明日に架ける橋 (んなちぃ)
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1話
幕開


 鼓膜を裂かんばかりの蝉がわめく。砂防林を突っ切るコンクリート道路は、まったく人の気配がなく、耳に入るのは蝉と、一つの足音と、波の音。トランクを引っさげ、真新しいシャツを汗で透かしながら歩く男は、最寄り駅を出てすでに一時間は歩き続けている。足を交互に動かす機械となって、先にあるはずの建物を目指していた。日よけにかぶった中折れ帽は汗をすっかり吸い取って根元の色が変わっている。ごく平凡な夏の風景に、はやっていた気持ちがどんどんと溶けていく。

 四年前。

 人類は自らがいかに驕っていたのか、痛みをもってまざまざと思い知る。「モノをつかむ」ことからはじまった人類の栄華はおおよそ四百万年間、常に地球上生物のトップにあったはずだ。ここ数百年のうちの急激な技術発達によって、長く縛り付けられた地球からも巣立とうとしていたのだ。もはやわれらは地上に目を向けず、今までさんざん見下されてきた宇宙への侵攻を考えるばかりになっていた。アメリカ、日本、ロシア、ドイツ、中国の五国の技術提携によって開発された宇宙母艦。五千人を超える人員を搭乗させることのできる船は世代交代をくり返しながら、時すらもない宇宙空間に、生存可能な星の探索にでるための箱舟。家畜用のスペース、日光を必要としない食用植物の栽培スペース。「小さな地球」と名づけられた船は発射場をめざして、人類の威光を見せつけながら航海していた。

 残り数時間で発着場へと到着するという生番組を放送していた局は、「小さな地球」号沈没のさまを、しっかりとお茶の間へ届けた。

 深海棲艦。

 日本政府が正式呼称として発表したのは、沈没事件から一週間後のことだった。

 ふと男が顔を上げると、永遠に続くかと思われた道の終点が見えている。陽炎に揺らめく鉄門がみえる。暑さでカラカラになった心に潤いが染み渡っていく。口元がにやけてしまう。誰が見ているわけでもないのに、ついあたりを見回して身体中の血が炭酸にでもなったみたいなシュワシュワした気恥ずかしさを感じた。

 一歩、一歩、一歩。ゴールに近づく。近づけば近づくだけ、ぼんやりと見え始める。

 一歩、一歩、一歩。全力で走れば一分もかからないだろう距離で、はっきりと見えた。

 この熱射の中に少女が立っている。

 そこまで視力のいいほうではない。こちらを向いて立っている、というぐらいしか分からないのだが、目が合ったとはっきりわかった。だから手を振って挨拶しようとして、あげきる前に、少女はその場に崩れ落ちた。

「くそっ」

 手に持っていた真っ白な上着も、トランクも、全て放り出して走る。

 滑り込んで倒れた少女を抱え起こすとこの熱さだというのに水気がない。ただ、風呂上りかと思うほどに体温が高い。

 少女はおっくうそうに、とろんとした赤い目で、カサカサになった唇を動かした。

「ぁ、……ぉ」

「いいから、だまってろっ」

 少女を抱えて、波の音のする方へ走る。自分と、少女の重さで砂浜に沈む足を必死に動かして、彼女の顔に汗を大量に垂らしながら、抱いて駆ける。波打ち際ではだめだ。男は服を着たままにもかかわらず腰辺りの深さの場所まで走った。陽に射された体が冷やされてぞわぞわした感覚が頭頂まで駆け抜ける。それは少女も同じだったようで体がこわばっていたが、嫌がる表情は認められない。

 安堵したような、力の抜けた表情。

「立っていられるか」

 足に回している手を抜き、少女の足が海底についたのを確認して聞いた。胸元までとっぷりと海水につかった少女の目は、はっきりと男を映している。

「……ええ。きもちいいわ」

 紫がかった薄銀の髪が海面に広がってゆらゆらゆらめいている。

「肩までしっかり漬かっておきなさい。俺が戻ってくるまで動くな、なんかあったら大声を出すんだ」

 男は陸に上がり、少女が自分を追ってこないこと、水平線に見る限りの怪しい影がないことを確認して、放り出した荷物をひっくり返した。バッグの取り口にあった水筒を抱えて少女の元へ走る。一口だけ飲もうと考えた自分を叱責した。

 波打ち際から眺めると、律儀に海面から頭だけを出した少女がこちらを見ている。近づいてこようとしたのを片手で静し、海へと入った。

 一度潜ったのだろう少女の髪の毛はびしょびしょになって、すっとした顎から水滴を垂らしていた。鳩の血のような目でじっと見すくめられると、子供でありながら、扇情的な、女の匂いすらも感じられる。

「飲みなさい」

 水筒から麦茶を注いで渡すと、目をくりくり動かしてから、奪い取るようにして飲み始めた。

「もう一杯っ」

 注いでやると半分も溜まってないのにかぶりつくように飲み始める。そして一口で飲みきった水筒のフタを、「まだるっこしいわね」などとほざき、思い切り振りかぶってはるか遠くに放り投げた。ほぼ全身を水につけているのにみごとな剛肩だ。呆れた。

