングしたいと思っていたが、スペシャルウィークが集中力をあげたことで強めのトレーニングができた。

 調整過程はほぼ理想的といえる。これで2人とも何かアクシデントがない限り万全な状態で本番に挑めるだろう。

「俺は他のウマ娘のトレーニングを見るが、2人はどうする?」

 

 トレーナーはクールダウン二人に尋ねる。この後の予定は特に決めていないが、2人の行動次第で予定も変わってくる。

「あたしは疲れたから、ホテルに帰る」

「私もついて行ってもいいですか?自分で見ることで、分かることもあるかもしれません」

「大歓迎や、ウマ娘の目線も重要だからな。他のウマ娘のトレーニング、特にゴドルフィンならスペシャルウィーク君も得るものがあるかもしれん」

「ゴドルフィン?見るのはゴドルフィンなの?」

「そうだが」

「それなら。行く!行く!」

 クールダウンで心身ともに緩んだデジタルだが、ゴドルフィンの名前を聞いた瞬間活力を取り戻す。

 ゴドルフィンならサキーがトレーニングしている可能性は高い。今まではトレーニングを見られる機会はなかったが、これを機にサキーの姿を拝みあわよくば、会話できるかもしれない。

「よし、3人でアイスでも食いながら、ゴドルフィン見学でもするか」

 3人の予定は決まり、デジタルとスペシャルウィークのクールダウンが終わると、ゴドルフィンがトレーニングしているエリアに向かった。

「アイスといえば何好き?」

「私はトルコ風アイスですね」

「あの伸びるアイスか、いいよね。あたしも好き」

「いつも売っていればいいんだけど、気が付けば無くなっていて」

「そうそう」

 スペシャルウィークとデジタルがアイス談義に花を咲かせながら、トレーニングエリアに向かう。

 目的地に着くと、二人は見たことがない光景に目を奪われる。そのコースには黒い何かが敷き詰められていた。芝の緑やダートやウッドチップの茶色に慣れているだけに、黒は異質だった

 

「砂かな?でも砂って黒色じゃないし」

「なんだろう?」

「あれはタペタや」

 

 2人が黒い物体について推理していると、トレーナーがアイスを渡しながら回答する。

 

「タペタ?」

「砂にゴム片と人工繊維を混ぜ特殊ワックスでコーティングしたものが素材らしい。最近ゴドルフィンが開発したそうだ」

「そうなんですか、どんな感触なんでしょう?」

「ここはゴドルフィンしか使えないから、分からない」

「ふ~ん」

 デジタルとスペシャルウィークはアイスを食べながら、タペタについての説明に耳を傾ける。

 アイスを食べ終わったころには、コースの周りに地元のメディアや見学ツアーに当選したファン達や、出走ウマ娘のトレーナー達が集まっていた。

 暫くするとゴドルフィンのメンバーが集まり、最後にサキーが現れる。するとメディア陣がカメラのシャッターを切り、ファンたちが黄色い声援をあげる。

「うわ~、生サキーちゃんだ!かっこいいな~綺麗だな~」

 

 デジタルもファン達と同様に黄色い声援をあげる。サキーを見るその視線は競技者のものではなく、ファン目線だった。

 トレーナーはその様子にため息を漏らしながら、スペシャルウィークとトレーニングを見ながら、意見を交わす。

「あっちの大きい茶髪がネイエフで、隣の金髪がトブーグ。スペシャルウィーク君が走るシーマクラッシクに出走予定で、今現在の1番人気と2番人気や」

「トブーグさんって、確かデジタルちゃんが一緒に走った」

「ああ、中々に強い。一緒に走ってどうだったデジタル?」

「え?トブーグちゃん?」

 サキーを観察するのに夢中だったデジタルの意識は、トレーナーの声で2人の方に向けられる。

「トブーグちゃんか、ちょっとヤンチャなところがあるけど、あの柑橘系な良い匂いとハスキーボイスは良いね。レースは楽しかったよ」

「そういうお前しか興味を持たない情報はいい、もっとレースのことや」

「う~ん。レースでは最後まで諦めないガッツはあるかな」

 デジタルは香港カップのことを思い出しながら喋る。近くで走った者にしか感じられない何かを話してくれることを期待したが、大した情報は口にしなかった。

 トブーグはこれといった弱点があるウマ娘ではない。故にこれといった攻略法を助言できず、大した情報を持っていないという意味ではトレーナーも同じだった。

「それで、2人の隣を走るのがストリートクライや、前哨戦を圧勝し、本番では2番人気におされるウマ娘や……って聞いているんかデジタル?」

 

 黒鹿毛色で左側だけ髪が長いという左右非対称のセミロングの髪型のウマ娘、ストリートクライが2人と併走する。

 デジタルに意見を求めようしたが、意識と目線はサキーに向けられており、返答しない。

「スペシャルウィーク君はストリートクライの走りを見てどう思う?」

「どう思うですか?」

「パッと思いついた些細なことでもええ、ウマ娘から見た印象が聞きたい」

「そうですね。何というか……元気がなさそうです。走り自体は力強いですが、何故かそう元気がないと思いました」

 スペシャルウィークの言葉にトレーナーは頷く。ストリートクライは強い。パワー、スタミナ、レースセンスを高水準に備えている。

 だがレースに対して淡白というか、物足りなさを感じていた。その物足りなさがスペシャルウィークにとって元気がないと感じていたのだろう。

 前哨戦では圧勝したが、サキーを脅かすかと言えば疑問符が付く。正直に言えばデジタルより人気があることに納得してなかった。

 ゴドルフィンのトレーニングは軽めだったのか、1時間程度で終了する。

 ウマ娘とそのトレーナー達はトレーニングエリアを後にし、メディア陣はゴドルフィンのウマ娘に取材していた。

「よし、デジタル、スペシャルウィーク君引き上げるか」

「はい」

「あたしはもう少し残るから、2人は先に帰っていいよ」

「残って、何するんや?」

「サキーちゃんのこと見ていく」

「見ていくって、取材受けるだけやろ。そんなの見て楽しいんか?」

「楽しいよ。それに取材が終わったらサキーちゃんに声をかけようと思う」

「それなら俺も残る。失礼なこと言わんように監視しなきゃあかんし、あっちのマスコミに邪推された時に弁明する人間も必要だろ」

「いいよ、それで」

「じゃあ、俺はスペシャルウィーク君をホテルに送ったら、戻ってくる。それまで大人しくしてろ」

 トレーナーはスペシャルウィークと一緒にトレーニングエリアを後にする。デジタルはその後ろ姿を確認すると、取材を受けるサキーの元に近づいていった。

『調子はどうですか、サキー選手?』

『悪くはないですね』

 デジタルは取材陣に紛れながらサキーを見つめる。取材陣はUAEのメディアのようでアラビア語で喋り会話の内容はさっぱり分からない。

 だが取材陣から笑いが起こるなど、和やかで良い雰囲気で行われているようだ。

 取材陣に対し、真剣みのある表情や、はにかみながら答えるサキーの姿はデジタルを魅了する。30分ほど見ていたが、全く飽きが来ない。

 暫くするとトレーニング見学に来たファンたちとの交流が始まり、少し距離を取ってその様子を見つめる。

 サキーは短い時間ながらもファン1人1人と会話し触れ合う。これもアラビア語で何を言っているか分からないが、ファンの顔を見れば、どれだけ素晴らしい対応したのかがすぐに分かる。

 暫く眺めていると後ろから肩を叩かれ、振り返るとトレーナーがいた。

「ちょっと、ゴタゴタして時間喰った。まだ声はかけてないか?」

「まだ。今ファンサービスしているところ。これが終わったら声を掛けようと思う」

「そうか、練習後に長時間の取材にファンサービス、大変そうだな」

「凄いでしょ!」

「お前が自慢するな」

 デジタルが胸を張りながら自慢し、それにツッコミを入れる。すると最後のファンとの交流が終わる。それを見計らいサキーに近づいて声をかけた。

『サキーちゃん久しぶり。香港で会って以来だね。覚えている?』

『もちろん覚えています。お久しぶりです』

 サキーはデジタルの姿を見てすぐに笑顔を見せ握手する。

 覚えていてくれていた!ネットでのインタビューで自分の名前が出ていたので、覚えているとは思っていたが、それでも不安だっただけに、天に昇るほど嬉しかった。

 

『そちらはデジタルさんのトレーナーさんですね。初めまして、サキーです。すみません、日本語は話せないもので、英語は分かりますか』

『初めまして、チームプレアデスのトレーナーです。ペラペラとはいきませんが、多少は理解できます』

 

 サキーは英語で挨拶し握手を求める。トレーナーも英語で挨拶した。

 

『どうですか、ドバイには慣れましたか?』

『うん、最初はちょっと暑いと思ったけど慣れたよ』

『それは何よりです。それで今日はどうしてここに?』

『サキーちゃんを見に、トレーニング時間が被ったりして、中々生の姿を拝めなくて。それで今日は時間が被らなかったから来た』

『それは偵察ということですか?』

『違うよ。ただ純粋にサキーちゃんのことを見に来たの』

 デジタルは自身の気持ちを偽ることなく伝え、その予想外の言葉に僅かに驚く仕草を見せる。

 偵察でもなく、ただ自分の姿を見に来たのか。何とも不思議なウマ娘だ、だが自分の気持ちを率直に伝える素直さは好感が持てる。

『それは、光栄です。そういえばトブーグに「他のウマ娘と仲良くして」と伝えておきました』

『ああ、香港の時の』

 

 デジタルはその時のことを思い出し手を叩く。香港カップでトブーグにレースに勝ったら、他のウマ娘と仲良くするように約束していた。

 そしてレースに勝利し、約束を思い出し果たしてくれるようにとサキーに伝言を頼んでいた。

 

『それでどうなった?』

『トブーグはヤンチャな性格ですが、義理高いというか、勝負に対する真摯さというか、自分に勝った者の言うことは聞くようで、あれからは態度が軟化しています』

『そっか、ウマ娘ちゃんは仲良くしたほうがいいもんね』

『そうですね』

 デジタルは安堵の笑顔を浮かべると、それに釣られるようにサキーは頬を緩ませる。

 

『サキーさん……そろそろ……』

 

 するとサキーの後ろから、ゴドルフィンのジャージを着たウマ娘がボソボソとした小さい声で声をかける。

 長身で黒い長髪を背中に流し、サイドは左側だけ髪が長い左右非対称の髪型だった。

 背筋は伸びているが、目に覇気が感じないのが印象に残るというのがデジタルの第一印象だった。彼女はドバイワールドカップに出走するゴドルフィンのナンバー2、ストリートクライである。

『わかった。この娘はドバイワールドカップに出走予定のストリートクライです。クライ、こちらはアグネスデジタルさん。挨拶して』

『ストリートクライです……』

『アグネスデジタル、よろしくね、ストリートクライちゃん』

 2人は握手を交わすと、ストリートクライは用事が済んだと言わんばかりに、そそくさとゴドルフィンのメンバーが集まる建物に入っていく。

『申し訳ありません。ストリートクライが失礼な態度をとってしまい』

『いいよ、ストリートクライちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだね』

『はい、寡黙な娘なもので』

 サキーはストリートクライの態度がデジタルに不快な気分を与えてしまったと思い、謝罪する。

『あの性格のせいか、何か物足りないというか、殻を敗れてないというか。本当ならもっとやれる娘なのに……』

『サキーちゃん?』

『すみません独り言です。では、呼ばれているので、失礼させていただきます』

『うん、話出来て楽しかったよ。またね』

 サキーとデジタルはお互いに手を振り別れの挨拶をする。サキーは暫く歩くと、何かを思いついたように後ろを振り向き、デジタルに話しかける。

『デジタルさん。明日のこの時間空いていますか?』

 サキーの問いにデジタルはトレーナーに視線を送る。トレーナーは首を縦に振るのを見て答える。

 

『よろしければ、私たちの所でお茶会でもしませんか?』

『する!する!』

 

 デジタルはその言葉を聞いた瞬間、目を輝かせながら駆け寄りサキーの手を握しめる。

 ネットでのサキーのインタビューで、お茶でも飲みながら話したいと言っていた。まさかそれが本当に実現するとは!

 

「待った!」

 

 するとトレーナーが軽く息を切らせながら追いつき、デジタルに告げる。デジタルは心底嫌そうな顔を向ける。それはトレーナーに向けていい顔ではなかった。

「何?まさか乙女のお茶会にオジさんが参加しようなんて言わないよね?」

 

 デジタルはトレーナーを威圧し凄みながら質問する。まさにお目付け役として参加しようと言おうとしたが、その言葉を飲み込む。

 これは本気で嫌がっている。ここで参加すると言ったら、どんな手段を使っても阻止し、嫌悪感をむき出しにして関係は険悪なものになるだろう。それほどまでにサキーとのお茶会を望んでいる。

「いや、違う。サキーとのお茶会にスペシャルウィーク君を誘ってくれ」

「スペシャルウィークちゃん?」

「サキーという世界一のウマ娘と話せる機会なんて、滅多にない。世界一のウマ娘と話すことで、スペシャルウィーク君が得られるものもあるかもしれんし、成長するきっかけになるかもしれん」

 

 デジタルはトレーナーの言葉を聞き頷くとサキーに交渉する。するとサキーは二つ返事で了承し、スペシャルウィークが参加するといえば、3人でお茶会をすることになった。

「スペシャルウィークちゃん来てくれるかな?」

「わからん。もし参加することになったら、通訳頼んだぞ。喋るのに夢中になりすぎるなよ」

「分かった。それにしても何であの提案したの?」

「それは良いおもいをしてもらいたいからや。スペシャルウィーク君は臨時といえどチームの一員、チームメンバーの益になるために行動するのはトレーナーとして当然やろ」

 

 世界一のウマ娘と話す機会はそうそうない。得られるものもあるし、いい刺激になると思う。

 どの分野においても一流の人間と交流することは少なからず刺激にはなり、そこから伸びるという話も少なくはない。それが同じ分野の世界一なら尚の事得るものも有り、刺激になるかもしれない。

 一時的だがスペシャルウィークはチームメンバーだ。デジタルをダシにするようだが、少しでも得をしてもらいたいという思いがあった。

 

 

 




誤字報告をしてくれた方ありがとうございます。
一応チェックしているつもりなのですが、どうしてもやってしまう


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勇者と太陽と未完の大器#4

「時間ギリギリ」

 

 サキーはゴドルフィンの施設にある広報室で雑誌取材を終えると、早歩きで応接室に向かう。

 内装は世界有数のチームで資金力も確かなゴドルフィンだが、質素ながら質の高い調度品が揃えられ、落ち着いた空間になっている。

 応接室に着くと急いでもてなしの準備をする。紅茶とコーヒーはある。砂糖ある。茶菓子もある。準備が終わるとソファーに座り息をついた。

 ドバイミーティングまで後2日、サキーは多忙を極めていた。トレーニングに雑誌やテレビ取材にトークショー、それにゴドルフィンに融資している出資者との会合、まさに分刻みでスケジュールが組まれていた。

 そんな多忙のなか何とかして作った1時間の自由時間で客人を招きお茶会を開くことにした。すると扉からノック音が聞こえてくる。姿勢を正し招き入れる。

 扉が空くと2人の人物が入室する。1人は黒鹿毛の髪色に白のメッシュが入ったウマ娘、もう1人はピンク髪に赤い大きなリボンをつけたウマ娘だ。

 

『アグネスデジタルさん、スペシャルウィークさん、よくお越しくださりました』

『サキーちゃん誘ってくれてありがとう。今日はよろしくね』

 

 デジタルは自然な足取りで歩み寄り、英語で言葉を交わし挨拶の握手をする。

 一方スペシャルウィークは初めての場所と人物に会う緊張のせいか、キョロキョロと周りに視線を向けていた。するとサキーの視線はスペシャルウィークに向けお互いの視線が合う。

 

「ハイ、ハーワーユー、マイネームイズスペシャルウィーク。ナイストゥミートゥー!」

 

 デジタルが拙い英語で挨拶をする。英語で会話をしているなら、自分も英語で話すべきだろうと、スペシャルウィークは脳内から英単語を検索し、引き釣り出したのがこの言葉だった。

 デジタルはスペシャルウィークを生暖かい目線で見つめる。日本に来た当初は日本語が理解できず、道に迷った時に通りがかりの親切な人に案内されたことがある。その人は英語が苦手なのか、今のスペシャルウィークのように片言の発音だった。

 

My name is ○○ nice to me too

 

 この文章は恐らく日本人が最初に覚える英語の会話の文言である。

 実際スペシャルウィークも英語の授業で何度も音読し体で覚えており、緊張状態でも瞬時に出たものだった。それは俗に言うカタカナ英語と呼ばれる発音だった。

 その拙い英語に対しサキーは不快感を示さず、笑顔で応える。不慣れながらも一生懸命に喋ったスペシャルウィークの英語は、その人柄を表しているようで好感が持てるものだった。

 

『では、茶菓子を用意しますのでおかけになってお待ちください。飲み物は紅茶とコーヒーどちらがいいですか?』

「スペちゃん、飲み物はコーヒーと紅茶どっちがいいだって」

「えっと紅茶で」

『スペちゃんは紅茶で、あたしは……牛乳ある?有ったら牛乳、なければ紅茶で』

『ありますよ。では紅茶と牛乳で』

 

 サキーは注文を聞くと飲み物を作り始める。その後姿を見ながらスペシャルウィークはデジタルに話しかける。

 

「今牛乳を頼んだの?」

「うん。正確には牛乳が無ければ紅茶でって。甘いものを食べるなら飲み物は牛乳でしょ」

 

 デジタルはチョコレートだろうが餡子だろうが、甘いものはすべて牛乳と一緒に食べている。そのせいかエイシンプレストンには子供舌とからかわれていた。

 

「牛乳ですか。私も北海道に住んでいたので、よく牛乳を飲んでいました。実は紅茶やコーヒーはあまり飲まないので、牛乳にしておけばよかったです」

「そうなんだ。じゃあサキーちゃんに頼んでおこう」

 

 デジタルはサキーに声をかけて牛乳に変更してもらうように頼み、サキーは了承のサインをデジタルに送る。

 

「念の為に聞くけど、サキーちゃんのことは無論知っているよね」

 

 デジタルはサキーが準備している間手持ち無沙汰なのか、スペシャルウィークをまじまじ見ながら質問する。 

 するとその視線に耐えかねたのか顔を背け、しょうがないと言わんばかりと表情を作りながら説明を始める。

 

「よし、じゃあ軽く紹介してあげる。ゴドルフィン所属のサキーちゃん。主な勝ち鞍はイギリス国際Sに凱旋門賞。凱旋門賞の着差は最多タイの6バ身。そしてブリーダーズカップクラシック2着。まあこれが基本情報で。サキーちゃんの魅力は何といってもその人間性だよね!

暇さえあれば小さなイベントやローカルテレビに出て広報活動をおこなっているの!働き者!ファンサービスも神対応で、触れ合った皆がサキーちゃんファンになっちゃうらしいよ!そんなサキーちゃんだから、人気者で国内の好感度ナンバー1スポーツ選手に選ばれたとか。まあ当然だよね!

そしてチームメイトにも優しくて、チームメイトが困っていることがあれば、誰にもでも分け隔てなく助けてくれるんだよ。例えば初勝利をなかなかあげられなかったウマ娘ちゃんにマンツーマンで指導してあげて、初勝利をあげたときは一緒に泣いていたシーンはこっちも泣いちゃったよ!ファンやチームメイトを明るく笑顔にさせてくれる、まさに太陽!そんなサキーちゃんだから皆『太陽のエース』って呼んでいるんだよ!それで……」

 

 デジタルはまくし立てるように早口で説明し、スペシャルウィークはその情報量と熱量に圧倒される。そのせいか肝心の情報は全くと言っていいほど入っていなかった。

 サキーを知るためには充分な情報を話すが止まらず、情報ではなく個人的な感想を中心に移り始めている。

 いつまで続くのだと辟易し始めるが、サキーが飲み物と茶菓子を用意しテーブルに置くとデジタルは話を終わらせた。

 

『お待たせしました』

「サンキュー、えっとワット……デジタルちゃん通訳お願いします」

 

 スペシャルウィークは用意されたクッキーを一口食べる。その味は日本では食べたことがない味だった。このクッキーに入っているフルーツらしきものが原因だろう。

 何が入っているか聞こうとしたが、咄嗟に英語が出なかったのでデジタルに通訳を頼み、英語で茶菓子について尋ねる。

 

『これはデーツと呼ばれるドライフルーツが入っています』

「デーツですか、うん、デーツ イズ デリシャス」

『うん、濃厚で美味しい』

 

 デジタルもビスケットを手に取り食べる。味はドライプルーンに似ているが、それ以上にねっとりと甘い濃厚な味にしたような感じで、2人の舌に合うものだった。

 

『お口に合って何よりです。土産で売っていますのでよろしければ、店でも作りたてを売っている店もありまして、それはさらに美味しいので機会があればどうぞ』

『うん。美味しいよこれ。牛乳と相性ばっちりだよ』

『そうですね。私もよく牛乳と一緒に食べています』

『そうなんだ。もしかして甘いものを食べる時の飲み物は牛乳派?』

『はい。アグネスデジタルさんもですか?』

『うん、あたし達気が合うかもね』

『そうですね』

 

 2人は同時に笑顔を作り、場の空気は和やかなものになる。するとサキーが話を切り出す。

 

『改めて、本日はお越しくださりありがとうございます。誠に申し訳ありませんが、1時間後には別の用事が入っていますので、このお茶会は1時間で終了させていただきます』

『そっか、残念。そんなに忙しいの?』

『はい、この時間も何とか作ったぐらいで、それ以降の自由時間はありません』

「凄いですね。自由時間がないほど予定があるなんて」

 

 サキーの言葉にスペシャルウィークは感心の相槌をうつ横で、デジタルはサキーに悟られないように落胆のため息をつく。サキーとならば夜通しでもお喋りできるが、わずか一時間か。多忙なのは知るところで地元のビッグレースを走るとなれば、取材などもさらに増えるだろう。

 しかし1時間程度の自由時間すら確保するのに苦労するほど多忙とは思わなかった。

 

『それじゃあ、しょうがない。じゃあ1時間おしゃべりを楽しもう。しかし、あの番組で言っていたことを覚えていてくれて嬉しいな』

『ネット中継を見ていたのですか?』

『もちろん』

 

 サキーは僅かばかし驚きの表情を作る。以前のネット放送した番組でデジタルとお茶をしたいと言ったのは覚えているが、あの番組を見ていたのか。

 あれは自身のツイッターでもチェックしていないと存在に気づかないものだ、自身のファンなら分かるが、対戦相手が見ているとは思ってもいなかった。

 

『ドバイに着いてから、ちょっと期待していたけど本当に誘ってくれるなんて。改めてありがとうサキーちゃん』

『なら尚更誘えてよかったです。そうでなければ嘘つきになってしまうところでした』

 

 3人のお茶会が始まるり、会話はドバイについてから始まり、日本や日本のレース事情について、アメリカやヨーロッパのレース事情や小話など話が広がり会話は弾んでいく。するとそれまで聞き役に徹していたスペシャルウィークが口を開く。

 

「サキーさんはどんなトレーニングをされていますか?」

『どんなですか…恐らく皆さんと変わらないと思います。補強運動したり、走りこんだり、フォームチェックをしたりです』

「それはどんな内容ですか?」

 

 スペシャルウィークが質問し、サキーが回答する流れが続く。

 内容はレースについてのことや食事についてまで熱心に聴いていた。今まではデジタルが喋っていたが、スペシャルウィークが熱心に質問するので、その熱意に押されてか今度はデジタルが聞き役に徹していた。

 一方サキーもの質問には答えられる範囲で包み隠さず答えていた。

 10分程度経つが、スペシャルウィークとサキーの質疑応答が続く。デジタルの本心としてはもっと緩いガールズトークをしたかったが、場の流れは結構シリアスだ。

 恐らくトレーナーがトップレベルと話せば今後の為になるという話を真面目に聞いたからだろう。好きな流れではないが、スペシャルウィークがしたいというなら尊重しようと引き続き通訳に徹した。

 

「スペシャルウィークさんは真面目ですね」

 

 サキーはお互いが一息つく間を作るように喋りかける。だがこれは本心でもあり、日本人は勤勉で真面目だというステレオタイプなイメージを持っていたが、まさにその通りだ。

 

「すみません。私ばかり聞いてばかりで」

『構いませんよ。でも何だか焦っている気がします。何があったんですか?』

『いや、ウチの白ちゃんがさ、ウマ娘界のトップであるサキーちゃんと話せば色々と得られるだろうって言ってさ、たぶんそれを真面目にこなそうとしているんだよ』

『なるほど、でもそれ以外に何かあるように見えます。よろしければ話してもらえますか?そうすれば相談に乗れるかもしれません』

 

 スペシャルウィークは僅かに目を見開く、初対面でここまで自分の胸のうちが分かるのか。

 その観察力を持つサキーならば自分の悩みを解決してくれるかもしれない。サキーの言葉に促されるように、自分の悩みを話し始める。

 

「私にはサイレンススズカさんという、どうしても超えたいウマ娘がいます。その人とはチームが一緒で、練習メニューもほぼ一緒です。なので自主練習しようと思いましたが、練習は自分の限界ギリギリで組まれていて、それ以上はオーバーワークになると制限されました。ですからサキーさんにトレーニングの話を聞いて、少しでも追いつきたいなって」

 

 スペシャルウィークはポツリポツリとサキーに意見を伝えると、サキーはすぐさま自分の意見を述べた。

 

『それはスペシャルウィークさんのトレーナーに相談すべきです。スペシャルウィークさんのことを一番理解しているのはトレーナーだと思いますので、自分の気持ちを伝えれば、きっと最善の道を示してくれるはずです。それに練習や食事の事を聞いていましたが、伝えたことは私にとってベストであって、スペシャルウィークさんにとってはベストではないかもしれません。ですのでトレーナーを信じて、練習や食事メニューを守るのが強くなる一番の近道であると思います』

 

 スペシャルウィークはサキーの言葉に大きく頷く。トレーナーは自分のことを自分以上に考えてくれている。そのトレーナーが考えるメニューが一番良いはずだ。

 それにサキーからのアドバイスを聞いたのも、自分だけ恩恵を得て強くなろうというよこしまな考えが合ったかもしれない。それでサイレンススズカに勝ってもズルイ気がする。

 

「分かりました。アドバイスありがとうございます」

 

 話した事で迷いが晴れたのか、スペシャルウィークの声は先ほどより明朗になっていた。

 そしてふとデジタルの顔を見ると笑顔を見せていた。スペシャルウィークの悩みが解決したことがデジタルにとっては嬉しくかった。一方スペシャルウィークは表情を見て失敗に気付く。

 喋りすぎた。デジタルが待ち望んだサキーとのお喋りだが、時間は1時間しかない。

 それなのに自分の質問でそれなりに時間を潰してしまった。あとはデジタルが会話を楽しむ時間にさせようと最後の質問をする。

 

「最後に1つだけ聞いても良いですか?」

『はい、どうぞ』

「凱旋門賞に勝つための攻略法や必勝法とか有りますか?」

『そうですね。有ると言えば有ります』

「それを教えてもらえますか?」

『それは困りました。私も今年も凱旋門賞は勝ちたいですし、強力なライバルがさらに強くなってしまってはとても大変です』

 

 サキーはおどける様に喋り、デジタルは思わず笑みをこぼす。その言葉にスペシャルウィークは慌てながらも弁解する。

 

「私は出ないから問題ないです、ただエルちゃんのために聞いておきたいなって」

 

 スペシャルウィークの友人エルコンドルパサーは凱旋門賞を勝つ事を目標とし、レースにも走っている。

 その経験からコースの特徴や攻略法を知っているかもしれない。だが勝った事ある人間の話を聞ければ、それは成功例であり貴重な意見だ。エルコンドルパサーのために是非聞いておきたかった。

 

『スペシャルウィークさんは凱旋門賞には出ないのですか?私の見立てでは充分に勝てる見込みはあると思いますが』

「日本一のウマ娘になるのに苦労しているのに、世界一を決める舞台に出るなんて正直ピンと来ません」

 

 スペシャルウィークの言葉を聞き、サキーは数秒考え込む。すると何かを思いついたようでに提案する。

 

『ではこう考えてみてはどうでしょうか、凱旋門賞を世界一ではなく、日本一を決める舞台だと思えばいいのです。さきほどああ言いましたが、私個人としてはスペシャルウィークさんが出てくれれば、レースが盛り上がりますし一緒に走りたいです』

「凱旋門賞が日本一を決める舞台」

 

 スペシャルウィークはサキーの言葉を繰り返し呟く。 

 日本所属で凱旋門賞に勝ったウマ娘はいない。その偉業を成し遂げれば日本一のウマ娘になったと言ってかもしれない。

 それに日本のレースではGIを何勝もしなければ日本一と認めてくれないが、凱旋門賞を勝てば1レースだけで済んでしまう。これは目から鱗かもしれない。

 

「そうだよスペちゃん。凱旋門賞に出て世界一になって日本一になっちゃおうよ!あたしも応援に行くよ……あれ凱旋門賞っていつだっけ、サキーちゃん?」

『十月の二週目の日曜で、日にちは分からないです』

「1週間後に南部杯だ!他のレースはともかく、南部杯前にフランスに行って応援する余裕はないな、ごめんねスペちゃん」

 

 デジタルはしょげかえりながら謝り、スペシャルウィークは恐縮そうに気にしないでと口に述べる。その微笑ましい光景を見てサキーは思わず口角が上がる。

 

『アグネスデジタルさん、スペシャルウィークさん、貴女達にとってレースとは何ですか?』

 

 サキーが2人の様子を見計らって、質問を投げかける。随分と哲学的ともとれる質問だ。スペシャルウィークに翻訳すると頭を悩ませて、考え込んでいる。その間にデジタルは自身の考えを述べる。

 

『そうだね、ディズニーランド』

『ディズニーランドですか?』

『うん、アタシはウマ娘ちゃんと触れ合うのが一番好きで、お喋りしたり一緒に遊んだりしてウマ娘ちゃん達と交流できるけど、レースではそこでしか見られない表情や感情を見せてくれる。一緒に走ることで心を通じ合わせる感じ、分かるかなこの感覚?』

『何となく分かります』

『それを感じるのが楽しくてたまらなく幸せ。この感覚は子供の頃ディズニーランドで遊んだ時の感覚に似ている。だからレースはあたしにとってのディズニーランド』

『面白い回答ですね』

 

 サキーは予想外の回答に面を食らうが笑みを作る。それは相手をバカにしたのではなく、面白く愉快なものを見たときのような朗らかで爽やかなものだった。

 

「私は……トレーニングも辛い時も有りますし、負けたら泣きたくなるほど悔しいです。ですが楽しいこともいっぱいありますし、そういうのを全部引っ括めてレースは楽しいです!」

 

 スペシャルウィークの言葉をサキーに伝える。その答えはサキーにとってある程度予想通りだが、人柄通り純粋で真っ直ぐな答えは気持ちいいものだった。そしてサキーも自らの答えを話す。

 

『お2人共素敵な答えでした。そして私の答えですが、レースはウマ娘レースの魅力を周りに伝えるアピールの場です』

 

 サキーの答えを聞き2人は首を傾げている。それを見て言葉を付け足す。

 

『ウマ娘は素晴らしいものであり、レースは世界で1番面白いスポーツだと思っています。他を寄せ付けない圧勝でも、ライバル達との手に汗握る接戦でもいい。私たちのレースを見れば魂を震わせ、ウマ娘レースが好きな人はさらに夢中に、知らない人は興味が引かれていくと思っています。それをアピールできるのがレースです。だからレースはアピールの場だと思っています』

 

 レースとは魅力を伝えるためのアピールの場、サキーの考えは2人に全くなかったもので新鮮だった。そのサキーの答えを聞き、是非聞いてみたいことができた。デジタルは質問を投げかける。

 

『サキーちゃんの将来の夢って何?あたしはトレーナーになってウマ娘ちゃんのハーレムを作ることかな』

「私は日本一のウマ娘になることです」

 

 デジタルの答えに触発されるようにスペシャルウィークも自身の夢を語る。サキーは少し考え込むような仕草を見せたあと口を開く。

 

『そうですね。私の夢は世界一のウマ娘になることです。そのためにドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、ブリーダーズカップクラシックの4大レースに勝つことです』

『それ、本当?』

『と言いますと?』

『サキーちゃんの夢はそんな個人的なことじゃなくて……何というか……皆のためというか……ウマ娘ちゃんラブ感がある夢だと思うんだよね』

 

 日本語訳を聞いたスペシャルウィークは不思議そうにデジタルに視線を送る。一方サキーは目を大きく見開き、言葉を続けた。

 

『すごいですアグネスデジタルさん。そうです。今の言葉は正しいですが、あくまでも夢を実現するために必要なことであって、夢そのものではありません』

『じゃあ、何?教えてよ』

 

 デジタルは興味津々そうに目線を送り、サキーはひと呼吸おき語った。

 

『私の夢は世界中のウマ娘と、関係者とファンの幸せです』

『ウマ娘ちゃんの幸せ?』

『ウマ娘レースはもっと知ってもらえれば、レース場にお客が入り、グッズも購入してくれます。下世話な話ですが大きな金銭が動き、そのお金はウマ娘とその関係者に入ります。そして人気になれば社会的地位も増してきます。人気になれば多くの人がウマ娘レースという素晴らしいスポーツを見て幸せになってくれます。そんな理想を実現するために4大タイトルに勝つことが必要なのです』

 

 サキーから語られる夢のスケールの大きさにスペシャルウィークは呆気にとられていた。

 

『素敵!素敵で凄い夢だよ!サキーちゃんもウマ娘ラブだったんだね!あたしも手伝うよ!何でも言って!』

 

 一方デジタルは感極まったのか抱きつきながら語りかける。サキーはウマ娘を愛し、幸福を願って行動している。なんというウマ娘愛だ!デジタルは猛烈に感動していた。

 

『ではドバイワールドカップで負けてくれますか?』

『えっと……あたしだってウマ娘だから勝ちたいし、将来のハーレムのために重要だから……』

『冗談です。私が望むのはデジタルさんがレースの100%の力を発揮してもらうことです。見ている人を惹きつけるレースは皆が全力をだすことですから』

『それなら大丈夫!100%、いや120%の力を出すから!』

『はい、楽しみにしています』

 

 2人は抱き合いながら健闘を誓い合う。そこには2人だけの空間ができていて、スペシャルウィークはただ見守っていた。

 

『では今日は楽しかったです』

『私も楽しかったです』

「はい、こちらも楽しかったです」

『あたしも楽しかったよ』

 

 予定の時間を迎え、3人は握手を交わし別れの挨拶を交わす。

 

『サキーちゃんこれ』

 

 デジタルは握手する際にサキーの手に何かを握らせた。中には紙が入っており、メールアドレスと電話番号が書かれていた。

 

『必要な時があったらいつでも連絡して。サキーちゃんの夢、あたし本気で手伝うから』

 

 デジタルは真剣味を帯びた瞳でサキーを見つめる。それに応えるようにサキーもデジタルを見つめた。

 

『はい、その時は頼りにさせていただきます』

『じゃあねサキーちゃん、レースで会おうね!』

「シーユーアゲイン」

 

 デジタルは手を振りながら、スペシャルウィークは頭を深々と下げながら、サキーに別れの挨拶を告げる部屋を退出した。

 

 

「それで、サキーとのお茶会はどうやった?」

 

 デジタルとスペシャルウィークはお茶会が終わりホテルに帰ると、トレーナーと一緒に夕食をとり、その席で話を切り出した。

 

「いや~楽しかった」

「はい、いっぱい為になる話を聞けました。これもトレーナーさんが誘ってくれたおかげです」

「いや俺は何もしてへん。それよりデジタルは通訳ちゃんとしていたか?」

「それはばっちりでした」

「そうか、通訳そっちのけで話さないかと心配しっとわ」

「さすがにそこまでしないよ」

 

 トレーナーはからかう様に話すと、デジタルは若干不満げに答えた。

 

「しかし、凄いですよね。夢はウマ娘たちの幸福だなんて、私なんて自分のことだけで精一杯なのに」

「本当だよね!サキーちゃんがあんなにウマ娘ラブだったなんて、ますます好きになっちゃったよ!」

「何か自分の欲を夢と言ったのが、少し恥ずかしくなってきました」

「何の話や?」

 

 トレーナーの質問にデジタルがお茶会でサキーの語った夢を興奮気味に話す。それを聞いたトレーナーは考え込みながら呟く。

 

「スペシャルウィーク君の夢は日本一のウマ娘やったな」

「はい」

「立派な夢や。何も恥ずかしいことはない。むしろサキーのほうがおかしい」

「サキーちゃんがおかしいって、どういう意味白ちゃん!?」

 

 デジタルは隣に座るトレーナーに脊髄反射で食いつかんばかりに顔を近づける。それを宥めながら話を続ける

 

「そんな突っかるな。ええか、夢っていうのは普通なら個人の願望や、スペシャルウィーク君の日本一になりたいって夢や、デジタルのハーレムを作りたいって夢とかな」

「あたしは兎も角スペちゃんは違うよ。スペちゃんの夢は……自身の願望だけじゃないよ!」

 

 デジタルは少し強めに否定する。スペシャルウィークが日本一を目指す理由は、産みの親と育ての親と交わした約束のためと言おうとしたが、言われたくないかもしれないと考え言葉を濁す。

 

「そうか、それはスマン。とにかく夢は個人的な願望や。俺だって日本ダービーや凱旋門賞制覇っていう個人的な夢がある。皆のため他人のためなんて夢は、悟りきった爺さん婆さんが願うもんや。でもサキーは本心でウマ娘と関係者とファンの幸せを願っておる。それは素晴らしいと思う。だが同時に異質さも感じる」

「考えすぎだよ。ただ単純に白ちゃんが年喰ってひねくれた考えているだけだよ」

「それよりサキーについて何か分かったことがあったか?」

 

 トレーナーは話題を変えてデジタルに尋ねる。本来ならお茶会を通してサキーについて探りたかったが、空気を読み同席を避けた。

 そのかわりにデジタルにサキーを観察しておいてくれと頼んでいた。だが話しに夢中になり怠っているだろうと、ダメ元だった。だが予想に反した返答が帰ってくる。

 

「う~ん、いくつか分かったよ」

「ほんまか?何が分かった?」

 

「サキーちゃんは本番では小細工を仕掛けてこない。真っ向勝負で挑んでくると思う」

「根拠は?」

「サキーちゃんはあたしに100%の実力を発揮して欲しいと言っていた。そんな人が小細工を仕掛けると思えないよ」

 

 トレーナーはデジタルの言葉に静かに頷く。

 相手に力を発揮させない走り、デジタルの言う小細工をするならば、態々そんなことは言わない。

 サキーが油断させるために嘘を言っている可能性もあるが、それは無いだろう。デジタルの人を見る目はそれなりに確かであり、自分が考えるサキー像にも当てはまらない。

 

 彼女は自分以外の相手が100%の力を望んでいる。それがサキーの言う皆を惹きつけるレースになり、ウマ娘と関係者とファンが幸せになるために必要なことなのだろう。

 レースに勝てば賞金が貰え、ドバイワールドカップは全レースで最高額の賞金がもらえる。人なら誰しも金が欲しいはずだ。だがサキーは勝利よりもっと大きいものを見据え、他人の幸せの為に困難な道を選ぶ。

 どう過ごせばその若さで、その考えに到れる?トレーナーはサキーに末恐ろしさを感じていた。

 

───

 

 

  サキーはシャワーを浴びるとリビングに戻る。リビングの床はフローリングで、中央にはソファーと32インチのテレビ。左端には食卓兼勉強机が置かれており、机の横には書籍が積み重ねられている。

  サキーの部屋の間取りは1LDKで、内装も調度品も普通のもの、世界有数のチームであるゴドルフィンのトップが住む部屋とは思えないものだった。

 だがサキーにとっては広さも丁度良く、必要なものが揃っている心地よい空間だった。

 ソファーに腰を掛けるとテレビのスイッチをつけてザッピングをする。番組はレースが近いというだけあって、大半がドバイミーティングの特集を組んでいた。だがある番組は特集ではなくニュースを放送し、表情は渋いものとなる。

 これでは足りない。もっと注目を高めなければ、ウマ娘と関係者とファンを幸せにすることができない。

 

 サキーはアメリカで生まれ、ごく普通の家庭で育ち、地元のレース場でレースを見て魅了され、自らも同じ舞台に立ちたいと志す。

 それはウマ娘達がウマ娘レース業界に入る理由としてはポピュラーなものだった。そういった意味では一般的なウマ娘だった。だがその精神は一般的とはいえなかった。

 サキーはウマ娘レースとウマ娘達が好きだった。それどころか、愛しているといえるほどだった。その強すぎる愛はある不満をもたらした。

 ウマ娘レースは極上のエンターテイメントであり、レースに参加するウマ娘やトレーナーや関係者はもっとちやほやされるべきである。

 アメリカにおいてウマ娘レースはバスケットやアメフトなどの4大スポーツに並ぶ位置だが、少なからず不満だった。そして日に日に不満は募っていく。

 

―――皆どうしてレースの話をしないのだろう?

 

 クラスのあるグループはドラマの話、あるグループはバスケやアメフトの話をしていた。

 ウマ娘のレースは素晴らしい。この世で最も素晴らしいエンターテイメントだ。何故レースを見ないで、他のものを見てそのことについて話しているのだろう?幼いサキーには全く理解できなかった。

  彼らはきっとレースの存在を知らないだけだ、ならばレースについて教えてあげよう。それは親切心から生まれた行動だった。そして他の事を話しているグループに声を掛ける。

 

―――ねえ、そんなのものより、ウマ娘のレースを見ようよ

 

 サキーには悪気は何一つ無かった。ウマ娘レースこそ地球上で最も素晴らしいエンターテイメントであり、それを知らない可哀想なクラスメイトに、ウマ娘レースのことを教え、その素晴らしさと楽しさを伝えてあげようという善行のつもりだった。そしてその日からクラスメイトからのけ者にされた。

 ドラマを好む者やバスケを好む者、それぞれがそのエンターテイメントを見て体験し、楽しさや興奮を体感し好きになった。

  サキーがウマ娘レースこそが最高のエンターテイメントだと思うように、ドラマやバスケやアメフトなどが最高のエンターテイメントだと思っている。それをそんなものと言い放った。

 それは大切な宝物をゴミ同然と侮辱したようなものであり、嫌われるのは当然の事だった。そのことを全く理解していなかった。

 

 クラスにのけ者にされたサキーだが、自らの主張を変えることはなかった。

 ウマ娘レースこそ最高のエンターテイメントであり、皆にそれを体感して欲しい。間違っていたのは考えではなく、普及するやり方だ。

 月日が経ちあることに気付く、人は力や権力が強いものに従うものだと。

 アメリカの学校生活にはスクールカーストとよばれる制度が存在し、地位が上の者ほどクラスでの発言力が高くなっていく。

 そしてサキーのクラスメイトで、スクールカースト上位者が見たテレビ番組や始めた趣味をクラスメイト達が挙ってやり始めた。

 それを見て閃く、スクールカーストの上位者になって、ウマ娘レースを見るような環境にすれば良い。

 それからサキーの努力は始まった。美貌、トークの面白さ、社交性。スクールカースト上位になるための要素を研鑽する。それは苦痛だった。

  何故ウマ娘に関係なく、興味が無いことに時間を費やさなければならない。それは嫌いな習い事を親から強制されるような苦しみだった。

 誰よりもウマ娘とレースが好きな故に、その苦痛は常人の何倍だった。

 だが皆にウマ娘レースを見せて、その素晴らしさを普及したい。そのウマ娘とレースに対する愛情が生んだ苦痛を愛情で耐え忍び、研鑽し続けた。

 

 その結果スクールカースト最上位者となり、普及することに成功する。

 この方法ならば皆にウマ娘レースの素晴らしさを伝えられると手ごたえを感じていた。

 だが月日が経ち、この方法の欠陥に気付く。それは効率が悪すぎることだった。

 サキーのクラスでスクールカースト最上位者になり、ウマ娘レースを普及した。

 だが別のクラスにはそこでの最上位者がいて、別のエンターテイメントが流行っているだろう。

 そして学年が違うクラスで、違う学校で、違う州の学校で、それぞれのクラスでのスクールカースト最上位者がおり、自分ひとりで、それらの最上位者が作る流れを変えることはできない。

 もっと、もっと良い方法がないのか。頭を悩ましていると、サキーの親からあることを聞いた。

 親達が学生時代の頃、ある世界的ミュージシャンが活動していた。それは世代が離れて、興味が無かったサキーでも知り、今でもそのミュージシャンのファンは多い。

 そして当時は全盛期であり、アメリカ国民、いや世界中が彼らに熱中したらしい。その話を聞き、再び閃く。

 

 自らがその存在になればいい。そうすれば一々スクールカーストの最上位者になり、ウマ娘レースを流行らせるという面倒なことをせずに済む。

 その当時のように、上位者も下位者も関係なくウマ娘レースに熱中させるには偉業が必要だ。

 かつて、アメリカクラシックレース3冠を無敗で制したシアトルスルーというウマ娘がいた。そんな彼女でも世界的ミュージシャンのように熱狂させ、世間を振り向かせることはできなかった。

 ならもっと凄い偉業が必要だ。アメリカクラシック3冠を無敗で制し、アメリカウマ娘界最高峰レース、ブリーダーズカップクラシックも勝つ。

 そして次の年はヨーロッパウマ娘界最高峰のレースである、キングジョージと凱旋門賞も無敗のまま勝ち、ビッグレースに勝ち続けて無敗のまま引退する。

 そうなれば活躍が話題を呼び、その世界的ミュージシャンと同じように世界中を熱狂させ、全ての人がウマ娘レースを見るようになるだろう。

 サキーが描いた夢は、夢としてすら思い描くことが無いような途方の無いものだった。

 だが愛するウマ娘レースを世界中に見てもらうために必要なら、やらなければならない。その日からトレーニングに没頭する。それは夢ではなく使命だった。

 

 月日が流れ、トレーニングの甲斐あってか、サキーは世界有数のチームであるゴドルフィンにスカウトされ、チームに入りヨーロッパで走る事になった。

 まずはチームのレジェンドであるラムタラのように、イギリスダービー、キングジョージ、凱旋門賞を無敗で勝ち。そして来年はブリーダーズカップクラシックに勝つ。それがサキーの予定だった。だがデビュー戦は4着に終わり、早速予定が狂ってしまう。

 しかし気落ちすることなく次のレースに勝利し連勝を4まで伸ばし、欧州最高峰のレースであるイギリスダービーに挑むが結果は2着だった。

 次走のGIエクリプスSも4着に敗れ、その後のトレーニングで怪我をしてしまい、ジュニアC級のシーズンを終えた。

 

 サキーのこの結果を受けて、頭にはある考えが過ぎる。

 

―――己には人々を振り向かせるような伝説を作るウマ娘にはなれないのかもしれない。

 

 だが、例えそうだとしても、ウマ娘レースを普及するにあたって、やることは腐るほどある。サキーは活動方針を変更する。

 

 ウマ娘レースを普及するには興味がない人すら知っているような、絶対的な象徴の存在が必要である。それと同時に地道な普及活動も必要であると考えていた。

 ある日、自身が通う学校にレースに参加する選手が訪問したとしよう。

 そこで対応よく接せすれば、ウマ娘レースに興味がない生徒も興味を持ってくれるかもしれない。自身は象徴になれないかもしれないが、そうだとしたら代わりに地道な普及活動をやるべきだ。

 サキーはレースに出られない間、学校や病院への慰問活動、地域のボランティア活動への参加、ローカル番組のメディア出演などをトレーニングに支障が出ない範囲ギリギリに精力的におこなった。

 幸いにもイギリスダービー2着という看板は効果あり、営業活動の甲斐有ってか、その手の依頼は途絶えることはなかった。

 

 広報活動以外にも、チームメイトのサポートを精力的におこなっていた。

 

 すべてのウマ娘は幸せであり報われるべきである。それがサキーの考えだった。

 だが矛盾しているようだが、レースである以上、勝者と敗者が存在しすべてのウマ娘が報われることはない。ならばせめてゴドルフィンのウマ娘だけは幸せにさせてあげよう。

 

 ある者がレースに勝ちたいと願えば、トレーニングに協力し、相手を分析し勝機を探す。ある者が好きな作曲家の曲でウイニングライブを歌いたいといえば、三顧の礼で頼み込む。

 自身のトレーニングに広報活動とチームメイトのサポート。活動は多忙を極め、自分の自由時間は全くなかったが全く苦痛ではなかった。

 1人でもウマ娘レースを知ってくれて、1人でも多くのウマ娘が幸せになってくれれば充分だった。

 うら若き少女が自由時間も無く、チームメイトや業界のために奉仕する姿は、ある意味狂気の沙汰である。だがそれは当たり前のことだった。

 

 そして翌年、地道なトレーニングの成果か、業界に奉仕する献身性に対する神からの褒美か、サキーはメキメキと実力をつける。

 夏のヨーロッパレース界の中距離NO1を決める芝2100メートルのGIインターナショナルステークスでは2着に7バ身、芝世界最強を決める凱旋門賞では2着に6バ身、ダート世界最強を決めるブリーダーズカップクラシックではハナ差の2着と、現役最強に相応しい成績をあげた。

 この結果を受け、再び自身が伝説を作るウマ娘になれるという希望が芽生える。

 当面の目標は誰もがなしえていない、ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、ブリーダーズカップクラシック制覇だ。これを達成できればメディアもこぞって注目するだろう。

 サキーは伝説のウマ娘になれる位置に上り詰めたが、スタンスは怪我で休んでいた時と変わらない。

 トレーニングの間に、広報活動や、地域の学校や病院への慰問活動やボランティアに参加し、チームメイトへのサポート、24時間すべてを業界やチームメイトのために費やした。

 そんなサキーが久しぶりに自分のために時間を使った。アグネスデジタルとのお茶会だ。香港での出会いもそうだが、調べていくうちにアグネスデジタルは自分と同じような匂いを感じ。お茶会をセッティングし会話した。

 

 予想は当たっていた。デジタルは本当の夢を見抜き、自身の夢を素敵と言いかけなしの賞賛の言葉を送ってくれた。やはり同じようにウマ娘を愛していた。だが方向性は若干異なっている。

 デジタルはウマ娘への愛は内向きであり、可愛いものを可愛いと愛でるような愛情だ。

 サキーのウマ娘への愛は外向きであり、母が娘の幸せを願うような愛情だ。

 

 だがサキーは方向性の違いに対し落胆することはない。違うといえど根っこは同じでサキーも愛でる愛情を持ち、デジタルも幸せを願うような愛情を持っている。  

 そのデジタルならサキーの夢の実現のために喜んで手伝ってくれるだろう。

 

 だがレースでは同志のデジタルを倒し、彼女の夢や希望を絶たなければならない。

 それだけではない。同じチームのストリートクライの、他のウマ娘の夢も同じよう絶たなければならない。ウマ娘達の幸福を願っていながら、その幸福を得ることを邪魔する。

 矛盾しているのはわかっている。だがやらなければならない。

 レースに勝ち伝説のウマ娘となれば、ウマ娘達は注目され持て囃され業界は潤う。そうなれば今後の人生に幸福がおとずれるはずだ。

 

 サキーはドバイミーティングとは無関係なニュースが流れる番組を見ながら、決意を新たにした。

 



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勇者と太陽と未完の大器#5

 ゴドルフィンのチームハウス内の視聴覚室で、映像を見ているウマ娘と男性が居た。

 ウマ娘は座っているだけでも長身ということが分かるほど座高が高く、左側だけ髪が長い左右非対称の黒鹿毛色のセミロングの髪型である。

 彼女の名前はストリートクライ、そして男性はストリートクライのトレーナーである。モニターにはサキーの姿が映し出されていた。

 

「ドバイワールドカップにおける最大のポイントはサキーをいかに封じ込めるかだ。今言った事をこなせれば充分に勝機はあるはずだ」

 

 トレーナーは力強く宣言するのに対し、ストリートクライはただ首を小さく縦に振る。

 

「今日はゆっくり休んで、明日に備えろ」

 

 トレーナーの言葉にストリートクライは席を立ち上がり退室する。その姿を見送ると、トレーナーは再びレース映像を見ながらため息をつく。

 

 サキーは強い。

 

 スタミナ、瞬発力、レースセンス、メンタル。どれをとっても一流であり、欠点など何一つ無い。そのサキーに勝つためには、その力をいかに削ぐかに掛かっている。

 ストリートクライは相手の力を削ぐ技術が抜群に上手く、それはサキーより上手いと断言できる。

 だがそれだけで勝てる相手ではなく、口では充分に勝機があると言ったが、理想どおり力を削げたとしても、明日の本番は勝てる見込みは限りなく少ないだろう。

 技術もある、身体能力も備わっている。だが決定的な何かが欠けている。それを見つけない限りサキーにはもちろん、他のビッグレースで勝つ事は無いだろう。

 だが、トレーナーはその何かを未だに見つけられずにいた。レース映像を何回も見ても分からず、ストリートクライに面談しても、その寡黙な性格故かほとんど口を開かない。まさに八方塞である。

 トレーナーはサキーの映像からストリートクライの映像に代え、レース映像を見始めた。

 

 ストリートクライはアイルランドで生まれた寡黙で無口なウマ娘である。

 家庭環境はお世辞には良くないもので、両親は表立って喧嘩はしていないが、小言を言い合っていた。

 その環境を嫌ってか、ストリートクライは友達と遊び、出来る限り家には居ないようにしていた。その友人もウマ娘であり、名前はキャサリロと言う。

 ストリートクライとは幼馴染で彼女もまた家庭環境が悪く、両親はいつも喧嘩をしていた。性格は饒舌で口から生まれたような人物でストリートクライとは正反対の性格だった。

 2人はウマ娘のレースが好きだった、同じ境遇と同じ趣味を持っているということで意気投合し、接していくうちにお互いウマが合うと感じていた。

 キャサリロが喋りストリートクライが黙って聞く、それが2人のいつも光景だった。

 必要以上に喋らないストリートクライだが、キャサリロとはコミュニケーションが取れていた。口が回らず感情表現が苦手なだが、自分の気持ちを手に取るように察してくれ、一緒にいるのが心地よかった。

 キャサリロは口が滑ってしまいトラブルを招く性格だった。だがストリートクライは長話をじっと聞き時に口が滑っても黙って受け止めてくれ、一緒にいるのが心地よかった。

 

「ねえ、クライ。もっと叫んでみたら?」

 

 レース場でレース観戦を堪能した帰り道、キャサリロが唐突に語りかける。

 

「名前にcryってあるぐらいなんだから、色々叫んでみれば。名は体をあらわすって言うでしょ。叫ばなくてもいいから、もっと喋ってみれば」

 

 キャサリロの突然の提案にストリートクライは頬をかき、困惑した素振りを見せながら視線を泳がす。その様子を見て一笑する。

 

「わるい、私みたいにベラベラ喋るのなんて、クライじゃないか。でも一度ぐらいクライが叫ぶところ見てみたいな。叫ぶとしたら何だろう?アイルランドダービー勝ったら?無口な奴は感情を溜め込んでいるって言うし、叫んだら凄いことになるんだろうな」

 

 キャサリロは1人で喋り続ける。その様子を黙って見ていたストリートクライだが間を見計らって言葉を発する。

 

「キティと2人で凱旋門賞に同着で1着になったら、嬉しくて叫ぶと思う」

「それは最高だ!凱旋門で同着で1着になったら、2人で思う存分叫ぶか!」

 

 その言葉にキャサリロは一瞬目を点にするが、すぐに満面の笑みを浮かべ肩に手を回す。

 それは素晴らしい光景だ。クライはどんな声で叫ぶだろう?普段声を出さないから思いっきり声が裏返りそうだ。2人はどのレースに勝ちたいかなど、将来の夢をたっぷりと語りながら夜遅くに家路に着いた。

 

 月日が経ち、2人はアイルランドにおけるトレセン学園に入学する為のテストを受け、そこでゴドルフィンのスカウトの目に留まり、ゴドルフィンに入ることになる。

 世界各国に日本のトレセン学園のようなものが存在し、レースが盛んな国のトレセンにはいくつかのゴドルフィンのチームある。

 ゴドルフィンに所属するウマ娘は適性テスト等を受け、各国のゴドルフィンのチームに配属される。2人はアメリカにあるゴドルフィンのチームに入ることになった。

 

「いよいよ、始まるのか」

 

 キャサリロは自らが所属するゴドルフィンのチームハウスを見上げながら、感慨深げに呟き、ストリートクライもキャサリロの気持ちに同意するかのように頷く。

 

「まあ、アイルランドで走って、無敗でアイルランドダービーに勝って、キングジョージや凱旋門賞に勝つ予定だったけどしょうがない。まずは無敗でアメリカ3冠、そしてBCクラシック制覇で良しとしよう」

 

 キャサリロは胸を張りながら大言を吐き、ストリートクライはその様子に笑みを浮かべる。そしてキャサリロに向けて2本指を立て、人差し指で指す。次に1本指を立て、親指で自分を指しながら告げる。

 

「三冠の最後は同着で1着」

「まあ、それでも一応無敗の三冠か、まあ、私は寛大な心の持ち主だから、それで良しとするか」

 

 キャサリロはおどける様に尊大な口調で言い、ストリートクライは静かに笑う。それに釣られるように笑い始め、2人笑い合うとう。

 キャサリロは真面目な口調で語りかける。

 

「まあ、無敗の3冠は無理かもしれないけど、できるだけレースに勝とう。そうすれば長く現役が出来て、あの家に帰らずにすむ。活躍すればお金も貰えるし、引退後も仕事がもらえて良い生活が出来る。勝ってゴドルフィンで成り上がろう」

 

 2人がゴドルフィンに来たのは、レースに走って活躍したいという夢もあるが、親元から離れたいという気持ちもあった。

 ゴドルフィンにいる間は親元から離れることができる。さらにレースに勝てば賞金もらえ、今後の1人暮らしの貯蓄になる。

 そしてビッグレースに勝てば賞金は増え、名声も与えられる。そしてその名声で引退後もウマ娘レース関係の職につけるかもしれない。そのためには勝たなければならなかった。

 2人は誓いを立てるように拳を突き合わせ、チームルームに入っていった。

 

 ストリートクライのデビュー戦は2着で勝利を飾れなかったが、次のレースは7バ身差で快勝する。次のGⅡレース2走はともに2着。アメリカのダートジュニアB級最強を決めるGIレースBCジュヴェナイル3着。ジュニアB級の戦績は5戦1勝に終わる。

 将来のスター候補と呼べる戦績ではないが、重賞でもウイニングライブ圏内を外さない堅実な走りは評価され、クラシックの2番手グループに位置づけられていた。

 

 キャサリロのデビュー戦は6着に終わる。次のレースでは勝利するも、あとの重賞レース3走はいいところなく、すべて掲示板圏内を外し、ジュニアB級の戦績は5戦1勝に終わる。

 ストリートクライと同じ成績だが、ゴドルフィンにおける将来の期待度は明らかにストリートクライが上であった。キャサリロはC級になってから伸びるタイプと強がっていた。

 年が明けジュニアC級に上がると、ストリートクライは3月末メイダンレース場で行われるUAEダービー制覇のために、ゴドルフィンの本部に戻っていく。

 そこで2レースを走り、前哨戦のUAE2000ギニーには勝利したものの、本番のUAEダービーではアタマ差の2着に終わった。

 UAEダービー制覇はできなかったが大目標はアメリカ3冠であり、レース内容も見所が有り決して悲観的なものではない。

 そうトレーナーに告げられたストリートクライは気落ちすることなく、希望を胸に抱きながらアメリカに戻っていった。

 ゴドルフィンアメリカ支部に戻ると、2人が住む部屋でキャサリロが残念会を開いてくれ、かしましく騒ぎながらも労い敗戦を慰める。

 キャサリロの様子は他の人から見ればいつもどおりだが、ストリートクライから見ればどこか違っていた。

 その真意を問いただそうとキャサリロの瞳をじっと見据える。最初はそんな熱視線を送るなよとからかっていたが、その視線に込められた圧力に耐えかねて語り始める。

 

「クライがUAEで走っている間に私もいくつかレースに走ったんだけど、全部ウイニングライブ圏外。トレーナーからもクラシックは諦めろってさ」

 

 キャサリロはいつものように明るい口調で語るが、明らかに空元気だった。

 ジュニアC級のクラシックはレースが行われるどの国においてもレースの花形であり、その一生に一度の晴れ舞台をウマ娘の誰しもが目指す。

 その晴れ舞台に立てないと宣告されることは、どれほどのショックであろうか。さらに友人はクラシックの舞台に立てるとあればショックはさらに増すだろう。

 

「だからクライはクラシックで頑張ってくれ……どうしたクライ?」

 

 ストリートクライはキャサリロを見据えながら自分の意志を視線に込める。まだクラシックの舞台には間に合う。自分もトレーニングに付き合うから、一緒にクラシックの舞台で一緒に走ろうと。

 

「諦めるな。トレーニングに付き合うから、一緒にクラシックの舞台に走ろうって。……わかったよ。あと少しだけ諦めずに頑張るよ」

 

 キャサリロは無言の言葉を聞き取り、その意志を言語化する。するとストリートクライは無言でサムズアップサインを送り、その姿にキャサリロは思わず一笑する。

 サムズアップサインをするということは自分の言葉が合っていたのだろう。しかし相変わらず寡黙な友人だ。口下手でいつも視線で語りかけてくる。そのせいか目線だけで意志を汲み取るなんてエスパーめいた芸当ができるようになってしまった。

 

 翌日キャサリロはトレーナーに頼み込み、レースに登録してもらった。

 ストリートクライと違い、このレースに勝てたとしてもクラシックの舞台に立てるかは運次第。可能性は限りなく低い。だが勝たなければ始まらない。

 その日からレースに向けて普段のトレーニングに加え、2人でのトレーニングを始めた。そこでストリートクライは持てる全てのことをキャサリロに教え、その中には自分で培った相手の力を削ぐ走りもあった。

 これは自分で培った門外不出の技術だ。それを伝えるなんて競技者として甘いと言われるだろうが、それでも一緒にクラシックの舞台に立ちたかった。

 そしてトレーニングを積み、レース当日を迎える運命を決める1戦、それを見届けようとストリートクライもレース場に駆けつけ、ゴール板付近で祈るように本バ場入場してくるキャサリロをみつめる。

 

「心配するな、勝ってくるって」

 

 するとストリートクライの姿に気付き、キャサリロが声を掛ける。

 本当なら自分が声を掛けなければならないのに、立場が逆だ。少しばかりの気まずさを感じながらキャサリロを観察する。声や立ち振る舞いを見ても緊張も気負いもない。今日はやってくれそうだ。

 ゲートに向かう後姿に祈りをささげながら、固唾を飲んでレースを見つめる。

 

 結果は6着。キャサリロのクラシックへの道筋は完全に断たれた。

 

「まあ、クラシックがウマ娘のすべてじゃないからな。クライは私の分まで頑張れよ」

 

 レースが終わり、2人が顔を合わせて発した一言。明るい口調だったが、その奥に悔しさを押し込めているのは明らかだった。

 キャサリロの分までクラシックを走る。ストリートクライは心の中で誓いを立てる。だが思わぬアクシデントがストリートクライを襲った。

 右足首負傷により全治3ヶ月。クラシックレースはすべて未出走で終わる。

 

「いくら友達想いだからって、そこまでやらなくていいのに」

 

 キャサリロが怪我の報せを聞き、ストリートクライにかけた言葉だった。落ち込まないようにとおどけてくれたのだろう。

だがその気遣いがストリートクライの神経を僅かに逆なでする。怪我の原因はキャサリロのトレーニングに付き合ったことによるオーバーワークだった。

 だがトレーニングに付き合ったのは自分の意志であり、断じてキャサリロのせいではない。黒い感情をグッと抑え、キャサリロの軽口に笑みで応える。

 

 ストリートクライの復帰戦の予定は10月となる。その間はリハビリに励みながら引き続きキャサリロのトレーニングに付き合っていた。

 キャサリロはあれ以降何回かレースを走ったが、どのレースでも勝利どころか掲示板圏内にすら入ることができなかった。

 レースを重ねるうちにつれてキャサリロの顔は明らかに曇っていく。そしてある日、顔面蒼白にし、声を震わせながらストリートクライに告げる。

 

「次のレースで掲示板に入れなかったらクビだって……」

 

 ゴドルフィンでは成績不振の者は容赦なく切り捨てられる。

 中には成績が不振でもトレーナーが走りに見所を感じた者や、まだ成長途中であると感じた者はチームに籍を置けるが、キャサリロのトレーナーは見所や伸び代を感じていなかった。

 

「いやだよ……まだ走りたいよ……」

 

 いつも強気のキャサリロだったが、この時ばかりは幼子のように震えていた。その姿を見てストリートクライは肩に手を置きながら顔を見据える。

 

―――嘆いていても始まらない、トレーニングしよう

 

 目線語るがキャサリロは意図を読んでくれず震えていた。

 

 トレーナーの宣告から数日、平静を取り戻したキャサリロはハードワークを課した。

 クラシックの時は、クラシックに出るか否かの問題だった。だが今回は競技人生が掛かっている。その様子はまさに死に物狂いだった。ストリートクライもリハビリの時間を必要最低限に削り、残りの時間をトレーニングの付添いや相手のスカウティングに費やす。

 そして運命を決めるレース、キャサリロは死力を尽くし懸命に走った。後で思い起こせばこのレースがベストレースだったかもしれない。だが結果は7着。この日をもってキャサリロはゴドルフィンから除籍された。

 

 レースが終わってからの夜、ストリートクライは荷造りを始める友人の後姿を黙って見つめていた。

 何と声をかければいいのだろう?慰めの言葉?励ましの言葉?様々な言葉が脳内に浮かぶが、どれも上手く言語化できない。

 

「ねえクライ、私の姿は滑稽だった?」

 

 キャサリロは後ろを振り向き呟く。その一言に目を見開く。言葉も衝撃的なものだったが、驚いたのはその声色だった。負の感情がむき出しで、長い付き合いで初めて聞くものだった。

 

「才能が無い私が無様に足掻く様は面白かったでしょ。トレーニングに付き合ってくれたのも、その無様な姿を間近で見たかったからでしょ」

「違う」

 

 ストリートクライは即座に反論し、睨みつけるようにキャサリロを見つめる。

 たった1人の友人をそんな風に見るわけがない。それどころか最大限のサポートをしたのに、何故そんなことを言う。

 ストリートクライの睨みは言葉に対する怒りを表していた。だがキャサリロはその睨みを意に介することなく言葉を続ける。

 

「じゃあ何で励ましてくれなかったの!?何で慰めてくれなかったの!?いつも黙ってさ!言葉にしなきゃ伝わるわけ無いでしょ!」

 

 その言葉にストリートクライの胸中は怒りと悲しみに満たされる。

 いつも心の中で励ましていた。慰めていた。そしてトレーニングに付き合い、レース相手のスカウティングをするなどして行動で示した。それなのに何故伝わらない。

 

 その会話を最後にキャサリロは部屋を飛び出し、アメリカ支部から去っていく。その後ストリートクライは連絡を取ろうとするが、音信不通になっておりどこで何をしているか知らない。

 普段であればキャサリロはストリートクライの無言のエールや、その行動の意味を正しく受け取れた。

 だが連敗が続き平常心を徐々に蝕み、理解力の低下を招いた。またストリートクライもキャサリロの理解力の高さに甘え、自分の思いを言葉にすることを怠ってしまった。

 ストリートクライは1番の友人に理解してもらえなかったショックから、益々寡黙になっていく。そして以前より一層トレーニングに励むようになる。

 

 怪我が治ったストリートクライは重賞3レース走ったが、すべてウイニングライブ圏内を確保するが勝利する事はできなかった。

 以前より相手の力を削る走りに磨き、それはグレーな走りで時には物議を呼んだ。

 一見その行動は勝利を求めておこなっているものにも見えるが、そういった行動をおこなう者に共通する勝利への執念が全く見えない。それは勝利を目指しているというポーズをとっているようだった。

 だが前走では圧勝し、メンタル面が改善したかに思えるがそうではない。その身体能力と技術は世界トップクラスであり、その技と体で押し切ったにすぎず心の問題は解決していない。

 

 ストリートクライ自身もモチベーションの低下を感じ取っていた。その原因について自問自答する。

 

 走る理由のせいだろうか?

 

 走る理由はある。走るのを辞めれば、あの居心地悪い家に帰らなければならない。走ればそれなりの結果がついてきて衣食住に困らない。

 だがそれはマイナスの理由だ、前はもっと前向きなプラスの理由が有ったはずだ。だが今は失ってしまった。

 ストリートクライは何かが足りないのを自覚しながら走り続けた。

 



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勇者と太陽と未完の大器#6

 ザ メイダン ホテルのフロントは全面ガラス張りで吹き抜けで、昼では太陽の光が差し込み開放的な雰囲気を味わえる。

 夜では一帯は暗くなるが、金色の光がガラスや床に反射しフロントを鮮やかに照らす。時間帯によっては生のピアノ演奏を聴けることができ、客たちを楽しませる。

 スペシャルウィークとアグネスデジタルはガラス張りの壁越しに見えるドバイの星と海を見つめる。

「前日祭豪華だったね」

「うん、WDTの前夜祭に出たことがありますが、豪華さと派手さはそれ以上でした」

「本当に驚いたよ」

 

 ドバイミーティング前日には前日祭がおこなわれる。そこにはドバイミーティングに参加するウマ娘と関係者が一堂に会し、健闘を誓い合う。

 そこでは2人でも知っているような有名歌手のミニコンサートや豪華景品が当たるビンゴ大会などが行われ、まさに祭りに相応しい催しだった。その豪華さと規模の大きさにデジタルたちはただ度肝を抜かれていた。

「もう明日は本番で、明後日には帰るんだよね」

「1週間あっという間でした」

 デジタルは感慨に耽りながらドバイでの1週間を振り返る。

 決して順調にはいかなかった。誤解やすれ違いもあり、関係は良好ではなかった時期もあった。だが今はお互いを理解し合い良好な関係を築けている。それだけでドバイに来た価値はあった。

 スペシャルウィークも1週間を振り返る。いつもと違うトレーナーとメンバーでトレーニングをして一緒に過ごした。

 最初は辛いこともあったが、今は様々な体験ができた。明日の結果がどうであれ、海外遠征に踏み切った価値はあった。

「うん、肌ツヤ弾力ともに問題なし、絶好調だな」

 

 感慨にふけっていたスペシャルウィークに悪寒が走る。ふくらはぎに別の体温と触られる感触が伝わる。瞬間的に後ろ足で蹴り上げ後ろを振り向く、そこには見知った顔があった。

「トレーナーさん!?」

「この威力、まさに絶好調だな。よっ、久しぶりだなスペ」

 

 スピカのトレーナーは体を起こし、手を挙げながらスペシャルウィークに挨拶する。

 

「いつここに来たんですか!?」

「今しがただ」

「来るって連絡してくださいよ。明日来ないかもって心配したんですよ」

「悪い、驚かそうと思ってな」

 スペシャルウィークは呆れと安堵と喜びを綯交ぜにしたように破顔する。

 いい表情だ。これが本来のスペシャルウィークの表情なのかもしれない。デジタルはトレーナーと再会したことを自分のことのように喜んでいた。

「やっぱり、スペシャルウィーク君はスピカのトレーナーと一緒にいるのが一番やな」

「あっ白ちゃん」

 デジタルの元にトレーナーが近寄り、手に持っていた2つの缶飲料の1つを手渡す。

 

「そうだね、今まで1番いい顔している」

「これで、お役御免やな」

「寂しい?」

「本音を言えばな」

 スピカのトレーナーの代役といえど、自分のチームのウマ娘と同じように愛情を注いだつもりだ。行動を共にしていくうちに、まるで長年自分のチームにいたような感覚に陥っていた。それほどまでに相性の良さを感じていた。

 だがスピカのトレーナーと話している雰囲気で分かった。スペシャルウィークがいる場所は自分の下ではない、チームスピカだ。

 暫くするとデジタルのトレーナーに気がついたスピカのトレーナーが挨拶する。

 

「お疲れ様です白さん」

「お疲れ、腹の調子は大丈夫か?」

「それは問題ありません。それよりスペを世話してくれありがとうございます。ふくらはぎ艶と弾力、そして蹴り足の威力。まさに絶好調です。さすが白さんです」

「相変わらずセクハラして、蹴られたんか。それで何でピンピンしてるんや?ウマ娘に顔蹴られたら、普通骨の一本や二本折れるぞ」

「衝撃の逃し方とかコツがあるんですが、それを覚えれば平気ですよ」

「そうか」

 

 スピカのトレーナーの言葉にデジタルのトレーナーは乾いた笑いを浮かべる。

 そんな技術を習得しているのはスピカのトレーナーだけだろう。それで調子がわかるのだから唯一無二の技術だ。ある意味尊敬できる。

 そしてスペシャルウィークとスピカのトレーナーの再会を見て、本来の目的を思い出す。

「再会といえば、デジタル。お前にもスペシャルゲストが来ておるで」

「えっ?誰?」

「それは来てのお楽しみや」

 デジタルは期待に膨らませながら、前方を見つめる。スペシャルというからには予想外の人物だろう。すると近づいてくる2人の人物がいる、背格好からして男女だ。

 女性は金髪のセミロングで、ピンクのシャツにスラックス、体型もスラっとしておりモデルのようだ。

 男性は赤髪のオールバックでメガネをかけている、身長は180センチ近くの偉丈夫だ。近づいて姿が鮮明になるにつれデジタルの目は見開いていく。

「パパ!ママ!」

 

 デジタルは2人に抱きつくと挨拶のキスを交わし、両名も同じように挨拶のキスを交わす。

「デジタル元気だった?」

「うん!それよりどうしてここに?」

「娘の晴れ舞台に来ない親はいないさ」

 

 父親はデジタルの頭を撫でデジタルは嬉しそうに受け入れる。

 両親に会うのは前回の帰省以来だった。そしてレース前に会うことはそれ以上に久しぶりのことだった。

 両親がデジタルのレースを見に来たのはデビュー戦以来である。3人は言葉を交わすと母親はスペシャルウィークに気がつき近づいていく。

『貴女はデジタルのお友達?デジタルがお世話になっています』

「ハーワーユー!マイネーム、イズ、スペシャルウィーク!ナイス、トゥ、ミー、チュー!」

『スペシャルウィークさんと言うのね。よろしく』

 

 スペシャルウィークは突然のことに驚きながら定型文の挨拶を交わし、デジタルの母親も笑顔で握手を交わす。

 そこにデジタルも加わり女性同士で会話に花を咲かす。一方父親はデジタルのトレーナーの元へ向かう。

『ご無沙汰しています。Mr.white。デビュー戦以来ですね』

『こちらこそ。アメリカから来てくださりありがとうございます。貴方達の応援はきっとデジタルの力になるでしょう』

『ありがとうございます。ところでデジタルは勝てそうですか?』

 

 デジタルの父親の目つきが鋭くなる。それは勝負事の厳しさを知っている者の目つきだった。

『今までで1番強い相手です。今年の初めに勝負したら5バ身差はつけられるでしょう』

 トレーナーは当初は当たり障りのないことを言おうとした。だがその目を見て考えを変える。

 下手に楽観的にことを言うのは失礼に値する。その厳しい予想に父親は息を呑み込む。

『ですが、日々のトレーニングに強敵とのレースを経て、デジタルは成長しました。その差は確実に縮まっています。それにデジタルは常識はずれのウマ娘です。今までも私の予想を軽々と超えていきました。きっと明日も私の予想を超えてくれます』

 

 トレーナーは頬を緩ませる。初めてGIを勝ったマイルCSでも、去年の天皇賞秋でもデジタルは予想を超えていった。

 相手は世界最強だ。だがその相手に勝てる才能とトレーニングをデジタルは積んできた。そしてドバイワールドカップに向けて、自身のすべての知識と技術を駆使し仕上げた自負がある。

 トレーナーの言葉を聞き父親が頬を緩ませる。自分を喜ばせようと強い言葉を述べたのではない。他人と自分たちを客観的に分析し述べた言葉だ。今の言葉には力がある。この人物に娘を預けて本当によかった。

『それでスペちゃんの友達のエルコンドルパサーちゃんに勝ったブロワイエがジャパンカップにやってきたの!』

『因縁のレースね。それで?』

 

 女性陣の会話はスペシャルウィークの話題になり、デジタルの熱の入った話を母親が耳を傾ける。

 するとデジタルの懐にある携帯電話が振動する、電話の相手はエイシンプレストンだ。サイレンススズカと話したとき以来喋っていない。どんな話だろう?

「プレちゃんから電話だ。話の続きはスペちゃんよろしく」

「私!?」

 突然話を振られて困惑するスペシャルウィークを他所に、デジタルは電話に出る。

「もしもし」

「もしもし、プレちゃん」

「いよいよ明日だけど、調子はどう?」

「調子はバッチリ!」

「それは良かった。ところで明日に向けて私たちから激励の言葉があるけど聞きたい?」

「聞きたい!」

「よろしい。じゃあドトウさんに代わるわ、どうぞ」

 電話の相手はプレストンからメイショウドトウに代わる。

 

「もしもし、デジタルさんですか、ドトウです」

「ドトウちゃん、久しぶり。そっちはどう?花粉症とか大丈夫?」

「ありがとうございます。花粉症は大丈夫な方なので問題ないです。デジタルさんドバイはどうですか?」

「大分慣れてきたよ」

 

 2人は当たり障りのない世間話を話す。声を聞くのは一緒にトレーニングした以来だが、まるで数ヶ月ぶりに聞いたように懐かしい。

「それで、ドバイワールドカップではトリップ走法を使うのですか?」

「使うよ」

「私個人としては使って欲しくありません」

 ドトウの言葉は穏やかな口調から一転し、真剣みを帯びたものになる。その言葉にデジタルも息を呑み沈黙する。

 

「あの走りはデジタルさんの力を100%、いや120%引き出します。限界を越えた先には必ず代償がつきまといます。サキーさんが魅力的で少しでも近づきたいというデジタルさんの気持ちは分かっているつもりです。けど、それで怪我をしたら元も子もありません」

 ドトウは諭すような口調で語りかける。よく限界を超えろと言い、それが良いことのように持て囃されるが、ドトウの考えは違っていた。

 限界を超えることは良い事ばかりではない。限界を超えた先には必ず代償、体に無茶がかかり怪我を招く。

 そしてそれが引退のきっかけになることになるかもしれない。120%の力に頼るのではなく、鍛えて100%の力で勝てるようにするのが正しい競技者としてのあり方だ。

 刹那的に生きてはいけない。長く現役でいればその分素敵なウマ娘に出会う可能性が上がる。何よりデジタルが怪我で引退するという姿は見たくない。

「ありがとうドトウちゃん。でも使わなきゃサキーちゃんに近づけないし勝てない。だから使うね」

 デジタルは決断的に言い放つ。ドトウは本当に自分の身を気遣ってくれている。その気持ちは涙が出るほど嬉しい。だが世界一の壁は想像以上に高い、残念ながら代償を払わず勝てる相手ではない。

「わかりました。デジタルさんの無事と勝利を日本から祈っています」

 ドトウはデジタルの声を聞き、説得は無理であると悟る。

 自分の考えは現役を退いた者の考えだ。自分も120%の力を引き出す術を持っていれば、テイエムオペラオーと走るときに使っているだろう。その術を持っていれば使うのは当然なのかもしれない。

 

「もしもし、ボクだ」

「オペラオーちゃん」

「こっちはドバイミーティングに向けて盛り上がっている。報道量はデジタルが一番で、ボクやドトウ達にもインタビューが来たよ。ちゃんと美辞麗句を並べて置いたよ。ボクの次ぐらいに強いって」

「フフフ、ありがとう。最高の褒め言葉だよ」

 

 オペラオーがおどける様に喋り、デジタルも笑みをこぼす。

 ああは言っているが、本当に言いそうだ。でもそれを怒る気はない、天皇賞秋だけで格付けが済んだとはこれぽっちも思っていない。

「サキーは太陽のエースと呼ばれているようだね。エースか、いい二つ名だ」

「でもオペラオーちゃんは覇王だよ、かっこいいって」

「そうボクはウマ娘の頂点、クイーンだ。そしてサキーはエース。負けているつもりはないがトランプではクイーンよりエースのほうが強い。だがそんなエースより強いカードがある。分かるかい?」

「ジョーカー」

「そう。デジタルはジョーカーだ」

 オペラオーは思う。デジタルというウマ娘を一言で表現するなら、変化球だろう。

 距離、芝ダート、地方中央海外不問の能力を持つデジタルは王道とかけ離れたローテーションを歩んできた。  

 人気薄でGIを勝ったと思ったら、次の重賞でコロッと負けるように絶対的な強さがあるわけではない。

 さらに思考も今まで関わってきたどのウマ娘と異なっていた。掴みどころがなく変幻自在、まさに日本ウマ娘界のジョーカーだ。

「だからボクは信じている。エースよりジョーカーのほうが強い」

「ジョーカーか、何だかカッコイイね」

「だが、大富豪ではジョーカーはスペードの3に負ける。本番ではスペード3に気をつけるんだ」

「確かに、あたしも大富豪ではスペ3にやられること多いんだよね。気をつけるよ」

「じゃあ、プレストンに代わるよ」

 電話はオペラオーからプレストンに代わる。

「もしもし、元気にしている?」

「うん、元気だよ。ドトウちゃんとオペラオーちゃんから心に染み渡る言葉をもらったよ。プレちゃんは何を話してくれるのかな~?」

 デジタルの挑発的な言葉に、苦笑が受話器越しに聞こえてくる。プレストンはわざとらしく咳払いし話し始める。

 

「じゃあ、今から有難いお言葉を授けるわ。心して聞きなさい」

「ハードル上げるね。ではどうぞ」

「ウマ娘のレースは一期一会。一緒に走った相手と何度も走れるとは限らない。そのウマ娘が長期の怪我をするかもしれない、何らかしらの事情で引退するかもしれない。だからサキーとのレースは悔いが残らないように楽しんできて、レースの結果はとやかく言わないから」

 デジタルは勝利至上主義ではない。レースでウマ娘と触れ合い、レースでの交流を楽しむ。それが主義である。

 長い付き合いであるプレストンは知っている。レースを通してウマ娘と交流すること。それが一番に願っていることだった。

「どう、ありがたい言葉でしょ」

「うん、明日はサキーちゃんとのレースを楽しんでくるよ」

「じゃあ、明日に備えて早く寝なさい。お休み」

「お休み」

 デジタルは電話を切り、スペシャルウィークと母親のほうを見る。

 スペシャルウィークが片言の英語と身振り手振りで必死に喋り、母親が食い入るように話を聞いている。その光景に微笑ましさを覚えながら、2人の元へ近づく。

「おまたせ、スペちゃん」

「よかった。デジタルちゃんのお母ちゃんに伝わっているか聞いてくれない?」

『スペちゃんの言っていること分かった?』

『ええ、スペシャルウィークさんとブロワイエのジャパンカップでの激闘が伝わってきたわ』

「手に汗握る激闘で、聞いているこっちも興奮したってスペちゃん」

「よかった」

「あんな『ブロワイエ、ベリー、ファスト』『アイム、ピンチ』なんて英語でも伝わるもんだなスペ」

「トレーナーさんも手伝ってくださいよ」

「これも異文化交流だ」

 トレーナーはスペシャルウィークが悪戦苦闘しているのを、助け舟を出さずニヤニヤと笑い眺めていた。その行動が不満だったのか抗議している。

『さっきの電話は友達?』

『うん、ドトウちゃんにオペラオーちゃんにプレちゃん』

『よく話題に出るお友達ね。それで何て?』

『掻い摘んで言えば激励の言葉かな』

 

 母親の質問に笑みを浮かべながら答える。ドトウは自身の体を気遣ってくれ、オペラオーは勝てると励まし、プレストンはレースを楽しめと言ってくれた。

 3人の言葉はそれぞれの性格が出ていて、その言葉はすべてデジタルに活力を与えてくれた。

 母親はデジタルの表情を見て察する。友人の言葉は琴線に触れ高揚させたのだろう。良い友人に巡り会えたようだ。

 暫くしてお互い積もる話があるだろうと、スペシャルウィークとトレーナー、デジタルとその両親と、それぞれが別の場所に別れていく。そして其々の戦いへの英気を養っていった。

 



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勇者と太陽と未完の大器#7

ドバイワールドカップ入場編
次でドバイワールドカップ編は終わりです。


『直線残り200メートル、ゴドルフィンのネイエフに、日本総大将スペシャルウィークが詰め寄る!残り100メートル、ネイエフか?スペシャルウィークか?スペシャルウィークだ!スペシャルウィークが差し切った!日本総大将スペシャルウィーク!海外でも日本の力を見せつけました!』

 

 芝2400メートル、GIドバイシーマクラシック。レースはGIイギリスチャンピオンステークスに勝利した、ゴドルフィンの実力者ネイエフが粘り込みをはかるが、スペシャルウィークがゴール間際でアタマ差し切る。

 

「ヤッター!スペちゃんが勝った!」

「ネイエフを差し切ったか、これは価値ある勝利や」

 

 控え室にはTVが備え付けられ、準備をしながらレースを観戦していた。スペシャルウィークがゴールを1着で駆け抜けた瞬間、デジタルはトレーナーに抱きつき喜びを爆発させる。

 2人が喜びを分かち合っている間に、スペシャルウィークはコースから地下バ道に降り、控え室に戻ってくる。

 

「スペちゃん、おめでとう!」

「やったよ、デジタルちゃん!」

 

 扉を開いた瞬間デジタルはスペシャルウィークに抱きつく、スペシャルウィークもレース後で高揚しているせいか、拒むことなく喜びを表現するように力強く抱きしめる。

 

「お疲れさん」

「俺は何もしてないですよ、白さん」

「いや、君がいたおかげスペシャルウィーク君は心強かったはずや」

「そう言ってもらえると、助かります」

 

 スピカのトレーナーにデジタルのトレーナーが労いの言葉をかける。

 怪我等で今回のレースに関われなかったことで、色々と責任を感じているはずだ。だからこそ控え室に入った時に安堵の表情を浮かべていた。

 

「勝てたのもデジタルちゃんのおかげだよ」

「そんなことないって」

「そして、チームプレアデスのトレーナーさんのおかげです。ありがとうございました!」

「デジタルの言うとおりや、チームスピカで培った力を出した結果で、俺は何をしてない」

 

 スペシャルウィークはトレーナーに向かって深々と頭を下げ、トレーナーは頭を上げてくれと少し嬉しそうに促した。

 

「次はデジタルちゃんの番、頼んだよ、日本総大将」

「日本総大将?」

「今日はメインレースを走るデジタルちゃんが日本の総大将だよ」

 

 スペシャルウィークは自分の念を込めるように、デジタルの手を握り締める。

 日本の総大将を務めるようなキャラではないが、気持ちは受け取ろう。デジタルはスペシャルウィークの手に自らの手を添えて応えた。

 

「じゃあ俺もスペに習って念を送るか」

 

 するとスピカのトレーナーは、デジタルのトレーナーの前に手を差し伸べる。

 

「白さん、アグネスデジタルが勝てば世界一のトレーナーです。期待しています」

「俺に念を送っても意味ないと思うがな」

「まあ、ここは平等にということで」

 

 デジタルのトレーナーも握手に応じる。気のせいか、自分の手を握るスピカのトレーナーの手が重く感じる。それだけ念が入っているのかもしれない。

 

「では、俺たちは関係者スペースで見させてもらいます。白さんは?」

「パドック終わったら俺も関係者スペースで見る」

「では後で会いましょう」

 

 スペシャルウィークとスピカのトレーナーは控え室を後にする。その直後トレーナーは何かを思い出したかのようにデジタルに話しかけた。

 

「ところで、入場用の演出は用意しているんか?」

 

 ドバイワールドカップではよりエンターテイメント性を重視し、本バ場入場では臨時に作られた花道を歩くなど、他のレースとは比べられないほど華やかになっている。

 その入場の時の演出は各陣営に一任し、特に希望がなければ主催者が盛り上がるように演出する。

 例をあげるならば、第一回ドバイワールドカップ優勝ウマ娘である、アメリカのシガーは世界的ロックバンドの曲の生演奏を背に本バ場入場してきた。

 トレーナーも自分自身で演出するということは聞いていたが、どんな内容かは全く知らない。演出はチームメンバーのフェラーリピサとライブコンサート任せてくれと、引き受けていた。

 

「あるよ。たぶん日本人にはウケるはずだって」

「世界各国に映像が流れるのに、日本にだけウケるもんで、ええのか?」

「ドバイの人が確認してOKだしたらなら、いいんじゃない」

「まあ、そうだな。じゃあ、楽しみに待っとくか」

 

 2人が演出について話していると、スピーカーからドバイワールドカップ出走ウマ娘はパドックに向かうようにとアナウンスが流れ、二人はパドックに向かっていく。

 

───

 

「あの小さかったデジタルがあんなに堂々と」

 

 夜のドバイを照らし尽くすような光を浴びながら、堂々とパドックのランウェイを歩く。

 その姿を写真に収めながら、デジタルの母親は感慨にふけるように呟いた。ドバイのパドックでは関係者として親族もトレーナーと同伴することが許され、デジタルの父母はデジタルを間近で見ていた。

 

「どうですか、デジタルの調子は?」

「絶好調ですね」

 

 父親の質問にトレーナーは断言する。肌ツヤといい、気合の入り方といい、天皇賞秋の時と同じように、いや、それ以上に調子が良いと言える。

 

「そうですね。あの表情、楽しみで待ちきれないという表情です」

「クリスマス前には、いつもあんな顔をしていたわ」

 

 父母はデジタルの幼少期を思い出し、懐かしむ。するとデジタルはパドックのステージ袖に姿を消し、2番人気のストリートクライが現した。

 勝負服は青い神官服に、両腕にはレースに関係なさそうな物騒な手甲を嵌めている。地元ゴドルフィンのナンバー2だけあって、歓声もデジタルに比べると大きい。その歓声に応じることなくランウェイを淡々と歩く。

 トレーナーの独自の感覚で、強いウマ娘には光が纏っているように見えることがあり、天皇賞秋でのパドックではテイメムオペラオーとメイショウドトウの姿は輝いて見えていた。今日のデジタルも絶好も仕上がりのせいか光り輝いていた。

 その感覚は絶対ではなく、光り輝いていたウマ娘がレースに勝たないこともある。そしてストリートクライの姿は輝いていなかった。

 だが今日はこの感覚は正しく、ストリートクライが勝つことはないという予感があった。

 パドックに覇気が感じられない、レース前に感じたストリートクライに対する物足りなさや淡白さがそのまま現れている。手前味噌だが今日のデジタルの出来で3番人気、ストリートクライが2番人気というのは地元贔屓とだとしても納得いかない。

 ストリートクライはパドックの時間が終わり、ステージ袖に下がっていき、本日の1番人気のサキーが姿を現す。

 

 上は臍が見えるタイプの白のインナーに、アラビア風の模様が描かれた青の上着を羽織り、下はジーンズのハーフパンツに、腰には青の腰布が巻かれている。そして手足には縄のような紐がバンテージのように巻かれている。

 サキーが姿を現した瞬間、ストリートクライの時より大きな歓声が上がり、その歓声に応えるように手を振りながらランウェイを歩く。動作の一つ一つで空気をサキーの色に染め上げていく。

 空気を一瞬で変える陽性。これがサキーというウマ娘か。その姿はトレーナーの目には光り輝き、まるで太陽のように眩しくすら感じられた。

 サキーのパドックで全ウマ娘のパドックが終了する。あとはトレーナー達と軽く言葉を交わし、衣装に着替える者は衣装に着替えて、本バ場入場が始まる。

 

「じゃあ、ママ、パパ、白ちゃん行ってくるね」

「デジタル、ママはデジタルが最下位でも構わない。ただ無事に帰ってくれれば充分だから」

 

 デジタルの母親は涙声と震える手でデジタルの頬に両手を添える。

 ウマ娘のレースは約時速60キロで走るスポーツだ。足には過剰な負荷がかかり、転倒すれば時速60キロのスピードで地面に叩きつけられる。

 そうなれば無傷では済まない。現に転倒や足に負荷が掛かったことによる負傷で、今後の人生に支障をきたす怪我を負ってしまった選手は何人もいる。

 さらに頭を打ち付ければ意識不明、最悪死亡することだってありえる。それが怖くてたまらなかった。

 レースもデビュー戦以外は父親から先に映像を見て、無事でいるという確証を得てからでなければ見ることができなかった。

 レースを走る者に最下位でも構わないという、闘志を下げるような言葉をかけるのは、どうかと思う者もいるだろう。

 だが父親もトレーナーもデジタルも母親を責めない。娘を案じる深い愛情は、どの言葉よりも力を与えるのを理解しているからだ。

 

「大丈夫だよ、ママ。必ず無事に帰ってくるから」

「デジタルに神のご加護があらん事を」

 

 母親はデジタルの額に口づけし、祈りの言葉を捧げる。

 

「パパは何かある」

「じゃあ、一言。パパはアメフトでキッカーをやっていて、カレッジの全米一を決める試合で決まれば優勝というキックを外した。そのことを今でも思い出す。ああしていればよかったと後悔が未だに付き纏う。世界一を決める舞台で負ければパパ以上の後悔が付き纏うだろう。だからデジタル、100%、120%の力を出してでも勝ってくれ」

 

 120%の力を出す。それはメイショウドトウが危惧するように、故障の危険性を増す行為である。

 父親の言葉は母親とは正反対ものだった。だが根底あるのは愛情であり、自分のように辛い思いをして欲しくないという願いがこもっていた。

 

「ありがとう、パパ。頑張るよ」

「デジタルに神のご加護があらん事を」

 

 父親も母親と同じように額に口づけし、祈りの言葉を捧げる。

 

「じゃあ、次は白ちゃん。何かある?」

「作戦だが、サキーは前につけるだろうから、道中はサキーと同じ前目、最悪中段に位置を取ってくれ」

「うん」

「そして、自分のために走れ、初志を思い出すんや」

「わかった。じゃあ行ってくるね」

 

 デジタルは3人に手を振りながら、控え室に向かい姿を消していく。

 

「では、私たちも関係者スペースに行きましょう」

「はい」

 

 デジタルの両親はトレーナーに案内されて、関係者スペースに向かう。身の安全、勝利、初志貫徹。それぞれが願うことは違うにせよ、デジタルの幸福を願っているという意味では3人は同じだった。

 

───

 

 サキーは控え室に戻り、本バ場入場用のコスチュームに袖を通す。

 ウマ娘とそれに関わる者を幸福にするための第一歩、このレースには勝たなければならない。サキーは手のひらに拳を叩きつけ気合を入れる。

 するとノックの音が聞こえてくる、どうぞと声をかけ入室の許可を出すと、先ほどのドバイシーマクラシックを走ったネイエフにトブーグ、ドバイミーティングの他のレースに走ったゴドルフィンのウマ娘、レースに出ていないゴドルフィンのウマ娘が入室する。控え室はあっという間にゴドルフィンのウマ娘で埋め尽くされる。

 

「サキーさん、勝てなくてすみませんでした。サキーさんばかりに負担を掛けてしまって……」

 

 ネイエフが明らかに肩を落としながら謝罪の言葉を述べ、トブーグも奥歯を噛み締め、拳を強く握り締める。

 今日のドバイミーティングにおいて、チームゴドルフィンの勝利は未だに無い。

 これはレース始まって以来の事態であり、もしサキーが負けたらゴドルフィンの全敗になり、地元で勝てないとなれば地位は地に堕ちる。

 

「ネイエフもトブーグも皆頑張った。謝ることなんて何もない」

「でも余計なプレッシャーを掛けてしまって……」

「大丈夫、終わりよければすべて良しと言うし、私が勝てば皆すぐに忘れる。逆に私の勝ちが劇的になるね。皆ありがとう!」

「サキーさん、いくら何でも酷くないですか」

 

 トブーグのツッコミに控え室に笑いが起こる。サキーはあえて負けたことを茶化し、気にしないように仕向けていた。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「はい、喉を潰すぐらい大声で応援させてもらいます」

「ありがとう」

 

 サキーは礼を言うと部屋を出て、本バ場に向かう。

 物事には優先順位はある。レースに勝つことは他のウマ娘たちの願望を断ち切り、関係者を悲しませることになる。

 だが勝敗がある以上、全員が幸せになることはありえない。ならば自分に関わり深い人たちの幸せをとる。ゴドルフィンのチームメイトが重荷を背負わないように、悪いが勝たせてもらう。

 サキーにまた1つ背負うものが増えた。だがそれは苦ではなく、背負う物は多ければ多いほどいい。それが自分の力になるのだから。

 

───

 

 シューズのスパイクとコンクリートが当たる音が地下バ道に反響し、ストリートクライの耳に届く。反響音は1人分であり、誰もいなかった。

 他のウマ娘達はドバイワールドカップという晴れ舞台に立つだけあって、趣向を凝らした演出や衣装を用意し時間がかかっているのだろう。

 だがストリートクライは特に用意はしておらず、真っ直ぐに入場口付近に向かっていたので1番乗りだった。

 入場までの時間があるので、誰もいない薄暗い空間で壁に寄りかかり目を閉じる。他の者が見ればレースに向けて集中力を高めているように見えるが、実際は違っていた。

 

―――ぼやけている。

 

 サキーに勝つイメージも走る動機も何もかもぼやけている。

 ストリートクライはサキーの実力差は5分5分とはいかないが、天と地ほどの差は開いないと認識していた。 

 それならばモチベーションがあれば勝つイメージが浮かぶはずだが、だが靄がかかったようにぼやけている。

 これも以前は抱いていた前向きな理由がなくなってしまったせいだ。

 前はレースに負けたが勝つイメージも浮かべられ、もっと心が燃えていた感覚があった。今はそれを感じることができない。

 前向きな理由は何か?世界一になりたいから?サキーに勝ちたいから?賞金が欲しいから?ストリートクライはその答えを探し続けたが、結局見つけられず本番を迎えてしまった。

 

「なんだっけ?」

 

 ストリートクライの独り言は虚しく地下バ道に響いた。

 

―――

 

 トレセン学園にある講堂、そこでは学校集会やイベントなどが行われ、学園に在籍する多くのウマ娘が入れるようになっている。

 時刻は午前1時、深夜でありながら講堂には多くのウマ娘が集まっていた。

 目的はドバイで走るスペシャルウィークとアグネスデジタルのレースを見るためである。講堂にはモニターが設置され、大画面でレースを見ようと多くのウマ娘達が集まっている。そこにはチームスピカの面々も居た。

 ドバイシーマクラシックではスペシャルウィークが1着になり、講堂内は一気に盛り上がる。

 

「スペ先輩凄かったな!」

「ええ!凄い末脚」

「最後の最後までハラハラしたよ!」

 

 ダイワスカーレットとウオッカとトウカイテイオーはレースの熱に当てられたのか、興奮気味に語り合う。そしてサイレンスズカは3人から少し距離を置き、スペシャルウィークの勝利を喜ぶ。

 初めての海外遠征で苦難の連続であったと聞いている。だがその逆境を撥ね退け素晴らしいレースをした。本当に強くなった。

 

「そういえばゴールドシップは?」

「マックイーンと一緒に売っているよ」

 

 周辺を見渡すとゴールドシップとマックイーンはスペシャルウィークの勝利記念にかこつけて、自分たちで作った菓子類を売っていた。

 お祝い気分か作っていた物は瞬く間に完売し、二人はスズカ達がいる席に戻る。

 

「いや~あっという間にはけたな。スペ様々だ」

「ちゃんとスペシャルウィークさんのレース見ていましたの」

「ああ、最後らへんだけ」

「全く貴女という人は」

「次はドバイワールドカップだけど、どうする?見ていく?」

 

 テイオーに一言で面々は思案する。今回の目的はスペシャルウィークのレースを見ることであり、目的は完了した。それに深夜まで起きていることに慣れていないせいか眠く、どうするか迷っていた。

 

「あの変態が出るんだろう」

「でも、スペ先輩がアグネスデジタルは変態じゃなくて、凄く良い人だって言っていたよ」

「俄かに信じ難いけど、身近にいたスペ先輩が言うのならそうかも」

 

 ドバイワールドカップということもあり、話題はアグネスデジタルに移る。

 1週間前までは印象は良いものではなかったが、風向きが変わる。

 ここ数日の電話で、スペシャルウィークは世話になり、良い人で決して皆が思うような悪いウマ娘ではないと力説していた。

 

「まあ、スペが世話になったみたいだし、レースぐらい見てやるか」

「そうだね、あと30分ぐらいに始まるし」

 

 チームスピカの意見はレースを見ることに纏まり、雑談に興じながらレース開始まで待つ。

 

「凄いデ~ス」

「お見事です」

「さすが、私のライバルね」

 

 講堂の席の一角では、エルコンドルパサーとグラスワンダーとキングヘイローが同級生の勝利を喜んでいた。

 

「次はドバイワールドカップですね」

「私も出たかったデ~ス。ドバイワールドカップでは入場がど派手だと聞いていマ~ス」

「私は好きじゃないわね。何というか品が無い。レースはもっと優雅に行うべきよ」

「あのエンタメ感バリバリなところが良いじゃないですか、プロレスの入場みたいでテンションMAXデ~ス。もし出ていたら、何れリングに上がるとき用に考えていた演出アイディアを発揮するのに」

「目標は凱旋門賞だろう、エルコンドルパサー。寄り道している暇はないぞ」

 

 すると3人の後ろからチームリギルのトレーナー東条ハナが声をかける。

 

「分かってマ~ス。今年勝ったら来年はワールドカップに出ていいデスよね」

「それはかまわない」

「しかし、東条トレーナーやチームリギルの2人がこんなイベントに参加するなんて、意外ね」

 

 キングヘイローは講堂で、ドバイミーティングのパブリックビューイングがおこなわれると聞き2人を誘う。

 しかし2人が所属するチームリギルは東条トレーナーの下で、徹底的に管理されていると聞いている。

 録画で見ればいいレースを態々深夜まで起きて見るという、健康を害す行為を許すわけがないとダメもとでの誘いだった。

 だが意外にも二つ返事で了承し、トレーナー視点も観戦時に欲しいと、エルコンドルパサーは東条トレーナーまで引っ張ってきた。

 

「エルコンドルパサーは多くの仮眠をとり、グラスワンダーもその巻き添えで仮眠をとり、眠れない状態だ。どうせ眠れないのならレースを見るのも悪くはない。私は立て込んでおり、レースを見るのは息抜きのようなものだ」

 

 ハナはタブレットを忙しく操作しながら、キングヘイローの言葉に答える。

 

「次のレースはどうなると思います?」

「前評判通りサキーが勝つだろう。あのウマ娘は強い。現時点での世界最強と言ってもいい」

 

 グラスワンダーの質問にタブレットを操作する手を休ませず答える。その言葉に「世界最強は私デ~ス」とエルコンドルパサーが異論を唱えるが、それを無視して質問を続ける。

 

「アグネスデジタルの勝つ確率は?」

「厳しいだろう。オールラウンダーのアグネスデジタルだが、サキーもヨーロッパの芝とアメリカのダートを走れる。アグネスデジタルの上位互換だ。数値上でも上回っている。だが」

 

 ハナはタブレットを操作する手を止め、一つ息を入れてから言葉を紡ぐ。

 

「アグネスデジタルは数値には表せない何かを持っている。それが天皇賞秋でテイエムオペラオーとメイショウドトウとキンイロリョテイを打ち負かした。そして、デジタルにはプレアデスのトレーナーがいる。あの人は私と違って勝負師だ。無策で挑むとは思えない。あの2人なら何かを起こすかもしれない」

 

 何かを起こす。なんとも抽象的な言葉だ。だが2人の存在が予想に不確定要素をもたらし、このような言葉しか言えなかった。

 

 そして講堂の席の一角にはメイショウドトウとテイエムオペラオーとエイシンプレストンが座っていた。

 

「随分と人が集まっていますね。それだけデジタルさんの勝利を期待しているということでしょうか?」

「どうでしょう。ただ集まってドンチャン騒ぎしたいだけかもしれません」

「しかし、学園も急にパブリックビューイングなんて開催したのだろう?」

「どうやら、デジタルのチームメイトが生徒会に交渉して、開催したらしいです。デジタルが勝つのだから、皆で勝利の瞬間を分かち合おうって」

「良いチームメイトだ」

 

 講堂の最前列に目を移すとデジタルが所属しているチームプレアデスのメンバーが陣取り、テレビ番組のMCのように煽りはやし立て、会場を盛り上げている。

 

「しかし、日本中の人が夜遅くまで起きて、デジタルさんの勝利を見届けようとしていると思うと、嬉しいというか誇らしいというか」

「そうですね。ウマ娘冥利につきます」

「ボクが凱旋門賞に出ていたとしたら、もっと日本国民がテレビに釘付けだろうね。視聴率80%は固いかな」

「それはいくら何でも無茶ですよ」

 

 オペラオーの軽口にプレストンがツッコミを入れる。場の空気は幾分か解れるが、3人の手のひらには緊張のせいか汗が滲んでいる。

 日本ウマ娘界の悲願である世界一。それは一般的には凱旋門賞のことを指しているが、ドバイワールドカップも世界の強豪ウマ娘が集まるレースだ。その価値は凱旋門賞と同等と言っていい。

 勝てばまさに偉業、厳しいレースになるが、充分に勝つ可能性がある。3人は歴史的偉業が達成される瞬間を願いながら、固唾を飲んで見守る。

 

 すると画面に映るメイダンレース場が暗転する、そしてBGMともに、ターフビジョンには歴代のドバイワールドカップ優勝ウマ娘のレースと喜ぶ姿が映し出され、去年の優勝ウマ娘キャプテンスティーブの映像が終わると、次々とライトがつきレース場を照らした。

 

『只今より、ドバイワールドカップの本バ場入場です!』

 

 レース場のアナウンサーの声とともに、レース場と講堂でシンクロするように大歓声が湧き上がった。

 

 入場は人気が低いウマ娘から順々におこない、コース中央に並んでいく。

 各ウマ娘は趣向を凝らした入場で観客たちを楽しませる。そして4番人気のウマ娘の入場が終わり、3番人気のアグネスデジタルの入場が始まる。

 デジタルの入場をレース場のアナウンサーがコールすると会場は暗転し、花道に一筋の光が落ち轟音と煙がたちこめレース場は俄かにざわつく。

 

『何だ?何が起こっているんだ!?』

 

 テレビで実況するアナウンサーも会場の空気を代弁するように、驚きの声を上げる。すると煙が次第にはれBGMとともに人影が姿を現す。

 黄色のアンダーシャツとアンダーパンツの上に青色のシャツを重ね、紫色のマントを羽織っている。革のブーツを履き、同じく革のグローブを装着し、頭には金の冠を被っている。そして右手に大きな両刃の剣、左手には盾を持っていた。

 

『この音楽!このいでたち!見覚えがあるぞ!』

 

 テレビの実況アナウンサーの声と同時に、講堂にいたウマ娘たちは同じ言葉がよぎる。

 

―――これ、ドラクエだ

 

 ドラグーンクエスト。通称ドラクエ、日本で発売されたテレビゲームであり、勇者が魔王を倒すというRPGゲームで、数十年前に発売されたソフトだがシリーズ化している。そして世界中で多くの人が遊んだメガヒットゲームである。

 特に日本でも爆発的な人気を誇り、日本国民なら遊んでなくてもその存在は知っているというほどの認知度である。

 今流れているBGMはシリーズを代表する曲であり、聞けば大半の日本国民ならドラクエの曲だと分かるほどだ。

 そしてその服装はゲームの勇者が着ていた物であり、勇者のビジュアルイメージと日本国民に聞けば、この服装と答えるほど浸透している。まさに勇者のアイコンと言える姿だった。

 

「勇者だから、ドラクエか」

「ドラクエって、あのテレビゲームですか?」

 

 オペラオーが膝を打っている様子を、ドトウとプレストンは不思議そうに眺めている。

 オペラオーは日本生まれであり、ドラクエについては日本国民の平均程度に知っている。だがアメリカとアイルランド生まれの2人はあまり知らなかった。

 

『アメリカで生まれた小さな小さなウマ娘は海を渡り日本に来ました、様々な場所、様々な相手と走り成長し、誰もが歩んでこなかった未開の道を歩み、切り開いてきました。そんな彼女をいつしか勇気ある者、勇者と呼ぶようになりました』

 

 デジタルは花道脇にあるスポットライトに姿を照らされながら、踏みしめるようにゆっくりと歩いていく。

 デビューした当初は世界一を決めるような舞台に立てるとは思っていなかった。

 世界一の舞台を目指し、トレーニングを積んだウマ娘は星の数ほどいるだろう。そのウマ娘たちを押しのけ、この舞台に立っている。それが何とも不思議だった。

 

『そして勇者が次に向かうダンジョンは夢と欲望が渦巻くドバイ、そこに待ち受けるは太陽のエース、サキーです。かつて勇者イカロスは蝋で固めた翼で空を飛びました。しかし翼は太陽に溶かされ、勇者は堕ちました』

 

 だがこの舞台に立つ理由はある。オペラオーとドトウが引退し、失意に沈んでいたなか1つの光を見つけた。それがサキーだ、サキーは太陽のように光り輝いていた。

 

 サキーと一緒に走りたい!サキーを間近で感じたい!サキーに勝ちたい!

 

 その一心でトレーニングに励み、レースに勝利したどり着いた。世界一になりたいという想いではないが、想いの強さはどのウマ娘にも負けていない。

 

『だが師と友と育んだ翼は決して溶けない!落とせ太陽!掴み取れ栄光!』

 

 デジタルは花道を歩き終え、ダートコースに足を踏み入れる。

 決して1人ではこの舞台にたどり着けなかった。パパ、ママ、トレーナー、チームプレアデスの皆、メイショウドトウ、テイエムオペラオー、エイシンプレストン。多くの人の助けがあってたどり着けた。

 

 メイショウドトウとママは願った。怪我をせず無事に帰ってきて欲しいと。

 テイエムオペラオーとパパは願った。レースに勝って、世界一になってほしいと。

 エイシンプレストンは願った。レースを楽しんでこいと。

 トレーナーは願った。自分のために走れ、初志を思い出せと。

 

 ならば全部達成してやる!それが周りへの恩返しになる。そしてこれは自分自身の欲だ。アグネスデジタルというウマ娘は強欲である。

 

『真の勇者は戦場を選ばない!勇者アグネスデジタル見参!』

 

 デジタルはレース場にいる両親とトレーナー、テレビで見ている友人たちに見えるように剣を天に高々と掲げた。

 

 デジタルの入場が終わると、次の入場曲が流れる。このレース2番人気であるストリートクライが入場する。入場曲にはアイリッシュロックの曲が流れている。

 花道をゆっくりと歩いていく。その姿は覇気なく瞳には光は無かったが、だが入場曲を聞いた瞬間一瞬光が宿る。

 この曲は故郷の曲、そしてキャサリロがお勧めしており、2人でよく聞いた曲だ。たぶんトレーナーが何処からそのことを知り、入場曲にしたのだろう。

 確かにレース前ではこの曲を聴き、気分を高揚させていた。

 だがそれはもう過去の話だ。今では聞いていないし、気分も高揚することはない。ストリートクライの瞳に宿った光は一瞬で輝きを失った。

 

―――――I scream! I scream!

 

 曲はサビに入り、歌手が叫ぶように歌う。だが今の自分には叫ぶような意志も気力もない

 

―――――I scream! I scream!

 

 心はまるで波立たず凪のようだ。これはとてもレースに向かう心理状態ではない。

 また2着か3着だろう、表面上は1着を取ると息巻いているが、無意識が冷静に自分自身を値踏みする。

 コース上に整列し観客席を見つめる。皆注目していると思っていたが、実は違っていたようだ。

 自分に対する視線がなく熱気も薄い、皆が注目しているのはく次に入場してくるサキーのようだ。

 一方は皆に愛されている太陽のエース。一方は影の薄い善戦ウマ娘、当然といえば当然か。

 だがふと熱い視線を感じ発生元を探索する。その発生元を見つけた瞬間、凪だったストリートクライの心が大きく波打ち、目に光が宿る。

 

―――――I scream! I scream!

 

 ストリートクライは出走ウマ娘が並ぶ列から離れ走り出す。

 ダートコースの外埒を飛び越え、芝コースを横切り、外埒を越えてゴール板付近で立ち見をしている客達のほうに向かっていく。突然の行動にレース場はざわめくが、ストリートクライの耳には全く入っていなかった。

 

「キティ!」

 

 ストリートクライは芝コースと立ち見席の間にあるスペースに立つと、大声で愛称を呼ぶ。

 すると顔を伏せていた1人のウマ娘が顔を上げ視線を合わせる。

 去年の秋ゴドルフィンを除籍になった友人のキャサリロ、音信不通でもう会えることのないと思っていた友人と会えた喜びと、何故この場にいるという困惑押し寄せる。

 

「キティ!……あの時は……その……ごめん。キティのことをもっと言葉で励ませば……良かった……」

 

 ストリートクライは大声で名前を呼んだ後は、シドロモドロで今にもかき消されそうな小さな声で話しかける。

 あの時とはキャサリロがゴドルフィンを去ることになった夜のことである。ストリートクライもキャサリンが去った後に自身の行動を省みて反省し悔いていた。

 キャサリロの立場に立てばわかったはずだ。結果が出ず刻一刻とゴドルフィン除籍までのタイムリミットが迫っている、そんな不安な時には友人の励ましがどれほど言葉になるかを。自分だってそ言葉でどれだけ励まされたのかは身をもって分かっていたはずだ。

 それなのに理解力に甘えて、思いを言葉にしなかった。

 ストリートクライはその答えにたどり着いていたが親友を傷つけ、音信不通となり2度と会えないと思ってしまい、その答えを思い出さないように心の奥底に沈めていた。

 そうしなければ親友を失った悲しみで挫けてしまうから。だからこそ今の今まで思い出さないようにしていた。だがキャサリロを見つけ、溜め込んでいた思いをすべて口にする。

 

 キャサリロはストリートクライの言葉を聞くと、唇を噛み締め懺悔するように呟く。

 

「私のほうこそごめん。クライは悪くないのに八つ当たりみたいに悪口言って。クライはそんな奴じゃないなんて分かっているのに、唯私の夢が終わったことが……悲しくて悔しくて認められなくて……」

 

 

―――――I scream! I scream!

 

「終わりじゃない!」

 

 入場曲は再びサビに入り、ストリートクライは歌詞にシンクロするように声を張り上げキャサリロの独白を遮り否定する。

 その声量は凄まじく、キャサリロを始め周囲にいた観客達は反射的に耳をふさぐ。ストリートクライはそれに構わず、大きく息を吸い込み再び叫ぶ。

 

―――――I scream! I scream!

 

「キティの夢は私の夢!私がキティの夢の続きだ!このレースで私がサキーさんに勝って、世界最強になる!2人で勝って成りあがろう!一緒にトロフィーを掲げよう!」

 

 ストリートクライは今まで走っていた理由を振り返る、それは贖罪だった。

 2人で成りあがろうと誓ったが、キャサリロはゴドルフィンを去り自身の無配慮さで親友を傷つけた。

 親友を傷つけた罪滅ぼしのため、親友の分も成り上がろうと思ったからこそ。ポーズといえどグレーな走りをしてでも勝とうと思ったのだ。

 そして以前抱いていた前向き理由を思い出した。それは2人でゴドルフィンのなかで成り上がるという夢だ。

 

 アメリカに来た際に2人で成り上がると誓った。だがキャサリロはゴドルフィンを去り、ストリートクライはゴドルフィンに残った。

 これで抱いた夢は叶わなくなり、そのせいでモチベーションを落とした。だが思いの丈を叫んだ瞬間に気づく。

 自分の勝ちがキャサリロの勝ちだ。自分の名誉はキャサリロの名誉だ。まだ何一つ終わっていない、このレースに勝ってキャサリロを自分のスタッフとして雇う。そしてビッグレースに勝ち続け、2人で成り上がる。

 

「やっと名前どおり叫んだな」

 

 キャサリロは大声の告白に戸惑ったが、直後に破顔する。無口な奴ほど熱い思いを溜め込んでいる。それは関係が険悪になる前の両親に教わった言葉だ。

 ストリートクライは無口だが熱い想いを溜め込んでいたのは、幼い頃の付き合いで知っていたが別れるまでその想いを解き放つところを見たことはなかった。

 だが今溜め込んでいたものを解き放った。それが無性に嬉しくもあり、解き放ったストリートクライがどうなるかという期待感があった。

 

「それだけの大口叩いたんだから、世界一になってこい」

「うん」

 

 2人はアメリカに来たときのように拳をつき合わせ誓い合う。ストリートクライの心に火が灯る。惰性と贖罪という走る理由が夢の成就に変わる、

 この瞬間欠けていた心が完成し、心技体が完全に備わる。それは未完の大器が完成したことを意味する。

 ストリートクライは列に戻ると、後ろを振り向き花道に目線を向ける。倒すべき相手の姿を目に焼き付け闘志を燃やすために。

 

 入場曲が流れるともに、レース場の観客は歓声を上げる。

 この曲はサキーの持ち歌をアレンジした曲である、サキーが姿を現すと歓声はさらに上がる。

 勝負服の上にオレンジ色の派手なガウンに太陽のシンボルマーク。これは凱旋門賞やブリーダーズカップクラシックなどのビッグレースの時に着用するガウンである。スポットライトの光がサキーに一斉に向けられる。

 

―――サキー!サキー!サキー!サキー!

 

「凄い声援です!」

「ここ野外だぞ、どんだけデカイ声援なんだよ」

 

 スペシャルウィークとスピカのトレーナー、そしてデジタル夫妻とデジタルのトレーナーはその大声援の前に思わず耳をふさぐ。

 会話もこの大声援が響く状況では近くにいても大声で喋らなければ聞こえないほどだった。スペシャルウィークは学校での理科の授業を思い出していた。

 

―――音とは空気の振動である。

 

 話を聞いた時はいまいち理解できていなかった。だが今なら分かる。

 声援という音が自身の肌を刺激し震わせる。それどころか振動が体中の臓器を中から震わせているようだった。これは音ではなく、まるで人に直接触れて体を揺すられているようだ。

 少年が、少女が、若者が、老人が、富裕階級が、中流階級が、年齢も性別も貧富も関係なく観客たちは一斉にサキーに向けて声援を送る。

 今日会場に集まった観客は数十万人に及び、その1人1人が声を振り絞る。

 それが集まれば大きな衝撃となり、会場にある客席がカタカタと音を立てる。文字通り会場を震わせていた。

 

 ゴドルフィンは今日のドバイミーティングでは誰ひとり勝てていない。これは開催以来初のことだった。地元の観客たちの心は沈み、暗黒時代の到来を予感させる。

 

 だがまだサキーがいる。

 

 ゴドルフィンの絶対的エース、国内においてのウマ娘レースの人気は過去最大である。

 あの神のウマ娘のラムタラが居た時よりも、世界王者のファンタスティックライトが居た時よりも、ゴドルフィンの最高傑作と言われたドバイミレニアムの時よりも、今のほうが人気は高い。それはサキーが居るからだ。

 ファンたちは知っている。彼女は将来を嘱望されていた。だが栄光を勝ち取れず大怪我を負ってしまった。

 それでも彼女は諦めず這い上がった挫折と苦労を知っている。その果てに掴み取った栄光と喜びを知っている。

 彼女がウマ娘レースの人気を上げるために、どれだけ活動してきたか。プライベートの時間もなく国内外を飛び回り、イベントに参加しファンたちと交流し、ウマ娘レースを普及してきたかを知っている。

 暗雲がたちこめるなか、サキーという光り輝く太陽がドバイワールドカップに勝利し、暗雲をなぎ払う。

 3流脚本家が書くようなあまりにも安い筋書きだ。だが会場に来たUAEのファンは誰もがそれを望んでいる。誰もがサキーと一緒に勝利の喜びを分かち合いたかった。

 

「これじゃあ、デジタルが可哀想……」

 

 デジタルの母親が顔を覆い、父親が肩に手を回し優しく抱き寄せる。

 いくらサキーの地元だとしても、これほどの大声援がおこるとは思っていなかった。まるで世界中が敵に回ったような感覚だ。もし自分がデジタルの立場だったら萎縮してしまうだろう。

 

「これはデジタルちゃんにとってツライですね」

「ああ、サキー以外のウマ娘には影響が出るだろう」

 

 スペシャルウィークはデジタルの心中を察する。いつも日本というホームで走り、多くのファンが自身に声援を送ってくれた。それは勇気になり力になった。

 だがアウェイでは違う。歓声はまばらで、それは寂しく少なからずメンタルに影響を与えることを今日のレースで痛感した。そしてデジタルが置かれている状況は自分の比ではない。

 

「そしてサキーさんはこれほどの歓声を受けても、まるで動じていません」

「ああ、心臓に何本毛が生えているんだろうな。メンタルお化けか」

 

 観客の声援は力になり薬になるが大きすぎれば毒にもなる。

 周りを見ればわかる、声援の熱量が日本のファンとはまるで違う。

 これほどまでの声援と期待、負けてその期待を裏切ってしまったら、考えただけで身の毛がよだつ。

 とてもじゃないが自分には受け止めきれない。だがサキーは平然と受け止め力に変えるだろう。まさに物の怪の類だ

 

「デジタルは大丈夫ですかね、白さん」

「多分大丈夫だろう」

「この声援ですよ!?影響でますよ」

「デジタルは待ち焦がれたサキーと一緒に走れるという期待で胸がいっぱいや、サキーへの声援なんて耳に入ってない。仮に入っていたとしても『サキーちゃん人気凄いな。それはあれだけ素敵なウマ娘だから当然だよね』とか他人事みたいに思っているやろ」

 

 平然と言い放つデジタルのトレーナーにスピカのトレーナーは乾いた笑いを出す。

 

「ハハハ、凄いな。スペも見習ったほうがいいな」

「いや見習わんほうがええ。あれは熱中しすぎて視野が狭くなっているだけや」

 

 視野が狭くなっているだけで、これほどの声援を気にせずいられるものなのか?

 世界一のウマ娘がメンタルお化けなら、その座を狙おうとするウマ娘もメンタルお化けか。

 だが自分もサイレンススズカやライバル達に勝って日本一のウマ娘になるためには、メンタルお化けにならなければならない。

 そのためのヒントがこのレースにあるはずだ。スペシャルウィークはデジタルの一挙手一投足を見つめる。

 

『間もなく発走いたします、今暫しお待ちください』

 

 全ウマ娘の本バ場入場が終わり、ゲートを運ぶ車がダートコースにスタート地点を設営する。

 その間ウマ娘たちは体をほぐしながら、スタートに向けて集中力を高め、係員の誘導に従いゲートに入っていく。各ウマ娘は順調にゲートに入り、デジタルもすんなりとゲートに入っていく。

 待ち焦がれて、待ち焦がれて、ついにサキーと一緒に走れる!

 その情念を溜め込み、レースで爆発させる。その情念が溢れないように、必死にサキーから目を逸らしていた。

 

『さあ、各ウマ娘がゲートに入りました。世界最強の称号はどのウマ娘の手に渡るのか、ドバイワールドカップ。今、スタートしました』

 

 




本来のドバイワールドカップでは花火は上がるらしいですが、入場はこんな感じじゃありません。完全に筆者の趣味です!

デジタルの服装ですがドラクエ3の勇者の格好です。そして入場曲は序曲という曲です。
検索してもらえば、一度は聞いたことがある曲だと思います。

次でドバイ編最終回!
お気に入りのBGMを聞きながら、テンション爆上げにしながら書きます!


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勇者と太陽と未完の大器#8

ドバイワールドカップ編最終話です!


『さあ、スタートしました。ポンと飛び出しハナを切ったのがサキー、それに続くのがストリートクライ、後にサウジアラビアのセイミ、1バ身離れてアグネスデジタルはここにいます。さらに1バ身離れてクリムゾンクエスト、フランスのケルトス、ベストオブベスツ。ロイヤルライスト。最後尾はステートシントです』

 

 サキーとストリートクライは好スタートを切るが、僅かにサキーのほうが速く先頭でレースを引っ張っていく。

 

『サキーの後ろをストリートクライがピッタリとくっついて行きます。後続を3バ身、4バ身、5バ身と引き離していきます。』

 

 隊形は縦長になっていく、この展開は後続のペースが遅いのではなく、二人のペースが速いからおこっている。

 明らかにハイペースであり、これについていけば潰れてしまうと他のウマ娘は判断し、ヒートアップして共倒れになったところを差し切る展開を期待していた。

 

 サキーは先頭でよどみの無いペースを刻みながら、後ろにいるストリートクライに意識を向ける。このレースで最も面倒な展開は、ストリートクライが自分の前にいる展開だった。

 歩幅を調整し、土のキックバックを相手の顔に当てる。後ろにいるウマ娘との間隔を詰めて僅かに減速し、そのウマ娘は接触を恐れ反射的に減速する。

 自分の意思ではない、急な減速は体力を消耗してしまう、また仕掛けどころでされると、致命的な遅れになる。

 ストリートクライはそういった後ろにいる相手の力を削ぐ技術が抜群に長けていた。ラフな走りだが、それについて一切非難するつもりはない。

 後ろの相手を急減速される技も、相手の技量を正確に計り、接触による転倒がないように調整するなど一線は超えていない。

 反則ギリギリの灰色な走り。だが反則でなければ問題にすることはできない。相手の力を削ぐこともレースに勝つために必要な力だ。

 

 ストリートクライの前に出ることに成功したが、ストリートクライも前に出ようとスピードを上げ、サキーも前に出られないように同じくスピードを上げる。結果、ペースはハイペースになっていく。この展開は最良の展開ではないが、想定し対処できる展開であった。

 

 ストリートクライはサキーの一挙手一投足を観察する。

 サキーの前に出て力を削ぐという作戦は失敗に終わった。だが後ろから煽り、ペースを上げさせ、後続から切り離すという善後策は成功した。

 周囲にウマ娘がいればいるほど紛れが生じる。それは自分の益にもなり害にもなる。邪魔される展開は避けたい。このマッチレースのような展開でも決して力負けしない自信はある。

 

『さあ、3コーナーを回って、依然ゴドルフィン2人が飛ばします。後続との差は10バ身。後ろはまだ動きません』

 

 依然サキーが先頭でストリートクライがぴったり後ろに付いていく。代わり映えのしない展開のようだが、2人の駆け引きの応酬が繰り広げられていた。

 

 後ろにつく者の欠点は相手が前にいることによる、距離のディスアドバンテージ。利点は前にいる者にプレッシャーを与えられること、そして風よけにできることである。

 スピードを上がれば上がるほど、風の抵抗が増し体力を削いでいく。それは勝負を左右する重大な要素だ。それ故にストリートクライはサキーを風よけにしようとする。

 無論サキーもその狙いは知っている。僅かに位置を変えながら風よけの恩恵を与えない。

 サキーは距離のアドバンテージをもらい、ストリートクライは後ろからプレッシャーを与えた。2人の道中での駆け引きは5分5分である。

 

『さあ、後続が徐々にスピードを上げ、縦長だった展開が詰まってきました』

 

 ハイペースで飛ばしていたサキーとストリートクライだが、道中の駆け引きや、一息入れたいという思惑でペースを落としていたが、世界最強を決めるレースに集まった猛者達がそれを見過ごさない。

 後続一団はペースを上げ、前を行く二人に息を入れる間を与えずプレッシャーをかける。3番手と二人との差は2バ身まで詰まっていた。

 

『今4コーナーを回り直線を向いた!残り400メートル!世界最強の称号を得るために、精鋭10人がすべてをかける!先頭はサキーとストリートクライ!』

 

 ストリートクライはサキーの後ろから外にポジションを変えて並びかける。

 ギリギリまで後ろでプレッシャーをかけようと考えたがここが限界だ。末脚のキレは相手が上だ。仕掛けを遅らされたらキレで負ける。こちらから仕掛けなければ勝機はない。

 

『後続との差を3バ身、4バ身!5バ身!後続との差をジワジワと広げていく!』

 

 前にいる2人は息を僅かに入れたが道中はずっとハイペースで走っていた。

 その間脚を溜めていた自分たちが有利なはずだ、何故差が広がっている!?2人の驚異的な走りに後続のウマ娘の心は折れていた。

 

『ゴドルフィン2人の一騎打ちで決着か!?』

 

―――強い

 

 レース場のスペシャルウィーク、スピカのトレーナー、デジタルのトレーナー、トレセン学園の講堂で見ているオペラオー、ドトウ、プレストン、チームスピカのメンバー、キングヘイローとチームリギルのメンバーとトレーナーの頭に過る。

 

 道中での駆け引き、ハイペースで先頭を走りながらも、直線で後続を突き放す持久力とスピード。まさに世界最強を決めるに相応しいレースだ。流石のアグネスデジタルも太刀打ちできないか?

 デジタルを応援しているすべての者に敗北の2文字が過る。だがデジタルのトレーナーとスペシャルウィークは肉眼で、講堂にいるオペラオーとドトウとプレストンは画面に映る少しぼやけたデジタルの表情を見て、希望が宿る。

 

―――アグネスデジタルはまだ終わらない

 

『内ラチ沿いから2人との差を猛然と詰めるウマ娘は?…アグネスデジタルだ!アグネスデジタルがゴドルフィンの2人に並んだ!』

 

 デジタルは道中、他のウマ娘を風よけにしながら、4番手につけ集団の流れに身を任せて進んでいく。

 前にいる風よけのウマ娘の背中で、デジタルの視界にはサキーは映らない。見てしまったら、溜め込んでいた想いが解き放れてしまう。心の波は凪ぎの様に落ち着いていた。

 

 3コーナーを回った頃には集団のスピードが上がっていき、同じようにスピードを上げ、4コーナーを回るころで動く。

 風よけに使っていたウマ娘の後ろから移動し、内ラチ沿いのポジションを位置とる。直線を向かえるとそこにはゴールまでの道が開けていた。

 

(流石白ちゃん、予想ばっちり)

 

 デジタルはトレーナーからある指示を受けていた。

 

―――このレースはサキーとストリートクライがハナを主張し、ハイペースになるかもしれん。そうなったら、直線を迎えるとき何としても内のポジションを取れ。直線で内がパッカンと空いているぞ

 

 トレーナーはストリートクライが走るレースで、後ろにつけていた人気のウマ娘の着順が悪いことに気づく。

 最初は偶然かと思ったがレース映像をコマ送りで見ると、後ろにいるウマ娘に土が当たるのが確認できた。他にも所々で妙に減速し、他のウマ娘が走りにくそうにもしているレースがいくつもあった。

 これは偶然ではなく意図的にやっている。ドバイワールドカップでもこの技術を駆使し、相手の力を削ぐだろう。

 その相手は本命のサキーだ。そして相手も知っている可能性は高く、防ぐ方法はストリートクライより前に位置をとることだ。

 

 ストリートクライは前に行きたい。サキーも前に行きたい。そうなればハイペースになり、そのまま4コーナーを迎えれば、スピードによる遠心力で外に膨れながら直線を走るだろう。そうなれば内が空く。

 こうなればデジタルが距離ロスなく走れて有利の展開になる。

 だが可能性の一つであり、そうなるとは限らない。トレーナーはこの展開に備えておくという意味で、展開予想と指示を与えた。

 

 偶然にもトレーナーが望む展開になっていた。

 

 デジタルと先頭との差は5バ身。偶然にもトレーナーが予想するサキーとの着差だった。

 その差を埋めるために努力してきた、トレーニングを積んできた。培ったすべてをここで残らず出す!

 内が空いているのを確認した瞬間、脳をフル稼働させ、イメージを構築する。イメージするのは自分を苦しめた東北の皇帝ヒガシノコウテイ、南関の求道者セイシンイブキ。

 

(((ダートは芝の2軍じゃねえ!ダートが一番すげえんだ!ダートの価値はあたしが上げる!アグネスデジタル!芝ウマ娘のお前には負けない!)))

(((トウケイニセイさんが!オペラお姉ちゃんが地方に光を与えてくれた!今度は私が光を与える!地方のために勝ちます!)))

 

 デジタルに息苦しさと寒気が襲う。このプレッシャーはフェブラリーステークスで感じたものだ。

 あの時は2人が発するプレッシャーの正体が何か分からず、恐怖した。だが2人と走り言葉を交わしたこと今なら分かる。

 ダートと地方、愛したものを守るため、その価値を上げるために、死に物狂いで自分に挑んだ。その気迫がプレッシャーの正体だ。

 今度はそのプレッシャーを受け止め、逃げる力という推進力に変える!

 

 デジタルはダートと地方の鬼から全力で逃げる。そのスピードは、恐怖し体を竦ませていたフェブラリーステークスの時より明らかに速かった。

 

(((ダートの頂点を取れ、そして、あたしともう一度走るぞ。そのほうがダートの価値を上げるのに手っ取り早い)))

(((勝ってください。そして、南部杯で一緒に走って、地方を盛り上げましょう)))

 

 2人のイメージが背中を押す。今まで感じていた寒気や息苦しさはなく、暖かい温もりがデジタルを包み活力を与える。そしてイメージは消えていく。

 

(うん、勝って3人で南部杯を走ろう)

 

―――ゴールまで残り400メートル、先頭との差3バ身

 

 デジタルは次のイメージを瞬時に構築する。次に浮かべるのは親友でもあるエイシンプレストン、右隣には併走するプレストンの姿が現れる。

 無駄の無い美しいフォーム、風でなびく艶のある漆黒の髪、風を切り裂くような末脚のキレ味。そこには香港マイルで他のウマ娘を子供扱いにした、デジタルが考える最高のプレストンがいた。

 

(((頑張りなさいデジタル。でないと置いていくわよ)))

 

 最高のプレストンを少しでも感じたい。デジタルは懸命に足を動かす。

 

 アメリカからトレセン学園に入学し、同室になったのがプレストンだった。

 プレストンとは多くの時を過ごした。他愛のない話で笑い合い、悩み事にも相談に乗ってもらい。時には喧嘩したりした。レースでも何度も一緒に走り、同じレースで1番多く走ったの。

 レースでも日常でも多くの苦楽を共にしてきた掛け替えのない親友だ。そしてライバルだとも思っている。イメージでも負けたくない!そのライバル心がデジタルを加速させる。

 

(((サキーまであと少し、思う存分楽しんできて!)))

 

 デジタルがイメージのプレストンの前に出ると、プレストンが背中を優しく押し、イメージは消えていく。

 

(帰ったら思う存分にサキーちゃんとの思い出を聞かせてあげる)

 

―――ゴールまで残り300メートル、先頭との差2バ身。

 

 デジタルはすぐに次のイメージを構築する。次に浮かべるのは友人のメイショウドトウ、隣にドトウの姿が現れ、その大きい体に相応しい力強い走りでコースをかけていく。

 

 ドトウは引っ込み思案で控えめな性格だ。でも皆を気にかけて気遣ってくれる。トリップ走法の体に与える負担に気づき、使用することについてトレーナーと口論したと聞いたときは驚いた。それでも昨日は願いを尊重し激励の言葉をかけてくれた、

 トレセン学園にいるウマ娘は自分の体より勝利を求めがちだ。それでも友人を想い、友人の幸福のために無茶を止めようとしてくれた。そんな優しいドトウが大好きだ。

 そして優しさだけではなく、強さも備わっている。

 ライバルのオペラオーに挑み何度も何度も叩き潰された。それでも挫けず一矢報いた。自分がプレストンに連戦連敗していたら、心が挫けていただろう。

 その不屈の精神には心から尊敬し、その姿に憧れていた。そんなドトウと友人になれて本当によかった。

 

((デジタルさん……、頑張ってください)))

 

 ドトウの声は不安になりながらも、それを押し込み励まそうとする健気さがあった。不屈の走りとその優しさが疲れを癒し、活力を与える。

 

 

(((無事に帰ってきてください。そして盛大な祝勝会をあげましょう)))

 

 イメージのドトウは後退し背中を優しく押し、その姿が消えていく。

 

(ドトウちゃん、勝って無事に帰るからね)

 

――――ゴールまで残り200メートル、先頭との差1バ身。

 

 デジタルはすぐに次のイメージを構築する。次に浮かべるのは友人のテイエムオペラオー、隣にオペラオーの姿が現れ、どのウマ娘も真っ向勝負でねじ伏せてきた王者の走りが再現される。

 

(((さあ、ボクの姿をもっと見たいだろう!ならばついて来るんだ)))

 

 競技生活でいくつかのターニングポイントをあげるとしたら、メイショウドトウ、そしてテイエムオペラオーという誇り高き王者と走り、勝利したことだろう。

 この勝利が自信になった。何より好きなウマ娘と一緒に走ることがこんなにも楽しいということを教えてくれた。

 

 オペラオーを一言で言うなら王道だろう。

 

 どんな困難にも立ち向かい王道路線を歩み続け、王者として挑戦者達を迎え撃つ。その姿は憧れであり、変化球の自分とは正反対のその姿にときめいていた。

 オペラオーから多くのことを学んだ。敗者としての振舞い方、日本ウマ娘界の主役としての覚悟と責任、主役としての振る舞い。

 ウマ娘だけではなくファンに対しても気を使うように助言され、以前はウマ娘のことだけを考えていたが、少しだけ視野が広くなったような気がした。そのせいか周りの期待というものを少しだけ力に代える事を覚えた。

 いつもまででもその誇り高い姿を目に焼き付けたい。

デジタルはイメージのオペラオーを近くで見ようと力を振り絞り、脚を動かす。だがオペラオーが減速すると背中に回り視界から消える。

 

(((デジタル、ボクが果たせなかった世界一になってくれ)))

 

(うん、必ず世界を取ってくるよ!)

 

 オペラオーの手が力強く背中を押し、後押しする。

 

―――ゴールまで残り150メートル、先頭との差0バ身。

 

「追いついた!サキーちゃんのすべてを感じさせて!」

 

 好きなウマ娘をイメージし、そのウマ娘を感じられると錯覚させることで、ドーパミンやエンドルフィンと呼ばれる脳内麻薬を分泌させ、多幸感を味わい疲労感を除去する。

 そしてイメージしたウマ娘を自分が追いかけられるギリギリのスピードに設定し、ウマ娘を近くで感じるために離されまいと、勝負根性と火事場のバ鹿力を発揮させる。それがトリップ走法である。

 デジタルの鼻からは血が流れていた。これはトリップ走法の際に脳を酷使したことによるものであり、初めて使った天皇賞秋でも同じように鼻血を出していた。

 その時に再現したのは2人だが今回5人分のイメージ、さらにフェブラリーステークスに感じた悪寒まで再現していている。その脳と体に対する負担は天皇賞秋より、さらに増していた。

 だがデジタルはそれに気にすることなく走り続け、このレースで初めてサキーに意識を向ける。

 トレーナーの期待、友人の期待、業界の期待、日本中の期待。それらをすべて力に代えサキーに追いついた。そして期待という燃料はすべて使い切った。

 

 だから燃料タンクという重りは一旦捨てる。ここからはサキーという最高のウマ娘と一緒に交流し感じるという、温存していた自分の欲の為というエネルギーで走る!

 デジタルは右隣に並んだサキーに全神経を集中させる。その神経はかつてないほど研ぎ澄まされていた。

 横で併走するサキーの姿は通常であれば見られない。だが研ぎ澄まされた神経は周辺視野を広げ、その姿を捕捉する。

 躍動する体、滴り飛び散る汗、脹脛、腿、腹筋、背筋、すべての筋肉の動きが感じ取れ、毛穴の一つ一つまで認識できそうだ。

 網膜から送られる映像を脳に刻み込む。視覚情報だけではない。聴覚、嗅覚、触覚、味覚すべてを駆使し、サキーを感じ取る。

 鍛えぬき締まりながら女性的な美しさを損なわない肉体、一切の無駄なく、すべての力を推進力に変える見事な走行フォーム。弾む息遣いから聞こえる声も力強く聞いているだけで活力が貰える。臭いも香水のような香りではなく、学園の近くで咲いている杏の花の臭いのように心地よい。

 

 すごい!イメージの何倍!何10倍も素敵だ!やはり実物はいい!

 

 デジタルの体中に多幸感が駆け巡り、脳内麻薬がさらに分泌される。

 もっと!もっとサキーちゃんを感じたい!時間よ止まれ!

 その願いに呼応するようにデジタルの感覚は鈍化し、スローモーションになっていく。

 

(デジタルさん、期待通り来てくれましたね)

 

 サキーは視線を前方に向け力を振り絞りながら、デジタルに一瞬意識を向ける。

 

 ウマ娘ファンを熱狂させ、それ以外の人を振り向かせるようなレースとは何か?

 一番人気による圧勝劇か、人気薄による番狂わせか、そうではない。人々を熱狂させるレースは、上位人気の実力が拮抗したウマ娘達がすべての力を振り絞るレースだ。

 ウマ娘のなかでは、相手の力を十全に発揮させないで、余力を抑えて勝つのが強者のレースだと言う者がいる。

 その考えには一理ある。レースは1戦だけではない、その後もレースは続くので出来るだけ余力を残しておくにこしたことはない。だがそれは主義に反する。

 

 相手の光を消すようなレースでは、例え手に汗握る接戦でも人々の心には届かない。

 全員が光り輝く接戦こそ人々の心に届く。それ故にサキーは相手が発揮できないような走りはせずに、すべての力を出せるように心掛ける。

 その思いが通じたのか、ストリートクライは殻を破り潜在能力のすべてを発揮し、デジタルは想像以上の走りを見せる。

 これはきっと名勝負になり、人々の心に刻まれる。そんな確信を抱いていた。

 

『残り150メートル!日本の勇者!太陽のエース!未完の大器が力を振り絞る!』

 

「アアァァァ!」

 

 もう道を迷わない。もう道を見失わない。この勝利はキティの勝利、自分の夢はキティの夢。これからはキティと2人で夢を叶える。誰も邪魔させない!

 ストリートクライは力と思いを開放するように叫び、併走する2人に自分の意思を示すように咆哮をあげながらゴールを目指す。

 3人横一線で並びながら、残り100メートルを切ろうというところで変化が生じる。

 

『あ~っと、アグネスデジタルとストリートクライが抜け出した!サキー苦しいか!?サキー苦しいか!?芝の世界王者が沈んでいく!』

 

 サキーが2人から徐々に引き離され、その差が1バ身となり、レース場から悲鳴のような声が漏れる。

 ストリートクライもサキーが後ろに下がっていく様子を視界の端で捉える。

 ゴドルフィンのエースに勝った?これでこのレースに勝てる?一瞬少しの戸惑いと大きな喜びが心に満ちる。だがすぐさまかき消し、レースに集中する。

 サキーが下がるとともに視界の端に1人のウマ娘が現れた。誰だか知らないが夢を邪魔する奴がまだいる。ならば蹴散らすまで!咆哮をあげながらゴールを目指す。

 一方デジタルの視界には依然サキーが隣を併走していた。

 これは現実のサキーではなく、イメージのサキーである。真横で感じたいという情念がデジタルを突き動かしていた。

 だが今サキーが後ろに下がっていることに気づけば情念は薄まり、スピードが落ちると脳は判断する。

 その瞬間無意識に脳はサキーのイメージを構築し、後退したことに全く気付いていない。

 

『アグネスデジタルが!アグネスデジタルが1バ身ほど抜け出した!』

 

───

 

 私は負けるのか?

 

 ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、ブリーダーズカップクラシック。この世界4大レースに勝ち、ウマ娘レースのアイコンになり、その後も勝ち続け伝説となる。

 それは夢であり、使命だ。ここで負けるとなれば、その夢と使命を前に行く2人に託すことになる。

 

 ダメだ!2人に任せてはならない!

 

 これは2人にウマ娘レースのアイコンになる能力がある有無の問題ではない。

 任せられないではない、この辛い役目を他のウマ娘に任せてはならないからだ。

 周囲に出来る限り嫌われないように、出来る限り好かれるように常に計算しながら振る舞い。自分の時間をすべて犠牲にして、業界の発展のために尽力する。それが業界のトップになった者の責務だ。

 サキーもそのように常に振舞っていたがその日々は決して楽なものではなかった。その立ち振る舞いと陽性から周囲に好かれ、それが太陽のエースと呼ばれる所以でもある。

 だがその陽性は生粋のものではない。常に立ち振る舞いを計算し演出してきたものである。偽りの人工太陽、それが自分自身の評価である。

 

 太陽を演じる生活は神経をすり減らし疲弊させていく。何故こんなことをしているのだろう。すべてを投げ出して自由に生きたいと思うこともある。

 だが、役目を放り出したら誰が引き継ぐ?誰にこの辛い思いを味わせる?

 責務を放り出せば、ウマ娘業界の発展は遅れる。その分だけ辛い思いをするウマ娘や関係者が増えていく。

 これは能力を持った者の責務だ。何よりウマ娘が、トレーナーが、関係者が、ファン達が、ウマ娘レースに携わるすべてが好きだ。いや愛している。自分の犠牲で多くの携わる者が幸福になるなら、喜んで礎になろう。

 

 ここで負ければ年間無敗のグランドスラム達成が1年遅れる。その1年でどれほどのウマ娘業界に携わる者に、与えられるべき幸福を与えられなくなる。

 負けてはならない!業界の未来の為に、これ以上足踏みしている暇はない。自覚しろ!もう後はない!常に背水の陣なのだ!

 

 責任感、愛情。

 

 それらが尽きかけていた、いや眠っていたサキーの底力を呼び起こす。

 

『なんと…サキーが!サキーが差し返しに行く!』

 

 残り50メートルでサキーが息を吹き返し、ストリートクライを抜く。

 ゴール前でその加速は何だ!?何故生き返ってくる!?キティの夢を、自分の夢を邪魔するな!

 ストリートクライは夢のために懸命に力を振り絞る。だが無情にもゴドルフィンの太陽は未完の大器を置き去りにしていく。

 

 残り30メートル、デジタルに日本ウマ娘界の悲願の達成、友人や両親達の願いなどの思いはすべて頭の片隅にも残っていない。今は只サキーというウマ娘を感じ堪能する。その1点だけだった。

 

 残り20メートル、サキーの姿に変化が生じる。美しい走行フォームは乱れ、只がむしゃらに走る幼少期のウマ娘のフォームに変わる。

 そして表情もどこか余裕が有った表情が、目が血走り、体裁も外聞もかなぐり捨てた鬼のような形相になっていた。そのサキーは横並びから抜け出し、デジタルの前に出る。

 

 待ってサキーちゃん。後ろ姿も魅力的だけど今は見たくないの、サキーちゃんの前が見たいの。だから待って。

 デジタルは心の声で呼び止めるが、サキーはその声に応じず、スローモーションの世界でゆっくりと離れていき、後ろ姿を見続けていた。

 

『そしてアグネスデジタルも交わした!!芝の世界王者はダートでも強かった!!死闘を制したのはサキー!ドバイの夜に太陽が燦然と輝いた!』

 

 レース場で見ているトレーナー達、日本で見ていたウマ娘たちは放心状態になっていた。

 残り100メートルでサキーとアグネスデジタルの差は2バ身、これでサキーが後方から猛然と追い込んでいたなら差し切れるかもしれない。

 サキーはハイペースで逃げ、直線半ばで失速した。普通ならズルズルと後退するか、踏みとどまれるぐらいだろう。

 だが再加速しデジタルを交わし、恐らく半バ身差で差し切った。その加速はまるで後方一気で来たウマ娘のようだった。

 

「バケモンが!」

 

 デジタルのトレーナーは手すりに手を力いっぱい叩きつけ、恨めしく吐き捨てる。

 その様子にデジタルの両親たちはビクリと体を震わすが、その様子に気づくことなく、感情のおももむくまま構わず言葉を吐く。

 

「デジタルはサキーとの5バ身の差を埋めるどころか、6バ身差を埋めた……普通なら勝てたんや。だがサキーはそれを軽々と超えていった……」

 

 トレーナーの見立てではサキーに前哨戦やトレーニングの様子を見ている限り、去年のブリーダーズカップから特別な上積みはなかった。

 今日のデジタルの走りなら勝っていた。だが現実はサキーが勝ちだ。

 残り100メートルでの再加速。長年レースを見てきたが、あんな再加速を見たのは初めてだ。

 まるでデジタルの力が、サキーが見せたことない秘めた力を呼び起こしてしまったようだ。

 

 サキーはダートコースを横切り、立ち見のスペースに向かい、ファンからもらったタオルで汗を拭き、幼子を抱き抱え、写真をとり勝利の喜びを分かち合っている。これは勝利した後におこなういつもの行動だった。

 その様子はターフビジョンに映し出され、その多幸感あふれる映像に観客たちは酔いしれ、サキーの名を大合唱していた。

 あんなレースをしておきながら、このファンサービスをできるのか。その様子に驚嘆しながら、デジタルに視線を向ける。

 恐らくトリップ走法を使い限界まで力を出したはずだ。デジタルの姿を補足すると同時にデジタルの母親が悲痛な声を上げる。フラフラと地下バ道に降りていく姿はどう見ても普通ではなかった。

 

「デジタルのところに行きましょう。奥さん、旦那さん付いてきてください」

 

 トレーナーはデジタル父母を連れて、地下バ道直通のエレベーターに走るように乗り込み、スペシャルウィークとスピカのトレーナーもついていくように、エレベーターに乗り込んだ。

 5人はエレベーターを降りて、急いで地下バ道に向かう。そこには足取りおぼつかなくフラフラと歩くデジタルの姿がいた。

 

「デジタル!」

「あ……ママ?」

「大丈夫!?怪我はない!?」

「……大丈夫だと……思う」

 

 母親が真っ先に駆けつけ、スペシャルウィーク達も直様駆けつける。

 母親はデジタルを優しく抱き抱え安否を問う。デジタルはトリップ走法による極度の興奮が抜けきっていないのか、受け答えがはっきりとしていなかった。

 するとトレーナーがストレッチャーを持った医務の人間を引き連れ、デジタルの元にやってくる。

 医務の人間はストレッチャーに乗せると医務室に運んでいき、トレーナー達も後についていった。

 

「後日検査しないと正確なことは言えませんが、今のところ極度に疲労しただけで、脚部などに異状はありません。とりあえず点滴を処置しておきました。暫くは安静にしてください」

「ありがとうございます」

 

 医師の言葉に一同は安堵する。トレーナーは礼を述べると医師は部屋から退出し、デジタルとトレーナー達だけとなる。

 

「とりあえず無事みたいだから、安心してママ」

「本当に無事で良かった……」

 

 デジタルはベッドから体をゆっくりと起こすと、疲労困憊ながらも精一杯の笑顔を作り母親に向ける。

 注射を刺し弱々しい姿になりながらも、懸命に安心させようとする娘の姿に涙を堪えながら頭を撫でる。

 

「1着になれなかったよ。ごめんねパパ」

「謝ることはない。本当に頑張った。デジタルは世界一だよ」

 

 父親も同じく涙を堪えながら、娘を労うように頭を撫でた。暫く親子の語らいが続き、その間存在感を消していたトレーナーが、気を見計らってデジタルに語りかける。

 

「レースは楽しかったか?」

「うん!楽しかった!」

 

 デジタルはこれ以上ないという満面の笑みを見せ答え、トレーナーは破顔する。

 トレーナーがデジタルに言った自分のために走れ、初志を思い出せという言葉は、レースを通してウマ娘と交流し感じてこいという意味だった。様子を見る限りそれは達成できたのだろう。

 天皇賞秋では内を走るオペラオーとドトウに対し、デジタルは大外を走ることになり、2人と肌を合わせ触れ合うことができなかった。

 結果的にはレースに勝利できたが、デジタルの表情に一瞬影が差したのを今でも覚えている。だが今はそんな影は一切ない。思う存分楽しんだ顔だ。その笑顔が見られただけで、ここまでの苦労が報われる。

 

 デジタルはトレーナー達に語る。イメージでのオペラオー達との会話、世界がスローモーションになったこと。

 遊園地に行った後の幼子のように喜々として喋る姿に、皆は顔を緩ませる。

 デジタルはレースに負けた。世間は敗北者として憐れむかもしれない。

 だがトレーナーとデジタル父母はそうは思わない。レースを楽しんだデジタルはサキーと同じように、それ以上に勝者だ。

 

「いや~サキーちゃん強かったな~皆見ていた?サキーちゃんの勇姿を」

「そんな余裕あるか。デジタルしか見ておらんかったわ」

「ごめんね。私も」

「すまん私もだ」

「え~?ちゃんと見てないとダメじゃん。特にラストの鬼気迫る表情!綺麗なウマ娘ちゃんが表情を歪ませるのもいいよね!そこもまた魅力的で……」

「悔しくないんですか!!」

 

 今までデジタル達のやり取りを見ていたスペシャルウィークが声を張り上げる。

 その声量に医務室にいた全員が振り向く、スピカのトレーナーは語らいを邪魔するな、空気を読めと止めようとするが、それに構わず自分の意見をぶつける。

 

「あとちょっとで……あとちょっとで……世界一だったんですよ!それなのに笑って!悔しくないんですか!」

 

 負けた時に周りの者に心配させまいと空元気を出すことはある、

 自分も皐月賞で負けた時はサイレンススズカに対し空元気を見せ、凱旋門賞に負けたエルコンドルパサーも電話越しで空元気を出していた。だがその奥には泣き叫びたいほどの悔しさを溜め込んでいる。

 エルコンドルパサーも最後には悔しさを吐露し、自身もトレセン学園にある穴に力の限り叫んだ。

 飄々としているセイウンスカイでさえ、負けた悔しさで涙を滲ませる熱い気持ちを持っている。すべてのウマ娘は皆そうだと思っていた。だが目の前にいるデジタルは違う。

 負けた悔しさが何1つ感じられず、それが無性に腹が立った。

 スペシャルウィークは普段なら、例えそう思っていても声を荒げることはない。

 だがこの1週間共に過ごし、レースに向けての努力や、友人たちとの期待や、サキーへの想いを知った。

 

―――あんなに頑張ったデジタルちゃんが負けるなんて間違っている!

 

 スペシャルウィークはデジタルに感情移入していた。今抱いている気持ちが、負けたことに対する悔しさだと自覚しておらず、そのモヤモヤした感情を、負けたのに悔しがらないデジタルにぶつけていた。

 場は剣呑な空気になるが、デジタルはその空気に影響を受けることなく、あっけらかんと自分の意見を述べた。

 

「それはあたしだって負けたら悔しいよ。でもそれはやり残しがあった場合、このレースに向けてトレーニングも万全にいったし、新しいトリップ走法も完成させた。レースでも展開もあたしに向いたし、新トリップ走法も上手くいった。やり残しなんて何1つない。白ちゃんはどうだった?」

 

 トレーナーはデジタルの突然の質問に慌て、数秒ほど考え込んだ後語る。

 

「言い訳と言われるかもしれんが、ドバイワールドカップに向けて万全の調整ができた。マスコミに聞かれたら胸を張って答える」

 

 手前味噌だが調整は完全にできたという自負があり、それほどまでにデジタルの仕上げは会心のものだった。それに悔いが残るような半端な仕事はしていない。

 仕上がりは万全だったが、作戦において勝利を目指すという点で、もっとやりようがあったかもしれない。

 だが勝利を目指し、デジタルの要望に応えるという面において、最適な答えは今日のレースだった。

 

「じゃあ、問題なし」

 

 デジタルはトレーナーの答えを聞き、満足気な表情を浮かべる。トレーナーのことは信頼している。そのトレーナーが言ったならばそれは真実だ。

 自分もやり残しはなかった。トレーナーもやり残しはなかった。ならば問題はない。一方スペシャルウィークは答えを聞くが、納得できない表情を浮かべていた。

 

「そうだ白ちゃん。ウイニングライブは何分後?」

「準備含めて1時間後やろ?」

「じゃあ、白ちゃん……」

「言わんでも分かる。医者を説得するか、疲れを癒す特効薬でも貰ってこいって、言うつもりやろ」

「さすが白ちゃん。わかってる」

「ウイニングライブに出るんですか!?無理です!」

 

 デジタルの言葉にスペシャルウィークは再び声を張り上げる。

 同じウマ娘だから分かる。この疲労度ではとてもウイニングライブに出るのは無理だ。それに出たとしても、この状態では苦痛を伴い只の苦行だ。

 

「そんな状態で出る必要はありません。それで怪我したらどうするんですか!?」

 

 ウイニングライブのダンスの最中に怪我をするというケースはある。それを考慮し、ライブに出るのは義務ではなく権利で、実際体の不調でウイニングライブを欠席したケースはある。

 1着のセンターならともかく、2着3着のウマ娘が無理をする必要はない。ここまで体を痛めて激走したデジタルが出なくても、誰も責めはしない。

 

「スペちゃん。敗者が勝者を讃えるライブに出ることは当然だよ」

 

 デジタルは何時になく真剣な表情でスペシャルウィークに語りかける。

 1着と2着には大きな隔たりがある。1着は歴史に名を残し、2着は一時期的に人々の記憶に残っても、数年経てば大半の人々の記憶から消えてしまう。それほどまでに扱いが違ってくる。

 ウイニングライブでは1着と2着と3着が同時に同じ舞台に立つ。

 曲や振り付け構成は1着になった者を目立たせるもので、2着3着の者は目立たない。

 只でさえ2着で腸煮えくり返っているのに、1着を讃えるライブをしなければならないとライブに参加しないウマ娘もいる。

 だがデジタルが知るオペラオーとドトウなら、デジタルと同じ状態でも誇り高き敗者としてライブに参加するだろう。デジタルも憧れる2人のような敗者になりたかった。

 

「というのは、カッコつけた理由。あたしは只サキーちゃんのライブを自分の目で、リアルタイムで見たいだけ」

 

 真剣みを帯びた表情から一変し、いつもどおりの表情に戻る。

 サキーは世界中のウマ娘と、関係者とファンの幸福という夢のために、4大レースのグランドスラムを命題としてレースに挑んみ勝利した。

 満面の笑みを浮かべているだろうか?それとも課題を達成したことで安堵の表情を浮かべているだろうか?その姿を網膜に焼き付けたい。

 何より夢に向けて勝利したサキーを心から祝福したい。誇り高き敗者でいたいという気持ちもあるが、本心は後者だった。

 そのためなら、代償を払ってでもかまわない。デジタルの父が負ければ一生後悔すると言っていたが、一生の後悔は負けることではなく、ライブに参加できないことである。

 

「そんなことだろうと思ったわ。もしカッコつけた理由のままだったら、ツッコミ入れていたぞ」

「バレてた?カッコつけようと思ったけど、シリアスな空気に耐えられなくなっちゃった」

 

 トレーナーの軽口にデジタルは戯けるように答え、デジタル父母は笑みをこぼし場の空気は和やかなものになる。

 

「ということで、白ちゃんお願いね」

「わかった」

「パパとママはマッサージお願い~」

 

 まだ正常な思考に戻っていないのか、スペシャルウィークやスピカのトレーナーがいるという体裁を無視し、実家のように親に甘え始める。

 その小さな王様の要望に両親は応えるようにマッサージを始める。

 スピカのトレーナーは親に甘える姿を見られるのは恥ずかしいだろうと、気をきかせてスペシャルウィークと一緒に医務室を退出した。

 

「納得できないか?」

「……納得できません」

 

 部屋を出て開口一番トレーナーがスペシャルウィークに問いかける。

 自分にも友人を祝福したいという気持ちがあるので納得できた。

 だが負けて、あそこまで悔しがらない理由は納得できない。例えすべてが上手くいっても、自分なら負けたら何かしら勝ち筋が有ったかもしれないと悔しがる。というよりただ単純に、負けたら悔しさが自然と湧いていくる。

 

「アグネスデジタルは勝利を外に置いているのかもな」

「外に?」

「デジタルは勝利をそこまで重要視していない、勝利より重要なものを目指しているのかもな」

 

 トレーナーの言葉がピースとなり、スペシャルウィークはデジタルの心理を理解する。

 デジタルはウマ娘を感じることを重きに置いている。無論勝ちたいという気持ちはあるが、絶対に勝ちたいというわけではないのだ。

 勝負の世界にいながら、勝負にこだわっていない。だからあの大歓声を浴びても平常心でいられたのかもしれない。

 これがデジタルの強さなのか、だが心理は理解できても納得はできない。

 やはり勝ちたいという気持ちを優先してしまう。デジタルの強さが欲しいが、その強さは得られない。このままでは自分はスズカやライバルを越えられないのか?

 

「別に納得できなくてもいい、アグネスデジタルにはアグネスデジタルの、スペにはスペの主義主張がある。そこに優劣なんてない。そしてスペにはスペの強さがある」

 

 トレーナーはスペシャルウィークの迷いを見透かすようにつぶやく。そうだ自分には自分の主義主張がある。そこから自分だけの強さを見出せばいい。

 スペシャルウィークは力強く頷いた。

 

───

 

 ドバイミーティングでは計7レースが行われ、そのレースすべてのウイニングライブが行われる。となれば時間は押し、最初のライブはドバイワールドカップが発走してから30分後に行われ、慌ただしくスケジュールが進行していく。

 メインイベントであるドバイワールドカップのライブの時間が迫り、1着のサキー、2着のアグネスデジタル、3着のストリートクライの3名が壇上に上がる。

 デジタルは点滴投与と両親とトレーナーのマッサージの甲斐あって、ライブに参加できる程度の体力は回復していた。

 すると割れんばかりの歓声が3人を出迎えた。第1レースからゴドルフィンの連敗で始まり、メインレースで地元ゴドルフィンのエースが勝利する。

 ストレスが溜まる展開を続け、最後に皆が望む展開で終わる。まさに万国共通のエンターテイメントの王道、それが目の前で起こったのなら盛り上がらないわけがない。

 その歓声にデジタルはもちろん、ゴドルフィンのストリートクライやサキーすら驚いていた。

 歌が始まり、会場は熱狂の坩堝と化す。デジタルはサポートに徹しながらもサキーの様子を見る。

 嬉しそうに笑っている。この笑顔は安堵と歓喜が混ざり合ったものだろう。

 サキーといえど、今日のビッグレースで掛かるプレッシャーは大きかったはずだ。その分だけ安堵と歓喜が大きいはずだ。

 それにしても良い笑顔だ。この笑顔を思い出せば、どんな辛いことがあっても元気が出てくる。それほどまでの笑顔だった。

 曲が終わると勝利者インタビューが始まり、アグネスデジタルとストリートクライは壇上の隅に移動する。

 

「サキー選手、優勝おめでとうございます。厳しいレースでしたね」

「ありがとうございます。とても苦しかった分、勝ててホッとしています」

「ゴドルフィン勢が全敗で迎えたメインレース、プレッシャーはありましたか?」

「はい。このまま私かストリートクライが負けてしまえば、全敗ですからね。ゴドルフィンを応援して下さるファンの方々が喜ぶ結果で終えて、嬉しいです」

 

 その一言で観客席から大きな歓声があがり、サキーはゆっくりと間を取って声援に応える。

 

「では、最後に一言お願いします」

 

 インタビュアーの言葉に、サキーは静かに息を吸い込み言葉を発する。最後の一言はサキーを知るものは誰もが知っていた。その一言を叫ぶために観客達もシンクロするように息を吸い込む。

 

「世界中のウマ娘の皆さん。トレーナーなどの関係者の方々。そして、世界中のウマ娘レースを応援して下さるファンの皆様。愛してま~す!」

 

 サキーが愛してますと叫ぶと同時に右手を高く突き上げ、観客たちも同じように右手を突き上げ叫ぶ。するとサキーの勝利を祝福するように何百発もの花火が打ち上がり、ドバイの夜空を鮮やかに彩った。

 ドバイミーティングは地元のサキーが勝利するという多くの観客が望む結末を迎え、多幸感と満足感を抱きながら、観客たちは家路に着いていく。

 特設ライブステージは片付けられ、ライブに出演した3人は地下バ道から控え室に戻っていく。

 

「サキーさん……次は勝ちます……勝って……キティと一緒に世界一になります……」

 

 ストリートクライはぶっきらぼうにサキーに宣言すると、そそくさと自分の控室に戻っていく。その口調はいつも通りだったが、明確な意志が篭っていた。

 ストリートクライは控室に戻る。誰かが控え室で待っており、慰めの言葉でもかけてくれると、少しばかり期待していたが誰もいなかった。

 今頃サキーの部屋に集まっているだろう。帰り支度をしながら携帯電話をチェックすると、画面を見た瞬間に即座に走り出しレース場を後にした。

 レース場を出ると夜の冷たい風がストリートクライの体を撫で体温を冷やす。

 だが冷風に意を介すことなく、疲れた体にムチを入れながら目的地までかけていく。

 そこはベンチとブランコがある小さな公園で、待ち人はブランコに乗りながらストリートクライを待っていた。

 

「レース後に悪い。しかしメールアドレスが変わっていなくて良かった」

「キティ…その……負けちゃった」

「全く、あんな啖呵切って3着だなんて、カッコがつかないな」

 

 キャサリロはブランコから降りると、小馬鹿にするような笑顔を見せる。ストリートクライはその態度に反抗することなく頭を垂れる。

 

「まあ、今日はダートコンディションがクライ向きじゃなかった。時計が掛かるダートだったら1着だったよ。勝負は時の運だ、気にするな」

 

 冗談のつもりだったが受けたことを悪いと思ってか、慰めの言葉をかけるとストリートクライの表情が少し明るくなる。

 

「キティ。私のスタッフになって……そして……私と一緒に世界一になろう」

「スタッフって、私は何もできないぞ」

「メンタルスタッフとか……テキトーに理由を作る……お金は私が払う……イチャモンつけてきたら……どんな手を使っても黙らせる……だから2人で世界一になろう」

 

 1着になってキャサリロを雇うという目標は達成できなかった。だが一度願った思いはそう簡単には消えない。

 キャサリロと一緒に世界一への道を歩みたい。ストリートクライはゆっくりと力強く言葉を紡ぐ意志を伝える。もう2度と言葉が足らずでお互いの想いがすれ違わないように。

 

「私でいいのか?ゴドルフィンをクビになった私が、クライの夢に乗っかっていいのか?」

「私の夢は……キティの夢。私にはキティが必要……」

 

 ストリートクライはキャサリロの目の前に拳をかざす。キャサリロもゆっくりと自身の拳をストリートクライの拳に合わせた。

 

「じゃあ、スタッフとして早速仕事するとするか、残念会に付き合ってやる!どうせ皆サキーと祝勝会しているだろうし」

「うん……私の部屋に来て……前と変わっていないから」

「よし!行くぞ!」

 

 キャサリロが意気揚々と部屋に向かい、ストリートクライはその後ろについていく。

 部屋についたら色々喋ろう。昔のこと、今のこと、未来のこと。そうすれば前みたいな関係に戻れるはずだ。

 ドバイの夜空に浮かぶ月は2人の門出を祝福するように、光り輝いていた。

 

 サキーはストリートクライの後ろ姿を見送る。殻を破って欲しいと思っていたが、ここまで力を秘めていたとは思っていなかった。

 今日の勝ち時計は2分00秒5。ドバイワールドカップでは高速決着と言っていいだろう。

 そして今日のダートは芝を走れる自分やアグネスデジタルに有利に働き、ダートに適性があるストリートクライに不利に働いた。

 それでも差は僅かなものだ。もし時計が掛かるダートだったら負けていた。今日の勝利は天が味方しただけにすぎない。

 キングジョージ、凱旋門賞に勝ち、グランドスラムがかかったブリーダーズカップクラシック、そこで最大の敵となるのはストリートクライだ。

 より一層トレーニングに励まなければならない。サキーは心の中で深く誓った。

 

「サキーちゃん1着おめでとう!」

 

 すると後ろから声をかけられ振り向くと、アグネスデジタルが満面の笑みを浮かべながら手を差し伸べていた。サキーも笑顔を浮かべながら、差し伸べられた手を握る。

 

「これですべてのウマ娘ちゃんを幸せにする計画が、1歩進んだね」

「はい、とりあえずホッとしています」

「それにしても、すっごい歓声だったね。皆サキーちゃんの勝ちを祝福していて、あまりの尊さに涙ぐんじゃったよ。そして最後の「愛してま~す」の締めはあたしもやったけど気持ちよかった。これは是非続けたほうがいいね」

 

 デジタルは表情をコロコロと表情を変えながら、サキーに祝いの言葉を述べる。

 お世辞ではなく、心の底から祝ってくれている。世界一になるチャンスを邪魔したウマ娘を祝えるなんて、何とも不思議なウマ娘だ。これがアグネスデジタルの魅力なのだろう。

 

「アグネスデジタルさんの今後のローテーションはどうなっていますか?」

「えっと。安田記念走って、宝塚記念走って。暫く休んで秋に南部杯走って。そこからは未定かな」

「ところで、芝の2400は走れますか?」

「芝の2400は長いかな」

「その南部杯というレースはいつ頃におこないますか?」

「えっと、10月の2週目ぐらいかな」

「もしよかったら、ブリダーズカップクラシックを走りませんか?」

 

 アグネスデジタルというウマ娘は、予想を遥かに超えたパフォーマンスを見せてくれた。

 その力が自分でも知らなかった底力を引き出した。3人が力を振り絞った今日のドバイワールドカップは、多くの人を惹きつけるような名レースとなり、今年のベストレースにあげられるほどのものになった。

 グランドスラムが掛かったレースに、アグネスデジタルとストリートクライが参加するとなれば、今日以上のレースになるだろう。それは間違いなく後世に語り継がれるベストレースになるはずだ。

 何よりデジタルとのレースは今振り返ると楽しいく、あの興奮をもう一度味わいたいという思いもあった。

 デジタルは思わぬ提案に虚を突かれるが、直ぐ様目を輝かせ二つ返事で答えた。

 

「もちろん!走る!走る!」

 

 デジタルは飛び跳ねながら喜びを表現する。レースを走りたいという言葉はデジタルにとってプロポーズのようなものだ。そのプロポーズを意中の相手であるサキーから受けたとなれば、テンションは一瞬で最高潮になる

 

「では、アグネスデジタルさん。秋のアメリカで会いましょう」

「うん。秋のアメリカで」

 

 2人は固く握手し、お互い手を振りながら、それぞれの控室に戻っていく。

 

「サキーさん凄かったです!」

「サキーさんおめでとうございます!」

 

 サキーは控室に戻るとトブーグやネイエフ達など、ドバイミーティングのレースを走ったウマ娘達の手厚い祝福を受ける。中には涙を流している者もいた。

 彼女たちも自分たちの不甲斐なさに、自分に責任を押し付けてしまったことに苦しんでいたのだろう。

 自分は偽りの太陽だ。太陽であることを演じ続けることが苦しくなることもある。

 だが偽りの太陽でも彼女たちを苦しみから救うことができる。

 そして彼女たちの笑みが苦しさを補ってあまりある幸福をくれる。それが太陽で有り続けようとする活力をくれる。

 

「さあ、食堂でパーティーの準備が出来ています!今日は夜通し騒ぎましょう!」

 

 ネイエフがサキーの手を引っ張り、食堂に向かっていく。

 明日から夢のために、太陽を演じる日々が始まる。だが今日は使命も夢もすべて忘れて、今日の勝利を喜び、思う存分騒ごう。それぐらいしてもバチは当たらない。

 

「ということがあったから、秋はBCクラシック走るから、よろしく」

「また勝手にローテ決めたんか」

 

 控え室に戻っての開口一番の言葉にトレーナーは呆れるように呟く。

 一般的にローテーションを決めるのはトレーナーの仕事だ。

 所属のウマ娘の特性を見極め、相手関係を見極め決めていく。

 だがデジタルはそんなもの関係ないと言わんばかりに決めていく。余りにも適性が無ければ承認しないが、絶妙に適正のあるレースを選ぶので断るにも断れない。

 

「今年のブリーダーズカップは確かアーリントンやったな。色々と準備せな」

「もう準備するの?あと半年も有るんだよ」

「あと半年しかや、半年で完敗したサキーとの差を埋めなあかんやぞ」

「負けて傷心のウマ娘に完敗って言う~?デリカシー無くない?」

「何や?惜しかったと思うのか?」

 

 デジタルの軽い口調に、トレーナーはシリアスな口調で聞き返す。その口調に呼応するようにニヤけていた表情が引き締まる。

 

「今日のレースで今まで感じたことなかったサキーちゃんの一面が見られた。けど、まだすべてを見たわけじゃないと思う」

 

 今日のレースは見ていた者には僅差で10回走ったら5回は勝てるレースに見えるかも知れない。

 だがそうは思えず、10回走って良くて1回勝てるぐらいと感じていた。

 底に限りなく近づいたが、底を見ていない。デジタルにはサキーとの間に確かな壁を痛感しておりトレーナーも同じように壁を感じていた。

 

「デジタル、世界は広いな」

 

 トレーナーはポツリと呟きデジタルも無言で頷く。今日は世界に限りなく近づいた。だが近づいた分だけ正確な距離を知り、思ったより遠いことに気づかされた。

 

「でも、前に進むしかないな」

「そうだね。いっぱいトレーニングして、BCクラシックでサキーちゃんの一面をもっと引き釣り出して、もっとサキーちゃんを堪能しなきゃ」

 

 2人の挑戦は敗北に終わる。だがその敗北は明日の勝利に繋がっていると信じ、前を向く。

 

ドバイワールドカップ メイダンレース場 GIダート 良 2000メートル

 

 

着順 番号    名前       タイム     着差      人気

 

 

1   7  UAE サキー      2:00.5           1

 

 

2   4  日 アグネスデジタル  2:00.6    1/2      3

 

 

3   6  UAE ストリートクライ  2:00.6   ハナ      2

 

 

4   5  沙 セイミ       2:02.1    9       7

 

 

5   1  仏 クリムゾンクエスト 2:02.2   1/2       4

 

 




やっと書き終わった!
当初より大分長くなってしまいました。
最初はストリートクライは名前だけの予定でしたが、現実での勝ち馬を出さないのは何か違うと思い、キャラ付けをおこない、性格やバックボーンも何回か変更してこんな感じになりました。

もしデジタルがドバイヘの輸送がスムーズに行っていたら?もし当日の馬場がデジタルに向いていたら?そんな未練とデジタルに有利なIFが積み重なったのがこのレースです。
そしてデジタルに有利な状況だったら勝つのはサキーかなと思い、現実と違う結果になりました。

そして割りを食ってしまったのがストーリトクライ……
ストリートクライのファンには申し訳ないです……
これは私の妄想ですので、ストリートクライのファンの方々はそんな訳ないだろうと鼻で笑って下されば、ありがたいです



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勇者と魔王#1

お久しぶりです
ウマ娘アニメが1月から放送、アプリが2月配信決定したと聞いてテンションが上がりまくったので投稿します


「体の調子はどう?」

「うん。ぼちぼちってところかな」

「そう」

 

 アグネスデジタルとエイシンプレストンが共同で生活しているトレセン学園栗東寮の1室、デジタルはPCで自前のウマ娘資料を見ながら、プレストンはベッドで寝転がりながらお互い視線を合わさず会話する。

 4月を迎え、現在のトゥインクルレースの花形であるシニアクラス中長距離路線のGI、そしてクラシックが始まるにつれてトレセン学園内も騒がしくなっていく。そんな中、ドバイワールドカップに出走したデジタルは帰国した。

 昨年のトゥザヴィクトリーに続いての2着、しかも現役最強と呼び声高いサキーと僅差のレースとあって、世間は賞賛の声を上げデジタルを出迎えた。

 本来であればTV出演や取材などの対応に追われるのだが、ドバイでの疲労が抜けきれないとトレーナーが極力制限する。

 そして先日のサイレンススズカとトウカイテイオーを筆頭に、シニアの猛者たちが激戦を繰り広げた大阪杯。今週はウオッカとダイワスカーレットという、名ライバル関係を予感される二人による桜花賞など、人々の関心を引きつけるレースが続き、デジタルへの興味は薄れていく。

 そのおかげか帰国後も取材を数件対応しただけで、比較的穏やかに過ごせていた。

 

「オペラオーちゃんとドトウちゃんは元気かな。今度遊びに行こうよ」

「そうね。ドトウさんはこの時期は少し忙しいと思うし、5月ぐらいに遊びに行きましょう。オペラオーさんはいつ暇なんだろう?」

「詳しくは分からないけど、当分は忙しいと思うよ」

 

 2人はオペラオーとドトウの生活ぶりを想像し、思いを馳せる。

 3月の卒業シーズンではトレセン学園から多くのウマ娘が去る。

 ある者はトウィンクルレース関係の仕事に従事し、ある者は大学に入学するなどして、それぞれの道を歩んでいく。

 そしてテイエムオペラオーとメイショウドトウも引退を機に学園を去っていく。

 卒業式ではデジタルは2人の別れを惜しみワンワンと泣き、プレストンもデジタルに釣られて涙を流していた。

 学園を卒業後、メイショウドトウは保育士になるために大学に入学し、テイエムオペラオーは芸能界入りしていた。

 

「ドトウさんの将来の夢は保母さんか、ぴったりね。子供たちに慕われている姿が想像できる」

「でも子供たちに振り回されてオロオロする姿もイメージできるな」

「確かに。そしてオペラオーさんの芸能界入りっていうのも驚いた。あれだけの成績をあげたんだから、解説とかいくらでもトゥインクルレース関係の仕事に就けそうなのに」

「もっと目立ちたいんだよ、ドラマとかモデルとか歌手とか目立てる仕事は一杯あるし」

 

 歌はウイニングライブで散々歌っていたから問題ないだろう。

 ルックスは同じウマ娘でも惚れしまうほどの美形であり、プロポーションもトレーニングで鍛えられたスレンダーな体は世間に受けるかもしれない。

 だが演技に関しては不安な点がある。日常でも演技かかった動作が多く、ドラマでも過剰な臭い演技になりそうだ。デジタルは想像し顔がニヤついていた。

 

「ところでツイッターは慣れた?」

 

 プレストンは雑誌を読むのをやめ、自分の携帯電話を取り出しデジタルのアカウントを開く。

 デジタルはドバイから帰ってくると積極的に自身のアカウントでツイートし始めた。以前から他のツイートを見るためにアカウントだけは作っていたが、ツイートすることはなかった。

 突然の心境の変化を問いただすと、ツイートし始めたのはサキーの影響だった。

 サキーの夢である、すべてのウマ娘レース関係者の幸福。そのためには世界でのウマ娘レースの知名度向上が必要であり、夢を手伝う活動の一環でツイートし始めた。

 

「まあ、何とか」

「しかし、フォロワー数を増すために、面白いツイートをしようとネタを考えるのに気疲れする人が多いみたい」

「別にフォロワー何万人欲しいってわけじゃないし、気楽にやっているよ。ただ私はサキーちゃんの夢の手伝いとして、ウマ娘ちゃんファンを喜ばせようかなと思っているだけ。それに私もウマ娘ちゃんの情報を知りたいから、色々な娘のアカウントをフォローしているし、色々な情報が欲しいって気持ちはわかるから」

「流石ウマ娘マニア」

 

 それ以降2人の会話は途切れる。普通なら会話は途切れることによる沈黙は気まずい、だが気心知れている2人にとって沈黙は苦ではない。しかし現在の沈黙には僅かの気まずさを感じていた。

 

―――何か重大なことを言おうとしている。

 

 話のテンポか声のトーンかは分からないが、直感でいつもと様子が違うことに気づいていた。

 今までの会話は本題を切り出す心の準備とタイミングを計るジャブのようなものである。

 言うか相手が話すのをまだ待つか。2人の間で沈黙という駆け引きが繰り広げられる。

 

「ねえ……デジタル。提案というか、お願いがあるんだけど」

 

 プレストンが先に切り出し、視線を携帯電話からデジタルに向ける。デジタルも声のトーンから察し、椅子を回転させ視線を向けた。

 

「確かローテは安田記念走って調子が良ければ、宝塚記念走るんだよね」

「うん」

「それでローテなんだけど…安田じゃなくて、4月4週のクイーンエリザベス2世Cを走ってくれない?」

 

───

 

 プレストンが所属するチームプレセぺのチームルームはチームメイトの気質か、トレーナーの気質なのか、整理整頓されていた。

 靴棚にはチームメイトのトレーニング用のシューズが等間隔に置かれ、本棚には過去レース記録やトレーニング理論が書かれている資料など、すぐに見つられるようにラベリングされている。

 チームルーム内でプレストンは中央にある机にもたれかかり、髪の毛先を指でクルクルと絡めながら深くため息をついた。

 

「はぁ……どうしよう」

「どうしましたプレストン」

 

 見事なまでの典型的なため息の前に、トレーナーはプレストンに問いかける。こんなため息をつかれて声をかけないわけにはいかない。

 

「いや……デジタルに提案したいことあるのですけど、声をかけづらくて」

「アグネスデジタルにですか?そんな遠慮する仲ではないと思っていたのですが」

「いや、大概のことは言えるんですが……今回はフェアじゃないというか…卑怯というか……」

 

 プレストンは歯切れが悪く言いよどむ。その様子にトレーナーは急かすことなく、言葉を待つ。

 

「あたしはデジタルに安田じゃなくて、クイーンエリザベス2世Cに走ってくれ提案するつもりなんです。でも、ドバイワールドカップであれだけの激走をしてダメージが残るデジタルに対し、あたしは中山記念からは十分に間隔が空いている。それだとフェアではないと思って」

「ならば安田記念で走ればいいのでは?」

「それではダメなんです」

 

 トレーナーはプレストンの言葉の意味を理解しかねていた。

 フェアではないと思えば、安田記念で一緒に走ればいい。だが難色を示している。何故?トレーナーの疑問に応えるように喋っていく。

 

「デジタルがドバイワールドカップの時に今まで見たことない表情をしていた。それが何か悔しいというか…腹が立つというか…とにかくデジタルにあたしのすべてを見せたくて、それは香港じゃなきゃダメなんです」

 

 デジタルがドバイワールドカップで見せた恍惚の表情、あれはウマ娘を感じ堪能している顔だ、天皇賞秋でのイメージのドトウとオペラオー、そしてドバイワールドカップでのサキー、意中のウマ娘がいるときにはあのような表情をする。

 今まで何度も一緒に走ったことがあったが、あのような表情を見せてくれたことはなく、そのことを考えると心がモヤモヤした。

 デジタルは親友であり、デジタルも少なからずそう思っているという自負がある。

 だが友人としては好いてくれていても、レースを走るウマ娘としては魅力がないということなのか。そのことに気づき寂しさと悔しさと嫉妬の心が燃え上がる。

 ならばあたしのすべてを見せて、デジタルに興味を持たせてやる!そのためには東京レース場の安田記念ではダメだ。そこではすべてを出せない。

 

 去年の暮れで香港のシャティンレース場で走ったときの感覚は未だに覚えている。

 気温、湿度、ロケーション、コーナーの角度、芝の状態。すべてが自分に合い、まるで体中のすべての歯車がシャティンレース場という歯車にガッチリと合わさったようだった。

 無論デジタルには勝ちたい。だがそれよりデジタルに自分のすべてを見せたい。それができるのはシャティンレース場だけだ。

 特定の場所でしか100%の力を発揮できないというのは、1流のウマ娘ではなく恥ずべきことかもしれない。

 だがシャティンならすべてを発揮できる。デジタルと走るのならここしか考えられなかった。シャティンでお互いが全ての力を出しつくようなレースをしたい。

 トレーナーは腕を組みプレストンの言葉を黙って聞く。説明不足だがシャティンで走らなければならない確固たる理由があるようだ。そしてプレストンが悩んでいる理由もおおよそ理解しかけていた。

 

「なるほど有利な条件で走ってアグネスデジタルに勝って、無駄に体力を消耗させてしまう。そのことを危惧しているのですね」

 

 トレーナーの言葉にプレストンは言葉が詰まる。図星だった。

 トレーナーはウマ娘の脚は消耗品だと考えられ、走れば走る分だけ脚は消耗し、選手としての寿命は縮まっていく。

 さらにGIは極限の戦いであり、GIを走っただけで体力を使い果たし、体調を立て直すのに長い時間を掛けてしまうという事態は珍しいことではない。

 

「その考えは貴女の傲慢です」

 

 トレーナーはプレストンの優しさを知りながら、切り捨てる。プレストンは傲慢という強い言葉に衝撃を受けていた。

 

「確かに、ドバイであれだけの激走をすればダメージはあるでしょう。だがそれはプレストンと私の尺度での考えです。アグネスデジタルが驚異的な回復力で体調を戻すかもしれない。トレーナーの白くんが私の考え及ばぬ方法でアグネスデジタルの体調を戻すかもしれない。なにより負けたことを考えるのは相手にとって失礼です」

 

 プレストンはトレーナーの言葉を聞き反省する。シャティンが自分のベストを出せるレース場だから、ドバイワールドカップで激走したから有利だと思っていた。だがそれはまさしく自分の尺度だ。

 トレーナーが言ったとおり、体調を戻すかも知れない。自分以上にシャティンへの適性の高さがあるかもしれない。デジタルは常識はずれのウマ娘だ。普通に考えてはならない。

 何よりシャティンへの適性の高さからか優越感に浸り、デジタルが負けると考え哀れんでしまった。これは明らかに恥ずべき行為だ。

 プレストンは自分の傲慢さを指摘され気づき落ち込む。その様子を気遣ってかトレーナーは気軽な口調で声をかける

 

「難しいことは考えず、素直に走りたいという気持ちを伝えましょう。その後の判断はアグネスデジタルや白くんに任せるべきです」

「それでダメだったら?」

「今回は縁がなかったと思って、安田記念で走りましょう。そして暮れの香港カップで走ろうと予約しておきましょう」

 

 トレーナーの言葉にプレストンの思考はシンプルになっていく、難しく考えすぎた。まずは自分の思いを伝えて答えは相手に委ねればいい。

 

「ありがとうございます」

 

 プレストンはトレーナーに礼を言うとチームルームを出て行く、その表情はすっかり晴れていた。

 そして部屋に帰りデジタルに意思を伝えようと思ったが、また不安が芽生え始め、話題を切り出すのに時間がかかってしまっていた。

 デジタルは言葉を聞くと目を見開き数秒ほど動きが止まる。そして堰を切ったように笑い始めた。

 

「プハハハ。何だプレちゃんも同じこと考えていたのか。あたしも丁度同じことを言おうと思っていたの。思いつめて損した気分」

 

 デジタルもプレストント同じことを考え、同じようなことで思い悩んでいた。

 当初はプレストンと走るのは安田記念でいいと考えていた。だがトリップ走法のイメージ構築のためにプレストンのレース映像を見続けた日々で気づく。プレストンのベストは香港のシャティンだ。

 一緒に走るなら一番煌めいているプレストンを味わいたい。

 だがプレストンはこのレースに懸けている。もし勝ってしまったらプレストンの努力や情熱を水泡と化してしまう。

 GIに勝利するという価値と重みは知っているつもりで、プレストンにはGIを勝ってもらいたい。それを急な心変わりで変更していいのだろうか、そのことを相談したらトレーナーから叱責を受ける。

 

―――プレストンのこと舐めているのか?お前は『あたしが出たらプレちゃんに勝っちゃうけど、出ていい?』と言っているようなものだぞ。

 

 デジタルの友人の想う気持ちは理解できるし、自身も同じ立場になったら少なからず同じ気持ちを抱くだろう。だがそれは侮辱だ。

 勝負の世界に身を置く以上勝者と敗者が存在する。敗者のことを気にかけていたら切りがない。

 それにプレストンとデジタルは距離適性が似ているので、対決は避けては通れない。これは必然であると割り切るしかないと諭されていた。

 

「デジタルも同じこと考えていたの?」

「うん。プレちゃんが一番輝くのは香港だと思っている。なら香港を走ろうってね、それに安田まで待てないよ」

「じゃあ決まりね。3週間後の香港で走りましょう」

 

 デジタルはプレストンの目を見て頷く、最後に一緒に走ったのは去年の安田記念以来だ。それまでに歓喜も苦悩も経験し、前以上に魅力的なウマ娘になっている。そのプレストンを最高の舞台で感じられる。その至高の時間を想像し、無意識にニヤついていた。

 

「うん?プレちゃんどうしたの?キャリーケースなんて取り出して」

 

 デジタルが想像の世界にいる間にプレストンはキャリーケースを取り出し、衣類などを収納していた。

 するとプレストンはデジタルに顔を向ける、その表情は物悲しさと覚悟を決めた決意のようなものがあった。

 

「暫くこの部屋から出て行く?」

「出て行く!?いつまで!?というより何で!?」

 

 デジタルは突然の言葉に驚愕しながら、肩を掴み正対して真意を確かめようとする。プレストンは一瞬目を伏せた後目を見据えながら答えた。

 

「期間はクイーンエリザベスまで、理由は……全力を出すためかな」

「どういうこと!?何で全力を出すのに部屋を出ていくの!?」

「あたしはクイーンエリザベスですべてを出して走りたい。そのためにはデジタルと一緒に居られない。あたしは弱いからさ、一緒に居たら情が移っちゃうかもしれない。次のレースはそういうものを一切持ち込みたくない。だから離れる。教室でも声とかもかけないから」

「プレちゃん……そんな……」

 

 なんでそんなことを言うの?自分が嫌われるようなことをしたのだろうか?デジタルはうっすらと涙を浮かべていた。その様子を見てプレストンはデジタルの頭にポンと手を置く。

 

「デジタルが嫌いになったわけじゃないから、安心して。これはあたしの我儘、デジタルと走るのに悔いを残したくない。理解してとは言わない、一回だけ我儘を許して」

 

 プレストンは動揺しているデジタルを一瞥し、部屋から静かに去っていく。デジタルはその様子を呆然と見送り、必死に動揺でゴチャゴチャになった気持ちを整理していた。

 



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勇者と魔王#2

 その和室は10畳ほどのスペースで、壁際に本棚が数台と筆記用具と書類が広がっている机が有る。本棚の1つは食事栄養学やスポーツ医学などの専門的な本が収納され、もう1つはトゥインクルレースを専門に扱った週刊誌などが収納されている。

 本棚や机の種類はきちんと整頓され、部屋の主の几帳面さが伺える。

 その部屋の主は正座しながら机に向かってキーボードを打ち、男性は一段落着いたのか体を大きく伸ばし筋肉をほぐす。彼はエイシンプレストンが所属するチームプレセペのトレーナーである。

 トレーナーは何気なく部屋に置かれているレースカレンダーを見る。世間ではジュニアC級のクラシックが始まった。

 残念ながらチームでクラシック戦線を走っているものはいない。だがクラシックがトゥインクルレースの全てではない。

 クラシックに出るために無茶をして体を壊してしまっては元も子もない。焦らず体を作り、少しでも長く幸せな競走生活を送れるように育てるべきだ。

 クラシックという単語から連想が繋がり、エイシンプレストンのことについて考える。

 今頃アグネスデジタルに香港のクイーンエリザベスで走ろうと提案している頃だろう。デジタルが提案に承諾するか否か。これによって今後の行動が大きく変わってくる。

 長年チームで指導を行っているが、歴代の中でも1番の能力と言っていいほどの逸材だ。

 元々GI級の力を持っているが香港への適性が極めて高く、香港のマイルから中距離のレースであれば世界で1番強いのではという思いすら抱かせる。

 そのプレストンをしてもデジタルに勝てる保証は全くない。それほどまでに高く評価していた。

 本音を言えばプレストンには勝って欲しく、デジタルには出走してほしくはない。

 だがプレストンは勝利だけを望んでいるだけではなく、一緒に走ることが重要らしい。

 親友に自分のすべてを見せる。勝利以外の目標のために走るその心はデジタルに似ている。やはり2人は似たのも同士なのかもしれない。

 

 すると家のインターフォンが鳴る。トレーナーは立ち上がろうとするが、すぐに畳に座り直した。

 自分より台所で洗い物をしている妻のほうが近い、応対は妻に任せよう。

 しかし時刻は22時を回っている。宅配便にしては来るのが遅すぎるし、そもそも頼んではいない。近所の誰かだろうか?プレストンのことから謎の訪問者に思考を移していると足音が近づいてくる。

 

「お父さん、お客さん」

「私に?こんな遅くに誰だ?」

「エイシンプレストンさんよ」

「プレストン?」

 

 妻の言葉に思わず聞き返す。何故そこでプレストンが出てくる?予想外の言葉に動揺しつつ、部屋を出て玄関に向かう。すると本当に居た。

 服装は質素なTシャツとパンツで、遊びに出かけるというより近場のコンビニでも行くようなラフな格好だった。そして手には旅行で持っていくようなキャリーケースを持っていた。

 

「こんばんはトレーナー」

「こんばんはプレストン。どうしましたこんな遅くに?」

「不躾で申し訳ございませんが、暫くの間泊めて頂けませんか?」

 

 プレストンは恐縮そうに俯きながら要求を伝える。泊めてとはどういうことだ?寮の部屋が何かしらの理由で使えなくなったのか?それなら学園から理由の説明と来るという一報が届くはずだ。

 トレーナーは理由を思案するが、すぐに止めた。理由は本人の口から聞けばいい、それに娘が家を出て部屋も布団も空いているので、問題はない。

 

「わかりました。とりあえず中に入ってください」

 

 トレーナーは急な来訪に不快感を示すことなく家に招き入れ、プレストンは恐縮そうにしながら入っていく。  

 玄関を通り居間に通され、促されるまま食卓に座る。辺りを見渡すとこれといった特徴がない普通の家という印象を受ける。

 だが文化は違うが初めて他人の家に入るときの余所余所しさを感じず、実家や寮の部屋に居るときのような安心感がある。

 それに台所も食卓も綺麗に整頓されており、普段の指導通り几帳面さが伺える。

 するとトレーナーの妻が2人に麦茶を出し、プレストンは恐縮そうに会釈をする。妻もそれに応えるように笑みを浮かべながら会釈した。

 

「とりあえず、家に泊まるのは構いません。部屋も空いていますし」

「ありがとうございます」

「それで何が有ったのですか?」

 

 トレーナーはプレストンの対面に座り見据える。プレストンはお茶を一口飲み、深く息を吐いた後喋り始めた。

 

「なるほど、理由は分かりました」

 

 トレーナーも麦茶を1口飲み、息を吐いた。家に泊まりたい理由は何らかしらのアクシデントで部屋に住めなくなったか、アグネスデジタルと喧嘩して気まずい等の私生活の悩みかと思っていたが、まさかレースのことだとは思わなかった。

 そして部屋を出た理由はある程度共感できるが、競技者ではない自分には完全には理解できない。だが本人がそうしたいのならさせるのがトレーナーの努めだろう。

 

「学園と寮の責任者には連絡し、暫くこちらで暮らせるように手続きをしておきます」

「ありがとうございます」

 

 プレストンは深々と頭を下げ、トレーナーはその姿を見据える。情が移り手を抜いてしまう可能性がは限りなく低い。

 だが少しでも起こる可能性を低くするために、部屋を離れこの家に来た。まだ若いプレストンが1番の友人の元を離れ、意図的に接触を断つということは辛いはずだ。

 その辛さを耐え忍んでまで勝負に徹する。プレストンとは2回り以上歳が離れているが、その姿勢と精神力に尊敬の念を抱いていた。

 

「それにしても貴女らしくないですね。事前に話をつけず来るなんて」

「すみません……見切り発車で行動してしまいました」

 

 赤面しながら顔を俯かせる。勢いよく部屋から出て行ったものはいいものも、行く宛は全くなかった。

 チームメイト達の寮の部屋も自分達の部屋と間取りは同じであり、もう一人も泊まるほどのスペースはない。

 だが自分たちの部屋に戻ってくるは格好がつかない。そして唯一の当てがトレーナーの家だった。

 

「しかし、困難な道を選びましたね」

「はい、我ながらそう思います」

 

 トレーナーの困難という言葉にプレストンは自虐的な笑みを浮かべる。1つは自分が取った行動と、もう1つはデジタルのことを指していた。

 

「アグネスデジタルはドバイワールドカップを経て、以前より強くなったことでしょう」

「はい、サキーとの走りで自分の力を限界まで出し尽くしていました。その経験から力の出し方を学び強くなっています」

「個人的には香港2000でなら、現役では1番の強敵と言ってもいいでしょう」

 

 プレストンはトレーナーの言葉を聞き思わず笑みを浮かべる。

 サイレンススズカ、スペシャルウィーク、グラスワンダー、エルコンドルパサー、現役には数多くの実力者がいる。

 その中でもトレーナーはデジタルが1番の強敵と言った。親友をそこまで評価してくれていることが嬉しかった。

 

「本音としては教え子には勝利してもらいたいですし、アグネスデジタルという強敵と走るリスクは避けてもらいたかったです」

「すみません。でもデジタルも走るつもりみたいでしたし、避けては通れなかったです」

「まあ、前向きに考えましょう。ここでアグネスデジタルという強敵に勝てれば、特別になれます」

 

 プレストンは特別という言葉を聞いた瞬間、手を強く握り締め心が激しく揺れ動いた。

 

───

 

 エイシンプレストンは比較的に高い能力を持つウマ娘だった。

 勉学でも平均より少ない勉強時間で、平均より高い点数を取れ、運動能力も同世代のウマ娘の平均より高い。そんなプレストンには誰しもが一度は想う夢があった。

 

―――特別になりたい

 

 人は誰にでも特別になれる。トゥインクルレースでも重賞どころか、条件戦のウイニングライブに出られないウマ娘でも、その走りを見た誰かが感動し、その人にとって特別になることもある。

 だがプレストンが思う特別はこれではなく、もっと絶対的で不変的で多くの人が思い、賞賛する特別になりたかった。

 どうすれば特別になれるのか?それは誰もが注目するレースで勝ち続けること。つまりナンバーワンになることだ。

 

 故郷アメリカで史上初の無敗で三冠ウマ娘になったシアトルスルー。その偉業を達成した強さはまさに特別である。

 プレストンも彼女のように特別になりたいと思ったが、生来の見切りの良さと速さから自分にはダートの適性はないと見切りをつけた。

 何より自分より素晴らしい才能の持ち主が何人もいて、シアトルスルーのような特別になれない理解していた。

 アメリカのレースではダートの他に芝もあり、そこで勝ち続け特別になろうと考えたが、当時の芝のレースの立ち位置は現在の日本におけるダート以上に冷遇され、2軍以下の扱いだった。そこで勝利を重ねたとしても望む特別はない。

 次に考えたのは欧州で走ることだった。欧州では芝がメインストリームであり、そこで活躍すれば世界に認められ、望む特別になれる。だがその考えを実行することはなかった。

 欧州でチームに加入してする前に、現地のウマ娘達と模擬レースをしたことがあった。

 そこでもアメリカのトップレベルと変わらない怪物のようなウマ娘が何人かいた。何より欧州の芝は長く、密度も高いため足にまとわりつく。この芝は自分には合っていない。欧州でも特別にはなれない。

 アメリカでも欧州でも特別にはなれない。ならばどこで走れば特別になれる?プレストンは世界各国を調べていくなか、日本を見つける。

 日本はアメリカや欧州と比べレベルは発展途上であるが、ウマ娘レースの人気はアメリカや欧州より人気が高いと言われている。

 そしてレースで勝って得る賞金も世界で1番高額とも言われている。ここでなら自分が満足する特別になれるかもしれない。

 

 トレセン学園では毎年マル外と呼ばれる外国のウマ娘が何名か入学する。

 方法は2つで、1つはトレーナー個人が直接スカウトされ、入学する方法。

 もう1つは希望者を招き入れトライアウトのように実技と面接試験をおこない、基準に満たした者や試験に立ち会ったトレーナー達の目に適った者が入学する方法がある。

 プレストンは早速日本トレセン学園に申し込み、トライアウトを受けた。

 そこではアメリカや欧州のように、一生勝てないと思わせるような才能の持ち主もおらず、芝も欧州と比べて軽く、自分の適性に合っていた。

 ここでなら望む特別になれると確かな手応えを感じていた。その後現在所属しているチームプレセペのトレーナーにスカウトされ、トゥインクルレースで走る事になる。

 ジュニアB級ではGI朝日杯を勝利し、このまま勝利を重ねGIを勝利し特別になれるという自信を抱いていた。

 だが、それ以降は特別とは遠い苦難の日々が続く。ジュニアC級に上がり重賞レースを2勝したが、目標であるNHKマイルC前に骨折し半年の休養、休養明けも勝利に見放され、時にはダートのレースを走るなどして試行錯誤の日々が続いた。

 夏のレースで勝利してから復調し、秋のGⅡ毎日王冠に勝利、GIマイルCSで2着。そして暮れの香港マイルで朝日杯以来のGI勝利をあげる。

 GIを2勝したウマ娘は、歴代のすべてを含めても1%にも満たないだろう。一般的に見ればプレストンは特別なウマ娘といえる。だが満足していなかった。

 

 シニア中長距離路線を年間無敗で駆け抜けた覇王。

 その覇王に何度も挑み続け、遂に勝利した偉大なる挑戦者。

 中央、地方、海外、芝、ダート。すべてが不問の異能の勇者。

 

 テイエムオペラオー、メイショウドトウ、アグネスデジタル。

 

 プレストンの周りには特別なウマ娘がいた。

 特別になるために簡単な手段と要素はGI勝利数と強さだ。オペラオーはGI7勝、デジタルはGI5勝とプレストン基準での特別なウマ娘の条件を満たしていた。

 だがドトウはGI1勝でしかしていないが、特別なウマ娘であると認識している。

 

 特別なウマ娘になるために必要なのは強さ、そして個性である。

 ドトウはオペラオーに挑み続け、GIで5連続2着になり、6度目のGIでついにオペラオーに勝った。

 そのライバルストーリーと、判官贔屓心を擽るシチュエーションは多くの人の心を掴み、それは唯一無二の個性となる。

 他にも10度の敗北を乗り越えて、念願のGIを奪取した不屈のエリート、キングヘイロー。

 破天荒な性格で人々を魅了し、最後のGIで劇的に勝利したシルバーコレクター、キンイロリョテイ。

 

 プレストンにとって彼女たちは特別なウマ娘だった。彼女たちの特別はナンバーワンの強さではなく、オンリーワンの個性によるものだ。そして自分には個性がないと認識していた。

 個性がないちょっと速いだけのウマ娘。それが自分自身への評価だった。だが香港で走り勝利したことで特別になるための、道筋が見える。

 

―――香港マスター

 

 香港では抜群の適性の高さを見せるというオンリーワンの個性と、香港では誰にも負けないというナンバーワンの強さ。これが自分の特別。

 そのためにはデジタルに勝たなければならない。トレーナーが言うとおり芝2000ならデジタルが1番強いと思っている。そのデジタルに勝てば特別になれる。

 自分のすべてを見てもらいたい。香港で勝って特別になりたい。それが走る理由だった。

 

───

 

 時刻は23時を回り、トレーナーは布団の中で今日の出来事を振り返っていた。

 まさかプレストンが家に泊まることになるなんて、昨日の自分では夢にも思わなかっただろう。

 その当人は娘の部屋で寝ている。自身が言うように見切り発車だったようで、妻が風呂に入るように勧めたら、自前のバスタオルを忘れたと、遠慮がちに貸してくれるように言ってきた。

 普段のプレストンなら泊まるとならば自前のタオルどころか、ボディーソープやシャンプーも持ってきたはずだ。それほどまでに突発的な行動だったのだろう。

 それ故に決心が固まらず、今後決心が揺らぐかもしれない。その機微を見逃さないようにしなければ。

 そして自ら出た特別という言葉、お互い口にはしなかったが、この言葉がプレストンの走る原動力になり、トライアウトでお互いを引き合わせた。

 

―――特別になりたいから、このトレセン学園に入学希望します

―――貴女が考える特別とはどのような意味ですか?

―――はい、私が考える特別はレースで勝ち続け、GIを多く取ることです

―――アメリカで走って、特別になろうとは思わなかったのですか?

―――アメリカではレベルが高くて、特別にはなれません。ですが、日本でなら特別になれます。

 

 外国からのトレセン学園入学者を決めるトライアウト、模擬レースなどの体力テストが終わると、次に面接試験が行われる。

 面接官は各チームのトレーナーが行い、面接官以外にもその様子を別室でトレーナーが観察していた。

 プレストンの言葉にトレーナー達は表情や呼吸など、其々の反応を示す。すべての反応は好意的なものではなく、嫌悪や怒りだった。

 日本のウマ娘レースは欧州やアメリカなどのトップレベルと呼ばれる国と比べ劣っている。それは事実だった。

 だからこそトレーナーを始め、関係者は1日でも早く追いつこうと努力を重ねた。

 そんな中での発言。プレストンの言葉は『日本レベルなら簡単にトップになれる』と解釈されていた。

 本音では認めていたが、ここまではっきりと言われてしまったらトレーナー達が腹に立つのは必然だった。面接が終わり、口々に呟く。

 

───都落ち、アメリカから逃げてきた、ああいう輩はすぐに挫折する。

 

 そんな中チームプレセペのトレーナーは面接終わりのプレストンを見つけ、声をかけた。

 

「日本でなら、簡単に勝てる、貴女の言う特別になれますか?」

「簡単ではありません。アメリカやヨーロッパにはどうやっても勝てない怪物がいましたが、日本にはいません。でも勝てる確率があるというだけで、同じ怪物であることには変わりありません。それに日本の芝は合いますが、アメリカのダートや、ヨーロッパの芝は合いませんし」

 

 その言葉にプレストンの真意を理解する。日本のレースを舐めているわけではない。ただ冷静にアメリカや欧州と比べて、どちらのほうが活躍できるか判断しただけなのだ。

 

「人には相応のステージが有ると思うんです。分不相応のステージを目指しても不幸になるだけです。あたしはアメリカのメインストリームや欧州では特別なれない。でも日本なら困難ではありますが、相応のステージであり、最善を尽くして運に恵まれれば特別になれると思うんです」

 

 プレストンは少し悲しげに1人呟く。その言葉にトレーナーも大きく賛同していた。

 トレーナーも指導していく上の信条は分相応である。トゥインクルレースを走るウマ娘たちには無限の可能性がある。だがその可能性を盲信し、無茶をすれば必ず不幸な目にあってしまう。

 大切なのは見極めること。そのウマ娘に実現可能な範囲を見極め、達成できるギリギリの目標を提示し、一緒に進んでいく。

 世の中には突然変異か狂気じみた修練で、分不相応なステージに上り詰め活躍する者もいる。

 だがそれは例外であり、その者が幸福になるとは限らない。現にそういった者達を見てきた。

 その言葉を聞いたとき、言語化できない何かが感覚を訴えてきた。その感覚に従い何となく声をかけたが、その何かが今では分かる。

 これは共感だ。プレストンとは似たような考え方であり、それを感じ取ったのだろう。

 彼女は逃げたのではない。冷静に自分を客観視し現実と向き合い、夢を達成しようとしている。

 

 プレストンの心象は悪い。積極的にチームに入れようとする者はいないだろう。

 ならば今のうちにチームに入れる。エイシンプレストンというウマ娘を育て、彼女が特別になれるかを見届け、夢の成就の手助けをしたい。

 

「私はチームプレセペのトレーナーをしております。私のチームに入りませんか、エイシンプレストンさん」

 

 そんなことがあったな。トレーナーは布団に入りながら数年前の出来事を懐かしむ。

 特別という言葉を出した時の反応を見る限り、まだ自分が望む特別になれていないようだ。

 だがトレーナー生活で、初めてGI勝利を与えてくれたウマ娘であり、自分にとっては既に特別だ。そう言ったらどのような反応を示すだろう。

 トレーナーはプレストンの様子を考えながら、眠りに就いた

 



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勇者と魔王#3

 アグネスデジタルは電子音で目を覚まし、体を起こす。

 いつもの部屋で、いつもの時間に起きて、いつもの時間に朝のトレーニングをして、いつもの時間に授業を受けて、いつもの時間に放課後のトレーニングをして、いつもの時間に寮に帰る。

 昨日までのように、いつも通りの日常だった。だが今日からは違う。

 

 デジタルは右を向くと、いつもは居るはずのもう1つのベッドの主は居ない。

 朝起きれば何事もないように帰ってきて、一緒に朝のトレーニングに向かう。そんな淡い希望を抱いていたが、現実には自分以外この部屋には誰もいない。

 

「プレちゃん……」

 

 デジタルはルームメイトの名前を呟く。その呟きは虚しく部屋に反響した。

 昨日晩、ルームメイトのエイシンプレストンは部屋を去った。デジタルは理由を問いただしたが、自分のワガママを許してくれと言うのみで、理由は述べなかった。

 そして教室でも声をかけないと宣言した。前置きとしてデジタルのことを嫌いなったわけはないと言っていたが、この言葉を信じることができなかった。

 嫌いじゃなければ声ぐらいかけるだろう。何故声をかけない?プレストンの心境が理解できなかった。

 デジタルは制服に着替えトレーニングの用意し、外に出る前に振り返り部屋を眺める。親友が部屋に居ない、それだけで心にぽっかり穴が空いてしまったようだ。

 

「行ってきます」

 

 は誰もいない部屋に挨拶を告げトレーニングに向かう。その足取りは鉛のように重かった。

 

───

 

「まずいな」

 

 トレーナーは誰もいないチームルームで様々な書類を見ながら呟く。デジタルの希望で次走を安田記念からクイーンエリザベスに変更したが、これは予定外の出来事だった。

 ドバイでの激走によるダメージは想像以上であり、2ヶ月後にある安田記念でも仕上がるか微妙なところだ。それを1ヶ月後のクイーンエリザベスまでに仕上げろというのは、はっきり言えば時間が足りない。

 デジタルはモチベーションで走るタイプだ。香港でベストのプレストンと走る機会を逸し、府中で走ることになってしまえばモチベーションはガタ落ちし、惨敗するのは目に見えている。

 それならば仕上げられるか不安はあるが、香港のクイーンエリザベスに走らせたほうが本人の為だ。厳しい要求だが仕上げてみせるとトレーナーはやる気を漲らせていた。

 

 クイーンエリザベスまで3週間前、ドバイでのダメージが尾を引き、デジタルの動きは本調子には程遠かった。だがそれは予想通りで、これからどうやって仕上げていくか思案を巡らせていた。

 

 クイーンエリザベスまで2週間前、知り合いのあん摩マッサージ指圧師や鍼灸師に頼みデジタルのケアをしてもらい、体の調子は大分良くなっていると2人は言っていた。

 だがデジタルの動きはトレーナーの満足いくものではなかった。

 

 あん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の腕を疑うことはない。2人の腕は知っている。現に多くのチームのメンバーの体調を整えてきた実績もある。

 ならば精神面の問題か?デジタルにそれとなく聞いてみるとプレストンが訳有って、部屋から出ていったことが原因のようだ。

 しかも出ていった理由も分からないらしい。確かにレースで一緒に走るルームメイトが突然出て行かれたら、動揺するだろう。

 何かやらかして嫌われて出て行かれたのかと聞いたが、プレストンはデジタルのことを嫌いになったわけではないと言ったらしい。

 だが教室では顔を合わさず、ラインメッセージは無視し、メールも電話も着信拒否になっているそうだ。徹底した拒絶ぶりで、ますます不可解だ。

 1番簡単な解決方法はプレストンが部屋に戻ってくることだが、何かしらの確固たる理由があって出て行ったのだろう。戻ることは期待できない。

 プレストンの行動は見事にデジタルのメンタルにダメージを与えている。そんなことは無いのは分かりきっているがこれは本調子にさせない為の作戦ではないかと邪推してしまうほどだ。

 トレーナーの思考はデジタルからプレストンに移り、PCのネットを立ち上げ、トゥインクルレース専門のサイトのプレストンの記事を見る。

 そこにはトレーニングでの時計の良さや、調子の良さについて書かれていた。実際映像を見ても絶好調なのは明らかだった。

 目標から逆算しての見事な仕上げ、前走の中山記念に負けたのもクイーンエリザベスを見据えて余裕残しの仕上げか、本番に向けて色々と試したのだろう。さすが北さん、トレーナーは内心で賞賛の声をあげる。

 デジタルは香港がプレストンに合っていると言っていたが、トレーナーも同意見だった。

 去年の香港マイルのパフォーマンスは圧巻だった。香港マイルと同条件の芝1600Mのチャンピオンマイルではなく、2000Mのクイーンエリザベスを選択した。

 一部マスコミでは勝ち鞍に2000Mの距離はなく、距離不安を指摘する声があるが問題ないと思っていた。

 プレストンは1流のウマ娘であるが香港では超1流に変貌する。

 それほどまでに香港への適性の高さを持ち、香港2000Mなら世界最強のサキーにすら勝てるかもしれない。

 普通にやっても厳しいレースで相手は絶好調で、方やデジタルの調子が上がらない。もしデジタルが勝利至上主義ならレース回避を勧めるほどの分の悪さだ。トレーナーは思わず頭を抱えた。

 

───

 

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るとともにクラスメイト達は開放感からか、ある者は談笑を楽しみ、ある者はトレーニングに向かうために準備を始める。

 だがデジタルは自分の机に突っ伏して項垂れ、日に日に気持ちは落ち込んでいくのを実感する。

 プレストンは徹頭徹尾デジタルとの接触を避けた。授業が終わればすぐに教室から出ていき、昼休みでも食堂などにプレストンを探しに行ったがまるで見つからず、最近では視界にすら収めることができないほど避けられている。

 は自分ことを嫌いになったわけでは無いと言ったが、その言葉すら疑わしくなってくる。

 一緒にレースを走るのは今回が初めてではない。ジュニアC級でのニュージーランドT、マイルCS。シニアクラスでの京王スプリングC、安田記念と計4回も一緒に走っている。

 その4回とも部屋を出る等特別な行動を取ってはいなかった。

 だが何故今回に限って部屋を出た?共通項を脳内で考えるが全く思いつかない。その行動に及んだ動機はいかに?まるで難解なミステリー小説を読んだ時のように分からない。

 小説なら最後の方を読むなり、ネットで解説を見ることができるが、この問題の正解は自分で考えるしかない。

 

 いや自分で考える以外にも方法がある。

 

 デジタルはある考えを思いつく。自分には答えはわからない。だが今のプレストンと同じ状況にいた者ならば、気持ちを理解し答えを知っている者が居るかもしれない。

 同室で同じGIレースに走ったことがある者、その条件に当て嵌る者を脳内で検索する。すると友人の中で1人該当する者がいた。

 デジタルは勢いよく立ち上がり駆け出していった。

 

 

「さあ、今日も張り切ってトレーニング行きましょう!」

「随分ご機嫌ね、エル」

「グラス、それは良いレースを見た翌日はテンション上げ上げデス!」

 

 エルコンドルパサーが鼻歌交じりで上機嫌で支度をする姿を、グラスワンダーは笑みを浮かべながら眺めている。

 素晴らしいレースを見た後のエルコンドルパサーはいつも上機嫌だ。

 昨日の桜花賞でのウオッカとダイワスカーレットの直線での争いはグラスワンダーの精神をも高揚させた。

 あの2人は今後順調に行けば、歴史に語り継がれるようなライバル関係になるだろう。そして2人といずれレースで走る事になるかも知れない。

 

「チームルームまでダッシュデス、グラス!」

「待ってエル、またエアグルーヴさんに叱られるわよ」

 

 エルコンドルパサーはグラスワンダーの制止を聞かず駆け出す。2歩3歩と駆け出し教室の扉を抜ければ一気に加速する。そこからは一気だ。

 だがエルコンドルパサーは加速することなく扉前で必死にブレーキをかけて、急減速した。

 目の前には1人のウマ娘がいた。ピンク髪で赤い大きなリボン、髪の色と同じ色のアクセサリーを身につけており、同じクラスのハルウララに似ているがハルウララではない。このウマ娘は見覚えが有る。アグネスデジタルだ。

 アグネスデジタルは僅かばかし息が乱れている。これは走ってきたな。走ろうと思った自分が言うのも何だが、見つかったら怒られるぞ。

 

「えっと、ワタシに用デスか?」

「スペちゃん居ますか!?」

 

 デジタルは大声でスペシャルウィークの在室を問うと、エルコンドルパサーは返事代わりに後ろを振り向く。

 その視線の先には授業から解放され気の抜けた表情を浮かべているスペシャルウィークが居た。

 

───

 

「お邪魔します」

「どうぞ」

 

 デジタルは中に入ると物珍しそうにキョロキョロと部屋を見渡す。

 左右の壁にそれぞれのクローゼットや机やベッドを寄せた配置で自分たちの部屋の配置と変わらない。

 スペシャルウィークの机には付箋や育ての親やスピカメンバーで撮った記念写真が飾られ、ベッドには巨大な人参の抱き枕もある。これがスペシャルウィークの部屋か、同じ間取りで家具もそれぞれ同じような位置に配置されるが、それぞれの部屋にはそれぞれ個性がにじみ出る。

 例えばテイエムオペラオーの部屋に遊びに行った時は自分のスペースの壁一面に自らのポスターを張っていて、ど肝を抜かれたのを覚えている。

 そしてやはり一番違うのは匂いだ、長年暮らしてきた部屋には住んでいる者の匂いが染み付き違いはハッキリ出る。

 印象しては素朴な匂い、お日様の匂いという感じだ。思わぬ展開だがこの幸運には感謝しなければならない。予定ではスペシャルウィークの部屋に来るつもりは全くなかった。

 学園近くの喫茶店か学園の食堂で相談するつもりだったが、プライバシーを尊重してかスペシャルウィークの部屋で相談することになった。

 スペシャルウィークは部屋の中心部にちゃぶ台と2人の分の座布団床に敷き座る。

 

「サイレンススズカちゃんはどうしたの?」

「スズカさんはトレーニングで私はオフです。まだ前走の疲労が抜けきれてないとトレーナーさんが。次走は宝塚記念だから調整はゆっくり目、デジタルちゃんは香港のクイーンエリザベスだっけ?」

「うん」

「ドバイワールドカップであれだけ走ったのに、すぐに次のレースか、凄いね」

「そんなことないよ」

「それで相談って?出来る範囲で力になるよ」

「あのね、実は……」

 

 デジタルはスペシャルウィークに促されて相談内容を語り始める。プレストンが部屋から出て行ったこと、その時の言葉や様子を覚えている限りのことを話す。

 

「なるほど、部屋から出て行って、それから全く話しかけてくれないと」

「嫌われたならまだ分かるよ。でも嫌いじゃないのに話しかけてくれないなんて、プレちゃんの考えが分からないよ……」

 

 無視される日々を思い出したのか、デジタルの声のトーンは落ち目を伏せ、頭を垂れ気落ちした様子を見せる。

 

「スペちゃんもサイレンススズカちゃんとGIで何度も走ったでしょ。その時どんな気持ち?サイレンススズカちゃんと一緒の部屋で生活したくないって思った?」

 

 サイレンススズカと走る。それはスペシャルウィークにとっては特別なことだった。

 憧れのウマ娘でありライバルでもあるウマ娘との走り。それは血潮が滾り胸ときめくものだ。だが同時に1人に栄光を勝ち取り、もう1人に敗北という苦渋を味あわせることにもなる。

 敗北の悔しさと辛さは痛感している。苦楽を共にしてきたサイレンスズカに味あわせる可能性について、心を痛め気まずさを感じたこともある。

 それを感じエイシンプレストンが部屋から出て行ったのかもしれない。スペシャルウィークは思いついた考えを話したが、デジタルは首を傾げる。

 

「それだったら、マイルCSの時、それか安田記念の時も部屋を出て行くんじゃないかな。でも今回のクイーンエリザベスに限って部屋を出たのは何で?それにプレちゃんは今までそんな素振りを見せなかったよ」

「最近になって、そのことに気づいたとか?」

「そうなのかな?」

「あと、馴れ合いたくなかったから?」

 

 スペシャルウィークは以前チームスピカの合宿で馴れ合い禁止と言われたことを思い出した。

 エイシンプレストンは日々の生活で馴れ合っていると感じ、それを危惧して関係を一時期に断ったのかもしれない。

 

「馴れ合いか、あたし達馴れ合っていたのかな?」

 デジタルも首をかしげながら心境を振り返る。過去4走全てにおいてプレストンに負けるつもりはなく、全力で勝ちにいったつもりだ。

 ドバイではサキーを充分に感じられたが、負けたことで全てを感じることはできなかった。だから勝つ。プレストンに勝つことでプレストンの全てを感じられる。そこに妥協はない。

 だが馴れ合いというのは、プレストンが取った行動への寂しさなのかもしれない。馴れ合っていなければ、寂しさなど感じないのだろうか?

 デジタルは複雑な表情を浮かべながら、馴れ合いについて自問自答する。するとスペシャルウィークが語り始める。

 

「私もチームスピカの皆と走ってその時思ったんです。皆には負けたくない。でも皆に勝って欲しいって」

「どういうこと?矛盾していない?」

「うん、矛盾している。でも私は皆がどれほど努力し、どれだけレースに勝ちたいかという想いも知っています。だからその想いが報われて欲しいと思ったの」

 

 その言葉にデジタルは首を大きく縦に振る。今まで無意識に思っていたが言語化され表層に浮かび上がる。

 確かにそうだ。天皇賞秋でも、ドバイワールドカップでも今思えば勝ちたいと思うと同時に、テイエムオペラオーやメイショウドトウやサキーに勝ってほしいと思っていた。そしてプレストンと走ったレースでもそうだった。

 

「あたしもそう思った!」

「これも馴れ合いなのかな」

「そんなこと無い。これが馴れ合いなら、この気持ちを抱えて馴れ合い続けながら走るよ」

「私もそう思う」

 

 スペシャルウィークはデジタルの言葉に笑みを浮かべる。

 親しい相手を気遣いレースで全力を出さないのは論外だ。だが、相手の想いや背景を知り、それを共感し受け止め相手の勝利を願いながらも全力を出す。それは決して馴れ合いではない。

 

「エイシンプレストンさんは訳有ってデジタルちゃんから離れた。私にはその訳は分からないけど、根底には私やデジタルちゃんが思う相手に勝って欲しいって気持ちが有ると思う。だから嫌いになった訳じゃない。デジタルちゃんはエイシンプレストンさんの全てを感じるために、ベストを尽くそう。それを望んでいるはずだよ」

 

 スペシャルウィークは力強い目線で語りかける。

 今までデジタルと接してきたことでどれだけプレストンが好きなのかは分かった。その好意を受けていたデジタルを嫌うはずがない。

 デジタルもスペシャルウィークの視線に答えるように、力強く頷く。

 部屋を出た理由は分からない。だが嫌いになった等というマイナスな理由ではなのは確かだ。それだけは分かり、それだけ分かれば充分だ。

 

「ありがとうスペちゃん。色々とモヤモヤしていたけど、大分スッキリした」

「よかった。香港のレース頑張ってね」

「うん。今度お礼に何かご馳走するよ。プレちゃんを存分に感じて1着になって賞金ゲットしてくるから、好きなだけ食べていいよ」

「うん、楽しみにしているよ」

 

 デジタルは座布団から立ち上がり、スペシャルウィークに手を振りながら部屋を出る。その足取りはどこか軽やかだった。

 

───

 

 デジタルは鼻歌交じりで自室に向かう。すると自室の扉に背をあずけ座り込んでいる1人のウマ娘がいた。栗毛の髪に平均より大きな体、そして赤と黄色と紫の薔薇のヘアピンを身につけていた。

 

「調子が悪いと聞いていたが随分ご機嫌だな」

「スターリングローズちゃん、どうしたの?」

 

 彼女はスターリングローズ、プレストンと同じチームに所属し、プレストンとは同期である。

 プレストンを通して何度か会話した程度の間柄であり、自分1人しか居ない部屋に来るような仲ではなかった。

 

「ところで、勝負事で1番楽しい勝ち方って何だと思う?」

 

 デジタルは唐突な話題の振り方に戸惑いながら考える。暫く考えているとスターリングローズは答えを待たず話しを続けた。

 

「相手に圧勝する。弱い奴を蹂躙するっていうのはスカッとするな。だが一時的には気持ちいいが、虚しさや達成感の無さがある。真に楽しい勝ち方は僅差で勝つことだ。相手に追い詰められ、負けるかもしれないというストレス負荷が掛かるが、勝利することでそのストレスが充実感や達成感になり、印象に残る勝利になる」

 

 デジタルはスターリングローズの言葉に内心頷く。確かに楽に勝つより、過程で障害や困難を乗り越えて勝つほうが印象に残る。

 入場の演出で使った縁でドラグーンクエストをプレイしたが、ボスに何度も負けて四苦八苦しながら倒し、その時の達成感は気持ち良く、楽に倒したボスより印象に残っている。

 

「プレストンは長年一緒に居る私でも怖いぐらい集中し仕上げている。きっと生涯1の仕上がりでくるだろう。一方アグネスデジタルの調子は今ひとつだ。このままクイーンエリザベスで走ればどうなると思う?きっとプレストンの圧勝だ」

 

 デジタルの眼光が鋭くなる。確かに自分の調子は悪くプレストンの調子が良いというのは聞いている。今のままでは厳しいレースになることも自覚している。

 だがそこまで親しくないウマ娘にはっきりと完敗すると言われれば、流石に不機嫌になる。そして相手が言わんとしていることも理解する。

 

「つまり、プレちゃんが接戦で気持ち良く勝てるように、ハッパをかけに来たんだ」

「まあ、端的に言えばそうだ」

 

 デジタルは皮肉めいた口調で聞き、スターリングローズは皮肉に意を介さず答えた。このウマ娘ちゃんは喧嘩を売っているのか?相手の態度に対してさらに不機嫌さが増していた。

 

「プレストンは渾身の仕上げで恐らく上半期はこれで終わりだ。分かるだろう?ウマ娘は仕上がれば仕上げる分だけ体への反動が大きく、選手寿命を縮めているって」

 

 不敵な態度から真剣な表情と声色になり、その雰囲気に呑まれるように怒りが奥に引っ込む。

 仕上がりによる反動、それはドバイでの走りで身を持って体験し、今の不調の原因の一端がそれだ。

 そして選手寿命を縮めるという言葉。この業界には使い減りという言葉がある。

 同じ年に生まれたウマ娘で、片方は数多くのレースに走り、片方はそこまでレースに走らなかった。どちらが早く衰えがきて引退したかといえば、数多くレースを走ったウマ娘であった。

 勿論個人差もあり明確な根拠もないが、一般的には信じられ、トレーナー達も無駄なレースを走らせないように慎重にレースを選びトレーニングしていく。

 

「だからプレストンが次のレースをつまんなく味気ないものでなく、10年経って振り返っても楽しかったと思えるようなレースにしてもらいたい。それにはプレストンがライバルだと認めるアグネスデジタルの復調が不可欠なんだ。本当なら私が香港で走りたいけど、適性がダートで同じ土俵で立てない……」

 

 スターリングローズの声は震え拳を力いっぱい握り締めていた。デジタルはスターリングローズというウマ娘を誤解していたことに気づく。

 プレストンがどれだけクイーンエリザベスに懸けているかを間近で見てきた。だからこそ友の努力が報われるように、たとえ自分が嫌われても構わないとハッパを掛けに来たのだ。

 そしてあの震えた声は友の努力が報われるようなレースにするのには自分ではダメで、相手に託さなければならないという悔しさによるものだ。そして最初の攻撃的な態度も悔しさの現れだったのだ。

 

「分かった。必ず調子を戻す。それでプレちゃんに勝つ。そう伝えておいて」

 

 デジタルは右手で胸を叩く、そこまでの覚悟で仕上げるなら、自分も相応に仕上げる。

 余裕があれば宝塚記念を走ると考えていたが、それは白紙だ。例え暫く休養を強いられるようなことになっても、後悔はない。

 

「ああ、伝えておく」

 

 スターリングローズは安堵と嬉しさが綯交ぜになったような表情を浮かべた。

 

「頑張って仕上げてくれ、じゃあな……っと本題を忘れていた」

 

 スターリングローズはデジタルに背を向けて歩き始めるが、数歩ほどで歩くと踵を返し戻ってきた。

 

「これ、プレストンからだ」

「これは?」

「手紙だ。メールとかで伝えればいいのにな。じゃあな」

 

 スターリングローズは茶封筒を渡すと、手をヒラヒラと振りながら今度は踵を返すことなく去っていく。

 デジタルはその姿を見送ると、急いで部屋に入りベッドに飛び込んで、封筒を開け手紙を読んだ。

 

 ──本当ならレースが終わるまで連絡するつもりはなかったけど、デジタルが調子悪いって聞いて、あたしのせいかもしれないと思って、手紙を書いた。

 改めて言うけど部屋から出て行ったのはデジタルが嫌いになったわけじゃない。友達だと思っているし、デジタルがどれだけトレーニングして、どれだけの想いを持ってレースに臨んでいるか知っているつもり、だからデジタルに感情移入しちゃって、デジタルの勝利は自分のことのように嬉しくて、デジタルの敗北は自分のことのように悔しかった。

 次のクイーンエリザベスで一緒に走る。その時デジタルと一緒に走った時、あたしはデジタルの勝利を願ってしまわないだろうかって思った。

 勿論あたしは勝ちたいし、手を抜いてデジタルに勝たしても喜ばない。それがデジタルへの侮辱だという事は分かっている。

 そんなことは起こる確率は1%以下だと思う。でもデジタルへの情が無意識に自分の走りを鈍らせてしまう可能性があるなら、その情を断ち切りたい。だから情は外に置いていく。それが望む全力のあたしに繋がっていると信じているから。

 

「優しいな……プレちゃん」

 

 デジタルは涙声で名前を呟く。部屋を出たのはそういう理由だったのか。

 プレストンもスペシャルウィークのように勝利を願っていた。その情が走りを鈍らすことを危惧していた。そして勝利のために、自分に最高の走りを見せるために部屋から離れた。

 それがどれほど辛いことだろう。自分だったらその可能性を危惧しても、辛くてできない。

 本当に凄いウマ娘だ。そして何て素晴らしい友人だ。

 

 デジタルの心に熱が入る。プレストンが部屋から出たことで落ち込んでいた自分が情けない。友人の想いに報いるために最高の自分に仕上げる。決意を示すように拳を高く突き上げた。

 

───

 

「特に問題ありません。何か有ったら呼んでください」

「ありがとうございます」

 

 男性達は一礼すると部屋から出て行き、部屋にはトレーナーとデジタルが残された。

 

「どうだ調子は?」

「流石にドバイの時とは同じとはいかないけど、大分回復したかな。しかしプロは違うね、整体師さんと鍼灸師さんが居なかったら、ここまで体調を戻せなかったよ」

「それはチームお抱えやからな。腕が違う」

「でも腕が良い分お高いね。ドバイの賞金を全部使っちゃった」

 

 デジタルはスッカラカンと手を広げながらあっけらかんと言った。

 

 デジタルはクイーンエリザベスまでに体調を戻すために、できる限りの事を行った。

 プレストンから手紙を貰うまではあん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の診療所に出向き、診療は2日に1回程度の診療だった。だがその後は出張で来てもらい診療時間も倍に伸ばしてもらい、さらに香港にも無理を言って帯同してもらった。

 出張費に帯同費と通常の10数倍費用が掛かり、世界最高賞金額を誇るドバイワールドカップ2着で得た賞金はすべて使い果たした。

 デジタルはその事については全く後悔してない。プレストンに全力を見せるためなら金なんていくらでもくれてやる。

 トレーナーは体を動かすデジタルの様子を観察する。調子は9割といったところだろう。ドバイでの激走から約1月でここまで戻せたことは賞賛に値する。これもプレストンの為に頑張ったからだろう、これが友情パワーの成せる技か。

 だが9割では足りないというのが本音だった。並みの相手ならGIでも立ち回り次第で何とかなる。だが香港でのプレストン相手だ。この状態では少し心許ない。

 

「去年の12月はここでプレちゃんとキンイロリョテイちゃんとあたしの3人で香港の夜景を見たんだよね」

 

 デジタルはカーテンを開け懐かしむように夜の街並みを見下ろす。

 日本所属ウマ娘による香港GI3連勝という偉業を達成した歴史的1日。あの歓喜の渦の中に親友も居た。そして明日は敵として親友と走る。

 デジタルは夜の街並みを見下ろしながらプレストンについて思いを馳せる。

 今はどんな精神状態だろう?ワクワクしているか、緊張しているか、興奮しているか。きっとベストな精神状態で臨んでくるだろう。

 ならばプレストンの渾身の仕上げに報いるために自分もベスト尽くす。ただそれだけを考えればいい。

 すると香港の夜空に一筋の流星が走ると同時に祈った。

 

―――明日はプレちゃんと最高のレースができますように

 



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勇者と魔王#4

「」が日本語で『』英語です


「ハジメマシテ、アグネスデジタルデス、ヨロシクオネガイシマス」

 

 アグネスデジタルがたどたどしい日本語で自己紹介すると、教室から温かい拍手が送られる。

 アメリカでチームプレアデスのトレーナーにスカウトされて、日本のトレセン学園にやってきた。

 これからどんな素敵なウマ娘ちゃんと仲良くなれるだろう。どんな素敵な出会いが待っているのだろう。胸中は夢と希望で一杯だった。

 

「ハウ、アー、ユー?えっと……ウェア、アーユー、フロム?」

 

 席に着くとクラスメイト達が拙い英語で話しかけてくる。外国生まれのウマ娘が珍しいのか、外国人ということで気を遣ってくれているのか分からないが、話しかけてくれるのは嬉しかった。

 デジタルは拙い日本語と英語とジェスチャーを混ぜて話し、クラスメイト達も拙い英語と日本語とジェスチャーで会話する。お互い会話に苦労したが最低限は伝わっていた。

 出身地、どこのチームに入るか等当たり障りない会話で親交を深めていく。するとクラスメイトの1人が尋ねる。

 

「アグネスデジタルさんの好きなものや趣味って何?」

『ウマ娘ちゃん!』

 

 デジタルは待っていましたとは瞳を爛々と輝かせて、アメリカや日本で好きなウマ娘ちゃんについて捲し立てるように喋る。戦績、エピソード、容姿、勝負服等思いつく限り喋った。勿論日本語ではなく英語で。

 

「へえ~……アグネスデジタルさんはそんなにウマ娘が好きなんだ……あ……授業が始まるからまた今度ね……」

 

 クラスメイト達はソソクサと自分の席に戻っていき、デジタルはその姿を見送った。

 まだまだ話はこれからというところで打ち切られて不満だったが、次の休み時間で話せばいいだろうと楽しい未来を想像しながら授業の準備を始めた。

 

 だが楽しい未来は訪れなかった。

 

 授業が終わった後も昼休みも放課後もクラスメイト達は話しかけてこなかった。最低限の世話はしてくれたが、明らかに関わろうとしていなかった。

 デジタルは訝しみながらもチームルームに向かう。クラスメイトじゃなくてもチームメイト達とウマ娘についてのトークを花咲かせばいい。だがチームメイト達ともトークに花を咲かせることはなかった。

 クラスの時と同じように自己紹介し、好きなものを聞かれ、ウマ娘について捲し立てるように語り、チームメイト達は距離を取った。

 

 アグネスデジタルというウマ娘はオタク気質だ。

 ウマ娘について深い知識と愛情を持ち、その反面その他の分野や世間の流行には疎い。そういった人物とは世間はあまり関わろうとせず、集団の中で孤立してしまう。

 だが幸運なことにアメリカでのデジタル周辺には同等の知識と愛情を持った友人がいて、その友人達とウマ娘について存分に語れ、幸せな生活を送れていた。

 しかしデジタルが編入したクラスにもチームにもオタク気質のウマ娘はいなかった。

 レースを走るウマ娘なら自分と同等の知識と愛情を持っているものだと思っていた。だがレースを競技者が外から観戦するファンのように知識と愛情を持っているとは限らない。その事実は少なからず落胆させる。

 

 それからのデジタルの生活は酷く味気ないものだった。ウマ娘について語りたい、でも語れる相手が居ない。それは苦痛だった。

 最初はアメリカに居る友達と話して欲求を解消させていたが、国際電話の料金も学生には高額であり、毎日何時間も喋り友人を拘束してはいけないと気を遣い、電話する時間は減っていった。

 休み時間でも1人でウマ娘についての書籍や記事を見て、トレーニングの開始前でチームメイト達が談話していても1人で記事を見て、トレーニングが終了すればいの1番に部屋に帰る生活が続く、完全に心を閉ざしていた。

 トレセン学園ではデビュー前のウマ娘やスター選手を間近で見られ、そこは良いとは思う。だがそれ以上にウマ娘達を生で見て、その印象や感想を友人達と語りたかった。

 

―――もうアメリカに帰ろうかな

 

 そんな考えも芽生え始めた頃、部屋でレース映像を見ている最中に声をかけられた。

 

――――ねえ、ウマ娘について話を聞かせてよ。

――――えっと……何を話せば……

――――何でもいいよ。アメリカでも日本でも有名なウマ娘についての逸話やオモシロエピソードとか

――――じゃあ、まずは……!

 

───

 

ピピピピ

 

 デジタルは電子音が鳴るともにベッドから起き上がる。

 今のは夢か。起き抜けの頭を稼働させ先程見た映像を分析し、懐かしむように笑みを浮かべる。

 随分と懐かしい夢だ。声をかけてきたのはルームメイトのエイシンプレストンだった。

 今までは最低限の関わりしか持たなかったプレストンが突然声をかけてきた。

 そのことに戸惑うがウマ娘について興味を示してくれたことが嬉しく、いつも以上のテンションで転入初日以上に捲し立てながら語ったのを覚えている。

 自分の話に対しクラスメイト達のように引くことなく、興味を持って話を聞いてくれて、そこから交流が始まる。

 プレストンは交友関係が広く、プレストンを介することでクラスメイト達と少しずつ交流するようになり、そこから少しずつ学園に溶け込めるようになった。そして様々な助言を貰った。

 相手に自分の趣味に興味を持ってもらいたいなら、相手の趣味にも興味を持つこと。自分の趣味を一方的に押し付ければ相手は心を閉ざしてしまう。

 ウマ娘について語りたい友達を作りたいなら、今みたいに捲し立てるように自分が喋りたい事を喋っちゃダメだ。

 ゆっくりと相手が興味を持ちそうな事を喋る事、そのアドバイスを実践し、今ではクラスメイトでもチームメイトでもウマ娘について語れる知人友人は増えてきた。

 プレストンが居なければ自分は学園に溶け込めず、アメリカに帰りこれまでの素晴らしい出会いと体験を味わえることができなかった。まさに恩人であり、そして親友でもある。

 デジタルはカーテンを開け窓から差し込む太陽の光を全身に浴びる。空は快晴で芝は良だろう。絶好のレース日和だ。

 

───

 

 

―――なんですかフジキセキさん?

―――ルームメイトのアグネスデジタルが居るだろう。どうやら学園に馴染めていないようだ。君の方でサポートしてやってくれないか

 

 エイシンプレストンはフジキセキに呼ばれ、開口一番で聞いたのがこの言葉だった。

 プレストンが住む栗東寮の寮長であるフジキセキからの依頼、と言う名の強制と解釈した。

 トレセン学園生徒会にも顔が利くフジキセキのことだ、断れば今後の生活で何らかしらの悪影響が及ぶかもしれないと判断し、その依頼を引き受けた。

 プレストンから見てデジタルが周囲に溶け込めないのは当然の結果だった。

 転入初日であれだけオタク気質全開で語り、周囲に溶け込む努力をせず自分の世界に閉じこもってしまえばそうはなる。

 そこまで熱心にやるつもりはない、程々にサポートして頑張りましたよというポーズだけ見せ、溶け込めないのであれば、それまでだ。

 同じアメリカ産まれというよしみと憐憫、何時までも心を閉ざしていると部屋が辛気臭くて居心地が悪い。それらも要請を受けた理由だった。

 

 部屋に戻り、ウマ娘の映像を見ているデジタルの後ろ姿を見つめながら思案する。

 まず1言目が重要だ。心のドアを開けさせ、すかさず足を差し込み入っていく。デジタルの反応をシミュレーションしながら、声をかけた。

 

――――ねえ、ウマ娘について話を聞かせてよ。

 

 相手が興味有る事に興味を示す態度を見せる。それが心を開かせるのに有効な手段だ。

 すると堰を切ったようにウマ娘について喋り始め、自分は興味あるふうに聞く。そうしたら面白いように心を開き懐いていった。

 自分のアドバイスも効果的だったのか、デジタルは少しずつ学園に慣れ始めていく。

 プレストンも自分を姉のように慕ってくれるデジタルに対しては悪い気はせず、同室で一緒に過ごす時間が長いこともあって、それなりに親交を深めていった。

 ある日プレストンはジュニアB級のGI朝日FSに出走することになる。

 そしてデジタルは勝ったら2人でお祝いしようという話になり、それを了承する。そしてレースには勝利し、晴れてGIウマ娘になる。

 特別になる為の第1歩、これは通過点と言い聞かせながらもGI勝利という喜びと達成感で有頂天になり、場の流れでチームメイト達と祝勝会をする。祝勝会は盛り上がり終わったのは0時を過ぎていた。

 プレストンは帰り道にデジタルとお祝いをすることを思い出す。

 デジタルは基本的に夜更しが出来ず、最低でも22時には寝ている。

 恐らくもう寝ているだろう。多少なりの罪悪感を覚えながらも部屋の扉を開けた。すると部屋中が飾り付けられ、中央には睡魔によって今にも意識を手放しそうなデジタルが座っていた。

 

――――GI勝利……おめでとう……プレストンちゃん……

――――アグネスデジタル起きていたの!?

――――だって……一緒にお祝いするって……約束したし……

 

 プレストンは電子音が鳴るともにベッドから起き上がる。

 今のは夢か。起き抜けの頭を稼働させ先程見た映像を分析し、懐かしむように笑みを浮かべる。

 そういえばそんな事が有った。結局デジタルは直ぐに意識を手放し眠りに落ち、後日改めて2人だけの祝勝会を開いたのだった。

 今思うとその日を境に自分たちは友達と言える間柄になったような気がする。デジタルの健気さに胸を打たれたのかもしれない。

 カーテンを開けて天気を確認する。燦々と輝く太陽、芝は間違いなく良だ。これで自分の末脚を充分に発揮できる。

 すると手が震えていた。緊張によるものか武者震いか自分自身でも分からなかった。

 

───

 

 シャティンレース場内はこの時期では珍しく気温は30度を超え、夏を思い出させるような日差しが降り注ぐ。

 だがシャティンのパドックには屋根がついておりファン達は直射日光を浴びることはない。

 しかし熱気は変わらずクイーンエリザベスの出走ウマ娘のパドックを見ようと待ち構えているファン達もハンカチで汗をぬぐい、水分補給をしながら待ち構えている。

 するとアナウンスで開始を告げると出走ウマ娘達がパドックに姿を現し、ランウェイを歩いていく。

 やはりこの気温のせいかどのウマ娘達も汗を浮かべ、少し気だるそうにしていた。

 

「続いて、3番人気アグネスデジタル選手です」

 

 デジタルは多少汗をかきながら姿を現すと多くのシャッターの光と声援が出迎える。

 去年の香港カップでの勝利もそうだが、先のドバイワールドカップで世界最強のサキーと接戦を繰り広げたことでさらに人気も上がっていった。

 ファン達のデジタルを見る目線は鋭く、その一挙手一投足を真剣に見つめていた。

 実績からして1番人気に推されてもおかしくはなかった。だがドバイワールドカップの激走により調子を落とし、現地入りしての公開トレーニングでも動きが抜群に良いとはいえず、その影響で3番人気になっていた。

 ファン達の鋭い視線を尻目にいつも通りリラックスした状態で歩いていく

 

「続いて、2番人気エイシンプレストン選手です」

 

 デジタルのパドックが終わると今度は2番人気であるプレストンの番になる。2人はすれ違うがお互い視線を一切合わすことはなかった。

 

 プレストンは赤と黒を基調にしたミニタイプのチャイナドレスを身に纏い、中央にある太極図は白の部分が赤色にアレンジされている。袖の下が足首まで届きそうなほど大きく作られているのも特徴的だ。

 多少汗が目立つがキビキビと歩くその姿に、観客たちはシャッターを切りデジタルと同等の声援を送る。

 去年の香港マイルのパフォーマンスがファン達の印象に残り、現地での人気はそれなりに高い。何より歩く動作だけでも好調さが窺え、ファン達の期待感を掻き立てられ声援も大きくなっていった。

 そしてプレストンの番が終わると1番人気のゴドルフィンのグランデラが姿を現し、ランウェイを歩いていく。

 

 パドックが終わると其々がトレーナーの元に向かい最終確認を行う。デジタルとプレストンは其々のトレーナーの元に向かっていく。

 

「まるで夏のように暑いですね。体は大丈夫ですか?」

「正直ここまで暑いとは思っていなかったです。ちょっとこの暑さは嫌ですね」

「水分補給はしっかりやっておきましょう」

「はい」

 

 プレストンは袖で額の汗を拭いながら、トレーナーから渡されたボトルに口をつけ僅かばかり水分を補給する。

 

「それで最終確認ですが……」

「デジタルが体を併せても、そのまま走ります」

 

 トレーナーが言い終わる前にプレストンは自分の意思を述べる。多少失礼だがこれは意思表示でもあった。

 

 トレーナーはデジタルが体を併せてきた場合は外に出すように提案する。

 デジタルが体を併せたことで発揮する勝負根性は警戒し、親友であるプレストンならばより力を出すだろうと予測していた。

 一方プレストンはその提案を断る。無論デジタルの勝負根性は知るところで、勝負に勝つためなら離れた方が得策であることは分かっていた。

 だがライバルとして100%のデジタルに勝ちたかった。

 体を併せたことで力を発揮するなら、体を併せさせた上で勝利する。それが望む完全勝利だった。そして全力の自分をより近くで見て欲しかった。

 議論は暫く平行線を辿るが、トレーナーの方が折れることになる。

 デジタルにはトリップ走法がある。体を離してもイメージの相手と体を併せることで力を出し、離れた分プレストンが距離損してしまう。何より体を併せる事で勝負根性が発揮されることを期待していた。

 

「プレストン、貴女が望む特別になるために勝ってきなさい。そしてアグネスデジタルにも私にも刻み込まれるような走りを期待しています。プレストンならそれができます」

 

 トレーナーはプレストンに手を差し出す。プレストンはその手を力強く握り、目を見据え力強く言い放つ。

 

「はい。最高の走りで勝ってきます」

 

 手を離すと地下バ道に向かっていく。その姿は活力に満ち溢れていた。

 

「何か約半年前なのに随分と懐かしい気がする」

「そうやな。あの時は3連勝しなあかんって吐きそうやったわ」

「そうだったの?それで白ちゃんからダンスパートナーちゃんのヘアピン貰ったんだよね」

「そうだった。そういえばダンスは来てないのか?これこそ仇討ちレースやろ」

「香港に行くために休み取っていたけど、会社でトラブルが続いて休み潰されて働いているみたい。恨み言たっぷりのメッセージが届いていきた」

「あいつも大変やな」

 

 トレーナーは思わず憐れむと同時に、教え子も社会人なのだなと感慨にふけっていた。

 

「それで、白ちゃん大先生のパドック診断ではプレちゃんどう見えた?光って見えた?」

 

 デジタルは期待で目を輝かせながら問いかける。その期待とはプレストンが絶好調であるということだろう。レース前にテンションを下げてはならない、トレーナーは言葉を選びながら答えていく。

 

「結論から言えば、光ってはいなかった」

「そう……」

「だが前にも言ったが、俺の目はまだまだ節穴や、光ってなくても光っていたウマ娘に勝つことなんてしょっちゅうや。ストリートクライも完全に見誤ったしな。それに今日のプレストンは最高にキレとる。あまりの調子の良さにファン達もどよめいておった。素人でも分かるほど絶好調ということや」

 

 光っていないと聞いて落ち込んだ表情が見る見るうちに明るくなっていく。

 分かりやすい奴だ。勝ちたいならライバル候補の調子が良いと聞けば、厄介だなとか骨が折れるとか思うはずだが、そんな感情が欠片も見えない。

 改めてデジタルは勝敗が最優先ではなく、最高のプレストンを感じることが最優先であることを実感する。

 

「だよね~あたしもすれ違った時にプレちゃんは絶好調だと感じたけど、白ちゃんもそう思っていたのか、良かった良かった」

 

 デジタルは上機嫌でニコニコしている。本音を言えば調子を落としてくれることを期待していたが、相手が絶好調な事でデジタルのテンションも上がっている。これはこれで良かったのかもしれない。

 

「じゃあ行ってくるね」

「ああ、今日のエイシンプレストンは極上や。思う存分感じてこい」

「うん!」

 

 デジタルはトレーナーに手を振ると、スキップ交じりで地下バ道に向かっていく。

 遠足気分かと内心でツッコミながら後ろ姿を見送ると、関係者席に向かおうとした時にプレストンのトレーナーと目が合った。お互いは近寄り会話を始める

 

「どうも、エイシンプレストンは絶好調ですね」

「ここが目標ですから、仕上げられてホッとしています。アグネスデジタルも随分と調子を上げてきましたね。ドバイから1ヶ月でここまで仕上げるだなんて、流石ですね」

「いや、やっとこさエイシンプレストンと同じ土俵に立てた程度です。それにしてもプレストンが1番人気じゃないだなんて意外でした。ゴドルフィンのグランデラなんて成長途上とはいえ、サキーに7バ身ちぎられた選手ですよ。手前味噌ですが、1番がエイシンプレストンで2番がデジタルで妥当ですよ」

「まだ日本は劣っていると見られているのでしょう。ですが、このレースが終わればここに居る観客と関係者の目は変わるでしょう」

「そうですね」

 

 2人は笑みを浮かべながら和やかなに会話を交わしながら関係者席に向かう。その様子はとてもこの後に勝敗を争う選手のトレーナー同士とは思えないほど穏やかっだった。

 

「北さん、お礼を言うのは見当違いだと思いますが礼を言わせてもらいます。絶好調のエイシンプレストンと走れることはデジタルにとって最高で楽しい体験になり、一生の思い出になるでしょう」

「こちらこそお礼を言わしてください白君。ドバイの激走からここまで仕上げてくれて感謝しています。ライバルとは余裕のある勝利ではなく、接戦で勝つことで達成感を大きな味わえるでしょう」

 

 接戦で勝つことで大きな達成感を味わえる。これはある意味勝利宣言だった。

 プレストンのトレーナーがこのようなビックマウスを吐くことは珍しかった。自身の仕上げとプレストンの能力からくる自信だろう。

 人によっては不快に感じることがあるが、その穏やかな口調から紡がれる勝利宣言は不思議と不快感はなかった。

 

「そうですね。接戦での勝利こそ達成感を味わえますから」

 

 デジタルのトレーナーは含みがあるように呟く。デキはプレストンより落ちているが、それを跳ね除ける力を持っているという自信か。

 冷静に戦力を分析するのもトレーナーの資質だが、自分の教え子が勝つことを信じ抜くのもまたトレーナーの資質だ。

 

「答えはあと数10分後に出ます、私達はその結果を見届けましょう。それに1ファンとしてもこのレースは楽しみですし」

「私もです」

 

 トレーナー達は席に座りデジタルとプレストンがコースに出るのを待った。

 

───

 

『暮れのシャティンで驚異のパフォーマンスを見せたウマ娘が再び帰ってきました!私の名前を覚えていますか?5枠エイシンプレストン!』

 

 プレストンはゆっくりと芝の感触を確かめながら入場していく。やはりこの気温のせいか芝が硬くスピード決着になるだろう。

 さらに入念に芝を踏みしめながら歩いていく、今度は芝の感触を確かめるのではなく、感触を楽しむために。1歩踏みしめるごとに心地良い感触が体中に駆け巡る。

 やはりシャティンの芝は良い、1回しか走っていないが日本のどのレース場よりフィットする。前世の自分は香港で良い事が有ったのかもしれない。そんなレースに関係ない事を考えているとプレストンを呼ぶ観客の声が聞こえ思わず笑みを浮かべる。

 去年までは無名だったのに随分と人気になったものだ。 それだけ自分の存在が特別になったということか、ならばこのレースも勝ってさらに特別になってやる。

 そして一瞬だけ地下バ道に目線を振り返るが、すぐに振り向き歩き始める。

 

『勇者再び見参!世界のエースと互角に渡り合った力を見せつけるのか!?13枠アグネスデジタル!』

 

 見覚えのある高層ビルに見覚えのある山々、この人工物と自然が交じりあるレース場にまた来た。

 デジタルは懐かしむように辺りを見渡し、香港カップのことを思い出す。

 客席で見ているダンスパートナーに声をかけて、トブークと会話を交わして。あのレースは楽しかった。

 そして今日はあの時と同等、いやそれ以上の楽しい体験が待っている。プレストンを見たいという欲求にかられるが、なんとか我慢する。

 レースが始まれば幾らでも眺められる、それまではお預けだ。極力目線を合わせないようにゲートに向かった。

 

───

 

「まだレースが始まっていない、良かった~」

 

 スペシャルウィークは息を切らしながらテレビを付けチャンネルを回すと、ゲート入りしているウマ娘達の姿が映り、安堵の息を漏らした。

 スペシャルウィークはトレーニングの最中だったが、トレーナーに頼み込んで休憩時間をもらい、クイーンエリザベスⅡ世Cを見る為にチームルームに向かっていた。

 本当ならパドックを見る時間まで休憩時間をもらえる予定だったが、ゴールドシップがトラブルを起こし、その対処に時間が掛かりレースギリギリになってしまった。

 

 スペシャルウィークの脳裏には落ち込んでいたデジタルの姿が思い浮かぶ。

 プレストンが部屋を出て行き理由を知りたいと相談してきた。自分は思いついたことを口にしただけだったが、それが悩みを解決する切っ掛けになったらしい。

 エイシンプレストンは最高の姿を見たいデジタルのために、全力で仕上げ全力を尽くす。

 デジタルもプレストンの最高の仕上げに報いるために、全力で仕上げ全力を尽くす。

 レースに走る選手は誰しもが自分の夢や欲望を叶えたいという想いを抱いて走る。

 だがこの2人はそれ以外に相手のために走るという想いも抱いている。それはとても素敵な事だ。すると画面では全員がゲートに入りスタートを切った。

 

 デジタルとプレストンの気持ちが報われるようなレースでありますように。

 スペシャルウィークは願いながらレースを見守る。

 



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勇者と魔王#5

『今スタートしました。おっとグランデラが出遅れた。それ以外はまずまずのスタートです』

 

 1番人気のグランデラがスタートに失敗し、喚き散らしながらポジションを上げていく。

 クイーンエリザベス2世Cは香港カップと同じ条件で、スタートから200Mでコーナーを迎えるコースであり、前目のポジションを取ろうとスピードを上げペースが速くなる傾向がある。そしてプレストンは中団から後方に位置し、デジタルはプレストンの1つ前に位置づけた。

 デジタルは同じ条件のレースに先行策で勝利しているので、今日も先行すると思っていたファンも多かった。スタートミスしたのかと懸念していたがこれはトレーナーの指示通りだった。

 香港カップと今日は状況が違う。今日は逃げや先行脚質のウマ娘が多くある程度ペースは流れると予想し、何よりプレストンが居ることで、香港カップの時のように早めに仕掛けて粘り込みを図るレースでは差されてしまうと考えていた。

 

『今第1コーナーを曲がって、先頭はアイドル、続いてヘレンヴァイタリティとグランデラが一気にポジションを上げてきました』

 

 第1コーナーを曲がり、第2コーナーを迎えたところで、プレストンとデジタルはペースが遅いことに気づく。

 出走ウマ娘達はスタートを失敗し、道中で強引に前目のポジションを取ったグランデラのレース展開を見て警戒心を弱め、人気のデジタルとプレストンの末脚に警戒心を向け、その結果レースの重心は後ろに向きスローペースになっていく。

 

(ある程度流れるんじゃないの白ちゃん)

 

 デジタルは予想とは違うレース展開に思わず愚痴をこぼす。

 だがトレーナーも全知全能ではない、予想外の出来事は幾らでも起こると納得しレースを進める。

 ここまで警戒されると道中捲っていけば一緒に付いてこられ、最終コーナーでは遠心力で外に膨らんで距離ロスしてしまう。末脚に賭ければ蓋をされて仕掛けが遅くなってしまうかもしれない。

 このような状況での打開策は知っている。それは待つことだ。レースが動くか隙ができるのを待ち、隙ができたらそこを突く。

 その為に心と体をジタバタさせず体力を温存する。デジタルは隙を見逃さないよう神経を研ぎ澄ましながら、道中を進んでいく。

 

(ペースが遅い……)

 

 プレストンはデジタルの動きを注視しながら、体内時計でペースを測っていく。

 ウマ娘には自分に合ったペースというものがある。ハイペースが好きなウマ娘もいれば、スローペースが好きなウマ娘もいれば、ミドルペースが好きなウマ娘もいる。

 そのペースのレース展開には滅法強く、それ以外はてんで駄目というウマ娘も少なくはない。それほどまでにペースとはレースにおいて重要な要素である。そしてプレストンはスローペースが苦手だった。

 このまま捲ってスパートをかけたいという衝動に駆られるが必死に堪える。

 それだけならいいが、前にはアグネスデジタルが居る。

 今最も意識が向いている相手が目の前に居ることでプレストンは興奮し脈拍数は上がっていく。その2つの衝動を必死に押さえ込みながらレースを進める。

 レースに勝つためにはデジタルばかり気にしてはいられない。1番人気のグランデラは勿論他のウマ娘も気にしなければならない。だがプレストンは意識の大半をデジタルに向けた。

 グランデラはドタバタしたレースをしているので垂れる。他のウマ娘は大丈夫だろう。恐らく1着になるのはデジタルだ。

 調子を上げ、ドバイワールドカップと同様のパフォーマンスを見せるに違いない。ならばマークするのが最良。

 プレストンは自分の行動を分析し正当化する。その分析は間違ってはいないが付け加えるなら、デジタルが気になって他に意識を向ける余裕がなかったからだ。

 

『今バックストレッチから第3コーナーに進みますが、隊列はそこまで変わりません』

 

 先頭を進むウマ娘の順番は変わっていないが、ペースは変わっていた。スローペースで進むがこのままでは前残りになると判断した中団から後ろにいるウマ娘がペースを上げていき、前のウマ娘もそれに呼応するようにペースを上げていく。レースは一気に動き始めた。

 だがデジタルとプレストンはペースを上げず、取り残されるように後ろに下がっていき、気づけば後ろから3番目と4番目の位置に落ちていた。

 

『さあ、第4コーナーを曲がって直線コースにへ向かいます!』

 

 直線に入る50メートル前、デジタルは直線に入ってからスパートにかけては間に合わないと判断し、ここでスパートをかける。

 するとデジタルの前にいたユニバーサルプリンスが外に膨らみスペースがポッカリと空く。ゴールまでの道が見えた。そのスペースに飛び込もうとしたが、脳が警鐘を鳴らす。

 これは罠だ。そのスペースに飛び込んだ瞬間ユニバーサルプリンスは自分の左側にピッタリ付き併走する。併走状態で走っていると空いていたスペースに前に居たウマ娘が割り込んで蓋をする。内に行こうとしてもスペースはないだろう。

 レースはチーム戦では無いがGIに出るウマ娘なら初対面でも連携を見せて、有力ウマ娘を潰しにくる。

 蓋をされればそのウマ娘より前に出ることは決して出来ない。

 ここは距離損しても外に回すべきだ。デジタルはユニバーサルプリンスより外に回しコーナーに侵入する。遠心力で外に膨らむが仕方がない。デジタルは外に膨らみながら直線を迎える。

 ゴールまで前には誰もいない、進路をカットしようにもここまで外にいる選手の進路をカットすれば斜行で失格だ。

 そんなことをする選手はいない。後は走り抜けることに全ての力を使うのみ、全ての力を注ぎ込もうとする前に右を見る。

 足音だけでも聞き間違えるはずがない、だが居るという確証は欲しかった。

 

「来てくれたねプレちゃん」

「お待たせデジタル」

 

 デジタルが右を見ると同時にプレストンも左を向き、お互いの視線が合う。

 デジタルが外の進路を選択した際に、ユニバーサルプリンスはデジタルについていくメリットは無いと判断し内側に進路を取る。それによって生じた1人分のスペースにプレストンは迷わず突っ込んだ。

 その時にプレストンの右腕とユニバーサルプリンスの左腕がほんの僅かに接触し、プレストンの二の腕の部分は摩擦熱で焦げていた。

 プレストンには2つの選択肢が有った。1つは距離損してもデジタルと体を併せる外側の進路、もう1つは閉ざされるリスクが僅かにある内側の進路、そして即決で外側の進路を取った。蓋をされて力を出し切れずレースが終われば一生悔やむ。

 だがそれは建前だ。本当の理由はデジタルに1番近い場所で全力を見てもらい勝利したいからだ。

 それが取るべきルート、それが取るべきシナリオ。それで負けても後悔はない。いや必ず勝つ!

 2人は言葉を交わした後1着でゴールを駆け抜けるために、全ての力を振り絞る。

 

『グランデラが来た!先頭は逃げていたアイドルからクランデラに!エイシンプレストンとアグネスデジタルは外に回した!』

 

 1番人気のグランデラが先行から押切ろうとする。スタートミスから道中ドタバタしたレースをしながらも、まだ力を残している。

 その地力に驚嘆しながらも他のウマ娘達はグランデラを目標にスパートをかける。

 だが他のウマ娘達の意識はグランデラから外を走る人のウマ娘に向いてしまう。

 まず音が違っていた。それは地鳴りの様な足音を響かせ強力な蹴り足により、掘り起こされた芝は宙に舞っていく。そして存在感やオーラと呼べるような圧倒的な圧、その圧が意識を強制的に向けさせられる。

 完全に脚色が違う、意識する相手を間違った。ゴドルフィンのグランデラではなく、多少ロスが有ろうと徹頭徹尾この2人の力を出させないことを考えるべきだった。

 2人以外のすべてのウマ娘に後悔の念が過る。だがそれは後の祭りだ。大外を回し脚色上回る2人を止める手立ては存在しない。

 

『外からアグネスデジタルとエイシンプレストン!物凄い末脚だ!』

 

 デジタルとプレストンは全ての細胞から力を掻き集めゴールへ向かう。

 他のウマ娘達の意識は2人に向いているが、2人の意識は他のウマ娘達には全く向いていなかった。

 デジタルとプレストンの意識にあるのはお互いのみ。肌を焦がす灼熱も耳を劈くような歓声も、他のウマ娘達の勝利への執念も情念も、2人だけの世界には入り込めない。

 

『残り200Mで日本の2人がゴドルフィンのグランデラを捉えた!』

 

 残り200Mで粘り込みを図るグランデラを捉え、デジタルとプレストンは先頭に躍り出る。だが2人はそのことには全く気づいていなかった。

 

 デジタルは天皇賞秋の時のように、ドバイワールドカップの時のように歓喜の表情を浮かべながら走り続ける。

 好きな相手をイメージし、その相手と併走し勝負根性と底力を引き出すトリップ走法、今は使っていない。正確に言えば使う必要がなかった。

 今隣にはエイシンプレストンという親友であり、極上のウマ娘が居る。現実に居るのに何故他のウマ娘をイメージする必要がある?

 約1ヶ月間顔も合わせず声も聞かず色々なものを溜め込んできた。それを今解き放ち5感でプレストンの全てを感じ取る。

 デジタルの脳内では多幸感によって生じた脳内麻薬が大量に分泌され、トリップ走法を使用している時と同様の力を発揮していた。

 

 幸せだ!幸せの絶頂だ!この時間が何時までも続けばいいのに!

 

 デジタルの思いが反映したように自身の感覚が鈍化しスローモーションになっていく。これはドバイワールドカップでサキーと走った時と同じ感覚だった。

 

――――あたしの感覚ありがとう。時間をゆっくりにしてくれて、これで思う存分プレちゃんを感じられる!

 

 デジタルは己の感覚に感謝した。

 

 プレストンは自身の感覚に戸惑っていた。全細胞から力を引きずり出し消費している。それでも力が無尽蔵に溢れてくるようだ。

 全力で疾走し筋肉は悲鳴を上げ心臓は限界寸前まで脈打つ。普通なら苦しいはずなのに、それ以上に快感や多幸感が上回る。

 そして隣を走るデジタルの状態が手に取るように分かる。走行フォームがビデオ録画で見ているように鮮明に浮かび上がり、呼吸や筋肉の動きも手に取るように分かる。

 そして歓喜の表情を浮かべているのだろう、自分と同じように。

 この感覚はたトリップ走法を使用した際に感じる感覚と似ていた。これがデジタルの見ている世界か、これは病みつきになりそうだ。

 すると感覚に変化が生じる。取り巻く世界が鈍化しデジタルの動く姿もスローになっていく。

 これはデジタルがドバイで走った時の感覚だ。日本に帰った後ドバイワールドカップでの思い出話で話してくれた時には自分には理解できない感覚だったが、デジタルがとても楽しそうに話していたのをよく覚えている。自分も同じ世界に入れたということか。

 ならば同じようにこの感覚と瞬間を楽しもう。そして感覚が鈍化すると同時に脳内の謎の声が自身に指示を送る。

 

―――右腿を4センチ上げて、右足はもう5センチ深く踏み込め、左足の着地地点を2センチ右に軌道修正しろ

 

 このような詳細な指示等普段なら実行できるわけがない。だが今なら実行できるという自信に満ち溢れ、体を動かす度に脳内の声の指示を実行できているという確信があった。

 これは所謂ゾーンというやつか?正直半信半疑だったが、今のこの感覚はそう形容することしかできない。ならば脳内の声に従って走るのが最良だろう。

 プレストンは脳内の声の指示に忠実に従い駆けていく。

 

『残り100M!完全に抜け出した!完全に抜け出した!』

 

(凄いよプレちゃん!1年前の安田記念の時とは別人だよ!プレちゃんがどれだけ頑張って、どれだけこのレースに向けて調子を整えて、どれだけこのレースに懸けているか分かるよ!楽しいよプレちゃん!最高のレースだよ)

(凄いねデジタル。1年前の安田記念の時とは別人だよ。今までどれだけのトレーニングを積んで、色々なレースでどんな経験し学んだのか分かる。そしてドバイからここまで体調を整えてくれてありがとう。最高のレースだよ)

 

 2人の脳内にお互いの声が聞こえてくる。2人はお互いの動きだけではなく、お互いの心理状態も理解できていた。

 まるでエスパーのように心を通わせる2人、だが超能力ではない。

 2人は多くの時間を過ごし、お互いの事を想い理解していった結果、声として聞こえていた。

 もしデジタルがテイエムオペラオーとメイショウドトウとサキーと一緒に走ったとしても、この現象は起きなかっただろう。長年苦楽をともにしたプレストンと走ったからこそ起きた現象だった。

 

(残り100Mで終わりか、もっと走りたかったのに)

(あたしも同感。でも楽しい時間はいつか終わる)

(だから)

(だから)

 

((あたしが勝って終わる!))

 

『これは日本所属のワンツーフィニッシュだ!エイシンプレストンとデジタルの叩き合い!デジタルか!?プレストンか!?デジタルか!?プレストンか!?』

 

 この最高のレースを勝って終わって締めくくり、最高の充実感と多幸感を味わう!

 ここからは1つのミスも許さない、プレストンは全細胞から絞り出したエネルギーを無駄に消費しないよう、全神経を集中させ脳内に響く声の指示に従い最適なフォームで走る。

 

 もっとだ!もっとプレちゃんを感じろ!それがエネルギーになり力になる!

 デジタルはプレストンを感じることに全神経を集中させ、全細胞からさらなるエネルギーを掻き集める!

 

 

『プレストンか!?デジタルか!?プレストンか!?デジタルか!?プレストンが抜け出した!』

 

 残り50Mでプレストンが抜け出す。

 プレストンもその事に気づき勝利の喜びに浸ろうとするが、刹那で気を引き締め直す。相手はあのデジタルだ。ドバイワールドカップの時のサキーのように有り得ない加速を見せるかもしれない。

 デジタルのトリップ走法のように力を引き出し、脳内の声に従い冷静に力を使いこなす。プレストンは冷静と情熱の間に身を置き1着を目指す。

 デジタルの視界にも抜け出したプレストンの姿を確認できた。

 やはり強い。その強さに驚嘆し、ライバルが1着で自分が2着という結末を受入れかける。

 テイエムオペラオー、メイショウドトウ、ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、サキー、今まで走ってきた素晴らしい相手達と走っていたなら、この結末を受け入れたかもしれない。だが全力でこの結末を拒否する。

 プレストンはライバルだ。オペラオー達もライバルだが、プレストンは特別だ、特別なライバルだ!

 負けたくない!勝ちたい!勝って最高の気分を味わいたい!寄越せ!勝つための力を全て寄越せ!

 デジタルの鼻から血を噴き出し、勝負服を血で染め上げる。

 

 2人は全力で駆け抜ける。その情熱と煌きは未来を消費し今につぎ込んでいるようだった。

 観客達も2人の熱に呼応するように歓声を上げ、テレビで観戦していたスペシャルウィークにも空間を超えて熱が伝播し声を上げる。

 関係者席で見ているトレーナー達も声はあげないが手の平を力一杯握り締める。そして結果は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『エイシンプレストン先頭1着ゴールイン!2着はアグネスデジタル!香港でまたしても快挙達成!日本所属ウマ娘のワンツーフィニッシュ!』

 

 エイシンプレストン1着、アグネスデジタル2着。

 魔都香港で行われたクイーンエリザベスⅡ世Cはエイシンプレストンの末脚が勇者を切り伏せるという結末で終わる。

 2人はゴール板を駆け抜けると外埓に進路を取りスピードを弱めていく。

 完全に止まると崩れ落ちるように仰向けで倒れ大の字になる。その様子に会場は響めくが、2人はそんなことは関係ないと謂わんばかりに、燦々と輝く太陽と芝生の感触を感じながら体内に酸素を入れ冷却する。

 2人の荒い息遣いが聴覚を支配する。するとプレストンが息を切らしながら喋り始める。

 

「勇者は……各地を旅しながら……敵を倒していく……でも魔王は1つの地に留まり……勇者を待ち続け……勇者を倒す……あたしは香港の魔王……香港のマイル中距離GIを全部取る……悔しかったら……挑んできなさい……勇者さま……」

 

 デジタルは日本全国世界を飛び回り、マイル中距離芝ダート中央地方海外のGIを取ってきた。

 その姿はまさに勇者だ。だがデジタルのように様々カテゴリーでも走れる適性は無い自分は勇者になれない。  

 だが特定の場所で特定の条件で強さを見せる魔王にはなれる。デジタルに勝ったのだ。魔王という仰々しい二つ名を名乗っても文句はないだろう。

 

「魔王……プレちゃんが魔王ね……」

 

 デジタルは噛み締めるように魔王の名を呟く。魔王はラスボスで勇者が倒すべき相手、プレストンは何時までも憧れでありライバルであり壁だ。そういった意味ではピッタリかもしれない。

 何より勇者と魔王はセットでありお互いにとって特別な相手だ。自分達もそんな関係になれたようで嬉しかった。

 

「デジタル起きられる?そろそろ起きないと皆が心配するから起きよ」

「そうだね」

 

 デジタルは起き上がろうとするが全力を出し切ったせいで蹌踉めく。プレストンは咄嗟に支えるが力が入らず、2人は蹌踉めきながら立ち上がった。

 

「勇者が魔王に肩借りちゃダメでしょ」

「そうだけど、力出し尽くしてフラフラだよ」

「あたしも」

 

 立ち上がると観客席から健闘を称える大歓声が上がる。2人は歓声と光景を刻み付けるように客席を見ていた。

 

「ねえデジタル?あたしは特別になれたかな?」

 

 プレストンにはこのレースに向けて2つの目標が有った。

 1つはデジタルがサキーに向けた恍惚の表情を自分に向けさせ、興味を持たせること。

 それはレース中の歓喜の表情や、今の悔しいが楽しかったと充実感を感じている表情を見せているので、達成できただろう。

 2つ目はこのレースに勝って特別になること、これで香港GI2勝目になり現時点で日本所属のウマ娘では誰も成し遂げていない記録だ。

 それに健闘を称えるこの大歓声、これは自分を特別と認めてくれた証であり、記録としてもファンの記憶の中でも特別になれただろう。

 そして今3つ目の理由を思いついた。それはデジタルにとって特別になることだ。

 プレストンの2つ目と3つ目の目標を叶えられたかという意味を込めて問う。デジタルはその問いになれたと力強く答えた。

 

「凄いレースだった」

 

 スペシャルウィークは率直な感想を漏らす。

 中盤は動いたがレースはスローペースで進み、後方に位置取ったデジタルとプレストンには厳しい展開だった。

 さらにデジタルは相手の罠を回避するために外を回し、プレストンも同等に外に回した。それでも差し切り3着との着差は1バ身半ぐらいだろう。

 着差はそこまで離れていないが、この展開でこの着差なら、プレストンとデジタルとその他のウマ娘の差は着差以上に有ると言える。

 何より2人は全力を出し切った。その笑顔を見ればそれは見て取れる

 

 エイシンプレストンは最高の姿を見たいデジタルのために全力を尽くし、デジタルもプレストンの為に全力を尽くした。

 お互いが相手を思いやる心が生んだ全力だろう。素敵で素晴らしいライバル関係だ。

 自分もチームスピカのメンバーと、セイウンスカイと、グラスワンダーと、エルコンドルパサーと、そしてサイレンススズカとそんな関係を築いていきたい。

 

 トレーニングに戻ろう。良いレースを見ると体を動かしたくなってくる。

 スペシャルウィークは席を立ち今すぐに走りたい衝動を抑えながら、ゆっくりとトレーニング場に向かっていく

 

 

「北さん、おめでとうございます」

 

 デジタルのトレーナーはプレストンが1着でゴールした瞬間に手を伸ばし、プレストンのトレーナーはその手を握り握手を交わす。

 するとプレストンとデジタルがコースに大の字に倒れこみ、トレーナー達は手を離すのを忘れ固唾を飲んで見守る。

 暫くすると2人はお互いを支え合うように立ち上がり、トレーナー達は安堵の息を漏らした。

 

「お互い脚に怪我はなさそうですね」

「ええ、倒れたのは恐らく極度の疲労でしょう」

「改めておめでとうございます」

「ありがとうございます。ですが勝負は時の運です。それにあと1週間有ればアグネスデジタルはさらに仕上がり、際どい勝負になっていたでしょう」

 

 プレストンのトレーナーは謙遜しながら礼を述べる。

 あと1週間有れば、それはデジタルのトレーナーも考えていたことだったがその考えを打ち消す。

 勝負にもしもは無い、決められた条件で全力を尽くすのが勝負だ。そこに仮定は何の意味も持たない。

 

「しかし、嬉しそうな顔しとんな」

 

 デジタルのトレーナーは教え子の満足気な表情を見て思わず破顔する。

 プレストンは想像通り、いや想像以上の強さだった。その強さは日本所属のウマ娘で勝てる者は居ないと思わせるほどだ。その最高の姿を特等席で感じられたのだ。本人は満足しているだろう。

 

「そろそろ、2人を迎えにいましょう」

「そうですね」

 

 トレーナー達は手を離し、デジタルとプレストンを出迎えるために地下バ道に向かっていく、

 すると2人は肩を並べながら歩いていた。トレーナー達は2人に近寄ると肩を貸し、其々が念の為にということで医務室に向かっていった。

 

「お疲れ様ですプレストン。素晴らしいレースでした。貴女の走りは私の心に深く刻まれました」

「ありがとうございます」

 

 プレストンは診察台に寝転びながらトレーナーからタオルを受け取り汗を拭く。

 素晴らしいレースでした。この言葉は1着になった時にかけてくれる言葉だ。この言葉を聞きプレストンは勝利したことを実感する。

 

「何とか勝てました。デジタルは強かったです。本当に」

「そのデジタルに勝てたのです。誇りに思いましょう」

「はい」

「この勝利で貴女が望む特別になれたでしょう。ですが覚えていておいてください。このレースに勝つ前、それよりもずっと以前から貴女は私にもチームプレセペの皆にも特別でしたよ」

 

 その言葉にプレストンは顔の汗を拭くようにして表情を隠した。

 自分は出来るだけ多くの人の特別になりたいと思い、その想いは今でも変わらない。

 だが身近な人々達に特別であると言ってもらえることがこんなに嬉しいものだったのか。

 

「お疲れさん。惜しかったな」

「いや~強い!流石魔王様だね!」

「何のこっちゃ?」

「いや、こっちの話」

「そうか、それで堪能できたか?」

「うん!堪能できたし、楽しかった!」

 

 デジタルは医務室で点滴を受けながらこれ以上ないという満面の笑みを見せる。その表情はドバイの時と同じように満足気だった。

 これで2戦連続2着。本当なら悔しがらなければならないのかもしれないがトレーナーの表情は明るかった。

 ドバイでは世界最強のサキーに、今日のレースでは香港では無類の強さを発揮するプレストンに2着。特に今日はドバイの激走のダメージから回復しての2着。悔しさより達成感の方が勝っていた。

 

「楽しかったけど、勝ちたかったな~勝てばもっともっと、楽しくて気持ち良かったんだろうな~」

 

 デジタルはあっけらかんと言っているようだったが、表情から悔しさを滲ませているのを見逃さなかった。

 もしデジタルがドバイワールドカップで負ける前だったら、プレストンを存分に感じられたことで満足していただろう。

 だがサキーにより久しぶりに敗北を味わせられた事でより勝利を望むようになったのだろう。人間は欲深い生き物だ。競技者としてはそれで良いのかもしれない。

 いや、デジタルの感情は只単純にライバルに負けたことが悔しいだけだ。レースを走る前のオペラオーとドトウはデジタルにとって憧れでありアイドルだった。

 セイシンフブキとヒガシノコウテイはそこまで意識していなかった。サキーは恋焦がれる相手だった。

 今はライバルと認識しているが、レース前ではライバルとして認識していなかった。

 だがプレストンはこのレースを走る前からライバルだった。ライバルに負ければ悔しいのは当然だ。

 

「白ちゃん、あたしのタブレット取って、プレちゃんのライブ映像を確認しなきゃ」

「なんや。プレストンのウイニングライブは完コピできるんじゃないんか?」

「できるけど、億が1でもミスしちゃうかもしれないでしょ。プレちゃんの晴れ舞台なんだがらミスは許されないよ」

 

 デジタルはトレーナーからタブレットを受け取ると、真剣な眼差しで見つめながら時々顔を緩ませる。

 あれはこの後行われるウイニングライブをシミレーションしてニヤけているのだろう。

 頭の中はレースに負けた悔しさは吹っ飛び、ウイニングライブをミスせず如何に素晴らしいライブにするかで頭が一杯になっている。

 

───

 

 ウイニングライブでは主に2曲歌う。

 1着から3着のウマ娘が歌う固定曲と1着のウマ娘が歌う個人曲である。

 固定曲はどの世界のレースでも歌われる万国共通であり、どの国でのファンも知り、鉄板と言えるほどの盛り上がりを見せる名曲である。

 そして個人曲ではウマ娘ごとに作ってもらった曲を歌う。

 これらはラップだったり演歌だったりロックだったりと様々な曲が歌われる。

 盛り上がりはその状況ごとに異なり、ある場所では盛り上がったが、別の場所では盛り上がらないということも往々にしてある。

 

 ウイニングライブは固定曲が終わり、個人曲の準備が始まる。アグネスデジタルと3着のインディジェナスは舞台から降りて、デジタルは舞台袖に残りプレストンの様子を見守っていた。

 準備が終わりプレストンは舞台のセンターに立ち、眩いばかりのフラッシュと拍手が出迎える。拍手とフラッシュが治まるのを見計らい喋り始める。

 

『レース中の声援、そしてあたしの曲を聞くために残ってくださりありがとうございます。では歌わせてもらいますRIVALS!』

 

 前奏が始まるとともに会場がどよめく。この曲名と前奏のメロディーは個人曲とは違う。何かトラブルか?会場の動揺とは裏腹にプレストンは全く動揺せず足でリズムをとる。

 一方デジタルは舞台袖でハッとした表情でプレストンを見つめる。

 この曲はプレストンのお気に入りの曲だ。最近はヘビーローテーションで流し耳にタコができるぐらい聞いているので完璧に歌えるほどになっている。

 

「デジタル!一緒に歌おう!」

 

 プレストンは舞台袖のデジタルを見つめ日本語で叫ぶ。その瞬間デジタルはプレストンの元へ向かって行った。

 

『一瞬で差をつけて風は過ぎ去った

なびく風のAfter imageグッときたんだ

曲線美は日々積み重ね

現状じゃどうやってPie in the sky』

 

 プレストンは一瞬ライブを見ているトレーナーが居る方向に視線を向ける。もしレースに勝ったらこの曲を歌うつもりだった。

 従来の個人曲ではなく、しかも新曲ではない。これは日本で発表された曲だ。

 それをウイニングライブで歌うとなれば権利関係などかなり面倒くさいことになるだろう。

 でも歌いたかった。ダメ元で頼んでみるとトレーナーが動いてくれ今こうして歌えている感謝の極みだ。

 

『ぶつかっては開いてく距離

傷つけたり傷ついたり

本気の頑張りはきっと言葉よりも(伝わるよね)

One for allの精神でReach for the top

もっと!Kick ass!』

 

 プレストンとデジタルは交互に歌う。

 個人曲は勝者の晴れ舞台だ。1人で歌うもので他の者が混じるべきではない。だが勝者が指名したのだ。歌わないわけにいかない。

 なによりプレストンと一緒にウイニングライブを歌えるのが嬉しかった

 

『『壊されちゃって何もない

そんなでも立ち止まっていらんない

迫ってくる焦燥がひりつくから

見せつけたいんだ圧倒感

君にだけは絶対Ah

(Let’s fight Rivals! Rivals!)』』

 

 

 サビに入り2人はハモりながら歌う。歌いながらのダンスは完全な即興だ。だが歌とダンスは見事に調和がとれていた。

 デジタルとプレストンは歌詞に今日のレースの気持ちを乗せる。

 直線でお互いが迫ってきた時は本当に焦燥でひりついた。そして自分の力を見せつけて圧倒したいという気持ちがあった。

 

『『「負ける気はないの」ほんと気が合うね!』』

 

 2人は指を指しあい歌う。

 ライバルだから絶対に負けたくない。お互いがそう思っていることは分かっていた。本当に気が合う。

 

『追い越して追い越されてそれさえ楽しんでる

でも結果的に勝ちじゃなきゃ

目的地は君の向こう側

計算じゃいいかんじにHappy end』

 

 お互いデビューして切磋琢磨していった。

 プレストンが朝日杯FSに勝ってデジタルを超えて1歩先に行った。

 そしてデジタルがマイルCSと南部杯と天皇賞秋を勝ってプレストンの1歩先に行った。

 2人は先に行かれて悔しがっていたが今思えばそれすら楽しんでいた。そして最終的に超えるHappy endを目指して引退まで切磋琢磨は続くだろう。

 

『分けあっては倍になるもの

この両手でつかみたくて

センチメンタルになってちょっとうつむく日も(あってもいい)

Shake your handsのルーティンでI’ll catch up

もっと!Kick ass!』

 

 プレストンはマイルCSで負けた時デジタルに握手して次は負けないと言った。だが今思えば儀式的にやっていたかもしれない。

 今思えば大人だなと思う。もし次のレースで負けたら悔しすぎて握手しないかもしれない。それはガキくさいかもしれないがそういう自分も悪くはない。

 

『『邪魔はしないで泣いたって

助けてなんていうつもりはないし

ありったけのパワーでうちのめしたい

逃しはしないよ好敵手

私だけに君の隣はしらせてよ、ゾクゾクする真剣勝負』』

 

 サビに入り再びハモる。

 もしお互いが落ち込んで挫けても助けてと言うつもりはないし、レースでは全力で打ちのめす。

 それはそんなことで潰れないし絶対に這い上がってくると知っているからだ。

 今日のレースは本当に楽しくてゾクゾクした。プレストンとデジタルは適性が異なるので毎回一緒のレースを走ることは無いだろう。

 だが願わくば毎回今日のようなゾクゾクするような真剣勝負をしたかった。

 

『あと少し届きそうで

やっと自信が持てるよ』

 

 去年の香港マイルに勝って今まで離れていた距離が縮まって自信を持てるようになった

 

『Youライバル?Meライバル!Yesライバルなんだ

Yesライバル!Yesライバル!Yesいまさらちょっと照るね』

 

 プレストンは自分と相手を指さし歌い、デジタルも同じ動作をする。

 デジタルには多くのライバルがいる。サキー、ストリートクライ。ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、このレースに勝つまでは自信を持っていえなかった。だが今は自信を持って言える。

 デジタルのライバルはエイシンプレストンだ!まるで告白のようだ。そう思うと少し恥ずかしい。顔が少しだけ赤く染まりデジタルから視線を外す。その時のデジタルも同じ気持ちで顔を赤く染めていた。

 

『Ah…We are 最強RIVALS みつけた』

 

 日本に来たのは特別になりたかった。それは叶いつつある。そしてそのなかで最強で最高のライバルを見つけた

 

トウショウボーイとテンポイント

ビワハヤヒデとナリタタイシンとウイニングチケット

スペシャルウィークとグラスワンダー

そしてテイエムオペラオーとメイショウドトウ

 

 ウマ娘の歴史には数々のライバル関係がある。ファン達はライバルと言われても自分達の名前をあげないだろう。

 だが胸を張って言う!エイシンプレストンとアグネスデジタルは最強で最高のライバルだと!

 

『はじめてなんだ感情がこんなにも一途に熱くなったのは』

 

 本当にそうだ。こんなに一途に熱くなったのはデジタルが初めてなんだ。

 

『『壊されちゃって何もない

そんなでも立ち止まっていらんない

迫ってくる焦燥がひりつくから

見せつけたいんだ圧倒感

君にだけは絶対Ah

(Let’s fight Rivals! Rivals!)』』

 

 最後のサビに入り2人は残りの力を込めるように歌う。あと少しでこの幸せな時間が終わる。一抹の寂しさを胸に抱く。

 

『『負けたくない、ださくてもいい

ボロボロになったって誇らしい』』

 

 勝つために己を顧みずボロボロになり、その姿が世間から笑われようと堂々と胸を張るだろう。そしてお互いの姿を見て最高にカッコイイと言うだろう。

 

『『あぁ速くあぁ高くいけるんだ君となら

いけるさ、いけるさ、もっと遠くへ』』

 

 この最高のライバルと一緒ならばもっと速くもっと高く行ける。2人の気持ちは完全にシンクロする。

 

『『負けたくない「「ライバルにだけは」」ほんと気が合うね!』』

 

 お互いに指しあい改めて宣戦布告と決意表明をして曲が終わる。

 普段のウイニングライブはトレーナーや応援してくれたファンの為に歌っている。だがそれは後日改めて感謝の意を示そう。

 今日のライブはデジタルだけに向けた曲だった。私物化もいいところだが今日だけは容赦してもらいたい。

 

「プレちゃん……」

「何?……」

 

 デジタルが息を弾ませながらプレストンに話しかけ、プレストンも同じように息を弾ませながら尋ねる。

 

「次は絶対に負けないからね!」

「あたしもよ」

 

 お互いに指を指して喋る。そして数秒ほど経つとお互い指を下ろして吹き出した。

 

───ほんと気が合うね

 

 

クイーンエリザベスⅡ世C 香港シャティンレース場 GI芝 良 2000メートル

 

着順 番号    名前        タイム     着差      人気

 

 

1   5  日 エイシンプレストン  2:02.5           2       

 

 

2   13  日 アグネスデジタル   2:02.6    1/2     3

 

 

3   12  香 インディジェナス   2:03.0    2       12

 

 

4   3  英 ユニバーサルプリンス 2:03.1     1/2      5

 

 

5   10  UAE グランデラ     2:03.6   2.1/2     1   

 

 

───

 

 そこは奇妙な空間だった。ギンギンの色彩で装飾された不思議な動物達の彫刻像が所狭しと並んでいる。

 彫刻像一つ一つが強烈な存在感を放ち、それが集合すれば圧倒的な圧力になる。

 そして奇妙な色彩の動物達は見るものに生理的嫌悪感を呼び起こさせる。これはもはや色彩の暴力と言っていいだろう。異界、魔界と呼べるような世界に隔離されたような空間、ここはタイガーバームガーデン。香港にある観光地の1つである。

 レース翌日、積もる話も有るだろうとトレーナー達が1日だけ帰国を伸ばしてくれ、それを利用してデジタルとプレストンは香港観光を楽しんでいた。

 この観光はプレストンの主導で行われた。予め観光計画を立て、限りある時間を惜しむように効率良く観光地を回ってく。そして観光の終わりとして訪れたのがタイガーバームガーデンだった。

 はしゃぐプレストンを眺めながらの観光は楽しかったが、プレストン程興味がなく疲労は蓄積していく。そんな中訪れたのがこの奇妙な空間だ。疲労度は一気に増していく。

 一方プレストンはお気に入りの映画の舞台に来られたことで、テンションはさらに上がっていく。

 

「で、ここで主人公と敵の幹部が対峙してバトルが始まるの!」

「そう……」

「主人公が貫手を繰り出して、敵はいなす。デジタルいなして」

「こう?」

 

 プレストンは映画のワンシーンを再現しようと殺陣を始め、デジタルも渋々付き合う。一通り再現したことで満足したのか、殺陣を止めて庭園を散策する。

 

「グロいと言うか何というか、凄い所だね。悪い夢に出てきそうだよ」

「確かに、映画で見るより何倍も奇妙だった」

 

 2人は一通り散策するとデジタルの提案で高台に上り、茜色に染め上がる香港の街並みを眺める。

 景色は建物ばかりが見え然程良い景色と言えないが、奇妙な彫刻を見続けたことで破壊されかけた感覚を癒すのにはちょうど良かった。

 

「そういえばプレちゃんメッチャ怒られたんだって」

「ええ、トレーナーと一緒に香港の人に怒られた。あの曲歌うのに結構強引な手を使ったみたいで、あたしのせいでトレーナーに迷惑をかけてしまってそこは本当に申し訳ないと思っている」

「まあ、いいんじゃない。若気の至りってことで、笑って赦してくれるよ」

「他人事だと思って」

「だって他人事だし」

「一緒に歌ったデジタルも同罪だから。アンタが歌わなければ曲が違うソロライブって体は保たれたんだから。参加してせいで体がくずれちゃった」

「え~。プレちゃんから誘ったじゃん」

「でも決めたのはデジタルでしょ。決断には責任を持たなきゃ、人のせいにしない」

 

 お互いに軽口を言い合うと会話はなくなりお互いは景色を見つめる。暫く景色を眺めているとデジタルがポツリと呟いた。

 

「レース楽しかったね」

「ええ、楽しかった」

「あたし達レース中に喋ってたよね?」

「うん、喋ってた」

 

 デジタルの奇妙な問いにプレストンは平然と答える。

 レースの時、確かに相手の心の声を聞いた。だがそれは錯覚かと思っていたがどうしてもそう思えず、訪ねてみると期待した答えが返ってきた。

 

「皆に喋ったら頭おかしい人扱いされるから、2人だけの秘密にしておきましょう」

「うん」

 

 プレストンの提案にデジタルは頷く。この体験を語っても、また与太話だと一蹴されるだろう。

 世間からは真面目な人物と見られているプレストンの口から言っても、やはり信じられないだろう。だが例え信じられたとしても話すつもりはない。

 

 この体験は奇妙で神秘的で、そして心地良かった。もし話してしまえば、神秘性による神通力的な何かを失ってしまうという感覚が2人にあった。

 

「また一緒に走ろうね」

「ええ、香港で」

「また香港?今度は別のところで走ろうよ」

「勇者なら魔王のいる場所に来なさい。魔王が勇者のいる場所に来るなんて変でしょ。何より3勝2敗であたしの勝ち越し、謂わばチャンピオンでデジタルが挑戦者。挑戦者がチャンピオンのホームに来るのが筋じゃない」

「え~」

 

 デジタルが不満そうに呟くとプレストンはクスクスと笑い、デジタルも釣られるように笑った。すると2人は再び茜色に染まった香港の街並みに視線を向ける。

 レース前に袂を分かった苦悩、レース当日の暑さや芝の感触、レース中の不思議な体験、レース中に感じた高揚感。それらを思い出し心に刻み込むように景色を見つめる。    

 これらは10年後20年後会うたびに語り合い、生涯忘れることはないだろう。こんな体験を出来たのは隣にいる最高の親友でライバルのお陰だ。

 2人は感謝の念を抱きながらふと横を向く。するとお互いの視線がバッチリ合い、恥ずかしそうにはにかんだ。

 




実は勇者と魔王は大分前に書いていました。
しかしアニメが終わり一向にウマ娘アプリの続報も来なくテンションが下がり
アプリ配信が正式に決まったら掲載しようとほぼアプリ配信を諦めながら思っていました。

そして19日にアプリ配信の正式発表があり、テンションが上がって載せました。そしてこれからこの話の続きを書いていきたいと思います。
書き溜めは一切ないので時間はかかるとおもいますが、よろしくお願いします。

そしてプレストンがウイニングライブで歌った曲は田所あずさの「RIVALS」という曲です。
神田川JET GIRLSというアニメのEDでアニメは全く見ていなかったのですが、曲は聞いてとても良い曲だなとヘビーローテーションで聞いていました。
そして暫くしてこの話にピッタリだなと個人的に思い、いっそのこと歌ってもらうかと歌ってもらいました。

使用楽曲コード 248-9813-9


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勇者の帰郷

「」は日本語で、『』は英語で喋っています


 観客の多くはドレスアップしていた。男性は明るい色のスーツによく磨いた革靴。帽子とポケットチーフ。女性は明るい大きなプリントのワンピースに花飾りのついた帽子を身に纏う。その華やかさと格調の高さは日本のどのレース場の雰囲気とも異なっていた。

 ここはアメリカ、ケンタッキー州ルイビルにあるチャーチルダウンレース場。アメリカでも有数のレース場であり、ここで数々の名レースが行われ人々を熱狂させてきた。そして今日また一つ人々を熱狂させるレースが行われる。

 アメリカクラシック三冠レースの一冠目ケンタッキーダービー。その注目度は高く、ブリーダーズカップクラシックを凌ぐ観客動員数と視聴率を記録している。また百年以上の歴史を誇る同レースはアメリカで最も長く開催を続けるスポーツイベントとして記録され、「ウマ娘レースは知らないがケンタッキーダービーは知っている」と言われるほどの春の国民的行事に育っており、競争時間は「スポーツで最も偉大な二分間」とも言われている。

 ウマ娘達の本バ場入場の前にマーチングバンドの演奏が始まる。

 

―――ケンタッキーの我が家

 

 ケンタッキー州の州歌であり、地元の大学のマーチングバンドチームが演奏し、演奏のもと観客達はカクテルの一種のミントジュレを飲みながら歌うのが伝統になっている。そして観客達の歌声を背に出走ウマ娘達が本バ場に入場してくる。その様子をアグネスデジタルとトレーナーは感慨深げに見つめていた。

 

 クイーンエリザベスⅡ世Cを走り、日本に帰国したデジタルにトレーナーは長期の休養を指示した。

 去年の9月から今年の5月まで6レースを走り、長期の休息はとっていなかった。只でさえ体に疲労が蓄積するローテンションに加えて、トリップ走法を開発し使用したことで体を限界まで酷使したレースが続き、本人は自覚してないがパンク寸前まで追い込まれていた。

 トレーナーの説明にデジタルは素直に応じ、長期休養の為に故郷のケンタッキーに帰っていた。そしてトレーナーもこの時期にはケンタッキーに出向き、現地で勉強会兼交流会を行っていた。二人共目的地は同じであり、ならば丁度良いと二人は行動を共にしてチャーチルダウンレース場に足を運んでいた。

 

「やっぱり雰囲気あるな、華やかだが厳粛というか」

「日本ダービーの騒がしさも良いけど、こっちも良いよね。パパとママに毎年連れて行ってもらったな」

 

 二人は関係者席から入場してくるウマ娘達を眺める。トレーナーは水色のスーツにピンクのシャツにベージュのハット。デジタルは薄いピンクのワンピースに薔薇の花飾りがついた帽子を身に纏っており、ケンタッキーダービーに相応しい服装だった。

 

 デジタルは入場してくるウマ娘達を見ながら過去を振り返る。6歳の時に両親にお願いして連れて行ってもらったのは今でも覚えている。そこで集まった十数万人の観客に驚きママに強く抱きついたこと、パパが飲んでいるミントジュレップを飲んで酔ってしまったこと、そして酔いを覚ますような素晴らしいレースを。

 それからトレセン学園に入学するまで毎年ケンタッキーダービーは現地観戦した。アンブライドルド、サンダーガルチ、シルバーチャーム。数々の名勝負と輝きを放ったウマ娘達の姿が思い浮かぶ。

 あの時はウマ娘達に憧れるファンとして見ていた、そして今は同じ舞台に立つ競技者として見ている。そのせいか昔と違い出走ウマ娘達の様子が良く見える、出走ウマ娘は多かれ少なかれ緊張や興奮している。一世一代の晴れ舞台に出られるのだからある程度仕方がない。

 

『HEY、楽しんでいるかホワイト』

『今日は招待していただきありがとうございます。ニールセン』

 

 デジタルとトレーナーの背後から一人の男性が声をかけてくる。トレーナーは振り向き柔和な笑顔を向け、抱擁を交わしながら再会を喜ぶ。

 ニールセンは現地のトレーナーで、トレーナーがアメリカでの交流会兼勉強会で知り合い、勉強会以降も相談に乗ってもらうなどして交流は続いている。またアメリカでも屈指の敏腕トレーナーであり、このケンタッキーダービーにも教え子が勝利している。

 

『どうですか教え子の調子は?』

『調子は良いが、相手関係からして運が良くて掲示板ぐらいだろう。まあ本人としては出られて満足といったところだろう』

 

 ケンタッキーダービーに出走することはアメリカで生まれたウマ娘にとって名誉であり、例え最下位確実であろうとも大半のウマ娘は出走するだろう。それ程までにケンタッキーダービーはアメリカで生まれたウマ娘にとっては特別だった。

 

『それで、この娘がアグネスデジタルか』

『初めまして、アグネスデジタルです』

『ドバイワールドカップ見ていたぞ。惜しかったな』

 

 デジタルが手を伸ばすとニールセンは力強く握り締める。声量も動作も一つ一つが力強くエネルギッシュな印象を受けていた。

 

『さて、久しぶりにレースをファン目線で楽しんで観戦できるな。ホワイトもパドックを見ただろう。誰が勝つと思う?』

『そうですね。ケイムホームが良さそうに見えました』

『なるほど、結果は数分後に出る。さあ最も偉大な二分間を楽しもうか』

 

 コースに目を移すと出走ウマ娘達がゲートに収まり、スターターの合図でケンタッキーダービーが発走された。レースは逃げたウォーエンブレムが四バ身差をつけて一着でゴール。晴れて純金のトロフィーと赤薔薇のレイとケンタッキーダービーウマ娘の称号を手に入れた。

 レース観戦後トレーナーはニールセンと懇談会を行った。そこにはデジタルとニールセンの教え子達も同伴していた。ニールセンに世界一に挑んだウマ娘の話を教え子たちに聞かせて欲しいと頼まれており、デジタルは二つ返事で承諾する。そしてアメリカのウマ娘達に体験談を聞かせながら交流を楽しんでいた。

 

『ただいま!』

 

 デジタルが上機嫌で扉を開けるとデジタルの両親が出迎えた。デジタルと両親はキスとハグで挨拶を交わす。その後ろからトレーナーがゆっくりと家に入っていく

 扉を開ける玄関は無くすぐにリビングになっており、部屋は40帖ほどの広さで床は木のフローリング、家具や壁紙をスモーキーな色で落ち着いた色になっている。部屋の中央には食卓が設置されており、横には黒のソファーと壁際には42インチほどのテレビがある。

 部屋の内装は以前訪れた時とさほど変わっていなかった。だがデジタルが出て二人暮らしのせいか、以前より生活感が薄れている気がした。

 

『ようこそミスターホワイト』

『お招き感謝致します』

 

 トレーナーと両親は挨拶を交わすと四人は食卓を向かい夕食を食べる。メニューはブリトーやバッファローチキンウイングなどの一般的な家庭料理と日本出身のトレーナーに気を遣ったのかカルフォルニアロールもあった。

 デジタルは懐かしの実家の味を堪能するように箸を進める。トレーナーは幸せそうに料理を食べるデジタルを一瞥する。本音を言えば食べすぎなのだが、当分はオフだし今日ぐらいはいいだろうと黙認しながら異国の家庭料理を楽しんだ。

 食事の後はトレーナーと父親は晩酌を始め、デジタルは2階の自室に行きアルバムや過去のウマ娘の専門誌を読み返しながら過ごしていた。

 

『パパと白ちゃんまだ飲んでるの』

 

 リビングに降りて水を飲もうと降りると二人はまだ飲んでいた。デジタルの父親は普通の顔色だがトレーナーの顔は赤くなっており明らかに酔っていた。

 

『すまんちょっと飲ませすぎた』

 

 父親はバツが悪そうな顔を見せる。会話が弾みそれに比例するように酒を飲む量も増えていった。本来なら止めなければいけないのだが、浮かれていたせいで止めるタイミングを誤ってしまっていた。

 

『悪いが、酔い覚ましで外に連れて夜風でも当たりに行ってくれないか、本来なら私がしなければいけないのだが、急に仕事が入って今日中に仕上げなければならなくなってな』

『わかった。あんまり無理しないでね』

 

 デジタルは頼みを聞くと机に突っ伏しているトレーナーに近づき肩を揺すると呂律がうまく回っていない返事が返ってくる

 

「白ちゃん。酔い覚ましに外行こう」

「おう」

 

 トレーナーはふらつきながら立ち上がる。その姿をみかねてデジタルはトレーナーの手首を掴みながら玄関に誘導し外に出る。30分ぐらい散歩すれば酔い覚ましになるだろう。デジタルはあてもなく歩き始める。

 

「そうだデジタル。あそこ行こうや!あそこ!」

「あそこって?」

「あそこやって!ほら!デジタルと初めて会った場所!」

「あ~あ、あそこね」

 

 デジタルは過去の記憶を掘り起こし現在地からの距離を計算する。ここから歩いて十分ぐらいか、まあ行って帰ってもそこまで時間はかからないし、丁度酔いも覚めるだろう。こうして二人は目的地に向かって歩き始めた。

 

「お~お!ここや!ここ!懐かしいな」

「うわ~懐かしい」

 

 そこは野球場数個分ほどの広大なスペースの丘だった。トレーナーは感慨深そうに呟き、デジタルもつられるように感慨深そうに呟いた。

 

「ここから始まったんやな」

 

───

 

 デジタルに出会う前、トレーナーは今と同じようにレースの視察と現地のトレーナーとの勉強会のためにアメリカに向かっていた。

 アメリカと日本との意識や技術の差を痛感しながらも少しでも技術を吸収し、いずれ世界で通用するウマ娘を育てようと懸命に学んだ。

 そんな日々が続くなか勉強会が終わりモーテルに帰ろうとタクシーに乗っている際、何気なく見た車窓から丘を駆け上がる1人の幼いウマ娘が目に映る。

 

『ちょっと止めてくれ!』

 

 トレーナーは大声で運転手に指示を出し即座にドアを開け、丘を走るウマ娘に向かって行く。

 見た瞬間に電撃のような衝撃が走った。勉強のためにヨーロッパやアメリカに向かい、そこで名選手と呼ばれるウマ娘も見てきた。また日本のトレセン学園のような施設に入る前のウマ娘のトレーニングを見て話す機会があり、目にかけたウマ娘がのちの名選手と呼ばれるウマ娘に成長したこともあった。

 そのウマ娘には体つきやメンタリティなど他のウマ娘と比べて優れているものがあり、何より感覚に訴えかける何かを感じた。そしてこの幼いウマ娘同様の何かを感じた。

 だが今まで会ったウマ娘は中学生程度の年齢だった。だがこのウマ娘は幼女と呼べるほどの若さだ、そんな幼いウマ娘が一流になるなんて分かるわけがない。理性ではそう言っているが感覚がこのウマ娘は一流になると訴えかけていた。

 チームに入れて育てたい。このウマ娘でGIを取りたい。様々な欲望が脳内で渦巻きながら夢中で駆けていた。

 

『こんにちは。キミはこの辺りに住んでいるのかい?』

 

 トレーナーが声をかけると幼いウマ娘は警戒心を露わにしながら5メートルほど距離を取りトレーナーに視線を向ける。警戒心を解こうとトレーナー精一杯の笑顔を作りながら喋りかける。

 

『私は日本でウマ娘のトレーナーをしている者だ。キミの名前は?』

 

 幼いウマ娘はウマ娘とトレーナーという単語を聞き耳がピクリと動く。

 

『トレーナーってレースを走るウマ娘ちゃんのセンセイの?』

『そうだよ。おじさんはウマ娘のセンセイだよ』

『日本ってどこ?』

『アジアの島国、そうだなアメリカから遠く遠く離れた小さな国だ』

『そんなところでもウマ娘ちゃんが走っているの?』

『ああ、日本だけじゃない、世界の色々な国でウマ娘はレースを走っている』

『へえ~そうなんだ』

 

 幼いウマ娘は目を輝かせトレーナーを見つめる。目を見ると未知を知り自分の知識が一気に広がる驚きと面白さを感じているのが分かった。警戒心を解いたのかトレーナーに近寄ってくる。

 

『ねえ、そのニホンって国はどんなレースをしているの?どんなウマ娘ちゃんが居るの?』

『そうだな。シンザンというウマ娘がいてね。三冠ウマ娘…セクレタリアトやシアトルスルーやアファームドは知っているかな?』

『うん。サンカンウマ娘ちゃんでしょ』

『よく知っているね。シンザンは日本のセクレタリアトやシアトルスルーみたいなものだ。幼少期は……』

 

 トレーナーは地面に座ると幼いウマ娘も横に座る。それから話は始まる。シンザンが走ったレースの様子やエピソードについて知る限りの事を喋った。その間幼いウマ娘は目を輝かせ、エピソードごとにすご~いとかカワイイ~などリアクションをとり聞いていた。

 そのリアクションの良さに話が弾み、予定より大分長く話してしまったが、幼いウマ娘は集中力を切らすことなく聞き続けていた。

 

『他には!他のニホンのウマ娘ちゃんの話を聞かせて!』

『じゃあ明日だね。ほらもう空が暗くなっている。早く帰らないとパパやママが心配するよ』

 

 トレーナーが空を指す。空はいつの間に茜色に染まっており、あと30分もすれば完全に陽が落ちそうだった。

 

『ヤダヤダ!もっと聞きたい!』

『じゃあ明日だ。オジサンは明日もこれぐらいの時間に来るから、そのときね』

『う~ん。分かった!』

 

 幼いウマ娘は首を傾けながら考え込む。欲望と親を心配かけたくないという気持ちとの葛藤の結果、親への気持ちが勝りトレーナーの提案を受け入れた。

 

『じゃあ明日ね』

『また明日、あっまだ名前を聞いてなかった。キミの名前は?』

『アグネスデジタル』

 

 アグネスデジタルは手を振りながら坂を駆け下り帰路についてく。トレーナーはその後ろ姿を見ながら京都レース場の直線前の坂を下る姿を思い浮かべていた。

 

『ママ!ただいま!』

『おかえり、嬉しそうだけど何かあったの?』

『ねえ知ってる?ウマ娘のレースはアメリカだけじゃなくてニホンや他の国でもやってるんだよ!』

『そうなんだ。デジタルはよく知っているね』

 

 本当は知っていたが敢えてデジタルの言葉に関心そうに頷く。それに気を良くしたのか気分よく喋る。

 

『シンザンってウマ娘ちゃんって知ってる?ニホンの二代目サンカンウマ娘なの!シンザンちゃんはね…』

 

 デジタルはトレーナーから聞いた話を喋り始める。身振り手振りでシンザンの話をするデジタルの微笑ましい姿に母親は頬を緩めながら聞いていた。

 それから勉強会の後は丘に行ってアグネスデジタルと会って、日本のレース事情やウマ娘について話す日々が続いた。

 最初は知り合ってコネクションを作るという打算があった。だがデジタルの無邪気で純粋に話を聞きリアクションをとる姿は見るのはトレーナーにとって心地良い時間で、今では打算抜きに話していた。

 

『ニホンに帰るの?』

『ああ、明日には日本に帰る』

『ヤダヤダ!もっとお話し聞きたい!』

 

 デジタルはトレーナーの服の袖を引っ張りうっすらと涙を浮かべながら顔を見上げる。デジタルにとって異国のウマ娘の話は新鮮で刺激的な話であり、ここに来てずっと話を聞かせてくれるものだと思っていた。

 それから泣いて喚いて駄々をこねたがトレーナーは辛抱強く宥める。数十分するとデジタルは喚くのに疲れたのか勢いが落ちる。その隙を見計らって提案する。

 

『よし、月に1回手紙を書いて、他の日本のウマ娘の話や、こっちでのレースの話をしよう。それで我慢してくれるか?』

『本当に?』

『それに来年の今頃にも勉強会に参加する為にこっちに来る。手紙で伝えきれない話は会った時に話す』

『うん、分かった』

 

 トレーナーの言葉にデジタルは袖から手を離し渋々頷く。説得が上手く行ったことに胸を撫で下ろし、連絡先を聞きデジタルと別れ日本に帰国した。

 それからトレーナーはデジタルに月1で手紙を書いた。内容は昔のウマ娘のエピソードやその月に行われた重賞レースの回顧だった。ウマ娘エピソードは喜ばれたがレース回顧は詰まらないと不評だった。

 どうやらウマ娘には興味があるがレースにはそこまで興味がないようだ。それからはレースに出走したウマ娘のエピソードついて掘り下げた内容に変更した。

 

「白センセイ何してんの?」

 

 ダンスパートナーはPC画面で流れている映像を見ながら、真剣な表情でノートに書きこんでいるトレーナーの姿に興味を持ち後ろから覗き込む。ノートには英語が書かれており、さらに図解のようなイラストも書かれていた。

 

「ダンスか、欠点を修正する練習メニューを作っているところだ」

「その今映像で走っているのが例の秘蔵っ子の?」

 

 トレーナーがアメリカの小さなウマ娘と交流しているのはダンスパートナーなどの一部のメンバーには知られていた。

 

「前々から速くなりたいけど、どうすればいいかって聞かれてな。だからこうやって映像を送ってもらって、走り方やトレーニング方法とかを書いているわけや」

「よくやるね」

「まあこれも勉強とスカウト活動の一環だ。俺みたいなのはこういうことせんとな」

 

 トレーナーはため息混じりで答える。チームの成績を伸ばすためにはトレーナーの指導力も重要だが、良い人材を見つけチームに入れるスカウティング能力も重要になってくる。

 所謂一流と呼ばれるトレーナーのチームは強力なスカウト網を持っており、スカウト網から抜けても有名なチームに入りたいと隠れた逸材が門を叩いてくる可能性が高い。

 だが良くて中堅どころのチームプレアデスはそうはいかない。何もしなければいい選手は集まらない。だからこそ日々トレーナーや信頼できるスタッフが日本中からスカウティングしているが、唾を着けていたウマ娘が有力チームに見つかり搔っ攫われるということは往々にある。

 ならばとトレーナーはスカウト網が届かない海外に目を向けスカウト活動に精を出していた。

 

「ところでデジタルが何で速くなりたいと思ったと思う?」

「それは他の子に勝ちたいからとかじゃない」

「それがな、他のウマ娘ちゃんをもっと近く見たいからだと」

 

 トレーナーは思わず吹き出す。アメリカで会った時にやけに真剣な表情で速くなるにはどうすればいいかと聞いてきて、一般的な負けず嫌いから来るものだと思ったが、答えは全く予想外のものだった。

 よりウマ娘を近くで見るために速くなりたい。その答えに思わず大笑いしてしまった。そんな答えをするのは世界中探してもこのウマ娘だけだろう。一方デジタルはトレーナーの反応に激怒し頬を膨らませながらその日は家に帰ってしまった。

 

「フフフ、確かに面白いウマ娘だね。そのデジタルはいつチームに入るの?」

「分からん」

「分からんって、英語で手紙書いたり教材作ったりしているのはチームに入れるためにじゃないの?」

「まあ、そういう打算はある。だがそういう打算が有ると知ったらショックを受けて離れるかもしれんしな。今はウマ娘の話をする日本のトレーナーのおっさんでいることがベスト、理想はデジタルから日本に来たいと言ってくれることだがそこまで期待しとらん。第一アメリカに居るウマ娘がわざわざ日本に来ると思うか」

 

 トレーナーの言葉にダンスパートナーは思わず納得する。年頃の少女がわざわざ異国に来てまで走るということは相当覚悟がいることだ。それにレベルが低い日本に来ることもない。それこそよっぽど事情があるのか、都落ちぐらいだろう。

 

「そんなに頑張っているのに、結局は他のチームに行くんでしょ。割に合わないね」

「まあな。だがそういうことを積み重ねなければ人材は集まらん。それに何だかんだ縁も有るし力になりたいと思っている」

「尽くすね~これで30歳ぐらい若くてイケメンだったらデジタルちゃんは惚れているかもね」

「それはない。デジタルは人間には眼中が無いからな」

 

 トレーナーはダンスパートナーの軽口を軽くあしらう。

 今言ったのは理由の一部ではあるが全部ではない。仮にスカウティングを失敗してもデジタルが教材読んで練習して、レースに出て大きいところ勝てば自分が目を付けていたウマ娘が活躍すれば俺の勘は間違っていなかったという自信がつき自尊心も満たされる。これは恥ずかしくて教え子には言えない。

 話が一区切りつくのを見計らいトレーナーはデジタルの教材作りを再開した。

 

───

 

『白ちゃんのおかげで間近でウマ娘ちゃんをガン見できたよっと』

 

 デジタルはキーボードを打ち込み送信ボタンをクリックする。送信先はチームプレアデスのトレーナーである。当初はトレーナーと手紙でやりとりしていたが、時が経つにつれEメールで文通したほうが楽だとメールでやりとりするようになった。最初は文字を打つのに苦労したが、今では手で文字を書くより遥かに速く画像や動画なども添付出来て色々と便利だ。

 デジタルは背もたれに背中を預け体を伸ばす。ついつい推しのウマ娘について書いていたら熱が入り長文になってしまった。

 トレーナーとの文通はデジタルにとって楽しかった。ウマ娘について話せる友達は居り、友達と話すのも楽しい。だがデジタルと友人とではウマ娘についての愛情や熱意に若干の差が有り、ついついマニアックかつ熱が入った話をしてしまい、友人を置いてけぼりにしてしまうこともある。

 だがトレーナーに対してその心配は要らない。どんなにディープでマニアックに熱く語ってもついてきてくれ同じ熱量で返信してくれ、時には自分以上にディープでマニアックな話をしてくる。

 トレーナーは競技としての部分に注目し、デジタルはウマ娘のパーソナルな部分を注目するという若干の方向性の違いが有るが、それでもウマ娘について一番語り合えるウマ娘好き仲間である。それに競技の部分もウマ娘を知るためには必要であり、それを補ってくれるという意味では理想的と言える。

 さらにデジタルは将来ウマ娘のハーレムを形成するためにトレーナーを目指していた。国は違うが現役のトレーナーと知り合いであることは有益であり、チームのウマ娘への接し方など将来の参考になる話なども聞ける。より大きなハーレムを作るためには人が集まるように、GIを取れるような優秀なトレーナーになる必要がある。

 だがウマ娘のトレーナーは僅かにいるが、何故か良い成績をあげることができていない。ある意味三冠ウマ娘になるより過酷な道だが決して無理とは言わなかった。

 両親以外は誰も無理だの不可能だと言った夢をトレーナーは一切否定しなかった。それだけで好意が持てる。

 

「来週は日本ダービーか~。見に行きたいな~」

 

 デジタルは感情赴くままに呟く。

 トレーナーから日本ダービーは日本のウマ娘レースで1番盛り上がると言われており、その盛り上がりはケンタッキーダービーやブリーダーズカップにも負けないと言われている。

 日本ダービーに関するエピソードは色々聞いている。出走するウマ娘はどんな表情や仕草をするだろう。現地に行って生で見たいし感じたい。だが今は学校があり休んで見に行くことは学校も親も許さないだろう。

 トレーナーとのやり取りを通して日本についてかなりの興味を抱いていた。今後はウマ娘をより感じために、トレーナーとしてハーレムを形成するという夢の為に、トウィンクルシリーズに参加するつもりだ。

 トレーナーに会うまではアメリカのトゥインクルシリーズ一択だった。だが今は日本のトゥインクルシリーズに参加してもいいのではと思い始めていた。

  アメリカに行けば日本のウマ娘と触れ合い感じられない、日本に行けばアメリカのウマ娘と触れ合い感じられない。

 

「う~ん」

 

 デジタルは悩まし気な声を上げた

 

───

 

 デジタルのメール内容に変化が生じ始めていた。相変わらず日本とアメリカのウマ娘やレースについて語っていたが、海外から日本のトレセンに来たウマ娘について聞くようになっていた。

 

 楽しそうにしているか?苦労していることはないか?イジメられていないか?

 

 これはもしかして日本に来るつもりなのか?トレーナーは逸る気持ちを抑えて、海外から来たウマ娘、通称マル外のウマ娘にインタビューして、その内容をメールで伝えた。

 トレーナーは事実を全てメールに書いた。中には日本に来るのを躊躇してしまうような不都合なことも書いていた。

 年頃の少女が海を渡って日本に来るということは人生を左右するほどの大きな決断である。その気になれば不都合な事実を伏せ、日本のトレセンがどれだけ素晴らしいかと美辞麗句を並べ、是非日本に来るべきだと言うこともできる。

 本音を言えば来て欲しいが、そんな詐欺まがいなことをしてまでチームに入れようとは思わない。一時の熱に当てられることなくリスクとリターンをしっかり吟味したうえで日本に来ることを選択してもらいたい。

 それから暫くはいつも通りのやり取りが続いた。そんなある日トレーナーの携帯電話に電話がかかってきた。

 

『もしもし』

『もしもし白ちゃん?デジタルだよ。今大丈夫?』

『ああ、大丈夫だ』

 

 トレーナーは突然の電話に若干言葉を詰まらせながら答える。デジタルには以前電話番号を教えていたが、やり取りはメールでおこなっており電話が来たのはこれが初めてで今の今まで電話番号を教えていたのを忘れていた。

 

『それでどうした?電話してくるなんて初めてだろ』

『まあ、こういうことはメールより電話で伝えた方がいいかなって』

 

 受話器越しにデジタルが深呼吸する様子が聞こえてくる。今から重要な事を伝えようとしている。トレーナーは聴覚に神経を集中させる。

 

『あたし、日本のトレセン学園に入って日本で走る事に決めた』

 

 トレーナーは無意識に携帯電話を持っていない手を強く握りしめる。初めて見た時からデジタルをチームに入れて育てたいと願い様々な努力をしてきた。その努力が今実を結んだ。

 

『本気か、本当に真剣に考えたのか?』

 

 トレーナーは喜びを即座に胸の奥に仕舞いこみ意志を再確認する。これはデジタルの人生に関わる選択だ、冷静に見極めなければならない。

 

『もちろん、考えて考えて、人生で一番考えた』

 

 デジタルの声は今まで聞いたことないほど真剣みを帯びていた。

 

『アメリカではチャーチルダウンや色々なレース場でウマ娘ちゃんを見て感じてきた。サイン会とかファン感謝祭とかにも行った。そういう意味ではある程度知っているんだよね。でも日本のウマ娘ちゃんは白ちゃんの話や映像を見ただけ、この目で見たりリアルに感じたりしていない未知なんだよ。だったら未知の魅力を感じたい。これが日本に行く理由だけど言いたいこと分かる?』

 

 トレーナーは言葉を脳内で翻訳しながら考える。実にデジタルらしい理由だ。

 デジタルが走る理由は勝ちたいからではない。ウマ娘を感じたいからだ。勝ちたいからトレーニングを積むのではなく、よりウマ娘に近づき感じたいからトレーニングをする。他のウマ娘とは走る理由が異なり、そして感じるということが重要だった。

 海外から日本のトレセン学園に来る理由は様々だ。親の都合で、活躍の場を求めて、憧れのレースに勝ちたくて、其々が強い決意を持って海を越えてやってくる。

 知らないウマ娘を感じたいから日本にやってくる。この理由は他者には理解できないかもしれない、だがトレーナーには理解できる。

 デジタルにとっての未知のウマ娘を感じたいという気持ちはシリアスで、海を越えることを厭わないほどに強く育っていた。

 

『ああ、充分に決意は伝わった』

『ということで、白ちゃんのチームに入れてね』

『分かった。歓迎する。入学に必要な書類は近いうちに送る』

『わかった』

『ところで親御さんには日本に行くことは伝えたのか?親の許可がなければトレセン学園には入れないぞ』

『大丈夫。パパとママは何だかんだ甘いから許可してくれるよ。じゃあね』

 

 デジタルが電話を切るとトレーナーは大きなガッツポーズをしていた。

 

 

『もしもし白ちゃん?』

 

 デジタルが日本行きを決意してから1週間後、再びデジタルから電話がかかってきた。その声は前回の電話の時と比べあまりにも弱弱しく、今にも泣きそうだった。

 

『どうした?』

『パパとママを説得できないの』

 

 トレーナーはデジタルの言葉を聞き、拍子抜けと少しばかりの落胆を覚える。

 

『デジタル、厳しい事を言うが、両親を説得できないならお前の日本のウマ娘を感じたいという思いはその程度と言うことになるぞ』

『あたしだって色々やったよ!何回も何回も頼み込んだし、日本のウマ娘ちゃんを感じたいって気持ちも伝えた!ハンガーストライキも倒れるぐらいやった!それでもパパとママが日本行きを認めてくれないの!』

 

 その程度という言葉に怒りを覚えたのか語気が荒くなる。声や話す内容を聞く限りでは前の電話で感じた熱意をそのままに親に伝えている。普通の親なら熱意に折れている。それでも日本行きを許可しないというのは余程のことがあるだろう。トレーナーは懐からスケジュール表を取り出しページを開く。

 

『デジタル、親御さんが家に居るのはいつだ?』

『えっと。来週の日曜はパパもママも家に居るよ』

『来週そっちに行くから、家に居るように伝えてくれ』

『行くって、こっちに来るの?』

『両親を説得するのもスカウト活動の一環だからな。じゃあよろしく』

 

 トレーナーは電話を切ると息を深く吐く。

 デジタルは両親を説得するためにやるべきことはやった。それでも説得できないならここからはスカウトするトレーナーの仕事だ。

 説得するためのプレゼン作りに、アメリカに行っている間へのチームのメンバーへの指示、これから忙しくなる。

トレーナーはこれからのことを考え若干憂鬱になりながら、行動に移った。

 

───

 

 トレーナーは呼び鈴を押す。それだけの動作で酷く緊張して喉が渇き心臓の鼓動が高鳴っているのを感じる。この緊張感は嫁の親に初めて挨拶する時のようだ。だがある意味似ているのかもしれない。

 もし今日両親にデジタルの日本行きを説得できなければ、デジタルの日本行きは絶たれて、自らの手で逸材を育てると言う夢も断たれる。ここはトレーナー人生を左右する場面だ。

 扉の奥からこちらに向かってくる音が聞こえる。音だけでデジタルだということがすぐ判別できた。

 

『お願い、パパとママを説得して』

 

 デジタルは扉を開けると不安げにトレーナーに話しかける。その言葉にトレーナーは無言で力強く頷いた。

扉を開けて進むと玄関は無くすぐにリビングになっており、部屋は40帖ほどの広さで床は木のフローリング、家具や壁紙をスモーキーな色で落ち着いた色になっている。

 部屋の中央には食卓が設置されており、横には黒のソファーと壁際には42インチほどのテレビがあった。

 食卓には上座には両親がすでに座っていた。母親は金髪のセミロングで体型もスラっとしておりモデルのようだ。人の良さそうな顔つきなのだろうが、今は警戒心を向けて表情が険しい

父親は赤髪のオールバックでメガネをかけている、身長も高くスポーツをしているのか横にも大きい、母親と比べると警戒心は薄いが目つきは鋭く値踏みしているようだ。トレーナーは下座に座り、デジタルは隣に座った。

 

『はじめまして、日本のトレセン学園に所属しているトレーナーです。本日は貴重な時間を割いていただきありがとうございます。つまらないものですがどうぞ』

 

 トレーナーは深々と頭を下げた後持参してきた菓子折りを手渡す。父親は表情を変えることなく受け取り横においた。

 

『今日はお時間を割いていただきありがとうございます。まずアグネスデジタルさんがチームに入るに差し当たって、特待生枠を使わせていただきます』

『特待生枠とは?』

『特待生枠とは学費や入学金や寮生活における支払いも免除されます。トレーナーごとに枠の数が決まっており、もしアグネスデジタルさんに枠を使用すれば、向こう5年は枠を貰えません。それほどアグネスデジタルさんを評価しているということを理解していただきたい』

 

 中央ウマ娘協会は常にスターを欲している。仮にスター候補が金銭的な理由でトレセン学園に入れないという事態を阻止する為に作られたのが特待生枠である。この制度を使って未来のスターを確保するのが協会の狙いだ。

枠の数は決まっており、成績上位トレーナーほど多く割り振られる。枠を使って入学した選手が活躍しなければ協会は損をするので、実績があるトレーナーに多く割り振るのは当然である。

 そしてトレーナーが持っている枠は1つで、この枠を使えば5年は使えない。これは仮に才能あるウマ娘を見つけても枠を使ってスカウトできないことを意味する。そのリスクを冒してもデジタルを欲しいという決意表明だった。

 

『そしてアグネスデジタルさんはレースに勝ちたいからレースに出たいから走るのではなく、レースを通してウマ娘を感じたいから走るというポリシーであることを存じています。その意志を尊重するために出走レースの選択権を彼女に委ねます。仮にGIレースとグレードが低いレースがあったとして、気になるウマ娘がいるのでグレードが低いレースを走りたいと言えば、そちらのほうを走らせましょう。自分の名誉や欲の為にレースを選ぶことは決してしません』

 

 アグネスデジタルというウマ娘は走る動機が一般的なウマ娘とは異なる。そこを知らなければトレーナーとは衝突するだろう。両親もデジタルの性格を知っているので、そういうことが無いとアピールする。

 言葉を聞いた両親の表情とトレーナーに向ける目線が変わる。これは認められた表情だ。トレーナーも自身の印象が良くなったのを感じ取っていた。

 

『御両親はアグネスデジタルさんが日本のトレセン学園に入学することを許可しないと聞いております。宜しければ理由を聞かせていただけませんか?』

 

 トレーナーは限りなく柔らかな声色で理由を尋ねる。すると母親は若干ヒステリック気味に答える。

 

『まず私はレースに参加する事自体が反対です。あんな猛スピードで走ってもし何かが有ったらどうするんです!そんなことになったら……』

 

 母親は手のひらで顔を覆う。

 レースは決して安全ではない、60kmで走りながらポジションを確保する為に時には体をぶつけることもある。その際に転倒し足に重度の怪我をして日常に支障をきたすこともある。さらに転倒の際に頭を打てば最悪死亡する可能性もある。

 

『確かにレースの危険性があることはお母様が言う通り事実です。アグネスデジタルさんに不幸な事故が起きないとは断言できません。そのようなことが起きる可能性が限りなく低くなるように日々のケアは入念に行っており、怪我が起きても最新鋭の治療を施せる病院やリハビリ施設と当学園は提携しております』

 

 トレーナーは予め作っていた資料を両親に手渡す。資料に目を通している間にさらに話を続ける。

 

『そして、アグネスデジタルさんはレースを通してウマ娘を感じて交流することを生き甲斐に感じています。それを奪われれば酷く悲しむでしょう。それはお母様が一番分かっているはずです』

『そうだよママ!あたしはウマ娘ちゃんと一緒に走って感じたいの!ウマ娘ちゃんと一緒にレースを走れない人生なんてつまんない!そんなことになったら一生ママを恨むからね!』

 

 デジタルはトレーナーの言葉に続くように母親を説得する。その言葉は説得というより脅迫に近く、目には若干の憎しみが宿っている。その目を見て母親は若干怯んでいた。

 

『なら走るのはアメリカでもいいでしょ!何でわざわざ日本で走るの?』

『だから前も言ったでしょ!あたしは日本のウマ娘ちゃんに興味があって、一緒に走って感じたいの!』

『あなた日本語は喋れないでしょ!言語が通じないのは想像以上に辛いのよ!それに文化も違う!あなたに耐えられるの!?』

 

 デジタルの語気の強さに反応するように母親も語気を強くしヒートアップしている。その言葉には実感がこもっている。恐らく母親も外国に行って苦労した経験があるのだろう。トレーナーは手で両者を制しながら話を続ける。

 

『言語についてですが、当学園には言語習得プログラムが組まれており、アメリカの他にイギリスやフランスなどからも来ている選手もおりますが、大概の選手は在学期間で日常生活に支障がないほどの日本語を習得できます。そして寮では海外から来たウマ娘は同郷の者と一緒になります。それに最近は海外から来る者も多く、クラスに数人はおりますので孤独になることは少ないです』

 

 トレーナーは同じように資料を渡す。トレセン学園は海外から来たウマ娘、通称マル外の為に言語講師がおり、普通に講義を受けていれば日本語を覚えられるほど優れたカリキュラムを作っており、大概のマル外は卒業するまでにペラペラに喋れる。

 

『そしてアグネスデジタルさんは将来ウマ娘のトレーナーになりたいと聞いています。私のチームに入っている間、そして卒業後もトレーナー資格を取る為のバックアップを全力で行うと約束します』

 

 トレーナー資格試験は難関だ、何年も準備してやっと取得できるものであり、準備は早ければ早い方がいい。普通のチームは選手にトレーナー資格の為の座学は行わないが、事情を知っている自分なら、いくらでも時間を割いて教えるつもりだ。

 両親達はトレーナー資格の話をすると僅かに表情が変化し、トレーナーへの評価を上げているようだった。

 母親は説明が終わると黙って何か考えるような仕草を見せる。これは説得できたのかもしれない、手ごたえを感じていると父親が口を開いた。

 

『貴方から見てデジタルの選手としての素質はどうですか?』

『逸材と呼べます。私もアメリカやヨーロッパで名選手と呼べるウマ娘を見てきましたが、それに比肩するほどだと思います』

 

 トレーナーは率直に意見を言う。デジタルはトレーナー人生で一番の素材だ。幼少期から成長した走る姿を見て、それは確信になっている。

 

『私は昔アメフトをやっておりましてね。プロにはなれませんでしたが、強豪校でレギュラーでした。その競技生活の中で良い選手はよりよい環境で才能を伸ばすべきだと考えています』

 

 父親はゆったりとした口調で話を切り出す。だがその話し方とは違いトレーナーに向ける視線は鋭く厳しかった。

 

『デジタルから貴方のことを訊き調べさせてもらいました。まず日本とアメリカではそれなりのレベルの差があると聞きました。これは事実ですか?』

『はい。事実です』

 

 トレーナーは苦々しく答える。勉強会を通してレベルの差は痛感している。さらに以前アメリカのブリーダーズカップクラシックに挑戦したウマ娘が居たが、直前で調子を崩していたせいもあったが1着から26バ身という大差をつけて敗北した事実が結果を物語っている。

 

『そして貴方は日本でもトップトレーナーではなく、中堅ぐらいの成績です。もしアメリカの1流トレーナーと日本の中堅トレーナー、娘に才能が有ると知っていたらどちらに預けたいですか?』

 

 トレーナーは唇を噛み拳を握りしめる。より良い才能はより良い環境で育てるべきである。ごもっともだ。自分とアメリカの一流トレーナーでは技術もコネクションも持っている設備も何もかも違う。

 だがはいそうですかと肯定するわけにはいかない。トレーナーは1つ深呼吸をして父親の目を真っすぐ見ながら喋る。

 

『確かにお父様の言う通りです。私はまだまだ未熟です。ですがご両親がアグネスデジタルという人間をこの世で一番知っているとしたら、私はアグネスデジタルという人間を3番目に知っており、アグネスデジタルというアスリートをこの世で1番知っています。幼少期から言葉を交わし、走りを見て時にはアドバイスをし、練習メニューも組みました。私ならデジタルの個性を伸ばし、幸せな選手生活を誰よりも送らせる自信が有ります!』

 

 世界の一流トレーナーと比べ劣っているのは百も承知だ。唯一勝っているのはデジタルを知っているという点のみ、それが唯一のセールスポイントだ。

 その言葉に父親はほうと感心する素振りを見せ、残念そうに目を伏せた後トレーナーに視線を一瞬向けた後、デジタルに視線を向けて喋り始める。

 

『デジタル、日本で走りたいのは未知のウマ娘と走って感じたいからだよね』

『うん』

『でもアメリカのウマ娘を全部感じたのかな?デジタルは今まで外で見て感じてきたにすぎない。内で、一緒にレースに走って感じたことはない。それは大きな違いがあると思う。それこそ未知なんじゃないのかな』

『それはそうかもしれないけど』

『それにデジタルもケンタッキーダービーやブリーダーズカップなどの大きなレースを走りたいよね?』

『それは大きな舞台で一緒に走って感じられれば素敵だと思うけど』

『トレーナーさんはデジタルの才能を認めてくれた。大きな舞台で走れるかもしれない。でも日本は文化も食事も何もかも違って、本来の実力を発揮できないかもしれない。それだったら日本の大きな舞台でも走れないかもしれない。それだったら慣れ親しんだアメリカで走ってウマ娘達を感じればいいと思うけどな』

『そうかもしれないけど……でも……』

 

 デジタルの声量が徐々に小さくなり言葉の歯切れも悪くなっている。明らかに揺らいでいるのが見て取れる。ここで反論しなければいけないが父親の言っていることはある意味正しい。

 ファンとして外で見て感じるのと、選手として内で見て感じるのではまるで違う。それこそ内の世界はデジタルにとって未知である。

 これでデジタルが日本ダービーに勝ちたいなど、日本に興味を持っているならいいのだが、日本の未知のウマ娘に興味を持っている。未知の程度にはさほど変わりない。そしてマル外のウマ娘が日本に来て順応できず力を発揮できない例は少なくない。

 

『娘を評価していただいて、様々な指導をしてくださったことは感謝しています。もし貴方がアメリカのトレーナーなら喜んで任せたでしょう。でも私達にとって娘を日本に行かせることはそれほどまでに不安であるということをご理解していただきたい』

 

 父親はトレーナーの目を見つめ、母親も同じようにトレーナーの目を見つめた。

 デジタルが考えて考え抜いて日本行きを決めたように、両親達も娘の幸せと不利益を天秤にかけて考え抜いて決めたのだろう。言葉の1つ1つに娘の幸せを願う気持ちが滲み出ていた。

 トレーナーもデジタルをこの手で育て幸せな選手生活を送らせたいという気持ちは負けていないつもり。だが両親のデジタルを思う気持ちを負けていない。

 このままでは話し合いは平行線を辿るだろう。そして最終決定権が両親に有る以上デジタルが日本に行くことはないと悟った。

 

『分かりました。残念ですがデジタルを日本に行かせることは諦めます』

 

 トレーナーは感情を抑え込むように平静を繕いながら喋る。もし自分にトップトレーナーと呼ばれるような実績が有ればデジタルを預けたかもしれない。もっと知識があれば、もっと実力があれば、己の未熟を呪うばかりだ。

 

『ごめんね白ちゃん。色々やってもらったのに』

 

 デジタルは目を見つめながら弱弱しい声で謝る。もはや親の心境は変ることはなく、アメリカで走るという道を無意識に受け入れてしまっていた。

 

『気にするな。ご両親が言ったようにレースに一緒に走って内でしか感じ取れないことは多い、それをアメリカで走って感じればいい。もし相談したい事があればいつでも連絡してくれ、そしてこれからもメールや電話でウマ娘の話をしよう。デジタルが幸せな選手生活を送れることを日本で祈っているよ』

 

 トレーナーはデジタルに手を指し伸ばすとデジタルは手をしっかり握りブンブンと振った。

 

『じゃあね、またこっち来た時は遊びにきてね』

『ああ、またな』

 

 トレーナーがタクシーに乗り込み出発すると後ろの窓から見えなくなるまで手を振るデジタルを見つめ続けた。

手の平をじっと見つめる。あと少しというところでデジタルは手からすり抜けていった。

 トレーナー人生でこれ以上の逸材は出会えないかもしれない。思わずため息が漏れデジタルの両親に恨みや憎しみを抱きかけるが強引に抑え込む。

 今やることは前を向くことだ。技術や知識を身に着け成績を上げ、第二のデジタルを預けてもらえるようなトレーナーになることだ。

チームメンバーの練習メニューを考えるが無意識にため息が漏れていた。

 

───

 

『では番号36番から40番の方は位置についてください』

 

 デジタルは係員の呼びかけに応じるようにゲートに向かい入っていく。他のウマ娘もゲートに入りスタートを待っている。

 デジタルはアメリカにおける日本のトレセン学園に入る為のトライアウト試験を受けていた。体力テスト、筆記試験、面接、そして今行う模擬レースを行い。その様子を其々のチーム関係者が見て、スカウトしていく。

 このテストの結果によって入るチームが決まり、競技生活が左右されるといってもいい重要な一日である。

 トライアウト試験を受けるにあたってトレーナーから様々なバックアップをしてもらった。体力テストの種目別におけるコツ、面接で面接官が聞くであろう質問をリストアップしてもらって、受け答えの添削もしてもらった。もうチームに入らないというのにここまでやってくれ本当に感謝するばかりだ。

 全員がゲートに入りスターターが上がる数秒前、トレーナーから聞いた模擬レースの心構えを思い出す。

 

『好きなように走れ』

『それだけ?』

『トレーナーが見たいのは選手の可能性だ。この時期のウマ娘なんて素人同然で模擬レースの結果はそこまで重要視していない。1着になろうと小賢しいレースをしても仕方がない。デジタルがしたい走りはなんだ?』

『それはウマ娘ちゃんを感じる走り』

『じゃあそれをしろ』

 

 周りを見ると皆緊張した面持ちをしていた。人生を決めると言ってもいいレースであり、当然の反応だった。だがデジタルは一切緊張せずウマ娘達の息遣いや匂いを感じ取り、緊張しているウマ娘ちゃんもいいな~皆がんばってほしいなと思いながらキョロキョロと物見していた。

 ゲートが開きレースが始まる。距離は1000メートルのダートコースである。

 デジタルは最後尾につける。本来なら先頭をきることもできたが敢えて遅らせた。この位置なら全てのウマ娘を視界に収めることができるからだ。躍動する体、飛び散る汗、懸命な表情、やはりウマ娘が走る姿は良い。デジタルはレースそっちのけで観察していた。

 レースは残り500メートル、そろそろ動かないと1着になれない。結果は重要視してないと言っていたが、1着になるにこしたことはないだろうとスパートをかける。

 デジタルは直線を蛇行しながら駆け上がる。蛇行しているのはまっすぐ走れないからではない。抜き去る前に近づいて感じようと近寄り、堪能したら別のウマ娘に近づくということを繰り返していたからだ。レースは鼻差で1着だったが、2着のウマ娘と比べ数十メートルは余計に走っていた。それは酷くお粗末なレースだった。だがデジタルは満足げな表情を浮かべていた。

 

───

 

『はじめまして、私はこういう者です』

 

 スーツの男は懐から名刺を取り出し、デジタルとその両親が座る机の前に置いた。

 

クールモア、

 

 最近作られたアメリカのチームだが潤沢な資金と優秀な人材を擁しており、いずれはゴドルフィンと並ぶだろうと言われている新進気鋭のチームだ。そのスカウトが勧誘のためにデジタルの家に訪れていた。

 

『トライアウト試験を見させてもらいましたが、粗削りながら実にスケールの大きい走りをしていました。是非クールモアに入っていただきたい』

 

 クールモアの男はそこからチームの説明と入る事のメリットを説明する。話を聞く限りチームに将来性を感じデジタルにとって悪い話ではなかった。だが男の言葉に熱が無いことを両親達は感じ取っていた。

 

『以上で説明を終わりますか、何か質問はありますか?』

『いくつかありますが、よろしいですか?』

『はい、どうぞ』

『デジタルをチームに入れるにあたって、特待生のような恩恵はないのですか?』

『いえ、残念ながら』

 

 父親の質問にクールモアの男は一瞬間を置いて答える。その間は枠を使って取るウマ娘だと思っているのかとバカにされたようだった。日本のトレーナーは貴重な枠を使ってまでデジタルを勧誘したのだがな。脳裏には熱を込めて話すトレーナーの姿を思い浮かべていた。

 

『デジタルは将来トレーナーになることを望んでいます。在籍中にそのバックアップなどはありますか?』

『トレーナーにですか…クールモアに入れば選手として成功することに全力を注いでもらいますので、トレーナーになるための勉強に費やす時間はありません。それにウマ娘のトレーナーは大成しないというのが通説ですので、クールモアで雇う事もありませんしバックアップすることはありません』

 

 母親の質問にクールモアの男は先程の質問と同じように一瞬間を開けて答えた。その態度に母親は顔を顰める。

 男の口角が僅かに上がった。娘の夢を笑ったのだ。確かに目指す夢は実現不可能な途方もない夢なのは知っている。それでも他人に笑われるのは良い気がするわけがない。それに選手の夢の実現するためにサポートするのがチームでは無いのか。デジタルも明らかに不機嫌さを表情に出していた。

 

『最後にデジタルが何故トゥインクルレースで走りたいと思っているか知っていますか?』

「それはレースに勝ちたいからでしょう。では契約書にサインを」

 

 その言葉を聞いた両親に同時に契約書をクールモアの男に突き返した。その行動にデジタルは咄嗟に横を向いて両親を見た。

 

『残念ながら、先約がありますので断らせていただきます』

『大切な娘を貴方たちのような人達に預けられません』

 

 その言葉は刺々しく明らかに敵意が籠っていた。クールモアの男は予想外な反応と敵意に驚くが、即座に表情を戻し毅然とした態度をとる。

 

『そうですか、今回はご縁が無かったということで失礼します』

 

 そう言うと男は家を出ていく。クールモアとしてはデジタルの評価は最低ランクで、チームに入りたければ拒まないレベルだった。あのような態度をとられてまで勧誘する価値は無かった。

 

『パパ、ママ、どういうこと?』

『デジタル、私は良い環境でトレーニングするのがアスリートの幸せだと思っていたが間違っていたよ。本当の幸せは誰よりも理解してくれる指導者の元でやることだった』

 

 父親はデジタルの頭を優しく撫でる。クールモアは恐らく勝利至上主義だろう。それは間違っていると思ないし、現役時代も自身がそうだった。

 デジタルはウマ娘を感じるために走っている。謂わばウマ娘至上主義でその性格からしてクールモアとは全く合わない。いずれ方針の違いで衝突し幸せな競技者生活を送れないだろう。

 デジタルの考えは他のウマ娘とは違う。もしかするとトレーナーの誰一人も理解できないかもしれない。だが日本のトレーナーなら理解し尊重してくる。そのことは無意識で分かっていたはずだ。だが自身のアスリートとしての常識が目を曇らせていた。

 

『デジタルをちっとも理解していないあんな人たちに預けられないわ。それなら外国でもあの日本のトレーナーに任せたほうが良いわね』

 

 母親はデジタルをハグする。

 本当はレースで走ってもらいたくないが、娘が本当にやりたいことならやらせるべきだ。かつて留学で辛い目にあった。そんな思いを娘に味わせたくないと日本行きを反対した。アメリカではそれらの苦労や苦しみはないかもしれない。だがアメリカでもデジタルの考えは理解されず辛い思いをするかもしれない。

 それだったら海外でもデジタルを理解してくれる場所に行った方がいい。それにあのトレーナーなら全身全霊でサポートしてくれるだろう。

 

『デジタル日本に行きたいか?』

『行きたい!』

 

 デジタルは両親の目を見据えて答える。両親の考えによって日本で走る道は閉ざされ諦めていたが、アメリカと日本だったら僅かに日本で走りたいという気持ちが勝っていた。そして両親から日本行きの許可を得た。ならば行くのみだ。

 

───

 

「それで日本に来たと。いや~懐かしいな。昨日のことみたいや」

「それはおじさんだからね、そう感じるでしょ。あたしにとっては長い時間だよ。でもクールモアじゃなくて、白ちゃんのところに行って良かったよ。白ちゃんが芝やダートや地方や海外とか走らせてくれたおかげで、色々なウマ娘ちゃんと交流して感じられた。こんな意味わかんないローテを許可してくれるのは世界中探しても白ちゃんだけだよ」

「それ褒めとんのか?」

「褒めてるよ」

 

 デジタルは満面な笑みをトレーナーに向け、それを見てトレーナーの頬は緩む。

 自身としてはデジタルが多くのGIを取ってくれたおかげで、成績も業界内での評判も上がり良かった。だがデジタルは幸せだったのだろうか?それを何回も自問自答してきた。その答えはデジタルしか分からない。そしてデジタルの今の笑顔がその答えだと思いたい。

 しかしあの小さなウマ娘が今や日本ウマ娘のトップクラスか、その成長ぶりに感慨にふける。だがデジタルは良い意味で日本に来た頃とで変わっていない。

 トップになればそれ相応の責任が付きまとい世間体を気にしなければならない。だがそれらを一切考えず、自分の欲望赴くままに走るだろう。

 現に今後出走する南部杯からブリーダーズカップのローテーションも一部から文句を言われている。すでに勝った南部杯に勝ってもそこまで価値が無いし、叩きのレースとしてもブリーダーズカップに直結せず、現地の前哨戦に出た方がいいという意見が有る。

 その意見は間違っていないとは思う。だがデジタルにとっては南部杯、正確にはヒガシノコウテイとセイシンフブキと走るのはサキーとブリーダーズカップで走る事と同じぐらい重要なのだ。

 そして極端な例をあげればGIレースとシンガポールやアルゼンチンの重賞でもないレースが有り、意中のウマ娘がシンガポールやアルゼンチンで走るとすれば躊躇なく選ぶ。そうなったら世間はデジタルを非難するだろう。その時はデジタルの防波堤になる。デジタルを尊重し走りたいレースを走らせる。それが両親と交わした約束だから。

 

「しかし星が綺麗だね。これを見るとケンタッキーに帰ってきたって感じがする」

 

 デジタルは寝そべり空を見上げ、トレーナーも同じように空を見上げる。空には満点の星空が輝いている。確かにトレセン学園では見られることのない絶景だ。すると一筋の流れ星が落ちる。トレーナーは咄嗟に願いを心の中で言う。

 

「白ちゃんお願いできた?」

「ギリギリな」

「何をお願いしたの?」

「チームメンバーの健康と幸福や。デジタルはできたか?」

「ダメだった。南部杯でコウテイちゃんとフブキちゃんと、ブリーダーズカップクラシックでサキーちゃんと、香港カップか香港マイルでプレちゃんと素敵なレースができますようにって願ったんだけど、あとスぺちゃんとどっかのレースで走りたいな」

「欲張りすぎやろ」

 

 その後は暫くの間2人は星空観賞を楽しんだ後帰路についた。

 

───

 

「じゃあな、しっかり休んで英気を養えよ。それから食いすぎで体重増やすなよ。あと軽く体を動かしてもいいが、普段のトレーニングレベルの強度で体を動かすなよ」

「わかってるって。ちゃんと休むから」

「何べんも言うが休むのもトレーニングやぞ、最近はローテがきつかったし、トリップ走法のせいでダメージが溜まっているからな。しっかり休まないと南部杯もブリーダーズカップも走れんぞ」

『デジタルのことは任せてください。食事メニューなどもセンセイの指示通りしますので』

『助かります』

 

 デジタルの母親はデジタルの肩に手を置きながら任せろといわんばかりに目線を送る。この休養は重要だ、休養の取り方を誤ると調整に支障が出てしまうので家族の協力が必要不可欠だ。

 

「それで7月まで休憩して、8月はアーリントンで合宿して、日本に戻るのは9月だから、次に会うのは9月だね。勉強会頑張ってね」

「ああ、また9月や」

 

 トレーナーとデジタルは別れの挨拶をすますと、トレーナーはタクシーに乗って出発する。デジタルはタクシーが見えなくなるまで手を振り続け、それをトレーナーは後ろの窓から見続けた。その時ふと過去を思い出す。

あの時はデジタルを育てられないと思ったが、今はこうしてデジタルをチームに入れられた。トレーナーは数々の巡りあわせに感謝した。

 




デジタルの過去はトレーナーのモデルの調教師の某コピペを参考に書きました。
マル外の競走馬でしたら馬主が購入して日本で来たですみますが、ウマ娘は人間ですので何故日本に来たという明確な理由が有るよなと思い、何故デジタルが日本に来たという理由を考えていたらこういう話になりました。


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勇者と皇帝と求道者、再び ♯1

この話からif要素が多めです。
出走していない者がレースに出走したり、勝ってないレースに勝ってたりしています。



 

 午前6時、デジタルは軽く息を弾ませながら地元ケンタッキーのランニングコースを走っていた。気温は明朝だが18℃を超えて完全に夏の陽気で、額には汗が滴っている。

 この時期の日本と比べて少し暑いが湿気が少ない。最初は日本の気候に体が慣れてしまったのか少し調子が悪かったが、生まれ故郷だけあって直ぐに順応した。

 ランニングをしながら体の調子を確認する。足や腕もスムーズに出るし故郷に帰った当初の体の重さや倦怠感もそこまで感じない、順調に体が回復してきている。

 このままトレーナーの指示通りに運動強度を徐々に高めれば完全に回復した状態で8月のアーリントン合宿に臨めるだろう。

 ランニングを終えたデジタルはシャワーを済ますと朝食を摂る前に自室に向かうとPCを立ち上げ、アドレスを打ち込む。

 

【では、帝王賞のパドックです】

「よし、丁度いいタイミング」

 

 今日は日本の地方の大井レース場でダート2000メートルGIレース帝王賞が行われ、そのレースにヒガシノコウテイとセイシンフブキが出走する。

 日本に居る時はTVでパドックやレースを見られたが、アメリカでは日本のテレビ番組が見られるわけがない。レースの結果しか見られないと諦めていたが地方ウマ娘協会では何とレースのライブ配信を行っていて、今その恩恵を預かっていた。

 

【2番人気、ヒガシノコウテイ選手です】

 

 パドックでは2番人気のヒガシノコウテイが登場し照明がその姿を照らし出す。

 帝王賞は日本では珍しくドバイワールドカップと同じように陽が落ちてからレースを開始する。

 画面越しで見ているので何とも言えないが調子も良さそうで表情も適度な緊張感を保っている。

 フェブラリーステークスの後は名古屋レース場で行われたダート1900メートルGⅢ名古屋大賞典に勝利している。同じコースと距離の東京大賞典にも勝利し、臨戦過程や実績や実力を考えれば妥当な人気だ。

 地方の総大将として、地方に光を与えたい。その目標の為に懸命に走るだろう、是非とも頑張って地方のウマ娘ちゃんの光になって希望を与えてもらいたい。

 

【1番人気、セイシンフブキ選手です】

 

 そしてセイシンフブキが登場する。フェブラリーステークスのように不気味な静けさを保っている。だが気のせいか怒りの溜め具合が少ない気がする。

 きっと走るコースのせいだろう。このレースはフェブラリーステークスと違ってスタート地点に芝は無く、最初から最後までダートだ。

 そして大井の2000は逃げも先行も差しも追い込みも決まり、紛れが少なく実力差が分かりやすいチャンピオンコースだと以前のインタビューで力説していたのを思い出していた。

 画面からセイシンフブキへの声援が聞こえてくる。フェブラリーステークスでビッグマウスを吐きながら芝も走るデジタルに負けたことでバッシングを受けたが、次走の地元船橋でおこなわれたダート1600GIかしわ記念では見事勝利し、船橋の至宝が中央に流出するのを防いだ。

 セイシンフブキはダートプロフェッショナルとしてダートレースに勝っただけなのだが、近年中央に奪われていた至宝を守ってくれたことが船橋や地方ファンに好印象を与え、日々唱えているダートに対するプライドが少しずつ理解されてきていた。

 少しずつだが報われ始めている。このまま徐々に理解され、ダートへの偏見を無くし地位を高めていき、いずれダートプロフェッショナル達が集まる最高のレース実現のために頑張って欲しいとデジタルは願っていた。

 パドックが終わると本バ場入場が始まり、各ウマ娘がゲートに向かって行く。

 

「あ~緊張する」

 

 デジタルは胸に手を当て思わず叫ぶ。ヒガシノコウテイとセイシンフブキにとって地方の総大将として、ダートプロフェッショナルとして絶対に勝ちたいレースだ、正直に言えばどちらにも勝ってほしい。

 だがレースの勝者は1人だ、同着という例外中の例外があるが2人は納得しないだろう。

 自分とプレストンのようにライバルだ。そんな分け合うような勝利は納得しないだろう。

 

【さあ、レースがスタートしました】

 

 レースが始まり序盤はセイシンフブキが前から4人目の先行グループ、ヒガシノコウテイは中段グループにつける。中盤からヒガシノコウテイが徐々に捲り4コーナー手前でセイシンフブキの1バ身半ぐらい後ろにつける。

 

【最後の直線、カネツフルーヴが後続を突き放す】

 

 直線に入り道中2番手につけていたカネツフルーヴが一気に後続を突き放す。

 カネツフルーヴの後ろにつけていたセイシンフブキは着いていけず、ズルズルと下がっていきバ群に沈んでいく。ヒガシノコウテイも末脚にかけるが思った以上に伸びが無く、さらに後方から来たウマ娘に差されていた。

 結果は1着カネツフルーヴ。ヒガシノコウテイは5着、セイシンフブキは8着に終わった。

 

「う~ん」

 

 デジタルは思わず唸る。コウテイかフブキが勝つ結末を期待していただけに残念な結果に終わってしまった。

 レースの結果は僅かな要因で大きく変わる。連戦連勝なんてオペラオーなどのほんの僅かのウマ娘にしかできない。

 本人にも分からない不調で勝てないことも多くある。デジタルもジュニアC級でGIマイルチャンピオンシップに勝った後、明確にどこか悪いと言えるわけがないのに勝てない日々が続いた。それだけウマ娘は繊細である。

 それにカネツフルーヴも強かった。今日はGI初勝利で喜ぶ尊い姿をオカズにして朝ごはんを食べよう。部屋から食卓に向かおうとするがふと足が止まる。

 今日のヒガシノコウテイとセイシンフブキはどこか変だった。上手く言語化できないがフェブラリーステークスのような輝きがなかった気がした。

 

───

 

 岩手山。岩手山の別名『岩鷲山』。春も進んで、頂上付近の雪が溶けていった形が羽を拡げた鷲に見えるからそう呼ばれている。

 盛岡レース場の近くにあり、七つの登山道から山頂を目指すことが可能で、岩手山にはそれぞれ個性的な登山道が7本あり、様々な景色が登山客を楽しませる。

 岩手の名所の1つであり、7月ということもあってか夏休みを利用して多くの登山客が訪れ、雄大な景色は日々の疲れを癒し明日への活力を生み出す。そんな雄大な光景に目もくれず一心不乱に走るウマ娘が居た。

 ヒガシノコウテイである。3つ編みを揺らし汗だくになりながら鬼気迫る表情で走っている。夏の陽気が容赦なく体力を奪っていく。

 岩手山の登山道を使ったトレイルランニングは岩手ウマ娘協会所属のウマ娘には伝統的なトレーニングだ。

 レースで走らない山道を走る事で、普段では使わない筋肉を刺激しレースに必要な筋肉を鍛え上げている。

 常人より身体能力が優れたウマ娘のスピードトレイルランニングをするのは危険であり、登山客への接触事故を考えれば普通ならできない。

 だが普段の岩手ウマ娘協会の地域貢献と地域の理解もあって時間限定で一部のコースを貸し切りにしてもらっている。

 

 ヒガシノコウテイは1人で一心不乱に走る。後続のウマ娘達はスタート早々に千切っていた。

 コースを上りきり山頂に到着すると雄大な景色が目に飛び込んでくる。

 盛岡の市街や北上山地などがはっきり見える。人の営みと自然の息吹を感じられるまさに絶景だ。だがその絶景を見ても心は晴れなかった。

 帝王賞は中央のカネツフルーヴに持ってかれてしまった。地方の総大将を謳っておきながら何という体たらくだ。

 夏を過ぎ秋になれば南部杯が行われる。帝王賞は100歩譲っても中央に取られてもいい。しかし南部杯だけは死守しなければならない。

 南部杯は岩手ウマ娘協会の歴史と誇りだ。だがメイセイオペラが勝って以降は中央に負け続けていた。

 メイセイオペラの活躍で岩手や地方に目を向けさせることができた。だがこのままではまた離れ岩手ウマ娘ファンの尊厳は踏みにじられ続ける。

 ファン達に胸を張って地方を、岩手を応援していてよかったと誇りを胸に抱いてもらうために勝たなければならない。だが南部杯にはアグネスデジタルが出てくる。

 フェブラリーステークスでは全てを掛けて挑んだつもりだが返り討ちにあった。

 そしてドバイワールドカップやクイーンエリザベス二世カップを走り、さらに成長しているのは見ていて分かる。そしてヒガシノコウテイはある懸念を抱いていた。

 

 このままでは頭打ちではないのか?