「おい、なにをしてくれやがる」

 一瞬、彼女の頭に何かが生えた気もする。それに少なくとも自分の視力では水に落ちた場所すらわからない。

 手で庇をつくって、水平線の入道雲の先に多少の水柱でも見えないかと探していたら、くいくいと服を引かれる感触があった。

「えあ」

 目線を下げれば少女が口を開けて待ち構えていた。目を瞑って、赤い口内をぬらぬらとさせて、ひな鳥がエサをねだるように。

 その様に邪念を抱くよりもいらだちが勝つ。

「よし、動くなよ」

 顎をつかむ。眉根を寄せた少女がこちらをにらみつけると同時に、掲げた水筒を傾ける。

「ちょっ、ぷあっ、ぐぶ、はなっ、鼻にはいっ、たっ!」

「ほうれ、動くと口にはいらんぞお。おとなしく口をあけろお」

 必死に顔を背けようとする少女。逃がさまいと顎を押さえる男。

 沈黙していたビーチが、息を吹き返したかのよう。

 水筒の中身が最後の一滴をしぼり出したのを見て、男は少女の顔を解放した。あまりに暴れるものだから頬が指の形に赤くなっている。

「はっは、人様のものを粗末に扱ったらどうなるか、身をもってわかったなお嬢ちゃん」

 げほげほむせ続ける少女は、大半を鼻から飲んだ麦茶で、大分回復していた。眉を吊り上げて男をにらみ、張り手をかましてやろうと手を振りかぶって、歯軋りとともに手を下ろした。

「こっの……。覚えてなさいよ」

 上目遣いに睨まれるものだからかなりキツい目つきになっている。それでもさきほどの意識が朦朧としている顔よりは、よほどかわいらしい。

「それで」男は顔を厳つく見えるように作り変えて、改めて少女を見た。「海に近づいてはいけないと教わらなかったのか。あんなところでなにをしていた」

 年相応に怒られていると感じてくれれば良い。そんなつもりで表情を作ったのだが、少女は余計に目を吊り上げて、吐き捨てた。

「ヒトフタマルマルに、私の大切になる人と会えるってんでね。お出迎えしてキスのひとつもくれてあげようと思ったんだけど、待っても待っても来やしない。電話しようにも場所を離れて入れ違いになるのも悔しいし。だからキスはやめて、とび蹴りでもかましてやろうと、じっとじっとじぃーっと待ってたってわけよ」

「電話が通じなかったのはそのせいか……」

 男は額に手を当てて空を仰ぐ。

 連絡がつかなかったのは襲撃されていたわけではなかったと分かり、一つの悩みの種が消えたことに安堵する。そもそも、この泊地は破棄された場所で、まして鎮守府の管轄下にあり、深海棲艦による脅威はないところなので杞憂なのだが。

 それよりも目の前の少女である。

 ときの読み方で確定した。彼女は自分の部下になる存在だった。

「それで、まだあなたの素性が分からないんだけど。女の子に鼻から麦茶を飲ませて興奮する異常性癖のオッサンじゃないって、証明できるものはあるのかしら」

「あるよ、あるある、持っている。とりあえず陸に上がろう」

 お手上げだ。

 



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1

 ぐっしょり濡れたシャツは砂浜で書類を漁っているだけで生乾きになる。水筒を取り出すためにぐちゃぐちゃになった荷物をさらに引っ掻き回して、一束の紙束と金属製のバッヂを少女に渡した。

「到着をもって富津泊地の責任者となる者だ。一応将官だが、戦時に特別あつらえられた階級だから大して意味はない。実戦経験なし。一応学校はなかなかの成績で出ている」

 少女の目が書類の上を滑って、階級をあらわすバッチを見て、敬礼している男の顔で止まる。

 大きくため息をひとつしてわざとらしくかぶりを振ったあと、口角を上げるだけの笑顔を見せた。

「あんたが司令官ね。ま、せいぜい頑張りなさい」

「私を司令官と呼ぶお嬢さんは、私の予想通りの存在でいいのかな」

 司令がそういうと、少女は姿勢を正して、覇気のある声を出した。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲です」

「駆逐艦、ねえ」

「なによ、あんた成績はよかったとか言ってたじゃない。なにをいまさら」

「悪い、疑ってるわけじゃない。学校にも何人か、教練官としていたからな。練習巡洋艦だっけか」

「香取さんかしら、鹿島さんかしら。まあ、とにかく泊地を案内するわ。……もしかしたら、学校ですれ違っていたかもね。あんたのその顔、まるで初めてとは思えない」

 叢雲はくるりと翻って、泊地へと足をむけた。

 短いホットパンツから伸びる脚には海水の垂れた跡が塩を吹かせる形でのこっている。歩くたびにふるえる太ももをじっくり見ているだけで一日を終えても良い。

「っと、ほれ」

 立て付けの悪い門に手こずる叢雲を手伝うと悔しそうに睨みつけられた。あれだけモノを遠くに投げる力があるのに、こういったものには力が発揮されないのか、不思議に思う。艦娘であるのだから人間離れした力を持っているはずだ。学校の教練官も線の細い女性だったが、ついぞ一度も力比べで勝つことはできなかった。

 執事のように門に手をかけて、頭を下げたままエスコートしてやる。キザったらしい司令は、一瞥してさっさと中に入ってしまった叢雲を呼び止めた。

 なんだ、自分がエスコートをしたかったのか。それなりの背伸びをする子供を見るのは久々だ。

「なによ」

「お前の目つきが怖い。だからコレをかぶらせる」

 手に持っていた、汗でしとしとに濡れた中折れ帽を彼女の頭に載せると、さすがにサイズが合わず視界がなくなるほどに深く沈んだ。

「案内途中に、また倒れられても困るからな」

 ぶかぶかの帽子を手で上げながら、先ほどのきつい目つきから、驚きのくりくりしたものに変えて、「目つきが怖いなんて、女の子に向かって失礼ね」ときゅっと帽子で顔を隠す仕草は照れ隠しとしておこう。汗で汚れているはずのものを嫌がるそぶりも見せない。こちらがどぎまぎしてしまう前に、「そういえば」と話題を変えた。

「ここの泊地は破棄されて長いと聞いていたが、む、らくもは構造をしっているのか」

 初対面の女性を呼び捨てにしてもいいものか少し悩んだ。が、これから彼女の上官となるのだからとなれない威厳を見せつけてみたら、彼女は照れていた表情を意地悪く作り変えた。

「着任する施設の構造なんて、頭に叩き込むに決まっているでしょう」

「ああ、そう……」

 来てから見ればいいと、渡された見取り図はトランクの端っこでしわになっている、はずだ。何かの書類と一緒に捨てていなければ。

「私は0900には到着していたからね。軽く見て回ってたの」

 そんなに早く着ていたのか。

 列車の遅延で三時間近くも遅れてしまった事が、なおさら申し訳なくなる。

「見て回ったけど、ダメね。ドックは四つあるけど、二つは使い物にならない。残りも、かなり掃除しなくちゃならないわ。ぬるぬるして、あちこちに虫が飛んでるようなところで入渠なんかしたくないもの」

 ちなみにあれね、と指差された建物は、骨組みがむきだしになっている倉庫のようなものだった。艦娘の入渠は、回復効果のある特殊な液体につかる仕組みだったはず。あんな場所では入渠はおろか立ち入ることすらも危ないだろう。

「あれは……建て変えたほうがいいんじゃないのか」

「そんなんしてたらいつまでたっても出撃できないわよ。掃除して、最低限きれいにしたら、トタンでもなんでも立てかけるわ。資材に余裕ができたら、妖精さんに頼みましょ」

「叢雲は出撃経験があるのか?」

 司令の問いかけに、わざわざ腰に手を当て、胸を張って答えた。

「これでも歴戦よ。バダビア沖、ミッドウェイ、ガダルカナルとね。他にも色々戦ったわ!」

「それは艦の記憶だろう。君自身の戦闘経験を聞いているんだよ」

「……ないけど、なに」

 分かりやすくぶすくれる叢雲に思わず笑ってしまった。

「なによっ。少なくともあんたよりは、実戦というものをわかってるんだからっ」

 ぷりぷりおこって歩を早める叢雲を小走りで追いかける。潮風に乗って彼女の生乾きの服のにおいが薫る。全体的にパリッとしていて、正直着心地が悪そうだ。

「くっく。すまん。そうだな、確かにそうだ。俺は本と映像の知識しかない。俺には恐怖心が足りない。フォロー頼む」

 分かりやすいご機嫌とりでも、叢雲は気分をよくしたようだ。

 歩速を緩めてとなりを歩いてくれる。

「横に見えるのがあんたの根城。本館よ。で、向こうに見えるでっかいのが工廠。どうする、先に妖精さんたちに挨拶する?」

「横に見えるって、これ休憩所か何かじゃあないのか? そうだなあ、先に間取りを案内してくれ」

「はいはい」

 本館の前に荷物を置いて(泥棒なんているはずもない)、夏の日差しを二人で歩く。

 あっちじゃない、そっちじゃない、それは道じゃなくて草むら、そっちは草むらじゃなくて一応道。服を引っ張られ、なじられ、「あんた本当に地図見たの?」なんて呆れられ、汗でぴったり張り付くシャツの気持ち悪さに顔を歪めた。

 しばらく歩き回った結果、相当酷い有様ということだけが分かった。建物の中に植物が生えている時点でお察しだ。ドックどころか、二人分の居住区を整えるだけで一週間はかかりそうである。

 水が生きていたことだけが唯一の救いか。赤水ではありつつも、真水が通っている。電気はひとまず工廠と出撃ドッグ、本館の一部は問題がない。電話が使えなかったらどうしようかとも思ったが、よくよく考えれば、今日の昼にはつながったのだ。妖精が必要最低限は復旧してくれたのかもしれない。

 歩き回ってすっかり乾いた服。赤水を出し切った水道でのどを潤して、アスファルトも敷かれていないむき出しの土と、簡素なつくりの建物ばかりの泊地を見渡す。

 これから、ここが、俺の城。

「なにアホ面さらしてんの。ほら、最後。挨拶行くんでしょ」

 尻をはたかれて、思わず睨みつけてしまう。

 確かに、全開にしたシャツにすそを捲り上げたズボンという風体では、格好が付かなかったかもしれない。首から下げた、前の職場からもらってきた建設会社のタオルが風にあおられて落ちた。

 腰をかがめてタオルを拾う。「お前なあ。一応上官だぞ」

「弱った女の子があんなことされて、いまさら堅苦しく接するなんて無理」

「お互い様だろ。体調が悪くなるまで外にいるほうが悪い」

「はいはい」と受け流す不敬な部下だが、仕事には真面目なやつだ。さきほどから建物の状態や復旧方法などをしっかり考えて案内してくれている。早くにここに着たのも、二人してああでもないこうでもないと悩む時間を極力へらすために色々と調べていたことがよくわかる。

 景色はすでに赤くなっていて、真正面の太平洋に沈みゆく陽に目を細めた。

 何もないように見えても、この海から顕れた深海棲艦が、人類を衰退に追いやった。戦うべき相手がいる海だ。母なる海、なんて言葉は似合わない。我が子を殺そうとする母など。

「ほら、最後。工廠行くわよ」

 ぐっと手を引っ張られる。

 彼女達は最後の希望である。

 勇ましく戦い、人類の剣となり盾となる少女の手は、柔らかく、小さいものだった。

 