 

 中央のように充実した設備が無くても、創意工夫と中央に負けてはなるものかという反骨心があれば勝てるという信念でトレーニングを積み、交流重賞でも中央のウマ娘に勝てるようになった。

 だがアグネスデジタルという天性の才覚でダートと芝の垣根を越えていく異能の勇者には勝てなかった。

 このまま現状維持では勝てない。その焦りと不安が無意識に心をかき乱し帝王賞での敗北に繋がっていた。

 何かしなければならないが、何をすればいいか分からない。その焦りと不安は日が経つごとに心の中で膨らんでいた。

 思考にふけっていると後続のウマ娘達が遅れてやってくる。思考を打ち切ると焦りと不安を悟られないように笑顔を作り労った。

 

「ではしっかりクールダウンをしましょう」

「分かりました」

 

 トレイルランニングを終えたヒガシノコウテイ達はトレーニング場を兼用している盛岡レース場に戻り、実戦形式のメニューをこなし今日のトレーニングを終える。

 ヒガシノコウテイは入念にクールダウンをする。元々体は頑丈な方でもなく、足を痛めているのでいつ再発するか分からない。

 少しでも長く走る為に人一倍クールダウンと体のケアをおこなっていた。

 

「そういえばゴドルフィンが日本に支部を作るんだって」

「ゴドルフィンって、あのアラブの金持ちの?私達に関係なくない」

「それが有るんだよ。最初は中央に息がかかったトレーナーを送り込んで、そのチームにゴドルフィンの施設で鍛えたウマ娘を入れようとしたけど、ダメだったんだって。それで南関にトレーナーを送り込んで、そこから中央のクラシックに参戦したり、地方のダートクラシックを取ろうとするらしいよ」

「だからどこが関係あるの?」

「もしかして私達もゴドルフィンの日本支部にスカウトされるかもって話」

「それこそ関係ないっしょ。スカウトされるとしたらヒガシノコウテイさんぐらいでしょ」

 

 クールダウンついでに雑談に興じるウマ娘の話に耳を傾ける。世間ではそんな動きがあるのか、南部杯のことで頭がいっぱいで全く知らなかった。

 ゴドルフィンの日本進出。それ自体はどうでもいいが、勘違いを生む可能性がある。ゴドルフィンで育てられたウマ娘が居ても地方に所属してデビューから地方で走れば、それは立派な地方ウマ娘だ。

 それでも地方のトレーナー達と一緒に鍛え成長すればいい。

 最悪なのは大半をゴドルフィンの施設で鍛え、名義貸しの状態で出走して地方ウマ娘と名乗ることだ。定義としては間違ってはいない。だがヒガシノコウテイに言わせれば地方ウマ娘ではない。

 地方ウマ娘とは自分を含め、トウケイニセイ、メイセイオペラ、アブクマポーロ、セイシンフブキなど、地方の文化に触れ地方のトレーナーから教わり、地方で鍛えられたウマ娘の事だ。

 ふとその時ヒガシノコウテイの脳裏にある考えが浮かぶ。それは悪魔の囁きだった。

 もし実行すれば自分のアイデンティティの崩壊を招いてしまう。だがこれをすればアグネスデジタルに勝って南部杯の中央流出を防ぐことができる。

 ヒガシノコウテイはクールダウンをするのも忘れ、考え込んでいた。

 

───

 

「よし、これで準備は万端」

 

 メイセイオペラは掃除機をかけ終えると部屋全体を見渡し確認する。

 床も机もしっかり掃除した。お茶請けも好みの物を買ってきた。いつでも来客をもてなせる。といっても1人暮らしのアパートの1室で元々定期的に掃除をしていたので、掃除と準備はすぐに終わった。

 7月のある日、ヒガシノコウテイから相談したいことが有るから家に来ていいかと連絡が来た。

 ここ数日は仕事で忙しいので少し時間が空いてしまうと返信すると、出来るだけ早く話したいと返事が返ってくる。

 ヒガシノコウテイはそこまで我を押し通すタイプではない、それでも何とかして時間を作ってくれと頼んできた。これは只事ではないと会社の上司に頼み込み急遽休みをとっていた。

 すると呼び鈴が鳴り、扉のドアアイから外を覗き込むと思わず目を見開き勢いよく扉を開ける。

 

「テイちゃんどうしたの!?」

「ごめんね時間作ってもらって…」

 

 目の前に立つヒガシノコウテイは目にクマができて顔色が悪く生気がない。まるで何日も連続で徹夜したようだった。

 

「とりあえず中に入って」

「うん」

 

 メイセイオペラは中に招くと部屋の中央の座布団にヒガシノコウテイ座らせると、台所に向かい飲み物とお茶請けを用意し始める。

 

「飲み物は紅茶でいい?」

「何でもいいよ」

 

 ヒガシノコウテイはポツリと呟くように返事する。声まで生気がない、以前会った時は南部杯勝利を掲げ生気に満ち溢れていた。だが今では引退間近の燃え尽きたウマ娘のようだ。

 メイセイオペラは2人分の紅茶とお茶請けを置いて対面に座る。

 

「それで相談したいことって何?」

 

 ゆっくりとした口調で質問する。ヒガシノコウテイは言葉を纏めているのか十数秒ほど沈黙するが、焦れることなく待ち続けた。するとゆっくりと口を開き始めた。

 

「オペラお姉ちゃんはゴドルフィンって知っている?」

「ごめんね、詳しくは知らない」

「まあウマ娘のチーム、中東のビッグチームで、それが日本に支部を置くんだって」

「そうなんだ」

「それで私は……ゴドルフィンの力を借りようか迷っているの……」

 

 ヒガシノコウテイは唇を噛みしめ絞り出すように言葉を紡ぐ。こんな悲痛な表情は長い付き合いだが初めて見るものだった。

 

「私は……地方ウマ娘であることを誇り思いトレーニングを積んできた。施設が良くなくても創意工夫して頑張ればオペラお姉ちゃんみたいになれると思った……でもこのままじゃアグネスデジタルには勝てない!勝てないの!」

 

 ヒガシノコウテイはヒステリックに叫ぶ。地方と中央の環境の違いは現役時代に痛感していた。

 ウマ娘にとって少しでも速くなりたいという気持ちは本能のようなものだ。その為に施設と人材が充実している中央に移籍するのは責められることではない。

 メイセイオペラも何度も中央に移籍するべきかと悩み、地方への愛と地方に居た方が強くなれると信じて残った。そして目の前の後輩も同じ悩みを抱えている。

 

「そのゴドルフィンに移籍しようと悩んでいるの?」

「違う!ゴドルフィンは日本に自分達の力を示したい、だから私がゴドルフィンに短期留学して南部杯に勝って『ゴドルフィンのトレーニングで勝てました』と宣伝する。ストリートクライに先着し、世界最強のサキーを追い詰めたアグネスデジタルに勝てば宣伝効果は絶大で門を叩くウマ娘が増える。この提案を飲んでくれる可能性は充分に有ると思うの!」

「そうなんだ。岩手から移籍する気はないんだね。だったらすればいいんじゃない?」

「それをしてしまったら……私は……『私達の』ヒガシノコウテイじゃなくなっちゃう!」

 

───私達の

 

 以前にオグリキャップを罵倒した際に使った言葉だ。ヒガシノコウテイは誰よりも地方を愛し、誰よりも地方のファン心理を理解できている。

 地方から中央に出て活躍するのはなく、地方でいる不利を抱えながらそれでもファンの為に地方に残り『私達の』ウマ娘でありたいと思い続けている。

 その信念がタブーとされている稀代のアイドルウマ娘への罵倒にも繋がった。

 

「私はオグリキャップさんに『私達の』オグリキャップでないって悪口を言った!オグリキャップさんはフェブラリーステークスを見て『私達の』ヒガシノコウテイの強さを見たと褒めてくれた。でもそれだけじゃ南部杯に勝てない!でも『私達の』ヒガシノコウテイで居たいよ!ねえどうすればいい?どうすればいいのオペラお姉ちゃん!?」

 

 ヒガシノコウテイはメイセイオペラに掴みかかりその衝撃でカップから紅茶が零れカーペットを濡らす。

 

 どこまでが『私達の』ウマ娘になるのか?それは完全に個人の価値観だ。

 ゴドルフィンで鍛え育てられても地方に籍を置いていれば『私達の』ウマ娘と認めてくれる人もいる。

 地方所属で民間のトレーニング施設、通称外厩と呼ばれる中央や地方でもないトレーニング施設を利用しても『私達の』ウマ娘と認めてくれる人もいる。

 そしてヒガシノコウテイの『私達の』基準はとても厳しい。

 他者の力を借りず、地方の人間と地方の施設を使って鍛え育てられた極めて純度が高い存在が『私達』のウマ娘の条件だった。

 

 メイセイオペラは思わず答えに詰まる。

 例えば岩手県代表で甲子園に出場した高校のスタメンとベンチメンバーが全員中学まで大阪で野球をしていたとしたら、このチームは岩手県の代表と認められるか?

 岩手の高校に入って指導を受けたので岩手代表と認める人もいる一方で、中学まで大阪で育ったのならばそれはもはや大阪のチームと言う人もいる。それと同じように非常にデリケートな問題だ。

 

「オペラお姉ちゃんも外厩を使ったでしょ。その時はどう思った?『私達の』メイセイオペラじゃなくなると思った?」

 

 確かに現役時代に福島の民間のトレーニング施設を使った。

 その時はヒガシノコウテイほど純性に拘りはなく、地方ウマ娘としての純性が損なわれると思っていなかった。ただ強くなり、アブクマポーロに勝ちたい、南部杯に勝ちたいと思っていただけだった。

 

「逆に聞くけどテイちゃんは私が外厩を使った時はどう思った?」

「それはどうして外厩を使うのって怒ったよ。でもオペラお姉ちゃんは岩手のウマ娘だよ。地方のために残って、地方の為に戦った私やファンに希望を与えてくれた。そんな人が『私達の』メイセイオペラじゃないわけじゃない!」

「じゃあ答えは出てるよ」

「どういうこと?」

「ようは気の持ちよう、ゴドルフィンの施設でトレーニングしてもテイちゃんが『私達の』ヒガシノコウテイだと思えば、外野が何と言おうとテイちゃんは『私達の』ヒガシノコウテイだよ」

「そうかな…でも…」

 

 ヒガシノコウテイはブツブツと呟きながら俯く。メイセイオペラは呟きが治まるのを待ってしっかりと目を見据えて語り掛ける。

 

「辛い事を言うけど、これはとっても難しい問題でテイちゃんが答えを出さなきゃいけないの。だから考えて考えていっぱい悩んで。そしてどんな答えが出ても私は支持するから。ごめんね力になれなくて」

「そんなことない、ありがとう。これからいっぱい考えて悩むよ」

「そういえば仕事場でこんなことが有ったんだよ」

 

 メイセイオペラは話題を強引にかえる。職場で起こった事、友人の話、最近ハマっている食べ物やドラマの話、愛おしい後輩が一時でも悩みを忘れ解放されるようにといつも以上に饒舌に喋った。

 

───

 

 ヒガシノコウテイは何一つ光が無く暗黒空間と化した自室で座り込み思考に没頭する。

 

 どうすればいい?どうすればいい?どうすればいい?

 

 メイセイオペラに相談した後、トレーニングをせず最低限の生命活動以外はひたすら思考していた。トレーナーに考えたい事があるから数日トレーニングを休むと伝えると何も言わず了承してくれた。

 自信の信念とプライド、ファン達の幸せ、考えられる全ての様子を吟味し考える。そして時間感覚が失われるほどの思考の果てに結論が出た。

 

 ゴドルフィンの力を借りる。

 

 重要なのは南部杯に勝ち岩手の皆に希望を与え、誇りを取り戻すことだ。そのために自分が定義した『私達の』ウマ娘から外れる。

 何かを得るためには何かを手放さなければならない。それが『私達の』ウマ娘だ。

 ある者は手放す事は弱さだと言うかもしれないが、それは強者の理論だ。弱者は多くの物を差し出してやっと手に入れられる資格を得る。

 自身が定義した『私達の』ヒガシノコウテイの定義からは外れる。だが心は『私達の』ウマ娘であるつもりだ。そして願わくば岩手の皆が『私達の』ヒガシノコウテイと呼んでくることを願うばかりだ。

 

「弱いって辛いな…」

 

 ヒガシノコウテイはポツリと呟く。強ければゴドルフィンの力を借りず正真正銘の『私達の』ヒガシノコウテイとして南部杯に勝利し、幸せの絶頂で居られただろう。

 だがそれは夢だ。もう夢見る少女ではいられない。

 



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勇者と皇帝と求道者、再び♯2

「師匠…ペース落としましょうよ……このままじゃあ脱水症状になっちゃいますよ……」

 

 アジュディミツオーが息を切らせしながら進言した。季節は夏になり真夏日が続き、今日にいたっては今年最高気温を記録していた。

 現役GIウマ娘のメニューをデビュー前のウマ娘が全部こなそうとすれば冗談抜きで死んでしまう。

 

「お前は休んでろ、アタシは続ける」

「わかりました」

 

 やっとの思いで返事をすると覚束ない足取りで日陰のベンチに向かい、そこに腰掛け水分補給しながらセイシンフブキのトレーニングの様子を眺める。

 セイシンフブキは筋トレや補強運動は一切しない。ただ只管ダートコースを走っている。

 そのトレーニングははっきり言えば異質で現代のトレーニング方法とはまるで真逆だ。以前記者が筋トレや補強運動をしないかと訊いたら、思いっきり見下した顔を見せていた。

 未だに理解できないがセイシンフブキにしか分からない確固たる理由があるようだ。

 しかしよく走りこむ。GIレースは春と秋に比較的に集中し、GIを走るようなウマ娘は基本的には夏は休養にあて、そこまで追い込んだトレーニングをしない。

 だがいつもと変わらずトレーニングに励んでいる。帝王賞で負けたのがよほどショックだったのか、数日間塞ぎこみ部屋に籠っていた。だが突如部屋から飛び出し、南部杯、JBC、ジャパンカップダート、東京大賞典を全て勝つと宣言し、トレーニングに励んでいた。

 アジュディミツオーにもセイシンフブキの敗北はショックだった。勝ったカネツフルーヴは決して弱くなかったが勝てない相手ではない。

 そもそも帝王賞で直線に入ってズルズルと後退したのは不可解だった。

 何か怪我や病気を患っているかもしれないと何度もメディカルチェックを受けるように頼み込み、何とか受けてもらったが特に異常は見られず、ますます不可解だった。

 きっと本人にも分からない原因があるはずだ。それからセイシンフブキのレースをDVDディスクが読み込めなくなるまで何度も見た結果、あることに気づいた。確証はまるでなく根拠は勘のみだ。その勘が正しければ負けた理由の1つであることは分かる。

 だが仮に進言してもデビューもしていないウマ娘の言う事に耳を貸さないだろう。そして聞いたとしても根拠を求めてくる。セイシンフブキの言動は荒々しいが理論派だ、勘と言えば殴られて2度と耳を貸さないだろう。どうする?

 

『おい!いつまで休んでる!デビュー前のガキだからって休みすぎだ。それじゃ芝のゴボウ共と一緒だぞ』

 

 コースからセイシンフブキの檄が飛ぶ。気づけば20分近く休んでいた。これは休みすぎだ。アジュディミツオーは急いでトレーニングを再開した。

 

───

 

「全く、師匠も人使いが荒いな」

 

 アジュディミツオーは汗を垂らしながら体に鞭を打ち、夜の繁華街に向かう。

 周囲の人々はこれから楽しい一時を過ごそうと、ラフでオシャレな格好をしている。

 一方アジュディミツオーは量販店にありそうなTシャツに短パンと近場のコンビニに行くような服装で繁華街をぶらつく。

 トレーニング終わった後セイシンフブキから買い出しを頼まれた。

 体中がバキバキで1歩も体を動かしたくないというのに容赦なく雑用を押し付けてくる。一瞬殺意が湧くがその眼光の鋭さに一瞬で屈していた。

 友人などにはそんな時代錯誤なウマ娘の元に居るぐらいなら、船橋の有力チームや中央に行けばいいと言われたことがあった。

 最初は無視していたがあまりにもセイシンフブキへの罵倒が過ぎたので、手を出して黙らせておいた。

 外野は何も分かっていない。目指しているのは真のダートプロフェッショナルであり、セイシンフブキこそ真のダートプロフェッショナルだ。

 多少なりアドバイスをくれることがあるが意味は理解できていない。だがそれは自分がその域に達していないだけだ。いずれ理解できる日が必ずくる。

 だが世間の目は冷たい。かしわ記念では勝ったが帝王賞の惨敗で評価は下がり、口だけウマ娘と罵られている。

 そして次走の南部杯ではアグネスデジタルが参戦してくる。これで負ければダートプロフェッショナルという言葉は口に出せなくなる。

 セイシンブブキは強い、帝王賞で負けたのはたまたまで、南部杯ではダートプロフェッショナルとしてアグネスデジタルを倒してくれる。

 そう言い聞かせながら繁華街を練り歩いていると肩に衝撃が走る。

 普段なら何でもないのだが、疲労困憊の体に大量の荷物を持っており、情けないほど無様に転倒した。

 

「すまない、大丈夫…君は確かフブキのところの」

 

 ぶつかったウマ娘はアジュディミツオーの顔をまじまじと見ながら手を指し伸ばす。

 行き交う人々とは雰囲気が違い、遊びに来たというわけではななさそうだ。服装もファッション誌に載りそうな服装ではないが、シンプルなシャツとパンツで清涼感のある服装でどこか知的なイメージだ。

 アジュディミツオーは脳内の記憶を検索して目の前のウマ娘の情報を掘り出す。

 あれはアブクマポーロ、南関の哲学者と呼ばれた名ダートウマ娘だ。

 以前はセイシンフブキと仲が良かったが、仲違いがあって今は絶縁状態、1回だけアブクマポーロと何があったか聞いたが、思い出しだけでも身の毛がよだつような恐ろしい顔で2度と聞くなと釘を刺された。

 

「ありがとうございますアブクマポーロさん」

「おや、私を知っているのかい」

「はい、現役時代のレースも見ましたが物凄かったです。それに師匠とは以前は仲が良かったみたいっすね」

「ああ、以前は君とフブキのような関係だったよ」

「え?じゃあアブクマポーロさんが師匠の師匠だったってことっすか」

「まあ、否定はしないよ。あの頃は楽しかった。今は身から出た錆とはいえ絶縁関係だけどね」

 

 アブクマポーロは寂しそうに呟く。セイシンフブキの様子からしてお互い仇のように憎んでいると思ったが、アブクマポーロは憎んでいるどころか、好意すら抱いているような気がした。

 

「これも何かの縁だ。次の休みでも私と茶飲み話でもしてくれないか?」

「アタシっすか?」

「フブキが弟子に選んだウマ娘に興味がある」

 

 突然の誘いにアジュディミツオーは思案する。セイシンフブキの師匠であったアブクマポーロ、とても興味がある。

 何よりセイシンフブキが一切口にしない仲違いの詳細を聞けるかもしれない。そして自身が気づいたセイシンフブキの欠点について何か意見してくれるかもない。

 

「はい、喜んで」

 

 アジュディミツオーは快諾するとアブクマポーロと連絡先を交換した。そして帰り道はフブキにバレたら怒られそうだと言いながら、買い出しの荷物を持ってもらった。

 

───

 

「よし間に合った」

 

 アジュディミツオーは時計を見て時刻を確認する。時刻は集合時間10分前、大師匠にあたる人物の会合で遅刻するわけにはいかない。

 買い出しで出会った翌日にお誘いのメールが来て、日時を指定すると即座に承諾の返信がきた。そんなに会いたいのかと多少戸惑いながら場所などを決めていった。

 扉を開けるとテーブル席にはスーツを着たサラリーマンや大学生らしき人物や主婦など様々な客層の人々が座っている。

 そのテーブル席の1つにアブクマポーロの姿があり、本を片手にコーヒーを飲んでいる。

 服装は薄い水色シャツとパンツと出会った時と似た種類の服装で、普通と言えるが、見事に絵になっていた。 

 他の席がチェーン店なら、アブクマポーロがいる席だけまるで高級喫茶店のようで、そこでお茶を楽しむ有名大学の院生といったところか。

 

「すみません遅れました」

「いやこちらが早く来ただけだ、気にしないでくれ」

「何読んでるんですか?」

「ああ、地学の本だよ」

 

 アブクマポーロはアジュディミツオーに表表紙を見せる。そこには「近年における海砂の変化」と書かれていた。

 

「アブクマポーロさんはこういう分野の勉強しているんですか?」

「まあね。ダートを知るうえで役に立つかと思って専攻している。それなりに役に立っているよ」

 

 アジュディミツオーは思わず感嘆の声を上げる。ダートを知るために地学を専攻するとは流石南関東の哲学者と呼ばれただけある。

 

「アブクマポーロさん、よかったらダートについて聞いていいですか?」

「もちろん、今日は大いにダートについて語り合おうか」

 

 アブクマポーロはこの日初めて嬉々とした表情を浮かべた。いきなり本題に入るのは失礼で、ある程度会話して打ち解けてから切り出すのがいいだろう。そして大師匠が語るダートの話を是非聞いてみたい。

 

「それで不良の時の基本理論は……」

 

 アジュディミツオーは過去の選択を後悔していた。アブクマポーロの話は余りにも広く深く難解だった。

 最初は船橋のダートの話になり序盤は自分も理解できる話で楽しく会話していたのだが、徐々に話は複雑化し今は一方的に話を聞いている。セイシンフブキの話も難しいがこの人の話はそれ以上だ。

 

「じゃあ次は川崎のダートについて…」

「スゴイ詳しいっすね。ひょっとしてダートレースは全部見ていたりして」

「もちろん、中央と地方で行われているダートのレースは全て目に通しているよ。今ではWEBでレースを見られるからね。良い時代だ」

 

 アジュディミツオーは話の腰を折るつもりで話題を変えたが、予想以上の答えが返ってきて思わず感嘆の吐息を洩らす。この人は正真正銘のダートマニアだ。

 

「それだったら師匠のレースも全部見ていますよね?」

「もちろん」

「帝王賞は何であんなに負けたと思います?」

 

 だが上手く本題に聞く流れになったので、すかさず軌道修正して切り出す。

 アブクマポーロなら自分と同じ答え、または別の正解を導き出してくれるかもしれないと期待の目で見つめる。

 

「分からない。私はフブキではないからね、何か不調が有ったのかもしれない。いや本人も分からない疲れが有ったかもしれない。それに位置取りや仕掛けのタイミングの僅かなズレで結果は大きく変わるのがレースだ。アジュディミツオー君もレースを走れば分かるよ」

 

 アブクマポーロは話を区切るように何杯目かのコーヒーを口にする。

 その答えに思わずため息をつく、先ほどの言葉は正しいがまるでレース解説者が敗因を聞かれた時に答える常套句のようだ。聞きたいのは明確な答えだ。

 

「と言いたいところだが、心当たりが1つ有る」

「本当ですか?」

「では答え合わせといこうか、君も何か仮説が有るのだろう?そしてその答えの確証が欲しくて私の誘いを受けた」

「はい、目的の1つはそれです。何で分かったんですか?」

「それは孫弟子の考えは分かるさ、それにフブキと似て分かりやすい」

 

 アブクマポーロは昔を懐かしむようにクスクスと笑う。

 何と言う洞察力だろう。自分も分かりやすい方だという自覚はあるが、ここまで読まれるとは思っていなかった。

 

「じゃあ、言います」

 

 アジュディミツオーは自分の仮説を伝える。出来るだけ明確に理論的に、アブクマポーロのように知的で理論的な言葉ではないが、懸命に説明した。

 

「成程、流石フブキが弟子にするだけのことはある」

「ということは?」

「私も同意見だ、前走のフブキの敗北の大きな要因はそれだ」

「だったら、一緒に説得してくれませんか?アブクマポーロさんなら理論的な言葉で師匠を説得できます」

「無理だろうね。私が言っても、いや私だからこそ無理だ。これは相当デリケートかつ根深い問題で解決するのは難しい」

「そんな、何とかならないのかよ…」

 

 アジュディミツオーは思わず項垂れる。やっとセイシンフブキの不調の答えが見つかったのに修正できないだなんて。

 

「私も覚悟を決めるか」

 

 アブクマポーロはぼそりと自分に言い聞かせるように呟く。その表情は並々ならぬ決意が籠っていた。

 

「フブキの欠点を修正できる案がある。だがアジュディミツオー君にも相当キツイ目にあってもらうが、いいかい?」

「もちろん!師匠の調子が戻るなら何だってやりますよ!」

 

 アジュディミツオーは即答する。師匠の為に尽くすのが弟子だ、その反応にかつての弟子の面影を重ねていた

 

───

 

 1時間前の晴れ間が嘘のように曇り雨が滝のように降り注ぐぎ、身体を容赦なく打ち付ける。

 今日晴れのち雨という天気予報だったが、ここまで急激に天候が変化すると思わなかった。雨を回避しようとウマ娘達は小走りで建物に避難する。だがセイシンフブキとアジュディミツオーは誰も居ない船橋レース場のコースに悠然と歩いていく。

 レースが行われるのは晴れの日ばかりではない。雨が降ろうが雪が降ろうが余程のことがない限り中止にならない。そしてこの豪雨でも行われるだろう。

 ならばこの機会を生かさない手は無い。今は練習することで急激に変化し重くなるバ場と雨粒の衝撃を体験できる。

 

「まずアタシが前を走るから後ろについてこい。砂の跳ね返りのスピードや角度を体験しろ。砂が顔に当っても絶対に怯むな」

 

 セイシンフブキは檄のような脅しのような言葉をアジュディミツオーにかけながらスタートの準備をする。

 

「師匠、アタシは今日限りで船橋から去ります」

「理由は?」

 

 準備をやめると淡々とした口調で尋ねながらアジュディミツオーの方へ振り向く。なんて威圧感だ、思わず唾を飲み込む。

 次の言葉を発すれば人生最大の恐怖を味わるだろう。手を見ると震えていた。今ならまだ引き返せる。だがその考えは即座に打ち消し、最大限の勇気を振り絞る。

 

「中央に移籍して芝で走ります」

「あ!?」

 

 セイシンフブキは顔中に血管を浮き出し、これでもかといわんばかりに目を見開き血走った目で睨みつける。

 

「ダートはスゲエといいましたが、勘違いでした。ダートはしょぼくてダサくて、芝で結果が出なかった奴が走る2軍です。ダートから芝に転向して活躍したウマ娘なんていないでしょ?それが証明です」

 

 セイシンフブキの顔にある血管が怒りでどんどんと浮きあがり、今にも血管が切れそうだった。

 アジュディミツオーの言葉の全てが逆鱗に触れていた。今まで見たことが無い表情に、恐怖で声が震えそうになるのを必死で堪えながら言葉を紡ぐ。

 

「実は芝を走る練習をしてたんですよ。その走りでアンタに勝ってやる!勝負しろセイシンフブキ!」

 

 高らかに叫んだ瞬間爆発音のような音が響く、あまりの音量にアジュディミツオーは体をビクりと震わせ怯む。発生源を確認するとそれはセイシンフブキが地面を踏みつけた音だった。

 

「勝負方法は?」

「ダート1600だ!」

「分かった。スタート地点で待っている」

 

 セイシンフブキは小走りでスタート地点に向かって行く。視線が向いていないのを確認すると深く深く息を吐き心臓に手を当てる。

 その表情は憤怒の顔ではなく、能面のような無表情だ。人は怒りの臨界点を突破するとこんな顔になるのか。

 アジュディミツオーの体は意識に反して震える。今すぐに全速力で実家に帰りたい衝動に駆られるが、太腿を何度も叩き強引に足をスタート地点に向かわせる。

 

「スタートの合図はお前が出せ」

「スタート!」

 

 アジュディミツオーは即座に合図してスタートを切る。セイシンフブキは反応が遅れて後手を踏むが、100メートル地点で抜き去って先頭に立つ。

 これはセイシンフブキが速いのもあるが、アジュディミツオーがわざと足を緩めたせいでもある。道中はペースを緩め直線で末脚にかける。

 

 レースの結果は、いやそれはレースですらなかった。直線に入る前は4バ身だった差は直線でみるみる差が広がり、結果はセイシンフブキの大差勝ちで終わった。

 アジュディミツオーはゴール板を通過すると膝から崩れ落ちる。それに気づいたセイシンフブキは歩み寄り手を差し出す。恐る恐る手を握り返そうとするが、その手は引き込まれると同時に後頭部を掴まれダートに叩きつけられた。

 

「どうした芝ウマ娘!完膚なきまでに負けちまったな!ダートは芝の2軍じゃなかったのか!?」

 

 セイシンフブキはしゃがみ込み何度もアジュディミツオーの頭をダートに叩きつける。

 その罵倒の声と行動は外で雨宿りしていたウマ娘達にも伝わっていたが、流石にやりすぎだろうと止めに行こうとするが、その憤怒の念の前に足を竦ませた。

 

「あとアタシは手を抜いていたのは分かるよな!?レースなら道中のペースはもっと速かった!だけど直線まで手を抜いた!お前がいかにクソ雑魚かって分からせるためだよ!」

 

 アジュディミツオーはピクリとも動かなくなるが、構わず叩きつける。それが暫く続くと唐突に手を放し立ち上がる。

 

「失せろ芝ウマ娘、精々中央で芝の軟弱なゴボウ共とかけっこして遊んでろ、まあ通用すると思わねえがな。あとダートだったら通用するかもって戻ってきたら、両足へし折って走れなくするからな。マジだからな。お前みたいなカスが未勝利だろうがダートレースの枠を埋めるのは我慢できない」

 

───弟子に随分と辛辣だね

 

 セイシンフブキは思わず後ろを振り向き、怒りの感情を喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 

「アブクマ!!!てめえの差し金か!!!」

 

 アジュディミツオーはダートに対する情熱はそれなりに認めていた。だが突如の心変わり僅かに不可解とは思っていたが、アブクマポーロの姿を見て察した。

 アブクマポーロが手を引き誑かし芝に引きずり込んだ。もちろん芝に誑かされたアジュディミツオーは悪い、万死に値する。

 だがアブクマポーロがいなければ、このままダートの素晴らしさを教え込みダートプロフェッショナルの道を歩めた可能性もあった。どこまで奪えば気が済むんだ!

 

「その負けイヌ芝ウマ娘を連れて失せろ!!!」

「アジュディミツオー君の走りはどう見えたかい?」

「知るかボケ!!!失せろって言ってんだよアブクマ!!!」

「いいから答えろ」

 

 アブクマポーロは襟を掴まれながら呟く。その声色と発する雰囲気には恐ろしいほどの威圧感が籠っていた。それは我を忘れるほど激怒していたセイシンフブキを正気に戻し恐怖させるほどだった。

 

「無様、本来のこいつの持ち味はスピードの持続力だ。それなのに芝の走りだが知らねえが末脚勝負してどうすんだよ。まるで自分の事を理解してないバカだ」

「実に正しい評価だ。私もそう思うよ」

「答えたぞ、早く失せろ」

「無様で自分の事を理解していないバカはフブキもだよ」

「アッ!?」

 

 セイシンフブキは思わぬ言葉に咄嗟に襟を掴んでいた手を放す。アブクマは襟を正すと淡々と説明を始めた。

 

「まず今年のフェブラリーステークス、スタートが遅れて道中は中団につけた。結果末脚勝負になったが、あれはフブキが1番強かったレースだ」

「は!?あれは最悪のレースだよ!言い訳したくねえけど、先行してたら勝ってた!」

 

 セイシンフブキは嗤いながら反論する。だがアブクマポーロは無視して説明を続ける。

 

「そして今のレースでアジュディミツオー君に力を見せつける為道中は思いっきり緩めた。フブキなら実力差を見せつけるためにそうすると踏んだが予想通りだ。結果上がり勝負になってあの大差だ」

「当然だ!こんなデビュー前のガキ相手に大差をつけられなきゃ切腹もんだ」

「今回は足を溜めすぎたが、仕掛けをもう少し早めればもっと差がついただろう」

「何が言いたい!」

「今のレースを見て確信したよ。フブキの脚質は逃げや先行ではない。差し追い込みだよ」

 

 アブクマポーロとアジュディミツオーが考えた帝王賞の敗因、それは戦法のミスである。

 セイシンフブキは南関東4冠やかしわ記念では逃げや先行で勝ち、大半が前目の位置につけて勝負するウマ娘だと思っていた。

 だが本来は末脚で勝負するウマ娘だ。アジュディミツオーとアブクマポーロは何回もレース映像を見てそれに気づいていた。

 今まで勝ったレースは地力の差でねじ伏せたか、展開のあやで運良く勝ったにすぎないと考えていた。

 

「差し追い込みだ?そんな欠点だらけの戦法を使わなけないだろう!」

「どこが欠点なんだい?」

「ダートなんて基本的後ろにいるほうが不利なんだよ!だから逃げかキックバックがこない位置の先行がベストだ!仮ににキックバックがこない位置につければ外になりやすく、道中で外を回って脚を使っちまうんだよ!そしてそれを嫌って内に入れば詰まる可能性がある!常識だろう」

「模範解答だね。だが先行脚質ではないのに先行するより遥かにマシだ。それに私は差し追い込み捲りで勝ってきたが」

「相手が弱かっただけだろう!」

「嘘はよくないな。コンサートガールやメイセイオペラが強かったのは分かっているだろう」

「違う!弱かっただけだ…」

 

 セイシンフブキの声がどんどん小さくなり歯切れが悪くなっていく。

 メイセイオペラもコンサートガールもダートプロフェッショナルとして尊敬しており強かった。だが本音を偽るためといえど弱いと言ってしまった罪悪感が心を苛む。

 今や怒りによって溢れていたエネルギーはすっかり萎んでいた。それにトドメを刺すように言い放つ。

 

「先行に拘るのは私と同じ戦法を取りたくないからだろ」

「うるせえええ!!!!」

 

 その言葉にセイシンフブキは完全にキレた。アブクマポーロを押し倒し殴りつける。

 拳に伝わる感触がアブクマポーロがドバイワールドカップ出走を辞退し、芝の日経賞を走ると告げた時に激昂して殴った記憶を思い出させる。

 

「そうだよ!!!お前と同じ戦法をとりたくないから先行してるんだよ!!!絶対にお前と同じ戦法なんかするもんか!!!ダートを裏切った!アタシを裏切ったカスと同じなんかに!!!お前と違う戦法で勝ち続けてお前を否定してやる!!!」

 

 無意識に抑え込んで絶対に言わないつもりだった本音、だがそれが決壊したダムのように吐き出され、拳に今まで溜め込んでいた感情を込め殴り続ける。

 

「それで負け続けてもかい?フブキは何のために走っている?勝ち続けてダートの価値を上げる為だろう。私を否定する為じゃないだろう」

「うるさい!うるさい!うるさい!尊敬していたアンタがダートを捨てて芝に行った気持ちが分かるか!?たった1人の同類が!同志が!友達が!アタシがどれだけ悲しくて!どれだけ辛くて!」

「図星を突かれて駄々をこねて暴力を振るう。まるで子供だ!下らない!実に下らない!そんな個人的な感情の為に勝利を放棄するのか!ダートに懸ける情熱と愛はその程度か!何がダートプロフェッショナルだ!今すぐ引退しろ!」

「お前がそれを言うな!!!」

「いい加減にしろセイシンフブキ!!!!!!」

 

 突如空気が震えるような大絶叫が響き渡る。その音に2人は思わず耳を塞ぎ声が聞こえてきた方向を向く。そこには泥だらけのアジュディミツオーが立っていた。

 

「アタシは師匠の走りを見てダートに憧れた!今ではダートが大好きだ!でも師匠がこのままじゃアグネスデジタルや他の芝ウマ娘に負けてダートは芝の2軍って言われ続ける!そんなのヤダ!それに師匠はアタシのヒーローだ!そのヒーローが負けるところなんて見たくないよ!勝って勝って勝ち続けてカッコイイところを見せてよ!」

 

 セイシンフブキの心にアジュディミツオーの言葉が突き刺さる。

 そうだ今度アグネスデジタルに南部杯に負けたらダートの息の根は完全に止められる。そうなればダートは見下され貶され続ける。

 かつての自分と同じ思いを弟子にあわせるつもりはない。そしてカッコイイところを見せてと叫んだ。それは昔の自分が思った感情そのものだった。

 師匠であるアブクマポーロのカッコイイところを見たいと願い続け、それに応えるように勝ち続けた。それにどれだけ救われたか。

 目的遂行のために私情を挟まず最大限の努力をするのがプロフェッショナルだ。

 今の姿はまるで反対ではないか、過去の出来事に囚われ私情を挟み努力をしない。何がダートプロフェッショナルだ。ちゃんちゃらおかしい。

 

「あああああ!!!」

 

 セイシンフブキは絶叫した後自分の頬を全力で殴りつける鼻から血がボタボタと流れ落ち蹲った。その奇行に2人は思わず視線を向ける。

 

「アタシはこれからは差しで勝負する。心配かけて悪かったなアジュディミツオー、これから勝ち続けてカッコイイ姿を見せ続けてやるよ」

「師匠」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキに抱き着き、セイシンブブキは頭をポンポンと撫でる。

 その時の表情は憑き物が落ちたようで、今まで見たことない穏やかなで優し気な表情だった。

 

「アブクマ姐さんも迷惑かけて面目ないっす」

「弟子を導くのは師匠の役目だ。気にするな」

 

 セイシンフブキは頭を下げ、アブクマポーロは同じようにポンポンと頭を撫でた。アブクマ姐さんと呼ばれたのはいつ以来だろう。その言葉を噛みしめていた。

 

───

 

 アブクマポーロはセイシンフブキの部屋を見渡す。床や壁に貼られている書類、パッと見ただけでダートについて書かれているのが分かる。他にも様々な砂が入っている瓶、棚に入っているDVDは各レース場の行われた地方重賞の映像だろう。

 まるで現役時代の自分の部屋にタイムスリップしたようだった。

 

 泥だらけになった体を洗った3人は雨宿りと休憩を兼ねて、セイシンフブキの部屋に向かった。

 だが途中でアジュディミツオーは用事があると挙動不審な動きを見せながらどこかに行った。

 2人で積もる話が有ると気を遣ったのだろう。その心遣いに感謝しなければならない。

 

「まずはアジュシミツオー君への誤解を解いておこう。フブキに言った言葉は本心では無く、私が考えたセリフを一語一句言っただけだ」

「やっぱりか。大根すぎる」

 

 セイシンフブキは悪態をつきながらも安堵の息を漏らす様子をアブクマポーロは見つめる。

 他の者にあのセリフを言われても怒りはするが、あそこまで激怒はしなかっただろう。

 アジュディミツオーを同志であり、未来のダートプロフェッショナルになれる存在であると認めていたからこそ、深く悲しみ烈火の如く怒ったのだ。

 

「しかしあのセリフは効いた。あんなクソムカつく言葉を思いつくだなんて、久しぶりにキレちゃいましたよ。今思い出しただけでムカつく」

「そうだろ、苦労した分だけ成果が有った」

 

 激怒したセイシンフブキが取る行動は相手が最も屈辱を感じる方法をすることだ。

 アジュディミツオーが末脚勝負を選んだなら、同じ土俵に立って叩きつぶす。その為には我を忘れるぐらい怒らせなければならない。

 ダートを愛しているからこそ1番言われたくない言葉も分かる。だが自分で考えているうちに腹が立ち何本もペンをへし折っていた。

 

「姐さん、実は聞きたい事があります。ドバイワールドカップの件です」

 

 セイシンフブキは今までの雑談を話すような空気から一転し、重苦しく話しかける。

 アブクマポーロと仲違いしたのはドバイワールドカップに出走せず、芝の日経賞に出走したのが原因だった。

 今までは裏切られた悲しみと憎しみからダートを裏切ったと決めつけていた。

 だが脚質のことで言い争い、今こうして話しているとダートを捨てているとは思えない。何かしらの事情が有るのかもしれない。

 

「その事か、自分の醜態を晒すようでフブキには言いたくなかったが、話しておこう」

 

 アブクマポーロは息を吐くと覚悟を決めたのか、厳しい表情を浮かべながら語り始めた。

 

「そんなことがあったなんて」

 

 セイシンフブキは唇を噛みしめる。本当は出走する気が有ったが船橋ウマ娘協会がドバイ遠征費を一切出さず、さらにトレーナーまで解雇すると脅迫されていた。そんな事情が有った何てまるで知らなかった。

 

「なんで言ってくれなかったんですか?そんな理由があれば裏切ったなんて…」

「いや裏切りだよ。ドバイに行くなら借金でもして行けばよかった。私にはその覚悟が無かった。フブキならそうしただろう」

「……はい。犯罪してでも金を集めたと思います」

「実にフブキらしい答えだ」

 

 倫理観はともかく、このどんな手段を使ってもやり遂げるもいう決断的な意志、アブグポーロの口角が上がる。

 

「それが私の限界だ。だがフブキは違う。ダートを愛し、ダートの為に全てを投げ出せるウマ娘だ」

「そんな、姐さんのことを勝手に恨んで末脚勝負しなかったウマ娘ですよ」

「確かにね。でも今は違う。フブキはもう道を迷わない。だから師匠として1人のダート愛好家として頼みがある。勝ちづけてダートを守り価値を上げ、ダートプロフェッショナル18人が走る夢のレースを見せてくれ」

 

 アブクマポーロは深々と頭を下げた。自分が達成できなかった理想を弟子に背負わせる。何とも無責任だと自覚しているが、できると信じていた。

 

「任せてください。アタシがやってやりますよ」

 

その願いに力強く宣言した。

 

 



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勇者と皇帝と求道者、再び ♯3

『アグネスデジタル!GO!GO!GO!』

 

 残り100メートルをきって前のウマ娘まで1バ身、デジタルは力を振り絞り追走しゴール板直前で僅かに差し切った。

 

『良い走りだ!グッドガール!グッドガール!』

 

 ニールセンは走り終えたデジタルに駆け寄り、汗が着くのをいとわず抱き着き頭を荒々しく撫でる。

 そして今度は一緒に走っていたウマ娘の元に近づき同じように抱き着き頭を荒々しく撫でて褒めていた。

 ニールセンは基本的にスパルタだが良い走りをするとこうやってハグをして褒めて労う。トレーナーはこんな褒め方は絶対にしないなと考えながら、次のトレーニングに向けて準備を始めた。

 

 休養期間を終えたデジタルはアーリントンに向かった。サキーとデジタルが出走を予定しているブリーダーズカップクラシックだが、今年はアーリントンレース場で行われる。

 現地の環境への馴れとトレーニングを兼ねてトレーナーの友人であるニールセンの元に預けられ、短期留学という形で合宿を行っている。

 こういう形でアメリカのウマ娘を内側から感じられるとはと感慨にふけながらトレーニングに励む。

 違うトレーナーの元でいつもと違うメニューでアメリカのウマ娘達とトレーニングをすることはデジタルにとって良い刺激になっていた。

 

『ねえアグネスデジタル、これからアイスクリームでも食べに行こうよ』

 

 デジタルはカロリー計算をする。トレーナーは体重には人一倍煩く指定された体重をオーバーすればお叱りを受けてしまう。今日の練習量なら少しだけ食べても大丈夫だろう。

 ニールセンの元で1週間に来たがチームメイト達とそれなりに打ち解けていた。

 この栗毛のウマ娘とはウマ娘好きとして気が合い、お互いの国のウマ娘の事を教え合う仲になっていた。

 

『いいよ、でもレース見てからでいい?』

『ああ、キングジョージでサキーが走るんだっけ?OKチームルームで見よう』

 

 デジタルは了承を得ると2人でチームルームに向かった。

 

【サキーだ!1着はサキー!上半期芝ダートの2大レースを制覇!グランドスラムまで残り2つです】

 

『ヤッター!サキーちゃんが勝った!』

 

 サキーが1着になった映像を見てデジタルは飛び跳ね自分の事のように喜ぶ。

 ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、ブリーダーズカップクラシック、この世界4大レースに勝って、全てのウマ娘と関係者を幸福に導くという夢に向かった一歩前進したのだ。喜ばずにはいられない。

 

『勝っちゃったよ、負ければいいのに。確か次は凱旋門でその次はブリーダーズカップクラシックだろ。ゴドルフィンといえば今年から創設されたブリーダーズカップマラソンにはストリートクライも来るんだろ』

 

 栗毛のウマ娘は苦々しく呟く。ストリートクライは既にダート2400メートルのブリーダーズカップマラソンに参戦表明している。

 ドバイワールドカップで殻を破り、アメリカのダートGI1800メートルスティーヴンフォスターHでは2着に6バ身半の大差で圧勝、次のダートGI1800メートルカーペンターHでも勝利し前評判では本命にあげられている。

 初めて会った時は全く印象に残らなかったが、ドバイワールドカップを経て普段は大人しいがレースでは感情むき出しにして走るギャップや友人のキャサリロとの美しい友情物語など、推しポイントが爆上がり中の注目ウマ娘である。

 

『なんで来るのかな』

 

 栗毛のウマ娘は不満げに呟く。ゴドルフィン所属のウマ娘は基本的にアメリカでは人気が無い。原因としてはゴドルフィンが本拠地を置くUAEとアメリカの両国の仲が悪いのがあげられる。

 

『それにディズナウが間に合うか微妙だからな』

 

 ディズナウはアメリカでは絶大な人気を誇っているウマ娘であり、その人気はウマ娘に疎い者も知っているほどだ。

 国民的スーパースター、リアルアメリカンヒーローとも呼ばれ、ある意味サキーの理想ともいえる。

 その人気の理由はブリーダーズカップクラシック2連覇という偉業とその内容にある。

 ブリーダーズカップクラシックはアメリカの誇りである。このレースに勝った者に与えられる名誉は計り知れない。

 一昨年はいつもと少しばかり事情が違った。欧州の刺客、圧倒的なタフネスでGIを勝ち鋼の女と異名をとるジャイアンツコーズウェイが参戦してきた。

 ブリーダーズカップはアメリカの象徴であり誇りだ。それを他国のウマ娘に取られるというのは自由の女神が粉々に砕けることに等しい。

 レースでは圧倒的な勝負根性を誇るジャイアンツコーズウェイを壮絶な叩き合いの末にねじ伏せた。

 

 そして昨年はサキーが参戦した。あの事件があったニューヨークから近くのレース場で、アラブ圏を本拠地とするゴドルフィンにBCクラシックを奪われる事があればショックは昨年の比ではない。

 だがティズナウは昨年のレースと同様に壮絶な叩きあいの末にサキーをねじ伏せた。その際にレース実況が叫んだ「Tiznow win it for America」のフレーズはティズナウのキャッチコピーの1つにもなっている

 これらの活躍は宛ら英雄譚で、活躍は映画化され国内の興行収入の歴代1位を記録していた。

 

『アグネスデジタルもブリーダーズカップに出るんでしょ!万が一サキーのビッチが勝ちそうだったら絶対に1着になってね!』

『でもアタシ日本所属だよ。いいの?』

「よくないけど、ゴドルフィンに勝たれるより100倍マシ!それにアメリカ出身だからいいの!」

『サキーちゃんもアメリカ出身なんだけど』

『それとこれは別!』

 

 栗毛のウマ娘は目を血走らせながら詰め寄る。ゴドルフィンはこんなに嫌われているのか、サキーちゃん可哀そうだなと思いながら、宥めすかしチームルームを出ていった。

 

───

 

『もしもし、サキーちゃん。今大丈夫』

『大丈夫ですよ』

『キングジョージ優勝おめでとう。本当なら現地で見たかったんだけどね。今はアーリントンでトレーニングしているから』

『ありがとうございます。こうしてお祝いの電話をくれただけでも嬉しいです』

 

 デジタルはレースが終わった後サキーに電話をかけた。時差を調べて出やすい時間帯にかけたが、祝勝会などで出る可能性は低いと思ったが幸運にも出てくれた。

 

『アーリントンでの生活はどうですか?』

『うん、楽しいよ。ニールセンさんのチームのウマ娘ちゃんも皆いい子ばかりだし。そういえばストリートクライちゃんも勝ったね』

『はい、強かったです。ドバイで殻を破ってからは手が付けられません。ブリーダーズカップマラソンでもいい成績を残すでしょう』

『きっとこのまま連勝で挑むんだろうな。サキーちゃんも凱旋門賞勝って来るだろうし、アタシも南部杯勝たないとね』

『まだ凱旋門賞は勝ったわけではないですが、そうなるように頑張ります。そういえばそのナンブハイというレースは見られますか?デジタルさんが是非とも走りたいという相手とのレースは気になります』

『見れるよ。あとでアドレスを送るよ。あと聞かなきゃいけないことがあったんだ』

 

 デジタルは南部杯の話題で今日電話をしたもう1つの要件を思い出す。

 

『そういえばゴドルフィンが日本に支部を作るんだって?』

『はい、そういう話を聞いていますが』

『いや、ヒガシノコウテイっていう友達のウマ娘ちゃんがそこでトレーニング受けたくて、サキーちゃんに口添えしてもらいたいってお願いされたんだけど、できる?』

 

 ヒガシノコウテイはゴドルフィンのトレーニングを受けると決意した後、アグネスデジタルに電話した。

 サキーと友人であることは知っていて、そのコネを生かせばより確実にトレーニングを受けられると考えていた。

 デジタルはヒガシノコウテイから言付けを預かりそれを伝えた。

 

『どれだけ影響が有るかは分かりませんが、伝えておきます。これでもそれなりに力があるというか、少しばかりのおねだりは通る立場ですから』

『ありがとう。助かるよ』

『でもデジタルさんはそれでいいんですか?』

 

 ゴドルフィンで行われるトレーニングは最新の理論と技術を駆使した世界最高峰のものだ。

 ヒガシノコウテイがそれを行えば強くなる可能性はあるだろう。そして次走の相手でもある。これでは相手に塩を送っているではないか。

 

『だって、ヒガシノコウテイちゃん凄く困ってそうだったし、それに困ったウマ娘ちゃんが居れば助けてあげないと』

『ぷ…そうですね』

 

 サキーは笑いを堪えながら返答する。そうだアグネスデジタルとはこういうウマ娘だった。

 自分と同じようにウマ娘を愛している。そして愛するウマ娘の為なら自分の利益を重要視しない。

 

『サキーちゃんだって、同じことが起きたらあたしと同じ事するでしょ?』

『そのウマ娘が幸福になるなら喜んでやるでしょう』

『流石ウマ娘ラブ勢』

『私は世界中のウマ娘の皆さんとトレーナーなどの関係者の方々と世界中のウマ娘レースを応援して下さるファンの皆様を愛してますから』

 

 サキーは自身の口上をおどけるように言う。デジタルは思わず笑みをこぼし、そこからの会話は和やかに進んだ。

 

───

 

「初めまして、ヒガシノコウテイです」

 

 ヒガシノコウテイが挨拶すると周りのウマ娘たちはざわつき訝しみながら視線を送る。

 彼女たちはゴドルフィンから日本や世界各国からスカウトされ鍛え上げられ、中央や地方のGIを取りゴドルフィンの力を示そうと送り込まれる尖兵である。

 彼女たちはまだデビュー前の若者だ、その中に既にデビューし何年も経過したウマ娘がいる。ここは設立したばかりでデビュー前のウマ娘しかいないのではないのか?何故そんなウマ娘がいるだろうと思っていたが、ざわめきの原因はそれだけではなかった。

 ヒガシノコウテイが纏う空気、他者を寄せ付けず何か執念じみたその空気にあてられ、ざわついていた。

 一方ヒガシノコウテイは他のウマ娘達のことを気にすることなく、他の者が並んでいる列に入った。

 

 ヒガシノコウテイはアグネスデジタルの口添えもあって、ゴドルフィンの育成施設に入ることはできた。

 条件は南部杯に勝てたらゴドルフィンの育成施設の有用性をアピールすること、そして賞金の半分を渡すこと。

 高い施設利用料を払ってさらに賞金まで持っていく、完全に足元を見ているが気にしない。身入りが減っても構わないし施設料も今まで貯めていた賞金を使えば何とか払える。

 南部杯に勝てさえすれば何だっていい。こちらも得してゴドルフィンも得する。ウィンウィンだ。こうしてヒガシノコウテイのゴドルフィンでの生活が始まった。

 ゴドルフィンでの生活は岩手の時とはまるで違っていた。長さ1000メートルにも及ぶ坂路コース、傾斜が異なった複数のコースがあり、日本の主要コースの傾斜が同じらしい。

 他にもレースで必要な筋肉を鍛えるためにプールで泳いだりするが、そこには水泳専門のコーチがおり、負荷をかけるために逆流を発生させる装置もある。

 他にも体づくりに必要な食事や栄養剤を提供する栄養管理士やスタッフ、トレーニング映像を録画し解析する分析班、ここにはトレセン学園と同等の施設が揃っていた。ましてや岩手とは月とすっぽんという言葉でも足りないぐらいである。

 そんな最高級の施設でヒガシノコウテイは一心不乱にトレーニングをした。

 

「しかしヒガシノコウテイは凄いですね」

 

 スタッフルームで今日のウマ娘達のトレーニング結果と今後の指針を検討し合っていたスタッフ達だが、ある1人がポツリと呟く。

 

「集中力がずば抜けています。トレーニングの全てを吸収しようと神経を張り巡らし思考を展開しています。今のメンツも賞金で家族を養わなければというハングリー精神が強いのも居るんですが、それらより貪欲です。どうやったらあんな風になるのか。正直ボクも接していて怖いです」

「分かる。あとヒガシノコウテイが他のウマ娘と喋っているところ見たことがない。別にここは仲良しクラブでもないから馴れ合えとは言わんが、それでも仲のいいグループを作りトレーニング時間外では息抜きしている。そうしないとパンクするからな。でもしない」

 

 その発言を皮切りにそれぞれがヒガシノコウテイについて喋り始める。その存在は長年ウマ娘の育成に関わってきたスタッフ達にとっても異質だった。

 トレーニング中に見つめるその目、もっと教えろもっと寄越せと強くなるための術を全て根こそぎ奪おうと脅迫しているようだった。

 職務としてウマ娘達が強くなるために全てを教えなければならないのだが、それとは別の感情で教えているようだった。

 

「ヒガシノコウテイは何でここに来たんでしたっけ?」

「確か南部杯というレースに勝ちたいからだと」

「南部杯って確かダートGIレースですよね。それだったら普通フェブラリーステークスやジャパンカップダートですよね。賞金も価値も高いですし」

「分からんよ地方のウマ娘のことは」

 

 この発言以降ヒガシノコウテイの話題は出ず、他のウマ娘の話題に移った。

 

 ゴドルフィンの宿舎の1室、ヒガシノコウテイは1人机に向かいながらペンを動かしていた。

 基本的には1室に2人で生活するのだが、ヒガシノコウテイのあまりの近寄りづらさにルームメイトが頼むから部屋を移してくれと懇願し、結果物置にベッドと机を置いたような場所に移動させられた。

 今書いているのは今日のトレーニング内容とスタッフの言葉だった。岩手に居たときはこのようなことをしなかったが、ここに来てから始めた。

 岩手ではゴドルフィンの施設を作ることは不可能だ、しかし技術は伝えられる。

 岩手のウマ娘や後に続く後輩のために少しでも技術を盗み伝える。自分に教えられた技術はもちろん、他のウマ娘に教えている技術も記憶しノートに記していた。

 他人に教えるためには自分で完璧に理解しなければならない。強くなり皆に伝えるために極限まで集中しトレーニングを行っていた。

 ゴドルフィンでの生活はまるで囚人、いやそれ以上に過酷だった。他人と交わらず娯楽などで精神の癒しを求めず、生活の全てを強くなるために費やす。

 ヒガシノコウテイはそこまでストイックな人間ではない。仲間たちと語り合い、トレーニングやレースで苦楽を共にし、プライベートでは遊んでふざけて笑って、そんなごく普通の若者が送る青春の1ページのような生活を送っていた。だがここに来て全てを捨てた。

 このような生活を好きでやっているわけではない。岩手での生活を恋しく思うこともあるが一瞬で奥底に沈めて鍵をかける。

 これは罰だ。弱いせいで純性を保てず『私達』のヒガシノコウテイを捨てた当然の報いである。

 ヒガシコウテイは自傷行為のように没頭しノートを書き続けた。

 

───

 

 メイセイオペラは車から降りると目の前のクラブハウスを見上げる。汚れ1つ見当たらない新築の外観に中心には青のエンブレム、ここがゴドルフィンの外厩か。

 かつて現役時代には福島にある外厩でトレーニングをしたが、このクラブハウスを見ただけで質や規模が上であると見て取れる。そしてしばらく見るとクラブハウスに向かって歩を進めていく。

 ヒガシノコウテイがゴドルフィンの外厩に入ってから全く連絡が取れていなかった。

 両親達は比較的に放任主義で、便りがないのが良い知らせと連絡を催促するなどは特にしなかった。

 メイセイオペラもそうだろうと言い聞かせていたが、時が経つ事に言いようのない不安が膨れ上がっていく。  

 日々不安を募らせるなかでヒガシノコウテイの様子を見に行こうと決意し、両親の代わりに面会するという名目でゴドルフィンの外厩にアポイントメントをとりレンタカーを借りて向かった。

 クラブハウスに入ると新築独特の匂いが漂う。内装は想像していたものと異なり、どこか中東のような雰囲気を漂わせている。ここだけ日本ではなく中東のどこかのようだ。

 

「すみません。メイセイオペラと申します。本日ヒガシノコウテイとの面会を約束したのですが」

「メイセイオペラ様ですね。少々お待ちください」

 

 受付に向かい予約の確認をすると受付の人間が端末を見て何かを確認している。

 予約の確認が取れたのか、受付の人間が席を立ち応接室のような場所に案内してもらい席に着いた。ソファーや机などは高級品だが、国際色はなくごく普通の応接室だった。

 メイセイオペラはスタッフが出してくれた紅茶を飲みながらヒガシノコウテイが来るのを待つ。

 ヒガシノコウテイは決して外向的な性格ではない。地元から出たこともなくずっと岩手で生活してきてきた。外厩でのトレーニングは転校のようなものだ。

 噂では日本人だけではなく、ほかの国からもこの外厩に来ているらしい。さらに言えばここは開設したばかりで、トレーニングしているのはデビュー前のウマ娘ばかりだそうだ。

 そんな中1人だけ地方出身で年齢が離れているヒガシノコウテイは馴染めているだろうか?別に一生ゴドルフィンの外厩で暮らすというわけではないが、短い間でも快適に楽しく過ごしてもらいたい。

 色々と心配している間に扉の外からノックが聞こえて扉が開き、ゴドルフィンの青のジャージを着たヒガシノコウテイが現れる。その姿を見た瞬間思わず立ち上がり手で口を覆う。

 肌ツヤは良く体もトレーニングの成果か全体的に大きくなっているのがジャージ越しでも分かる。良いトレーニングができているのが分かる。

 だがあの表情は何だ?ヒガシノコウテイは大人しくて少し内向的だが、素朴ではにかむ姿が可愛い少女だった。今はその面影は全くない。

 表情は笑っているが以前に感じたような心が温かくなるような笑顔ではない。まるで深い深い闇に沈み込んでしまったようだ。

 

「何があったの?」

「別に。南部杯に勝つためにトレーニングしていただけだよ」

 

 ヒガシノコウテイはボソリと呟く。声はいつもと変わらないが、まるで減量で全てを研ぎ澄ましたボクサーのような凄みを感じる。それと同時に全てを手放すような拒絶の意思を感じた。

 

「テイちゃん、岩手に帰ろう」

 

 メイセイオペラは真剣味のある声で喋る。何が起こったか知らないが、ここに居続ければ間違いなく不幸になる。

 岩手に帰って仲間と一緒にトレーニングして、地元の皆から応援されるいつも素朴なヒガシノコウテイに戻るべきだ。手を掴み部屋から出ようとするがその手を振りほどく。

 

「ダメだよ、オペラお姉ちゃん。もう戻れないよ。私はもう『私達の』ヒガシノコウテイじゃなくなったの。もう勝つしかないの」

 

 ヒガシノコウテイは自己暗示をかけるように呟く。その声と悲痛な面持ちを見てメイセイオペラの心は万力のように締め付けられる。

 ダメだ。このままでは絶対にダメだ。振りほどかれた手でもう一度握り返して叫ぶように話しかける。

 

「そんなことない!皆はテイちゃんの事を『私達の』ヒガシノコウテイだと思ってくれる!」

「違う!私はオペラお姉ちゃんを知っていたから、外厩を使っても『私達の』メイセイオペラと認められた!でも知らなかったら認めず地方を捨てた裏切り者だって恨んでた。だから私はほかの人にとって岩手を捨てたウマ娘で『私達の』ウマ娘じゃなくなった!だから偽りでも少しでも認めてくれる人の為に勝つしかないの!」

 

 ヒガシノコウテイは明確にはっきりとした口調で拒絶する。その思いの丈を聞いた瞬間メイセイオペラは握っていた手を離し悟ってしまう。

 ヒガシノコウテイは誰よりも純粋で地方を愛していた。その愛が自家中毒のように蝕み地方の純性を失った自分を責め立て拒絶する。

 もはや『私達の』ウマ娘ではなくなり、南部杯に勝つしか岩手に貢献できないと思ってしまっている。その意志は強固でもはや誰の言葉も届かない。

 

「私は大丈夫だから、もう来なくていいよ。オペラお姉ちゃんの姿を見ると安らぐし、話していると楽しくなっちゃう。私には楽しむ資格はない。楽しいも嬉しいも全部捨てて強くなる」

 

 ヒガシノコウテイは部屋を出ていく。メイセイオペラはその姿を黙って見ることしかできなかった。

 

───

「どうも福留さん、ご無沙汰です」

「やあ最上さん。ご無沙汰です」

「しかしメイセイオペラから呼び出しなんて、何の用ですかね?」

「え?協会からの報せじゃないの?」

「はい、協会は関知していません」

 

 ここ岩手ウマ娘協会の本部にある会議室の1室、そこに岩手ウマ娘協会広報兼企画担当の最上をはじめ、岩手ウマ娘界に関わりがあり、ファンの中でも中心人物や顔役的存在がメイセイオペラによって集められていた。

 メイセイオペラは文字通り岩手ウマ娘界のスターであり、そして現役時代も様々なサポートを行い親交もある。

 スターであり愛するウマ娘に呼び出されたとあらばファンとしては何が何でも予定を空けてはせ参じなければならない。

 それぞれが期待と不安を抱きながら席に着き、メイセイオペラの到着を待っていた。

 

「失礼します」

 

 黒のスーツを来たメイセイオペラは扉を開け一礼して入室し部屋の上部中央に向かう。その一動作だが会議室に居た人々は気づく。

 メイセイオペラは誰にも分け隔てなく優しくいつも笑みをこぼし柔らかな印象を持っていた。だが今のメイセイオペラは笑顔がなく特有の柔らかさを失っているようだった。

 

「今日はお忙しい中お越しくださり誠にありがとうございます。本日は皆様にあるお願い、そして岩手ウマ娘協会に許可を頂きたいことがございます」

 

 メイセイオペラは会議室を見渡し来た人間と広報の最上に視線を送る。そして深く息を吸った。

 

「10月に行われる南部杯で、1つは盛岡レース場を満員にヒガシノコウテイや岩手のウマ娘達に大声援を送っていただきたい。そして他の出走ウマ娘にブーイングをして頂きたいのです、そして岩手ウマ娘協会にその許可を頂きたい」

 

 会議室は数秒の沈黙の後ざわめく、その願いは余りにも予想外のものだった。

 

「えっと、ブーイングというのはスポーツでやるブーブーって言うあれですか?」

「はい、知らない方も居ると思いますので、本日は参考資料を持ってきたのでご覧下さい」

 

 メイセイオペラはビジネスバッグからノートパソコンを取り出すとプロジェクターに接続し、スクリーンに下ろし映像を再生した。

 その映像にはパドックを歩く特定のウマ娘に情け容赦ないブーイングを浴びせる様子が映っている。言葉は日本語ではなく英語で、日本人でも知っている放送禁止用語が飛び交っていた。

 これは去年行われたアメリカの最高峰レースの1のブリーダーズカップクラシックのパドック映像である。

 ブーイングを浴びているのはこの日の1番人気のサキーである。あまりの苛烈さに画面を通しても動揺しているのが分かる。そして映像は本バ場入場に変わり、そこでも同じようにブーイングを浴びせていた。

 

「これをやれと?」

「これほどまでの過激な罵倒は流石にやりすぎですが、罵倒はせずこれぐらいの熱量でブーイングをやっていただきたいのです」

 

 メイセイオペラの言葉に会議室は騒めく。サッカーなどでは地元のファンが相手チームにブーイングを浴びせるということはある。だがトゥインクルレースにはブーイングの文化はない。

 会場の人々が好きなウマ娘に声援を送り、レースが終われば健闘を讃える声援を送るのが日本の文化だ。そして岩手は中央より牧歌的で尚更ブーイングとは縁がない文化を形成している。

 さらにメイセイオペラがこの提案をしたというのがざわめきに拍車をかける。

 ブーイングは人に悪意をぶつける一種の攻撃行為だ。そしては虫を殺せないを地に行く性格であることは岩手の人間なら誰でも知っている。この提案はまさに驚天動地である。

 

「メイセイオペラちゃん、それはちょっと……」

「こんなのどこのレース場でもやってないしね…」

「ちょっと品がないというか…」

 

 参加者は次々に否定的な意見を口に出す。こんなことをしたら世間から非難を受ける。岩手の評価が下がる。そんな考えが頭に過ぎっていた。

 メイセイオペラはその様子を見て顔を歪ませると目の前にある机に拳を全力で叩きつけた。発せられる音に驚きメイセイオペラに視線を向けた。

 

「ヒガシノコウテイは岩手を離れて、ゴドルフィンのトレーニング施設で練習しているのを知っていますか?」

 

 参加者は一同に頷く。ヒガシノコウテイが岩手を離れてほかの場所でトレーニングをしているのはファンの間では周知の事実である。参加者の中にはこの選択に落胆した人間もいた。

 

「ヒガシノコウテイはとても純粋な子です。岩手の皆が愛し応援してくれて、皆が誇れる『私達の』ヒガシノコウテイであろうと頑張っていました。そして皆が地元のウマ娘が南部杯に勝ってほしいという願いを抱いているのも知っています。南部杯に勝つためには外の力を使わなければならない。でも岩手を離れて他の場所でトレーニングをすれば、『私達の』ヒガシノコウテイではなくなるのを恐れていました」

 

 脳裏には相談しにきた時の光景が思い浮かぶ。誰よりも岩手を愛していたがゆえに誰よりも岩手である純性を重んじていた。

 純性を失うことに恐怖し涙目になりながら『私達の』ヒガシノコウテイで居たいと縋りついていた。

 

「そして決断の末に純性を捨ててでも南部杯に勝ちたいとゴドルフィンの門を叩きました。そこで必死にトレーニングして…そこでテイちゃんは全てを捨てて……」

 

 喋るのを止めて涙を拭う。そこにいたのは変わり果てたヒガシノコウテイだった。

 南部杯に勝つために楽しさも嬉しさも全て捧げるように感情を失いトレーニングに励む姿はまるで純性を手放した自分を罰するようだった。

 

「私達がテイちゃんを追い詰めた……本当なら南部杯に負けてもいい、自分が好きなようにすればいいと言ってあげればよかった。でもテイちゃんが南部杯に勝って岩手の誇りを守ることを望んでしまった……皆さんも……そして私も……」

 

 ヒガシノコウテイは岩手を愛し皆のために走ることは好きでやっていることは否定しない。だがここまで追い詰めてしまうことまでやることなのか?

 こんなことになるなら、あの時に何としてでもゴドルフィン行きを阻止すべきだったのだ。過去の自分を殺したい。

 

「テイちゃんはもう止まれない。このまま岩手で送れるはずだった幸せな日々を捨てて鍛え続けるでしょう。だったら私達がやることは!テイちゃんに南部杯を勝たせて『私達の』ヒガシノコウテイだと言ってあげることです!」

 

 メイセイオペラは涙を机に落としながら叫ぶ。今のヒガシノコウテイは誰が何と言おうがゴドルフィンで自傷行為のように鍛え続けるだろう。そしてもし負けたら全てが無駄になる。それはあまりにも可哀想すぎる。

 ならばやる事は1つ、ヒガシノコウテイを勝たせることだ。それが追い詰めてしまったことへのせめてもの罪滅しだ。そのためなら鬼にだって悪魔にだってなる!

 

「そうだ!俺たちはヒガシノコウテイに背負わせすぎた!南部杯に勝って岩手の誇りを守ってくれと願いながら何もしなかった!いい大人が情けねえと思わねえのか!俺たち大人が荷物を背負ってやるんだよ!」

 

 福留は立ち上がり訴えかけるように叫ぶ。その思いに呼応するように次々席をと立ち上がり自身の思いを喋りメイセイオペラの提案に賛同していく。会議室は熱を帯び皆の心は1つになっていた。

 

「ですが岩手ウマ娘協会が拒否すればブーイングは致しません。最上さんどうかヒガシノコウテイを勝たせるためにブーイングすることをお許し下さい」

 

 メイセイオペラは最上に向かって深々と頭を下げる、それに釣られるように参加者達も次々と頭を下げていく。広報の最上は頭が上がるのを見計らって静かに喋り始める。

 

「責任は全て請負います。皆さんは思う存分やってください」

 

 最上の言葉に会場から安堵のため息が漏れる。

 岩手ウマ娘協会はオグリキャップのように輝かしいスターを求めていた。

 そして幸運にも連勝記録を作り岩手の名前を広めてくれたトウケイニセイ。地方所属で中央のGIを制覇するという偉業を成し遂げてくれたメイセイオペラ、そしてヒガシノコウテイという新しいスターが生まれた。

 だが彼女達は否定するかもしれないが、それらのウマ娘は岩手ウマ娘協会が育てたわけではなく、岩手に在籍してくれたにすぎない。

 ヒガシノコウテイは強くなるためにゴドルフィンの門を叩いたと聞く。本当はしたくないのにさせてしまった。

 これは強くなるための環境を整えられなかった岩手ウマ娘教会の責任であり、南部杯に勝ちたいという願いだけでも叶えさせてあげるのが協会の仕事だ。

 場は盛り上がり、参加者たちはどうやって観客を集めるかという議題で即席の会議を行っているなか、メイセイオペラは最上に声をかける。

 

「あと最上さんお願いがあるのですが」

「何ですか?」

「南部杯での集客増加の為のPR活動としてメディアに出たいのですが、何かありますか?出演料は無くてもかまいません。南部杯を勝たせるためには1人でも多くのファンが足を運んでくれることが必要不可欠なんです」

 

 その言葉に参加者たちの会議は一瞬中断され、一斉にメイセイオペラに視線を向ける。

 メイセイオペラは大人しく目立つことを嫌っていたせいか、現役時代は他のウマ娘たちと比べ極端にメディア露出が少なかった。

 現役も退いても練習を見るなどして岩手所属のウマ娘のサポートをしているが、取材なども極力受けず、スターウマ娘と思えないほどひっそりと暮らしていた。

 地方所属で中央GIを制覇するという偉業を成し遂げながらも全国的に知名度が低い原因の1つでもあった。

 

「いくつか伝手はありますが、よろしいのですか?」

「正直に言えば恥ずかしいですし気が進みません。ですがヒガシノコウテイが勝てる可能性が1パーセントでも上がるなら喜んでやります」

「わかりました。仕事もあるでしょうから、空いている日にスケジュールを組みます」

「いつでも空いています。仕事は辞めてきましたので」

 

 その言葉に最上や他の参加者は目を見開き見つめるなかメイセイオペラは平然と言い放つ。

 今のヒガシノコウテイには南部杯が全てなのだ。自分の将来や今後のことを考えて仕事を辞めずに、PR活動が疎かになるということはあってはならない。勝たせるため為になら仕事なんていつでも辞めてやる。

 

「分かりました。可能な限りやらせてもらいます。その際は協会が全面的にバックアップさせていただきます」

「よろしくお願いします」

 

 メイセイオペラは再び深々と頭を下げ、最上も同じように頭を下げた。

 まだ若い女性がこれほどまでの覚悟を持ってヒガシノコウテイを勝たせようとしている。ならば協会の人間としては同じ覚悟を持ってやらなければならない。最上は必勝を誓った。

 



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勇者と皇帝と求道者、再び ♯4

 真夏の日差しが容赦なく照りつける。動かなくとも汗が滲み出て、肌を焦がし体力を奪っていく。

 それでも人通りは多く、商業施設に向かう若者やプールに向かう家族連れの声と蝉達の鳴き声が大音量のBGMのように耳に届く。

 そして船橋レース場はそれらの音に負けないほど大いにざわついた。

 アブクマポーロが船橋に帰ってきた。その現役時代と変わらない姿を見て涙ぐむものすら居た。

 それだけでも大ニュースなのだが、隣にはセイシンフブキが居て談笑しながらウォームアップの手伝いを行っている。

 セイシンフブキがアブクマポーロにした行為と憎悪は船橋の人間なら誰もが知っている。

 何が起こったのか?昨日の1件が関係あるのか?様々な噂や憶測が飛び交いながら、周囲の人間は様子を見守っていた。

 一方その視線を気にせずアブクマポーロはセイシンフブキとアジュディミツオーを座らせて話を始める。

 

「さて、フブキが南部杯までにしなければならないことは2つ、1つは差し追い込みの戦法の熟練度の向上だ。脚質は差し追い込みでも経験値はまるで無い」

 

 セイシンフブキは黙って頷く。逃げには逃げの先行には先行の走りがあるにように、差し追い込みの走りがある。仕掛けのタイミング、バ群の捌きかたなど様々だ。

 

「そこは私の経験からある程度は教えることができる。そして後は実践あるのみだ」

 

 実戦形式と聞いて顔を顰める。セイシンフブキは船橋のウマ娘から過去の経緯も有って嫌われている。併せのトレーニングですら誰も相手してもらえず、単走かアジュディミツオーを相手に併走するだけだった。

 

「練習相手は私が頼み込めば何とかなるだろう。師に感謝するんだね」

「あざっす姐さん」

 

 アブクマポーロがニヤニヤと笑いながら恩着せがましく言ってくる。怒りが湧いてくるが練習相手の必要性は充分に理解しているのでグッと堪える。

 

「そしてもう1つだが。ところでアジュディミツオー君、ダートを走るのに一番必要な要素は何だと思う?」

 

 アブクマポーロの突然の質問に慌てふためく、完全に気を緩めていた。その慌てる姿にアブクマポーロは慌てるなと柔らかな目線を送り、セイシンフブキは早く答えろと目線で急かす。

 

「えっと、パワーです。芝のレースと違ってダートを走るにはスピードよりパワーが必要です」

「それは確かに必要だが1番ではない、正解はダートの正しい走り方だ」

「アタシが散々教えただろう」

 

 セイシンフブキは露骨にため息を漏らす。そんなものを教わっていないと抗議しようとするが、思いとどまる。

 日頃ウェイトトレーニングをせず、ダートコースを只管走っていた。そしてウェイトトレーニングをしているウマ娘にダートの正しい走り方を習得していないのにと冷ややかな目で見つめていた。すでに答えは教えられていたのだ。

 

「仮に今アジュディミツオー君が正しいダートの走り方をマスターしていたら、南関3冠は取れるだろうね」

「南関3冠ですか!?」

「そして私とフブキも完璧に習得していないが、ある程度習得しているのでウェイトなどの補強運動をせず、南関東4冠やダートGIを取れる実力を手に入れた」

 

 アジュディミツオーは2人の実力を知っている。それでも正しい走り方を完璧に身に着けていないとして、身に着けたらどれほど強くなれるのか。想像し興奮を覚えていた。

 

「じゃあ、ダートGIを勝ったりしているウマ娘は正しい走り方を身につけているんですか?」

「いや私見では身に着けていない」

「でも他のウマ娘達はウェイトとかしてますよね。ならどうして覚えないんですか?アタシでも覚えれば南関3冠勝てるぐらいなら、ウェイトなんてしないで正しい走り方を覚えればいいじゃないですか?」

「それは非効率なんだよ。ある程度の域は才能が有る者なら習得可能だ、だがそこからは長い時間をかけるか、余程深く技術習得に没頭しなければならない。それだったらウェイトトレーニングなどして他の要素を加えて速くなればいい。パワーも必要だし手っ取り早い」

「だから他の奴らはウェイトトレーニングをする。でもアタシ達は知っているから正しいダートの走り方を磨き続ける。分かったか。仮に弟子を名乗るならウェイトなんて楽な道に走るなよ」

 

 長い時間と技術習得への没頭、その言葉で正しいダートの走り方を習得する困難さを実感する。

 セイシンフブキは幼い頃からダートを愛しダートの事を考えていたのを知っている。

 そしてそのダート愛が技術習得のために没頭する情熱を生み出す。アブクマポーロも同じだったのだろう。

 

「それで私の教えを基にフブキも研究と研鑽を続け、習得まであと1歩というところだろう。私も現役を離れても正しい走り方について考え続け、理論を更新し続けた。フブキの理論と私の理論を検討し合い昇華していけば身に着けられる」

「じゃあ師匠は無敵になれるんですか」

「ああ、明確に衰えるまで無敵だ」

 

 アブクマポーロは断言した。無敵という強い言葉を吐く人では無いといのうがアジュディミツオーの印象だった。

 そんな人が言うのだから余程正しいダートの走りに対する自信と、セイシンフブキが習得するという信頼が有るのだ。

 脳内でアグネスデジタルや他の強豪を打ち破り、全てのタイトルを独占する姿が浮かび上がり思わずニヤける。

 

「まずは正しいダートの走り方の習得のために走り込み、後半は実戦形式で差し追い込み戦法のトレーニング、夜は反省会と検討会だ。これからは今まで以上にダートに没頭してもらうよ。でなければ習得できない」

「姐さん、アタシは寝る以外の時間は全てダートの事を考えているっすよ。これ以上どうやって時間を作るんっすか」

 

 セイシンフブキは軽口を言って、アブクマポーロはそれもそうかと笑みを零す。こうしてセイシンフブキのトレーニングは始まった。

 

───

 

「何度言ったら分かる!先行と違うんだ!食らいつくんじゃなくて一気に突き放すんだ!」

 

 トレーニング場にアブクマポーロの檄が飛び、その檄に応えるようにセイシンフブキはコーナーから加速しポジションを上げていく。直線で先行グループを捉えるとそのまま一気に突き放しゴールする。

 セイシンフブキのトレーニングは厳しいものだった。前半の正しいダートの走り方の習得、一通り走ってセイシンフブキとアブクマポーロで検討して走っての繰り返しだった。

 一見いつもと同じトレーニングのように見えるが疲労度は上だった。

 自分の理論に加えアブクマポーロの理論についても考えながら検証して走らなければならず、思考量が増える分脳を行使し疲労度が増していた。

 そして疲労した状態での差し追い込みの練習、練習相手との力量を合わせるためにということだが、セイシンフブキの能力が高い分追い込まなければならない。

 極度の疲労状態であれば長年染みこませた逃げや先行の走りを無意識にしてしまう。練習で培った物が仇になってしまった形だ。

 不慣れな戦法について考えながら正しいダートの走り方も実践する。これは相当難易度が高いものだった。

 

「ちょっとオーバーワークじゃないですか大師匠?」

 

 模擬レースで走っていたアジュディミツオーは地面に仰向けになった蝉をひっくり返し、ナイター照明に向かって飛んでいく様子を見ながらアブクマポーロに声をかける。

 弟子入りして練習を共にしていたが、ここまで疲れているセイシンフブキを見るのは初めてだった。

 

「只でさえ体にしみ込ませた逃げ先行の戦法から差し追い込みの戦法に変更するのは難しい。それに正しいダートの走り方も完成させなければならない。かなり厳しいだろうね、オーバーワークであることは自覚している」

「それだったらどっちか1つに絞ったらどうですか?それでも師匠は強いですよ」

「並の相手なら勝てるだろう、だがアグネスデジタルは並ではない。あのウマ娘に勝つには両方の習得が必要不可欠だ。さらにフブキにはもう後がない」

 

 アジュディミツオーは後が無いという言葉に無言で頷く。

 ダートの地位はアグネスデジタルに勝たれたことで地の底まで下がったと言っていい、そして南部杯でまたアグネスデジタルに負ければ今度こそ息の根を止められる。もはや背水の陣なのだ。

 そして背水の陣のセイシンフブキの為に何も貢献できていない。

 正しいダートの走り方の習得のためのアイディアや意見も出せず、模擬レースでも仮想の相手どころか誰よりも弱く頭数合わせで参加しているに過ぎない。

 思わず拳を握り締め歯をくいしばる。その心境を見透かしたようにアブクマポーロは語りかける

 

「気に病むことはない。まず君がいなければフブキは脚質転換を決意しなかっただろう。それに君がいるだけで強くなろうと懸命にトレーニングし強くなれる。かつての私のようにね」

「そうなんですか」

 

 アジュディミツオーは心情を理解できないといった表情を見せている。無理もない、アブクマポーロもセイシンフブキが弟子になるまでこの心情を理解できなかった。

 憧れている者が見つめている。その視線は時に親よりもトレーナーよりも自分を律し高めていく。課しているトレーニングは厳しく、残り2ヶ月弱で習得できるものではない。だがアジュディミツオーの存在によって可能になるかもしれない。

 

「よし今日はここまでだ!ゆっくりジョグでコースを1周してからストレッチに移行するんだ」

 

 2人が話し込んでいる間に模擬レースは終わっており、セイシンフブキは直線で先頭を捉えきれず3着でゴールする。レースに参加していたメンバーはゆっくりとコースを回っていく。

 

───

 

「おう、そこだそこ。走りはまだまだだがマッサージだけは一丁前だな」

「あざっす」

 

 アジュディミツオーはうつ伏せになったセイシンフブキの太ももを親指で押していき、押すたびに気持ちよさそうに声を上げる。

 弟子入りしてからマッサージをしているが、ここまで筋肉が硬くなっているのは初めてだ。

 慣れない脚質で走ったせいで、疲労が蓄積しているのだろう。少しでも疲労が抜けるようにと丹念に筋肉をもみほぐす。

 

「待たせたね、今日の反省会と検討会を始めようか。私が気づいた点を言っていくから、マッサージを受けたまま聞いてくれ」

「今まで何やってたんっすか?」

「トレーニングに付き合ってくれた者達と懇談会を兼ねた食事さ、こうやって心象を良くしておけば次もトレーニングに付き合ってくれて、何か手伝ってくれるかもしれないしね」

「何か大変っすね」

「こういったことは重要だ。今は私がやるが今後は自分でやるんだ。味方は多いに越したことはない」

「うい~っす」

 

 セイシンフブキの気の抜けた返事を無視してミーティングを始めようとするときにアジュディミツオーは恐縮そうに手をあげる。

 

「アタシはここに居ていいんですか、ミーティングの邪魔になりそうですし、ここの部屋狭いですし」

 

 3人はセイシンフブキが住んでいる寮の一室にいるが、ここは1人用で3人が入ると圧迫感を感じるほど狭かった。

 

「お前がいなくなったら誰がマッサージするんだ。それに居てもいなくても変らない。あと姐さんとの話は今のお前では1割も理解できないだろうが、しっかり聞いてろよ。寝たら叩くからな」

 

 セイシンフブキの言葉にアジュディミツオーは背筋を伸ばす。その様子をアブクマポーロは微笑んだ。

 正直に言えばこの部屋は狭くミーティングに居ても居なくても関係ないアジュディミツオーを退室させても問題ない。

 だがセイシンフブキは居るように命じた。今は分からなくともいずれ理解できる時が来るために聞かせておく、これも不器用なりに弟子を育てようとしているのだろう。

 それからミーティングが始まった。内容は専門的でセイシンフブキが言ったとおり内容の1割も理解できなかった。時々眠気が襲って来るが言いつけを守るように意識を保ち、1つでも多く言葉を記憶していた。

 2人は意見をぶつけ合わせ議論していた、時には語気を荒げ今にも取っ組み合いを始めそうな勢いだった。

 だが昔の話題に出しただけで殺気立つような殺伐感はなく安心して見ていられる。それはまるで戯れあっているようだった。

 

 それからもセイシンフブキのトレーニングは続いていた。疲労は溜まっていき辛いはずなのだがその表情は日々が経つごとに生き生きと輝いていた。

 以前アブクマポーロに寝ている以外は全てダートのことを考えていると言ったことがある。それは今もそうなのだが、以前より深く没頭していた。

 ダートについての謎を思考し検討し、解明してもまた新しい謎が現れる。その度にダートの深さを実感し、その深さが嬉しくもあり、解き明かす楽しさがあった。だが1人ではこの嬉しさも楽しさも実感できなかっただろう。

 以前は1人でダートについて思考し研究していたが今は違う。同じぐらいダートを愛し研究してくれる師で有り同志が戻ってきてくれた。

 いずれダートを裏切ると無意識で恐れていたが、今ではダートを裏切らないと確信できるほどの愛と情熱を持ち、必死で吸収し食らいついてくる弟子であり同志がいる。

 同志と一緒にダートの深さと謎を解明した嬉しさを共有するからこそ楽しいのだ。今この時は人生で1番充実し楽しいと言える日々だった。

 

 10月初旬、今日も模擬レースが行われていた。

 セイシンフブキは道中最後尾に位置づけ様子を窺い、3コーナー付近から捲り気味に仕掛けていく。

 それを合図にするように他のウマ娘も仕掛ける。セイシンフブキは疲労のピークを迎えていたがその切れ味は凄まじく併走する間すら与えない。

 直線に入ってすぐに先頭のウマ娘を捉え着差を広げていき、最後は流しながら3バ身の差をつけてゴールする。

 セイシンフブキは右手をグッと握る。道中の位置取り、仕掛けのタイミング、一気に突き放す力の出し方、全て上手くいった。

 何より自分が理想とするダートの正しい走り方ができた。それは全ての歯車がカッチリと嵌ったような感覚だった。

 アブクマポーロはこちらに向かってくるセイシンフブキを見て黙って頷いた。

 

「何とか完成したみたいだね」

「はい。長かったです」

「だが、今の時点で完成したに過ぎない。これからも思考し研究を続けなければ過去のものになってしまう」

「分かってますよ」

「そしてありがとう。私の理想を実現してくれて」

 

 アブクマポーロは手を伸ばす。正しいダートの走り方を探求している途中で怪我をして引退を余儀なくされた。

 セイシンフブキには正しいダートの走り方についてレクチャーはしていたが、未熟で理解していない。もうこの走りを実現してくれる者は居ないと諦めていた。

 だが未練を断ち切れず探求し続けた。そしてセイシンフブキも自分なりに正しいダートの走り方について思考し検証し実践していった。

 お互いがそれぞれのアプローチで追求し、そして2人の理論を重ね合わせ検証しついに完成したのだ。

 

「あの~1つ疑問が有るんですけど」

 

 アジュディミツオーはこの良い雰囲気を壊したらマズイと思いつつ、頭に浮かんだ疑問の答えを知りたい欲求に駆られ質問する。

 

「どうした?」

「正しいダートの走り方を習得したみたいですけど、でもそれって船橋レース場の良バ場での走りってことですか?本番は盛岡レース場ですよ。船橋と盛岡ではダートは違いますよ」

 

 アジュディミツオーも自分なりに思考と実践を繰り返し、それぞれのレース場によってダート原産地や砂の深さに違いがあり、同じ原産地や深さでも気候や立地条件によって違うことに気付いていた。

 セイシンフブキはアジュディミツオーの質問に感心するような素振りを見せると上機嫌に答えた。

 

「ほう、それなりに分かってきたな。確かに今までのトレーニングは船橋における正しいダートの走り方を習得するためのものだ。だが基礎を身に付ければ応用は利く、船橋のダートを基準にして各レース場のダートの違いを理解し調整すればいいだけだ」

 

 セイシンフブキはさらりと言い、それを聞いてアジュディミツオーは乾いた笑みをもらす。

 ダートの違いを理解し調整すればいいと簡単に言うが、それをする為には各レース場のダートについての膨大な知識と理解力が必要だ。

 ダートについての知識と理解が深まったからこそ理解できる難易度、今の自分では仮に正しいダートの走り方を習得できても応用することはできない。それをできるセイシンフブキは真のダートプロフェッショナルだ。

 これで準備は整った。見ていろアグネスデジタル、見ていろダートを見下している奴ら、当日はダートプロフェッショナルのセイシンフブキが勝利し世間に衝撃を与える。

 その声に応えるように赤色の葉が宙に舞った。



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勇者と皇帝と求道者、再び ♯5

「ただいま~」

 

 アグネスデジタルは荷物で塞がっている両手の代わりに肘でドアノブを下げ、背中でドアを押しながらチームルームに入室する。

 シューズと蹄鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。アメリカのチームルームでもシューズと蹄鉄の匂いがしたがどこか違う、この匂いがチームプレアデスの匂いで日本に帰ってきたことを改めて実感する。

 

「お帰りデジタル」

「久しぶり、どうだったアメリカ?」

 

 チームメイト達は熱烈な歓迎をするわけでもなく、昨日ぶりといった具合にいつも通り声をかけてくる。

 アメリカでは派手に送別会をしてもらったので温度差に少し戸惑うがこの自然体な対応も心地よかった。

 

「ユニバーサルスタジオとかディズニーランドとか行った?」

「別に遊びに行ったわけじゃないんだよ。ちゃんとトレーニングしたし、それにディズニーランドとかは小さい時に何回か行ったし」

「さらりと羨ましい発言するな」

「そういえばデジタルはアメリカ出身だった」

 

 デジタルはチームメンバーと雑談しながら土産の菓子の封を開け中央のテーブルに置いていき、メンバー達は礼を言いながら菓子を食べ、トレーニング前の一時をくつろぐ。

 するとノック音が聞こえ、メンバーがどうぞと声をかけるとトレーナーが入室してくる

 

「よし準備できたか…おっ、デジタル帰っとたんか」

「うん昨日寮に着いた。机の上にあるお土産のお菓子食べていいよ」

「遠慮しとくわ。それあの甘ったるいやつやろ、オッサンの舌には合わん。よし今日のミーティングを始めるぞ」

 

 トレーナーがホワイトボードの前に立つとデジタル達はその場に体育座りをして話を聞く準備を整える。

 

「よしライブコンサートとフェラーリピサは5分休憩した後ポリトラックコースで一本追ってこい。デジタルはこっち来てミーティングや」

 

 トレーナーはダートコースで走っていた3人に声をかけると其々は指示に従い、デジタルはトレーナーの元に小走りで向かい、フェラーリピサとライブコンサートはコースの端によって息を整える。

 

 デジタルはアーリントンでの合宿で良いトレーニングができたのか、以前より走りにキレと力強さが加わっているのが見て取れる。

 気候とコースに馴れる為にアメリカで合宿させたが、手元に居ないので細かい指示が出せないという危惧があったが、杞憂だったようだ。

 

「いや~2人とも強くなっているね」

「ああ、身体も出来てきてひと夏を超えてグンと強くなっとる。秋には重賞制覇と張り切っとるしな。それにお前の代わりに部屋頭としてチームを引っ張ったことで一皮むけた感がある」

「アタシ普段から何もしてないよ」

「まあそうだが、チームで1番強い奴が頑張っとると自然とチームメンバーは引っ張られていくもんや」

 

 デジタルはふ~んと頷く。アメリカに行く前も特にそんなことを考えずトレーニングをしていたが、皆はそういう風に見ていたのか。

 これからはそこら辺を意識してみるかと考えると同時に、2人がトレーニングに打ち込む姿は素敵だったなと思い出し、にやけていた。

 

「ほら2人のこと考えてニヤニヤするのはその辺にしておけ、今後のことを話すぞ。確認だが10月2週の南部杯に出て、3週間後のブリーダーズカップクラシックに出る。その後は香港マイルか香港カップに出るでいいよな?」

「うん。香港でプレちゃんと走れればいいけど、これは体調次第だよね。先約が南部杯とブリーダーズカップクラシックだし」

 

 デジタルは腕を組み悩まし気に声を出す。南部杯は自分からセイシンフブキとヒガシノコウテイに走ると提案しただけに回避するわけにはいかない。

 そしてサキーとはドバイで走る約束をして、プレストンとはクイーンエリザベスで約束した。時期的にサキーの方が先約だ、後のプレストンを優先するわけにはいかない。

 全部のレースに出走できれば問題ないのだが、南部杯とブリーダーズカップでは力を尽くさなければならず、その反動で香港は走れない可能性がある。

 もしそうなったら謝罪して、来年の香港クイーンエリザベスを走ろうと約束して許してもらおう。

 

「それで今後のトレーニングは南部杯に向けては坂路を中心にして、マイル向けに仕上げていく」

「わかった」

 

 トレセン学園には芝、ダート、ウッドチップ、ポリトラックなど様々なコースがあるが、トレーナーはスプリントやマイルや前走と比べて距離短縮する場合は坂路で、2000メートル以上のレースや距離延長する場合はウッドチップやダートコースでトレーニングをする。

 スプリントとマイル、マイルと2000メートルのレースはもはや別種目と考え、距離短縮してもスピードに対応できる体づくりにはインターバル走で無酸素運動をするに坂路がベストと考えていた。

 逆に距離延長では走り切るスタミナをつけるために息を入れずに走り続けるコースでのトレーニングがベストと考えていた。

 

「その後はあの高校のグラウンドを走ったりするの」

「しない。あれはドバイのダートとスパイク蹄鉄に馴れる為や、ドバイとアーリントンのダートはほぼ同じやし、アーリントンの合宿で散々走っとるから充分、暫く走らなくても現地で何回か走れば感覚を取り戻せるやろ」

「まあ、散々走ったからね。走りまくったせいで、逆にこっちのダートコースで走るのにちょっと戸惑っちゃった」

 

 デジタルは笑い話を喋るように返事をする。本音を言えばブリーダーズカップクラシック制覇の為にアメリカで滞在してトレーニングを積んで欲しかった。

 だが南部杯に走りたいと希望するのであれば希望に沿う、但しデジタルでなければ南部杯かブリーダーズカップクラシックのどちらかに絞れと根気よく説得していただろう。

 普通のウマ娘ならアメリカのダートから日本のダートを走るとならば馴れるのにそれ相応の時間がかかる。

 だがデジタルなら翌日になれば日本のダートに適応する。このバ場適応能力の高さが強さの1つである。でなければ中央ダート、地方ダート、中央芝、海外芝のGIレースをとることはできない。

 

「それでサキーちゃんに勝つために何か無いの?新しい必殺技とか秘策とか奇策とかさ」

「必殺技って、トリップ走法は充分必殺技みたいなもんやろ。それで我慢しろ」

「白ちゃんもないか~。アメリカでニールセンさんにもトリップ走法を改良できないって相談したけど、『OH!CRAZY!』ってドン引きされちゃった」

「普通そうやろ。世界中のトレーナー全員ドン引きや」

「でもこのままじゃ勝てないよ」

 

 今までチームメイトと雑談するように緩い空気で喋っていたデジタルの空気が引き締まる。

 ドバイワールドカップではサキーを追い詰めたが底はまだ見えていない。このままではサキーには勝てないという不安と焦りが有った。

 

「前にも言ったかもしれんが強くなるのに近道はないんや。ドバイの時はデジタルがトリップ走法を上手く改良出来たが、あんなことはそうそう起こらん。強いウマ娘は全員基礎を極めた奴や」

「基礎って?」

「まず単純にパワーや瞬発力や持久力、これが相手より優れていれば必殺技というか特別な技に頼らなくても勝てる。そして体の力をロスなくスピードに変えるフォーム、コンマ1秒のロスもないコーナリング、そういう当たり前で地味な事を極めたのが強いウマ娘や」

 

 デジタルは不満そうに見つめる。どの分野においても派手な技術ではなく、誰もが当たり前に出来ることを練習し精度を上げていく者が強くなるというのがトレーナーの持論だった。

 大概のウマ娘は派手な技は持っていないのだが、デジタルはそれに相当するトリップ走法を身に着け改良したことで一定の成果を上げている。

 その成功体験と焦りから一足飛びで強くなろうと基礎を蔑ろにする傾向が見受けられた。

 

「俺から言わせればまだまだ穴だらけや、それに基礎能力が上がればトリップ走法も速くなる。基礎を高めていけばサキーに勝てる。信じてくれるか?」

「分かった」

 

 トレーナーはデジタルの肩に手を置いて諭すように語り掛ける。デジタルも一応は納得したように頷いた。

 

「よし、分かったところで坂路コースで追ってこい。強め2本や」

「了解、じゃあ行ってくるね」

 

 デジタルはいつもの調子に戻ると小走りで坂路コースに向かって行く。

 トレーナーはこめかみを指で叩きながら思案する。持論は間違っていると思わない。だがデジタルの言っていることもまた違っていない。

 もし革新的な技術や走法を編み出せば飛躍的に強くなる可能性もある。

 ブリーダーズカップ直前まで諦めず考え続け、何かアイディアを思いついたらやるすべきだ。自分達はサキーに挑む挑戦者なのだから。

 

 

「それで基礎能力を身に着けるって方針にしたと」

 

 プレストンはシャドーボクシングのように虚空に向かって拳を繰り出しながら返事をする。

 これはプレストンが習っている、とある香港のアクションスターが作り上げた武術の型らしく、防御する同時に攻撃に転じる型らしい。狭いスペースでも出来ると寮の部屋でよくやっている。

 デジタルはその様子を眺め小さく感嘆の声をあげる。手がハッキリ見えないほどのスピードだ。アメリカにも帰郷して離れている間も鍛錬を続けたのがよく分かる。

 

「そのほうがいいと思う。あたしも組手やってさ、そのアクションスターみたいに派手な技に憧れて技を繰り出したんだけど、全然通用しなかった。全部基礎動作で捌かれてさ、一方相手は入門初日で習うような技を繰り出すんだけど、全く避けられなかった。やっぱり基礎を極めた人は強いよ」

「流石に実体験だと説得力があるねっと」

 

 デジタルは悪戯心と型がどれだけ有用なのかと興味が湧いて床に転がっていたトレーニング用のカラーボールを投げつける。顔に当ればカラーボールでも少し痛いので胴体に投げる。

 プレストンは流れるように腕を動かしてボールを弾くと同時に間合いを詰めてデジタルの眼前に拳を繰り出す。

 

「でしょ。ちなみに今の動きも基礎の技だから、よかったねデジタルも経験できて」

「御見それしました」

 

 デジタルはおどけるように手を上げ、プレストンはその仕草を見て満足げな表情を見せる。

 

「それでプレちゃんは秋のローテはどうするの?」

「大目標は香港だから、レース勘が鈍らないように毎日王冠走って、天皇賞秋かマイルCSを走るって感じ」

「じゃあお互い連勝して香港で対決だね」

「残念だけどそれは厳しそう。毎日王冠は80%、天皇賞秋かマイルCSは90%の仕上げでいくつもりだから、勿論負けるつもりで走るつもりはないけど、100%を出せない状態で勝てるほど甘くはないでしょ」

 

 プレストンは至極当然といった具合に語る。他の人が聞けば弱気と思うかもしれないがそれは違う。

 プレストンは自分を客観視し努力する人だ、香港の前に100%に仕上げれば本番で調子を落とす可能性を考慮している。実にらしい答えだった。

 

「それと仕上がんなかったら無理に暮れの香港に出なくていいから、あたしが倒したいのは100%のデジタルだから、その代わりクイーンエリザベスを最大目標にしてよね」

「ありがとうプレちゃん。その時は万全に仕上げるから」

 

 デジタルは安堵のため息を漏らす。調子次第では香港で走れないと言おうとしていたが、もしかして機嫌を損ねてしまうと心配していた。だが気を遣ってくれたのか先に言ってくれた。

 

「ところでメイセイオペラってウマ娘知っている?」

「それをアタシに聞く~?ヒガシノコウテイちゃんを語る上にはメイセイオペラちゃんは欠かせない存在だよ。あの雨が降った橋の下の2人だけの秘密のトレーニングセンターで、トウケイニセイちゃんが負けて泣いているヒガシノコウテイちゃんに言うの!『私が中央のいじめっ子をやっつけてあげるから』って!マジ尊いよね~!」

 

 デジタルは不機嫌そうに頬を膨らませながらメイセイオペラについて饒舌に語り始める。これはヒガシノコウテイにインタビューした時に聞いた話だ。あまりの尊さに少しだけ泣いてしまったほどだ。

 

「確かに良い話だよね」

「だよね~って、何でプレちゃんが知ってるの?」

 

 デジタルはノリ突っ込み気味に問う。この話は知られると恥ずかしいからとヒガシノコウテイは他人に話しておらず、同じくメイセイオペラも話していないので知っている人は少ないと言っていた。何故知っている?

 

「テレビで喋ってたから」

「テレビ?」

「そうか、デジタルは知らないのか、メイセイオペラは今じゃ結構有名だよ。何か8月ぐらいからテレビに出始めて、その今どき珍しいぐらいの素朴な人柄のおかげで視聴者に気に入られたみたい。最初はローカル番組に出ていたけど、今ではキー局の番組に出るよ。それでその話を聞いたのはテレ東のウマ娘番組だったな」

「そうなんだ」

 

 メイセイオペラはヒガシノコウテイのインタビューで聞いた限り目立ちたがり屋ではなく、テレビに出るような人物ではなさそうだった。何か心境の変化が有ったのか?

 

「それより何で知らせてくれなかったの。連絡、報告、相談でしょ」

「アンタはアタシの上司か、電話してまで知らせることじゃないし、今の今まで忘れてた。そして自分の情報収集能力不足を嘆きなさい」

「ぐぬぬ……」

 

 デジタルは思わず唸る。怒りに任して責任転嫁気味に文句を言ったが、見事に正論で言い返された。まさしくその通りで返す言葉もなかった。

 

「でもメイセイオペラとヒガシノコウテイの関係性はいいよね。デジタル的には尊いって言うんだっけ。純粋と言うか素朴というか、思わず応援したくなっちゃう」

「でしょ!プレちゃん分かってる!」

 

 デジタルはじ満面の笑みを浮かべながらプレストンの肩をポンポンと叩き、自分の事のように喜ぶ。

 

「でもこれじゃあデジタルが悪役になっちゃうんじゃない」

「どいうこと?」

「メイセイオペラとヒガシノコウテイの話を聞いて、アタシみたいに応援したいって思う人が結構増えたと思うよ。それにメイセイオペラがヒガシノコウテイが南部杯に懸ける想いとかも語ってさ、感情移入している人も居るんじゃない。ほら判官贔屓というか働くと言うか」

 

 プレストンは同情していた。去年はウラガブラックの出走騒動のせいで悪役扱い、そして今年はヒガシノコウテイに感情移入する人によって悪役扱い。何とも巡り合わせが悪い。

 そしてデジタルは手を叩き合点がいったと頷いていた。

 

「確かにね。アタシもヒガシノコウテイちゃんファンだったら、『何て憎たらしいウマ娘』ってハンカチ噛んでるよ」

「自分でそれ言うんだ。あと表現が古い」

「でもヒガシノコウテイちゃんには本当に申し訳なくて心苦しいけど、次のレースは勝たせてもらうよ。南部杯に勝って、ブリーダーズカップクラシックでサキーちゃんに勝つ」

 

 軽いノリで言っていたデジタルだが、途端に雰囲気が変わる。勝利に向けて闘志を燃やす雰囲気に当てられたプレストンは思わず背筋を伸ばす。

 勝ちたいのは出るウマ娘全員だ、そして勝者がその想いを摘み取り背負っていく。デジタルにはその覚悟が有りこの程度で臆するようなウマ娘ではない。

 しかしいつの間にこんな闘志を燃やすようになったのかとアスリートとしての成長を実感していた。

 

「その意気だ。言い方悪いけど他人のことなんて気にしていたらきりがない。ヒガシノコウテイやセイシンフブキを味わって勝って気分よくアメリカに行っていけばいい」

「ありがとう。レースに勝って2人を味わってアメリカに行くよ」

 

 デジタルは先程の雰囲気とは一変し、いつも通りの人懐っこい笑顔をプレストンに向けた。

 

───

 

「スゴイかったですね。特にマッチレースのシーンは興奮しっぱなしでした!」

「うんうん!ウォーアドミナルちゃんとのライバル関係!尊いよね!」

 

 スペシャルウィークとアグネスデジタルはハチミツ入りニンジンジュースを口につけながら、お互い興奮気味に語り合う。

 デジタルはスペシャルウィークと休養日が一緒なことを知り、思い切って遊びの誘いをした。その誘いにスペシャルウィークは応じ、一緒に出掛けることになった。

 まず向かったのは映画館だった。デジタルの目的は最近上映された実在のウマ娘シービスケットを題材にした映画だった。スペシャルウィークにも許可を取り2人で鑑賞する。

 映画の出来は素晴らしく大いに満足できるものだった。そしてスペシャルウィークも満足しており、良い映画を見た特有の内容について語りたい衝動にかられ、腰を据えて語りたいと近場のファミレスに向かっていた。

 

「スぺちゃんはいつフランスに行くの?」

 

 映画について語り合った後、次の話題としてスペシャルウィークの次走について話題を振る。スペシャルウィークはフランスの凱旋門賞に出走予定だった。

 

「明後日ですね。そこで前哨戦を走ります」

「フランスか、あっちの芝は足に絡みついて相当重いって白ちゃんが言ってたな。キツそう」

「そうみたいです。あっちの芝対策でパワー強化はしてきましたけど、デジタルちゃんみたいに適応できるかどうか」

「スぺちゃんだって凱旋門賞に向けていっぱい練習したんでしょう。大丈夫だって!」

「フフフ、ありがとうデジタルちゃん」

 

 大きな動作を交えながら必死に励ますデジタルの姿を見て、スペシャルウィークはその健気な姿に思わず笑みを零す。

 

「でもフランスに行くのはそこまで不安じゃないんです。きっとドバイでデジタルちゃんと一緒に過ごして海外遠征での過ごし方を学んだからかな」

「ドバイか、あの時は楽しかったよね。一緒にトレーニングしたり、ご飯食べたり」

「そうだね。本当にいい経験で楽しかった」

 

 デジタルとスペシャルウィークは記憶を振り返る。数々の偶然によってお互いは知り合って仲良くなれた。その巡りあわせに感謝していた。

 デジタルはジュースを口に着けると何かを思い出したかのように喋る。

 

「そういえばサキーちゃんが凱旋門賞では素晴らしいレースをしようって」

「サキーさんですか?」

「そう、凱旋門賞に出るのを喜んでたよ。やっぱりドバイでのサキーちゃんの言葉って凱旋門出るのを決めたのに影響あるの」

「そうですね」

 

 スペシャルウィークは自分の心情を再確認するように思考する。夢は日本一のウマ娘になることだ。そしてサキーは世界一を決める凱旋門賞に勝てば同時に日本一になれるのではと言い、その言葉は印象に残っていた。

 凱旋門賞を走るのを決めたのはその言葉も影響が有る。そしてサキーという現時点の世界最強のウマ娘と走ってみたい。そして勝ちたいという気持ちが芽生えていた。

 するとスペシャルウィークの思考を中断するようにデジタルは悩まし気な声を上げる。

 

「はぁ~。本当ならスぺちゃんガンバレ!勝って世界一になって日本一になって!って言いたいんだけどさ。サキーちゃんの夢とか目標とか知ってるからサキーちゃんにも負けて欲しくないんだよね」

 

 デジタルは頭を抱えうんうんと唸る。本人を目の前にしてサキーに負けたくないというのは無神経で配慮が足りないと言うだろう。

 だがスペシャルウィークは素直に自分の想いを口に出す素直さに好感を持っていた。

 

「それだったらお互いベストを尽くしてくれと祈ってください。ベストを尽くせないと悔しいですから」

 

 デジタルはスペシャルウィークの言葉に目から鱗が落ちるといった様子で目を見開き頷く。ドバイの時はベストを尽くしたからこそサキーを感じられて満足できた。

 もしレース展開などでベストを尽くせなかったら一生悔いが残っていただろう。

 

「うん、そうだね。アタシも2人がベストを尽くせるように祈っているよ。あっ料理が来るよ」

 

 話しが終わると同時に注文していた料理が来る。テーブル一面に料理が置かれ、1品以外は全てスペシャルウィークの注文した料理だった。そして数10分後には料理は全て完食されていた。

 

「まだ時間があるし、どこか行く?」

「行く行く、どこにしよっか?」

「あのスペシャルウィーク選手とアグネスデジタル選手ですか?」

 

 2人は会計を済ませて店を出ようとすると後ろから声を掛けられる。後ろを振り向くと小学校低学年ぐらいの少年が緊張した面持ちで立っていた。

 

「うん。そうだよ」

 

 スペシャルウィークは少年に視線を合わすようにしゃがみ込み笑顔を見せながら声をかける。その笑顔で緊張が解れたのか淀みなく言葉を紡ぐ。

 

「サインしてください!」

「はい。いいですよ」

 

 スペシャルウィークは渡されたノートとペンを受け取り、サインを書く。その様子を見てデジタルは感心する。

 オペラオーやドトウのアドバイスでファンサービスはしっかりしろとアドバイスを受けた。そのアドバイス通りにファンサービスは可能な限り行った。

 そして今この時も行おうとしたがスペシャルウィークとの一時を邪魔するなと思ってしまい反応が遅れる。だが即座に対応していた。

 ファンを大事にするスペシャルウィークは素敵なウマ娘だ。そしてファンサービス馴れしていながらサインは垢抜けしていないデザインなのもギャップがあって良い。

 すると堰を切ったように他の客達も握手やサインを求める。

 ダービーウマ娘のスペシャルウィーク、GI5勝のウマ娘アグネスデジタル、その知名度は全国レベルだ。

 2人は特に変装もしていなかったので客達の大概は気づいていたがプライベートを邪魔してはいけないと気を遣って声をかけずにいた。だが1人が声をかけたことで遠慮が無くなり、サインや握手を要求し始める。

 デジタルとスペシャルウィークは対応を続けファミレスはちょっとしたファンミーティング会場になっていた。

 

「デジタルさん次のレースがんばってください!でもがんばらないでください!」

 

 最後のファンと握手しているなか、小学生低学年ぐらいの女児がデジタルに話しかける。デジタルはその言葉に思わず首をかしげる。とんちか?

 

「すみませんアグネスデジタル選手、この娘はアグネスデジタル選手も好きなのですが、ヒガシノコウテイ選手も最近好きになって」

 

 女児の母親らしき人が申し訳なさそうに何度も頭を下げながら捕捉を加える。その言葉を聞いて女児の言葉の意味を理解する。

 自分が好きだから頑張って欲しい。でも1着になるとヒガシノコウテイが負けてしまうから頑張って欲しくないということだろう。

 

「分かるよ。アタシもついさっきまで同じ気持ちだったんだよ。そういう時は両方がんばれ~って応援すればいいよ」

 

 デジタルはスペシャルウィークに言われた言葉を女児にも分かるように噛み砕いて伝える。

 女児は新たな答えに感心したようで、うんうんと言いながら大きな動作で頷き、デジタルの言葉が気に入ったのか母親にデジタルの言葉を何度も言いながら帰っていった。

 

「やっと終わりましたね」

「変装とか何か調子乗っている感じでしたくなかったけど、これからはしようかな」

 

 デジタルはファンへの対応を一通り終わらし人が居なくなったのを確認してため息をつく。とんだ時間外労働だ。

 

「ちょっと疲れたし、時間も微妙だからもう帰る?」

 

 本当なら夜通しでも遊びたいのだが、スペシャルウィークは数日後にはフランスに行き、それまでにスピカのメンバーなどと過ごしたいだろう。自分一人だけで独占するわけにはいかない。

 

「そうですね。帰りましょうか」

 

 スペシャルウィークもデジタルの提案を了承し、2人は家路に帰った。

 

──

 

 トレーナーは雑談しながらクールダウンをおこなうチームメンバーを一瞥し、紙面に目線を戻す。

 

 アグネスデジタル死角なし!

 休み明けでも問題なし、相手を考えても本命は揺るがないだろう

 

 トレーナーは紙面に踊る文字を凝視する。スポーツ紙のウマ娘欄も専門誌も全てデジタルに重い印を押していた。

 事前の追切でも記者でも分かるほど抜群の動きを見せていたのでこの評価は妥当だろう。細かいところでもコーナリングやフォームを修正し、さらに穴が無くなった。

 対抗にはダートGIの常連のノボトゥルー。ダートGⅢを連勝して勢いがあるスターリングローズといったところだろう。

 そしてセイシンフブキとヒガシノコウテイはそこまで印を打たれていない。帝王賞での負け方とそれ以降はレースを走っていなく、レース勘が養われていないのが不安材料なのだろう。

 

「何見てるの?」

 

 トレーナーの肩の上から頭がにゅっと出てくる。思わず目線を向けるとアグネスデジタルと目線が合う。

 

「何やお前か、クールダウンは終わったのか?」

「白ちゃんがそれを熟読している間に終わったよ。でこれは南部杯の記事?」

「ああ、予想はお前にグリグリや」

「それはどうでもいいから、フブキちゃんとコウテイちゃんの事は何て書いてるの?」

「そこまで書かれていない」

「ちょっと見せて」

 

 デジタルはトレーナーから雑誌を受け取り凝視し、残念そうにため息をつく。

 

「う~ん。そんな評価されてないのか。追切りも普通みたいだし調子はどうなんだろう?コウテイちゃんは全く連絡取れないし、フブキちゃんからは着信拒否されてるし分からないな」

「おい、一緒にレースする相手とレース前に取ろうとするな。少しは気を遣え」

「なんで?別に殴り合いするわけじゃないんだから。仲良くしようよ」

「お前はそう思っても他はそうじゃないんや」

「そういうもんか。でもこれじゃあフブキちゃんとコウテイちゃんを堪能できなそう」

 

 デジタルはさらにため息をつく。レースに勝ってセイシンフブキとヒガシノコウテイの全てを感じ堪能するのが理想だ。だが記事に書かれているのが本当だとするなら絶好調ではないのだろう。

 

「まあいいや、堪能するのは次の機会ということで。南部杯はしっかり勝ってサキーちゃんに挑まなきゃ」

 

 デジタルの雰囲気がひりつき、トレーナーもその空気に当てられて思わず唾を飲み込む。最近になってデジタルの闘争心が大きくなっている。

 これもサキーへの執着か、だとしたら良い傾向だ。これならブリーダーズカップクラシックに勝てるかもしれない。トレーナーはデジタルの飛躍を予感していた。



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勇者と皇帝と求道者、再び ♯6

 セイシンフブキは意識が覚醒すると、体を覆っていた布切れを吹き飛ばす。

 起き抜け特有の倦怠感もなくスムーズに身体が動く、今日は絶好調だ。畳で寝たのは久しぶりで、どう影響するかと心配していたが杞憂だった。

 体を起こし隣で寝ているアジュディミツオーとアブクマポーロを起こさないように忍び足で歩いて窓に近づきカーテンを開けると眩しさに目を細める。

 天気は快晴、予報でも1日中晴れでレースは良バ場で行われるだろう。雨の中不良や重で走るのも嫌いではないが、やはり良の乾いた砂で走るのが一番好きだ。

 

「おはようございます。師匠」

「おはようフブキ」

 

 アジュディミツオーは眠そうに目をこすりながら、アブクマポーロは低血圧気味なのか少し気だるげに起きて挨拶をする。

 

「その感じだと調子は良さそうだね。そして天気は晴れ、良バ場でやれそうだ」

「はい」

「アジュディミツオー君、起きてそうそうすまないが、下の自販機でコーヒーを買ってきてくれないか、ブラックが無ければコーヒーなら何でもいい。フブキは何がいい?」

「水で」

「ではその2つと後は君の分も買ってきてくれ」

「わかりました」

 

 アジュディミツオーはアブクマポーロから小銭を受け取ると勢いよく部屋から飛び出ていき、数10秒後には息を切らせ部屋に戻り注文の品を渡す。

 

「買ってきました」

「ありがとう。でもそんなに慌てなくてもよかったのに」

「1秒でも速く持ってこい、それが師匠の教えですから」

「フブキ、そんなしょうもないことを教えないで、もっとマシなことを教えたらどうだい」

「ちゃんと教えてますよ。見て盗め。姐さん流です」

「私はそんな旧時代的なことはしていない。ちゃんと説明した」

「全然噛み砕いてくれないじゃないっすか。自分で理解するためにすげえ勉強したんですから」

 

 セイシンフブキの言葉にアブクマポーロとアジュディミツオーは思わず吹き出し、場の空気は和やかなものになる。

 

「師匠!今日は絶対勝ってくださいね!師匠の正しいダートの走りで勝つ!今日がダート革命記念日です!」

「朝からうるせえよ。何だよダート革命記念日って」

「ダート革命か、確かにそうだ。私達が考案したこの走りが基礎になり発展しトレンドになっていくだろう。そうなれば私達がダートの歴史を変えるといってもいい」

「革命ね。悪くない」

 

 セイシンフブキは革命という言葉が気に入ったのか笑みをこぼした。

 

───

 

 ヒガシノコウテイは薄暗い部屋のなかで布団から体を起こすと電気も付けずその状態で静止する。今日で全てが決まる。

 南部杯に勝つために全てを捧げてきた。快楽も癒しも地方ウマ娘としての純性も『私達の』ヒガシノコウテイも。勝たなければ全てが無駄になる。

 

 勝ちたい、負けたくない、岩手の皆に落胆されたくない、見捨てられたくない。

 

 ヒガシノコウテイは不安に苛まれて思わず心臓に手を当てる。

 ゴドルフィンでトレーニングを続け、岩手に帰ったのはレース2日前である。その間岩手の寮や実家に帰らず。両親とも、トレーナーとも、メイセイオペラとも、岩手所属のウマ娘との接触を極力避けてきた。

 それは地方を捨てた裏切り者として、冷ややかな目で見られ罵倒されるのを恐怖していたからである。その扱いを受ける覚悟で出たつもりだったが。それでもいざ岩手に帰った時には恐怖で足がすくんでいた。

 ヒガシノコウテイは枕元に置いていたレースのメンバー表を手に取り見つめる。

 

 バンケーティング、トーヨーリンカーン、グローバルゴット、トーヨーデヘア

 

 盛岡で汗を流し同じ釜で飯を食べ語り合った仲間達だ。本当ならチーム岩手として一緒に中央や他の地方ウマ娘を迎え撃つ立場だった。だが今は違う。メンバー表を裏返し、勝利に向けて集中力を高めていく。

 

───

 

「おはよう白ちゃん」

「おはようさん。どうだ調子は?」

「いつもどおりかな」

 

 トレーナーはデジタルの言葉を聞き、安心する。デジタルも多くのレースを走り、そのなかでレース前日はどのように過ごすのがベストか過去の経験から導き出せるようになっている。

 

「じゃあ俺は先に盛岡レース場に行っとるから」

「分かった」

 

 デジタルは返事をするとタブレットに視線を移し、チームプレアデスのメンバーが作ってくれた出走メンバーのインタビューや動画を記録したファイルを視聴している。

 デジタルはこれでいつもテンションを上げてレースに臨む。そして今回トレーナーはメンバーにヒガシノコウテイやセイシンフブキより、ノボトゥルーやスターリングローズの情報を集めてくれと頼んでおいた。

 2人が失速する間にノボトゥルーやスターリングローズが一気に捲ってくるという可能性もある。むしろそっちの方の可能性が高いとさえ睨んでいた。その時の為に相手に興味を持ってもらい勝負根性を発揮してもらうという狙いがあった。

 トレーナーの思惑を知らずデジタルは食い入るように映像を見つめていた。

 

──

 

「うわ、凄い盛り上がり」

 

 アジュディミツオーは入場門を通過し敷地内に入った瞬間思わず感嘆の声を上げる。

 人が集まるのはメインレース頃でレースが始まる前のこの時間は人が疎らなのだが、明らかに人が多く、盛岡レース場は人が集まり活気に溢れていた。

 辺りを見渡せば様々出店があり、来場者がそれらを食べながらレースやパドックを見ている。朝食がまだだったので焼き鳥を購入したが、ちゃんとした店で出るような美味しさでしかもボリュームが有り値段も安かった。

 パンフレットを受け取り見ているとトークショーや芸能人のサイン会も行う予定で、極めつけには空きスペースにリングを設置しプロレスの試合まで予定されている。これは一種の祭りのようだ。

 

「何か凄いっすね。色んなイベントやったりして、船橋でもこれぐらいやればいいのに。明らかに今年のかしわ記念より人が入ってますよ。盛岡ってこんな人気なんですか?」

「メイセイオペラが色々とメディアに露出して注目度が高まり、足を運んだ客が多いのだろう。それに他の業界のイベントも開催することでさらに客を呼んでいる。この客入りは納得だ」

 

 2人は観客席ではなくコースに1番近いスペースに足を運ぶ。理想はゴール板付近に陣取りたかったが、すでにカメラを持ってその雄姿を写真に撮ろうとするファンがすでにいたので、数メートル離れたスペースに移動した。

 

「良いところですね。のんびりしているというか、あそこの芝生で見ている家族連れとかもうピクニックじゃないですか」

 

 2人が居る場所から離れた4コーナー付近には芝生スタンドがあり、そこにはシートを敷き座っている夫婦とその周りを走り回る子供達がいた。

 今日は10月にしては温かく、この山々に囲まれた景色を見ながらレースを見るのは、中央でレースを見るのとは違った楽しさがあるだろう。

 

「確かに初めて来た時はこの景色の素晴らしさに心が洗われて、一瞬レースに来たということを忘れてしまったよ。懐かしい」

「南部杯で走ったんでしたよね」

「ああ、あの時のメイセイオペラは強かった。完敗だったよ」

 

 アブクマポーロは南部杯の思い出を語り始め、アジュディミツオーは耳を傾ける。すると明らかに初めてレース場に来たと分かる集団が隣に来る。その会話が耳に入ってきていた。

 

─これがレース場か、初めて来たけどコースとの距離近いな。でも何でコースが土なんだ?

─芝のコースはお金がかかるんじゃない?メイセイオペラも地方は貧乏だって言ってたし

─何か芝と比べるとしょぼそうだな。まあ泥臭い感じが地方っぽいというか。

─まあ、サイン会が始まるまでの暇つぶしってことで、

 

 アジュディミツオーは思わず睨みつける。ダートは芝よりしょぼくないし、ダートに懸けているウマ娘達の走りを暇つぶしで見るんじゃない。

 その視線を遮るようにアブクマポーロが間に入り目で制すると小声で話しかける。

 

「残念だが、これが現状だ」

「悔しいっすね。でも師匠の走りを見ればダートの素晴らしさに気づいてファンになってくれますよ」

「そうだね。1人のダートファンとして切に願うよ」

 

 アジュディミツオーの言葉にアブクマポーロは頷く。ダートの素晴らしさに惹かれる人間は恐らく少ないだろう。だがセイシンフブキのダートに賭ける情熱は確実に伝わるはずだ。 

 アブクマポーロは未来のダートファンになりそうな人間はどのような人物かと何気なく観察すると有ることに気づく。

 レース場の雰囲気は良い意味で牧歌的なのだが、一部の人間からそれとは無縁なひりついた雰囲気がにじみ出ている。その雰囲気を発する者の目はどこか見覚えがあった。

 

「さて、見たいイベントも有るかもしれないが、私たちの仕事をしよう。レースが始まるよ」

「はい」

 

 2人は僅かな変化を見逃さんと目を皿のようにしてレースを見つめ続ける、レースの間はアブクマポーロが走ったレース映像を見ながらアジュディミツオーに解説し、時間は瞬く間に過ぎていく。第9レースが終了した。

 

「見る限り内外の差もそこまで無く、どのポジションからでも力が発揮できそうです」

「私も同じ見解だ。さてフブキに伝えに行こう」

 

 2人は人込みをかき分けながら選手控室に向かう。すると場内アナウンスが流れる。

 

『皆様こんにちは、元岩手ウマ娘協会所属のメイセイオペラです。まもなく第10レース、南部杯のパドックが始まります。このレースに走る岩手のウマ娘たちに暖かな声援を贈ってくだされば幸いです』

 

──

 

「今日初めてレース場に来ました」

「ありがとうございます。レースを見るのに疲れたら、休憩スペースもありますので、自分のペースで見てください」

 

 メイセイオペラはファンと握手し言葉を交わす。これで何人目だろう?疲労は溜まり笑顔を維持していた表情筋は攣りそうだ。

 だが目の前に見える行列は一向に途絶えない。一瞬表情が崩れそうになるが、即座に笑顔を作った。

 

 メイセイオペラと岩手ウマ娘協会はレース場に人を呼ぶために様々なことを行った。

 メイセイオペラは様々なイベントに出て、メディアに露出することで知名度を上げ盛岡やヒガシノコウテイに関心が向くように尽力をした。

 岩手ウマ娘協会も地元の飲食店やイベント団体に声をかけ、当日に出店を開きイベントをしてもらうように、便宜を図り頼み込んだ。

 交渉は難航したが、ヒガシノコウテイに勝たせるために、地元の誇りを守る為に協力してくれと何度も頼み込んだ。

 その熱意が通じたのか次々と手を挙げ参加してくれた。結果去年と比べて観客動員数は増加していた。

 盛岡を知ってもらえるのは嬉しいがそれが目的ではない。本命は南部杯までに客を留めること。その為にレースまでの間絶えなくイベントを行い、客を引き止める。メイセイオペラの握手会もその一旦だった。

 1時間後、握手会は終了し緊張から解放され思わずため息をつくと目の前に飲み物が差し出される。

 差し出した人物に視線を向け、握手会の時とは違う自然体な笑顔を見せた。

 

「お疲れ、メイセイオペラ。握手会は現役以来だけど疲れるね」

「トウケイニセイさん、今日はありがとうございます」

 

トウケイニセイ

 

 メイセイオペラがレースを走る前から岩手ウマ娘協会に所属し、その強さは盛岡の怪物と賞賛され、連勝記録を作り上げた名ウマ娘であり、メイセイオペラとヒガシノコウテイの憧れでもある。

 そしてイベントの1つである、握手会を行うために盛岡レース場に来ていた。

 トウケイニセイも引退してからは表舞台に上がらず生活していたが突然現れた。その報せを聞いたオールドファン達が再びその姿を見ようとこぞってレース場に足を運んでいた。

 

「しかし、あの時の少女が今や岩手の総大将か」

 

 トウケイニセイは感慨深げに呟く。あのスーパーのイベントスペースで行われたサイン会にヒガシノコウテイが現れた。

 体が弱くて走れないと涙目を浮かべ、自分も体が弱かったと伝えると希望で目を輝かせ、一緒に桐花賞で走ろうと約束した小さな少女の姿は鮮明に覚えている。

 

「そして今ヒガシノコウテイは苦しんでいる」

 

 トウケイニセイは重々しく呟き、メイセイオペラは黙って頷いた。

 メイセイオペラから頼まれた時は依頼に応じるつもりはなかった。もう過去の人間であり表舞台に上がるつもりはない。

 だが真意と握手会を行う本当の意味を聞き、その重い腰を上げた。

 テレビに出たメイセイオペラを通して、南部杯の話を聞いた。自分が虚弱だったばかりに彼女達を悲しませ、そして表舞台に立たせてしまった。

 もう少し体が丈夫で現役を続けられれば、自分の代わりに岩手の総大将として中央と戦い屈辱に塗れることはなかった。

 何より岩手のウマ娘として同胞が苦しんでいるのを黙って見過ごせない。こんなロートルでも力になれるなら、いくらでも力を貸してやる。

 

「すみません。そろそろ時間なので失礼します」

「場内アナウンスをするんだって、大変だね」

「別に大したことではないです。ではパドックではお願いします」

 

 メイセイオペラはトウケイニセイと別れ、アナウンスルームに向う。そして息を整え、声を出す。

 

『皆様こんにちは、元岩手ウマ娘協会所属のメイセイオペラです。まもなく第10レース、南部杯のパドックが始まります。このレースに走る岩手のウマ娘たちに暖かな声援を贈ってくだされば幸いです』

 

 丁寧にゆっくりと発声する。その鈴の音のような声はレース場にいる観客の意識に止まり、パドックに足を運ぶ。

 メイセイオペラは急いでパドックに向かった。

 

───

 

 トレーナーはトレーナー達が集まる部屋のガラス越しからレースを走るウマ娘達を見下ろす。同じように南部杯に出走するウマ娘のトレーナー達もレースを見つめていた。

 

「特に変わった様子はないですかね」

「ええ、どのポジションからでも力が発揮できそうです」

 

 デジタルのトレーナーは隣にいたスターリングローズのトレーナーに話しかける。

 スターリングローズはエイシンプレストンと同じチームのウマ娘である。GIで一緒になるのはプレストンの香港クイーンエリザベス以来だ。

 お互い常にGIに出走するウマ娘がいるチームではない。それが今年2回目、しかも有力ウマ娘が出走するのは珍しいことだった。

 

「アグネスデジタルの調子は良さそうですね」

「ぼちぼちですかね、それなりに走ってくれるでしょう。スターリングローズも良さそうですね」

「プレストンの仇討ちだと意気込んでいます。それにアグネスデジタルに勝てば間接的に自分の方が強いと証明できると」

「なるほど、芝のプレストンとダートのスターリングローズじゃ、勝負できませんからね。両方走れるデジタルは丁度良い相手だ」

 

 デジタルのトレーナーは思わず笑う。さしずめ試し割りの瓦か、そしてデジタルという瓦は割られるかもしれない。

 スターリングローズは出走メンバーで唯一重賞を連勝して勢いがある。

 勢いは自信を産み実力以上の力を発揮させることがある。このレースで一番気をつけなければならないのはスターリングローズかもしれない。

 

「しかし、盛岡には初めて来たのですが、予想以上に賑やかで活気がある。もう少し寂れていると思ったのですが」

「去年はそんなことはなかったのですが、今年はメイセイオペラがメディアに出たことで注目されているようで、その影響で人が来ているようです」

「地方は厳しい現状に立たされていると聞きますが、これならば大丈夫かもしれないですね」

「そうですね。ウマ娘の世界にいる者としては地方にも頑張ってもらいたいものです」

 

 トレーナーは世間話をしながら考える。去年より人が多い、つまりヒガシノコウテイを応援する人間が多いことが予想される。今週の追い切りを見る限り不調を脱出できていない。だが地元の声援を受けて息を吹き返す可能性がある。

 ヒガシノコウテイは地方の総大将として常に期待と声援を受けていた。そして声援を力にする術を持っている。注意しておいたほうがいいかもしれない。

 

『皆様こんにちは、元岩手ウマ娘協会所属のメイセイオペラです。まもなく第10レース、南部杯のパドックが始まります。このレースに走る岩手のウマ娘たちに暖かな声援を贈ってくだされば幸いです』

 

「では私たちもパドックに向かいましょうか」

 

 部屋にも場内アナウンスが流れ、2人はパドックに向かった。

 

───

 

『16番人気、グローバルゴット選手です』

 

 ランウェイに地元岩手のグローバルゴットが現れると、割れんばかりの歓声で出迎えられる。今まで受けたことない歓声を受けて感極まったのか、思わず目を拭う。

 その姿に『そんなところで泣いちゃだめだぞ』『レースで頑張れ』等と暖かな励ましの声援が送られる。その光景は観客たちの心を温め和やか空気が流れる。

 続いて15番人気の同じく岩手のバンケーティングが現れても同じように割れんばかりの声援と暖かな励ましの声で出迎えられる。そして14番人気の地方ウマ娘が現れた時にそれは起こった。

 

静寂、無音。

 

 割れんばかりの声援を送っていたはずの観客たちが声を上げない。

 数少ないその地方ウマ娘のファンも最初は声援を送っていたが、その不穏さと同調圧力のような息苦しさにどんどん声が小さくなり、そして声を出さなくなった。

 その現象は続いた。岩手のウマ娘には大声援、他の地方所属や中央所属のウマ娘には大半は無反応、他のウマ娘ファンもその異様さに恐怖し声援を送れていなかった。そして出走ウマ娘もその異様さに動揺していた。

 

『5番人気、セイシンフブキ選手です』

 

 セイシンフブキが姿を現す。勝負服は上には白色の空手道着に下は緑のハーフパンツ、道着には桜吹雪が散りばめられている。

 その瞬間、凄まじい音量のブーイングを浴びせられる。

 圧倒的な重低音と込められた敵意、そのブーイングは血の気が多く過激な言動で、中央ウマ娘協会を痛烈批判したことのあるセイシンフブキすら動揺させる。

 一瞬驚きで目を見開いた直後に強気の表情を見せていたが、目が僅かばかり泳いでいた。そしてブーイングの音量はどんどん大きくなっていく。

 今日初めてレース場に来る人間はメイセイオペラのメディア露出や岩手ウマ娘協会の努力もあって多かった。観客たちは少し戸惑ったが、そういう文化なのか、皆がやっているから自分もやらなくてはと同調圧力が働きブーイングに参加していた。

 この光景には出走ウマ娘は勿論トレーナー達も動揺していた。トレーナー達は長年業界に携わってきた。その長い月日のなかでもこんなことは初めてだった。

 

「なんやこれは!?こんなんが許されてええんか!?」

 

 デジタルのトレーナーはパドック脇に居るメイセイオペラや岩手ウマ娘協会の関係者を睨みつける。

 ウマ娘に対する無反応は観客の自由だから仕方がない。だがブーイングは明らかに妨害行為だ、これでは公平性に欠けてしまい中央では有り得ない行動だ。

 ファン勝手にしたのならば係員なり場内アナウンスで辞めるように促すだろう。だがそれをやらないということは容認しているということだ。

 全ては地元のウマ娘を勝たせるため、だがここまでエグい手段を取ってくるのか。トレーナーは拳を握り締めて詰め寄りたい衝動を抑える。

 続いて中央のトロットスター、ノボトゥルー、スターリングローズがパドックに現れる。

 この3人にはブーイングは浴びせず無反応だった。だがブーイングを浴びせられるかもしれないという恐怖のせいか明らかに平常心を失っており足取りは重かった。

 

「2番人気、アグネスデジタル選手です」

 

 アグネスデジタルが現れた瞬間、この日最大のブーイングが浴びせられる。

 ヒガシノコウテイは貧乏な地方出身でデジタルは金持ちの中央出身、そして去年南部杯に勝ち岩手の至宝を奪っていった。分かりやすい対立構造と岩手の立場からして悪役的ポジション、その2つの要素がブーイングをより大きく集めることになる。

 トレーナーは苦虫を噛み潰したような表情を見せる。デジタルはそのウマ娘愛のせいで自分の世界に入り込み、環境の変化に強いという長所がある。

 現にドバイワールドカップでの無反応、そしてサキーへの大声援、その大声援は会場にはお前なんて誰も応援していないというメッセージも込められ、普通のウマ娘なら動揺するところだが全く効かなかった。

 だが無反応と他者への大声援と自分へのブーイングは明らかにダメージが違う。

 無反応と他者への声援はその感情がデジタルに向いていない、だがブーイングは全ての感情が向けられている。

 ブーイングとは言葉による他者への攻撃であり、相手への憎しみを言葉に乗せぶつけ、その情念はデジタルの世界の壁を突き破り心にダメージを与える。

 パドックを歩くデジタルは一見いつも通りに見えていたかもしれない。だが耳は僅かに動き、手を握り締めるなど無意識に動揺しているサインを出していた。

 

「1番人気、ヒガシノコウテイ選手です」

 

 ヒガシノコウテイが現れる。勝負服は赤色を基調にしたセーラー服に左右に濃紺の襷、青色に白の横一線が入ったマントはボタンで左肩に縫い付けられている。

 現れた瞬間、今までに岩手のウマ娘達に送られた声援とは比べ物にならないほどの声援が浴びせられる。

 トレーナーはそれを聞いてドバイワールドカップの時にサキーに送られた声援を思い出す。

 レース場に来ている観客はドバイの時に比べれば遥かに少なく、声も小さい。だがその熱量はドバイの時よりも上のように感じられた。

 そしてヒガシノコウテイはその圧倒的な熱量の声援を受けても威風堂々とランウェイを歩く。注目するのはその表情だ。

 絶対に成し遂げるという覚悟と決意が漲る凄みのある表情、あんな顔をするウマ娘は初めて見る。

 次に身体つき、追いきりで調子が悪かったというのは明らかな三味線だ。この鍛え抜かれた体であの体たらくは有り得ない。

 ゴドルフィンの日本支部でトレーニングをしていたと聞いていたが、ここまで成果が有るとは思ってもいなかった。

 トレーナーは認識を改める。このレースで1番気をつけなければならないのはヒガシノコウテイだ。

 パドックが終わるとウマ娘それぞれがトレーナーや関係者の元に集まり言葉を交わす。

 

「なんですかあれは!あんなのありなんですか!師匠にブーイングして!」

 

 アジュディミツオーは血管を浮き上がらせながら怒りをぶちまける。

 それでも怒りは収まらず岩手ウマ娘協会の人間に問い詰めようと向かおうとするが、襟首を掴まれ止められる。

 

「何すんですか師匠!」

「落ち着けバカ、それよりあのブーイングを聞いたか?」

「聞きましたよ!」

「岩手の客はお前よりダートを理解しているぞ」

「はい?」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキの不可解な言葉に怒りを忘れ思わず素っ頓狂な声を出す。

 

「ブーイングを飛ばしたのはアタシとアグネスデジタルだけだ。ブーイングをするのは奴らにとって驚異だからだ。アグネスデジタルが驚異なのは分かる。2番人気だし芝の方がダートより上だと勘違いしているバカもいるし実績もある。そこは分かるな」

「それはまあ」

「そして他の上位人気じゃなくて、帝王賞に負けて5番人気のアタシにブーイングをしたのは何故か?ダートの正しい走り方を身につけたアタシを恐れているからだ。ちょっと盛岡で走っただけなのに見抜きやがった。やるじゃねえか」

 

 セイシンフブキは愉快そうに笑う。この走りを理解している人間がこんなにも多くいたのか、世の中まだまだ捨てたもんじゃない。

 

「それならばフブキのダートの走りを観客に見せつければいい。きっとダートの素晴らしさと面白さを理解してくれる」

「そうっすね。いっちょ見せてやりますよ」

「あと、ヒガシノコウテイと岩手のウマ娘に気をつけろ」

「相手なんて関係ない。姐さんとミツオーとアタシで編み出した正しいダートの走り方なら誰も負けない」

「それもそうか、行ってこいフブキ」

「師匠のカッコイイところ見せてください!」

 

 2人の言葉にセイシンフブキは手を挙げて答える。ブーイングを浴びて恥ずかしながら動揺した。だが今は何一つ揺らいでいない。最高の精神状態だ。

 今考えることはアジュディミツオーとアブクマポーロの力を借りて編み出した正しいダートの走りと磨き上げた末脚を見せつけ力を証明する。

 そして会場にいる観客にダートプロフェッショナルの強さとダートを理解している者にこの走りを見せることのみ。

 

「ごめん。私なんかの為に……」

「気にしないで、私や皆はテイちゃんが大好きで、少しでもテイちゃんの役に立ちたくてやっただけだから」

 

 メイセイオペラはヒガシノコウテイの手を握りながら優しく語りかける。

 レース数時間前にヒガシノコウテイの元に一通の手紙が送られた。送り主はメイセイオペラだった。

 ヒガシノコウテイはバックの奥底に仕舞おうとしたが、封筒には絶対にレース前に読んで欲しいと書かれており、文字からにじみ出る思いのようなものを感じ封を開けた。そこには衝撃的なことが書かれていた。

 

 他のウマ娘へ慣習として送っていた声援を一切しないこと、セイシンフブキとアグネスデジタルへブーイングすること。

 

 これは何の冗談だ?岩手の皆がそんなことするわけがない。手紙を破り捨てようとするがまだ続きがあり目を通す。そこにはこう記されていた。

 

 岩手の皆は知っている。岩手の誇りを守り皆を笑顔にするために懸命に頑張っていること。『私たち』のヒガシノコウテイと認めてくれないことへの恐怖し苦しんでいること。それでも岩手の為に自分の信念を曲げてゴドルフィンに行ったこと。

 だから1人だけ苦しませない。どんな汚名を着てもかまわない。皆で南部杯に勝とう。

 

 ヒガシノコウテイは涙が流れるのを必死にこらえる。

 岩手のウマ娘と岩手のウマ娘を応援してくれる人々達が大好きだ。その人の為なら頑張れる。

 そして岩手の人達も同じように自分を好きでいてくれて、そのために汚名を着てでも勝たせようとしてくれる。これがどれだけ嬉しいことか。

 そんな大好きな岩手の皆のために絶対に勝って喜ばせる。ヒガシノコウテイの心に火が灯り、今までにない業火となって燃え上がっていた。

 

「私も少しいいかな」

 

 ヒガシノコウテイは思わず背筋を伸ばす。憧れのトウケイニセイが目の前にいる。憧れに会えた喜びと、強さを得るために『私達の』ウマ娘でいられなかった負い目が胸中に過る。

 

「かつて私は南部杯に負けて、メイセイオペラとヒガシノコウテイに悲しい思いをさせてしまった。だから君は私にならないでくれ。負けてしまえば岩手を愛し、ヒガシノコウテイに憧れる未来の岩手のウマ娘が嘆き悲しんでしまう。君が過去の自分を救うんだ」

 

 トウケイニセイはヒガシノコウテイの肩に手を置きながら語りかける。

 南部杯に勝つために苦しんでいた者に勝ってくれと激励する。

 これは余計な荷物を背負わせることになるかもしれない。だが目を見て確信した。この願いも岩手のウマ娘のためにと力に変えてくれる。

 一方ヒガシノコウテイは過去の記憶を思い出していた。

 絶対的なヒーローが敗れ去ったあの日、失意のどん底に落ち何日も嘆き悲しんだ。

 まだまだトウケイニセイやメイセイオペラには及ばないと思っている。だがそんな自分でもヒーローだと思ってくれる人が居る。その人達を悲しませるわけにはいかない。

 また1つヒガシノコウテイの心に燃料が投下された。

 

「絶対に勝ってきます」

 

 ヒガシノコウテイは短くそして力強く言い放ち、コースに向かっていく。

 

「デジタル、あんなブーイング気にするな。いつもどおり好きなウマ娘のことだけ考えておけ」

 

 トレーナーは言葉をかけながらデジタルの様子を観察する。

 いくらかは動揺が収まってはいるが、まだ完全に収まってはいない。あんな熱量と情念が篭ったブーイングを受ければ大の大人だって萎縮する。

 

「サキーちゃんはこんな感じだったのか、これはキツイね」

 

 デジタルは顔を俯かせる。サキーの口から語れたブリーダーズカップクラシックの話を思い出す。

 同じようにブーイングを受け、未知の体験で怖かったと語っていたがまさに同じ心境だ。あれほどの大勢の敵意をぶつけられたのは初めてだった。

 

「でも、サキーちゃんの時のブーイングはもっと酷かった。そして初めてのダート、それでも僅差の2着、一方アタシは1回勝ったレース。これで勝たなきゃサキーちゃんに顔向けできないよ」

 

 デジタルは顔を上げる。これは試練だ、サキーに勝ちたいと思うならばこんな逆境を跳ね除けろということか。

 ならばやってやる。勝って自分の想いを証明してやる。

 

「白ちゃん作戦はある?」

「細かい作戦はない、あとヒガシノコウテイに注意しておけ、昨日まではスターリングローズが対抗だと思っていたが勘違いだった。1番怖いのはヒガシノコウテイや」

「了解。じゃあ行ってくるよ。ダートGI2つ勝てば日本チャンピオンでいいでしょ。チャンピオンとしてブリーダーズカップクラシックに臨んでやる」

「そうや!勝ってチャンピオンになってこい!」

 

 トレーナーが手を出すとデジタルはその手を力いっぱい叩きハイタッチを交わす。

 ブーイングの影響もなく闘志が漲っている。良い精神状態なのだが、どこか違和感があった。

 だがいくら考えても言語化できなかったので、一旦脳の片隅にしまいこんだ。

 

「久しぶりだねメイセイオペラ、フェブラリーステークス以来かな」

 

 各ウマ娘がコースに向かい、トレーナーや関係者が関係者スペースに向かおうとするなか、アブクマポーロはメイセイオペラに声をかける。

 

「こんにちはアブクマポーロさん、セイシンフブキさんに同行していたんですね」

「フブキにブーイングをするように指示を出したのは君だろ」

 

 アブクマポーロは単刀直入に切り出す。その言葉にメイセイオペラは一瞬表情を崩す。だが即座にいつもの柔和な表情を作る。

 

「なんのこと…」

「ここにいるトレーナーでもし2人だけブーイングを浴びせて能力を落としたいというウマ娘がいたら、アグネスデジタルとスターリングローズかノボトゥルーと答えるだろう。帝王賞で無様に負けたフブキを怖がる必要はないし、直前の追い切りも軽く走っただけ、直前で軽く追うなんて不安材料だ」

 

 アブクマポーロはメイセイオペラの言葉を遮り自説を述べる。その喋る姿を見てアジュディミツオーの背中に悪寒が走る。短い付き合いだが明らかに怒っているのが分かった。

 

「だがフブキの追い切りを見て、正しいダートの走り方を身につけていると確信した。だからフブキにブーイングを浴びせた。フブキは岩手の客は見る目が有ると喜んでいたが、見る目が有るのは君だ」

 

 メイセイオペラは無意識に左手の二の腕を右手で握る。まさにその通りである。

 ブーイングは2人に絞るべきだと考えていた。理由として多くのウマ娘にブーイングをすれば、途中で疲れ始め感情が篭もりにくいと考えていた。

 アグネスデジタルは確定として、あと1人は誰にするかと考えていたところセイシンフブキの追い切りを見かけた。

 衝撃が走った。現役時代に朧げに思い描いていたダートの正しい走り方を見事に再現していたのだ。

 これはアグネスデジタル以上の脅威になると確信し、2人にブーイングするように指示を出したのだった。

 

「今日はセイシンフブキという生まれ変わった真のダートプロフェッショナルが走る最初のレースだ。それを地方愛などという不純物を紛れさせないでくれ」

 

 アブクマポーロは睨みつけて語気を強める。ブーイングをしたのは地元のヒガシノコウテイが勝つ確率を上げるためだろう。

 地元だから地元のウマ娘が勝たなければならないなんて下らない。ダートレースは地方でも中央でも関係なく、技術を磨き熱意を持ったダートプロフェッショナルが勝つべきだ。

 

「不純物ですか、私はそうは思いません」

 

 メイセイオペラはアブクマポーロの言葉に冷静にそして明確に反対した。

 

「応援しているウマ娘を勝たせるためにブーイングをするのがいけないことですか?これは謂わばホームアドバンテージです。そして例え良心が痛み蔑まれても応援するウマ娘のためにブーイングする者の気持ちを否定させません。私はどんな汚名を着ようとも愛する者が苦しみ、それを救うためなら鬼でも悪魔にもなります」

 

 アブクマポーロはメイセイオペラの目を見つめる。どんなことが有っても決して揺るがず成し遂げようとする断固たる意志、それがメイセイオペラの目には宿っていた。

 あの目は以前南部杯で一緒に走ったときにも見た。その時は鬼神のように強かったのを今でも覚えている。

 メイセイオペラはヒガシノコウテイに勝ってもらうために心を痛めながらもブーイングをするように指示を出して、多くの者が実行した。

 今思えばあのひりついた雰囲気を出していたのはブーイングをした者達なのだろう。

 この目をしている者は厄介だ、かつてのメイセイオペラとヒガシノコウテイ、そして出走する岩手のウマ娘達も同じ目をしていた。このレースで1番の強敵は岩手そのものかもしれない。

 

「見解の相違だね。君たちの地方への愛はフブキのダートプロフェッショナルとしての矜持と技術が打ち砕くよ」

「打ち砕かせません。南部杯という岩手の誇りは岩手を誰よりも愛し、それ故に苦しみながらも頑張っているヒガシノコウテイが守り抜きます」

 

 お互いはお互いの目から視線を外さず見つめ続ける、数秒ほど見つめ合っているとアジュディミツオーがアブクマポーロの肩を叩き、声をかける。

 視線を外して辺りを見渡すと周囲はこちらを不安そうな目で見つめている。

 喧嘩か何かをしていると勘違いされたか、少しばかり怒りを覚えているか他所で喧嘩するほど我を見失っていない。

 

「ダートプロフェッショナルか地方への愛か、どちらが正しいかはレースで分かる。お互いその結果を見届けよう」

「そうですね」

 

 2人は言葉を交わすと視線を合わさず反対方向に歩き始めた。

 

 

『去年のディフェンディングチャンピオンの登場です!今年も至宝を奪うのか!?1枠2番アグネスデジタル!』

 

 本バ場入場からコースに向かう際はバ場を荒らさないように大外を行くのがルールである。

 つまり立ち見の客がいる近くを通らなければならず、その結果デジタルはブーイングを浴びることになる。

 パドックの時のブーイングと比べれば幾分かマシだが、それでも気持ちいいものではない。心を乱されないように、このレースに勝ち、ブリーダーズカップクラシックでサキーに勝つ瞬間を想像しながら小走りでゲートに向かう。

 

 

『帝王賞は負けたが、ダートマイルGIウィナーを侮ることはできません!南関東4冠ウマ娘!2枠4番セイシンフブキ』

 

 セイシンフブキはゆっくりとコースを歩いていく。それを標的にするようにブーイングを浴びせようと最前列の客は息を吸い込む。だが予想外の光景に唖然としブーイングできなかった。

 ダートに耳を当てる。次に砂を手で掬うと鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。その砂を口に入れて味を確かめ、手に砂を吐き出しそれを絵の具のようにして頬に1本の横線を描いた。

 

「いい仕事だ造園課。最高のダートだ」

 

 セイシンフブキは満足げな表情を浮かべながら小声で呟く。砂を見て、耳をあて、手に取り、匂いを嗅いで、味を確かめ、口入れて泥になった砂を顔にぬる。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の全てを使い、ダートを分析する。これはフブキが正しいダートの走り方を身に付ける際に考案した分析法であり、これでダートの性質が以前より分かるようになった。

 ダートの性質を確認すると感触を確かめるように一歩ずつゆっくりと歩く。

 観客たちは我に返りブーイングを向ける。だが感触を確かめることに神経を向け、ブーイングの声は全く聞こえていなかった。

 

「ついに岩手の皇帝が帰ってきました!頼む岩手の至宝を守ってくれ!6枠10番ヒガシノコウテイ!」

 

 ヒガシノコウテイが入場すると一斉に歓声が上がり、その名を呼ぶ声が響き渡る。

 南部杯に勝つためといえ、岩手を捨てた人間だ。デジタルやセイシンフブキのようにブーイングを浴びせられてもおかしくないと思っていた。だが皆は声援で迎えてくれる。

 純性を捨てても見捨てないどころか、汚名を着てまで自分を勝たせようと行動してくれたメイセイオペラと岩手ウマ娘ファン、そんな人たちに応援してもらえる自分は世界一の幸せ者だ。その世界一のファンの誇りを守るために絶対に勝つ。

 応援してくれるファンの人の顔とその声援を少しでも記憶に刻もうとスタンドに視線を向けながらゲートに向かう。

 

 本バ場入場が終わり、次々とゲートにウマ娘達が入っていく。その後にファンファーレが鳴り響く。

 

『お聞きください、この拍手この大歓声、盛岡レース場はときめきワンダーランドであります。16人の精鋭が揃った大一番であります。岩手の至宝は今年も中央勢の手に入れるのか?地元岩手のウマ娘が守りぬくのか?今スタートしました!』



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勇者と皇帝と求道者、再び ♯7

『ゲートが開いてスタートを切りました。さあ、誰が行くのか?おっとこれはヒガシノコウテイがハナを切って先頭に立ちました。その2バ身後ろに岩手勢のバンケーティング、グローバルゴット、トーヨーデヘア、トーヨーリンカーン、その後ろ1バ身離れてアグネスデジタル、スターリングローズ、ノボトゥルーの中央勢です』

 

 好スタートを切ったヒガシノコウテイがハナを主張し、先頭でレースを引っ張っていく。

 普段は先行抜け出しを得意としているウマ娘で逃げはあまりしていない。この大一番で積極策に打って出たのを見て、スタンドからは歓声が上がる。

 

(コウテイちゃんは逃げに出たか、岩手のウマ娘ちゃんが壁になってちょっと見えにくいな。でもペースが速いしこのままでいいや)

 

 デジタルはヒガシノコウテイへの追走を控える。マークするという意味ではもう少し近づいてもいいのだが、このペースは速く付いていくのは得策ではないと判断した。

 

『続いて3バ身離れて、マキバスナイパー、芝GI覇者でダートGI初挑戦のトロットスター、スターキングマン、エビスヤマト、そして1バ身セイシンフブキはここに居ます。スタートが上手くいかなかったか?その後ろフジノヤマト、タクラッシャー、イシヤクマッハ。やや縦長の展開になっております』

 

 セイシンフブキの位置取りは予定通りである。末脚を生かすには後方で足を貯めなければならない。さらに前はハイペースでより末脚が生きる展開になっている。

 流れが有利になっているのを感じながら、仕掛けどころを見極めるために神経を張り巡らせる。

 

『レースは依然とヒガシノコウテイが5バ身のリードをキープで3コーナーを通過しました、隊列はさほど変わりません』

 

 レースは800メートルを通過した。先頭のヒガシノコウテイの前半3ハロンは34秒、これは例年の南部杯のペースと比べても速いペースである。

 デジタルは前の岩手のウマ娘とスターリングローズとノボトゥルーに神経を向ける。

 ハイペースで恐らく垂れてくるが万が一がある。それに3コーナーから4コーナーにかけては下り坂で、走るスピードでハイペースだと思っていたら実はそこまで無理していなく、力を温存していたという事態もある。そろそろ動くべきだ。

 だが問題がとして、スターリングローズとノボトゥルーが一緒に動き外に並走された時、垂れてくるであろう岩手のウマ娘が壁になる可能性がある。

 そうなれば減速して2人の外に進路を取らなければならない。それがレースを左右するロスになってしまう。動くならスターリングローズとノボトゥルーより速く。

 

『おっとアグネスデジタルが徐々にスピードを上げていく』

 

 デジタルは2人の一瞬の隙をついてスピードをあげて追走する。デジタルをマークしていたのか即座に反応して追いかける。だが2人は横ではなく後ろにいる、これで岩手のウマ娘を利用して進路を塞がれることもない。

 デジタルは難所をクリアしたことに一瞬安堵すると即座に意識を前に向ける、

 まずは岩手の娘達を外から抜いてヒガシノコウテイを捉える。デジタルは岩手のウマ娘達まであと数メートルというところで予想外のことが起こる。

 

『そしてバンケーティング、グローバルゴット、トーヨーデヘア、トーヨーリンカーンもアグネスデジタルと同様に上がっていく』

 

 デジタルは選択に迫られる。1つ目はこのまま並走して外側から岩手のウマ娘を抜き去る。だがこのまま抜きされなければ4人分外を走らされて遠心力で外に膨らみ距離ロスする可能性がある。

 2つ目は一旦スピードを落とし内に進路をとる。このスピードでは岩手のウマ娘達は外に膨らみ、その分内が空く。

 だが減速しなければならず、さらに内に進路をとればすぐ後ろにいるスターリングローズとノボトゥルーの進路を妨害したとして斜行失格になる可能性がある。

 内か外か一瞬の判断の末外を選ぶ。自分の力なら横に並走されることなく抜きされると判断した。

 デジタルはギアを上げてスピードを上げる。だがそれでもバンケーティング、グローバルゴット、トーヨーデヘア、トーヨーリンカーンは必死の形相で食らいつく。

 

「ちょっとどいてよ!」

「どかねえよ!ここが私達の勝負どころだ!」

 

 デジタルは事態の深刻さに思わず恫喝してしまう。だが岩手の4人は意に返さず並走し続けた。

 

「やめて!皆はそこまでしなくていい!」

 

 トレーナーや出走ウマ娘が集まる関係者スペースにメイセイオペラの悲痛な声が響き渡る。

 ヒガシノコウテイを勝たせるために鬼となる誓い、周囲と協力してデジタル達にブーイングを浴びせるというなりふり構わない手段をとったが、それでも躊躇してしまった作戦があった。それは岩手のウマ娘達でデジタルやセイシンフブキを妨害することだ。

 妨害と判断されれば裁決委員によって失格の処分を下される。だが裁決委員が処分を下さなければ問題はない。レースでは常に処分が下されない程度に妨害し、それを回避する駆け引きが繰り広げられている。

 だがそれは勝つためにやっているのであり、勝負度外視で相手を負かすためにやってはならないという暗黙のルールが有った。

 何よりレースに走るウマ娘達は其々の目標に向けて全力で走っている。ウイニングライブに参加したい、掲示板に載りたい、その想いを邪魔する権利は誰にもない。

 

 そして今の状況は逃げているヒガシノコウテイを捉えようと追走し、妨害する意志はないと説明すれば妨害と認めらない、だが見るものが見ればすぐに分かる。あれは玉砕覚悟の並走だと。

 岩手のウマ娘達とアグネスデジタルの力は違いすぎる。ここで張り合って並走すれば潰れるのは岩手のウマ娘達で、その結果夢を叶える力を全ての力を使い果たしてしまい、1着から遥かに突き放されてゴールするという惨めな姿を晒してしまう。

 メイセイオペラは声が届かないと分かりながらも叫ばずにいられなかった。

 一方アブクマポーロはレース上の様子を静かに見つめる。

 メイセイオペラとヒガシノコウテイは愛するものを守るとう断固たる決意を秘めた目をしていたが、他の岩手のウマ娘も同様の目をしていて、何かしら仕掛けてくると予想していた。

 ダートレースで勝負を放棄してまで妨害する心境は理解しがたいが妨害のやり方は実に巧みである。その技術だけは賞賛できると思っていた。

 

 2コーナーに入って100メートル通過し、一番外に居たトーヨーリンカーンが後ろに下がっていく。デジタルはその空いたスペース分だけ内に寄る。だがデジタルの横を必死にグローバルゴットが並走する。

 

 この4人はレース前からチャンスが有れば自分の目的よりヒガシノコウテイをアシストすることを優先すると決めていた。

 そしてヒガシノコウテイが逃げるという幾通りシミレーションしていた展開になり、実行した。

 ヒガシノコウテイがゴドルフィンにトレーニングに行ったと聞いたときは激怒した。だがそれはヒガシノコウテイではなく、自分達の弱さだ。

 ヒガシノコウテイが誰よりもこの岩手を愛していることを知っている、

 岩手で生まれ岩手で育ち鍛え、他者の力を借りていない穢れなき岩手所属のウマ娘、『私達の』ヒガシノコウテイでありたいという願いがあることを知っていた。だが南部杯という岩手所属のウマ娘の誇りを守るために他者の力を借りた。

 どれだけの苦悩と苦痛が有ったのかは計り知れない。だからせめてもの罪滅ぼしに勝たせようと誓った。

 150メートルを通過しグローバルゴットがデジタルに抜かれ、200メートルを通過しトーヨーデヘアが抜かれる。

 だが脱落した者は思いを託し、残った者はそれに答えるように力を振り絞りデジタルと並走する。

 1メートルでも1センチでも長くアグネスデジタルに余分な距離を走らせて、ヒガシノコウテイをアシストする!ただその一心で走り続けた。 

 そして最後の1人であるバンケーティングが抜かれた。

 

『最終コーナーに入ってヒガシノコウテイが3バ身差をつけて先頭!やや外に膨れながらアグネスデジタルが2番手!その内からスターリングローズとノボトゥルーが襲いかかる!』

 

 してやられた。どれだけ余分に走らされた1バ身か?2バ身か?このロスをカバーできるのか?

 デジタルの頭の中で不安や怒りや敗北の二文字が駆け巡るが即座に打ち消し脳のスイッチを切り替え、トリップ走法の為のイメージを数コンマで構築する。

 好きなウマ娘と走っていると脳を勘違いさせ、その存在を感じ取って得た多幸感によりエンドルフィンなどの脳内麻薬を分泌させて力を引き出す。これがアグネスデジタルのトリップ走法である。

 今のデジタルには前方にサキー、左右にはメイショウドトウとテイエムオペラオー、後ろにはエイシンプレストンが居ると錯覚していた。

 

『アグネスデジタルがその差を2バ身から1バ身と詰めていく!』

 

 トレーニングを積んで底上げされた身体で使用するトリップ走法、その切れ味はフェブラリーステークスで見せた末脚より勝り、岩手のウマ娘達や中央のスターリングローズやノボトゥルーは遥か後方に置き去りにされていた。

 

『残り300メートル!ヒガシノコウテイ先頭!アグネスデジタルを寄せ付けない!岩手の至宝はすぐそこだ!』

 

 デジタルは困惑する。サキーとテイエムオペラオーとメイショウドトウとエイシンプレストンと一緒に走り、4人は言葉を交わし尊い関係を見せてくれて、励ましてくれる。

 それは至福の時間であり、それを感じているだけで無限大の力を得ているはずだ。だが差が詰まらない。

 そんな訳が無い!皆の存在を力に変えるこの走りは無敵なんだ!必死に力を振り絞り徐々にヒガシノコウテイとの差を縮めていく。

 すると後ろから誰かの走る音が聞こえてくる、その音は今まで聞いたことのない走行音だった。

 その音はどんどん近づいていた。その音に惹きつけられるように思わず後方に意識を向ける。そこには見知った姿があった。

 

『セイシンフブキが物凄い足で突っ込んでくる!』

 

 アグネスデジタルが思い出したのはサキーの姿だった。

 ドバイワールドカップでサキーが見せたラスト100メートルでの加速、あれは未だに鮮明に焼き付いている。デジタルの視界からサキーなどのウマ娘の姿は消え、セイシンフブキに全ての意識を向けていた。

 

 セイシンフブキは3コーナーの下り坂を利用して仕掛けを始めていた。

 徐々にスピードを上げ直線に入ったところで加速を終わらせ一気に末脚を爆発させる。道中は前にいたアグネスデジタルと岩手のウマ娘達が外に膨らんだことで、ゴールまでのルートはパッカリと空いていた。

 船橋で刻み込んだ正しいダートの走り方を元に砂厚や覆水率などを計算して、今の状況での正しいダートの走り方を導き出す。ダートを踏みしめるたびに慎重に力配分を調整して走る。

 ダートに挑む芝ウマ娘、芝をダートの2軍と呼ぶ世間の認識、ここで負ければ芝より下だと認められてしまうという焦り。それらは確かに胸に抱いているが、そこまででは無かった。

 今はアブクマポーロが目指しともに完成させたこの走りを観客達に見せつけたい、弟子に勝利するカッコイイ姿を見せたい。

 そしてこの走りを見せ感動させ、未来のダートプロフェッショナルを生み出したい。それだけだった。

 

『残り200メートル!がんばれヒガシノコウテイ!がんばれ!』

 

 ふくらはぎやふとももが痛みで悲鳴を上げている。頭は酸素が回っていなのかクラクラして視界が歪む。

 心臓は破裂しそうだ。何でこんな辛い目にあっているんだろう。今すぐにでも止まりたい。

 ヒガシノコウテイの頭の中に弱音や諦めが次々と浮かび上がる。だがそのネガティブな感情は観客からの声援が届くたびにかき消されていく。

 勝ってくれ、負けないで、岩手の誇りを守って、聞こえてくる歓声や悲鳴に込められている様々な思いを汲み取り力に変える。

 地元の皆が応援してくれて、それを力に変えられる。それが地方で生まれ地方で育ち、極めて純度の高い穢れなき存在が『私達の』ウマ娘だと思っていた。

 だがその力を信じきれず外部の力に頼った。そんな者に望む力は手には入れないと思っていた。

 でもどうだ?今はこの瞬間、皆が応援してくれて、その応援を力に変えられている。まるで『私達の』ウマ娘のようだ。これならば南部杯に勝ち岩手の誇りを守り皆を笑顔にできるかもしれない。

 レースに勝ったら聞いてみよう。自分は『私達の』ヒガシノコウテイですかと。

 

『残り100メートル!追うセイシンフブキとアグネスデジタル!逃げるヒガシノコウテイ!』

 

「勝ってテイちゃん!バンケーティングの!グローバルゴットの!トーヨーデヘアの!トーヨーリンカーンの頑張りを無駄にしないで!」

「勝てフブキ!ダートプロフェッショナルの力を見せつけるんだ!」

「勝って師匠!」

「ここで勝たなサキーへの挑戦権なんて無いぞデジタル!」

 

 レース場に繰り広げられる激闘の熱に当てられるように関係者達は伝わらないと分かっていながらも声を荒らげ想いを伝える。

 その想いが伝わったかのようにヒガシノコウテイとセイシンフブキとアグネスデジタルは力を振り絞る。

 

『セイシンフブキがアグネスデジタルを交わして2番手に躍り出る!アグネスデジタルはここまでだ!』

 

 デジタルのトレーナーは静かに目を伏せる。もしかすればドバイワールドカップの時のサキーのように差し返すかもしれないという一縷の望みを抱いた。

 だがターフビジョンに映ったデジタルの目を見て望みは絶たれる。目に力が宿っていない。足も心ももう完全に使い切っている。

 残り50メートルでデジタルを交わしたセイシンフブキが猛然と迫る。完全に脚色は上だがゴール板はすぐそこまで迫っていた

 

『これはどっちだ~!!!?1着はヒガシノコウテイかセイシンフブキか分かりません!3着はアグネスデジタル!』

 

 セイシンフブキはアグネスデジタルを振り切り、ヒガシノコウテイを交わすかという所でゴール板を通過した。

 観客席からはザワザワと騒めく、結果は肉眼では分からないほど微妙な差であった。皆は固唾を飲んで電光掲示板の着順表示を見守る。

 一方その激闘を演じたヒガシノコウテイとセイシンフブキはゴール板を通過してから内ラチにもたれ掛かるように停止する。

 暫くするとヒガシノコウテイが重い体を引きずるようにしてコースを逆走してゴール板に向かう。内ラチの奥には岩手所属のウマ娘が倒れ込んでいた。

 

「バンケーティング!トーヨーリンカーン!トーヨーデヘア!グローバルゴットさん!」

 

 普通の状態ならゴドルフィンに行った負い目もあり駆け寄るか悩んでいただろうが、気がつけば駆け寄っていた。

 

「どうも…結果はどうです?」

「1着か2着、写真判定しているけど、結果は分からない」

「相手は?」

「セイシンフブキ」

「あいつか…とりあえずアグネスデジタル潰しは成功したみたいですね…」

「苦労した甲斐があったな…」

 

 岩手のウマ娘達は遂行した仕事を賞賛するようにお互いを労う。

 ヒガシノコウテイはその様子を見て悟る。この4人は自分を犠牲にしてアグネスデジタルを妨害した。

 全ては自分を勝たせるためだ。あまりの居たたまれなさに下を向く。

 

「下向かないでくださいよ…掲示板見てください。4着ですよ…中央に勝ちました…」

「そして私は5着」

「6着だけど中央に勝った」

「7着」

 

 バンケーティングとトーヨーリンカーンは其々誇らしげに掲示板を指差し笑みをこぼし、トーヨーデヘアとグローバルゴットも自慢げに喋る。

 

「正直自分でも驚いている。アグネスデジタルの邪魔して…最下位とかになったらヒガシノコウテイの勝ちにいちゃもん付けられる……だから1つでも順位をあげなきゃって走ってたらこれだよ……私達も捨てたもんじゃないよ……」

 

 グローバルゴットが皆を代表して語る、其々がヒガシノコウテイの勝利を汚さないためにと死力を尽くした結果、中央所属で重賞やGIに勝っているスターリングローズやノボトゥルーに先着する快挙を達成した。

 

「私は…岩手に所属して…本当によかった…」

「泣くな。泣くのは勝ってからにしな」

「はい」

 

 ヒガシノコウテイは涙を堪えながら首を縦にふる。自分のために身を犠牲にして有力ウマ娘を妨害し、尚且つ中央のウマ娘に先着した。

 地元やそこに所属するウマ娘のために信じられない力を発揮する。これこそが追い求めていた力、彼女達こそ『私達の』ウマ娘だ。

 

 ヒガシノコウテイは肩を貸しながら5人一緒に地下バ道に向かっていく、その姿に観客たちはスタンディングオベーションで万雷の拍手を浴びせた。

 ヒガシノコウテイ達は地下バ道を通り、走り終わったウマ娘が待機する待機所に向かう。

 そこにはアグネスデジタルとセイシンフブキが既に居て、指定された場所に座りトレーナーや関係者と言葉を交わしていた。ヒガシノコウテイも指定された場所に座る。

 それから5分が経過したころ、係員が待機所に勢いよく入室し着順決定板にマグネットを貼っていく。それから数秒後レース場から大きな歓声が上がる。

 

1着 ヒガシノコウテイ

2着 セイシンフブキ

 

南部杯の正式に着順が決まった。

 

───

 

「では勝利者インタビューです。南部杯を制し岩手の至宝を守り抜いたヒガシノコウテイ選手です」

 

 インタビュアーが名前を呼ぶと、その姿を一目見ようと押し寄せていたファンの歓声とカメラのフラッシュが出迎える。

 ヒガシノコウテイは周りに視線を配り観客達の顔を確認する。

 みんな喜んでいる。南部杯を取るために自分の信条を曲げてまでゴドルフィンに行ってトレーニングした甲斐があった。辛いこともあったが皆の笑顔が最高の報酬だった。

 

「レースが始まって逃げの戦法をとりましたが、これは最初から狙っていたのですか」

「いえ、最高のスタートが切れて誰もハナを主張しなかったので、このまま逃げたほうがいいと思いました」

 

 インタビュアーはレースを振り返るように質問し答えていく。一見淀みなく答えているが直線に入ってからは記憶があやふやだったので、それっぽい答えを言っていた。

 

「では最後に一言お願いします」

 

 インタビューにおけるお決まりのセリフ、普通なら当たり障りのない言葉を言うべきだろう。だがヒガシノコウテイは感情が赴くままに喋っていた。

 

「私はトウケイニセイさんやメイセイオペラさんのように岩手で生まれ、岩手で育ち、設備が充実していなくても環境が悪くても地元に残り続け戦い続ける。『私達の』トウケイニセイ、『私達の』メイセイオペラ、私はその姿に憧れて、そうなりたいと思いました」

 

 お決まりのヒガシノコウテイらしい感謝の言葉を言うと思っていたが突然の独白、いつもと違う様子にファン達は固唾を飲んで見守る。

 

「でも私は弱くてこのままで岩手の誇りである南部杯を守れないと思いました。何としても守りたいと思い悩み抜いた末ゴドルフィンの門を叩きました。そこでのトレーニングは素晴らしく強くなれたと思います。でも同時に大切な物を失いました。それは『私達』のヒガシノコウテイになる資格です」

 

 ヒガシノコウテイのトーンは一段と下がる。本当はしたくなかった。でも南部杯に勝ち岩手の誇りを守るためには苦渋の決断だった。

 

「地元の為に走る『私達の』ウマ娘は地元の声援や仲間の想いを力に変えられると信じています。そしてバンケーティング、トーヨーリンカーン、トーヨーデヘア、グローバルゴットは岩手の力を見せつけるために必死に走り、中央の強豪ウマ娘に先着しました。これは紛れもない『私達の』ウマ娘が持つ力です」

 

 アグネスデジタルを妨害するために力を使ったと補足すれば、その凄さが分かるのだが、本人達の思いを受け取り伏せておく。

 

「そして、私も応援する岩手の皆様や、岩手ウマ娘協会に所属するウマ娘を想いながら走り、皆様の応援や想いを力に出来ました。でなければアグネスデジタル選手やセイシンフブキ選手に勝てなかった。私は『私達の』ウマ娘の力を信じきれず外部の力に頼った裏切り者です。それは分かっています」

 

 ヒガシノコウテイは言葉を区切り深く深呼吸し、言葉を発する。

 

「でも私は『私達の』ウマ娘で居たい!皆様が宜しければ私を『私達の』ヒガシノコウテイと認めてくれますか?」

 

 涙声で振り絞ると今まで押し留めていた感情が爆発し、その場に泣き崩れた。

 ゴドルフィンに行った時点で『私達の』ウマ娘にはなれないと覚悟を決めたつもりだった。

 だがレースを通してファンからの声援を力に変えて走り、仲間達の自分を犠牲にして有力ウマ娘を妨害し、自分の勝利にいちゃもんをつけられないようにと中央のウマ娘に先着し掲示板に入った姿を見て、押さえ込んだ気持ちが膨れ上がる。

 

『私達の』ヒガシノコウテイとして今後も走りたい!

 

 もう二度と岩手を離れない、他者の力も借りない『私達の』ウマ娘の力も疑わないと心の中で強く誓った。

 だがそれを決めるのは自分ではなく岩手のファンだ。だからこうして醜態を晒してでも頼み込んでいた。

 一方ファン達は突然の出来事に困惑しアクションを起こせなかった。パドックでは嗚咽と観客達のどよめきが響いていた。

 

「テイちゃんは誰が言おうと『私達の』ヒガシノコウテイだよ!」

 

 その響めきをかき消すように鶴の一声が響き渡る。その声の主はメイセイオペラでパドック後ろの建物から出てきて、ヒガシノコウテイに近づきながら喋り始める。

 

「テイちゃんは私達が岩手の誇りである南部杯を取って欲しいという願いの為に、悩んで!苦しんで!傷ついて!それでも私達のために勝ってくれた!それにゴドルフィンの力を借りたからって何!?テイちゃんの心はずっと岩手にある!それに教わった技術もこれからの後輩の為に伝えてくれるはずだよ!だから裏切り者じゃない!何度だって言ってあげる!テイちゃんは『私達の』ヒガシノコウテイだよ!」

 

 メイセイオペラは大声で感情を込めたその言葉、それはテレビで見たイメージとは大きく異なっていた。だがいつも以上に惹きつけられるものがあり、観客達は耳を傾けていた。

 

「私もヒガシノコウテイは『私達の』ヒガシノコウテイだと思う」

 

 今度はメイセイオペラが出てきた方向とは真逆の観客スタンド側からの声だった。

 その声の主はトウケイニセイで、思わぬ人物の登場に観客の一部から歓声が上がる。

 

「覚えている人も居るかもしれないが、交流重賞元年、私は南部杯でライブリラブリイに負けた」

 

 トウケイニセイの言葉に一部のファンの顔に影が落ちる。

 当時の連勝記録を樹立していたトウケイニセイを中央所属のライブリラブリイが打ち負かした。その強さを全幅の信頼を置き、中央を負かしてくれると信じていた岩手ファンは深い絶望を味わった。

 

「私が不甲斐ないばかりに多くのファンを悲しませた。だがヒガシノコウテイは南部杯に勝ち、絶望ではなく希望を与えた。例え外部の力を借りようとも負けて絶望を与えるより遥かにマシだ。自分の信条を曲げてでも私達に絶望を与えない為に行動した。そんな彼女が『私達の』ウマ娘でなければ、誰がそうだと言うんだ!」

 

 ヒガシノコウテイはトウケイニセイの言葉を聞いて顔を覆う。

 憧れの英雄が認めてくれた。それはある意味姉のような存在であるメイセイオペラに認められるより嬉しかった。

 

─そうだ!ヒガシノコウテイは最初から岩手のウマ娘だろう

─ゴドルフィンでトレーニングしたからって、別に気にしてないぞ

─お前は『俺達の』ヒガシノコウテイだ

 

 パドック観客席からは次々とヒガシノコウテイを肯定し賞賛する声が上がり始める。

 それはヒガシノコウテイコールに変化し、いつまでも響き続ける。ヒガシノコウテイはその歓声に立ちがり深々と頭を下げて答えた。

 この瞬間、ヒガシノコウテイは『私達の』ヒガシノコウテイになった。

 

──

 

「間もなく発車します」

 

 アナウンスが流れると扉が閉まり新幹線は発車する。そのスピードはどんどん上がり車窓から見える景色は高速で流れていく。セイシンフブキはその景色を見つめ続ける。

 セイシンフブキはレースの結果が発表されると、即座にクールダウンをして東京行きの新幹線に飛び乗った。

 

「師匠、足は大丈夫なんですか?」

「ああ、あれは嘘だよ。ライブに出たくないから仮病使った」

 

 1つ後ろの席に座るアジュディミツオーが身を乗り出しながら問いかけ、セイシンフブキは振り返らず悪びれもなく言い放つ。

 ウイニングライブへの参加は義務ではないが、怪我をしているなど不調がある時以外は参加することを推奨されている。それを仮病で休むなどもっての他である。

 

「しかし、珍しいね。負けたレースでも何だかんだでライブには参加したのに」

「まあ、アタシなりのヒガシノコウテイへのご褒美ですよ」

 

 隣に座っていたアブクマポーロの言葉にセイシンフブキはそっけなく答える。

 2着のウマ娘がライブに参加しなければ1着と3着の2人で行うか、代わりに4着のウマ娘が行うかの2択だ。

 GIでのライブとなれば大概のウマ娘は参加したがる。それに4着は岩手のウマ娘だ。その方がヒガシノコウテイも喜ぶし盛り上がるだろう。

 

「姐さん、アジュディミツオー、ヒガシノコウテイの走りはどうだった?」

「それはクソみたいな走りでした!あんなのマグレです!次は師匠は勝ちます」

「あ!?じゃあアタシの正しいダートの走りはそのクソのマグレに負けたのか!?」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーの言葉を聞き、睨みつけ恫喝する。その凄みに最初の勢いが嘘のように大人しくなる。

 

「2度とおべんちゃらは言うな、次言ったら破門だ。お前が感じたままに言え」

「はい…スゲエと思いました。ハイペースでの逃げ切り、あんなペースで走ったら直線は痛くて苦しくて辛いはずなのに、全く垂れなかった。あと何か師匠に似ていると思いました」

 

 アジュディミツオーは素直に賞賛を述べる。経験上あのペースで逃げれば直線は垂れる。

 痛くて苦しくて辛くて、あれは走ったことがある者しか分からない。

 だがヒガシノコウテイは苦しみに耐え、2段ロケットのように加速した。その逃げはある種の理想の走りだった。そしてフォームは違うのにどこかセイシンフブキの走りと同じような気がした。

 セイシンフブキはその答えに少し感心するような素振りを見せ、アブクマポーロに話をふる。

 

「姐さんはどう思いました?」

「ヒガシノコウテイの走りはダートの正しい走りにかなり近づいていた。レース参加者でフブキの次に近いだろう」

 

 アブクマポーロは正直驚いていた。参考として1年前のレースを見たが、その時と比べかなり良くなっていた。

 だがあれはセイシンフブキのように全てのダートで出来るわけではない。雨が降ろうが雪が降ろうがコースを走り続けた結果で身につけた技術、いわば盛岡限定だ。

 

「その走りに加えて、ゴドルフィンで鍛えたフィジカルと技術、そしてメイセイオペラや彼女が持つ、地方の為に絶対に勝つという心が加わった。総合的に考えればフブキが負けても不思議ではない」

 

 セイシンフブキはアブクマポーロの分析を聞き、小さく頷く。写真判定の間何度もレースの映像が流れているのを見て気がつく。

 ヒガシノコウテイも正しいダートの走りを身につけているのではないか?もしかして気のせいかもしれないので、2人に意見を求めた。

 未熟ながらダートのセンスが有るアジュディミツオーが似ていると言い、自分と同等の知識と見る目を持つアブクマポーロがそう言うのなら間違いない。

 

「今から寝るから東京についたら起こしてくれ」

 

 セイシンフブキは背もたれに寄りかかると最大限までシートを下げ目を閉じる。

 負けたのは悔しいがヒガシノコウテイに負けたのならば少しだけマシだ。

 ダートを軽視し地方を重視するその考えは反りが合わない。だがヒガシノコウテイなりにトレーニングを積み、正しいダートの走りがある程度できるぐらいにダートプロフェッショナルになっていた。

 結果的にはダートプロフェッショナルの2人が芝ウマ娘のアグネスデジタルを打ち破った。これで最悪のシナリオは回避でき、ダートの力を証明できた。

 だが次は勝つ。心の中でリベンジを誓いながら眠りについた。

 

──

 

「いや~ライブ最高だったね!」

 

 デジタルは宿泊施設に帰るやいなや興奮冷めやらぬといった状態でトレーナーに話しかける。

 ライブが始まると固定曲の後はヒガシノコウテイの曲が歌われ、2番に入るとメイセイオペラとトウケイニセイがデュエットするという心憎い演出があり、レース場は過去最高の盛り上がりを見せていた。

 

「そうやな、でもライブに参加しなくてよかったんか?」

「今回は参加しないほうが良かったよ。見たでしょ?ヒガシノコウテイちゃんとバンケーティングちゃんとトーヨーリンカーンちゃんのライブ!マジ尊すぎ!」

「よかったな。だが仮病で休んだんやから、二三日は怪我しているふりせえよ」

「分かってるって」

 

 デジタルもセイシンフブキと同様に仮病を使ってライブに参加していなかった。

 理由はトーヨーリンカーンをライブの舞台に上げたかったからだ。セイシンフブキがライブに参加せず、バンケーティングがライブに繰り上げ参加すると聞いて、あるアイディアが浮かぶ。

 これはいっそのこと同じ岩手出身のトーヨーリンカーンを上がらせて、全て岩手所属のウマ娘にしたほうがエモいのではないか?

 トーヨーリンカーンもGIでウイニングライブが出来れば喜ぶし、ヒガシノコウテイも地元のGIで長年付き添ったメンバーとライブが出来れば嬉しいだろうし、ついでに観客も喜ぶ。

 デジタルは即座に泣き落しのように頼み込み、要求に折れたトレーナーが協会の人間に足に違和感が有るのでライブを辞退したいと伝えた。そのお願いに協会の人間は喜んで応じていた。

 

「明日はオフやからいくら寝てもかまわんぞ」

「うん、ぐっすり寝かしてもらうよ」

 

 トレーナーは万が一ということも有るのでデジタルが自分の部屋に着いたのを確認し、それから自分の部屋に向かう。

 だが足を止めて部屋に入ろうとするデジタルに喋りかける。

 

「ヒガシノコウテイの走りは見事やったが、デジタルも決して劣っとらん。負けたのはヒガシノコウテイやない、岩手に負けたんや。だから気にするな」

 

 トレーナーは言い放つと自室に戻っていく。ブーイングで動揺させられ、3コーナーから最終コーナー前にかけての岩手のウマ娘の競り合い、今日は常にデジタルの力を削ぎ落とされていった。

 欧米では有力ウマ娘を勝たせるために同チームのウマ娘を勝敗度外視でペースメーカーにさせ、有力ウマ娘が逃げだったら息を入れさせないように玉砕覚悟で逃げさせるなど、ロードレースのようにチームとして戦うことがある。

 今日のレースはまさにそれだった。これをされたらいくらデジタルでも勝つのは容易ではない。

 

「あ~ライブ最高だったな」

 

 デジタルは独り言を呟きながら寝巻きに着替え、トレードマークとも言える赤のリボンを外すと旅館の従業員が用意したであろう布団に乱雑に投げつけた。

 

 なんだこのモヤモヤは!?

 

 ウイニングライブを辞退したのはトーヨーリンカーンも喜び、ヒガシノコウテイも喜ぶだろうという気遣いだった面もある。だが別の感情も抱いていた。

 今の精神状態ではライブに参加しても素直にヒガシノコウテイを祝えない。だからライブを辞退していた。

 以前のインタビューで岩手についての愛と南部杯に勝つ重要性を聞いていた。

 本来ならサキーやプレストンが勝ったときのライブのように、その喜ぶ姿に心が満たされ素直に祝福できるはずだった。だが今日はそんな気分になれなかった。

 デジタルは寝てこの謎のモヤモヤを忘れようとするが、一向に寝付けなかった。

 

 

南部杯  盛岡レース場 GIダート 良 1600メートル

 

着順 番号    名前        タイム     着差      人気

 

 

1   10  盛岡 ヒガシノコウテイ  1:38.7          1       

 

 

2   4  船橋 セイシンフブキ   1:38.7   ハナ     5

 

 

3   8  中央 アグネスデジタル  1:38.9    2      2

 

 

4   9  盛岡 バンケーティング  1:39.9    5      13

 

 

5   12  盛岡 トーヨーリンカーン 1:40.0   1/2     12

 

 

 

 

──

 

 トレーナーはPCの電源を入れると検索エンジンを立ち上げる。そこのトップページに掲載されている記事をクリックする。

 

 南部杯での観客の反応の是非。

 

 南部杯でのデジタルとセイシンフブキにおこなったブーイング、また岩手所属のウマ娘以外への意図的な無反応の是非について書かれた記事だった。

 内容は当たり障りのないことを書かれていたが、コメント欄は大いに荒れていた。

 

 論調としては否定派が多く、これではレースの公正性が保たれない。レース出走者が可哀そう。品がなくトゥインクルレースを行う組織としての資格を疑問視せざるを得ないなどの意見が書かれていた。

 さらに岩手ウマ娘協会のツイッターや電話などで抗議を行い俗に言う炎上状態になっている。これでイメージダウンは避けられないだろう。

 だが思わぬ者の発言で炎上は治まりつつあった。その人物はセイシンフブキである。『南部杯ではブーイングの影響はなかった。実力が出せなかったらそいつの問題だ』という声明を出していた。

 その乱暴な意見で最初は荒れていたが、被害を受けた当人が2着という結果を出しているという事実から、意見に賛同するものも増え始めていた。納得しかねるところもあるが一理ある。

 レース直後は頭に血が上り腹に据えかねていたが、時間たって改めて岩手と自分達とは認識の違いが有ったことに気づく。

 

 地方で行われるレースは外国で行われるレースとは違い、明確なアウェイではないと思っていた。

 だが岩手にとっては中央や他の地方のウマ娘はアウェイであり外国のウマ娘なのだ。

 ならば話が違ってくる。他のスポーツでも外国に行けば宿舎の周りで騒がれ睡眠妨害をされたという話を聞いたこともある。

 それにかつてダンスパートナーでフランス遠征に行った際には色々と嫌がらせめいた妨害を受けた。そう考えればブーイング程度ならマシなのかもしれない。

 何より改めてレースを見てヒガシノコウテイとセイシンフブキの強さを実感した。フェブラリーステークスの時とは別人といえるほど強く、もしブーイングが無くともデジタルが勝てたとは言い切れない。

 今後はブーイングの文化は根付くのかどうかは今のところは分からない。だが今は過去の事より未来の事が重要だ。トレーナーは別の記事を開いて深くため息をついた。

 

──サキーがトレーニング中の怪我により凱旋門賞出走辞退、次走のブリーダーズカップクラシックも辞退か!?

 

 




実際の南部杯ではヒガシノコウテイのモデルの馬が勝利し、デジタルもセイシンフブキのモデルの馬は出走していません。
今まで史実に基づいて書いてきましたが、そろそろ史実で走っていないレースを走ってもらってもいいかなと思い南部杯編を書きました。

次の話は史実には全くない架空のレースの話になります。

2月21日にアブクマポーロが死去しました。
現役時代の姿は見た事はなく、競馬について調べていくうちに知りました。
メイセイオペラと鎬を削り、レースでは中央の馬を打ち負かしていたました。
マキバオーで競馬を知り、サトミアマゾンが好きだった自分としては地方の二頭の活躍はロマンに溢れ、胸がときめきました。

セイシンフブキというキャラクターはアブクマポーロという競走馬が居たからこそ、生まれました。
願わくばこの作品を読んでくれた方が少しでもアブクマポーロという競走馬に興味を抱き、覚えてくだされば幸いです。

アブクマポーロ号のご冥福をお祈りいたします



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勇者と隠しダンジョン#1

 コンコン、コンコン、コンコン

 

 扉を叩く音が周囲に響く、向こうからは何も聞こえない。それでもトレーナーは何回かノックをするが、反応は同じだった。ため息をつくと扉の奥に語り掛けるように喋る。

 

「デジタル、ブリーダーズカップクラシックに出るか出ないか、それだけ決めてくれ」

「出ない」

「分かった」

 

 絞り出したようなか細い声が聞こえくる。トレーナーは諦めに似た感情を表情に出しながら声をかけ、扉の前から離れていく。

 

 デジタルが南部杯に出走した翌日、思わぬ情報が飛び込んできた。

 

───サキー凱旋門を回避、ブリーダーズカップクラシックも出走回避か?

 

 サキーは凱旋門賞に向けて調整を行っていたが、トレーニングの最中に負傷した。診断結果は全治1ヵ月の捻挫と下された。

 デジタルはその情報を知ると即座にサキーに電話して真偽を確認した。嘘であってくれと願いながら出るのを待った。

 電話に出た瞬間、世間話も抜きにブリーダーズカップクラシックに出られるかを聞いた。普段なら怪我の心配や慰めの言葉をかけるのだが、全て吹っ飛んでいた。

 その問いにサキーは申し訳なそうに出走は厳しいと答えた。出ようと思えば出られるが全力を出せない状態で勝てるレースではなく、無理をして怪我を悪化させて今後に影響を与えたくないと語った。

 その答えにデジタルは即座に電話を切り、部屋に引きこもっていた。

 

「デジタルはなんて?」

「出ないやと、まあ、ある程度予想しとったがな」

 

 エイシンプレストンの問いにトレーナーは淡々と答える。

 デジタルはブリーダーズカップクラシックに勝ちたいのではなく、サキーと走りたいのだ。

 ブリーダーズカップクラシックはサキーと走るという目的の為の手段であり、走れればレースは何でもよかった。この結果はある程度は自明の理だった。

 

「不機嫌そうでした?」

「不貞腐れておったわ」

「その気持ち少しだけ分かるな」

 

 プレストンは自室に目線を向けながら呟く。走れないほどではないが出走しない。それは自分より未来を優先したという事だ。

 無論サキーも全力を出せる状態で一緒に走らなければ意味がないと分かっている。デジタルも同じ気持ちだ。だが理屈は分かっているが感情が素直に認めてくれないのだろう。

 

「すまんな、暫く部屋が辛気臭くなって」

「まあ、直ぐに治りますよ。何たってアタシと香港で走るんですからって、言いたいんですけど」

「ああ、きな臭くなってきたな」

 

 デジタルはブリーダーズカップクラシックの後は香港で香港マイルか香港カップを走るとプレストンと約束していた。

 南部杯から香港までは約2ヶ月空き、ベストの状態で走れる。だがその未来に暗雲が立ちこめる。

 南部杯から数日後、香港では情勢不安の報道が流れ入出国が制限されるという専門家の意見もある。そうなれば暮れの香港国際競争は中止せざるを得ない。

 

「トレーナーも香港では走れない前提でプランを立てています」

「そうか、妥当な判断だな」

「ですので今期はマイルCSが目標です。デジタルと走れるとしたらそこですけど」

 

 プレストンは言葉を濁す。自分の真の力を発揮できるのはシャティンレース場だ、デジタルと走るならそこでと決めている。他のコースでは満足させられるか自信が無い。

 トレーナーはプレストンが気にしているのを察したのか明るめなトーンで喋りかける。

 

「エイシンプレストン君は気にしないでくれ、満足するしないはアイツの勝手や」

「はい、しかし、サキーの次走はドバイですかね?そうなると半年近く宙ぶらりんになりますね」

「それはあかんな、テイエムオペラオーとメイショウドトウが引退した時も同じようになったが、あの時はサキーという目標を見つけられたがな」

「何か目標を見つけられればいいんだけど」

 

 2人はため息をつく。ドバイワールドカップというのはあくまでも希望的な観測だ。ドバイワールドカップを走らないかもしれないし、また怪我をするかもしれない。

 そうなれば宙ぶらりんの期間がますます増える。そうなればデジタルは心は腐っていく一方だ。

 2人は心配げにデジタルが居る部屋に視線を向けた。

 

 

「なんだかな~」

 

 デジタルの独り言は薄暗い部屋の壁に吸収される。サキーと走るのは決定事項で、走れなくなるとしたらこちら側の問題かと思っていたが、まさかあちら側の問題とは。

 万全に万全を重ねて調整したのだろう、だがどれだけ注意を払っていても怪我はしてしまうのは歴史が物語っている。

 サキーがグランドスラムに懸けている想いは知っている。何故今だ、怪我をする者が悪いと言えばそれまでだが、ウマ娘の神様はあまりにも残酷だ。

 本当なら慰めの言葉をかけなければいけないのだが、ブリーダーズカップクラシックに出られないと聞き、あまりにショックで電話を即切ってしまった。

 

 サキーと走りたい、サキーに勝ちたい。

 

 失意の後に訪れたのは衝動と情念だった。暫くは走れないと分かっているのに、獣のように内で暴れまわっている。

 プレストンと香港で走れれば収まるのかもしれないが、怪しくなってきた。さらに別の要素がデジタルをかき乱す。

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキ。

 

 2人の後ろ姿が網膜に焼き付いて離れない。あの2人に勝ちたい!自分の後ろ姿を目に焼き付けさせたい!その存在が日増しに大きくなっていき、サキーに匹敵するほどになっていた。

 

 このままではどうにかなってしまいそうだ!

 

 衝動が抑えきれなくなったデジタルは即座に移る。サキーとセイシンフブキとヒガシノコウテイと一緒に走れるレース、それが知っている限りで1つある。

 こちらにはやや不利な条件だが関係ない、1秒でも早く走りたい。

 

「もしもし」

「もしもし、サキーちゃん、今大丈夫」

「大丈夫です。すみません約束を守れなくて」

「気にしないで、こっちもゴメンね。あの時すぐ電話切っちゃって」

 

 デジタルは即本題に移りたい気持ちを抑え込みながら、当たり障りのなり会話を交わす。

 

「それで怪我の調子はどう?」

「順調に治っています。せめてあと1週間早く怪我をしていれば、ブリーダーズカップクラシックではベストの状態で走れたのですが」

「それでなんだけどさ、来月のジャパンカップダートで走らない?」

「ジャパンカップダート?」

「知らない?日本の東京レース場のダート2100メートル。ブリーダーズカップクラシックと100メートルしか変わらないしさ、丁度よくない?そこで一緒に走るって約束を果たそうよ」

 

 デジタルは捲し立てるように喋る。セイシンフブキとヒガシノコウテイとサキーと一緒に走れるレース、それがジャパンカップダートである。

 今後の大きいダートレースはJBC、ジャパンカップダート、東京大賞典、川崎記念、フェブラリーステークスだ。

 JBC、東京大賞典、川崎記念は外国所属ウマ娘が走れる国際指定競争ではない、フェブラリーステークスは1600メートルでサキーにとって不利な条件だ。

 残るはジャパンカップダートのみだ。勝ち鞍にダート2000メートルは無いので不安であるが、そんなこと言っていられない。走るとしたらここしかない。

 さらにデジタルは約束という言葉をあえて言った。サキーは律義で義理堅く、自身の都合で約束を反故してしまったことを酷く気に病んでいる。故にそこを突く。

 相手の弱みを突くという卑劣な手段だが、良心より欲望を選択した。

 

「分かりました。ゴドルフィンに掛け合ってみます」

「本当!ありがとう!東京で待ってるね!」

 

 デジタルは電話を切るとベッドに飛び込むと手足をバタバタさせる。

 これでサキーと走れる!ヒガシノコウテイと走れる!セイシンフブキと走れる!レース場で走る勝つ未来を想像し、にやけ切った顔を浮かべていた。

 体を勢いよく起こすと練習着に着替え、スキップ交じりでチームルームに向かった。

 

 

「なんで出られないの!?」

 

 有頂天だったデジタルの感情は急転直下でどん底に向かって行く。

 ジャパンカップダートへの出走提案した翌日、サキーから電話があり、ジャパンカップダートに出られないとその口から告げられた。

 

「本当にすみません…」

「だから何で!?」

 

 デジタルの語気が思わず強まり詰問してしまう。普段はそんなことをしないのだが、あまりに予想外の返答に動揺していた。

 

「ゴドルフィンとしてはジャパンカップダートに出るメリットが無く、私を出走させるわけにはいかないと判断を下しました…」

 

 電話越しにサキーの声が弱弱しくなっていく。

 本人としては是非とも出走したかった。だがサキーはゴドルフィンという組織に所属している。

 そして組織の上の決定は絶対であり、1選手が逆らうことができなかった。

 デジタルは反射的に電話を投げ捨てたい衝動に駆られるが何とか耐える。ゴドルフィンめ!

 空いている手で枕を殴打し、怒りの感情の矛先をサキーから変えてクールダウンを促す。

 

「ドバイワールドカップでは一緒に走りましょう。絶対に怪我しません…」

 

 ジャパンカップダートに出るとしたらゴドルフィンを辞めるしかない。

 だが世界4大レースに勝ち、ウマ娘界のアイコンとなり世界中のウマ娘を幸せにするという夢が有る。

 充実した設備と人材、より多くの人に知られるためのPR活動、それらを行うためにはゴドルフィンの力が必要不可欠だ、個人的な感情で夢を捨てるわけにはいかない。サキーも断腸の思いで決断していた。

 デジタルはその悲し気な声を聞き平静を取り戻す。サキーも辛いのだ。

 憎むべきは自分達の絆を切り裂こうとするゴドルフィン、さながらロミオとジュリエットだ。

 心に諦めの心が去来する。だが数々の未知のルートを切り開き異能の勇者と称えられたその心は再び燃え上がる。

 ルートが無ければ作ればいい!サキーに対する愛と欲望はその程度の障害では砕けない!

 

「ごめんね、無理言っちゃって。でもアタシはドバイまで我慢できない。必ずサキーちゃんと走るから」

 

 デジタルは電話を切ると即座に切ると、パソコンを立ち上げ新たな道を模索し始めた。

 

 

「はい!これより第1回、どうやったらサキーちゃんと一緒に走れるかを考える会議を始めたいと思います!」

 

 デジタルは大声で開始宣言をするとホワイトボードを叩き、会議参加者のトレーナーとチームメイト達の顔をマジマジと見る。

 参加者はその熱量に戸惑っているのか、周囲の者に視線を向け騒めいていた。

 部屋に籠っていたデジタルがチームルームに現れトレーニングを始めた。

 トレーナーからは病気ではなく落ち込んでいるだけだ、すぐに立ち直るから心配するなと言われ、チームメイト達は特に何もしなかったが、事情は知っているので心配していた。

 暫くしてデジタルが現れ、チームメイト達は慰め励ましながら出迎えた。気落ちしているかと思ったが、依然と変わらない様子で胸を撫で下ろしていた。

 練習が終わると相談したい事が有るとトレーナーとチームメイトに伝え、この会議が始まった。

 

「走るって言ってもジャパンカップダートも拒否されたんでしょ、無理じゃない」

 

 フェラーリピサが冷ややかな目線を向けながら呟く。ジャパンカップダートは拒否され、次走はドバイワールドカップとゴドルフィンから発表された。

 こうなっては走るチャンスはドバイワールドカップしかない、打つ手は待つのみだ。

 

「まあ普通はそうなんだけど、アタシは我慢できない!だから皆の知恵を借りて、サキーちゃんと走る舞台を作りたいの!お願い力を貸して!」

 

 デジタルは手を合わせ、頭を下げる。サキーと走る道は何かないか?練習に参加せず授業の時間は全て思考に費やした。だが全くアイディアが思いつかなかった。

 日本には3人寄れば文殊の知恵の言葉が有る。ならば3人と言わず出来るだけ多くの知恵を借りる。まずは身近なチームメイトとトレーナーだと、この会議を開いていた。

 チームメイト達は議題を聞いた時正直そこまでやる気はなかった。 フェラーリピサと同じく打つ手なしという結論が出ていた。だがデジタルの様子を見て少しだけ真剣に考えようと思い始めていた。

 

「まず皆に考えてもらいたいのはもしゴドルフィンの偉い人だったら、どんなレースにサキーちゃんを出したい?」

 

 チームメイト達は思わぬ質問に考え込む。選手目線だったらGIに出たい、GIだと厳しいから重賞に勝ちたい、地元のレースに勝ちたい等様々な理由が思いつく、だが上の立場としては考えたことがなかった。

 

「それは賞金が高いレースじゃない?高ければ入る額も違うし」

「でも日本って他より賞金高いって聞いたよ。それだったら日本に外国のウマ娘がもっと来るんじゃない?やっぱりその国のレースかどうかじゃない?」

「あとは名誉でしょ。凱旋門賞に勝ったイギリス出身のウマ娘で騎士の称号貰ったらしいよね。そういうのカッコイイよね」

「少年ハートか、でも日本だったら即国民名誉賞貰えるよね」

 

 其々が思いつくままに意見を述べていき、デジタルがホワイトボードに書き込んでいく。要所要所で話は脱線していくが、比較的に真面目に議論は進行していき、書き込んだワードを改めて見直す。

 

 金、名誉、国、称号

 

 何一つピンとこない。走りたい相手と走って勝てるのなら賞金も名誉もいらないし、称号にも興味はない。

 それに走れるなら南米だろうが、アフリカだろうが、どこでもいい。

 世の中の人はこれらが欲しいのか、世間と自分の感性の隔離を感じていた。

 

「白ちゃんはどう思う」

 

 デジタルは今まで静観していたトレーナーに話を振る。この中で唯一ゴドルフィン側の目線を持っている人間だ。参加者全員の視線がトレーナーに向けられる。

 

「俺が考える出走させたい条件は3つ、金、名誉、レーティングや」

 

 トレーナーは指を3つ立てながら言うと、ホワイトボード前に移動する。

 

「まず金だが汚い話やが、トレーナーは仕事で慈善事業やない。勿論当人の意志を尊重するが、確勝級の力を持っていて1着賞金1億円のレースと、賞金100万円のレースが有ったら1億のレースを選ぶ。俺も家族を養わなければあかんしな」

 

 トレーナーはホワイトボードにドバイワールドカップ、ドバイシーマクラシック、ジャパンカップと高額賞金順にレース名を書き、1着賞金も書いていく。

 金額を書くごとにどよめきが起こり、賞金を何に使うかなど話が脱線していく。トレーナーは手を叩き、話を打ち切らせる。

 

「で次は名誉、これが1番重要かもな。日本で言えば日本ダービー、日本に住んでいるウマ娘だったら一番欲しいのはダービーやろ。ウマ娘もトレーナーも賞金が高いジャパンカップより日本ダービーを欲しがるのがその証や。まあメジロみたいに天皇賞春が欲しいという例外もいるが」

 

 チームメイト達はトレーナーの答えに思わず頷く。確かにジャパンカップが一番欲しいというウマ娘は見たことが無い。ほぼ全員がダービーを欲しいと言う。それが名誉か。

 

「そして名誉と似ているがレーティング、レーティングっていうのはこのレースはどれだけ凄かったかていうのを数値化したもんや。これは着差を広げたり、海外のビッグレースやヨーロッパや、アメリカのウマ娘が多く参加したレースに多くポイントが付きやすい」

「つまり日本なんてマイナーリーグのレースで幾らぶっちぎっても大したレーティングがつかないってことですか」

「身も蓋もないがそういうこっちゃ」

 

 チームメイトの言葉に残念そうに頷く。近年では日本のウマ娘が海外のレースで活躍している。

 しかし未だレース後進国扱いで、日本のレースのレーティングではヨーロッパの主要国やアメリカで行われたレースに比べると低い傾向が有る。

 

「なるほど、その意見だとアタシのアイディアは厳しそうだね」

 

 トレーナーの言葉を静聴していたデジタルが悩まし気な声をあげながら口を開く。

 

「ほう、どんなアイディアや?とりあえず言うてみい」

「まずサキーちゃんが日本に出るレースが無ければ作ればいいやって思いついたの。でも中央じゃレース作ってくれないし、それだったら地方ですればいいやって。そこでサキーちゃんとセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんと走るの。ほら協賛レースとかあるでしょう。それに物凄い高額な賞金を付けてさ、でも話を聞いていると無理そうだな~」

 

 説明をしていたデジタルの声がどんどん自信なさげに小さくなっていく。

 中央で新しいレースを作ろうとすれば長い時間がかかる。それに外国のウマ娘を呼ぶとなると手続きなどが面倒だ。それに比べて地方はフットワークが軽く柔軟だ。新しいレースぐらいすぐ作れる。

 

「ちなみに1着賞金は?」

「ドバイワールドカップが6億でしょう。だったらこっちは10億で!」

「それはどこから捻出するんや?」

「それはスポンサーとか、サキーちゃんが日本で走って、そこにセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんが走るんだよ。皆絶対見たいって言ってスポンサーになってくれるよ!」

 

 トレーナーは目を手で覆って深くため息を吐く。何と言う甘い計画だ。

 確かにサキーが日本で走るとならば大きな魅力だが、1着賞金10億円を払えるぐらいのスポンサーが集まるとは思えない。

 

「その見通しは甘すぎるぞ。それにスポンサー集めは誰がやるんや?中央は絶対に手を貸さないし、オレもチームを見なきゃあかんし、やるとしたらデジタルや。お前にそれが出来るか?それにスポンサー集めに奔走していたらトレーニングの時間が削れるぞ」

「それはそうだけど…」

「今回は諦めて、大人しくドバイまで待て」

 

 トレーナーの言葉にデジタルは俯きながらブツブツと呟く。レースが無ければ作ればいいという発想は買う。

 だが世界一のウマ娘を走らせるのはあまりにも無茶すぎる。次々と常識を破ってきたが今回は無理だ。

 

「金の問題なら少しだけ現実的な案が有るよ」

 

 会議に参加していたライブコンサートがサラリと呟く。その言葉にデジタルは希望の目を、トレーナーは疑惑の目を向ける。

 

「賞金は参加者で出して、ウイナーテイクオールにすればいいんだよ」

「ウイナーテイクオール?」

 

 デジタルは思わずオウム返しをする。言葉の意味は分かるがピンとこない。

 

「1着は賞金貰総取りで2着以下は1銭も貰えない。これだったら大分節約できるでしょ。それでそのレースの参加者は何人?」

「サキーちゃんとセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんとは走りたいから最低人数は4人」

「それで10億円だから、1人頭2億5000万円か、やっぱり無理だわ」

「いや、ナイスアイディアだよ!それだったらスポンサー集めしなくていいよ!」

 

 デジタルはライブコンサートの手を握り喜びを伝える。

 ウイナーテイクオール方式、確かにこれならスポンサー集めをしなくて済むし、主催者の懐も痛まない。

 中央では絶対に採用されないが、地方なら採用する可能性は充分にある。

 だが1人頭2億5000万円は額が大きすぎる。サキーとデジタルは今までの賞金で払えるが、残りの2人には厳しい。

 

「あと話戻るけどさ、サキーにレースを出るメリットを与えるんじゃなくて、レースに出ないデメリットを押し付ければいいんじゃない?」

 

 さらにフェラーリピサが会話に参加し提案する。

 

「例えば、今の話だとウイナーテイクオールで10億円だ、レベルの低い日本のウマ娘なら楽勝だろう。遠慮なく奪えよ。それとも何か?マイナーリーガーに負けるのが怖いのかって?具合に煽りまくってさ、出ないと腰抜けって印象を植え付けるの。そうなれば名誉はガタ落ちになるから出ざるを得なくなるとか」

 

 トレーナーは思わず手を打つ。名誉を与えられないのなら、名誉を貶せばいい、逆転の発想だ。

 賞金だけならゴドルフィンは動かない可能性が高い。だが名誉を貶される事態になれば黙ってはいない。世界的なチームならなおさら名誉を重んじるだろう。

 デジタルは可能性を見いだせたのがよほど嬉しかったのか、ピョンピョンと飛び跳ねながらフェラーリピサとライブコンサートを中心にしたゴドルフィン煽り会議に参加し、ゴドルフィンへの文句を言っている。

 余程恨みが有るのだろう。トレーナーは会議を邪魔しないようにチームルームから去る。

 確かに可能性は見出せた。だが実現できる可能性は限りなく少ない。そもそも煽ったとても極東のウマ娘がピーチクパーチク言っているだけと一蹴されるのがオチだ。

 だがここで水を差せばデジタルのやる気は一気に削がれ今後に影響が出る。

 やれるだけのことをやって実現できなければ諦めがつき、次の目標を見つけられるだろう。

 

「こんにちは、プレアデスのトレーナーさん」

 

 トレーナー室に向かおうと歩を進めたところにスペシャルウィークが声をかけてくる。

 少しだけ緊張した面持ちで、偶然出会ったという雰囲気ではなく、何かしら話したいことがあるようだった。

 

「デジタルに用か?残念やけど会議中で今は無理や。こっちから連絡して向かわせることができるが」

「デジタルちゃんにも用はありますが、トレーナーさんにも伝えないといけないことなので」

「じゃあ、立ち話も何やし、適当なところで話そか」

 

 トレーナーはスペシャルウィークと近くのベンチに向かう。

 トレーナーの専用室に行ってもよかったが、他のチームのウマ娘を自分の部屋に連れて行くところを見られてあらぬ噂を立てられるのは避けたかった。

 近くにあった自動販売機でにんじんジュースと缶コーヒーを買って、ベンチに腰掛ける。

 

「これでよかったか?カロリー制限とかあるなら別の物を買うが」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 

 スペシャルウィークは礼を言いながらプルタブを開けて口につける。

 

「凱旋門賞惜しかったな」

「はい、力及びませんでした」

「素晴らしい挑戦やった」

 

 トレーナーは話題を切り出さないスペシャルウィークに代わり、世間話として先日の凱旋門賞について話す。スペシャルウィークとマンハッタンカフェが凱旋門賞に挑んだが2人とも勝てなかった。

 私見としてはスペシャルウィークには欧州の芝が合っていないように思えたが、それでも懸命に走り、日本総大将としての威信を見せた。

 この2人の挑戦は賞賛されるものであり、この経験を自身や次世代に生かして欲しい。

 

「ところでデジタルちゃんの次走はどうなってるんですか?サキーさんがブリーダーズカップクラシックに出走しないので、デジタルちゃんも回避するんですか?」

「ああ、デジタルもブリーダーズカップクラシックに出ず、次走は未定や」

「それだったら次走は天皇賞秋に出ないかと勧めてくれませんか?私も一緒に出ます」

 

 スペシャルウィークは意を決してトレーナーに提案する。日本に帰ってから暫くしてデジタルがこの世の終わりのように意気消沈しているというのを噂で耳にした。

 原因はサキーと走れなくなったことだ、心の底から楽しみにしているのは知っていただけにその悲しみを理解できる。

 その悲しみを少しでも癒したい。その為に何が出来るかと考えて思い浮かんだのが天皇賞秋への出走だった。 

 デジタルは自分に少なからず興味を持っているのを知っている。何よりデジタルと一緒に走ってみたいという願望が有った。

 

「天皇賞秋か、その考えはなかった。日程も近いし今からでも急ピッチで仕上げれば充分に間に合うな」

「だったら…」

「ところで天皇賞秋までどれぐらいコンディションを取り戻せると思う?」

「6割、よくて7割ぐらいです」

 

 スペシャルウィークはトレーナーの鋭い目線に思わず淀みながら答える。見抜かれていたか。

 慣れない欧州でのレースが続き、凱旋門賞では渾身の仕上げで臨んだ。その反動は強く残り数週間で戻せるものでは無かった。

 

「スピカのトレーナーは何も言わなかったんか?」

「トレーナーさんは私達の意志を優先してくれます。今も必死に体調を少しでも戻す方法を探しています」

「そうか」

 

 プレアデスのトレーナーはスペシャルウィークの言葉を聞き険しい表情が緩む。

 もしスペシャルウィークの調子を見抜けず許可したのなら乗り込んで文句の1つでも言うつもりだったが、体調を把握しての発言ならいい、チームのウマ娘の意志を最大限汲み取ろうとすることは素晴らしいことだ。

 

「スピカのトレーナーも言ったかもしれないが、いくらスペシャルウィーク君でも7割で勝てるほど甘い面子やない」

「それは言われました」

「走ってもキミの戦績に傷がつくだけや。それにデジタルが味わいたのは100%のスペシャルウィーク君や。今の君ではない」

 

 トレーナーは穏やかな口調で諭すように話す。

 デジタルは意中のウマ娘の全てを感じたいと願っている。最高の体調で最高のタイミングで走る。例えばエイシンプレストンと走る時は日本ではなく香港で走る事を望む。

 プレストンは香港で走る時が一番強く煌めいていると知っているからだ。

 

「それにデジタルはサキーと走ろうと夢中になっているしな」

「それは日本ですか?走るとしたらジャパンカップダートですかね」

「それも断れた。だからサキーと走る舞台を作り招待しようと色々やっとる」

「レースを作るって、そんなことできるんですか?」

 

 スペシャルウィークは驚きで思わず声が大きくなる。走りたい相手の為にレースを選ぶのではなく、レースを作る。それは目から鱗だった。

 

「アイツも色々計画を練っているところや、それは少なくとも天皇賞秋まで続くだろうし、今回は無理やな。すまんなスペシャルウィーク君」

「分かりました。その計画を手伝えることが有ったら言ってください」

「ありがとう。このことや天皇賞秋で走ろうと提案してくれたことを伝えたら、泣いて喜ぶぞ。もしデジタルが来たらテキトーにあしらっておいてくれ」

「そんなことしませんよ」

 

 スペシャルウィークは泣きながら喜ぶ姿を想像し思わず笑みを浮かべる。

 

「じゃあ天皇賞秋はなかったことで」

「すまんな」

「それでしたら、次のWDTで走ろうと伝えておいてください」

「それは流石に厳しいな。スペシャルウィーク君は兎も角デジタルが選ばれることはないだろう」

 

 主に夏と冬の2レースが開催され、それぞれサマードリームトロフィー(通称SDT)、ウィンタードリームトロフィー(通称WDT)と呼ばれる。

 選ばれたウマ娘のみが参加でき、シリーズへの参加条件は秘匿とされている。ドリーム・シリーズ・ターフの他にも短距離を得意とするウマ娘が参加する<ドリーム・シリーズ・スプリント>やダートコースを得意とするウマ娘が参加する<ドリーム・シリーズ・ダート>などがある。

 今年のターフは2000メートルと発表されていた。だがデジタルの今年の勝ち鞍はダート1600メートルのフェブラリーステークスのみで、ダート2000メートルのドバイワールドカップでも芝2000メートルの香港で行われたクイーンエリザベスでも負けている。

 

「でも負けても凄いレースでした。きっと評価されてます!」

「そうだとええが。とりあえず選択肢の1つとして伝えておくわ」

「お願いします!」

 

 トレーナーはスペシャルウィークの熱意に押され気味になりながら答え、別れていく。

 WDTに所属のウマ娘が選出される。それはトレーナーにとって日本ダービーを取るほどの名誉だ。今まで頭に無かったがスペシャルウィークに言われたことで、可能性が頭に過る。

 ドバイワールドカップもサキーが1着なったことでデジタルのレーティングも上がった。

 クイーンエリザベスでも着差は少ないが内容を評価されここでもレーティングを貰えた。中央は海外のレースを評価する傾向があるので、今年2000メートル未勝利ながらの選出も十分にありうる。

 

「取らぬ狸の何とやらか」

 

 そんな名誉より今はデジタルやチームメンバーの今後を考えることの方が重要だ。トレーナーはメモ帳を取り出しレース番組表を調べながらトレーナー室に向かった。

 

 



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勇者と隠しダンジョン#2

「クッ!」

 

 セイシンフブキは苦悶の声を思わず漏らし、夜空に吸い込まれる。全身から汗が滲み出てタンクトップには染みを作り、アスファルトに水滴を落としていく。

 筋トレや補強運動がここまでキツイものと思わなかった。誰よりもダートを走り耐えられると思っていたが、これは走り込みとは別種のキツさだ。

 今までのトレーニングで正しいダートの走り方を身に着けたことで、次の段階に移行することを決めた。それはフィジカル強化だ。

 ヒガシノコウテイには技術とフィジカルの総合力で負けた。だが自分はまだフィジカルをほぼ鍛えていない状態、これは伸びしろだ、鍛えた分だけフィジカルは強化され強くなる。

 フィジカル強化は身に着くのに時間が掛かると言われ、成果が出るのは3か月ぐらいだそうだ。今からやっても今年のレースには間に合わないが問題ない。

 今のままでもヒガシノコウテイや他のダートウマ娘には充分勝てる。そしてフィジカルを強化してドバイワールドカップに勝つ。

 

「10!」

 

 既定の回数のメニューをこなすと追わず仰向けになって寝そべる。秋風が熱くなった体を冷却し心地よい。

 セイシンフブキは寮から離れた空きスペースで筋トレを行っていた。船橋にもベンチプレスなどを行える筋トレルームがあるが使用していない。まずは自重で鍛えてから器具を使う。ゆっくり着実に行うべきだ。

 

「お疲れ様です師匠。スポドリです」

 

 空を遮るように視界にアジュディミツオーの姿が映りこむ。持ってきたスポーツドリンクを受け取り口に着ける。

 アジュディミツオーも自主練を終わり戻ってきたところだった。

 

「どうだ?」

「分かんないっす」

「それはそうだ。そんな早く理解出来たらアタシや姐さんの苦労は何なんだって話だよ。悩め悩め」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーがブツブツと何かを呟く様子を肴にして、スポーツドリンクを飲む。

 アジュディミツオーの練習メニューはひたすらコースを歩くだけである。それが課したメニューである。

 ダートを理解するには経験が必要だ。コースを走り込み歩き続け、夢でも鮮明にダートの感触を思い浮かべられるぐらい体に刻み込む。

 それぐらいにならなければ正しいダートの走り方は身に付かない。だがいずれ出来るだろうという予感はあった。

 

「師匠、携帯が鳴ってますよ」

 

 目が向けると近くに置いていた携帯電話が鳴動し、手に取ると訝しむような表情に変わる。電話をかけてきたのはアグネスデジタルだった。

 南部杯までは一緒のレースに走る敵であり、馴れ合いたくないと着信拒否にしていたが、それ以降は一緒のレースを走る機会は当分無いので、拒否を解除していた。

 

「もしもし、何の用だ?」

「もし地方でサキーちゃんと走れるなら走りたい?」

「当たり前だ」

 

 前置きも無くいきなり本題から切り込んだ質問に即答する。現状は日本のダートウマ娘がドバイやアメリカに挑まなければいけない立場だ。もしこちらに来るとなれば願ってもない展開だ。

 

「それには2億5000万円払わなきゃいけないけど、それでも走りたい?」

「走るに決まってるだろ」

 

 この問いにも即答する。以前にアブクマポーロはドバイに出る為ならどんなことをしても遠征費を稼げばよかったと嘆いていた。今がまさに同じ状況だ。現時点では2億5000万円を払うことはできない。

 だったら泥水を啜ってでもかき集める、サキーと走るということはそれ程の価値が有る。

 負けたら負債を抱えるということは一切考えず、ただサキーに勝ちダートの価値を高めることだけを考えていた。

 

「それで本当に走れるのか?」

 

 セイシンイブキの問いにデジタルは返答する。サキーと走る為に地方で新しいレースを作る。

 賞金は10億円、2着以下は文無しのウイナーテイクオール、そして走らせるために煽りまくる。その言葉を聞いて思わず大笑いする。

 

「面白い!実現できるか知らねえが、アタシはやるぞ」

「それで2000メートルで走るとしたらどこのレース場がいい?」

 

 コース形態やダートの質、どこが1番ふさわしい場所か?その問いに熟考し、数秒後答えを導き出した。

 

「大井レース場だ」

「理由は?」

「まず砂が1番軽い。こっちのダートでやるならせめてでも時計が出る場所でやるべきだろう。それに大井はどの枠順でもどの位置取りでも有利不利がないチャンピオンコースだ」

「でも大井は右回りでしょ。アメリカやドバイは全部左回りだよ」

「そうだ。だが昔の大井は左右両周りでレースをしていたから、実現可能だろう」

「へ~そうなんだ」

「もしできなかったら次点で盛岡だな。船橋や川崎や浦和も左回りだが、2000で走るとなるとどうしても内枠有利になる。内枠に入ったから勝ったとも言われたくないし、負けたともいちゃもんを付けられたくない。そして盛岡の2000メートルは枠の不利は無いし、どの位置取りからでも強い奴なら勝てる。砂が深いのが難点だがな」

 

 受話器越しからデジタルの感嘆の声が聞こえてくる。左右両回りをやらなかったのは何かしらの理由があるだろうが、やるとしたら是非大井2000の左回りでと思っていた。

 

「それでいつやるんだ?」

「まだ企画段階だから分からないよ」

「だとしたらWDTと同じ日だ。ダートと芝どっちがスゲエか決めるんだよ」

 

 サキーが走るとなればダート世界一決定戦と言ってもいいだろう。そしてWDTは花形である冬の芝中長距離の日本一を決めるレースだ。そのレースが同日に行われればどちらがより魅力的かがハッキリする。

 

「じゃあ、暫定的にその日ってことで。色々と決まり次第連絡するよ」

「わかった。お前がどうだが知らねえが、アタシはかなりやる気だからな。サキーとアタシとデジタルの3人だけになっても絶対走るぞ」

 

 セイシンフブキは電話を切ると肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべる。最大目標はジャパンカップダートに定めていたが、変更しなければならない。このレースに比べたらどうしても劣る。

 WDTは年を明けてから行われる。それに合わせれば11月の下旬に行われるジャパンカップダートには仕上がり切れない。

 とりあえずはそのレースを目標にして、企画の進行段階次第でジャパンカップダートに切り替えるといったところか。楽しくなりそうだ。

 ワクワクが堪えきれないという具合にもう一度笑った。

 

 ───

 

 コースから見える山の木々は緑から赤や黄色を帯び始めていた。

 その景色は見れば行楽に来たような気分になり、レース観戦も中央や他のレース場では味わえない情景が見られる。だが今コースで走っているウマ娘を見れば、行楽気分は吹き飛ぶだろう。

 

 盛岡レース場ではバンケーティングが走っていた。地面を踏みしめるたびに砂は高く舞い上がる。

 歯を食いしばり、前を走るヒガシノコウテイを猛追する。その鬼気迫る表情はレース本番さながらだ。

 バンケーティングはヒガシノコウテイまであと1バ身と迫る、その時進路上を塞ぐようにヒガシノコウテイが右に寄れる。

 接触の危機を感じたバンケーティングは一瞬減速する。その減速が響いたのか、最後まで躱すことができずゴール板を通過した。

 

「ゴール前は苦しいけど出来るだけ視野を広く持って、偶然でも故意でも進路を塞がれることがあるから。相手の動きを視界に入れておけば減速せずに最小限の動きで避けられるから」

「はい」

 

 バンケーティングは歩きながら酸素不足で上手く働かない脳に喝を入れ、アドバイスを記憶していく。

 

 南部杯から数日後、各ウマ娘達は次の目標に向かって動き始めていた。地方の祭典JBC(ジャパン・ブリーダーズ・カップ)、毎年各レース場の持ち回りで開催され、今年は盛岡で開催される。

 ダートGI2000メートルのJBCクラシック、ダートGI1200のJBCスプリントが行われクラシックには南部杯4着のバンケーティングなど、何人かの岩手所属のウマ娘が出走する。その中にヒガシノコウテイの名は無かった。

 南部杯では渾身の仕上げで臨み、レースでも全ての力を使い果たした結果調子を落としてしまっていた。

 出走するだけなら可能だがこの調子で勝てるほど甘いメンバーではなく、今後の事を考慮して出走を見送った。

 バンケーティングを筆頭に南部杯に出走したメンバーはレースを通して一皮剥けた。ヒガシノコウテイもいずれは引退し、代わりに中央を迎え撃つウマ娘を育てなければならない。

 そこでバンケーティング達に出走してもらい、大きな舞台で走る事で大きく成長してもらいたいという狙いがあった。

 

「あとトーヨーデヘアはコーナーリングの時に突っ込みすぎだから、もう少し体重を右にかけて、あと歩幅をもう少しピッチにしたほうが曲がりやすいよ」

 

 ヒガシノコウテイはその場で見本を見せながらトレーニングで走っていたウマ娘達にアドバイスをする。

 これらのアドバイスは全てゴドルフィンでのトレーニングで盗み吸収した技術だ。

 気の迷いで裏切った末に手に入れた力であり、そんな技術でも1つでも多くの事を仲間たちに残すのが使命だ。少しでも役に立てるようにと言葉を吟味し懸命に伝えていた。

 

「いや~皆さんお疲れ様です。これ差し入れです、後で飲んでください」

 

 ヒガシノコウテイ達の元に岩手ウマ娘協会の職員である最上が近づいてくる。

 紙袋から飲み物を見えるように掲げた後地面に置き、連れ添っていたカメラマン達と一言二言会話をすると、カメラマン達はトレーニングを再開したバンケーティング達の写真を撮り始める。

 そして近くのベンチに座りトレーニングの様子を眺めていた。

 

「ヒガシノコウテイ選手、今日はもう終わりですか?」

 

 トレーニングを終えたヒガシノコウテイに最上が声をかけ、ベンチに座らずそ立ったままで世間話を始めた。

 

「はい、まだジャパンカップダートまで時間が有りますので」

「そうですか、しかし素人目ながら、他のメンバーは調子が良さそうですね。次も好走を期待できそうですね」

「はい、岩手はヒガシノコウテイだけじゃない、私達の力を見せてやると頑張っています。ですが中央も強いですから、現実を見せつけられるかもしれません」

「その時は皆で励まし考え協力し合って、少しずつ強くなっていきましょう」

「はい、岩手の皆全員の力で強くなりましょう」

 

 南部杯の後、岩手ウマ娘協会所属のウマ娘とそれを取り巻く人々の意識が大きく変わった。

 ウマ娘達はヒガシノコウテイに重責を押し付けた責任を感じ、いつまでもおんぶにだっこのままではいられないと前より一層真剣にトレーニングを行うようになった。

 周りの人々もある者は農作物を協会に寄付し、ある者はトレーニングジムと交渉しウマ娘達に格安で利用できるように交渉を行い、ある者は空いている土地に中央のような坂路を作ろうと有志を集い工事に着手している。

 1人1人が意識を変え出来ることを探して強くなる。ヒガシノコウテイの苦渋決断は結果的に意識変革をもたらしていた。

 

「すみません。電話が来たみたいですので」

 

 ヒガシノコウテイは着信が来ているのを確認し離席する。相手はアグネスデジタルだ。深呼吸を1回し電話に出る。

 

「もしもし」

「もしもし、今大丈夫?」

「はい、大丈夫です。どうしたんですか?」

「サキーちゃんって知ってる?ドバイワールドカップに勝った」

「知っていますが」 

「そのサキーちゃんと日本で走れるとしたら走りたい?」

「走りたいです」

 

 突然の質問に数秒ほど考えた後に答える。

 サキーといえば今年のドバイワールドカップに勝利したダート世界最強のウマ娘だ。走るとしたら何個かのGIに勝って、ドバイワールドカップの出走メンバーに選出されるぐらいだろう。

 そんな先のことまでは頭に回っていなかった。だが地方所属など関係なく個人として世界一にどこまで通用するか試したいという欲求が芽生えていた。

 

「その為には2億5000万払わなきゃいけなかったらどうする?」

「2億5000万円!?」

 

 思わず声を上げる。走るのに金銭を支払うのも驚きだが、問題はその額だ。あまりにも大きすぎる。

 中央の1着最高賞金と同程度ではないか。ヒガシノコウテイが困惑しているなか、アグネスデジタルは自身の計画を喋った。

 

「それで2億5000万ですか」

「まあ、額が額だけに無理強いはできないよね。でもアタシとセイシンフブキちゃんはやる気だから」

「少しだけ考えさせてもらいますか」

「分かった。考えが決まったら電話して」

「分かりました」

「じゃあね」

 

 ヒガシノコウテイは通話が終わった携帯電話を神妙な顔を浮かべながら見続ける。その様子が心配になったのか最上は思わず声をかける。

 

「どうしました?」

「いや、アグネスデジタルが大井でサキーという世界王者のようなウマ娘、前に来たブロワイエ級のビッグネームと走る計画を立てていて、そのレースに誘われまして」

「そうですか、それで何と返事を?」

「まだ保留しています。個人的には走りたいのですが、金銭を支払わなければならず、その額が……」

「何円なんですか?」

「2億5000万円」

「2億5000万!?」

 

 最上もヒガシノコウテイと同じように思わず声を上げる。その様子に親近感を覚えつつ、デジタルが語った計画を話す。

 

「勝者総取りですか、企画としては話題性が有って面白そうですね。不躾ですが仮に走るとしたら払えるのですか?」

 

 ヒガシノコウテイは最上の質問に即座に答えられず沈黙する。2億5000万円はなら今まで獲得した賞金でギリギリ支払える。

 しかし負けたら一気に2億5000万円を失う。葛藤を続けるなか、最上にポツリと問いかける。

 

「最上さん、もし私が勝てば岩手は盛り上がりますか?オグリブームのようなムーブメントを引き起こせますか?」

 

 地方の笠松から来たオグリキャップが中央に参戦し、様々なライバルと激闘を繰り広げ日本中が熱狂した。

 通称オグリブーム、オグリキャップの存在によって地方が注目され活気に沸いた。今はブームが去り、日の目が当たることがなくなっているのが現状である。

 だがオグリキャップでも成し遂げられなかった世界一になれば、あの時以上のムーブメントを巻き起こせるかもしれない。そうなれば岩手は注目され、皆が幸せになれると考えていた。

 

「起こせます。いやあらゆる手を尽くして起こさせて見せます」

 

 最上は決断的に言い放つ。個人でムーブメントは起こせない。様々な力と偶然が重なり合って起こるのがムーブメントだ。だがこのレースにはそのポテンシャルが有ると確信していた。

 

「分かりました。当面の目標はジャパンカップダートではなく、このサキーと走るレースにします」

 

 ヒガシノコウテイは自分自身に誓うようにゆっくりと力強く呟いた。

 

───

 

 サキーが扉を開けると埃が舞い上がり思わず咳き込む。

 この埃からして何年も掃除していなかったようだ、数日間の滞在ですぐに出ていくが掃除しておくべきか。両親から掃除用具を借り汚れてもいいようにジャージを着てから掃除を始めた。

 怪我をして凱旋門賞とブリーダーズカップクラシックへの出走回避を正式に発表した直後、フランスからアメリカに渡った。

 今後の目標はドバイワールドカップと定め、暫くの間はオフとなった。その余暇を利用してブリーダーズカップ観戦を兼ねて帰郷した。

 タンスの上などの埃をふき取り掃除機で床のゴミやほこりを取っていく。順調に掃除していくが何個もの穴がある淡いピンクの壁を見て手が止まる。

 懐かしい、これはポスターを何度も張り替えた跡だ。通常は部屋には憧れのウマ娘のポスターやグッズが貼られていた。

 だがホームパーティーを開いた時はそれらが人目に見えないところに隠し、流行りの歌手など一般受けの良い人物のポスターに張り替えていた。

 そしてこの壁紙の色も好みではないが、人が来たように白からこの色に変えたのだった。

 サキーは本棚の掃除にとりかかるが再びその手が止まる。小学校当時のファッション雑誌にクラスメイトがどんなものが好きかなどの情報が書かれたノート、懐かしくもあり辛かった体験が蘇る。

 トゥインクルレースの魅力を布教する為の努力としての一環であったスクールカースト向上、やりたくはなかったが当時はそれしか方法が無いと思って必死に頑張った。

 今思えば何とも効率が悪い努力だったが、その努力が今の自分を形成している。サキーはそれらの雑誌を本棚に戻し掃除を再開した。

 2時間程度で部屋の掃除は完了する。窓を見ると夕焼けが色鮮やかに大地を照らしておりノスタルジーを誘う。その感情に誘導されたように本棚に向かい過去の日記帳を目に通す。

 ジュニアC級で無敗の3冠ウマ娘になり、翌年は無敗でキングジョージと凱旋門に勝つ。

 ノートには今後の将来設計図が書かれ、最終目標は歴史上最も有名なウマ娘となり、レースの素晴らしさを伝えると書かれていた。

 今の自分は将来設計図とは大分変わってしまった。だが最終目標は依然変わらない。

 ウマ娘界のアイコンとなり、1人でも多くレースの素晴らしさを伝え、関係者を幸せにする。

 そして過去の自分よ、今からするのは夢の実現とはさほど関係ないレースを走ることになる。許してくれ。

 サキーはベッドに腰掛け携帯電話を手に取るとボタンを押し電話をかけた。相手は通称殿下と呼ばれるゴドルフィンの最高責任者である。

 

「もしもし殿下ですか?サキーです。私が添付した動画はもう見ましたか?これはゴドルフィンへの挑戦です。私をそのレースに走らせてください」

 

 サキーがジャパンカップダートを走れないと伝えて暫くしてある動画がネットで拡散し、業界はもちろんそれ以外の人々にも周知される。俗に言うバズっていた。

 発信源はセイシンフブキとヒガシノコウテイとアグネスデジタルだった。ある日新設されたセイシンフブキとヒガシノコウテイのツイッターアカウントからある動画が投稿された。

 

──おいサキー!日時はWDTと同日!場所は大井レース場!距離はダート2000!出走メンバーはアタシ!ヒガシノコウテイ!アグネスデジタルの4人!賞金はそれぞれ2億5000万円を出し合い、勝者総取りで負ければ文無しのウイナーテイクオールだ!そのレースで勝負しろ!

 来年のドバイワールドカップに向けて丁度良いステップレースだ、最強集団ゴドルフィンのエースなら楽勝だろ?日本観光してお小遣いで7億5000万円ゲット、こんな美味しい話はない!

 もちろん出るよな?それとも負けるのが怖いのか?レーティングが碌にもらえないジャパンのウマ娘の挑戦が受けられないのか?サキーは王者として受けて立つつもりらしいけど、ゴドルフィンが逃げ腰らしいな?

 ゴドルフィンは世界最強のウマ娘集団なんだろう?その最強集団が逃げるのか?だったら今すぐ最強の看板を下ろして、『ジャパンのウマ娘が怖くて逃げた腰抜けの弱小集団です』ってホームページに付け加えておけよ!

 

───こんにちは、私は岩手ウマ娘協会所属のヒガシノコウテイと申します。

 日本にはファンタスティックライトさんが走ったジャパンカップ等のレースを開催している中央と私達岩手ウマ娘協会らが所属している地方が有ります。簡単に言えば中央がメジャーリーグ、地方がマイナーリーグのようなものです。

 そして地方は今苦境に立たせています。世間では中央に脚光が浴び、人々は中央のレース会場に足を運んでいます。

 その結果多くの地方のウマ娘協会が収益を上げられず解散しました。自然淘汰と言われてしまえば、その通りだと思います。それでも地方の関係者は懸命に努力し創意工夫を行って地方を盛り上げています。

 そしてゴドルフィンのサキー選手が地方で走るという話を聞きました。これほどのビッグネームが走ることになれば地方は一気に注目を浴び、地方が活性化する起爆剤になりえるでしょう。

 ゴドルフィンにとっては走る価値がないレースかもしれません。ですが地方にとっては千載一遇のチャンスなのです。ノブレスオブリージュという言葉がありますが、どうか地方という弱者をお救いください。

 

───アタシとサキーちゃんはドバイワールドカップの後にBCクラシックで走ろうと約束しました。ですがサキーちゃんは残念ながら怪我で走れなくなりました。でもサキーちゃんは誠実な人ですので、ジャパンカップダートで走りましょうと言ってくれました。

 ですが!ゴドルフィンがそんな賞金も少なくレーティングも加算されない一地方の田舎レースに出さないと邪魔してきます!ヒドイ!ヒドすぎるよ……アタシとサキーちゃんは相思相愛、ゴドルフィンがその仲を切り裂きます…それが大人のやることですか?

 それでもアタシはサキーちゃんへの愛は失いません。四方八方手を尽くして、せめて賞金でもと10億円ウイナーテイクオール方式のレースを大井で行えるようにセッティングするつもりです。

 それすら出してくれないんですか?優先されるのはお金や名誉やレーティングじゃない!本人達の意志じゃないんですか!?

 ゴドルフィンの皆さまがもしこの動画を見たら、考え直してくれることを願っています。

 

 セイシンフブキは挑発的に、ヒガシノコウテイは懇願し、アグネスデジタルは涙混じりで、それぞれゴドルフィンにサキーの出走を訴えた。

 この3つの動画はバズり、ゴドルフィンやサキーのツイッターアカウントに挑戦を受けないのかというメッセージが連日押し寄せていた。

 デジタルのメッセージは一部事実と異なる点はあるが、その点はサキーに了承をとっている。寧ろサキーも積極的に関わりデジタルやヒガシノコウテイやセイシンフブキのメッセージの監修をおこなった。

 手前味噌だが結構人気があるので自分への批判中傷は得策ではない。

 相手をゴドルフィンに定め、大人に振り回せられる若者、組織の都合で意志を出せない個人という対立構造を作ったほうがいい。そのアドバイスを受け動画を作成していた。

 

「ジャパンカップダート出走拒否も遠征のリスクや私の将来を慮り、熟考に熟考を重ねた結果の判断です。ですがこれだと私達が金や名誉欲に執着し、社会的義務を果たさない薄汚い集団と勘違いされてしまいます!そしてこの3名は日本ダートでも屈指の実力者です。それを私が打ち破ればゴドルフィンの力を示し、今後の日本進出もやりやすくなると思います」

 

 サキーは熱を込めながら訴える。走る事で3人の要求を叶え幸せにすることができ、日本の地方も注目され関わる多くの人が幸せになる。

 そして勝てばさらなる名声を得られてゴドルフィンの利益になる。このレースが実現できれば関わった全ての人が幸せになれる。

 

「確かにサキーの言う通りだろう。だが責任者としてはリスクとリターンを吟味しなければならない。分かるか?」

「はい」

 

 殿下は落ち着いた口調で語り掛け、その存在感と圧力にサキーは思わず背筋を正す。

 

「南部杯は私も見た。アグネスデジタルは勿論、ヒガシノコウテイもセイシンフブキも強い。そこは君と同じように評価している。そして君が負ける可能性も十分に考慮している」

「私は負けません。ドバイワールドカップでは完勝したつもりです。そして相手が成長しても私も同じ程度に成長し、差は縮まっていません」

 

 サキーは力強く話す。ドバイワールドカップでアグネスデジタルに追い詰められた事で、さらなる成長が出来た。

 そして最高の環境でトレーニングを続け成長している。その言葉は大言ではなく、冷静な分析で導き出した事実だった。

 

「君の強さは疑っていない。だが日本のダートはアメリカやドバイとは違う特殊なものだ。彼女たちは馴れていて、キミは走ったことが無くダートに適応できない可能性がある。その状態で勝てる相手ではないと思っている」

「その通りです」

 

 どんなに強いウマ娘でも向き不向きがある。凱旋門賞に勝ったウマ娘でもダートではまるで通用しないという事は多い。欧州の芝とアメリカとドバイのダートは適応できたが、日本のダートに適応できるという保証はない。

 

「勝って当然といわれるレースで勝てば7億5000万、負ければ世界から見ればまだまだ途上国である日本のウマ娘に負けたという事実により、ゴドルフィンと君の名誉を失う。あまりにも釣り合わない。ゴドルフィンに属している以上個人の意志より組織の意志を尊重してもらう。いいね?」

「はい」

 

 殿下の有無を言わさない言葉に頷いてしまう。サキー以上にデジタル達の力を把握し分析し、リスクとリターンを吟味した決断を下した。それらの言葉はぐうの音が出ない正論だった。

 

「そもそも挑戦者が王者の舞台に挑むのが礼儀というもので、彼女たちがドバイワールドカップに来るのが筋だということに世間もいずれ気づくだろう。そして民衆という者は熱しやすく冷めやすい。ブリーダーズカップが迫れば徐々に忘れていくだろう。だが君がゴドルフィンを思って提案してくれたことは嬉しく思う」

 

 通話が切れツーツーという音が部屋に響く。アグネスデジタルは諦めずレースを作りゴドルフィンを煽って参加させようとした。

 その行動力は賞賛されるものであり、煽り動画も予想以上にバズった。もしかしてと思ったが甘かった。

 ゴドルフィン、いや殿下は揺るがない。驕らず相手を分析し冷徹といえるほどの計算高さで判断を下す。その判断は覆らない。

 可能性があるとすれば殿下すら予想しないムーブメントだが、それを起せというのは余りにも難しい。

 

「アグネスデジタルさん、日本で走れなさそうです」

 

 サキーの呟きが空しく響いた。

 

───

 深夜1時、寮に居るウマ娘達の大半が寝ているなか、アグネスデジタルとエイシンプレストンはPCでレースを見ていた。そのレースはBCクラシックである。

 

「あ~あ、始まっちゃうよ」

「まあ、アンタも頑張ったよ。でも今回はしょうがないって諦めてさ、ジャパンカップダートには地方の2人も出るんでしょ?それに向けてさ?」

 

 デジタルは虚ろな目で画面に映るレースを見つめ、プレストンは何とか元気を出すように励ましていた。

 ライブコンサートやフェラーリピサ脚本、サキー監修のゴドルフィンへの煽り&泣き落とし動画は渾身の出来だった。

 デジタルもサキー走らせないゴドルフィンへの怒りをぶつけるように本気で泣き、女優顔負けの演技を見せた。そして動画も予想以上に拡散し話題になった。

 これならばイケるかもしれないと期待に胸を膨らませるが事は上手くは行かなかった。

 ゴドルフィンは動画に対して沈黙を貫いた。一時はゴドルフィンへの不満で盛り上がったが、次第に熱は冷め忘れ去られていく。

 

 チームメイト達も諦め、セイシンフブキ達ももジャパンカップダートに照準を絞るとトレーニングを始めた。その諦めムードがデジタルを挫いていた。

 今頃アーリントンでサキーと走っていたのにと深くため息をつく。

 プレストンもその様子を心配そうに見つめる。デジタルの雄姿を見るためにレース映像が見られるサイトに登録したのに、まさか一緒にレースを見るとは夢にも思ってもいなかった。

 レースは内をスルスルと進んだ最低人気のヴォルポニが6バ身半の大差で1着となる。

 画面越しにも分かるほどに会場がどよめいている。一方ヴォルポニはそんなの関係ないと言わんばかりに涙を流し喜びを爆発させる。その様子を見て観客たちは声援を送る。

 解説曰くトレーナーはヴォルポニデビュー前から癌に侵されながら指導にあたり、今日も手術を受けたばかりで週に4日間の放射線治療を受けていたためにレース場に行けなかったそうだ。

 闘病生活に苦しむ恩師に向けて最高の恩返し、その光景にプレストンも思わず涙ぐむ。だがデジタルは無反応だった。普段だったら興奮気味に尊いエモいと騒ぎ立ているところで相当こたえているようだ。

 去年までならこれでブリーダーズカップが終わるのだが今年は違っていた。

 新設されたダート2400BCマラソン。そのレースの1着賞金はBCクラシックを上回り、それに釣られるように出走メンバーが集まり、明らかにBCクラシックより豪華なメンバーになっていた。それを見てある意見が出始める。

 

 BCクラシックではなく、BCマラソンをメインレースにすべきではないのか

 

 それは全米を巻き込む大論争を巻き起こし、どちらがメインレースにしたほうがいいかとファン投票まで行われ、その結果BCマラソンがBCクラシックより投票数を上回り、メインレースに昇格する。

 一応形式上はBCクラシックがダブルメインレース第1レース、BCマラソンがダブルメインレース第2レースとなった。

 そしてメインレースのBCマラソンの1番人気はストリートクライである。

 ストリートクライがパドックに現れた瞬間怒号のようなブーイングを浴びせられていた。それは明らかに盛岡でデジタルが浴びたブーイングより大きかった。

 大本命だったサキーが回避したことでBCクラシックに勝利される事態は回避できた。

 だがアメリカの権威であるブリーダーズカップのメインレースをゴドルフィンのウマ娘に勝利する。それはアメリカのファンにとってBCクラシックをサキーに勝たれると同等に最悪のシナリオだった。

 プレストンはストリートクライのパートナーのキャサリロが必死に鼓舞する様子を見て同情する。ゴドルフィンはアメリカで人気が無く悪役だと聞いていたがこれほどなのか。

 これではイジメではないか。同意を求めるように視線を向けるが、相変わらず虚ろな目で画面を見ていた。

 レースはストリートクライがブーイングを物ともせず3バ身差の完勝で初代王者に輝く。ゴール板を通過した瞬間今日1番のブーイングが起こり、場内は剣呑な空気に包まる。

 モニターで見ているプレストンも殺気が伝わったように思わず身震いしていた。

 その後勝利者インタビューが始まるがブーイングは鳴りやまず、レポーターが何を言っているのかモニター越しでも聞き取れない。

 このままでは暴動が起きるぞ。最悪の想像を思い浮かべ目を細めながら見ていた。

 

─ WOW! WOW! WOW! Hold on a minute!

 

 突如謎の声が響き渡り、金髪長髪のスーツを着たウマ娘がストリートクライに近づく。スーツ越しでも鍛えられているのが分かるほどの肉体で、立ち姿だけで自信とエネルギーに満ち満ちているのが分かる。

 暫くすると会場から割れんばかりの大歓声が上がる。その歓声から数秒後にプレストンはこのウマ娘が何者か思い出す。

 

 ティズナウだ。史上初のBCクラシック連覇ウマ娘であり、そのレースは語り継がれるほどの激戦である。

 日本で言うオグリキャップ、いや人気で言えばそれ以上だ。現役ながらリビングレジェンドであり、国民的英雄、アメリカのウマ娘、賞賛する言葉は両手では足りない。

 今は身を挺して幼き少女を救った際の負傷というマンガみたいな出来事が起こり休養中のはずだ。

 会場はティズナウの名が響き渡る。するとティズナウが静かにするようにとジェスチャーをすると声援はどんどん小さくなる。それを確認するとインタビュアーからマイクを受け取る。会場の観客は固唾を飲んで見守る。

 

『コングラチュレーション、ストリートクライ。素晴らしいレースだったよ』

 

 ティズナウは拍手をしながら喋る。一見友好的に見えるが腹に一物を抱えているのは明らかだった

 

『だがそれは真の勝利ではない、フェイクだ。何故なら私が出ていなかったからだ!』

 

 その一言に会場湧き上がる。そうだティズナウが出ていない。出ていればゴドルフィンのウマ娘に勝たれることはなかった。そう代弁するように観客たちは声を張り上げる。

 

『だから私と勝負してもらう。勝てば真のBCマラソンウィナーだ。賭けるものはそのレイとトロフィーと勝ち鞍だ。負ければ勝ち鞍からBCマラソンの存在を消せ。私はBCクラシックのレイとトロフィーと勝ち鞍を賭けよう!』

 

 BCクラシックのレイは勝者の証であり、アメリカの誇りだ。

 それを賭けてでもアメリカの誇りを守ろうとしている。その心意気に心打たれ観客は涙を流し、会場にはUSAコールが響く。

 

『そしてサキー!この会場に居るんだろう!言いたい事がある!』

 

 突然の呼びかけに会場の歓声はどよめきに変る。暫くどよめきが続くが構わず話を続けた。

 

『BCクラシックはサキーが居れば勝っていた。サキーこそ真の王者だ。そんな声が巷で聞かれている。だが今日の走りを見たか!?最低人気でありながら闘病中の恩師のために!ホークウイングという外敵からアメリカを守るために!ヴァルポニは全てを懸けて勝利した!私をアメリカのウマ娘と言うが、彼女こそアメリカのウマ娘だ……』

 

 ティズナウは目頭を押さえ涙をこぼしながら喋る。それに釣られるように涙を流す客も現れ、ティズナウコールの代わりにヴォルポニコールとUSAコールが響き渡る。

 

『サキーは出走していてもヴォルポニには勝てなかった!絶対にだ!だが怪我を盾に真実を捻じ曲げ、ヴォルポニの勝利を汚した。私は絶対に許さない!』

「何でサキーちゃんが文句言われなきゃいけないの!」

 

 興奮の坩堝と化している会場に文句を言うように、デジタルが画面に食いつくように声を出す。その一言でプレストンは我に返る。

 ストリートクライには自分が怪我で出ていなかったから勝ちではないと言っておきながら、怪我で出なかったサキーには勝利を汚したと文句を言っている。これでは自分が勝利を汚したということになるのではないか。

 危うく場の空気で騙されるところだった。デジタルの一言で気づけたが、それが無ければサキーを卑怯者と罵っていただろう。

 画面で見ている自分ですらこれでは、会場に居る観客は正常な判断が出来ていないだろう。

 元々ゴドルフィンの2人にヘイトが向く環境といえど、ここまで熱狂させるのはティズナウの力だ。身振りや声のトーンや喋り方で場の空気を支配する。これが絶大な人気を得ている理由の1つだろう。

 

『本来ならヴォルポニがドバイワールドカップでサキーと走り、勝てないと証明するだろう。だが残念ながら彼女は全ての力を使い果たしドバイまでに復帰できないだろ。だから私がヴォルポニの代わりにBCクラシックに勝てなかったと証明する!』

 

 その1言でこの日1番の盛り上がりを見せる。ヒール集団の両巨頭をアメリカンヒーローが成敗する。コテコテのエンタメだ。だがプレストンもアメリカ出身であり血が騒ぐのか心躍っていた。

 どこで走るのか?やはりドバイワールドカップか?プレストンと観客の感情がシンクロするように静まり返りティズナウの言葉を待つ。

 

『日時はWDTの同日、場所は日本のオオイ、距離はダート2000、そこで走ってもらう!』

「え?」

「は?」

 

 デジタルとプレストンは思わず声を上げる。何故この話の流れでデジタルが企画したレースが出てくる。あまりにも予想外の展開に混乱する頭を落ち着かせながら言葉を待つ。

 

『知っている者かもしれないが、ジャパンのあるウマ娘がサキーに向けて挑戦状を叩きつけた。それぞれが2億5000万を支払い、勝者は総額10億を総取り、負ければ何も得ないウイナーテイクオール方式のレースを提案した。大金を支払っても己の強さを証明しようという心意気に胸を打たれた。だが卑劣にもサキーとゴドルフィンは挑戦を受けなかった!何てへなちょこなんだ!』

 

 ティズナウはへなちょこと何回も連呼する。それに呼応するようにへなちょこコールが始まる。会場は既に手のひらであり、まさにティズナウ劇場と化していた。

 

『私は日本のウマ娘の願いを叶えるともにアメリカの強さをゴドルフィンに証明する。お互いアウェーでホームアドバンテージは無いフェアな舞台だ。さあ!返答はこの場でして貰おう。ゴドルフィンのパパに相談するのは無しだ。あとお友達にもだ、それともお友達に相談しないと何も決められないのか?1人のウマ娘として答えてくれ。答えはYESかOKだ』

 

 ティズナウは喋り終わるとストリートクライにマイクを突き渡す。その様子をデジタルとプレストンは目を見開いて見ていた。

 会場を完全に掌握しての問いかけ、ここまで場が盛り上がっている状態で断れば暴動が起きる。これは最早脅迫だ、選択の余地がない。

 途絶えかけていたサキーとの走る道、それを思わぬ第3者が強引にこじ開けようとしている。

 

「デジタル、あるよ!奇跡の差し切りが!」

「うん」

 

 デジタルもその可能性に気づいたのか、興奮を抑えきれないといった具合に画面を見つめる。

 画面ではマイクを持つストリートクライにティズナウが観客に気づかれないように何かを言った。

 

『やる』

 

 ストリートクライは端的に意志を伝え、その言葉にこの日何度目からの大歓声が上がる。その目は会場の雰囲気に呑まれた目ではなく、明確な意志を持って言った者の目だった。

 しばらくするとスタンドの観客席はモーゼが割った海のように割れていく。そこにはガードマンに囲まれたサキーがいた。観客席からコースに入っていきストリートクライからマイクを受け取る。

 

『やりましょう』

 

 サキーもストリートクライと同じ明確な意志を持った目をしながら答えた。

 

「ヤッター!」

「差し切ったよ!」

 

 デジタルとプレストンは思わず手を取り合い感情が赴くままに叫ぶ。デジタルはサキーと走れるという喜びから、プレストンは劇的なエンターテイメントを見た興奮からだった。

 

「どんだけエンタメなのよ!まるでドラマのワンシーンじゃん!」

「早くセイシンフブキちゃんとヒガシノコウテイちゃんに報せなきゃ!」

「いや待って!」

 

 プレストンが興奮気味に声をかける。画面上ではまだティズナウ劇場は続いていた。

 

『待てよ。当人達が言ってもひっくり返されるかもしれない。責任者の口から答えを聞かないとな!殿下!今のこの場に来て返答してください!』

 

 ティズナウはその場に胡坐で座り込んで手招きのジェスチャーを見せる。プレストンは興奮とワクワクで自然と笑みがこぼれていた。

 当人が言ってもゴドルフィンの責任者がNOと言えばそれまでだ、ならばこの空気を利用して表舞台に引き釣り出し、完全に言質を取って逃げ場を防ぐつもりだ。そうなれば弁解のしようがない。

 暫くすると。アラブ風の服装の男がサキー以上のガードマンを連れて観客席から現れたコースに入りそれに応じてティズナウは立ち上がる。

 そして殿下はサキーからマイクを受け取り、マイクを通して息を吸い込む音が聞こえ、デジタルと観客達はシンクロするように固唾を飲んで見守る。

 

「ゴドルフィンとし…」

『あんたの意見など聞いてない!聞きたいのは『はい』か『OK』か『了解しました』か『やります』の言葉だけだ!』

 

 会場が湧き上がると同時に思わず笑い声をあげる。自分から呼んでおきながらて喋るのを邪魔して一方的に意見を押し付ける。その理不尽さが2人のツボに入っていた。

 レースが始まる前はあんな興味なさそうにしていたデジタルだったが、今はティズナウに夢中になっていた。

 

『やろう』

 

 殿下は一瞬表情が歪むが直ぐに柔和な笑みを浮かべて手を差し出す。ティズナウもその手を握り返した。

 

『では勇気ある決断をした殿下とサキーとストリートクライに温かい声援を送ろうじゃないか!ナナナ~ナナナ~ヘイヘイヘイ~グッバ~イ』

 

 その言葉の後にディズナウはあるチャントを口ずさむ。これはアイスホッケーで退場した選手や野球でノックアウトされた選手に向けるチャントとなり、アメリカスポーツ界では一種の煽りとなっていた。

 アメリカ出身のデジタル達も意味を理解し、その徹頭徹尾の煽りに腹を抱えていた。一方会場は1つとなってチャントを口ずさみ殿下たちを見送った。

 

「何勝手にOKしているんだ!お前はいつからゴドルフィンの代表になったんだ!お前が返事をするから殿下も出るはめになって」

「申し訳ありませんでした」

 

 ゴドルフィンの関係者部屋に戻ったサキーとストリートクライが待っていたのは烈火のような叱責だった。

 スーツを着た中年男性の言葉にサキーは頭を深く下げ真摯に謝り、ストリートクライは頭を浅く下げ形式的に謝っていた。

 

「いや、ストリートクライとサキーの判断は正しい。あれで断れば暴動になり命の危機にすら晒されていたかもしれない」

「殿下」

 

 殿下の言葉にスーツの男は勢いよく頭を下げ横に移動した。

 

「こうなっては出ないデメリットのほうが遥かに大きい。あの空気と場を作り私達を引きずり込んだティズナウの手腕を褒めるべきか、実はああいったショーは嫌いじゃない」

 

 殿下はクスクスと笑みを浮かべる、だがすぐに真顔になり厳しい眼光を見せる。

 

「丁度良い機会と捉えよう。このレースに勝てば日本進出とアメリカ進出も容易になる。ゴドルフィンのワンツーフィニッシュだ。頼んだぞ、サキー、ストリートクライ」

 

 サキー達は殿下の発する威圧感に身を震わせる。これは激励ではなく脅迫だ。ワンツーフィニッシュしか認めないと暗に言っている。一方殿下はアメリカと日本進出のプランを脳内で練っていた

 ある分野を手に入れるにはどうすればいいか?それはその分野のアイコンを潰すことだ。アイコンは光であり、それが無くなればその分野は衰退し、その隙に入り込むこみ自らで盛り上げる。

 ティズナウはまさにアメリカのアイコンだ。それを日本というお互いアウェーという言い訳が出来ない場所で叩きのめせば、ファン達は離れていく。

 挑発しなければアメリカの英雄として余生を送れ、どこで走ってもゴドルフィンに勝てたという幻想で身を守れただろう。

 だが弓を引いたからには容赦しない。去年のBCクラシックは圧倒的なアドバンテージを利用したに過ぎない。2度目はない。日本で徹底的に打ちのめしアメリカの英雄は地に堕ちてもらう。

 日本も同じだ。ダートの強豪が圧倒的有利な場所で負ければファンは失望する。

 そして次はドリームシリーズというレースにゴドルフィンを出られるようにし、そこで勝利する。日本では芝のドリームトロフィーがアイコンであり、尊厳を砕く。こうなれば日本進出は容易い。

 

 後日ゴドルフィンから改めてサキーとストリートクライを出走させると発表され、レースが行われることが正式に決まった。

 

 参加者は6人

 

 アグネスデジタル

 ヒガシノコウテイ

 セイシンフブキ

 サキー

 ストリートクライ

 ティズナウ

 

 大井レース場ダート左周り2000メートル。参加費2億円に変更され、1着賞金12億円、2着以下は0円のウイナーテイクオール方式。

 

 レース名はダートプライド。

 

 これが伝説の一戦と呼ばれるレースの始まりである

 

 




登場人物にティズナウの項目を追加しました


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勇者と隠しダンジョン♯3

 ティズナウはソファーに座ると深く息を吐く。周囲にはトロフィーや優勝レイや優勝記念写真が飾られている。ショーケースの前には展示物の説明パネルが掲示され宛ら博物館のようだ。

 これらのトロフィーは全てティズナウが走ったレースに関連するもので、自らが作った展示室である。

 他にもレースで使ったシューズやレースで使用した勝負服、さらに全てのレースに関する記事もファイリングされ、ここに訪れればティズナウの大半が知ることが出来るといっても過言ではない。

 暫くすると徐に立ち上がりある展示物が飾られているショーケースに近づく、それはBCクラシックのトロフィーと優勝レイだった。

 アメリカの誇りであるBCクラシック、一昨年はジャイアンツコーズウェイから、去年はガリレオとサキーの外敵から守り抜いた証だ。

 これらを見ていると自分が成し遂げた勝利に誇りを抱くと同時に、不思議と身が引き締まり力が湧いてくる。

 

 ティズナウはアメリカレース協会に所属していることに絶対的な誇りと自信を抱いていた。アメリカこそ世界で1番優れているというのが持論だった。

 レース業界においてアメリカと欧州が双璧とされている。正確に言えば欧州はイギリス、フランス、アイルランド、ドイツ、イタリアの5か国を含んだ総称である。何故1つの国で比較しないのか?それは単純に1つの国ではアメリカに太刀打ちできないからである。

 アメリカでのレース数とそれを走るウマ娘の数と、5か国でレースを走るウマ娘の数でほぼ互角である。

 競技人口多さがその競技における底辺の高さになり、層の厚さとなり強さになる。現に欧州のビッグレースと呼ばれているキングジョージや凱旋門賞には何人ものアメリカで育ち欧州の各国でトレーニングしたウマ娘が勝利している。

 これはアメリカが築き上げてきた文化や環境が勝利したウマ娘を育てた証明である。

 一方BCクラシックは大半がアメリカで生まれアメリカでトレーニングをしたウマ娘が勝利している。

 例外はアイルランドで生まれアメリカでトレーニングを積んだブラックタイアフィアー、アメリカで生まれフランスでトレーニングを積んだアルカングのみである。これだけでもアメリカのウマ娘とアメリカレース界が優れていることが分かるはずだ。

 歴史としてウマ娘のレースを最初に行った国はイギリスと言われ、アメリカはそれを真似したにすぎない。だが徐々に独自の文化を形成し発展させていき、今では唯一無二の文化と世界最強の座を勝ち取った。

 世界最大のレース大国であるアメリカだが、それを脅かす存在が現れた。それがゴドルフィンだ。

 そしてゴドルフィンが気に入らなかった。

 

 ゴドルフィンの本拠地であるUAEの歴史は短く、レースを始めたのも近年になってからである。

 だが今では世界のレース業界において重要な位置を占め、ドバイワールドカップなどのビッグレースは世界レースランキングの上位に格付けされ、アメリカの主要レースより上に位置づけされているものも多い。

 レースの格とは紡がれた歴史と先人達が繰り広げてきた名勝負で作り上げられるものである。だが世間はそう思っていなかった。

 ゴドルフィンはレースに高額賞金をつけることで有力ウマ娘を集めレースレーティングを上げていく。そうやって自分達の国でやるレースは価値が有ると思わせる。その成金的発想が気に入らなかった。

 さらにゴドルフィンは金にものを言わせて最新鋭の設備があるトレーニング施設を作り上げ、優秀なスタッフを雇い、各国の才能あふれるウマ娘をスカウトする。

 メンバーの大半はアメリカや欧州で育ったウマ娘であり、UAEで育ったウマ娘は居ない。

 アメリカを筆頭に長年紡ぎあげてきた文化と土壌で育ったウマ娘をスカウトし、ゴドルフィンに所属させ、各国で活躍させることで自分達が優れていると思わせると同時にUAEのレース業界の功績と勘違いさせる。

 ティズナウは上澄みだけ掬って搾取するゴドルフィンのやり方を憎悪していた。

 元々UAEという国に対して良い感情を持っていないのも加わり、ゴドルフィンは不倶戴天の敵となっていた。

 そしてゴドルフィンはキングジョージや凱旋門賞など欧州のビッグタイトルを次々と制覇していく。各国で最も権威が有るレースを制覇する。それは最早文化侵略だ。

 欧州を堕としたゴドルフィンはアメリカにやってきた。目的はアメリカの至宝であるBCクラシックの奪取、BCクラシックはアメリカレース界の象徴であり、これを取られたらアメリカは失意のどん底に落ちる。

 ティズナウは死力を尽くしてBCクラシックのタイトルを守り抜いた。欧州はゴドルフィンの文化侵略から誇りを守れなかった。だがアメリカは勝った。この勝利でアメリカの強さを証明した。

 だがゴドルフィンの脅威は続いていた。今年のBCクラシックにサキーが参戦を表明し、ティズナウは名誉の負傷によりBCクラシックの出走が危ぶまれていた。

 さらに今年はBCマラソンが新設され、そのBCマラソンをメインレースにしたほうがいいという論争が沸き起こった。

 

 ブリーダーズカップのメインレースはBCクラシックである。ティズナウにとってそれは絶対不変の現実であった。だが世論はそうではなかった。

 理由としてはBCマラソンに有力ウマ娘が集まり、BCクラシックよりレースレーティングが上だからである。

 高額賞金でレーティングを上げる。そのやり方はまさにゴドルフィンのやり方だ。

 BCクラシックではなく、BCマラソンをメインレースに昇格させゴドルフィンのウマ娘に勝たせる。BCクラシックに勝てなくてもブリーダーズカップのメインレースに勝たれれば、アメリカレース界の敗北で有りそのショックは計り知れない。

 ティズナウはゴドルフィンの仕業と断定し、メインレースはBCクラシックであるべきとメディアを通じて主張した。

 だが予想以上にレーティングを重視する声が大きかった。せめてゴドルフィンが関与していることが発覚すれば流れが変わるかと思ったが、証拠はつかめず結局メインレースはBCマラソンに決定した。

 

 BCクラシックとメインレースのBCマラソンをゴドルフィンが勝利する。それはティズナウにとってまさに悪夢であり、想像した瞬間全身に寒気が走る。

 アメリカの底力を信じつつも最悪の事態を想定しつつ善後策を考えながら、ブリーダーズカップまでの日を過ごした

 

 そしてレース当日を迎えた。BCクラシックは幸運にもサキーが出走を辞退し、ヴァルポニが欧州の強豪ホークウイングを6バ身半の大差で打ち破りアメリカの至宝を守ってくれた。だがBCマラソンはアメリカのウマ娘達は力を尽くしたがストリートクライに屈した。

 会場から落胆や怒りの感情が渦巻く、ティズナウはその空気を敏感に感じ取り即座に動いた。

 マイクパフォーマンスでストリートクライを挑発し、BCマラソンの勝ち鞍と優勝レイとトロフィーを賭けた勝負を申し出た。

 これに勝つことでストリートクライは公式の場でBCマラソンに勝利したと言えなくなる。そうなれば人々の記憶から薄れ無くなる。

 詭弁を弄しているのは分かっているが、メインレースに勝利されたという記録は消せない以上、記憶から消すという苦肉の策の以外アメリカの誇りを守る方法はなかった。

 会場も味方してくれたこともあり、ストリートクライはあっさり申し出に応じた。そしてサキーと殿下を挑発し、ダートプライドに参戦させた。

 ダートプライドについてはネット上で偶然知った。日本のウマ娘がゴドルフィンを煽り出走させようとしている。

 中々面白いことをしていると見ていたが、ふとアイディアが閃き、サキーとストリートクライをダートプライド参戦に誘導した。

 そしてティズナウもダートプライドに参戦するいくつかの理由があった。

 

 第1の理由としてティズナウはサキーが嫌いだった。アメリカ出身でありながらゴドルフィンに所属し、他国のビッグレースに勝利し象徴を堕としていく。そして厚顔無恥にBCクラシックまで堕とそうとした。その行為は同郷のウマ娘として絶対に許せなかった。

 まず4大レースに勝ってレース界のアイコンになるという発言が気に入らない。

 ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、BCクラシック。ダートの最高峰のドバイワールドカップとBCクラシック、芝の最高峰のキングジョージと凱旋門賞であるこの4レースが一般的にそう言われている。

 だがティズナウの考えは違った。アメリカのメインストリームであるBCクラシックこそ世界最高のレースで有り、アメリカより弱い欧州でおこなわれるレースと同列に扱われるのが気に食わなかった。

 さらに金で権威を買ったようなレースと同列に扱われるのも気に食わなかった。

 サキーの夢を成就させないように徹底的に邪魔をする。いくら他のレースで勝ってもBCクラシックに勝てず、ティズナウにも勝てなかったと未来永劫言わせ続ける。

 本来ならドバイワールドカップに参戦して完膚なきまでに叩きのめしたいのだが、世界最高のアメリカではなくドバイという舞台で走ることはプライドが許さなかった。

 さらに言えば日本で走る事も嫌なのだが、日本も弱いながら少しずつ文化を築き強くなろうとしている。

 さらに日本出身のウマ娘で世界に打って出ている。自国出身のウマ娘が居ないで強豪国面をしているUAEよりマシであり、自身のプライドよりサキーを負かすことを優先した。

 

 次にアグネスデジタルの存在である。先人たちは欧州に移籍してビッグタイトルを制覇しアメリカの力を証明した。それは有意義なことであったが同時に先人達を軽蔑していた。

 アメリカこそ最強であり、アメリカのメインストリームであるダートこそ最高のレースであり、それ以外は劣る。それが持論だった。

 アメリカのダートで走り続けたウマ娘には敬意を持ち、世界最高の舞台に挑み続けた挑戦心は賞賛されるべきであると考えていた。

 そしてアメリカの芝や欧州に行ったアメリカのウマ娘は自国の恥さらしであり、勝負から逃げた腰抜けである。それはいくらGIを勝とうがその勝利は無価値であり、ダートで1回も勝てなかった者以下である。

 ウマ娘には適性が有り、それぞれが活躍できる場を求めてそれぞれの舞台で走っている。それは決して間違ったことではないが、ティズナウにとっては唾棄すべき行為であった。

 

 アメリカダート至上主義、これがティズナウというウマ娘の本質である。

 

 そしてデジタルはアメリカから逃げた落伍者であり、それがサキーと同様にBCクラシックを走ることは万死に値する行為だった。

 サキーを叩きのめすついでにアグネスデジタルも叩きのめす。アメリカに残った者と逃げた者の差を骨の髄まで叩き込み、逃げたことを一生後悔させる。

 そして悔い改めさせ己の愚行を後世に伝えさせる。それがアメリカのトップの務め、これが第2の理由である。

 

 第3の理由としてはダートプライドの賞金額である。1着賞金12億円は世界最高額である。

 そしてドバイワールドカップと同じように金に引き寄せられて有力ウマ娘が集まり、レーティングが上がる可能性が有る。そして勝者が世界最強と称えられる可能性が有る。

 そのような勘違いをさせないために、サキーとデジタルを叩きのめすついでにレースに勝っておく。これらの理由がダートプライドに参戦した理由である。

 ストリートクライの勝ち鞍とトロフィーと優勝レイを奪い、サキーとデジタルを叩きのめし、高額賞金に釣られた有象無象を叩きのめす。一石四鳥だ。

 

 ティズナウは静かに笑った。

 

───

 

「どうぞ」

「どうも」

 

 セイシンフブキは目の前に置かれたカップに視線を向ける。カップに注がれた琥珀色の液体からほのかに湯気が立っている。何かは分からないが紅茶の類だろう。コーヒーよりはマシだが苦手だ。だが手を付けないのは心証を悪くする。

 対面にいるヒガシノコウテイに軽く会釈した後に顔に出さないように少しだけ飲む。そして部屋を一瞥する。

 中央なら上等な机にソファーみたいな椅子に座れるだろうが、貸し会議室にあるような机と椅子で壁紙から年季の古さが見て取れる。

 船橋も大した応接室を持っていないが、岩手はもっと質素だ。これだけで財政の芳しさが伺える。

 

「お越しくださって恐縮ですが、例の話はお断りさせていただきます。それ以外の要件なら誠意を持って対応させていただきます」

 

 ヒガシノコウテイは柔和な表情を浮かべながら喋りかける。セイシンフブキはその顔を見ながらカップに入っている紅茶を一気に飲み干し、カップを荒々しく机に置くとタンという小気味よい味音が応接間に響いた。

 

「アタシもはいそうですかと船橋に帰るわけにはいかなくてね。アンタが首を縦に振るまで居るつもりだ」

 

 セイシンフブキはダートプライドの開催が正式に開催されると報せを受けると、ヒガシノコウテイと連絡を取った。

 

 ダートプライドにはヒガシノコウテイとアグネスデジタルだけではなく、サキー、ティズナウ、ストリートクライが参戦する。

 外国勢3人は間違いなく世界ダート5指に入る実力者であり、このレースは海外でダート世界最強決定戦とも言われている。

 そんな大物が日本のしかもグレードもないレースに参戦することは奇跡と言っていいだろう。

 まさに千載一遇の好機だ。ダートプライドに勝利すればダート世界最強の座を勝ち取れ、日本におけるダートの注目度を上げる起爆剤になる。

 これは絶対に勝たなければいけない一世一代の勝負だ。そのためにはやれることは全てやる。

 

 前走の南部杯は正しいダートの走り方をしながらも負け、絶対的な力ではないと思い知った。敗因はヒガシノコウテイとの心技体の総合力の差だ。

 技はヒガシノコウテイも正しいダートの走り方を実施していたが、練度はセイシンフブキの方が上だった。

 心は地方の為にと走っているが、こちらもダートの為に走っており想いの強さは負けていない。

 ならば体、フィジカルの部分で劣っていたということになる。確かに技に重点を置いていて体はおざなりだった。

 ヒガシノコウテイはゴドルフィンの門を叩きフィジカルを鍛え上げ、そのノウハウを岩手のウマ娘達に教えていると聞いている。ならばそのノウハウを教えてもらいフィジカルを鍛え上げる。

 早速ノウハウを教えてくれと交渉したが拒否され、業を煮やして直接岩手に訪れていた。

 

「アンタがゴドルフィンで教わったトレーニングのノウハウを教える。アタシはダートの正しい走り方を教える。アンタなら言葉の意味が分かるだろう?ギブアンドテイクだ。決して悪い話ではないだろ?地方ウマ娘同士仲良くしようぜ」

 

 セイシンフブキは自分が考えうる限りの優し気な声で語り掛ける。ただで教えてくれないなら。交換条件でノウハウをもらう。

 アブクマポーロとアジュディミツオーと作り上げたダートの正しい走り方、これは門外不出の技術だ。

 誰にも伝授したくないが勝つためには必要な犠牲、2人も理解してくれるだろう。

 一方ヒガシノコウテイは紅茶を飲みながらセイシンフブキの言葉の意味を考える。

 前走でのセイシンフブキの走りは朧げながら理想に描いていた走りだ。それが正しいダートの走り方だろう。もしその走りが出来るならばさらに強くなれる。

 

「魅力的な提案ですが、お断りさせていただきます。南部杯での走りは素晴らしいものでした。その技術はセイシンフブキさんの手を借りず、自力で習得してみせます」

「無理だね。これはダートに全てを捧げた者だけがたどり着ける境地だ。地方の為とか言って邪念を持っている奴が1人ではたどり着けない」

 

 思わず挑発的に言い放ち、ヒガシノコウテイも反応するように鋭い目つきを見せる。

 

「悪い、言葉が過ぎた」

 

 頭を軽く下げて謝罪する。勝つためにここに来たのだ、熱くなって相手の気分を損ねても何も意味がない。個人的な感情を一旦仕舞いこむ。

 

「とりあえず提案に応じないのは分かった。せめて理由だけでも聞かせてくれないか?でないと納得して帰れない」

 

 落ち着いた口調で問いかける。言葉では諦めた素振りを見せているが、そんな気は無く理由を聞きだしそこから切り崩そうと考えていた。

 

「提案を受け入れないのは私が『私達の』ヒガシノコウテイだからです」

 

 ヒガシノコウテイはぽつりと呟く。一方セイシンフブキは言葉の意味が理解できずぽかんと口を開けていた。それに構わず言葉を続ける。

 

「地元で生まれ育ち、他所からの力を借りず、地元の皆の為にと力を振り絞り声援や想いを力に変えることができる限りなく純度が高い存在、それが『私達の』ウマ娘です。セイシンフブキさんには理解出来ないと思いますが」

 

 ヒガシノコウテイは最後の言葉を強調する。地方の為にという想いを邪念と言って挑発した意趣返しである。

 

「私はその力を信じきれずゴドルフィンの力を貸りてしまいました。でも南部杯で改めて皆の走りを見て、その力の凄さを実感し、そうなりたいと願いました。そして岩手の皆はこんな私でも認めてくれました。だからもう裏切れません」

「つまり、岩手の人間ではないアタシの力は借りれば裏切りになりになると」

「そういうことです」

 

 穏やかな口調と声色で言うが、その言葉にはこれ以上の会話は余地がないという意志が込められていた。

 裏切れない、純度が低くなる。まるで宗教だなと胸中で一笑する。まるで理解できない理屈だが、その理解不能な理屈が自分を破った要因の1つでもある。

 それを認めなければならず、ヒガシノコウテイが重要視しているのも分かった。

 

「アンタはダートプライドに勝ちたいか?」

「はい、世界中から注目されるレースに勝てば地方の、岩手の力を知らしめることができます。皆を誇らしい気分にさせたいです」

「だったら猶更アタシの技術が必要だろう?サキーはドバイでアグネスデジタルに完勝と言っていい内容で勝った。そしてティズナウとストリートクライも同等と考えてもいい」

「私はアグネスデジタルさんにそれ以上の着差をつけました」

「そうだな。でもブーイングが効いたか知らないが本調子でなかった。アンタなら何となく分かるだろう?」

 

 ヒガシノコウテイは沈黙する。レースの時は感じなかったが改めて振り返ると、デジタルは僅かに本調子ではなかったという疑念が芽生えていた。そしてドバイワールドカップでは全ての力を出していたように見えた。

 着差はレース展開によって大きく変わり、そこまで絶対視するものではない。

 だが自分は南部杯では全ての力を出せていた。一方サキーにはまだ底が有ったように見えた。内容が違う。

 ホームで『私達の』ヒガシノコウテイとして走っても勝てるという保証は全く無かった。  

 勝つためにはセイシンフブキの力が必要だろう。だがそれでは『私達の』ウマ娘としての純度が鈍る。

 信じるんだ。岩手の皆が見せた走りを、声援を力に変えたあの感覚を。邪念を振り払うように南部杯の時の記憶をプレイバックさせていた。

 

「アタシはアブクマポーロへの個人的な憎しみを抱いていた」

 

 セイシンフブキが突如語り始める。ヒガシノコウテイはプレイバックを中断し思わず言葉に耳を傾ける。その様子を確認すると言葉を続けた。

 

「そのせいで本来の力を発揮できていなかった。でも憎しみや確執というこだわりを捨てた。だから正しいダートの走り方を習得できたし、南部杯であそこまで迫れた。アンタもそうだ。勝つためにこだわりを捨ててゴドルフィンに行った。南部杯ではその『私達の』ウマ娘の力で勝ったと言ったが、ゴドルフィンで鍛えたフィジカルに上乗せしたから勝てた。その行動は無駄じゃなかった」

「違います!」

 

 声を荒げて否定する。その言葉と口調は今までの大人びたものとは違い、幼さのようなものを帯びていた。

 

「本音を言うよ。正直地方や中央とかはどうでもいい、このレースに勝つべきなのはダートプロフェッショナルであるべきだ。それがアタシとアンタだ。アンタはアタシが認める数少ないダートプロフェッショナルだ」

 

 セイシンフブキにとってこの言葉は最大級の誉め言葉だった。

 思想は相容れないが南部杯である程度正しいダートの走り方ができていた。それはダートに情熱を捧げるプロフェッショナルでなければできない。

 この走りをある程度できるものは少ない。メイセイオペラやアブクマポーロ、そして現役で出来ているのはヒガシノコウテイだけであり、少なからず敬意を抱いていた。

 

「日本のダートは特殊だよ。アメリカやドバイでは使われず、欧州では存在すらしない。勝ったって世界的には何の価値もないガラパゴスレースの小さな争いだ。でもそんな小さなものにアブクマ姐さんやアタシは全てを懸けてきた。そしてこれからダートに全てを捧げようとしている奴も居る。これで専門外のサキーや海外勢に負けたらアタシ達のダートがちっぽけで下らないものだってバカにされる!姐さんやミツオーが愛したものがバカにされるんだ!そんなことはさせない!だからアンタとアタシで1着と2着をとってダートの誇りと尊厳を守るんだ!だから力を貸してくれ!」

 

 セイシンフブキは椅子から立ち上がると床に正座し手と額をつけた。ヒガシノコウテイはその動作に思わず立ち上がった。

 土下座をしたのは人生で初めてだった。腹の内から屈辱感と溢れだし体中を掻きむしる。以前の自分ならやらなかっただろう。

 だがアブクマポーロと確執から和解を経てこだわりを捨てることで得られる強さを知った。だから耐えられる。土下座1つで勝てるなら何度でもやってやる。

 一方ヒガシノコウテイは手を伸ばしたりひっこめたりしながら困惑していた。人生において土下座をされるのは初めてだ。

 困惑しながら思考を展開する。相手はは自分の事を嫌っているのは分かっている。その相手に見栄を捨て土下座をしてまで頼み込むとは余程の覚悟だろう。同じような立場だったら自分は出来るだろうか?

 

「顔をあげてください」

 

 セイシンフブキはゆっくりと顔を上げる。その視界には何か覚悟を決めたような表情を浮かべるヒガシノコウテイの姿があった。

 

「私はセイシンフブキさんの熱意に感動してトレーニング方法を教えます。一方セイシンフブキさんもお礼とばかりに技術を教えようとします。私は断ろうと思いましたが、厚意を無下にするのは失礼に値すると判断し、その技術を伝授してもらいます」

 

 独り言のように一方的に喋り始め、セイシンフブキは状況を理解できず黙って見つめる。だが言葉を聞き理解するとニヤリとした笑みを浮かべながら立ち上がり手を差し伸ばす。

 ヒガシノコウテイは考える。自分はどうしたいのか?メイセイオペラのように岩手の皆を笑顔にし、希望を与える『私達の』ウマ娘になりたいのか?

 確かにメイセイオペラはそんなウマ娘だった。だがその姿は岩手だけではなく地方のファンにとっても『私達の』ウマ娘であって多くの希望を与えたはずだ。

 地方は差があれど岩手と同じように貧しい環境で創意工夫を凝らし懸命に頑張っている。

 そんな地方を守りたいと思っていた。だがゴドルフィンに行ったことへの罪悪感が考えを過激化させて、岩手以外の力を借りること拒絶してしまっていた。

 

 地方のウマ娘は謂わば同志のようなものだ。そして同志が力を貸してくれと頭を下げた。それを見捨てるのは『私達の』ウマ娘ではない。

 船橋からの技術を岩手に取り入れる。それは岩手にとっての『私達の』ウマ娘であれば純性が失わる行為だ。 

 だが地方にとっての『私達の』ウマ娘であれば問題ない。そしてセイシンフブキがこだわりを捨てる覚悟と強さを見せてくれた。その意志は尊敬に値する。

 ヒガシノコウテイはセイシンフブキを好きでは無かった。

 地方に居ながら地方への帰属意識も誇りも持たず。荒々しい言動で地方の品性を落としていく。似たような境遇ながら別の思想を持つ。似ているようで別人、それがセイシンフブキに抱く印象だった。

 だがダートを愛する気持ちは本物だ。それは自分が地方を愛する気持ちと変わらないだろう。案外似た者同士かもしれない。

 

「そうだ、失礼はいけないよな。アタシから厚意を存分に受け取ってくれよ」

 

 ヒガシノコウテイはその手をしっかりと握った。

 

───

 

「あと3セット!ダウンするにはまだ早いぞ」

 

 室内練習場に男性トレーナーの声にサキーとストリートクライは苦悶の声をあげながら立ち上がりプログラムをこなす。

 2人の辺りには大量の水分が飛び散っている。これは汗である。これだけでトレーニングの過酷さが読み取れるだろう。

 ダートプライドの開催が正式に決定してからサキーとストリートクライはゴドルフィンの本拠地があるドバイに向かった。そこで待っていたのは過酷なトレーニングの日々だった。

 ゴドルフィンが誇る世界最高峰の設備とスタッフによって行われるトレーニング、個人ごとの限界を厳密に見極め、壊れない1歩手前まで追い込む。

 凱旋門賞やドバイワールドカップ前のトレーニングより厳しく、アスリートにとっては地獄の責め苦と言っていい内容で、並のウマ娘、いやGIを勝った1流と呼ばれるウマ娘でも逃げだすような苛烈さだった。

 だが2人に逃げるという選択肢はなかった。ダートプライドに勝つことはゴドルフィン最高責任者の殿下からの勅命だった。

 ティズナウにコケにされたことに激怒しているのか、ゴドルフィンにおける最大プロジェクトとして2人のトレーニングが行われている。

 他のウマ娘に向けなければならない人材リソースを大幅に割いている。他のウマ娘達は抗議したが殿下の有無を言わさない説得で黙らせていた。

 

「よしサキーはこっちに来い。ストリートクライはあっちだ」

 

 メニューを終わらせた2人は覚束ない足取りで指示された方向に向かう。まだ地獄は終わらない。

 

 

「サキー選手、今日はありがとうございました」

「はい、今後もよろしくお願いします」

 

 サキーは記者たちが部屋から出た瞬間体を弛緩させ背もたれに背を預けた。

 トレーニングのせいで体中が悲鳴をあげている。笑顔という仮面で懸命に隠したつもりだが勘づかれたり、変な写真を撮られていないだろうか。思考は体の痛みから取材の出来について移っていた。

 ゴドルフィンは情報流出を懸念してサキーやストリートクライへの取材を拒否するつもりだった。だがそれに待ったをかけたのがサキーだった。結局厳重な検閲を行うという条件の元で取材は許可された。

 取材を通して情報を発信する。それはファン達を楽しませ、それ以外の人間に興味を持たせる切っ掛けになる。それを欠かす事はあってはならないというのが考えだった。

 地獄とも呼べるトレーニングの合間を縫って広報活動、本人も苦しいはずだが本音を隠し精力的に行う。全ては1人でもレースについて知ってもらい、世界中のウマ娘とその関係者を幸せにするために。

 辛い、疲れた、楽をしたいなどの弱音を全く見せず活動する姿は常軌を逸しているともいえる。だが理想の為にと自分を犠牲にできる献身性とバイタリティーを持ち合わせていた。

 

 賞金総額12億円のウイナーテイクオール方式、さらにBCクラシックでのティズナウのマイクパフォーマンス、こららの要素は世間の関心を惹き、レースまで数カ月はあるが業界内外の様々な場所で話題に上がり、世界全体の注目度でいえば凱旋門賞やBCクラシックやドバイワールドカップを凌いでいる。

 やはりこういったエンターテイメント性に富み刺激的なものは注目を浴びやすい。

 凱旋門賞とBCクラシックに出走できず、グランドスラムを達成できず伝説のウマ娘となり業界のアイコンになる道が絶たれた。だが神は道を示してくれた。

 このレース形式と発足経緯、そしてこの出走メンバー、レース内容次第で永遠に語り継がれる伝説のレースになる予感がある。

 本来なら自分がやらなければならないのだが発想がなかった。レースを企画したアグネスデジタル、殿下を煽って参戦させてくれたティズナウには感謝しなければならない。

 そして場所に日本の大井という場所もいい。デジタルから日本の地方所属のウマ娘の境遇は聞いている。世界中から注目されるレースが行われれば地方に注目の目が集まるだろう。

 だがこのレースに対する日本における関心度が低いらしい。聞いた情報によると中央と呼ばれる別の組織が絶大な人気を持ち、中央で行われるレースに日本国民の興味が向かれているそうだ。

 暫くすれば日本の外厩に移動する。その時にメディアに露出してレースをアピールして少しでも関心を向けるようにしよう。

 心苦しいがこのレースは勝たせてもらう。願わくば全力を尽くし、引き離されることなく出来る限り追い詰めて地方の力を知らしめて欲しい。

 サキーは地方勢を見下し憐れんでいるわけではない。純粋にそれが多くのウマ娘と関係者が幸せになる結果であると信じ願っているだけである。

 

 

 ストリートクライの顔がタオルに沈み込み、マッサージ師が体を押すごとにリラックスし弛緩した体が上下する。

 暫くしてうつぶせの状態から顔を上げる。一般的にいえば無表情だが、見る者が見れば緩んでいるのが分かるだろう。

 それはタブレットの画面に映る映像によるものだった。画面には子ネコとウマ娘のあかちゃんが仲睦まじくじゃれ合っている映像が映っていた。

 

「癒されるよな~」

 

 ストリートクライは親友であるキャサリロの言葉にうなずき、それを見てキャサリロは天然パーマが入った僅かに緑色が入った黒髪をクシャクシャと撫でながら破顔する。

 

「大丈夫録画しておいたぞ、ついでにツイッターの情報見られないようにしてネタバレ対策ばっちりだ」

「どうだろうな。私はフィンが勝つと思うな」

「あと第3試合が気になるな。あの2人は手が合うと思うんだけどな」

 

 マッサージ師は訝しむ。一方的にキャサリロが喋り、まるで独り言だ。

 だがストリートクライとのコミュニケーションが成り立っている。まるでテレパシーで会話しているようだ。   

 キャサリロは画面が見えるようにタブレットを眼前に掲げていた。

 

「ありがとうございました。よし行くぞクライ、ああ、あれは買ってるよ。それ食べながら見るか」

 

 キャサリロが声を出して、ストリートクライは頭だけ下げて礼を述べるとマッサージ室を出ていく。今の会話もストリートクライは全く喋っていなかった。

 

「いや~ラストに向けての攻防は凄かったな、でもあれはヤバかったな。死んだかと思った」

 

 キャサリロは興奮冷めやらぬといった具合に語り掛ける。ストリートクライはコクコクと首を頷き、それを見てされに興奮気味で喋る。

 部屋に帰った後ストリートクライとキャサリロは試合を見た。

 観戦中はキャサリロが騒がしく。うお~すげ~人間じゃねえ~と声にあげながら見ていた。試合も良かったがキャサリロの様子もオモシロく、満足感に満ちていた。

 

 ストリートクライはドバイワールドカップの後正式にキャサリロを自身のスタッフとして雇った。

 専門的な技術を持っていないキャサリロを雇うのをゴドルフィンのスタッフは難色を示したが、自分で給与を払い意見を吞まなければゴドルフィンを辞めると、半ば脅迫のように要求した。

 結果意見は通り、晴れてスタッフになったキャサリロは常にストリートクライと一緒に居た。

 

「何だよそんなに見つめるなよ」

 

 キャサリロはじっと見つめる視線に耐えきれないのか下を向く。それに構わず見つめる。

 ストリートクライはドバイでの敗北以降負けなしだった。本人は否定するが間違いなくキャサリロのおかげであると思っていた。

 口下手な自分の代わりに意志や細かいニュアンスを汲み取りトレーナーやスタッフに伝えてくれる。一緒にいて何気ない会話で日々のストレスや疲労が癒される。

 世間はキャサリロは居るだけで賞金を得ている寄生虫と陰口をいう者も居る。確かにトレーナーのように技術を教えられない。心技体の技と体では役に立っていない。だがそれを補って余りあるものがある。

 それは心だ。今はキャサリロの為に走っている。負ければ責任が追及され、ゴドルフィンに居づらくなるだろう。

 そんな目を親友に逢わせるわけにはいかない。勝ち続けてキャサリロのおかげで勝てたと言い続ける。そして一緒に成り上がり世界一になる。これは自分の夢ではなくキティと2人の夢だ。その想いだけでいくらでも力が湧いてくる。

 サキーは全てのウマ娘と関係者の幸せの為に走っている。大層な理想だ。だがその全てに自分とキャサリロを入れないでくれ。手を借りずとも勝ち続けてキャサリロと自分は幸せになる。

 サキーの理想に伴う行動の数々は正直常軌を逸している。自分では到底できない。これも理想を実現しようという想いの力だろう。

 だが自分もキャサリロと成り上がり幸せにするという気持ちは負けていない。

 想いの量は同じだとしたら優劣を分けるなら深さだ。不特定多数に向けるのと1人に向けるのでは深さが違う。それを証明する為に絶対に勝たなけければならない。

 

「なあクライ、相談が有るんだけど」

 

 キャサリロは目線をストリートクライに戻し話しかける。雰囲気から真面目な話になるのを察し、いつもよりシリアスな表情で頷く。それを了承の合図として続けた。

 

「1ヶ月かな、いや期間はわからないけど、ちょっとここを離れる」

「どこに行くの…?」

「日本とアメリカかな」

「いやだ…ダメ…行かないでキティ…」

 

 ストリートクライはキャサリロの二の腕を即座に掴み弱弱しい目で懇願するように見つめる。

 以前行き違いによって喧嘩別れのように袂を分かったことがあった。今では一緒に過ごせているが、その件があってもう2度と帰ってこないという恐怖を常に抱き、病的に恐れていた。

 

「何で行くの…?」

「偵察だ。必ずクライの役に立つ情報を手に入れてくる」

「周りの言う事を気にしてるの…?そんなことしなくても大丈夫…私は勝つから…信じて…キティがいれば私達は最強だから…」

 

 振り絞るように言葉を紡ぎ、握る手が強くなる。キャサリロの脳内では幼い頃と同じように止めようとした状況が浮かび上がっていた。

 

「クライが私のために頑張ってくれるのは知っている。私の勝ちはキティの勝ちと言ってくれて本当に嬉しい。でもこのままクライが世界一になっても喜べないんだよ。何かしら形に残る結果でクライの役に立ちたい」

 

 キャサリロは諭すように優し気な声で語り掛ける。親友であり、必要としてくれることは分かっている。

 だがストリートクライが勝つたびに心のしこりが大きくなっていった。

これでは一生負い目を感じて生きていかなければならない。そして負い目に耐えきれずまた離れてしまう。そうならない為に風下ではなく、隣に居なければならない。

 キャサリロの言葉を聞き、ストリートクライの握る力が徐々に弱くなり完全に手を離した。

 苦しんでいるなら助けるのが親友だ、それが黙って見送ることなら、しなければならない。キャサリロが居ない無味乾燥な日々が戻ってくる。その恐怖に体が竦むが強引に抑え込む。

 

「分かった…絶対に役に立って…でないとクビにするから…」

「それはコワイ、これは何としてでも役に立たないとな」

 

 キャサリロはストリートクライの精一杯の虚勢に応じるように軽口で応えた。

 



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勇者と隠しダンジョン#4

誤字脱字を指摘してくださった方々ありがとうございます


 スペシャルウィークが踏みしめ蹴り上げるごとにウッドチップが舞っていく。

 その勢いは同じコースでトレーニングをしている他のウマ娘とは違い、下手をすれば木片がジャージの繊維に刺さり、目に当れば怪我を負う。それは御免被りたいと他のウマ娘達は当たらないように距離を取っていく。

 スペシャルウィークは天皇賞秋への出走を取りやめ、年が明けてから行われるWDTに向けて調整をおこなっていた。

 今はチームスピカのメンバーはおらず1人で走っている。他のメンバーは其々のレースに向けてトレーニングに励み、トレーナーはレースが近い者に付いていっている。一見放任に見えるが経験と実績を持つウマ娘であれば、指示が無くとも調整は出来ると信頼しているからこその単走である。

 ゴールまで300メートル、最後は少し追うと決めておりスピードを上げる。

 3バ身ぐらい前に居るピンク髪のウマ娘を抜いてゴールといったところか。だが予想に反して差は縮まらず予定より力を出して走るが、差を1バ身縮めたところでゴール板を通過した。

 余力を残したといえど差を縮ませないとは中々良い走りをするウマ娘だ、その正体が気になり流すスピードを僅かに速め顔を覗き見る。

 

「あっ、デジタルちゃんか」

「スぺちゃんもウッドで走ってたんだ。全然気づかなかった」

 

 アグネスデジタルは視線が合うとパッと表情を明るくさせる。良い走りをするも何も相手がGIウマ娘であれば当然だと納得し、ジョギングをしながら話を続ける。

 

「他のチームメイトやトレーナーさんは?」

「アタシは単走で白ちゃんはレースが近い娘を見てる。まだ時間は有るし1人で走ってろって。スぺちゃんは?」

「私も同じかな」

「アタシはこれで終わりだけど、スぺちゃんはもう1本追うの?」

「私もこれで今日は終わり」

「じゃあ、一緒にクールダウンしない?」

「いいよ」

「ヤッター」

 

 デジタルは嬉しそうに小さくガッツポーズを見せる。2人は軽く流しながら半周走るとコースから外れてクールダウンを開始する。

 デジタルは開脚し身を屈め、スペシャルウィークは背中を押す。

 

「そういえばブリーダーズカップの動画見たよ」

「本当だよ。ディズナウちゃんが煽ってくれなかったらサキーちゃんの出走はなかったよ。正直諦めてたからさ、ティズナウちゃん様々だね」

 

 デジタルの声が1オクターブほど高くなり意気揚々と喋る。ティズナウのBCクラシックのマイクパフォーマンスを見た後、嬉しさのあまりに深夜にもかかわらずチームメイトや友人達に連絡を入れて、その中にスペシャルウィークも居た。

 最初はどういうことか分からなかったが翌日に調べてみると詳細が分かり始め、ネットでもその様子を動画などもあがっていた。

 だが英語で喋っているので何を言っているのか理解できなかったので、友人のエルコンドルパサーやグラスワンダーに動画を見せて翻訳してもらった。それを見てエルコンドルパサーがえらく興奮していたのを覚えている。

 日本ではあり得ないような光景の連続でまるで劇を見ているようで新鮮だった。

 そしてティズナウの1件がサキーの出走の決定的な要因であり、デジタルの願望を叶えてくれたことには感謝している。だが個人的には気に入らなかった。

 怪我をすることでレースに出ていれば勝てたという幻想を植え付け、勝者の名誉を貶めていると言った。

 敬愛するサイレンススズカも同じように持ち上げられた。怪我をして競争中止になった天皇賞秋では完走していれば勝てたとマスコミは報じ、1着のオフサイドトラップも本当の勝者ではないと中傷され傷ついた。そして当人もレースに出ていたウマ娘の名誉を貶めたことに心を痛めた。

 レースを走るならその苦しみを理解し言及しないのが優しさだ。それなのに公然の場で批判したことに怒りを覚えていた。

 

「ディズナウさんの言葉は少し思いやりが足りなかったね」

「サキーちゃんへのマイク?確かにそうだけどティズナウちゃんのおかげでサキーちゃんを引き釣り込めたし、あまり悪い感情は無いんだよね」

 

 スペシャルウィークはデジタルの言葉に思わず手が止まる。ウマ娘が大好きでそのウマ娘が笑えば一緒に笑い、批判されれば腹を立てて発言の撤回を求めるような人物だ。意中のサキーならば怒りを露わにすると思っていただけに予想外の反応だ。

 まるで自分の目的の為に働いてくれたからティズナウへの好感度が上がり、怒りが薄れたようだ。このような感情より実利を優先するような利己的な人物だったか?

 デジタルは訝しむように後ろを向き、それを誤魔化すように笑みを浮かべ背中を押し会話を続ける。

 

「それにしてもダートプライドの賞金12億円って凄いよね。にんじん何本分かな?」

「まあ参加費を引けば10億円だね、きっと部屋いっぱいでスぺちゃんが埋もれちゃうぐらいだよ」

「デジタルちゃんは10億円どう使う?」

「う~ん、そういえば全く考えてなかったな。別にお金なんてどうでもいいんだよね。サキーちゃんとフブキちゃんとコウテイちゃんにリベンジして勝てばそれでいいし」

 

 デジタルはぼそりと呟く。いつもの明るい感じではなくほのかに暗く執念を感じるような声色だった。レースに向けて闘志を燃やしているようで、宝塚記念の時のグラスワンダーのようだった。

 クールダウンが終わると役割を交代し、今度はデジタルがスペシャルウィークの背中を押す。

 

「デジタルちゃんもっと強く押していいよ」

「いや、今思うとスぺちゃんに触れるなんて恐れ多いというか、理性と欲望と葛藤しているというか」

 

 スペシャルウィークは背中を押す力があまりにも弱弱しいので、訝しむように振り返ると何かを葛藤するようにおっかなびっくりしている姿が映る。

 何を悩んでいるか分からないが普通にやっていいと言うと、少しずつ力を入れ始め数分後には普通の力になっていた。

 

「白ちゃんから聞いたよ。天皇賞秋を一緒に走ろうってアタシを誘ってくれたんだって」

 

 最初は緊張していたデジタルだが徐々に緊張が解れ、話しかける余裕が出来ていた。

 

「でも余計な気遣いだったかな」

「そんなことないよ!アタシも少しだけ頭にあったけどさ、凱旋門から3週間ちょっとで体調を戻すのはいくらスぺちゃんでも無理だし、こっちから無茶言う訳にもいかないから除外してたんだよね。まさかスぺちゃんから提案してくれるだなんてね。嬉しくて涙が出ちゃうよ」

「でも体調を戻せなかったから白紙になっちゃった」

「残念、もし戻ってたらBCクラシックは流れたし、急ピッチで仕上げて走ったのに」

 

 デジタルの大きなため息が背後から聞こえてくる。やはりプレアデスのトレーナーが言った通り、走りたい意中のウマ娘の全力全開を感じるというのが優先条件のようで、例え一緒に走れる条件でもコンディションを落としていれば優先順位は下がるようだ。

 それからストレッチを続け、終了後はチームルームまで一緒に行き別れる。スペシャルウィークは手を振りながら別方向に向かう姿を見送りながら思考する。

 今日のデジタルは何か違っていた。どこが違うかと言われると分からないがはっきりと違うのが分かった。きっと何かしら心境の変化が有ったのだろう。

 スペシャルウィークはそれ以上深く考えず、サイレンススズカ達の姿が見えるとデジタルのことは頭から抜けていた。

 

──

 

「もうやるのね」

 

 プレストンは部屋に戻り扉を開けてすぐに思わずため息が漏れる。視界に入ったのはPC前でレース映像を血眼にして見ているデジタルの姿だった。

 レース前には推しウマ娘のレース映像や資料を漁る。それは相手を研究するわけではなく、相手の煌めく姿を網膜に焼き付け、生い立ちやパーソナルなエピソードを知る為である。

 推しウマ娘をより知り好きになることで、トリップ走法に必要なイメージの構築をより強固にするためである。

 デジタルもイヤホンをするなど最低限の配慮をしているが、流れる映像は嫌がおうにも目に飛び込んできて、夢に出るほど刻み込まれていた。

 前回のドバイワールドカップの時は1カ月前から始まったが、今回のダートプライドまで3カ月以上はある。この時は狂気じみたものを感じ薄気味悪さを覚え、正直にいえば居心地が悪い。

 だが友人がレースの為にやっているので邪魔するわけにはいかないと、デジタルの邪魔をしないように出来る限り存在感を消しながら、携帯電話をいじり始めた。

 

 プレストンは何気なくデジタルに視線を向けると相変わらずPCに映る映像を見つめている。1時間ほど経過したが集中力は乱れていない、相変わらずの執着心だ。感心すると同時にある違和感を覚えていた。

 ドバイの時のデジタルからは底なし沼に嵌った時や粘着質な視線を凝縮したような薄気味悪さや不快感があった。だが今は刺々しい息苦しさがある。この違いは何だ?原因を解明しようとデジタルとPCに映る映像を見つめる。

 サキー、ストリートクライ、ティズナウ、セイシンフブキ、ヒガシノコウテイ。改めてレースを見るとこの5人の強さが実感できる。

 南部杯ではブーイングと岩手のウマ娘のアシストが有ったとしてもハイペースで逃げてデジタルの追撃を振り切ったヒガシノコウテイ、砂塵を巻き上げまるで芝のレースのような末脚で突っ込んできたセイシンフブキ。帝王賞の走りが嘘のように強くなっている。これがマグレではなければ相当手ごわい。

 サキーは確かな地力とレースセンスで盤石の強さを見せている。デジタルとのドバイワールドカップでさらに力を付けたのがキングジョージで分かる。

 ストリートクライもサキーと同様の地力を持ち、かつ相手の力を削ぐセンスは世界一といっていいかもしれない。

 例えば流れているレース映像でも2着になったウマ娘がスパートをかける瞬間に体をぶつけている。

 トップレベルのウマ娘の体幹が強さであれば、この程度接触は問題ないはずなのだが何故かバランスを崩し僅かに反応が遅れている。それはゼロコンマ数秒の遅れだが、このレベルだとそれが勝敗を分ける。

 そしてティズナウ、圧倒的な先行力で先頭に立ち比類なき勝負根性で他のウマ娘をねじ伏せていく。

 レースでよく見る普通なら差される状況でも喰らいつき決して抜かせない。それは当事者達には悪夢そのものだろう。

 

「これはデジタルも相当骨が折れるわね」

「プレちゃんだったらどうする?」

 

 プレストンの独り言に反応するようにデジタルが振り向き、身体がビクリと跳ねる。イヤホンをしていたのに聞こえていたのか。

 

「どうするもなにも、ダート走れないし」

「場所は香港で5人とも芝を走れるとして」

 

 プレストンは仮定を加味して考える。他のレース場なら香港でなら勝機は有る。むしろ世界一だろうが負けられない。シャテンのコースレイアウトを思い出し思考する。

 

「ティズナウ先頭で後ろにサキー、ヒガシノコウテイ、ストリートクライ、少し離れてアタシで、後ろか同じぐらいの位置でセイシンフブキでしょ。とりあえずストリートクライの近くは邪魔されたくないから避ける。そして3コーナーちょっと手前で仕掛ける。多少膨らむかもしれないけどサキーやティズナウから離れられて勝負根性をすかせるしね。それで並ぶ間も与えず差し切る。ゴール手前でチョイ差しが理想かな」

 

 多少都合の良い願望が入っているのを自覚しながら勝ち筋を導き出す。

 これが考えうるなかで一番の理想的展開である。相手の動き次第で展開は大きく変わるが、ストリートクライの近くにいかない、ティズナウとは根性勝負をしないというのが基本方針になるだろう。

 

「そうだよね。ティズナウちゃんの根性勝負を避けつつ、前目につけて差し切るのがベストだよね…」

 

 デジタルは独り言を呟きながら脳内シミュレーションを始める。その言葉にプレストンは思わる目を見開く。

 避ける?今根性勝負を避けると言ったのか!?ウマ娘を感じる為の根性勝負をするためにレースを走っていると言っても過言でもないデジタルが!?

 戸惑うのをよそにデジタルは自分の世界に入り込み思考を続けていた。

 

───

 

 11月初旬の日曜日、その日は寒波が来ており平均の月気温より寒く、多くの者が冬物をタンスやクローゼットを取り出し、身に着け外に出ていた。

 

 東京都渋谷駅。

 

 東京屈指の繁華街であり、多くの観光客や若者たちが訪れ、浮世の苦しみやうっ憤を晴らし明日の活力を得ようと足を運ぶ。その例に漏れず4人のウマ娘が渋谷に訪れていた。

 

「今日は日常のことは一旦忘れて、全力で楽しもうじゃないか」

「お~!」

「お~」

「お~…」

 

 テイエムオペラオーの仰々しい掛け声に号令にデジタルとプレストンはややハイテンションで、メイショウドトウは弱弱しく返事した。

 前々からオペラオー主導のもと4人でどこかで遊ぼうと企画していた。だが中々予定が合わず、4人のオフが被ったのが今日だった。

 それぞれは寒色で地味目なコートとニット帽とマスクという、周囲に溶け込むように目立たない服装だった。

 

「アタシとデジタルは実は渋谷に来るのは初めてなんです。ちょっとワクワクしてます」

 

 プレストンは周りをキョロキョロと見渡し、テレビで見た映像と同じ建物があることにテンションを上げていた。

 休みの日は友達とでかける日もあるが大概は近場で遊ぶことが多く、原宿や渋谷などは敷居が高く行きづらいと思っていた。交流のある友人達も同様の気持ちを抱き、日本に来てから一回も無かった。

 

「渋谷はどうでもいいけど、オペラオーちゃんとドトウちゃんに久しぶり会えて遊べることにワクワクしてるよ!」

「そんな…私と一緒に遊んでもデジタルさんが楽しんでもらえるかどうか…」

 

 デジタルは目を輝かせながらドトウに視線を向ける。ドトウはその視線から避けようと猫背気味に体を丸め視線が泳ぐ。

 

「心配するなドトウ、キミがいようがいまいが関係ない。ボクがいればどんな田舎でもワンダーランドさ!そしてボクにとって渋谷や原宿なんて庭だよ。キミ達には最高の体験をプレゼントしよう」

 

 オペラオーはドトウの肩を叩きながら劇団員のように大きな動作で語り掛ける。

 その姿にデジタルはさらに目を輝かせ、プレストンは目立つのを嫌ってか静かにしろと人差し指を立てる。

 

「オペラオーさん静かにしましょう。私は兎も角オペラオーさんは大スターですから、ここで正体がバレたら大混乱になっちゃいます」

「む、それもそうだ。ここでサイン会を開いても一向にかまわないが遊ぶ時間が減ってしまう。今日は大スター休業だ。まあ!滲み出るオーラで気づかれてしまうかもしれないが、その時は悪く思わないでくれ」

 

 オペラオーはドトウの言葉に素直に応じ、ニット帽を深く被る。プレストンはドトウに頭を下げ、ドトウも恐縮そうに頭を下げる。

 ここで騒がれたら自分達の存在が気づかれてしまう。現役を退いたといえど一世を風靡した覇王オペラオーと偉大なるナンバー2ドトウ、そして現役の香港マスタープレストンに勇者アグネスデジタル、合計でGI10勝以上の名ウマ娘達が集まれば騒ぎになり多くの人の通行を妨げるだろう。

 他人に迷惑をかけたくなしオフに疲れたくもない。プレストン達もキャップを深く被りながら、先導するオペラオーに着いていく。

 

 SHIBUYA109 渋谷ヒカリエ 渋谷センター街 キャットストリート

 

 観光ガイドブックに載っている主だった名所には全て足を運んだ。

 

 キャットストリートでは辺りを散策し、古着屋で試着してオペラオーコーディネートの服を3人が買った。

 ドトウとプレストンの趣味ではないが折角だということで購入し、デジタルは2人が試着した姿を興奮気味に写真に撮り自身のツイッターにあげていた。

 渋谷ヒカリエではオペラオーおススメのミュージカルを鑑賞した。

 3人とも渋谷とミュージカルのイメージが結びつかず意外そうにしていた。オペラオーとドトウは素直に楽しみ、プレストンはライブに使えそうだなと感心しながら楽しみ、デジタルは出演者の1人であるウマ娘を注視し続け楽しんでいた。

 時間は瞬く間に過ぎ、気づけばデジタル達の門限に迫っていた。4人は別れを惜しむようにカフェでゆったりとした時間を過ごしていた。

 

「ここはボクのおススメさ。ゆっくりしたい時には丁度良い」

 

 オペラオーは椅子に深く腰掛けながらコーヒーを口につける。

 店内の外装の石造は所々黒ずみ長い年月の経過を想像させる。内装は床が板張りで電球はLEDではなく蛍光灯の間接照明で店内ではレコードの古い歌謡曲が流れている。ここの店だけ昭和にタイムスリップしたようにレトロな雰囲気である。客層も中年が多く渋谷にあるとは思えない店舗だった。

 そのなかでデジタル達は浮いていて、客の中では正体に気づいたのかヒソヒソと喋っている。だが遠巻きで見ているだけでデジタル達のことを思いやったのか特に声をかけてこない。オペラオーはこれらのことも想定済みで入店していた。

 

「ドトウちゃんはどう勉強は?」

「色々と課題やレポートが有ってそこは大変です。でも現役時代のようにトレーニングしなくていいので、そこは楽ですよ」

「でも現役時代からさほど体型が変わってないみたいですね」

「現役時代の習慣が抜けないというか、運動しないと調子が悪くなるので程々にやってます」

「でも運動強度が足りないのか少し太ったね」

「オペラオーさん一言余計です」

「いいです、事実ですから」

 

 プレストンの小言にドトウは笑みを浮かべながら肯定する。その笑顔を肴にデジタルはケーキを味わう。ドトウの雰囲気は現役時代と良い意味で変わってなかった。奥ゆかしくて大らかで、見ているだけで何だか心がほんわかする。

 

「そういえばオペラオーさんが出ていたドラマ見ましたよ。素敵でしたよ」

「全く不本意だ。本来ボクは衆目美麗な主役をやるべきなのに、演じる役は脇役で3枚目やコメディリリーフ的な役ばかりだ」

「でもこういう下積みも重要だと思いますよ。それに幅広い役をやっていたほうが演技の幅が広がると思いますよ。素人意見ですが」

「まあドトウの意見も一理あるか、完全無欠な主役を目指すにはあえて道化を演じることも必要さ。サーカスでも花形は必ずピエロになるというからね」

 

 オペラオーは日頃のうっ憤をぶちまけるように語気を強めていたがドトウのフォローに次第にいつもの調子に戻っていく。

 確かに本人の希望とは裏腹にコメディリリーフを演じることが多かった。だが現役時代もそのナルシストぶりはある意味コメディリリーフとして扱われ、適材適所といえた。

 そしてその大げさな演技は一定の定評があり、それなりに人気を博し、デジタルもプレストンもその演技は好きだった。

 

「そういえばオペラオーさんはトゥインクルレース関係の仕事は受けないんですか?取材とかタレントとか来てますけど、オペラオーさんがやっても問題ないと思うんですけど」

 

 プレストンはオペラオーに問いかける。クイーンエリザベスカップに勝った後マスコミから取材が来たことが有った。専門誌や専門番組の取材も有ったがバラエティ番組の取材も有り、どこぞの女性タレントからインタビューを受けた。

 専門外で致し方が無いのは重々承知だが、知識不足やピントが外れた質問が多く正直苛立ったのを覚えている。このタレントがオペラオーだったら的確な質問を投げかけてくれてやりやすかっただろう。

 

「その手のオファーは確かにあった。だがレース関係の仕事を受けるのは親の七光りのようなで気が引けてね。ボクは自分の演技や歌唱力で目立ちたいのさ」

 

 オペラオーは胸を張りながら堂々と宣言し、デジタルはその姿を尊敬の眼差しで見つめる。

 現役時代で築き上げた名誉と功績は正真正銘自分のものだ。他の舞台で駆使するのは恥ではない。トレーナーになれば現役時代の活躍を存分にアピールするつもりだ。だがオペラオーは良しとしなかった。それはかつての誇り高き覇王の姿だった。

 

「ところで南部杯は惜しかったね。レース展開が向かなかったところも有ったが…」

「オペラオーさん」

 

 ドトウが諫めるような目線を送り、オペラオーは咄嗟に口を噤む。

 

「すまない、今日は日常のことを忘れようと自分で言っておきながら話題に出してしまった。レースに話せる機会が無くて、その手の話題に飢えていてね」

「いいよ、別に。オペラオーちゃんが話したいならいっぱい話そうよ。いいでしょプレちゃん?」

「アタシは構わないわよ」

 

 それからの話題はレース中心になり、2人が走ったクイーンエリザベスや南部杯に始まり、それ以外のレースについてもデジタルの携帯から流れるレース映像を肩を寄せ合って見て語り合っていた。

 

「デジタルの次走はダートプライドだっけかい?総額12億円のウイナーテイクオール、こんな舞台が現役時代にあればボクもダートを走れたら出ていたよ」

「出たいレースが無ければ、作ればいい。デジタルさんらしい発想です」

「海外だとかなり盛り上がってるらしいですよ。サキーとストリートクライとティズナウが出るならダート世界一決定戦と言っても過言じゃないですからね。それにティズナウ劇場が盛り上がりましたからね」

「本当にティズナウちゃん様様だよ」

 

 話題はダートプライドに移る。オペラオーとドトウはデジタルから開催の経緯を知った。ティズナウのマイクパフォーマンスから開催決定は目立ちたがり屋のオペラオーが嫉妬するほど劇的なものだった。

 だが意外にも周囲では話題にはなっていなく、原因としてはWDTと同日開催することだった。参戦メンバーは凱旋門賞を勝ったブロワイエが参戦したジャパンカップ以上と言えるが、中央が関わっていないレースだけに宣伝がされていなかった。

 

「ティズナウはともかく、サキーにストリートクライにセイシンフブキにヒガシノコウテイはデジタルとは縁が深いウマ娘達だね」

「素敵なウマ娘ばかりですね。思う存分感じて楽しんでください」

 

 この4人はデジタルのお気に入りのウマ娘であることをオペラオーとドトウは知っていた。

 デジタルにとってダートプライドは存分に楽しめるワンダーランドだろう。これも本人の行動がきっかけで実現できたレースだ。結果はともかく存分に堪能してもらいたいと願っていた。

 

「うん、サキーちゃんとコウテイちゃんとフブキちゃんに一斉にリベンジできる最高の舞台だよ。絶対に勝つよ。勝って最高の気分を味わうよ」

 

 デジタルは静かに呟く。その答えはオペラオーとドトウにとって予想外だった。てっきり子供のように無邪気にウマ娘ちゃんを感じると言うと思っていた。

 そして纏う雰囲気が今までの知るものとは明らかに異なっていた。その様子をオペラオーとドトウは訝しみ、プレストンは厳しい目線で送っていた。

 

「あ~あ、楽しかった」

「そうね。久しぶりに存分に遊んだわ」

 

 部屋に帰ったデジタルとプレストンは部屋着に着替えるとベッドに飛び込んだ。喫茶店で過ごした後は駅に向かい、それぞれ帰路についた。

 

「ところでデジタルのトレーナーは学園に居る?」

「どうしたの急に?」

「ちょっとね」

「待ってね…今トレーナー室に居るって」

「そう、ちょっと出かけてくる」

「うん、いってらっしゃい」

 

 デジタルは訝しみながらプレストンを見送る。急にトレーナーの所在を聞いたり、所在を聞くと出かけたりと不可解な行動を取っている。

 一抹の不安を覚えながらもPCを立ち上げダートプライドの出走メンバーのレース映像を見始めた。

 

 プレストンは寮の玄関を出るとトレーナー室に向かう。トレセン学園にはトレーナー棟と呼ばれる建物があり、各トレーナー室はそこにある。

 プレストンはトレーナー棟の玄関前に着き見上げる。そして右を向くとオペラオーとドトウが向かってきていた。2人はプレストンが玄関に入ると黙って後についていく。

 3人は一切言葉を交わさず黙って歩きチームプレアデスと書かれた標識のある扉の前で止まるとプレストンはノックして許可を得てから入室した。

 部屋に入るとトレーナーの驚いた表情が飛び込んでくる。それに構わずオペラオーが厳しい目線を向けながら代表して要件を伝えた。

 

 デジタルの様子がおかしいのを気づいているか?