「くああ、つかれた……」

 工廠の妖精は、十人。

 平均的に泊地には三十人ほどの妖精がいるはずだが、放置された時間が長すぎたのか、大半が出て行ってしまったと、古参の妖精が教えてくれた。

「お疲れ様。はい、水」

「せめてコーヒーをくれ。トランクにインスタントのやつ持ってきてるから。勝手に漁っていい、許可する」

 ぶつぶつ言いながらトランクをひっくり返す叢雲をみながら、先のことを考えてみる。

 艦娘に関する全てのことを一手に担う妖精が少ないということは、この泊地の力がないということだ。一般的な鎮守府には百人を超える妖精が存在しているとなれば、現状艦娘の「建造」でさえ多大な時間をくうことになる。まして、艤装も開発してもらわねばこまる。ドックの改修にだって借りださなければならない。人手がないのでインフラ整備も手伝ってもらおうかと思っていたが、この分ではあきらめる以外の道はない。人の手でできることは、ぜんぶ自分達で何とかしなければ。

 まず明日は出撃ドックの整備からだ。草原を突っ切らなければたどり着けない出撃ドックなど、そこらの堤防から出たほうがまだ早い。玄関は一つであるから、家が家たり得る。

 目の前に置かれた、水が入っているスチールのマグカップにドバドバとインスタントコーヒーを入れられて視線を上げた。

「入れすぎ」

「知らないわよ、コーヒーなんて飲んだことないもの」

 叢雲はコップがないので、フタのなくなった水筒から、水を直飲みしている。

 指でかき回してもほとんど溶けない、埃の浮いた泥水みたいなものを一口飲んでみると、異様に苦かったり薄かったり。

「飲んでみろ」

 しぶしぶといった体でマグカップに口をつけた叢雲の顔は、写真に撮っておきたいほど芸術的にぐにゃりとゆがむ。

「なにこれ。なにもかもがかみ合ってない、最高にまずい液体ね。こんなのがすきなの?」

「そうだな、こんなクソまずい液体を一杯飲まなくちゃいけないんだ、涙が出てくるよ」 

 執務室には椅子がなかった。机はあったのだが、椅子がない。あるにはある。コケが生えて座れば足が折れるであろう椅子がある。こんなのに座るくらいならと威厳を捨てて、床にあぐらをかいた。叢雲は躊躇なく机にこしかけた。これではどちらが上官かわからない。文句を言う元気もなく、クモの巣が張った天井を見上げた。

「予想以上にボロボロでしょ」

 楽しそうに叢雲がさえずる。月明かりのみが頼りの室内で女性と二人きり。心ときめくはずのシチュエーションである。お互いに一日中歩き回って、風呂に入っていないという事実に目をつむれば。

「まともに海に出れるのに一週間ってとこかなあ」

「あら、もう目処立ててるのね」

「そりゃあそうだ、旅行に来たわけじゃないんだから。優先しなくちゃいけないことがなにかぐらい考えるさ」

 それを聞いて、叢雲は「へーえぇ」と口角を上げた。

「なら、明日一番で対応しなくちゃいけないこと、あんたはなんだと考えるのかしら」

「トイレの修理」

 よくできましたとばかりにけらけら笑う。

 タンクの中が森と化していて、水が流れない。さすがは女の子ということで、とんでもない置き土産をのこしたままにする、という失態をする前にあらかじめ調べてくれていた。おかげで青空トイレだ。彼女もふらりとどこかに消えることがままあったから、同じことをしていたはず。言及すれば反乱でも起きそうなので何も言わない。

 けれど速やかに対応してあげなければならない。

「それから風呂……は妖精にドラム缶でももらうか。こっちはすぐ出来るし、明日の夜にはお互いの鼻をつままなくても大丈夫だぞ」

「つまむのは私だけ。女の子がくさいなんてありえないわ、でしょ?」

「今この部屋に漂う生臭さは、お前の匂いだ」

 そういうと慌てて自分の服をかいで、認めたくないが事実だということに気づいたらしい。窓を開け放ってなんとか換気をしようとしたが、無駄なことだった。

「気にするな。私のほうがくさい」

 三十を超えた男の、汗びっしょりのシャツ。想像を絶する匂いだったので早々に脱ぎ捨て、上半身を裸ですごしている。支給品の一つでも残っているだろうという考えは、多分に甘いものだと思い知らされた。

「そして出撃ドック、入渠所、居住区。整備が済まないうちに近海に深海棲艦があらわれた場合、お前には迷惑をかける。申し訳ない」

 床に手を付いて謝ると、あわてて叢雲が頭を押さえつける。足で、ということを考えなければ上司のメンツを大事にするいいやつだ。汗を吸った靴下が臭い。

「ばか。仮にも泊地のトップがそう簡単に頭をさげるんじゃないわよ」

「事実だ。ここまで酷いとは思っていなかった。業者を手配するなり先にしておけばよかったのに、確認をおこたった私の落ち度だ。いいから足を退けろ」

 百万程度なら、今までの貯蓄でどうにかなる。妖精と意思の疎通ができるという事で一般企業から軍に徴用されたから、人並みの金はもっていた。趣味なし、バツイチ、子供なし、実家暮らしの仕事人間。娯楽産業の会社は軒並みつぶれたが、こういうときこそインフラ業は潤う。山を拓いて田畑をつくる工事人夫の監督で、だいぶ儲けさせてもらった。

「そんなのわかるわけないでしょう。実費でなんとかするとか考えたらダメよ。そんな人は経営者に向かないんだから」

 これから人類の存亡をかけた戦いの末席に座るというのに、基地のトップを経営者というか。

「なによ!」

「いや、すまんすまん。なんだ、お前商家の娘みたいだな」

 平和な夜だ。

「はあ、とにかく、明日からは大変ね」

「ああ、大変だ」

 しばらくお互いに無言になる。あれほどやかましかった蝉の声は、ころころ鳴く虫の声に変わっていた。あるのは波と、虫と、潮風がガラスを撫ぜる音だけ。

 司令も叢雲も何も考えず、ただ時間の過ぎるままにまかせる。

 月を雲が隠して、司令室は真っ暗闇。

 ちらと視線を上げると、叢雲の瞳が、真っ暗闇のなかで赤く煌々とかがやいていた。輪郭を長髪がつつみ、再び顔をのぞかせた月明かりが、白銀に光らせる。

「なによ」

「……なんでも。さて、どうしようか。なにかぶっちゃけ話でもするか。なんなら恋バナでもいいぞ。残念ながらトランプも花札も、娯楽品はなにも持ってきていないからな」

「建造されて三週間のあたしが何をぶっちゃけろってのよ」踵で机をガンガン音をさせながら、一つ思い出したように笑顔を見せた。「あ、そういえば大本営にいたころ、総司令長官の食事に雑巾の絞り汁入れてやったことがあったわ」

「お前……バレたら解体どころの話じゃないぞ」

「あのハゲ頭を引っぱたいたこともあるけど、気のいいおじさんよ。笑ってたし。蒼龍さんと飛龍さんも『他の娘たちもよろしければどうぞ』って言ってたわ」

 海上自衛隊から海軍に名称変更があってからの初代長官だ。キレ者であることはまず間違いない。うかつな事をするとクビが飛ぶだけでは済まないんだぞと説教しても、叢雲は反発するだけで聴く耳をもたなかった。

「頭のいい変態って手に負えないんだから。実際にアイツに会ってみればわかるわよ」

「ああ、まあ確かに。……私から見たら壇上の人だったからな」

 課程を修了した式において、一度だけ見かけただけの存在。空母の艦娘である飛龍と蒼龍を侍らせて小難しい話をしていた。いかにもたたき上げの、深海棲艦があらわれてから第一線で指揮を執っていた男らしい顔つきだったはずである。

「ま、もうしばらく会う事はないし。それよりあんたはどうなのよ。なにか面白い話ないの」

「残念ながら。真面目に仕事して、真面目に学校を卒業したただの元一般人だ」

 あからさまに嫌な顔をして、足を組んだ。押し出された太ももの形が変わるのを、ちょうど目の高さでじっくりと観察できる。

「目に映るもの、聞くもの、すべてが真新しいのよ私には。たとえば、あんたの一人称が『俺』なのか『私』なのかも興味があるわ」

 首をひねった。着任にあたり、すこしはいいとこ育ちのように見せたくて、学校から一貫して「私」に変えていたはずである。

 その様を見ていた叢雲は、のどでくつくつ笑った。

「私を海に置き去りにしたとき」

「ああ」

 確かに言った気がする。

 あの時はすこしあせっていたから。目の前で女の子が倒れて、今考えると海に放り込むなんて危険な事をしたものだ。

 司令は若干の罪悪感と、気恥ずかしさで居心地がわるくなり、コーヒーを煽る。

 まずい。

「で、どっちなのかしら。私はべつに、どっちでも気にしないけど」

「前の仕事はな、ドカタをまとめる仕事だったんだ。将官になるにあたって、少しは言葉遣い直しておこうとおもってな」

「ふうん、いいと思うけどね。乱暴な言葉遣いでも。もちろん、綺麗であればなおのこといいけれど」

「言葉遣いは手前の生き方を映す。内緒にしておいてくれよ」

「わかったわよ」

 叢雲が脚をパタパタ動かすたびに、左右の太ももが形をかえる。気持ちよく引き締まったふくらはぎも、彼女達が鋼や燃料から「建造」されたとは思えないほどに、人間だった。

 十回、二十回と往復する脚の動きをみていると、とん、と勢いをつけて叢雲が立ち上がった。

 彼女の履く運動靴はどろどろに汚れていて、今日一日泊地を歩いただけとは思えない。彼女の、生乾きの洗濯物のようなにおいと、海のにおいが濃く嗅げるほどに近づいて、司令の目の前にぺたんと座る。

「ここはどういう場所になるのかしらね」

 にこにこと笑う顔に、心臓がすこし高鳴った。

「どういうとは。ここは深海棲艦に立ち向かうための場所、それ以外なにものでもない」

 叢雲はふるふるとかみの毛をゆらして、そしてじっと司令の目を見つめた。

 赤い瞳で見すくめられると、自分と違う、奥行きのある強い目をしている。

「つよい泊地、よわい泊地、楽しい泊地、つまらない泊地。しあわせな泊地、かなしみの泊地、絶望の泊地、希望の泊地。ぜんぶ、あんた次第なのよ」

 沈黙している。

 真顔で見つめあう二人の間に、また再度影が落ちる。

 波の音すらも聞こえなくなったと錯覚するほどに集中して見詰め合っていても、司令の心臓は、ふしぎと落ち着いていく。

 がたり、と司令室の窓が、潮風に鳴った。

「世界は今、絶望のただなかにある」

 それを皮切りにして口を開いた。

「妖精とコンタクトをとれる人間はわずかだ。今までの艦艇の指揮をしていた将官は軒並み死に絶え、外交が途絶した日本は地獄の様相。それを打破するちからをもって、私はここに着任した。人類の反撃ののろしとなる日本海軍艦娘部隊指揮官養成学校の栄えある一期生としてな。とんだ田舎にとばされたが、やることはかわらない。俺たちがちゃっちゃと深海棲艦をぶったおして、平和な世の中にもどしてやればいい。みんなのヒーローになるんだから、明るく楽しく、だれ一人失わず、しあわせな、希望に満ちあふれた場所じゃなきゃダメじゃないか」