 

「何かデジタルさん変じゃなかったですか?」

「ドトウもそう思うかい。ボクもそう思う」

 

 2人はプレストンとデジタルと別れて開口一番で確認した。デジタルとは連絡を取り合っていたが直接を会うのは卒業以来だった。駅前に現れたのはいつもの明るく人懐っこい姿だった。それは古着を物色し演劇を鑑賞した時は変らなかった。

 だがダートプライドの話題になり、存分にレースを楽しんでくれと言葉をかけたときだった。

 

── リベンジできる最高の舞台だよ。絶対に勝つよ。勝って最高の気分を味わうよ

 

 デジタルらしからぬ言葉の連続だった。その一瞬は雰囲気が一変し、まるで人が変わったようだった。

 アグネスデジタルはウマ娘をこよなく愛し、独自の価値観で動き予想外の行動を起こすウマ娘だ。そういったパーソナリティを気に入っていた。

 だがあの瞬間それらが消え失せ無味無臭のつまらないウマ娘に思えていた。

 そのことについてプレストンに尋ねると『お二人もそう感じたんですね。アタシも同感です』と返事が返ってきた。暫く何が変わったのかと検討したがまるで分からず、ならば最も把握しているトレーナーに問い詰めてみようと、オペラオーとドトウは電車を乗り換えトレセン学園に向かっていた。

 

「デジタルさんがどこかおかしいです。このままだとデジタルさんにとってきっとマズいです。何か知りませんか?」

「アタシも同じです。上手く説明できませんがデジタルはマズい意味で昔と変わってきています。対処しないと取り返しのつかないことになります」

 

 プレストンとドトウは真剣な眼差しでトレーナーを見つめ問いかける。トレーナーは3人に視線を向けると深く息を吐いた。

 

「デジタルはある種の心の病気に罹っとる。それがプレストン君達が感じとる違和感やおかしさや」

「それは何だい?」

「勝利中毒や」

 

 勝利中毒、初めて聞く言葉だ。それがデジタルの変調にどう関係する。3人が思考しているのをよそに説明を続ける。

 

「デジタルは連勝は去年の今頃から始まった。日本テレビ盃、南部杯、天皇賞秋、香港カップ、フェブラリーステークスの5連勝。楽しくてたまらんかったやろうな」

 

 この時のデジタルはまさに絶頂期だろう。レースごとに好きなウマ娘を堪能できてレースにも勝つ。

 そしてオペラオーとドトウを失ったが、サキーという意中のウマ娘を見つけ、目標に向かって邁進する。それは充実した日々だっただろう。

 

「そしてドバイワールドカップで2着、クイーンエリザベスで2着。そして南部杯では3着。その結果で無意識でくすぶり続けてきた火種、勝ちたいという欲求が膨れ上がっていった」

「でも勝利を求めるなんて誰でもそうですよ。それが悪いことなんですか?」

 

 プレストンが思わず反論する。この学園にいるウマ娘は誰しもが多かれ少なかれ勝利を目指し望んでいる。それは本能のようなものだ。何が悪いのか全くわからなかった。

 

「普通なら良いことや。勝ちたいという意志は力を生む。だがデジタルは特殊なウマ娘や。キミ達は知っとるかもしれんが、デジタルは勝つことに対してそこまで執着していない。レースを通してウマ娘を感じ堪能する。それが第一前提だ」

「そうだろうね。でなければトリップ走法なんて奇想天外な事はできない」

 

 オペラオーは代表して答える。トリップ走法が生まれた経緯は知っている。

 オペラオーやドトウを離れながらも感じ堪能しようとして考案したものだ。それをできるのはウマ娘を愛し執着するデジタルだけだ。

 

「デジタルはドバイではサキーに負けて、クイーンエリザベスではプレストン君に負けた。だがレース内容は2人を思う存分堪能しての2着や。存分に堪能できたから満足しとったと思ったが、あいつも人の子やったということか」

 

 トレーナーは悔しそうに呟く。勝利中毒の症状は南部杯前に見られていた。

 まずレースに向けて勝つという単語をいつもより口に出していた。それは闘争心の現れであり成長だと思っていた。だが実際は勝利中毒の症状が進行していただけにすぎなかった

 そしてセイシンイブキとヒガシノコウテイについて意識がそこまで向かれていなく、サキーのことばかり気にしていた。

 1度勝った相手より1回負けた相手の方に興味が向きやすく、リベンジに燃えていると思っていたがそれは普通の人間の尺度だ。自分で約束して日程を決めた相手に注目が向かないわけがない。

 さらに2人は帝王賞で惨敗してレースでは堪能できないと興味が薄れていた。以前2人にインタビューをして人となりや背景を知り、いつもなら感情移入して絶対に復活すると信じていただろう。

 

「でもデジタルのウマ娘愛は筋金入りです。以前だって負けてましたし、いまさら3回負けたぐらいでその勝利中毒になんてなるとは思えません」

 

 プレストンは強く反論する。だが実際はダートプライドの話でデジタルはティズナウと根性勝負を避けると言っていたことを思い出し、トレーナーの説に説得力が帯びていた。

 

「大敗していたらまだよかったかもしれんが、僅差だったのが悪かった。勝利に近づいた分だけより求めてしまう。そしてオペラオー君ならこの感覚がこの場で誰よりも理解できるやろ」

「ああ、デジタルの気持ちは痛いほど理解できるよ」

 

 オペラオーは悲しげに呟く。年間無敗8走8勝という前人未到の記録を打ち立てたが、勝つことに対する虚しさや敗北に対するプレッシャーはなかった。

 勝利とは自身の努力が報われる達成感、大衆に認められる自己肯定感、他人を否定する優越感、様々なものが交じり合う極上の一品だ。それは勝利すればするほど欲してしまう謂わば麻薬のようなものだ。

 現にドトウに負けてからGIに勝てなかったが、その間勝利に対する欲求でもがき苦しむほどだった。

 デジタルならばそれに抗えると期待していたが、生粋のウマ娘愛すら飲み込んでしまった。

 

「だとすればマズい、デジタルの強さはその特殊さだ、これではトリップ走法ができなくなる。あれはウマ娘への執着が薄まればできない」

「それだけやない。周囲の環境変化の強さもデジタルの強みやが、あれもウマ娘に対する執着で自分の世界を形成してガードしているだけや。南部杯でブーイングに動揺したが、あれも勝利中毒によるものかもしれん」

「そんなのどうでもいいんです!」

 

 プレストンが声を張り上げ、思わず全員が振り向く。いつも冷静でそこまで感情を露わにすることがないだけに予想外のことだった。

 

「このままじゃデジタルがやりたいことを忘れて、つまらなくてきっと後悔する選手生活を送ることになっちゃうんですよ!」

 

 勝利より自分の欲望を優先する考え方は理解しがたいが同時に尊敬もしていた。常識に囚われない生き方は羨ましかった。だが今デジタルの生き方が変わろうとしている。

 このままでは勝てないどころか、レースにおける最大の楽しみを味わえなくなる。それでは可哀そうすぎる。何より自分のような普通のウマ娘になって欲しくなかった。

 

「そうです。これだとデジタルさんが可哀そうですし、そんなデジタルさんは見たくないです。何か手は無いのですかプレアデスのトレーナーさん」

 

 ドトウは懇願するように声を出す。だがトレーナーは静かに首を横に振った。

 

「残念ながら打つ手はない。今のデジタルに初心に戻れと言っても聞く耳もたんやろ。かと言って勝つために初心に戻れと言ってもトリップ走法はできない。デジタル自ら何のために走っていたか思い出すしかない」

「そんな…救いはないのですか…」

 

 ドトウの悲し気な声が部屋に響き、トレーナー達は黙って項垂れていた。

 



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勇者と隠しダンジョン#5

 トレーニング器具を下ろす金属音やウマ娘達の掛け声が聞こえてくる。恐らくシャウト効果を期待したものだろう。

 他にもランニングマシーンで黙々と走る者の息遣いも聞こえ、それぞれが自主的に或いはトレーナーに指示されたメニューをこなすために黙々とトレーニングに励む。その中にアグネスデジタルも含まれていた。

 デジタルは息を吸い込み歯を食いしばる。全身の筋肉を全て使いバーベルを担ぎながらゆっくりと膝を曲げ、太ももが地面と平行になるまで下げて、2秒間キープする。

 すぐに立ち上がりニュートラルな状態に戻ると、またゆっくり膝を曲げていく。焦らずゆっくり正しいフォームを意識しながら行っていく。

 デジタルは筋トレが好きではない。坂路やダートやウッドチップで走るトレーニングならそれなりの量でも耐えられる。だがウェイトレーニングなどはどうしても苦手だった。

 今までも出来る限り何かしらの言い訳を作り避けてきた。幸いにもそれなりに結果を出せているので、トレーナーにもとくに何も言われなかった。だが今は率先してウェイトトレーニングを行っている。

 トレーニングの苦しさは何一つ変わっていない。心の中では悪魔がトレーニングを中止し、回数を減らそうと常に囁きかける。だがそれらを打ち払い懸命にトレーナーが作成したメニューをこなしていく。全てはダートプライドに勝つために。

 既定の回数をこなすとバーベルをラックに置き、休憩しながらサキー達に想いを馳せる。今頃きっと激しいトレーニングを行っているのだろう。その視線は再びバーベルに戻すが強制的に逸らす。

 トレーニングは適切な質と量が重要だ。闇雲に量を増やせば成果が出るわけではなく、逆に怪我に繋がる。今はトレーナーを信じてメニューをこなすだけだ。

 

「ねえ一口頂戴よ」

「ダメです~これは嫌いなウェイトをしたご褒美です」

 

 デジタルはチームルームでプロテインバーを奪おうとじゃれ合うチームメイト達を眺めながら、プロテインバーを齧る。

 ウェイトトレーニングの後のたんぱく質の摂取、最近の物は甘くて美味しく、厳しい体重管理をトレーナーに課せられているなかで、合法的に甘い物を食べられる数少ない機会だ。これだけで少しだけモチベーションが上がる。

 

「どうや、膝とかは痛くないか?」

 

 するとトレーナーが横の席に座り声をかけてくる。デジタルはゆっくりと口に入っている物を飲み込む。

 

「今のところ大丈夫」

「3日坊主にならんようにな」

「大丈夫だって、しかし改めてウェイトは好きじゃないって分かったよ。何でウェイトしないとダメなんだろう?普通走ってれば体が最適化されるもんでしょ?」

「レースの筋肉は走って鍛えて通用するのは極々一部のバケモンだけや、その他大勢は筋トレして強くなるしかない」

「アタシもその一部のバケモンになりたかったよ。まあ勝つためなら仕方がない」

 

 デジタルはため息交じりで呟く。トレーナーはその言葉を注意深く聞く。

 また勝つというワードが出てきた。以前なら近づくためにとかウマ娘を感じる為にと言っているはずだ。以前勝利中毒は継続中ということか。

 GIをいくつも勝っているデジタルだがまだ体に若干の緩さが有った。故に本人の希望に沿うようにウェイトトレーニングを行わなかった。

 だが秋を経て体の緩さが完全に無くなっていた。そしてウェイトトレーニングの量を増やそうとした時に進言してきた。自分で何が足りないか考えた末の提案だろう。

 自ら思考し行動する。良い傾向だ、これがウマ娘を近くで感じる為という理由なら満点なのだが、今はレースに勝つという目的の為に思考した結果導き出した答えだ。

 気力は充実している。フィジカルも強化されている。歩んでいる方向性は間違いではない。だがこのままでは落とし穴に落ち永遠にゴールにはたどり着けない。

 デジタルも別に勝ちたくないというわけではない。だが勝利はあくまでも第二目的であり、レースを通してウマ娘を感じるという第一目的を達成してからの副産物にすぎない。

 周りから見れば僅かな違いかもしれない。だがその違いがアグネスデジタルというウマ娘を劇的に変えてしまう。

 この心境の変化は明らかに間違っているという訳ではないのが厄介だ。勝利への執念を燃やすことはプラスである。だがデジタルにとっては毒になってしまう。

 トレーナーの想定を超えて勝利中毒を昇華させ、勝利することが第一目的となり、ダートプライドに勝つ可能性もある。

 

 だがその可能性は極めて少ない。何より惚れたのはウマ娘を感じることを最優先にするアグネスデジタルというウマ娘であり、そのようになってしまったデジタルは好みではない。

 今の状態では指摘したところで元に戻る可能性は低い、理想は自ら気づくことだ。

 初志を忘れてしまった者が気づくには鏡のような存在、かつての自分と同じ存在を見ればいい。

 ライバルに勝ちたい、支えてくれる周りの為に、それらの理由を初志にしていたウマ娘は多く、同じようなウマ娘を見せて話を聞かせればいい。

 だがデジタルのような理由で走っているウマ娘は少なからずトレセン学園にはいない。いや世界中探しても居ないかもしれない。それだけ特殊な精神性なのだ。つまり鏡は存在しない。

 幸い今の心理状態は目的を達成するための土台作りを行うという意味では間違っていない。勝つためとウマ娘を感じるという目的は違えど、高いモチベーションでトレーニングに励んでいるので、早急に対処する必要はない。

 だがいずれは対処しなければ確実に手遅れになる。トレーナーは慎重にその機を見極めていた。

 

──

 

 プレストンは机に向かい、授業の課題をやりながら背後にいるデジタルの様子を盗み見る。

 相変わらずトゲトゲしい雰囲気を発しながらレース映像を見ている。勝利中毒は未だに継続中ということか。

 プレストンは無意識に舌打ちをする。親友が奈落の底に向かっているのを分かっていながら何もできない。

 デジタルのトレーナーから指摘しても意味がないと言われているので何も指摘しない。だが間接的には指摘する。本人が無意識に本来の自分に戻るように誘導するのはいいだろう。

 プレストンはデジタルを見ながら機を伺う。そしてPCの電源を落としているのを確認すると机に向かいながら声をかける。

 

「アドマイヤドン凄いよね。菊花賞から中2週でJBCクラシック勝っちゃうし、しかも7バ身でしょう。もしかしてダートプライドに参戦するかもよ。同じ舞台だし」

「その可能性は充分あるかも。一応レース見ておかないと。何が得意で何が苦手か分析しておかないと」

「しかしアドマイヤドンは芝のジュニアB級王者だし、またオールラウンダーが来たってセイシンフブキが怒りそうだ」

「そうだね」

「アドマイヤドンってアドマイヤベガと姉妹らしいよ。ドンはオレオレ系でベガはダウナー系でしょう。一見合わなそうだけど意外とウマが合うというか、エモい関係になりそうだよね」

「そうだね」

 

 プレストンは舌打ちするとデジタルの方に振り向き、ドスが利いた低い声で喋る。

 

「いい加減にしてよ。いつまでそのままで居るつもり」

 

 プレストンは基本的に冷静な人間である。だが感情を溜め込む気質が有り、溜め込みすぎると爆発する。昨年の香港遠征でも感情を爆発させ騒ぎを起こしたことがある。

 デジタルはアドマイヤドンの実力やレーススタイルについて気にしていた。だがパーソナルな部分については興味を示さなかった。

 セイシンフブキについて話を振っても同じだ。前のデジタルだったら、長々とセイシンフブキの心情を語り、ドンとベガについても妄想トークを爆発させていた。

 

 調子が狂う。ムカつく。イラつく。

 

 プレストンは我慢していた。いずれいつもの感じに戻ってくれるはずだ。トレーナーにも静観していろと言われたので根気強く見守っているつもりだった。だがフラストレーションは着実に溜まり続けていた。

 最初は勝利に執着しないところに苛立つこともあった。だが今ではそういう考え方も許容できるようになり、むしろ考え方を持つウマ娘が居た方が面白いとすら思っていた。そんなデジタルが自分のように普通のウマ娘になるのが我慢ならなかった。

 

「いつまでって何が?」

 

 デジタルはプレストンの感情を知る由もなく、ぽかんとして間の抜けた声で答える。それがさらに感情を逆なでる。

 

「絶対に勝つ、勝って最高の気分を味わいたい。いつからそんな面白みのない事を言うことになったの?そんなのリギルとかスピカに任しておきなさいよ。デジタルはウマ娘のことを想ってデュフフフと変態チックに笑っていてよ。アンタが走るのは勝つためじゃない、レースを通してウマ娘を感じることでしょう」

 

 プレストンの言葉がトリガーになり過去の記憶を遡る。

 天皇賞秋でのイメージのオペラオーとドトウとの走り、香港カップでのトブーグ、ドバイワールドカップでのサキー、クイーンエリザベスカップでのプレストン。

 一緒に走った多幸感が蘇る。だがそれは一瞬で消え去り、勝った時に味わえる幸福感やドバイや香港や盛岡での敗北の悔しさが無意識に塗りつぶす。

 

「アタシはそんなこと言ってたの?勝つよりウマ娘を感じたいって?」

 

 デジタルはまるで信じられないという口調で呟く。その反応を見たプレストンは怒りで顔を歪ませながら本棚から雑誌を取り出し、見せつけるようにページを開く。そこにはデジタルのインタビュー記事が書かれていた。

 デジタルはプレストンやスペシャルウィークなどの親しいウマ娘や気に入っているウマ娘のインタビューをファイリングしていた。プレストンもそれに感化されたようにデジタルやチームメイト達の記事をファイリングしていた。

 いつかデジタルをからかう時に使えるネタが有るかもしれないと思っていたが、まさかこんな場面で使うことになるとは、過去の思いついた自分に感謝しつつ、これで元に戻るという期待を抱いていた。

 デジタルは記事に目を通す。確かにレースの結果はそこまで気にせず、レースを通していかにウマ娘を感じるか、レース前や道中や直線でどのようなところに目を配ればウマ娘を感じられるかを熱く語っている。

 しかしいくら見ても自分が語ったと思えず、まるで他人の記事を読んでいるようだった。

 

「それでも読んで、昔の自分を思い出して、さっさと元に戻りなさい」

「昔の自分に戻る必要が有るのかな?」

 

 デジタルはポツリと真剣な口調で呟く。プレストンは思わぬ反応に少し戸惑いながら次の言葉を待った。

 

「確かに昔のアタシはそうだったかもしれない。でも変わったんだよ。それを悪い事みたいに言わないで欲しいな」

 

 デジタルは不機嫌そうに呟く。その言葉は自分を否定しているように聞こえていた。その反応はプレストンの怒りを募らしその感情を言葉に込める。

 

「悪い事みたい?みたいじゃなくて悪い事なのよ」

「何で?勝ちたいと思う事が悪い事なの?プレちゃんだって誰だってそう思うでしょ、それなら皆悪くなるじゃん」

「他の人なら問題ないけど、デジタルにとっては悪い事なの。アンタは特別なんだから」

「アタシは特別じゃない。それにスぺちゃんだって負けた時はいつも泣いていた。エルコンドルパサーちゃんだってそう!負けたくないって気持ちが力になる!だからアタシもそうなってそれを力にする!」

 

 プレストンは襟を掴んで顔を近づけながら睨みつける。

 特別になりたかった。特別とは強さと個性である。それはテイエムオペラオーやメイショウドトウやWDTで走るようなほんの一握りのウマ娘しか持ち合わせていない。

 デジタルは特別だ。勝利に執着せずレースを通してウマ娘を感じることを目的にする特殊な精神性、そしてその情念をトリップ走法という力に変えてダート芝関係なくあらゆる条件で勝つ強さと個性、アグネスデジタルというウマ娘はエイシンプレストンにとってある意味理想の特別だった。その特別を放棄しようとしているのが許せなかった。

 

「ふざけないで!そんなのデジタルらしくない!」

「アタシらしさって何!?人は変るの!プレちゃんのアタシらしさをアタシに押し付けないで!そんなにアタシらしさを求めるなら、プレちゃんがアタシになれば!?」

 

パン

 

 乾いた音が響くとプレストンの荒々しい息遣いが部屋に響き渡る。

 デジタルになればいい?そんな個性と強さを持てる特別になれるのならなっている。その特別はデジタルだけが持てるものだ。だから必死に特別になれる方法を探し、香港のスペシャリストという道をやっと見つけたのだ。軽々しく言うな。

 デジタルの頬に痛みが伝わり、反射的に頬に手を当てる。ぶたれたのか?苦痛、困惑と目まぐるしく感情が駆け巡る。そして怒りが湧き出て一気に吹き出し、涙を浮かべながら叫んだ。

 

「何で認めてくれないの!?友達なら変わったアタシでも受け止めてよ!」

「友達だからよ!アンタは変ったんじゃない!変えられたのよ!今のデジタルは勝利中毒になって、ジャンキーみたいに勝利という麻薬を求めているにすぎない!間違った道を行こうとするなら、引っぱ叩いても止める!このままじゃ本来の目的を失ってつまんない現役生活を終える!それどころか勝つことすらできない!」

「そんなことない!勝ちたいって気持ちは力になる!それはオペラオーちゃんやドトウちゃんが証明したよ!」

「アンタには無理!それに今のデジタルにはトリップ走法はできない!トリップ走法ができないデジタルなんて香港で走れないアタシみたいなもんでしょ!そんなんでダートプライドに勝てるわけがない!」

「なんでそんな酷いこと言うの!プレちゃんなんて大っ嫌い!もう出て行ってよ!」

「出て行ってやるわよ!こんな普通でつまないデジタルと一緒の部屋で生活するなんてごめんだわ!」

 

 プレストンはデジタルの襟から手を放すと荒々しく扉を開け外に出て行く。デジタルはその後ろ姿を親の仇のように見ながら見送った。

 

「何で!何で!何で!分かってくれないの!」

 

 怒りをぶつけるように叫びながら枕をベッドに何度も叩きつける。しばらくするとその騒ぎを聞きつけ、寮長のフジキセキが部屋にやってきた。

 

───

 

「まあ、ゆっくりくつろいでくれ」

「すみません」

 

 プレストンは出された紅茶を啜りながら部屋を見渡す。

 一切のスペースを潰すように展示されるトロフィーや優勝レイとテイエムオペラオーのポスター。人をもてなすことを一切考えていない自己顕示欲の塊のような部屋だ。

 ある意味壮観な景色だが、まるで何人ものオペラオーに睨まれているようで落ち着かない。そんな部屋で家主のオペラオーとメイショウドトウはごく普通にくつろいでいた。

 

 プレストンは感情に任せて部屋から学園の外に出て走り続けた。しばらくすると体力が無くなり始め強制的に足が止まり我に返る。

 なんてことを言ってしまったのだ。後悔の念が押し寄せ思わず頭を抱えその場にしゃがみ込む。

 デジタルに傷つくことを言ってしまった。すぐさま帰り謝罪すべきなのだが、自分は正しい事を言ったとプライドがそれを邪魔する。

 何より顔を合わせたくない。その場をグルグルと周りながら思考をまとめ結論を出す。

 このままではダメだ。誰かに話してスッキリしよう。手に持っていた携帯電話を取り出しトレーナーに電話をかけようとするが手を止める。

 こんな個人的な問題でトレーナーに迷惑をかけるわけにはいかない。何より無意識で自分の意見に同意して慰めてもらいという気持ちが有り、トレーナーは同意してくれない可能性がある。だがチームメイトなどの普段から接せる人に知られたくはない。

 近い年代で普段はあまり接する機会はなく愚痴を話せる人間、その条件に当てはまるのがオペラオーとドトウだった。

 

「ドトウさんも態々アタシの愚痴を聞く為に来てくれて恐縮です」

「大丈夫ですよ。オペラオーさんと話していると次第に自慢話になりますので、止める人が居ないと」

 

 ドトウはオペラオーのほうをチラチラ見ながら、聞こえないようにプレストンに告げる。

 自分の愚痴が次第にオペラオーの独演会に変っていく。そのイメージがありありと浮かんでくる。

 

「それにしてもこの部屋でよく落ち着けますよ」

「時々遊びに行っていますので慣れました。それにオペラオーさんらしくて素敵な部屋だと思います」

 

 この部屋が素敵か、オペラオーと親しいだけあってドトウもそれなりに個性的な感性を持っているようだ。プレストンは呆れと感心を抱く。

 

「さて、話を聞こうじゃないか」

 

 オペラオーが場を仕切るように2人に話しかける。プレストンはそれを切っ掛けにデジタルとの喧嘩の顛末を出来る限り詳細に語り始めた。

 

「デジタルはだいぶん変わってしまったようだ。落胆する気持ちはわかるよ」

「ですよね!こっちは親切で言っているのに、全然理解しない!ねえドトウさん」

「そうですね…そこまで勝利に拘るデジタルさんはらしくないというか…」

 

 ドトウは遠慮がちにプレストンの意見に賛同する。3人ともデジタルの性格や気質をよく理解し、好感を持っていた。それだけに今の状態を憂いていた。

 

「あの、デジタルさんのトレーナーに連絡したほうがいいのでは?一応静観する予定みたいでしたので、今後のプランに…その…」

 

 ドトウは歯切れ悪く遠慮がちにプレストンに伝える。トレーナーとしては自然に気づくようにするつもりだったが、プレストンが今のデジタルの変化を本人伝えたことで否が応でも向き合うことになり、接し方も変わってくる。

 プレストンも自分がしてしまったことへの重大さとドトウの気遣いに感謝しながら、トレーナーに電話する。連絡先は先日オペラオー達とトレーナー室に行った時に聞いておいた。

 

「もしもし」

「もしもし、エイシンプレストンです。夜分遅く申し訳ございません。デジタルについて伝えたい事があります。お時間よろしいですか?」

「かまわんよ」

 

 プレストンはオペラオー達に話したように詳細を話す。今度はトレーナーに伝えるということもあって、冷静に感情を抑えて伝えた。

 

「軽率な行動を起こしてしまって申し訳ございません」

「気にしないでくれ、それはルームメイトが別人みたいに変わっていたら、それは気持ち悪いわな」

 

 スピーカー越しにトレーナーの笑い声が聞こえてくる。雰囲気を一変させるような豪快な笑いだ。これも自分が気にしないようにという配慮だろう。

 

「それでどうするんだ?」

「その声はテイエムオペラオー君か?」

「そうボクこそはトウィンクルシリーズ史上最強にして最も美しいテイエムオペラオーさ!」

 

 トレーナーの驚いた様子が聞こえてくる。オペラオーの提案でスピーカーモードにしており、いつでも口を挟めるように準備していた。

 

「まあ、前置きは置いておいて、このままではデジタルは勝利中毒に侵されて、緩やかに破滅に向かうに過ぎなかった。プレストンの行動は変化を促すという意味では悪くはない」

「ああ、多少荒療治になるが、ガツンと言った方が気づくかもしれん」

「どうもメイショウドトウです。デジタルさんの言葉じゃないですが、私達はこうであって欲しいと型に嵌めているだけかもしれません。デジタルさんの変化を受け入れるのも1つの方法ではないでしょうか?」

「それも有りだろうが、今のデジタルは本来のデジタルやない。それは断言できる。ガキの頃からウマ娘を愛し、レースでも感じることを常に考えておった」

 

 トレーナーの決断的な意志が籠った声が聞こえてくる。この中でデジタルと一番付き合いが長いのがトレーナーだ。2人にしか分からないことがあるだろうし、選手の方針を決めるのもトレーナーの役目だ。外野が口を出すべきではない。

 

「デジタルはプレストンのように僕達に愚痴を言いに来るかもしれない。その時は今のデジタルは間違っていて、元に戻れと言った方がいいのかい?」

「少し可哀そうな気がします」

「そうやな。2人も勝利中毒については多少理解しているやろうし、さり気なく勝利に固執するのはデジタルには向いていないという方向で諭して貰いたい」

「分かりました」

「分かった」

 

 2人は返事する。オペラオーは勝ち続けたことで、ドトウは2着になり続けたことで勝利を渇望し続けた。

 それは勝利中毒に罹っているようなもので、それで得る強さと脆さを理解しているつもりだ。だからこそ助言できることもある。

 

「それでエイシンプレストン君の今後やが、デジタルはオレの家から学園に通わせるから、引き続き部屋を使ってくれ」

「いや、悪いですよ。以前にもアタシが部屋を出たこともありますし、アタシが出ますよ」

「いや、デジタルのせいで居心地が悪くなったなら、こっちが出るのが筋や」

「では申し訳ないですが」

 

 プレストンはトレーナーに押し切られるような形で了承する。

 

「何か気になる事が有ったら連絡してくれ、本来ならトレーナーを俺がやらなあかんことやが、今は1人でも多くの手を借りたい。よろしく頼む」

「喜んで、デジタルさんは私達の友達です。友達が困っているなら助けます」

「友達なら当たり前です」

「ありがとう」

「では失礼します」

 

 プレストンは電話を切り息をつく。去年の香港遠征の時は色々と世話になったこちらが借りを返す番だ。昔のデジタルの表情を思い出しながら目を覚まさせてやると心の中で誓った

 



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勇者と隠しダンジョン#6

 ソファーに腰掛けたデジタルはガムを噛みながらTV番組を眺める。内容は各スポーツの1流アスリートを集めての座談会である。TVの音声とクチャクチャとガムを噛む咀嚼音が響く。

 今日はオフでトレーニングは禁止されている。トレーニングをしたい衝動に駆られるが体を休ませるのも勝つためには重要だと言い聞かせる。

 せめて何か出来ないかと探しているとこの番組を見つけ、他のジャンルから思わぬヒントを得られないかと密かに期待したが、収穫は全くない。リモコンを手に取り電源を落とした。

 デジタルはエイシンプレストンと言い争いをした後は栗東寮の部屋には帰らず、トレーナーの家から通っていた。

 一方的にビンタしたプレストンには未だに怒りを覚え、言葉を交わすどころか視線すら合わしていない。一応は謝罪を受けたが何も言わず追い返しておいた。それだけでも腹が立っているが、周りの反応にも腹が立っている。

 ケンカした後に愚痴を言おうとオペラオーやドトウに不満をぶちまけたりした。2人は話を聞いてくれたのだが、所々で肩を持ち、昔のデジタルのほうが良かったとさり気なく言ってくるのだ。

 

 昔のデジタル、昔のデジタル、昔のデジタル

 

 皆が今の自分を否定して過去の自分を肯定する。そのことに怒りを覚えると同時に理解して認めてくれない事への深い悲しみと孤独を抱いていた。

 味がすでに無くなったガムをティッシュに吐き捨てゴミ箱に投げ捨てる。ガムを噛むと心が落ち着くと聞いたことがあるので、この荒んだ心の平静を保ってくれると期待し試してみたが全くと言っていいほど効果が無かった。

 

 トリップ走法ができないデジタルなんて香港を走らないアタシと同じ、今のままでは勝てない。

 

 言い放たれた言葉が錨のように心の奥底に深く沈み楔を打ち込む。トリップ走法ができないわけがない。プレストンに言われた翌日にトリップ走法を実践してみた。

 普段は体に負担がかかるので原則としてトレーナーの許可が下りるまで禁止されているが、それを無視した。

 いつも通りイメージを構築しようとするがいくらやってもイメージは構築できなかった。レースとは違い余力を残している状態でイメージしやすいはずなのに構築できなかった。限界ギリギリで余力がない状態のレース時に使えるのか?

 自分の最大の武器ともいえるトリップ走法ができない。それは明確な恐怖となり、絶対に勝つという断固たる意志すら揺らぐものだった。

 勝つために取り戻さなければならない。そのカギとなるのが過去の自分だ。

 昔はどのような感情を抱いて走っていたのだろうと記憶を掘り起こしてもまるで靄がかかったように思い出せない。思い出せるのは勝利の喜びと敗北の悔しさだ。

 勝利中毒に罹っているデジタルは勝てないというワードに反応して、何度も思い出そうとするができずという悪循環に陥り焦燥を募らせていた。まるで過去の自分が今の自分を追い詰めているようだ。

 首をブンブンと振りソファーから勢いよく立ち上がる。このまま考え込んでいても深みにはまるだけだ。気分転換でもしよう。

 昔ならウマ娘の雑誌や映像を見ることで気分転換を行えていたが、今は思いつかず、したとしても気分転換にはならない。

 他にもプレストンやチームメイト達と会ってお喋りすることでもできたが、今は人に会うたびに今の自分を否定するような気がして距離を取っていた。

 暫く思考し一般的な散歩という方法で行うことにし、服を着替えて休日出勤しているトレーナーに出かけることをラインアプリで伝えると家を出た。

 目的地は河川敷のサイクリングロード、そこを気が向くままに歩き、気が向いたら家に帰る。計画性のない行き当たりばったりだ。

 デジタルはサイクリングロードに着くと方向だけ決め歩き始める。

 天気は曇りで鈍色の雲が青空を覆う。まるで今の心境のようだと自嘲する。景色もイチョウや紅葉でもあれば楽しめるのだが、右を見れば住宅地、左を見ても川を挟んで同じように住宅地でまるで面白みがない。

 このまま似たような景色を見ても気分転換ができるとは到底思えない。家に帰って見飽きたダートプライド出走者のレースを見たほうが有意義かもしれない。踵を返そうとするが思わず足を止める。

 対岸の河川敷の土手に1人のウマ娘がやってきて走り始めた。背格好からして小学校中学年ぐらいだろうか、何となく興味が惹かれたのでその場に止まってウマ娘の少女を眺める。

 トレーニングメニューはシャトルランのようで、進行方向に走り始めて豆粒ぐらいに小さくなると逆方向に走り始めた。元の場所に戻ると息を整えながらタブレットを眺めてまた走り始めた。

 デジタルの目から見て明らかに素人だった。本来なら見るべき点は何一つないのだが、妙に心に訴えるものがある。

 もっと近くでその姿を見ようと200メートル先の橋を渡って対岸に着くと、近くの土手を降りるコンクリートの階段に腰を落としウマ娘の少女を観察する。

 デジタルの存在に気づくことなく一心不乱に走っている。その集中力とモチベーションの高さはレース前の選手のようだ。よほど叶えたい願いや目標でもあるのだろうか?段々と興味を惹かれていた。

 しかし見れば見るほど欠点だらけだ。トレーナーでもない自分でも修正点を挙げようと思えば両手で足りないほどである。このままでは無駄なトレーニングの繰り返しで情熱の無駄遣いだ。

 

「ねえ、腕をもっと振った方がいいよ」

 

 デジタルは立ち上がり階段を下りながらウマ娘の少女に近づいていく。ここで出会ったのも何かの縁だ。少女の情熱を無駄遣いさせるのも忍びない。

 一方少女は明らかに警戒心を募らせた瞳で見つめ身構える。だが近づくごとに瞳に宿る感情は警戒から驚きに変っていく。

 

「あっ!アグネスデジタル!」

「そうだよ。じゃあアタシについてきて」

 

 デジタルはファン用の笑顔を浮かべながらゆっくりと走り始める。ウマ娘の少女は慌てながら後を追う。

 それから小一時間ほどレクチャーを行った。トレーナーと違って人にものを教える経験も知識も乏しく、ウマ娘の少女にも理解できるように必死に噛み砕きながら教えた。

 その苦労が報われたのか、少女はデジタルの言葉を理解し少女の走りは見間違えるようによくなった。そして少女との交流の間は抱えていたイラつきを忘れることができていた。

 

「おつかれ、よくがんばったね」

 

 デジタルは近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って少女に手渡す。少女は疲労で喋るのが億劫なのか、頭を僅かに下げた後勢いよく飲む。

 

「一生懸命トレーニングしてえらいね。3冠ウマ娘になるために今から準備かな?」

 

 デジタルは冗談ぽく語り掛ける。この歳で誰にも命令されず追い込んでトレーニングできる人は中々いない。そのモチベーションはどこから来るのか非常に興味が湧いていた。少女は首を横に振った。

 

「じゃあ誰かに勝ちたいのかな?それともレースに勝つと何か買ってもらえるとか?」

 

 少女は再び首を横に振る。将来トゥインクルレースで活躍する為ではない、誰かに勝つためではない。報酬を貰う為ではない。

 ならば何のためにここまで頑張れるのだ。デジタルは少女の心情を理解しかねていた。

 

「じゃあ、何でそこまで一生懸命にトレーニングしてたの?」

 

 その問いに少女は悩まし気に腕を組み暫く考え込み、意を決したようにタブレットを取り出してデジタルに画面を見せる。

 そこには同学年ぐらいの体操服の葦毛のウマ娘の少女が映り、満面の笑みを浮かべていた。

 

「この娘はユキちゃん。ユキちゃんはとっても可愛くて、走っている時の姿が一番可愛いの。でもアタシは足が遅いからいっぱいトレーニングして、少しでも近くでユキちゃんを見るの」

 

 デジタルはハンマーで頭を殴られたような衝撃を受ける。

 そんな理由でこれほどまでに自分を追い込んでトレーニングしていたのか。その思考回路は全く理解できず、まるで宇宙人と会話している錯覚に陥っていた。

 

「近くでユキちゃんを見たいな。アタシが迫ってきたらどうなるんだろう?驚くのかな?もし抜いちゃったらどんな顔をするんだろう?そうなったらいいな~」

 

 少女はその光景を想像しているようでニヤつきながら語り始める。

 その表情は一般的にいえば気色悪いと分類されるもので、瞳に宿るのはユキちゃんと呼ばれる少女への憧れではなく、もっと粘着質な好意だった。その瞬間デジタルの中で何かが弾けた。

 プレストン達は過去の自分を思い出せと言っていたが、インタビュー記事や自分の映像を見てもピンとこなかった。そこに居るのはまるで他人のようだった。

 だが記憶を辿ろうにも思い出せず、過去の自分がタイムスリップでもすれば思い出せるかと空想のような考えを思い浮かべ内心で自嘲していた。

 だが目の前に居るのは過去の自分だった。意中のウマ娘を近くで感じたい。そのためならどんなトレーニングにも自ら課して、妄想を描いてデュフフフと気味悪く笑う。

 

 画面越しでの自分では感じられなかったリアルなウマ娘への愛と情念、それがトリガーとなり過去の記憶を呼び覚ます。そうだ思い出した!

 今までは大好きなウマ娘に1cmでも近づき感じるためことをモチベーションにしてトレーニングをしていたのではないか。

 脳内に天皇賞秋でのオペラオーとドトウのイメージ、ドバイワールドカップでのサキーを間近で感じた記憶、香港でのプレストンとの記憶が今までが嘘のように思い浮かび上がり、快感が脳髄を駆け巡る。

 そうだ、この快感を味わうために走ってきたのではないか、それに比べれば勝利の美酒などそこら辺の居酒屋に売っている安酒に過ぎない。

 それなのに今の今まで勝つことばかり考えていた。なんてバカなのだろう。デジタルは自身の髪を手でグシャグシャとかき乱す。

 

 そして次に襲ったのは身を悶えるほどの後悔だった。思わずその場で膝をつく。南部杯でのヒガシノコウテイとセイシンフブキとの記憶がまるでない。勝利することに囚われ、2人を感じることを疎かにしていたことに気づいた。

 あの極上のウマ娘を感じるたびに舞台を整えたのに何をやっている!頭を地面に叩きつけた。

 

「あの…大丈夫?」

 

 少女は顔引き攣らせながら懸命の勇気を振り絞り声をかける。突然気味悪くニヤついた笑みを浮かべたと思えば、ヒステリーに罹ったように髪をかき乱し、頭を地面に叩きつけた。    

 それは完全に狂人の所業であり、トレーニングに付き合ってもらった恩が無ければ防犯ベルを鳴らし全力で逃げていただろう。

 

「大丈夫、驚かせてごめんね。しかしそのユキちゃんカワイイね。意志が強そうな瞳がグッとくるね」

「そうそう!走っている時は髪を束ねてるんだけど、チラチラ見えるうなじがたまらない!」

「わかる~。サキーちゃんのうなじもたまらなかったな~」

 

 2人は推しのウマ娘トークに花を咲かせていた。時間は瞬く間に過ぎていき、鈍色の空がさらに薄暗くなっていく。時刻としては5時を回っていた。

 

「あ、もうこんな時間、そろそろ帰らないと怒られちゃう」

「ごめんね。楽しくてついつい話し込んじゃった。家はどっち?」

「あっち」

「一緒の方向だ。もっとお喋りしたいし一緒に帰っていい?」

「いいよ!」

 

 少女は満面の笑みを浮かべて答える。トレーナーの家がある方向は反対だった。だが少女ともっと喋りたかったので、嘘をついて付いていった。

 帰りの道中もウマ娘トークのみで会話を続けた。デジタルの話は少女の興味を大いに惹き、目を輝かせながら聞いていた。

 

「アタシはユキちゃんやウマ娘が好きなの。でも皆気持ち悪いて言ってバカにして…」

「そうだよね~。アタシも気味悪いってよく皆をドン引きさせてた」

 

 少女は表情に影を落としながら語り始める。かつての自分もそうだったので気持ちはよく分かる。だが一転して表情を明るくさせる。

 

「でもアグネスデジタルがインタビューとかでウマ娘大好きって言っていたのを見て、アタシも好きでいていいんだって思ったの」

「そうだよ!この気持ちを抑えることなんてないんだよ。でも時と場所を考えてね。でないと推しや他の人を怖がらせちゃうから。草葉の陰で奥ゆかしく見つめて、人がいないところで妄想やエモい場面を思い出す。それがウマ娘LOVE勢のマナーだよ」

「うん。急に髪の毛掻きむしったり、頭を地面に叩きつけたら怖いもんね」

「そうだよ……アタシみたいになっちゃダメだよ」

 

 デジタルは複雑そうな表情を見せる。自分の醜態が反面教師となって彼女を助けることになれば本望だ。

 

「じゃあアタシこっちだから」

「うん、バイバイ」

 

 家まで付いていったら少女はともかく、親が何を言うか分からないので適当なところで分かれることにする。少女は名残惜しそうにしながら手を振る。

 

「そういえば名前を聞いてなかったね。名前は?」

「ヤマニンアリーナ」

「じゃあヤマニンアリーナちゃん、連絡先教えてくれる。これからも一緒にウマ娘トークしよう」

「うん」

 

 ヤマニンアリーナは駆け寄ると携帯電話を取り出し、連絡先を交換すると手をブンブンと振りながら家に向かって駆けていく。デジタルはその様子を優し気な目で見つめる。

 まだ同じ感覚と趣味を理解又は共有できる友達が居ないのだろう。自分は幸いにもアメリカに居た時は趣味を理解してくれる友達や中身の濃いウマ娘トークができるトレーナーも居た。

 そしてトレセン学園にはプレストンが理解してくれて世間との折り合い方を教えてくれた。今度は自分が友達になってヤマニンアリーナの孤独を癒し、世間との折り合い方を教える番だ。

 デジタルは空気を目一杯吸い込む。夜になる前の夕暮れの独特の空気が体に染みわたる。まるで生まれ変わった気分だ。

 視界に映る面白みのない住宅も、上空を飛ぶカラスの鳴き声も、住宅から漂ってくるカレーの匂いも、全てが新鮮で清々しく心地よい。何よりウマ娘トークが楽しくてたまらなかった。

 これが皆の言っていた昔の自分なのか、確かにこっちのほうが気分が晴れやかで楽しい。

 

 過去のデジタルのイメージが今のデジタルを否定して苦しめた。

 だが過去のデジタルがヤマニンアリーナを肯定しその心を救い、同じ嗜好の持ち主と出会い交流をしたことで、勝利中毒にから抜け出せた。全ては因果応報である。

 

───

 

 プレストンはベッドに仰向けになりながら1人ため息をつく。デジタルが出て行ってから1週間が経った。

 まるで自分を動かす大事な歯車の1つが無くなったような違和感と寂しさ、自分が出て行った時のデジタルは同じような感情を抱いていたのだろう。

 クイーンエリザベスの時に出て行った時は辛かったが、出て行かれるほうが日常に近い分より辛い。

 トレーナーと一緒に生活することで治ればいいのだが、オペラオーやドトウやデジタルのチームメイト達から様子を聞いているがまだ勝利中毒から抜け出せていないようである。

 デジタルのチームメイトだが、話を聞きに行った時は罵倒されるのを覚悟したが、意外にも心配されたり同情されたりした。

 今のデジタルはらしくない。ちょっと近寄りがたい。昔のデジタルのほうがいいよねと共感してくれた。

 一般的にはデジタルの変化はアスリートらしくなり、好感が持たれるのかもしれないが、親しい者にとっては不気味であり、それだけ顕著な変化なのだ。

 何か手が無いかと探しているうちにスポーツカウンセラーやメンタルトレーニング指導士の存在を知る。トレセン学園にもそれらの専門家がいて、デジタルのトレーナーも頼んでいるようだが成果は芳しくないようだ。

 こういった職種は依頼人と信頼関係を作らなければならないようだが、デジタルはウマ娘以外には基本的に興味を向けず、心を開かない。

 今ではファンサービスをできるぐらいの社交性を身に着けたが、本質は変わっていない。

 さらに今は意固地になっているで、勝利中毒から抜け出すように促そうとする人間を警戒し、信頼関係を築くのは時間が掛かり、その間にダートプライドが終わる可能性がある。

 そもそも昔のデジタルの心理状態を理解できるのか?スポーツカウンセラー達のその道のプロフェッショナルだ。多くのアスリートを導いた実績が有るだろう。

 デジタルは勝利ではなくウマ娘を感じることを主眼に置く、それは異質なメンタリティであり、他の競技に当てはめても同じようなアスリートが居るとは思えず、そのような者を導く手段があるとは思えない。

 

 すると突如バタンと扉が勢いよく開く音が響く、プレストンは即座に体を起き上がらせ、ノックもしないで来るとは失礼で非常識だと思いながら来訪者を迎える準備を整える。

 そして目に飛び込んできたのは見知った姿だった。デジタルだ。

 プレストンは予想外の出来事にフリーズする。何しにきたのか?それより今は気まずい状態であり、どう対応すればいい?

 一方デジタルはプレストンの困惑をよそに神妙な顔を浮かべながら勢いよく頭を下げた。

 

「迷惑かけてごめんなさい!」

「えっと、どいうこと?」

「昔のアタシに戻ったよ」

 

 プレストンはデジタルの急な謝罪に戸惑いながら尋ね、デジタルは端的に答える。その言葉に安堵と喜びが綯交ぜになった表情を見せながらお帰りと告げた。

 

 デジタルはトレーナーの家に帰るといの一番に栗東寮に戻ると告げた。突然の提案にトレーナーは戸惑ったが、雰囲気で勝利中毒から抜け出せたことを確信し、送り出していた。

 

「いや~最近のアタシはどうかしてたよ。何で勝つことに拘ってたのかな。そんなものウマ娘ちゃんを感じることに比べれば大したことないのに」

「改めて聞くとスゴイ発言ね。そいうのは他の人には言わないようにしておきなさい」

 

 プレストンは呆れ半分嬉しさ半分でツッコむ。笑い話のように最近の心情を語るその姿は昔のウマ娘LOVE勢のデジタルそのものだった。

 

「それで何が切っ掛けで戻ったの?スポーツカウンセラーやメンタルトレーニング指導士もお手上げだったんでしょう」

「それは同類に出会ったからかな」

 

 デジタルはヤマニンアリーナとの出会いを嬉しそうに饒舌に語る。それを聞いてデジタルの変わりように納得する。

 カウンセリングには同じ体験をした同士で話し合うというグループワークというものがあるそうだが、同じ嗜好の持ち主と会話したことで、自分の変化に気づき本来の自分に戻ることができたのだろう。

 

「あ~後悔がハチャメチャに押し寄せてくる」

 

 デジタルは一通り話し終えると、ベッドにある枕に顔を埋め足をジタバタとさせる。プレストンはいつも通りの奇行をする娘を見る母親のような目で見つめながら尋ねる。

 

「何が?」

「南部杯の時の記憶がないの!コウテイちゃんやフブキちゃんのどんな表情をしていて、太腿や腕がどんな感じで、匂いや息遣いがどんなんだったか全く思い出せない!」

「あ~、勝利中毒の影響か」

「過去の自分を引っ叩いてでも目を覚まさせてやりたい!」

 

 さらに足をジタバタさせる。勝利中毒時のデジタルにとっては全く問題ないが今のデジタルにとっては一種の責め苦だろう。

 身から出た錆、自業自得という言葉が出かかるがグッと堪える。勝利中毒はだれしも起こりうるもので、責めることはできない。

 

「クヨクヨしない。その2人とはダートプライドで走るんだから、その時に思う存分感じればいいでしょ。良かったわね、ダートプライドが開催されて」

「……それもそうだね」

 

 デジタルは顔を上げて起き上がる。その目には後悔はなく前を向いていた。

 

「よし、もしかしたらレースを見たら思い出すかもしれない。プレちゃんも南部杯見ようよ」

「しょうがない。付き合ってあげる」

 

 渋々という様子を見せながら肩を並べて映像を見る。画面を食い入るように見つめる横顔は以前と違っていた。

 相手の癖や弱点を見つけ出そうという競技者の目では無く、顔をニヤつかせながらウマ娘達の表情や躍動する肉体を眺めて楽しむ1人のウマ娘ファンに戻っていた。

 

───

 

「スぺちゃんは今日はどのコースですか?」

「坂路です」

「残念デ~ス。グラスと私はダートです」

「私はウッドチップ、坂路より楽できるからいいか」

 

 授業が終わり各チームのチームルームに向かうまでの道を同じクラスのスペシャルウィークとセイウンスカイとグラスワンダーとエルコンドルパサーは談笑しながら歩いていく。

 学園内でも屈指のビッグネームが集合していることもあり、周りのウマ娘から騒めきの声が聞こえてくる。

 

「トレーナーさん」

「おハナさんデ~ス」

 

 4人の目の前にスピカのトレーナーと東条トレーナーが居り声をかける。

 

「おう、スぺか」

「おハナさんと何を話してたんデスカ?まさか私達が走るレースのブックを考えて…」

「ただの世間話だ」

 

 東条トレーナーはエルコンドルパサーの言葉を遮るように否定し、グラスワンダーは即座にエルコンドルパサーの尻尾を握るとギャオンと叫び声があがる。

 

「ところでスぺちゃんやスピカのメンバーやグラスワンダーやエルコンドルパサーや他のメンバーはやっぱりWDTですか~?」

 

 セイウンスカイがトレーナー達に尋ねる。声は鷹揚だがその目には鋭さがあった。

 

「そうだ」

「ああ、ダスカやウオッカ以外はWDTだ」

「そうなんだ、めんどうだな~。勝てなさそうだし他のレースに出ようかな~」

「そうやって油断させようとしてもダメですよ」

「やっぱりバレてるか」

 

 グラスワンダーの優し気な顔浮かべながらセイウンスカイに告げる。その声にセイウンスカイは叶わないなというように頭に手を当てる。

 セイウンスカイはケガから復帰後好成績を残し、WDT出走者候補に名が挙がっていた。

 

「そういえばWDTで思い出しまシタ!次のレースはWDTではなくてダートプライドに出るのもアリかもしれマセン~」

「え!?出ないのエルちゃん?」

「BCマラソンでのティズナウのマイクパフォーマンス。あれを見てプロレス魂に火がメラメラです。それにダート世界最強決定戦と言っているらしいですが、世界最強はエルです!ティズナウにマスカラ・コントラ・カベジュラを挑んでヤリマス」

「マスカラ・コントラ・カベジュラ?」

「エルが負けたらマスクを外して、ティズナウが負けたら髪を切りマス。ルチャドーラにとってマスクは命そのものデス。剥がされたら恥ずかしくて外に出られまセ~ン」

「やめとおいたほうがいいよ」

「盛り上げるためならエルはやりマ~ス」

 

 スペシャルウィークの心配をよそにエルコンドルパサーは冗談か本気か分からない様子で騒ぐ、それをセイウンスカイは面白そうに、グラスワンダーはやれやれとため息をつきながら見ていた。

 

「やめておけエルコンドルパサー」

 

 東条トレーナーの言葉で和やかな空気が一気に変わる。その雰囲気を嫌ったのかスピカのトレーナーがおどけるように話しかける。

 

「エルコンドルパサーがサキー達と走るのを1ファンとしては見てみたい。それに本人の意志を尊重してやるのもトレーナーの仕事だろ」

「そうデ~ス。エルのプロレス魂を見せてやりマ~ス」

 

 エルコンドルパサーは思わぬ助け舟を得て意気揚々と喋る。だが東条トレーナーの人睨みで黙ってしまう。

 

「本人が本気で走りたいのなら意志は尊重する。だが今のエルコンドルパサーから本気で走りたいという意志が伝わらない」

 

 エルコンドルパサーは意気消沈する。ダートプライドに走りたいとは思っていなく、本命はグラスワンダーやスペシャルウィークが走るWDTだ。ただプロレスっぽいことをレースでしてみたかっただけだ。

 

「それに今から決めても勝てる相手とは思えない」

「エルは世界最強デス。どんな相手でも勝てます」

 

 エルコンドルパサーは勝てないと言われプライドが傷ついたのか語気を強める。

 

「まず体をダート用に作り替えなければならない。それには時間が足りない」

「エルはダートでも対応できます。ダートでも重賞を勝って、ヨーロッパの芝でも勝ってマス」

「共同通信杯は芝からダートへの急遽変更で参考外だ。そして欧州で勝ったからといって、ダートに通用するわけでもない」

 

 共同通信杯は本来芝を走るつもりで出走したウマ娘がダートを走ったレースで有り、本来のダート重賞やGIとはまるでレベルが違い参考外だ。

 そしてヨーロッパの芝は深くダートと同じようにタイムがかかるといってもダートを走れるかは別問題である。

 

「それに……」

 

 東条トレーナーの言葉が止まり目を見開きながら前方を見つめる。他の者もそれに釣られて視線を前方に向ける。

 前から悲鳴のような声が聞こえ、他のウマ娘が散り散りになっていく。何かクマでも出没したような様子だ。そして数秒後に他のウマ娘達の行動の意味を理解した。

 スピカのトレーナーは口に咥えていたキャンディーを地面に落とし、セイウンスカイとエルコンドルパサーはグラスワンダーの背に隠れて、グラスワンダーは思わず東条トレーナーの背中に隠れる。東条トレーナーの全身に悪寒が走り顔を引き攣らせる。

 ピンク髪のウマ娘が幽鬼のようにフラフラしながら歩いてくる。顔は完全に弛緩させ口からは涎を垂らし鼻から血を流している。

 それだけでも充分に恐ろしいのだが、何より恐ろしいのはその目だった。完全にトランス状態で明らかに常人がする目では無い。

 それは完全に触れてはならない者であり、ある意味熊よりも余程恐ろしかった。

 

「デジタルちゃん、ダメだよ。涎と鼻血が出てるよ」

 

 スペシャルウィーク何事もなく近づくとティッシュを手渡し話しかける。

 

「あっ、スぺちゃん。もしかして妄想してた?」

「うん。完全に自分の世界に入ってたよ」

「あ~やっちゃった。ヤマニンアリーナちゃんに偉そうなこと言ってたのに、ウマ娘LOVE勢失格だよ。ごめんねセイウンスカイちゃん、グラスワンダーちゃん、エルコンドルパサーちゃん」

 

 デジタルは正気に戻ったのかティッシュを鼻に詰めながら東条トレーナーの背に隠れているセイウンスカイ達を見つけ、ペコペコと頭を下げる。それを見てエルコンドルパサーが軽く悲鳴を上げる。

 

「でも元気そうでホッとしたよ。エイシンプレストンさんと喧嘩したって聞いて心配した」

「今はすっかり仲直りしたから大丈夫。スぺちゃんはこれからトレーニング?」

「そう、デジタルちゃんは?」

「教室に忘れ物したからトレーニング場から戻ってきて、気が付いたら妄想していてこの有様、最近は捗って困っちゃうよ」

 

 デジタルはタハハと申し訳なさそうに笑う。勝利中毒から抜け出した後は只管ダートプライド出走ウマ娘について調べた。

 そして調べれば調べるほど惹かれていき、今のデジタルの脳の大部分は出走ウマ娘達で占められていた。

 特にティズナウについては今まで一般常識程度にしか知らなかったので、両親にも協力してもらい本国の専門誌などを取り寄せるなどして、細かく深く調べた。

 インタビュー時に見せる凛々しい表情と溢れだす絶対的な自信がたまらない、そして話す言葉1つ1つに惹きつけられる。

 アメリカダートレース界に対する誇りと献身性、謂わば愛国心、それがBCクラシックを勝ち取る原動力となると同時に、人々を魅了し奮い立たせるエネルギーになっているが分かる。本国での人気も頷ける。

 そして愛国心と同時に孕む排他性、愛国心故にもしかするとティズナウは自分のように海外に渡った者を嫌悪しているかもしれない。その思想は理解できるものではないが、これは個性の一部だ。

 もし対面したらどのような感情をぶつけてくるのだろう?マグマのような憎悪か、氷のような軽蔑か、考えただけでゾクゾクする。

 

「てっ、言ってるそばからまただよ」

「あっ、気を付けないと」

 

 デジタルは妄想の世界から抜け出しスペシャルウィークに集中する。その後は二三言葉を交わすし歩き出す。注意が利いたのか、妄想の世界に入らず普通の状態で教室に向かって行った。

 

「スぺちゃん大丈夫ですか!?」

「何か呪いとかかけられてない?」

「何デスカ!?怖すぎデス!」

 

 3人はスペシャルウィークに駆け寄ると姦しくしながら心配し労う。その様子をトレーナー達は若干顔を引き攣らせながら見守っていた。

 

「よく話しかけられますね。正直言えば関わり合いたくない方です」

「友達選んだほうがいいよスぺちゃん」

「私も最初は驚きましたが慣れると大丈夫だよ。デジタルちゃんは自分に素直で可愛くて妹みたいです」

「あんな妹がいたら即絶縁デス」

 

 スペシャルウィーク達は姦しく会話しながらトレーニング場に向かう。その様子を数メートルほど下がった位置でトレーナー達は見守っていた。

 

「それで話の続きは?」

「なんのだ?」

「エルコンドルパサーがダートプライドで勝てない理由、準備期間やダートへの適応以外の問題もありそうだから」

「勝てないではなく、やりにくいだ。もしエルコンドルパサーがダートプライドとWDTのどちらに出走するか迷っていたらWDTを勧める」

「スピカのメンバーのほうが弱いと」

 

 スピカのトレーナーは挑発的に呟く。相手は世界屈指だが、出走するメンバーは劣っているとは思っていない。

 

「そうではない。スペシャルウィークを筆頭に強いのは重々承知だ。問題があるとしたら私だ」

「おハナさんの?」

「スピカのメンバーや他の出走メンバーはある程度能力や手の内を知っている。ある意味想定内だ」

「ゴルシとかオレでも未だに分からねえぞ」

「性格はともかく能力は分かる。だがダートプライドに出るウマ娘達はまるで分からない」

 

 東条トレーナーは思考を整理するように一息つき話を続ける。

 

「私もトレーナーを続けてレースを見て分析すれば誤差は有るが、どの程度走るかの最大値は分かるつもりだ。だがあの6人はこちらの想定した最大値を軽々と超える。それがフィジカルなのかテクニックなのかメンタルなのかそれ以外なのか、どの要素が彼女達の強さなのかいくら分析してもまるで分からない」

「なるほど未知への恐怖ということか」

「そうだ。あの6人を見ていると今まで培った経験や理論が粉々に砕かれるような錯覚に陥る。」

「俺もその感覚は何となく分かる」

 

 スピカのトレーナーは懐からキャンディーを取り出し口に咥える。

 アグネスデジタルとはそこまで関わっていないが、スペシャルウィークから聞いたトリップ走法を筆頭に他のウマ娘とは違う思考回路で、常識はずれの走りを見せる。

 サキーもドバイワールドカップでのラスト100メートルでの加速、あれも通常では考えられない走りだ。自分でも感じられるのだから、より詳細に分析できる東条トレーナーが恐れるのも無理はない。

 

「だがやりずらいと言っているだけで勝てないとは言っていない。サキーとチームのメンバーが走ることになれば、丸裸にして勝たせる」

「うちのチームのメンバーだって、サキーと走っても勝てるさ」

 

 東条トレーナーが目に光を宿らせながら宣言し、スピカのトレーナーも応えるように答えた。

 

 

──

 

「デジタル、こっちに苦情が来たぞ」

「はい、ごめんなさい」

 

 デジタルは自主的に正座しトレーナーの説教を受けていた。忘れ物をとってチームルームに入室して待っていたのは青筋を立てたトレーナーの姿だった。

 トレセン学園の生徒からの苦情が学園責任者に伝わり、責任者からトレーナーが叱責を受けていた。さすがにこの件は全面的に否があると思っているので、口答えせずにいた。

 

「まあまあ、トレーナー。それぐらいで、デジタルも悪気が有ったわけではないし」

「これでまた勝利中毒になったら、困るでしょ」

「それもそうやな」

 

 トレーナーはフェラーリピサとライブコンサートの言葉に納得したのか、説教を終了させる。2人はデジタルにウインクを見せ、デジタルは手を合わせて拝んだ。

 

「よし、じゃあ罰走1本でこの件は勘弁したるわ」

「ありがとうございます。それでどんな内容?」

「単走坂路一杯、残り3Fからトリップ走法でな」

 

 トレーナーの1言でチームルームの空気がひりつく。デジタルが勝利中毒になったことでトリップ走法が使えなくなっているのをチームメンバーは全員知っている。

 今は勝利中毒が解消され、いつものの雰囲気に戻っているが後遺症で出来ない可能性があり、ダートプライドで目的を達成できなくなることを理解していた。

 

「分かった。じゃあ坂路行ってくるね」

 

 デジタルは気負うことなく散歩に向かうような足取りでコースに出て行った。

 

「それで何で着いて来るんや?」

「メンバーの一大事ですよ。それは着いてきますよ」

 

 トレーナー達は坂路で走るウマ娘を見るためにスタンドに上がって様子を確かめる。

 上から双眼鏡などで眺めれば、横からでは見られない体全体の動きを見られる。他のもモニターで様子が見ることでき、計測チップを付けさせることで、タイムを計測されモニターに表示される。

 本来ならトレーナーしか入れないのだが、居ても立っても居られないとチームプレアデスのメンバーが押し寄せていた。

 トレーナーはスタンドに居る他のトレーナーに了承をえて、特別に見学の許可を得ていた。

 そしてデジタルが坂路を駆け上がり始める。2Fが経過してのタイムが出るがトレーナー達は全く見ていなかった。タイムはその日の体調次第で変わるので問題はない。問題はトリップ走法を使う残り3Fだ。

 

「他のウマ娘はどうでもええ!デジタルをずっと写さんか!」

 

 トレーナーの関西弁が移ったかのようにチームメイト達は声を出しながらモニターの様子を見る。他のトレーナー達は睨みつけるが、チームメンバーやトレーナーはデジタルの様子を見つめる。

 トリップ走法を使っているか否かは表情を見ればすぐに分かる。弛緩し恍惚の表情を浮かべていれば脳内麻薬がドバドバ出ている証だ。

 チームメイト達は歓声を上げる。モニターには常軌を逸した目でニヤついているデジタルの姿が映った。

 デジタルはその表情を維持しながら残り3Fを駆け上がる。タイムも最近では最速のタイムだ、チームメイト達はすぐにスタンドを駆け下り、トレーナーもその後を追う。

 

「デジタル完全復活じゃん」

「見事なジャンキー面だったよ」

「私達の変態勇者様が帰ってきた」

「デジタルさんはこうでないと」

 

 コースを外れたところでデジタルはチームメイト達に手厚い歓迎を受け揉みくちゃにされていた。

 トリップ走法はもはやデジタルの代名詞であり、一般人が引くほどのウマ娘愛の証明でもある。他の者には気味悪いが親しい者にとっては無くてはならないもので、デジタルのウマ娘愛漲る姿はもはや日常の一部になっていた。

 ゆえにデジタルが勝利中毒に罹っていた時はチーム全体の空気が悪くなり、元に戻るとチームが明るくなっていた。今のデジタルは周りに影響を与えるウマ娘になっていた。

 トレーナーはその様子を見つめながら感慨にふける。これで条件は整った。デジタルが勝利中毒に罹っている間何もしなかったわけではない。自力で治すと信じ、デジタルの目的が達成できる手段、トリップ走法の強化案を考えていた。

 



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勇者と隠しダンジョン#7

 駅構内から出ると手荒い歓迎のように秋風が吹き、思わず目を細め体をすぼめる。ドバイから来ただけあって寒暖差が激しく体にこたえる。後ろを振り返り『Morioka Station』の文字をまじまじと見つめる。ずいぶん遠くに来たものだと感慨にふけっていた。

 キャサリロはストリートクライと別れた後単身日本に向かった。目的はダートプライドに出走する。ヒガシノコウテイとセイシンフブキとアグネスデジタルをスカウティングするためである。

 ゴドルフィンも分析班が既にスカウティングをおこない出走メンバーを研究していた。本来ならキャサリロが出る幕は無い。

 だが自分にしかできないことがある。それが出来るかは分からないがやらなければ一生対等になれず、風下に立たなければならないと一念発起したのだった。

 キャサリロはリュックサックからノートを取り出しページを捲る。まずは盛岡レース場に向かってトレーニングしているヒガシノコウテイをスカウティングする。目的地までは直通バスが通っているらしく、停留所は東口8番というところらしい。

 案内板の案内図に書かれている英語と図を頼りに悪戦苦闘しながらも停留所に辿り着く、時刻表を見ると後15分で出るらしく、それまでの間秋風に耐えるように体を丸め左手をポケットに入れながら、右手で携帯電話を操作してバスが来るのを待った。

 そして25分経過するがバスは一向に来ない。キャサリロは何度も時刻表を確認するが、確かに10分前にはバスが来ているはずだった。何かしらの理由で遅れているのだろう。キャサリロは重く受け止めず、待ち続ける。だがバスはさらに10分経過しても来なかった。

 

「スミマセン、チョットイイデスカ」

 

 キャサリロは近くを通りかかった60代ぐらいの女性に声をかける。

 最初は出来る限り簡単な英語で尋ねたが理解できなかったようで、携帯の翻訳アプリを使いながら盛岡レース場に行きたいこととバスが来ないので困っていることを身振り手振りを交えながら伝えた。

 60代の女性はキャサリロの言葉を理解したのか手を叩くとレース、トゥデイ、ノーと簡単な単語と手を交差させてバツ印を作り、キャサリロは言葉の意味を理解して肩を落とす。

 

「ワイ、ドゥユウウォントゥゴウ、モリオカレースジョウ?」

 

 すると女性が拙い英語で尋ねてくる。何故盛岡レース場に行きたいのかと聞いているようで、彼女の英語能力に合わせて分かりやすい単語でヒガシノコウテイを見に来たと話す。すると女性は表情が一気に明るくなる。

 

「イエス!ヒガシノコウテイ、チャンピオン!ベリーストロング!OK!ミートゥー、ゴウ、モリオカレースジョウ。マイカーでトゥギャザー!」

 

 女性は身振り手振りを交えて話しかけてくる。どうやら彼女も盛岡レース場まで行くようで、ついでに連れて行ってくれるそうだ。

 キャサリロは逡巡する。いくら日本の治安がいいからと言って知らない人に付いていっていいのか?だが思考が纏まる前に女性が手を取ると強引に連れてかれ車に乗せられた。

 

「ヒガシノコウテイ、グッドレディ!ベリーカインドネス!」

 

 女性は車内で携帯電話を使ってレース映像を流しながらキャサリロに話しかけ続ける。

 日本人はシャイだと聞いていたが、この人は随分とお喋りのようだ。そしてヒガシノコウテイは随分と好かれているようで、言葉と話す時の表情と雰囲気で充分伝わってくる。

 そして流れている映像は最近行われた南部杯のようだ。レースはヒガシノコウテイが勝ち、強い勝ち方だったが、特筆すべきはアグネスデジタルとセイシンフブキにブーイングが飛んでいたということだ。日本ではブーイング文化は無く色々と物議を呼んだようだが、随分と甘っちょろいようだ。

 ストリートクライはBCマラソンでそれ以上のブーイングを浴び、放送禁止用語を交えた罵倒を浴びた。それでもレースでは完勝し、一方アグネスデジタルとセイシンフブキは負けた。日本のウマ娘はメンタルが弱いと評価を下していた。

 そうしているうちに盛岡レース場に着いたようで車を降りて場内に向かう。

 そこでも女性が案内してくれて、トレーニングが見やすい場所に案内してくれた。盛岡ではトレーニングも一般開放しているようで、女性のような一般人でも見学が可能になっている。

 しかしヒガシノコウテイやセイシンフブキが所属している団体はアグネスデジタルが所属している中央という主流の団体とは違い資金力が乏しいようだ。

 中央にはゴドルフィンには劣るが充実した設備があり、ポリトラックやウッドチップや坂路コースが有るがここにはダートコースしかない。

 こんな劣悪な環境では碌な人材が集まらず、来たとしても才能が錆びついてしまう。

 現にコースを走っているウマ娘達は見ただけで低レベルだと分かる。現役時代では碌に活躍できなかった自分にすら勝てないだろう。

 キャサリロはヒガシノコウテイが出てくるまで岩手のウマ娘のトレーニングを見学しているがやたら目線があう。

 外国のウマ娘が珍しいのかと思ったがそうではなく、隣の女性を見たついでに存在に気付いているようだ。岩手のウマ娘はおばちゃんと手を振りながら声をかけたりしている。

 他にも何人かのギャラリーに声をかけたりしている。どういう関係なのかと推測しているとその目線で気づいたようで拙い英語で説明する。

 

「ウィー ジョブ リタイア アンド フリーマン。アイ ウォッチ イワテウマムスメ トレーニング ロング タイム。アイム フェイマス。」

 

 キャサリロは単語を聞き取り、意味を推理する。どうやらこの女性は岩手のウマ娘のトレーニングをずっと見ているようで、そのうちに岩手のウマ娘達も存在を知っているようだ。

 それで長く見ているのは仕事を定年で辞めた。または仕事が無い暇人だから来られるといったところか、女性の外見を見るに仕事を定年退職していてもおかしくない。

 さらに反応を見る限り好感を持たれているようだ。暫くトレーニングを眺めていると女性が質問してくる。

 

「モリオカレースジョウ ナイスプレイス?」

「YES」

 

 キャサリロは僅かな間を作ってから答える。岩手のウマ娘達は皆楽しそうで、トレーニング中でもいい意味で笑いが絶えていない。

 ゴドルフィンに居た時の最初は希望ある未来が有ると信じて笑っていたが、負け続けると何とか勝たないと切羽詰まって笑わなくなっていた。正直現役時代は良い思い出がない。だがここに居たなら弱くても楽しかったのかもしれない。

 しかしここにはストリートクライは居ない。ゴドルフィンで一緒になり上がろうと過ごした日々は何物にも代えがたかった。実力差とすれ違いによって道は違えたが今はこうして一緒に過ごし、2人で見た夢の続きを見られている。

 感傷にふけっているうちにコースにヒガシノコウテイの姿が現れる。即座にリュックからビデオカメラを取り出し録画ボタンを押そうとするが思わず手が止まる。

 ヒガシノコウテイの隣にいる茶髪のベリーショートのウマ娘、あれはセイシンフブキだ。何故船橋所属のウマ娘がここにいる?思わず女性に尋ねる。

 

「シー スタディ アブロード」

 

 女性は携帯電話を操作した後に喋る。留学か、同じレースに走る相手と一緒にトレーニングするなんて相手に手の内を明かすことになるのではないか、いや逆に相手の手の内を調べようとしているのか?

 だがキャサリロにとっては好都合だった。これでわざわざ船橋に行かなくて済む。ヒガシノコウテイは女性に向かって一礼し、セイシンフブキはちらりと一瞥してからジョギングし始めた。

 トレーニングメニューはジョギングで体を温めてから、ずっとコースを走り続けていた。

 どのようなトレーニングをしているか興味が有ったが、工夫もなく練習強度もごく普通と言った内容だった。本当に勝つ気があるのか?

 だが気になるところがあるとすれば、セイシンフブキがヒガシノコウテイに向かって何度も叱責していることだ。

 ジョギングでも走りながら何かを話しかけ、トレーニングでも一本走るごとに話し続けている。まるでコーチと教え子のようだった。

 しかし何故ヒガシノコウテイが怒られているのかまるで分からなかった。ヒガシノコウテイの走りを見る限り悪い点は何もなかった。

 インターバルを挟んで2時間程度走るとトレーニングを終えて、コースから引き上げていく。キャサリロも引き上げようと席から立とうとすると女性が声をかけてくる。

 

「レッツ、スピーキング、ヒガシノコウテイ」

 

 そう言うと女性は半ば強引にキャサリロを連れていく。成すがままに連れていかれるとそこは駐車場でバスが停留し、岩手のウマ娘達が乗り込んでいる。このバスで此処に来たようだ。

 岩手のウマ娘はスタンド見ていたギャラリーと話したり、マスコミの質問に答えたりしていた。すると女性はヒガシノコウテイの元に真っすぐ向かって行き、ヒガシノコウテイも存在に気づく。

 

「今日もお疲れさまコウテイちゃん。フブキちゃんも今日もよくアドバイスしてたわね」

 

 女性は2人にフランクに話しかける。セイシンフブキはその馴れ馴れしさに戸惑い、ヒガシノコウテイは柔和な表情を浮かべながら対応する。

 

「こんにちは徳さん。今日も来てくれてありがとうございます」

「いいのよコウテイちゃん。それより今日偶然盛岡駅で出会ったの。どうやらコウテイちゃんのファンみたいで、わざわざアイルランドから来たのよ!えっと ワット ユア ネーム?」

「キャサリロ」

 

 キャサリロは咄嗟に名乗る。2人の会話は理解できていないが、ファンとアイルランドという単語から、どうやら自分はヒガシノコウテイのファンでアイルランドから来たということになっていることを理解した。

 

『お会いできて光栄です。ヒガシノコウテイです』

 

 ヒガシノコウテイは徳さんと呼ばれる女性より流ちょうな英語で話しながら手を差し伸ばし、キャサリロも手を握り返す。柔らかい雰囲気でファンサービスをおこなう。その姿はどことなくサキーの姿と重なっていた。

 

『どこで私のことを知ったのですか?』

『ネットの動画で、地方という弱い立場から強い中央を倒すのに感動しました』

 

 キャサリロは予め調べた情報からそれらしい理由を言う。その言葉にヒガシノコウテイの口角が僅かに上がる。

 

『トレーニングを見て岩手をどう思いました?』

『良い場所です。皆が笑顔で素敵だと思いました』

 

 その言葉にヒガシノコウテイは嬉しそうに微笑む。自分が褒められるより所属している場所を褒められることを喜んでいる。これだけでヒガシノコウテイという人間の一端が垣間見えた。

 

『貴方はどうして強いのですか?中央に居るウマ娘のほうが強いはずです』

 

 キャサリロは思わず尋ねる。これは純粋な疑問だった。トレーニングを見ただけでもヒガシノコウテイが身を置く環境が中央に劣っているのは分かった。

 施設もない他のウマ娘も弱い。何故ゴドルフィンという最高の環境に居た自分より明らかに強い。仮に資質が上だったらより良い環境に行けばいい。理屈が合わない。

 

『私は地方を愛しています。だからです』

 

 ヒガシノコウテイは即答する。その言葉はキャサリロにとって全く説明になっていなかった。すると黙って聞いていたセイシンフブキが不機嫌そうに急に話しかける。

 だが全てが日本語で全く理解できていなかった。するとヒガシノコウテイが自信なさげに通訳する。

 

『中央に居るから強いのではない。ダートに全てを捧げダートを理解したダートプロフェッショナルだから強いのだ』 

 

 キャサリロは首を傾げる。ダートプロフェッショナルが強いのと、中央に行かないのは関連性が見いだせない。仮にダートに全てを捧げた者が2人居たら設備や人材が充実している中央でトレーニングしたほうがいいのではないか?

 そのことを伝えるとセイシンフブキはキャサリロに語気を荒げながら喋りかけ、ヒガシノコウテイが宥めながら頭を下げる。雰囲気を察したキャサリロと徳さんはその場から去っていった。

 

───

 

 セイシンフブキは深呼吸をしながら集中力を高め、バーベルを握り一気に持ち上げる。ベンチプレス、代表的な筋力トレーニングの1つである。バーベルは天井に向かうように上がっていくが徐々に勢いがなくなっていく。

 

「どうしたセイシンフブキ君!それじゃあヒガシノコウテイ君やダートプライドに勝てないよ!」

 

 隣で補助をしているインストラクターから檄が飛ぶ。それを起爆剤にするように力を振り絞り一気に持ち上げる。それを見てインストラクターは褒めながらバーベルを支えラックに誘導する。

 セイシンフブキとヒガシノコウテイは盛岡レース場でのトレーニングが終わった後トレーニングジムに向かい、フィジカル強化を行っていた。

 このジムは岩手ウマ娘協会と提携し、所属のウマ娘達もトレーニングをしている。そしてセイシンフブキもヒガシノコウテイに技術を教える見返りとして、このジムでトレーニングをしている。

 ヒガシノコウテイが学んだ知識や技術を基にインストラクターが組んだプログラム、フィジカル強化については専門外だが、我流でやっていたトレーニングより明らかに質が高かった。

 セイシンフブキは同じようにベンチプレスを行うヒガシノコウテイを横目に見る。

 自分より重い重量を持ち上げている。プログラムのメニューをこなしているが、全ての種目においてヒガシノコウテイの数値が高かった。

 日々のトレーニングでは技術習得に重きを置きフィジカル強化をしていなかったのである意味妥当なのだが、同じような環境で育ったウマ娘に負けるのは悔しかった。

 トレーニングはインターバルとなり、セイシンフブキとヒガシノコウテイは隣に座り休憩する。

 

「ヒガシノコウテイさんは英語できるんっすか?」

「ええ、ペラペラではないですが、授業で教わったことは話せます」

 

 セイシンフブキは何気なく話しかける。一昔前まではお互いの主張を認められず2人の関係は良好では無かった。今はお互いを認め合いあい態度を軟化させていた。

 

「そういえばダートプライドの方はどうなってるんっすか?そっちの広報が色々動いているって聞いてるけど」

「ええ、広報の吉田さんが色々動いてくれているようで、まずダートプライドの同日に地方の全てのレース場でレースを行うように調整して、メインレースでは新設の地方重賞をするそうです。さらに各地方協会ごとにイベントを行って人を集めるように呼び掛けているみたいです。」

「イベントって前の南部杯みたいにっすか」

「はい。様々なイベントをして、レースに興味がない人を呼ぶのが狙いみたいですね。今も吉田さんが音頭を取って各方面に交渉中みたいです」

「色々やってるっすね」

 

 セイシンフブキは感心そうに呟く。アジュディミツオーに南部杯では様々なイベントをして、客入りも地元の船橋で行ったGIかしわ記念より多かったと聞いていた。

 

「そして新設の地方重賞の後にダートプライドの映像を各レース場のオーロラビジョンで流すそうです」

「パブリックビューイング的なあれですか」

「はい。勝って皆さんを喜ばせてあげたいですね」

 

 ヒガシノコウテイはしみじみと答える。幼い頃サッカーの日本代表がワールドカップに初出場した時に近くの食堂で皆が集まり一緒に見たことを思い出す。

 サッカーには興味が無かったが友人に連れてかれて見たが、試合に勝利した時の喜びようと高揚感は今でも覚えている。

 それは一種の祭りのようだった。自分が勝てばその時と同じような歓喜を観客に体験させられ、レースに興味を持たせることができる。

 

「あとオフレコですが、テレ夕でダートプライドを生放送で流すみたいです」

「マジっすか?民放のゴールデンじゃないっすか。それもその吉田さんが?」

「みたいですよ」

「敏腕じゃないですか」

「テレビ業界でも色々あるみたいです。それでテレビ局とこちらにとっても利益があるということで、やるみたいです」

 

 セイシンフブキは感嘆の声を上げる。国民的エンターテイメントにまで成長したトゥインクルレースだが、地上波で放送している局は国営放送とテレビ夕日とテレビ東都の3局のみである。

 これは発足当時に中央ウマ娘協会とこの民放2社と国営放送が独占契約を交わした影響である。

 放送すれば高視聴率を出すトゥインクルレースはまさにドル箱であり、他の民放局も何として参入したいと考えていた。

 一時期は地方を放送しようと考えていたが中央と比べると人気が無いので、他の放送局は特に参入せずテレビ夕日もその1つだった。

 そんなおり広報の吉田はコネを最大限に駆使してダートプライドを売り込んだ。そしてテレビ夕日の上層部が興味を示す。

 レースが開催されるまでの過程がエンターテイメント性が富み、参戦メンバーも世界的な視点で見ればWDTより豪華と言える。この面を押し出せば高視聴率を狙えると踏んでいた。

 

「まあ、注目されることは悪いことじゃない。注目される分だけ勝てばダートの価値が上がる」

「ええ、そして地方の価値が上がります。そのためにトレーニングに励みましょう」

「そうっすね」

 

 2人は話を切り上げると立ち上がり、トレーナーの元に向かった。

 

───

 

「しかし、あの外人はまるで分かってねえ。ダートが強いのに中央かどうかは関係ねえんだよ」

 

 2人はウォームアップのランニングをしながら会話する。今日もキャサリロはスタンドから双眼鏡を使いながら真剣に2人を眺めていた。それを確認したヒガシノコウテイは思い出したかのように不満を漏らす。

 

「そうですね」

 

 ヒガシノコウテイはしっかりした声色で相槌を打つ。常識的に考えれば環境が良い中央でトレーニングしたほうが強くなれる。

 だがメイセイオペラやアブクマポーロのように中央を打ち負かすウマ娘も出てくる。世間一般は突然変異の一言で片づけるだろうが、そうではないと考えていた。

 ヒガシノコウテイとメイセイオペラは地方の為にという強い愛着で強くなった。そしてセイシンフブキは別の要素で強くなった。

 

 セイシンフブキがよく口にするダートプロフェッショナルという言葉、一緒にトレーニングをすることで徐々にその言葉の意味が分かってきた。

 フィジカルは自分より劣り、中央のGIウマ娘より劣っているかもしれない。だがそれらの相手に対等に渡り合っている。それは技術の高さ、セイシンフブキの言う正しいダートの走り方を習得しているからだろう。

 コースでのトレーニングでセイシンフブキからアドバイスを受けてきた。その言動は荒々しいがアドバイスは的確で、時には深すぎて意味を理解できないこともある。

 ヒガシノコウテイもダートを主戦場とし、ダートについては分かっているつもりだったが、比べるとダートへの理解が浅いことを理解した。

 これがダートに全てを捧げた者の領域、以前この領域にはたどり着けないと言われ怒りを覚えたがあながち間違ってはいなかったのかもしれない。アドバイスが無ければダートプロフェッショナルという領域に踏み入れることができなかった。

 ヒガシノコウテイにも領域に踏み入れたことでダートプロフェッショナルであるという誇りが徐々に芽生えていた。

 そして理由は分からないがセイシンフブキがこの領域に辿り着けたのは地方に在籍していることと無関係ではないと考えていた。

 

 中央は全てが与えられる。充実した設備、難関試験を突破した優秀なトレーナー、レースを走る者にとっては最高の環境だ。

 一方地方は設備が乏しく、トレーナーも給与が高い中央に人が集まるのでレベルも低い。そしてそこに集まるのは中央の試験に弾かれ、劣っている者である。

 地方は何も与えられない環境である言っていい、そして地方はウマ娘達に劣等感、怒り、嫉妬、屈辱と呼ばれる負の感情を与える。大半のウマ娘は負の感情に耐えられず自身を悲観し諦念する。だが一部の者は負の感情を反骨心に変える。

 貪欲に強さを得ようとするハングリー精神、その反骨心を作る土壌が地方には有る。そしてメイセイオペラもヒガシノコウテイも尊敬するトウケイニセイが中央に負かされた怒り、岩手のタイトルを取られ続ける屈辱、それらの負の感情を力に変えていた。

 

「そこは盛岡なら5センチ歩幅を広げろ」

 

 セイシンフブキは淡々と指示を送り、ヒガシノコウテイは黙って頷き指示に従う。修正箇所を見つけるごとに指示を送り続ける。纏わりつく緊迫感に他のウマ娘達は2人から距離を離してトレーニングしている。

 セイシンフブキは並走しながら様子を確認する。他の者から見れば指示は嫌がらせのいちゃもんに聞こえるだろう。だが本人としては真っ当な指示を出していた。

 ヒガシノコウテイの走りは一般的に見れば充分に完成している、だがセイシンフブキから見ればダートプロフェッショナルという山の5合目に入っているに過ぎない。それほどまでにダートは高く深い。

 2人でトレーニングを始めたが指示は一向に減らない。だがこれは欠点を修正できていなのではなく、指摘された欠点はしっかりと修正している。これはセイシンフブキがより細かく指摘しているからである。

 他のダートウマ娘ならここまで細かい欠点を指摘しても修正できないが、ヒガシノコウテイほどにダートを理解しているなら修正できると分かっているからである。

 ダートプロフェッショナルの端くれとして一目置いていたが、ここまでとは思っていなかった。これなら本番までに高いレベルまで理解できるだろう。

 そして走りを確認しながら肉体を確認する。バランスよく鍛えられた肉体だ。フィジカルは明らかに上だ。

 このフィジカルにダートへの理解度が加わる。自分は敵に塩を送りすぎたのではという危惧が頭に過る。だがそれをすぐに打ち消した。

 こちらもフィジカルは向上している。何よりダートへの探求に底は無い。相手がが理解した分、こちらもまたダートを理解する。

 その差は縮まらない、いやダートへの情熱が上の分差が開いていく。ならば問題ない、勝つのは自分だ。

 

「そこのカーブは2°体を左に傾けろ」

 

 指示を出しながら思考を続ける。ダートレースに勝つためには中央か否かではなく、どれだけダートを理解したプロフェッショナルであるかどうかが重要である。今ではフィジカルなどの他の要素を鍛えているが、考えの根幹は変っていなかった。

 セイシンフブキはキャサリロにダートプロフェッショナルに中央や地方は関係ないと言ったが、少しだけ考えを改めていた。地方のほうがダートプロフェッショナルを育てやすい環境にある。

 中央には多くの選択肢がある。トレーニングでも充実した設備を駆使したフィジカル強化、コースも坂路、芝、ウッドチップ、ポリトラックなど多種にわたる。レースもダートだけではなく芝を走るという選択肢もある。

 一方地方には選択肢が無い。ジムの設備も質が悪く、トレーニングもレース場のダートコースを走るしかない。その選択の無さがダートに深化させる。   

 選択肢がないから没頭し道を究められ強くなれる、逆転の発想だ。地方に行ったのは芝至上主義に嫌悪したからだが、無意識にこの要素を感じ取ったのかもしれない。

 ダートプライドに勝つために貪欲に強さを求め、ヒガシノコウテイの地方の為に走る強さに着目していたが未だに理解できていなかった。

 しかし今なら少しだけ理解できていた。地方の為ではない、地方というダートプロフェッショナルを育む文化のために走る。

 今後も自分と同じように考え、中央では無く地方に身を投じる者がいるかもしれない。だが結果が出ていなければ考えを改めるだろう。

 その者のために間違っていないと証明する。これがセイシンフブキの地方の為という理由であるという考えに至っていた。

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキは互いの主張を理解し感化され、それらを力に変える術を身に着けつつあった。

 



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勇者と隠しダンジョン#8

 キャサリロはアグネスデジタルに促されてベンチに座る。そこはコースに程近く、トレーニングをするウマ娘をよく見られるベストスポットと呼べる一帯だった。

 周囲のベンチには別のチームのトレーナーが険しい視線をコースに向けながらも、訝しむように2人をチラチラと向ける。

 キャサリロはウマ娘なのにトレセン学園の制服もジャージを着ておらず、普通のマスコミが居るより不自然であり、その相手とデジタルが会話を交わしていることが気になっていた。

 

『なにか欲しいものある?』

『いや、特には』

『分かった。何か必要だったら言ってね。じゃあね』

 

 アグネスデジタルは気さくに言葉を交わすとコースに戻っていく。余りに事が順調に進んでいることに拍子抜けしていた。

 

 キャサリロは日本に向かう前にスカウティングの件について悩んでいた。岩手でのスカウティングは難なく行えるだろうが、問題は日本の総本山である中央トレセン学園だ。

 そこは岩手と比べても遥かにガードが固く、ゴドルフィンスタッフですらスカウティングができなかった。そんな場所に行っても門前払いである。

 やるとしたら学園に忍び込んで隠し撮りをするという方法があるが、これは不法侵入と盗撮で立派な犯罪行為だ。

 もし見つかれば個人の問題では済まされず、ゴドルフィン全体の問題に発展する。ゴドルフィンはともかくストリートクライに影響が及ぶ可能性があり避けたかった。

 個人の力ではどうやってもスカウティングが出来ない。そこで藁をも縋る想いで頼ったのがサキーだった。

 サキーは全てのウマ娘と関係者の幸福を願い、特に身内に対しては親身になって相談にのり対応してくれる。何よりアグネスデジタルとは友人だ、その交友関係を利用して何かしら出来る可能性がある。

 サキーはキャサリロの相談に快く応じアグネスデジタルに連絡を取った。軽く世間話をした後にキャサリロがデジタルをスカウティングしたいのだが、トレセン学園に入れないので何とかならないかと一切オブラートに包まず相談した。

 キャサリロはそのド直球さに思わずに睨みつけてしまう。だがサキーは大丈夫だとジェスチャーをしながら会話を続け相槌を数回打って電話を切って伝える。

 トレセン学園に行く日時を伝えてくれれば、アグネスデジタルの方で手続きをしてくれるそうだ。

 キャサリロは思わず声を出す。頼んでおいて言うのは何だが、敵が偵察に行きますよと言って了承するだなんて、ストリートクライの事を舐めているのか。

 サキーは心中に気づいたのか、クスクスと笑いながら言う。困っているウマ娘がいれば助ける。それがアグネスデジタルというウマ娘だと。

 それから日本を発ち盛岡でのスカウティングが終わり、トレセン学園に行く日時をサキー経由で伝え、トレセン学園に向かい堂々と敷地内に入っていった。

 

 キャサリロは思う存分スカウティングした。走る姿を水平視点や俯瞰視点、上下前後左右ありとあらゆる角度から撮影する。これほどまでの詳細で映像記録はゴドルフィンのスカウティング部門で撮れていない。

 そして何本目かの追切りが始まる。坂路6ロンで5バ身前にウマ娘を置いておいてスタートする。残り2ハロンで追いつき、1ハロンで2バ身の差をつけた。

 今までの走りとは明らかにキレが違っていた。顔がにやけ恍惚とした表情を浮かべていた。デジタルはトリップ走法を使い、それはゴドルフィンではラフィング走法と呼ばれていた。

 それからデジタルはトレーナー元に駆け寄るとPC画面を見ながら何か話し込み、暫くすると他のウマ娘達がトレーニングしているなか、1人だけコースから離れてクールダウンを始める。キャサリロはその間に録画した映像をチェックする。

 

「おまたせ、じゃあ行こうかキャサリロちゃん」

 

 20分後にデジタルはキャサリロの元に来ると先導して歩き始める。

 暫く歩き誰も居ない夕暮れの教室に向かい、キャサリロを座席に座らせると近くにある机をくっつけて対面に座り、机の真ん中にレコーダーを置きスイッチを押した。

 

「さあ、ストリートクライちゃんの話しを聞かせて」

 

 デジタルはトレーニングを見せる手筈を整える条件としてあるお願いをした。それはキャサリロにストリートクライの話を聞かせてもらうことだ。

 以前にもトリップ走法の強化の為に船橋と盛岡に赴いて、ヒガシノコウテイとセイシンフブキに話を聞いたことがあった。

 今回もストリートクライについて知りたいと思っていたが、流石にドバイまでは話を聞けないと諦めていたところにサキーから依頼が有り、渡りに船と交換条件を提示し了承した。

 キャサリロはストリートクライについて話し始めた。最初は好きな食べ物や趣味などある程度調べれば知れる情報から話し始めたが、そこから発展するエピソードは当事者同士でしか知り得ないものだった。

 

 それから過去のエピソードを話す。小学校のころ遅刻して怒られたなど些細なエピソードも多かったが、デジタルにとっては非常に満足できるものだった。

 デジタルはウマ娘のパーソナルな情報を求める。レースについては一切聞かず、そういった情報を知ることでより愛着が湧き、深く知ることができると考えている。

 キャサリロはヒガシノコウテイやセイシンフブキと違い、お喋りなせいか話題を提供しなくても自分から話してくれるので、聞き役に徹して目を輝かせながら話を楽しんだ。

 

「よし、ここまで。ありがとうキャサリロちゃん。話を聞けて楽しかった」

 

 レコーダーを切るり息を吐くと、キャサリロも喋り疲れたのか深く息を吐いた。もっと話を聞きたかったのだが、この後に予定が有るのでもっと話が聞きたいと後ろ髪を引かれながら席を立つ。それを見てキャサリロが話しかける。

 

「まだ話のストックは有りますが」

「そうなの?でも話を聞きたいけど明日ぐらいには帰るんでしょう」

「アグネスデジタルさんが聞きたければ帰国を延期できますが?」

「そうなの!?じゃあ話が尽きるまで聞いちゃおうかな?」

「アグネスデジタルさんが望むなら」

 

 デジタルは冗談ぽく言うとキャサリロは人当たりが良い笑顔を浮かべた。

 今日は貴重なデータを撮れたが、データは有れば有るほど良い。名残惜しそうにしているのを察知し、すかさず交渉に及んでいた。

 それから教室を出るとキャサリロを正門迄送り学園内に戻っていった。

 

 トレセン学園では日が落ちても照明が点灯し、一部のコース以外ではトレーニングが日中と同じように可能である。

 日中に比べると人は少ないがそれでも何人かのウマ娘達がトレーニングをしていた。そしてその中にデジタルとエイシンプレストンも居り、一緒にウォームアップをしていた。

 

「どうやった?」

「いや~良い話を聞けたよ。ストリートクライちゃんが益々好きになっちゃったよ。しかもまだ話のストックが有るからって、明日も話してくれるんだよ」

 

 トレーナーの問いにデジタルは満面の笑みで答える。思わぬおかわりが貰えて嬉しいと言ったところか、正直なところ好ましい展開では無く、相手に与えるデータは少なければ少ないほど良い。

 本当ならこの提案すら拒否したいところだが、優先するのはモチベーションであるので渋々了承した。

 

「じゃあ気分良いところで2部練習始めるか、ほれ」

 

 トレーナーはデジタルにハチマキを渡すとデジタルの走りを記録する為にスタンドに向かった。それを受け取り、ダートコースに入るとハチマキを額では無く目を隠すように巻いた。

 

「じゃあプレちゃん何か有ったらよろしく」

「はいはい」

 

 デジタルはそのままジョギングを始めプレストンは併走する。

 他のウマ娘達がデジタルを抜き去っていくなか、自分のペースを守ってゴール板を通過する。そして近くに置いておいたノートPCを開き映像データを再生する。

 画面には走っているデジタルとモデリングされた人型が重なり合って走っている映像が映っていた。

 

「う~ん、相変わらずバラバラだ」

「でも少しずつ合ってきてるよ、腕をもう少し振ったほうがいいんじゃない」

 

 デジタルとプレストンは映像を見ながら話し合う。人型の立体映像はトレーナーが研究して導き出したデジタルの理想的なフォームである。

 その映像と限りなく走れるようにするのがこの練習の目的であり、トリップ走法の強化に必要なことだった。

 

 レースに出るウマ娘達は力を出来る限りロスすることなく伝えられるランニングフォームを作っていく。

 人は全力を出せば出すほど精密な動作が出来なくなり、理想的なフォームが崩れていく。そして長年かけて全力で走っても崩れないフォームを構築していく。

 トリップ走法は脳のストッパーを外して余力を全て出し尽くす走りであり、出力が上がることで結果的に通常時より速くなる。だが精密な動作が出来ず、通常時より力をロスしている。

 もしトリップ走法を使いながら理想的なフォームで走る事ができれば更に速くなる。それがデジタルの伸びしろである。

 

 トレーナーはトリップ走法の改良に着手する。全力で走りながらウマ娘のイメージを作り上げることは脳を酷使している。例えるならPCの容量を大量に使うアプリのようなものだ。その状態でフォームに気を使う脳の容量はない。

 ならば容量を限りなく小さく、無意識でも出来るように体にしみ込ませる。そのためのトレーニングの一環として目隠しでのジョギングである。

 人間は自身が思っているように正確に体を動かせてはいない。そのズレは視覚を遮断する事でより顕著になる。

 自分の全体像は見えなくとも、無意識ながら視野に入る腕の振りや上がった太腿を見ることで体の動きを修正している。

 作り出した理想のフォームと目を隠した状態で、走ったフォームと照らし合わせて修正する。それを続けることで体を精密に動かせる身体操作能力を養う。

 このトレーニング方法はまだ検証もしていない仮説に過ぎず効果が有るかどうかは分からず、それどころか通常時のフォームが崩れ逆効果になる可能性がある。

 そのことをデジタルに伝えたが二つ返事でトレーニングを実施すると言う。それを見てトレーナーも覚悟を決めた。

 

「じゃあ次はアタシの番、ハチマキ貸して」

「はい」

「じゃあ、スタート」

 

 2人はスタート地点に戻るとプレストンがハチマキで目隠しをして走り始め、デジタルが併走する。

 目隠しをした状態で走れば蛇行し、他のウマ娘が寄れるなどして接触して事故が起こる可能性が有る。それを防ぐ為に併走して事故を防ぐようにしている。

 トレーナーはこのトレーニングにおいてプレストンをコーチの役割として誘った。

 トリップ走法の改良の一環でデジタルにトリップ走法のようにリミッターを外す走りをしているウマ娘が居ないかと訊いた際に、香港クイーンエリザベスの時のプレストンがそうだったと答えた。

 そして映像を見ると有るポイントに注目した。プレストンのフォームが最後まで乱れていない。その言葉が本当ならプレストンはリミッターを外していた。

 流石にデジタルほどリミッターを外せていないだろうが、それでも比べると遥かに乱れていなかった。

 以前からプレストンのランニングフォームの精密さを評価し、ある意味デジタルの進化系であると考えていた。そのプレストンとトレーニングすればより成長できるかも知れないと考え、プレストンとトレーナーを説得して参加してもらった。

 トレーナーの予想通り、このトレーニングにおけるプレストンの熟練度はデジタルを上回っていた。

 デジタルはランニングでも通常時のフォームで走れていないが、プレストンは7割ほどの力なら目隠しでも通常時と同じフォームで走れる。恐らく体を精密に動かす身体操作能力が抜群に高いのだろう。

 デジタル達は目隠し状態で数回ほど走ってトレーニングを終える。始めた当初は数をこなしていたが、それだと集中力が散漫になり効果が薄いということが分かり、回数を絞っていた。

 

「お~い、そろそろレース始まるぞ」

 

 トレーナーはスタンドからコースに降りて雑談しているデジタル達に声をかける。3人はトレーナーの元に駆け寄りPCの画面を見つめる。

 画面にはレース場と各ウマ娘達がゲート入りしている姿が映り、実況は英語で喋っている。これはアメリカで行われているダート2000メートルGIクラークハンデである。

 本来ならばクラークハンデはダート1800メートルであった。

 だがティズナウがダートプライドの為の復帰戦として出走すると表明すると、レースを運営しているケンタッキーウマ娘協会が距離を2000メートルに変更すると発表していた。これは少しでもダートプライドと同じような条件にしようという運営側の配慮だった。

 アメリカはそれぞれの州にある組織が運営をして、日本と比べれば多少の融通は利くのだが、1人のウマ娘の為にレースの条件を変えるということはそうそう無い。

 だがティズナウというウマ娘というカリスマとゴドルフィンに勝利してもらいたいという想いからそうさせた。

 そして画面では出走ウマ娘の1人の蹄鉄が外れるトラブルが発生したようで打ち直しており、発走が遅れていた

 

「はい、発走までいつものやるよ」

「え?今やるの」

「時間を無駄にしない」

 

 デジタルは目を瞑ると腕を目一杯広げて、ゆっくりと閉じて手を合わせる。右手と左手はぴったりと合わず、数センチ指同士がズレていた。その動作を何回も繰り返し、プレストンは正面に移動して眺める。

 

「ダメだ。ズレまくりだよ」

「まあ、最初よりマシになったんじゃない。最初は手を合わせるとズレすぎて、指と指の間に挟まってたし」

「何でプレちゃんできるの?」

「日々の努力と才能かな」

 

 プレストンはおどけるように言いながら、目を瞑りより速く同じ動作を繰り返す。指同士は数ミリの誤差もなくピッタリと合わさっていた。

 これはプレストンから教わった身体操作能力向上トレーニングの1つである。視覚を断った状態でイメージ通り体を動かす。今やっているトレーニングも目的と同じである。

 手を合わせるスピードが速ければ速いほど難易度が上がる。これだけでプレストンの身体操作能力が高い事が分かる。

 さらに腕を広げ人差し指だけ立てながら閉じる。左右の人差し指はぴったり合う。これはデジタルがやっている動作よりさらに難易度が高い。

 トレーナーはその様子を見て感心する。実際にやってみたが中々指がピッタリと合わさる事はない。それを苦も無くやっている。

 このトレーニングはプレストンが習っている武術の指導者が考案したらしい。このトレーニングを行えば身体操作能力は上がるだろう。改めて他のジャンルから何かを取り入れる重要性を実感していた。

 

「しかしGIでハンデ戦ていうのも面白いですね」

 

 プレストンは画面を見ながら率直に口に出す。ハンデ戦とはハンディキャップ競争の略称であり、そのレースに出走するウマ娘のなかで実績が優れていると判断されたウマ娘に斤量を課す。

 そうすることで能力が均等化され勝敗が読みづらくなり、興行としてのエンターテイメント性が上がる。日本にもGⅡやGⅢではハンデ戦のレースは有るがGIでは無い。

 

「そして凄い熱気、ブリーダーズカップ並」

 

 プレストンは画面に映る満員の観客席を見て思わず呟く。普通のハンデGIではここまで人が集まることはない。全てはティズナウの影響か。

 故郷のアメリカに帰った際にティズナウの人気ぶりは聞き、その人気は歴代最高という声も上がっていたが、この客入りを見れば納得である。

 実際昨年の数倍の観客が入場している。レースは興行でも有り、ティズナウが出走するとしないでは入場者数やグッズの売り上げなど収益が文字通り桁外れに違う。レースの距離を変えたのは出走してもらうためには少しでも好条件にしようという目論見もあった。

 

「でも他のウマ娘達はギラギラしてる」

 

 ティズナウは謂わば稀代のアイドルウマ娘だ。そのウマ娘と一緒に走ることになれば競技者ではなく、ファン目線になっても責めることはできない。だが憧れの感情は一切見られず全力で勝ちにいこうとしている目をしている。

 それには理由があった。ティズナウがクリークハンデに出走すると発表した際にある言葉を告げる。

 

───レースに出走するウマ娘達に頼みがある。レースに出る際は憧れなどの感情を一切捨て、全力で勝ちに行って欲しい。

 憎きゴドルフィンのウマ娘達に勝つためにはよりタフなレースをする必要がある。それにはキミ達の力が必要だ。全力で勝ちいく走りは100の応援の言葉より心に響くだろう。

 

 それは明らかに上から目線の言葉だった。絶対に勝つという前提で話し、他のウマ娘を練習相手としか考えていない。まさに唯我独尊、普通なら顰蹙を買うはずなのだがそうではなかった。

 BCクラシックというタイトルは他国のウマ娘が考えている以上に重いものであり、それを他国のウマ娘から守り抜いた功績は大きい。

 さらに去年のBCクラシックは走りもそうだが、アメリカが暗く沈んでいるなか、アメリカから敵視されているUAEに本拠地を持つゴドルフィンのウマ娘が来襲し、それを退ける。

 まるで神が書いたようなシナリオである。その1戦だけで伝説になるには充分であり、現役のウマ娘の多くが憧れを抱いていた。

 その憧れから全力で挑んで欲しい、そのほうが応援の言葉より嬉しいと言われたのだ。憧れを持っている者ほどやる気を漲らせた。

 

 レースは熾烈を極めた。ティズナウは逃げウマ娘であり、スタートからハナを主張し逃げを打つ。レースを走るウマ娘達には選択肢が2つあった。ティズナウに着いていくが控えるか。

 

 ペースに付いていけば逃げ先行グループが潰され、差しや追い込みのウマ娘達が有利になる。所謂前総崩れになりやすい。

 だが勝つにはティズナウを楽に逃げさせず常にプレッシャーを与え続けるしかない。だが力尽きれば待っているのは惨敗である。

 そして控えれば勝つ可能性は限り低くなるが、他のウマ娘達が潰れていくので2着になれる可能性が高まる。

 普段であればウイニングライブ圏内や掲示板圏内を狙う、着狙いを目論むウマ娘達も居ただろう。だがティズナウの言葉を聞いて全てのウマ娘達が勝ちを狙いに行った。

 レースは追い込みや差しが無い全員逃げ、ティズナウに着いていけなくなった者から脱落していくサバイバルレースと化した。

 ゴールに近づいていくにつれ1人、また1人と脱落していく。レースはティズナウが最後から最後まで先頭を譲らずハナ差で勝利した。

 レースは究極の消耗戦となり、ゴール板を駆け抜けたウマ娘達はフラフラと蛇行し、次々にその場に崩れ落ちる。まさに死屍累々だった。

 ティズナウはゴール板を駆け抜けてから勝利を誇示せず、踵を返すようにゴール板に戻り、倒れこんでいるウマ娘達を抱き着きながら言葉をかける。

 

───全力で勝ちにきてくれて、ありがとう。最高にタフなレースだった。キミの走りが私をさらに強くしてくれた。ゴドルフィンには必ず勝つ。そしてキミがアメリカを勝たせたんだ。

 

 勝者が敗者を讃えるスポーツマンシップ溢れる姿にレース場の観客たちはスタンディングオベーションで賞賛した。

 

「なんか、こう思ったより普通」

 

 エイシンプレストンは拍子抜けといった具合に息を吐く。レース内容は逃げウマ娘にとって厳しい展開だった。だがアメリカダート最強のウマ娘という特別ならならもっと差をつけて勝つと思っていた。

 

「どう思うデジタル?」

 

 デジタルに話を振ろうと視線を向けるが興奮状態なせいか息を切らし、『マジ尊い』『アタシもティズナウちゃんに抱かれたい』とレース内容そっちのけで見つめ、妄想を捗らせていた。その様子を見てトレーナーに視線を向ける。

 

「いや充分凄いぞ、ブリーダーズカップの後やし、1線級は出走しとらんが大半のウマ娘はこのレースを目標にしとる。一方ティズナウは復帰戦でダートプライドに向けての叩きや。しかも2着のウマ娘とのハンデ差5での勝利は凄いで」

「5!?」

 

 プレストンはトレーナーの言葉に思わずオウム返しする。ハンデ1ごとに1バ身の差がつくと言われ、単純計算すれば5バ身差のハンデを覆しての勝利になる。GIで5バ身差は中々つかない。これは普通という前言を撤回しなければならない。

 

「それに復帰明けでさらに調子を…」

 

 トレーナーは喋るのを辞めて映像を巻き戻すと、頭を画面に近づけてレースを見始める。

 それはレース内容を見ると言うより、何かを凝視しているようだった。確認が終わると頭を画面から話すと顔が若干引き攣っていた。

 

「どうしたのですか?」

「ティズナウは充分凄いと言ったがそんなもんやない。かなりエグい。正直ここまでとは思わんかった」

「何がエグいんですか?」

「ティズナウはスパイク蹄鉄を履いておらん」

 

 ふとレース映像を見た際にティズナウの靴裏の蹄鉄が他のウマ娘と異なっていた。何となく気になったので、靴裏をずっと凝視することでその事実に気づけた。

 

「それが?」

「アメリカのダートをウマ娘は皆スパイク蹄鉄を履く、エイシンプレストン君はピンと来ないかもしれんが、そのほうがグリップが利いて速くなるからな。だがティズナウは日本のウマ娘が履くような普通の蹄鉄で走っとる。つまりダブルハンデ戦やな」

「それでスパイク蹄鉄が有るのと無いのではどれぐらい違うんですか?」

「およそ5バ身差やな」

 

 その言葉を聞いてエイシンプレストンは乾いた笑いを出す。

 GIのレベルの高さは知っている。その最高峰の舞台においてハンデで5バ身差、スパイク蹄鉄で5バ身差、つまり10バ身差のハンデを課した状態で勝利したのだ。あまりのスケール大きさに戦慄は走るとともに世界の広さを実感していた。

 トレーナーは映像を巻き戻して、レースを何回も見直しながらティズナウについて考える。

 スパイク蹄鉄をつけなかった理由は日本のダート対策か?ダートプライドのレギュレーションでは日本のダートレースと同じようにスパイク蹄鉄は禁止になっている。だから普通の蹄鉄に馴れるためにレースで走った。そう考えるのが妥当だろう。

 そしてゴドルフィンもこの事実に気づくだろう。この事実はアメリカのダートをスパイク蹄鉄で走った者ほど重くのしかかる。今頃戦々恐々しているだろう。

 

 トレーナーの心中に不安が広がっていく。これほどの強さならばトリップ走法の改良の完成は必須条件だ。

 トレーニングの第1目標が目隠しをした状態でランニングしても理想的なフォームで走れる。第2目標が普通に走った状態で、最終目標がトリップ走法で理想的なフォームで走ることだ。

 そして今現在は第1目標すらクリアできていない。最初に比べて成長しているのは分かるが、最終目標に向かうにつれて格段に難易度が上がっていく。果たして本番までに間に合うのか?

 

「ちょっと白ちゃん!レースは良いから、早くティズナウちゃんの勝利インタビューを見せてよ」

 

 デジタルが頬を振らませながらトレーナーに抗議する。その勢いに押されマウスを手渡すと早送りをし始めた。

 

「ちょっとデジタル、10バ身差だよ!叩きのGIで10バ身差!サキーよりヤバイって!」

「ならアタシのティズナウちゃんへの愛は20バ身差だよ」

 

 デジタルはそう言い放つと画面に映るティズナウの姿に集中する。その様子にトレーナー達は毒気が抜かれて笑みを零す。

 トレーナー達は強さに戦慄を覚えているなか、レースを走る当の本人がそんなの関係ないとばかりにティズナウの他の部分に夢中になっている。これでは自分達がバカみたいだ。

 そしてデジタルの言葉はティズナウとの差はレースを通してその存在を感じたいという愛と情念で埋めるということだろうか?その言葉には何一つ根拠が無いが不思議と説得力が有った。

 好きなウマ娘に近づく為ならどんな相手だろうが喰らいつき近づく、それが日本最強の呼び声高いシンザンだろうが、欧州最高レーティング保持者ダンシングブレーヴだろうが、伝説のマンノウォーだろうが、そんな妙な信頼感が有った。

 過去のデジタルだったらこのような感情は湧かない。勝利中毒に罹り道を見失い、そして解毒してより一層ウマ娘愛を強固にしたデジタルなら。

 

───

 

「よし、もう一本だ」

 

 ストリートクライは髪から伝う雨粒を拭いトレーナーの合図と同時に走り出す。

 一歩踏み出すごとに足がポリトラックに深く沈みこみ、蹴り上げるごとにポリトラックが宙に舞う。その力強さはサキーを上回っていると評価する専門家が居るほどである。この力強さはフィジカルに加えてメンタルの要素も大きい。

 キャサリロがドバイに帰ってくる。その朗報を聞いて自然と気分が高揚し力が湧いていた。

 キャサリロが居ない日々は楽では無かった。トレーナー等の他人との意思疎通も上手く翻訳しているキャサリロが居ないので上手く意思疎通ができず、フラストレーションが溜まり、それを癒そうにも居ないので解消できない。

 何よりゴドルフィンを去ってから目的も無く何となく走っていた虚無感が漂っていた日々を思い出していた。

 キャサリロは必ず何かを掴んで帰ってくる。それを生かせるように力を付ける。

 その一念でモチベーションを保ちトレーニングに励んだ。そしてキャサリロは何かを掴んだ。それは電話越しに伝わっていた。

 トレーニングはインターバルに入り、コース外の屋内に向かいベンチに腰を下ろし、何となく入り口に視線を向けて一目散に駆けていく。

 

「お帰りキティ」

「元気にしてたかクライ」

 

 キャサリロはストリートクライの顔を見て破顔する。日本には2週間程度の滞在だったが何カ月も離れたような感覚を受けていた。

 最初は寂しがっているのではないかと心配していたが、想像以上に顔を合わせられないことが心理的ストレスになっていたようだ。

 

「それより今は休憩だろう。土産と土産話は夜にするから、しっかり休め」

「分かった」

 

 ストリートクライは足取り軽くベンチに向かい腰を下ろす。その間にキャサリロはトレーナーと打ち合わせをし、ジャージに着替えるとウォームアップを始める。その様子を不思議そうに見ていた。

 インターバルが終わりトレーニングが始まってもキャサリロはウォームアップを続け、その様子をチラチラと眺める。

 キャサリロがストリートクライの専属スタッフになってもトレーニングに参加することは無かった。だが今こうしてウォームアップしているということは走るのか?

 ストリートクライとの胸中にキャサリロが現役を辞める前に一緒に併走トレーニングをした日々が蘇り、心躍っていた。

 そしてキャサリロはウォームアップが終わるとトレーニングに参加すると伝える。自然と笑みを浮かべていた。

 

「それで何をするの?」

「とりあえず2本ぐらい走るから、1本目は普通に走って2本目は崩してくれ」

 

 レースの際には不慮の接触により転倒事故が起こることがあり、それは時に大怪我を招くことがある。

 そうならないようにウマ娘達は体を鍛え、トップクラスに近い者ほど体が強く接触してもバランスを崩れない強さを持っている。

 それでも限界が有り、要素が重なれば接触されることでバランスを崩し、減速やスパートのタイミングが遅れてしまうことがある。

 

 ストリートクライは力の流れや人の重心が見えるという才能があった。

 その才能を駆使し最小限の力による接触で相手のバランスを崩せる。バランスを崩すといっても格闘技のように相手を倒す必要はなく、崩されたバランスを立て直すゼロコンマ数秒のロスがあれば充分であった。この接触による相手への妨害を2人は崩しと呼んでいた。

 ストリートクライの崩しの技術は世界1である。例えサキーであってもストリートクライにかかれば簡単に崩すことができる。

 この技術の高さは業界に知れ渡り、レースを走るウマ娘達は崩されないようにストリートクライから距離を取る。そしてそれを利用する。

 ある時はペースを上げて逃げ先行グループを煽りスタミナを削る。

 ある時はペースを下げて差し追い込みグループのペースを上げて離れるか下げて離れるかの2択を迫る。直線でも近づくことによって崩されたくないと外に回させる。

 だが必要以上に警戒しロスを覚悟して離れても世界屈指の地力でねじ伏せられる。これがストリートクライのレーススタイルであり、崩しは生命線でもあった。

 

 1本目はキャサリロの言葉通り普通に走り横一線でゴールする。トレーニングで疲労している一方キャサリロは全く疲労しておらず、通常時では大きく開く力関係も互角になっていた。

 ストリートクライは流して走る姿をまじまじと見つめる。今の走りは記憶には全くないものだった。走り方や力の流れや重心の位置がまるで違う。いうならば別人と走っているようだった。

 キャサリロはその戸惑いに満足げな表情を浮かべながら話しかける。

 

「今のがヒガシノコウテイの走り方だ。まるで別人だろ?」

「驚いた。いつから出来るようになったの?」

「物まねが得意だったろう。それの応用だよ」

 

 キャサリロは人の動作を正確に覚える観察力、そしてそれをトレースする身体操作能力が人より優れていた。その能力で物まねなどをしてストリートクライを楽しませていた。だがある一言で、この能力の真の使い道を見つけ出す。

 

──初めて走る相手は崩しにくいな

 

 ストリートクライの崩しは相手の情報が有れば有るほど精度が上がる。サキーでも難なく崩せるのは能力の他に相手の事を知っているという側面も有った。

 レース前に映像を見て情報を集めるが、それでも上手く崩せなかった。崩せたがこちらも必要以上に力を入れてロスをしてしまったということが有った。

 ならば自分が相手になればいい。そうすれば何度でも予行練習が出来て崩しの精度が上がる。

 日ごろからもっとストリートクライの役に立ちたいと思っていたがまさに天啓だった。

 それから訓練が始まった。まずはデータの多いゴドルフィンの選手のコピーから始まり、映像を脳内で刷り込ませ反復練習を繰り返す。

 幸いにも環境に恵まれていて、データも豊富で自分がどれだけトレースできているかを可視化できる機械も有ったので、より良い訓練ができた。

 その結果、サキーを始めゴドルフィンのトップクラスの選手のコピーはできるようになった。この訓練はストリートクライにバレないように陰でしていた。

 そして同時期にダートプライドが開催されることが決定し、日本に飛んでヒガシノコウテイやセイシンフブキやアグネスデジタルのデータを集めた。

 本当なら最大の強敵であるティズナウを調査しコピーしたいところだが、アメリカ以外の外部は完全にシャットアウトされており、調査する事できなかった。

 

「よし、じゃあ2本目から崩しな、スパートの瞬間を崩してくれ」

「分かった」

 

 2本目が始まり、ストリートクライはキャサリロをクビ差前に置いて併走する。

 見れば見るほど別人だ。ストリートクライはその技術に感嘆しながら崩しのタイミングを見極める。そして体に予兆が現れる。

 仕掛けの際には全く同じではないがある程度共通して予兆が現れる。ストリートクライはそれを見逃さず即座に距離を詰めて相手の力の流れと重心を読み体を当てて崩す。すると一瞬減速し、それが影響したのかストリートクライが1バ身差をつけてゴールした。

 ストリートクライは流しながら後ろを振り向きキャサリロを見る。その表情は不満げだった。

 

「加減したな?次はもっと攻めろ」

「でも……それだと……」

 

 ストリートクライはそ言葉に言いよどみ目を背ける。

 レース中に転倒すれば転倒した本人はもちろん、後続にいた選手も巻き込まれて大事故になる可能性がある。

 その危険性を十分に理解していた。崩しをおこなっても絶対に転倒しないように手加減していた。それは時に崩しの効果を弱めてしまうことがあった。

 だがその欠点は相手を知ることで解消される。何回も試みることで、より安全に効果的に崩せる境界線を理解することが出来る。

 しかし境界線を探る過程で転倒させてしまったら、大怪我をしてしまったら、頭を打ってしまったら、意識が戻らなかったら、死んでしまったら。

 時速60キロで走るレースにおいてそれらの可能性は常に付きまとう。最悪の事態が脳内に浮かび上がり背筋が凍り体が震える。

 

「クライ!2人で勝つんだろ!」

 

 キャサリロはストリートクライの震える肩に手を置き、目をじっと見つめる。一方ストリートクライはキャサリロの手の握る強さや体温を通して心情を察していた。

 

「分かった。全力で崩すから」

 

 ストリートクライは肩に置かれた手を力強く握り、同じように目をじっと見つめた。

 レースを走るウマ娘であれば世界中の誰でも転倒を恐れ、キャサリロも決して例外では無かった。

 恐怖を感じながら必死に抑え込み自分の為に尽力してくれようとしてくれる。それを断れば、決意も努力も覚悟も全て無駄にしてしまう。

 キャサリロは怪我をする恐怖を抱え、ストリートクライは怪我をさせてしまうという恐怖を抱えていた。ならば2人で恐怖を抱えて共に歩み、そして世界一になる。

 ストリートクライは言葉を発していなかった。だがその動作はどの言葉よりも雄弁に語りかけ、その決意と覚悟はしっかりと伝わっていた。

 

───

「もう1本」

 

 ストリートクライは10バ身ほど離され、息も絶え絶えでゴールしたキャサリロに淡々と言い、喋るのも億劫だとばかりに首だけ縦に振る。

 キャサリロとの崩しのトレーニングは過酷であった。より精度の高い崩しを体得するために、相手が転倒する可能性が高い崩しをする。

 その結果何度も転倒した。その度にダートに体を打ち付け打撲や裂傷などの細かい傷が体中に負っていた。そして負ったダメージはそれだけではなかった。

 崩されたウマ娘は体勢を立て直そうと力を入れて踏ん張ろうとする。その結果不自然に力を入れて怪我を負ってしまうことがある。

 キャサリロは膝を痛めていた。本来なら安静にしなければならないのだが、痛み止めを打って無理やり走っていた。

 周りから見ても疲弊具合は明らかだった。このままでは最悪の事故が起こってしまう。だがストリートクライはキャサリロをトレーニングに付き合わせる。その姿は酷く冷酷に見えた。

 ストリートクライは依存しているのではないのかと思うほどキャサリロと仲が良かった。  それなのに何故このような仕打ちをするのか?周りにはその感情が理解できなかった。

 無論ストリートクライはそのことを知っていた。周りの視線も陰口も膝を怪我して痛み止めを打っていることも。本人は秘密にしているようだが、日常生活の動作で即座に見抜いていた。だが何も言わずトレーニングに付き合わせた。

 キャサリロは2人で勝つと言った。そしてトレーニングを辞めたいとは口に出さない。ならばやり続ける。

 キャサリロが転倒し痛みに堪えながら走る姿を見るだけで心が軋む。だがそれに耐え続けた。その努力を報いる術は完璧な崩しを身に着けるのみだ。

 一刻も早く痛みや苦しみから解放する為にとストリートクライの集中力はかつてないほど研ぎ澄まされていた。

 

 2人はスタート地点に戻りトレーニングを開始する。今回はセイシンフブキの走りを実践し、第3コーナーから捲り気味にペースを上げていく。キャサリロがストリートクライの横を通過しようとする瞬間、横に移動してキャサリロの体に触れる。

 キャサリロにとってそれは現役時代に何度も体験したレース中に起こりうる軽い接触だった。

 だがその接触エネルギーでは考えられないほどバランスを崩され、態勢を立て直そうとし減速してしまう。

 その間にストリートクライは一気に突き放しゴール板を通過し、大きく離されたキャサリロはゴール板を通過した瞬間に思わず膝をつく。

 

「キティ!やった!やったよ!」

 

 ストリートクライはキャサリロを抱きかかえると、今までの寡黙さが嘘のように感情を爆発させ、その温もりを感じながら、己の努力が報われたのを理解した。

 崩しの技術は相手に接触しなければならない。その動作はゴールを最速で通過するというエネルギーを他者に向けることになりタイムが落ちる。その分だけ相手の力を削げばいいというのが崩し理念である。

 そして今の崩しは文字通り必要最小限の力で行った。その結果相手を崩しながらもタイムは自己ベストを更新していた。ここに完全な崩しが完成した。

 

「痛かったよね!苦しかったよね!でももう走らなくていいから!」

 

 ストリートクライの声はいつの間に涙声に変っており、その表情は懸命に涙を堪えているのかクシャクシャになっていた。

 キャサリロは母親のように優しく撫でた。

 



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勇者と隠しダンジョン#9

「外富士さんはどう思いましたか?」

「僕はトゥインクルレースについては何も知りませんが、アグネスデジタル選手の行動には好感が持てますね。自分の想いは言葉にしないと伝わりませんから、自らアクションを起こす。他の同業者にも見習って欲しいです」

 

 午後の昼下がり、アグネスデジタルとエイシンプレストンはお互いトレーニングの休憩時間で、自室に帰ってテレビを見ながら時間を過ごしていた。

 ワイドショーの特集の1つとしてダートプライドが取り上げられ、司会やコメンテーターやスポーツ選手やゲスト芸能人が意見を交わしていた。

 

「だってよデジタル」

「別にあんな髭面のおじさんに褒められても嬉しくも無いし、それよりダイナアクトレスちゃんを映してよ」

 

 デジタルは興味ないと一蹴し、テレビに意識を向ける。この番組にはレースを走った元現役選手で今は女優のダイナアクトレスが出演していた。

 プレストンはデジタルのいつも通りの態度に安心しつつ、コメンテーター達の言葉に耳を傾ける。ここ最近になってダートプライドについて報道されることが多い気がしていた。

 先日もお気に入りのバラエティーでお笑い芸人達が好きなジャンルについて語り合うハレトークという番組で、トゥインクルレースについて特集されていた。

 過去の名選手や名勝負、そして今の有名現役選手を取り上げると思って視聴していたところにダートプライドが取り上げられた。

 ブリーダーズカップのティズナウのマイクパフォーマンスの映像を流して、芸人達が面白おかしくイジっていた。その分かりやすいエンターテイメント性溢れる場面と芸人達のイジりのおかげで、番組内で1番笑えたシーンだと感じていた。

 これはレースについて知らない層にはインパクトを与えただろうと思っていたが、予想通りにネット上でも関心を集めていた。

 

「なんか最近ダートプライドが取り上げること多い気がする」

「それはテレ夕で生放送するからね。そのためでしょう」

「え?テレ夕でダートプライド生放送するの?」

「あっ、これオフレコだったんだ。プレちゃん黙っておいて」

「分かったわよ。しかしこうやって情報流出が起こるのね」

 

 プレストンはやれやれとため息をつきながら報道量の多さに納得していた。今放送している番組にしかり、ハレトークにしかり放送しているのはテレビ夕日だ。自局で放送する番組を周知する為に特集するのは当然だ。

 

「しかし、生放送だからゴールデンでしょう。よく枠取れたわね」

「岩手の広報の人が売り込んでいたらテレ夕の偉い人が喰いついたんだって。ほらレースの視聴率高いし、他の局も1枚噛みたかったみたい」

 

 トゥインクルレースの映像を放送しているのは専門チャンネル以外では国営放送のJHKとブジテレビとテレ東都のみである。

 レース発足から中央ウマ娘協会はブジテレビとテレ東都と契約してレースを放送し、暫くしてから国民的スポーツエンターテイメントと成長した。そして中央ウマ娘協会はこの2局と独占契約していた。

 プレストンはテレビ夕日の判断は悪くないと考えていた。元々人気があるトゥインクルレース、そしてダートプライドのメンバーは豪華だ。

 ダート世界最強候補のストリートクライ、サキー、ティズナウ、これほどのメンバーが集まることはトゥインクルレースでは無かった。その強さを上手くアピールできれば視聴者の興味が惹かれるだろう。

 そして地方の強豪ヒガシノコウテイにセイシンフブキ、そして中央のアグネスデジタル。所属がバラバラで面白い。唯一のウィークポイントは中央所属のアグネスデジタルだ。

 デジタルの知名度はスペシャルウィークやエルコンドルパサーなどのウマ娘と比べればはっきり落ちる。そこはテレビ夕日が宣伝するしかない。

 

「そういえば、そろそろウインタードリームトロフィーの出走メンバーが発表されるね。デジタルもマイルで選ばれるんじゃない、それに今年のターフは2000メートルだしワンチャン有るんじゃない。サプライズ枠で」

 

 プレストンはダートプライドから連想してウインタードリームトロフィーに話題を振る。

 ウインタードリームトロフィーはスプリントなどの各分野の実力者が集まり頂点を決める最高峰のレースである。

 そしてサプライズ枠とは大概の選出ウマ娘は大方の予想通りの者が選ばれるのだが、時折実力は有るのだが、まだ実績が少ないウマ娘が選ばれることがある。それを俗にサプライズ枠と呼ばれていた。

 

「ないない。今年は2000メートル未勝利だし、マイルで勝ったのはダートのフェブラリーステークスだし。プレちゃんこそ選ばれるんじゃない?」

「それこそないない。マイルCSはトウカイポイントに負けたし、天皇賞秋でシンボリクリスエスに負けて国内じゃ2000は勝ってないし。寧ろ選ばれるとしたらシンボリクリスエスでしょ。あれは選ばれても充分やれるよ」

「そうだね。シンボリクリスエスちゃんの艶のある黒髪!あの抜群のプロポーション!良いよね!間近で見てどうだった?」

「アンタじゃないんだから、レースに勝つことで精いっぱいだって」

「ほら、そこを何とか思い出して」

「う~ん」

 

 プレストンはデジタルが期待を込めた眼差しを向けるなか、懸命に脳内から記憶を掘り起こし断片的な情報を伝えた。

 

───

 

 トレセン学園内にある講堂、そこには多くの人が集まっていた。学園に所属しているウマ娘は勿論、マスコミ関係者も多く集まり、其々が期待と不安を募らせながら時を過ごす。

 12月初旬、今日この場で来年に行われるWDTの出走ウマ娘が発表される。

 発表は大々的に行われ、普段では呼ばないマスコミ関係者を招待し発表の様子はインターネットを通じてライブ配信されている。

 この発表はちょっとしたイベントとなっていて、学園に居る大概のウマ娘達は練習を中断し発表を眺めている。そして会場に居るウマ娘のなかにアグネスデジタルとエイシンプレストンも居た。

 

「正直早く帰りたいんだけど、どうせ選ばれないし時間の無駄」

「ほら見て!あそこのウマ娘ちゃん手を握り合ってるよ!きっと選ばれるかどうか不安なのを落ち着かせてるんだよ!ジュリジュラ~」

 

 デジタルは溢れる涎をふき取りながら、興奮気味にその様子を眺め、プレストンは興味なさげに周りを眺めていた。

 講堂には多くのウマ娘がいるのは理由が有った。レースに選出された者は壇上に上がってコメントを言うのが恒例になっている。

 選出された者が講堂に居なければ演出上都合が悪く、したがって誰が選出されてもいいように、WDTのレースに出走できる最低限の条件をクリアした者が招集されていた。

 最初から選出されるウマ娘だけを呼べば無駄が省けると考えていたが、学園を運営する中央ウマ娘協会としては選出されるか分からない状態で、選出された時の喜ぶ様子を演出する狙いがあった。

 一応はどのレースに選出される可能性だけは伝えられ、プレストンとデジタルはマイルとターフだった。

 

「おっ、そろそろ始めるみたい」

 

 デジタルはウマ娘観察をし、プレストンは携帯電話で暇つぶしをしている間に講堂内が暗くなり、壇上にプレゼンターが壇上に登る。発表が始まった。

 

 WDTダート、WDTスプリントと順番に発表される。そのメンバーは順当な者からサプライズ枠の選出もあり、サプライズ枠の者は自分が選ばれると思っていなかったのか、嬉しさのあまりに慌てふためいたり、号泣したりするなどして壇上に上がってもコメントにならず、その様子を周りの者は温かい視線で見守っていた。

 そして発表はWDTマイルまで終了し、マイルにはプレストンとデジタルの名前は上がらなかった。そしてWDTターフの発表が告げられると会場の空気が変化し、緊張感が高まる。

 

「それではWDTターフの出走ウマ娘を発表します。まずはこのウマ娘!これは誰もが納得でしょう!女帝エアグルーヴ!」

 

 司会の声とともに最前列に居たエアグルーヴにスポットライトが当り、拍手と歓声が起こる。

 エアグルーヴは立ち上がると客席に向かって一礼し、壇上に上がり司会からインタビューを受ける。

 ナリタブライアン、ヒシアマゾン、フジキセキ、ビワハヤヒデ、スペシャルウィーク、グラスワンダー、

 

 次々と名前を呼ばれていく、これらのメンバーは何回もレースに出走している常連組であり妥当な選出だった。そしてメンバーが選出されるごとに緊張感が高まっていく。

 今年のターフは常連組だったシンボリルドルフやマルゼンスキーが引退したので、サプライズ枠が多いと予想されていた。

 

「次はこのウマ娘です!粗削りながらそのポテンシャルは底知れません!ウオッカ!」

 

 スポットライトが客席に居たウオッカに当り、ウオッカは隣に居るダイワスカーレットに喜びを爆発させている。

 その様子を見ながら会場が一気に騒めく。ウオッカはまだジュニアクラスのウマ娘である。ジュニアクラスのウマ娘が選ばれるのは過去でも数例しかない、珍しいことだった。

 ウオッカは壇上に上がると緊張しながらも最高にカッコイイ姿を見せて勝つと堂々と宣言する。その姿に一同は何かをやってくれるという期待感を募らせていた。

 

「次はこのウマ娘です!ウオッカが選ばれたのならこのウマ娘は外せない!ライバル!ダイワスカーレット!」

 

 ライトがダイワスカーレットに当る。スカーレットは信じられないといった表情を見せながら手で口を覆う。その様子は普段の優等生ぶりが欠片もなかった。

 緊張した面持ちと足取りで壇上に上がりインタビューを受ける。徐々に緊張が解けてきたのか、最後は私が1番になると堂々と宣言した。

 

「ウオッカにダイワスカーレットか、お互いバチバチのライバルだし面白そう。良いサプライズね」

「2人の顔を見た!最初に選ばれたウオッカちゃんの動揺と喜び!そしてその喜びを思わずライバルのダイワスカーレットちゃんに見せる。一方ダイワスカーレットちゃんは複雑な表情!ライバルのウオッカが選ばれるのは嬉しいけど、自分が選ばれないのは悔しいと思いながら、いつも通りいがみ合ってウオッカちゃんを壇上に送り出す!そしてダイワスカーレットちゃんも選ばれていつも優等生でなくて素の感情を見せる!そして壇上でウオッカちゃんが照れ臭そうに祝福する!たまんない!」

「今のやり取りでよくそこまで想像できるわね。その想像力には感心するわ」

 

 プレストンは壇上に上がる小競り合いをしているウオッカとダイワスカーレットに視線を向ける。座っている場所からでは席に居たウオッカとダイワスカーレットの様子は後ろ姿しか見えない。

 それだけで心情を把握するのは不可能に近いが、様子を見る限りあながち間違っていないと思っていた。

 サプライズ枠に選ばれるウマ娘の様子は感情を爆発させ、見ている者の心を揺れ動かす。

 そういった意味で演出上、選出者を知らせず会場で初めて知らせるこの方法はエンターテイメントしては悪くは無いのかもしれない。

 

「そして残り2人となりました。さて誰が選出されるのか?1人目はこのウマ娘!芝ダート不問のウマ娘!アグネスデジタル!」

 

 司会の言葉と同時にライトが向けられ、プレストンはライトが当たるより速くデジタルの肩を叩く。今のデジタルは妄想の世界に入り込みかけ、とても観客に向けられる顔では無かった。

 その甲斐あってか現実世界に意識が戻り間を抜けた顔をしていたが、最低限人様に見せられる顔に戻っていた。

 

「プレちゃん?」

「デジタル選ばれたよ。ターフに。早く壇上に行って」

「あ、うん」

 

 デジタルは起き抜けのような足取りで壇上に向かって行く。その間会場はウオッカやダイワスカーレットが選出された以上にざわつく。

 ウオッカやダイワスカーレットはジュニアクラスながら実力は抜きん出て、シニアクラスのGIに出ても十分に勝てるという評価があった。何より2人はジュニアクラスだが中距離でGIを勝利している。

 一方デジタルだが今年は中距離未勝利で国内の中距離GIに至っては走ってすらいない。ある意味ウオッカやダイワスカーレット以上にサプライズ枠と言ってもいい存在だった。

 

「おめでとうポニーちゃん」

「おう、気合い入れてタイマンしろよ」

 

 フジキセキとヒシアマゾンがデジタルに祝福や激励の声をかける。

 常連組が初選出されたウマ娘に声をかけるのは一種の儀式のようなもので、選出された他のウマ娘も同じように声をかける。

 

「おめでとうございますアグネスデジタル選手、今はどのような心境ですか?」

「WDTターフには出ません」

 

 その一言に周囲の人間の思考が停止する。それは質問に答えになっていないからではない。あまりにも予想外の言葉だったからだ。

 

「もう1度言ってもらえますか」

「だからWDTターフには出ない。ダートプライドと同じ日だし、出られないよ」

 

 デジタルは平然と喋るなか、会場の人間の感情は未だに思考停止をしていた。

 

───アグネスデジタルは何を言っているんだ

 

 会場の人間は今までと比較にならないほど戸惑い、舞台袖で中央ウマ娘協会の人間は慌てふためく。

 その言葉は全く想定していないあり得ない事態だった。一方デジタルは周囲の様子を見てこう考えていた。

 

───何をそんな驚いているんだろう?

 

 デジタルと世間との意識において決定的な違いがあった。それはWDTについての考え方である。

 世間にとってドリームトロフィーとは高校野球における甲子園で有り、サッカーにおけるワールドカップであり、テニスにおけるウインブルドンであり、ゴルフにおけるマスターズである。

 たった一握りの実力者が舞台に辿り着ける憧れの舞台、それがドリームトロフィー。それをアグネスデジタルは自身の言葉で出場しないと宣言した。

 周りの人間もダートプライドの存在についてはある程度知っていた。だがDTと比べれば遥かに価値が劣ると考えていた。

 例えるならダートプライドはアメリカの高校生が出場する草野球大会で、勝てば賞金が貰えるようなものである。

 例えレベルが高くとも賞金が貰えようとも高校球児100人にどちらに出場すると聞けば、100人が甲子園と答えるだろう。それほどまでに国内においてWDTは価値が有るものだった。

 一方デジタルもWDTについては幼い頃からトレーナーに話を聞き、重要視されているものとは理解している。いずれ出場できれば嬉しいな程度に考えていた。だが真の意味では理解していなかった。

 レースは重要なのは走る相手である。走る相手が満足できれば日本でなくとも、韓国だろうが、ブラジルだろうが、ウルグアイだろうが、南アフリカだろうが、無観客であろうが問題なかった。

 ただ他のウマ娘達がそれだと満足できず煌めかないので、必然的に観客が多くグレードが高いレースに走っているに過ぎず、レースは器であり中身でなかった。だが他のウマ娘は器を重要視していた。

 

「本当に出ないのですか?WDTターフですよ!?」

「それはスぺちゃんと走りたいけどさ、ダートプライドとは同じ日だしね。分身の術でも出来ればいいんだけど。いや~忍術が使えない自分が憎い!」

「ふざけないで!」

 

 デジタルがおどけるようにインタビューに答えていると突如観客席から大声が聞こえてくる。会場の視線と意識は一気に彼女に向けられる。

 彼女は芝の中距離GⅡを複数勝ち、GIでもウイニングライブ圏内に数回入着している実力者であり、前評判ではデジタル以上に選出される可能性が高いと見込まれていた。

 

「ターフに出ないなんてどういうつもり!?ダートプライドなんてエキビションでしょ!ターフよりそんなもんが大事なの!?ドリームトロフィーは神聖で皆が目指すレースなの!それを分身術使って出たい?ふぜけるのも大概にしろ!そんなに金が欲しいのか!ドリームトロフィーをバカにするな!」

 

 彼女は感情を爆発させ叫ぶ。その言葉に感情を突き動かされたのか周囲の人間も同調し、デジタルを批判する。プレストンはその言葉を聞いて頭を抱えていた。

 デジタルの言葉はふざけているように聞こえたが本心だ。どちらも走りたいレースで有り、断腸の思いでダートプライドを選び、できるなら分身術でも使って両方走りたかった。だがその話し方が余りにも軽薄だった。

 だが他人にとってはまるで理解できない選択であり、金に目がくらんだと思われても致し方が無い。

 何より彼女が切望していたドリームトロフィーをあっさりと捨てた。ダートプライドに懸ける想いと主義や思考を知っているので、選択を支持できる。

 だが彼女にとってデジタルの行動は大切な物を価値が無いと扱われたようなものだ。

 プレストンもかつて自身の特別を捨てようとしたデジタルに彼女と同じような気持ちを抱いたので気持ちは分かる。

 そして少なくない人間が彼女の考えに同調している。プレストンもドリームトロフィーの位置づけは理解し、少し前までは同じように思っていた。

 

「何か雰囲気悪くしたみたいだし、帰るね」

 

 デジタルも雰囲気の変化を察したのか、マイクを司会に渡すと壇上から降りて出口に向かう。その後を中央ウマ娘協会の人間とマスコミが後を追った。

 

───

 

 デジタルが教室に入るとデジャビュを感じていた。正確に言えばどこかで見た光景を見たのではない。周囲からぶつけられる嫌悪感や憎しみの負の感情、この雰囲気にどこか覚えがあった。

 自分の机に向かう間に脳内から記憶を掘り起こして検索し、答えを導き出す。これは去年の天皇賞秋の時と同じ雰囲気だ。

 去年の天皇賞秋に出走する際に騒動が起きた。当時のシニア級の中長距離のGIはテイエムオペラオーが1着、メイショウドトウの2着という結果で固定されていた。

 その地味な勝ち方、同じような結果にファンは閉そく感を感じていた。そのおりにウラガブラックが出走を表明した。

 彼女はNHKマイルに勝利し、派手な勝ち方とルックスで人気が有り、オペラオードトウの暗黒王朝を打倒してくれると期待されていた。

 だがその枠を奪い、その経緯を知ってファンや学園のウマ娘達は批判を浴びせていた。

 デジタルは席に座り、携帯に映る画面を見ながらその反応にある意味納得していた。WDTターフへの出走辞退した様子はライブ配信され、ネットでは賛否両論を呼び、今日の朝のワイドショーでも取り上げられていた。そして世論は否定的だった。

 暫くするとプレストンが教室に入ってくるとデジタルと同じように負の感情をぶつけられていた。それに意を介さず席に着く。

 

「お、ダークネス香港マスターの到着だ」

「なにそれ、ダサい。反逆の勇者は黙って」

「プレちゃんこそダサい」

「これは今日の東スポの見出しの言葉を使っただけだから、ダサいのは東スポの人間よ」

 

 デジタルとプレストンはお互い悪態をつきながらも和やかな雰囲気で会話を始める。

 

 昨日のWDT出場者の発表の際にもう1つ騒動が有った。デジタルの出場が発表された後にプレストンがWDTターフに選出された。そして同様に出走を辞退すると宣言したのだった。

 

「いや~家に帰ってPCでネット見てたらビックリしたよ。まさかプレちゃんもターフに出ないって」

「それは正確じゃない、正確に言えば出ても本気で走らないから、他の人に枠を譲った方がいいですよって提案しただけ」

「それで何で本気で走らないの?」

 

 デジタルの問いに和やかな空気が一変し、シリアスな空気に変る。

 プレストンの出走辞退の発表は寝耳に水だった。正直に言えば出走を辞退しただけでここまで問題になるとは思っていなかった。

 この調子だと天皇賞秋の時のようにトレーナーやチームメイトにマスコミが押し寄せ、迷惑をかけることになるだろう。

 だがプレストンが聡明であり、同じような事態になることは予想できるはずだ。それなのに周りの迷惑より自身の意志を通した。それは想像とはズレていた。

 

「まず前提として、アタシの最大目標は香港のクイーンエリザベス2世カップ。それに向けてトレーニングして、レースに出て調整するつもり」

「うん」

「そしてクイーンエリザベスの前にWDTターフが有る。他のウマ娘はここを目標にメイチで仕上げてくる。そしてアタシはクイーンエリザベスが目標で、ここをメイチで仕上げたら反動で体調を崩してクイーンエリザベスまで体調が戻せないかもしれない。そんなリスクは冒したくない。只でさえ格下なのに仕上がりに差が有ったら勝負にならないでしょ。それだったら他の人が走った方がいい」

 

 ドリームトロフィーは日本に所属するウマ娘にとって憧れのレースだ。

 それは日本ダービーと同等であり、そのレースに勝つために全てを燃やし尽くし、勝利を最後に引退したウマ娘は少なくない。そんなレースに全力で臨まないウマ娘が居るとすればレースに対する侮辱行為だ。

 

「なるほど、それなら仕方がない。そう説明すればいいじゃん。何で叩かれてるの?」

「したわよ。でも世間は納得しないの。ドリームトロフィーより他国のレースを優先するなんてなにごとかってね」

「どんなレースを走ったって別にいいじゃん」

「そこは同意見」

 

 プレストンは愚痴に同意すると同時に胸を撫で下ろす。

 上手く論点をずらす事に成功した。一応煙まいたが問題なのは何故ドリームターフより香港のクイーンエリザベスを優先するのかが問題である。

 その理由を聞かれたら本音を話すと決めていた。そして本音を話すのは恥ずかしかった。

 

 プレストンが香港のクイーンエリザベスを優先する理由は2つある。まずはレースそのものである。

 香港のマイル中距離で絶対的な強さを誇る香港マスターという特別を見出した。その特別になるためにはクイーンエリザベスに勝つことは必須だった。

 

 そしてもう1つはアグネスデジタルの存在だ。もしデジタルがクイーンエリザベスに出走しなければ、ドリームトロフィーにメイチで仕上げてもいいかもしれないという選択肢が出来ていただろう。

 例え調子を崩してクイーンエリザベスに負けて特別になれなくても挑む価値と魅力が有る。だがデジタルが出走するとならば話は別だ。

 デジタルはレースより走る相手を重視する。その考えをクイーンエリザベスで走るまで理解できなかった。

 今年のクイーンエリザベスの記憶は今でも鮮明に思い出す。肌を焦がす季節外れの灼熱、摩擦熱で焦げた袖の匂い、全てを出し尽くしライバルと死力を尽くした高揚感や充実感。

 

楽しかった。

 

 レースを一言で振り返る言葉としたらこの言葉しかあり得ない。それは何度でも味わいたい極上の体験だった。

 そしてそれは最高のライバルと走ったからこそ味わえたもので、ドリームトロフィーで味わえるとは断言できなかった。

 そして極上の体験を味わうには全力を尽くす事が必要不可欠だ。

 エイシンプレストンというウマ娘は香港において無類の強さを発揮する。そこで走る事が全力を尽くす事であり、全力で走る為には入念な準備と計画が必要であり、ドリームトロフィーは不必要である。

 デジタルはダートプライドの後に香港で走る事を約束した。ダートプライドはドバイワールドカップ以上の激戦が予想される。その結果体調を崩し、クイーンエリザベスを走れなくなる可能性は充分にある。むしろその可能性が高いと予想していた。

 そうなれば最高峰の舞台に挑む機会を失う。だがデジタルが走れなくなる可能性が高くとも走りたかった。

 プレストンもデジタルと同様にレースという器より、走る相手という器に入っている中身を重要視し始めていた。

 

「デジタルの言いたい事が分かってきた」

「よく分からないけど、漸くアタシの域に辿り着いたんだね」

「うるさい、それよりアタシの身体操作能力の域に辿り着きなさい。そうしないとダートプライドで一生後悔するよ。はい、目を瞑っていつもの」

「はいはい」

 

 デジタルはプレストンに言われた通り、目を瞑って腕を伸ばして人差し指同士をつけるという身体操作能力向上訓練を始めた。

 

 



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勇者と隠しダンジョン#10

「そういえば昨日のオペラオーちゃんが出てる番組見た?」

「見たぞ、『ボクが現役でドリームトロフィーに出走していれば、アグネスデジタルは悩むことなくドリームトロフィーに出走していただろう』ってスゴイ発言やったな。まるで他のメンバーに魅力が無かったからダートプライドに出走するみたいに聞こえるわ」

「自分が出ればどんなウマ娘も喜んで参戦するって思ってるんだろうね。この自分に対する絶対的自信!痺れる」

「ちなみにオペラオーとドトウが現役で今回のドリームトロフィーに出走することになったら、どないする?」

「……分身の術を覚える」

「めっちゃ悩んでまたそれか。せめて予定をズラすとかにせえや」

「あとサキーちゃんが出てる番組見た?」

「ああ、あの日本と世界の名レースを解説するやつやろ。流石の分析力やったわ。それに今年のドバイワールドカップの解説は色々と参考になった」

「そっちも良かったけど、バラエティーでオペラオーちゃんとサキーちゃんがレースを走ったんだよ。しかもオペラオーちゃんは勝負服着てガチモード、2人ともかっこよかったな~」

 

 2人は取り留めない会話をしながら目的地に向かう。目指す場所はトレセン学園内の第3会議室である。

 デジタルがドリームトロフィー出走辞退発言をしてから1週間が経ったが未だに話題は沈静化していなかった。それだけ国内の頂点のレースに出ないという選択は世間に与えた衝撃は大きかった。

 そんな中中央ウマ娘協会からトレーナーとデジタルに招集がかかった。要件は知らされていないがドリームトロフィー関連だと想像できる。

 

「さて、何も言われるか、逆に楽しみや」

 

 トレーナーは緊張感を紛らわすために軽口を叩きながら扉を開ける。脳内ではトレーナー試験の面接の記憶が蘇りつばを飲み込む。一方デジタルからは全く緊張感が感じられなかった。

 

「失礼します」

「失礼します」

「忙しいなか来てもらってすまない。かけてくれ」

 

 トレーナーの想定としては圧迫面接のように何人もの中央ウマ娘協会の人間に囲まれて、追及を受けると思っていたが人数は1人だった。

 そしてその1人は皇帝と謳われた元トレセン学園生徒会長シンボリルドルフだった。

 引退して中央ウマ娘協会の役職に着いたと聞いていたが、こんな場面で出くわすとは思っていなかった。メガネをかけ黒に若干緑色が入ったスーツを身にまとっており、柔らかい雰囲気を醸し出しているが、以前から感じていた学生離れした大人びた雰囲気がさらに増している。

 デジタルは思わぬウマ娘の登場に対しいつも通り目を輝かせて熱視線を向けている。トレーナーはルドルフに見られないように足を蹴り正気に戻させると2人は席に着く。

 ルドルフとデジタル達は机を挟んだ距離に座る。トレーナー採用試験の面接のように話しかけられると思ったが、どちらかといえば学校の三者面談のような距離感だった。

 

「調子はどうだ、アグネスデジタル?」

「絶好調、ダートプライドに向けて頑張ってるよ」

「そうか、何かトレーニングをしているのか?」

「そうだね。今は目隠しして走ってるよ」

「目隠し?」

 

 デジタルとルドルフは和やかに会話をしている。現役時代はもう少し堅いイメージを持っていたが、出会ってから数秒で打ち解けている。

 こんな距離感を縮められる人物であるとは思っておらず、トレーナーは評価を改めていた。

 

「なるほど、もし良かったらトレーニングの成果を報告書にまとめて、提出してくれないか?それを共有すれば学園のウマ娘達はさらに強くなるだろう」

「まだまだ未完成のトレーニングですよ。今はデジタルを実験台にしてサンプルを取っている段階です。それにリギルやスピカのトレーナーに知られたら、ますます成績に差がついてしまいます」

 

 話を振られたトレーナーは軽い口調で話し、ルドルフも愛想笑いを浮かべる。だがその笑みの奥はいつ本題に移ろうかと機をうかがっているのが見て取れた。

 

「それで話は変わるが、ドリームトロフィー出走者発表の際のアグネスデジタルの発言は驚いたよ。これは内密にして欲しいのだが、慌てふためくさまは少し痛快だった」

「そうなんですか」

「ああ、まさか中央もドリームトロフィーに出走することを辞退するウマ娘が現れるとは全く思っていなかったようだ。かくいう私も全く想定していなかった」

「まあ、考えは人それぞれですし、時には大半の人間の想定を超える変人もいますから」

 

 トレーナーの言葉にルドルフは相槌を打つ。一見理解を示している素振りを見せているが理解できないものに対しての不愉快さや恐怖が僅かに見て取れた。

 シンボリルドルフはレースにおいてもクラシック三冠ウマ娘になり、シニア級でも中長距離路線を歩み、学園生活でも生徒会長を務めていた。

 まさに品行方正であり王道を歩み続けた人間だ。だからこそ権威であり王道の頂点であるドリームトロフィーに対する思い入れが強い。そしてデジタルの考えを本心では完全に理解できてなかった。

 

「それで私は別に構わないのだが、上層部が承認しなくてな、アグネスデジタルにはドリーム…」

「アタシはダートプライドに出走するよ」

 

 デジタルはルドルフが喋り切る前に自分の意見を述べる。その行為は相当失礼であるが、決断的な意志を伝えるという意味では効果的だった。

 ルドルフは一瞬考えこむ仕草を見せる。だがその表情はどこか余裕があった。

 

「なるほど、意志は固いようだ。ならば代案を提案させてもらおう」

「代案?」

「まずアグネスデジタルの目的はサキー、ストリートクライ、ティズナウ、ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、この5名とレースで走る事だな」

「そう」

「それ以外のウマ娘が増えても問題はないな?」

「別に良いよ」

「ならドバイワールドカップで走らないか?」

 

 デジタルはルドルフの提案について全く考慮しなく、目をキョトンとさせる。

 

「ドバイワールドカップならさほど時期が変わらず、アグネスデジタルも不要なリスクを払わず5名と走る事ができる」

「ですがサキー、ティズナウ、ストリートクライは出走できますが、デジタルとヒガシノコウテイとセイシンフブキの出走は厳しいのでは?日本に3つも枠をくれるとは思えません」

 

 トレーナーがルドルフに意見を挟む。ドバイワールドカップに出走する為にはレーティングとUAEウマ娘協会の推薦が必要だ。海外勢は実績もレーティングも持っているので問題ないがデジタル達は事情が違う。

 3人が最後にレースを走ったのは南部杯であり、地方交流GIであるせいかレーティングが貰えず、恐らく3人ともレーティングが足りず出走できない。

 そうなるとレーティングを稼ぐためにドバイワールドカップまでの間にあるダートGIレースに勝たなければならない。

 残りのGIレースは東京大賞典と川崎記念とフェブラリーステークスだけだ。

 東京大賞典までは残り1か月もなく仕上げる時間が足りない。だとすれば川崎記念かフェブラリーステークスになり、貰えるレーティングからして勝者しか出られないと予想される。つまり日本勢3名のうち1名は出走できない可能性が極めて高い。

 さらに仕上げの問題があり、フェブラリーステークスを勝ちに行けばドバイワールドカップに万全で挑めない可能性が高まり、ドバイワールドカップを優先すればフェブラリーステークスに負けて出走できなくなる。

 この問題については悩まされ、今年は何とかフェブラリーステークスに勝利し、ドバイワールドカップには万全の状態で臨めたが、来年は上手くいく保証は全くない。

 

「その点については私が何とかしよう。私が全責任を持ってアグネスデジタル達を出走させる」

 

 ルドルフは問いにハッキリと言い切る。その言葉は決して出まかせではない、恐らく前もって根回しを済ませ、実現可能であるから提案したとトレーナーは判断した。

 

「どうだろう?悪くはない提案だが」

「う~ん、その提案には乗れないな」

「理由を訊かせてもらえないか?」

 

 ルドルフの眉がピクリと動く。デジタルは2つ返事で承諾すると思っていただけに、この反応は完全に想定外だった。

 

「まずドバイじゃダメなんだよ。コウテイちゃんはきっと異国の地で世界一になる姿じゃなくて、地方で世界一のウマ娘達を倒す姿を見せたいと思うんだ」

 

 デジタルはヒガシノコウテイにとって、地方という舞台でティズナウ達を倒すことが重要だと思っていると考えていた。

 外国では大半の人間はレース場に行けない。だが日本なら多くの地方ファンが来られて地方のウマ娘が世界一になった瞬間を見せられる。そしてダートプライドという舞台で走る事で、ドバイで走るより地方に目が向けられると考えているだろう。

 

「そしてフブキちゃんも海外のダートじゃなくて、日本のダートで走りたいんじゃないかな。あとダートプライドはWDTターフと同日だし、そこも外せない」

 

 セイシンフブキはダートプロフェッショナルであるが、海外のダートに適応できるとは限らない。

 そして日本のダートで海外のウマ娘に負けられないという気持ちと同日のWDTターフよりダートの方が強いという反骨心が彼女をさらに煌めかせる。

 

「サキーちゃんも地方の苦しい現状を知って、色々やってくれている。それを無駄にできないし」

 

 サキーは日本に来日し、ゴドルフィンの外厩で調整しているなか、僅かな自由時間を割いてまで日本のメディアに出演し、ダートプライドのPR活動している。

 全ては世界中のウマ娘と関係者が幸せになるためであり、日本の地方も含まれている。ダートプライドで走らなければ地方をPRする機会を失い、幸せにできなかったと悲しむだろう。

 

「ティズナウちゃんもストリートクライちゃんとお互いアウェーの舞台で走りたいって言ってた。そしてコウテイちゃん達の挑戦心を汲み取ってくれた。だからウイナーテイクオール方式じゃないとダメだと思う。そしてストリートクライちゃんも同じ」

 

 以前キャサリロにインタビューした際に、ストリートクライはアウェーの地でティズナウを叩きのめしたいと言っていた。

 仮にドバイで勝ったとしてもホームアドバンテージで勝てたと言い訳されると予想して、中立地で完膚なきまでに勝ちたいのだろう。

 ティズナウは2億円を払うという心意気に惹かれてダートプライドに参戦してくれた。それをノーリスクのドバイワールドカップに変更したら落胆するだろう。それはデジタルにとって避けたいことだった。

 

「これがダートプライドじゃなきゃダメな理由」

 

 喋り疲れたのか、深く息を吐いた後背もたれに背中を預ける。その様子を見ながらトレーナーは感心していた。

 反対するのは分かっていたが、ここまでしっかりと自分の感情を言語化し説明すると考えておらず、もっと感情論や不明瞭な説明をすると思っていた。

 

「なるほど、それが理由か、しかしアグネスデジタルはもっと利己的なウマ娘と聞いていたが、随分と他人を思いやるのだな」

「アタシはサキーちゃんみたいに優しくないよ。全部自分の為、ダートプライドで走った方が嬉しくて煌めいた皆を感じられる。だから選んだ。ドバイワールドカップのほうが煌めいてくれるなら喜んでそっちを選んだよ」

 

 デジタルはさも当然という素振りで語る。その言葉は一見本音を隠していると思うかもしれないが、間違いなく本音だった。

 少しでも煌めいているウマ娘をレースで感じたい。それがアグネスデジタルというウマ娘の行動指針である。

 

「その意志は勁草之節のようだ」

「うん?何って?」

「意志が固いってことや」

「なるほど」

「だが、不本意だが伝えなければならない。中央ウマ娘協会の規定として、中央ウマ娘協会所属のウマ娘は中央ウマ娘協会が出走を認めたレース及び、交流重賞以外のレースに出走してはならないというものがある」

 

 その言葉を聞いた瞬間トレーナーの顔が苦虫を潰したような険しい顔に変化し、ルドルフを無意識に睨みつける。

 

「これは脅しですか?」

「上層部は余程アグネスデジタルをダートプライドに出走させたくないらしい」

 

 シンボリルドルフは思わず視線を逸らす。その姿に威風堂々とした皇帝の面影はまるでなかった。デジタルは訳が分からないと両者の様子を困惑しながら見ていた。

 

「どういうこと?」

「ダートプライドは中央ウマ娘協会が認めたレース及び交流重賞以外に該当するんや。甘かった。この規定は地方重賞だけに該当すると思っておった」

「つまり、アタシは出走できないってこと?」

「ああ、もし出走するなら中央から移籍せなあかん」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に自分の置かれた現状の深刻さを知り、トレーナーは己の失念を悔やむ。

 ダートプライドは地方重賞でも交流重賞でもない只のエキビションレースで有り、それ以外に該当する。

 そして言葉から察するに中央ウマ娘協会はダートプライドへの出走を認めないだろう。この事に気づいていればルール改正に向けて動けたはずだった。

 

「私は君の才能を高く評価している。その条件不問の走りは唯一無二だ。中央としても私としても手放したくない。頼む、隠忍自重で耐えて、ダートプライドではなくドバイワールドカップで妥協してくれ」

 

 トレーナーはルドルフの姿を見て湧き上がる怒りを必死にこらえる。机につけている手は震えている。己の不甲斐なさに耐えているのだろう。

 本来ならば前置きも無くこの規定をつき付けてドリームトロフィーに出走するように脅迫もできた。

 だがデジタルの願望を最大限考慮してドバイワールドカップ出走という代案を提示した。それは全てのウマ娘が幸福に暮らせる世界を作るという理想を掲げた理想主義者の抵抗だった。

 ルドルフは人格や政治力も優れていた。だがそれは学園レベルの話である。理想主義者の理想を通させない魑魅魍魎が潜む伏魔殿、それが中央ウマ娘協会上層部である。

 

「なぜここまでのことをするのですか?理由ぐらい訊かせてもらってもいいですよね」

「まずドリームトロフィーへの出走辞退、上層部はアグネスデジタルの行動が権威失墜を招くと危惧している」

 

 その言葉にトレーナーは納得する。ドリームトロフィーは日本における最大のレースであり、中央ウマ娘協会の象徴である。

 出走辞退は謂わば権威を虚仮にすると捉えられても不思議では無く、他のウマ娘が追随することを危惧している。

 

「次にダートプライドへの出走、これは地方が運営するレースだ。ドリームトロフィーと同日に開催されるレースに参加することは背任行為であると考えている」

「もしかすると、デジタルがドリームトロフィーに選出されたのは?」

「選出基準はブラックボックスになっており分からないが、恐らくはダートプライドに出走させないためだろう」

 

 トレーナーは思わずこぶしを握り締める。デジタルもドリームトロフィーに選出されるほどの実力者であり、ファンの数が多い。そしてドリームトロフィーは入場料やグッズ収益で多くの利益を生む。

 もしダートプライドに出走すればファン達の注目と興味が向けられる。そのことによりドリームトロフィーに向けられる金銭がダートプライドに流れる可能性が有る。   

 ならばドリームトロフィーに選出させて、ダートプライドに注目を向けさせず、デジタルのファンにグッズなどを購入させるように仕向ける。金儲けの道具として利用したのだ。

 

「そして最後に日本のパート1の参入」

 

 トレーナーはその一言で中央ウマ娘協会の思惑を理解する。

 レースを開催する国ごとにパート1、パート2、パート3とランク付けされている。

 パート1はアメリカ、イギリス、フランス、アイルランド、UAEなどの国であり、日本はパート2に分類されている。パート1に分類される名誉と利益は計り知れず、中央ウマ娘協会は何としてもパート1になりたいと尽力していた。

 パート1になるためには国に所属しているウマ娘が実績を積みレーティングを得ることである。近年の日本所属ウマ娘の活躍によりパート1入りは目前であった。

 そしてダートプライドはグレードも無いエキビションレースであり、レーティングも与えられず、勝利してもパート1になるために必要な実績と認められない。

 デジタルがダートプライドに出走することは中央ウマ娘協会にとって利益が少なかった。それならばダートプライドではなく、ドリームトロフィーや他の海外GIレースに出走させたほうが中央ウマ娘協会にとって有益であると考えていた。

 

「よし、分かった。アタシ学園辞める」

「は?」

 

 今まで2人の会話を聞いていたデジタルが唐突に言い放つ。ルドルフの思考は一瞬停止し、素っ頓狂な声をあげてしまう。

 発言の内容も驚愕だが、その態度があまりのも平然としていたことに驚いた。一方トレーナーは諦念を帯びた表情を浮かべていた

 

「正気かアグネスデジタル!?」

「正気だよ。だって中央に居たらダートプライドに出走できないんでしょう。だったら地方に移籍するしかないじゃん。それともダートプライドを中央が認めてくれるレースにしてくれる?」

「恐らく無理だ。中央は何としてもダートプライドに出走させないつもりだ」

 

 デジタルはルドルフに視線を向けると申し訳なそうに首を振った。それを見てそっかとため息をついた

 

「ということだから。あと図々しいけど……」

「柄にも無いこと言うな、最大限のサポートさせてもらう。あっちのトレーナーには悪いが、アグネスデジタルのトレーナーは俺やからな」

「ありがとう。皆を最大限感じる為には白ちゃんの力が必要だからね」

 

 トレーナーはデジタルの肩を叩き言葉をかける。既定の話を聞いた時にデジタルが学園を去るという選択することを覚悟していた。

 デジタルはダートプライドに走ることに執着し、勝利中毒を経てその感情は一層強くなった。その為には全てを投げ出すことも辞さないだろう。

 

「考え直すんだ。規定として中央から地方に移籍した者は再転入するのに1年間は待たなければならないことは知っているだろう。それでいいのか?同甘共苦した仲間やトレーナーと離れることになるのだぞ」

 

 ルドルフはデジタルを諫める。一時期の感情に流されてはならず長期的な視点で物事を見なければならない。きっと地方に移籍したことを後悔する。

 

「いいわけないじゃん」

 

 デジタルの返事は普段とは別人のように声が低く迫力があった。その変化にルドルフは戸惑い唾を飲み込む。

 

「チームの皆やプレちゃんは大好きだし、トレーニング前に下らないこと喋って、一緒にトレーニングして、寮に帰ってプレちゃんとウマ娘ちゃんの映像見たりできなくなるかもしれないなんて嫌だよ。でも1年後には皆とはまた会える。でもダートプライドはこれしかない!最高の場所とタイミングで最高のウマ娘ちゃんと走れて感じられる!これを逃したら一生後悔する!」

 

 デジタルは感情が高ぶっていき声量が大きくなり語気が荒くなる。胸中に渦巻いているのは一種の自己嫌悪だった。

 レースを走る為に苦楽を共にした仲間の元を離れる。その行動にチームメイト達は裏切られたと感じショックを受けるかもしれない。その可能性を考慮してなおダートプライドを走る事を選択した。

 最高のウマ娘達を感じる為に友を捨てる。周りから見たら酷く薄情で自己中心的に見えるだろう。

 己の欲に執着する醜い姿に嫌悪しながら、それでも湧き上がってくる自分の欲望と衝動が抑えきれなかった。

 

「アグネスデジタル、私が言えることは地方に移籍すればそのウマ娘を感じるという行為も満足できなくなるだろう」

「どういうこと?」

「地方に行けば弱くなりサキー達に千切られ、ウマ娘を感じられる物理的距離が遠のく」

 

 ルドルフはデジタル達との話し合いの前にデジタルという人物像を把握する為に調べ、レースを通してウマ娘を感じるという行為に主眼を置いていることを知った。   

 それはレースで意中のウマ娘に出来る限り離されず近づくことである。

 どんな才能が有っても生かすも殺すも環境によるものが大きい。それは中央の頂点に立ったことルドルフだからこそ実感していた。

 最高の設備に東条トレーナーという優秀なトレーナー、そしてチームリギルという実力者達と切磋琢磨してきた。

 もしこの環境が無ければ3冠ウマ娘になれなかっただろう。設備が無ければ鍛えらず、周りの人間が弱ければ競い合えない。いくら才能があっても1人で強くなるのには限界がある。

 ルドルフにはデジタルの行動は稀有な才能を己の我儘で潰す傲慢な行為であった。

 才能とは自分1人の物ではない。栄光を目指し才能を渇望しながらも才能の無さで夢破れた者達、その者達に報いるために才能が有る者は最善を尽くして強くなるのは義務である。

 立場上願いを奪っている立場ながら、その傲慢さに僅かに腹が立っていた。

 

「でも地方にはコウテイちゃんやフブキちゃんみたいに強いウマ娘ちゃんも居るよ」

「確かにそうだ。だが2人が中央でトレーニングしていれば、確実に地方に居る頃より強くなっていたと思う」

「それはそうかもね」

 

 デジタルは納得した素振りを見せる。以前ヒガシノコウテイとセイシンフブキから話を聞く際に船橋と盛岡でトレーニングをしたことがあるが、お世辞にも素晴らしい環境とはいえなかった。

 盛岡ではコースが雪に埋もれ、普通に走る事すら困難だった。

 

「フブキちゃんはダート愛、コウテイちゃんは地方愛、それが強いから強くなれた。アタシにはそんなものは無いから2人みたいに強くなれない。でもアタシにはウマ娘ちゃんLOVEがある。その為なら地方に行ってもウマ娘ちゃんを感じたいという気持ちで中央に居た時よりも強くなってみせる」

 

 ルドルフは思わずデジタルを睨みつける。その言葉はまさに旧時代的な根性論だった。

 精神が肉体を凌駕する例は限度がある。だが精神だけで超えられない壁は確実に存在する。挑むのは世界の頂点であり、それは精神だけでは超えられない壁である。

 

「トレーナーに聞きますが、アグネスデジタルが地方に行って、その願望が叶えられると思いますか?」

 

 ルドルフはデジタルの意志が強固と見るや、トレーナーに話を振る。

 トレーナーなら止めるべきだ。信頼している者から否定的な言葉を言われれば心が揺らぐ、そこから再度説得を試みようと思案していた。トレーナーはルドルフの質問に落ち着いた口調で話し始める。

 

「確かにシンボリルドルフさんの言葉は正論でしょう、ですがデジタルは常識外れのウマ娘で、我々尺度で計り知れないところがあります。何より私は過去の出来事で心底後悔していましてね。優先すべきはウマ娘本人がしたいこと。現時点では中央がデジタルの望むことを実現してくれないのなら、地方に移籍することを全力で後押しします」

 

 トレーナーの脳裏に浮かんでいたのは去年の天皇賞秋のレース前の映像だった。

 競り合いに強いオペラオーとドドウに勝つためには体を合わせず、外ラチに向かって走れと指示を出した。

 だがデジタルの願いは体を合わせてオペラオーとドトウを感じることだった。という願いを考慮せずに、勝利を優先した指示を出してしまった。

 当時のトレーナーは勝利を優先する傾向が有り、デジタルと言い争いになった。

 結局は別の指示を出し、天皇賞秋には勝利し願望も有る程度満たせたが、全て満たせたわけではない。

 その件について深く反省し、本人たちの願望を最優先にすることを心に誓っていた。

 

「優先すべきはウマ娘達の願い。そうですね、それが何よりも優先事項でした。熱くなってすまない」

 

 ルドルフはデジタルとトレーナーに頭を下げる。己の主義と中央での立場を優先して、デジタルの意志を抑え込もうとしたことを内省していた。

 

「では最終確認だ。ダートプライド出走の為に地方に移籍する。それでもよいのだな?」

「うん」

 

 デジタルは力強く返事する。その瞳には決断的な意志が宿り、脳裏には必勝を胸に抱きダービーに挑むウマ娘達の姿が浮かんでいた。

 

「本来ならば言える立場ではないが、地方でのアグネスデジタルの幸運と邁進を祈っている」

「ありがとう、シンボリルドルフちゃん」

 

 シンボリルドルフが手を差しだすとデジタルも応じ握手を交わす。デジタルは触覚を最大限鋭敏化させ、相手に不快感を与えないように感触を楽しみ、部屋を後にする。

 

「改めて謝罪させてもらいます。私の力不足でこのような事態になってしまい、申し訳ありません」

「中央の立場から考えれば一理あります。デジタルのやっていることは1つも中央の利益になっていませんし」

 

 ルドルフはトレーナーに頭を下げ、トレーナーも愛想笑いを浮かべながら恐縮そうに頭を下げる。

 

「ですが、中央の方にはルールの改正を求めたいと思います。今後もドリームトロフィーより別のレースを優先するウマ娘が出てくるかもしれません。その度に中央の利益にならないから出られないと出走できなくなるのは避けたいです」

「そうですね。私の方でも今度の会議で議題として提出したいと思います」

 

 ルドルフはこれまではドリームトロフィーより別のレースを優先するウマ娘は居ないと思っていた。だがデジタルの意見や心情を聞き考えを改めた。

 自分の尺度とは違う考えのウマ娘が居る。そのウマ娘の要望に応えるのが中央ウマ娘協会に入った自分の役目である。

 そして元のルールは一昔前の価値観で作られたものだ。価値観は日々の経過によって変化し、結果従来の価値観とは異なる者が現れることは必然であり、今がルールの変える時だ。

 かつてオグリキャップがクラシック級に登録していないことで、クラシック戦線で走れない問題では新たに追加登録をすれば走れるという制度が作られた。また歴史を繰り返せばよい。

 

「よろしくお願いします」

 

 トレーナーは思いを託すように深々と頭を下げた。

 

───

 

「今日は来てくれてありがとう。乾杯!」

「乾杯!」

 

 デジタルが音頭を取ると周りの人間も乾杯の声をあげる。それを皮切りに其々が食事や会話を楽しみ、賑やかな雰囲気に包まれる。

 デジタル達とシンボリルドルフが面談した数日後、地方移籍が決まった。移籍先は大井となり、正式に大井ウマ娘協会の所属となる。

 そして今行われているのはデジタルの送別会である。チームプレアデスのチームルームにはチームメイトは勿論、エイシンプレストン、スペシャルウィークなどの他チームの選手などが集まった。

 デジタルはそこまで大げさにしなくていいとやんわりと断ったがチームメイト達が強引に開催し、スペシャルウィーク達も招待していた。

 送別会は其々が自由に過ごした後ビンゴ大会などが行開催され、終始和やかなに楽し気な雰囲気で、チームメイト達はいつもより陽気で笑い声も大きかった。

 しばらく時間が経ち、送迎会の終わりの時間が迫っていると参加者は感じ始め、閉会の空気が漂っていた。

 

「デジタル、折角みんなが開いてくれたんや。締めの挨拶ぐらいせい」

「それもそうだね」

 

 デジタルはトレーナーに促され部屋の上座に移動する。

 

「えっと、アタシは明日から中央じゃなくて大井所属になります。でも同じ東京だし、トレセン学園まで電車で1時間ぐらいだし、お別れって感じはしないな。オフになったら皆で遊ぼうね。ダートプライドでは一欠片の後悔が残らないようにウマ娘ちゃん達を感じてくるから」

 

 デジタルが一礼し、チームメイト達から拍手が起こる。言葉を発するたびに脳裏にチームメイトとの思い出が蘇り、後ろ髪引かれる想いを必死に断っていた。

 一方チームメイト達も寂しさや悲しさを懸命に堪えていた。乱暴な言い方をすればデジタルは自分達よりダートプライドを取った。その事実に少なからずショックを受けた者がいた。だがアグネスデジタルというウマ娘は案外欲張りで我儘ということを知っていた。

 レースを走る為に学園を去るという選択肢は理解しづらいものであったが、その振り切り具合はある意味尊敬できるものであった。

 この我儘で尊敬できるチームメイトをせめて笑って送り出そうと言うのが、チームプレアデスの見解だった。

 

「俺も1言いいか?」

 

 トレーナーが挙手するとデジタルが居る場所に歩み寄り喋り始める。

 

「まずデジタルが地方に行くのがおかしいと思うものは考えを改めろ」

 

 トレーナーから発せられた言葉にチームメイトやプレストン達は面を喰らう。

 てっきりやさしい言葉の1つや2つでも送ると思っていた。皆はトレーナーが次に何を言うのかと注目する。

 

「ルールは前から決められたものであり、シンボリルドルフが出したドバイワールドカップで走るという代案は筋が通っておった。だがそれを拒否して選択した。元を正せばデジタルがサキーやヒガシノコウテイやセイシンフブキに少しでも早くリベンジしたいという気持ちから始まった。我慢してればこうはならなかった。己の我を通そうと思えば時には周りと衝突し、意を通せないことがしょっちゅうや。デジタルの今はある意味自業自得や」

 

 トレーナーの手厳しい言葉を送る。言っていることは正論だがもう少し優しい言葉でもかけるべきだ。皆はデジタルの心境を窺おうと視線を向ける。

 デジタルはトレーナーの言葉に対して怒るわけでは無く、真剣な表情で聞いていた。

 

「だが、己の我を通そうと行動しダートプライドが開催され、学園を出るという選択をした結果、ダートプライドに出走できるようになった。その意志は心から尊敬する。限りある選択肢から選ぶのではなく選択肢を作り、道を切り開いた。デジタルは間違いなく勇者だ。お前の帰ってくる場所はここや。大井に行かせておいてなんやがな」

 

 トレーナーはデジタルに手を差しだす。デジタルの今はある意味人生の縮図だ。我を通そうとし、周囲の力に負けて学園を出て行かなければならない。

 我を通す為には力や事態を予測し対策する知恵と知識が足りなかった。今回は最低限の要求は通ったが、もっと悲惨な目にあう可能性は充分にある。それをチームメイト達に伝えておきたかった。

 だが本心は手放しで賞賛し褒めたたえたかった。走りたい相手とレースを走る為にレースを作るというアイディアを思いつき、実行できたウマ娘が何人居る?

 デジタルは手を差しだしトレーナーと握手する。そしてプレストンが近寄り声をかける。

 

「当分1人暮らしを満喫させてもらうわ」

「他のウマ娘ちゃんと同室になるんじゃないの」

「どうせ1年後に帰ってくるんだから、来る娘も引っ越す手間が無駄でしょう」

「ちゃんと部屋を綺麗にしておいてよね」

「デジタルじゃないんだから当然でしょ。あと大井に行ったからって調子落とさないでよね。ダートプライドを走った後はアタシと香港で走るんだから」

「分かってる。そういえば地方所属でもGIに出られたっけ?」

「今更ね、そこは確認してるから。問題ない」

「流石プレちゃん、仕事が速い」

「デジタルが地方に移籍するって聞いた時に速攻で確認したわ。もし走れなかったら全力で地方行きを止めてた」

 

 プレストンとデジタルはいつも通り気の置けない会話をおこなう。プレストンは相部屋から1人暮らしになると言ったが、そのような予定は全くない。

 これは願望だ。その為に多少なひごねるつもりだ、部屋の同居人はデジタルただ1人だ。

 チームメイト達から激励の言葉を受け、最後はスペシャルウィークの番になる。

 

「デジタルちゃん元気でね」

「ありがとう。スぺちゃんもドリームトロフィーターフ頑張ってね」

「うん、2人で合同祝勝会をあげよう」

 

 スペシャルウィークは両手でデジタルの手を力強く握る。レースに出走する為に学園を出るという選択肢、自分に置き換えるならでサイレンススズカと走る為に学園を出なければならないという状況だろう。

 学園ではトレーナーや多くの友人やライバルと出会えた。そんな人々と過ごせるこの場所は最高の環境である。そんな環境を1年という期間限定でも手放せるだろうか。

 デジタルが取った選択に対して尊敬を抱くと同時に目的の為に迷いなく進む吹っ切れ具合に恐ろしさを感じていた。

 

 こうしてデジタルは正式に大井ウマ娘協会の所属になった。

 

 その後いくらかの月日が経ち規定が一部改訂され、中央ウマ娘協会所属のウマ娘は中央ウマ娘協会が認めたレース及び、交流重賞以外のレースに出走してはならない。この条文の中央ウマ娘協会が認めたレースの部分が削除された。

 それによってダートプライドのようなエキビションや中央ウマ娘協会にとって出走させるメリットが無いレースでも本人が望むのなら出走できるようになった。

 このルールは後にアグネスデジタルルールと呼ばれるようになった。

 

 




現実の競馬では中央の馬が地方に移籍することに対する規定はそこまで厳しくありません。
2ヶ月地方に走ってから中央に戻るということも可能です。
この作品では現実の野球やサッカーなどで転校した者は1年間公式試合に出られないという規定を参考にして、地方に移籍したウマ娘は1年間中央に戻れないという規定になりました。

そしてパート1、パート2などのランク付けについてですが、現実の競馬ではもう少し複雑な基準で決めているみたいです。
ただこの作品ではバトル漫画的な単純な強さランキングです


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勇者と隠しダンジョン♯11

 1月1日午前3時30分、アグネスデジタルは布団を剥がし体を起こす。布団で守っていた体はむき出しになり、冷気が一気に襲う。その寒さと眠気にやる気が一気に削がれるが、必死に気力をみなぎらせ部屋を出る。

 外に出ると辺りは暗闇に包まれ、風が吹き先程とは比べ物にならないほどの冷気が襲い、少しでも早く温まろうとウォーミングアップを開始する。

 午前4時になるとコースが解放され、アップを済ませたると1番乗りでコースに入り、誰も居ないコースを見て苦笑した。

 こんな元日の朝早くにトレーニングするなんて、いつの間にこんなに真面目になってしまったのだろうか、それに他のウマ娘が居ないというのも味気ない。

 きついトレーニングでもウマ娘の姿を見れば活力が湧いてくるのだが、そんな状況に内心で不満を漏らしていると30代ぐらいの男性トレーナーがやってくる。彼が今のデジタルのトレーナーである。

 トレーナーが機器をセットしている間にデジタルも腕周りに機器をセットしながら、ゴールから残り1000メートルの地点まで向かい、走り始める。コースに一番乗りしてトレーニングしているのには理由があった。

 

 今のデジタルはトリップ走法改良のために目隠しをして走っていた。

 中央在籍時のトレーニングと大井に来てからも何度も走ったこともあり、蛇行や斜行もせずに走れるようになったが。

 しかし目隠し状態では突発的な事態が発生した場合に対応できないので、できる限り人数が少ないこの時間に行っている。

 そしてダートプライドは大井左回りで行われる関係で今のは左回りでトレーニングしている。

 大井レース場で行われるレースは全てが右回りであり、他のウマ娘は右回りでトレーニングする。そんななか他のウマ娘が右回りでトレーニングしているなか、1人左回りで逆走するのは邪魔である。以上の理由でこの時間帯にトレーニングしていた。

 デジタルは即座にイメージを構築する。ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、サキー、ストリートクライ、ティズナウの姿が限りなくリアルに再現され、多幸感が体中を駆け巡り活力を与える。

 砂を巻き上げながらゴールに向かって突き進む。すると突如ゴールという大音量の声が耳に届く。脳内からイメージが消えると同時に速度を落としながら目隠しを外すとトレーナーの元に向かい、録画された自分の姿を確認する。

 画面には人型の映像とデジタルの姿が映りその姿は僅かにぶれていた。デジタルは映像を見ながらブツブツと独り言を呟きながらその場で走る動作を行う。

 

 このトレーニングには3段階の目標が有る。

 

 1段階目は目隠しした状態でランニングし、理想的なフォームを維持する。

 2段階目は目隠しした状態で普通に走り、理想的なフォームを維持する。

 3段階目は目隠しした状態でトリップ走法で走り、理想的なフォームを維持する。

 

 デジタルは中央在籍時と大井でのトレーニングで2段階目はできるようになり、今は最終段階のトリップ走法で走りながら理想的なフォームを維持することに向けて試行錯誤を繰り返していた。

 この後も同じ距離で何本か走り、1時間半後経過すると他のウマ娘がトレーニング場に現れてコースに入り始めるのを見てトレーナーと別れ、別のトレーニングに切り替える。

 このトレーニングは集中力を必要とし、短時間で終わらせたほうがトレーニングの効果が高いというデータが中央在籍時代に出ていた。トレーニング場から出るとシャワーを浴びて汗を落とし、自室に向かった。

 

 大井に移籍してから生活は大きく変わった。中央で当たり前にあった設備が存在せず、トレーニングも人数の関係で時間制限が設けられている。量も質も中央と比べていると劣り、中央の時のようにトレーニングしていれば能力は衰えていただろう。

 だがトリップ走法で走りながら理想的なフォームを維持するトレーニングは幸運にも中央の設備がなくてもできるものだった。むしろそれしかやれることがない状況だった。

 トレーニング時間以外でも思考し、アイディアを思いついてはトレーニングでトライ&エラーを繰り返す。セイシンフブキは他の設備が乏しいが故にダートコースを走り、誰よりもダートについて深い理解を会得した。

 ヒガシノコウテイは岩手という地は時には豪雪に見舞われ、時には練習が不可能になり、時間が削られていく。だが工夫を凝らし、少ない時間だからこそ実のある練習をしようと集中力を研ぎ澄ましていた。

 デジタルは無意識に地方ウマ娘が強くなった要素を取り入れていた。

 

 それから1時間程補強運動をしながら時間をつぶす。本来ならトレーニングを切り上げても良かったのだが、今日だけは事情が違った。

 コースをライトの光以外のもう1つの光源が照らし始める。トレーニングしていたウマ娘達も足を止めて空を見上げ、初日の出を拝み、デジタルも同じようにトレーニングを中断し、太陽を見て拝んだ。

 

───

 

 デジタルの横を次々と人が通り抜け、前方にある鳥居を抜けていく。年明けの高揚感のせいか、人々の声が弾みどこか浮かれている。

 その様子を眼で追いながら手をコートのポケットに入れて、寒さを紛らわせながら鳥居をくぐっていく。

 今年の元日はいつもとは違っていた。幼い頃は両親や友人と過ごし、トレセン学園に入学してからはチームメイトやプレストンなどと過ごしていた。だが今は傍に友人は居ない。

 チームメイト達から初詣に一緒に行かないとか誘われたが断っていた。理由としては願掛けの一種である。

 ダートプライドまでチームメイト達や友人達と顔を合わせない、そうすれば願いが叶うかもしれない。迷信を信じる方ではないが大井に移籍した際にそんな考えがふと浮かんでいた。それからは電話やラインでは会話したが、直接顔を合わしていない。

 

 南参道から奥の宮を目指す道中で、晴れ着姿のウマ娘を多く見かけ目が奪われる。

 この神社に来た目的の何割かは晴れ着姿のウマ娘を見るためだった。姦しくはしゃぎながら必勝稲荷に向かうウマ娘達を気取られないように眺める。

 ここの神社でかつて大井所属のウマ娘がビッグレースの前にお参りし、勝利したという言い伝えが残っている。そのご利益にあやかろうと初詣に多くのウマ娘が参拝に来ていた。

 デジタルもお参りしようかとするが思いとどまる。ダートプライドは勝ちたいのではない。最高のウマ娘達の全てを感じて堪能したいだけであり、ここで祈っても意味がないどころか、何か悪いことが起きそうな気がした。

 必勝稲荷で真剣に拝むウマ娘達を横目に見ながら千本鳥居を通り過ぎる。流石に千本は無いが何十本もの鳥居を潜りぬけて進むのは初めてで、まるで別世界に誘われるようなミステリアスな感覚に陥っていた。

 千本鳥居を抜けると稲荷山の頂上を目指す。実際の山では無く人工物であり、備え付けられている階段で登っていく。1分程度で頂上に着き、社の前で手を合わせて目を瞑りながら願う。

 

───どうかダートプライドが最高のレースになって、最高の体験ができますように

 

 目を開けてお参りが終わると同時に、ふとダートプライドに出走するウマ娘達が頭に過る。

 

──年明けはどう過ごしているのだろう?

 

──────

 

 岩手山、別名岩鷲山とも呼ばれ、盛岡レース場からも一望でき、その素晴らしい景色はレース観戦に疲れた観客の疲れを癒し、また岩手ウマ娘協会所属のウマ娘達のトレーニング場所でもある。

 ヒガシノコウテイは刺すような寒さに耐えながら登っていく。辺りは暗闇に包まれ光源は皆が持つライトだけである。辺りをライトで照らしながら注意深く進む。

 1月1日午前1時、岩手山麓にヒガシノコウテイを初めとする岩手ウマ娘協会のウマ娘が集まった。目的は山頂で初日の出を拝むためである。

 十数年前にあるウマ娘がしてから元日の伝統行事となり、強制参加ではないが多くのウマ娘達が集まっていた。

 岩手山はトレーニングの一環で登っていたが、夜中に登るのと慣れ親しんだ山がまるで別の山のような錯覚に陥っていた。

 山頂までは歩いて約3時間、その道中は高揚して騒いでいるウマ娘達をやんわりと注意しながら、皆に事故がないように細心の注意を払いながら登っていく。

 山頂を登ると他の登山客もいて、邪魔にならないようにそれぞれが地面に腰掛け談話しながら日の出を待った。

 

「うわ~」

「キレイ」

 

 雲間からオレンジ色の一条の光が皆を照らす。初めて見た者はその美しさに思わず歓声をあげ、何回か見ている者もその美しさを噛みしめる。

 

「岩手ダービー絶対勝ってやる~!」

 

 突如1人のウマ娘が大声で叫び、その声はやまびこになり反響する。

 その突然の行動に他の登山客と全てのウマ娘が視線を向ける。その声の主は今年ジュニアC級に上がるウマ娘だった。

 

「何してんの、急に隣で大声ださないでよ」

「いや、初日の出ってご利益有りそうだし、大声で願い事言えば神社で願うより叶いそうかなって」

「普通は黙って願うものでしょ」

 

 隣に居た同級生が頭を軽く叩きながら注意し、ヒガシノコウテイが代表して他の登山客に頭を下げる。

 すると深夜時間ずっと活動し、初日の出を見たことでテンションが上がっているのか、高揚感に身を任せるようにジュニアC級のウマ娘達が次々と願いや決意を太陽に向かって叫ぶ。

 

「だったら私はダイヤモンドカップに勝ちたい~!」

「私はひまわり賞~!」

「オータムティアラ~!」

 

 ヒガシノコウテイはアタフタしながら止めるように諫める。こういう学生っぽい雰囲気を嫌う人も多く、何より岩手ウマ娘協会の品性が疑われる。

 

「クラスターカップに勝つ!」

「マーキュリーカップに勝ってやる!」

 

 次第に諫めるべきシニア級のウマ娘も己の目標や願いを叫んでいく。何をやっているのだと怒鳴りたくなるのを抑えて、引き続き諫める。

 すると叫び終わったウマ娘達は妙にスッキリとした顔をしながら次々と期待を込めた目線でヒガシノコウテイを見つめ始め、すぐに視線の意味を察する。

 

「私はやりません」

「いいじゃん、やろうよ」

「やりません。他の方に迷惑です」

「いや、迷惑してないみたいだよ」

 

 ヒガシノコウテイは辺りを見渡す。他の登山客はどこか生暖かい視線を向け、まるで孫か何かが騒いでいるのを見ているようだった。観念したようにため息をついた後大きく息を吸い込む。

 場の空気に当てられた、日の出を見て高揚した、普段ではしない行動をして振り切れたかった、様々な理由が脳内に浮かび上がる。それらは行動を後押ししたが決定的な要因ではなかった。

 

「私は!ダートプライドに勝って!世界一になって!オグリブーム以上のブームを湧き起こして!地方にお客様を集めます!」

 

 ヒガシノコウテイは最大限の声を出す。その声量の大きさに周りの者は思わず耳を塞ぎ、やまびこが周囲に大きく響き渡る。

 これは決意表明だ、自分の願いと想いを声に出して周りにと山に居るだろう神様に伝える。口に出したのはあまりにも大きい目標である。今までなら思うことすら憚れる事だった。

 だが酸いも甘いも経験し、地方を背負って走り続けたヒガシノコウテイにはその大言を背負える決意と覚悟が宿っていた。

 

「うるさいですよ」

「加減してください」

「これだから大人しい奴は、声の調節のネジがバカになってるんだから」

「すみません」

 

 周りのウマ娘から一斉に非難される。皆と同じことをしたのに何故ここまで言われなければならないのかと、若干の理不尽さを感じながら叱責を粛々と受ける。

 

「そして声に負けないぐらい大きなこと言ったな。期待してるよ」

「ヒガシノコウテイさんならやれます」

「世界の皇帝になってください」

 

 誰もがこの大言をバカにも否定せず激励する。もし他の誰かが言ったとすれば心の中で否定し冷めた目で見ていただろう。

 ヒガシノコウテイは地方を愛し尽力し苦悩しながらも前を進み続けた。彼女なら世界一になって地方に明るい未来を与えてくれる。何より報われて欲しいと心の底から思っていた。

 

「ありがとうございます」

 

 ヒガシノコウテイは皆の言葉を噛みしめる。激励の言葉をかけられるたびに想いが胸の内に蓄積され、燃料になっていく。

 誓いを立てるように太陽に向かって手を合わせて拝み、皆もそれに倣うように手を合わせて拝んだ。

 

───

 

 ライトで照らされた船橋レース場に2人の息遣いが聞こえる。1人はアジュディミツオーだ、遠心力に耐えながら最短距離をコーナリングする。その表情は苦痛と焦りが浮かんでいた。

 

 アジュディミツオーも耳には1つの息遣いとダートを踏みしめる音が徐々に近づいてくるのを聞こえていた。もう1人の息遣いの主であるセイシンフブキは食らいつく間も与えずアジュディミツオーを抜き去り、ゴール板を通過する。

 

「あ~、これでもダメか」

 

 アジュディミツオーは息を乱しながら天を仰ぐ、ハンデを10バ身の差を与えられてのマッチレースだったがそれでも差し切られた。

 実力差は有るのは分かっているが、大きなリードを貰いながら何度も差し切られるのはほんの僅かな自尊心が傷つけられる。セイシンフブキは腕を組みながらその姿を見下ろす。

 セイシンフブキは盛岡でヒガシノコウテイにある程度の技術を教えると船橋に戻っていた。

 こちらもフィジカル強化の方法はある程度教えてもらい習得した。後は自力で何とか出来るので、こちらもこれ以上教えることは無いと判断していた。

 あくまでも利害関係であり同盟関係ではない。同じダートプロフェッショナルとして健闘してもらいたいが、必要以上に塩を送るつもりはなかった。

 

「甘い、けどコーナリングは傾斜や砂の状態を把握して少しはマシだった」

「あざっす!自分でも手応えよかったんですよ」

 

 アジュディミツオーは滅多に褒められないセイシンフブキから褒められて、尻尾や耳の動きで無意識に感情を表す。

 

「ところで、師匠は何時からコースに居たんですか」

 

 2人はトレーニングを中断し、ゴール板付近のラチに背を預けながら座り込み休憩する。時刻は午前4時でこの時間にトレーニングする予定は全くなかった。

 元日は初日の出を見るのが恒例行事として、早めに就寝して初日の出に備えていたが、午前3時に目が覚めた。

 もうひと眠りしようかと考えたが寝過ごしそうな予感が過り、このまま起きていようかと思考しようとした時に隣で寝ているはずのセイシンフブキが居ないことに気づく。

 どこに出かけたのだろうと考えながら何となくコースに向かうとその姿が有った。そしてアジュディミツオーはセイシンフブキに見つけられ、トレーニング相手に駆り出されていた。

 

「0時」

「0時って、アタシが向かうまでずっとコースに居たんですか?何やってっすか?」

「スクーリング」

「スクーリングって、このコースで何百回は走ってるじゃないっすか!?する必要なくないっすか」

 

 アジュディミツオーは驚きの声をあげる。スクーリングとはコースを把握する下見のようなもので、主に初めてのコースで走るウマ娘がおこなうものだ。

 世界で1番このコースを知っているセイシンフブキがやる必要が有るとは思えない。

 

「まあ、年間行事のようなもんだ。これは姐さんがやってたんだよ」

 

 砂を手で掬いながら懐かしむように語り始める。一年の計は有り、1年の初めに船橋のダートの情報を更新しなければならない。アブクマポーロはそう言いながら、元日の0時からスクーリングしていた。

 

「だったら起こしてくださいよ。師匠に付き合うのが弟子ですよ」

「嫌だよ。めんどくさい」

 

 セイシンフブキは不満を切り捨てながら、自分も同じようなことをアブクマポーロに言って、同じように切り捨てられたことを思い出す。そして切り捨てた理由も理解した。

 元日の翌日にアブクマポーロを見習ってスクーリングをおこなったが、当時のダート理解度では新たな発見も見いだせず、何一つ面白くなく10分程度で止めた。だが今はダート理解度が深まり、3時間スクーリングしても新たな発見が有り飽きも来なかった。

 理解度が低い状態で何時間も付き合わせるのは一種の苦行だ、それを味合わせるのはかわいそうだと1人でスクーリングをおこなった。

 何よりダートを愛し全てを懸け、誰よりも早くダートに触れるのは自分であるべきだ。

 そんな愛着と独占欲が綯交ぜになった感情が弟子でも自分より早くダートに触れることを許さなかったのだろう。今ならその感情が手に取るように分かる。アブクマポーロも案外子供っぽいところが有ったのだな。

 

「よし、休憩終わり、マッチレーストレーニングを続けるぞ」

「分かりましたよ。というより何で元日にこんな追い込むんですか?」

「それはすぐに分かる」

 

 アジュディミツオーは若干不満げな態度を見せながらトレーニングを再開する。その後いつも以上に追い込まれコースに大の字になって倒れこんだ。

 

「すみません、もう無理っす」

「そろそろだな、おい体を起せ」

 

 セイシンフブキは時刻を確認しながら東を見つめる。アジュディミツオーは釣られるように体を起こし見つめる。

 

「すげえ」

 

 アジュディミツオーは感嘆の声をあげる。毎年見ている初日の出のはずなのだが、いつも以上にキレイに輝いて見えていた。

 

「どうだ。年初めに追い込んで地元のダートで砂まみれになって見る初日の出はいいだろう」

 

 セイシンフブキはその反応に満足しながら明朗な笑顔を向ける。かつての自分もアブクマポーロにトレーニングに連れ出され、限界まで追い込まれた後に初日の出を見て同じような感想を抱いていた。

 

「師匠、世界一になってください」

「当たり前だ」

「それで勝ちづけてください、アドマイヤドンもゴールドアリュールも叩きつぶして王者で居続けてください。アタシは無敗で南関4冠とJBCとジャパンカップダートを取りますんで、東京大賞典でダート世界一を決めましょう」

「随分と大きく出たな」

「アタシは世界一のダートプロフェッショナルに育てられたウマ娘ですよ。師匠以外のダートウマ娘にはダートへの愛や懸ける情熱は負けない。だから負けないです。それに師匠を超えるのが弟子の務めでしょう」

「確かにな」

 

 セイシンフブキはその言葉に頷く。かつての自分はアブクマポーロと公式戦で走ることはできなかった。

 もし走ったらどうなっていたか?常々想像しているが、永遠に答えは出ることはない。それは心残りとして胸の中に居座り続ける。その辛さを味わせないのも師匠の務めだ。

 2人は其々の決意を固めるように太陽を見つめ続けた。

 

───

 

 携帯から鳴るアラームがサキーの意識を覚醒させる。朧げな意識のままアラームを止めて画面を見る。

 1月1日午前5時、特に年明けの感慨は湧かないまま、布団を剥がして起き上がり体を動かす。身体が若干重い。

 12月からドバイから日本にあるゴドルフィンの外厩に移動して調整を進めた。

 そこではトレーニングの他にもダートプライドの宣伝活動をおこない、出来る限りのイベントやテレビ番組に出演した。

 その活動量は目が回る忙しさという言葉では足りない程多忙で、プライベート時間はほぼ無かった。

 さらに今までは欧州やアメリカのメディアには出演したことはあったが、日本に来たのは初めてであり、どうすれば日本のメディアに好感が持たれるように演じるかに苦心し普段より疲労が大きかった。

 今後のPR活動を減らすかと考えながら窓を開ける。そこには暗闇が広がっていた。本来ならばトレーニングまで眠っているのだが、理由が有って貴重な睡眠時間を削って起きていた。

 

 UAEや母国のアメリカではない文化として、日本では新年に出る初日の出をありがたる。

 サキーも太陽のエースと呼ばれ、太陽については少しだけ興味を持ち、日本の文化を体験しようとしていた。

 暫くすると東の空から太陽が上がり暗闇を打ち消すように地上を照らす。それを見ながら感傷にふける。

 太陽は強大な熱と光を発し地球を照らす、だがその圧倒的な光でも太陽が沈んでしまえば暗闇が訪れる。

 サキーは永遠に輝く太陽になりたかった。そしてその道は果てしなく遠いことに気づく。時間が許す限りダートプライドのPR活動を行ったが想定した認知度には遠かった。これでは地方のウマ娘達に光を与えられない。

 

 皆を照らす為にはより大きな光が必要だ。ダートプライドに勝ち世界4大タイトルを勝つ。この偉業を達成できればより大きな光を持つ太陽になれる。そうなれば善戦した相手として地方の2人は注目される。

 世界4大タイトルを取った後は出来る限り多くの国で走る。主要国以外でも走っているウマ娘達は多く居る。そこで走る事で彼女達に光を浴びせ、懸命に走る姿を世間に知らせる。

 そして引退した後は現役時代の知名度を生かして、PR活動を行いレースの素晴らしさを死ぬまで伝え続ける。そうなれば永遠に輝ける太陽になれる。

 そのためにはダートプライドに勝たなければならない。走るレース全てが背水の陣である。太陽を見ながら自身を戒め必勝を誓った。

 

───

 

 カン、カン、カン、カン

 

 元日の朝、雲一つない青空に木材で何かを叩いた澄んだ音と何人かの女性の楽し気な声が響く。ゴドルフィン外厩の正門前、そこのスペースは駐車場も兼ね普段は多くの車が駐車しているが、今は2人の女性がそのスペースを占拠していた。

 お互いが何か木製のラケットのようなものを持ちピンポン玉を打っている。彼女達は行っているのは羽根つきである。

 

 カンカンカンカンカン

 

 澄んだ音が鳴る感覚が明らかに早くなっていく。一般的なラリーを長引かせるように打ち合う和やかな羽根つきと違い、高速のラリーの応酬は遊びではなく何かのスポーツ競技のようだった。

 暫くするとピンポン玉が地面に落ち、チクショーという女性の声が辺りに響く。

 

「できた…」

 

 ストリートクライはペンを持ってキャサリロの顔に何かを書き込み、顔を見て笑いを堪える。キャサリロはストリートクライの様子を見て不安が過りながらピンポン玉を拾い、打ち合いを再開する。

 2人は起床し、大晦日にアイルランドの風習でカベに投げつけたパンを朝食として食べながら今日の予定を考える。

 ゴドルフィンの外厩でトレーニングしていたウマ娘達の大半は帰郷し、寮にはダートプライドに向けて来日にしているサキーとストリートクライと付き添いのキャサリロしかいなかった。

 そしてスタッフも最低限の者のしかいなく、トレーニングは休みになっていた。

 ストリートクライは休日をどうやって暇をつぶすかと考えているとキャサリロがラケットのような木製の何かを取り出す。それはキャサリロが自作した羽子板だった。

 

 キャサリロは暇つぶしに羽根つきをやろうと提案し、特に予定のないストリートクライはあっさり了承する。

 最初は和やかにやっていたのだが、キャサリロが羽根つきにはミスしたものは顔を落書きされるというルールを知り、敗者は落書きされた状態で街に出向き、買い物をするという罰ゲームが追加された。

 

 ストリートクライは深く考えず了承した。落書きと言っても簡素なもので、そこまで人の目を気にしないタイプなので問題無いと思っていた。

 だが最初のミスで描かれた落書きを見て考えを変える。右頬に描かれただけだったが自分の基準でも恥ずかしいもので、街に出れば全ての者がこちらを振り返り失笑するだろう。

 それからは遊びの範疇を超えた真剣勝負になり、勝負は接戦の末ストリートクライが勝利した。

 

「プッ……お帰り」

「ほらよ。クソ、全員こっちを見やがって」

 

 1時間後、キャサリロは街での買い物を終え自室に戻る。その表情は街で体験した羞恥を思い出したのか若干紅潮していた。

 

「次はこのけん玉って玩具で勝負だ。負けたら落書き状態で街で買い物だからな」

「いいよ、今度も勝つから」

 

 けん玉勝負はキャサリロが勝ち、ストリートクライは入念に落書きされた状態で街に向かい、周りの人間に好奇の目で見られ、顔から火が出るような思いを味わった。

 それからだるま落としなど日本の遊びをして元日を過ごしていく。

 

「今までのって日本の遊び?」

「そう。日本では1月1日はこういう遊びをして過ごすらしい。良い暇つぶしになったろ」

「キティってそんなに日本に好きだったの?」

「別にそういうわけじゃないけど、他国の文化はとりあえず体験しておこうかなって。ゴドルフィン辞めた後プラプラと周ってさ、そこでその国の風習や遊びを体験するのが結構刺激的だったから、外国に来た時は色々やろうって思ったんだ」

 

 キャサリロは懐かしむように語る。ゴドルフィンを辞めて家にも帰る気になれず、逃げるようにして海外を放浪した。

 そこで様々な体験をして、今まで目を背けていたストリートクライのレースを見に行こうと決心してドバイに向かった。

 

「今までどこの国に行ったことあるの?」

「プエルトリコ、メキシコ、ウルグアイとか中南米をぶらっとした。途中でドバイに行って現在に至る」

「じゃあ、これからは色々な国に行くから」

 

 ストリートクライがボソリと呟き、キャサリロは言葉の意味を問うが何も答えなかった。

 その態度を見て察する。ストリートクライは何かを秘めている。親から無口な奴は大きな想いを溜め込んでいると教わった。

 再び一緒になって昔と比べてよく喋るようになったが、年の瀬になってからあまり喋らなくなった。

 きっと大きな感情と想いを溜め込んでいるのだろう。そしてそれはいずれ爆発する。それが何か楽しみにしておこう。

 しばらくの間2人の間に沈黙が訪れる。だがそれは気まずいものでは無く、心地よいものだった。

 

───

 

 ティズナウは起き抜け特有の倦怠感に抗いながらベッドから起き上がる。時計を見ると時刻は12時を回っていた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し渇きを癒す。

 12月31日のカウントダウンパーティーでは大いに騒ぎ楽しんだ。

 パーティーでは日々のストレスを発散し、活力を得たと同時に非常に有意義なものだった。そのパーティーには野球やバスケやアメフト等で頂点に立つと言われる選手とも言葉を交わし、親交を温めた。

 彼らはストイックで責任感が強く、その分野の頂点としての誇りを持って強くあり続けようとしている。

 その姿は尊敬に値するもので、見習うべき点が多くあった。他にも欧州のチームでプレイしているサッカー選手とも会話し、日々の体験も聞けて学ぶべき点があった。

 

 彼らトップの選手に共通しているのは挑戦心だ。アメフトやバスケなどアメリカがその分野で頂点なら他国に逃げるようなことをせず挑み続けた。サッカーなどの他国が頂点の競技ならレベルが低いアメリカに留まらず、レベルが高い国に挑戦した。

 アメリカから逃げて他国で弱者を倒し悦に入っているウマ娘や、ヨーロッパで引きこもり世界一になったと勘違いしアメリカに挑戦しないウマ娘達に改めて憤りを覚えていた。

 

 ティズナウは怒りを発散しようと部屋を出て、ホテルにあるジムに向かう。更衣室で着替えると、ウマ娘用の重りを装着しランニングマシーンを最速にセットし走り始めた。

 ジムにはウマ娘用のランニングマシーンは存在せず、重りを装着することで運動強度を上げていた。トレーニングにしては物足りないが軽く汗を流す程度としては充分だった。

 ランニングマシーンで走っていると隣のランニングマシーンを男性が使用すると同時に声をかけてくる。彼はカウントダウンパーティーに参加し、アメフトで最年少リーグMVPを獲得したフレイディーだった。

 

「ヘイ、ティズナウじゃないかい。新年早々ワークアウトかい」

「そんなものじゃないですよ。フレイディーさんは?」

「昨日の飲みすぎてね。酒を抜かないとスーパーボウルの調整に間に合わなくてね」

 

 フレイディーは陽気に話しかけティズナウは笑みで応える。暫くの間会話を交わしながら汗を流す。すると今まで陽気に話していたフレイディーが真剣みを帯びた声に変る。

 

「そういえば改めて礼を言わせてもらうよ」

「何がですか?」

「去年のシーズン、チームは絶不調で例の事件があって失意に落ち込んでいた。そんな時にティズナウのBCクラシックの映像をコーチから見せられた。魂が震えたよ。明らかにサキーが差す流れなのに喰らいついて勝った。そんな走りに私達はガッツを貰い、チームはスーパーボウルに勝って、私もMVPを受賞できた」

「ありがとうございます。私も怪我の治療中の際にスーパーボウルの逆転劇を見て、心が震え勇気を貰いました。そのお陰でリハビリに励みこうして現役に復帰できました」

「お世辞でも嬉しいよ」

 

 ティズナウは喜びを嚙みしめる。偉大なアスリートたちが自分の走りを見て勇気を貰ったと言ってくれた。

 それだけではない。多くの人々がBCクラシックでジャイアンツコーズウェイやサキーやガリレオを退けたレースを見て勇気を貰ったと言ってくれる。

 そういった人々にレースを通して勇気を与え挑戦する気力を与える。それがアメリカレース界のトップとしての使命であり喜びでもあった。

 

「ダートプライド期待してるよ。勝ってアメリカの誇りを守り多くの人々に勇気を与えてくれ」

「はい、スーパーボウル頑張ってください」

 

 フレイディーは先に切り上げて出口に向かう。ティズナウはその姿を見送りながら考える。

 アメリカから逃げたウマ娘及びアメリカに挑戦せず自国や別の国に挑むウマ娘達、彼女は哀れである。

 大きな壁に挫け、挑戦し続ける先にある栄光を知らず妥協してしまった。そんな者達の目を覚まさせるのがトップとしての責任である。

 

 こうしてダートプライドを出走するウマ娘達はそれぞれ時間を過ごす。 

 ダートプライドまで残り1か月を迫っていた



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勇者と隠しダンジョン♯12

 アグネスデジタルは正門に設置されている表札をマジマジと見る。

 

───日本ウマ娘トレーニングセンター学園

 

 約1カ月程度離れただけなのだが随分と懐かしく感じる。脳内では在籍時の思い出が鮮明に蘇り、過去を振り返る。

 思い出に浸りながら時計を確認すると時刻は14時丁度を回っていた。今頃学園のウマ娘達は授業を真面目に聞いたり、眠気に懸命に耐えたり、授業そっちのけでトレーニングのことを考えたりしているのだろう。

 受付の守衛に入場許可書を貰い敷地内に入る。窓際の席から景色を見ているウマ娘と目が合わないだろうかと期待しながら校舎を眺める。

 

「中央の雰囲気にビビっちゃった?地方ウマ娘さん」

 

 デジタルの後ろから声をかけられる。失礼な物言いだなと思いながら後ろを振り返ると懐かしい顔を見て、口角を上げた。

 

「なんだプレちゃんか?あ~あ、願掛けがが破れちゃったよ」

「久しぶりに会って1言目がそれ?それに願掛けって何?」

「ダートプライドまでプレちゃんやチームの皆とは顔を合わせないって決めてた」

「まずトレセン学園に来てる時点で守るつもりないしょ」

「それもそうだね」

 

 デジタルとエイシンプレストンはじゃれ合うようにして手を合わせながら再会を喜ぶ。

 

「じゃあ、案内してあげる地方ウマ娘さん」

 

 プレストンはおどけるように声をかけデジタルはその後ろをついていく。プレストンが迎えに来るとは考えていなく、嬉しいサプライズだった。

 後ろから風で靡く黒髪や手入れの行き届いた尻尾を無意識に目で追う。

 

「何か粘着質な視線を感じるんだけど」

「いや~相変わらずプレちゃんの髪や尻尾はキレイだなって。それにトレセン学園の制服を着たウマ娘ちゃんを見るのも久しぶりで、改めてカワイイ制服だなって。そんなに洩れてた?」

「少しね。アタシは慣れてるけど、他のウマ娘には向けないでよ」

「わかってるよ。空気になってウマ娘ちゃんを愛でる。それがマナーだからね。でもそんなだだ洩れだったかな」

 

 デジタルは己のミスを反省しながらブツブツと独り言を呟く。ウマ娘を観察するさいに滲み出る特有の情念、その気配を抑えられ、長年付き合っていたプレストンだから感じられたものだった。

 

「そういえばデジタルの制服も結構似合ってるよ」

 

 プレストンは振り返りデジタルの姿を改めて見る。白のタイに深緑を基調にしたセーラー服でスカート丈は膝下より10センチ程度下に調整されている。一昔前のミッション系女子高の制服を思わせるデザインだった。

 

「そう?最初は違和感あったけど、今は慣れたよ」

「黙ってればどこぞのお嬢様に見えるよ。黙ってれば」

 

 プレストンはアクセントを強調して二度言う。外見はお嬢様に見えるかもしれないが中身はおしとやかさも奥ゆかしさもない欲望に忠実な我儘な少女だ。

 2人は正門を抜けて敷地内を進む、その間に何人かのウマ娘とすれ違う。トレセン学園と違う制服を着てるせいか、皆がデジタルに視線を向ける。

 

「たまには見られる側になるのも悪くないね」

「それでトリップ走法の改良はどうなってるの?」

「ほぼ完成、トレーニングでは出来るけど本番ではどうなるかってところ」

「へえ~、あっちでも頑張ってたんだ」

「それに身体操作能力もかなり上がったよ。ほら」

 

 デジタルは歩きながら目を瞑り腕と手を目一杯広げ、勢いよく閉じて手を合わせる。右手と左手はぴったりと合わさり、誤差は1センチも無かった。

 

「やるんじゃん」

 

 プレストンは演技がかった口笛を吹き称賛する。中央に居た時はこのスピードで精密に手を合わせることはできなかった。

 言葉通りトリップ走法の改良型に必要な体を精密に動かす身体操作能力が向上しているようだ。

 2人は目を瞑って人差し指同士だけを合わせるなど、お互いの身体操作能力を競い合いながら歩く。

 

「じゃあ、トレーニング頑張ってね」

「プレちゃんもね」

 

 プレストンは左に曲がり自分のチームルームに向かい、デジタルは右に曲がり進んでいく。向かう先はチームプレアデスのチームルーム、迷いない足取りで歩を進める。

 右に見える木は春になると桜が咲き、トレーニング終わりに皆で花見をした。左の空き地で何故か相撲をすることになって、チームメイトに見事に投げられた。脳内でたわいなく煌びやかな思い出が蘇る。

 チームルームの扉の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけようとするが気恥ずかしさや他所他所しさが動きを鈍らせる。まるで他人の家に入るような緊張感を覚えていた。

 一応は地方所属だし入る際はノックをしたほうがいいのか?逡巡するが即座に自嘲的な笑みを浮かべ笑い飛ばす。ここは自分のチームルームで有りホームだ。何を遠慮することはない。

 

「おつかれ~」

 

 デジタルはノックせず部屋に入る。おつかれという挨拶はチームの皆が部屋に入る際に口にする言葉だ。部屋に居たチームメイト達は一斉に目を向ける。

 

 驚き、緊張、動揺。其々に様々な感情が浮かび上がっていた。

 

「おつかれ~」

 

 返ってきたのはいつもの挨拶だった。その挨拶はデジタルがここに居るのは当然であると雄弁に語っていた。この言葉で感じていた他所他所しさは完全に消えていた。

 

「デジタルはトレーニング終わったらすぐ帰るの?」

「うん」

「時間あるんだったら、駅前の本屋行かない。買いたい本有るんだよね」

「いいよ。アタシも欲しいのあるし」

「その後あそこのパン屋行こうよ。新商品発売されたし」

「あそこの新作当たり外れが大きいんだよね」

 

 皆は着替えながら他愛の無い雑談に興じる。それはかつての日常そのものだった。

 

「入るぞ」

 

 ノックと同時に聞き覚えのある声が聞こえてくる。チームメイトがどうぞと呼びかけるとトレーナーが入室してくる。

 電話やメールなどでトレーニングの指示を受けたりしていたが、面と向かって会うのは中央から離れて以来だった。

 トレーナーはデジタルを一瞥すると特に声をかけることなくミーティングを始める。そのいつも通りの対応に心地よさを感じていた。

 

「デジタルちゃん元気だった?」

「元気だったよ。スぺちゃん今日はよろしくね!」

 

 デジタルはウッドチップコースにいるスペシャルウィークを見つけると、一気に駆け付け尻尾をぶんぶんと振りながら話しかける。スペシャルウィークもデジタルの以前と変わらない姿を見て安堵の笑みを浮かべていた。

 

「無理な頼みを受けてくれてありがとう」

「こちらこそ、良いトレーニングになりそうです」

 

 スピカとプレアデスのトレーナーは2人の姿は眺めながら握手を交わす。デジタルがトレセン学園に来たのはスペシャルウィークとマッチレース形式の模擬レースをするためだった。

 単走ではトリップ走法を使用しながら理想的なフォームを維持できるようになった。

 だがトレーニングと本番のレースは別物であり、緊張感や精神状態や疲労度も違ってくる。出来る限りレースに近い状態で、ダートプライドに出走するウマ娘と近い実力の持ち主と走り完成度を確かめる必要があると考えていた。

 

 最初に思い浮かんだウマ娘はスペシャルウィークだった。ダートプライドと同日に行われるWDTターフを走るウマ娘なら仕上がりに差は無く、実力も折り紙付きだ。

 何よりデジタルはスペシャルウィークに好意を抱き、ダートプライドに出走するウマ娘と同等にレースを通して感じたいウマ娘である。地方に移籍したデジタルへの労いとご褒美としてはこれ以上ないウマ娘である。

 プレアデスのトレーナーは早速スピカのトレーナーに連絡を取り交渉する。

 基本的に地方所属のウマ娘はトレセン学園の施設は使用できないが、格闘技でスパーリングパートナーを他のジムの選手を借りるように、模擬レースの相手としてコースを走ることは許可されていた。

 地方のウマ娘が練習相手に呼ばれることは今までなく、殆どの者はこの規定を知らず、トレーナーも調べて初めて知った。交渉は滞りなく進み、トレーニングを時間と場所を決めて手続きをして招集していた。

 プレアデスのトレーナーはデジタルのはしゃいでいる姿に微笑ましさを覚える。するとコースに複数人のウマ娘が入ってくるのを見つける。

 サイレンススズカやトウカイテイオーとチームスピカのメンバーが勢ぞろいだ。スペシャルウィークのトレーニングでも見学しにきたのか?だがこの時期に他人のトレーニングを見学する余裕はないと思えない。

 するとスピカのトレーナーはプレアデスのトレーナーが訝しむ様子を見て、失念していたと手を叩き伝える。

 

「白さんすみません。今日のトレーニングはスぺじゃなくて他のメンバーも一緒に走っていいですか?」

「こちらとしては大歓迎や、あいつ嬉しすぎて血管切れそうやな。お~いデジタル、こっち来い」

 

 プレアデスのトレーナーはデジタルを呼んで改めて今日のトレーニング内容を伝える。デジタルはうひょ~と奇声をあげながら狂喜乱舞していた。

 

「なあトレーナー、模擬レースするのはいいけど、アレと一緒に走んの?」

 

 ウオッカは騒いでいるデジタルを親指で指しながらげんなりとした表情を浮かべていた。

 デジタルについてはスペシャルウィークがドバイでの遠征で良くしてもらったと聞き、当初の低評価を改めていた。その後もスペシャルウィークも友達付き合いをしているので、悪いウマ娘ではないという評価が固まっていた。

 だがクスリをキメたようなヤバイ表情をしながら学園を徘徊していたという噂を聞き、良い人というのはスペシャルウィークの好意的な評価に過ぎず、当初の評価は間違っていなかったと判断していた。

 他のスピカメンバーもウオッカと似たり寄ったりの表情を浮かべ、スピカ1の変人であるゴールドシップですら顔を顰めた。

 

「やだ~。模擬レースならアグネスデジタルじゃなくて、エルコンドルパサーとかグラスワンダーとかでいいじゃん」

「そうよ、何か走ったら調子狂いそう」

「そうだそうだ~。あんな環境型セクハラ的存在と走られるか~。我々労働者はストをおこすぞ~」

 

 スピカのメンバー達は次々と不平不満をぶちまける。予想以上の嫌われぶりに戸惑いながらもメンバーを宥め説得する

 

「ダメだ。まずリギルのメンバーが模擬レースで手の内を見せるわけないし、おハナさんが貸してくれるわけないだろう。それにアグネスデジタルだってサキーをあと1歩まで追い詰めたウマ娘だ。実力はWDTターフに出るウマ娘と引けを取らない」

 

 トレーナーの言葉にメンバーは納得しかねるという表情を見せる。ドバイワールドカップの映像は見て、実力は認めているが諸手を挙げて賛同させなかった

 

「それに何回か一緒に走ったリギルのメンバーよりアグネスデジタルの方が色々な意味で刺激的だぞ」

「刺激的すぎてもはや劇物だと思いますわ」

 

 メジロマックイーンが思わずツッコみにトレーナーはその言葉に思わず吹き出す。劇物とは言い得て妙である。

 チームのメンバーがこのコースに集まっていれば模擬レースをすると察する陣営もいて、情報を見せるというデメリットがある。

 それでも久しぶりにチームメンバー同士で競い合わせて、刺激し合うメリットを選んだ。その刺激にアグネスデジタルと言う劇物を入れることでどのような化学反応を示すか楽しみでもあった。

 

「良かったなデジタル、正月とゴールデンウィークと盆とクリスマスが一緒に来たな。後でスピカのトレーナーに礼言っておけよ」

「グフフフ、まさにそれだよ!幸せすぎて明日辺り車に轢かれちゃいそ~」

 

 興奮冷めやらぬと尻尾をブンブンと振りながらウォーミングアップをする。デジタルにとっては棚からぼた餅だが、トレーナーにとっても嬉しい誤算だった。

 逃げのティズナウはサイレンスズカ、先行のサキーとヒガシノコウテイとストリートクライはダイワスカーレットとメジロマックイーン、追い込みの捲りや後方一気のセイシンフブキはスペシャルウィークとウオッカとゴールドシップ。仮想ダートプライドとしてはこれ以上ないメンバーである。

 

「俺からの指示は1つ。トリップ走法を出せ。あっちでのトレーニングの成果を見せえ」

「了解、どっちみち出さないと存分に感じられないし」

 

 デジタルは浮かれ気分といったぐあいに気のない返事する。トレーナーも嬉しいのは分かるが流石に浮かれすぎであり、気を引き締めろと注意しようが思いとどまる。

 

 本番では出走メンバーを余すことなく感じたいという一心で走るだろう。そう考えれば今の精神状態に近い。

 これでどれほどスピカのメンバーに通用するのか、通用すればそのままでいいし、通用しなければ気の持ちようを変えなければならない。これは今後を占う重要な試金石となるだろう。

 デジタル達がウォーミングアップを進めるなか、コースの近くにあるスタンドには情報を聞きつけたマスコミや他の陣営が集まり始める。その中にはリギルのトレーナーの東条ハナとシンボリルドルフも居た。

 

「久しぶりだなルドルフ、いやお久しぶりですねシンボリルドルフさん」

「畏まらいでくださいトレーナー、中央ウマ娘協会の役職についても貴女の教え子であることは変わりないのですから。それで今日はスピカの偵察ですか?」

「ああ、折角本番前に全員が走ってくれるのだから遠慮なく見せてもらう。ルドルフは?」

「私も気になるウマ娘がいるので、時間を作って見に来ました」

 

 東条はルドルフの視線を見て目当てがスピカのメンバーでは無く、アグネスデジタルであることを察する。

 先のアグネスデジタルの地方移籍には何かしら関与していたと聞いていた。ルドルフの思考として地方に行くのは賛成しなかったはず、目的は分からないが思うところが有るのだろう。

 2人は会話を止めコースに眼差しを向ける。コース場ではデジタル達がアップを終えスタート地点についていた。

 

「よーい、スタート」

 

 スターター役のトレーナーがフラッグを上げると一斉にスタートをきる。

 サイレンスズカが先手を取りハナを主張し、そのすぐ後ろをトウカイテイオーがつき、2バ身離れてダイワスカーレット、その1バ身をメジロマックイーン、その3バ身後ろにウオッカとスペシャルウィークとデジタル、さらに後ろ2バ身後ろにゴールドシップという隊列を形成する。

 前半3ハロンを過ぎてサイレンススズカとトウカイテイオーがさらに差を広げていき、ダイワスカーレットとの差は3バ身まで広がっていた。

 サイレンスズカを風よけにしてプレッシャーを与え続ける。逃げウマ娘を潰す為に効果的な方法の1つである。

 だが天性のスピードを持つサイレンスズカにその戦法を実行するのは困難であり、並のウマ娘なら風よけの恩恵に与れず足を無駄に消費させられる。しかし後ろにつくトウカイテイオーは並では無く、この戦法を実行できる。

 サイレンスズカには2つの選択肢があった。ペースを上げてトウカイテイオーを引きはがすか、ペースを落として風よけの恩恵の効果を下げるか、そして己のスタイルを貫き通さんとペースをさらに上げる。

 先行グループのダイワスカーレットとメジロマックイーンは追走せず、後方グループのスペシャルウィーク達も同様に追走せず、逃げグループとの差は開いていく。逃げグループは1000メートルを通過し明らかにハイペースを刻んでいた。

 

 残り800メートルとなり第3コーナーに差し掛かったところでダイワスカーレットの2バ身後ろに居たメジロマックイーンがスパートをかける。

 メジロマックイーンは2000メートルに勝てるスピードはあるが、ステイヤーとしての高い評価を得ていて、このメンバーの中では最もスタミナがある。普通の中距離ウマ娘ならここからスパートすればバテるがメジロマックイーンなら可能である。

 ここからレースは一気に動く。ダイワスカーレットがメジロマックイーンの仕掛けに気づきペースを上げ、メジロマックイーンと同じタイミングでスタミナ豊富なゴールドシップが捲り、それを見たウオッカも同じようにペースを上げる。レースはロングスパート合戦の持久戦と化す。

 4コーナーに入り後続が逃げグループとの差を詰め襲い掛かる。一方スペシャルウィークとアグネスデジタルはウオッカの2バ身後ろの最後尾の位置で直線を迎える。

 先頭までの距離は8バ身差、スペシャルウィークは溜めていた末脚を一気に爆発させ仕掛ける。それと同時にスペシャルウィークの外からデジタルも仕掛ける。

 デジタルはコンマ数秒でダートプライドに出走する5人のイメージを構築すると同時にスペシャルウィークに意識を向ける。

 日常の素朴さと一転して歯を食いしばり険しい表情を見せる。そこにはトレーニングでもスピカやサイレンスズカに負けないという意志が垣間見えた。

 ジャージ越しからでもハッキリと見える鍛えられた肉体が生みの親と育ての親と約束した日本一のウマ娘になるという尊い意志に推進力を与える。

 

 良い!凄く良い!レースで感じるスぺちゃんは最高だ!

 

 デジタルはイメージの5人とスペシャルウィークの姿に激しくときめき脳内麻薬が大量に分泌し、多幸感と力を与える。

 さらに感じようとスペシャルウィークに体を寄せる。その距離はあと数センチで接触するというとこまで密着していた。

 2人は一気に加速し前に走るスピカのメンバーに詰め寄り、並ぶ間もなく抜き去っていく。最後はデジタルがクビ差でスペシャルウィークを上回りゴールする。3着のウマ娘に3バ身差をつけていた。

 スタンドから騒めきの声が上がる。WDTターフに出走する強豪ウマ娘達を撫で切ったあの末脚、例え本番のレースではないといえあの芸当は出来る者がいるだろうか?

 

「よし、反省会だ」

 

 スピカのメンバーは息を整える間もなくトレーナーに集められる。皆は脳に必死に酸素を提供し思考を纏める、彼女達の耳にはスタンドの騒めきが届いていなかった。

 

「テイオーを振り切ろうと少しオーバーペースでした……もう少しペースを落としても良かった……」

「ボクもスズカを潰そうとムキになっちゃった……これだったら泳がせてよかったかも…」

「ロングスパートを意識するあまり仕掛けどころを間違えましたわ……」

「マックイーンが動いたから……私も釣られて早く仕掛けすぎたわ」

「ゴールドシップが動いて……スカーレットを捕まえようと意識しすぎた……」

「今日100歩目でスパートする日だったんだよ……」

 

 スピカのトレーナーは反省点に耳を傾ける。其々の反省点はトレーナーの見解とほぼ一致していた。

 スズカは自分のスタイルに固執しすぎ、テイオーは前のウマ娘についていきたがるという悪癖が出て、マックイーンは切れ味勝負では分が悪く、スタミナ勝負に持ち込もうと焦り、スカーレットは負けん気が悪い方に出て、ウオッカはスカーレットを意識しすぎて仕掛けを誤った。ゴルシはいつも通り意味不明なので置いておく。

 

「スぺは惜しかったな。展開が向いたのもあるがよく仕掛けを我慢したな」

「はい、ちょっとペースが速いと感じました。でもデジタルちゃんに差されちゃいました」

 

 スペシャルウィークは疲労のせいか力のない笑みを浮かべる。正確に言えば仕掛けを我慢したというより遅らされていた。

 確かにペースは速いのは感じていた。だがすぐそばに居るデジタルの存在が気になり、その不気味な存在感が引力のように縛り付ける。

 4コーナーを迎えこのままでは差し切れないと意を決し仕掛けたのだった。もしデジタルが居なければ仕掛けが早まり差し切れなかったかもしれなかった。

 スピカが反省会をする一方プレアデスのトレーナーはデジタルの元へ駆け寄りタオルと水分を渡し、デジタルは礼を言うのが億劫とばかり頭を僅かに下げ、汗を拭き水分補給する。

 トレーナーは声をかけようとするが止める。その恍惚の表情を見れば心境は手に取るように分かっていた。

 

「いや~最高だった!ゴールドシップちゃんの力強いストライドとゴール前での気色悪って感じ!ウオッカちゃんのワイルドさと情熱的な瞳とゴール前での信じられないって驚きの顔!ダイワスカーレットちゃんの揺れる肢体とツインテールと負けるもんですかって食いしばる時に見せる八重歯!メジロマックイーンちゃんのゴール前でのメジロ家の優雅さをかなぐり捨てた荒々しさ!トウカイテイオーちゃんのボクが1番だって感じの勝負根性!サイレンスズカちゃんのクールさに先頭の景色に割り込んだ時に見せた驚きと悔しさ!」

 

 デジタルは相当疲労しているのにもかかわらず、呼吸を整えることなく興奮そのままに生き生きと喋り続ける。

 

「何よりスぺちゃん!ドバイで一緒に併走したこともあったけどまるで違う!やっぱりウマ娘ちゃんはレースに近ければ近いほど煌めくね!あ~あ、実戦でスぺちゃんを感じたい!」

 

 先程のレースの記憶を反芻する。ダートプライドのメンバーに加えてスピカのメンバー、合計12人の極上のウマ娘と一緒に走って感じられた。ドリームシリーズが夢の11レースと呼ばれているが、それに匹敵するものだった。

 

「少し質問ええか?」

「何!?」

「そのスピカ達を感じたのは道中か、それともラストの直線か?」

「直線だけど、何!?」

「デジタル、本当にトリップ走法で走ったんか?直線でもサキー達のイメージは居たか?」

「当たり前でしょ!」

「そうやな、変な事聞いてすまん」

 

 至福の時間に水が差されたとばかりに睨みつけ語気を荒らげて答え、トレーナーはタブレットを見ながら訝しむ。

 現役屈指の末脚を持つスペシャルウィークを差し切ってゴールしたのであればトリップ走法を使ったことが分かる。

 スピカメンバーは模擬レースの本気に対してデジタルは本番のレースの本気に近かった。もし本番で走っても同じ結果にはならないが、1着を取れたことは大きい。さらに録画していた映像を見ても限りなく理想的なフォームで走れていた。

 その証拠にデジタルはスペシャルウィークに幅数センチまで寄せながらも接触せず走り切った。

 スペシャルウィークほどのウマ娘が寄れる事はなく、もし従来のトリップ走法では数センチ単位で蛇行し接触していた。この数センチの蛇行などのロスを無くすのが改良したトリップ走法である。

 トリップ走法は力を全て使い切り意識を想像したイメージに向ける。

 ドバイでもサキーに追いつくためにトリップ走法を使い、追いついた後はサキーを感じる為にトリップ走法を止めて意識を全て向けた。それはイメージを構築しながらサキーを感じることが不可能だったからである。

 

 だが今はトリップ走法でダートプライドのウマ娘をイメージしながら同時に現実で走るスピカのメンバー達に意識を向け感じていた。

 想像と現実の両方でウマ娘を感じる。そのマルチタスクをすればかなり脳を酷使し倒れても不思議ではない。だが今は疲弊しているが健在だ。これは成長していると捉えるべきだろうか。そして本番はさらに興奮状態になり神経が研ぎ澄ましてウマ娘を感じ力を引き出すだろう。

 その時はどれほどの走りを見せるのか。トレーナーの胸中にはデジタルに対する期待と危うさを抱いていた。

 

「ねえ白ちゃん。今日はこの1本だけ?」

「特に決めて無いがどないした?」

「スぺちゃんは充分に感じたんだけど、他のスピカのメンバーは完全に感じられなかったんだよね。折角の機会だし感じておきたいんだよね」

「ああ、そういうことか。交渉してくるわ。ただもうトリップ走法は使うな。さっきの走りで充分完成しとると分かった。これ以上はやる意味はない」

「でもトリップ走法使わないと感じられないよ」

「すんな」

「でも」

「すんな!」

 

 トレーナーが声を荒げその声量にデジタルは体をビクリと震わせ、スピカのメンバーやトレーナーは思わず視線を向ける。

 

「すまん、お前ならトリップ走法を使わずとも充分に感じられるって言いたかったんや」

「そんな怒んなくてもいいじゃん。分かった分かった。しないから交渉よろしく」

 

 トレーナーは逃げるようにしてデジタルの元を離れ、スピカのトレーナーの元に向かい交渉を行う。

 デジタルの今のトリップ走法はキレすぎている。この走りを何回もやればパンクすることは目に見えていて、自身も感じる為なら使用してしまうことは容易に予想できたので、敢えて語気を荒らげて釘を刺していた。

 その後交渉は成立し、何本か模擬レースを行った。1着を取ることはなかったが終始満足気な表情を浮かべていた。

 

「お疲れ、どうだった久しぶりの模擬レースは?」

「最高だぜ!あの緊張感良いよな。それにスカーレットには勝ったし」

「はぁ!?何言ってんのよ!最後のレースなんて完全に着拾いでしょ!あんなのノーカンよ!」

「はぁ!?どこが着拾いだよ!完全に1着狙いに行った結果だろ!」

 

 スピカのトレーナーの言葉を切っ掛けにウオッカとダイワスカーレットは額をぶつけ合いながら言い争う。最早名物と呼べるようなやりとりであり、他のメンバーも特に止めることなく見守る。

 トレーナーは他のメンバーの表情からも充実感や高揚感を見て取る。他の陣営に手の内を見せることになったが、それ以上にお互い刺激を受け最高の状態でWDTターフに挑めそうだ。

 

「それでアグネスデジタルと走ってどうだった?」

「初めて走りましたが、脚質もある程度自在性が有り、スタミナ、スピード、パワー、中距離に必要な能力を高水準で備えています。WDTターフに選出されたのも納得です」

 

 サイレンススズカが代表して総評する。スズカの意見はある程度スピカの総意でもあった。だがその後は言葉を濁し言いづらそうにし、周りに助け船を求めるように視線を向ける。

 

「気持ち悪い」

「ストーカーみたい」

「少し不快でした」

「笑いながら走るとか怖えよ」

「後ろについても背中からガン見されてるみてえ」

「全体的に粘着質ですわ。例えるなら底なし沼に嵌り、全身にヒルが這い上がってくる感覚ですわ」

「やめてよマックイーン!想像して鳥肌立っちゃったじゃん」

 

 トウカイテイオーが口火を切るとともに一斉に率直な愚痴のような感想を姦しく言い合う。スペシャルウィークは頬を掻き苦笑いをしていた。

 普段のデジタルは奥ゆかしくしようと努め、相手に気取られないようにウマ娘やウマ娘同士のやり取りを見ている。

 だがレースになると自制心のタガが一気に外れてしまう。ウマ娘が本能のように走り勝利を求めるのと同じようにウマ娘を感じようとする。その向けられる意識が不快感になっている。

 スペシャルウィークも最初のレースではマックイーンが例えたような底なし沼に嵌ったような粘着質な不快感を覚えていた。

 

 そしてトレーナーはメンバーがデジタルについての愚痴を言う姿を見て若干驚いていた。

 この模擬レースにデジタルを呼んだのはメンバーが今まで走ったことがないタイプだったからである。

 かつてスペシャルウィークがグラスワンダーに負けた時に感じたという勝利への執念、それはスペシャルウィークを恐怖させ疲弊させた。

 デジタルについてはスペシャルウィークやプレアデスのトレーナーから話を聞き、他のウマ娘とは違う価値観で走り、ウマ娘を感じるという目的で走るウマ娘である。その為に向けられる意識は体験したことが無いプレッシャーを与えるかもしれないと考えていた。

 そしてトレーナーの予想以上にストレスが掛かっていたようだ。世界は広くデジタルのような価値観で走り、デジタル以上にプレッシャーを与えてくるウマ娘が居るかもしれない。そういったウマ娘に対峙した時に疲弊しないようにする予行練習でもあった。

 

 デジタルは鼻歌混じりでクールダウンしながら弛緩した笑みを浮かべる。

 スピカのメンバー達を思う存分に堪能し、最初のレースで曖昧だった記憶を何本か走る事で完全に補完していた。

 複数回レースを走るメリットを生かし、1本目はサイレンススズカやダイワスカーレットの逃げ脚質のウマ娘を感じたいから出来るだけ前目につける。ウオッカやゴールドシップを感じたいから差しや追い込みにつけるなど、ターゲットを絞ってレースに臨んでいた。

 

 レース内容も1着を取れなくてもそれなりに好走しているように見えたかもしれないが、より近くで感じようとした結果であり、ある意味勝負を完全に度外視していた。

 

「お疲れアグネスデジタル」

 

 デジタルがクールダウンをしているとスタンドから観戦していたシンボリルドルフが声をかけてくる。クールダウンを中断して立とうとするが、そのまま続けろとジェスチャーを出しそのまま続ける。

 

「シンボリルドルフちゃんも見てたの?」

「ああ、興味があったのでな。良い走りだった」

 

 ルドルフは感慨深げに言葉を紡ぐ。1本目の最後の走りは凄まじい末脚だった。そして中央に在籍していた頃より走りが洗練され無駄が無くなり強くなっていた。

 以前地方では強くなれないと言った時、ウマ娘への愛で強くなると答えた。

 それは古臭い精神論だと切り捨てた。だがこうして以前より強くなった姿を見せた。

 より良い環境で鍛える方が強くなるという持論を否定するつもりはない。だが精神論も時には環境以上に重要であると認識させられた。

 

「1本目の走りが出来ればサキー達に勝利する可能性は充分にあるな」

「勝つとかはいいよ。でもこれで少しでも皆に近づけると実感できて嬉しい」

「そうだな、その走りが出来れば追いつき離されることなくサキー達を感じられるだろう。ダートプライドでの目的達成を祈っているよ」

「ありがとう。楽しそうだね」

「そうか?アグネスデジタルが世界の頂点にどんな走りを見せるか楽しみだからかもな」

 

 シンボリルドルフは別れの挨拶を済ませコースから立ち去る。その際にデジタルに見えないように一笑する。激励の言葉で勝利を祈ると言わなかったのは初めてだった。

 絶対的な勝利至上主義ではないが、勝利は重要なものであると思っていた。その価値観にひびを入れられた。まるで自分の領域が広がっていくようで不思議な爽やかさを感じていた。

 デジタルも後ろ姿を見ながら想いを馳せる。今までのルドルフは愛想笑いを見せていたが本心では笑っていなかった。だが今は表情は崩れていないが初めて笑ったような気がする。やはりウマ娘が笑う姿を見るのはこちらも嬉しい。

 ストレッチを終えるとチームプレアデスのメンバー達がトレーニングしている場所に駆けていった。

 

───

 

 間接照明の温かみがある光がバーカウンターに座るスピカのトレーナーとプレアデスのトレーナーを照らす。店内ではバーテンダーがグラスを吹く小気味良い音が響いていた

 

「お疲れさん、今日はおごりや、好きなだけ飲んでくれ」

「お疲れ様です。では遠慮なく」

 

 2人は軽くグラスを当てて乾杯すると中身を一気に飲み干す。

 

 デジタルとチームスピカの模擬レースが終わった後、プレアデスのトレーナーはスピカのトレーナーに声をかけ飲みの誘いをした。

 スペシャルウィークがドバイで世話になったお礼ということで参加してもらったが、スピカ全員を駆りだしたことへの申し訳なさへのお詫びと新進気鋭のトレーナーの話を聞きたいと考え誘った。

 スピカのトレーナーも二つ返事で応じ行きつけのバーにプレアデスのトレーナーを招待していた。

 2人の飲み会は和やかに進んだ。終始ウマ娘やトゥインクルレースの話を続け、過去の名レースの話やそれぞれのトレーニング理論を語り合い、話が進むと同時に酒の量も増えていく。

 

「スぺは凄いんですよ!どんな時も前を向いて!」

「デジタルだってどえらいもんや!ダートプライドを企画し実現させたんやぞ!」

 

 2人の会話は次第に自分のチームのウマ娘の自慢話と化していた。

 これが凄いあれが凄いとひたすら言い続け、大の大人がするような会話では無かった。

 言い争いは延々と続くとかと思われたがスピカのトレーナーが何かに気づいたのか、入り口に向かって手を振り呼びかける

 

「お~い、おハナさん~一緒に飲みましょうよ。白さんが奢ってくれるってよ~」

「おう奢ったる。こっちで一緒に飲もうや東条くん」

 

 東条トレーナーは露骨に顔を顰める。日頃の疲れを癒し気分転換しようと店内に入ったら2人が居た。明らかに出来上がっていて絡まれると面倒くさいと判断し外に出るところを見つけられた。

 スピカのトレーナーの誘いを断るのは問題ないが年もキャリアも上のプレアデスのトレーナーの誘いを断るのは今後に影響が出る可能性がある。渋々とバーカウンターの席についた。

 東条トレーナーが参加したことで2人の自慢話大会は軌道修正され、レースやトレーニングについてなど真面目な話となった。

 

「そういえばいよいよWDTターフやな。正直デジタルのことで手がいっぱいで情報が入ってこなかったがどうなっとる?お互いのメンバーの調子はどうや」

「こちらは完璧です。それにありがたいことにスピカメンバーの走りを見せてもらったことで、調子や弱点も分かりました」

「ふふ、甘いなおハナさん。今日のレースでお互い刺激し合いさらに成長した。過去のデータに頼っていると痛い目にあうぞ」

 

 スピカのトレーナーと東条トレーナーはプレアデスのトレーナーを挟んでにらみ合う。プレアデスのトレーナーは2人のにらみ合いを酒のつまみとばかりに呷る。

 

「もしアグネスデジタルが出走していたら、どんなレースになってだろうな」

「それは少しだけ考えた頃がある。トレーナーならどんな作戦を立てますか?」

 

 スピカのトレーナーの何気ない言葉に東条トレーナーは反応し問いかける。

 以前から勝負師としての一面について高く評価し、どんな作戦や奇襲をしかけるか興味があった。

 

「そう言われてもな、今回のWDTターフについては調べとらんし枠も決まっとらんし当日のバ場も分からん。それにパドックを見て作戦のインスピレーションが降りることもあるかなら。何とも言えん」

 

 東条トレーナーはプレアデスのトレーナーの言葉に肩を落とす。

 確かに枠順やバ場状態が分からない状態では作戦の立てようが無いが、何か驚くアイディアを期待していた。

 

「ではダートプライドはどうですか?勝算は有るのですか?」

 

 東条トレーナーは質問を変える。ダートプライドならデジタルが地方に移籍したといえど当事者のようなものだ。

 調べ尽くして何かしらの勝ち筋を見出しているだろう。そして純粋にどのような勝算が有るか興味があった。

 プレアデスのトレーナーは間を取るようにグラスにある残りの酒を一気に飲み干す。グラスと氷が当りカランという音が響く。

 

「ダートプライドは別に勝ちを目指していないからな。デジタルが全ての力を発揮して少しでも本懐が達成できるようにと指示を出した。もしかしたら奇策や奇襲の類で相手の力を出させずに勝つ方法が有ったかもしれんが、それをやったらトレーナー辞めるわ」

 

 東条トレーナーは僅かに目を見開きプレアデストのレーナーを見つめる。

 テイエムオペラオーとメイショウドトウを撫で切った天皇賞秋、大外一気で相手の長所を封じこめ虚をつき勝利をもぎ取り、その光景が強く印象に残っていた。

 トレーナーであり勝負師でもある。それがプレアデスのトレーナーに持っている印象だっただけに、相手の力を封じ込める方法を探さないという発言は意外であった。

 

「逆に聞くがデジタルが勝つと思うか?」

「正直厳しいと思います」

 

 プレアデスのトレーナーの問いにスピカのトレーナーは即答する。

 ドバイワールドカップでデジタルとサキーの走りを現地で見ていた。ラスト100メートルでの差し切り、思い出しただけで身震いする。

 あれが世界の頂点の力、デジタルは常識外れのウマ娘であり期待感は有るが、世界の頂点に届くイメージが湧かなかった。東条トレーナーも同意するように無意識に頷いていた。

 

「ですが、それは昨日までの感想です。今日のアグネスデジタルの走りを見て、何かしてくれると思いました」

 

 模擬レース1本目の差し切り、あの時のデジタルを見てドバイの時のサキーを想起した。あの走りが出来ればサキー達に勝てるかもしれない。

 

「東条君はどう思う?」

「私も同意見です」

 

 東条トレーナーも模擬レースを見てスピカのトレーナーと同じ気持ちを抱いていた。明確なデータを提示して勝算を説明できないが、何かやってくれるという期待感を抱いていた。

 

「そうか」

 

 プレアデスのトレーナーは安堵の表情を浮かべる。デジタルの走りを見てサキー達と充分にやれると考えていた。

 だが自分の考えは楽観的観測にすぎない可能性が有ると同意を求めるように質問していた。トレーナーが恐れていたのは勝てないことではなく、サキー達についていけず全てを感じられないことだった。

 

「2人はチームのウマ娘が怖くなることはあるか?」

「怖いですか?」

「理解を超えるというか、未知への恐怖みたいなもんや」

「無いですね。ゴルシは何考えているか分からないですが怖いと思ったことはありません。それに想定を超えて成長してくれた時は恐怖より喜びが大きいです」

「私もメンバーについては把握している自負がありますので、未知への恐怖はありません」

「そうか」

 

 プレアデスのトレーナーは確認するように呟くと酒を呷り思考に拭ける。その重々しい雰囲気を察し、スピカのトレーナーと東条トレーナーは2人で会話を続ける。

 今日のデジタルの走りに末恐ろしさを覚えていた。走りのキレもそうだがトリップ走法の内容もそうだった

 デジタルは模擬レースの1本目で5人分のイメージを構築しながら直線の僅かな時間でスピカメンバーを5感で感じ相手の心理状態まで予測していた。

 心理状態の予測はデジタルの妄想という可能性が有るが、恐らくある程度合っているだろう。

 

 レースは全力で走りながら相手を観察し、レースの流れを見て動き仕掛どころを瞬時に判断しなければ勝てない。身体だけではなく脳も酷使する過酷なスポーツだ。時にはゴール直後に力尽きて倒れる者も居る。

 そしてデジタルは勝つための判断は放棄していたが、5人の精巧なイメージを構築すると同時に直線で抜き去る短時間でスピカのメンバーの姿や息遣いや匂いなどの膨大な情報を5感全てで脳に刻み込み、さらに相手の精神状態まで予測した。それは普通にレースに勝つために思考をめぐらすより脳を酷使する。

 大概のウマ娘なら脳が酷使を恐れてブレーキを踏む。だが脳内麻薬の快楽物質の効果で脳は快楽を求め、脳を酷使し体の限界以上の力を引き出してしまう。

 トレーナーはトレーニングの後にかかりつけの病院に行き精密な検査し、結果特に異状が見られなかった。だが全く安心できなかった。

 

 本番では今日の模擬レース以上に出走メンバーを感じる為に限界を超え、感覚を研ぎ澄ませるだろう。

 身体と脳を酷使すればするだけ危険領域に踏み入れ故障する可能性が増える。そして躊躇せずに、いやブレーキの存在を知らないかのごとくアクセルを踏み続けて危険連領域に突入するだろう。

 だがこのレースに懸ける想いを考えれば仮定の話で止めることはできない。もし止めれば後悔を抱え続けながら生きていくことになる。

 プレアデスのトレーナーはバーテンダーに酒を注文すると不安を断ち切るように一気に飲み干した。



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勇者と隠しダンジョン#13

「ではこちらがパスになります。会場に居る際は首からぶら下げるなどして、見えるようにしておいてください」

 

 プレアデスのトレーナーは氏名と職業を紙面に記載し、受付から貰った入場許可証を首にぶら下げ会場に入る。

 トレーナーも所属ウマ娘を数々のGIに出走させ、何度も前々日会見に参加していた。そして今日行われるダートプライド前々日会見は今まで来たどの会場より豪華であり、力の入れ具合がうかがえる。

 トレーナーは関係者席に移動し辺りを見渡す。記者席にはスポーツ紙や新聞各社にテレビ夕日など腕章を付け、日本の各種マスコミが来ている。マスコミ達は其々が会見前に入念な打ち合わせをし、どこか忙しない。

 それはタイムスケジュールの問題にあった。ダートプライドの前々日会見の数時間後にウインタードリームトロフィーターフの前々日会見が行われる。幸い会場はここから近く終了予定時間から出発しても十分に間に合う距離にある。

 だが各社もレース関係に割り当てられる人数が少ないのか、ダートプライドからウインタードリームトロフィーの取材をハシゴする記者が多く、仕事量の多さと同じ日に記者会見をするダートプライド運営に愚痴を漏らしていた。

 さらに外国人らしき人物が腕章を巻き、そこには海外のニュースでよく見かける社名が書かれている。海外のマスコミも多数来ているのが分かる。比率としては半々ぐらいであった。

 この比率はブロワイエが参戦したジャパンカップでも無く、日本で行われるレースでは類を見ないものであり、いかに世界から注目されているか分かる。

 しばらくすると会場が暗転すると日本人と外人の司会進行が壇上に上がりスポットライトが当る。

 

「皆さま長らくお待たせしました。これよりダートプライド前々日会見を開始したいと思います。では出走ウマ娘の方々に登場してもらいます。まずはこのウマ娘からです。東北の皇帝ヒガシノコウテイ選手」

 

 司会は日本語と英語で喋るとともに後ろのパネルでは紹介VTRのようなものが流れ、場を盛り上げるBGMが流れる。

 この会見は世界中にネット中継され、見ている者を少しでも楽しませようという演出である。

 トレーナーはやることが派手だなと思いながら壇上にあがるヒガシノコウテイに目を向ける。

 白のロングドレスを身に纏ったヒガシノコウテイが壇上に上がると一斉にフラッシュが焚かれる。その光と会場の規模と人数に驚きながらも、会場の面々に一礼する。

 

「続いては南関東の求道者、セイシンフブキ選手です」

 

 セイシンフブキは黒のパーティースーツを身に纏う。ヒガシノコウテイと同じように一瞬会場の規模と人数に驚くが、直ぐに平静を取り戻し、特に会場の人間にアクションを見せることなく、堂々とした足取りで壇上に上がる。

 

「続いてはゴドルフィンの大器、ストリートクライ選手です」

 

 ストリートクライは勝負服の色である青を基調にした丈の長いタイプのドレスを身に纏う。その瞬間海外マスコミが居る場所からフラッシュが焚かれ、その眩しさに一瞬目を細めていた。

 

「続いては太陽のエース、サキー選手です」

 

 サキーも青を基調にした丈が短いワンピースタイプのドレスを身に纏い、太陽をモチーフにしたネックレスをかけていた。

 ストリートクライ以上のフラッシュが焚かれるが、目を細めることなく、良い写真が撮れるようにそれぞれのマスコミ達に視線を向けていた。

 

「続いてはアメリカの英雄、ティズナウ選手です」。

 

 次にティズナウが壇上に上がると日本のマスコミから声が上がる。彼女が身に着けているのはセイシンフブキらが纏っているような女性物のパーティースーツではなく男物のスーツ、色はディープピンクとド派手である。

 そして派手なファッションに存在を消さるどころか、さらに存在感を引き立たせ、投げキスをマスコミ達に向けながら壇上に上がる。

 

「続いては勇者、アグネスデジタル選手です」

 

 アグネスデジタルはGIの前々日会見で着る青と赤と黄色のドレスを身に纏っている。

 周りはティズナウの存在感に目を奪われて気づいていないが、トレーナーは出走ウマ娘に見惚れて締まりがない顔をしているのに気づく。相変わらずの様子に呆れながらも安心していた。

 

「ではこれより枠順抽選会を始めます。では最初にヒガシノコウテイ選手お願いします」

 

 ヒガシノコウテイは抽選ボックスに向いくじを引き、枠順を声に出すとともに会場の人間に見やすいように広げると、後ろにあるモニターに枠順が表示される。

 レースにおける枠順は重要な要素である。それは日本ダービーなどの18人立てのレースなどでは特に重要で、逃げウマ娘が外枠を引けば、先頭に立つためには内枠の逃げウマ娘より長い距離を走らなければならず、差しウマ娘が内枠を引けば他のウマ娘に包まれて直線で抜け出せない可能性がある。

 だがダートプライドは6人による少人数のレースであり、影響は少ない。

 だが少ないだけでゼロではなく、僅かな影響で勝負を左右することを知っている。其々はダービーに挑むウマ娘のように一喜一憂しないものも祈りながらくじを引く。

 そしてデジタルも別の意味で祈りながら引いていた。避けたいのは最内枠と大外枠、理由はそれ以外の枠ならスタート前に左右のウマ娘を感じられるからである。

 

1枠サキー

2枠ティズナウ

3枠ストリートクライ

4枠アグネスデジタル

5枠ヒガシノコウテイ

6枠セイシンフブキ

 

 デジタルはあからさまにガッツポーズするなか、他のウマ娘は感情を見せなかった。

 枠順が決定すると6名は設置されていたテーブルに座り、記者たちからの質疑応答に移る。司会が促し記者たちは一斉に手を挙げる。

 

「東スポです。ストリートクライ選手とサキー選手とティズナウ選手は日本では初めて走りますが、何か不安はあります?」

「日本のダートはドバイやアメリカのダートと違って、パワーが必要なコースですがしっかりと調整をして、ゴドルフィンの外厩で日本のダートでは何度も走りましたので問題ありません」

「私も問題ありません」

 

 サキーは流暢に、ストリートクライは必要最低限の言葉で記者の質問に答え、ティズナウにマイクが渡される。

 

「私はサンフランシスコのビーチで何度も走ったから問題ない。嘘だと思うなら今度ベイカービーチに来てみるといい、そこには溝が出来ているよ」

 

 ティズナウは軽口を叩き一部の記者たちは笑い声をあげる。その様子をセイシンフブキは明らかに不機嫌そうに見ていた。

 暫く質疑応答は続いていく。手を挙げる記者たちの数が減っていくなか、突如ティズナウが手を挙げる。その突然の行動に会場に居る人間はざわつき司会は動揺する。

 質疑応答で選手が手を挙げるなどことは今までに無かった。司会は無視するかあえて指名するかと迷うが、指名したほうが面白くなりそうだと判断した。

 

「日本のマスコミ諸君に質問が有る。何故日本はダートではなくサンドでレースをするんだい?これではアメリカのレースには勝てないぞ。それともサンドでやっているからアメリカで通用しないという言い訳を作っているのか?それではダメだ。どんなに無様に負けて現実を知る事になっても頂点に挑まなければ成長できない」

 

 通訳から翻訳される言葉を聞き、日本のマスコミは騒めく。無意識に発せられる上から目線の言葉、それが日本のマスコミを不快にさせていた。

 一方ティズナウは不快にさせる気持ちはサラサラなく、純粋なアドバイスのつもりであった。

 頂点であるアメリカに挑むには同じダートにするのが合理的であり、日本のダートで走ることは負けた時の言い訳であると捉えていた。

 するとセイシンフブキが青筋を立てながらマイクをとり、マスコミが答える前に喋る。

 

「天候を考えろ、雨が多い日本で水はけが悪くて雨に弱いアメリカの土なんて使えば、大半のレースが中止になる。それとも日本はダートのレースをするなってことか?あとアメリカの砂浜走ったぐらいで日本のダート対策してるつもりか?随分と舐めてんな」

 

 その声色は明らかに怒りが滲み出ていた。その無知さもそうだが、明らかに日本のダートを見下している感情が読み取れていた。

 

「なるほどその答えで納得しておこう。次の質問だ。セイシンフブキとヒガシノコウテイは何で地方というマイナーリーグで所属し、ダートというマイナーリーグで走るんだ?ヒガシノコウテイ、そうやって中央に所属していれば強くなれたという言い訳はやめるんだ。マイナーリーグのトップで居ることは心地よいかもしれないが、それではダメだ。ぬるま湯に浸り続ければ腐っていく。挑戦しなければ進歩は無いぞ」

 

 ヒガシノコウテイの眉が僅かに動く、ティズナウはそれに気づくことなく言葉を続ける。

 

「セイシンフブキもダートで走るレベルの低い者に勝って優越感に浸っていてはダメだ。より高いステージで挑み、強くなってアメリカのダートに挑んで来い。敗北を恐れず私に挑むガッツがあればやれるはずだ」

 

 セイシンフブキは思わず立ち上がり、ティズナウに敵意をぶつける。

 ダートは芝の2軍、地方は中央の2軍、それは公には口にしないが、日本のマスコミやレースファンが心のどこかで思っていたことだ。そのキーワードはある種のタブーであり、2人の感情を最も揺るがす言葉の1つだった。

 ティズナウはデジタルに視線を向けると話を続ける。

 

「そしてアグネスデジタル、何故BCクラシックに挑む前にアメリカで走らず、日本の南部杯というレースで走った?本気でBCクラシックに勝つつもりだったのなら、前哨戦とアメリカのレースを走るべきだ。1回もアメリカのダートで走らないでBCクラシックを勝つつもりだったのか?」

 

 ティズナウの声色はヒガシノコウテイとセイシンフブキに話しかける時と比べ明確に怒りの感情が帯びていた。

 レベルの高いアメリカのレースで走らず、日本のレースを選択することはとても許容できるものでなく、その行為はBCクラシックを侮辱する行為であると捉えていた。

 会場の緊張感は一気に高まる。日本のウマ娘達はティズナウの挑発的な言動にどう答えるか?記者たちは固唾を飲んで様子を見守る。そして最初にマイクを取ったのはアグネスデジタルだった。

 

「南部杯は走ったのはコウテイちゃんとフブキちゃんと約束したからだよ」

 

 デジタルはボソリと簡潔に答える。ドバイワールドカップに向けてトリップ走法の改良の一環で船橋と盛岡に訪れた際に南部杯を3人で走ると約束した。

 フェブラリーステークスの時に感じたのは恐怖だったが、今度は全てを受け止め感じて最高の体験ができると胸をときめかせていた。

 だが勝利中毒に侵されて無意識に2人を感じることでは無く、勝つことが目的になってしまっていた。これは消し去りたい失敗であり、そのせいか声が暗く落ち込んでいた。

 一方ティズナウは目を血走らせて睨みつける。BCクラシックに勝つことより約束を優先した。約束を守ることは人と正しいが、アメリカ至上主義であるティズナウにとっては間違っている行為だった。

 デジタルはティズナウの視線に気づく、その怒気に普通のウマ娘なら委縮するところだが、恍惚の笑みを浮かべていた。

 ウマ娘が向ける感情に置いて無関心以外は全て嬉しいものだった。侮蔑も怒りも呆れも全てを受け止めて快感に変えていた。

 その奇妙な光景に気づいた会場の人間達は不気味がるなか、ヒガシノコウテイが喋り始める。

 

「確かにティズナウさんの言う通りです。地方は中央より施設も人材もいなく、最初から所属を志す者はほとんどいなく、中央には入れなかった者が門を叩いて所属しているのが現状です。一般的にはマイナーリーグ扱いされたとしても仕方が有りません」

 

 地方に対する愛着と誇りを持ち、地方を侮辱されたからには怒りを露わにするかと予想していた。だがその声は驚くほど静かで落ち着いていて、その声は会場の緊張感を和らげていた。

 

「ですが、メイセイオペラ選手やアブクマポーロ選手は地方に在籍しながら中央の強豪ウマ娘に勝利し、GIも勝利しました。そして私も地方で強くなりこの場所に立っている。断言します。地方は中央のマイナーリーグではありません。中央の方法で強くなれなかった者が強くなれる、もう1つメジャーリーグです。ダートプライドに勝利しそれを証明します」

 

 喋り終わった瞬間、感嘆の声が上がる。大人しいヒガシノコウテイが啖呵を切った事とその発言によるものだった。

 地方はもう1つのメジャーリーグである。その言葉は会場や中継を見ている地方ファンや地方ウマ娘と境遇を重ねている者に響き、一切の迷いもなく言い切ったその姿に皇帝の風格を感じていた。するとセイシンフブキがタイミングを見計らって喋りだす。

 

「さっきから聞いてれば芝に挑戦しろだ?それじゃあダートが芝の下みてえじゃえねえか。何べんも言ってるが、そんなものは世間が決めた価値観だ。アタシはそんなこと欠片も思ってねえし、ダートは芝よりスゲエんだよ」

 

 会場の人間はあることに気づく、以前ならティズナウの発言を聞いたら即乱闘に発展していただろう。その言葉はまさしく逆鱗に触れるものだった。だが激情を迸らせながら、必死に怒りを抑えて成長を感じていた。

 

「それをダートプライドに勝って証明する。あと何でアメリカに挑まないのかって言ってたよな?それはお前らがお薬キメまくってるからだよ!ちゃんと薬は抜いてきたよな?ボロ負けして、BCクラシックで外敵に勝利したのがお薬のおかげでしたってバレないように気を付けな!」

 

 セイシンフブキ確かに成長した。それは我慢を覚えたのではなく、怒りを腕力ではなく言葉に変換することを覚えたに過ぎなかった。

 ティズナウは言葉を聞き思わず立ち上がりを睨みつける。セイシンフブキも全く目を逸らさず睨みつける。

 アメリカは他国比べると薬物の規制が緩く、他の国ではドーピング扱いの薬物も使用が許可されていた。

 日頃から効果が高い薬物を使って鍛えているアメリカのウマ娘と勝負するのは分が悪いと考える日本の関係者が多く、アメリカのレースに走らない理由の1つとなっていた。

 そしてダートプライドでは日本のルールで行われる、このままではメディカルチェックに引っかかるのは明白であり、ルールを聞いた直後から日ごろから使っている薬物は断ち、その結果メディカルチェックを無事に通過していた。

 

「あとティズナウとストリートクライはBCクラシックとBCマラソンのレイと勝ち鞍を賭けて、負けた方はレイを献上して勝ち鞍も公式記録から消すんだよな?消すっていうのはどれぐらい消すんだ?文字通り完全に消すのか?」

 

 セイシンフブキは会場が剣呑な空気に包まれているなか、唐突にストリートクライとティズナウに尋ねる。

 

「完全に消すことはできない。公式記録を消すことは不可能だ。出来ることは個人ができる範囲で消す事だ。例えば該当レースに勝ったと一切公言しない、雑誌のインタビューでプロフィールが載るが、該当レースの勝ち鞍を記載させないなどだな」

「記録の消し具合は個人の裁量ってことか」

「そうなる。しかし私が負ければ最大限に記録を消すことに努める。負けることはあり得ないがな」

 

 ティズナウが代表して問いに答える。その声色には侮辱された憎しみが未だに籠っていた。セイシンフブキは1つ深呼吸をした後に、覚悟を決めた表情を浮かべ言葉を紡ぐ。

 

「アタシもその賭けに参加する。賭けるのは南関4冠とかしわ記念のレイと勝ち鞍だ」

 

 その言葉にこの日1番に会場が騒めく。何故わざわざ首を突っ込む。ストリートクライとティズナウのレイと勝ち鞍を奪ってもセイシンフブキには何1つメリットが無い。

 様々な疑問が浮かび上がり、ティズナウも侮辱された怒りを忘れ、困惑していた。

 

「ティズナウはムカつくがBCクラシックに対する思いとか誇りは分かってるつもりだ。それを賭けるってレースに挑むってことは相当の覚悟で臨んでいる。アタシはこのレースに是が非でも勝ちたくてね。勝つためには退路を断たせてもらう」

 

 セイシンフブキはこの1戦でダートの未来に大きく関わると予感していた。

 もし勝てばファン達の目線を芝からダートに向けられる。それだけの規模とビッグネームが揃った。その為には自らもティズナウ達と同等の覚悟で挑まなければ勝てない。

 

「BCクラシックとブリーダーズカップのメインであるBCマラソンの価値とその勝ったレースと同等だと思っているのか?」

 

 ティズナウは苛ついた顔を浮かべながら問いかける。由緒あるBCクラシックと金とレーティングで集めたといえど、腐ってもブリーダーズカップのメインレースだったBCマラソン、この2つであるからこそ賭けは成立している。

 日本のよく分からないレースで天秤が釣り合うと思う考えは傲慢であり、アメリカを侮辱するものだった。

 その考えを見越したのか慌てるなとジェスチャーをしながら話を続ける。

 

「別にこのタイトルに思い入れは無いし、BCクラシックとかと価値が釣り合っているとは思っていない。アタシはこれらにダートウマ娘としての誇りや魂や意地とかダートに関する全ての感情や想いを賭ける」

 

 その言葉に地方に詳しい関係者は思わず息をのむ。言葉に出たダートウマ娘としての意地と誇りと魂、誰よりダートに情熱を燃やし誇りを抱いてきたことを知っている。

 そしてレイにダートに関する感情を全て賭けると言った。そうなるとレイの価値は途轍もなく重くなる。

 

「そして私も同じくセイシンフブキ選手と同じように賭けさせていただきます。賭けるレイと勝ち鞍は東京大賞典と南部杯です」

 

 ヒガシノコウテイの言葉に会場の騒めきが膨れ上がる。その行動は誰も予想できず、隣に居たセイシンフブキもマジマジと見つめる。

 

「南部杯と東京大賞典は中央から地方のタイトルを守ったという私の誇りです。特に南部杯は私の地元のGIレースで、岩手の皆と勝ち取った掛け替えのないものです。その想いはティズナウ選手のBCクラシックやセイシンフブキ選手のダートに懸ける想いに負けていないつもりです。受けていただけますか?」

 

 ヒガシノコウテイもセイシンフブキと同様にこのレースに是が否でも勝ちたかった。

 勝てば地方の力を世界に証明し、注目が向けられる。そうなればオグリブームと同様のブームを起せるかもしれない。その為には同様の覚悟で臨まなければ感じており、セイシンフブキの行動が切っ掛けとなり行動を起こした。

 2人の気迫と覚悟に気圧された会場の騒めきは静まっていく。そして静寂を打ち破るようにティズナウは大きく手を叩いた。

 

「素晴らしい!全てを懸けて私に挑む覚悟と決意!彼女達は偉大な挑戦者だ!日本のマスコミはドリームトロフィーターフで走るウマ娘では無く、彼女達を賞賛すべきだ!喜んで挑戦を受けよう。キミ達のレイは私の展示室に偉大なる挑戦者から勝ち取った物として、丁重に展示しよう。ヒガシノコウテイとセイシンフブキは負けて多くの物を失うだろう。だが世界一に挑んだ経験を糧に彼女達は這い上がり強くなるだろう。そして強くなりアメリカに挑み、BCクラシックに挑戦してくれ。私は2人の挑戦を歓迎する。皆2人に盛大な拍手を!」

 

 ティズナウは挑発された怒りを忘れ、高揚する感情を吐き出すように声高らかに叫ぶ。

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキから恐怖や不安の感情を感じ取っていた。2人が賭ける物は自分と同等の物であり、それを失う恐怖や後悔も同等である。

 自身も尊大な態度で隠しながらもアメリカの誇りを失う恐怖に耐え、その感情を理解すると同時に尊敬の念を抱いていた。賞金に釣られた有象無象だと思っていたが、全てを懸けて挑む偉大なる挑戦者だった。

 そして会場の人間はティズナウに促されるように拍手を送る。これは促されてしたわけではなく、このレースは互いの全てを懸けた歴史に残るレースになり、歴史の目撃者になれるという興奮と期待を表現するものだった。

 これまでのレース前会見では見ないやり取りを目撃したことで、独特の熱を帯び始める。それに応えるようにサキーがマイクをとった。

 

「私は認識を改めなければなりません。このレースは末永く語り継がれるレースになると確信しました。このレースに勝つことは凱旋門賞に勝つのと同様の名誉であり、勝者は多くの人々に知れ渡るでしょう。私はこのレースに勝ちたい。それには相応の覚悟が必要です」

 

 サキーの言葉に次の展開が予想できたのか会場は一気に湧き上がる。だがそれに水を差すようにティズナウが割って入る。

 

「凱旋門賞を賭けるか?ドバイワールドカップか?キングジョージか?3つを賭けるか?ふざけるな。BCクラシックとBCマラソンとヒガシノコウテイとセイシンフブキが賭ける物に釣り合うと思うのか?」

 

 その発言に会場が何度目かのざわめきが起こる。世界4大タイトルの内3つを賭けても物足りない、その価値観は理解しづらいものだった。

 だがティズナウにとっては当然の条件だった。凱旋門賞とキングジョージはアメリカに劣るヨーロッパというマイナーリーグの芝のGIレース、ドバイはアメリカと同じダートだが金でメンバーを集めた成金レース、世間はどう思っているか知らないが、この3つのタイトルを合わせてもBCクラシックの価値とはまるで釣り合わない。

 

「これは世界4大タイトルのうちの3つという価値だけではありません。私には夢が有ります。世界の4大タイトルをとって業界の象徴となり、レースの魅力を世界中の人に伝え、1人でも多くのウマ娘と関係者を幸せにする。その夢まであと1歩のところまで来ました。そしてダートプライドに負けて勝ち鞍を記録から消されれば夢から一気に遠ざかります。この3つには私の夢が懸かっているのです」

 

 サキーは自分の不注意で怪我をしたことによりBCクラシックへの出走を断念した。あと一歩で業界の象徴になる道を自ら断った。そのことを心の底から後悔していた。

 自分が4大タイトルを取って業界の象徴になれないことで、多くのウマ娘と関係者が不幸にさせてしまうと思っていた。

 これ以上は僅かな寄り道をできず、勝ち鞍を奪われることは致命的な遅れとなる。ダートプライドに勝ち、今年の内に4大タイトルを一気に取る。

 それはサキーにとっては目標ではなく、もはやノルマだった。その為にはいくらでも犠牲を惜しまない覚悟を持っていた。

 

「いいだろう」

 

 ティズナウはぶっきらぼうに了承する。只の凱旋門賞には何も興味が無いが、夢が掛かっているのなら別だ。その想いはティズナウやヒガシノコウテイやセイシンフブキが懸けている気持ちと同等と判断していた。

 だが2人のように表立っては褒めない。アメリカから逃亡した軟弱者に変らず、他の国で走っているアメリカ出身のウマ娘より僅かにマシ程度の認識だった。

 

 そして抱いていた夢を打ち砕く、アメリカで走っていればBCクラシックに勝利する強さを身に着け、その夢を叶えられた可能性も有った。だがその可能性を自ら手放した。そのことに気づかせ心底後悔させる。

 会場の興味は自然に残り1人となったデジタルに向かう。5人は勝ち鞍とレイを賭けている。どうするか?会場の興味はその一点に向けられていた。

 だがデジタルはサキー達のやり取りを無我夢中で眺め、会場の人間の視線に全く気付いていなかった。数秒後さすがに気づいたのか、マイクを取り喋り始める。

 

「みんな良いね!それぞれの大切な物を賭けてレースに臨む。最高に輝いてるよ!思わず見とれちゃった!」

 

 己の全てを懸けてレースを走ると宣言するなか、緊張感に引きずられることなく、その様子を全力で見て楽しんでいた。

 そのマイペースぶりは張りつめていた会場の空気が弛緩させる。

 

「そんな皆をアタシは感じたい。そして皆と同じ舞台に立たないとダメみたい。だからアタシも賭けるね。賭けるのはマイルCS、南部杯、天皇賞秋、香港カップ、フェブラリーステークスのレイと勝ち鞍、あとはそのレースの思い出かな」

 

 デジタルは重苦しい空気を一切見せずあっけらかんと言い放つ。だが雰囲気とは裏腹に賭けているものは大きかった。今まで勝利したGI5レース、それを全て賭けると言った。一方思い出という言葉に一同は首をひねっていた。

 

「マイルCSはプレちゃんと一緒に走る3回目のレースで、絶対にGI取ってやるって意気込んでいて素敵だったな。今思えばアタシに負けたくないって思ってたのかな?直線を走るなか、皆が驚きながらも必死に食らいつく表情も尊かった。今思い出しただけでもたまらない!」

 

 一同の気を知らないと言わんばかりに思い出を語り始める。マイルCSの話が終わると南部杯から天皇賞秋と順に思い出を語り続ける。その独演会は5分間ほど続き、業を煮やしたティズナウが語気を荒らげながら結論を急ぐ。

 

「あっ、ゴメンね。本当ならあと1時間ぐらい喋られるんだけど、まあ結論から言うとアタシは負けたら、レイと勝ち鞍とこの大切な思い出を封印する。負けたら一生思い出さない」

 

 一同が言葉の意味を理解できずにいるなか、プレアデスのトレーナーは思わず席を立ち上がる。デジタルにとってレースを通してウマ娘を感じた記憶は何よりも重要であり、それは勝利より価値が有る。

 トレーナーは思わず声を出して提案を阻止しようとするが、寸前で言葉を飲み込む。

 デジタルは今までのダートプライドの出走ウマ娘を通して、自身も相応のものを賭ける覚悟で挑まなければ、あっと言う間に千切られてしまいレースを通してウマ娘を感じられないと悟ったのだ。

 軽い口調で言っているが、このわずかな間で恐ろしいほど深く思案して結論を出したのだろう。

 中央から去るという犠牲を払って、さらに犠牲を払わなければならないのか?いや、これほどまでの犠牲を払ってでも価値が有るということか。

 トレーナーには決断に口を出すことがとてもできなかった。

 

「アグネスデジタル、それは神に誓って言えるか?」

「勿論」

「いいだろう。仮にもアメリカ出身のウマ娘なら約束を破るという恥さらしな真似はしないだろう。他の者もそれでいいか?」

 

 ティズナウの言葉を皮切りに其々が了承する。賭けるレースの思い出の価値は分からなかった。だがその分からないものは自分達が賭けているものと同等の重さと価値が有ると察知していた。

 そしてティズナウはスタッフに3枚の紙を持ってこさせるとマスコミに見えるように掲げ喋る。

 

「これは誓約書だ、ストリートクライとの賭け用に作ったが5名にも書いてもらう。内容はさきほどセイシンフブキの質問に答えたものだ。それ以外のことは一切記載していなく、他の者が不利益を被ることはないと神に誓う」

 

 誓約書は英語、日本語、アラビア語で書かれ、ティズナウは会見の場でストリートクライに書かせ、証人として各マスコミに渡すつもりだった。5人は誓約書に名前を記載しティズナウに渡した。

 こうして出走ウマ娘全てがレイと勝ち鞍を賭けるという異常事態に発展した。

 負けた者が失う物があまりにも大きすぎる。普通のウマ娘ならこんなことはしない、GIでもないエキビションレースに何故そこまで賭けられる?会場に居る人間の大半は出走ウマ娘達の感情を理解できなかった。

 だが熱は確実に伝わっていた。このレースは確実に歴史に残る。一同が抱いていた予感が確信に変わっていた。

 

「え~っと、ではそろそろ会見終了時間が迫ってきましたので、それぞれ一言お願いします。」

 

 熱に当てられて呆けていた司会が正気を取り戻し、スケジュール通り進行を始め、ヒガシノコウテイから話し始める。

 

「ダートプライドの前に各地方のレース場で地方ウマ娘によるレースが行われます。よろしければ足を運んでください。初めて見る方はレベルが低い、施設が豪華ではないと思うかもしれません。それでもレースを走るウマ娘は己の存在を証明しよう、勝って地方からなり上がろう、様々な想いを抱きながら走っています。その熱は中央より負けていないと自負しています。そして地方に携わる全ての関係者はお客様を楽しませようと様々な創意工夫をおこなっています。そのサービスの質も中央に劣っていないと自負しています」

 

 ヒガシノコウテイの脳裏には地方に関わる全ての人間の記憶が蘇る。レースを走るウマ娘、コースを整備する造園課、運営スタッフ、それら全ての人間の情熱はヒガシノコウテイの胸を熱くさせる。

 

「世間では私のことを地方の英雄と言ってくださる方がいらっしゃいます。ですがそれは違います。地元のレースで懸命に走り、ウイニングライブで工夫を凝らしお客様を盛り上げ、交流重賞で地方の誇りを守るために中央を迎え撃ち、そして地方の力を示す為に中央に挑んでいったウマ娘達、そして地方を盛り上げようと努力している関係者の方々、そんな地方を応援してくださるお客様すべてが地方の英雄なのです。そしてその英雄たちが築き上げ紡ぎ守り抜いてくれた文化の素晴らしさと強さを地方の代表として私が証明します。そしてその勝利は私のものではありません。地方の勝利です」

 

 喋り終わると一部の人間から拍手が起こる。地方で行わるレースについて言及し、勝利を自分では無く地方の勝利と言う。その献身性と奥ゆかしさは実にヒガシノコウテイらしかった。

 会見を見ている地方関係者の全ての気持ちが一致した。地方の代表はヒガシノコウテイだ。マイクはヒガシノコウテイからセイシンフブキに渡される。

 

「おいおい、コウテイさんはアタシも居るのに地方の代表を名乗るのか?」

「はい、私が地方の代表です」

 

 セイシンフブキは茶化すように喋り、ヒガシノコウテイは胸を張って断言する。その様子に会場から笑いが起きる。

 

「まあ、アタシにその資格はないからいいや。だったら日本ダート代表を名乗らせてもらう。これを見て何言ってんだって思っているダートウマ娘達、安心しろ、このレースに勝ってダート世界一としてマイルでも中距離でもスプリントでも挑戦を受けてやる」

 

 セイシンフブキは高らかに宣言する。ダート代表を名乗れる者に必要なものは強さであり、その強さを生み出すのはダートへの情熱と愛だ。そしてダートで一番強く情熱を懸けているのは自分であるという確固たる自信が有った。

 

「明日はドリームトロフィーターフが行われる。それを見た奴らはダートプライドも見てくれよ。そうすればダートと芝のどっちがスゲエか分かるからな」

 

 セイシンフブキはダートプライド以外に勝つ以外にも別の勝負を挑んでいた。それはドリームターフトロフィーとダートプライドのどちらが見ている者を惹きつけ心躍らせるかかの勝負である。

 以前なら芝が上という価値観から焦っていただろう。だが今は全くなかった。

 自分が居て、及ばないながらもダートを極めたヒガシノコウテイが居て、気に入らないながらも強いアグネスデジタルが居て、ティズナウやストリートクライやサキーというビッグネームが居る。外国勢の覚悟と強さは肌で感じ、情けない走りはしないという予感があった。

 ならば問題ない、この面子ならダートの素晴らしさを理解させられる最高のレースが出来る。

 

「そしてダートを志そうと思いながら、世間の評価が気になって芝を走ろうとしてる奴ら、安心しろ、明日でそんな評価がひっくり返って胸張ってダートに行けるようにさせてやるよ」

 

 セイシンフブキはマイクを置く、以前であれば最後の言葉は言わなかっただろう。

 様々な経験を通して、自分の為では無くダートを志す者の為に走るようになった。後に続く者の達を想っての言葉であり、それは紛れもなく日本のダート代表を名乗るのに相応しい姿だった。

 続いてストリートクライの番となる。他のウマ娘達がレイと勝ち鞍を賭ける話をしている最中も特に何も言わず、出走ウマ娘の中で最も心中を図れていなかった。

 

「私はドバイワールドカップで、サキーさんとアグネスデジタルに負けた。でもそれはキティが居なかったから。キティが私のスタッフになってからまだ負けていない」

 

 ストリートクライはキャサリロがいるほうに指を指す。一同視線はストリートクライが差した方向に集まり、キャサリロは視線を受け思わず目を伏せる。

 

「私は大したことないウマ娘、でもキティが居れば違う。過去現在未来において私達は最強だ。だからそれを証明する。このレースで5人に勝って、ドバイワールドカップでサキーさんとアグネスデジタルに勝って、キングジョージと凱旋門賞でもサキーさんに勝って、BCクラシックでティズナウに勝つ。それで文句が有るなら、日本だろうが、香港だろうが、オーストラリアだろうが、ダートだろうが、芝だろうが、マイルだろうが、スプリントだろうが長距離だろうが、全て勝つ」

 

 ストリートクライの言葉に有る者は失笑し、ある者は呆れていた。

 世界4大タイトルに勝利する事すら困難である。それをさらにスプリントやマイル、はてや長距離まで勝つ。これは子供すら言うのが憚れる夢、いや妄想ですら描かないだろう。

 今はレース体系が細分化され、それぞれの分野にスペシャリストがいる。異能の勇者と呼ばれたアグネスデジタルですら、ダートと芝、マイルと中距離の垣根しか超えられない。この発言は最早狂人の戯言だった。

 だが微塵も疑っていなかった。どんな相手でも勝ち続ければその偉業は讃えられ、ストリートクライを支え半身であるキャサリロというウマ娘は永遠に歴史に残る。これこそが究極の成り上がりであり、それに相応しいウマ娘であると信じていた。

 そのために勝ち続ける。ストリートクライの中には断固たる決意と情熱の炎が燃え上がっていた。

 次にサキーにマイクが渡される。

 

「まずはこの場を借りて、ダートプライドに関わってくださった地方ウマ娘協会、夕日テレビ、アメリカやUAEの関係者様全ての方にお礼申し上げます。そして同日にウインタードリームトロフィーターフが行われます。日本の強豪ウマ娘達が集結し、魂が揺さぶられるレースが行われます。明日は日本という地で最高のスポーツエンターテイメントが行われるでしょう」

 

 サキーは堂々とした口調で喋り始める。ダートプライドに出走する身でありながら興行相手であるドリームトロフィーを宣伝する。普通のウマ娘ならそんなことはしない。だがサキーの考えは違った。

 ダートプライドとドリームトロフィーは争う相手ではない、数あるパイを奪い合うのではなく互いが得するように助け合うべきだ。

 全てのウマ娘と関係者の幸福、それが行動原理であり、その為に身を削ってまで尽力してきた。

 だからこそ関係ないウインタードリームトロフィーターフについて宣伝し、中央のウマ娘にも幸せになってもらいと願っていた。

 

「そして会見を見ている方々にお願いが有ります。どうかこのレースことを周りの人々に教え、できるならばレース場に足を運んでください。誘うのが恥ずかしい、レースが好きなのを知られるのが嫌だと思うかもしれません。ですが勇気を持って踏み出してくれないでしょうか?東京レース場での行われる日本最高峰のレース、地方という素晴らしい文化が育まれたウマ娘達の熱戦は必ず心躍らせます。そしてダートプライドは歴史に残るレースになります。これを目撃しないのは人生の損失です」

 

 熱弁を振るい訴えかける。彼女の行動原理は全てのウマ娘と関係者の幸福、そしてもう1つあった。

 レースが地球上で最も素晴らしいエンターテイメントであり、魅力を知らない者は全て不幸である。レースを1人でも知ってもらうことである。

 その傲慢と呼べる思考によって幼い頃辛い目にあい、その考えはできるだけ奥底にしまっていた。だが今は奥にしまいこんだ感情が浮上し始めていた。

 その証拠に目撃しないのは人生の損失であると言った。その強い言葉は時には反感を買うことがある。それは身をもって知っていながら、1ファンとしてのダートプライドは伝説的なレースになり、見なければ損であるという感情が気持ちを高ぶらせ、普段では言わない言葉を言わせていた。

 そしてマイクはティズナウに渡る。

 

「まず日本国民とウマ娘に言っておこう。ウインタードリームトロフィーという前座を見た後はダートプライドを見るがいい。レースにおいて最も素晴らしく強いのはアメリカで、最も権威が有るBCクラシックに連覇した私が最高で最強のウマ娘であり、走るレースが最高のレースになる。そして見ることで目指すべきはヨーロッパでないことを学び、世界最高峰の舞台であるアメリカに挑戦するべきだ。それが強くなる最大の近道だ」

 

 ティズナウは日本という国に怒りは抱いていなく憐れんでいた。

 中央ウマ娘協会がヨーロッパの方が強く価値が有るという間違った価値観を植え付けたことで、ヨーロッパやドバイや香港に遠征することで挑戦した気になり、アメリカには挑戦しにこない。

 これでは一生弱小国のままである。セイシンフブキに他国から挑む不利を説かれても意見は全く変わらない

 

「そして全世界のアメリカ出身でありながら、海外で走るウマ娘達よ、刮目するが良い。強いウマ娘とは王者の魂を持った者だ。王者の魂とは勝つことではなく挑戦し続けることで得られる。アメリカのダートこそ世界最高のステージで有り、そこで走り続けることこそ挑戦だ。キミ達は海外で走る事を選んだことで王者の魂を得られる機会を永遠に逃した。ぬるま湯に逃げ込み、その先で勝利を重ねて得た強さが、真の王者の魂を得た者にとっていかに無力か、アグネスデジタルとサキーを破って証明する」

 

 ティズナウはサキーとアグネスデジタルに指をつき付ける。その瞬間大量のシャッター音とフラッシュが焚かれる。

 本来ならこの感情は胸に秘めておくつもりだったが、盛り上がるようにと敢えて口に出して、大げさなアクションをつけて演出していた。

 最後にティズナウからデジタルにマイクが渡される。

 

「ティズナウちゃん、サキーちゃん、ストリートクライちゃん、コウテイちゃん、フブキちゃんにお願いが有ります。ダートプライドでは最高に煌めいてね。皆と走って感じた記憶を脳に刻み込んで、死に際の走マ灯でも思い出すような最高の思い出にしたいから」

 

 その言葉は一見相手へのエールに聞こえるかもしれないが、そんな綺麗なものではなかった。相手を思いやる気持ちはサラサラ無く、100%自分の欲の為である。

 そして興奮する感情を必死に抑え込む。出走ウマ娘達の姿を間近で眺め、お互い感情と思想をさらけ出しぶつけ合った姿は大いにときめかした。

 少しでも気を抜けば、妄想の世界に没入し、目を血走らせ鼻血を出しだらしなく涎を垂らすという無様な姿を晒すだろう。

 

 デジタルのコメントが終わると簡単な記念撮影をおこない、前々日会見は終了した。

 

「テイちゃんお疲れ様」

 

 ヒガシノコウテイが控室に帰るとメイセイオペラが出迎え、ミネナルウォーターを渡す。メイセイオペラは緊張していたのか勢いよく飲むヒガシノコウテイの姿は見ながら、こみ上がってくる感情を必死に抑え込む。

 会見で堂々と受け答える姿はまさに地方の代表に相応しい姿だった。幼い頃後ろをくっついていた内気な少女がここまで立派に成長した。母親の心境はこのような感じなのだろうと違うことを考えながら、涙を堪える。

 

「ごめんね。勝手にレイを賭けて、でも……」

「分かってる。それにあのレイはテイちゃんの物だし、どう扱うのも自由だから」

 

 メイセイオペラは世界を相手にしたことがない、故にヒガシノコウテイの感情は完全に理解できないが、本人がここまでしなければ勝てないと考えたのなら、考えを支持する。

 明日のレースは大半のウマ娘が多くを失う潰しあいと化した。本当なら今すぐにでも出走を取り消しさせたい。だが軽はずみな行動では無く、熟考した結果であることは分かり、外野が口を出せる問題ではない。

 もし負ければ南部杯に勝利したことは公言できず、次第に記憶は風化していくだろう。それは勝ち取るために払った苦悩も後悔を徒労となることを意味する。余りにも残酷な結末だ。

 だが自分は忘れない。岩手のファンの為に全力で走った若き皇帝の姿は記憶に焼き付いている。そしてその姿を次世代に語り継ぐ。それが友人として1人のファンとして唯一出来ることだ。

 

「お疲れさまフブキ」

「めちゃくちゃシビれました!」

 

 セイシンフブキが控室に帰るとアブクマポーロとアジュディミツオーが出迎える。アジュディミツオーは興奮が抑えきれないと近づき、セイシンフブキはそれを邪険に扱う。

 

「ダートGI2勝程度でダート代表を名乗るなんて大きく出たね」

「いいじゃないっすか。勝ってば王者ですし、文句言う奴は片っ端から叩きつぶします」

「王者の鑑だね」

 

 セイシンフブキとアブクマポーロは軽口を叩き合い、お互い笑みを零している。だがアブクマポーロの表情が真顔になる。

 

「フブキ、命をかけるつもりで走るのはいいが、命はかけるな」

 

 セイシンフブキがダートに懸ける熱やエネルギーは凄まじい。人生の全てをダートに懸けていると言っても過言ではない。それをレイにダートに関する全ての感情と想いを賭けた。

 明日のレースはダートの素晴らしさを見せるために、己が賭けたダートへの感情と想いを守る為に文字通り死力を尽くすだろう。

 限界を軽々と超えて行きつく先は破滅だ。怪我による引退で済むならまだ良い。最悪力尽きたところに運悪く頭がラチなどにぶつかり……アブクマポーロの脳内では最悪の情景が鮮明に浮かんでいた。セイシンフブキは黙って頷く。

 

「師匠、パスポート取るのめんどくさいですよ」

「分かってるよ。東京大賞典でダート世界一決定戦だ」

 

 2人は元日の誓いを思い出しながら拳をぶつけ合った。

 

 

「1日に言ってたのはこのことか」

「うん」

 

 ストリートクライはキャサリロの言葉に頷く。1月1日に色々な国に行くことになると言っていた。レースは欧州やアメリカだけではなく世界各国で行われている。

 オーストラリアのメルボルンカップは長距離レースとしては世界最高峰のレースであり、香港スプリントではスプリントに特化した香港ウマ娘が多数出走し、その実力は欧州のスプリンターより強いという評価も有る。そうなると世界を飛び回らなければならない。

 

「しかしデカいこと言ったな。記者たちは目を丸くしてたぞ」

「私はそう思ってるから」

 

 キャサリロはストリートクライの瞳を見て身震いする。

 過去現在未来において最強のウマ娘、これ以上のビッグマウスは存在しないと思えるほどの大言だ、そしてストリートクライは一片の迷いもなく信じている。その狂信ともいえる純粋さに恐怖を覚えると同時に不安や葛藤が芽生える。自分はこの親友についていけるのか?何故そこまで信じきれる?

 だが刹那で不安を塗りつぶした。ストリートクライが自分の力を信じてくれるなら、自分もストリートクライの力を信じる。ダートでも芝でもスプリントでもマイルでも中距離でも長距離でも最強のウマ娘だ。2人なら不可能はない。

 互いが信じあい道を突き進む。でなければこの正気のさだとは思えない道のりは歩めない。少しでも信じきれなくなれば道は途絶える。

 

「クライ、私達は最強だ。過去現在未来においても最強のウマ娘だ」

「うん、私達は最強だ。過去現在未来においても最強のウマ娘」

 

 2人はお互いの額をつけあうほど近づき目標を呟く。それは互いが暗示をかけあっているようだった。

 

「サキー、お前がしたことが分かっているのか?」

 

 殿下は腕を組みながらサキーを睨みつける。その威圧感に取り巻きは息をのむ。

 本来ならティズナウとストリートクライのやりとりのはずだった。

 お互いが負けることを考えていなく、1着になられなかったことは想定せず細かい取り決めは決まっていなかった。

 ところがセイシンフブキやヒガシノコウテイがこの賭けに介入するという予定外の事態が発生した。これでレイと勝ち鞍を失う可能性が増えた。そしてサキーも介入し、残りのアグネスデジタルも介入した。その結果ストリートクライとサキーのどちらかはレイと勝ち鞍を失う事態に発展してしまった。

 仮にサキーが介入しなければ、勝つことでストリートクライのレイと勝ち鞍を守ることができた。自身もそのことに気づいていたはずだ。

 

「私が勝てばこの手でストリートクライの勝ち鞍を消すことになる。そのことは分かっていました。それでも私はこのレースに勝ちたい。勝って業界の象徴になるという夢の為には必要なことでした」

 

 サキーは殿下の威圧感に臆することなく言い切る。自分がレースに勝てばストリートクライが勝ち取った勲章を奪うことになる。それだけではない、セイシンフブキ、ヒガシノコウテイ、ティズナウ、それぞれが勝ち鞍に対する想いは充分に伝わっていた、なにより友人であるデジタルの勲章まで奪うことになる。

 賭けに介入しなければ自分が勝つことで他の5名のレイと勝ち鞍失うことは無く、一番被害が少ない。これが正しい方法だった。だがそれを分かっていながら賭けに介入した。

 全ては自分の為である。この勝負に勝つことでより業界の象徴としての高みに駆け上がれる。その為にこの賭けに介入しリスクを背負うことが必要だった。

 

「そうか、ならば勝て」

 

 殿下はそう言い放つと踵を返し会場を後にする。サキーは他のウマ娘の為に業界の為にと身を尽くしていた。だが初めてエゴをむき出しにした。その結果どう成長するか期待していた。

 このレースではゴドルフィンは少なくない被害を受ける。どちらかが勝つことでどちらかの夢を喰らう。その結果勝った者はさらに成長するだろう。そしてその者がゴドルフィンをさらなる高みに導いてくれるという予感を抱いていた。

 

「デジタル」

 

 プレアデスのトレーナーは会見が終わると声をかける。何を話すかは決めていないが思わず声をかけていた。大井の現トレーナーは無言でデジタルから離れて2人が話す場を作った。

 

「そうだ白ちゃん、雑誌でインタビュー受けたらトレーナーのプロフィールで指導した主なウマ娘の項目で何のGIに勝ったって載るでしょう。だからアタシが負けたら載せないでね」

 

 デジタルはいつも通りについでとばかりにトレーナーに頼む。自身の思い出を賭けることへの深刻さは全く感じられなかった。

 

「そういえばそうやな。しかしよく気づいたな」

「それは出来る限り記録を残さないようにしないとね。あと……」

 

 トレーナーはデジタルの眼前に手を伸ばし言葉を止める。ウマ娘の勲章はトレーナーの勲章でもあり、デジタルの記録を消すことはトレーナーの記録を消す事でもある。これは賭けごとで他人のチップを無断で借りてベッドするようなものだ。その事に気づき流石に悪いと思ったのだろう。

 だがダートプライドでウマ娘を感じる為に必要であれば喜んで応じるつもりであった。

 

「しかし大事になったな」

「そうかもね。まあ、皆と同じ舞台に立たなきゃ感じられないし、必要経費みたいなものだよ」

 

 トレーナーの胸中に必要経費という言葉が響き渡る。慣れ親しみ何人もの友人が居た中央から地方に移籍し、レイと勝ち鞍と思い出を賭ける。

 普通に考えれば何故そこまで犠牲を払わなければならないと思うところだが、必要経費とさも当然のように割り切っている。改めて感心すると思うと同時に末恐ろしさを感じていた。

 

「フンフン~フン♪」

 

 ティズナウは無意識にアメリカ国歌を口づさみながらスーツから私服に着替える。

 今日の会見は完全に予想外の流れになったが、良い意味で想定を超えていた。

まずはセイシンフブキとヒガシノコウテイが自分達の賭けに介入してきたことだ。

 会見前までは2人に対してそこまで興味が無かった。考えていたことはゴドルフィンのストリートクライとサキーとアメリカから逃げたアグネスデジタルを叩きつぶすことで、正直にいえば居ても居なくてもどちらでもいいぐらいのモブだった。

 だが2人はモブではなく全てを懸けて挑む偉大な挑戦者で有り、今まで走ってきたアメリカのウマ娘と同じく挑戦し続ける王者の魂を引き継がんとする者だ。

 そんな挑戦者と走ると心が躍ると同時に一段階高みに引き上げられていく。

  2人はレースで現実を知ることになるだろうが、挑戦する心は消して挫けないだろう。

 中には嘲笑する者が居るだろうが、それは真の挑戦を知らない者だ。彼女たちの魂は引き継がれいずれアメリカに牙を向く脅威になる。

 そしてもう1つの予想外はサキーとアグネスデジタルがレイと勝ち鞍を賭けたことだ。2人のレイと勝ち鞍にはそれぞれ夢と思い出が込められている。それは2人にとってレイと勝ち鞍より重要なものであることは分かった。

 実力差を思い知らせ無力感を味合わせれば満足していたがそれだけでは足りなかった。レースに勝ち大切な物を奪う。それがアメリカから逃げた軟弱者に相応しい末路であり、自身の怒りが収まる。

 明後日のレース後にストリートクライとサキーとアグネスデジタルが全てを奪われ無力感で地面に這い、日本の2人が挑戦し続けることで得た王者の力に感銘し見上げる姿を想像し、顔がにやけていた。

 

 こうして波乱に満ちた前々日会見は終了した。翌日の各スポーツ新聞の1面はWDTの記事では無く、ダートプライドの会見の記事になり、そのドラマのようなエンターテイメント性に溢れた様子は反響を呼び、より一層注目を集め期待感を煽らせた。

 

 そして2月2日日曜日、ダートプライド当日を迎えた。

 



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求道者への追憶

本編の遥か先の話です。



「6枠7番セイシンフブキ選手」

 

 東京の夏空に光輝くスポットライトを浴びながらセイシンフブキがパドックに現れ、その姿に観客達から大歓声があがる。

 

「頼むぞセイシンフブキ!お前の南関4冠を見に来たんだからな!」

「地方の意地を見せてくれ!」

「アブクマポーロの跡を継いで、地方を守ってくれ!」

 

 セイシンフブキはそれらの声に露骨に不機嫌さを露わにする。その敵意を察知したのか観客達の声は尻つぼみになっていく。

 アブクマポーロの跡を継ぐ?何故ダートを裏切ったカスの跡を継がなければならない。自分だけの目指す道がありそれを求めるだけだ。

 地方の意地を見せてくれ?勝手に地方に感情移入して気持ちが良い結末を見たいだけだろう。それだったらヒーローショーでも見ていろ。

 今日のレースはクラシック級で誰がダートで1番強いのか決めるレースだろう。地方だとか、アブクマポーロの後継者とか余計なことは考えず、ダートの走りだけを見ればいい。

 ダートこそ真の強者が走るレースだ。その素晴らしさは芝に劣っていない。いや勝っている。

 

「おい、客が声援を送ってるんだ。少しぐらい愛想を振りまいたらどう?」

 

 パドックの舞台裏に帰ると、大井のメイショウアームは初対面ながら苛立たしい様子を隠すことなく声をかけてくる。セイシンフブキは地方の英雄であるアブクマポーロを公然と批判し、大半の地方ウマ娘から嫌われていた。

 無視して通り過ぎるが、肩を掴まれて強引に振り向かされる。

 

「アンタのせいで地方のイメージが落ちるのよ!少しは周りのこと考えてよ」

「だったらお前はダートの事を考えろ。あと地方気にしてますよアピール止めろ」

「どういう意味?」

「お前の走りには芝で走りたいって未練がタラタラなんだよ。そんな奴が地方に愛着を持ってるわけないだろう。今日は勝負服着られてよかったな。それを思い出にしてさっさと引退しろ。お前はダートに相応しくない。消えろ」

 

「この!」

 

 メイショウアームは激昂し襟首を掴み、セイシンフブキも襟首を掴み一触即発となる。それを見た係員と地方のウマ娘は慌てて2人を引きはがす。他の地方ウマ娘はメイショウアームの傍により宥めるが、セイシンフブキの元には誰も寄らなかった。

 

「クソが!」

 

 セイシンフブキは舌打ちしながら地下バ道からコースに向かう。

 ダートプロフェッショナルが集まり、培った全てをぶつけるのがダートGIだ。だがこのレースにダートプロフェッショナルは1人も居ない。地方のウマ娘はメイショウアームと同じように芝で走りたかったという未練があることは走りを見れば分かる。

 そして中央勢も最初は芝で通用せず、ダートで通用したから走っているような奴ばかりだ。最初は芝で走ってもダートに真剣に向き合っている者も稀に居るが、例外ではない。

 特にカチドキリュウ、ダートOPに勝ちダートに本腰を入れると思ったが、芝のGⅢに勝ってから芝路線で走りNHKマイルと日本ダービーに惨敗しておめおめとダート路線に戻ってきた。そんな奴が居るだけでダートが穢れ価値が下がる。

 セイシンフブキ達は本バ場入場を済ませゲート入りする。思い通りいかせてやるものか、絶対に一泡吹かせてやる。地方ウマ娘達は敵意を向けてセイシンフブキがいるゲートに視線を送るが思わず目を背ける。

 全身から怒気を漲らせ、その怒気は出走ウマ娘全員に向けられていた。何でそんな親の仇のように怒っている?そこまで恨みを買われたようなことはしていないはずだ。

 

 理不尽で理解不能な怒り、その怒気に当てられたせいか悪寒が過る。

 

『枠入り完了して……スタートしました。中央のカチドキリュウ少し出遅れた。そしてハナを切るのは史上初無敗の3冠ウマ娘セイシンフブキがいきます』

 

 セイシンフブキが先頭に立った瞬間、全てのウマ娘の勝つチャンスは潰えた。ゆったりとした流れから徐々にペースを上げて後続の足を使わせていき、第4コーナーを迎え後続との差を広げていく。

 

『残り200メートル、先頭はセイシンフブキだ。後ろをチラリと見る。2番手カチドキリュウ、内を通ってメイショウアーム。東京の真夏の夜にブリザード圧勝!』

 

 逃げながらレースの上がり最速、着差は小さいが明らかに余裕を残した走りだった。

 とんでもなく恐ろしいウマ娘が出てきた。地方のファンはその走りの凄まじさに寒気を覚えるとともに将来の活躍を確信していた。

 セイシンフブキはゴール板を過ぎると息を乱さないまま、疲労のせいで膝に手を置き項垂れるカチドキリュウの元に向かい耳元で呟く。

 

「酷え走りだな。初めての大井ってことを考えても最低だった。日本ダービーに出走した私ならダートのダービーぐらい楽勝だわってか。もう2度とダート走るな」

 

 カチドキリュウは殺気にも似た敵意をぶつけられその場にへたり込む。日本ダービーでは17着の惨敗で、今日のジャパンダートダービーもウイニングライブ圏内の3着だったが惨敗だ。まるで勝てる気がしない。

 セイシンフブキとはレースに掛ける意気込みも技術も何もかもが違っていた。正直ダートならもしかしたらと思っていたが、その心は完全にへし折られていた。

 その様子を冷酷な目で見下ろす。ダートプロフェッショナルが競い合うのがGIレースだ、だが集まるのはこんな半端者ばかりだ。自分の活躍で理想とする未来を作り上げる。決意を新たにして地下バ道に向かう。

 

「お疲れ様でした。お話よろしいですか?」

 

 レースやウイニングライブが終わり、帰路に就く途中に記者たちに捕まった。

 セイシンフブキは反射的に記者に凄む。只でさえ胸糞悪いウマ娘と走り、ダートレースが低レベルだと思われて機嫌が悪いなか声をかけてきた。

 無視するつもりだったが、後ろにいる船橋ウマ娘協会の人間がインタビューを受けろと睨みつけながら無言のメッセージを送ってくる。

 これ以上問題を起せば出走停止処分を与えると釘を刺されていたので仕方が無くインタビューを受けることにした。

 

「史上初の無敗の南関東4冠達成ですが、今の心境は」

「まあ、今のアタシと周りのダートウマ娘を見れば当然じゃないっすか」

 

 記者たちはそのビッグマウスにお~と感嘆の声をあげる。これはビッグマウスではなく、無敗の南関東4冠は当然の結果だった。

 

「次の出走予定は?ダービーグランプリですか?」

「クラシック級にマシなダートウマ娘はいないんで、もういい。日本テレビ盃に勝って、JBCクラシックに出走かな。シニア級ならマシなダートウマ娘も居るだろ」

「なるほど。他にはセントライト記念からの菊花賞はどうでしょうか?」

 

 若い女性記者が発した菊花賞という言葉を聞いた瞬間に体から怒気が吹き出す。それを感じ取っていないのか言葉を続ける。

 

「今日の走りは途轍もないスケールを感じました。ダートクラシック級で敵無しを証明したのであれば、今度は芝に挑戦してみるのはどうでしょうか?地方在籍での中央クラシック制覇、これは地方ファンの夢であり皆が期待……」

 

 女性記者は最後まで喋りきることはできなかった。セイシンフブキが女性記者の頬を掴み強制的に口を噤ます。その体は吊るされていた。

 

「挑戦?何で芝のゴボウと走らなきゃいけねんだ!それにダートを芝の下に見てんじゃねえよ!あと走りにスケールを感じたとか抜かしてたよな?どこをどう見たら芝で走ろうって選択肢が出てくるんだ!どう見てもダート特化の走りだろうが!お前の目は節穴か!?今すぐくり抜いてやるよ」

 

 セイシンフブキは空いた手の人指し指と中指を突き立て女性記者の目に近づける。

 

 

───

 

「それからは協会の人間やウマ娘達でフブキを止めて大騒ぎさ、本来なら暴行事件だが幸運にも記者の人も申し訳なかったと穏便に済ましてくれた。だが協会の人間は怒り心頭で半年の謹慎処分。それがJBCに出なかった理由さ。あっそこの肉団子食べていいよ」

「はい、いただきます。でも師匠はその時期は怪我してたんじゃないっすか」

「無理すれば出走できた。けど謹慎期間だし万全を期して東京大賞典にしたんだよ」

 

 アジュディミツオーとセイシンフブキはアブクマポーロに言われたようにお玉で肉団子を掬い、他にも鍋にあるネギやニンジンなども自分の取り皿に移す。

 年末のある日、アブクマポーロから忘年会をしようという誘いが届く。

 セイシンフブキは面倒くさいと拒否しようとするが、アブクマポーロが直接出迎えられ忘年会に強制参加となり、今こうしてアブクマポーロの自宅でコタツに入りながら鍋を囲んでいた。

 

「でもその記者が悪いですよ。何で師匠の走りを見て菊花賞を走るなんて選択肢が出るかな。どう見てもダートプロフェッショナルの走りでしょう。アタシが言われたらこうですよ。こう」

 

 アジュディミツオーはシュシュと口で風切り音を鳴らしながら拳を宙に繰り出し、セイシンフブキがうるせえと横っ面にジャブを放つ。

 

「まあ、気持ちは分かるが手を出すのはいけないよ」

「なら大師匠ならどうします?」

「それはその女性記者に何故そう思えたのか問いただし、その意見はどこが間違っているか徹底的に教えるよ」

 

 アジュディミツオーとセイシンフブキは顔を顰める。理路整然と徹底的に完膚なきまでに芝に向いていないと説明するだろう。そうなったら自分の無学さを恥じて記者を辞めるかもしれない。

 

「しかし、聞く限りでもあの時のフブキは尖りまくってたみたいだね」

「まあ、若気の至りというか、でもムカつきません?碌にダートの走り方が出来ないくせに芝への未練タラタラなんですよ」

「まあ、その気持ちは分かる」

 

 アブクマポーロは頷く。現役時代はダートの地位はさらに低く、中央のウマ娘もモチベーションが低く、目に生気が宿っていない者も少なくなかった。

 

「しかし、碌にダートの走り方を知らないって言うが、私に言わせてもらえば当時のフブキなんて他の出走ウマ娘と大して変わらないよ。ほら、スタートしてからのここ。それは違うだろう」

「そうっすね。そこはもう少し踏み込みを強くすべきでした」

「そして第1コーナーのここ、下手だね」

「本当に、お恥ずかしい」

 

 アブクマポーロはノートパソコンを取り出すとセイシンフブキが勝ったジャパンダートダービーの映像を流し、それを肴にしながら鍋をつつく。アブクマポーロが指摘する度に苦笑し、次第には目を背け始める。

 一方アジュディミツオーはそれを呆然と眺める。画面に映る走りのどこが悪いのか全く分からなかった。

 

「ミツオー、明後日までにこのレースでアタシの走りのどこが悪いか箇条書きで書いて提出な」

「マジっすか。年末なんだからゆっくりしたいですよ。宿題増やさないでくださいって。それに分からないっすよ」

「なら私が手伝おう、答えは教えないがヒントぐらいは与えよう」

「アブクマさん甘やかさないでくださいよ。アタシの時はそんなことしてくれなかったじゃないっすか」

「孫弟子には甘くなるものさ、それにフブキには少しスパルタだったことを反省してるんだよ」

 

 アジュディミツオーは2人の和やかなやり取りに釣られるように笑みを浮かべる。一時期は絶縁状態だったとは信じられないほど仲が良い。

 鍋料理を食べ終わるとアブクマポーロとアジュディミツオーが後片付けを始め、台所で皿を洗う。すると2人の背後からセイシンフブキが手を叩き大笑いする声が聞こえてくる。

 

「プハハハ!下手クソ!」

 

 2人は何事かと皿洗いを中断しセイシンフブキの元に向かう。PCの画面にはウマ娘達のレースの様子が映っていた。

 

「何がそんなにオモシロイ……これ誰のデビュー戦ですか?」

「姐さんのデビュー戦だよ。あの1枠が姐さん」

「本当だ。なんか初々しいっすね」

 

 アブクマポーロはセイシンフブキの言葉を聞くと顔を紅潮させ、マウスを操作していた腕に掴みかかる。

 

「何でそんな映像が残っている。やめないか!そんなものを見ても何の利益にはならない。それよりメイセイオペラとの東京大賞典とかはどうだ?自分で言うのも何だがあれは上手く走れた。きっと2人の利益になる」

「その映像は見まくったから脳に焼き付いてます。やっぱり初心に帰らないと。ミツオー、姐さんを抑えておけ!課題はアタシのジャパンダートダービーのレポートじゃなくて、姐さんのデビュー戦だ。これならお前でも問題点を箇条書きできるぞ!優しい師匠でよかったな」

「分かりました!」

「やめるんだミツオー君、大師匠命令だ、今すぐ手を放すんだ」

「すみません。師匠の命令は絶対なんで」

「しばらく抑えておけ、うわ酷い、姐さんにもこんな時代が有ったのか。人は成長するもんっすね~」

「これは新手の拷問か?やめてくれ」

 

 セイシンフブキは意向返しといわんばかりにニヤついた笑みを浮かべながらデビュー戦の映像を流し、お笑い番組を見るように大笑いする。アブクマポーロは拘束されながらジタバタと身を悶えていた。

 

───

 

「夢か」

 

 セイシンフブキは1人呟き目を開ける。ジャパンダートダービーに、その映像を見て鍋をつついたダートプライド前の忘年会、随分と懐かしい記憶だ。

 ダートダービーはともかく忘年会など何気ない日常だが案外覚えているものだと記憶力に感心していた。

 目を開けてゆっくりと体を起こそうとするが体は上手く反応せず、想定より時間をかけながら布団から出て立ち上がり、身体の調子を確かめる。

 やせ細りしわついた手、白髪交じりの髪の毛、体中に纏わりつくほんの僅かな倦怠感、若い頃の記憶を思い出したせいか、今の肉体との差がより一層になる。

 セイシンフブキが現役引退してから長い年月が経ち齢70歳を迎えていた。今は息子夫婦の家に住み老後生活を送っていた。

 

「おばあちゃん無理しないでね。少しでも体調が悪くなったらすぐに電話して、すぐに来るから」

「わかってます」

 

 息子の嫁が心配そうに声を掛けながら水筒や帽子を受け取り外に出る。すると容赦ない熱気と日差しが襲い掛かり気力を削ぐ。

 暦は8月中旬、もっとも暑いと言われる時期の日中に老人が出かけるとなれば嫁も不安がるのも無理ない。

 だがこれはライフワークであり生き甲斐だ。額や背中に汗を浮かばせながら歩き始める。目的地は船橋トレセン学園だ。

 歩き始めてから10分後、到着すると正門を潜り抜けそのまま敷地内を歩き始め、船橋のウマ娘がトレーニングするコース前にあるベンチに腰を掛ける。

 セイシンフブキの日々の日課、それは船橋トレセン学園に所属しているウマ娘のトレーニングを眺めることだった。

 歳が経ってもダートへの興味は一向に衰えることはなかった。暇さえあれば日本や世界各地のダートレースを観戦する日々を送り、こうして後進の様子を眺めていた。

 本来であれば部外者は立ち入り禁止なのだが、ダート界に顔が利いているので顔パスで入っている。

 

「フブキおばあちゃん、こんにちは。今日は暑いから気を付けてね」

「ええ、そっちも暑いから気を付けてね」

 

 トレーニング場に集まってきたウマ娘達が次々に言葉を交わす。学園のウマ娘達もセイシンフブキの存在を認知り、名物おばあちゃんとして親しまれていた。

 談笑しながら準備運動するウマ娘を眺めているとセイシンフブキと同じ年代の老人がベンチに向かい横に座った。

 

「風邪は治ったのかミツオー?」

「はい、ばっちりです」

 

 アジュディミツオーは若かりし頃と変わらない人懐っこい笑顔を向ける。

 アジュディミツオーも現役を引退後、セイシンフブキと同じように娘夫婦の家で老後生活を送っていた。

 2人は現役引退後も連絡を交わし交友を深めていた。そして齢70近くになってもこうして肩を並べて同じ風景を見ている。もはや腐れ縁だなと思いながらもその縁に感謝していた。

 2人は最低限の言葉を交わしながらウマ娘達を眺める。現役時代と比べてトレーニングの質、ダートに対する理解度も格段に上がっていた。何よりも芝に対する劣等感もなく、ダートプロフェッショナルになるために船橋でトレーニングしているんだという誇りのようなものも見られた。

 

「しかし、老人2人がこうして飽きもせずトレーニングを眺めてるってボケ老人みたいっすね」

「まだボケてねえよ。それに全く飽きない。トレーナーは何を教えているのか?今のダートのトレンドは何なのか走りを見て推理するのが楽しい」

「ですよね」

 

 セイシンフブキはサラリと言い放ち、アジュディミツオーも静かに相槌を打つ。

 こうして好きなダートウマ娘がトレーニングする様子を穏やかに眺めている。なんと幸せなのだろうと2人は幸せを噛みしめる。暫くお互い無言で眺めていると、セイシンフブキが何気なく話す。

 

「そういえば懐かしい夢を見た」

「何の夢っすか?」

「ジャパンダートダービーの夢、そしてその映像を見ながらアタシとミツオーとアブクマ姐さんと鍋をつついた忘年会」

「忘年会?そんなのやりましたっけ?」

「まあ、やったんだよ」

「アブクマさんですか、そういえばもう半年か、早いですね」

「そうだな」

 

 2人はしみじみと呟く。今年の2月にアブクマポーロが死去した。長年ダート界に貢献してきたアブクマポーロの死は地方ウマ娘界やダート界に大きな衝撃を与え、告別式には多くの関係者やファンが駆け寄った。

 そして長年親交があったセイシンフブキとアジュディミツオーもショックが大きく、2人で集まり泣きながら夜を明かした。

 

「しかし、アタシ達が走ってた頃と大分変わったよな」

「そうっすね。ダートGIも大分増えましたし。クラシックだって賞金もポイントも芝とほぼ同じ。最初に芝走ってからダートに転向するウマ娘もほとんどいません。皆正真正銘のダートプロフェッショナルです」

「それに韓国とかこっちのダートみたいな砂で走っている国だと、こっちの東京大賞典に勝つのが一昔前の日本の凱旋門賞みたいな扱いになってるしな」

 

 2人は嬉々として自分達の時代との変化を語り合う。50年以上の月日が経ったことで劇的に変化した。だがその変化は自然発生したものでは決してない。

 現役を退いてもダートの事を考え、ダートの為に行動したアブクマポーロやアジュディミツオー、そしてセイシンフブキの成果であるという少しだけの自負があった。

 

「ダートの地位を芝と同等かそれ以上に上げる。その夢は叶ったかもな」

「ですね」

「もう死んでも後悔ないな」

「ですね。不謹慎ですけどダートに関してはマジで夢は叶いました。トゥルーエンドってやつです」

 

 トゥルーエンド、言い得て妙だがその通りだ。細かいことをいえばやりたいことはそれなりに有るが、ダートに関しては全ての夢が叶った。後はこの穏やかな日々が続くくらいか。

 その後もトレーニングを見ながら時折相談にくるウマ娘達にアドバイスを与える。気が付くとあっと言う間にウマ娘達はトレーニングを終えて、寮に帰宅していた。

 

「じゃあ、また明日な」

「はい、また明日」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーに別れを告げ、家路に就き眠りにつく

 

───

 

『最後はこの人!ダートに全てを捧げてきたダートの求道者セイシンフブキ!』

 

 セイシンフブキは実況アナウンスと観客の大歓声に意識が覚醒する。

 そこは地下バ道だった。この感じは大井レース場だ。そして体の変化に気が付く。皴の無い手に体中から活力が湧いてくる。これは現役時代におけるピークの体だ。それに現役時代の勝負服も身に纏っている。

 体は自然と動き地下バ道を抜けてコースに立つ。すると東京の夜空が目に映ると同時に耳をつんざくような大歓声が出迎え思わず耳を塞ぐ。

 この声量はスタンドの客だけの者じゃない、恐らくスタンド周りにも入れなかった客が映像を見て歓声をあげているのだろう。ダート人気が上がっているといえどこの盛り上がりは尋常じゃない。

 周りを見て状況を受け入れ始める。何故か現役時代の体に戻ってレースを走らなければならない。このゲートの位置からするに2000メートル、帝王賞や東京大賞典と同じ条件だ。

 

「フブキちゃん、久しぶり。今日はよろしくね」

 

 セイシンフブキは見知った顔を見て思わず胸を撫で下ろす。だが自分と同じようにアグネスデジタルも現役時代の姿になっていた。

 

「これは何のレースだ?」

「夢の第11レースだよ」

 

 その言葉を聞いて心臓の鼓動が跳ね上がる。

 

 夢の11レース、

 

 歴代で最も強いと思うウマ娘を選ぶファン同士の遊びで有り、アブクマポーロやアジュディミツオーとダートにおける夢の11レースの出走メンバーは誰かとよく語り合ったものだ。

 セイシンフブキはアグネスデジタルの姿を今一度見つめる。生粋のダートウマ娘じゃないオールラウンダーだがその実力は折り紙付きだ。11レースに出走する資格は充分にある。

 

「フブキさんお久しぶりです。今日はよろしくお願いします」

 

 声を掛けられ後ろを振り向くと3人のウマ娘が居り、思わず笑みを浮かべる。

 

 岩手の皇帝 ヒガシノコウテイ

 岩手の英雄 メイセイオペラ

 岩手の怪物 トウケイニセイ

 

 3人ともダート界に歴に残る名選手だ。

 ヒガシノコウテイはアグネスデジタルと同じように何度も一緒に走っており実力は折り紙付き。メイセイオペラも尊敬するアブクマポーロと鎬を削ったライバル、その実力は一緒に走った事がないが充分に理解できる。

 そしてトウケイニセイ、時代に嫌われた悲劇の怪物、あと少し早く生まれていれば交流GIを何勝していたといわれ、岩手ウマ娘最強の呼び声高い。だが知っているのは衰えている時であり全盛期を知らない。

 夢の11レースに出走するということはバリバリの全盛期だろう。現役で走ったことないウマ娘と競い合える。これに心躍らないウマ娘は居ない。

 

「フブキ、どちらがダートプロフェッショナルか雌雄を決しようじゃないか」

 

 セイシンフブキは思わず目頭を押さえ涙を堪える。死んだはずのアブクマポーロが全盛期の姿で蘇っている。

 

「おやおや、泣くほど嬉しいのかい」

「当たり前っすよ。今日こそ師匠越えさせていただきます!」

 

 涙を拭いながら高らかに宣言する。かつて一緒に居た時はトレーニングで何度も千切られてきた。その末脚は心に刻まれていた。

 絶対にあり得ないと思いながらも何度も夢描いた全盛期のアブクマポーロとの対決。誰か何をしかた知らないが、この場に呼んでくれたことを心から感謝する。

 

「それはこっちのセリフです!師を超えるのが弟子の務め。恩返しをさせていただきます」

 

 アブクマポーロの影から出るようにアジュディミツオーが出てくる。その姿もデビュー前では無く、今日の老人でもなく現役全盛期の姿だ。

 アジュディミツオーはセイシンフブキの跡を継ぐように頭角を現し、多くのGIを勝利した。

 なかでも歴代ダート最強候補のカネヒキリとの叩き合いの末に勝利した帝王賞は今でもファンの間で語り継がれている。

 

「師匠越えって、東京大賞典で果たしたじゃねえか」

「あれはピークを過ぎてるんでノーカンっす。全盛期の師匠に勝ってこそ恩返しです」

「やってみろ」

 

 アジュディミツオーは満面の笑みを浮かべ拳を突き出し、セイシンフブキは不敵な笑みを浮かべて拳を付き合わせる。

 贔屓目無しでアジュディミツオーは歴代ダート最強に名を連ねるウマ娘に成長した。自分だったらどうレースをするか、アブクマポーロと同じぐらいに何度も夢描いていた。

 

「よう、アンタも呼ばれたか」

 

 セイシンフブキは目についた葦毛のウマ娘に声をかけメンチをきる。これも倒したいと夢描いていた相手だった。

 

「どうも」

「怪我をするのは本人の体質だししょうがない。だがたった2走物凄えパフォーマンスの走りをしただけで神格化されちゃ、残った奴らはたまらねえ。今日のレースに勝って伝説を終わらせてやるよ」

「それは無理。勝つのは私」

 

 葦毛のウマ娘も臆することなくセイシンフブキを睨みつける。彼女の名はウラガブラック、数奇な運命によってダートを走り歴代ダート最強の呼び声高いウマ娘である。

 ダートを走ったのは武蔵野ステークスとジャパンカップダート、だがその凄まじいパフォーマンスは多くの人の記憶に残る。

 そのパフォーマンスは認めるところである。もし当時のフェブラリーステークスに出走していれば負けていたかもしれない。だが多くの経験を積みフィジカルを鍛えた今なら負けるつもりはさらさらない。

 

「こんばんは~。ウマドルのファル子だよ。よろしくね」

 

 ツインテールのウマ娘が演技がかった声で挨拶してくる。スマートファルコン、現役時代では一緒に走ることのなかったウマ娘だった。

 最初のイメージは最悪だった。最初はダートで走り、芝のOPに勝ったから路線変更し皐月賞で惨敗して再びダートに戻る典型的な芝上がりのウマ娘、しかもダートは人気が無いからと愚痴を漏らしていたらしく。もしリアルタイムで知ったら殴りこんでいただろう。

 だが次第にダートウマ娘としての誇りを抱き始め、人気を上げるために様々な活動し、ダート界に貢献した。今では正真正銘のダートウマ娘と認めている。

 そして何より強い。その高速コーナーリングは歴代屈指であり、大井2000メートルのレコードホルダーだ。

 

「そしてアンタも来てるだなんて正直予想外だ」

「夢の11レースに私が呼ばれるなんて、すまない」

「いや、世間が何と言おうがダートの方が強い。資格は充分にありだ、オグリキャップ」

「ではよろしく頼む」

 

 オグリキャップは手を差し出しセイシンフブキはそれに応じ力いっぱい握る。オグリキャップも表情を変えず握り返す。

 

 幼い頃笠松レース場でオグリキャップが走る姿を見た。その時に受けた衝撃は今でも覚えている。

 この強さならダートの未来を変えてくれると信じたが、中央に移籍すると主戦場を芝に変更しダートを走ることはなかった。その時はダートから逃げたと泣き喚いたのを今でも覚えている。

 今この場で走れる。それだけ今までの憎しみがチャラになってお釣りがくる。

 他にもカネヒキリ、ホッコータルマエ、コパノリッキー、クリソベリル、ヴァーミリアン、ヴィクトワールピサ。そうそうたるメンバーが出走する。

 これは自分が選んだダート2000メートルにおける夢の11レースのメンバーそのものだった。

 きっとこれは夢だ、だが夢とは思えないほどリアリティーがある。

 今日の昼、アジュディミツオーにダートに関する夢は叶ったといったがあれは嘘だ。この夢の11レースに勝利して、自分がダート歴代最強であると証明する。

 

 闘争心が沸々と湧き上がって抑えきれない。老いてから感じなかったこの血沸き肉躍る感覚が心地良い。

 ダートを最も愛し全てを捧げ最も強いのはダートの求道者セイシンフブキだ!

 

『さあ!ダートファンが待ち焦がれた夢の第11レース!今…スタートしました!」

 

───

 8月18日 自宅の寝室にセイシンフブキの遺体が発見される。死因は心臓発作によるものと判明する。その表情は穏やかで眠るように息を引き取った。

 

───

 

『姐さん!いよいよっすね』

『ああ、ダートの求道者とダートの哲学者の力を見せつけようじゃないか!』

『テンション高いっすね!』

『それはそうだ。弟子と一緒にダートの本場で走れるんだからね。まあ本当は1着のフブキと2着のミツオー君が来るべきで、3着の私は来るべきではないだがね』

『あいつはまだこっちに来るのは早いっす。いずれ来ると思うんでその時に譲ればいいでしょう』

『それもそうだ。今はこの権利を享受するとしよう。おや出迎えが来てるね?』

『ようこそ世界ダート夢の11レースへ』

『サキーか、久しぶりだな。ここに来たってことは?』

『はい、セイシンフブキさんのすぐ後ですね』

『そうだったのか。それでレースに出るんだろ?』

『もちろん、世界4大タイトル制覇の夢は諦めてませんよ』

『そいつは楽しみだ。それで誰が出走するんだ?』

『ストリートクライも居ますよ』

『そっか、あいつもこっち来てたもんな。他には』

『シアトルスルー、セクレタリアト、アファームド、アーリダーなどレジェンドウマ娘が多数です』

『さすがアメリカ、早々たる面子だな』

『何ビビッてんっすか!アタシ達でワンツーフィニッシュでしょう』

『ツースリーフィニッシュです。1着は私です』

『言うじゃねえか』

『2人ともお喋りはそこまでにして、答えはレースで決めようじゃないか』

『そうですね。ではレース場で』

『ああ、レース場で』

 




8月18日にセイシンフブキのモデルであるトーシンブリザード号が死去しました。
この小説を書く前はトーシンブリザードの存在を知らず、フェブラリーステークスの話を書くために調べているうちに知りました。

調べていくうちに思入れが深くなり、北海道で実際に会って「モデルにしたウマ娘を出しますがよろしいでしょうか?」とお伺いをたてたりもしました(笑)

史上初の無敗の南関東4冠、4冠がかかったジャパンダートダービーは単勝倍率1.0倍。圧倒的な支持をうけながら完勝しました。

船橋競馬協会のホームページのトーシンブリザードの紹介文にも『2001年の春、中央競馬ではアグネスタキオンやクロフネ、ジャングルポケットといった3歳馬がターフを盛り上げていた。
しかし、「あの春の最強3歳馬は、トーシンブリザードだった」と、南関東ファンは今でも胸を張って言える」当時の地方ファンに与えたインパクトの大きさがわかります。

地方が持つロマンと幻想、それを持っていたのがトーシンブリザードだと思います。

この小説やデジタルの話を読んで、1人ででも多くの人がトーシンブリザードのことを知り、記憶にとどめてくれれば幸いです。

トーシンブリザード号のご冥福をお祈りいたします


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太陽への追憶

本編の遥か先の話です


 サキーはゲートに入ると心臓に手を当てて逸る気持ちを抑える。

 凱旋門賞、欧州最高峰のレースであり世界4大レースの1つ、欧州で走る者は皆このレースに勝つことを目標に日々のトレーニングに励んでいる。そして今、1番人気としてこのレースを走る。

 己にある試練を課す。ただ勝つだけではダメだ。何かインパクトを残さなければならない。それは己の強さを証明するような圧勝劇か、有力ウマ娘達が鎬を削り人々が熱狂する好勝負を演じて勝つ。

 凱旋門賞は欧州ウマ娘によって最大の名誉だ。このレースに勝利する為なら選手生命の全てを賭ける意気込みで走る者も少なくない。

 だが勝つだけでは飽き足らず先を見ていた。本人にとって夢の為には必要な事だが、他のウマ娘にとっては傲慢だった。

 

 レースがスタートしサキーは5番手ぐらいの位置につけ、道中徐々にポジションを上げ直線に入る頃には先頭に立ち、スパートをかける。

 他のウマ娘達との差は1バ身、2バ身、3バ身差と広げていく。これは他のウマ娘達とは追いついてこない。僅かながらの落胆を覚えながら思考を切り替える。

 狙うは2着との歴代最大着差をつけての勝利だ。勝利を確信しながら妥協することなく全ての力を振り絞り、ゴール板を駆け抜ける。

 その瞬間大歓声があがる。だが気にすることなく掲示板に視線を向ける。2着との着差は6バ身、これは最大着差タイである。

 記録更新とはならなかったが歴代最強欧州ウマ娘と名高いリボーやシーバードと同じと考えれば及第点であり、充分なインパクトを与えられた。

 本音を言えば圧勝劇ではなく有力ウマ娘達と鎬を削る名勝負を演じたかった。その方がより人々の記憶に残り、業界外の人々を惹きつける。とりあえず目標は達成したがまだまだ満足するわけにはいかない。

 

 ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、BCクラシック

 

 この世界4大レースを制覇し、業界の象徴となり1人でも多くの人がレースに興味を持ち、関係者が幸せになる世界を作るまでは止まるわけにはいかない。

 決意を新たにし、観客達の声援に応える為に最大限に人に好まれる笑顔を作る。

 

───

 

 サキーはロッキングチェアに揺られながらゆっくりと意識を覚醒する。少し日光浴がてら微睡んでいたら眠ってしまった。しかし随分懐かしい夢を見たものだ。半世紀前の出来事に懐かしさを覚える。

 1人でも多くの人がレースに興味を持って、1人でも多くの関係者が幸せになる世界を作る。その一念で人生を駆け抜けていった。

 現役引退後もレースの布教活動に全てを注いだ。世界中を飛び回りレースが行われていない国でもレース協会発足に尽力し、世界一のエンターテインメントに発展させた。

 休みなく働き続け、過労で何回か入院したことがあった。友人達には過労死する気かと止められたが、それでも働き続けた。

 夢が体を突き動かし続けた。モチベーションというものは時間が経てば経つほど消費されいずれ燃え尽きる。だがモチベーションは年が経っても一向に燃え尽きることはなかった。

 その結果レースは世界中で行われるようになり、一部の国だけでは無く様々な国で発展し、ウルグアイで生まれ育ちBCクラシックとドバイワールドカップを勝ったインヴァソール、ブラジルで生まれ育ちドバイワールドカップに勝ったグロリアデカンペオンなど様々な名選手が活躍した。

 視聴数や市場規模も長年世界1位だったサッカーを超え、文字通り世界で最も多くの人が見るエンターテインメントになる。

 

 サキーは世界で1番のエンターテインメントになったと確信すると活動から身を引いて隠居した。世界中の全ての人間が見るわけでは無いが、幼き頃に描いた夢は充分に叶っただろう。そう実感した瞬間モチベーションが一気に無くなってしまった。

 その後はイギリスに別荘を建てると今までの仕事の疲労を癒すように静かに暮らしていた。

 今1人で暮らしている。業界の発展に捧げた日々を過ごしているうちは結婚をする暇もなく、両親も他界し肉親は誰もいない。

 だがレースや仕事を通してできた友人もいて、時折連絡して交流しているので寂しくはない。先日はアグネスデジタルとビジネスパートナーだったフランキーと一緒にイギリスダービーを観戦し楽しい時間を過ごした。

 ロッキングチェアの台の上にある本を手に取り読み始める。今読んでいるのは日本のウマ娘サンオブターフオーの競争生活を綴ったものである。

 日本の地方の最底辺と言われる高知から中央や世界の強豪と繰り広げる名勝負は読んでいて心が躍る。

 隠居する前は業界の情報を把握していたが表面上のもので、アグネスデジタルが好むようなパーソナルな情報は全く把握できていなかった。だがこうして知ると面白く改めてレースの魅力に気づく。

 今は過去のレースを見てその当時の記事や本を読んで歴史を振り返っている。幸いにも時間は有り余っているので調べれば調べるほど新しい情報が有って楽しい。

 読書に熱中していると植え込みからガサゴソと音がする同時にサッカーボールが飛び出し庭の芝に転がる。すると同じ場所から金色の頭がヒョッコリ出てくる。頭から体が出てきて幼い少女は体に着いた葉っぱをパンパンと払う。

 

「おばあちゃん!お庭貸して!」

 

 金髪の少女が元気よくお願いし、サキーは快く了承する。それを見た少女は二ヒヒと満面な笑みを浮かべながらボールを蹴り始める。

 少女の名前はユリィカ、近所に住んでいる子供でどこかボールが蹴られる場所は無いかと探しているうちにここを見つけた。

 別荘の庭は正直に言えば無駄に広く、子供がサッカーをする分には一向に問題ない。ユリィカは独り言を呟きながらドリブルをしている。

 しかし本当に楽しそうだ。本を台に置きユリィカの姿を眺める。ユリィカの動作1つ1つには人を惹きつける華やかさがある。理屈が説明できない天性の才能、神からのギフテット。

 かつて現役時代は人から好かれその華やかさから太陽のエースと呼ばれていた。

 だがあれは全て計算し尽くしたものであり、偽物の太陽だ。そしてユリィカは正真正銘の太陽だ。その陽性は眩しくすらあり、もしあれが備わっていれば、もっと楽に業界を発展させられたのだろう。

 椅子から立ち上がり台所に向かうとユリィカの為に買っておいたクッキーを取り出し、紅茶を淹れ始める。

 

「美味しい?」

「うん!」

 

 サキーは疲れ始めた頃合いを見計らって休憩を提案する。クッキーを目ざとく発見したユリィカはサキーの元に駆け寄りクッキーをほうばる。

 

「おばあちゃん、あのね」

 

 ユリィカはソワソワとしながら話を切り出す。その声のトーンからしてそれなりに深刻な悩みなのだろう。何と相槌を打ち話し始めるまでゆっくりと待つ。

 

「ユリィはサッカー大好きで大好きで、みんなにも大好きになってもらいたいの。でも……皆レースばっかり見て、サッカーをちっとも見たりやったりしないの……だからそんなつまらないものよりサッカー見ようっていったら皆怒って……どうしたら皆が見たりやったりしてくれるのかな?」

 

 ユリィカは感情が溢れだしたのか、大粒の涙を流しながら大声で泣き始める。その瞬間脳裏に幼き日の記憶が蘇る。

 

―――皆どうしてレースの話をしないのだろう?

―――ねえ、そんなのものより、ウマ娘のレースを見ようよ

 

 レースを愛し皆もレースを愛して欲しいと思いながら、誰もが目を向けないことに苛立ち怒り発した一言、ユリィカはあの日と自分と同じ言葉を発していた。

 サキーはハンカチを差し出し感情が落ち着くのを待ち、頃合いを見計らって話を切り出す。

 

「ユリィカちゃんがサッカーが大好きなのは知ってる。でも皆も同じぐらいレースが好きなんだよ。もしユリィカちゃんがサッカーなんかよりレースの方が楽しいって言われたどう思う?」

「怒る!」

 

 ユリィカは頬を膨らませながら怒りを露わにする。その仕草がとても可愛らしく思わず顔がニヤケながら話を続ける。

 

「ユリィカちゃんが言ったことはそれと同じなの」

「そうなの?」

 

 ユリィカは自分の状況に置き換えて考え始め、自分がやったことのマズさに気づき始めバツが悪そうな顔を見せる

 

「後でみんなにごめんさいしないとね」

「うん……でもユリィはみんなにサッカーを見てもらって、みんなとサッカーの話をして、みんなとサッカーをやりたい!ねえおばあちゃん!どうしたら皆がサッカーを好きになってもらえるかな?」

 

 ユリィカは穢れの無い瞳でかつての幼き自分が抱いた疑問をぶつけてくる。

 

 幸福の総量は一定数である、それが持論だった。誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。幼き頃は誰もレースに興味が持たない不幸に苦しんだ。

 そして月日が経ち多くの人々がレースに興味を持つようになったことで、サッカーに興味を持たないという不幸がユリィカにおとずれていた。

 

「それはユリィカちゃんが業界の象徴になればいいんだよ」

 

 サキーは頭を撫でながら幼き頃に導き出した結論を告げる。

 

「業界のしょうちょう?」

「ユリィカちゃんがサッカーはレースよりも楽しくて、世界で1番楽しいって伝えるの」

「どうやったらできるの?」

「皆に大好きと思われる人になって、世界一凄いサッカー選手になるの」

「でも……ユリィはサッカー上手じゃないし、世界一なんて無理だよ」

「無理じゃない。なるんだよ。ユリィカちゃんはサッカーが大好きなんでしょう。このままじゃユリィカちゃんが望む世界は作れないよ」

 

 サキーは諭すような優し気な声に僅かに厳しさが籠る。世界一になると口には軽々しく言葉にできるが、達成することがどれだけ大変か身を持って知っている。

 愛するものを守る為に伝える為には世界一になるという覚悟が無ければ成し遂げられない。

 

「うん!なるよ!ユリィは世界一のサッカー選手になって、みんながサッカーを見てやってくれる世界を作る」

 

 ユリィカは自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。その様子にサキーはかつての自分を重ねていた。

 

「でも大変だよ。私の世界は強いからユリィカちゃんに打ち破れるかな?」

「どういうこと?」

「私もユリィカちゃんぐらいの時にね、レースが好きだったけど皆が他のスポーツやエンターテインメントに夢中で、ちっとも見てくれなかったの。だからユリィカちゃんに言ったようにレースが世界で一番楽しいって伝えるために業界の象徴になろうって頑張った。そして私が望む私の世界になった」

 

 サキーは意地悪っぽく言う。自分が世界に作り上げたというのは事実では無いが、望む世界を作るために誰よりも尽力した自負がある。結果望む世界になったのだから間違いないではない。

 

「じゃあ、おばあちゃんのせいだ!返して!皆がサッカーが大好きな世界を返して!」

「ダメだよ。だっておばあちゃんはユリィカちゃんがサッカーが大好きと思う気持ちと同じぐらいに、いやそれ以上にレースが大好きだから」

「ユリィのほうがおばあちゃんより、ずっとずっと大好きだもん!」

「私のほうがずっとずっとずっと大好きだよ」

 

 サキーとユリィカはお互いの言葉に張り合う。言い争いの内容は幼子が言う内容であり、サキーも引き釣られるように雰囲気や言葉遣いが幼くなっていた。

 

「ユリィ帰る!」

 

 ユリィカはサキーが自分が好きなものを衰退させた張本人と知り、頬を膨らませながら歩き始める。サキーは手を振りながら見送る。

 ユリィカの人を惹きつける天性は本物だ。将来において自分が尽力したレース界の繁栄を脅かす最大の脅威になるかもしれない。

 ならば何故アドバイスをしたかのか?それはユリィカが過去の自分だったからだ。もし自分と同じ道を目指すなら途方もない苦労と困難が待っているだろう。だがその愛が本物なら成し遂げられるかもしれない。

 ユリィカが望む世界と自分が望んだ世界、きっと勝つのは自分の世界だ。何故なら世界で誰よりも深くレースを愛しているから。

 

───

 

「おばあちゃん!今日も借りるよ!ユリィは世界一サッカーが上手くなって、おばあちゃんの世界を壊してやるんだから!おばあちゃん?おばあちゃん!おばあちゃん!」

 

8月20日、サキーが自宅で死亡したのが確認される。

死因は老衰と診断され、その顔は驚くほど穏やかだった。

 

───

 

「ここは?」

 

 サキーは意識を覚醒させると目を開けてそこに映ったのはレース場だった。

 どこのレース場だ?現役時代、そして引退して仕事で訪れた様々なレース場の記憶を思い出し検索する。ここはベルモントレース場、かつてBCクラシックで走ったレース場だ。

 

「サキー様、間もなくレースは始まりますので、出走準備をお願いします」

 

 するとレース場の係員らしき男性が声をかけてくる。

 

「出走準備?私がレースを走るんですか?」

「そうです」

 

 係員の言葉に自分の体の変化に気づく、身体は10代の現役全盛期に戻り、服も当時の勝負服を着ていた。

 

「えっと距離とかコースとかメンバーは?」

「こちらのレーシングプログラムに記載されております」

 

 サキーはレーシングプログラムに目を通す。ダート2000メートル、出走メンバーはシアトルスルー、セクレタリアト、アファームド、アーリダー、シガー、サンデーサイレンス、スキップアウェイ等歴史的ウマ娘が多数居た。これではまるで夢の11レースではないか。むしろこれが夢の11レースか。

 かつてティズナウに負けたBCクラシックと同じコース、そして出走メンバーはティズナウと同等の強さのウマ娘が多数、これに勝利すればあの時のリベンジが果たせる。はるか昔に消えたと思った競技者としての熱が沸々と燃え上がっていた。

 他にはどんな名選手が出走するかとワクワクしながら目を通すと、思わぬウマ娘を見て声をあげる。

 ストリートクライ、同じゴドルフィンとしてダートプライドに走ったウマ娘、引退後も交友があり大切な友人だった。

 セイシンフブキ、ダートに全てを捧げたダートの求道者、目指す目的は違えどその情熱は尊敬に値する。そして本当に強かった。日本出身ながら選ばれるのは妥当だ。

 

「セイシンフブキさんはもう来てますか?」

「いえ、まだです」

「だったら迎えに行きます。初めてのベルモントで迷っているかもしれませんから」

 

 サキーは感情が抑えきれないと小走りで正門に向かう。

 ストリートクライ、セイシンフブキ、ダートプライドで走ったウマ娘達と再び走れる。あのレースは生涯のベストレースと断言できるほど素晴らしいものだった。

 そしてヒガシノコウテイ、アグネスデジタル、ティズナウは居ないが勝るとも劣らないウマ娘が出走する。これなら人々が熱狂し心躍るレースができる。

 そしてこのレースに勝ち、業界の象徴としてこの世界の全ての人々がレースを見る私の世界を作ってみせる。

 サキーは新たな夢を抱きながら歩み始めた。

 




8月20日、サキー号が死去しました。

トーシンブリザードに続いての訃報、登場人物のモデルになった競走馬が連日亡くなり、何とも言えない悲しい気分です。

サキーもこの小説を書くにあたって調べているうちに知りました。
白井調教師が香港カップに勝った後のインタビューで、サキーとドバイワールドカップで一緒に走ったら5馬身差千切られると言っているのを見て、なん……だと……と絶望感を味わいまし。
ドバイのダートに最も合うと関係者に評価されていたデジタルが5馬身差、その世界の広さに驚愕を覚えました。

凱旋門賞1着で次走のBCクラシックではハナ差の2着、中3週アメリカの地でダートレース、しかも当時のアメリカではテロがあったせいでUAEのゴドルフィンは完全アウェイでした。
そんな厳しい条件でハナ差の2着は本当に凄いと思います。

この小説を読んでサキーの事を知り、興味を持ってくれる方が1人でもいてくだされば幸いです。

サキー号のご冥福をお祈りいたします。


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勇者と隠しダンジョン♯14

とりあえず目途がつきましたので、週一を目標に投稿していきます


 2月2日日曜日府中駅周辺、肌を刺すような冷気が吹き付けるなか、周辺は独特の高揚感と熱気に包まれていた。

 駅のホームから改札を抜ける大学生らしき若者達、走り出す子供と慌てて手を逃げる父親にそれを見て微笑む母親、50代の男性達、中学生ぐらいの年齢のウマ娘達、それらの人々の足取りは興奮を抑えきれないとばかり速まり、どこか浮かれている。改札を抜けた老若男女達の声に耳を傾けると今日行われるレースの話題だった。

 府中レース場で行われるウインタードリームトロフィーターフ、芝2000メートルで行われる下半期芝中距離ナンバーワンを決めるビッグレースである。

 府中レース場に行く人々の大半はホームを出てすぐに目の前の光景に目を見開く。辺りにはまるで府中レース場までの道を案内するようにフラッグが立ち並ぶ。

 

 スペシャルウィーク、グラスワンダー、ナリタブライアン、エアグルーヴ、ビワハヤヒデ

 

 それぞれのフラッグにトロフィーターフに出走するウマ娘の写真とキャッチコピーがプリントされている。それらをじっくり見ようと人々の足並みは自然と遅くなる。あと数時間でドリームレースが見られる。一体誰が勝つ?それぞれが予想と願望を言いながらレース場に向かう。

 その人の波を逆流するようにエイシンプレストンとテイエムオペラオーとメイショウドトウが府中駅に向かう。その表情は対照的に神妙な面持ちだった。

 3人はダートプライドの前々日会見をネット中継で見ていた。世間は勝ち鞍とレイを賭けることに注目していたが、彼女達が注目していたのはそこではなかった。

 勝ち鞍やレイを失うことはそれ迄の努力や情熱の成果を奪われることであり、重要な問題である。だがそれはデジタル以外のウマ娘にとって重要であり、自身には大した問題では無く。精々トレーナーになる際に経歴が無いと不利だな程度の些細な問題だ。

 だがデジタルは思い出を賭けた。デジタルがレースに走るのはレースを通してウマ娘を感じる為、言い換えればウマ娘を感じた記憶を得る為である。もし負ければ大切な物を失い、それはデジタルにとって最も辛いことである。

 3人は口少ないまま改札を通り、新宿行きのホームに向かう。行先は大井レース場前駅、あと数時間後にダート世界一が決まると同時にデジタルの未来が決まる。最高の体験をして思い出を守るのか、それとも全てを失うのか。自然に手に力が入っていた。

 

「すまない。今アグネスデジタルと言わなかったか?」

 

 オペラオーが突如振り返りすれ違った男女2人に声をかける。1人は赤髪のオールバックで長身の男性、1人は金髪のセミロングの女性だった。男女は訝しむようにオペラオー達の方に振り返る。顔たちからして欧米出身のようだった。

 

「ドトウ、頼む」

「分かりました」

 

 オペラオーは日本が通じないと判断しドトウに通訳を頼み、ドトウはオペラオーの言葉を英語に翻訳する。

 

『すみません。今アグネスデジタルと言いましたか?』

『はい、そうですが』

『もしかすると、アグネスデジタルが走るレースを見に来たのですか?』

『はい』

『アグネスデジタルが走るのは大井レース場です。ここにあるのは府中レース場ですので府中レース場では走りません』

 

 男女は目を見開きお互いの顔を見合わせると携帯端末を慌てて操作しながら、改札にある英語表記に交互に視線を送る。オペラオーはその様子を見て安堵の表情を浮かべる。

 

「よく気づきましたね」

「デジタルやランという単語が聞こえたからね。もしかしたらダートプライドを見に来たのではと予想したが、案の定だったよ」

 

 プレストンは感心した素振りを見せ、オペラオーは満更でもないとばかりに胸を張る。世間では東京のレース場と訊けば大半は府中にある東京レース場と口にして、地方の大井レース場のことは知らないという人も珍しくない。外国人なら猶更分からない。

 

『よろしければ、大井レース場まで一緒に行きませんか』

 

 ドトウがオペラオーの言葉を翻訳し男女に伝える。外国人が不慣れな日本で電車に乗り換えて大井レース場まで行くのは難しく、たどり着けない可能性が有る。わざわざ日本まで着てその結末は悲劇だ。何より友人として、レースに携わった身として、レースファンをレース場まで連れて行き観戦させるのは義務である。

 

『本当にありがとうございます。貴女達が居なければレース場に辿り着けなかったかもしれません』

『私達も大井レース場に向かうついでなので、お構いなく』

 

 電車の座席に座った外国人の男女が頭を下げ、プレストン達は吊革に捕まりながら腰低く恐縮そうに応じる。5人は新宿駅に向かう電車に乗りながら世間話をする。会話の中で男女はアメリカ出身でデジタル見当てでレースを見に来た事が分かった。

 

『しかしアメリカの方でデジタルのファンというのも珍しいですね。ティズナウとかサキーなら分かるのですが』

『デジタルは私達の娘なんですよ。ダートプライドは凄いレースになるから是非見に来て欲しいって言われまして』

「デジタルの母君なのかい!?」

 

 金髪の女性の言葉にオペラオーが思わず声を出し、3人は一斉に目を見開き視線を交わし合う。ということは赤髪の男性はデジタルの父親か、こんなところでデジタルの両親と出会うなんて何という偶然だ。

 デジタルの両親はその反応を不思議そうに見ながら、何かを思い出したように手を叩き携帯端末を操作すると画面と3人の顔を見比べる。

 

『もしかしてテイエムオペラオーさんに、メイショウドトウさんに、エイシンプレストンさんですか?』

『私達のご存じなんですか?』

『はい、そちらの栗毛の方がテイエムオペラオーさん、世紀末覇王、不世出の歌劇王、強さもさることながらファンサービスなどの意識の高さについては娘から聞いております。スポーツの世界に身を置いた身として尊敬すると同時に今やファンですよ』

「こちらこそ光栄だよ。特別にサインを贈呈しようじゃないか」

 

 父親は社交辞令を述べながらオペラオーに手を差し伸ばす。ドトウが父親の言葉を翻訳されると上機嫌に握手に応じ、バッグから紙とペンを取り出すと流れるような動作でサインを書き父親に渡す。

 

『そこの鹿毛の方はメイショウドトウさんですね。奥ゆかしくていつも他人を気に掛ける優しさと何度でも立ち上がる不屈の闘志を持つ偉大なるナンバー2。娘から宝塚記念に勝った話を聞いた時は思わず涙ぐんでしまいました』

『そんな。偉大なるナンバー2なんて過大評価です~』

 

 母親が手を差し伸ばすと顔を赤らめて手をブンブンと横に振り、その仕草に母親は思わず微笑む。

 

『そしてエイシンプレストンさん。娘が本当にお世話になっております。娘も貴女が居なければ今の自分は居なかったといつも言っておりました。これからもご迷惑をおかけすると思うかもしれませんがよろしくお願いします』

『こちらこそ、デジタルが居なければ今の自分はいませんでした』

 

 プレストンはデジタルの両親と同様に深々と頭を下げる。

 それから一同は大井レース場までの道中は和やかに会話をしながら向かう。主な話題はデジタルのことで、両親は日本に来る前の話をして、プレストン達はトレセン学園での話をした。

 新宿から大江戸線に乗り換えると大井レース場に向かうと思われる乗客たちが増え始め、大井レース場前駅に向かうモノレールは朝の満員電車のように混雑していた。

 

『大丈夫ですか?』

『これが日本のラッシュアワーか、想像以上だ』

『正確に言えば違いますけど、込み具合は同じぐらいですね』

 

 デジタルの両親はベンチに座るとしんどそうに深く息を吐く。アメリカではレース場に行く際には基本的に車移動で電車の混雑には馴れていなかった。

 プレストン達はデジタルの両親の調子が戻るまでホームのベンチに座り、レース場に向かう乗客たちを眺める。そして眺めているうちに外国人とレース場に初めて訪れると思われる人々が多いことに気づく。

 

「府中に向かう客層とは違いますね」

「ドリームトロフィーターフとダートプライドの違いが出てますね。外国人が多いのはティズナウやサキーが出走するせい、そして新規が多いのはエンタメ色が強いからですかね。ダートプライドの成り立ちから前々日会見のレイと勝ち鞍を賭けるとかショー的な要素が強くて、あたしも他のジャンルでこんなことが有ったら興味がそそられます」

「そのせいかショービズすぎるとか、品が無いという意見も聞かれる。でもオペラだって古典とは違うエンターテインメント色が強い作品も有る。これは娯楽の宿命さ」

 

 オペラオーのいつも演技がかった仕草ではなく真面目な口調で呟く。ダートプライドは日本で行われるレースとは違い、互いに煽り合い刺激的に盛り上げてきた。それを毛嫌いする人も居るが好む人も居る。大事なのは多様性でありファンは好きな方を選べばよい。

 何よりドリームトロフィーターフを見に来た客もダートプライドを見に来た客も同じようにレースに対する期待を膨らませ高揚感に胸を躍らせている。それはレースの世界に身を置いた者にとって嬉しいことであった。

 するとデジタルの両親は気分が良くなったようで、一同はベンチから立ち上がりレース場に向かう。その足取りは向かう人々の高揚感にあてられたように無意識に弾んでいた。

 

 5人は関係者席から入場しレーシングプログラムを受け取る。レーシングプログラムはどのレース開催日にも無料で配られ、その日行われるレースの情報が記載されている。

 GIで配られるレーシングプログラムは内容も豪華になっており、過去のレースの回顧やページの最後には名選手の肖像とレースに所縁のある選手の肖像と詩的な言葉が書かれている。

 

「へえ」

 

 プレストンは思わず感嘆の声を上げる。GIだと内容も豪華になる日本語版と英語版の2つがあった。普通は日本語で書かれたレーシングプログラムしか作らず、海外のウマ娘が多く出走するジャパンカップでも他の言語で書かれたものは存在しない。

 それをグレードレースですらないエキビションレースで用意するとは相当力を入れていることを実感する。そして英語版も日本語版と比べても同じぐらいに減っており、ここでも多くの海外の人が観戦しに来ていることが分かる。デジタルの両親は英語版をとり、プレストン達は日本語版をとる。

 内容は中央ウマ娘協会のレーシングプログラムとは違い、ページの半分はダートプライドの記事だ。プロフィール、インタビュー、数ページのマンガ、そして名選手の肖像をそのまま流用したようなものまである。

プレストンはダートプライドを走る6人の出馬表のページに目を移す。

 

 サキー 主な勝ち鞍 インターナショナルS(GI)凱旋門賞(GI)ドバイワールドカップ(GI)キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(GI)レーティング135

 

 ティズナウ 主な勝ち鞍 スーパーダービー(GI)サンタアニタH(GI)クラークハンデH(GI)BCクラシック(GI)2勝 レーティング128

 

 ストリートクライ 主な勝ち鞍 スティーヴンフォスターH(GI)カーペンターH(GI)ジョッキークラブゴールドカップ(GI)BCマラソン(GI)レーティング130

 

 アグネスデジタル 主な勝ち鞍 マイルCS(GI)南部杯(GI)天皇賞秋(GI)香港カップ(GI)フェブラリーステークス(GI) レーティング125

 

 ヒガシノコウテイ 主な勝ち鞍 東京大賞典(GI)南部杯(GI)レーティング122

 

 セイシンフブキ 主な勝ち鞍 ジャパンダートダービー(GI)かしわ記念(GI)レーティング121

 

 改めて凄いメンバーだと実感する。特に世界4大GIの勝者が揃っているのは壮観であり、一緒にレースを走るのは史上初だ。

 そしてこのページではレーティングの要素を強く紹介している。レーティングとは大雑把に言えば選手の強さを数値化したものだ。

 勿論これが絶対的な指標というわけではなく、ヨーロッパ以外のウマ娘の数値が低くなりがちなど様々な問題点があるが一応基準となっている。

 今日初めてレースを見るという観客も多く、専門家があれが凄いこれが凄いと語るより、数値を出したほうが分かりやすいという意味ではレーティングを紹介するのは悪くはない。

 解説にはレーティングについて簡単に解説され、130を超えれば世界的名選手と評価される。他にも歴代レーティング上位者が書かれ、歴代はダンシングブレーヴの141である。

 

 サキーの135は現時点で歴代のトップ10に入っている。世界4大GIのうち3つに勝ち、レース内容も素晴らしく妥当といったところだ。

 ティズナウのレーティングは復帰戦のクラークHの内容がイマイチということでポイントを下げられて128となった。

 映像から見れば一線級ではないウマ娘にハナ差、基本的に着差がつかないとレーティングは上がらないので仕方がないと思われるが、あのレースでは自らハンデを課しており本来ならもっと着差がついていた。本来なら130クラスであるというのがプレストンの私見だった。

 ストリートクライは連勝に加えてBCクラシックの代わりに好メンバーが集まったBCマラソンでは3バ身差で完勝している。サキーとは同等のレーティングを与えられてもおかしくは無いのだが、アメリカのレースということで評価を下げられたのだろう。

 デジタルの125は日本所属としては高い方で有り、ドバイワールドカップでサキーと接戦の2着が評価されて128は貰っていたのだが、南部杯で負けたので下げられた。

 ヒガシノコウテイの122、セイシンフブキの121だが日本のダートウマ娘としてはかなりの評価で、南部杯でデジタルに先着したことでこのポイントを与えられた。

 

 5人はレーシングプログラムを読み終え、軽く大井レース場見学をした後にデジタルに激励の言葉をかけようと控室に足を運ぶ。だがその足は控室前で止まる。

 扉の前にはチームプレアデスのメンバーとOGのダンスパートナーとトレーナーが居た。プレストンが代表するように声をかける。

 

「どうしたんですか?」

「いや~後輩と一緒にデジ子に声をかけようとしたらさ、気色悪い顔で壁を凝視しててさ。思わず悲鳴をあげちゃったよ。とても声をかけられる雰囲気じゃなかった」

「きっと妄想タイムに入ってますね。この時のデジタルは完全に自分の世界に入ってるんでよほど大声で声かけないと反応しないですね」

「らしいね。後輩達からデジタルのお楽しみ時間を邪魔しないほうが良いって言われた」

 

 プレストンは扉の向こうの様子を想像する。完全に弛緩しきった笑みを浮かべているデジタル、初めて見た人が悲鳴をあげるのも無理はない。

 

「一声かけようと思ったがデジタルの至福の時間を邪魔するのも忍びない。ボク達も退散しようか」

「すまんな。何か伝言があれば預かるが」

「ボク達がかける言葉はきっとトレーナーと同じだろう。ついでに伝えてくれ」

 

 オペラオーは踵を返し歩き始め、ドトウとプレストンもお互いの顔を見合わせてオペラオーの後についていく。デジタルにとってレース前にどんな言葉が最良なのか、その答えは3人とも同じで、トレーナーも同じ事を考えていると確信めいた感覚が有った。

 

「じゃあ、私達も行こうか、ぞろぞろ入って喋ってもしょうがないし。パドック前に陣取ってデジ子に大声援を送らないとね。白先生伝言任せた」

「伝言って何や?」

「それは察してよ」

「思いは言葉にせんと伝わらんぞ」

「大丈夫、私とチームプレアデス全員がかけようと思った言葉は白先生が思っている言葉だから」

 

 ダンスパートナーは手をヒラヒラと振りながらチームプレアデスのメンバーを引き連れて踵を返す。

 

「奥さんと旦那さんはどうされますか?折角来たんですから声をかけていかれては?」

 

 デジタルの両親はトレーナーの言葉に柔和な表情を浮かべながら首を横に振る。

 

「いいです。デジタルの楽しみを邪魔したくありませんから」

「それに私達がかけようとする言葉はエイシンプレストンさん達やチームメイトの皆さんと同じですから、トレーナーさんに託します」

 

 ドバイワールドカップ前にお互いが思う言葉をかけたが今思えば適切ではなかった。言うべきは胸中に浮かんでいる言葉だ。それがデジタルにとって最良の言葉であり、友人やチームメイトやトレーナーの胸中にも同じ言葉浮かんでいるだろう。

 デジタルは出会いに恵まれた。2人はその巡り合わせに感謝しながら踵を返し戻っていく。

 

 それからトレーナーはパドック開始を告げる係員が来るギリギリまで控室前で待機した。もし皆がかける言葉と自分がかけようと思った言葉が違ったらどうしよう。そんな不安にかられながら時間を潰す。

 すると係員が控室にやってくる。トレーナーは係員に少し待ってもらうように声をかけたのち、部屋をノックする。案の定反応が無いので最後通告のように声をかけた後部屋に入る。

 部屋に入った瞬間粘着質な悪寒が走る。そこには椅子に座りながら妄想の世界にどっぷり入り込んだデジタルの姿が有った。

 妄想すると周りの人々が嫌悪感を抱くオーラのようなものを放出する。その嫌悪感には馴れたつもりだったが、それでも悪寒を抱いてしまった。

 それはより深く妄想の世界に入り込んでいる証でもあり、調子の良し悪しが分かるある種のバロメーターでもある。勝利中毒から脱してから初めてのレース、調子は絶好調である。

 

「デジタル!パドック始まるぞ!」

 

 トレーナーは大声で呼びかけ肩を掴み大きく体を揺する。すると体をビクリと震わせて振り返る。

 

「白ちゃん!?ビックリした。驚かさないでよ。それにもう少し優しく呼んでよ」

「優しくとったら一生妄想の世界のままや、ずいぶんとお楽しみだったな」

「まあね。様々なシチュで妄想したけど、どれもこれも最高だよ」

「それは良かったな、けどあんまりハードル上げるとがっかりするぞ」

「大丈夫、皆ならアタシの想像なんて軽々と超えるぐらい輝いて煌めいて、最高の姿を見せてくれるから」

 

 デジタルは興奮さめやらぬという具合に鼻息荒くしながら断言する。その表情は今まで見た中で最も喜びに満ち溢れていた。

 レース前にイメージトレーニングをする選手は多い、その日のバ場コンディション、相手がとる作戦、それらをイメージし、どこで仕掛けどのように動くかと勝ち筋を探していく。

 重要なのは正確に情報をイメージすることである。人は自然と自分が都合の良い現実をイメージし、都合の良いレース展開で勝つ姿を想像してしまう。これではイメージトレーニングの効果は弱い。

 だがデジタルがしたのはイメージトレーニングではなく妄想である。

 妄想とは自分が最も都合の良く、気持ちが良いイメージを想像することだ。実際考えられるなかで最も都合の良いイメージを想像した。それでも現実は妄想を軽々と超えると言いのけた。

 

 想像より楽しかった。想像より面白かった。想像より美味しかった。

 

 人は自分が想定した設定を超えることに喜びを覚える。

 例え同じ高さを飛んだとしても低いハードルでも超えれば喜び、高いハードルに設定して下回ればガッカリする。もし自分が考えられる最高値のハードルを越えてくれると確信する出来事があればそれは至上の喜びだろう。

 

「そろそろパドックやし、チームの皆やダンスパートナーやプレストン君やご両親からの伝言をチャチャっと言っとくわ」

「皆来てたの?声かけてくれれば良かったのに」

「お前の妄想タイムを邪魔せんようにって気を使ってくれたんや。感謝せえよ」

「そうなんだ。それで伝言って何?」

 

 トレーナーは問いに答える前に深呼吸する。自分の言葉は皆の総意なのだろうが?様々な不安が浮かび吐く息とともに外に出す。

 

「今を全力で楽しんでこい」

 

 デジタルには様々なものが纏わりついている。金銭、日本の誇り、レイ、勝ち鞍、思い出、ファンの声援、周りへの感謝の念、今後の進路、

 それらをプレッシャーや期待を力にできるウマ娘もおいて、デジタルも同様に力にできるが本来の姿ではない。全てのしかかるハンデにすぎない。

 ただウマ娘を感じて快感を得るという自分の欲の為、過去も未来を考えず我欲を満たすために今に全てを注ぐ。それが最も幸福なことであり、自身を含めた皆の総意である。

 

「もちろん!」

 

 デジタルは歯を見せてニカっと笑う。ドバイではサキーを感じるという欲の為に走ったが、トレーナーの期待、友人の期待、業界の期待、日本中の期待という皆の想いも力に変えた。だが今回はそれらを最初から全て捨て、全て自分の欲の為に走ると決めていた。

 だが決意を固めながらも、自分を理解し支えてくれた人々に感謝の念を捨てるのは流石に自分勝手過ぎると考えていた。だが皆から全て自分の為に走れとお墨付きを得た。ならば迷う必要なし!

 デジタルはスキップ交じりでパドックに向かった。

 

───

 

「見てください。各レース場は超満員です」

 

 スマートフォンの画面にはレポーターとレース場を埋め尽くす観客が映る。画面に映る観客達の顔は祭りの高揚感にあてられたように皆笑顔だ。

 ヒガシノコウテイは画面に映る光景を見て喜びを噛みしめる。

 出走前のウマ娘達は控室で思い思いの時間を過ごす。レースのシミュレーションをする者、音楽を聴いてリラックス、あるいはテンションを高めていく者など様々である。

 そしてヒガシノコウテイはTV番組を見ていた。見ているのはテレビ夕日で放送されているダートプライドの特番である。番組は出走ウマ娘の紹介から始まり、今は地方の各レース場に中継を繋げている。

 今日は全ての地方レース場でダートプライドのパブリックビューイングを行うと同時にレースも開催し、其々新設の地方重賞をするなどして地方レースの祭典JBC以上のビッグイベントにしようと地方一丸となって取り組んでいた。

 よりイベントを盛り上げるために各地方レース場に関りが有るウマ娘達をプレゼンターとして呼んでいた。

 

 川崎レース場には南関東三冠ウマ娘ロジータ。

 

 浦和レース場には浦和から中央に移籍し、GIマイルCSと安田記念を勝利したマイルの雷帝トロットサンダー。

 

 船橋レース場にはアブクマポーロ

 

 盛岡レース場にはトウケイニセイとメイセイオペラ

 

 笠松レース場にはオグリキャップ

 

 園田レース場にはサンバコール

 

 まさに歴代地方ウマ娘レジェンド勢ぞろいといったところだ。

 

 メイセイオペラ達の広告塔としての役割は大きく、その姿を一目見ようと一度離れた地方ファンを呼び寄せた。

 だが世間的に言えば知る人とぞ知る程度だ。今日多くの客を集めたのは偏に各レース場のスタッフが趣向を凝らし、客達を楽しませようとした成果だ。改めて各地方レース場のスタッフに感謝の念を抱く。

 画面には地方のレジェンドウマ娘達がヒガシノコウテイとセイシンフブキへのメッセージが流れる。

 

───応援している。頑張れ。期待している。地方の強さを見せてくれ

 

 メッセージを聞くたびに心臓が高鳴り血潮が湧き上がる。多くの人が自分に期待し夢を見ている。その大きな想いは時には重圧になることもある。だが全て力に変える。

 一つ一つのエールが内に秘めていた火の火種となり、火力を増す。そして最後にメイセイオペラがエールを送る。

 

『ヒガシノコウテイ選手、貴女は地方のウマ娘とそのファンにとって夢です。勝って夢を見させてください。そして地方は素晴らしい、凄いんだと胸を張らせてください。絶対に勝って!』

 

 ヒガシノコウテイの心臓が高鳴る。

 

 絶対に勝て。

 

 メイセイオペラはこのような強い言葉を吐く人では無い、強い言葉を吐くことで相手に過度なプレッシャーを与えてしまうことを恐れる。だが敢えて強い言葉を吐いた。

 それは信頼、ヒガシノコウテイなら強い言葉を吐いても潰されず、想いを力に変えてくれる。何より夢を見させてくれると願いを託した。

 メイセイオペラは姉のような存在であると同時に憧れの存在であった。

 いつか追いつきたいと思いながらも弱音を吐き情けないところを見せてきた。きっと頼りない妹のような存在と思っていただろう。だがエールを聞いて初めて隣に立てたような気がした。内に秘めていた火は炎となった。

 

「絶対に勝つ!地方に育てられたこの体は!この技は!この心は誰にも負けない!私が世界最強だ!」

 

 内気で奥ゆかしい少女が初めて口に出した強い言葉、その強い言葉は控室に反響し続けた。

 

───

 

 セイシンフブキは携帯電話の画面から流れるレース映像を食い入るように見つめる。

 画面では先頭を走る青鹿のウマ娘を2番手の葦毛のウマ娘が猛追する。実況は2人にフォーカスを当て、画面の映像も2人に寄る。その映像を見ながら画面の端に映る他のウマ娘の様子をつぶさに観察する。

 勝敗について興味はない、ならば何の興味を持って見ているかというと大井レース場のダートコンディションだった。

 その日のダートコンディションは本バ場入場である程度確認できるが、ゲート位置の関係でそれはスタンド前のダートしか確認できない。

 ダートプライドは大井レース場を1周しなければならず、各コーナーや向こう正面のダートコンディションを確認することはできない。ならば他人に確認してもらえばいい。

 今日の1レースからの映像を見て他のウマ娘達のコーナーの走り方や直線の伸びを見ればある程度は把握することが出来る。これらの作業は他のウマ娘も行うがその精度は群を抜いていた。

 

 セイシンフブキはダートの走り方を熟知し、世界で最も日本のダートを極めていると言っても過言では無い。

 自分が極めているということは他人がどれだけ極めていないも分かる事である。

 他のウマ娘が走る映像を見て、その走り方とコーナーのスムーズさや直線の伸びを見ればおおよそのダートコンディションを把握できる。

 この芸当はダートについての成熟度と、砂質や天候についての圧倒的な知識量を要しなければできない。文字通りダートプロフェッショナルのみにできる芸当である。

 目を瞑りシミュレーションを開始する。傾斜、雨風による砂の流動、砂の渇き具合、全ての情報を吟味して最も走りやすいコース、ゴールデンレーンを割り出し始める。

 現時点ではバ場コンディションは良だが、一昨日の雨の影響で第1レースの時点では稍重だった。

 ダートの渇き具合を判別するには深い知識が必要である。外国勢はもちろん、アグネスデジタルもゴールデンレーンは見つけられないだろう。見つけられるのは自分とヒガシノコウテイぐらいだ。条件はこちらが有利だ。

 

「師匠、時間……」

 

 アジュディミツオーは言葉を詰まらす。パドックの時間だと呼ぼうと扉を開けた瞬間、汗が吹き出し寒気が襲う。息苦しい、この場の酸素濃度が急激に下がった錯覚に陥る。

 パドック前に呼び出すのはアジュディミツオーの役目でありレース前に何度もしてきた。

 その度に控室でひりつくような空気を発し、緊張を強いらせられていた。だが今までとは比べ物にならないほどの圧力だった。

 今すぐにでもこの場から立ち去りたい。脳は撤退の命令を下すが体が命令に逆らい踏みとどまらせる。アブクマポーロから受け取った伝言も有る。自分自身も伝えたい言葉も有る。それを伝えないままパドックに行かせるわけにはいかない。

 だが言葉は全く出てこない。その間にセイシンフブキは出口に向かって歩き始め、アジュディミツオーの横を通り過ぎようとする。

 

「師匠!頑張ってください!」

 

 アジュディミツオーは振り絞るように声を出す。アブクマポーロの伝言、レース場の客入り、観客の盛り上がり、激励の言葉、託す願い、伝えたいことは山ほど有ったが、考えが全く纏まらず絞り出したのがこの言葉だった。簡潔な言葉だが、山ほどあった伝えたい想いを全て詰め込んでいた。

 セイシンフブキは立ち止まると拳をアジュディミツオーの心臓に当てる。

 その瞬間息苦しさや圧迫感は嘘のように消え失せ、いつもとは別人のように穏やかな顔をしていた。その顔を見て自身が込めた想いを全て汲み取ってくれたと感じていた。そして穏やかな顔から何か覚悟を決めたような神妙な顔を浮かべながら語り掛ける。

 

「アタシが目指す道の先は世間がダートの凄さを認め、芝と同等かそれ以上の立場に立つことだ。その道は果てしなく険しく、様々な障害が立ちふさがるだろう。だがそれは全てアタシが排除する。だからお前は黙ってついてこい」

「はい!」

 

 セイシンフブキはその返事に僅かに口角が上がる。だがそれは一瞬で、すぐさま殺気のようにひりつくような空気を纏い部屋を後にした。

───

 

「マグレガー、次は階級を上げて試合するんだって」

「相手は?」

「ジョンソン、あいつの試合は面白いし楽しみだな」

 

 ストリートクライとキャサリロは肩を寄せ合いながら携帯電話の画面に映る動画を見ていた。

 2人は世紀の一戦に臨む選手とは思えないほど緊張感の欠片も無かった。まるで学校帰りの暇つぶしに家に遊びに行った友人同士のようで、控室に居ながら気の置けない友人の部屋に居るようにリラックスしていた。

 他のアスリートが見れば真剣みが足りないと苦言を呈するかもしれないが、ストリートクライにとって不安や緊張という要素をすべてを取り除いたこの空間は心地よく、レースでベストなパフォーマンスが出せる状態だった。そしてこの空気を作り出せるのは親友のキャサリロただ1人である。

 

「そういえば今年の予定だけど、AコースとBコースとCコースが有るけど、どれがいい?」

 

 キャサリロはついでと言わんばかりに書かれたファイルを渡し、ストリートクライはパラパラとめくり、1枚のファイルを手渡した。

 

「Cコースか、生き急ぎすぎだろ」

 

 キャサリロは思わず苦笑する。前々日会見で全てのカテゴリーの主要GIへの勝利宣言、それを達成する為のローテーションが書かれていた。3つのローテーションの中でCコースは最も過酷な日程だった。

 世界四大4大タイトルに加えて天皇賞春や香港スプリントなど芝長距離、マイル、スプリント、ダートマイル、ダートスプリントのカテゴリーのGIも走り、各国を転戦する厳しいローテーションだ。

 レース数はGI12戦、その数は鋼のウマ娘と称され年間GI6勝の記録を作ったジャイアンツコーズウェイが走ったレース数より多い。

 まさに殺人ローテーション、流石に選ばないだろうと冗談半分に作ったがまさか選ぶとは思わなかった。

 

「早く、私達が凄いってことを証明したい……」

「案外欲張りだな。まあ、あくまでも理想のローテだからな、少しでも調子が悪くなったら止めるからな」

「大丈夫、私達なら耐えられる……」

 

 ストリートクライは自信満々に言い放つ。ジュニア級の時に怪我をして、決して怪我に強いウマ娘ではない。

 だがキャサリロがスタッフに加入してからは全く怪我も無く、コンスタントにレースに出走している。それは体質が強くなったことも有るがキャサリロの存在が大きかった。

 怪我をしたのはキャサリロがゴドルフィンを去ってからのことだった。病は気からという言葉が有るように、キャサリロと一緒になり上がるという目標が出来たことで気力が充実し、身体が強くなっていた。

 

「うん?ここらへんちょっと乱れてるな。ちょっと頭貸して、あとこれ持って」

 

 キャサリロは何かに気づくとバッグから櫛と手鏡を取り出すと、手鏡をストリートクライに渡し、後ろに立つと左右非対称に伸びた左側の横髪を櫛で整える。

 一見無造作に見えるが本人なりのこだわりが有るようだが、本人では上手く整えられないのでいつも代わりに整えていた。

 

「折角の晴れ舞台だ、身だしなみは整えないとな」

「うん……」

「しかし、自分で整えらないなら切っちゃってよ。左右非対称って何かゾワゾワするんだよね」

「それはキティのお願いでもダメ……」

「冗談だよ。ここが唯一のオシャレポイントだもんな。あとこの間さ……」

 

 櫛で髪を整えながら一方的に喋り続け、ストリートクライは黙って聞きながら身をゆだねる。2人の間には穏やかな空気が流れていた。

 

「ストリートクライ選手、パドックの時間です」

「はいはい~、ちょっと待ってください~」

 

 キャサリロは係員の声に返事しながら最後の仕上げとばかりに急いで櫛で髪を整える。

 

「これでどう?」

「うん、問題無い……ありがとう」

「よし、行ってこい」

 

 キャサリロは激励とばかりにストリートクライの背を叩き送り出し、悠然と歩きながら控室を後にする。

 全てのカテゴリーの主要GIに勝利すると言い放った日からキャサリロは信じ続けた。

 クライならやれる。私達に不可能は無い。少しでも疑えば道が途絶えると強迫観念を抱え自己暗示をかけるように信じ続けた。

 そしてその自信に満ち溢れた後ろ姿を見た瞬間、今まで感じてきた強迫観念が嘘のように消え、全てのレースに勝てると確信めいた予感が過っていた。

 

───

 サキーは控室にある椅子に座らず、目を閉じながら胡坐で床に座りイメージトレーニングをしていた。

 イメージトレーニングには様々な種類が有る。成功した場面をイメージし疑似的な成功体験をすることで自信をつけ気分の高揚を促す方法、実際に起りうる出来事をイメージし想定して本番に備える方法などがある。

 大まかに区分すれば前者はアグネスデジタルがおこなったもので、サキーが行っているものは後者である。

 後者のイメージトレーニングは様々情報を加味し、状況に応じて最適な行動を選択し勝利への道筋を模索する方法であるが、そのイメージトレーニングは違っていた。

 イメージするのはどのようにして行動して勝利するのではなく、どのように行動して全ての出走ウマ娘が全力を出させる事だった。

 自分が持っている実力を全て出すのもまた実力である。ペース判断を間違った、コース取りを間違った、集団から抜け出せなかった。明らかに競争能力が高かったウマ娘がそういった要因で負けたレースは星の数ほどある。

 競争能力だけでは無く、ペースを判断する思考力、そしてアクシデントに巻き込まれない運の強さ、そういった全ての要素を競い合うのがレースである。たらればは存在せず、着順掲示板に表示された結果だけが真実である。

 だが全力を出せなければ悔いが残る。それは当事者や関係者にとって不幸な出来事であり、全てのウマ娘の幸福を望むサキーにとって好ましいことではなかった。

 只でさえレースに勝てば敗者の幸福を奪うことになる。ならば少しでも不幸になる要素を取り除くことは当然だと思っていた。

 

 サキーは神ではない、当人達のレース前の準備不足による後悔等を拭い去ることはできない。出来ることはレースにおいて相手の実力を出させないような仕掛けや策を見破り、他のウマ娘達が全力を出させない状態を防ぐことだ。

 相手の実力を出させないのも実力である。その考えを否定するつもりはないがポリシーがそれを許容しない。

 デジタルのように勝利以外を求めているわけではない。他のウマ娘と同じように勝利を最優先事項にしている。だが同等に勝利を得る過程を重視している。

 業界の象徴となり多くの人の目をレースに向けさせ、多くのウマ娘や関係者を幸福にさせる為にレースに勝つだけでは足りない、人の心を揺さぶる名勝負を演じなければならない。

 名勝負とは全てのウマ娘が全力を出し切っての僅差の勝負だ。そのためには相手に全力を出し尽くしてもらわなければならない。

 相手の為と自分の為に形成されたポリシーは強固のものとなる。そのポリシーによってレースに負ければ元も子もなく、手抜きなど舐めプなど罵られるだろう。だがこのポリシーを変えるつもりは欠片もなかった。

 故に相手の研究を怠らない、相手の実力を出させない為では無く、相手に全力を出させ、相手の後悔を脱ぐいさり自分の願望を満たすために。

 目を開けると同時に勢いよく立ち上がる。考える限りのシミュレーションを全てを済ませた。あとはそれぞれが全力を出してくれることを願うのみだ。

 

「サキー選手、パドックの時間です」

 

 係員の呼びかけに応じ部屋を出てパドックに向かった。

 

───

 

『ペイトリオッツがスーパーボウルを制しました!4Qで21点差をひっくり返しました!この勝利は歴史に語り継がれるでしょう!』

 

 携帯タブレットの画面には逆転劇を演じたエースQBのフレイディが喜びを爆発させる姿が映る。

 先日に行われたアメリカスポーツにおいて最大のイベントであるスーパーボウルが行われた。その試合でティズナウと親交があるフレイディが見事に勝利した。

 勝利したことも素晴らしいが特筆すべきは試合内容である。

 相手の守備や試合中にレギュラー選手が怪我で交代するなど劣勢を強いられていた。多くの選手は諦めかけていたがフレイディは決して諦めなかった。強いリーダーシップでチームメイトを鼓舞し、勝利に導いていた。

 以前に出会った時に自分のレースを見て奮起したと言ってくれた。そして自分もまたフレイディの活躍を見てエネルギーを貰う。素晴らしい好循環である。

 その後もアメリカのスポーツ選手が活躍した映像を見て、モチベーションを上げ続ける。これがレース前の過ごし方である。

 ティズナウはレース前のイメージトレーニングは一切行わない。相手がどう動き何を仕掛けてこようが自分のレースに徹すれば、勝利は揺るがないと確信しているからである。

 成功した場面をイメージも一切行わない。このレースに勝つことは確定事項であり、アメリカのウマ娘以外に負けることなど太陽が西から東に登ることのようにあり得ないと確信しているからである。

 圧倒的な自己肯定感と自信、これがティズナウを支える強さで有る。

 

「ティズナウ選手、パドックの時間です」

「OK、すぐ行く」

 

 ティズナウは係員に促されて控室を出てパドックに向かった。

 



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勇者と隠しダンジョン#15

『只今より、第11レース、ダートプライドのパドックを開始します』

 

 アナウンスの声に、パドック広場に集まっていたファン達から自然に歓声があがる。そのファン達から少し離れた場所からプレアデスのトレーナー達はデジタルの登場を待っていた。

 

「こんな離れた場所からデジタルを見るのは初めてやな」

 

 トレーナーは感慨深げにつぶやく。今まではトレーナーとして間近で見ていたが、今はファンとして離れた場所で見ている。予定としては最前列でパドックを見るつもりでレース前の30分前ぐらいに行けばスペースを確保できるだろうと予想していたが、来た時は既に場所は埋まっていた。

 場所を確保していたダンスパートナー達に場所を分けてもらおうとしたが、分け与えるスペースがないということで、諦めて広場から離れた場所に陣取っていた。

 

「本日の6番人気、セイシンフブキ選手です」

 

 ランウェイからセイシンフブキが現れる。勝負服は上には白色の空手道着に下は緑のハーフパンツ、道着には桜吹雪がちりばめられている。姿を現した瞬間一斉に歓声があがる。

 

───待ってたぞセイシンフブキ!お前がダートのトップだ!ダートの底力を見せてくれ!

 

 セイシンフブキは次々にかけられる声援に特に応えることなく、悠然とランウェイを歩く。トレーナーはその姿を見た瞬間目を見開く。その気迫は遠く離れても伝わってきていた。

 そして南部杯と見間違えるように肉体改造されている。以前は線の細さが目立ったがその面影は欠片もない。何よりその体が光っていた。

 トレーナーは今まで何百、何万のウマ娘のパドックを見ており、その経験からごく稀にウマ娘が光って見えることがあり、そのウマ娘はほぼレースに勝利している。最近でいえば天皇賞秋の時のテイエムオペラオーとメイショウドトウ、ドバイワールドカップの時のサキーだ。オペラオーとドトウには勝てたが正攻法では分が悪かった。そしてサキーには負けた。

 普通のウマ娘にとって相手が絶好調なことを歓迎することはないだろう。だがデジタルにとっては諸手を挙げて喜ぶ出来事である。光るほど絶好調ということはより魅力的で煌めいているということだ。もし伝えれば満面の笑みを浮かべ喜ぶだろう。

 

「続いて本日の5番人気、ヒガシノコウテイ選手です」

 

 入れ替わるようにしてヒガシノコウテイが現れる。勝負服は赤色を基調にしたセーラー服に左右に濃紺の襷、青色に白の横一線が入ったマントはボタンで左肩に縫い付けられていおり、マントには何か文字が書かれていた。

 

───頼んだぞ地方総大将!俺達に夢を見せてくれ!頑張ってください!

 

 ヒガシノコウテイは声援が聞こえてきた方向に丁寧に応えていく。その声援の量はセイシンフブキと勝るとも劣らないほどの大歓声だった。

 セイシンフブキはピリつくような雰囲気を出していたが、ヒガシノコウテイはその空気を和らげるような柔らかな空気を醸し出していた。

 南部杯は何か追い詰められている感じが有ったが、今はごく自然体という印象を抱く。そしてその体は光輝いていた。

 

「続いて本日の4番人気、アグネスデジタル選手です」

 

 続いてデジタルが現れるが、その瞬間声援は騒めきに変わる。顔は半笑いで目線は定まらず、歩く姿はどこかフラフラしている。これがダートプライドに出走するウマ娘のパドックなのか。その姿は人々の不安をかきたてる

 

───デジ子頑張れ!レースを楽しんでこい!

 

 騒めきを掻き消すようにダンスパートナーやチームプレアデスのメンバーが懸命に声援を送るが、デジタルは一切応えることなくフラフラと歩いている。

 

「これはちょっとマズいんじゃないのか」

「デジタルさんもしかして調子悪いんじゃ」

「あんなデジタル見たことない」

 

 オペラオーとドトウとプレストンから不安の声があがる。同様にデジタルの両親達もお互いの手を握り不安そうに見つめている。トレーナーは皆の不安を振り払うようにはっきりとした口調で言い切る。

 

「問題ない、デジタルは絶好調や」

 

 締まりのない顔に覚束ない足取り、確かにトレーナーにも初めて見る姿であり不安を掻き立てられる。だがデジタルの姿は光っていた。そして光っているという事実からデジタルの変わりようも推測できる。

 パドックとはレース前にファン達に調子を見せるお披露目のようなものだ。ウマ娘達は調子のよさをアピールしよう、恥ずかしくない姿を見せようと体面を無意識に意識する。

 だがデジタルの頭にはそんな意識は欠片もない。考えていることは出走するウマ娘達のことだ。先程出た2人の姿を思い出し、これから出てくる3人の姿を想像することに全神経を傾けており、他のことへの意識が向いていないのだろう。それはデジタルが全てをウマ娘を感じることに意識を向けている証である。

 もし自分がトレーナーならレース前に説教しているだろう。ファンや観客にこんな醜態を晒すことは許されない。だが今日のレースはデジタルのものだ。どんな姿でいてもデジタルの自由だ。

 トレーナーの言葉に皆の不安が薄れていく。その言葉には有無を言わさない説得力があった。

 

「続いて本日の3番人気、ストリートクライ選手です」

 

 ストリートクライが現れるが周囲の騒めきは一向に収まらない、それはストリートクライの勝負服に原因があった。

 左半身はいつも来ている青の神官風の勝負服に手甲を装着していた。だが右半身は薄紫のワイシャツに革製のチョッキ、下はショートパンツサイズまで切り落としたGパンにガンベルトとウエスタンブーツを履いていた。

 ファッション性もなく関連性が全く見えず、まるで違う服を強引にパッチワークしたような異様さだった。勝負服の中には時には奇妙なものもあるが、ストリートクライの勝負服は群を抜いて奇妙であり、誰の美的感覚から見ても歪なものだった。

 周囲の全ての人間には意味が理解できないなか、キャサリロだけが勝負服の意味を理解していた。

 右半身のカウガール風の勝負服、これはキャサリロがイメージしデザインした勝負服だった。だがレースに勝てずゴドルフィンから去り着ることはなかった。その勝負服が今蘇りストリートクライが着ている。

 勝負服を着てレースを走るという過去に抱いた夢、その夢が世界最強を決める舞台で叶っている。キャサリロが思わず零れた涙を拭う。

 トレーナーは勝負服に戸惑いながらもストリートクライの姿を観察する。以前の淡泊さはまるでなくエネルギーが漲り、世界最強の一角に相応しい姿だった。その姿は他のウマ娘同様光り輝いていた。

 

「続いて本日の2番人気、サキー選手です」

 

 サキーが登場すると騒めきが治まりアラビア語で声援が送られる。その声量は地元のヒガシノコウテイやセイシンフブキと同等であり、外国のファンと考えればその人気の高さがうかがえる。

 勝負服だが上は臍が見えるタイプの白のインナーに、アラビア風の模様が描かれた青の上着を羽織り、下はジーンズのハーフパンツに、腰には青の腰布が巻かれている。そして手足には縄のような紐がバンテージのように巻かれている。

 姿を現すだけで会場の空気を変える華やかさと陽性、動作の全てが目を惹かせる。その太陽のような存在感はドバイで見た時と全く変わらず、同様にその体は光り輝いていた。

 

「最後は本日の1番人気、ティズナウ選手です」

 

 最後にティズナウが現れる。

 勝負服はピンクを基調にした軍服で青色の水玉模様に両肩には星のマークが描かれている。姿を現した瞬間、この日1番の歓声があがる。外国のウマ娘でありながらこの声援、それはファンの数と熱量の多さの証でもある。

 ティズナウは声援に応えながら胸を張ってランウェイを歩く。その姿はエネルギーに溢れ、見ているだけでエネルギーが分け与えられて元気がもらえるようだ。そして他のウマ娘と同様に光り輝いていた。

 パドックが終わると出走ウマ娘は地下バ道に向かって行き、観客達もスタンドに向かって行き、トレーナー達もチームプレアデスのメンバーと合流し関係者席に向かった。

 

───

 

「まだ始まらないのかい」

 

 オペラオーは関係者席からコースを眺めながら指でトントンと腕を叩き、苛立ちを露わにする。

 パドックが終わってから30分経過したが、一向に本バ場入場が始まる気配が無かった。中央のレースならパドック終了からすぐに本バ場入場が始まる。

 

「知らないんか?ダートプライドはドバイ式やから時間かかるぞ」

「ドバイ式?」

「レース前に1人ずつ入場曲をかけながら本バ場入場して、ド派手に演出するんや」

「それは随分エンターテイメントじゃないか!ボクも毎回その方式で入場したかったよ!」

 

 オペラオーはトレーナーの答えに愉快そうに笑いながら、自分の入場演出をドトウ達に話しかける。

 ダートプライドの運営はよりエンターテイメント性を重視して、ドバイワールドカップの演出を模倣した。正直ドバイのように運営資金が有るわけでは無いのでロックバンドを呼ぶなどはできないだろう。

 するとレース場が暗転し、ある個所にスポットライトが当ると同時にオーロラビジョンに映像が映る。スポットライトに当るその人物はイナリワンだった。

 イナリワンもダートプライドを盛り上げるプレゼンターとして大井レース場に来ていた。

 

「じいちゃん、ばあちゃん、にいちゃん、ねえちゃん、今晩は!アタシはイナリワン!喧嘩と祭りは江戸の華!今日は祭りの匂いに釣られて駆けつけちまった。駆けつけついでにダートプライドの前説をやらせてもらうぜ!」

 

 イナリワンの小気味良い言葉を紡ぐ、レースを何回か見た者はレース前に前説という初めての経験に留まる一方、初めて来た観客達はイナリワンの陽気な雰囲気に当てられ拍手を送る。

 

「皆知ってるかもしれねえが、アタシみたいに祭りの空気に釣られた江戸っ子のために説明してやんぜ。きっかけはアグネスデジタル!サキーにリベンジしてぇ!でも一緒に走れるレースがねえ!なら作っちまえと創設されたのがダートプライドだ!」

 

 BGMに三味線が流れて徐々にテンポが速くなり観客達の高揚感を煽る。

 

「本当は各ウマ娘を紹介してえところだが、お偉いさんがささっと終わらせって急かしやがる!こんちきしょう!」

 

 イナリワンの内輪ネタにレース場から笑いがおこり、『レースを見たいから手短に』と囃してたるような声援が投げかけられる。

 

「分かった分かった。ささっと説明するぜ!じいちゃん、ばあちゃん、にいちゃん、ねえちゃん。喧嘩、かけっこ、何でもいい。一度は何かのてっぺんを目指して頑張ったよな。いっぱい汗を流して、いっぱい努力して、いっぱい涙を流して!」

 

 その言葉に観客達は自分の過去に想いを馳せる。様々なジャンルで一度は頂点を目指し挫折した記憶を懐かしみ、ある者は苦々しい記憶を思い出し表情が渋る。

 

「アタシもレースでてっぺん取りてえって頑張ったんだぜ。それでもてっぺんには届かなかった。でもレースに走る6人はべらぼおな障害に挫けず頑張り続けた!汗と涙の努力の頂点だ!そしててっぺん立ちてえと進むたびに色々と捨てて、人は離れていく、まさに孤独な挑戦だ。そんな奴らが世界一を決める為に戦うんだぜ?ワクワクしねえか?ウキウキしねえか!その気持ちをそのまま出しちまえ!何?恥ずかしい?ここは祭りの会場だぜ!祭りで騒がないなんて嘘ってもんだぜ、べらんめえ!それにここに来た奴らは黙っていられるほど大人じゃねだろう !」

 

 イナリワンの言葉にレース場の沸点は一気に上がる。それぞれの分野でどう足掻いても勝てないと思わせる者に出会い、自身の才能と実力の無さを痛感し頂点への道を諦める。

 自分にできないことを出来る。それをできるようになるために多くの努力を積んだ。道を諦めた者はその者にある種の尊敬の念を抱くと同時に憧れになる。

 その憧れも別の憧れによって頂点への道を諦める。それを繰り返して残ってきたトップオブトップがこのレース場に集まり頂点を決める。

 観客達はダートプライドに走る6人をそれぞれの憧れの頂点に置き換え、その憧れの戦いに心が躍っていた。

 

「それじゃあ、目一杯叫んで選手を迎えてやんな、選手入場でえい!まずは南関東の求道者!セイシンフブキ!」

 

 イナリワンの呼びかけとともに曲が流れ始め、地下バ道からセイシンフブキが現れる。

 手には羽田盃、東京王冠賞、東京ダービー、ジャパンダートダービー、かしわ記念のレイを持つ。普段とは全く異なる入場、数メートル先にはカメラマンが撮影しながら歩く。

 だが構わず歩き続ける。地下バ道を抜けると眩いばかりの照明と大歓声が出向かる。このナイターレース独特の雰囲気、地方独特の雰囲気に懐かしさと心地よさを覚えていた。

 

『日本のレースは欧州の模倣から始まりました。桜花賞、オークス等のティアラ路線、皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック路線を整備し、天皇賞春、天皇賞秋、有マ記念を開催しシニア路線を整備しました。芝を走る者がスポットライトを浴びるなか、ダートは日陰を歩み続けました。かつての中央にはダートのクラシック路線も無く、シニア路線にはGIすらありませんでした。ウマ娘達はダートを避け芝に集まるなか、皆が囁きます。ダートは芝の2軍だと』

 

 セイシンフブキはゆっくり歩きダートコンディションを確かめながら、場内実況の口上に耳を傾ける。

 砂塵を巻き上げ砂まみれになりながら走るウマ娘の姿に初めて見た瞬間から虜になっていた。

 だがダートが置かれている環境に愕然とした。世間はダートに全く興味を持っていなかった。メディアも周りの人間も話すのは芝の話。まるでダートは無価値だと言われているようで嘆くと同時に怒りを覚えていた。

 

『それに待ったをかけたのがセイシンフブキでした。ダートは芝より劣っていない。ダートは芝より凄い。しかし世間は声高に叫び続けたセイシンフブキに冷ややかでした。そして去年の2月、アグネスデジタルとの相まみえました』

 

 ダートの地位を高め世間の目を向かせてやるという野心と反骨心を胸に日々を過ごした。だがいくら勝利を重ねてもダートは芝の2軍という論調は変るどころかオールラウンダーの存在で拍車がかかる。

 近年ではダートGIが増えたことで、芝で活躍できなくなったものが活躍の場を求めてダートに参戦してきた。多くの芝ウマ娘は敗れ去ったが一部のウマ娘は勝利していく。

 それを見て周囲はこぞって言った。芝で成績を残せない者がダートでは勝てる。ダートはレベルが低く芝の2軍であると。

 そんな矢先フェブラリーステークスでアグネスデジタルと走る機会を得た。芝でもトップレベルのアグネスデジタルに勝てばダートは2軍と言う論調を止められる。

 

『結果は無残に返り討ち。ますます拍車がかかるダートは芝の2軍扱い。それでも屈辱に耐え抜き先にある道を信じ歩み続けた!』

 

 そして敗れた。これでダートが芝に劣っているとますます言われる。失意のどん底のなかに出会ったのがアジュディミツオーだった。セイシンフブキはアジュディミツオーが居る関係者席に視線を向ける。

 アジュディミツオーはレースを見てダートの魅力を知りダートは凄いと言った。その一言が野心と反骨心に火を灯した。トレーニングを重ね、袂をかかったアブクマポーロと和解しダートの頂を目指し続けた。

 

「愚直に道を究め続ける姿に人々は少しずつ注目し声援を送りました。そんな矢先でのダートプライド開催。ティズナウ、ストリートクライ、サキー、ジャパンカップでも集まらないビッグネームが集まりました」

 

 前走の南部杯ではアグネスデジタルに先着し、借りを返した。世間は称賛の声をかけ少しずつダートに目を向けるようになった。そしてアグネスデジタルが企画したダートプライド、世界的なビッグネームが集まり今まで以上に注目されていく。

 何が何でも勝たなければならない。その為に地方の為ならダートより芝を走る事を選ぶと言った、価値観が相容れないヒガシノコウテイに土下座して勝つ術を学んだ。

 

『そして今この瞬間日本だけでは無く世界中が見ています。向かい風は今追い風に変っている!スポットライトを浴びているのは芝のWDTターフではない!砂のダートプライドだ!』

 

 スタンドを改めて見渡すと今まで以上に多くの客が入っていた。その中の何割かはダートファンだろう。

 アグネスデジタルに負けた自分に落胆した者も多いだろう。それでもダートに対する情熱を感じ取り、声援を送り続けた者が居てくれた。

 安心しろ、このレースに勝って胸張ってダートファンだと言わせてやる。ダートレースに勝つ者はダートに対して最も情熱を注いでいる者だ。ならば勝つのは自分以外あり得ない!

 

『勝利の先にある道を掴み取れ!史上初の無敗の南関4冠ウマ娘!セイシンフブキ出陣!』

 

 セイシンフブキはレイを重ねるようにコースに置くとダートに耳を当てながら手で砂を叩き、次に砂を手で掬うと鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。その砂を口に入れて味を確かめ、手に砂を吐き出しそれを絵の具のようにして頬に1本の横線を描いた。

 その光景を見てスタンドの一部が湧く、5感でその日のダートコンディションを確かめる。南部杯から始めた動作だった。

 セイシンフブキは自分が来た方向を見つめる。

 

『続いて、ヒガシノコウテイ選手の本バ場入場です』

 

 アナウンサーの掛け声とともに入場曲が変わり、オーロラビジョンにはヒガシノコウテイの姿が映し出される。

 

『かつてオグリキャップという眩いばかりの星がありました。彼女の走りは世間を沸かすと同時にロマンと幻想を与えました。中央の2軍と呼ばれる場所から這い上がり、強者を倒すというロマン、そして地方にはまだ見ぬ強豪がいるかもしれないという幻想を作り上げました』

 

 オグリキャップ、かつて地方の笠松ウマ娘協会から中央に殴り込み、数多くの名選手と激闘を繰り広げ、トゥインクルレースブームを引き起こした稀代のアイドルウマ娘、彼女はブームを引き起こすともに地方に光を与えた。

 だがその光は一瞬のものだった。第2のオグリキャップは一向に現れず多くの人は地方から足を遠ざける。だがそれでもオグリキャップが与えたロマンと幻想を求め僅かな客が留まった。

 

『しかし交流重賞元年、中央に蹂躙されていく地方ウマ娘達、そのなかには当時地方最強と言われた東北の怪物トウケイニセイもいました。ロマンは消え失せ幻想は砕け散り、多くの地方ファンは嘆き悲しみました』

 

 脳裏にあの日の光景が浮かび上がる。鈍色の空、嘆くでもなく悲しむでもなく、ただ茫然と虚空を見る観客達、トウケイニセイが中央のウマ娘に勝ち続ける。永遠に続くと思っていた勧善懲悪の夢物語は終わり、非情なまでの現実を知った。

 

『夢から覚めた地方ファン達は次々と地方から離れていきます。それに連動していくように遠のく客足、閉鎖していく地方レース場』

 

 その日以降、地方の人気は加速度的に落ち次々とレース場が閉鎖していった。

 1一番愛着を持っているのは岩手ウマ娘協会だったが、他の地方も同様に愛着を持っていた。その仲間たちが次々と居なくなる。もしかしたら岩手ウマ娘協会もなくなってしまうかもしれない。

 地方のウマ娘が中央に蹂躙され、その姿を見て悲しむファン、人気低迷で閉鎖していくレース場。その恐怖に体を震わせる日々が続いていた。

 

『それを食い止めたのがメイセイオペラでした。同じ地方のアブクマポーロとの名勝負、史上初地方所属での中央GI制覇!人々は再びロマンと幻想を抱きました』

 

 幼馴染で姉のような存在であるメイセイオペラ、彼女が恐怖を取り除いてくれた。オグリキャップを彷彿とさせる活躍で地方に関心を向け客の足を運ばせた。

 だがそれはオグリキャップブームに比べれば微々たるものだった。依然として切迫した状況が続いており、少しでも抗おうと地方のウマ娘と関係者が尽力している。

 

『そしてヒガシノコウテイが道を継ぐように中央のウマ娘を倒してきました!そして前走の南部杯では一昨年破れたアグネスデジタルを倒し、岩手の至宝を奪還!』

 

 地方を守りたい、地方の愛する者を喜ばせたい、メイセイオペラのようになりたい。時が過ぎ成長していく過程でその気持ちは膨れ上がり、メイセイオペラと同じように岩手ウマ娘協会の門を叩いた。

 岩手で様々な経験を重ね強くなった。そして前走での南部杯ではアグネスデジタルを倒して一昨年奪われた岩手の至宝を奪還した。あの日の光景は一生忘れない。

 

『機は熟した!ダート世界一になって地方のファンにオグリキャップ以上のロマンと幻想を見せてくれ!』

 

 肩に縫い付けられたマントに視線を向ける。そこには今ある地方レース場と閉鎖したレース場の名前が書かれていた。

 今は無きレース場で走ったウマ娘と今いる地方ウマ娘の想いを背負い、地方を守る為に走り勝利する。そしてオグリキャップブーム以上のブームを巻き起こす。

 このレースは世界的に注目され、これに勝てば地方の名が世界に知れ渡り、多くのファンが地方に足を運ぶ。願望交じりの楽観的思考だがそうなる未来を信じていた。

 レースに勝利し、地方のロマンと幻想を生み出す。そして次なるロマンと幻想を生み出せる者が現れるまで、生み出し続ける!

 

『ホームでは絶対に負けられない!まごうことなき地方の総大将!東北の皇帝!ヒガシノコウテイ!』

 

 ヒガシノコウテイはセイシンフブキを一瞥し、東京大賞典のレイと南部杯のレイをセイシンフブキが置いたレイに重ねるように置いた。

 

『続いてアグネスデジタル選手の入場です』

 

 ヒガシノコウテイの本バ場入場が終わるとレース場の照明が最低限のものを残して一気に落ちる。レース場全体が騒めきに包まれるなか、オーロラビジョンに映像が映る。

 それはドット絵グラフィックのゲーム画面のようで、見ている者はドラグーンクエスト、通称ドラクエのようだと思っていた。

 画面に居るのはドット絵グラフィックになった勝負服を着たアグネスデジタル、そのデジタルはザッザッザとSEを鳴らしながら暗闇の中を歩き続ける。

 すると画面は暗闇から石畳の部屋に変り、中央には巨大な穴と黒いフードを被ったキャラクターが居た。

 

───この先に行くには200000000ガルド払う必要がある。どうする?

 

 ピピピピというSEが鳴り、フードのキャラクターが喋る。

 

 →はい

 

 いいえ

 

 メニューバーに表示されていた所持金が0になる。

 

──この先に行くには友人や師と別れ、勇者の称号を捨てなければならない。どうする?

 

 →はい

 

 いいえ

 

 メニューバーにあった勇者の称号が消える。

 

──この先に行くにはレイと記憶を差し出さなければならない。どうする?

 

 矢印はアイテムの欄に移動し、マイルCS、南部杯、天皇賞秋、香港カップ、フェブラリーステークスを選択し、SEが鳴るとともに次々とアイテムは消えていく。最後は記憶に矢印が移動しSEが鳴ると記憶も消えた。

 

──条件はクリアした

 

 画面のデジタルは巨大な穴に飛び込む。それと同時にレース場の照明は点灯し曲が流れるともに本バ場入場が始り、両肩には勝ち取ったレイ5枚を携えて入場する。

 

『全ての始まりはこのウマ娘からでした。走れるレースが無ければレースを作ればいい。友やライバルに声をかけ、様々な手段を講じました。その熱意が様々な人を惹きつけダートプライドの開催にこぎつけました。通常では絶対に開催されることが無かったレース、まさに隠しダンジョンです』

 

 サキーに勝ちたい、セイシンフブキに勝ちたい。ヒガシノコウテイに勝ちたい。今考えれば実に不純な動機から始まった。デジタルは過去を思い出し自嘲する。何故そんなことに囚われていたのだろう。

 

『だがアグネスデジタルに待ち受けていたのは困難の連続でした。世間からの批判、地方への移籍、友人やトレーナーとの別れ、称号と思い出の献上、数々の犠牲を払いこの場に立っています。それだけの価値がこの舞台には有る!』

 

 我を通すにあたって様々な障害が待ち受け、払う必要がないとい思っていた犠牲まで払ってしまった。脳裏にチームメイトやトレーナーの姿が浮かび上がる。だが刹那で消え去り、意識を目の前にいるヒガシノコウテイとセイシンフブキに向ける。

 

『勇者の称号をつけたのは中央ウマ娘協会でした。そして中央ではないアグネスデジタルは勇者ではないかもしれません。ですが犠牲を払い前に進み続けるその姿は紛れもない勇者です!真の勇者は所属すら選ばない!勇者アグネスデジタル推参!」

 

 デジタルは2人が置いたレイの上に自分のレイを重ねる。その際に過去のレースの思い出が蘇るがこれも刹那に打ち消す。今考えることはこの5人のウマ娘を感じることのみ、それ以外は邪念である。

 2人を一瞥した後に地下バ道に視線を向け、残り3人の入場を待つ。

 

『続いて、ストリートクライ選手の本バ場入場です』

 

 入場曲はアイリッシュロックのメロディーに変る。かつて故郷でキャサリロと一緒に聞いた思い出の曲を背に入場する。

 

『未完の大器、かつてのストリートクライはそう揶揄されていました。殻を破れば世界の頂点に立てる。関係者は信じ続けましたが何をしても殻を破れませんでした。それを破ったのは無名で未勝利のウマ娘でした』

 

 キャサリロがゴドルフィンを辞めてからの日々は虚無だった。居なくなった悲しみに耐える為走る理由を忘れ、心を鈍化させ日々を過ごし何となくで走っていた。そんな日々はキャサリロが再び現れたことで日々の世界に色がついた。

 

『殻を破ったストリートクライは連勝街道を突き進み、ブリーダーズカップのメインレースに勝利するまでになりました』

 

 キャサリロと一緒になってからの日々は充実し、人生で1番楽しい日々だった。勝つごとに2人で祝杯をあげた。その時に呑んだ人参ジュースの味は今でも思い出せる。

 勝つごとに部屋に積み重なっていくトロフィーとレイ、2人で勝ち取った勲章を見るたびに誇らしくなった。

 

『だがストリートクライは満足しません!過去!現在!未来において最強であることを証明する為に、芝ダート短距離マイル中距離長距離全てのレースに勝つと宣言しました。皆は笑うがストリートクライは欠片も疑っていません。何故なら殻を破ってくれた親友がいるからだ!』

 

 誰から見ても無謀な目標、フィクションの登場人物すら思わない荒唐無稽な妄想である。

 1人ではこんな目標を抱くことすらなかっただろう、だがキャサリロが居れば達成できる。2人は1+1=2ではない。1+1=∞だ!

 

『自分1人では大したことはない、だが2人なら最強だ!どこまで行ける!どこまでも高く飛べる!その名を刻め、ストリートクライとキャサリロという最強のウマ娘達を!伝説の幕開けなるか?大器ストリートクライ!』

 

 ストリートクライはBCマラソンのレイを重ねるとキャサリロがいる関係者席を指さし、その手を自分の心臓に当てる。自分達は2人で1人、常に一心同体であるとキャサリロだけに分かるようにジェスチャーで示した。

 

『続いて、サキー選手の本バ場入場です』

 

 持ち歌をアレンジした入場曲とともに姿を現す。その太陽のような陽性にあてられたのかパドックの時と同様の大歓声はあがり、会場の空気はサキーの物となる。

 勝負服の上にオレンジ色の派手なガウンに太陽のシンボルマーク、これは凱旋門賞やブリーダーズカップクラシックなどのビッグレースの時に着用するガウンである。

 それだけでサキーを知る者達にはこのレースのかける意気込みが伝わってくる。

 

『かつて日本には多くのビッグネームが来日しました。中には芝の頂点と言われる凱旋門賞に勝ったブロワイエもいました。だがサキーは芝の頂点とダートの頂点を取った唯一無二のウマ娘です。その格は史上最高だ!』

 

 コースに入ると歩みを止め振り返りスタンドを見つめる。素晴らしい熱狂だ、会場の規模はドバイよりは小さい、だが感じる熱はドバイの時と同様である。皆がダートプライドに期待し、刺激を求め心に刻まれる何かを求めている。

 

『そのウマ娘が極東のエキビションにやってきました。参加費2億円、総額賞金12億円のウイナーテイクオール方式、盤外での挑発合戦、レイと勝ち鞍を賭ける。次々に起る刺激的な展開に世間の注目と期待は一気に高まります』

 

 アグネスデジタルのアイディア、ティズナウの挑発、ティズナウとストリートクライの間に交わされたレイと勝ち鞍の賭けに便乗したセイシンフブキとヒガシノコウテイ、皆が居なければここまで盛り上がらなかった。今世界中の多くの人がレースに興味を持ち心躍らせている。

 

『負ければ世界4大タイトルの内の3つ、ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞のタイトルを失い、太陽は沈む事になります。だがそれでもサキーは己のレイと勝ち鞍を賭けた!それほどまでにこのレースは価値が有る!』

 

 レースまでの過程、出走メンバー、このレースは間違いなく今後語り継がれることになるだろう。

 業界の全てのウマ娘と関係者の幸せと1人でも多くの人にレースを見てもらうという夢の為には業界のアイコンにならなければならない。そしてこの伝説のレースに勝てばより業界のアイコンとしての高みに登れる。

 

『太陽のエース!日出る国に初上陸だ!』

 

 

 

 レイと丁寧に重ねながら各ウマ娘を見つめる。ストリートクライは今まで最も気力が充実している。

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキも断固たる決意を秘めているのが伝わってくる。

 デジタルは全てを見透かそうとする粘着質な目線を向ける。

 

 ドバイの直線での感覚を思い出す。あの時のデジタルは本当に強く、彼女のお陰で自分の底力をさらに引き出せた。この感じならドバイの時と同様、いやそれ以上に追い詰めてくれるだろう。

 

 サキーはこのレースが伝説になると確信した。

 

『続いて、ティズナウ選手の本バ場入場です』

 

 ティズナウがその姿を現す。両肩にはBCクラシックのレイ、背中には星条旗を背負っていた。その瞬間スタンドの一部から熱狂的な声援とティズナウコールが起こる。

 その姿に漲る圧倒的な自信、彼女はアメリカの英雄であり、このレースに勝利しストリートクライからアメリカの誇りを取り戻し、アメリカの強さを証明してくれると確信していた。

 一方他の客もその姿に感嘆する。自信を服に纏ったような威風堂々とした姿、海外からの名選手を見てきた客もその発せられる圧倒的なエネルギーに心が躍る

 ティズナウは観客席にもっと声をあげろとジェスチャーを見せ煽り、その煽りに応じるようにさらに声援が大きくなる。

 サキーの入場によって流れていた空気をそのカリスマ性で奪い返していた。

 

『レース大国アメリカ、その中でも最強のウマ娘がやってきました。アメリカ最強を決めるBCクラシックを史上初の2連覇のリビングレジェンド!ティズナウです!』

 

 レース場を一瞥する。アメリカ以外のレース場で走ることはないと思っていた。だが偶然の重なりによって日本のレース場に来ている。だが悪くはない。

 その熱気とエネルギーはアメリカで走った時に感じたものと勝るとも劣らない。

 この熱気を浴びて走る日本のウマ娘は強くなるだろう。そして王者の魂を持った者の走りを目を背けず感じ取ればさらに強くなれる。

 

『ゴドルフィンに所属するストリートクライとサキーをどちらのホームでもない日本で叩きのめし!アメリカ出身でありながら他国に逃げた軟弱者に真の王者の力を見せ!レース途上国日本のウマ娘に真の王者の力を知らしめる!』

 

 世界は勘違いをしている。世界のトップはアメリカだ。このレースを見ている世界中の多くの人々はこの揺るがない事実を知ることになる。そういった意味で話題を提供し人を集めた5人には感謝しなければならない。

 

『世界中のウマ娘は刮目せよ!アメリカ出身のマル外は悔い改めよ!戦いのど真ん中はいつだってアメリカだ!トップオブトップ!ティズナウ!』

 

 BCクラシックのレイを重ねることなく、出走ウマ娘達の前に立ち眼前にレイを掲げてアピールする。そのパフォーマンスにレース場から歓声が上がり、最後にレイに口づけを交わして置いた。

 

『間もなく発走いたします、今暫しお待ちください』

 

 全ウマ娘の本バ場入場が終わり、ゲートを運ぶ車がダートコースにスタート地点を設営する。

 その間ウマ娘たちはウォームアップをしながら、スタートに向けて集中力を高めていく。レース場では興奮を抑えきれないといわんばかりにざわめきが起こり続ける。

 トレーナーは心臓に手を当てながら興奮を抑え込む。そうしなければ口から心臓が吐き出そうだ。この一戦でデジタルの人生は大きく左右すると言っても過言ではない。そう考えると平常心でいられなかった。

 そして周りも同様だった。セイシンフブキの弟子であるアジュディミツオーは力いっぱい握りこぶしを作りながら出走ウマ娘達を見つめ、キャサリロは目を瞑りながら手を合わせ、ゴドルフィンのトップである殿下は平静を装っているように見えるが無意識に貧乏ゆすりをしている。

 ここにいない出走ウマ娘の関係者も同様の心境だろう。勝者は全てを得て、敗者は全てを失う。まさにウイナーテイクオール、オールオアナッシングだ。

 気が付けば次々と出走ウマ娘達がゲートに入っていき、最後に大外のセイシンフブキがゲートに入っていく。

 

『金、名誉、夢、欲望、プライド、信念。奪う為、守る為、証明する為に全てを投げ打ちやってきた誇り高き6人による夢の競演ダートプライド、左回り2000メートル、ダートコンディション良、片時たりとも目を離すな!今スタートしました』

 

 



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勇者と隠しダンジョン♯16

『さあ、各ウマ娘スタートを切りました。先頭を行くのはサキーか?いやティズナウです。ティズナウがグングンとポジションを上げてハナを主張します。その1バ身後ろにストリートクライ、サキー、ヒガシノコウテイ、後ろ1バ身にアグネスデジタル、さらに3バ身半後ろにセイシンフブキ、南部杯と同じように後方待機の構えか?』

 

 全てのレースで逃げを打ってきたティズナウがハナを主張し、先行脚質のサキー、ストリートクライ、ヒガシノコウテイが続き、差しも出来るアグネスデジタル、追い込みもできるセイシンフブキが殿という隊列、大方の予想通りの展開になる。

 

「ストリートクライが仕掛けたな」

「はい、ティズナウの出足を挫きました」

 

 関係者席から見ていたプレアデスのトレーナーの言葉にエイシンプレストンが返事する。

 スタート直後ティズナウが一瞬減速し、1ハロン目では好スタートを切ったサキーに先頭を奪われ、2ハロン目で何とか先頭に立った。

 一見スタートミスに見えたがストリートクライが近づいた際にティズナウは減速した。これは恐らくストリートクライが何か仕掛けた。

 この仕掛けを察知できたのはレース場において、寮でデジタルと一緒にレースを見続けたプレストン、出走相手を研究していたプレアデスのトレーナー、そしてゴドルフィンの最高責任者殿下と無二の親友であるキャサリロだけだった。

 元現役選手であるオペラオー達の目すら欺く妨害、だがトレーナー達も詳細は分からなかった。

 オーロラビジョンに映った映像を見る限り明らかな接触があったわけではない。だが減速した。2人はあらゆる可能性を考えるが答えは浮かばなかった。

 

 ストリートクライは自身が崩しと呼ぶ技術でティズナウの態勢を崩し減速させた。だが今回は肩などで体にぶつかるという分かりやすい崩しでは無く、より高度な崩しをしていた。

 接触したのは右の蹴り足、ダートを踏みしめ蹴り上げる瞬間に左足でバランスを崩すように接触して崩した。

 普通ならば蹴り脚に接触した程度ではバランスを崩し減速しない、だが天性の才覚で相手の重心や筋肉の動きや呼吸を見極められるストリートクライだからできる芸当である。

 そしてティズナウの隣の1枠のサキーはスタートセンスも良く、出足のテンも並の逃げウマ娘並に速い、崩されたティズナウでは先頭に立てるわけはなく、結果1ハロン目ではサキーが先頭に立つ。

 一方ティズナウは何としてでも逃げたいウマ娘であり、強引にでも先頭を立とうとし、結果無駄足を使うことになる。全てはストリートクライの作戦通りだった。

 だがこれはリスクがある作戦だった。崩しの技術には弱点が有り、相手の情報が無いと成功率が落ち、失敗してしまうと崩しをした分だけ自身が遅れてしまう。

 チームメイトのサキー、そしてキャサリロが必死に情報を集め、動きをコピーして練習をした日本勢の3人なら、比較的楽に崩せる。

 だがティズナウはキャサリロでも情報を得られず、今までのレースや前々日会見や直前のパドックや本バ場入場の歩き方や動きを見て、情報を得ることしかできず、成功する保証はなかった。

 リスクを背負ってまで崩したが結果は成功し、出足を使わせる。一見すれば充分取り返しのつく僅かなロスに見えるかもしれないが、世界最高峰の戦いではその僅かが勝負を左右する。

 そしてストリートクライにとって僅かなロスの為にリスクを背負わなければならないほどにティズナウは脅威だった。

 

『ティズナウ後続を従えてスタンド前を通過します。その差は2バ身です』

 

 ティズナウは指定席の先頭を走りながら思わず舌打ちをする。スタート直後にバランスを崩し行き足がつかず、先頭に立つのに遅れて無駄な脚を使わされた。

 別に馴れない砂に足を取られてバランスを崩したのではない、右足に何かが当った瞬間に不自然なまでにバランスを崩れた。そう考えると隣にいたストリートクライと接触したのが原因だろう。

 アメリカのレース場は直線が短く小回りで先行や逃げが有利であり、どのウマ娘も良いポジションを取ろうとペースが速くなりやすく、結果的に力尽きたものが先行争いから負けていくサバイバルレースになることが多い。

 

 ポジション取りは熾烈を極め日本のレースよりボディコンタクトが激しくなる。レースにおいて体が大きいウマ娘からタックルのような激しい接触や、スタート直後でハナを取らせまいと接触されたこともある。

 鍛え抜かれた肉体と体幹で大地に聳え立つ大樹のように激しい接触を耐えぬいた。それに比べればストリートクライとの接触はそよ風のようなものだった。しかしそよ風に大樹はグラつかされた。

 今までレースのポジション取りで一度たりとも不利を被ったことはなかった。だが今日初めて不利を被った。

 それは屈辱であると同時に脅威でもあった。脳内に浮かぶのはかつて映像で見た合気道の達人である小男が大男を木の葉のように投げるさまだ、ほんの僅かな力で自分のバランスを崩す。ストリートクライの崩しはティズナウのレース観を大いに揺るがした。

 

「デジタルさんどうしたんでしょう?」

「そんなに後ろのセイシンフブキが怖いのか?」

 

 オペラオーとドトウは思わず訝しむ。デジタルがしきりに後ろをチラチラと見ている。今までのレースでそのような仕草を一度も見せたことはなかった。

 確かに南部杯で見せたセイシンフブキの末脚は脅威だったが、後ろを気にしすぎると前のウマ娘達にやられてしまう。大事なのは冷静にペースを判断する事だ。

 一方デジタルはセイシンフブキを警戒しているから後ろをチラチラと見ているわけではない。考えていることはウマ娘を感じること、それ唯一つのみである。

 すでにトリップ走法で走る時並に脳内麻薬を出していた。トリップ走法では脳内麻薬に分泌による脳の活性化を利用して、意中の相手のイメージを想像し多幸感を得ることで身体能力と勝負根性の増加を図っていた。

 だが今はその活性化の力を5感の鋭敏化に回していた。相手の足音、息遣い、匂い、筋肉の動き、5感から得た情報を逃さずキャッチして堪能する。

 その為には先頭を走るティズナウから最後尾を走るセイシンフブキの丁度中間地点に居る必要が有った。

 前の距離を測ることはできるが、視覚情報が無い状態で測ることは難しくその為に何度か後ろを向いていた。そして何度か確認することで最後尾の位置を完全に把握する。

 デジタルは距離を測り中間地点を確保し続ける。頭の中には勝つためのペース配分や位置取りなどの計算は欠片も無かった。

 

『さあ、各ウマ娘第1コーナーに差し掛かります』

 

 ティズナウはストリートクライに対する不安を刹那で心に仕舞いこみ、第1コーナーに入る。並び立つ者を全て退ける比類なき勝負根性、そしてコーナーリングの上手さ。これがアメリカ最強を支える強さの要因である

 アメリカのレース場は小回りハイペースで進む。スピードが増せば増すほど遠心力で外に膨らみ距離をロスする。小回りになればさらに遠心力は増す。

 少しでも距離をロスすれば瞬く間に先頭を奪われるなか、常に先頭を走り続けた。その技術は世界一である。

 大井レース場はアメリカのレース場に比べれば大回りであり、難易度は低い。体重移動とピッチ走法で高速コーナーを決める。まるで峠の走り屋のようにコーナーを攻め、左肩は内ラチから数センチ近くまで迫っていた。

 その様子を見てセイシンフブキは思わず感嘆する。ジャパンダートダービーでは右回り左回りの違いはあるが同じ距離で逃げて勝利した。

 その時でもここまで攻めたコーナーリングはできなかった。そして正しいダートの走り方を身に着けた今でもこのスピードでは無理だろう。

 それを可能にしているのはフィジカルとセンス、これがアメリカダート最強の走りか。

 

『ティズナウの後ろに先行グループがピッタリくっついていく』

 

 サキーはティズナウのペースに付いていきながら今後の展開をイメージする。

 今はストリートクライとクビ差後ろ、この位置はよくない。彼女は相手の力を削ぐスペシャリストだ。本来ならば前に着きたかったが、思い通りに行かないことはよくある。大事なのはその後だ。

 注意するのは相手の減速によるこちらの反射的な減速、相手が減速することでぶつからないようにと反射的に減速させられる。自分の意志ではない減速は体力を消耗する。

 他にもドバイのダートなら土の塊によるキックバックを警戒する必要があるが、砂では意図的に後ろのウマ娘の顔に当てることはできない。

 それは検証済みであり、当たらない間合いを取れば問題ない。ここは減速に警戒し後ろに立たず横に移動して仕掛けに対応できる位置取りをとる。

 サキーが右に移動しようとした瞬間に右肩に衝撃が走る。横にはヒガシノコウテイが居た。

 

 ダートのレースにおいて最も走りやすいゴールデンレーンというものが存在する。

 それは雨風による砂の流動や、バ場の渇き具合によって異なり、1レースごとに変化するといっても過言ではない。

 そのゴールデンレーンを見つけるにはダートを走った経験と深い知識が必要である。そしてヒガシノコウテイはその条件を満たしていた。

 直線でのゴールデンレーンを走り、第1コーナーに入ると位置取りを変える。

 ゴールデンレーンは円周上に繋がっているわけではない。場所ごとにレーンは変わり移動しなければならない。そしてレーンに移動した進行方向にサキーが居た。

 タイミングはほぼ同時で接触必至、バランスを崩せば不利は避けられない、レース序盤で不利を被りたくない、ここは譲り後ろについてゴールデンレーンを走るか。脳裏には数秒後の未来と取るべき選択肢が浮かび上がる。

 

 ヒガシノコウテイは歯を食いしばり体に力を込める。左肩に重い衝撃が走る。ここで臆してはダメだ。サキーの後ろについたことで負ける可能性だってある。良いポジションは奪う。少しの不利を受け入れるな。

 接触した際にイメージしたのは巨大なゴムタイヤ、一見柔らかいがとてつもなく重くビクともしない。その安定感は今まで走ったなかで文句なしに1位だった。

 これが世界一のウマ娘のフィジカルか、ここは妥協したほうがいいと弱気な考えが過る。だが刹那で打ち消す。

 こちらだって岩手の大雪や山を使って土台を鍛えてきた。その土台に同じゴドルフィンの理論と技術とセイシンフブキから学んだダートの走り方が乗っかった。決して世界一に劣らない。

 ヒガシノコウテイは押しのけゴールデンレーンに乗ることに成功し、サキーは元の位置に戻される。

 この結果においてサキーのフィジカルがヒガシノコウテイに比べて劣っていたわけではない。ポジションを取られた要因は2つある。

 

 1つは意識の差、サキーはポジションを取りに行った。ヒガシノコウテイはポジションを奪いに行った。

 大人しい性格のせいかレースにおいてもリスクを避ける傾向があった。だが地方の夢を背負った地方総大将としての覚悟がリスクをとった。もし僅かでも躊躇していればポジションは奪えなかった。

 2つは日本のダート、レースに向けて日本のゴドルフィンの外厩の設備を使用し準備することで、問題無く走れるようになった。

 相手はセイシンフブキからダートの正しい走り方を学んだダートプロフェッショナル、それはダートを速く走れるだけではなく、力を充分に発揮できることもできる。

 一方サキーは日本のダートでは本来のフィジカルを発揮できず押し負けた。もしこれがドバイのダートなら結果は変わっていただろう。

 

 サキーの心中に苛立ちと驚きが過る。ヨーロッパのレースもスローペースで一団になりやすいが、アメリカのレースと同様にポジション争いが過酷だった。

 激しい接触を厭わずポジションを奪い取る。レースにおいても良いポジションを奪い取りキングジョージや凱旋門賞に勝ってきた。一部の例外はポジションをせずに勝てるが、自分はそこまで怪物ではない。

 そしてヒガシノコウテイにポジション争いに負けた。侮っていないつもりだったが無意識で過小評価し、この驚きがその証拠だ。このレースに走るウマ娘全てが最強の相手だ。驕りを改め、気を引き締める。

 

(うひょ~!激しいぶつかり合い!アタシも間に挟まりたい~)

 

 飛び散る汗、肉と骨がぶつかり合う音、ヒガシノコウテイの鬼気迫る表情、サキーの感嘆と僅かに己の未熟に対する苛立ちが混ざった表情、ウマ娘ファンにとっては垂涎モノの光景が目の前に繰り広げられている。

 デジタルは鋭敏化された感覚はより濃密に5感情報を得て、相手の心理状態も読み取ることで、いつも以上に堪能し快感を得ていた。

 2人の体はきっと硬くて柔らかくて極上の肉体なのだろう。読み取った情報からイメージし興奮がさらに高まる。

 このやりとりを見られただけでもダートプライドに出走した価値が有った。そしてこれに匹敵するやり取りや快感が次々と現れるだろう。楽しみすぎる。

 そして今後訪れるであろう楽しみに無意識に舌なめずりする。

 

 サキーはコンマ数秒の反省をした直後、眼前に砂が飛んでくる。ストリートクライの蹴り足による砂、だがキックバックが飛んでこない位置取りのはず、何故だ?

 疑問と動揺が浮かぶが即座に目を瞑る。砂のキックバックは土と違って塊では無く粒だ。放射線状に広がる粒を躱すことは不可能である。

 僅かに間に合わなかったのか砂が目に入り反射的に怯むスピードを落としてしまう。目を拭い視界を戻すとほぼ差がなかったはずのヒガシノコウテイが半バ身ほど前に進んでいた。

 セイシンフブキは一連の様子を見て内心でニヤリと笑みを浮かべる。

 意図的に後ろを走るウマ娘に砂をかける。これは相手の距離を正確に測り、距離によって走り方を変えなければならない高等技術だ。

 弟子であるアジュディミツオーでも未だにできない、それを初ダートのウマ娘がレース本番で実行できるとは恐れ入る。その気があればダートの正しい走り方を習得できる逸材だ。

 ストリートクライは後ろに居る2人に砂を当て、サキーを怯ませたことに成功したが、ヒガシノコウテイは平然と走っている。

 確かにヒガシノコウテイの目に砂は当った。だがダートプロフェッショナルにはそんなものは通用しない。

 数多くのトレーニングで何百回も目に砂が入り苦しんできた。

 大半のものは目を閉じて防ぐがそれでは甘い。目を閉じた瞬間ポジションを奪われるかもしれない、相手の動きを見逃すかもしれない。

 最善は目に砂が入っても問題ないように耐性を作ること。それがダートプロフェッショナルだ。砂を恐れて目を閉じたり、逃げたりする腰抜けはいない。

 それに砂を相手にかける走りは自分の体力を消費し、通用しない相手には無意味である。

 

『ティズナウとその後ろのストリートクライが3番手を3バ身から4バ身と離していく。3番手はヒガシノコウテイ、サキーは少し位置を下げてこの位置、1バ身半差でアグネスデジタル、4馬身差でセイシンフブキ。先頭から後ろまで8バ身差といったところか?』

 

 セイシンフブキは最後尾から状況を分析する。サキーは砂に当てられて後退、素人にはあれは厳しく、回復するのには少し時間が掛かるだろう。

 ヒガシノコウテイはティズナウとストリートクライを追走しない。先行としてはもう少し差を詰めたいところだがペースが速いということだろう。アグネスデジタルは特に動きはない。

 そしてダートでの走り方、ヒガシノコウテイは95点だ、走り方もほぼ完ぺきで自分が選んだゴールデンレーンと同じレーンを走っている。

 アグネスデジタルの走り方は85点だ。オールラウンダーにしては堂に入っている。だがコース選びは間違っている。

 ストリートクライは80点、サキーは75点、走り方とコース選びは同レベルだが、砂をかける技術分だけポイントが高い。

 そしてティズナウは70点、走り方も5人の中では1番未熟で何よりコース取りが悪い、算数としては最内を回れば最短距離で走れるので正しい。

 だがコース外側から内側に傾斜しているため内の砂は深く走りにくい、距離と砂の深さを加味して進路を取るのは常識なのだが全く知らないようだ。

 これがダート世界一を決めるレースかと僅かに落胆する。最低限でもアグネスデジタルぐらいの点数で走ってもらいたいものだ。

 今後のダートGIは全出走ウマ娘が実力は兎も角、アグネスデジタルを上回るダートの熟練度で走るだろう。その未来を創る為に負けるわけにはいかないと今一度決意を固める。

 

『第2コーナーを抜けて先頭はティズナウ、クビ身差後ろにストリートクライ、その後ろ5バ身にヒガシノコウテイ、これは前2人のペースが速いか?半バ身差にサキー、アグネスデジタル、その後ろ6バ身差にセイシンフブキ、これは縦長の展開になりました』

 

 ティズナウの3F通過タイム11.3秒、4F通過タイム12秒。左回りと右回りの違いやバ場状態を加味しても、近年に行われた同条件の帝王賞や東京大賞典のレースと比べても明らかにハイペースだった。

 これがアメリカのハイペースを勝ち抜いてきたティズナウが刻むペース、それについてくことは相当厳しく。僅か後ろに居るストリートクライもかなり脚を使わされていた。

 

「あれ私……スタートでのあれ……」

 

 ストリートクライがティズナウの横に並ぶとボソリと呟く。その言葉に思わず反応しストリートクライに視線を向ける。疑惑が確信に変わる。やはり妨害したのはストリートクライだった。

 

「やはりお前か、卑しいゴドルフィン所属のウマ娘に相応しい技だ」

「崩すのは簡単だった……これがアメリカ最強のウマ娘のフィジカル?……おクスリのやりすぎでスカスカ……張りぼてみたい……」

 

 ティズナウは怒りで目を見開き血流が逆流する。妨害したのを悪びれず煽ってきた。さらに自分を煽るのではなく、アメリカ最強という単語まで付け加えた。これはアメリカも侮辱しているのと同じだ。

 妨害してまで勝とうというその精神、それは王者の魂とは真逆である。

 王者の魂とは挑戦心を持つ者、挑戦とはぬるま湯につからず楽をしないということだ。だが妨害という楽な手段をとって勝利を得ようとしている。

 ティズナウは汚らわしいといわんばかりにペースを上げて離れようとするがその足は止まる。

 

「そしてBCマラソンは相手を崩す必要すらなかった……弱かった……」

「もう一度言ってみろ」

 

 ストリートクライは嘲笑の笑みを浮かべながら呟く。BCマラソンには一緒のレースで走ったウマ娘も居た。

 アメリカのダート中距離を走るウマ娘達は全て挑戦心を持つ王者の魂を持った仲間であり、その言葉は到底聞き逃せるものではなかった。

 

「何度でも言う……弱かった……私はずっとアメリカのダート中距離のレースに勝ってる……卑しいゴドルフィンのウマ娘に負ける……おかしいね……世界最高の舞台で走っているウマ娘は強いはずなのに……王者の魂なんて役に立たない……」

「キサマ!」

 

 ティズナウは殺さんとばかりに敵意を向ける。王者の魂はこの世で最も崇高なものだ。今の言葉はそれに唾を吐いたに等しい。

 こんな奴にブリーダーズカップのメインレースに勝たれたのか。絶対にこのレースに勝ちBCマラソンのレイと勝ち鞍を奪い取り、記録から抹消してやる。

 

『先頭の2人はレース半分前半1000メートルの標識を通過、タイムは59秒、ややハイペースか?そしてサキーがヒガシノコウテイを追い抜きポジションを上げる』

 

 よくあるレースとして人気薄の逃げウマ娘を泳がしすぎたことによる逃げ切り勝ち。それならば逃げウマ娘に逃げきられないように追走すればいいと思うが、事は単純ではない。

 逃げウマを追走する、俗に言う鈴をつけるという行為は急激にペースを上げることでペースが乱れ、最後の直線で差し切られることが多く、あまりやりたがらない。

 

 ペースが乱れる。誰かがやってくれる。自分がやる仕事ではない。

 

 集団がお互いをけん制し押し付け合うことで鈴をつける役が居なくなり、逃げられてしまう。これが人気薄の逃げウマ娘が勝つパターンである。

 サキーはそういったことが起こらないようにペースを乱れても自らが動いて鈴をつけにいく。

 1コーナーから2コーナーを走る前の2人を見てハイペースだと判断した。2コーナーを抜けたところで差は6バ身差、いくらなんでもこのペースで鈴をつけるのは自殺行為だ。自然にペースが落ち差が縮まるとふんだ。

 そして向こう正面の直線に入った瞬間その判断が間違いであると気づく。前の2人はどこかで後ろの集団に気づかれないようにペースを巧妙に落としている。

 前半飛ばして、中間で徐々にペースを落として息を入れる。そして後続グループはペースを落としていることを知らず、鈴をつけると力尽きてしまうと騙される。よくある逃げの方法だ。

 ティズナウはそんな小細工をせず、常に先頭を走りついていけなかった者から脱落するサバイバルレースに持ち込む。

 そんな先入観が目を曇らせた。やるとしたらストリートクライだ、何らかの方法でペースを落とさせた。

 

 レース前のイメージトレーニングでその可能性は思いついていたがやるわけが無いと脳の片隅においやった想定だった。

 もしイメージしなければ策に嵌って逃げ切られていただろう。このまま鈴をつけなければ逃げ切られてしまう。それが導き出した結果だった。

 サキーはペースを急激に上げる。普通のウマ娘ならばこの事実に気づいたとすれば、勝つためにさりげなくペースを上げ後ろに居る相手をハメようとするだろう。ここで急いでペースを上げればこのままでは逃げ切られますよと教えるものだ。

 だが敢えて急激にペースを上げる。そして心中で祈りながら呟く。どうかペースを上げなければ逃げ切られると気づいてください。

 

 ヒガシノコウテイは横を通り過ぎるサキーを見ながら思考を巡らせる。

 この急激なペースアップ、前は明らかにハイペースなのに追走、ペースを読み間違えたか?

 そうなれば前総崩れで一番前に居る自分が有利である。勝利が転がり込んできたと一瞬浮かれるがすぐさま思考を続ける。

 相手は世界一のウマ娘だ。そんな凡ミスするか?もし急激にペースを上げる理由が有るとすれば、今差を詰めないと手遅れになるという事態だ。ということは前のペースが想像以上に遅い?次々と仮説が浮かび上がりピースが嵌っていく。

 だがこれは自分で出した結論ではない。サキーの実力を前提にした結論、つまり他人に判断を委ねていると同じだ。もし単純にペースを見誤っていたとしたら共倒れだ。

 ヒガシノコウテイは後ろを向きアグネスデジタルとセイシンフブキの動きを見るが変化はない。行くべきか控えるべきか?一瞬と呼べる時間でいくつもの葛藤が繰り広げられる。そして足に力を込めてペースを上げた。

 サキーはこの中で唯一ストリートクライとティズナウとレースで一緒に走っている。レースを通して肌で感じることしかできない情報というものがある。

 何よりここは地方で行われるレースだ、地方の総大将が逃げウマ娘を見くびって負けるなんて出来ない。

 そしてそんな無様なレースを地方のファンに見せられない。勝利とは転がり込んでくるものではない。積極的に動いて勝ち取るものだ

 ヒガシノコウテイの動きに呼応するようにアグネスデジタルとセイシンフブキもペースを上げる。

 セイシンフブキも直感としてもう少し差を詰めないとマズい察し、アグネスデジタルはウマ娘達との中間距離を取りたいと機械的に動いたに過ぎなかった。

 

 サキー達の判断は正しかった。向こう正面直線に入っての1Fは12.3秒、帝王賞や東京大賞典では4Fから5Fの秒差は平均-0.3秒、このレースでは+0.3秒、明らかに息を入れていた。そしてこのまま息を入れ続けられれば逃げ切りは必至だった。

 

『おっと後方集団が一気に先頭との差を詰める。レースは一気に動き始めた』

 

 気づかれたか、このまま騙され続ければクライの勝ちだったのに。関係者席で見ていたキャサリロは思わず歯を噛みしめる。

 レース前々日、レースに向けての作戦会議をおこなっている際にストリートクライが唐突に問いかける。

 

───ティズナウが気になってしょうがない言葉って何?

 

 質問の意味が分からなかったが、たどたどしい説明で真意と作戦の全容が見えてきた。

 まずスタートでティズナウを崩して無駄足を使わせる。それでもいつも通り飛ばすだろうがそれに着いていき、サキーなどの後続集団は妨害して切り離す。

 向こうハイペースにより正面の直線に入るまでにある程度差がつく。そしてバレないようにペースを落として、後ろを騙しティズナウに集中して勝つというシナリオだった。

 その為にはペースを落とさせる。だが共謀してペースを落とそうと言っても聞く耳持たないのは分かり切っている。だから思わず引き留められるような言葉が必要ということか。

 気になる言葉は知らないが、引き留められる言葉は分かる。それは相手を怒らせる言葉だ、そうなれば意識を向けストリートクライの動きに連動してしまう。

 そしてティズナウを調べ、感情を逆撫でする言葉をピックアップしてストリートクライに伝えた。

 

「恥知らずが!ヨーロッパ出身なら大人しくヨーロッパの芝で走っていろ!」

 

 ストリートクライは罵倒されるが一切無視する。観客のどよめきや足音や雰囲気で後方集団が差を詰めているのには気づいていた。

 策は看破されたが必要最低限の役割は果たした。想定の範囲内である。あとは予定しているタスクをこなすのみ。

 ストリートクライは口を閉ざすと同時に僅かにペースを下げ、後方をチラリと見て意識を集中する。

 

『ティズナウが2番手に2バ身差をつけて第3コーナーに入る。そして2番手がストリートクライからサキーに……』

 

 ストリートクライの右目はサキーを視界に捉える。その走りはいつもの完璧と呼べる美しいフォームではなく、まるでデビューしたウマ娘のような汚く乱れたフォームだった。

 これはドバイワールドカップのラスト100メートルでストリートクライとアグネスデジタルを瞬く間に差し返した時の走りである。

 2人に土壇場まで追い込まれたことで引き出された走り、このフォームになったサキーは今までより数段階速くなる。

 ドバイの時はラスト100メートルで発動させたが、それが限界でそれ以上の距離は持たなかった。だがその後の鍛錬と経験により、より長く走れることが可能になった。

 だが最終直線に入る前でのスパート、大井2000メートルの常識では考えられないロングスパートであり、脚が持つという保証は無かった。だがここで仕掛けなければティズナウを逃してしまうと瞬時に判断した。

 ストリートクライは全神経を集中させ通り過ぎようとしているサキーの重心や体重移動や呼吸を見極めると近づき崩しを仕掛ける。

 サキーの性格からしてティズナウと体を併せ根性勝負に挑むだろう。

 それは好ましい展開ではなかった。大まかな見立てでサキーとティズナウはほぼ互角、そんなサキーがくればティズナウにとって餌に過ぎない、

 競り合うことでより速くなる。それにサキーもティズナウと競り合うことでさらに力を引き出してしまうかもしれない。

 ならば根性勝負に持ち込ませない、できるだけ併走しながらティズナウと距離を取り、サキーがスパートした瞬間崩して抜け出す。こうすればお互いの勝負根性を封じられる。これがストリートクライのプランだった。

 

 直線までは併走する予定だったが予想外のロングスパート、だがストリートクライは動揺しない。ここで崩してティズナウに追いつけない程のロスを与えると同時に体を併せさせるのを防ぐ。

 ストリートクライのレースは勝ってもコースレコードが出ず、レース内容が低い凡戦と言われることが多い。

 相手の力を100%引き出すレースをする必要はない。自分が実力の10%しか出せなくとも相手の力を5%に抑えればいい。

 例えコースレコードに程遠く低レベルと言われようがレーティング上がらなくても関係ない。勝てばいい、それがレーススタイルだった。

 

『変わった!サキーが2番手に上がりティズナウに迫る』

 

 ストリートクライに動揺が走る。サキーの今のフォームは力が増す分動きの制御がしづらいという欠点があり、より崩しやすい状態だった。

 その体は崩しとコーナーの遠心力によって大きく膨らむはずだったが、やや膨らんだだけだった。

 サキーはストリートクライからティズナウに意識を向けて距離を詰めていく。

 崩しに来るのは予見していた。だがその技術は脅威であり、無策で挑めばあっさりと崩されるのは目に見えていた。

 サキーもスタッフ達も崩しに対抗すべく研究した結果、全貌の一部を知れた。

 人は息を止めたり吐いたりする際は体を瞬時に動かせるが息を吸う瞬間無防備になり反応が遅くなる。それを利用して崩していると推察した。

 普通なら酸素を吸うタイミングを狙って行動することは極めて難しい、だがレースは頭を動かし強い強度の有酸素運動を続け、激しい呼吸を強いられることでより呼吸の仕草を見極めやすくなる。

 サキーがしたことは単純である。息を吸うと見せかけ止めた。それにより崩しの効果を軽減することに成功していた。

 

 サキーの動きによってレースの流れは一気に激流となり、その激流は出走ウマ娘達に選択を迫る。

 ヒガシノコウテイが判断に迫られる。向こう正面直線で番手を上げたサキーが一気にスパートをかけた。残り800メートルでのスパート、明らかにセオリー無視の早仕掛だ。

 このままでは垂れるに決まっている。だが内なる自分が語り掛ける。周りのウマ娘達はセオリーが通じる相手か?

 ヒガシノコウテイは世界で走ったことはなく、その頂点の高さを知らない。だがそれは果てしなく高いことは想像できる。

 大井2000メートルではメイセイオペラやアブクマポーロなどの多くの名選手が走ってきた。

 だが彼女らも世界一ではない。そして目の前を走るのは紛れもなく世界一のウマ娘達だ。想定の常に上を考えるべきである。

 早目に動いて逃げを捉えて直線で抜け出す。まさに先行脚質における横綱レース、王者の走りだ。王道こそが最も辛く、その苦しみの先に勝利がある。このレースは徹頭徹尾積極策でいく。サキーを追走し、逃げるティズナウを捉え直線で抜け出す。

 自分の格は海外勢やアグネスデジタルと比べ低く、とても王者の立場とは言えない。それでも世間がどう見ても自分の心だけは風下に立ってはいけない。

 相手がどうであろうと地方で走る限り、地方の総大将であり地方の皇帝だ。皇帝が臆するわけにはいかない。

 ヒガシノコウテイは自らも常識破りのロングスパートをかけることを選択した。

 

 ストリートクライは横から抜き去ろうとするヒガシノコウテイを察知し選択を迫られる。サキーと同じタイミングでスパートを仕掛けてきた。

 このウマ娘はサキーではない、サキーでも保つか分からないロングスパートに耐えられるわけが無い。所詮小さな島国の地方というグループの王者に過ぎない。

 だが脳内で警鐘が鳴る。このウマ娘は並々ならぬ覚悟でこのレースに挑んでいるのは前々日会見と今日の姿で十二分に伝わってきた。

 ヒガシノコウテイは心を燃やし全身全霊で挑んでいる。以前の自分は心が無く空っぽで勝ちきれなかった。だがキャサリロと再会したことで心を燃やし始め勝ち続け、誰よりも心の重要性を知っていた。このウマ娘を放っておいてはいけない、崩して相手の力を削ぐ。

 崩しを仕掛けようとするが逡巡する。完全なタイミングでサキーを崩したが殆ど効果が無かった。もしかするとこのウマ娘相手にも効果が無いかもしれない。一度の失敗で自信は揺らいでいた。

 その瞬間、キャサリロとのトレーニングの日々が頭に過る。懸命なスカウティングでヒガシノコウテイの走りをコピーし、より完璧な崩しを会得させるために体を痛めながら練習相手になってくれた。

 その日々が無駄なわけが無い。自分を信じられなければ親友と築き上げたものを信じろ。一切の迷いを断ち切り、崩しを仕掛ける。

 

 一方ヒガシノコウテイもストリートクライが崩しを仕掛けにいくのを察するが回避行動はとらない。

 ここで崩しから回避すればゴールデンレーンから外れることになる。ゴールデンレーンを走るのは勝つための必須条件、ここで迎え撃つ。今まで築き上げたものは世界一にも屈しない。

 地方で磨き上げた地方総大将の心技体と親友と磨き上げたゴドルフィンの大器の心技体がぶつかり合う。その結果は。

 

『おっと、ヒガシノコウテイが大きく外に寄れた!』

 

 ストリートクライに軍配が上がった。そしてストリートクライはそのまま前の2人を捉えるためにペースを上げた。

 

(これはペースが速い、まだ我慢だ)

 

 セイシンフブキは前に行きたいという衝動を懸命に抑え、心を平静に保つ。

 ティズナウは相変わらずハイペースで飛ばしている。サキーはティズナウを捕まえようとロングスパートをかけ、ヒガシノコウテイも同様にロングスパートを仕掛けた。ストリートクライもペースを上げた。アグネスデジタルも釣られるように動く。レースの重心は完全に前にいっている。

 普通のレースなら完全に前が止まるレースだが、全員並ではない。ある程度前は止まらないと考えるべきだ。

 現時点で先頭との差は11バ身、世界最高峰のウマ娘相手にこの差は心持たないと過るがアブクマポーロの言葉を思い出す。

 

 追い込みはより仕掛けるタイミングがシビアになる。相手と競り合う勝負根性すら沸かさず切り伏せるスピードでゴール板を駆け抜ける。それが仕掛けのイメージだ。大事なのは力を溜めて爆発させる。心と体の瞬発力だ。

 差し追い込みへの脚質転換のトレーニングの際についつい前との距離を詰めたがり、散々注意されたことだ。

 その教えを守るように意識的に心に凪を生み出す。冷静に仕掛どころを見極め爆発させるために。

 

(これまたエモすぎ~)

 

 ストリートクライとヒガシノコウテイが鎬を削る様子を4バ身後ろから観察し、映像を脳に刻み込む。

 ヒガシノコウテイとサキーの激しいぶつかり合いと違い、僅かな接触による静かな攻防だった、

 だがレース前に知り得た両者のバックボーンとパーソナルな情報と鋭敏化した感覚から両者の心情を導き出し想像する。

 ヒガシノコウテイと今まで地元の皆と築き上げた努力への信頼と自信、ストリートクライの崩しを失敗したことへの自信喪失、そこから友とのトレーニングを思い出し自信を取り戻しての崩し。脳内では止めどなく妄想が浮かび上がる。そして妄想はある程度両者の心情を捉えていた。

 結果ストリートクライが崩しによってヒガシノコウテイは外に膨らまされたが結果は二の次である。

 一瞬の接触でお互いの信念や想いや生き様が交錯する。見ているだけで感情が揺さぶられ涙が出そうだ。

 レースは終盤に入る。レースが動き出走ウマ娘の感情が揺れ動くのは最後の直線だ。そのために少しでも皆に近づかなければ、デジタルは分泌させた脳内麻薬物質で向上した集中力をウマ娘達の観察から、スパートの為のイメージ構築に向け始める。

 



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勇者と隠しダンジョン♯17

『第4コーナーに入るところでサキーがティズナウを捉えた!』

 

 サキーは遠心力で体中が軋むなか内心で自嘲する。何て無様で不格好なコーナーリングだ、見事な高速コーナーリングを決めるティズナウとは段違いである。この映像だけ見ればデビュー戦を走っているウマ娘に見えるだろう。

 だがこれで精いっぱいだ、全ての力を開放しての走りは自分の体で走っているように思えず、まるで圧倒的な力を持つモンスターバイクに乗っているようで、少しでも気を抜けばあっと言う間に外ラチに激突しそうだ。

 そのモンスターバイクと化した体を懸命に操作し、高速コーナーリングを決めるティズナウとの距離を少しずつ詰めていき、ゴールまで残り500メートル、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で捉える。

 そのままティズナウを抜き去ろうとした瞬間、目に一層の闘志が漲るとともに一気にギアを上げてサキーより前に出て、それに応じるようにさらに力を振り絞る。

 

『さあ、先頭2名が4コーナーをカーブして、直線へ!』

 

 直線に入りサキーの体が外に膨らみ、その分だけティズナウが半バ身差リードする。

 だがすぐさま左に進路を取り体スレスレの位置に寄せる。これは根性勝負で叩き伏せるという挑戦状だった。

 ふざけるのを大概にしろとばかりにティズナウが突き放しにかかる。ハイペースで飛ばしながらもこの加速力とスタミナ、サキーの脳裏にBCクラシックの光景が蘇る。

 4コーナーからティズナウにぴったりと張り付いて直線に入った。逃げウマ娘を捕まえて抜け出しの王道の走り。相手は比類なき勝負根性を持っているが、凱旋門賞に5バ身差で勝ち夢の為に邁進する自分なら負けるはずがないと思っていた。

 だが結果はハナ差での敗北、周囲はアウェーでの初ダート、さらにあそこまでのブーイングを受けてハナ差なら実質の勝利と言うが、本人は全くそう思えなかった。

 直線でいくら抜け出そうと力を振り絞っても決して前に出ることを許さないと前に進む勝負根性、いくら力を振り絞っても出した分だけ奪われるような感覚に陥っていた。

 その存在はまるでブラックホールだった。3000メートル走ろうが、4000メートル走ろうが決して縮まらないハナ差であることを痛感させられた。初めて味わう敗北感だった。

 

 どうすればこの差が埋められる?このあまりにも大きいハナ差を埋められるかを考え続けた。ドバイでアグネスデジタルとストリートクライに追い詰められたことで自分でも知らない力を引き出せるようになった。

 だがその力を駆使してもまだ前に抜け出せない。これがティズナウの言う王者の魂を持つ力か、その力の強大さを改めて実感する。

 ならばどうすればこの力を持つ相手に勝てる?簡単だ、その力も自分も習得すればいい。

 ティズナウの理屈で言えば王者の魂とは挑み続ける心を持ち、最高峰の舞台で挑み続けてきた者達と鎬を削ることで会得できる。

 そしてヨーロッパの芝という低レベルで走り、その舞台で競い合ったサキーには王者の魂が宿らないということになる。理屈の是非は兎も角、全ての力を発揮しても前に抜け出せない現状だ。

 だが今は違う。アメリカダートのトップであるティズナウが居る。

 そのアメリカダートで走り続けた一線級のウマ娘に完勝したストリートクライが居る。

 ダートプライドはBCクラシックにも劣らない最高峰の舞台だ、そして今こうして王者の魂を持つ相手と体を併せ根性勝負をして鎬を削っている。

 

 条件は整った。ティズナウとの根性勝負に競り勝ち、レースに勝利することで王者の魂を獲得する。

 相手の土俵で有る根性勝負に挑んだのは全ての出走ウマ娘が全力を出して欲しいという信念以外にも王者の魂を獲得するという目的があったからである。

 王者の魂を獲得すれば益々強くなる。そして今年のドバイWC、キングジョージ、凱旋門賞、BCクラシックの世界4大タイトルに勝利しグランドスラムを達成し、業界のアイコンに上り詰める。

 サキーは全ての細胞から力を振り絞る。以前と違い力が奪われるような感覚は無かった。

 

「勝てると思っているのか!挑むことを忘れアメリカから逃げたお前が!王者の魂を持つ者達と鍛え上げ、その魂を得た私に!」

 

 ティズナウは歯を食いしばると同時に怒りの感情が駆け巡る。もしレースに最も必要な要素は何かと聞かれれば勝負根性で有ると即答する。

 誰よりも早く駆け抜けるスピード、坂を駆け上がり加速する為に必要なパワー、レースを走りきるスタミナ、展開を読み最大限の力を発揮できるようにするレースセンスやペース判断能力、世間的に言えばこれらの能力のほうが重要だという認識であり、それは正しい。

 

 だがそれらの能力は備わっていて当然のものである。

 

 レベルが低いレースならそれらの能力で勝敗が決まるが、世界最高峰の舞台であるアメリカダート中距離を走るウマ娘は、スピードもパワーもスタミナもレースセンスもペース判断能力も限界まで鍛え、それらの要素での優劣差はほぼ無い。ならば何が勝敗を左右するかといえば勝負根性である。

 勝負根性が有るからと言って5バ身差や6バ身差もの差をつけられるものではない。

 クビ差、アタマ差、精々半バ身差程度だろう。だがその僅かな差が頂点を決めるレースにおいて、山よりも高く海よりも深い差となる。

 だからこそ勝負根性を得ようとアメリカダート中距離という世界最高峰の舞台に挑むことで鎬を削り高め合うことで精神は高みに登り、王者の魂と比類なき勝負根性を会得する。それがアメリカのトップが世界最強である所以だ。

 逃げウマ娘を早めに捕まえて、自らが最も得意な根性勝負の土俵に立ち、真っ向勝負を挑む。

 周りから王者に見えるだろう。だがそれは唾棄すべき行為であり、神経を大いに逆立てさせる。

 

 サキーは偽物の王者だ、いくら王者らしい振る舞いをしようが永遠に王者の魂を得ることはできない。

 王者の魂とは挑戦し続ける意志を持つ者に宿り、世界最高峰であるアメリカダート中距離で走り挑戦する者に宿る。それ以外は全てレベルが低いぬるま湯にすぎない。そんなぬるま湯につかった者に挑戦し続け王者の魂を獲得した自分が負けることはあってはならない。

 己の負けは自分だけのものではない。歴史を築き上げてきた先人達と鎬を削り合ってきたライバル達の敗北で有り、すなわちアメリカの敗北である。

 アメリカは常に最強であり、未来永劫最強でなければならない!この偽物の王者に負けることは天地がひっくり返ってもあってはならない!

 

「勝ちます!貴女との根性勝負に勝ち、王者の魂を獲得し、私は業界のアイコンとなり、自分の夢を叶えます!」

「なめるな!偽物が勝てるわけが無い!勝つのは本物の王者である私だ!偽物の夢は粉々に叩きのめす!」

 

 お互いが力を振り絞り奪い取りながら前に進む。アメリカの王者とヨーロッパの王者による壮絶な叩き合いが繰り広げられていた

 

『逃げるサキーとティズナウ!それを外からストリートクライが追う!』

 

 サキーとティズナウが根性勝負をする展開になってしまった。厄介な展開になってしまったが序盤ではティズナウの出足を挫き、道中でも言葉でペースを落とさせ思い通りのレースをさせなかった。

 サキーにはキックバックの砂を当てリズムを狂わせた。条件は五分五分である。この展開に持ち込めたのは全てキャサリロのおかげだ。

 

 後続に砂をかける技術もキャサリロが付き合ってくれなければ習得できなかった。

 ティズナウのペースを落とすのもキャサリロが考えた言葉が無ければできなかった。

 危険なヒガシノコウテイを崩せたのもキャサリロがスカウティングし、怪我してまで練習相手になってくれたから。キャサリロは十二分に仕事を果たしてくれた。後は自分の番だ。

 

───過去、現在、未来において私達は最強だ。

 

 ストリートクライは心の中で呟くとそれがトリガーとなり一気に加速する。

 ドバイワールドカップではサキーの真の力の前に為す術もなく屈した。そして今のサキーはその時より強いだろう。だがそれは自分も同じだ。

 

 過去の自分とは鍛え方が違う!決意が違う!理想が違う!情熱が違う!何より自分達は2人で走っている!

 

 それを証明するかのように2人との差を1歩ずつ縮めていた。

 

 勝負服とはウマ娘の力を最大限引き出し時にはそれ以上の力を与えると言われ、明らかに走るのに不向きだと思われる勝負服でも練習着を着て走るより速くなる。現時点において科学的に理屈は完全に解き明かされていない。

 そして1つの仮説があった。勝負服において引き出し与えてくれる力の総量は決まっている。

 他の5人は1つの勝負服を身に纏っているのに対してストリートクライは左半身に自分の勝負服、右半身にキャサリロの勝負服を身に纏っている。

 自分の勝負服の力に加えてキャサリロの勝負服の力が加わる。負ける道理がない。

 自分以外の勝負服を纏い力を上乗せする。この考えに至ったのは歴史上においてストリートクライだけではなかった。何人ものウマ娘が試し断念した。

 勝負服とはそのウマ娘の魂そのものだ。他人の魂が入ればそれだけで拒絶反応を起こし体も心も乱れてしまい、自分の勝負服の力も発揮できない。

 

 キャサリロは無二の親友という言葉で語りつくせないほど信頼し、通じ合っており特別な存在だ。

 一緒に成り上がろうと決意した瞬間ストリートクライというウマ娘は自分だけではなくなっていた。キャサリロの思考や技術や精神が混じり合った存在だと心の底から信じていた。まさに一心同体である。

 その在りようが2つの勝負服を身に纏いながら能力を削ぐことなく、さらに上乗せするという離れ業を可能にさせた。

 世界屈指の実力にもう1つの勝負服の力を上乗せされる。

 鬼に金棒、虎に翼、今のストリートクライを状態は様々な言葉で表現されるが、この瞬間絶対的な力を持った唯一無二の存在になっていた。

 

『ストリートクライと……大外からヒガシノコウテイがジリジリと迫っている!』

 

 ストリートクライは実況の声とリンクするように右に意識を向ける。そこには崩しで完全に潰したはずのヒガシノコウテイが迫っていた。

 

 ヒガシノコウテイはストリートクライの崩しによって、外に大きく外に膨らまされた瞬間に強大なネガティブな感情が駆け巡る。

 

 不安、焦燥、絶望、諦め

 

 だがそれらの感情を刹那で掻き消し前を向き走り続ける。

 かつてフェブラリーステークスでデジタルに交わされた際に、その末脚のキレ味の前に一瞬心が挫けた。その後に心に活を入れ盛り返したが、その一瞬が無ければ勝てたかもしれないと今でも後悔する。

 同じ失敗は2度と起こさない。力を入れろ、足を動かせ。ネガティブな感情という不必要なものを削ぎ落し、ゴールに向かうことのみに全ての思考と神経を向ける。レース展開、ペース配分、コース取り、それらの要素も意識から消える。だがダートの正しい走り方は出来ていた。

 

 砂質、含水率、砂厚、気温、様々な要素を加味し最も速く最適な走りを実践する。それがダートの正しい走り方だ。

 それを実施するにはダートに対する深い知識と様々な要素を瞬時に把握する鋭敏な感覚が必要であり、その2つが備わっていたとしても意識しなければ直ぐに乱れてしまう。

 コウテイはフブキからダートの正しい走り方について教わり、1人になっても研鑽を続けてきた。そして意識せずとも実施できるほどに極めていた。

 そのまま外に大きく膨らみながら直線に入る。崩しによって大きなロスを被ったが思わぬ幸運が訪れる。

 ヒガシノコウテイが走っているルートはこの直線で最も速く走れるゴールデンレーンだった。だがそれは今の技量では見つけられないものであった。

 そのままゴールデンレーンに乗って先頭との差を縮めていく。確かにゴールデンレーンに乗れたのは幸福だった。だが乗れたとしても、今までなら諦めた分だけ届かなかった。これは諦めない心が生んだ必然である。

 

 だが残り300メートルを切るが先頭との差が思ったより縮まらない。

 レースに向けてフィジカルを鍛え正しいダートの走り方を極め、レースでもゴールデンレーンに乗り、無駄な思考を削ぎ落し追走しても、逃げるサキーとティズナウとそれを追うストリートクライを捉えらない。

 これが世界最強クラスの実力か、それでもネガティブな感情を刹那で消し去り脚を動かす。体中が悲鳴をあげ脳が止まれと命令を出しアラートが鳴り続けるが、無視し体を酷使する。

 

 勝利は決して楽に手に入らない。苦しみぬいた先にある。この痛みや苦しみは勝利に近づいている証だ。受け入れろ!むしろ喜べ!

 ゴールに近づくために痛みと苦しみが増え続け、脳が苦痛から逃れようと強制的に意識を飛ばす。

 

───●●●●●●だ!●●●●●●だ!地方で育んだ力が世界に届いた!

───●●●●●―●だ!ついにやった地方所属初のJBCスプリント制覇!大井の夜空に白き星が輝いた!

───●●●―●!得意の舞台で中央勢をねじ伏せました!

───●●●―●●●!笠松の快速ウマ娘がやりました!

───●●●●●●●!地元大井のJBCスプリントで鮮やかに差し切りました!

───●●●●●●●●!先代のトレーナーと母の夢をついに叶えた!

 

 見覚えがある地方のレース場や見たこともないレース場で見たことのないウマ娘が勝利し、喜びを爆発させ、その映像をパブリックビューイングで見た人たちが抱き合い歓喜の声をあげている。

 だが突如勝利したウマ娘達の映像が1つ1つ黒く塗りつぶされていき、全てが暗黒に染まっていく。

 意識がレースに戻ると同時に痛みと苦しみが襲い掛かる。今のは何だ?まるで白昼夢だ。困惑するなか即座に映像の意味を理解する。

 

 これは未来の出来事だ。地方が生み出すロマンと幻想に魅かれたウマ娘達が紡ぎあげた輝かしい未来。そして未来が黒く塗りつぶされていった。

 これは分岐点だ。勝てば地方ウマ娘達によって作り上げるロマンと幻想に魅了され地方は守られ繁栄する。一方負ければロマンと幻想は砕かれ失望され地方は衰退していく。

 もし他人、いやメイセイオペラに言っても信じてもらえないだろう。レース中に意識が飛んで妄想めいた夢を見るなんて荒唐無稽すぎる。だがそれを信じていた。

 未来が閉ざされる危機感、明るい未来を見たことへの喜びと守らなければならないという使命感、それらが体をつき動かし限界を超えていき、縮まらなかった差を少しずつ縮めていく。

 

『そしてセイシンフブキがもんのすんごい脚でやってくる!大井の真冬の空にブリザード!』

 

 この位置から差し切れるのか?差し切れる!もう少し仕掛けを早めれば良かったか?このタイミングがベストだ!

 

 直線に入って先頭まで約11バ身差、セイシンフブキは自問自答を繰り返す。脚質を逃げ先行から差し追い込みに転換し、幾度も模擬レースをして実戦でも走ったがこの不安を完全に打ち消せない。

 逃げ先行で走っている時はいつ後ろから差されるかという恐怖が付きまとっていた。

 だが差し追い込みもこの位置から届くのかという恐怖が付きまとう。追われる者より追う者のほうが強いと言われるがどちらも苦しいことを改めて実感する。

 道中溜めていた脚を直線に入った瞬間爆発させ、先頭との差を縮めていくが焦りは拭いきれない。

 直線に入って乗るはずだったゴールデンレーンはヒガシノコウテイに取られた。即座にヒガシノコウテイとストリートクライの間にある次点のゴールデンレーンに乗っかる。

 

 セイシンフブキが選んだ戦法は直線一気、ロングスパートの後方捲りとは違い、長く良い脚を使うのではなく、一瞬のキレで相手を抜き去る。

 イメージとして長い時間全力を出す方が辛いと思うかもしれないが、短時間で一気に溜め込んだ力を使い果たすのも同様に辛い。

 3F上がり自身最速の末脚を繰り出すがまだ先頭どころか、追っているヒガシノコウテイすら捉えきれない。

 ダートを愛した先人の為に、ダートを志すアジュディミツオー達のような未来のウマ娘の為に、ダートの魅力を世間に知らしめるという自分のために。

 様々な勝ちたい理由を燃料として消費し走り続ける。体には想像以上の負荷がかかり、体が悲鳴を上げるが構わず突き進む。

 

───何でこんな苦しい思いをしてダートを走るのだろう?

 

 脳内で唐突な疑問が浮かび上がる。

 

 ダートの未来のために、地位を上げるために、価値を認めさせるために、即座に答えが浮かび上がる。

 確かにこれは明確な動機だ。だがもっと根本的で芯となる理由があったはずだ。1着になる為に雑念を捨てなければならないのに纏わりつく。

 そんな状態でもダートの正しい走り方を実行する。右足がダートを踏みしめ感触が足裏から脳に信号として伝わる。その瞬間脳が一気に弾け何故ダートを走るのかを思い出す。

 

──ダートを走るのが楽しいから

 

 アブクマポーロに教わったダートの正しい走り方という技術、アブクマポーロが離れても一人で試行錯誤を繰り返し探求してきた。

 明確な答えは知らないなか答えを求め毎日走り続け考え続けた。その日々の中で少しずつ答えに近づいている実感があり、その充実感や達成感はとても心地よかった。

 技術に終わりはない。もっと先があるはずだ。歩幅、体重移動、蹴り足の力の入れ具合と角度、もっと最適なやり方が有るはずだ。溢れ出るアイディアを厳選し実施する。

 ダートの未来の為に、地位を上げるために、価値を認めさせるために、そういった感情を忘れて、ただダートを極めることに没頭する。

 

 これは95点、これは100点、これは105点、これは105点、これは120点

 

 1歩ずつ踏みしめるごとにどれだけダートの正しい走り方ができているか、自己採点していき、一歩ごとに精度は上がり記録を更新していく。

 勝敗すら忘れ只管道を求め究めようと邁進する。それはまさに求道者そのものだった。

 

 デビューからセイシンフブキを追っていたファンは目を見開く。かつてジャパンダートダービーで見せた走り、着差は無かったものも圧倒的な凄味を感じ真夏なのに寒気を感じた。だがそれ以降はあの時の凄味は無かった。

 逃げと追い込みで脚質もレース内容も違うがあの時と凄味と寒気が蘇る。あの時のセイシンフブキが帰ってきた。ファンはあらん限りの声援を送った。

 

 セイシンフブキがダートの探求に没頭しているなかノイズが走る。粘着質でまるで底なし沼に入り全身に蛭が這うような嫌悪感、他の4人も同様の嫌悪感を抱いていた。

 

『そしてアグネスデジタルもやってきた!』

 

 デジタルの脳内麻薬を分泌させイメージを作り上げる。テイエムオペラオー、メイショウドトウ、エイシンプレストン、スペシャルウィーク、いずれも心をときめかせる大好きなウマ娘達、そのウマ娘達が前後左右を囲んでいる。

 表情、躍動する筋肉、とびちる汗、呼吸音、ダートを踏みしめる足音、汗の匂い。脳内ではかつてないほど鮮明にイメージが構築されていた。

 デジタルは恍惚の表情を浮かべながら走る。だがそれでは足りないとレースを走るウマ娘達を感じようと感覚を研ぎ澄ますがイメージにノイズが走る。

 レース中において意中のウマ娘をイメージして走るトリップ走法をしていた。だが今までは同時にイメージする人数は最大2人、ドバイワールドカップでは6人のウマ娘をイメージしたことがあるが、1人イメージし暫くしたらイメージを消して、別のウマ娘のイメージを構築するという作業を繰り返した。そうしなければ脳にイメージすることへの負荷に耐えられないからだ。

 だが今現時点で4人を同時にイメージし、さらに5人を感じようとすれば既に脳に多大な負荷をかかり脳へのダメージは計り知れない。この頭痛は脳からの危険信号だった。

 

(((気合い入れなさい!でないと皆を味わえないわよ!)))

(((頑張ってデジタルちゃん!デジタルちゃんのにんじんはすぐそこだよ!)))

(((さあ!理想郷までの試練は続くが安心したまえ!ボクがついている!)))

(((役に立たないかもしれませんが、私がデジタルさんの痛みを和らげます)))

 

 イメージのプレストン達がデジタルに手を伸ばし顔や頭に触れていく。それぞれの体温や肉感がデジタルに伝わり頭痛が和らいでいく。

 人が持つ痛みを伝える神経は細く、それより神経が太い圧覚や触覚の刺激を与えると痛みの信号が伝わらず弱まる。これをゲートコントロールと呼び、負傷箇所を無意識に触るのはゲートコントロールで痛みを和らげようとしているからである。

 ゲートコントロールについては知らなかった。体が痛みから和らげると同時にプレストン達の肉体の感触を味わいという願望がゲートコントロールをしていた。イメージの皆に感謝しながら感覚を研ぎ澄ます。

 

(((アメリカが!王者の魂を持った私が最強だ!)))

(((私が勝って業界のアイコンになって、皆を幸せにして!もっとレースの素晴らしさを伝えるんだ!)))

(((キティと2人ならどんな相手にも負けない!)))

(((地方の未来は私が守り抜く!)))

(((やっぱりダートを走るのは楽しい!)))

 

(うひょ~!みんな素敵すぎ!尊すぎ!エモすぎ!最高かよ!!!)

 

 5感で感じ取った情報を元にイメージを構築され其々の心情がナレーションとして聞こえてくる。

 類まれなる想像力と各ウマ娘への調査の結果、限りなく本人に近いイメージが構築され、その心の声はほぼ今現時点で当人達が思っていることに相違は無かった。

 自分を取り囲むように走るウマ娘達、そこはまさに桃源郷だった。

 イメージのウマ娘はペースを上げ、デジタルも釣られるようにスパートをかける。いくらデジタルが精巧にイメージを作ろうとも所詮はイメージで有り本物には敵わない。

 

 レースを走る5人は最高にきらめき、その輝きに優劣はない。

 逃げるティズナウとサキーを、後ろから来るストリートクライとヒガシノコウテイとセイシンフブキが捉える。ゴール前は大接戦になるだろう。

 ゴール板前は数センチの距離でウマ娘達が密集する絶好のウマ娘体感スポットと化す。そこに辿り着くには力の全てを振り絞らなければならない。

 今のデジタルは9人分のイメージを同時に構築し、出力が上がると同時に脳がパンク寸前だった。以前であれば走りのフォームが乱れていただろう。

 だが走りのフォームは乱れず最もスピードが出せる理想のフォームを維持していた。

 

 ウマ娘は最大出力を上げれば上げるほど、自身で作り上げた最も速く走れる理想のフォームが乱れ、力をロスしていく。

 その一例がサキーであり、結果的には速くなり出力が上がった分フォームが乱れ、力のロスを生んでいる。出力が上がった状態で理想のフォームを維持するには体を精密に動かせる身体操作能力が必要である。

 トレセン学園で、そして地方に移籍して1人になっても理想的なフォームを維持する身体操作能力を磨き続けてきた。その努力は実を結び、肉体は主の願いを叶えるべく理想的なフォームを維持し続ける。

 鼻血を垂らし涎をまき散らしながら大井の直線を駆け抜ける。その姿は異様であり醜いかもしれない。だが全ての意識を向け没頭する姿は美しくもあった。

 

「いけー!差せ!差せ!」

「そのまま!そのまま!」

「残れ!残れ!残れ!」

 

 トレーナーが居る関係者席ではそれぞれの関係者から声を張り上げ各ウマ娘を応援する声が飛び交う。スタンドで見ている観客も声を張り上げ、トレーナーの目の前にあるガラスが振動で震えていた。

 皆が熱狂に当てられているなか、トレーナーは涙を堪えながらデジタルの姿を見つめる。

 

 本当に幸せそうだ。

 

 ゴールに向かっているデジタルの表情はこの世で最上級の幸福を得たようで、ここまで幸せそうな人間を見たことはない。

 この幸福を得るまでは決して楽な道のりではなかった。もがき苦しみ様々な障害を乗りこえ、時に道を見失いながら掴み取った。

 自分より遥かに年下の少女を心から尊敬する。もう何もいらない。あとは無事にこの幸せな時を味わってくれ。トレーナーは心の中で祈り続ける。

 

『残り100メートル!粘るティズナウとサキー!伸びてくるストリートクライとヒガシノコウテイ!追い込んでくるアグネスデジタルとヒガシノコウテイ!』

 

 それぞれが死力を出し尽くしてゴールを目指す。明日なんていらない。このレースに勝てるなら全てを捧げてやる。全てのエネルギーを燃やし尽くさんとばかりに走る6人の姿に観客達はさらに声援をあげる。

 ゴール板に近づくごとに6人は1つに重なるかのように差を縮めていく。その様子はシナリオで決まっているようだった。

 金、名誉、夢、欲望、プライド、信念。奪う為、守る為、証明する為に全てを投げ打ちやってきた誇り高き6人による夢の競演ダートプライド、それぞれが持つ理想や思想や矜持に優劣はない。

 だがレースは残酷であり1着以外は勝ち取れず守れず証明できず終わる。

 

 ついに終幕を迎え、審判が下された。

 

『6人が全く並んでゴール!ティズナウか?サキーか?ストリートクライか?ヒガシノコウテイか?アグネスデジタルか?セイシンフブキか?これは大接戦だ!6人とも全く譲りませんでした!』

 

 



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勇者と隠しダンジョン#18

三万文字越えです。



 6人がゴール板を駆け抜けた後もレース場のざわめきと歓声は全く収まらない。

 凄まじいレースだった。誰もが歴史的レースの証人になったことを実感し、さらに着順掲示板に表示されるタイムを見て、ざわめきと歓声は膨れ上がる。

 

タイム 2:00.4 R

4F 46.7

3F 35.9

 

 まずある程度レースに詳しい者はそのタイムに驚き目を疑う。2000メートルをほぼ2分ジャスト、芝の2000メートルなら時々記録されるタイムだが、これは芝よりタイムが遅くなるダートである。

 そして地方のレースに詳しい者はさらに驚く。大井2000メートルのレコードは2:03.7、右回りと左回りの違いがあるにせよ、3.3秒もタイムを縮めるという驚異的なタイムだった。

 そして今日の大井レース場で走ったウマ娘はさらに驚いていた。

 タイムは確かに驚異的だがバ場次第でタイムは大きく変わり、時計が出るバ場ではあればレコードはあっさり塗り替えられる。

 レコードを出したウマ娘は能力を持っていることは確かだが、レコードを出した者が最強であると言えない理由はここにある。

 だが今日のバ場はレコードが出るほど時計が速くないことは身をもって実感している。同条件で行われたレースは2:06.5だ。もはや驚愕を通り越して笑うしかない。

 

 一方レースを終えた6人はどよめきと歓声を聞きながらダートに膝をつき、内ラチに背を預け、あるいは寝そべる。全ての力を使い果たし自力で立ち上がれずにいた。

 デジタルはコースに寝そべり東京の夜空を見上げる。心臓が激しく脈打ち視界がグニャグニャと歪み、頭がガンガンする。最悪の状態だ。だがその顔には弛緩した笑顔が浮かんでいた。

 思う存分に5人を感じられた最高のレースだった、何一つ後悔はない。余韻に浸らんと5人の荒い息遣いを堪能しながら最高の体験を反芻する。

 

「お~い、生きとるか?」

 

 デジタルは記憶を堪能している最中に声をかけられたのが不愉快だったのか、鋭い目つきで声がした方向を向く。そこにはトレーナーがいた。レースが終わった直後に即座にコースに向かっていた。

 

「そんな、親の仇みたいに睨むなや。とりあえず全力出して尽くして脳に酸素が回っとらんやろ。これでも吸っとけ。あとも水分も摂っておけ」

 

 トレーナーから酸素吸引機を受け取り口に当てる。酸素が供給され少しだけ頭の痛みが治まってきた。そして給水ボトルを受け取り1口飲む、僅かな水分が体中に染みわたり、そのまま勢いよく飲み干す。

 一方トレーナーはデジタルの様子を観察する。鼻血が出ているが外傷ではなく、トリップ走法で極度に脳を酷使した影響だろう。

 それ以外に軽度の酸欠や脱水症状が見られるが暫く安静にしていれば回復するだろう。脚は怪我していない。

 限界を超えた反動による故障を心配していたが、特に問題が無いようなので胸を撫で下ろす。

 

「この様子だと判定に時間が掛かるやろ。とりあえず、地下バ道降りて裁決室に行くぞ。ほれ肩に捕まれ」

 

 デジタルは無言で頷きトレーナーの肩に捕まり地下バ道に向かう。

 

「何も喋らんでええ、本当に凄いレースやった」

 

 トレーナーは何か喋ろうとしているのを察し、先に制する。この状態では喋るのも億劫だろう。何よりそのだらしない笑みを見れば何を喋ろうとしているかは分かる。

 

「極上の体験が出来てよかったな」

 

 デジタルはほんの僅かに頷いた。

 

「師匠大丈夫ですか?しっかりしてください」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキに水分を摂らせてから、酸素吸引機を渡す。

 今までトレーニングで同様に疲弊したことがあったが、それは何本も模擬レースを走った時だ。たった1レースでここまで体力を使い果たし疲弊する。改めてこのレースの壮絶さを認識する。

 物凄いレースだった。今すぐにでもその感動を伝えたかった。だが今の状態では伝えたとしても騒音にすぎない。この思いは後で伝えよう。

 セイシンフブキは酸素吸引機を外しアジュディミツオーに差し出すと顎でヒガシノコウテイを差す。その意味を察し、ヒガシノコウテイの元に向かい、給水ボトルを渡し酸素吸引機を与える。

 他のウマ娘達の元には人が駆け付け介護しているなか、ティズナウとヒガシノコウテイの元には誰も居なかった。

 アジュディミツオーは疲弊しボロボロになったヒガシノコウテイを見つめる。セイシンフブキの凄まじい走りに差が無くゴールした。

 お互い似たような境遇でありながら主義が違う2人、ヒガシノコウテイは地方を重視し、セイシンフブキはダートを重視する。

 正直に言えばセイシンフブキには勝てないと思っていた。いくらダートの正しい走り方を身に着けようが、真のダートプロフェッショナルの前には敵わない。だが結果は僅差の写真判定だ。

 セイシンフブキのダート練度が劣っているとは思わない。その練度不足を補う何かが有った。それはフィジカルではなく心の部分だろう。

 

 ヒガシノコウテイはマスクを外すと疲労で辛い状態ながら柔和な笑みを浮かべ礼を言う。アジュディミツオーは会釈すると再びセイシンフブキの元に向かい肩を貸し腰に手を回す。とりあえず裁決室に運んでゆっくりと休ませなければならない。

 

「アタシと……コウテイさんを運べ」

 

 ポツリと耳打ちするとアジュディミツオーはそのままヒガシノコウテイに肩を貸し、腰に手を回して歩き始める。

 

「クライ!大丈夫か!?どこか痛むところはないか!?」

 

 キャサリロは水分を与え酸素吸引機をストリートクライの口に当てながら、問いかける。その問いにストリートクライは問題ないと指で〇印を作る。

 

「クライは2人で1人だと言ってくれたけど、レースで苦しんで辛いのはいつもクライだ」

 

 キャサリロは思わず愚痴をこぼす。本来なら労い褒めるべきなのだが、極度に疲弊した姿を見てつい弱音を吐いてしまっていた。

 ストリートクライはキャサリロの顔に手を添えてゆっくりと語り掛ける。

 

「そんなことはない……レースでもキティはここに居てくれた……辛いのを苦しいのを肩代りしてくれた……でなければ5人に負けてた」

 

 右半身の勝負服を指さす。キャサリロの勝負服から受け取った想いと力が無ければここまで走り抜けなかった。それは偽りのない本心だった。

 

「とりあえず下で休もう。その後に祝勝会だ」

「うん」

 

 ストリートクライはこれ以上なく頑張った。後は自分の番だ。勝利に相応しい極上の祝勝会の準備する。それが今できること。

 2人は勝利を確信したかのように上を向き胸を張りながら地下バ道に向かう。

 

 サキーはデジタル達が関係者の肩を借りながら地下バ道に向かう姿をみて満足げな表情を浮かべる。

 それぞれが自力では歩けないほど力を出し尽くしてくれた。そしてレースは6人が同時に入線する大接戦、まさに理想とするレースだった。

 これが人々の心を最も震わせるレースだ。その証拠に未だに歓声が鳴りやまない。

 するとデジタル達と入れ替わるように殿下が給水ボトルや酸素吸引機を持ったスタッフを連れてやってくる。先にスタッフが来てサキーの世話する。

 

「立てるか?」

 

 サキーは水を一気に飲み干すと差し出された殿下の手を取って立ち上がろうとするが、疲労や倦怠感が体中に駆け巡る。

 だがそれに耐えながら平然とした表情を強引に作る。業界のアイコンを目指すものがいつまでも地面に伏すわけにはいかない。

 

「申し訳ありません」

「何がだ?」

「殿下はもっと圧倒的な勝利を望んでいたと思いますが、5人はとても強くこのような僅差でしか勝てませんでした」

「まだ結果は出ていないが勝ちを確信しているのか?」

「はい、勝ったのは私です」

 

 サキーは断言する。レースを通してティズナウの言う王者の魂を手に入れた。

 今まで積み重ねたものに王者の魂が加われば負けるわけがないという自負、何より業界のアイコンになるために負けられないという願望が含まれていた。

 水分と酸素を摂取した後地下バ道に引き上げようとするが激走の影響か膝から崩れ落ちそうになる。だがその前に殿下が抱き支える。

 

「お召し物が汚れます」

「ゴドルフィンのエースが、業界のアイコンがこれ以上地に伏すのはイメージダウンだ。肩を貸そう。這うより肩を借りながら退場する方がまだマシだ」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 

 サキーは恐縮そうにゆっくりと殿下の肩に手を回し、2人はスタッフと一緒に地下バ道に向かって行く。

 

 ティズナウは内ラチに背を預け、サキーの後ろ姿を見ながらほくそ笑む。

 勝者とは地面に伏すことなく、自分の足で退場する者だ。他の5人は地面に伏し倒れこみ他者の手を借りて退場した。つまり勝者の資格無しである。

 ゆっくりと内ラチから背を離し立つ。その瞬間立ち眩み膝をつきそうになるが歯を食いしばり堪える。自身も力を振り絞り限界を超えており、他の5人と同等に疲弊していた。

 今すぐに膝をつきたい、寝転がりたい。様々な弱音が過るが即座に握りつぶす。自分はレース最強国アメリカを代表するウマ娘であり、つまりアメリカそのものだ。最強が地に伏せることは許されない。

 そのままゆっくりと地下バ道に向かい、観客席の一部から歓声があがる。

 疲労のせいでゆっくりとしか歩けなかった。だがその体中から発せられる自信が威風堂々と歩く勝者の貫禄と思われていた。

 地下バ道まであと数メートルというところで、観客席から大きなざわめきがあがる。思わず後ろを振り向くとオーロラビジョンにゴールする瞬間がスローモーションで流れていた。

 

「私が勝者だ!」

 

 ティズナウは拳を天高く突きあげ高らかに叫ぶ。映像を見ても誰が勝ったか判別できなかった。

 だが王者の魂を持ったウマ娘がアメリカのウマ娘以外に負けるわけが無い。その絶対的な自信は一切揺るがない。

 

「誰が勝ったかと思います?」

「全く分かりません」

「ボクも現役時代はハナ差でも勝ったかどうかは分かったんだが、それは写真判定で判別できるレベルだ。これほどまでに僅差だと誰も勝利を確信できないだろう」

 

 エイシンプレストン達はオーロラビジョンに映る映像を見ながら話す。コマ送りの映像を見る限り誰が勝ったかまるで分からなかった。

 

「皆にボクの全盛期の姿で留まりたいと思って引退した。その決断に後悔は無い。だがこんなレースを見せられたら、引退を伸ばしてもう少し走れば良かったと後ろ髪引かれてしまう」

「私もです」

 

 オペラオーの言葉にドトウは頷く。レースを走った6人は最高の興奮と充実感を味わっただろう。レースを見て興奮を味わったがやはりレースで実際に走って味わうのには敵わない。少しだけ現役選手が羨ましかった。

 プレストンは手を強く握りながら誰も居なくなったコースを見つめる。

 凄いレースだった。レベルもさることながら人々の心を惹きつける熱量、何よりデジタルの表情を見ればどれだけ楽しかったのか分かる。

 ならばこれ以上にレベルが高く人々の心を惹きつけるレースでデジタルに勝つ。香港のシャテンならばそれが可能だ。

 プレストンは今すぐにでも走りたいという衝動を必死に抑え込み、クイーンエリザベスcに向けて最高の調整を送るプロセスに思考を巡らす。

 

「1人のスポーツ選手としてレース場に集まった多くの観客を熱狂させた。わが娘ながら嫉妬してしまう」

 

 デジタルの父親はポツリと呟く。スポーツをする者は誰しもが多くの人が見られるなか、人々を熱狂させるプレイをしたいと思う。

 父親も例外では無く、いずれプロになって人々を熱狂させたいと願いながら夢は果たせなかったが、その夢を娘が果たしてくれた。嬉しさと誇らしさとほんの僅かの嫉妬の念を抱いていた。

 

「本当ですね」

 

 デジタルの母親は頷く。人は誰しも生を望む。人の生とは肉体を残しながら生き続けることだけではない。その人物の記憶や思想や考えが伝わることも生である。

 だからこそ人は人と交流し繋がりを持っていくというのが自身の考えだった。

 今日のデジタルの姿は多くの人の心に刻まれ記憶されて語り継がれるだろう。きっと自分より長い年月覚えてもらえるだろう。それが少しだけ羨ましかった。

 

「さて、デジタルの様子でも見に行きますか。ご両親もどうですか」

 

 プレストン達がデジタルの両親に話しかける。2人はその提案に応じデジタルの元に向かった。

 

 

 ダートプライドが終わってから20分が経過した、オーラビジョンの着順掲示板の1着から5着の表示はない。

 他者の進路を妨害して降着かどうか判断する審議の際には時間がかかることがあるが、審議のランプは表示されていない。これはただ着順を決定するのに時間が掛かっていた。

 あまりの判定の長さに一旦収まったざわめきがどんどん大きくなる。そしてレースを走った当事者達も固唾を飲んで結果を見守っていた。1人を除いて。

 

 トレーナーはニヤついているデジタルを見て苦笑する。これでダートプライドの記憶を反芻しているのは何度目だ?地下バ道を降りて裁決室で結果を待っている間ずっと目を瞑ってニヤニヤしていた。

 まるでこの世で最も美味く味が永遠に続くガムを噛んでいる子供のようだ。

 恐らく負けたらレースに勝利した時の記憶を封印することも忘れているだろう。しかしその数々の煌めく思い出を補って余りある記憶を手に入れた。きっと何とかなるだろうと楽観的に考えていた。

 すると裁決室が慌ただしくなる。これは着順が決まったか、トレーナーの心臓の鼓動が一気に高まる。そしてホワイトボードに着順が記載される。

 

第11レース ダートプライド 2000メートル 左回り

 

Ⅰ 4

   >ハナ

Ⅱ 1

   >同着

Ⅲ 2

   >同着

Ⅳ 3

   >ハナ

Ⅴ 5

   >同着

Ⅵ 6

 

 

 裁決室から、そして観客席から悲喜こもごもの声があがる。

 

「ヤッター!!!デジタルが勝った!!!」

「シャアアアア!!!」

「おめでとうデジタル!キミは真の勇者になった!」

「おめでとうございますデジタルさん!」

 

 トレーナーは天高く拳を突き上げ、プレストンがドトウがオペラオーが祝福の言葉をかけながら勢いよく抱き着きデジタルを揉みくちゃにする。

 

 ヒガシノコウテイは信じられないと膝から崩れ落ち。

 セイシンフブキは大泣きするアジュディミツオーの頭を胸で抱き。

 ストリートクライはキャサリロと悲しみを分かち合うように抱き合い。

 サキーは現実を受け止めるようにホワイトボードをじっと見つめ。

 ティズナウは声を荒げ物に当たり散らす。

 

1着 アグネスデジタル

2着 ティズナウ、サキー、ストリートクライ

3着 ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ

 

 ダートプライドの着順が正式に決まる。

 

 アグネスデジタルと2着との差は1センチ、2着と3着との差は1センチ、1着と6着の差は僅か2センチ、まさに空前絶後の死闘である。

 この6人に差は無かった。100回レースをやれば全て結果が違うほど実力は拮抗していた。全員同着という結果でも決して不思議ではない。だがレースの神様はそのような優しくも美しい結末を与えず、非情なまでの残酷な結末を与えた。

 ウイナーテイクオール、オールオアナッシング、その言葉通り勝者に全てを与え、敗者から全てを奪った。

 デジタルは勝利に全く執着していなかった。ただウマ娘を感じたいという一心で力を振り絞り限界を超え勝利した。

 レース展開の利か?ウマ娘の本能が勝利を求めたのか?はっきりした勝因は分からない。だがレースの神様はデジタルの育んだ心が、生き様が、技術が、肉体が勝利に相応しいと判断した。 

 

 

『それでは表彰式を行います。まずはレイの授与です』

 

 デジタルはコース上に設置された表彰台に立ちながら、レイを運ぶスタッフを見る。

 

 羽田盃、東京王冠賞、東京ダービー、ジャパンダートダービー、かしわ記念、東京大賞典、南部杯、BCマラソン、ドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞、BCクラシック。そしてダートプライド。

 

 それぞれの誇りや夢や思い出が詰まったレイを受け取る。皆納得の上で献上したのは分かっているが大切な物を奪い取るようで胸がチクりと痛む。

 するとコース上にセイシンフブキ、ヒガシノコウテイ、ストリートクライ、サキー、ティズナウが現れ、それぞれがスタッフからレイを取る。

 まさかレイを与えるのが惜しくなって奪ったのか?レース場に剣呑な空気が立ちこめる。

 皆が5人の様子に注目するなか、セイシンフブキが羽田盃、東京王冠賞、東京ダービー、ジャパンダートダービー、かしわ記念のレイを携えながら近づき、レイを肩に乗せ、己の魂を乗せるように拳をデジタルの心臓に当てる。

 勝者を讃え自らの手でレイを与える。勝者への敬意とスポーツマンシップ溢れる行動にスタンドから歓声があがる。

 

「ダートウマ娘の代表として挑んで負けた。もう芝ウマ娘なんてバカにしねえよ。アンタは立派なダートウマ娘だ。そしてダートウマ娘として芝のレースに出ても芝ウマ娘に負けるなよ」

「任せて、フブキちゃんをガッカリなんてさせないから」

「それからまた日本のダートで走れよ。もしくはドバイかアメリカのダートだ。挑戦者として挑みに行く」

「分かった」

 

 セイシンフブキは清々しい表情を浮かべながら立ち去る。それは今まで見たことが無い一面で心をときめかせていた。

 すれ違うようにヒガシノコウテイが南部杯と東京大賞典のレイを与える。その表情は暗く今にも涙を流すのを堪えているようだった。思わず声をかける。

 

「コウテイちゃんどうしたの?大切なものを貰ってごめんね。何ならこっそり返そうか?」

「いえ、これはケジメですから……それにもう必要ないですから……」

 

 ヒガシノコウテイはそそくさと背を向け離れていく、今にも消えてしまいそうな儚さに思わず手を伸ばしていた。

 そして入れ替わるようにストリートクライがBCマラソンのレイを与える。

 

「次はドバイで……」

「うん、ドバイで」

 

 ストリートクライは歯を食いしばりそっぽを向きながらレイを渡す。

 その子供っぽい仕草さに微笑ましさを覚えながら受け取る。次はドバイワールドカップで走ろうということだろう。キャサリロと2人の世界を作っているストリートクライが自分を注目していることであり、嬉しかった。

 次にサキーがドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞のレイをデジタルに与える。

 

「私はこれで業界のアイコンになる道が遠ざかりました。代わりにデジタルさんがアイコンになってくれませんか?」

「それはちょっと……」

 

 サキーはデジタルが言いよどむ様子を見てクスクスと笑う。

 

「冗談です。デジタルさんは自由に気軽に好きなレースを走ってください。堅苦しい役割は私が引き受けます。それに道は途絶えていません。今年の4大タイトルを全部取れば道は開きます。それは険しい道になると思いますが、これぐらいで諦められる夢ではありません」

「うん、サキーちゃんの夢を応援しているから」

「そしてBCクラシックで走りましょう。生まれ故郷でダートプライド勝者とグランドスラムをかけてのレース、きっとダートプライドと同じぐらい盛り上がります。私の夢の為に、そして友人として心待ちにしています。デジタルさんと走るのは本当に楽しいですから」

「アタシも!」

 

 サキーはデジタルにレイを与えた後ハグを交わす。

 負けた直後でお茶目に爽やかに接し心を温かくしてくれる。本当に太陽のような存在だ。きっと業界のアイコンとなって、ウマ娘達をサキーが照らしてくれるという予感を抱きながら見送る。

 最後にティズナウがBCクラシックのレイを2枚携えながら向かってくる。怒りで目を見開き殺気を全身に迸らせており、思わず身構える。

 

「アタシはティズナウちゃんの言う通りアメリカから逃げた軟弱者のチキンかもしれないけど、このBCクラシックのレイに相応しいウマ娘になるから」

「勝手にしろ」

 

 ティズナウは睨みつけながらレイを渡すと何も言わず踵を返す。そのダートに残る足跡を見れば、どれほど怒っているかは充分に感じ取れた。

 レイの授与が終わるとインタビュアーがデジタルの元に来て優勝インタビューが始まる。

 

「アグネスデジタル選手、優勝おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「史上稀に見るレースでしたが、ゴールした瞬間は勝利の手ごたえはありましたか?」

「よく覚えていないです」

 

 デジタルは質問に淡々と答えていく。体調は最悪でトリップ走法の影響で頭痛も酷く。今すぐにでも帰りたかった。

 レイを授与された時は皆が渡してくれるというサプライズでテンションが上がり、ウマ娘を存分に感じられた幸福感で倦怠感や頭痛が治まっていた。

 だがインタビューに対してテンションが上がらず倦怠感や頭痛がぶり返していた。

 機械的に答える様にインタビュアーは戸惑い、何とか盛り上げようとするが空回りを繰り返し、スタンドからも白けた空気が伝わってくる。

 

「最後に何かありますか?」

 

 インタビュアーは若干投げやりに形式通りの質問して、デジタルは答え始める。

 

「アタシは今日のレースは楽しみで楽しみで仕方が無かった。きっと人生で1番素敵な体験になるってワクワクしてたけど、期待以上になった。フブキちゃんが、コウテイちゃんが、ストリートクライちゃんが、サキーちゃんが、ティズナウちゃんが、一生懸命全力で煌めいてくれたから。

 コウテイちゃんはどんな時でも諦めず心が折れなくて、あの3コーナーと4コーナーの様子見た?あれだけ外に膨らまされたら絶対に諦めちゃうよ!でも諦めなかった!本当に尊いよね!それに最初のサキーちゃんとのポジション争いも激熱!お互いの意地と培ったものがぶつかり合った。飛び散る汗!体がぶつかり合う音!たまらない。それにマントに書かれている文字見た!?きっと過去にあった地方のレース場の名前が書かれていたんじゃないかな?過去の地方のウマ娘達の想いを背負って走る!エモすぎだって!」

 

 インタビュアーからマイクを奪い取り喋り続ける。本当ならトレーナーや両親や友人達など、支えてくれた人や応援してくれた人に感謝の言葉を言わなければならない。

 しかし気が付けばダートプライドの事ばかり喋っており、テンションは加速度的に上がっていく。

 

「フブキちゃんのあの追い込み!まず足音が違うよね!ズドン!ズドンって感じでさ!流石ダートプロフェッショナル!あのハンターに狙われるようなゾクゾク感!あれは病みつきになっちゃう!それに今日は何かウキウキ感的なものがあったな。まるでずっと小さいウマ娘ちゃんが走るのが楽しくてたまらないって感じ!また新たな一面を見られてキュンときちゃった!

 そしてストリートクライちゃんはまずは勝負服!エモすぎ!アタシを尊死させる気なの!あれはキャサリロちゃんの勝負服だよ!でなければダートプライドに着てくるわけないよ!苦しいときに友達が力を貸すって友情パワーじゃん!アタシもオペラオーちゃんやドトウちゃんやプレちゃんの勝負服を着ければ、友情パワー使えるのかな?今度聞いてみよう!

 サキーちゃんはやっぱり最終直線での根性勝負だよね。BCクラシックでティズナウちゃんに同じような展開になって叩き伏せられた。普通なら同じ展開を絶対に避けると思うけどサキーちゃんは過去を払拭しようって再び挑んだ!主人公じゃん!お互いが己の意地とプライドを証明するかごとくの叩き合い!これだけでご飯3杯いけるって!グフフフ、後で映像見直そうっと。

 そしてティズナウちゃんもアメリカのライバル達と鍛えぬいた王者の魂を証明しようとサキーちゃんとの根性勝負に真っ向からぶつかり合う!ここでも友情パワーですか!?王者に最も必要なのは勝負根性って言うだけあって負けられないよね!」

 

 

「まるで暴走機関車やな。もし俺のチームに在籍してたら謹慎やぞ」

「テンション上がりすぎ、まるで遊園地に行って楽しかったことを延々と喋る子供みたい」

「ケンタッキーダービーを見た後はいつもこんな感じだったな」

「ああ、懐かしい。その翌日は寝不足だったわ」

「まあ、こんな最高のレースと体験をしたんだ。少しぐらい羽目を外してもバチは当らないさ」

「羽目を外しすぎな気がしますが、でも本当に楽しそうで嬉しそうです」

 

 トレーナー達は好き勝手喋り続けるデジタルに生暖かい目線を送る。

 様々な困難を乗り越えて辿り着いた末隠しダンジョンをクリアしたのだ。これぐらい喜ぶぐらい許されるだろう。そして流石に喋りすぎとインタビュアーが何とか終わらせようとデジタルに呼びかける。

 

「え?もう終わりにしろ?もっと喋れるけど、まあいいや。最後に一言、アタシは最高の体験だったけど、皆はどうだった?最高だったでしょう。それはあれだけ素敵なウマ娘ちゃんが最高に煌めいたんだから当然だよ。初めて見た人も楽しかったでしょう。何て言ったってレースは最高のエンタメだからね!

 そしてそんな最高のエンタメはここ以外でもやってます。土日祝日では中央でレースがやっていて、それ以外でも地方でレースやってるし、日本以外でもアメリカやヨーロッパとかいろんな国でやってる。つまりその気になれば毎日レースが見られます!毎日が日曜日!世界はシャングリラ!

 あとレースを見てワクワクして感動してエモい尊いと思ったウマ娘ちゃん達!レースを見てウマ娘ちゃんを調べて尊みを感じるのもいいけど、やっぱりレースを走って1番近くでウマ娘ちゃんを感じられるのが一番だよ!でも私なんて才能が無いからって弱気になっちゃダメ!懸命に走るウマ娘ちゃんを感じれば沼に嵌っちゃうよ!だからレースを走ろう!地方も中央も芝もダートも海外のレースを見て走って!皆でもっともっと楽しもうよ!」

 

 デジタルは知っている。ヒガシノコウテイが地方に目を向け差す為に、セイシンフブキがダートに目を向けさせる為に、サキーが1人でも多くの人にレースを見てもらい、レースに携わるウマ娘と関係者を幸せにするためにダートプライドに挑んだことを知っている。

 全員の願いは叶えられないが少しでも叶える為に、自分なりの言葉でレースの素晴らしさやダートや地方に目を向けさせようとした。

 何より自分が好きなものを他人伝え知ってもらいたいという欲はオタクの性だ。

 

「それで次はウイニングライブだっけ?アタシの持ち歌は中央が権利を持っているので、使えないみたい。なので代わりにアタシが好きな曲を歌います。レースを知っている人もなじみがあると思うし、世間的にも有名みたいだから知っていると思うよ。レースがある日は毎日が楽しくて祝日気分で大好き、いや、愛してま~す。ということでlove holiday! 」

 

 デジタルが曲名を言うとイントロが流れ始め手拍子を促す、馴染みの名曲のリズムは殆どの人間は知っていて、手拍子を送る。

 段取り無視で突如ウイニングライブが始まり、インタビュアーは困惑の表情を見せながら責任者に視線を送る、責任者はGOサインを出し、観念したようにコースから掃けていく。

 

 

───love holiday

 

 中央ウマ娘協会のCMで使われた曲で、バンドの代表曲であり世間にはそれなりに知られている。

 デジタルも聞いた時からレースを見に行く、あるいは走りに行くワクワク感を見事に表現して、お気に入りの曲だ。

 

『なんか気持ちいいね今日は

 超キミと出掛けたい気分だ』

 

 レースを走る日は祝日気分で常に気持ちがいい。今日のダートプライドもスキップ交じりでこの歌を口ずさんでいた。

 レース場はさながら遊園地かデートスポット、レースは意中のウマ娘とのデートかもしれない。

 

『難しいことは一掃 後回しで

 ユラユラ車でロングタイム』

 

 名誉、地位、金銭、未来、難しいことは後回しでダートプライドに臨んだ。レースを走るまで長い道のりだった。その道はデコボコで、ユラユラと心地よく行けるものではなかったが、最高の体験をするためのスパイスとして利いていた。

 

『じっくりゆっくり話したい

 あの橋超えたら君と

 いつもより大きな声で唄おうかな』

 

 レースを通してじっくり存分に感じたいが、レースの時間は長くはない。だから5感を研ぎ澄ます。

 ゴール板を超えてレースが終わったら、ヒガシノコウテイとセイシンフブキとストリートクライとサキーとティズナウと存分に語り合って笑い合いたい。それぞれ住んでいるところが違うので厳しいが、いつかできる日が来るといいな。

 

『Wow Wow Wo Ho Ho♪Wow Wow Wo Ho Ho~♪

Wow Wow Wo Ho Ho♪Wow Wow Wo Ho Ho~♪』

 

 今日は本当に楽しかった。感情を乗せて歌いあげる。その感情が伝わったのか、観客達も楽し気に口づさむ。

 歓喜の歌は東京の空に高らかに響き渡った。

 

 

───

 

「オイいい加減に泣き止め、鬱陶しい」

「だって、師匠が負けるなんておかしいですよ。ダートを1番愛して極めているのは師匠じゃないですか」

 

 控室内にアジュディミツオーの涙声が響き、セイシンフブキは思わず舌打ちする。背後でグズグズと泣かれるのは不快だ。

 だが涙を止められず、泣きながらセイシンフブキの背中を押してクールダウンを手伝う。

 たった2センチ、たった2センチで全てを失った。これからは南関東4冠ウマ娘と名乗るどころかGI未勝利、いや重賞未勝利ウマ娘となってしまった。

 死に物狂いで積み上げた勲章と名誉が消え去った。これが泣かずにいられるか。

 

「アタシが負けたのはダートへの理解と熟練度が足りなかったからだ。技術の向上に到達点はないってアブクマ姐さんが言ってたけど、正直うぬぼれてた」

 

 セイシンフブキは自らの認識を自嘲する。ダートを極めたつもりはないが、山の8合目までは登っていると思っていた。だがその認識は甚だ甘くまだまだ麓に居たにすぎなかった。

 直線では何もかも忘れダートを探求したいという一心で走っていた。その結果少しだけ極められた。でなければ今日のダートコンディションでこのタイムは出ない。  

だがダートという山をほんの僅かに登ったにすぎない。

 ダートは果てしなく高く深く、恐らく生涯かけても頂点に登ることはできない、いや誰1人登ることはできないだろう。

 近づけば近づくだけ、目標の深さと高さがより詳細になっていく。ある者はその深さと高さに絶望し足を止めるかもしれない。

 だがセイシンフブキは違う。足を止めることなくダートを探求し続けるだろう。一生かけて夢中になり探求できるものがあることへの幸せを噛みしめていた。

 

「よし、クールダウン終わり。行くぞミツオー」

「どこにですか?」

「コウテイさんのところだ。ダートプライドについて検討会をする。あの人の意見も聞きたい」

 

 勢いよく立ち上がると部屋を出て、ヒガシノコウテイの控室に向かう。

 ダートプライドの敗戦から既に切り替え前を向いていた。より極める為に他者の意見を聞くことが重要だ、ならば自分の次にダートを知るヒガシノコウテイだ。自分には無い視点で意見を言ってくれるかもしれない。

 2人はヒガシノコウテイの控室に向かいノックする。反応は返ってこなく数回ノックしても同じだった。

 もしかしたら帰ってしまったか、そうなると連絡をとって落ち合わなければならない。面倒くささを感じながら確認のために扉を開ける。

 

「ヒィ……」

 

 アジュディミツオーは悲鳴をあげ、セイシンフブキも思わず唾を飲み込む。ヒガシノコウテイは部屋に居た。

 勝負服を着たまま椅子に座って虚空を見つめ続ける。それだけならボーッとしているだけにも思えるが、特質すべきはその陰気さだ。大人しい性格でどちらかといえば陰気だが、この陰気さは異常だ。

 ダートプライドへの意気込みと熱意は知っているが、負けただけではこの状態は説明できない。

 

「どうしたっすか?」

 

 セイシンフブキは思わず声をかける。このまま放っておいたら自殺でもしかねないと思わせるほどの危うさがあった。

 

「もう終わりです……私のせいだ……」

「何がですか?」

「もう終わりなんです!私が負けたら!地方の輝かしい未来は潰えて!地方は次々と潰れる!」

 

 ヒガシノコウテイはヒステリックに大きな声を叫び、その声量と形相にアジュディミツオーはヒィと悲鳴を上げセイシンフブキに思わず抱き着く。

 

「それはダートプライドに勝てれば地方の力を示せましたけど、世界屈指の相手にこれだけのレースをすれば世間も注目しますって」

「そういう問題じゃない!私が!先人たちの!関係者の努力を無駄にして!後輩達の未来を断った!終わらせた!」

 

 ヒガシノコウテイは髪を掻きむしりながら叫び散らす。その声量に2人は思わず耳を塞ぐ。

 普段ならこうはならなかった。負けたことを悔しがながらも前を向き、みんなで一丸となって地方を盛り上げるというだろう。そんなヒガシノコウテイを変えてしまったのはレース中に見た光景だった。

 トランス状態に入った際に見た未来の地方ウマ娘達が様々なレース場でGIを勝利する映像と、その輝かしい光景が次々と黒く塗りつぶされて閉鎖していく地方レース場という光景、それを見てレースに勝てば輝かしい未来が訪れて、負ければレース場が次々と閉鎖される暗黒の未来が訪れると確信した。

 決して神でもなく未来予知ができるわけではない、見た光景はトランス状態に入った際に見える幻覚にすぎない。それに未来は不確定であり行動次第でいくらでも変えられる。

 だが初めてトランス状態に入ってみた幻覚はあまりにも神秘的だったがゆえに強烈な印象を与え、絶対的な真実であると認識させてしまった。

 

「そんなことないでしょう。これからアンタが地方のGIで勝ち続け中央の奴らを倒せばいいでしょう。そうすれば人も集まる」

「うるさい!うるさい!うるさい!もう終わりなんだ!私のせいで!ああああ!!!」

 

 セイシンフブキの慰めの言葉に絶叫をもって拒絶し涙を流す。今は誰の言葉を届かない。例えメイセイオペラの声であっても。

 

「どうするんですか師匠?」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキを見つめる。その目にはこれ以上関わりたくないとありありと語っていた。

 一方セイシンフブキも対応に窮していた。これ以上関わりたくないが、あまりの情緒不安さで放っておいたら何をするか分からない。

 

「失礼します!」

 

 返事を待たず勢いよく扉が開くと人が雪崩れ込んでくる。それは6人のウマ娘だった。

 アジュディミツオーと同世代ぐらいで緑と赤に宇宙と書かれたシャツを着たウマ娘。

 小学校6年ぐらいで青地に赤い星が鏤められたコートを着ているウマ娘と、その右手は幼稚園児ぐらいの紫と黄色のコートを着た栗毛のウマ娘の手を握っていた。

 小学校3年ぐらいで左耳に黄色と赤のリボン飾りをつけているウマ娘。

 アジュディミツオーと同世代ぐらいの葦毛の少女は右手に、小学1年生ぐらいの赤と白のダイヤモンド柄の服を着たウマ娘。

 

 突然の来訪者、ヒガシノコウテイに反応は無く、アジュディミツオーとセイシンフブキはお互いの反応を見て知り合いではないと確認する。

 一方6人のウマ娘達もセイシンフブキの姿を見て騒いでいる。すると緑と赤に宇宙と書かれたシャツを着たウマ娘が一歩前に出る。

 

「今日のレース凄く感動しました!どうせ地方出身はダメなんだ、世界のウマ娘に勝てるわけがないって思ってました!でもあとちょっとってところまで追い詰めて、凄く凄く感動して!それをどうしても伝えたくて。私もあんな風になりたいって!だから私は地元の北海道ウマ娘協会に所属して!岡田のおっさんと五十嵐兄ちゃんと一緒にクラシック3冠をとります!」

 

 突然の告白、ヒガシノコウテイの体がピクリと動き、セイシンフブキはニヤニヤと眺める。そしてアジュディミツオーは不機嫌そうな顔を浮かべながら近づく。

 

「あっ?クラシック?ダート見下してんのか?師匠の走りを見てダート凄えってなんねえのか?地方はダートプロフェッショナルが集まる場所なんだよ。芝好きのゴボウは中央に行ってろよ」

「アタシはダートの才能が絶望的にありません。でも地方で走りたいんです!だから地方在籍で芝GIをとります!」

「この…」

 

 アジュディミツオーは思わぬ反論を受けて、さらに言い返そうとするがセイシンフブキが制する。

 

「ガキ、本当にダートの才能が無いと自覚したんだな。芝のほうが注目を集めるからってわけじゃないよな」

「本当です!」

「なら地方で芝を走り続けろ、万が一未練タラタラでダートに来たら、アタシとコイツが一緒に走って2度と走りたくなくなるぐらいに心をバキバキに折る」

 

 セイシンフブキは指でアジュディミツオーを差しながら凄む。一方少女もセイシンフブキの目をじっと見つめ返事する。その目には強固な意志があった。

 

「アタシもヒガシノコウテイさんとセイシンフブキさんの走りに感動して、地方で走ることに決めました!ヒガシノコウテイさんみたいに地方のファンに夢を与えて、セイシンフブキさんみたいにダートをカッコよく走るウマ娘になりたいです!まずは2代目南関4冠王者になります!」

「アタシだってタメにサバトンやアンパが居るけど、2人に全部勝って南関4冠王者になります!」

「何言ってんだ!師匠の後を継いで2代目南関4冠王者になるのはアタシだ!」

 

 葦毛のウマ娘と青地に赤い星が散りばめられたコートを着ているウマ娘の言葉に、アジュディミツオーに反応し、睨みつける。

 目の前で南関4冠奪取宣言は宣戦布告に相応しかった。その様子を見てセイシンフブキはクスクスと愉快そうに笑う。

 

「どいつもこいつもビッグマウスだ。せいぜい頑張れ。あと全部勝った奴は初代南関4冠だからな」

「でもセイシンフブキさんは勝ったはず……」

「今は違う。あとダチとかと話す時はアタシが南関4冠王者とか絶対に言うなよ」

 

 セイシンフブキは釘を刺し、その迫力の前に3人は思わずうなずいていた。

 ダートプライドに負けたものはレイを献上すると同時に、勝ち鞍を可能な限り抹消しなければならない。

 この3人の認識を訂正しても何も変わらないかもしれないが、可能な限りと言われている以上、最大限やるのは敗者としての義務だ。

 一方ヒガシノコウテイは2人のやりとりに目を背け下を向く。すると人の気配を察し思わず顔を上げる。

 そこには左耳に黄色と赤のリボン飾りをつけているウマ娘が顔を紅潮させながら、たどたどしく喋り始める。

 

「ヒガシノコウテイさん!ミーチャンは地元の笠松が嫌いでした。周りの人はオグリを目指せ、オグリみたいになれって、昔のことをいつまでも、だから絶対地方には行かず中央で走るって決めてました。けど!今日のレースを見て、凄くキラキラしていて!感動して!だからミーチャンは笠松で走る。オグリじゃない、笠松のヒガシノコウテイさんになります!」

 

 少女は言い終わるとさらに顔が紅潮し、手で顔を覆いながらしゃがみ込む。

 これだけで周りには少女がどれだけシャイであり、勇気を持って想いを伝えたのかが伝わっていた。

 ヒガシノコウテイは顔を歪めながら再び目を背け下を向く。その視線の先に小学1年生ぐらいの赤と白のダイヤモンド柄の服を着たウマ娘と、紫と黄色のコートを着た栗毛の幼きウマ娘2人がスカートの袖を引っ張っていた。

 

「おねえちゃん、かっこよかった!」

「かっこよかった!」

「あの……その……」

 

 ヒガシノコウテイは幼きウマ娘達の無垢な瞳に耐えらないと再び視線を外す。だが幼きウマ娘達は構わず話し続ける。

 

「ジュニアもお姉ちゃんみたいにピューッてはやく走りたい!それでクロおねえちゃんに勝って、ジーワンに勝つの!」

「フォンちゃんもおねえちゃんみたいにカッコよくなって、パパとママの代わりにかわさききねんに勝つの!」

 

 幼きウマ娘は尊敬や憧れの眼差しで見つめる。他の4人も同じような瞳で見つめる。

 止めて、止めてくれ。自分にはそんな目線を向けられる価値は無い。賞賛の言葉を聞く資格は無い。全てを拒絶するように背を向けると目を瞑り耳を伏せる。

 ヒガシノコウテイの仕草に若いウマ娘達は不穏さを感じ、耳は伏せ尻尾がせわしなく動く。

 

「いい加減にしろ!ヒガシノコウテイ!」

 

 セイシンフブキは声を張り上げヒガシノコウテイを強引に振り向かせると、襟を掴み睨みつける。

 

「いつまで不貞腐れてんだ!あんたに憧れたガキに、そんなダセえ姿を見せるな!」

 

 ヒガシノコウテイは目を開け思わず体をビクリと震わせる。まるで死人みたいな目だ。一発ぶん殴ってやろうと思ったが、懸命に堪える。

 セイシンフブキはアブクマポーロに憧れていた。常に聡明で思慮深くカッコいいアブクマポーロで居てくれた。だからこそ憧れを幻滅させるような態度が許せなかった。

 

「うるさい!うるさい!うるさい!本来の私なんてこんなもん!レースに負けて地方を潰した最低のウマ娘!それが私だ!」

「なんでアンタが負けたら地方が終わるんだよ!」

「私は天啓を見た!勝てば地方に訪れる輝かしい未来!負ければ地方が衰退する映像を!これは絶対的な真実で私は負けた!」

「うぬぼれんな!」

 

 ヒガシノコウテイの慟哭を掻き消すようなセイシンフブキの一喝、あまりの声量に2人以外のウマ娘は反射的に耳を塞ぐ。

 

「ダートプライドに負けただけで地方が終わるのか!?アンタが愛した地方はそんなに弱いのか!?違うだろう!天啓だが知らねえが、そんな未来なんてアタシ達が簡単に覆してやる!」

 

 ヒガシノコウテイの心臓がドクンと大きく脈打つ。地方は苦しい時期でも耐え忍んできた。その逞しさがあればもしかすると、だが暗黒の未来が脳内を覆う。

 

「それにこいつらが走る前に地方を終わらせんのか!?このガキ共みたいにダートプライドでのアンタを見て憧れて、地方を志す奴が必ず居る!ラリッて何を見たか知らねえが、そんな幻覚1つでそいつらの夢を奪うのか!?そんなの知るかって未来を変えるのが地方総大将の役目だろうが!」

 

 その瞬間ヒガシノコウテイに覆っていた暗黒の未来が一気に晴れる。自分の走りに憧れ、ロマンと幻想を抱いてくれた者が現れた。

 これは自分が蒔いた種だ。種を蒔いた者は芽が出て花を咲かせるまで土地を守り世話する義務がある。

 ダートプライドに負けて地方のファンに夢を見せられなかった。だが次世代なら、それが出来なくても次の世代が必ず夢を見せてくれる。かつての先人がそうしてくれたように。それが地方総大将の役目だ。

 ヒガシノコウテイの目に生気と熱が宿る。

 

「フブキさんありがとうございます。お陰で目が覚めました」

「そりゃよかった。地方総大将がしっかりしてくれないと、実力的にアタシが代りを務めないといけなくなる。そんなのまっぴらごめんだ。アタシは地方とか関係なく好き勝手ダート探求したいだけなんで」

 

 セイシンフブキは世話が焼けると悪態をつく一方笑みを浮かべ、ヒガシノコウテイは会釈を向けながら、幼いウマ娘達のほうに向かう。

 

「見苦しいところを見せてすみません。北海道所属でクラシックを走るということは外厩でのトレーニングを主体に?」

「はい」

「周りからは貴女を地方ウマ娘では無いと言ってくるかもしれません。ですが北海道を愛し、地方としての誇りを胸に抱き続ければ、立派な地方ウマ娘です。地方の新たな可能性を切り開いてくれることを心から期待しています」

 

 ヒガシノコウテイは言葉を交わし握手をする。僅かな会話を交わしただけだが、緑と赤に宇宙と書かれたシャツを着たウマ娘に渦巻いていたヒガシノコウテイへの恐怖は消え去り、温もりと優しさが心を包む。

 会話の中で心の底から思いやり、可能性を期待しているのを感じ取っていた。

 

「頑張って南関東4冠を勝ち取ってください。そして取れなくても落ち込まず頑張ってください。中距離で勝てなくてもマイルやスプリントに適性が有るかもしれません。そして地方には多くのマイルや地方重賞があり活躍の場があります」

「同世代に競い合えるライバルが居る。それは素晴らしく素敵な事です。いつか貴女達が南関東3強と呼ばれ地方のファンに夢を与えてくれることを期待しています」

 

 ヒガシノコウテイは青地に赤い星が散りばめられたコートを着ているウマ娘と葦毛のウマ娘に声をかけて握手を交わす。

 彼女達なら地方にロマンを与えてくれる。それができなくても次世代に種を蒔いてくれる。2人にその想いが伝わったのか、力強く頷いた。

 

「私に憧れてくれてありがとうございます。そして笠松のファンを怒らないでください。オグリキャップさんが与えてくれたロマンと幻想はあまりにも眩しすぎました。私に憧れて走ってくれてかまいません。ですがいずれ笠松のファンを想いを背負い、笠松のファンにとっての私達のウマ娘になってください」

 

 次に左耳に黄色と赤のリボン飾りをつけているウマ娘に声をかけ握手を交わす。

 笠松で走るウマ娘はある意味1番厳しい環境に有るかもしれない。強いウマ娘は必ずオグリキャップと比較され弱ければ落胆される。

 それは辛いことだが、それでも笠松のファンの想いを背負って走り続ければ目を向けて、オグリキャップの代わりではなくありのままを見て応援してくれる。

 

「ジュニアちゃんは元気いっぱいだね。お姉ちゃんが貴女達ぐらいの頃はそんなに元気がなかったよ。そんなに元気いっぱいならクロおねえちゃんよりも速くなって、ジーワンにも勝てるよ」

「フォンちゃんならおねえちゃんよりずっとカッコよくなれるよ。川崎記念に勝てばおとうさんやおかあさんや周りの皆はいっぱいいっぱい喜んでくれるよ」

 

 ヒガシノコウテイは大きな動作をつけて、赤と白のダイヤモンド柄の服を着たウマ娘と紫と黄色のコートを着た栗毛の幼きウマ娘に話しかける。

 2人は褒められて嬉しかったのかピョンピョンと嬉しそうに跳ねる。

 

「ありがとうございました!」

 

 ウマ娘の少女達は満面の笑みを浮かべながら控室を去っていく。それぞれの手にはヒガシノコウテイとセイシンフブキ勝負服の一部の装飾が握られていた。

 

「さて、この後は反省会だ、コウテイさんも強制参加ですよ。あんだけ迷惑かけたんだから当然ですよね」

「はい、返す言葉も無いです。今日はとことん付き合います」

 

 セイシンフブキはニヤニヤと恩着せがましく肩を叩き、ヒガシノコウテイは深々と頭を下げる。

 暫くすると勝負服を脱ぎ帰り支度を始め、2人は外に待機する。

 

「師匠、あのガキ共はヒガシノコウテイさんみたいになりたいって言ってましたけど、師匠の走りも充分刺さってましたよ。今まででベストでした」

「ほぅ、少しは見る目ができてきたな」

「あざっす」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーの頭をクシャクシャとかき乱す。決してお世辞ではないことは声を聞けば伝わってくる。

 

「そして、今日のレースでアタシが目指す道が見えました」

「それは何だ?」

「師匠のダートプロフェッショナルとしての強さ、そしてヒガシノコウテイさんの地方総大将としての強さ、この2つを兼ね備えたウマ娘になりたい」

 

 アジュディミツオーははっきりと言い放つ。ヒガシノコウテイとセイシンフブキは同着だった。ダートプロフェッショナルと地方総大将では優劣はない、ならばお互いの強さを身に着ければさらに強くなれる。

 未だにヒガシノコウテイの強さの詳細は分からないが、地方所属の自分なら身に着けられる条件は整っているはずだ。

 

「好きにしろ」

「怒らないっすか。そんな中途半端なことするなって」

「お前の目的は勝つことだろう、強くなる道は1つじゃないんだ。お前が信じる道を進めばいい」

 

 セイシンフブキはあっさりと言い放つ。アジュディミツオーには自分と同じ道をついてきてもらいたい気持ちもある。

 だが自身で悩み考え選び抜いた道なら仕方がない。そして現時点で地方最強の2人の強さを合わせたウマ娘がどこまで強くなれるか、少し楽しみだ。

 

「お待たせしました」

「よし、行くか。今日オールだな、聞きたい事が山ほどある。そしてミツオー、アタシ達からしっかり学べよ」

「もちろんです!」

 

 3人は東京の夜に消えていく。

 ダートプロフェッショナルと地方総大将は敗れ去り、世界の頂には届かなかった。だが2人の走りは多くの人の心を震わせる。

 そして2人が残したものは種として蒔かれ、次世代のウマ娘が育み花を咲かせる。

 

 クラシック路線を皆勤し皐月賞では2着、ジャパンカップ2着、そして地方所属で初めて海外GⅠ勝利の偉業を達成した、北の大地が生んだ偉大なる挑戦者コスモバルク。

 

 地方所属で史上初のJBCスプリント制覇、前人未踏の東京スプリング盃4連覇、長きに渡り地方ダートスプリントを牽引し続けた白き流星フジノウェーブ。

 

 ダート戦国時代と呼ばれた世代に生まれ、ジュニアB級から数々のダート名ウマ娘と鎬を削りGI6勝、史上初地方年度代表ウマ娘4回受賞した南関東の守護神フリオーソ。

 

 オグリキャップの幻影と期待を背負い続け、ジュニアB級でGI全日本ジュニア優駿を制覇、その後も重賞3勝し、人々に夢を与えた笠松の快速娘ラブミーチャン。

 

 デビューからスプリント路線を歩み続け、JBCスプリントでは乾坤一擲の末脚で撫で切り、姉が届かなった悲願のGI制覇した大器晩成のスプリンター、サブノジュニア。

 

 船橋所属だったトレーナーの父と同じく船橋所属の母ジーナフォンテンが挑み破れた川崎記念に勝利し、両親の無念を晴らした。地方が育んだ純血種エース、カジノフォンテン。

 

 GI5勝、南関東GI完全制覇、そしてダート歴代最強と呼び声もある雷神カネヒキリが全盛期時の帝王賞、地方の代表として迎え撃ち、2段ロケットと呼ばれた逃げで真っ向から撃破。アブクマポーロの想いを受け継ぐように地方所属で初めてドバイワールドカップに出走。

 多くの地方のファンの想いを継ぎながら走り、地方の力を示し威信を守り道を切り開いてきた。南関東の哲学者と南関東の求道者の魂を受け継いだ南関東の大エース、アジュディミツオー。

 

 それ以外にも数多くの次世代の地方ウマ娘が力を示し、ファン達に夢を与えていく。そのウマ娘の多くはこう語る。

 

───ダートプライドでのセイシンフブキとヒガシノコウテイのように、人々に夢とロマンを与えたい

 

 

───

 

「負けちゃった……」

「ああ、負けたな」

 

 ゴドルフィン専用の送迎バス内、最後尾の席に座っているストリートクライとキャサリロの声が空しく響く。

 ストリートクライ達はデジタルにBCマラソンのレイを渡した後、クールダウンを済ませ、サキーや他のゴドルフィンのスタッフに先駆けバスに乗り込んでいた。

 

「私達は過去、現在、未来において最強のはずなのに、たった1センチの差で負けた……もっと私が頑張ってれば……」

 

 ストリートクライの独白は次第に嗚咽が混じる。レースにおいて1センチなんてゼロコンマ数秒で通過できる距離だ。

 そのゼロコンマ数秒分の距離を埋められなかった。ゴール前でもっと体を伸ばせていたら、もっとコーナーを速く回れたら、今頃2人で最高の喜びを味わっていたのに、もっと自分が頑張っていれば。あまりの申し訳なさにキャサリロと目を合わせられず下を向き続ける。

 

「0.5センチだ」

 

 キャサリロはストリートクライの肩に手を回し呟く。

 

「アタシ達は一心同体、2人で1人だろ。勝利の喜びも敗北の悔しさと責任も全て2等分だ。だからクライが頑張るのは0.5センチ分だ、残りの0.5センチはアタシが頑張る」

 

 ストリートクライはその言葉にハッとすると同時に、重荷がスッと消えたような感覚を覚える。

 一心同体と言っておきながらどこかでレースを走っているのは自分であり、責任は全て自分に有ると思っていた。

 それはキャサリロに責任を背負わせたくないというストリートクライの優しさだったが、それは真の一心同体ではないことに気づく、良いことも悪いことも全て分かち合うのが一心同体だ。

 

「そうだね。私が0.5センチ、キティが0.5センチ頑張れなかったから負けた」

「そうだよ。この根性なし」

「キティが考えたティズナウ用のセリフ長すぎ……喋るのに疲れた……」

 

 2人はじゃれ合いながら悪態をつき文句を言い合う。お互い決して本心では無いが、少しでも悲しみを癒そうと意図しておどけていた。

 一頻りじゃれ合いお互いの乱れた息遣いが車内に響く中、ストリートクライがポツリと呟く。

 

「あんなに大口叩いて負けたから……、周りから色々言われそう……」

 

 強い言葉を吐けばその分世間から注目を集めると同時に反感を買う。

 過去、現在、未来において私達は最強のウマ娘、このセリフはレースの歴史においても最も大きいビッグマウスであった。ファンを挑発する意図はなかったが、世間はそう捉えていなかった。

 

「それは言われるだろう。口だけ野郎、嘘つき、ゴドルフィンの恥さらし、今までの勝ちは弱メンツに勝っただけ、ストリートクライとは何だったのか?さっさと引退しろ。思いつくだけでこれだけ文句が出てくる」

「そうだよね……」

 

 ストリートクライの表情が曇る。瞬間的に思いついただけでも心に結構くる言葉だ、時が経てばもっと心を抉る文句を言ってくるだろう。

 自分だけなら耐えられるがキャサリロにも範囲が及ぶかもしれない。全てを分かち合うと誓ったが、それでも心苦しい。

 心配を察したのか意図的に歯を見せるような笑みを見せ、明るい声色でストリートクライを励ます。

 

「心配するな。言われるのはほんの暫くだ。次のドバイワールドカップでは今日走った5人が出てくるから、そこで勝てばいい。世界4大レースの1つだし、こっちで勝った方がインパクトは強い。そしてプラン通り勝ち続ければ周囲も黙って、アグネスデジタルに負けたことなんて忘れる」

「でもアグネスデジタルがドバイに出なかったら?」

「そしたらBCクラシックに出てこいって煽りまくる。流石にダートプライドに勝ったウマ娘がダートの2大レースに出ない訳にはいかないだろう」

 

 まあ、煽るなんてことをしなくても出走しないと困ると言えば、喜んで馳せ参じてきそうだがな。キャサリロはデジタルの様子を思い浮かべ口角が上がる。

 

「それでもアグネスデジタルが日本に引き籠ったら?やっぱり直接勝たないと世間は納得しない」

「それならアタシ達が日本のレースに走ればいい。予定のレースを1つ削らないといけないけどな」

「走るならどのレースになるの?」

「えっと……2月下旬のダート1600フェブラリーステークス、11月下旬のダート2100ジャパンカップダートだな、他にもダートGIはあるが外国ウマ娘は出られない」

「じゃあ、フェブラリーステークスに出走しよう」

「相変わらず生き急いでるな、アグネスデジタルが出走するか分からないぞ。焦るな焦るな」

 

 キャサリロは落ち着けとストリートクライの肩を揉む。少しでも自分の汚名を返上しよう焦っているのだろう。その気持ちは有難いがそれで無理して故障したら元も子もない。ゆっくり少しずつ道を歩めばいい。

 

「そうだね……私達は過去現在未来において最強のウマ娘……でもまだ発展途上、伸びしろはたくさんある……最終的に最強になれば問題ない」

「そうだ。それにアタシ達は2人だから他の負けたウマ娘より有利だ。2人なら勝利の喜びが2倍になるからより一層頑張れる。2人だから悲しみを半分に……あれ?」

 

 キャサリロは言葉を詰まらせその頬には涙が流れ落ち、思わず下を向く。励まそうとかつて聞いた言葉を話していると突如悲しさや悔しさが一気に肥大化し襲い掛かる。

 その悔しさ悲しさは現役時代に負けた時よりも、連敗続きでゴドルフィンから除籍になった時より遥かに大きい。

 

「キティ……どうしたの?」

 

 ストリートクライは顔を覗き込み思わず訝しむ。泣いたと思ったら妙な笑みを浮かべており少し不気味だった。

 

「いや……こんなに悔しいのは初めてでさ……その分だけクライの悔しさを分け合ったと思うと嬉しくて」

 

 ストリートクライが勝利するたびに嬉しかった。だが今思えば本心で喜んでおらず、無意識にどこか他人事だと思っていたのかもしれない。だが今は他人事では無く当事者として個々の底から悔しがれ、正真正銘の一心同体になれたと実感していた。

 ストリートクライはポンポンと肩を叩く。今日は自分達が最強であると示すために極めて重要なレースで有り、負ければ悔しさで身悶えると思っていたが想像以上に悔しさはない。

 実はそこまで勝負に気持ちを掛けていなかったのではないかと思ったが違う。キャサリロが悔しさを請け負ってくれた。

 

「うん……私達は一心同体だから他の人より早く立ち直れて前を向ける……」

「そして喜びは2倍になる。次は勝とうぜクライ」

「うん」

「さあ、今日は存分に騒ぐぞ!実は勝ったつもりで祝勝会のジュースとかケーキとか頼んじゃってさ」

「分かった。今日は騒いで明日から頑張ろう」

 

──喜びを人に分かつと喜びは2倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる。

 

 ドイツの詩人ティートゲの言葉である。

 

 互いの勝負服を纏って2人分の力を発揮できる強固な信頼関係を持つ2人なら、どんな苦しみも2人で分かち合いながら耐え、耐えた先に訪れた喜びも倍増して楽しむだろう。

 

 ストリートクライとキャサリロが歩む道は極めて明るい。

 

───

 

『惜しかったぞ!』

『次はドバイでアグネスデジタルにリベンジだ!』

 

 サキーはデジタルのライブが終わっても居残るファンの前に駆けつけ、感謝の言葉を述べる。

 ファン達はサキーに向けて暖かい言葉をかける。初めての来る国で初めてのダート、一方アグネスデジタルは慣れ親しんだ国とダート、それでわずか1センチ差の2着である。決して敗者ではない。もう1人の勝者だ。

 サキーは笑顔を作りながらファンの前から姿を消して歩き始める。すれ違うたびにゴドルフィンのスタッフや関係者は惜しかったと労いの言葉をかけ、笑顔でありがとうと言葉を返す。そしてサキーは早足で控室に駆け込む。

 

「ああああああ!!!」

 

 腹の底から吐き出される絶叫が控室に響き渡る。負けた!負けてしまった!このレースは絶対に勝たなければならなかった。

 全員が全ての力を出し尽くし、大井レース場では驚異的なコースレコード、1着から6着までの差は2センチという世界的にも類を見ない大接戦、まさに伝説のレースだ。

 これに勝てば業界はもちろん、業界外からも注目を浴びる象徴になれるはずだった。だが勝てなかった。

 業界のアイコンとなるには完璧で居なければならない。品行方正で業界の人々から信頼を勝ち取り、言葉や行動で業界外の人間の注目を集める人気と華やかさ。そして何よりも強さだ。人格も人気も華も強さがあって初めて認められる。  

 だが世間は常に勝利に対し文句をつける。コースレコードが出ればバ場が速いだけ、着差をつけ勝利し、勝ち続けても相手が弱かったと過去の名ウマ娘と比較する。

 目指すのは歴史上のどのウマ娘より輝くアイコンとなること、でなければ世界中のウマ娘と関係者を幸せにするという夢は叶えられない。その為に必要なのは偉業である。

 

 サキーはアメリカ3冠ウマ娘でも欧州3冠ウマ娘でもない。3冠ウマ娘という称号は外部に与えるインパクトとして最上級のものであり、取れなかった時点で理想とする業界のアイコンとなる道は遠ざかった。

 3冠ウマ娘以上にインパクトがある偉業、それは世界4大GI制覇のグランドスラムである。これを達成できれば業界のアイコンとなれる。

 4大GI制覇を目標し、さらなるインパクトを与えるためにGI連勝記録達成も誓っていた。世間はいくら認めなくても4大GIを勝利し、GI連勝記録を樹立すれば否が応でも認める。

 エクリプスSと凱旋門賞を勝ち挑んだBCクラシック、そこでティズナウに負けた。GI連勝記録が途絶え世界4大GIの獲得に失敗、己の価値が落ちアイコンへの道が一気に狭まった感覚に陥る。

 己の価値を落とさない為、世界4大GI勝利とGI連勝記録を伸ばすためにこれ以上負けられない。常に背水の陣で臨んでいた。

 そしてダートプライドに負けた。ファン達は慰めや励ましの声援を送ってくれた。だが明日になれば分からない、期待された分だけ弱さに落胆し失望し離れていく。業界のアイコンになるためにはそういったライト層を掴み続けなければならない。

 負けるたびに完全性は失われ傷は深まっていく。この敗戦は既に致命傷であり、これから勝ち続けてもダートプライドで日本のウマ娘に負けたと言われケチをつけられる。

 

──もはや取り返しがつかず。業界のアイコンへの道を閉ざされたのでは?

 

 そう考えた瞬間目の前が真っ暗になったような錯覚に陥ると同時に寒気が過り、無意識に両腕で二の腕を抱きかかえる。

 レースの道中、ストリートクライとティズナウがペースを落とした際に一気にペースを上げず、徐々にペースを上げて後続に知らせなければ。脳裏にレースの光景と心境が蘇る。

 レースには勝たなければ意味がない。それなのに勝ち方や過程に拘ってしまった。何故そんなことをしてしまった。胸中に後悔の念と自己嫌悪が渦巻き苛み続ける。

 

「サキー、居るか?入るぞ?」

「どうぞ」

 

 サキーの意識は部屋の外から聞こえてくる殿下の声で現実に引き戻され、何とか返事する。緊張で胸が締め付けられる。この敗戦でゴドルフィンの名誉を著しく貶めてしまった。自分の我儘で負けたことに相当腹を据えているだろう。

 殿下はゆったりとした足取りで近づき、サキーは椅子から立ち上がり直立不動の姿勢をとり言葉を待つ。

 

「今日のレースは確かに心が震えて熱くなった。だがそれはレースに勝ったらの話だ。絶対に勝たなければならないレースに負けた。両者とも許されないがストリートクライは勝利の為に全力を尽くした。だがお前はどうだ?主義主張のために勝つチャンスを逃した。これは到底許されない。今日限りでゴドルフィンから除籍だ」

 

 サキーは思わず身震いし顔を伏せる。殿下の言葉には明確に怒気が籠っていた。ここまで怒っているのは初めてだ。

 そしてゴドルフィンからの除籍処分、自分が行った行為はある意味勝負を穢したようなものだ。ゴドルフィンとしては許されるものではなく極めて妥当な処分だ。だがそれを受け入れることはできない。

 

「殿下、もう一度チャンスをください。もう誰にも負けません。必ずやゴドルフィンに栄光と繁栄をもたらします」

 

 顔を上げ殿下を睨みつけるように目を見開き喋る。この敗戦で業界のアイコンとなる道は途絶えたかもしれない。

 だが全てのウマ娘と関係者の為に、何より自分の夢のために立ち止まることは許されない。可能な限り足掻き続ける責務がある。その為にはゴドルフィンの力が必要不可欠だ。

 

「ならばこの場で勝利至上主義になると誓え」

 

 殿下は冷たい目線を向けながら粛々と言い放つ。

 極端な事をいえば今日のレースにおいてサキーが道中で急に先頭との差を詰めなければ、アグネスデジタル達はペースが落ちたことに気づかず負けることはなく、ティズナウとストリートクライの同着でレースは終わっていた可能性は有った。

 殿下は自分の主義主張の為にアグネスデジタル達にペースが落とされていることを報せるように動いたことを見抜いていた。

 

「はい、私は……」

 

 これ以上負けることは許されない。自分の考えは勝負に対する冒涜だった。相手の事を考える余裕などない。自分が勝たなければ他の者達を幸せにできない。脳内に様々な言葉が浮かび上がる。

 

「勝利至上主義になるつもりはありません」

 

 はっきりとした口調で拒絶した。

 

「理由は?」

 

 殿下は平静を保ちながら問いただす。だがこめかみの血管は浮き出て声には隠しきれない怒気が籠っていた。

 ゴドルフィンに甚大な損害を与えながらも在籍することを許可するという寛大な恩赦、それを拒否したことは到底信じられるものではなかった。

 

「アイコン、それは象徴であり偶像でもあります。偶像は清く正しく穢れてはならない。だからこそ皆に好かれるように振舞ってきました。そしてレースでは相手の力を削ぐことなく100%引き出す。それが私の考える清らかさと正しさです」

 

 全ての出走ウマ娘が全力を出し切るレースこそ人の心を震わせる。それが業界のアイコンとなり全ての関係者を幸せにできると信じてレースを走り続けた。もしその主義を覆したら穢れてしまう。

 相手の力を削いで全力を出させないで勝つことを否定するつもりは毛頭ない。だが業界のアイコンを目指す者には相応しくない。

 もし自分の主義を曲げ勝利を重ねてもアイコンになることはできない。例え世間がアイコンと認めようと穢れたという負い目が必ず行動に出てしまう。そんな者が人や自分を幸せにできるわけがない。

 

「勝利を目指すことは穢れか?それは全てのウマ娘を否定だ」

「違います。ただ私が思う業界のアイコンには相応しくないと思っただけです」

「業界の象徴は強さの象徴だ。お前の考えでは必ずどこかで勝利を逃す。勝たなければ意味が無い」

「業界のアイコンになるのが目的で、勝利はそのための手段にすぎません。勝利を目的にはしたくありません」

 

 サキーは毅然とした態度で言い放つ。今日のレースでアグネスデジタルに負けて道が閉ざされたと思った。だが今ならはっきり違うと言える。

 アイコンになる道が途絶える瞬間は負けることではない。主義主張を曲げ自分でなくなる瞬間だ。

 お互いの目を見据えながら沈黙し、重苦しい空気が控室に充満する。

 

「いいだろう。もう一度だけチャンスをやる」

 

 殿下はポツリと呟くと足早に控室を後にする。その表情は僅かに口角が上がっていた。

 業界の象徴になるためには清く正しく穢れてはならない。レースを見る前の自分ならその言葉は夢見る少女の戯言だと一蹴していた。だが今日のレースは心を躍らせたのは事実であり、それはまるで1つの優れた芸術作品のようだった。

 全てのウマ娘が力を削がれず100%の力を出し切ることで作り出される熱と熱狂、これが穢れなさが生み出したのかもしれない。ならば何度でも見てみたい。

 

 負けたことで業界のアイコンになる道が狭まった。だが彼女が尽力し生み出した物が多くの人を惹きつけ心に刻み込んだ。

 今日のレースが作り出した熱と熱狂、それはそれぞれが死力を尽くした結果である。だがここまで熱を帯びたのは間違いなく彼女の行動によるものでもある。

 勝利を重ね偉業を成し遂げることは業界のアイコンになるために重要である。だが最も重要な事は人々の心を揺さぶり刻まれる存在になることかもしれない。

 彼女が業界のアイコンになれるかは分からない。だがダートプライドは業界のベストレース候補として多くの人々に語り継がれるだろう。

 趣向を凝らし完成度が高いウイニングライブも人々を魅了する。しかしトゥインクルレースの主役はあくまでもレースである。

 そのレースにおいて多くの人々に語り継がれるレースを作り上げたサキーはある意味業界の象徴たりえる存在なのかもしれない。

 

───

 

 ティズナウはアグネスデジタルのウイニングライブを眺める。だがその目は虚ろでアグネスデジタルに視線は向いていたがその姿は映っていなく、虚空を眺めているようだった。何より体中に満ちていたエネルギーは嘘のように消え失せていた。

 

 負けた?アメリカのウマ娘以外に負けた?

 

 レースの結果を見た瞬間わが目を疑った。そんなことがあるわけがない、何かの間違いだ、係員に詰め寄り映像を見せるように強要した。

 これは八百長か係員のミスに違いない。自身の敗北を全く受け入れられなかった。だが説明を受けるにつれ自信に満ち溢れていた表情が崩れていく。

 アグネスデジタルの体の一部が確かに5人よりほんの僅かに前に出ていた。2着との差は1センチ、これは明確な敗北である。

 ティズナウは激しい怒りを燃え上がらせる。それはレースにアグネスデジタルにではなく自分自身に向けたものだった。そうしなければ自分という存在が霧散してしまいそうだった。

 

 アメリカで生まれアメリカのダート中距離という舞台で走る者が最も強く、それ以外は挑戦から逃げた弱者である。

 そして最高の舞台で競い合い高め合った者だけが宿る王者の魂、数々のレースで競い合い、アメリカダート中距離最高峰であるBCクラシックに勝った自分こそ世界最強である。それがティズナウというウマ娘を形成する骨子となり背骨となる。

 自分の主義を微塵も疑うことなく、正しさを証明する為にトレーニングを重ね続け、アメリカ最高峰のBCクラシックに勝つまでに成長する。

 アメリカ出身ではないウマ娘、アメリカでも他国のチームに所属し他国で走るウマ娘を破っていく。その度に自己を確立していき、勝利こそが存在証明だった。だがアメリカ出身でありながら他国で走るアグネスデジタルに負けた。

 

 自分の主義は間違っていたのか?自分とはいったい何なのか?

 

 ティズナウというウマ娘の存在が激しく揺れ動いていた。そしてレース内容が揺らぎに拍車をかける。

 最高の舞台で競い合い高め合う者だけ宿す王者の魂、それは相手より僅かでも前に出るという勝負根性であり、僅差であればあるほど真価を発揮するはずだった。だが結果は1センチ差という僅差での負け。

 自分は王者の魂は持ち合わせていなかった。それか王者の魂そのものがまやかしだった。

 

 ティズナウというウマ娘を形成していた骨子は今大きく揺れ動き、アイデンティティ崩壊の危機が迫っていた。

 脳内で幾度も自問自答を繰り返す。自分の主義主張は正しかったのか?王者の魂は存在するのか?今まで絶対真理と思っていた事に目を向け見つめなおす。それは苦痛を伴う作業だが今向き合わなければならない重要な事だった。

 もはやアグネスデジタルの姿も歌声も聞こえない。全ての意識を自問自答に向ける。そして1つの答えを導き出す。

 

「アメリカの放送局のスタッフだな?」

「はい、そうですが」

「ファン達に伝えなければならないことがある。すまないが一緒に来て私を撮ってくれ」

 

 突然の頼みにスタッフは戸惑いながら着いていく。その言葉と雰囲気には有無を言わさないものが有り、エネルギーが満ち溢れていた。

 ティズナウはライブが終わったのを見計らって、スタンドの一団に居るアメリカファンの元に駆け寄る。

 

『ティズナウよくやったぞ!次はドバイでまとめて倒してくれ!』

『日本のダートなんて参考記録だって、気にするな!』

 

 ファン達は次々と励ましの言葉を送る。本心を言えば未だに敗北のショックを隠し切れず動揺しており、どのような言葉を掛ければいいか戸惑っていた。だが姿を見てファン達の気持ちは1つに固まる。

 アメリカの威信を守る為に己の誇りと勲章を賭けて異国の地で戦った。例え敗れ去っても勇気ある行動に敬意を表し、敗北を非難することは誰もしない。

 ティズナウはファン達の声援が止むのを待つが一向に止まないので、少しだけ静かにしてくれとジェスチャーを見せ声援を止ませる。

 

『私はアメリカの代表としてこのレースを走り敗北した。それはアメリカそのものの敗北に等しく、世界中に醜態を晒してしまった。その責任をとってこのレースをもって現役を引退する』

 

 アメリカは最強のレース大国であり、その代表として走る限り負けることは許されない。この敗北で著しくアメリカの名誉を貶めた。これは一生かけて償わなければならないものである。

 現役を辞める程度で償える罪ではないのは重々承知であるが、せめてものケジメだった。何よりアグネスデジタルに負けたことによって己の価値観が揺さぶられたことで、これ以上走る気力が湧いてこなかった。

 突然の発表にファン達のどよめきと悲鳴が響き渡る。ティズナウはその声を受け止めながらファンやカメラに向かって大声で訴えかける

 

『皆に!映像を見ている関係者に頼みがある!光栄な事にアメリカの威信を守る為に勝負に挑んだ勇敢な者として美談にしてくれるかもしれない。だがそんなことは決してせずに、今後一切私のことを讃えないでくれ!BCクラシックのレイを流出させ、アメリカで走らなかった者に負けた最低の弱者として中指を立て唾を吐きかけろ!そして現役、今後アメリカのレースで走るアメリカ出身のウマ娘達!この屈辱を胸に刻み込み、絶対にこんなクソ野郎みたいになるものかと反面教師にしてくれ!』

 

 自問自答の末に1つの結論に至る。ダートプライドに負けたのはアメリカで培った王者の魂が偽りであったからではない。自分自身が魂を継承できなかった偽物だったからにすぎないからだ。

 いずれ自分の姿に感動したとレースの道を志すウマ娘が居るかもしれない。それでは最強にはなれない。

    自身はアメリカの汚点であり、絶対にこうはならないと思わなければ強くなれず、また同じ悲劇を繰り返す。そうならないために自分は恥さらしの弱者でなければならない。

 

 ティズナウの衝撃的な言葉にファン達は言葉を失う。できるわけがない。

 当時の欧州最強の一角であり鋼の女と呼ばれたジャイアンツコーズウェイからアメリカの誇りであるBCクラシックを守ってくれた。

 そしてあの事件で失意のどん底に落ち込んだアメリカをゴドルフィンのサキーから、BCクラシックを死守してくれた。

 あの壮絶な叩き合いの末サキーを退けたレースは多くのアメリカ国民に勇気と感動を与えてくれた。ティズナウは正真正銘のアメリカンヒーローだ。そのヒーローを罵倒するだなんて到底できない。

 ティズナウは戸惑うファンたちの反応に苛立ちを募らせ声を荒げた。

 

『どうした?何故罵らない!?それで良いのか!?想像するんだ!BCクラシックで他国のウマ娘が誇らしげに国旗を広げレース場を歩く姿を!私程度のウマ娘を褒めたたえているようでは、近い未来に現実になってしまうぞ!そんな悲劇が訪れないように皆で強くなるんだ!』

 

 ティズナウには人を惹きつけるカリスマ性があった。だが天性のものではなく声のトーンや仕草には1つ1つが計算されており、人工的なものだった。

 だが今は一切の計算が無く、自分の感情や衝動が赴くままに言葉を発していた。その言葉は真剣で切実で真摯だった。その言葉に反応するように黄色と緑のひし形模様のコートを着たウマ娘の少女が声を張り上げる。

 

『何がアメリカ代表だ!日本のウマ娘に負けるなんてクソ雑魚じゃん!アタシはあんたみたいな負け犬になんて絶対に……ならないからな!』

 

 その罵倒は普段であれば少女と言えど袋たたきに合っても仕方がないものだった。その言葉を聞いたファンも思わず掴みかかろうとするが少女の顔を見て堪える。少女の顔は涙と鼻水でグシャグシャになっていた。

 

『ヴァルポニが代わりに走れば良かったよ!』

『国辱ウマ娘め!2度とアメリカに帰ってくるな!』

『根性なし!ノロマ!』

 

 少女の言葉を皮切りに次々と罵詈雑言が浴びせられる。その言葉は辛辣かつ過激でとても公共の電波に乗せられるものではなかった。罵詈雑言は一向に止むことなく、次第に1つの罵倒の大合唱となる。

 

 駄ウマ娘

 

 ウマ娘に対する最大級の罵倒の言葉である。その言葉にティズナウは満足げな表情を浮かべていた。

 

『そうだ!それでいい!ではアメリカ史上最低の駄ウマ娘は表舞台から去るとしよう!願わくはこの醜態が皆の心に刻み込まれ、アメリカの強さの礎にならんことを!」

 

 高らかに言い放つとファン達から背を向けて歩き始める。

 アメリカダート中距離という最高の舞台でしのぎを削り合った者だけが宿す王者の魂と勝負根性、自分は宿すことはできなかったがそれは確かに存在する。

 それを未来のウマ娘達は宿してくれるだろう。そして次々と来る外国のウマ娘達をアメリカのレースで撃退し、この敗北はアメリカでは無くティズナウという1人の弱者によるものだと証明してくれる。

 

『ナナナ~ナナナ~ヘイヘイヘイ~グッバ~イ』

 

 ファン達はあるチャントを口ずさむ。これはアイスホッケーで退場した選手や野球でノックアウトされた選手に向けるチャントとなり、アメリカスポーツ界では1種の煽りとなっていた。

 ファン達は言葉通り最後まで罵倒しコキおろす。だがそのチャントの多くに涙声が混じっていた。

 これはファン達からの讃美歌だった。その想いに応えるようにティズナウは右手を空高く突きあげた。

 

 未来のある話、BCクラシックに勝ち、黄色と緑のひし形模様にマッチョという文字がプリントされているタンクトップの勝負服を着たウマ娘がインタビューでこう答えた。

 

『見てるか?とあるクソ雑魚!これが王者の魂を持った者の走りだ!アンタがダートプライドで負けたのはアメリカが弱かったからじゃない!アンタが弱かったからだ!』

 

 ティズナウはTV画面に向かってそのウマ娘に称賛の拍手を送った。

 

 

ダートプライド 大井レース場 ダート 良 左回り2000メートル

 

 

 

着順 番号     名前        タイム    着差    人気

 

 

1   4  大井 アグネスデジタル  2:00.4 R        4       

 

 

2   1  UAE サキー        2:00.4   ハナ     2

 

 

2   2  米 ティズナウ       2:00.4   同着     1

 

 

2   3  UAE ストリートクライ    2:00.4   同着     3

 

 

3   5  盛岡 ヒガシノコウテイ  2:00.4   ハナ     5

 

 

3   6  船橋 セイシンフブキ   2:00.4   同着     6

 

 

───

 

 年1回レース発祥の地イギリスで行われる世界ウマ娘協会主催のワールドレーシングアワード。そこには世界中のウマ娘や関係者が集まり、その年に活躍したウマ娘やトレーナーや業界に貢献した人物を表彰する。

 その華やかさと煌びやかさは日本の年始で行われるURA賞の授与式より規模も華やかさも段違いである。

 表彰式が行われメインイベントとも呼べる。ワールドベストウマ娘とワールドベストレースの表彰が始まる。

 ワールドベストウマ娘はG1ロッキンジSで11馬身差のレコードで勝ったホークウイング、レーティングは133とかなりの高評価を得た。

 そしてワールドベストレースは上位4人のレーティングを元に選定し、好メンバーが集まった凱旋門賞が選ばれ、勝者のダラカニがトロフィーを受け取る。

 

『本来であれば表彰は以上になるのですが、今年は特例としてもう1つのレースを紹介致します』

 

 司会の言葉に会場に来ていた人々は騒めく。権威あるワールドレーシングアワードにおいて特例はあり得ず異常事態だった。会場は司会の言葉を待とうと会話を止め静寂が訪れる。

 

『このレースはグレードがない選考対象外のレースです。だが世間の注目を大いに集め、レース結果も非常にエキサイティングであり、何よりレースのレベルは非常に高いものでした。選考員会でも賛否が別れましたが、このレースが記録に残らないのは業界の損失であり、表彰に値するという判断し表彰することになりました』

 

 視界の言葉に周囲は再び騒めく。関係者のなかであるレースが浮かび上がっていた。

 しかし今までの歴史背景を考えるとあり得ない選出だった。司会は周囲を焦らすように一呼吸おいて発表する。

 

「では皆さん盛大な拍手でお出迎えください。もう1つのワールドベストレースは!日本の大井レース場で行われたダートプライドです!」

 

 司会の言葉とともにドレスに身を包んだアグネスデジタルが登壇する。会場からは歓声が上がり、現役の選手はスタンディングオベーションで出迎えた。

 

『コングラチュレーション、アグネスデジタル。ダートプライドがグレードレースだったら受賞できてなかったわね』

『そんなことないよ。凱旋門賞は凄く良いレースだった』

 

 ダラカニはハグを交わしデジタルを祝福する。その言葉は嘘偽りなく心から賞賛していた。

 正直に言えば日本のダートのレースレベルはまるで分からず。日本のウマ娘がどんなレースをしても自分が走った凱旋門賞がベストレースである自信があった。だがあのレースにはサキーが居た。

 欧州で走るウマ娘としてサキーについては知っている。その強さやレースに取組む姿勢やメンタリティは尊敬に値する。

 サキーはドバイワールドカップ、キングジョージ、凱旋門賞のレイを賭けてレースに挑んだ。欧州で走り凱旋門賞に勝った者として、行動の重さは理解している。日本のレースといえど万全を期さないわけがない。万全の調整で臨み全力を尽くしたはずだ。

 その結果1着から6着までの差2センチという大接戦だ。そんなレースのレベルが低いわけがない。それは欧州を走るウマ娘の総意であった。

 またアメリカのウマ娘達も同じ、いやそれ以上に同じ考えだった。あのティズナウがBCクラシックのレイを賭けてレースに挑んだ。そんなレースのレベルが低いわけがない。

 

 現役ウマ娘達はダートプライドがベストレースであるというのが大半の意見だったが、選考員会は大いに意見が割れた。

 単純なレーティングでいえばダートプライド前にはドバイワールドカップ、キングジョージに勝利し当時の最高レーティング保持者だったサキー、去年のベストレースの凱旋門賞に匹敵するメンバーに勝ったストリートクライ、2人に劣るものの高レーティング保持者だったティズナウが集まっており充分だった。

 だが強豪国と認められていないパート2で行われたレースを受賞させていいものか、賞の権威が落ちてしまうという否定的な意見も多く出た。

 日本ダートに詳しい専門家などの意見を聞き、レースレベルの協議など入念な調査が行われた。その専門家のなかにはアブクマポーロやメイセイオペラもいて、調査員にこう告げた。

 

 ダートコンディションや他の出走ウマ娘のタイム差から比較してもダートレース史上一二を争うほどのハイレベルのレースであったことを保証する。

 

 さらに援護射撃としてゴドルフィンやアメリカからのフォローもあった。

 アメリカの英雄の価値を下げてはならない。ゴドルフィンの名誉を守る為に受賞してもらいたい。そういった政治的背景も含まれていた。

 レースレベルの高さ、各組織からの擁護、それらの要素も有ったことで選出されるか否かは5分5分に別れていた。そして最後の決め手になったのはエンターテイメント性だった。

 レースはスポーツであり興行でもある。凱旋門賞とダートプライドを比べるとレース開催決定前のパフォーマンス、最高賞金12億円勝者総取りのウイナーテイクオール方式、お互いの勝ち鞍とレイを賭けるなど明らかにダートプライドの方がエンターテイメント性に富んでおり、多くの業界外の人やメディアの注目を集めていた。

 何より6人のウマ娘が作り上げた熱は審査委員にも確かに届いていた。

 

 ダートプライドはその後も形式を変えながらレースが開催され、グレードは設定されないものも多くの有力ダートウマ娘が参戦し、勝者には多大な名誉がもたらされた。

 歴史が紡がれていくにつれ、この6人は最初のレースを走った者、オリジナル6として尊敬を集め歴史に名を刻んだ。

 

 ヒガシノコウテイはダートプライドの善戦が評価されたことで国内や海外からも注目を集め、地方の門を叩くウマ娘も増え、海外から地方のレースを一目見ようと多くの観光客が訪れた。

 

 セイシンフブキも同じように評価される。そして中央でもダートを走る者が増え始め、ダートレースでも芝のレースとの観客動員数の差は縮まりつつあった。

 

 サキーも引退後はダートプライドを走った者として注目を集め、様々なメディアに露出する後押しとなり、世界におけるレースの観客動員数も増え始め環境も改善されていく。

 

 ストリートクライは引退後もダートプライドに走った者として評価され、パートナーのキャサリロも脚光を浴びる切っ掛けとなる。また、過去現在未来において最強のウマ娘という評価は与えられないが、ダート歴代最強の一角としてノミネートされていた。

 

 ティズナウはダートプライドからレースの舞台から完全に姿を消す。

 それと前後するようにアメリカレース界のレベルは上昇していき、一部の例外を除いて外国から来るウマ娘を返り討ちにしていく。

 一部の専門家はティズナウ以前以降と呼べるほど全体のレベルの向上が見られると評した。そのウマ娘達に共通するのは僅かでも前に出るという決断的な意志を持った比類なき勝負根性だった。

 

 アグネスデジタルの個人的欲望が切っ掛けで始まったダートプライド、それは多くの人を巻き込み様々な人を熱狂させる。出走ウマ娘に幸福をもたらした。

 そして当の本人は極上のウマ娘達を感じられ、最高の体験ができた。

 

 隠しダンジョンをクリアした結末はハッピーエンドである。

 




最初は構想ではデジタルはダートプライドではなく天皇賞秋に出走する予定でした。

出走メンバーはサイレンススズカ、スペシャルウィーク、セイウンスカイ、グラスワンダー、エルコンドルパサーにオリジナルキャラとしてシンボリクリスエスを加えた完全なIFレースで、其々のファンに角が立たないように全員が勝利した結末を書こうとしていましたが、あまりにもめんどくさいので没になりました。

ではデジタルはどのレースを走るかと考えていたところ、どうせなら完全オリジナルレースを走らせようというアイディアが思いつき、どうせなら今までのキャラを再利用しようとヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、サキー、ストリートクライに新キャラのティズナウを加えて、今の形になりました。

あとデジタルが歌った曲はJRA60周年記念CMの曲でTOKIOのlove holidayという曲です。
競馬場に行くワクワク感が搔き立てられて、JRAのCMで一番好きな曲です。


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勇者の慈悲#1

 5月の名古屋レース場、天気は晴れ、この日入場者数は過去の最多記録を更新していた。パドック前には多くの観客が一目見ようと押し寄せ、陽気のせいも在って熱気に包まれていた。

 

 入場者数の過去最高記録の更新はダートプライドによる地方への関心の高まり、愛知ウマ娘協会の経営努力の等もあるが、最も大きな要因は今日のメインレースにある。

 観客の目的は今日のメインレースはハンデGⅢかきつばた記念であった。ダート距離1400メートル、6月の頭に行われるGIダート1600メートルかしわ記念の前哨戦として好メンバーが集まった。

 

 4番人気はGIのJBCスプリントに勝利したノボジャック、3番人気はJBCスプリントとGIかしわ記念に勝利したスターリングローズ、2番人気は東京大賞典2着、フェブラリーステークス2着のビワシンセイキ、早々たるメンバーだが大半の観客の目的はこのウマ娘では無かった。

 

「1番人気、中央ウマ娘協会所属アグネスデジタル選手」

 

 パドックからアグネスデジタルが現れた瞬間割れんばかりの歓声が響き渡り、一斉に携帯電話やカメラを取り出し写真を撮っていき、昼間ながらフラッシュの光が辺りを眩しく照らす。その様子に少し戸惑いながらもランウェイを歩いていく。

 

 約1年3か月ぶりのレース出走である。

 

 ダートプライドでのトリップ走法における過剰な脳内麻薬分泌はデジタルの脳と体を蝕んでいた。このままデトックスせずレースを走り続ければ日常生活にまで支障をきたすと、医者から今後一切のトリップ走法の禁止と半年間の休養を命じられた。

 トレーナーはその提案を了承したがデジタルは断固として反対した。このままではエイシンプレストンと香港で走れない。とりあえず香港に走ってから休むと梃でも動かなかった。

 トレーナーとデジタルの言い争いは何日も続く。人生は現役を引退した後の方が遥かに長い。

 極力は本人の希望を尊重するつもりだが、日常生活に支障をきたす病気を背負わせるわけにはいかない。2人の主張は平行線を辿るなか、終止符を打ったのはプレストンだった。

 香港で走りたいけど、親友が日常生活に支障をきたす病気になってまで走りたいとは思わない。暮れの香港で走ろうと説得され、デジタルは渋々と納得し休養に入った。

 

 そして半年の休養期間で長年のトリップ走法でたまった麻薬物質をデトックスし、最大目標を香港カップに設定し、大井でトレーニングを再開するのだがそこで新たな問題が発生する。

 デジタルの筋肉が固くなったことによる右足痛を患ってしまった。じん帯を痛め骨にひびが入っている等の重傷ではないのだが、このままトレーニングすれば重症を負うことは目に見え、トレーニングの強度を上げられなかった。

 さらに筋肉の硬さは他の箇所にも及び調整は遅れていく。トレーナーも様々な治療方法やトレーニングの試行錯誤を重ねるのだが、大井に所属しているデジタルの様子を逐一見ることができず対応が遅れる。

 結局暮れの香港でプレストンと走ることは叶わなず、そこからレースに走れる状態になるまでさらに5カ月を要した。

 

「キャー!本物だ!カワイイ!」

「こっちむいて!」

「今日のレースは圧勝してください!」

 

 デジタルに熱狂的な声が飛ぶ。客の大半はデジタル目当てで初めてレース場に来た観客達によるものだった。

 デジタルの知名度はダートプライドに勝利したことで飛躍的に上がった。連日TV番組に出演し、休養期間も精力的に自身のツイッターやメディアに露出した。

 レースを1人でも多くの人を見てもらうために、1人でも多くの人に地方やダートに目を向けてもらうために。ダートプライドで走ったウマ娘達の想いに感化されたのか、願いを叶える為に積極的に広報活動していた。

 さらに昨年末のワールドレーシングアワードにおいて、日本のレースとしては初のワールドベストレースの勝者としてその名を知らしめていた。

 中央ウマ娘協会もこのネームバリューを利用しない手は無いとデジタルが大井から中央に戻ってきてから、広告塔として積極的に活用し今ではちょっとした時の人になっていた。

 

「よう、久々のレースで緊張してるのか?」

 

 パドックが終わりコースに向かおうとした時に後ろから声を掛けられる。

 スターリングローズ、過去にデジタルとレースを走った事があり、プレストンとは同じチームに所属している。

 

「少しね」

「それはそうだよな。でもしっかり走ってくれよ。アンタは非公式ながらダート世界一になったウマ娘だ。観客達は長期明けもなんのその、ダート世界一ウマ娘による圧巻の勝利ってシナリオを望んでいるかもしれないが知った事じゃない。アタシは引き立て役じゃないし、その首をとって名を上げたいってウズウズしてんだ」

「確かに、アタシがダメダメだったら勝ったウマ娘ちゃんの勝利の価値が下がるからね」

「分かってんじゃねえか」

 

 スターリングローズは軽く背中を叩き、悠然とした足取りでコースに向かって行く。その様子を他のウマ娘も観察するように視線を向けている。

 一部のウマ娘は憧れの視線を向けているが、中央のウマ娘達はスターリングローズと同じように闘志を剝き出しにしている。

 

「どうや、緊張してるか?」

 

 トレーナーがスターリングローズと同じようにデジタルの後ろから声をかける。その表情にはまたレースを走る喜びと長期休養明けでの出走に対する不安が有った。

 

「スターリングローズちゃんに話しかけられて大分緊張が解けた。しかし良いよね。トレセン学園で遠くから見たり、一緒にトレーニングして感じるのもいいけど、レース場で見て感じるウマ娘ちゃんは格別」

「それは良かった。それで作戦だがとりあえず前目につけて後は好きにせえ」

「了解、アタシもそうするつもりだったし」

「後は無理すんなよ。例え勝っても無理して怪我しましたなんてことになったら目も当てられんわ」

「でも周りはそうは思ってないみたい」

 

 デジタルはトレーナーに耳打ちする。すぐそこにはTV局のカメラマンで自分達の様子を撮っている。

 そして観客からは長期休み明けでも勝ってくれる。世界一のウマ娘なら勝てるはずだ。今までの1番人気の時とは違う重苦しい異様な期待感をヒシヒシと感じていた。

 

「別に連勝記録がかかっとるわけやないし、前哨戦なんやから負けたってええ、そこまで期待しとらんし気楽に走ってこい」

「期待してないってさあ、そこは嘘でも期待してるって言うべきじゃない」

「オレは嘘が嫌いな人間でな」

「分かったよ。じゃあ気楽に好き勝手走ってくるから期待しないで待っててね」

 

 デジタルは軽口を叩きながらコースに向かって行く。

 

 ───

 

『さあ最終コーナーを迎え各ウマ娘一斉に広がる!名古屋の直線は日本で一番短いぞ!先頭はノボジャック、そのすぐ後ろにアグネスデジタル、外からスターリングローズ、そしてビワシンセイキ、ビワシンセイキ、スターリングローズ、ビワシンセイキが差し切った』

 

 レースは直線に入ってデジタルが先頭に並びかけるがそこから足が止まり、外から来た2着のスターリングローズと1着のビワシンセイキに差され、さらに船橋ウマ娘協会所属のブラウンシャトレーにも差され4着に終わった。

 デジタルがゴール板を通り過ぎた瞬間観客から大きなため息が漏れる。その声には落胆と諦念が帯びていた。

 

「お疲れさん、こんなもんやろ」

 

 レースを終えたデジタルをトレーナーが出迎える。言葉と裏腹に表情は明るかった。

 今日はトップハンデの+3キロ、約3バ身差のハンデだ。長期休養明けで絞り切れず明らかに太目残りだった。

 これだけの不安要素があればもっと酷いレース内容だと思っていたが、道中は逃げたノボジャックにしっかり付いていき、見せ場も作れた。充分合格の内容である。

 

「どうやった久々のレースは?」

「レース前にレース前のウマ娘ちゃんは良いって言ったけど、レース中のウマ娘ちゃんはさらに格別だね」

「そういうこと聞いとんのやない、レースを走っての感想を聞いとんのや」

「そっちね。仕掛けどころが遅れたし、身体も動かなかった。くぅ~、もっとスターリングローズちゃんとビワシンセイキちゃんの追い比べを近くで見たかったのに」

 

 デジタルは残念そうに悔しがる。仕掛けの遅れは長期休養明けによる勝負勘の欠如、身体が動かなかったのも休み明けによるもの、敗因はトレーナーの分析と同じものだった。

 これで一叩きして調子は上向くだろう。そしていつの間にここまで分析できるようになったのか、デジタルの自己分析力に感心していた。

 

「さてと、疲れてるところ悪いが一仕事してもらうぞ」

「はいはい、さっさと終わらせて皆のライブを見る準備しよ」

 

 2人が見る先には多くのマスコミが近づいてきていた。デジタルはめんどくさそうな表情を浮かべながら、すぐにマスコミ用の表情に作り替えた。

 

「お疲れ様でしたアグネスデジタル選手、ダート世界一ながら地方のGⅢで4着、しかも地方のウマ娘にも先着されるという結果で終わってしまいましたが、心境は如何ですか?」

「1着を狙いましたが力及びませんでした。次のレースはこれを糧にして頑張りたいと思います」

「やはりこのような結果になってしまったのは『デスレース』による影響でしょうか?」

 

──デスレース

 

 これはファンやマスコミから呼ばれているダートプライドの別称である。ダートプライドを走ったウマ娘達のその後は芳しくなかった。

 

 ティズナウはダートプライド出走後に現役を引退する。

 サキーはダートプライド後に体調を崩し、ドバイワールドカップとキングジョージを回避、凱旋門賞に向けての復帰戦GⅢ芝2000のゴントービロン賞でまさかの2着、その後レースを走ることなく現役を引退する。

 ストリートクライもダートプライド後にサキーと同じように体調を崩しドバイワールドカップを回避、そして復帰戦のGIダート1800のホイットニーハンデで差をつけられての4着と完敗、ブリーダーズカップクラシックに向けて調整中に古傷を痛めて現役を引退する。

 ヒガシノコウテイもダートプライド後から暫くして衰えから現役を引退する。

 セイシンフブキは現役として走り続けているが、苦戦を強いられダートプライド以降勝利をあげていない。

 

 出走したウマ娘はレースで全ての力を使い果たしたように現役を引退し精彩を欠いている。その不吉な末路を見ていつしかデスレースと呼んでいた。

 デジタルもダートプライドに出走しているので、他のウマ娘のように力を使い果たして衰えているのかもしれない。

 しかし不調が続き最後の引退レースに勝利したオグリキャップのように、1年間の長期休養明けで有マ記念に勝利したトウカイテイオーのように常識外れの奇跡を見せてくれるかもしれない。

 ファン達は一縷の望みを期待しレースを見に来たが結果は4着、ファンからの諦念はデスレースの呪縛には抗えず衰えてしまったという諦めだった。

 

 デジタルはその言葉を聞くと表情を崩し感情をむき出しにする。己の地位や名誉やプライドを全て賭けて走った最高のレース、そのレースについて悪く言われると思い出が穢されるようで非常に嫌っていた。

 

「今日は長期休養明けでトップハンデ、さらに出走メンバーはビワシンセイキ等の強豪揃いでした。今日の結果とダートプライドを走った事への因果関係は存在せず、仮に皆様が考える衰えが無くとも勝てなかったかもしれません」

 

 トレーナーは助け船を出すように質問に答える。今の状態では感情的な言葉を発し、マスコミにネタを提供してしまうだろう。

 

「ですがダートプライド覇者としては納得できない結果では?」

「言い訳に聞こえるかもしれませんが、この名古屋の1400という舞台ならばビワシンセイキ等のメンバーが当時のヒガシノコウテイ達と走っても勝ち負けだと思います。それほどまでに今のダートはレベルが向上しています」

 

 自分の評価を守る為に勝者を賞賛する。傍から見たら卑しい行為に見えるかもしれないが、実際に今日のメンバーは日本有数のダートスプリンターであり、ベストのデジタルでも勝てるという保証はない。それほどまでにレベルが高いメンバーだ。

 記者たちはトレーナーの言葉を記録していく。専門誌の記者であれば長期休み明けで勝つ難しさ、前哨戦においての勝利の重要性の低さを理解しているだろう。

 だが一般のマスコミはそのことについて理解しておらず、センセーショナルな見出しの記事やニュースを報道するのは予想できる。

 

「それでは何故今日のレースを走ったのですか?春の目標が安田記念で有れば同じ東京レース場の芝1400のGⅡ京王杯SC、または同じ距離のマイラーズカップや香港のGIチャンピオンズマイルもありましたが?」

 

 一般紙の記者が含みのある質問する。海外GIや芝の重賞で負ければまだ恰好がつくが、地方のダート重賞で負けた事で価値が下がってしまった。それについてどう思うか?トレーナーは質問をそう解釈する。

 

「デジタルの長期休み明けですので、足にダメージが少ないダートを選択しました」

 

 トレーナーは平静を保ち返答する。デジタルにとって最善を選んだ結果がかきつばた記念への出走だ。他者や世間の価値の為にレース選択するわけがない。

 かきつばた記念への出走を決めた理由は2つ、1つは言葉通り復帰戦ということを考慮して足にダメージが少ないからである。ダートと芝では体にかかる負荷は芝のほうが大きく、ダートで走れるレースがかきつばた記念しか無かったので、出走しただけのことである。

 

 もう1つはかしわ記念を見据えてのことだった。

 デジタルは安田記念とかしわ記念のどちらに走ろうか迷っていた。普通は目標のレースを決めて逆算しながら計画を立てるのだが、決めかねていた。

 安田記念もかしわ記念も1600mのレースで有り、1400のかきつばた記念は叩きのレースとして丁度良かった。

 

 それから暫くインタビューは続き、聞きたい事を聞き終えたのかマスコミ達は切り上げていく。

 

「まったく、話聞くならビワシンセイキちゃんからが筋でしょう。あんな素敵なウマ娘ちゃんが居るのに節穴?」

「まあそういうな。人気がある話題になりそうな者の話を聞くのが仕事や、オペラオー曰く主役としての責任やな」

「まあ、そう思って我慢するよ」

 

 デジタルは外向け用の表情を崩し率直に不平不満を露わにする。今日のマスコミは専門誌の者以外も居たせいか、ピントが外れた質問や失言を引き出そうという意図が見える質問もあった。その中で上手くボロを出さず冷静に処理したのは褒められるべきである。

 

 デジタル達はレース後のウイニングライブを鑑賞した後宿舎に向かう。

 

「どないした?」

 

 トレーナーは思わず尋ねる。宿舎に帰る為に送迎車に乗ろうと車寄せに向かっていたがその間デジタルは何やら落ち着かない様子でソワソワしていた。

 

「いや、サインとか出待ちのファンが居るからめんどくさいなって思ってたけど、そういうのは全然いなくて拍子抜けというかなんというか」

「なんやいっちょ前にスター気取りか?なんならマネージャーみたいにサインは勘弁してくださいって小芝居したろか、そこでサインを書けば好感度爆上がりやぞ」

「笑い事じゃない。この髪色と耳だから目立って、ちょっと外に出ると他の人に見つかって囲まれて大変なんだよ」

 

 トレーナーが茶化すとデジタルは眉を吊り上げる。知名度が上がったせいで外に出る際は変装しなければならなかった。自意識過剰で恥ずかしいのだが、そうしなければすぐに囲まれて碌に行動できない。

 

「まあ、今日の結果を考えればこの反応も妥当やろ」

 

 トレーナーの言葉にデジタルは首を傾げる。それを見て補足を入れて説明する。

 

「ワールドレーシングアワードにおいて、日本のレースとしては初のワールドベストレースの勝者、非公式ながらダート世界一、ダートプライドを通して多くの幻想を抱かせた。それはある意味3冠ウマ娘が与える幻想を超えているかもしれん」

「それはいくら何でも言いすぎでしょ。アタシよりミスターシービーちゃんやシンボリルドルフちゃんやナリタブライアンちゃんのほうが素敵で魅力的でしょう」

「お前がどう思っとるか知らんが、世間にとってはとんでもない偉業なんや。そしてファンや周囲は幻想を求める」

「どういうこと?」

「自分が想像する理想を押し付ける。GIにとっても3冠ウマ娘なら勝って当然、負けたら勝手に幻滅して離れていく。幻滅するだけならまだマシ、下手したらアンチになるかもしれん。そしてGIどころか地方のGⅢに負けるなんて世間のファンにとっては論外、幻想が砕け離れたってことや」

 

 メディアに取り上げられた事で存在を知りファンになった者は勝利を期待しただろう。だがまさかの4着、その結果に大いに落胆し抱いた幻想は砕け散っただろう。

 その気持ちは理解できる。かつて幼き頃期待していたウマ娘が思った通りの結果を出さないことに落胆し怒りを覚えたことがある。

 

 今日ルは明らかに太目残りで、勝利を目指すならトレーニング量を増やしてもっと絞るべきだった。3冠ウマ娘並の期待を背負うウマ娘を指導しているトレーナーの責任として、体を絞り勝利を目指すべきという意見もあるだろう。

 その意見に同意するところもあるが優先すべきはウマ娘である。もし王者の責任として負けるわけにはいかないと言うなら体を絞っただろう。

 だがデジタルはそういったウマ娘ではない。オペラオー達に影響を受け王者としての責任を果たすという意識はあるが本質的には自分本位だ。

 前哨戦で目一杯仕上げて本番で力を発揮できないことのほうが、世間から今日のレースで負けたことで落胆されるより余程つらいはずだ。

 

「ちょっと勝手過ぎない。勝手に期待して勝手に幻滅してさ、それにファンなら勝っても負けてもありのままの姿の推しを応援して愛でるべきじゃない」

「それはごもっともや」

 

 トレーナーはデジタルの言葉に苦笑する。まさにその通りだ。

 

「それだったら負けて良かったかも」

「中々の過激発言やな。マスコミが聞いていたら吊るし上げられるぞ」

「だって勝てば勝つほど勝手に幻想を抱いて期待するんでしょう。そんなの重すぎて耐えられないよ。その点サキーちゃんは凄いよ」

 

 デジタルは1人うんうんと頷く。サキーが目指した業界のアイコンとはその幻想を最も抱かれる立場だ。幻想を壊さず勝ち続け振る舞い続ける。

 残念な事にその夢は破れたが、もしダートプライドに勝ち、世界4大GIに勝ち連勝記録を作ってもその期待という重荷を背負い続けただろう。似たような立場になって改めて尊敬する。

 

 そうして話し込んでいるうちに送迎車がやってくる。乗り込もうとする際にデジタルは反射的に後ろを振り向く。

 何か今強い感情をぶつけられた気がする。怒り悲しみ落胆、詳しくは分からないが負の感情だ。これが期待を裏切った負の感情か、これからこういった感情を受けるのかと少しだけ気を滅入りながら車に乗った。



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勇者の慈悲#2

 日曜の昼下がり、今日は出かけるには程よい陽気のせいか多くの人が繰り出し、府中駅周辺は賑わっていた。そんな中アグネスデジタルとエイシンプレストンは日の光が当たらないカラオケルームに居た。

 プレストンが熱唱する隣でデジタルは独自の合いの手やコールを勝手に入れていた。

 

「はい、次デジタル」

「アタシはいいよ。プレちゃんが歌うのをずっと見ていたいし」

「それじゃあアタシが疲れるでしょ。何か歌って休憩時間作って」

「しょうがないな」

 

 デジタルは気が乗らないという態度を見せながら、かつてトゥインクルレースで活躍したウマ娘達の曲を入れて歌い始める。

 流石に現役選手というだけあって歌唱力は高く、踊りの振り付けを完璧に真似するどころか、ファンとのコール&レスポンスまで再現していた。

 

「悪いわね。アタシの気分転換に付き合ってもらって」

「こっちこそ、久しぶりに遊べて楽しかったよ」

 

 プレストンはデジタルにお互いに礼を言うとソフトドリンクに口をつける。

 かきつばた記念から翌日、プレストンから日曜に遊ばないかと誘われ二つ返事で了解し、向かった先がカラオケだった。

 プレストンは熱唱する。音程を多少外しても気にすることなく気持ちを乗せるような歌い方、それは実にらしくない歌い方だった。

 デジタルはプレストンを観察する。上は黒のワンピースに赤のシャツ、下は紺のデニムパンツ、いつもと変わらない感じの私服だが、化粧はいつもより濃い。自分と出かけるのにそこまで気合い入れることはないだろう。

 

「今日はとことん付き合うよ」

「お気遣いどうも。でも大丈夫、大分気が晴れたから。あと何曲か歌ったら帰る」

「まあ、ほんのちょっとの差だったしね」

「はぁ~。素人さんにはそう見えちゃうか~」

 

 プレストンは小馬鹿にするように大げさにため息をつく。だがその仕草に不快感は無かった。

 

「あの試合はかなり運に恵まれたところがあったのよ。本来の実力差ならもっと早く負けてた。まあ、この傷を戒めにして精進するわ」

 

 デジタルはプレストンは右瞼を指した場所を凝視する。確かに僅かに腫れている。そして厚化粧の理由は青あざか何かが出来ているのを隠す為だろう。

 

「折角だし、素人にも分かるようにその試合の解説してよ」

「負けた人に負けた試合の解説を頼む?まあ、振り返るという意味で悪くないか、特別に解説してあげるから有難く拝聴しなさい」

「あざっす」

 

 プレストンはふざけながらお礼を言うデジタルにニヤケながら試合を撮った動画を見せる。

 

「まずここ、相手の攻撃が見えなくて完全に勘で防御した。勘が外れてたら試合終わってたわね。そしてここは完全に読まれてカウンター喰らって、傍から見るとバレバレだ」

 

 プレストンは動画を見ながら解説していく。デジタルはその様子を見ながら安堵の表情を浮かべる。

 

 現役を引退した選手は全てを燃やし走り続けた反動のせいか、燃え尽き症候群になるウマ娘は多い。暫くして新たな人生を歩めればいいのだが、中にはレースでの喝采や刺激が忘れられず身を滅ぼすウマ娘も居る。

 プレストンは聡明で身を滅ぼすことはないだろうが、燃え尽き症候群はレース以外の目標がない人がなりやすく、レース以外の夢や目標を聞いたことが無い。無気力な日々を送るのではと心配していた。だがそれは全くの杞憂だった。

 プレストンはトレーニングを兼ねて香港の武術を習っていた。そして現役を引退し、その道の頂点になろうと日々トレーニングしている。

 

「こんな感じ、わかった?」

「何となく、しかしプレちゃんがこの道を選ぶのは予想できなかったよ」

「今まではレースと片手間だったからね。それで現役を引退して、この道でどこまで行けるか試したくなったわけ」

「それで目標は?」

「世界一」

「もっと小さな目標を言うかと思った」

 

 デジタルは意外そうな顔を浮かべる。プレストンは自己分析に長け、こんな大言を言うタイプではなかった。

 

「まだ解析度が低いから自惚れられる。でもこれから解析度が高くなればなるほど世界一なんて思えなくなると思うけど」

 

 プレストンは複雑そうな表情を浮かべる。その道を進んだ初期は頂点との距離を掴めず、いずれ頂点に辿り着けると自惚れられる。

 しかし自分が強くなればなるほど、頂点との距離がより鮮明になると同時に辿り着けないという事実を知ってしまう。トゥインクルレースで嫌というほど身に染みている。

 

「分かんないよ。レースよりそっちのほうが才能有るかもしれないよ」

「その可能性もある。現に完敗だったけど、欠点を修正すれば差は縮まるはず、それで大会でもとんとん拍子に勝って世界一になれる根拠のない自信が湧いている」

「そうそう」

 

 プレストンは意気揚々と語る。現役時代の自分が達成できるギリギリの目標を邁進する姿も素敵だったが、こうして幼子のように無限大の可能性を信じて邁進する姿も新たな一面も素敵だ。

 

「しかし、プレちゃんが楽しそうで良かったよ……あの時走れなかったからずっと悔やんでるかと思って……」

「だから気にしてないって、全くいつまで引きずってるのよ」

「でも……」

 

 デジタルの突如感傷的になり声が沈んでいき、プレストンは慌てて慰める。

 

 確かに走れなかったことは悔いが残ってないと言えば噓になる。だがデジタルだって自分と同じくレースに走りたく懸命に努力した。

 責めることはできない。誰が悪いわけではない、レースに走れなかったのは運命だった。それにあの時に走ったクイーンエリザベスCで充分満足している。だが未だに引きずっているようで正直少し鬱陶しい。

 

「ところで、メディアは騒いでたね」

 

 プレストンはこの話題を避けるように露骨に変える。

 

「何が?」

「それはアンタがかきつばた記念で負けたことよ。世間は世紀の大波乱みたいに騒いでるけど、アタシからみたら妥当ってところね」

「そんなに期待してなかったの?」

「だって皆忘れてるかもしれないけど、案外コロッと負けるじゃん。それに長期休み明けでレース勘もないし体も動かない。現に仕掛けも遅れて体も付いていかない感じだった。さらにトップハンデ、しかもビワシンセイキやうちのローズだからね」

 

 プレストンはうちのにアクセントをつけながら予想していた不安要素を述べていく。

 1年以上休んだウマ娘が勝てるほどレースは甘くない。元チームメイトのスターリングローズは不安要素がある相手に負けるほど弱くはない。

 別にデジタルが負けて欲しいわけではなかったが、チームメイトがモブ扱いされるのは腹が立っていて、少しだけスカッとしたのは伏せておく。

 

「そしてあの我儘ボディ、それなら負けて当然でしょ」

 

 プレストンは服越しにデジタルの腹の肉をつまむ。素人や初心者には分からないかもしれないが、長年付き合っていたプレストンにはテレビ越しでも太目残りであることはわかった。

 自分ですら分かるのであればトレーナーは百も承知だろう。その状態で挑むということは勝敗を度外視して叩きであることは簡単に察せられる。

 

「ちょっとやめてよ、くすぐったいって。流石プレちゃん、的確な分析だね。相手関係、長期ブランクによる不調とレース勘不足と太目残り、これが敗因かな」

「本当にそれだけ?負けたのは今の理由だけでいいのね?」

 

 デジタルはプレストンの言葉に露骨に不快感を示す。世間のいうデスレースの呪縛を信じているのか、いくら親友でもあのレースについてとやかく言うのは許せない。プレストンは気配の変化を察したのか慌てて訂正する。

 

「待って、別にダートプライドのことじゃない。デジタルも何だかんだで何年も走っているし現役の平均活動年齢を超えている。どう自覚はない?」

 

 その言葉にデジタルは考えを改める。世間の下らない噂を信じているわけじゃない。ただ純粋に自分のことを心配してくれたのだ。

 

「それはない。逆に聞くけどプレちゃんに自覚はあった?」

 

 プレストンはデジタルの質問を聞いた瞬間僅かに表情が険しくなる。ソフトドリンクを一口飲んだ後当時の心境を思い出すようにゆっくりと語り始める。

 

「何というか水風船にほんの小さな穴が空いている感じ、気が付くといつの間に水が漏れていて、どんどん穴が大きくっていく。必死に塞ごうとするけど水がどんどん抜けていって、最後は塞ぐ気力すら無くなって水が無くなる」

 

 無意識に唇を噛みしめる。イメージ通りに体を動かせているのに前のウマ娘を捉えられない、後ろのウマ娘に差される。最初は気のせいかと思ったが日経つごとに衰えが現れていく。

 香港ならこんなことはない。イメージ通り体を動かせばイメージ通り相手を抜けると言い聞かせ目を背けていた。

 そして挑んだ香港カップでは惨敗、あれだけガッチリと嵌った歯車がバラバラに崩れる感覚、もう香港でも特別ではなくなった。この瞬間衰えを自覚し引退を決意した。

 

「まあ、デジタルならあと10年は走れるって」

「そうしたいけど、流石に無理だよ」

「常識外れで妖怪じみているし、案外できるかもよ」

「常識外れは100歩譲って誉め言葉だけど、妖怪はディスリじゃない?」

「褒めてる褒めてる」

 

 プレストンはおちょくるような口調で揶揄う。シリアスになりすぎた。デジタルだって衰えを意識しているかもしれないのに、これでは不安を煽ってしまう。

 矛盾した思考だが元チームメイトのスターリングローズを舐めるなと思うと同時に、デジタルはあっさり勝つかもと思い、負けたのはダートプライドを走ったことによる衰えだと思ってしまっていた。

 

「そういえば、デジタルは次走どうするの?適性的に安田記念?」

「安田記念とかしわ記念の両睨み、白ちゃんに今週中に決めろって言われた」

「確か日程はほぼ同じか、どっちにするの?」

「悩んでるんだよね~。いっそのことコインで決めようかな~」

 

 デジタルはテーブルに体を伸ばし気の抜けた声でプレストンに語り掛ける。だがその視線はデジタルではなく携帯電話に向けられていた。

 

「ちょっと、友達が悩んでいるんだから相談に乗ってよ。それで何見てたの?」

「ニュース、アイドルがファンに襲われたんだって」

「ふ~ん、どんな恨みを買ってたの?」

「そのアイドルが男と付き合っていたのが許せなかったからって」

「逆恨みじゃん」

「アンタも案外他人事じゃないかもよ」

 

 デジタルは思わぬ話題の振り方に目が点になる。今の話題と自分には何一つ関連性が見いだせない。

 

「デジタルはダートプライドに勝ったでしょう。非公式ながらダート世界一、それで世間に広く認知され多くの新規がファンになった。でもGIどころか地方のGⅢに負けた。幻滅してその反動でアンチになるかもって話、流石に襲われることはないだろうけど」

「またその話題か」

 

 デジタルはうんざりしたという具合に大きなため息をつく。

 

「またって?」

「白ちゃんも同じこと言ってた。それで言ってやったの。ちょっと勝手過ぎない。勝手に期待して勝手に幻滅してさ、それにファンなら勝っても負けてもありのままの姿の推しを応援して愛でるべきじゃないって」

「それはそうだけど、ファン側の心理も分かるって言えば分かるんだよね」

「襲う気持ちが分かるの?プレちゃんがそんな犯罪者予備軍だったなんて、友達止めようかな」

 

 デジタルは演技がかった表情で嫌悪感を示す。プレストンは話を最後まで聞けと手で制し話を続ける

 

「覚えてる?デジタルとダートプライド前に喧嘩したの」

「勿論、あの時は勝利中毒で色々と我を失ってたからな。我ながら恥ずかしい」

「それでアタシはデジタルにらしくない、昔のアンタに戻ってよって言ったでしょ」

「あの時は自分を全否定されたみたいでマジでムカついたよ。今ではプレちゃんがそう思うのも納得だけど」

「アタシもデジタルに理想のデジタルを押し付けたんだよね。結局元に戻ったけど、もし元に戻らず勝利中毒のままだったら、デジタル風に言えばありのままの姿を受け止められたのかなって。理想との変わりようにショックを受けて嫌いになってたかも」

 

 プレストンは自嘲的に口角を上げる。勝手に期待して勝手に幻滅するなんて勝手であり、デジタルの言うことはごもっともである。

 しかし自分の理想が変化した姿を受け入れるのは中々に難しい。この感情は思ったより普遍的なのかもしれない。

 

「まあ、ようするに夜道には気を付けろってこと」

「まとめ方雑だな~」

 

 デジタルはプレストンに思わず突っ込みを入れ、一瞬重苦しくなった空気は一気に和やかになった。

 

「じゃあね。安田記念かかしわ記念か分からないけど、予定空いていたら見に行くから」

「ちゃんと開門ダッシュして、パドック最前列に陣取って応援してね。そしたら投げキッスぐらしてあげるから」

「いやよ。どうせこっちなんて気にせずウマ娘を感じることに全神経を向けてるんでしょ。応援し甲斐が全くない」

 

 2人は軽口を交わしながら別れ其々の家路に向かう。デジタルは考え事をしながら歩き続ける。

 理想、幻滅、最近よく話題になる言葉だ。プレストンの言葉を聞いてファン側の思考を知れた。だが考えは変わらない。

 期待するのは勝手だが、皆の想いを背負う気はない。オペラオー達に教えられたように有名選手としてそれ相応の振る舞いはするつもりだが、ファンの想う勝手な理想を演じるつもりはなく好き勝手に生きていく。

 

───

 

 デジタルは店に入ると一番奥の窓際に座り、帽子とマスクを外して店員に注文する。店員がデジタルの姿を見ると一瞬ハッと目を見開く。恐らく自分の存在に気が付いたか?だが店員はサインや握手を求めずオーダーをとりカウンターに向かう。

 単純に知っているが興味が無かったのか、それとも仕事中なので控えたのか。

 前者なら問題無いが後者なら少し申し訳ない。オペラオーなら帰る際にサインを書いたり握手するのだろうが、もし前者だった場合自意識過剰で恥ずかしいのでやめておく。

 今デジタルは船橋駅近くにあるチェーン喫茶店に居た。遅れてはならないと早めに来たのだが、1時間前に到着し周辺に疎く時間を潰す場所も思いつかないので、待ち合わせ場所に来ていた。

 他のウマ娘のツイッターやインスタグラムなどを見れば1時間程度はあっという間に過ぎていく。待ち時間は特に苦にはならない。

 すると入り口に見慣れた姿が現れる。セイシンフブキだ、ポロシャツとチノパンの飾り気のない恰好でデジタルの元に近づき対面に座る。

 

「今日は来てくれてありがとう」

「アタシは近くだからいいけど、アンタは態々船橋くんだりまで来てご苦労だな」

「用が有るのはアタシだから当然だよ。店員さん注文お願いします」

 

 デジタルは店員を呼び自分とフブキのオーダーを頼む。店員はデジタルを見た時と同様の反応をフブキに見せる。これでレースファンで有る可能性が高まった。少し恥ずかしいが言葉をかけてみよう。

 

「さて、色々お喋りしたいところだけどフブキちゃんは前置きは無い方が好きそうだから、本題から言うね」

「そうだな、そっちのほうが助かる。それで何だ?」

「フブキちゃんはもうあの頃に戻れないの?」

 

 デジタルは単刀直入に切り出した。

 

 セイシンフブキはダートプライド以降は長期休養に入り昨年末に復帰を果たしたが、それ以降のレースには一度も勝利していない。

 デジタルもその様子が心配になり東京大賞典を現地で見たが、あることに気づいてしまう。セイシンフブキに一緒に走ったレースのような輝きがなかった。

 安田記念とかしわ記念のどちらを走ろうか悩み、セイシンフブキの状態が選択する上で重要になっていく。

 

「あの頃って?」

「今のフブキちゃんはダートプライドを走った時とどこか違う。競争能力じゃなくて、もっと芯となっているものが変わった」

 

 デジタルは自分の感情を必死に言語化する。どこが違うとはハッキリとは断言できない。しかし変化があったことは感覚で分かった。そしてその変化は望むものではなかった。

 

「して欲しいことがあったら何でも言って。何だってするから。アタシはあの頃のフブキちゃんともう一度走って感じたい」

 

 語気を僅かに強くしながら訴える。全てのウマ娘を愛しており尊いと思っている。だが人で有る以上好き嫌いの区分はどうしても出来てしまう。そういった意味ではセイシンフブキは特別だった。

 ダートプライドで味わったあの感覚を何度でも味わいたい。その為にはかつての姿に戻ることは必要不可欠だった。

 

「芯となる部分か、なるほど、良い線いってる」

 

 セイシンフブキは関心そうな素振りを見せ口角を上げる。

 マスコミ達は最近の成績不振をデスレースに走った影響と決めつけている。その可能性は否定できないが、今の状態はデジタルの言う芯となる部分が変化したからだ。

 

「そこまで見抜いているならいいだろう。アンタになら話してやる」

 

 デジタルはその言葉に思わず息をのむ。もしかしたら自分で何とかできる要素かもしれない。聞き漏らさないようにと意識を集中させる。

 

「簡単に言えばダートへの探求にのめり込んだからだ」

「え?」

 

 思わず聞き返す。ダートへの探求はダートプライド前にもしていただろう。何が違う。セイシンフブキはデジタルの反応は予想通りとばかりに言葉を続ける。

 

「ダートプライドを走って、奥深さと高さを知った。極めたと思ったダートにはさらなる未知と未発見の鉱脈がある。それに心躍り生涯ダートを探求しようと誓った」

「それは前からじゃないの?」

「まあそうだが、さらにダートへの探求に重点を置き始めた。例えばだが、このまま既存の技術を使えば1着になれる場合と、失敗する可能性が限りなく高いが未知の技術を発見できる場合がある。以前のアタシなら前者を選んだ。だが今は躊躇なく後者を選ぶようになった」

「つまり勝ちにこだわらなくなった?」

「まあ、そういうことだ。勝利よりダートの探求とそれを後輩たちに伝えたいと思っている」

 

 ダートを盛り上げるために、地位を向上させるためには自分が勝たなければならない。その情熱を燃やし今までのレースは走ってきた。だがダートプライドで深淵の一部を覗いて虜になってしまった。

 今までは勝つためにダートを探求していた。だが今はレースで勝つことよりダートを探求するほうを優先するようになっていた。

 そして得たものを後輩たちに伝え成長させ、自分が求めるダートと芝の立場が対等になる世界を作り上げてくれることを願っている

 この心境の変化を知っているのは独自で見抜いたアブクマポーロとヒガシノコウテイ、そして自らの心境の変化を伝えたアジュディミツオーだけである。

 

「じゃあ、もう以前には戻れないってことだね」

「ああ、残念ながらな」

「そっか」

 

 デジタルは天井を仰ぎながらポツリと呟く。自分も勝利中毒から抜け出し、レースを通してウマ娘を感じることに全てを注ぎ結果について気にしないようになった。

 ダートプライドでは皆に少しでも近づいて感じたい一心で走った。この考えを変えるつもりは今のところない。

 それはセイシンフブキも同じだろう。感じたかったのはダートを探求する情熱でなく、ダートを盛り上げようと勝利を目指す情熱だった。

 

「もし以前のアタシを感じたいというのなら諦めろ。もう昔には戻らない」

「うん、残念だけどそうみたい」

「アタシとアンタの道は違えてもう交わることはない」

「そうだね。今までありがとう。一緒に走れてとっても楽しかった」

「何だか別れ話みたいだな」

「プッ!」

 

 セイシンフブキの言葉にデジタルは思わず吹き出す。別れ話とは言い得て妙だ。

 

「次走は安田記念とかしわ記念どちらかにするか悩んでたけど、決心がついたよ。アタシは新たな出会いを求めて安田記念を走る」

「勝手にしろ。精々新しい恋人でも見つけるんだな」

 

 フブキの軽口にデジタルは笑みを浮かべる。これで迷いなく安田記念を走れる。

 あの頃のセイシンフブキを感じられないのは残念だが、この思い出を胸に仕舞い次に進もう。女の恋は上書き保存、男の恋は別名保存と言われるが、セイシンフブキとの思い出は上書きすることなく、何度でもフォルダを開いて楽しもう。

 

「あと新しい恋人なら紹介するぞ」

「そのネタ引っ張るね。それで誰?」

「アジュディミツオー、アイツは強くなるし、昔のアタシと同じぐらいにダートで勝つって闘志をメラメラ燃やしている」

 

 セイシンフブキが饒舌に語る姿を見て思わずニヤける。辛口そうなセイシンフブキがここまで弟子であるアジュディミツオーを褒めるとは意外だ。

 

 その後2人は雑談に興じる。レースやウマ娘について語るが、大半はダートについての話だった。

 フブキは語るつもりはなかったがデジタルが促し仕方がなく話したら、興が乗り一方的に喋っていた。

 内容は高度で理解できないものも有ったが、参考になるものも多く何より生き生きと喋る姿が見られただけで満足だった。

 キリが良いところで2人は店を出る。デジタルは店を出る前にオーダーを取った店員に話しかけ、レースやウマ娘が好きだと分かると一通りのファンサービスしておいた。

 

「ねえフブキちゃん、フブキちゃんはその道を引退まで進むの?」

「勿論」

「辛くないの?」

 

 別れ際にデジタルは問いかける。最近の成績不振によって様々な陰口を叩かれている。

 

 終わったウマ娘、ダートプライドも実はレベルが低かった。見苦しい、さっさと引退しろ。

 

 セイシンフブキが勝利よりダートを探求し後輩に伝える道を選んだ。そしてもうレースに勝利する可能性は低い。

 もしダートプライドで引退すればファン達はセイシンフブキの強さに幻想を抱くだろう。だが走り続ける道を選び、レースに負け続けることでその強さの価値は疑われ貶められるだろう。

 その選択の尊さを知らずに言われることが悔しくもあり心苦しくもあった。

 

「全く、アタシが好きで楽しくてやりたくてやってることだ。外野が何を言おうが関係ない」

 

 セイシンフブキが心配を断ち切るように断言する。それを聞いて要らぬ世話であったと反省する。自分も同じ立場だったら外野の言葉に耳を傾けず道を突き進む。

 デジタルにとってセイシンフブキはレースを通して感じたい相手ではなくなってしまった。だが道を進む誇り高さは全く失わず、1人の人間として魅力的で煌めいていた。

 



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勇者の慈悲#3

 空は鈍色に染まり大粒の雨が降り注ぎコースを走るウマ娘達を打ち付ける。その衝撃は触覚ではなく痛覚に訴えかける強さだった。午後から天気が崩れるという予報が出ていたが大方の予想より大きく崩れていた。

 トゥインクルレースでは天候不良によるレースの中止は余程のことが無い限り起きない。起きる事例としては台風や大量の降雪などがあるが、雨が理由での中止はほぼ無い。

 大半のチームは雨でもトレーニングするが、この豪雨ではトレーニングにならないと室内練習に切り替えていく。だがチームプレアデスのメンバーはかまわずトレーニングを続ける。

 

「イタッ」

 

 黒鹿毛のウマ娘から思わず顔を顰め声が漏れる。彼女の名前はメイショウボーラー、デジタルが長期中休養中にチームプレアデスに加入し、デビュー戦までに向けてトレーニングを積んでいる。

 メイショウボーラーはチームに入る際に1つの誓いを立てていた。絶対に愚痴をこぼさない不平を漏らさない。だがその誓いは既に破れていた。

 普段は気にも留めない雨粒でもウマ娘の脚力で走っている最中に当れば無視できない衝撃になる。そして立っているだけでも痛覚に訴えかけるほどの大粒の雨、その雨粒が走っている最中に当れば痛みと衝撃はさらに増す。

 さらに今走っているダートコース、ダートコンディションが不良の状態で走ったことはあるがここまでグチャグチャな状態で走るのは初めであり、今までの経験が全く通用せず脚を取られ上手く走れない。

 雨による肉体的ダメージ、超不良と呼べるようなダートコンディションによる体力の消費により気力が奪われていく。

 なんでこんな苦しい思いしてんだろう。徐々にスピードは落ちていく。

 

「がんばれ!」

 

 すると後ろから声が聞こえる。思わず振り向こうとした瞬間声をかけたウマ娘は真横にいて目線が合い、そのウマ娘は満面の笑みを見せ抜き去っていく。

 メイショウボーラーは抜かれた相手の背中を見つめる。今日のトレーニングでは大分ハンデをもらっているはずなのに、もう追いついた!?しかもこの雨と超不良のダートを全く苦にせずいつも通り駆け抜けていった。

 これが世界のアグネスデジタルの力か、メイショウボーラーは感嘆するともに笑顔を思い出す。

 あのアグネスデジタルがデビュー前の新人に気をかけエールを送ってくれた。嬉しさと同時に頑張ろうとする気力が湧き上がる。

 メイショウボーラーは歯を食いしばり全力でダートコースを走り始める。

 

 デジタルがゴールしてから数秒後、メイショウボーラーは左右に蛇行しながらゴールし、思わず膝から崩れ落ちる。

 このトレーニングではレース形式でダート1200メートル走ったが、雨の痛みと超不良のダートによって思考力と体力が奪われペース配分は全くできなかった。

 ただ我武者羅に走り最後は気力で走る。まるで入学前の幼いウマ娘の草レースのようだ。

 

「よく頑張ったね!スゴイ!偉い!素敵!」

 

 疲労でうなだれるメイショウボーラーの元にデジタルが歩み寄り手を差し伸べる。その手をとり起き上がる。

 

「疲れました……」

「今日はこの1本で終わりだから、帰ってシャワー浴びてゆっくり休もう」

「はい……」

 

 億劫そうに相槌を打ち歩き始める。その足取りはかなり遅くデジタルもその歩調に合わせるようにゆっくりと歩きチームルームに向かう。

 

「もう雨が痛くて足が取られて仕掛けもペース配分もなかったです……」

「それはしょうがない。むしろデビュー前で走りぬいただけ凄いよ。大半のウマ娘ちゃんは気持ちが萎えて走るの止めちゃうからね。全く白……じゃなくてトレーナーはこんな悪天候で走らせるなんてどうかしてる!」

 

 メイショウボーラーはプリプリと怒る様子を見て思わず吹き出す。今まで遠目で見るか挨拶を交わす程度だったが、こんな子供っぽい人だとは思わなかった。

 

「しかし凄いですね……あんな雨とダートのなかで平然と走ってピンピンしていて」

「それは楽してるから」

「楽?どんなふうに楽してるんですか」

「企業秘密、と言いたいところだけど特別に教えてあげる。例えば回転数の上げ具合にコツがあって……」

 

 デジタルはチームルームに行くまでの道中の間にダート不良での走り方のレクチャーを始める。メイショウボーラーは一言も聞き漏らさないと意識を集中させる。

 

「しかし意外でした。アグネスデジタルさんはもっと天才肌っていうか感覚派だと思っていたので」

「何?もっとガッとして歩幅をダダッて縮めて、膝をフワッて緩めるって言えばよかった?」

「すみません。それじゃあ意味が分かりません」

「うん、アタシも分からない」

「何ですかそれ」

 

 2人は思わず笑う。デジタルのイメージは先程の言葉みたいな天才言語で話すタイプだと思っていた。だがイメージとは裏腹に実に分かりやすく説明するタイプだった。

 

 それから2人はチームルームに着くまでアドバイスを受けるなど会話を弾ませ、デジタルと別れてシャワールームに向かった。

 トップ選手のアグネスデジタルに声をかけるのは恐れ多いと思っていた。だが意外にもフランクで親しみやすかった。今日1日で距離が近づき好感度が一気に上がっていた。

 

「いや~、初めての雨とこの不良のダートで心が挫けそうになりながら必死に走るメイショウボーラーちゃん!たまりませんね!あまりにも疲弊しているから手を貸そうとしましたがグッと堪えましたね!ここで手を貸せば自分で走ろうとする意志を蔑ろにしちゃいそうですからね!」

 

 デジタルはチームルーム内でシューズを手入れしながらトレーナーに話しかける。だがほぼ独り言のようなものなのでトレーナーも相槌を打たず、キーボードを打ち込む。

 

「でもこの雨で走ることもなかったんじゃない?この豪雨だったら普通なら中断レベルでしょ」

 

 デジタルは不満を零すように語り掛ける。今日のような豪雨でレースを走ったことはなかった。自分も余裕綽々で走った素振りを見せたが、内心ではかなりきつくトレーナーに対して不平不満を抱いていた。

 何年も走っている自分でもキツイのだからデビュー前のウマ娘にはさらにキツイ、もはや一種の体罰だ。

 

「まあ、中断になる可能性は高いな」

「じゃあ何で走らせたの?意味ないじゃん」

「まあしごきの一種や、こんな厳しい状況で走れば苦しい時にこれより辛くはなかったって、乗り越えられることもある」

「体育会系だな~。こんなことしてると新人ちゃんがチーム辞めちゃうかもしれないよ」

 

 デジタルはやれやれとため息を漏らす。トレーナーは他のトレーナーと比べて年配なせいか妙に体育会系なところがある。

 

「あと、メイショウボーラーちゃんにダート不良の時の走り方についてアドバイスしておいたから。歩幅とか回転数とか基本的なことしか言ってないけど」

 

 デジタルは話の流れで思い出したかのように話す。本当なら両手で足りない程の修正点が有ったが、それをいっぺんに伝えればまだ出来上がっていないランニングフォームが乱れる可能性があり逆効果だ。なので基礎中の基礎的なことをアドバイスしておいた。

 

「もしかして余計なお世話だった?白ちゃんのプランと違ったら申し訳ないけど」

「いや、明日伝えようと思ったところや。逆に手間が省けて助かる」

 

 トレーナーは丁度メイショウボーラーのトレーニング映像を見て修正点を纏めていたところで、デジタルがアドバイスしたことは重点項目として記載しているところだった。

 

「しかし変わったな。昔はアドバイスとかせえへんかったのに、今では積極的にアドバイスをしとる」

 

 デジタルはある日を境にチームメイト達にアドバイスしている姿を見かけるようになった。

 自分が言っても従わなくともチームメイトが言えば素直に受け取ることもある。デジタルはウマ娘好きが講じたのか観察眼は鋭く、聞いている限りでは適切なアドバイスしている。

 

「まあ心境の変化ってやつだね」

「よかったらその心境の変化を聞かせてもらってもええか?」

 

 トレーナーはキーボードを打つのを止め、視線を画面からデジタルに向ける。以前にもファンサービスしなかったが、するようになったのはオペラオーとドトウのアドバイスからだ。今度はどのような切っ掛けが有ったのか興味があった。

 デジタルはトレーナーの視線に気づいたのかシューズの手入れを止め、視線をトレーナーに向ける。

 

「ダートプライドの時は皆を感じるために自分勝手に好き勝手して、それなりに迷惑をかけたと思うんだよね。さらに皆への感謝も申し訳なさも隅に追いやって、皆を感じることに全力を注いだ。その結果最高の体験ができた。だから今度はアタシが返す番かなって」

「ほう、殊勝な心掛けやな」

「それにアタシもチーム最古参で学園でもキャリアが有る方でしょう。そうなるとベテランとしての自覚も芽生えるわけ、アタシもチームの皆やオペラオーちゃんやドトウちゃんの上の人達に色々教わったから、今度はアタシがやる番かなって」

 

 トレーナーは相槌を打ちながら真剣に聞く。好き勝手した分だけ周りに返す。自分がしたことを他人にしてやる。奉仕の心と言うべきその心のありようは成長といえるべきだろう。だがそれだけがこの心変わりの理由ではない気がする。

 トレーナーの言葉を促すような視線に気づいたのか、さらに言葉を続ける。

 

「フブキちゃんと会って話したんだけどさ、フブキちゃんはもう以前みたいに絶対に勝ってダートを盛り上げるって気持ちより、ダートを深く追求してそれを後輩に伝えることを優先するようになったみたい。それで後輩の成長を楽しそうに話している姿を見て、いいなって思った。それが1番の理由かも」

 

 デジタルは嬉しさと寂しさが綯交ぜになったような笑みを見せる。

 人に技術や心構えを教え感謝してくれるというのは思ったより嬉しかった。そして教えた事が成果を出し喜び感謝してくれたらさらに嬉しいだろう。セイシンフブキが別の道を歩んだ理由を体験することで実感できた。

 

「あと次走だけど、安田記念に出ることにしたから」

「そうか、かしわ記念はええんか?」

「最近はダートばっかり走ってたし、偶には芝でも走ろうかなってね。じゃあ登録よろしく」

 

 デジタルは用が済んだとばかりに手入れ道具とシューズをロッカーに仕舞うと立ち上がり、部屋の出口に向かって行く。ドアノブに手をかけた瞬間トレーナーに声を掛けられ思わず手を止める。

 

「デジタル、老け込むにはまだ早いぞ」

 

 トレーナーには懸念があった。ダートプライドは外から見ても凄まじいレースだった。多くの人の心に刻まれた。

 そしてこのレースのような感動と熱狂を求めるだろう。外から見ていたファンがそうであるなら、当事者であればさらに刻み込まれているだろう。

 今までで最も楽しみにして、そして期待を超えたレース、デジタルにとってダートプライドは麻薬のようなものだ。

 こらからもダートプライドと同等の刺激と興奮と快楽を求めるだろう。だがこれほどのレースはそうそう出会えないどころか、現役時代に出会える確率は0に等しいだろう。

 デジタルはウマ娘を感じたいという情熱は世界一だ、どんなレースでも楽しみを見出しウマ娘を感じ堪能する。

 それでもダートプライドは劇物であり他のレースやウマ娘が霞んでしまう可能性がある。そうなればモチベーションが下がり引退することもある。

 ダートプライドと同等の興奮と快楽を求め、セイシンフブキが走るかしわ記念に期待していた。

 だが心変わりしてしまい、ダートプライドの時のような興奮と快楽を提供できなくなった。その落胆がふと見せた寂しさを帯びた笑顔に表れている。

 

 そして人に教える楽しさに気づいた。人に教え、教え子が成果を出し感謝される。

 自身の理論の正しさの証明であると同時に自分を信じてチームに入ったウマ娘の夢を叶える手助けになったという充実感と達成感、これはトレーナーとしての醍醐味であり充分に理解でき、現役に見切りをつけてトレーナーへの道に進むかもしれない。

 デジタルがどのような道に進んでも尊重するつもりだ、だがもっと現役で走って、ウマ娘を感じて楽しんでもらいたい、その姿を少しでも長く見たいという願望があった。

 

「なになに~?白ちゃんはまさかアタシが引退すると思った~?」

 

 デジタルは1秒ほど呆けるが質問の意図を察すると悪戯っぽい笑みを見せて、手をブンブンと振る。

 

「ああ、ダートプライドで燃え尽きて引退するかもってな。あれは傍から見ても劇物や」

「確かにあれは麻薬だね。あの興奮と快楽をもう一度って気持ちはあるよ。でもダートプライドの思い出は別名保存、思い出に浸るのは色々なレースを走った後でも遅くはない。それにアタシは新しい出会いにワクワクしているからね!」

 

 デジタルは目を意気揚々と語り掛ける。その姿を見てトレーナーは完全に杞憂だったと安心する。瞳に宿る生気と輝き、あれは輝かしい未来を信じ希望を抱いている者の瞳だ。

 

「今のマイル路線はデジタルが走っていた頃と比べて面子も変わったからな。生きのええのがおるし」

「そうそう。今までは安田記念とかしわ記念の両睨みだったから、調べきれなかったからね。でも安田に決めたからにはリサーチしまくって、存分に感じまくるぞ!」

 

 デジタルはテンションが上がったのか、鼻歌混じりで勢いよくドアを閉めて部屋から出て行く。

 

「老け込んだのは俺か、ついつい心配性になっとる」

 

 トレーナーはクックックと自虐的に笑う。選手である限り引退は避けられない。だがモチベーションに関する問題で引退することはないだろう。

 デジタルのウマ娘を感じたいという欲は底なしであり、衰えない限り自分が望むデジタルが見られそうだ。

 

──

 

 アグネスウイングは自室の扉の前で顔を青ざめさせながら決意を固め何度も深呼吸する。

 トレーニングを終えた後は部屋に向かわずトイレで私服に着替えた後に、食堂でご飯を食べ、お風呂に入って栗東寮の広間で同学年や友人と他愛のない時間を過ごす。

 だが消灯時間になると1人、また1人と自室に向かって行く。そして最後の1人になって寮長に注意されるまで広間に居続けた。

 そして重い足取りで自室に向かう。近づく度にお腹が痛む。このままではストレス性の胃炎か最悪どこかの臓器に穴が開くだろう。

 部屋に入った瞬間、腹の痛みは増し吐き気がこみ上げてくる。

 電気はいつも通り消えていた。だがお互いのスペースを区切るカーテンの向こう側から光が漏れる。その向こう側にこの不快感を生み出す主が居た。

 アグネスウイングは気にしないようにしながらベッドに向かい目を閉じる。だが一向に眠気はこない。どうせ朝まで眠れず不快感苛み続けさせられる。

 少し前まではこんな空気を発するウマ娘では無かった。それまでは過ごしやすい空間だった自室は地獄と化した。

 いったいこの地獄みたいな日々はいつまで続くのだ?むしろこの不快感を生み出すこのウマ娘は何者なのだ?ウマ娘では無く妖怪か何かの類なのではないか?

 そんな空想で不快感を紛らせ、せめてもの抵抗にと聞こえるように舌打ちをするが反応は返ってこなかった。

 

──

 トレーナーは坂路を駆け上がるチームのウマ娘達に視線を向ける。

 デジタルが数々のGIに勝利し少しは名が上がったが、することは変わらない。

 様々な巡り合わせでチームに入団したウマ娘の夢や目標を達成するために力を注ぐ、そこにはGIウマ娘でも未勝利ウマ娘でも変わらない。等しく平等に情熱を注がなければならず、デジタルだけを特別扱いするわけにはいかない。

 デジタルは数々のレースを走りトレーニングを積んだことで、悪く言えば上積みが無い。良く言えば完成しているウマ娘であり、トレーニングについて口を出すことが無くなった。

 逆に指導しなければならず目が届かないウマ娘にアドバイスを送っているので、とても助かっている。

 トレーナーの目下の悩みの種はデジタルではなくアグネスウイングだった。

 資質としては重賞に勝てるほどだ、今のトレーニングでも1勝クラスのウマ娘を前に置いて後ろから抜き去るメニューなのだが、明らかに動きが悪く前のウマ娘を抜き去るところか追いつくことすらできなかった。

 

「最近のTVはオモロイからな。何見とるか教えてくれや」

 

 トレーナーは坂路を上がったアグネスウイングを出迎えるように声をかける。教諭や周りのウマ娘の話を聞いて不調の原因は調べてある。

 ずばり寝不足だ。寮の自室で碌に眠れず教室で睡眠を補っている。だが机で寝るのとベッドで寝るのでは睡眠の質は段違いで、疲れや眠気が取れず生活習慣は乱れていく。それが蓄積して不調になっている。

 まずは頭ごなしに叱らず共感を示し自室で眠れない理由を訊き、そこから徐々に改善していく。この年頃の少女と接するにあたっては繊細に対応しなければならない。

 

「何も見てないですよ」

 

 アグネスウイングはぶっきらぼうに答える。比較的におとなしめな性格だが、ここまで不機嫌さを露わにするのは初めてのことだった。

 

「ならなんで寝不足なんや?」

「それは……ルームメイトが……」

 

 アグネスウイングは歯切れ悪く答える。どうやら原因はルームメイトに関することのようだ。いびき、それか関係が険悪になったことによる精神不安か。

 

「なら一旦距離を取ったらどうや?例えば誰かと交換して別のルームメイトと生活するとか、寮長も詳しく話せば何とかしてくれるかもしれんぞ」

「ダメです!あの娘の被害に遭うのは私だけで充分!他の娘に迷惑はかけられない!」

 

 アグネスウイングはヒステリックに叫びその場に膝を抱えて座り込む。

 トレーナーは予想外の反応に右往左往してしまう。単純な寝不足かと思っていたが事は予想以上に複雑で相当参っているようだ。するとその様子を見ていたデジタルが2人の元に駆け寄り声をかける。

 

「どうしたの?」

「いや、アグネスウイングに寝不足の原因を聞いてな、どうやらルームメイトに原因があるみたいで、誰かと部屋を交換することを勧めたんやが、他のウマ娘に迷惑はかけられないって声を荒げてな」

 

 デジタルはアグネスウイングの様子を観察すると近寄ると隣に座り込み、優し気な声色で声をかける。

 

「アグネスウイングちゃんは優しいね。いつも周りを気にして他の人の幸せを願っている。そんな優しさは大好きだよ。でもその優しさでアグネスウイングちゃんが傷ついたらアタシは悲しい。だから皆が幸せになれる解決策を考えよう。話してくれない?」

 

 その言葉に心を開いたのかアグネスウイングは頷き、ポツリポツリと状況を説明していく。所々言葉詰まり焦らされるがデジタルは相槌を打ち、耳を傾ける。

 

「つまりルームメイトの様子が急におかしくなって、その空気に耐えられなくなって眠れなくなったことによる寝不足っちゅうことやな」

「はい」

 

 トレーナーが要約した言葉にアグネスウイングはコクリと頷く。チームメンバーの言うことは信じたい。だがトレーナーはアグネスウイングの言葉に懐疑的だった。

 そのルームメイトは暴力を振るったり暴言を吐いたりと態度を悪く接したわけでもない。ただそこに居るだけである。それだけで寝不足になるまで精神が追い詰められるものなのか?

 

「あれはもうウマ娘じゃない……そばに居るだけでおかしくなりそう……誰もあの娘が発する空気に耐えられない。かといって隔離するわけにもいかない、だったら私が犠牲になれば……」

 

 だが現実にアグネスウイングは相当追い詰められている様子を見る限り、事実として認めなければならない。

 

「それでそのルームメイトは誰なんや?」

「アドマイヤマックス」

 

 デジタルとトレーナーの体がピクリと動く。アドマイヤマックスは確か安田記念に出走登録しているウマ娘だ。

 日本ダービーを制覇したアドマイヤベガや朝日杯FSと安田記念を制覇したアドマイヤコジーンがかつて在籍し、今はティアラ路線の主役候補のアドマイヤグルーヴが居るチームルイ、アドマイヤマックスもチームルイに在籍し、チームのリーダー的存在としてトレーナーやチームメイトの信頼が厚く、品行方正と聞いている。

 そんなウマ娘がアグネスウイングをここまで追い詰めるほどの空気を出すとは思わない。

 

「よし、じゃあアタシと交換しよう。アタシがアグネスウイングちゃんの部屋に暫く住むから、アグネスウイングちゃんはアタシの部屋で住んで。大丈夫ルームメイトのタップダンスシチーちゃんは良い子だから安心して」

 

 デジタルの突如の提案にアグネスウイングは思わず目を点にする。

 

「ダメです!あれはウマ娘の皮を被った妖怪か何かです!一緒に居れば確実に精神が病みます。GI前に調子を崩されたら皆が悲しみます!」

「大丈夫。無関心以外だったらウマ娘ちゃんの感情は何だって受け止められるから。アタシもアドマイヤマックスちゃんを感じられて嬉しい。アグネスウイングちゃんも距離を置けてホッとする。これで問題解決!」

 

 アグネスウイングは抗議するがデジタルは心配するなと明るい声色で強引に押し切り、その勢いに押されたのか渋々と了承する。

 デジタルはウマ娘の感情に対する懐の深さは学園一であり、負の感情を向けられたらそれを感じ楽しめられる変わった嗜好の持ち主である。そういった意味ではデジタルが適任である。

 

「本当にええんか?以前の時みたいにアグネスウイングを家に住ませる方法もあったぞ」

 

 トレーナーはアグネスウイングが準備のために離れたのを確認して問いかける。

 以前プレストンとケンカした際には一緒の部屋に居られないということで、トレーナーの部屋で一時的に生活していた。今回も申請さえすれば同じ方法をとれた。

 

「それはプランBってことで、アグネスウイングちゃんもオッサンと暮らすより、近い年頃のウマ娘ちゃんと暮らしたいでしょう」

「それもそうやな。だがキツかったら即プランBに移行するぞ」

「了解」

 

 トレーナーはデジタルに言葉に納得し引き下がる。 

 デジタルは部屋を交換する動機は今言った理由だけではない。まずはアドマイヤマックスというウマ娘に対する興味、物の怪と呼ばれるほどの豹変に対して純粋に興味があり感じたかった。

 そしてそこまで豹変したということは俗に言う闇落ちという類かもしれない。

 チームメイト達も色々やっているだろうし、余計なお世話かもしれない。しかしウマ娘が悲しんでいる姿を何もせず黙って見過ごすわけにはいかない。やはりウマ娘には笑顔で居て欲しい。

 



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勇者の慈悲#4

作中独自の設定があります


 ウマ娘にはメジロ、サクラ、シンボリ、エア、ナリタ、ナムラ、マチカネなど苗字のように同じ名前を冠するウマ娘は多い。だが血縁関係があるわけではなく大概は赤の他人である。

 しかしそれらのウマ娘は自然と惹かれ合うように同じ名を者同士が集まり行動し、自然とメジロ軍団というように1つのコミュニティを形成する。

 そしてアドマイヤも軍団の1つであるが、他とは違うのはアドマイヤの名前を冠するウマ娘は高い確率である人物と血縁関係にあった。

 その人物は皆から親方と呼ばれており良くも悪くも注目を集める人物だった。元々トゥインクルレースを毛嫌いしていたが友人にレース場に誘われて生で見てからとても感銘を受けたようで、一気にのめり込むようになった。

 最新のトレーニング器具の贈与、日本では流通されていない栄養剤の提供、シューズの無料提供、腕の良い蹄鉄師と専属契約、トレーナー助手への留学費全額支給。私財を投げうって全面的にアドマイヤのウマ娘や懇意にしているトレーナーを前面的にパックアップした。

 トレーナーが懇意にしている人物に資金援助を受けることはあるが、ここまでスポンサーのように全面的にバックアップすることは業界では無かった。

 元々はとある建設会社の社長だったが需要の増加によって、急激に仕事が増え一気に業績をあげた。

 だが急激な業績成長は成金と揶揄され、資金に物言わせて援助する姿勢に対して否定的な意見が多く、一部の噂では将来有望なウマ娘を青田買いしたという黒い噂も流れていた。

 さらに現場に介入することが多く、トレーナーとの育成方針やレース選択の対立、レースを走ったウマ娘の判断ミスを公然の場で叱ることもあり、そういった面も業界では嫌われている。

 だが決して悪い人間ではなく、可能な限り時間を作っては懇意にしているチームのウマ娘やアドマイヤのウマ娘達の元に顔を出しては親身に相談に乗り、ウマ娘達からの信頼は厚い。

 関わるウマ娘は全て家族である。だからこそ親身にサポートし、レースで負ければ自分の事のように悔しがり、時にはレース内容を批判し叱責してしまうのだろう。

 そしてトゥインクルレースを走り重賞にも勝ったウマ娘の母と親方の孫である父、その間に生まれたのがアドマイヤマックスだった。

 

 アドマイヤマックスは生まれた瞬間からある程度人生が決められていた。

 決定事項のように幼い頃から曾祖父の援助の元にジムに通い、トレセン学園への入学に備えトゥインクルレースを目指すそれが一族の暗黙の了解だった。それに倣いジムに通い鍛えていく。

 

「アドマイヤマックスです!夢はチームルイを日本一にして、アドマイヤを日本一の軍団にすることです!」

 

 トレセン学園に入学しチームルイの新加入メンバーとしての自己紹介で堂々と宣言する。アドマイヤのウマ娘の大半はチームルイとチームルイデの2つのチームに所属している。

 

 チームルイにはかつて日本ダービーに勝利したアドマイヤベガが在籍し、現役にはアドマイヤベガと同世代で朝日杯FSに勝利したアドマイヤコジーンが居る。

 チームルイデにはかつてオークスに勝利したコスモドリーム、桜花賞とオークスに勝利したベガが在籍していた。

 どちらも曾祖父が懇意にしているトレーナーのチームであり、両チームともトレセン学園でも有数のチームである。

 

 アドマイヤマックスは親方を中心として纏まったアドマイヤというコミュニティが好きだった。

 ワンマンなところがあるがその剛腕と呼べるようなパワーで皆を引っ張る曾祖父を筆頭に、チームルイやチームルイデのトレーナーやスタッフや所属していたアドマイヤのウマ娘達、皆には幼い頃から可愛がってもらった。

 気が良くお互いを高め合えるチームのメンバーや同期のアドマイヤのウマ娘達、皆が纏まりとても居心地が良かった。

 トレセン学園から卒業したウマ娘達はアドマイヤのコミュニティから離れることなく、強い体を作るために必要な食料を提供したり、卒業したウマ娘の就職をサポートしたりと何かしらの形で後輩たちを支援する。それはまるで家族のようだった。   

 トウィンクルレースにはメジロやサクラなどの名門軍団が居るが、それらを追い越しアドマイヤこそ日本一の軍団にするという夢を抱いていた。

 

「もう1本行きましょう!まだやれますよ!」

 

 アドマイヤマックスはへたり込んでいる年上のチームメイトに声をかける。つい先ほど千切られたのにキラキラとした目で語り掛けてくる。その視線にマックスには敵わないとチームメイト達は立ち上がり、スタート地点に戻っていく。

 

「どうだ、アドマイヤマックスの調子は?」

 

 スタンドで様子を見ていたトレーナーに親方が声をかける。

 

「良いですね。能力も同期の中では頭1つ抜けていますが、何よりも人間性です。皆がアドマイヤマックスに不思議と引っ張られて、既にチームの中心になりつつあります」

「そうか」

 

 親方は言葉を聞き満足げな表情を浮かべる。アドマイヤマックスが幼き頃から既に一目を置いていた。

 幼き頃から身体能力は高かったが、評価していたのはトレーナーと同じようにその人間性だった。

 周りに気を配り皆を引っ張るリーダーシップ、アドマイヤのウマ娘のなかでもトレーニングの厳しさや壁にぶつかり早々にレースの道を諦める者も少なくない。アドマイヤマックスはそんなウマ娘達に声をかけ励ましていく。

 マックスとなら頑張れる。マックスと一緒に走りたい。アドマイヤマックスの世代は落伍者が最も少ない世代となり、いつしかアドマイヤの同世代の中心的存在になり皆が慕っていた。

 

「みんな頑張っているか?」

 

 トレーニングが終わりチームルームに曾祖父が訪れる。するとチームメイト達の表情はパッと明るくなり挨拶する。曾祖父もそれぞれのウマ娘に声をかけていき、アドマイヤマックスに声をかける。

 

「どうだトレセン学園は?」

「凄い世界です。同期ではトップクラスでしたけど、チームの皆も信じられないぐらい速くて」

 

 アドマイヤマックスは弱気な言葉を吐く。だが表情は嬉しさを滲ませ生き生きとした表情をしていた。

 

「コジーンも前走は惜しかったな」

 

 曾祖父は最後に葦毛のウマ娘に声をかける。アドマイヤコジーン、チームルイの中で唯一GIに勝利しているウマ娘である。

 

「別に」

 

 和やかな雰囲気が一転凍り付く。アドマイヤコジーンは腕を組み明らかに不機嫌な表情を見せている。親方は全員が何らかしらの世話を受けて、頭が上がらない人物だ。

 特にアドマイヤコジーンはチームの中で1番付き合いが長く。決してこのような態度を取らないはずだった。親方は怪訝な表情を浮かべながら話を続ける。

 

「次は必ず勝てる」

「別に」

 

 再び拒絶するような言葉、チームメイト達は一斉に親方に視線を送る。この人は唐突にスイッチが入って激怒するタイプであり、青筋を立て明らかにスイッチが入る寸前だった。

 

「冗談だって、これはあのお騒がせ女優の真似だから、ワイドショーとか見てない?」

 

 アドマイヤコジーンは不機嫌な表情から一転、人懐っこい笑顔を見せ親方に近づき抱き着く。それを見て親方は呆れた様子を見せる

 

「冗談にしては笑えんし、それも知らん。あと1秒遅かったら説教喰らわしていたぞ」

「そう?もっとアンテナ張らないとダメだよ。皆は笑いを堪えるのに必死だったでしょ?」

 

 アドマイヤコジーンは親方の頬を人差し指で突きながら皆の方に向く。

 

「全く笑えないっすよ。険悪な雰囲気になって心臓がキュッと痛みましたし、その真似も面白くないっすよ。それに毎度毎度笑いを取りに行くの止めてください。いつもダダすべりじゃないですか。あとTVのインタビューの時にアブトニックつけて笑いをとろうとしてましたけど、スタジオはヒエッヒエでしたよ。オンエアー見ました?」

「うるさい、それは周りがアタシの笑いを理解してないだけ」

「なに尖った腐り芸人みたいなこと言ってんですか」

 

 場の空気は一気に緩み皆がクスクスと笑い、トレーナーや親方すら威厳を保とうしながらも堪えきれず口角が上がっていた。

 アドマイヤコジーンは常におどけて空気を和やかにするチームのムードメイカーだ。だがトレーニングの時にはピリッと引き締まり、オンオフができる人間だった。

 暖かく尊敬できるトレーナー、普段は優しくて愉快だがトレーニングの時は厳しく切磋琢磨し合えるチームメイト達、そしてチームメイトやトレーナーを家族のように迎えて接してくれる曾祖父。改めてアドマイヤというコミュニティの素晴らしさを実感する。

 恵まれた環境でメイクデビューに向けてトレーニングをするなかで小さいなしこりのような不安が宿っていた。

 

 周りのアドマイヤのウマ娘達、そして1番の友達であるアドマイヤドンは持っていて、自分には持っていないものがあった。それは憧れである。

 1番多いのは日本ダービーに勝ったアドマイヤベガのようになりたいと憧れているウマ娘だった。アドマイヤドンも反発しながらも何だかんだ姉を尊敬している。

 他にはシンボリルドルフ、ナリタブライアンなど3冠ウマ娘など著名なウマ娘を憧れのウマ娘をあげていく。

 そのウマ娘達に共通するのは目の輝きだった。キラキラした目で憧れのウマ娘の名前をあげ語っていく。皆は憧れがあり自分には憧れる存在が居ない。憧れは人を強くして、それを持っていない自分は強くなれないかもしれない。その事に対して次第に不安が増していく。

 

 ある日曾祖父と顔を合わせたので思い切って相談した。自分には憧れのウマ娘が居なく、その気持ちがまるで分からない。すると曾祖父はこう答えた。

 憧れはその人物に成りたい近づきたいという願望であり、その願望は人にエネルギーを与え、その憧れが昇華し憧れを超えたいというエネルギーにもなる。

 また憧れは道しるべであり憧れを手本にして模倣しようと歩むことは成長を促す。憧れの存在はいたほうが良いかもしれない。

 それから多くのウマ娘の映像を見て調べ憧れのウマ娘を探した。周りの期待に応える為に強くなるために。だが誰1人とも心動かし憧れを抱かせることはなかった。

 

 夏が過ぎ秋を迎え憧れが無い不安は薄れ忘れかけた頃、アドマイヤマックスはメイクデビューを果たす。

 メイクデビュー戦では3番人気ながらも4バ身差と快勝、次のGⅢ東京スポーツジュニアステークスでは1着、次のGIホープフルステークスでは1着のメガスターダムから半バ身差の3着と来年のクラシックの有力候補として注目される。

 そしてチームルイデに所属している同い年のアドマイヤドンはGI朝日杯FSに勝利する。チームルイデは曾祖父が懇意にしているチームであり、スタッフや選手も顔見知りで、実質家族のようなものだ。

 それに一番付き合いの長い親友がGIに勝利した。その勝利に自分の事のように喜んでいた。

 レースに勝てないのは悔しかったが、来年のクラシックではアドマイヤドンと競い合い業界を盛り上げることでアドマイヤの名を世間に知らしめる。これでまた1歩日本一への道が近づく。

 アドマイヤマックスは希望溢れる未来しか見えていなかった。だが現実は決して希望に溢れていなかった。

 クラシック1冠目である皐月賞に向けてトレーニングしているなか故障してしまう。

 右第5中足骨骨折、全治3か月の診断が下され春のレースを全休することになる。つまり皐月賞もNHKマイルも日本ダービーも出走できない。

 

 その報せを受けて曾祖父はトレーナーの元に行き何をやっていると声を荒げる。

 レースに出るウマ娘と怪我は切っても切り離せないものである。どんな名選手も何かしらの怪我をして、引退するまで怪我をしたことが無いというウマ娘はほんの一握りだろう。だからこそ無事之名ウマ娘という言葉があり称賛されるのだ。

 曾祖父もそんなことは分かっている。どんなに人事を尽くそうが怪我をする時はしてしまう。これは一種の天災だ。

 だがアドマイヤマックスがどれだけクラシックのGIに勝ちたいかということが分かっており、その悔しさや無念を思うと声を荒げ誰かに感情をぶつけなければ気がすまなかった。

 アドマイヤマックスは充分だと曾祖父をいさめる。その行動は嬉しく気持ちは伝わっていた。

 

 クラシックの主役候補のウマ娘が春シーズンを棒に振るとなれば大概は落ち込むだろう。だがは落ち込む暇がなかった。

 もし夢が日本ダービー制覇だったら落ち込んでいただろう。だが夢はチームとアドマイヤを日本一にすることだ。

 チームの日本一とはチームメンバーの獲得賞金と勝利数の総合評価であり、アドマイヤが日本一になるということは集団としての強さだ。

 いくら突出した個が居たとしてもチーム1位の勝利数を得ることは不可能であり、集団に属している突出した個が活躍しても集団の強さにはならない。

 マックスの夢を叶える為にはチームメンバーとアドマイヤのウマ娘の活躍が必要不可欠である。シューズ磨き、掃除洗濯、補給食作りの手伝い、トレーナーのデータ整理手伝いなど、出来ることは全ておこなった。

 チームメイトやアドマイヤのウマ娘がトレーニングに集中できる環境を作り、1つでも勝ち星を重ねるために。

 その成果が出たのかチームメイト達やアドマイヤのウマ娘達は勝ち星を重ねていく。

 重賞ではなく条件戦での勝利で世間からは評価されないが問題ない。強いチームとは突出した個が2人や3人居ることではない。多くのウマ娘が勝利を積み重ねるチームだ。

 そして親友のアドマイヤドンはOPレースの若葉OP3着、皐月賞7着、日本ダービー6着と芳しくはなかったが、チームメンバーのアドマイヤコジーンが安田記念を勝利した。

 ジュニア級で朝日杯FSには勝利するも、右足に大怪我を負いボルトを埋める大手術をおこない1年7カ月の休養を強いられ、復帰後も勝てない日々が続いたがそれでも諦めずに走り続け、ついにGIに勝利した。

 いつもはお茶らけている様子とは打って変わって号泣し、出迎えたトレーナーと親方も号泣し抱き合う。その姿を見て観客達は一斉にアドマイヤコジーンの名をコールする。

 1年半以上の長期休養、レースに出走し負けを重ね続けで出口の無いトンネルを彷徨うような日々、普通なら心が挫けてしまう。だがアドマイヤコジーンは耐えた。耐えて足掻きついに再び栄光を勝ち取った。

 不撓不屈のウマ娘アドマイヤコジーン、この日アドマイヤマックスにとって憧れのウマ娘となった。

 

 季節は春から秋に変る頃には骨折は完全に癒えリハビリを経て春先のベストな状態に戻る。

 そして秋初戦GⅡセントライト記念では2着に入り実力の高さを見せる。その走りが評価され菊花賞では2番人気に押される。

 アドマイヤに勲章を持ち帰るために、チームの成績を上げるために、けがの治療やリハビリに協力してくれたチームメイトや親方などの周りの人のために。必勝を誓って臨んだが11着と惨敗した。

 アドマイヤの世代筆頭格と目されたがクラシック無冠、周りは心情を悟らないようにしたが落胆を隠しきれず、アドマイヤマックスも期待に応えられなかったことに落胆した。

 そして次走は芝1800M、GⅢ京阪杯となった。GIに出走できなくもなかったがレベルが高いGIで負けるよりも、GⅢで勝利して落胆しているアドマイヤマックスに自信を着けてもらおうという陣営の狙いがあった。だが結果は3着に終わる。

 僅かに残っていたアドマイヤの世代筆頭格という自負は粉々に砕けた。それに追い打ちをかけるように左足に大怪我を負い、アドマイヤコジーンと同じようにボルトを埋める大手術を行った。

 

 アドマイヤマックスは失意のどん底に居た。自分もアドマイヤコジーンのように復帰できるのだろうか?復帰できたとしてもGIに勝つ力はなくアドマイヤに貢献できないかもしれない。様々な不安が押し寄せるが強引に押し込めて顔を上げる。

 春の時と同じように笑顔を作りチームの為にアドマイヤの為に貢献しなければならないと献身的にサポートを続けた。だが心は確実に軋んでいた。

 それを癒してくれたのは親友のアドマイヤドンであり、憧れの先輩であるアドマイヤコジーンであり、チームメイトやアドマイヤのウマ娘達だった。

 

 アドマイヤコジーンはいつも通りお茶らけて気を紛らわしながらも真剣に親身に相談に乗ってくれ、アドマイヤドンは自分のことで忙しいなか、気分転換として色々な場所に遊びに連れていき、チームメイトやアドマイヤのウマ娘達は無理するな、自分のことを考えろ。今度は皆でマックスを支えると言ってくれた。

 チームルイとアドマイヤのウマ娘達、何て固い絆で結ばれた集団なのだろう。皆で日本一になりたい。いやなってやると改めて決意を固める。

 

 治療に専念し、無理ない程度にチームとアドマイヤのウマ娘を支える日々が続くなか、アドマイヤマックスにとって重大な転機となった1日が訪れる。

 

 年が明け2月になりアドマイヤドンが気分転換にとあるレースを見に行った。そのレース名はダートプライドである。

 アドマイヤドンは菊花賞を走った後ダートに路線変更し才能を一気に開花させ、盛岡で行われたJBCでは8バ身差で大楽勝し、ダート界のホープとして注目を浴びていた。

 今後走る相手の偵察を兼ねて、同日府中レース場のWDTD(ウインタードリームトロフィーダート)でなく大井レース場のダートプライドを見に来ていた。

 

「なんかムカつくんだよな。何か勝手にダート最強を銘打って。アタシ出て無いじゃん」

「じゃあ、出れば?」

「アタシは段取りを踏むタイプなの。しっかり国内統一で誰も文句言えない状態にしてから出るつもりだったのに。まあ海外勢が勝つだろうし、フェブラリーに勝った後にドバイやアメリカに乗り込めばいいか」

 

 アドマイヤドンは未来の栄光を想像しながら意気揚々と語る。ダートプライドは2億円を支払えば誰でも参加できる。参加しなかったのは2億円を惜しんだわけではなく、言葉通り順序をしっかり踏んでから物事をするタイプだから出なかっただけである。

 2人は大井レース場の指定席に移動する。ダートプライドは事前の派手なパフォーマンスで注目を集めており、指定席も倍率もかなり高い。

 だが親方のコネで指定席を確保していて恩恵に預かっていた。そして時間が経ちダートプライドが始まる。

 

「スゲエな……」

 

 アドマイヤドンは出走ウマ娘6人がゴール板を一斉に駆け抜ける姿を見て思わず呟く。

 6人が生み出す熱と想像以上のレベルの高さ、確かにダート最強を決めるレースに相応しいものだった。思わず興奮し周りの迷惑を顧みず立ち上がり無意識に感嘆していた。一方アドマイヤマックスは大粒の涙を流していた。

 直線に入り鼻血を吹き出し涎を垂らしながらアグネスデジタル、その姿は容姿端麗なウマ娘とかけ離れた醜い姿かもしれない。だがあまりにも美しく神々しかった。

 

 アドマイヤコジーンは憧れだ。その不屈の精神と周りを笑顔にする陽気な性格、まさに太陽だ。だがその太陽をアグネスデジタルが塗りつぶそうとしている。

 一言で表現すれば魔性というべきだろう。人を惑わし狂わすような形容しがたい魅力を発し虜にする。

 アドマイヤコジーンとは長い時間を共にした。だがアグネスデジタルは面識も接点もなく赤の他人だ。そんな他人よりアドマイヤマックスのほうが憧れのはずだと理性が叫ぶ。だが本能がアグネスデジタルの存在は肥大化していく。

 

 アドマイヤマックスはレースを終わった直後アグネスデジタルについて調べ尽くす。幸か不幸か怪我はまだ治らず。リハビリも開始してないので時間はたっぷりあった。ツイッターをフォローし、レース映像やインタビュー映像や雑誌の記事等手に入る限りの情報を入手した。

 容姿、言動、考え方、走り方、調べれば調べるほどアグネスデジタルというウマ娘に魅了されていく。 

 人は誰かに憧れると憧れの存在に近づきたい、憧れの存在を超えたいという気持ちが湧いてくる。アドマイヤコジーンには同様の気持ちを抱いていた。だがデジタルに対してはそんな気持ちは欠片も抱かなかった。

 

 超えたい?烏滸がましい。近づきたい?穢れてしまう。

 

 アグネスデジタルに向ける感情は憧れを通り越して崇拝となり、その存在はもはやアイドル、偶像と化していた。

 

 アドマイヤマックスがレースを走る動機はレースに勝ってチームとアドマイヤを日本一にしたいというものだった。だがそこにもう一つの動機が加わる。

 

 アグネスデジタルを感じたい。

 

 崇拝しているが恐れ多くて友達になりたいとも思わないし、話しかけたいとも思わない。トレーニングし友人と語り合う姿を見るだけで充分だ。だがレースを通してその存在を感じるのは許されるだろう。

 スタンドで感じただけで虜にされた魔性の魅力、もっと近くで感じたらどれだけ凄いのだろう?感じたい!味わいたい!

 マックスはアグネスデジタルと言う存在に狂信的に加速度的にのめり込んでいた。

 

 ダートプライドから暫くしてアグネスデジタルが長期休養を発表したが全く落ち込んでいなかった。1流のウマ娘が怪我から復帰したら別人のようになってしまったという事はよく有る事だ。

 だが彼女は違うという確信があった。その魅力は未来永劫であり、魅了されたのはレース中に見せる姿や抱く感情であり、競争能力ではない。

 怪我が癒えはじめリハビリ段階に入ると精力的にメニューに取り込む。アグネスデジタルに相応しいウマ娘になるにはもっと強くならなければならない。周りはチームの為にアドマイヤの為に1日でも早く復帰して活躍しようと意気込んでいると思っていると、その変化に気づいていない。

 マックスはアグネスデジタルへの信仰心を胸に秘め続け誰にも打ち明けなかった。打ち明ければ途端に魅力と神性が失われるような気がした。

 誰にも悟られないようにレース映像やインタビュー記事やメディアに露出した映像を集める。その様子は隠れキリシタンのようだった。

 

 リハビリに励み復帰の目途がたつなかアグネスデジタルがレースに復帰するという報せが届く。かきつばた記念から、かしわ記念か安田記念のどちらかというローテーションを発表した。

 その報せを受けトレーナーに安田記念を走りたいと打ち明ける。過去のレースとトレーニングを通して中距離よりマイルやスプリントの方に適性が有ると感じていた。

 アグネスデジタルは2000メートルを走れ、その舞台で走れば感じることなく千切られるだろう。だがマイルならまだ可能性がある。問題はかしわ記念に行く場合だ。ダートの適性はまるで無く2000メートルで走るより絶望的である。

 そして問題としてデジタルが安田記念に出走したとしても自分が出走できない可能性がある。

 1年以上の長期休養していたせいでポイントが加算できず弾かれる可能性があった。それならばレースに走りポイントを加算すればいいのだが、トレーナーや医者の見立てでは本調子に戻るのは安田記念頃である。

 そこで安田記念を走らず別のレースを走り次に備えるという考えもあるが、アグネスデジタルがマイルのレースに走るという保証はない。何より1秒でも早く一緒に走りたいという気持ちが抑えきれず安田記念という選択肢以外なかった。

 

 どうか!どうか安田記念に出走してください!安田記念に走らせてください

 

 アドマイヤマックスは今まで見向きもしなかった神に毎日祈り続け、誰にもバレないように水垢離もおこない、マイル路線を走るウマ娘の動向を見守る日々が続く。

 復帰に向けてのトレーニングと祈りの日々が続くなか、かきつばた記念の日を迎える。

 生で見られる機会を逃すわけにはいかない。授業をサボり外泊申請を出さず無断で学園を出て徹夜で名古屋レース場に並び、開門ダッシュでパドックが一番よく見られる最前列を確保し、他のレースやウマ娘達のパドックに目をくれずデジタルの登場を待ち続けた。

 初めてアグネスデジタルの姿が生で見られる。さあダートプライドと同様の煌めきと神々しさを見せてくれ。心臓がバクバクと脈打ち期待感で息は弾む。

 そして姿を現し、他の客達は一斉に写真を撮り歓声を上げる。だがアドマイヤマックスは愕然としていた。

 

 何だこれは?これがアグネスデジタルか?

 

 ダートプライドの時や画面越しで伝わったドバイワールドカップやクイーンエリザベスCの時のような魅力も煌めきも神々しさもまるでない。目の錯覚だと激しく目を擦った後見てもその姿は同じだった。

 アドマイヤマックスはパドックから即座にレース場の最前列に向かう。陣取ってカメラを構えていた男性を押しのける。その無法さにカメラを構えていた男性は勿論周りの人間も非難の目線を向けるが思わず即座に目を逸らす。

 その目は血走り明らかに関わってはいけない雰囲気を醸し出し文句を言えば何をされるか分からない危うさがあった。

 あれは自分の錯覚だ。もしくはレースに入れば一気に変わり身し輝きと神々しさを見せてくれるはずだ。神様どうかお願いします。私のアイドルを、偶像を奪わないでください。

 アドマイヤマックスは手を組んで何度も神に祈る。だがその祈りは届かなかった。

 レースを走る姿はあまりにも凡庸だった。そこに居たのは理想の偶像ではなく取るに足らないウマ娘だった。

 その場で崩れ落ち涙を流す。アグネスデジタルはもう2度と輝きと神々しさを取り戻せない。彼女は偶像ではなくなった。

 周囲の目を憚らず大声で泣く異様さに周りの人は誰も声をかけることができなかった。それは大怪我をした時以上の絶望と落胆だった。

 

 レースが終わった後の記憶はまるでなく気が付けば電車に乗ってトレセン学園に帰っていた。

 死んだような目で車窓の景色を眺め続ける。アグネスデジタルという偶像は死んだ。もうトレセン学園に戻って練習風景やツイッターやインタビューを見て何も感じない。

 今やアドマイヤマックスにとって走る目的はアグネスデジタルを感じることが最も大きく占めていた。

 確かに以前のようにチームとアドマイヤを日本一にしたいという感情はあるが、以前より萎んでいた。厳しいトレーニングに耐えられたのもアグネスデジタルを感じたいという一念が大きかった。

 以前のようにチームの為にアドマイヤの為に走るか?その動機で走れることは走れるがレースに勝つことはできず目的は達成できないだろう。

 目標が見いだせない。いっそのこと引退して学園を去るか?半ば自暴自棄に陥っていり始めていたがふとあるアイディアが思い浮かぶ。

 アグネスデジタルという偶像は死んだ。だが偶像は確かに存在した。ダートプライドで見せた輝きと神々しさは本物だった。あれこそまさに理想の偶像だ。

 ならば死んだ本物ではなく、その理想を再生させ感じればいい。名づけてアグネスデジタル再生計画。

 アドマイヤマックスの目に強大で妖しい生命力が宿った。

 

 学園に帰るとトレーナー等からの叱責が待っていた。授業とトレーニングの無断欠席に無断外泊、これだけで停学になってもおかしくはなかった。

 説教を受けるが完全に心ここにあらずだった。頭にあるのは理想の偶像を再生することのみで、反省も後悔も申し訳なさも欠片もなかった。

 

 そしてアグネスデジタル再生計画が始まった。この計画は現実のアグネスデジタルに輝きを取り戻させるのではない。自分の脳内で理想のアグネスデジタルを作り上げることだった。

 アドマイヤマックスは早速揃えるだけの映像や情報をかき集める。絶望の淵から見えた光明、その先には輝かしい未来が有ると信じて疑わず計画を進めていく。だがこの計画は想像以上に困難を極めた。

 アグネスデジタル再生計画は意中のウマ娘を想像し感じるというアグネスデジタルのトリップ走法と一緒の原理だった。

 姿形、匂い、触感、思考、それらを完全に想像し精巧なイメージを作り上げるということは並大抵なことではない。

 さらにレース中という体力や思考能力を極限まで駆使するなかでイメージを作り上げる。それはもはや人間業ではなく、世界中のどんな名選手と呼ばれたウマ娘でも出来ない。

 あるTV番組の企画でアグネスデジタルの体を調べるとある結果が出た。姿をイメージする想像力の中枢である前頭葉が他の1流と呼ばれるウマ娘より明らかに発達していたのだ。

 だがトリップ走法はそれだけでは完成しない。圧倒的なウマ娘への執着とそこから生まれる観察能力もなければならない。

 そういった意味でアグネスデジタルというウマ娘は天才であり怪物であった。そしてアドマイヤマックスは異常な執着もなく、前頭葉も人並みだった。

 ダートプライドの時のアグネスデジタルをイメージしようとも姿ぼやけていく。

 そんなはずはないと何度も映像や情報を集めイメージするが、蜃気楼のようにぼやけていく。平常時でこれならばレースの時では到底イメージを構築することができない。

 

 もう理想の偶像には2度と会えないのか?

 

 アドマイヤマックスは自分の不甲斐なさと理想の偶像に会えない事実を突きつけられ、部屋の中で1人大粒の涙を流した。そして絶望に沈む中もう1人の自分が語り掛ける。

 

 お前のアグネスデジタルに対する執着や愛はその程度なのか?できるまでやり続けろ。

 

 その言葉に従うように涙を拭き再びイメージの構築作業を始める。

 その日からアグネスデジタルに全ての時間を注いだ。授業やチームのトレーニングに参加せず、部屋に引き籠り寝食を忘れアグネスデジタルを想いイメージを構築し続ける。途中で意識を失っても起きれば再び繰り返す。

 確かにマックスにはデジタルのようなウマ娘への執着はない。だがデジタルに対する執着があった。

 デジタルは複数のウマ娘に執着しイメージを構築する。だがマックスはデジタルだけに全ての執着を注ぎ込んだ。

 そして1週間が経ち現実と想像の境界線が曖昧になり始めたころ、理想のデジタルが完成する。姿形、匂い、触感、思考、全てが鮮明に再現されていた。

 人にはどう鍛えても超えられないものがある。いくら努力しても身長が2メートルになれないように、デジタルのように前頭葉を発達させイメージを構築するのは無理だった。それは無慈悲なまでの残酷さだ。

 だがマックスの妄信的とも呼べる執着と情熱が不可能を可能にした。情熱が残酷を超えた瞬間だった。

 理想のイメージに満足するなか、すぐに気を引き締め部屋から出てコースに向かう。これはまだ第1段階を達成したに過ぎない。真の目的は走っている最中に理想の偶像を再現し感じることだ。

 

 久しぶりに姿を現したアドマイヤマックスにチームメイトやトレーナーは声を掛けようとするが、思わず声を失う。

 アドマイヤマックスはどんな時でも周りを引き上げるリーダーシップの持ち主だった。先輩や同級生に声をかけ励まし、真剣にトレーニングに打ち込む姿にチームを引っ張られていく、その姿はチームのリーダーだった。

 だが今はその面影は欠片もない。目が虚ろで何か妄執に囚われているような狂気を帯びていた。

 マックスはトレーナーの指示を無視して1人で走り続けた。目的はどんな状態でもダートプライドの時のデジタルをイメージし追いつくこと。ウッドチップ、坂路、芝コース、あらゆる場所で走った。

 そして走った後はシャワーすら浴びず部屋に直行してイメージの構築作業に移る。

 平常時にイメージを構築できたとしても油断してはならない。アグネスデジタルのような天才ならともかく、アドマイヤマックスでは少しでも想像しなければ忽ちイメージは霧散してしまう、日に6時間以上のイメージ構築は欠かせなかった。

 部屋でイメージ構築してその後トレーニングをする。日々はそれの繰り返しだった。

 もう何もいらない。理想の偶像さえあればそれでいい、全てを捧げるように日が経つごとに人間性を削ぎ落していく。その姿は神に全てを捧げる殉教者のようだった。

 




登場人物にアドマイヤマックスを追加しました


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勇者と慈悲#5

 アドマイヤマックスはチームルームにある酸素カプセルに入りながらトレーニングの疲れを癒しながら体の隅々の部位に語り掛け調子を確かめる。

 チーム専属のマッサージ師からマッサージを受け、氷風呂に漬かり、酸素カプセルに入る。これらのケアはチームリギルでも行えない贅沢な物だ。全ては親方と周りの援助によって可能となっている。

 アドマイヤマックスは丈夫なウマ娘ではなく、現に左右の足を骨折したことがある。だからこそ人一倍体に気遣い入念にケアしている。いくら理想の偶像を作り上げられても体が持たなければ意味が無い、全ては理想の偶像を感じるために。

 アドマイヤマックスは酸素カプセル内で心を平静に保ち体と会話する。しかし心が乱れ会話が途切れる。

 アグネスデジタル再生計画は順調に進んでいた。走りながらでもイメージを構築できる段階まで進めたが、ラスト1ハロンで急激にイメージにノイズが走り崩れていき、2バ身差が縮まらない。何度も走り部屋でイメージを強固にし、いくら力を振り絞ってもノイズが走り2バ身差を縮められない。まだ何か足りないのか?先の段階に行けない焦りが日々募っていた。

 

 アラームが鳴りと同時に蓋が開き、体を起こし立ち上がる。やはり実直に積み重ねていくしか無いと言い聞かせながら寮の部屋に戻ろうとチームルームの扉を開けると1人のウマ娘が仁王立ちしていた。

 身長150cm程度、髪はセミロングで髪先がふわりと膨らんでいて、猫のような目が特徴的だった。

 アドマイヤドン、アドマイヤマックスの幼馴染であり親友である。その親友はアドマイヤマックスを睨みつけながらドスの利いた声で話す。

 

「ちょっとツラ貸せ」

 

 アドマイヤドンは椅子に腰を掛けるとアドマイヤマックスを見据える。2人が向かった先はアドマイヤドンが所属しているチームルイデのチームルームだった。この時間帯ならチームのウマ娘が居るはずなのだが、誰も居なかった。

 

「ちっと人払いした。2人だけで話したいからな」

 

 アドマイヤドンはマックスの疑問に答えるように話す。口調は軽いが雰囲気は今までにないほどシリアスだった。

 

「マックス何を悩んでるんだ。何でも相談に乗るぞ」

「悩みなんて無い」

「じゃあ何でそんな風になっちまったんだよ!」

 

 マックスの切り捨てるような言葉にドンは思わず声を荒げる。無断外泊した直後からマックスはおかしくなった。授業やトレーニングには全く出ないで部屋に引きこもり、部屋から出たと思えば何かを思いつめたような暗い影を差した表情で姿を現し、トレーナーの指示を無視してブツブツと独り言を言いながら単走で走り続ける。そして目ざとくチームメイトに気を配っていたのに、今では全く視界に入っていないように無視し自分の世界に没頭している。

 トレーニングに対しては前以上に熱心に取り組んでいる。その姿にかつてはチームの皆は引っ張られていた。だが今は熱心というより自傷的で破滅に向かっているようでその姿は皆のやる気を削ぎ不安を掻き立てる。

 

「アドマイヤグルーヴは調子を崩した。おねえちゃんも親方も心配してる!」

 

 ドンの語気はさらに荒くなる。グルーヴはマックスを姉のように慕っている。だが臆病で繊細な性格のグルーヴはその不快にさせ不安を掻き立てる空気に耐えられず調子を崩している。

 アドマイヤベガもマックスの異変を知り心配になって会いに来た。だがマックスは録に話を聞かず追い返した。親方も忙しいなか様子を見に来ても同じように話を聞かず追い返した。その時の寂しく辛そうな顔は今でも忘れられない。

 マックスはアドマイヤの人間たちに多くの心配をかけて不安がらせている。だが全く意に介さず自分の世界に閉じこもっている。今では誰もマックスの周りにはいない。

 ドンはドバイ遠征での疲れを癒すために実家で短期休養を取っている時にマックスの異変を知った。一発ぶん殴ってでも元のアドマイヤマックスに戻してやると息巻いて二人っきりでの話し合いに持ち込んだ。だがその異変は想定を超えていた。

 虚ろでどこか遠くを見ている瞳、その目見られるだけで不安を掻き立てられ、その雰囲気に呑まれかけていた。

 

「アタシ達は親友だろう!何でも言ってくれよ!何でも手伝うからさ!」

 

 ドンは自分を奮い立たせるように声を張り上げる。このまま放っておいたら取り返しのつかないことになるという予感があった。何としてでも正気に戻さなければ。

 

「ドンは何のために走る?」

 

 マックスは相手を見ているか見ていないか分からない瞳でドンを見つめ質問する。今まで別のところに意識を向けていたマックスが初めてこちらに意識を向けた。

 この質問の答え次第でマックスの気が変わるかもしれない。なんと答えれば正解だ?ドンは熟考し10秒20秒と経過するが答えは出ない。その間マックスはドンを見つめ続ける。

 

「勝ちたいからだよ!あとはおねえちゃんを超えたい!トレーナーや親方や周りの人が喜んでくれたら嬉しい!」

 

 ドンは若干破れかぶれ気味で言い放つ。自分の頭じゃ何が正解かは分からない。それならば自分が思う理由をぶちまける。

 マックスはドンの様子を見て表情が緩む。それは豹変する前のかつての表情だった。

 

「私もかつてはそうだった。チームとアドマイヤを日本一にするために、その為に走っていた」

「今は違うのか?」

「違う。今は理想の偶像を感じたい。それだけ」

 

 マックスの言葉にドンの思考は停止する。それはあまりにも予想外の言葉だった。困惑するドンに解説するように話を続ける。

 

「偶像、ドンがわかるように言えばアイドルだね」

「そのアイドルを感じることとマックスの変わりようは関係あるのか?」

「私が感じたい偶像はこの世にはいない。だから私の手で再生させなければならない。そして再生させるのには多くを捧げなければいけない。情熱、時間、執着。多くを捧げてきた」

「じゃあ、お前がおかしくなったのは、そのアイドルを再生させるためなのか?」

「そう」

 

 ドンの背筋に寒気が走る。アイドルを感じたくて再生させるという意味不明な理屈のために、皆を拒絶する。その心境が全く理解できなかった。

 

「けれどまだダメ。もっと多くのものを捧げなければ再生できない。だからドンとはこれでお別れ、私はチームルイを抜けて、アドマイヤとは一切の関係を断つ」

「ふざけるな!」

 

 ドンはテーブルを力いっぱい叩きながら立ち上がり、怒りで目を血走らせながらマックスに詰め寄る。

 

「冗談でも言って良い事と悪いことがあるだろ!チームを抜けるだ!?アドマイヤと縁を切るだ!?そんなことしたら、トレーナーが!親方が!皆が!どれだけ悲しむと思ってんだ!それにアイドルを感じるってのはチームを辞めたりアドマイヤと縁を切らなきゃできないことなのかよ!」

 

 ドンは射殺さんばかりの目線をマックスにぶつける。チームメイトとアドマイヤのウマ娘たちは固い絆で繋がった家族だ。それを切り捨てるというのはこの世で一番許せない言葉だった。

 マックスはその殺気を淡々と受け止め冷たく影を帯びた目で話しかける。

 

「チームやアドマイヤを日本一にするのが走る目的では無くなったと言ったけど、これでもチームやアドマイヤに対する情は残ってた。チームに在籍しアドマイヤとの縁を保ちながら偶像を感じる。それが理想で私の残っていた情だった。でもそれじゃあたどり着けない!偶像を感じられない!だから捨てる!チームもアドマイヤも!」

 

 アドマイヤドンは無意識に拳を振り上げるがその動きは金縛りにあったように止まる。その目に宿る闇と妄執、いや最早狂気だ。その狂気に呑まれ一方二歩と後ずさる。

 

「そんなにアイドルが大事なのかよ……」

「そう」

「チームメイトやトレーナーやアドマイヤよりもかよ」

「そう」

「コジーンさんよりもか?憧れであの人みたいになりたいって言ってたじゃん」

「そう」

「アタシよりもか?」

「そう」

 

 最後の言葉を聞いて確信してしまう。もうマックスを止めることはできない。完全に狂気の世界に振り切れてしまった。

 アドマイヤマックスは話が終わったとばかりに席を立ち出口に向かう。アドマイヤドンはそれを呆然と見送ることしかできなかった

 

「ドン、今までありがとう。楽しかった。アドマイヤを頼む」

 

 アドマイヤマックスは去り際に呟く。その表情はかつての親友の顔だった。だが即座に妄執に囚われた顔に戻っていた。

 ドンは唇を噛み締め俯き涙をこらえる。マックスにとって自分もアドマイヤもアイドルに劣る存在、それが悔しくて悲しくてたまらなかった。

 

 アドマイヤマックスの脳裏にドンやチームメイトやアドマイヤの人々との楽しかった日々が蘇る。だが即座に理想の偶像のイメージで塗り替える。

 自分がやろうとしている事は正気の沙汰ではないことは分かっている。妄執と言われれば肯定するだろう。それでも全てを投げ打ってでも理想の偶像を感じたい。故に正気を捨て全ての繋がりと大切だったものを捨てる。

 もう後には戻れない。だが後悔はない。全てを捧げるほどに理想の偶像を感じることに価値が有る。

 

 翌日アドマイヤマックスはチームルイから別のチームに移籍した。

 

──

 

 アドマイヤマックスは足を広げゆっくりと息を吐く。心を落ち着かせ木漏れ日から漏れる日差しや葉が擦れる音や樹木の匂いを感じ取る。それらがはっきりと感じられるようになったら、今度は全ての神経を自分の体に向けて少しずつ体を動かしストレッチをおこなう。

 チームルイから移籍した先はトレセン学園でも底辺と呼べるようなチームだった。チームメンバーは自分入れて5人、チームの最少人数である、なかには少数精鋭ということで人数を絞る場合があるが、今のチームはGIどころか重賞すら走ったことがあるウマ娘はいない。

 そんなチームに設備があるわけはなく、マッサージ師も酸素カプセルどころか、氷風呂を用意する氷もシートも買えない。そんな場所では体のケアの方法はストレッチぐらいしかない。

 かつての倍以上の時間をかけてゆっくり行う。食事するときも排泄するときも果ては睡眠の夢でも理想のアグネスデジタルについて考え想像しているが、このストレッチの時だけは理想を忘れ体との対話に集中する。いくら理想を想像できても怪我して理想についていけなければ意味はない。

 30分以上ゆっくりと時間をかけストレッチして、着替えるためにチームルームに向かい、ギィギィと音をたてる扉を開けチームルームに入る。中の壁はひび割れ所々がカビで黒ずんでいる。新築でピカピカだったチームルイの部屋とは雲泥の差である。

 部屋ではチームのウマ娘達4人が談笑していた。マックスの姿を見た瞬間和やかだった雰囲気は一転し重苦しい空気となり全員が口をつぐんで俯く。その姿に気に留めることなく着替え部屋を出る。その姿を確認して4人は安堵の息をもらした。

 トレセン学園にはエリートと呼ばれるウマ娘ばかりが入学する。だがそのなかでも優劣は生まれ、劣っているウマ娘は現実の非情さと己の無力さを痛感させられ心が挫け上を目指さなくなる。

 それでも走ることは好きで、レース場で多くの観客に見守られながらレースに走りたいとも思っているウマ娘も多い。そういった者達はレースに全ては掛けられないが程々に頑張って、仲間たちと楽しく過ごし青春を味わいたいという俗に言うエンジョイ勢となる。このチームはその典型だった。

 5人で程よく楽しんでいたが1人のウマ娘が怪我でレースを走れなくなりチームを脱退する。このままではチームが解散となり居心地のよい空間は無くなってしまう、どうしようかと悩んでいるところにアドマイヤマックスが入団した。

 名門チームに所属しGⅢにも勝ったエリートが来た。4人は戸惑ったが何かしらの事情があるだろうし、暖かく迎えようと歓迎ムードだった。だがそれはすぐに無くなった。

 出会った瞬間理解する。虚ろでどこを見ているか分からないような瞳、だがやる気というかエネルギーは満ちている。しかしスターウマ娘が見せるような爽やかで美しいものではなく、ドス黒く闇に引き釣り込まれてしまうような瘴気のようなものを纏っている。このウマ娘とは関わってはならないという共通認識が4人に芽生えていた。

 

 アドマイヤマックスは寮に向かう間トレーニングについて振り返る。やはりこのチームに移籍して正解だった。

 チームもアドマイヤも理想の偶像にたどり着くためには不必要な不純物だった。この底辺みたいな場所ならば理想の偶像を感じることだけに没頭できる。その証拠にラスト1ハロンで消えてしまったアグネスデジタルのイメージは今やラスト50メートルまで維持できており、差も1バ身にまで縮まった。このままいけば理想の偶像は完成しアグネスデジタル再生計画は完了するという確かな手応えを感じていた。

 寮につき足早に自室に向かうとルームメイトとの境界線となるカーテンを締め、タブレットでアグネスデジタルのレース映像やインタビュー映像などの収集した情報を見る。

 日々の日課となったイメージ強化、これらの映像は優に1000回以上は見たもので、脳内で走る姿は寸分違わず再生でき、インタビューの内容は一語一句暗唱できる。だがそれでもマックスは見続け没頭していく。

 1流のボクサーが意識を失ってもトレーニング通りのパンチを打ち込めるよう反復練習するように、骨が折れようが腱が切れようがどんな状態でも理想の偶像をイメージできるように体に染み込ませていた。

 

「ごめんやっしゃー!」

 

 突如大きなノック音がすると同時に扉が勢いよく開きバカみたいに能天気な声が響く。その程度の騒音でアドマイヤマックスの意識はアグネスデジタルから外れることはない。しかし気がつけばタブレットの映像から目を離しカーテンをそっと開けて来訪者を確認する。

 チラリと映るあのグレーの髪だけで分かる。アドマイヤコジーン、かつてのチームの先輩であり憧れのウマ娘だ。アグネスデジタル再生計画を開始してから多くのウマ娘が訪れた。アドマイヤドン、アドマイヤベガ、アドマイヤグルーヴ、そして親方、学園在籍のウマ娘だけではなく、OGや関係者が来たがアドマイヤコジーンだけは1度も訪れなかった。なぜ今になってと理由を考えようとするが、思考は一気に吹き飛ぶ。

 くいだおれ人形が着ている赤と白のピエロのような服と帽子を被り、肩には勝負服を着たアドマイヤマックスのミニチュアとヒヨコが乗っかっている。あれは安田記念の前々日会見で使った小道具でさんざんアピールしたが司会に完全にスルーされてスベっていた。さらにハチマキ神風と書かれた日の丸のハチマキを着けている。

 かつてチームルイに在籍していた際にはチームルームに来るたびにウケを狙おうと小道具などを使ってボケており、在りし日の思い出が蘇り無意識に口角が上がっていた。

 アドマイヤコジーンは険しい顔を浮かべながら近づいてくる。そのシリアスな雰囲気はかつて一度だけ本気で説教を受けたときと同じ顔をしていた。マックスは過去を思い出し思わず唾を飲み込む。コジーンは険しい顔を浮かべながらカーテンの前にあぐらで座りカーテン越しに映るマックスに話しかける。

 

「ようマックス、調子はどうだベイベ」

 

 マックスは思わず笑い声をあげるのを必死に我慢する。重苦しい雰囲気を醸し出してからのボケ、葬式の時に何故か笑ってしまうのと同じ現象で古典的な方法だが効果は絶大だった。だが笑えばコジーンに負けたような気がするので懸命に堪える。場は完全にコジーンに支配されていた。

 

「話は聞いたぞベイベ、連絡取ろうにも着信拒否でラインは完全スルーするから直接来たベイベ」

 

 さも当然のように語尾にベイベをつけて世間話するように話し始める。

 

「アドマイヤは大騒ぎだベイベ、グルーヴは完全に意気消沈してるし、ドンはあのイカレ野郎って荒れてるし、ベガは理解できないって呆れて、親方は娘が非行に走った父親みたいにアタフタしてるベイベ」

 

 流石に慣れたのでもう笑いがこみ上げることはない。それを知ってか知らずかコジーンは気にせず軽い口調で話を続ける。周りの近況を語れられるがあらかた想像がつく。だが申し訳なさは一切湧いてこない。改めて自分の中でアドマイヤとは完全に縁を切ったのだと実感する。

 

「マックスがどれだけチームとアドマイヤを日本一にしたいって思ってたかは知っているつもりだし、どれだけ情熱を注いだのかは知っているつもりだ。でもそれ以上に大切でやりたくて楽しくて気持ち良くて嬉しいことが見つかったんだな」

 

 コジーンはふざけるのを止めて真面目な口調で語りかける。

 

「マックスの様子を聞く限りでは人生を賭して、そのアイドルだっけ?誰かは知らないけど熱中しているんだろう?世間的にはチームやアドマイヤというコミュニティよりアイドルを優先するのは心証が悪いだろうけど、別にいいじゃん。そっちのほうが大切で好きならのめり込めばいい。

 よくアイドルを追っかけた時間は非生産的で無駄で何も残らないって言うけどさ、その時間は楽しいならいいじゃん。その思い出が今後の人生を支えてくれるかも知れない。それは周りとの縁を切ってアイドルを追っかけても後悔するけど、追っかけなくても後悔する。どっちみち後悔するなら好きな方をやって後悔したほうがいいだろう」

 

 コジーンの言葉に力が入る。自分も大怪我して前のようには走れないと言われ苦しい思いをするから止めたほうがいいと言われた。それでもGIを買った瞬間の歓喜を味わいたくて走り続けた。勝てなくて周りから哀れまれたりして辛い日々もあったが、最後はGIに勝ち歓喜を味わえた。

 マックスみたいな真面目なウマ娘が全てを捨てて走った道、それは大半の人間には理解できないものであり、不幸が待っているかもしれない。だがその道を進めばマックスにとって最上の幸福が得られるかもしれない。今やるべきことは元の道に連れ戻すことではない、今の道を進むマックスを見守ることだ。

 

「もしアイドルの追っかけが詰まらなくなったらいつでもアドマイヤに戻ってこい。居場所はアタシが用意してやる」

 

 コジーンは立ち上がり部屋を後にして寮を出て行く。その様子をマックス窓から見つめる。

 チームメイトやアドマイヤの関係者は正気に戻れ、考え直せとマックスが進む道を否定した。だがアドマイヤコジーンは進む道を否定せず見守ると言った。だがそれだけである。

 コジーンの言葉によってさらに決意を固め決意が増す事はない。だたそういうスタンスであるということを知っただけである。

 もはや憧れの存在だったアドマイヤコジーンの言葉すら影響を与えない。マックスは決断的に自分の道を進んでいく。その先に理想の偶像を感じられる未来があると信じて。

 

───

 

 デジタルは段ボールを5個重ね持ち上げる。中身は衣類や教科書類、そして勝負服のレプリカ等大部分を占めるウマ娘グッズである。自分の部屋のスペースをギリギリまで埋める量だけあって流石に多い。さらにこれからは買う物も増えるので、いくつかを実家に送り保管してもらうしかない。どのグッズを実家に送るのかを考えながら移動する。

 デジタルとアグネスウイングの部屋交換は正式に許可された。期間は決めていないがデジタルはとりあえず完全に移住するつもりで荷造りしていた。

 首を左右に動かし視界を確保しながら進んでいく。目的地はアドマイヤマックスが居る部屋だ。怪物、妖怪、悪魔。アグネスウイングがアドマイヤマックスを形容する言葉だ。話半分に聞いても普通ではない。どんなウマ娘でどんな刺激を与えてくれるのか、少しだけ高揚していた。

 デジタルは荷物を置き扉を開ける。

 

「OH……」

 

 デジタルは思わず呟く。それは初めて感じる感覚だった。

 ウマ娘の中には減量中のボクサーのようにレースに向けて集中力を研ぎ澄ますタイプも居る。その気迫と圧力に周りの人間は声を掛けられないほどである。デジタルも入学した当初そのウマ娘を一目拝もうと近づいたが、その気迫と圧力に呑まれすぐにその場から去ったことがある。

 それはオペラオーやメイショウドトウやエイシンプレストン等今まで走ってきたウマ娘達が発してきた絶対に勝つという断固たる意志が発する圧力と気迫と同じだった。

 だがアドマイヤマックスから発せられる空気はそれとは違った。もっとひりつき重苦しい禍々しい。人の気持ちをざわつかせ不快にさせる、まるで魔界の瘴気のようだ。

 アグネスウイングが言った妖怪や悪魔という形容詞はあながち間違っていない。そして同時に感じる人を拒絶する分厚い壁、正確に言うなら何かに熱中して他人に気づかない程自分の世界を入り込んでいるという印象だ。

 こんなウマ娘が居るのか。アドマイヤマックスの空気に当てられ不快感を抱きながらも未知のウマ娘との邂逅に口角は無意識に上がっていた。

 

「はじめまして、アグネスウイングちゃんの代わりにルームメイトになったアグネスデジタルです。よろしくねアドマイヤマックスちゃん」

 

 デジタルはカーテンの向こう側にいるアドマイヤマックスに挨拶する。すると一瞬怒気や憎悪や落胆などのネガティブな感情を感じ思わず体を震わす。だがそれは一瞬で消え、部屋に入った瞬間に感じた雰囲気に戻っていた。

 デジタルは部屋の外にある段ボール箱を運び荷ほどきを開始する。制服や教材を整理しグッズをどこに飾ろうかと思案しているとカーテン越しに声が聞こえてきた。

 

「アグネスデジタルさん、ありがとうございます」

 

 思わず声がした方向を振り向く。正直コミュニケーションをとるのは難しいウマ娘だと思っていただけに、あちらから声をかけてくるとは思っていなかった。

 

「何かは分からないけど、どういたしまして」

 

 アドマイヤマックスとの接点は思い当たる節はないが、とりあえず返事はしておく。

 

「もし憧れや好きな人が好きじゃなくなったり憧れで無くなったら、どうしますか?」

 

 突然の質問にデジタルは考え込む。初対面の人間に聞くような質問としては重い、自分の世界に入り込む間を惜しんで聞いてきたのだから興味が有るのだろう。数秒ほど考えてから答えた。

 

「今は好きじゃなくて憧れじゃなくなっても、昔は好きだったり憧れていたんでしょ。だったらその思い出を大切に仕舞いこんで、時々懐かしみながら進むかな」

 

 質問に対する答えを考えている時に思い浮かんだのはセイシンフブキのことだった。今でもセイシンフブキのことは好きであり憧れもある推しの1人だ。だがセイシンフブキはレースを通して感じたいウマ娘ではなくなってしまった。

 だが落胆したり怒りを抱くことはない。今はそうでなくてもかつては最高に煌めき輝いた姿を感じられた。それだけでも感謝してもしきれない。その思い出を胸にしまって、時には振り返って楽しんで活力を得たら新しい体験と出会いを求めて前を進む。それが答えだった。

 

「うらやましいですね。私には思い出を懐かしむ余裕はない。この思い出に縋りつくしかない。何千何万回イメージして、擦り切れるまで思い出し続けて」

 

 マックスの言葉はぽつりと呟く。その言葉は悲痛でカーテンの向こう側にいるウマ娘は妖怪や悪魔ではなく、ごく普通のウマ娘に見えた

 

 それ以降マックスとデジタルの会話は一切なかった。デジタルは食事を摂り風呂に入り安田記念のウマ娘について調べるなどして自由に過ごしながらアドマイヤマックスに意識を向ける。

 依然禍々しい雰囲気を醸し出している。カーテンの向こう側で何をしているか分からないが憑りつかれたように打ち込んでいる。凄い情熱と集中力だ。

 それ程までに安田記念に懸けているのか、いやそれとは違う別の何かに打ち込んでいる気がする。デジタルはマックスの心中を察しようと思考するが気が付けば意識を手放し寝ていた。

 

 深夜帯デジタルは完全に寝ているなか、マックスは一旦イメージの強化訓練をやめてデジタルについて考える。

 今日のイメージ強化訓練はいつもと同じように集中できていた。誰が大声を出しながら部屋を訪れようが、大地震が起きようが寮で火災が発生しようが乱れないだろう。だがアグネスデジタルが部屋に訪れた瞬間いとも容易く乱れた。

 憧れであり偶像だったデジタルがルームメイトになる。かつての自分なら狂喜乱舞していただろう。

 だが目の前にいるのは理想の偶像ではない。ただの堕ちた偶像であり成れの果てだ。そう思うと動揺は一気になくなり冷静さを保てた。

 そして一言二言交わした。理想の偶像では無くなったデジタルに対する怒りは確かにあった。だが礼を言ったのは理想の偶像では無くなったとしてもダートプライドで理想の偶像となり、その姿を感じるという道を残してくれたことへの感謝の言葉だった。

 次の質問は自分と同じ立場だったらアグネスデジタルはどうするかという興味からだった。この質問にこう答えた。

 

 その思い出を大切に仕舞いこんで、時々懐かしみながら進むかな

 

 それはマックスが納得する答えでは無かった。それができればどれだけよかったか。だがダートプライドに見せた輝きは骨の髄まで魅了され心に刻まれてしまった。

 思い出にして懐かしむだけでは満足できない。麻薬を求める中毒者のように何度でも求め感じたかった。

 デジタルは理想の偶像ではなくなった。この感じたいという渇きと渇望をどうすれば癒し満たせる?