 叢雲は満足げにしたあと、茶目っ気の強い顔を作った。

「実戦経験のない童貞さんがずいぶん大きい口叩くじゃない」

「だまれ処女。でかい口叩く男のおさめる泊地はイヤか」

 風で雲が流れて月明かりが戻るが、司令の真正面には叢雲が、名のとおり月をさえぎるように立ち上がった。

「悪くないわ」

「お気に召してくれてうれしいよ。さて」

 腕時計は2100。動き回って、頭もフルに動かした。

 もういい加減にねむい。

 司令は膝を叩いて立ち上がり、執務室の横に備え付けられた寝室へと足を向ける。

「私はもう寝るから、大本営に私が着任した旨の連絡たのんだぞ、秘書艦」

「え、は、えっ。私がかけるの。ちょっと、そんぐらい自分でやりなさいよっ」

 ぐだぐだ背中になげかけられる叱責を、扉を閉めてシャットアウト。扉が薄いので、直後に大きなため息が聞こえたことに少し笑ってしまう。

 しばらくして電話のダイヤル音が聞こえてきた。なんだかんだで言うことを聞いてくれる叢雲は、きっとこれから色々と助けになってくれるだろう。

 頼もしい。

 司令は大本営との、時候のやりとりじみた堅くるしい挨拶をしている叢雲の声を聞きながら、ホコリくさい布団にくるまった。そういえば彼女はどうするのだろうか。たしか駆逐艦寮があったはずだが、廃墟のごとき風貌だったはず。

 そうして悶々と考えていると、叢雲がこちらに聞こえるようになのか、ひときわ大きな声で、電話口に用件を伝えていた。

「提督が泊地に着任しました。これより、艦隊の指揮を執ります」

 電話口の叢雲が、こちらを見てニヤニヤしているのが分かる。まさにそのとおり、司令もその言葉に腹の奥が熱くなっていたのだから、早くも性格を掌握されているようである。

 チン、と電話の置くおとが聞こえた。次の叢雲の行動に、司令は、やはり多少の遠慮ある艦娘のほうがよかったと後悔した。

 大きな音をたてて開けられたドアの向こうに、叢雲が仁王立ちして、正直に宣言する。

「寝るところがないわ。さあ、私のスペースを空けてちょうだい」

 ぐいぐいと体全体でスペースを作ろうとする叢雲に断わりの言葉はもはや遅い。裸の背中にあたる叢雲の前髪を感じ、念仏を唱えながら着任初日の夜は更けていく。

 



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2

 翌朝、第一に感じたのは衝撃。次に痛み。最後に砂の味。「景気づけに派手に起こしてあげたのよ、文句ある」と、ベッドの向こう側から声が聞こえた。

「ッまえなあ。もうすこし加減をおぼえろ」

 朝日の射し込む窓を背にして叢雲が立っている。睨みつけると、ぷいと横を向いてしまった。あまりに生意気すぎて、このまま放っておくといつか大変な事になりそうで怖い。それでいて、今ここで彼女と仲たがいをしてしまうと、今後の泊地運営に大きなマイナスになりそうで怖い。対極の恐怖で先が不安である。

「はい、おはよう。時刻は0600。よく眠れていたわね」

「……おはよう。お前こそ、私を抱き枕にしてよく眠っていたじゃないか。お陰で体が冷えずに済んだ」

 それを聞くと、気づいていたとはといったものか、叢雲の顔がゆがむ。唇をひきしぼり、さわやかであるはずの朝から般若となった女性の顔を見るのは、なかなか気分がいい。

「このっ、こ、このぉ。うぅ」

「くっく。眠りは浅いほうでな」

「がぁーっ」

 涙目で地団駄を踏む彼女を笑いながら、司令は大きく背筋を伸ばした。ぴったりくっ付かれていたので、寝返りがうてなかった分、盛大に骨がなる。背中、首、腰、股関節、指とバキバキバキバキ気の済むまで音を鳴らし終わるころには、叢雲も少しは冷静になっていた。

 いじり甲斐がある分、まだ生意気は許せる。

「ったく、そういうことは気づいていても口に出さないのがいい男でしょう。せっかくコーヒー淹れてあげたっていうのに」

 壊れかけたベッドサイドテーブルの上には、湯気のたったマグカップが置かれていた。

 口の利き方を知らないが、気が利くやつだ。一口すすると、まだ濃すぎる気もするが、昨夜のひどすぎる水出しよりは飲める。これで白米と納豆があれば文句ないが、物資の搬入は午前中には来るらしいから、高望みはしないでおこう。

「まだ濃いな。朝にはちょうどいいが」

 喜んでいいのか分かりかねる表情をしている叢雲に「美味い」と言うと、分かりやすく顔が変わる。一瞬だけ。すぐに不機嫌そうな顔に戻り、「だったら余計なこと言わないでほしいわ」とすねてしまった。よくもまあ、朝っぱらからころころ顔を変えられるものだ。

「それにしても、よく湯が沸かせたな。ガスはまだないだろう。まさか、生木で起こしたとか言ってくれるなよ」

「んなわけないでしょ。妖精さんたちに手伝ってもらったのよ。棒みたいなの水に入れたら、すぐお湯が沸いたわ」

 電熱棒か。

 確かに、電気さえあれば湯が沸く。かつて海が平和だったころ、ベトナムやタイを貧乏旅行したときに使った事があった。

 わざわざ早起きして、工廠まで足を運んで一杯のコーヒーをつくってくれたのだ。これで暴力的な性格さえなければいっそ嫁に欲しい。しかし艦娘は成長しないし、戸籍もないので、結婚なぞできるはずもない。