 それを思い出にして前に進むこという考えは全く浮かばない、デジタル以上のウマ娘はこの世に存在しない、そして今後一切現れない。

 未来にある可能性と全く希望が持てない。理想の偶像を再生させ自分が満たされるまで感じるという道しかなかった。

 

 アグネスデジタルが再び理想の偶像に蘇ってくれれば。

 

 マックスは考えを即座に打ち消す。姿を近くで感じて確信してしまった。今のアグネスデジタルは理想の偶像ではなく、2度と戻ることはない。

 マックスのなかに無意識に残っていたしこりが消える。未練が無くなったことにより深く没頭していく。

 

───

 

 トレーナーはスタンドから双眼鏡をウッドコースに向ける。そこに映るのはアグネスウイングが1勝クラスのウマ娘を一気に抜き去る姿だった。

 良い調子だ、動きに躍動感が戻ってきた。先日までの覇気の無さが嘘のようである。やはり調子の悪さはアドマイヤマックスが原因であり、部屋を変えてからは調子を取り戻した。

 そしてアグネスウイングの直後にデジタルがスタートする。安田記念前に向けて最後のトレーニングである。前に2人置きながら走り残り200メートルで1人目を抜き、残り50メートルで2人目を抜きゴールする。まずまずの仕上がりだ。トレーナーはスタンドから降りてデジタル達の元に向かった。

 

「まずまずやな。寝不足ってことはなさそうやな」

「アドマイヤマックスちゃんのこと?最初はちょっと戸惑ったけど、あの雰囲気はゾクゾクして癖になっちゃいそう。しかも安田記念が迫るごとに鬼気迫るというか雰囲気が凄くなってゾクゾク感が増してるし、それだけでご飯2杯はいけるね」

 

 デジタルが嬉しそうに語る姿をアグネスウイングが顔引き攣らせドン引きしながら見ていた。トレーナーもアドマイヤマックスと同じ部屋で生活したことがないので、どれほどのものかは分からないが、アグネスウイングが調子を落としたことや今の顔を見れば、その異様さを察せる。

 そんなアドマイヤマックスとの生活に耐えるどころか喜んでいる。そんな感性のウマ娘はトレセン学園の中でもデジタルだけだろう。

 暫くしてマスコミが安田記念前の取材に来たのでトレーナーとデジタルは質問に答える。

 

「今日はマスコミの数少ないね。まあ楽だからいいけど」

 

 デジタルは清々すると言わんばかりの表情を見せる。かきつば記念前はトレーニングする度にマスコミが押し寄せたり、特集の取材に来たりと正直鬱陶しかった。

 

「それは前走で負けたからな。商品価値無しと見なされたんやろ」

 

 トレーナーはさらりと言い放つ。かきつばた記念の敗戦後は夢から覚めたように世間のデジタルへの関心は薄れていく。

 これが3冠ウマ娘なら評価を下げてしまったと気を病んでいたがデジタルに関しては好都合だった。オペラオー達に主役としての心構えを教えられ自覚が芽生えたかもしれないが、本質は主役気質ではなく、自由な立場で好き勝手やりたいタイプだ。そういった意味では余計な荷物がなくなりありがたかった。

 

「それは事前人気が証明しとる」

「アタシは何番人気?」

「4番人気、1番人気が中山記念とマイラーズCに勝ったローエングリーン、2番人気が去年のNHKマイルCを勝って、前走の京王杯SCに勝ったテレグノシス、3番人気が皐月とダービー2着、去年の宝塚記念に勝ち前走の新潟大賞典に勝ったダンツフレームや。終わったウマ娘扱いで4番人気は上等やろ」

 

 トレーナーの口から終わったウマ娘という言葉を聞けばショックを受けるウマ娘もいるだろう。

 だがデジタルはそんなことを気にするウマ娘ではなく、トレーナーも口で言いながらも終わったとはサラサラ思っていなかった。

 

「アドマイヤマックスちゃんは何番人気?」

「10番人気、いくら重賞を勝ったことがあるって言っても長期休養明けの初戦がGIはキツイやろ」

 

 トレーナーは訝しむ。GIを複数勝っているウマ娘ならともかくGIを勝っていないウマ娘が選ぶレースではない。

 普通ならOPクラスのレースを走って様子を見るのが妥当だ。長期明けでも勝負になると思わせるほどの才能と実力を有しているのか?それともチームルイから移籍したチームのトレーナーがGIを出走させたという実績が欲しいが故の選択か?

 

「まあ、あくまでも事前人気は事前人気、気にすんな。」

「いや、別に」

 

 トレーナーの言葉にデジタルはそっけなく答える。念のために励ましたが案の定の反応だ。本当に世間の評価など心底気にしていない。考えているのはレースを通してウマ娘を感じることだ。

 

「それじゃあ、クールダウンして上がれ。くれぐれも出走ウマ娘の妄想が捗って寝不足とかになるなよ。それやったら今後レースに出走させんからな」

「大丈夫だって、アタシだってもうベテラン。レースでウマ娘ちゃんを感じるためには万全の状態で臨むって……たぶん」

 

 デジタルは最後に気になる言葉を残しながら去っていく。口ではああ言っているが万全の体調で仕上げるだろう。だがトレーナーが抱く一抹の不安は消えなかった。

 先日語ったように次なるウマ娘と刺激を求めて、安田記念に向けてトレーニングを積み仕上げていく。それは当初想定していたモチベーションの低下による不調を払拭するものだった。だが好調であれど絶好調ではないと思っていた。

 もし安田記念に出走するウマ娘が香港で走るプレストンやダートプライドを走ったウマ娘並の力を発揮したとしてデジタルは追いつけるか、その問いには残念ながらNOと答えるだろう。

 あの時のデジタルはプレストンやダートプライドを走ったウマ娘達に異常なまでの執着を示していた。だからこそ追いつき感じるためにあそこまでの走りができた。そして安田記念にはその相手が居ない。

 だが絶好調ではないだけで好調であることは変わりない。それにあそこまでの振り切れた走りを続ければ選手寿命は縮んでしまう。より長くウマ娘を感じる為には100%以上の力を出さないことが肝要である。

 トレーナーの見立てでは安田記念に世界屈指の実力を持つウマ娘は居ない。ならばウマ娘を感じるという目的は達成できるだろう。

 トレーナーが感じた不安は気が付けば消えていた。

 

 そして日曜日、安田記念当日を迎える。

 



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勇者と慈悲#6

 6月1週の日曜日、夏が近づいているのを実感させられるように気温が上がり、ほとんどの観客は薄着で額や腕にはうっすらと汗をかいていた。

 NHKマイルC、オークス、日本ダービー、春の東京開催で行われたGIレース、そこでも例年と同じように多くの名勝負が生まれた。そして東京開催のGIレースの最後を締めくくるのが安田記念である。

 春のマイル王を決めるレースこの1戦にはマイルの猛者はもちろん、スプリンターのウマ娘も果敢に挑み幾多の名勝負が生まれ、その熱戦を期待するように多くの観客が集まっていた。

 スタンドの3階にあるスペース、そこにはパドックの周りを囲むファンの姿が見下ろせると同時にパドックを歩くウマ娘の姿も見える場所であった。

 パドック最前列は取られたがせめてウマ娘を見たいというファン達が集まり、目を凝らし双眼鏡を構えながらパドックを待つ。そのファンの中にオペラオーとドトウが居た。

 あのオペラオーとドトウが何故こんな場所に居る?ファン達はチラチラと横目で見ながらもパドックに目線を向ける。

 声をかけたりサインを求めたい、だが彼女達はプライベートで来ているのであって、できる限り邪魔はしたくない。その奥ゆかしさが行動を踏みとどまらせていた。

 

「こっちこっち」

「お久しぶりです」

 

 2人は誰かの存在に気づいたのか手を振りその人物を招く。ファン達も手を振る方向を見て思わず目を見開く。

 アドマイヤベガ、テイエムオペラオーとナリタトップロードの3強対決と呼ばれた日本ダービーを制した世代の一等星、引退後はメディアにも顔を出すことがなかった。そのアドマイヤベガがオペラオーとドトウと一緒に居る。それはファンにとってたまらない光景だった。

 

「久しぶりだね。アヤベさん。元気にしてたかい」

「ええ、そっちも元気そうね。貴女が出演していたドラマ見たわよ。見事なコメディリリーフだった」

「当然、ボクほどの名女優ならなんでもできるのさ」

 

 オペラオーはハッハッハと胸を反りながら高笑いする。アドマイヤベガはその様子を呆れながら懐かしむように見つめる。

 

「ドトウも久しぶり、大学はどう?」

「課題や実習が大変ですけど、何とかやってます」

 

 ドトウとアドマイヤベガは軽く世間話をかわす。オペラオーの時とは違いアドマイヤベガは柔和な笑顔を浮かべていた。

 

「しかしこうしてレース場で顔を合わすなんていつ以来だろうね。アヤベさんはレース場には足を運んでいるのかい?」

「テレビでは見ているけどレース場にはそんなに、妹のレースは見に行くぐらいで、府中に来たのもフェブラリーステークス以来」

「ああ、アヤド君か。まさに砂の首領に相応しい活躍だね。姉として鼻高々じゃないのかい?」

「まあ今じゃドンがアドマイヤベガの妹じゃなくて、私がアドマイヤドンの姉になったけど」

 

 アドマイヤベガはフッと自虐的に笑みを浮かべるがどこか嬉しそうだった。

 

「それであとアヤコは」

「さっきまで一緒に居たからそろそろ来ると思うけど」

『ボクのことを呼んだかい?』

 

 背後からオペラオーの声が聞こえてくる。瞬間的に横を振り向くとオペラオーは隣に居る。なら後ろの声の主は誰だ?

 確認しようとする前にドトウとアドマイヤベガの肩に手が回る。2人は動揺しながらも後ろを向きながら姿を確認する。

 アドマイヤベガはあきれ顔でドトウは戸惑いの表情を浮かべる。後ろから手を回したのはアドマイヤコジーンだった。

 だが髪は灰色ではなく栗毛で、耳には黄色と緑色のイヤリングをやたら付け、頭には巨大なピンク色の王冠が乗っていた。

 

「コジーン、なにやってんの……」

「お久しぶりです。アヤコさん」

『ボクこそ絶対無敵空前絶後の世紀末覇王ことテイエムオペラオーさ!さあドトウ!首を垂れて敬いたまえ!ついでにジュースを買ってきたまえ!』

 

 アドマイヤコジーンは大仰な動作を混じえながらオペラオーを真似し、ドトウは思わず吹き出す。

 これはアドマイヤコジーンの物まねネタの1つであり、ドドウはいつもこのネタで大笑いしていた。

 

「ハッハッハ、流石アヤコ、世代きってのエンターテイナーだね、いつでも場を和ませ賑やかにすることを忘れない。見習いたいものだ」

『ハッハッハ、ならボクの元で修行したまえ、当代きってのコメディアンにしてあげよう』

 

 オペラオーの賛辞にアドマイヤコジーンはオペラオーの物まねで応える。2人の高笑いは響き観客達は変人を見るような怪訝な顔でやり取りを見つめていた。

 

「ということで久しぶりオペラオー、元気にしてたか」

「久しぶり、その様子を見る限り元気そうだ。それは忘年会で使った小道具かい?」

「ああ、昔を懐かしんでもらおうと思って押し入れから引っ張ってきた」

 

 アドマイヤコジーンは巨大な王冠とかつらを外すと灰色の髪が現れる。

 自分達を楽しませる為に小道具を用意する。オペラオーは周りを楽しませようするその姿勢と行動には感銘を受けていた。

 

 4人はパドックにウマ娘が現れるまで旧交を温めるように雑談を交わす。集まったきっかけはアドマイヤコジーンだった。

 アドマイヤベガと2人で安田記念を見る約束を交わし、アグネスデジタルが出走するのであれば友人であるオペラオーとドトウも見に来るだろう予想し誘っていた。

 

「2人がこのレースを見に来たということはアドマイヤマックスさんの応援ですか。同じアドマイヤでチームの後輩ですからね」

 

 ドトウは何気なく口に出したその言葉を聞いた2人の表情に影が差す。

 

 突如豹変し、アドマイヤと離縁しチームを移籍した元後輩。アドマイヤベガの胸中に抱くのはチームとアドマイヤから離れたことに対する怒りと、チームとアドマイヤから離れてまで手に入れようとしたものが何かに対する興味。

 アドマイヤコジーンの胸中に抱くのは大切なものを捨ててまで進んだ道の先にあるものは何かという興味と、待ち受けているかもしれない不幸への不安と、自分を慕ってくれた後輩の幸福を願う祈りの心だった。

 

『間もなく安田記念のパドックを開始します』

 

 アナウンスが流れると同時に観客達はパドックに視線を向け、4人も同様に視線を向ける。

 オペラオーとドトウはふとアイドマイベガとアドマイヤコジーンを見る。その横顔は只レースを見に来たファンとは思えないような真剣な表情をしていた。

 パドックでは最低人気のウマ娘から順に入場していく。念願のGIに出走し初めて勝負服に袖を通す喜びを噛みしめているのか、感極まって涙を浮かべているウマ娘も居た。

 観客達はそんなウマ娘達に温かい目線と声援を送り和やかな雰囲気に包まれる。

 

『10番人気、8枠16番アドマイヤマックス選手です』

 

 アドマイヤマックスが現れる。勝負服は青と白を基調にした修道服のようなデザイン、心臓には杭のようなものがついて、ひまわりの花が貫かれている。

 姿を現した瞬間と和やかな雰囲気は掻き消される。虚ろでどこを見ているか分からない瞳でパドックを歩く。その発する空気は何故か人を不快にさせ不安を掻き立てる。

 気合が入っている、調子が悪そう、パドックを見れば心理状態や体の調子は観客でも最低限は分かる。

 だがアドマイヤマックスからは何も分からない。調子が良いのか悪いのかすら分からず、ただ気持ち悪い怖いという不快感が観客の心を満たしていた。

 

「オペラオー、ドトウ、マックスをどう見る?」

 

 アドマイヤコジーンは一挙手一投足を見逃さまいと目を見開き観察しながら質問する。その雰囲気は先程までお茶らけていたコジーンとは別人だった。

 

「ここから見ても異様だとは分かる。怒りや怨嗟とも違う感情が彼女に渦巻いている。勝ちたい負けたくないという感情でもない何かだ」

 

 オペラオーは感じたものをそのまま言葉にする。現役時代は勝ち続けたことで憎い妬ましいと負の感情をぶつけられることがあった。

 だが断言できる。アドマイヤマックスが抱いている感情はそれではない。遠くから離れたこの場所でもはっきりと分かる。今までに見たことが無いタイプのウマ娘だ。

 ドトウもオペラオーの意見に同調するように頷く。他のウマ娘とは明らかに違う何かを纏い、それに対する恐怖を感じ寒気が過る。

 もし同じレースに走るとしたら平常心を保てるだろうか。このレースを走るウマ娘達に同情する。

 その意見を聞きアドマイヤベガとアドマイヤコジーンの表情が僅かに歪む。

 最後に生で見たのは菊花賞だった。あの時は少しだけ気負いながらも真っすぐに向き目に光が宿っていた、その姿は自然に応援したくなる暖かさがあった。

 だが今は違う。光が宿っていない虚ろな目をして、異様な空気を纏い周囲の人々を慄かせる。かつての面影は欠片もなくもはや別人だった。

 

 アドマイヤコジーンは別人と化してしまった後輩を見つめているとあることに気づく。心臓部分に飾られている花が違う。

 以前走った菊花賞では紫の花と白い花が飾られていた。花については詳しくなく、マックスに何の花か聞いたが結局教えてくれなかった。

 これは何かの意味が有るのだろうか?コジーンは思考巡らすなかパドックは続いていく。

 

『4番人気、2枠3番アグネスデジタル選手です』

 

 デジタルが現れた瞬間大きな声援があがる。かきつばた記念に敗北し多くのファンを落胆させ、本来ならばもっと人気も落としても不思議では無かった。

 だが数々の常識を打ち破ってきた破天荒さと何かを起してくれるという期待感を抱いたファン達が4番人気迄押し上げていた。

 

「流石デジタルさんです。見事に仕上げてきました」

「ああ、太目残りも見られない。前走は余裕残しの仕上げだったのだろう。ベストな状態と見て間違いない」

 

 オペラオーとドトウはデジタルの姿を見て満足げに頷く。肌つやも良く動きもキビキビして、表情もレースが待ちきれないと生き生きしている。

 万全の仕上がりと言っていいだろう。だが無意識に物足りなさを感じていた。

 ダートプライドの時の締まりのない顔に覚束ない足取りでパドックを歩く姿、それはパドックで恥ずかしくない姿を見せるという意識すら忘れ、神経を研ぎ澄まし出走ウマ娘を感じようとした結果である。

 その姿は不安を掻き立てると同時に常識外れのスケールと期待感があった。だが今はその時に感じたものが無かった。

 その後は3番人気ダンツフレーム、2番人気テレグノシス、1番人気ローエングリンがパドックに登場する。古豪復活、ニューヒロイン誕生、遅れてきた天才の活躍。それぞれのファンが思いを乗せて声援を送る。その声援の大きさはデジタルに勝るにも劣らないものだった。

 

 パドックが終わり出走ウマ娘達はトレーナーの元に駆け寄り言葉を交わす。パドックで得た情報を元に作戦の変更、レースに向けて激励の言葉を送るなどこの僅かな時間でとった行動がレースの勝敗を左右することもある。

 

「アグネスウイングが言ったことは満更ウソやなさそうやな」

 

 トレーナーは苦笑交じりで思わず呟く。アグネスウイングの様子を見てある程度アドマイヤマックスについて予想していたが、その姿は予想を遥かに超えていた。

 あの心をかき乱す異様な雰囲気、アグネスウイングは妖怪や化け物と言っていたが思わず頷いてしまう程だ。

 このレースで1番の存在感を示したのは間違いなくアドマイヤマックスであり、各陣営にその存在は刻まれた。

 そして厄介なことに強いか弱いか分からないのだ。これ程の存在感を示すウマ娘が居れば普通なら強敵でありマークする対象になる。

 だがアドマイヤマックスに関しては強さというより異様さや不気味さに注意がいってしまう。

 各陣営がとる行動は2つ、その存在感を警戒してマークするか、異様さと不気味さを恐れて関わらないでレースを進めるかだ。

 

「部屋でもあんな感じだったのか?」

「流石にあそこまでビンビンじゃないけど、だいたいあんな感じかな」

「よう一緒に暮らせたな。あんなのが一緒の部屋だったら俺なら逃げるぞ」

「分かってないな。あの雰囲気が良いんだよ」

 

 デジタルはグフフフと顔をニヤつかせる。相変わらずウマ娘に対する執着と嗜好の広さと受け入れられるキャパシティの広さだ。改めて畏敬の念を抱く。

 

「それで白ちゃんのパドック診断でのおススメは?」

「良い意味でも悪い意味でもアドマイヤマックスやろ。あんな存在感あるウマ娘はそうはおらん」

 

 トレーナーはアドマイヤマックスの存在感に引きつられるように視線を向ける。あれは他のウマ娘とは見ているものや目指しているものが違う。

 勝ちたい。3着以内に入りたい、掲示板に入りたい、自分が持てる精一杯を出せればいい等の一般的なものを目指していない。もっと独自で周りが理解できないものを見て目指している。

 それが異様さを醸し出している1つの要因なのだろう。だがその異様さはどこか既視感があった。トレーナーは記憶を掘り起こし思い出す。するとあるシーンが浮かび上がる。

 ダートプライドのパドックで顔は半笑いで目線は定まらず、歩く姿はどこかフラフラと歩く姿、あれはダートプライドに出走するウマ娘に向けて感じようとした結果で、全ての意識を向けパドックでの見栄えなどの外聞を完全に忘れていた。

 その時はデジタルの心理を理解しながらもどこか異様さを感じていた。その異様さはアドマイヤマックスに通ずるものがあった。

 

「どうしたの?アドマイヤマックスちゃんに熱視線送って」

「いや、デジタルとアドマイヤマックスが似ているなって思ってな」

「そう?あんなに可愛くないし、ゾクゾクさせてくれるような感じもないけどな」

「相変わらず自己評価低いな。それで今日の推しは誰や?アドマイヤマックスか?」

「アドマイヤマックスちゃんも良いけど、ローエングリーンちゃんやテレグノシスちゃんやダンツフレームちゃんとかも良い。強いて言うなら皆かな」

 

 デジタルは今までは対象を決め深く感じようとした。今日のレースでは感覚を目一杯広げ、より多くのウマ娘を感じようと思っていた。

 

「なら道中は内にポジションを取れ、今日は内が思ったより荒れとらんから他のウマ娘も集まるはずや。道中はロスなく内を回って直線は4分どころに出ろ」

 

 トレーナーの指示はデジタルが勝利するためのものではない。密集すれば他のウマ娘を感じやすく。4分どころを通るのが最も速く、前を行くウマ娘にも追いつける可能性が増えるからである。

 

「なるほど、でも白ちゃんが考えるってことは他のウマ娘ちゃんも同じこと考えてるかもしれない。それだと密集して前が開かない可能性もあるんじゃない」

「前が開くのを祈るんやな。開かなかったら諦めろと言いたいところだが、そこは自分の引き出しを開けまくってなんとかしろ。ベテランなら色々あるやろ」

 

 1つのレースを通して数多くの駆け引きや攻防が行われる。より良いポジションを取る。直線で蓋をして相手を閉じ込める。それはレースを走った者だけが体験し会得できるもので、レースを走らないトレーナーには習得できない。

 つまりトレーナーには今日のレースで直線に入り蓋をされないように走る技術や駆け引きの方法を教えられない。そのことに歯がゆさを覚えていた。

 

「そこは人任せなんだ。まあ何とかするよ」

「何とかすると言ってもトリップ走法使って外ぶん回すとかは無しやぞ。もしやったら即引退させる」

 

 トレーナーは険しい表情を見せながら入念に釘を刺す。トリップ走法は医者からするなと通告されている。

 デジタルは我欲の為なら自分の身など顧みず、いざとなったら躊躇なく使おうとするだろう。それは何としてでも止めなければならない。

 デジタルの現役生活を無事に全うさせ、両親の元に無事に帰す。それがトレーナーとしての責務である。

 デジタルもトレーナーの心中を察したのか真面目な表情で返事した。

 

「よし!レースを楽しんでこい!」

 

 トレーナーは険しい表情から一転して明朗な笑顔を浮かべながら送り出す。デジタルも行ってきますと告げながらスキップ交じりで地下バ道に向かう。

 願わくはデジタルがウマ娘を存分に感じ、プレストン達のように興味を抱くウマ娘が現れるようにと祈った。

 

 アドマイヤマックスは地下バ道を歩いていく。緊張も不安も何もなく心が実に軽い、こんな感覚はレースを通して初めてだ。実に清々しい気分だ。

 マックスの前には其々の想いを秘めながらコースに向かうウマ娘が居る。だが視界にも意識にも入っていなかった。いよいよ今日この場でアグネスデジタルという理想の偶像が再生する。

 さあどんな興奮と快感を与えてくれる。訪れるであろう歓喜の瞬間を想い浮かべ無意識に笑みを零していた。

 

 

「よしスタンドに戻るか、早く行かないと開門ダッシュしてまで取った席に座れなくなるぞ」

 

 コジーンが先導し4人はスタンドの観客席に向かう。観客はパドックが終わるとスタンドの通路で立ち見のスペースを確保や自分の席に向かうと一斉に移動する。

 そうなると人口密度は一気に増し通路も人で一杯になり、かき分けながら移動しなければならず4人もすみませんと声をかけながら席に向かう。

 

「これがあるからパドックを見るのを躊躇うんだよな」

 

 コジーンは席に着くとため息交じりで愚痴をこぼす。今日は何とか席に戻れたがダービーや有マ記念だともっと観客が多い。

 その結果席に戻れず、現地に居ながら自分の目ではなくパドックの近くにあるモニターでレースを見なければならないという悲しい出来事も起こる。マックスもかつて同じ経験をしたことがあった。

 

「ドトウ、オペラオー、ベガ、この花は何か分かる?」

 

 コジーンは携帯電話の画面を2人に見せる。そこには勝負服を着たマックスの心臓部分が拡大された画像が映っていた。

 菊花賞の時と今日の勝負服に飾れている花の違いが妙に引っかかる。花の種類が分かれば何か分かるかもしれないという期待があった。

 

「これは、紫陽花とカスミソウだと思います」

「その紫陽花とカスミソウがどうしたんだい?」

「前回のマックスは菊花賞の時に心臓部分に紫陽花とカスミソウを飾っていた。でも今日はヒマワリを飾っていた。何か意味があると思ってさ」

「コーディネートの一種じゃないか?紫陽花とカスミソウは丁度その時期に咲いて、今は時期じゃないからとか」

「紫陽花は6月~7月でカスミソウは5月~7月みたいです」

「それだと今日のレースにつけてないとおかしい」

 

 4人は意見を出し合うがマックスが花を変えた理由を導き出せなかった。

 

『東京レース場、今日のメインレース、11レースは安田記念GI、芝1600メートル、芝コンディションは良です。春のマイル王を決める戦いに挑む優駿18人が入場してきます』

 

 場内実況の声が聞こえると同時に観客達から声が上がる。4人も思考を一旦やめコースに入る出走ウマ娘に視線を向ける。

 

『GI5勝馬にして初代ダートプライド覇者、芝砂不問の帰ってきた豪傑、さあ!もう一度皆を驚かせてくれ!常識外れの勇者!2枠3番アグネスデジタル!』

 

 デジタルがコースに現れると一段と大きな歓声が上がる。だが観客に視線を向けることなく前後左右に首を振りウマ娘を見つめる。その様子にオペラオーとドトウは相変わらずだと笑みを零す。

 

『長いトンネルからついに脱出しました。皐月とダービーで2着にして宝塚記念優勝ウマ娘!前回2着の借りは今年で返す!復活の古豪!4枠7番ダンツフレーム!』

 

 アドマイヤコジーンは闘志を漲らせながら駆けるダンツフレームにエールを送る。

 安田記念を制覇した時の2着がダンツフレームだった。あの末脚はヒヤヒヤさせられ今でも思い出せる。一緒のレースに走った縁として好走を期待していた。

 

『勢いは出走メンバーで最もあります。遅れてきた天才がGIに帰ってきました。騎士道は逃げも隠れもしない正攻法で、4枠8番ローエングリン!』

 

 本日の1番人気というだけあってこの日1番の歓声があがる。

 ローエングリンも動じることなく威風堂々とした姿で声援に応える。クラシック級で重賞未勝利ながら挑んだ宝塚記念では3着と素質の高さは誰もが認めていた。

 菊花賞は惨敗するもマイルに舞台を移し連戦連勝、本命不在のマイル路線においての王者の誕生を期待していた。

 

『長期休養明けの復帰戦がこの舞台です。勝てばトウカイテイオーの休養明け最長記録更新です。奇跡を見せるか!?8枠16番アドマイヤマックス』

 

 10番人気だけあって声援は疎らだった。だがその理由は人気の低さによるものではない。

 アドマイヤマックスが発する異様で不気味な雰囲気は観客席にも届いていた。その怪しげな雰囲気に有る者は目を背け、有る者は魅入られるように視線を向ける。

 だが当人に観客の声援と熱気も出走ウマ娘の想いや熱が届かない。完全に自分の世界に入り込み、数分後に訪れる至福の時間に胸を躍らせていた。

 

『前哨戦ではかつての豪脚を完全に取り戻しました。末脚はメンバー随一!クラシック級マイル王の目には勝利への道筋は見えているのか!?8枠18番テレグノシス』

 

 テレグノシスは緊張した面持ちでターフをかける。NHKマイルでは1番人気のウマ娘の進路を塞いで審議対象になってしまった。

 結果は降着無しで1着、結果が出た以上はそれ以上でもそれ以下でもない。だが会場に包む後味の悪さはしこりとして残り続けていた。

 同じ舞台で誰にも迷惑をかけず勝利する。その時初めてあの時のしこりが消え去る。今度こそ純度100%の勝利の美酒を味わう。テレグノシスは目を閉じて観客達に祝福される映像を思い浮かべた。

 

「もしかして花言葉が関係しているかもしれません」

 

 本バ場入場が終わりドトウは唐突に呟く。本バ場入場の際もマックスが花を変えていた理由を考え、花ではなく花言葉に目を向けていた。そして自信がないのか最後はトーンダウンさせていた。

 アドマイヤベガとアドマイヤコジーンはそれぞれ紫陽花とカスミソウとヒマワリの花言葉を調べ始める。

 

「紫陽花の花言葉は団らん、和気あいあい、家族、って意味らしい」

「カスミソウは感謝と幸福」

 

 2人は花言葉を読みあげながら込められた意味は推理する。

 マックスはアドマイヤやチームという自分の周りを取り巻くコミュニティを好いて大切にしていた。それを家族に置き換えて、感謝と家族の幸福を願う。少し前のマックスが込めそうな意味だ。

 

 2人は次にヒマワリの花言葉を調べる。コジーンは寂しそうな表情を見せ、ベガは唇を噛みしめる。

 

──私はあなただけを見つめる、愛慕、崇拝

 

 マックスは理想の偶像を追い求め豹変した。そしてこれは理想の偶像を崇拝し、それだけを見つめるというマックスからメッセージであり、アドマイヤやチームとの決別の証であった。

 

 観客スタンド最上段からさらに上にあるスペース、そこにはトレーナーや出走ウマ娘の関係者が集まりレースを見学する。

 そこからアドマイヤドンは唇を噛みしめながらガラス越しにアドマイヤマックスを見る。他にもチームルイのトレーナーとチームメイトやアドマイヤのウマ娘達、そして親方も来ており厳しい表情を浮かべながら見下ろす。

 

「親方さん、マックスさんにもきっと事情が有ったんです。でなければあの人がアドマイヤから離れることはあり得ません。私が説得します。ですからもし戻ったら復縁してください」

 

 アドマイヤグルーヴは恐る恐る親方に語り掛ける。マックスの離反に一番ショックを受けていたのはグルーヴだった。

 チーム在籍時は姉のように慕い全幅の信頼を寄せていた。それだけにショックだったが、大半の者が見限ったなかマックスが戻ると信じていた。

 

「ならん。何かしら事情があるにせよ訳を言わず差し伸ばした手を全て払った」

 

 親方は冷徹に言い放つ。その隠し切れない怒気にグルーヴは会話を打ち切り即座に離れる。

 アドマイヤマックスの離反は周りに反響と混乱を与えた。

 アドマイヤドンを中心にしたアドマイヤのウマ娘達、チームルイのトレーナーや親方もマックスの行動が信じられず、何度も対話を試みたが最後まで対話に応じることなかった。その態度に激怒した親方はついにマックスと絶縁した。

 怒りが渦巻くと同時に今でも困惑していた。チームの為にアドマイヤの為にと行動していたマックスの心変わり。

 何がマックスにあったのか?キーワードはアドマイヤドンから聞いた理想の偶像という言葉、だがそれが何を意味するのか全く理解できなかった。

 マックスの行動は到底理解できず皆は落胆し失望した。本来ならレースなど見る義理はない。だがそれでも気が付けば東京レース場に足を運んでいた。

 アドマイヤから離れて何を失い何を得たのか?その結末を見届けなければならない気がしていた。それは親方以外の者も同様の気持ちを抱いていた。

 レース場では各出走ウマ娘がゲート入りを開始し、最後に大外枠のテレグノシスがゲート入りする。

 

『さあ、出走ウマ娘がゲートインします。混戦模様の春のマイル王決定戦安田記念。古豪か?新興勢力か?約1分30秒に培った心技体を全てぶつけます。さあ!筋肉を爆発する瞬間を見届けろ!安田記念、今スタートしました』

 



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勇者と慈悲#7

誤字の指摘ありがとうございます


『さあ、レースがスタートしました。1番のミスキャストが出遅れ、そして6番のダンツジャッジが転倒しました!』

 

 時速60キロで走るウマ娘が転倒すれば高い確率で怪我する。最悪の事態を想像したのか観客席から悲鳴が上がる。だがスタート直後でスピードが出ていなく、ダンツジャッジはすぐに起き上がり走り始める。その姿に観客から拍手と励ましの声がとぶ。

 だが転倒による体のダメージとタイムロス、何より心理的ダメージは計り知れずここから巻き返し勝つのは不可能であり、実質的にレースから脱落となる。

 

『まず先頭に立っていくのは外から11番のミデオンビット、その1バ身後ろに2番手ローエングリンです。3番手にはビリーヴ、その外からアドマイヤマックス、内からダンツフレーム、ウインブレイズ、ミレニアムバイオ、半バ身後ろにアグネスデジタル、外からタイキトレジャー、内にハレルヤサンデー、オースミコスモ、ローズバド、テレグノシスはやや後方の位置、1バ身後ろにイーグルカフェ、ボールドブライアン、トウショウトリガー、さらに後ろ1バ身ミスキャスト、10バ身ダンツジャッジ。淀みのない展開です』

 

 抜群のスタートセンスを持つローエングリンとスプリンターの瞬発力を見せたビリーヴが前に出る。逃げを打つと思われたところにミリオンビットが一気にポジションを上げて先頭を奪い、ローエングリンは先頭を譲り2番手をキープする。

 アドマイヤマックスは4番手、ダンツフレームは5番手の先行グループ、デジタルは8番手の中段グループ、テレグノシスは13番手の後方グループにポジションを取る。それぞれが自分の力を発揮できるポジションに陣取る。

 前半3Fを34,5で通過する。ペースはミドルペースでどの位置でも力を発揮できるレース展開となる。

 

(これは結構窮屈だね)

 

 デジタルは前後左右に意識を向ける。トレーナーの予想通り芝の状態が良い内を通りたいと各ウマ娘が殺到しいつも以上に密集していた。

 それぞれが僅かな加減速と横移動やそれに伴う接触をしながら、少しでも良いポジションを奪おうと攻防を繰り広げていた。

 これだけ密集するとウマ混みが苦手なウマ娘であればこの密集具合は心身を疲労させていく。だがデジタルは生粋のウマ娘好きでありこの密集は大歓迎だった。

 

 出走ウマ娘は道中の駆け引きを繰り広げながらデジタルに意識を向ける。

 終わったウマ娘と言われているがGI5勝にしてダートプライド覇者、実績では群を抜いている。何よりこのウマ娘は何をするか分からない。できる限り内に閉じ込めて足を余らせようと警戒していた。

 一方デジタルはその警戒心を喜々として受け止めながら状況を分析する。ペースはミドル、人気どころのローエングリンとダンツフレームは前目の位置、アドマイヤマックスは前目につけながら普通よりやや外を回る。

 中盤で外から被せられるのを防ぎ、内を突こうとするウマ娘を閉めるためのポジション取りか。テレグノシスは後ろの位置、その末脚の切れ味はメンバー屈指であり、やり合うとしたら足をある程度貯めておかなければならない。

 そしてこのウマ混みを捌く方法としては目の前のダンツフレームが抜け出したところを通るのがベストだ、だがダンツフレームも蓋をされ抜け出せない事も有るので、何が起こっても瞬時に反応できるように神経を研ぎ澄ませると同時にウマ娘を存分に感じる。

 

『隊列は変わらず向こう正面から第3コーナーへ、テレグノシスが中段から前をうかがって上がって行きます』 

 

 3コーナーへ入る下り坂を利用してテレグノシスがペースを上げてポジションを上げデジタルより前の位置につけ、それに反応するように後方グループも上がっていく。

 先頭を立つミリオンビットや2番手グループのローエングリンやビリーヴはペースを上げてリードを取らず、できる限り足を貯めて直線勝負で迎え撃つ構えを取る。

 先行グループも逃げグループを追い抜き先頭に立とうとせず追随するように足を貯め、出走ウマ娘たちは一つの集団のように収縮していく。

 展開は息を入れるところがない淀みないミドルペースとなる。どのウマ娘にも有利不利がなく力が出し切れると同時に平等に厳しい展開となった。

 

『さあ、一団となって4コーナーに入ります。先頭はミリオンビット!1バ身半差でローエングリン!』

 

 直線に入り各ウマ娘は一斉に横に広がる。先頭からダンツジャッジを覗いた最後尾まで10バ身差、500メートル以上ある東京レース場の長い直線なら十分に射程圏内である。各ウマ娘たちは1着を奪うために取り込んだ酸素を体中に送り貯めていた脚を一気に開放する。

 

『抜け出したのはアドマイヤマックスだ!その差を1バ身!2バ身と差を広げていく!』

 

 直線に入った瞬間、前にいたローエングリン達に悪寒が走る。反射的に悪寒の発信源に視線を向けるとそこにはアドマイヤマックスがいた。

 鼻からは血を吹き出しヨダレを垂らしていた。それだけも異様なのだが、他のウマ娘たちを慄かせたのはその表情だった。

 何かに魅入られたような狂気を孕んだ笑顔、パドックの時とは比べ物にならないほどの異様さと不快感だった。

 その異様な様子はともかくスパートをかけたのは理解できた。東京レース場で直線に入ってすぐのスパートは早い、後ろのウマ娘達を警戒すべきなのだがアドマイヤマックスをこのまま見過ごせばやられる。

 直感がそう告げると即座にスパートをかけるが一瞬で置いてかれる。

 今までに体験したことがない加速力、それでも懸命に追いつこうとするが必死に足を動かすが追いつけない。

 レースに勝ちたい、ライバルに負けたくない。夢を叶えたい。名誉を勝ち取りたい。大概のウマ娘はこれらの理由を胸に秘めレースを走る。そういった者達には特有の目の光が宿る。それは情熱を燃料に燃える炎のような輝きがあった。

 だがその光が微塵もなく、その狂気を孕んだ瞳は何かを見つめている。勝利でもなく夢でもなく負けん気でもない。一体何を目指し、何を抱いて走っている?

 それが何か分からないが常人には絶対に理解できないものだということは理解できた、同時に得体の無い恐怖に体が近づくことを拒む。

 自分たちにも夢や勝ちたい理由が有る。己の心を奮い立たせ追い抜こうとする。だが一向に追いつけない。

 アドマイヤマックスは完全に自分の世界に入り、その世界が自分達の侵入を拒んでいるようだ。誰もあの世界に侵入することはできない。前を走っていたローエングリン達の心は既にくじけていた。

 

 

 これが私の理想の偶像!最高だよ!このためにレースに走ってたんだ!

 

 アドマイヤマックスは歓喜に打ちひしがれていた。直線に入り、チラリと後ろを見た後に理想のアグネスデジタルを想像する。

 理想の偶像を生み出すために多くのものを捧げてきた。1日の大半をイメージトレーニングに費やしてきた。大事だったチームもアドマイヤも全てを捧げた。全てはこの瞬間のために。

 脳を一気にフル稼働させ理想の偶像を生み出す。脳を酷使したことで鼻血が吹き出すが構わず続ける。

 すると右隣にウマ娘の姿が浮かび上がる。目を血走らせ、ヨダレを撒き散らし、鼻血を吹き出しながらも走る姿、それこそダートプライドで目撃した理想の偶像そのものだった。

 理想の偶像はマックスに目をくれず走り、近づこうと懸命についていく。トレーニングでは何度やっても近づけなかった。だが今はピッタリと併走していた。

 飛び散る汗とヨダレ、躍動する肉体、芝を踏みしめる力強い足音、汗と石鹸が混じりあったような独特の匂い。

 現実にアグネスデジタルは存在しない。だが脳内では現実に確かに存在し、理想の偶像を感じる度に快楽物質が駆け巡り、絶対に離されまいと全ての力を引き出し付いていく。

 もっとだ!もっと感じさせろ!脳は主人の要望に応えるように時間感覚は圧縮し理想の偶像の動きが遅くなり、舐め回すように観察しながら存分に感じる。

 マックスは今幸せの絶頂にいた。

 

「これがマックスか?」

 

 親方がチームルイのトレーナーやチームメイト達の心境を代弁するように呟く。

 マックスの力は知るところであり、いずれGIに届くウマ娘だと思っていた。だが今見える光景はそんなものではなかった。

 強すぎる。このままでいけば完勝するだろう。これはノーマークだったから、一世一代の大駆けだったで説明できる理由ではない。

 明らかにその走りは想像を超え、驚きを通り越して寒気すら覚えていた。

 

「止めて、止めてよ」

 

 アドマイヤグルーヴは声を震わせながら呟く。確かに寒気すら覚える強さだが問題はそこではない。目を血走らせ鼻血を吹き出し涎をまき散らしながら走るその姿、狂ったように笑い、まるで悪魔に憑りつかれたようだ。

 レースを走るまではいつものマックス、いつも通りでなく変ってしまっても、元の姿の片鱗でも見せてくれると期待していた。だが目の前に居るのは完全に別人だった。

 いつも優しくて気にかけてチームを引っ張ってくれるマックス、その姿と思い出が次々とレースを走る悪魔のようなマックスに塗りつぶされていく。

 アドマイヤグルーヴはその場にしゃがみ込み、目を瞑り指で耳を塞ぐ。

 

「これがチームやアドマイヤを捨てて、手に入れたかったものかよ」

 

 ドンは目の前にあるガラスを手で叩きつけ目を見開きながら見つめる。

 オーロラビジョンに映るマックスは今まで見たことが無い笑顔をしていた。だがドンにはそれが酷く禍々しく見え、マックスにとっての幸せであると祝福する気持ちにならなかった。

 あれはダメだ。その幸せは必ず身を滅ぼす。理由も根拠もないが確信はあった。だが自分には止める術はない、身を滅ぼすまで幸せを追い続けるだろう。

 ドンはガラスを何度も叩き己の無力さを呪った。

 

「あれはトリップ走法!」

「あれはトリップ走法です!」

 

 オペラオーとドトウは思わず叫ぶ。先頭に躍り出たアドマイヤマックスの姿がオーロラビジョンに映った姿を見て確信する。

 鼻血を吹き出し目を血走らせ、涎を撒き散らし満面の笑みを見せながら走る姿、オーロラビジョンにはっきり映らなくても分かる。あれはトリップ走法だ。

 信じられない。あれをデジタル以外にも使用できることに驚愕していた。

 デジタルから着想を得たのか、自力で習得したのかは分からない。だがその力はオリジナルと匹敵している。

 後続をあっという間に置き去りにする加速力と差を広げていくスピード、トリップ走法の恐ろしさは天皇賞秋で身をもって体験し、アドマイヤマックスはこのまま失速することなく加速し続けるという確信があった。

 

「トリップ走法やと!?」

 

 トレーナーもドトウとオペラオーと同様に思わず声をあげる。

 その動揺はオペラオーやドトウ以上だった。あの加速力とスピード、何よりその様子、マックスの目には間違いなく別のウマ娘が映り、そのウマ娘を感じるために脳内麻薬を分泌させて全ての力を引き出している。

 パドックではどこかダートプライドの時のデジタルと似ていると思っていた。まさかトリップ走法を使えるとは思わなかった。

 意中のウマ娘を想像で生み出し5感で感じ、感じたことで脳内麻薬を分泌させ限界以上の力を引き出す。これがトリップ走法の原理だ。

 

 体と頭を極限まで使った状態で極めてリアルなウマ娘を想像する。はっきり言えば無駄な行動だ。そんなことをする暇があれば体や頭を使うエネルギーに回す。

 それで速くなるのは特殊な嗜好と異常なまでのウマ娘に愛を持っているデジタルだけだ。

 だが現実ではマックスはあっという間に先頭に躍り出て後続と差を広げている。その姿はダートプライドの時のデジタルとダブって見えていた。

 トレーナーはこのレースの安田記念の結末が鮮明に浮かび上がる。

 アドマイヤマックスの完勝、あの時のデジタルはアグネスデジタルというウマ娘の完成形だった。まさに世界最強に相応しいウマ娘であり、あの走りは2度とできないだろう。寧ろあの時の走りを何度もすれば確実に壊れてしまう。それ程に振り切れていた。

 いくら強豪揃いのメンバーといえどあの時のデジタルに勝てるとは思えない。唯一勝てるとしたら同じくトリップ走法を使うデジタルだろう。

 デジタルにはトリップ走法を使うなと念入りに注意している。だが自分と同じ走りをするマックスに興味を持ってしまい、無意識に使うかもしれない。

 頼む。そのままマックスの1着で終わってくれ。教え子の負けを願うことはトレーナーとして最低かもしれない。だが最低でも構わない、デジタルの無事に比べれば勝利などどうでもいい。だがその祈りは届かなかった。

 

『このままアドマイヤマックスが独走か?後続はもう来ないのか?いや!集団を割って抜け出してアグネスデジタルがやってきた!』

 

 デジタルは先頭から10番手の位置で直線に入る。さあウマ娘ちゃんはどんなき煌めきを見せてくれる?

 全てを感じようと思考を巡らし神経を集中させる。その瞬間アドマイヤマックスと目が合う。その表情は酷く寂しく辛そうだった。次の瞬間には集団から抜け出し先頭に躍り出る。

 隣には誰もいないはず、なのにまるで誰かと併走しているように意識を向けていた。

 

───隣に居るのアタシだ

 

 マックスは全てを捧げて理想の偶像としてのデジタルを作り出す。

 格闘技でシャドーボクシングというトレーニングがある。対戦相手をイメージし模擬で戦うというトレーニングだが、より熟練した格闘家のシャドーボクシングは第3者からもイメージした相手が見えることがあるという都市伝説めいた話もある。

 マックスのイメージは極めて精巧だったが、都市伝説のように第3者からはその姿は見えなかった。

 だがデジタルはトリップ走法が出来るほどのイメージ力を有するウマ娘である。その類まれなるイメージ力はマックスがトリップ走法を使って、そのイメージは自分であることに気づいた。

 

 アグネスデジタルというウマ娘は恵まれていた。

 テイエムオペラオー、メイショウドトウ、サキー、エイシンプレストン、ヒガシノコウテイ、セイシンフブキ、ストリートクライ、ティズナウ、選手生活のなかで何人ものウマ娘に心奪われた。そしてそのウマ娘は全て期待以上の力を見せてくれた。

 ドバイワールドカップでサキーは夢を叶える為に全ての力を解放しデジタルを抜き去った。

 クイーンエリザベスカップでプレストンは部屋を出てまで万全に仕上げ、最高の煌めきを見せてくれた。

 南部杯ではデジタルが勝利中毒になり、ヒガシノコウテイとセイシンフブキを感じなかったが、其々のプライドと生き様を走りに込めて激走した。もし通常時のデジタルであればきっと2人を感じ満足した。

 ダートプライドでは5人が地位も名誉も全てを賭けて挑み、最高の煌めきを見せてくれた。

 

 デジタルが感じたいと思った相手の多くは設定したハードルを越えてくれた。

 その体験を経ていつしか現実は自分の予想をいつも超えてくれると思うようになり、セイシンフブキがデジタルの望む姿では無くなっても前を向いて、今まで心奪われたウマ娘と同じぐらい素敵なウマ娘と出会えて感じられると信じられた。

 

 だがアドマイヤマックスは違う。デジタルのように心奪われたウマ娘が想像以上の煌めきを見せてくれた体験がなかった。

 生まれて初めて偶像と呼べるほど心奪われるウマ娘と出会い、偶像で無くなってしまった。

 もしデジタルがマックスの立場であれば、復活を信じるか別の偶像になりえるウマ娘が現れると信じられた。しかしマックスには成功体験がなく信じられなかった。

 

 デジタルは気づく、マックスは自分の可能性の1つだ。自分は恵まれていたから前を向けた。

 だがマックスは恵まれなかったから自分をイメージしている。そしてこれからも囚われ続ける。輝いていた自分の思い出に縋りつき、何千何万回イメージして、擦り切れるまで思い出す。

 そして擦り切れてしまったらどうする?何に縋る?その先に待っているのは悲しい未来だ。

 全ては自分が憧れでなくなってしまったからだ。もし憧れであれば1人でトリップ走法を使ってイメージを感じることなく、現実の自分を感じれば済んだはず。

 トリップ走法は心奪われたウマ娘を感じるために使う。だがそれは本物に近づくための補助で有り、緊急措置だ。

 

 天皇賞秋では勝つために観客席に向かって走りながらトリップ走法を使ってオペラオーとドトウをイメージして感じた。だが本当なら現実の2人を感じたかった。

 ドバイワールドカップでもオペラオー達をイメージした。だがあれはサキーというウマ娘を追いつき感じる為のブースターであって、目的はサキーを感じることでイメージのウマ娘を感じるではない。

 レースを通して多くの素敵で心奪われるウマ娘と出会った。もしトリップ走法を使っていいと許可が出れば、イメージし感じるだろう。

 だが意中のウマ娘に追いつくための手段として使うが、イメージのウマ娘を感じるという目的には決してしない。そんな悲しい使い方はさせない。

 

 先輩は後輩を教え導くものである。現役生活を続けチーム最年長になってそう思うようになった。

 だからこそアドマイヤマックスにそのトリップ走法は間違っていると教え、世界に絶望せず想定を超えて楽しませてくれるという考えに導かなければならない。

 

 別に偶像になりたくはない、勝手に理想を押し付けられて勝手に失望される役割なぞ御免被る。

 だが今だけは偶像として失望させず、押し付けられた理想を叶える。

 どうすれば偶像になれるか分からない。だがやることは分かっている。かつて心奪われたウマ娘達のように煌めくことだ。

 デジタルは全ての意識をマックスに向けて力を解放する。しかしその前に大きな障害が待ち構えていた。

 

 前方数メートルにウインブレイズとタイキトレジャーがいた。まだスパートをかけるタイミングではないと足を溜めている。

 2人がスパートをかけるのを待って、後ろについていきスペースができたら外に出すか?その案を即座に否定する。

 2人の脚が伸びず抜け出さないかもしれないし、仕掛けるタイミングが遅れてマックスに届かないかもしれない。受け身ではダメだ、あくまで能動的に動かなくては追いつけない。

 デジタルは左右前方に意識を向けて抜け出すルートを割り出す。

 

 タイキトレジャーは後ろに居るデジタルの姿を見てはいなかった。

 だが6感がデジタルは右から抜きにくると囁く。右にあるスペースはごく僅かだ、とても通り抜けられるスペースでは無いがその小柄な体で、自分が知らない未知の技術で抜けてくるかもしれない。

 相手はGI5勝にしてあのダートプライドに勝ったウマ娘だ、世間は終わったウマ娘というがそうは思わない。

 前に行くアドマイヤマックスは明らかに仕掛けのタイミングを間違えた。絶対に垂れてくる。

 ならば怖いのはデジタルであり、ここで仕掛けさせるわけにはいかない。出来る限り閉じ込めようと右に移動する。

 

 ウインブレイズもタイキトレジャーと同様の感覚を抱いていた。6感がデジタルは左から抜きにくると囁く、確かに左に僅かなスペースがあり、小柄な体と未知の技術で抜けてくるかもしれない、左に僅かに寄ってスペースを埋めよう。その瞬間両者の右肩と左肩に衝撃が走る、間からデジタルが割って出てきた。

 両者も抜けさせるものかと力を入れるがデジタルの勢いは両者の蓋をしようとする力より勝っていた。

 

(ありがとう、オペラオーちゃん)

 

 デジタルは心の中でオペラオーに礼を言いながらマックスを追走する。

 

(デジタル、ドトウ、キミ達にとっておきの技を教えよう)

 

 デジタルとドトウとオペラオーの3人でトレーニングしていたある日、オペラオーが突如技を伝授すると言い出した。内容は前に壁がある際の抜け出し方である。

 デジタルとドトウが壁役でオペラオーが抜け出す役で走り始める。

 オペラオーは勝負度外視でブロックしていいと言った。デジタルとドトウもGIを勝利した1流選手、いくらオペラオーでも勝負度外視でいいのであればブロックするぐらいできる。

 2人は後ろのオペラオーに意識を向けながら走る。だが2人はオペラオーをブロックすることはでず。デジタルとドトウの間にできた隙間を抜け出していた。

 

「ハーハッハッハ!これが覇王だけが持つスキル!名付けてモーゼ!」

 

 オペラオーは信じられないという表情を作るデジタルとドトウに高笑いを向ける。

 

「オペラオーちゃん凄い!左に抜けると思ってブロックしたら真ん中をぶち破られてた!何で!?」

「私もオペラオーさんが右に抜けると思ってブロックしたのに、何でですか~?」

 

 2人ともそれぞれ右と左からオペラオーが抜きにかかると確信があった。

 しかし気が付けばオペラオーは移動しておらず空いた真ん中のスペースから抜け出していた。

 

「ハーハッハッハ、ボクはデジタルとドトウに右と左から抜けるという覇王のオーラを込めたのさ、2人はそれを感じ取りブロックしようと動いた。だがボクはオーラを込めただけで実際動いていない。そして2人の間に生じたスペースを抜けてきた」

「つまり錯覚させられたということですか?」

「その通り!このスキルは実際に横に移動して抜け出さなくていいので脚を使わずに済むのさ。究極的には人込みを操作し任意のウマ娘を妨害することも可能だ。まあ覇王たるものそんな卑劣な真似はしないけどね。だがこれは世紀末覇王としての実績が生み出す存在感と覇王オーラが無ければできない」

 

 その後プレストンにその体験を話したら、自分も武術の先生と組手をした時に、攻撃がくると思ったら錯覚だったということがあったと語った。

 その先生曰く殺気の込めたフェイントは実際に攻撃を繰り出すと錯覚させられる。

 意志を込めることで錯覚を引き起こす。オペラオーが使った技は武術の先生のフェイントと同じ種類のものであった。

 

 そしてデジタルもオペラオーが使ったスキルを使用しタイキトレジャーとウインブレイズの間を抜け出していた。

 今までは使う必要性がなく、使うこともできなかった。だが様々なレースを走り積み上げた実績が存在感を生み出す。

 そして覇王オーラとは意志であり、オペラオーは勝ちたいという意志を込めていた。

 一方デジタルはアドマイヤマックスの偶像として煌めくという意志を込めた。その想いはオペラオーの勝ちたいという意志と同等であり、同等の効果を生み出した。

 

 デジタルは力を振り絞り全力で駆けぬける。近づくごとにマックスから発せられる圧が高まっていく。

 ウマ娘が発するオーラのようなものは何度も体験してきた。それは競りかけても絶対に負けない、ねじ伏せてやるという勝利の執念のようなものだった。だがマックスは全てを拒む拒絶の意志だった。

 心境は理解できる。2人だけの世界でランデブーしている最中に他者が入ってきたら嫌な気分になるだろう。

 今はイメージした相手を想像して幸せの絶頂に居るはずだ、近づけばその幸せを壊してしまうかもしれない。

 だがそれではダメだ。マックスが想像する自分以上の煌めきを見せて世界の可能性を示す。

 デジタルは拒絶のオーラを跳ねのけながら近づき、残り300メートルで1バ身差まで差を詰める。

 

(((皆最高だよ!最高に煌めいている!)))

 

 アドマイヤマックスの想像力は偶像の当時の心境を読み取りナレーションとして再現される。

 デジタルさんこそ最高の偶像です。マックスは反応しないと分かっていながら礼を述べる。理想の偶像が息して体を動かすたびに快感が駆け抜けていく。

 何て幸せなのだろう!自分こそ世界で一番の幸せ者だ!こんな体験ができるなら毎週だってレースに走りたい!

 今までは嬉しいで走っていた。だが今は楽しいと気持ち良いで満たされている。やはり全てを理想の偶像に捧げて心底良かった。

 幸せの絶頂のなかに居るマックスだが、ふと理想の偶像にノイズが走る。気のせいではない。

 今の自分はどんなことが起ころうともイメージが崩れることはないはずだ。自分達の世界を乱す何が起きている。

 思考を疑問から偶像を感じることに意識を集中させ自分達の世界を構築させていく。だがノイズは増していく。どこか心地よく、そしてたまらなく不愉快な足音、息遣い、匂い。その意識は偶像からノイズの発生源に向けてしまう。

 その発生源はアグネスデジタルだった。その瞬間理想の偶像は消え怒りで塗りつぶされていく。

 

 デジタルに対して怒りは無かった。堕ちたといえどかつては理想の偶像だった。いわば偶像の母親だ。一定の敬意と感謝を抱いているつもりだった。

 だが理想の偶像との聖域に入ることは決して許されない。ここは2人だけの世界だ、侵入すること事態許される事では無いが、侵入者がアグネスデジタルということが怒りに油を注ぐ。

 貴女が堕ちなければアドマイヤもチームも捨てずに済んだかもしれないのに、無意識に湧き上がる未練に動揺する。だが動揺を怒りと理想の偶像への崇拝で塗りつぶす。

 

 堕ちた偶像が理想の偶像を穢すなんて絶対に許さない!私の理想の偶像こそが本物だ!現実のデジタルは偽物だ!この場で確実に葬り去る!勝って葬り去ることで理想の偶像は完成する!

 

──現実(あなた)を殺して理想(てんごく)に向かう

 

『残り300メートル!以前アドマイヤマックス先頭!アグネスデジタル懸命に食らいつく!』

 

 アドマイヤマックスは体の悲鳴や脳からの危険信号を無視して走り続ける。デジタルへの怒りの感情は消した。全てを理想の偶像への崇拝に向ける。

 理想の偶像は現実に負けるはずがない!だからもっと!煌めいて!輝いて!偽物を殺してください!

 圧縮された時間で幾千もの祈りを捧げ、理想の偶像に縋る。理想の偶像は祈りに応えるように姿を変えていく。

 理想の偶像は鼻からだけではなく目からも口からも血を吹き出す。狂気をはらんだ笑顔はより禍々しく変化し、背中から白い翼が生える。

 それは当初の理想の姿とは程遠いものになっていた。悪魔のような笑顔と形相に天使を象徴した白い翼というアンバランスな姿、もし理想の偶像が他の人間に見えたとしたら、誰もが不快感を抱き目を背けるだろう。

 だがマックスにとってこの世の何よりも美しく神々しかった。

 

 デジタルは懸命に食らいつく。今まで培った心技体を全て駆使している。それでも1バ身差を維持するのが精いっぱいだった。

 息が苦しい、身体が重い、景色が歪む。天皇賞秋でもフェブラリーステークスで乗り越えてきた直線高低差2メートルの坂がそそり立つ壁のように阻んでいる感覚になっていた。  

 今まではトリップ走法と心奪われたウマ娘を感じる多幸感で苦しみを紛らわせていた。

 しかしマックスはプレストン達のように何が何でも感じたいという対象ではなかった。そしてトリップ走法はトレーナーとの約束を守り、使用を固く禁じていた。

 今は苦しみを一切緩和することなく一身に受けている状態である。

 マックスとの差が1バ身半、2バ身と徐々に開いていく。

 デジタルはトリップ走法を使わなくても充分に強いウマ娘である。だが今は完全に振り切れ、常軌を逸した強さを手に入れていた。

 この結末は自然であり、ここまで食らいついたデジタルは驚嘆に値する。

 

(このままじゃ……アドマイヤマックスちゃんは可能性を知らずに自分の世界に閉じこもっちゃう……アタシが頑張らなきゃいけないのに……)

 

 デジタルの心は挫けかけるが懸命に気力を振り絞る。直線に入った時に見せた悲痛な表情を思い出せ!自分が同じ立場になったらどうだ!誰も想像を超えてくれない苦しみを想像しろ!アドマイヤマックスにそんな思いをさせるわけにはいかない!

 

 使命感、責任感、献身。

 

 今までのデジタルが抱かなかった感情が気力を与えていく。すると不思議と痛みが和らぎ体に活力が湧いてくる。それに応じるように徐々に差が縮まっていく。

 

 ウマ娘が走る理由は主に自分のためと仲間のためである。相手を感じたいという理由で走るデジタルは典型的な自分のために走るウマ娘である。

 ファンのためにチームのために支えてくれる人の為に走る。これは仲間の為という理由で走っていたかつてのアドマイヤマックスはそうだった。

 程度の差があるにせよ大概のウマ娘は自分の為と仲間の為に走っているといえる。だがそれ以外の理由で走る第3の理由が存在する。

 

 それは相手の為に走ることである。

 

 相手とはレースを一緒に走るウマ娘である。だがこの理由で走るウマ娘は存在しない。

 レースで勝つことは相手の夢や希望を摘み取ることである。相手のためにと思うのなら勝ちを譲らなければならない。だが相手の為に負け続けることを望むウマ娘は狂人であり、結局のところレースを走らなければいいという結論に行きつく。

 

 今のデジタルはアドマイヤマックスにとっての理想の偶像になるために走っている。

 そして理想の偶像とは最高の煌めきを見せること、最高の煌めきを見せるとは全身全霊で力を振り絞ることであると解釈している。

 結果レースに勝っても理想の偶像であれば相手の望みを叶えることになる。今のデジタルとマックスの関係性に限り第3の理由は成立する。

 

 ウマ娘を感じたいという我欲を捨て、アグネスデジタルというウマ娘のアイデンティティを捨て、ただアドマイヤマックスの為に走っている。

 デジタルもウマ娘への愛はあった。だがそれは自分の為のものだった。だが今この瞬間相手の為に愛を向けている。

 

 第3の理由は新たなる力を与える。

 

『アグネスデジタルが再び差を詰めていく!残り200メートル!その差は1バ身差!逃げるアドマイヤマックス!追うアグネスデジタル!』

 

 マックスの心に動揺が走る。さっき迄とは違う、この理想の偶像こそ完璧であり2人だけの世界は完成したはずだ。何故偶像にノイズが走る!?何故存在感が増してくる!?どこまで邪魔すれば気が済むんだ!

 

「アアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 

 マックスは絶叫する。己を奮い立たせる声でもない、大声を出すことで身体能力を向上させるシャウト効果を期待したものでもない。純粋な拒絶の叫びだった。

 

 (待っててねアドマイヤマックスちゃん。アタシが理想の偶像になって可能性を見せてあげる)

 

 残り200メートルだがデジタルはゴール板を認識していない。全ての思考と意識と力をアドマイヤマックスに捧げる。

 

 ──パリン

 

 脳内にガラスが割れる音が響く。ガラスを踏んだわけではない、レース中に絶対に聞かない音だが耳にはっきり聞こえていた。その瞬間確信めいた予感が過る。

 今重大な局面に立っている。このまま進めば大変な事になる。引き返せば間に合うと。

 

うるさい。

 

───パリン、パリン、パリン

 

 ガラスの音は大きくなると同時に視界がひび割れていく。本当にいいのか?これが本当の最後の機会だ。このまま行くのかと自分の声が響く。

 

 知らない!アタシはアドマイヤマックスちゃんの為に理想の偶像になるんだ!

 

 ガラスは完全に割れると同時にひび割れた視界が一気に晴れていく。

 

『どっちだ!どっちだ!どっちだ!』

 

 ゴールまであと少し、これで勝てば現実を殺せる。このレースは一生の不覚だった。もっと祈りを捧げて、もっと供物を捧げて理想の偶像をより強固にする。もう2度と自分の世界を侵させない。私は理想に行く!

 右隣に居る理想の偶像は血を吹き出しながらアルカイックスマイルを見せる。だが理想の偶像に全てを注いでいたマックスの意識が強制的に左に向けさせられる。

 私の理想の偶像は完璧だ!だが心の言葉とは裏腹に意識はどんどん左に向いていきスローモーションとなった視界にそれは映り込む。

 それはダートプライドの時のアグネスデジタルではなかった。

 笑顔ではなく歯を食いしばる。こんなの私が惹かれた理想の偶像ではない。だが今見えている姿はダートのプライドの時と同等に煌めいていた。それは心を惹きつける理想の偶像の姿だった。その瞬間右隣に居た理想の偶像は消え去っていた。

 

『交わしたか!?交わしたか!?内のアグネスデジタルが交わしたか!?』

 

 両者がゴール板を過ぎた瞬間歓声がため息に変わる。

 

 アドマイヤマックスは長期休養明けの初戦だ、なのにこれほどまでに凄まじい強さを見せるとは東京レース場に居る観客の誰も思っていなかった。

 アグネスデジタルは前走の地方重賞で4着と負けた。勇者ですらデスレースの呪縛から逃れられない。

 多くの人間は終わったウマ娘だと思い、デジタルに投票した人間も復活を本心から信じていたわけではなく、復活したらいいなと神社で気軽にお願い事をするような感覚で願っていた。

 人気薄のウマ娘が直線に入って一気に抜け出しそれを終わったウマ娘が猛追し、一度は離されかけるが再び差し返し最後は交わした。

 

 物凄いレースだった。東京レース場にいる観客全てが同じ心境だった。

 

 そして観客席からどよめきが起こる。

 

 レコード

 タイム 1:32:1

 

 オグリキャップが出して長年破られなかった1:32:4の記録を更新していた。

 

「今日のアタシはどうだった?」

 

 デジタルはゴール板を駆け抜けると徐々にスピードを緩め息を整えながらマックスに話しかける。

 煌めけたどうかは分からない。全身全霊を出し尽くした。あとは気に入ってくれるかどうかだ。

 意識の全てはマックスに向けていて、勝敗も周りの歓声も着順掲示板も表示されたレコードタイムも一切意識に入っていなかった。

 

「最高に煌めいていました。理想の偶像でした」

「良かった」

 

 デジタルは安堵の息を吐く。マックスの期待を超えられるか不安だったが何とか超えられた。自分が仲間達にしてもらったことを達成できたことに、少しばかりの嬉しさがあった。

 

「イメージした相手を感じるのは楽しくて幸せだよね。でも自分の世界に閉じこもらないで周りを見よう。そうすれば素敵な出会いがあるよ」

 

 デジタルはニカッと笑いながら自分の気持ちを素直に言葉にする。

 思わず自分なんかより素敵なウマ娘に出会えると言おうとしたが直前で止めた。マックスは本当に感じたい思ってイメージを生み出した。

 イメージを生み出すには多くの愛と執着が必要だ、それ程までに大切に思ってくれたものを卑下したら傷つけてしまう。

 

「そうですね。今度は現実のアグネスデジタルをしっかり感じます」

 

 マックスはキラキラと目を輝かせながら返事する。自分の目は節穴だった。アグネスデジタルは堕ちていなかった。次もその次も一緒に走って感じ続ける。

 

「あ~、でも今日の走りはもう多分できないと思う」

 

 デジタルは目を輝かせながら見つめる瞳から目を背けながら呟く。

 恐らく今日のような走りはできない。今日はマックスに世界は期待を超えてくれるということを見せたいという感情で走った。

 だが次走で走っても同じような気持ちは抱けないと思う。そして根拠は何もないが、別の大きな要因で出来ないという確信めいたものがあった。

 

「なんでですか、次も!次の次も!私の偶像で居てくださいよ!」

 

 マックスは疲労を忘れ思わず声を荒げ懇願する。自分が再生した理想の偶像は今のアグネスデジタルに打ち砕かれた。

 もはや理想の偶像は理想ではなく堕ちてしまった。ならば今のアグネスデジタルを偶像にして縋るしかない。   

 デジタルはマックスの必死の願いを悲しそうに首を振って否定する。

 マックスのなかで怒りが湧く。一度だけ希望を見せておきながら裏切る。

 それなら希望を見せるな!最後まで偶像でいろ!これだったら自分が再生させた理想の偶像を壊さないでくれ。そうすれば上を見ることなく満足し続けられた。

 

「アグネスデジタルさん以上の偶像はいない」

「そんなことはないよ!アタシは素敵なウマ娘ちゃんに今まで何度も期待を超えてもらった!世界は思った以上に期待のハードルを越えてくれる。今日だってアタシがハードルを越えてくれると思ってなかったでしょ!」

 

 デジタルは怒りを滲ませたマックスに力強く語り掛ける。その言葉に希望を抱いたのか表情が和らぐが、やはり信じられないと再び怒りを滲ませる。

 

「それだったら合わせ技でどう?仮にアタシより煌めいたウマ娘ちゃんが居なくても、その次に煌めいているウマ娘ちゃんを感じて楽しんで幸せになりながら、チームやトレーナーが喜ぶ顔が見ると嬉しいって気持ちを上乗せするとか」

「それは……もう遅いですよ……」

 

 マックスは髪を掻きむしり声にならない声を出しながら悲痛な表情を浮かべる。

 理想の偶像を再生させるためにチームもアドマイヤも全て捧げてしまった。

 こちらから縁を切った以上もうあの頃には戻らない。もう二度とチームやアドマイヤの為になって嬉しい気持ちという感情を持って走ることはできない。

 

 何故前走でこの煌めきの片鱗を見せてくれなかった!そうすれば!

 

 マックスの胸中にはデジタルへの逆恨みと自分が取ってしまった行動に対する後悔が渦巻いていた。

 

 デジタルは地下バ道に戻る為に踵を返してマックスと分かれる。

 デジタルは世界に希望を持ち、必ず心惹かれるウマ娘が現れ期待を超えてくれると信じていた。だがマックスは自分ではない。1度の成功体験では期待を持てず、もう1度自分が再生させた理想の偶像を感じる道を選んでしまうかもしれない。

 デジタルは喜びを見せるなど1着のウマ娘に求められる仕草や動作をせず、浮かない表情をしながら地下バ道を降りて行った。

 

「デジタル!大丈夫か!」

 

 トレーナーは血相を変えながら走って出迎え触診で状態を見る。歩き方を見てもどこも痛めていなく、足や膝も特に熱を帯びていない。精密検査しなければ分からないがとりあえず怪我はしていない。

 

「何で勝てたんや?」

 

 トレーナーは思ったことを率直にぶつけてしまう。今日のアドマイヤマックスに勝つにはトリップ走法を使うしかない。だがレースの様子は今の姿を見る限りトリップ走法は使っていなく、道理が合わない。

 その常識外れさに幾度も驚かされたが、今日は過去最大でトリップ走法を始めて実行した時以上に驚いている。

 

「う~ん、説明長くなるし要領を得ないと思うけどいい?」

「構わん。思ったことを全て話せ」

 

 デジタルは裁決室に向かいながらトレーナーに話す。アドマイヤマックスの心境に自分の心境、そして今まで感じたことがない不思議な力が湧いたこと、思いつく限り喋った。

 

「なるほど、今日はウマ娘を感じる為ではなく、アドマイヤマックスの期待に応えたいと思って走ったんやな」

「うん、このままじゃアドマイヤマックスちゃんは悲しい。だからアタシが期待を超えてくれるってことを教えてあげたいと思って。しかし一応勝てたけど何で勝てたんだろう?今考えると今日のアドマイヤマックスちゃんは本当に強くて、トリップ走法使わなきゃ勝てないと思うけど」

「ある仮説があるんやが、笑うなよ」

「笑わないって、それで何?」

「自分の為でもなく、俺やチームメイトやファンの為にという仲間の為でもなく、レースを走る相手のためにという純度100%の気持ちで走った。それがデジタルに力を与えた。名づけるなら慈悲の心や」

「白ちゃんそれ精神論じゃん、というよりオカルト、トレーナーならもっと科学的な意見を言おうよ」

「うっさい、俺かて完全に言っていておかしいと思うが、それぐらいしか理由付けができん。それぐらい今日のレースで勝つことはあり得んのや」

 

 デジタルは思わず吹き出しトレーナーは顔を赤らめながら言い訳する。

 

 慈悲の心

 

 我欲の為に好き勝手生きていた自分にとって対義語のような言葉だ。

 だが今日はアドマイヤマックスに期待を超えるという可能性を見せたいという一念で走った。

 それは今まで抱かなかった感情であり、今までと違いがあるとしたらそれしかない。案外慈悲の心というものは有るのかもしれない。

 

「ねえ白ちゃん、アタシがやったことは良かったのかな?」

 

 デジタルは笑顔から一転して表情を曇らせながらトレーナーに問いかける。

 

「なにがや?」

「アドマイヤマックスちゃんに周りは期待を超えてくれるということを分かってもらいたかった。今日のアタシの走りでイメージを超えてくれたって言ってもらえた。でも正直に言うけど今日の走りはもうできない。けれどアドマイヤマックスちゃんは今日のアタシを求める。でもアタシはできない。これだと希望を見せるだけ見せて最後まで希望を見せないことでしょ。それって希望を見せない事より酷いことなのかもしれない」

 

 トレーナーはデジタルの心中を察する。ぬか喜びは心にダメージを与える。トレーナーも人生の中で何度もぬか喜びを味わされてきた。その不安や心配も充分理解できた。

 

「デジタルはアドマイヤマックスが間違っている。いや理想のイメージだけに目を向けるのでなくて、周りを見て可能性を信じたほうが幸せになると思ったんやろ」

「うん」

「なら信じればええ、アドマイヤマックスがデジタル以上に夢中になるウマ娘が現れるって信じとる。それはウマ娘の可能性を信じ取るってことやろ。ウマ娘の可能性は小さいんか?」

「そんなことない!ウマ娘ちゃんは皆が煌めいて輝いて尊くて!可能性は無限大!」

「それが答えや、どんと構えとれ。それよりタイキトレジャーとウインブレイズに謝っとけよ。今回はギリギリ走行妨害にならんと思うが、あと少しスペースが狭かったら反則やぞ」

「そうだった。早く謝らないと」

 

 デジタルは裁決室に早歩きで向かいタイキトレジャーとウインブレイズに平謝りしていた。

 希望を見て裏切られるなら最初から希望を見ない方がいい。希望を見せたものは最後まで見せなければならない。それはある意味正しいかもしれない。

 そうだとしたら希望を最後まで見せられないと、最初からやらないほうがいいと思う者も現れるだろう。

 それでもデジタルは希望を見せた。自分ができなくても他の者が希望を見せてくれるという世界の可能性を信じて。綺麗ごとと言われるかもしれないが、最初から行動しないより遥かに良い。トレーナーはデジタルの行動を心から尊重していた。

 トレーナーが裁決室に戻る頃には着順が確定し、クビ差でアグネスデジタルが1着となる。

 

──

 

 大國魂神社。

 約1900年の歴史をもつと伝えられている古社であり、祝日には多くの人が足を運ぶ。その都内有数の神社にアドマイヤマックスは居た。

 マックスは大鳥居を抜け参道を歩いていく。その姿に人々は一度視線を向けてから視線を逸らす。

 視線を向ける訳はその姿にあった。マックスは勝負服を着たまま神社に来ていた。そして目を背けるのはその雰囲気だった。

 まるでこの世の不幸を背負った陰気さで、目を合わせるのすら縁起が悪いと露骨に目を背け距離を取る。

 マックスは周りの人間の反応など一切気にせず歩き続ける。中雀門を抜けて拝殿に辿り着くと膝をつき手を組んで祈りを捧げる。

 

 全てを捧げて再生した理想の偶像はアグネスデジタルに打ち砕かれて、当の本人は理想の偶像としての役割を全うできないと言い放った。

 

 じゃあ何縋ればいい?何を目的に走ればいい?

 

 理想はアグネスデジタル以上の偶像が現れることだ。確かにデジタルは身をもって世界の可能性を見せてくれた。そのお陰で少しばかり希望を持っている、だが完全には可能性を信じられない。

 なら合わせ技か、だがあの時のようにチームの為にアドマイヤの為にという嬉しさが湧き上がる対象が見つかると思わない。やはりアグネスデジタルという理想の偶像を感じる日々に戻るしかない。マックスは今日のアグネスデジタルをイメージし悲しみを紛らわせようとする。

 ダートプライドのイメージとは違い、当事者としてより近くで感られた。イメージするのは容易いはず、だが全くイメージできなかった。

 いくら頭を働かしても全くできない。これが理想の偶像が砕かれた代償として想像力を失ったとでもいうのか?不安と恐怖が全身に圧し掛かる。

 希望を持てず、想像の世界に逃げ込めず、前のようにチームやアドマイヤの為にという嬉しいという感情を持つことも許されない。完全に行き止まりだ。

 これがチームとアドマイヤを捨てた罰だというのか?だとしたら何の罰だ!ただアグネスデジタルに心奪われて感じようとしただけではないか!

 自分なりに精一杯努力して工夫して決意して!それが何の罪だというのか!

 気が付けばマックスは記者の質疑応答もウイニングライブの準備も全て放棄して東京レース場を出ていた。

 

「助けてよ……」

 

 お願いします。どうか私を救ってください。偽りの救世主でもいいからこの苦しみから抜けさせてください。マックスは何度も祈りの言葉を呟く。

 

 

「日本の神様はそれじゃあ願いを叶えてくれないぞ」

 

 マックスの祈りの言葉を遮るように陽気で能天気な声が響く。その後ろにアドマイヤコジーンが居た。いつか寮の部屋に訪れたようにアドマイヤコジーンの勝負服を着たミニチュアとヒヨコが乗っかっていた。

 

「2着か、長期休み明けでレコード決着でのクビ差2着、上出来すぎるだろう」

 

 そのバカみたいな明るい声色とアドマイヤとチームを裏切った罪悪感が神経をかき乱す。

 早く消えろと親の仇のような目でコジーンを見つめるが、当のコジーンは全く意を介さず二礼二拍手一礼で参拝しマックスの隣に座り込む。

 

「今日のレースでそのアイドルのイメージを想像できて感じられたか?」

 

 その一言にマックスは思わず祈りを止めてしまう。アドマイヤドンには理想の偶像を感じたいとは言った。だがいつどうやって感じるかは話していない。

 

「オペラオーとドトウから聞いたぞ。好きな相手を想像して5感で感じる。マックスがやったのはアグネスデジタルのトリップ走法っていう技らしいな。アタシも現役だったから、それがどれだけイカれたことでどれだけ難しいことか分かる。スゲエよ、アイドルを感じる為にそこまで努力してさ。それで感じられたのか?」

「感じられた」

 

 マックスはポツリと語る。理想の偶像を感じる為に必死に練り上げ多くを捧げた。その過程と努力を初めて肯定され少しだけ気を許していた。

 

「でも私の理想の偶像は理想じゃなかった。本物のアグネスデジタルの煌めきに目を奪われて心惹かれて、作り上げた理想の偶像は砕け散った」

 

 一度気を許すと止まらない。昔はアドマイヤコジーンに全く情が湧いていなかったのに、今では情が湧き安らぎを覚え、自分の心情を吐露し始めていた。

 

「そうか、なら今度は本物を追って感じればいい。ストーカーみたいだけどな」

「でもアグネスデジタルは今日みたいな煌めきはもう見せられないって言った」

「なら他のウマ娘にすればどうだ?もしかしたらアグネスデジタル以上に良いウマ娘は居るかも、推し変ってやつだ」

「そう思ったけど、アグネスデジタル以上のウマ娘が居ると信じられない」

「ちなみに推しを感じるってどんな感覚だ?」

「楽しい、気持ち良い」

「それだったら合わせ技だ。例えば嬉しいを求めればいい」

「だからそれはもう遅い!」

 

 マックスは叫ぶ。かつての憧れが偶像と同じ意見を提案する。そのことに親近感を覚え提案に乗ってもいいと思う。だがもう手遅れで取り返しはつかない。

 嬉しいと思うのはチームの為にアドマイヤの為に貢献したいと思った時だ。だがそれは二度と手に入らない。自分でその未来を断った。

 

「マックス、一度だけ聞く。チームルイやアドマイヤに戻りたいか?」

 

 コジーンは今までにないほど真剣な口調で問いかける。

 

 今更戻れるわけが無い。許してくれるわけが無い。謝るのが恥ずかしい。親方やチームメイトやアドマイヤドン達が昔みたいに心を許してくれるわけがない。様々な言葉が脳内で駆け巡る。

 これは罰だ。選択を間違えた者が幸せになれるわけが無い。戻らないと言って一生後悔を抱えて生きていくのだ。

 

「戻りたい、戻ってチームやアドマイヤを日本一にするって頑張って、貢献するのが嬉しいって気持ちを持って走りたい。それでチームやアドマイヤに居ながらアグネスデジタル以上の偶像が現れるって信じながら待ちたい。本当はチームもアドマイヤも捨てなくなかった。でも仕方がなかった!ああしなきゃ理想の偶像を感じられなかった!」

 

 マックスは赤裸々に思いをぶちまけていく。アグネスデジタルを感じられず、理想の偶像を想像できず、チームやアドマイヤに戻れない。この行き止まりのなかで不幸のままで居たくない。

 デジタルは世界が可能性に満ちて期待を超えてくれると示してくれた。希望を待ち続ける日々は辛いだろう。もしかして現れないかもしれない。だがアドマイヤとチームに居れば待つ日々に耐えられる。合わせ技で幸せになれる。

 今の道を選んだことには後悔している。けれどこれ以上後悔を重ねたくはない。

 

「そうか」

 

 コジーンは淡々と言い放つ。唾を吐きかけられるか、罵詈雑言を言われるか、あるいは両方か、それが当然の反応だ。それでも可能な限り足掻きチームやアドマイヤに戻る。

 

「なら土下座参りだな。アタシも付き合ってやる」

「何で?」

 

 マックスは明朗な笑顔を向けながら手を差し伸ばすコジーンに思わず疑問をぶつける。

 散々差し伸ばされた手を振り払いチームとアドマイヤを裏切った女だ、それを何で笑って赦せるのだ?その疑問に答えるように言葉を続ける。

 

「前に言ったろ、アイドルの追っかけがつまらなくなったらアドマイヤに戻ってこい、居場所は用意してやるって。戻る気が有るなら用意する、当然だろ」

 

 マックスは理想の偶像を感じることが最大の幸福と信じてチームとアドマイヤとの縁を切り、自分にできる最大限の努力をしてそれでも幸せは得られなかった。

 ならばまた戻ればいい、やり直して幸せを得るために努力し道を進めばいい。その道を整えるが先輩の役目だ。 

 マックスが恐る恐る伸ばし手を取ると強引に引き起こし耳元で呟く。

 

「アタシは何とも思ってないいが、他の奴は違う。事情が有ったにせよチームとアドマイヤを捨てたウマ娘だ。戻れば好感度最悪で針の筵だし、そもそも親方はアドマイヤに戻ることを許さないかもしれない。そこは覚悟しておけよ」

「分かってる。それでも理想の偶像を感じるっていう楽しい気持ちで走りたい。チームやアドマイヤの為に頑張って貢献して嬉しいって気持ちで走りたい」

「それならいい」

 

 コジーンはマックスの背をポンポンと叩く。もし戻れたとしても相当厳しい立場になるだろう。失った信頼はそう簡単に取り戻せない。

 だが以前のチームやアドマイヤに対する愛と献身は誰もが知っている。だからこそ理想の偶像を感じたいという気持ちの巨大さに気づく。

 マックスはこの経験を経て強くなった。苦難を乗り越えて、どちらかを捨てるのではなく、両方を掴み取れる強いウマ娘になれる。

 

安田記念 東京レース場 GI芝 良 1600メートル

 

 

着順 番号     名前        タイム    着差    人気

 

 

1   3   アグネスデジタル   1:32.1 R        4       

 

 

2   16   アドマイヤマックス  1:32.1   クビ    10  

 

 

3   8   ローエングリン     1:32.7   3      1

 

 

4   14   イーグルカフェ    1:32.7   ハナ     3

 

 

5   7   ダンツフレーム     1:32.8   1/2     5

 

 

───

 

 

『アドマイヤマックスだ!高松宮記念を制したのは大外枠のアドマイヤマックスです!善戦続きのGI戦線にピリオドを打ちました!』

 

 アドマイヤマックスはゴール板を駆け抜けた瞬間喜びを爆発させ、中京レース場の観客達は万雷の拍手で迎える。マックスは観客の声援に応えながら地下バ道に向かって行く。そこで多くの人が出迎える。

 アドマイヤコジーン、アドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤグルーヴ、チームルイのトレーナー、そしてアドマイヤ軍団のトップである親方、それぞれ号泣し、涙をうっすらと浮かべながら祝福の抱擁を交わす。

 多くの人が訪れ祝福するなか、アグネスデジタルが輪の外からチラチラと様子を窺っていた。マックスとデジタルの視線が合うと、遠慮がちにマックスの元に近づく。

 

「おめでとうアドマイヤマックスちゃん、もっと喜びたいけど白ちゃんやメイショウボーラーちゃんが怒っちゃうから」

「言葉をかけてくださっただけで嬉しいです」

「そう、それで今日のレースはどうだった?」

「最高に嬉しくて、最高に気持ちよくて、待ち続けた甲斐が有りました」

 

 アドマイヤマックスは左胸に飾られた花を握りながら答える。そこには紫陽花とカスミソウ、そしてかきつばたが飾られていた。

 

 かきつばたの花言葉は幸せは必ず来る。

 

 その花言葉を信じてアドマイヤマックスは待ち続けた。

 デュランダル、ビリーヴ、キーンランドスワンなど様々な魅力的なウマ娘と出会って感じてきた。

 もしアグネスデジタルが可能性を示してくれなければ決して気づかなかった。だがそれでもあの時の安田記念のアグネスデジタル以上では無かった。

 それでも絶望せず走り続ける。1つじゃなくても合わせ技で超えればいい。チームの為にアドマイヤの為に貢献出来て嬉しいという気持ちを上乗せすればあの時以上の幸せがあると信じて。

 そして今日がその時だった。レースではキーンランドスワンを存分に感じ、トレーナーとアドマイヤに初の高松宮記念のレイを与えられた。

 アドマイヤベガもアドマイヤコジーンもアドマイヤドンもアドマイヤグルーヴもチームメイトもトレーナーも親方もファンも喜んでくれた。それが何よりも嬉しかった。

 マックスは楽しいと嬉しいの感情を合わせることでついに安田記念以上の幸福を手に入れる。その証拠にこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべていた。



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勇者と宴#1

誤字脱字の指摘ありがとうございます


「ありがとうございました」

 

 記者たちは一礼した後にトレセン学園にある談話室を出て行く。その姿をアグネスデジタルとトレーナーは見送り、完全に部屋から出たのを確認して深く息を吐く。

 

「あと残り何件?」

「3件や」

「あと3件も~。もう全部呼んで纏めてインタビューしてよ」

 

 デジタルはソファーの背もたれにだらしなくもたれ掛かりながら愚痴をこぼす。

 安田記念から翌日、待っていたのは大量の取材依頼だった。ダートプライドを走り、終わったと思われたウマ娘が勝利、さらに長年破られなかったオグリキャップのレコードを更新、これだけ劇的な勝利を飾ればメディアも放っておくわけもなく、レース後に大量の取材依頼が舞い込んできた。

 体調次第では断ってもよく、激走による反動が懸念されたが体調は思ったほど悪くはないので、全ての取材に応じた。

 デジタルは恐らく乗り気ではないだろう。だが活躍し業界の上に立つ者は世間に情報を発信するのは責務であり、好き嫌いで避けることは許されない。

 本当に乗り気でないのなら拒否するが、オペラオー達の教えを胸に渋々ながら受けると了承したので、オフ日にまとめて取材を入れておいた。

 

「しかし、無難に喋るな。いつもみたいに欲望全開に喋らんから、マスコミ達も困っとるぞ」

 

 過去のデジタルはサキーちゃんマジで最高!プレちゃん煌めきすぎ!という具合にレースで感じたことをテンション高めに喋る。最初はマスコミも若干引いていたが、次第になれてそっちの方が面白くなると興味津々に聞いていた。

 だが今回のデジタルは大人しく、道中は密集し直線で抜け出せるか不安だったなど、冷静にレースの様子を語っていた。

 

「じゃあ、アドマイヤマックスちゃんの為に走りましたとか、慈悲の心で勝てましたとか言う。頭おかしいウマ娘じゃん」

「いや、お前は頭おかしいやろ」

「言い方!まあそれは置いておいて、仮に思ったことや感じたことを正直に喋ったら、アドマイヤマックスちゃんに取材が行くでしょう。あの時の心境は多分知られたくないと思うんだよね」

 

 何故チームルイから離れたのか?何故自分の姿をイメージして走ったのか?デジタルも興味があるが、その背景については聞いていない。

 本人にとっては触れられたくない部分だと思う。ならばできる限り触れられないようにするのが思いやりだろう。

 

「じゃあ、前の壁を捌いたくだりぐらいは言ってもよかったんちゃうか?」

「あれはオペラオーちゃんがアタシとドトウちゃんに授けた秘技みたいなものだよ。それを喋るだなんてオペラオーちゃんに失礼だしアタシも嫌だし何より信じないでしょ」

「まあ、それはそうやな」

 

 トレーナーは思わず頷いてしまう。前に居るウマ娘達に右と左から追い越すという気を当て錯覚させて生じた間の隙間を抜ける。

 最初に聞いた時はにわかに信じがたかった、だがデジタルは真顔で喋り、オペラオーも同じ技を使えると言った。

 オペラオーは芝居がかり誇張した話し方をするが、こういった事では嘘をつかないウマ娘だ、何より走っているウマ娘にしか分からない技術は存在する。

 トレーナーはデジタルが言ったことを信じることにした。だが同じ話を聞いても大概の人間はウソと断定するだろう。

 するとトレセン学園の職員が扉ごしからノックして、次の取材陣が来ると伝える。

 

「ほれ、次のマスコミが来るぞ、しゃんとせい。終わったら甘いもん買うたる」

「子供じゃないんだからさ、まあ貰うけど」

 

 デジタルはめんどくさそうに背もたれから体を起こすと背筋を伸ばし取材陣が来るのを待った。

 

「う~ん、やっと終わった」

 

 デジタルは心底嬉しそうに体を伸ばし解放感を噛みしめる。これほどの大量の取材に応じるのは久しぶりだった。

 ワールドレーシングアワードのベストレース部門に受賞した時は大量の取材を受けて取材慣れしていたが、かきつばた記念に負けて以降は取材がめっきり少なくなり、心身の疲労が溜まっていた。

 

「デジタル、次走はどうする?」

 

 トレーナーはデジタルが体を伸び切り息を吸い込んだ瞬間を見計らって問いかける。

 取材の質問で次走について聞かれていたがデジタルは言葉を濁した。トレーナーも本人の希望を聞いていないので特に話せることはなかった。

 もし走るとしたら適性から考えて帝王賞だろう。他には海外に目を向けるならばイギリスのプリンスオブウェールズSなどマイルから2000メートルのレースはいくつかある。

 欧州の芝は洋芝で長さも若干長め、見た目以上に地下茎の密度が濃くてクッション性が高くパワーが必要になる。走ったことはないがダートを走れるデジタルなら対応できる可能性はある。

 他にもアメリカのダートに目を向ければさらに選択肢は広がる。アメリカのダートはドバイのダートと似ているので対応可能だ。改めてデジタルというウマ娘の適応力の高さに驚かされる。

 

「それは宝塚記念でしょ!まずはシンボリクリスエスちゃん!あの艶のある黒髪と抜群のプロポーション!堪らないよね!それにあの威風堂々した感じ!シンボリルドルフちゃんが皇帝ならシンボリクリスエスちゃんは帝王って感じだよね!自他に厳しく近寄りがたいオーラ!プレちゃんから話を聞いて感じたいと思ってたんだよね!

そしてネオユニヴァースちゃん!2冠ウマ娘が宝塚記念に殴り込みだよ!3冠がかかってる秋の菊花賞に影響が出るかもしれないのにだよ!証明するのは世代最強じゃない!現役最強だ!カッコイイ!ユニヴァース!」

 

 デジタルのテンションは一気にトップギアに入りながら語り始める。

 その様子を眺めながらトレーナーは思考を巡らす。デジタルの適性はマイルから2000と判断していたので、2200メートルの宝塚記念は意外だった。

 

 ウマ娘には距離の壁という概念が有ると信じられており、1200メートルで勝ったウマ娘が1400メートルになると途端に勝てなくなるという事例が有る。こういった事例は存外に多い。だがステイヤーではないウマ娘が長距離レースに勝つケースもある。

 それはペースによるもので、道中お互いが警戒した結果誰も仕掛けずスローペースになった結果、後半での末脚勝負、俗に言うよーいドンのレース展開になりスタミナよりスピードが勝るウマ娘が有利な展開になった。

 

 仮にデジタルも2200でも道中スローペースになり、よーいドンの直線勝負になればマイラーに対応でき勝機が出てくる。だが阪神レース場2200の宝塚記念は有利に働かない。

 高低差約2メートルの坂を2回超え、3~4コーナーは内回りで最後の直線も比較的に短いせいもあって、各馬の仕掛けは早めになる。問われるのは、瞬発力ではなく、末脚の持続力と底力、道中の流れが厳しい分淀みないラップが続くレースとなりやすく脚を溜めにくい。中距離での強さが求められるレースで有り、マイラー寄りのデジタルには分が悪い。

 さらに6月下旬に開催で夏のような陽気になることも多く、芝も開催4週目で比較的に荒れてパワーが必要になっていく。そしてこの時期は雨が降ることが多く、そうなればよりタフなレースになる。

 

「それにヒシミラクルちゃんでしょう。条件戦で負けながらトレーナーさんと模索し磨き上げた武器で波乱を巻き起こしてきた!奇跡は待つものじゃない!手繰り寄せるものだと言わんばかりのロングスパート!少し前までは少し元気が無かったみたいだけど今は生き生きしてる。きっと何かが有ったんだよ!そのエネルギーをレースで感じたいな!

 あとはタップダンスシチーちゃん!アタシと同い歳で気性は荒いけど凄く情熱的なの!条件戦で自分の走りを模索し続けついに開花!タップダンスシチーちゃんを語るのに欠かせないのは有馬記念だよね!当時の1番人気のファインモーションちゃん!無敗で秋華賞とエリザベス女王杯を制覇!名家の生まれで名門チームに所属しているまさにお嬢様!その華の前には流石のシンボリクリスエスちゃんも1番人気を譲ってしまう!レースでもファインモーションちゃんがハナをきる!空気的に絡みづらく楽逃げされちゃう!そこに待ったをかけたのがタップダンスシチーちゃん!徹底的に絡んで一度は先頭を譲るけど第3コーナー前でのまさかの追い越しで一気に差を広げて先頭に!最後はシンボリクリスエスちゃんに差されるけどあれで差されたどうしようもないって!

 それでファインモーションちゃんのトレーナーちゃんがタップダンスシチーちゃんに苦言を呈す。あれは勝負度外視で潰しにきた。あんな強引なレースをしたらレースが壊れてしまうって!そこで一言!『知らねえ!勝つために最善手を尽くした!あれがアタシ達の走りだ!』って!アタシじゃなくてアタシ達だよ!トレーナーと作り上げた走りを大切に思っている証だよ!どれだけエモいんですか~!マジキュン!」

 

 さらにギアをさらに上げて喋り続けるデジタルを見ながらトレーナーは思案を続ける。

 これ以外にもイーグルカフェやダンツフレームなどのGIウイナーにバランスオブゲームやダイタクヴァートラムなど骨っぽいメンバーも参戦し、世間では史上最高の豪華メンバーと言われているがあながち間違ってない。

 

「はっきり言うぞデジタル、宝塚記念はかなり分が悪い。勝つ確率は……お前にはどうでもいいことか。シンボリクリスエスなどのウマ娘を感じるという点でもかなり分が悪いぞ。恐らく直線に入る前に置いてかれて千切られる。それだったら天皇賞秋のほうが合理的や」

 

 トレーナーはデジタルのトークを遮るように言い放つ。天皇賞秋ならば距離も2000メートルでコースの特徴として直線一気のスローペースになる確率が高く、デジタルの適性にあった流れになりやすい。

 宝塚記念を走ったウマ娘は天皇賞秋に参戦することが多い、ここで走るならば天皇賞秋まで待って走ったほうがいい。

 

「それは分かってるよ。未知の距離でレース展開的にアタシ向きじゃないことぐらい。でも素敵なウマ娘がいっぱい出てくるんだよ!待ってられないって!それに距離の壁なんてアタシの情熱が超えてみせるって!」

 

 デジタルはやる気を漲らせながら宣言する。もしこれが向こうみずで精神力だけで何とかなると思っていたならば止めていた。

 だが自分の不利を知り受け入れ敢えて挑む。知っていると知っていないでは大きな違いが有る。

 これはデジタルの挑戦だ。ウマ娘への愛が距離の壁に挑む意志を与えた。それならば止めるのではなく目的を達成できるようにサポートするのがトレーナーの役目だ。

 

「よし、なら宝塚記念に出走するぞ」

「流石白ちゃん、話分かる!」

「言っとくが宝塚記念は過去最大に厳しいレースになるぞ。覚悟せえよ」

「勿論!例え火の中水の中!」

 

 トレーナーの言葉にデジタルは鼻息荒く答える。安田記念は未知の出会いを楽しむことを目的とし、悪く言えば明確な目標はなかった。

 だが今回は明確な目標を定めてレースに臨む。そのスタンスはダートプライドの時に近く、あの時のように常識を超えた走りを見せてくれるかもしれない。様々な常識を打ち破ったデジタルが次は何を見せてくれるのか、トレーナーの中に密かな期待が芽生えていた。

 

───

 

「ヒシミラクルはどうした」

「裏でしょげてます」

「またか」

 

 ヒシミラクルのトレーナーは深くため息をつく。ヒシミラクルは宝塚記念に向けてトレーニングしているが全く身が入っていない。天皇賞春に勝って暫く表情は明るかった。だが徐々に表情が曇り始め卑屈で臆病になっていた。

 菊花賞と天皇賞春に勝利し実績は充分だが宝塚記念は挑む立場だ。

 天皇賞秋と有マ記念に勝ったシンボリクリスエス、クラシック2冠ウマ娘のネオユニヴァース、安田記念に勝利しGI6勝のアグネスデジタル、他にも多くの有力ウマ娘が参戦し、史上最高峰の宝塚記念と世間では騒がれているが、決して言い過ぎではない。

 正直に言えば勝算は少ない。だが挑戦することでさらなる成長に繋がると信じて出走を提案し、ヒシミラクルもやる気を漲らせて承諾した。だが今では当初のやる気は欠片も見えなかった。

 

 トレーナーはチームメイトの言葉に従ってチームルームの裏手に向かう。そこには灰色の髪のウマ娘が膝を抱えてすすり泣き項垂れていた。彼女がヒシミラクルである

 トレーナーは何も言わずヒシミラクルの傍に座り込む。2人の間にはすすり泣く声が響いていた。

 

「どうした?悩みごとがあるなら相談に乗るぞ」

「菊花賞に勝って、天皇賞春に勝って、私は強いって思いました。だから宝塚記念に走ろうと思いました」

 

 ヒシミラクルはポツリと語り始める。その声色は落ち着き僅かに覇気が有った。だがすぐに覇気は無くなる

 

「だけど違った。私は弱い、菊花賞に勝てたのはタニノギムレットもシンボリクリスエスも居なかったから、1番人気のノーリーズンが転んだから。天皇賞春も同じ、2人が居なくて、展開がたまたま向いたから勝てただけ。陰で自分はただ運がいいだけって陰口を叩かれているのも知ってます。ヒシミラクル、ミラクルだけで勝つ自分には相応しい名前ですよ」

 

 ヒシミラクルは苦々しく己の心情を吐き出す。

 

 フロック、メンバーが弱かった。マグレ

 

 周囲はヒシミラクルの勝利を運が良かったと判断した。最初は気にしていなかったが、周囲の声を無視できず耐え切れなくなり、己の勝利を誇れなくなり気を病んでいた。

 

「こんなんだったらGIに勝たなければ良かった!そしたら分不相応な立場に立たずに済んで!陰口を叩かれずに済んだのに!」

 

 ヒシミラクルの語気は徐々に強くなっていく。トレーナーはその様子を静かに見守る。GI2勝ウマ娘となれば上澄み中の上澄みであり、もっと誇り自信を持ってもいいはずだ。だがその勝利はたらればの要素が多い。そういった勝利は勝者を曇らせ傷つける。

 メジロマックイーンの斜行で繰り上げになったプレクラスニー、圧倒的1番人気のサイレンスズカが故障したレースに勝利したオフサイドトラップ、彼女らの勝利もたられば要素が有り、世間から純粋に祝福されてはいなかった。

 

「ヒシミラクル、レースに勝つ者はどんなウマ娘だと思う?」

「それは……強いウマ娘です」

「強いとは何だ?」

「それはスタミナがある。加速力が有る。スピードの持続力がある。ペースや展開を読める頭の良さがある。そういった要素を合わせて一番強いウマ娘です」

 

 ヒシミラクルはトレーナーの質問に答える。それは模範的な回答であり世間一般の意見であった。

 

「私の持論はそこに運の要素が加わった総合値の高さだ。私はそう思わないがヒシミラクルの世間一般が考える強さは菊花賞や天皇賞春に出走したメンバーの中では1番ではなかったかもしれない。だがタニノギムレットが居なかった、シンボリクリスエスが居なかった、展開が向いた。それらの要因はお前の運の強さがもたらしたものだ。運がいいだけ?結構じゃないか、フィジカルやメンタルはある程度鍛えることはできる。だが運だけは誰も鍛えることができない。運の強さは才能だ、そしてお前は強い」

 

 トレーナーは力強い眼差しを向けながら説得する。運も実力の内という言葉が有るが、それは言葉そのままの意味では捉えられることはなく、敗者や勝者が自分を自己肯定する為に使われることが多い。

 そしてトレーナーも世間一般の考えと同じように運の要素は強さに関係ないと考えていた。だが励ますためにあえて嘘をついていた。

 

「そんなわけないですよ……運は所詮運、誰も運を強さの要素に含めないですよ」

 

 ヒシミラクルは立ち上がるとそそくさと歩き始める。一瞬目の光が宿ったがすぐに光は失われていた。

 どうすれば立ち直られるか、トレーナーは重大な問題の前にして思わず頭を抱えた。

 

 ヒシミラクルは自室のベッドに身を投げ出して深くため息をつく。GIに勝つことは最高に嬉しいことだと思っていた。だがいざ勝ってみるとそんなことはなかった。

 常に運が良かったと陰口を世間から叩かれて気が滅入るぐらいなら、勝たなければよかった。こんなに辛いならいっそのこと走るのをやめようか、そんな極端な考えすら思い浮かんでいた。

 ヒシミラクルはスマホのバイブ音に気が付き手に取る。画面には電子書籍半額セールの告知文がのっていた。

 そういえば読みたい漫画があった。折角だし気を紛らわせるために買って読むか。そのまま購入ページに向かいシリーズ全巻を購入していた。

 ヒシミラクルが漫画を購入して数時間が経ったがいまだに読み続けていた。

 これは当たりだ、自分の判断を自画自賛しながら読み進める。この時は抱えていた不平不満を忘れていた。さらに数時間が経った際に思わず姿勢を正す。

 今読んでいるのは格闘漫画で、ある登場人物をAと呼称するとして、Aは登場人物BとCに比べて弱かった。そして柔道の日本代表決定戦でAはBに負けてBはCに負けて日本代表はCになった。

 だが事態は急変する。BとCからドーピングの陽性反応が検出され失格となりAが日本代表に繰り上がった。マスコミはAにインタビューする為に殺到し尋ねる。

 

──こんな形で代表に選出されましたが今のお気持ちは?

 

 ヒシミラクルの胸は締め付けられフィクションと分かっていながら思わず同情する。運によって分不相応の勝利を得てしまった。これから振りかかる非難や陰口はAの心を苛むだろう。

 

「はい、嬉しいです」

 

 Aは満面な笑みを浮かべながらインタビューに答えていた。その態度に反感を抱いたのかインタビュアーが『代表になれたのは運が良かっただけという意見もありますが、どう思われますか』と含みのある質問を投げかける。それに対してAは堂々と答える。

 

「強さとはフィジカルや技の切れや精神力だけで決まるものではない、運も実力の内という言葉がありますが、まあ、そういうのを含めて僕が一番強いって事じゃないですか」

 

 その言葉にヒシミラクルの中で雷に打たれたような衝撃が走る。運も実力の内という言葉を本気で信じている人間は居ない。Aも他の人間より弱いことは骨身に染みていた。

 だが一遍の曇りもなく一番強いと言い放った。心の底から運も実力の内という言葉を信じているのだ。

 もしこのAが現実に存在し、プレクラスニーやオフサイドトラップのような状況で勝利しても満面の笑みを浮かべながらインタビューに応え、周囲から非難の声を受けても構わずに喜びを爆発させながらウイニングライブで高らかに歌うだろう。

 何故ならそれがぐうの音が出ない勝利だから、例え世間がどう言おうが己のなかでは完全無欠の勝利である。

 

──強さとは運を含めた総合値、そういうのを含めて僕が一番強いって事じゃないですか

 

 ヒシミラクルの脳内でトレーナーやAの言葉がリフレインし自己肯定感が膨れ上がっていた。

 運が良い、展開が向いた、1番人気が転倒した、タニノギムレットやシンボリクリスエスが居なかったら勝てた。それは陰口ではなく全て称賛の言葉だったのだ。

 運が良かったから展開が向いた、1番人気が転倒した、タニノギムレットやシンボリクリスエスがレースに出なかった。全ては己の運の強さ、つまり強さが手繰り寄せたのだ。

 サイレンススズカやメジロマックイーンは運が悪くて負けた。運が良ければプレクラスニーやオフサイドトラップは勝てなかった。そんな理屈が通るなら2人がサイレンスズカやメジロマックイーン並みの走力が有れば勝てたと言っているようなものだ。

 そんな理屈は世間の誰も認めないだろう。そしてヒシミラクルも運が良ければ勝てたという理屈を決して認めない。

 そうだ自分は文句なしに強いのだ。この強さがあれば宝塚記念でもきっと勝てる!膨れ上がった自己肯定感は確固たる自信と化した。

 翌日のヒシミラクルは昨日の様子が嘘のように陽気に自信を漲らせていた。そして心境の変化はトレーニングにも現れ、併せのトレーニングでも相手を千切り、好時計を叩きだしていた。

 

───

 

 トゥインクルレースの上半期を締めくくる宝塚記念、今年は例年以上に豪華メンバーが集まり少しでも盛り上げようとトレセン学園内の練習場には多くの取材陣が押し寄せていた。

 マスコミはそれぞれ有力ウマ娘やトレーナーを取材しようとトレーニング場の各地に散らばる。そして坂路コースの一角でマスコミ達が麦わら帽子にサングラスにアロハシャツを着た老人を囲んでいた。

 老人の名前は六平銀次郎、かつてオグリキャップや桜花賞を制したオグリローマン、朝日FSを制したエイシンチャンプを指導し、名伯楽と呼ばれたトレーナーである。

 自チームのウマ娘達3人が坂路を駆け上がると次のグループが準備する。それを見てマスコミ達が一斉に鹿毛のウマ娘にカメラを向ける。

 史上最高の豪華メンバーが集結したといわれる今年の宝塚記念、そう言われる最も大きな理由は彼女の参戦にあった。今年の皐月賞と日本ダービーを制した2冠ウマ娘、ネオユニヴァースである。

 2冠ウマ娘が宝塚記念に参戦するのは史上初であり、それは大きな話題を呼んでいた。

 ネオユニヴァースは2バ身前にウマ娘を置くと腰元まで伸びたウェーブがかかったロングヘア―を靡かせ追走し、半バ身差をつけてゴールする。仕上がりの良さにマスコミ達がどよめきが起きる。

 坂路を走り終えたウマ娘達が六平に指示を仰ぎに向かってくる。六平は1人1人に今の走りを見た感想とアドバイスを送り、最後にネオユニヴァースに指示を送る。それを見計らったのかマスコミ達はネオユニヴァースに質問を投げかける。

 

「ネオユニヴァース選手、次のレースでは宇宙を見せられますか?」

 

 宇宙、ネオユニヴァースというウマ娘を語る上でこの単語は欠かせないものである。

 

 ある企画でメイクデビューに勝利したウマ娘達にインタビューしたことがあった。それぞれ重賞に勝ちたい日本ダービーに勝ちたいと初々しく希望に胸躍らせながら語る。そんななかネオユニヴァースはインタビューを受けて答える。

 

「宇宙を見せたい」

 

 インタビュアーはその答えを聞いて思わず笑う。これが俗に言う不思議ちゃんと言うやつか、良くも悪くも杓子定規な答えが続くなか、ウケ狙いでも他人と違う答えが出てくるのは面白い。案外こういったウマ娘が大成するかもしれない。

 インタビュアーは一頻り笑った後再び尋ね、ネオユニヴァースは同じ答えを繰り返す。乾いた笑いをあげながら表情が引きつる。受け狙いや奇人変人を演じているわけではない、このウマ娘は本気で言っている。 

 それから宇宙とは何ぞやと聞いてみるとコスモなどチャクラなど聞き馴染みが無い単語を並べ説明するが理解できなかった。

 インタビュアーはインタビューを切り上げ足早に帰る。長年取材してきたがこんなウマ娘は初めてだ、こんな電波系をトレセン学園はよく入学させたものだ。

 

 そしてネオユニヴァースはデビュー戦に勝利した後OPレースで3着になるも、1勝クラスに勝利後GⅢきさらぎ杯に勝利し、クラシックの主役候補に躍り出ると勢いそのままに皐月賞、日本ダービーを制覇した。

 ネオユニヴァースは大いに注目を浴びる。それは成績もさることながら彼女のキャラクター性にあった。

 勝利者インタビューごとに『宇宙は見えましたか?』とインタビュアーや観客に問いかけていた。

 最初は世間も面白がったが次第に気色悪い不思議ちゃん気取りかよと批判を受けていた。

 極めつきには日本ダービーに勝った際のインタビューでも同じ質問を投げかけ、反応が悪いと不服と言わんばかりにインタビューを切り上げた。

 誰もが勝利を望む日本ダービーに勝利しながら喜びもせず不服そうにしている。その行動はファンの反感を買うと同時にその破天荒さが気に入ったとファンがついていた。

 

「宇宙は常に膨張し続けている。ならば私も膨張しなければならない」

 

 ネオユニヴァースはそう告げると足早に去っていく。マスコミ達はどう解釈するべきかと頭を悩ましながら、深く考えても仕方がないしこれでは記事にならないと取材対象を六平に向けていた。

 

「やっと終わったか」

 

 長時間におよぶ取材から解放され思わずため息をつく。

 ここまで注目されたのはオグリキャップが居た時以来か、オグリキャップもインタビューが得意な方では無いので代わりとばかりにこちらが話す事があった。だがネオユニヴァースはそれ以上にインタビューが得意ではない、というより言葉すら通じないことも有る。

 これからの気苦労を考えながら僅かに憂鬱になっていると地べたに座り夕焼けに染まる空を見上げるネオユニヴァースが居た。六平はその様子を黙って見つめる。

 

 ネオユニヴァースは暇さえあれば空を見つめている。正確に言えば空の上にある宇宙を見つめていた。肉眼で見えるはずもなくそれなら映像の宇宙を見ればいいのではと提案したことがあるが、それでも頑なに空を見続ける。

 常に真意が分からない彼女だが、最近は何か思いつめていることは理解できた。その証拠に宝塚記念に出走したいと進言してきた。

 出走レースは全て六平トレーナーが選択していたが初めて自分から出走レースの希望を伝えてきた。正直に言えば宝塚記念に出走するのは否定的だった。

 ローエングリンがクラシック級の時に宝塚記念に挑戦し3着と好走したがあくまでも一例であり、この時期のクラシック級とシニア級の力の差は大きいと考えていた。

 さらに宝塚記念のタフなレースを走れば疲労が蓄積し秋に影響が出る可能性も有る。ネオユニヴァースも3冠ウマ娘になりたいと思っているだろうし、六平も3冠トレーナーになりたいという想いもあった。

 六平もそのリスクについてネオユニヴァースに説明したがそれでも出走すると自分の意見を曲げなかった。

 宝塚記念に出走することは3冠以上に大切な事なのかもしれない。それがネオユニヴァースの宇宙についてなののか六平は問いただしたがネオユニヴァースは頑なに答えなかった。

 

「ほどほどにしたら帰れよ」

 

 六平は空を見上げるネオユニヴァースに声をかけて立ち去る。ネオユニヴァースは六平を一瞥しすぐさま空を見上げる。

 ネオユニヴァースには走ることを通していて宇宙が見えていた。宇宙とは何かとよく聞かれるが自身の語彙力では到底説明できるものではなかった。それは心地良く楽しく美しく素晴らしく、自分にとって必要で掛け替えのないものだった。

 そしてトレセン学園に入学してレースを走る理由は出来る限りの多くの人に宇宙を見せる為だった。

 この宇宙は自分で独占するのではなく他者に見せて共有すべきものと考えていた。その独自の使命感を胸にレースを走り続ける。

 どのレースに走るか興味はなかった。宇宙を他者に見せやすく多くの人に見せやすいレースを走った結果、クラシック路線を歩んでいたに過ぎなかった。

 そしてクラシック路線を歩んで迎えた日本ダービー、レースを通して今まで以上に宇宙を感じ伝えられたと自信が有った。1着でゴールを駆け抜けインタビューでいつもの質問で問いかける。

 

 私の宇宙が見えましたか?

 

 観客達はこの言葉を切っ掛けに宇宙を見た感動と興奮を表現するように声を上げ歓喜するだろう。だが観客達はネオユニヴァースが望む反応を示さなかった。

 確かに興奮の声を上げた。だがそれは宇宙を見たことに対してではなく、良いレースを見て2冠ウマ娘が誕生したことによる歓喜と興奮だった。

 何故誰も宇宙を感じられない。ネオユニヴァースに日本ダービーに勝利した喜びはなく、抱いたのは疎外感と孤独感と周りの鈍感さに対する怒りだった。

 日本ダービーが終わってから一晩経って己の過ちに気づく。宇宙を感じられないのは自分の能力不足、決して他者が悪いわけではない。もっと成長しなければならないと考え宝塚記念出走を決意した。

 宝塚記念にはシニア級の強豪が出走し中距離現役最強と称されるシンボリクリスエスが出走する。彼女らに挑戦し勝つことで成長すれば自分の宇宙は膨張し、皆に見せられるかもしれない。

 そしてアグネスデジタル、自分が出走を表明した後に宝塚記念に出走を表明した。デジタルには己独自の世界観、自分が見ているような宇宙とは違う宇宙が見えている気がする。

 それを取り込めば宇宙はさらに膨張する。そうすれば皆に自分の宇宙が見えてくるはずだ。

 ネオユニヴァースは空の上にある宇宙に想いを馳せながら日が沈むまで空を見続けた。

 

 

──

 

 日本で一番優秀なトレーナーは誰か?

 その質問にレースファンはこう答えるだろう。チームリギルを率いている東条ハナトレーナーであると。

 シンボリルドルフやナリタブライアン等の数々の名選手を育て上げ、過去には勝率、勝利数、獲得賞金などをポイント化し、ポイントを最も多く獲得した者に授与される最優秀トレーナー賞を何度も受賞している。

 そんな名トレーナーの指導を受けたいと東条トレーナーが率いるリギルの入団テストには多くのウマ娘が押し寄せる。

 だがそれは過去の話になりつつあった。

 

 ここ数年東条トレーナーが率いるチームリギルの選手は多くのGIを勝利し、獲得賞金と勝率の部門はトップだった。だが勝利数の部門ではトップの座を明け渡していた。

 去年は、勝率の部門で1位だったが、勝利数と獲得賞金の部門でポイントが取れず最優秀トレーナーを受賞できなかった。

 そして東条トレーナーは上半期を終えようとする現時点で去年と同じように勝率では1位だが、獲得賞金と勝利数で後れをとり総合部門で2位に甘んじていた。

 

 日本で一番優秀なトレーナーは誰か?

 今その質問をすればレースファンは東条トレーナー以外にもう1人の名をあげるだろう。

 

 チームプライオリティの藤林トレーナー。

 

 去年の最優秀トレーナー賞の受賞者にして、現時点の勝利数、獲得賞金の部門でトップを走るトレーナーである。

 そして藤林トレーナーのチームプライオリティに所属しているのがシンボリクリスエスである。

 

 チームプライオリティの面々はコース前に集合し円になりウォームアップし、藤林トレーナーは円から離れた場所で様子を見守る。

 チームプライオリティのトレーニングの特徴は2つ。1つはウォームアップにかける時間、その時間は他のチームと比べて約2倍である。もう1つとして周りの空気である。

 ウォームアップする際は談笑などをして和やかな雰囲気で行われるものだが、チームプライオリティでは和やかな雰囲気は一切なく誰もしゃべらず呼吸音だけが響く。

 その様子を厳しい顔つきでトレーナーが目を光らせている。その空気はまるでレース直前のようなひりつき具合だった。

 そしてトレーナーと同じように目を光らせながらウォームアップするウマ娘がいた。漆黒と呼べる艶がある黒髪のロングヘア―、身長170cmを超える恵まれた体、耳の先が細く尖った特徴的な形。 

 彼女はシンボリクリスエス、中距離現役最強と呼ばれているウマ娘である

 

「ボールドブライアン、息を吐くのがワンテンポ速い」

「はい」

 

 シンボリクリスエスはストレッチをしながらボールドブライアンに声をかける。ボールドブライアンは体をビクリと震わせながら指示に従い、ワンテンポ遅らせて息を吐く。

 ストレッチでの息を吐くタイミングの僅かなずれ、そんな細かいものまで判別できるのか、その観察力の高さに感嘆する。

 だが相変わらず気後れしてしまう。体罰やしごきを受けているわけではないがその威圧感の前にどうしても委縮してしまう。

 

 シンボリクリスエスはチームプライオリティのボスである。

 チームにはシンボリクリスエスより年上のウマ娘も居る。だが誰もそれについては異議を挟まずボスの座に収まっていた。寧ろチームに入った瞬間からボスの座に収まっていたと言っても過言では無かった。

 アメリカから留学生としてチームに入団しての初日からチームの先輩に意見を言った。それはミスと言うには厳しすぎる僅かな緩みだった。そしてそのミスは当時のリーダー格が犯した事だった。

 普通なら気づくことなく気づいたとしても気後れして言うことはできない。だがクリスエスは見逃すことなく気後れすることなく進言した。

 その態度にリーダーは不快感を示しながら言葉では気を付けると言いつつ敵意を隠すことなく睨みつける。しかしクリスエスは一向に意を介さない様子を見て、チームメイト達はただの新人では無い事を認識した。

 

 それからもクリスエスはチームメイトの細かいミスや気の緩みを指摘し続ける。そんなことを続ければ不興を買っていく。だが孤立することはなかった。

 人にも厳しいが自分にはそれ以上に厳しかった。妥協を一切許さず己を高めていく。その姿勢にチームメイト達は少なからず感化されていた。正確に言えば感化されるように強制された。

 己に着いていくように背中を押すのではなく、首に根っこを掴まれて強引に引っ張られるような感覚、それがクリスエスのリーダーシップだった。

 感化されるウマ娘は次第に増えていき、クラシック級に上がる頃にはチームのウマ娘は口にはしないがボスはクリスエスだと認め初めていた。

 先輩たちも口では否定していたがボスであることを認めていた。

 しかし感情がそれを許さない。クリスエスはデビューしてまだ重賞すら勝っていない。そんな実力が無いウマ娘をボスとして認めるわけにはいかない。それが唯一の拠り所になっていた。だがクラシック級で天皇賞秋に勝利したクリスエスに先輩たちは平伏していた。

 

 チームプライオリティは元々力のあるチームで名門チームの厳しさは備わっていた。だがクリスエスが加入して以降より厳しく妥協を許さなくなっていく。

 その空気に付いていけないと何人かのウマ娘は移籍したが、大半はチームに残った。そして勝利数は全チーム1位となり、チームを率いた藤林トレーナーは最優秀トレーナー賞を受賞した。

 

 ウォームアップが終わるとトレーニングを開始する。他のチームは強めや一杯と呼ばれる全力で走るトレーニングが多い。だがチームプライオリティではウマなりのトレーニングが多い。ウマなりとは一杯とは反対に全力で走らず余力を残して走ることである。

 このトレーニング方法にそんなトレーニング方法では強くなれない。チームに居るウマ娘が気の毒だと多くの批判や苦言を受けた。

 だが藤林トレーナーには確固たる信念がありウマなりトレーニングをやり続けた。そして次々と勝ち星をあげるウマ娘達を見て外野は批判しなくなった。

 そして他のチームのウマ娘がトレーニングしているなかチームプライオリティのメンバーはコースを離れ、トレセン学園敷地内をウォーキングで移動する。

 ウォーキングはトレーニング前のウォームアップやクールダウンで取り入れているチームもある。だが特筆すべきはかける時間であり、チームプライオリティでは寮の門限ギリギリまでウォーキングを行う。

 

 レースを走るウマ娘が強度の少ないウォーキングをしても何の意味が無い。そんな批判も当初は受けていた。だがウマなりトレーニングと同じように外野の意見を無視し続ける事で結果を出していた。

 日が傾きかけた頃チームプライオリティのメンバーはチームルームに戻り帰り支度して寮に戻る。

 門限ギリギリまでトレーニングするので無駄口を叩かず着替えていく。チームプライオリティに入ると早着替えが上手になるという軽口が叩かれるほどだった。

 

 シンボリクリスエスはトレーニングが終わり寮の自室に戻るとパソコンを起動しソフトを立ち上げる。画面には藤林トレーナーの顔が映っていた。それを確認するとヘッドフォンを耳につける。

 

「あ~あ、聞こえてます?」

「聞こえてる」

「それでは、今日のトレーニングですがまずは……」

 

 シンボリクリスエスは藤林トレーナーに向けた報告を開始する。チャットを通してトレーニングの報告はシンボリクリスエスに課せられた日々の日課だった。一頻り報告が終わると話題は次走の宝塚記念に移る。

 

「トレーナーは誰が怖いと思います?」

「やはりネオユニヴァースが一番の脅威だろう。あの重バ場のダービーに勝つパワーと末脚のキレ。ダービーを走っての宝塚記念だが、お釣りも残っているし充分に対応できるだろう。そして精神面に関しては六平トレーナーが宇宙人と称するだけあって私にも分からない。本番では思わぬ作戦を取ってくるかもしれないので臨機応変に対応しろと言うしかない」

「臨機応変か、あのお嬢ちゃんの思考回路は一生理解できなさそうです」

「次はタップダンスシチーだろう。有マ記念の走りはマグレではなかった。金鯱賞でもツルマルボーイに勝っている。あの先行力とスピードが作る淀みのないペースは宝塚記念に合う、あのウマ娘が居る限りよーいドンの展開にはならない。ある程度厳しい流れになるが頑固なところありペースが速くなりすぎれば自滅する可能性は有る」

「それは期待しないでおきます。タップダンスシチーは放っておけば厄介になる」

「あとはアグネスデジタル、基本的にはマイラーで2200の宝塚記念は適性外だと思うが、あのウマ娘は常識外れのウマ娘で何をしでかすか分からない。あとよーいドンになった場合、その時はネオユニヴァース並の末脚で突っ込んでくる可能性がある」

「気を付けます。だがタップダンスシチーが居る限りその展開はないでしょう」

「私もそう思うが気にするに越したことはない」

「あとはヒシミラクルとダイタクヴァートラムの天皇賞組、ダンツフレームやイーグルカフェの安田記念組、というより全員の勝ち筋を見つけてください。それを全部潰しますので」

 

 シンボリクリスエスは睨みつけるようにモニターを見据える。その目つきに画面越しの藤林トレーナーは身震いしていた。

 

「確かに豪華なメンバーだがクリスエスが全力を出せば勝てる。だから気負うな」

「気負いますよ。本当なら大阪杯に勝って香港のクイーンエリザベス2世Cに勝って貴方に勝ち星と賞金を与えるはずだったのに、体調不良で上半期は宝塚記念にしか出走できない。ここに勝って貴方をリーディングトレーナーに押し上げる。それがプロとして雇われた私の仕事ですから」

 

 藤林トレーナーはシンボリクリスエスの呟きを聞きながらクリスエスとの出会いを思い出す。

 

 藤林トレーナーはレースの本場イギリスで数年間留学した後日本でトレーナーになった。夢は日本一のトレーナーになることである。

 その後は留学で得た知識を生かし勝ち数を増やしていく。成績は順調に伸びていくなか限界が来ていることに気づいてしまう。

 チームプライオリティはリギルのように少数精鋭ではなく、所属できる最大数のウマ娘が在席し、サブトレーナーを雇い可能な限り目を配っている。だがどうしても目が行き届かず、そしてウマ娘達が緩んでしまうことがある。

 さらに緩みや欠点に気づきトレーナーが注意しても言うことを真剣に受け止めない事が有る。

 選手と指導者は限りなく歩み寄れるが、その距離をゼロにすることはできない。どうしてもレースを走ったことがないトレーナーに指示されるのに抵抗感を覚えるウマ娘も居る。

 必要なのは選手たちと同じ立場に立ち、僅かな緩みを見逃さず締めれれるリーダーシップを持ち、自分の意志を汲み取り全て伝えらえるウマ娘の存在、そんなウマ娘が居ればチームプライオリティは常勝軍団となり、己も日本一のトレーナーになれる。

 しかしそれは無い者ねだりであり、そんなウマ娘は3冠ウマ娘になる能力を持った者を探すより難しい。

 そんなウマ娘が居ないかと僅かな希望を抱きながらアメリカに足を運んだ時に、幼いシンボリクリスエスに出会った。

 

 一目見た時にこのウマ娘はGIを取れる器であると確信できた。だが特筆すべきはそのリーダーシップだった。

 アメリカでもトレセン学園のような機関に入る前にジムでトレーニングすることがある。

 そこで走るウマ娘は幼いウマ娘達とは思えないほど緩むことなく真剣にトレーニングを繰り返していた。そして集団を引き締めているのはクリスエスであることはトレーニングの様子を見てすぐに分かった。

 そしてジム同士で交流レースをすることがあるが、クリスエスが所属しているウマ娘の勝ち数がダントツに多かった。

 藤林トレーナーはクリスエスには周りのウマ娘を勝利に導く才能が有ると確信する。これこそ探し求めていたウマ娘だった。

 早速チームに勧誘したが異国に行くことに抵抗が有るらしく首を縦に振らなかった。そんなクリスエスに藤林トレーナーはある提案をする。留学生としてチームに所属してもらうのではなく、プロ選手として雇いたい。

 契約内容は一年契約で年度末ごとに契約を更新、報酬は年俸制でインセンティブを設定し達成ごとに追加報酬を支払うというものだった。

 1人のプロ選手として招集する。それが藤林トレーナーに出来る最大限の誠意だった。

 シンボリクリスエスはその契約に応じチームプライオリティに所属した。

 

 シンボリクリスエスは頃合いを見て藤林トレーナーとのチャットを打ち切るとベッドに入り就寝する。目を閉じながら藤林トレーナーについて考える。

 勝利数を増やす為にトレーナーの意志と意図を全て汲み取りチームのウマ娘達を従わせるウマ娘が必要だと言った。なら過去の名選手でもサブトレーナーで雇えばいいはずだ。その経験があれば有用な意見を出し、実績があればチームのウマ娘達も従うだろう。

 だが藤林トレーナーはどこのウマの骨か分からない自分とプロ契約を結びその役割を自分に託した。はっきり言えば正気の沙汰ではない。だがそれは自分に対する最大限の信頼の証でもある。その誠意に心打たれ日本に来た。

 

 それから日本語を学び藤林トレーナーと夜が更けるまでトレーニングの理論についてはもちろん主義主張まで語り合った。

 その結果他のサブトレーナーと同等には藤林トレーナーの意図を汲み取れるようになった。

 藤林トレーナーは日本一のトレーナーになるために力を貸して欲しいとプロ契約を結んだ。日本一になるためにはチームの勝利数を増やし賞金を得ること、だがそれだけでは足りない。

 

 必要なのはそのトレーナーが育てた代表的なウマ娘の存在である。

 東条トレーナーでいえばシンボリルドルフやナリタブライアン、スピカのトレーナーでいえばスペシャルウィークなど有名なトレーナーには多くのビッグレースに勝ったウマ娘がいる。だが藤林トレーナーにはそれがいない。

 スピカのトレーナーや東条トレーナーは少数精鋭に対して、藤林トレーナーは数の利を生かして勝利数と賞金を獲得してきた。

 世間は勝利数より多くのGIに勝った選手を育てたかに注目し評価する。ならば自分が多くのGIに勝ち代表選手になってやる。そうなれば名実とともに日本一のトレーナーに押し上げられる。

 シンボリクリスエスはクラシック級で天皇賞秋と有マ記念に勝利し名選手としての道を歩めている。そして今年も目ぼしい中距離GIに全部勝ち、勝利数と賞金をトレーナーに与え世間から名選手と呼ばれるウマ娘になるつもりだった。

 だが今年の上半期は大阪杯と香港のクイーンエリザベス2世Cに出走するつもりだったが、体調不良で宝塚記念にしか出走できなかった。プロとして恥ずかしい限りである。

 もし大阪杯とクイーンエリザベス2世Cの賞金の差で藤林トレーナーがリーディングトレーナーになれなかったら悔やんでも悔やみきれずプロ失格だ。

 何としても宝塚記念には勝たなければならない。賞金は勿論のこと、出走メンバーも豪華で勝てば評価はあがる。

 

 シンボリクリスエスにとってトレセン学園での生活は仕事である。勝ち星を重ねる為に己を鍛え、チームメイト達に目を光らせ、緩んでいたら締め上げ研鑽させ勝たせる。

 他のウマ娘のように夢を叶えたいレースに勝ちたいという熱はさほどない。藤林トレーナーとの契約がなければレースに負けてもいいと思っている。

 だが仕事としてチームメイトを勝たせ己も勝たなければならない。仕事を請け負ったからには全身全霊でおこなう。

 自分以外のウマ娘は全てアマチュアだ。例え勝とうが負けようが自分以外に迷惑がかからない。だが自分は労働契約を結んだプロである。課せられた仕事をこなさなければ雇用主である藤林トレーナーが損害を被る。

 もはや自分だけの問題ではない。絶対に勝たなければならない。そのプロとしてのメンタリティは誰よりも勝利への執念を募らせた。

 

───

 

「いけー!差せ!差せ!」

「そのまま!そのまま!」

 

 辺りにはエンジン音が響き渡りスタンドでは観客達が声を張り上げレースの行く末を見守る。

 多摩川ボートレース場、公営ギャンブル競艇が行わるレース場の1つであり、今日は日曜日ということもあってか多くの客が訪れていた。そしてその観客のなかに30代のジャージを着た男性と1人の鹿毛のウマ娘が混じっていた。

 

「よし!そのまま!そのまま!いやお前は来なくていいからな!」

「いや来い!来い!来い!」

 

 2人は他の観客と同じように声を張り上げながらレースを見つめる。その様子は完全に周囲に溶け込んでいた。

 

「よし!ハナ差残した」

 

 男性は大きくガッツポーズする。一方鹿毛のウマ娘はお気に入りの選手が負けて残念そうに項垂れる。

 

「あ~あ、負けたよ。あとちょっとだったのに、で当ったの?」

「2連単、3連単だ!」

「マジで!2着は穴だから、かなりつくんじゃね!」

「ああ!事前オッズで3連単は万舟券だったのは確認済みだ」

「マジで!いくらだ!?いくらだ!?」

 

 鹿毛のウマ娘はお気に入りの選手が負けたことをすっかり忘れ、このレースの配当に興味が移っていた。

 そして掲示板にレース結果と配当が表示され、パーカーの男性は100万円以上の配当を得る。それを見て男性とウマ娘は思わず抱き着いた。

 鹿毛のウマ娘の名前はタップダンスシチー、そしてパーカーの男性はタップダンスシチーのトレーナーである。

 

「予想が完璧に嵌った時のこの快感、これだから競艇は止められない」

 

 バスの車内でトレーナーはタップダンスシチーに嬉しそうに語る。最初はよく当てたものだと感心していたが、あまりにも自慢し続け段々と鬱陶しくなりはじめていた。

 

「それでそれで、大予想家のてっちゃん様のトータル収支は?」

「……トントンかな」

 

 タップダンスシチーの言葉に嬉々として話していたトレーナーの表情が曇る。大半の者はこの言葉を言えば黙る。

 しかし今日のプラス分でもトータル収支でプラスにならないとはどれだけ賭けているのだ?トレーナーの行く末に少しだけ不安を抱く。

 

「しかし、あのレースは惜しかったな。あともう少しだったのに」

「まあ、今回は相手が上手だったな」

 

 タップダンスシチーとトレーナーは今日行われたレースの回顧を始める。

 入学前までは競艇には全く興味が無かったのだが、過去に気分が落ち込んでいた時にトレーナーに誘われてから競艇の面白さを知り、舟券は買えないが自分で予想し、トレーナーと一緒に地元や遠征先のレース場に足を運ぶまでになっていた。

 競艇談議は無料の送迎バスから降りて電車に乗っても続いていた。タップダンスシチーにとって競艇の話をできるのはトレーナーだけだった。

 

「しかし、もしトゥインクルレースも競艇みたいにギャンブルになってたらどうなってるんだろうな」

「それは今とは違うだろうな。負けたら金返せとか下手くそとか、小倉から走ってトレセン学園に帰れとか言われるだろうな」

「それはある。ちなみにアタシが負けたら何て野次飛ばす」

「競艇を勉強する暇があったらレースの勉強しろとか」

「あ~、言いそう」

 

 タップダンスシチーは競艇場で聞いた野次を思い出して思わず頷く。野次でも選手のプライベートな事を絡ませたものがあり、1着になれなかった選手に『新婚の嫁さんにブランド品買えねえぞ』等の野次があった。

 

「それだったらアタシも走り方を変えてたかもな。今までは1着以外は価値が無いって一か八かの作戦立てて、1着になれないと分かったら手を抜いてた。でも競艇みたいに賭けの対象になってたら、3着までには残ろうと頑張るな。でないとアタシを買ってくれたファンに失礼だし」

 

 競艇場では金という人生にとって大切な物を賭けている。まだ若くその価値と重さを本当の意味で理解していないかもしれないが、少しぐらいは理解しているつもりだ。それが時にはレース場に来る観客達以上の熱を生む。

 

「けど、トゥインクルレースは賭博じゃない。だからアタシは今まで通り1着以外になれなかったら手を抜く」

 

 タップダンスシチーは悪びれることなく言い放つ。勝負とはオールオアナッシング、1着以外は全て負けというのが己の主義だった。

 トレセン学園にはレースに勝つためにやってきた。2着や3着が踊れるウイニングライブは欠片も興味が無かった。

 レースでは1着か大敗かという作戦を選び、1着になれないと分かった瞬間明らかに手を抜いた。2着になる為に全力で走って疲労を溜め怪我するぐらいなら、力を温存して次に備えた方がいいと考えていた。

 もし競艇であれば大問題になるが、レースでは2着だろうが最下位だろうが全て自分の問題であり他人には被害を与えないので問題ないと思っていた。

 だが世間や周囲はそれを許さなかった。どんな状況でも夢を追い求めひたむきに走る、それが世間の求めるウマ娘の姿であり、タップダンスシチーの走りと主義は不快なものだった。

 それはトレーナーや他のウマ娘達にとって同様であり、レースを穢していると思われ誰もタップダンスシチーに関わろうとは思わなかった。

 チームには入れず1人で走る日々が続くなか、今のトレーナーが声をかける。

 

──レースは1着とそれ以外、2着も最下位も全部同じってか、その勝負師気質気に入った。よかったら俺のチームに入らないか?

 

 トレーナーはタップダンスシチーの主義主張を理解し手を差し出し、応じるようにしてトレーナーのチームに加入した。

 それからは試行錯誤の繰り返しだった。勝つためのレーススタイルを模索しレースを走り続け、勝てないとわかれば次に備えるために手を抜く。その走りは常に非難を受けたがその度にトレーナーが矢面に立って受け止めていた。そしてついに見つけた。

 淀みのないペースを刻み続け後続に脚を使わせ、ペースが遅ければハナをきり、ある程度流れれば先頭にプレッシャーを与え続け緩んだところを3コーナーでも一気に捲ってそのまま押し切る。トレーナーと作り上げたアタシ達の走り。

 

 この走りを確立させて迎えた有マ記念、最初にハナに立つが1番人気のファインモーションがハナを奪い返したところにプレッシャーを与え続け、途中で緩んだところに一気に抜き去りそのまま押し切る。

 まさに理想的な走りだった。直線に入って残り100メートルをきったところで勝利を確信していた。だがシンボリクリスエスの鬼脚に差し切られる。

 あそこまで完璧なレース運びで勝てなかった。この走りは間違っていたのか?GIには勝てないのか?

 心が挫けかけるが即座に活を入れる。アタシ達の走りは間違っていない。もっと磨き上げれば勝てるはずだ。その想いでトレーニングを重ね前走の金鯱賞では1着になった。

 そして宝塚記念にはシンボリクリスエスが出てくる。有マの雪辱を果たしアタシ達の走りを証明する舞台に相応しい。

 電車は府中駅に着くとタップダンスシチーはトレーナーと別れてトレセン学園の寮に帰っていく。

 

「ただいま」

「お帰り」

 

 寮の自室に帰るとルームメイトのアグネスデジタルがPCのモニターから視線を外し出迎える。一時期は別の部屋で暮らしていたが、問題が解決したということで戻ってきた。

 周囲にはグッズが置いてあり、府中レース場に遊びに行っていたのが分かる。

 

「今日も府中に行ってたのか、熱心だな」

「それは府中の最終日だしね。タップダンスシチーちゃんも競艇?好きだね」

「ああ、レースとは違った非日常感がたまらん」

「そんなに面白いの競艇?」

「事前に情報を集めて検証して推理する。予想がバッチリ当たった時の快感は病みつきになるぞ。それに応援している選手が勝つと嬉しいしな」

「それは分かる。推しが喜ぶ姿は嬉しいよね」

 

 デジタルはタップダンスシチーとの会話を止め、PC画面に視線を移しウヒョーと奇声をあげながら今日のメインレースのエプソムカップのウイニングライブを堪能している。

 今では馴れたがデジタルがルームメイトになった当初は全く馴れず困惑していた。

 エイシンプレストンから貰ったデジタル取扱書がなければいざこざが起きていただろう。しかしこのウマ娘オタクが世代のトップであることが時々信じられなくなる。

 

 タップダンスシチー達の世代の代表は誰かと訊かれれば大概のファンはアグネスデジタルと答えるだろう。

 普通ならクラシックを勝ったウマ娘が代表となり、皐月賞と菊花賞を勝ち日本ダービーでは7センチ差の2着のエアシャカールがその筆頭だろう。

 だが積み上げた実績や話題性を含めて気が付けばアグネスデジタルが世代の代表と認識され始めていた。

 ジュニア級で重賞に勝ち、クラシック級でマイルCSに勝つなどして早期から活躍した異能の勇者、一方タップダンスシチーはシニア級になっても条件戦で走り続けた。2人の距離は途方もなく開いていた。だが自分達の走りを確立し力をつけその距離は縮まった。そしてついに同じ舞台で走れる。

 世代のトップであるアグネスデジタルに勝利し、自分こそが世代の主役であると証明したい。それはシンボリクリスエスに勝利したいという気持ちと同等の熱量だった。

 




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勇者と宴#2

 デジタルは宝塚記念に向けてのトレーニングを開始する。メニューも安田記念までは坂路中心だったが、ウッドチップやダートのコース中心のトレーニングに切り替える。

 マイルに勝つために必要なパワーとスピードのキレを養うには負荷が強い坂路が最も適していた。だが今回は2200メートルのレースであり、パワーとスピードよりスタミナとスピードの持続力が必要である。

 内容も途中までそれなりに走りラスト3Fで全力を出す終い重点では無く、道中もスピードを上げてロングスパートをかける内容に変更していた。

 宝塚記念の距離と淀みないペースに対応できる体に仕上げる。それがこのトレーニングの目的だった。

 今日もデジタルはウッドチップコースを3人併せで走る。残り800メートル時点からスピードを上げていき、残り500メートルでスパートをかけて1人抜いていく。そして脚を溜めていた2人目がデジタルを抜き去ろうと猛然とスパートをかける。最後はデジタルがクビ差で凌ぎゴールした。

 今まで距離に応じて坂路とコースでのトレーニングの比重を変えていたが、ここまでコース中心にしたのは初めてである。

 坂路は息を止め一気に駆け抜ける無酸素運動で、ダートやウッドチップコースでのトレーニングは有酸素運動である。どちらもキツイのだが長い距離が苦手なデジタルにとってコースでのトレーニングがキツイだろう。

 

「お疲れさん、あと2本や」

 

 トレーナーは走り終えたデジタルの元へ行き激励すると同時に様子を見る。大量に汗をかいたせいか顔は汗だらけでシャツが体に引っ付いている。

 コーストレーニング中心にしていることで汗をいつも以上にかいている。さらに今の時期は例年より気温が高く7月初旬の陽気で発汗を促している。

 

「どうしたの白ちゃん?」

「メニュー変更や、この後は宝塚記念を走るウマ娘の様子を見てこい。そして俺に報告せい」

「つまり今日のトレーニングは終わりってこと?」

「そうや。しっかり見て報告せいよ」

 

 トレーナーはきょとんとしているデジタルに各チームのトレーニング予定表と双眼鏡を渡す。

 デジタルの身体は少しガレ気味だった。このまま予定通りのトレーニングすれば体を絞りすぎてしまう。それでは宝塚記念にベストの状態で臨めない。

 ここはトレーニング量を減らして体重を増やすと同時にモチベーションアップと敵情視察を兼ねて、他のウマ達の様子を偵察させることにした。

 

「トレーニングしていると他のウマ娘ちゃんのトレーニングをじっくり見る機会が無いんだよね。じゃあ遠慮なくじっくり観察してきま~す。あっ自転車借りていくね」

 

 デジタルはニヤニヤと笑いながら自転車に乗るとペダルを漕ぎ移動する。正直トレーニングがしんどいなと思っていたがベストなタイミングでのメニュー変更だ。

 

「さてと、どう周ろうかな」

 

 各コースに向かう分岐点で自転車を降りて各チームのタイムスケジュールを見ながら計画を立てる。名目は宝塚記念を走るウマ娘の偵察だが、出走するウマ娘全てを見ると時間が足りない。

 どうせならもっと早く言ってくれれば推し活のように綿密な計画を立て効率的に周れたのだが、内心で愚痴を溢しながら泣く泣く見るウマ娘を取捨選択し計画を立てる。

 

「よし、まずはここ」

 

 デジタルはダートコースから少し離れた場所に着くと双眼鏡で目当てのウマ娘を探す。

 トレセン学園ではトレーニングするウマ娘はゼッケンをつけ、チームごとに柄や色も違っており分かりやすくなっている。

 各チームのゼッケンの特徴を記憶しているデジタルは直ぐにお目当てのウマ娘を発見できた。

 

 ヒシミラクル

 

 菊花賞と天皇賞春に勝利したウマ娘である。周囲に幸運を与えるラッキーガールでテストの選択肢問題でヤマ勘が当った。懸賞や応募抽選に当たった。宝くじに当たったなどのエピソードがあり、皆に笑顔と幸福を与えてくれる素敵なウマ娘である。一時期は落ち込んでいたそうだが、現在は復調したと聞いている。

 ヒシミラクルとチームメイト達がスタートの態勢に入り今から走るようだ。双眼鏡の焦点をヒシミラクルに合わせ動きを追う。

 元気が無いという話だったがそんな噂が嘘だったかのように灰色の髪をなびかせ元気溌剌にダートコースを走っている。動きに躍動感が有り何より表情が生き生きしている。

 何本か走るとコースから外れてインターバルに入る。トレーニングに参加していたウマ娘達も同じようにインターバルに入り、ヒシミラクルの元に集まり談笑している。

 何を話しているか気になるところで近づいて会話を聞きたいところだが、存在を気取られず空気に徹するのが観察する際のマナーであり近づくわけにはいかない。

 仕方が無いので双眼鏡で様子を見るだけにしておく、今後はこういう事態を想定して読唇術でも学ぶべきか。様子を見ている限りでは和やかで良い雰囲気であることが分かる。

 するとチームメイト達がヒシミラクルに手を合わせて拝み始め、ヒシミラクルはおどけるように左手のひらを上に向け水平にし、右手の親指と薬指で輪っかを作り仏像のようなポーズをとる。

 幸運にあやかろうというのか、レース中のウマ娘達が見せる感情や表情は尊く素敵だが、日常でふざけ合うウマ娘達の姿も尊く素敵だ。

 いつまでも見ていたいが時間は有限である。ご馳走様でしたと感謝の念とご利益に預かり幸運が訪れればいいなと手を合わせ拝みその場を後にする。

 

 デジタルが次に向かったのはウッドチップコースであり目的はネオユニヴァースである。

 その容姿やパーソナリティについて知ってはいるが雑誌やネットで知ったもので、自分で得たものは1つもない。

 元々世代が違い共通の知り合いが居るわけでは無いので接点が無かった。今日は折角の機会なので、出来る限りネオユニヴァースについて知れればいいなと意気込んでいた。

 デジタルは双眼鏡で探しネオユニヴァースを発見する。腰まであるウェーブの長髪にやたら多く付けている黄色のリボンですぐに分かった。

 ネ既にトレーニングを始め慌てて姿を追う。ネオユニヴァースの左右に2人のウマ娘と前に1人が居て蓋をするような陣形を組んでいる。

 レースはタイムトライアルではなく1人で走ることはない。同じレースを走るウマ娘が居り、時には集団に囲まれ自分の好きなペースで走れないこともある。

 トレーニングの1つとして敢えて囲まれることで精神が乱され掛からないようにする。だがこれはメイクデビュー前のウマ娘がするトレーニングで、2冠ウマ娘が今更するようなトレーニングとは思えない。だがそれは見当違いだったことに気づく。

 左右のウマ娘は必要以上に注意を向けている。これはネオユニヴァースをマークしている。このトレーニングはネオユニヴァースがマークから抜け出し、それ以外はマークして封じ込めるトレーニングだ。

 マークされる側としては細かいフェイントを入れて隙を作り抜け出す。何もしないでジッとして消耗を抑える。これがデジタルの考える取るべき行動だった。

 ネオユニヴァースは自然体で走りフェイントなどせずジッとしている。だが次の瞬間には外から抜け出し上がっていく。

 

 デジタルは思わず手で腿を叩き上手いと称賛する。

ネオユニヴァースがしたことは単純である。減速し左右のウマ娘の後ろに下がり外から捲る。一見簡単そうに見えるが驚くべきは動作の精度だ。

 ウマ娘が加減速しようとすると予備動作が出る。ブロックする側は予備動作を見て加減速してマークするウマ娘をブロックする。だがデジタルの目には減速した際の予備動作が全く見えなかった。

 また減速する距離も絶妙だった。下がり過ぎず最小限の距離まで下がり外から捲っていく。マークする側としては気が付けば横に居たようなものだろう。これはちょっとした恐怖だ。

 トレーニングで予備動作が大きくならないようにし、上のクラスに上がれば上がるほど予備動作は少なくなる。

 だがネオユニヴァースは群を抜いて予備動作が小さい。これはいくらトレーニングしても身に着けられるものではない。まさしく天賦の才によるものだ。

 走り終えるとネオユニヴァース達はトレーナーの元に向かい講評を受け、ネオユニヴァースはポケっとした表情を見せている。うちのチームでそんな表情を見せればトレーナーから怒られているだろう。そしてその表情はグッとくる。

 

 それからブロックする側とされる側を交換しながらトレーニングは再開する。

 ネオユニヴァースはブロックする側になれば完璧に封じ込め、ブロックされる側になれば意図も容易くブロックを抜け出していく。

 宇宙人と言われるだけあってテレパシーで心を読んでいるかと思うほどの見事なブロックだった。デジタルが見る限り相手の予備動作はバレバレというほど大きくなく、自分で有れば何回か抜け出されていた。恐らく相手の予備動作を察知する能力も抜群に高いのだろう。

 トレーニングは休憩に入りチームメイト達は談笑しているなかネオユニヴァースは1人離れて空を見上げている。するとチームメイトが声をかけると強引に輪に入れて会話を始める。喋らないが楽しそうであるのは分かる。

 デジタルには心配事があった。雑誌やネットなどの情報でネオユニヴァースに抱く印象は不思議ちゃんだった。

 個人としては素晴らしい個性なのだが世間的には嫌われる傾向があり、イジメられないにしろ疎外されているのではないかと思っていた。

 だが今の様子を見る限りそんなことはない。きっと良い意味でマスコット的な扱いを受け可愛がられているのかもしれない。脳内でネオユニヴァースとチームメイト達の掛け合いを想像しグフフフと笑い顔をニヤける。

 

「え?もうこんな時間?」

 

 妄想の世界に飛び込んでいたデジタルだが、ふと時計を見て驚く。

 予定時間ギリギリだ、急いで次に場所に向かわなければ、ネオユニヴァース達にご馳走様でしたと心の中で感謝の言葉を述べて次に場所に向かう。

 

「何とか間に合った……」

 

 デジタルは若干息を切らしながら坂路コースの近くにあるベンチに座り込む。

 名目は偵察だが休息も兼ねている。それなのに無駄に体力を使ってしまった。もし報告すればトレーナーに怒られるので黙っておこう。

 双眼鏡を手に取りお目当てであるタップダンスシチーを探すとスタート地点で体をほぐしている姿を発見する。近くにウマ娘が居るので3人併せで走るのだろう。

 トレーニングが始まり最初の2Fは横一線になるが残り2Fでタップダンスシチーはジリジリと2人との距離を離されゴールする。

 トレーニングで先着されたから調子が悪いという訳ではないのだが、身体が重そうで動きも悪い。だが双眼鏡越しでも分かるほど気合いが漲り、走りの内容と気合い乗りの違いに違和感を覚えていた。

 普段は気が良いお姉ちゃん的な感じなのだが、レースに近づくにつれどんどん無口になっていき、刺々しいオーラが増していく。さらに宝塚記念は春の大目標であり勝てば初のGI勝利ということもあってか刺々しさは増している。

 個人的にはゾクゾクするので大歓迎ではある。そして意気込みを見ているだけに何とか調子を取り戻して欲しいという想いもあった。

 その後もタップダンスシチーは坂路を駆け上がるが動きは相変わらず悪く、練習を終えてクールダウンに入る。

 するとチームメイトはタップダンスシチーが脱いだ靴を手に取り何度も腕を上下させて騒いでいる。その様子を見てタップダンスシチーの動きの悪さの原因を察する。

 勝つために全てを尽くす勝負師であるのは知っていたがここまでやるか、その行為に顔を顰める人達も居るだろうが、デジタルの胸中にタップダンスシチーに対する嫌悪はない。勝利の為に全力を尽くす姿にときめきすら覚えていた。

 

「いいね、いいねタップダンスシチーちゃん!例え世間から後ろ指差されようと勝利を目指す!勝利こそ絶対正義!大丈夫だよ。アタシは絶対に後ろ指を差さないからね!」

 

 デジタルは脳内で妄想を展開しながら次の場所である校舎の屋上に向かう。

 そして校舎の屋上に辿り着くと双眼鏡を構える。この時間はシンボリクリスエスが所属しているチームプライオリティが引き運動をしている時間だ。

 コース周辺を周っているシンボリクリスエス達を見るにはここがベストポジションだった。

 ゆっくりと歩く様子が双眼鏡に映る。皆は黙々と歩き続け見ているだけでも締まった空気が漂っているのが分かる。

 和気あいあいとしている姿も良いが厳しい表情を浮かべ黙々とトレーニングしているウマ娘もまた良い。

 デジタルは丁度良い機会だと細部にわたってシンボリクリスエスを観察した。

 

「わっ!」

 

 デジタルは思わず双眼鏡をしまい視線を外す。一瞬目が合った気がしたので反射的に身を隠してしまった。

 此処からシンボリクリスエスまでそれなりに距離があり見つからないように身を伏せながら見ていた。きっと気のせいだろう。気を取り直して双眼鏡を構え観察を再開する。だが気がつくとシンボリクリスエスの姿が列に居なかった。

 トイレでも行ったのだろう。観察対象をチーム全員に切り替える。気が付けばシンボリクリスエスの存在は意識から薄れつつあった。

 

「誰かと思えばアグネスデジタルさんでしたか」

 

 デジタルは後ろを振り向くとそこにはシンボリクリスエスが居た。突然の出現に動揺しながら反射的に双眼鏡を隠していた。

 

「こんにちは、それでどうしたの?」

「トレーニングの様子を盗撮している存在を察知して来ました」

 

 デジタルは目の瞳孔が僅かに開く、やはりあの時に目が合ったのは気のせいでは無かったのか、しかしあの距離から察知するなんてバトル漫画の住人か!?

 

「録画とかはしてないですよね?」

「勿論です!ウマ娘ちゃんを見る時は基本的にリアルタイム、録画や写真ではなく自分の目で見て脳内フォルダで思い出すのが嗜みですので!」

 

 デジタルは捲し立てるように喋る。見ていたのがバレた後ろめたさもあったがシンボリクリスエスの雰囲気が動揺させる。他の人が見ればとてもデジタルのほうが年上には見えない程の貫禄があった。

 

「無断でトレーニングを見られるのは好ましくないので」

「はい!すみません!近くでじっくり見てウマ娘ちゃんを不快にさせるわけにはいかないと、せめてでもの気遣いで遠くから拝見していました。元はと言えば白……トレーナーからの指示で様子を見てこいと言われまして……」

 

 デジタルは背を正し直立不動の姿勢でへりくだりながら謝罪と言い訳と責任転嫁の言葉を紡ぐ。気が付けばいつの間に敬語になっていた。

 

「そうですか、これからは盗見せず事前申請をお願いします。こちらが見せられるものは存分に見せますので」

「はい!申し訳ありませんでした!」

 

 デジタルは45°の角度で頭を下げ、シンボリクリスエスは柔和な笑顔を浮かべながら頷きその場を後にした。

 

「うわ、怖」

 

 デジタルは居なくなるのを確認した後に深く息を吐きながら呟く。言葉は優しかったが両親やトレーナーに怒られた以上に怖かった。あれが漆黒の帝王と呼ばれる所以か。

 シンボリクリスエスから注意されるという貴重な体験をした。そしてこれからはトレーニングを見る際は盗み見せずにマスコミと一緒に紛れるか、事前許可をとることにしよう。

 しかし自分にとっては一向にかまわないがチームメイトの気苦労が知れる。あの威圧感を常に受けるとなると胃に穴が空くウマ娘も居るかもしれない。

 時計を確認するとチームのトレーニングが終わっている頃だった。デジタルは帰り支度してチームルームに向かった。

 

「はい、今日のレポート送ったから」

「どれどれ」

 

 トレーナーはデジタルから送られたメッセージに目を通す。デジタルに他のウマ娘のトレーニングを見てこいと言えば、自分の趣味全開で赴くままにトレーニングを見るのは目に見えていた。

 故にトレーニング内容とその効果などレポートにして送るように課題を与えた。

 

 ヒシミラクルちゃん

 

 ダートコース6F、時計が無いので正確に分からないが3Fから一杯に追う。スピードではなくスタミナ強化、本番でのロングスパートの為のトレーニングか?

 動きは躍動感が有り何より表情が晴れやか!落ち込んでいたと聞いたけど完全に吹っ切れたね!チームメイトとの関係は良好で皆も拝んでいました。アタシもご利益に預かりたい!ナムナム!

 

 ネオユニヴァースちゃん

 

 ウッドチップコース5F 左右と前にウマ娘ちゃんを置いていた。囲まれた際に抜け出すためのトレーニング、また囲む側にまわりブロックするトレーニングをする。

 抜け出す際の動きに予備動作がなく、蓋をするのは困難を極める。また予備動作を察知する力も富んでおり、マークされた場合はネオユニヴァースちゃんから抜け出すのは困難を極める。

 初めて生で見たけど何を考えているか分からない表情がとても魅力的!チームメイト達との関係は良好そう。きっとカワイイ後輩として可愛がられている。よかったよかった。本番では是非宇宙を感じたい

 

タップダンスシチーちゃん

 

 坂路コース6F 3人併せでのトレーニング、併せの相手に遅れてしまう、見た限り動きは良くない。だが……

 凄味というか集中力がますます増して素敵!どれだけ宝塚記念に勝ちたいかってのがまる分かり!白ちゃんも勝負師だって褒められているみたいだけど、真の勝負師はタップダンスシチーちゃんだから!

 

 シンボリクリスエスちゃん

 

 コース周りを引き運動、調子の良さなどは判別できず。チームの雰囲気は引き締まり、名門の風格があった。

 双眼鏡で見ていたけどシンボリクリスエスちゃんに見つかり偵察は中断になりました。めっちゃ怖いです。

 でも漆黒の帝王は伊達じゃないね!もう一度ぐらい怒られてもいいけど、不快にさせるわけにはいかないので自粛!あとトレーニング見る時は盗み見せず事前に許可を得ます。白ちゃんもそんなことしちゃダメだからね!

 

 今日は宝塚記念での上位人気と予想されるウマ娘を観察したようだ。後半は個人的感想になっているが、トレーニングの効果などそれなりにしっかり見てきたようだ。

 

「まずヒシミラクルはスタミナ強化か、これは本番では予想外の位置からスパートをかけてきそうやな。それで拝むってのは何や?」

「知らないの。ヒシミラクルちゃんは今や歩くパワースポット、拝めば幸運が訪れるって評判だよ」

「そうか、それでネオユニヴァースだが、そんなに予備動作がないのか?」

「全くない、見ていてビックリしたよ。多分今の日本で蓋できるウマ娘ちゃんは居ないんじゃない」

「それ程までか、それでタップダンスシチーのだが……部分は何や?」

「タップダンスシチーちゃんの為にお答えできません!ヒントは勝負師、あとは自分で考えて」

「最後にシンボリクリスエスやが、見ているのはバレたのか?」

「一応姿は隠してたんだけどバレちゃった。見てたのは白ちゃんの命令でやりましたって言っておいたから」

「そうか。レポートはまあこれでええやろ。お疲れさん」

「お疲れ」

 

 トレーナーはデジタルがチームルームから出るのを見送ると考え込む。

 シンボリクリスエスの行動、引き運動に敵に知られてマズい要素があるとは思えない。逆に僅かな事でも知られたくないということか、勝利の為にした行動だとしたら恐ろしく徹底している。

 ネオユニヴァースの予備動作の無さは映像を見て薄っすらと察していたが、デジタルの誉め具合で相当なものであることが分かった。

 そしてタップダンスシチーのトレーニングについてのレポート、含みある言葉に勝負師というヒント、どんな謎が有るが知らないが解明してデジタル鼻を明かしてやるか。

 トレーナーはとりあえずホームページにあるトレーニング映像を検索した。

 

─── 

 

 トレーナーはデジタルのトレーニングの様子を見て満足げに頷く。宝塚記念まで残り1週間を切り最後のトレーニングが終わる。

 途中にガレ気味になりながらもトレーニング量を調整し食事を工夫することによって何とか仕上げられた。

 デジタルはよくやっている。だが安田記念から宝塚記念までは約3週間で時間が足りないというのが本音である。

 自身初の2200メートルに阪神内回りというタフなコースに、相手はシンボリクリスエスやネオユニヴァース等の中距離のトップ達を相手だ。もし勝つならば安田記念を回避して宝塚記念に目標を定めトレーニングするのが理想だった。

 正直に言えば不安要素はある。デジタルが目的を叶える為には当日のレースが有利な展開に進む等の外因的要素が味方しないと厳しいと判断していた。

 

 そして宝塚記念当日を迎えた。

 

───

 

 宝塚記念。

 

 上半期の最後を締めくくるGIレース、有マ記念と同じくファン投票で出走メンバーを決めるグランプリレースである。

 2200という距離からステイヤーからマイラーまで幅広いメンバーが集まり、これまでも数々の熱戦が繰り広げられてきた。

 さらに今年は史上最高の豪華メンバーが集結したとあって、多くのファンが阪神レース場に駆けつけていた。

 

『只今より、第11レース宝塚記念のパドックを開始します』

 

 場内アナウンスが流れるとパドック前に集まっていた観客から歓声があがる。トレーナーは他のトレーナー達と一緒にパドック脇で立ちながらウマ娘達が登場するのを待つ。

 18番人気のウマ娘から登場するが、それぞれ他のGIに出走するウマ娘とは違い、人気投票で選ばれたという自負と自信に漲っていた。

 

「6番人気、5枠10番ヒシミラクル」

 

 パドックにヒシミラクルが現れると観客から声援が飛ぶ。勝負服は走りやすいように改造した青と白の袴、額にはひし形の青い水晶と首には白の勾玉をつけている。

 

「ミラクル!今日はミラクルの応援券を買ったぞ!お守りにして大切にするからな~!」

「菊花賞の応援券をお守りにしたら志望校に合格できました!ありがとうございます!」

「そのご利益でサマージャンボを当てさせてくれ!」

 

 観客から続々と激励と感謝の言葉が送られ、場は和やか空気に包まれる。

 ヒシミラクルは現役でも屈指の人気だがそれはレースとは違う要因によるものだった。

 ある人物が交通事故に巻き込まれるが奇跡的に無傷で済んだ。その人物はニュースの取材に対して、ヒシミラクルの菊花賞の応援券を持っていたおかげだと力強く力説し、その映像が全国に流れた。

 それからご利益に預かろうと次のレースからヒシミラクルの応援券は人気となり、次々とご利益があったという報告があがっていた。

 

「ミラクル!そのミラクルでこのレースに勝てよ!」

「任せろお客さん!私は歩くパワースポット!奇跡のミラクルガール、ヒシミラクル!今日もいっちょ奇跡を起こして勝っちゃうぞ!」

 

 ヒシミラクルは観客の応援に応える。その勝利宣言に歓声と笑い声があがり、パドック場はさらに和やかな雰囲気になる。

 トレーナーはその様子をじっと見つめる。デジタルが落ち込んでいたが元気を取り戻したと言っていたが、言葉以上に元気溌剌だ。

 正直に言えば距離が短く厳しいだろうと思っていた、だがパドックを見てその認識が変わる。

 ヒシミラクルは俗に言う持っていると呼ばれるウマ娘だ。その運は自分だけではなく他人にも運を与えているとも考えることもできる。

 運という要素は人がどうこうできない要素だ。それは時に圧倒的な実力すら覆すこともある。そして神風が自分に吹くという確固たる自信が満ち溢れている。

 運は信じる者に引き寄せられる。このレースにおいて一番怖いのはヒシミラクルかもしれない。

 

『4番人気、8枠16番タップダンスシチー選手です』 

「勝てよタップダンスシチー!クリスエスを倒せるとしたらここしかないぞ!」

「日寄るなよ!お前たちの走りを見せてくれ!」

 

 タップダンスシチーは観客の声援に力なく応じる。顔色も悪く動きの節々に重さを感じる。

 勝負服はケブラー繊維の厚手のズボンに上はやたらモコモコしたウインドブレイカーで競艇選手が着るような服で、色はトリコロールカラーである。この季節にこの厚着を見るだけで思わず汗が出てくる。

 その姿に観客は思わずどよめいてしまう。皆が不安がるなかトレーナーにはそれがブラフであることを見抜いていた。

 ただ見抜いたのは様子を見て判別したのではなく、タップダンスシチーというウマ娘の性格と気質を考えての推理だった。

 デジタルのレポートを提出した際の謎かけだが、トレーニング映像を何度も見て謎が解けた。

 

 タップダンスシチーの動きの悪さの正体、それはシューズに重りが入っていたからだ。

 重りが入っていれば動きが悪くなるのも納得がいく。そもそも宝塚記念に標準を合わせたタップダンスシチーが調整ミスするとは考えづらかった。

 今日の動きを見た他の陣営が居れば自分と同じように調子が悪いと判断し、警戒度を下げるだろう。現にデジタルの謎かけがなければ欺かれていた。

 勝負はレースだけで決まるものではない、マスコミへのインタビューで言葉を濁し相手を油断させる。それは勝負師と呼ばれた昔のトレーナー達にとっては常套手段であった。

 だが今のトゥインクルレースはスポーツマンシップが推奨され、レース内での駆け引きは有るにせよ。このような盤外戦術と呼ばれるレース外で周りを欺く行為はするものは少なくなった。

 デジタルからタップダンスシチーは勝ち以外価値が無いと、全ての手を使って勝ちを目指す勝負師と呼ばれる人種と聞いている。自分を鍛えながら相手を騙す一石二鳥の方法をするかしないかと言われれば間違いなくやる。

 しかしこれぐらいの盤外戦術をするウマ娘とトレーナーも今でも少なからず居る。だがタップダンスシチーはそれ以上に徹底し感銘すら覚える程だった。

 

 まずは勝負服、パドックでウマ娘達の調子を見るには筋肉の付き方や肌色を見る。それさえ見れば観客でも大きな変化は分かる。それを意識してかしないか勝負服は露出が多く、スカートやショートパンツを履くなどして足が見えるようなデザインになっている。

 トレーナーであればさらに多くの情報を読み取れる。なかには脚を見ただけでどのようなトレーニングを積んで本人が分からないことすら読み取るという超能力のような洞察力を持つトレーナーも居る。

 

 それを懸念しているのか肌を見せないどころか体のラインが見えないような勝負服のデザインにしている。

 だがそのことを気にして勝負服を肌や体のラインが見えないようにしても実力が発揮できなければ意味が無い。

 勝負服はウマ娘が最も力が出せるデザインと形状で作られるものであり、大概のウマ娘の勝負服は肌や体のラインが見えるデザインと形状になっている。

 そして肌や体のラインが見えないデザインと形状ながら力を発揮できる勝負服を着ている。これは勝負師である証だ。

 

 さらに化粧をして意図的に顔色を悪く見せている。パドックで美しく見せる為に化粧するウマ娘は多いが、自分を醜くみせるために化粧をするウマ娘は居ない。

 パドックではベストドレッサー賞というものがあり、勝負服や身だしなみやパドックでの動きを総合的に見て最も美しかった者に受賞される。

 パドックでも観客を楽しませようと中央ウマ娘協会が考えたもので、今では名誉の1つとして多くのウマ娘が身だしなみを整え受賞しようと気を配っている。だがベストドレッサー賞には欠片も興味が無いのだろう。

 この歳でここまで勝負に徹するとは大したものだ。デジタルは本当の勝負師はタップダンスシチーと言っていたが間違っていないかもしれない。

 

『3番人気、1枠2番アグネスデジタル選手です』

「待ってました勇者様!」

「復活するって信じてたぞ!また夢を見せてくれ!」

 

 デジタルが登場すると、この日1番の声援が飛ぶ。元々人気だったが安田記念の復活劇でさらにファンが増えていた。

 その人気は現役で一二を争い、トレーナーはその様子を感慨深げにしみじみと見守る。

 今まで登場したウマ娘の残り香でも嗅いでいるのか鼻をスンスンと嗅ぎ、少しでもウマ娘を感じようと周りをキョロキョロと見まわしている。

 パドックに現れることで見えることもあるが、今の様子見る限り調子は悪くない。他の人間には細く見えるかもしれないが、コーストレーニングによる有酸素運動を多くした結果であり、中距離仕様の身体に仕上がっている。

 

「流石GI6勝ウマ娘、きっちり中距離仕様に仕上げたな。それに貫禄がある」

「ありがとうございます。ですが貫禄についてはどうでしょう。今でも我儘娘ですよ」

 

 横に居たネオユニヴァース担当の六平トレーナーがトレーナーに声をかける。名伯楽と呼ばれたトレーナーに褒められ些か緊張していた

 

『2番人気、3枠6番ネオユニヴァース選手です』

「クリスエスを倒して世代交代だ!」

「歴史を作れ!」

 

 ファン達の声援に応じるようにネオユニヴァースが現れる。下はスカートと比較的に一般的だが上は宇宙服と異様な姿だった。カラーリングは虎柄に二の腕に青の1本線、さらに宇宙服には大量のテントウムシのマスコットと髪に着けているのと同じようなリボンが着いていた。

 ファン達は送るが次々と尻つぼみになっていく。それは目の前に居るウマが発する空気によるものだった。

ダービーウマ娘は特別だと言われる。そしてネオユニヴァースはさらに特別だ。

 他のダービーウマ娘と違い独自で確固たる世界観を持っているように思えた。

 パドックで声援を受けても影響を受けることなく空を見上げる。その目には他のウマ娘とは別の何かが見えているような気がした。

 

「何というか雰囲気はありますね。私ではネオユニヴァースをおし計れません」

「俺もだよ。長年トレーナーやっているがネオユニヴァースについては分からないことだらけだ。ある意味オグリ以上に計り知れない」

「オグリキャップですか」

 

 トレーナーはオウム返しで呟く。あの名選手であるオグリキャップ以上の器だと言うのか、そんなバカなと否定しようとするが、その姿を見ているとそう思える気がしていた。

 

「最もあのウマ娘に勝てる保証は無いがな」

 

 六平トレーナーの言葉にトレーナーは思わず頷いた。

 

『1番人気、3枠7番シンボリクリスエス選手』

「キャアアアア!クリスエス様!」

「お前が王者だ!勇者も超新星もねじ伏せろ!」

 

 シンボリクリスエスが現れた瞬間、デジタルやネオユニヴァース以上の声援があがる。

 勝負服はシンボリルドルフの勝負服のデザインを踏襲しながら、黒の比率を多く混ぜたようなデザインで、赤色の腰布が特徴的である。

 トレーナーもシンボリクリスエスを生で見るのは初めてだった。

 威風堂々とし勝つのは自分であると自信を滲ませたその姿、かつて皇帝と称されたシンボリルドルフにダブって見える。

 世間では漆黒の帝王と称されているがまさにその姿に相応しいウマ娘だ。トウカイテイオーも皇帝の後を継ぐ帝王と呼ばれているが、その容姿の可愛らしさもあってミスマッチ感があった。

 しかしシンボリクリスエスの眼力や容姿はまさに帝王に相応しい威厳と風格だった。

 去年の秋でも充分に1流の風格がありながらどこか成長の余地を感じていた。そしてトレーナーの予感通り去年よりさらに成長していた。

 

「いや~皆最高です!もう全員に2重マル!」

「それはよかったな。だが少し落ち着け、エネルギーを少しでも溜めておかんか」

「それもそうだね。本番はレースだからね。スゥ~ハァ~」

 

 パドックが終わると各ウマ娘はトレーナーの元に集まり、レース前に最後の言葉を交わす。デジタルは一方的に喋った後にトレーナーの指示に従い興奮を抑え込むように深呼吸を繰り返す。

 シンボリクリスエス等初顔合わせのウマ娘が多いがどのウマ娘も魅力的で刺激的だ。このパドックを見るだけでも宝塚記念に出走した甲斐があった。

 

「デジタル、俺の見立てではレースは淀みのないペースで進むやろ。キツイ展開になるが我慢せい、我慢の先に快感が待っとるぞ」

「了解。我慢は正直苦手だけど、ウマ娘ちゃんの為だからね!」

 

 デジタルはこれから訪れる苦しさなど一切考えていないかのように上機嫌で地下バ道に向かって行く。いつもはスキップ交じりだが、今日はタップダンスのようなステップを交えながら向かって行った。

 

『皆さまお待たせしました。宝塚記念本バ入場です。なお今年の入場行進曲は陸上自衛隊第3音楽隊による生演奏です』

 

 アナウンサーの声の後に入場曲が響き渡る。GIでは関東と関西で2つの入場行進曲が演奏され、京都と阪神では『ザ、チャンピオン』が流れる。

 陸上自衛隊第3音楽隊の卓越した演奏技術はいつもの入場曲とは違った趣を与え、観客達のテンションは一気に跳ね上がり、手拍子でリズムをとる。それに呼応するように出走ウマ娘達のテンションも上がっていく。

 

「府中で起こした奇跡の復活劇!異能の勇者は未だ死なず!この史上最高峰メンバーの宝塚記念で最も実績があるウマ娘です!初の2200を克服できるか?1枠2番、アグネスデジタル」

 

 デジタルは芝の状態を確かめるように踏みしめながらゲートに向かう。

 この入場曲を聞いたのはマイルCSの時以来か、一旦入場行進曲に耳を傾けるがすぐに思考を出走ウマ娘に移す。グランプリには初出走であるがみんな素敵なウマ娘ばかりでまさに宴に相応しい。

 さあどんな素敵な体験をさせてくれる?デジタルは後数分後に訪れる興奮と快感を想像し胸を躍らせる。

 

「半年ぶりに漆黒の帝王が帰ってきました!夏のグランプリに勝利し、中距離最強の座を揺るぎないものにできるか?3枠5番シンボリクリスエス」

 

 シンボリクリスエスは悠然と歩きながら己の状態を確かめる。久しぶりのレースのせいか気持ちが高ぶっている。だが高揚感は要らない。

 宝塚記念に勝利し藤林トレーナーを日本一のトレーナーに押し上げる。勝利はノルマであり仕事だ。そして仕事に必要な事は冷静な判断力だ、惑わず揺るがず仕事を遂行する。

 気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと歩きながら自分を抜き去ったウマ娘を見つめていた。

 

「2冠ウマ娘が果敢に参戦してきました。彼女のスケールはいまだに計り知れません。阪神レース場は宇宙空間と化す!3枠6番ネオユニヴァース」

 

 ネオユニヴァースは観客の声援に耳を傾けながらゲートに向かう。

 レースが終わればこの歓声は宇宙を見た興奮による歓声に変るだろう。現時点ではこのレース場に居る全員に宇宙を見せることはできない。だがシニア級のウマ娘と触れ合い飲み込めばブレイクスルーは起り、己の宇宙はさらに広がる確信があった。

 宝塚劇場では劇を見て観客を酔いしれる。そして阪神レース場で行われる宝塚記念という舞台で酔いしれるのは劇ではない、己の宇宙だ。

 

「菊花賞と天皇賞春を制覇した名ステイヤーが仁川の舞台にやってきました。上位人気ではありませんが決して侮れません。2度あることは3度ある。3度奇跡を起こせるか?5枠10番ヒシミラクル」

 

 ヒシミラクルは観客の声援に応えながらゲートに向かう。

 シンボリクリスエス、ネオユニヴァース、アグネスデジタル、有力ウマ娘は順調に仕上がり、宝塚記念に出走する。流石歴戦の猛者だけあって自分の運に食われることなく出てきたか、だが自分の運を疑うことはない。レース中に必ず自分に有利に働く何かが起こる。何故なら自分は強いから!

 ヒシミラクルは確固たる自信を漲らせていた。

 

「有マ記念では伏兵扱いでした。ですが前哨戦に勝利し誰もが認める主役候補に躍り出ました。自分達のリズムを刻めば勝利への道筋は見えてきます。8枠16番タップダンスシチー」

 

 タップダンスシチーは弱弱しい足取りでコースを駆ける。最後まで気を抜かず調子が悪い素振りを見せ続ける。そうすれば周りは侮り油断し警戒心を解くかもしれない。

 トレーニングでも鍛えながらも重りをつけることで仕上がりが良くないように欺いてきた。パドックでも調子が悪そうに演じてきた。勝つために考えられる手段は全てとってきた。

 勝負とはレース場でおこなうものではない、レースが決まった瞬間から始まっている。ならば自分が最も勝負に徹し真摯に向き合ってきた。

 目指すはレースに強いウマ娘ではない、勝負に強いウマ娘だ。ならば自分が一番勝負に強い。

 全ての出走ウマ娘の本バ場入場は終わり、暫くしてスターターが台に上がる。その姿を見ると観客達のボルテージは上がり手拍子でリズムをとる。そして宝塚記念限定のファンファーレが鳴り響き観客達の興奮は最高潮となる。

 

 

『梅雨の一時の晴れ間を縫って今年もあなたの、私の夢が走ります。仁川の舞台に最高のメンバーが集まりました。各ウマ娘が続々とゲートに入ります。前年度代表ウマ娘、漆黒の帝王シンボリクリスエス、2冠を制した超新星ネオユニヴァース、安田記念を制した勇者アグネスデジタル、天皇賞春を制覇した奇跡を呼ぶウマ娘ヒシミラクル、その他にも様々な強豪が集まりました。まさに史上最高の豪華メンバーに相応しいメンバーです。誰が勝ってもおかしくありません。今年の宝塚の主役は誰になるか?今レースがスタートしました』

 

 

 




 ジャパン・スタッド・インターナショナルが8日にアグネスデジタル号が死去したと発表しました。
 今年に入ってトーシンブリザードやサキーが死去し、年齢が近く24歳とサラブレット平均寿命を超えていたのでアグネスデジタルもその時が来るかもしれない覚悟はしていました。
 できればアグネスデジタルが天寿を全うする前に書き上げられればと思っていましたが、間に合いませんでした。

 現役時代の活躍はリアルタイムで見ていませんが、競馬を見始めて調べていくうちにアグネスデジタルの存在を知り、その活躍や調教師や騎手とのエピソードを知り興味が惹かれました。
 北海道に行った際はビックレッドファームに足を運び生前の姿を見ることが出来たのは思い出です。

 せめてもの供養として未完で終わることなく、何としてでもこの作品を書きあげたいと思います。
 アグネスデジタル号のご冥福をお祈りいたします
 


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勇者と宴#3

『さあスタートしました。先頭に立つのは……マイソールサウンド、1バ身差ほど離れてバランスオブゲーム、アサカデフィート、ストップザワールド、タップダンスシチーが先行グループ、2バ身開いてダンツフレーム、そして本日の1番人気のシンボリクリスエスは中団の位置だ。外にメジロランバート、1バ身差後ろにサンライズジャガーとヒシミラクル、さらにその後ろにダイタクヴァートラムにアグネスデジタルは後方グループ、イーグルカフェにスタートを失敗したかネオユニヴァースは後方から3番目の位置、そこから3バ身離れてツルマルボーイとファストタテヤマ。先頭から後ろまで10バ身以上、これは縦長の展開になった』

 

 17人がスタンド前を過ぎて土埃が舞う。観客はそれぞれ応援しているウマ娘に声援を送りその声は合わさり大歓声となる。

 

 タップダンスシチーは先行グループ、シンボリクリスエスとヒシミラクルは中団、ネオユニヴァースは後方グループと大方の予想通りの位置につける。

 そしてデジタルは後方グループに位置つける。先行もできるデジタルだが今日はこのポジションにつけた。

 

(皆予想通りの位置どりか)

 

 デジタルとしては出来る限り多くのウマ娘を感じる為に中団ぐらいにつけたいところであり、そこで他のウマ娘のロングスパートに付き合い一緒に上がっていくのがベストだが、今日の芝は開催から暫く経っているせいで荒れてパワーが必要になっている。

 この芝と淀みないペースで中団からロングスパートを仕掛ければ最後に力尽き垂れる可能性があると考えていた。

 ここは出来る限り脚を溜めて直線間際にスパートをかけて末脚勝負でいったほうがいい、その方が力尽きずウマ娘達を感じられると判断した。

 

 先頭が第1コーナーを曲がり第2コーナーに差し掛かり、デジタルの表情が僅かに渋る。出来る限り一団になってもらいたかったのだが、先頭のペースが落ちず淀みないペースを刻んでいく。

 先頭に付いていこうとペースを上げる者とペースを維持する者に分れ、その結果さらに縦長な展開になっていき、先頭から後ろまで15バ身差以上離れている。好ましくない展開だった。

 デジタルは最後まで走り抜けるようにペースを維持し、ダイタクヴァートラムやヒシミラクルとの差が徐々に開いていくが気持ちを落ち着かせ力を溜めていく。

 1200メートルの位置を通過し体内時計で大まかなペースを判断する。おおよそ1分ジャスト、先頭は10バ身差以上前と仮定すると59秒台ぐらい、芝の状態を考慮すれば速いペースだ。

 いつスパートをかけようと考えているとヒシミラクルの姿が目に入る。何か重大な決断を下したような表情に体の挙動、あれはスパートをかけた動きだ。

 ヒシミラクルはデジタルから3バ身前の位置、つまり約1200メートルの位置からスパートをかけたことになる。

 

(え?そこから仕掛けるの?それは流石に早いんじゃない)

 

 デジタルも思わず驚く。いくら天皇賞春を制覇したスタミナ自慢でもこの位置からは無謀だ。

 そしてズブい。ヒシミラクルの表情や動きを見ている限り全力に近い力で走っているのは分かる。だがそれに反して徐々にポジションを上げているに過ぎない。普通のGIウマ娘がスパートをかければ、もっとすんなりとポジションを上げていくはずだ。

 だがこれはヒシミラクルがズブいからだけではない。他のウマ娘もペースが遅いと判断したのか同じようにペースを上げていき、レースの流れは一気に激しくなる。

 ペースが上がるなかデジタルはギリギリまで足を溜めるべきと判断する。

 ポジションをズルズルと下げていき気が付けば後方グループの16番手ファストタテヤマと15番手ネオユニヴァースと同じ位置につけ、後方グループとそれ以外のグループとの差は20バ身差まで広がっていく。

 残り800メートルを切り前にいたネオユニヴァースが上ボジションを上げていくが、デジタルはまだ脚を溜める。

 後方グループを形成するデジタルとファストタテヤマとツルマルボーイと集団との差は広がっていき、集団グループと先頭との差が縮まっていく。

 残り600メートルをきり、先行していたタップダンスシチーが外側から捲り気味にコーナーに進出し先頭に躍り出る。

 シンボリクリスエスは4番手につけると内側にじっと構え、ヒシミラクルは8番手の位置まで上がりネオユニヴァースはその後ろにつけていた。

 デジタルはファストタテヤマのすぐ前の15番手につける。

 

──さあ!皆を感じさせて!

 

 デジタルは神経を研ぎ澄まし溜めていた末脚を爆発させる。

 

『直線に入ってタップダンスシチー先頭!タップダンスシチー先頭!このまま押し切れるか!?』

 

 先頭を走っていたマイソールサウンドとバランスオブゲームはタップダンスシチーを一瞥し即座に全ての力を解き放つ。マズい、タップダンスシチーは不調じゃない、このまま見過ごせば押し切られる。一方それを見てタップダンスシチーはほくそ笑む。

 今更気づいたな、そうだパドックでの姿はブラフで不調ではなく好調だ。

 余力は充分に残しこのまま押し切れる!多少ペースが速かろうが関係ない。行けると思えば早々に先頭に立ちそのまま押し切る。これが勝つためにトレーナーと作り上げたアタシ達のスタイルだ!

 タップダンスシチーは揺るがず迷わず己のリズムを刻み続ける。

 

『さあ直線に入り漆黒の帝王が内を割って一気にやってきた!』

 

 シンボリクリスエスはタップダンスシチーが外から捲って先頭に躍り出るのを横目に見ながら内に潜る。

 あれは不調の走りではない、体調は万全で宝塚記念に目標を定め、牙を研ぎ続けた乾坤一擲の走りだ、完全に騙された。このまま軽視して放置すればあのまま押し切られる。

 だが問題ない、不意打ち気味に外から捲っていったが競り合った分だけ遠心力で外に膨らむ。ならば自分は内を突く。

 前にマイソールサウンドとバランスオブゲームがいて壁が出来ている。だが問題ない。タップダンスシチーと競り合えば遠心力で膨れスペースが出来上がる。

 そして予想通りコーナーから直線に切り替わるポイントでマイソールサウンドとバランスオブゲームの間に僅かなスペースが出来ていた。

 シンボリクリスエスは最短距離を進むために躊躇なく割って入り、その雄大な体を生かし強引にスペースをこじ開け、マイソールサウンドとバランスオブゲームを弾き飛ばす。

 接触による転倒は頭に過りはした。だが仕事を遂行するために危険はつきものであり、リスクを取れない者はプロではない。自分はプロ選手であり雇用主の為にリスクをとるのは当然だ。

 

 タップダンスシチーはその様子を見ながら歯を食いしばり力を振り絞る。

 ファインモーションをねじ伏せ完全に勝利したと思った有マ記念、だが圧倒的な末脚で残り50メートルでかわされた。

 手中に収めていた勝利を強引に手から奪い取られた。もう2度と奪われないように自分の長所を鍛え上げた。先行力を生かし淀みないペースを作り、逃げが遅ければ一気に捲り強気に押し切る。これが自分達の走り、この走りで現役最強ウマ娘に勝つ。

 

(いいね!いいね!どけ下郎とばかりに2人を弾き飛ばしてわが道を突き進むシンボリクリスエスちゃんに、アタシ達の走りで帝王に挑むタップダンスシチーちゃん。バチバチじゃん!)

 

 デジタルは力を振り絞りながら意識を2人に向ける。2人の走りには一切の迷いが無い。それは実に尊くその断固たる決意が煌めきを生み出す。

 そしてデジタルは何かを感じ取り2人に向けていた意識を別のウマ娘に向ける。発生源はネオユニヴァースだった。

 

『ネオユニヴァースもやってきた!2冠ウマ娘がシニアの猛者達に襲い掛かる!』

 

 ネオユニヴァースにとってレースとは相手との戦いではなかった。如何に自分の宇宙を表現して周りに見せるか、それは自分との闘いだった。

 いつも通り宇宙を表現しようと意識を集中する。だが前に居るダンツフレームの動きを見て蓋をしようとしているのを察知していた。

 ネオユニヴァースは一呼吸だけスパートのタイミングを早める。予備動作が一切ない急加速、それは惚れ惚れするように動作だった。

 ダンツフレームの左肩に衝撃が走る。長年の経験から仕掛けるタイミングを読み取り絶妙のタイミングで反則にならない程度に進路を塞いだはずだった。

 だが既にスパートを仕掛け、ぶつかった衝撃で弾き飛ばされる。

 ダンツフレームは反射的にネオユニヴァースを睨み慄く。その目には自分のことは欠片も映っていなかった。そしてその目には勝利への欲望も執念もなく、何か常人では理解できない別のものを見ているのかが分かった。

 

(ネオユニヴァースちゃんの雰囲気がさらに濃くなった!なにこれ!?今まで感じたことが無いタイプだ!もっと味わいたい!)

 

 デジタルはスパートを仕掛けたネオユニヴァースから未知の感覚を感じていた。

 負けたくないという刺々しいものでもなく、勝ちたいというマグマのような熱でもない。一種の温かみと懐の深さとスケールの大きさ、これがネオユニヴァースの宇宙なのか。

 

 ──もっと感じたい、もっと知りたい。

 

 デジタルは欲求という動力源からエネルギーを生み出し推進力に変換する。

 

『残り200メートル!シンボリクリスエスか?タップダンスシチーか?ネオユニヴァースも凄い勢いで来ている!そしてヒシミラクルだ!来る!来る!ヒシミラクルだ!菊花賞と天皇賞春を制したスタミナ自慢がジワジワと這い上がってきた!』

 

 どんなレース展開でも残り1200からスパートを仕掛けることは決めていた。

 自分でも中距離で勝つスピードとキレの無さとズブさは分かっていた。普通のレースをしていたら勝てない。ならばスタミナと長く良い脚を使えるという長所を生かし超ロングスパートを仕掛ける。

 超ロングスパートを仕掛ければ途中のコーナーでは遠心力によって膨れ上がり距離ロスする。だが自分にはそれを補えるスタミナがあり、何より運によって何かしらの追い風が吹き勝てると確信していた。

 

 残り1200メートルに差し掛かると予定通りスパートを仕掛け、自分の仕掛けに釣られるように他のウマ娘達もペースを上げていく。

 こっちはほぼ全力で走っているのに他は少しギアを上げた程度だ。改めて自分のズブさが浮き彫りになる。

 天皇賞春に勝った直後ならズブさに落胆し、気持ちが萎え宝塚記念に出走すべきでは無かったと思っていただろう。しかし自信を持って突き進む。何故なら反応の速さなんかより比べ物にならない程の武器が有るから。

 

 3コーナー、こっちは汗をかきながら必死こいて走っているのに、他のウマ娘達の表情はとくに乱れずついてくる。

 4コーナー、相変わらずキツく心臓がバクバクと脈打つ、そしてペースがさらに上がったせいか表情が険しくなる。

 直線に入り、他のウマ娘達の表情が歪み始め徐々に後退していく。それを尻目に先頭との距離を縮めていく。だがそれはジリジリと少しずつだ、さらに後ろから猛烈な勢いで突っ込んでくる気配を感じる。

 このまま差し切れない、後ろから差される。そんなネガティブな感情は一切湧いてこない。

 その背には確かに感じていた。神風という自分しか恩恵が預かれない強烈な追い風を。

 

(アタシの節穴!何で気づかなかったの!)

 

 デジタルはシンボリクリスエス達に意識を傾けていたせいか、ヒシミラクルがジリジリと上がってきているのに気が付いていなかった。

 残り1200メートルから持つわけがない。一か八かの賭けを挑むウマ娘も嫌いでは無いが、捨て鉢ではなく確固たる意志を持って挑むウマ娘を感じたいと無意識に意識を向けていなかった。そして己の節穴さを呪う。

 どこが捨て鉢だ!あれは自分の力を信じ、不器用に実直にロングスパートを仕掛け、自分に風向きが向くと信じ断固たる決意を持って走るウマ娘の姿だ!

 常識外れのロングスパートのせいか尋常じゃない汗が出て周囲にまき散らし、周りは汗によってキラキラと輝いている。なんて尊みだ!こんな尊みを見逃すなど一生の不覚!早く追いついて感じないと!

 

 デジタルは末脚を繰り出しタップダンスシチーまで残り4バ身差まで詰める。だが残り200メートルの坂に差し掛かった瞬間に勢いが止まってしまう。

 宝塚記念の距離と淀みのないペースに対応するためにトレーニングを積み重ね、レースの流れを読み、脚を溜めて後方一気でウマ娘を感じようと最善を尽くす。それでも宝塚記念の距離と淀みのないペースは脚を想像以上に消費させていた。

 デジタルは押し寄せる諦めに必死に抗う。しかし横から吹き付ける一陣の風に焦りも諦めも忘れ去ってしまう。その一陣の風は猛烈な勢いで先頭に向かって行く。

 

『残り100メートル!ヒシミラクルだ!ヒシミラクルが抜け出した!いや大外からツルマルボーイもやってくるぞ!』

 

 ──地味に強い、名脇役

 

 それがツルマルボーイに抱く印象だった。宝塚記念で2着、重賞を2勝し中距離のレースではその能力の高さと確かな末脚を繰り出し常に掲示板圏内を確保する。

 容姿も地味で性格もいたって普通、勝負服も奇抜ではない、それらの要素も地味さ加減に拍車をかける。そんな現状に危機感を覚えていた。

 ツルマルボーイは主役になりたかった。このままでは脇役に終わってしまうと脇役から脱却するために様々な試みをした。

 容姿で目立とうと髪をレインボーカラーにしたが、校則違反かつそんな恰好でレースに出れば品位が落ちると元の色に戻させられた。

 思い切ってパリピにでもなるかとイメチェンを試みるが、心が拒絶反応してなれなかった。

 勝負服もド派手なものにデザイン変更したが、そのレースで11着と大敗したので元に戻した。

 

 様々な試みを経た結果、外面を変えても主役になれず、地道に鍛えレースで主役になればいいと初心に戻る。

 だが大阪杯2着、天皇賞春4着、金鯱賞2着とさらに名脇役という印象を強くする結果になってしまった。

 その結果に落ち込むツルマルボーイにトレーナーはあるアドバイスをした。

 

──外見ではなく、レース内容を変えてみたらどうだ?

 

 ツルマルボーイは後方一気で追い込むウマ娘だ。だが追い込みはレースの王道ではなく展開に左右されやすい。先行か好位差し、これがレースの王道だ。

 ツルマルボーイはその提案を拒否した。追い込みこそ自分の芯となる部分だ、それを変えてしまったら主役になれない気がする。だが提案は拒否したがトレーナーのアドバイスはヒントとなる。追い込みは変えないがもっと極端にしてみてもいいかもしれない。

 レース当日、ツルマルボーイは極端な位置取りでレースを運んだ。周りがペースを上げいつもなら同様にペースを上げる場面でも徹底的に脚を溜め、直線に全てをかける。それは一種の賭けだった。

 直線が比較的に短い宝塚記念で直線一気は明らかに不利な戦法であり、4コーナー手前である程度ペースを上げるのがセオリーである。

 だがそのセオリーを敢えて破り、このレースを通して殻を破ることに賭けていた。

 

 直線に入り溜めていた脚を一気に爆発させ出走ウマ娘最速の末脚を繰り出し、ネオユニヴァースを切り捨て、シンボリクリスエスとタップダンスシチーをも切り捨てる。猛然とヒシミラクルに襲い掛かる。

 デジタルは交わされる瞬間に目に焼き付けたのは目を見開き歯を食いしばるツルマルボーイの姿だった。

 脇役じゃない、GIを勝ち脇役から主役になる!多くのウマ娘が胸に宿す普遍的な情熱、それは決して珍しいものではないが、それはどんな時代でも色あせない尊さだった。

 

 残り100メートルになり勝者は抜け出したヒシミラクルと猛烈に追い込んでくるツルマルボーイに絞られる。後ろに居るウマ娘達も決して折れることなく懸命に前に進む。

 やはりレースを通してウマ娘を感じるのは最高だ。少しでも近づいて感じよう、他のウマ娘のように勝利は目指していないが、己の目的を果たすためにデジタルも懸命に前に進んだ。

 

『ヒシミラクルか?ツルマルボーイか?ヒシミラクルか?ツルマルボーイか?』

 

 残り50メートル、2人にとって大きな分岐点が訪れる。

 ヒシミラクルが踏みしめようとする先に踏み込みで抉れた穴があった。

 レースでは1レースごとにコースを整備し抉れた穴を埋め公平にレースを走れるようにする。だがこの穴はスタート直後の直線を走った時に発生した穴であり、埋めることはできない。

 もし穴に脚を踏み込めばタイムロスどころか、最悪脚を挫いて怪我することになる。この一歩で運命が決まると言ってもいい局面だった。そして抉れた穴から数センチ横の芝に足を着ける。

 ヒシミラクルは穴を察知したわけでもなく、無意識で避けたわけもない。寄れただけだった。

 無類のスタミナを誇るヒシミラクルでも残り1200メートルからの超ロングスパートは堪え、ほんの僅かだけ寄れてしまっていた。だがその僅かが救った。

 

「ヒシミラクルだ!またまたミラクル、ヒシミラクル!菊花賞も天皇賞春も伊達ではない!奇跡が3つ続けばそれは必然!このウマ娘は本当に強い!」

 

 ヒシミラクルがツルマルボーイの猛追をクビ差で凌ぎ1着でゴールする。

 史上最高の豪華メンバーが集まったGI宝塚記念はヒシミラクルの勝利で幕を閉じる。3着にはネオユニヴァース、4着にシンボリクリスエス、5着にタップダンスシチー、デジタルは8着に終わる

 一方阪神レース場はヒシミラクルがゴール板を駆け抜けてから暫くしても結末を受け入れがたいのかざわついていた。

 大方の予想は本命がシンボリクリスエス、対抗がネオユニヴァースだった。ヒシミラクルも実績としてはシンボリクリスエスやネオユニヴァースと同じGI2勝だが評価はされず、6番人気に甘んじていた。所詮は運が良いステイヤー、中距離のスピードにはついてこられない。それがヒシミラクルへの評価だった。

 だが蓋を開けてみればステイヤーという特徴を存分に生かしたロングスパートで漆黒の帝王も2冠ウマ娘もねじ伏せていた。

 ヒシミラクルは徐々に減速していき止まる。汗を滴らせながら俯き、暫くしてから顔を上げて着順掲示板を見つめる。燦然と輝く10番の文字、これこそが純然たる結果である。

 疲労困憊のなかで浮かべる小さな笑顔を浮かべていた。

 

「お疲れさん。良い感じにレース運びしていたが直線で足が止まったな」

 

 各ウマ娘は地下バ道から控室に戻っていく。その一団になかにデジタルも居りトレーナーは出迎える。

 もしかしてやってくれるのではと期待していたが現実は甘くなかった。だがある程度想定した結果だったのでショックは少なかった。

 

「坂で止まっちゃった。もう少し伸びると思ったんだけど」

「宝塚記念はやっぱり厳しかったが、やれると思ったが安田記念での見えない疲れがあったかもな」

「それよりヒシミラクルちゃん見た?最高だったよね!」

「ああ、正直過小評価しておったわ。自分の持ち味を生かした見事なレースやった」

「でしょ~!白ちゃん節穴~って言いたいところだけど、正直アタシもあまり意識を向けてなかった節穴です!あんな尊いウマ娘ちゃんを途中まで見過ごすだなんて一生の不覚!」

 

 デジタルはレースの興奮冷めやらぬのかいつも通り饒舌に喋る。今日のレースはどれだけ満足できるのかというのが焦点だったが、表情を見る限りそれなりに満足できているようだ。

 

「あ~、もう少し近づいて感じたかったな!己の無力が憎い!力が!力が欲しい!」

 

 デジタルは芝居がかった言葉で愚痴をこぼす。勝利の為ではなくウマ娘をより近くで感じられない無力さを嘆く。

 一見ふざけているようだが、本人にとっては真剣な問題で、勝てなかった他のウマ娘と同じように悔しさを抱いていた。

 着順が確定するとウイナーズサークルでヒシミラクルのインタビューが始まる。

 

「菊花賞と天皇賞春を勝ったのに上位人気ではない、内心ではやってやるという気持ちはありましたか?」

「はい、ですが中距離は少し分が悪いと思ってましたけど、何とかなって勝てると思いました」

 

──マグレ~マグレ~展開が向いただけだよ、前総崩れで後ろは仕掛けが遅れただけから勝てただけだよ。

 

 インタビューを遮るようにファンからヤジが飛び、レース場は俄かにざわつく。

 同時に中継していたレース番組でコメンテーターや解説の元現役選手が今のレースを分析し語っていた。

 道中のペースが明らかに速くなったことでスタミナ勝負になりヒシミラクルに有利な展開になり、前に居たシンボリクリスエスとタップダンスシチーはハイペースに巻き込まれた。

 3着のネオユニヴァースは比較的に後ろにいたがハイペースの影響か集団に付いていったことで道中で脚を使ってしまい、直線での末脚を発揮できなかった。

 2着後ろに居たツルマルボーイはハイペースの影響を受けることなく脚を溜めることで末脚を発揮できたが、直線一気に全てを賭けようと足を溜めることに意識を向けすぎた結果仕掛けが遅れてしまった。普通に仕掛けていれば勝っていたのはツルマルボーイだった。

 その言葉は即座にネット上に拡散され知れ渡り、観客達にヒシミラクルの強さに対する疑念を植え付けていた。

 

 インタビュアーはそのヤジに反応せず質問をするが、ヒシミラクルは手で制しマイクを近づけるようにジェスチャーでお願いする。

 

「確かに改めてレースを見ましたが、ペースは速くなりステイヤーである私に向いた流れになりましたし、ツルマルボーイがもう少し仕掛が早ければ差されていたかもしれません。もう1回レースをすれば同じような結果にはならないでしょう。ですが、そのステイヤー向きの流れになったのも、仕掛けが遅くなったのも全て私の運が招いたものであり、私の実力です!」

 

 ヒシミラクルは自信満々に言い切る。全ては運という自分の最大の武器を生かして勝ち取った勝利である。

 一方観客はその言葉にざわつく。運も実力の内という言葉が有るが本気で信じている者は少なく所詮勝者を慰める言葉にすぎない。

 現状業界では明らかに不利を受けたウマ娘が1着と僅差で2着になれば殆どが2着のウマ娘の方が強いと認識する。

 

「なるほど、運も実力の内ということですね」

 

 インタビュアーは上手くインタビューを進行しようと話の流れに沿った質問をする。

 

「はい!例え確勝と評価されたウマ娘がゴール手前で2着と大差をつけた状態で怪我して競争中止になっての勝利でも、大差をつけた1着が斜行で降着になったレースで繰上りでの勝利でも私は本心で喜びます!なぜなら私の運が招いた結果ですから!」

 

 レース場の騒めきはどんどん大きくなる。最初はヤジに反応した強がりだと思っていた。だがこのウマ娘は本心で言っていると理解し始める。

 そんな勝利では誰も喜ばないはずだ、何故そんな自信満々に言い放つことができる?観客達はヒシミラクルというウマ娘に得体のしれない恐ろしさを覚えていた。

 

「では最後に一言お願いします」

「レースの強さはスピード、パワー、器用さ、思考力判断力、勝負根性の総合値で決まるわけではありません!そこに運が加わった総合値が強さです!だから運が良くてレースに勝った私はこのレースで最も強く!この1着は完全無欠の勝利です!」

 

 観客達は疎らに拍手を送る。だがその拍手は次第に大きくなっていく。

 レースが始まる前にヒシミラクルの言葉を聞いても極論であると一笑していただろう。

 だがこうして負い目もなく偽りのない本心で持論を言い放つ姿にに価値観が大きく揺さぶられていた。

 運とは世間が考える以上に重要な要素ではないのだろうか?その意見に同調するように拍手はどんどん大きくなった。

 

「凄いよ!ミラクル!」

「よっ!現代の現人神!」

 

 インタビューを終えて引き上げるヒシミラクルをチームメイト達が改めて歓迎し祝福する。GI3勝、それは最早歴史に名を遺すほどの偉業だ。

 周りはこの勝利すらフロック扱いするかもしれない。だがチームメイト達はヒシミラクルの努力と力を知っている。決して運だけのウマ娘ではない。それに運でも他のウマ娘達より遥かに強い。

 

「これが奇跡のウマ娘の汗です。受け取れば幸運を授かるでしょう」

「いや、要らないから」

「新興宗教でも起こすつもりかよ、調子乗んな」

 

 ヒシミラクルは汗を拭いたタオルを尊大な態度で渡すがチームメイト達は雑に払いのけ、そのやり取りの後ヒシミラクル達は大笑いした。

 

「ミラクル、おめでとう。本当によくやった」

「ありがとうございます。運の強さも才能だ、お前は強い。この言葉で私が持つ運を肯定できました。今日の勝利はトレーナーのお陰です」

 

 ヒシミラクルは屈託のない表情を浮かべながらトレーナーに礼を言う。一方トレーナーは顔を伏せ重々しく言葉を紡ぐ。

 

「運の強さも才能、本当はそんなこと信じていなかった。ただ励ますための噓だった。今日のレースも実力では分が悪いと思って勝つとは信じきれなかったし、展開が向いてどこか運に恵まれた勝利だと思って胸を張れなかった。だが今のインタビューを聞いて今更理解した。運は紛れもない実力で有り、ミラクルは本当に強いウマ娘だと」

 

 長年のトレーナー生活の中で何人も大きなレースに勝った後に活躍できず、その勝利はフロックだと言われた教え子達を見てきた。

 その度にヒシミラクルにかけた言葉を言ったが教え子の表情は晴れることはなかった。

 それは運も実力であると心から信じきれなかったからだ。だが今なら断言できる。運は正真正銘の実力だと、それを教えてくれた。

 

 ヒシミラクルはトレーナーの言葉に胸を張って応じていた。

 

 

「運も実力の内か、案外そうかもな」

 

 タップダンスシチーは感心した素振りで呟く。勝負とは己を高め敵を知り欺いた結果の優劣で決まると思っていた。

 そして自分も含めて多くの者は運という要素を軽視していた。勝利の為に運という不確定要素を排除し、運で勝ったと言われないように日々研鑽を積んでいく。

 だがヒシミラクルは運という要素を拒絶せず受け入れ慈しんだ。もし幸運の女神が居るとしたらどちらに微笑むかと言われれば自分達ではなくヒシミラクルだろう。好意を与えない者に好意は返ってこない。

 それに運は時に実力を容易に覆す。蹄鉄が外れた。転倒に巻き込まれた。抉れた芝が顔面に当った。こういったことで実力が発揮できず負けた例は多くある。

 それ以外にも事故に巻き込まれた。食べ物があたってレースにすら参加できないということもある。レースに参加できなければいくら実力があっても意味が無い。

 かつてマルゼンスキーは日本ダービーに出走できれば確実に勝てると言われながら、中央ウマ娘協会の規定により出走できなかった。

 仮にヒシミラクルがマルゼンスキーに出走できなかったダービーに勝利したとすれば恐らくこう言うだろう。

 

 マルゼンスキーが規定によって出走できなかったのは自分の運が招いたもの、このレースは文句なく実力で勝ち取った完全無欠の勝利である。

 

 確かに今日のレースは前の流れが速かった。4コーナーで捲るのではなくもう少し脚を溜めれば勝ったかもしれない。

 だがそれは無意味な過程だ。この結果はヒシミラクルの運に自分の運が飲み込まれただけだ。

 今日のレースで勝負師として大切なことを教わった気がする。今度からは運という要素を排除せず受け入れる。そうすれば幸運の女神が微笑んでくれるかもしれない。

 取り敢えずとばかりにご利益に預かろうとヒシミラクルに向かって手を合わせて拝んだ。

 

 シンボリクリスエスは唇を噛みしめ鬼の形相でヒシミラクルを睨みつける。

 勝利とは自分で決めるものではない。他人が決めて評価するものだ。運の要素が多く絡んだ勝利など世間は認めず自分自身も認めない。その暴論に怒りすら覚えていた。

 だが結果はヒシミラクルの勝利という純然たる結果に終わる。確かにハイペースに巻き込まれたのはペース判断を誤った。巻き込まれずレースに立ちまわっていれば勝っていたかもしれない。

 だがこれは自分の未熟が招いた結果であり、断じてヒシミラクルの運が招いたものではない。何よりプロとして勝利を献上できなかった自分に一番腹が立つ。

 運に左右されない圧倒的な強さを身に着けなければならない。プロとしてより一層の精進を誓った。

 

 ネオユニヴァースはヒシミラクルの姿をじっと見つめる。今日のレースは完敗だった。

 それは3着という結果によるものではない。今日のレースではいつも通り自分が感じる宇宙を表現し周りに伝えた。だがより強大な宇宙によって飲み込まれていた。

 ヒシミラクルの運を重要視する主張、それには興味が無いがその信念が宇宙となり己の宇宙を飲み込んだ。

 もっとより深く宇宙を感じ強固にしなければならない。とりあえず3冠ウマ娘になれば宇宙は広がるかもしれない。新たな目標を胸に宿しレース場を去っていく。 

 

「うわ~素敵すぎる~!」

 

 デジタルは尻尾をブンブンと左右に振り目を輝かせながらヒシミラクルの姿を見つめる。

 己の力と運をどこまでも信じもぎ取った勝利、一片の曇りもなく自分の勝利を誇るその姿には後光が差しているように見えていた。

 

「あそこまで言い切れば大したもんや。ぐうの音も出ない勝利や」

 

 トレーナーは拍手をしながら賞賛の言葉を述べる。

 ヒシミラクルの勝利は地力もあったが運に恵まれた勝利というのがトレーナーの見解だった。

 だがそれは自分の運が招いた結果であり、この結果は完全な実力であると言い放った。

 その考えはトレーナーの頭にはまるで無く衝撃的な言葉だった。ある意味運の要素は走力以上に生まれ持った資質が左右するかもしれない。

 ヒシミラクルの言葉はトレーナー達に一石を投じるものとなるだろう。今度から選手をスカウトする際は運の要素を加味してみるのも良いかもしれない。

 

「さて良いもん見れたところで先の話をするか、予定は未定で暫くレースは走らず休養や。異存は有るか?」

 

 今日のレースは凡走に終わったが初の距離と厳しい流れで予想以上に疲労が溜まりお釣りは全くない。

 デジタルがどうしても走りたいレースがあれば考えるが、体調を考えて暫く休養したほうが良い。

 

「ないよ。ゆっくり休みながら予定を考える。それで話はもうこれでいい?早く場所を確保しないと良い位置でウイニングライブが見られない。じゃあね」

 

 デジタルは一方的に言い放ち急いでこの場を後にする。相変わらずの切り替えの早さだとトレーナーは表情を崩す。

 他のウマ娘ならすぐに反省会をするところだが、今反省会しても言葉が右から左だろう。とりあえずライブを存分に楽しんで気分を切り替えてから反省会をしたほうが効率的だ。

 トレーナーはデジタルの反省点を纏める為に映像を見始めた。

 

宝塚記念 阪神レース場 GI芝 良 2200メートル

 

 

 

着順 番号     名前       タイム    着差    人気

 

 

1   10   ヒシミラクル    2:11.8         4       

 

 

2   9   ツルマルボーイ   2:11.8   クビ    10  

 

 

3   6   ネオユニヴァース   2:12.0   1.1/2    2

 

 

4   5   シンボリクリスエス  2:12.1   クビ     1

 

 

5   16   タップダンスシチー 2:12.1   クビ     4

 

 

8   2   アグネスデジタル   2:12.9   3.1/2     3

 

 

 



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勇者の就活#1

 エイシンプレストンは運転席にいる父親に礼を言ってから車から降りて目の前の家を見る。

 ガレージには車が2台あり、庭にはブランコなどの遊具が置かれている。

 どうやら家主がDIYで作ったようで所々不格好だが温かみがある。しかし使用するものが居ないのかメンテンスされておらず、所々劣化の跡が見られる。

 それらの遊具に目を向けながら庭を通り過ぎ呼び鈴を押して扉の前に立つ。呼び鈴を押し家の住人が反応するまでの時間は妙な緊張感がある。無意識に体を動かしながら待つ。

 

『ハイ、どちら様?』

『エイシンプレストンです。アグネスデジタルさんはいらっしゃいますか?』

『プレちゃんか、ちょっと待ってて』

 

 会話が終わると扉の奥から足音が聞こえどんどんと大きくなり、扉が開くとアグネスデジタルが出てくる。Tシャツにショーパンというトレセン学園の時の部屋着とはまた違うラフな格好で現れる。

 

『ようこそ、ゆっくりしていって』

『お邪魔します』

 

 宝塚記念を出走したデジタルは疲れを癒すために休養を命じられた。トレセン学園でいつも通り過ごしても良かったのだが、長期休暇をもらったのでこの機会にアメリカに里帰りしていた。

 里帰りしてのんびりと過ごしながら英気を養っているなか、エイシンプレストンも里帰りしていることを知る。プレストンとデジタルも実家がケンタッキー州にある。

 デジタルはこの機会にプレストンに実家に遊びに来ないか何気なく提案したところあっさり了承して、こうしてデジタルの実家に遊びに来ていた。

 

『どうする?ご飯にする?それとも少し休む?』

『じゃあ、ご飯で』

 

 プレストンはデジタルに案内されリビングに向かうとデジタルの父親と母親が出迎える。

 

『ようこそ、ゆっくりしてください』

『日本ではお世話になりました』

『こちらこそお世話になります』

 

 プレストンは2人とハグして挨拶を交わす。友人の両親と顔を合わせるのは独特の緊張感を抱くのだが、以前にダートプライドの時に顔を合したせいか特に緊張することはなかった。

 挨拶を交わした後は食卓につき昼食が始まる。メニューはアメリカのごく普通の家庭料理で変に気を使って豪勢な料理が出るよりごく普通の料理が出るほうが気は楽だった。

 それからプレストンやデジタル幼少期の話題やトレセン学園在籍時の話題で会話は弾み、昼食は和やかに進んだ。

 

「さて、このあとどうする?アタシの部屋に行く?それとも外をプラプラする?」

 

 デジタルはリビングのソファーでくつろぎ一息つきながらプレストンに尋ねる。

 プレストンを家に遊びにくるように誘ったが自分の部屋でくつろぎ駄弁るか、近くの繁華街に行って遊ぶかぐらいしか考えていなかった。

 もう少し綿密に計画を立ていても良かったが、そんな仰々しくもてなさなくとも楽しく過ごせるだろうと思っていた。

 

「外って何かあるの?」

「映画館とかカフェとかショッピングモールとか」

「うちの地元と大して変わらないわね。折角だし何か変わったことしたいな」

「変わったことか」

 

 デジタルは予想外の反応に頭を悩まし、プレストンも言っただけでデジタルに丸投げするのも悪いと何がしたいか考える。

 

「そうだ、あれやろうよ。よくデジタルが推し活でやってるやつ、好きなウマ娘の所縁の地に行くやつ」

「聖地巡礼?」

「それ、その聖地巡礼」

「いいけど、誰の聖地巡礼するの?」

「アンタの」

 

 プレストンはデジタルを指さし、デジタルも確認の意味を込めて親指で自分を指さす。

 

「え~?アタシの?面白くないって」

「いいじゃん折角デジタルの地元に来たんだし、映画館とか行くの何て日本でもやってきたし、特別な事したいな。ホストなんだから客をもてなしてよ」

「何か図々しいな。まあそういうやりますけど。ママ~!パパ~!ちょっと出かけてくるから、夕食までに帰ってくる」

 

 デジタルは仕方がないと了承し両親に出かけることを伝えると玄関に向かう。プレストンもその後に付いていく。

 

「他のウマ娘ちゃんの聖地巡礼なら行くとこ何て山ほど有るんだけど、自分の聖地巡礼となるとどこに案内すればいいのやら」

「じゃあ、まずこの庭から、ウイニングライブを見て影響して真似したとかあるでしょう」

「何で分かったの?もしかしてエスパー?」

「大概のレース好きは真似するからね。かく言うアタシもやったし」

「プレちゃんもやってたんだ、意外~」

「小さい頃の話よ。それより当時の気分になってやってみてよ」

「しょうがないな、リクエストとかある?」

「ケンタッキーダービーのアンブライドルド」

 

 デジタルは庭に移動すると適当な場所に陣取り歌い始める。

 最初は自信なさげに真似をしていたが、思い出してきたのか徐々にテンションが上がってきてノリノリで歌う。その姿は幼きプレストンがウイニングライブで見たアンブライルドにそっくりだった。

 

「上手い上手い、そっくりだったよ」

「そう?久しぶりにやったから自信薄だけど、でも懐かしいな。小さいときはレースを見た翌日は友達の家に遊びに行ってウイニングライブの真似をしたな。プレちゃんは?」

「アタシはお風呂場でやってたかな。何か恥ずかしかったし。それで次はどこ案内してくれる?」

「次はどこ行こうかな~、あと移動手段どうする?これから行こうと思うところ少し距離あるから、車出してもらうこともできるけど」

「距離はどれぐらいなの?」

「全部周っておおよそ20キロぐらい」

「それなら走る。ご両親に車を運転させるわけにいかないし、その代り風よけよろしくね」

「了解」

 

 2人は軽く準備運動をしたのち、ゆっくりと走り始める。トレーニングとは違いゆっくりと走っていたので余裕があり、デジタルは当時の通学路を懐かしむ。

 スクールバスの車窓から見た景色、季節ごとに違いは有るがほぼ変わっていなかった。そしてバスの内装や友達との喋った内容など次々と頭に蘇る。

 

「いや~風よけがいると楽だわ。レースでもこうやって風よけにしたりされたりしてたな」

「アタシは小さいからそこまで効果薄いんだよね。逆に大きい子だと恩恵がデカイんだけど、ヒシアケボノちゃんとかの後ろにつくと楽なんだろうな」

「確かに、もしレースのワールドカップみたいなのが有ったら、誰かがアシストしたりするんだろうな」

「アシストって?」

「本命の前を走って風よけになる役、直線になったら進路を譲って脚を溜めた本命が1着を狙う」

 

 デジタルがプレストンの前の位置でウマ娘専用レーンを走る。この季節は気温30℃を超える日もあるが、今日は比較的に涼しく風も吹いているので軽く走るには心地良かった。

 そして2人はジョギング程度に軽く走っているが人間の乗るママチャリの全力程度にはスピードが出ているので、プレストンはより風よけの恩恵に預かっていた。

 

「到着、ここがアタシの通ってた小学校です」

 

 2人は数十分間走り目的地に到着し、プレストンはじっくりと校舎を眺める。自分が通っていた小学校とは違いレンガ造りのレトロな感じだ。

 

「小学校の時のデジタルはどんな感じだったの?」

「普通だよ。勉強もそこそこで、トラブルも起こさなかった。プレちゃんは?」

「自慢じゃないけど、勉強は結構できたし、運動能力もトップクラスだった」

 

 2人は学校の敷地を周りながら小学校時代の思い出を語る。本当なら校舎や校庭に入りたかったが、入り口は締まっていて無断で入れば不法侵入で罰せられる。

 敷地を一周した後は正門に背中を預けながら雑談を続ける。すると中年の男性が2人の元に近寄ってくる。その視線から警戒心が窺えた。

 

「すみません。この学校の卒業生で近くに立ち寄って懐かしくて、すぐに出て行きます」

 

 恐らく不審者と何かと勘違いされたのだろう。デジタルは頭を下げながらその場を立ち去ろうとするが男性の言葉で足を止める。

 

「キミはアグネスデジタル君だね?」

「はい」

「ああ、大きくなったね。テレビで見たが実際に見ると成長を感じるよ」

 

 男性は親し気に話しかけデジタルは男性を見つめる。そして数秒後何かを思い出したような表情を見せた。一方プレストンは状況が飲み込めずにいた。

 

「デジタル、その方はどちら様?」

「えっと、こちらはアタシが通っていた時の校長先生、そしてアタシの友達のエイシンプレストンちゃん」

「初めまして、エイシンプレストンです」

「初めまして、この小学校の校長です」

 

 デジタルはプレストンに気を使って校長を紹介し、2人は挨拶を交わす。

 

「エイシンプレストンさんは……アグネスデジタル君の日本のトレセン学園での友人で?」

「はい、ルームメイトでした。しかしよくご存知で」

「アグネスデジタル君と一緒に香港で走っていたのを覚えています」

 

 3人は軽く雑談を交わすと校長が本題とばかりにデジタルに問いかける。

 

「今日はどうしてここに?」

「プレちゃんが家に遊びに来て、暇つぶしにアタシが通っていた小学校に行こうという話の流れになって来ました」

「そうですか、よろしければ中に入っていきますか?そのほうが昔を懐かしめるでしょう。一応防犯上の理由で2人に同行することになりますが」

「いいんですか?では喜んで。いいよねプレちゃん?」

「アタシは別に構わないけど」

 

 校長は鍵束を取り出すと正門の隣にある扉を解錠し中に入り、デジタル達も後をついていく。

 中に入ると一面の芝生にサッカーゴールやバスケットボールゴールや滑り台などの遊具が設置されている。一般的なアメリカの小学校の校庭だった。

 デジタルは目を輝かせながら、プレストンは懐かしむように周りを見渡す。2人は幼い頃の思い出が徐々に蘇っていた。

 

「他の小学校も同じような感じなんだ。しかし小さいな、今なら余裕でダンクとかできそう。デジタルは何して遊んでた?」

「バスケとかサッカーはやんなかったな。アタシ球技のセンス無いし。校庭ではベンチで皆とお喋りしてたかな。でもレースごっこはよくやってたな。ウマ娘の友達と走ったり、人の友達を背負って走ったり、そういえばイージーゴアとサンデーサイレンスごっこして怪我したな~」

 

 デジタルは昔を懐かしみ楽しそうに語る。ごっこ遊びで転倒して腕を骨折したことがあったが、今では良い思い出だ。

 

「そういえばタカラヅカキネンは残念でしたね」

「えっ!?宝塚記念を知ってるんですか!?」

 

 デジタルは思わず驚く、日本の宝塚記念など一般的どころかアメリカのレース好きでも大概の者は知らない程世界的にはマイナーレースである。さらに自分が出走して負けたのを知っているのに驚いていた。

 

「はい、噂でアグネスデジタル君が日本に行ってトゥインクルレースで走っていると聞きまして、動向をチェックしていました。GI6勝にティズナウに勝って世界一になるなんて」

「いや、一応は非公式レースなので参考記録ですけど」

 

 校長先生が感慨深げに語るなかデジタルが恐縮そうに訂正する。意外な人物に見守られていた事が嬉しくもあり恥ずかしくもあった。

 

 3人は思い出話に咲かせながら校庭をぶらつき、区切りがついたら校舎の中に入っていく。

 デジタルは思い出を振り返るように各学級の教室に入っていき、目を輝かせながら机に座ったりして思い出を振り返っていく。そして4学年の教室に入ると校長が何かを思い出したかのように語り始める。

 

「そういえば覚えてますか?確か4年生の時でしたよね。アグネスデジタル君が校長室に連れていかれたのは」

「あ~、ありましたね。そんなことが」

「え?何をやらかしたの?」

 

 プレストンは歯切れが悪く相槌を打つデジタルを見て問い詰める。

 アメリカでは担任の言うことを聞かない子供や勉強しない子供は校長室に連れていかれて、説教を受けることがある。比較的に真面目と言ったデジタルが素行不良だったことに興味があった。

 

「えっと、当時は授業中にウマ娘ちゃんの雑誌や小説を読んでたんだよね」

「それは休み時間や家に帰ってやりなさいよ」

「ごもっともなんだけど、早く読みたいって我慢できなかったんだよね。それで担任の先生と言い争いして、校長先生のところに連れていかれた」

「それで注意を受けて親を呼ばれて説教を受けたと」

 

 校長室に行った大概の生徒は校長先生が親に連絡し、お宅の娘さんは学校で勉強していませんとハッキリと告げ家に帰らされる。その間は校長先生から説教を受ける。

 プレストンは校長室に行ったことが無いが、クラスメイトの何人か連れてかれ文句を言っていたのを覚えている。

 

「親を呼ばれることはなかったよ。ただそんなに楽しいのかって聞かれて、そこからぶっ続けでレースやウマ娘ちゃんの魅力を語った」

「何かやりそうだわ。それで何時間ぐらい語ったの?」

「3時間ぐらい」

「それ業務妨害でしょ」

 

 デジタルはバツが悪そうに頭を掻き、それを見てプレストンは思わずため息をつく。

 校長は忙しいと聞いている。そして今とは違って周りの気持ちを考えず好き勝手喋っていたのだろう。興味が無い分野の話を聞かされるのは苦行であり業務妨害だ。

 

「その時は暇でしたから、業務に支障はなかったです」

 

 校長はデジタルに助け船を出すように擁護する。あの時のデジタルは本当に楽しそうに喋っていて、ついつい聞き入ってしまったのを覚えている。

 デジタル達はその後一通り学校を回ったのちに小学校を後にし、中学校など所縁の地を訪問していく。時間は瞬く間に過ぎ気が付けば日が落ち始めていた。

 そして今日の聖地巡礼ツアーの最後の場所に訪れる。そこはデジタルの家の近くにある野球場数個分ほどの広大なスペースの丘だった。

 

「これが噂に名高い。始まりの地か」

「噂に名高いかは兎も角、ここで白ちゃんと初めて会った場所です」

 

 もしデジタルとトレーナーが出会わなければ、稀代のオールラウンダーが生まれることがなければ、出会うこともなかった。そう思うとプレストンも少しだけ感傷的な気分になっていた。

 

「ここで白ちゃんから送られたトレーニング書とか見て、トレーニングしたりしたんだよね」

「選手としての原点か、結構勾配も有るしトレーニングするには良い場所ね」

「そうそうミホノブルボンちゃんの話を聞いて何回も坂を上ったりしたな、アタシはミホノデジタルだって」

 

 プレストンはデジタルの話を聞いて懐かしむ。自分も幼き頃は特別になりたいとシアトルスルーの真似をしたものだ。

 

「折本人も居ることだし、デジタルとトレーナーの出会いの場面を再現しようか」

「へえ~、プレちゃんそういうことしたいんだ。意外」

「別に特段したいわけじゃないけど、聖地巡礼したなら再現するのが楽しみだって言うし、折角ならね」

「しょうがないな、じゃあ出会いの場面からで、プレちゃんは道路から駆け上ってアタシに声をかけてね」

 

 それから2人は出会いを再現するなどして思い出のシーンを再現して楽しみ、頃合いを見て帰宅していく。

 

 

「お邪魔しますっと、うわ……」

 

 帰宅した2人は夕食を堪能しお風呂に入った後はデジタルの部屋で過ごすという流れになる。

 プレストンは一声かけて扉を開けてデジタルの部屋に入るが圧倒され思わず声を出してしまう。

  私室に入るのは初めてだが、寮での共同生活でどのような部屋かはある程度予想出来ていた。だが完全に予想を上回っていた。

 左右の壁どころか天井すら埋め尽くすウマ娘のポスター、そして左右の棚には関連書籍や録画したビデオやDVDなどがぎっしりと詰まっており、栗東寮の4部屋分ぐらいの広さのスペースが1部屋分まで埋まっていた。

 

「何か実にらしい部屋ね。寮の時は大分加減してたんだ」

「流石に共用スペースだし加減してたよ。あと別の部屋にレプリカ勝負服とか飾っているグッズ置き場があるけど見に行く?」

「まだ有るの?」

 

 賞金でグッズを買い漁っていたのは知っているが、別部屋が作れるほどコレクションしていたのか、プレストンは思わず乾いた笑いを浮かべる。

 

「もはや図書館レベルね。レンタル料とか取れば商売になりそうって、うわ懐かしい、家にあるよ」

 

 プレストンは何気なく本棚から手に取った本を見て懐かしむ。アメリカ3冠ウマ娘シアトルスルーの自伝であり、親にせがんで買ってもらったのを覚えている。

 それから2人はレースの雑誌やDVDを見たり、小学校中学校の卒業アルバムを見るなどして時間を過ごしていく。時にはお互い本を読み合って無言の時間もあるが、気まずさはなく沈黙すら心地よかった。

 

「デジタル、将来の予定って決めてる?」

 

 プレストンは読んでいた雑誌を手に置くと唐突に問いかける。

 

「将来?今のところ走るレースは決めてないけど」

「もっと先の話、現役を引退した後のこと」

「一応はトレーナーになって、ウマ娘ちゃんのハーレムを築くことかな」

「それだったらどこでやるの?日本?それともアメリカに帰る?どこで勉強してどこで研修受ける?」

「どうしたのプレちゃん急に、そんな先のことなんて分かんないよ」

 

 デジタルは読んでいた本を置きプレストンを見つめる。あまりに唐突な質問に困惑していた。

 

「最近将来設計を考えているんだけど悩むんだよね。いつまで世界一を目指すか、仮に武術で世界一になったとしたらどうするか、武術をやり続けるか、それとも武術の最強を証明するために総合格闘技でもするか、引退した後はどうするか、通っている道場を跡に継いで道場主として道場を経営するか、ざっと挙げただけでもこんなにある」

「そんな先のことを考えても仕方がないって、目の前のことに集中しなきゃ世界一になれないよ」

「分かっているけどね」

 

 プレストンはため息をつく。デジタルの言う通り先のことを心配せず、目の前の目標を達成するために邁進すればいい、だがある程度道しるべがないと進めない性分である。

 

「折角だしデジタルも考えてみれば人生設計、大雑把でもいいからさ」

「考えるってどんな感じにさ」

「こんな感じ」

 

 プレストンはデジタルにスマートフォンを投げ渡す。そこには試合に勝つには?技の精度を高める、どうやって?動作を録画して確認するなど、提案と対応方法などが多岐に渡って書かれている。

 さらに総合格闘技に挑む場合や道場を継ぐ場合など進む分野に応じて事細かく書かれ、何歳で何を達成すべきなどの目標も書かれていた。

 

「うわ、めっちゃ書いてるんじゃん。こんな色々考えてるの?」

 

 デジタルは画面を見続ける。大量の文章で目が滑るが相当細かく書いている。細かくマメだと思っていたが、ここまで先のことを見据えていたとは思えなかった。

 

「まあ、ここまでしろとは言わないけど大まかでもいいから考えてみたら?」

 

 デジタルもプレストンの言葉に考え込む。将来の夢は決めていたが、大雑把なことしか考えていなかった。これを機に考えてみるのもいいかもしれない。

 

「じゃあ考えてみるか。まずは現役で走るでしょう。それから引退後は勉強してトレーナーになる」

「それでいつまで現役する予定なの?」

「そんな分からないよ。でも出来る限り走りたい」

 

 デジタルはしみじみと語る。長期休養を経てレースを走ったが改めてレースを通してウマ娘を感じることは素晴らしいと実感できた。

 いつぞやプレストンと話して10年も現役で走れないと言った。別にGIでなくてもいい、どんなレースでも構わない。だが出来るだけ多く長く走って感じたいという想いが膨らんでいた

 

「それじゃあ、現時点の最長現役年数を参考にしましょう。えっと最長現役年数は?」

「ミスタートウジンちゃんだね。確か12年間トゥインクルレースで走っていたかな」

「12年って、信じられない」

 

 プレストンはデジタルの言葉が正しいか確認しようとネットで検索する。確かに現時点でのミスタートウジンが最も長い年数走っている。

 改めて見ると驚異的な数字だ。身体の丈夫さや選手生命の長さもそうだが、精神も強い。いくら使い減りしないといえど衰えは確実に来て、外野からも色々と言われただろう。それでも走り続けたのは尊敬に値する。

 

「それで走るのは最後まで中央所属でいい?」

「いや、走れるなら地方でもどこでもいいよ」

「それだとグラベストダンサーっていう地方の選手が最長ね。15年間現役で走り続けている。途方もない数字だわ」

「よし、あと9年現役で走る!目標が明確になるとモチベーションが出てくるね」

「じゃあ、次は目標達成のために何をすべきかを考えてみるか」

「え~っと、健康に気を使うとか?節制するとか夜更かししないとか?」

 

 デジタルは思い当たることを思いついたままに述べる。今まで速く走るためにすることは考え実行したが、長く現役をするためにやることは考えたことがなかった。

 

「そんなところか、アタシも詳しくは知らないけど他のスポーツのベテラン選手でも調べてみれば何か分かるかも。でもウマ娘の衰えは特殊だから」

 

 プレストンは悩まし気に息を吐く。

 ウマ娘は人と比べ抜きんでた身体能力を有しているが筋肉量などは人の女性アスリートと変わらない。

 ならば何故ウマ娘と人類と能力の差が有るかは現時点では解明できていない。だがある仮説がたてられている。

 ウマ娘には人と違う内なる別の魂を宿していると言われ、それをウマ娘ソウルと呼称し、そのウマ娘ソウルが力を与えていると言われている。

 そのウマ娘ソウルが衰え始めると身体能力も衰え始めると言われている。

 また衰えは完全に個人差であり、クラシック級の頃には衰え始めるウマ娘もいれば、ミスタートウジンのように比較的に衰えず長年走れるウマ娘も居る。

 そして現時点で衰えの進行を止める方法は確立していない。

 

「一応いくつか方法は有るらしいけど、民間療法というか眉唾ものだし」

「それでもアタシはやるけどね」

「まあそこは科学の進歩を待つとして、次は現役引退後の話か、トレーナーになるにしてもどうしたいの?日本でやるか海外でやるか、日本だったら中央と地方があるけど」

「やるとしたら日本かアメリカか英語が母国語の国だろうね。只でさえトレーナー試験は難しいのに、別の言語を覚えてテストするのは時間がかかり過ぎる」

 

 トレセン学園のサポートがあったにせよ日本語を習得するのに大変苦労した。現時点で喋ることには苦労しないが、漢字の読み書きなどは未だに自信がない。

 さらにトレーナーになるには日本の最高学府であるT大に入学するより難しいと言われ、トレーナーから勉強漬けの日々を数年してやっと合格したという苦労話を聞いている。

 そう考えれば日本や英語が母国語でない国のトレーナー試験に受けるのは現実的では無い。

 

「そうなるとトレーナーになるとしたら日本とアメリカとイギリスか」

「でもやるとしたら思い入れがある日本かアメリカかな」

「それで目標はウマ娘のハーレムを作るだっけ?それなら日本でトレーナーになったほうがいいんじゃない。日本なら実績は充分で知名度が有るだろうし、最初はメンバーが集まると思う」

 

 デジタルはプレストンの言葉に思わず頷く。トレーナーとしての夢は多くのウマ娘と関わることだ、その為にはチームに多くのウマ娘が所属する必要がある。

 その為に必要なのは指導力などだが、手っ取り早く集めるにはネームバリューを生かして集めることだろう。自分の現時点の勝ち鞍において、アメリカで評価されるのはダートプライドぐらいでそれ以外は評価されない。それなら日本でトレーナーになったほうがいい。

 

「それでトレーナーになるとしたらデジタルが現役最長年齢を更新するとして、約10年後か、比較的に余裕があるけど勉強の計画は?」

「えっと……現役を引退してから頑張ればいいかなって」

「甘い、時間は限りなく有効活用しないと、今からでも遅くないから勉強を始める」

「でも現役の時は走ることに集中したほうがいいんじゃない」

「別に現役の為に24時間費やしているわけじゃないでしょ、空いている時間でトレーナーになるための勉強すればいい、それか時間を作るか、例えばウマ娘の映像を見るとか調べるとかの時間を減らすとか」

「それはダメ!これは最早ライフワーク!それを減らすなんてとんでもない!」

「だったら睡眠時間を減らすことね。その分寿命が減ってトレーナーをやる時間が減るかもしれないけど、兎に角勉強する時間を作る」

「ぐぬぬぬ……確かに」

 

 デジタルはプレストンの反論に思わず唸る。過去にトレーナー試験の教材を購入し読んでみたが、あまりの難解さにその日で読むのを止め、今では寮の自室にある本棚の奥底にしまい、その日から引退してから勉強を頑張ろうと目を背けていた。

 だがトレーナーになって少しでも長い時間ウマ娘達と触れ合うには現実から目を背けず困難に立ち向かわなければならない。

 

「よし、明日から頑張ろう!」

「今日からよ、今日頑張らない者に明日は来ない」

「分かった!」

 

 デジタルは勢いよくスマートフォンを取り出して電子書籍のページに飛ぶ、試験の教材はもちろん運動生理学、栄養学、ダンス、歌唱に関する本などトレーナーライセンス試験に合格するために必要そうな教材は片っ端に購入する。

 

「よしやるぞ、まずは現時点の実力と雰囲気を確認するために過去問をやってみよう」

「アタシにも問題見せて、どんな問題か興味あるし」

「いいよ。うわ選択問題じゃなくて全部記述式なんだ」

「これは難しいわ。というより知らなかったの?」

「恥ずかしながら」

 

 それから2人はトレーナーライセンス試験の過去問を解きながら夜は更けていく。

 内容は専門的で深い知識がなければ解けない問題ばかりの連続だった。だがデジタルはレースを走ったウマ娘についての問題だけは全て正解していた。

 そして2人は眠気が襲ってきたころには過去問を解くのを止めると電気を消してベッドに入る。

 

「昨日は楽しかったよ。今度はアタシの家に遊びに来てよ。そんな遊ぶところはないけど」

「来た時はプレちゃんの聖地巡礼するから色々準備しておいてね」

「分かった。トレーナーライセンスの問題はチンプンカンプンでやる気が萎えるかもしれないけど、少しの時間でもいいから勉強しなさいよ。残り時間は9年もあるんだから何とかなるでしょ」

「確かにそう考えるとやれる気がする。じゃあね」

「じゃあね」

 

 プレストンは手を振って挨拶するとタクシーに乗って去っていく。

 昨日は思い出に残りやすそうな特別な事をしたわけではない。近くをぶらついて部屋で本を読んでお喋りしただけだ。

 だが本当に楽しく思い出の1ページに残るだろう。もし機会があればオペラオーやドトウなどの友人も招待して一緒に過ごしたいものだ。

 そして昨日は楽しいだけではなく有意義な時間でもあった。人生設計を考えることで自分が何をやりたくて、その為にどんな行動をするべきかぼんやりと分かってきた。次にすべき行動はこれだろう。

 

 デジタルは家に戻ると荷造りを始めた。

 



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勇者の就活#2

 アメリカのレース業界では日本の中央ウマ娘協会のような1つの組織がトゥインクルレースを運営しているわけではなく、州ごとにウマ娘協会があり独自に運営し、日本の地方ウマ娘協会に近い。

 そして地方のようにレース場近くにトレーニング場があり、アメリカの広大な土地故か1つ1つがトレセン学園並の広さを有している。

 アメリカは日本と比べ遥かに領地が広く各レース場で行くにせよ、海外遠征並の移動距離と環境の変化が起こる。

 環境に馴れるという意味でも早めに現地入りしてトレーニングするのがベストであるが、大半のウマ娘は遠征先では拠点となるような場所もなく、勝手が分からない状態では効率的なトレーニングができず、調整のみになるのが現状だ。

 だがゴドルフィンでは主要のレース場に管轄のチームが有り、遠征してきたゴドルフィンのウマ娘を受け入れみっちりとトレーニングできる環境で、アウェイの不利を限りなく少ない。

 サラトガレース場近くにあるトレーニング場、数週間後に行われるGIホイットニーハンデに向けて、ゴドルフィンのウマ娘達が集まりレースに向けてトレーニングしていた。

 メニューを順調にこなし最後にダートコースで模擬レースを実施する。ゲートには地元のレース場でトレーニングする者やレースに出走するウマ娘が集まる。その中にストリートクライも居た。

 

 ゲートが開き各ウマ娘は一斉にスタートする。出走ウマ娘は9人、ストリートクライは即座に葦毛のウマ娘すぐ後ろのポジションを取る。

 このレースでは彼女をマークすることが目的である。マークの仕方としては自分の存在感を相手に伝えプレッシャーを与える方法と、極力存在感を消し出し抜く方法が有る。

 今回は後者を選択し、目の前のウマ娘と呼吸を合わせ足音も出来るだけ合わせるように同調する。

 葦毛のウマ娘が先頭を進む。彼女の脚質は逃げであり、最初からハイペースで飛ばし力尽きた者から沈んでいくアメリカのレーススタイルを体現している。

 第1コーナーに入ると葦毛のウマ娘が僅かにバランスを崩し減速する。その隙を見逃さんと他のウマ娘が抜きにかかるが葦毛のウマ娘もそうはさせないとペースを上げてハナを守る。

 第2コーナー第3コーナーでも同じように葦毛のウマ娘は僅かにバランスを崩れ減速し、それでもハナを守ろうとペースを上げる。

 そんなレース展開が続けば力が尽きるのは自明の理であり、葦毛のウマ娘は直線に入ってすぐにズルズルと後退していく。

 その隙を待っていたかのように、後方6番手の栃栗毛のウマ娘が一気にスパートをかけてストリートクライの横を抜き去ろうとするが、バランスを崩したのか外にヨレてしまう。

 即座に態勢立て直し猛追するが先頭を走っていたウマ娘を捉えきれず2着で終わる。葦毛のウマ娘は7着、ストリートクライは9着だった。

 模擬レースが終わり各ウマ娘は息を整えるなか、ストリートクライはレースを見ていたトレーナーの元に歩き始める。そしてストリートクライの友人であるキャサリロも同じように近づいていく。

 

「まず、コーナーを曲がるとき……重心が左にユルユルです……私がやらなくてもやられます」

「えっと、まずアラバマスラムですが、コーナーを曲がる際に重心が左に僅かに寄っているみたいです。クライほどの技術が無くとも突発的な接触で体勢が崩れタイムロスに繋がります」

「そして……仕掛ける時にグワッとなって右肩がバッとなるので分かりやすいです……」

「メテオザッパーは仕掛ける時に息を大きく吸い込む癖があり、右肩が僅かに動くみたいです」

「そうか、あとで分析班と検証しよう。集合!」

 

 トレーナーが声をかけると模擬レースを走っていたウマ娘が駆け寄りレースの講評が始まる。

 各ウマ娘達に良かった点と悪かった点を述べていき、最後に葦毛のウマ娘アラバマスラムと栃栗毛のウマ娘にメテオザッパーの講評に移る。

 

「まずはアラバマスラム、あそこまでペースが乱されれば共倒れになるのは分かるだろう。逃げで押し切りたいのは分かるが状況を考えろ、状況に応じてペースを落とし時には差し切ることも想定しろ」

「はい」

「次にメテオザッパーだが、仕掛けの予備動作が大きい。今までなら問題なかったかもしれないが、上のステージで走れば即座にブロックされるぞ」

「はい」

 

 トレーナーの講評に熱が入る。彼女らは次のホイットニーハンデでも上位人気が予想されるゴドルフィンの期待株である。

 ストリートクライ達はトレーナー達の輪から外れ様子を見守っていた。

 

「お疲れクライ、相変わらずキレキレだな」

「1着を目指さないで崩しに専念にすればあれぐらい……」

 

 ストリートクライはキャサリロから貰ったタオルで汗を拭きながら涼し気に言う。講評が始まると模擬レース2本目が始まり、ストリートクライも準備を始めた。

 

 

「今日も疲れたな~ってアタシは走ってないけどな」

「そうだね」

「そこはそんなことないって言えよ」

 

 ストリートクライとキャサリロは冗談交じりの会話をしながらトレーニング場の正門前に向かって行く。これから知人と夕食を食べる約束があった。

 トレーニングが終わってもやることが有るので断っても良かったが、わざわざ出向いた相手を無下にできない。それに明日はオフで夕食ついでに少し話す時間はある。

 正門に近づくにつれ外で待ち構えている人物の姿が鮮明になっていく。その人物も2人の存在に気づいたのか、手をブンブンと振り存在をアピールする。

 

「ストリートクライちゃん!キャサリロちゃん!久しぶり元気にしてた!」

「まあまあ……」

「久しぶりだなアグネスデジタル、なんでこっちに来てんだ?」

「里帰り」

 

 デジタルは久しぶりに顔を合わせたのが嬉しいのか、テンション高く親し気に話しかける。

 ストリートクライはキャサリロの影に隠れるようにぶっきらぼうに返事し、キャサリロは社交的に応対する。

 

 デジタルはプレストンと今後の人生設計について語り合った後にキャサリロとストリートクライに連絡した。

 2人は現役引退した後トレーナーを目指して勉強していると聞いていた。同じ道を志す者として参考になる話が聞けるかもしれない。そして色々と近況を聞いて話したい。

 まずキャサリロのツイッターのアカウントに自分のアカウントから会いたいとダイレクトメッセージを送った。ストリートクライはツイッターのアカウントがなく、キャサリロとしか連絡が取れなかった。

 そこから連絡を取り合い食事の約束を取り付け、日時を決めると実家のケンタッキーからニューヨーク州に向かっていた。

 

「それでどこでご飯食べる?一応ピックアップしたけど、2人は行きたい場所ある?」

「アタシ達の行きつけのレストランがある。そこでいいか?」

「ということは、キャサリロちゃんとストリートクライちゃんがいっつも食べているメニューが食べられる!?Yes off course!行く行く!」

 

 デジタルは掛かり気味で返答し2人は若干戸惑いながら了承し目的地に向かう。

 

「この後はどこに泊るんだ?」

「近くのモーテル」

「翌日はどこか観光するのか?」

「いや、明日には出発する。ちょっとイギリスに行く用事があるから」

「このためにわざわざ来たのか?ご苦労だな、そういえば実家はどこ?」

「ケンタッキー」

 

 デジタルとキャサリロは世間話をし、ストリートクライは2人の後ろで話を聞きながらレストランに向かう。

 歩いてから十分程経過するとキャサリロが目的地を指さして誘導する。

 そこはアメリカ大衆向けレストランのダイナーで外部にはステンレス製の素材を使用しているせいか銀色で目立っている。中はリノリウムの床に日本のファミレスに近い内装だった

 キャサリロ達は迷いのない足取りでテーブル席に座る。2人はメニューを見ずに暗唱で注文し、デジタルは2人と同じもので料金は据え置きでいいので量は半分にしてくれと店員に注文していた。

 

「なんでそんな注文を?量が多いなら1品だけ頼めば?」

「いや……丁度その2つを食べたい気分でさ、そんな気分の時ない?」

 

 デジタルはストリートクライの質問にアタフタしながら答える。

 今の言葉は本音で有るが正確ではない。正確に言えばその料理が食べたいのではなく2人が食べたメニューを食べたいのだ。だがそんなことを言えば気持ち悪がられるのは目に見えていた。

 

「ない……でもそんな時はキティに頼んでもらって分けてもらう」

 

 デジタルは思わず俯いてストリートクライから目を背ける。

 料理を分け合うストリートクライとキャサリロ、お互いに食べあいっこ、妄想が加速して尊い場面が次々に浮かび上がる。恐らく締まりのない顔をしているので、そんな表情を見せるわけにはいかないと俯いていた。

 

「それで唐突だけどアタシもトレーナー志望で2人の話を聞いて色々参考にしたいんだよね。2人はどうやって勉強してる?あとストリートクライちゃんはランニングパートナーだっけ?どんなことしてんの?」

 

 デジタルは妄想を抑え込み平静を装いながら2人に質問する。調べているうちに2人がゴドルフィンとランニングパートナーとして契約しているのは分かったが、肝心の内容が不明瞭だった。

 

「まずランニングパートナーは……ボクシングのスパーリングパートナーみたいなもの……」

「模擬レースで一緒に走るってこと?あれって現役の選手同士でやるものじゃなかったっけ?でもストリートクライちゃんは引退してその……」

 

 いくらストリートクライでも現役を引退し、現役選手と同等の力を持っていると思えず調整相手になるとは思えない。

 それだったら現役選手同士で走ればいい。デジタルが言葉を濁すなか、キャサリロが心中を察したのか補足の説明を加える。

 

「模擬レースで本番を想定して本命の相手を徹底的に邪魔して、修正点を指摘するのがクライの役目だ。それで本命は模擬レースを通して妨害に対する対応力を身に着ける。クライには崩しがある。クライ以上にこの役目を全うできるウマ娘は居ないからな」

 

 崩しとはスパートのタイミングで体勢を崩してタイミングを遅らせる。土のキックバックを相手に当てる。反則にならない程度に進路をカットするなど相手の力を削ぐ技の総称である。

 ストリートクライは力が衰えて現役を退いた。だが崩しの技術は全く錆びついていなく、仮にアメリカダート最高峰のBCクラシックに出走しても入念な準備し勝利度外視であればどんな相手でも崩せる。

 その力に目を付けたゴドルフィンはストリートクライとランニングパートナーとして契約していた。

 

「それでレースごとに召集されてアメリカ各地のトレーニング場に行って模擬レースを走る。それがクライの仕事。新しい仕事が見つかって助かったよ。まさに芸が身を助けるってやつだな」

「へ~、それでキャサリロちゃんもそのランニングパートナーの仕事をしてるの?」

「いや、アタシはクライのバーターだよ。持つべきものは友達だね」

「違う!」

 

 ストリートクライは声を荒らげ否定する。デジタルはその様子の変わりように思わず目を丸くしながら視線を向ける。

 

「私の崩しは失敗すれば相手を怪我させる……そうしないようには崩しの精度を高めないといけない……キティが相手の走りをコピーしてくれて実験台になってくれる……だから私は模擬レースで怪我させないで相手を崩せる……それにキティは私が伝えたいことをトレーナー達に伝えてくれる……」

 

 ストリートクライは懸命に言葉を紡ぐ。キャサリロは卑下してバーターと言ったがそれは断じて違う。

 自分なら修正点を見つけてもフワッとしているグワッとするなど感覚的な言葉を言ってしまい上手く相手に伝えられない。しかしキャサリロが自分の言葉を翻訳してくれ相手に正しく伝えてくれる。

 もしキャサリロが居なければランニングパートナーの仕事は全うできていない。それを自分だけの実力と勘違いされるのは何としても避けたかった。

 

「なるほど、キャサリロちゃんも頑張っているからレーシングパートナーが出来てるんだね」

「そう……」

 

 ストリートクライはデジタルが理解した様子を見て満足げな表情を見せる。

 一方デジタルは表情筋を必死に抑え込みニヤケないようにする。友の名誉のために口下手なウマ娘が必死に弁解する。何てエモい光景なのだ。

 

「それでランニングパートナーの仕事以外はトレーナーの勉強していると」

「まあそんな感じ、それでランニングパートナー契約のオプションで研修の一環でトレーナーの手伝いをしてる。けど雑用とかで資料整理とかやらされるから机に向かって勉強する時間はそんなにない」

「へえ~、大変そう」

「それにレースごとに色々なレース場に行かないといけないから移動が地味にキツイ」

「そっか、こっちだとそれがあるのか」

 

 デジタルはしみじみと頷く。アメリカの国土の広さは日本の数十倍はある。

 レース場から別のレース場に移動するだけで何時間もかけて移動しなければならない。それを繰り返すとなると心身ともに疲弊する。

 

「それで2人は元々トレーナー志望だったの?」

「いや、特にそんなことはなかった」

「じゃあ何で?」

「私達が……過去現在未来において最強のウマ娘になれなかったから……」

 

 ストリートクライはこぶしを握り締めキャサリロは唇を噛みしめ俯く。

 全てのカテゴリーにおいて最高峰の舞台で勝ち続ける。それが2人の描いた途方もない夢だった。だがダートプライドに敗北し、怪我と衰えによって現役を退き夢を叶えることはなかった。

 

「でも私達の夢は終わっていない……トレーナーになって過去現在未来において最強のウマ娘を育てる。それを達成できれば………私達は過去現在未来において最強のウマ娘」

 

 ストリートクライは力強く宣言する。確かに現役時代では夢を叶えられなかった。

 だが現役時代で2人が培ったものを全て注ぎ込み想いを継承したウマ娘が全てのカテゴリーで最高峰の舞台で勝利する。それはある意味2人の夢を叶えたことになる。

 一方デジタルは目頭を押さえながら溢れ出る感情を押し込める。

 2人の夢破れたかと思われたが終わってはいなかった。2人の意志を引き継いだウマ娘が代わりに夢を叶える。キャサリロとストリートクライの関係だけでも尊いのに、教え子のウマ娘も加えれば尊さは何倍にも膨れ上がる。

 何て尊く感動的なのだ。気を緩めると涙が溢れて止まらなくなる。

 

「その為に今は下積みだ。ランニングパートナーをしながら各地のトレーナーのトレーニング方法や思考を学ぶ。何だかんだでゴドルフィンは世界屈指の組織でトレーナーも優秀だ。ただ働き当然でも学べるのはありがたい。まあゴドルフィンでトレーナーとして研修を受けられれば良かったんだけどな」

 

 キャサリロは肩を竦める。人間のトレーナーとの間にある不思議な絆が信じられており、多くの場合は人間が務める。

 これはオカルトではなく数字の上でも物語っており、ウマ娘のトレーナーの元でGIに勝利したウマ娘はいない。

 原因は分かっていないがウマ娘のトレーナーでは強いウマ娘を育てられないことは事実として扱われている。

 その事実が有る以上、ゴドルフィンはウマ娘に研修などを受けさせトレーナーにするのは時間とコストの無駄であると判断していた。

 本来ならばキャサリロとストリートクライはゴドルフィンの元でトレーナーの手伝いすらできなかった。だがストリートクライの力とキャサリロの交渉によって何とか研修を受けられていた。

 

「アグネスデジタルは何でトレーナーになりたいの?」

「それは……ウマ娘の皆と関われる仕事がしたいし、現役時代の経験を生かせるかなって」

 

 ストリートクライの質問にデジタルは若干詰まりながら答える。

 今の言葉は本心の一部ではあるが全てではない。もし本心であるウマ娘のハーレムを作りたいと言えば間違いなく面接試験で落とされ、他の人も引いてしまう。その為に一般用の受け答えを既に考えておいた。

 

「アグネスデジタルはトレーナーになれない……」

 

 ストリートクライは突如否定的な言葉を言い放ち、デジタルは思わず視線を向ける。

 

「参考までに理由を訊いていい、アタシは頭いい方じゃないけど、トレーナーになりたいって気持ちは2人に負けないつもりだし、これからメッチャ勉強するつもりだよ」

 

 デジタルの語気は無意識に荒らげる。唐突に目標を達成できないと言われ僅かに腹が立っていた。

 

「トレーナーになってからの目標が有るか?」

 

 口を開いたのはストリートクライではなくキャサリロだった。

 デジタルは質問に対して言葉が詰まる。プレストンと考えた将来の人生設計ではトレーナーになる為のプランは大雑把に決めたが、トレーナーになってからのプランは決めていなかった。

 

「目標はゴールより遠い場所に置くもんだ。大概の人はゴールを目標にすると失速する。トレーナーになることを目標にしていたらトレーナーになれないって言いたかったんだろ」

「そう……」

「相変わらず言葉が足りないな、気を悪くしないでくれ、これでもアグネスデジタルを気に入ってるんだ」

 

 キャサリロはストリートクライの首に腕を回しながら茶化し、ストリートクライは誤魔化すように視線を逸らす。

 アグネスデジタルはダートプライドで己の全てを賭けて競い合った相手であり、ストリートクライにとってもダートプライドは特別である。破れて多くを失ったが恨みはなく、情すら抱いていた。

 そしてウマ娘でありながらトレーナーを目指すという困難な道を歩む同志でもある。

 だがこのままではトレーナーにはなれない。なれたとしても現状に満足しいずれクビになると思っていた。

 

「うぅ~感激!ストリートクライちゃんがそこまでアタシを気にかけてくれるなんて!いや、申し訳なさ過ぎてこの場から消えたい!」

 

 デジタルは予想外の反応に喜び動揺し挙動不審になる。ストリートクライは他のウマ娘にあまり関心を向けていないと思っただけであり、自分に対する助言はとても嬉しかった。

 

「大げさだな、それより料理が来たぞ」

 

 ウェイターが料理を置いていき3人は食事を開始する。

 食事を楽しみながら様々な話題を話した。主にトレーナーについての話題であり、勉強方法や各トレーナーのトレーニング方法などで、デジタルも自分のトレーナーのメニューの作成法やレースでの指示の出し方など知る限りの情報を全て伝えた。

 

「あ~楽しかった。今日は来てくれてありがとうね。2人も頑張ってトレーナーになって過去現在未来において最強のウマ娘ちゃんを育ててね。もし日本に来ることがあれば出来るだけ手伝うから」

「ああ、日本のジャパンカップに勝ってやる」

 

 デジタルは笑顔で手を差し伸ばしキャサリロは不敵な笑みを浮かべながら握り返す。そして今度はストリートクライに手を差し伸ばす。

 

「アグネスデジタル……トレーナーになって」

「ありがとうストリートクライちゃん!必ずなるから!」

「そして私達が育てたウマ娘が……貴女が育てたウマ娘に勝つ。そうでないと夢は果たせない……」

 

 ストリートクライはデジタルの手を強く握る。サキーとティズナウや自分を破ったデジタルは間違いなく強くダート世界最強に相応しかった。

 そのデジタルの想いを継いだウマ娘を倒す。その時初めて自分が育てたウマ娘は過去現在未来において最強になる。

 

 デジタルは2人を見送りモーテルに向かいながら、ストリートクライの手の感触を思い出す。

 随分と過大な評価を受けてしまった。だが自分の育てたウマ娘を倒すことが夢に繋がるならばできる限りの努力しよう。

 デジタルはモーテルに着くと荷物を置きベッドに飛び込む。そして天井を眺めながら改めて先程の会話を思い出す。

 トレーナーになることをゴールにするのではなく、トレーナーなってから何をしたいのか考えなければならない。

 デジタルは暫く思考するが答えは浮かばなかった。焦ることはない、色々な人の話を聞いて答えを導き出せばいい。

 将来についての思考をいったん打ち切り、次なる目的地と出会う人物に想いを馳せながら眠りについた。

 



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勇者の就活#3

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


 アグネスデジタルは周りを見渡しながら歩を進める。辺りは木々に包まれて木漏れ日が差しており、山道を歩いていく様子はまるでピクニックに行くような気分だ。

 だがピクニックと違い周りの人々は軽装ではなくドレスアップしている者が多い。自分も軽装ではなくドレスアップしたほうが良かったのかと不安にかられながら、山道を登っていく。

 駅から歩いて15分後、目的地にたどり着くと旅の疲れや服装の不安など彼方に吹き飛んでいた。

 

「ここがアスコットレース場か」

 

 デジタルはユニオンジャックを施したスタンドを見ながら感慨深げにつぶやいた。

 

 ストリートクライとキャサリロと会食をした翌日、デジタルはニューヨークから飛行機でイギリスに向かっていた。旅行の目的は本日行われるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを見る為である。

 ヨーロッパレース界上半期の中長距離最強を決めるレースと位置づけされ、その格は芝最高峰のレースと呼ばれている凱旋門賞に引けを取らず、世界4大レースの1つに数えられている。

 

 デジタルは入場ゲートでチケットを購入する。チケットには一般用とゲスト用があり、チケットの種類によって入れる範囲が異なり、少し奮発してゲスト用のチケットを選んだ。

 敷地に入ると近くの売店でレースカードを購入する。レースカードとは日本のレーシングプログラムのようなもので、内容は各レースに出走するウマ娘の紹介などレーシングプログラムと内容はさほど変わらなかった。

 レースカードでタイムスケジュールを確認する。早めに来たので第1レースまで時間が有のでパドックが始まるまで暇つぶしに敷地内を探索する。

 敷地内にはカフェやバーなどの飲食店がいくつかあり、パドックエリアの裏ではピクニックスペースでのんびりできるなど、どことなく東京レース場に似ている印象を受ける。

 そして一番印象的だったのはスタンドのエントランス内でジャズの生演奏が行われるなど、エントランス外でも民族楽器の生演奏なども演奏されていたことだ。曲調も陽気で気分が高揚しお祭り気分になる。

 デジタルはパドックが始まる頃には最前列に陣取り観察する。緊張している者、興奮している者、やる気を漲らせている者、様々な感情や表情が見られるのはイギリスでも日本でも変わらず万国共通なのだと改めて実感していた。

 パドックが終わるとゴール板付近に移動する。日本のレース場と違い最前列はラチのすぐ近くである。さらにレースによってはウマ娘達が外に広がるので、間近で見ることもできる。

 それから暫くはパドックとゴール板付近を行き来しレースとウマ娘達を堪能し、瞬く間に時間が過ぎていく。

 第3レースが終わりデジタルは時刻を確認するとパドックではなくゲストエリアにあるイベントブースに向かう。そこにはイベントを出来るだけ近くに見ようと何人かが陣取っていた。デジタルも空いているスペースを見つけて陣取るとイベント開始を待つ。

 

「お待たせしました。今日は欧州上半期を締めくくるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスが行われます。そこで歴代の勝利者に来てもらい今日のレース展望や過去のレースの思い出など色々語ってもらいたいと思います。暖かな拍手でお迎えください。まずはブロワイエさんです」

 

 司会の紹介とともにブロワイエが登壇し暖かな拍手で出迎えられる。現役時代の勝負服に寄せたデザインの豪華なドレスを着ており場は華やかさに包まれる。

 ブロワイエは凱旋門賞ではエルコンドルパサー、ジャパンカップではスペシャルウィークと走り日本と縁が深いウマ娘である。さらに勝利したキングジョージでは同期のエアシャカールとレースを走っていた。

 エアシャカールはダービー2着で大概のウマ娘は菊花賞に向けて休養するなか、果敢に欧州最高峰のレースに挑んだ姿は同期として誇り高い。

 

「続いてサキーさんです」

 

 続いてサキーが登壇する。現役時代の勝負服と同じ青色のドレスを着ている。ダートプライドで着ていた丈が短いワンピースタイプのドレスとはデザインが違い、より格調高いデザインである。

 ダートプライドの時は健康的な美しさだが今はより大人で艶やかな印象を受ける。

 デジタルはスマホで写真を取りながらサキーやブロワイエを堪能する。するとカメラ越しにサキーの目線が合い、ウィンクした姿が映る。

 そのファンサービスにデジタルは気持ち悪いほど顔をニヤつかせながら写真を撮り続けた。

 イベントは2人の来歴や近況の紹介から始まり、レース映像を交えながら過去のレースを振り返り、そして今日のレース展望や予想などを話す。時折冗談を交え終始和やか空気で進んでいき、皆が楽しめたイベントになった。

 

「いや~眼福眼福、まさかブロワイエちゃんのお姿まで見られるなんて、これも日頃積んだ徳のおかげかな」

 

 デジタルはホクホク顔でイベントスペースからパドックに戻りレース観戦を続行し、メインレースを迎える。

 レースはアイルランド出身のドノヴァンが1番人気に見事に応え勝利する。ターフの外から伝わる想いと情熱などの様々な感情、どこの国のレースでもウマ娘達が競い合う姿は素晴らしいと改めて実感していた。

 

 

 ロンドン街中のとある大衆向けレストラン、そこには労働者や家族連れなど様々な人が訪れていた夕食を楽しんでいた。そしてデジタルとサキーは一番の奥のテーブル席に座っていた。

 

「前もって声をかけてくれれば来賓席に招待しましたのに」

「レースは来賓席の見やすいところじゃなくて出来るだけ前で見るのが好きなんだよね」

「それにイベントも見ていたなんて、友人に見られるのは妙な気恥ずかしさがありました」

「でもしっかりウインクしてくれたよね。視線頂きましたって嬉しさで叫んじゃいそうだったよ」

「ファンサービスはしっかりしないといけませんから」

「流石意識高い」

 

 2人は気の置けない会話を楽しみながら料理を来るのを待つ。

 デジタルがイギリスに来た目的はアスコットレース場でキングジョージを見ること、そしてサキーと会うことだった。

 ダートプライド後も連絡を取り合いどこかで会おうと約束していた。だがお互い予定が合わず時間が過ぎていくなか、サキーがロンドンに足を運ぶことを知ったデジタルは丁度良い機会とイギリス旅行を計画しロンドンに来ていた。

 

「しかし、中々会えなかったね」

「申し訳ないです。ありがたいことに多くの仕事を頂いて日本に行く時間がなかったもので」

 

 サキーは若干申し訳なさそうに頭を下げて謝罪する。現役引退後はレース番組のコメンテーターの仕事に就いていた。

 番組内では関係者へのインタビューやレースの予想をしていた。他にもコラムの執筆やレースとは関係ない番組でもゲストなどで出演など精力的に働いているようだ。その多忙の日々のなかでは現役選手として日本で走っているデジタルとは予定が中々合わなかった。

 

「売れっ子だし、しょうがない。あとテレビは見られないけどコラムは読んでるよ。エモい文章でいつも胸がキュンキュンしてる」

「ありがとうございます。私としては取材したウマ娘の魅力が1人でも多く伝わるようにと書いているだけなのですが」

「それがいいんだよ。サキーちゃんの愛が読者に伝わっている」

 

 デジタルは力強くサキーを褒める。全てのウマ娘と関係者の幸福を願うサキーの進路は気になるところであり、当人はコメンテーターという職に就く。

 積極的に広報活動をしてレースを見てくれる人の数を増やそうという考えであると予想していた。

 そして予想通りサキーは業界内外でも徐々に人気を博し、欧州では徐々に観客動員数や視聴率やグッズの売り上げが増えているそうだ。きっとサキーの影響だろうと信じていた。

 

「あと改めて安田記念優勝おめでとうございます。見事な復活劇でした。芝ではなくダートで叩いて勝つというのがデジタルさんらしいです」

「ありがとう。復帰戦は足に負担がかからないダートが良いって白ちゃんが言うから」

「そしてレースですが、内側で進路が開いたのが勝因の1つかもしれません。外を回していたら届かなかった」

「うん、運よく開いてよかったよ」

「正確にはデジタルさんが進路を開けさせたのではないでしょうか?」

 

 サキーはデジタルを見つめ、表情や眼球の動きなど様々な動きを見て反応を確かめる。

 レース映像を見たがあれは前にいたウマ娘が寄れたというより意図的に移動した感じだった。2人のウマ娘が都合よく同じタイミングに左右に動き、デジタルの前にスペースが出来た。

 

「まあ、そうだね。運も良かったけどアタシもアクションを起こした結果、スペースが出来た」

「一体何をしたのですか?」

「それは秘密かな。ある人に教わった一子相伝の技だからアタシの口から言えない」

 

 デジタルは悪戯っぽい笑みを浮かべる。その様子はまるで謎かけをしているようだった。

 

「確かに現役の選手が技を教えるのは不用意ですね。その謎はいずれ解いてコラムの題材にさせてもらいます。そこで答え合わせをしてください」

「分かった。ならヒント、安田記念でアタシの前を走っていたウインブレイズちゃんとタイキトレジャーちゃんに話を聞けばいいよ」

「ありがとうございます」

 

 すると2人の会話に割って入るように料理とノンアルコールワインが運ばれる。サキーとデジタルは其々のグラスにノンアルコールワインを注ぐ。

 

「では再会を祝して乾杯」

「乾杯」

 

 2人はガラスを当てノンアルコールワインに口をつける。

 

 それから2人は様々なことを語った。近況や最近のレース業界について、時間が瞬く間に過ぎていく。

 

「ねえサキーちゃんって、将来の人生設計ってある」

「人生設計ですか?」

 

 サキーは思わず疑問形で返事する。デジタルからこのような真面目な話題が出るのは意外だった。

 

「最近友達から人生設計を考えていたほうがいいって言われて考えたんだよね。その友達は凄い細かくて何歳までに何をするとか書いていて、幾通りの進路についても考えてた」

「それは細かいですね」

「それでアタシも大雑把に考えたんだよ。それで参考までに聞いてみようかなって」

「なるほど、私もその友人のようには細かく考えていませんが大まかには考えています」

「よかったら聞かせてくれない?」

「いいですよ」

 

 サキーはノンアルコールワインを一口飲み語り始める。

 

「まずは今の仕事をして知名度を高めます。そして世界ウマ娘協会の役員になり、最終的には世界ウマ娘協会のトップになります。よりよい世界を作る為には権力を握って作り替えるのが一番ですから」

 

 デジタルは予想外の言葉に食事の手が止まる。サキーはウマ娘と関係者の幸福のためにとレース業界のアイコンになろうと尽力していた。引退後もその夢を実現できるような仕事に就くとは思っていたが、予想以上にスケールが大きさだ。

 

「随分とスケールが大きい夢だね」

「夢というより、野望ですかね。あとこれは内緒にしておいてもらえますか」

「それはいいけど、何で内緒にするの?ウマ娘ちゃんの為に協会のトップに立つなんて素敵な夢だと思うけど」

「世間的にも権力を欲しがるのは好まれませんから」

 

 デジタルはサキーの言葉に納得する。自分はサキーの人柄を知っているので本心でウマ娘達と関係者の為にトップになろうとしているのを知っている。だが世間から見れば権力欲しさに目指していると邪推される可能性は充分にある。それを若者が口にすればさらに好感度が下がるだろう。

 

「協会のトップか、どうすればなれるのか想像できないや」

「かく言う私も同じです。コメンテーターから役員になった人が居るので、同じルートで役員になってからは現時点ではノープランです」

「しかし若者が組織のトップに成り上がりを目指すだなんてドラマみたいだね。そういえばドラマであったな。夢を抱いた若者が組織で成り上がったけど、夢を忘れて権力を守ることに固執するようになっちゃったって話、まあサキーちゃんがそんな風になるわけないけど」

「もしそうなったらデジタルさんが私を止めてくれますか?」

 

 サキーは真剣な眼差しで問いかける。その表情はいつものような明るさがなく憂いと悲壮さが合わさり、今までにないものだった。

 サキーの様子にデジタルは反応に窮する。思ったことを冗談半分で口にし、サキーも軽く流すと思ったがこんなに真剣に捉えるとは思っていなかった。

 

「冗談です。デジタルさんの手を煩わすわけにいきませんし、手段が目的になる事は決してありません。絶対に」

 

 サキーはアタフタするデジタルを尻目にクスクスと笑う。その様子はデジタルが知るいつものサキーで思わず胸を撫で下ろす。

 

「そういえばデジタルさんの夢や将来の人生設計は何ですか?」

「将来設計としてはまずはあと9年現役で走り続けて、現役生活中にトレーナー試験の勉強をして、現役引退後に即トレーナーになるかな。大雑把だけどこんな感じ」

「9年と具体的な数字ですけど、それには理由が?」

「日本での現役の最長記録が16年だから、それを基準にして。本当なら死ぬまで走り続けてウマ娘ちゃんを感じたいけど、それは無理だからギリギリ実現可能なラインってことで」

 

 サキーは生き生きと将来設計を語るデジタルを見て、トレーナーになれるかはともかく、計画通り走り続けられるという予感を抱く。

 

「ものの相談なんだけど、選手寿命の衰えを抑制したり復活させる薬とかトレーニング方法とか知らない?」

「残念ながら」

 

 サキーは残念そうに首を振り、デジタルは僅かに肩を落とす。もしそんなものがあればゴドルフィンが真っ先に実践している。それがあればもう少し長く現役で走り、世界4大タイトルを勝ち取っていたかもしれない。

 

「それで現役を引退した後はトレーナーになるということですが、その後の展望はあるのですか?」

 

 サキーとしては落胆したデジタルの気分を変えようと話題を変えたつもりだったが、デジタルはさらに落ち込み思わずため息をつく。

 

「それはストリートクライちゃんにも言われたんだよね。実はトレーナーになった後の事は考えていなくて、それにトレーナーになることをゴールにしてたらトレーナーになることすらできないって」

「ストリートクライと話したんですか?」

「里帰りのついでにニューヨークに行って、キャサリロちゃんとストリートクライちゃんと食事して色々と話したんだけどそこでね。2人には自分達の夢を叶えるウマ娘ちゃんを育てるって目標が有るけど、アタシにはそういう目標が無い」

 

 デジタルは当時の記憶を思い出したのか再びため息をつく。一方サキーは悩みを解決する言葉を模索する。確かにストリートクライの言葉は一理ある。目標は想定のものより高くすべきだ。

 かつての自分も世界4大タイトル制覇を目標にしていたがそれでは勝てないと思い、無敗かつ各レースで最大着差の記録を更新するという意気込みで臨んでいた。

 

「なら、一旦目標や動機を再確認するのもいいかもしれませんね。デジタルさんは何故トレーナーになりたいのですか?」

「それは将来ウマ娘ちゃんと関わっていきたいし、そうなるとトレーナーでしょう」

 

 デジタルは己の動機を振り返りながら動機を話す。目的はウマ娘達とのハーレムを形成し、時には濃密に関わり、時には空気となってチームメイト達の触れ合いを見守り、ウマ娘達を感じることである。

 

「目的はウマ娘達と関わること、となるとトレーナーという職は目的を達成する手段の1つ、もしトレーナー以上にウマ娘と関わる職種が有ればトレーナーにならなくてもいいということですか?」

「う~ん、そう言われるとそうかも」

 

 デジタルは悩まし気な声を出して返答する。動機はウマ娘達と関わることで、トレーナーが最も関われるからなりたいと思った。もしトレーナー以上にウマ娘と関われるならその職に就くだろう。その発想はなかった。

 

「でも、現時点でトレーナー以上にウマ娘ちゃんと関われる仕事は無いと思う」

「それは私も思います。ではウマ娘達と関わるという目標を叶える為に設定する大きな目標ですが、とりあえずは日本一のトレーナーを目指しましょう」

「日本一?別にリーディングトレーナーになりたいと思ってないけど」

 

 サキーが掲げた目標にしっくりこないのか、デジタルの声のトーンが下がる。

 デジタルはそこまで上昇志向や出世欲が無い。現時点でもレースにおいても勝ちたいという欲よりウマ娘を感じたいという欲が勝っているほどだ。

 そしてトレーナーになっても目的はウマ娘を感じることで、地位や名誉は全くと言っていいほど興味が湧くことはないだろう。

 サキーはデジタルの気の抜けた反応を見て予想通りだと思いながら順序だって説明する。

 

「まずデジタルさんは出来る限り多くのウマ娘と接して感じたいんですよね」

「そうだね。色んなウマ娘ちゃんを感じたい」

「では一般的なウマ娘は弱小チームと名門チーム、どちらに入りたいと思いますか?」

 

 どのチームにも素敵なウマ娘ちゃんが居るから選べない、デジタルはそう答えようとするが言葉を飲み込み一般的な思考で考える。

 名門チームのリギルの入団でテストには多くのウマ娘が居た。より強くより速くなる為には自分を成長させてくれるチームに入団したいと思う。

 

「それは名門チームじゃない?」

「そうです。人はより高いレベルの場所に集まります。ということはデジタルさんが仮に日本のトップトレーナーになればより多くのウマ娘が指導を受けたいと集まります。そうなるとより多くのウマ娘と触れ合う機会が増えます」

「ふむふむ」

「さらに強いウマ娘は凱旋門賞、ドバイワールドカップなどの海外のビッグレースに挑戦するでしょう。そうなると現地のトレーナーと交流できれば、そのチームのウマ娘と触れ合い感じる機会が有るかもしれません」

「なるほど!」

 

 デジタルは思わず手を叩く。最初は全くピンとこなかったがサキーの説明を聞いて確かにその通りだと思えてきた。

 

「そして多くのウマ娘を感じる為に少数精鋭型のチームではなく、多くのチームメンバーが居るチーム作りを目指すべきです。そうすれば多くのウマ娘と関われます」

「でもそれだとウマ娘ちゃん一人一人と触れ合う時間が減っちゃうし、自分だけで何十人ものウマ娘ちゃんの面倒を見きれないよ」

「そこはサブトレーナーを雇えばデジタルさんの負担は減ります」

「そっか、サブトレーナーを使えばいいのか、うちのサブトレーナーは白ちゃんの代理って感じだからな」

 

 チームプレアデスではトレーナーがチームのウマ娘の指導に当たっているが、スカウトや海外のレースの視察や勉強会などで海外に行くことが多い。その間にチームのウマ娘達を指導しているのがサブトレーナーの黒坂である。

 トレーナーが事前にメニューを組み、サブトレーナーが報告又は現場判断でメニューを修正などして指導している。トレーナーがトレセン学園に居る時は資料整理などの雑用をしている。

 チームプレアデスでは基本的にトレーナーかサブトレーナーが1人で指導するので、他のチームで大人数のウマ娘を複数のサブトレーナーで指導するというイメージが湧かなかった。

 

 デジタルは将来を想像する。トレーナーになってから瞬く間に成績を伸ばし多くのウマ娘達が指導を受けたいと門を叩く。

 サブトレーナーを雇い出来る限りのウマ娘を受け入れるシステムを作り、メイントレーナーとしてサブトレーナーに指示を与える。各サブトレーナーから報告を受け、それを元にチームのウマ娘達に直接指示を与え、時には面談などしてメンタルの不安などを解消する。そして多くのウマ娘が目的を叶え笑顔になる。

 今まで不明瞭だったトレーナーとしての活動が以前より具体的にイメージができるようになっていた。

 

「うん!何かやれそうな気がしてきた。ありがとうサキーちゃん。目指すは日本一のトレーナー、そして何十人ものウマ娘ちゃんを指導する日本一の大きなチーム!」

「お役に立ててうれしいです。あと指導力はそうですが、チームという組織のトップに立つことになりますので、人心掌握術や組織運営の術を今の内に学んだほうがいいかもしれませんね。私見ですがデジタルさんは個人主義というか、そういったことは苦手そうですから」

「うん、苦手。でもサキーちゃんは得意そう」

「組織運営はいずれ世界ウマ娘協会のトップを目指す者として勉強中ですが、人心掌握術というか人に好かれる術は自分なりには知っています。業界のアイコンになるには多くの人に好かれなければなりませんから。よかったら教えましょうか?」

「お願いしますサキー先生!」

「では基礎編として……」

 

 それからサキーの人心掌握術のレクチャーが始まる。デジタルは話を聞きながら重要そうな言葉をスマホに打ち込んでいく。

 話は人心掌握術からサキーのプライベートやレースでの思い出話に変っていき、デジタルも過去やレースの話をしていく。

 以前ドバイで話した時はサキーが多忙の身であるために僅かの時間しか話せなかった。だが今は時間を気にすることなく思う存分語り、店の営業時間ギリギリまで話していた。

 店を出ると賑やかだった通りは人影が疎らで他の店も閉まっていた。

 

「あ~楽しかった。今日は付き合ってくれてありがとうね」

「こちらこそ、とても楽しい時間でした。明日以降のご予定は?もし観光するのでしたら時間を作って案内しますよ」

「いいよ、わざわざ時間を作ってもらうのも悪いし、他の観光名所には興味が無いからこのまま日本に帰る予定」

「そうですか」

 

 サキーは思わず笑みを浮かべる。ウマ娘に関すること以外は一切興味が無い、実にアグネスデジタルらしい。

 

「時間があればまた会いましょう。今度は私が日本に行きます。日本のレースは勿論、ヒガシノコウテイさんやセイシンフブキさんが所属している地方のレースも見てみたいし」

「是非来てよ。アスコットやロンシャンにも負けないぐらいに素敵な場所だから」

「楽しみにしています」

 

 2人は別れの挨拶を交わし手を振り合いながら別々の方向に歩き始める。するとサキーが歩みを止め背中を向けるデジタルに少し声量を大きくして話しかける。

 

「デジタルさんが日本一のトレーナーになる。ストリートクライが史上最強のウマ娘を育てる。その目標はある意味私の夢だった世界4大タイトル獲得より困難かもしれません。ですから困ったことがあれば何でも相談してください。出来る限り尽力はします。そして挫けないでください。もしデジタルさんやストリートクライが目標を達成できれば、ウマ娘達にとって大きな希望になります」

 

 ウマ娘のトレーナーはどの国でも少なからずいる。だがどのトレーナーもGIを勝つウマ娘を輩出できず、世間的には決して1流と呼べるトレーナーはいない。

 その理由として人間のトレーナーとの間にある不思議な絆が信じられており、その絆がウマ娘を強くすると信じられている。

 真偽はともかく現状として1流と呼べるトレーナーは全て人間であり、結果が信憑性を増している。その結果、トレーナーを志望するウマ娘が二の足を踏んで別の道を歩んでしまう事がある。

 自分でその説を覆してやるという意気込みが無い人間ならば大成できないと言われればそれまである。だが1つの成功例が有れば希望を持てトレーナーを目指し1流と呼ばれるトレーナーになれるかもしれない。

 どんな困難な道でもほんの僅かな希望が有れば歩める。デジタルとストリートクライには成功例という希望になってもらいたかった。トレーナーを目指すウマ娘達の為に、そして本人たちの夢の為に。

 

「分かった!絶対に諦めないでウマ娘ちゃんの希望になるから!」

 

 デジタルは宣言するように大きな声で返事しサキーに向けてサムズアップする。

 サキーの言葉の全ての真意は分からないが、その言葉は自分と世界中の全てのウマ娘の幸福を願った言葉で有るのは分かる。

 自分が日本一のトレーナーになればウマ娘のハーレムを作るという夢と世界中のウマ娘の幸福に繋がる。ならばなってやる、日本一のトレーナーに。

 

 デジタルは再びサキーに背を向けて歩き始め、ここ最近の出来事を振り返る。

 プレストンと話すことでトレーナーになるという漠然とした目標に具体的なプランができた。

 ストリートクライとキャサリロと話すことで、ウマ娘がトレーナーになることの困難さとトレーナーになる為に足りない物を知った。

 サキーと話すことで自分に足りない物を補うための具体的な目標とその為に必要なスキルを知れた。

 

 今回の帰郷と旅行は楽しいだけではなく実に有意義だった。今回で得た気づきや教訓を胸に刻み、日本での生活を送ろう。

 デジタルの中で根拠は無いが、現役最年長記録を更新しながらレースを走って思う存分ウマ娘を感じ、引退後もトレーナーとして大成し日本一になっているという明るい未来が鮮明に浮かんでいた。

 



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勇者と新世代#1

 8月上旬、船橋レース場ではレースが開催されていない日の日中は練習場として使用され、船橋ウマ娘協会に所属しているウマ娘が走る。

 ウマ娘達が大量の汗をかきながらトレーニングに励み、レース場に砂塵が舞うなかアジュディミツオーは1人ダートコースを走る。

 その姿は離れて見ればコースを走るその他大勢のウマ娘である。だが他のウマ娘と大きく異なる点がある。アジュディミツオーはレースシューズを履いていなかった。

 

 漫然と走るな、一歩ごとに神経を研ぎ澄まし砂を確かめろ

 

 セイシンフブキの教えを思い出しながら足裏に伝わる感触に神経を研ぎ澄まし、踏み込みや力の入れ具合を調整していく。少し前までは走る際にはセイシンフブキが近くにいたが今は居ない。かつての日々を思い出し一瞬寂しさが過るが、即座に掻き消し走りに集中する。

 

「よし、集合!」

 

 コースを離れたところで強面の男性が声をかける。彼はトレーナーの山島、アジュディミツオーが所属するチームシェイクを率いるトレーナーである。

 チームシェイクは南関東ではナンバーワンのチームで、特に怪我によって中央から移籍したウマ娘を復調させ活躍させることには定評がある。

 ダートプライドが終わるとセイシンフブキは怪我で長期療養することになり、1人でトレーニングする日々が続く。

 別に不安はなかった。セイシンフブキとの日々で自分が何をすべきか把握し、リハビリの合間を縫ってトレーニングを見に来てくれた。デビューに向けてトレーニングを続けていくなか、ある日アジュディミツオーは山島からスカウトされる。

 南関東ナンバーワンのトレーナーからスカウトされた。誰もが二つ返事で承諾するところだが、アジュディミツオーは拒否した。

 自分の師はセイシンフブキ唯一人、デビュー後もセイシンフブキが所属するチームに入り、共にダートを極めていく。そのことを伝えるとセイシンフブキはこう告げた。

 

 お前はチームシェイクに入れ、お前はチームシェイクで覚え身に着け改良したダートについての考え方や走り方、アタシが自分で考え導き出した走り方、その2つをすり合わせれば、よりダートを極められる。

 その言葉が後押しとなり、山島トレーナーの誘いに応じチームシェイクに入る。

 アジュディミツオーはウォームアップを終えて山島の方に駆け寄り、本日のトレーニングの内容の説明を受け、トレーニングを始める。

 

 夜になると船橋レース場は照明がつかず、数メートル先の人影が判別できないほど暗くなる。

 その闇の中でアジュディミツオーはスタート地点から走り始める。昼のウォームアップの時と同じように、シューズを履かず素足だった。

 服装も昼の時に着ていたトレーニングシャツではなく、ランニングシャツとショートパンツと露出が多い恰好だった。

 アジュディミツオーは昼のトレーニングでは他のチームより1時間早くトレーニングを切り上げていた。そして切り上げた分をこの夜のトレーニングに当てている。

 チームシェイクに入る際にある条件を提示した。それは1時間だけ好きにトレーニングする時間をくれという条件だった。

 トレーナーの山島も考えてトレーニングメニューを組ま、余計なトレーニングはしてもらいたくなく、特別扱いはチームに不和をもたらすと考えていた。

 だがこの条件が呑めなければチームに入らないと譲らず、結局は山島がアジュディミツオーの条件を吞むことになる。

 そしてこの1時間でダートの正しい走り方を磨いていた。

 

 アジュディミツオーは神経を研ぎ澄まし足裏から得る情報を拾い、歩幅や踏み込みの力などを調整し最適な走りを導き出す。

 ウォームアップの時とは違い、今は全力に近い速度で走っている。スピードが速くなればなるほど地面と接触する時間が減り、情報を感じ取る時間も最適を導き出す時間も少なく難易度が上がる。

 自分が出来うる限りの正しいダートの走り方を実践していく。レースでは当然ながらシューズを履く。

 その状態では肌から直接砂の状態を感じることはできず、靴底から伝わる感触を感じ取り実践しなければならない。素足で実践できないようでは本番では到底できない。

 このトレーニングはダートプロフェッショナルとしての技術を高めると同時に娯楽でもあった。

 新しい走りのアイディアが浮かび実行する時間は何よりも楽しく心を落ち着かせた。だが今は不安がその感情が薄れさせていた。

 

 山島トレーナーはダートについてそこまで意識を向けていない。セイシンフブキやアジュディミツオーとは違い、ダートの状態によって走りを変えることはせず、トレーニングで磨き上げた走りで走る。アジュディミツオー達がダートを上手く走る方法を模索し、山島トレーナーはレースを速く走る方法を教えている。

 トレーニングもあくまでも速く走ることを主眼に置き、鍛えぬいた肉体を技術と心がそれをサポートしレースに勝利するという理念である。

 アジュディミツオーもその考えは承知している。その教えを学び、自分なりにダートを探求するのがチームに入った目的だ。

 山島トレーナーの指導力は確かなもので、肉体面や走り方の技術は入団してから飛躍的に向上した。だがチームに入ったことへの後悔と迷いが芽生え始めていた。

 

 アジュディミツオーはデビュー戦に勝利した後、身体に不調をきたして長期休養に入った。

 本来ならばジュニア級ダート最強を決めるGI全日本ジュニア優駿に出走したかったが、回避することになる。

 セイシンフブキの後継者として足跡をたどりダートを盛り上げるために、セイシンフブキが勝利した全日本ジュニア優駿には是非とも出走したかった。

 一方山島トレーナーは本調子でなく出走すれば今後の競争生活に影響が出ると考え、出走は見送りたかった。激しい口論の結果、アジュディミツオーが折れ全日本ジュニア優駿に出走を見送った。

 

 年が明けて4月になり、クラシック級での初戦では5バ身差の快勝、そして次走のレース選択で2人はまた衝突する。

 山島トレーナーは地方重賞の東京湾Cから南関東3冠の2冠目の東京ダービーのローテ―ションを提案し、アジュディミツオーは南関東3冠の1冠目の羽田盃を走りたいと拒否した。

 山島トレーナーはアジュディミツオーがまだ本調子でないと判断していた。

 しかも羽田盃は中1週での出走、負ける可能性が高くそれどころか走れば怪我する可能性も有ると諭す。何より地方のトレーナーにとって東京ダービーは中央の日本ダービーと同等の価値であり、万全の調整で臨みたかった。

 一方アジュディミツオーとしては是が非でも3冠を取りたかった。セイシンフブキだけが唯一成し遂げた無敗での南関東4冠、今では東京王冠賞が廃止となり南関東4冠ではなく3冠となり、4冠は唯一無二の記録になった。

 セイシンフブキはダートプライドの敗北によって勝ち鞍から南関東4冠を消して、船橋ウマ娘協会も本人の意志を尊重し公式記録から抹消されている。

 公式記録からは抹消されたが、記憶をこの世から完全に消すことはできない。

 無敗の南関東3冠ウマ娘が誕生すれば、自分から関連付けてセイシンフブキの存在を調べその偉業は心に刻まれる。だがこのまま無敗の南関東3冠ウマ娘が誕生しなければ、いずれ記憶は風化され忘れ去られる。

 そうはさせない。弟子として同じ道を辿り思い出させる。そして地方の代表として南関東3冠は是非とも取りたかった。

 全日本ジュニア優駿の時のように激しい口論になったが、今度はアジュディミツオーが全く引かず、逆に山島トレーナーが折れた。そして強行で出走した羽田盃は敗北する。

 

 その後アジュディミツオーは山島トレーナーのローテーションに従い、東京湾Cと東京ダービーに勝利し、南関東のクラシック級のトップに立った。

 そして地方のトップとして迎えたジャパンダートダービー、そこで中央のカフェオリンパスに約3バ身差の差をつけられる。

 羽田盃は調子が悪かったとまだ言い訳ができた。だがジャパンダートダービーはベストの状態で言い訳ができない状態で完敗、アジュディミツオーにとってショッキングな結果だった。

 

 自分はアブクマポーロとセイシンフブキの薫陶を受けた後継者、日本で1番ダートを愛し勝ちたいと思っている。

 そんな自分が負けるわけが無く無敗で南関東3冠に勝利し、地方のトップとして秋では中央の強豪を撃退し、中央に殴り込み勝利することで注目を浴び、ダートの人気が高まると信じ込んでいた。

 アジュディミツオーは傍から見て落ち込み、このままでは今後に支障をきたすと判断した山島トレーナーは大井で行われる地方の世代重賞の黒潮盃に出走させる。

 山島トレーナーはアジュディミツオーが地方を背負って立つウマ娘に成長すると信じていた。ここでスッキリ勝ってもらい、自信を取り戻し中央の強豪を迎え打つ算段だった。

 だがアジュディミツオーは3着と敗れる。それは完全な誤算だった。

 

 ダートは果てしなく奥深い。天候、風向と風速、湿度、様々ものを加味し一秒ごとに走りの最適解が変化する。

 その最適解を導き出すのがダートの正しい走り方であり、出来るのがアブクマポーロやセイシンフブキやアジュディミツオーが目指すものだ。

 それは究極の技術であり、それさえ身につけば多少の身体能力差を覆せるようになる。

 極まった上手い走りは速い走りを凌駕できる。それが持論だった。

 ジャパンダートダービーと黒潮盃での敗北により持論は揺らぐことはない。

 だが肉体や技術を鍛えるのではなく、ダートプロフェッショナルとしての技術を磨き続けた方が良かったのではという後悔が日に日に増していた。

 

 アジュディミツオー第4コーナーに入った瞬間に顔を顰める。左足の踏み込みが3センチ浅く力の比重が親指に偏り過ぎた。そのミスを引きずったのか足を踏み出すごとに最適から遠い走りを繰り返して徐々に失速していき、ゴール板前で足を止める。

 

「クソ!」

 

 アジュディミツオーは叫びながら砂を蹴り上げ、蹴り上げた砂は宙を舞い頭上に降り注ぐ。

 ダートを走っても心が落ち着かず楽しくない。後悔不安焦燥、それらの感情が走りと心を曇らせる。

 

「おうおうおう、久しぶりに見たと思ったら荒れてんな」

 

 アジュディミツオーの背後から突如声が聞こえてくる。後ろを振り返り暗闇に映るシルエットに目を細める。自分と同じくランニングシャツとショートパンツに裸足のウマ娘、その存在を見て唇を噛みしめる。

 

「師匠ですか」

「まあ、スランプは誰にも来る。壁を乗り越えられるかはお前次第だが」

「何でスランプだって分かるんっすか?もしかして別のことでイライラしてるかもしれないっすよ。それ以前にこの暗さじゃ走りは見えない」

「音を聞けば分かる。いつもと違ったからな」

 

 アジュディミツオーは僅かに目を見開きセイシンフブキを見つめる。

 いくら長い時間共に過ごしたといえど音だけで走りの調子が分かるものなのか、ダートの技術に関しては自分より上のステージに立っていると実感していた。

 

「まだ走るのか?」

「これで終わるつもりです」

「じゃあ、クールダウンがてらアタシのスクーリングに付き合えよ」

「はい」

 

 アジュディミツオーは数秒ほど間を開けて返事すると、セイシンフブキは横に並びコースを歩き始める。

 2人は視線も言葉を交わすことなく歩く。アジュディミツオーはある時を境にセイシンフブキ距離を置き、2人で肩を並べて歩くこの状況に気まずさを覚えていた。

 暫くして気まずさに耐え兼ねてセイシンフブキをチラリと見る。ランニングシャツにショートパンツ、これは出来るだけ肌を露出することで、風や踏みしめた際に舞う砂に少しでも触れられるようという考えで着ている。 

 それは真冬でも変わらず今の同じ格好をしているのはセイシンフブキの考えを真似しているからだ。

 

「そういえば、日本テレビ盃では一緒に走るな。レースで走るのは初めてか」

「はい」

「アタシがどれだけマシになったのか確かめてやるよ」

「はい」

「あとアグネスデジタルも出てくるな。一応はダート世界一だ、その力を経験しておくのは悪くはない」

「はい」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーに気軽に話しかける。アジュディミツオーは緊張で一瞬体が硬直するが落ち着くと同時に落胆の念を抱く。

 以前はもっと空気がひりついて、居るだけで独特の緊張感を抱いて気が休まなかった。だが今はそれを全く感じない。

 

「師匠」

「何だ?」

「日本盃では全力で走ってください。アタシは全盛期の師匠と走りたいんです」

「悪いが無理だ。もう勝負に拘る気がおきない」

 

 セイシンフブキは半笑いで返事する。その反応にアジュディミツオーは無意識で小さく舌打ちをする。

 

「逃げる気かセイシンフブキ」

「あ!?」

 

 挑発的な言葉に和やかだったセイシンフブキの雰囲気が一気に殺気立ち目を見開き凄む。

 アジュディミツオーは思わず唾をのむ。大人しくなったが挑発すれば必ず反応する。予想通りの反応だったがその威圧感に無意識に半歩引く。

 だが目的の為には臆するわけにはいかない。今は目を晒さず真っすぐ見据えていた。

 

 セイシンフブキがダートプライドからの長期休養から帰ってきた時は心から歓喜した。

 ダートプライドで見せた走りを見せてくれる。レースに勝ち続け頂点で自分を待ち構えて、東京大賞典で走ってくれる。そんな理想の未来を信じて疑わなかった。

 だが待っていたのは厳しい現実だった。セイシンフブキは出走するレースに負け続けた。まだ調子が悪いだけだ。歯車がかみ合えばダートプライドの時のような走りを見せてくれると信じ続けた。

 ある日、セイシンフブキに呼び出されると自らの心境を語った。

 

──今のアタシは勝つことより、ダートへの探求にのめり込んだ。恐らくレースに勝つことがないだろう

 

 それは信じられない言葉だった。ダートの地位向上のために全ての障害を薙ぎ払い、後に続く者達のために道を切り開くと言ったダートの鬼はもういない。そんな腑抜けた姿に失望を覚え自然に距離を置いていた。

 その証拠に先ほどアグネスデジタルの話題が出た時は以前なら、芝ウマ娘には死んでも負けるな、ボコボコにして芝で走るようなら挑発して、ダートに引き込んで何度でもボコボコにしろぐらいと言っていただろう。

 

「暫く会わないうちに随分と調子づいた口を叩くようになったじゃねえか」

「今の師匠に勝っても師匠を超えたことにならない。ダートプライドの時の師匠に勝って初めて師匠越えだ」

「アタシを笑い殺す気か?黒潮盃での走りを見たぞ、まるでなってねえ。あんな走りなら勝負に拘らなくても勝てる。生まれ変わらない限りアタシには勝てねえよ」

「だったら変わってやる!変わったアタシが日本テレビ盃に勝って!JBCに勝って!ジャパンカップダートに勝って!東京大賞典に勝って!勝って勝って勝ちまくって!師匠が出来なかったことをやってやる!」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキを睨み高らかに宣言する。

 それは自分がダートプロフェッショナルとしてダートの地位を高めると言ったと同じ意味だった。その態度にセイシンフブキは鼻で笑う。

 

「口だけなら何とでも言える。今のお前には一生無理だ」

 

 セイシンフブキは冷たく吐き捨てる。ダートプロフェッショナルとして勝ち続けダートの地位を高める。その野望を胸に秘め挑み破れた。

 周りは世界の頂点に手が届きかけたと称賛するが、確かな壁が存在していた。身内贔屓無しでアジュディミツオーにはダートプロフェッショナルとしての才能と情熱がある。いずれはダートの代表として走る日が来るだろう。だが今はその日ではない。

 未熟な走りでダートプロフェッショナルの代表として、セイシンフブキの夢を果たすという言葉は神経を大いに逆撫でさせた。

 

「無理じゃない!ダートプロフェッショナルとして師匠が出来なかったことを出来るって証明するために本気で来いって言ってんだろ!」

「じゃあ、アタシに負けたら引退しろ」

 

 生まれ変わる。ダートプロフェッショナルとしてダートを引っ張る。口だけでは何とでも言える。重要なのは覚悟だ。

 アジュディミツオーはスランプだ、だがスランプを乗り越えれば大きな成長に繋がる。他のトレーナーなら優しく教え導くだろう。

 だが自分は優しくない。ギリギリまで追い込んで成長を促す。そこで変わらなければそれまでだ。

 今の自分に勝てないようでは日々進化していく中央や世界に勝ち、ダートの地位を上げることは無理だ。

 

「やってやるよ!」

 

 アジュディミツオーは即答し、セイシンフブキは内心で感心する。勢いや破れかぶれで発した言葉ではない、明確な意志を持って発した言葉だ。

 

「なら次は勝ちに拘る。死ぬ気で変われ、でなきゃアタシには勝てない」

 

 セイシンフブキは冷淡に吐き捨てるとコースを去っていく。アジュディミツオーは背筋を伝う悪寒に耐えながらその後ろ姿をじっと見つめる。あの身がすくむような闘争心、あれはダートプライド前の姿だ。

 アジュディミツオーは漠然とした不安を覚えていた。何かをしなければダートプロフェッショナルとしてセイシンフブキを超え、自分の夢であるダートの地位向上を成し遂げられないと感じていた。

 何か切っ掛けがないかと考えていた時にセイシンフブキが現れ、話の流れを利用し背水の陣を敷いた。退路を断つことで土壇場の底力を期待していた。ある意味他力本願と言えるがそれしか思いつかなかった。

 何より本気のセイシンフブキと走りたかった。ダートプライド以降の成績は芳しくないが、原因は衰えではなく心構えの問題だ。もし心構えが変ればきっとかつての強さを取り戻す。

 セイシンフブキは情けをかけることは絶対にせず、全力で叩きつぶしてくる。

 

 次のレースが競技生活においてターニングポイントになるだろう。

 進むべき道に迷いがある自分にとっては分が悪い勝負だ。だがこの逆境に打ち勝ちダートプロフェッショナルとしての道を歩む。

 アジュディミツオーは決意を新たにしクールダウンを続けた。

 



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勇者と新世代#2

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


「勝ったのは中央のシャドウスケイプ!」

 

 GⅢダート1200メートル、クラスターカップ。

盛岡レース場で行われる交流重賞は3レース、GI南部杯、GⅢマーキュリーカップ、そしてクラスターカップである。

 中央の有名選手を見る為に、地元のウマ娘が中央を撃退する姿を見る為に、理由は様々だが交流重賞が行われる日は多くの観客がレース場に足を運ぶ。

 レースの結果は中央のシャドウスケイプが1着で、2着3着も中央が独占、地方勢は地元のタイキシェンロンの4着が最高順位だった。

 スタンドからは一瞬ため息が漏れるが、すぐさま励ましの声援が送られ、タイキシェンロンは負けた悔しさに歯を食いしばりながら声援に応える。

 セイシンフブキやヒガシノコウテイなど地方出身でも中央と互角以上に戦えるウマ娘も居る。それは突出した個が現れただけであり、依然として平均での中央と地方の差は大きい。それが現れた結果となった。

 やはり盛岡レース場は砂深くてパワーが要りそうだ。最終コーナーでは船橋で走る時より踏み込みを深くしピッチを速める。直線での進路は内ラチから5メートル離れたライン、いやまだ少し内を走れるか?自身が走るとしたらどう走るかのシミュレーションを始める。

 

 アジュディミツオーは休みをもらい、盛岡レース場に足を運んでいた。

 目的は2つ、1つはクラスターカップを観戦する為、盛岡レース場ではGI南部杯が行われる。いつかは走る舞台であり今後に備えて研究はしていたが、生で見るのと映像で見るのでは大きな隔たりがある。

 いずれは生で見ておかなければと思っていたので丁度良かった。何よりダート愛好家としては是非とも足を運んでおきたかった。

 別に見るのはどのレースでもよく、クラスターカップなのは偶々である。そしてクラスターカップを見るのは観光目的もあり、あくまでも主目的のついでだ。

 アジュディミツオーはオーロラビジョンの時刻を見る。予定までまだ時間が有る。時間を潰すためにスタンドに向かって行く。

 

「失礼します」

 

 アジュディミツオーはスタンドの3階に上がると応接室とネームプレートに書かれていた部屋の前で止まりノックする。どうぞと返事が返ってきたので失礼しますと一礼してから中に入る。

 中に入ると作りが良さそうな机にソファー、そして壁紙も張り替えたのか真新しい。以前セイシンフブキに貧乏くさいと聞いていたが、船橋ウマ娘協会の応接室より明らかにグレードが高い。

 

「遠路はるばるお越しくださり、お疲れ様です」

 

 ヒガシノコウテイがソファーから立ち上がり、柔和な笑顔を浮かべながら頭を下げる。スーツを着て前に会った時より大人びた印象を受ける。

 

「いえ、こちらこそ急な申し出に対応してくださり、ありがとうございます」

 

 アジュディミツオーも同じように頭を下げ挨拶する。入室する前は少しばかり緊張していたが、ヒガシノコウテイの雰囲気で緊張感が解れていた。

 

「紅茶とコーヒーどちらが好きですか?」

「……紅茶で」

 

 アジュディミツオーは数秒ほど考えたのち答える。正直どちらも好きではないが紅茶の方がまだマシだ。

 ヒガシノコウテイは紅茶を淹れてカップとソーサーをアジュディミツオーの目の前に差し出す。アジュディミツオーはミルクと砂糖を大量に入れながら自分好みの味に変えていく。

 

「今日は残念でしたね。やはり中央の壁は厚いですね」

「はい。しかし全員勝ちにいっての結果ですので、そこまで悲観する内容ではないと思います。そしてファンの皆さまもそれを理解してくださります」

 

 ヒガシノコウテイは僅かに口角を上げながら答える。今日のレースは岩手のウマ娘達は全て逃げや先行の脚質だった。

 勝つ可能性があれば妥協せず前目のポジションをとることだ。だが中央勢も前目で勝負するウマ娘が多く、まともにやりあえば潰され着順を大きく落とす可能性が高い。

 そうなれば印象が悪くなる。それを避けるために先行争いをせずに脚を溜めて、先行勢がやりあってペースが上がり脚を使って垂れたところを突っ込む。俗に言う着狙いという戦法である。

 もし3着になれば賞金やレースポイントは手に入り、ウイニングライブ圏内に入って地方にしては頑張ったという評価を貰える。

 だが岩手のウマ娘達は良しとせず、勝ちを狙いにいった。そしてファン達もその心意気を汲み、レースを走った彼女達に温かい声援を送った。

 

 勝ちにいった姿勢を評価してくれるというのは重要だ。これで理解せずに結果だけ見てため息をつかれれば気持ちが萎えて、着狙いに切り替えてしまう。

 着狙いの姿勢を否定するつもりはない。レースへのスタンスは個人の自由で尊重されるべきだ。だが着狙いを続ければ一生勝てない。

 ウマ娘が勝ちにいくレースをする。それを見た観客達が心打たれ別のレースで、勝ちにいくレースをすれば称賛の声を送る。その声でウマ娘達は励まされ次も勝ちにいくレースをする。好循環だ。

 観客達が強いウマ娘を育てる文化を作る。今後は盛岡のウマ娘達はチェックしておいたほうがいいだろう。

 

「参考までに聞きたいのですが、初めての盛岡レース場はどうでしたか?」

「え~、良いコースだと思いますよ。砂の手入れも良いですし、直線に坂があって砂厚も深くて、独自性が出て面白いです」

「えっと、今日はローカルヒーローと地元のプロレス団体のコラボレーションイベントがありまして、他にもわんこそば大食い大会もやっていたのですが、イベントについて何かありますか?面白そうだったとかここを改善してほうがいいとか?あとスタッフの対応はどうでしたか?」

「え~~~、スタッフさんの対応は問題なかったですよ。あとイベントですけど……着いてからはレースをずっと見ていて、レースの合間は自分ならどう走るかのシミュレーションしていて気づきませんでした」

 

 アジュディミツオーは観念し、ヒガシノコウテイの反応を窺うように喋る。ヒガシノコウテイはアジュディミツオーさんらしいですと褒め言葉を言いながら残念そうな顔をしていた。

 ヒガシノコウテイはレースを引退して岩手ウマ娘協会に就職していた。主な仕事はイベントの企画とレース運営である。

 協会で働いている身としてはイベントへの満足度や興味、レース場に対する印象などに対する生の声は是非とも参考にしたかった。

 だがアジュディミツオーはイベントの存在すら認知していなかったという答えだった。

 悪い点なら改善すればよく貴重な意見だ。だが認知されていなければ意見すらもらえない。企画としては最も悪い答えだった。

 

「参考までに盛岡レース場でやってほしい企画とかは有りますか?」

「そうですね。コースを走りたいですね。あとは砂とか持ち帰りたいですね。あとはダートの整備記録とか詳細な情報を知りたいです」

 

 ヒガシノコウテイは真剣に耳を傾ける。大概はダート愛好家としての意見で一般的な需要はないが、コースを走るというのはありかもしれない。

 コースを走る機会は選手以外にしかない。そこでコースを解放して一般の方にも走れるようにする。ファンで有れば一度はコースを走ってみたいと思うはずだ、貴重な体験をする機会を与えることで顧客満足度を上げる。悪くはない企画だ。

 

「貴重な意見をくださりありがとうございます。帰って検討致します」

「よく分かんないですけど、参考になったなら何よりです。それでそろそろ本題に入っていいですか?」

 

 アジュディミツオーは紅茶を一気に飲み干す。応接室内の空気がピリつく。

 ヒガシノコウテイも空気の変化を感じ取ると同時にデジャビュを覚える。

 あれは確かダートプライド前にセイシンフブキがトレーニング方法を教えてくれと頼み込んだ時だ。あの時の真剣な表情は今でも覚えている。

 

「どうぞ」

「どうやったらアナタのように地方総大将として強くなれますか?」

 

 アジュディミツオーの切実な声が応接室に響く、盛岡に来た主目的はこの疑問を聞く為だ。盛岡レース場に来たのもヒガシノコウテイと一番早く会えるからにすぎない。もし他の場所の方が早く会えるとすれば此処には寄ってはいない。

 一方ヒガシノコウテイは考え込む。何故師匠と仰ぐセイシンフブキではなく、自分に質問し自分を目指そうとするのか?その答えが分からなかった。

 アジュディミツオーはヒガシノコウテイの疑問に答えるように喋る。

 

「ヒガシノコウテイさんは歴代でも屈指のダートプロフェッショナルだと思います。ですが師匠には及ばないと思っています。ダートプライドで師匠は最高の走りを見せました。ダートを走る技術では師匠の方がヒガシノコウテイさんより上、肉体ではヒガシノコウテイさんが若干上、ですが技術を上回れるほどではない。ならば師匠が先着するはずでした。ですが結果は同着、ヒガシノコウテイさんには師匠を上回る力がある。それが地方総大将としての力です」

 

 全盛期のセイシンフブキに勝つにはどうすればよいか?

 ダートプロフェッショナルとしての技術は間違いなくセイシンフブキが上で、同じ土俵に立てば確実に負ける。

 山島トレーナーの元でフィジカルやテクニックを磨く。東京ダービーに勝った時のアジュディミツオーならそう言うだろう。

 しかし近走の2連敗で山島トレーナーに不信感を抱き、フィジカルとテクニックを磨くことに疑いを持っていた。そのような心境ではいくら鍛えても勝てない。

 どうすればセイシンフブキに勝てるか苦悩する日々が続く。その日々の中ヒガシノコウテイの存在を思い出す。

 セイシンフブキと互角の戦いを繰り広げたヒガシノコウテイ、その力の源は地方総大将の力だ。

 ダートプロフェッショナルの技術と同等の力、その力は不可解であると同時に強く印象に残っている。ダートプロフェッショナルと地方総大将の力を兼ね備えた走り、それこそがアジュディミツオーが抱いた理想だった。

 だがチームシェイクに入り、山島トレーナーの元でフィジカルトレーニングが一定の効果を見せたことで、すっかり忘れていた。

 

 全盛期のセイシンフブキに勝つにはこれしかない。藁にも縋る思いでヒガシノコウテイと連絡を取り、自らが求める答えを聞く為に盛岡に来ていた。

 

「なるほど、ところでアジュディミツオーは船橋や地方は好きですか?」

 

 ヒガシノコウテイはゆっくりとした口調で問いかける。声色は変わらないが目線は何かを吟味するように厳しかった。

 

「特に思い入れはないです。ダートを極められると思ったから船橋に来た。もしそれが中央だったら、中央に行っていました」

 

 アジュディミツオーは正直に答える。セイシンフブキが居るから船橋に来た。もし別の地方や中央に所属していれば、そちらに所属していただろう。

 

「それならば貴女の言う地方総大将としての力は手に入れられません」

「何でですか」

 

 アジュディミツオーは思わず立ち上がり手を机に叩きつける、地方総大将としての力を是が非でも手に入れなければならない。それを出来ないと切り捨てられ、焦りと不安が態度に表面化していた。

 ヒガシノコウテイは怒りと悲しみが綯交ぜになった目線を受け止めながら淡々と答える。

 

「貴女が言う地方総大将としての力、それは『私達の』ウマ娘としての力と解釈しています」

「『私達』のウマ娘?」

「『私達』のウマ娘とは地方で生まれ育ち、他所からの力を借りず、地元の皆の為にと力を振り絞り、送られる声援や想いを力に変えられる限りなく純度が高い存在です。そしてそうなるには地方を好きでなければなりません。私は盛岡や地方が大好きでした。地方と言う存在に光を与えたい。活性化させて1つでも潰れるレース場を少なくしたい。その為に勝ちたいと思い走りました」

 

 ヒガシノコウテイはダートプライドの時の心境を思い出す。愛する地方を守り明るい未来を創る為に全ての力を出し尽くした。

 そしてレースでは地方を愛する人々の声援と想いを全て力に変えられた自負がある。あの時は紛れもなく地方にとっての『私達』のヒガシノコウテイだった。

 

「私は地方を愛するから勝ちたいと思っていました。ですが今のアジュディミツオーさんは地方総大将としての力を得て勝ちたい。勝ちたいから地方を愛そうとしている。手段と目的が逆です。それでは無理です」

 

 アジュディミツオーはヒガシノコウテイの言葉に項垂れながら黙り込む。間違いなくその通りだ、地方総大将としての力は手段、ヒガシノコウテイの言う通り逆だ。それでは手に入るはずがない。

 ヒガシノコウテイはその様子を見て心が痛む。相当切羽詰まって藁を縋る想いで会いに来た。それなのに無理だと断言された。そのショックは推し量れない。

 だが無理なものは無理だ。下手に希望を見せるより未練を断ち切ったほうが相手の為である。

 ヒガシノコウテイは膝をつきながらアジュディミツオーの肩に手を置き優し気に語り掛ける。

 

「焦らないでください。迷えば他のものが魅力的に見えることがあります。貴女にはセイシンフブキさんという素晴らしい先輩が居ます。先輩が示した道を信じて進む。それが一番強くなる近道です」

「私は……ダートプライドの時のヒガシノコウテイさんにも憧れてたんです。師匠と同等に走るその姿に、師匠は私の憧れで同じようになりたい。そしてヒガシノコウテイさんのようにもなりたい。2人の力を持った私が今の私の憧れなんです」

 

 アジュディミツオーは現実を受け入れまいと、握りこぶしを作り絞り出すように喋る。

 ヒガシノコウテイに言われて自分には無理だと受け入れてしまっていた。だが脳裏に姿が蘇る。

 目的は強さを手に入れることだ。ならばヒガシノコウテイの強さを手に入れるのではなく、先着したアグネスデジタルでもティズナウでもサキーでもストリートクライでもいい。  

 だが自分はヒガシノコウテイに憧れた。これは理屈じゃない、あの4人の強さではなくヒガシノコウテイの強さでなければならないのだ。

 

「分かりました。ならばこれから私が言うことをやってください。貴女にとって無駄かもしれませんが」

 

 アジュディミツオーは思わぬ言葉に動揺しながら小さく頷いた。

 

───

 

 南船橋駅、船橋レース場からの最寄り駅の1つであり、近くに大型商業施設が建設されている。

 船橋レース場でレースを開催されている時は駅から出る客は大型商業施設に向かう人とレース場に向かう人の2極化になることがある。実際は大型商業施設に向かう客の列が多い。

 そして今は8月で夏休み真っ盛りである。多くの若者が施設に足を運び、今日はレースが開催されていなく大概の人は大型商業施設に向かう。

 真夏の日差しから逃れて空調の利いた大型商業施設で涼もうと早足になる。

 それを邪魔するかのように、船橋ウマ娘協会のシャツを着た人々が声をかけビラを差し出す。彼らは協会のボランティアスタッフである。そのなかにアジュディミツオーも居た。

 

「明日から4日間船橋レース場でレースを開催します。よかったらどうですか?」

 

 アジュディミツオーは不慣れな笑顔を作りながら声をかけるが、若者はうぜえと小声で呟きながら素通りしていく。その態度に笑顔が崩れかけるが即座に作り直して声をかける。

 

「明日から船橋レース場でレースを開催しております~!農家の物産展や地元ダンスパフォーマンス、関東一ソフトウェアの最新作の先行プレイなどイベントが盛りだくさんです~!」

 

 アジュディミツオーは炎天下の中声をかけ続ける。だが大半には無視され、時にはナンパされたり、あからさまに肩をぶつけられたりしていた。

 

「明日から4日間船橋レース場でレースを開催します。よかったらどうですか?」

「ネオユニヴァースとかヒシミラクルは来るの?」

「いや来ないです。でもセイシンフブキがレースに出走しますよ」

「誰それ?」

 

 やっと足を止めて反応を示したが興味が失せたとばかりに足早に去っていく。

 それから数時間ばかりビラ配りを続ける。所定の時間を過ぎてビラ配りが終わるが手元には半分ほどビラが残っていた。

 ボランティアスタッフ達は休憩をとる為に近くの公園で涼んでいた。

 

「お疲れ様、疲れたでしょう」

 

 アジュディミツオーはベンチに座って休んでいると、中年の男性スタッフが缶ジュースを渡して隣に座る。アジュディミツオーは礼を言って缶ジュースに口をつける。

 

「はい、暑いしあまりビラを取ってくれないし嫌な顔をされるし」

「まあ、10人に1人でも手に取ってくれたらマシかな」

「それに地方と中央の区別がついてない人も居るんですね。それにし……セイシンフブキさんを知らない人も居るし」

「そんなもんだよ。世間にとってはレース=中央だから、それにセイシンフブキが走ったダートプライドだって話題になっても1年以上は経ってるし、過去の出来事になっていてもしょうがない。興味がないことの記憶なんてすぐ消えるもんだ」

「それにレース前にビラ配りしてるだなんて知らなかったです」

「少しでもファンを集めないとね。それにしても急にボランティアスタッフの活動をしたいだなんてどうしたの?」

「色々思うところがあって……」

「でもこうして今年の東京ダービーウマ娘にして船橋のホープとお喋りできるからいいか。普段じゃ喋る機会なんて無いしな。ハッハッハ」

 

 中年の男性は豪快に笑い、アジュディミツオーはハハハと愛想笑いしながら考える。

 地方のレースが、セイシンフブキがここまで認知されていないこと、そしてレース前にボランティアスタッフがレース場に足を運んでもらおうと、ビラ配りをしているのを知らなかった。

 

「よし、休憩終わり。アジュディミツオー君にはレース場でもまだまだ頑張ってもらわないと」

「はい。レース場では何をするんですか?」

「ボラスタがやっている大概のこと、頑張って」

「うへ~、忙しそう」

「この4日間は目一杯こき使うから、覚悟しておいてね」

「はい、頑張ります!」

「冗談冗談、未来のエースをこき使うなんてとんでもない。トレーニングに支障がきたさないようにほどほどにね。おっ、お客さんこってるね~」

「そんなに凝ってます~?」

 

 中年の男性はアジュディミツオーの肩を揉みながら親し気に声をかける。思わず払いのけようとする手をグッと堪えて調子を合わせる。

 ヒガシノコウテイはアジュディミツオーに対してボランティアスタッフとして働くように助言を与えた。

 

 ボランティアスタッフとはレース場でレースを運営できるように手伝うスタッフで、その存在について全く知らなかった。

 手伝いをすることで、どのような効果で地方総大将の力を習得できるかは分からない。だがヒガシノコウテイは嘘を言うウマ娘ではない。自分次第で習得できるはずだ。

 アジュディミツオーは絶対にものにすると意気込んでいた。

 

 

入場ゲート

 

「本日はご入場ありがとうございます。こちらが入場記念品になっております」

 

 アジュディミツオーは笑顔を作り明るい声で入場客に声をかける。もう1時間は笑顔を作り声を出し続けている。表情筋が攣り始め声も若干枯れ始めている。

 

「アジュディミツオーだ、こっちむいて」

 

 入場客がアジュディミツオーに気づきスマホを向け、職務の妨げにならないようにポーズと表情を作る。

 

インフォメーションセンター

 

「おか~さ~ん~!どこ~!?」

「お母さんはもうすぐ来るからね」

 

 アジュディミツオーは幼児を抱きかかえながらあやす。ボランティアスタッフが巡回中に見つけてきた迷子である。

 

「すみません。落とし物したのですが」

「はい、どのようなものですか?」

「スマホです」

「色とか機種の特徴は分かりますか?」

 

 アジュディミツオーは幼児を片手で抱きながら空いた手でノートを開き、落とし物の特徴を確認する。

 

「はい、こちらのスマホがお客様のものですか」

「そうです。ありがとうございます」

「おか~さ~ん!おか~さ~ん!」

 

 すると幼児がさらに大きな声で泣き喚く。なんとかあやそうと変顔などをしながら悪戦苦闘する

 

物品販売所

 

「新商品アブクマポーロマスコットフィギア発売中です~!他にも関東一ソフトウェアの商品も発売中です~。船橋ウマ娘協会の関連グッズを買えば半額で買えま~す。他にも船橋のマスコットキャラクターのギャロッタ君と関東一ソフトウェアのマスコットキャラクターのペリニーのコラボグッズはここでしか買えませ~ん!激レアですよ~!」

 

 アジュディミツオーは喉を気にしながら声を張り上げる。

 その声を聞いたのか客達は物品販売所に寄って、アジュディミツオーの前で写真を撮る。

 今のアジュディミツオーは全身にグッズを身に着けていた。その恰好は珍妙で客達は面白がって撮っていた。

 

───

 ボランティアスタッフの控室、シフト制で交代を取り、休憩時間のものが備え付けの場内TVで今日行われているレースを見ている。アジュディミツオーはその輪から外れて疲れ切った様子で椅子にもたれ掛かれていた。

 

 チケットもぎり、入場者配布物の受け渡し、迷子落とし物対応、各種イベント受付インフォメーション、物品販売の売り子、レースをしているなかでこれだけの職種の人達が働いているとは思わなかった。そしてそれらの仕事をやることになるとは思っていなかった。

 普段なら研究の為にレースを見ているがそんな気が起きない程疲れていた。もしウマ娘でなければ疲労で倒れているだろう。そして1つの業務でも中々の仕事量だ。

 

「どうしたアジュディミツオー君、これでも飲んで元気出して」

 

 公園で缶ジュースをくれた中年男性が横に座るとエネルギー飲料を手渡す。アジュディミツオーは礼を言って口につける。

 

「ありがとうございます。みんな毎回こんなに忙しいんですか?」

「交流重賞なんてもっと忙しいぞ。まあアジュディミツオー君は走る側だから関係ないがね」

 

 中年の男性はガッハッハと笑うなか、アジュディミツオーは忙しさを想像し思わず気が滅入る。

 

「みんなは何でボランティアなんてやっているんですか?こんなの無給でやる仕事じゃないですよ。それに働いている時はレースも見られないし、わざわざボランティアで働くぐらいだからレースも好きなんですよね?」

 

 アジュディミツオーは思わず問いかける。ボランティアスタッフはレース中も仕事をしているのでレースをじっくり観戦することはできない。

 そしてスタッフは学生から70代までと幅広い、学生や老人はともかく30代や40代の人達は働いているだろうし、休みを潰しているか有給休暇を取ってボランティアスタッフをやっているのだろう。とても考えられない。

 

「う~ん、それは好きだからかな」

「好きだからですか?」

「そう、まずレースは好きだし生で見たいと思ってるよ。でもそれ以上にレースや船橋の魅力をもっと知ってもらいたいし、楽しんでもらいたい。その為に手伝いが必要なら喜んでやる。それに今はネットでレースが見られるからね。昔は録画なんて無いから、生で見ないと見られないってレースがいくつもあった」

 

 中年男性は笑い話のように気軽に言う。だがアジュディミツオーには見たいレースが見られない辛さは充分に理解できた。

 

「次にボランティアでやる理由だけど。生臭い話になるけど金だね。まあ昔の船橋はドがつくほど貧乏だったからボランティアで運営をやってたんだ。だが少しずつ上向きになって企業に任せようって話になったけど、ボランティアが止めるように言った」

「何でですか?」

「企業に頼めば運営費がかかる。だがボランティアでやれば金が浮いて、それをウマ娘達に回せば色々とできる」

 

 アジュディミツオーの胸が締め付けられる。トレーニングの機材、レース用具、食費などレースに臨むにあたって様々な経費が発生する。

 不自由なくトレーニングしてレースに臨めているのは少なからず経費の一部をボランティアスタッフの献身によってだ。それに対する感謝と申し訳なさを抱いていた。

 中年の男性はしんみりしているアジュディミツオーの背中をバシバシと叩く。

 

「そんなに感謝すること無い。何度も言うけど好きでやってることだし、与えられているのはこっちだし」

「与えられてるって?」

「地方に来るのは中央に受からなかったか、怪我か衰えで通用しなくなったウマ娘だろう。言い方は悪いが弱者だ。私も派閥争いで閑職に追い込まれて弱者として腐ってた。そんな時にフラっと船橋レース場に運んで頑張っている彼女達と境遇を知って力を貰った。ここに居るみんなも同じような理由だよ、勝手に自己投影しているだけ。だから気にする必要はない」

 

 中年男性は気軽な口調で語る。だが言葉と裏腹に当時は相当ショックで生きる気力を失っていた。

 その時に奮い立たせてくれた船橋のウマ娘達には感謝の念を抱いていて、一生尽くそうと誓っていた。

 

「あとはそうだな、雑草の地方ウマ娘達が中央のエリート達をバッタバッタとやっつける。その姿に自己投影して気持ち良くなって、自分が頑張った分が強いウマ娘を育てたって悦に浸りながら酒を飲む。それがまた美味いんだ。勝ちウマ娘に乗るってやつだな」

「なら良かったですね。メイセイオペラとアブクマポーロ、セイシンフブキとヒガシノコウテイが中央を何度も倒しましたから」

「ああ、大分美味い酒を飲ませてもらったよ。だがもっと美味い酒があるのを知ったからな。それを飲むまでボランティアで頑張るさ」

「何なんですか、美味い酒って?」

「それは世界一だよ。ダートプライドで地方のウマ娘が日本を飛び越えて世界の頂上まであと数センチまで近づいた。世界一は決して夢じゃない、世界一になった時の酒は格別だろうな」

 

 声を弾ませながら語る姿を見てアジュディミツオーの表情に影が差す。

 

 私が世界一の酒を飲ませてやりますよ。

 

 ジャパンダートダービーに負ける前のなら豪語していただろう。

 だが連敗で目指すべき道を見失い、藁を縋る想いで地方総大将としての力を得ようとしている今の自分では口が裂けても言えない。

 

「どうした?船橋のホープなら『私が世界一の酒を飲ませてやりますよ』と豪語しないと!」

「そうですね。私が世界一の酒を飲ませてやりますよ!」

「それだよ!その意気だ!」

 

 アジュディミツオーは中年男性を喜ばせるために精一杯の虚勢を張る。中年男性はアジュディミツオーの心中を察することなく豪快に笑っていた。

 

──

 

 ヒガシノコウテイはツイッターの検索欄にアジュディミツオーと打ち込む。すると今日の日付の書き込みや写真が多くなっていた。

 内容としてはボランティアスタッフとして働いていることだった。呟きを見る限り精力的に働いていることが分かる。

 

 アジュディミツオーが手に入れようとする地方総大将としての力は心技体で言えば心の部分と言える。

 強靭な肉体を身に着ける為には長い時間がかかる。高度な技術を習得するには、強靭な肉体を身に着けるより時間がかかる。そして心のありようを変えるのはさらに時間がかかる。

 心とは日々の生活で感じ培ってきた主義主張や感性や価値観などの全てだ。

 アジュディミツオーの生活の全てがダートへの強烈な愛と憧れを養ったように、地方総大将としての力は強い地方への愛が必要だ。

 そして今まで地方に対する想いが芽生えなかったアジュディミツオーに手に入れることは難しい。

 

 だが心とは強烈な体験やふとした些細な切っ掛けで変化することがある。

 ボランティアスタッフは地方を愛し尽力する者達だ、それらの人達と触れ合うことで、それが強烈な体験やふとした切っ掛けになればアジュディミツオーの心に変化を促し、地方総大将としての力を得られるかもしれない。

 もし力を得れば盛岡にとって強大な敵となる。少し前までの自分なら助言はしなかっただろう。だがそんな小さい考えは昔に捨てた。

 地方で走る者は所属関係なく大切な後輩だ。出来る限りの望みをかなえてもらいたい。

 そして地方を走るのなら、地方に愛着が無い者より愛着が有る者に勝ってもらいたい。それは自身の願望だった。

 

 



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勇者と新世代#3

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


 9月になると夏を休んでいたウマ娘達がトレセン学園に帰り、秋のビッグレースに向けてトレーニングを開始する。アグネスデジタルもその中の1人であった。

 トレーナーはチームメイト達と坂路を駆け上がるデジタルを見つめる。アメリカから帰ってからはトレーニングにより一層集中するようになり、動きに力強さが増していた。どうやらアメリカで何かしらの決意を新たにしたようで、それが良い方向に働いているようだ。

 トレーナーはゴール地点まで走ったデジタルを見たあと端末に視線を移す。各ウマ娘のゼッケンにチップが埋め込まれ、ゴールを通過した瞬間タイムが端末に送られる仕組みになっている。

 タイムは予想以上の好時計でトレーナーの予想以上の仕上がりを見せていた。

 

「中々の時計やったぞ」

 

 トレーナーは坂路から戻ってくるデジタルに声をかける。すると手応えを感じているのか僅かに口角が上がっていた。

 何を試しているのかは敢えて聞いていないが、自分で試行錯誤した成果が出ているのはは良い事である。

 

「順調そうやな」

「目一杯に感じたいからね」

 

 デジタルはレースのことを想像したのか興奮気味に鼻息荒く答える。

 

 アメリカから帰ってきたデジタルと話し合った結果秋のローテが決まった。

 初戦は船橋レース場ダート1800メートルGⅡ日本テレビ盃

 2戦目は盛岡レース場ダート1600メートルGI南部杯

 3戦目は東京レース場芝2000メートルGI天皇賞秋

 

 春はレースを通して多くのウマ娘を感じ新たな発見をしようという試み、または複数のウマ娘にフォーカスを当てていた。

 だが秋の3走は感じたいという対象を決め、アジュディミツオー、アドマイヤドン、シンボリクリスエスの3人が対象だった。その1人であるアジュディミツオーが日本盃に出走する。

 

「あと1本や、気張ってこい」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に応じる様にチームメイト達と坂路に向かっていき、トレーナーはその後ろ姿を見送る。

 デジタルが選んだローテーションは奇しくも数年前のローテーションと同じである。

 日本盃から始動し、そこから地方中央芝ダートの垣根を越えてのGI4連勝を達成した。この連勝がアグネスデジタルというウマ娘の名を広めたと同時に個性を確立した。

 予定しているレースには強豪が集まってくる。特にアドマイヤドンとシンボリクリスエスは現時点のダートと芝中距離のトップクラスと言え、勝つのは並大抵のことではないだろう。

 だがもしかしたらあの時の連勝を再現するかもしれない、そんな期待感を今のデジタルに抱いていた。

 

──

 

 トレーナー室は様々な付き合いや気苦労から解放される唯一のプライベート空間である。ここでは好きなことをやれて、限りなくストレスフリーで快適な空間だった。だが最近は事情が変わってしまった。

 

「白ちゃん、これどういう意味?」

「それはやな……」

 

 トレーナーはデジタルが見せてくる参考書の箇所を読み分かるように解説する。デジタルはなるほどと独り言を呟き、再び参考書を読み始める。

 デジタルがトレセン学園に戻りトレーニングを始めた日、トレーニングが終わり資料を整理しようとトレーナー室に向かう。そこで作業して数分後、突如扉をノックした音が聞こえた。

 チームの誰かだろうと思って扉を開けるとそこにはデジタルが居た。

 デジタルがトレーナー室に来ることはあまりない。何の用だと問いかけるまもなく中に入ると、部屋の中央の机にある荷物を退かしスペースを作り、自分が持ってきた本を広げこう言った。

 

「今日からここでトレーナーになる為の勉強するからよろしく」

 

 それからデジタルはトレーニングが終わると自室から教材を持ってトレーナー室にやってきて勉強を始めるようになった。

 その結果トレーナーの作業効率は下がっていく。その要因はタバコを喫煙できなくなったことだった。

 トレーナーはそれなりにタバコを吸っていた。だがトレセン学園は教育機関であり、アスリートを育てる場所で喫煙はよろしくないと、広大な敷地に反し喫煙スペースは少なく、トレーニング場所によっては長い距離を移動しなければタバコを吸えなかった。

 だがトレーナー室ではタバコを自由に好きなだけ吸えていた。しかしデジタルが来たことで副流煙を吸わせるわけにはいかないとタバコは自粛しなければならない。

 トレーナーは貴重な喫煙機会を減らされてはならないと来た理由を訪ね、理由しだいでは暗に出て行けと察するように言葉を伝えようと考えていた。

 

 デジタルはトレーナーに理由を話す。自室だと誘惑に駆られ勉強に集中できず、雑誌やスマホをいじってしまう。ならば自室以外の場所で勉強しようと考えた。

 トレーナーはその答えに図書室で勉強すればいいと言うが、トレーナーが近くにいれば分からないところ聞けて便利だし、何よりトレーナーになるためにバックアップすると約束したのであれば、協力する義務があると反論した。

 確かにデジタルの両親を説得するときにバックアップすると約束したのを覚えている。言質があるだけにトレーナーは反論できず、トレーナー室で勉強することを許可した。

 今ではデジタルが来るときは仕事にならないと休憩時間と割り切っていた。

 

 トレーナーは今は休憩時間として休んでいるが手持ち無沙汰だった。暇つぶしがてら何気なくデジタルが持ってきた参考書を手に取る。

 そこには何十年前に必死に勉強した項目が載っていて、夏に家では暑くて勉強にならないと、クーラーが利いている図書館に閉館時間まで通いつめた日々の記憶が蘇る。

 

「よし、問題や。フェブラリーステークスにおいて、レーティング110で獲得ポイントが1000万のウマ娘とレーティング100で獲得ポイントが2億のウマ娘、出走枠が残り1つならどっちが出走できる?ちなみにレーティング110は出走メンバーのなかで5番目や」

 

 トレーナーは突如問題を出す。過去に先輩に突如問題を出されて勉強した日々を思い出し、ノスタルジーを感じ自身も問題を出してみた。

 デジタルは突然の質問に参考書を読むのを止めて考える。出走についてはいくつものドラマがある。かくいう自分も天皇賞秋でウラガブラックの出走を弾いた1人である。

 そして問題だがこれは出走ポイントが多いウマ娘が出走できるだろう。

 交流重賞でも過去にGIをとっても他のウマ娘と比べ獲得ポイントが足りず除外されるという例もある。

 

「それは獲得ポイントが多いウマ娘ちゃんでしょ」

「ハズレ、正解はレーティング110で獲得ポイント1000万のウマ娘や」

「違うの!?だって交流重賞で獲得ポイントが足りなくてGI勝っても出走できないとかあるじゃん」

「それは地方の話で中央は違う。レース規定のGIの出走ウマ娘の決定方法の項目をよく読んでいみい」

 

 デジタルはトレーナーに言われたとおりレース規定の本を手に取り確認する。そこには上位5名の選出基準としてレーティング、優先出走権、外国ウマ娘、獲得ポイントの多い順の序列で出走できると記載されていた。

 

「これでフェブラリーステークスに出走したいというウマ娘の夢が絶たれたわ。どっかの勉強不足のトレーナーのせいやわ。あ~かわいそ」

 

 トレーナーが煽るように挑発しデジタルは思わず頭を抱える。

 憧れの先輩ウマ娘の引退レースがフェブラリーステークス、最後に一緒に走りたいという一念で前走に勝利した後輩ウマ娘、獲得ポイントを上乗せして出走できると確信して登録した自分、だが出走不可、泣き崩れる後輩ウマ娘。

 

「ごめんね後輩ウマ娘ちゃん~!アタシのせいで出走させてあげられなくて~!」

「何の想像をしとるが知らんがこんなことにならんように勉強しておけよ。あと各GIで優先条件がちゃうから覚えておけ」

「うん」

「それからGIや重賞だけやなく各条件のレースの出走も覚えておけよ。知らなかったせいで確勝級でも条件戦で除外され、そのレースに出走できなかった結果予定が狂ってクラシックのレースに出走できなかったとか、別のレースにピークを持っていけば勝てたのに条件を知らず除外されるレースに登録して調子を落とすとか色々あるぞ」

 

 デジタルはトレーナーの話に頷きながらメモを取る。レースの出走条件などの規定の一覧は文字の羅列で覚えるのが億劫だった。

 だがトレーナーの話には実体験が籠ったリアリティがあり参考になると同時に、将来の教え子たちを不幸にしない為に絶対に覚えなければと実感させられる。

 

「白ちゃん他にも問題出して」

「しょうがない、じゃあここからやな」

 

 トレーナーはデジタルが持ってきた参考書を手に取り問題を出していく。それから暫くは自主勉強ではなく、トレーナーの問題を解説していく授業になっていた。

 

「ところでなんで今更勉強する気になったんや」

 

 トレーナーは参考書を読み問題文を考えながらデジタルに問いかける。アメリカに帰ってから何かしら心境の変化があったのは明らかであった。

 

「今までトレーナー試験の難しさに目を背け、引退してから勉強すればいいやって思っていた。だけど今は違う!人生設計を作った結果、今から勉強しなければ間に合わないって判断なのです」

「そうか、ところで1日何時間勉強しとんのや?」

「トレーナー室で勉強してるだけ」

「それじゃああかんぞ」

 

 トレーナーはデジタルに厳しく言い放つ。トレーナー室で勉強している時間は精々1時間から2時間程度だ。

 はっきり言えば毎日勉強したとしても時間が足りない。トレーナー試験は難関であり、T大に受験する予備校生並みに勉強しなければ合格はできない。

 一方デジタルはトレーナーの言葉に対し予想通りという表情を見せていた。

 

「今は勉強する習慣をつける時間だよ。自慢じゃないけどアタシには勉強する習慣はなく、テストも全て1週間漬けで何とかしてきました」

「ほんま自慢やないな」

「それに今は現役だしレースの準備をしたり、メンタルヘルスのためにウマ娘ちゃんの映像を見たり雑誌を読む時間を確保することを考えればこれが限界、それに受験まであと9年はあるし大丈夫でしょう」

「うん?9年の数字はどこから出てきた?」

「それは現役最長記録まで走るからだよ。それで引退したら即受験、あと9年はよろしくね」

 

 トレーナーはあっさりと言うデジタルに一抹の不安を覚える。

 ウマ娘の衰えには個体差があり、現役最年長記録を持つミスタートウジンは衰えるスピードが遅く恵まれていたかもしれない。だがそれだけでは決して記録は作れない

 必要なのは衰えないための日々の鍛錬と体のケア、何よりモチベーションを保ち続けられる気力が必要になる。

 モチベーションとは燃料のようなものであり無尽蔵ではない。現役を続け燃やし続ければ続けるほど消費していく。長く走るということはそれだけ長く燃やしていた証でもある。

 己の限界を知っての「あきらめ」、現状での「満足」「納得」そういった要素が燃料を消しにかかる。

 ミスタートウジンはそれらの要素を跳ね除ける強いモチベーションを持って走り続けた。それは並大抵のことではなく、ある意味3冠以上の偉業である。デジタルはそのことを理解していないような気がしていた。

 

「気軽に言っとるが並大抵のことやないぞ」

「分かってるよ。本当なら一生レースを通してウマ娘ちゃんを感じたいけどそれは無理だから、実現可能な目標を立てた。これでもアタシなりに色々やってるんだよ。例えば他のジャンルのベテランスポーツ選手を調べて、食事を節制したりとかさ。白ちゃんが時計出てるって言ってたけど、努力の現れだね」

 

 デジタルは胸を張りながら自慢げに言う。話からするに記録を更新宣言にせよ、トレーナーのライセンスの受験にせよ思いつきの言動や行動ではなく、それなりに真剣で計画的に目標達成に向けて行動しているようだ。

 

「そういえばお前宛の荷物がトレーナー室に届いておったぞ」

「誰から…ってサキーちゃんじゃん」

 

 デジタルはトレーナーから小包を受け取ると勢いよく開けて中の物を取り出す。

 中には雑誌が入っていて表紙が英語で書かれていた。それはイギリスで発行されているウマ娘の専門誌だ。

 デジタルは最初から読まずページをパラパラと捲り、あるページに差し掛かるとじっくりと読み始める。

 

「それイギリスのあれやろ。もう発売日やったか?」

「いやまだ。サキーちゃんがコラム書いていて、イギリスで会った時に問題を出したんだけど、それを題材にしてるんだよね。それでこの内容で問題ないかって送ってくれたみたい」

「それで何の問題を出したんや?」

「安田記念の直線で何でアタシの目の前が開いたかって問題、そして大正解、流石だね」

「あれを当てるなんて凄いな。ちなみに何て書いてあるんや?」

 

 デジタルは該当ページを開いた状態でトレーナーに雑誌を渡す。トレーナーは懸命に翻訳しながら読み進める。

 要約すればデジタルの前に居たウマ娘達に話を聞き、横に行くというイメージを相手に植え付け、空いたスペースに飛び込んだ。現役でも似たような体験をしたので、これはオカルトではなく技術であると書かれていた。

 

「そういえば日本テレビ盃にはセイシンフブキが出てくるな」

 

 トレーナーは雑誌を読みながら何気なく話しかける。サキーから連想してセイシンフブキが出走登録したのを思い出す。

 

「うん、予定外のサプライズで今から一緒に走るのをワクワクしてるよ」

「でも、今のセイシンフブキは好みじゃないやなかったか?」

「何というか、フブキちゃんと走ることをメインにはしないけど、走れたら嬉しいよ。ダートを探求するフブキちゃんがどんな感じかも感じたいし。それに何と言っても師弟対決のイベントが発生したからね」

 

 デジタルはワクワクが抑えきれないと体をソワソワさせる。

 トレーナーの下に就いたサブトレーナーが独立し、其々の教え子が大舞台で走る時は師弟対決とトレーナー達にスポットが当てられることがある。

 だがウマ娘達の師弟関係は珍しい。本番ではお互い様々な感情を抱く。それはデジタルにとって極めて気持ちが揺さぶられる。

 

「あと、日本テレビ盃は黒坂君が同行するからな」

「今度はどこにいつまで行くの?」

「アメリカで勉強会と研修会、そこからウルグアイとブラジルに行く。約1週間や。有望で日本行きに前向きなウマ娘がいるらしい」

「中堅トレーナーは大変だね」

 

 デジタルは教材に読みながら気の無い返事をする。トレーナーは度々海外に行く。目的は自身のスキルアップやコネクション作りやスカウティングである。

 トレセン学園に居るトレーナーで積極的に海外に行く者は少ない。その理由としては海外に行っている間にチームのウマ娘を指導できないという点だった。だがトレーナーはその点について心配していなかった。

 チームプレアデスにはサブトレーナーの黒坂が居る。トレーナーの意志を汲み取り忠実に指導できる。

 黒坂が居れば大まかな計画を組み、問題が発生したとしても直接指導しなくても電話などのやり取りで充分対応できる。

 黒坂には全幅の信頼を置き、彼が居なければトレーナーは積極的に海外に行くことは出来ない。

 

「アタシもトレーナーになったら白ちゃんみたいに色んな場所に行かないとダメかな。チームのウマ娘ちゃんと離れるなんて寂しくて出来なさそう」

「今からトレーナーになった話をするなんて鬼が笑うぞ。まあもしその気になったら紹介してやるぞ。こう見えても海外へのコネは少しだけあるからな」

「じゃあ白ちゃんの人脈は全部もらおうっと。この人脈を使って日本一のトレーナーになるからね。いや~持つべきものはコネだね」

「俺も使うわ。それに地盤を与える政治家やないんやから、お前がトレーナーになっても引退せえへんわ。あと日本一のトレーナーになるなんて初耳やぞ。いつからそんな上昇志向が強くなったんや?」

「別になりたくて目指すわけじゃないよ。ただアタシの夢を叶える為に必要なんだよね」

 

 デジタルはサキーから受けた助言についてトレーナーに話す。より多くのウマ娘と接したい、人はレベルの高い場所に集まる。日本一になればより多くのウマ娘が集まってくるという理屈だ。

 

「なるほど、確かにそうやな。だったら俺もライバルやな」

「白ちゃんも日本一を目指してるの?」

「当たり前やろが、向上心が無くなれば終わりや。でなければ海外まで行ってスカウトなんてせえへんわ」

「それもそうだね」

「もしトレーナーになったら、師弟対決が出来るかもな。どうや、デジタル風に言えばエモいやろ?」

「え~。アタシはウマ娘ちゃんとの師弟対決を見たり、後輩ウマ娘ちゃんと師弟対決がしたいんだよね。白ちゃんと師弟対決してもエモくないって」

 

 デジタルは興味が無いと言わんばかりに教材に視線を移し読み始める。

 トレーナーも雑談を止め、勉強の様子を見守る。それからはデジタルもトレーナーに質問することなくトレーナー室には2人の呼吸音とページを捲る音が響く。するとデジタルのスマホからアラーム音が鳴った。

 

「よし今日の勉強は終わり、それじゃあまた明日、あと問題形式やってよ。実体験が混ざったエピソードを聞くとイメージしやすいんだよね」

「気が向いたらな」

 

 アラームが鳴るとデジタルは勢いよく立ち上がりトレーナー室を出て行く。トレーナーはその様子を見て思わず苦笑する。

 しかし嬉しそうに出て行ったものだ、まるで塾を強制的に行かされている子供が授業終わったの時のようだ。

 こんな様子でトレーナー試験に受かるが不安になるが、自分から時間を作り好きでもない勉強するようになったことは進歩と捉えるべきか。

 

 トレーナーは部屋を出るデジタルを見送った後タバコに火をつけながら先の言葉を思い出す。

 現役最年長記録の更新、それは困難な道だがミスタートウジンとはまた違った困難さが生じる。

 ミスタートウジンは現役時代では重賞に出走せず条件戦で走り続けた。だがデジタルはGI6勝で現役のトップといえる選手だ。

 長く現役で走る必要なのは衰えの進行が遅い体ではなく、気力などのモチベーションであると考えていた

 

 モチベーションは無限に有るものではなく時が経つごとに消費していく。現役で走り続けるにはモチベーションという燃料を追加しなければならない。

 一般的なモチベーションは勝利への渇望だろう。あのウマ娘に勝ちたい、あのレースに勝ちたいという欲がモチベーションになる。

 だが衰えていけば勝つことはなくなり、勝ったとしても過去に勝ったGIレースと比べてランクが下がる。

 GⅡやGⅢ、果てはOPクラスになるかもしれない。その現状に耐えきれなくなると一気にモチベーションは無くなる。

 しかしそれは勝利を目的にしているウマ娘の場合だ。デジタルは勝利が目的ではなく、ウマ娘を感じるのが目的である。

 例え勝ち星から遠ざかり走る舞台のランクが下がろうが、気にすることなく感じることに没頭する。そしてウマ娘を感じたいという欲は底なしで、満足も納得もしないだろう。

 モチベーションの面で引退することはない。するとしたら体の面、重度の怪我による競走能力の低下か、レースで感じることが困難になるほど衰えるかだ。

 怪我は注意を払えば防げる確率は増える。だが衰えについては現状では食い止める方法は確立されていない。できるとすればウマ娘の神様に祈ることぐらいだろう。

 

 トレーナーは本棚から埃被っていた本を取り出す。これはかつてのトレーナー試験の勉強に使った教材だ。初心を忘れべからずと持ってきたが日々の生活で使用することなく、すっかり埃被っていた。

 その教材を取り出しパラパラとめくり始める。デジタルの両親にトレーナーになる為にサポートすると言ったので、こちらも尽力しなければならない。デジタルが学習の手助けになるように問題でも作っておこう。

 本番に出るような問題では学習効果が少ない。より脳に定着するように印象に残り関心が持つような問題でなければならない。

 まずは人物背景を作りデジタルの言う尊いやエモいと呼ばれる感情を湧き上がらせる。

 トレーナーは過去のウマ娘やドラマや映画で見た登場人物を思い出し人物背景を作る。

 何となくで始めたが次第に夢中になり、今日やらなければならない仕事をそっちのけで問題作りに励んでいた。

 



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勇者と新世代#4

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


 9月中旬、今月船橋レース場では4日間レースが開催され、3日目にはGⅡ日本テレビ盃が行われる。JBCクラシックの前哨戦とされるレースで、各地方の強豪は勿論中央の有力ウマ娘も参戦し、レベルの高いレースになる。

 そして今日は開催2日目になる。地方重賞などは開催されないが多くの客が足を運んでいた。

 

「こちらで関連グッズを発売中で~す。総額2000円以上のお買い上げの方はアブクマポーロさんとセイシンフブキ選手とアジュディミツオー選手のうち1人のサイン会に参加できます。総額4000円以上お買い上げの方はサイン会とチェキ会に、総額6000円以上お買い上げの方はサイン会とチェキ会と握手会に参加できます」

 

 ボランティアスタッフの売り子が声を張り上げながら客達を整理していく。今日の客入りの多さの要因として3人のサイン会開催が挙げられる。

 アブクマポーロは船橋歴代最強の呼び声高く、現役時代では中央のウマ娘を次々と撃破し、ライバルのメイセイオペラと数々の名勝負を繰り広げてきた。その人気は現役を引退しても未だ根強い。

 セイシンフブキはダートプライドに参戦し善戦した選手として、ファンの間ではリビングレジェンド扱いされ、アジュディミツオーも若手のホープとして地方ファンには人気だった。

 他にも最終レース後に日本テレビ盃に出走する選手の決起会をするなどイベント盛りだくさんである。

 グッズを購入したファンはサイン会場に行き列を作る。その様子をアブクマポーロとセイシンフブキはサイン会場の後ろの控室で様子を見守る。

 

「凄い人気じゃないかフブキ。1番列が長い」

「アブクマ姐さんも一杯並んでるじゃないですか。根強い人気ですね」

「引退したウマ娘のサインを欲しがるなんて、物好き……いや、ここはありがたがるべきか、しかし、この歳になってアイドルの真似事をするとは夢にも思わなかった」

 

 アブクマポーロはクスクスと笑う。

 

 チェキとはアイドルと一緒にツーショットを撮ることで、写真は記念品としてもらえる。チェキ会や握手会はアイドルの文化であり、中央ウマ娘協会はサイン会を行ってもチェキ会や握手会はしてない。

 トゥインクルレースを走るウマ娘はアイドルではなくスポーツ選手である。

 ウイニングライブをしているので定義は難しい。だが中央ウマ娘協会はスポーツ選手という認識であり、他のスポーツ選手のようにサイン会はするが、チェキ会や握手会などのアイドル文化のファンサービスや企画はしていない。

 だが船橋を初めとする地方のウマ娘協会は積極的に導入している。そのほうがグッズの売り上げが上がるからである。

 

「しかしアブクマ姐さんが参加するだなんて意外ですね」

「まあ、予定が空いていたし、ファンの間では私とフブキとミツオー君は師弟関係で繋がっていると知られているみたいで、参加すれば売り上げが上がるから是非と懇願されてね。一応は船橋所属だった身だ、少しぐらいは付き合うさ、それを言うならフブキこそ珍しい」

「明日のレースにやれることは全てやりました。今更テスト前の一夜漬けみたいに詰め込む必要はない。まあ、昔だったら参加しないけど」

 

 セイシンフブキは自嘲的に笑う。昔は自分が勝ってダートを盛り上げようと必死で、周りに目を向けていなかった。

 だが一度勝負から降りて周りを見ることで、こういったイベントに参加することはダートを盛り上げるために必要であると知った。

 

「勝つか、聞いたよフブキ、明日のレースでアジュディミツオー君がフブキに先着されたら引退するんだって?」

「そうですけど、どこから聞いたんですか?」

「ミツオー君から、明日は見届け人として来て欲しいとさ。それでどうするつもりだ?」

「それは全力で挑みますよ」

「愛弟子を引退に追い込むことになってもか?」

「負けたらそれまでです。止めますか?」

「いや、ミツオー君の師はフブキだ。教育方針には口を出さない」

 

 アブクマポーロはセイシンフブキの様子を横目で見る。言葉や様子を見るからして本気で叩きつぶすつもりで走り、本気で引退に追い込むつもりだ。

 一見非情に見えるが、これはセイシンフブキなりの信頼だろう。誰よりもアジュディミツオーと長い時間を共に過ごし、誰よりもその才能と可能性を信じている。

 

「前走を見る限り大分厳しそうだが、ミツオー君は勝算が有るのかね?」

「さあ、でもアイツなりに色々とやっているみたいです。例えば最近になってボラスタとして働き始めて、今ここに居ないのもボラスタとして働いているからです。サイン会に来るのもギリギリじゃないっすか」

「レース前日までボランティアスタッフとして働くだなんて関心だね。いつからそんな献身性を身に着けたんだ?」

 

 アブクマポーロは孫弟子の変化に驚きの声をあげる。本当なら今日はセイシンフブキとナイキアディライトとアジュディミツオーの、日本テレビ盃に出走するウマ娘でサイン会などをする予定だった。

 だがナイキディアライトが拒否したことでアブクマポーロにお鉢が回ってきた。

 勝つために最善を尽くすのでファンサービスする時間はない。それはスポーツ選手としては間違っていなくて、船橋ウマ娘協会も認めているからこそ事態を容認した。

 そしてアジュディミツオーもナイキディアライトと似ている。セイシンフブキの弟子として自分の走りに拘るタイプだが、勝利への執念も大きく、出走相手の研究も入念にする。

 連敗で迎える初めてのシニア級との対戦、アブクマポーロが知るアジュディミツオーならイベントには辞退して、ギリギリまでトレーニングなり相手を研究しているだろう。

 

「心当たりは?」

「知らないです。でもアイツなりに考えがあるでしょう。好きにやらせます」

「放任主義だね」

「弟子の自主性を重んじるタイプですので」

「お待たせしました!」

 

 するとアジュディミツオーが息を切らせながら駆けつけてくる。セイシンフブキを一瞥した後、アブクマポーロの隣に座る。

 

「お疲れ様、直前までボラスタとして働くだなんて感心だね。いつからそんな殊勝な心掛けになったんだい?」

「別に殊勝になったつもりはないですよ。強くなるために変わるためにやっているだけですから」

 

 アジュディミツオーは力強く言う。その言葉にセイシンフブキはフッと挑発的に笑った。

 

 イベントは滞りなく進行する。場慣れしていないアブクマポーロとセイシンフブキは戸惑い、チェキでのポーズも少し恥ずかしながらも精一杯対応する。

 一方アジュディミツオーは完璧な対応だった。笑顔は崩さず握手会でも短いながらファンと言葉を交わし、チェキでもどんなポーズでも照れを見せずとる。

 まさに俗に言う神対応でファン達はみんな満足げな表情を見せ、アジュディミツオーの予想外の場慣れ感と対応の良さにセイシンフブキとアブクマポーロは大いに戸惑っていた。

 

 行列も少なくなりイベントも終わりが見えてくる。アブクマポーロとセイシンフブキは何とか笑顔を作るが疲労の色を隠し切れていなかった。そしてアジュディミツオーは疲労の色を一切見せず笑顔を維持する。

 セイシンフブキは弟子に負けるかと、意地を張り笑顔を作るとファンが目の前に立っていた。これで最後か、気力を振り絞り対応する。

 帽子を被ったピンク髪の小柄なウマ娘、中学生ぐらいか、サングラスにマスクと怪しさ全開の不審者スタイル、怪しいと同時に既視感を覚える。

 きっと花粉症なのだろう。このファンは確かアブクマポーロとアジュディミツオーの列に並んでいた、余程熱心なファンなのだろう。その熱意に既視感と怪しさは薄れていた。

 サイン色紙を渡すとファンは文字通り飛び跳ねて喜ぶ。そのオーバーリアクションにセイシンフブキの表情は自然に崩れていた。

 次に握手券をもらいファンの手を握る。その瞬間今までのファンとの違いに気づく。粘着質な情念が籠っている。

 

「師弟対決メッチャ楽しみです!最高にエモい場面を見せてください!」

 

 握手している間にファン達は一声かけてきて、このファンは鼻息荒くしながら声をかけた。

 辛うじて言っている内容は聞き取れたが声はガラガラだった。というより意図的に声を変化させているような不自然さがあった。

 何よりこの声にも既視感を覚えていた。セイシンフブキの中で目の前のファンは熱心な人から怪しい人に変わっていた。

 最後にチェキを撮るのだが、2人でハートマークを作るポーズを注文する。何とも恥ずかしいポーズだと羞恥心を覚えるが、懸命に堪えてポーズを作り写真を撮られる。

 

「うひょ~最高!家宝にしよ~」

 

 ファンはツーショット写真を見て目を輝かせながら小躍りしている。その声と仕草を見て既視感の数々の正体に気づいた。

 

「アンタ、デジタルだろ?」

 

 セイシンフブキはファンに向かって話しかける。するとファンは体をあからさまにビクっと震わせると同時に尻尾をピンと伸ばす。

 

「アタシはアグネスデジタルじゃあないです。アタシは……マチルダアナログという唯のウマ娘ファンです」

「誰がアグネスデジタルだなんて言った?何で自分がアグネスデジタルと勘違いされると思ったんだ?」

「あ」

 

 ファンは思わず手に口を当てる。その仕草は正体を雄弁に語っていた。

 セイシンフブキは素早い手つきでサングラスを外す。そこにはアグネスデジタルの見知った顔があった。

 

「どうも……こんにちは」

 

 アグネスデジタルは気まずそうに低姿勢で周りに挨拶する。そして2人の様子を見ていたサイン会参加者は騒めき始める。

 

──え?本物のアグネスデジタル?

──間違いなく本物だよ

──何で日本テレビ盃に出走するウマ娘が船橋に来てるの?

──サインとかチェキが欲しかったの?

──そんなわけないだろう。きっと殴り込みにきたんだよ。皆に知らせないと!アグネスデジタルが殴り込みに来たぞ~!

 

 騒ぎは加速度的に広がり面白そうなものが見られると、レース場に居た人たちが瞬く間に押し寄せて周り囲み始める。デジタルはその様子を微動だにせず黙って見ていた。

 

(ヒエ~、何か大事になってる。アタシは普通にサイン会に参加しに来ただけなのに。どうしよう~、完璧に変装したはずなのに何でバレたの~?)

 

 正確に言えば予想外の出来事に動揺し、動けなかっただけだった。

 

 デジタルは日本テレビ盃に向けて情報収集するとネットで、アジュディミツオーがボランティアスタッフとして一生懸命働いているという記事を見る。

 画像に写る姿は実に良い表情していて、働いている姿を一目見たいと一気に興味が湧いていた。

 さらに当日はアブクマポーロとセイシンフブキとアジュディミツオーが握手会やチェキ会をするとの報せを聞いた。

 デジタルもウマ娘オタクとして奥ゆかしくあるべきと常に心掛けていた。友人としてウマ娘ちゃんと喋るのはよし、だが接触や記念撮影はダメというマイルールがあった。

 選手の立場を利用すれば接触や記念撮影を撮るのは可能だが、それは卑怯である。自分も1人のファンで有り同じ立場であるべきという考えだった。

 しかし主催者が機会を設ければ別だ、合法的に接触できるしツーショットも撮れる。これは問題ない。

 

 早速デジタルは電車に乗って船橋レース場を目指す。一応は有名人の区分に属するウマ娘なので入念に変装する。

 道中はサングラスにマスクという怪しさ全開の格好に多くの人々は怪しんだが、正体はバレることはなかった。

 レース場に着くと、働いているアジュディミツオーの姿をたっぷりと鑑賞する。情報通り懸命に働く姿にデジタルの好感度は爆上がりしていた。

 それからレースを走るウマ娘を観戦し思う存分船橋レース場を満喫する。

 暫くするとアジュディミツオーはサイン会に参加するために、ボランティアスタッフの仕事を中断して移動し、観客達もサイン会場に向かう。

 だがデジタルは慌ててサイン会の列に並ぶことなく、レースやパドックでウマ娘達を見つめる。

 

 サイン会は何回も参加している経験から会場の規模やおおよその参加人数を見れば、あと何分後に向かえば並ばずにサイン会に参加できるか判別できた。

 デジタルは頃合いを見て列に参加する。既にそれぞれグッズを6000円以上購入していた。今日はグッズを多く買えば握手会の時間は伸び、撮れるチェキも増える。その気になれば全てのグッズを買うことは可能で3人を独占できる。

 だがそれは奥ゆかしくない。推しは独占するのではなく分け与えるものである。

 サイン会の対応の良さに好感度上がり、リピーターになる可能性も有る。1人で独占するよりファンを増やした方が長期的には良い。

 デジタルはアブクマポーロとアジュディミツオーとサインをもらい握手してチェキを撮る。

 アブクマポーロは明らかに馴れていなく、たどたどしかった。だがそれが初々しく良かった。

 アジュディミツオーは完璧な対応でどうすればファンが喜ぶか分かっているようだった。ジュニア級でこれ程の対応ができるとは末恐ろしさすら覚える。

 そして最後はセイシンフブキ、少し前ならこんなイベントに参加しなさそうだが、人は変わるものだと感慨深い。何より知り合いではなく、ファンとして対応されるのは新鮮だった。

 滞りなくチェキなどを撮り今日のイベントを思う存分満喫し、残りのレースを見ようと移動しようとした際にセイシンフブキに声をかけられ正体がバレた。

 

 デジタルはどんどんと騒ぎが大きくなる様子を見ながら思考を巡らす。逃げる。事実を釈明するなどの選択肢が浮かび上がるが却下する。

 周りの人たちは妙な期待感を抱いた目をしている。これでこの場から逃げたり事実を釈明すれば、何だつまらないと落胆する。そうなれば明日のレースの盛り上がりに影響する可能性がある。

 明日のレースを盛り上げる。それが出来れば船橋所属のセイシンフブキやアジュディミツオー、そして地方を愛するヒガシノコウテイが喜んでくれる。

 デジタルはウマ娘達の為に盛り上げるために行動するという方針に切り替える。ではどうやって盛り上げる?今までの人生経験から最適な方法を模索する。

 

『ちょっと、用事があったから寄ってみたけど、相変わらずしょぼくれてるな~。中央のレース場とは大違い~』

 

 デジタルは左右に泳いでいた目が一転し、覚悟を決めたような目に変わり、太々しい態度を取り周りに聞こえるような挑発的な声色を発する。周りの雰囲気も期待感から不穏なものに変わりつつあった。

 

『それにチェキ会に握手会~?何アイドルの真似事してんの~?悲しいな~アタシ達は同じアスリートだと思ってたけどな~。こんなウマ娘ちゃん達と同列扱いされたくない~。だから地方は中央の……中央の……中央の……』

 

 デジタルは手に持っていたサイン色紙を叩き割ろうとする。しかし何度試しても一向に割れる気配がない。

 割ることを諦めたのか色紙を地面に叩きつけ踏みつけようとする。

 だが地面に叩きつけるというより、置くと表現したほうが適切なほどやさしい手つきで、いざ色紙を踏みつけようとしても、足が色紙を何度も踏み外したり、足が色紙の手前で止まっていたりしていた。

 デジタルの様子を見て周りの剣呑な雰囲気は瞬く間に緩み、一部から失笑の声が聞こえてくる。

 

 デジタルにとって最も盛り上がったエンターテイメントはダートプライドだった。

 そして盛り上がった要因は煽りだ。自分とセイシンフブキとヒガシノコウテイがゴドルフィンにダートプライドに出走しろと煽りの動画を作り、  

 ティズナウもアメリカでゴドルフィンの人間を煽り倒した。

 煽ることで刺激的な展開になり注目が集まる。煽りこそエンターテイメントの神髄であると認識していた。

 

 デジタルはティズナウをイメージする。BCクラシックでのマイクパフォーマンス、言葉の1つ1つに観客達は感情を動かされ、会場は興奮の坩堝と化した。あの様子は心に刻まれていた。

 ティズナウはゴドルフィンを敵とみなし、自身は善玉的なポジションの位置に立ち喋った。

 今回は逆だ。自分が敵となり船橋の人々を徹底的に煽り挑発しこき下ろす。それで怒りが向きレースで憎きアグネスデジタルを船橋のウマ娘達がコテンパンにしてくれと期待を寄せて会場に足を運ぶ。

 手始めに船橋のレース場を貶し次にイベントを貶す。本音はこんなイベントを開いてくれてありがとうございますと土下座して運営に感謝するだが、ここは周りが怒りそうなことを言っておく。

 さらに怒りを買うためにサイン色紙を叩き割り、写真をチリ紙代わりにして鼻をかむパフォーマンスをしようとする。

 しかし体が強烈な拒絶反応を起こし手が止まってしまう。思いが籠ったサイン色紙や写真を破壊することはキリシタンの踏み絵と同等の行為だった。

 もう後に引けない。これも地方の為に、セイシンフブキやアジュディミツオーの為なのだ。何度も言い聞かせデジタルはサイン色紙を破壊しようとするが何度も手が止まってしまっていた。

 

 一方周りの人々はデジタルの様子を生暖かい目で見つめる。

 恐らく何かしらの理由で悪役的な行動をしようとして、その一環としてサイン色紙を叩き割ろうとしているのだろう。

 だが本人の優しさかのせいか分からないが、いつまでもサイン色紙を叩き割るどころか踏みつけずにいた。

 その様子はひどく滑稽でまるでコメディでも見ているようだった。

 

「それで偉大なるアスリートのアグネスデジタル様はこんなしょぼくれた場所に何の御用でしょうか?もしかしてアイドルの真似事をしているウマ娘のサインやツーショット写真が欲しかったのですか?何なら特別衣装でも着て写真でも撮られてやろうか?」

 

 セイシンフブキが半笑いを浮かべながらおちょくるような口調で話しかける。デジタルは本当に?と嬉しそうに欲望全開に反応してしまい、周りは爆笑していた。

 

「オホン!え~っと今日来たのは友達にど~してもって、たまたま誘われてきただけです。それで……サイン会に参加するはずだった友達が急用が出来たっていうから、そう!仕方がなく!もったいないから参加しただけ!本当はサインもチェキも欲しくはなかったんだからね!勘違いしないでよね!」

「もうツンデレとか古いぞ~!」

「SHUTUP!黙って名産のりんごでも収穫しててよ!」

「りんごは青森で~す。千葉県の名産は梨で~す。ちゃんと勉強してくださ~い」

 

 野次馬とデジタルのやり取りに周りから笑い声が湧き上がる。

 ティズナウのようなマイクパフォーマンスで煽り盛り上げようとしていたデジタルだが、想定とは全く違う展開になっていた。

 何とか軌道修正しようと精一杯の罵倒を考えて言ったが、間違いを指摘されおちょくられてしまう。

 そのやり取りにセイシンフブキはさらに笑みを零し、アブクマポーロは顔を背け笑いを堪える。だがアジュディミツオーだけは笑みを見せず真顔だった。

 

「アグネスデジタルさん!明日はガチンコで来てください!」

 

 今まで静観していたアジュディミツオーが突如デジタルに向かって叫ぶ。その声量とピリついた雰囲気に場の空気が緩んだものから一転しひり付く。

 

「叩きだから、前哨戦だからって言い訳なしのベストの状態で臨んでください。貴女はダート世界一になった。そして明日は世界一の貴女を超える!」

 

 アジュディミツオーの啖呵に周りから感嘆の声と拍手が起こる。

 若きホープの勝利宣言に周囲は沸き立つ。そして話を終わらせずセイシンフブキを指さす。野次馬達も指の動きに釣られ、セイシンフブキに視線を向け言葉を待つ。

 

「明日は変わったアタシの姿を見せます!セイシンフブキが目指す理想の走りではない、アタシの理想の走りで勝つ!そして勝つのは今のセイシンフブキじゃない、全盛期のセイシンフブキだ!師匠を超えるのが弟子に出来る最大の恩返し、明日は最高の恩返しをしてみせますよ師匠!」

「やってみろ」

 

 セイシンフブキは獰猛な笑みを見せながらアジュディミツオーに近づき睨みつける。

 アジュディミツオーも全く臆することなく睨みつける。結果お互いの額がぶつかる距離での睨み合いになる。その光景に周囲のボルテージは最高潮となり野次馬達は両者に声援を送っていた。

 

「しゅてき……」

 

 デジタルは目を全開に見開き、脳内の記憶領域に映像を刻み込みながら2人のやりとりを堪能していた。

 

──

 

 デジタルは鼻歌を歌いながらスキップ交じりで駅に向かう。サングラスにマスクの不審者スタイルのウマ娘がルンルン気分でスキップする姿は不気味で、通行客は自然に避け人込みは割れていた。

 中央でもチームの先輩と後輩が同じレースに出走することはある。それはライバルや友人と一緒に走るのとは違った趣がある。そして明日のレースはそれとも違った趣を見せてくれるだろう。

 お互いを憎んでいるわけではないだろう。だが強い情念をもって相手を叩きつぶそうとしている。なんて尊く素敵なのだろう。

 明日のレースは石にかじりついても2人を感じないと。脳内で加速度的に2人の心情の推察、いや妄想が展開されていく。

 その結果、乗り換える駅の乗り過ごしを数度繰り返し、帰宅する頃には寮の門限を完全に過ぎ寮長にしこたま怒られていた。

 

──

 

 アジュディミツオーは布団に寝転がり、天井を見つめながら明日のレースについて考える。地方総大将としての力を手に入れる。ヒガシノコウテイから助言をもらってからずっと考えていた。

 ボランティアスタッフとしての仕事を全力で取り組んだ。トレーニング時間は減ってしまったが、多くの人に支えられているおかげでレースを走れることを知り、見ている人が何を想い、何を期待しているのかを知れて有意義だったと思う。

 今まではファンという一括りで見ていたものが、肉付けされ個人として見るようになっていた。

 他にもヒガシノコウテイからファンサービスする機会があると思うが、その際はファンの皆さまが最も喜ぶ対応をしなさいと、膨大な資料を参考にして自分なりに実践した。

 その結果今日のサイン会の振る舞いは好評で神対応と評判で、ヒガシノコウテイからラインで賛辞の言葉が送られた。

 他にもセイシンフブキとのやり取りも盛り上がって良いのではと好意的な意見が送られていた。

 だがあれは場を盛り上げ、ファンを喜ばせるために発言したのではない、あれは焦りから生じたものだった。

 

 今日までヒガシノコウテイに課せられた課題はしっかりこなした。だが地方総大将としての力を手に入れた実感はない。

 このままではセイシンフブキに恩返しもできず引退することになる。その考えを払拭しようと公共の場で宣言することで決意表明と同時に自分を奮い立たせた。

 

 アタシなら出来る!ダートプロフェッショナルと地方総大将の力を持った理想の走りができる!

 

 アジュディミツオーは何度も言い聞かせ眠りについた。

 



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勇者と新世代#5

「セイシンフブキのマスコットフィギアは売り切れました~!セイシンフブキのマスコットフィギアは売り切れました!」

 

 中年の男性ボランティアスタッフはグッズ販売所で声を張り上げて周囲の客達に伝える。すると列を並んでいる客から落胆の声が聞こえ始める。

 

「他にもセイシンフブキのキーホルダー等のグッズはございます。これを機に購入如何でしょうか」

 

 ボランティアスタッフの声に、列を並んでいる客から仕方がない買うかと、妥協の呟きとともに他のグッズを買っていく。その様子にボランティアスタッフは安堵のため息をつく。

 今日の客入りは予想以上に多い。メインレースはGⅡ日本テレビ盃だが、まるでGIかしわ記念当日のようだ。

 この客入りは中央の人気選手のアグネスデジタルが出走するのも要因の1つだが、やはり昨日のセイシンフブキとアジュディミツオーの舌戦が大きいだろう。

 アジュディミツオーのセイシンフブキへの宣戦布告の様子を録画された映像は、ファンによってネットに拡散され反響を呼んでいた。

 ボランティアスタッフもその場にいたがアジュディミツオーの並々ならぬ覚悟が感じ取られた。

 そしてセイシンフブキからもかつての面影が感じ取られた。最近は精彩を欠いた走りを見せているなか、今日が復活の狼煙になるのではないかと期待していた。

 それは他の客達も少なからず感じているようだ。その証拠にセイシンフブキとアジュディミツオーのグッズの売り上げが今まで以上に伸びている。

 今年のグッズ収益ナンバーワンはナイキアディライトだが、今日は売り上げで2人に大きく水をあけられていた。

 

「はい、了解しました。そちらに向かいます」

 

 無線でインフォメーションセンターに迷子が何人も保護されているので、ヘルプに来てくれと報せがくる。中年男性は他のスタッフに了解を取りインフォメーションセンターに向かう。

 今日は目が回るように忙しい、だがGⅡでこれだけの人がレース場に着て観戦してくれる。それが嬉しくもあり忙しさも全く苦でなかった。

 

「あの、すみません、迷子のお子さんが居るようなのですが」

 

 すると走っている途中で黒髪の三つ編みに眼鏡をかけたウマ娘が申し訳なさそうに声をかけてくる。

 

「それはどちらですか?」

「ゴール板から約200メートル手前のラチのところです。私がインフォメーションセンターに連れて行っても良かったのですが、赤の他人が連れていくのはどうかと思いまして」

「わかりました。私が保護して連れて行きます」

「では、案内します」

「いえ、お手を煩わせるわけにはいきません。特徴を仰って下さるだけで充分です。お客様は船橋レース場をお楽しみください」

 

 黒髪のウマ娘はボランティアスタッフの言葉に説得されたのか、迷子の特徴を伝えるとお手数かけしますと丁寧に頭を下げる。

 ボランティアスタッフはどこかで見たことがあるようなウマ娘だと思いながら、迷子を保護しに向かった。

 

 忙しいなかそれを客に悟らせないような言葉遣いと雰囲気、さらに客の提案も手を煩わせるわけにいかないと丁重に断った。何より船橋レース場をお楽しみくださいという一言が心に響いた。流石南関東のボランティアスタッフの接客は素晴らしい。

 ヒガシノコウテイはメモとペンを取り出し先程のスタッフについて記述していく。

 

 どうすれば盛岡レース場に多くの客を集め顧客満足度を上げられるか?それはヒガシノコウテイにとって至上命題だった。

 そのためにアイディアを振り絞り試行錯誤を繰り返してきた。だが自分1人ではアイディアにも限界があり、見えないこともある。ならば他のレース場を参考にすればいい。

 ヒガシノコウテイは仕事の合間を縫って、各地方レース場や中央のレース場に向かって調査していた。そして今日は船橋レース場に足を運んでいた。

 

 船橋レース場の運営の調査、それも来た目的の1つだが別の目的もあった。それはアジュディミツオーのレースを見る為だ。

 地方総大将としての力を手に入れたいと教えを請いに来た地方の後輩、アジュディミツオーに助言を与え、アジュディミツオーも助言に従い努力してきた。

 そして今日のレースで努力の結果が実るのか確かめにきた。地方総大将としての力を手に入れられたかは映像で見ただけでは分からない。だが生で見れば分かる。

 さらに言えばアジュディミツオーとセイシンフブキの師弟対決が純粋に見たかった。前日に起きた舌戦、あれは刺激的で魅力的なパフォーマンスだった。

 ヒガシノコウテイはレース場グルメを食べ、行われているイベントを見学する。暫くの間仕事をしつつ船橋レース場を満喫するが、時計を見て後ろ髪を引かれながらパドックに向かう。

 アジュディミツオーが変ったかどうかの判断材料の1つとして、パドックの様子があげられる。これは近くで自分の目で見なければならない。

 第6レースのパドックからスペースを確保しながら只管待つと、10レースに近づくにつれ徐々に人が集まり、直前になると身動きがとれない状態になっていた。

 

『只今より第10レース、GⅡ日本テレビ盃のパドックを開始します』

 

 場内のアナウンスでパドックが開始され人気の低い者からステージに現れる。

 

『4番人気、5枠5番ナイキディアライト選手』

 

 ナイキアディライトがステージに現れると同時に歓声があがる。

 日焼けした浅黒い肌色に額にハートマークに似た痣が特徴的なウマ娘だ。今日はGIではないので全員が指定の体操服である。

 日に焼けた肌から見える四肢の部位を見ただけで鍛えこまれているのが誰でも分かる肉体だった。初めて見た客は思わずどよめいている。

 

 クラシック級では羽田盃と東京ダービーの南関東2冠ウマ娘、シニア級になってからは精彩を欠くも今年に入ってGIかしわ記念ではセイシンフブキを破り1着、帝王賞でも現役ダート最強の呼び声高いアドマイヤドンにハナ差の2着と善戦し、地方のナンバーワンはナイキアディライトという認識が固まりつつあった。

 本来なら1番人気でもおかしくないのだが今日は4番人気、ファンは1番人気に押し上げられなかった不甲斐なさに心を痛めているのか精一杯の声援を送る。

 ナイキディアライトはステージに上がる際には人気に対する不満か表情が険しかったが、ファンの声援を聞いて即座に笑顔を作る。

 人気で劣っても応援してくれる人は多く居る。その人達のために地方の為に頑張って欲しい。ヒガシノコウテイは心の中でエールを送る。

 

『3番人気、4枠4番アグネスデジタル選手』

 

──今日は割れるのか?

──またオモシロステップを見せてくれよ

 

 一部の観客から茶化す声が聞こえ、一帯から笑いが起きる。昨日のデジタルの様子はアジュディミツオー達と同じようにネットに拡散されおもしろ動画扱いで広まっていた。

 元々中央の人気選手であるがこの一件でさらに認知度が高まり、今日の客入りの1つの要因にもなっていた。

 だがこの人気は色物扱いによるものではない。前走は宝塚記念で敗因は距離によるものであるのは明らかで、今回は1800メートルで距離適性に合い、同じ舞台で勝利しているのでコース適性も充分だ。本来なら1番人気でもおかしくない。

 デジタルは茶化す声に一切の反応を示さず悠然とステージを歩く。

 するとヒガシノコウテイと目線が合うと満面の笑みを浮かべ手を振ってアピールする。ヒガシノコウテイも気まずそうに手を振っていた。

 その結果ヒガシノコウテイの存在が知れ渡り、辺りから騒めきが起きていた。

 

『2番人気、5枠5番アジュディミツオー選手』

 

──師匠越えだ!アジュディミツオー!

──セイシンフブキに勝って南関のトップに駆けあがれ!

 

 昨日の件でより期待度が高まっているせいか、アジュディミツオーが現れると一層の歓声があがった。

 ヒガシノコウテイは思わず耳を塞ぎながら様子を見ると一瞬視線が合う。表情から意気込みは伝わってくるが不安も伝わってくる。精神面では万全というわけではなさそうだ。

 まだ地方総大将としての力を手に入れていないかもしれない。だがウマ娘は一瞬で変われる。レース中に何かしらの変化が起きるのを期待するしかない。

 

『1番人気、7枠8番セイシンフブキ選手』

 

──恩返しなんてさせるなよ!

──シニア級の厳しさを見せてやれ

 

 セイシンフブキが現れるとこの日1番の歓声があがる。

 いくら精彩を欠いていても船橋の象徴はやはりこのウマ娘であるということか、その人気は根強い。さらに昨日のやりとりで期待感を煽られれば1番人気なのも納得だ。

 セイシンフブキはヒガシノコウテイの存在に気づくことなくステージを練り歩く。傍から見ても集中力と気合いが分かる。それは現役時代に一緒に走ったかつてと同じ姿だった。

 ファンは復活を願っているが決して夢物語ではなく、充分に起こりうる可能性がある。

 

「流石アグネスデジタルさん、地元22人の人気に負けていませんよ」

「何か昨日の様子がネットに拡散されて面白おかしく紹介されたみたい。白ちゃんにも怒られちゃったよ。アタシだって人の為にやったんだから、少しぐらい多めに見てくれてもいいのに」

 

 デジタルは唇を尖らせサブトレーナーの黒坂に愚痴を溢す。昨日の件で海外に居るトレーナーから連絡があった。状況を説明したが今回は穏便に済んだが本来しようとしたパフォーマンスをしていれば変な誤解を招き、互いに不利益が生じると叱られていた。

 

「それより見た?コウテイちゃんが居たよ!アタシのレースを見に来た……それはないか。きっとフブキちゃんを見に来たんだよ。いや師弟対決を見に来たんだよ!かつてのライバルの師弟対決を見るコウテイちゃんは何を思うか?いや~、色々と妄想が捗りますな」

 

 デジタルは怒られた不満から一転して嬉々として喋り始め、その様子に黒坂は少し困惑していた。そんな様子に気づくことなく喋り続ける。

 

「でも良いよね~師弟対決。『まだ師匠越えは早いわ~!』って後輩ウマ娘ちゃんをコテンパンにして、悔し涙を流しながらも再起を誓う姿を見るのも良いし、アタシが後輩ウマ娘ちゃんに負けた後それっぽい事言って、後輩ウマ娘ちゃんが涙を隠すために深々と礼するのもいいよね。いいな~フブキちゃん、アタシもやりたい~」

「アグネスデジタルさん、そろそろ本バ場入場ですのでそろそろ」

 

 黒坂がデジタルに若干申し訳なさそうに告げる。気が付けば他のウマ娘達はトレーナーとパドック後の打ち合わせを終わらせ、何人かのウマ娘は列を作りながらデジタルを睨む。デジタルが入場しないせいで待たされていた。

 

「おっと、行かないと。黒坂ちゃん何か言いたいことがある」

「今年の秋を占う重要な一戦ですが、結果を気にせずに」

「黒坂ちゃんは真面目だね~。元々結果なんて気にしないから」

 

 デジタルは小走りで向かうと、待たされたウマ娘達にペコペコと頭を下げながらコースに入っていく。

 黒坂はその様子を見送りながらデジタルについて思考する。レースに同行するのは初めてだが、レース前のパドックながら他のウマ娘を気にして、勝利への意気込みが感じられなかった。

 チームのウマ娘のレースに同行したことがあるが、入れ込んだりナーバスになっていたりと様々な仕草を見せる。全てはレースに勝ちたいという気持ちから発生するものだが、それらがまるで感じられなかった。

 さらに元々結果なんて気にしないからという言葉、前哨戦で試したい事柄がある際に、勝負度外視でレースを走ることもある。それでも思考は次のレース、勝利向けられている。

 だがこのレースで次のレースに試したいことがあるわけでもなく、単純に今日のレースの過程を楽しもうとしている。改めてアグネスデジタルと言うウマ娘の特異性を理解していた。

 

 ヒガシノコウテイはデジタルが慌ててコースに入る姿を見て思わず微笑む。

 相変わらずだ、アジュディミツオーを中心にレースに出走するウマ娘は勝利を目指す。セイシンフブキもダートの探求を重視し勝利を目指していなかったが、今日は弟子に負けない為に勝利を目指す。そんな中デジタルだけは勝利を目指していない。 

 パドックに居た観客達はレースを見る為に忙しくスタンドに向かう。ヒガシノコウテイは圧迫感から解放されゆったりとスタンドに向かう。

 今日は1人で船橋レース場に来ているので、レースを見る為のスペースを確保してくれる人員は居ない。レースをいい場所で見るスペースを確保するか、パドックをいい場所で見るスペースを確保するか2択のうち、どちらかを選ばなければならずパドックを選んだ。

 この目で見られなくともオーロラビジョン映像は見える。オーロラビジョンの映像を見ながら会場の雰囲気を感じるだけでも、アジュディミツオーの変化は分かるだろう。ゆっくりと歩いていると後ろから声をかけられる。

 

「やあ、ヒガシノコウテイ君も来てただなんて意外だね」

「どうも、初めましてアブクマポーロさん」

 

 ヒガシノコウテイは礼儀正しく挨拶する。アブクマポーロはメイセイオペラのライバルとして顔も知っているが、直接話すのは初めてである。

 

「今日は1人?それとメイセイオペラは元気かい?」

「今日は1人です。あとメイセイオペラさんは元気ですよ。協会職員の先輩として色々と教えてもらっています」

「一般企業に勤めていたと聞いていたが?」

「協会の力になりたいと数年前に転職しました」

「そうか、それで今日は何で来たのだい?」

「船橋レース場への個人的視察、あとはアジュディミツオーさんとは個人的に交流がありまして、何個か助言しました。その成果が出ているのかと気になって」

「もしかしてミツオー君がボランティアスタッフとして働くようになったのは君が関係しているのかい?」

「え?」

 

 ヒガシノコウテイは思わず声を出してしまう。今の会話の流れでその質問になる?しかも正解である。

 

「恐らくそうだと思いますが、何故分かったのですか?」

「メイセイオペラもよく手伝いをしていたみたいだからね。そこから連想で君たちの力を手に入れる為にやっているのかと考えた。正解とは私の勘も捨てたものではない」

 

 アブクマポーロも驚きながら説明する。今の答えは完全に当てずっぽうだった。

 

「ミツオー君も悩んでいたようだかね。別の力を習得しようというのは悪くはない。メイセイオペラやヒガシノコウテイ君が持つ地方の為に走るという気持ちが生む力、私やフブキは理解できないが、確かにそれはある」

 

 アブクマポーロは懐かしむように言う。その力で現役時代は何度も苦しめられた。

 

「セイシンフブキさんの教えに反すると思いましたがあまりにも悩んでいたので、余計なことをしたかもしれません。謝らせていただきます」

「謝ることじゃない。孫弟子が何を取り入れようが自由だ、それにフブキも特に気にしていない」

「そうなのですか?てっきりダートを極めるのに不純物だと毛嫌いすると思っていましたが」

「確かに、昔なら即破門にしていただろうが、何だかんだ丸くなったんだよ」

「それはよかった」

 

 アブクマポーロは胸を撫で下ろし、ヒガシノコウテイを見て思わず口角が上がる。本当に寛容になったものだ。

 

「しかしセイシンフブキさんとアジュディミツオーさんのレースは楽しみですね」

「ああ、弟子と孫弟子がレースで一緒に走る。楽しみだ」

「羨ましいです」

「私が?」

「いえ、アジュディミツオーさんが」

 

 ヒガシノコウテイが遠い目をしながら喋る。自分の中で師匠と言えるのはメイセイオペラだ、

 姉のような存在で様々な事を教わった。いつかレースで一緒に走るのを夢見たがそれは叶うことはなかった。

 

「そういうなら私も羨ましいよ」

「アジュディミツオーさんがですか?」

「いや、フブキがだよ」

 

 アブクマポーロもヒガシノコウテイと同じように遠い目をしながら語る。

 未熟ながらも少しずつ成長する弟子の姿、それは嬉しくも有り、いずれ相まみえると考えると高揚感があった。

 だが自身のケガによる引退で相まみえることがなかった。それは現役生活での心残りの1つだ。

 

「では、それぞれ感情移入しながらレースを楽しもう。そういえば1人で来たと言ったが見る席は有るのかい」

「いや無いです。立ち見でレースが見られたら幸運ですが」

「よかったら上の席で一緒に見ないか?臨場感は味わえないがレースは良く見える。こう見えても関係者だから1人ぐらいは顔パスできる」

「いや、特別扱いされるわけにはいきません」

「遠慮することはない、それに岩手ウマ娘協会の職員なら、視察という名目で上がれるだろう。どのみち上で見られるから問題ない」

「では、お言葉に甘えて」

「では行こう。この後予定はあるかな?なければ今日のレースを肴にしながらダートについて語り合おう。フブキのライバルであるヒガシノコウテイ君と一度語り合いたかったんだよ」

 

 2人は肩を並べながら上に向かう。お互いが成し遂げられなかったことを出来る相手に想いを重ねる。願わくは悔いが無いようにと願っていた。

 

 

『空には分厚い鈍色の雲が浮かんでいます。GⅡ日本テレビ盃、ダートコンディションですが、昨日の大雨の影響か、雨は止んでいますが不良です。今年の日本テレビ盃は豪華メンバーが揃いました。地元の船橋からは各世代を代表するウマ娘が、中央からはGI6勝ウマ娘アグネスデジタルが参戦しました。JBCに向けての重要なステップレース、地方勢が意地を見せてJBCに向けて弾みをつけるか?中央勢がレベルの高さを見せつけJBC、あるいは別路線で羽ばたくのか?レースがスタートしました』

 

 其々の想いを抱きながら日本テレビ盃が始まった。

 

 

 



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勇者と新世代#6

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


『さあ、レースがスタートしました。ハナをきるのは……アジュディミツオーとアグネスデジタルです。アグネスデジタルがアジュディミツオーに並びかけます。若干アグネスデジタルが前に出ているか?1バ身後ろにナイキアディライト、控えましてストロングブラッドは4番手、続いてダイコーマリナ、アンドゥオール、スナークレイアースの一団、2バ身離れてバハムート、イズミカツリュウ、ケイアンランボー、さらに離れて1バ身後ろはセイシンフブキ、いつもの指定席だ。先頭から殿までおよそ9バ身差』

 

 レースは意外な展開となりレース場からどよめきが起こる。アジュディミツオーは東京ダービーでも逃げて勝利しているので想定内だった。

 一方アグネスデジタルはマイルCSや天皇賞秋での豪快な差し切りが印象的だが、ダートを走る時は前の位置につける。

 しかしこのように競り合ってアジュディミツオーの外を並ぶように逃げを打つとは思っていなかった。この逃げには会場の客も出走ウマ娘も、そしてサブトレーナーの黒坂も予想外だった。

 アジュディミツオーは予定外の事態に焦る。今日は是が非でも逃げるつもりだった。ハナを争うとしたらナイキアディライトだと予想し、競りかけてこないのを見て単騎逃げでいけると思ったところに、アグネスデジタルが外から競りかけてきた。

 アジュディミツオーはペースを上げてハナを主張し、デジタルも同じようにペースを上げる。

 

『第1コーナーに入ってアジュディミツオーとアグネスデジタルが先頭争いを繰り広げる。後続との差をドンドン広げていく。これはハイペースだ』

 

 アジュディミツオー達から3番手のナイキアディライトまでの差は5バ身差、殿のセイシンフブキまで14バ身差と縦長な展開になる。後続もハイペースだと感じたのか前の2人を追走しない。

 アジュディミツオーは第1コーナーと第2コーナーの中間点で僅かにペースを下げる。

 このままアグネスデジタルとやりあえば共倒れだ、ハナを取りたかったが仕方がない。ここはハナを譲って2番手につける。

 だがデジタルはアジュディミツオーを抜き去らず、僅かに前に出た位置をキープし並走し、そのまま第2コーナーを通過する。

 

 アジュディミツオーは逃げながら横を走るデジタルを訝しむ。ハナに立ちたいのならば減速した時がチャンスだった。

 その時にさっさとハナに立てばコーナーで並走した余計な距離を走らずに済む。デビュー前のウマ娘ではあるまいしそれぐらい分かるだろう。不可解であるが勝手にミスしてくれたのならありがたい。そう思考を打ち切ろうとするが思い留める。

 相手はダートプライド覇者だ、不可解に見えてもきっと何かしらの思惑があるはずだ、このコース取りの理由を解明しておかないと勝敗に左右するかもしれない。さらに思考を深める。

 デジタルから感じる雰囲気、それは相手の仕掛けを見逃さない、相手を出し抜いてやるというヒリつく感じではない。

 もっと粘着質な感じで今までに感じたことが無いタイプだ。その時脳内でセイシンフブキとの会話が蘇る。

 

──アグネスデジタルってウマ娘は勝利を目指してないらしい

──じゃあ、何のために走ってるっすか?

──ウマ娘を感じる為だとよ。

──は?

──そんなしょうもない理由でダートプライドに勝てるっすか?勝つ意思が無い奴が最後の競り合いで勝てるわけ無いでしょ。

──少しでも近づいてウマ娘を感じたいと頑張るんだとよ。それで力を振り絞って走った結果だとよ。言うならば勢い余って勝ったようなものだろう。

 

 デジタルはウマ娘を感じることを目的にしている。だとしたらこのコース取りもウマ娘を感じる為に、いや自分という存在を観察するためなのか?

 

(う~ん、いいねアジュディミツオーちゃん、良い体つき、特に脹脛とかたまりませんね~。表情も何か困惑しているみたいだけど、その悩まし気な感じも好きです)

 

 アジュディミツオーの推察は正解だった。デジタルが何故コーナーでアジュディミツオーを抜かず、距離損してまで並んで走るかと言えば、より近くで観察するためである。

 今日のレースではセイシンフブキが以前の感じに戻る予感は有ったが、ターゲットはアジュディミツオーに決めていた。

 セイシンフブキを倒して師匠越えを果たしたい。セイシンフブキの後を継ぎ、ダートプロフェッショナルとして勝ち続けたい。様々な想いを抱えて走るアジュディミツオーというウマ娘への興味が勝っていた。

 そして相手のわずかに前に出る位置、これは競技生活で導き出したウマ娘ちゃん観察ベストポジションだった。

 後ろにつけば背面が見え、背面には背面の良さも有り趣もある。しかし顔が見えないより顔が見えたほうがいい。一方この観察ベストポジションなら側面を見られると同時に相手の前面を見ることも可能である。

 

「ここから向こう正面に入って、以前先頭はアジュディミツオーとアグネスデジタル。離れて5バ身差にナイキアディライト、ストロングブラッドの集団が続きます。セイシンフブキは殿から9番手の位置まで上がっています」

 

 黒坂は手元のストップウォッチに表示されたタイムを見てアジュディミツオーの仕掛けに気づく、向こう正面に入って僅かにペースを落とし後続をハメようとしている。

 黒坂の推察は正しく、アジュディミツオーはデジタルの習性を利用して後ろをハメようとしている。

 デジタルは観察するためにに相手がペースを上げようが下げようとが関係なく、磁石のようにポジションをキープする。

 ならばペースを作る主導権は自らにあると確信し、安心してペースを落とす。スタートしてからの2のペースは明らかに速く、このままやりあえば最後で力尽きるのは想像に容易かった。

 後続はあの2人についていけば力尽きてしまう。勝手に落ちてくるのという印象を植え付けられた。

 さらに単騎逃げならばペースを操作していると思うかもしれないが、今は2人で逃げている。すると2人はムキになってハナを主張し合っていると思ってしまう。

 その思い込みを利用し悟られない程度に僅かにペースを下げる。得られるアドバンテージは1バ身差程度だが、勝負を決めるには充分なアドバンテージだ。

 これはダートプライドでのティズナウとストリートクライの逃げの展開に似ている。最初はハイペースで、中盤では共謀したかのように徐々にペースを下げて後ろを騙す。

 黒坂もダートプライドの時と状況が似ていると気づく。ダートプライドではサキーが見破って周囲に気づかせたが、今回はそんなお人よしはいない。少しでも早く気づくことが、勝敗を左右する重要なポイントになると考えていた。

 

 アジュディミツオーはデジタルの習性を見破り後ろのウマ娘達を嵌める作戦を立てた。だが作戦はそれだけではなかった。

 アジュディミツオーはデジタルに近づいていく。デジタルはこの位置をキープし続けることが分かった。ならばその習性を利用する。デジタルの数10センチ横、そこは最も速く走れるゴールデンレーンとは逆で、そこで走ると遅くなるレーンであることを察知していた。

 デジタル側に移動すれば接触を避けて横に移動する、その結果遅くなるレーンを走ることになる。だが思惑とは裏腹に全く移動する気配を見せない。

 アジュディミツオーは接触し遅くなるレーンに押し出す方針に転向する。これぐらいの接触で有ればポジション争いの範疇で反則にならないと判断した。

 

 アジュディミツオーの二の腕がデジタルの二の腕に触れて押し出す。だがデジタルの身体はピクリともズレなかった。

 デジタルは小柄なウマ娘だ。大柄なウマ娘と接触すれば弾き飛ばされるだろう。だがそれは大柄なウマ娘がそれ相応の力を込めた場合である。

 デジタルもGIを何度も勝利している強豪ウマ娘で、いくつものレースを走ってきたベテランだ、フィジカルは鍛えられ弾き飛ばされない踏ん張り方などのテクニックは備わっている。少しぐらいの接触では飛ばされない。

 一方アジュディミツオーはデジタルのフィジカルを過小評価していたのもあるが、必要最低限の力で接触した。

 接触は受けた側だけではなく、仕掛けた側も力を消耗する。消耗を避けるために出来る限りリターンを得ようと最小限の力で接触していた。

 アジュディミツオーの力ならデジタルを弾き飛ばし遅くなるレーンを走らせることはできるだろう。だがそれは割に合わず、達成した頃には力を消耗しレースに勝利する力を残していない。

 僅かな接触でリスクとリターンを吟味して判断した結果、作戦を断念しデジタルの横を並んで走る。

 

(ボディタッチごちです!硬さの中に柔らかさもある素晴らしい肉感!アジュディミツオーちゃんのトレーニングの日々が感じられますね~)

 

 デジタルは顔をニヤつかせながら触れた感触を反芻する。

 ウマ娘にはノータッチ、それが日常生活で己に課したルールで、レースの最中でも変わらず、自分からの接触は緊急事態を除き極力避けてきた。だが相手からの接触はルール違反にならない。

 そして体に接触する際はコンマ数秒でも長く感触を味わいたい。吹き飛ばされるより耐えたほうがほんの僅かだが長い時間味わえる。その情念が吹き飛ばされないように体を踏踏ん張らせる。

 デジタルの接触に対する安定感は肉体と技術もあるが、精神面も大きく左右していた。

 

「各ウマ娘3コーナーに入り残り800メートルを切り、徐々に後続がペースを上げ先頭との差を縮めていく」

 

 後続が2人との差を縮めていき、3番手のナイキアディライトとの差が3バ身差まで縮まっていき、レースの流れは一気に激しくなる。

 

「そして、猛烈な勢いで上がっていくウマ娘は……セイシンフブキだ。4番手、3番手と上がっていく!このまま捲る気か!?」

 

 場内実況の声が思わず興奮気味になり、スタンドから歓声があがり悲鳴に変わる

 

 セイシンフブキに抜かされたウマ娘は信じられないという表情を見せる。このペースで船橋の短い直線から仕掛けても間に合わない。ならば直線前で仕掛けるか、徐々にポジションを上げて良いポジションで仕掛けるという考えは分かる。

 だがこのスピードはポジションを上げるというよりスパートを仕掛けている。

 正確な距離は分からないが明らかに早仕掛けだ。そしてこのスピードでコーナーを突っ込むのは致命的なミスだ。

 スタンドの観客やレースを走るウマ娘達はセイシンフブキの脱落を確信した。

 

 セイシンフブキはトップスピードのまま2人に並びにかかる。デジタルは心底嬉しそうな表情を見せてセイシンフブキに付いていくかのようにペースを上げる。

 アジュディミツオーは信じられないという表情を見せながらセイシンフブキに視線を向ける。

 このままロングスパートで押し切ろうとしているのなら無謀だ、船橋の条件戦ならともかく、これはGⅡだ。そのスピードをゴールまで維持できるわけがなく、途中で力尽き差される。それ以前に明らかな作戦ミスだ。

 セイシンフブキを含める3人は第4コーナーに差し掛かっていた。この3人の中で1番コーナーへの侵入速度が速いのはセイシンフブキだ。

 船橋レース場の第4コーナーはスパイラルカーブ、スパイラルカーブとはコーナーの入り口が緩やかな角度で、コーナーの出口がきつい角度のカーブである。

 中山レース場のような普通のカーブとは違いスピードを落とさず曲がれる。だがスピードを上げた分だけ外に膨らんでしまう。

 

「大きく外に膨らみながらセイシンフブキが先頭で直線に入る!やや外に膨らんでアグネスデジタルとアジュディミツオーが並びかける!」

 

 差しや追い込みのウマ娘がスパイラルカーブの特性を生かし、多少外に膨らんでも構わないとコーナーで仕掛けることがあるがそれにも限度がある。セイシンフブキは明らかにオーバースピードでスパイラルコーナーに突っ込み、結果大きく外に膨らんだ。

 これではかなりの距離を走ることになり、スピードを維持できるという利点を打ち消している。

 レース場に居る多くの者が作戦ミスだと考える。だが一部の者は作戦ミスではないと気づく。

 

 最初に気づいたのはヒガシノコウテイだった。

 ダートプライドではストリートクライの技によって最終コーナーで膨らまされ、無駄な距離を走らされたという経験があった。

 レース中は不利を被ったという認識だったが、実は走ったルートはゴールデンレーンで結果的に速く走れた。それがセイシンフブキの見解だった。

 セイシンフブキはダートプライドでの自分の状況を意図的に再現しようとしている。

 外に膨らんだのは直線の外ラチが側にゴールデンレーンが有るから。そうだと考えれば直線に入ってから外に出すより、コーナーでの遠心力を生かして外に膨らんだほうが、スピードを維持しながらゴールデンレーンに乗れて効率が良い。

 

 アブクマポーロも同じ結論に辿り着く。だが思考の過程は違い、セイシンフブキが逃げ先行から追い込みに脚質に帰る際のトレーニングで、船橋では過度なスピードで4コーナーを捲れば外に膨らんで無駄に走らされる。捲るなら長い距離から徐々にスピードを上げなければならないと教え込んでいた。

 セイシンフブキはアブクマポーロの教えを忠実に守る。もし破るとしたら破った方がリターンのある場合だ。だとしたら外側にゴールデンレーンがある場合と推察していた。

 

(やるじゃねえかミツオー!いつの間にそんな小賢しい作戦をやるようになった!)

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーのデジタルを利用した作戦に気づいていた。気づけた要因は2つある。

 

 1つはダートプライドでの経験、同じような戦法を実際に体験し、その経験が生きた。

 2つ目は今日のセイシンフブキは勝負に徹していた。

 

 ダートプライド以降はダートを探求するために走っていた。勝負に執着せず勝敗よりいかにダートを走るかに重きを置き、未知の技術や気づきを得る為なら高確率で失敗し負ける案でも実践していた。

 今日のセイシンフブキはダートの探求は一切せずに勝敗に拘るつもりだった。今までならスローペースに気づかなかっただろう。だが今日は勝負に徹していたことで気づけた。

 しかしアジュディミツオーの作戦は巧妙で気づくのが僅かに遅れてしまった。普通にペースを上げて仕掛けたとしても間に合わない。ならば普通じゃない走りをする。

 セイシンフブキはアジュディミツオーに勝つために思考を巡らし、作戦を思いつく。それが4コーナーをトップスピードで侵入し、遠心力を利用してゴールデンレーンに乗って押し切る作戦だった。

 

 入場でコースに入った瞬間にゴールデンレーンを把握していた。第1コーナーから第2コーナー、向こう正面の直線、第3コーナーから第4コーナーのゴールデンレーンは乗れる。

 だが最終直線のレーンはほぼ外ラチと言っていいほど外にあった。流石にそこまで回せばゴールデンレーンに乗るメリットより、外を回して距離ロスする。

 さらにウマ娘は横に走るスピードは前を走るスピードより遅い。直線でゴールデンレーンに乗るために外に出せば大きなタイムロスになる。明らかにデメリットが勝っていた。

 しかしこの作戦なら遠心力で自然に膨らみ、直線で外に出してレーンに乗るよりタイムロスは無くなる。勝つにはこの方法しかなかった。

 

 4コーナーをトップスピードで侵入し、遠心力を利用して外に膨らみゴールデンレーンに乗る。

 もし今日のレースが船橋レース場でなければ実行しなかった。何万回と走った経験がどれぐらいのスピードでコーナーに入れば、どれぐらい外に膨むかを自然に導き出していた。

 セイシンフブキはゴールデンレーンに乗った瞬間に一瞬だけ減速する。

 スピードを維持したまま大きく外に膨らみ、その分だけ長い距離を走ることになる。このまま勢いそのままに走れば途中で力尽きるのは分かっていた。

 途中で力尽きず1着でゴールするにはどこかで息を入れなければならない。

 息を入れすぎれば減速した分だけアジュディミツオーかデジタルに抜き返され追いつけない、逆に入れ具合が足りなければ途中で力つきる。非常にシビアな力加減が要求される。

 自身のセンスを信じ、息を入れて再び加速した。

 

(キタキタキタキター!!!これを待ってたんだよ!今日のレースを走って本当に良かった!)

 

 デジタルはパドックやゲート入り前の雰囲気でもしかすると以前のように走ってくれると期待していた。だが過度な期待をせずにアジュディミツオーを感じることに集中し、レースを運んできた。

 だが猛然と4コーナーに突っ込むセイシンフブキの横顔を見て確信する。今のセイシンフブキは愛するダートの為に全ての敵をなぎ倒そうとしたダートの鬼だ。

 

 感じたい!少しでも長く濃密に!

 

 デジタルの心臓の鼓動が一気に跳ね上がり血液が沸騰するような熱さを感じる。セイシンフブキを追うように一気にスパートをかける。意識は完全にアジュディミツオーからセイシンフブキに向けられていた。

 

 アジュディミツオーは歯を食いしばり全ての力を振り絞りスパートをかける。

 セイシンフブキの暴走ともいえる4コーナーへの突入、船橋での走りのセオリーをすべて無視するような常識外れの走り。だがあれはダートプロフェッショナルにしか出来ない走りだ。

 アジュディミツオーもセイシンフブキが走っているコースがゴールデンレーンだとは分かっていた。距離ロスを考えて次点のゴールデンレーンに乗ったが、まさかあんな方法でゴールデンレーンに乗るなんて。

 アジュディミツオーは確信する。あれは全力で勝ちにいっている走りだ。あれこそ憧れいずれ超えると目標にし続けたセイシンフブキの姿だ。

 

 このレースでアブクマポーロやセイシンフブキが持っているダートプロフェッショナルとしての技術、ヒガシノコウテイが持っている地方の為に走るという想いを力に変える地方総大将としての力、その両方を兼ね備えた理想の走りをしたい、出来なければセイシンフブキに勝てないと思っていた。

 しかし無意識に地方総大将としての力を手に入れてないという不安を抱いていた。だが不安は一瞬で消し飛んでいた。

 憧れたセイシンフブキに挑める千載一遇のチャンスだ。ここで自分の全てをぶつける。でなければ一生後悔する。

 アジュディミツオーは靴底から伝わる砂の感触に神経を集中する。

 現時点で最もダートを速く走るための走法、それがダートの正しい走り方だ。砂厚、風量風速、気温湿度を全て加味して答えを導き出す。

 慢心、重圧、不信感、焦燥、様々な要素がアジュディミツオーの走りを鈍らせていた。だが今はセイシンフブキに勝つために全てを注ぎ込む。

 その走りの完成度はジャパンダートダービーや黒潮盃の時とは比べ物にならないほどに向上し、現役屈指のものになっていた。

 

「僅かにセイシンフブキが先頭か?だがアグネスデジタルとアジュディミツオーが差し返す!」

 

 デジタルはセイシンフブキの異変に気付く。先程までは自分が待ち焦がれたセイシンフブキを思う存分感じていた。だが外に走るセイシンフブキは突如別人のように変わっている。一体何が起こった?

 

(勝つ!このレースに勝つ!恩返しはさせねえ!まだミツオーの壁であり続ける!)

 

 セイシンフブキは懸命に脚を動かし走り続ける。無理な走りでいつも以上に体中が悲鳴あげていた。しかし勝利のために感覚を研ぎ澄まし、ダートの正しい走り方を実践する。

 ダートプライド以降は勝つためではなくダートを探求することを優先した。だがその行いは決して無駄ではなかった。

 トライアンドエラーを繰り返し得た技術はよりダートの高みに登らせる。勝負に徹した走りはダートプライドの時と比べて完成度が増していた。

 

 今は最高にキレた走りが出来ている。これなら勝てる!そう思った一瞬、セイシンフブキの頭の中である考えが過る。

 次に踏み出す右足、どれぐらいの力で踏み込み蹴り上げれば最もダートを速く走れるかの答えは出ている。だがもっと速く走れる方法が有るかもしれない。

 脳内で葛藤する。アジュディミツオーの為に勝負に徹し勝たなければならない、だがどうなるか確かめたい。もしかすれば革新的な技術になるかもしれない。

 アジュディミツオーの為か、自分の為か、ダートに右足が触れるコンマ数秒の時間で幾度もの葛藤が繰り広げられる。

 

(あ~、師匠失格だな)

 

 セイシンフブキは現時点で最も速く走れる方法ではなく、さらに速く走れる方法を選んだ。

 結果は失敗に終わり減速する。師匠としての責任よりダートプロフェッショナルとしての探求、自分の欲望を選んだ。

 そこからは堰を切ったようにアイディアが思い浮かび実践するが、失敗を続け減速する。

 脳内ではアジュディミツオーへの申し訳なさは完全に消えていて、新しいアイディアへのワクワク感が満ちていた。その表情は新しいおもちゃを夢中で遊ぶ幼子のようだった。

 

(少しだけど昔に戻ってくれてありがとう)

 

 デジタルは感謝の念を抱く。何かしらの理由でいつものセイシンフブキに戻った。

 だがほんの僅かだが昔のセイシンフブキを感じられた。それだけで充分だ。そして楽しそうにダートを走るセイシンフブキも同じぐらい素敵だ。名残惜しみながらも意識をセイシンフブキからアジュディミツオーに向け変化に気づく。

 

(師匠……)

 

 アジュディミツオーは視界の端でセイシンフブキの失速を捉える。あれは新しいダートの技術を思いついて試して失敗したことによる失速だ。これでセイシンフブキは1着争いから脱落した。

 胸の中で悲しみが侵食する。自分の為に、師匠としての責務を果たすためにダートの探求ではなく、勝負に徹する走りをしてくれたと思った。だがセイシンフブキはダートを優先した。

 もう全盛期のセイシンフブキとは走れない。急速に熱が冷めていく。

 力を緩めようとした瞬間何気なく客席を見る。するとボランティアスタッフ達が目に映る。レース中でも業務はある。それなのにサボってレースを見ている。しかも皆必死な顔で声援を送っている。

 

──地方総大将としての条件ですか?

 

 脳内で過去の映像が思い浮かぶ。これは盛岡に行ってセイシンフブキに助言をもらった時だ。ヒガシノコウテイは顎に手を添えて思考し言葉を発する。

 

「ホームで他所の者に絶対に負けないことです」

「ホームで絶対に負けないこと?」

 

 アジュディミツオーは答えの意味が分からずオウム返しをする。

 

「ホーム、私だったら盛岡で、アジュディミツオーさんなら船橋のレースで絶対に負けてはいけません」

「それがどう関係あるんですか?」

「地方のファンの帰属意識は中央のファンより高いです」

「帰属意識?」

「地方への愛着と考えてください。地方のファンは地元のウマ娘達に強い愛着を持ってくれます。例としてフェブラリーステークスでメイセイオペラさんは地方所属で初めて勝利しました。スタンドでは中央のウマ娘を見たファンからもメイセイオペラさんを讃える声援が送られました。だが地方では起きない現象です」

 

 ヒガシノコウテイは当時の記憶を振り返る。スタンドでレースを見ていたファンがメイセイオペラを讃えた。それは実に誇らしかったが、今考えれば地方と中央の意識の差が見えた瞬間でもあった。

 中央のファンはレースというスポーツを見に来ている。地方のファンは地元のウマ娘が勝つ姿を見に来ている。中央はファンで地方は野球やサッカーのサポーターと考えられる。 

 中央のファンも贔屓にしている選手が居て応援している。だが素晴らしいレースが見られれば、悔しさ悲しさを堪え拍手や賛辞の声を送る。だが地方のファンはそんなことはしない。それは自らよく分かっている。

 トウケイニセイがライブリラブリイに負けた南部杯、今レースを見ればお互いが全力を尽くした素晴らしいレースだった。

 だが当時は自分を含め誰もそんな気持ちは抱かない。悔しさは悲しみを押し殺した静寂が答えだ。

 

「恐らく中央のファンにとって、当時のメイセイオペラの勝利によってフェブラリーステークスを奪われたという感覚はないです。そして交流重賞の全ては地方重賞が元です。長い年月開催され、地方のウマ娘達が鎬を削ってきた歴史でもあり象徴でもあります。分かります?それを中央に奪われることがどれだけ情けなくて……申し訳なくて……」

 

 ヒガシノコウテイの語り口は熱を帯び始め手のひらを握り悔しげに語る。アグネスデジタルに負けた南部杯、あの時のファン達の落胆の表情と声は金輪際忘れることはないだろう。

 

「ですが、これは私の考えで、地方のファンにも中央のウマ娘が勝っても歓声を送る者がいるかもしれません。それを否定できませんし、素晴らしい事です」

 

 ヒガシノコウテイは感情を押し殺すように笑顔見せる。

 

「それで話の続きですが、地方ファンでも様々で地方を一括りにしている者も居れば、南関のファンで、それ以外は外敵であると見なしているファンもいますし、大井だけのファンで、川崎も船橋も浦和も外敵と見なしているファンも居るかもしれません。なので地元のウマ娘が地元のレースに勝つのが1番喜ばせられると思います」

 

 ヒガシノコウテイは手元に有る紅茶に手をつけ喉を潤す。

 アジュディミツオーはヒガシノコウテイに対する印象は優し気で良い人だが感情をあまり見せないだった。

 だが今初めて本心をさらけ出したような気がして、その言葉は心を揺さぶられた。

 

「アジュディミツオーさん、1つお願いがあります」

「何ですか?」

「私は地方総大将と持て囃されました。それは非常に光栄なことですが、実のところは地方の誇りを守れなかったウマ娘です。これから地方のダートレースに出走するでしょう、時に中央の力や地元の意地に屈する事があるでしょう。全てのレースを勝てるウマ娘は僅かです。船橋のファンも責めないでしょう。ですが船橋のレースは絶対に勝ってください」

 

 話を聞いた当初はヒガシノコウテイの言葉の意味を理解していなかった。

 しかしヒガシノコウテイに助言でボランティアスタッフとして働き、ファンと触れ合い、今必死に声援を送るボランティアスタッフの顔を見て全て心で理解した。

 

 地方は誇りであり支えで有り愛すべきものである。その象徴である交流重賞で地元のウマ娘が負ければ嘆き悲しみ気力を失う。

 地方の為にという想いを力に変える地方総大将としての力、それを得ようとするならば絶対に地元のレースで負けてはならない!

 消えかけていた熱が一気に戻る。それと同時に力が湧き上がるような感覚が体中を駆け巡っていた。

 

(なにこれ!?アジュディミツオーちゃんなの!?)

 

 デジタルはアジュディミツオーの姿が一瞬ヒガシノコウテイに見えていた。直線に入る前のアジュディミツオーも良かった。今はさらに良い!

 デジタルは全ての意識をアジュディミツオーに向けさらに加速する。この極上のウマ娘を感じたい!その感情で体中が満たされ、既にセイシンフブキへの想いは消えていた。

 

「残り200!アグネスデジタルとアジュディミツオーの叩き合いだ!」

 

 デジタルはアジュディミツオーの数センチ手前まで体を寄せる。道中で感じた粘着質な重圧が近づく度に増していった。今では比較にならない程強い。

 セイシンフブキもダートプライドで粘着質な重圧を感じたと同時にこう語っていた。対象のウマ娘を感じる為に近づくために、信じられない力を発揮するウマ娘であると。

 

 これが世界を制覇した力か、それがどうした!

 

 船橋のウマ娘として地元で中央には死んでも負けられない!

 そしてセイシンフブキは認めたがやはりオールラウンダーは気に入らない!ダートには勝つのはダートプロフェッショナルだ!そして師匠の仇は弟子が取る!

 ダートプロフェッショナルとしてのプライド、船橋のウマ娘としての意地、それを正しいダートの走り方に上乗せする。今のアジュディミツオーは最も速かった。

 

 デジタルは宝塚記念である教訓を得る。出走するウマ娘の熱い情念は最初からはっきり分かるウマ娘も居れば、ギリギリまで内に潜め判別できないウマ娘も居る。出来る限り神経を張り巡らし、潜めていた情念を即座にキャッチできるように備えるべきだと。

 アジュディミツオーを感じることに神経を向けながらも、無意識で別のウマ娘達にも意識を張り巡らせていた。

 後ろから何かが来る。勝利への意志やプライドが混じり合った極上の情念を抱いたウマ娘が迫っている。

 デジタルは確かに感じ取り、そのウマ娘はアジュディミツオーの内からやってきた。

 

「ナイキアディライトが内から迫ってくる!ホープと勇者にエースが襲い掛かる!」

 

 ナイキディアライト鬼の形相でゴールに向かって駆けていく。このレースは絶対に勝たなければならない一戦だった。

 

 船橋レース場には時代を象徴するようなウマ娘が現れる。話題は常にそのウマ娘でまるで物語の主役だ。

 近年でいえばアブクマポーロとセイシンフブキで2人はその強さで中央に対抗し打ち破ってきた。まさに主役に相応しい活躍だった。

 現在の主役は誰か?ナイキアディライトはこう答えるだろう。セイシンフブキ、またはアジュディミツオーが主役になることを望んでいると。

 

 アブクマポーロとセイシンフブキは地方でも歴代最強に並べる強さを誇り、その強さを支える要素はダートプロフェッショナルとしての技術だった。

 2人が共通する点として決してフィジカルに恵まれていたわけではないところだった。フィジカルの数値としては今まで走った中央のウマ娘の方が高い。それでも勝てたのは技術の差だった。

 最も速くダートを走るために編み出されたダートの正しい走り方、最も速く走れるゴールデンレーンを瞬時に見分ける観察力、それは今までのダートウマ娘が持っていなかった思考と技術だった。それは船橋のウマ娘に希望を与えた。

 地方に所属する者は基本的にフィジカルが中央の者に劣っている。

 だがフィジカルで劣っていても技術で覆せることを知り、多くのウマ娘達が希望を抱いた。ナイキディアライトもその1人だった。

 ダートプロフェッショナルとしての技術を継承した者が次の主役になれる。いつしか船橋のファンにもウマ娘の中でそんな空気が漂っていた。

 

 幸運なことに怪我から復帰したセイシンフブキは技術や心構えを分け隔てなく伝えた。

 秘匿するのではなく多くの者に伝えれば、誰かが技術を発展させるという考えだった。

 船橋のウマ娘は次々とセイシンフブキの元に訪れ教えを乞う。

 自分こそが後継者であり船橋の主役だ。ダートプライドでの走りもあってセイシンフブキへの憧れを持つウマ娘は増え、主役になりたいという願望は膨れ上がっていた。

 そして自分は主役ではないと思い知らされる。セイシンフブキが教える技術や考え方はあまりにも難解だった。

 

 ダートの正しい走り方を身に着けるには必要なものが有る。

 

 砂や天候などの様々なものを感じられる感覚と知識。踏み込みの力を数センチ単位で変えられる精密な身体操作能力。

 

 これらの能力を備えるのは相当難しい。だが多くのウマ娘達には習得に必要な資質が決定的に欠けていた。それはダートに対する情熱である。

 ダートを好み愛する気持ちと探求心、常日頃ダートについて考え、ダートに何もかも差し出して身を捧げるような覚悟。それさえ有れば鋭敏な感覚も精密な身体操作能力も自然に身に着けられる。

 セイシンフブキは直接口に出していないが、言葉の節々にそういったニュアンスの言葉を発していた。そしてその資質を持つのはアジュディミツオーだった。

 

 ある日ナイキアディライトは深夜にふと目が覚め散歩がてらコースに向かった。すると暗闇の中ダートを走るアジュディミツオーが居た。こんな時間に練習かと尋ねるとこう答えた。

 

───夢でダートを走っていたら試したい事を思いついた。いても経っても居られなくなってコースに出て試している。

 

 ナイキアディライトはその言葉に衝撃を覚えた。まず夢でダートを走ったことが一度もない。

 そして試したい事を思いつくほど精密に鮮明にダートの感触やコースを思い出せていること、何よりダートを走るアジュディミツオーの楽しそうな表情が脳裏に焼き付く。この瞬間主役になれないと認識させられた。 

 ナイキアディライトは悟る。自分はここまでダートに夢中になれない。狂気とも呼べるダートへの情熱と執着、それが船橋の主役なれる条件だ。

 

 それ以降セイシンフブキに教えを乞うのをやめた。だが船橋の主役になるのを決して諦めたわけではなかった。主役になる道を模索し続け、試行錯誤の末についに見つける。

 

 ゼロコンマ数秒でも速く走るためのスピードと加速力を生み出す肉体、肉体の技術をロスなく伝えるランニングフォームやコーナーの曲がり方、どんな状況でも力を出せる心構えとペース判断力。

 

 それは実にありきたりな答えだった。誰もが思いつく当たり前の答え、だがその当たり前を見失っていた。いや目を背けていた。

 ジャパンダートダービーとJBCスプリントで中央に打ちのめされ、強くなる可能性を求めてダートプロフェッショナルの技術に飛びつく。それが強くなるための奥義のように思えていた。

 確かに奥義は存在する。だがそれを手に入れられるのはほんの僅かのウマ娘だけだ、多くのウマ娘は強くなる為には地に足を着けて当たり前のことを地道にやるしかない。

 ナイキアディライトはそれ以降心技体を地道に鍛える。だが他のウマ娘達はそうではなかった。

 

 ダートプロフェッショナルとしての力を手に入れようと、アジュディミツオーのように素足でダートを走り、ダートプロフェッショナルとしての技術を体得しようと没頭し、地道な鍛錬を怠り始める。

 船橋のウマ娘達は基本的に中央と比べて能力が足りず、それを嫌と言うほど分からされた。

 故にダートプロフェッショナルの力を求める。この技術はフィジカルを要しない、自分達も身に着けられる。そうなれば強くなれると信じ続けていた。

 

 ダートプロフェッショナルの技術は一見身に着けられそうと思ってしまうが、特定の者にしか身に着けられない特殊な技術だ。それでもアブクマポーロやセイシンフブキのように強くなりたいと一縷の望みを抱いて縋りつく。それがいかに非効率とも知れずに。

 もし周りのウマ娘達がダートプロフェッショナルの技術ではなく、地道な鍛錬に時間を費やせば確実に強くなれていた。

 周りのウマ娘達には同情する。アブクマポーロとセイシンフブキの強さに憧れる気持ちは痛いほど分かり、一歩間違えれば同じように時間を無駄にしていただろう。

 

 ダートプロフェッショナルの技術は毒だ、そしてその毒は徐々に蔓延し船橋を蝕んでいく。技術を手に入れようと時間を費やし、地道な鍛錬をしなくなった結果、平均的には弱くなるだろう。

 ナイキアディライトには夢がある。それは船橋が中央を打ち負かすことだ。だがそれは突出した個が中央に勝つことではない。

 平均の力が上がり優れた環境であると分かれば才能が有る者も中央ではなく、船橋に入るかもしれない。

 それを繰り返して行けば船橋は中央と対等になると信じていた。

 

 ナイキアディライトは船橋でもトップクラスのウマ娘だが主役ではない。船橋のファン達はアジュディミツオーが主役になることを望んでいる。

 アブクマポーロとセイシンフブキの薫陶を受けた正統後継者アジュディミツオー、今日のレースに望む物はセイシンフブキからアジュディミツオーへのバトンタッチ、もしくはセイシンフブキの復活劇だ。その証拠にセイシンフブキが1番人気、アジュディミツオーが2番人気だ。

 ここでアジュディミツオーが勝利すれば主役になる。そして主役として中央を倒していけば、憧れはますます強くなり、ダートプロフェッショナルの技術に傾倒していくだろう。

 

 そうはさせない。ここでアジュディミツオーに勝てば自分が歩んだ過程が注目され、他のウマ娘達もダートプロフェッショナルの技術ではなく、地道な鍛錬に時間を費やすようになる。

 

 船橋の未来は守る。主役は私だ!

 

 ナイキアディライトは勝つために全てを注ぐ。アジュディミツオーの策にもレースを走る誰よりも早く見破り、直線で捉えられる位置までポジションを上げていた。

 セイシンフブキの常識外の捲りにも心を乱さず最速でコーナーを曲がり、脚を余すことなく、脚が切れるでもないベストのポジションで仕掛ける。まさに完璧なレース運びだった。

 それは身を背けることなく地道な鍛錬で養った心技体がなせる走りだった。

 

 

『アジュディミツオーとナイキアディライトが抜け出した!アグネスデジタルは徐々に置いてかれていく』

 

 デジタルとアジュディミツオーの差がハナ、クビ、半バ身と徐々に広がり。今や1バ身差までつき、ナイキアディライトにも追い越される。

 もっと!もっとアジュディミツオーとナイキアディライトを感じたい!ウマ娘を感じたいという情熱は過去のどのレースに負けないぐらい盛り上がっていた。だがその情熱に体が付いていかない。

 ならばと己が封じていた禁じ手であるトリップ走法を解禁しよう。しかし将来の人生設計が過る。

 あと9年間は現役で走りウマ娘を思う存分感じる。その為に全力を尽くすつもりだ。

 だがトリップ走法は全力以上を出してしまう。それは確実に選手寿命を縮める。

 デジタルはトリップ走法を断念し、出来る限りの全力でアジュディミツオーを追う。

 

「エースか?ホープか?エースか?ホープか?」

 

 残り100メートルで両者は並ぶ。

 

 アブクマポーロからセイシンフブキ、そしてアジュディミツオーに継承されてきたダートプロフェッショナルとしての技術と思考という船橋の主役の力を引き継いだ走り、それはまさに船橋の主役の姿だった。

 ダートプロフェッショナルとしての技術と思考を持った船橋の主役を否定し、地道に肉体と技術と心を鍛え続けたナイキアディライト、それは新しい船橋の主役だった。

 

 デジタルは前を走る2人の姿を見逃さまいと目を見開き脳に焼き付ける。

 其々が証明したい、成し遂げたい、譲りたくないという想いをぶつけ合い混じり合う。それがレースだ。特にゴール前は想いが強くなる。今度はもっと近くで2人を感じてやる。

 そう決意しながら懸命に走る2人にどっちも頑張れと心の中でエールを送り続けた。

 

『ナイキアディライトが抜けた!ナイキアディライトが1着!勝ったのは船橋のナイキアディライト!エースとホープの叩き合いはエースに軍配が上がりました!船橋のワンツーフィニッシュです!』

 

 ナイキアディライトがラスト50メートルでアジュディミツオーを差し切る。3着は3バ身差離されてアグネスデジタル、4着は3バ身差離されてセイシンフブキ。

 

「シャァァァァァ!!!」

 

 ナイキアディライトは雄叫びをあげながらスタンドに向かって人差し指を差す。

 

 どうだ!セイシンフブキとアジュディミツオーを破ったぞ、船橋の主役は私だ!これが船橋の未来だ!

 すると視界の端に何かが映る。右を向いて確認するとアジュディミツオーが手を差し出していた。

 

「おめでとうございます……そしてありがとうございます」

 

 ナイキアディライトは感極まり思わずうれし涙が溢れる。

 今日のアジュディミツオーは本当に強かった。これがダートプロフェッショナルの力、結局は諦めたが一時は憧れ手に入れようとした力はやはり強かった。

 そしてその力に自分は勝った。目に付いた砂を拭うような自然な動作で涙を拭いタッチを交わす。その光景にスタンドから歓声が沸いた。

 アジュディミツオーはスタンドに向かって喜びを爆発させるナイキアディライトを横目に見ながら控室に戻る。そして後ろにセイシンフブキも居た。2人は特に言葉を交わすことなく歩いていく

 

「お二人ともお疲れ様でした」

「お疲れ様」

 

 するとスタンドの上で観戦していたアブクマポーロとヒガシノコウテイが現れ、タオルと飲み物を差し出す。

 アジュディミツオーとセイシンフブキは2人が現れたことに驚きながらも礼を言い、タオルと飲み物を受け取る。

 

「師匠、最後遊んだでしょう?」

「バレてたか」

「当たり前でしょう!何年一緒に居てずっと見てきたと思ってんですか!何で勝負に徹してくれなかったんですか!」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキの胸倉を掴み恫喝する。ヒガシノコウテイとアブクマポーロは止めに入ろうとするが、アジュディミツオーの怒気の前に脚が止まってしまう。

 セイシンフブキはアジュディミツオーの怒気を真っ正面から受けながらも平然とした態度で口を開く。

 

「念のために言っておくがアタシは今日のレースは勝負に徹した。でなきゃお前の仕掛けに気づかなかったし、あんな走りもしない」

「分かってますよ!師匠が走ったところがゴールデンレーンだった。勝つ気が無い人があんな方法でゴールデンレーンには乗らない」

「そこまでは分かってんのか、成長したな」

「だったら最後まで勝負に徹してくださいよ!負けたら引退するからって手を抜いたんですか!?」

「見損なうな。アタシは全力で走った。けれど試したい事が思いついて、ミツオーとダートの探求を天秤にかけて、そっちを選んだそれだけだ」

 

 セイシンフブキは全く悪びれることなく胸を張る。その姿にヒガシノコウテイは状況が飲み込めずアブクマポーロに視線を向け、アブクマポーロは信じられないと思わず口を開ける。

 アジュディミツオーが勝負に徹することを懇願したのに、自分の欲を優先して土壇場で裏切った。もし同じ立場だったらここまでダートを優先するだろうか。

 

「あ~~!バカ!バカ!バカ!師匠のダートバカ!」

 

 アジュディミツオーはセイシンフブキを罵倒する。だがその声色と表情に怒りはなく、笑みが浮かんでいた。 

 勝負に徹しなくなり腑抜けたと距離を置いていたが、ここまで突き抜ければ脱帽だ。

 弟子の事を気にせず自分の欲求に従うエゴイストのダートバカ、だからこそ師と仰ぎ尊敬してきた。

 もし勝負に徹していれば欲求は満たされたかもしれないが、尊敬の念は薄まっていただろう。

 

「そうだよ。どこに出ても恥じないダートバカだ」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーの頭をポンポンと叩く。2人の間に有ったわだかまりは完全に消えていた。

 

「アジュディミツオーさん、今日のレースに向けての活動、そしてレースを通して何か感じましたか?」

 

 ヒガシノコウテイはタイミングを見計らいアジュディミツオーに問いかける。

 

「ボラスタの人達がスタンドでレースを見ている姿を見て、ヒガシノコウテイさんが話した地元では絶対に負けてはならないって話を思い出して……」

 

 アジュディミツオーはレース中の心境を思い出しながらゆっくり語る。レース中に今までに感じことが無い感情と力が溢れた気がする。これが地方総大将の力なのか?

 

「あとナイキアディライトさんに手を差し伸ばしていましたが、何故ですか?負けたことに対する悔しさはないのですか?」

 

 ヒガシノコウテイは厳しめな口調で問いかける。その変化に驚きながらも心中を正直に話す。

 

「負けたと分かった瞬間悔しかったです。でもスタンドの客を見たら不思議と収まりました。そして気が付いたらおめでとうございます。そしてありがとうございますって言ってました。ヒガシノコウテイさん、アタシは地方総大将としての力を手に入れたんでしょうか?確か今までにない感情と力が湧いた気がします。でも勘違いかも」

「いえ、アジュディミツオーさんは地方総大将としての力を手に入れました」

 

 ヒガシノコウテイは満足気な表情を浮かべながら断言する。

 地方総大将とは地方を愛し想いを背負い地方の勝利を目指す。そして地方にとっての勝利とはアジュディミツオーが勝つのではなく、船橋のウマ娘が勝つことである。

 アジュディミツオーはナイキアディライトに祝福と感謝の言葉を送った。それは自分の代わりに1着になってくれたことへの感謝である。

 ヒガシノコウテイが同じ立場だったらば、同じように喜んでいた。レースに負ければ身が裂かれるほど悔しい。だが地元のファンが地元のウマ娘の勝利に喜んでくれればそれ以上に嬉しい。

 競技者としては失格かもしれないが、だがそのようなメンタリティーでなければ地方の為に力を発揮する地方総大将の力は手に入らない。

 レース直後は意識が曖昧でまともな思考はできない。その状態で礼を言ったならば、無意識で有り芯から地方愛が根付いている証拠だ。

 

「今日の気持ちを大事にしてください。そうすればもっと大きな力が湧いてくるはずです」

「はい、これもヒガシノコウテイさんの助言があってのことです。ありがとうございました」

 

 アジュディミツオーは深々と頭を下げる。地方総大将としての力を手に入れられたのはヒガシノコウテイの助言があってこそだ。

 これでダートプロフェッショナルの力と地方総大将としての力を兼ね備えた自分の理想が見えてきた。

 

「大師匠、ヒガシノコウテイさん、今日のアタシの走りはどうでした?ダートプロフェッショナルとして正しいダートの走り方は出来てました?」

「細かいところは何とも言えないが出来ていたと思うよ」

「私も同意見です。それがどうしました?」

 

 ヒガシノコウテイは心配そうに尋ねる。今日はアジュディミツオーが求めた地方総代表の力を手に入れた。だがその表情は浮かなかった。

 

「アタシも今日はかなり上手く走れたと思います。そしてヒガシノコウテイさんの言う通り地方総代表の力も発揮できたとしたら勝てるはず、でも勝てなかった」

 

 アジュディミツオーは自分の手を握りながら呟く。ダートプロフェッショナルの力と地方総大将の力を併せ持つ、それが理想のウマ娘であり、完全とは思えないが実現はできた。

 それでも勝てなかった。もしかするとこの理想は中央や世界に勝てないのか?

 

「それだったら本人に聞けよ。お~い、ナイキアディライトちょっといいか?ミツオーが聞きたいことがあるって」

 

 セイシンフブキはインタビューが終わり近くを通りかかったナイキアディライトに声をかける。

 ナイキアディライトは思わず目を見開く。憧れのセイシンフブキに声をかけられたのは勿論、アブクマポーロやヒガシノコウテイも一緒に居る。それは夢の競演だった。高揚感と僅かに緊張感を感じながら近づいていく。

 

「ナイキアディライトさん、アタシは今まででベストなレースが出来ました。それでも勝てなかった。貴女はなんでそんな強いんですか?」

 

 アジュディミツオーはストレートに疑問をぶつける。その言葉にナイキアディライトは何一つ隠すことなく答えた。

 

「私はアジュディミツオーやセイシンフブキさんやアブクマポーロみたいなダートプロフェッショナルにはなれなかった。だから当たり前のことをやり続けた。当たり前にフィジカルを鍛え、当たり前にテクニックを鍛え、当たり前にメンタルを鍛えた」

 

 その言葉にアジュディミツオーは肩透かしを喰らう。もっと特別なことをやっているのかと思っていた。一方ナイキディアライトはアブクマポーロとセイシンフブキを見ながら言葉を紡ぐ。

 

「貴女達が磨き上げた技術は素晴らしく、心から尊敬しています。間違いなく船橋の主役で時代を作りました。ですがこれからの時代を作るのは貴女達ダートプロフェッショナルじゃない、当たり前のことを当たり前にやるウマ娘です。船橋の主役は私だ」

 

 ナイキアディライトは対抗心を漲らせながら宣言する。超えるのはアジュディミツオーだけはない、ダートプロフェッショナルという存在そのものだ。船橋をより良い方向に導くために勝ち続ける。

 ナイキアディライトは皆に頭を下げ立ち去る。その姿は主役としての風格を漂わせていた。

 

「アジュディミツオーさんもこれから大変ですね」

「だな、当たり前に心技体を鍛える。それにアタシ達は負けたからな」

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキは感慨深げにつぶやく。

 ダートプライドで負けたウマ娘はダートプロフェッショナルでもなければ地方総大将の力もなかった。

 だが彼女達には鍛え抜かれた心技体があった。そしてナイキアディライトも同様だった。

 

「そうですね。これでまた新しい理想ができました」

「なんだ?」

「今日のレースでダートプロフェッショナルの技術に地方総大将としての力が上乗せされました。それに今後はナイキアディライトさんの言う当たり前のことを当たり前にやります」

 

 アジュディミツオーは今日のレースで勝ったナイキアディライトに感銘を受けていた。

 自分の理想に勝ったその走り、それは普遍的な努力で培われたものだ。ナイキアディライトはヒガシノコウテイと同じようにアジュディミツオーにとっての理想となっていた。

 最近はダートプロフェッショナルの技術の研鑽と地方総大将の力を手に入れることに傾き、ナイキアディライトの言う当たり前のことを当たり前にやっていなかった。

 自分には船橋でトップのトレーナーの山島が居る。明日から一から鍛えなおそう。

 

「フフフ、随分と欲張りですね」

「だがそれぐらい強欲じゃないと成長は見込めない」

「けれどダートを疎かにするなよ。時々抜き打ちチェックするからな」

 

 3人は決意を新たにするアジュディミツオーに温かい視線を送る。

 

 アブクマポーロは貪欲に良いものを吸収しようとする姿勢に頼もしさを、セイシンフブキは自分とは違う方法でダートを極めようとする姿に可能性を、ヒガシノコウテイはアジュディミツオーとナイキアディライトに地方の明るい未来を見ていた。

 

「アグネスデジタルさん、お疲れ様です」

 

 ヒガシノコウテイは後ろを向きデジタルの元に駆け寄る。

 誰かに見られている気配がすると何気なく後ろを振り向く、その方向には黒坂を遮蔽物にしてアジュディミツオー達の様子を見るデジタルの姿があった。デジタルはバツが悪そうにしながら黒坂の影から姿を現す。

 

「お疲れコウテイちゃん」

「今日は惜しかったですね」

「まあね、それでコウテイちゃんは何で船橋に?」

「視察と個人的な応援ですね。アジュディミツオーさんとは交流がありまして」

「え?コウテイちゃんとアジュディミツオーちゃんと友達なの?どんな関係?」

 

 デジタルは思わぬ情報にバツの悪さをすっかり忘れ興味津々で問い詰める。

 

「誰か知り合いでもって…アグネスデジタルか、そういえばレースに出走してたな」

 

 セイシンフブキはデジタルに話しかける。昨日のサイン会では散々笑ったが、レースではアジュディミツオーとダートの探求の事で頭が一杯で、今の今まで存在を忘れていた。

 

「お疲れフブキちゃん、ごちそうさまでした。少しだけでも昔のフブキちゃんを感じられてよかったよ。今のフブキちゃんも素敵だけど」

「それはよかったな。あれはもう2度とない激レアバージョンだ、しっかり刻んでおけ」

 

 セイシンフブキの言葉にデジタルは力強く頷き、その様子を見ながら感心する。

 レース中の心境の変化をデジタルは気づいた。アジュディミツオーは走りで気づいたがデジタルは独自の感覚で気づいたのだろう。流石の感性だ。

 

「しかし、3バ身差の3着か、本気で走ったのか?」

「ガチで走ったよ。アジュディミツオーちゃんがガチンコをご所望なら、当然ガチです!」

「そうか、でもガチで走ってミツオーに3バ身差ならアタシがミツオーより弱いみたいじゃん。本当にガチで走ったのか?」

 

 デジタルの視線が泳ぐ。今日のレースは全力で走ったがトリップ走法は使わなかった。そう考えれば全力では無かったとも言える。

 

「何っすか師匠、まるで本気で走ったらアタシより強いみたいじゃないっすか。だったら今日のレースで勝負に徹したらよかったでしょ。みっともないですよ」

「分かってるよ。ただ何か釈然としないっていうか」

「現実と向き合いましょうよ。アグネスデジタルさんを物差しにした結果、アタシの方が師匠より強い、オラ、スポドリ買ってこいやセイシンフブキ」

「てめえ、泣かす」

 

 セイシンフブキはアジュディミツオーに飛び掛かりヘッドロックをかける。

 表舞台では見られない2人のじゃれ合い、デジタルは貴重なオフショットを見られた喜びと興奮を抑えながら空気に徹し、かつ脳内フォルダに記憶する。

 

「コウテイちゃん、差し支えなければ、レース後にアジュディミツオーちゃんとフブキちゃんが何を話していたとか、ナイキアディライトちゃんを呼んで何を話したかと、訊かせてくれないかな?イヤ、ダメだったらほんの触りだけでいいから」

 

 デジタルはヒガシノコウテイにへりくだりながらお願いする。

 アジュディミツオー達の一連の絡みは悟られないように見ていた。だが会話の内容は詳細に聞き取れなかった。

 ウマ娘のプライバシーに立ち入るのは負い目があるが、皆のやり取りには極上の尊さがあると感じ取っていた。

 最悪取っ掛かりさえ得れば、あとは自分で想像したやり取りでも充分に尊さを摂取できる

 

「構わないよ。但し条件がある」

 

 2人の会話にアブクマポーロが割り込む。思わぬウマ娘が関わってきた。デジタルは緊張と興奮で声が若干上ずりながら返事した。

 

────

 

 黒坂は車のアクセルを踏み法定速度ギリギリのスピードを出しながら目的地に向かう。寮の門限迄あと数十分、残り時間は非常にシビアで信号機に数回引っかかればアウトだ。

 デジタルは数日前に船橋レース場に行った際に電車を連続で乗り過ごしにより門限を破っている。今日も門限を破れば罰則を受けてしまう。それだけは避けなければならない。

 

「しゅてきすぎる……エモすぎる……」

 

 焦りを抱く黒坂を尻目に助手席に座るデジタルは夢心地で幸せそうに寝言を呟いていた。

 

 デジタルはレース後にアブクマポーロ達と船橋のファミレスに向かっていた。レース後の反省会とダート研究会に招待されていた。

 アブクマポーロは新たな見地を得るためにオールラウンダーがどのようにダートにアプローチしているか興味を抱き、デジタルが知りたい情報と交換条件で誘った。

 デジタルは懸命にダートを走る際の心構えや技術を語る。アブクマポーロ達を喜ばせたい、役に立ちたいと頭をフル回転させ、感覚的な部分も必死に言語化した。

 アブクマポーロは興味深そうにデジタルの言葉を聞き、ダートについて話していく。

 内容が分からず置いてかれるデジタルを無視し話し続ける。アブクマポーロを筆頭にディープな会話をしていたが、意外な事にヒガシノコウテイも話についてきて会話に参加していた。地方ラブ勢だがここまでダートに対する造詣はアブクマポーロ達に負けてはいなかった。

 

 好きな事を話しあうウマ娘の何と尊きことか、デジタルはその様子を空気に徹しながら眺めていた。

 途中でヒガシノコウテイがデジタルに気を遣い、アジュディミツオーとの関係やレースに向けての出来事やレース後のやり取りを教えてくれた。

 

 師匠としての役割より自分の欲を優先させたセイシンフブキのエゴイズム、それを否定することなく肯定するアジュディミツオー、そしてセイシンフブキとヒガシノコウテイの想いを継いで走るアジュディミツオー、その想いに負けない走りでレースに勝利し、主役は私だと宣言したナイキアディライト、エピソードの1つ1つが圧倒的な尊さだった。

 それからデジタルは門限までに帰られる時間ギリギリまで話し続けた。

 本当は門限時間を無視し、ファミレスが閉店する時間まで粘るつもりだったが、黒坂の懸命な説得によって断腸の想いで帰宅することになった。

 デジタルは車に乗ってからもアブクマポーロ達から聞いたことをノンストップで喋り続ける。暫くして気が済み、レースの疲れが溜まっていたのかいつの間に眠りに落ちた。

 黒坂はデジタルの寝顔を見る。その寝顔を見ればレースに勝ったウマ娘だと思うだろう。レースに負けてもこんな幸せな顔をするのはデジタルだけかもしれない。改めてアグネスデジタルというウマ娘の特異性を実感させられる。

 黒坂はデジタルの幸せそうな寝顔に思わず表情が崩れるが、1つの懸念事項が過り表情が険しくなる

 

 今日のレースは2着のアジュディミツオーに3バ身差をつけられての3着、2人は想像以上に強く負けても仕方がないと納得はできる。問題は着差だ。

 レースにおいてデジタルの心が挫けることはない、どんなに相手が速くとも、少しでも近づいて感じたいと勝負根性を発揮する。その勝負根性は勝利を渇望する1流ウマ娘の勝負根性すら凌駕する。

 今日の様子を見る限り勝負根性は発揮していた。それでも3バ身差をつけられる。

 このレースが入着を逃した宝塚記念やかきつばた記念なら、距離が長い間隔が空いたと納得できる。だが今回間隔はそこまで空いておらず、距離もマイルで適性内だ。

 3バ身差は完敗と言っても差しつかいない。着差はレース展開次第で変わるもので着差イコール実力差ではないが予想外の結果だった。

 本来ならもっとやれるはずだ、ならば何故ここまで離されたのか、その点はトレーナーと検討するが、トレーナーと話し合う前に自分なりに考えることも重要だ。

 黒坂はデジタルの敗因を検討しながら寮への道を急いだ。

 

 

日本テレビ盃 船橋レース場 GⅡダート 不良 1800メートル

 

 

 

着順    名前        タイム    着差      人気

 

 

 

1  地 ナイキアディライト  1:49.5           4

 

 

 

2  地 アジュディミツオー  1:49.6   1/2      2

 

 

 

3    アグネスデジタル   1:50.1   3       3

 

 

 

4  地 セイシンフブキ    1:50.6   3       1

 

 

 

5   ストロングブラッド   1:50.8   1      5

 

 

 

 

 



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勇者と漆黒の帝王#1

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


(待って!置いてかないで!)

 

 直線に入りアグネスデジタルとアドマイヤドンとの距離が見る見るうちに離されていく。もっと感じたいと懸命に追いつこうと足を動かす。しかし砂が絡みつき全く足が抜けない。

 まるでコールタールの中を走っているように推進力を奪っていく。

 今まで追いつこうとして追いつけなかったことは何度もあった。だがその時とは比べ物にならないほどの絶望感を味わっていた。

 目の前の遥か先に1着でゴールを駆け抜けたアドマイヤドンがスタンドに向かって勝利をアピールする。その様子はひどく現実味が無く、同じ空間で走っていたはずなのにモニター越しで見ているような空虚感だった。

 

 デジタルは勢いよく体を起こす。目に映るのは自室の風景に隣で眠るタップダンスシチー、肌から感じる布団や寝間着の感触、先ほどのものは夢か。思わず大きな安堵のため息をつく。

 船橋レース場で日本テレビ盃を走った後、次走は盛岡レース場で南部杯を走った。

 アドマイヤドンとの初会合、レースではどんな姿を見せてくれるか楽しみで仕方がなかった。いつも通り感覚を研ぎ澄ましゲートに入り、アドマイヤドンや他のウマ娘に想いを馳せる。

 スタート直後前目の位置につけようとするが、行き足がつかなかった。

 これ以上足を使えば直線で絶対に力尽きると感じ後方の位置につけ末脚に賭ける。だが直線に入っても末脚は全くと言っていいほど爆発せず、アドマイヤドンに1秒離され5着で終わる。

 レースでは己の不調に動揺しアドマイヤドンは勿論、他のウマ娘を感じられなかった。

 競技人生でワーストレースを挙げるとしたら即答でこの南部杯と答える。そしてワーストレースは悪夢として苛む。

 デジタルは悪夢を忘れようと勢いよく布団に入り込み目を閉じた。

 

──

 

「おう、入れや」

 

 トレーナーは扉の向こうからデジタルの声に向けて入室を促す。デジタルはトレーナー室に入室し、来客用のソファーに座る。その顔はいつもと比べ明らかに神妙だった。

 

「どないした。今日はオフやろ。部屋でウマ娘分を補充しとるんやなかったんか」

「ちょっとね。それで何見てんの?って先週の京都大賞典か」

 

 デジタルはトレーナーのPCを覗き込む。そこにはゴール前で争うヒシミラクルとタップダンスシチーが映っていた。

 

「2人とも夏を超えてさらに力をつけてきたな。タップダンスシチーはいつもの淀みないペースで後続をすり潰しての勝利、ヒシミラクルも先行策と意外やったがハンデ1での2着、タップダンスシチーとほぼ差はない。宝塚記念での勝利はマグレやないと証明したな」

「でもファンの人達は残念がっているけどね」

「そうみたいやな」

 

 トレーナーはPCから漏れる観客のため息に苦笑する。ヒシミラクルは元々人気だったが、今やトゥインクルレースの枠を飛び出した人気を博していた。

 切っ掛けは真サマージャンボとキャリーオーバーしていたスポーツ振興くじを当てたという男性のワイドショーだった。

 その男性は宝塚記念でヒシミラクルの応援券を購入していた。当選したのはヒシミラクルのご利益だとインタビューで力説し、その男性はヒシミラクルおじさんと呼ばれるようになった。

 今までその手の話はいくらか挙がっていたが、ここまで運に恵まれると、迷信ではなく本当に幸運を与えてくれるのではと周りも思い始めていた。

 それ以降は一種のブームとなり、ヒシミラクルグッズがネット通販で再版されると、数分後に売り切れになるほどで、その日の京都レース場でも一目ヒシミラクルを見ようとGI並みに人が集まっていた。

 

「しかしタップダンスシチーちゃんも前哨戦とは思えないほどに力が入ってたな。運を喰ってやるって」

「なるほど。それは必死になるわ」

 

 トレーナーは納得気に頷き、デジタルはその様子に首を傾げる。

 趣味で麻雀をすることがあるが、偶にやけにツキが回っている者が現れる。その者からあがると不思議とツキが回ってくるという事がある。

 完全にオカルトだがタップダンスシチーも似たような体験を経て、同じようにヒシミラクルに勝利し強運を奪おうとしたのだろう。

 あとは考えられるとしたらヒシミラクルとの格付けだろう。タップダンスシチーは一度ヒシミラクルに先着されている。

 仮に実力が同じ場合、精神的優位不利は重要だ。自分は不利に思っていなくても相手が勝ったという自信は力になり勝負を左右する。

 このレースで勝利しヒシミラクルが抱く精神的優位に楔を打った。

 逆にヒシミラクルが精神的不利を感じているかもしれない。着差は1バ身差だが差し追い込みで差を詰めての着差ではなく、直線に入り2番手で追い続けて逃げのタップダンスシチーと差が詰まらなかった着差だ。このような差は精神的に堪える。

 

「もしタップダンスシチーが天皇賞秋に参戦したら厄介やな、デジタルとしたら嬉しいところか」

「そうだけど、次走はジャパンカップだって。万全の状態でボリクリを潰すって息巻いてたよ」

「そうか、そういえば天皇賞秋を走る前提で話を進めたが、次走は天皇賞秋でええのか?ダメだったら変更するが」

「うん、シンボリクリスエスちゃんが出るからね。宝塚記念では不覚を取ったと思っているから、天皇賞秋は死に物狂いで勝ちに来るよ。どんな表情を見せてどんな感情を見せるのか、是非とも感じたい……」

 

 デジタルは意気揚々と語るが声が尻つぼみになっていく。もし南部杯のように不調だったら同じようにウマ娘達を感じられない。そんな不安が頭を過っていた。

 

「それならまずは南部杯と日本テレビ盃の反省や、敗因は主に2つ、1つはバ場状態。お前はダートでは時計が掛かるバ場には向かん」

 

 トレーナーはデジタルに言い聞かせるように大きめな声で喋る。

 一般的にはダートに勝つにはパワー、芝に勝つにはスピードが必要と言われている。デジタルはオールラウンダーとして両方で勝っていたが、どちらかと言えばパワーよりスピードに富んでいるウマ娘である。

 盛岡レース場は地方でも一二を争うほど砂厚が深くパワーを要する。

 南部杯を勝利しているので克服できると思っていたが、その時の勝利は様々な要因が味方したにすぎず、不利な条件であることは変わりなかった。

 そして日本テレビ盃も船橋レース場は基本的に砂厚が薄く時計が出るコースだ、しかし天候による砂質の変化か風による砂厚の変動か分からないが、当日に限り時計が例年と比べると遅かった。

 

「2つ目は体重、ベストやと思ったんやが、やはり少し重かった」

 

 トレーナーはデジタルに頭を下げながら謝罪する。トレーナーは海外でのスカウト活動でトレセン学園に居ないことがある。そのような場合には雇っているサブトレーナーの黒坂に指示書を渡し、ウマ娘の指導を任せている。

 日本テレビ盃ではデジタルの調整については意見が割れたが、海外に行く直前にデジタルの動きでこの調整で大丈夫と思い、現場の判断を信じた。

 だが日本テレビ盃のレース内容を見る限りやはり絞った方が良かった。これは黒坂のミスではなく、見抜けなかった自分のミスだ。

 その反省を生かして南部杯に向けて絞ったが、レース内容を見る限りではもう少し絞っても良さそうだった。

 

「あと日本テレビ盃ではフラフラしすぎや。お前にとってウマ娘を感じる為にやっただろが、あんな走りすれば着差が広げられるのも当然や」

 

 トレーナーはやや呆れ顔を浮かべながら告げる。

 日本テレビ盃での道中はアジュディミツオーの隣を走っていたが、直線では一旦大外を回したセイシンフブキに体を寄せ、暫くして内側のアジュディミツオーの傍に体を寄せて走っていた。完全に斜行である。

 チームに入ったウマ娘に最初に教えることは真っすぐに走る事である。

 どんなに疲れても真っすぐに走る。それが出来なければどれだけ能力があってもレースに出走させない。これはレースに走るための絶対条件だ。

 勝てないだけならまだいい、斜行することで他のウマ娘に迷惑をかけ事故に繋がる可能性が一気に増える。

 トレーナーも斜行についてデジタルから話を聞き、絶対に他のウマ娘の迷惑にならないと確信して、体を寄せたと証言していた。

 それを聞きトレーナーは注意だけに済ませておいた。もし安全を確保せずに斜行だとしたら、南部杯への出走を取り消していたかもしれない。

 

 トレーナーが敗因を述べていくなか、デジタルに僅かに安堵の表情が浮かぶ。敗因が分からなければ対処のしようがない、だが分かりさえすれば対処できる。

 デジタルはここ最近の凡走によりナーバス気味で、原因を話すことで不安を解消するという狙いがあった。

 

「それで天皇賞までに体をある程度絞っていこうと思う。ベストな体重になれば南部杯みたいにはならん。今後のトレーニングについて意見はあるか?」

「じゃあ、1つ」

 

 デジタルは手を挙げる。その表情は先程見せた安堵感はなく、より神妙で切羽が詰まっていた。トレーナーはその表情に思わず唾をのむ。

 

「アタシは天皇賞秋までに……ウマ娘ちゃん断ちをしようと思う」

「ウマ娘断ちって何をするんや?」

 

 トレーナーは思わず首をひねる。ウマ娘断ちとは聞きなれない言葉で、おおよその意味は察せられるが詳細は分からない。

 デジタルは覚悟を決めるように息を吐き喋る。

 

「言葉のそのままの意味だよ。まずはネットやテレビを見られない環境に行って情報を一切遮断する。あとは天皇賞秋までトレセン学園を休学する。ここは意識しなくてもウマ娘ちゃんに溢れているから、どうやってもウマ娘ちゃんを感じちゃうし」

「ほんまか?」

 

 トレーナーはその言葉にこれ以上ないほどに目が見開く。デジタルのウマ娘好きは筋金入り、ウマ娘を愛でる為に日々を過ごしていると言っても過言ではない。そのデジタルがウマ娘断ちをすると言った。

 かつて教え子のダンスパートナーのゲート難を克服する為にゲートに括りつけたことがあった。当人にとって苦痛だったが、デジタルが味わう苦痛は遥かに凌ぐ。もし実行すれば拷問レベルの苦痛だ。

 

「やろうと思った理由を訊いてええか?」

「アタシは満たされてた。トレセン学園で生活して毎日素敵なウマ娘ちゃんに囲まれてこれ以上ない幸せだった。でもそれじゃあダメなんだって思ったの。シンボリクリスエスちゃんは本当に強い。その強いシンボリクリスエスちゃんを感じる為にはどうするべきか?悩んで悩んで思いついた」

 

 デジタルはぽつりぽつりと思いの丈を語る。シンボリクリスエスとは宝塚記念で初めて一緒のレースで走った。

 全てを勝利に向けるそのストイックさと執念、それは自分の為ではなく、他人の為に走るという想いから発せられるものだった。しかし親愛や感謝という暖かい感情ではなく冷ややかさすら感じ、それは今まで感じたことが無い感情でデジタルの興味を大いに惹いた。

 そして宝塚記念を負けて迎える天皇賞秋、どれほどの執念を宿し挑むのか、あの冷ややかなものがどのように変化するのか、是非とも間近で感じたかった。

 だが南部杯の時のアドマイヤドンのように全く感じられなかったら?そんな不安が押し寄せていた。

 デジタルは無意識に危機感を抱いていた。このままではダメだ、何かをしなければシンボリクリスエスを感じられない。

 トレーナーに南部杯などの敗因を聞かされても不安と危機感は拭えなかった。自分を追い詰めなければならない、そんな強迫観念に迫られていた。

 

 トレーナーは腕を抱えて考え込む。デジタルは悩み考え抜いて提案したのだろう。だがこの提案は効果的だと思えなかった。

 まずはトレーニング環境の問題、トレセン学園はウマ娘が強くなるために最適な環境で、そこを離れれば練習効率は一気に落ちる。他にもジムや河川敷など工夫すればトレーニングは出来なくはない。

 だがデジタルの望みはウマ娘との接触を断つことである。そういった場所には少なからずウマ娘が居る。それすら避けるとなると、トレーニングする環境は相当制限される。

 次にウマ娘を断つことに対するやり方の危険性、たばこの禁煙でも一気に吸うのを止めたりせず、徐々に本数を減らしていき、体を慣れさせるというのが一般的だ。

 だがデジタルのやり方は一気に止める方法と同じだ、それをすれば何かしらの不調をきたす。

 さらに言えばウマ娘を断つことがどれだけ影響を及ぼすのか未知数である。影響が低ければいいが、影響が高い場合に生じる害がどれだけのものか予想がつかない。

 

「白ちゃん、アタシがGIを何回も勝てたのは何でだと思う?何でサキーちゃん達みたいな世界トップクラスのウマ娘ちゃんに勝てたと思う?」

 

 デジタルは腕を組み考えこむトレーナーに問いかける。トレーナーは姿勢を維持しながらデジタルの案への代案ではなく、質問への答えを導き出すために思考を費やす。

 

「精神力、ウマ娘への愛とか執着とかやろうな。それが常識外れの力を生み出す」

 

 キレのいい末脚、様々なバ場に対応する適応力、先行や差しを出来る自在性、長所を挙げようとすれば両手でも足りない。だがそれらの長所を上回っているウマ娘は歴代でも何人も居るだろう。

 ならばデジタルが多くの強敵に勝利し、トゥインクルレースで歴史的な成績を残せた要因を挙げるとすればウマ娘への愛や執着だろう。その一例がトリップ走法だ。

 あれはウマ娘への大きな執着がなければできない。トレーナーが今まで見てきたなかで使えたのはデジタルとアドマイヤマックスの2名のみだ。

 

「アタシもそう思う。ウマ娘ちゃんを愛でたい感じたいって気持ちは世界中の誰にも負けないつもり」

 

 デジタルはトレーナーの正しい分析に僅かに声を弾ませながら喋る。

 自分の武器は何か?ウマ娘達を感じる為により速く走るためにはと自己分析を始めた際に考える。

 フィジカルもテクニックも決してナンバーワンではない、頭脳だって優れていない。そんな自分が多くのGIに勝利し、ダートプライドに勝てたのは精神力、つまりウマ娘への執着だ。レースを通してウマ娘を感じたい、その想いが力を与えてくれる。

 

「速くなるためには鍛えるのはフィジカルでもテクニックでも頭脳でもない。ウマ娘ちゃんへの気持ちなんだよ。だから飢えなきゃいけない。飢えれば飢える程アタシは感じたいと思って速くなると思う」

 

 デジタルは静かに語る。その声量は小さいが決意の強さがハッキリと感じられた。

 ウマ娘への執着をより強くしていけば速くなれる。そして強くする方法は飢えることだ。

 人は抑制されれば反動で執着がより深まる。ダイエットでのリバウンドも食事制限によって、食事への欲が高まり爆発した結果だ。

 それを自分に置き換えればいい、ウマ娘を一切感じずに抑制し、レース当日で爆発させる。そうすれば今まで以上に執着し求め速くなるかもしれない。

 非常に痛みを伴う案だが、それぐらい覚悟が無ければシンボリクリスエスを感じられないと思っていた。

 

「しゃあない。分かったわ。デジタルのやり方でやればええ」

 

 数秒の沈黙ののちトレーナーが観念したとばかりに両手を挙げ許可する。

 デジタルの目から決断的な意志が感じ取れた。このまま承認しなくとも勝手に実行するだろう。それならば1人でやらすより出来る限りサポートしたほうが効率的だ。

 やらない後悔よりやる後悔という言葉があるように、やらないで満足できないより、やって満足できない方が精神的ダメージは少ない。それに失敗しても他の方法を試せばよいだけの話で、失敗は糧になる。

 

「ありがとう白ちゃん。ウマ娘ちゃん断ちをするにあたって色々プランを考えてみたんだけど」

 

 デジタルは自分のスマホをトレーナーに渡す。画面にはウマ娘断ちをするにあたっての行動計画が何通りも記されていた。

 

「随分と用意がええな、いつの間にそんな手間が良くなった」

「断られた時の為に説得材料を用意してたんだよ。まあ無駄だったけど。それで白ちゃんとしてはどれがいい?アタシはこれだけど」

「それは人手がかかるし不慮のアクシデントでウマ娘を感じてしまう。ここはプランBやろ」

「なるほど、じゃあ場所はどこがいいかな?」

「ここは微妙やな」

 

 トレーナーとデジタルはスマホを見ながらウマ娘断ち計画の話し合いを始めた。

 

 



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勇者と漆黒の帝王#2

誤字脱字を指摘くださり、ありがとうございます


 とある郊外にその寺は有った。特に歴史的に価値があるわけではなく、最寄り駅から車で30分以上掛かるアクセスの悪さのせいで参拝者は滅多に来なく寂れていた。そんな地元住民も知らない寺だが、あることで有名だった。

 入り口の鳥居から本殿まで4443段、高低差700メートル、その段数と高低差は日本でも屈指だった。

 

 明朝5時、まだ日が昇らず薄暗い辺り一帯を車ライトによって照らされる。車は入り口の鳥居周辺に停車し、2人の人物が車から降りる。1人はチームプレアデスのサブトレーナーの黒坂、もう1人はアグネスデジタルだった。

 デジタルは辺りを執拗に確認してから車から降り、準備運動を始め数十分ほどする。

 準備運動が終わると黒坂は力を込め歯を食いしばりながら、車からリュックサックとバンクルを取り出す、バンクルはウマ娘用の重さで、リュックにも重りが詰め込まれていて一般男性が持ち運ぶには相当の重さである。

 デジタルはリュックサックを背負いバンクルを足首に装着すると体に馴染ませるように軽く体を動かす。

 

「恐らく人が来ることはありませんが、途中で来ましたら伝えますので」

 

 黒坂はデジタルにウマ娘用のインカムを渡し、デジタルはインカムを装着しながら頷き、階段を一気に駆け上がった。

 

 デジタルはトレセン学園に天皇賞秋までの休学を申請する。申請理由はレースで万全を期すため、その理由にトレセン学園の責任者は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 休学の主な理由は病気やケガ経済的な理由などだが、レースに万全を期すためという理由で申請するウマ娘も少なからず居る。そういったウマ娘の大半は外厩でトレーニングを積む。

 

 外厩とはトレセン学園以外のトレーニング施設で、シンボリなどの名門と呼ばれる集団が保有していることが多く、なかにはトレセン学園以上の設備の施設も有る。

 トレセン学園は日本でも最高峰のトレーニング機関を自負している。それがトレセン学園より外厩を利用されれば面目は丸つぶれである。今のところ外厩の使用を制限する制度はないが、トレセン学園の責任者からの心証は悪くなる。

 デジタルとトレーナーはトレセン学園の責任者に対して、外厩舎を使用しない事と、何故トレセン学園から離れなければならないかを説明した。

 トレセン学園の責任者は説明を聞き、ある者は困惑し、ある者は真面目に答えろと声を荒らげた。だが話を聞くにつれ必死に悩み考え抜いた選択であることに気づく。

 理屈は理解できない。しかしトレセン学園としてはウマ娘の自主性と多様性は尊重すべきである。

 それにトレセン学園の設備が外厩より劣っているからではなく、トレセン学園でも外厩でもデジタルの望みは叶えらないから出て行く。それなら面子は保てる。結果休学申請は受理され、天皇賞秋まで休学となった。

 

 デジタルは集中して階段を駆け上がる。脚の指先から踵や膝への連動は上手くいっているか、腕を振るタイミングにズレはないか、己の身体に問いかけていく。

 ここではトレーニングを見るトレーナーも居なければ、走る姿を録画する機具もない。頼れるのは自分の感覚のみ。漫然とトレーニングすれば効果は得られない、今まで培った感覚と知識を総動員して鍛える。

 デジタルは走りながら体にかかる負荷を分析する。階段ダッシュのトレーニングは初めての経験だが、負荷としては坂路で走るのと似た感覚だ、さらにリュックとアンクルの斤量によって負荷は増している。これならいつもトレーニングと遜色ない。

 一方アンクルとリュックサックの斤量によってフォームが乱れる可能性が有る。しかしトレーニングをする為には仕方がないと割り切る。

 

 ウマ娘の脚力は人間を遥かに凌ぎ、そのウマ娘が全力で走る際に他者と接触すれば大事故に繋がる。

 事故を防ぐ為にウマ娘達はウマ娘専用レーンやトレセン学園などの全力で走れる場所以外では速度を制限する。

 本来であればこの階段ダッシュも安全のために速度を抑えなければならない、だが速度を抑えればトレーニングの強度が足りなくなる。

 速度を抑え強度を増やす、その為にアンクルや重り入りのリュックを背負う。今のデジタルが走る速度は人間のアスリート程度まで落ちていた。

 頂上に着くとすぐさま階段を下る。ここでも上り程ではないが意図的にスピードを速める。階段は登り下りの方がより負荷が掛る。

 階段を下りながら、つま先は常に正面を向き外に向かないようにとフォームを意識する。今まで日常生活で階段を降りることはあってもトレーニングで降りたことはなく、特に意識したことはなかった。

 それから何回か階段を往復しトレーニングを終わらせる。

 

「階段ダッシュのトレーニングはどうでした?」

「思った以上にきつかった。これなら大丈夫だと思う」

 

 トレーニングを終え車で移動するなか、デジタルはアイマスクをつけ車内の後部座席でふんぞり返りながら喋る。

 トレセン学園でのトレーニングと同等の強度のトレーニングをするにはと、トレーナー達と考えたのが階段ダッシュだった。

 開始前には少し不安だったが、いざ実践するとそれなりの負荷が掛っていた。これなら及第点だろう。

 

「しかし、ウマ娘ちゃん断ちするのも大変だね、トレーニングするにも、あんな遠くまで行かないといけないだなんて」

「そうですね。ウマ娘と接触しないようにすると色々と制限が掛かりますから」

 

 黒坂は苦笑しながら同意する。階段ダッシュトレーニングはそれなりに知られているトレーニング方法だ、デジタル達がトレーニングした寺は日本でも有数の階段数と高低差で、強度を求めて運動する者達が来るかもしれないと思われるが、実際は滅多に人は来ない。

 階段ダッシュトレーニングは段数と高低差が無くとも回数でカバーすればよく、何よりアクセスが悪く今日は平日で人が来る可能性はゼロに等しかった。

 寺で階段ダッシュをトレーニングにしたのは強度の他に他者に出会う確率を減らす目的があった。

 ウマ娘がトレーニングするのはトレセン学園などの専門施設だけではない。

 レースから退いた者、レースの道を選ばなかった者達が健康の為に街中で走っている。それらのウマ娘達に出会ってもウマ娘断ちは失敗する。

 デジタルは黒坂に話しかけるのを止めヘッドフォンをつける。サングラスやヘッドフォンをつけているのは街中を走るウマ娘の姿や声を知覚しないための予防策である。

 車で走って1時間後、デジタルは車から降りて玄関から家に入る。ここは黒坂トレーナーの実家で天皇賞秋までは世話になることになっていた。靴を脱ぎ黒坂トレーナーに案内されながら、階段を上がり部屋の前に案内される。

 

「ここが暫く過ごす部屋になります。好きに使ってください。何かあれば言ってください」

 

 デジタルは下に降りる黒坂を見送り、ドアノブを回し部屋に入る。

 中央奥にベッドが設置され、左の壁際には机、右の壁際には本棚や棚が設置され、棚には写真やトロフィーが飾られている。ホテルの部屋とは違う生活感漂う空間に少しだけ居心地の悪さを覚える。

 デジタルは何気なく棚に視線を向ける。これは卒業式での写真、これは部活の写真、トロフィーには県大会準優勝と刻まれている。暫く物色していたが、盗み見しているようなバツの悪さを感じ、部屋の中央に置かれている段ボールに視線を向け封を開ける。

 天皇賞秋までは黒坂の実家で暮らすことになり、空いている部屋の一室を借りていた。この部屋の持ち主は黒坂トレーナーの姉で、大学までこの部屋で生活していたが就職後は1人暮らしをしている。

 デジタルは段ボールから教材と筆記用具を取り出し、机に置き椅子に座る。

 すると机には絶対合格という文字が刻み込まれていた。当人の当時の心境に想いを馳せながら自分も頑張らないとペンを握る。

 

 朝のトレーニングをした後は授業を受け、放課後はトレーニングして、夜は自由時間、これがトレセン学園での大まかなタイムスケジュールだ。

 デジタルも休学中だが、同じタイムスケジュールで過ごしていく。朝のトレーニングを終えて同じように日中は勉強する。だが勉強する内容が違いトレーナー試験に関するものだった。

 普通ならばトレセン学園で行っている授業の勉強をすべきなのだが、教師の授業を受けた友人のノートを見ながら勉強するのが効率的であると考えていた。

 ノートには先生がここはテストに出ると言われた項目などがチェックされているなど、重要な情報が記されていることが多い。

 デジタルは教材を読み、ひたすらノートに単語を書いていく。学園ではトレーナーが教師としてトレーナー試験に関することを教えてくれたが今は居ない。

 教師役が居ない今の状況で出来る勉強は暗記だ。数学のような理解が必要な項目は後回しにし、歴史など暗記が重要になる項目を勉強していく。

 暗記項目を声に出しノートに書きこんでいくことで体に刻み込んでいく。50分勉強して10分休憩を4セット、昼食休憩を挟んで2セット。それが学園でのタイムスケジュールで同じようにこなしていく。

 

 昼食休憩を挟んで1セット目、デジタルの表情には疲れの色が見えていた。

 学園での授業を受ける姿勢はどちらかと言えば受動的で、教師の雑談やこの話は真剣に聞かなくていい内容だと判断して気を抜くなど力を抜ける時間が有る。

 だが今は能動的に勉強し力を抜く時間は一切なく、50分間頭を動かしている状況だ、さらに発音しペンを動かし続け、普通に授業を受けるより体力を消費する。何度もペースダウンが頭に過るが何度も退けながら続ける。

 アラームが鳴りると思わず深く息を吐き、椅子の背もたれに寄りかかり天井を見上げる。休憩時間は友人と話しスマホでツイッターやインスタグラムを見れる。だが今は出来ない。

 デジタルは休学するにあたって、スマホを黒坂に預けていた。スマホを持っていれば誘惑にかられウマ娘の情報を摂取してしまう。それを塞ぐために物理的に絶っていた。

 友人と話しスマホをいじることが、いかに授業を受けるストレスや疲れを緩和していたことを実感していた。

 せめて気がまぎれないかと何気なく本棚を物色し、ファッション雑誌を手に取る。ファッションには興味が無いが多少は気分転換になるだろう。パラパラとページを開き流し読みをする。すると突如雑誌を壁に向かって投げ捨てた。

 

 今のは大丈夫か?デジタルは鼓動が速くなるのを実感しながら自問する。

 

 ページを開いている際にゴールドという単語が視界に入る。その瞬間あることを思い出す。

 ゴールドシチー、100年に1人の美ウマ娘と呼ばれ、トゥインクルレースを走りながらファッションモデルとして活躍していたのは有名な話である。

 そしてゴールドシチーは金髪でページに写るモデルも金髪だ、このページに写っているモデルはゴールドシチーかもしれないと瞬時に判断し、強制的に情報を遮断した。

 ウマ娘断ちを決意して初日から失敗するところだった。こんなところにトラップが潜んでいるとは思わなかった。これからは慎重に行動しなければならない。

 デジタルは決意を新たにし大人しく目を閉じて休むことに専念し、インターバルが終わると後ひと踏ん張りだと活を入れ勉強を開始する。

 

────

 

「さてと、どうやって暇をつぶそうかな」

 

 デジタルはベッドに飛び込み呟く。勉強を終えた後午後のトレーニングをする。

 今朝に行った寺に向かって階段ダッシュをして、家に帰宅した後は筋力トレーニングをした。

 近場にはトレーニングジムがあり、そこではトレセン学園程の施設では無いがウェイトなどを使ってトレーニングが出来る。

 しかしジムに行けばウマ娘がトレーニングしている可能性がある。それを危惧し家で筋力トレーニングをした。

 家で出来る筋力トレーニングは腕立てや腹筋などの自重トレーニングになる。

 自重トレーニングはバーベルなどを使うウェイトトレーニングと比べ強度が足りない。それを補うために数十キロのバンクルが巻き付いていると思い込むことで脳を錯覚させ、強度を補おうとしたが出来なかった。

 デジタルはトリップ走法などでウマ娘をその場に居るように錯覚できるが、ウマ娘が絡まないとその想像力を発揮できなかった。

 

 トレセン学園ではトレーニングが終わった後は自由時間だ。

 過去のレースやウマ娘のチャンネルやツイッターやインスタグラムを見て至福の時間を過ごし、今も同じように楽しみたいのだが、ウマ娘断ちをしている状態では出来ない。仕方が無いのでベッドの横に置いてあるタブレットやゲーム機を物色する。

 

 娯楽は人を楽しませ安らがせる。それは心の栄養で健康にとって極めて重要だ。そしてデジタルにとっての娯楽はウマ娘を見たり聞いたりすることで、ウマ娘分を摂取することだ。

 今の状況では娯楽を楽しめず、健康を損なう可能性は高い。ならば他の娯楽で紛らわせないかとサブトレーナーとトレーナーは考え、漫画、小説、映画、TV番組など様々なコンテンツを楽しめるようにタブレットを与えていた。無論それらの作品にウマ娘が登場していないのは確認済みである。

 

「今日はこれでも見るか」

 

 デジタルはタブレットを操作する。見ようとしているのは巷で話題になった映画で流行に疎いデジタルでも知っていた映画だ。タブレットを壁に立てかけ少しでも暇つぶしになればいいと願いながら頬杖をつきながら視聴を開始する。

 

 



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勇者と漆黒の帝王#3

 タブレットの画面にはエンドロールが流れている。映画館では本編が終わってもエンドロールまで最後まで見る者は多く、アグネスデジタルも映画館ではそれに倣い、タブレットで映画を見る時も変わらなかった。

 面白かった、詰まらなかった。ここがイマイチだった。この時間で映画に対する感じた事や思ったことを纏める。

 だがデジタルはタブレットを操作し映像を停止すると枕に向かって投げ捨てた。

 

「なにこれ!?すっごくつまんない!時間の無駄だった!これが名作扱いとか皆の目は腐ってんじゃないの!?」

 

 デジタルはタブレットに向かって映画に対する罵倒の言葉を吐く。アカデミー賞を受賞したらしく、それなりに期待していたが完全な駄作だ。特にストーリーが酷い。これならずぶの素人の自分が考えたものでも幾分かマシになるだろう。

 つまらない作品を見たせいか心が騒めきイライラが治まらない。ベッドの上で膝を抱え、無意識で親指を噛み貧乏ゆすりをしていた。

 

 駄作を見た不快感を晴らせないかと棚に置いていた携帯ゲーム機を手に取る。

 サブトレーナーの家に来て夜の暇つぶしは映画やドラマの視聴だった。それらは何もせず流れる映像を見る受動的な娯楽だ、一方ゲームは自分で操作し、展開を動かす能動的な娯楽、そちらの方が面白く気が晴れるかもしれない。

 ゲームはそこまでしたことが無いが、物は試しと携帯ゲーム機の電源を入れる。

 複数のタイトルが表示されるなか、画面に映る白い服の少女のイラストが好きだと、そのゲームを選択肢し、少しでも気分を紛らせてくれと、僅かな期待を抱きながらゲームをプレイする。

 

「クソゲーじゃん!」

 

 プレイ開始から30分、デジタルの淡い期待は裏切られた。タブレットと同じように携帯ゲーム機を枕に向かって投げ捨てる。

 デジタルがプレイしたのはメトロイドヴァニアと呼ばれる探索型アクションと呼ばれるジャンルのゲームで、アクションゲームをプレイしたことがない人にとって難易度は高かった。

 だがこのジャンルにしては簡単な部類で、最初はすぐにゲームオーバーになるが、何度も失敗することで操作が上達し何れはクリアできるようになっている。

 試行錯誤を重ねクリアする達成感とゲームの世界観とストーリーの良さに多くのプレイヤーが魅了された名作だった。

 しかし今のデジタルの精神状態ではゲームの難易度に耐えられず、上達する達成感を感じることも苦労の果てに迎える感動のエンディングを見ることもなかった。

 ベッドの上で膝を抱え無意識で親指を噛み貧乏ゆすりをする。その揺すりは映画を見た時以上だった。

 

 サブトレーナーの実家の生活が始まって1週間が経過した。

 数日の間は特に問題が無く、トレーニングも勉強も順調で、夜の自由時間でも名作と呼ばれる作品を素直に楽しめ、これからは他の娯楽に触れる機会を増やしてもいいかなと思い始めていた。

 しかし日が経つにつれ、心の騒めきとイライラが膨れ上がり、娯楽作品を楽しめなくなっていた。

 デジタルもトレセン学園での夜の自由時間はウマ娘分を補充するだけではなかった。

 エイシンプレストンと一緒に香港映画を見たり武術の練習台になったり、タップダンスシチーの競艇ベストレースを見たりと他のジャンルの娯楽や体験を楽しめていた。だがそれは日頃からウマ娘分を補充して、心に余裕が有ったからに過ぎない。

 ウマ娘は人生にとって無くてはならないものだ、それを断てば調子が悪くなるのは当然であった。

 

 日に日に心が騒めきイライラとウマ娘に対する焦がれが増していき、今では毎晩のようにウマ娘が出てくる夢を見るようになっていた。

 人生においてここまでウマ娘を求めたことは無い。そして夢でウマ娘を見ることで、焦がれを僅かばかり治めていたが、徐々に出てくるウマ娘のディティールが僅かに乱れていった。デジタルは確かな想像力を持っている。だがウマ娘を5感で感じられないことで確実に鈍っていた。

 

 残り2週間で焦がれは確実に増していくだろう。果たして耐えられるのか?

 

 大いに不安を感じながらもう一度タブレットを手に取り気を紛らわせる娯楽作品を探した。

 

──

 

「いただきます」

 

 デジタルと黒坂と両親は手を合わせて箸を伸ばす。黒坂と両親達は味噌汁に卵焼きなど一般的な朝食に対してデジタルは3人の食事とは別のメニューだった。これはトレーナー達がメニューを作成し、黒坂の母親に調理してもらっていた。

 4人は黙々と食事を摂り、食卓には咀嚼音や箸が食器に当る音が響く。

 デジタルが家に来た当初は適度に会話し、和やかな食卓だった。だが3人は言いようのない重苦しさを感じていた。

 

「黒坂ちゃん、あの映画なんだけどさ、ほら、アカデミー賞を受賞したやつ」

 

 デジタルは黒坂にポツリと呟く。サブトレーナーは該当する映画を思い出し、正式なタイトルを言いなおす。

 

「マジでつまんなかった。黒坂ちゃんはあれが本当に面白いと思ったの?」

「まあ……」

「あれが面白いと思ったんだ。人の好みはわからないもんだね」

 

 デジタルは皮肉っぽく言いながら目の前の卵焼きを口に放り込み咀嚼する。だが怒りがぶり返したのかさらに愚痴を続ける。

 

「あと、ゲーム機に入ってたあのゲーム、白い服を着た女の子を操作するやつ。あれもクソゲーだった」

「そうですか、アクションに慣れてない人には難しかったかもしれません。他にもゲームに慣れてない人にも出来るソフトもありますので、気が向いたらやってみてください」

「ふ~ん、でもあの映画が面白かったって言うんだから、期待できなさそう」

 

 デジタルは嫌味っぽく呟き黒坂は思わず苦笑する。その様子を見て両親達は僅かに顔を顰めた。

 

「ご馳走様でした」

 

 デジタルは手を合わせると挨拶すると、足早に自室に向かいリビングから去る。その数秒後3人は深く息を吐いた。

 

「私は面白いと思ったんだけど、アグネスデジタルさんには悪い事をしたかも」

「人の好みはそれぞれだから」

 

 黒坂は落ち込む母親に慰めの言葉を掛ける。デジタルが見た映画は黒坂がタブレットに入れる映画を選定している際に、母親が面白かったと勧めた作品だった。デジタルの声のトーンからポジティブな話ではないと察し、咄嗟に自分が入れたとウソをついていた。

 

「しかし、あんな感じが悪い娘だったかしら、思いやりが足りないというか、人が勧めた物をあんな風に言うなんて」

「強いスポーツ選手は大概性格悪いと言うからな、スポーツ選手としては正しいのだろう、まあ人間的には好かんがな」

 

 父親は母親を慰めながら率直な感情を呟く。対人スポーツでは如何に相手の嫌がる事をするかが重要だと聞いたことがある。

 それでも人々がイメージする好漢を期待していたのだが格言通りだった。予想通りと納得しながらもデジタルへの好感度は下がっていた。

 黒坂は2人の様子を見ながら言いようのない不安に駆られていた。

 

──

 

「デジタルさんどうしてるのかな?」

「ウマ娘断ちするからってトレセン学園を出て行くって、やることが極端だよね」

「そもそもウマ娘断ちって何?」

「ウマ娘を見ない聞かない嗅がない触らない」

「それ大丈夫?ウマ娘マニアのあの人が耐えられるの?」

 

 チームのウマ娘達がクールダウンがてらの雑談でデジタルの話題が挙がる。学園から去って1週間が経過した。初めて休学理由をトレーナーから聞かされた時にはチームメイト達も大いに驚いた。

 一見すると奇行に見える行動だがデジタルなりに至極真面目に行動しているのは知っている。

 様子は気になるところだがスマホをサブトレーナーに預けているので、返ってくるまでは音信不通で連絡は取れない。電話ならともかく文字でのやり取りなら大丈夫そうだと思いながらも、その徹底ぶりに感心していた。

 

「トレーナーはデジタルの様子とか知ってますか?」

「ああ、黒坂君から毎日定時報告が来とるが、問題無しやと」

「そうですか、しかしトレーニングとかどうしてんだろ?ここでしか出来ないトレーニングとかあるけど」

「4000段の階段ダッシュしたり、室内で筋トレとかやな」

「4000段?そんなに?」

 

 チームプレアデスのウマ達の雑談はデジタルから階段ダッシュに話題が移り盛り上がる。その様子を見ながらトレーナーはデジタルについて考える。

 階段ダッシュにウェイトトレーニング、トレセン学園の施設が使えない状態ではこれぐらいしか出来ず、トレーニングの強度不足は否めない。だが最高の設備があっても最高のトレーニングが出来るわけではない。

 結局は工夫とトレーニングする本人次第だ、デジタルなら限られた環境でも、実のあるトレーニングを実行できる経験がある。それに限られた環境でトレーニングを工夫するという経験はトレーナーになるためには必ず役に立つ。

 

「トレーナーさようなら」

「ああ、また明日」

 

 トレーナーはチームウマ娘達と別れてトレーナー室に向い、中に入るとPCを立ち上げてメールチェックする。  

 いつもなら黒坂から定時報告のメールが送られてくるのだがまだ来ていない。その代わりに新着のメールが届いていた。

 トレーナーはメールをチェックし件名を見て顔を顰める。件名には天皇賞秋に関しての取材依頼だった。

 デジタルがトレセン学園を休学したという情報は即座にマスコミに把握されていた。

 休学しているのに天皇賞秋には出走表明している。普通ならば、休学しているウマ娘の次走は基本的に未定となる。その事実にマスコミはある可能性を思い浮かべていた。

 

 アグネスデジタルは外厩でトレーニングしている。

 

 外厩とはトレセン学園以外のトレーニング施設で、シンボリなどの名門と呼ばれる集団が保有していることが多く、トレセン学園以上の施設を保有している所も有る。中にはトレセン学園ではなく、外厩でトレーニングするウマ娘も居た。

 近年では外厩で目一杯トレーニングしてから、レース直前にチームに戻り出走するという方法をとっているウマ娘も居る。

 その方法だとトレーナーはウマ娘を育てられない。出来るとしたらレース前の軽い調整だけだった。

 そのようなトレーナーは一部ではトレーニングを指導するトレーナーではなく、ウマ娘の世話だけをするお世話係と揶揄されることもある。

 

 そしてどこの外厩でトレーニングしているかという話になり、中にはサキーと親交が有るので、コネを使ってゴドルフィンの外厩でトレーニングしているという説まで挙がり、ゴドルフィンに移籍するのではと飛ばし記事まで書かれていた。

 デジタルにとってはどうでもいい事かもしれないが、このままウソの情報が発信され続けるのは問題で、この取材は事実を伝えるという意味では丁度良い。

 だがウマ娘を断つためにトレセン学園を出たという事実は本人のプライバシーの為に隠したい。どのように隠して伝えるべきか、トレーナーは頭を悩ます。

 すると新着のメールが送信され、メールを開き本文を読みさらに頭を悩ます。

 メールは黒坂からでデジタルの様子の定時報告だった。さらにスマホから着信音が鳴りディスプレイには黒坂と表示されていた。

 

「もしもし、黒坂君か?」

「はい、メールは見ていただきましたか?」

「今見たところや」

 

 そこにはいくつかの問題点が記載されていた。まずはトレーニングの質の低さ、ウマ娘断ちの為に極力ウマ娘に接触しない事を重点に置いている。

 そうなるとトレーニングは例の寺での階段ダッシュと家での筋トレとメニューが限られてくる。

 特に筋トレは機材もなく自重トレーニングしか出来ず、黒坂も工夫はしているが基本的に自重トレーニングでは、トレセン学園のような機材を使ったトレーニングより強度が落ちる。

 そして一番の問題はウマ娘断ちを実行するにあたって最も懸念していたのが、デジタルに掛かる精神的負荷の大きさだった。

 生き甲斐であるウマ娘を断たれれば何かしらの影響が出るのは目に見えている。その影響がどれ程でレースに影響が重大な影響が出るか否かが問題だった。

 黒坂のメールには最近になって情緒不安定になり攻撃的になっていると書かれていて、このままの状態で居ればさらに精神的負荷が掛り、レースに重大な影響を及ぼすと記されていた。

 

「デジタルはどんな感じや?」

「練習中もかなり気が立っています。家に居る時も部屋から離れた場所から聞こえる程声を出し、言動も攻撃的になっています。先日もタブレットで見た映画や遊んだテレビゲームが楽しめなかったようですが、ストレートにつまらないと文句を言いました」

「それは確かにいつもと違うな」

 

 トレーナーは思わず同意する。デジタルは基本的に温厚で大らかで気が立っておらず、イライラしていたのは勝利中毒に罹りプレストンとケンカした時ぐらいだろう。何より人が好きな物に文句を言う事は決してない。

 オタク気質であるが故に他人の好きな物を尊重する。仮につまらなくても自分には合わなかったと、オブラートに包むだろう。映画やテレビは黒坂選んだ物と知っていて平時なら絶対に言わない言葉だ、つまり今は通常状態ではない。

 

「僭越ながら今からでもアグネスデジタルをトレセン学園に戻すべきだと思います」

 

 黒坂トレーナーは真剣みを帯びた声で提案する。このまま精神に負荷が掛れば、天皇賞秋では本調子で走れない可能性が高い。

 

「トレーナーもこのままではマズいと分かっているでしょう」

「黒坂君の言い分は充分に分かっとるつもりや、だがこのトレーニングはデジタルが提案したもの、本人が悩み考え抜いて提案し、本人しか分からない効果があるかもしれん。それに失敗したとしても糧になる」

 

 トレーナーは諭すように話す。黒坂が言うことは正論だ、だが思いついた方法の成果が出る前に他者が中断すれば成果を知る機会を失う。たとえ失敗しても本人が納得しなければ意味が無い。そしてその失敗は成長の糧になる。

 耳元から黒坂の悩まし気な声が聞こえてくる。

 

「いや、やはり中断すべきです。確かにトレーナーの言う事は大切です。だが明らかに失敗する道をサブトレーナーとして進ませるわけにはいきません。アグネスデジタルをトレセン学園に戻すのがベストです。本人だって最初は不平を言うかもしれませんがいずれは納得してくれます」

 

 黒坂は毅然と言い放つ。サブトレーナーとして大人としてチームの教え子が失敗しようとするなら、手を引いて止めるのが役割だ。

 トレーナーは黒坂の言葉を聞き静かに息を吸う。ここまで食い下がるとは予想外だった。

 

「黒坂君、デジタルは今までに見たことが無いウマ娘や、その精神性や考え方は時にオレでも理解できず、時に常識外れの力を見せる。そんなウマ娘にはセオリーで測らないほうがええ場合もある」

 

 トレーナーも毅然と言い放つ。デジタルはメンタルで走るウマ娘だ。

 そういったウマ娘はフィジカルやテクニックより、いかにメンタル面を充実させるかが重要だ、たとえトレーニング強度が足りなくとも、今回のトレーニングでデジタルの言うウマ娘への飢えを募らせたほうが、本人の為になると考えていた。

 

「しかし、私はやはりトレセン学園に戻したほうがベストだと思います」

 

 耳に黒坂の息遣いが聞こえてくる。これは一旦納得しかけたがやはり認められないという感情が読み取れる。この様子では中々に折れないだろう。トレーナーは観念したかのように息を吐き話す。

 

「俺はこの決定を変えるつもりはない。もし不服なら俺がデジタルについて、黒坂君がチームの指導にあたってもらうことになる」

 

 トレーナーの耳に息をのむ音が聞こえる。日頃から他者の意見に耳を傾け尊重したいと思っている。

 だが曲げられない考えは存在し、意見が割れて相手が納得しないならば、最高責任者として他人の意見を却下し自分の意見を押し通すしかない。

 

「分かりました……今回は引きますが今後のアグネスデジタルの様子次第では再度提案、最悪は独断でトレーニングを中断させていただきます」

「そんな事態にならないことを切に願う」

 

 トレーナーは背もたれにもたれ掛かり天井を仰ぎ見る。周りから見ればこの方法は間違っているだろう。自分は本当に正しいのだろうか?思わず自問し。数秒後に脳内で自答する。

 この選択は正しいと信じる。時には間違うことがあるが、自信なさげに選べば周りも自分自身も納得しない。大切なのは選択に自信を持つことだ。

 トレーナーはデジタルの考えと可能性に賭けることにした。

 

 黒坂は深くため息をつく。トレーナーの言葉には一理あり2人にしか分からない事柄もあるだろう。だがそれはデジタルに近くにいない者の考えだ。

 デジタルに掛かる精神的負荷は想像以上に大きい。このままにしておけば重大な悪影響と及ぼす。トレーナーは失敗しても糧になると言っていたが、デジタルに与えられるのは糧ではなく致命傷だ。

 今後は様子をつぶさに観察し少しでも本人の為にならないと思えば躊躇なく介入しウマ娘断ちを中断させる。

 黒坂は決意を新たにし、今後のデジタルのトレーニングプランを考え始めた。

 

 



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勇者と漆黒の帝王#4

 部屋の電気はついていなく、周囲の住宅や街頭の光はカーテンで遮られ、中は完全な暗闇だった。

 アグネスデジタルは暗闇に慣れた目で壁に立てかけられた時計を見ると顔を引き攣らせ、机の上に置かれている卓上カレンダーを見て、さらに顔を引き攣らせる。

 

 まだこれだけしか時間が経っていないのか?天皇賞秋まで、まだこれだけの日数があるのか?

 

 ベッドの上で膝を抱えながら、今耐えている苦難と苦痛とこれから膨れ上がる苦難と苦痛を想像し、膝を抱える手の力が強まる。

 

 デジタルはトレーニングが終わり食事を摂った後はベッドの上でずっと膝を抱えていた。トレーニング終了後の自由時間、疲れを癒し明日への活力を養う貴重な時間だが、今は苦痛以外の何物でもなかった。

 トレセン学園から離れて黒坂サブトレーナーの家に住むようになってから数日間は快適だった。勉強も捗り、トレーニング後の自由時間も映画やテレビゲーム等普段はしない娯楽を楽しみ、それなりに英気を養っていた。

 しかし日が経つにつれ、娯楽は酷く味気なくつまらないものとなり、それと同時にウマ娘を渇望するようになった。

 

 ウマ娘を見たい聞きたい嗅ぎたい触りたい。

 

 それらの欲は日に日に膨れ上がり、その大きさは予想を遥かに超え始めていた。

 

 デジタルはウマ娘を感じたいという欲求を抑え込もうと、限界ギリギリまでトレーニングに打ち込んだ。

 勝ちたい、周囲の期待に応えたい、それらの欲を叶えたいという積極的な意志がウマ娘達にトレーニングに打ち込ませる。今はそんな積極的な意志はなかった。

 トレーニングは苦しみや苦痛を伴うものだ、その苦痛がウマ娘を感じられない苦痛を忘れさせてくれる。今のデジタルにとってトレーニングは目的の為に己を高める努力ではなく、困難から逃れるための逃避行動だった。

 本来ならば1日中トレーニングを実施し苦痛から逃げたかったが、それをやれば確実に体が壊れてしまい、休憩時間を設けなければならなかった。

 

 デジタルは声にならない声を上げながら頭を壁に叩きつける。早く寝たい、この苦しみから解放されたい。だが意識は主人の要望を無視するように覚醒し続ける。今この瞬間は地獄そのものだった。

 徐に立ち上がると本棚を漁る。探していたのは休憩時間に何気なく読み、ウマ娘が写っていると判断し思わず投げ捨てた雑誌だった。

 次の天皇賞秋でシンボリクリスエス達を感じる為にウマ娘を断ってきた。だが精神は大いに苛まれ、すでに限界寸前まで来ていた。

 理性は耐えようとしても体が限界だと判断し、ウマ娘を感じようとほぼ無意識に体が動いていた。

 本棚にある雑誌を片っ端から手に取り調べ投げ捨てていく。あの時に読んだ雑誌がない、そんなはずはないと一心不乱に漁り床は雑誌で埋め尽くされた。

 

「あ~~~!なんで!なんで無いの!?」

 

 雑誌を壁に向かって次々と投げ捨てる。目的の雑誌どころか、ウマ娘が写っている雑誌は1つもなかった。ウマ娘を感じられなかったことで、怒りが募り半狂乱状態で喚き散らす。

 目当ての雑誌がなかった原因、それは初日にデジタルから注意を受けた黒坂は母親に頼み、本棚の雑誌をチェックしてもらい、ウマ娘が写っている雑誌は全て回収されていたことによるものであった。

 

「ウマ娘ちゃんを見たい!聞きたい!嗅ぎたい!触りたい!」

 

 デジタルはうつ伏せになり幼子のように手足をばたつかせ喚き散らす。

 ウマ娘を感じたいと思えば、リビングに向かってTVでウマ娘が出ている番組を見て、PCでチャンネルやレース映像を見ればすむ。

 だが宝塚記念、日本テレビ盃、南部杯でウマ娘を満足に感じられなかった不満と後悔が、ギリギリで行動を押しとどめる。しかしそれは一時的なものでいつ爆発してもおかしくはなかった。

 

 何でこんな苦しい思いをしているのだろう?脳内で思わず自問する。レースでシンボリクリスエスを感じる為。

 でも何でこんな苦しい思いをしているのだろう?そもそもシンボリクリスエスが居なければこんな苦しい思いをしなくてすむ。

 

───消えて居なくなればいいのに

 

 デジタルは憎しみを込め呟く。苦しみのあまり、シンボリクリスエスさえいなくなれば苦しまずに済むと論理は飛躍する。人生において初めて明確にウマ娘に対して敵意を抱いた瞬間だった。

 

「って、何考えてんの!?」

 

 握りこぶしを作り自分の頬を全力で殴る。衝撃で口を切り血の味が口内に広がっていく共に、正気に戻っていく。

 自らの欲でウマ娘を断っておきながら、苦しみに耐えかねてウマ娘に憎しみを抱く。逆恨みも甚だしい。

 ベッドに横になると膝を抱えながらブツブツと独り言を呟く。自分の浅はかな考えに極度の自己嫌悪に陥っていた。だが自己嫌悪はウマ娘を感じられない苦痛を紛らわし、気が付けば意識を手放し眠りに落ちていた。

 

───

 

 デジタルはアラームの音で目覚めると寝間着からトレーニングウェアに着替え始める。起きた瞬間にウマ娘を感じたいという強烈な飢餓感が襲い掛かってくる。だが表情には笑みが零れ、その笑顔は口角が歪なまでに上がっていた。

 すると部屋の向こう側からノックが聞こえ扉を開けると黒坂が立っていた。その顔は切実なほどに神妙だった。

 

「アグネスデジタル、もう我慢しなくていいです」

 

 黒坂はデジタルに向かってスマホを差し出す。それはデジタルが預けていた物だった。

 トレーナーにデジタルの今後を進言して以降、傍から見ても情緒不安定になっているのは明らかだった。

 止めるべきかもしれない。だがトレーナーとデジタルとの信頼関係など、様々な要因が混ざり行動に移すことを躊躇させていた。

 だが昨晩の部屋から聞こえる物音と叫び声、あれを聞き抜き差しならない状況になっていることを察した。

 これ以上放置すれば重大な悪影響を及ぼす、いや既に及ぼしているかもしれない。もはやトレーナーにお伺いを立てる暇はない。意を決してデジタルのウマ娘断ちを中断させようと決意した。

 デジタルは黒坂の決意とは裏腹にキョトンとして表情を見せ、大げさな動作で首を傾けながら黒坂を見つめる。

 

「なにこれ?」

「もう我慢しなくていいんです。好きな事をするために体調を崩しては本末転倒です。それでウマ娘を思う存分に感じた後はトレセン学園に戻ってトレーニングすればいい。健全な精神と充実したトレーニングを積めば、貴女の望みは叶うはずです」

 

 黒坂はデジタルを諭す。自分の言葉で自主的に行動してくれれば良し、最悪は強制的にウマ娘を感じさせると考えていた。

 デジタルは差し出されたスマホを手に取ることなく、黒坂の手ごとスマホを突き返した。

 

「アタシは大丈夫だよ。ウマ娘ちゃんを感じられなくても大丈夫だから」

「しかし、相当苦しそうな様子でしたし」

「確かに昨日は騒いだりしたけど、もうそんなことはしないから」

「ですが……」

 

 黒坂は思わず言いよどむ。このままにしておけば精神に多大な負荷が掛り、精神に悪影響が出ると判断し止めようとしていた。

 だが今目の前にいるデジタルは昨日までの情緒不安定さは感じさせない。これは負荷に耐えきって成長したという事なのか?

 

「黒坂ちゃんはアタシのことを心配してたんでしょ。とりあえず数日間は様子見してくれない?それでダメだと判断したら学園に強制送還すればいいから」

 

 デジタルは手を合わせ頭を下げる。黒坂は顎に手を当てながら考え込む。

 今のデジタルはとりあえず安定している。だが数日後はどうなっているか分からず、昨日のように情緒不安定になるかもしれない。とりあえず本人がやりたいと言っているので意志を尊重し続行させ、様子見すべきかもしれない。

 

「分かりました。とりあえずは様子見します。けれどもし続行させるべきではないと判断したら、トレーナーに報告、最終手段として強制的に中断させますがよろしいですか?」

「分かった。昨日のように喚いたりしないから」

 

 デジタルは力強く頷く。こうしてウマ娘断ちは続行となる。

 

──

 

 黒坂は自室でノートPCを打ち込み、トレーナーに送る定時報告を作成する。

 デジタルは自室で喚き散らして以降は情緒不安定さを全く見せなかった。攻撃性や苛立たしさも鳴りを潜め、両親達も嫌な感じが無くなったと評価を改めていた。これならレースに支障はないだろう。強いて言えば学園の時とは違い、大人しい気がするが許容範囲だ。

 こちらはデジタルの様子に動揺し慌てふためいていたが、トレーナーは負荷を乗り越えて安定すると見越していたのだろう。

 担当のウマ娘を信じて構える。これがトレーナーとサブトレーナーの差かもしれない。将来はかくありたいと思いながらメールを送信した。

 

 デジタルは暗闇に包まれた自室の中で膝を抱えながらベッドに座っていた。ウマ娘を感じられない苦痛は依然解消されていなかった。むしろ日が経つごとに強まっていた。

 以前であればその苦しみ耐えられずにいただろう。だがある気づきによって苦しみから耐えていた。

 

 この苦しみはより幸福になるためのスパイスである。

 

 辛いことや苦しい事を耐えるほど達成感や解放感は増える。例を挙げるなら試験勉強でトレーニングを制限し、試験終わり後のトレーニング、その際はトレーニングするウマ娘がいつも以上に輝き尊いという感覚を抱く。

 今回もそれと同じだ。ウマ娘を感じられない苦痛が多ければ多いほど、レース当日はより幸福が増える。他に苦痛に耐えることで別の要素が満たされると考えていた。

 

 オタクの界隈ではイベント抽選など運が試される機会が多く、徳を積むという考えが浸透していた。

 普段から善行をすることで徳を積み、運を貯蓄するという考えが徳を積むである。その善行を苦痛に置き換え、徳を積めば積むほど幸せになれると考えていた。

 そして出走ウマ娘達にも幸運が訪れる。出走ウマ娘が事故に遭うかもしれない、食中毒になるかもしれない、熱になるかもしれない。それらは当人の不注意で起こる事象でもあるが、ウマ娘達が人事を尽くさないわけが無く、起こるとしたら運に左右する事象であると考えていた。

 こうしてデジタルはウマ娘断ちの苦しみに耐えていた。

 だが耐えられるだけであって苦しみが緩和されるわけではない。これだけの苦しみに耐えるのだ、出走ウマ娘達には自身史上最高の煌めきを見せて欲しい。でなければこの苦しみに耐えた苦労が報われない。

 デジタルはウマ娘達が最高の姿を見せてくれることを切に願った。

 



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勇者と漆黒の帝王#5

 

 学園の敷地内には並木道のような場所が存在し季節ごとに様々な景色が楽しめる。今の季節は紅葉や銀杏が咲き赤と黄色のコンストラストが見るものを楽しませ、学園のウマ娘達はそれらを見ながら昼食を摂るなど、人気のスポットの1つである。

 その美しい並木に目をくれず黙々と歩くウマ娘達が居た。チームプライオリティのウマ娘達である。チームの名物トレーニングであるウォーキングの最中で、並木道はウォーキングの進路上だった。

 動作に乱れはなく歩行音すら合わさり、周囲に響き渡る。その様子は集団行動さながらで、見る者に感嘆と威圧感を与えていた。

 その集団の先頭をシンボリクリスエスが歩く。後ろのチームメイト達に緩みが無いか神経を張り巡らしながら周りの様子にも気が配っていた。

 以前と比べ歩く様子を見るウマ娘から畏敬の念が弱まっている気がする。正確に言えばシンボリクリスエスに対する畏敬の念が弱まっていた。そしてその原因も分かっていた。

 

 6月に行われた宝塚記念、近年まれにみる豪華メンバーが集まったレースで、勝てば中距離最強の座は勿論名声も一気に高まるはずだった。

 だが戦前の評価で格下と目された同期のヒシミラクルに敗れ、年下の2冠ウマ娘ネオユニヴァースにも破れ評価は一気に下がった。

 その証拠に数週間後に行われる天皇賞秋での事前人気では1番人気だがその差は僅かだった。

 仮に宝塚記念前であれば人気は集中していただろう。それだけに宝塚記念での敗北はシンボリクリスエスの信頼を下げていた。

 

 実はたいしたことは無い、所詮中山専用機、器用さだけでタフな展開では脆い、

 

 周囲や世間からは様々な影口を叩かれるようになった。品性方向で自他に厳しい姿から帝王と呼ばれていたが、それがいけ好かないと一部から反感を抱かれ、宝塚記念の敗戦を機に、それ見た事かと陰口が一気に表に出てきた。

 シンボリクリスエスはその評価を甘んじて受ける。宝塚記念特有の淀みのないペースのタフなレース展開で勝てなかったのは事実で、GIに勝利したのは東京レース場の改修工事により、中山レース場で実施された天皇賞秋と有マ記念だけで、中山専用機と囁かれても仕方がない。

 

 藤林のトレーニングではリギルやスピカのような超1流のウマ娘は育てられない。所詮は平場で勝利数を稼いでいるトレーナー、張りぼてリーディングトレーナー。

 

 だがこれらの陰口は見過ごせなかった。自身が何を言われても構わないが、藤林トレーナーが罵倒されるのは許せなかった。

 この感情はシンボリクリスエスがトレーナーへの親愛や情によるものではない。契約を結んだプロとして雇い主の評判が下がるのが許せなかった。

 全ては宝塚記念で負けたことが原因だ、己の不甲斐なさに怒りが湧き、無意識に歩調が乱れていた。

 

「調子はどうだ?」

 

 トレーニングが終了し、制服に着替え寮に帰宅するゼンノロブロイに声をかける。ゼンノロブロイは体をビクリと震わせ振り向く。その目には不安と緊張の色が見えていた。

 

「問題無いです」

「世代の主役はネオユニヴァースではない。それを菊花賞で証明して来い」

 

 シンボリクリスエスは真剣な面持ちで励ます。ゼンノロブロイは今年の日本ダービー2着、菊花賞の前哨戦である神戸新聞杯に1着でネオユニヴァースに勝ったウマ娘である。

 その実力は世代屈指で、クラシック級だけで活躍する早熟タイプではないのは明らかだ。将来は業界を代表するウマ娘になると目にかけていた。

 ゼンノロブロイは一見おとなしめで、気負わず走れと言った方が実力を発揮するタイプに見えるかもしれないが、実は胸の内に熱いものを秘めているタイプで、多少発破をかけたほうが力を発揮するタイプだ。

 巷で藤林トレーナーは長距離を軽視しているという風潮があった。今は各路線が充実しているが以前は中長距離こそが絶対であり、それ以外は著しく下に見られていた。

 その名残かクラシック級のウマ娘は3冠レースに挑戦すべきという暗黙の了解があった。だがそれをチームプライオリティに所属していたバブルガムフェローが破った。

 当時は色々と批判されたが結果で黙らせた。それ以降もチームプライオリティのウマ娘は定期的に菊花賞ではなく天皇賞秋を走るようになる。その結果が長距離軽視しているという風潮だ。

 長距離に強いウマ娘を育てられなければ1流ではない。一部ではそんな意見を持っている関係者が居る。その評価を覆すために、ゼンノロブロイには勝ってもらいたかった。

 

「そういえば次巻は返却されたか?」

「はい、丁度昨日返ってきましたよ。よろしければ借りていきますか?」

「ああ」

 

 ゼンノロブロイは声を弾ませ、シンボリクリスエスを先導するように図書室に向かって歩き始める。以前に交流を深めようとゼンノロブロイにお勧めの本を訊き、勧められたのが、今読んでいるシリーズ本で共通の話題となっていた。

 

 シンボリクリスエスは図書室で本を借りると家路に帰りながら、チームのウマ娘達へのアドバイスを纏める。

 常にチームのウマ娘の全てに気をかけ、未勝利のウマ娘でも積極的にアドバイスする。それはサキーのように全てのウマ娘が幸せになってもらいたいという慈愛の心からではない、全ては打算だった。

 1人でも着順を上げ勝ち星をあげる。それが藤林トレーナーの獲得賞金と勝利数となり、リーディングトレーナーの道に繋がる。全ては藤林トレーナーを日本一のトレーナーにさせるという契約の為に。

 シンボリクリスエスは他のウマ娘達のようにチームメイト達に情は抱いていない。出来る限り親密度を上げるように心がけているが、契約を遂行するために必要なだけでチームメイトは駒である。それは自身も含めていた。

 

 寮の自室に帰ると図書室で借りた本に目を通す。面白くは無いがゼンノロブロイとの会話し親密度を高める為、そうすれば今後色々と便利だ。

 読みながら話の内容を記録し、話が弾みそうな感想を脳内で作り上げていく。読み終えた頃には藤林トレーナーへの定時連絡の時間に迫っていた。急いでPCの電源を入れソフトを立ち上げる。

 

「トレーナー、こっちは映ってますか?」

「映っている。こっちはどうだ?」

「映ってます。では定時報告で、まずは……」

 

 シンボリクリスエスは脳内でまとめた報告を読み上げる。報告は詳細で多岐に渡っていた。

 

「以上で今日の報告は終わりです」

「そうか、気になった点は?」

「ゼンノロブロイはまだ自信が持てないようです。一応檄を飛ばしましたが、トレーナーからもお願いします」

「分かった」

 

 藤林トレーナーが了解すると会話が途切れ、数秒ほど沈黙が訪れる。そして沈黙を破るように藤林がシンボリクリスエスに語り掛ける。

 

「天皇賞秋についてだが、明日からは坂路で追切り本数を増やそうと思う」

「それはチーム全体ですか?」

「いや、お前とゼンノロブロイだけだ。他のメンバーはいつも通りのトレーニングする」

 

 シンボリクリスエスの眉がピクリと動く。基本的にチームプライオリティは坂路を使用することは無い。そしてウッドチップなどで実施する追切りの本数も一定で、トレーナーが言ったメニューは極めて異例だった。

 

「何故今更トレーニングを変更するのですか?」

「天皇賞秋に勝つためには今のままではトレーニングの強度が足りない」

「トレーナーが言うなら従います。但し、100パーセント本心で言っている場合ですが」

 

 シンボリクリスエスは画面越しで藤林トレーナーの目を見据えながら喋る。

 目線、声量やイントネーションで言葉に自信を持てないのを察していた。藤林トレーナーは目を逸らすと深く息を吐いた。

 

「100パーセント本心かと言われれば噓になる。条件戦や重賞では今までのトレーニングで間違いないと思っている。だが最近はGIにおいて、今までのトレーニングでは取りこぼすかもしれないという想いが過る。宝塚記念でも違うトレーニングをすれば勝てたかもしれないと」

 

 藤林トレーナーにも周囲の噂は耳に届いていた。いつもなら気にも留めなかった。だがシンボリクリスエスの評価が日に日に下がっていく現状に揺らぎが生じていた。

 シンボリクリスエスは歴代でも屈指の逸材だ、そのポテンシャルは歴史的名選手に負けてはいない。

 これ以上負けさせるわけにはいかない。その責任感から自信が揺らぎ、過去の名トレーナーが成果を出した方法に手を伸ばそうとしていた。

 

「藤林トレーナー、私は貴方の作品で確固たる理念で作り上げたウマ娘でなければならない」

 

 シンボリクリスエスは感情を込めることなく淡々と思いを打ち明ける。

 

 トゥインクルレースにおいて数々の名選手が生まれた。その中でこのトレーナーでなければ大成できなかったと呼ばれるウマ娘が居る。

 例を挙げればスピカに移籍したサイレンススズカは大逃げをすることで実力を発揮し始めた。

 正攻法ではない大逃げをするように助言したチームスピカのトレーナーが居なければ、大成できなかっただろう。

 そのようなウマ娘のなかにはトレーナーの作品と称されることもある。だが自身の考えとは若干異なっていた。

 それらのウマ娘は自分の強さを最初から備えていた。その強さをトレーナーが見つけ、ウマ娘と一緒に磨き育てあげた。

 極端な意見を言えば、他のトレーナーでも育て上げることは可能で全てトレーナーの手腕によるものではない、それが持論で望む強さとは違っていた。

 

 望む理想の強さは、トレーナーにゼロから作り上げられたもの、何一つ自分の強さを備えていないウマ娘がトレーナーの手によって、ゼロから作り上げられ数々のGIを勝利する。 

 それは全てトレーナーの手腕によるもので、そのウマ娘の実績も栄光も全てトレーナーの手柄になる。

 そんなウマ娘が歴史に刻まれるような成績を残せば、トレーナーの地位は一気に高まり、誰もが日本一と認めるようになる。それこそが理想だった。

 だがゼロから作り上げられたという定義は難しく、一見何も備わっていなかったウマ娘が強くなったとしても、潜在的に強さを備えていて、トレーナーはそれを見つけ磨きあげたと言われれば否定できない。

 ゼロから作り上げられた強いウマ娘は存在しないかもしれない。だがそれに限りなく近づきたかった。そこに自分の強さは必要なく、寧ろ不必要な物だった。

 そして作品とは、トレーナーの確固たる信念と理論を注ぎ込まれた存在、だが今のトレーナーは信念と理論に揺らぎが生じている。

 

 様々な経験を経て心から納得し、坂路で本数を増やした方が強くなると確信してウマ娘に指示を与える。それは確固たる信念と理論の基で実施され、トレーナーの作品でいられる。

 しかし迷いを抱いている状態でトレーニングすればトレーナーの作品としての純度が下がる。

 レースを走るウマ娘のなかには勝利の過程に拘る者も居る。デジタルのようにウマ娘を感じたいという過程を、結果より重視する者は稀だが、多かれ少なかれ過程を重視する。

 サキーならば如何に出走ウマ娘の全力を引き出し、見る者を魅了するレースにするか、他にも奇策や出し抜けを使わず、真っ向勝負でなどウマ娘それぞれが理想の過程を求める。シンボリクリスエスの場合は如何にトレーナーの作品として勝つか。

 自分のエゴは要らない、自分だけが持っている先天的な身体能力も技術も心構えも要らない。トレーナーの指導によって作り上げられた肉体と技術と心構えを発揮して勝利する。それが求める過程だった。

 

「私は貴方の信念と理論に基づいたトレーニングで天皇賞秋に勝つ。自分を信じて欲しい」

「だがこれ以上お前を負けさせるわけにはいかない」

「私とて負けるつもりはないし負けたくもない。だが矛盾しているようだが今のトレーニング法で負けても不満はない。勝てばそれで良し、負けたとしても今の方法が間違っていたと理解し改良する。そうなればトレーナーはさらに成長できる」

「負ければ史上初の天皇賞秋連覇の機会を失う。歴史に名を残すチャンスを失うのだぞ?」

 

 藤林トレーナーは思わず問いかける。シンボリクリスエスは、名トレーナーの条件である名選手になるために勝利を求めていたはずだ。

 だが今は負ける可能性が有る選択肢を選ぼうとしている。それは不可解な選択だった。その質問に穏やかな顔で語る。

 

「無論貴方に作られた作品として、名選手になることを諦めたわけではない、だが私の目的はトレーナーが日本一になること。その為に必要なのはトレーナーの成長、負けたとしても成長できればそれで良い」

 

 最近になって心境に変化が生じた。トレーナーを日本一にするために、必要な条件である名選手の輩出、それは自分が成らなければと思っていた。だがそれは間違っていた。

 トレーナーが成長していけば、より良い作品を作れる可能性が高まる。つまりは自分が名選手になれなくとも、後のウマ娘が名選手になれば条件は達成できる。優先すべきは自分の勝利ではなくトレーナーの成長だ。

 

「それでいいのか?名誉は欲しくないのか?勝利への欲は無いのか?勝てば賞金だって手に入る」

「私はプロ契約を結んだプロ選手です。そして契約内容は貴方を日本一のトレーナーになる手助けをすること、その為なら自分の感情などは2の次です」

 

 シンボリクリスエスは見くびるなと言わんばかりに、睨みつけらながら語る。

 日本一のトレーナーの条件はそれぞれに有り、明確に定義するのは難しい。

 そして自身が考える日本一の条件は通算最多勝利と通算獲得賞金と通算勝率にトップになる事だと考えていた。

 その為にはトレーナーの成長が必要不可欠で、全ての行動の目的でもあった。その為なら実験台でも喜んで引き受ける。

 もしプロ契約を結んでいなければトレーナーのトレーニング方法に異論を挟んでいただろう。人並みの名誉欲も物欲も有り、トレーナーの作品でなくてもいいと思っていた。だがプロ契約を結んだ際に自分を捨てていた。

 仕事を請け負ったからには自分を押し殺しても達成に向けて努力する。それがプロである。自分の欲で走る他のウマ娘とは立場が違う。

 

 藤林トレーナーは無意識に唾を飲み干す。多くのウマ娘は夢を抱いてトレセン学園に入学しレースを走る。

 だがシンボリクリスエスはトレセン学園での生活もレースに出走することも完全に仕事と割り切っている。何というプロ意識だ。

 末恐ろしさと頼もしさを覚えると同時に罪悪感を抱く。もし自分が契約を結んでなければ普通のウマ娘のように自分の為に走っていたのではないだろうか。

 

「シンボリクリスエス、もし辛ければ契約を解除……」

「それ以上言わないでください。何も成していないのに仕事を放棄するわけにはいかない。契約解除するのは私が貴方にとって不利益がある場合だ、憐憫や哀れみで契約解除されたくはない」

 

 シンボリクリスエスは藤林トレーナーの弱気を切り捨てるように言い放つ。

 こちらはプロとして行動している。無能が故の契約解除なら納得するが、自分を押し殺していることへの憐みは認めない。契約解除することで他のウマ娘のように自分の欲で走った方が幸せだと思っているのなら、それは侮辱だ。

 

 藤林トレーナーは天井を仰ぎ見る。これほどまでの覚悟を持っているとは知らなかった。プロとして自分を日本一のトレーナーにしようと行動している。同情も憐みもいらない。

 向けていた視線を天井から画面に移し、シンボリクリスエスの姿を見据え話す。その目には決断的な意志が籠っていた。

 

「分かった。トレーニングは変えない。だが能力不足故に間違っていて、天皇賞秋に負けるかもしれない。恨むなよ」

「無論です」

「そして、その失敗は次に生かす」

「分かりました。最後に確認しますがこれでいいのですか?」

 

 シンボリクリスエスは自信なさげに問いかける。トレーナーの作品として天皇賞秋を走る。それが日本一のトレーナーになるために必要であると判断した。

 だがそれは自分のエゴで、本当は何が何でも天皇賞秋に勝ちたかったかもしれない。顧客が望む行動を取るのがプロとして正しい選択なのかもしれない。

 

「問題ない。迷いが晴れた」

 

 トレーナーは不安を払うように明るい声色で喋る。年下のウマ娘が高いプロ意識を持って走ってくれる。ならばそれに応えるのがプロの仕事だ。

 本人が望むように自分の持つ理念と信念を持って自分のとして育て、歴史に残るようなウマ娘にして見せる。

 

「ありがとうございますトレーナー」

 

 シンボリクリスエスは深々と頭を下げた。

 




シンボリクリスエスの実装が発表されました。
この作品でもシンボリクリスエスが登場しますが、紹介文を読んだだけでも大分キャラが違っています。
別のキャラクターだと割り切って読んでくだされば、ありがたいです


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勇者と漆黒の帝王#6

 アグネスデジタルは朝のトレーニングを終えて、黒坂の家に帰りシャワーを浴びる。秋になり水の冷たさが体に染みる季節になったが、冷たさをそこまで感じていなかった。

 デジタルはシャワー浴びる終え脱衣所に向かい体を拭こうとするが、ふと鏡に映る自身の全身を見つめる。

 痩せたな、体を絞り切れなかったのが、南部杯の敗因の1つなので、丁度良いと僅かに口角をあげる。

 結果的に体を絞れたが意図的に絞ったつもりはなかった。最近は食事を摂っても美味しさを感じられず、量が減っていたのが原因だった。

 そして自身の感覚の異変に気付く、食事を美味しく感じないという味覚、水の冷たさを感じない触覚、ここ最近は5感の感覚が鈍くなっている気がする。

 ウマ娘断ちはボクサーの減量のようなものと捉え、減量中は感覚が鋭くなると聞いたことがあるが今は逆だ。

 デジタルに起こっている感覚鈍化の原因は体の防衛反応だった。

 レース当日までウマ娘を感じたくないというデジタルの願いに体が反応し、突発的な出来事でウマ娘を感じないように感覚を鈍化させていた。

 

 しかし今日は耐えられるだろうか?脳裏に不安が過る。今日は昼頃に府中レース場近くにあるホテルで天皇賞秋の前々日会見に参加する。

 今までウマ娘を感じないようにトレセン学園から離れ、自分からウマ娘を避けてきた。

 だが今日はウマ娘達が居る場所に、意図的に飛び込まなければならない。それは空腹状態のなか高級フルコースを目の前にして我慢するようなものだ。

 

 まあ、耐えられるだろうと楽観的に考える。

 

 デジタルに起こっている鈍化は感覚だけではなく、感情までに及んでいた。

 喜怒哀楽が弱くなり、日々が漫然に過ぎる感覚があった。だがその鈍化によって、ウマ娘が目の前に居るのに感じられないという状況にも耐えられるだろう。

 ウマ娘断ちの為にトレセン学園から離れて約3週間、長期間ウマ娘を感じられない困難さと苦しさは想像を遥かに超えていた。

 途中で断念しそうになったが、ある日痛みは幸福への最高のスパイスであり、苦しみは徳を積んでいると認識してから、ウマ娘を感じられない苦しさに耐えられた。

 

「苦しみと徳を積みに行きますか」

 

 デジタルは鏡に映る自身に向かって励ますように声を出す。その声とテンションはいつもより小さかった

 

───

 

 レース前々日の金曜日。GIレースが行われる日はレース場近くの会場を借りて枠順決定の抽選と記者会見が実施される。

 今日は天皇賞秋の前々日会見が開催され、秋の中長距離GIの初戦だけあって注目度が高く、先週の3冠が掛かった菊花賞の前々日会見に負けない程、各社マスコミの記者が来ていた。

 

「今回も良いメンバーが集まったな」

「ああ、本命はシンボリクリスエスだろ」

「ボリクリは宝塚記念に負けたからな、底が見えただろう」

「あれは間隔が空きすぎてレース勘が無かったせいだって、敗因はヒシミラクルのハイペースに乗っかっちゃったこと」

「ツルマルボーイはどうよ?東京の直線なら追い込みも活きるだろう」

「でも善戦マン感が強いしな。勝つイメージが浮かばないな、個人的にはローエングリンに重い印を打つな」

「ローエンはマイラーでしょ。2000は長いって」

「じゃあアグネスデジタルは?」

「最近パッとしないけど意外性が有るというか、あっさり勝っても不思議じゃないというか」

「それは分かる。扱いが難しいウマ娘だよな。それに外厩でトレーニングしてるんだろ、外厩はトレーニング内容を教えてくれないから予想を立てにくくて困る」

「外厩じゃないけど、確かに」

 

 プレアデスのトレーナーは後ろにいるスポーツ新聞記者の雑談に耳を傾ける。

 トレーニング内容は予想する上で重要な要素だ、それを秘匿する形になったのは関係者としては申し訳なく思い、心の中で記者たちに謝罪する。そして意外な高評価を受けていることに驚いていた。

 近2走は芳しくない結果だった。この結果なら勝つ見込みがないと思われても仕方がないところだが、勝っても不思議ではないと評価していた。

 デジタルはコロッと負けたかと思えば、思わぬ激走で勝つことも有る。その未知数さがファンにも意外性として伝わっているのだろう。そして今回は今までで最も計りかねていた。

 

 黒坂とデジタルの方針について意見をぶつけて以降、黒坂はトレセン学園に戻そうと意見しなくなった。どうやら精神状態が落ち着き、今の生活に耐えられると判断したようだ。それは黒坂だけではなく、トレーナーの判断でもあった。

 トレーナーは時間を作ってデジタルの元に訪れて様子を確認した。情緒不安定さは見られず、体つきや動きもある程度仕上がり及第点といえる。

 肉体面では問題無いが精神面に気がかりがあった。ウマ娘断ちで相当な我慢と負荷を強いられ、今日もウマ娘が間近にいるという状況に興奮状態になると思っていたが随分と大人しかった。

 だが大人しいのではなく、得体の知れない何かを感じていた。

 上手く言語化できないが危うさが孕んだ状態、こんな姿は長い付き合いの中で初めて見た。その得体の知れなさと危うさが状態を計りかねさせていた。

 

『只今より、天皇賞秋の前々日会見を始めたいと思います。まずは出走ウマ娘に登壇してもらいたいと思います。』

 

 司会のアナウンスの声に会場に居る人々達が雑談を止め意識を司会と壇上に向ける。これから出走ウマ娘が登場し、出る順番は累計ポイント順になっている。

 

『続いてはこの夏にフランスへ遠征し、前走のGIムーランドロンシャン賞では2着と健闘しました。この秋での躍進が期待されます。ローエングリン選手』

 

 黄色と黒を基調にオレンジ色の差し色を入れたドレスを身に纏ったローエングリンが壇上に上がり、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたまま両手でスカートの裾を軽く持ち上げ、カーテシーと呼ばれる挨拶をする。

 ローエングリンは安田記念でデジタルと一緒に走った。素質は高く速いウマ娘という印象抱いていたが、この夏の遠征で強さが備わった。

 強さがなければ初めてのフランス遠征とロンシャンの高低差と深い芝のコースで好走はできない。

 

『その末脚はメンバー屈指、中距離では抜群の安定感を誇ります。悲願のGI初制覇を狙います。ツルマルボーイ選手』

 

 ツルマルボーイは黄色と紫を基調にしたドレスを身に纏い壇上に上がる。立ち姿や雰囲気は良く言えば一般的で親しみがある。悪く言えば影が薄く地味という印象を受ける。トレーナーとしてはツルマルボーイを一番警戒していた。

 中距離重賞に複数勝ち、宝塚記念2着2回のスピード、天皇賞春4着と好走できるスタミナ、天皇賞秋に勝つために必要なスタミナとスピードを要している。

 さらに記者たちが言っていたように東京の長い直線にはツルマルボーイの後方一気の末脚が活きる。

 

『宝塚記念では破れはしましたがその実力は誰もが認めるところです。天皇賞秋に勝利し中距離最強の座を揺るぎないものにできるか?シンボリクリスエス選手です』

 

 シンボリクリスエスが壇上に上がる。緑と黒を基調にしたドレスを纏い壇上に上がる。ツルマルボーイと一転し、立ち姿や雰囲気から特別感が漂い存在感が際立っていた。

 

 宝塚記念での敗北は周りからの評価を下げた。だがそれだけで見限れるウマ娘ではない。その実力は間違いなく現役屈指だ。藤林トレーナーの元で万全に仕上げてくるという確信をトレーナーは抱いていた。

 

『最後はこのウマ娘、近2走の結果は芳しくありませんが、決して侮れません。その名を轟かせた同じ舞台での勝利が期待されます。勇者、アグネスデジタル選手です』

 

 最多獲得ポイントのデジタルが最後に登場する。姿を現した瞬間に会場がどよめいた。

 デジタルが着ているのはワンピースタイプのドレスで赤青黄の色をちりばめている。そしてドレスの他に手袋やレギンスやインナーを着け、普通ならあるはずの肌の露出が一切なかった。

 それだけならファッションの一環や何かしらの理由で肌を露出したくないのだろうと理解できる。だが会場の人間をどよめかせた原因はこれではない。

 デジタルの目にはアイマスク耳にはヘッドフォンが付けられ、協会のスタッフに手を引かれながら歩いていた。

 その姿はバラエティ番組で見知らぬ場所に連れてかれる芸能人のようだ。

 会見では受け狙いの格好や小道具を用意して笑いを取ろうとした者はいたが、それとはまったく違う異様さがあった。デジタルは席に座り手を引いた者はその場に立つ。

 その異様な姿に左右に座っていた出走ウマ娘のトレーナーが思わず、プレアデスのトレーナーに視線を向ける。トレーナーは視線を交わさず、じっとデジタルの姿を見据える。

 

 デジタルはウマ娘断ちを継続しながらこの日を迎えた。前々日会見への参加は絶対で、参加する以上ウマ娘に近づかなければならず、否が応でもウマ娘を感じてしまう。

 出来る限りウマ娘を感じるのはレース直前がいい、そこでトレーナーは協会に今のような状態で参加させてもらいたいと頼み込んだ。

 協会も最初は難色を示した。これもレースでベスト尽くすための努力であると力説し渋々と認めさせた。

 今のデジタルはアイマスクやヘッドフォンだけではなく、鼻栓をつけ口には濃い味の飴玉を入れている。

 アイマスクで視覚、ヘッドフォンで聴覚、鼻栓で嗅覚を塞ぎ、飴玉で味覚を鈍らせている。さらに素肌を晒さないことで皮膚感覚を遮断し、機能している5感は触覚のみだ。

 トレーナーにはその恰好の意味は理解できるが他の者には理解できるわけもなく、騒めきは治まらず他のウマ娘も登壇するが注目はデジタルに注がれていた。

 会場は異様な雰囲気に包まれながら司会が予定通り進行していき、この後は枠順抽選会が始まる。

 くじ順は今までのレースで獲得したレースポイントが多い者から引いていき、獲得ポイントが多いデジタルが最初に引く。

 係の者がデジタルの二の腕を叩き合図すると手を取り、デジタルは場所に移動し抽選箱に手を入れてボールを引く。

 

『アグネスデジタル選手、8枠18番です』

 

 出走ウマ娘の後ろにあるモニターには枠順表が映り、8枠18番にデジタルの名前が表示される。デジタルは枠順と同じ場所に移動し椅子に座る。

 東京レース場2000メートルのコース形態から外枠は不利と言われている。有力ウマ娘が大外に入れば通年では会場から様々な反応が現れる。

 だが今回は違っていた。アグネスデジタルはいつまでこの格好で居るのか?会見をこの格好でやり通すのか?興味は枠順ではなくデジタルの動向に集まっていた。

 抽選会は進行し、上位人気が予想されるシンボリクリスエスは6枠11番、ローエングリンは3枠5番、ツルマルボーイは4枠7番となる。

 抽選会の後は出走ウマ娘が意気込みを語り、質疑応答に移る段取りとなっている。1枠1番のウマ娘から意気込みを語っていく。

 そしてデジタルも係員に促されマイクを口元に運ぶ。そこでもアイマスクやヘッドフォンを外さない。

 

「このレースを楽しみにしていたので、精一杯頑張ります」

 

 デジタルは淡々と意気込みを語る。いつもならレースが待ちきれないと声を弾ませ生き生きと語るのだが、明らかにテンションが低い。その姿は今の格好も相まって不気味さを醸し出していた。

 

「では質疑応答に移りたいと思います。では質問がある方は挙手でお願いします」

 

 質疑応答に移り司会が質問を促すと次々とマスコミ関係者が手を挙げる。

 

「ローエングリン選手、今までマイル路線で走っていましたが、今回は2000メートルの舞台です。距離不安が囁かれていますが、不安はありますか?」

「不安はありません。2000メートルを走るためのトレーニングをしてきました。それに私はマイルに勝つスピードがあります。当日は自分の長所を生かしたレースをしていきます」

 

 ローエングリンは堂々と語る。その言葉は決して虚勢ではなく、自信に裏付けされた言葉であることが見て取れた。

 

「ツルマルボーイ選手、惜敗が続くなか、今回は末脚が活きる舞台です。心境はいかがですか?」

「確かに東京の長い直線は私の末脚が活きるコースで、距離もベストだと思っています。このチャンスを生かし是非ともGIに勝ちたいと思います」

 

 ツルマルボーイは淡々と語る。一見穏やかに見えているが追い詰められている者の特有の切迫感が有った。

 何人かの記者はそれを感じ取り、気負い過ぎであるとマイナスに捉える者もいえば、追い込まれた者の爆発力に期待する記者もいた。

 

「シンボリクリスエス選手、前走ではレース勘の欠如によるペース判断ミスが敗因と分析されていますが、今回も前哨戦を走らず、長期休み明けで走りますが不安はありますか?」

 

 記者の質問に空気が若干ピリつく。前走はレース勘の不足により負けたと口にしていた。

 史上初の天皇賞秋連覇がかかっていれば、普通なら前哨戦を走りレース勘を養うはずだ、だが今回も休み明けで挑む前回の反省を生かさずに挑む。それは慢心ではないかと暗に言っている質問だった。

 

「秋はシニア3冠に挑むつもりです。体力面から前哨戦を走る余裕がないとトレーナーと相談し決めました。そして天皇賞秋に向けてトレーナーと入念な準備を進めていきました。何が起ころうとトレーナーの教えを忠実に守りレースをしていきます」

 

 シンボリクリスエスは記者のメッセージに反応することなく、淡々とかつ堂々とコメントする。その言葉から油断や慢心が一切ないのは充分に感じ取れていた。

 それ以降も質疑応答は続いていく。その中で記者達の間に周囲の出方を窺っている空気が漂っていた。

 

「アグネスデジタル選手、今日の格好にはどのような意図があるのですか?」

 

 ある記者の質問にマスコミ関係者から安堵の空気が流れる。

 デジタルの恰好は真っ先に聞きたい質問だった。だがあまりに異質な姿に関わりたくないと躊躇させられていた。

 こんな話題性のあるネタを記者が放っておくわけが無い、誰かが質問するだろうと記者全員が様子見を決め込んでいた。

 だが質疑応答終了時間に迫るが一向に誰も質問しない、その事態に苛立ちが募るが動けずにいた。そんな折に質問が投げかけられ、質問した記者に一同は感謝と同時に記事に出来るという安堵を抱いていた。

 係員がデジタルの腿を指で叩くとヘッドフォンを外し耳打ちする。デジタルはヘッドフォンを装着しマイクを手に取る。記者たちは勿論壇上に居るウマ娘達や会場に居る人間の意識は全てデジタルに向けられていた。

 

「この格好は天皇賞秋で目的を果たすためです」

「目的とは何でしょう」

 

 先ほど質問した記者が矢継ぎ早に質問する。本来は連続で質問することは認められていない。

 だが質問の答えと今の恰好をしていることへの脈絡がまるで分からず思わず質問していた。そ

 して答えが気になるのか、司会も特に注意しなかった。デジタルは再び係員に質問を耳打ちされるとマイクを持つ。

 

「目的は出走ウマ娘ちゃんを思う存分感じることです」

 

 会場に居る人間は一斉に心の中で疑問符を浮かべる。やはり答えから今の恰好をしていることへの脈略が分からなかった。

 

『ではこれにて前々日会見は終了となります。個別に質問がある方は別室で時間を設けますので、そこでお願いします』

 

 定刻を迎え司会のアナウンスで前々日会見は閉幕となり、各ウマ娘達が退場し控室に移動する。ウマ娘達が退場すると移動を開始した。

 

──

 

「なんとか乗り切れた」

 

 デジタルは自室でポツリと呟く。今日の前々日会見において主観では出走ウマ娘を感じることは無かった。

 だがウマ娘を感じたいという衝動は鈍化させていた感情を激しく揺さぶり、危うく見隠しやヘッドフォンを外し感じそうだった。

 しかし苦しみを味わい徳を積まなければならないという、強迫観念に似た自制心が衝動を抑え込んだ。

 今日は何とか耐えられた。だが今日の会見で抑え込んでいたウマ娘を感じたいという衝動は膨れ上がる。土曜とレース当日はさらに膨れ上がるだろう。相当厳しい時間になりそうだ。しかしその分だけ徳を積み楽しさのスパイスとなる。

 レース当日はどれほど迄の極上体験になるのだろうか、デジタルは異様なまでに口角をあげて笑う。だが感情の高ぶりに気づき、感情を鈍化させ表情は真顔になっていた。

 

 



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勇者と漆黒の帝王#7

 シンボリクリスエスは普段通りの起床時間に目を覚ました。身体を起すと手足を軽く動かす。体調はいたって普通、良くも悪くもなく、都合が良かった。

 体調は普通と評したが、一般的な感覚で言えば絶好調である。レースに向けてコンディション調整するのは当然で、今日の天皇賞秋を走るウマ娘は全員絶好調だろう。もしそうでなければ勝負の土俵に立ってすらいない。

 そして絶好調でも細分化すれば好調不調は分類できる。今の状態は絶好調の中で普通という感じだった。

 レースを走るウマ娘には絶好調中の絶好調でレースに臨める者もいる。その状態になるのも実力だと言えるが、毎レース絶好調中の絶好調でいられるウマ娘は存在しない。

 トレーナーの作品となるウマ娘は調子に左右されてはならないというのが持論だった。

 調子が良かったから勝てたのではない。普通の状態で、トレーナーに鍛え教えられた事を発揮し勝ってこそ作品だ。

 

 ルームメイトを起さないようにタブレットを持って食堂に向かう。普段は起床して朝のトレーニングをするのだが、今日はGIを走るので朝のトレーニングをして体力を消費するようなことはしない。代わりに天皇賞秋に向けての最終チェックを念入りに行う。

 食堂に着くと朝のトレーニング前にエネルギー補給しようとするウマ娘で賑わっていた。適当に料理を選び空いている席に着くと、タブレットの映像を見ながら食事を摂る。

 

───

 

 アグネスデジタルは目を覚ます。起きた直後の感覚から熟睡できたと判断する。今日は思う存分ウマ娘を感じられる。

 その期待と興奮で眠れるか心配だったが杞憂だった。万全の状態でなければレースで存分に感じられないと、意志が興奮を強引に抑え込み眠りに誘った。

 この日の為に苦痛に耐え忍び徳を積み上げてきた。今日は最高の日になると半ば確信していた。しかし問題が1つだけある。それは衝動をレースまで抑えきれるかだ。

 感覚を鈍化させ、ウマ娘を感じたいという衝動に耐えてきた。そして前々日会見と土曜で衝動はさらに膨れ上がる。それは空気をパンパンに入れて破裂寸前の風船のようだった。

 些細な切っ掛けでいつ爆発するか分からない。爆発すれば今までの苦労は水の泡だ、今まで以上に慎重に行動しなければならない。

 デジタルは息を吸い込み体を起こすことなく、感覚と感情を鈍化させていく。

 

「アグネスデジタルさん、そろそろ向かいましょう」

 

 黒坂が部屋の外からノックして声をかける。起きてからすでに数時間が経っていた。鈍化した感覚は時間感覚すら鈍らせていた。

 デジタルは呼びかけに応じるように体を起こし制服に着替え始め、部屋から出て外に止めてある車に乗る。

 学園に居た頃とは違い徒歩ではなく車で移動する。黒坂の家から府中レース場まで1時間は掛かり、万が一のことを考え3時間早めに出発する。

 後部座席に座るとヘッドフォンとアイマスクを装着する。いつ何時ウマ娘と出くわすかは分からない。デジタルに油断や気の緩みは一切なかった。

 

───

 

 シンボリクリスエスは控室で今日のレースを見ながら、藤林トレーナーと天皇賞秋に向けて作戦会議をする。府中レース場に向かう前に打ち合わせをしたがさらに続ける。

 今日は内が伸びるか外が伸びるか、風向きはどうか、レース当日にならなければ分からない要素は数多くある。それらを加味して作戦を考えることが勝利を手繰り寄せる。

 

「今のところは1番人気だ、つまり……」

「マークされる」

 

 シンボリクリスエスはポツリと呟く。2番人気のローエングリンは逃げ、3番人気のツルマルボーイは追い込みが予想される。

 そしてシン自身は中団から直線での抜け出しや、差し切りを得意とするウマ娘である。

 そのことから極端なポジションの2人より真ん中に居る分注目が集まり、マークされやすくなる。

 マークされるのは1番人気の宿命だ、マークされたことで実力が発揮できずに敗北したウマ娘は数多い、他のウマ娘は一挙手一投足に注目し反応する。

 

「心配はいりません。トレーナーに教わったことを実行できればマークがされても勝てます」

 

 シンボリクリスエスは慢心も虚勢もなく淡々と口に出す。本来ならばトレーナーが励まさなければならないのに逆に励まされてしまった。その言葉にトレーナーは頼もしさと不甲斐なさを抱く。

 

「アグネスデジタルはどの位置につけると思いますか?」

「ある程度自在性が有るウマ娘だ、正直に言うと完全に予想できない。だがどの位置にいてもやはり注目はクリスエスに集まるだろう」

「そうですか」

 

 シンボリクリスエスは気のない返事する。このレースではトレーナーに教え鍛えられた全てだけを発揮し、トレーナーの作品として勝つ。思考の全てはそれだけに向けるべきだ。

 だがデジタルが前々日会見で見せた奇行と呼べるような行動は少なからず驚かされた。

 宝塚記念に感じた無邪気さとは違い感情を見せず淡々としていた。

 これは動揺を誘うための盤外戦術か?だがそんなことをするウマ娘ではない、いや、これが本性かもしれない。その不気味さは無意識に注意を向けさせていた。

 精神を落ち着かせる為にトレーナーから今まで教わったことを思い出す。個人の動揺も不安は必要ない、自分はトレーナーが描く絵のキャンパスでいい。キャンパスに個性は必要ない。

 シンボリクリスエスは藤林トレーナーと作戦会議を続ける。その胸中に抱くデジタルへの不気味さは薄れていた。

 

──

 

 デジタルは控室で椅子の背もたれにもたれ掛かりながら天井を見る。その目は虚ろで親しい人がいれば思わず声をかける程普通では無かった。

 今までは出走ウマ娘の映像などを見て妄想し、気持ちを高めていく。だが今日映像などは一切見ていない。もし見れば衝動が溢れだすのが分かり切っているからだ。

 府中レース場に到着すると、車いすに押されながら会場入りする。その姿を見た者達は何事かと一堂に驚いていた。

 別に怪我をしたわけではない。アイマスクやヘッドフォンで視覚や聴覚を遮断しウマ娘を感じないようにしているため自力で歩くことはできず、トレーナーが車いすに乗せて控室に運んでいた。

 ウマ娘を感じないよう石橋を叩くように行動する。衝動は起きてから此処に来るまで順調に膨れ上がり、くしゃみ1つで爆発しても不思議でなかった。

 衝動が感じながら、感情と感覚を鈍化させていく。衝動が溢れる前にレースをしたいと願う。時間が経つにつれその感情すら薄れ始めていた。

 

──

 

「折角現地に来たのに生で見られないなんて味気ないですね」

 

 東京レース場のスタンド最上部、ツインテールとポニーテールを合わせた特徴的な髪型のウマ娘、チームプレアデスのメンバーであるメイショウボーラーは不満を口にする。

 チームに入ってからデジタルが出走するGIを初めて生で見られる。

 パドック前で応援したい。ゴール板の1番近い場所で声をかけ走る姿を見たいと心を躍らせていた。

 だが現地に着くとパドックやゴール板近くのラチ近くに陣取るわけでもなく、スタンド最上部にチームプレアデスのメンバーは陣取り観戦していた。

 

「まあ、トレーナーからのお達しが出てるしな。今日はここで観戦だ」

「それでも、パドックぐらい生で見たいですよ」

 

 メイショウボーラーは先輩の言葉に反論する。今まではパドックでデジタルに応援の言葉をかけていた。

 だが今日はウマ娘断ちの一環として声をかけることをトレーナーから禁止されていた。

 

「いくら何でも最上部から見ればアグネスデジタルさんに見つからないでしょう」

「いや、あの人ならこっそり見ても察知されかねない」

 

 先輩の言葉に一同は思わず頷き、メイショウボーラーは困惑の表情を見せる。そんな妖怪じゃあるまいしという言葉が喉まで出かかるが何とか飲み込む。

 付き合いの長い先輩たちがそう言うのならそうかもしれないと、思わせる説得力があった。

 

「おっ、パドックが始まるみたい」

 

 チームメイトがターフビジョンを指さす。液晶にはパドック周辺が映し出されていた。

 

 

『これより第11レース、天皇賞秋のパドックを開始します』

 

 場内アナウンスの声にパドック場周辺の雰囲気が変わる。天皇賞秋では多くのドラマが生まれてきた。

 

 絶対と呼ばれていたシンボリルドルフの敗北した天皇賞秋。

 当時葦毛は走らないと囁かれるなか、1着タマモクロスと2着オグリキャップで名勝負を演じた天皇賞秋。

 1番人気だったメジロマックイーンの斜行によりGIでは史上初の1着入線ウマ娘の降着した天皇賞秋。

 不治の病であった屈腱炎を3度克服したオフサイドトラップの不撓不屈の勝利で終わった天皇賞秋。

 1番人気が勝てないというジンクスを打ち破ったテイエムオペラオーの勝利で終わった天皇賞秋。

 そして絶対王朝だったテイエムオペラオーとメイショウドトウのワンツーフィニッシュをアグネスデジタルの手によって崩された天皇賞秋。

 今日はそれらの天皇賞秋に負けないぐらいの名勝負が生まれることを願っていた。

 

 パドックでは人気が低いウマ娘から姿を現して客達に姿を見せる。

 中距離最高峰の舞台に挑むだけあって、皆が抜群の仕上がった体で闘志を迸らせていた。その闘志に当てられるように客達の気持ちも高まっていく。

 

『4番人気、アグネスデジタル選手です』

 

 デジタルが登場するとパドック周辺とターフビジョンで様子を見ている観客からどよめきが起こる。

 勝負服はいつも通りの物だった。だが目にはアイマスク、耳にはヘッドフォンを装着していた。ランウェイをフラフラと歩きながら壇上に上がる。その姿は異様だった。

 熱心なファンは前々日会見でデジタルがアイマスクとヘッドフォンを装着していたことを知っていた。

 だがパドックでもその姿で現れるとは思っていなかった。

 まさかレースも視覚と聴覚を遮断して走るのではないか?そんなことはあり得ない。だが、やりかねないという気持ちを抱いていた。

 

 パドック周辺の空気が変わっていく。今まで現れたウマ娘の闘志に当られ盛り上がった空気は徐々に冷えていた。その原因はデジタルによるものだった。

 いつもの楽し気な感じもレースに対する高揚感もない。ただそこに居るだけで覇気を感じず、虚無感すら覚える。それと同時に何か心をざわつかされていた。

 デジタルは覚束ない足取りで戻っていく。パドックでは前々日会見のように係員の手に引かれて歩くことは許可されなかった。視覚と聴覚が遮断された状態では杖が無ければまともに歩けない。

 では何故普通に歩けているかといえば、トレーナーの指示によるものだった。

 トレーナーは事前にインカムでデジタルに指示を送ると協会に申請して、協会の者が機具のチェックを行った結果、許可されていた。

 

『3番人気、ツルマルボーイ選手です』

 

 アナウンサーもデジタルの姿に動揺したのか、僅かに言いよどみながらツルマルボーイの名を呼ぶ。

 観客達も空気を変えようと大歓声でツルマルボーイを迎える。

 勝負服は紫と黄色を基調にしたサッカーのユニフォームに左胸には鶴を模したエンブレムが刻まれていた。

 

──勝つならここしかないぞ!

──頼むから勝ってくれ!

 

 地味な雰囲気ながら直線一気という派手なレーススタイルに、実力が有りながらGIを勝てないもどかしさに心惹かれたファンは多く。絶好の舞台での悲願のGI制覇にファン達は期待していた。

 ツルマルボーイもその声援に懸命に応える。その姿に気負いはなく、ファン達の期待は時には重荷になるが今日のは全て糧にできるとトレーナーは判断した。

 そしてデジタルの姿に動揺した様子もない。あのような姿で現れれば動揺するウマ娘も居るかもしれない。だが揺らぎはない。

 明確な意志を持ってレースに臨んでいるのがわかる。もしデジタルの目的が、動揺を誘うための盤外戦術なら効果はない。

 

『2番人気、ローエングリン選手です』

 

 ローエングリンが姿を現す。勝負服はスリットが入った黄色のワンピースに黒の鎧風の胸当て。右手にはバックラーを装着し、左手には剣を握っている。鎧風のヘルメットと背中には白鳥を模した羽がつけられている。髪型もロングヘア―を三つ編みにまとめられ赤いリボンがつけられていた。

 

──ここで勝って世界に羽ばたけ!

──お前は世界レベルだぞ!

 

 ローエングリンにもツルマルボーイに負けないぐらいの声援が送られる。

 ツルマルボーイが素朴な魅力なら、ローエングリンの魅力は華やかさだった。人が持っている華と呼ばれる魅力、出走ウマ娘の中で1番大きいのはローエングリンだった。

 トレーナーはローエングリンを観察する。ムーランドロンシャンを走り着る為にスピードよりパワーとスタミナを重視した体づくりをしたと聞いているが、それを継続したようだ。しっかり東京2000に勝てる体に仕上げている。

 何より表情が変わっている。明確な目的と決意を持ってこのレースに臨んでいる。故にツルマルボーイと同じようにデジタルの姿に動揺した素振りは無い。

 

『1番人気、シンボリクリスエス選手です』

 

──貴女が最強だと信じてますクリスエス様!

──お前ならシニア3冠狙えるぞ

 

 トレーナーはシンボリクリスエスが現れた際に宝塚記念との違いに気づく。気のせいか声援が小さい気がする。

 シンボリクリスエスにはツルマルボーイのような親しみやすさも、ローエングリンのような華やかさもない。

 その漆黒の帝王と称される立ち振る舞いには、近寄りづらさすらある。何故人気なのかと一言で言えば強さだ。強すぎると人気が出ないという例もあるが、基本的には強いウマ娘は人気を得る。

 

 宝塚記念での敗北で強さに対する信頼は揺らいだ。もし天皇賞秋に負けるようなことがあれば信頼はさらに揺らぎ、人気は低下するだろう。

 シンボリクリスエスはそんな事は関係ないとばかりに淡々とファン達に姿を見せる。その姿は宝塚記念と同じように威風堂々としていた。

 最強と称されながら格下と評価されたウマ娘や年下に負けた後の一戦、そんな状態であれば少なからず揺らぎが有るはずだ。だが揺らぎは一切ない、まさに不動だった。

 

 1番人気のシンボリクリスエスを最後にパドックは終了となる。

 各出走ウマ娘がトレーナーの元へ駆け寄る。そんな中トレーナーは逆にパドック裏に駆け寄るとデジタルを連れて係員に話しかける。

 

「アグネスデジタル選手、先出しになります」

 

 係員が各陣営にデジタルの先入れを告げる。その言葉に各陣営やパドックを見ていたファンも驚いていた。

 

 本バ場入場は基本的に番号順で入場していく。だがレース前に闘争心が抑えられずイレ込むウマ娘がいる。そういったウマ娘は暴れたりすることで、興奮が他のウマ娘に伝播しレースに支障が生じる場合がある。

 そのようなトラブルを防ぐ為に1人だけ早めに本バ入場させることで、落ち着かせ或いは周りに興奮が伝播しないようにする。それが先入れである。

 デジタルは今まで先入れで入場したことは一度もなかった。

 

 デジタルは係員に誘導されながら地下バ道に向かって行く。一見イレ込んでいるようには見えない。実はそうなのか、だがもしイレ込んでなければ意味が無い。ファン達は行動の真意を図りかねていた。

 入場前に出走ウマ娘はトレーナーと会話する時間が設けられる。時間は僅かだが、パドックで知り得た情報を元に作戦変更を伝える。出走前で緊張しているウマ娘に一言掛ける。その僅かな時間で勝敗を左右することは多い。

 だが先入れをした場合にはトレーナーと会話する時間は設けられず、即座に入場しなければならない。それは明らかにデメリットだった。

 トレーナーは心配そうに見つめる。パドックを見てデジタルの様子がおかしいことに気が付いた。もしかしたらウマ娘断ちに限界が来ているのかもしれない。

 それならば出来るだけウマ娘を感じないように先入れしたほうがいい。普通に入場してデジタルに話しかけるメリットより、先入れする方がメリットはあると判断していた。

 

「あれデジタルさんじゃないですか?」

 

 メイショウボーラーが指さす方向をプレアデスのウマ娘達は見る。

 それと同じくターフビジョンには本バ場入場するデジタルの姿が映り、スタンドの客からどよめきや止めてくれと悲痛な声が聞こえる。

 先入れする時点で心を乱しているという証拠で、先入れしたウマ娘の勝率は下がる。それを知っているファン達は不安に駆られ声を出していた。

 メイショウボーラー達は心配そうに見つめる。先入れもそうだがレース前のウォームアップの返し運動でもずっと俯きながら走っている。そんな姿は今まで見たことは無かった。

 デジタルがコースに入ってから暫くして、出走ウマ娘達が番号順に入っていく。会場のファン達はデジタルの先入れしたことを忘れるように、其々の応援しているウマ娘に声援を送った。

 各ウマ娘が入場しゲート前でウォームアップする。その中でデジタルだけはアイマスクとヘッドフォンをつけたまま佇む。

 周りのウマ娘はデジタルに意識を向けることなくウォームアップを続け、完全に空気と化していた。

 暫くしてスターターが合図を送ると、ファンファーレが演奏され客達はリズムに合わせ手拍子を送る。ファンファーレが終わると、客達は我慢が出来ないと歓声をあげた。

 

『東京11レース、天皇賞秋。グレードワン、芝コース2000メートル、芝のコンディションは良、今年は出走ウマ娘18人です』

 

 各ウマ娘が滞りなくゲート入りしていく。そして最後に大外枠のデジタルが係員に手を引かれながらゲートに入っていく。

 アイマスクとヘッドフォンと鼻栓を係員に手渡し深く息を吸い込み吐く。

 その瞬間ゲートにウマ娘達は寒気に襲われ前と同時に、前後左右から至近距離で見られるような不快感を覚え、一斉に18番ゲートに視線を送る。デジタルは異様なまでに口角をあげ笑みを零していた。

 

 デジタルはパドック終了後には我慢の限界で、衝動を詰め込んだ風船は破裂まで秒読み段階だった。

 そんな折にトレーナーが先入れの申請をする。それはデジタルにとって絶妙なタイミングでの助け船だった。ウマ娘と僅かでも離れたことでクールダウンされ衝動を我慢できる余裕が生じた。

 コースに入るとアイマスクを外す。流石に目隠ししたまま誘導が無い状態で、スタート付近までたどり着けない。返し運動ではコースの芝を荒らしてはならないと外を走る。

 外ラチ側はファン達が詰め寄りウマ娘が居るかもしれない。ヘッドフォンはしているので聴覚は封じている。あとはウマ娘を見ないようにと下を向いて走っていた。

 そしてスタート地点に着くとアイマスクを装着し再び感覚を遮断し、暫くすると出走ウマ娘達もスタート地点に着くとウォームアップをする。その一方でデジタルはウォームアップをせず立ち尽くす。

 

 辛うじて衝動が破裂するのは耐えたが依然破裂寸前なのは変わりなかった。

 破裂させることなくレースで思う存分感じる為には、ウォームアップする体力と気力も衝動を我慢するエネルギーに回さなければならなかった。

 懸命に耐えているとゲート入りが始まり順々にウマ娘達がゲート入りし、最後にデジタルがゲート入りする。そしてアイマスクとヘッドフォンと鼻栓という拘束具を外し、衝動を破裂させた。

 

 その瞬間莫大な情報が脳を叩きつけ多幸感に満たされる。意図的に前を見て視覚を遮断していた。だが無意識に出走ウマ娘達の呼吸音や匂いを感じ取ってしまう。

 無意識に感じ取ったものだけで快感が体中に駆け巡る。もしこれで意図的に感じ取り、ウマ娘の姿を見てしまったら幸せ過ぎて文字通り昇天するかもしれない。

 ウマ娘をより感じる為に、ウマ娘を断ち感覚と感情を鈍化させてまで過ごした。

 その日々は苦痛の連続だった。だが苦痛の果てにデジタルの肉体に恩恵が与えられ、その5感はかつてないほど研ぎ澄まされていた。

 人は主に視覚聴覚嗅覚で人の存在を感じる。だが今ならば大気の気流を肌で、身体から分泌され外に流れる物質を舌で、つまり触覚と味覚ですらウマ娘を感じることが可能とする。

 最早デジタルはウマ娘を感じる為に生まれた物の怪の類と化していた。

 

『さあ、各ウマ娘ゲートに収まりました。漆黒の帝王の連覇か?世界を経験した英傑か?善戦ウマ娘の悲願のGIか?勇者の復活か?それともニューヒロイン誕生か?天皇賞秋が…スタートしました』

 



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勇者と漆黒の帝王#8

「スタートしました。おっと、ツルマルボーイは遅らせたか?そして先行争いは抜群のスタートを見せたローエングリンが先頭です」

 

 スタートはローエングリンが一気に飛び出し、ツルマルボーイは追い込みのポジションを確保するために意図的にスタートを遅らせ、他のウマ娘は差がなくスタートした。

 ローエングリンが思わず内心で舌打ちをする。場内実況では抜群のスタートと評されていたが、本人にとって及第点程度の出来だった。だが実況はローエングリンが抜群のスタートをしたと勘違いしてしまう。その原因は相対的な差によるものだった。

 各ウマ娘のスタートは普段のレースと比べて遅れる。遅れた原因はアグネスデジタルだった。

 レース直前に見せたアグネスデジタルから発せられる異様な気配、その気配に気が向き或いは慄いたことでスタートに集中できず失敗していた。

 そしてローエングリンは元々のスタートセンスもあるが、他のウマ娘と比べると比較的にデジタルの影響を受けずに済んでいた。レース発走直前に発せられる異様な気配には覚えがあった。

 

 アドマイヤマックス

 

 安田記念でアドマイヤマックスがパドックに現れた際は何故か不快感と不安を掻き立てられた。その感覚とデジタルが発する気配には類似し、その時の心境は記憶に鮮明に刻まれていた。

 その経験によってデジタルが発する雰囲気に対する耐性がつき、結果的に他のウマ娘と比べ影響は少なかった。

 ローエングリンはチラリとデジタルが居る後方を見ながら安田記念の状況を思い出す。

 アドマイヤマックスは確かに異様だった。しかし此方ではなく別の何かに向けられていた。

 だが今のデジタルの雰囲気は此方に向けられている。ゲート前に感じた前後左右から至近距離で見られているような感覚は薄まるどころか濃くなっていた。

 

『いや、ゴーステディ、ゴーステディがやはりいきます。強引に先頭に立つか?』

 

 先頭に立ったローエングリンを外から猛烈な勢いでゴーステディが上がり、横に並ぶと目を血走らせながらローエングリンを睨む。

 

『いやローエングリンが譲りません。前の2人がいきます』

 

 ローエングリンはゴーステディが並んだ瞬間ペースを上げて突き放す。その様子は明らかにゴーステディを意識していた。

 2人のペースは明らかに上がる。このままいけば超ハイペースとなり、直線で力尽きるのは誰の目から見ても明らかだった。

 レースにおいて是が非でも逃げたいというウマ娘が複数いた結果、ペースが上がるということは多い。

 そういった場合は逃げるウマ娘の誰かが引いて先頭を譲る。だが2人は先頭を譲るつもりは全くなかった。

 

 ゴーステディは歯を食いしばりながらペースを上げ続ける。逃げに固執するのは勝利のために、それは占める割合としてはごく僅かだった。大半を占める理由はローエングリンに対する個人的感情だった。

 ゴーステディは生意気で礼儀知らずだった。その性格は少なからず不興を買い、ある日ローエングリンによって教育的指導を受ける。だがその様子を見た誰もがその行為を指導とは呼べないものだった。それは明確な暴力行為だった。

 その結果ゴーステディは1ヶ月レースに出られなくなり、ローエングリンも数ヶ月の謹慎処分となる。

 ゴーステディも当時は生意気で、ある程度の体育会系特有の暴力を伴った指導を受けても仕方がないと思っていた。だがローエングリンはどう考えてもやりすぎだ。

 その後は形式的に和解を果たしたがローエングリンに対する憎悪の感情はくすぶり続けていた。いつか恨みを果たすと機会を伺い天皇賞秋を迎えた。

 前々日会見、パドック、本バ場入場の様子でゴーステディは確信する。ローエングリンは自分に対して憎悪を抱いている、そしてその感情を利用した。

 ローエングリンはレースに勝つためには逃げたい。そこにハナに立とうと並びかければどうなる?

 相手は絶対に引かない。ゴーステディがペースを上げ続ければ同じくペースが上がる。その先に確実な敗北が待っていようとも。

 

 ローエングリンは先頭を走り続ける。このままペースが上がればどう考えても勝てない。それは理解している。

 だがゴーステディの顔を見た瞬間譲ってはなるものかとペースを上げてしまう。まるで前世で何かが有ったとしか思えない不可解な感情だった。

 理性では抑えなければならないと分かっていても、感情が体を突き動かしてしまう。激情に駆られ敗北に近づく、どうすることもできない自分の体に、絶望感を抱いていた。

 

『ゴーステディがローエングリンの前に行きます。先頭はゴーステディです』

 

──それじゃダメだよ

 

 ローエングリンの脳内に謎の声が響く。すると制御不能な怒りが瞬く間に収まり、即座にペースを落とし、ゴーステディを前に行かせる。

 今のはなんだったのだ?自身に起こった現象に戸惑いを覚える。だがこの現象によって敗北へと突き進んでいた道から逃れられた。即座に気持ちを切り替え、勝利に向けて最適のペースを維持する。

 

 ゴーステディはローエングリンがポジションを下げたことに動揺する。ここで引くのか、これでは共倒れさせるプランが瓦解してしまう。

 だがもう一度横に並べば、ローエングリンはムキになりペースを上げるはずだ。ゴーステディは併走しようとペースを下げる。

 

───それじゃダメだよ

 

 ゴーステディの脳内に謎の声が響く。すると抱いていたローエングリンへの憎しみが薄れていく。それと同時に湧き上がるのは勝利への渇望だった。

 生意気で礼儀知らずだった自分をトレーナーとサブトレーナーが拾ってくれ、指示を散々無視しても根気強く付き合ってくれた。

 ゴーステディは天皇賞秋を走るウマ娘の中で決して実力が上なわけではない。

 その現実に挫け、どうせ勝てないとローエングリンを道連れにする走りを選ぼうとした。

 だが今はそんな負の感情はない。確かに勝てないかもしれない、だが100回に1回だろうが、1000回に1回だろうが勝つ確率がある走りをすべきだ。

 トレーナーとサブトレーナーの為にも、後ろに下がらず先頭を走り続ける。全ては勝利のために。

 

『向こう正面入ってローエングリンの後ろ3バ身差にトーセンダンディ、カンファーベスト、テンザンセイザ、トーホウシデン、その後ろ4バ身後ろにシンボリクリスエスとアグネスデジタル、後ろ3バ身差にサンライズペガサス、イーグルカフェ、モノポライザー、ロサード、ヤマノブリザードと固まっています。そして2バ身差後ろの殿に溜めに溜めたツルマルボーイ、末脚に賭けます』

 

 第1コーナーを通過しスタートから600メートル、先頭から殿まで約13バ身差の展開、特筆すべき点がないと思われる隊列だが奇妙な点があった。シンボリクリスエスとデジタルの前後に大きなスペースが空いていた。

 シンボリクリスエスは1番人気で最も警戒すべきウマ娘だ、できる限り近くで動きを見て、相手の仕掛けより先に動く、仕掛けのタイミングで動きを封じる、囲んで進路を塞ぐ。

 それはどのレースでも当たり前に行われ、本命の近くにいなければできない。だがまるで避けるように近寄らない。

 他のウマ娘は自分のレースをすればシンボリクリスエスをマークしなくても勝てる。そういった考えがあるわけではない。

 正確に言えばマークしたくてもできなかった。それはデジタルが原因だった。

 デジタルから発する異様な雰囲気とそれに伴う不快感と寒気、それはスタートしてから弱まるどころか強まっていた。

 少しでも異様な雰囲気を感じたくない、不快感を緩和させたい。その一念から他のウマ娘達は自分のリズムを乱してでも意図的にデジタルから距離を取っていた。

 

 シンボリクリスエスはレース展開を分析する。囲まれると予想されたが、近くにいるのはデジタルだけで近くの前後左右にウマ娘はいない。

 これならば仕掛けどころで邪魔されることもなく、邪魔しようとしても後方から上がってこようが、前方から下がってこようが把握できる。  

 周りに気を割かず本来ならばプレッシャーなく気軽に走れるのだが、今までのレースで最も精神的負荷が掛かっていた。

 アグネスデジタルというウマ娘にはこれといった印象はなかった。

 実績は歴代屈指だが、宝塚記念での走りに脅威は抱かず、レース前には学園から出てトレーニングや、前々日会見やパドックでの奇妙な行動は多少驚いたが、実力という面ではツルマルボーイやローエングリンを評価していた。

 だがレース発走前に見せた異様な雰囲気、それは今までの人生で全く感じたことがない異質なものでデジタルというウマ娘の印象が一気に変わった。

 

 化物、怪物、それがデジタルに対する印象だった。

 

 シンボリクリスエスはデジタルの異様さにスタートが遅れる。

 スタートは良いポジションを取るために重要であるというトレーナーの教えに背いてしまった。焦りと動揺が過るが他のウマ娘も同様に遅れていたので、結果としてはそこまで不利を受けず、ほぼ理想通りのポジションを取れていた。

 気がつけば周りにウマ娘は居なく、デジタルの1番近くで走ることになっていた。

 出走ウマ娘全てがデジタルの雰囲気に当てられていたが、1番近くにいるシンボリクリスエスが最も影響を受けていた。

 もしこのレースが模擬レースであれば、もし藤林トレーナーと契約を結んでいなければ、他のウマ娘と同じように距離をとるどころか、走るのすら止めていただろう。それ程までにデジタルの存在は不快で恐怖だった。

 だが自分はプロ契約を結んだプロ選手だ、賃金を貰い仕事に責任を負っている以上、怖いから不快だからという個人的な理由で仕事を放棄するわけにはいかない。

 今日の仕事はトレーナーの作品として勝利すること、トレーナーからは嫌なので離れていいとは教わっていない。個人的な感情を押し込め、仕事のためにデジタルから離れず走り続ける。

 

(あ~最高!幸せすぎる!)

 

 デジタルは走りながらウマ娘を感じる幸福を噛み締めていた。ゲートを出ると、意図的に感覚を研ぎ澄まし出走ウマ娘を感じる。

 目に映る色艶やかな勝負服と肉体のコントラスト、耳に聞こえる呼吸音と芝を踏みしめる足音、鼻から匂ってくる体臭、肌で感じる走るウマ娘から発せられる空気の流れ、舌で感じるウマ娘汗などの排出物、1秒ごとに莫大な情報が押し寄せ、感じ咀嚼するたびに体中に多幸感が駆け巡る。少しでも気を緩めれば昇天しかねない。

 するとデジタルの感覚が前を走るゴーステディとローエングリンを捉え状況を把握する。

 ゴーステディとローエングリンの間にはイザコザがあって仲直りしたと聞いたが、ゴーステディは憎悪を抱き、勝敗度外視で逃げを主張しローエングリンと共倒れを狙っている。

 ローエングリンもこのままいけば負けると理解していながらも、制御不能な怒りでゴーステディと張り合ってしまう。

 ウマ娘断ちによってウマ娘を感じたいという欲求が極限まで高まり、その結果5感が極限まで高まっていた。

 常人では比べ物にならない鋭敏さで多くの情報をキャッチし、他人の心理状況や思考まで読めるようになっていた。

 デジタルが見たいのはウマ娘達が憎しみを抱くことや、不本意な結果でレースを終える姿ではない。全力を振り絞り煌く姿だ、それでなければここまで苦痛に耐え得を積んだ甲斐がない。

 

 すると願いが通じたのかローエングリンは制御不能な怒りを収めペースを落とし、ゴーステディもローエングリンに構うことなく勝利のために逃げ始めた。

 その状況を確認し思わず胸をなで下ろす。それで良い、それこそが感じたい光景だ。

 そして5感で収集した情報を元に、他のウマ娘の心境を把握する。どうやら自分に対して恐怖を抱いているようで、恐怖から逃れるために、本来の位置取りやペースを乱しても距離を取っているようだ。

 原因は5感を研ぎ澄ましているのが生理的な嫌悪となり、プレッシャーや恐怖となったことによるものだった。

 それはシンボリクリスエスも同様のようで、漆黒の帝王と称されるウマ娘であれば、どんなことにも恐れず揺るがないと思っていたが、不意に見せる弱さはギャップ萌え的で思わず心がときめく。そしてその恐怖や嫌悪に抗い、離れることなく走っているというのもグッとくる。

 だが現実問題、ウマ娘を感じようとすることで他のウマ娘に大きな迷惑をかけている。

 5感を研ぎ澄まさず普通に走れば、嫌悪感やプレッシャーを与えずに済む。だがこの日のために苦痛に耐え徳を積んできたのだ、出来る限りはウマ娘を感じたい。

 

 自分の欲求か、ウマ娘ちゃんの幸せか。デジタルは選択に迫られる。

 

 思案の結果、デジタルはウマ娘を感じることを継続する。

 ウマ娘達は弱くない。其々の夢や目指す目標のために自分が発するプレッシャーや不快感など跳ね除けてくれるに違いない。それ以前にウマ娘を感じたいのだ。この欲求は到底抑えられない。

 

『先頭のゴーステディが前半の1000メートルの標識を通過して、タイムは59秒5です』

 

 ゴーステディの刻むラップは芝の状況を加味すればやや平均より速いペースだった。だが決して無理なペースではなく、逃げるゴーステディにも充分勝機があるペースだった。

 

『先頭はゴーステディ、後ろ2バ身差にローエングリン、その後3バ身差にトーセンダンディ、カンファーベスト、テンザンセイザ、トーホウシデン、シンボリクリスエス、アグネスデジタル、中団グループが一固まりとなっていきます。そして中団グループから離れて殿にツルマルボーイです』

 

 1000メートルを通過する辺りで隊列に変化が生じる。デジタルから距離を取っていたウマ娘達が近づき始め、前のゴーステディとローエングリン、後ろのツルマルボーイ以外は一固まりの集団と呼べるほどの距離間隔になっていた。

 他のウマ娘達にはデジタルに対する恐怖心があった。異様で得体の知れないウマ娘には近づきたくないと本能が拒絶する。だが謎の声が聞こえると、恐怖心が薄らぎ始めていた。

 ある者はトレーナーの為に、ある者は家族の為に、ある者は夢やぶれた友の想いの為に、それぞれが抱く強い想いが恐怖に抗う勇気を与えて、勝利や目的の為にデジタルに近づくことを厭わなくなっていた。

 デジタルは状況の変化に対し、口角が無意識に吊り上がる。皆が勝利や大切な物のためにベストのポジションを取ろうと恐れずに近づいてくる。自分に対する恐怖は完全に拭いきれていない。それでも気高き心と勇気を持って抗っている。

 

 なんて素晴らしくて尊いのだろうか!

 

 しかしこれでもまだ前菜だ、勝負を決める直線に入れば死力を尽くし本性がさらけ出される。

 その際に発する想いや情念はさらに大きくなる。その尊さや素晴らしさは最早想像を絶する。冗談抜きで感じたことで、発生した快楽物質のオーバードーズで昇天死するかもしれない。

 それでも構わない。だから最高の姿を感じさせてくれ。己の5感をさらに研ぎ澄ます。

 

 レースは3コーナーに差し掛かるところでゴーステディがペースを上げ、2番手のローエングリンも追走する。 

 一方後方集団のウマ娘達も2人を追走しない、正確に言えばシンボリクリスエスが直線で捉えられると判断し、集団のウマ娘もシンボリクリスエスをマークしているので追随するように動かなかった。

 

『第4コーナーを曲がり直線へ!先頭はゴーステディ、その後ろにローエングリン』

 

 ゴーステディはコーナーを曲がる際に後方集団を確認する。コーナーが得意なゴーステディは曲がる際にスピードを上げ、セーフティリードをとり逃げ切りを図る。ローカルや中山ならともかく、直線の長い東京では逃げ切りは厳しい。

 勝つ可能性があるとすれば、シンボリクリスエスの仕掛けのタイミングが遅れ、マークしていたウマ娘達も同様に仕掛けのタイミングが遅れによるミスでの勝利だろう。

 後ろにいるローエングリンは問題ない。本質はマイラーで、ある程度流れた中距離のペースにはついていけないはずだ。

 完全に他力本願だが勝つにはそれしかない。人事は尽くした、後は天命を待つ。

 いや人事は完全には尽くしていない。トレーナーとサブトレーナーに教わったことを全て出し尽くし、酸欠で気絶するまで走る。それが人事を尽くすということだ。ゴーステディはトレーナー達との思い出を力に変え死力を尽くす。

 

『残り400メートル、ローエングリンがゴーステディに迫る』

 

 ローエングリンがゴーステディの横に並びかける。スタート直後のゴーステディとは違い、憎悪の目で横に居るローエングリンを見ずに、トレーナー達の為に勝つという決意を持ってゴールがある前を向いて力を振り絞る。だが決意をあざ笑うように、ローエングリンはあっさりと交わしていく。

 ゴーステディはその姿を睨みつける。自分の願いを打ち砕いた憎きウマ娘、だが目に宿る憎しみはすぐに消える。トレーナー達に恥ずかしくないレースをする。その一念で体を動かし続ける。

 

『先頭変わってローエングリン!このまま押しきれるか!?』

 

 ローエングリンはゴーステディを抜き去った喜びや達成感を感じることなく、全力に近い速度で走りながら体と対話し思考する。

 残りのエネルギー量はどれくらいか?後ろの様子はどうだ?ある程度後続をひきつけるか?それとも突き放す逃げで心を折るか?

 

 ローエングリンには明確な目標がなかった。自分の適性とトレーナーの言葉によって、消去法でレースを選んでいるに過ぎず、安田記念を走ったあとのフランス遠征もトレーナーの提案で本人の希望ではなかった。

 明確な目標がなくともレースで負けるのは嫌なので全力でレースに臨む。

 初戦のGI芝1600のジャックルマロワ賞では10着に終わったが、次のGI芝1600ムーランドロンシャン賞では2着と健闘した。そこで初めて自分の可能性と目標を持つ。

 

 もう一度同じ舞台に戻って勝ちたい。

 

 帰国後のローエングリンの行動の全てはムーランドロンシャン賞に勝つために向けられる。

 トレーナーが次走をマイルCSにしようとしたところを天皇賞秋に走りたいと意見した。ロンシャンのマイルは深い芝と高低差が大きくスタミナとパワーが求められ、日本の中距離に勝てる能力が無ければ勝てないと言われていた。

 スピードにはある程度自信がある。必要なのはスタミナとパワーだ、それから目標を天皇賞秋に絞り、勝つために必要なパワーとスタミナを鍛え上げる。

 そして天皇賞秋を選んだのはシンボリクリスエスが出走するからという理由があった。

 宝塚記念で負けたはしたものの、現時点で中距離最強であると評価していた。そのシンボリクリスエスに日本で最も評価される東京レース場のレースで勝てば、日本の代表として堂々と乗り込めるからだ。

 

 さらにローエングリンには今日のレースが発走してからもう一つ勝ちたい理由が出来ていた。

 今年に走った安田記念は完全な敗北だった。着差も2着と3バ身差と数字の上でも完敗と言える着差だったが問題は内容だった。

 直線に入り抜け出したアドマイヤマックスに完全に呑まれていた。その目には狂気を宿し、自分だけの世界を構築する。

 その世界に一歩も踏み入れることはできず心が挫けた。その強さは世界の強豪でも持ち合わせていなかった異質で強大なものだった。

 その異質な強さを持ったアドマイヤマックスを退け1着になったのはデジタルだった。誰もが立ち入れなかったアドマイヤマックスの世界に踏み入り打ち破る。

 そして今日のデジタルからは安田記念のアドマイヤマックスと似た雰囲気を感じていた。

 恐らくあの時のアドマイヤマックスと同じように自分の世界を構築して迫ってくる。

 以前はその世界に踏み込めず呑まれ心が挫けた。だがフランス遠征で鍛えた心で、デジタルの世界に呑まれることなく打ち破り勝つ。今日は安田記念のリベンジでもあった

 

『残り400メートル、ローエングリンがその差を3バ身、4バ身差と広げていく!』

 

 シンボリクリスエスは直線に入り周りに囲まれながら機を窺う。

 周りのウマ娘達もじっと足を溜めている。東京の長い直線ならまだ仕掛けなくても捉えられるという自信、ローエングリンはマイラーで、この仕掛けでは最後の足が鈍るという計算、それも確かにあるが主な理由はシンボリクリスエスの末脚だった。

 前のローエングリンを捉えてそのまま押し切る。そんな王道な走りは1番人気がやる仕事だ。

 ここは徹底的に足を貯め、シンボリクリスエスを後ろから差し切るぐらいの思いっきりの良さが無ければ勝てない。世間の評価は以前と比べ下がっているが、最も強強い敵であるというのが出走ウマ娘達の認識だった。

 

 囲まれて抜け出せず足を余らせて負ける。

 

 それは1番人気のウマ娘が最も避けたい負け方だ、全力を出せず悔いを残すどころか、世間からも不評を買う。それを避けるために1番人気のウマ娘は多少距離をロスしてでも、囲まれないように外を回す。

 シンボリクリスエスは外を回すことはなく集団に潜む。

 大概のウマ娘は脚を余して負ける不安と恐怖に多かれ少なかれ心を乱し、それは消耗につながる。しかし不安も恐怖も抱かない。

 それは自分というトレーナーの作品にノイズを入れることになるからだ、真っ新なキャンパスの状態を維持し、トレーナーの教えという絵を描かれる。それが今の仕事だ。

 トレーナーはレース前にシンボリクリスエスにこう伝えた。今日のレースは外を回す必要はない。

 宝塚記念の敗北で出走ウマ娘達は心の底からシンボリクリスエスの強さを信用していない。

 テイエムオペラオーのように勝ち続ければマークはより厳しくなり、マークの意識が勝敗を上回ることがある。

 この先のレースに勝ち続ければそうなるだろう。だが今はその段階に達していない。故にマークの綻びが生まれる。

 シンボリクリスエスの前にいたトーセンダンディがスパートをかける。

 このウマ娘は差しだがどちらかといえば、キレる脚より長く良い足が使えるタイプに分類される。シンボリクリスエスの末脚を凌ぐためには、早めにスパートをかけなければならない。そして仕掛けるときに若干左に寄れる癖がある。

 右隣に居るイーグルカフェ、彼女はトーセンダンディに比べ長く良い足は使えないがキレる脚が使える。

 シンボリクリスエスをマークするならばトーセンダンディと同じタイミングで仕掛け、抜け出せないようにスペースを埋めなければならない。

 だが勝つためには今ではなく、仕掛けるタイミングを遅らせなければ足が鈍ってしまう。

 

 ウマ娘は規格統一された機械ではない。性格や体の特徴など誰ひとりして同じではなく、勝利への過程も違いが出る。

 マークするには勝負を捨てるほどの決意でしなければならない。ウマ娘が勝利を望むのは本能のようなものだ、中途半端な気持ちではマークより勝利を優先し、そこから綻びが生まれる。

 他のウマ娘の心境、トーセンダンディの特徴と癖、イーグルカフェの癖、これは全てトレーナーに教えてもらった。

 謂わばトレーナーの絵だ、後は誤差なくキャンバスとして描かれるのみ、シンボリクリスエスは前にできたスペースに完璧なタイミングで抜け出しマークを振り切る。

 オペラオーやデジタルも同じように囲まれた際は、周りのウマ娘に思念を送り動いた錯覚させ道を作った。だがそれは特別な才能を持ったウマ娘だけだ。

 今の一連の動作は違う。スペースを見つけるのも抜け出す瞬発力もトレーナーのメニュー通りトレーニングし、トレーナーの分析を覚え実行する。普通の努力をすれば誰でも出来ると当人は思っていた。

 シンボリクリスエスの目の前に見えるのは、誰もいないゴールまでの道筋だった。

 

「シンボリクリスエスがバ場の真ん中を物凄い脚で突き進む!先頭のローエングリンとの差をみるみる内に詰めていく」

 

 ローエングリンの耳は後ろから猛追するのはデジタルではないと察知する。

 デジタルなら構築する世界をある程度離れても感じられるだろう。安田記念のアドマイヤマックスの時のようなおぞましさも凄みもない。実力的にはシンボリクリスエスだ。

 このレースでは突き放しリードを作り心を挫く逃げではなく、ある程度足を貯め一旦追いつかせてから突き放す逃げを選択していた。

 追いつかれるのは想定内だ。だが来ているのはデジタルではない、ここは後ろから来るであろうデジタルに備えてもう少し脚を溜めるべきか、それともシンボリクリスエスに標的を絞り、力を発揮すべきか?

 体のエネルギー残量がゼロになるように力を使い果たす。

 それが最もタイムが速くなる仕掛けで、タイムアタックならベストだ、だがレースはタイムアタックではなく対人戦の側面も持つ。例えベストのタイミングの仕掛けでなくとも、心を挫き相手の力を出させないのが最良な場合もある。

 シンボリクリスエスに標的を絞れば、専用の仕掛けで先着できる可能性が増える。だがデジタルが後ろから来れば差し切られる。

 そしてデジタル用の仕掛けにすればシンボリクリスエスに差される可能性が増える。どっちを優先すべきか、ローエングリンは選択に迫られていた。

 

『残り200メートル、差の縮まりが鈍くなる。シンボリクリスエスの脚が上がってしまったか?』

 

 ローエングリンは標的をシンボリクリスエスに絞る。直線に入って差の縮まりが鈍くなれば、焦りや不安が僅かに過る。ほんの僅かでいい、それが足を鈍らせ勝利に繋がる。

 200メートル時点でシンボリクリスエスとの差は3バ身、ローエングリンは想定以上に力を使っていた。このままでは力を使い果たし、最後は差されるとレースが開始する前は思っただろう。

 だが今はそうではない、中距離用の体に作り替えたおかげか、明確な目標を持ったことで精神的に強くなったせいか、理由は分からないが充分に力は残っている。これなら勝てる!

 ローエングリンには明確な勝利のビジョンが描けていた。

 

 シンボリクリスエスに僅かに揺らぎが芽生える。引き付ける逃げをしたのは分かっている。ある程度伸びるのは想定済みで交わせるのは残り150メートル前後だと予測していたが、この差は予想外だった。

 落ち着け、トレーナーから教わったことを出せればこのレースは勝てる。動揺を押し込めてトレーナーの作品としての実力を発揮することを務める。

 

 いつもと同じように腕を振り足を動かし呼吸する。だがいつも以上にスピードが出ていた。

 トレーナーの作品として、どれぐらいの力を出せばどれぐらいスピードが出るかは誰よりも把握していた。理屈に合わない。今起こっている現象に戸惑いながらも力を振り絞る。

 

『残り100メートルでシンボリクリスエスがローエングリンに並んだ!』

 

 1流のウマ娘は時に理屈に合わない力を発揮する。それは思いの強さが起因するもので、負けたくない。勝ちたい。チームの為に、自分の為に、想いは様々だ。そしてシンボリクリスエスも思いの強さによる力を発揮していた。

 勝ちへの執念が特段にあるわけではない、セイシンフブキのようにダートの為に、ヒガシノコウテイのように地方の為に、サキーのようにウマ娘と関係者の幸福のためにというような、特別な想いがあるわけではない。あるのは責任感だった。

 

 シンボリクリスエスはトレーナーと契約を結び賃金を得ている。他のウマ娘とは違う現役選手で唯一の労働者だった。

 契約内容はトレーナーを日本一のトレーナーにすること、そして日本一のトレーナーにするためには特別な力を有せず、誰もがトレーナーの手によって育てられれば同じ走りが出来るような、トレーナーの作品としてレースに勝つことが必要だと判断した。

 プロとは賃金を得ること、そして賃金をもらえば責任が生じる。プロとして作品として勝たなければならない。その責任感が皮肉にも他の1流ウマ娘が持つ想いによる理屈に合わない力を発揮していた。

 

『そしてシンボリクリスエスが交わした!シンボリクリスエス先頭!このまま秋の盾2連覇か!?』

 

 残り80メートルでシンボリクリスエスがローエングリンを交わす。

 やはり漆黒の帝王は強かった。その光景に観客から歓声が上がる。歓声はシンボリクリスエスがローエングリンを交わしたことによるものだけではなかった。

 

『いや外からすごい勢いでやってくるウマ娘が居るぞ?これはツルマルボーイだ!ツルマルボーイが物凄い勢いでやってくる!』

 

 残り50メートルでツルマルボーイがローエングリンを交わし、シンボリクリスエスとの差を1バ身まで詰める。

 ツルマルボーイは直線では最後尾の18番手だった。そこから直線約500メートルの間に16人のウマ娘を抜き去った。

 道中のペースもハイペースではなく、東京の長い直線に備え各ウマ娘達も足を貯めていた。それでもなおツルマルボーイの末脚に比べれば止まって見えてしまう程だった。

 

 ツルマルボーイは歯を食いしばりながら懸命に走り続ける。宝塚記念までは主役になりたいと思っていた。だが今はそんな気持ちは欠片もなかった。

 

 宝塚記念の後に自分は主役になれないと悟ってしまう。主役とは話題の中心、そして話題の中心になるにはある程度長期間活躍しなければならない。その為に必要な実力も運も持っていなかった。

 主役になるという夢を諦めたと同時に、ある想いがそれ以上に膨れ上がっていた。それはGIに勝ちたいという思いだった。

 地味でもいい、誰の記憶に留まらなくてもいい、そんなものはくれてやる。その代わりGIウイナーという確かな証が何よりも欲しい。

 ツルマルボーイは自己分析を開始する。自分は足りないウマ娘だ、そんな自分が勝つためにはより極端に割り切る必要がある。それに気づいたのは宝塚記念で極端なまでに足を貯めたレース運びをしたのが切っ掛けだった。

 スタートから直線まで徹底的に殿の位置を維持し続けた。仮に誰かが殿を狙おうとすれば、それ以上にペースを下げる覚悟でいた。

 道中のポジション取りや駆け引きは一切捨てる。感覚的には2000メートルのレースではなく、約500メートルの直線だけを走るスプリント戦だった。

 直線に入り末脚を爆発させようと足に力を込める瞬間、ツルマルボーイに幸福が訪れる。

 予定では大外を回して走るつもりだったが、前のウマ娘が接触したことで目の前の進路が完全に空いていた。この進路を通れば、大外を回すより大幅に距離ロスを防げる。

 宝塚記念までのツルマルボーイなら、主役は運に頼らないと思いながらも勝利への欲求に従い、負い目を感じながらその進路を通るだろう。

 だが今欲しいのは主役の座ではなく、GIウイナーという結果のみ、そこに負い目は一切ない。

 負い目は足を鈍らせる。それをぬぐい去ったこの瞬間は今まで最も速い。

 ツルマルボーイは末脚を発揮しながら妙な感覚を覚える。いつもより体が軽い、脚が動く、苦しくない。まるで自分の体ではないようだ。もしくは誰かから力を貰っているようだ。

 昔なら他人から力を貰うことに、主役を目指すものがそれでいいだろうかと、しこりを抱くだろう。だが今はどうでもいい、何もかも使ってGIを勝利する。唯それだけを考えていた。

 

 残り40メートル、ツルマルボーイとシンボリクリスエスとの差は半バ身差まえ詰め寄る。脚色はツルマルボーイが勝っている。

 この勢いなら差し切れる。ツルマルボーイの脳内で勝利の光景が鮮明に浮かび上がる。

 その時シンボリクリスエスの横顔が見える。追い込まれ、その表情は焦燥の色に染まっているはずだった。だがその表情に映るのは焦燥ではなく不満だった。

 不満といっても追い詰められている事への不満ではない、もっと別のことに対する不満だった。

 そして横顔の距離が縮まらない。加速したのか、自分の脚が鈍ったのか分からない。

 だが確実に分かるのは、もう追いつけないという事実、ツルマルボーイの心は挫かれていた。

 

『シンボリクリスエス!シンボリクリスエスだ!漆黒の帝王は強かった!史上初の天皇賞秋2連覇達成!中距離の主役はやはりこのウマ娘だった!そしてタイムは1分57秒9!東京2000メートルのコースレコードです!』

 

 シンボリクリスエスがツルマルボーイに1バ身差をつけての1着、秋の盾を巡っての激闘は漆黒の帝王に軍配が上がった。

 ターフビジョンにズームアップされたシンボリクリスエスの姿が映る。

 1着になったとしても喜びを爆発させるウマ娘ではない、だが宝塚記念の敗北を経ての史上初天皇賞秋連覇だ、少しぐらいは喜んでいるかもしれない。

 僅かに笑みをこぼす姿が見られると、ファンたちは期待する。だがターフビジョンに映るのは、不満げな顔を浮かべる表情だった。

 

「どうした?レース内容が不満だったか?」

 

 藤林トレーナーは裁決室に戻ったシンボリクリスエスを労いながら問いかける。

 プロ意識の高いウマ娘だ、1着でも内容が悪ければ満足しない。そして内容とはトレーナーの作品としての走りを見せたか否かだ。

 藤林トレーナーから見ても自分の想定通りことが運び、今まで教えた通りに走りをしていたように見えていた。それだけにここまで不満を顕にするのは意外だった。

 

「スタートは失敗しましたが、道中も直線もトレーナーの作品として上手く走れました。手前味噌ですが、今まで最高の出来でした。けれど最後の50メートルで台無しにされた」

 

 シンボリクリスエスは拳を握り締め怒りを露にする。ラスト50メートル、不可解な力が沸き、その力がラストのツルマルボーイの末脚を凌ぐ一踏ん張りを生んだ。その力が無ければ、勝ちはしたが写真判定にもつれ込む接戦になっただろう。

 途中まではトレーナーの作品として最高の走りが出来ていた。だが最後の最後で台無しにされた。

 それは仕上げの段階で、トレーナー以外の何者かが一筆加えたようなものだ。

 仮に今日のレースが評価されても嬉しくもなんともない。評価されるのはトレーナーの作品であるべきで合作ではない。

 

「こんなはずじゃない!」

 

 裁決室に大声が響き渡る。その大声に出走ウマ娘と関係者は一度に視線を送る。声の主はデジタルで呼吸が乱れ目が泳ぎ顔面蒼白だった。

 

「今日は朝ごはんのシリアルを少し食べ過ぎた!小魚の骨が歯の間に刺さったのが気になった!蹄鉄が外れかけてた!芝のギャップに足が取られた!キックバックの芝が手にあたって痛かった!」

 

 デジタルはトレーナーにすがりつき今日のレースの言い訳を並べていく。道具のせい、環境のせい、人のせい、負けたのが納得できなのか知らないが、よくもまあベラベラと、メイクデビューで走ったウマ娘でもこうも言い訳をしない。これがGI6勝の姿か、あまりに惨め無様で情けない。

 シンボリクリスエスは苛立ちのせいもあって軽蔑の目線を向ける。そして何気なくホワイトボードに掲載される全着順を確認する。

 

 アグネスデジタルは18着、最下位だった。

 

 

 

天皇賞秋 東京レース場 GI芝 良 2000メートル

 

 

 

着順 番号     名前        タイム    着差    人気

 

1   11   シンボリクリスエス  1:57.9 R         1       

 

  

 

2   7   ツルマルボーイ     1:58.0    1    3  

 

 

 

3   5   ローエングリン     1:58.4    2    2

 

  

 

4   14   テンザンセイザ    1:58.7    2    10

 

 

5   13   ゴーステディ     1:58.9    1    15

 

 

 

18   18   アグネスデジタル   2:00.4    3.1/2   4



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勇者の疑惑#1

『さあ、レースがスタートしました』

 

 トレーナーは関係者席からアグネスデジタルの様子を見つめる。

 チームのウマ娘のレースを見る際はターフビジョンで全体の様子を見ながら、コースを走るチームのウマ娘の様子を交互に見る。

 彼女達がレースを走る目的は勝利だ、そうなるとトレーナーも勝敗が気になり、自然に先頭のウマ娘や直線で伸びてきているウマ娘に注意が向けられる。

 そしてデジタルがレースを走る目的は勝利ではなく、いかにウマ娘を感じられるかである。

 デジタルがウマ娘を感じているか否か、それを判別するには顔を見ればいい、トレーナーは双眼鏡でデジタルだけを見ていた。

 レースが始まりデジタルは第3コーナーを曲がる。スタートから顔はずっと幸せそうな顔をしていた。ウマ娘断ちの効果で多幸感が増えているのか、今まで最も幸せそうだと言っても過言ではなかった。

 

『集団のウマ娘も直線に入った』

 

 後方のウマ娘達も第4コーナーを曲がり直線に入る。デジタル曰く直線に入るとウマ娘の想いや感情がさらに大きくなる。それを感じることこそがレースの醍醐味と口にしていた。

 残り400メートル、まだ足を貯めているのか表情に全力疾走による苦しさは見られず、恍惚の表情を浮かべている。

 

 残り300メートル、流石にもうスパートをかけなければ先頭を走るウマ娘に近づけない、トレーナーの考えと同じようにスパートをかけたのか、表情に苦しみの色が含まれる。

 

 残り200メートル、デジタルの表情は苦しみの他に焦り、困惑、絶望などのネガティブな感情の色が加わる。途中まで見せていた恍惚の表情は瞬く間に消えていた。

 

 残り100メートル、その表情の色は益々深まっていく。

 

 ゴール板を通過する。減速し始めた時には、この世の終わりを迎えた時のような表情を浮かべていた。

 

「黒坂君、デジタルは何着だった?」

 

 トレーナーは隣で見ていたサブトレーナーの黒坂に尋ねる。デジタルだけを見ていたので、どのウマ娘が1着になり、デジタルが何着でゴールしたのか分からなかった。

 だが表情を見れば着順が良くないのは分かった。

 

「最下位です」

「ドべやと!?」

 

 トレーナーは思わず聞き返す。着順は良くないと思っていが最下位だとは全く予想していなかった。

 前2走の成績が芳しくなかった。だがウマ娘断ちを経てメンタルは仕上がり、ウマ娘を感じたいという欲でどんなウマ娘にも食らいつけると信じていた。それだけにその結果はショッキングだった。

 

「黒坂君、急いでデジタルを迎えに行こう」

「分かりました」

 

 トレーナーと黒坂は急いで関係者スペースを飛び出し、地下の裁決室に向かった。

 

「正直レースの結果を信じられません。アグネスデジタルは故障でしょうか?」

 

 エレベーターに乗りながら黒坂は不安げな声でトレーナーに尋ねる。

 どんなに強いウマ娘でも負けるときは負ける。だが問題なのは負け方だ、最下位で終わるとは全く予想していなかった。デジタル程のウマ娘があれほどの大敗を喫するとしたら、故障としか考えられない。

 

「故障はしていない、それは確実や」

 

 トレーナーは断言する。デジタルの表情に苦痛に耐えている様子はなかった。その言葉に黒坂は驚愕の表情を浮かべていた。

 

「でしたら、なんであの着順なのですか?」

「俺にも分からん!ただデジタルに何かが起こった。それを確かめに行くんや」

 

 トレーナーの無意識に語気が荒くなる。デジタルは自分の予想を尽く超えていくウマ娘だが、今回は悪い意味で予想を飛び越えた。

 早急に原因を解明しなければならない。裁決室に向かう足取りは無意識に早まっていた。

 

 トレーナー達は息を乱しながら裁決室に入りデジタルを待つ。すると窓の外から地下バ道を歩くデジタルの姿が見える。

 顔を俯かせ足取り重く歩いている。その姿はこの世の不幸を全て背負い込んでいるような重苦しさで、その陰気さは離れているトレーナーたちにも届くほどだった。

 

「デジタル大丈夫か!?」

 

 トレーナー達は思わず飛び出し駆け寄る。デジタルもトレーナー達に気づいたのか顔を上げる。

 その表情は不安と困惑が綯交ぜになりあまりにも弱々しく、こんな表情は今まで見たことがなかった。

 するとデジタルはトレーナー達の存在に気づき、視線を向け駆け寄る。

 

「今日は朝ごはんのシリアルを少し食べ過ぎた!小魚の骨が歯の間に刺さったのが気になった!蹄鉄が外れかけてた!芝のギャップに足が取られた!キックバックの芝が手に当たって痛かった!」

 

 デジタルはトレーナーに駆け寄ると、縋りつきながら敗因を語る。その表情はひどく動揺していた。

 

「こんなはずはない!次走ったらこうはならない!信じてよ!」

「ああ、信じとる」

 

 トレーナーはデジタルの肩に手を置きながら慰めの言葉を掛ける。だが内心ではその様子に戸惑いを覚えていた。

 レース中に蹄鉄が外れてしまう。前のウマ娘によって剥がされた芝のギャップに脚を取られてしまう。それらは明確な敗因になることはある。だがレースを見ている限りそんな様子はなかった。

 何故そんなウソをつく?何よりテイエムオペラオー等のウマ娘と触れ合い、このような言い訳は決して言わず潔く結果を受け止めるはずだ。

 

 会場がシンボリクリスエスの強さと天皇賞秋連覇の偉業を目撃した興奮で声を上げるなか、メイショウボーラー達は呆然とコースに居るデジタルを見下ろす。直線に入りズルズルと引き離されていき、最下位でゴール板を通過した。

 デジタルは大切な仲間でもあり、チームの誇りでもあった。自分たちの理解を超えた行動をし、常識はずれの力を発揮しレースを勝利していく。

 強いウマ娘は様々居るが、チームプレアデスのメンバーにとって、デジタルこそ強さの象徴だった。その強さの象徴が無残に破れた。

 

「こんなことがあるわけがない……きっと故障です。何かあったに違いありません。様子を見に行きましょう!」

「そうだな、レースも終わったしウマ娘断ちも解禁だろうし、行こう行こう」

 

 メイショウボーラーの呼びかけに、チームメイト達も応じ、ファン達をかき分けてデジタルの元に向かう。

 怪我したから負けた。それが起こった出来事を説明するのに最も整合性がある仮説だった。寧ろそうあって欲しいと祈ってすらいた。

 

「今日は朝ごはんのシリアルを少し食べ過ぎた!小魚の骨が歯の間に刺さったのが気になった!蹄鉄が外れかけてた!芝のギャップに足が取られた!キックバックの芝が手にあたって痛かった!」

 

 チームメイト達が見たのは酷く狼狽するデジタルの姿だった。

 レースとは思い通りいかないものだ、レース前の調整が上手くいかないことや、レース中でも様々なアクシデントが起きる。全て思い通りレースを走れたウマ娘はほんの一握りだろう。

 気持ちは分かる。だが人前で負けの言い訳を喋り続ける姿は酷く情けなく見るに堪えない。チームメイト達の誰もが来た道を戻っていた。

 

──

 

「お疲れ様です」

「お疲れ、それより昨日のJBCクラシック見た?アドマイヤドンちゃん強かったね。これでJBC3勝目!同一GI3勝目は史上初の快挙だよ!アドマイヤドンちゃんも意識してたのか並々ならぬ執念を感じたよ!小さい体に秘める大きな負けん気、まさに小さな巨人だね!あとはアジュディミツオーちゃんも惜しかった!ダートウマ娘のプライドと地方のウマ娘としてのプライドを胸に秘め砂の首領に挑む。エモいです!あとナイキアディライトちゃんがアジュディミツオーちゃんに抜かれる時に『頼んだぞアジュディミツオー』って声をかけたんだって!地方の後輩に抜かれた悔しさを押し込めて、地方の威信をかけてアドマイヤドンちゃんに挑む後輩にエールを送る!最高にエモいです!ごちそうさまです!」

「どうどう、後で聞きますから。しかしレースを見てますけど、ウマ娘断ちはもういいんですか?」

「あれはもう終わり、これからはウマ娘断ちで見られなかったレース映像やツイッターやインスタの過去ログやチャンネルの動画とか見ないと。忙しくなるぞ~」

「ほどほどにしておいてくださいよ」

 

 デジタルはチームの控え室に入るとチームメイトに気分良く話しかける。その様子を見てチームメイト達の空気が緩み、控え室の雰囲気は和やかなものになるが、メイショウボーラーはその様子をじっと見つめていた。

 デジタルが来る前チームメイトたちはよそよそしかった。天皇賞秋で取り乱す様子を目撃してしまう。それは仲間の恥部を見てしまったようで、罪悪感と気まずさが芽生えていた。

 そしてデジタルが現れるとまるで何事もなかったように話しかける。

 自分が喚く姿を見られたのを知っているのか、それとも知っているのに気づいていないふりをしているのか、それは分からないが、その様子を見てチームメイト達は見なかったことにした。それでいつも通りの関係に戻れる。

 だがメイショウボーラーは見なかったことに出来なかった。チームプレアデスに入った理由はデジタルがチームに居たからだった。

 芝とダートの垣根を軽々と越えて、中央から地方に移籍してでもダートプライドに出走し勝利する。その姿に憧れていた。

 天皇賞秋でデジタルは敗北した。敗れたことはショックだが、勝ち続けられるウマ娘は歴史上でもひと握りで、そういうこともあると辛うじて受け止められる。だがその後がいけなかった。

 負けたことを認めず喚き散らし敗因を他に擦り付け、決して自分のせいにはしない。

 それは競技者として醜い姿だった。忘れられることなら今すぐにでも忘れたい。だがあの醜態が脳内にこびりついて離れなかった。

 

──

 

「じゃあ、また明日」

「また明日」

 

 デジタルはチームメイト達と別れてトレーナー室に向かう。今日はトレーナーの勉強の前に天皇賞秋の反省会と今後のローテーションについての話し合いがある。

 勉強も反省会も気乗りがしない。今すぐにでもボイコットして部屋に帰り、枯渇していたウマ娘分を補給したい。

 だが反省会はともかく、勉強は将来トレーナーになるために必要なことだ、今勉強をする習慣をつけなければ将来はもっと苦労する。渋々とトレーナー室に向かう。

 

「来たよ」

 

 デジタルは扉を開けてトレーナー室に入る。そこにはトレーナーとサブトレーナーの黒坂が居た。

 トレーナーは居るのは当然だが、黒坂が居るのは意外だった。2人とも神妙な表情をしている。早く終わらせて勉強を始めたいと思いながらソファーに座り、2人と向き合った。

 

「じゃあ、天皇賞秋の反省会を始めよか、まずはレース当時の心境や起こった事を話してくれ」

「分かった。まずはスタートしてウマ娘ちゃん達の姿や息遣いや匂いとかをキャッチした。あれは情報の洪水だったね。でもウマ娘ちゃん分に飢えていたから全部いただきました。いや~あれはよかった。それで……」

 

 デジタルはレース中の出来事を喜々として語る。5感が極限までに鋭敏になり、出走ウマ娘の心理や感情が漠然と理解できた。

 皆が不安や恐怖を抱えながらも、其々が持つ夢や願いの為に克服する様子は煌めいていて、まさに理想の光景だった。

 

「それで直線に入って、どうなった?」

 

 トレーナーの一言にデジタルの顔色が露骨に変化する。苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながら渋々と語り始める。

 

「分かんないよ。アタシだってウマ娘ちゃんを感じようと全力で走った。それでもズルズルと引き離されていった。せっかくウマ娘断ちまでしてレースを走ったのに、1番良いところを感じられなかったら意味ないよ」

 

 デジタルは唇を噛み締める。全力を出しているのに置いてかれた。

 ウマ娘を感じようにも物理的に距離は離され、近づこうともがいた結果ウマ娘を感じる余裕がなくなり、あれだけ鋭敏だった5感から得る情報は薄れ、思考や情念が感じられなくなっていた。

 天皇賞秋はこれまでの苦労とレースで得た幸福感がまるで釣り合わず、徒労と言っても差し支えないほどだった。

 

「トレーナー、アグネスデジタルの大敗の原因について幾つか仮説があります」

 

 デジタルの言葉を聞いていた黒坂が徐に手を挙げる。トレーナーが発言を促すと、自分の思考を纏めるようにゆっくりと喋り始める。

 

「今回はアグネスデジタルのウマ娘への執着を高めることで走力を上げようとウマ娘断ちを実施しました。その結果、ウマ娘への執着が極限までに高まり、5感が研ぎ澄まされました。その研ぎ澄まされた5感は相手の思考や心理状況まで読めるようになりました」

 

 黒坂はデジタルに視線を向け今言ったことが事実か確認するように喋る。

 5感で得た情報で相手の思考や心理状況を理解する。俄かに信じがたいが、もし可能だとしたらレースにおいて強力な武器となる。デジタルは事実だと伝えるように軽く頷く。

 

「ですが、アグネスデジタルは道中ではウマ娘を感じられたことへの幸福感で興奮状態、つまり掛かりっぱなしの状態だったのではないでしょうか?」

 

 一般的にウマ娘が掛かる要因としては周りに囲まれるストレスや、ペースの遅さへのフラストレーション等が挙げられる。

 掛かったウマ娘は落ち着くまで暴走気味にスピードを上げてしまい、その結果エネルギーを消費してしまい、レースを走りきる体力を残せなくなる。

 デジタルはレース中では暴走した素振りは見られなかった。だが先ほど語った心境は興奮状態の一種で、掛かっていたとも捉えることもできる。

 仮に掛かっていたとすればスタートから直線までの約1500メートルを掛かった状態でいたことになる。そうであればデジタルほどの実力があるウマ娘でも大敗して当然、寧ろあの程度の負け方ですんだことが驚きだ。

 黒坂は2人の様子を窺う。トレーナーは組んでいた腕がピクリと動き、デジタルは当時の状況を振り返っているのか顎に手を当て考え込んでいた。

 

「次にトレーナーはウマ娘を絶つことでアグネスデジタルの精神的強さを強化するのが目的だったと思います。確かにウマ娘への執着が増し、精神的強さが強化されたと思います。ですがウマ娘断ちの影響でトレセン学園を離れ、充分な環境でトレーニングができませんでした。その結果フィジカルが落ちてしまった。それも敗因の1つだと思います」

 

 黒坂はトレーナーをチラリと見る。いくらデジタルが精神力で常識はずれの力を発揮しても限度がある。レースで速く走るためには肉体の力が最も重要だ、肉体をある程度鍛えて、そこに精神力を上乗せする必要がある。トレーナーはデジタルの精神力を過信しすぎた。

 そして黒坂の言葉はトレーナー批判と捉えることもできる。だがトレーナーを批判する意図はなく、意見に反対しなかった時点で、自らにも責任があると考えていた。

 

「今回は失敗しましたが、感覚の鋭敏になることで他のウマ娘の思考や心理状況が読めるなど、アグネスデジタルがさらに成長できる可能性は発見できました。今後は肉体と精神のバランスをとりながら、長所である精神面を伸ばせれば、次のレースでは巻き返しが期待できると思います」

 

 黒坂は緊張しながらトレーナーに視線を向けて反応を見る。まるで学生時代のレポート発表後に教授の言葉を待っている時の心境だ、トレーナーが仮説にどう返すか不安を感じていた。

 

「黒坂君の今言った要因がデジタル大敗の原因やと考えとるんやな?」

「はい。トレーナーは他の要因があると考えているのですか?」

「ああ」

 

 黒坂の問いにトレーナーは頷く。トレーニングの質の低下と道中掛かってしまった事が敗因、黒坂はこの仮説にはかなりの自信があった。

 だがトレーナーは他の要因があるというような素振りを見せる。答えは何なのか全く思いつかなった。

 

「それは何ですか」

「答えはいたって単純、それは……」

「黒坂ちゃんが言った通りに決まってるでしょ」

 

 デジタルがトレーナーの言葉を遮る。その声色は低く警戒心や敵対心が見えていた

 

「敗因はトレーニングの質の低下と心のバランス調整ミス、それで決まり。ウマ娘断ちは良いアイディアだと思ったけど失敗だった。この失敗を次に生かそう」

 

 デジタルは自己完結するように一方的に捲し立てる。第一声とは異なり声色は明るいが自分の言葉が結論であり、反論を一切許さないという意志が込められていた。

 

「それはちゃう。お前が負けたのは……」

「だから黒坂ちゃんが言った通りって言ってるでしょ!」

 

 デジタルは目の前にあるテーブルに手を叩きつけ勢いよく立ち上がる。テーブルは衝撃によりヒビが入っていた。

 その行動と音に黒坂は体をビクリと震わせ、トレーナーは全く動じることなくデジタルに視線を向ける。一方デジタルはこれ以上なく目を見開き、トレーナーを睨みつける。

 

「まあ白ちゃんの気持ちは分かるよ。アタシが主導だけど結果的に間違ったトレーニングさせちゃったんだからね。でもアタシは責めないから」

 

 デジタルは取り繕うように笑顔を作り親し気にトレーナーの肩に手を乗せる。一方トレーナーの表情はデジタルの笑顔に釣られることなく真顔だった。

 

「アタシがそうだって言ってるのに納得しないみたいだね。白ちゃんは敗因が別にあると考えていると、だったら証拠を見せてよ。仮説じゃ納得しないよ。明確な証拠を見せて」

 

 デジタルはさっさと証拠を出せとトレーナーの目の前に手を出す。表情は笑顔から徐々に険しくなり敵対心を現しにしていく。

 

「現時点では明確な証拠はない」

「なにそれ?そんなんでいちゃもんつけたの」

 

 デジタルは軽蔑の感情を示すように鼻で笑った。

 

「白ちゃんにはガッカリだよ。黒坂ちゃんに自分の失敗を指摘され認められないからって、有るはずもない敗因をチラつかせて、証拠を出せと言われれば黙る」

 

 デジタルは叱責するように語り掛ける。トレーナーは俯くことなく、自分が間違っていないと主張するようにデジタルの目を見据える。その態度が気に入らなかったのか、目を見開き語気を強めていく。

 

「天皇賞秋は徒労だったよ。味わった苦労と得た幸せの量が割に合わない。ハッキリ言うけど、止めなかった白ちゃんには相当怒ってるんだよ。何で止めてくれなかったのって?それでも自分の否を認めれば水に流すって決めてたんだよ、けど何その態度?一向に反省の態度を示さないで」

 

 黒坂はデジタルの様子を冷ややかな目で見つめる。確かに止めるべきだったかもしれない。

 だがいくら経験が乏しい子供が決めたといえど、選択には多少の責任を持たなければならない。今のデジタルは失敗を全てトレーナーのせいにして責任転嫁していた。

 

「それだからいつまで経っても中堅程度なんだよ。将来は絶対に白ちゃんみたいなトレーナーにはなりたくないな」

「アグネスデジタル、気持ちは分かりますがそれ以上は」

 

 黒坂は立ち上がってデジタルを制する。流石にサブトレーナーとしてトレーナーへの批判は見過ごせなかった。するとデジタルは黒坂に視線を向けると不機嫌さを露わにしていた表情が一変し、笑顔を浮かべながら話しかける。

 

「よし決めた。これからは黒坂ちゃんの指導を受けることにしよう。これ以上ウマ娘ちゃんを感じる機会を潰されたら溜まったもんじゃないよ。これからはアタシのトレーナーは黒坂ちゃんだから」

 

 黒坂は思わぬ急展開に判断を求めるようにトレーナーに視線を送る。チームの責任者はトレーナーだ、仮に了承してもデジタルの指導を一任するわけにはいかない。

 

「勝手にせい」

「待ってください。考え直してください。アグネスデジタルは一時的な感情で言っているだけです。トレーナーも熱くならず冷静になって」

「俺は本気やぞ。デジタルが俺に不信感を抱いておるなら今後も悪影響が出る。それならば黒坂君に任せるのも1つの手やろ」

 

 トレーナーは淡々とデジタルに言い放つ。冷静に話し、売り言葉に買い言葉で言ったわけではないのは分かる。しかしアグネスデジタルのトレーナーを担当するという人事はあまりにも予想外で唐突だった。

 

「じゃあ決まり。黒坂ちゃん行こう。それより原因を分析したってことは改善案も考えてるんでしょ、その改善案でアタシの最高のレースを取り戻そう」

 

 デジタルは声を弾ませ戸惑う黒坂の手を引きながら部屋から出ていく。トレーナーはその様子を黙って見送った。

 



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勇者の疑惑#2

 黒坂が住んでいるアパートのワンルーム、そこには最低限の家具しかなく、装飾品も置いていなかった。そうなるとワンルームと云えどスペースは余っているはずなのだが、いくつかの本棚によってスペースは埋められていた。

 本棚には中央ウマ娘協会の機関紙、運動力学や運動学、栄養学、著名なスポーツ選手の自伝や名監督と呼ばれている人物の育成論など、様々なジャンルの本が収められていた。

 黒坂は本棚から何冊か手に取ると部屋の中央にある座布団に座り本を開く。サブトレーナーになってから買った本は増え続け、本棚も増えていきスペースを侵食していく。いずれ遠くない未来に本を置くスペースは無くなるだろう。

 幾度か電子書籍に移行しようと考えたがその度に断念していた。長年の習慣か調べ物をしながら作業するときは物理書籍のほうがやりやすかった。

 黒坂は何冊かの本のページを開くと、その文面を読みながら、ノートPCにアグネスデジタルの今後のトレーニングプランの内容を打ち込んでいく。

 

 デジタルはトレーナー室で行った天皇賞秋の反省会の際に、トレーナーの指導を受けないと言い放った。あれは一時的な感情で言ったもので正式なものではないと思っていた。だが翌日には黒坂がデジタルのメイントレーナーになっていた。

 黒坂はトレーナーに即座に問いただす。教え子の一時的な感情による言葉に気が触っての行動なら大人げない。しかしトレーナーは特に怒っている様子もなく冷静に理由を説明する。

 今のデジタルは自分の言うことを聞かない。それであれば黒坂の指導の下でトレーニングしたほうが効果的である。その言葉を黒坂は聞いて安心した。

 何時も通りトレーナーの考えたメニューも元でトレーニングし、黒坂がサポートや現場判断で修正する。今回も表立ってトレーナーは黒坂ということにして、実質の指導メニュー作成はトレーナーがすればいい。だが黒坂の予想とトレーナーの考えは違っていた。

 トレーナーはデジタルの指導メニュー作成にトレーナーは一切関与せず、全て黒坂に作成させるつもりでいた。

 

 黒坂もいずれは独り立ちしてトレーナーになるつもりでいた。最初は素質あるウマ娘は集まらないだろう。新人でも構わないと集まったウマ娘達を指導し、少しずつ実績と経験を積み、やがて指導したウマ娘がOPに上がり、重賞に挑戦すると段階的なキャリアアップを考えていた。

 それをいきなりGIウマ娘、しかも歴代でも屈指の実績を持つウマ娘を育てるのは荷が重すぎる。

 及び腰になる黒坂にトレーナーは自分の考えを説明する。デジタルがもしトレーニングメニューをトレーナーが作成していると分かれば、黒坂への信用は一気に失せてしまう。

 そうなると勝手にトレーニングし、調子を落としたり怪我をしたりする可能性が増えてしまう。

 仮にデジタルがレースに出て大敗したとしても全ての責任を負おう。トレーナーになる為のリハーサルだと思って、好きにやってくれとトレーナーから言い渡され、半ば強引に説得されていた。

 黒坂はPC前で悩む。トレーナーの言葉に嘘はない、何が起こっても責任を背負ってくれるという安心感はある。だがそれでもトゥインクルレースの宝と呼べるウマ娘を腐らしてしまったら、怪我させてしまったら、いくら責任を背負ってくれるといっても不安は拭いきれない。

 トレーナーはいつもこんな重圧を感じていたのか、黒坂は改めてトレーナーに尊敬の念を抱く。

 それと同時にこれ程の苦難を与えたのかと憎しみが募る。デジタルのメイントレーナーになってから心休まる日がなかった。

 

「今日も1日頑張るか」

 

 デジタルは意図的に明るい声を出す。さらに鼻歌にスキップを加え意図的に気分を高めながらコースに向かう。

 失敗したら終わるわけではない、失った分を取り戻すことはでき、失敗を反省し次に活かせば得られる。

 天皇賞秋でのウマ娘断ちは失敗に終わった。その失敗を次に活かす為に前を向く。ウマ娘断ちによる入れ込みとトレーニングの質の低下、それが天皇賞秋でウマ娘を満足するまで感じられなかった原因だ、それを修正すれば天皇賞秋より目的を達成できる可能は増える。

 そしてウマ娘断ちは失敗に終わったが良かった点もある。道中は5感が鋭敏になったことでいつもよりウマ娘を感じられた。もしあの状態で直線もウマ娘達についていけば極上の体験ができただろう。

 理想はウマ娘断ちの状態を維持しながら最後までウマ娘を感じることだ、だがそんな都合よく事は運ばない。あの時の感覚の半分程度5感が鋭敏になり、ウマ娘を感じられば出来れば上々である。

 

「お疲れ」

 

 デジタルはコースに居る黒坂の元に着き声をかける。意図的に気分を高めたことでテンションは程よく高揚していた。

 

「お疲れ様です」

 

 黒坂は上の空だったのか、声をかけられ今存在に気づいたような反応を見せる。声は小さく顔色も若干悪かった。

 

「では今日のトレーニングを始めましょう、まずは…」

「その前に提案があるんだけど、いい?」

 

 デジタルは黒坂の声にかぶせるように声をかける。黒坂は一瞬体をビクりと震わせ、デジタルに視線を向け言葉を待つ。

 

「アタシとしてはウマ娘断ちは失敗に終わったけど、良いところもあったんだよね。だから、ウマ娘断ちを1週間ぐらいして、それまでは学園でメイチで鍛えてウマ娘断ち期間は調整期間にするってのはどう?そうすれば良い感じの塩梅になるからなって思って」

「次走は決まったのですか?」

「いや、今の案が有効かどうか試して、有効なら取り入れたいからあと2走はしたいな、候補としては2走目が東京大賞典として、最初はマイルCSかジャパンカップダート、もしくはマイルから2000の重賞かな、それでどう思う?」

 

 黒坂はデジタルの提案を聞いて考え込む。時間が経つごとにその表情は険しくなり、胃に穴でも空いているのではないかと心配して顔を覗き込む程だった。

 

「今の提案ですが、持ち帰らせていただきますか?数日中には答えを出しますので」

「分かった。でも出来るだけ早めにお願い。モタモタしてるとマイルCSの準備期間が無くなっちゃうから」

「分かりました。では今日のトレーニングを始めましょう」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に頷くとウォーミングアップを始めた。

 

 

「さてと、どうしようかな」

 

 デジタルはPCを操作しながら独り言を呟く。次走の選択肢は多く、其々のレースでウマ娘を感じるためにはある程度知っておかなければ楽しめない。

 今までの発言や人物背景や交友関係を調べることは勿論、チームやそのウマ娘個人のツイートやインスタグラムもチェックしなければならない。傍から見れば自由時間をのんびりと楽しんでいるように見えるが、それなりに忙しかった。

 ウマ娘断ち期間はこの忙しさを味わうことはなかった。再び体験することでこの時間の楽しさを実感していた。

 

「そういえば、トレーナーと喧嘩したんだって」

 

 隣のベッドに寝転がっていたルームメイトのタップダンスシチーが話しかける。普段は気軽な感じだが、レースが近づくにつれて集中力が高まるのか刺々しい空気が強まり、気軽に話しかけたりしない。

 特に次走のジャパンカップは是が非でも勝ちたいと天皇賞秋を回避し、万全の状態で挑むだけにその傾向は強まると思っていた。それだけに話しかけられたは意外だった。

 

「まあ、ざっくり言えばね。方向性の違いというか意見が食い違っちゃって、チームに席は置いているけど指導はサブトレーナーから受けてる。それより何で知ってるの?」

「目標はジャパンカップと有マだからな。出そうなウマ娘や出たら厄介そうなウマ娘はチェックしてる。有マはコーナーが多いし、マイラーでも走れるからな」

「天皇賞秋でボロ負けしたのにチェックしてくれるんだ」

「厄介そうな区分でな、有マは穴ウマ娘が突っ込んでくることが多いし、アグネスデジタルは意味不明な激走をするからな。それでサブトレーナーとの調子はどうよ?」

「う~ん、何かしっくりこない」

 

 デジタルは不満げな声を出す。天皇賞秋での失敗を正確に分析してくれた観察眼を買って、トレーナーに抜擢したが、及び腰でこちらの顔をいつも窺い、トレーニングもオーソドックスで劇的なこともしない。このままサブトレーナーについていって大丈夫かという不安が既に芽生えていた。

 

「いっそのこと移籍しようかな」

 

 思わずポツリと呟く。現役をあと9年続けるつもりだが、無為に過ごすつもりはない。天皇賞秋のように悲惨な体験はしない為に、よりウマ娘を感じるためにチームを移籍しなければならないとしたら、その考えも視野に入れなければならない。

 

「おお、衝撃発言だな、マスコミにリークすればお礼の品がもらえるかも」

 

 タップダンスシチーはその言葉を茶化しながら思考を巡らす。デジタルとトレーナーとの関係に亀裂が走っている。信頼感の欠如はウマ娘の弱体化にも繋がる。

 これが本命のシンボリクリスエスに起きたなら喜ぶのだが、デジタルではさほど関係なく、仮に有マ記念に出走したとしても驚異を数値化してシンボリクリスエスが100としたらデジタルは1で、その1が0.5に変わった程度にすぎない。

 

「タップダンスシチーちゃんはもし今のトレーナーじゃなくて、別のチームに移籍したほうが良いとしたらどうする?」

「移籍する。アタシは勝つために此処に来てレースを走ってんだ」

「でもチームメイトと離れるのは寂しくないの?」

「それは淋しいけど、優先目的は勝つことで友達を作ることじゃない」

 

 タップダンスシチーは質問に即答し、その言葉を聞き感心する。どこで知ったかは覚えていないが質問に対して答える時間で強さが測れると言っていた。

 短ければ短いほど自分の中に答え、いうならば信念が宿っている。それが強固な意志の力を生み出すとデジタルは解釈していた。

 

「だが、アタシの走りはトレーナーと何年かけて一緒に作り上げた物だ、それに皆も気の良い奴で居心地が良い。最高の環境で自分を一番理解しているトレーナーの元でトレーニングをする。それが一番強くなる近道だ、だから余程のことが起きない限りチームを移籍するつもりはない」

 

 タップダンスシチーは補足のように付け加える。その言葉は誇らしげで無意識に今の環境を自慢しているようだった。

 デジタルはその表情を見てチクリと心が痛む。少し前まではチームプレアデスでトレーナーの元でトレーニングするのが最高の環境だと疑わなかった。

 

 どうして自分の非を認めないのか。

 

 認めさえすれば元の鞘に収まるのに、デジタルはトレーナーの態度を恨んでいた。

 

「タップダンスシチーちゃんは引退したらどうする?」

「どうした急に?」

「いや、何となく」

「引退後か、全く考えてなかったな」

 

 タップダンスシチーは思わぬ質問に腕を組みながら目を瞑る。数秒すると目を開けて貧乏ゆすりのように前後に体を揺すりしながら喋る。

 

「レース関係の道は進まないだろうな。レースは好きだけど、何というか仮にサポート科やトレーナーの手伝いをして周りのウマ娘が勝っても達成感が湧かないだろうな、まあ他人事だ。やるなら当事者が良い。となると……競艇選手にでもなるか、けど体重制限がキチイな。だとしたら競輪選手か、まあ、とりあえず勝負の世界で当事者として何かをするかな」

 

 タップダンスシチーは考えをまとめず思いつくままに喋る。本人にとって引退後の話など他人事に過ぎなかった。今はジャパンカップでシンボリクリスエスに勝利することしか考えられない。

 

「アグネスデジタルは引退後はトレーナーだっけか?」

「まあね」

 

 デジタルは返事するがどこか歯切れが悪い、

 

「きっとトレーナーとしてのウマ娘ちゃんと接するのは楽しいと思う。けど今はレースを通してウマ娘ちゃんを感じたいって気持ちがどんどん大きくなってくる。というより今はそれしか考えられない。絶対にあと9年、最悪でも6年は絶対に現役で走ってウマ娘ちゃんを感じる。絶対に」

「まあ、先のことを考えてもしょうがないしな、お互い今を全力で頑張ろうや」

 

 タップダンスシチーは話をまとめる一言を言って話題を終わらせる。

 デジタルの目はまるでレースで掛かったように焦りが見え、独白には世間話では感じられない重苦しさがあった。このまま話を続ければどんどんシリアスな展開になりそうで、今はそういう気分ではなかった。

 

──

「カハッ!」

 

 黒坂は便器の前にうずくまる何度も嘔吐く。デジタルのトレーナーになってから精神的負荷が加速度的に増えている。今では重圧のあまり食事も喉を通らず、無理やり押し込んだものも戻してしまう。

 

 この選択が正しいのか?このトレーニングで間違っていないのか?

 

 デジタルを指導する際に常に自問自答がまとわりつく。まとわりつく疑問の量は増え行動を制限していく。今では何かを選ぶことに恐怖を覚えていた。

 生きている限り選択を強いられる。軽いものであれば今日の食事のメニューから、重いものでは進路の決定などだ。それらは個人の問題に過ぎず失敗しても不利益を被るのは自分だけである。

 だがトレーナーは違う。自分の決定が他人を左右してしまう。

 

 黒坂はPCの画面上に映るデータに目を通すと同時に腹部に痛みが走る。

 ここ数日のアグネスデジタルのトレーニングの数値だが、以前の数値と比べて確実に落ちている。

 これは自分のトレーニング法や接し方が間違ったことで起きたものなのか?だとしたら業界の宝を潰してしまったのではないか?その考えが過ると腹部の痛みがさらに増す。

 黒坂はデータを見るのを止めメールを立ち上げる。トレーナーからは口を出さないがトレーニング内容とデータだけは送ってくれと頼まれていた。

 もしかしたらデジタルのトレーナーから解任してくれるかもしれない。そんな一縷の望みを抱きながら何度もメールチェックをした。

 



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勇者の疑惑#3

 11月を迎え冬の兆しが見える中トレセン学園は俄かに活気づく。この時期には毎週のようにGIレースが開催され話題が尽きない。11月のGIレースは全てシニアクラスのレースになり、話題もシニア路線が中心になる。

 だがジュニア路線も12月に開催される。阪神JF、朝日FSステークス、ホープフルステークスに向けて前哨戦が行われ、未来の優駿たちが鎬を削っていた。そしてジュニア路線の主役候補筆頭はチームプレアデスに所属しているメイショウボーラーだった。

 メイショウボーラーは坂路コースを駆け上がる。一緒に走るのは同じチームのシニア級ウマ娘アグネスプラネットである。先行していたメイショウボーラーをアグネスプラネットが追う。終了地点でアグネスプラネットがクビ差ほど前に出てゴールした。

 

「よし、私の勝ち。まだまだ若い者には負けないよ」

 

 アグネスプラネットは膝に手をついて息を整えるメイショウボーラーの背中を軽く叩いて自慢げに勝ち誇る。メイショウボーラーは僅かに笑みを浮かべながら見上げる。だが笑みの中に悔しさが滲んでいた。

 

「アグネスプラネット、明らかにオーバーペースやぞ。まだレースは先なんやから、そんな気張るなや」

「でも、先輩としては後輩に負けたくないじゃないですか、それにアグネスデジタルさん以来のGIウマ娘が誕生するかもしれないから力になりたいんです。そこのところ分かってくださいよ」

 

 アグネスプラネットはトレーナーの言葉に愛想笑いを浮かべ受け流し、トレーナーは仕方がないとため息をつく。

 

「まあ、気持ちは分からんでもないが、シニアクラスなんやから、気持ちを抑えてレースに調整せんと後輩にも示しがつかんやろ」

「まあまあ、いずれ追い抜かれるんですから、もう少し将来のGIウマ娘に先着したっていう勲章を貰わせてくださいよ。それに相手が強い方がトレーニングになるでしょう」

「それもそうやが、それで怪我したら元も子もないやろ。お前だって次に勝てばOP入りや、もう少し自分の事を考えろ?」

「分かりました。実は言うと結構無理してましたからね」

 

 アグネスプラネットは手で自分を扇ぎ疲れたとアピールしながら移動していく。トレーナーはアグネスプラネットの後ろ見ながらメイショウボーラーの今後について考える。

 元々素質は有ったがここまで成長するとは思ってもいなかった。1戦ごとに力を増していき、連勝を重ね今やジュニア級の主役だ。そして次走は朝日FSを走る。

 GIを走るにあたって万全の状態で臨まなければならない。

 メイショウボーラーは能力があるがまだ精神的に幼く、トレーニングで手を抜く癖がある。時が経てば癖は無くなるだろうが現状で解消されていなく、単走のトレーニングは出来ず、併せ中心でトレーニングしている。

 今のところは順調にトレーニングできている。だがアグネスプラネットのように先輩の意地を見せ、メイショウボーラーの良いトレーニングパートナーになろうと無理に走っているからに過ぎない。

 これが続けばチームのウマ娘に無理が生じる。今後はメイショウボーラーの練習相手になるのは、あのウマ娘しか居ない。

 トレーナーは携帯電話を取り出し電話をかけた。

 

 

「模擬レース?」

 

 アグネスデジタルは思わず黒坂に聞き返す。いつも通りトレーニング前のミーティングしようとした矢先に模擬レースをすると聞かされる。そんな予定は全く聞かされていなかった。

 

「先方からマッチレースをして欲しいと要望がありまして」

「コースと距離と相手は?」

「コースはウッドチップ、距離はマイル、内容はマッチレース、相手は…着いてからのお楽しみということで。嫌であれば断りますが」

「いいよ。やるやる。じゃあ先に行ってるから」

 

 デジタルは二つ返事で了承し意気揚々と目的地に向かう。

 マッチレースは文字通り自分と相手の2人のみで走るレースである。普段のレースでは最低でも5人の出走ウマ娘が居なければならない。

 普段のレースでは仮にターゲットを1人に絞ったとしても他のウマ娘を感じたいと無意識に意識を向ける。だがマッチレースならば意識の全てを1人に向けられる。その分だけウマ娘を感じられ、普段より正確に深く感じられる。

 そして相手は走るまで秘密というのがいい。コースについた先に誰が待っているのか?

 相手を想像し楽しむのは好きだ。予想した理想の相手でも良いし、全く予想していなかった相手でもサプライズ感があり、見知らぬ魅力が分かるかもしれないとワクワクする。先方の指示か黒坂の考えかは知らないが気が利いている。

 

 デジタルはコースに着いて周りを見渡しながら相手を予想する。

 考えられるとしたらマイルCSかジャパンカップダートを走るウマ娘の調整相手か敵情視察だろう。もしくはジュニア級のウマ娘が胸を借りたいと要請したか。

 するとデジタルはあるウマ娘の姿を確認する。黒髪でツインテールとポニーテールで纏めた特徴的な髪型、一瞬表情を顰めるが、直ぐに嬉しそうな表情を浮かべながら駆け寄っていく。

 

「もしかしてメイショウボーラーちゃんが今日の相手?」

「はい、そうです」

「そうなんだ、今日はよろしくね」

 

 デジタルは声を弾ませながらメイショウボーラーに声をかける。隣にはトレーナーが居たが完全に無視していた。

 メイショウボーラーの姿を見た時にデジタルは察する。今日のマッチレースの相手はメイショウボーラー、目的は朝日FSに向けてのトレーニング相手だろう。

 正直に言えばトレーナーに対して良い感情を持っていない。そんなトレーナーに協力するというのは癪に障るのは事実だ、そんな感情がメイショウボーラーを発見した時に表情を顰めさせた。

 だがチームに所属しているウマ娘は好きだ。彼女達の為なら喜んで協力する。そしてメイショウボーラーは特に気をかけていたウマ娘だった。

 メイショウボーラーとはデビュー前に一度だけ併せて走ったことがある。その時は不良のダートを息絶え絶えで走り、ヘトヘトになりながらゴール板を通過したのを覚えている。その肉体と技術は微笑ましさを覚える程未発達で未熟だった。

 そんなウマ娘が無敗のまま重賞に勝ちGIで恐らく1番人気で走るウマ娘になるジュニア級の主役だ。

 デジタルはメイショウボーラーの活躍を見て、ある夢が膨れ上がっていた。

 

 同門対決。

 

 同じレースに同じチームのウマ娘が走る。同着でないかぎり1着以外のウマ娘は全て負ける。

 同じ時間を過ごし夢を語り合ったウマ娘が争う。その残酷さは目を覆いたくなるが同時に儚く美しくときめかせる。それはグレードが大きくなるほど良い。

 だが現実はデジタルが走れる最低条件のレースのOPクラスのレースへの出走資格を得られるウマ娘は全体の1割にも満たない。その結果デジタルは一度も同門対決をしたことがない。

 さらに日本テレビ盃でのアジュディミツオーとセイシンフブキのレースを見て、同門対決するなら後輩とやりたいと思っていた。

 可愛がったウマ娘と一緒に走る。その時後輩ウマ娘は何を思うか?先輩の夢を奪うことなど出来ないと手を抜いてしまうのか?それとも自分の夢の為に全力で打ち負かす事こそ先輩を喜ばせる方法だと牙をむくのか?考えただけでエモい。

 幸いにもボーラーはマイルが走れるウマ娘で適性が似ている。いずれGIの舞台で同門対決が出来ると密かに期待していた。

 

「今日は目一杯胸を貸してあげる。寧ろ飛び込んできてもいいんだよ」

「いや、いいです」

 

 デジタルはおどけるように手を広げるがメイショウボーラーはピクリとも表情を変えず素っ気ない態度を取ると、トレーナーの元に向かい打ち合わせする。その様子を見てデジタルは失敗したと額を叩く。

 緊張しているので解きほぐそうと思ってフランクに接したが、ふざけていると思われて逆効果だったかもしれない。

 だが前であれば多少なり慕われていたと自負し、もう少し友好的な反応を示していた気がする。

 メイショウボーラーの態度が変化したのはいつ頃だ?デジタルは記憶を遡り検索する。恐らく天皇賞秋以降だ、何かしらの理由で好感度が下がったのだろう。

 

 メイショウボーラーとトレーナーが打ち合わせをしている間に黒坂がコースにやってくるとトレーナーの元へ歩み会話する。

 

「黒坂君もトレーニングプランがあっただろうに、付き合ってくれてすまんな」

「いえ、アグネスデジタルも喜んでいましたし、良かったです」

「そうか、それにしても痩せたか?」

 

 トレーナーは黒坂を見て尋ねる。記憶の姿より痩せていて顔色が悪く生気が無い。痩せたというよりガレたと形容した方が適切な様子だった。

 

「はい、少しだけ」

「デジタルの事で気が病んでいるなら気にするな。時には自分の指導は悪くない、ウマ娘が悪いと思うズブとさも必要や」

「そんな気になれませんよ。アグネスデジタルは超1流で必ず復活するウマ娘です。復活できなかったとしたら全ては私の責任です」

 

 黒坂は棘のある声色で答える。トレーナーが気を遣って言ってくれているのは理解しているが、とても不調の原因をアグネスデジタルのせいにする気にはなれなかった。

 

「それで今日のレースはどう走ればいい?」

 

 デジタルはトレーナーとの話し合いを終えた黒坂に尋ねる。個人的には自分の好き勝手に走りたいところだが、立場上黒坂に要望があれば無視するわけにはいかない。

 

「好きに走ってください」

「了解」

 

 デジタルは返事をしながら準備運動を始める。メイショウボーラーも同じように準備運動を初め、暫くしてスタートラインに移動してゲートに入る。  

 

 ゲートが上がりスタートする。スタートから10数メートル、デジタルが半バ身程先行して外側メイショウボーラーの反則にならない程度に進路をカットして抑え込みにかかる。

 メイショウボーラーは意図的に抑えた条件戦以外は全て逃げ、一度もハナを譲らず勝利してきた。このレースでもいつも通り逃げで走ろうとしたがあっさりハナを奪われていた。

 レースにおいてスタートの重要性は高い。スタートに失敗すればそれだけで差がついてしまい、ポジション争いでも不利を被ってしまう。逆に言えばスタートが上手くいけばタイムのアドバンテージを得るだけでなく、ポジション争いで有利に立てる。

 つまり殿一気でしか走れないというウマ娘以外はスタートが上手い事に越したことが無い。

 

 スタートの上手さはゲートセンスと初速の速さで決まる。

 

 一般的にはゲートが開いたのを視覚で確認してからスタートする。だがセンスが有る者はゲートが開く予兆、ゲートの音やスターターの雰囲気などを察知してスタートする。それを察知する力をゲートセンスと言われている。

 デジタルは最初からゲートセンスが有ったわけでは無いが、長年のトレーニングとレース経験によってゲートセンスを養っていた。

 一方メイショウボーラーは以前にスタートの訓練で予兆を察知せずに、そろそろゲートが開くだろうとギャンブルスタート気味にスタートした結果、ゲートに顔を痛打したことがあった。それ以降は視覚でゲートが空いたと確認してからスタートするようになった。

 そして静止状態から力をロスすることなく一気に加速する技術、それが初速の速さに繋がり、これも長年の経験によって身に着けるものである。

 最初から技術が備わっていた。あるいは技術すら凌駕する瞬発力が有れば別だがメイショウボーラーには備わっていなかった。

 結果ゲートセンスと初速の速さでデジタルがメイショウボーラーを上回りハナを取ることに成功する。

 

 メイショウボーラーはペースを上げて外側から前に居るデジタルを抜こうとする。

 逃げをする為にはスタートの上手さは重要だが全てではない。スタートが遅れてもその差を補えるスピードが有ればハナをとれる。だがデジタルはメイショウボーラーの動きに呼応するようにペースを上げ、ハナを取れずにいた。

 

 スタートから200メートルを通過しメイショウボーラーはペースを下げてデジタルの後ろ、スリップストリームの恩恵が預かれるポジションを取る。

 メイショウボーラーは逃げウマ娘であると自覚し、是非とも逃げたかったがデジタルの後ろに控える。もしこのままハナを取ろうとペースを上げ続ければ自滅する。

 マッチレースならタイムが遅かろうが相手より先着すれば問題ない。だが今回はトレーナーから本番を想定して走れと言われた。ここは無理に抜かずデジタルの後ろで脚を溜める。

 一方デジタルも同じようにペースを下げていき、400メートルを通過した時点で、超ハイペースがややハイペース程度に落ちていた。

 メイショウボーラーはデジタルの様子を見ながら思考する。今のペースならペースを上げてハナを奪うことが可能だろう、だがそれはしない。

 朝日FSに出走するウマ娘には自分と同じような逃げウマ娘、それ以上に逃げに固執するウマ娘が居るかもしれない。もしいた場合はハナを取らせないとムキになってペースを上げる。そうなれば共倒れだ。

 

 スタートから1000メートルを通過し、ペースは平均よりやや遅い程度まで落ちていた。その間に位置は変わらずコーナーを曲がり約300メートルの直線を迎える。

 直線に入った瞬間にデジタルがスパートをかけ、ボーラーも同じようにスパートをかける。

 出来る限りスリップストリームの位置を維持しながら足を溜め、ゴール板間際で一気に差し切る。それがメイショウボーラーの描いたプランだった。

 ゴールまで残り200メートル、メイショウボーラーの表情が険しくなる。差が縮まらない。結局デジタルを差せずゴールする。着差は1バ身差だった。

 メイショウボーラーは減速しながら項垂れる。チームの先輩と走る際に先着されることもあるが、次は勝てるという自信が有った。だがデジタルには現段階ではどうやっても勝てない。己と相手の差を痛感させられていた。

 

「さてと、じゃあ今のレースを振り返ろうか」

 

 横を向くとデジタルが居て同じペースで歩いていた。その息遣いは疲労で大きく乱れていたボーラーと違い、ある程度しか乱れていなかった。こうしてクールダウンをしながら反省会が始まった。

 

「まずはスタートしてアタシがハナをきった。メイショウボーラーちゃんはどうしようと思った?」

「それは……ハナを奪い返したいと思って……外に出しました」

「何で外に出したの?」

「それは内に突っ込めば蓋をされると思って……だったら外から抜こうと」

 

 メイショウボーラーは息を整えながら質問に答えていく。レースを走った直後で思考するのは予想以上に疲れる。

 

「正解、もしメイショウボーラーちゃんが内から来たら蓋をするつもりだった。それで外から抜こうとしてペースを上げたけど、途中で止めてペースを下げたのは何で?逃げたかったら妥協しちゃダメだよ」

「……今回は本番を想定して走れってトレーナーから言われて……あのペースで走ったら自滅する……だから後ろについて前を風よけにして足を溜めようと……」

「すごい!正解!あのペースでアタシを追い抜こうとしたら多分直線で力尽きちゃうと思う。逃げでは時にはハナを譲っちゃいけない場面もあるけど、今回は譲る場面だね。そしてすぐに風よけにして足を溜めるという選択も正解」

 

 デジタルは答えを聞いて嬉しそうに手を叩く。

 

「それで中盤らへんでアタシはペースを下げたけどハナを奪わなかったのは何で?メイショウボーラーちゃんなら奪えたよね?」

「加減速を繰り返すと足を使っちゃいますし……それだったらペースを上げずあのまま足を溜めたほうがいいと思いますし……」

「半分正解、ペースを上げ下げするとスタミナを消費するからね。中にはスタミナがあるウマ娘ちゃんはあえてペースをアップダウンさせてスタミナを使わせようとするウマ娘ちゃんもいるけどね」

「残りの半分はなんですか?」

 

 メイショウボーラーは思わず尋ねる。先程までは問題に正解する親のように嬉しそうにしていたが、これは仕方がないとほんの僅かに残念そうな表情を浮かべていた。

 

「あの時のアタシは今のレースの2番人気で末脚が武器のウマ娘ちゃんと同じチームのウマ娘ちゃん、2番人気のウマ娘ちゃんをスゴイスエアシちゃんと呼ぶとして、スゴイスエアシチャンは体が弱く病院に通っていました。そこで同じぐらい歳の男の子と知り合い仲良くなりました。その男の子は重い病気でどんどん体が悪くなります。心配になったスゴイスエアシちゃんは男に言われました。『ねえ、次のレースに勝ってよ。勝ったら元気になるからさ』スゴイスエアシチャンは奇跡を信じ必勝を誓います。実はスゴイスエアシチャンは男の子が好きでした。そしてアタシはその様子を実は見ていました……」

「すみません……要点だけ言ってもらえますか」

「あっ、ゴメン。そうするにスゴイスエアシチャンに勝ってもらうために1番人気のメイショウボーラーちゃんを勝敗度外視で潰すつもりでいたの。だからもしハナを奪いにきたら全力で競りかけるつもりだった。その気配を察知して控えたら花丸だったけど、流石に難しかったよね」

「そんなウマ娘が存在するんですか?」

 

 メイショウボーラーは思わず聞き返す。自分の価値観では決してあり得ない行動だった。

 

「居るんだよ。皆は怒るかもしれないけど」

 

 デジタルは複雑な表情を浮かべながら答える。脳裏に浮かんだヒガシノコウテイに負けた南部杯での光景だった。

 あの時岩手のウマ娘達はヒガシノコウテイを勝たせるために、少しでも自分の脚を削るために自滅覚悟で並走し続けた。

 その行為を世間は認めないだろう。だがデジタルは決して否定したくなかった。勝ちたいという欲求を抑えてまで相手の為に頑張る気持ちはそれで尊い。

 

「それで、直線に入るまでは何を考えていた?」

「道中は風よけを使いながら足を溜めようと思いました」

「それが勝つための最善だと思ったの?」

「はい」

 

 メイショウボーラーはきっぱりと答える。だがデジタルの表情が僅かに落胆の色が浮かぶのを見て、自信が揺らいでいた。

 

「もしかして間違っていました」

「そうだね。でもこれはかなり難しい問題だから分からなくても仕方がないよ」

「それで正解は何ですか」

 

 メイショウボーラーはデジタルのフォローを無視するように問いかける。勝つために最善を尽くしたつもりだ。正直あれ以外正解があるとは思わなかった。

 

「じゃあ直線に入る前までのペースはどれぐらいだったと思う?」

「え~、ハイペースではないと思います。平均より速いぐらいだと思います」

「アタシも詳しくは分からないけど、平均よりちょっと遅いぐらいかな。それでアタシはこう見えても結構末脚が凄いって言われてるんだよね~」

 

 デジタルはチラチラと意味ありげに視線を送る。その視線に何かを察したのかメイショウボーラーは思わず手を叩く。

 

「そうか、今のレース展開はよーいドン寄りの展開だった。なのにアグネスデジタルさんの後ろについていた。それじゃあ勝てるわけが無い」

 

 逃げの戦法を取るウマ娘は気質の問題もあるが、スピードがあるが瞬発力に欠けるウマ娘が取る戦法である。その為に瞬発力があるウマ娘の猛追を凌ぐために直線までにリードを取るのが定石である。

 そして逃げウマ娘も後ろから差されるのを恐れ、できる限り力を残しておこうと力を抑え、結果そこまでペースが速くならない展開もある。ペースが遅くなっての瞬発力勝負、このような展開は俗によーいドンと呼ばれ、基本的に瞬発力が勝る者が勝ちやすい。

 これで逃げウマ娘と後ろの差が大きければ瞬発力に劣っていても勝てる。だが後方との差が小さいほど逃げは負ける可能性が増える。

 今回はデジタルとメイショウボーラーの差は1バ身差で瞬発力に勝るデジタルが前に居た。明らかに不利な条件だった。

 

「そう、メイショウボーラーちゃんが勝つにはスピードと持続力を生かして早めにスパートをかけるべきだった。別に前に居るのがアタシだったから差せなかったわけじゃないよ。本番であの展開なら後ろのウマ娘に差されていた可能性が高いと思う。風よけで足を溜められて安心しちゃったかな?」

 

 メイショウボーラーはデジタルの問いに頷く。風よけを使って足を溜めるのはレースの基本とトレーナーに教わった。そして上手く足を溜めたことで安心してしまった。

 

「そんな落ち込まないで、今のレースはジュニア級のウマ娘ちゃんにとっては超難問だったよ。メイショウボーラーちゃんは100点中85点取ったようなもんだから、充分凄いって」

 

 デジタルは明らかに落ち込んでいるメイショウボーラーをアタフタしながら励ましていた。

 

「アグネスデジタルさんってメチャクチャ凄いですね!」

 

 模擬レースを走り終えると其々は別々にトレーニングを始めた。そしてトレーニングのインターバル中にメイショウボーラーは嬉々としながらトレーナーに話しかける。

 天皇賞秋のレース後に惨めに敗戦の言い訳を喋るデジタルを見て尊敬や憧れを失っていた。だが今日の模擬レースで実力を感じ取っていた。

 もし本気で走ればもっと楽に走り着差も広げていただろう。だが自分の為に今後はこんなレースがあると例題を作り上げた。完全に手のひらの上だった

 ある意味練習相手ではなく格下として扱われた。だが怒りは一切湧いていない。それどこらか以前抱いていた尊敬と憧れが戻っていた。

 

「まあ、あいつも仮に1流と呼ばれるウマ娘や、あのレベルのウマ娘ならジュニア級のウマ娘を転がす事なんて容易い。あれは余興の手品で本番では使えん」

「いや~、アグネスデジタルさんはフィジカル頼みのウマ娘だったと思ったけど、あんな頭脳もあったなんて!マジでかっけえ!」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの言葉を聞かず1人で興奮して盛り上がる。トレーナーはその様子を見て思わず吹き出す。

 負けた悔しさを微塵も感じていない。あそこまで手玉に取られればそんな気は失せるどころか、逆に心地よさすら覚えているのだろう。

 今回の模擬レースはメイショウボーラーにとって大きな刺激となると同時に貴重な経験だった。逃げウマ娘がペースを読めずよーいドン勝負になって負けることは珍しくない。

 トレーナーの予想通りとしてデジタルは普通に走り普通に先着すると思っていた。だがメイショウボーラーの成長させるために幾つもの罠を仕掛けて、見破れるか試すテストのようなレースを作った。その心遣いには少なからず感謝していた。

 これぐらいならある程度のレベルなら出来るとトレーナーは言った。

 だがデジタルはレースにおいて策略を巡らすタイプでなく、学園に入学した当初はこのようなレースを作れるようになるとは夢にも思っていなかった。本来ならば教え子の成長を喜ぶべきである。だがその表情は険しかった。

 

「う~ん、上手く走れて良かった」

 

 デジタルはメイショウボーラーと別れると上機嫌で黒坂の元に向かう。模擬レースを走る前と後ではメイショウボーラーが自分を見る目線が明らかに変わっていた。好感度を取り戻せたようだ。

 デジタルはメイショウボーラーの好感度が下がったのは天皇賞秋で惨敗したからと仮説を立てる。ならばあれは本当の実力ではなく、いかに自分が強いかということを見せる必要があると考えていた。

 普通に走って勝つだけではダメだ。メイショウボーラーの為になると同時に、実力を見せるレースをしなければならないと普段とは異なり色々と策略を巡らせて走った。

 結果自分を認めてくれた。メイショウボーラーは師弟対決するかもしれないウマ娘だ、どうせなら好感度マックスで走りたい。

 

「お疲れ様です。見事な指導レースでした」

 

 トレーナーはデジタルにタオルを渡しながら褒め、デジタルも満更でもないという表情を浮かべていた。頭を使って走ったレースだ、その意味を理解し評価されるのは悪くはない。

 

「それは大切なチームの後輩ウマ娘ちゃんだからね。メイショウボーラーちゃんの為になるレースをするのが先輩の役目でしょ」

「複数の罠を仕掛けることでレースでの経験値と思考力を養わせる。さらにあのペースの落とし方も絶妙でした。あれではジュニア級のウマ娘は気づくわけがありません」

「慣れない事したから苦労したよ。でも上手くいってよかった」

「それに最後は敢えて手を抜いて1バ身程度の差でゴールした。本来ならもっと着差がついていましたし、メイショウボーラーの心が折れていたかもしれません」

「本気で言ってんの?」

 

 デジタルは黒坂を睨みつけるように上から見上げる。先程まで上機嫌だった雰囲気が剣呑なものと変化し、その急激な変化に黒坂は思わず唾を飲み込む。

 

「アタシが手を抜いたように見えた?メイショウボーラーちゃんは強いよ。よーいドンだったらそこまで差がつかないのは常識だよね。展開と実力を考えればあの着差は妥当でしょ」

「いや…それは……」

「黒坂ちゃんは白ちゃんと比べて見る目が有ると思ったんだけどな~」

 

 デジタルは露骨なため息をつく。その目はかつてトレーナーに向けた落胆の目線と同じものだった。すると踵を返し歩き始める。

 

「どこに行くんですか、次はこのコースで単走ですよ」

「気分が萎えたからウマ娘ちゃんを見てくる。暫くしたら戻って練習するから、いいよね?」

「あっ、はい」

 

 黒坂は思わず了承してしまう。トレーナーとしてはウマ娘の勝手を見過ごすわけにはいかない。だがデジタルの不機嫌さと気迫に押されてしまっていた。

 黒坂は思わず頭を抱える。レース展開と2人の実力差を考えればもう2バ身差がつくのが妥当だった。だからこそ最後は手を抜いたと判断したがまさか間違っていたのか。

 黒坂はもう一度レースを振り返り検証する。だがどう考えても1バ身差で済むわけがなかった。

 

 デジタルの言う通りウマ娘を見る目がないのか?

 

 黒坂はその結論にいたり大きく打ちひしがれていた。

 

「あの展開でメイショウボーラーちゃんにあれ以上差をつけられるわけないじゃん」

 

 デジタルは愚痴を吐きながら歩く。周りのウマ娘はその様子を見て距離を取るが気づいていなかった。

 トレーナーといい黒坂といい、どうして周りのトレーナー達は節穴ばかりなのだろう。早くウマ娘を見てこのイライラを解消しなければ。

 デジタルは目ぼしいトレーニングコースに足を運ぶ。その後戻って練習することなくウマ娘達を眺め続けていた。

 



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勇者の疑惑#4

「ありがとうございました。先生さようなら」

「はい、さようなら。帰り道は気を付けてね」

 

 エイシンプレストンは姦しく騒ぎながら出口に向かう子供達を見送りながら感慨にふける。先生という呼ばれ方は未だに馴染めない。それに先生と呼ばれるほど人間も出来ておらず技量も高くない。もっと精進しなければと思いながら帰り支度を始める。

 プレストンは最近になって道場に通っている小学生たちを指導するようになっていた。きっかけは道場の師範からの任命で、最初は人に教えられる実力ではないと断ろうとしたが、人に教えるのも稽古と諭され指導役をすることになる。

 そして指導を通して改めて未熟さを実感する。基本動作を1つにしても、感覚でやっていた動作を言語化し子供でも理解できるように伝える。それは想像より遥かに難しかった。

 最初は上手く伝わらなかったが、その度に家に帰り動作を分析する日々が続いた。その結果多少なりとも説明できるようになり、それと同時に動作の精度が上がったような気がする。

 

 帰り支度をしながらチームプレセペのトレーナーについて考える。自分は小学生と良くも悪くも単純で、素直な性格の子供達の指導をしているのである意味楽だ、だがトレーナーはエゴが強く一筋縄でいかないウマ娘達の指導を常にしていた。

 さらに成績が下がれば周囲からのプレッシャーも強くなる。改めて大変な仕事であり同時に尊敬の念を抱く。そして友人のデジタルもいずれはトレーナーになる。訪れる苦労を想像し思わず同情する。

 するとバックが振動で揺れる。振動の長さからして電話だろう、中からスマホを取り出すと液晶にはデジタルと表記されていた。

 

「もしもし、今丁度デジタルのことを考え…」

「プレちゃんちょっと聞いてよ!」

 

 デジタルの大声がプレストンの言葉を遮る。その声量に反射的にスマホを遠ざける。

 プレストンはデジタルの心境を推理する。その声の大きさとテンションの高さからして、相当苛ついているか怒っているようだ、気分によっては相手しないのだが、今日のプレストンは騒がしい子供達の世話をしたので、心境は指導者で多少なり心に余裕が有った。

 

「はいはい、聞きますって、それでどうしたの?」

 

 プレストンの言葉を皮切りにデジタルが捲し立てるように愚痴を吐き出す。テンションが上がって聞き取りにくい部分を脳内で翻訳しながらデジタルの言い分を纏める。

 天皇賞秋での敗因について意見が割れ、トレーナーが頑なにデジタルの意見に賛成しない。

 サブトレーナーが頼りないどころか見る目が無く、模擬レースで走ったメイショウボーラーの実力を正しく見極められていない。それが主な愚痴だった。

 

「全く!白ちゃんも黒坂ちゃんも節穴過ぎ!中央はトレーナーの質を高めたほうが良いと思うな」

「それでどうするの?2人が節穴だから1人でやるの?それとも別のチームに移籍するの?」

「そうだ、チームプレセペを紹介してよ。プレちゃんを育てたトレーナーだから実力は確かだよ」

 

 プレストンはデジタルの言葉を聞き思考する。贔屓目が入っているかもしれないが、トレーナーの実力は保証する。トレーナーでなければGI4勝もすることはできなかった。だがトレーナーとデジタルの相性が良いかと言われると首を傾げてしまう。

 プレストンの目から見てもチームプレアデスのトレーナーあってこそのデジタルであると思う。いずれは仲直りして元の鞘に収まるとは思うが、これでチームプレセペに移籍してしまうと色々と面倒になる。

 ここはサブトレーナーの元に居る間に怒りが収まり、トレーナーの元に戻るのがベストだ。

 

「デジタル、仮に知り合いのトレーナーのチームに要領が悪く物覚えが悪いウマ娘が居たとして、そのウマ娘が使えないからと蔑ろにされるか、切り捨てられようとしていたらどう思う」

「許せないって、そんなトレーナーは即刻免許剥奪すべきだね」

「逆にデジタルだったらどうする?」

「それはもちろん、分かるまで懇切丁寧マンツーマンで指導するに決まってるでしょ」

 

 プレストンはデジタルが落ち着くように落ち着いた声色でゆっくりと喋る。デジタルもプレストンの狙い通り少しだけ落ち着いて喋っていた。

 

「そして、今のデジタルは許せないって言ったトレーナーと同じことをしようとしている。要領が悪くて物覚えが悪い黒坂トレーナーを切り捨てようとするなんて、まさにそれでしょ」

「あのさ、プレちゃん。黒坂ちゃんはウマ娘ちゃんじゃないし立場も違うよ。トレーナーは社会人で労働者、ダメな社員がいればクビになるのは自然なことでしょ」

 

 プレストンのスマホが握る手が無意識に強まる。黒坂をウマ娘に置き換えて説得しようとしたが失敗した。まさかデジタルが経営者的な視点を持っているとは思わなかった。

 そしてそんな事常識でしょう的な語り口は神経を逆撫でていた。苛つきを抑えるように小さく息を吸い、説得するロジックを組み立てなおす。

 

「デジタルの将来の夢は多くのウマ娘が所属するチームのトレーナーでしょ?」

「そうだよ」

「だとしたら必然的にサブトレーナーを雇うことになる。それを少しダメだからってクビにしてたら誰も来ないわよ。多少至らぬ点が有っても許し育てるぐらいの器量を見せないと、これが良い予行練習だと思って自分がサブトレーナーを育てるぐらいの気概を持ちなさい」

 

 プレストンはデジタルを教えている小学生に見立て、諭すようにゆっくりと喋る。

 弟子が師を育てるという言葉があるが、あれは指導を通して自身の至らなさを確認し修正することで、結果成長しているという意味だ。

 そしてデジタルに言った言葉は文字通り、弟子が師を指導して育てるという意味合いだった。どれだけ上から目線だとは思ったが、それぐらいの傲慢さと余裕が有った方が上手く事が運ぶと考えていた。

 

「でもプレちゃん、そんな先の事を見据えるよりも今なんだよ。今をベストに過ごしたい。あと9年、いや6年は走りたいから」

 

 デジタルは電話当初の興奮気味な声とはうって変わり、シリアスで重苦しさすら感じるような声で呟く。プレストンはデジタルの愚痴の根本にはそれなりに切実な悩みがあるのを理解した。

 

「とりあえず、トレーナーにはさっきの話は伝えておく」

「ありがとう」

「とりあえずはよく考えることね、衝動的に行動した結果、取り返しがつかなくなることもあるし」

「分かった。今日は愚痴を聞いてくれてありがとう。プレちゃん愚痴を言いたくなることが有ったらいつでも聞くから」

「そうならないことを願うわ。それじゃあ、じゃあねデジタル」

「じゃあねプレちゃん」

 

 プレストンは電話を切ると同時に息を吐く。デジタルは夏に今後の人生設計を考えたが、基本的に刹那的に生きるウマ娘だ、先の話より今に拘るのも無理はない。それに先の天皇賞秋では大敗を喫し、今をどうにかしなければという感情にさせるのだろう。

 そしてデジタルと話していると得も言われぬ焦燥感に駆り立てられる。これは天皇賞秋で大敗からの焦りによるものではない。デジタルは何に焦っている?

 プレストンは焦りの原因を考えるが答えが出ることは無かった。

 

───

 

「ごめんなさい」

 

 デジタルはメイショウボーラーとの模擬レースを実施した翌日、トレーニング場で黒坂に会うやいなや開口一番で謝罪の言葉を述べた。

 

「いくらムシャクシャしてもトレーニングをサボったのはダメだよね。今後は二度としないから」

「いやこちらも非がありました。今後は気を付けてください」

 

 黒坂は思わぬ言葉に戸惑いながら謝罪を受け入れる。本当なら黒坂から謝罪の言葉を言うつもりでいた。しかしデジタルから先に謝罪の言葉を言われ機先を制されていた。

 

 デジタルはプレストンに愚痴を溢したことで精神が落ち着き、自分を内省する余裕が生まれていた。

 流石にあの態度はマズかった。黒坂はサブトレーナーでまだ若く経験不足でまだ見えないこともあり、自分とメイショウボーラーの実力差を正しく把握できなくても仕方がない。

 それに天皇賞秋でも自分の敗因を正確に分析してくれた。多少至らない点が有ったとしても自分を理解してくれる。そんなトレーナーを手放すのは悪手だ。ここは自分の非を認めトレーナーを手元に置く方が得になると判断していた。

 

「それで今日は何する?どんなトレーニングでも言う通りするよ」

「そんな特別な事はしません。ただトレーナーから引き続き暫くメイショウボーラーと模擬レースをして欲しいと依頼がありました。その相手を引き受けてくれますか?」

「勿論!てっきり罰ゲーム的な何かをするかと思ってたよ。こんなのご褒美じゃん!」

 

 デジタルはどんな懲罰トレーニングをさせられるかと身構えていたが、トレーナーの言葉を聞くと小躍りをしながら満面な笑みを浮かべて喜びを表現した。

 

 

 トレーニング終了後の夜、デジタルは寮の広間にある共有スペースのソファーで座りながらスマホを操作する。

 本来なら自室のPCウマ娘の動画などを見ながら時間を過ごすのだが、ここ最近は自室でなく寮の共有スペースでスマホを使いながら時間を過ごしている。

 タップダンスシチーはレースに向かうにつれて心身を研ぎ澄ましていき、それにつれて口数が減り空気もピリついていく。

 デジタルとしては研ぎ澄ましていくタップダンスシチーを見て感じたいところだが、タップダンスシチーにとって邪魔な存在である可能性が高く、その可能性を考慮してこうして避難していた。

 スマホをいじりながら今週末のエリザベス女王杯について調べる。やはり注目するウマ娘はスティルインラブとアドマイヤグルーヴだろう。

 

 スティルインラブはメジロラモーヌ以来のティアラ3冠ウマ娘だ。その偉業はそうだが若手のトレーナーとの二人三脚で歩んだ軌跡は知れば知るほどエモい。

 そしてアドマイヤグルーヴはデビュー前から期待されていたウマ娘で、ティアラ三冠レースは全て1番人気で走ったが全てスティルインラブに敗れた。次のエリザベス女王杯は是が非でも勝ちたいと執念を燃やしているだろう。そういったウマ娘の情熱もエモい。

 エリザベス女王杯について想いを馳せると同時に、共用スペースに居るウマ娘達の様子を観察する。自由時間を自室のルームメイトと過ごすウマ娘も居れば、複数人で集まり共用スペースで過ごすウマ娘も居る。

 ネットや雑誌でウマ娘達の人となりや関係性を知ることも出来るが、寮で生活していると自分の目で人となりや関係性が知れる。

 これは学園生だけの特権だ、その特権を思う存分行使すべくエリザベス女王杯について調べながら周りのウマ娘の様子の観察を同時に進行していく。

 レースの話、今後の将来の話、話題のファッションの話、トレーナー達の話、アスリートとしての真面目な話題から年頃のガールズトークなど様々な話題で盛り上がっている。

 

「信じろって、グルーヴなら勝てる」

「大丈夫、今まで培ったものを出せれば勝てる」

 

 デジタルはその声を聞き何気なく視線を向ける。そこにはアドマイヤドンとアドマイヤマックスとアドマイヤグルーヴが居て、2人がアドマイヤグルーヴを励ましている。

 エリザベス女王杯について調べている中レースの中心人物の一人が現れるというタイムリーな遭遇に、思わず全体から3人に意識を傾ける。

 

「またあの娘に負けるのかな……勝てない星の元に生まれているのかな……」

「そんなことない。ティアラ3冠の全部は勝負の綾だ、10回やれば5回は勝てる。つまり互角」

「私もドンの言う通りグルーヴとスティルインラブに差は無いと思っている」

「でも負けるってことは実力が同じでも、あの娘が持っていて、私は持っていないってことでしょ……」

 

 アドマイヤドンとアドマイヤマックスがアドマイヤグルーヴを励ますが益々落ち込んでいく。デジタルも2人の私見と同じくアドマイヤグルーヴとスティルインラブに差は無いと思っている。

 だがそれはアドマイヤグルーヴにとってはなおさら悔しいのだろう。実力が同じであれば自分がティアラ3冠を取れた。ちょっとしたボタンの掛け違いあまりにも結果が違っていた。

 

「グルーヴ、私はクラシック級だけで走る3冠よりシニア級も走るエリザベス女王杯こそ価値があると思う。ティアラ3冠レースが1レース100ポイントなら、エリザベス女王杯は1億ポイントぐらいかな」

「そうだ、ティアラ3冠がなんだよ、そんなもん前座だ」

「1億ポイントってベタなクイズ番組でもないよ」

 

 アドマイヤグルーヴは思わず吹き出す。それを見た不安そうだった2人の表情が少しだけ晴れる。

 

「それにグルーヴは持っていないっていうけど、今回は持ってないのはスティルインラブの方だ」

「どういうこと?」

「ティアラ3冠は全て1番人気のグルーヴが負けた。でも今回は相手が1番人気だ、グルーヴは2番人気ぐらい、つまりグルーヴが勝つ!」

「そう、私は1番人気で負け続けた。皆の期待を裏切って……」

 

 2人の励ましでやる気を得て少しずつ上がっていたアドマイヤグルーヴの耳が一気に垂れ、アドマイヤマックスは思わずアドマイヤドンの腹を肘で小突く。

 

「ティアラ3冠で全て1番人気を背負って走った。それは私やドンには分からない程のプレッシャーだったと思う。でもそれはグルーヴを強くした。その成果はエリザベス女王杯できっと現れる」

「本当に?」

「ああ、あとグルーヴは持っていないって言ったけど、私がグルーヴに与える」

 

 アドマイヤマックスはアドマイヤグルーヴの手に何かを握らせる。それは中央ウマ娘協会で販売しているヒシミラクルのお守りだった。

 

「何かご利益が授かるっていうから便乗して、あとお百度参りしてそのお守りに念を込めていたからきっとご利益があると思う」

「ありがとう。レースに持っていく」

 

 アドマイヤグルーヴはぽつりと呟く。運がないと落ち込んでいるなか、アドマイヤマックスは運を与えようと自分の為にお百度参りしてくれた。効果は有るか分からないがその心遣いは心に届いていた。

 

「うん?でもマックス、そのお守りそこまでご利益無いんじゃね?」

「どういうこと?」

「ヒシミラクルって何かピタゴラスイッチ的な不運で怪我したって聞いたけど。そんな人のお守り貰ってもね~」

「じゃあ、もう百度参りだな。二百度参りならヒシミラクルの運の無さを帳消しできる」

「いや、三百度参りだ。アタシもやる。日曜まであと3日だから1日三十参りか」

「待って、グルーヴは前日に京都入りで出発する前に渡さないといけないから残り2日だ。徹夜でやれば間に合う。とりあえず外出申請して」

「いいよ、そこまでしなくて。マックスの想いはヒシミラクルの不運に負けない。私が勝って証明してあげる」

 

 アドマイヤグルーヴの表情は少し前までの暗い表情から一転し、晴れやかで自信と決意に満ちていた。

 

 デジタルはニヤついた顔を見られないように手で口元を隠す。実にエモい場面を目撃できた。アドマイヤグルーヴの為にお百度参りするアドマイヤマックスの献身性は実にときめかせる。

 アドマイヤマックスとは安田記念で一緒に走った。デジタルに心奪われ偶像として崇拝したウマ娘、幸福を得るために理想の偶像に縋りつき、大切なアドマイヤとの関係性を断った。

 人聞きでアドマイヤと復縁できたと聞いたが実際にその目で見て確信できた。袂を分かったマックスも分かられたドン達も一連の出来事について理解し合い、さらに仲が深まった気がする。

 アドマイヤマックスについてはレース後もその動向が気になり様子を窺っていた。

 本来ならこれを機に仲良くしたいとも思ったが、自分の存在のせいでアドマイヤマックスの心を乱し、復縁の邪魔になるのではと考え距離を置いていた。

 アドマイヤとは復縁できた。だがレースではどうか?理想の偶像を感じるよりの幸福を見つけられたかのか?レースでは走ることはなかったがレース映像を見ることでどうなったかを知り、その表情は生き生きとしていた。

 

 かつて1番に感じたいウマ娘が居なくとも、その次に感じたいウマ娘ちゃんを見つけ、チームやトレーナーが喜ぶ顔が見ると嬉しいって気持ちを上乗せする事で今まで以上に幸せになれるとアドバイスした。

 それをアドマイヤマックスが実践できているかは分からない。だが今はレースでもプライベートでも充実して楽しいと思っているのは分かる。

 今のアドマイヤマックスは今まで以上に魅力的で、レースを通して感じたいと思うウマ娘の1人だ。一緒に走ればアドマイヤマックスの心が乱れてしまい、考慮しなければならないが、相手の事を考えなければ一緒に走りたい。

 アドマイヤマックスの次走は香港マイル、香港は2000メートルだが2回走っている。マイルでも充分に対応できる。ウマ娘断ちの改良の為に年内はあと2走と考え、マイルCSかジャパンカップダートで試すつもりだったが、香港マイルの為にマイルCSを走るべきか。

 

 デジタルは香港マイルについて調べるが、暫くするとマイルという単語から朝日杯FSに意識が移り。朝日杯について調べ始める。

 主に見ているのは朝日杯に出走予定のウマ娘や今後のジュニア級重賞に出走するウマ娘のアカウントや、所属チームのアカウントである。これは趣味と実益を兼ねた行動だった。

 趣味の面としてはウマ娘達を調べることによってその内面や人間関係を把握する為である。

 毎年多くのウマ娘がレースの世界に飛び込んでくる。その中には素敵なウマ娘や心をときめかせる関係を紡いでいるウマ娘を居る。全てのウマ娘を把握することは不可能だが、少しでも多くのウマ娘や関係性を知り楽しみたかった。

 そして実益の面としては朝日杯に出走するウマ娘を調べるためである。

 メイショウボーラーの次走はGI朝日杯、GIというレースは特別だ、大半のウマ娘がその舞台にすら立つことは叶わず、多くのウマ娘がその栄光を求める。

 出走ウマ娘それぞれにドラマがある。その背景を知ればどのウマ娘にも感情移入して応援するだろう。それでもメイショウボーラーに勝ってもらいたい。それ程までにチームの後輩は特別な存在である。

 

 勝つためのレースの展開予想や、出走ウマ娘の技術的なスカウティングはトレーナーがする。ならば別方向からアプローチしようと考えていた。

 デジタルが注目したのはメンタル面だった。ウマ娘の気質や交友感関係やバックボーンを知ることで、レース展開の予想やメイショウボーラーが勝つための道筋が見えてくるかもしれない。だがそれも徒労かもしれないと自虐的に笑う。

 メイショウボーラーと模擬レースを続けているが1日ごとに力をつけている。

 最初はメイショウボーラーを試すようなレースを作る余裕が有ったが、今ではそんな余裕がなく全力で挑み何とか先着しているというレース内容だった。

 手前味噌だがシニア級でもそれなりの実力が有るという自負があった。いくら才能が有るウマ娘でも成長途上のジュニア級だけが出るGIレースなら完勝できる自信が有る。

 その自分と互角のレースが出来るのだ、恐らく朝日杯はよほどの大物が潜んでいるか、誰かが覚醒でもしない限りメイショウボーラーの完勝で終わるだろう。

 そしてメイショウボーラーは未完成であり、ジュニア級で成長が頭打ちするタイプではない。このまま成長すれば歴史的な実績を残すウマ娘になるだろう。

 もし一緒のレースで走れば負けるかもしれない。だが先輩の意地と後輩の壁として全ての力を振り絞り先着してみせる。それがメイショウボーラーの成長に繋がる。

 そして感じる為に出来る限り先着し、負けるとしても少しでも足掻いて近づいてみせる。デジタルの思考は朝日杯ではなく、いずれメイショウボーラーと相まみえるGIレースの妄想に切り替わっていた。

 

───

 

 黒坂サブトレーナーは几帳面な人物である。どんなに疲れていようが出した本は所定の場所に戻し、ゴミもゴミ箱に分別していた。だが今はゴミが散乱し、PCが置いてある机周りは栄養ドリンクが散乱していた。

 その部屋の主はどんな些細な情報を見逃さまいと目を見開きながらPCの画面に映る映像を見つめる。映像にはアグネスデジタルとメイショウボーラーの模擬レースの様子が映っていた。

 どう考えても理屈に合わない。心技体においてデジタルの方がメイショウボーラーより明らかに勝っている。だが模擬レースを繰り返すたびに差は縮まり、今日のレースはハナ差だった。

 レースを見始めた初心者は着差が絶対的指標として実力差を測るが、トレーナーやサブトレーナーならば着差ではなくレース内容で実力差を測る。例えハナ差でも絶対に覆らない圧倒的な差な事もある。だが今日のレースは紙一重の差、実力伯仲と言って差支えない。

 

 考えられるのはメイショウボーラーが急成長している可能性だ、本番と模擬では違うのは分かっているが、模擬レースでもデジタルと実力伯仲のレースをしている。その実力はジュニア級の枠を飛び越えている。

 さらに言えば明らかに未完成だ、それでデジタルと互角とは末恐ろしい才能だ、このまま順調に成長すれば日本の歴史に名を残す。いや世界的名選手になるだろう。

 

 だが一つだけ疑問が生じる。それは走破タイムである。メイショウボーラーのタイムは確かに優秀だ。それはジュニア級にしてはというだけであって、歴史的な名選手だと仮定すれば遅い。その程度のタイムならデジタルであればもっと差をつけられるはずである。

 黒坂は検証を続けた結果ある仮説に辿り着く。恐らくメイショウボーラーは相手の実力を削ぎ落す力に長けているウマ娘だ、過去には走破タイムが過去の名選手より比べて遅いがGIを幾つも勝利したウマ娘が居た。そういったウマ娘は何かしらの術で相手の力を削ぎ落し、結果的にタイムが遅くなってしまう。

 黒坂はその仮説に辿り着いたが、メイショウボーラーがどのようにして力を削いでいるか分からなかった。どんな現象にも理屈がある。黒坂は血眼にしながら強さの理屈を調べ続けた。

 

──

 

「うわ、どうしたの、その顔?」

 

 デジタルはトレーニング場に着て黒坂の顔を見て思わず声をかける。顔色が悪く目元にははっきりと隈が出来ていて、言葉に出さずとも徹夜明けであると雄弁に語っていた。

 

「今日は休めば?メニューさえもらえば自分でやるから」

「気遣いありがとうございます。でもお構いなく」

「それで徹夜までして何してたの?」

 

 デジタルは興味本位で問いかける。かつてウマ娘の映像を徹夜で見た結果トレーニングに支障をきたし、トレーナーにこっぴどく怒られた事があった。

 黒坂ならやりたいことがあっても自重して止めるタイプだと思っていただけに、今の状態は意外で徹夜するまで何をしていたのか興味があった。

 

「メイショウボーラーのレース映像を見ていました」

「メイショウボーラーちゃん?」

「模擬レースといえどジュニア級でありながらアグネスデジタルとここまで競り合える。その実力は相当高い、歴史的選手になりえる逸材だと理解しました。ですが何が優れているか分かりませんでした。優れている点を解明すべくレース映像を見ていたら気づけば朝でした」

「分かる分かる。アタシもウマ娘ちゃんの映像を見ていたら気が付けば朝でしたって事があった。それで何が優れているか分かったの?」

「メイショウボーラーの優れている点は相手の強さを削る力だと分かりました。ですがどうやって削っているか理屈はまるで分かりませんでした」

 

 デジタルは黒坂の顔を覗き見る。黒坂の性格からして未知を恐れる気質だと思っていたが、その表情は晴れやかに見えた。

 

「それにしてはスッキリした表情しているね」

「ある天才数学者が居て幾つもの数式を発見したのですが、本人もその公式が何故正しいのか分からないそうです」

「へえ~、数学なんて理屈の世界で全て理論立てて証明できると思ってた」

「メイショウボーラーの力も同じ類なんでしょう。天才でも自分で説明できないことがある。それを凡人が理解できるわけがない。という結論に至りました」

 

 黒坂は今日の昼過ぎにメイショウボーラーに会い、走る時に何を考えているのか尋ねたが、特筆すべき思考や理論は実施していなかった。最初はそんな訳はないと何度も問いただしたが、数学者のエピソードを思い出し今の結論に至った。

 

「そして話が変るのですが、ローテーションについて提案があります」

「どんな提案?」

「今年の最終目標は東京大賞典で、新しいウマ娘断ちを試すためにマイルCSかジャパンカップダートのどちらかを走りたいという希望でしたね」

「そう、別にその2つじゃなきゃ絶対にヤダってわけじゃないけど」

「ならばマイルCSを走るべきと提案します。アグネスデジタルは2000メートルも走れますが、マイラー寄りのウマ娘だと考えています。それにジャパンカップダートは2100で、距離が長い可能性もあります。仮にこなせたとしてもレースの反動がマイルより大きいと判断します。それなら適性のあるマイルで走った方が反動は少ない」

「なるほど、そう言うならマイルCSにしよう」

 

 デジタルは黒坂の提案にデジタルは了承するように頷く、一方黒坂はその様子を見て内心で胸を撫で下ろす。デジタルとは信頼関係性が築けていなく、今の提案も納得できず、さらに信頼を失う可能性を危惧していた。

 

「それでウマ娘断ちの期間は1週間にします。そして試した結果で日数を増減するという方向で良いですか?」

「いいよ」

「それで、オフを挟むのでメイショウボーラーとの模擬レースは今日で一時中断になりますが」

 

 黒坂はデジタルの顔色を窺うように話す。デジタルはメイショウボーラーとの模擬レースを楽しんでいた。それを中断され機嫌を悪くするか心配していた。

 

「まあしょうがないか、マイルCS後に成長したメイショウボーラーちゃんを感じられるかを楽しみにしながら、ウマ娘断ち期間を過ごすとしますか。今日は目一杯感じて感じ溜めしないと」

 

 デジタルは特に機嫌を損ねることなく気持ちを切り替えるように模擬レースに向けて準備運動を始めた。

 するとメイショウボーラーとトレーナーがコースにやってくる。トレーナーと黒坂は打ち合わせを始め、デジタルとメイショウボーラーは一緒に準備運動を始める。

 

「今日で一旦模擬レースは最後だから」

「え?何か別メニューでもするんですか」

「ちょっとウマ娘断ちで1週間ぐらい学園から離れるから」

「大丈夫ですか?かなりきつくて力石みたいになってたって聞きましたよ」

「力石って?」

「力石ですよ。知らないですか?あしたのジョー、漫画やアニメの」

「ごめん、知らないや」

「じゃあ貸しますよ。名作ですから」

「じゃあ借りようかな。ウマ娘断ちの最初はやることなくて娯楽作品があると良い暇つぶしになるんだよね。あとその漫画ウマ娘ちゃん出て無いよね?」

「出て無いと思います」

「一応ウマ娘断ちするから、絵でもウマ娘ちゃんの姿を見たらアウトだからさ」

「確認しておきます。出発は何時ですか」

「明日はオフだから明後日」

「しかし厳密というかストイックというか」

「でしょ、テキトーに見えるかもしれないけどストイックなんだよ」

 

 2人は気の置けない会話をしながら準備運動を続ける。模擬レースをしてから2人の距離感は一気に縮まっていた。程よく体が温まるとウッドチップコースに向かいスタート地点に着いた。 

 

 デジタルはスタートするまでの僅かの時間を利用してメイショウボーラーを観察する。黒坂の強さは相手の力を削る力、そして削る力の理屈は分からないと言っていた。今日のレースでその理屈を解明しようと試みようとしていた。

 それは黒坂の為でもなく知的好奇心から生じた考えではない。メイショウボーラーというウマ娘を理解することでより感じられるかもという自分の欲求だった。

 

 レースがスタートしメイショウボーラーがハナを切りデジタルは後ろにつく。メイショウボーラーを風避けにして力を温存する。

 今日は最初の時のように相手を試すようなレースはしない。正確には出来ない。今では本気で走らなければメイショウボーラーに勝つことはできないほど実力は拮抗していた。

 直線迄の道中はメイショウボーラーが前を走り、デジタルが1バ身後ろにつくというスタート直後と変わらない位置取りで進んでいく。傍から見れば一見変化がないように見えるが道中では駆け引きが繰り広げられていた。

 前のウマ娘が速ければ速いほど後ろに居るウマ娘は風よけの恩恵に与り力を温存できる。ならば出来るだけペースを遅くすればいいと思うかもしれないが、そうなると末脚が優れているウマ娘が居た場合に瞬発力勝負に負ける。

 メイショウボーラーの刻むペースは後ろに可能な限りに風よけの恩恵を与えないように落とし、かつ後ろの末脚自慢に負けない程度に距離を稼ぐ速さでまさに理想的なペース配分だった。

 デジタルはレース中ながら内心で頬が緩む。この短期間でここまでペース配分が出来るようになったか、レースでは緊張など様々な外因で出来ないかもしれないが、練習でこれだけ出来れば充分だ。本当に成長した。

 

 直線に入るとデジタルはメイショウボーラーの後ろから横に移動して溜めていた力を一気に開放する。

 後輩を叩きのめして悦に浸る趣味はないが、ここは全力で叩きのめす。

 自信はレースを走るために必要だ、だが自信は過信にいとも容易く変化する。メイショウボーラーがこのレースに勝てば、自信を身に着け過信に変化してしまう。GIに挑むまでは過信を持ってはならない。

 残り100メートルとなりメイショウボーラーとの差は半バ身まで差を詰める。

 追う者の中には思った以上に差が縮まらない事に焦り心を挫いてしまう者も居る。だがデジタルにはそれらの心は無い。メイショウボーラーが強いことは分かっている。この程度は予定通りだ。

 ゴール地点に近づきにつれてその差はクビ差ハナ差と縮まっていく。そしてゴールを通過した瞬間2人の身体は重なっていた。

 

「どっちですか?」

「わからない」

 

 メイショウボーラーはゴール板を通過して即座にデジタルに尋ね、デジタルは首を横に振る。余裕が有れば分かるかもしれないが、今のレースは全力で走り余裕は全くなかった。

 2人はゴール板付近に居たトレーナーの元に駆け寄る。模擬レースなので写真判定はしておらず、最終判定はトレーナーが下す。写真判定程正確では無いがトレーナーであれば僅差でも判別できる。

 

「トレーナー、どっちが勝ってました」

「俺の目ではメイショウボーラーの方が態勢有利やった」

 

 トレーナーの言葉にメイショウボーラーはガッツポーズを何度もして喜びを爆発させる。

 

「だが!」

 

 トレーナーはアクセントを強調して大声を出す。その声量にメイショウボーラーはガッツポーズを止め、トレーナーの方を向く。

 

「デジタルはウッドチップの破片が目に刺さりかけて避けたなど様々なアクシデントがあった。それが無ければ勝っていたのはデジタルや」

「……ちょっと白ちゃん~。そういうこと言わないでよ~恥ずかしいじゃん。負けは負けでしょ」

「そうだったんですか?すみません!目は大丈夫ですか」

「大丈夫、手でガードしたから。それより道中のペースは完璧だったよ。あの感覚を忘れないでね。逃げは自分でレースを作れるのが最大の強みだから」

 

 デジタルは話題を変えるようにメイショウボーラーを褒めたたえる。メイショウボーラーはデジタルの言葉に嬉しさを隠し切れないと、勢いよく首を縦に振って相槌していた。

 

「強いと思っていましたが、まさかここまでとは」

 

 黒坂は模擬レースが終わりクールダウンしているデジタルに思わず呟く。歴史的選手になる可能性があるメイショウボーラーならいずれデジタルに先着することも有ると思っていたが、まさか今日がその日になるとは思っていなかった。

 

「本当にね。けど、今日はあくまでも模擬レースだからね。本番と模擬レースは別物だから」

 

 デジタルは飄々とした態度で返事する。傍から見たら言い訳に聞こえるが本人は言い訳だとは思っていなかった。

 トレーニングと本番では思いの強さも感情の重さも違う。感情や想いが大きく重くなればなるほど、近づいて感じたいという自身の感情も強くなり力が増す。

 

「そういえば、黒坂ちゃんが言っていたメイショウボーラーちゃんの強さを削る力を見極めようとしたんだ」

「それでどうでした?」

「分かんなかった。本当の天才の技術はアタシみたいなウマ娘には分からないや」

 

 デジタルはおどけるように手を広げる。ペースを調整して相手が有利にならない展開を作る。それは黒坂が言う強さを削る力ではないだろう。そんな事は大概のウマ娘が実践し分かるはずだ。黒坂が言いたい事はもっと深い話だろう。

 全く悟られずに相手の力を削る。これをされたら敗因を分析できず何度も負けることになる。何とも恐ろしい技術だ。

 

 するとデジタル達の元にトレーナーが寄ってくる。デジタルは露骨に不機嫌な表情を浮かべた。

 

「デジタル、すまんな。咄嗟の嘘に乗ってくれて」

「別に、ああ言っておかないとメイショウボーラーちゃんが調子乗っちゃうかもしれないし」

 

 デジタルはぶっきらぼうに答える。トレーナーはアクシデントが無ければデジタルが勝っていたとメイショウボーラーに伝えた。だがそれは嘘であり、アクシデントに巻き込まれることなく力を発揮して負けた。

 

「要件はそれだけ?」

「いや、デジタルに伝えなあかん重要な話がある」

 

 トレーナーは重苦しい空気を発しながら喋る。その言葉にデジタルは思わず意図的に外していた視線をトレーナーに向けた。

 



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勇者の疑惑#5

誤字脱字の指摘ありがとうございます


 トレーナー室のソファーにデジタルとトレーナーが向かい合うように座る。デジタルはソファーにトレーナーと視線を合わせないように辺りを見渡す。最後にトレーナー室に来てからそこまで時間は空いていないが何カ月ぶりに来たような錯覚に陥っていた。

 暫くすると黒坂が2人の前に飲み物を差し出すとデジタルの横に座る。

 

「まずは今日の模擬レースで何故メイショウボーラーに負けたと思う?」

「前置きはいいから本題から入ってよ」

「まずは私見を聞いてからや」

「分かったよ。それはメイショウボーラーちゃんが強いからだよ。このまま順調に成長すれば歴史的名選手になると思ってる」

 

 デジタルは意見を言いながらトレーナーの顔を窺う。特に表情を変えることなく思考や感情が分からない

 

「黒坂君はどう思う?」

「私も同意見です。メイショウボーラーは歴史的名選手になるウマ娘です」

 

 黒坂は突然話を振られ戸惑いながらも意見を言う。デジタルは1流のウマ娘だ、だがそれ以上のウマ娘と走れば負けることもある。結果からしてメイショウボーラーはそれだけのウマ娘だということだ。

 

「なら、メイショウボーラーは何故強い?」

「それはスピードや勝負根性や瞬発力は高いし、あとはレースセンスも良い。今日のレースはペース配分も上手かった。あとは黒坂ちゃん曰く相手の力を削ぐ技術が抜群に優れている」

「その相手の力を削ぐ技術やが、デジタルはメイショウボーラーに何をされて力を削がれたのか分かったのか?」

「分かんない。でも天才の技術は普通の人には分からないんでしょ。インドの数学者は自分が見つけた数式が何で正しいのか分からないっていうし、メイショウボーラーちゃんも特に意識せずにやってるんじゃない」

「黒坂君も同じ意見か?」

「はい、メイショウボーラーのタイムは特筆すべきものではありません。ならば何故アグネスデジタルが負けるかと考えると、力を削がれているからとしか考えられません。恐らくメイショウボーラーは相手の力を削った結果、アグネスデジタルは模擬レースでも特筆するようなタイムを出せず負けた」

 

 トレーナーはデジタルと黒坂に視線を向けると僅かにため息をつき悲しそうな表情を見せた。

 

「黒坂君は物事を深く考えすぎや。タイムが遅いと分かっているなら答えは至って単純、デジタルの力がジュニア級に負けるまでに衰えているからや」

「は?」

「え?」

 

 2人はトレーナーの言葉に思わず気の抜けた言葉が漏れる。その言葉は脳裏の片隅にもなかった。

 

「冗談はよしてよ!アタシに自覚症状はない!模擬レースに負けたからって短絡過ぎ!負けたのはメイショウボーラーちゃんが凄いから!ちゃんとチームのウマ娘ちゃんを見てあげなよ!トレーナーが力を信じてあげなきゃ誰が信じるの!やっぱり白ちゃんはダメだ!今すぐ引退して黒坂ちゃんにチームプレアデスを引き渡して!」

「アグネスデジタル落ち着いて」

 

 黒坂は立ち上がって激昂するデジタルの肩に手を置いて宥める。今のところ何とか抑えているが今すぐにでも殴りかかりそうな形相だった。

 

「2人はメイショウボーラーが相手の力を削ぐ技術があると言っていたが、そんなものはない。断言する」

「そんなことはない!白ちゃんの目が節穴なだけ!」

「目が曇っているのはお前や、それを証明したる。明日以降もメイショウボーラーと模擬レースをしてもらう。そして1日ごとに広がっていく差を感じて、現実を直視しろ」

「いいよ、やってあげる!」

 

 デジタルは捨て台詞のように言い放つと乱雑に扉を閉めて部屋を退出し、黒坂はトレーナーに一礼してデジタルの後を追った。

 

 

 メイショウボーラーはチームルームに入り制服から練習着に着替え始める。制服を脱いだ瞬間反射的に体を震わせる。11月に気温もめっきり下がりチームルームにも暖房は無いせいで、室内の気温は外とさほど変わらない。

 秋と冬の着替え始めてからトレーニングが始まる前の時間は好きではなかった。トレーニングが始まれば体が温まり寒くないのだが、身体が動かさないと寒い。

 

「お疲れ、今日も寒いね」

「最近いつも寒いって言ってない?」

「だって寒いし」

「メイショウボーラーは寒がりだもんね。めっちゃカタカタ震わせてる」

「ほんとだ。ちょっと脹脛触ってくんない?その震え具合が良い感じにマッサージになるかも」

「人をマッサージ機みたいに言わないでよ」

 

 トレーニングが始まる前はチームルームで、同い年のチームメイト達とポケットに手を突っ込み身をすぼめながらお喋りする。寒いのは嫌いだがこの時間は寒くても好きだった。

 

「そういえば聞いたよ。アグネスデジタル先輩に模擬レースに勝ったんだって?凄いじゃん」

「まあね、と言いたいところだけど、トレーナーが言うには模擬レース中にウッドチップが当りそうだったりとアクシデントがあって実力を発揮できてなかったみたい」

「それでも勝ちでしょ。ヒシミラクル理論で言えば完全無欠の勝利だって」

「でも完全には納得できないよ」

「え~もったいない。天狗になれる時期何てほんの僅かで、いずれ現実知ってバキバキに心を折られるんだから、今のうちに調子に乗っておかないと」

「そういう考え方もあるのか」

 

 メイショウボーラーは思わず手を叩く。無敗で引退できれば調子に乗り続けられるが、勝ち続けるのはある意味3冠ウマ娘になるより難しく、そんな突出した実力がないのは分かっている。

 いずれどのレースかで負ける。ならば負けるまで調子に乗って全能感に浸るのも悪くないのかもしれない。

 暫く雑談を楽しんでいるとトレーナーがやってきてトレーニングが開始した。

 

「嬉しそうやな」

 

 トレーナーはメイショウボーラーとコースに移動している最中に思わず声をかける。歩行という何気ない動作に喜の感情が滲み出ていた。

 

「すみません」

 

 メイショウボーラーは明らかに動揺しペコペコと何回も頭を下げる。その動作を見てトレーナーは思わず苦笑する。

 

「どないした?そんなに謝らなくてもええやろ。それとも何かやましいことでもあるんか?」

「いや、トレーナーにはアグネスデジタルさんに勝っても調子に乗るなと言われましたけど、友達にはどうせ負けて調子に乗れなくなるんだから、今のうちに調子に乗っておけと言われまして、調子に乗ってました」

「なるほどな、そんなにデジタルに勝てたのが嬉しいか?」

「勿論ですよ。本番のアグネスデジタルさんはこんなもんじゃないっていうのは分かってますけど、例えアクシデントがあっても勝てたのは嬉しいですよ。目標はアグネスデジタルさんと一緒のレースに出走して勝つことですから、その目標に僅かでも近づけたと思うと嬉しくて。それに一緒に走っていて楽しいです」

 

 メイショウボーラーは嬉々とした表情を浮かべ語り始める。

 チームプレアデスに入った理由はデジタルが所属していたからだ。その走りに憧れいずれ超えたいという感情が最大のモチベーションである。一方トレーナーはメイショウボーラーに物悲し気な表情を向けていた。

 

「メイショウボーラー、今のうちに謝っておく。お前には辛い役目を任せることになる」

「何がですか?」

 

 メイショウボーラーはトレーナーに質問するが答えることなく無言だった。メイショウボーラーは訝しむがアグネスデジタルとのレースに意識を向けた。

 

「今日もよろしくお願いします」

 

 メイショウボーラーはコースに着くと、いつも通りデジタルに挨拶する。そこでデジタルの雰囲気の違いに気づく。

 いつもの長閑な感じではなくひり付いて重苦しい。まるで本番のレースで走るウマ娘のようだ。今までは遊びだったが、これからが本番として全力で叩きつぶすということか。

 侮られたという怒りはない。只の後輩から全力で叩き撫す必要があるライバルと認められた喜びしかなかった。

 

───

 

「はぁ」

 

 メイショウボーラーはチームルームに着いて早々にため息をつく。世間は明後日のマイルCS、そして来週のジャパンカップとジャパンカップダートを前にして大いに盛り上がっているが、メイショウボーラーの心は只冷え切っていた。

 初めてデジタルに先着して以降メイショウボーラーは模擬レースで先着し続けた。

 そして着差はクビ差、半バ身差と徐々に広がっていき、昨日のレースでは2バ身差をつけた。マイルのレースでは完勝といえる着差だ。

 最初は自分が強くなったと自信を持つことができた。だが次第に認識が間違っている事に気が付く。自分が強くなっているのではなくデジタルが弱くなっているのだ。

 メイショウボーラーはデジタルと一緒のレースに出走して勝つのが目標だった。しかし単純に勝てばいいという話ではない。強いアグネスデジタルに先着しなければ意味がない。

 最初はデジタルとの模擬レースは学ぶもの多く楽しかった。

 だが今は走るたびに憧れが弱体化する姿を間近で見せられ、夢が叶わないと認識され続ける苦行だった。何時ぞやにトレーナーが辛い役目を任せると言った意味がようやく理解できた。

 

「何の為にアグネスデジタルさんと走るんですか?何で私なんですか?正直辛いです……」

 

 メイショウボーラーとトレーナーがレースコース場に向かう道中に悲し気な表情を浮かべながら質問する。メリットが無い以上デジタルと模擬レースはもうしたくない。

 

「それはデジタルの介錯としゅうかつの為や」

「介錯としゅうかつ?」

 

 メイショウボーラーは思わず聞き返す。介錯は切腹で苦しまないよう首を切る行為、随分と物騒な単語が飛び出た。そしてしゅうかつとは就職活動のことだろうか?