 司令はトランクから私物のタオルを取り出し、一枚叢雲に渡す。今日から毎日肉体作業だ。

 二人は本館を出た。むあっとした熱気と潮風が拮抗して気持ちがいい。山暮らしをしていたから新鮮な光景に思えるが、これからは毎日この景色を見ることになる。そう考えると、司令は腹の底がむずむずして、ボイラーで湯を沸かすような感覚にたまらず叫ぶ。

 叢雲は飛び跳ねて驚いた。

「急に大声出さないでよっ」

「気合入れたところで物資がないことには、トイレの修理もできない。妖精たちの仕事もない。ひとまず、掃除ぐらいしかやることはないんだけどな。とりあえず、ねぐらをどうにかするところから始めよう」

「なぁにが気合よ」とぷりぷりしている彼女を放って、司令は水場に足を向けた。

 昨日貸した帽子を頭に載せている叢雲は、なんだかんだでかわいらしい。

 蛇口をひねれば、どこから引いてきているのか夏には冷たすぎる水があふれ出る。頭からかぶると暑さでたるんだ頭が、ぐっと引き締まった。

「掃除用具なら、ボロボロだったけど残っていたわよ。お持ちするわ、司令官」

 皮肉たっぷりの声が尻の後ろから聞こえて苦笑いをしてしまった。乾いた土を蹴る音が聞こえなくなるまで、流れ出る水に頭をさらしていた。蝉の声はすでに盛況で、今だけを考えれば、平和で平和でしかたない夏の一日の始まり。けれど一昼夜過ごして、司令は「着任した」ということの責任を、より強く考えるようになっていた。

 私がここにきたことで阿鼻叫喚の地獄となるかもしれない。かつて当地で戦って果てた前任者たちのように。

 まだ艦娘の運用の仕方も知らなかった黎明期。錬度の低い艦娘ばかりだというのに、近海には空母ヲ級や戦艦ル級、タ級がうようよとしていた。演習に出れば補足され、潜水艦も忍び寄る。なけなしの物資をつぎ込み、沈んでは建造、沈んでは建造。大破した艦娘は、弾薬の補給をうけることもなくデコイとなるために出撃した。一度海に出れば帰れる方が奇跡。命令を受けた艦娘たちは、それでも恨み言ひとついうことなく、勇ましく出撃していったらしい。近海に空母や戦艦のような強大な敵がいると、本土を爆撃される。錬度を上げるよりも、とにかく物量でなんとかしなければいけないほどに追い詰められていた。おかげで現在の日本は、文明のレベルが三、四十年下がるほどに疲弊しきっている。

 昨日あちこちを回って気づいた。前任者たちの生きた痕が、いたるところに遺されているのだ。

  第六駆逐隊 暁 響 雷 電 

 響の名前だけ斜線が引かれていなかった。

  帰  き ら、お  さまの 高の紅  飲 せてくださいね

 連絡板に書かれた言葉は、何度も擦ったような、かろうじて行間を読み解ける言葉が遺されていた。

  快勝!これが重巡洋艦なんです!

 出撃ドッグの片隅に貼ってあった泊地内新聞には三人の重巡洋艦が、ボロボロの姿で笑っていた。記事の部分は、埋め尽くすほどの謝罪の言葉が上書かれていて読むことは出来なかった。

 そして、ただひとつ係留されていたボートの残骸には、ただ一言だけ、操縦席の壁に走り書きがあった。艦娘がボートにのることはない。おのずと誰が書いたのか推測できる。

  すまない

 弾痕がいたるところに残っているボートは着底していた。浅瀬でなかったら、前任者の後悔は、誰にも知られることなく消え去っていただろう。ここの生き残りがいないことは着任前に説明されている。

 司令はそれを見たとき、生々しすぎる「死」に絶句した。そして士気を考えて、表情のない叢雲に、「これは消したほうがいいのか」とたずねた。判断を部下に委ねることを情けなく思ったが、自分ひとりで判断すれば、彼女とのあいだにきっと絶望的な亀裂が生じると思ったから。司令の第六感は正しく働いていたようだ。叢雲は昨日よりもさらに目を吊り上げて、「消すなんて正気なのかしら。できるものならやってみなさい。あんたの大事なもの、チリも残さず消し飛ばしてやるわ」とのたまった。直後、平身低頭謝られたのでため息一つで許したが、もともと司令自身消そうと思ったわけではない。艦娘である彼女が影響はないというのだから、その言葉を信じることにした。

 景色だけはさわやかな泊地。景色だけは平和な泊地。

 他の鎮守府も泊地も、きっと似たようなものに違いない。彼氏彼女たちの捨て身の奮戦によって、近海から深海棲艦を退けることができたのだから。

「っはぁ。はい、こんなのしか残ってなかったけど、なんとかなるでしょ」

 汗で前髪を張り付かせた叢雲が持ってきたのは、砂のたまったバケツと毛羽立った竹箒。それと柄の折れたモップ。

「……まあ、なんとかしようか。暇してる妖精にも声をかけよう。どうせ資材がないんだ、遊ばせておくにはもったいない」

「昼前には搬入されるんでしょ。それなら工廠を完璧に整備してもらっていたほうがいいと思うけど」

「道具を見れば分かるさ。設備はボロだがしっかり磨き上げられているし、そこいらの工具だって綺麗に類別されていた。グリースの劣化具合もさほどでもない。よく手入れされていたから大丈夫だよ」

「ふうん。さすが、元土木業は見るところが細かいわ。姑みたい。私には小汚い場所にしか見えなかった」

「ちゃかすな。そういうわけで、さきに本館の掃除始めててくれ」

 叢雲は軽く腕をあげて、敬礼の真似事をする。横着をするんじゃないと言おうともおもったが、さっさと本館の中へ入っていってしまった。

 遅ばせながら誰もいない、叢雲の背中に答礼して、工廠へと向かおうと踵を返す。

 波音のあいだから叢雲の気合が聞こえた。

「さあ、はじめるわよっ」

 