 

「メイショウボーラーも分かっていると思うがデジタルは衰えている。だがアイツはそれを認めようとしない。認めたら全てが終わるからな」

「でも何で私なんですか?正直今のアグネスデジタルさんなら私じゃなくても先着できる。それだったらチームの先輩たちでもいいじゃないですか?」

「ジュニア級に負けるのは想像以上にショックを抱く。だがチームのジュニア級でデジタルに勝てるのはメイショウボーラーしかいない」

 

 トレーナーは淡々と説明する。メイショウボーラーを介錯人に選んだのは今言った理由以外にもあった。

 デジタルは同じレースで後輩と一緒に走る同門対決に憧れに似た感情を抱いていた。その為にはデジタルと同じ舞台に立てる実力が必要だった。そして才能を秘めているメイショウボーラーを目にかけ同門対決を実現させようとした。

 最初は自分の目的の為に目をかけていた。だが今は純粋にメイショウボーラーというウマ娘に好意を抱き目をかけている。そんな相手だからこそ介錯人に相応しいと考えていた。

 

「デジタルは衰えを受け入れたら全てが終わる事を無意識に理解しとる。だから頑なに衰えを受け入れないんやろ。だが想像以上に悪い方向に進んでいる。少しでも早く受け入れささせないと不幸になる。お前が辛いのは分かる。だがもう少しだけ一緒に走ってくれないか?」

 

 トレーナーはメイショウボーラーに向かって深々と頭を下げる。そしてメイショウボーラーはしゅうかつの言葉の意味を知る。しゅうかつとは就活ではなく終活、余命僅かな者が幸せに人生を終わらせるためにする活動のことだ。

 流石に命に関わる事ではないだろう。だが非常に重大な事であるのは理解できた。

 

「分かりました。私にとってアグネスデジタルさんは憧れの人です。その人が少しでも幸せになれるなら、喜んで介錯人を引き受けます」

「すまん。恩に着る」

 

 トレーナーはもう一度深々と頭を下げた。

 

 メイショウボーラー達はダートコースに着く。いつも通りウッドチップコースで模擬レースをするつもりだったが、メイショウボーラーがダートコースで走りたいとトレーナーに頼み、急遽コース変更していた。

 メイショウボーラーはコースに着いて早々デジタルの様子を観察する。初めて先着した直後に見せたひりつきと重苦しさ、それは見る影もなくその姿がひどく小さく見えた。

 模擬レースは距離1600メートル、レースが始まりいつも通りメイショウボーラーがハナを切る。だがいつもと違って3バ身4バ身と差をグングンと広げていき、半マイルで10バ身差をつける。これは逃げではなく大逃げと言って差し支えないレース展開になっていた。

 メイショウボーラーは鬼のような形相で先頭をひた走る。普通に勝つだけではダメだ。圧倒的な差で勝利して完全に心を折り、衰えを認めさせる。

 レースはメイショウボーラーが大きなリードをキープしたまま直線に入り、デジタルも遅れて直線に入る。

 デジタルは末脚を発揮するが10バ身差あったリードを5バ身差縮めるのがやっとだった。結果はメイショウボーラーの5バ身差の大楽勝に終わった。

 

「あ~今日は調子悪かったけど、思った以上についたな~」

 

 メイショウボーラーはゴール板を通過して項垂れるデジタルに近づき独り言を呟く。その声量は独り言にしては明らかに大きかった。

 その言葉にデジタルは驚愕の表情を浮かべると一目散に黒坂の元に向かった。

 

「タイム見せて!」

 

 デジタルはタイムを計っていた黒坂のストップウォッチを強引に奪い表示されたタイムを見る。

 

 1:38:08

 

 これはこのコースにおける未勝利レベルの平均タイムだった。

 

 デジタルは表情に不安と恐怖の色をさらに強めながらトレーナーの元に向かって、表示タイムを見る。

 

 1:38:02

 

 デジタルは即座に計算する。正確な着差は分からないが約5バ身差は離された。自分のタイムを基準にすれば妥当なタイムだ、このタイムは1勝クラスの平均タイムである。

 デジタルはその場で膝から崩れ落ち手で顔を覆う。目を見開き呼吸が荒く明らかに正常な状態ではなかった。トレーナーは思わず手を伸ばすが手を払いのけコースから走り去っていく。

 

「心が痛みますね」

「ああ、だがこれは流石に効くやろ」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの元へ近づくと今にも泣きそうな顔と声で呟き、トレーナーは労うように肩に手を置いた。

 

 メイショウボーラーのタイム1:38:02、デジタルの1:39:00という走破タイムは正確なタイムでは無かった。トレーナーが黒坂に協力を要請して意図的にタイムを遅くしていた。

 数字は無慈悲に雄弁に事実を示し、その事実に多くの者は事実を認めてしまう。それほどまでに数字の力は強い。

 平時であればデジタルもこのタイムは嘘で有ると気づくだろう。だがトレーナーは今であればこのペテンは通用すると判断し実行した。

 未勝利レベルのタイムでしか走れないと勘違いすれば衰えを認めざるを得ないだろう。

 

「ちなみに本当のタイムは1:36:05、自己ベスト更新でジュニア級としては抜群のタイムや」

「今は喜ぶ気になれません」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの報告を無表情で聞き流す。今の実力でこのタイムで走れなかった。だがデジタルの為に圧倒的な差をつけて心を折ると一心で走った。

 それはかつてデジタルが安田記念でアドマイヤマックスの為に勝たなければならない発揮した力、自分の為でもなくチームメイトやトレーナーなどの周りの人の為ではなく、レースに勝てば相手の不幸にすると分かっていながら相手の為に勝つという矛盾した感情、慈悲の心が生み出した力と同じだった。

 

───

 

「違う!違う!違う!アタシは認めない!認めてたまるか!」

 

 寮から数百メートル離れた場所に一際大きな樹木が有った。

 

 デジタルは寮から数百メートル離れた雑木林に向かっていた。幹の中心には何かで殴ったように凹んでいた。

 その樹木はかつてエイシンプレストンがストレス発散と武術の練習としてサンドバッグ代わりとして使用し、凹みはエイシンプレストンの打撃によって作られたものだった。デジタルもその凹みに向けて全力で拳を叩き込む。

 辺りにデジタルの慟哭と打擲音が響き渡る。夕日によってデジタルの姿は茜色に染め上げられる。そして拳は一層茜色に染まっていた。それは拳は度重なる殴打で拳の皮が捲れ出血したのが原因だった。たが痛みを気にすることなく殴打を続ける。

 

 今日の模擬レースで1勝クラスのタイムを出してしまった。だがあれは本来の結果ではない。

 トラックバイアスが有った。自分で分からない不調があった。メイショウボーラーの未知の技術によってタイムを落とされた。デジタルは思いつく限りの言い訳を脳内で思い浮かべ拳を打ち込む。

 脳内で衰えという文字が浮かび上がり、そのたびに言い訳で脳の奥底に押し込めていく。

 絶対に認めてはならない。認めてしまえばたとえ偽りだとしても真実になってしまう。それ程までに精神が肉体に与える影響は大きい。だが想いとは裏腹に衰えの二文字が益々大きくなっていく。

 

「違う!違う!違う!アタシはもっと走れる!ウマ娘ちゃんを感じられる!6年は現役で走れる!」

 

 デジタルは自己暗示をかけるように声を張り上げ、自身に言い聞かせながら拳を幹に打ち込む。

 何を衰えた過程で思考を進めている。衰えはきていない。あと6年は現役としてウマ娘を感じると目標を立てた。夢や目標は必ず叶う。

 弱気を掻き消そうと無心で拳を打ち込む。木の幹には血痕がこびり付いていた。

 

「アタシはやれる!もっと走れる!ウマ娘ちゃんを感じられる……」

 

 暫くするとデジタルの動きは鈍くなっていき、最後には動きが止まる。ある日を境に無意識に、そして意識的に衰えという言葉の敵に抗ってきた。

 宝塚記念でも日本テレビ盃でも南部杯でも天皇賞秋でもレースを通して満足にウマ娘を感じられなかった。それでも衰えではなく、調整やレースでの判断ミスでそれさえ修正すれば前のようにレースを通して十全にウマ娘を感じられるようになると信じた。

 だが少し前までは実力的には明確に下だった後輩のメイショウボーラーに負けるという事実は、心に確実に楔を打ち込んできた。

 そして今日の模擬レースにおける完敗、この事実によって心の防波堤は粉々に砕け、衰えという言葉の大波は心を完全に吞み込んでいた。

 

「やだよ……もっとウマ娘ちゃんを感じたいよ」

 

 デジタルは思わず呟く。その声は先程までと比べ今にも消えそうなほどか細かった。この瞬間衰えているという事実を完全に認めていた。

 

───

 

「アグネスデジタルは衰えていると気づいたのはいつですか?」

 

 黒坂は徐にトレーナーに尋ねる。模擬レースが終わりメイショウボーラーとトレーナーと黒坂はデジタルの今後を話すためにトレーナー室に集まっていた。

 トレーナーはソファーの背もたれに背を預け深く息を吐いた後に語り始める。

 

「きっかけは宝塚記念やな」

「宝塚記念ですか、敗因は距離の長さで妥当な結果だと思いましたが」

「俺もそう9分9厘はそう思っておった。だが1厘で衰えかもしれんと疑っておった。それで日本テレビ盃と南部杯でも負けた。これも敗因が明確やったが疑念が2厘3厘と増えてきた。そして天皇賞秋での負けで疑いが一気に7分ぐらいに増えた」

 

 黒坂が以前に天皇賞秋におけるデジタルの敗因はトレーニングの質の低下と心のバランス調整ミスと述べた。その意見にはトレーナーも同意する部分は有ったが異論を有った。

 ウマ娘断ちによって心のバランスは崩れた。だが極限状態によってウマ娘への執着は大いに増し、プラスの面も有ったはずだ。

 黒坂はウマ娘断ちによって能力が元ある能力が100と仮定して、マイナス70減少したと考えた。

 一方トレーナーはウマ娘断ちでプラスマイナスを差し引いてマイナス20程度と考えていた。その程度のマイナスであの着順は実力から考えてあり得ないと考え、あの結果は衰えによるものという結論を出した。

 

「だがあくまで俺の中での考えであって、何時ぞやのデジタルが言った通り証拠がない。せやから証拠を集めることにした」

「それがメイショウボーラーとの模擬レースですか」

「そうや。第1目的はメイショウボーラーの成長を促すことがやが、証拠集めでもあった。初めてのレースでの着差、走るごとに縮まる着差を見て衰えていると確信した」

 

 メイショウボーラーは膝に置いていた手を強く握る。盛者必衰、アスリートにとって衰えは避けることは出来ない現象だ、そう分かっていながらも憧れが衰えるわけがなく、いずれは最高の舞台でベストなデジタルと走れると信じようとしていた。

 

「でも衰えることの何が問題なんですか?」

 

 メイショウボーラーはふと疑問が浮かび上がりトレーナーに質問する。

 確かに衰えはアスリートにとって避けたい問題だ、衰える分だけ目標から遠のいていき、走るステージもグレードダウンしていく。かつてはGIを走っていたのに下のステージで走り負ける。それに耐えられないというウマ娘も居るかもしれない。

 短い付き合いながらデジタルはレースを通してウマ娘を感じることを好むのを知っている。それはどのステージでも関係なく、例え地方で一番下のステージでも支障がないはずだ。

 それにあと9年は現役を続けると豪語していたが、多少衰えても現役でレースを走りウマ娘達を感じることは出来る。

 

「衰えるのは問題ない。問題なのは衰えのスピードとデジタルの置かれた状況や」

 

 トレーナーは立ち上がり机の書類の束から1枚のプリントを取り出し、メイショウボーラーと黒坂に見えるようにテーブルに置いた。

 2人は紙に書かれた折れ線グラフを見る。基準は分からないが比較的に緩やかな下降線を辿っていた。

 

「これはデジタルがメイショウボーラーと初めて模擬レースを走ってから、初めて先着されるまで、デジタルの実力を数値化したものや。そしてこれが次の日から昨日までのデジタルの実力を数値化したグラフや」

 

 トレーナーは2人にもう1枚プリントを渡す。それを見て2人は目を見開きながらプリントに書かれたグラフを見つめる。

 折れ線グラフの下降線が1枚目と比べて明らかに大きくなっていた。そして折れ線グラフの縦軸にはGI、GⅡ、GⅢ、L、OPとレースのグレードが書かれ、横軸には来年の月が書かれていた。2人はグラフを注視する。

 デジタルの数値は来年の1月でOPクラスを下回る3勝クラスに落ち込み、1年後には1勝クラスどころか、園田と書かれた値まで落ち込み、その半年後には高知と書かれた値まで落ち込んでいた。

 

「園田や高知って書かれていますけど、これはどういう意味なんですか?」

「それはそこでなら何とか通用するレベルって意味や」

「高知!?高知って確か地方で1番レベルが低い場所ですよね?たった1年半でそんなに弱くなるんですか!?」

 

 メイショウボーラーは質問の答えに思わず大声で喋っていしまう。

 高知は地方では最下層、現役に拘りながら実力が衰え地方のどこでも走る舞台がないウマ娘が行きつく終着点、そこで走るウマ娘も中央に居るウマ娘より年齢は高く、30代のウマ娘も居ると聞いたことがある。

 そんな終着点にデジタルがたった半年でそこまで実力的に衰えるとは俄かに信じがたかった。

 

「ウマ娘の衰えはもう少しゆっくりだと思っていましたが、ここまで急なのですか?」

 

 黒坂もメイショウボーラーほどではないが声に驚愕の感情が帯びていた。怪我による競争の力の低下なら急激に能力が低くなることはある。だが衰えでここまで急激に低下するケースは今まで聞いたことはなかった。

 

「あくまでも推測や、だが多少誤差があるにせよ表に近い下降線を辿るやろ、俺もここまで急激に衰えるウマ娘を見たのは初めてや」

 

 トレーナーは思わず額に手を当てる。座学でもトレーナーとしての活動でもこれほど衰えが急激に進行したウマ娘は見たことが無い。

 

「デジタルは出来る限り現役で走る事を望んでいる。しかしただ走るだけが目的やない。ある程度勝負にならなきゃ感じられない。直線で他のウマ娘に大差をつけられた状態じゃ無理だ」

「そういえば以前に勝負どころの直線がウマ娘ちゃんの感情が一番迸ると語っていました」

「だから終活なんですね。いずれウマ娘を感じられなくなる。その事実を認識させ残りの時間をより良く過ごす。高知で勝負出来るのは1年半後、それまでの間は幸せに過ごしてもらいたいです」

「残念やが、そんな時間は残されていない」

「どういうことですか?」

 

 メイショウボーラーは首を傾げる。1年半では少ないということだろうか?だがそれなら残されていないという単語は使わない。

 

「中央ウマ娘協会の規定で、中央所属のウマ娘は所属の変更を2回まで認めるというものがある」

「えっと、つまり?」

「中央のウマ娘が地方に移籍して地方所属になった後に、また地方所属から中央所属になることは認めるが、再びウマ娘は再び地方になることは認められない」

「そんなルールが有るんですね。それが何の問題なんですか?」

「大ありや。デジタルはダートプライドに出走するために地方の大井所属になった。そして再びこっちに戻ってきた。もう地方に行くことはできない」

「あ!」

 

 メイショウボーラーはトレーナーの説明を聞き事の重要さを気づく。あと1年半幸せに過ごして欲しいと言った。それは地方に行けるという前提での計算だった。だが地方に行けないなら前提は成立しない。

 しかもデジタルはGIウマ娘だ、3勝クラスで走れない。GIや重賞やOPでウマ娘を感じられる程度食らいつけるまであと何ヶ月持つ?恐らく相当短い。

 

「アグネスデジタルさんはこの規定は知っているんですか?」

「恐らく知ってるやろ。ああ見えてトレーナーになるために勉強しておったからな。恐らく無意識で自分に時間がない事を知っているからこそ、認めようとしない。だからこそ一刻でも早く衰えていると認めさせ、少しでも幸福な時間を過ごさせたい」

 

 トレーナーは唇を力いっぱい噛みしめる。デジタルにとってレースを通してウマ娘を感じるのは生き甲斐のようなものだ、その生き甲斐を突然奪われようとしている。

 それはデジタルにとってある日末期がんに罹り余命数ヶ月と言われたようなものだ、その悲しみと恐怖は想像に絶する。

 そしてデジタルはあと9年現役をやると宣言していた。それは宣言であると同時に自己暗示の一種でもある。

 思い込みが激しいデジタルにとってこれは決定事項のように扱われ、その分だけショックは大きい。さらに言えば衰えのスピードが尋常ではなく、衰えを受け入れる時間はあまりに少ない。

 

 せめて衰えがもう少し遅ければ、レースの神様が居たとしたら心の底から憎むだろう。

 

 デジタルの衰えがここまで急激に進行したのには理由が有った。

 衰えは安田記念以降から始まっていた。だがある行為をしなければ平均的な衰えの進行度だった。

 安田記念においてデジタルはアドマイヤマックスの心を救う為に慈悲の心の力を発揮した。慈悲の心は限界以上の力を発揮する。その力はトリップ走法と同等である。

 トリップ走法も慈悲の心も限界以上の力を発揮するという共通点がある。だが限界以上の力を発揮すれば必ず歪が生じる。脳が限界だとドクターストップがかかったのもそうだが、これ以上無理を重ねて欲しくないとダートプライド以降トリップ走法を固く禁じた。

 ウマ娘が人間と筋肉量が変らないのに超人的な力を有しているのは、ウマ娘ソウルと呼ばれる特殊な力が要因と言われている。そしてウマ娘ソウルの力は使えば使う分だけ消費する。ウマ娘の衰えはウマ娘ソウルの消費によるものである。

 安田記念でデジタルと3着の差は3バ身差、デジタルも慈悲の心の力を使わなければアドマイヤマックスに3バ身差程度の差をつけられて負けていただろう。

 

 人によっては僅かな差だと感じるかもしれない。だがその僅かな差を埋めるために、デジタルは慈悲の心の力を使いウマ娘ソウルの力を消費した結果、選手寿命を大幅に縮めてしまう。その代償は大きかった。

 トレーナー室にはデジタルの絶望的な未来に悲観し重苦しい空気に包まれていた

 



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勇者デッドエンド#1

 アグネスデジタルは駆け足で寮の自室に向かうと、本棚から中央ウマ娘協会の規定が網羅されている書籍を取り出し、部屋を出て行く。目指す先は中央ウマ娘協会の役員室である。

 この体は衰えている。断じて認めたくないが最早逃れ慣れない事実だ、そしてこのままではあと9年間現役で走るという目標も達成できない。

 問題は中央ウマ娘協会の規定、中央に所属しているウマ娘は2回目の移籍が出来ないという項目だ。これを改訂しなければ未来はない。

 

「失礼します!」

 

 デジタルはノックして部屋に入室する。そこには役員と秘書が打ち合わせをしていた。思わぬ来訪者に役員たちは驚くが構わず歩を進める。

 

「失礼ですがどちら様でしょうか?アポイントは取られましたか?」

「この規定を変えてください!」

 

 デジタルは秘書の言葉を無視し、机に座る役員の目の前に書籍を勢いよく置くと、ページを開き赤ペンで囲まれている規定文を見せる。役員は勢いに気圧され思わず規定文を黙読する。

 

「この規定文がどうしたというのだ?」

「移籍できる回数を今すぐ無制限にしてください!お願いします!」

 

 デジタルは勢いよく90°の角度で頭を下げる。その姿に役員たちは戸惑い見つめる。

 

「理由は何なのだ?」

 

 役員は率直に尋ねる。本来であれば一介の学園のウマ娘がアポなしでの嘆願など門前払いしてもいいのだが、とりあえず話だけ聞いてやるという度量と余裕があった。

 

「アタシは既に1回地方に移籍して中央に移籍して戻ってきました。あと9年間現役として走るという目標のために、どうしても地方に移籍しなきゃいけないんです!」

 

 デジタルは興奮で言葉に詰まりそうになりながら必死に訴える。此処が人生のターニングポイントだ、何としてでも説得しなければならないと決死の覚悟でいた。

 

「ルールというものは必要が有るから決められている。それを個人の願望で変えることはできない。それに走るだけなら中央でも可能だろう」

 

 役員はその様子を冷ややかに見つめる。皆の為であるという大義名分や理論武装してくると思っていたが、今の言葉は自分の願いをねだっているだけだ。これでは子供が親におもちゃを買ってと喚いているのと変わらない。

 

「それじゃあダメなんです!アタシには……時間がなくて……このままじゃレースでウマ娘ちゃんを感じられない!ウマ娘ちゃんを感じる為には地方に移籍しないといけないんです!」

 

 デジタルは衰えると喋ろうとした瞬間思わず口を噤む。力が衰え始めていると認識し始めている。だが言霊という言葉があるように、口にして他人に聞かせれば絶対に覆らない確定事項になってしまう気がして、言葉にすることはできなかった。

 そして自分の気持ちの強さに主張を変えてくれるという僅かな可能性を願いながら、熱を込めて弁明する。だが役員達には一切響いていなかった。

 レースでウマ娘を感じる為にはある程度実力が同じでなければならない、だが中央ではクラスの降格が無く、このままではレースで差をつけられウマ娘を感じられない。その為にはランクが低い地方で走らなければならない。それがデジタルのロジックである。

 だが今の言葉では説明不足であり、理解できるとしたらトレーナー等のデジタルをよく知る人物ぐらいである。さらに言えばウマ娘を感じるという感情は普通の人間には理解できない。

 

「アタシはウマ娘ちゃんを感じるのが大好きで!最早生き甲斐なんです!ウマ娘ちゃんを感じられない人生なんて考えられない」

 

 デジタルはさらに熱を込めて喋る。情熱が有れば人の心は動くと信じていた。

 だが熱を帯びれば帯びる程役員達の態度は冷ややかになっていく。それは感情の機微に疎いデジタルにすら感じられる程だった。

 

「元々……せい……」

「それで終わりか?私も暇ではないので退出願おう」

「元々言えば中央のせいでしょう!ダートプライドの時に意地悪して走らせないせいで!アタシは地方に移籍するはめになって!それさえ無ければこんな規定に苦しむことはなかった!それに中央だってアタシがワールドベストレースの勝者ということを利用して散々広告塔にしたでしょ!既定の1つや2つを変えたってバチ当らないでしょ!さっさと変えてよ!」

 

 デジタルは役員たちの態度に業を煮やしてのか、今まで溜め込んでいた不平不満をぶちまける。

 中央に復帰してからの各メディアへの露出や広告塔としての活動、それは中央からの要請もあったがあくまでも本人の意志だった。

 オペラオーに学んだ主役としての責任、サキーが願う誰もがレースを見る世界、ヒガシノコウテイが願う地方の活性化、セイシンフブキが願うダートへの注目の高まり、それを実現するために活動した。だが今はその気持ちを忘れ中央への不満に変化してしまっていた。

 役員は青筋を立てながらデジタルの言葉は黙って聞く。かつてシンボリルドルフが妥協案を出したが、ダートプライドに出走する為に移籍したのはデジタルの勝手である。

 そもそも出走は中央への反逆行為であり、デジタルは中央の利益を損なう反乱分子だった。中央への復帰後のメディアへの露出は謂わば中央に対する禊であり、して当然の行為という認識だった。

 

「では退出してもらおうか」

 

 役員は無表情で淡々と言葉を発する。デジタルの表情は怒りから絶望に変わっていく。この瞬間に規定改訂という願いは絶たれた。

 説得とは相手の機嫌を取り、利を示すものである。だがデジタルがしたことは相手を怒らせ利を示さず、自分の要求だけ一方的に伝えただけである。この結果は当然だった。

 平時であればその事を理解してもう少し上手く立ち回れただろう。だが衰えを自覚し置かれている状況の悪さを理解してしまった今は平時とは程遠い精神状態だった。

 

───

 

「バカ!分からずや!少しぐらい変えたっていいじゃん!」

 

 デジタルは役員達に不平不満を呟きながら寮への帰路につく。

 その独り言は周りに聞こえるほどの声量で、すれ違ったウマ娘は思わずデジタルに視線を向けるが本人は気づくことは無く、その独り言は部屋に帰っても止まらなかった。

 この恨み言は一種の心の防衛行動だった。規定の変更が叶わなくなり、デジタルが置かれた状況は絶望的といえるものになっていた。

 仮にトレーナーの予測通りに下降線を辿ればデジタルがレースを通してウマ娘を感じられる機会と時間は少ない。だがそれを自覚すれば絶望で心が軋んでしまう。それを避けるために怒りに矛先を向けていた。

 

「おい、うるさい、邪魔だから出ていけ」

 

 同室のタップダンスシチーが独り言を呟き続けるデジタルに苦情を言う。

 ジャパンカップまで残り2週間を切り今は集中力と勝利への渇望と意志を高める大切な時期、それをデジタルに邪魔されたらたまったものではない。

 

「なんで?そっちが出て行ってよ」

 

 デジタルは役員への怒りをタップダンスシチーにぶつけるように敵意を込める。

 確かにタップダンスシチーの言葉はぶっきらぼうで優しくはない。しかしレース前に起こる傾向で、普段は気の良いウマ娘であるのは知っている。

 いつもならデジタルが気を利かせて部屋を出る。だが今は非常に虫の居所が悪く、タップダンスシチーの言うことを聞く気はさらさらなかった。

 一方タップダンスシチーもデジタルの態度に癇に障ったのか、明らかに不機嫌そうな態度を見せる。

 

「ここは共有スペースだ、独り言なら誰も居ないところで言え」

「そっちだって勝手に殺気立っていい迷惑だよ。こっちが気を利かせて出て行ってあげてるんだから、偶にはそっちが出て行ってよ」

 

 タップダンスシチーは好戦的な言葉に僅かに戸惑う。デジタルは大人しく今まで特に口答えしたことがなかった。そして戸惑いは次第に怒りに変わる。

 

「お前が出てけ、何にムカついているが知らないが、そんなしょうもない不満でアタシの邪魔するな」

 

 タップダンスシチーは見下した視線をデジタルに向けながら言い放つ。

 東京芝2400メートルは日本ダービーと同じ舞台、つまりシニア級のダービーに位置づけられるレースである。そしてジャパンカップは思い入れ深いレースでも有った。

 日本所属のウマ娘で初めてレースに勝ったカツラギエース、そのレースを見てこの道を目指そうと決めていた。

 思い入れ深くシニア中距離最強を決めるレース、そのレースで現役中距離最強のシンボリクリスエスを倒す。それが今年の最大目標、いや人生の最大目標と言っても過言では無かった。

 その一心で天皇賞秋を回避してまでジャパンカップに標準を定め備えていた。その為には完全に人事を尽くさなければならず、デジタルの存在は邪魔以外の何物でもなかった。

 

「しょうもなくない!」

 

 デジタルは声を張り上げ言い返す。その表情は怒りで目を見開き興奮で息が荒かった。

 今のデジタルにとって衰えという問題は人生における最大の問題だった。それをしょうもないの一言で括られることは聞き逃すことが到底できなかった。タップダンスシチーはデジタルの地雷を的確に踏み抜いてしまった。

 

「何も知らないくせに、しょうもないの一言で纏めないでよ!アタシに言わせればジャパンカップの方がしょうもないよ!今年負けたって来年がある!来年負けても再来年がある!未来がある!未来があって道があるウマ娘ちゃんにアタシの感情は分からない!」

 

 デジタルに渦巻く感情は妬みと憎しみだった。未来のレースに向けて努力し情熱を注ぐ。

 どのレースを走りどこに向かえばいいか分からないデジタルにとって、タップダンスシチーは羨望の対象だった。そして負けても次があり時間という掛け替えのない財産があるのが憎かった。

 

「そっちもしょうもねえの一言で括るな!」

 

 タップダンスシチーはデジタルに近づくと襟首を荒っぽく掴みながら言い放つ。思い入れが有り、シンボリクリスエスが居るジャパンカップをしょうもないの一言で括られるのは我慢ならなかった。

 そしてデジタルは負けても次があると言った。だが来年はシンボリクリスエスが引退しているかもしれない、何かのアクシデントにより東京レース場で開催できないかもしれない。自分が引退しているかもしれない。来年も同じジャパンカップを走れる保証はない。

 

 タップダンスシチーは敵意と怒りを込めてデジタルを見つめる。デジタルもタップダンスシチーに妬みと憎悪を込めて睨み返す。2人の睨み合いは異変を聞いて、駆けつけたウマ娘達に止められるまで続いた。

 

───

 

 エイシンプレストンは玄関につきリュックサックを置くと同時に自然に深く息を吐く。その途端に緊張感が解けたのか疲労感が一気に増し、それと同時に左わき腹に痛みが走る。

 今日はスパーリングでいいのを貰ってしまった。レースでもキックバックの芝生が当って目が腫れたなどの負傷を負ったこともあり、痛みには多少耐えられる自信はあったがやはり痛いものは痛い。

 本来ならゆっくり風呂に入って疲れを取り、明日への英気を養うのだが今日はそうはいかない。身体に活を入れ床に散らばっている本や雑誌を片付け始める。

 それなりに綺麗にしているつもりだが、一人暮らしで以前の寮暮らしのように他人に気を遣わなくていいので、多少なり散らかっている。

 こんなことなら普段から掃除しておけばよかった。そもそも急に来るのが悪い、事前に連絡をもらえば準備をしていた。内心で愚痴を言いながら雑誌を整理し、掃除機をかける。

 するとインターホンが鳴る。部屋を一瞥しとりあえずは大丈夫だと判断し玄関に向かう。扉を開けると見知った人物が居た

 

「お世話になりま~す。これお土産、詳しくは知らないけど美味しいんだって」

「手土産を持ってくるぐらいの気遣いはできるようになったのね」

「それはお世話になるんだからね」

「いや、まだお世話するとは決めてないけど」

「うそ~、友達なら助けるのは当たり前でしょ」

「冗談よ、狭いところだけど上がって」

「お邪魔しま~す」

 

 プレストンは疲労感を押し込め。いつも調子でデジタルを招き入れた。

 

 



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勇者デッドエンド#2

 アグネスデジタルはエイシンプレストンに案内されて部屋に入り興味深そうに辺りを見渡す。プレストンが学園を卒業して1人暮らしを始めてから遊ぶことは多々有ったが、大半は外の施設で過ごしていたので、部屋に入ったのは初めてだった。

 フローリングに赤いカーペット、部屋の中央左側にソファー、対面にはテレビとPC、その間にテーブルが設置されている。奥にはベッドと姿見、ベッド付近に重量があるダンベルが数個置いてある以外は一般的な1人暮らしの内装と家具といえるものだった。だがその中で部屋の隅に一際異彩を放つ物が有った。

 

「これ何?」

 

 デジタルはその物体を指さしながらプルストンに問う。木製の円柱に長さが異なった小さい円柱の木材がバラバラに刺さっていた。オブジェにしては前衛的過ぎる。

 

「ああ、それは木人椿、型の練習に使うの。こうやって」

 

 プレストンは木人椿に近づくと小さい円柱に様々な動作で手足を打ち込む。プレストンは軽くやっているのだろうが、その動きは滑らかで素早くデジタルの目では動きを追うのがやっとだった。

 

「へ~、何かのオブジェかと思ったよ。もしオブジェだったらセンスを疑うけど」

「もしくは帽子掛けかハンガーラックとか」

「でも学園に居た時は無かったよね。置けばよかったじゃん」

「こんな大きいの置くスペースなかったでしょ」

「それはそうか」

「じゃあ、早速デジタルから貰ったケーキでも食べ……って麦茶しかない。ちょっとコンビニに行ってくる。デジタルは牛乳でいい?」

「それでお願い」

「じゃあ、少し待ってて」

 

 プレストンは足早に玄関から外に出て行く。手持ち無沙汰になったデジタルは改めて辺りを見渡す。すると棚の一部に写真が飾られているのを見つけ、何気なく近寄る。

 

「懐かしい」

 

 デジタルは思わず破顔する。その写真にはデジタルとプレストンとキンイロリョテイとトレーナー達が笑顔を浮かべ写っていた。

 日本所属ウマ娘による香港国際競争3連勝を達成した歴史的な1日、プレストンと調子が悪くなって大変だったが、あの一件でさらに仲が深まった気がする。

 他にもトブ―クとの香港カップも楽しかった。そしてサキーとも香港で初めて出会った。初めて会った時はジュニア級のウマ娘だと勘違いしてしまった。今思えばかなり失礼だった。

 その隣の写真はクイーンエリザベス2世カップの時の写真だ、プレストンがレイを肩にかけながらデジタルと肩を組んで満面の笑みを浮かべている。

 あの時も全力で戦うためにとプレストンが寮から出て行った。当初は真意を測れず戸惑ったが、今では懐かしい思い出だ。

 その隣は2度目のクイーンエリザベス2世カップを制覇した時の写真だ、このレースではWDTを回避してまでこのレースに挑んだ。そのスタンスには多少なり賛否両論があり、負ければ批判は免れないというプレッシャーがかかるレースだった。

 さらに他のウマ娘達もプレストンの実力を最大限警戒し、全員からマークされドスローに落とし込まれる苦しいレースであったが、最後は何とか差し切ったレースだった。

 その様子は現地で見ていて、まるで年間無敗中長距離GI完全制覇が掛かった有マ記念に勝ったテイエムオペラオーのようで、思わず涙を流したのはよく覚えている。

 デジタルは一通り写真を見た後にプレストンが帰ってくると予想し床に座る。その直後に帰宅し、テーブルにケーキと牛乳を置くとプレストンもデジタルの対面に座る。

 

「うん、美味しい」

「そうだね。流石有名店の人気メニューだけあるね」

「さて、何で家に来たのか聞かせてくれる?」

 

 プレストンは紙パックの紅茶をストローで飲んだ後に切り出す。

 現時刻は22時、完全に寮の門限を過ぎている。そして服装も部屋着にコートを着るという急ごしらえのものだ。突発的に何かが有って家に来た。緊急性がないと判断しすぐに訳は訊かなかったが、訊かない訳には行かない。

 

「アタシはこのままじゃあ、自分が嫌いになる。ウマ娘ちゃんが嫌いになっちゃう。だから暫くの間家に泊めさせて」

 

 デジタルは今にも泣きそうな声で必死に言葉を紡ぐ。タップダンスシチーと口論した際に、寮長など何人かのウマ娘がその仲裁に来た際にデジタルは有る感情を抱いていた。

 このウマ娘達には未来がある。日に日に希望を奪われていく恐怖を感じることなく、幸せに過ごしている。

 何てずるいのだろう。理不尽に未来と選択肢を奪われた自分の苦しみを、この場に居るウマ娘は誰も理解してくれない。その思った瞬間に急激にウマ娘達への妬みと憎しみが膨らんでいき、その感情に気が付いた瞬間にデジタルは寮を飛び出してプレストンの家に向かった。

 妬みと憎しみを抱いたと同時に湧いてきたのは強烈な自己嫌悪だった。自分が衰えているのも地方に行けなくなったもの周りは関係ない。全ては自分のせいだ。それでも到底納得できない。

 何よりあれだけ尊く光り輝いているウマ娘が醜く輝きが鈍くなっていく。このままでは本当にウマ娘が嫌いになってしまう。その未来に耐え切れず逃げ出していた。そしてプレストンの家に足を運んだにも理由が有った。

 プレストンは引退したウマ娘だ、引退したウマ娘にはレースにおける未来は最早ない。そして力の衰えに悩み恐怖し苦しみ続け引退した。そんなウマ娘には同情と共感を抱いていた。

 デジタルはプレストンと一緒にいれば憎しみや妬みを抱かないと考えていた。それは予想通りで比較的に良好な精神状態を保てた。

 

 プレストンはデジタルの様子を見て考え込む。あのデジタルがウマ娘を嫌いになるとは、天変地異が起こってもあり得ないと思っていた。だが現実には嫌いになってしまうと吐露している。これは非常事態だ。ここで力を貸さなければ友達ではない。

 そしてその非常事態にトレーナーではなく自分を頼ったということは、何かしらの理由が有ると推理していた。

 

「分かった、気が済むまで泊ればいい」

「ありがとうプレちゃん…」

「それでトレーナーや学園に連絡したの?」

「まだ」

「じゃあ連絡しなさい。事後承諾でも申請しておかないと大事になる」

「分かった」

 

 デジタルは渋々と言った様子でスマホを取り出し、トレーナーに休学してその間はプレストンの家に泊るとメッセージを送る。

 

「よし、何日泊るか知らないけど色々用意しないとね。これ食べたらコンビニ行こうか」

「うん」

 

 プレストンは意識して明るい声で語り掛ける。デジタルもそれに反応するように少しだけ明るい声で返事した。

 

───

 時刻は5時、11月の下旬になれば日が昇る時間は遅くなり、この時間でも日はまだ昇らない。河川敷ではランニングに勤しむ人たちが数人いる。その中にプレストンとデジタルが居た。

 プレストンは白い息を弾ませながらデジタルの背を追う。プレストンは現役を引退したが学んでいる武術の世界大会に優勝することを目標にトレーニングを積み続ける。

 早朝のロードワークもその一環で、1日も欠かさずやり続けた。それでもオーバーペース気味で走って、デジタルについていくのがやっとだ。

 

「むり~、ついていけな~い」

 

 プレストンは弱音を吐くと同時に走るのを止め、膝に手をついて項垂れる。デジタルはその様子に気が付いたのか、方向転換してプレストンの元に向かう。

 

「ごめん、速すぎちゃったかな?」

「速いって。脇腹が痛い」

「じゃあ、ウォーキングに切り替えるね」

「そうして」

 

 デジタルはゆっくりと歩き始め、プレストンも横に並んでゆっくりと歩き始めた。

 

 デジタルがプレストンの家に泊って翌朝、2人は同時に目が覚めた。デジタルはトレセン学園での日々の習慣で、プレストンは日々の日課であるトレーニングするために。

 デジタルはプレストンが着替えるのを見ながらトレーニングに同行すると提案する。現時点で能力は衰えている。そして日々のトレーニングを怠ればさらに衰える。現状では衰えを解消する方法は分からないが、どんな状況でも日々のトレーニングを怠ってはならない。

 そしてデジタルはプレストンにジャージを借りてトレーニングに同行していた。

 

「そういえば、こうして朝にトレーニングすることなかったわね」

「そういえばそうだね。放課後では合同練習や併せで一緒に走ったことはあるけど、早朝トレーニングは個人かチームメンバー同士でやるから」

 

 2人は川に薄っすらと映る月や向こう岸の道路を走る車を見ながらゆっくり歩く。朝の新鮮な空気を吸いながら、現役を退いた友人とトレーニングするのは中々に乙だ。デジタルは今この瞬間を楽しんでいた。

 

「朝のトレーニングはこれだけじゃないでしょ?アタシに気にせず走ってきていいわよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて。ここから1マイルってどこら辺?」

「ここから2本先ぐらいの橋超えたぐらいじゃない?デジタルならどれぐらいの力で走れば1マイル何秒ぐらいで走れるか分かるでしょ」

「まあ大まかにね。プレちゃんも一緒に走る?」

「冗談、今のデジタルがウマなりで走っても付いていけるかどうか?型の練習でもして待ってるから」

「分かった。ちょっと1往復ぐらいしてくる」

 

 デジタルは軽く屈伸運動して走っていく、そのスピードは先程より明らかに速かった。プレストンはその後ろ姿を一抹の寂しさを覚える。

 トレーニングを始める時は現役時代のライバルとして張り合うつもりだったが、ジョギングの時点でその気は失せた。現役と引退したウマ娘の差を明確に分からされていた。

 プレストンはスマホの録画ボタンを押して適当な場所に置くと、目を瞑りながら型の動きを始めた。そして10分後にデジタルの元に戻ってくる

 

「おかえり、約2マイルにしては遅かったわね」

 

 プレストンは何気なく呟く。レースでは1マイルのタイムは1分半程度、この河川敷の地面の様子や全力を走らないことを加味しても3分ぐらいで走れるだろう。そしてインターバルを2分しても往復で8分ぐらいだ。デジタルにしては少し遅い気がしていた。

 

「遅くないって!走ったのも物凄いウマなりだし、距離も長かったし、こんな地面じゃタイムが遅くなるのも当然だよ!」

「ゴメンゴメン、そんなに怒らなくてもいいでしょ」

 

 プレストンはデジタルの反応に僅かに驚く。まさかここまで怒るとは全く予想していなかった。

 

「それでどうする?まだ走る?」

「今日はいいよ。家に帰ろ」

「さっそく我が家気分か、別に良いけど」

 

 デジタルとプレストンは体を冷やさないようにと、ウォーキング程度のスピードで歩きながら家路に向かう。その途中でランニングをしているウマ娘集団を見つける。ジャージのデザインからしてトレセン学園のウマ娘だ。

 プレストンは朝のトレーニングで学園のウマ娘を見かけるが、密かに楽しみだった。

 夢や目標に向かって邁進する姿、現実に打ちひしがれても自分に出来る最善を目指す姿、それらのウマ娘の姿は見ていると活力を貰えるような気がした。

 現役を引退して別の道を歩み始めた今だからこそ、デジタルの言う尊いという感情を少しだけ理解できたような気がした。

 きっと隣に居る友人も同じような感情を抱き、いやそれ以上に共感しときめき、締まりのない顔をしながら妄想の世界に飛び込んでいるのだろう。何気なくデジタルに視線を向けるが予想とは全く違っていた。

 目を背け視線を逸らす。その表情には苦悶や葛藤など様々な感情が綯交ぜになっていた。その本音は正確には把握できないが断言できることがある。それは決して良い感情を抱いていないということだ。

 これはウマ娘が嫌いになってしまうという言葉と関係あるのだろうか?とりあえずは学園のウマ娘と出会いないようにルートを変更するか。

 プレストンはデジタルの心情と今後の予定を考えながら家路に着いた。

 

───

 

「いただきます」

「いただきます~」

 

 デジタルとプレストンは手を合わせてテーブルの上にある食事に手を付ける。メニューは生姜炒め、筑前煮、キュウリとワカメの酢の物である。

 

「うん、自分で料理したご飯はいつもより美味しい気がする」

「料理したって、米炊いて、肉焼いたぐらいでしょ。野菜切ったり、味付けとかめんどくさい作業は全部アタシ、比率で言えば8対2、よくて7対3ぐらいでしょ」

「それはプレちゃんが任せてくれないからでしょ」

「デジタルに任せたらあと何時間後に食事にありつけるか」

「しょうがないじゃん、料理なんてやったことないし」

「本来なら居候が作るべきなんだけど、手伝ったアタシに感謝して食べなさい」

「プレちゃん、感謝しています。ありがとうございます。この御恩は忘れません」

「よろしい」

 

 2人は気が置けない会話をしながら食卓を囲む。朝のトレーニングの後2人は別行動をとった。

 プレストンはジムに行ってウェイトトレーニングや道場での稽古していた。一方デジタルだが午前中はトレーナー試験の勉強、午後は自主トレをしていたがプレストンに呼び出され道場で1日体験稽古をしていた。

 

「アタシをボコボコにした後の食事は美味しい?」

「すっごく美味しい」

 

 プレストンはデジタルの皮肉を込めた言葉に満面の笑みを浮かべて返事する。道場でデジタルはプレストンと試合形式の稽古を行った。

 プレストンはデジタルに対して好きに攻撃していいと言う。デジタルも最初は戸惑ったがプレストンがどうしてもと言うので仕方がなく攻撃した。だが攻撃は何一つ当たるどころか掠ることすら叶わず、何回も転がされ何回も寸止めされた。

 

「素人をボコボコにして悦に浸るって最低だと思わないの?」

「今日の朝のトレーニングでデジタルと走力の差を分からされて、現役時代のライバルとしては悔しいでしょ?だから得意分野でボコボコにすることでスッキリする。アタシは精神衛生に良い。デジタルも素人の分野で負けても特に気にしない。これがウィンウィンよ」

「まあプレちゃんが良いなら良いけど」

 

 デジタルは僅かばかりの敗北感を押し込めて箸を伸ばす。生姜焼きを食べた時点で敗北感は跡形も無くなっていた。

 

「プレちゃんっていつもこんな感じなの?朝も昼も夜もトレーニングして」

「まあね、他の人は仕事とかしているけど、レースで獲得した賞金があるから仕事しなくていいし、強いて言うならば稽古するのが仕事、ニュースでなら職業武術家のエイシンプレストンさんってところ」

「それちょっとカッコイイかも、あっ、9時からオペラオーちゃんが出るドラマ有るんだ。テレビつけていい?」

「どうぞ」

 

 デジタルは許可を得るて電源をつけると、映像が見られるようにとプレストンの隣に座り、食事を摂りながらテレビを見る。ドラマが流れている間はオペラオーを早く出せとデジタルが喚き、出ても出番は僅かで不満を垂れると騒がしかった。

 ドラマが終わり後番組でスポーツ番組が流れトゥインクルレースのコーナーになる。内容は今週末に行われるマイルCSの特集だった。

 

「マイルCSか、デュランダルの末脚がマイルで発揮できるかがレースのポイントだと思うな。個人的にはイーグルカフェに頑張ってもらいたいけど、デジタル?」

 

 いつもならレースの話題を振ればデジタルが姦しく語るはずだった。だが今は視線をスマホに移しイヤホンをつけていた。

 最初は自分と話したくないのかと思ったが、ドラマを見ている際はちゃんと会話していた。だとしたらマイルCSについて嫌な感情があって番組を見たくないということだろうか?

 プレストンはテレビの電源を消すと、木人椿に向かい打ち込みを始めた。

 

───

 

 プレストンは目を覚まし反射的に傍にある目覚まし時計を手に取る。時刻は1時、起床時間の5時まであと4時間もある。中途半端な時間に起きてしまった。2度寝しようと目を瞑るが何か音が聞こえてくる。体を起し耳を澄まして音源を辿る。

 

「なん……アタ……もっ……りたい」

 

 今にも消えそうなか細い声、それはすぐ横の布団で眠っているデジタルが居るあたりから聞こえてきた。

 

「どうしたのデジタル?」

「え?あっ起こしちゃった?ゴメンね。ちょっと怖い夢見ちゃって……大丈夫だから……」

「そう……何かあったら起こして」

「ありがとう、お休み」

「お休み」

 

 プレストンは心配そうにデジタルを見つめながら寝転がり目を瞑る。

 デジタルの目の下に泣いた跡があった。幼い頃は怖い夢を見て泣きながら目を覚ましたことはあった。だがデジタルの年齢でそれはほぼ起こらない。余程の悪夢だったのか?そして泣くほどの悪夢を見るということは精神が弱っているかもしれない。

 

 デジタルがプレストンの家で共同生活を始めてから1週間が経った。その期間でプレストンはデジタルの変化と異変に気が付いた。

 まずウマ娘を避けるようになった。正確に言えば現役のウマ娘を避けている。

 引退したウマ娘のチャンネルやSNSは見るのだが、現役選手の情報を意図的に遮断している。そして夜になると泣いているか悪夢にうなされている。

 プレストンはスマホを取り出すとデジタルの様子をメッセージでデジタルのトレーナーに送る。

 密告しているようでデジタルには気が引けるが、今のデジタルの状態は自分の手には余る。トレーナーなどの専門家に様子を報告して判断を仰いだほうがいいと判断した。

 そしてトレーナーからは静観してくれと指示を受ける。プレストンもトレーナーが直接顔を合わせて話を訊いたほうがいいと言ったが、今の自分は相当嫌われているので心を開かなく逆効果という答えが返ってきた。

 何を悩んでいるのか詳細は分からない。ただ時が解決してくれるのは祈るばかりだ。

 



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勇者デッドエンド#3

 明朝5時、デジタルは一心不乱に河川敷を走る。そこにはプレストンの姿はない。数日前に朝のトレーニングは別々にやろうと提案し了承された。プレストンはデジタルの様子が心配で一緒にやろうと食い下がるが、半ば強引に引き下がらせた。

 今走っている距離は約1600メートル、レースで最も多くの勝利を挙げた距離である。マップアプリを使って測量したので正確ではないが、大まかには合っている。

 デジタルはゴール地点を過ぎて即座にストップボタンを押す。そして表示されたタイムを見て一つ舌打ちをする。またタイムが落ちている。

 脳内で即座に言い訳を浮かべる。手での測定なので誤差が大きい、河川敷の地面に慣れていない、昨日食事を食べ過ぎた。しかしすぐに否定する。それらの要素を含めてもタイムが落ちている。

 デジタルは苛立ちをぶつけるようにつま先で地面を抉る。プレストンと別行動を取っているのはタイムが落ちている現状に、動揺し苛立つ姿を見せたくなかったからであった。気持ちを切り替えるように大きく深呼吸して、走り始めた。

 

 高幡不動尊。関東3大不動のひとつとされる有名な寺である。3大不動尊と呼ばれるだけあって多くの者が訪れ、様々な祈りを叶えてもらえるように不動明王に祈る。

 明朝6時ながら多くの者が祈りを捧げていた。そしてその中にジャージ姿のウマ娘が居た。そのウマ娘はアグネスデジタルである

 デジタルは二拝二拍手一拝で祈りを捧げる。その真剣さと切迫感は他の参拝者が気圧され慄くほどだった。そして参拝が終わると用が済んだと足早に去っていく。

 次に向かった先は教会だった。デジタルはそこでも手を組み神に祈りを捧げる。そこでも真剣さと切迫感で他の参拝者を気圧されていた。

 

 デジタルは徳を積むという考えを持っているように比較的に信心深い、だが寺や教会に行って祈りを捧げる程信心深くはなかった。この行動をするようになったのはある気づきからだった。

 衰えを自覚してから幾日かが経過したある日、デジタルは1つの考えに行きつく。

 

 この衰えは人の手では対処できない。

 

 デジタルは日々確実に衰えていく身体の前に人の手ではどうしようもないと分かってしまった。だが衰えを受け入れたわけでは無かった。

 人の手でどうしようもないのなら手は1つしかない。超常の力、神の力を借りるしかない。

 人の世界には常識で考えられない奇跡が起こる。もはやそれに縋るしかなかった。それからデジタル練習時間を削り祈りの時間に当てる。祈る内容は唯一つだった。

 

──神様お願いします。どうかアタシの衰えを無くして元通りにしてください。

 

 三女神はもちろん、神社、寺、教会、モスク、様々な場所に向かい其々の神に祈りを捧げる。まさに手当たり次第である。様々な神に祈りを捧げるのが正しいのかと疑問に過った事はあった。

 しかし日本ではキリスト教のクリスマスを祝い、1月1日は仏教の正月を祝っているので問題ないと強引に納得する。何よりここまで切実に祈っている者が居れば、奇跡の1つや2つぐらい起こしてくれるに違いないと思い込むことにしていた。

 

 デジタルは家に帰るとリュックを背負いすぐさま外に出る。向かった先は家の近くにある河川敷だった。背負っていたリュックからゴミ袋を取り出し、道端に落ちているゴミを入れる。

 空き缶やタバコの吸い殻などを次々と回収していく。ゴミ拾いを始めて実感したのが、予想以上にゴミを捨てていく者が多いということだ。

 だが拾えば拾うだけ都合がいい。それが徳の多さに繋がる。不気味な笑みを浮かべながらゴミを拾い続けた。

 

 かつてデジタルはウマ娘断ちをする際に、苦しめば苦しむほど徳が積まれ幸せになれると考えた。だが今回はゴミ拾いなど世のためになる善行をすることだけに集中していた。

 徳を積めば来世で幸せになれるという考えがあるのは知っていた。だがそんなことは一切望まない。望むのは現世での幸福、つまり衰えが治ってレースでウマ娘を感じること、それさえ出来ればその後の人生がどうなっても構わない、地獄に落ちても構わない。

 デジタルはゴミを拾いながら様々な神に祈っていた。

 

 それからデジタルの祈りと徳を積む生活は続いた。様々な場所で祈り、様々な場所で善行をする。

 祈りの時間は増え、ゴミ拾いから帰宅する時間も日が経つごとに長くなっていく。それでも衰えの進行は止まらないどころか、益々大きくなっていった。

 その中でデジタルの祈りの内容に変化が生じていく。最初は衰えを治してくれという願いだった。だが次第に5年間だけウマ娘を感じられるぐらいに衰えの進行を止めてくれ、3年だけ止めてくれ、2年だけ止めてくれと徐々に願いの要求が小さくなっていく。

 

 神様は強欲な者の願いは叶えないのかもしれない。奥ゆかしく小さな願いを祈る者に微笑むかもしれない。それがデジタルの考えられる最善だった。それでも衰えは止まることは無かった。

 デジタルは府中レース場の近くにある大國魂神社に向かって祈りを捧げる。周りの参拝者もデジタルに気にすることなく参拝していく。

 当初に有った真剣みも切迫感はまるで無かった。今のデジタルは祈りを捧げる神に疑いを抱く。

 どうせ何もしてくれない、神は自分を見捨てた。その祈りは中身が籠っていない伽藍洞の祈りだった。

 デジタルは形式的な祈りを捧げている際に有る考えが思いつく。衰えて他のウマ娘に付いていけず、レースを通してウマ娘達を感じられない。だがそれは現実での話だ。現実で考えられなければイメージで感じればいい。

 

──トリップ走法

 

 意中のウマ娘に近づいて感じる為に、別の好きなウマ娘をイメージし、そのイメージのウマ娘に近づきたいという情念を利用して潜在能力を引き出す。

 これは圧倒的なウマ娘を感じたいという欲と、ウマ娘の姿は勿論呼吸音や匂いすら詳細に再現できるイメージ力を持つデジタルだけが出来る特殊な走法である。

 このトリップ走法でデジタルは多くのウマ娘を感じるという願いを叶えた。そしてこのトリップ走法を利用する。

 通常では意中のウマ娘に追いつき感じる為に、イメージのウマ娘は潜在能力を引き出して、ギリギリ追いつける程度のスピードにしていた。だがそのスピードを極限まで落とす。

 衰えた体でも追いつけ感じられるほどスピードを下げれば、イメージのウマ娘を感じられる。そうすれば現実のウマ娘を感じられなくても問題ない。

 

 レースを通して多くのウマ娘を感じられた。その記憶は自分が勝ち取った財産だ、神が見捨て幸福な人生を歩ませてくれないなら、強引にでも幸福を勝ち取る。

 過去に感じたウマ娘達は最高のウマ娘だ、きっと今後はこれ以上のウマ娘は現れない。ならば過去のウマ娘を感じ続けたほうがいい。

 それだったらあと10年どころか20年30年でも現役で走りウマ娘を感じられる。

 現実では1着から何秒も離されてゴールすることになる。皆は憐憫の視線と声援を投げかけるだろう。それが何だ?理想の世界で最高の幸福を得ている。

 そしてOPクラスであればタイムオーバーの規定はない。いくらでも離されても出走停止になることなくゴールできる。今すべきことは神に祈ることではない、過去のウマ娘達のイメージをより詳細に強固にする事だ。

 デジタルの表情は天啓を得たように実に晴れやかだった。だがそれは余りにも禍々しく、周りの参拝者はその禍々しさを感じたのか慄き一斉に距離を取っていた。

 衰えという恐怖から解放された心はかつてないほど高揚していた。その高揚感のなかアドマイヤマックスについて考える。

 

 かつてアドマイヤマックスはデジタルが理想の偶像では無くなり世界に絶望し、理想の偶像を作り上げ縋った。そして理想の偶像に縋りつくためにトリップ走法を使った。

 そのトリップ走法はデジタルが考える正しいトリップ走法である、意中のウマ娘に追いつき感じる為の手段でなく、イメージのウマ娘を感じることを目的にし、それは悲しく間違った使い方であると考えた。

 だがその考えこそ間違っていた。今ならその心中が手に取るように分かる。トリップ走法をそのように使うしか幸せになれなかったからだ。

 安田記念では悪い事をしたことをした。あのまま理想の偶像に縋りついたほうが幸せだったかもしれない。今度会ったら謝っておこう。

 デジタルは脳内で今後の予定を立てる。まずはプレストンに泊めてくれたお礼を言って、何かをプレゼントする。そして学園に帰って今まで感じたウマ娘を思い出し、イメージを強固に構築する。

 学園を出る前は未来があるウマ娘達が妬ましく憎しみすら抱いていた。だが今はそんな感情は全く湧いていなかった。何故なら過去に感じたウマ娘達を感じ続けるという未来が待っている己こそ最も幸せなウマ娘だからだ。

 デジタルはプレストンの家に帰ろうと踵を返し出口に向かう。すると1人のウマ娘が視界に入る。そのウマ娘はトレセン学園の制服を着て、黒髪ショートカットで青いカチューシャをつけていた。そのウマ娘は真剣な様子で祈っていた。

 

「アドマイヤマックスちゃん?アドマイヤマックスちゃんだよね!」

 

 デジタルは思わぬ出会いに気分が高揚する。神の存在は全く信じないが、アドマイヤマックスに考えた直後に出会うという偶然に運命めいたものを感じていた。

 一方アドマイヤマックスは思わぬ出会いに困惑の表情を浮かべていた。

 

───

 

「オレンジジュースでよかった?」

「あっ、はい、ありがとうございます」

 

 デジタルはドリンクバーで貰ったオレンジジュースをアドマイヤマックスの前に置き、アドマイヤマックスは恐縮そうに頭を下げる。

 デジタルはアドマイヤマックスと出会った直後に、どこかで話をしたいと半ば強引に近くのファミレスに誘っていた。

 アドマイヤマックスは喉の渇きを潤そうと自然にグラスを口に運んでいた。あの場所でアグネスデジタルに会うとは完全に予想外だった。

 かつて理想の偶像と仰いだウマ娘で今では崇拝と呼べる感情はないが、理想の偶像に縋り続けるという破滅から抜け出す切っ掛けを与えてくれた恩人でもあった。

 その恩人と何を話してどう接すればいいか分からず緊張していた。

 

「そういえば、どうしてあんなところに居たの?」

「えっと、先日グルーヴが勝つようにお祈りしたんです。そしてグルーヴはエリザベス女王杯に勝ちました。私としてはグルーヴの実力で勝ち取った勝利だと思います。ですが神様のサポートが僅かに有ったかもしれません。なのでお礼の言葉を言っていました」

「そうなんだ、でもエリザベス女王杯の勝ちはアドマイヤグルーヴちゃんの力だけだと思うよ。だって神様はアタシを何一つ助けてくれなかった役立たずだし」

 

 デジタルは朗らかな口調で喋りながら辛辣な言葉を吐く。その様子を見てアドマイヤマックスは警戒心を抱く。

 明るい口調で語り掛けるが陽気というより躁状態と形容した方が正しい。それに目が濁り狂気のようなものを感じる。

 

「そうだ、アドマイヤマックスちゃんごめんなさい」

 

 前置きを置かず唐突にデジタルは勢いよく頭を下げ、その唐突さに困惑はさらに強まる。

 

「安田記念でアドマイヤマックスちゃんの理想の偶像を壊しちゃったでしょ。あの時はそれがアドマイヤマックスちゃんの幸せに繋がると思っていた。けど間違っていた。あのまま理想の偶像に縋りつき続けたほうが幸せだった」

 

 アドマイヤマックスは思わず耳を疑う。破滅から救ってくれた恩人の口からは信じられない、いや最も聞きたくない言葉が飛び出していた。

 

「本気で言っているんですか?」

「本気だよ、だってそのほうが幸せだから」

「ふざけないでください」

 

 アドマイヤマックスは激情し大声を張り上げはせず淡々と呟く。その言葉には重苦しさと圧倒的な怒りが籠っていた。デジタルも込められた感情の強さに気づき、一瞬だけ体をビクリと震わせる。

 

「断言します。あのまま理想の偶像に縋りつくより、チームやトレーナーが喜ぶ顔が見ると嬉しいって気持ちと例え理想の偶像に劣っていても、素敵なウマ娘を感じて幸せという気持ちを合わせた今の方が幸せです」

 

 アドマイヤマックスの言葉に怒りの感情がさらに籠る。デジタルは安田記念でその走りで理想の偶像を砕いた。そして世界は思った以上に期待のハードルを越えてくれると伝えてくれた。

 アドマイヤマックスのトリップ走法は諦念だった。可能性を諦めて、理想の偶像という期待を超え無いものに縋りつく。その事実にデジタルは気づかせてくれた。

 そして生き方の指針を与えてくれた。デジタルのようなウマ娘が居なくても、それに準ずるウマ娘を感じて楽しみ幸福感を得る。

 周りの人間が喜ぶ様子を見て嬉しいという気持ち、この2つを合わせることで、理想の偶像に縋るより幸せになれると。

 この指針はアドマイヤマックスにとって大きな影響を与えた。今もアドマイヤの人々やトレーナーに尽くすことで喜びを感じ、周りの可能性を信じたことでデュランダルという煌めくウマ娘に出会えた。今が最も人生で幸せだと思っていた。

 だがデジタルは今より諦念と可能性がない過去が幸せだと言い放つ。それは今の自分の否定だった。

 

「そんなわけはない!」

 

 デジタルは感情的になり声を荒げ否定する。その声量に周りの客は一斉にデジタル達に視線を向けるが、デジタルは気にすることなくアドマイヤマックスに敵意をぶつけ、アドマイヤマックスも目を逸らさず敵意を受け止める。

 現時点でトリップ走法を使える唯一の仲間と思っていた。その仲間に否定されたことで予想以上に動揺していた。

 

「私も安田記念を走って気が付きました。理想の偶像を保つことは極めて難しい。いずれ都合の良いように変質します」

 

 安田記念を走った際にそれは起こった。最初はダートプライドを走った時のように鼻血を出しながら笑みを浮かべて走る姿だった。

 だが途中から目からも口からも血を吹き出し。笑顔はより禍々しさを伴い、背中から白い翼が生えていた。

 それは今思えば醜い姿だった。だが当時は美しく神々しさすら感じていた。脳内で変化した美しさと神々しさを求めた。それはダートプライドの時のデジタルを感じるという当初の目的を大きく逸脱していた。

 

「当初の姿から変質し、自分の都合の良いように姿を変えた偶像を感じることが、理想の偶像を感じることだと言えますか?」

 

 デジタルは黙って意見を聞く。それは肯定の意味で有った。イメージは忠実でなければならない、自分の都合の良いように姿を変えれば、それはイメージに対する冒涜だ。

 

「でもアタシはそんなことをしない。ちゃんとイメージを正確に記憶し続ける」

「それには多くの時間が必要になると思います。実際に私は理想の偶像を維持するのに膨大な時間のイメージトレーニングが必要でした。アグネスデジタルさんはどうですか?」

 

 デジタルはまたもや黙る。ドクターストップがかかってからトリップ走法は1度もしていない。

 仮に今考えているトリップ走法をしようとしても精巧なイメージを作れないという予感が有った。そして多くの時間を掛けて、イメージを構築しなければならないと理解していた。

 

「そして、イメージ構築に力を注げば多くのものを失います。私はアドマイヤを失いました。アグネスデジタルさんはどうですか?それでも何も失わず理想の偶像を維持し続ける自信はありますか?」

 

 デジタルは思わず拳を強く握りしめる。イメージを構築するには長い時間没頭しなければならない。時間が増えれば何かを疎かにする。チームメイトと話す時間、トレーナーと関わる時間、周りとの関り、様々なものを切り捨てることになる。

 

「そしてイメージ出来なくなった時には周りには誰も居なく何も残りません。虚無です」

 

 アドマイヤマックスの言葉に力が籠る。安田記念で理想の偶像が打ち砕かれて、その理想を砕いた現実のアグネスデジタルに縋ろうとするが、もう2度と今のように輝けないと言った。

 その事実に絶望して砕かれた理想の偶像に縋ろうとしても再現できなくなった。

 そして切り捨てた結果周りには誰もおらず何も残っていない。それを分かった時の絶望感と恐怖は今覚えている。

 

「そんなことない!誰も居なくてもイメージのウマ娘ちゃんが居る。プレちゃん!オペラオーちゃん!ドトウちゃん!選手生活で素敵なウマ娘ちゃん達に出会った!例え誰かがイメージ出来なくても、他のウマ娘ちゃんがいる!」

「1人ですらイメージを維持するのが困難なのに、大勢のウマ娘のイメージを維持し続けられると思いますか?」

 

 デジタルは思わず頭を抱える。誰かに意識を向ければ誰かが疎かになる。当然だ。人の記憶容量には限界がある。瞬間記憶能力という稀有な記憶力を持つ者なら可能であるが、そのような能力は無かった。

 

「もう1度言います。私が向かおうとした道は虚無です。絶対に幸せになりません」

「だったらどうすればいいの!?衰えは止まらない!地方にも行けない!イメージを感じ続ける道は虚無!どうやったら幸せになるの!?教えてよ!」

 

 デジタルは身を乗り出しアドマイヤマックスの両肩を強く握りながら叫ぶ。絶望の先で見つけた1つの光明、それはアドマイヤマックスの言葉により光明ではなく、絶望だと諭される。

 かつてその絶望に居たアドマイヤマックスの言葉は何よりも説得力を有し、希望が無いことを否が応でも理解させられた。最早光明は何一つない。まさにデッドエンドだ。

 

「分かりません」

 

 アドマイヤマックスは悲し気に首を振る。デジタルの置かれた状況を全く理解していない自分では、答えは到底出せない。下手に知った風な答えを出しても逆効果だと考えていた。

 

「でも何度でも言います。その先は虚無で絶望です」

 

 だがこれだけは断言できる。デジタルが向かおうとした先は虚無と絶望、何一つ希望はない。

 デジタルはその言葉がトドメの一言となったのか、フラフラと立ち上がり力ない足取りで出口に向かって行く。アドマイヤマックスはその様子を心配そうに見つめる。

 やさしい嘘をつくべきだったかと考えるが脳内で即座に否定する。例え辛かろうが現実を突きつけるべきだ。それがデジタルの為だ。

 アドマイヤマックスはかつてデジタルによって救われた。そして今の忠告がデジタルへの恩返しだった。

 

 トリップ走法は限界以上の力を引き出すという肉体的な負荷もあるが、その場にイメージしたウマ娘が居ると勘違いさせるほど精巧なイメージを作り上げ、それは脳を多大に酷使する。

 仮にやろうとした肉体の限界以上の力を引き出さず、イメージを作るだけのトリップ走法で走った場合、デジタルの脳は負荷が掛け続け、それでもイメージのウマ娘を感じ続けることに固執し続け体を壊し破滅していた。

 デジタルはアドマイヤマックスの言葉によってイメージのウマ娘を感じることを断念した。それは破滅の未来を回避させた。

 アドマイヤマックスは結果的にデジタルを救ったのだった。だがそれは希望を断ち深い絶望の海に落とすことに繫がっていた。

 

 



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勇者デッドエンド#4

 アグネスデジタルは緩慢な動きで首元に手を伸ばしスマホを手に取り時刻を確認する。

 午前9時、今頃皆は学校で授業を受けている。思考はそこから発展することは無く、授業をサボッている罪悪感も優越感も一切無く、再び微睡の世界に飛び込んだ。

 

 デジタルはアドマイヤマックスとの対話を経て以降はプレストンの家を出て寮に戻ると、学校にも行かずトレーニングもせず寮のある部屋に引き籠っていた。

 本来であれば自分の部屋で暮らすべきなのだが、ルームメイトと一緒に過ごす気にもなれず、辛気臭い者が居れば迷惑もかかる。そして寮長に交渉して別の部屋で生活していた。

 

 もはや衰えを解消することも抑えることも出来ず、想像の世界に逃げることすらできなくなった。

 全ての希望が潰えたデッドエンドしか待ち受けていないと実感し、それと同時に急激に体の力が抜け気力も衰え、1日の大半を寝るという無為な日々を過ごしていた。

 無為に過ごしている間も確実に終わりに向かっている。少し前まではその恐怖に心が軋み涙を流すことがあったが、今ではそんな気力すら湧いてこなかった。

 

 数時間後デジタルは目を覚ますと同時に強烈な飢餓感に襲われる。そういえば最後に食事を摂ったのはいつだったか?過去の記憶を遡ろうとするがその気力すら沸かず、ベッドから起き上がり部屋の外に向かう。

 デジタルは扉を開けると足元に食事が置いてあった。食事を取ると部屋の中に帰り、生命活動を維持するためにと云わんばかりに、感情を出すことなく機械的に食事を摂る。

 食事を摂った後は眠ろうとベッドに向かい布団に入る。すると丁度目を瞑った瞬間に扉の外からノックの音が聞こえてきた。デジタルの聴覚は音を捉えるが脳は意図的に無視する。

 

「デジタル居るか?」

 

 デジタルの脳はその声に反応する。声の主はチームプレアデスのトレーナーの声だった。

 何の用なのか?引き籠っていないで部屋から出ろと言いに来たのか?脳内で様々な憶測と予想が浮かび上がるが考える気力が湧かないと、全ての憶測と予想を消去する。

 

「デジタルに伝えたいことがある。聞いてくれるか?」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に返事しない。だが目を開き言葉を聞く状態にはなっていた。トレーナーも沈黙は承認と解釈した。

 

「デジタル、お前が今大きな悩みや不安に対して恐怖、怒り、悲しみを感じ苦しんでいることは分かる。だがそれらを完全に理解することは出来ない」

 

 トレーナーはデジタルが聞き取れるようにゆっくりと喋る。デジタルが今抱えている悩みは衰えによってレースでウマ娘を感じられなくなることだ。そして衰えは例に見ない程急速で、さらに地方で走る選択も失われている。

 残された日は限りなく少ない。それはトレーナーの境遇に当てはめるなら、ある日残り数か月で、トレーナーを辞めなければならないと宣告されたようなものだ。

 仮にトレーナーはそうなったとしてもデジタルのように心を乱さない。それは人生経験の差もあるが、決定的な差は注ぎ込んでいる熱量の差だった。

 デジタルにとってレースでウマ娘を感じることはライフワークであり生き甲斐であった。

 将来はトレーナーになることを志し、いずれはトレーナーの立場としてウマ娘を感じる素晴らしさを理解するかもしれない。

 だが今はその素晴らしさを想像することは出来なかった。デジタルにとってレースでウマ娘を感じることは生であり、感じられなくなる事は死と同意義に近かった。

 トレーナーも目標や夢がありトレーナーという職業に誇りを持ち情熱を注いでいた。だがデジタル程では決してない。

 それはトレーナーが無気力というわけではない、デジタルが掛ける情熱が異常なだけであって、最早狂人と呼べるほどの異常さだった。

 それ故にトレーナーがデジタルの心境を完全に理解できなかった。

 

「デジタルの苦しみは真に理解できない。だが苦しみを和らげる方法を知っている。それは諦めることや」

 

 トレーナーはデジタルに伝わって欲しいと願いながら喋る。諦める、妥協する。それらは世間一般のイメージは良くない。

 そしてアスリートにとってはさらに良くない。妥協せず諦めず何度でも這い上がる、それがアスリートにとって最も必要な才能だと言う者もいるが、トレーナーも概ね同意する。だが今のデジタルにとっては害にしかならない。

 死を妥協せず諦めなくても克服できないように、衰えもそれらで克服できない。それは自然の摂理だ。

 

「そして受け入れて次善を探せ。人生では最善を選び続けられない。理不尽なことやどうしようもない事はしょっちゅうや。そんなかでも次に幸せになれる方法、少しでもマシな方法を探し実行する。それが俺の考える人生を幸せに生きる方法や」

 

 トレーナーは喋り終わると用が終わったとばかり踵を返し、寮の責任者に礼を言う。本来であればトレーナーは寮に立ち入れないのだが、特別に入らせてもらっていた。

 次善を探すためには現状を受け入れる。つまり納得することが必要だ。

 本来であれば今の助言はせずに自らが答えを見つけるのを待ち、その様子を見守るのが正しいかもしれない。しかしデジタルには時間が無い。多少強引でも介入するべきと判断していた。

 トレーナーは寮の玄関を出ると振り返り、デジタルがいる部屋の窓に視線を向ける。少しでも早く受け入れ次善を探してくれ。トレーナーは心の中で願い歩き始めた。

 

──

 

 トレーナーはトレーナー室でデスクワークに励む。季節は12月となり年末にむけて忙しさが増してくる。トレーナーも例外ではなくチームのオフを利用し溜まっていた書類整理に勤しんでいた。

 書類を書き終えふと窓の外を見る。すると外の景色は茜色に染まり始めていた。

 あと1時間もしないうちに日が落ちて辺りは暗くなるだろう。暫くすれば冬至を迎え1年が終わる。改めて月日が流れる早さを実感しながら書類整理を再開しようとペンを握る。その瞬間扉の外からノックの音が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 トレーナーは入室を促す。すると扉が開きそこにはデジタルが居た。思わぬ来訪者にトレーナーは驚き視線を向ける。

 引き籠り生活の影響か頬の肉が落ちて痩せている。正確に言えば枯れているという印象の方が強い。それに全体的に生気を感じられず憔悴している様子だった。

 デジタルは何も言わず部屋の中央にあるソファーに座る。トレーナーも作業を止めテーブルを挟んで反対側のソファーに座る。

 2人は言葉を発することなく沈黙が訪れる。トレーナーは何か話しかけようとしたが、デジタルの様子を見て止める。

 

「アタシは無意識に衰えを自覚していたんだと思う。そして衰えを自覚したら本当に衰えてしまう。それが何より怖かった。だから白ちゃんに当たったり悪口言ったりしたんだと思う」

 

 デジタルはポツリと語り始め、トレーナーは無言で相槌を打ち傾聴しながら言葉の意味を思考する。

 デジタルのトレーナーに対する態度が変わったのは天皇賞秋以降だった。それはトレーナーがデジタルは衰えているという疑念が大きくなった時でもある。

 他人に指摘されることで衰えが現実になってしまうと恐れた。なので攻撃的になり反発するようになったと推理していた。

 

「メイショウボーラーちゃんと模擬レースをするようになって、日に日に着差が縮まって、先着されて、着差が広がって。少し前までは可愛いけど実力的に下と思っていた後輩に抜かれるのってキツイね」

 

 デジタルの表情が僅かに曇りトレーナーの胸が僅かに痛む。衰えを自覚させるために、敢えてより精神的ショックな方法を選んだ。それは確かに効果が有ったようだが、もう少しやりようがあったのではないかと自省する。

 

「それで衰えを自覚させられて、何とかしないとマズいと思って、中央の偉い人に規定の改定を要請したけどダメだった。あれさえなければここまで苦しむこと無かったのにね」

 

 デジタルは一瞬怒りの表情を浮かべるがすぐさまに諦めの表情になり、トレーナーは再び自省の念を抱く。

 直談判した件はトレーナーも知っていて協会の人間から注意を受けていた。

 その後も何度か規定の改定を嘆願したが印象は悪く未だに却下されている。あの時にデジタルに抑えるように呼び掛け、自分が嘆願すればもう少し交渉を有利に運べたはずだ。それ以前にこの事態を想定して事前に交渉すべきだった。

 デジタルはトレーナーになるという将来の目標が有り、現役にそこまで固執しないと思っていたが、完全に読み違えていた。

 

「そして、その日にタップダンスシチーちゃんと言い争いして、プレちゃんの家に転がり込んだ。現役のウマ娘ちゃんが羨ましかった。皆は衰えていなくて未来があるのがズルいって思った。このままじゃウマ娘ちゃんが嫌いになっちゃうと思ったから」

 

 デジタルは当時の心境を思い出し制服の心臓部分を握り締める。その様子を見てトレーナーはデジタルの当時の心境を推し量る。

 トレーナーはプレストンからデジタルが学園を出た理由を訊いた時は衝撃を覚えた。

 あのデジタルがウマ娘に憎しみを抱く。俄かに信じがたかった。そして当の本人はそれ以上の衝撃だ。

 嫉妬で憎しみを抱いた。恐らくデジタルは自己嫌悪を抱くはずだ。そして大好きなウマ娘が嫌いになるという変化は心に相当の負荷と動揺を与えるだろう。

 

「あの時は現役を引退したウマ娘ちゃんには憎しみを抱くことは無かった。だからプレちゃんを憎まないし、学園の外ではそこまで現役のウマ娘ちゃんに出会うこともなかった。それにお泊り会しているみたいで楽しかった。プレちゃんには感謝しなきゃね。それで衰えは人の力じゃどうしようもないって気づいて。神様に祈って何とかしてもらおうと思った。神社、お寺、教会、モスク、色々な場所に行ったよ。あとはゴミ拾いとかもしたな。良い事すれば徳が積まれて神様が衰えを治してくれると思ってさ」

 

 デジタルは語りながら自嘲的な笑みを浮かべる。一連の行動は全て自分の欲のためだ、祈りと善行を対価に願いを叶えてくれと要求している。

 仮に自分が神様ならそんな浅ましい者の願いを叶えない。もっと心が清らかな者の願いを叶えるだろう。

 

「それでも衰えの進行は止まらなくて、どうしようと悩んでいる時に思いついたの。トリップ走法を使えばいいやって」

 

 デジタルは思いついた案をトレーナーに説明する。一連の説明はデジタルの欲を満たせるものだった。だがトレーナーはその方法を思いつくことは無かった。それはかつてデジタルが否定した考えだったからだ。

 

「これで救われるって有頂天になってたよ。そこに現れたのはアドマイヤマックスちゃん。色々有って話をしたんだけど、そこでアタシが考えた方法では幸せになれないって、これでもかってぐらいに分からされた。あれは効いたな~」

 

 デジタルは腕を組み何度も頷く。同類と親近感を抱いていた相手に完膚なきまでに否定された。当初は憎しみを抱いたが、あのままだったら幸せになれなかった。アドマイヤマックスには感謝していた。

 

「それでどうしょうもうないって理解して、落ち込みまくって何もする気がなくなって引き籠ってた。そこで白ちゃんが諦めて受け入れて次善を探せって言った。この言葉が1日中頭をグルグルと周ってた。そして受け入れた」

 

 デジタルは喋りながら思考を整理する。絶望し無気力になりながらも心のどこかで期待し抗っていた。

 受け入れたら未来が閉ざされる。きっと奇跡が起こって何とかなると、だからこそ神の存在に落胆し八方ふさがりと分かっていながらも衰えを受け入れなかった。

 デジタルは衰えを自覚してからは何度も感情が揺れ動いた。衰えを拒絶し、現役のウマ娘に嫉妬し、神に縋り期待し、見出した光明が完全否定され、未来が無いことに絶望した。

 人はプラスの感情でもマイナスの感情でもその感情を抱いただけで心の体力は疲弊する。

 心は疲弊し続け、これ以上絶望を抱いて生活する心の体力はないと判断し、受け入れた方が心の体力の消費が少なくなり楽になると判断していた。

 

「そうか、よく受け入れた。俺にはデジタルの心境を完全に理解出来んがある程度は想像できる。辛かったな」

「うん、本当に辛かったよ」

 

 デジタルはトレーナーの言葉に深く頷く。競技人生において様々な苦労があった。

 天皇賞秋ではトレーナーからオペラオーとドトウと競り合うなと言われた時、勝利中毒になって周りから否定された時、ダートプライドを走るためにチームの皆や友人と離れ地方に移籍した時、どれも辛かったが衰えを自覚し受け入れる期間が最も辛かった。

 

「それで白ちゃんが言った次善なんだけど、最後に有マ記念を走って……引退する。これがアタシの次善」

 

 デジタルは未練を断ち切るために意識的に明るい口調でトレーナーに告げる。でなければ感情が後ろ向きになり、後ろ髪を引かれて決断を鈍らせてしまう。

 現時点で最悪なのは未来に絶望し衰えを進行させ続け、どのレースでもウマ娘を感じられなくなる事だ。ならば早急に衰えを受け入れ、衰えが手遅れにならないうちにレースを走ってウマ娘を感じたほうが良い。

 

「有マ記念か、はっきり言ってかなり分が悪いぞ」

 

 トレーナーは厳しい表情を浮かべる。デジタルがウマ娘を感じる為にはある程度食らいつかなければならない。

 有マ記念は芝2500メートルで過去最長の距離、デジタルは2000メートルでもGIに勝利しているが本質的にはマイラーである。

 レースを走る中山レース場の芝2500メートルは小回りで6回のコーナーがあるので息を入れやすくペースが遅くなりマイラーでも走れると言われているが、今年の出走予定メンバーならそんな緩いペースにはならず、宝塚記念以上に苦戦する可能性が有る。さらに言えば衰えは天皇賞秋の時より確実に進行している。

 

「京都金杯はどうや?時期は有マと変わらんし、ハンデ戦やがマイルやしレースでウマ娘を感じやすい」

「アタシも考えたけど最後は有マ記念を走りたい。やっぱり有マ記念は特別だし」

 

 デジタルはトレーナーの提案に首を横に振りながら感慨深げに呟く。

 

 トゥインクルレース関係者やファンに特別なレースと聞けば、クラシックであれば日本ダービー、シニアであれば有マ記念と答えるだろう。

 有マ記念と宝塚記念はファン投票をして、上位のウマ娘は優先出走権が与えられるという特殊なシステムだ、極端なことを言えば人気さえあれば未勝利のウマ娘でもGIに出走できる唯一のレースである。そのファン投票がお祭り感を引き出す。

 さらに言えば有マ記念は年末に行われる。人々は年末に特別な感情を抱く、そして年末に行われる有マ記念にも1年を締めくくるに相応しいレースをしてくれと期待を寄せ、期待に応えるように数々の名勝負が繰り広げられた。

 幼き頃トレーナーが遊びに来た際に家の近くの丘で語ってくれた、数々の名勝負とウマ娘達のエピソードは今でも覚えており、密かに憧れを抱いていた。

 

 デジタルはオペラオーとドトウと走った天皇賞秋以降はそこまでレース自体に価値を見出していなかった。

 大切なのはレースでウマ娘を感じることで、云わば出走ウマ娘は中身、レースは中身を入れる器に過ぎない。中身さえ良ければどんな器でも構わなかった。

 有マ記念は魅力的なウマ娘が出走し中身は充分に素晴らしかった。だが今回は有マ記念という器にも価値を見出していた。

 

「分かった。その方向で行こう」

 

 トレーナーは静かに呟く。デジタルの言葉には熟慮と決意と覚悟が籠っていた。ならばレース選択について口を挟むべきではない。

 

「よし決まり、しかし最後まで勝手にレースを決めちゃったね。大半のレースをアタシが決めているような気がするけど」

「どうせこっちが提案しても言うこと聞かないやろ」

「まあね」

 

 デジタルはニカッと笑う。その笑みには絶望から苦悩から解放され、向かうべき目標が定まった安堵感が見て取れた。

 

「それじゃあ、明日からよろしくね。次で最後だから多少無理できるし、ビシバシ鍛えていいよ」

「ああ、言うこと聞かなかったら有マ記念のデジタルみたいにしごかれてるってチームのウマ娘がビビらせるほどしごいたる」

「oh、ソレハコワイデス」

 

 デジタルは片言の日本語で返事しトレーナーは思わず脱力する。部屋の空気は一気に弛緩する。デジタルはじゃあねと挨拶して部屋を出ようとするが、脚を止めてトレーナーの方に振り返る。

 

「何時ぞやはだから中堅程度とか、白ちゃんみたいなトレーナーにはなりたくないっとか悪口言ってごめんね」

「気にしとらん。心が荒んでいたらあれぐらい言うやろ。それに俺を凹ませたかったら、もっとエグイ悪口言わな通用せんぞ」

「それなら良かった。虫が良いと思うけど、次善を得る為には白ちゃんの力が必要だと思ってるから、頼んだよ」

「ああ、引退レースを悲しかったりつまらなかったと思うようなレースにはさせん。死に際で最高の思い出として思い出せるような最高なレースにしたる」

 

 トレーナーは力強く宣言し、デジタルも満面の笑みで応えた。

 

 トレーナーはデジタルが退出した後に何気なく窓を見る。気が付けば日は完全に落ちて外は黒く染まっていた。そして窓の近くにあった観葉植物の葉がハラりと落ちた。

 




勇者の疑惑と勇者デッドエンドは重い話だったので、作者としても出来るだけ早く終わらせようと投稿ペースを早めました。
次の有マ記念編はまだ書き終えていないので投稿ペースは落ちます


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勇者とラストダンジョン#1

まだ完成してないですが、ある程度目途が立ったので投稿します


 アグネスデジタルは太陽の日差しと肌寒さを感じながら学園内を当てもなく歩く。

 本来なら授業に出なければならないのだが、やるべきことをやらなければ授業を受ける気になれなかった。それに休学申請はまだ解除してないので、サボっても問題ない。

 暫く歩いているとベンチを発見し、座ると同時にスマホを取り出す。そして深く息を吸った後にゆっくりとスマホのボタンをタップして電話をかける。

 今からかける電話は重要な電話だ、そういった電話は部屋などで落ち着ける場所でかける。しかしそういった場所だと緊張感を増して上手く話せないことがある。ここなら風や日差しを浴びて適度にリラックスでき、上手く話せるのではと考えていた。

 コール音が数度鳴る。あっちは夜で今頃何をしているのだろうか?電話をかけてから相手が出るまでこの間が最も緊張する。普段では緊張など感じないのだが、今日は特別な用件なので緊張していた。

 

『もしもしママ?元気?デジタルだよ』

 

 デジタルは久しぶりに英語を喋ったなと関係ないことを考えながら話し相手の反応を待つ。

 

『こっちは元気よ、デジタルは?』

『元気だよママ』

 

 デジタルは無意識に声のトーンが上がる。久しぶりに話せて嬉しいということもあるが、今は安定したにせよ最近まで心が不安定だったので、母親の声を聞いて安堵していた。

 

『パパは今家に居る?』

『家で仕事しているけど』

『だったらパパを呼んで電話をスピーカーモードにしてくれる。大切な話があるの』

 

 電話越しに歩く音と父親を呼ぶ母親の声が聞こえてくる。2人とも居て良かった。1人ずつ言うのは何かしっくりこない。大切な用件は一片に伝えたい。

 

『もしもし、パパ、ママ居る?』

『いるぞ』

『いますよ』

 

 受話器越しに両親の声が聞こえてきた。デジタルは再び深呼吸をする。

 

『パパとママに報告があります。この度アグネスデジタルは年末の有マ記念で引退します』

 

 デジタルは引退することを決め、トレーナーに意志を伝えた後にしたのは親しい人への引退報告だった。

 いずれ公式に関係者に有マ記念を最後に引退することを伝えるが、その前に親しい人達に引退報告するのが礼儀と教わっていた。

 

『そう、引退するのね。本当に引退するのね』

 

 母親は引退するという事実を確認するかのように訊く。その声には安堵と悲しみが籠っていた。

 デジタルがレースをするたびに気が気でなかった。もし事故が起きれば怪我をする。それどころか重度の障害、最悪命を落とすかもしれない。娘の幸せを願いながら大きな不安を抱えていた。

 その点でレースをもう走らならないという事実は朗報ではあった。だがデジタルがレースを楽しんでいるのも知っている。そして楽しみを2度と体験できなくなる事にも悲しんでいた。

 

『引退する理由は何だ?』

『色々有るけど衰えかな、アタシの場合衰えるスピードが他のウマ娘ちゃんと比べてかなり早いみたい。もうこれ以上はレースでウマ娘ちゃんを感じられないから引退する』

『本当に悔いはないのか?』

 

 父親が問いかける。引退の時期はスポーツ選手にとって人生を左右すると考えていた。

 現役にしがみつき人生に影響がでるような怪我を抱えてしまった選手もいる。また悔いが残った状態で引退し、長い間後悔を抱えてしまう選手もいる。

 

『それはもっと感じたかったけど、もうどうしようもなくなっちゃった。次の有マ記念で引退するのが考えられる限りでの次善』

『そうか。それならいい』

 

 父親はポツリと呟く。その声には後悔の感情は帯びていない、もしくは後悔と折り合っている声だった。

 

『その有マ記念というレースは何時なの?』

『12月の最後の日曜だけど』

『私達もそのレースを見に行くから』

『いいよ。多分勝てないから』

『勝ち負けなんて関係ない、娘の最後の舞台を見に行かない親はいないわ』

『分かった。日本で会うのを楽しみにしてるから、じゃあね』

 

 デジタルは用件は伝えたと電話を切ろうとするが、両親の呼びかけで止める。

 

『引退を決めるにあたって様々な苦難や葛藤があっただろう。よく乗り越えた偉いぞデジタル、お疲れ様』

『デジタルは私達の誇りよ。それは大きなレースに勝ったからじゃない。自分の夢のために懸命に頑張ってやりきったから、本当によく頑張ったね。お疲れ様』

『うん、ありがとう、パパ、ママ』

 

 デジタルは改めて電源ボタンを押して電話を切る。そして空を見上げながら、胸にこみ上げてくれるものに耐える。

 父親は自分の葛藤と苦悩を理解してくれた。母親はレース成績ではなく、今までの過程を褒めてくれた。その賛辞は何より嬉しく思わず涙が出そうだった。

 そして両親に引退を報告し改めて引退するという実感とレースの世界から離れる寂しさを感じていた。

 

───

 

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「4名です。後で来ます」

「てはこちらに」

 

 エイシンプレストンは店員に案内されるとコートを脱ぎ膝に置いて座る。

 デジタルから話したいことがあるから12時に府中駅のファミレスに来て欲しいと突然連絡が来た。

 急遽の呼び出しだったが、丁度予定が空いていたのでこうして足を運んでいた。

 スマホをいじりながら呼び出した用件を推理する。家に居た時の精神状態から考えて重めな話と考えたが、チームプレアデスのトレーナーから精神は落ち着いていると聞いているのでそこまではないだろう。

 だが直接会って話すというからにはそれなりに重要な話かもしれない。

 

 まさか彼氏でも出来たのか?

 

 脳内で父親か母親役の自分、そして真剣な面持ちのデジタルと彼氏、その映像が浮かび上がった瞬間思わず吹き出す。

 何で自分がデジタルの親なのだ?そんな義理なんて無いだろう。そもそもウマ娘マニアにそんな浮いた話はない、あまりにも突飛な発想すぎる。

 

「何か愉快なことでもあったのかな?」

「プレストンさんこんにちは」

「あっ、こんにちはオペラオーさん、ドトウさん」

 

 プレストンは恥ずかしいところを見られたと思わずはにかみながら挨拶する。テイエムオペラオーとメイショウドトウもプレストンと同様にデジタルに呼び出されていた。

 

「よく急な呼び出しに来られましたねオペラオーさん、もしかして無理に予定を空けてないですか?」

「いや、幸運にもたまたま予定が空いていてね。直接会って話すとなるとそれなりの要件だろう」

「そうですよね、でも何だろう?プレストンさんは心当たりあります?」

 

 プレストンは先程の想像が頭に浮かび上がり、又もや吹き出す。それに興味を持ったのかオペラオーとドトウは何が可笑しいのか問いかける。

 プレストンは正直に想像を話すとそこから話が広がり、オペラオーの即興寸劇が開催され場は盛り上がっていた。

 

「お待たせ、って随分盛り上がってるね」

 

 暫くすると3人が座る席にデジタルがやってくる。実は数分前から来ていたが3人が楽し気に喋る光景が尊いと遠目から眺めていた。

 デジタルは空いていたプレストンの横に座る。

 

「当日に呼び出すなんて急すぎ、もっと気を遣いなさいよ」

「ごめんごめん、熱を失いたくないというか、出来るだけ早く話したいなって」

「それなりに重要な話みたいね」

「まあね。では早速だけど本題に入っていい?」

「別に構いませんよ」

 

 ドトウが3人を代表して了承する。その言葉を聞くとデジタルは深く息を吸い込むと雰囲気が変化し、3人も変化を感じ取り場の空気は緊張感が漂う。

 

「え~、この度、アグネスデジタルは、年末の有マ記念で引退します」

 

 デジタルの言葉にオペラオーとドトウは驚き、プレストンは静かに目を瞑る。

 そして沈黙が訪れる。3人の中で各自の引退時の心境がフラッシュバックしていた。

 

「そうか、お疲れ様」

「お疲れ様でした」

 

 オペラオーとドトウは手を差し出し握手を求めデジタルはそれに応じる。本人は熟考の末に出した結論だろう。その結論に他人が口を出すべきではない。

 

「驚いていないようだが、プレストンは引退する事は知っていたのかい?」

「いや、知らないです。けど一緒に生活して何となくそんな気がしていました」

 

 プレストンは平然と答える。オペラオーとドトウは比較的に衰えの進行が小さかった。だがプレストンはデジタルと同じように衰えがある程度進行してから引退した。故にその心境は理解できた。

 デジタルが夜中に泣いていたが、かつて同じように涙を流していた。

 衰えにより勝てなくなる。そしてデジタルと最高の勝負ができなくなると不安に駆られていた。

 そしてデジタルはボランティアをしてお祈りをしていた。お参りはしなかったが、かつては心の中で何度か神仏に願ったことがあった。

 

「改めて、お疲れ様。そして発表する前に報せてくれてありがとう」

「うん」

 

 プレストンも2人と同じように手を差し出す。デジタル程の選手で有れば大々的に引退会見を行うだろう。マスコミに伝える前に引退すると伝える。

 それは感謝と信頼の証でもあると分かり、その心遣いが嬉しかった。

 

「でもデジタルさん、相談してくれても良かったんですよ?」

「ドトウちゃんがそれ言っちゃう~ドトウちゃん達も何も言わず引退発表したじゃん。知ったのテレビの速報だよ」

「う~ごめんなさい~、でもデジタルさんに心配かけたくなくて~」

 

 ドトウとデジタルのやり取りを見てオペラオーとプレストンは口角をあげる。

 プレストンもオペラオーも心配を掛けたくないと友人には打ち明けていなかった。ここに居るウマ娘達は全員似た者同士だ。

 

「ということで、今までお世話になりましたということでアタシの奢りです。好きな物頼んじゃって」

「ファミレス程度の奢りで済ませるつもり?アタシがデジタルに世話した分を考えれば、ファミレスのメニュー程度ではとてもとても」

「がめついな~、だったら最高級のヌンチャクあげる」

「いいわよ。冗談だから」

 

 プレストンは揶揄うようにデジタルの頭をポンポンと触る。確かにデジタルの世話はしたが多くの物をもらった。持ちつ持たれつ、貸し借りなしのイーブンだ。

 

『私の夢は岩手のウマ娘が世界の頂点に立つ姿を見ることです。世界中の誰もが無理だと思っているでしょう。でも私はそう思いません!ここには世界一優しくて情熱的なファンの方々がいます!皆様の声援が岩手のウマ娘を押し上げてくれると信じています!夢は叶う!』

 

 デジタル達はスマホに映る映像に目が釘付けになっていた。4人は食事をしながら雑談し、話の流れで引退セレモニーの話題になっていた。

 其々が引退会見の思い出を語るなか、いつの間にかデジタルの一押しウマ娘の引退会見の披露会となる。

 今見ているのは盛岡レース場で行われたヒガシノコウテイの引退セレモニーだった。

 最初は冷静に岩手のウマ娘や協会やファンの人々への感謝を述べていたが、途中から感極まって涙声になっていた。

 その姿にレース場に訪れたファンの多くは涙し、最後はヒガシノコウテイの大合唱で終わるというエモーショナルな光景となっていた。

 

「うっ~、何度も見ても泣ける」

「そういえば現地で見てたんだっけ?」

「当たり前でしょ。涙でコウテイちゃんの姿が見えなかったし、声出し過ぎて喉が枯れた」

「あ~」

 

 プレストンは思わず頷く。脳内では涙と鼻水で顔をクシャクシャにしながら声を張り上げて名前を叫ぶデジタルの姿がありありと浮かんでいた。

 

「でも感動的です。私はヒガシノコウテイさんをよく知りませんが、岩手への愛情が伝わります」

「観客と一緒に作り上げるエモーショナルな空間、実に素晴らしい!」

 

 ドドウはうっすらと涙を流し、オペラオーは手を叩き称賛の言葉を送っていた。

 

「でもオペラオーちゃんとドトウちゃんの合同セレモニーも捨てがたいよね。オペラオーちゃんの『ボクがウマ娘界で最高のナンバー1なのは当然として、キミは最高のナンバー2だ!』とか尊死しそうだったし」

「あれは印象に残りましたね」

「私も嬉しくて思わず泣いちゃいました」

「あれは予定にないセリフで咄嗟に出た言葉だった」

「なおさら尊い~!」

 

 デジタルは薄っすら涎を垂らしながら尊みを感じ、オペラオーとドトウはその様子を見て思わず微笑む。

 

「プレストンさんは確か香港で引退セレモニーしたんですよね。私達のセレモニーは見てくれたのに、私は行かなくてすみません」

「いえいえ、流石に香港に来てくれとは言えません」

 

 ドトウは恐縮そうに謝り、プレストンも恐縮そうに答える。

 プレストンはGIを4勝していたが、日本ではGIは1勝しかしていなかった。成績としては引退セレモニーをしても不思議では無かったが、多分無理だろうと僅かに期待を募らせていたが諦めていた。

 そんな矢先に香港ウマ娘協会から香港で引退セレモニーをしないかと打診されていた。

 

「日本ではGI1勝ですから期待していませんでしたが、香港で実施するという誘いが来た時はビックリしましたよ」

「アタシも現地で見たけど、プレちゃんの人気には驚いたよ。ガチで日本所属で1番人気が有るんじゃないかってぐらい」

 

 デジタルは当時の様子を振り返る。現地に着いてレース場に居る人の多さと熱気に驚いたのは、今でも思い出せる。

 デジタルも当時のGI5勝ウマ娘やダートプライド勝者ではなく、プレストンのライバルとして認知されファンに囲まれていた。

 

「まあプレちゃんは香港大好きだからね。ベスト映画も香港のやつだし、いまやっている武術も香港で出来たんだっけ?それだけ好きならあっちのファンも好きになるでしょう」

「そうなんですね、それだったらオペラオーさんもプレストンさんの紹介で香港の映画に出たらどうですか?香港のアクション映画に出るオペラオーさんが見てみたいです」

「アクションか、悪くは無いね。ボクの華麗なアクションで観客達も魅了してあげよう!」

「アタシも見たい~。プレちゃん、コネの1つや2つを使って早くジャパニーズスーパースターテイエムオペラオーを売り込んで!」

「盛り上がっているところ悪いけど、映画関係にコネが無いから」

 

 プレストンの言葉に3人は其々肩を落とす。その仕草にプレストンは僅かに罪悪感を抱いていた。

 

「そういえば、来年ぐらいに香港でプレちゃんの名前のレースが作られるんだっけ?確かエイシンプレストンハンデだっけ?」

「本当ですか!?」

「何だって!?」

 

 デジタルの何気ない一言にオペラオーとドトウはプレストンに詰め寄る。

 レースで自身の名前が冠されるのはウマ娘にとって最高の名誉の1つと言われている。

 日本では3冠ウマ娘セントライトとシンザンの名を冠したシンザン記念とセントライト記念、副題では共同通信杯のトキノミノル記念がある。

 

「ちょっと待ってください、アタシのは通年でなくて1年限定です」

「それでも凄いですよ」

「正直羨ましいよ」

 

 ドトウは素直に尊敬の眼差しを見せ、オペラオーは僅かに嫉妬の眼差しをプレストンに向けた。

 

「いやオペラオーさんだって、テイエムオペラオー記念ができますよ。年間無敗でシニア中長距離完全制覇の偉業はクラシック3冠に引けを取りませんって」

「そうだよ!プレちゃんだってあるんだから、テイエムオペラオー記念が出来ないわけが無い!」

 

 デジタルはプレストンの言葉に乗じるように賛成する。だってという言葉が気がかりだがプレストンはグッと堪えた。

 

───

 

 デジタル達が店を出た頃には日は落ちかけていた。気温も下がり店内との寒暖差に皆も思わず身をすぼめる。

 

「ずる~い、アタシも行きたい~」

「ダメダメ、一応は休学中でしょ、ファミレスに来ているのだってダメなのに、この後も遊んだら下手したら出走停止になるわよ」

「それはそうだけど」

 

 デジタルはプレストンの言葉に渋々と納得し引き下がる。

 プレストン達は折角集まったから、この後も何処かに遊びに行くつもりだった。デジタルも一緒に着いていこうとしたが止められていた。

 

「まあ引退したら、いくらでも遊べるんだから我慢する」

「言ったね。引退後はオールで遊ぶからね」

「分かったわよ」

 

 デジタルは言質を取るように執拗に確認を取り、プレストンは渋々了承する。それを見て小さくガッツポーズした。

 

「じゃあねデジタル、有マ記念は絶対に見に行くから」

「有マ記念でまた会おう。デジタルらしいレースを期待している」

「さようならデジタルさん、あと気持ちは分かりますがトリップ走法は使わないでくださいね。無事に帰ってくるのも大事なことです」

 

 デジタルは3人に手を振って別れを告げると学園に向かって歩き始める。

 今日は久しぶりに4人でお喋りしたが実に楽しかった。そして心が楽になった気がした。

 現役引退を告げたのはトレーナーと両親、彼らはレースの当事者ではない。そして3人はかつてレースを走った当事者だ、其々の苦悩や葛藤を聞いたことで共感でき、自分の苦悩や葛藤には共感してもらえた。

 そしてまた一段と引退するという実感が増してきた。トレーナーは親しい者に引退すると伝えるのは礼儀と言っていたが、もう1つの意味が有ると実感していた。これは引退するという実感と覚悟を決める儀式だ。

 

 デジタルが学園に着いた頃にはトレーニング場から感じる喧騒と熱気は薄れていた。

 今頃トレーニングを終えたウマ娘達が寮に帰っている頃だろう。かつてトレーニング帰りに通った道を歩き寮に向かう。

 デジタルは寮の玄関に入る前に浅く息を吸う。気分はしばらく休んだ学校に登校する時に感じる不安と罪悪感だ。

 玄関に入ると自室に向かう。その間に何人かのウマ娘とすれ違ったがこれといった反応はなかった。

 自分が別室で引き籠もっていたのは知られていないのか、まるで知られているのが当然と思っていた事に気恥ずかしさを覚える。

 そして自室に扉の数メートル前で着くが思わず立ち止まる。扉越しからでもタップダンスシチーの殺気と呼べるようなヒリつく空気が伝わってくる。

 部屋を出たのはジャパンカップ前だった。あの時でも凄かったが、有マ記念まで時間がある今のほうがプレッシャーを感じる。

 

「ただいま」

 

 デジタルが部屋に入るとベッドで胡坐を組んでいたタップダンスシチーは視線を向ける。だが即座に視線を外し正面を見つめながら目を閉じる。

 

「部屋を出て行った時はゴメンね。タップダンスシチーちゃんにとってジャパンカップは特別なレースなのに、しょうもないって言っちゃって。あの時は色々と気が立っていて八つ当たりしちゃって」

 

 デジタルは頭を下げて謝罪しながらタップダンスシチーの顔色を窺う。

 部屋に入り顔を見た際にタップダンスシチーとの会話を思い出し、罪悪感に掻き立てられる。

 人にとって大切なものは違う。そしてそれを否定されるのはどれだけ辛い事かも知っているつもりだった。それなのに平常心ではなかったといえ明確に否定してしまった。最低の行為である。

 

「こっちもしょうもないって言って悪かったな。それにアグネスデジタルの気遣いに甘えていたみたいだ」

 

 タップダンスシチーは目を開けるとポツリと小さな声で謝る。

 今思えばレースに近づくとデジタルが部屋にいる時間は少なくなっていた。それは気を遣ってくれたからだった。

 共同生活をすればお互いどこかで引かなければならない。

 それなのに落ち込んでいるデジタルが部屋に居て少し煩わしいから出ていけと一方的な要求を突き付けた。これでは子供と変わらない。

 

「じゃあ、お互い悪かったってことで」

「ああ、それで手打ちだ。あとアタシに気を遣って部屋を出る必要はないからな。あと居心地が悪いっていうなら、出来るだけリラックスするから」

「ありがとう。その気遣いは次に来るウマ娘ちゃんにしてあげて、もしかして繊細で怖がっちゃうかもしれないから」

「ここから出て行くのか?」

「ああ、伝え忘れてた。次の有マ記念で引退して学園から出て行く」

 

 デジタルは問いにサラリと答え、タップダンスシチーは思わぬ言葉に僅かに目を見開いた。

 

「そうか」

 

 タップダンスシチーは僅かに寂しそうに呟く。トゥインクルレースを走るのは勝つためであり、友達作りや思い出作りをするためではない。

 誰が引退しても自分の人生には関係なく勝利に向かって邁進すべきだ。それでも感傷的な気持ちは拭えない。

 自身はクラシックとは全く無縁だった。世代のウマ娘と交わる機会は無く、世代の意識もなく親近感も無かった。

 数年間条件戦でくすぶり続け、重賞のレースに出走するようになってからは半分以上の同世代のウマ娘は引退か地方に移籍していた。

 そのなかでデジタルは同世代で有り世代の象徴だった。何より同じ部屋で過ごしたルームメイトだ、この寂しさを持ち込みレースで花を持たせる事は天変地異が起きてもない。

 いや持ち込まないように今のうちに悲しみ気持ちの整理をつけるべきだ。

 

「それでお願いなんだけど、有マ記念までは部屋で過ごしていい。限りなく空気になって過ごすから」

 

 デジタルは手を合わせてタップダンスシチーに拝む。

 

「別に構わないけど、それでいいのか?アタシと居ると居心地が悪いんだろう?」

「全然、最後の思い出としてタップダンスシチーちゃんがレースに向けて集中力を研ぎ澄ましている殺気みたいなものを刻みたいなって」

「お前がそれでいいなら構わんが」

 

 デジタルは了承を得て嬉しそうな仕草を見せ、その様子を見て思わず苦笑する。デジタルは殺気と言ったが好き好んで浴びるものではないだろう。本当に変わっている。

 それから2人は思い思いに過ごす。タップダンスシチーはレースに向けて集中力を研ぎ澄まし、デジタルはレースに向けて情報を調べ高揚感を高めてく。その間は邪魔されることなく集中力を高められていた。

 普段だと些細なことでも気になるのだが、存在感を全く感じなかった。空気になると言ったが大言でもなさそうだと感心していた。

 



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勇者とラストダンジョン#2

 12月に入ると寒さも一段と厳しくなり、多くの人は外で活動する際は厚手のコートを着て寒さに耐える。一方チームプレアデスのトレーナーは寒さに顧みることなくコースを走るウマ娘達を真剣な眼差しで見つめる。

 

「はぁはぁ」

 

 アグネスデジタルはウッドチップコースを走る。ゴールまであと300メートル、前を走るチームメイトのウマ娘とは残り2バ身差、追いつくために差し切るために腿を上げ腕を振る。

 ゴールに近づく度に心臓の鼓動が痛み体が軋む。トレーニングは決して楽ではなく、特にレース前のトレーニングはいつもキツイ。だが今回は過去の体験の中で最も厳しかった。

 

 手を抜け、楽をしろ

 

 脳内のデジタルが囁きかける。だがその弱い考えを即座に打ち消しさらにスピードを上げる。ゴールが迫るごとに前のウマ娘との着差が縮まり、最後はクビ差ほど差し切る。

 デジタルはゴール板を通過してから数歩で思わず片膝をつく。こめかみや頬から汗がしたたり落ちウッドチップを濡らす。その発汗量はまるで炎天下で長時間走り続けたようだった。

 だが今は12月でそこまでの汗は出ない。それだけのトレーニングをこなした証拠でもある。

 

「デジタル!何休んどんのや!さっさとともう1本行ってこい!」

 

 コース外で見ていたトレーナーから檄が飛ぶ。その非情な檄に他のトレーナーや他のチームのウマ娘達も思わず顔を顰める。傍から見ても相当に追い込んでいる。これではパンクしてもおかしくない。

 一方デジタルは気合いを入れるように太腿を何度も叩きスタート地点に向かって行く。

 

「アグネスデジタルさん、これ」

 

 先ほど抜かれたウマ娘がデジタルの元に向かい渡す。デジタルは礼を言ってからそれを手に取り口に着ける

 

「マジでオニですね」

 

 チームメイトは思わずトレーナーに非難の視線を向ける。ここ最近のデジタルのトレーニングメニューはそうだが態度も厳しすぎる。

 その様子は昔に見た高校野球の名門チームの監督のようで、当時はあまりの厳しさに慄いたのは覚えている。

 

「トレーナーがあそこまで体育会系とは思っても無かったですよ」。

「しょうがないよ、こうしないとダメだし、何よりアタシが望んだことだから、自己責任ってやつ」

「チームみんなでサポートします。だからアグネスデジタルさんは頑張ってください」

「ありがとう、皆が励ましてくれれば頑張れる。元気100倍だよ」

 

 デジタルは力こぶを作りチームメイトに元気さをアピールする。

 トレーナーに有マ記念を最後に引退すると伝えた翌日、デジタルはチームメイト達の前に姿を現した。チームメイト達もメイショウボーラーとの模擬レースで狼狽した一連の流れを知っていた。そしてトレーナーから一旦休学してトレセン学園から離れ、戻ってきたら引き籠っているのも噂で聞いていた。

 今のデジタルは不登校の生徒が復帰したようなもので、正直に言えばどう接すればいいのか分からなかった。戸惑っているチームメイトを尻目には語り始める。

 

 自らの起こった出来事と当時の心境、己が下した決断、話せる限りの出来事を赤裸々に語った。最初は突然の引退の報せにチームメイト達は大いに動揺したが、次第に固唾を飲んで話を聞く。

 決して話は上手くない、だがその心境が伝わり、完全に理解出来ないまでも、選手として共感できる部分が多々あった。そして皆は引退を受け入れていた。

 

「それでアタシは有マ記念で引退する。そこで皆にお願があります。これからは目的を達成するために体をイジメ抜く。そのトレーニングは厳しくて何度も弱音を吐いたり止めたいと思う。だからアタシを応援して手伝ってください、皆も其々の目標や予定があってアタシに割く時間が無いのは分かっている。でも頑張っての一言でいい、少しでも気にかけてくるだけでもいい。それがアタシの力になって、やり遂げられるから」

 

 デジタルは深々と頭を下げる。次善を勝ち取るためには何一つ後悔はしたくない、やれることは全て実行する。

 衰えを受け入れられるまでの期間、そこでいかに弱いかを思い知らされた。

 そんな自分が衰えという強敵の前に目的を達成できるか?率直に言うと自信は無い。ならば弱い者が目的を達成する為に必要な方法は1つ、他の者に助けてもらうことだ。

 

 一方チームメイト達も深々と頭を下げるデジタルの姿を見つめる。

 GI6勝ウマ娘にして、数々の名勝負を繰り広げ勝利してきた名選手である。大半のチームメイトにとっては雲の上のウマ娘だ。多くの人はどんな素晴らしい人かと想像するが、接する時間や機会が増えるごとに気づく。

 デジタルは我儘で欲望に忠実で、そして多くの弱さや脆さを持っているウマ娘であると。そのウマ娘が弱さをさらけ出し助力を請うた。GI6勝ウマ娘として条件戦のウマ娘に助力を請うのは少なからずプライドが傷つくだろう。

 だが全く気にせず頭を下げる。それは謙虚ではなく、己の目的の為を達成するという貪欲さ、その貪欲さに感銘を受けていた。

 何よりチームメイトの言葉が大きな力になると心の底から信じ頼っている。その信頼に応えなければチームメイトが廃る。

 

「あと5回!頑張ってください!」

「出来れば本番で感じる時間が増えますよ!」

「ほら、目の前に有マに出るウマ娘が居ますよ!こんなのも出来ないかとガッカリしてます!」

 

 デジタルはコースでのトレーニングが終わるとジムに向かいウェイトトレーニングをする。そこでもトレーナーが作成したハードトレーニングが課せられ、何度も心を挫けかけさせる。そしてその心を支えたのはチームメイト達の言葉だった。

 それぞれがメニューを終わらせインターバルに入る、その僅かな時間で励ましの言葉を送っていた。

 

「待ってね!ウマ娘ちゃん達!」

 

 デジタルは叫びながら最後の1回をやりとげる。それを見たチームメイト達から歓声が上がり、賛辞の言葉が送られていた。

 

「お疲れ様でした。また明日」

「また明日」

 

 デジタルはチームメイト達に別れの挨拶をしてチームルームに向かいながら体の調子を確かめる。

 トレーナーは地獄を見せると言っていたが、この調子でいけば本当に地獄を見そうだ。だがそれは覚悟の上で必要性を理解している。

 プレストンの家で暮らしている時には祈りや善行に時間を割いたことでトレーニング時間が減っていた。さらに寮に帰っての数日間は引き籠っていた。

 これが日常生活を送る程度なら全く問題ない。だが次のレースはGIだ、このトレーニング不足は大きく、それを補うには今まで以上にトレーニング強度を上げ急ピッチで身体を仕上げなければならない。

 さらに引きこもり生活で極端に食事の摂取量が減り体重を落としてしまった。ハードトレーニングに耐えさらに体重を増やすために、より多くの食事を摂らなければならない。それが地味にきつかった。

 もう少し早く受け入れたらここまで無理しなくても済んだ、思わず自嘲的な笑みを浮かべるが即座に思考を切り替える。

 あれは衰えを受け入れる為に必要な期間だった、そんな仮定をする暇があったら、万全な状態になるために思考を費やすべきだ。

 

 そして衰えで悩んでいる期間を経てある心境の変化が訪れる。衰えによってウマ娘が感じられなくなる事は死と同意義に近かった。謂わば1度死んだようなものだ。

 選手生活を振り返りああすれば良かった、こうすれば良かったと様々な後悔を思い出す。だからこそ今後はよく考え後悔が無いようにしようと思うようになった。

 

 人は必ず死ぬ。そして死は時に唐突に理不尽に訪れる。その事実は知識としては知っていた。だが急激な衰えという実体験を経て心の底から実感した。

 苦境に訪れた際デジタルは考える。それで本当に後悔しないのか?明日突然終わりが来ても納得できるのか?その思考は体を突き動かす最後の一押しとなり、レースでウマ娘を感じる為の大きな武器となる。

 

 

「あ~きく~」

 

 チームルーム内中央、デジタルは簡易的に設置された診察台にうつ伏せになりながら弛緩した声を出す。脹脛、腿、腰、背中、様々な場所に針が刺さっていた。

 トレーナーはデジタルにハードトレーニングを課していた。それだけに体のケアにも最大限気を遣い、チームのお抱えのスポーツ整体師や鍼灸師を呼び、トレーニング後に施術してもらっていた。

 

「デジタル調子はどうや?少しでも違和感が有ったら言ってくれ、感じる為に追い込んでも怪我をしたら意味がない。まずはベストな状態でレースを出ることが大前提や。レースに出走さえ出来ればチャンスはある」

「分かってるって」

 

 トレーナーはその様子を注意深く見つめながら問いかける。もしかして怪我を隠し出走するかもしれない。それを防ぐ為に声の抑揚や強弱などの微かなサインにも神経を張り巡らせる。

 

「白ちゃん、今のアタシは絶好調だよ。なんたって毎日が楽しいからね」

「そんなに楽しいんか?」

「うん、いつもの授業も、いつもの昼休みと昼食も、いつものトレーニングも何か楽しいんだよね。1日も無駄にできないと思うと、寂しさじゃなくて楽しさの方が大きいんだよね」

 

 デジタルは声を弾ませながら語る。有マ記念を最後に引退する。それは学園を去ることでもある。

 予想ではタイムリミットが設けられたことによって寂しさが大きくなると思っていた。だがタイムリミットがあるからこそ有意義に過ごそうと気を配るようになる。

 授業の1つでも真面目にノートをとるウマ娘、眠気に耐えようと舟をこぐウマ娘、眠気と戦うのを放棄し机に突っ伏すウマ娘、授業そっちのけで別の作業をするウマ娘、それらが尊く愛しいと思っていた。

 それは授業だけではなく、学園内での出来事の全てが尊く愛おしいと思い、それが楽しさに繋がっていた。

 

「改めて日々を漫然と過ごしてたんだなって気づかされたよ。この気持ちが有ればもっと楽しめたかもしれないのに」

「それに気づけただけで大したもんや。俺も意識を改めないとな」

「そうだよ。明日突然トレーナーの仕事ができなくなるかもしれないんだから」

「そうやな」

「何笑ってんの。結構良い事言ったつもりなんだけど」

 

 トレーナーは半笑いを浮かべながら返事する。弟子は師匠を育てるという言葉があるが、まさかデジタルから教わるとは夢にも思わなかった。

 急激な衰えによって選手生命が絶たれる。それは疑似的な死だ、そして死を体験したことで、よりよく生きようと思うようになった。それは1人のウマ娘として大きく成長させるだろう。いつもより少しだけ大人びて見えていた。

 

───

 

 トレーナーはこめかみを人差し指でトントンと叩きながらPCの画面を見つめる。

 デジタルには相当無茶なトレーニングを課しているがよくこなしている。その成果もあって衰えは想定より緩やかになっている。だが有マ記念でウマ娘達を感じられるレースが出来ると言われると非常に厳しい。GIレベルだと力が足りない。

 デジタルがレースでウマ娘を感じるためにはある程度近づく必要があり、本人が言うには10バ身差以上離されると感じるのが難しくなるそうだ。

 天皇賞秋ではシンボリクリスエスに2秒半差をつけられた。単純計算でいけば17バ身体差、有マ記念という不利な条件を考えればさらに差をつけられてもおかしくない。

 ならば感じられる距離を延ばすか?ウマ娘断ちでは感覚が鋭敏になり、5バ身差以上離れた距離でも詳細に感じられたと言っていた。これならば物理的に距離を離されても問題ない。

 しかしその案は即座に却下する。ウマ娘断ちをするとなれば学園から離れなければならない。今日々の生活を懸命に楽しんでいる。その日々を奪いたくない。

 他に可能性が有るとすればスローペースのよーいドンになり着差がつきにくい展開、だがタップダンスシチーが居る限りスローペースにはならないだろう。

 それか相手の実力を出さないようにして実力差を埋める。だがそんな方法が有っても絶対に望まない。望むのは全力を出し尽くしたウマ娘を感じることだ。

 トレーナーは願いを達成する方法を模索するが、これといったアイディアが思い浮かばず気が付けば0時を回っていた。

 今日は寝て明日考えるか、PCの電源を消そうとした瞬間にあるアイディアが思い浮かぶ。これだったら願いを達成できる。だが同時に多くの苦難を強いらせることになる。

 

──

 

「白ちゃん話って何?」

 

 翌日、デジタルはトレーナーに呼び出されトレーナー室に向かっていた。部屋に入ると辛気臭い顔を浮かべているトレーナーが居た。その姿を見て嫌な話かと思わず身構える。

 

「話って悪い話?」

「ある意味な、それで話は有マ記念についてやが」

 

 トレーナーは昨晩思いついたアイディアをデジタルに伝える。これはある意味奇策や邪道と呼ばれる方法だ。これを拒否されるとなると厳しくなる。だが了承しろと強引に言い寄ることもできない。それだけ痛みや不名誉を強いる方法だった。

 

「へえ~、そういう考えがあったか。白ちゃん頭いいね」

「デジタルはそれでええんか?」

 

 トレーナーは感心しているデジタルに思わず問いかける。その反応は予想外だった。

 

「だって、それがアタシの願いを1番叶えられるんでしょ。だったらそれに従うよ」

 

 デジタルは屈託のない目でトレーナーを見つめる。過去には色々とイザコザは有ったが今はその手腕には全幅の信頼を置いている。であれば疑念を抱かず実行するのみ、それが最も願いを叶える確率が高い。

 

「ありがとう」

 

 トレーナーは静かに頭を下げる。引退レースという重要なレースに弟子が全幅の信頼を寄せて全てを委ねてくれた。トレーナー冥利に尽きる。

 あとはデジタルの要望を最大限叶えるポイントを見極めて有終の美を飾らせる。その胸の中では情熱がさらに燃え上がっていた

 

 



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勇者とラストダンジョン#3

 チームプライオリティのチームルーム、その奥にトレーナーがデスクワークに使う机と椅子がある。椅子も机も高級ブランド品ではなく、そこら辺の雑貨屋で売られているような質素なものだった。ウマ娘達以外には金をかけない、それがチームプライオリティのメイントレーナーの藤林の考えだった。

 藤林トレーナーは机で真剣な面持ちで書類に目を通し書類作成に追われていた。作成している書類はシンボリクリスエスの契約更新の書類である。

 

 シンボリクリスエスは藤林トレーナーに雇われているプロ選手である。当然だが雇っている藤林トレーナーから賃金が払われる。支払い方式は年俸制度で、本人の競争成績、チームに対する貢献度、様々な要素を加味して年俸が決まる。

 競争成績の項目ではレースを走った数と勝ち鞍が評価の対象である。レース数は去年が10、中々の数だが想定した数は7で残りの3走は取りこぼしによって走らなくてもいいレースを走った結果だった。だが想定した7走を全て走ったのは評価できる。

 一方今年の想定レース数は6だった。だが上半期は調子を崩した結果、有マ記念を走るとしたら年4走になる。これは評価を下げなければならない。

 

 次に勝ち鞍だが現時点ではGI天皇賞秋のみ、仮に有マ記念を勝利したとしても去年と同数。さらに宝塚記念とジャパンカップでは1番人気での敗北、特にジャパンカップでは1着に1秒以上の差をつけられての敗北は評価を下げなければならない。

 次にチームの勝利数は去年と同じく1位、チームのウマ娘やサブトレーナーからの聞き取りで勝利に繋がるアドバイスや振る舞いをしていたと把握し、これはプラス評価の対象だ。

 トレーナーは作成した書類を確認する。有マ記念に勝利した場合は現状維持、勝利できなかった場合は10パーセントダウン、レースの出走数や成績の低下は本人だけではなく、トレーナーの責任もある。

 心情的には年俸を上げても良かったが、プロ選手として見れば減額提示はやむを得なかった。

 

「失礼します」

 

 扉の外からノックの音が聞こえトレーナーは入室を促す。すると扉の外から制服姿のシンボリクリスエスが入室してきた。その表情は何か決意を秘めているようだった。

 

「トレーナー、今年の契約更新する前に相談したいことがあります」

「何だ?」

「もし許可していただくなら、私は今年の有マ記念を最後に引退します。そして来年からはスタッフとして雇ってもらうことを希望します」

 

 トレーナーは思わず立ち上がり凝視する。引退を望んでいるとはまるで思っていなく、まさに寝耳に水だった。

 

「引退を望む理由は何だ?」

 

 必死に動揺を抑え込みながら理由を尋ねる。怪我やモチベーションの低下か?だがそれらの予兆は全くなかった。シンボリクリスエスは高揚も悲観することなく淡々と理由を口にする。

 

「いくつか有ります。まず私は絶対ではないからです。絶対であればトレーナーの代表作になるために来年も再来年も現役で走り勝利を積み重ねてもよかった。ですがそうではない」

 

 シンボリクリスエスは無敗ではない。だが日々を重ねるごとに成長を感じ、どんな条件でも勝てる絶対的ウマ娘になれると仄かな自信が有った。だがシニア級になり宝塚記念とジャパンカップでの敗北でその自信は失った。

 宝塚記念では初の掲示板外の4着、しかもタップダンスシチーは1着の可能性がなくなったと明らかに手を抜いていた。あれが無ければ5着だった。そしてジャパンカップでは1着のタップダンスシチーに9バ身近くの差をつけられての大敗だった。

 宝塚記念ではペース判断を間違った。ジャパンカップでは重バ場適性、脚質の有利不利、枠の有利不利などの敗因があった。言い訳を挙げればいくらでも挙げられ、もう1回同じレースをすれば勝てる自信はある。

 だが絶対であればどんな状況でもバ場でも勝てるはず。つまり自分は絶対ではない。

 

「ゼンノロブロイ、その才能と潜在能力は私以上だと思っています」

 

 トレーナーは思わず身を乗り出す。ゼンノロブロイは精神面ではまだ改善の余地があり伸びると思っていたが、上だと断言するほどの能力が有るとは思っていなかった。

 

「チームは企業でトレーナーはオーナー、そしてサブトレーナー達は従業員、オーナーは利益をあげ従業員に多くの収入を与える」

 

 シンボリクリスエスは話題をゼンノロブロイからチームについて変える。その言葉はまさにそのとおりだ。

 トレーナーは中央ウマ娘協会から得る固定給以外にもウマ娘が獲得した賞金の何割かを得られる。小さいチームならともかく大きなチームには多くのスタッフが所属し、もはや会社である。

 その従業員を雇うには金銭が必要であり、条件が悪くなれば別のチームのスタッフになる。それは転職のようなもので良い条件に働くのは当然の権利だ。

 日本一になるためには多くのレースに勝利しなければならない。多くのレースに勝つには多くのウマ娘を指導する優秀なサブトレーナーやスタッフが必要だ、

 そして優秀な人材は金が多いところに集まってくる。やり甲斐やトレーナーの人柄に惹かれて働くという例は比較的に少ない。

 

「利益を出すためにはより上のステージで好成績を残すウマ娘を育てる必要があります。そして意識的にあるいは無意識に強いウマ娘に意識やリソースは向けられます。チームに居るウマ娘には平等に接しなければならない。ですがチームは会社と考えれば利益を出すウマ娘を優先するのは仕方がないと考えます」

 

 トレーナーは感情が表に出ないように唇を噛みしめる。全員を平等に指導したいというのは本心でもある。だが人のリソースは無限ではない、であれば日本一のトレーナーになるという目標のために優秀なウマ娘にリソースを割かなければならない。

 この感情を知られればチームの何人かのウマ娘が少なからず落胆するのは分かっている。だからこそ決してこの考えを悟られないようにしていたが、完全に見破られていた。

 

「そして本題ですが、私とゼンノロブロイは中長距離が得意のウマ娘です。もし現役を続ければ来年は同じレースを走る事になるでしょう。ベストはワンツーフィニッシュを取ることですが、私は絶対ではないですし、今のゼンノロブロイも同様です。1着賞金は2着と3着より多い」

「つまり、シンボリクリスエスに割くリソースをゼンノロブロイに全て注げばレースに1着になり私がリーディングトレーナーになれる可能性が増えるということか?」

「そうです。そしてゼンノロブロイは私より絶対的なウマ娘としてトレーナーの代表作になる可能性が有ります。以上が私が引退する理由です」

 

 トレーナーは意見を整理する。つまりは日本一のトレーナーの称号を得る為にゼンノロブロイにかけた方が良いと判断したのだ。

 

「能力の衰えはないのか?」

「今のところ自覚症状は全くありません」

「それでいいのか?衰えが無い状態で引退すればもっと走っていれば良かったと悔いが残るぞ」

「私はトレーナーを日本一のトレーナーにするためにトレセン学園に来てレースを走っています。全ての行動はトレーナーが最優先です。そして後悔が有っても墓場の下まで持っていきます」

 

 トレーナーは腕を組んで思案する。ここで現役を続行しろと命令すれば来年も現役で走るだろう。衰えていないなら走らせるのが正しい。だがそれで良いのかという思いもある。

 彼女はプロとしてベストと考える選択肢を提示した。それを拒否するのは本人の気持ちを蔑ろにすると同じかもしれない。

 プロとしてゼンノロブロイを育ててくれると信頼してくれている。これに応えるのが彼女の矜持と信頼に応える最善の行動だ。

 

「分かった。引退することを許可する。今までありがとう。そして来年はスタッフとしてよろしく頼む」

「ご理解いただきありがとうございます。来年はスタッフとしてトレーナーの日本一になるために尽力いたします」

 

 トレーナーは立ち上がり手を差し出し、シンボリクリスエスも手を伸ばし握手を交わした。

 

「よし、契約に関する話は終わった。ここからは雑談とするか、スタッフを知ることはトレーナーとしては重要だからな」

 

 意図的に軽い口調で話しかけ、それに応じるようにシンボリクリスエスも僅かに弛緩し、部屋の空気は緩む。

 

「そういえば以前トレーナーが話していた理想の走りがあると話していましたよね?」

「ああ」

「その走りは取っ掛かりは掴めましたか?」

「ほんの僅かだがな」

 

 トレーナーは充分な間を置いてから返事する。トレセン学園に来る前、お互いの相互理解を図るために多くのことについて語った。

 その際に育てたい理想のウマ娘の話題になり、そこでトレーナーは最強のウマ娘と答え、最強の定義という問に対して最もGIで勝利したウマ娘であると答えた。

 強さを測る基準としてタイムと着差の大きさが挙げられる。だがタイムはバ場状態レース展開によって大きく変わる、そして着差もそれらの要素に相手の力量さも加わる。

 仮にAのレースで実力が100のウマ娘が居たとして、2着のウマ娘は80として着差を3バ身つける。

 そしてBのレースで実力が150のウマ娘が2着の140のウマ娘に着差を1バ身差つける。2つの走破タイムはAのレースが速いとする。どちらが強いと尋ねたとして正解を言える者はファンは勿論トレーナーですら多くはない。

 数値化されればBのレースの勝者が強いと分かる。だが強さを正確に数値化するのは相当困難で強さを判別するのは難しい。だからこそファンの間で最強ウマ娘論争は起こり、未だに答えは出ないのだ。   

 強さとは不明確で測りづらく不確定なものだった。だからこそ勝利は絶対的な指標と考える。例え相手が弱かろうがタイムが遅かろうが、勝利という事実は決して揺るがない。

 仮にGI4勝で全ての勝利がコースレコードのウマ娘とGI6勝のウマ娘がいれば、トレーナーはGI6勝のウマ娘を評価する。それだけ勝利に価値を置いていた。

 

 そしてどうすれば勝利を重ねられるか?それは無駄な力を使わないことである。レコード記録で走ったとすればそれなりに力を使わなければならない。それが積み重なれば怪我を引き起こし、疲労で出走回避になる可能性も出てくる。

 最小限の力で勝てば怪我をする可能性も減り、疲労もたまらず多くのレースに出走できる。究極的の理想は全てのレースにおいて1センチ差で勝ち続けることだった。

 ならばどうすれば力を使わずに済むのか?それは90の力に対して100の力でねじ伏せるレースでなく、相手の力を1まで削り自身は2の力で勝つことだ。

 

「相手を徹底的に研究する。出走ウマ娘の全ての勝つ可能性を把握し握りつぶす。そして相手の力が発揮できないレース展開にする。それを実行する為には相応の地力と対応力が必要とするがな」

「でしたら、有マ記念にその走りを私に叩き込んでください」

 

 シンボリクリスエスは引退を決意してから考えていた。現役としてトレーナーのためになるにはどうすればいいのか?思案の最中にかつて語った理想のウマ娘と理想の走りを思い出す。

 あの時は理想に過ぎなかった。だが経験を積んだ今なら何かしらの案がトレーナーにあるのかもしれない。それを確かめるために雑談を装って状況を確かめ、僅かだがアイディアがあると口にした。

 ならば試す価値はある。試すことでトレーナーの理想の走りは実現不可能なのか、傑出した能力が有るウマ娘しか実現できないのか、トレーナーの教えを受ければ誰でも実現できるのかが判別できる。そしてもう1つの狙いがあった。

 将来トレーナーが自分にはない絶対的な強さを持った作品を作ってくれると信じていた。だが万が一それができなかったら、その最悪の想定を考慮し次善策を考えていた。

 人は能力の平均値より最大値を重視する傾向がある。仮に最大の能力が100のGI4勝ウマ娘と最大能力が150のウマ娘のGI3勝ウマ娘が居たとすれば、多くは150のウマ娘を強いと評価する。

 能力が有るのに勝てないのはそれだけの理由が有る。だが想定で走らせる場合は常に最大値を基準にする。

 そして強さを決める基準は着差とタイム、着差を開きタイムが速ければ速いほど評価する傾向にある。ならばそれを利用する。

 自分が絶対的な強さを持っていなく、いずれ現れる絶対的なウマ娘に劣ると自覚している。

 だが次の有マ記念で大差のレコード勝ちをすれば、過剰評価し、絶対的なウマ娘であると勘違いしてくれるかもしれない。

 そうなれば絶対的なウマ娘を作り上げた優秀なトレーナーとして名を残す。その為に必要なのがトレーナーの考える理想の走りだった。

 本来は無駄な力を使わないための相手の力を削る。しかし有マ記念では力を1まで落とし2の力で勝利するためではなく。1まで落とし100の力を発揮する。それなら大差をつけられるかもしれないと考えていた。

 

「そしてその走りを実現するためにリソースを私にください」

 

 シンボリクリスエスは深々と頭を下げ、一方トレーナーは葛藤が浮かび表情が歪む。その心境は充分に理解していた。

 

 レースに勝つために相手の研究はどのレースでもやっている。だがトレーナーの理想の走りをするためにはもっと深く研究しなければならない。

 そして相手を深く研究し、研究の成果を理解できるように伝え、相手のウマ娘の勝ち筋を全て封じ込めるやり方を模索する。

 それをしようとすれば多くのリソースを割かなければならず、他のウマ娘の指導をせずに自分だけに全てのリソースを割けと言っているようなものだった。

 

 決しては思い付きで言ったわけではない。トレーナーの現在の勝ち数と獲得賞金、他のトレーナーの勝利数と獲得賞金と勝率、自分に付きっ切りになることによる指導の質の低下、サブトレーナーやチームスタッフの手腕、チームのウマ娘の実力と走るレースとの相手関係、それらを全て吟味した結果、自分に付きっ切りになったとしてもリーディングトレーナーの座は揺るがず、トレーナーの利益になると判断する。だがこれには問題があった。

 トレーナーは表向きチームのウマ娘に平等に接している。だが理想の走りを実現しようとすればそれを破ることになる。それを含めて利益があると判断したが、それを認めるか否かは判断次第だ。

 

 トレーナーは椅子にもたれ掛かり天井を仰ぎ見る。その提案は自分の利益を尊重しているのは理解できる。だが周りから見たら完全な依怙贔屓だ、そうなれば波紋を呼ぶのは確実である。

 その状態を維持しながら思案し続ける。シンボリクリスエスも答えが出るまでじっと待ち続けた。

 

「悪いが、全てのリソースを割くわけにはいかない」

 

 トレーナーは姿勢を戻しシンボリクリスエスを見つめながら結論を出した。

 

「俺の利益を尊重して言ってくれたのは充分に理解しているつもりだ。だが俺がシンボリクリスエスにリソースを注ぎチームのウマ娘への指導が疎かになった結果、レースに負けるかもしれない。そのレースに勝とうが負けようがそれはリーディング争いには関係ないかもしれない。だが本人にとってその1勝が人生のターニングポイントになるかもしれない」

 

 ポツリポツリと心情を吐露していく。チームのために強いウマ娘にリソースを割くと認めながら提案を認めない。これは矛盾しているように見える。

 確かにリーディングトレーナーにはなりたい。歴代で最高のトレーナーと呼ばれるために実績を積み上げたい。だが同時にチームに居るウマ娘も大切にしたい。

 比重は確かに傾いてしまう。それでもトレーナーには線引きがあり、提案は線引きを超えるものだった。

 

「分かりました。言葉に従います。可能な限り自分でトレーナーの理想の走りができるように尽力します。ですが自分の思考や解釈が入りますので、例え出来たとしてもトレーナーの指導があれば出来るかは判別できず、実現可能か否かだけしか分からない可能性が有ります。そこはご了承ください」

 

 シンボリクリスエスは感情を見せず淡々と喋る。案に賛同するか否かで嬉しさや悲しさを抱くことは無い。トレーナーはその言葉に静かに頷いた。

 

「だがリソースは全て割かないが出来る限りの協力はする。時間が惜しい早速始めよう」

 

 ノートPCを取り出すとシンボリクリスエスに近づくように手招きする。画面を見ると有マ記念に出走予定のウマ娘のレース映像が網羅されていた。

 そして2人は門限ギリギリまでレースを見て意見を交わした。

 

 



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勇者とラストダンジョン#4 

誤字脱字の指摘ありがとうございます


『先頭はタップダンスシチー!タップダンスシチーだ!2400を逃げ切ることとはこういうことだ!魅せてくれた仮柵沿い!広い府中を1人旅!』

 

 チームラピスラズベリのチームルーム、TVには先日行われたジャパンカップ映像が映っていた。タップダンスシチーのトレーナーはそれを見て自然に笑みが零れる。

 ジャパンカップはまさに乾坤一擲だった。ジャパンカップに向けてローテーションを組み、レースに向けて万全に仕上げ、立案した作戦も見事に嵌った。何より期待以上の走りをしてくれた。

 トレーナーもタップダンスシチーと同じように日本所属ウマ娘で初めてジャパンカップを勝ったカツラギエースのレースを見てトレーナーを志した。その運命的なレースで勝利する。それは人生で最も嬉しい出来事だった。

 

「てっちゃんまたジャパンカップのレース見てんのかよ。いい加減切り替えろって」

 

 タップダンスシチーが勢いよく入室し、トレーナーの姿を見て思わず苦笑する。嬉しいのは分かるが既に過去の出来事だ、そろそろ次を見据えて欲しい。

 

「折角だし見ていくか、最初から再生して」

 

 タップダンスシチーはそこら辺にある椅子を手に取りトレーナーの傍に座り、映像を見る。

 

「しかし全然ついてこないな」

「それはあの芝状態であのペースを刻めばな。しかし下手したら力尽きて負けてたかもしれない。もし負けたらてっちゃんはどうするつもりだったんだよ」

「タップなら最後まで負けないってバテないって確信があったからな。むしろ途中であの差を見て勝ったって確信した」

「おお~言うね~」

 

 タップダンスシチーは肘でトレーナーの脇腹を小突きながら茶化す。逃げの基本は道中どこかでスローペースに落とすのだが、3コーナー付近まで淀みのないペースを刻み続けた。

 

「でも3コーナーに入って差を詰められた時は少しだけヒヤヒヤしたぞ、まあ直線に入って突き放すんだけどな」

 

 映像では直線に入りタップダンスシチーが他のウマ娘を突き放し、その姿を2人は騒ぎながら映像を見る。逃げながらこのレースの上がり3ハロン最速タイ、この展開は他のウマ娘にとっては絶望的なレースだといえる。

 

「それで2着とはGI史上最大着差の9バ身差、まあ狙ったけど上手くいってよかった」

「後で一部のファンから勝ちが確定しているのに全力で走ってどうする。それで怪我をしたら元も子もないって批判がこっちに来たぞ」

「は~全く勝負ってもんを分かってない。これだから素人は」

「だな、俺も同じ立場だったらそうする」

 

 タップダンスシチーの愚痴にトレーナーは強く頷く。シンボリクリスエスのトレーナーは勝利を重ねる為には最小限の力で勝つのが最良だと考えている。それに基づけば愚行だが、2人の考えは違った。勝負とは心技体を競うものであり特に心に意識を向けていた。

 ある格闘家Aは格闘家Bと比べても贔屓目無しに強かった。普通にやれば100戦100勝のはずだった。だがいざ試合をやるとAはBに勝てなかった。AはBに幼少期にイジメられた過去から苦手意識を持ち実力を発揮できなかったからだ。

 タップダンスシチーは全力で走り差をつけたのは苦手意識を植え付ける為だ。

 GI史上最大着差を着けられての敗北、その着差を実力差と認識してしまい心が挫けるウマ娘が居るかもしれない、そう思わなくとも無意識で苦手意識を抱いてしまうウマ娘が居るかもしれない。

 2人は体のダメージよりも相手の心にダメージを与えることを優先していた。そして次の有マ記念にはシンボリクリスエスが出走する。少しでも心のダメージが与えられれば価値は充分にある。

 

「さらに有マ記念に勝つために、あの仕掛けをするだなんてな。タップがゴールしてから暫く全く気付かなかった。俺じゃあ思いつかん。本当に勝負師だよ」

「てっちゃんこそ、アタシの仕掛けにすぐに気づいて準備してくれたんだろ。アタシのアイディアだけじゃ効果が薄くなる。てっちゃんこそ勝負師だよ」

 

 お互い笑みを浮かべながら賞賛し合う。お互いのアイディアを聞いた時は思わず膝を打つほど驚いていた。そして悔しいと思うと同時に賞賛の念を抱き、心が通じ合ったようで嬉しくもあった。

 

「それで例のあれは?」

「ばっちり用意しているぞ」

 

 トレーナーは近くにあった紙袋から荷物を取り出し、自慢げに見せびらかす。中身は赤色のジャージと青色のシューズだった。タップダンスシチーは手に取って手触りなどを確認する

 

「ところでアイテムAは?」

「あれは心証が悪く、ルール上問題無いが見つかったら色々言われる。けどそれなら問題ないし、バレても心証はアイテムAより悪くないし、効果も差は無い」

「ふ~ん」

 

 タップダンスシチーはジャージとシューズを試着しながらトレーナーの言葉を聞き流す。勝つためならルール上問題ないなら何しても良いとは思っているが、そう言うなら仕方がない。それに自分の為の選択なら好意は素直に受け取ろう。

 

「仕掛けを上手くいくかな?」

「そのためには慎重に事を進めなければいけない。ぬかるなよ」

「そっちこそ」

 

 2人は笑みを浮かべながら拳を付き合わせた。

 

───

 

「タップダンスシチー先輩は?」

「後で来るって」

 

 サクラセンチュリー達は坂路コース脇で体が冷えないように準備運動をしながらタップダンスシチーを待つ。一昨日はジャパンカップ優勝パーティーで思う存分騒いで盛り上がった。

 トゥインクルレースの花形である東京芝2400のGIに勝利するどころか、2着に史上最大着差の9バ身差もつけた。この快挙に皆は浮かれ、あまりに騒ぎ過ぎたせいで翌日のトレーニングは中止になっていた。

 そして今日のトレーニングでもメンバーの浮かれ気分が若干抜けきっていなかった。

 

「待たせた」

 

 暫くしてタップダンスシチーがサクラセンチュリー達の後ろから現れ、改めてその姿を見つめる。

 ジャージの左胸につけられている星のエンブレム、これはGIを勝利したウマ娘だけが付けられる勲章のようなものである。その姿は多くのウマ娘の注目を集め羨望や嫉妬の眼差しを送っていた。

 そしてサクラセンチュリー達はタップダンスシチーが纏う雰囲気の違いに気づく。ウォーミングアップでは僅かに浮かれ気分が残っていたが、今は欠片も無く完全にスイッチを入れている。さらに元々大きかった体が1回り大きく見えていた。

 

 1つの勝利が自信を植え付けウマ娘を劇的に変える。そんな事例は多く見られていた。GI勝利、さらに2着と9バ身差をつけたとなれば得た自信はかなり大きい。その分だけ成長したのだろう。

 その証拠に周りにいる多くのウマ娘が注目していた。これは左胸にある星のエンブレムのせいではない。謂わばGI勝利によって備わった格が注目を集めさせている。

 一部ではジャパンカップは展開に恵まれた勝利で、次の有マ記念はシンボリクリスエス有利と評価されているが、サクラセンチュリーはそう思っていなかった。

 チームメイトという贔屓目無しに今の格なら互角の勝負は出来るだろうと思っていた。

 

「よし行くか」

 

 サクラセンチュリー達はタップダンスシチーの声に従うように坂路コースに向かった。

 

「ではお先です」

 

 栗毛のウマ娘が坂路コースをスタートしタップダンスシチー達は見送る。基本的に力が劣っているウマ娘が先にスタートする。彼女は1勝クラスのウマ娘で今日はウマなりと呼ばれる余力を残して走りをするようにトレーナーから言われていた。

 そしてウマなりでもタップダンスシチー達が迫ってきたら簡単に抜かれないように競り合うようにという指示も与えられ、競り合うのはゴール近くが効果的で競り合いを発生させるためにはハンデが必要だった。

 タップダンスシチー達は数秒ほどハンデを与えた後スタートする。2F目まではタップダンスシチーとサクラセンチュリーは併走する形になる。

 サクラセンチュリーは今の状況に違和感を覚える。サクラセンチュリーは瞬発力が優れ末脚自慢のウマ娘である。トレーニングでもレースを想定し末脚を磨くために最初はある程度ペースを落として、後半は全力で走る。

 一方タップダンスシチーはレースでは淀みのないペースを刻みながらの先行押し切りがレーススタイルだ。

 トレーニングでも先行力を鍛えるために早目にペースを上げロングスパート気味に走る。いつもなら2Fに入ったぐらいにペースを上げるのだが、まだ同じ位置に居た。

 3F目に入りサクラセンチュリーはスパートを仕掛け、同じタイミングでタップダンスシチーもスパートを仕掛ける。

 セクラセンチュリーは歯を食いしばり坂を駆け上がる。まだ3勝クラスだが末脚は重賞級だという自負があった。確かにGIを勝利した格上だ、しかしタイプが真逆の相手に末脚が劣るとは思っていない。

 2人は瞬く間に前を走る栗毛のウマ娘との差を縮めていく。前を見据えながら真横に居る気配を感じていた。

 残り1F地点で2人は栗毛のウマ娘に並ぶ。栗毛のウマ娘も出来るだけ食らいつこうと力を振り絞るが数秒も持たずに差し切られる。そして未だに気配を真横から感じていた。

 流石GIウマ娘だが末脚の差はラスト1Fで決まる。今まで培った技術と瞬発力に己のプライドを注ぎ込む。      

 それでもタップダンスシチーとの差は離れなかった。2人は並んでゴールする。その差は目視では分からないほどの僅差だった。

 

「若干セクラセンチュリーの態勢有利か?」

「分からんです。しかしいつの間にそんな末脚を発揮できるようになったんですか?」

 

 サクラセンチュリーは息を整う間を惜しんで問いかける。今までならこの状況なら1バ身差ぐらいは差をつけられると思っていた。だが結果はほぼ同着だった。

 さらに言えばトレーナーの指示が正しければあちらは強め、一方こちらは一杯だった。実質的に相手のほうが末脚が勝っていたと言える。

 

「日々のトレーニングの成果だな」

 

 サクラセンチュリーは得意げに言う姿に戸惑いと驚きを覚えていた。ジャパンカップ前であれば末脚勝負では勝てると断言できた。

 勝利はウマ娘を劇的に変えるというがここまで成長するものなのか。レース中に成長したのか分からないが末脚勝負に負けたのは変わらない。

 タップダンスシチーは間違いなく現役の中距離トップクラスのウマ娘だ、だがスピードの持久力は優れていても決して瞬発力があるウマ娘ではなかった。だが瞬発力が備わった。

 これならば有マ記念でシンボリクリスエス等の有力ウマ娘を倒し中距離のトップに立てる。それは予感ではなく確信に変わっていた。

 その後も3人はもう1本坂路を走り、そこでも先ほどと同等の末脚を発揮し先着していた。

 

「スポーツ知報ですが、タップダンスシチー選手とトレーナーさん少しよろしいですか?」

 

 トレーニングが終了しタップダンスシチー達がチームルームに出ると、1人の記者が待ち構えていた。彼はチームラピスラズベリの番記者的存在でトレーナーとも親交が有った。

 タップダンスシチーは談笑していたチームメイト達に目配せし、チームメイト達もヒラヒラと手を振り寮に向かって行く。

 

「もう取材?早くない?」

「今年の有マは盛り上がりそうですので、早目に取材して情報量で他紙と差をつけようと」

 

 トレーナーの問いに記者は気軽に答える。有マ記念はトゥインクルレースの1年を締めくくるビッグイベントで世間からの注目度も高い。

 さらに今年の有マ記念はメンバーが集まると予想し、ジュニア級のGIを取材するより有マ記念を取材しようと、ジャパンカップの翌週から動き始めていた。

 

「当紙はタップダンスシチーを推していこうと。噂ではシンボリクリスエスは有マ記念で引退するようで、きっちりシンボリクリスエスに勝つタップダンスシチーを密着取材しようと」

「ボリクリ引退するの?」

「真偽は定かではないけど噂だと」

 

 タップダンスシチーは引退の報せを聞き一抹の寂しさを覚える。シンボリクリスエスは壁だった。最初に走った有マ記念ではベストに近いレースをしながら後ろから猛烈な勢いで差され、そこから強く意識するようになっていた。

 レースを勝つためにライバルは減った方がいい、だが同時に強敵に勝ちたいという気持ちも有った。

 シンボリクリスエスには衰えが見られず、これからも何度も鎬を削ると思っていただけに、先の報せはショッキングだった。

 

「なら、なおさら負けられないな」

 

 タップダンスシチーは闘争心を漲らせる。戦績は1勝1敗、これで勝たなければもう2度と勝ち越す機会は訪れず、強かったと証明できない。元々負けるつもりはサラサラ無かったが、引退の報せはさらに闘争心を燃やさせた。

 

「おお、気合入っていますね。では早速、今日のタップダンスシチー選手は坂路で終い重点でしたが、どのような意図が?」

 

 記者はレコーダーを手にし取材を始める。彼はタップダンスシチーを長期間追っていた。レーススタイルを確立する前は終い重点のトレーニングをすることがあったが、確立してからは己の武器を磨くために先行力を高めようと、終い重点のトレーニングはしていなかった。

 

「ジャパンカップでは上がり3Fは最速タイだったからね。走りにキレがついてきたのかと思い、そこも伸ばしていこうと坂路で終い重点にしました」

 

 記者はトレーナーの言葉にふむふむと頷く。確かにジャパンカップの上がり3Fは最速だった。逃げが上がり3Fを最速で走れば物理的に届かない。まさに究極のレースと言っていい内容だった。そして今まで上がり3Fを最速で走ったことは無かっただけに強く印象に残っていた。

 

「なるほど、今日もサクラセンチュリーに競り勝ち、残り3Fのタイムも本日最速でした。しかも強め、申し訳ないですが、タップダンスシチー選手がこれほどのキレを持っていると思っていませんでした。これはトレーナーさんにとって予想通りでしたか?」

「いえ、正直予想外でした。でも嬉しい誤算です。先行力を生かし淀みのないペースを刻み、早目にスパートをかけるのがレーススタイルですが、どうしても終いが甘くなって差されるレースもありましたから、これでキレがつけば終いも良くなり、レースの幅も広がります」

 

 トレーナーは戸惑い気味に笑みを浮かべながら語る。記者はそれを見て変化は全くの想定外だったと判断した。そして質問の相手をトレーナーからタップダンスシチーに変える。

 

「タップダンスシチー選手も今日のトレーナーの指示には戸惑ったのでは?」

「ああ、最初は耄碌したかって思いました。アタシ達のレーススタイルは先行押し切りで真逆です。けど偶には違うメニューもやるのも刺激になり、ジャパンカップでキレを出す走りのコツを掴んだ気がしましたので、少しやれるとは思ってたけど予想以上でした。これならツルマルボーイやスイープトウショウにも末脚で勝てそうです。なんなら有マは後方一気で勝ちましょうか?」

 

 記者はタップダンスシチーの言葉に思わずどよめきの声を上げる。もし現役で最も末脚があるウマ娘と訊かれればこの2人を挙げるだろう。

 その2人にも勝てるとは相当のビッグマウスだ。流石に話半分に聞くが、それだけ自身の末脚に手ごたえを感じているのだろう。

 

「それで体調はどうですか?ジャパンカップの激走で調子を崩すのではという声もありますが」

「ジャパンカップをメイチにしたから反動は多少気になるところでしたが全く問題ないです。むしろさらに調子が上向いています」

 

 タップダンスシチーは機嫌よく答える。記者は長年の経験からインタビュー1つでも調子の良し悪しが意外に現れ、声の調子や仕草を見た限りでは今の言葉に嘘はないと判断した。

 

「ではインタビューはこれで終わります。ご協力ありがとうございました…ということでここからはプライベートタイム~」

 

 記者は下げた頭を上げると硬かった雰囲気が一変して気軽な雰囲気になった。

 

「タップちゃん改めてジャパンカップ優勝おめでとう。しかもジャパンカップでは負け犬を沈めにいったね」

「おお、分かる?次に勝つためには他のウマ娘を徹底的に叩きのめしておかないと」

「横綱も本番で勝つために出稽古で次に対戦する力士をボコボコにしたって言うしね」

「じゃあ、アタシは横綱と同じステージに立っているってか」

 

 タップダンスシチーも仕事は終わりとばかりに普段の口調に戻り、先ほど以上に上機嫌に答える。2人もトレーナーを通して親交が有り、趣味の競艇について話すなどそれなりに親しかった。

 

「暫くは押しかけさせてもらうよ。そのお詫びということで今夜競艇の菊田選手と呑むけど、てっちゃんも来る?」

「本当に?行く行く」

「アタシも行く!」

「タップは無理だろ、外出申請書が通ると思うか?」

「てっちゃんだけズリいぞ、アタシだって取材受けるんだから見返りよこせ、でないと取材拒否するぞ」

「サイン貰ってきてやるから、それで勘弁な」

「しょうがない、それで手を打ってやる」

 

 タップダンスシチーはトレーナーの提案に渋々と了承する。その様子を見てトレーナーは吹き出す。レース前などはその気迫に近寄りがたいこともあるが、時には年相応の様子も見せることもある。

 

「飲み会は何時から?」

「19時」

「じゃあ、その前に一仕事終わらせるか」

 

 トレーナーは意気揚々とした足取りでトレーナー室に向かい、タップダンスシチーは羨まし気にトレーナーを一瞥し寮に向かう。

 

「仕事的にも個人的にもタップちゃんとてっちゃんには期待しているんだよ。有マ記念に勝って、来年は大阪杯かドバイシーマか香港のクイーンエリザベスか宝塚記念に勝って、秋には凱旋門に行って勝ってくれるって」

 

 記者は帰ろうとする2人に語り掛ける。タップダンスシチーは同期が華々しく活躍するなか条件戦でくすぶり続けながらも常に前を見続けていた。

 そしてトレーナーもタップダンスシチーの可能性を信じ自分達の走りを模索し続け、長年の努力が花開きついに現役最強と呼び声高いシンボリクリスエスを倒してGIに勝った。2人の歩んだ道のりを長年見続けただけに感情移入していた。

 

 そして2人の気質も好きだった。1着以外は意味が無いと次に備えるために露骨に手を抜くタップダンスシチーと、そのスタンスを容認するトレーナー、勝負はターフの外でするもんだと言わんばかりに盤外戦術を仕掛け、勝利目指す姿勢、それは勝負師の姿だった。

 トレセン学園はアスリートを養成する機関でウマ娘達はレースに勝つことより全力を尽くすことを重視する傾向がある。まだ若くアスリートであるからして仕方がなく、正々堂々走る姿は素晴らしい。だが好みではない。

 勝つのではなく相手を負かす。その為にはトレーニングの際にシューズに重りを入れて調子を悪く見せて油断させるなど平気でやる。その姿勢が好みだった。

 凱旋門賞制覇は日本の悲願だ、それをアスリートではなく勝負師が達成する。ある意味痛快だ。その痛快な光景が見られることを期待していた。

 

───

 

 教室内は朝のホームルーム前のお喋りを楽しもうと騒がしかった。その中でタップダンスシチーは喧騒とは無関係とばかりにスポーツ新聞を広げる。

 

──タップダンスシチー末脚に自信あり!現役最速の末脚は私だ!有マ記念は後方一気で勝つ!

 

「そこまで言ってないんだけどな」

 

 独り言を呟きながら記事を読んでいく。内容はトレーニングのメニューとトレーナーと自身のインタビューの一部が抜粋されていた。センセーショナルな見出しに比べれば大人しいが、記事の内容もそれなりに盛られている。

 

「何かオモシロイ記事でも載っているの?」

「アタシの記事がな」

「へ~、お~凄い!スイープトウショウもツルマルボーイも後ろから差してやるって」

 

 気が付けばスポーツ新聞を見ようとクラスメイト達が集まっていた。その様子を見てタップダンスシチーの口角は無意識に上がっていた。

 



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勇者とラストダンジョン#5

 ヒシミラクルは草木をかき分けながら進んでいく。草木は人の手入れが全くされておらず、目元の高さまで成長していた。

 そのせいで視界は遮られどこに進んでいるか分からない状態だ。空を見ようにも木々に覆われ空の色は見えず、周囲の明るさで何とか今は晴れているか曇っているか分かる程度だった。頼りになるのは貰った地図と方位磁石だけだ。

 今の日本にこんな秘境のような場所が存在したのか、しかも唯でさえ歩きにくいというのに、今は右足を怪我してさらに歩きにくい。内心で愚痴りながら目的地にたどり着けるかという不安を打ち消していく。

 草木をかき分けながら未開の地を歩くこと30分。視界に変化が訪れる。前方に薄っすらと湯気のようなものが見えていた。景色の変化に高揚し無意識に歩みが速まる。

 

 そして視界に飛び込んできたものは予想しているものとは違っていた。それは抉れた土にただお湯が張ってあるだけ、それは幼い頃に作った水入りの落とし穴を思い出させた。

 ヒシミラクルは恐る恐る人差し指でお湯に触れ温度を確認する。多少熱いが充分に入ることは可能だ。次に指を入れた後は服の袖を捲り腕を入れていく。肘あたりでも底に触れられなかった。

 次に広さを確認する。縦10メートル横5メートルぐらい、身体を縮こまらせながら入ることも想定していたが、これなら体を伸ばしながら入れそうだ。

 リュックを下ろし一瞬逡巡した後に衣服を脱ぎ始め全裸になる。

 流石にこんな秘境のような場所に人は来ないだろう。それにタオルを巻かずに全裸で入るのがマナーだ。いざ入ろうとすると寒気が過り体を震わせる。歩いている時はまるで寒さを感じなかったが、秋が深まった今の時期に外で全裸になれば寒いに決まっている。

 ゆっくりとお湯に入り全身が浸かれるように足を伸ばし、身体を投げ出しながら天を仰ぐ。これで青空でも見られたら、せめて周りに紅葉や銀杏でも咲いていれば良かったのだが、辺りは面白みのない緑の草木に覆われて景色を楽しむ気になれなかった。流石に贅沢だと反省し、意識を切り替えイメージを構築する。

 血液が駆け巡り腱が再生されていく様子を脳内で描く。さらに超常的な存在が力を貸してくれるイメージも同時に描く。肌に伝わる温もりを感じながら目を閉じ無心になってイメージを構築し続けた。

 

 ヒシミラクルの転換期は京都大賞典からだった。レースでは先行策で逃げるタップダンスシチーに挑んだが結果は1と1/4差で2着、ハンデ差は1で約1バ身差の計算になり、初めての先行策でこの差ならまずまずの結果だとトレーナーは満足げな表情を浮かべていたがその表情は険しかった。

 どんなに追っても追いつけないと思わせる嫌な負け方だったがそれだけではない。ゴールした瞬間に何かを奪われたような喪失感を味わっていた。

 何が奪われたかは分からない、だが自分にとって重大な何かだった。このレースはジャパンカップや有マ記念を睨んでの前哨戦だった。だが奪われない為に全力で勝ちにいくべきだった。

 心に後悔の棘が僅かに残る。そして翌日からヒシミラクルの歯車は微妙に狂い始める。

 

 宿題をやっていない日に限って先生に当てられる。出かけた時にやたら信号に引っかかる。ふと食べたくなったお菓子を買いに行くと売り切れている。

 

 他人にとっては気にもならない事かもしれないがナーバスになっていた。

 自分に有利なペースになった。抉れた芝が当らなかった。外れた蹄鉄が飛んでこなかった。レースにおいて不利を被らず有利になる。それが運の良さであり強さだ。

 普段の生活で不運に見舞われてもレースで何もなければ関係ない。しかし運に関わることだけあって気になっていた。

 

 そして事件が起こる。

 

 風が吹けば桶屋が儲かるという言葉がある。それはある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えであり、時には確率の非常に低い因果関係を無理やりつなぎ合わせ、こじつけつけるような理屈や言いぐさを皮肉に表現する場合もある。

 1つの1つの事象は些細だがそれが影響し合い事が大きくなっていく。それは傍から見れば天文学的に低い確率だが、実際に起こってしまった。

 ヒシミラクルは事故に遭いそうな人を庇った結果、靭帯を痛めてしまい全治1年という怪我を負ってしまった。

 

 日常生活における不運は起こるがレースに関係する不運は起こらないと不安になりながらもどこかで高を括っていた。

 車の運転手が悪いのか?人を庇ったのが悪かったのか?脳内で誰が悪かったと原因を追究する。そして即座に原因が浮かび上がる。原因は至って単純だった。

 自分の運が足りなかった。つまり強さが足りなかった。そして弱くなった前兆が見られたのは京都大賞典以降、つまり奪われたのは運、タップダンスシチーによって運を奪われた。

 その結論を誰かに言えば荒唐無稽の逆恨みと切り捨てられるだろう。だが本人にとっては絶対不変の真実になっていた。

 タップダンスシチーに対する恨みはない。だがいずれ奪われた運を奪い返す。怪我は自分の弱さが招いた結果と受け入れ、リベンジを誓いリハビリを始める。だが運は本人が思っている以上に強かった。

 

 ある日、ヒシミラクルは自分に会いたい人が居るとチームルームに呼び出される。そして中に入るとトレーナーと見知らぬ中年男性がいた。男性はヒシミラクルの存在に気が付くと丁寧に挨拶した。

 

「初めまして、本名を言うよりヒシミラクルおじさんと名乗った方が分かりやすいですね」

 

 その単語を聞いた瞬間に、目の前の男性とヒシミラクルおじさんの単語が結びつく。

 彼はスポーツ振興くじや宝くじが立て続けに当たり巨万の富を得た。その確率は人が壁をすり抜けられる確率より低いらしく、今世紀最高の幸運の持ち主と騒がれていた。

 そしてくじを買う際応援券をお守り代わりにし、数字もレースに勝った時の日付やウマ番を参考にして買ったからヒシミラクルおじさんと呼ばれていた。

 ヒシミラクルは幸運を授ける女神と騒がれていたが、その決定的な要因はヒシミラクルおじさんで、ある意味ヒシミラクルより有名人となっていた。

 

「着て早々ですが提案が有ります。私は医療関係者なのですが、そのコネクションを使って市場にも出回っていないような最新の治療器具を揃え、スポーツ医学の名医と呼ばれる医師の治療を受けられます。一時的に学園から離れてそこで療養しませんか?」

 

 説明ではヒシミラクルおじさんが医師の診療費や諸々の費用は全て賄うと話していた。

 ヒシミラクルは提案を聞きながら記憶を掘り越す。確かワイドショーで医療関係の仕事に就いていると報道されていたがここまで大物だとは思っていなかった。

 そして脳内である疑問が浮かぶ。何故ここまでしようとするのか?その疑問を見透かしたように語る。

 

「私は貴女のお陰で途轍もない幸運に恵まれました。その与えられた幸運を少しでも返したいのです」

 

 その言葉を聞き、お世話になりますと即答した。話を聞く限りでもヒシミラクルおじさんに相当な金額的負担が科せられるのは分かる。普通であれば負い目や遠慮が過るところだが一切の負い目や遠慮はなかった。

 ヒシミラクルおじさんは自分に関連する情報を元にくじを買って当てた。そしてレースに勝たなければご利益を感じず、自分に関連する情報を元にくじを買わなかったかもしれない。つまり自分のお陰であり、こうして恩を返そうと療養を提案してきた。

 このフィクションじみた幸運は全て自分が実力で引き起こした。ならば利用するのは当然である。

 

 ヒシミラクルは怪我をした際は来年タップダンスシチーと走るという目標を立てた。だがそれは理想では無かった。

 タップダンスシチーが来年も現役で走るという保証はどこにもない。怪我するかもしれない。それに現役だとしても海外に長期遠征して一緒のレースに走れないかもしれない。つまり予定が決まり尚且つ怪我していない状況、つまり早ければ早いほど良い。

 何より運を奪い返す為には勝利しなければならない。一応は宝塚記念にも勝てたが本質はステイヤーで、距離が長ければ長いほど良い。そして一緒に走れて最も距離が長いレースは有マ記念だ。走るとしたらこれがベストだ。

 それが理想であったが即座に諦めた。全治約1年のウマ娘が約2ヶ月後のレースに出走し勝利する。それはどう考えても無理だ。しかしヒシミラクルおじさんが現れたことで風向きが変わった。

 その治療器具と名医の治療によって驚異的な回復をみせ、怪我が治り有マ記念に走れるかもしれない。そんな事が起こればまさに奇跡、昨日までには欠片もない可能性だった。だが今は怪我治り有マ記念に走れるという根拠のない自信が体中に湧いていた。

 

 運は奪われたが全て失ってはいない。

 

 それからヒシミラクルは用意された療養所で怪我の治療を開始する。最新の治療器具や名医の治療も受けるにはそれなりの人脈とコネが必要になる。本来ならば決して受けられるものではなかった。だが運という強さが手繰り寄せた。

 そして治療の効果は表れ11月半ばで全治3か月程度まで回復していた。その回復は驚異的で医療業界を大いに湧かせた。

 しかし全治3か月では有マ記念には間に合わない。走るだけなら可能だろうが勝つコンディションにするには時間が足りなかった。だが焦りは無かった。自分は強い。その強さで必ず有マ記念までに間に合うと信じていた。

 その矢先にある情報が届く。療養所の近くに温泉が湧き、その成分は怪我に効果が有るというもので、その情報もヒシミラクルの応援券をお守り代わりにし、幸運を授かった者からだった。医療スタッフと相談し、その温泉に湯治に向かった。

 

───

 ヒシミラクルは温泉からあがり体を拭きながら体の調子を確かめる。湯の成分のせいか体から力が湧き上がるような感覚だ。

 プラシーボ効果というものがあり、医療スタッフも温泉の効果で治りが早まると信じろと思い込むことをアドバイスされた。そのアドバイスに従い信じ込んだ。

 それは温泉の湯の成分ではない。自分のレースによって効果が増した応援券をお守り代わりにし、幸運を得た者に教えられた温泉の効果、つまり自分の運という強さが引き寄せた温泉の効果を信じていた。

 それから治療には最新の治療器具による治療に湯治を混ぜていき、効果はてきめんだった。

 怪我はみるみるうちに治っていき、有マ記念に万全の状態で走るのは決して夢ではないとスタッフの1人が興奮気味に語っていた。

 

 そして治療の日々が続く中、11月の最終週を迎える。日曜日にはジャパンカップが行われ、自然とジャパンカップの話題が耳に届く。

 世間や専門家の大半がシンボリクリスエスの勝利を予想するなか、ヒシミラクルはタップダンスシチーが勝利すると確信していた。

 実力は勿論あるが何より京都大賞典で運を奪った。その運は有利をもたらし、他のウマ娘達に不利を与える。結果ジャパンカップはタップダンスシチーが2着に9バ身差の圧勝で幕を閉じる。

 脚質、枠、バ場状態、全てが有利に運んだ、それらの条件が無ければ勝てなかったという意見もあった。だがヒシミラクルはハナで嗤う。

 それらの好条件は全て運がもたらしたものであり、全ては実力だ。宝塚記念でそれを証明したつもりでいたが、未だに運を軽視する風潮に苛立ちを覚えていた。

 ヒシミラクルは走る予定の有マ記念について考える。最も強力な相手はタップダンスシチーだ。今まで欠けていた運の要素を強化したのであれば当然だ。だがその運の要素はヒシミラクルから奪った借り物に過ぎない。そして勝利すれば運は返ってくる。

 全治1年の怪我を負うという苦境に立たされた事でさらに運が強くなった。その強さは京都大賞典前以上になっているという自負がある。それに預けていた運が上乗せされればさらなる高みに登れる。高みに登った己を想像し心が躍っていた。

 ジャパンカップ翌日、医師から完治したという太鼓判を押され学園に戻る。全治1年の怪我を1カ月半で完治させる。それは現代医療ではあり得ない出来事で奇跡としか形容できなかった。

 

 ヒシミラクルは正門を潜った瞬間、手を名一杯広げ空気を吸いこみ匂いを嗅ぐ。やはり療養所とトレセン学園では空気が違う。空気は療養所のほうが澄んでいるがトレセン学園独特の空気が好きだ。

 正門を通過し真っ先にチームルームに向かう。チームメイト達と顔を合わせるのは約1カ月半だ、療養所に居る間もやり取りはしていたがやはり顔を合わせて話したい。

 

「ただいま!」

 

 ヒシミラクルは嬉しさを抑えきれないと明るい声色で挨拶する。するとチームメイト達は存在に気づき歩み寄ってくる。

 

「おかえりミラクル」

「怪我は大丈夫?」

「最新医療はどうだった?」

 

 質問に答えるかのように脚を天高く上げ勢いよく下ろす。それは相撲の四股だった。床を踏みつけた音がチームルームに響く。

 

「この部屋には邪気が満ちていました。この現人神ヒシミラクルが邪気を払っておきました。安心なさい」

「自分で名乗るな」

「調子に乗りすぎ」

 

 ヒシミラクルの演技がかった言葉にチームメイト達は一斉にツッコみを入れ、全員が耐え切れないと一斉に吹き出した。

 

「その様子だと本当に治ったみたいだね」

「まあね、医者からもお墨付きだから大丈夫」

「全治1年の怪我を1カ月半で治すって本当にウマ娘か?」

「本当に奇跡ですね。ミラクルおじさんも宝くじも奇跡レベルの確率だし、ヒシミラクルさんの恩恵は半端ないっすね」

「神とは言わないですけど、2つ奇跡を起こしたし聖人認定してもらえるんじゃね」

 

 ヒシミラクルを中心に姦しく騒ぐ。その騒がしさに懐かしさを覚えていた。

 

「皆集まったか?そうかヒシミラクルも戻ってきたか」

 

 トレーナーは入室しヒシミラクルの姿を見て平静を装いながら声をかける。今日帰ってくると医者から報告を受けていたが半信半疑で、目の前で見ていても俄かに信じがたかった。

 

「ただいまトレーナー」

「お帰りミラクル、ところで何かデカくなったか?」

 

 トレーナーは思わず尋ねる。制服越しで詳しくは分からないが上半身に厚みが出ているような気がしていた。その言葉にヒシミラクルは自慢げな表情を浮かべる。

 

「よく気づきましたね。あっちで怪我を治しただけじゃありません。見よ、この鍛え抜いた上半身を!」

 

勢いよく制服に手をかけるが、その姿を見てチームメイト達は即座に動き慌てて止める。

 

「止めろ露出狂、トレーナーの前だぞ」

「あっちで羞恥心を捨てたか?」

「あっ、そういえばそうか、秘湯に入る時に裸を見られちゃったから、そこら辺の意識が薄くなってた」

「その話トレーニング後に訊かせて」

 

 トレーナーは姦しく騒ぐヒシミラクル達を見て思わず笑みを浮かべる。ヒシミラクルが居ると雰囲気が和やかになる。改めて帰ってきたのを実感していた。

 

 トレーニングが始まり怪我を治しただけではないという言葉を理解する。その走りに安定感と力強さが増していた。

 その要因は鍛えたと言っていた上半身だろう。筋力アップにより腕の振りが良くなり推進力が増している。元に戻れば御の字だと思っていたが、パワーアップして帰ってきた。

 トレーナーの中で有マ記念勝利が現実味を帯びていた。だがその現実味は翌日には打ち消されてしまう。

 

「失礼します」

 

 ヒシミラクルはノックをした後トレーナー室に入室する。今日の昼過ぎに有マ記念について打ち合わせしたいという連絡があり、トレーニング前に部屋に訪れていた。

 

「急にすまない、座ってくれ」

「失礼します」

 

 トレーナーに促されソファーに座ると同時に顔を見る。その表情は焦りや不安を帯びていた。

 

「ところでスポーツ新聞とは読むか?」

「いえ、読まないです」

「なら、この記事を見てくれ」

 

 ヒシミラクルは机に広げられた記事を手に取る。見出しには『タップダンスシチー切れ味抜群』と書かれ、記事の内容はトレーニングに対する称賛だった。そして注目すべき内容はトレーニングの内容、終い重点で尚且つ好時計だった。

 

「いつの間にこんな瞬発力を身に着けたんですかね」

「だが脅威だ、あの先行力にキレがついたとなれば厄介極まりない」

 

 トレーナーは神妙な表情で肘をテーブルに着けて手を組む。今までは先行力が有ってもキレが無いので、最後の終いが甘くなり、後方のウマ娘から差されるというのが負けパターンだった。そこにキレが加わることで最後の一伸びが増し差し切れなくなる。

 

「これからのメニューだが坂路を中心に瞬発力を鍛えていこうと思う」

「それは欠点を補って、オールラウンダーになれってことですか?」

「いや違う。長所をより生かす為だ」

 

 最大の長所はスタミナを生かしたロングスパート、それを最大限生かす為に苦手分野の瞬発力を鍛えることによってレースの幅を広げる。

 そして今のスタミナは有マ記念を走るには充分すぎる程備わっている。逆に今以上鍛えるとスタミナを持て余す。

 其々の特徴があるにせよレースに勝つためにはスタミナとスピードの比率が重要であり、いくらスタミナを鍛えても最低限のスピードが無ければ勝てない。

 

「トレーナー、私の考えは逆です。これからはトラック中心でスタミナを鍛えましょう」

 

 ヒシミラクルは即座に意見に反対し、トレーナーの眉が僅かに動く。今までトレーニング方針に異議を挟むことは無かった。何より経験によって導き出した答えを否定され、プライドが僅かに傷ついていた。

 

「理由は?」

「ロングスパートで私はGIに勝ってきました。それは最大の武器と同時に運を呼び込んでくれたと思います。そして運は信じる心が呼び寄せると思っています。瞬発力を鍛える行為は私にとって自分の武器を信じてないと同じなんです。レースを勝つためにはトレーナーの方が正しいのでしょう。でも私は自分の武器を信じ抜きたい」

 

 想いをぶつけるように意見を言う。強さとは心技体に運を含めた総合値、仮に瞬発力を鍛え体が鍛えられても運が落ちては弱くなると考えていた。

 この意見は他人から見ればオカルト理論であり何一つ根拠はない。それでも自分の強さを肯定してくれた運の要素を信じたかった。

 トレーナーは腕を組み右人差し指で左の二の腕を叩きながら熟考する。その間部屋の空気は緊迫感が増し、ヒシミラクルも無意識に唾を何度も飲み込む。

 

「分かった。これからはトラック中心でいこう」

「ありがとうございます」

 

 ヒシミラクルの表情は明るくなり何度も頭を下げる。トレーナーの経験からすればどう考えても瞬発力を鍛えた方が良い。だがそれはヒシミラクルというウマ娘の個性を考慮していないともいえた。

 その強さは豊富のスタミナを生かしたロングスパートではない、備えている強運であると彼女自身は思っている。そしてスタミナを鍛えてのロングスパートで走る方が運が強くなると導き出した。

 トレーナーの育成方針は長所を生かす。その考えは変わらない。ただ長所がスタミナから運に変わり、生かすための要素は瞬発力からロングスパートに変っただけだった。

 

 



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勇者とラストダンジョン#6

誤字脱字の指摘ありがとうございます


 トレセン学園図書室、トレセン学園には多くの生徒が通い、様々なニーズを応えようとすると自然に蔵書の数は増えていく、またトレーナーも利用可能でトレーナー向けの蔵書も置いてある。

 他にも資料室として役割もあり、トゥインクルレース発足してからの中央ウマ娘協会から出版された機関紙や、当時の様子を知るためにスポーツ新聞なども保管されている。その結果トレセン学園の図書室は一般の図書館以上の蔵書量と敷地の広さになっていた。

 

 ゼンノロブロイはカウンターに座りながら全体を見渡す。机にはウマ娘達が集まり教材を広げ小声で相談しながら勉強している。建前として会話はしていけないのだが、小声は許容範囲なので黙認する。ある棚にはトレーナーが本を手に取りパラパラと見ている。その表情は真剣だ。

 ゼンノロブロイは図書委員会に所属し、月に数日図書室業務をしている。主にカウンターでの受付や蔵書の整理などである。一応は図書委員として仕事をしているが本職の司書も常勤しているので負担は少ない。

 特に異常がないと確認すると文庫本を取り出し読み始める。もし一般の図書館の職員がカウンターで本を読めばクレームの対象になるが図書委員は正規の職員ではなく、何よりこれだけの規模でありながら利用者は学園関係者だけなので基本的に暇である。

 その間何もせずカウンターに座っているのは酷であり、暇つぶしでお喋りされるよりマシだろうとカウンターでの読書は容認されていた。

 最初は抵抗感があったが暇には勝てず本を読むようになった。だが少しでも職務を果たそうとプライベートの時のように本に没入せず、意図的に没入度を下げ周りに意識を向けながら本を読んでいた。

 

 ゼンノロブロイの耳に扉が開く音が届き反射的に視線を向ける。鹿毛で腰元まで伸びたウェーブヘア―にやたら黄色のリボンがつけた独特の髪型、そしてどこを見ているな分からない瞳、そのウマ娘を思わず凝視してしまう。彼女はネオユニヴァース、皐月賞と日本ダービーを制覇した2冠ウマ娘だ。

 ネオユニヴァースは辺りを見渡し後にカウンターに向けってくる。ゼンノロブロイは反射的に視線を外そうと文庫本に視線を向けるが目が合ってしまう。ネオユニヴァースは覗き込むように見つめていた

 

「感じた事や思っている事を上手く伝える本ある?」

 

 ゼンノロブロイは思わずのけ反り椅子から落ちないようにバランスを取る。そして驚きで動揺した心を落ち着かせながら質問の答えを考える。

 利用者が本を探す際にタイトルや作者の名前ではなく、漠然とした質問を投げかけてくることはある。中には何か面白い本あるという質問すらあるのでまだマシとも言える。

 

「少々お待ちください」

 

 ゼンノロブロイは頭を下げカウンター奥に引っ込み常勤している司書に助けを求める。この質問に答える知識は持ち合わしていない。ならばこの図書室を1番知っているのは司書に任せるのが正解だ。

 司書は出てくるとネオユニヴァースを連れて本棚に移動するといくつかの本を取り出し勧めていき、ネオユニヴァースはその本を持って読書スペースに向かって行き読み始める。

 ゼンノロブロイは文庫本を読むふりをしながらその姿を見る。パラパラとページを捲っては何度も興味深そうに頷いている。その真剣さは離れていても伝わってくる。

 ネオユニヴァースの読書は2時間程続く。するとページを勢いよく閉じると何か覚悟を決めたような表情を見せながらカウンターに向かった。

 

「返却ですか?図書カードを持っていれば貸し出しも可能ですが」

「私の宇宙は気持ち良い……例えるなら……そう……空を見ていて……最初に見た雲と次に見た雲の形が上手く重なった時のような……違う……そうじゃない」

 

 ネオユニヴァースは突如語り掛ける。人差し指で髪を弄りながら喋り少し苛立ちを見せていた。その姿に図書館では喋らないようにと注意することなく黙って見る。何故突然話しかけたのか分からず話している内容も分からない。それはちょっとした恐怖だった。

 しかし時間が経つにつれ行動の意味が分かり始めた。試しているのだ、本で読んだことを実践して伝えようとしている。その後も暫く話は続いた。

 

「私の言いたい事……宇宙の良さは伝わった?」

「ごめんなさい。分かりませんでした」

 

 ゼンノロブロイは申し訳なさそうに頭を下げながら謝り、ネオユニヴァースはあからさまに肩を落とした。

 

「あの…ネオユニヴァースさんは貴女の中にある宇宙の良さを伝えたいのですよね?」

「そう」

「なら伝達方法を変えてみてはどうでしょうか?」

「伝達方法?」

 

 ネオユニヴァースは腕を組みながら腰を横に曲げ頭が90度近くまでになっていた。そのコミカルな様子に思わず笑いそうになるのを必死に堪える。

 すると周囲の注目が集まっているのに気づき、手招きをして近づかせると小声で話す。

 

「言葉を使うにしても話すのではなく、俳句や短歌や詩など書いて伝える方法もあります。他にも歌などもありますし、言葉にしなくてもダンスや絵などでもあります。どうでしょうか?」

 

 自信が無いのか最後は尻つぼみになっていく。一方ネオユニヴァースは天啓を得たとばかりに晴れやかや表情を見せていた。

 

「うん、そうしよう。ありがとう」

 

 ネオユニヴァースは善は急げとばかりに走り扉に向かう。走るなと注意しようとしたがする間もなく図書室から出ていた。

 

 ゼンノロブロイにとってネオユニヴァースは意識する相手だった。前哨戦の青葉賞を勝ち迎えた日本ダービー、勝てば物語のような英雄になれるかもしれないと期待を胸に挑み2着と敗れた。1着はネオユニヴァースだった。

 その時の表情は印象に残っている。達成感と自信に満ちた表情でとても嬉しそうだった。だがインタビュー直後にその表情は無かった。

 その変化には驚きを覚え何故そうなったのだろうと調べて理由を知った。レースを通して自分の宇宙を伝えたいと思っていた。恐らくだがあのダービー直後に見せた表情は宇宙を伝えられたという自信と達成感によるもの、そして落胆は自信が有ったのに伝えられなかった事だろう。

 ネオユニヴァースへの印象は未知による恐怖だった。宇宙を伝えたいという想いを持って走る。その感性はまるで理解できなかった。だが今日の会話で少しだけ理解できた。

 読んだ本の感動を伝えたいと人に話し、感想文を書いてレビューサイトに投稿したことが有ったが上手く伝わらなかった。そしてネオユニヴァースも必死に伝えようとして伝わらなかった。そのもどかしさと辛さは理解できる。

 今日の出来事は未知の存在に対して少しだけ親近感が湧き共感できた。だからこそアドバイスをした。自分では取らない方法だがどこか芸術家気質を感じたので、もしかしたらと思っての提案だった。

 

───

 

「そうだ妥協するな、弱気は癖になるぞ」

 

 老年の男性がダートコースを走るチームのウマ娘に檄を飛ばす。彼は六平、ネオユニヴァースが所属しているチームのトレーナーである。

 その檄に応えるようにウマ娘達は1センチでも前に出ようと力を振り絞り白い息を弾ませる。チームのウマ娘が少しでも強くなろうとトレーニングに励む。いつも通りの光景だがどこか寂しさを覚えていた。

 

「久しぶりだな六平」

 

 六平は後ろから声をかけられ振り向くと思わぬ事態に後ずさりする。後ろにはかつての教え子であるオグリキャップが立っていた。

 特に連絡もないなか突然現れたことに驚き、次にその姿に驚いていた。左右の手に紙袋を持っていたが手で持つだけなく、肘から手首までに紙袋が余すところなく吊るされていた。

 

「久しぶりだなオグリ、そしてそれは何だ?」

「ああ、アンパンと牛乳だ、手ぶらで来るのは悪いと思って持ってきた。美味しいぞ」

「持ってきすぎだ。誰もがオグリみたいに食べられるわけじゃない」

 

 六平は思わずツッコむ。片方の手に紙袋は6個で全てパンパンに膨らんでいる。そうなると1つの紙袋に入っているあんぱんは10個や20個じゃきかない。大所帯のチームなら消費できるかもしれないが、チームメンバーはそこまで多くない。確実に食べきれずに夕食を残す未来が見えていた。

 

「そうか、余ったら貰おう。食べ物を無駄にするわけにはいかないからな」

「そうしてくれ」

「ウソ~、オグリキャップさんだ」

 

 すると走り終えたチームのウマ娘がオグリキャップの元に駆け寄ってくる。

 彼女達も活躍はTVや現地で見ていて、その活躍を見てレースの道に進んだ者も多い。その後トレーニングは中断となりオグリキャップを交えてお土産のあんぱんと牛乳を食べながら雑談に興じる。

 チームメイト達はオグリから貰った物を残すわけにはいかないと必死に詰め込むが、六平に無理するなと言われ渋々と食べるのを止めてトレーニングを再開する。チームメイト達はオグリが見ているのかいつも以上に張り切っていた。

 

「みんな元気だな」

「お前が来てるせいだな。オーバーワークにならないように気を付けねえと」

「それでネオユニヴァースはどうした?姿が見えないが休みか?」

 

 オグリキャップの何気なく話しかける。ネオユニヴァースが有マ記念に出走予定なのは知っていた。であれば本番に向けて猛練習していると思った。一方その言葉に六平は複雑そうな表情を浮かべる。

 

「オフか、まあ世間的に言えばオフだが、あいつにとってはオフじゃないというか」

「もしかして元気が無いのか?」

 

 オグリキャップはスポーツ紙の一部を六平に渡す。その紙面には『どうしたネオユニヴァース?3日続いてトレーニング場に現れず』と書かれていた。

 

「もしかして怪我か?」

「怪我ではない」

「なら心の問題か?もし心の問題なら何か出来るかもしれない。有マ記念は3回出走しているから先輩だ」

 

 オグリキャップはアタフタしながら話しかける。六平の元に訪れたのは久しぶりに顔を見せに来たというのもあるが、ネオユニヴァースについて聞きたかったからでもある。

 自身が出走できなかったクラシックに出走し皐月賞と日本ダービーに勝った2冠ウマ娘、その姿にもし出走していたらと想いを馳せると同時に目が離せない何かが有るのを感じていた。

 そしてトレーニングを休んでいると聞いて六平の元に訪れた。怪我であれば心の持ちようや過ごし方を教えられる。もし有マ記念を出走する事への精神的重圧を感じているならアドバイスもできる。

 有マ記念は特別なレースだ、それだけに多くの注目を浴びた結果心の調子を崩してしまうウマ娘も居る。かつては注目を浴びた身として心構えを教えようと思い、余計なお世話かもしれないと思いながら気が付けばトレセン学園に足を運んでいた。

 六平はその言葉を聞き僅かに笑う。かつての競技者としての経験をチームの後輩に教えようとする。随分と大人になったものだ。

 

「心配は無用だ。ネオユニヴァースはオグリ以上にマイペースだ、倍以上の取材があってもケロッとしてるだろう」

「なら何故トレーニングに出ない?」

「色々あるが、あいつはレースに対して見切りをつけ始めている」

 

 オグリキャップは首を傾げる。やる気がなくなるなら分かるが見切りをつけるとはどんな意味か見当がつかない。六平はその反応を見て腰を据えて喋ろうと近くのベンチに誘導する。

 

「元々はオグリみたいにレースを走るのが好きなウマ娘じゃない。ネオユニヴァースにとってレースを走るのは目的を達成するための手段の1つに過ぎない」

「それは分かる」

 

 オグリは言葉に頷く。現役時代は分からなかったが歳を経た今なら分かる。レースを走るのは好きだから勝ちたいからだけではない。目立ちたいから賞金が欲しいから、そういった者にとってレースは目的を叶える手段に過ぎない。

 

「ネオユニヴァースの目的は自分の宇宙を皆に伝える事だ」

「時々出てくるが宇宙とは何だ?」

「正直俺にも分からん。話を戻すがレースを走る事が宇宙を伝える最良の手段と思っていた。あいつにとってレースは宇宙を伝える伝達方法の1つに過ぎない」

 

 オグリの脳内で疑問符が何個も浮かび上がる。何故レースが走るのが宇宙を伝える事になるのかさっぱり理解できなかった。その在り方の異質さを実感する。

 現役時代は皆勝ちたい、己を証明する為にと魂を燃やし走っていた。だがネオユニヴァースの想いは言葉に聞くだけでは熱を感じない。

 そんなウマ娘が世代の頂点に立った。その強さと心に同世代のウマ娘は何を想い何を感じているのか、少しだけ興味がある。

 

「だが最近になってその価値観が揺らぎ始めたんだろう。最近になって宇宙の伝え方を研究するからトレーニングを休むと言ってきた」

「それを認めたのか?」

「ネオユニヴァースは宇宙を伝えるためにレースを走り、より良く伝えるためにトレーニングしていた。その宇宙の伝え方に疑問を覚えたなら仕方がない」

 

 六平は残念そうに呟く。チームに誘った時は宇宙を伝える手伝いをしてやると言った。レースを走るのが最良だと信じていたからトレーニングを手伝った。

 そして今はレース以外が最良だと信じている。手助けは出来ないが、邪魔しないのがせめてもの手助けだ。

 

「それで何をしているんだ?」

「今は色々な方法を模索して俺に試している。一昨日は創作ダンス、昨日は歌だったな」

「それで六平は宇宙を感じたのか?」

「いや、さっぱり分からない」

 

 六平はオグリキャップに見えないように半笑いを浮かべる。本人は大まじめにやっているのは理解できる。だがあまりにも珍妙でいつも笑いを堪えるのに必死だった。

 

「レースを辞めるかもな」

「そうなのか?」

「むしろ辞めるのを勧める。もう1度レースに戻ってもレースで宇宙を伝えられるとは思えない。本人にとって時間の無駄だ、ならば別の道を歩ませるのが良い」

「それは酷じゃないか?」

「まあ、勧めるだけで走りたいといえば走らせるがな。自分で納得しなければ一生悔いが残る」

 

 六平は名残惜しそうに呟く。ネオユニヴァースの宇宙については分からない。だが宇宙を伝えるという行為は並大抵の事ではない。それを達成する為には曇りのない信念のようなものが必要だと考えていた。

 そしてレースで伝えられるという可能性を疑ってしまった。そんな者がレースで伝えられると思えなかった。

 

「本当にウマ娘は色々な者が居るんだな」

「ああ、まったくだ」

 

 2人はしみじみと語る。オグリもレース引退後は中央ウマ娘協会の広報として様々なウマ娘と接触したがどれにも全く当てはまらないタイプだった。

 また六平も同様でオグリキャップが現れた時はマイペースで変わったウマ娘だと思っていたが、それ以上にマイペースで変わったウマ娘が現れるとは夢にも思っていなかった。

 

「ネオユニヴァースはレースを走っていて楽しかったのかな?」

「あいつはレースを走るのは宇宙を伝えようとする使命感と、宇宙を共有したいという感情だろう。楽しいとはあまり思っていなかったんじゃねえか」

「そうか」

 

 オグリキャップは同情を覚える。レースを走るのが時に苦痛になった時もあった。だが根底にはレースを走るのが楽しいと思える心が有った。だからこそ最後まで現役を全う出来た。

 しかしネオユニヴァースにはそれが無い。宇宙を伝えるという無理難題を達成しようと必死に努力し試行錯誤する。そしていくら頑張ろうが理解者は誰も現れない。それはあまりにも孤独で多くの者が挫折するだろう。使命感でここまでレースを走ってきた。これ以上は辛いだけかもしれない。

 

 2人は突如左を振り向く。そこには練習着を着たネオユニヴァースが居た。他の方法を模索しているのではないのか?やはりレースを走る気になったのか?様々な思考が浮かび上がるが即座に消える。

 その姿から圧倒的な存在感が迸っていた。それは全てを焼き尽くすような熱と全てを飲み込もうとする闇が同居した何かが宿っていた。

 オグリキャップの背筋に悪寒が走る。現役時代にはタマモクロスやイナリワンやスーパークリークなどのウマ娘と走り、彼女らが発する圧に慄いたこともあった。

 そしてネオユニヴァースから発する圧は同等かそれ以上だと感じていた。また六平はこのようなネオユニヴァースを見たことが無かった。

 

───

 

 誰も居ない教室でネオユニヴァースはキャンパスに筆を走らせる。外からはトレーニングをするウマ娘達の声が聞こえてくるが耳には一切届かない。

 宇宙を表現するために全神経を注ぎ込む。暫くして筆を走らせる腕が止まり絵を暫く見つめる。そして絵に手をかけると同時に破り捨てた。

 自分の中にある宇宙はこれじゃない、これでは他者に伝えるなんてとてもできない。自分の感情を吐露するように破片を何度も踏みつぶす。

 

 ネオユニヴァースはゼンノロブロイのアドバイスに従うように色々と試す。俳句や短歌を書き、詩を綴り、歌や創作ダンスを作った。歌やダンスは兎も角、俳句や短歌は授業で形式を教わっただけで素人同然だったが不安は一切なかった。

 疑念を抱いたのはジャパンカップを走った直後だった。宇宙を伝えられないのは自分の問題ではなく、レースという媒体に欠陥があるのではないのか?その疑念は膨らみ続けレースに次第に疑問を持つようになった。

 レースではダメだ、宇宙を伝える方法は別にあると考え思い浮かんだのは言葉だった。だが自他とともに認める口下手だった。そして向かったのは図書館だった。自力でダメなら他者の力と知恵を借りればいい。其処で思わぬアドバイスを受ける。

 ネオユニヴァースは喋って宇宙の素晴らしさを伝えようとした。だが伝達方法は他にも有ると教えられた。俳句、短歌、詩、歌、踊り、絵、その発想は目から鱗だった。

 喋るのが苦手なら別方法で伝えればいい。それらの方法は試したことが無いが上手くいく。胸中には根拠のない自信に満ち溢れていた。だがそれは所詮根拠のない自信に過ぎなかった。

 

 ゼンノロブロイに教えられた方法は全てダメだった。レースであれば少なくとも他者に伝わらなくても、自分では伝えられたという自信が有った。だがこれらには手応えすら感じられなかった。

 ネオユニヴァースの景色が歪む。自力で辿り着いたと思った道に先はなかった。またレースをするか?だがレースに疑問を抱いてしまった以上は伝えられないという疑念がこびりつく。

 ネオユニヴァースは覚束ない足取りで教室を出る。他の方法を探す気にもなれなくレースに戻る気にもなれない。何をすればいいか完全に見失っていた。

 すると視界に1人のウマ娘が飛び込んでくる。ピンクの髪に赤いリボンのウマ娘、脳内の記憶を掘り出して思い出す。あれはアグネスデジタル、彼女も独自の世界観、宇宙を有しているウマ娘の1人だ。

 

「私の宇宙は見えた?」

 

 ネオユニヴァースはすれ違いざまに語り掛ける。話しかけたのは気まぐれだった。宇宙を有しているウマ娘なら自分の宇宙を見えているかもしれないとほんの僅かばかり期待していた。

 一方デジタルは足を止め自分に話しかけたのかと指さし、そうだと分かると嬉しいのか若干挙動不審になっていた。

 

「ネオユニヴァースちゃんが話しかけてくれた!ありがたすぎる~、はい!常に宇宙が見えて後光が差してます!」

「そうじゃない、宝塚記念で私の宇宙を見えた?」

 

 ネオユニヴァースの語気が僅かに荒くなる。気が立っているのもそうだが、媚びを売ろうと宇宙が見えたという者は多くいて、発言の真贋を判別できるようになっていた。

 そしてその言葉は調子を合わせただけのものだった。デジタルは態度で察したのか真剣に思い出し始める。

 

「う~ん、あの時のネオユニヴァースちゃんからは負けたくないというピリピリしたものじゃなくて、勝ちたいというゾクゾクしたものじゃなくて。暖かくて優しくて懐かしくて今まで感じたことがない何かを感じた。これが宇宙なのかな?う~~語彙力~~」

 

 デジタルは上手く言葉に表現できないもどかしさから頭をクシャクシャと掻きむしる。その姿を見てネオユニヴァースは嬉しそうに笑う。

 その言葉の意味は不明瞭で理解できない。けれど自分が感じている宇宙を僅かながら感じ取っているのは理解できた。宇宙は確かに伝わる。嬉しさが抑えきれないという具合に走っていく。デジタルはその姿を呆然と見ていた。

 

───

 

「どうした?もう歌やダンスはしなくていいのか?」

「宇宙を伝える可能性はレースにあった。トレーナー、私は有マで宇宙を皆に伝える」

「分かった。ウォームアップで1周走ってこい。それからタイムを計る」

 

 六平はその言葉の真意を何とか把握してトレーニングの指示を出す。ネオユニヴァースは頷くとコースに入り走り始める。

 

 今まではレースに構造的欠陥が有ると思い他の道を模索し。だがそれはデジタルの存在で間違っていると証明された。

 伝わらないのは全て自分の能力不足によるものだ。しかし特定の者にしか伝わらないのにどうやって他者に伝えるか?その解決方法は思いついていた。

 宝塚記念はヒシミラクルの宇宙に飲み込まれたレースで上手く伝えられなかった。菊花賞ではザッツザプレンティの、ジャパンカップではタップダンスシチーの宇宙に飲み込まれた。

 デジタルには伝わったが、あれはデジタルが特殊なだけであって他の者には伝わらない。ならば他の者が存在を無視できない程宇宙が大きくなればいい。

 有マ記念にはヒシミラクルもザッツザプレンティもタップダンスシチーも出走する。それらの強大な宇宙を飲み込む。

 それだけでは足りない、シンボリクリスエスもゼンノロブロイもツルマルボーイも出走する全てのウマ娘の宇宙を飲み込み己の宇宙を膨張させる。

 そして宇宙を飲み込むには己のキャパシティを増やさなければならない。その為にはトレーニングが必要だ、今までは表現するためにしてきたが今日からは飲み込む為にする。

 

「ネオユニヴァースはあんな感じか?」

「いや、違うな。今までと明らかに変わった」

 

 オグリキャップはコースを走るネオユニヴァースを見つめる。先程のネオユニヴァースは今まで感じたことが無い異質さが有ると感じた。

 しかし間が開き感覚を吟味する時間が与えられたことで微妙に違うと感じていた。

 確かに気配に慄いたがあれは現役時代に感じた類のものだ。あのような雰囲気を醸し出す者は大概強く、もしレースで走るとなれば厄介である。

 だが恐怖は感じない。正確に言えば恐怖は感じるが想像する恐怖では無かった。そしてネオユニヴァースに感じる恐怖は未知に対する恐怖だ、宇宙を伝えたいという常人では理解できない想いを抱いて走る。そんなウマ娘は完全なる未知だ。

 そして今は悪く言えば唯一無二ではなく、あり触れたウマ娘になってしまったような気がしていた。

 



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勇者とラストダンジョン#7

 12月の2週目、トゥインクルレース業界は大いにざわついた。

 中央ウマ娘協会から緊急発表があると告知され、何事かと多くの報道関係者が会場に押し寄せ、その場でシンボリクリスエスから引退報告がされた。その言葉に多くの者に激震が走った。

 シニア級2年目での引退はGIを勝利したウマ娘の平均と比べて極めて早い。怪我や衰えという理由なら理解は出来るがそれらの予兆も全く無かった。

 真意を確かめようと多くの報道関係者が質問を投げかけ会見は長時間に及んだ、そして会見の様子は動画サイトで生配信され多くの利用者に見られた。

 そしてシンボリクリスエスの引退会見の翌日、同じようにアグネスデジタルに関する緊急発表があると告知された。

 

「それではアグネスデジタル選手、壇上にお上がりください」

 

 司会進行の呼びかけに応じるようにデジタルは壇上に向かって行く。スーツを纏いその表情や動きから緊張の色が浮かんでいた。

 壇上に上がると一礼しフラッシュが焚かれ、報道関係者達は様子を注視する中で声を発した。

 

「本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。私、アグネスデジタルは、有マ記念を最後に引退を決意しました」

 

 その言葉を皮切りに先ほど以上のシャッター音とフラッシュが焚かれ、関係者達はどよめきの声を上げる。

 だがシンボリクリスエスほどの反応の大きさでは無く、報道関係者やファン達のなかには天皇賞秋の惨敗でアグネスデジタルの終焉を予感した者は居た。

 さらに前日のシンボリクリスエスの発表も有ったことで引退を想起させた。だが予感はしていても時代を作った名選手の引退の報せに多くの者は嘆いた。

 

「それでは各種メディアの皆さまからご質問を頂ければと思います」

 

 司会の言葉に多くの関係者が手を上げ質疑応答が始まる。

 

「引退を決意したのはいつ頃からでしょうか?また引退を決断したいちばんの要因は何でしょうか?」

「やはり衰えですかね。自覚症状はなかったのですが、天皇賞秋以降から一気に衰えが進行しまして、このまま衰えが進行すれば満足に走れるレースが無くなると思い引退を決意しました。そして引退を決意したのはここ1週間ぐらいです。衰えを受け入れるのに時間がかかってしまいました」

「衰えを意識したのはやはり天皇賞秋のレースでしょうか?」

「それも有りますが決定的な要因ではないです。ご存じの方も居ると思いますが、トレーニングで後輩との差が徐々に縮まり、追いつかれ、次第に広がっていった。この過程で引退という二文字を強く意識するようになりました」

 

 デジタルの言葉に記者たちはペンを走らせる。やはり衰えか、これは誰もが避けられない運命であり、怪我による強制的な引退でないだけまだマシといえる。

 そして後輩からの突き上げにより衰えを認識する。これはスポーツ業界においても珍しくない。

 

「今回の引退を決断された時に誰かに相談しましたか?」

「相談はしていないですね。自分で決めましたので相談というより事後報告という形になりました」

「最初に報告したのは誰ですか?」

「トレーナーですね。そこから知人やチームメイト達に報告しました」

「報告された皆様はどんな反応を示しましたか?」

「やはり相談ではなく報告でしたので驚いていました。ですが私の意見を尊重してくれました。チームメイトの若い娘達も最終的に認めてくれましたが、最初は辞めないでくれと引き留められました。尊重してくれるもの嬉しいですが、引き留められないのも寂しいですからね。嬉しかったです」

 

 笑い話を言うような口調の言葉に関係者達の空気が緩む。しかし相談も無しに引退すると報告されるのは考え方によっては寂しいだろう。デジタルなら相談しそうと考えていただけに意外だった。

 

「多くのレースを走りましたが、現役生活で印象に残っているレースは?」

 

 記者の質問に会場のデジタルへの注目度が上がる。大概のウマ娘はデビュー戦か勝ったGIを挙げる。そしてデジタルが勝利したGIは話題性の大きいレースが多い。

 

 13番人気という低評価で後方一気の末脚で撫で切りコースレコードを叩きだしたマイルCS。

 ウラガブラックの出走枠を奪った出走表明は物議を巻き起こし、外ラチに向かって走るという奇策で、当時の絶対であったオペラオーとドトウのワンツーフィニッシュを打ち破った天皇賞秋。

 香港国際GI3連勝という歴史に残る偉業の大取を見事に飾った香港カップ。

 地方ダート、中央芝、海外芝、中央ダートという前人未到のGI4連勝を達成したフェブラリーステークス。

 そしてワールドベストレースを受賞し、レースの歴史に刻まれる名勝負だったダートプライド。そのバラエティと話題性は3冠ウマ娘にも劣らない。

 

 

「これも難しいですね~。どのレースも今でも鮮明に思い出せる程素敵なレースでした。強いて、本当に強いてあげるならばダートプライドですかね。このレースに勝っていなければ多くのレースを思い出し振り返ることもできませんから、今思うと勝ててよかったです」

 

 デジタルは苦悶の表情を浮かべ数十秒ほど悩んだのちに答えを出す。

 同じような質問をして答えを濁すウマ娘も居るが、正真正銘に差が無いので仕方がなく答えを出した様子がありありと出ていた。もしダートプライドに他のGI5勝分の思い出が掛かっていなければ、答えを出さなかっただろう。

 

「これまで選手として一番うれしかった瞬間は?」

「嬉しかったですか、正直レースに勝利しても賞を受賞しても嬉しいと思ったことはないので悩みますね。楽しかったなら数多くあるのですけどね。レースに勝利しても嬉しいより楽しいという気持ちが大きいので」

 

 レースに勝っても賞を受賞しても嬉しくない。その言葉は一見すれば挑発的な言葉に聞こえるが関係者達はそのような意味で捉えない。

 デジタルが求めるのは勝利という結果ではなく、ウマ娘を感じるという楽しさを求めているのは少なからず理解されていた。

 

「アグネスデジタル選手にとってレースとはどのようなものか?」

「遊園地ですかね。レース場に行けば常に素敵な出会いや体験が待っている。毎回ワクワクしながらレースに臨んでいました。トレーニングもレースをより楽しむ為と思えば苦では無かったです」

 

 デジタルは生き生きと喋る。レースは遊園地、これもらしい言葉だと関係者は頬を緩ませる。

 

「引退後の一番の楽しみは?」

「楽しみですか、レースでウマ娘を感じるのが一番の楽しみでしたので、パッと思いつかないもので、そうだ、ウマ娘観戦ツアーをするのもいいかも、世界中でレースはやっていますので多くのウマ娘を見て感じたいです。自分へのご褒美ということでトレーナー資格の勉強前に遊んでも罰は当たらないでしょう」

「引退後はトレーナーを目指すのですか?」

「はい」

 

 その言葉に関係者達から感嘆の声が上がる。ウマ娘は名トレーナーになれない。因果関係は証明されていないがこれは迷信ではなく事実であり、最近はトレーナーを目指すウマ娘は少なくなっていた。

 数々の常識を打ち破ってきたデジタルならもしかしてやってくれるかもという期待感が有った。

 

「どのようなトレーナーを目指したいかというイメージはありますか?」

「チームに入ったウマ娘を幸せにできるトレーナーですかね。指導したウマ娘が笑って競技生活を終わってもらえれば最高です」

 

 デジタルの目標はウマ娘のハーレムを作るために、多くのウマ娘に関わるトレーナーになること、それは未だに変わらない。だが今喋った言葉も紛れない本心だった。

 

「ご自身から見たアグネスデジタルというウマ娘は、どんなウマ娘ですか?」

「ワガママなウマ娘だったと思います。走るレースも急遽走りたいと言ってトレーナーを困らせました。そのワガママに付き合ってくれたトレーナーやチームメイトには本当に感謝しています」

「そのワガママが異色のローテーションを歩ませたのでしょうか?」

「そうかもしれません。南部杯以降のローテーションはアタシの希望が大いに反映されています。でなければ普通のトレーナーはあんなローテーションは組みません」

 

 半笑いで喋り、釣られるように笑いが起きる。本当に我儘なウマ娘で我を通し続け多くの人に迷惑をかけてきた。南部杯以降のローテーションも色々と叩かれていたのは知っていた。それでも希望に沿ってくれたのは感謝している。

 

「勇者と称される活躍をされたアグネスデジタル選手のようになりたいと思うウマ娘は多く居ると思いますが、何かメッセージを」

「う~ん、正直いえばアタシではなく、テイエムオペラオー選手やメイショウドトウ選手などになりたいと思って欲しいところです。ですがこんなアタシでも推してくれるウマ娘達も居ますのでメッセージあるとしたら、ワガママでいることですね。周りからは常識外れのウマ娘とか言われていましたが、それは遠慮せずに自分の気持ちに正直に生きてきた結果だと思います。でも周りに迷惑をかけないように我儘してください」

 

 現役生活で得た幸せは少なからず我を通した結果で得たものだ。未来のウマ娘達が周りに気を遣い幸せを得る機会を失うのは悲しい。自分の言葉で我を通す勇気を持ってくれたら幸いだ

 

「時間が迫ってきましたので、会見は以上になります。他に訊きたいことが有れば広報を通して質問をお願いします。アグネスデジタル選手、最後に一言お願いします」

「はい、これまで現役生活を全うできたのはトレーナー、チームメイト、友人達、中央ウマ娘協会の関係者様、大井ウマ娘協会関係者様、多くの人々の支えと協力のお陰です。本当にありがとうございます」

 

 デジタルは深々と頭を下げると同時にこの日一番のシャッター音とフラッシュが焚かれた。

 

───

 

「あ~疲れた。久しぶりにこんな長い時間真面目に喋ったよ」

 

 デジタルは控室に着くとトレーナーからペットボトルを受け取り、椅子にもたれ掛かる同時にスーツの上着を脱ぎシャツのボタンを外していく。それは堂々と記者会見で話したとは思えない程緩みきっていた。

 

「お疲れさん。良い引退会見やったぞ」

「白ちゃんの原稿があって助かったよ。あれが無ければ失言してたかも」

「余計な負担は掛けさせたくないからな」

 

 デジタルはだらけた姿勢で礼を言う。トレーナーが聞かれるであろう質問を予想し、予め答えを考え見せていた。その答えの精度は高く。真面目に答えたらこうなると思われる答えが書かれていた。

 

「おっ、皆からメッセージが来てる。『感動しました』『良かったが、もう少しドラマ性や印象的な言葉が欲しかった』『これ自分で考えた?ゴーストライターでしょ』って。バレてるしダメだし喰らってます白ちゃん~」

「俺は作家じゃなくてトレーナーや、そこまで求めんな。そういうのが欲しかったら作家を雇え」

「嫌だよめんどくさい。さて終わったしさっさと帰ろ」

 

 デジタルは勢いよく立ち上がり出口に向かう。ドアノブに手をかけた瞬間動きが止まりそのままの姿勢でトレーナーに話しかける。

 

「正直めんどくさいって思ったけど引退会見って大切だね。今終わってアタシは引退するんだって現実感が湧いてきた。しないまま有マ記念を走ったらすんなり引退しないかも」

「そうやな。色々なスポーツ選手はこうやって区切りというか覚悟を決めて引退試合に臨むのかもしれんな」

「そうか、皆こうやって覚悟を決めたのか」

 

 デジタルは友人達の当時の心境に想いを馳せる。皆も同じような気持ちを抱き現役を退いたのか、同じ過程を辿ったことで妙な親近感を抱いていた。

 



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勇者とラストダンジョン#8 

 昼休み明けの5限目の授業、昼食を摂り、友人と雑談し、あるいは運動スペースなどで体を動かしたことで、気分をリフレッシュして授業に臨める。しかし一旦気が緩んだせいか、数名は舟をこぎながら眠気と格闘している。

 アグネスデジタルも眠気と格闘しながら、授業ではなく別の考え事に意識を向けていた。

 

 有マ記念まで残り3週間をきった。トレーニングも順調で日々の生活も充実している。現状では満点と言っていい過ごし方だ。

 しかし次の有マ記念が正真正銘最後のレースとなる。引退会見した手前、易々と撤回するわけにはいかず、衰えが止まる或いは力が戻る事はあり得ない。起きたとしたらそれは奇跡だ。

 ヒシミラクルが全治1年の怪我を1月半で治すという、奇跡じみた事を起したが、自分の場合は奇跡中の奇跡と呼ばれるレベルの事が起きない限り、衰えが止まるか力が戻りはしないだろう。

 奇跡を信じず、残された時間を妥協せず幸福を追求し、やり残しがないようにする。そしてある行動をしようか悩んでいた。

 

 先日ネオユニヴァースと偶然出会い会話した。短い時間だったが5感で存在を感じ取れた。レースでウマ娘を感じ取るのが最も刺激的で好みなのだが、日常の場面で直接会って感じるのも好きである。

 普段はSNSの情報や遠巻きに見て観察し感じているが、近くで会話し感じるのは情報の質と量もさることながら、自分の存在を認知してもらっているというある種の嬉しさがあった。

 

 デジタルは基本的に1ファンとして、ウマ娘とは関わらず遠巻きに観察していた。

 それは学園外のファンと同じ状況であるべきというフェアプレー精神と関わることで不純物が混ざってしまうと考えていた。

 しかしテイエムオペラオーやメイショウドトウなどファンの立場ではなく、友人として交流しているウマ娘もいる。

 それはレースを通して交流を育んだのはそうだが、テイエムオペラオーやメイショウドトウはトレーナー主導だが2人からレース鑑賞会に誘われ、サキーは相手から先に話しかけられたと、相手が切っ掛けになって仲良くなったとして、例外としていた。

 ヒガシノコウテイやセイシンフブキは自分から訪れ、仲良くなるきっかけを作ったが、あれもドバイワールドカップに向けてのトリップ走法の強化の一環として、話を聞かなければならなかったので、これもギリギリ例外としていた。

 相当に甘い判定を下しているが、1ファンとしてウマ娘を愛でて感じるべきと律していた。しかし本心では多くのウマ娘達と直接関わり、感じたかった。

 常日頃から理性と欲望が鍔迫り合いしながら、オタクは奥ゆかしくあるべきと己を律する日々が続いていた。

 

 先日の引退会見で感情の赴くまま我儘に過ごしたと喋った。その言葉が切っ掛けになり、直接会って多くを感じ、相手に存在を認知されたいという想いが膨れ上がっていた。

 そして決意する。最後なので相手に迷惑が掛からない範囲でやりたい事をしよう。方針が決まるとすぐに、今後の行動計画をノートに書き記していく。

 

───

 

 デジタルは食堂の片隅にある席に座り、テーブルに並ぶお菓子を確認する。洋菓子和菓子など様々な種類を一通り用意しておいたので、ある程度は対処できるだろう。

 飲み物は食堂で用意できるものを選んでもらう。コーヒーや紅茶なども此処でなら用意できる。かつてドバイでのサキーとのお茶会を思い出しながら、足りない物がないか確認する。

 デジタルは有マ記念に向けて、出走ウマ娘と話し合いの場を設けて交流を図ろうとしていた。今までは出走ウマ娘についてはネットで調べていたが、今回は直接会って色々と訊こうとしていた。

 ネットや雑誌の記事に載らない些細な情報でも、デジタルにとっては有益な情報で、レースを走るウマ娘を感じる際のスパイスとなる。

 そしてあわよくばこれを切っ掛けに縁を深めたいとも考え、第一弾として、あるウマ娘と連絡をとり、話し合いの場に参加してもらっていた。

 

 そのウマ娘には若干の苦手意識を持っていた。1度だけ直接顔を合わせて会話したのだが、年下であるがその雰囲気と貫禄からついつい委縮してしまう。それはアメリカ時代の怖かった先生を思い出す。

 精神の健康を考えれば会わない方が良いかもしれない。それでも直接会って感じたいという欲が収まらず、これを通して思わぬ素敵な一面が見られるかもしれないと期待を抱きながら約束を取り付けた。

 すると入り口から1人のウマ娘が近づいてくる。身長170cm以上の長身に漆黒と呼べる艶があるロングヘア―、デジタルは椅子から立ち姿勢を正す。

 

「今日は来てくれてありがとう、シンボリクリスエスちゃん」

「こちらこそお招きいただきありがとうございます。1度じっくり話したかったので良い機会でした」

 

 シンボリクリスエスは社交的な笑顔を浮かべながら言葉を交わす。デジタルが着席を促すと席に座り、デジタルも後に続いて席に座る。

 

「好みが分からなかったけど、好きな物食べていいからね。あと飲み物何にする?」

「すみません。体重調整がありますので間食は控えています。あと飲み物は水でいいです」

「水?わっ分かった。持ってくる」

 

 デジタルは急いで立ち上がり冷水器に向かう。良かれと思って用意したが減量中だったか、結果的には配慮が足りなかった。

 そして飲み物すら水で済ますという徹底ぶり、雰囲気と違わぬストイックさだ。早速知らない一面を見られたことに喜びながら水を2人分用意して席に戻る。

 

「普段も甘い物を食べたり、コーヒーや紅茶とか飲まないの?」

「そうですね。特に必要ないので」

「しかし引退発表にはビックリしたよ。アタシも発表する事決めてたから、もしやと思ったら案の定だったよ」

「皆にも同じような事を言われました」

「でも納得しての引退なら良かった。後悔が残ると辛いからね」

 

 デジタルは優しく微笑みながら頷く。生配信で会見を見ていたが、その表情や言葉から未練や後悔と折り合っていたのは分かった。引退する際に未練や後悔と折り合えなければ一生の悔いとなり呪いになってしまう。

 

「引退後はチームスタッフになるって会見で言ってたけど、将来はサブトレーナーやトレーナーになるの?」

「特には決めてないです。取り敢えずは勉強させてもらいます」

 

 その後暫くは日常会話のやり取りが続く。デジタルは会話をしながら観察する。初めて会った時は威圧感が有ったが、今はそこまで無い。あの時は偵察されたと警戒していたからだろう。

 そして次第に焦りが芽生え始める。此方としては楽しいのだが相手は楽しいか分からない。折角時間を割いてもらったのであれば、楽しいと思ってくれるか有益だったと思ってくれるような時間にしたい。だが為になる話が全く思いつかなかった。

 

 

「アグネスデジタルさん、後学のために幾つか訊きたいのですが?」

「いいよ。何でも答えるよ」

 

 デジタルは鼻息荒くする。今まではこちらが話しかけて相手が答えるを繰り返しだったが、初めてシンボリクリスエスから話題を提供した。ここは有益な助言を与えて、好感度アップを狙う。

 

「アグネスデジタルさんはダートプライドに勝利し世界一になりましたが、何か勝つために特別なことをしましたか?」

 

 シンボリクリスエスの本音としてはデジタルに割いている時間は無かった。これが有力ウマ娘なら時間を割いて良かったが、終わったウマ娘は警戒に値しない。その時間をトレーナーの理想とする走りを実現するために、トレーニングやスカウティングの時間に費やしたほうが有意義だ。

 しかしデジタルは非公式だが世界一になったウマ娘だ、その体験を聞き出しトレーナーに伝えればさらなる成長や発想の切っ掛けになり、貢献できるかもしれない。

 

 過去にはジャパンカップに多くの世界トップレベルのウマ娘が出走し、中には凱旋門賞に勝利したウマ娘も居た。そんな豪華メンバー相手に勝利した日本のウマ娘も居る。ならばそのウマ娘は世界一かと問われれば否と答える。

 レースを走ったウマ娘は全力で走っただろう。それでも大目標は凱旋門賞やブリーダーズカップクラシックなどで、ジャパンカップは悪く言えば余裕が有ったから出走したにすぎない。

 そしてダートプライドは地方勢も海外勢もこのレースを大目標にして仕上げ臨んだ。さらに其々が大切にしている優勝レイを賭けた。

 あれは物としての価値だけではなく、誇り、信念、意地など己の大切なものすら賭けていた。そんなレースに無意識レベルでも手を抜くわけが無く、死に物狂いで勝ちにいった。ダートプライドに勝ったデジタルは紛れもなく世界一であると認定していた。

 

「特別なことか、一応はしたかな」

「それについて教えてもらいますか?」

「いいよ。まずは…ってちょっと待って」

 

 デジタルは思わず口に手を当てる。トリップ走法は出力が上がるがフォームが乱れ力をロスするので、トリップ走法で走りながら力をロスしないフォームの模索、実行するために必要な身体操作能力の養うためのトレーニング、これらはトレーナーが考案したものだ。

 即座に教えたいが、トレーニング方法はトレーナーにとっては秘伝のレシピのようなものだ。許可なく教えるわけにはいかない。制服のスカートからスマホを取り出し電話をかける

 

「もしもし白ちゃん?あるウマ娘ちゃんがダートプライドにやった時のトレーニング、あれだよ、あれ、それ、それを教えてもらいたいって言ってきてるんだけど教えていい?」

 

 ならば許可を取ればいいと電話をする。僅かな期待を抱いたデジタルだが、その表情は見る見るうちにしょぼくれていく。

 

「ごめんね。ケチだから教えないって」

 

 デジタルは申し訳なさそうに謝る。折角の好感度アップの機会を棒に振ってしまった。個人の利益ではなく、業界全体の利益を考えるべきだろうとトレーナーに対する恨み言を心の中で呟く。

 

「こちらが無遠慮でした」

 

 一方シンボリクリスエスは申し訳なさそうに謝るデジタルに対して、気にするなと笑顔で返す。口が滑ればラッキー程度だったので期待はしていなかった。

 

「アグネスデジタルさんは勝てたのはそのトレーニングのおかげですか?」

「確かにそれもあるけど、おかげというか、あくまでも1つの要因というか…」

「それ以外に勝てた要因はありますか?」

 

 レベルが高ければ高いほど勝者は勝因を把握している。このトレーニングが効果的だった。この作戦が上手くいった。または他のウマ娘がミスをした。他人から見えれば不運でしたと片付けるものでも正確に分析する。

 今は全盛期の力は無いが世界の頂点に立ったウマ娘だ、フィジカルは衰えても分析力や観察眼は衰えているものでなく、当時を振り返って何かしら為になる分析していると期待していた。

 その問いにデジタルは腕を組んで十数秒ほど悩んだのちに答えを出す。

 

「運かな。あのレースは100回やったら100回とも展開も違って着差も着順も変わるレースだった」

 

 シンボリクリスエスは内心で大きく落胆する。確かに1着から6着までの差は2センチという僅差で運と言われても仕方がないが、それでも何かしら別の要因によって勝てたと分析し、作戦を実行していたと思っていた。

 

「あっ、そういえばあった。今までと違ったところあった。一応心構え的なことだけど」

 

 デジタルは相手の反応に焦り即座に勝てた要因を思い出し、シンボリクリスエスはその言葉に僅かに身を乗り出す。精神論は好かないが世界を取った者が明確にしたものなら役に立つはずだ。

 

「今までレースを走る時はウマ娘ちゃんを感じたいって気持ちが大半だった。それでも勝ちたいとかトレーナーやチームの皆を喜ばせたいって気持ちが少しだけあった。けどダートプライドの時はウマ娘を感じたいって気持ちに全振りだった。レース中も位置取りとかペース判断とか一切考えずに5人を感じることだけ考えてた」

「負けるのは怖くはなかったのですか?負ければ金は勿論、レイやレースの思い出も失っていたんですよ」

「レースの思い出は入場料みたいなものだしね。あの5人を存分に感じる為には仕方がない。でも勝てて良かったよ。負ければ記憶を封印で良い思い出も思い出せないんだよね」

 

 デジタルは負けた状況を想像し身震いさせ、一方シンボリクリスエスは感心していた。我を忘れる程物事に没頭する。それは無我の境地と呼ばれ、デジタルはその境地に至っていた。これは中々出来ることではない。

 シンボリクリスエスもトレーナーと結んだ契約のために走るという一心で走る。無我の境地を目指していた。だが金、名誉、地位の向上など欲を捨てているかと訊かれれば自信は無い。

 ダートプライドで負ければ多くを失う状況だった。それでも恐れを捨てウマ娘を感じるという目的だけに全てを向けた。

 そして無我の境地に至った者は高いパフォーマンスを発揮すると言われている。これが世界の頂点に立てた要因の1つだろう。

 

「次の質問ですが、今年の天皇賞秋で未知の感覚、得体の知れない恐怖を感じました。何かされましたか?」

 

 シンボリクリスエスの表情が一段と鋭くなる。この会話に応じた最大の理由は今の質問をする為だった。

 天皇賞秋ではデジタルによって大きく心を乱された。途中で収まったがもしレース中ずっと続いていたなら、全員同じ状況なら負けはしないが走破タイムは遅くなり、2着や3着のウマ娘が影響受けていなければ負けていた可能性が有った。

 そしてこれはトレーナーの理想の走りをするためのヒントとなる。もし同じようなことが出来れば相手の力を削げる。

 

「あ~、あの時は嫌だった?」

 

 デジタルは両人差し指をツンツンと突きながら顔色を窺う。反省はしているのだが、当事者に嫌だったと面と向かって言われ罪悪感が掻き立てられる。

 

「別に気にしていませんが、その時のお詫びとして何したか教えてくれれば助かります」

「分かった。多分役に立たないと思うけど教えるね」

 

 罪悪感から逃れるように話し始める。ウマ娘断ちとレース前まで何をしたのか詳細に語った。

 

「どう?参考になった」

「残念ながら」

 

 デジタルはその言葉に肩を落とす。少しでも役に立てれば良かったのだが、その仕草で全くと言っていい程役に立っていないのは分かった。

 

 

「すみませんが、用事がありますので退席してよろしいですか?」

 

 シンボリクリスエスは時計を見て若干申し訳なさそうに声をかける。訊きたい事は訊けて用事は済んだ。これ以上は話すメリットはない。

 

「あっ、ごめんね、アタシの為に時間を使っちゃって」

「いえ、楽しい時間でした。では有マ記念ではお互い悔いのないレースをしましょう」

「うん、またね」

 

 デジタルは手を振りながら見送る。第一印象のせいで怖いと思っていたが、話して見ると物腰柔らかで探求心も強く素敵なウマ娘であると実感した。

 その後暫くはシンボリクリスエスの会話や動作や声の記憶を反芻し堪能していた。

 

 シンボリクリスエスは部屋に帰りPCで天皇賞秋のレースを見ながらデジタルがした相手の力を削ぐ方法について考える。

 あのやり方は習得できるとは思えない、仮に習得しても長い月日がかかる。あれは目指すのは徒労だ。だが話を聞いて強い感情はレースを走るウマ娘に伝わるのが分かった。

 デジタルはウマ娘を感じたいという感情によって他のウマ娘達を怖がらせ心を乱した。ならば別の感情でウマ娘の心を乱せば同じことが可能ではないのか?だとしたら何の感情をぶつければ心が乱れるか考える。

 脳裏に思いついたのは自信だった。どんな展開やペースになっても絶対に勝てるという自信、その自信の前に他の者達は勝つビジョンが浮かび上がらず、心が挫け弱体化するかもしれない。

 天皇賞秋を走る前ならオカルト理論だと一笑しただろう。だが実際に体験したことで存在しある程度は効果が有ると理解した。やってみる価値はある。

 この案を実現するために必要なのは勝てるというイメージを持つこと、その為には確かな地力と相手がどんな走りをしても対処できる知識だ。

 

「なんだ、単純なことじゃないか」

 

 シンボリクリスエスは思わず吹き出す。相手を知り自己を高める、いつも通りではないか。

 有マ記念ではトレーナーの理想の走りはトレーナーから教われば誰でも出来るかではなく、その走りは実現可能かを実証するために走る。その理想の走りはどこか空想めいて、武術の奥義か何かのような特別な技だという印象が有った。

 奥義とは今まで学んだ思考や技術とはまるっきり別体系で、今まで学んだ技術体系とは別の思考や技術を学ばなければならず、それは今まで学んだものが円形の中に入っているとしたら、円形の遥か上にあると思っていた。

 だが自分で実現可能な相手を削る方法を考えることで、その奥義のような特別な技は今まで学んだ思考や技術を発展させれば実現できる可能性が有った。つまり奥義とは円形の中に潜んでいるのだ。

 そして理想の走りが実現できれば、それは円形の中に有るという事になり、トレーナーの教えを受ければ出来るという証明にもなる。そして脳内である単語が思い浮かぶ。

 

 無我の境地

 

 理想の走りを実現することに必要なのはそれだけに集中すること。それは無我の境地でデジタルがダートプライドに勝った時と同じ心境だ。

 最初は無駄な時間だと思ったが理想の実現のために多くのヒントを残してくれた。無駄だと思ってもやってみるものだな。

 シンボリクリスエスはデジタルにほんの僅かに感謝の念を抱いた

 

 



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勇者とラストダンジョン#9

 ヒシミラクルは灰髪を靡かしながら駆け抜け、踏み込むたびにウッドチップが舞っていく。残り2Fでチームメイトと体が並ぶと、それを合図にチームメイトはスパートをかけていく。

 お互いに闘争心を掻き立て1cmでも前を行こうと力を込める。両者は横並びで残り1Fを迎える。するとヒシミラクルがほんの僅かに遅れ始め、その差を挽回できずクビ差で先着された。

 

「先着されたか……」

「やったと言いたいところだけど、もう無理」

 

 ゴール地点から数十メートル通過した地点でチームメイトは思わず足を止め膝に手を置きながら肩で息をする。一方ヒシミラクルは真っすぐ立ちすでに息が入っていた。

 

「何でもう息入ってんの?手抜いた?」

「まさか、ちょっとスパートかける距離が短かったみたい」

「このズブズブスタミナお化けめ」

「じゃあ、もう1本あるから先に行くね」

 

 ヒシミラクルはチームメイトに声をかけスタート地点に戻っていく。チームメイトはその様子を信じられないと感嘆の視線を向けていた。

 メニュー通りであれば5Fを走り3F目でスパートをかけているはずだ、普通のウマ娘なら大きく息が乱れあんな颯爽とスタート地点に戻れない。先着したという自信と優越感はすでに失われていた。

 

───

「う~ん、今日も走ったな」

「しかし、マスコミの数少なくない?」

 

 大きく体を伸ばしながら満足げにしているヒシミラクルに対してチームメイトは不満げに呟く。有マ記念まで残り2週間、そろそろ本番に向けて取材が活発になる頃合いなのだが、トレーニングを見に来るマスコミは少なかった。

 フィーバーに湧いていた京都大賞典前に比べれば半分にも満たない。大半のマスコミはタップダンスシチーやシンボリクリスエスを取材している。

 ヒシミラクルの有マ記念の予想人気は7番人気、タップダンスシチーやシンボリクリスエスは勿論、ゼンノロブロイやリンカーンやザッツザプレンティなどGI未勝利のクラシック組より評価されていない。GI3勝ウマ娘がここまで低評価なのは納得できないのだが、今はある意味納得できた。

 

 まず怪我明け、しかも1カ月半で治したが本来であれば全治1年の大怪我だ。不安視されても仕方がない。

 次にトレーニングでは時々先着されることがあった。いくら有利な条件といえどGIウマ娘が何度も条件戦のウマ娘に先着されるのはイメージが悪い。

 さらにトレーニング内容もイメージが悪い。復帰してからはウッドチップやダートなどのコースでのトレーニングしかやらず、坂路では一切やっていない。

 一般的にはコースではスタミナを鍛え、坂路では瞬発力やキレを鍛えると言われている。

 ヒシミラクルは菊花賞と天皇賞春に勝利し文句なしの現役最強のステイヤーで、次のレースが天皇賞春であれば1番人気でも不思議ではない。

 

 だが有マ記念は2500メートルであり、このトレーニングではスタミナを無駄に鍛え勝つために必要なスピードが鍛えられていないとマスコミは判断しての評価だった。

 確かに常識的な考えとしては妥当な判断だ、だがヒシミラクルは常識に収まるウマ娘ではない。全治1年の怪我を1カ月半で治して復帰するのは明らかに常識外れだ、アグネスデジタルが常識外れのウマ娘と称されるが本当の常識外れはヒシミラクルだ。

 チームメイト達はヒシミラクルを現人神と揶揄うことがある。だがあながち間違っていないと思っていた。今は明らかに他のウマ娘とは違っている。上手く言葉に出来ないがあえて言葉で説明するなら神懸かっていると表現するだろう。

 別に特段何かが有ったわけではない。だが神懸かっていると思わせる何かを感じ取っていた。これは取材などの短い時間の対面では絶対に分らない。そして何かとは運だろう。

 もし有マ記念を走るウマ娘の能力を数値化すればヒシミラクは運の数値が圧倒的に上回り、レースを走れば必ずヒシミラクルに運が向きレースに勝つと。

 これを他人に話せば鼻で嗤われるのは確実だ。だがチームメイト達は同じような感覚を抱いていた。

 

「ミラクル、勝って日本中をひっくり返してやりな」

「任っかせなさい~」

 

 ヒシミラクルは胸を叩き自信満々に言い放つ。一点の曇りもなく勝つと自信に満ちている姿には一種の神々しさすらあった。

 

「うん?」

 

 チームメイトは何かの気配を感じ徐に近くの植え込みに向かう。その陰にはありがたや、後光が見える、新たな神だと呟きながら拝むアグネスデジタルの姿が居た。

 

──

 

 栗東寮共有スペース、そこでは多くのウマ娘が過ごし、学園では見られないような組み合わせを見ることもある。そして共有スペースに居るウマ娘は2人のウマ娘に意識を向けていた。

 1人はアグネスデジタルもう1人はヒシミラクル、GI6勝ウマ娘とGI3勝ウマ娘、実質栗東寮で屈指の実績の持ち主の邂逅である。

 

「付き合ってもらって悪いね」

「いいですよ。暇でしたし、それで急に話をしたいだなんてどうしたんですか?」

「いや、有マ記念の出走ウマ娘ちゃんと話をしたりして交流を図りたくてね。最後のレースを良いレースにするためには知ることは大事だからね」

 

 シンボリクリスエスから始まった、有マ記念に出走するウマ娘との交流は順調に続いていた。各ウマ娘と連絡をとり時間を調整し、話し合いの場をもうけ存分に感じていた。

 そんな中偶然ヒシミラクル達を見つけ、遠巻きに観察していたが、彼女達の会話を切っ掛けに妄想が捗りながら自分の世界に入り、気が付けばチームメイトに見つかっていた。

 これが初対面なのだが、随分気まずい状況になってしまった。今すぐにでも逃げたいところだが、これも何かの縁だと、さも何事もなかったようにヒシミラクルに話しかけ、この後に雑談でもしないかと誘ったら、あっさりと了承し現在に至る。

 

「全治1年をたったの1カ月半で治しただなんて凄いね。けど大丈夫?」

「問題無いです。有マには万全で挑めます」

「そう、よかった」

 

 デジタルは安堵の息を吐く。ヒシミラクルは宝塚記念から注目しているウマ娘で、是非とも感じたいウマ娘だが、無理して怪我する姿は見たくない。

 

「それにしてもヒシミラクル理論いいよね」

 

 ヒシミラクル理論とは、強さとは心技体に運を含めた総合値という考え方である。どんな有力ウマ娘が不運に見舞われてもそれも実力であり、勝者は胸を張って勝利を誇るべきである。その考えには少なからず共感していた。

 

「あの言葉で多くのウマ娘ちゃんが勇気をもらったと思うよ。アタシも勝ってもマグレとか次やったら絶対負けるとか言われまくったし」

 

 間を空けないように言葉を続ける。とにかく褒める。それが会話の方針で褒められて嫌がる者はほぼいないという判断のもとだった。そして誉め言葉は心からの本心だった。

 自分がマグレと言われるのはさして気にしていない。だが他のウマ娘達は違う。勝利はウマ娘達の頑張りよって、その舞台に立っていたからこそ手繰り寄せたものだ。

 だが周りはそうは思わず意識的に或いは無意識に勝利の価値を落とし勝者を傷つける。そんな中ヒシミラクルは全てを肯定した。その言葉によって多くのウマ娘が救われた。

 デジタルがヒシミラクル理論を言っても他者には響かなかっただろう。同じように悩み傷ついたヒシミラクルがたどり着き提唱するからこそ他者に響く。

 

「私も最初はそう思っていなかったんですけどね。そういう意味ではアグネスデジタルさんも強いです。特にダートプライドは本当にラッキーでしたね」

「本当にそう。あれは完全に運が良かった」

 

 ヒシミラクルは僅かに目をむく。先の言葉はデジタルを試す意味で発したものだった。ダートプライドは見たが勝てたのは完全に運だった。もう一度やれば勝てないだろう。

 先ほどはラッキーという単語を強調して言った。あのレースに勝ったことで自尊心と誇りが芽生え、ラッキーと言われれば言葉では肯定しても本心では癪に障ると予想していた。

 だがデジタルの言葉や雰囲気から本心から勝てたのは運が良かったと言っている。その態度に興味が湧いていた。

 

「アグネスデジタルさんはレースの分野に関しては運が良いと思いますか?」

「レースのカテゴリーなら凄く運が良いと思うよ」

「どこらへんが?」

 

 ヒシミラクルは無意識に身を乗り出すし矢継ぎ早に次の問いを尋ねる。運が良いと即答した。その反応は期待感を抱かせるものだった。

 

「全部かな。まずはパパとママが産んでくれたこの体と家庭環境、そして小さい頃にトレーナーに出会って、チームに入って、プレちゃんと同じ部屋になって、アタシが今まで出会った人々や体験したもの1つ1つは物凄い偶然の結果で、その偶然が連続した結果今のアタシが居る」

 

 デジタルは感慨にふけるように語る。競技人生において小さいものから大きなものまで様々な苦難や困難があった。そして小さな苦難は自分の運によって回避したのだろう。その結果が今の自分の競技人生だ。

 1つでも歯車が狂えば、天皇賞秋でオペラオーとドトウと走れず、ドバイでサキーとも走れず、香港でプレストンとも走れなかったかもしれない。そう考えれば最高に幸運に恵まれたとも考えられる。

 ヒシミラクルはその答えに満足げに頷き自分に言い聞かせるように語り始める。

 

「私はレースとは運の良さの比べ合いだと思っています」

「どういうこと?」

「この学園には私より量も質も高い努力をしたウマ娘は多く居るでしょう。それでも私はGIに勝ちそのウマ娘達は勝てない。それは私のほうが肉体的な才能が有ったから、つまり才能有る肉体に生まれて運が良かったから。私より肉体の才能があるウマ娘も多く居るでしょう。それでもGIに勝てないウマ娘も居る。それは正しく努力できる環境がなく才能を伸ばせなかったから。つまり環境に恵まれて運が良かったから」

「そういうことか、何となく言いたい事は分かる」

 

 デジタルは同意するように首を縦に振る。多くのウマ娘を見てきた。1人1人は懸命に努力し高みを目指した。そのウマ娘達が自分より怠けていて劣っているとは決して思っていなかった。

 しかし実績には差が出てしまう。ならその差は運の有無でしか無い。運とは神の領域であり人間ではどうしようもできなく、つまりウマ娘のせいではない。そのように考えるようになった。

 

「でもそれだと勝つ人は最初から決まっていることにならない?」

 

 デジタルは僅かばかり不満げに呟く。ヒシミラクルの理屈は才能や努力の質を運と言い換えている。現時点で運の総量を増やす方法は明確に見つかっていなく、結果はある程度決まっているとも言える。

 フィジカルが弱かった者が技術と精神を鍛え抜き頂点を掴んだ者、何度も怪我してレースを走るのは無理だと言われても走り続け勝った者、それらの者達は懸命に足掻き努力した。

 その成長分すらも決まっていたもので、成長できたのは運が良かったと片付けるのはウマ娘達の意志の力を蔑ろにしているような気がした。

 

「確かに肉体の才能を努力によって上回ることは可能だと思います。それは低いレベルの話です。今回の有マ記念に出走するウマ娘は其々が最大限の努力をしているでしょう。それでも差はつくのは肉体の才能や出会いや環境による努力の質、つまり運の差で結果はすでに決まっています」

「う~ん、そうなのかな」

 

 デジタルは悩まし気な声を出す。言いたい事は分かるが釈然としない、運も確かに重要だが、やはりレースの結果は過ごした時間や努力によって培われた力という、本人によるものが左右すると思いたい。

 

「ヒシミラクルちゃんも大怪我したけどすぐに治したでしょ。あれもやっぱり運だと思ってる?」

「運です。私がレースに勝ったからヒシミラクルおじさんが儲けた。儲けたから恩を感じて療養所を紹介してくれた。その療養所の治療が驚異的な効果を発揮した。私が手繰り寄せた運です」

 

 デジタルは想いの強さで有マ記念に出走できるまで復帰できたと言って欲しかったが運と即答した。そして運という不明瞭な要素を手繰り寄せたと確信する精神性、普通であれば運が良かったと嬉しそうにするが、ヒシミラクルからは当然の結果であると自信が漲っていた。

 一時期は神に祈り運という要素に縋ったデジタルにとって考えらない思考だった。仮に同じ立場だったらここまで断言できないだろう。

 

「多くのウマ娘は自分が凄いから強くなったと思っています。ですが実はただ運が良かっただけに過ぎない。そしてそれを理解していない者に運は向かない」

 

 自信満々に言い放つ。フロック勝ちでGIを勝ったことに悩み苦悩した。だがトレーナーの言葉や漫画のキャラクターのセリフで運を肯定した。そして実力とは大半が運に左右されるものであり、レースとは運の良さの比べ合いであるという結論に至った。

 その言葉には疑念や迷いは一切なく、絶対不変の真実を語るようだった。その姿にデジタルは神々しさすら感じていた。

 

「アグネスデジタルさんはそこを理解しているウマ娘みたいですね。次の有マ記念は上位人気のウマ娘より注意しないといけないかもしれませんね」

「そうだと嬉しいね。アタシの目的を達成する為には運が必要だから」

 

 次の有マ記念はある意味最も厳しいレースになる。ウマ娘を感じるという目的を達成する為に人事は当然尽くすが天命、つまり運に恵まれる必要がある。ほんの僅かなロスでも命取りになってしまう。

 

「あっそうだ、一緒に走るレース相手に頼むのもあれだけど、お願いがあるの」

 

 デジタルは何か思い出したかのようにポケットから物を取り出す。それは中央ウマ娘協会が作ったヒシミラクルのお守りだった。

 

「これにヒシミラクルちゃんの念を込めて欲しいというか、運を分けて欲しいなって」

 

 ヒシミラクルと会話しようと思った時からこのお願いをしようと考えていた。一時期は神頼みをしたが結果的に裏切られたので、この頼みは会話の切っ掛けか笑いを取る程度にしか考えていなかった。

 だが今の会話でヒシミラクルには神懸かった運を持っていて、それを分けてもらえばレースで役に立つという予感が有った。

 

「いいですよ。ただし利子は高いですよ」

「利子?どういうこと?」

「この運は貸しです。有マ記念が終わったら返してもらいますし、アグネスデジタルさんのレースに関する運は根こそぎ頂きます。もう引退しますのでいいですよね?」

 

 デジタルは一瞬慄く、最初は冗談を言うのだと笑おうとしたが、その目は本気で笑みは引っ込んでいた。

 

「運っていうのはレースの事だけだよね?運を奪われたせいで車に轢かれるとか嫌だし、将来はトレーナー目指しているから、レースの運って事で教え子が不運になるのは嫌だよ」

「勿論、貰えるのはレースに関する運だけです」

「フフフ、それなら安心だね。どうせ引退するから運持っていてもしょうがないし」

 

 だが渡す際には思わず笑みを浮かべていた。少しだけ貸してあとは全て徴収する。闇金もびっくりの高利貸しだ。

 それに運を奪うなど出来るかどうかわからず、確認のしようもない。

 しかしその言葉には一切の疑念のなく本当に運が奪えると思っている。それが妙に可笑しく面白かった。ヒシミラクルは貰ったお守りを両手で力一杯握って渡す。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 デジタルはお守りをいじりながら礼を言う。見た目や触り心地には変わった点はない。しかし運が籠っていてきっとご利益があるはずだ。

 

「ところでレースの後に運を貰うって言ってたけど、運ってどうやって貰うの?」

「その人を上回ったと感じた瞬間ですね。タップダンスシチーなら先着すれば奪えますし、アグネスデジタルさんの場合だと先着する…のは違うな。目的を阻止する。あるいは目的を達成しようとした行動すら私が勝つための踏み台というか利用できた場合とか」

「目的阻止は嫌だな。踏み台とか利用する方向なら一向にかまわないから」

 

 デジタルはくだけた口調でお願いする。だが口調とは裏腹にその願いは切実だった。ウマ娘を納得できるほどに感じられなかったら後悔が残り、それは御免被りたい。

 

「うん?タップダンスシチーちゃんって言ったけど何か有ったの?」

「タップダンスシチーには京都大賞典で運を奪われましたので、有マ記念では奪われた分は利子を含めてたっぷり返してもらわないと」

「そうなの?」

「はい、ジャパンカップで枠順やバ場状態が有利に働いたって言われていますけど、あれは私の運を奪ったおかげですね」

「へ~そうなんだ」

 

 デジタルは目を輝かせながら相槌をうつ。自分の運を奪ったから勝てた。このような発言をすれば間違いなく白い目で見られてしまい、普通なら思っていても口にしないし、思う事すらしない。

 だがヒシミラクルは当然のように口にした。何て素敵で面白いウマ娘なのだろう。そしてタップダンスシチーとヒシミラクルに思わぬ因縁が有るのが発覚した。脳内では2人の関係性に対する妄想が即座に膨らんでいた。

 

「じゃあ、そろそろお開きにしようか」

 

 デジタルは席を立ちあがる。周りを見れば就寝時間が近いのか他のウマ娘達は共用スペースから離れ自室に帰っている。何より思わぬ関係性に対する妄想のせいでまともに会話するのが難しくなってきていた。

 

「わかりました。ではタップダンスシチーとはルームメイトでしたよね」

「そうだよ」

「ではよろしくと伝えておいてください」

「わかった。伝えておく、お守りはありがとうね、それじゃあお休みなさい」

「はい、お休みなさい」

 

 ヒシミラクルは早足で歩くデジタルを見送りながら一緒に走る有マ記念について考える。有マ記念に出走する目的はタップダンスシチーから奪われた運を返してもらうのは勿論、出走ウマ娘から運を貰う事である。

 出走ウマ娘はレースで好成績をあげられたのは運が良かったのではなく、自分の力で強くなったと思っている輩ばかりだ。だがデジタルは即答で運が良いと答えた。そういったウマ娘は運が強い。

 本来であればデジタルに運を分け与える必要はなかった。正確にいえば運を分け与えられる確信はなかった。

 しかし本当に運を分け与えられたとしたら、運の総量が減ってしまう。それでもふとやってみてもいいとほんの僅かに思っていた。これがデジタルの運の強さと解釈し、心が赴くまま実行した。

 アグネスデジタルというウマ娘の運は強い。だがヒシミラクルの運はさらに強い。それは有マ記念で証明されるだろう。

 そしてデジタルの運を喰えばさらなる高みに登れる。もしかしたら日本を飛びこえ世界にすら届くかもしれない。更なる飛躍を予感し無意識にニヤケていた。

 

 デジタルは布団に入り眠ろうとするが興奮のせいで一向に眠れなかった。部屋に帰ったのちにヒシミラクルからの伝言をタップダンスシチーに伝えた。

 すると大笑いした後に『奪っておいて良かった。次の有マ記念で勝って根こそぎ奪ってやる。ヒシミラクルの運が加われば世界も取れる』と嬉しそうに言っていた。

 

 タップダンスシチーの言動や雰囲気から運を奪ったという確信が有ったのは理解できた。普通であれば運を奪った奪われたなど分かるわけが無い。だが2人には分かっていた。

 それは2人だけの共通言語でその言語でやり取りしていると思うと尊みが膨れ上がる。

 なんて素敵な関係性だろう。タップダンスシチーのシンボリクリスエスへのライバル心、ヒシミラクルの運を奪い返す決意、有マ記念には関係性の矢印が行きかっている。悔いを残さないようにと話しかけてよかった。もっと色々な関係性を知りたい。

 デジタルは今後の楽しみに胸を躍らせながら眠れぬ夜を過ごした。

 

 



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勇者とラストダンジョン#10

誤字の指摘ありがとうございます


 トレーニング前のアップはチームの特徴が出てやすい。あるチームは雑談をしながら和気藹々とするタイプもいれば、あるチームは私語をせず黙々とするタイプもいる。タップダンスシチーが所属するチームラピスラズベリは前者である。しかし最近は私語しなくなっていた。

 タップダンスシチーを先頭にチーム一団で走る。それはアップにしては走行スピードが速く、シニア級やクラシック級はともかく、デビュー前のウマ娘は着いていくのがやっとだった。

 そして5Fほど走ると止まり、少しだけ休憩してから同じように走り始める。それを3セットする。トレーナーはスマホを見ながら、チームメイト達を見守っていた。

 アップが終わると本格的なトレーニングが始まり、タップダンスシチーは最近の恒例となった坂路で一杯に追う。その日は2Fのベストタイムを更新し、坂路で走ったウマ娘の中で最も速いタイムで走っていた。

 

「お疲れ」

「お疲れ、この後例の場所によるけど行きます?」

「悪い。パス」

「また散歩ですか?」

「まあな」

「そんなに楽しいですか?」

「寒さを肌で感じ、木々の匂いを感じ、周りの音を聞く。楽しいぞ」

「何か風流ですけど、らしくないですね」

「目覚めたんだよ」

 

 タップダンスシチーは軽口を叩きながら、チームメイト達と別れて、チームルームを離れ、学園内を散策する。この季節は木々が枯れ淋しい景色だが、自然や人の営みは変わらず、目を凝らし耳をすませば十分に楽しむことは出来る。しかし周りに意識を向けず黙々と歩く。

 それはとても散歩を楽しんでいる者の雰囲気ではなく、別の事柄に意識を向けているようだった。そして一定の感覚でスマホを操作し画面を見ながら歩いていた。

 

───

 

 アグネスデジタルはベッドで寝転がりながらスマホでウマ娘達のSNSをチェックしながら、ベッドで目を閉じて胡坐を組んでいるタップダンスシチーの気配を存分感じる。

 有マ記念まで残り2週間を切り本番に向けて徐々に心を仕上げていく、心を仕上げるにあたって様々な過程があるが、その1つとして自信を強固にしていくという過程がある。

 タップダンスシチー曰く勝負とは風下に立った瞬間に負ける。どんなに不利な勝負でも絶対に勝てるという気概で挑む。

 その絶対に勝てる気概を生み出すには勝ち筋、勝利への可能性が必要だ。それを見つけどんなに可能性が低くとも絶対に成功するという自信を植え付ける。それと同時に勝ちたいという欲を膨れ上がらせる。

 

 レースが近づくごとにタップダンスシチーの空気は刺々しい空気が強まっていく。そして既に宝塚記念前日までぐらいに仕上がっている。要因はシンボリクリスエスだろう。

 シンボリクリスエスは有マ記念を最後に引退すると発表し、それは業界に大きな衝撃を与えた。デジタルは天皇賞秋の惨敗もありある意味予見できたファンもいたが、シンボリクリスエスはジャパンカップで負けたが衰えた様子はなく、予想していた者は皆無だった。

 タップダンスシチーは勝ち方にこだわらない。有力ウマ娘がレースに出走しなくても勝つ確率が減ると喜ぶタイプだ。だがシンボリクリスエスをライバル視していて、特別な感情を抱いている。

 ライバルのラストレース、通算成績は1勝1敗、これで負ければ永遠に勝ち越す機会を失う。絶対に勝って勝ち越したウマ娘として永遠に刻みつけてやる。

 デジタルは気が付けばスマホを見るのをやめ、2人の関係性を想像し、妄想を捗らせていた。

 

「アグネスデジタル、ちょっと訊きたいことがある?」

「うん?え?なに?」

 

 デジタルは妄想の世界から現実の世界に引き戻される。この状態のタップダンスシチーは人に話しかけることはあまり無いので全く予想していなかった。

 

「天皇賞秋のボリクリの様子が変だったが何かしたか?」

 

 有マ記念で最も脅威なのはシンボリクリスエスだ、ジャパンカップでは大差をつけたが着差=実力差と思っておらず、リベンジの為に死に物狂いでくるだろ。

 少しでも有利になるために過去のレースを見ている際に天皇賞秋のレースを見てある事に気づく。結果はレコード決着の1着で強さを見せつけた内容だった。だが過程に気になる点があった。まずはスタートが遅れた。

 相対的に見れば失敗していないように見えるが、スタートから10メートルたどり着くタイムを計測すれば一目瞭然だ。今までスタートに失敗したことが無かっただけに気になるがそれは偶々と説明できる点もある。問題はもう1つの異変だ。

 スタートから1000メートル通過するまでの間様子が映っていたわけではないので断言できないが、いつもと様子が違っていた。

 いつも冷静な様子ではなく、明らかに心が乱れ気分よく走っている表情では無かった。それは偶然で片づけられなかった。

 さらにこのレースでデジタル以外はシンボリクリスエスと同じ様子だった。だとしたら何かしらを仕掛けたと考えられる。そして同じことができれば有マ記念で有利になると考えていた。

 

「う~ん、したといえばしたかな?」

「何をしたんだ?教えてくれ」

「いいけど参考にならないと思うよ」

 

 デジタルは体をソワソワさせながら当時の様子を語る。レースに向けてウマ娘断ちをしたこと、それによって他のウマ娘を委縮させてしまったことなど赤裸々に話す。

 

「ウマ娘断ちって、前々日会見やパドックや本バ場入場の時の奇行は全てそれだったのか?」

「奇行って、まあ他人が見ればそうだけどこっちも必死だったんだよ」

「そういえば珍しく先入れしてたけどあれもか?」

「そう、必死に我慢してたけど耐え切れなくなってたところを白ちゃんが申請して先入れした。あれはナイス判断だったね」

 

 タップダンスシチーもデジタルが休学し、外厩ではない場所でトレーニングしていると聞き、動向を気にしていた。

 そして前々日会見などの奇行は全く理解できず人間性すら疑っていた。だが理由を訊くと本人なりに理屈があり真剣に目的を達成しようとしていたのが分かった。

 

「参考になった?」

「いや、全く参考にならん」

 

 タップダンスシチーは肩を竦める。説明されたが自分には出来ないことは理解できた。これはデジタルだからこそ起きた現象だ、そして他のウマ娘に起こったことはある程度理解すると同時に同情を覚える。

 人は無意識に感情を人にぶつけるが思った以上に伝わる。それは好意や尊敬などより警戒心や敵意などネガティブな感情がより人に伝わりやすい。自分のシンボリクリスエスに向けている敵対心も伝わっているだろう。そしてデジタルも同じようにシンボリクリスエス達に感情をぶつけた。

 ウマ娘断ちによって抑制された感情は最大限まで凝縮される。デジタルがぶつけたのは敵対心などのネガティブな感情ではなく好意に分類されるものだろう。だが行き過ぎた好意は受ける者によって敵対心など以上に人を不快にさせる。

 極端な事を言えばシンボリクリスエスは狂信的なストーカー数人分の感情をぶつけられたようなものだ、それは気分よく走れるわけはない。

 

「そういえばシンボリクリスエスちゃんも同じ事訊いてきたな」

「そうなのか?」

「シンクロニシティってやつ?通じ合ってるね」

 

 デジタルは自分の言葉を切っ掛けに、再び妄想の世界に入り込む。タップダンスシチーはその様子を生暖かい目で見ながら、シンボリクリスエスについて考える。

 如何に相手の削るかを考えるタイプだとは思わなかった。思考が似ているというのは、自分の作戦がバレやすくもあるので厄介だ。

 

「最近は有マ記念に出走するウマ娘と接触してるんだって?」

「うん、最後だしね、やりたいことはやっておきたいからね」

「どんな話をしてる?」

 

 タップダンスシチーはデジタルが妄想の世界から現実に帰り始めているのを見計らって、話しかける。相手を探るのは重要だ、自分がやれば勝つ為にやっているのと警戒され、口を閉ざすか騙されるかだ。

 だがデジタルがやれば別だ、勝つ為じゃなくウマ娘を感じる為にやっているのだろう。そうであれば自分よりかは経過されず、不用意に口を漏らすかもしれない。現にヒシミラクルは自分を意識しているという情報はデジタルから持たされたものだ。

 

「それは最近の出来事とか、マイブームとか、過去のレースの思い出とか、色々だよ」

 

 デジタルは楽しげに語り始める。しかし欲しい情報ではないが一応は耳を傾けておく、意外な情報が役に立つ場合もある。それから話は続くが勝つ為に役立つ情報では無かった。

 

「そういえばタップダンスシチーちゃんも調子良さそうだね。今日の坂路で自己記録更新に最速でしょ」

 

 デジタルは思い出したように話題を振る。有マ記念に出走するウマ娘と交流を深めているが、タップダンスシチーもその1人だ。同室なので比較的に接する機会があるが、お喋りする時間が増える分に越したことは無く、話の流れに乗じて交流を深めておこうと考えていた。

 

「スポーツ知報の呟きで知ったのか?」

「そうそう、タップダンスシチーちゃん推しなのか、すぐに書き込みしてくれるからね。それに独自のインタビュー記事とか載せてくれるし、記者の人と親しいの?」

「まあな」

「それに最近は検索ワード数も増えているみたいだね。有マ記念の1番人気かも」

「おお、そうなりゃ嬉しい限りだ」

 

 タップダンスシチーは興味なさそうに返事する。だがエゴサーチで情報は逐一チェックし、注目度が高まっているこの状況は喜ばしくあった。

 

「それに気配が既に宝塚記念前ぐらいビンビンだよ」

「そうか?」

「そうだよ。走りにキレが出てきたって白ちゃんが言ってたけど、調子の良さのせいかな?」

「ジャパンカップに勝ったからね。よく言うだろう『勝利は蚊トンボを獅子に変える』って、アタシはさらに強くなった」

「自信満々だね。う~ん、ますます楽しみ。宝塚記念みたいに勝つために色んな仕掛けをして挑むタップダンスシチーちゃんはどれだけ魅力的なんだろう」

「人聞きが悪い事言うなよ。負けたけど正々堂々走った」

「だって、宝塚記念前ではトレーニングの時にシューズに重り入れて、調子悪そうに見せたでしょ」

「どこで気づいた?」

 

 思わず問いかける。本来であれば質問すればやっていると自白しているようなものだ。本来であれば白を切るのが正しいのだが、デジタルの様子は明らかに確信を得ている。ならばどうやって気づいたかを訊き、今後の参考にした方がいいと判断した。

 

「宝塚記念前でトレーニングを見ている時に動きの躍動感に比べてタイムが妙に遅かったから不思議に思ったんだよね。それでチームメイト達がタップダンスシチーちゃんのシューズを触って騒いでいるの見て、重り入れているって気づいた」

 

 デジタルの答えを聞いて内心で舌打ちをする。あのシューズは重り入りシューズは履き心地が悪くトレーニング終わりのクールダウンには脱いでいた。

 そしてチームメイト達に重りを入れているのを漏らしてのも覚えている。これはチームメイトが悪いのではなく、楽になりたいからとシューズを脱ぎ、仕掛けをうっかり漏らしてしまった自分が全て悪い。

 

「誰かに喋ったか?」

「まっさか~、タップダンスシチーちゃんの努力を人に漏らすわけないじゃん」

「他に気づいた者は?」

「うちのトレーナー、白ちゃんは勝負師って言われてるみたいだけどタップダンスシチーちゃんはもっと凄いって自慢したんだけど、そこから推理したみたい。ごめんね。でも勝負服は皮膚や体のラインが見えないようなデザインにして調子がバレないようにしたり、ベストドレッサー賞を無視してメイクや仕草で調子が悪いように見せたりして凄いって褒めてたよ」

 

 己の失言による発覚を取り繕うように、トレーナーの言葉を借りてタップダンスシチーを褒める。一方タップダンスシチーはトレーナーへの警戒心を高める。オペラオーを倒した天皇賞秋での奇襲で同じ匂いを感じていたが、ここまで見破られるとは思わなかった。

 

「なあ、お前はレースに勝つために走るんじゃなくて、レースを走るウマ娘を感じる為に走ってるんだよね」

「そうだよ」

「なんでお前のトレーナーは一緒に居るんだ?」

 

 タップダンスシチーは率直に疑問をぶつける。本人の言葉やメディアでデジタルはレースを走るのはウマ娘を感じる為で、勝利は二の次でレースに勝ったのはウマ娘を感じる過程でなったものであると知った。その思考は全く理解できないがそのような考えがあるのが分かった。

 そしてデジタルのトレーナーは勝負師と呼ばれる人間だ、そういった人間は勝利を目的とする。デジタルとは真逆だ、そんな2人が一緒にいれば反発して袂を分かつか、どちらかに染まるだ。

 だが自分の仕掛けを完全に見破ったトレーナーがデジタルに染まっているとは思えない。同じようにデジタルはトレーナーに染まっていない。

 

「そもそもテイエムオペラオーを倒した天皇賞秋の大外奇襲はトレーナーのアイディアだろ?何故その案に従った?ウマ娘を感じたいならウマ娘達の近くを走ればいいだろ?」

 

 デジタルは質問に『まあそうだよね』と納得するように頷く。確かに外から見れば行動がチグハグだ。

 

「あの時は色々有ったんだよね」

「教えてくれ、興味がある」

「アタシなんかに興味を示してくれるの?喜んで話します!まず天皇賞秋の大外奇襲は白ちゃんの案です。そしてアタシは反対した。オペラオーちゃんとドトウちゃんを近くで見たいから出走したのに意味ないじゃんって」

「そんな理由でバッシングを受けてまで出走したのか?勝ち目はあったのか?」

「勝ち目なんて関係ない。そんなの二の次、ウラガブラックちゃんには申し訳ないけど、結果的に2人と走るのは最初で最後だったから良かったよ」

 

 タップダンスシチーはさも当然のように語るデジタルを見て苦笑する。あの時のデジタルへのバッシングは苛烈で同情を覚える程だった。

 そのバッシングを受けての対価は2人と同じレースを走る権利、バッシングを受けて勝ち目のないレースに挑む。自分だったら明らかに割に合わない。

 

「それで白ちゃんと意見が対立した。『お前には勝利を目指す義務がある!自分の力を最大限発揮するのが勝利を目指すことやない!自分の力を削いでも相手の力をそれ以上に削ぎ上回ることが勝利を目指すことや!』って。そしてアタシはそれでも2人を感じたいって反対した。あの時はチームを離脱しても外を走らないつもりだった」

 

 タップダンスシチーは内心で同意する。自分の実力を最大限発揮できなくても最終的に勝てばいいのだ。全くの同感である。

 

「それで諦めたのか?」

「いや、走ろうとしたよ。その時白ちゃんがレースに勝てて、アタシの願いも叶えられる方法を思いついたって言ってきた」

「どんな方法だ?」

「大外を走りながら限りなくリアルなオペラオーとドトウのイメージを作り出し併走する。それができれば実在する2人と一緒に走るのと変わらない。これで2人を堪能できるしレースにも勝てる」

「ハッハッハッハ!頭いかれてんのかお前のトレーナー!?」

 

 タップダンスシチーは答えを聞いた瞬間に大笑いし、こめかみ辺りを人差し指でクルクルと回す。その声量の大きさにデジタルは体をビクリとさせる。

 

「アタシもそう思ったよ。でも白ちゃんや協力してくれたチームの皆の為に勝ちたいって気持ちも有ったし、やってやるって!って感じでやってみたらできた」

「出来たのかよ!そんなにお手軽なのかよ!」

「本音を言えばリアルの2人を感じたかったけど、妥協案としては良かったと思うよ。それにこれがトリップ走法の原型だし、その後も色々なウマ娘ちゃんを感じる為には必要だったし、怪我の功名ってことで良しだよ」

 

 笑いを堪えながら過去を振り返る。エイシンプレストンから貰ったデジタル取扱説明書では独り言を言う時はあるが、トリップ走法と呼ぶ走りをするために妄想していると書かれ、存在は知っていた。てっきり発案はデジタルだと思っていたがまさかトレーナーだとは夢にも思わなかった。

 

「いや水と油と思ってたけどお似合いだよ」

 

 未だに腹を抱えベッドをバンバンと叩きながら呟く。頭がおかしい同士お似合いだ。まさに破れ鍋に綴じ蓋だ。

 

「あ~笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだ」

「ウケを狙ったわけじゃないけど良かった。笑うことは良い事だかね」

「ところで有マ記念もトリップ走法でウマ娘を感じるのと勝利の両取りを狙うのか?」

「いや、トリップ走法はもう出来ない。ドクターストップされて、使ったらどうなっても知らないぞって言われてるからね。流石に人生棒を振りたくない。感じるのに全振りだね。気に障った?」

 

 デジタルは顔色を窺うように問う。タップダンスシチーはバリバリの勝利至上主義、もし勝つ気が無い者が居れば目障りで仕方がないだろう。

 出走辞退しろと言われるのも覚悟しているが辞退するつもりはない。次善の幸福を得るためにはエゴを押し通させてもらう。

 

「いや、一時期はそう思ったけど、今はそこまで気にしない。邪魔しなければな」

「そこは大丈夫、色々と考えているから、周りを邪魔せず迷惑かけずに欲求を満たす。これ推し活の基本ですから」

「別にアタシの邪魔しなければいいけど、寧ろ邪魔してくれボリクリとかネオユニヴァースとか」

「それは嫌だ。第一にアタシがシンボリクリスエスちゃんの邪魔して勝っても嬉しくないでしょう?」

「嬉しいぞ。勝てば全て良し。仮に邪魔を受けてもボリクリの運が無かった。ヒシミラクル理論で言えば実力が無かった。つまりアタシの完全勝利だ」

 

 デジタルは当然とばかりに堂々としているタップダンスシチーに意外そうな表情を浮かべる。

 実力を発揮できないことを良しとせず、シンボリクリスエスを完膚なきに叩きのめしたいという熱いライバル関係を抱いていると思っていたが全く違ったようだ。

 だが普段の言動から考えるに的外れだ。それにそっちの方が実にらしく魅力的だ。

 

「ところでウマ娘を感じるって射程距離とかあるのか?」

「あるよ。流石に10バ身差とかつけられたら感じられないからね。有マ記念に出走するウマ娘ちゃんは皆強いからね。感じるのにも骨が折れるよ」

「まあ、お互い頑張ろうや。アタシは勝利のために、アグネスデジタルはウマ娘を感じる為に、同期の顔の最後が不本意なレースになるのは忍びないからな」

「うん」

 

 タップダンスシチーは拳を突き出しデジタルは嬉しそうに合わせる。一見友好的な言葉と雰囲気はデジタルが知る気の良いタップダンスシチーであり、自分に気をかけてくれていると感激すらしていた。だが目の奥にある光は鋭かった。

 

 タップダンスシチーはデジタルの寝息を聞きながらデジタルとトレーナーについて思考する。言葉を交わしたことで深く知れた。昨日までデジタルは真逆の人間だと思っていた。その考えは間違っていた。あれは同類だ。

 目的は違えど周りの目や評価を気にせず、目的を達成するために様々な方法を実践する。それは時に奇行と映り世間から嘲笑されたとしても全く気にしない。

 そしてトレーナーは想像以上に勝負師気質で思考が似ていた。宝塚記念前での仕掛けや勝負服の意味やパドックでの立ち振る舞いを完全に理解していた。

 ふと胸中に不安が過る。もしかすると今度の仕掛けが見破られるかもしれない。もしデジタルが勝利を目指しているのならば脅威だが、だが幸いにも勝利を目指していないので脅威は少ない。

 いや、そんな弱気でどうする。今回の仕掛けは自分とトレーナーの渾身の仕掛けだ、見破られるはずがない。 

 今度の有マ記念はいくつかの意味がある。ジャパンカップと有マ記念に勝利し現役最強を証明する。シンボリクリスエスに勝ち越しを上で有ると証明する。

 そしてデジタルのトレーナーに仕掛けが見破れるかという勝負師としての対決が増えた。レースが終わったら見破れたどうか聞いてみよう。

 

 そして再び思考をデジタルに移す。有マ記念の目的はウマ娘を充分に感じる。その為にはある程度ウマ娘に近づかなければならない。

 私見では今のデジタルでは千切られるだろう。だがあのトレーナーなら思わぬ方法で目的を達成させるだろう。今後はデジタル陣営の動向に注視したほうがいいかもしれない。

 デジタルの目的とトレーナーの気質と実力を最も知っているのは出走ウマ娘陣営のなかでは自分だ、そのアドバンテージを利用できないものかと、トレーナーの立場になってデジタルが目的を達成できる方法を考え始めた。

 

 



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勇者とラストダンジョン#11

 12月3週になれば有マ記念まで残り2週間となり、年末のグランプリに向けて浮足立つところだが、多くのファンや業界人は朝日杯FSに意識を向ける。

 日曜日には中山レース場で朝日FSが行われる。ジュニア級のGIで先週行われた阪神JFが西のマイル王を決めるとしたら、朝日杯FSは東のマイル王を決めるレースとなる。

 3冠レースの1冠目の皐月賞は中山レース場で起こなわれることもあり、クラッシック路線を目指すウマ娘が参戦してくる。

 過去の勝者を遡ればナリタブライアンやグラスワンダー、近年ではエイシンプレストンやアドマイヤドンなど多くの名選手が勝っている登竜門的なレースであり、年々注目度が高まっているレースである。

 アグネスデジタルはダートコースでのメニューを終える。先週まではトレーナーがトレーニングを見て、併走してくれたチームメイトは今はおらず、メイショウボーラーのトレーニングに付きっ切りである。

 

 メイショウボーラーはデジタルが所属するチームプレアデスのウマ娘で、重賞2勝を含めた無敗の4連勝で朝日杯FSに臨み1番人気が予想されている。

 デジタル以来のGIウマ娘が誕生するかもしれないと、トレーナーやチームメイト達から緊張感が漂っていた。

 その雰囲気を察したのかデジタルは、トレーナーやチームメイトにメイショウボーラーを優先して欲しいと頼んだ。

 精神が完成していないジュニア級で初のGI、しかも1番人気となれば取材陣も多く訪れ、普段の状態を維持するのは難しく、トレーナーやチームメイト達がフォローして平静を保たせて欲しい。

 デジタルはメイショウボーラーがトレーニングしている坂路コースに向かいながら、心境について考える。

 

 GIでの1番人気はやはり特別だ。過去には1番人気でGIに臨んだことが有り、今では全く気にしないが、当時は周囲の期待など様々な重圧を感じた。

 その重圧をジュニア級で受けると思わず心配になる。だが勝てば成長の糧となるのは間違いない。

 現時点での実力はナリタブライアンなどの歴史的名選手には及ばない。だがウマ娘は変わる。この勝利で大きく成長し歴史的名選手になってもらいたい。

 

 坂路コースにつくと多くの報道陣がコース横に陣取っていた。目に付いたマスコミにメイショウボーラーはまだ走っていないかと尋ねると、同時に姿を現し走り始める。

 中山レース場はゴール前に坂がある。過去4戦の全てゴール前は平坦なコースだったので、本番を想定したトレーニングだろう。動きを見る限りキビキビ動いて苦手というわけではなさそうだ。

 今日のメニューは終い重点で残り2Fからスパートを掛け、前に居たウマ娘を一気に抜き去る。その内容はほぼ満点に近く、マスコミ達も同じように感じたのか良い意味で騒めいていた。

 

「忙しそうだね」

 

 トレーニング終了後、デジタルはタイミングを見計らってトレーナーに声をかける。事前の1番人気に今のトレーニング内容で期待が高まったのだろう。いつも以上にマスコミから取材を受けていた。

 

「デジタルか、この感じは久しぶりやな」

「メイショウボーラーちゃんは大丈夫?」

「黒坂君がついて質問数を制限して、マスコミをコントロールしとる。結構沸点が低いというか、カリカリしやすいところがあるからな、それに皆もついとるから大丈夫やろ」

「そう」

 

 その言葉に胸を撫で下ろす。精神的に幼いところがあり、質問の数にウンザリしたのか、内容に癇に障ったのか露骨にイラつき、その後のトレーニングに支障をきたした事が有った。

 それ以降はマスコミの質問を制限し、気心知れたチームメイト達と接することで精神的負担を減らすなどして対策を取っていた。

 

「アタシも声をかけてこようかな」

「いや、それは止めといたほうがええ」

「なんで?」

「デジタルの話題になると反応が大きくなるというか、とにかくレースが終わるまであまり関わらんでくれ」

「わかった。白ちゃんが言うならそうするよ」

 

 デジタルは若干不満そうにしながら了承する。断言は出来ないが、デジタルの話題が出た時のメイショウボーラーは妙に意識している気がし、直接接するのは良くないと漠然とした感覚を抱いていた。

 それ以降はトレーナーの言いつけを守り、メイショウボーラーの様子を遠巻きに眺める日々が続いた。

 

───

 

「メイショウボーラーの調子はどうだ?」

 

 朝日FS前日、デジタルは部屋でいつも通りスマホでウマ娘について調べながら過ごしていると、タップダンスシチーに声をかけられる。

 

「良いと思うよ。どうしたの急に?一緒のレースに走るわけでもないでしょ?気になるの?」

「今後は伸びてくる逸材だからな。早めにチェックしておくことに越したことは無い。それで当日はやっぱり逃げるのか?」

「どうだろ?最近は会ってないから……あっ、もしかしてコスモサンビームちゃんに情報を流すつもりでしょ?」

 

 コスモサンビームはチームラピスラズベリに所属している。つまりタップダンスシチーの後輩にあたる。そして朝日Fに出走する。それを思い出すと同時に狙いを読み取っていた。

 一方タップダンスシチーは問いに対し、返答代わりと不敵な笑みを浮かべる。それは充分に答えを言っているようなものだった。

 

「危ない危ない。情報漏洩してメイショウボーラーちゃんが負けちゃったら切腹もんだからね」

「もう少し鈍かったら助かったのに、まあさほど情報を持ってなさそうだけどな」

 

 タップダンスシチーは悪びれず言い放つ。関係者から思わず漏れた言葉が勝利の切っ掛けとなる。何か失言してくれれば儲けものだったのだが、気質を知っているデジタルには勘づかれてしまった。

 

「しかし意外、他人の為に偵察するようなタイプとは思えなかったから」

「本来ならコスモサンビームが本人に探り入れるべきだけど下手だからな。代わりにアタシがやってやったというわけ、まあ先輩として後輩にプレゼントってところだ。結局意味がなかったけどな」

 

 タップダンスシチーは勝利だけを徹底的に目指す気質から、他者には関心を抱かないと思われがちだが、それなりに他者への情が有り、機会があれば探りを入れるぐらいの思いやりはあった。

 

「じゃあ、アタシも見習って、コスモサンビームちゃんの調子はどう?マイルは久しぶりだけどスタミナ大丈夫?いつもは先行するけど本番は少し下げるの?」

「今後の路線を占うために正攻法でいくけど、スタミナ難に有るから勝つのは難しいだろ」

 

 タップダンスシチーは質問に目を見据えて答える。先程までのくだけた雰囲気とは違い、真面目な雰囲気を醸し出す。一方デジタルは耐えきれないとばかりに口元を緩ませる。

 

「どうせ嘘でしょ。アタシに嘘を伝えさせようとするだなんてズルいな~」

「勝負に徹してると言ってくれ、しかしそんなあからさまに訊かれたら嘘の1つや2つも仕込みたくなる。まあルームメイトへのサービスってことで分かりやすくはしておいたけど」

 

 タップダンスシチーも同じように口元を緩ませる。一応は騙そうと真面目な素振りをしたが、あまりにとってつけた探りの入れ方に笑いを堪えるのに必死だった。

 それに当事者ならもっと真剣に騙そうとするが、他人の為に真面目にやって嫌われるまでの義理とメリットは無いと思い雑にやっていた。

 

「次に来るウマ娘ちゃんに同じ事したら嫌われるよ。それだと居心地最悪だけどいいの?」

「別に~、次のルームメイトはネオユニヴァースとかヒシミラクルとかがいいな。そしたら仕掛けを仕込みたい放題だ」

 

 明快に笑うタップダンスシチーを見て思わず苦笑いを浮かべる。勝つためなら冗談抜きに実行するだろう。もし自分がシンボリクリスエスのように有力ウマ娘であれば、あの手この手で揺さぶりをかけてくる。人として難は有るが、その徹底したスタンスはある意味尊敬でき素晴らしい個性ともいえる。

 

「明日は現地に行って応援するの?だったら小細工無しでレースを楽しもうよ」

「中山に行く。そして小細工じゃなくて勝つために全力を尽くしてると言え、あいつのレースだし、1回は普通に走るも悪くは無いだろう」

「約束だからね。パドックの時にアタシを人質に取って脅すとか無しだよ」

「しねよそんなこと」

 

 タップダンスシチーは冗談を笑い飛ばす。デジタルも釣られるように笑った。

 

───

 

 中山レース場パドック前、メインレースの朝日FS発走が近づくにつれて人が徐々に集まり、10レースのパドックが終わる頃にはメインレースのパドックを少しでもいい場所で見ようとファン達が場所を確保し、遠目でしか見られない状態になっていた。

 朝日杯FSは基本的には出走ウマ娘全てがGI初挑戦である。シニア級の猛者たちの堂々たる姿を見るのもいいが、ジュニア級の初めてのGIで緊張している初々しい姿を見たいと思うファンも多い。

 

 デジタルはパドック前から離れた3階席に移動し、最前列に陣取っているチームプレアデスのウマ娘達を上から眺めていた。

 本当であれば皆の輪に加わりたかったが、メイショウボーラーは自分を意識しているらしく、万が一に姿を見られて調子を崩してしまったら申し訳が立たないので、姿見られない場所に移動した。

 朝日FSのパドックを見るのは2度目だ、最初はエイシンプレストンの応援に訪れた時で、勝負服を着る嬉しさを噛みしめながら、絶対に勝つと闘志を漲らせていた姿は今でも思い出せる。

 

「思った以上に混んでるな。迷うところだった」

 

 すると1人のウマ娘が親し気に声をかけながらデジタルの横に立つ。デジタルはそのウマ娘に缶飲料を渡す。

 

「タップダンスシチーちゃんは中山で見るのは初めて?」

「あんまり生でレースは見ないからな」

 

 タップダンスシチーは缶飲料を受け取りホッカイロ代わりと手でこねくり回す。

 後輩のコスモサンビームの応援に行くつもりであったが、特にすることは無くパドックが始まるぐらいに現地に着けばいいと考えていた。

 そのさなかデジタルから連絡が来て、諸事情でチームの皆とはパドックが見られないので、一緒に見ないと誘われた。

 特に断る理由も無いので誘いに応じこうして肩を並べパドック見学することにした。

 

「初めてのGI出走か懐かしいな。勝負服を着たウマ娘ちゃん達は皆可愛くてカッコよくて眼福でした。タップダンスシチーちゃんはどうだった?」

「ワクワクしたな。アタシがゴールしてどよめく姿が目に浮かんだ」

「でもあの時2桁人気でしょ?よく自信持てたね」

「まあ不安も有ったが出走するからには勝算は有るし、どんなに少ない確率でも絶対に勝つと思う。そうしなきゃ何も始まらない」

 

 タップダンスシチーは力強い言葉にデジタルは感嘆の目を向ける。僅かな可能性を絶対に出来ると信じ込む。容易く言っているが中々にできることではない。

 前走での敗北や周囲の評価によって自信は挫かれていく、それでも信じ込めるのは心の強さの証であり、見習うべきだ。

 

「おっ始まりそうだ」

 

 気が付けばパドック周りが慌ただしくなり始め、アナウンスでパドック開始の合図がされ出走ウマ娘が出てくる。

 出てくるウマ娘達は観客達の多さと声援の前に、目を輝かせると同時に浮足立っている。その光景にデジタルの頬が緩む。

 トレセン学園に入学したウマ娘の中で勝負服を着てパドックに出られる者は1割にも満たない。

 中にはもう2度と勝負服を着られないと、覚悟しているウマ娘も居るだろう。その者達にとっては一生の晴れ舞台だ。

 そしてパドックに居るファン達もそれを理解し、一生の思い出になるように声援を送る。優しさに包まれた素敵な光景だ。一方タップダンスシチーはその様子を不満そうに見つめた。

 

「勝負服を着たのに満足してちゃ、勝負の土俵にすら立ってない」

「まあ、そう言わないで。あっ、コスモサンビームちゃんが出てくるよ」

 

 すると4番人気のコスモサンビームがパドックに現れる。表情は少し硬いが気合いが漲り、動きの節々から調子の良さが窺える。

 

「調子良さそうだね」

「まあ勝負の土俵には立ってるな」

 

 デジタルの言葉に満更でもない表情を浮かべる。GIの舞台に浮かれることなく意識は勝負に向けられている。悪くはない状態だ。

 それから3番人気と2番人気のウマ娘がパドックに現れる。2人もコスモサンビームに負けず劣らず調子が良さを見せていた。

 

「さて1番人気はどんな感じだ」

 

 タップダンスシチーの言葉を合図とするようにメイショウボーラーが姿を現し、観客達も一斉に注目を向ける。

 サイドテールとポニーテールを合わせた独特の髪型だが、GI仕様か右がピンク、左が青色に染められている。勝負服は青とピンクを基調にした和服テイストで下の丈は走れるように短くなり、背中には日輪のマークが描かれている。

 

「絶対に勝つ!」

 

 メイショウボーラーはランウェイの中央に立つと突然吠える。その咆哮に見ていた観客のボルテージも一気に上がっていく。

 デジタルはじっくりと観察する。肌つやも良く歩く動作もキビキビしていて気合も乗っている。

 

「タップダンスシチーちゃんはどう見る?」

「良いんじゃねえの。調子が良さそうなのは分かる。だが少し気合いが乗りすぎてるな」

 

 その言葉にデジタルはだよねと呟く。見ていて少々気負っている感がある。メイショウボーラーの戦法は逃げが予想され、気負った結果暴走して負けるというのはよくあるパターンだ。

 

「もしコスモサンビームちゃんの立場だったらどうする?」

「何に対して気合いを入れすぎてるのか見極めて仕掛ける。1番人気についてだったら皆が期待してるぞと言って、トレーナーの為とかみんなの為とかだったら、お前が負けたらチャンスはないとか、折角来てるんだから良いとこ見せないとなって言う」

 

 メイショウボーラーの気負いは切り崩す突破口に充分である。ジュニアクラスなら自分の事で精一杯になり周り目がゆかず、相手の精神を乱す言葉を投げかけるということは出来ないだろう。だが勝手に自滅しかける可能性は充分ある。

 そしてパドックが終わると出走ウマ娘達がトレーナーの元により最後の打ち合わせをする。

 デジタルはトレーナーの様子を注視する。落ち着きを取り戻すにはここしかない、その想いが通じたのかトレーナーは肩に手を置き時間が許す限り話しかけ続ける。するとメイショウボーラーの様子は若干落ち着き始めた。

 

「アタシはチームの面子と一緒に見るから、じゃあな」

「じゃあね」

 

 タップダンスシチーはデジタルが観察しているのを尻目にスタンドに戻っていく。その後もギリギリまで様子を観察し、地下バ道に入ったのを確認すると急いで移動した。

 

「お待たせ」

「遅いですよ。もうすぐレースが始まりますよ」

 

 デジタルは若干息を切らしながら関係者席に居るチームメイト達の元に辿り着く。中山に来るのは久しぶりで少しだけ道に迷っていた。

 席に着くとファンファーレが鳴り始め各ウマ娘がゲート入りを始め、メイショウボーラーは少しチャカついているが何とかゲートに入り、各ウマ娘ゲート入りが完了しレースがスタートした。

 

『さあ、スタートしました。各ウマ娘揃ったスタートです』

 

 メイショウボーラーのスタートは及第点だが最高ではなく、100メートル時点で先頭から5番目の位置をつける。

 デジタルの頭にはそのまま流れに乗って番手で進めるか、強引にハナを取って逃げるかの2択が浮かび上がる。

 そしてメイショウボーラーはペースを上げハナを取りに行った。そのまま3~4バ身差のリードを維持したまま道中を進んでいき、前半800メートルを45秒8で通過する。

 これは速い。トレーナーとの話で半マイル47秒が理想と言っていたが、明らかにオーバーペースだ、これは今日の芝は時計が出やすいから速いというわけでもなく、何かしらの作戦によるペースでもない。気負いから無意識に力が入りペースが上がってしまった。

 デジタルはトレーナーに視線を向けるとその顔は渋く、好ましいレース展開ではないことは読み取れた。

 

 レースは3コーナー付近で1バ身差まで詰め寄られるが、即座にペースを上げ2番手から2バ身差をつけて直線を迎え、関係者スペースの熱気が一気に高まる。

 直線に入り先行のウマ娘との差は縮まらず、後ろで脚を溜めていたウマ娘達も追い上げるが今の勢いでは届かない、そして残り200を切り問題の坂を向かえる。

 メイショウボーラーは直線に坂があるコースで勝利したことはなく、勝つためには坂をどう克服するかが鍵だ。

 大型ビジョンにメイショウボーラーが歯を食いしばりながら坂を駆け上がる姿が映る。苦しそうだがフォームも乱れておらず、思った以上に差が縮まらない。

 デジタルに勝利の2文字が浮かび上がるなか、着実に差を縮めてくるウマ娘が居る。コスモサンビームだ、先行勢が懸命に粘る中1人抜け出してきた。

 お互い坂を上がった時点でコスモサンビームが差を半バ身差まで詰め寄り、脚色が若干勝っている。

 すると坂で体力を使い果たしたのかメイショウボーラーが左に寄れ、それと同時にコスモサンビームの脚色が若干鈍る。

 ラスト50メートルで2人はほぼ横一線になる。脚色はほぼ同じになり並ぶようにゴールする。

 

「これメイショウボーラーが勝ったでしょ」

 

 チームメイト達が歓喜の声を上げる。場内実況は際どい勝負と言っているが、メイショウボーラーが態勢有利に見え、デジタルも同様だった。そして本人も勝利を確信しているのか何度もガッツポーズを見せていた、

 ジュニア級のチームメイト達が抱き着き喜びを爆発させている中デジタルの表情は険しく、何人かのチームメイトも同じように険しい表情を浮かべていた。

 

「皆、メイショウボーラーちゃんのところに行こう」

 

 メイショウボーラーが観客達の前に勝利をアピールしているなか、チームメイトに呼びかける。

 シニア級のウマ娘は呼びかけに応じ、同級生の勝利に喜んでいるジュニア級のウマ娘達は引きづるようにエレベーターに乗り、選手たちが待機している裁決室に向かう。

 

「あっ、審議がついている」

 

 デジタル達が裁決室に着くとチームメイトの1人が場内のTVを指さす。着順掲示板には「審」のランプが点灯し、レース場でも観客達は審議ランプがついたのに気づき騒めき始め、その声が中まで届いていた。

 

『お知らせいたします。中山レース第11レースの審議についてですが、15番メイショウボーラー選手が直線で1番コスモサンビーム選手の進路が狭めた可能性が有ります』

 

 場内アナウンスにジュニア級のチームメイトが不安の声をあげ、レース場の観客達はさらにどよめく。審議対象は1着に入線したメイショウボーラーでこれは降着になるかもしれない。

 審議のランプは灯り続け、その間にターフビジョンと場内TVではレースの映像が何度も流れる。その間に裁決委員のメイショウボーラーへの聞き取りが行われ、それが終わると、ジュニア級のチームメイトが不安を紛らわせようと大丈夫だと必死に声をかけていた。

 デジタルはトレーナーに視線を送ると静かに首を振る。それを見た瞬間に手を組み祈っていた。

 暫くすると係の者が慌ただしくホワイトボードの前に集まると、審議のマグネットを外し確定のマグネットをつける。そして1着と2着の数字が入れ替わる。

 

『第11レースの審議について知らせ致します。1位に入線した15番メイショウボーラー選手ですが、直線に入り外側に斜行し1番コスモサンビーム選手の進路を狭めたと審議で判断し、メイショウボーラー選手は2着に降着、コスモサンビーム選手が繰り上げの1着になります』

 

 裁決委員が集まったレース関係者に大声で伝えると同時に場内アナウンスが流れる。この瞬間着順が正式に決定する。1着コスモサンビーム、2着メイショウボーラー、その決定にコスモサンビーム陣営が歓喜の声をあげた。

 デジタルは天井を見上げる。メイショウボーラーが寄れてコスモサンビームの脚色が鈍った瞬間に、斜行かもしれないと思ったが、案の定審議になり降着になった。  

 仕方がないとはいえ、手に入れた勝利が零れ落ちた心境を思うと胸が苦しくなる。

 

「どこが斜行なの!」

 

 デジタルはどうやって慰めようかと考えている最中、レース場の全ての騒めきに負けないような怒号が響き渡る。その声に全てのウマ娘関係者が話を止め意識を向ける。

 その怒号を発したのはメイショウボーラーだった。鼻息は荒く目は血走り、今にも襲い掛かりそうな気配を漂わせていた。

 

「斜行したけど結果には影響がなかった!私が勝ってた!1着は私だ!」

 

 メイショウボーラーは大声で訴えながら裁決委員の責任者に詰め寄り、その訴えに不服なのか表情は見る見るうちに険しくなっていく。

 その反応は当然だった。斜行によりコスモサンビームの脚色は明らかに鈍り、あれが無ければ勝っていたのはコスモサンビームであると裁決委員は勿論、同じ陣営のデジタル達も同意せざるを得なかった。

 

「どこに目ついてんの!買収でもされてんじゃないの!?」

 

 右手で裁決委員の襟首をつかみ左手人差し指と中指で自分の目を指す。このジェスチャーと今の言葉は明らかに侮辱行為で罰則を喰らってしまう。

 トレーナーとデジタルはメイショウボーラーを止めようと即座に動き、手にかけ羽交い絞めで引き離そうとする。だがすぐさま引きはがされ倒れこむ。

 トレーナーは兎も角、ウマ娘である自分をあっさり引きはがし飛ばしてしまうなんて何て力だ、思わず驚嘆しているなか罵詈雑言は続く。

 

「目が腐ってんなら、さっさと辞めちゃえ!それがレースの為だ!」

 

 デジタルは起き上がり再び取り押さえに行く。今度はチームメイト達が加わり6人が掛かりで取り押さえる。メイショウボーラーも流石に6人掛かりでは勝てず組み伏せられる。

 それでもメイショウボーラーは地に伏せながら裁決委員を見上げ睨みつける。その視線には怨念すら籠っているようだった。

 

───

 

 デジタルはメイショウボーラーの控室から離れた関係者休憩室で佇む。するとトレーナーとメイショウボーラーの怒鳴り声が耳に届くと耳を伏せ音を遮断した。

 怒りが収まらないメイショウボーラーをチーム総動員で控室に連行するとトレーナーの説教が始まり、流石に居合わせるわけにはいかないとデジタルはチームメイト達を引き連れ、関係者の休憩室に移動していた。

 

「白ちゃん、どうだった?」

 

 暫くすると休憩室にトレーナーが現れる。デジタルがチームの意志を代表するように声をかけ、一同は不安げな視線を向ける。

 

「あかんわ。沸点が低いとは思っておったがここまでとわな。これ以上言っても聞き耳もたんし、暫く放っておくしかないわ」

 

 トレーナーはお手上げと言わんばかりに椅子に腰かけ深くため息をつく。その様子にチームメイト達はそれぞれ顔を見合わす。少し感情的になるのは知っていたが、あそこまでとは思わなかった。

 全てのウマ娘が憧れるGI勝者の栄光が手に入った瞬間に零れ落ちた。その悲しみは分かるつもりだ。

 だがあそこまで怒るとは、余程斜行では無かった、あるいは斜行しても勝てたという確信があったのか。皆は肩を寄せ合い先程のレース映像を確認する。

 

「白ちゃん、話してきていい」

「う~ん」

 

 トレーナーは悩まし気な声を出す。メイショウボーラーはデジタルを意識していた。だからこそレースまで関わらせないようにしていた。

 今のメイショウボーラーは火薬庫のようなもので何が切っ掛けに爆発するか分からない。

 

「お願い、色々と伝えないといけないことが有るの」

「分かった。ただしくれぐれもエキサイトせずに冷静にな」

 

 トレーナーは提案を了承する。ウマ娘の立場に立たなければ共感されない言葉もある。恐らく何か伝えたいことが有るのだろう。上手く伝え諭せるかもしれない。

 デジタルは了承をもらうと控室に向かう。初めての負け、さらにGIに勝ったと思ったら降着処分でぬか喜びの負けだ。そのショックは計り知れない。

 だがあの態度は良くはない。負けを認めなければ前に進めない。そして斜行という行為の重大性に気づかさないとならない。

 

「メイショウボーラーちゃん入っていい?」

「どうぞ」

「失礼します」

 

 デジタルはゆっくりと扉を開け姿を見る。まだ興奮状態が収まっていなく部屋には物が所々に散乱していた。トレーナーと相当やりあったのが見て取れる。

 

「前半45秒8は流石に速かったね。でもそれで半バ身差は凄いよ。普通なら着外に沈んちゃう」

 

 デジタルは近くにあった椅子を手に取り、メイショウボーラーと対面するように座り話しかける。目的は諭す事だがまずは褒める。そこから機嫌を取り徐々に注意に切り替えていく。

 

「それに外枠だったしね、コスモサンビームちゃんは内枠だったし、枠が逆だったら結果は変わってたよ。最初のハナを奪った時の加速力凄かったね。将来はマイルだけじゃなくてスプリントでもGIに勝てるよ」

 

 引き続き褒めながら様子を窺う。メイショウボーラーは視線を合わさず俯いている。暫く褒めたが態度は変わらなかった。

 

「ちょっと小言だけど言わせてもらうね。中山の坂を登りきって無意識に寄れたんだよね。悪気は無いのは分かるよ。でも斜行は相手に怪我させてしまう可能性が有るの。だからこの後コスモサンビームちゃんに謝ろう」

 

 デジタルは子供に諭すように優し気な声で語り掛ける。トップスピードでの急停止、それは脚に相当の負荷をかけ、それが原因で怪我をして引退してしまうウマ娘も居る。

 だからこそ斜行しないように真っすぐ走る事を叩きこまれる。そして起こしてしまったのであれば、被害をかけた相手に真摯に謝らなければならない。

 

「斜行は関係ない、コスモサンビームはブレーキをかけてない。だから問題ないし、結果に影響ない。私の勝ちだった」

 

 メイショウボーラーは俯きながら呟き、それを見てため息が出ないように堪える。斜行も認めないのも全ては勝ちに対する意志の裏返しだろう。負けず嫌いは悪い事ではない。しかし限度がある。

 

「メイショウボーラーちゃん、負けを認めよう。そうしなきゃ次に進めない。負けを認めればもっと強くなれる。それを次に生かそう」

「次何てもう無い!」

 

 メイショウボーラーは裁決室の時以上に声を張り上げる。その声量に体を振るわせ耳を伏せる。

 

「次何て無い!私がこのレースに勝てばアグネスデジタルさんは有マ記念で勝って!引退を取り消して!私と一緒にレースを走るって!だから……」

 

 喋っている最中に涙が止めどなく溢れ、嗚咽を漏らし最後は言葉になっていなかった。メイショウボーラーは今日のレースを走るにあたって願掛けをしていた。このレースに勝てばデジタルは復活してくれると。

 デジタルの衰えは模擬レースで一緒に走り引導を渡した自分自身が分かっている。衰えたウマ娘が力を取り戻すことは無く、全力のデジタルと走るという自分の夢は叶わない。

 心は理解しても感情は納得していなかった。だが世間やチームメイトは引退を受け入れている。そして本人も受け入れている。それが無性に腹が立ち許せなかった。

 デジタルが復活するとすればそれは奇跡としか言えないだろう。ならばその手で奇跡を起こす。その一環が願掛けであった。

 自分の願掛けに効果が有るとは思えない。だが行動しなければ奇跡は起こらない。その想いは負ければ奇跡は起きないという強迫観念に変化していた。

 

 先のレースでの斜行は疲労による体の反応では無かった。瞬間的に敗北を予期し、何としてでも阻止しようと無意識に体が動いた意志による行動だった。

 そして裁決委員に執拗に食い下がったのも、負ければ自分の手で奇跡の可能性を閉ざしてしまうと思い込んでの行動だった。もし平時であればあそこ迄食ってかからず、そもそも斜行すらしなかった。

 一方デジタルは申し訳なさそうに見つめる。自分と周りが引退を受け入れたので勘違いしていた。引退するその瞬間まで納得しない者も居る。それがメイショウボーラーだ。

 容赦のない現実に押しつぶされそうになりながら奇跡を信じ、レースに勝てば奇跡が起きて復活するという一縷の望みに縋っていたのだ。

 今日のレースに全てを賭け負ければ次は無いと思うほど追い込み負けてしまった。

 世間的にとって次は幾らでもあるが、本人に次は無かった。それなのに次が有ると軽率に行ってしまった。そして結果、裁決委員に暴言を吐くという暴挙に及ばせてしまった。

 恐らく重い罰が下されるだろう。もしかしてクラシックのレースに出走できないかもしれない。周りから見れば勝手に思い込んで暴挙に出たと言うだろう。だがデジタルには自分の手で可愛い後輩の未来を奪ってしまったと思っていた。

 

「ごめんね。そしてありがとう」

 

 デジタルは咽び泣くメイショウボーラーの頭を優しく抱きかかえる。好いてくれるからこそ引退の事実に抗い追い詰め暴挙に及んでしまった。その感情を確かに伝わり嬉しかった。

 

「アグネスデジタルさん、抗ってください。奇跡は諦めなければ起きる。可能性はどんなに小さくても消えない。有マ記念で絶対に勝つと思って走ればもしかすれば……常識外れの勇者であれば奇跡は起きる。私のために走ってくださいよ」

 

 メイショウボーラーは辛うじて言葉として聞こえる程の涙声で懇願する。

 願掛けは失敗に終わってしまった。それでもデジタルが心の底からこれからもウマ娘を感じたい。自分と走りたいと望めば奇跡が起きると新しい願いに縋っていた。

 

「ごめんね。それは無理なんだ」

「どうしてですか!復活したくないんですか!?他のウマ娘と走りたくないんですか!?私と走って思う存分感じたくないんですか!?」

「もう復活しない。そして願っちゃアタシの目的は達成できない」

 

 デジタルは一瞬悲痛な表情を浮かべるが、即座に静謐な表情に変わり語り掛ける。力を取り戻し、メイショウボーラーや様々なウマ娘をレースで感じるという未来、その輝かしい未来を幾千も願い可能性を模索した。だが己の身体と対話し熟考した結果無理だと悟ってしまった。

 そして有マ記念で復活を願うことは勝利を願うことに繋がる。持てる力を駆使し可能な限りウマ娘を感じる。それが次善であり目的だった。

 その目的を達成する為には一切の雑念を捨てなければならない。未練も感謝も勝利への渇望、メイショウボーラーの願いすら。

 

「うっ、うう……」

 

 メイショウボーラーは地面に伏して咽び泣く。その表情を見て悟ってしまう、奇跡は絶対に起きない。

 控室には咽び泣く声が木霊し続けた。

 



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勇者とラストダンジョン#12

誤字の指摘ありがとうございます


「あと1週間か」

 

 アグネスデジタルはベッドから起き上がると同時に何気なく呟く。1週間後に有マ記念を走り、そこで現役生活としての命が終わる。

 命の終わりは誰にも予想できない。交通事故などの突発的な出来事は勿論、病気などで徐々に体が弱っていく場合でも、程度時期は予想できても正確な日時は分からない。予想できる死が有るとすれば死刑執行による死ぐらいだろう。そして疑似的に予定された死を体感する。

 有マ記念は絶対に行われる。天気によって順延する可能性は有るが行われる事には変わりない。明確に決められたタイムリミットが決められた死が迫る恐怖、それは突発的に死ぬより怖いかもしれないと考えたことが有る。だが体験してみるとそこまでではなかった。

 有マ記念を最後に現役引退すると決めるまで、散々嘆き悲しみもがき苦しんだ事で受け入れる覚悟が出来ていた。

 だがそれは今のところに過ぎない。この1週間で覚悟は脆くも崩れ後悔と未練にまみれながら走るかもしれない。しかしそれはならないという根拠のない自信が有った。

 

 デジタルは朝のトレーニングを終え午前の授業を受ける。残り少ない授業を受ける機会、クラスメイトと過ごす青春の1ページを刻まなければならないのだが、右のサイドテールを指でクルクルと巻き取りどこか上の空だった。

 引退に対する未練や後悔は無いが心残りは有る、正確に言えば出来てしまった。メイショウボーラーの事だ。

 周りの人々が引退を受け入れ意思を尊重しているなか、彼女だけは引退を受け入れていなかった。力を取り戻し一緒のレースに走るという奇跡のような願いに縋り、奇跡を起こしてくれと懇願した。そして願いを退け彼女の心を傷つけた。

 

 メイショウボーラーは大切な後輩だ、最後は拒絶されるではなく、笑って見送ってほしい。どうすれば受け入れてもらえるだろう。午前の授業の間はそればかり考えていた。

 

 

「メイショウボーラーちゃん来てる?」

 

 デジタルはトレーニング場でトレーナーを見るや否や声をかける。その問いに首を横に振る。

 

「レース翌週やし色々有ったからな。今日は完全休養日や」

「そっか、それで協会は何か言ってきた?処分はどうなる?」

「とりあえず形式通りに罰金と、どんな教育しとんのやということで始末書の提出、そしてメイショウボーラーの処分は今のところ未定や」

 

 トレーナーはため息交じりで答える。レースにおいて真っすぐ走るのは大原則であり、斜行によって他者を妨害すれば怪我を引き起こす可能性も有る。何よりレースが正常に進行できなくなる。

 レースとは興行でもありファンが望むのは全てのウマ娘が全力を出し、最も強い者が勝つレースだ。それを斜行で妨害され強い者が実力を発揮できず負ければ、ファンのニーズに応えられない。

 それ故に斜行には厳しい目が向けられ、斜行したウマ娘ではなく指導したトレーナーが悪いという判断の元、戒めとして多額の罰金が課せられる。

 それについては何も不服はない。今回は繰り上がりという結果で被害者が1着になれたが、もしメイショウボーラーが2着だとしたら、コスモサンビームは繰り上がりでも2着が最高だ。普通にやれば1着になれたとしたら申し訳が立たない。

 

 問題は処分についてだ。トレーナー生活であそこ迄裁決委員に食い掛り暴言を吐いたウマ娘を教えたこともなく、見たことも聞いたこともない。それだけにどうなるかは予想できない。

 処分は軽くは無いだろう。レースを走る者は品行方正であるべきというのが中央ウマ娘協会の理念だ。それなのに『目が腐っている』『買収されているんじゃない』等苛烈な罵倒を吐きかけ、襟首を掴むという暴力行為に及んでしまった。

 

「メイショウボーラーちゃんを責めないでね白ちゃん、あれはある意味アタシのせいでもあるから」

「どういうこっちゃ?」

 

 デジタルはメイショウボーラーとの一連出来事について語る。あれは悪意が有ったわけではない。純粋無垢な願いが暴走してしまった結果だ、トレーナーには罰金を払って始末書を書かされたと嫌いにならず、その人間性を誤解して欲しくない。

 

「そういうことがあったんか。介錯役も引き受けてくれたし、受け入れたと思ったんやが」

「きっと子供の部分を見せちゃダメだ、大人として受け入れようと思ったんだろうね。でも受け入れてくれなくて嬉しくもあった」

 

 デジタルの口角が僅かに上がる。周りの人々は引退を受け入れた。意志を尊重してくれるのは嬉しい事だが、言い換えれば全盛期には戻らないと諦めたということでもある。

 だがメイショウボーラーは周りの空気に反発し引退を受け入れなかった。それは一緒に走りたいという願望によるものかもしれない。それでも全盛期の力を取り戻してくれると諦めないということでもある。どんな形でも可能性を信じてくれるのは嬉しかった。

 

「けど、最後は受け入れてもらいたい。どうすればいいかな?」

「簡単やろ。メイショウボーラーに伝えてこい。何故力を取り戻そうとしないのか、有マ記念では何を思って走るのか、そして受け入れてもらいたいって」

 

 その言葉にデジタルは目から鱗だと言わんばかりに目を剝く。想いは言葉にしなきゃ伝わらない。実に簡潔で明瞭な答えだ。

 

「善は急げや、さっさと行ってこい」

「いいの?有マ記念前の大事なトレーニングを休むことになるよ」

「かまわん。今週は調整期間で軽い。それに言い方悪いが、宿題はさっさと終わらせろ。終わらないと思ったままお祭りに行っても心から楽しめんぞ」

「分かった。ちょっと行ってくる」

 

 デジタルは力強く頷くと寮に向かって駆けていき、トレーナーはその後ろ姿を見つめる。

 想定より緩やかになっているとは言え、デジタルの衰えは進行している。有マ記念は不利な条件で出走ウマ娘も全員強い。普通にやってもウマ娘を感じるという目的を達成できない。

 鍵になるのはウマ娘を感じたいという情念、迷いも不安を抱かず一点の曇りもなく感じたいと思わなければならない。

 メイショウボーラーに対する不安や後悔は迷いとなる。ならば早急に取り除かなければならない。

 

 

『メイショウボーラー!メイショウボーラー!5連勝でGI制覇だ!』

 

 第3視聴覚室のプロジェクターにメイショウボーラーがゴール板を駆け抜ける映像が映り、当の本人はマジマジと映像を見つめる。目は見開き唇を噛みしめ、爪で手のひらを貫通させんとばかりに握りしめる。レース映像が終わると巻き戻し再生し、また巻き戻しては再生するを繰り返す。

 メイショウボーラーの環境は大きく変わった。朝日FSまではそれなりにクラスに溶け込み仲が良いクラスメイトも居たが、皆が冷ややかな目で見つめ近寄らなくなった。

 昨日の顛末は周囲に知られていた。斜行で降着しておきながら非を認めないどころか、裁決委員に判定が不服と食ってかかった。

 判定は絶対であり逆らってはならない。それはレースを走るウマ娘にとって共通認識であり、過去には判定に異議申し立てしたウマ娘も居たがその場は怒りを治め、後日に書面で異議申し立てした。

 だが怒りに任せその場で語気荒く抗議し、裁決委員に暴力行為に及んだ。それは最も軽蔑される行為の1つだった。授業が終わると即座に寮に戻り、DVDディスクを手に取り視聴覚室に向かった。

 今日はオフだったが寮で休むつもりはなかった。今日の教室の様子を見れば寮でも同じような視線を向けられるのは目に見えていた。本来であれば寮にすら戻りたくなかったが、DVDディスクは部屋に有るので仕方がなかった。

 

 メイショウボーラーは朝日FSのレース映像を見ながらデジタルついて考える。終わったと世間から囁かれるなか安田記念に勝利し、伝説の第2章が幕開けすると信じていた。

 だが期待とは裏腹にレースに負け続ける。それでも輝きを取り戻すと信じていた。天皇賞秋の後で醜態を晒し大いに落胆しながらも、心の中では憧れは失わず信じていた。

 模擬レースで完全にコントロールされて負けた時はまだ輝きは失っていないと狂喜乱舞した。次第に差が縮まり追い抜き、最後は圧倒的な差で先着した時に悟った。もう輝きを取り戻さない。

 ならばせめて憧れの人が笑って終われるように尽力しよう。そう誓ってデジタルに尽力しようとサポートした。

 しかし日が経つにつれて心が騒めく。それでいいのか?輝いているデジタルと一緒に走れなくていいのか?諦めて良いのか?

 それと同じくして衰えを受け入れているデジタルに、引退することを認めているトレーナーや周囲に怒りが湧いていた。

 ならば何をすべきか?と頭から捻りだしたアイディアが願掛けだった。朝日FSに勝利しデジタルに発破をかける。その一心でトレーニングに励み本番に臨み負けた。

 

 メイショウボーラーの胸に重苦しい痛みが襲い思わず蹲る。例え願掛けしても願いが叶うわけではない。本人に特別な力があるわけでもなく可能性はさらに低い。

 周りから見れば全く気にすることのない事、だが例え地球が誕生するほど低い確率だったとしても、願いが叶ったかもしれない。そんな後悔が体を苛む。 

 

「やっと見つけた」

 

 突如前方の出入り口の扉が開く。そこにはデジタルの姿が有った。何故か息を乱し疲労の色が見えていた。

 何でここに居るんですか?どうやって見つけたんですか?トレーニングはどうしたんですか?

 メイショウボーラーの中で様々な疑問が浮かび上がるが、質問する前に体が動き、視聴覚室から立ち去ろうと立ち上がる。

 

「待って!」

 

 その動きはデジタルによって止められる。先に動く前に駆け寄られ手首を握られていた。

 

「少しだけ話を聞いて、お願い」

 

 デジタルの手の力が無意識に強まる。何としても自分の気持ちを伝え理解してもらいたい。それに応じるようにメイショウボーラーは大人しくその場に座った。

 

「ありがとう。まずメイショウボーラーちゃんはアタシが諦めて引退しようとしているのが気に入らないんだよね」

「はい、私はアグネスデジタルさんと走りたい……でも衰えているから引退する……だったら復活すれば問題ない……だから朝日FSに勝てば復活するって願掛けをして……」

 

 メイショウボーラーは淀みなくとはいかないが、何とか言葉を紡ぐ。昨日は興奮のせいでうまく言えなかったが、今日は不思議と落ち着き自分なりに言葉を組み立てられていた。

 それからも当時の感情などを自分なりの言葉で話す。デジタルはそれを黙って聞いていた。

 

「なるほど、まずはアタシが衰えに抗う努力しないかってことだけど、これでも頑張ったんだよね。色々足掻いて神頼みすらしたけどダメで、これはどうしようもないって分かっちゃった。それに有マ記念で目的を達成するためには抗う余裕がないんだよね」

「どういうことですか?」

「アタシは有マ記念で出来る限りウマ娘ちゃんを感じたい。その為には全てを集中しないと多分感じられない。抗うって事は諦めない、つまり未練があるってことだと思う。その未練すら抱えている余裕はない」

 

 デジタルは穏やかながら決意に満ちた表情で語る。この理屈は納得できないかもしれない。ウマ娘を感じるという事は直線である程度食らいつかなければならないと知っている。 

 そして衰えに抗うということは一般的にはトレーニングで力をつける。レースで無駄な力を使わないように作戦を考えるなどだ。それはウマ娘を感じることに繋がるとも考えられる。しかしそれではダメだ。

 そんな小手先の手段では有マ記念に出走するウマ娘を感じられない。それ程までに相手は強い。なら掛けるとすればウマ娘を感じたいという気持ち。それこそが最大の長所であり力を生み出すと考えていた。

 

「そしてアタシの考えを受け入れて。笑って見送って欲しい」

「でも……でも……私は納得できない。アグネスデジタルさんと一緒に走りたい」

 

 メイショウボーラーは何度も首を振る。直接聞いたことで理屈も理解できた。それでもどうしても納得できない。走りたいという気持ちが受け入れさせてくれない。

 

「そう」

 

 デジタルは残念そうに呟く。だがその表情はほんの僅かに笑みを見せていた。理想は受け入れてくれることだが押し付けることは出来ない。人にはどうしても譲れない部分が有る。

 そしてメイショウボーラーは本心見せてくれた。自分を想って本心を偽り受け入れたと言う事もできたのに。周りに迎合しなくていい。ワガママと言われても嫌なものは素直に嫌だと思い口にして行動すればいい。それは素敵な個性で有り、今後の競技人生でも必ず必要になる。

 

「だったら最後のお願い。当日は中山レース場に来て生でアタシが走る姿を見せて欲しい。自分の為に走るけど、これまで培った心技体の全てを結果的には発揮する。それはきっとメイショウボーラーちゃんの今後に役に立つ。いや役に立たせる」

 

 デジタルは今までの人生で多くのウマ娘を感じ心に刻んだ。それと同時に願いが有った。

 自分も他者に刻まれたい。技術でもいい、心構えでもいいとにかく何かしらの要素で良いから他者の心に刻まれたい。そして刻まれた物を他者が自分なりにアレンジし解釈した技術や心構えを別の他者に刻む。そうやって形が変わっても他者に刻まれ続ける

 以前母親が出来る限りミームを残したいと言っていた。母が言うにはミームとは習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。聞いた当初はピンとこなかったが、引退が迫りようやく理解できた。

 

「分かりました」

 

 その言葉にコクリと頷く。デジタルは受け入れられない自分を尊重してくれた。それは赦されたようで心が楽になると同時に嬉しかった。

 レースを見るという事は引退する瞬間を強制的に見せられるということだ。それは痛みを伴うことも分かっている。

 それでもレースを見に来いと言った。それ程までに何かを残せるという自信が有る。いや自信はないが決意はあるのだろう。ならば見に行こう。そこで憧れの人が残す何かを絶対に受取り糧とする。

 

───

 

「あ~良かった」

 

 デジタルはメイショウボーラーと別れると思わず声を出す。メイショウボーラーは引退を受け入れてくれなかったが、対話することで自分の考えを相手に伝え、相手の考えも理解できた。実に有意義な時間だった。

 これで心残りが無くなり、有マ記念で出走ウマ娘を感じることに集中できる。時間を無駄にせず有意義な時間を過ごそうと早歩きで自分の部屋に向かって行った。

 



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勇者とラストダンジョン#13

 ゼンノロブロイは太陽の光やジャージを撫でる冷たい風を感じながら、ベンチに座り文庫本を取り出す。本を読むときは基本的に図書館や自室など静かな場所で読む。だが時々は外に出て本を読むこともある。

 外では学園生が地面を踏みしめる音など、部屋に居る時より5感を刺激される。それは時に部屋で集中して読む時より素敵な読書体験を与えてくれる。

 栞を挟んでいたページを手に取り読み始める。基本的に本は紙媒体の書籍で読むことにしている。電子書籍の有用性は理解し、今後は歴史的資料を保管する上では必要不可欠になるだろう。現にレポートを書く際は電子の資料を使っている。だが物語を読むときは紙の本で読む。  

 ページを捲る時の紙の感覚やインクの匂いが好きで、どんなに時代が変ろうとも物語は紙の本で読むだろう。今読んでいるのはお気に入りの英雄譚だ、主人公が確固たる意志で敵を打ち倒す様子は憧れを抱く。基本的には短編なのでトレーニング前に読んで、気分を高揚させるのが習慣になり始めていた

 

「あっ、ゼンノロブロイちゃん」

 

 すると後ろから声をかけられ反射的にページを閉じ後ろを振り向く。そこにはジャージ姿のアグネスデジタルが居た。

 

「こんにちはアグネスデジタルさん」

「今は読書タイム?」

「はい、少し肌寒いですが、天気が良かったので偶には外で読もうと」

「いいね。アタシもトレーニング前に読書タイムとしゃれこみますか。隣良い?」

「どうぞ」

 

 ゼンノロブロイはベンチの隅によりスペースを開ける。デジタルはそのスペースに座るとスマホを取り出し電子書籍のアプリを起動した。

 

 ゼンノロブロイはデジタルについては少なからず意識していた。その活躍ぶりから何時しか勇者の二つ名で呼ばれていた。

 幼き頃から英雄譚を好み、いつレースに勝利するにつれ、いつしか英雄に憧れるようになった。ジャンル違いで詳しくは無いが、ゲームでは弱き者のために立ち上がり、悪しき王を倒し世界を救うのは勇者だ。その活躍は本の中の英雄とさして変わらずゲームか本の違いでしかない。

 そしてその活躍も英雄譚そのものだった。かつての天皇賞秋では様々な中傷を浴びながら、当時の絶対政権である世紀末覇王テイエムオペラオーと好敵手メイショウドトウを大外から撫で切り、長く続いたワンツーフィニッシュを終わらせる。

 そこから香港ではゴドルフィンの有望株のトブ―ク、フェブラリーステークスでは東北の皇帝ヒガシノコウテイと南関東の求道者セイシンフブキを打ち破り、すべて異なる条件でのGI4連勝を達成する。

 ドバイでは当時の世界最強ウマ娘、太陽のエースと呼ばれたサキーと、香港では絶対的な力を発揮する魔王エイシンプレストンと激闘を繰り広げ、海外GIでは史上初の日本所属ウマ娘のワンツーフィニッシュを達成する。

 そして何よりデジタルを語るに欠かせないのはダートプライド、事の発端からレースの結果や終わり方まで全て劇的でまるで神話だった。

 ゼンノロブロイはシンボリクリスエスと憧れを抱いていた。自他ともに厳しいが皆を導くその姿は英雄像の1つだった。そしてその憧れは現実の人物に憧れを抱くような感覚だった。だがデジタルへの憧れは物語の登場人物に憧れを抱くような、浮世離れした感覚だった。

 

 12月を過ぎたある日、食堂で本を読んでいる時にデジタルから話しかけられる。どちらかと言えば人見知りをするタイプで今まで接点が無く緊張していた。さらに物語の主人公に話されたように嬉しく、挙動不審で支離滅裂な言葉で話したのは今でも覚えている。

 だが話すと趣味に熱中するタイプなのか気が合い、お互いお勧めの本を紹介し、顔を見かければ話す仲になっていた。

 

「あのアグネスデジタルさん、ダートプライドの時の話を聞かせてもらっていいですか?」

 

 ゼンノロブロイは顔を赤らめながら頃合いを見計らって話しかける。ダートプライドについてのドキュメンタリー本は出版され読んでいたが、当事者に聞くと色々な裏話が聞けて、それが面白く英雄譚の外伝を読んでいるような感覚になる。まるで寝る前のお話しを母親にせがむ幼子のようで恥ずかしいが、デジタルの話は面白くついついせがんでしまう。

 

「いいよ、それじゃあ南部杯に負けた後のくだりから、負けたアタシは自分を見失って…ってもうこんな時間!」

 

 デジタルはスマホを見て驚きの声を上げる。それに釣られてゼンノロブロイもスマホの画面を見る。お互いトレーニングの時間が迫っていた。

 

「すみません!引き留めてしまって!」

「大丈夫大丈夫、あと今日の夜時間ある?」

「ありますが」

「よかったら中庭で会わない。それだったら話の続きをできるけど」

「あっはい、大丈夫です」

「じゃあ夜は中庭で」

 

 デジタルはゼンノロブロイと約束を交わすと慌ただしく手を振りながらコースに向かって行き、その姿を黙って見送った。

 

───

 ゼンノロブロイは私服に着替え美浦寮から出て行く。デジタルも美浦寮なら問題なかったのだが、あいにく住んでいるのは栗東寮だった。

 外に出ていると空の上に星が薄っすらと輝いていた。冬になると空気が澄んで星が見えやすくなると聞くが、改めて冬が深まり年末に近づいていると実感する。

 そして寒さに思わず上着のポケットに手を入れ背中を丸める。予想以上に寒い、これなら自分が栗東寮にお邪魔して話を聞かせてもらったほうがいいかもしれない。だが同室の人に迷惑が掛かる。かと言って自分の部屋に招こうにもルームメイトに迷惑が掛かる。

 対応に悩みながら向かっているとデジタルの姿を発見する。デジタルも気づいたようで白い息を吐きながら向かってくる。

 

「いや~寒いね」

「こんな寒い中呼び出した形になって、すみません…」

「気にしないで、アタシがしたいから来てるだけだから、それに時間が惜しいしね」

 

 ゼンノロブロイは思わずデジタルの顔を覗き込む。一瞬表情に影が差して不安になっていた。一方デジタルも心境に気づき心配させまいと強引に話を始めた。

 

「1人の少女がアグネスデジタルさんを救ったんですね。」

「そうそう、ヤマニンアリーナちゃんが居なければダートプライドで満足に感じられなかったよ」

 

 ゼンノロブロイは相槌を打ちながら真剣に話を聞く。やはりデジタルの話は面白く、今まで聞いたことが無い話ばかり出てきて楽しい。

 出会ってから数度か話をするうちにデジタルへの印象は変わっていた。その姿は世間が想像する勇者とは大きく乖離していた。

 決して品行方正ではなく欲望に忠実なウマ娘、だがエゴとも呼べる意志で自分を貫く姿は今読んでいる英雄譚の主人公の姿に被っていた。

 

「ところで寒くないんですか?」

 

 ゼンノロブロイは訝しむ。こちらはコートを着て防寒しているが、デジタルはコートどころか、上着も来ていなく、シャツとハーフパンツで部屋着と大して変わらなかった。

 

「寒いよ。でも有マ記念の予行練習というか、まあ、最近は薄着で頑張ってるんだよね」

 

 デジタルは右手の平を左の親指で押しながら答える。確かに寒そうにしているが、見た目よりかは大丈夫そうだ、仮に同じ状態だったら、歯を鳴らし全身がブルブルと震えていただろう。

 寒さに耐性があるのか、何かしらの方法で寒さを軽減しているのか。とにかく耐えている。

 

「そうなんですね。でも風邪には気を付けてください」

「勿論、風邪ひいて引退レースに出走できませんなんて、笑い話もいいところだよ」

「そうか、次が最後なんですね。アグネスデジタルさんもシンボリクリスエスさんも……」

 

 ゼンノロブロイは弱弱しい声で呟く。12月の中旬でのシンボリクリスエスの引退発表、それは全くの予想外だった。翌日に本人から説明が有り一応は納得したが、それでも釈然としない気持ちを抱えていた。

 

「そうか、シンボリクリスエスちゃんも次で最後か、アタシはともかく、まだまだ力は衰えていないと思うんだけど」

「そうですよね!まだまだやれるのに勿体ないです!ジャパンカップでは負けてしまいましたが、間違いなく日本の中距離では1番強いウマ娘です!トップとして凱旋門賞に挑むなど責任が有ると思いませんか!?」

「う…うん、そうだね」

 

 デジタルは剣幕に押されて思わず返事してしまう。短い付き合いでここまで感情を見せたのは初めてだった。

 

「もしかして、シンボリクリスエスちゃんに引退して欲しくないの?」

 

 確認するように話しかけるとゼンノロブロイは恥ずかしそうにコクリと小さく頷いた。

 

「シンボリクリスエスさんは憧れの英雄なんです。正直に言えばもっと活躍して英雄譚を紡ぐ姿を見てみたいです。これで衰えているなら納得できますが、全く衰えていません。それは断言できます」

 

 ゼンノロブロイは鼻息荒く答える。英雄は全力を出さなければならない。それなのに途中で物語から居なくなるのは納得できなかった。

 

「う~ん、ゼンノロブロイちゃんの言い分は分かるよ。すっごく分かる。でも引退する側としてもそれ相応の理由は有ると思うんだよね。そしてその理由はレースに飽きたとかじゃなくて、もっと真剣な理由だと思うよ。今度本人に訊いてみたら?そして自分の気持ちを伝えた方がいいよ。私は引退して欲しくありませんって」

 

 デジタルは諭すように優し気な声色で語り掛ける。少し前ならゼンノロブロイの主張に同意し、衰えていないなら輝く姿を見せろと文句を言っていた。

 だが引退する立場になって引退するにも切実な理由が有るのが理解できた。シンボリクリスエスは責任感が強いウマ娘なのは外部の情報からでも分かる。それを考えれば切実な理由が有るのは察せられる。

 

「気持ちを伝えるですか」

「そう、思いの丈をぶつけてさ。そうすればすっきりするし、引退するのも止めてくれるかもしれないよ」

「引退会見もしていますし、易々と撤回はしないと思いますが」

「そうだね。でも引退して欲しくないなら、頑張って説得するしかない。1つ言えるのは行動しなければ後悔が残る」

 

 デジタルの脳内にメイショウボーラーの姿が浮かび上がる。周りが受け入れている中、一人だけ引退しないで欲しいと訴えかけ、今でも引退を受け入れず、奇跡を信じている後輩、彼女が赤裸々に思いをぶつけてくれたお陰で心境を理解でき、良かったと思っている。

 きっとシンボリクリスエスもそうだろう。黙って見送られるより、本音を聞きたいと思うだろう。

 

「アグネスデジタルさんは凄いですね。私は不満を抱えたままだけど、自分に正直に気持ちを伝えようと行動する」

「子供なだけだよ。アタシだってオペラオーちゃんとドトウちゃんが引退する時は酷かったよ。本人たちの前で駄々こねまくったよ。こんな感じに」

 

 デジタルは地べたに寝転がり手足をばたつかせ、その姿にロブロイは思わず吹き出す。流石に手足をばたつかせないだろう。しかし大人に見えたデジタルが駄々をこねたのは驚いた。だが駄々をこねる姿は意外にしっくりと来ていた。

 

「そして、まだ悩みがあるみたいだけど?」

 

 デジタルは起き上がると同時に質問し、ゼンノロブロイは一瞬体をビクリと硬直させた。

 

「はい、シンボリクリスエスが納得する理由で引退するのでしたら、引退レースは是非とも勝ってもらいたいんです。英雄譚はハッピーエンドで締めくくってもらいたい。その為にアシストしたほうがいいのかなと」

 

 ゼンノロブロイはデジタルの顔色を見ながら歯切れ悪く喋る。競技者として全力でレースをしないのは恥ずべきことだとは理解している。それでも憧れの英雄には勝って終わって欲しいという気持ちは拭いきれなかった。

 

「う~ん、難しい問題だね。推しに幸せになってもらいたいという気持ちはとっ~~ても分かります。けどここは愛を持って殺さないと」

「え?私がシンボリクリスエスさんを殺すのですか?」

 

 ゼンノロブロイは思わず真顔で質問してしまう。何故自分が殺さないといけないのだ、デジタルは反応を見て手をブンブンと振りながら慌てて補足を入れる。

 

「違う違う。え~っとアタシは最近同門の師弟対決にハマっていて、アタシとしては後輩ちゃんが出した答えなら、甘んじて受け止め勝ちを譲られるけど、一般論として先輩が後輩ちゃんに勝ちを譲られるのはモヤモヤするんじゃない。あと個人的には最後に勝って勝ち逃げすることで、後輩ちゃんの悔いになりたいというか傷になりたいというか」

「何だか倒錯していますね」

「もう少しオブラートに包んで欲しかったな。それに師匠を超えるのが弟子の務めという言葉があるし、物語でもそういうのあるでしょ?」

「確かに……あります」

「じゃあやっちゃいなよ師匠越え、そしてゼンノロブロイちゃんが英雄になる。ここからがゼンノロブロイちゃんの英雄譚の第2幕だ」

 

 ゼンノロブロイへのアドバイスは他人からしたら慈愛からの心によるものだと思うだろう。だがデジタルはそんな聖人君子ではない。全ては自分の為、最後のレースでより自分好みに煌めく可能性が有る方法を取ったに過ぎなかった。

 

 その言葉を聞いてゼンノロブロイの中に闘志のようなエネルギーが体中に湧く。英雄になりたいという想いはシンボリクリスエスの存在と、善戦続きのレース結果によって失い始め、英雄譚を間近で見ることに満足してしまっていた。

 そうではない、自分が英雄にならなければならないのだ。その為には有マ記念は格好の舞台だ。

 

「私は誓います!漆黒の帝王を打ち倒し新たな英雄になると!もちろん貴女もです。勇者アグネスデジタル!」

 

 ゼンノロブロイは突如芝居がかった声と動きで高らかに宣言する。だがすぐに我に変えたのか手で顔を覆いその場でしゃがみ込むんでいた。

 デジタルはその姿に微笑ましさを覚えるが同時に背筋には冷や汗が流れていた。その気迫はかつてのライバルと同じく強烈で、目には持っているはずのない剣を持ち己の喉元に突きつけるイメージが確かに見えていた。

 

「ならば受けて立つ英雄ゼンノロブロイよ!……と言いたいけどアタシは気にしなくていいよ。今のアタシは衰えまくってレベル20ぐらいのモブだし。その分をシンボリクリスエスちゃんに向けて」

「それ程までに衰えているのですね」

 

 ゼンノロブロイは悲しそうに呟く。これは冗談ではなく事実だろう。いずれ誰しもが衰えるが、あの勇者がそこまで衰えている事に諸行無常を感じていた。

 

「アグネスデジタルさんは引退して、いつ頃学園を出るですか?」

「下半期で引退するウマ娘ちゃん達は皆3月ぐらいに出るみたいだから、それぐらいかな。だとしたら3か月でお別れか」

 

 デジタルは思わず目を伏せる。最初は引退レースに出走するウマ娘を出来るだけ知っておこうと、ある意味打算で声をかけた。だが話をするうちに気が合う事が分かり、もっと親しい仲になれたと思っていた。

 

「そうですね。でも今生の別れじゃありませんし、その……休日なら会えますので」

「え!?卒業しても遊んでくれるの!?卒業後は無職だから、いつでも呼んでね!」

 

 デジタルは重くなった空気を吹き飛ばすようにハイテンションで騒ぎ、その喜びようを見て嬉しさと安堵を覚えていた。

 ゼンノロブロイも短期間ながら交流し、気が合い友人として付き合いたいと思っていた。そこで行動しなければ後悔するという言葉を思い出し、思い切って気持ちをぶつけていた。そして相手も満更でもないようで、良い結果だった。

 

───

 

 ゼンノロブロイは案内表示を見ながら歩を進める。トレセン学園には美浦寮と栗東寮の2つがある。

 学園に所属しているウマ娘の大半は寮生活をしているので、寮の部屋の数も多く、ずっと暮らしていても訪れたことが無い区域があるという事態も珍しくない。そして向かおうとしているシンボリクリスエスの部屋も行ったことが無い区域だった。

 トレーニングが終わった後にトレーナーに呼び止められた。要件はシンボリクリスエスに書類を渡して欲しいというもので了承する。自分の思いの丈をぶつけようと思っていたので渡りに船だった。

 

「あった」

 

 ゼンノロブロイは部屋のプレートを見てシンボリクリスエスと書かれているのを確認する。

 

「失礼します。シンボリクリスエスさんいらっしゃいますか?」

 

 緊張のせいか若干声を震わせながらノックするが返事はない。もう一度ノックするが同じだった。シンボリクリスエスが居なくてもルームメイトに渡せばよいと考えていただけにこの事態は想定外だった。

 一旦出直すか、だがトレーナーは出来るだけ早く渡して欲しいと言っていた。隣の部屋のウマ娘に預けてもらうか、だが機密上の問題も有り声をかけるのが恥ずかしい。様々な選択が浮かび上がるなか、何気なくドアノブを回すと扉が開く。

 

「失礼します。シンボリクリスエスさんはいらっしゃいますか」

 

 先ほどより小声で声をかけながら部屋の中の様子を見る。電気はついていなく人の気配もない。どうやら2人とも外に出ているようだ。不用心に思いながらも抜き足で部屋に入る。ここは手間と効率を考えて部屋に入って書類を置くという選択をする。

 

 部屋の電気をつけると部屋の全容が見えてくる。部屋の中心から左側は模範といえるように整頓され、右側はものの見事に散らかっていた。まるで2つの部屋が1つになったような異質さだ。

 まずは左のスペースから調べる。普段の生活態度からして整頓されている方がシンボリクリスエスのスペースだろう。もし違ったら意外で面白くもあるという僅かな期待を抱くが、私物の一部に名前が書かれている物を発見する。

 あと書類が入った封筒を机の中心に置いて部屋を出る。書置きでもしたいがペンもなく紙持っていないので出来なかった。

 

「ヒィ!」

 

 封筒を置こうとした瞬間右側のスペースからアラームの音が流れる。無断で侵入しているという罪悪感と緊張感を抱いていて、突然の音に思わず悲鳴を漏らし書類を床に落としてしまう。

 

「イタッ」

 

 悲鳴のせいで周りのウマ娘が様子を見にきたら面倒になる。急いで部屋を出ようと書類を集めようとするが、焦りのせいで手につかず頭を本棚に強くぶつけ、さらに本が頭上から落ちてくる。踏んだり蹴ったりだ。己の不運と迂闊さを恨みながら本を棚に戻し書類を集め封筒に戻す。

 するとある書類を手に取った瞬間違和感を覚える。もしかしたらトレーナーから渡された書類とは違うかもしれない。念のために内容を確認しようと書類に目を通す。

 その顔はみるみるうちに紅潮し目が見開き、書類を掴む手は震えていた。

 

 

「何か恨みでも買ったのか?」

 

 ルームメイトは茶化すように話しかけ、シンボリクリスエスは黙って机に張られていた紙をはぎ取るまじまじと見る。その紙には『20時に校舎裏に来て』と書かれていた。字は荒々しく書いた者の精神状態がある程度窺える。

 

「何でこんなものがある」

「私が居ない間に入ったんじゃね?野暮用で鍵かけず部屋を出て暫く駄弁ってたし、いや~物騒だね」

 

 ルームメイトはケタケタと笑いながら喋る。シンボリクリスエスは一瞬ルームメイトを睨むが即座に視線を外し、状況を確認するために自分のスペースを見る。

 一見すると何もされていないようだが本の位置が微妙に違っている。表情が強張らせ何かを確認するように本棚を探っていく。

 

「行くの?指定時間より大分早いけど?」

「次はない。もしやったら部屋から出ていけ」

「怖~い。次から気を付けます~」

 

 シンボリクリスエスは怒気が孕んだ声で注意するが、まるで意に介さずと言わんばかりにニヤニヤとした笑みを浮かべながら返事する。その態度に苛立ちを覚えながらも強引に押し込むと、コートを手に取り部屋を出て行った。

 

 辺りは昼までの喧騒が嘘のように静まり返り薄暗かった。元々静かで日当たりが悪いこともあり、薄気味悪さはさらに悪かった。

 シンボリクリスエスは神経を張り詰めながら校舎裏に向かう。相手は怨恨を持って暴力行為をしてくる可能性も有る。いつでも不意打ちに対応できるようにしなければならないと、地面に落ちている石を拾い握りしめる。

 警戒しながら歩きながら5分後に校舎裏近くに着く、辺りは電灯が無く暗いが待ち構えている者のシルエットが見えてきた。耳からしてウマ娘で身長は約140代と小柄だ。

 歩を進めていくごとにシルエットが詳細になっていき5メートル手前には誰か把握していた。

 

「ゼンノノブロイ、お前か」

 

 ゼンノロブロイは言葉に反応せずじっと見つめる。耳は伏せて目つきは険しく、完全に怒っている。その怒り具合は今までに見たことは無かった。

 

「まずは勝手に部屋に入室したことは謝ります。そして勝手に私物を取ったことも謝ります。それでこれは何ですか?」

 

 ゼンノロブロイは紙を投げつける。紙はシンボリクリスエスの手元には届かず1メートル手前で落ち、警戒しながら紙を拾う。紙を見た瞬間に眉が僅かに動いた。

 

「契約書か何かか?」

「とぼけないでください。それはトレーナーとの契約書です。貴女はチームに入る際に雇用契約を結んだ」

 

 怒気が籠った声が辺りに響く。もし関係ない者が声を聞けばその場で逃げ出す程だった。

 部屋に入った際に拾ったのはシンボリクリスエスがトレーナーとの結んだ契約について事細かく書かれている契約書だった。周囲の目に触れないように隠していたが、偶然に偶然が重なりゼンノロブロイに知られてしまっていた。

 

「実は私は契約書とかを作るのが趣味でな。もしこういう契約をしていたら何円貰えるかを想像するのが好きで作った。正直人に見せるような趣味では無いから隠していた」

「噓をつかないで、これは契約を結んだ明確な証拠です」

「それは証拠にならない。金銭の支払いがあって雇用契約が結ばれる。仮にそうだったとしても、私の預金口座には賞金以外の金は一切入っていない。トレーナーも私の預金口座に金を一切送っていない」

 

 シンボリクリスエスは不敵な笑みを浮かべながら話す。それは確かに雇用契約を結んでいるが、給与はトレセン学園に在籍している間は払われず、現役を引退した後に支払われる仕組みになっていた。

 ゼンノロブロイは目を血走らせながら睨みつける。法律には疎いが、これでは恐らく彼女を罰することはできない。

 

「私はとても怒っています。レースを走るという行為に金銭を持ち込んだこと、もう1つは貴女がチームのウマ娘の信頼や好意を裏切ったこと、貴女は英雄であり憧れていた」

 

 ゼンノロブロイは手を力いっぱい握りしめ噛みしめた唇から血がしたたり落ちる。チームメイトの多くはシンボリクリスエスを好いていた。

 決して優しくはなかったが厳しく接し能力を引き上げようとしてくれる。それは善意による行動だと思っていた。だがそれは仕事であり薄汚い金が欲しかったからだ。

 

「シンボリクリスエス、貴女は英雄ではない。堕ちた薄汚い悪党に過ぎない。ロブロイの名を冠するこのゼンノロブロイが貴女をレースで殺す。有マ記念では有終の美を飾らせない。泥にまみれて惨めに去りなさい」

 

 デジタルに宣言した時は爽やかで清々しさすら感じるものだった。だがこの宣言は重苦しく身を焦がすような敵意が込められていた。

 愛を持って殺さない。怒りを持って殺す。用が済んだとばかりに立ち去る。シンボリクリスエスは振り返ることもせずその場で立ち尽くす。

 

 ゼンノロブロイはトレセン学園に入学する前は野良レースで走っていた。そこはトレセン学園に入る前に腕を磨く者、トレセン学園に入れなくてもレースへの夢が捨てきれないウマ娘が情熱を燃やす清らかな場所だと思っていた。

 だが実情は違い、賭博行為が横行しレースを走る者も八百長に加担する地獄の底のような場所だった。

 

 賭博をする者も八百長に加担する者も許さなかった。だが何より許せなかったのはそれを知らず清らかに場所に居ると勘違いした自分だった。

 野良レースで走っている際は八百長の誘いは無かった。だがそれは実際には片八百と呼ばれるゼンノロブロイだけ知らされていない八百長が行われていただけだった。それ以降は金がトラウマになり、金銭に関する話題は意図的に避けてきた。

 

 そして野良レース時代の記憶を忘れようとトレーニングを重ねトレセン学園に入学する。そこは夢と希望に満ちたウマ娘が集う理想郷だった。

 だがシンボリクリスエスが現れた。労働契約を結び、より良い契約を結び金銭を得ようとする金の亡者、それは最も嫌悪する存在だった。

 

 シンボリクリスエスは立ち尽くしながら静かに笑う。契約書が見つかったのは完全に予想外だったが、災い転じて福となすかもしれない。

 人々はトゥインクルレースを走るウマ娘が成長する糧に夢や希望を求める。だが時には「怒り」「嫉妬」「屈辱」「焦り」などの負の感情が成長の糧になることもある。

 ゼンノロブロイの殻を破るのは正の要素ではなく、負の要素かもしれない。そうなれば殻を破り、絶対的な強さを手に入れ、トレーナーの代表作になれる。それ程の才能が有ると期待していた

 

 



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勇者とラストダンジョン#14

誤字脱字の指摘ありがとうございます


 アグネスデジタルはドレスに袖を通すと、クルクルと周りながらほつれが無いか姿見で確認する。

 赤青黄の色を鏤められたワンピースタイプのドレス、GIの前々日記者会見で着るドレスで初めて来た時は派手目で趣味に合わないと思ったが、何度も袖を通すうちに愛着が湧いてきた。

 しかしこれを着るのはもう最後だ。使う用途があればパーティーに着るぐらいだが、恐らくそんな用事は無いだろうし、トレーナーとしてこの席に出るとしても着るとしたらスーツだろう。そう思うと一抹の寂しさを覚えていた。

 すると係員からそろそろ登壇してくれと指示を受ける。最後にもう一度姿見に映る姿を焼き付けて控室から出て行く。

 

 基本的にGIの前々日会見は近場の会場を貸し切って行われる。だが有マ記念はファン投票で出走ウマ娘が選出されるという特別な形式もさることながら、注目度も他のレースと比べて大きく。色々な意味で特別だ。

 その特別に相応しいようにと日本でも有数のイベントホールを使用していた。

 中は1階席と2階席に分れ、前方の席には記者やトレーナー等の関係者席となっているが、それ以外は一般開放となり、入場料を払えば誰でも入れるようになっている。そして多くのファン達が足を運び会場は満員で埋め尽くされていた。

 

『皆さま、長らくお待たせしました。これより有マ記念に出走する14名に登壇してもらいます。なお、今回は特別にファン投票の少ない順で登壇となります』

 

 司会の呼びかけに一般客達が声を上げる。本来であれば獲得ポイントが低い順番から登場するのだが、ファン投票という形式を採用しているので今回は投票数を基準にしていた。

 

『最初はこのウマ娘です。アルゼンチン共和国杯では久しぶりのGⅡ制覇。ジャパンカップでも掲示板圏内とさらに力をつけてきました。今年で2回目の出走アクティブバイオ選手です』

 

 アナウンサーの紹介と同時に壇上の後ろにある巨大モニターにも紹介VTRが流れ、アクティブバイオが登壇する、壇上に上がった際にファンらしき客から歓声が上がり、応じるように手を上げる。

 それから順に選手が登壇していく。グランプリとあって選手も一時休戦とばかり会場の空気を楽しみ、ファン達も推しの晴れ舞台を祝おうと歓声を送り、会場は和やかで華やかな空気に包まれる。

 

『次はこのウマ娘です。時代を駆け抜けていった異能の勇者の最後はこの舞台です。前走は大敗でしたが、何かを起すと期待せずにはいられません。人気投票第11位、初出走、アグネスデジタル選手』

 

 デジタルは呼びかけに応じて壇上に上がる。会場の観客は天皇賞秋では奇行を見せたので今度はどんな事をするかと期待の目で見えていた。

 だがいつも通りの服装で僅かばかり落胆の息が漏れる。一方デジタルは会場の雰囲気を感じることなく、壇上に居るウマ娘達に意識を向けていた。

 

『次はこのウマ娘です。ダービー2着、菊花賞4着、その実力は世代屈指、名門チームプライオリティが送る第1の刺客、人気投票第8位、ゼンノロブロイ選手です』

 

 ゼンノロブロイが登壇し声援を送るファン達に丁寧に頭を下げる。緑と黄を基調にしたフォーマルドレスを身に纏い、身長が低く童顔だがいつもより大人びた印象を与える。

 すれ違いざまデジタルの熱視線に気が付いたのか目配せで挨拶していた。

 

『次はこのウマ娘です。今年1番のニュースといえばこれでしょう。全治1年の怪我からまさかの復活、その名の通りまさにミラクル。流れは確実に来ています。なるか春秋グランプリ連覇。人気投票第5位、今年で2回目の出走。ヒシミラクル選手です』

 

 ヒシミラクルが登壇し陽気にファンの声援に応える。衣装は白と青を基調にした和服だった。すると手に持っていた袋から何かを取り出し一般のファンがいる席に投げつける。それはヒシミラクルのお守りである。

 受け取ったファンは縁起が良いと騒ぎ、そしてデジタルの熱視線に気づき残っていたのか、お守りを投げ手渡すと嬉しさのあまりファンと同じように騒いでいた。

 

『次はこのウマ娘です。今年の2冠ウマ娘です。菊花賞では3着、ジャパンカップでは4着と勝ち星から遠ざかっていますが、その力は誰もが知っています。ダービー以来の勝利を皆が期待しています。人気投票第3位、初出走ネオユニヴァース選手です』

 

 黒一色に黄色の星を鏤めたドレスを着てネオユニヴァースが登壇する。そして場の空気はひりつく。

 普段は何を考えているか分からないが、鷹揚な印象を受けるウマ娘だった。だが今は存在すら吞み込まんという敵意のようなものを体から迸らせていた。

 

『次はこのウマ娘です。時代の中心は常に彼女でした。早すぎる引退宣言には日本中が驚き悲しみました。皆が有終の美を願います。人気投票第2位、前年度覇者シンボリクリスエス選手です』

 

 緑と黒を基調にスリットが入ったプロムドレスを着たシンボリクリスエスが登壇する。すると歓声と同じく辞めないでくれと嘆きの声が聞こえてくる。突然の引退にまだ受け入れられないファンは少なくない。

 そんな感性や嘆きの声に動じることなく威風堂々と歩く。壇上に居るウマ娘は視線を向ける。一方デジタルも視線をシンボリクリスエスに向けていたが、思わず左に居るゼンノロブロイに向ける。

 凝視と形容できるほど見つめ、表情が見えないがただならぬ気配を漂わせていた。

 

『最後はこの選手です。前走では圧巻の圧勝劇でGIウイナーの仲間入り、その先行力は現役随一、稀代の勝負師が去年の忘れ物を取りに行きます。今年で2回目の出走。人気投票第1位タップダンスシチー選手です』

 

 タップダンスシチーが現れると会場はどよめく。来ている衣装はジャパンカップの時とは違い中世の貴族が着るようなドレスに手袋を装着し、インナーで首元を隠していた。そして最も注目を引いたのはサングラスだった。

 その奇抜なファッションに今回の奇行枠はタップダンスシチーだと印象づける。その奇異の目線を尻目に周りのウマ娘を見ながら登壇する。

 

『これより公開枠順ドラフトを実施します。では中田選手とシンザンさんステージにお上がりください』

 

 司会はタップダンスシチーによって作られた妙な雰囲気を払拭するように明るく大きな声で呼びかける。GIであれば出走ウマ娘がくじを選び枠順が決まる。

 だが有マ記念ではより盛り上げようと選ぶ順番をくじで決めて指名権が有る者から好きな枠を選んでいく。

 これにより最初の者は好きな枠を選べ、後の者も相手の枠を見てから選べるなどより戦略性が高まる。

 

 まずは中田がステージに上がり、会場の人々から大きな拍手で迎えられる。中田はプロ野球選手のピッチャーで、日本の球団在籍時は先発として年間無敗を達成し優勝に貢献するなど数々の実績を残し、アメリカに渡った後も数々の実績を残した名選手である。

 日本の誰もが知っていると言われるほど人気と実力を兼ね備えている選手で、また大のトゥインクルレース好きとしても知られ、その縁で呼ばれていた。

 

 そしてもう1人の中年のウマ娘がステージに上がると中田より大きな拍手で迎えられる。2人目の3冠ウマ娘シンザン、さらに天皇賞と有マ記念に勝利した5冠ウマ娘であり、全てのレースで連帯し、歴代最強とも呼び声が高い。その強さに多くの関係者がシンザンを超えろを合言葉に研鑽を重ねていった。

 デジタルのトレーナーを始め当時の活躍を見ていた関係者は勿論、リアルタイムで活躍を知らない者も伝聞でその凄さを知り、生で見られた感動で自然に声を上げていた。

 

『それではシンザンさん、くじを引いてください』

 

 シンザンは視界に促されくじを引くと書かれた名前を呼び、周りに見えるように掲げる。

 

「ヒシミラクル選手です」

 

 くじの結果に会場がどよめく。枠順が勝敗に大きく左右する重要な枠順決めで、1番先に選べる権利を得たのがヒシミラクルだった。

 運は勝つために心技体と同等に重要な要素と提言し、その本人が見事に選ばれた。やはり運の強さは重要ではないかと会場に居る者達は思い始めていた。

 

『ではどのウマ番を選びますか?』

「2番です」

 

 ヒシミラクルは即答し一般客から声が上がる。有マ記念は内枠有利だというデータがあり、ファンの間でも内枠有利が共通認識になっていた。そして出走するウマ娘が内枠を希望したことで内枠有利が確定事項になっていた。

 次に中田が同じようにくじを引き名前を呼びあげる。

 

「アグネスデジタル選手です」

 

 その瞬間デジタルのトレーナーは小さくガッツポーズする。距離不安があるデジタルとして出来る限り距離ロスしない内枠を希望していた。

 ヒシミラクルから貰ったお守りの効果か、理想通りの結果となった。デジタルはトレーナーに目配せし希望枠順を言う。

 

「1番です」

 

 その後もくじ引きは滞りなく進行する。やはり内枠が人気で選ばれた者は次々と内枠を指定していく。枠順は以下の通りとなる

 

1枠1番  アグネスデジタル

2枠2番  ヒシミラクル

3枠3番  タップダンスシチー

3枠4番  リンカーン

4枠5番  ゼンノロブロイ

4枠6番  ツルマルボーイ

5枠7番  ウインブレイズ

5枠8番  ダービーレグノ

6枠9番  ネオユニヴァース

6枠10番 チャクラ

7枠11番 ザッツザプレンティ

7枠12番 ファストタテヤマ

8枠13番 アクティブバイオ

8枠14番 シンボリクリスエス

 

 比較的に有力ウマ娘が内枠だが、シンボリクリスエスは最後に選ばれ大外枠の14番となる。その結果にシンボリクリスエスのファンは大いに嘆いていた。

 

『では質疑応答に移りたいと思います。質問のある方は挙手でお願いします』

 

 質疑応答に移り司会が質問を促すと次々とマスコミ関係者が手を挙げる。

 

「タップダンスシチー選手、ファン投票1位で当日も1番人気が予想されますが、初めての1番人気が有マ記念となります。心境はいかがですか?」

「前走がフロック扱いされていないかと心配していましたが、ファンの方々は評価してくれて安心しました。1番人気で勝つのが強さの証明でもありますので、きっちり勝ちたいと思います」

 

 1番人気のプレッシャーで潰れてしまうウマ娘も多いが堂々と答える。その姿は好走を予感させる。普通ならそのような感想を抱くはずだが残念ながら普通では無かった。

 タップダンスシチーは変声機を使って喋っていた。ファッションに続いての奇行、ウケ狙いなのか別の意図が有るのか?その意図と変化した声のせいで内容が入ってこない。

 他のマスコミ関係者が即座に質問するが、答えられませんとあっさり切り捨てられてしまう。

 

「シンボリクリスエス選手、大外枠と不利な条件になりましたが今の心境は?」

「不利な条件ですが、トレーナーから教わったことを発揮できれば勝てると信じています」

「ヒシミラクル選手、最初に枠を選べましたが、これも実力と言う認識ですか?」

「勿論です。枠の有利不利があるコースで有利な枠に入るのも実力です」

 

 出だしのタップダンスシチーの奇行で困惑するが、そういうもだと割り切り質疑応答は淡々と続いていく。そのなかでデジタルは出走ウマ娘を感じることに集中する。

 声量、声のトーン、視線、様々な情報がウマ娘達の心境を教えてくれる。全てを把握することは不可能だが、少しでも情報を収集し想像することは出来る。

 幸いにも質問は上位人気が予想されるウマ娘に集中し、答えた質問は1つ2つだったので、そつなく答えた後は情報の収集と想像を楽しんだ。

 

「それでは最後に各出走ウマ娘の方々に一言頂きたいと思います」

 

 司会の言葉に出走ウマ娘達が喋っていく。ここでも人気順でファン投票の順位が高い者が後に喋っていく。そしてデジタルにマイクが渡される。

 

「私事ですが有マ記念で引退します。月並みですが悔い残らないように頑張ります」

 

 会場から拍手が送られる。だがそれは形式的なもので、どんな面白い言葉で驚かせてくれると期待していただけに僅かばかり落胆していた。

 その中でデジタルのトレーナーは感慨深げに見つめる。

 月並みと言ったが、その心境に至るまでにどれほどの葛藤と苦労を味わい、それを実現するためにどのような覚悟と決意を抱いているか知っている。それだけに何としても次善を得て欲しいと願っていた。

 マイクはデジタルからゼンノロブロイに渡される。

 

「私はGI未勝利でシニア級のウマ娘と走るのは初めてです。本来なら大言を口に出せる立場ではありませんが、敢えて言わせてもらいます。レースの未来は私が守ります」

 

 その言葉に会場は大きくどよめく。その気質からして大言を口出すタイプではないと思っていただけに、この力強い宣言は完全に不意打ちだった。何よりその雰囲気に驚かされた。

 身に纏う感情は憎悪だった。そして向けるのはシンボリクリスエス、喋っている間はずっと視線を向けていたのが何よりの証だ。

 怒りとは無縁のウマ娘が隠すことなく向けその相手がチームメイト、これは何かが起こるかもしれない。会場の注目は一気に向けられる。

 ゼンノロブロイは怒りを治めると、柔和な表情を見せながらマイクをネオユニヴァースに渡す。

 

「タイトル宇宙。

 

ハローハロー聞こえますか?

私は投げる。パリンパリンと砕けていくけど止まっちゃう。

私は鳴らす。ドンドコドンドコと叩くけどけど消えてしまう。

君は見えないの?貴方は聞こえないの?どうすれば伝わるの?

私は冒険に出た。魔法のマスターキー、全てを貫く槍、何でも斬れる刀、そんなものはどこにもない。

すると妖精が語り掛ける。持っているそれを使えばいいじゃない。

手元にあるのは古ぼけた無線機、

私は冒険に出る。探すのは部品、一杯集めて一杯改造して大きくする。

ハローハロー聞こえますか?」

 

会場は一瞬の静寂に包まれる。それは反応に窮したことが原因だった。

 

──これは詩だろうか?

 

 会見でビッグマウスやトラッシュトークを仕掛けるウマ娘も居るが、詩を朗読したウマ娘は初めてだった。不思議な感性の持ち主だと思っていたが、ここまでとは思ってもみなかった。それはネオユニヴァースのファンも同様だった

 そして詩の内容が読み取れない。何かを伝えたいのだろうか?タイトルからして宇宙を伝えたいのか?推測は出来るが真意は誰にも理解できなかった。

 そしてマイクはヒシミラクルの手に渡される。

 

「まずはこの場を使ってタップダンスシチーにありがとうと言っておきます。京都大賞典で運を奪われました。だがそれは骨折した骨が丈夫になるように、私の運をさらに強くした。そして有マ記念では奪われた運を取り返し、他のウマ娘から運を貰います。そして証明します。心技体と運を加えた強さが世界にも通用することを」

 

 運は奪い奪われ出来る物だろうか?会場に居る者が真っ先に浮かんだ疑問だった。だが余りにも自信満々に既成事実のように喋るさまに疑問はすぐに消えていた。それ程までに言葉に力が有った。

 そして世界という言葉、ヒシミラクル理論は世界には認知されていないどころか、冷ややかな目で見られるだろう。

 だがどのような勝利でも全て実力であると一切の負い目もなく語り、世界の鼻を明かす光景を見たいという願望が沸々と湧き始めていた。

 そしてマイクはシンボリクリスエスに渡される。

 

「今回の有マ記念は引退レースとなります。そして今年も素晴らしいメンバーが集まりました。今まで培った全てを余すことなく出し尽くし、トレーナーに師事を受けたウマ娘として相応しい走りをして有終の美を飾りたいと思います」

 

 驕らず高ぶらず淡々と心境を語る。有マ記念ではトレーナーが理想とする走りを実現する。そして出来る限り差をつけて勝利する。

 これは決して優しくはない課題だ、しかし雇用主に最大限の利益を与える。それがプロフェッショナルである。

 最後にタップダンスシチーにマイクが渡される。

 

「えっと、さっきヒシミラクルから礼を言われたが、こっちこそ礼を言いたい。京都大賞典で勝ったことで運を奪えた。ジャパンカップは運に恵まれたとも言われているが、奪った運によって作られた有利だろうな。さらに今まで以上に運を蓄えて参戦してくれた。これで勝てばさらに運を奪えて強くなれる。至り尽くせりだ、京都大賞典の二の舞にしてやるよ」

 

 タップダンスシチーは今までとは一転し、くだけた口調で挑発的な笑みをヒシミラクルに見せながら語る。宝塚記念の敗北によってヒシミラクル理論を体感できた。だからこそ運の重要性に気づき前哨戦で京都大賞典を選び、運を奪うつもりで走った。

 そして嫌なイメージを残すような勝ち方をしておいた。僅かでも思い出してくれれば儲けものだ。

 

「そしてシンボリクリスエス、アタシとの直接対決は1勝1敗、だが着差で考えれば9バ身差ぐらいついている。有マ記念は最低でも9バ身差以上つけて勝てないと世間は上だと認めない。天下のチームプライオリティのエースが、そこそこ程度のトレーナーに育てられたウマ娘に負けたとあっちゃ顔向けできねえな」

 

 そしてシンボリクリスエスの方を向くと挑発的な声色で煽る。どれだけ着差がつこうが勝利の価値は変わらない。それは重々承知の上で敢えて喋る。

 条件戦ならともかくGIで大差をつけようと走れば無茶が生じ隙となる。

 相手はバカではない。大差をつけようとは思わないだろう。しかしほんの僅かでも差をつけようと思ってくれれば充分だ。その為にトレーナーを出しに使う。

 本人の名誉については無頓着だが、トレーナーに対する名誉に対してはやけに敏感で気にしているのは今までの言動やインタビューで把握している。このレースはウマ娘同士の優劣ではなく、トレーナーの優劣をつけるレースと印象付けさせる。

 

「アタシはジャパンカップを経て1段階上のステージに上がった。走りにキレが増してるのはどの陣営も分かってるよな。ハイペースならすり潰す。スローペースなら切り捨てる。レースを作るのはアタシだ」

 

 観客の歓声と同時にこの日1番のシャッター音とフラッシュがタップダンスシチーに浴びせられる。その光に僅かに目を細めながら、壇上に居るウマ娘と最前列に居る各陣営に視線を向ける

 また協会の人間に小言を言われるだろうが構わない。たとえ無意味だろうが出来る限りの仕掛けは施し勝利を目指す。それが勝負だ。

 

『以上で前々日会見は終了いたします。各ウマ娘の健闘を祝して盛大な拍手でお見送りください』

 

 司会の声とともに万雷の拍手が各ウマ娘に送られ、それに応じるように各ウマ娘達が客席に手を振るなど反応を示しながら退場する。

 そして会場ではウマ娘達が退場しても騒めきが収まらない。この騒めきは期待感によるものだった。決してお行儀が良いと言える会見では無かった。だがエキサイティングで其々の考えがぶつかり合い、大いに高揚させる。

 

「う~ん、素敵すぎる会見でした!」

 

 デジタルは控室に向かう道すがらトレーナーには勢いよく話しかける。先程の記者会見は各ウマ娘から濃厚な感情が迸っていた。それはある意味極上のエンターテインメントであり、素晴らしい映画を見た後のように誰かと語り合いたかった。

 

「そうやな、中々面白かった」

「でしょ!まずヒシミラクルちゃんの世界取り宣言、あの素晴らしさが世界中に知れ渡るんだよ!ワクワクが止まらない!」

「ヒシミラクル理論がどこまで通用するかは正直見てみたい気持ちはある。あのメンタリティのウマ娘は世界中探してもそうそうおらんやろ」

 

 ヒシミラクルは今日の抽選で最初に選ばれ有利な枠に入った。他のウマ娘であれば偶然で片づけられる。だがヒシミラクルに限っては偶然片付けられなくなっていた。

 自分に有利な状況を作り上げる。これは実力と認めざるをえない。そしてこれだけ終わるとも思えず、本番はさらに有利になっていくだろう。

 今までのトレーナー人生で理解を超えるウマ娘は何人か見てきた。自分の常識や理屈に収まらない思考を持ち、信じられない力を発揮するウマ娘達、そのカテゴリーの中にヒシミラクルは入っていた。

 強いウマ娘ならシンボリクリスエスやタップダンスシチーを挙げるが、怖いウマ娘ならヒシミラクルの名を挙げる。そして勝負するなら強いより、怖いの方が個人的に相手はしたくない。

 

「そしてネオユニヴァースちゃんのポエム!家に帰ったらネット巡回して意味を考察しないと!白ちゃん意味分かった?」

「いや、分からん」

「トレーナー試験受かったんでしょ?分かってよ」

「試験に読解問題はない」

「トレーナー試験も変えた方が良いかもね。でないとレースに関することしか知らない頭でっかちなトレーナーばかりになっちゃうよ」

 

 デジタルは芝居がかった動作で肩を竦める。これでは今後ネオユニヴァースのような素敵なウマ娘が現れてもトレーナーと意思疎通が取れなくて可哀そうな想いをしてしまう。

 だが今の自分もトレーナーと同じだ、せめて理解しようと努力しなければと詩の内容を思い出し考察する。

 タイトルと内容からして宇宙を伝えたいのに伝わらない苦悩を表現したのだろう。そして誰かにアドバイスをもらって実行しようとしている。そのアドバイスが上手く作用し宇宙が伝われば嬉しい限りであり、自分も宝塚記念以上に味わってみたい。

 

「それでタップダンスシチーちゃんの格好も驚いたよね。あんなドレスを着るタイプじゃなかったし、変声機を使ったのも驚いた。そしてサングラスを着けたせいでミスマッチ感が凄かった。言いたくないけどセンスがよろしくないというか……」

「あれはそんなこと一切考えてないぞ。全ては勝つための行動や」

「どういうこと?」

 

 デジタルは僅かに目を剥く。自分には理解できないのにトレーナーには理解できている。その事実が妙な悔しさを抱かせる。

 

「まずあのドレスは勝負服と同じ、いや強化版やな。身体のラインを隠しながら極度に肌の露出を抑える。肌つやで調子を悟られるのを防ぐ為やろ。変声機も同じや」

 

 トレーナーは会見の光景を思い出し思わず笑みを浮かべる。まさか声まで隠そうとするとは思っていなかった。本当に徹底している。

 大半の人間は気にせず判別することもできない。それでも万が一を考えて備える。勝つために考えることを全て実行する。そのメンタリティは実にトレーナーが好みだった。

 

「あとシンボリクリスエスちゃんは良い意味で変わらなかったね。引退レースなのにそれって凄くない?そして何より驚いたのはゼンノロブロイちゃん。何であんな怒ってるの?前話した時はシンボリクリスエスちゃんを慕ってたのに。それに未来を守るってどういう意味だろう?」

 

 デジタルは顎に手を当てながら悩まし気な声を出し、トレーナーも同じように顎に手を当てて考える。

 公の場であそこまで感情をむき出しにするとは余程のことだ。そして未来を守るという言葉、これはシンボリクリスエスがレースの未来を脅かし、それを守ろうという意味だろう。

 

「まあ色々有るけど、それは帰ってから考えるとしますか、ウマ娘ちゃん達の心境や関係性を推理する。これこそがレース前の醍醐味だよね」

「ある意味そうかもな。俺もトレーナーになる前はレースの展開や着順予想するのが楽しみやったし、今も関係ないレースでやっとるしな」

「無粋~って言いたいところだけど、楽しみ方は人それぞれだし。あとは……」

 

 それからもデジタルは記者会見のウマ娘達の様子や想像した心境を語り続ける。トレーナーは話を聞きながら別の思考をする。

 デジタルは本番までレースについて考えず、ウマ娘達について思いを馳せていればいい。レースについて考えるのは自分の役目だ。

 今までの情報は勿論今日の記者会見の様子を加味して考える。デジタルがゼロコンマ1秒でもウマ娘を感じられるように、その表情は勝負師のものになっていた。

 

 

 有マ記念まで残り2日

 



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勇者とラストダンジョン#15

 アグネスデジタルは鍵穴に鍵を差し込み開錠すると、ドアノブを回し中に入る。すると外の空気とは違った匂いが鼻腔を刺激する。

 蹄鉄、シューズの皮、ウッドチップや砂の破片、制汗スプレー、様々な匂いが混じった独特の匂い。世間的には良い匂いとは言えないかもしれないが、この匂いが大好きだ。

 匂いを記憶に刻み込もうと何度も鼻から息を吸い、匂いを嗅ぐと自分ロッカーに向かい扉を開ける。するとチームルームの部屋とは違う匂いが鼻腔を擽り、目に映る光景に思わず苦笑する。

 中には予備のシャツ数着に予備の蹄鉄や消臭スプレーや制汗スプレーなど一般的に置いてある道具、そして一面を埋め尽くすようなウマ娘達の切り抜き写真にグッズが所狭しと置いてあった。

 レースに出走するまでの間はそのレースに出走するウマ娘の写真を切り抜き見やすい位置に張り、グッズを置いている。

 今なら有マ記念に出走するウマ娘の写真を雑誌やスポーツ新聞から切りぬいてグッズを置いている。

 そうすることで気分が高揚しトレーニングを乗り切る活力になる。そしてチームメイトからはオタクの部屋みたいだと生暖かい目で見られていた。

 デジタルは切り抜きの1つ1つを眼に焼き付けながら丁寧に剥がしていき、剥がした写真はスケッチブックに貼りなおす。これらは大切な思い出として大切に保管している。

 その後はグッズやシャツなどを回収し持ってきた手提げ袋に分けて入れていき、ロッカーは何もない状態になった。

 すると外に出て持ってきたバケツに水を入れ、手提げ袋から新品の雑巾と洗剤を取り出し雑巾に洗剤をつけロッカーを拭き始めた。

 

 有マ記念前日、午前中はレースに同行しているトレーナーとサブトレーナーの代わりにチームメイト達の様子を見ながらトレーニングをこなし、午後はチームメイト達と食堂で一緒に昼食を摂り、午後はレース番組を見て過ごした。

 番組が終了したのは16時、SNSや動画サイトで有マ記念に出走するウマ娘を調べるかと思ったが、あることを思いつき掃除用具を借りてチームルームに向かった。

 デジタルは長年切り抜きを貼り続けたテープの汚れに悪戦苦闘しながら今までの記憶を思い出す。

 このロッカーには約7年の思い出が詰まっている。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、様々な出来事がまるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。そしてこれ以上思い出を作ることはできない。気が付けば作業の手は止まっていた。

 

「よし!思い出に浸るのは終わり!」

 

 デジタルは自分に言い聞かせるように大声を出して強制的に手を動かす。

 ここでは数えきれない程素敵な思い出をもらった。これ以上はねだり過ぎだ。そしてこのロッカーは新たなウマ娘が使う場所でもあり、様々な思い出を紡いでいく場所だ。真っ新でなければならない。

 それは汚れを落とすのもそうだが、自分の未練を残さないことだ。

 次に来るウマ娘はどのような人物でどのような思い出を作っていくのかと想像しながらロッカーを掃除していく。気が付けば未来のウマ娘の事で頭が一杯になり抱いていた未練は無くなっていた。

 

「こんなもんでしょ」

 

 デジタルは満足げに呟く。流石に鏡のようにとはいかないが、扉だけでも他のロッカーと比べて明らかに違い、新品のように綺麗になっていた。そして目を瞑り手を合わせて呟く。

 

「次に来るウマ娘ちゃんが幸せな現役生活が過ごせますように」

 

 何を残してはいけないと思ったがこれぐらいは残していいだろう。自身の念を込めるように祈りの言葉を捧げ、その後はチームルームをうろつく。

 有マ記念で引退してもすぐに学園を去るわけではない。通例として卒業シーズンの3月に学園を去る。その間にいつも通り授業を受け、放課後は自室でトレーナー資格の勉強をして、時には健康のために運動をするだろう。

 だがもう2度とチームルームに訪れて、トレーニング施設でトレーニングすることは無い。

 トレーニング場は現役のウマ娘の為のものであり、引退した者は使用すべきではない。そのような暗黙の了解があり、トレーナーから招集されるという特別な事情がない限り引退したウマ娘は学園の外で走る。

 明日は有マ記念なのでチームルームに訪れるのは最後になる。様々な思い出が去来しながら目に映る光景を焼き付けた。

 

 チームルームを出るとそして辺りが完全に暗闇が包まれていた。スマホを取り出して時刻を確認すると午後18時を回っていた。見たいテレビ番組が有るのだが、時間が中途半端だ。時間は有効活用するとしよう。

 デジタルはジャージの上下を脱ぎ、半袖シャツとショートパンツという、この季節では明らかに薄着な格好になる。思わず腕をさすり体を震わせ寒がる様子を見せるが、数秒ほど目を閉じた後にその辺を散策し始める。その体は全く震えていなかった

 

 

───

 

 チームのウマ娘が走った日のトレーナーは忙しい。レース前の準備は勿論、レース後も映像を見ながら分析しウマ娘用のレポートを作る。

 レースを走ったウマ娘にも自身で敗因や勝因を分析させ報告させるが、トレーナーのレポートは答えのようなものだ。間違いがなく今後に役立つものにしなければならない。

 今日は中山で2レース、阪神で1レースを走った。阪神はサブトレーナーの黒坂が同行し、彼と意見を交換しながらレポートを纏める。

 さらに明日は中山ではデジタルがレースを走り、阪神でもチームのウマ娘が走るので、その準備をしなければならない。

 トレーナーはトレーナールームでずっと作業していた。

 

「お邪魔しま~す」

 

 ノックの音と同時に扉が開く。そこには学園指定とは別ジャージを着たデジタルの姿があった。

 

「どうしたデジタル?何の用や?」

「用ってわけじゃないけど、部屋にはタップダンスシチーちゃんが居て、本人も居ても構わないって言ってくれたし、アタシもレースに向けて気分を高めている姿を感じたいけど、流石に邪魔しちゃマズいかなって思って、寝る前の暇つぶしに来た。テレビつけるね」

 

 デジタルは許可を取る前にリモコンを取ると電源を着け、すぐさま来客用のカップを取りお茶を入れて砂糖やミルクを使って自分好みの味に調える。まるで実家のように過ごす姿にトレーナーは半笑いを浮かべながら勝手にせいと言い放つ。

 TVでは有マ記念についての番組が流れている。年末のビッグレースというだけあって、特番を組まれ、番組内では今年の出走ウマ娘の紹介や過去の名勝負を当事者のインタビューを交え振り返っていた。

 番組が放送している間はウマ娘が出れば可愛いなどカッコイイと騒ぎ、タレントや芸人が出れば引っ込んでろ、さっさとウマ娘ちゃんを映せと騒がしく見ていた。

 

「TV見る時はいつもそんなうるさいんか?」

 

 トレーナーは思わず作業の手を止めて問いかける。その様子はテレビで野球観戦しているファンのようで、そんなテンションでスポーツバラエティ番組を見る者は見たことが無かった。

 

「いつもじゃないよ。こんな感じで見るのは実家とか1人の時とかプレちゃんとかと一緒に見ている時だけだよ、それにウマ娘ちゃんが中心じゃなきゃ騒がないし」

 

 その言葉を聞き安堵する。他の番組でも同じように騒いでいたら周りからは絶対にひかれる。だが本人にも分別があり、この状態は気心知れた相手限定のようだ。

 

 暫くすると番組は終わり迎える。トレーナーも作業をしながら聞き耳を立てていたが特に有益な情報は無かった。

 デジタルは番組が終わるとTVを消しスマホをいじり始める。トレーナールームは先程の騒がしさから一転し、2人の呼吸音とキーボードを叩く音が静かに響いていた。

 

「アタシ達色々あったよね」

「せやな」

 

 トレーナーはデジタルが何気なく呟いた言葉に相槌を打ち作業の手を止めて正対する。その言葉にはセンチメンタルな感情が含まれていた。

 本人なりに気持ちを整理していただろうが、明日の有マ記念を迎えるにあたって感傷的になっているのだろう。そこで思い出話に花を咲かすことで過去を振り返り、気持ちを整理しようとしている。

 

「俺がアメリカに研修している時に偶然小さい頃のデジタルに出会った。それが全ての始まりだった」

「そうだね。パパとママに知らない人と話しちゃいけませんって言われたからビビっちゃったよ。でもウマ娘の話をするから心許しちゃったけど、今思えばかなり危ないじゃん。白ちゃんが人さらいだったらどうなってか、コワ!」

 

 デジタルは演技がかった動作で身震いし、トレーナーも思わず顔を引き攣る。もしデジタルが騒げば誘拐未遂として捕まりトレーナー資格が剥奪された可能性も充分にあった。何と不用意な行動だった。

 

「それで交流が続いて、気が付けば日本のトレセン学園に入学していた。最初は正直辛かったな~」

 

 当時を思い出し僅かに顔を顰める。言葉が通じず周囲と馴染めず共通の趣味を持つ者もいない。アメリカとは違い全く居心地が悪く、ホームシックに罹り本気で帰ろうとすら思っていた。

 

「こっちもきつかった。預かった娘さんをダメにしてアメリカに返しましたなんてあったら、デジタルの両親に申し訳立たん。俺としても色々やったんやけど効果なかった」

「あの時は心を閉ざしてたからね」

「そのせいか走りもよくなかったからな、確かもちのき賞あたりから良くなった記憶がある」

「ああ、それぐらいからプレちゃんと仲良くなったんだよ」

 

 精神がどん底にあった時に声をかけてくれたのがエイシンプレストンだった。

 日本の地で出会った初めての友達で親友、彼女が友達になってくれて周りとの付き合い方を教えてくれたお陰で徐々に日本に馴染み適応できるようになった。

 もしプレストンが居なければアメリカに帰っていただろう。感謝してもしきれない。

 

「本来ならトレーナーがしなきゃあかんことなんやけどな。プレストン君には感謝してもしきれないな」

「トレーナーより同級生の方が影響を受けることもあるし、しょうがないって」

「それで1勝クラスに勝って全日本ジュニア優駿で1着、正直よう勝ったわ。周りはそれなりに完成されてんのに比べてマッチ棒みたいな体やったし、でもそれで勝てるやから、将来は大きいところ1つや2つは勝てるかもしれんって期待を抱いたわ」

「そうだね、皆良い体してるなってのは思ったよ。それに初めての地方でのレースだったけど、地方のウマ娘ちゃんは中央のウマ娘ちゃんと違った魅力が有って素敵でした」

「ダートのジュニア王者になったし、今度は芝のマイル王者を目指そうとNHKマイルに標準を定めた。年明けでヒヤシンスSは3着で芝1200のクリスタルCで3着」

「そして次はニュージランドT、ここで初めてプレちゃんと一緒に走った」

 

 デジタルは当時を思い出す。初めて一緒にレースを走る。プライベートでは多くの時間を過ごしているが、レースではどんな顔を見せるか?楽しみで夜も眠れなかったのは今でも覚えている。

 結果は3着だった。先行抜け出しで勝ったと思ったところをすぐ隣をプレストンが駆け抜けていった。艶のある黒髪を靡かせ今まで見たことがない必死の表情を見せる。その姿に追わず見とれてしまった。

 

「それで次はNHKマイル、プレちゃんが怪我で出られないのはショックだったけど、初遭遇のウマ娘ちゃんとの邂逅に胸をときめかして走ったけどダメだった」

 

 このレースがGI初出走で勝負服に身を纏うウマ娘の姿に興奮し見られたことで満足してしまった。その結果レースでウマ娘を感じようという気持ちが薄れてしまった。敢えて敗因をあげるとしたらそれだろう。

 一方トレーナーは別の要因が有ると考えていた。今では問題無いがスピードや身軽さやストライドの大きさもそうだが、芝の走り方をマスター出来ていなかった。

 

「それでダートに戻って名古屋優駿に勝ってジャパンダートダービー、これもダメだった」

 

 デジタルは肩を落とす。前回の反省を生かし勝負服を見たことに満足せず、レースを走るウマ娘を絶対に感じるぞと闘志を燃やしていたのだが、心の熱意に体が応じてくれなかった。

 そして体の問題だがいくつかの理由が有った。まずデジタルはマイラー寄りのウマ娘で2000は得意という訳でなかった。

 次に当日のダートコンデションは良で珍しく砂が重くパワーとスタミナが必要だった。さらにペースが速く前につけていたデジタルは体力を削られていた。前走の名古屋優駿は1900メートルだが、ダートは重で脚抜けが良かったので何とかこなせたに過ぎなかった

 

「そして暫く休んでのユニコーンSに勝利し、武蔵野S2着。これぐらいから充実し始めて体も出来上がってきたな」

「そうなの?自分としては変わりなかったけど、そういえば武蔵野Sで初めてシニア級と一緒に走ったんだよね。お姉さまの魅力にメロメロでした~。グフフ」

「そんなこと考えとったんか。それで次はマイルCS」

「あれには驚いたよ。次もダートを走るのかなって思ってたから」

 

 デジタルは当時プレストンの怪我が治ったのを知り、出走予定であるマイルCSを走ると表明していた。

 ニュージランドTでの姿は鮮明に刻まれ、GIの舞台で勝負服に身を纏ったプレストンはどれだけ素敵なのだろう。日々の生活でそればかり考えて是非とも一緒に走りたいと思っていた。

 だが芝の成績は全く芳しくなく、トレーナーに言っても却下されるだろうなとダメ元でお願いしたらあっさり受諾された。

 

「まあ力も付けてきたし、走りの飛びも大きくなって芝向きの走りになとった。まあ無様な走りにはならんだろうと思っておった。だがまさか勝つだなんてな」

 

 トレーナーは当時の心境を思い出し笑みを零す。デジタルには色々と驚かされたが最も驚かされた出来事はと訊かれれば、マイルCSと答える。

 NHKでは惨敗、勝ち鞍は全てダート、普通に考えれば勝てる要素は全くない。それが世間の評価であり人気も13番人気だった。調子は良かったのでもしかしてとは思っていたが期待はしていなかった。

 だがレースでは他のウマ娘が止まって見えるような末脚を炸裂させ1着、しかもコースレコードのオマケつきである。

 その走りに寒気が覚えたのは今でも覚えている。それと同時に夢ではないかと思わず頬をつねったのも覚えている。

 

「アタシも思わなかった」

 

 デジタルも素直に同意する。他のウマ娘なら勝つと信じていなかったのかと怒るかもしれないが、そんな気は全く思わなかった。

 直線で進路が空かず直線200メートルぐらいでやっと進路が空いた。少しでも多くのウマ娘を感じなければと夢中で走った。今思えばそれが勝利の要因だろう。

 すれ違うウマ娘達が驚きの表情を見せる。普段は意識を向ける側だが、向けられる側として感じるのは一味違った心地よさが有った。

 そしてレース後のプレストンの表情も強く印象に残っている。

 これは後から話を聞いた情報を踏まえての推測だが、友人が勝利したことへの喜び、そして格下だと思っていたウマ娘に負けた悔しさや屈辱が混ざり合ったものだったのだろう。

 

「それで王者として追われる立場になったからには無様なレースさせられんと思った矢先に連戦連敗、黒坂君やないがプレッシャーでゲロ吐きそうやったぞ」

 

 トレーナーは思わず顔を顰める。あのスケールが大きい勝利に多くの青写真が浮かんだ。今後は多くのGIに勝利し歴史的な選手になる。だが思うように結果が出ず苦悩の日々が続いた。

 トレーニングが悪いのか、レースでの指示が悪いのか、食事の指示がマズいのか、業界の宝となるウマ娘を潰してはならないと自分を責めていた。

 だがある日1つの考えに行きつく。考えられる最善は尽くした。今は雌伏の時で必ず花開く。もしくはこの敗戦は本人の問題であり自分は悪くはない。本来であれば間違った考えだが、時にはこうして開き直る必要もある。

 

「そうだったの?なんかゴメンね。アタシとしては頑張ったんだけど」

 

 一方デジタルは謝りはするが他人のごとのように軽い口調で悪びれる様子はなかった。

 当時は連敗してもそこまで気落ちすることなく、レースで色々なウマ娘を感じられないのは残念だが自分はこんなものであり、今の状態でウマ娘をより良く感じられるように頑張ろうと考えていた。

 

「そして夏は休んで秋の日本盃からGIを含む5連勝、出来すぎやろ」

「色々な場所で色々なウマ娘ちゃんを感じられて楽しかった」

 

 それから2人は現役生活の思い出について話す。其々の当時の心境を語りお互いの心理や感情を共有した。話はプライベートや近年のベストレースと脱線していき、時間の経過を忘れる程語り合った。

 

「で、明日でアタシの現役生活は終わる」

 

 デジタルはポツリと呟く。その言葉は当初の感傷やセンチメンタリズムは無く、ただ事実を再確認するような声色で心は安定した。

 

「今思うと現役生活はかなり雑でテキトーに過ごしてた。今の気持ちを最初から持っていればもう少し良い現役生活を送れたかも」

 

 引退を決めてから今日までの生活は充実していた。次善を得る為にトレーニングも休息も日々の過ごし方も最善を尽くせたという自負がある。

 それと同時に今までは如何に無駄に怠惰に過ごしてきたと実感していた。

 

「それに気づいただけで大したもんや」

「え?」

 

 思わぬ言葉に驚く。怒られはしないが小言は言われると思っていたが、まさか褒められるとは思っていなかった。

 

「人間はいつか死ぬ。大半の人間は知識として知っていても実感を持っていなくて、どこか他人事で遥か先の事やと思っとる。俺も含めてな。そしてデジタルにとって現役生活の終わりは死やった。衰えは止まらずどうしようも出来ないと悟った瞬間死んだ。だが一度死んだことで恐怖を知り、いつ死んでもいいように日々を全力で悔いなく過ごそうと思うようになった。その気づきはこの後の生活を必ず幸せにするやろ」

 

 デジタルは衰えによりレースでウマ娘を満足に感じられなくなるという死を恐れ、迫りくる現実に心を大きく乱された。それ程までにレースでウマ娘を感じるのは大切なものだった。

 だからこそ死ぬまでの無駄な日々を悔やみ、同じことが無いように今を全力で生きる。それはデジタルの倍を生きているトレーナーでも至っていない境地だった。

 それと同時に疑似的な死の恐怖を乗り越えたデジタルを心から尊敬していた。

 

「確かにそうかも、アタシは1回死んだ。でも死んだから得たものがある」

「そうや、それを明日のレースで生かして、トレーナーとして教え子に伝えてやれ」

「うん、でも言っても分かってくれないんじゃないかな。アタシも少し前までだったら白ちゃんに言われても『うるさいな~』って思うし。でもウマ娘ちゃんに心の中でそう言われたと知ったらショック死しちゃう!」

 

 デジタルは顔に手を当て青ざめている。その姿を見てトレーナーはクスリと笑う。本人は悪いが本当に起こりそうだ。

 

「宴もたけなわってことでそろそろ帰れ、消灯時間やろ」

「ウソ!もうそんな時間!?」

 

 デジタルは時計を見て慌てて帰り支度する。少し暇つぶしのつもりで寄ったが予想以上に時間が過ぎていた。

 

「じゃあねお休み、また明日」

 

 一方的に挨拶してトレーナー室から出て行く。トレーナーはその様子を見てため息をつく。

 

「せわしないやっちゃやな、俺はこれから忙しくなるやけどな」

 

 トレーナーは呟きながら作業を再開する。デジタルとの会話に夢中で作業の手が止まり、そのロスを今から取り戻さなければならない。

 この分だと今日は家に帰れず此処で泊りだ、気合いを入れるように頬を叩き作業を再開した。

 

「うん?」

 

 デジタルが帰ってから30分後、スマホから着信音が鳴る。良い感じに捗っていたのに水を差すなと若干の怒りを覚えながらスマホを手に取る。

 画面には1つのメッセージが表示がされ相手はデジタルだった。そしてメッセージの中身を見て破顔した。

 

─さっきのお喋り楽しかったよ。きっと現役生活を振り返る時に楽しかった思い出として思い出すんじゃないかな。

 実は明日で最後だと思って寂しかったり不安だったりって心が少しモヤモヤしてたけど、それが無くなった。今日はぐっすり眠れそう。

 明日はウマ娘ちゃんを感じるって気持ち以外は置いていくから今のうちに言っておくね。白ちゃんがアタシのトレーナーで本当に良かった。今までありがとう。

 

 口にするのが恥ずかしかったから文章で伝えたのだろう。随分殊勝な心掛けだ、そして気持ちを素直に口に出すタイプだと思っていただけに意外だった。

 

 デジタルから出たウマ娘を感じる気持ち以外を置いていくという言葉、ダートプライド以降は勝敗を度外視でウマ娘を感じることだけに全てを注ぐようになった。しかしダートプライド以降は出来ていなかった。

 

 かきつばた記念では長期休み明けに対する不安や心の乱れ。

 安田記念では勝ちはしたが、アドマイヤマックスを救うという一心で走り、原動力はウマ娘を感じるという欲ではなく慈悲の心だった。

 そして宝塚記念から天皇賞秋までは無意識に衰えを感じ気が散っていた。

 

 だが明日は違う。衰えを自覚し受け入れたことで恐怖に引っ張られることなく、外に置けるようになった。

 一切の感情を持ち込まずウマ娘を感じることに全てを注ぎ込むだろう。この状態のデジタルは常識を軽々と超える。ダートプライドに勝利し世界一になったのもこの境地に至ったからだ。

 有マ記念では奇跡と呼べるような走りを見てきた。常識的に考えればデジタルは終わったウマ娘だ、それはトレーナーの自分が一番分かっているはずだ。

 それでももしかしたら。そんな淡い気持ちを抱き始めている。だがその感情を即座に握りつぶす。

 これはデジタルがまだ走って欲しいという感傷だ。トレーナーは冷徹なまでに周りを客観視しなければならない。明日は感傷に引きずられることなく、デジタルの目的を達成するために全力を尽くす。

 トレーナーは改めて誓いを立てて作業を再開した。

 



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勇者とラストダンジョン#16

──もし今日死ぬとしたら何を食べたい?

 

 アグネスデジタルの頭にチームメイト達と話した取り留めない雑談の記憶を思い出す。

 高級フランス料理店のフルコース、人気店のスイーツ、実家の手料理、様々な食材や料理が浮かびあがる。当時は何と答えたかは覚えていないが今ならこう答える。

 

 普通の食事

 

 目の前にあるのはバターロール、スクランブルエッグ、サラダと至って普通のメニューだった。量も多くもなく少なくもない、それをいつも通りの動作で食べる。

 心にもスタミナがある。感情が揺れ動けばその分だけ心のスタミナを消費する。もし今日死ぬとしたら友人や家族と過ごし、喜怒哀楽を共有して思う存分感情を揺れ動かしたい。その為に今まで食べたことが無い最高級の料理を口にして、無駄に感情を揺れ動かしたくない。

 そして今日も同じだ。午後15時40分、有マ記念と言う最高に楽しいイベントが待っている。

 やはりトレーナーには改めてお礼の言葉を口にしよう。チームメイト達や友人やお世話になった人にも口にしよう。やはり引退したくないと言うかもしれない。

 レース後には様々な感情が出てくるだろう。だがそれはレースまで一旦封印する。不安も悲しみも寂しさも押し込んで、嬉しさと楽しさだけを表に出し、ウマ娘を感じ楽しむことに注ぎ込む。

 

──

 

「アタシ、アタシ、ボリクリ、アタシ、ヒシミラクル」

 

 タップダンスシチーはスポーツ新聞をパラパラと捲り、読み終わると目の前のテーブルに投げ捨て、脇にある新しいスポーツ新聞を手に取っていく。そして今日発行されたスポーツ新聞を全て確認し終えた。

 

「アタシが4、ボリクリが2.5、ヒシミラクルが1.5、クラシック組が1.5、その他0.5ってところか」

「実力差を考えれば上々だろう」

 

 タップダンスシチーの言葉にトレーナーは頷く。今日のスポーツ新聞の1面は全て有マ記念についての記事だった。そしてレースの記事も他の日の内容と比べて多く割かれていた。

 2人が確認していたのは1面やレース記事で誰を本命にしているかで、大まかな比率を集計したのが先ほどの数字だった。

 

「恐らくは1番人気だろう」

「とりあえずは目的達成だな」

 

 2人は安堵の息を漏らす。GIで1番人気を背負って走ることはウマ娘にもトレーナーにも名誉である。それが有マ記念で有ればその名誉はさらに上がる。

 だがそんなものはサラサラ興味ない。勝てば最低人気だろうが、誰も応援券を買っていなくとも構わない。1番人気が欲しかったのは全て勝つためだ。

 

「てっちゃん、今からタップダンスシチー理論を提唱しよう」

「ほお~、是非とも聞かせてくれ」

 

 突然の言葉にトレーナーは興味深そうに相槌を打つ。それに気分良くしたのか饒舌に語り始める。

 

「レースに勝つためには心技体の総合値が優れた者が勝つというのが従来の理論、それに運の要素を加えたのがヒシミラクル理論、タップダンスシチー理論はさらに別の要素を加える。それは『勝負力』だ」

「勝負力?」

「レース外やレース前に勝つために行動する力だ」

「つまり盤外戦術だな、確かに重要だ」

 

 トレーナーは僅かに口角を上げながら答える。レースに勝つためにはフィジカルを鍛える。走りのテクニックを磨く。実力を発揮できるメンタルを鍛える。スカウティングして相手の弱点を突く。それは確かに重要だが、それだけでは勝てない。

 如何にしてレース前に自分達に有利な状況を作るか、その為に必要なのが盤外戦術で有り、勝負力であると解釈した。

 例を挙げるとすると本来であればタップダンスシチーはここまで本命に押されることはなかった。

 前走は全てが有利に働いたに過ぎず、自力に勝り中山に相性が良いシンボリクリスエスが1番人気になるはずだった。

 だが取材を受けるたびに条件が変わっても多少着差が縮まるに過ぎず、完勝に終わっていたと豪語し、レースを経て成長し、有マ記念ではさらに調子が上がると吹聴し続け、トレーニングでも瞬発力が増した走りを見せ、好時計を連発することで口だけは無いとアピールした。

 実力は本物であると認識させ記者たちは記事で褒める。それを見た一般の者達がそうなのかと認識を変えていく。その結果タップダンスシチーが推定1番人気になっていた。これも勝つためには必要なことだった。

 

 勝負力を重視するトレーナーは全体的に見てもかなり少ない。しかしそれはある意味仕方がなかった。

 トレーナー試験は極端なことを言えば、ウマ娘がいかに競技生活を健康的に過ごし、速く走らせられる知識や技術が有るかを問うものである。そして試験に受かりトレーナーになるためにその分野を勉強する。つまり勝負力を問われることは無い。

 そしてそのトレーナーは勝負力を養わず、教わるウマ娘も勝負力が備わることは無い。何より盤外戦術や小細工は認めているが心の中で卑怯と捉え、若いウマ娘達は教えたくないという考えがあった。

 だがトレーナーはそうは思っておらず、タップダンスシチーも同様だった。だからこそ勝つために全力で盤外戦術を実行し、小細工を弄する。

 

「アタシ、いやアタシ達は勝つために全力を尽くした。だから勝てる」

「当然だ」

 

 2人は事実を確認し合うように言葉を発し、その言葉には自信が漲っていた。

 

───

 

 ヒシミラクルは窓を開けると喜びも驚きも見せず平然と呟く。

 

「ほらね」

 

 窓の外を見ると雨粒が落ち、街路樹やアスファルトを濡らしていた。昨日の天気予報では今日の天気は晴れで、関東で振るのは月曜以降とされていた。雨雲が急激に移動したのだろう。TVをつけると雨は深夜から降り始めたと報道していた。

 この勢いならバ場は重か不良だろう。改めて自分の強さを認識する。

 

 芝のコンディションが悪くなればなるほど芝に脚を取られ体力を消耗していく、つまりスタミナが豊富な者が有利だ。

 さらにレース中は最高時速約70キロ、道中でも約50キロで走る。そうなれば今降っている程度の雨粒は立派な物理衝撃となる。確実に肉体にダメージを与え、目に入ることがあれば確実に怯むだろう。

 雨は不確定要素を増やす。雨粒が目に入るのは勿論、雨で滑りやすくなるので体勢を崩す、転倒する、転倒したウマ娘に巻き込まれる。雨粒の衝撃によるダメージで判断力が低下し、進路を妨害、状況は刻々と有利になっていく。

 ヒシミラクルはどんな形で勝利しても喜ぶ。例え転倒で上位人気が全て巻き込まれての勝利だろうが、集団食中毒でレースを棄権しようが、身内に不幸が有って平静を保てなく凡走しようが関係ない。

 それは相手の不運により起こった出来事で、運が強ければ起きないことだ。そして運は実力であり、実力で勝ったなら心の底から喜ぶべきだ。

 それで喜んでいけないのであれば、どのレースでも辛気臭い顔をして表彰されてウイニングライブを歌わなければならない。

 

 有マ記念ではタップダンスシチーから奪われた運を取り返し、他のウマ娘の運を喰らう。そして勝利した後は海外に向かう。

 世界で運を含めた強さがどこまで通用するか試したい。レースに勝ち心技体だけが強さだと思っている者達の鼻を明かしたい。勝ち続ければ運の重要さに否が応でも気づくだろう。

 

───

 

 レース場では万雷の拍手と割れんばかりの歓声が降り注ぐ。観客の中には歓喜と感動の涙すら流す者も居た。そしてレースを走ったウマ娘が次々と声をかけてくる。それは走りへの賞賛の言葉でもなく、健闘を称える声でもなく、次は絶対に勝つという宣言でもない。

 其々が感じた宇宙への感動や興奮をありのままに語り掛ける感想の言葉、体験を上手く咀嚼できてないのか、感じたままの言葉を洪水のようにぶつけてくる。

 それは観客も同じで上手く伝えられないから手のひらが赤くなるまで拍手をし、喉が枯れるまで声を上げる。レース場の全ての者が体験して喜びや嬉しさや気持ちよさを共有したがっている。

 

 ネオユニヴァースは明活で幼子のような純粋無垢な笑みを浮かべた。

 

 機械的な電子音により意識は現実に戻される。良い夢だった。夢の余韻を感じ自然に口角が上がっていた。

 あれこそが目標であり理想だ。誰もが宇宙を感じ気持ちを共有したいと行動し語り合う。だが現状は理想には欠片も届いていない。

 理想への道は遥かに険しい。だがそれは距離が有るだけだ、進む方向は間違っていない。それをアグネスデジタルによって気づけた。

 

「ハローハロー聞こえますか?

 

私は投げる。パリンパリンと砕けていくけど止まっちゃう。

私は鳴らす。ドンドコドンドコと叩くけどけど消えてしまう。

君は見えないの?貴方は聞こえないの?どうすれば伝わるの?

私は冒険に出た。魔法のマスターキー、全てを貫く槍、何でも斬れる刀、そんなものはどこにもない。

すると妖精が語り掛ける。持っているそれを使えばいいじゃない。

手元にあるのは古ぼけた無線機、

私は冒険に出る。探すのは部品、一杯集めて一杯改造して大きくする。

 

ハローハロー聞こえますか?」

 

  ネオユニヴァースは枠順抽選会で読み上げた詩を口に出す。宇宙を伝えるための表現方法を模索し、その一環で詩を書いた。

 結果的には宇宙を伝えることは出来なかったが、感情や気持ちを伝えるという点では好みで、普通に喋るより伝わるような気がしていた。

 

 レースを走っても他者に存在する壁によって宇宙は伝わらなかった。

 どんな壁も壊せる道具を探そうと表現方法を模索したが、どこにも無かった。

 だがアグネスデジタルには少しだけ伝わっていて、方法は間違っていないと気づけた。

 足りないのは宇宙を伝えるエネルギーの出力だった。

だから今日のレースで全てのウマ娘を飲み込み己の宇宙を大きくさせる。

 そうすれば鈍感な者でも宇宙の存在に気づくかもしれない。

 

 書いた詩は過去の苦しみと気づき、そして未来にする行動を表現したものだった。有マ記念で伝わらなければ、次のレースでウマ娘を飲み込んで大きくなる。それで伝わらなければまた大きくなる。それを繰り返せばいずれは伝わるはずだ。

 願いを込めるようにもう一度詩を読み上げた。

 

───

 

 シンボリクリスエスの心は平穏そのものだった。いつもの時間に起きて、いつもの食事を摂って、いつものようにレースに向けて忘れ物が無いように最終確認をする。

 今日で現役最後のレースになるが未練も後悔も一切ない。レースは仕事だった。トレーナーを日本一にするための業務の1つ。

 そして仕事は続いていく。業務がレースからトレーナーのサポートに変わるだけ、悲しむ理由は1つもない。

 最終確認をする中で今日すべきことを確認する。まずは勝つこと、そしてトレーナーの理想の走りを実現することだ。

 この日の為に可能な限りの努力を積んできた。出来なければ時間が足りなかったか、才能が無いか、実現不可能かだろう。これは言い訳ではなく、自己分析で導き出した事実である。

 いつもであればトレーナーの作品であることを意識する。トレーナーに教わった全てを過不足なく実行し、その心技体はレースに通用し、教わればある程度才能が有れば実現できると証明する。

 しかしレースでしようとする理想の走りは、トレーナーはまだ理屈を把握し確立しているわけではない。これでは自分の走りでトレーナーの作品ではないのではないかと言う疑問が過る。

 だが即座に否定する。トレーナーはいずれ理想の走りの理屈を把握し確立し、教え子たちに教え実現できるようになる。自分は未来の技術を現在で実施するだけに過ぎず、作品であることに変わりはない。

 シンボリクリスエスはもう1度忘れ物がないか最終確認をした。

 

───

 

 ゼンノロブロイは肘を机に置き両手を組む。その両手は震えていた。あと約8時間後に有マ記念は発走される。結果次第でトゥインクルレースの運命は決まってしまう。

 皆は夢や希望を抱いて走る。だがシンボリクリスエスは違う。金銭という薄汚れた物の為に走る。

 もし勝つようなことが有れば先人たちが紡ぎあげた歴史が穢され、汚点として永遠に刻まれてしまう。そしてレースに勝利した心技体は称賛され、トレーナーの為に走ったという話は美談として語り継がれるだろう。

 お互いの私利私欲にまみれた薄汚い関係のどこが美しいのだ、絶対に勝たせてはならない。気合いを入れようと手のひらを握ろうとするが力が入らない。

 

 トレーナーとシンボリクリスエスの関係性を知っているのは自分だけだ。仮に世間に公表しようと普段の態度と証拠不十分で大半は信じず、逆に名誉棄損だとバッシングを受けるだろう。

 何よりシンボリクリスエスは強い。憧れていたからこそ誰よりも強さを知っている。果たして勝てるだろうか?

 誰にも知られず、強者相手にレースの運命を決める戦いに挑まなければならない。その重圧と孤独に押しつぶされそうになっていた。

 

 ゼンノロブロイは懸命に心を奮い立たせようとする。その最中ある記憶が蘇る。それは現実の記憶ではなく、好きな英雄譚の内容だった。

 ある主人公は負ければ世界が終焉を迎えてしまう戦いに挑んだ。ある主人公は敵の計略により土地も味方も全てを奪われた。それでも主人公達は戦いに挑んだ。そして勝利した。

 所詮は物語で敵を倒せると決まっていたと言われればそれまでだ。だが主人公達にはそんな未来が見えていない。様々な不安や恐怖や葛藤が有っただろう。それでも己の信念と正義を胸に立ち向かった。

 

 英雄譚の主人公になりたかった。彼らのように力も技もないかもしれない。だが心は模倣出来る。現実は物語のように都合よくいかない。無惨に破れシンボリクリスエスが勝つ未来が有るだろう。だが彼らと同じように正義と信念を胸に秘め走る。先人の歴史と想いを守り野望を打ち砕く。それが己の正義と信念だ。

 

 気が付けば体の震えは止まっていた。

 

 

12:00

 

 中山レース場正門前、多くの人がそこを目印にし集まっていた。その人だかりの中に3人のウマ娘が居た。エイシンプレストン、テイエムオペラオー、メイショウドトウである。

 

「一応予定時間ですけど、来ないですね」

「もしかして迷っているんじゃ?」

「その可能性はある。ドトウかプレストン、今どこに居るかメールしてくれ」

「分かりました……ってあれ」

 

 プレストンは目を細めながら駅に続く道を指さす。その指の先には赤髪で長身の外人男性と金髪の外人女性が歩いていた。

 3人は男女に向かって手を振ると存在に気づいたのか、早歩きで駆け寄ってくる。

 

『すみません。少し迷ってしまいまして』

『いえ、時間丁度です』

 

 赤髪の外人男性は英語で謝り、プレストンが英語で応対する。赤髪の長身男性はデジタルの父親で、金髪の外人女性はデジタルの母親だった。

 

 デジタルは両親が見に来ると聞き段取りをしていた。その際にダートプライドの時のように関係者席で見てもらおうとしたが、両親達はそれを断り一般席で見ると言ってきた。

 両親達は最後のレースは選手の両親としてではなく、1ファンとして応援したいと思っていた。

 母親はデジタルのドバイワールドカップでもダートプライドでもデジタルの身を案じるあまり、純粋な気持ちで応援できていなかった。

 最後ぐらいは純粋に応援したい。だが関係者席では声を出しての応援は禁止されているので、一般席で応援しようとしていた。

 

 一方デジタルはその提案に頭を悩ます。一般席で応援すると言っても徹夜でもしない限りまず席が取れない。指定席も外国からアクセスしてチケットを取るのは無理だった。そして初めての中山レース場で立ち見をしようとすれば、満足にレースが見られない可能性が有る。

 ならば知り合いに頼もうとプレストン達に指定席の予約を頼み、予約できなければ関係者席で見るようにと約束を交わした。

 そしてプレストン達も頼みを了承し、どうせなら関係者席でなく指定席で見るかと席を予約し、幸運にも5人分の席が取れ、一緒に見ることになっていた。

 

 5人は正門を通り敷地内に入っていく。その間デジタル夫妻は物珍しさで辺りをキョロキョロと見まわしていた。

 

『アメリカのレース場ともダートプライドをやったレース場とも違いますね』

『グランプリですから、人も多いですし、熱気も凄いです』

『それもそうですが、雰囲気が違います。ダートプライドは悪く言えばエンターテイメント性が過ぎるというか、若者達が多くを失う瞬間を見たいという感情が有った気がしますが、今日は純粋にレースを楽しみにきた客というか』

 

 母親の言葉に其々が納得する。ダートプライドはとにかくエンターテイメントに特化し、興味がない客を引き込もうと刺激的な要素を入れていた。その代表が勝ち鞍とレイを賭けた事だろう。

 当人達にとっては決意と覚悟の表れだったが、傍から見ればより盛り上げる為の行為にしか見えなかった。他者が争い破滅する姿を安全圏から見ることを楽しむという感覚は誰にも少なからず存在する。

 

『純粋にレースを楽しむ。これが本来の空気ですよ。そして私達も楽しみましょう』

『そうですね。しかしこれでデジタルがレース場を走るのは最後なのね』

 

 母親は思わず呟くと即座に口に手を当てる。今日は純粋にデジタルを応援するつもりで、ネガティブな発言はしないつもりだったが、咄嗟に口に出てしまった。

 

『仕方がない。終わりは必ず来るさ。私達が出来ることはデジタルの最後を目に焼き付け、終わったら祝福してあげることだ』

「父君の言う通りだ。デジタルが迎える終わりは世間的にはハッピーエンドではないだろう。だがデジタルなりのハッピーエンドを掴み取るはずさ。ボク達はそれを祝福してあげればいい」

 

 オペラオーは父親の言葉に賛同するように仰々しく喋る。デジタルが有マ記念に勝つ確率はほぼ0だ。奇跡が起きるのがこのレースだが、それでも無理だろう。

 しかし本人なりの幸せな結末を勝ち取るために、この日を過ごしてきたのは知っている。ならば出来る。あれは欲深いウマ娘で強引にも幸せな結末を掴み取るだろう。

 

「有マ記念まで時間ありますし、ショップでも行きます?それともご飯でも食べます?」

『でしたらショップに行きたいのですが、デジタルも小さい頃はグッズを身に着けて応援していましたので、私達も同じようにしようと思いまして』

『いいですよ。では行きましょう』

 

 5人は和気あいあいとしながらスタンドに向かって行き、レースまでの時間を楽しみながら過ごしていく。

 本来であればデジタルの控室に行って過ごすことも可能であり、引退レースまでの時間を共に過ごしたいという想いもあった。だがどう過ごすかは本人の自由だ。

 もしデジタルが来てくれたらと呼びかけたら行くが、連絡が無いのに行くのは無粋な気がした。一緒に過ごし笑ったり泣いたりするのはレース後にいくらでも出来る。

 

13:00

 

 中山レース場のターフビジョンにスペシャルウィークとグラスワンダーの姿が映る。GIレース前には過去のレースのダイジェストを流し、ファン達は其々のレースの思い出を振り返る。

 当時の凱旋門賞覇者ブロワイエをジャパンカップで破った日本総大将スペシャルウィーク、そのスペシャルウィークを宝塚記念で完封した不屈の不死鳥グラスワンダー、その両者による僅差の争い。特にこのレースは有マ記念でもベストレースであるというファンの意見は多い。

 

「このレースは名勝負だったな」

「ああ、確かスペシャルウィークが途中まで先だったけど、ゴールの時だけグラスワンダーが僅かに先だったんだよな」

「それじゃあ、勝ったと思ってウイニングランしちゃうのも仕方がない」

「ある意味迷場面だったけどな。あれは現地で見てて思わず笑ったよ」

 

 ファン達が思い出を振り返るなか、1人のウマ娘が野外スタンドのフェンスにもたれ掛かり恥ずかしそうに俯く。そのウマ娘はスペシャルウィーク本人だった。

 あの時は本当に勝ったという手応えがあったのだ、その後もゴールドシップを中心にイジラれたのは未だに思い出す。

 

「それで今日の有マ記念はどう思う?」

「タップダンスシチーとシンボリクリスエスだろ。この2人が少しだけ抜けている感がある」

「俺は断然ネオユニヴァース、今回のネオユニヴァースは今までと違う。絶対何かやらかしてくれるって」

「あとはヒシミラクルか、内枠だしまたまたまたミラクルって勝つかも。あとは地味に強いゼンノロブロイに、菊花賞のザッツザプレンティにリンカーン、後は脚質的に向かないけど、ツルマルボーイが嵌れば面白そうだな」

 

 スペシャルウィークはファン達の声を耳に傾けながらため息をつく。今の会話にデジタルの名前が一切出てこなかった。前走を考えれば仕方がないが、それでも寂しさがある。

 

 スペシャルウィークは引退後北海道に帰り実家の手伝いをしている。そしてデジタルとは直接会っていないが、やり取りをして交流が続いていた。

 今日はデジタルにお願されたわけではなく、自分の意志で中山レース場に来ていた。友達の引退レースはテレビではなく現地で見たい。そして今日は1人で来ていた。

 チームスピカの面々やセイウンスカイ等の同世代の友人を誘おうと思ったが、声をかけなかった。年の瀬で忙しいというのもあるが、デジタルとは親しくなく、そんなウマ娘の引退レースを混雑する現地で見たくは無いだろう。

 恐らくデジタルは勝てない。ならば前々日会見のインタビューで言った、悔いが残らないようにするのに全てを注ぐだろう。

 だとしたら悔いとは何か?勝つ為に全力を注ぐことではない。きっと別の何かを成し遂げるために全力で走るという事だろう。

それはレースを見れば理解できる。デジタルのレースはいつだって雄弁だから。

 

 

 

14:00

 

 その場は異様な空気に包まれていた。レース場に居るファンで有れば誰もが知るウマ娘達が集結している。

 声をかける。写真を撮る。サインをねだる。ファンであればそれらの行動を取りたいところだが、漂う空気のひり付き具合に躊躇させる。

 

 ヒガシノコウテイ

 セイシンフブキ

 サキー

 ストリートクライ

 キャサリロ

 ティズナウ

 

 6人が一堂に会していた。

 

 中山レース場にある関係者入り口で6人は出会った。

 サキーとストリートクライは関係者入り口でパスを見せている際に、ヒガシノコウテイとセイシンフブキとティズナウは関係者席の入り口を挟んだ敷居を挟んだ一般スペースを歩いている際に鉢合わせる。あまりに予想外の出来事に其々が目を剥き無言で向け合っていた。

 

『ヒガシノコウテイさんとセイシンフブキさんはどうしてここに?』

 

 最初に口火を切ったのはサキーだった。とりあえず場を動かす質問であると同時に純粋に興味があった。

 

『私は東京大賞典の視察でこっちに来ていまして、序に有マ記念も視察しようと思ってきました』

 

 ヒガシノコウテイは英語で質問に答える。盛岡レース場をより盛り上げるために、大井レース場で開催される東京大賞典を現地で見ることで、運営におけるヒントを得られると考え東京に移動し、折角なら中央の有マ記念も視察するかと足を運んでいた。

 

「暇つぶし、家から中山はすぐそこだし」

 

 セイシンフブキは日本語でぶっきらぼうに答える。本来であれば見に行く予定は無かったのだが、ヒガシノコウテイによければ息抜きにレースを見ないかと誘われていた。

 東京大賞典に出走予定でそんな暇はないが、家から10分程度で着くのでトレーニングの休憩には丁度良いかと来ていた。

 

『そうですか、私は雑誌のコラムの取材をするために来ました。後は個人的に気になることがありましたので、生で見た方が分かると思って』

 

 サキーは友好的な態度を見せながら話の流れで答える。仕事としてレースについてのコラムやレースの総評を書き、世界で最も盛り上がるレースと言われる有マ記念を見て記事を書こうとレース場に来ていた。

 

『私達は東京大賞典に出走するウマ娘の付き添いで日本に来て、ここに来たのも観光の一環だ』

 

 キャサリロがストリートクライの代わりに答える。その言葉にヒガシノコウテイとセイシンフブキの眉がピクリと動く。

 本来であれば東京大賞典は国際GIではないので、外国のウマ娘は出走できない。

 だが一時的に地方に所属するという方法で外国のウマ娘は出走できる。2人出走するうちの1人はゴドルフィンの所属だった。恐らく日本のダートを走った経験を代われアドバイザーとして来日したのだろう。

 

 そして5人はティズナウに視線を向ける。この中でレース場に来ている理由が最も謎なのがティズナウだった。

 ダートプライド以前はTV出演など積極的にメディアに露出していたが、それ以降はSNSの投稿もせずに完全に表舞台から姿を消していた。それが日本の中山レース場で見かけるとは誰もが思っていなかった。

 

『東京大賞典に親戚が出走する。絶対に身に来いと言われたので仕方がなく。そしてここに来たのは暇つぶしだ』

 

 東京大賞典にはゴドルフィン以外から、もう1人の外国ウマ娘が出走しアメリカ出身で、それがティズナウの親族だった。その言葉に皆はある程度納得していた。

 

『折角なら一緒に関係者席で見ませんか?パスは3人分余っていますし。此処であったのも何かの縁ですし、デジタルさんの最後のレースを一緒に見ましょう』

 

 サキーは妙案を浮かんだとばかりに手を叩き提案する。その言葉に一同は其々反応を見せた。

 皆は日本に来た主目的も、中山レース場に足を運んだ主目的も違っていた。だが副目的は共通していた。それはアグネスデジタルの最後を生で見届けるためだ。

 5人は信念、意地、矜持、夢をかけてダートプライドを走り敗北した。結果的にはデジタルに夢を断たれ、多くを失った。

 だが決して目を覆いたくなるような過去ではなく、個人に対する恨みはない。それどころか敬意と奇妙な好意や友情を抱き、アメリカ出身でありながら外国で走るウマ娘を憎悪していたティズナウですら同様だった。

 ついであれば勝者の最後を見るのも悪くはないという想いを5人は抱いていた。

 

『私は構いません』

「アタシもだ」

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキは快諾し、一同の視線はティズナウに向けられる。

 

『今日だけだ』

 

 ティズナウは舌打ちをしながら渋々と了承する。日本の2人は果敢に挑んだ挑戦者として敬意を持ち、好感度は高い。

 だがサキーはかつてゴドルフィンに所属し、ストリートクライに至ってはスタッフだ。ゴドルフィンに対しては未だに憎悪と敵意を持っているので同じ空気も吸いたくはなかった。

 しかしダートプライドでは同着と互角で、それに対してはそれなりに認めている。何よりデジタルが結んだ縁に身を任せるのも悪くはないと考える。

 

 この5人は生まれも育ちも主義主張も異なり、本来であれば決して交わることは無かった。

 だがデジタルがダートプライドを企画したことで、5人は結びつけられこうして同じ場所に集わせた。信心深い性格ではないが運命のようなものを感じていた。

 

───

 

 メイショウボーラーは人込みをかき分けながら辺りを見渡す。

 中山レース場のスタンドの席は完全に埋まっているのは勿論だが、通路ですら立ってみようとする客で埋め尽くされ、移動するのも一苦労だった。

 見通しが甘かった。まさかこの時間でここまで客が入っているのとは全く予想していなかった。

 このままではレースをちゃんと見られないかもしれない。どこ立ち見で見るスペースは無いか、首を忙しなく動かしスペースを探す。

 すると客達が外に移動し始める。どうやらパドックで何かイベントをするようだ。この機を逃す手は無いと空いた立ち見スペースに体を滑り込ませる。

 そこはゴール板から少しばかり左だが今のところコースがよく見え、まずまずの場所だった。

 レースでは座っている客も立ち上がるので視界を遮断される可能性も有るが、前の席を取っている客の身長が低い事を祈るのみだ。

 スペースを確保できた安堵から手すりにもたれ掛かると、肘が隣に立っている客の腕に当る。反射的に肘を戻し視線を向けると隣の客も同じように視線を向けて視線が合う。

 隣の客はウマ娘だった。黒髪のショートヘアーで青色のカチューシャをつけていた。その姿はどこか見覚えがあった。

 

「もしかして、メイショウボーラーさん?」

 

 そのウマ娘は自信なさげに尋ねる。先週の朝日FSは2着だったが、世間的にはジュニア級の有望株として知られ、ファンに知られても不思議ではない。

 しかし自覚は無く、驚くと同時に初対面のウマ娘に名前を知られていることに僅かばかし恐怖を感じていた。

 

「もしかしてアドマイヤマックスさんですか?」

 

 メイショウボーラーはオウム返しのように尋ねる。見覚えのある顔に声を聞いたことで記憶が結びつく。

 あれはデジタルが走った安田記念で2着だったアドマイヤマックスだ。安田記念はデジタルの復活レースだけあって強く印象に残り、その影響で覚えていた。

 

「そうです。初めまして」

「あっ、初めまして」

「1人ですか?チームメイトなら関係者席で見られると思うのですが」

「まあ、色々と事情が有りまして…」

 

 メイショウボーラーは言葉を濁す。チームメイト達は現に関係者席で観戦していて、自分だけが別行動をとり一般席で見ようとしている。それには深い理由が有るのだが、初対面の人間に話す内容ではない。

 

「アグネスデジタルさんはどんな様子でしたか?」

「えっと、良い感じだと思いますよ。万全の状態でレースに臨めます」

「引退について何か言っていましたか」

「いえ、納得して受け入れてますよ」

 

 メイショウボーラーは正直に語る。確か有マ記念にチームのウマ娘は出走していない。

 出走していれば敵に情報を教えないが、無関係であれば問題はない。そして驚いたのがデジタルについて質問したことだ。引退について訊くとはファンだったとしても意味深な感じだ。無意識に警戒心を強める。

 

「私はアグネスデジタルさんを尊敬していますし、慕っています。そしてかつては心酔、いや崇拝していました」

 

 アドマイヤマックスは遠くを見ながら語り始め、メイショウボーラーは自然に身構え、さらに警戒心を強める。いきなりの自分語りもそうだが、崇拝という単語に妙な不穏さを感じていた。

 

「そして崇拝するあまり間違った道に進もうとしていました。それをアグネスデジタルさんが引き留めてくれました。」

 

 かつてはアグネスデジタルという偶像を崇拝し、裏切られたと落胆し、向かった先には何もない虚無の道に進もうとしていた。それを間違っていると否定し進むべき道を示してくれた。

 もし安田記念で理想の偶像を打ち砕いてくれなければ間違いなく不幸になっていた。感謝してもしきれない。

 一方メイショウボーラーは興味を示したのか無意識に体を寄せて見つめる。

 何をしたのか分からないが、復活劇のなかで1人のウマ娘を救っていた。非常に気になる話だ。

 

「アグネスデジタルさんが引退について悩んでいる際に、差し出がましいようですが、忠告しまして、どうなっているか気になっていまして」

「そうですか」

「恐らくですが衰えを受け入れ納得したのでしょう。そして周りの皆さまも同様に受け入れた。そして私も慕う者として受け入れるべきなのですが、本心では受け入れられず、今日のレースで復活して欲しいと願っています。貴女と同じように」

 

 アドマイヤマックスはメイショウボーラーに視線を向ける。短い言葉のやり取りで相手も同じように引退を受け入れていないと予想していた。

 偶然出会い厳しい言葉を投げかけた後もデジタルの動向を追っていた。

 そして有マ記念で引退すると発表し引退会見の様子を見て、衰えを受け入れたと察知した。それが1番の幸せならば同じように受け入れるべきだ。だが本心は受け入れてなかった。

 今の自分は幸せだ。それはデジタルが道を示してくれたからだ。そして今の自分は救ってくれたお陰でこれだけ幸せだとレースを通して教えたかった。

 これは個人的な願望だ、いやワガママだ。デジタルにはこの先もずっと走って何回も一緒のレースに走りたかった。

 一方メイショウボーラーはその反応にビクリと体を震わす。その言葉はまさに図星だった。

 

「そうです。私はアグネスデジタルさんの引退を受け入れてません。本当なら受け入れて見送るのが正しいのでしょう。ですが一緒に走りたいという欲がそうさせません。だから引退する瞬間まで抗って、有マ記念で復活して安田記念で一緒に走れると願い続けます」

 

 ありのままの心情を吐露していく。デジタル以外には話していない本心、それを初対面のウマ娘に話しているのは妙な気分だ。しかし納得できる部分もある。

 彼女は自分と同じ諦めていない。本人の為にならないと思っても個人的願望を優先するワガママなウマ娘だ。

 

「あの、良かったらこのまま一緒にレースを見ませんか?1人ではダメでも2人ならもしかして願いの力が増して、復活するかもしれないですから」

「いいですよ。ワガママな子供同士最後まで抗いましょう」

 

 メイショウボーラーの提案にアドマイヤマックスは快諾する。同じく慕っているウマ娘の最後になるかもしれないレースを見るには悪くはない相手だ。

 

「あと、タメ語でいいですよ。年下ですから」

「じゃあ遠慮なく。とりあえずトイレ行ってくるから場所取っておいて、トイレのこと何も考えてなかった」

「いいですよ。私も行くのでお願いします。その後は安田記念について話してくれません。レースまで3時間もあって暇なんで」

「考えておく」

 

 アドマイヤマックスはおどけるように返事しトイレに向かった。

 

 

14:30

 

「この流れになったら、この位置につけ」

「了解」

 

 控室内でトレーナーがホワイトボードを片手にデジタルと打ち合わせをしている。デジタルもウィーダーインゼリーを飲みながら真剣に聞いている。

 いつもなら集中力とウマ娘への想いを高めるために1人で編集映像を見ているのだが、今日は違っていた。

 衰えていなければウマ娘に対する想いを高めれば力を引き出せたかもしれないが、今はそれだけでは足りない。レースにおける緻密なシミュレーションも必要だ。故にいつもより早めに映像を見るのも切り上げて作戦会議に当てていた。

 

「まさか雪が降ってくるなんてな。天気予報じゃあ雪は勿論雨すら降らないって言っておったのに」

 

 トレーナーは思わず悪態をつく。先程から雨が雪に変わっていた。

 念のために雨のシミュレーションしていたが、それでも若干煮詰める時間が足りなかった。さらに雨が雪になっている。この事態はまるっきり予想していなかった。

 

「こんなん予想できるわけないやろ」

「そうだね。アタシも雪の不良では走ったことないや」

「しかし、ほんまにヒシミラクルが怖くなってきたわ」

 

 芝が滑りやすくなればアクシデントが発生する可能性が高くなる。そうなれば最も恩恵を受けるのはヒシミラクルだ。

 自分は影響を受けず、相手は不利を被る。そうなる保証はないのだが、有力ウマ娘がトラブルに遭う中悠々と走り1着でゴールする姿が浮かび上がる。

 内枠にスタミナ自慢に有利な不良バ場、極めつきは不確定要素を増やす雪だ。悉く有利な状況になっていく。

 

「マジで神ってるね。運の要素なら今のところヒシミラクルちゃんがトップかな」

「お前の運も捨てたもんやない。内枠やし、雨が雪に変わった」

「どういうこと?」

「雨ならスタミナを消費するから不利や。せやけど雪なら別や。こんな状態で走ったウマ娘はそうは居ない。だからこそ様々な場所と状態で走り、バ場適応能力が高いお前が有利になる」

「なるほど」

「悪いが本バ場入場は出走ウマ娘に一切意識を向けずに、芝の感触を確かめることに全神経を集中させろ。レースが始まる前に走り方を掴め」

「まあ、しょうがないか」

 

 デジタルは渋々と納得する。今日は1番最初に本バ場入場するので、入り口付近で待ち構えて、全てのウマ娘の様子を見ようとしていた。しかし事情が変ってしまった。

 レース前のウマ娘も感じたいが主目的はレース中のウマ娘を感じることだ。その為に芝の状態を確かめなければならないなら仕方がない。

 これはウマ娘を感じるという目的をヒシミラクルの運が邪魔したとも考えられる。現時点ではヒシミラクルの運が自分の運を喰っているかもしれない。

 

「そして確認やが」

「分かってる。返しは極力走らないでしょ」

 

 返しとは返し運動のことであり、返し運動とはコースに入ってきたウマ娘がするウォーミングアップの総称である。今日のレースは返しで消費する体力すら惜しいと判断し、返しでの運動量を極力減らそうと計画していた。

 

「じゃあ、最終確認や、教えたツボを押して見ろ」

「了解」

 

 デジタルはトレーナーの指示に従い、見える様に手のひらや鳩尾や背中にあるツボを押す。これは体の体温を温めるツボであり、レース前に前もって教えていた。

 ウォームアップはレース前には必須の作業であり、ウォームアップする理由は様々あるが、体を温める為である。

 極端な事を言えば体さえ温まっていればウォームアップはしなくていい。だがこれは極論であり、普通に考えればした方がメリットは大きい。

 今回はデジタルの状態を考えて、返しや準備運動するメリットとデメリットを天秤にかけた結果、ツボを押して体温を温めた方が良いと判断したに過ぎなかった。

 

「どう?ちゃんと出来てる?」

「見たところはな、手かせ」

「はい」

 

 トレーナーはデジタルの手を取り体温を測る。空調が利いているのを加味しても体温は高い。これはある程度効果が出ている証拠だ。

 

「それでイメトレもしとんのか?」

「してるよ。もし防寒具がない状態で遭難した時は役に立ちそうだね」

 

 トレーナーは体を温めるにはツボ押しだけでは足りないと別の方法を教えていた。これはサブトレーナー時代、メイントレーナーから教わった方法だった。

 全身に血液が駆け巡り、体中に湯たんぱ等暖かい何かが巻き付いているイメージする。そうすれば体が温まる。ウォームアップが出来ない状態で体を温める方法として教わった。だが今までチームのウマ娘にその方法を教える機会はなかった。

 使用機会が限定すぎ、何よりそのイメージを明確に思い描けず、効果が発揮できないからである。

 

 一方デジタルはトリップ走法が出来るほど、イメージを思い描く力が長けているので、実現可能かもしれないと教えたら、即座に出来ていた。

 だが体を温めるイメージだが、ウマ娘に抱き着かれている状況を想像しているらしく、それだと興奮して無駄に体力を消費してしまう。

 トレーナーはイメージ変更するようにデジタルに指示し、暫くは別のイメージを構築するのに苦労したが、今では最初と同じように体を温められるようになっていた。

 

「人生何が役に立つか分からんもんやな。教えてくれた上田先生には感謝せな」

「何が?」

「体を温めるツボやイメージの仕方や。ツボ押しはともかく、イメージの方は俺も教えたウマ娘も出来なかったし、忘れておったわ」

「ダメじゃん。白ちゃんはともかく、教えたウマ娘ちゃんが出来ないのは、その上田先生から教わった事をしっかり伝えてないからでしょ」

 

 デジタルはトレーナーを揶揄い、トレーナーは苦笑する。確かにそうかもしれないが、これは誰もが出来る芸当ではない。デジタルだから出来ると判断したので教え、その期待に見事に応えてくれた。

 

 それから2人はパドック開始ギリギリまで作戦会議を続けた。

 



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勇者とラストダンジョン#17

 中山レース場パドック前には既に多くの人々が押し寄辺りを囲んでいる。それらの人々の中には1レースから場所を陣取っている筋金入りのファンも居た。それだけ有マ記念のパドックが見たいというバロメーターでもあった。

 そして筋金入りのファンもその他のファンも共通している点がある。皆は雪が舞い落ちる中腕をさすり歯を鳴らして寒さに耐えていた。

 昨日までは天気予報では晴れで、関東で雨が降るのは翌日の月曜だった。しかし雨雲が急速に移動し中山レース場に雨が降り始め、さらに急激な気温低下により雨は雪に変わっていた。

 ここまで気温が下がるとは多くの者は予想しておらず、防寒着を用意していなかった。結局ファン達は寒さに体を震わせながらパドック前で有マ記念を走るウマ娘を待ち続ける。

 

『只今より、第10レース、有マ記念のパドックを開始致します』

 

 場内アナウンスが流れ、観客達はウマ娘達が見られるという興奮と、寒さに耐える時間が終わりを告げたことへの嬉しさから声を上げる。

 最低人気のウマ娘から順に入場しファン達が声援を送る。有マ記念は元々人気が高く、今年の最後のGIを楽しもうと声援が大きくなる。さらに今年は雪が降っているので、気分が盛り上がり体を温めようとしているのか、ファン達も妙なテンションになり声が大きくなっていた。

 トレーナーはパドック場に包む高揚感に流されることなく冷静に見つめる。デジタルの目的の為には出走ウマ娘の状態を見極める必要がある。全神経を集中させ観察する。

 

『アグネスデジタル選手、9番人気です』

 

──頑張れ~アグネスデジタル~

──今までありがとな~見ていて楽しかったぞ

 

 パドックにデジタルが登場すると一気に歓声が上がると同時に暖かな声援が送られる。このレースで引退することは多くのファンに知られ、今までの活躍を労るように声をかけていく。

 一方デジタルはその声援に応えることなく、真顔でランウェイを歩き、行き止まりで停止する。そこでもポージングすることなく脱力状態で立つ。その姿にファン達の声援はどよめきの声に変わる。

 その様子をトレーナーは見つめる。本来ならば応援してくれるファンに応えるべきなのだが、全く意に介さない。それはダートプライドのパドックの姿に似ていた。あの時は出走ウマ娘を感じることに意識の全てを向けたことでなったが、今日は事情が違う。

 ウマ娘を満足に感じるというも目的のために、スタミナを温存するために心を凪のように落ち着かせ動かない。それで温存できるのは1センチ以下の体力かもしれないが、やれる事はどんなに小さく些細な事でも実行する。それが次善を得る道だ。

 そして今はトレーナーに教わったイメージトレーニングをしていた。体中に血液が隅々まで駆け巡り、全身に温かい濡れタオルが張り付いているイメージを構築する。その結果ファン達と比べ明らかに薄着だが、寒さに震えることなく何事も無く立っていた。

 その後はチャクラ、ツルマルボーイ、ザッツザプレンティ、リンカーンが登場する。デジタルによって作られた微妙な空気は払拭され、場の空気は温まりグランプリに相応しい雰囲気となっていく。

 

『ゼンノロブロイ選手。5番人気です』

 

──今の全力をぶつけていけ~

──頑張って~

 

 ゼンノロブロイがパドックに現れる。確かな実力が有りながらどうしても勝ちきれない。そのようなウマ娘は数多く存在し、そういったウマ娘に感情移入するファンは一定数いた。その声援に応えるようにお辞儀をしながら控えめに手を振る姿をトレーナーは観察する。

 一見大人しいが熱いものを秘めているとデジタルが言っていた。その話通り動作の節々に熱を感じる。勝ちきれないウマ娘が1つの勝利で才能が花を開くことがある。それがこのレースなのかもしれない。

 そして様子を見ていて気になる部分が有る。確かに熱があるが儚げというか、どこか悲壮感を感じる。まるでこのレースに勝てれば終わってもいいと云わんばかりだ。

 

『ネオユニヴァース選手。4番人気です』

 

 ネオユニヴァースが姿を現す。上は宇宙服で下はスカート、宇宙服のカラーリングは虎柄に二の腕に青の1本線、さらに大量のテントウムシのマスコットと髪に着けているのと同じようなリボンが着いていた。

 

 今年の2冠ウマ娘ネオユニヴァース、性格や言動は個性的で好き嫌いがハッキリと分かれるタイプだ。

 それでも実績もありファンの数は多く、今日も声援が送られるはずだった。だが声援は疎らだった。その違いはトレーナーもヒシヒシと伝わっていた。

 宝塚記念では独自の空気を纏い、周りとは違う景色を見ているようでどこか掴みどころがない印象だった。だが今は全く違う。

 幼き日に井戸を見たことがあり、その井戸は深く底が見えなかった。その瞬間に底から何かが這いよりそこに引きずり込まれるイメージが浮かび上がり、その恐怖で一目散に逃げたことがあった。ネオユニヴァースはまさにそれだ。

 見ているだけで取り込まれてしまうような得体の知れない恐怖、それを感じたことでファン達も黙ってしまった。宇宙という言葉をよく口にする印象からその姿はブラックホールのように思えてきた。

 周りの空気が冷え込むのを感じながら観察を続ける。確かに恐ろしいが未知の怖さではない。他人を否定し飲み込もうとする負の感情、その空気を纏うウマ娘は長年のトレーナー生活で同じではないが類似するウマ娘は何人か見てきた。未知という部分では宝塚記念の時の方が上回っている。

 

『ヒシミラクル選手。3番人気です』

 

 ヒシミラクルがパドックに現れる。勝負服は走りやすいように改造した青と白の袴、額にはひし形の青い水晶と首には白の勾玉をつけている。

 

「キタキタキタ!枠は絶好の1枠2番!バ場は不良!さらに雪まで降ってきた!条件はどんどん良くなってきてる!またまたミラクル起こしちゃうよお客さん!」

 

 その言葉にこの日1番の歓声が上がり、パドックの空気が一気に変わる。そしてファン達は応援券を買った。年末ジャンボを当てさせてくれなど、好きな娘と結ばれたいなどレースに関係ないお願いを投げかける。この光景だけ見れば、どうみてもレースのパドックではない。

 未知の恐怖という点でいえばネオユニヴァースよりヒシミラクルの方が怖い、それがトレーナーの印象だった。

 まるで見えない大きな力に導かれるように状況は有利になっていき、さも当然のように享受する。こんなメンタリティのウマ娘は今まで見たことが無い。

 仮に宝くじが連続で当選するような確率の出来事が起きて勝利しても、ミラクルで勝ったと喜ぶだろう。運は紛れもなく実力で有り、真っ向勝負で勝ったことに変わりないからだ。

 

 極端な事を言えばレースに出走するウマ娘の作戦を全部予測し、全てを操りレースに勝つことは可能だ。それを出来るのは人間の能力を超えているが可能性だけある。だがこれから起こるアクシデントは誰も読めない。

 どれだけ完璧なレース運びをして勝ちを確定させても、隕石が落ちて当たってしまえば瓦解する。それ程までに運という要素は心技体を超越する力を秘めている。

 トレーナーもデジタルの目的達成のために、幾度もシミュレーションを実施し、考えに考え抜いてレースに臨む。その努力がヒシミラクルの運によっていとも容易く粉砕されるような気がしてしまっていた。

 

『シンボリクリスエス選手、2番人気です』

 

──勝って有終の美を飾ってくれ!

──お前が最強だぞクリスエス!

 

 シンボリクリスエスが登場する。勝負服はシンボリルドルフの勝負服のデザインを踏襲しながら、黒の比率を多く混ぜたようなデザインで、赤色の腰布が特徴的である。ヒシミラクルが作った空気に舞い上がっているのか、ファン達は熱量が多い声援を送る。

 デジタルと同じくこのレースで引退するのだが、両者の立場は明確に違う。デジタルは悪く言えば思い出作りであり、実際にいえばその通りである。

 だがシンボリクリスエスは勝利を目指す実力と立場にある。ファンとしてはジャパンカップは決して力負けではなく、実力を示して去って欲しいという思うところである。

 そして当人は周りの熱に当てられることなく、形式的にファンにアピールしているが淡々としている。

 揺るがず騒がず威風堂々したその姿は、良い意味で変わらない。高い水準で想定通りの実力を発揮するだろう。

 

 ふとシンボリクリスエスと視線が合い、その瞬間背筋に寒気が走る。まるで全てを見透かされるような瞳だ。何が無く周りを見ると他のトレーナーも何人かは同じような表情を浮かべていた。

 パドックでのウマ娘の行動は観客の声援を受けてテンションを上げる。ファンにアピールする。レースの展開をシミュレートする。大まかに分類するならばこれらだろう。

 しかしどれとも違った行動をとった。あれはトレーナーを観察している目だ。観察しているつもりが、観察されていた。それはちょっとした恐怖だ。

 他のウマ娘の様子を観察してレースの参考にすると考えるウマ娘は居るだろう。だがトレーナーを観察するウマ娘はそうはいない。さらに言えば出走ウマ娘のトレーナー全てを観察している。

 トレーナーが今まで抱いていた印象は強いだった。心技体において非常に高水準を誇るウマ娘、だがそこに怖いが加わった。それは最大限の賞賛だった。

 

『タップダンスシチー選手、1番人気です』

 

 冬のグランプリの大取、その栄誉を祝福するように大歓声がタップダンスシチーを迎える。

 勝負服はケブラー繊維の厚手のズボンに上はやたらモコモコしたウインドブレイカー、それは競艇選手が着るような服である。色はトリコロールカラーである。

 宝塚記念とはうってかわり、溌剌とした表情とキビキビした動作を見せ、ファン達にアピールする。その様子は絶好調そのものだ。

 相手陣営は勝負師気質だ、レース前に何かしら仕掛けているのは分かっている。それを見破ってやると密かに楽しみにし、情報収集に余念は無かったが現時点では明確には分かっていない。

 実は何もしていなく、仕掛けていると思わせること事態が仕掛けなのかもしれない。勝ち負けを目指すなら厄介極まりない相手だが、今の自分達にとってはそうではない。デジタルの目的は勝利ではなく、わざわざ負かすような仕掛けはしない。

 

 タップダンスシチーは手を叩きファン達に手拍子を促し、音は次第に大きくなりパドック場を包み込む。するとその場で手拍子に合わせてタップダンスを披露する。その行動にこの日で最も大きな歓声が上がった。

 一見すればファンサービスに見えるだろうが、気質と性格を考えればそんな理由でするわけがない。

 これは空気を自分に引き寄せるためだ。ファンを盛り上げ何かしてくれるかもという期待感を煽り、場の流れを味方につける。

 先程までは流れはヒシミラクルに来ていたがそれを察知し、流れを強引に引き寄せた。他のトレーナーから見れば流れはオカルトであり、無駄に体力を消耗しただけだと思うかもしれない。

 だがトレーナーの考えは違う。ファン達の期待感を募らせるということは相手への期待感を奪うことだ。その影響は必ず出る。

 

 1番人気のパドックが終わり、出走ウマ娘達がトレーナーの元に駆け寄る。そこで言葉を交わし地下バ道に本バ場入場が始まる。

 

「いや~、メンバーは似ているけど宝塚とは違った感じだったね。それでも最高なのには変わらないけど、ゼンノロブロイちゃんは何か情熱的だし、ネオユニヴァースちゃんは暗黒空間と化しているし、ヒシミラクルちゃんは神々しいし、シンボリクリスエスちゃんは凛々しいし、タップダンスシチーちゃんは盛り上げてくれるし」

「お前、見とったんか?イメトレはどうした?」

「大丈夫今もやってるから」

 

 デジタルは手のひらのツボを押しながら悪気なく言う。最初はイメージ構築に手こずったがイメージ出来れば維持するのは難しくはなかった。

 それよりこのパドックを5感で焼き付けようと出番を待つウマ娘を観察し、ステージ裏のテレビでパドックの様子を見学していた。その際にはイメージがおざなりにならないよう、5感の意識を下げていた。

 

「まあええやろ。レースで感じるのがメインディッシュなら、パドックで感じるのは前菜みないなもんか」

「そういうこと。う~んシンボリクリスエスちゃんとゼンノロブロイちゃんは険悪そう、それにトレーナーともかな?ゼンノロブロイちゃんトレーナーと全然視線合わしてないよ」

「観察も良いがそろそろ最終確認や。本バ場入場はウマ娘に一切意識を向けず、イメトレとツボ押しをしながら芝の状態を確かめろ。今ならより芝に意識を向け確かめられるやろ、ただし走るな、時間ギリギリまで確かめろ」

「分かった」

「それでレースだが基本は作戦通りに走れ、せやけど雪が降っておるし何か起こるか分からん、現場判断で作戦を変えていい。今までの競技人生で培ったものを生かせ」

「了解、それでパドック診断はどうだった?光っているウマ娘ちゃん居た?」

「光っているのはいない。それで印象やが、流石にグランプリだけあって全員ええ感じや」

「それは良かった」

 

 2人は最終確認するなか淡々といつも通り言葉を交わし、その中でトレーナーの胸中に名残惜しさが膨らんでいく。

 あと数秒で会話が終わり地下バ道に向かう。レースの度にやってきた行動はもう2度とできない。

 すると係員が出走ウマ娘達に地下バ道に向かうように促す。もう時間がない、教え子が最良の結果を得られるために必要な助言、脳を最大限稼働させ言葉を探す。

 

「デジタル、次善を勝ち取れ」

 

 優秀なトレーナーであれば効果的な助言を出来るだろう。だが浮かんだのは精神論、それどころか唯の願いだった。

 その言葉にデジタルは笑みで応え係員についていき地下バ道に向かう。その瞳と意識にトレーナーは全く向けられていなく、レースで最高の体験を出来るという未来に向けられていた。

 

───

 

『今年も様々なドラマがありました。そのドラマを起してきた優駿たちが集います。ある者はここで終わり、ある者はここをステップアップの踏み台としてさらなる飛躍を誓います。空から雪が降り注ぎます。日本では雪が降る日は変革が起こると云われます。大波乱か、順当な決着か。その目で見届けましょう』

 

 場内実況が流れ始め本バ場入場が始まる。応援するウマ娘の雄姿を眼に焼き付けようとファン達はコースに意識を向ける

 

『世界を股にかけ戦場を選ばず戦ってきた勇者の最後はこの中山です。ついに迎えたラストダンジョン、最後に迎えるエンディングはハッピーエンドか?1枠1番アグネスデジタル』

 

 デジタルは白と緑で彩られた芝を踏みしめゆっくりと歩く。東京と京都と中山の芝、シャティンの芝、ドバイのダート、東京のダート、名古屋と大井と盛岡のダート。今まで走ったコースとバ場状態を思い出し、記憶の引き出しを開けていく。

 1歩ごとにかける体重の比率を調整し最適な走りを導き出す。ベストの走りを見つけるのは目的を達成する為の最低条件である。

 芝の状態を確かめながら同時に体を温めるイメージ構築も行う。並のウマ娘なら出来ないが高いイメージ力と鋭敏な感覚、そして日々のトレーニングで養った集中力の高さが可能にする。

 デジタルはマルチタスクに没頭する。その頭の中には出走ウマ娘の存在は一欠けらも無くなっていた。

 

『全治1年の怪我を1月半で治して出走してきました。不安材料は多くあり勝てばミラクルと囁くでしょう。それがどうした!?奇跡は褒め言葉、運は実力、4度目の奇跡を起こして6人目の同一年春秋グランプリ制覇を狙います。1枠2番ヒシミラクル』

 

 ヒシミラクルはデジタルを追い越しながら芝の感触を確かめる。これは思った以上に滑る。そうなれば他のウマ娘も足を滑らし紛れが起きやすくなる。内枠に不良に雪も降っている。確実に有利な状況になり運が向いてきている。

 このレースにおいてやることは2つ。培った心技体を発揮すること、そして運を信じ抜くこと、そうすればアクシデントも相手の策略も全て己を有利にしてくれる。

 勝負は誰もが望むすっきりした形で終わらないかもしれない。転倒事故による上位総崩れ、降着繰り上がり、それで1着になっても全力で喜びウイニングライブを歌う。

 非難の声やブーイングを浴びせられるかもしれない。だがそれを含めて勝負で有り、転倒事故や斜行に巻き込まれた者は運が足りなかっただけだ。何を遠慮する必要がある。

 世間は気づく。運も実力の内という言葉は慰めではなく、正真正銘の事実であると。そして運を奪い取り返しさらなる高みに登り、世界の頂に立つ。

 ヒシミラクルは2人に視線を向ける。自分は運が良いと迷わず言い、出走メンバーで最も運を持っているアグネスデジタルに、そして運の重要性を理解し意図的に運を奪ったタップダンスシチーに。

 

『去年は脇役ですらないエキストラでした。しかし今年は堂々の1番人気、見事主役の座に上り詰めました。今日はどんな逃亡劇を見せてくれるのでしょうか?それともまさかの後方待機か、中山でも2人のリズムを刻みつけられるか?3枠3番タップダンスシチー』

 

 タップダンスシチーがコースに現れると大歓声が出迎える。去年は歓声が疎らだった。そして今はこの歓声だ。冬のグランプリの主役に上り詰めた実感が湧き、喜びと感動が湧き上がる。

 だが即座に喜びと感動を封じ込め、客にもっと声を出せとジェスチャーで煽り、客も応えるように声を張り上げる。会場は完全にタップダンスシチーの味方となっていた。

 日本のレース場は誰のホームでもなく誰のアウェーでもない。だがホームに近づけさせる事は可能だ。

 客が自分に期待するという事は周りが期待されていないと示す事でもある。客の期待や想いを力に変えられるウマ娘も居て、その期待を奪うことで弱体化させる。

 ただ全てのウマ娘がそうではなく、特にシンボリクリスエスは全く関係ない。それでもほんの僅かでも綻びになりそうならやる。それが全力で勝負に挑むということだ。

 タップダンスシチーは客を煽り終えると、デジタルを追い越してヒシミラクルの傍に駆け寄る。

 

「今日は捲りのロングスパートか、それとも先行策か?」

「どうでしょう?」

「芝は不良なんてまたまたアタシに有利だな。本当に運を奪っておいた甲斐があった」

「不良は私にも有利です。そしてこれは私の運が招いたものです。なので安心しました。只でさえ貸しておいた運が使われているのに、これ以上使われたらたまったもんじゃない」

「それは良かった。無駄に使わずに済んだ。そして今日のレースでまた奪ってやる。捲りか先行か知らないが、永遠に追いつけない差を味わせてやる」

 

 タップダンスシチーは挑発し観察する。シンボリクリスエスに次に脅威なのはヒシミラクルだ。まずは戦法を特定する。そうすれば大分レースがやりやすくなる。質問しながら反応を見たが、おおよその見当はついた。

 京都大賞典は運を奪うのが目的だったが、ここに来て嫌なイメージを与える負け方をさせたのが活きてくる。ほんの僅かでも過去を思い出し苦手意識を抱いてくれればいい。これも勝負に全力を尽くすことだ。

 

『このレースで偉大なる先輩が去ります。すべきことは拍手で送りだすことではない。引導を渡す事だ。漆黒の帝王の首を狙うは若き英雄、これが最初で最後の対決です。なるか帝王越え。4枠5番ゼンノロブロイ』

 

 ゼンノロブロイは逸る気持ちを抑えるように、ゆっくりとした足取りで入場し周りの様子を確認する。自分への声援そこまでなく、会場の注目は前方で並走しているタップダンスシチーとヒシミラクルに集まっている。これが現状だ。

 シンボリクリスエスを倒すとしたら、本命がタップダンスシチー、会場の雰囲気が雄弁に語っている。これならばタップダンスシチーにシンボリクリスエス狩りを任せてアシストに徹するべきか。

 だが考えを即座に否定する。目指す英雄はそんな弱気な考えはしない。結果的にそうなったとしても自力で倒そうとするはずだ。心を燃やせ、場内実況の言う通りシンボリクリスエスと戦う最初で最後の機会だ。ここで漆黒の帝王を討ち果たし英雄に上り詰める。

 入場してから数メートル歩くと停止し、入場してくるウマ娘を待ち構える。

 

『春は彼女の時間でした。クラシック2冠達成、その宇宙のように大きな可能性に多くのファンが夢を見ました。秋は全敗ですが、そのポテンシャルと可能性は色あせません。古ぼけた無線機を手に旅立ちます。ハローハロー聞こえていますか?聞こえているならついてこい。とっびきりの宇宙を見せてやる。6枠9番ネオユニヴァース』

 

 ネオユニヴァースは客席を一瞥する。客達は期待や興奮や感動を求めている。しかしそれらを求めているがレースの過程や結果であり、己の宇宙ではない。

 それは当然だ。今までのレースで誰も宇宙を感じていないのだから。自分が存在すると言っても感じたことがないのであれば、信じもしないし期待もしない。

 今日はやり方を変える。出走ウマ娘の存在を取り込み吸収する。そうすれば自分は大きくなり、宇宙を伝えるための出力も上がり客達にも伝わる。

 出走ウマ娘を全て飲み込めばレースに存在するのは自分だけになる。他の存在の情熱も想いという他の音も消えてなくなる。雑音が無くなれば集中して宇宙を感じられる。

 レースに出走するウマ娘は其々存在感を発し、客達は期待を寄せている。特に大きいのがタップダンスシチー、ヒシミラクルの存在感と期待感だ、それを吸収すれば大きな力となるだろう。

 これ程のエネルギーを吸収できるかのか?いやするのだ。全てを飲み込むブラックホールと化しレース場を埋め尽くすほど大きくなる。それしか宇宙を伝えられる方法はない。

 

『時代の中心は常に彼女でした。その中心はこのレースを最後に去ります。相性の良い中山で奪われた玉座を取り戻せるか、史上4人目となる秋のグランプリ連覇で花を添えたい。8枠14番シンボリクリスエス』

 

 大取を飾るように堂々と入場する。2番人気といえど時代の中心にいたウマ娘であり、客達は声援を送る。だがシンボリクリスエスは声援に気に取られることなくコースに入る。

 頭の中では各トレーナーを観察した情報を加味し、出走ウマ娘がどのような作戦を取り、どのようにして抑え込むかを思考し続ける。

 このレースがトレーナーの理想の走りを試す最初で最後の機会だ、失敗したからと引退を撤回して再度試みる気は全くない。実行できなくとも、たらればを残す走りは論外だ、言い訳の1つもなく完璧に実行し、その上で出来る出来ないを判断する。

 その心中に最後のレースという名残惜しさや有終の美を飾ろうとする名誉欲も全くない。プロとしてタスクを実行しトレーナーに益を与える。それだけである。

 すると視界にゼンノロブロイの姿が映る。その表情は敵意に満ちると同時に決意を決めた決死隊のようだった。

 そしてゼンノロブロイは数メートル離れた場所から拳をシンボリクリスエスに突き立てる。その行動に客達は沸き立つ。

 握りこぶしの親指の上部と人差し指の側面が向き、拳を突き立てるというより見えない何かを握り突きつけているようだ。

 それは剣だ、ゼンノロブロイは見えない剣を握り、刃が喉元に突きつけられている幻覚が見えていた。

 

「貴女は漆黒ではない、唯の汚い黒です。黒の王は私が討ち取ります」

 

 ゼンノロブロイはシンボリクリスエスに聞こえるように呟くと、ゲートに向かって行く。

 その目は怒りに満ちていた。例え刺し違えても倒そうとする者の目だ、あれほど敵対心を見せるウマ娘は初めてだ。これを切っ掛けに殻を破ってくれるという予感が過る。ゼンノロブロイについての対応は悩んでいたが今の表情を見て方針を固めた。

 シンボリクリスエスはゲートに向かう。その思考はゼンノロブロイを消え去り、どのように仕事をこなすかに全て向けられていた。

 

 各ウマ娘の本バ場入場が終わり、レースは発走するまで間が空く。ファン達は応援しているウマ娘について語り、レース展開や結末を予想する。その話声は大きな音となりレース場を包み込む。

 

「3人は今日のデジタルはどう見ますか?」

 

 デジタルの父親がプレストン達に尋ねる。娘については誰よりも知っている自負はあるが、アスリートのデジタルについては素人同然だ、であれば同じアスリートだった3人について訊くのがいい。

 

「いいと思いますよ。パドックでも本バ場入場でも大人しかったですけど、元気がないというより、想いや力を蓄えているという感じでした」

「この状況は有利であり不利でもあります。不良はスタミナを消費するから不利、そしてこの雪は誰も走った経験がないから有利、デジタルは感覚も鋭いし、色々なコースで走った経験がある。他のウマ娘より対応力は上です」

「パドックでも本バ場入場でも無駄に動かないという意図が見えた。自分の状況がよく分かっている。もしボクがデジタルだったら同じようにするだろう」

 

 3人は其々私見を述べる。このレースは決して分が良いレースではないが、最善を尽くそうとする意志と行動が垣間見える。とりあえず目的を達成する為の土俵には立っている。

 デジタル夫妻はその言葉を聞き笑みを浮かべる。話を聞く限り厳しいレースのようだ。それでも今までの経験と培った心技体で最善を尽くし、その様子に3人は流石であると感嘆しているように見えた。

 デジタルの身体の衰えは知っている。今までは衰えを自覚せず全力で挑んだ。だが今は衰えを自覚し、現状を受け入れ、残っている武器で創意工夫をこなし強大な敵に挑もうとしている。それは1人の人間として素晴らしく、娘の成長を改めて実感していた。

 

 暫くすると各ウマ娘がゲート入りを始め、奇数番からゲートに入っていく。

 その間にスターターが台に上がる。それを合図にファンファーレが演奏され、観客達はリズムに合わせて声を出し手や新聞紙を叩く。そしてファンファーレが終わるとレース場の興奮は最高潮に高まり、どこからとなく声が上がる。

 興奮の坩堝と化したレース場だが、出走ウマ娘達は興奮することなく淡々とゲート入りを済まし、最後に大外枠のシンボリクリスエスがゲートに入る。

 

『今年も色々ありました。そしてまだ見ぬ結末があります。ファン達はそれぞれ理想の結末を夢見ます。主役のワンマンショーか?漆黒の帝王が有終の美を飾るか?4度の奇跡か?それとも誰もが予測しない結末か?さあ、この目で確かめろ。有マ記念が…スタートしました』

 



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勇者とラストダンジョン#18

『さあゲートが空いて、スタートを切った。さあ、まずは3コーナーから4コーナー誰が行くのか?タップダンスシチー、いやアクティブバイオとザッツザプレンティがいった。すぐ後ろにタップダンスシチー、その後ろ2バ身差離れてリンカーン、ゼンノロブロイ、シンボリクリスエス、内を突いてウインブレイズ アグネスデジタルが先行グループ、その3バ身差後ろにチャクラ、ダービーレグノ、ファストタテヤマ、ヒシミラクル、ネオユニヴァース。そして最後尾にはいつも通りツルマルボーイです』

 

 スタートはシンボリクリスエスが好スタートを切ったが、外枠のアクティブバイオとザッツザプレンティは外々を回されるよりも、多少脚を使っても前の位置につけ内を回ろうとハナを主張し先頭に立つ。

 最近は瞬発力が増しどのような作戦を取るか注目されていたタップダンスシチーはハナを主張せず、単独3番手の位置につける。

 先行グループはリンカーンが先頭に立ち、ゼンノロブロイはリンカーンの半バ身後ろの左横につけ、シンボリクリスエスはリンカーンの真後ろにつけ、ウインブレイズとデジタルは空いた内ラチ沿いを走る。

 

 後方グループは大方の予想通りだが、ヒシミラクルは前走の京都大賞典のように先行するかと予想されていたが、ゲンを担ぐようにGIに勝った時と同じように後方待機で挑む。そして最後尾は指定席だと云わんばかりにツルマルボーイが鎮座する。

 

「勝負は決まったな」

 

 関係者席でレースを見ていたティズナウが詰まらなそうに呟く。その表情は推理小説の結末を読む前に知ってしまった読者のようだった。

 レース中に大勢が決し勝負が見える時もある。先のジャパンカップもタップダンスシチーが4コーナーを回った時点で勝負が決まったと分かった者はいた。だが今はスタートから200メートル程度しか走っていない、通常であるなら分かるはずがない。

 しかし他のウマ娘の表情を見て分かった。その表情は不安怯えなどネガティブな感情が帯びていた。何故そんな表情をしているか知らないが、これは雪が降る芝を走る不安などではない。勝者の資格を失った表情だ。

 一緒に見ているヒガシノコウテイ達はその言葉に驚きもせず、同意するように黙ってレースを見つめる。このレースの勝者は誰であるか予想出来ていた。それはシンボリクリスエスだ。

 

 レースに勝つうえで重要な要素がある。スピード、スタミナ、展開を読む力などがあるが、それ以上に重要な要素なものがある。それは勝つイメージである。

 長年のトレーニングとレースでの成功体験から自信をつけて、どうすれば勝てるかというイメージを作る。つまり勝ち筋である。

 タップダンスシチーなら先行押し切り、ヒシミラクルならロングスパート、明確に勝ち筋を持っていない者でも無意識に勝てる可能性がある走りのイメージが出来ている。

 それが勝つ為の最低条件であり、持てない者はレース中に天変地異が起きて自分以外は巻き込まれない限り勝てない。それ程までに重要である。

 そしてシンボリクリスエスはレースを走るウマ娘達の勝ちのイメージを掻き消していた。

 

 デジタルとレースを走りウマ娘の思念や情念は強大であれば他者に届くと気づいた。それを応用し、天皇賞秋の自分のように周りを弱体化させる。

 これこそがトレーナーの理想の走りだ。そしてぶつける思念は絶対的な勝利への自信と相手にとっての敗北のイメージである。

 

 シンボリクリスエスはその走りを実現するためにレースに向けて出走ウマ娘の全てを徹底的に研究した。どのような状況で己が負けるか、どうすれば相手の力を封じ込め勝てるか、それを明確にイメージできるまで寝食以外の全ての時間を費やし研究を続けていた。

 言葉にすれば簡単そうに見えるが、実現しようとすれば極めて難しい。まずはイメージすると言ってもデジタルのトリップ走法時のイメージレベルに明確なイメージをしなければならない。

 自分の勝ち筋ですら明確にイメージするのは難しく、それを他者の勝ち筋と、その勝ち筋をどのように潰すかも明確にイメージしなければならない。これは相当に難易度が高い。

 何より己の勝利を確信し、相手の勝ち筋を潰せられるという絶対的な自信を持つには圧倒的な地力が必要だ。

 他者と己を正確に測れる分析力と地力、この2つが備わって理想の走りは体現できる。そしてシンボリクリスエスは2つを備えていた。

 

(何だこれは?)

 

 タップダンスシチーは己の異変に訝しむ。レースを走る際には勝つイメージを持っている。それは勝利したレースは勿論、負けた時もブービー人気で挑んだ有マ記念でも持っていた。

 勝つ為に全力を尽くし勝つイメージを持ってレースに挑んだ。だが今は全くイメージできない。それどころかシンボリクリスエスにどのようにして負けるかというイメージが鮮明に浮かび上がっていた。

 条件戦でくすぶり続けたのは成長していないのもそうだが、勝つイメージを持てなかったからだ。

 長い月日をかけ自分達のスタイルを確立し、勝つイメージを持てるようになった。だが今は条件戦でくすぶっていた弱い頃の自分に戻ってしまったようだった。

 この異常はタップダンスシチーだけに起こっているわけではない。ヒシミラクルは運が味方して勝利するイメージなど、多くのウマ娘が勝つイメージが持てなかった。

 

 シンボリクリスエスは周りに視線を向け己の仕事の成果を確認する。上々だ、ゲート入りの時にイメージをぶつけた。その成果なのか天皇賞秋の時のように他のウマ娘はスタートが遅れ、結果的に1番速くスタートが切れた。

 そこからはハナを切った3人を見送り、空いたスペースを使って内側をキープする。大外枠で外を回されるのは嫌だったので、都合の良い展開になった。前にリンカーン外にゼンノロブロイが居て囲まれているのが少し気がかりだが、些細な問題だ。

 横を走るゼンノロブロイの表情は勝つイメージを持てず心が挫けている者の顔だ、前に走るリンカーンも背中を見れば同じであると分かる。そんなウマ娘など幾らでもどうにか出来る。

 2人の様子から見て出走ウマ娘は全て勝つイメージを失っている。そうなれば弱体化は著しく、碌に実力を発揮できないだろう。この走りは多少神経をすり減らし疲れるが得られる効果は非常に大きい。

 これなら相当手を抜いても勝利でき、翌週も同じレースを走って勝てるぐらいに余力を残せる。これがトレーナーの理想とする相手を1まで削って2の力で勝つレースか。

 だが今日の目的は若干異なる。相手を1まで削って100の力で勝つレースをする。そうなれば大差では表現できない程の差がつき、世間は絶対的な力を持つウマ娘であるという幻想を抱き、そのウマ娘を育てたトレーナーの名声は一気に上がる。

 

 そして今日のレースで気になる事が1つ有った。それはゼンノロブロイの対処についてだ。

 理想の走りをすれば大差をつけられて負ける。それは心を挫かせ、弱いウマ娘を育てたというトレーナーの不名誉になるかもしれない。それを防ぐ為にゼンノロブロイだけにはイメージを当てないという案もあった。

 自分が勝ってもワンツーフィニッシュでトレーナーの名声が上がり、自分が負けてもゼンノロブロイの格が上がるので、どちらでも良かった。

 そして本バ場入場での態度を見て他と同じようにイメージをぶつける事にした。今日の大敗の屈辱を糧とし、この走りを体験する事でトレーナーの理想の走りが実現できるようになるか可能性が出てくる。そうなれば絶対的な力を持ったトレーナーの作品になれるかもしれない。

 

 サキーは複雑そうな表情でレースを見守る。現役時代で最も恐れたのはシンボリクリスエスのようなウマ娘だ。

 現役時代は業界のアイコンになり、レースに携わるウマ娘と関係者を幸せにするために、相手の力を最大限に引き出した上で勝利するレースを望んだ。そういったレースが名勝負と賞賛され、己の理想を達成する近道になると信じていた。

 そして理想を体現する為に、相手の力を削ぐような作戦や走りを看破し防ぐ実力と頭脳を身に着けてきた。

 かつてのダートプライドではストリートクライが他者をハメて実力を発揮できないようにしたが、その際には他者に策略を気づかせるような走りをした。

 そしてシンボリクリスエスの走りはサキーと真逆であり、そして今起こっている現象を防ぐ手段はない。

 もし現役時代に走れば他のウマ娘達と同じように挫けはしない。それだけの鍛錬と実績を積んだという自負がある。そして僅差の勝負になるだろう。

 観客達は自分とシンボリクリスエスを讃えるだろう。そして遥か後ろで他のウマ娘達がゴールする。その様子を見て不甲斐ないと心無い言葉を浴びせるファンが居るかもしれない。

 サキーも圧勝したレースが幾つか有った。それは己の理想の為に全力で走り、結果的に不甲斐ないと貶される負けたウマ娘を見てきた。

 その時は理想の為に仕方がないと割り切っていた。しかし今は選手ではないので割り切れず、出走しているウマ娘達に訪れる悲しい未来を憐れんだ。

 

 メイショウドトウは胸が締め付けられ思わず手を当てる。現役時代はテイエムオペラオーの年間無敗の偉業を当事者として目撃していた。そして同じ路線を走るウマ娘達は苦しんだ。

 走るたびに敗北を喫し、オペラオーが高らかにウイニングライブを歌う姿を外から、あるいはバックダンサーとして見てきた。そして1人また1人と心が挫け、勝てるイメージが持てなくなっていた。

 ドトウは結局のところ勝つイメージを失わずに済み、宝塚記念ではついにオペラオーに勝利した。だが自分が強いからではなく偶然であると自覚していた。

 トレーナーやチームメイトのサポートが有ったので、辛うじて心が挫けず踏みとどまれた。1歩間違えれば間違いなく心が挫けていた。そして今レースを走るウマ娘達も心挫けた者と同じ表情をしていた。

 心挫けた状態で走るのは辛すぎる。この悲惨な光景を見て心から同情していた。

 

 レースは特に動きはなく、スタート直後に決まった隊列を維持し4コーナーを抜けホームストレッチに入る。レースを走る精鋭14人を応援しようとスタンドからの大歓声で向かい入れる。

 ウマ娘の中には歓声を背に闘志を漲らせる者も居る。しかし今はシンボリクリスエスのイメージの前に心挫け、やる気や闘志を漲らせられなかった。

 

 

──信じて!

 

 一瞬スタンドからの声援が止む。それはあまりにも予想外の出来事が起こった事に対する困惑だった。今の声はスタンドからではなく、確かにコース場から聞こえてきた。それもかなりの声量だ。一体誰がこんな声を出した。

 客達は声の発生源を探し判別する。走っているウマ娘達の様子を見ればすぐに分かった。声の発生源はアグネスデジタルだ。

 

 デジタルはゲートが開きスタートし、足裏に伝わる感触から最適な走りを導き出す。ゲート入りまでに入念に芝の感触を確かめ、今日の芝の状態での最適な走りの大まかな予想を立てる。

 だが歩くのと走るのでは踏み込みや体重移動の比率などは異なってくる。本来であれば軽く走れば問題なのだが、今日のレースはその運動量ですら命取りになりかねなかった。

 そしてスタートしてからの1歩目で予想とは大きく違っていないと察知し、2歩目、3歩目で誤差を修正し、50メートルを走った時点で最適な走りを導き出し、その完成度は出走ウマ娘の中で最も高かった。

 

 それから意識を走りから左前方向ける。外枠のアクティブバイオとザッツザプレンティが外から切り込んでくる。タップダンスシチーは逃げないが前目、それからリンカーン、ゼンノロブロイ、シンボリクリスエスも上がってくる。

 そしてウインブレイズも上がり空いている内ラチ側のポジションを取った。それを見て即座に後ろにつけた。

 

 有マ記念で目的を達成する為に大前提が2つあった。1つは内ラチ側の経済コースを通り続けること、これは1枠を引いた時点でほぼ達成完了だった。

 2つ目は道中においてスリップストリームが出来るポジションを取り続けること、レースを走る上で相手の後ろにつけスリップストリームの恩恵を受けるのは基本戦術である。 

 だが相手の背中に居るという事は視野が狭くなり、勝負所で動いた際にブロックされる危険性がある。それを防ぐ為に前にウマ娘を置かないという戦術も充分に効果的で有る。

 しかし2500メートルという距離と不良バ場という状況では後者の戦術を実践する体力的余裕はなかった。

 

 デジタルはトレーナーとの事前の打ち合わせで、ウインブレイズが内側に来ると聞かされていた。彼女は2000以上のレースは走った経験はなく、デジタル程ではないが距離不安があると予想し、出来るだけ内側を走りたいと予想していた。

 そしてスタートすると、予想通りウインブレイズが外から来た。5枠7番のウインブレイズは内枠のウマ娘に内ラチ側を取られたくないと、即座に移動しようとして余裕が無いと予想し、それを利用した。

 デジタルはコンマ数秒ほど減速し、即座に後ろを取った。ウインブレイズも理想は内側かつ誰かの後ろにつくことだった。だが理想を追い求めれば第1目的の内側を取れなくなる可能性があり、妥協せざるを得なかった。

 さらにデジタルは距離を詰める。ウインブレイズとしては横に少し移動して後ろにスリップストリームの恩恵を与えさせたくない。

 だが横にはシンボリクリスエスが居るので一旦減速して後ろに下がるか、加速するかして、空いた横スペースに移動しなければならない。

 ペースを上げるのは急激なペースアップは体力を消耗する。距離不安があるウマ娘はしたくない。

 ならば下がるしかないが、それを防ぐ為に距離を詰める。結果、ウインブレイズはそこに留まり続け、デジタルにとって最高の風よけと化した。

 ここまではほぼ100点に近いレース運びが出来ている。だが少しでも間違えれば目的は達成できないシビアな状況だ、即座に心を引き締めると同時にある違和感に気づく。

 

 空気が重苦しい。

 

 それはどのレースでも感じたことが無い感覚で、すぐに違和感に気づく。レースを走るウマ娘達は多かれ少なかれ煌めきを持っている。それを感じることこそウマ娘を感じることであり醍醐味である。

 煌めきは希望と言い換えられる。そしてこの場に希望がまるで感じられない。皆が自信を失い心が挫けてしまっている。ただシンボリクリスエスだけは心が挫けていない。

 

 どうする?どうする?どうする?

 

 デジタルは脳をフル回転させる。煌めきを奪ったシンボリクリスエスに対する恨みはない。というより恨む余裕すらない。

 思考するだけで体力はもちろん頭のスタミナも消費する。余計なことは考えず走りに集中しなければならない。

 だが今のウマ娘達を感じても何一つ嬉しくもなく楽しくもない。煌めきを取り戻すのが最優先事項だった。

 思考の全てをウマ娘達の煌めきを取り戻す案を考えることに費やす。時間に数秒程度だったが、脳をフル回転させ頭のスタミナを消費してしまう。だがその甲斐あって1つの案を思いつく。

 先頭集団が4コーナーを回りホームストレッチに入る。時間が経てば集団がばらけてしまう。時間がない。デジタルは鼻から限界ギリギリまで空気を取り込み、音として吐き出した。

 

──信じて!

 

 大きな思念や情念は他者に伝わる。それをシンボリクリスエスとの対話で気づいた。天皇賞秋ではウマ娘断ちによって、ウマ娘を感じたいという欲が膨れ上がり、結果的に相手に伝わり不快な思いをさせてしまった。

 デジタルにとって天皇賞秋は2回目の天皇賞秋は良い思い出がなかった。大きな苦労をしたが全くウマ娘を感じられず、衰えを認めて苦しみの日々の始まりだった。しかしその最悪の思い出が1つの光明を示した。

 今走っているウマ娘達は最高だ。最初から煌めきが無かったわけではない。一時的に自信を失い煌めいていないだけだ。伝える思念は皆に信じる心を取り戻して欲しいという感情、一縷の望みを託し願う。

 

 トレーナーやチームメイトや友達と紡いだ絆を、積み重ねたトレーニングを、託された想いを、抱いた夢を思い出して!

 そうすれば自信を取り戻して、勝利を勝ち取り、夢を叶えることができる。今のままじゃ皆や周りが悲しい思いをしてしまう。

 

 いや、そうじゃない。皆や周りが悲しい思いをするから煌めいて欲しいんじゃない。自分が感じたいから煌めいて欲しんだ!最後のレースがこんなじゃ嫌だ!自分の為にでもなく、周りの為にじゃない。アタシの為に自分を信じて煌めいて!

 

(何だこれは?)

 

 タップダンスシチーは己の変化に訝しむ。さっきまで全く勝てるイメージが持てなかったのに、今はどうだ?勝てるイメージが幾らでも湧いてくる。

 負ける未来がこれっぽっちも浮かばない。力が溢れてきて体が軽い。間違いなく今まででベストだ。突然の変化に戸惑いながらも全能感に酔いしれる。

 それは他のウマ娘達も同じだった。体中から力が溢れ、全く消えなかった負けるイメージは消え失せ、勝てるイメージが幾らでも描けていた。

 

 出走ウマ娘の変化にレース場で観戦している者の何人かは気づいていた。先程まで心が挫け勝負の舞台から降りていたはずだった。

 だがデジタルが何かを叫んだ直後は、自信に満ち溢れ己の勝利を疑っていない表情をしている。一体何が起きているのだ?

 

「凄い!やっぱりデジタルさんは私の理想だ!」

 

 サキーはいつもの落ち着いた態度とは打って変わって、興奮を隠すことなく大声を出し、隣に居たストリートクライに興奮気味に語り掛ける。

 日本に来た理由は有マ記念を見るためとデジタルの引退レースを見る為と語った。だが実はもう1つの理由が有った。それはデジタルに秘めたる可能性に着目し、調査するためだった。

 デジタルが出走するレースは本人も含めコースレコードを更新する事が多かった。バ場の状態や展開によってタイムは大きく変わるので、条件さえ揃えばレコードが連続しても不思議でない。しかし気になったので過去のレースを見て、あることに気づく。

 

 デジタルが出走するレースは総じてレベルが高かった。タイムは遅くとも展開やバ場状態を考えればハイレベルである、もしかする周りのウマ娘の力を引き出す力が有るのではと考える。

 レースのレベルが高いと判定したがちゃんとした計算式があるわけでなく、主観が混じった結論だ。だが事実だとしか思えなかった。

 デジタルとはドバイワールドカップとダートプライドで走った。ドバイワールドカップでは己の底を引き出して勝利し、ダートプライドは負けたが実力を全ては発揮しベストレースだったという自負がある。

 それは追い詰められた事で自らの実力を引き出したのではなく。デジタルによって引き出されたのではないかと思い始めていた。

 普通であれば妄想だと一蹴する。だがデジタルはレースにおいてウマ娘を感じることを望む。そして感じたいのはより煌めいたウマ娘、つまり己の全力を出したウマ娘だ。その想いが力を引き出した。

 

 ウマ娘は想いを力に出来る。それは科学的には証明されていないが、自分の願望を叶えるために、他人の為にという想いが普段以上の実力を引き出す。デジタルがやっている事はそれを他人に作用させているのではないだろうか。

 その仮説は確信に変わった。普通のウマ娘なら他人が弱体化するのを防がない。煌めくウマ娘を感じたいと願うからこそ、全力を出したウマ娘を感じたいという強大な願いが作用し、他のウマ娘達に力を与えた。

 もし現役時代にデジタルの力があれば、出走するレースは全て名勝負になり、多くのファンの心を揺さぶり、興味のない人々の目を向けられたかもしれない。自分が欲しくてやまない力を持っている。心の底から嫉妬していた。

 

 シンボリクリスエスの思念や情念が他のウマ娘の自信を奪い、心を挫いた。これはRPGゲームにおける弱体化魔法、デバフのようなものだ。

 そしてデジタルの思念や情念が自信を与え、力を与えた。これはRPGゲームにおける強化魔法、バフのようなものだ。

 

 デバフを使える者はレースの歴史において何人か存在した。だが周りにバフを使える者は誰もいなかった。

 RPGゲームにおいてデバフやバフを使うのは敵を倒す為である。デバフで相手を弱体させ、バフで仲間を強化させる。

 そしてレースに出走するウマ娘の大半の目的は勝つことであり、個人戦でもある。勝つ為に相手にデバフをかけて弱体化しても、勝つ為に相手にバフを与えて強化する事はありえない。

 サキーのように相手にバフを与えたいと思う者も居るかもしれない。それでもウマ娘は勝利を望んでしまう。それは最早本能でそのような者がバフを与えられない。

 

 アグネスデジタルというウマ娘は特殊だ。ウマ娘を愛し、レースにおいてウマ娘を感じることに比重を置く。

 多くのレースを走り様々なウマ娘の煌めきを感じ、時には勝利に心を囚われてしまうという勝利中毒に罹るなどして、ついにレースにおいて勝利を目指さず、ウマ娘を感じることに全ての比重を置くという心境に至る。

 そして境地に至ったウマ娘だけが他者にバフを与えられる。

 

 ファンの中ではデジタルを異能の勇者と称する者も居る。それはダートと芝、中央と地方、国内と海外の垣根を超えて活躍するオールラウンダーとしての賞賛だった。

 だが異能を指す言葉はオールラウンダーでない。勝利を目指さないという特異な精神がもたらした他者にバフを与えられるという特異な技能、それこそが異能だった。

 

(やはりお前か、アグネスデジタル!)

 

 シンボリクリスエスはデジタルを憤怒の表情で睨みつける。周りのウマ娘の様子が変わった。心が挫けたはずが今や自信を漲らせ己の勝利を疑っていない。トレーナーの理想は破れた。

 自分の走りの効果が消されただけではデジタルによるものだと断定できない。しかし確信を抱いていた。

 

 天皇賞秋では不可解な力が沸き、想定以上の走りが出来た。それは嬉しいものではなく、トレーナーの作品として走る自分が穢されたような不快感を抱かせた。そして同じ不快感が這いよっていた。

 天皇賞秋の時点でデジタルのバフの片鱗は見えていた。レースでは逃げ争いでローエングリンとゴーステディが破滅的なペースで逃げていた。そのまま行けば勝つ可能性はゼロで惨敗していた。

 だがデジタルはそれを望まなかった。より全力で走り煌めくためにはペースを落とした方が良いと思い、それがバフの一種として作用し、結果2人はペースを落とす。  

 そして今は天皇賞秋のバフ以上に力が増していた。

 

 他のウマ娘はこの溢れる力はデジタルによってもたらされていると分かっていた。

 タップダンスシチーは勝利のために環境の変化を利用するのは当然だと。

 ヒシミラクルは己の運がバフを与えたと。

 ゼンノロブロイは打倒シンボリクリスエスの為にと。

 ネオユニヴァースは相手を飲み込み大きくなるために必要だと。

 

 4人は己の目的の為にバフを受け入れる。しかしこのバフの強制力は強かった。他人の力を借りて勝つのは少し卑怯だなと思う程度では拒否できず、強制的に力を与えられる。このバフは慈しみや慈悲の力ではない。デジタルの我儘で自己中心的な欲望によるものだった。

 謂わば強制バフ、これを拒否するには強固な拒絶の意志が必要だった。そしてシンボリクリスエスはそれを持っていた。

 

(ふざけるな!トレーナーの理想を壊し、トレーナーの作品であることすら阻もうとする。絶対に受け入れてなるものか!)

 

 天皇賞秋の勝利は不本意であり、これ以上穢されずトレーナーの作品として勝利する。プロとしての矜持が這いよる力を断固として拒絶していた。

 シンボリクリスエスはトレーナーの理想の走りを止める。他者にイメージをぶつけるのは疲れ、デジタルが居る以上は無意味でしかない。

 トレーナーの理想は阻まれた。そして大差勝ちするという目標も達成できない。あれは理想の走りが実現している前提での作戦だ。残る目標は勝利のみだ。

 例えトレーナーの理想の走りが出来なくとも、今まで教えられた全てを駆使して作品として勝利する。

 

 シンボリクリスエスの圧勝で終わると思われた有マ記念は、勇者の異能によって勝敗の行方は誰にも分からなくなった。

 



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勇者とラストダンジョン#19

誤字脱字の指摘ありがとうございます


「先頭は意外にもアクティブバイオとザッツザプレンティがいった。1バ身後ろにタップダンスシチー、その後ろ4バ身差離れてリンカーン、ゼンノロブロイ、シンボリクリスエス、内を突いてウインブレイズ アグネスデジタルが先行グループ、その4~5バ身差後ろにチャクラ、ダービーレグノ、ファストタテヤマ、ヒシミラクル、ネオユニヴァース。そして3バ身後ろの最後尾にはいつも通りツルマルボーイです」

 

 出走ウマ娘達はホームストレッチを通過し。先行グループに居るアグネスデジタルは下りを降りて登りに差し掛かる。

 中山レース場はゴール付近の急坂が有名で高低差約2メートル以上ある。それは体力の限界を迎えたウマ娘達に壁のように聳え立つ。

 そしてゴールを過ぎても登りは続き、底辺から頂点の高低差は5.3メートルに及ぶ。デジタルは坂路トレーニングの記憶を思い出しながら坂を駆け上がり、今の状況を分析する。

 

 雪降る中不良の芝を走るのは初体験だがほぼ慣れたと言っていい。これなら問題なく力を発揮できる。そして雪が思った以上に厄介だ。

 雨と比べて当っても肉体的ダメージは少ない。だが雪は雨と違い色がある。強制的に白色が混じることで視界を遮り、集中力を削がれ他者への意識がおざなりになってしまう可能性がある。

 そしてレースでは無意識に視界に入る風景を情報として処理する。それによって芝が抉れたギャップに脚がハマることを防げる。

 有マ記念では同じ箇所を2度通過する部分もある。1度通過した際に芝が捲れてギャップが作られ、2度目の通過の際に雪によって視界が遮られギャップにハマってしまうかもしれない。

 次に体力面だがポジション取りは上手くいった。しかし当初の予想以上に消費していた。その要因として芝の状態にある。

 冬の中山は秋の中山とは求められる適性が違うと言われているがそれは芝の違いだ。秋は野芝でスピードが出やすいが、冬は野芝に洋芝を被せたオーバーシード状態だ。洋芝は野芝を走るよりパワーを要し、それが適性の違いになる。それに加えて不良状態ではさらにパワーを要する。

 何よりあの声出しが響いた。道中は全力で走らないがそれなりの力で走っている。一般的な感覚で言えば1500メートル走の最中に大声を出すようなものだ。空気を多く吸い込み吐きだすことで、体の酸素を失いそれは体力の消費に繋がる。

 それに強い思念や情念を込めた。シンボリクリスエスの理想の走りがいつも以上に体力を消費するように、強い感情を込めて相手にぶつけると体力消費が大きくなってしまう。

 自分がやった行動に後悔は何一つない。だが結果的に厳しいレースと予想していたが、さらに厳しいレースになってしまった。

 

 第1コーナーに入り、逃げるウマ娘達はオーロラビジョンに映る映像と音で、それ以外のウマ娘達はタップダンスシチーを直接見ながら意識を向ける。

 今まではレースの中心はシンボリクリスエスだった。他者の勝ちのイメージを勝ち消し自信を挫く。悪い意味で注目を浴びていた。だがデジタルによって自信を取り戻し、思考はレース発走前のニュートラルな状態に戻った。

 このレースの1番人気、現役随一の先行力にキレが加わったウマ娘、まさに虎に翼だ。そして今の状況は芳しくない。

 誰もが未体験の雪降る中の不良状態、さらにシンボリクリスエスの走りによって、様子見かつ自信なさげに走った結果700メートル通過時点で44秒前半、これは不良を考慮したとしてもスローペースで、他のウマ娘達も詳細は分からないが、スローペースであると判断していた。

 このまま動きが無くスローペースのまま終盤を迎えたらどうなるか?ジャパンカップでは芝が重で上がり3F最速タイを叩きだし、さらに瞬発力が増し先頭から1バ身後ろという絶好のポジションにいるタップダンスシチーが勝つだろう。

 レース前のトレーニングではツルマルボーイやスイープトウショウ並みの末脚を見せていた。そんなウマ娘がスローペースである程度前に居られたら勝てる道理はない。

 

 するとタップダンスシチーが徐々にポジションを上げ始める。スローペースで勝つには逃げるウマ娘はキレ負けするのでリードを広げる。後ろに居るウマ娘は差を縮め、相手のアドバンテージを少なくして差し切る。他のウマ娘は連動するようにペースを上げ始めた。

 

「各ウマ娘第1コーナーを通過し、第2コーナーに向かいます。1000メートル通過は63秒6、これは不良バ場を考慮してもスローペースか?」

 

 場内実況が流れ客達はレースの状況を知る。このまま瞬発力勝負のよーいドンとなるか、それとも誰かが動き出入りが激しいレースとなるのか、この先の展開を予想しながら動向を見守る。

 

『先頭のウマ娘が第2コーナーを通過し向こう正面へ向かいます。これは?ヒシミラクルだ、まさかこの距離からスパートを掛けるのか?』

 

 最初に動いたのはヒシミラクルだった。そのズブさからスピードが遅く最初は判別できなかったが、その歯を食いしばる表情でスパートを掛けているのは分かった。

 その仕掛けに会場はどよめき、ヒシミラクルファンも不安が過る。だが本人は全く不安を抱いていなかった。

 この仕掛けは状況を見てのものではなかった。レース前からどんな状況であろうと坂を登り切った瞬間から仕掛けると決めていた。

 残り約1400メートルからのスパート、常識では考えられない早仕掛けだった。しかも今は不良バ場で体力は良バ場より消費する。

 そして第2コーナーは下りだ、この雪が残る芝では滑り外に大きく膨らむ。それどこか転倒し、最悪怪我して競走中止になってしまう。

 普通に考えればあり得ない作戦だった。だがヒシミラクルは己のスタミナと運を信じきっていた。

 

 奇跡はロングスパートから、

 

 優秀な成績を挙げたウマ娘を表彰する意味で、ヒロイン列伝ポスターが作られる。ヒシミラクルも未来でポスターを作られ、そのキャッチコピーがこれである。

 波乱を起こした菊花賞と天皇賞春、史上最高のメンバーが集まったGIとして名高い宝塚記念、どのレースでも勝利を呼び込んだのはロングスパートだった。

 自分のロングスパートは普通のロングスパートではない。運という時には心技体を上回る強大な力が付与される。それは絶対無敵の武器であり、迷いなく駆け出す。 

 デジタルによって取り戻した自信はより強大となっていた。

 

 観客はヒシミラクルの常識破りの仕掛けという異変を感じどよめいたが、レース場のウマ娘はそれとは別の異変を感じ取っていた。

 シンボリクリスエスによって失った自信はデジタルによって取り戻した。これで気分よく走れるとは思っていたが、そうはいかなかった。

 その思念に代わるように別のウマ娘の強い思念が各ウマ娘達を侵食しようとしていた。発生源はネオユニヴァースだった。

 

 他のウマ娘を飲み込み吸収することで己の存在を大きくする。そして伝える力が強くなり、自分の宇宙が客達に伝わる。それが当初の目標であり願望だった。

 だがシンボリクリスエスによりそれどころではなくなり、他者を飲み込み吸収できるイメージが全く浮かび上がらず挫けていた。しかし自信を取り戻し、当初の目標を達成する為に行動する。

 自分は黒色、黒色はどんな色でも混ざれば黒に染め上げる。自分はブラックホール、どんな存在も飲み込める。しかしノイズが混じる。

 

 これでいいのか?この方法で宇宙が伝わるのか?

 

 そのノイズは決意を鈍らせる。しかし無視するように他者の浸食と吸収を続ける。今までのやり方では伝わらない。レース以外の方法でも伝わらない。だがアグネスデジタルにはレースで伝わった。これは自分の問題だ、存在感と出力が増せば宇宙は伝わる。それ以外に方法はない。

 その時ふと過去の記憶が蘇る。レース以外で宇宙を伝えようと伝達方法を模索した日々、その日々で色々な方法を試した。

 短歌、俳句、詩、絵、歌、ダンス、宇宙を伝える作品を作る際に参考として多くの作品を見た。その中に好きな作品とそうでない作品があった。その瞬間閃きが起こる。

 

 他者を侵食し吸収して伝える。それは14種類のウマ娘という絵や詩を消して、自分という1つの作品を周りに見せるようなものだ。

 自分が好きでなくとも他者が好きな客も居るかもしれない。宇宙を感じてもらうには興味を持ってもらうのが重要だ、その為には可能性が多い方が良い。

 やるべき事は浸食と吸収ではなく共栄共存だった。他のウマ娘をより輝かせ繋げる。自分1人だけでは化学反応は起きないが、繋がるウマ娘が多ければ多いほど化学反応が起きる。 

 そして輝かせようと助力する事でそのウマ娘と溶け込む。客の中には好みのウマ娘の走りに感動するかもしれない。そして感動を通して、そのウマ娘に溶け込んだ自分にある宇宙を感じてくれるかもしれない。

 ネオユニヴァースは浸食と吸収ではなく、他のウマ娘が輝くことを願う。その瞬間に皆が感じていた不快感は消えていた。

 

 本来であればネオユニヴァースは考えを変えず、他者を侵食し吸収しようとしていた。だがデジタルの想いにより自信を取り戻し、力を増すウマ娘達をこの目で見て実際に体験した。

 そして他のウマ娘の様子と与えられた力を通してデジタルにある宇宙を感じ、これがより良く宇宙を伝えられる方法だと認識を改めていた。

 

 今まで宇宙を伝えるという行為は己が全力を出しレースに勝つことだと思っていた。だが今は違う。自分が勝って宇宙が伝わってもいい、溶け込んだ他者が勝って、それを通して宇宙が伝わってもいい。その精神性は奇しくも他者の煌めきを感じたいというデジタルの精神と似た部分が有った。

 

『ヒシミラクルの動きに連動するように後続勢がペースを上げる。レースは一気に動き始める』

 

 実況の言葉通り向こう正面に入り、後続のウマ娘達がペースを上げる。これはヒシミラクルの動きに釣られたわけではなかった。

 多少なりペースが上がっているようだが、前半100メートルのタイムからして、今のペースでも前のウマ娘脚はある程度溜まっているだろう。このまま差が開くとマズい。

 中山の直線は約310メートル。東京のように500メートルあるわけではなく、後方不利であり、ある程度距離を詰めなければ勝てないと判断したからだ。

 向こう正面になって先頭から最後尾のツルマルボーイまで10バ身差まで詰まる。そして隊列は第1コーナー通過時と変わっていなかった。

 ヒシミラクルがスパートを掛けて先行集団を抜いて、先頭に並びかけると客達は期待していたが、ズブさもあるせいか先行集団との差を2バ身差に縮める程度だった。一見特に動きが無いと見られる向こう正面の道中だが、その実は目まぐるしく動いていた。

 

 最初に異変に気付いたのはシンボリクリスエスだった。レースで最も速く走るために適切なペースが存在する。

 ある者はハイペースの方が適し、ある者はスローペースが適している。レースの展開によっては勝つ為に最適なペースを無視し動かなければならない状況もあるが、基本的には最も適したペースを刻んだ方が速く走れる。そして気が付けば適切なペースより明らかに速い。

 であればペースを落とせばいいと考えるが事はそう簡単ではない。加速すればそれだけエネルギーを使い、その分だけ減速すれば加速分のエネルギーを回復できるわけではない。これではベストパフォーマンスを出せない。意図せずに脚を使わされてしまった。

 そしては脚を使わされたのはシンボリクリスエスだけではない。最初から残り1400メートルで仕掛けると決めていたヒシミラクル以外は全員脚を使わされていた。

 

 誰もが適切なペースを保とうする。ましてはこのレースはグランプリ有マ記念、出走するウマ娘は歴戦の猛者達だ、しかし脚を使わされてしまった。

 その原因はタップダンスシチーに瞬発力が備わったと誤認した事、そしてペース判断を間違った事だった。

 

 まずタップダンスシチーに瞬発力が備わったと誤認した理由の第1の要因はジャパンカップのレース内容にある。

 レースにおいて上がり3F最速タイを出した。だが別に出さなくても勝てるレースであり、むしろ本来のレーススタイルではなく、意図的に上がり3F最速を出すように走っていた。

 その為にいったんペースを落とし後続をひきつけたが、そのままペースを落とさなければタイムはさらに縮まっていた。

 ジャパンカップは直線前で勝負は決まり、思考に余裕が出来ていた。であればこの勝利を次の勝利のためにどう生かすべきか、それを考えた際に思いつき実行していた。

 結果上がり3F最速タイを出し、末脚を持っていると印象付けた。

 

 そして誤認した第2の要因はトレーニングの内容にある。

 

 有マ記念前のトレーニングでは終い重点で走り、連日上がりそのコースにおける3Fにおけるトップクラスの数字を叩きだした。

 その様子を見て瞬発力が備わりさらに強くなったと思われ、ファンによって1番人気に押し上げられた。だが結論から言えばそこまでの末脚を持ってはいない。

 では何故上がり3Fで好記録を出せたのか?それこそがこの仕掛けの最大の肝であり、数字さえ出せれば成功すると確信していた。

 そしてそれを可能にしたのは道具とシューズによるものだった。

 

 かつてトゥインクルレースにおいてあるシューズとある素材の服が猛威を振るった。そのシューズと素材の服を着れば、従来の物と比べて明らかにタイムが縮まり、それを装備したウマ娘が次々と大きいレースに勝利し波乱を引き起こした。だがそのシューズと素材の服は使用禁止になった。

 理由としては道具を作っている会社が特定のチームやトレーナーと契約を結び、他の者に使用させないことで公平さが失われる。実力以上のスピードが出れば故障のリスクが高くなる等である。そしてタップダンスシチーはこの道具をトレーニングで使用した。

 

 レースで使えば無論反則で有り、トレーナー資格はく奪の可能性すらある。

 しかしトレーニングで使用してはならないという規則はない。野球で飛ぶバットを試合では使ってはいけないが、練習では使っていいのと同じ理屈だ。

 タップダンスシチーのトレーナーはジャパンカップの走りを見た瞬間に、これからやろうとしている仕掛けを察知し、即座に道具を取り寄せた。幸いにもコネがあったので直ぐに取り寄せられた。

 人は数字に騙されやすい。末脚があると誤認させるのに手っ取り早いのは、トレーニングの際にタイムを計る機械を弄りタイムを操作することだが、それは不可能だった。であれば走る者のスピードを意図的に上げて、タイムを計らせればいい。

 最初は薬剤などで一時的に身体能力を上げる方法を考えたが、本番で効果が抜けきらず、露見した場合の世間の心証が最悪なので却下し、道具でスピードを上げることにした。

 結果的にマスコミやファン達は勿論、相手陣営も誤認してしまった。

 

 そしてレースにおいても仕掛けを施した。前半700メートル時点はスローペースの流れで走り、そこから少しずつペースを上げていく。

 そこで重要なのは前半1000の通過タイムを速すぎない事だ。勝つ為に体内時計でペースを判断するのは重要であるが、全力でなくともそれなりに力を出した状態でペースを正確に判断するのは至難の業だ。それが出来るのはごく一部で大概は精度が低い。

 そこで役に立つのが場内実況だ。実況は見ている者にも状況がわかるように中長距離のレースでは前半1000の通過タイムを言い、それを聞いて判断基準にするウマ娘も居る。

 そして前半1000メートルだけでレースの流れが決まったと思う者も多く。前半1000メートルが速ければハイペース、逆だったらスローペースと断定してしまう。

 タップダンスシチーはその認識を利用した。前半1000メートルをスローペースと判断する速度に調整し、それ以降も少しずつ巧妙にペースを上げていく。

 その証拠に1000メートルからの500メートルの通過タイムは31.3秒と速まり、全体を見ればスローペースでは無く淀みのないペースになっていた。

 結果、スローペースと誤認し、瞬発力があり脚が溜まっているタップダンスシチーに勝つのであれば前の者は離れ、後ろの者は差を詰めようと脚を使ってしまった。

 

 他にも幸運に恵まれた要素も有った。まずはバ場状態が不良で、ジャパンカップは重だったので、そのレース内容を思い出し瞬発力があると意識してしまった。

 そしてシンボリクリスエスの走りにより心が挫かれ、デジタルによって自信を取り戻したなど、良くも悪くも心が乱されペースを判断する思考が失われていた。

 

 勝つ為に道具を使って瞬発力があると誤認させる。これこそがタップダンスシチーが提唱する勝負に全力を尽くす勝負力の最たるものである。

 勝負力で有利な状況を作り、鍛え上げた心技体で作戦を実行し、運の要素で成功を後押しする。これが合わさったのが実力で有り、この状況は紛れもなく実力で作り上げたものであった。

 

 

『そしてタップダンスシチーが一気に動いて逃げる2人に迫る。有マ記念でも強気に自分達のリズムを刻むぞ』

 

 作戦は功を奏してある程度脚を使わせた。あとは自分達の走りで押し切る。タップダンスシチーはもう1段階ギアを上げて先頭に迫り、内ラチ側を走るアクティブバイオとザッツザプレンティを抜く。

 認識して脚を使うのと、認識せずに脚を使わせるのでは体力の消費度は大きく異なる。2人もここが勝負所と必死に食い下がるが、タップダンスシチーに付いていく脚は残っていなく、少しずつ離されていく。

 そして先行集団も後続集団もタップダンスシチーに付いていこうとギアを上げる。想定より追走するスピードが遅い。スローならここまで鈍くはなく、改めて足を使わされたのを実感する。

 そしてタップダンスシチーが抜いてから数秒後、先行集団の先頭に居たリンカーンとゼンノロブロイがアクティブバイオとザッツザプレンティを外から抜きさり、すぐさまシンボリクリスエスとウインブレイズが抜いていく。

 そして先行集団の中でデジタルだけが外から抜かず内ラチ側に居た。

 

 デジタルには2つの選択肢があった。先行集団と同じように逃げウマ娘2人の外を回って走るか、逃げウマ娘の後ろに潜んで内ラチ沿いを走るか。外は走れば距離が増えるが綺麗な芝を走れる。内側は多少芝が荒れても最短コースを走れるメリットがあった。

 其々のデメリットとメリットを考慮した結果、内側を走る事にした。だがこれはある意味消去法で、コーナーの最中に外に回ればウマ娘を感じられなくなる漠然とした予感があり、直線に入って外に出しても同じという予感があった。故に内側を選んだ。

 そして目下の問題は迫ってくる逃げウマ娘2人だった。このまま垂れてくれば壁になり減速しなければならず、そうなっても目的を達成できない。

 外も内も分が悪いが内には僅かな可能性がある。それは2人が息を吹き返し盛り返してくれるか、コーナーリングが下手で外に膨らみ、空いたスペースを通るという選択肢だ。

 完全に他力本願だがタップダンスシチーの作戦により外を回る体力と脚を削られ、それしか方法が無かった。

 

 ヒシミラクルは運が良いと褒めた。ならば日本のウマ娘の中で運が強いウマ娘が褒めてくれた運に賭ける。

 デジタルは2人の背中が迫るのを見ながらもスピードを落とさず、外にも出さず突き進む。その時2人の身体が左に移動した。

 コーナーリングの熟練度、身体の疲労、荒れた芝と上に載っていた雪、様々な要因が重なり合った結果、2人は左に寄れて1人分のスペースが生じ迷いなく飛び込んだ。

 



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勇者とラストダンジョン#20

誤字脱字の指摘ありがとうございます


『先頭はタップダンスシチーに変わった!リンカーンとゼンノロブロイとシンボリクリスエスも後を追う!後ろのウマ娘達も差を詰めてきた!4コーナーをカーブして!いろんな情念渦巻いて!直線コースに出てきた!』

 

 タップダンスシチーが先頭で直線に入る。淀みないペースで他のウマ娘に脚を使わせ、鍛え上げた先行力で押し切る。これがトレーナーと作り上げた自分たちのリズムと走り。

 この走りで勝つ為に様々な努力をしてきた。勝つ為にレース前に仕掛けを施し、レース中でも仕掛けを利用し相手を惑わし、そして運も向いた。

 以前なら運の要素に助けられたことに不満を抱いていただろう。だが宝塚記念でヒシミラクルに負けて運の重要性を知った。

 強さとは心技体と運、そして自分に有利な状況を作る勝負力の総合値である、であれば自分が最も優れている。

 シンボリクリスエスの心技体でも。ヒシミラクルの運でもこの展開の自分を打ち破れない。それを証明し日本最強の称号を引っ提げて海外の頂に挑む。日本の悲願である凱旋門賞を取るのは自分とトレーナーの2人の勝負師だ。

 

 ゼンノロブロイは4コーナーで内に切り込んでいくシンボリクリスエスを視界の端で捉えると、横に移動して体を併せる。

 今日は1レースからバ場状態は不良で走ったせいか、芝は開催最終週のように荒れていた。

 シンボリクリスエスはパワーが強いので内を走った方が速い、一方ゼンノロブロイはこの状況では外を回し芝の良い場所を走った方が速い。普段であれば迷いなく外に出した。だが今日は敢えて内に切り込みシンボリクリスエスと体を併せた。

 レース場では皆があらん限りの声を出して好きなウマ娘を応援し、心揺さぶるレースを期待し走るウマ娘にエールを送る。そしてレースの結果に関わらず勝者には賞賛の拍手と歓声が降り注ぐだろう。それは清く素晴らしい光景だ。

 だがシンボリクリスエスが勝てば話が別だ。金に執着する薄汚れたウマ娘のレースに感動し賞賛してしまったと知れば、裏切られ自責の念で心が苛まれてしまう。

 そんな事は絶対にさせない。レースは清く正しくなければならない。その為にアグネスデジタルの恩恵を敢えて授かった。

 他人の力を借りて巨悪を討つのが英雄なのかという疑念があった。それでもシンボリクリスエスを打倒する為に恩恵を受け入れた。全てはトゥインクルレースを守る為に。

 憎しみと使命感を切っ掛けに勝負根性を引き出す。それがゼンノロブロイの狙いだった。その力は現役最強の1角であるシンボリクリスエスの末脚と同格、いや若干勝っていた。

 リンカーンを追い抜き、シンボリクリスエスよりクビ差前に出ながら、2バ身前に居るタップダンスシチーを追う。

 

「外からゼンノロブロイとシンボリクリスエス!そして内からアグネスデジタル!来てるぞ!」

 

(これだよ!これ!)

 

 デジタルは内ラチから1人分離れたスペースを突き進む。パドックで余計な動きをせず、本バ場入場で走らず、レース中は可能なかぎり内ラチ側の最短距離を走り、他のウマ娘を風よけにして、徹底的に体力を温存してきた。全てはこのために。

 直線に入ると走るウマ娘達の情念は一気に膨れ上がる。それを感じるのがレースを走る醍醐味だ。

 前から後ろから発生する巨大な情念を存分に感じ取る。勝利や目的の達成を目指し、夢やトレーナーやチームメイト達の想いを抱えて走っている。皆が太陽のような煌めきを発している。

 何て素晴らしいのだろう。このレースを最後の舞台に選んで良かった。この極上の体験を味わえたのは様々な要因が重なり合った結果だ。

 トレーナーが作戦や指示をしてくれなければ、ここまで力を残せていなかった。そしてここまでたどり着けたのも両親に育まれ、チームメイトや友人達に支えられ、ライバル達と切磋琢磨したからだ。ここまで関わってきた神羅万象に感謝の念を抱く。だがその感謝は刹那ほどの時間だった。

 デジタルは即座にウマ娘を感じることに全ての神経を注ぐ。我儘で自分勝手なエゴイスト、それがアグネスデジタルというウマ娘、自分の欲望を満たすために時間感覚を鈍化させる。1秒でもウマ娘を感じる為に。

 

 メイショウボーラーとアドマイヤマックスは無意識にお互いの手を握っていた。レースを長年見ていると逃げているウマ娘や追い込んでいるウマ娘のスピードを予測し、まるで未来の結果が見えているように勝敗が分かることがある。

 逃げるタップダンスシチー、それを追いかけるシンボリクリスエスとゼンノロブロイ、さらに追い掛ける後続勢、それらの速度を予測した結果、アグネスデジタルが勝利する映像が見えていた。

 

 アドマイヤマックスはデジタルの名前を力いっぱい叫ぶ。有マ記念は奇跡が起きると言われているが、その格言は本当だった。

 衰え終わった筈のウマ娘が現役最強の1角である漆黒の帝王を、GI最大着差をつけて勝利した稀代の勝負師を、神に祝福されたような運を持ち春のグランプリを制覇した奇跡のウマ娘を、圧倒的な才覚を持った2冠ウマ娘を破る。これを奇跡と言わずに何と言う。

 まさに完全復活だ。これで安田記念を一緒に走れる。レースを通して救われた感謝と今どれだけ幸せかを伝えられる。そして以前崇拝した偶像とは違う魅力を持ったデジタルを感じられる。

 

 メイショウボーラーはあらん限りの声でデジタルにエールを送る。この瞬間の為に引退を認めず抗い続けた。

 トレーナーもチームメイトも世間も終わったウマ娘と衰えを受け入れた。常識で考えればそうだ。だが異能の勇者には常識になんて通用しない!

 

 誰がマイルCSに勝てると思った?

 誰がオペラオーとドトウのワンツーフィニッシュを崩せると思った!?

 誰が地方ダート、中央芝、海外芝、中央ダートの全く異なるカテゴリーのGIを4連勝できると思った!?

 誰がダートプライドという最高のレースを開催させ、世界最強のウマ娘達に勝ち、ワールドベストレース勝者の称号を得ると思った!?

 刮目せよ!これが異能の勇者アグネスデジタルの底力だ!そして異能の勇者と安田記念で一緒に走れる!その瞬間を想像し喜びのあまり一筋の涙が流れていた。

 

 2人は喜びを噛みしめながら想像した未来が現実になる瞬間を見届ける。だがその表情は瞬く間に歪み、膝を地面につけ泣き崩れた。

 

『おっと、アグネスデジタル失速!』

 

 ゴールまで残り200メートルでデジタルは見る見るうちに失速し、今にも動きを止めそうだった。

 その光景に気づいた観客は一瞬だけ注目を向けるが、即座に1着争いを繰り広げるウマ娘達に注目を向ける。その中でデジタルのトレーナーだけその場を離れ走り始めた。

 

 トレーナーはありとあらゆる可能性を模索した。だがどう考えても有馬記念ではどのウマ娘からも、デジタルがウマ娘を感じられる有効範囲である10バ身体差以上の差をつけられ最下位になる。

 恐らく3コーナーから4コーナーの間でジリジリと差をつけられ、直線に入った時点で先頭と10バ身差以上つけられ、ブービー着順になるウマ娘からも7~8バ身差をつけられている。

 デジタルは直線でウマ娘の情念が増大し、それを感じるのがレースの醍醐味だと豪語していた。

 どうすれば直線まで離されずウマ娘を感じさせられるか?その難題に対して知識を総動員して挑むが、一向に解は導き出せない。

 だがその解は視点を変えればあっさり導き出せた。それは実に単純な答えだった。

 

 2500メートルのレースで2400のレースをすればいい。

 

 これであれば力が足りないデジタルでも直線で離されずにウマ娘を感じられる。それは聞けば簡単な答えだが、トレーナーは思いつくのに時間がかかってしまった。それは常識が邪魔したからだ。

 それは常識であり、レースに勝つ為に誰もが出来てしなければならない行為、それはレースの距離にあった走りをすることである。

 1600メートルのレースで1500メートルのつもりで走れば、残り100メートル分の力を使い果たしてしまう。1700メートルのつもりで走れば、残り100メートル分の力を余してしまう。

 ウマ娘達は未熟さ故に脚を余し、脚を切らしてしまうレースをしてしまう時もある。だが最初から意図的にする者はレースの歴史において誰もいない。

 それをしないというのは勝ちを放棄しているに等しく、レースへの冒涜ともいえる。トレーナーは思わず躊躇する。それは忌避感も有ったがそれだけではなかった。

 

 この作戦を実行すればデジタルは培った実力と経験を発揮し、きっちり2400メートルのレースをして力を使い尽くし、結果的として約11秒程度ウマ娘を感じられる。そして代償としてブービーからも大差をつけられるという大惨敗を喫する。

 その負け様は屈辱の極みで無様と罵られるかもしれない。GI6勝した名選手の最後がそれでは余りにも惨めだ。有終の美とは言わないが、できる限り恰好がつく引退レースを走らせたい。

 一応はデジタルに今の案を説明した。すると拍子抜けするほどあっさりと了承した。その様子を見て最後まで図れなかったことを自覚する。

 デジタルはウマ娘を感じる為なら全てを賭けられる。ブービーから大差負けという不名誉などあまりに軽すぎる代償に過ぎなかった。それから2400メートルを走れるための作戦を練りトレーニングをこなしてきた。

 

 そしてレースは当初の想定とは予想外の出来事が起き続けた。雪降る中で不良バ場を走り、自信を失って弱体化してしまったウマ娘達の自信を取り戻す思念をぶつけた際の体力の消費、何より自信を取り戻したウマ娘は想定より遥かに強くなっていた。

 その結果、デジタルは2400メートルのレースをすれば直線に入る前に大半のウマ娘に10バ身体差つけられると判断し、2300メートルのレースをしなければ感じられないと判断する。

 直線でウマ娘を感じられる時間は約6秒、その僅かな時間を得るために培った心技体を全て注ぎ込み2300メートルを走り、全神経を研ぎ澄まし6秒間ウマ娘を感じた。その時間はまさに至福の時間だった。そして幸せな時間は終わりを告げる。

 この1歩で全てのエネルギーを使い果たすと己の限界を悟る。その1歩で丁度2300メートル地点だった。目的を達成する為に過不足なくエネルギーを使い果たした。

 それは歴戦の猛者が走る有マ記念に参加しているウマ娘に相応しい技だった。そしてその最後の1歩で1人分ほど内ラチ側に移動する。

 

 トゥインクルレースにおいて直線では内ラチから1人分のスペースを空けるという暗黙のルールがあった。

 その空間は内ラチ側を走るウマ娘が事故を防ぐ為に移動し、あるいは急激に垂れてきたウマ娘を回避するための緊急避難スペースだった。

 2300メートルに全ての力を注ぎ込めば、瞬く間に失速する。その失速で後続のウマ娘を邪魔したくない。そして失速してから避難しても遅い。であれば失速する前に避難し、周りの安全を確保して力尽きる。

 デジタルが内ラチ側を走り続けたのは体力温存もあったが、主たる理由は避難スペースにいち早く移動し、他のウマ娘を妨害しないためだった。

 避難スペースに移動して安心したのか、それを切っ掛けにするように急激に減速していく。トレーナーとの出会い、トレセン学園に入学した当時の記憶、レースに関係する記憶が走マ灯のように蘇るが、瞬時に思い出の振り返りを中断する。

 思い出を振り返るのはいくらでも出来る。今はゼロコンマ1秒でも出走するウマ娘を感じるべきだ。

 デジタルはさらに時間感覚を鈍化させ可能な限りウマ娘を感じる。そして全てのウマ娘が10バ身以上離れていく。

 

 タップダンスシチーちゃん、その貪欲に勝利を求める気迫は最高だったよ。これからもトレーナーと協力してレースに勝ってね。

 ヒシミラクルちゃん、一点の曇りもなく運を信じる姿は素敵だったよ。その運を含めた実力で世界の頂点に立ってね。きっとできるよ。

 ゼンノロブロイちゃん、絶対に思い描く理想の英雄になれる。だから焦らないで、そしてシンボリクリスエスちゃんと仲が悪くなったみたいだけど、1度は話し合ってね。きっと分かり合えるから。

 ネオユニヴァースちゃん、今日のレースでも明確に宇宙を感じられなかった。ごめんね。でも宝塚記念より少しだけ分かった気がする。きっと誰かに伝わるから挫けないで。

 シンボリクリスエスちゃん、貴女のお陰で引退レースが台無しになるところだった。けど相手を挫く走りを実現するためにどれだけの努力をしてきたかは分かったし、強い情念を感じてときめいた。今後はトレーナーのサポート役にまわるみたいだけど、将来は教え子同士が一緒のレースに走れることになれば素敵だね。

 

 デジタルは関りがあったウマ娘を筆頭に、このレースに走る全てのウマ娘にエールを送る。それが勝利や目的を達成する為の助力になるのを願いながら。

 

『タップダンスシチーが先頭!追うゼンノロブロイとシンボリクリスエス!内からアグネスデジタルに変わって、ヒシミラクルがやってきた!』

 

 ヒシミラクルは3コーナーから4コーナーで捲りをかけて、遠心力を使って外に持ち出し、芝が良いところを走りながら差し切るつもりでいた。だが外を併走していたチャクラが右に寄れて接触し、内側に向かってしまう。

 さらに逃げて垂れてきたアクティブバイオとザッツザプレンティが左に寄れ、それを回避するように内ラチ側に切り込み、デジタルの後ろについた。

 度重なる進路変更により僅かに減速してしまっていた。傍から見れば不運である。だがヒシミラクルは動じない。

 一見不利に見えても一連の出来事は絶対に有利に働くと信じきっていた。そしてそのまま直線に入るが、状況は依然悪かった。

 

 直線に入って先頭のタップダンスシチーとの差は3バ身、それを追うデジタルとゼンノロブロイとシンボリクリスエスとの差は2バ身、そして前にはデジタル、横に出せば進路上にはタップダンスシチー、さらに横に出してもゼンノロブロイやシンボリクリスエスが居た。この状態では前に居るウマ娘を追い抜けない。

 唯一の方法として横に出てデジタルを抜き、再び内ラチ側に移動する。そうすれば進路上に誰もいなくなる。だがそんな素早い横移動も一瞬のキレも持っていなかった。

 絶体絶命と言っても差し支えない状況だが、それでも己の運が何とかしてくれると動じなかった。

 

 自転車に乗り長距離を走って着順を決めるロードレースという競技がある。その競技ではゴール直前になると選手たちが溜めていた力を全て使いペダルを漕ぐ。それは距離が違えど、道中は力を温存し、直線になって力を全て使うレースと展開が似ている。

 そしてロードレースにおいてアシストと呼ばれる役割がある。アシストはエースを1着にさせるためにゴールぎりぎりまで全力でエースの前を走る。

 そうすることでエースはスリップストリームの恩恵を受けて、ギリギリまで脚を貯められる。そして恩恵はスピードが増せば増す程大きくなる。

 アシストは重要な役割であり、アシストがなければどんな強力な選手でも勝てないと言われている。

 そしてアシストはギリギリまでエースの力を温存させ、力を果たしたらエースの為に進路を空ける。そうすることでエースが横移動する分の力を温存できるからだ。

 

 ヒシミラクルはデジタルの後ろに居ることでスリップストリームの恩恵を与っていた。そしてデジタルは力を使い果たし、後続に迷惑をかけまいと内ラチ側の避難スペースに移動した。

 それは結果的に進路を開けたことになる。後ろの者の風よけになり進路を空ける。まさにアシストの役割だった。デジタルの思考を全く読めていなかった。だが様々な偶然が重なり恩恵を与った。

 さらにいえば当初の予定通り外を回していたら脚は残っていなかったが、内に入り風よけにすることで脚を残せていた。

 デジタルの作戦も信念もヒシミラクルの運によって利用される。それはヒシミラクルの運がデジタルの運を吸収した瞬間でも有った。

 

 内から上がってくるヒシミラクルの姿に、観客達はどよめく。内で詰まっていたはずなのに、どうやって抜け出してきた?デジタルの挙動を注視していた者は僅かで、まるですり抜けたようだった。誰もが驚くなか、タップダンスシチーはこの展開をある程度予見していた。

 

 どうすれば力が足りてないデジタルがウマ娘を感じられるか?最初は何かしら利用できないかと考え始めたが、答えは見つからなかった。

 勝負に勝つ為に必要な作業かと言われば微妙だ、しかしデジタルのトレーナーなら勝負師として何かしらの方法で達成させる。同じ匂いを感じる者として看破し利用してやると勝負師としての血が騒いでいた。

 それからトレーナーにも相談するが答えは見つからなかった。しかしあるきっきかけで答えに辿り着く。それはあるレース番組を見ていた時だった。

 

 芸能人か何かが人気のウマ娘が後ろから猛烈に追い上げて2着のレースを見て、あと50メートル長ければ勝てた。負けて強しのレースでしたと言っていた。

 負けて強し、それはタップダンスシチーが嫌いな言葉だった。仕掛けが遅れた分だけ末脚が鋭くなっただけにすぎない 。

 それに50メートル長ければという仮定も無意味で、仕掛けが遅れたのは、そのウマ娘の弱さだ。

 その瞬間デジタル達がやろうとする作戦を閃く。2500メートルで足りないなら、それより短い距離を走るレースをして、足りない力に下駄を履かせればいい。そうすればある程度相手にくらいつける。

 しかしこの作戦は勝負を放棄していると同じ意味だ、普通なら実行しないが、デジタルもトレーナーも普通ではない。この常識外れの作戦を提案し、目的のために見栄も外聞も捨て実行するだろう。

 勝利を目的しているが故にその発想は頭に無く、もし番組を見ていなければ思いついていなかった。

 

 その作戦を軸にして枠順などを考えて、このレースで実践する作戦を推理し、ほぼ正解だった。そしてデジタル達を利用できないと分かった。

 自分達の作戦は2~3番手につけて、末脚が有ると思わせながら徐々にペースを上げて他のウマ娘に脚を使わせて、有利な流れにして押し切る。

 恐らくデジタルが自分より前の位置にはつけない。直線でもよくて5番手ぐらいだろう。その後ろのポジションではアシスト代わりにしても前のウマ娘を差す瞬発力が足りない。  

 仮にシンボリクリスエスやネオユニヴァース並みに瞬発力があれば、利用していたかもしれない。世間は勘違いしても実際には瞬発力はない。

 これはルームメイトという立場でデジタルを知れたから導き出した答えだ、恐らくは誰も利用する事は出来ない。

 出来るとしたら頭脳を超越するような人知を超えた力、つまり偶然によって偶々デジタルの後ろについて恩恵を受けた者、そんな運を持っている者は1人しか居ない。

 

 ヒシミラクルは一瞬迷う。デジタルが内ラチ側に移動し視界が開けたと思った瞬間に、タップダンスシチーの背中が視界に飛び込んできた。進路をカットしているが完全にふさがれてはいない。内か外に移動すれば問題なく走れ、斜行を取られることはない。内に切り込んだ。

 

『そして大外からもネオユニヴァースが襲い掛かる!』

 

 ネオユニヴァースは3コーナーから4コーナーにかけてタップダンスシチー達と同じようにペースを上げる。だが若干余力を残しながら、同じく外を回すウインブレイズの後ろに張り付き、可能な限り力を温存しながら4コーナーを曲がる。そして直線に入った瞬間に外に出して、誰も通っていない芝の状態が荒れていない箇所を走る。

 現時点で誰よりも力を残していた。だが力を残していたからレースに勝てるわけではない。もしヒシミラクルがネオユニヴァースの状況であれば、間違いなく力を使いきれず脚を余す。この状況において必要なのは卓越した瞬発力とスピード、そしてネオユニヴァースはその2つを兼ね備えていた。

 残り距離約310メートルで先頭まで5バ身差、それだけあれば力を使いきり、先頭を追い抜くには充分だった。全ての力を注ぎ込み直線を駆け抜け、着実に先頭との差を縮めていく。歯を食いしばり、多くのエネルギーを消費しているせいか表情は歪んでいた。

 

 このレースで宇宙を伝える為には他のウマ娘と共存共栄を図り、他者に力を与えられるよう溶け込み、そのウマ娘達を通して己が感じている宇宙が伝わればいいという思考に至った。

 他人に任せればいい、何故そこまでして全力で走っているのかと思うかもしれない。だがネオユニヴァースなりに理由があった。

 ウマ娘達は苦境に立てば立つほど力を発揮する。それは皐月賞や日本ダービーを通して自らの体験で実感している。そして力を発揮すればより宇宙が伝わると考えていた。

 ならば己が他のウマ娘達の苦境となり追い詰める。例え他のウマ娘達が負けたとしても発揮した力が消えるわけではなく、誰かが感じてくれる可能性が増える。

 今までのネオユニヴァースは完全ではなかった。皐月賞でも日本ダービーでも宇宙を見せるために全力を出し、追い詰められながらもさらに成長した。

 それと同時に無意識にこれで伝わるのかという迷いを抱いていた。その迷いが枷となり、日本ダービー以降は勝利から遠ざける。

 今日のレースを通して、デジタルによって自信を取り戻したウマ娘達から確かにデジタルの宇宙を感じた。これこそがレースで宇宙を表現する方法だったのだ。最早迷いは完全に消えていた。

 今のネオユニヴァースは以前よりは勝利を望んでいない。だが皮肉にもその心のあり様が無意識の迷いを断ち、更なる力を与える。今この瞬間自分史上最も強かった。

 

『タップダンスシチーが先頭!内からヒシミラクル!中からゼンノロブロイとシンボリクリスエス!大外からネオユニヴァース!』

 

 残り100メートル、中山レース場の直線の急坂は有名だが斜度は200メートル地点から100メートル地点の間がもっと険しく、それを過ぎると坂ではあるが一旦緩くなる。

 この5名に絞られる。其々が願いや夢を胸に抱きながら駆ける。彼女達が生み出す熱は観客に伝播し、それに応じるように声を上げる。今日本で最も熱を持った場所である。

 ゼンノロブロイとヒシミラクルが先頭まで1バ身差に迫り、着実に差を縮めていく。ネオユニヴァースも2バ身差まで迫り、その勢いは5人の中で最も強く、前の2人以上のスピードで差を縮めていく。

 そしてシンボリクリスエスはゼンノロブロイやヒシミラクルからジリジリと引き離され、2人から1バ身後ろの位置にいた。観客達はこの様子を見て1着は無いと見切りをつける。

 するとその事実を理解してしまい絶望したのか、シンボリクリスエスは力が抜けたかのように倒れこむ。

 次の瞬間抉れた芝が空高く舞うと同時に、ギアを上げたかのように加速し始める。その様子を見たエイシンプレストンは驚愕で目を見開いていた。

 

 エイシンプレストンは格闘技をしているが、無拍子と呼ばれる技を得意としていた。それは構えた状態から体を脱力させ、前に倒れこみ地面に顔が激突する直前まで脱力を維持し、そこから一気に体に力を入れて間合いを詰めて拳を放つ技である。

 重力による前方への落下速度は想像より遥かに速く、筋肉の弛緩と緊張のふり幅により、その速度はさらに増す。

 結果通常の通り構えから間合いを詰めるより速い。そしてこの技をレースに応用できないかと試したことがあった。

 

 試合では構えた状態から脱力するが、重力による前方への速度は速いと云えど、走るスピードよりかは遅い。  

 しかしレースでは走っている途中に脱力すれば充分に速度が付いているので、差は縮められる。だが予想より遥かに難易度が高かった。まずは走っている最中に脱力するというのが想像より難しく、その動作はどこかぎこちなくなり、タイムロスが生まれてしまう。そして何よりの問題は恐怖心である。

 試行錯誤をした結果、この技を使えば一時的に速くなるが、フォームが乱れ長時間走るとすれば結果的に遅くなると分かった、使うとしたら最終直線の残り半ハロンである。

 直線は最もスピードが出る状態で時速70キロは出ている。脱力して倒れこんだとしても多少減速しても相応のスピードは出ている。

 そしてこの技は脱力する時間が長ければ長いほど効果を発揮し、理想は顔が地面に激突する数センチ手前まで脱力することだ。

 もし失敗すればスピードが乗った状態で地面に激突する。そうなれば鼻骨折など重傷は免れない、下手すれば死ぬ可能性すらある。

 そんな技をレースで使えるわけが無い。実行しても恐怖により脱力は上手くいかず、仮にできたとしても激突する恐怖に負け、脱力の時間は短くなる。

 プレストンもトレーニングを重ねてみたが完成度は低く、それならば普通に走った方が速いと断念した。

 

 そして断念した技が完璧に再現されている。恐怖のネジが外れているのか、絶対に成功するという自信があるのか分からない。

 それでもシンボリクリスエスは実践し成功させている。このウマ娘は予想を遥かに超えた天才であり、怪物であると認識させられた。

 

 残り50メートル、シンボリクリスエスの一連の動作を見ていたネオユニヴァースは驚く。倒れこんだと思ったら急加速してきた。それは己のレース知識には全く無い行動だった。

 だが驚きを即座に押し込める。これは追い詰められたことで実力を発揮したのだろう。ならば己がもっと速くなり、もっと追い詰める。誰が何をしようがやることは変わらない。

 

 ゼンノロブロイの視界に強制的にシンボリクリスエスが入ってくる。直線半ばで追いつき欲にまみれた帝王を討ち果たしたと思ったが、もう一度生き返ってきた。ならば何度でも討ち取る。

 シンボリクリスエスへの怒りと業界の未来を守るという使命感を燃料として、さらなる力を引き出ていく。

 

 ヒシミラクルは内ラチ側を懸命に走る。様々なトラブルで内ラチ側に移動させられ、アグネスデジタルが前を蓋した状態になった時はどうなるかと思ったが、最中的には全て良い方向に転んでいると確信していた。やはり己の運は途轍もなく強いと改めて自覚した。

 

 諦めない精神力はレースにおいて重要だが、最も諦めない心を持っているのはヒシミラクルである。

 レースが続いている限り勝つ可能性はゼロにはならない。それは理屈としては理解しても心では理解していなく、大概のウマ娘は実力ではどうやっても覆せないと分かれば諦めてしまう。

 相手が脚を挫くかもしれない、鳥が突っ込んできて激突するかもしれない。それらが原因で逆転して勝つ。そんな幸運によっての勝利は転がり込んでこないと考える。しかしヒシミラクルは誰よりもその可能性を考慮し走り続ける。

 その諦めない力は運だけではなく、最後の一伸びを生み出す勝負根性になり力を与える。

 

 タップダンスシチーは後ろのウマ娘の情念を感じながら突き進む。ジャパンカップでは大差で勝利した。

 その結果着差という物理的な距離と、大勢が決し諦めてしまったせいもあり情念は届いていなく、そういった意味ではGIという厳しいレースを体験していなかった。

 だが今は殺気、執念、妄執、情熱など今まで感じたことのない情念が刺すように伝わり、今にも足が止まりそうだ。しかしタップダンスシチーが持つ勝利への欲と執念があっさりと跳ねのける。

 タップダンスシチーは勝利のために小細工を弄し相手を騙すような作戦を取る。その思考や態度をレースに対して不誠実であると言う者もいる。だが言わせてもらえば逆だ。

 レースに対する誠実さとは勝利を目指す事だと考えていた。そして勝利を目指すとは全ての可能性を模索し実施する事だ、勝つ為ならルールに違反しなければ何だってすればいい。

 だが周りは卑怯など不誠実など言って実行しない。それは見栄やプライドが邪魔し周りの評価を恐れているからだ。それこそレースに対して不誠実である。

 今日の為にやれる事は全てやってきた。改造シューズでのトレーニングも世間に露見すれば批判されるだろう。それに対して後悔せずこれからも同じスタンスを貫く。

 勝負に対して誰よりも誠実で有り、その誠実さはレースに勝利するために必要な力を与えた。

 

 レースとは心技体と勝負力と運を競い、ウマ娘それぞれの主義主張をぶつける場でもある。主義主張に優劣は無いが、勝負の場に居る以上は結果が優劣を決めてしまう。

 

 タップダンスシチーの勝負力を重視し、誰よりも勝負に徹する誠実さ。

 ヒシミラクルの運を重視し、誰よりも運を信じる純粋さ。

 ネオユニヴァースの宇宙を愛し、皆に宇宙を伝えたいという情熱。

 ゼンノロブロイのトゥインクルレースを愛し、穢れから守ろうとする使命感。

 シンボリクリスエスのトレーナーの為に尽力し、プロ選手として仕事を全うしようとする矜持。

 

 何が優れ何が劣っているかという答えの一端が今決まる。

 



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勇者とラストダンジョン#21

 アグネスデジタルは一段と大きくなった歓声を聞き、誰かがゴール板を通過したと推測を立てる。しかし誰が1着になったかを考える心身の余裕はなかった。

 

 寸分の狂いなく体力を使い切り、2300メートルを走り抜け、文字通り全身全霊の力を使い果たす。

 2300メートルを走り抜けた時点で力を使い果たしたが、その場で倒れこむわけではない。身体の安全を守るために少しずつ減速していきながら停止し、内ラチに体を預ける。  

 

 ゴールまで残り160メートル、それは途方もない距離に見えていた。

 

 デジタルは内ラチを支えにしながら歩き始める。水分をたっぷり吸った芝が脚に絡みつく。脚を動かすたびにプールを歩く時のような抵抗感と疲労を与える。

 そして中山レース場で最も斜度が大きい区間に差し掛かり、さらに体力を削り取ってくる。急坂が壁のように見えていた。

 身体は信じられない程重く、その歩みは牛歩のように遅い。そして意識は混濁し気分は最悪だった。

 ゴールまで何分かかるか分からないが、その時間はこの苦しみを味わい続けなければならない。まさに責め苦である。今すぐにでも歩みを止めて倒れこみたい。だが断固として拒否し、内ラチを支えにしながら少しずつゴールに近づいていく。

 

 這うようなスピードで歩きながら最大斜度の区間を超える。しかしゴールまで残り約100メートル、普段であればウマなりなら約8秒で走れる短距離だ。だが今はステイヤーズステークスより長く思えていた。

 一瞬心が挫けそうになるが、活を入れて重い体を引きずるように歩き続ける。

 

 観客から声が聞こえてくる。恐らく自分に対する声援だ。這うようなスピードでゴールを目指す姿を見て応援しているのだろう。注目されるべきはレースを走ったウマ娘だ、自分であるべきではない。

 全身全霊で走ればこうなるのは予想できた。普段であれば力を果たした瞬間にコースから外れ、気づかれないようにコースから消えていただろう。

 勝手にレースを中止すれば罰金は勿論、長期間の出走停止処分を受けるかもしれない。だが今日でレースを走るのは最後なので問題ない。

 

 デジタルはレースにおいて勝利より、ウマ娘を感じることを目的とする。であればレースを走るウマ娘が居ないこの状況において走る意味はない。それでも苦しみ重い体を引きずり、受けるべきではない注目や声援を受けながらゴールを目指していた。

 トレセン学園に入学し、様々なレースを通して存分にウマ娘を感じてきた。自分の欲望を満たすと同時に競技者としての誇りを持ち始めていた。

 多くのウマ娘は有マ記念を走りたいと願いながら走れずに舞台から去っていく。今は途轍もなく辛く苦しい。だがその舞台に立っているという誇りが歩みを止めさせない。

 

 そして1着のウマ娘がゴールしてから1分後、ゴール板を通過する。タイム差はGI史上最大となる。

 それはある意味不名誉な記録である。だが観客は誰も蔑まず、健闘を称える拍手と声援を送り続けた。

 デジタルは体力の限界とゴール板を通過した安堵からか、その場にうつ伏せで倒れこむ。観客達はその光景に悲鳴のような声をあげるが、当の本人は体力の回復と濡れた芝の感触を名残惜しむように感じていた。

 

 これで全てが終わった。今日のレースは本当に楽しくて最高だった。この後はウイニングライブを見て、終わったら寮で爆睡して、起きたら録画しておいたレース番組やネット巡回をして、東京大賞典を見て、忘年会をして。

 濡れた芝によって頭が冷えたせいか、混濁していた意識が徐々に鮮明になっていく。すると誰かに抱き起されると同時に温もりが体を包む。いつの間にかにジャケットをかけられていた。

 

「あっ、白ちゃん」

「すまんな。失速した瞬間に走ってきたんやが、時間がかかった。体力を使い果たした以外の不調はあるか?」

「多分ない」

「そうか」

 

 トレーナーは返事を聞き、胸をなでおろす。失速してから歩様を見て怪我はしてないと見ていたが、確証はなかっただけに本人から問題ないと聞けて安心していた。

 

「見事なレースやった」

 

 トレーナーは涙ぐみながら話す。今日のレースは不良の芝と雪が降るなど決して好条件では無かった。それを培った全てを駆使し乗り越えた。

 レースでも事前に考えておいた作戦や急遽決めた作戦を完璧に実行し、想定外の事態にも即座に対応した。予定より早く失速したのは2400メートルから2300メートルに切り替えたとすぐに分かった。

 直線でウマ娘達を感じられた時間は約6秒、そのわずかな時間は漫然と得たのではなく、自分の力で勝ち取った時間だ。

 もしデジタルのベストレースは何と訊かれれば、迷いなく今日の有マ記念で有ると答えるだろう。それ程までに価値があるレースだった。聞かなくても分かる。確かに次善を勝ち取った。

 その言葉を聞きデジタルはほんの僅かに口角を上げ、トレーナーの肩を借りながらコースから地下バ道に降りていく。観客は万雷の拍手で見送る。

 

 テイエムオペラオー達は観客達と同じように拍手する。突然の失速は偶然ではなく、必然であると理解していた。直線でウマ娘を感じる為に2500メートルより短いレースをしたからこその失速だ。

 両親達も涙ぐみながら拍手する。オペラオー達のようにデジタルがどのようなレースをしたかは分かっていない。それでも幾千もの困難の果てに何かを成し遂げたという事は充分に伝わっていた。

 

 アドマイヤマックスとメイショウボーラーは涙を止めどなく溢れさせながら、その姿を脳に焼き付ける。

 奇跡は起きなかった。このレースによって一緒にレースを走れないと分かり、諦めない心は挫けた。それでも落胆はなかった。

 今日のデジタルは今まで見たどの姿より違うきらめきを見せてくれた。それは憧れていた者達の心に確かに刻まれ、引退する寂しさを癒し、美しい思い出となった。

 

 サキー達はコースを去る嘗てのライバルの姿をじっと見つめる。1着に1分以上差をつけられてのゴール、その醜態と言える姿は歯がゆさを覚えると同時に、せめて恰好がつく終わり方をしてもらいたいという気持ちがあった。だが文句を言うつもりは一切なかった。

 オペラオー達同様に何かを成し遂げるためにあの走りをして、その結果大惨敗したと理解し、目的を達成した事も理解していた。

 

 デジタルはトレーナーの肩を借りながら地下バ道を歩いていく。すると驚くべき光景が飛び込んできた。

 

「待ってたぞ!アグネスデジタル」

 

 有マ記念に出走していたウマ娘達が整列して出迎える。その予想外の事態にデジタルは勿論トレーナーすら戸惑っていた。

 

「何してんの?」

「それは偉大なる勇者様の最後を出迎えてるんだろう」

 

 タップダンスシチーがおどける様に話すが、デジタル達は言葉の真意を分かりかねていた。

 

 出走ウマ娘達は今日のレースの中心人物は、シンボリクリスエスとデジタルだと分かっていた。

 シンボリクリスエスの走りによって勝利へのイメージが潰され自信を挫かれた。その未知の技に為す術がなく、抗えなかった。だがデジタルによって勝利へのイメージが描けるようになり自信を取り戻した。

 もしデジタルが居なければ、シンボリクリスエスに大差をつけられて惨敗していた。有マ記念という晴れ舞台で力を出し切れず、醜態を晒せば一生の悔いになるところだった。

 デジタルを知らない者は他者を思いやる慈悲の心、よく知る者は自分の目的を達成する為の利己的な行為であると判断した。だが思惑はどうあれ助けられた事には変わりなく。感謝と敬意を込めて出迎えていた。

 デジタルはその理想的な光景を見て嬉しさのあまり疲れを忘れ、だらしない笑みを浮かべていた。

 

「追い風を利用するように力を利用するように当然だと思ってる。けれどお前が居なきゃここまで走れなかった。サンキューな」

「どういたしまして、それで勝てたの?」

「負けたよ!1着ボリクリ!2着アタシ、3着ゼンノロブロイ、4着ネオユニヴァース、5着ヒシミラクルだ。察しろよ」

「負けたの?折角力を与えたんだから、勝ってよ」

 

 デジタルは茶化すような声色で揶揄う。それは本心ではなくタップダンスシチーに合わせての行動だった。

 本当であればはらわた煮えくりかえる程悔しがっているはずだ。それでも腹のうちに隠し、気安い態度で接してくれている。

 

「このレースでアグネスデジタルさんの運を喰ったんですけど、勝てませんでした」

「そうみたいだね。次はアタシの運を使って目的を果たしてね」

「はい」

 

 デジタルは残念そうにしているヒシミラクルを励ます。力が付きかける直前に内ラチ側に避難した瞬間に、ヒシミラクルが追い越してきたのを見て全て察した。

 今日のレースにおいて自分の心境や作戦を察知している者はほぼ居なかっただろう。だが結果的に完全に利用された。それは強大な運の力によるものであり称賛すべだ。それでも勝てなかった。

 運だけではない何かが足りなかった。それが心技体かあるいは別の何かが足りなかった。その別の何かが想いの力とか友情パワーであれば好みだが、それは自分の尺度に過ぎない。

 ヒシミラクルは運が無かったと自省し、強い運を手に入れるために努力し続けるだろう。その姿こそ尊い。

 

「今までお疲れ様でした。アグネスデジタルさんこそ本当の勇者です!」

 

 ゼンノロブロイは興奮気味に語る。強大な敵の前に心が挫けそうになる者達を奮い立たせる。そんな場面は本の中で幾度も見てきたが今日現実に起こった。それは読者としてはある意味理想的な光景だった

 

「ありがとう。でも大丈夫?」

 

 デジタルは心配そうに尋ねる。ゼンノロブロイはシンボリクリスエスに怒りの感情を向けていた。それは絶対に勝つという気持ちの表れだと推測していた。そして負けた。

 本当なら不甲斐なさと怒りに悶え苦しんでいるはずなのに、労うために出迎えてくれた。心遣いはとても嬉しいが、自分を優先してもらいたい。

 

「大丈夫です」

「自分の気持ちに素直になっていいんだよ。悔しかったら人目なんて気にせず悔しがって良いし、怒りたかったら怒って良いし。そしてシンボリクリスエスちゃんが許せなかったら、一度腹を割って話してみて、もしかして解決するかも」

 

 ゼンノロブロイはその言葉に一瞬目を見開きすぐに唇をかむ。そして目には何か決意を宿らせていて、一礼してその場を去っていった。

 

「ありがとう…宇宙の正しい伝え方が分かった」

 

 ネオユニヴァースは嬉しそうに礼を言う。今日のレースではデジタルが見本になってくれたお陰で正しい伝え方が分かった。浸食と吸収ではなく共栄共存、それが宇宙の伝え方だ。

 デジタルはその様子を見て自然に笑みをこぼす。不器用ながら喜びを伝える姿は微笑ましく、喜びが自然に溢れている感じが素朴で良い。

 今日のレースでもネオユニヴァースの宇宙は完全に感じられなかった。だが宝塚記念の時と比べて、少しだけ感じられた気がする。これが正しい宇宙の伝え方の成果だろうか。

 そして今日のレースで誰かに力を持ったような感覚があった。そのおかげで少しだけ頑張れた気がする。

 

「今度は観客席から宇宙を感じてみるよ」

「次は観客席にも届くように頑張る」

 

 デジタルの言葉にやる気を漲らせ答える。

 

 その後も出走したウマ娘達と言葉を交わす。皆負けた悔しさを滲ませつつ、実力を発揮させてくれたデジタルに感謝の言葉を述べていた。

 

「予想外のサプライズやったな」

「本当だよ」

 

 デジタルはトレーナーの肩を借りながら裁決室に向かいながら嬉しそうに語る。今までの人生でこれ以上のサプライズは無かったと思えるほど予想外だった。

 完全に自分の為にした行動だったが、ここまで感謝されるのは嬉しいと同時に申し訳ない気持ちにもなる。

 だが自分へのご褒美と存分に堪能した。そんな中で1つだけ気がかりがある。あの場にはシンボリクリスエスが居なかった。

 レースを振り返り、自分の為といえ、結果的にはシンボリクリスエスを邪魔していた。天皇賞秋もそうだが、結構妨害しているので好かれる理由は無い。それでも来てほしくて色々と言葉を交わしたかった。

 

───

 

 シンボリクリスエスは勝利者インタビューを終えて、ウイニングライブの準備のために控室で待機していた。 

 引退レースで有終の美を飾った。普通であれば浮かれ喜ぶはずなのだが、その空気は重苦しく、まるで惨敗した選手の控室のようだった。

 

「失礼します」

 

 ノックの音と同時にゼンノロブロイが入室し、入った瞬間思わず慄いてしまう。シンボリクリスエスは厳しいウマ娘だ、その纏う空気は厳格だがどこか攻撃性を抑え込んでいる感があった。

 だが今は攻撃性がむき出しになっている。そして初めて感じた剥き出しな心のような気がした。

 

「なんだ?」

「どうして、ラスト100メートルの走りを今までしなかったんですか?あれをしていれば勝てたレースがありましたよね?」

 

 ゼンノロブロイは単刀直入に切り出す。あの走りは咄嗟に出したものではなく、長年磨き上げ洗練された走法であるのは分かった。

 そして1バ身差ぐらいになら縮められる。であれば単純計算すれば勝てたレースはあった。それだけに不可解だった。

 

「あれは偶然の産物だ」

「あの走りをすれば賞金も手に入りますし、契約金も上がる。良い事尽くめじゃないですか、なのに何故しないのですか?金の亡者のくせに、その程度の執着なんですか?」

 

 視線を外しながら喋るシンボリクリスエスに近づき、強引に視線を向けさせる。ゼンノロブロイはデジタルの言葉を受けて、己の感情を包み隠さずぶつけ、腹を割って話すと決めていた。

 シンボリクリスエスは手厳しい言葉に一瞬睨み返すが、すぐに視線を外す。だが構わず畳みかける。

 

「そして貴女はアグネスデジタルさんの恩恵を受けなかった。やることが中途半端すぎます」

 

 共に練習し、多くの時間を過ごしたから分かっていた。シンボリクリスエスは力を授かっていない。

 

「私は金銭契約を結んだ貴女が許せません。それは私達やファンの方々を裏切ったと同じです。ですが誤解した状態で嫌いたくはない。何でしなかったのか?何で喜んでいないのか?理由を話してください」

 

 ゴール板を通過した際、瞬間的にシンボリクリスエスに視線を向ける。1着になり賞金も獲得して年俸もアップする。きっと薄汚い笑みを浮かべているのだろう。だが予想とは違い唇を噛みしめ、まるで敗者のようだった。しかし数秒後には勝者の表情を作っていた。

 悔しさを滲ませた表情から不可解な点が思い浮かびあがる。シンボリクリスエスは他人にも厳しいが自分にも厳しく、目的達成のためならストイックに自分を追い込み、どんな方法でも使う。もし拝金主義であれば全てのレースであの走りを使っていたはずだ。

 

「私はトレーナーの作品でなければならない。只レースに勝つだけじゃ意味がない。自分は必要ない、トレーナーに鍛えられた肉体と精神と教えられた技術だけを駆使し、レースに勝たなければならない。今日も作品として勝つはずだった」

 

 シンボリクリスエスは観念したかのように吐露していく。平静を装っているが、声色には恥辱と後悔の念が滲み出ていた。

 

「相手の力を削るトレーナーの理想の走り。実現できたと思ったがアグネスデジタルに無効化された。そしてラスト100メートルの走り、あれはトレセン学園に来る前に作り上げた走りだ。そして使うべきではなかった。プロ失格だな」

 

 ラスト100メートルでの走り、あれは誰にも教わっていないシンボリクリスエスのオリジナルだった。

 スカウトされる前にどのレースにも勝つ為に、試行錯誤を繰り返して編み出した技だ。それは誇りでもあった。

 トレーナーにプロ選手として雇われて、トレセン学園に入った際に誇りは封印した。必要なのはトレーナーが日本一になるために、教えられた技術や心構えだけを駆使して勝利する作品である事、己の誇りは不要である。

 入学後はトレーナーの作品として走る事を心掛ける。レースの最中は勝利のために何回か技を使いそうになったが頑なに封印してきた。そしてプロとしての心構えはいつしか、誇りとなっていた。

 

 そしてトレーナーの理想の走り、相手の力を1まで削ぎ落して、己は2の力で走る事で身体の負担を減らし、多くのレースを走り勝利を勝ち取るという理念、それを実現する為に限界まで努力し続けてきた。そして実現可能なまでに仕上げた。

 この走りは自分以外のウマ娘は出来ない高度の技なのかもしれない。それでもトレーナーであれば、体系化し教えられると期待していた。

 何より雇用者の理想を実現できたという達成感があった。この技はシンボリクリスエスにとってもう1つの誇りとなった。

 

 今日の仕事はトレーナーの理想の走りを実現し、トレーナーの作品として勝利する。そのどちらも達成できなかった。

 理想の走りは実現できていたが、デジタルによって無効化された。これでは実現できていないのと同じだ。誇りは打ち砕かれた。

 己が心血注いで作り上げた技があっさりと破られる。それは途轍もない屈辱だった。そしてデジタルによって破られた事実が神経を逆撫でさせる。

 天皇賞秋でもトレーナーの作品としての純度を著しく濁らせたのもデジタルだった。己の仕事を悉く邪魔するその存在は極めて目障りだった。

 

 レースでは技が破れたが、トレーナーの作品として勝つという仕事が残されていた。今までの教えられた全てを駆使し、勝利をもぎ取る。全神経を集中させ走り続けた。

 そして直線において想定外の事態が起こる。理想の走りをするために相手の研究は充分にしてきたはずだった。それでもなお他のウマ娘の力が予想を超えていた。

 このままでは負けると瞬間的に察知してしまう。何とかして勝利する為にトレーナーの教えを掘り起こすが答えは出せなかった。

 

 シンボリクリスエスはレース前にデジタルと話す機会があり、そこで無我の境地に至る重要性に気が付いた。トレーナーの理想の走りを実現し、作品である為には雑念を持たず集中しなければならない。

 しかし人は簡単に無我の境地には至れない。様々な雑念が邪魔し阻止してくる。さらに理想の走りが破られた事で、少なからず動揺し心にひびが入る。

 すると抑え込んでいた名誉欲や勝利への欲等の雑念が、ひびの隙間から這い寄ってくる。そして気が付けば、無意識にかつて編み出した技を使っていた。

 

 プロボクサーが意識を失いながらもパンチを放っていたという逸話があるが、それは勝ちたいという意志が体を動かしたのだろう。

 勝利への執念を持つ事はアスリートにとって長所であり美徳である。だがシンボリクリスエスにとって短所であり悪徳の極みであった。

 勝つだけでは意味はない。如何にしてプロ選手として欲を抑え、トレーナーの作品として勝利するのが重要であった。

 しかしこの勝利は雑念を抑えきれず、本能のままに封じていた技を使っての結果だ、それはあまりにも醜い勝利だった。

 

 このレースでトレーナーの理想の走りは破れ、雇用者の理想を実現できたという誇りは打ち砕かれ、トレーナーの作品である為に技を封じていたという誇りも打ち砕かれた。

 レースには勝利したが、プロ選手シンボリクリスエスとしては、ぐうの音も出ない程の完全敗北だった。

 

「つまり、あの走りはオリジナルで、トレーナーから教わったものではないので使わなかったということですか?」

「そうだ」

 

 その言葉にゼンノロブロイは動揺する。今日初めてシンボリクリスエスの真意の一端に触れた。ラスト100メートルの走りに、そのような意味があったのか。

 ウマ娘にとって勝利を目指すのは本能に近い。それを抗うのは並大抵の事ではない。今日はデジタルによって全てのウマ娘に力を与えられた。それは慈悲の力であると同時に禁断の果実でも有った。誰もが勝利を求め手に取ってしまう。

 だがシンボリクリスエスだけはトレーナーの作品である為に、禁断の果実を手に取らず、自分の力で走っていた。最後は禁を破り技を使ってしまったが責めることは決してできない。何と誇り高いのだろうか。

 トレーニングでも常に自分を律し妥協しなかった。それもトレーナーの教えを全て血肉とし、作品としての完成度を高めようとする誇り高さによるものだ。

 他者に力を与えるデジタルは英雄譚の主人公のようで、憧れであり尊敬できる。そしてシンボリクリスエスも誇りの為に与えられた力を拒む姿も、英雄譚の主人公のようで、かつて抱いていた憧れと尊敬の念が湧き上がる。

 

「じゃあ、なんで、なんでそんな誇り高い貴女が、トレーナーと雇用契約なんて薄汚い真似をするんですか」

 

 ゼンノロブロイは動揺し声が上ずる。憧れと尊敬の念と金欲しさに雇用契約を結んだという嫌悪感で板挟みになり、激しく動揺していた。

 

「信じてもらえないかもしれないが、私は金に固執していない。誠意が欲しいんだ。そして金は誠意を数値化したものだ。トレーナーは私が欲しいと、何物でもなかった自分と雇用契約を結び、誠意を見せてくれた。そして賃金が支払われれば責任を負う。雇用主に最大限の利益を与えるという責任がな。トレーナーは日本一のトレーナーになる為に私を雇った。であれば、トレーナーの功績になるようにトレーナーの作品として走るのは当然だ」

 

 シンボリクリスエスは内心で自嘲する。偉そうに語っておきながら、自分の欲の為に勝利を欲しがったアマチュアに過ぎない。

 一方ゼンノロブロイは頭を振りながら葛藤する。シンボリクリスエスは欲に塗れたウマ娘ではなく、金という誠意を求めその分だけ全力で尽力する。

 相手に痛みを求め自分も最大限苦労する。それは他人に厳しく自分にも厳しい、いつもの姿だった。

 

「お前は私を憎んでいるだろう。だがトレーナーは憎まないで欲しい。雇用契約は誠意だ。何も代償を払わず、口先だけでチームに引き入れるより遥かに誠意があると思っている。そしてチームに残ってくれ。私はすぐに日本から離れ、チームに関わらない」

 

 シンボリクリスエスは頭を下げ、少しだけ弱弱しい声で頼む。引退後はチームスタッフとして日本一のトレーナーにするという契約を遂行する為に尽力するつもりだった。  

 だが今日のレースでいかにアマチュアであるかを自覚させられた。そんなウマ娘がいてもトレーナーの邪魔になるだけだ。

 そしてゼンノロブロイは恐らく自分と雇用契約を結んだトレーナーを許さないだろう。最悪移籍する可能性もある。

 ゼンノロブロイは自分を超えるウマ娘であり、トレーナーの代表作になるウマ娘でもある。何も成し遂げられなかったアマチュアが出来る唯一の仕事だ。

 

「私は貴女を誤解していたのを認めます。雇用契約も欲に塗れたものではなく、一種の誠意のやり取りであったのも少し理解しました。正直に言えば今でも憧れて尊敬しています。しかし感情が許さない」

 

 ゼンノロブロイは苦々しく呟く。本当なら知る前のように憧れの心を抱きたい、だが野良レースで八百長の片棒を担ぎ、レースを穢してしまったという罪悪感が金に過剰反応し、それを許さない。

 

「雇用契約で得られる金銭を全てトレーナーに返還してください」

 

 尊敬しているウマ娘が真摯に頼み込んでいる。応えてあげたいが感情が許さない、そして葛藤の末に導き出した答えがこれだった。全てなかった事にする。これが最大限の譲歩だった。

 

「分かった。要求を呑もう」

 

 シンボリクリスエスは長い熟考の末答えを出す。払われた賃金はトレーナーの誠意の形だ、それを無かったことにすれば誠意を踏みにじる事になると考えていた。

 だがそれはプロの考えだ。今日のレースでトレーナーの理想の走りを再現し、大差で勝てば矜持を貫いていただろう。

 しかし今日のレースではトレーナーの利益になる行為を何もできなかった。そんなアマチュアが、プロ気取りで貫いて良い矜持ではない。アマチュアが出来ることは矜持を捨て、雇用主の利益を与えるために行動するだけだ。

 

「シンボリクリスエスさんは私の要求に応えるために、得られるお金を破棄した。それは貴女の私に対する誠意でもあります。私はその誠意に応えます」

 

 ゼンノロブロイは手を差し出す。自分の行動によってシンボリクリスエスは痛みを負った。その分だけの誠意に応えるのがプロなのかもしれない。ならばプロになろう。そうすれば同じ強さを手に入れられるかもしれない。

 プロ意識と矜持を抱きながら、自分を鍛え上げレースを走る。それは己が持つ英雄像の1つとなり、目指すべき目標となっていた。

 シンボリクリスエスはその手を取り硬く握手を交わした。

 

「シンボリクリスエス、居るか?」

 

 ノックの音が聞こえ入室を許可すると、藤林トレーナーが入りシンボリクリスエス達に視線を向ける。

 

「丁度良かったです。私は今日のレースでプロ選手として何も成せなかった。これ以上誠意に応えられません。ですので、来年以降は契約を結ばないでください」

 

 シンボリクリスエスは堂々とした態度で頭を下げる。一方トレーナーは雇用関係がバレてしまうとゼンノロブロイに視線を向けるが、その瞳を見て事情を察した。

 

「私としては今後もチームスタッフとして尽力してもらいたいが、契約を結ぶ気はないのか?」

「はい、このレースでいかにアマチュアであるかを自覚させられました。レースについての詳細と契約を結ばない理由を記述した報告書をまとめますので、目を通してもらえますか」

「あの!」

 

 ゼンノロブロイが声を張り上げ意識を向けさせ、2人は訝しみながら視線を向ける。

 

「藤林トレーナー、お願いがあります。シンボリクリスエスさんが実現したトレーナーの理想の走り、そしてラスト100メートルで見せた走法、そのメカニズムを解明して、私も出来るように指導してください」

 

 シンボリクリスエスが自身をアマチュアという理由、それはトレーナーの理想の走りが効果を発揮しなかった事と、ラスト100メートルでオリジナルの走りをしてしまった事だ。

 であればトレーナーが体系化してチームのウマ娘に教え、そのウマ娘達がレースで実践して勝利する。

 そうなればシンボリクリスエスの走りはオリジナルでなく、トレーナーの走りとなり、今日のレースは我欲の為に勝利したウマ娘でなく、トレーナーの作品として勝利しただけになる。

 シンボリクリスエスは自分を誇りが無いアマチュアだと卑下した。しかしゼンノロブロイには誇り高きプロであり英雄だった。その英雄を失意のまま故郷に帰らせない。プロであったと誇りを持ち続けて欲しかった。

 

「今の言葉とシンボリクリスエスが契約しない事に関係があるのか?」

「はい、シンボリクリスエスさんはアマチュアじゃありません。誇り高き立派なプロです。それを私に証明させてください」

 

 ゼンノロブロイはトレーナーに向けて頭を45°下げる。シンボリクリスエスが頭を上げて頼み込まないように言うが、頑なに頭を下げ頼み続けた。

 

「ゼンノロブロイが言ったことは本当なのか?」

「大まかにはそうです」

「私も君がアマチュアとは思えない。契約に基づいて雇用主の私に最大限の利益をもたらしてくれた。それは紛れもなくプロ選手の仕事だ」

「ですが……」

「ならば私はスタッフとして支払えるギリギリの年俸を払おう。それが私の見せる誠意だ」

 

 トレーナーはシンボリクリスエスの肩に両手を乗せて、その目を見据える。その言葉は偽りではなく、本気で払うつもりであると察した。

 

「分かりました。これからもお世話になります」

 

 シンボリクリスエスは観念したかのようにトレーナーに頭を下げた。

 

───

 

 ネオユニヴァースは控室で、鼻歌を口ずさみながら帰り支度をする。その姿に悲壮感はまるでなく、結果を知らない者が見れば今日のレースに勝ったと思うだろう。

 今日のレースで新たな気づきによって、今までで最も宇宙を上手く伝えられた。その手ごたえが気分を高揚させる。

 

「入るぞ」

 

 ノック音と同時に扉越しに声をかけられる。入室を許可すると六平トレーナーとオグリキャップが入室してきた。

 

「その顔を見るに、何かを掴んだようだな」

 

 六平トレーナーはネオユニヴァースの変化に戸惑いを覚えながらも声をかける。本バ場入場時には全てを否定するような重苦しさがあった。だが今は正反対で、天真爛漫な笑顔を見せていた。

 ネオユニヴァースは己の中にある宇宙の伝え方を模索し、悩んでいた時期が有った。暫くして自分なりの答えを見つけ、トレーニングを積み本番に臨んだ。

 もし見つけた答えが間違っていると分かってしまったら、今度こそレースを止めるかもしれない。

 トレーナーはウマ娘を速くする方法やレースに勝つ術を教えられる。だがネオユニヴァースの言う宇宙を伝える術を知らない、無力な存在だった。

 

 そして今日のレースで何かしらのヒントを得て手ごたえを掴んだ。暫くはレースを走るだろう。それが嬉しかった。

 教え子が悲しむ姿は見たくない。何より伝えようとしている宇宙に興味を持ち、自らも感じたくなった。手伝える事は限りなく少ないだろうが、このまま突き詰め何時か宇宙を感じさせて欲しい。

 

「六平トレーナー、私の走りにミスは無かったか?何か足りないところは無かったか?」

 

 ネオユニヴァースは天真爛漫な表情から一変し、真剣みがある表情で問いかける。1着が欲しいわけではなく、極論を言えば最下位だろうが宇宙を伝えられれば問題はない。しかし注目してくれなければ感じられない。

 周りはそこまで敏感ではなく、唐突に宇宙を感じられるわけではない。1着になり注目を集める事で、宇宙の存在をより認知し興味を持つ。興味こそが宇宙を知る第一歩なのだ。

 そして己が強くなれば周りのウマ娘も力を発揮し、宇宙が大きくなり感じやすくなる。

 

「今のところは無いな。だが宇宙を伝えるのに必要であるなら、徹底的に洗い出して見つけてやる」

 

 六平は任せろと胸を張る。宇宙の表現方法は分からない。だがその口ぶりから速くなれば伝わりやすくなるらしい。

 宇宙を伝えるのに自分の技能は効果が無いと思っていたが、実はあったようだ。それが不思議でもあり、嬉しくもあった。

 すると頃合いを見計らってオグリキャップが話しかける。

 

「初めて君を直接見た時に、かつてのライバルに感じた凄味が有った。だが不思議と物足りなさを感じていた。そして今日のレースで私が求めている何かが有り、君の宇宙を感じて見たいと思った」

 

 オグリキャップはネオユニヴァースに興味を持っていた。それはチームの後輩だからではなく、その在り方だった。宇宙を伝える為に走る。それは理解しがたいが、その走りを見て羨ましくもあった。

 

 現役時代は故郷の皆のために走った。それは地元で育ったウマ娘が強いと証明する事であり、勝ち続ければ証明となる。

 ウマ娘は多かれ少なかれ勝ちに拘る。それは勝負の場で有れば当然であり、寧ろ拘らない方が異常とも言える。

 そして例外は存在する。勝敗度外視でウマ娘を感じるデジタル、ダートを探求するセイシンフブキ、そして宇宙を伝えようとするネオユニヴァース。

 現役時代は好きで故郷の皆の為に走っていたので、後悔は何一つない。だが勝利に固執しているという窮屈さを感じていた。

 一方ネオユニヴァースは勝利に囚われずレースを走る。その姿は自由で個性的だった。

 

 今日のレースにおいて、ネオユニヴァースがしようとした他者の吸収し自己を巨大化する事で、それは自己肯定と他者否定だった。他者を吸収する事で相手を否定し、巨大化する事で自己を肯定する。

 勝負とは己が培った心技体で他者を負かし、結果によって他者を否定し、自分を肯定する。それはかつてのライバルたちの姿であり、個性の消失でも有った。

 ライバル達を否定するつもりはなく、アスリートとして真っ当な精神とも言える。しかしそれは多くの者が持つ心である。だがネオユニヴァースが同じになったことで没個性かつ不自由に見えていた。

 しかし今日のレースでは他者否定と自己肯定の精神ではなく、自由に走っていたような気がしていた。勝利に囚われず、自由に走るウマ娘が抱く宇宙、その存在に益々興味が出ていた。

 

 ネオユニヴァースは2人の言葉を聞き、再び天真爛漫な笑顔を見せる。両者は宇宙を感じられなかった。だが宇宙に対して興味を持ってくれた。それを続ければいずれは皆に宇宙は伝わる。その脳裏に今日の夢で見た理想の光景がより鮮明に浮かび上がっていた。

 

───

 

 タップダンスシチーとトレーナーは控室で今のレースを何度も見返す。本来であればウイニングライブの映像を見返すなど準備しなければならないのだが、そっちのけでレース映像を見ていた。

 これでライブを疎かにすれば中央ウマ娘協会から注意勧告、最悪懲罰を受けるかもしれない。だがそれは覚悟の上だった。

 有マ記念に向けて、様々な準備をしてきた。トレーニングでは改造シューズを使い瞬発力があると誤認させ、レースでは徐々にペースを上げて脚を削り、得意な流れに持っていく。

 事前の仕込みや本番での作戦の成功度は満点に近かった。それでも足りなかった。悔しさを押し込めながら、修正点を探し続けた。

 

「もう少しペースを速めるべきだったかな?」

「いや、それだと気づかれて着いていかなかったかもしれない。あれで充分だった」

「ジャパンカップは重だったから、重バ場対策は大丈夫だと思ってしまったのかもしれない」

「それはあるかも、流石にここまでの不良は走ったことは無かったし、もっとパワーをつけないとダメかな」

 

 2人は思いついた敗因と修正点を言い合う、それは取るに足らないような些細なものでも挙げていく。

 

「って、いつまで傷を舐めてもらってんだアタシは!」

 

 タップダンスシチーは突如叫ぶ。その行動にトレーナーは思わず目を剝き、視線を向ける。

 

「今日の負けはそういう問題じゃねえ!レースに向けて事前準備して!トレーニングして!勝つイメージを練り上げて今日のレースに臨んだ!けどボリクリに勝てないって思っちまった!何が勝負師だ!絶対に勝つ気概で挑む!そんなの勝負の大前提じゃねえか!」

 

 今まで溜め込んでいた想いをぶちまける。勝負にたらればを言うつもりはない。デジタルの恩恵を利用するのも強さの1つであり、今日の結果がすべてで、それ以上でもそれ以下でもない。デジタルが居なければ大差負けしていたというつもりはない。

 それでも心が挫けて勝てないと思ってしまった時間があった。それは負けるより遥かに屈辱的で恥ずべきであった。

 

「レース中に何が有った?」

 

 トレーナーは思わず尋ねる。今日の出走ウマ娘に起こった異変を察知した者は何人か居たが、それはレースに走った経験がある元現役選手であり、レースを走った経験がないトレーナーでは察知するのは難しかった。

 タップダンスシチーは唇を噛みしめながら、レース中に起こった出来事を語る。

 

「レースではそんな事が起こっていたのか」

「疑うなら他のウマ娘に訊けばいい。アグネスデジタル以外は皆同じ目にあったと答える」

 

 タップダンスシチーは自嘲気味に答える。一方トレーナーは俄かに信じがたかった。

 勝利への執念は人一倍だと思っていたが、こうもあっさりと心を挫かれるとは。シンボリクリスエスがここまでの怪物であるとは思っていなかった。

 トレーナーは項垂れるタップダンスシチーを見ながら考え込む。今日のレースはトラウマ級のレースになってしまった。

 今後の競技人生に間違いなく影響が出るだろう。己の対応1つで未来が変ってしまうと言っても過言ではない。どのような言葉をかけるべきか熟考する。

 

「タップ、今日のレースは絶対に忘れないように記憶に刻み込め。苦しみから逃れるために記憶から消そうと絶対に思うな。今日の屈辱と後悔を死ぬまで抱え続けろ」

 

 トレーナーはタップダンスシチーの肩に両手を置き、熱を込めて語る。心に傷を負ったのであれば、出来るだけ刺激しないようにし、記憶の風化を待つのが一般的だろう。だが今は傷口に塩を塗り続ける苦しみ続ける方法を提案した。

 人は夢や希望ではなく、屈辱や怒りで強くなれる場合もある。そしてタップダンスシチーは後者の方で強くなれる気質であると、日々の生活で気づいていた。

 もう二度とこんな屈辱を味わない、そんな思いがトレーニングで挫けそうになった心を奮い立たせ、日々の生活における意識の向上に繋がる。何よりレースにおけるゴール間際の一伸びを与える勝負根性を養う。

 この言葉はタップダンスシチー以外には言わない。レースに勝つ為にトレセン学園に入った。今日のレースで心が挫けたが、その勝利に対する執念は決して弱くはない。

 この屈辱を起爆剤にして、勝利に対する執念をさらに強める。そうすれば強くなり、本人が望む結果が得られる。

 

「そうだな、もう二度と挫けない。こんな思いは金輪際したくない。てっちゃん、もし忘れそうになったら思い出せてくれ」

 

 タップダンスシチーは唇から血を滴らせながら呟く。その言葉にトレーナーは黙って頷いた。

 

「タップダンスシチーさん、居ます?」

 

 トレーナーが扉を開けると、そこには思わぬ人物がいた。ヒシミラクルである。ヒシミラクルはすぐに済むと強引に控室に入り、タップダンスシチーに質問を投げかける。

 

「ラスト200メートルぐらいで内に少し寄れましたけど、あれは偶然ですか?」

 

 直線に入りデジタルが内に寄れたことで、塞がれた進路がぽっかり空き2人分のスペースが出来る。

 それは進路が空いたと同時に、デジタルがギリギリまで風よけになってくれたお陰で力を温存できた。己の運によってもたらされたこれ以上ない最高の状況、勝利を勝ち取る為に溜めていた力を全て使いゴールに向かう。

 だが前に居たタップダンスシチーが内側に若干寄れた。それによって真っすぐ走ればタップダンスシチーが邪魔となる。避けるためには内か外に0.5人分移動しなければならない。

 内ラチ側1人分のスペースは緊急避難スペースである。怪我して失速するウマ娘から逃れるために移動するのは問題ないが、蓋をされた程度では認められない。普通であれば外側に移動する。だがヒシミラクルは右と左の横移動であれば、内ラチ側の右に移動しやすかった。

 緊急避難スペースを走るのはモラルに反するが反則ではない、今回は0.5人分緊急避難スペースに侵入しているだけなので、完全に侵入するより非難されない。そして普通仮に勝利したとしても取り消されるわけではない。

 結果的に外に移動したが、判断を下すのがほんの僅かに遅れてしまった。それは確実に着差に現れ、それが無ければ少なくとも5着では無かった。

 全て上手く事が運んでいた中での僅かな不都合、これが意図的にされたものであれば、相手の策略に己の運が負けたという結果であり、まだ許容できる。

 しかし偶然であれば、己の最大の武器である運が相手の運に負けたという事になる。それは非常に大きな問題だった。

 

「あれは、偶然だ。あの不良バ場と展開なら疲れて少しは寄れる。そうだろタップ?」

「ああ、流石にきつかった」

 

 タップダンスシチーはトレーナーの言葉に即座に相槌を打つ。その言葉にヒシミラクルは僅かに動揺の表情を見せて控室を去っていく。

 

「で、実際は意図的にやったのか?」

「そう」

 

 タップダンスシチーは質問に簡潔に答える。

 このレースでデジタルの作戦を完全に利用できるウマ娘が居たとしたらヒシミラクルだと考えていた。

 ラスト200メートル頃に内側に0.5人分移動し、ヒシミラクルの進路を塞ぐ。ここで1人分移動してしまえば、緊急避難スペースに完全に入って走ることになり、忌避感により外側を走ると即時に判断してしまう。 

 敢えて0.5人分という言い訳を残す事で判断を迷わせようと考えていた。レース前に考えていた保険だったが、結果的には見事に嵌った。

 

「何で偶然だって嘘を言ったんだ?てっちゃんは分かってなかったんだろ?」

「その方がヒシミラクルが嫌がるだろう」

 

 トレーナーは質問にさも当然のように答える。勝負に勝つ為には、相手の嫌がる行為をするのが重要であると考えていた。

 今回の場合はタップダンスシチーが内に寄れた事で不利益を被ったと、声や話し方で察し、であれば運を重要視するヒシミラクルであれば、偶然と言った方が心理的にダメージを与えられると判断しての発言だった。

 普段のタップダンスシチーなら同じ考えで同様の発言をするだろう。だが今は精神的に動揺しているので、代弁し相槌を打たせる形にした。

 

「性格悪」

「相手を弱らせる機会が有れば、弱らせないとな」

「ヒシミラクルの運はスゲエよ。条件に恵まれてやっと分かったアグネスデジタルの作戦を運だけで完全に利用しやがった」

 

 今日のレースで最もヒシミラクルの運を警戒していたのはタップダンスシチーだった。だからこそ進路を塞いだ。しかしその動きが今日の負けの1つの要因となる。もし横移動分を真っすぐ走っていれば、1着になれた可能性はあった。

 タップダンスシチーは事前の仕掛けによって出走ウマ娘を嵌めた。だが逆もしかりである。

 全治1年の怪我を1カ月半で治し、1枠という絶好の枠を引き当て、当日は不良で雪が降りアクシデントが起きやすい状態になった。

 その結果、いつも以上に意識してしまい、横移動してしまった。ある意味ヒシミラクルに嵌められ力を削がれたとも言える

 

───

 

「惜しかったよ」

「次は勝てる」

「内に詰まった時はダメかと思ったけど、急に出てきたし、やっぱり持ってるよ」

 

 チームメイト達は控室に集まり、ヒシミラクルを慰める。重度の怪我明けで5着であれば充分だ、次のレースではさらに調子を上げられる。今後の飛躍を大いに期待できるレースだった。

 一方ヒシミラクルは愛想笑いを浮かべながら、別の事を考えていた。タップダンスシチーの寄れは意図的ではなく、偶然だった。

 今までは認識できる範囲で幸運に恵まれ有利になり、認識できない範囲で不利にならなかった。運こそが己の最大の武器、その運に初めて陰りが見えた。

 これ以上は運による勝利を期待できないかもしれない。であれば一般的な心技体を鍛えるべきか。

 以前は運に恵まれた勝利という評価に悩み揺らいでいた。しかしトレーナーの一言により運を肯定できるようになり、悩みと揺らぎは消えた。そして以前のように揺らぎ始めていた。

 

「今日の結果は不満だったのか?」

 

 トレーナーは何気なく尋ねる。一見いつものようにチームメイト達と和やかに会話しているように見えるが、かつての弱弱しい姿とダブっていた。

 その言葉を切っ掛けにヒシミラクルはレースでの出来事を語る。上手く事が運んだと思ったが、最後にタップダンスシチーが寄れて、内か外のどちらに進路を取ろうか迷い、遅れてしまった等詳細に語った。

 

「神の悩みはレベル高け~」

 

 チームメイトの1人がふざける様に呟き、他の者も同調するように笑い声を漏らす。

 その態度にヒシミラクルは思わず目を見開く。此方は真剣に悩んでいるのに笑い話で済ませるな。詰め寄ろうとするが、トレーナーが間に割って入る。

 

「幾ら運が強かろうが、常に絶頂期な者は居ない。恐らく今日のヒシミラクルは運の底だった。だが、全治1年の怪我を1カ月半で治して、内枠を引いて、雪が降って、丁度良く進路が空いた。普通の者なら一生に一度有るかどうかの幸運だ。それで不運だって悩んでいたらレベルが高いって言うよな」

 

 トレーナーはチームメイト達に賛同を求めると、皆もそうだと同意する。

 

「まあ、次走はちょっとした不運すら起きないから気にするなって事だ、それにヒシミラクルの運の良さは継続中だ」

「どういう意味ですか?」

「トレーナーとしてはどうかと思うけど、最近思うんだ。トレセン学園に来ている者は皆全力を尽くしている。それでも結果に差が出るのは運によるものではないかってな。才能を持っているか持っていないかも運、才能を生かす出会いや環境も運」

 

 ヒシミラクルは黙ってトレーナーの言葉を聞く。それはかつてデジタルに話した持論と同じだった。

 

「であれば運が強いヒシミラクルなら、きっと才能が眠っていてまだまだ引き出せる。そして俺は決して1流のトレーナーじゃないし、皆も現時点では1流の選手じゃない。だがお前の才能を引き出すという意味では、これ以上ない程の人材なはずだ、それはこのチームに入った時点でそれは確定している。今はそうでなくても今後そうなる。だから安心してトレーニングに励め」

 

 ヒシミラクルにトレーナーの言葉がしみ込む。今日のレースに負けて運に対する不信感を抱いていた。運は頭打ちなら心技体を鍛えて強くなるしかない。だがそれは間違っていた。

 今日は運が最悪な状態に過ぎなかった。常に最高の幸運に恵まれるなど神の領域であり、人間の範疇ではない。それで運の力を疑い、心技体に意識を向ければ必ず運に見放される。

 そして己であれば才能が有るという運に恵まれ、まだまだ強くなれる。様々な偶然によって出会ったトレーナーとチームメイト達が才能を引き出してくれる。

 これからもいつも通り過ごせばいい。そうすれば己の運によって地力は高まり、レース中も有利な状況が作られる。そして世界に届く。

 

「それもそうですね」

 

 憑き物が落ちたような爽やかな表情で呟く。その表情を見てトレーナーはいつものヒシミラクルに戻ったと確信した。

 

「私は現人神ヒシミラクル、皆の者、己の幸運に喜ぶがいい。私と過ごせば皆を1流のウマ娘になるだろう」

「うるさい疫病神、とりあえず厄落として絶不調を治してから言え」

 

 ヒシミラクルがふざけてチームメイト達がツッコみを入れる。控室内はいつもの空気になっていた。

 トレーナーはその様子を見て笑みを浮かべる。幸運に恵まれるのは運を信じる者、そして陽気で笑顔を浮かべている者、まさに笑う門には福来るだ。

 

───

 

 舞台裏からも観客達の声援が響き渡る。今日で今年のウイニングライブは見納めであり、思う存分騒ごうと、いつもより観客達のテンションは上がっていた。

 ウイニングライブが進行していくなか、メインライブに出演するシンボリクリスエスとタップダンスシチーとゼンノロブロイは出番を待っていた。

 

「今日は一生後悔を抱くようなレースにしようかと思ったが、逆になっちまったな、ボリクリ」

 

 タップダンスシチーは視線を合わせないまま、シンボリクリスエスに呟く。後悔や不満は内に留めておくべきなのに、思わずこぼしてしまった。己の惰弱さに内心で舌打ちする。

 

「そうだな。2勝1敗で私の勝ち越し、引退を撤回するつもりはなく、この結果は永遠に覆らない」

「ああ、これから勝ち続けて、最終的にはアタシの方が強かったと思われるようにするさ」

「ならその必要はない」

 

 タップダンスシチーは思わず視線を向ける。負け惜しみの言葉に反応が返ってくると思わなかった。さらに必要がないという意味も分からなかった。

 

「ゼンノロブロイは私より強くなる。そのゼンノロブロイに勝利すれば、私を超えたと同じだ」

「これが?」

 

 タップダンスシチーは思わずゼンノロブロイを指差し、ゼンノロブロイは視線を逸らす。過去のレースや今日のレースを通して、シンボリクリスエスを超える才能と実力が有るとは全く思えなかった。

 

「甘く見るな。ゼンノロブロイは必ず私以上のトレーナーの代表選手となる」

 

 シンボリクリスエスは睨みつけ、タップダンスシチーはその様子を見て認識を改める。ゼンノロブロイを信じてないが、己より上で有るというシンボリクリスエスの目を信じる。

 

「それは良い、やる気がメラメラ燃えてきた。しかし甘いな。ボリクリの目的はトレーナーの良い成績を取らせる事だろ?だったらアタシがやる気にさせないようにすべきだ、もしかしたら腑抜けたままで、ゼンノロブロイに負けるかもしれない」

「成長には適度な障害が必要だ」

 

 その言葉にタップダンスシチーの鼓動が怒りによって跳ね上がる。ゼンノロブロイを強くさせる為の餌扱いか、負けたウマ娘に反論する資格はない、だがその認識を一生後悔させてやる。

 

「だそうだ。餌として頑張らせてもらうわ」

 

 タップダンスシチーは笑顔の中に怒りを潜ませながらゼンノロブロイに握手を求める。勝負はもう始まっている。ここで相手をビビらせて苦手意識を植え付けさせる。

 

「よろしくお願いします。私も英雄として、プロとして、トレーナーに教わった全てを発揮して勝ちます。そしてシンボリクリスエスさんのあの走りも、ラスト100メートルの走りも習得します」

 

 ゼンノロブロイは相手の目を見据えてハッキリとして口調で告げる。これは決意表明だった。シンボリクリスエスの技術を再現し、トレーナーに教わったウマ娘として恥じない走りをする。

 

「それがそうなら最高だ。是非ともやってくれ」

 

 タップダンスシチーは嬉しさを隠し切れないと獰猛な笑みを浮かべる。

 今日のシンボリクリスエスに屈した記憶は永遠に残る傷になった。それを起爆剤にして強くなるつもりだが、過去を払拭できるに越したことは無い。

 

 2人は視殺戦のような睨み合いをしながら握手し続ける。するとタップダンスシチーが手を放し離れていく。するとシンボリクリスエスがゼンノロブロイの元に歩み寄る。

 

「タップダンスシチーは強い、そして今日のレースを切っ掛けに確実に強くなる。ヒシミラクルもネオユニヴァースも同じだ。だが私は出来ない課題は与えないつもりだ。お前なら勝てる」

「英雄になる試練なら乗り越えてみせます。英雄は想いに応える存在、シンボリクリスエスさんがプロの矜持を曲げてまで、私に賭けてくれた。ならば応えます。英雄としてプロとして」

 

 シンボリクリスエスは思わず感嘆の息を漏らす。かつてのゼンノロブロイは自信がなく弱弱しかった。そのせいで殻が破れず、アクシデントによって自分に憎悪を抱き、その感情によって殻を破るのを期待した。

 そして結果として、憎悪ではなかったが、自分の行動によって殻を破り始めている。これなら自分の技をトレーナーを通して習得してくれるかもしれない。それどころかアグネスデジタルのような存在に打ち負かされないように進化させるかもしれない。

 そうなれば本望で、今日のレースで自分の技を使ってしまった事にも意味が有る。

 

──すみません。そろそろ本番ですので準備お願いします

 

 すると係員が3人に声をかける。シンボリクリスエスは思考を切り替える。今は未来に思いを馳せるのではなく、ライブのクオリティを上げる事に思考を向ける。

 トレーナーはライブの指導も上手いと世間に思わせる。それは日本一のトレーナーにするという契約に関係ない。だが上手いと思わる事に越したことは無い。アフターサービスだ。

 シンボリクリスエスは最高の笑顔を作り壇上に上がった。

 

───

 

「最高~、素敵すぎる~素晴らしすぎる~尊すぎる~」

 

 日は完全に落ち、満月が空に浮かび上がる。ライブが終わり観客達はレース場から出ていく中、デジタルは放心状態で立ち尽くしていた。シンボリクリスエスの最後のライブを網膜に焼き付けようと集中し、最後のライブに相応しいパフォーマンスを見せてくれた。

 さらに壇上にはタップダンスシチーとゼンノロブロイが居た。ライバルとチームの後輩という組み合わせ、ゼンノロブロイのシンボリクリスエスに向ける視線が憎悪ではなく、かつてと同じ感じだった。

 ライブ前に何があったのか?そしてタップダンスシチーは何を思うのか?シンボリクリスエスは何を思うのか?妄想が止めどなく湧き上がり、ライブの様子を刻み込む作業と並行して妄想を含まらせていた。

 

「お~い、デジタル帰るぞ」

「うわっ!ビックリした!」

 

 するとデジタルの視界に突如トレーナーが現れる。余韻に浸り過ぎてトレーナーが近づいたのを察知できなかった。

 

「余韻に浸るのもいいが、そろそろ帰るぞ」

「そうだね。あ~あ、最高だった」

 

 2人は関係者出入口から駐車場に向かう。その間デジタルはトレーナーにずっと話しかけていた。楽しそうに喋る様子は引退レースを走った者には思えず、トレーナーの中にある感傷的な心は薄らいでいた。

 

「お疲れさまでした」

「お疲れ」

「お疲れ様、最後に相応しいレースだった」

 

 駐車場に着いたデジタルを多くの人々が出迎える。最初に声をかけたのはオペラオーとドトウとプレストンだった。

 

「来てくれたんだね。ありがとう。アタシとしては満足だったけど、皆はガッカリしたレース見せちゃったね」

「そんなことありません。本当に良いレースでした」

「デジタルしかやらないし、デジタルしか出来ないレースだった」

「勇者アグネスデジタルしか演じられないグランドフィナーレだ」

 

 3人の労いの言葉にデジタルは笑みを浮かべる。多くの人は惨敗したと捉えるだろう。だが友人達はこのレースの意味と結果を理解してくれ、それが嬉しかった。

 

「お疲れ様でした……」

「最後まで見届けました……」

 

 次にメイショウボーラーとアドマイヤマックスが声をかける。2人は泣きはらしたのか目が充血していた。

 メイショウボーラーはチームメイト達と一緒ではないと聞き、来ていると心配していたが姿を見て胸をなでおろす。このレースは生で見てもらいたかった。そしてアドマイヤマックスと一緒に居るのが意外だった。

 

「かつての理想のアグネスデジタルさんとは違った煌めきがありました……一生忘れません……」

「そう言ってくれて嬉しいよ」

「正直何をしたのかは完全に分かりませんでした……けど……全力でレースを走り……目的を達成した。これが尊いってやつですかね?」

「ありがとう、明日にはレースでの出来事を教えるね。むず痒いけど、そう思ってくれたら嬉しい」

 

 デジタルは慰めるように声をかける。2人は自分を慕ってくれた後輩だ。その2人をどんな形でも泣かせてしまったのは心苦しい。

 特にメイショウボーラーは最後まで奇跡を信じてこの場に来た。結果としてその願いを完膚なきまでに打ち破ってしまった。

 この様子を見る限り2人に何かしらを刻み伝えられたようだ。その何かが今後の競争生活を豊かにしてくれれば幸いだ。

 

「お疲れさまでした。ゆっくり休んでください」

「これでダートプライドを走ったウマ娘で現役はアタシだけか」

 

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキが労いの言葉を掛ける。

 

「コウテイちゃん来てくれたんだ」

「東京大賞典を見に上京してまして、折角なら見に行こうとフブキさんに誘われました。生で見られて心から良かったと思います」

「それは褒め過ぎだよ」

「良いレースだった。東京大賞典に向けて気合いが入った。少し前ならそう言うが、今は関係なくダートを探求する。悪く思うな」

「そうしてよ。逆に気合入ったなんて言われるとガッカリだよ。ダート探求に邁進してよ」

 

 デジタルはいつものように話しかける。目的の次いでだとしてもレース場に来て見てくれたのは嬉しかった。特にセイシンフブキが船橋から近く着やすくとも、ダートではなく芝のレースを見たのは驚きだ。

 

『素晴らしいレースでした。今日のレースでデジタルさんは私の理想を体現してくれました』

『そうなの?なら良かった。それで日本のレース場は楽しかった?』

『はい、ヨーロッパやアメリカのレース場とは違った魅力が有りました』

『次は地方だね。水曜に東京大賞典が有るから一緒に見に行く?』

『喜んで』

 

 サキーがハグを交わしデジタルはレース後のご褒美として甘んじて受け止める。

 夏にイギリスで有った際に日本に来る約束をしてくれたが、律儀に海を越えてきてくれ頭が下がる。そしてサキーがこんなにはしゃいでいるのは初めてだ、理想と関係あるのだろうか?東京大賞典を見る際に訊いてみよう。

 

『いいレースだった……』

『私にはさっぱり惨敗にしか見えなかったけど、クライ曰く良いレースだったらしい。だから良いレースだった』

 

 ストリートクライは遠慮がちに、キャサリロは親し気にデジタルを労う。セイシンフブキが来ているのにも驚いたが、ストリートクライが来ているのにはさらに驚いていた。

 

『ありがとう。ところで何で日本に来てるの?まさかアタシのレースを見る為に…』

『東京大賞典に出走するゴドルフィンのウマ娘のレーシングパートナーとして着た……レースを見たのはついで……』

『だよね~』

 

 デジタルは肩を落とすと同時に納得する。ゴドルフィンのウマ娘が東京大賞典に出走するのは知っていたが、その関係で来ていたのか、右回りと左回りの違いがあるにせよ、同じコースで走った経験があるのはストリートクライだけだ。色々とアドバイスできるだろう。

 

『え~っと、何で居るの?』

 

 デジタルは恐縮そうに声をかける。予想外のウマ娘達が現れたが断トツで予想外なのがティズナウだった。ダートプライド以降表舞台に姿を現さなかっただけに、こんな場所で出会うとは全く予想していなかった。

 

『東京大賞典に出走するウマ娘の1人が私の親戚だ。敵討ちするから絶対に見に来いと懇願されたので、仕方がなく来た』

『ウソ!あのウマ娘ちゃんと親戚だったの!?しかも敵討ちってダートプライドの!?』

 

 デジタルは捲し立てる様にティズナウに質問する。アメリカから参戦するウマ娘が居るのは知っていたが、まさかティズナウと親戚とは全く知らなかった。さらに走る理由がリベンジというのが心を揺さぶられる。

 暫くして不機嫌そうにしているティズナウの表情を見て、喋るのを止める。

 

『いや~、今日のレースは見苦しい結果になっちゃってゴメンね。けどアタシにも理由が有るというか……』

 

 デジタルはティズナウの表情を窺いながら歯切れ悪く喋る。ダートプライドでティズナウに勝利し、アメリカのウマ娘として相応しい結果を求められるのは分かる。  

 だが今日は結果的には大惨敗でアメリカに泥を塗ったと捉えられても仕方がない。だとしたら腸煮えくりかえっているだろう。

 

『本来なら文句を言うところだが、お前が何をしたかは分かる。その結果、見るに堪えないレースがマシになった』

 

 思わぬ言葉にデジタルは肩透かしを食らう。ありとあらゆる罵詈雑言を受ける覚悟で身構えただけに予想外だった。

 

『そうだ、サキーちゃんにティズナウちゃんにストリートクライちゃん、日本のウマ娘ちゃんを甘く見ちゃダメだよ。特にアジュディミツオーちゃん、アタシの一押しのウマ娘ちゃんです。フブキちゃんのダートプロフェッショナルとしての技術と、コウテイちゃんの地方総大将としての精神を継承したウマ娘ちゃんなんだから。将来は2人の想いを引き継いでダートプライドに参戦してくれたら激アツだよね!』

 

 デジタルは思い出したかのようにアジュディミツオーについて語る。最初は紹介だったが、途中から願望を垂れ流し、その様に全員は苦笑していた。

 

『最後の最後まで変わりないな』

『でも、そこがデジタルらしい』

『パパ、ママ』

 

 デジタル両親はクスクスと笑みを浮かべながら話しかける。デジタルは2人気づくと思わず抱き着く。両親も同じように抱き着く。

 

『今までお疲れ様。そして無事に帰ってきてくれてありがとう。お帰り私達の愛しい娘』

『オペラオーさん達から何が起こったかは聞いた。本当によく頑張った』

『うん、色々大変だったけど、アタシ頑張ったよ。一片の悔いもないレースをしたから』

 

 デジタルはテストで100点を取った小学生のように誇らしげに喋る。その様子は少し幼く、普段では他人が居る状態では控えるが、デジタルは気が緩んだのかいつものように甘え、両親達も精一杯労うように甘やかし労う。

 

 トレーナーは皆に労われ祝福されるデジタルを遠巻きで見つめる。今日のレースは結果を見れば、1着に1分以上離されての最下位という最悪の結果だった。

 だが中身は最高の結末ではないが、最大限の努力をして得られる限りの幸せを手に入れた。そして周りもその結末を理解し祝福する。

 デジタルの主義主張は明らかに少数派であり、理解されるものではなかった。だが日々の生活とレースを通して、多くの人の心を揺さぶり、心を交わし理解させた。

 自分が幸せだと思うのは良い事だ。そして自分が幸せでそれを祝福されるのはさらに良い事だ。

 

 デジタルはその戦績と走りから勇者と呼ばれている。勇者とは勇気ある者、無謀な挑戦と呼ばれながらも結果を出し、誰も走ったことが無いローテーションで走り勝ってきた。それはまさに勇者の姿だった。

 そして今日のレースでデジタルは周りに勇気を与え奮い立たせた。完全に自分の為にした行動とは言え、結果的に周りのウマ娘を助け、多くのウマ娘が不幸になるのを防いだ。勇者とは勇気有る者であり、勇気を与える者、トレーナーの中で勇者の定義が書き換えられた。

 トレーナーの中で1つの目標が出来る。今後はデジタルように恐れず目的のために突き進み、周りに勇気を与える勇者のようなウマ娘を育て上げたいと。

 

 

 

 

有マ記念 中山レース場 GI芝 不良 2500メートル

 

 

 

着順  番号     名前         タイム    着差    人気

 

1   14   シンボリクリスエス   2:34.5          2       

 

  

 

2   3   タップダンスシチー    2:34.5    クビ   1  

 

 

 

3   5   ゼンノロブロイ      2:34.6    クビ   5

 

  

 

4   9   ネオユニヴァース     2:34.6    ハナ    4

 

 

5   2   ヒシミラクル       2:34.7    ハナ    3

 

 

14   1   アグネスデジタル     3:34.6    大差    10

 




これで有マ記念編は終わりになります。
あとはエピローグ2話となります。もう少しだけお付き合いしてくだされば幸いです


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勇者のトゥルーエンド

 2月某日金曜日。この日は雲一つない青空が広がっていた。2月になると東京レース場でレースが開催され、土日にはレースを見に客が訪れる。しかし平日はレース場に入場できない。だが今日は特別なイベントを開催され、多くの人々が東京レース場に訪れていた。

 

 それはアグネスデジタル引退式である。

 

 中央ウマ娘協会は一定の成績を挙げた選手に対して、引退式を開催する。シンボリルドルフ等数々の名選手の引退式が実施され、最近ではシンボリクリスエスの引退式が実施された。

 ある若者男性がパドックの柵の前でカメラを構えながら、固唾を飲んで待つ。彼はデジタルのファンで国内のレースであれば出走する全てのレース場に足を運び、常にパドックでの姿を撮ってきた。

 そして今日が勝負服を着てパドックに現れる最後の機会である。ファンとして是非とも写真を撮りたいと、引退式の前々日から並んでいた。

 流石に早すぎると思ったが、念には念をと並んでいたが正解だった。もし見通しが甘ければこうして最前列を確保できなかっただろう。

 

『皆さま、これよりアグネスデジタルさんのパドックを開始します』

 

 場内アナウンスが流れると人々の意識はパドックに向けられ、最後の雄姿を眼に焼き付けようとスマホやカメラを構える。そしてデジタルが姿を現した。

 若者もカメラを構え写真を撮り続ける。引退してから運動量と食事量のバランスが取れず、太ってしまうウマ娘が居るが、その姿は有マ記念の時と全く変わってなかった。周りのファンもそれに気づいたのか、所々で感嘆の息が漏れていた。

 暫くするとデジタルはパドックでのお披露目を終わらせ、地下バ道に入っていく。観客達もそれに連動するように一斉にスタンドに向かって行った。

 

『レース場の皆さまお待たせ致しました。これよりアグネスデジタル選手の引退式を行います』

 

 此処に来た人々達は皆デジタルに心惹かれた者達だ、今まで楽しませてくれたお礼として盛大に見送ろうと、大きな拍手と歓声を上げて出迎える。

 

『最初にエキビションレースを行いますが、このレースの為に様々な方が来てくれましたので、ここで紹介致します。最初はこのウマ娘です。スペシャルウィークさん』

 

 ターフビジョンにスペシャルウィークの紹介VTRが流れ、地下バ道から現役時代の勝負服を着たスペシャルウィークが現れ芝コースに立つ。スペシャルウィークは懐かしさと場違い感を抱きながら過去を振り返る。

 デジタルと交流を持つようになったのはドバイ遠征で一緒になったのが切っ掛けだった。それ以降も交流を深め、引退後実家の北海道に帰った後も定期的に連絡を取っていた。そしてエキビションレースで走ってくれと依頼を受け、こうして今日此処に来ていた。

 

 観客達はどよめきの声をあげる。スペシャルウィークは引退してから人前に姿を現さなかった。只でさえ珍しいのに、現役時の勝負服を着ている。思わぬサプライズにファン達は喜び、その姿を写真に収めていく。

 

『続いてはこのウマ娘です。テイエムオペラオーさん』

 

 オペラオーは歓声に酔いしれる様に声援に応えながら入場し、スペシャルウィークの横に立つ。女優として活躍しているので、比較的に表舞台に上がる事は多い。

 だがレース関係で出る事は無く。勝負服を着た姿を見るのは引退式以来で、その珍しい姿に観客達は写真を撮っていく。

 

『続きましてはこのウマ娘です。メイショウドトウさん』

 

 ドトウはオペラオーと対照的に恥ずかしそうに猫背気味で入場してくる。観客達もオペラオーが出てきたのである程度は予想していたが、実際に出てきて姿を見て思わず歓声を上げる。

 スペシャルウィーク達は黄金世代と呼ばれるほど人気で、トゥインクルレース関連の仕事をしているグラスワンダーやエルコンドルパサーとの絡みで、雑誌のインタビューに姿を見せる事はあるが、ドトウは引っ込み思案なせいかインタビューなどでも姿を現さず、多くのファンは何をしているかすら把握していなかった。

 そんなドトウが表舞台に姿を現し、勝負服を着てオペラオーの横に立っている。その光景にかつての激闘が蘇り、一際歓声が大きくなった。

 

『続きましてはこのウマ娘です。エイシンプレストンさん』

 

 プレストンも現役時代の勝負服を着て入場してくる。歓声は上がるが、驚きの度合いは少なかった。

 デジタルとプレストンが親友なのは世間に周知されている。親友の引退式に出ないわけが無いと、ある意味予想通りだった。

 

『続きましてはこのウマ娘です。タップダンスシチー選手』

 

 タップダンスシチーはコースに姿を現すとプレストンの隣に立ち言葉を交わす。タップダンスシチーとは同期でルームメイトである事はデジタルのSNSで発信されていて、姿を見た後では納得の人選だった。

 引退組が連続で登場したので、このまま全て引退組かと思わせて現役の選手が出てきた。ファン達は次も現役選手が出てくるのかと予想する。

 そしてファン達の予想通り、ヒシミラクル、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイが登場してきた。この4人の共通点は宝塚記念、または有マ記念を一緒に走ったウマ娘で関連性を見出すのは容易かった。

 

『続きましてはこのウマ娘です。アドマイヤマックス選手』

 

 アドマイヤマックスが登場すると、レース場の熱が僅かに下がる。今まで登場してきたウマ娘はゼンノロブロイ以外全てGIに勝利している。ゼンノロブロイもダービー2着、有マ記念3着と王道路線で好成績を挙げたウマ娘だ。

 一方アドマイヤマックスはGI未勝利で、安田記念2着だが王道路線と比べるとどうしても評価が低く、それ以降の成績もパッとしない。つまり格が低いと思われていた。その空気を感じたのか、余所余所しかった。

 

『続きましてはこのウマ娘です。メイショウボーラー選手』

 

 メイショウボーラーは緊張した面持ちで入場し、アドマイヤマックスが気を遣って声をかける。

 同じチームのウマ娘であれば縁が深く選ばれても不思議ではない。しかしクラシック級のウマ娘が出てくるとは予想していなかった。

 

『そして、最後はもちろんこのウマ娘です。盛大な拍手でお迎えください!アグネスデジタル!』

 

 デジタルは地下バ道から姿を現すと、この日一番の歓声が沸き起こる。

 一方デジタルはスタンドの観客達に視線を向ける。引退式を見る為にこんなにも人が集まったのか、案外人気有るんだと他人事のように思っていた。

 アメリカに居た時は勿論、トレセン学園に来てからも多くのウマ娘の引退式を見てきた。それがする側に立つとは夢に思っていなく、感慨にふけっていた。

 コースに入ると整列しているウマ娘に声をかける。今日来たウマ娘達はデジタルと親交が有る者、または印象に残り、引退式で一緒に走れたら嬉しいなと誘っていた。

 皆忙しい中、時間を割いてきてくれた。此処にいるウマ娘達は時期や路線が異なり、本来は一堂に会することは無かった。だがこうして一緒に走れる。引退するにあたって最高の贈り物だった。

 出走ウマ娘の顔見せが終わると、其々がゲートに移動し入っていく。このレースはトゥインクルレースの花形、距離2400メートルで行われる。

 

『レースがスタートしました』

 

 スタートして皆はデジタルを囲むようにして走る。レースと言ってもデジタルの思い出作りの一環なので真剣勝負ではなく、全力の半分以下程度で走る。故にジョギングをするように長閑な雰囲気に包まれていた。

 

「スぺちゃん、今日は北海道から態々来てくれてありがとうね」

「デジタルの引退式だから来るよ。それと久しぶりに勝負服着たけど、変なところない?」

「大丈夫。現役時代そのままだよ」

「よかった~。何もしなきゃ弥生賞の時以上にパンパンだから、必死に絞ったんだよ」

 

 デジタルはスペシャルウィークの傍に寄り和やかに会話する。2人が同じレースで走ったことはなかった。天皇賞秋で走れる可能性があったが、お互い縁がなく交わることは無かった。

 もしデジタルがダートプライドを走らなければ、何らかのレースで走れた可能性があった。だがダートプライドを選び、その後は長期休養となりその間にスペシャルウィークは引退した。極端な事を言えばデジタルが選ばなかったといえる。

 ダートプライドを選んだのは後悔しない。だがスペシャルウィークと走れなかった後悔は確実に残り、もし同じレースで走ったらどんな感じだったのだろうと、時々想像していた。

 理想は真剣勝負のスペシャルウィークを感じたい。だが自分の為に来てくれて、勝負服を着て同じコースを走っている。それだけで充分すぎる。心の中の未練は消えないが限りなく小さくなっていた。

 

「2人とも相変わらず、素敵だね」

「それはそうさ、引退しても魅力は失われない。勝負服を着てターフを走ればボクが主役さ」

「そうですか~?現役時代の時より体重が増えてますし、だらしない体でとても皆さんに見せられる姿じゃないです~」

 

 オペラオーは胸を張りながら、ドトウは背中を丸めながら走る。その様子を見てデジタルは笑みをこぼす。

 

「今日は天皇賞秋のように外に向かわなくていい」

「お……思う存分感じてください」

 

 2人はデジタルを挟み込むように近づき、お互いの二の腕をデジタルの二の腕に接触させる。するとデジタルは『ありがたき幸せ~』と奇声をあげ、周りのウマ娘達は苦笑したり、若干引いたりと其々の反応を見せる。

 

 2人と走った最初で最後のレースが天皇賞秋だった。2人を感じる為に内に進路を取るか、勝つ為に外に進路を取るかという2択に迫られ、外に進路を取った。

 結果的に勝利し副産物としてトリップ走法を編み出し、この走法が様々なウマ娘を感じる手助けをしてくれた。

 トリップ走法が無ければここまで幸せな現役生活を送れなかったかもしれない。それでもあの時の選択に対する後悔の念は完全に拭い去れなかった。

 そして2人は想いを汲み取り、より感じられるようにと近づいてくれた。スペシャルウィークと同じで、本来感じたいのは真剣勝負の2人だ。だが心遣いだけでお釣りがくる。

 

「存分に楽しんでるようね」

 

 1コーナーを過ぎたあたりでデジタルの右斜め前に居たプレストンが振り向いて話しかけ、デジタルは自然に笑みをこぼす。

 トレセン学園に入学して最も良かった出来事を挙げるとしたら、プレストンと友人になれた事だ。

 そしてプレストンには様々なものを貰った。人の付き合い方、自己分析して無理な目標を立てず、実現可能な目標達成に向けて行動する大切さ、その卓越した身体操作能力による美しい走行フォームとその養い方、それらはデジタルの今後の人生に豊かさを与え、トレーナーになれたとしたら、理想のウマ娘像の1つとして指導の指針になるほど影響を与えられていた。

 

「最高~!」

「それはようござんした。流石にかきつばた記念の時みたいなワガママボディじゃないみたい」

「当然でしょ!皆が来てるのにだらしない体を見せるわけにいきませんからね!」

「すみません。だらしない体で……」

「あ~違う。アタシはダメでも他のウマ娘ちゃんはいいの。ふくよかなドトウちゃんも新たな一面が見られて素敵というか」

「デブですみません~」

「プレちゃんのせいでドトウちゃんへこんじゃったじゃん」

「アタシに責任転嫁するな」

 

 デジタルとプレストンが気の置けないやり取りをしている様子を他のウマ娘達は見つめる。皆多かれ少なかれデジタルと関係を持つ者達だ、それでも2人の間には特別絆が有るのを感じ取っていた。

 

「その勝負服も久しぶりだね」

「香港での引退式以来かな」

「香港か、もし……」

 

 その先の言葉はプレストンの手によって制される。デジタルは長期療養しなければ二度目のクイーンエリザベスⅡ世カップで走れたのにと言おうとしていた。仕方がないと何度言い聞かせても、ほんの僅かに割り切れないモノがあり、それが表面化していた。

 

「過去は取り戻せない。どうせ過去を振り返るなら楽しかった過去を振り返りましょう。あの時は楽しかった」

「本当、やっぱり香港のプレちゃんは最高だよ。色々有ったけど楽しかった」

「何より勝ったしね。デジタルとの通算成績は3勝2敗、アタシが唯一勝ち越してるし」

「プレちゃん算数できる?タップダンスシチーちゃんもヒシミラクルちゃんもゼンノロブロイちゃんもネオユニヴァースちゃんも勝ち越してるよ」

「宝塚記念は適正外で衰えがきてた。有マ記念は言わずもかな。つまり参考記録。全盛期で適性内のレースで勝ったのはアタシだけ」

 

 プレストンは周囲にアピールするように言い、デジタルは思わず目を丸くする。

 確かにプレストンはライバルだと思っている。だがここまで屁理屈こねて勝ち越しをアピールするとは思っていなかった。長い付き合いだがここまで子供っぽいところが有るとは思わなかった。

 デジタルは妙に熱くなっているプレストンをドトウとオペラオーに任せ、左前に居たタップダンスシチーの横に並ぶ。

 

 如何に自分に有利な状況を作るという勝負力、それは勝負に勝つ為に全力で行動するというタップダンスシチーを象徴する力だ、そしてそれはデジタルに最も遠い力ともいえる。

 2人はある意味正反対だ、それでも勝利向けて真摯に誠実に行動する姿は尊敬し、影響を与えた。

 ウマ娘の多くは自分ではなくタップダンスシチー側だ、その思考を学び将来トレーナーになった際には、その勝負力で教え子の夢を叶えさせてあげたい。

 

「今日は来てくれてありがとう。正直忙しいって来てくれないかと思ってたよ」

「ドバイシーマクラシックまであと約2カ月もあるんだぞ。流石にそこまで心狭くねえよ」

「しかし次走は大阪杯じゃなくてドバイシーマを選んだのは意外だった」

「今一度鍛え直さねえとな。夜中にイタ電かけまくって睡眠妨害してきたり、何気なく渡した水に下剤とか仕込んだりと勝つ為に色々やってくるんだろ。そんなアウェーで勝ってこそ強くなれる」

「されないよ。そんな事」

「しねえの?だってアウェーだぜ」

 

 タップダンスシチーはこれ以上ない程目を見開く。その様子を見てデジタルは苦笑する。一体どこの世界と勘違いしているのだか、

 しかしそこまでされるのを想定するウマ娘も居ないだろう。自分に有利な状況を作るのに長けているという事は、自分が不利な状況に陥らないようにするのに長けていると言える。

 アウェーで走るというのは想像以上に厳しい。盛岡で疑似的なアウェーの洗礼をうけたからこそ分かる。ある意味最も遠征に強いウマ娘なのかもしれない。

 

「一緒に過ごして、同じレースを走って結構楽しかった。特に有マ記念での作戦を見破れたのは良い思い出だ」

「アタシも、あの作戦は見破られないと思ってたけど、さすがだね」

 

 デジタルは嬉しそうに語る。後で聞いたがタップダンスシチーは自分達の作戦を見破っていた。常識外れの作戦で誰も分からないと密かに自負していた。

 そして作戦を見破るというのは力だけではなく、心理状況まで分からなければならない。つまりタップダンスシチーは深いところで自分を理解してくれたとも考えられる。ある意味自分の存在が刻まれた事でも有り、嬉しい限りだ。

 

「改めてお礼を言うね。有マ記念で目的を達成できたのもお守りのお陰だよ。そしてゴメンね。運を分けてもらわなければ、勝てたかも」

 

 一団は第2コーナーに入り、デジタルは後ろに下がり、ヒシミラクルに声をかける。

 彼女はレース感に大きな影響を与えたウマ娘だ、今まで軽視しがちだった運の要素の大切さを教えてくれた。   

 有マ記念は幸運が無ければ決して目的を達成できなかった。それは自分の運で掴み取ったと考えられる程、割り切っていない。それよりヒシミラクルに分け与えられた運によると考えた方がエモい。

 そしてもしそうだとしたら、本来持っていた運を貰ってしまった事になる。そう思うと心が痛む。

 

「それはアグネスデジタルさんの運でもたらした結果です。そして私は自分の運でアシストとして利用できた。あとの不運は全て自分の責任です」

 

 ヒシミラクルは負い目を感じさせないようにきっぱりと言う。

 確かにデジタルを利用した瞬間に運をもらった。仮に与えた分がマイナスだとしても貰った分で差し引きプラスだ。それでもダメだったのであればどうしようもない。

 

「有マ記念に勝ったら世界って言ってたけど、どうするの?」

「とりあえず春シニア3冠に挑んで、勝って運を蓄えます」

「運を蓄えるか、素敵な表現だね」

 

 普通であれば勝利を通して自信をつけると言いそうだが、運を蓄えると言った。実にヒシミラクルらしい表現だ。

 

「ヒシミラクルちゃんの運の強さが世界に通用するか、楽しみにしてるから」

「アグネスデジタルさんに貰った運は無駄にしません。運の力で必ず世界を取ってみせます」

 

 ヒシミラクルは快活に笑い、その笑顔にデジタルは胸が昂揚感で胸が高鳴る。

 デジタルは非公式ながらダートで世界一になった。競った相手は特別な何かを持っていた。それは先天的な能力と環境という運の要素で授けられた力を才能と呼ぶとするならば、ヒシミラクルは運を持っていても才能はないと分析していた。

 恐らくヒシミラクルもそれは承知だ、だが己の運によって出会ったトレーナーやチームメイトや関係者が才能を呼び起こし授けてくれると信じている。その一途さは自分をときめかせ、才能を授ける要因の一つになれたらいいなと思わせる程だった。

 

「アグネスデジタル、お疲れ様」

「うわ!ネオユニヴァースちゃん!?」

 

 するとネオユニヴァースがいつの間にデジタルの真横につけていた。全く動きが見えず虚を突かれていた。

 デジタルはネオユニヴァースに気づかれないように覗き見る。現役で最も不思議なウマ娘だった。

 ウマ娘を感じる為に走るという感覚は世間からは理解されにくく、不思議ちゃん扱いされる事もあるが、ネオユニヴァースを見ると自分は世間からこのように見られているとよく分かる。

 宇宙を伝えるために走るそうだが、その宇宙を未だに何となくでしか感じられない。

 

「凄い今更だけど、ネオユニヴァースちゃんが伝えたい宇宙って何?」

 

 この際だから本人に直接訊いてみようと気軽に尋ねたが少しだけ後悔する。ネオユニヴァースは非常に困った顔をしていた。

 己の内に確かに存在しているのにそれが何かと説明できない。非常にもどかしいだろう。そしてネオユニヴァースがやろうとしている行為の困難さを改めて理解する。

 自分の目的だったウマ娘を感じる為に走るという行為は自分が感じれば満足できる。だがネオユニヴァースは他者が宇宙を感じる事で満足できる。感じるのと感じさせるのでは大きな隔たりが有り、後者の方が遥かに難しい。

 彼女が成し遂げたい事はある意味無敗の3冠ウマ娘やGI最多勝ウマ娘になるより難しい。さらに言えば誰からもその偉業の価値を理解されない。

 

「正直何もできないかもしれないけど、手伝える事は何でもするから気軽に言ってね」

「大丈夫、宇宙を伝える為には他者に溶け込み共鳴させる必要があると教わった。それだけで充分、あとは私の番」

 

 ネオユニヴァースは力強く返事する。有マ記念のデジタルによって大きなヒントを貰った。あとは自分で試行錯誤して目的を達成する。

 そしてデジタルは満足げな表情を浮かべる。何か手伝った覚えはないが、自分の行動がネオユニヴァースに影響を与え、目的達成の手助けになったようだ。それが何よりも嬉しい。

 彼女が歩む道は険しく孤独だ。それでも宇宙を見せたいという熱意が障害を乗り越え孤独に耐える。そしてレースを走るウマ娘と観客に宇宙を見せてくれると信じている。何より自分が宇宙を感じたい。

 

「アグネスデジタルさん、今までお疲れさまでした」

「ありがとうゼンノロブロイちゃん」

 

 するとゼンノロブロイがデジタルの横に着け声をかける。その表情は有マ記念の時とは違い穏やかだ。

 

「シンボリクリスエスちゃんと仲直り出来たみたいだね」

「はい。有マ記念の時に本音をぶつけたら、シンボリクリスエスさんを理解出来て、私が思うような人じゃなかったと分かりました」

「そうなんだ。ところでシンボリクリスエスちゃんは元気にしてる?」

「元気にしてます。スタッフの一員としてトレーナーの手伝いをして、チームの皆と併走して指導したりしてます。実力は相変わらずなので学ぶべき点が多いです」

「一応誘ったんだけどな。トレーナーの為にやる事が多いから忙しいんでしょ」

 

 ゼンノロブロイはデジタルの言葉に視線を逸らす。確かに忙しいがこの引退式に参加できない程忙しいわけではない。誘われたのは知っているので、来ないかと提案したが拒否された。理由はデジタルが嫌いだから。

 天皇賞秋でも有マ記念でも結果的に邪魔されて、印象が最悪であると本人の口から語られた。その時の様子は珍しく素の感情が出ていた。余程嫌いなのだろう。これを伝えれば卒倒してしまうと判断し黙っていた。

 

「次走は日経賞だっけ?」

「はい、そこから天皇賞春と宝塚記念を予定してます」

「どんな英雄譚を紡いでくれるか楽しみだよ。物語を彩る個性豊かな登場人物は一杯いるからね」

 

 ゼンノロブロイはデジタルの言葉を聞き今後について考える。タップダンスシチー、ヒシミラクル、ネオユニヴァース、他にも同じ路線には強く個性豊かなウマ娘が多く居る。

 どれもが物語の主役になれるウマ娘達ばかりだ。その者達を倒さなければ英雄になれない。改めて困難さを実感する。

 

「ところで、これからはシンボリクリスエスちゃんの走りを目指すの?」

 

 デジタルは複雑そうな顔で問いかける。以前からシンボリクリスエスを尊敬しているのは知っていた。有マ記念前は何かしらが有り関係は険悪になっていたが、今では元の鞘に収まったようだ。

 だとすれば有マ記念で見せた全てのウマ娘の煌めきを消すような走りをするかもしれない。個人的にはあの走りはしてもらいたくなかった。

 

「はい、シンボリクリスエスさんがプロであったと誇ってもらうために、あの走りを習得します」

 

 ゼンノロブロイは決断的な意志を込めて返事する。デジタルが見せた有マ記念での走り、他者に力を与えるその姿は英雄であり、同じように走りたいと思った。

 それでもシンボリクリスエスのプロとしてデジタルの恩恵を拒絶した誇り高さに惹かれ、いずれ実現してくれると信じた走りを再現させてあげたい。

 

 デジタルはその表情を見て諦める。有マ記念での自分の走りを出来る者が居れば、レースはより自分好みの素晴らしいものになる。そして走りを継承してくれれば自分が刻まれ嬉しい。その相手がゼンノロブロイであればと期待していた。

 もしシンボリクリスエスの走りが再現されたら、レースは自分好みではなくなる。だが尊敬する先輩の走りを実現したゼンノロブロイの姿は尊くある種の煌めきを見せるだろう。それを感じるのも一興だ。

 

「そっか、ちょっと複雑だけど、再現できるようになることを遠くから見てるよ」

「ありがとうございます」

 

 ゼンノロブロイは思わず口角が上がってしまう。デジタルの表情に感情がありありと見えていた。感情を隠せないのは子供っぽいかもしれないが、嫌いではない。

 

「前走は惜しかったね」

 

 デジタルはアドマイヤマックスに近づき声をかける。彼女はある意味最も近い存在だった。

 デジタルのトリップ走法、それはどんな名選手でも出来ない唯一無二の走りだった。しかしアドマイヤマックスはデジタルに対する執着からトリップ走法を独学で実現させた。過程は違えど同じ走りを実現できたウマ娘として親近感を抱いていた。

 そして同じ境地に辿り着いたからこそ、イメージのウマ娘を感じる事に囚われるという選択は幸せになれないと気づき、間違っていると教えてくれた恩人でも有る。

 

「デュランダルの素晴らしい煌めきを見せてくれました。それをもっと感じたかった」

「あ~分かる。悔しいよね」

 

 アドマイヤマックスは悔しさを滲ませながら呟くと、デジタルも大きく首を縦に振って同意する。

 レースで煌めていたウマ娘を感じられなかった無力感と悔しさは堪らない。特にダートプライド以降は勝利よりウマ娘を感じる事を重要視していたので、その無力感と悔しさはさらに増していた。

 

「けど、私にはトレーナーとチームの皆とアドマイヤの皆が居ます。必ずあの娘に食らいついてもっと煌めきを感じて、レースに勝てるようになります」

 

 アドマイヤマックスは晴れやかな表情で語る。一時期はデジタルに心酔し全てを失いかけたが今では新しい目標を見つけ充実した日々を送っていた。

 

「アドマイヤマックスちゃんなら必ず出来るよ。一緒に走ったアタシが保証する」

 

 デジタルは励ますように力強く語る。脳裏には安田記念の時の記憶が蘇る。トリップ走法を使ったアドマイヤマックスは本当に強かった。

 あの時は慈悲の心という新たな力によって辛うじて先着できた。手前味噌だがあの時は衰えておらず、全盛期と変わらない強さが有った。

 その自分と僅差であれば潜在能力を発揮できればどんな相手でも離されず感じられる。

 

「それはどうですかね。トリップ走法は出来ませんし、するつもりはないですから」

 

 アドマイヤマックスの表情に影が差す。言葉通りトリップ走法は出来なくなっていた。習得する過程で多くの人を傷つけ失望させた。トリップ走法は消し去りたい過去であり汚点であった。

 

「技に善悪は無いって言葉知ってる?」

「機械に善悪は無く、有るとすれば使う人間の心次第って言葉は知ってますが」

「うん、それと同じ。デュランダルちゃんや素敵で強いウマ娘ちゃんを感じる為にトリップ走法が必要なときが来るかもしれない。嫌な思い出が有るかもしれないけど、全部封印しなくてもいいんじゃないかな。またはトリップ走法の力を少しだけ使うとか」

 

 デジタルは必死に説得する。トリップ走法について良いイメージを持っていないのは先程の反応や、周りの話を聞いて理解している。

 だがトリップ走法は力を与える。それを使わずにレースに負けウマ娘を感じられなければ後悔を抱えてしまう。それは一生の傷になるかもしれない。

 

「というより、トリップ走法は今のところアタシとアドマイヤマックスちゃんだけが出来た走りで、2人の繋がりというか。お互い過程は違っても苦労して編み出した走りだから、否定してほしくない」

 

 相手を想う気持ちはあるが、今の言葉がデジタルの本心だった。そしてもしトリップ走法を使った時のイメージに自分が居たらこれ以上の幸せはない。

 

「でも、私は才能がないから多くの労力をかけないと出来ませんし、そのせいで皆との関係を断ちたくないですし……」

「だったら、アタシが短い練習時間で出来るような方法を考える。これからは暇だからいくらでも時間あるし調べられる」

「ですが」

「何の話してるんですか?」

 

 するとメイショウボーラーが2人の間に割って入り親し気な様子で会話に参加する。

 

「ああ、トリップ走法について」

「トリップ走法ですか」

 

 メイショウボーラーはアドマイヤマックスの言葉に僅かに目を伏せる。デジタルの代名詞であるトリップ走法、憧れの人の技を習得しようと本人にやり方を教わったが、全くできなかった。

 そして有マ記念で偶然アドマイヤマックスと知り合ったのを切っ掛けに親しくなり、話の中でトリップ走法が出来ると知り、嫉妬の念を抱いていた。

 

「今日は来てくれてありがとうね。本番じゃないけどレース場で一緒に走れて、それだけで後悔が1つ消えた」

 

 デジタルはお礼を言いながら想像する。安田記念を走るとしたらメイショウボーラーが逃げて、アドマイヤマックスが前目に着けて自分は中団ぐらいか。

 直線に入り大歓声に包まれるが、そんな声は聞こえず2人を感じる事に神経を全て集中させ存分に感じる。もしかしたらあり得た未来、その機会は2度と訪れないがその分だけ想像で思う存分楽しむ。

 

「そうだメイショウボーラーちゃん、アドバイスというかお願いが有るけどいい?」

「何ですか?」

「皆メイショウボーラーちゃんはGIに勝てるって思っているし、アタシも思っている。そして周りは期待を寄せるけど、それを力に出来るウマ娘ちゃんも居るけど、もし重荷だと思ったら、期待なんて放り投げていいから」

 

 デジタルはかつては期待を背負う立場だった。応援する者はそれぞれ期待を寄せ、それに添えなければ落胆し時には牙をむく。レースに負けて何度も期待を裏切ってきたが、その度に相手の勝手だと割り切ってきた。

 これから適正外のレースに挑み続けるかもしれない。勝利とは別の何かを目指すかもしれない。そして負ければ周りは落胆するだろうが、気にせずやりたい事を追及してもらいたい。それが最も煌めき尊い。

 

「あと白ちゃんがアタシみたいにGI勝てとか言ってきたら、ふざけるなってぶっ飛ばしていいから」

 

 トレーナーは勝利を優先するタイプだったが、デジタルを通じてそれぞれの価値観や優先するモノを尊重するようになった。

 信頼はしているが万が一名誉欲などに目がくらんでしまったら、即座にチームを移籍してもらいたい。もしくは全力で腐った性根を叩きなおす。大切な後輩の煌めきを失わせるわけにはいかない。

 

「つまり自分が好きなようにやれって事ですか?」

「ざっくり言えばそう」

「だったらトリップ走法が出来るようにさせてください」

 

 デジタルはその言葉に反応を窮する。人には向き不向きが有り、メイショウボーラーにとってトリップ走法を習得する素質は無かった。寧ろ大半のウマ娘に素質は無い、それほどまでに特異な走法だった。

 才能が無い者が習得しようとすれば労力と時間がかかり、徒労に終わる可能性が高い。その間に他の者は強くなるために効率的なトレーニングをして、強くなり差が開いていく。可愛い後輩が徒労を重ね栄光から遠ざかるのは見たくない

 

「う~ん、言いずらいんだけど、メイショウボーラーちゃんはトリップ走法を習得するのに向いてないから、他のトレーニングしたほうがいいよ。GIに勝ちたいでしょ」

「私はトリップ走法を使って勝ちたいんです。それに好きなようにやれって言ったのはアグネスデジタルさんじゃないですか、これがやりたい事です。だから出来るように教えてください」

 

 デジタルはその言葉に深くため息をつく。我の強い性格だがここまで我儘だとは思っても居なかった。年上としてトレーナーを志す立場としては止めるべきだ。だが自らの口でやりたい事をやれと言ったからには責任を持たなければならない。

 それに同門対決は出来なかった代わりに技を継承するというのも中々にエモく尊い展開だ。メイショウボーラー我儘で自分の欲を優先するが、自分も同じぐらいに我儘で自分勝手なようだ。

 

「分かった。頑張って何とかする」

「ありがとうございます!」

 

 メイショウボーラーはこれ以上ない程満面な笑みで返事をした。

 

「さてと、折角レース場で走っているし、少しはレースらしい事をしますか」

「レースらしい事って?」

「それは全力で走るんだよ」

「どこから全力で走るの?」

「直線から」

「そう、じゃあ勝負しない?これで勝ったら通算成績に加算してあげる」

「やった。これで3勝3敗に出来る」

 

 プレストンの提案にデジタルは嬉しそうに応じる。このままのんびり皆で走るのも悪くは無いが、折角の機会なので全力で走りたい。

 態々疲れるだけなのに全力で走りたいなんて、いつからこんなに走るのが好きになったのだろう。思わず自嘲的な笑みを浮かべる。

 

 直線に入った瞬間にデジタルは全力で駆ける。それに応じる様にプレストン等現役を退いた者が同じように全力で駆ける。

 

「さあ、理想の天皇賞秋を再現しようじゃないか」

「デジタルさんに満足してもらえるように頑張ります」

「そう言えば2人とはレースで走ったこと無かったな。折角だし勝たせたてもらいます」

「私もデジタルちゃんには負けません」

 

 プレストン、オペラオー、ドトウ、スペシャルウィークはデジタルを挟むように横一線になる。デジタルは全力で神経を研ぎ澄まし4人を感じる。

 レースの時のように大きな情念は感じられない。だが幼き日に友達と駆けっこで遊んだ時のような高揚感がデジタルの胸中を満たす。何て楽しいのだろう。成長し年をとっても親しい友人達と走るのはこんなに楽しいとは思わなかった。

 残り300メートルとなり、4人はズルズルと後退していく。現役を退いて長い月日が経つ者と引退直後の者との体力差は大きい。

 そして4人に代わるようにアドマイヤマックスとメイショウボーラーがデジタルの左右に並ぶ。他の者もデジタルと併走しようとしたが、アドマイヤマックス達が併走したそうなので譲っていた。

 

 デジタルは懸命に走るなか左右に目を向けると2人は平然とした顔でついてくる。有マ記念から一段と衰えたのを改めて認識させられる。

 ゴール板が近づくごとに息が弾み胸が苦しくなる。だがこの痛みや苦しみが何故か心地よい。恐らく人生でここまで全力で走るのは最後になるだろう。大切で愛しい後輩を感じながらこの痛みを楽しもう。そしてゴール板直前で2人は減速しデジタルが先頭でゴールする。

 その瞬間に観客席から歓声と拍手が沸き起こり、次第に歓声はデジタルコールに変化し、デジタルは少し恥ずかしそうに手を振り声援に応えた。

 

『素晴らしいレースでした。さてアグネスデジタルといえば芝とダートを股に掛けたオールラウンダーとして名を馳せました。ダートで走る姿も見たいですよね。という訳でダートでもう一回走ってもらいます。ゲートまで来てください』

 

 場内アナウンスにデジタルはしまったと口をあんぐり開け、その様子がターフビジョンに映り観客達から笑い声が漏れる。

 

「随分と粋な計らいね。そしてかなり全力で走ったみたいだけど、ちゃんと走れるの?」

「無理かも、テンション上がってつい全力で走っちゃったよ。プレちゃんが勝負とか言わなきゃ全力で走らなかったのに」

「いや、最初に全力で走るって言ったのアンタでしょ」

 

 プレストンは肩で息をするデジタルに半笑いを浮かべながら話しかけ、他のウマ娘達も頑張ってくださいと同情の視線を向けながら声をかける。

 そしてあまりに疲弊しているデジタルを哀れに思ったのか、せめてもとメイショウボーラーがデジタルをおぶり係員が居る場所まで運ぶ。係員が居る場所はダート1600メートルのスタート地点だった。

 

『ではダートのエキビションレースを行いますが、参加してくれたウマ娘を紹介したいと思います。最初はこのウマ娘です。ヒガシノコウテイさん』

 

 先のエキビションレースと同じようにターフビジョンに紹介VTRが流れ、地下バ道から現役時の勝負服を着たヒガシノコウテイが登場し、係員が居る場所まで走っていく。

 

『続きましてはこのウマ娘です。セイシンフブキ選手』

 

 セイシンフブキが地下バ道から姿を現しスタート地点に向かう。だがダートと芝生の切れ目の場所で突如止まった。その行動にスタンドからどよめきが起きるが、デジタルはその様子を見てクスクスと笑みをこぼした。

 

『続きましてこのウマ娘です。アジュディミツオー選手』

 

 勝負服を着たアジュディミツオーが姿を現しスタート地点に向かうが、セイシンフブキと同じようにダートと芝生の切れ目の場所で突如止まり、スタンドから更なるざわめきが起こる。

 3人が現れてから数十秒後にデジタルを背負ったメイショウボーラーがスタート地点に辿り着きデジタルを下ろした。

 

「コウテイちゃんと忙しいのに来てくれてありがとう。何だか申し訳ない」

「いえいえ、デジタルさんは私の引退式に来てくれましたので、お返しのようなものです」

「いや~、あの時は感動的だったね」

 

 2人は雑談を交わしながらゲートに入る。一方係員はセイシンフブキとアジュディミツオーがゲートに入らなのでどう対応しようと混乱していたが、デジタルがスタートしちゃってと指示を出してレースはスタートする。

 デジタルは疲れのせいか先程のレースの直線前よりゆっくり走り、ヒガシノコウテイも合わせる様に走る。スタートから約150メートル、セイシンフブキとアジュディミツオーが居る地点まで走り、2人もデジタル達と併走する。

 

「フブキちゃんもアジュディミツオーちゃんもそんなに芝が嫌いなの?」

「アタシはダートのレースを走りに来た。だからダートしか走らん」

「相変わらず徹底してるな~」

 

 デジタルは苦笑を浮かべながら褒め、セイシンフブキは誇らしげにする。かつてフェブラリーステークスの前々日会見で、芝スタートで始まる東京レース場のダート1600メートルをクソコースでGIに相応しくないと非難したのを思い出す。

 

 ウマ娘の神様は芝とダートを走れる力を授けてくれた。それによって素敵なウマ娘を感じられる機会を倍になった。その中で出会ったのがセイシンフブキだった。

 ダートに全てを注ぐ求道者、そのストイックさとダートに対する情熱は大いにときめかせてくれた。

 最初の印象は最悪で親の仇のように憎まれていた。だが一緒にレースを走り、それ以外でも言葉を交わし、多少なり認められたという自負がある。

 セイシンフブキは最終的にダートを追求する過程で勝利よりダートの探求を優先するようになった。それはレースでウマ娘を感じるのを優先し、勝利を目指さなくなった。その心のあり様にシンパシーを感じていた。

 

「フブキちゃんは引退とか考えたことある?」

「全く。アタシから引退する気はない。仮に日本で走れなくなっても外国に行けばいい。ダートコースは世界中に有るからな」

「そっか、その手が有ったか」

「アタシはお前と違って、どんなに衰えても走る事さえ出来ればダートを探求できる。羨ましいだろう」

 

 セイシンフブキは屈託のない笑顔をデジタルに向ける。その笑顔は眩しく羨ましかった。ウマ娘を感じるというデジタルの目的は衰えによっていずれ出来なくなる。仮に地方に再度移籍できたとしても数年後には引退していただろう。だがセイシンフブキの探求は言葉通り走る事さえ出来ればやれる。

 その過程で衰えてもなおレースに走り続ける姿は惨めだ無様と世間は蔑むだろう。それでも一切気にせずに探求し続けるという確信があった。本当に強くて素敵なウマ娘だ。

 

「こうして東京のダートコースを走っているとフェブラリーステークスを走ったのが昨日のことのように当時の記憶が鮮明に思い出せます」

「そうだね。一生忘れないと思う」

 

 ヒガシノコウテイは柔和な笑みを浮かべながらデジタルに話しかける。彼女は岩手や地方のファンの期待や想いを背負い力に変えて走った。

 デジタルは周りの想いを極力背負わず走ってきた。それだけに全てを受け止め走ったヒガシノコウテイは正反対の存在であり、尊敬できるウマ娘だ。

 そして地方ファン独特の想いを背負って走るヒガシノコウテイは、他のウマ娘達と違った魅力が有り心をときめかした。

 このウマ娘と出会いレースで走り感じられたのは途轍もない幸運であり、ヒシミラクルに負けない幸運であると胸を張って自慢できる。

 

「遅れたけど、東京大賞典1着おめでとう」

「ありがとうございます。南関東のウマ娘として、ダートプロフェッショナルとして負けるわけにはいかないですから」

 

 アジュディミツオーはデジタルの言葉に興奮気味に返事する。年末の東京大賞典においてクラシック級ながら見事に勝利した。

 出走メンバーにはセイシンフブキは勿論、ティズナウの親戚やゴドルフィンのウマ娘も居て、まるでダートプライドを見ているようだった。

 彼女はセイシンフブキからダートプロフェッショナルとしての技術と精神性、ヒガシノコウテイから地方総大将としての責任と精神性、それらを兼ね備え強さに変えられるウマ娘を目指している。

 一緒に走った日本テレビ盃ではその片鱗を感じ取り、先の東京大賞典ではより完成に近づいていた。

 アジュディミツオーは2人の技術や精神を引き継いだ、云わば2人の娘のようなものかもしれない。もし一緒に走るとするならば、友人の娘と走るような今まで感じたことが無い素敵な感覚が味わえるだろう。

 

「そういえば次はドバイワールドカップだっけ?」

「はい、大師匠や師匠が走れなかった舞台で、2人から受け継いだ強さを証明します」

 

 アジュディミツオーは鼻息荒く語る。大師匠であるアブクマポーロは色々有ってドバイワールドカップに出走できなかった。セイシンフブキも衰えた現状ではドバイワールドカップに招待されない。師匠たちの無念を弟子が晴らす。エモいシュチュレーションである。

 そして脳内である想像をする。もしメイショウボーラーが自分と同じようにダートを走れれば、アジュディミツオーと同じレースを走るかもしれない。

 ヒガシノコウテイとセイシンフブキの後継者と自分に憧れてくれるメイショウボーラーが対決する。それは是非とも見たいレースであり、願わくは同じレースで走り感じたかった。

 

 レースはゆったりと進み、デジタルも直線で全力を出すことなく半分程度の力で走る。セイシンフブキとヒガシノコウテイは先程のレースと同じようにデジタルに1着を譲ろうとするが、アジュディミツオーが頑なに先頭を譲らず逃げ切りで1着をもぎ取る。

 その空気の読めない行動にスタンドからブーイングのような声が飛び交うが、どんなレースでもダートで負けるわけにはいかないと頑なに謝らず、デジタルはその様子を素敵と呟きながら嬉しそうに眺めていた。

 

『各ウマ娘の方々お疲れさまでした。これよりアグネスデジタルさんの輝かしい活躍を振り返りたいと思います。ターフビジョンをご注目ください』

 

 ターフビジョンに今までの戦績のダイジェスト映像が流れる。有マ記念前日にトレーナーと今までを振り返ったが、映像で見るとより鮮明に当時の記憶が蘇る。

 そこからウイナーズサークルに移動し、エキビションレースを走ったウマ娘を交えて今までを振り返るという形式のトークショーが始まった。レースを走った当事者達と思い出を語り楽しい時間だった。

 

「そして本日は都合により来られなかったウマ娘達からメッセージを与りました。ターフビジョンをご覧ください」

 

 司会の言葉にデジタル達や観客達は一斉に視線をターフビジョンに向ける。

 

『こんにちはデジタルさん、サキーです』

 

 ターフビジョンにサキーの姿が映り、デジタルは感激し目を潤わせ口に手を当てる。これはデジタルも知らないサプライズだった。

 

『デジタルさん今までお疲れさまでした。貴女と出会いレースを走り言葉を交わし友人になれた事は私の人生にとって掛け替えのない財産になりました。貴女の走りは唯一無二のもので、私はその走りに魅了された者の1人でもあります。今後はトレーナーを目指すと思いますが、貴女の個性を受け継いだウマ娘達が世界中で活躍する事を祈っています』

 

 オペラオーとドトウが引退し、目標を失ったデジタルの心を救ってくれたのがサキーだった。

 レースに携わるウマ娘と関係者を幸せにするという夢の為に自分の身を顧みず精力的に活動する姿はまさに太陽であり、その太陽に魅入られたウマ娘だった。

 そして世界の頂点の強さを身をもって体験させてくれた。今後教え子で世界の頂点を狙えるウマ娘が現れれば、サキーの凄さと素晴らしさを存分に語ることになるだろう。

 

『ストリートクライです。アグネスデジタルお疲れさまでした。私達は貴女に敗れて終わったけど、あの時は全力を出し尽くした。それで負けたなら恨みはない。でも私達の夢は続いていて、貴女の育てたウマ娘に勝たなきゃ夢は達成できない。だから絶対にトレーナーになって』

 

 ストリートクライから激励をうけデジタルの心は熱くなる。キャサリロという友の想いを背負い走る姿はまさに一心同体であり、心を大いにときめかした。彼女達より深い絆で結ばれているウマ娘は知らない。

 そしてトレーナーを目指す先輩であり同志でもあった。ウマ娘のトレーナーは大成しないと言われている。だが2人ならその常識を打ち破ってくれる。そしてエールと夢に応えるために頑張らなくてはならない。

 

『ティズナウだ、会場に居る皆は知っていると思うが、私はアグネスデジタルに負けた。だが私個人が負けただけで、アメリカのウマ娘が負けた話ではないとこの場を借りて言わせてもらう。そしてお前の魂を受け継いだ者をBCクラシックの舞台に送りこめ、間違っても凱旋門賞なんぞに行かせるな。そしてBCクラシックで真に王者の魂を持ったアメリカのウマ娘が打倒するだろう。最後に当時は日本で走るアメリカ出身のウマ娘は全て惰弱だと思っていたが、レイと勝ち鞍と記憶をかけて挑んだアグネスデジタルは少しだけ認めていたと伝えておこう』

 

 この場においてある意味負け惜しみともとれる発言、だが本人にとっては事実でなにより実にらしい言葉でデジタルは思わず半笑いを浮かべる。

 ティズナウは当時において間違いなくアメリカ最強だった。そして強さと気高さはデジタルを大いにときめかした。日本に来たことに後悔は無い。だが結果としてティズナウにとってアメリカを裏切ることになり、嫌われてしまった。

 ティズナウという祖国のヒーローに認められたいと思いながら、叶わぬ願いだと諦めていたが映像での認めたという発言は何よりも嬉しかった。

 

「続きましてチームプレアデスのトレーナーより花束贈呈です」

 

 トレーナーが現れてデジタルに花束を渡し、司会から今までの振り返っての一言をお願いしますと促されてマイクを手に取る。

 

「デジタルとはトレセン学園では7年、それ以前からも付き合いがありましたので約10年以上の付き合いになります。多くのGIを取らせてもらい、様々な経験をさせてもらい感謝しています。良い思い出はありますが、我が強く我儘でいつも問題ごとばかり起こし、デジタルには多くの苦労をもらいました」

 

 トレーナーの言葉に観客席から笑い声が漏れる。天皇賞秋でウラガブラックの枠を潰した事へのバッシング、ダートプライド出走の為の地方移籍などでマスコミから問い詰められた。あの時は結構苦労した。

 

「デジタルは良い意味で常識外れのウマ娘で、私の常識をいつもぶっ壊していきます。デジタルが居なければ私は常識に囚われたつまらないトレーナーとして今後を多くのウマ娘を指導し、多くの可能性を摘み取っていたでしょう。弟子から教わることもありますが、デジタルからは多くの事を教わりました。これではどちらがトレーナーか分かりません」

 

 トレーナーの声は徐々に涙声になり、時々嗚咽が漏れる。

 デジタルは芝とダートの垣根を越えて走り続けた。何よりウマ娘にとって勝利より価値があるモノが有ると身をもって教わった。勝利よりウマ娘を感じる事を優先するという考えはトレーナーのこれまでの常識をぶち壊していた。

 

「デジタル、お前は俺の誇りや」

 

 トレーナーの目から涙が溢れこれ以上喋られないと司会にマイクを渡す。その光景に感情が揺さぶられたのか、多くの観客がもらい泣きしていた。

 

「ありがとうございました。ではアグネスデジタルさん最後に一言お願いします」

 

 デジタルはマイクを受け取ると深呼吸をしてから喋り始める。

 

「え~この度はアタシの引退セレモニーに来てくれてありがとうございます。正直こんな引退セレモニーを出来るほど活躍できるとはこれっぽっちも思っていませんでした。選手生活は楽しい事や嬉しい事ばかりでしたが、辛く苦しい事も有りました。でもそれも大切な思い出で、全てをひっくるめて楽しかった。現役生活に一片の悔いなし!」

 

 デジタルはトレーナーが作った湿っぽい空気を払拭するように明るい口調で話す。レース場もその空気に引っ張られるように明るくなる。だが晴れやかだったデジタルの表情が徐々に影を差し始める。

 

「ウソ、やっぱり悔いありだ。大阪杯でネオユニヴァースちゃんとヒシミラクルちゃんを感じたい!かしわ記念とかでアジュディミツオーちゃんやフブキちゃんを感じたい!安田記念でアドマイヤマックスちゃんとメイショウボーラーちゃんを感じたい!天皇賞秋でタップダンスシチーちゃんやゼンノロブロイちゃんを感じたい!いっぱいレースを走って色々なウマ娘ちゃんを感じたい!あ~あ、白ちゃんが湿っぽい空気にするから、アタシも湿っぽくなっちゃったじゃん!」

 

 デジタルは自分の想いを叩きつけるように叫ぶ。見苦しいと思われるだろうが、溢れ出た気持ちを留められず、感情が赴くままに喋る。レース場は再び湿っぽい空気に包まれていた。

 

「でもどうしようもないし、観客席でウマ娘ちゃんを感じて我慢する。そして未来の楽しい事に目を向ける。アタシにはトレーナーになった後にはウマ娘ちゃんのハーレムっていう楽しい未来が待ってるからね!」

 

 デジタルがトレーナーになるのは様々な理由があるが、最も主たる理由はウマ娘のハーレムを作る為だ。

 しかしそれを外に出せばドン引きされるのは必至であり、今まで隠していた。だがこの場で心が揺さぶられ思わず吐露してしまった。

 一方デジタルの爆弾発言で周りは困惑或いは苦笑する。気が付けばデジタルの言葉によって作られた湿っぽい空気はいつの間に消えていた。

 

「え~、今の言葉は忘れてください……そうだ!アタシのファンで引退したからもうレースを見ないって思っている人いる?その気持ちは分かるよ。推しが居なくなるのは辛いよね。でもレースを走るウマ娘ちゃん達はみんな輝いていて、新たに夢中になれるウマ娘ちゃんに絶対に出会えるから!」

 

 デジタルは強引に話題を切り替える。そして今の言葉は本心で有り切実な願いだった。

 オタクにとって推しが居なくなるのは非常事態だ。その事実に心が引き裂かれるような苦痛を味わう。

 それでも心に空いた穴は同じジャンルの別なモノで埋められる。あるいは寂しさを埋めてくれる。

 

「それでもダメならアタシを思い出して、でも囚われないで。良い思い出として振り返って明日への活力にして。つまり何が言いたいかって言うと、レースを走るウマ娘ちゃんは最高だから見続けて欲しいってこと、以上!」

 

 観客席からの疎らな拍手は次第に大きくなり、万雷の拍手に変わる。

 引退セレモニーでの最後の言葉であれば、もっと厳かで感動的になるものだと思っていた。

 だがデジタルは悔いという我儘を吐き出し、己の願望をぶちまけ、自分が望む行動を取ってくれるように願った。何とも肩の力が抜けるような言葉だ、だが我儘なデジタルの最後に相応しい言葉だった。

 

「俺が良い感じに湿っぽい雰囲気にしたんやが、その路線でいけや」

「もっと感動的にしなさいよ。これじゃあ名場面じゃなくて迷場面でしょ」

「いいんじゃないか、少しコミカルな幕引きも悪くはないさ」

「そうですね。デジタルさんらしかったです」

 

 デジタルはトレーナーや友人達から言葉を投げかけられる。皆の表情は半笑いで感動ではなく楽し気な空気に包まれていた。

 

「次はライブか……ってちょっと何何!」

 

 すると皆はデジタルを抱えて胴上げする。ウマ娘の腕力は常人より遥かに強い、デジタルは優に5メートル放り投げられる。その後も二回三回と宙に浮かび、その度にファン達は万歳してデジタルを祝福する。

 

 東京レース場は幸せな空気に包まれた。

 

 

 

 

 真の勇者は、戦場を選ばない

 

 3つの国に11にも及ぶレース場を駆け巡り獲得してきたタイトルのバリエーションは、どんな名ウマ娘の追随を許さない。

 

 芝とダートの垣根を、そして国境さえも乗り越えて、チャンピオンフラッグをはためかせてきた勇者。貴女が刻んだ空前の軌跡、そのひとつひとつが永遠に輝く。

 

 こうして異能の勇者の選手生活は幕を閉じる。その走りと生き様は多くの人々に刻まれ、魅了した。

 

 アグネスデジタル

 

 公式総獲得賞金10億5100万5000円、

 非公式総獲得賞金22億5100万5000円

 

勝ち鞍

 

GⅢ 名古屋大賞典

GⅢ ユニコーンステークス

GⅡ 日本テレビ盃

GⅡ 全日本ジュニア優駿

GⅠ マイルチャンピオンシップ

GI 南部杯

GⅠ 天皇賞秋

GⅠ 香港カップ

GⅠ フェブラリーステークス

GI 安田記念

エキビションレース ダートプライド

 



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勇者のエンドロール

誤字の指摘ありがとうございます


 ピンク髪のウマ娘が眠気眼で洗面台に立つ、童顔だが少女の面影は完全に抜けきり、少なくとも中学生や高校生には見られないだろう。

 顔を洗い眠気を飛ばすとヘアブラシを使い寝癖を直していく。その表情と動作は日常の流れ作業をするのではなく、人生において節目の出来事を迎える準備をするかのように真剣だった。

 念入りなブラッシングによってショートヘアーは満足のいく仕上がりになる。だが念のためにと髪を触って確かめる。

 今はショートヘアーだが昔はサイドテールのロングヘア―だった。特にこだわりがないが結構気に入っていた。しかし今の歳と立場でサイドテールのロングヘアーは似合わないので気が付けばショートヘアーになっていた。

 髪型を整えた後はクローゼットからスーツを取り出し寝間着から着替え、服装の乱れが無いか確認する。この日の為にスーツはクリーニングに出しておいたのでバッチリである。

 今はスーツを着てもある程度リラックスできるが、海外遠征で初めて着た時は窮屈すぎて即座に脱ぎたかったのを思い出す。

 そして最後に中央ウマ娘協会所属のトレーナーの証であるライセンスバッチを装着する。今日はアグネスデジタルのトレーナーとしての初出勤日である。

 

 デジタルはトレセン学園卒業後チームプレアデスのスタッフとして働きながら、トレーナー試験合格に向けて勉強していた。

 そして数回ほど試験に落ちたがに何とか合格を果たす。その後はスタッフではなくサブトレーナーとしてチームプレアデスで働き、数年後に機は熟したとチームプレアデスを離れ独り立ちしたのだった。

 

 デジタルはトレセン学園に出勤し、正門を抜け桜並木を通り早速コースに向かう。

 今日は選抜レースが開催され、各チームのトレーナーやサブトレーナーが足を運び、才能や実力が有る者はチームにスカウトする。

 ここがチームのメンバーを集める絶好の機会だが才能や実力が有るウマ娘の半分はトレセン学園入学前にスカウトにより所属するチームは決まり、もう半分は今日の選抜レースで有力チームのトレーナーにスカウトされる。つまり新人のデジタルが有力ウマ娘をスカウトできる可能性は限りなく低い。

 有るとすれば運命の出会いと呼べるほど相性が良いか、よほど奇特なウマ娘だろう。新人の大半はスカウトされなかったウマ娘に声をかけ、消去法的に所属してもらうしかない。

 

 選抜レースが始まり、若々しいウマ娘が全力を尽くす。その姿に一瞬ファン目線でレースを見てしまうが、即座にトレーナー目線になって厳選に才能や実力を評価する。

 デジタルがトレーナーになったのは毎日をウマ娘と触れ合えるハーレム生活を送る為だ、そういった意味ではトレーナーになった時点である程度目的は達成できる。だがそこで満足してはいけない。

 もっと多くのウマ娘と触れ合いたいと思っている。その為にはチームに多くのウマ娘が所属し、ウマ娘が集まるのは実力と実績があるトレーナーだ。現状に満足すれば衰え続け、チームに誰も集まらなくなる可能性もある。常に上昇志向を持たなければならない。

 

──

 

「やっぱりね」

 

 デジタルはコースから離れたベンチで黄色い缶の甘ったるいコーヒーを飲みながら、ため息交じりで独りごちる。

 トレーナー目線で実力や才能が有りそうなウマ娘は何人か居た。早速声をかけようとしたが案の定トレーナーが群がり、自己PRどころか顔を碌に合わせられず名刺を渡すのがやっとだった。

 この事態はある程度予測していたので気落ちせずに次点のウマ娘達に声をかけた。そのウマ娘達にはスカウトが数人声をかけていた程度なので、顔を合わせて話を出来た。だが自分の耳を見た瞬間明らかにテンションが下がり、新人だと聞くと興味を失っていた。

 ウマ娘のトレーナーに名トレーナー無しという格言がある。その格言は現役時代にも有ったが、今でも存在し事実となりつつあった。

 現時点でウマ娘のトレーナーの指導を受けてGIに勝利したウマ娘はゼロである。その事実を知っていれば率先してウマ娘がトレーナーのチームに入ろうと思わないだろう。

 ウマ娘として生を受けレースを走り思う存分ウマ娘を感じるという恩恵を与ったが、今度はウマ娘に生まれたことがハンデとなり、ウマ娘を感じるのを邪魔する。人生はままならないものだ。

 

「さて、足を使ってスカウトしますか」

 

 デジタルは明るい声色を出してベンチから立ち上がり、バッグからノートを手に取る。

 しょげている暇はない。とりあえずやれる事だけやろう。もしかしてリスクがマイナスなら起爆剤と言わんばかりに、ウマ娘がトレーナーのチームに入ろうとする奇特なウマ娘が居るかもしれない。

 それでもダメならウマ娘の新人トレーナーでも構わないと藁でも縋る思いのウマ娘達に入ってもらう。そこから少しずつ実績を積んでいこう。ウマ娘のハーレムは一日して成らず。

 

「あの!」

 

 デジタルは後ろから声をかけられ反射的に振り向く。そこには1人のウマ娘が立っていた。雰囲気からしてデビュー前のウマ娘だった。そしてどこか見覚えがあった。

 

「どうしたの?あとアタシ達どこかで会ったような気がする……え~っと……」

「覚えていますか?アグネスデジタルさんに河川敷の土手で走り方を教えてもらって……」

 

 少女は期待を込めてチラチラとデジタルを見つめる。その瞬間過去の記憶が掘り起こされ、目の前の少女が誰か思い出す。

 ヤマニンアリーナ、かつて勝利中毒に罹った際に初志を思い出せてくれたウマ娘の少女だ。

 

「ヤマニンアリーナちゃん!?大きくなったね!そっかもうトレセン学園に入る年頃か~」

「はい、今年から入学しました」

「連絡入れなくてごめんね~スマホがぶっ壊れてバックアップも取っておいてなかったから、連絡先が分からなくなっちゃって」

 

 デジタルは平謝りする。偶然の出会いをきっかけに交流を始めたが、スマホが壊れた事で連絡が取れなくなっていた。もしかしてと思い出会った場所に足を運んだが会えなかった。

 

「私もデジタルさんと連絡が取れなくなった後に引っ越しまして」

「そうなんだ、でもアタシが言うのもアレだけど、アカウントにダイレクトメッセージ送ってくれれば良かったのに」

「今思うとアグネスデジタルみたいな有名人とアタシじゃ釣り合わないし、年の離れた女の子と喋ってもつまらないかなって」

「そんな事ないのに」

 

 デジタルは笑みを浮かべながら喋り、ヤマニンアリーナも反応から嫌われてなかった事を知り、嬉しさと安堵から破顔する。

 

「明日辺りどこかで話さない?本当なら今からって言いたいんだけど、やる事が有って」

「あの!アグネスデジタルさんのチームの定員は余っていますか?」

「余っているも何も誰も入ってないよ」

「だったらチームに入れてください」

 

 デジタルは予想外の一言に一瞬呆けるが、次第に嬉しさがこみ上げ口角が上がる。

 

「勿論、これからよろしくねヤマニンアリーナちゃん」

 

 こうしてヤマニンアリーナがデジタルのチーム、チーム『ステラリウム』に所属する最初の1人となり、チームは始動した。

 

──

 

『これより天皇賞秋のパドックを開始いたします』

 

 場内アナウンスの声に東京レース場に集まったファン達は自然発生的に声を上げる。

 秋シニア中距離路線3冠の初戦天皇賞秋、2000メートルという距離は時代が経つにつれ重要度と価値が高まり、秋の盾を手に入れようと多くの猛者が集まるようになった。そして今年は近年まれに見る熱気と盛り上がりを見せていた。

 パドックが始まり出走ウマ娘達が次々と登場する。彼女達も多くの大舞台を経験した選手で多少の事では揺るがない精神の持ち主だが、辺りを包む異様な熱気に少なからず動揺していた。

 

『5番人気、ヤマニンキングリー選手』

 

 ヤマンニンキングリーがパドックに姿を現す。ピンク髪のセミロングで両側頭部に寝癖のように毛が立っている。勝負服は水色を基調にした学校の制服風のノースリーブに星のアクセサリーが付いた赤色の大きなリボンタイをつけていた。

 パドック場を包んでいた熱気はヤマニンキングリーの姿を見た瞬間に静まる。顔は半笑いで目線は定まらず、歩く姿はどこかフラフラしている。その姿は心をざわつかせる

 パドックとはレース前にファン達に調子を見せるお披露目のようなものだ。ウマ娘達は調子のよさをアピールしよう、恥ずかしくない姿を見せようと体面を無意識に意識する。そしてヤマニンキングリーにそのような意識は欠片もないのが分かる。

 その異様な姿に多くのファンが動揺する中、ある1人のファンは懐かしさを覚えていた。

 

『2番人気、ビスタスペルバ選手』

 

 ビスタスペルバが姿を現す。黒鹿毛のロングヘア―に勝負服は赤と黒と黄色を基調にしたフラメンコダンサー風の服だった。

 姿を現した瞬間にヤマニンキングリーが作った異様な空気は再び熱狂に変わる。朝日FSに勝利し、無敗で皐月賞と日本ダービーを制覇し無冠のクラシック2冠ウマ娘となり、久しぶりの無敗のクラシック3冠ウマ娘の誕生を期待した。

 だが陣営は無敗の3冠ではなく、日本の悲願である凱旋門賞制覇を目標に定める。その選択は日本中で賛否両論が湧いた。

 ビスタスペルバは前哨戦として札幌記念を走るが、そこでまさかの敗北、日本中が驚く世紀の番狂わせとなった。

 この敗北で陣営は凱旋門賞を断念、ファン達は落胆するが久しぶりのクラシック3冠ウマ娘の誕生に心を躍らせる。だが陣営は菊花賞ではなく天皇賞秋への出走を選択する。

 クラシック2冠ウマ娘が菊花賞を走らないのは前代未聞である。これには凱旋門出走表明以上の物議を起すと思われたが、否定的な意見は少なく寧ろ好意的な意見が多かった。それは次の1番人気のウマ娘が居たからだった。

 

『1番人気、ゼニンクス選手』

 

 ゼニンクスが姿を現す。勝負服だが左半身は青の神官風の勝負服に手甲を装着し、右半身は薄紫のワイシャツに革製のチョッキ、下はショートパンツサイズまで切り落としたGパンにガンベルトという奇妙なものだった。

 71戦70勝、うちGI69勝という空前の成績を誇る誰もが認める現役世界最強ウマ娘である。彼女の凄さはGIの勝利数もさることながら、勝ち鞍のバリエーションである。

 合計8か国で勝利し、1200メートルから2000メートルの世界の主要GIは芝ダート関係なく勝利している。

 彼女の登場でビスタスペルバが生み出した熱狂が再び冷める。見ているだけで熱を奪うような存在感、このようなウマ娘は誰もが初めてだった。

 

 パドックが終わると出走ウマ娘はトレーナーの元に向かう。そこでレースに向けての最後の打ち合わせを行い、この時間によって勝敗が決まる事もある。

 ヤマニンキングリーはピンク髪のウマ娘トレーナーの元に向かう。興奮気味で目が血走り口元から涎が垂れている。一方トレーナーはヤマニンキングリーの額に己の額を当てて語り掛ける。

 

「センセイ!やっと!やっとだよ!」

「そうだね、前回はこれっぽっちも見てくれなかった。でも今日は違う。ヤマニンキングリーちゃんが振り向かせた。気になってしょうがないはずだよ」

「本当に!」

「本当だよ!気にしてないで感じるより、気にしてくれる状態で感じる方が最高だから。今日のレースは貴女の時間、アタシの為にとかチームの為とか家族の為とか勝ちたいって気持ちは置いていって、全てを感じたいって気持ちに注ぎ込んで」

「うん!」

 

 ウマ娘のトレーナーがヤマニンキングリーを離すと解き放たれたように地下バ道に向かっていく。その姿に過去の自分を投影させながら見送る。

 この後関係者席に向かってレースを見守る。レースに向けてやる事はなく、教え子を信じるのみだ。トレーナー達が移動するなか、ウマ娘のトレーナーは2人の人物に声をかける。

 

「やっと約束が果たせたね。ストリートクライちゃん、キャサリロちゃん」

「ああ、待ちくたびれた」

「アグネスデジタルが遅いからこっちから来た」

 

 デジタルの言葉にストリートクライとキャサリロは僅かに笑みを浮かべた。

 今日の1番人気ゼニンクスは2人が指導したウマ娘である。デジタルとストリートクライ達はトレーナーとなって教え子たちが同じレースで走る事を約束した。そして今日初めて互いの教え子が相まみえたのだった。

 

「来てくれただなんて申し訳ない。でもゼニンクスちゃんの都合を蔑ろにしてないよね。だったら怒るけど」

「寧ろあの娘から選んだ。母さんの約束と仇を討つんだって」

「そうなの?何て親子愛!」

 

 デジタルは大げさな動作で喜ぶ。ゼニンクスはストリートクライと血のつながりは無いが、養子として育てられた親子である。

 

「そして2人が目指した『過去現在未来において最強のウマ娘』って目標は娘が果たしてくれたんだね。エモすぎる!」

「まだまだ、2400メートルや長距離で勝ってないからダメ」

「それは何でも鬼すぎるでしょ」

「冗談。充分に満足してる。ねえキティ」

 

 ストリートクライの言葉にキャサリロは頷く。ストリートクライでも冗談を言うのか、思わぬ言葉にデジタルの肩の力が若干抜ける。

 

「でも現実的に世間は現在においては最強だと認めても、過去でも最強とは認めてくれない」

「う~ん、難しい問題だね」

 

 デジタルは複雑そうな表情を見せる。ゼニンクスのレーティングは現時点で134、これは歴代でも屈指であるが、トップではない。

 実績からして歴代トップでも不思議ではないのだが、そうでないのはレース内容に理由が有った。

 ゼニンクスのレーススタイルはストリートクライから継承した崩しや、展開や相手を支配して徹底的に相手の力を削り、必要最小限の力で勝利する。結果的にコースレコードを更新したことは1度も無く、着差も全てのレースにおいて半バ身差以内で勝利している。

 ファン評価も公式の評価も未だに着差とタイムを重視する。その基準ではどうしても評価を下げなればならない。

 

「走り方を変えようと思わないの」

「ない。ゼニンクスは最も勝った者が最強で、私もそう思っている。いずれ世界の認識が変わる」

「そっか」

 

 ストリートクライの言葉にデジタルは納得する。最も勝った者が最強という基準で有ればあの走りは最良だ。もしゼニンクスが普通に走っていれば消耗し既に引退している。必要最小限の力で抑えているからこそ、今も走り続け、これからも勝利を積み重ねていくだろう。

 周りから様々な事を言われただろう。それでも揺るがない精神で己の理想を体現した。それがウマ娘のトレーナーは1流選手を育てられないというジンクスを破り、過去現在未来のおいて最強のウマ娘を育てられた秘訣だろう。

 

「ゼニンクスは今日のレースに勝つ。でも万が一負けるとしたらビスタスペルバかヤマニンキングリーだと思う」

「へえ、何でそう思ったの?ビスタスペルバちゃんはともかく、ヤマニンキングリーちゃんは5番人気で世間的にはそこまで評価されてないよ」

「ダートプライドの時のアグネスデジタルに似ていたから」

 

 ストリートクライは懐かしむように喋る。現役時代で全盛期だったのはダートプライドの時で、そのレースに勝利したのはデジタルだ。あの時もパドックで異様な姿を見せていた。

 正直アグネスデジタルのようなウマ娘はトレーナーになってから見たことが無く、あの時のような得体の知れない強さを持ったウマ娘にも出会っていない。

 だが今日のレースでデジタルの教え子が同じように得体の知れない強さを見せるかもしれない。

 

「勝つね、だとしたらビスタスペルバちゃん次第かな」

 

 デジタルは思わせぶりな言葉を呟く。その真意を訊こうとしたが止めた。答えはレース中に披露され見つければいい。

 

「ありがとうね。ストリートクライちゃんが多くの凄いウマ娘を育てたから、他のウマ娘ちゃんも諦めないでトレーナーを目指すようになった」

 

 デジタルは唐突に礼を言う。ストリートクライはGI25勝したウインクスや、アメリカのティアラ路線を走りながらブリーダーズカップクラシックを制覇し、アメリカ歴代最強の一角に数えられるゼニヤッタ等多くの名選手を育てた。

 今では世界最高のトレーナーと称され、トレーナー志望のウマ娘を爆発に増やした要因と言われている。まさに救世主だ。

 

 デジタル達は話し込んでいると関係者席に着く。そこは観客席の上にあり、レースの全体の様子が見られる特等席になっている。

 

「じゃあ、ちょっと話す人が居るからこれで、お互いの教え子の幸せを祈っているよ」

 

 デジタルは話を切り上げストリートクライ達から離れる。その後ろ姿を眼で追う。健闘ではなく幸せを祈るか、ウマ娘を愛し勝利以外を目的にして走ってきたウマ娘だから出る言葉だ。

 

「ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです先生」

 

 デジタルは老人男性の元に歩み寄り深々と頭を下げる。その所作は淀みなくどのような場に出ても恥ずかしくない、品のあるものだった。

 

「デジタル君か、君も元気そうで何よりだ。ヤマニンキングリーは見事な仕上がりでした」

「お褒めいただいて恐縮です」

 

 2人は社交辞令のような当たりのない言葉を交わす。だがそれ以降は言葉が続かず数秒の沈黙が続く。お互いが黙るなか先に動いたのはデジタルだった。

 

「ごめん、昔みたいに喋っていい白ちゃん?」

「ええぞ、正直外向き様に喋られると笑いそうになったわ」

 

 その言葉を切っ掛けに二人の空気が弛緩し、トレーナー同士から親しい間柄の雰囲気に変化する。

 

「お待たせ」

「ああ、待ちくたびれてぽっくり逝きそうやったわ」

「メイショウボーラーちゃんとは同門対決できなかったのに、初めての同門対決的なのが白ちゃんとか、何だかな~って感じ、あと大分老けたね」

「それは定年前やからな、ジジイなのは当然やろ。それ言うならお前こそ老けたぞ」

「あれから独り立ちして何年経ったと思っているの。もうアラフォーだよ。小皺の1つや2つ出来るって」

 

 2人は気の置けない会話を交わす。かつてデジタルがチームプレアデスのサブトレーナーを辞めて、独り立ちする際にある約束をした。お互いのチームのウマ娘同士でGIを走ろう。それが出来るまで会わないと。

 これはデジタルにとって決意表明だった。トレーナーはデジタルにとって師であった。もしトレーナーになって指導する際に悩みごとを相談すれば答えてくれるだろう。だが甘えては成長しない。成長の先に己の目標が叶えられると考えていた。

 

「しかもその舞台が天皇賞秋か、何か縁を感じるよね」

「そういえば、ヤマニンキングリーは初めてチームに入ったウマ娘の娘やろ?」

「そう、アタシにはもったいないウマ娘ちゃんだった。本当なら有力チームに入れたみたいだけど、絶対にアタシのチームに入ったほうが良いって説得してくれたんだよね」

「そうか、親子2代の絆か、その絆が俺の夢を断ったんやな。お前のところのウマ娘に負けなきゃ。凱旋門賞を走って、史上初の凱旋門賞トレーナーになっとったかもしれんのに」

「それは残念、ヤマニンキングリーちゃんがビスタスペルバちゃんをレースで感じたいって言うし、走らせないわけにはいかないでしょ。それに勝てば2人の事だから王者として出なきゃ意味がないって凱旋門賞走るのやめて、借りを返さなければいけないってワンチャン天皇賞秋参戦あるかなって」

「半分合ってるが読みが甘い。天皇賞秋を走るのはゼニンクスが目当てや。世界最強がわざわざ来てくれたからな」

「だったらアタシに感謝してよ。ゼニンクスちゃんはストリートクライちゃんの約束と仇を討つために来たんだから。定年前に世界最強の称号を得られるチャンスがきたのはアタシのお陰ででもあるんだよ。お礼言おうよ一社会人として」

「癪やがしゃあない。ありがとうございました」

「よろしい」

 

 デジタルは満足げな表情で鼻を鳴らす。暫く会っていないのでぎこちなくなると心配していたが、いざ話してみると瞬く間にかつての関係に戻っていた。

 

「さてと、世界最強に勝つためにどんな策を授けたの?アタシの時みたいに観客席に向かって走る?」

「アホか、あれはあの時だから有効な手段だった。そして策やが、見てのお楽しみや。定年前の最後の大勝負や。年甲斐もなく血が騒ぐ」

 

 デジタルはトレーナーの顔を見る。チームプレアデスのトレーナーの代表的なウマ娘と関係者やファンに訊けば、デジタルではなくビスタスペルバと答えるだろう。トレーナー最大の名誉であるダービーを取ったというのもあるが、最大の要因は相性だ。

 ビスタスペルバは勝利を第一に考える。今まで勝つときは正攻法で勝ったが、勝てばどんな勝利でも構わないというタイプだ。そしてトレーナーもどんな手段を使っても勝ちをもぎ取りに行く勝負師気質だ。

 デジタルの時は勝利以外を目標にしていたので、その本質は十全に発揮できなかった。

 だが今は違う。今日のレースに向けた自分には分からない盤外戦術を駆使し全力で勝ちにいくだろう。歴代屈指の実力のウマ娘と勝負師気質のトレーナーが走る。世界最強が破れる日が来るとすれば今日かもしれない。

 そして自分がトレーナーの代表的なウマ娘でないことにほんの僅かに嫉妬していた。

 

「ところで、ヤマニンキングリーがご執心なのはビスタスペルバか?」

「そうだけど」

「そうか、厄介な展開や、パドックで光っておったしな」

 

 トレーナーは苦虫を嚙み潰したような顔をする。パドックでヤマニンキングリーの姿を見た時にダートプライドのデジタルとダブっていた。あの時のデジタルは今までのトレーナー人生においてベスト3に入る強さだった。

 もしこのレースであの時のデジタルが走ったとすれば、ビスタスペルバは負ける可能性は充分にある。今日のヤマニンキングリーはデジタルと同じだと思っておいたほうがいい。世界最強に勝ててもヤマニンキングリーに負けてしまえば意味がない。

 さらにあの状態は強くなるだけではなく、執心している相手にプレッシャーを与える。それは絶対に勝つという断固たる決意とは別の圧を与え能力が削がれる、それが出来るウマ娘は世界中探してもそうはいない。

 

 一方デジタルはトレーナーに背を向けながら何度もガッツポーズを繰り返す。トレーナーは稀にパドックでウマ娘が光って見える。その状態になったのはヤマニンキングリーのビスタスペルバへの執着だろう。それは全面的に認める。

 それでも光るのはレースに向けての仕上がりも左右する。自分の調整がヤマニンキングリーを光らせたほんの僅かな要因になった。そして同時にトレーナーに認められたような気がしていた。

 デジタルはコース場に視線を向ける。本バ入場が終わり、出走ウマ娘達がゲートに向かいゲート入りを待っている。ヤマニンキングリーは露骨にビスタスペルバから視線を外し、感じたいという情念をレースに全てぶつけようとしている。ビスタスペルバはゼニンクスに何か話しかけている。きっと勝つ為に挑発なりトラッシュトークでもしているのだろう。

 デジタルはトレーナーとして教え子の幸せを祈り、ファンとしてどんな素晴らしいレースが繰り広げられるかという期待感を抱きながら、ふと感傷的な気持ちになりポツリと呟く

 

「正直さあ、約束はすぐに果たせると思ってたんだ。アタシには才能が有って、誰もが分からない才能が有るウマ娘の才能を見極めてGIを勝たせたり、チームに居るウマ娘ちゃんは最低でもOPクラスに上げさせられて、物凄い才能があるウマ娘ちゃんが『フッ、オモシレー女』って有力チームの誘いを断ってチームに入ってくれるとかさ」

 

 自分は競技者として特別な才能を持っていた。そしてトレーナーとしてもそうであり、ウマ娘のトレーナーは1流のウマ娘が育てられないというジンクスを打ち破り、今のストリートクライのようになれると楽観的に思っていた。しかし現実は全く甘くなかった。

 理想としていたサブトレーナーを数人抱え、日本の才能あふれるウマ娘は勿論、世界各国からウマ娘が師事を請いにきて、リーディングトップになるという目標には遥か遠い。

 メンバーは最低人数に少しだけメンバーが増えた程度でサブトレーナーは居ない。GIに出走したウマ娘もトレーナー生活十数年でヤマニンキングリーが初めてだ。今のデジタルはよくて2流程度だ。

 そしてトレーナー生活で多くの酸いを味わった。素質あるウマ娘の状態を見抜けず怪我させて2度と走れなくした。

 目をかけていたウマ娘があっさりと別のチームのトレーナーにスカウトされた。

 運よく素質あるウマ娘をスカウトしたが、結果が出ないことに業を煮やして移籍し、移籍先で重賞を何度も勝った。

 

「正気か?どんだけ頭お花畑や」

「だよね~」

 

 デジタルはトレーナーの辛辣な言葉に一瞬目を丸くするが、すぐさま苦笑で誤魔化す。

 

「ごめんね不肖の弟子で。ヤマニンキングリーちゃんが居なきゃ、白ちゃんとの約束も果たせないポンコツだ」

「アホか、まだトレーナー初めて十数年やろ。俺から見たらペーペーの若造でポンコツなのは当然や。あと30年はあるんやから、それだけあれば多少はマシになる。精進せい」

 

 トレーナーはデジタルの肩に手を置く。それはトレーナーとサブトレーナー以前のトレーナーと現役であったころのやり取りのようで、デジタルは数十年の時をタイムスリップしたような感覚を味わった。

 

「それにペーペーの若造のポンコツやが凄いと思っとる点もあるんやぞ」

「それって何?」

「言うと自惚れるから言わん」

「そこまで言うなら言ってよ」

 

 デジタルは現役時代のように気軽な態度でトレーナーの肩を掴み揺さぶる。

 

 中央トレセン学園に入るウマ娘は皆が頂点を目指す。その中で現実を知り妥協点を見つけ、それなりに頑張って青春を謳歌しようと俗言うエンジョイ勢になる。

 そして大半のチームは勝利を目指すガチ勢だ。そしてデジタルのチームはガチ勢とエンジョイ勢が所属している。ガチ勢とエンジョイ勢は相反し高確率で衝突する。だがデジタルのチームではそれが起こらない。お互いの主義主張を認め合い尊重している。

 そしてチームに所属していたウマ娘達は皆トレセン学園は楽しかったと口をそろえて言い、卒業後も交流が続くほど仲が良い。これは1流と呼ばれるトレーナーでもできない。

 それはデジタルのウマ娘に対する愛だろう。関わる限り全てのウマ娘を幸せにすると気遣い環境を整える。

 全てのウマ娘が頂点に立つことが出来ず、失意の元に去っていく。だがデジタルは失意ではなく楽しい記憶を与える。ある意味最高のトレーナーかもしれない。

 

「デジタル、最高のトレーナーの条件は何やと思う?」

「ウマ娘ちゃんの望みを叶えられるトレーナー、大半のウマ娘ちゃんは勝つのが望みだから、アタシは最高には程遠いけど」

 

 デジタルは自嘲気味に答えるがトレーナーは満足げな表情を浮かべる。長年のトレーナー生活で見つけた答えに辿り着いた。

 

「正直に言うとヤマニンキングリーじゃレースでビスタスペルバを感じられないと思っておった。だがお前のチームに入り、丹精込めて育てたから望みが叶られるウマ娘になった。誰でも出来る事やない。お前は俺の誇りや」

 

 トレーナーは真剣な表情で語る。今日のレースでビスタスペルバはヤマニンキングリーに追い詰められるという確信があった。それはヤマニンキングリーがゴールまでに限りなく接近し近づくという事だ。

 手前味噌だがビスタスペルバは強い。ヤマニンキングリーではここまで苦戦させられるわけもなく、そもそも札幌記念で負けることもなかった。デジタルがトレーナーだからこそ望みを叶えられるまでになったんだ。

 そしてデジタルの苦労は陰ながら見ていた。多くの苦難を味わいながらも挫けずトレーナーを続け、多くのウマ娘を幸せにして約束を果たした。これを誇りと言わず何と言うのだ。

 

「止めてよ。歳とって涙腺緩いんだから」

 

 デジタルは思わず天井を仰ぐ。この言葉はかつて引退式に言われた言葉だ。今までそれなりに褒められたが、一番嬉しかった言葉だ。

 トレーナーである今の自分は現役選手であった自分と比べて褒められる点は無い。世間から見たら2流以下だ。それでも結果ではなく、自分なりに苦労し乗り越えてきた過程を褒められた気がした。

 

「デジタル、俺にはある夢があったんや」

「どんな夢?」

「育てたウマ娘でおまえを倒すって夢や。今日のヤマニンキングリーはダートプライドの時のお前や。定年前に世界最強の他にもう一つの夢も叶えさせてくれた。孝行弟子やでほんまに」

「白ちゃんこそありがとう。ビスタスペルバちゃんをここまで素敵なウマ娘に育ててくれて。ヤマニンキングリーちゃんは最高に幸せな体験をする。弟子思いの師匠で嬉し涙が出てくるよ」

 

 2人は芝居がかった動作でお互いを褒め合い、妙な可笑しみを感じて笑い合う。

 

「さて、お互いのウマ娘の幸せを願いながら見るか」

「そうだね」

 

 デジタルはゲートに入るヤマニンキングリーに目線を向ける。どうかビスタスペルバを存分に感じられるレースになりますようにと再度祈る。

 

 勇者と呼ばれたウマ娘のセカンドキャリアは決して理想的ではなかった。それでも少しずつ理想を目指して歩み続ける。

 勇者とは勇気ある者であり勇気を与える者、その勇気とウマ娘に対する愛はどんな困難にも立ち向かい、関わる者に勇気を与え幸せにするだろう。

 

 

 勇者の物語はこれからも続く。

 




これにて勇者の記録は終わりです。

 ふとしたきっかけで書き始めましたが、書きたいシーンやレースがどんどん湧いてきて、全て書くのに4年も掛かってしまいました。我ながら飽きずに最後までよく書けたと思います。
 そして最後まで書けたのはこの作品を読み、誤字脱字の指摘やコメントをしてくださった全ての方々のおかげです。ほんとうにありがとうございました。

 勇者の記録についての後書きを書きましたので、興味がある方は読んでみてください


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