 軍の輜重部隊は一分の遅れなく到着した。

 どちらがバケツをひっくり返したのか口論になっていたところに、無用心に開け広げられていた正門をくぐり、七台、八台とトラックが入ってくる。消耗品に衣類、食料から資材まで全ては陸路で輸送しなければならないのだ。近海から深海棲艦を遠ざけることはできたとはいえ、未だちょっかいを出してくるの奴らがいるので危なっかしい。もちろん漁業は禁じられたままで、安全を考慮して一般人は海岸線六キロ以内立ち入り禁止となっている。

 小突きあいながら二人が表にでると、先頭のトラックから、この暑いなかビシッと制服を着込んだ男がおりてきた。その人は、司令には馴染みの顔であった。

「ひさしぶり。しばらく見ないあいだに、随分ワイルドになったじゃないか」

 かたやエリートのようにキメた姿。かたや浅黒く焼けた上半身を惜しげもなくさらしている、工事現場の男のような風体。

 制服と同じように、けちのつけようのない敬礼をする男に、司令も倣って答礼し、そして抱き合った。

「おお、おお。久しぶりだな。うちの担当はお前かっ」

「俺も少し前に知ったばかりだったんだ、連絡できなくてすまない」

 男は、司令の汗で制服が汚れるだろうに、ひとつも嫌がる素振りをみせない。がっちり固めた髪の毛は、潮風にも微動だにすることなく、黒々とかがやいている。

 司令が二の句をつむごうと口を開きかけたとき、男が割り込んだ。

「そうか、ドベだったお前が司令か。感慨深いなあ」

 アっと彼の口をふさいだ。

 暑さとは違う、じっとりとした汗が全身から吹き出るのを感じる。おそるおそる叢雲に視線をやると、にやにやと口角を吊り上げた彼女が、それはもう楽しそうな声色でさえずる。

「へぇえ。『学校はなかなかの成績で出てる』司令官さん、どういうことかしら」

 額を押さえて空を仰ぐ司令に、男は目をしばたかせたあと、泊地全体に響き渡るかのような大声で笑い始めた。

「うあっはっはっは。おまえ、なかなかって。そりゃあなかなかだっただろうよ。毎回試験前に補習を宣言されて、香取さんの指示棒を七本折らせた伝説の一期生だもんなぁ」

 もう威厳もへったくりもあったもんじゃない。司令は叢雲の笑い声に怒る気にもならず、かつ目の前の口軽男につかみかかる気力もなくなった。冷静沈着、頭脳明晰、部下に好かれる温厚篤実な鉄人提督への夢はあっさりと打ちくだかれた。

 それに七本じゃない。正確には一二本だ。何度か留置所と見間違うようなところで、ふたりきりの時間があったことをコイツはしらない。叱られて泣いたなど、子供以来の経験だ。

 叢雲たちはしこたま笑い転げた後、今にも足元から崩れそうな司令をみて、もう一度笑いはじめる。

「ごめん、ごめんよ。ええと、キミは叢雲だな。あんまり笑わないでやってくれ。勉強はからきしだったが、バカじゃない。勉学は時間をかければ形になるが、バカにはいくら時間をかけても習得できないものを、コイツはちゃんともってる」

 なにをいまさら、と半ばヤサぐれて目の前の男をにらんだ。

「大丈夫よ、その辺はもう、なんとなくだけど理解しているから」

 頭の上に乗っている帽子を指ではじく。男は口笛を軽く鳴らして、叢雲に向けて改めて敬礼を示す。

「関東圏内施設の一部主計を担当することになった八木だ。この見栄っ張りの、富津泊地の司令である清水とは同期で、何の因果か、幼馴染までやっていた。あんまり無茶は聞けないが、多少のことは融通してやるから、困った時は俺に直接電話してこい。深夜の逢引したいってんなら、出張先からでもすっとんでくるぜ」

 本当に電話番号のかかれた紙を渡され、あまりの準備のよさに叢雲はもう一度ふきだし、苦笑いながらも、帽子を脱いで答礼した。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲です。お誘いはありがたいけど、もううちの司令官とは同じ天井をみているの。妬かれたらかなわないからお受けできないわ」

 とんだ言葉の選び方をする叢雲の頭をかるくひっぱたく。

 その様を見て八木はまた笑い、わざとらしく大仰な身振りで頭をかかえた。「おお、神よ!」

 叢雲はどうやら、このように軽口の応酬がきらいではないようだ。体をくの字に曲げて笑っている。

 八木はいい加減からかいすぎたと感じたのか、すこし眉根をよせた表情をつくった。

「叢雲をここに配置したのは俺なんだが、正解だったみたいだな。おそろいの農夫スタイルもよく似合ってる」

 一言多いのは、こいつのわるいクセ。

「てめぇら、山谷の男なめるなよ。ヨキさえもってりゃ、口裂け人間の仲間入りだ」

 久しぶりに精一杯のドスを利かせて凄むと、八木は降参とばかりに両手をあげた。清水はこの、ちゃらちゃらとした言葉を出す八木の口だけは好きになれないでいる。

「覚えておくといい。こいつが『俺』という一人称を出すのは、余裕がないときだけだ」

 八木が叢雲に耳打ちするフリをして、ふたりでくつくつ笑う。

 この、相手の逆鱗のまわりだけをこねくり回す口のうまさに、子供の頃から辟易させられた。それでもなぜずっとつるんでいたかというと、認めたくなかったが、気持ちの良いわずらわしさだったからだ。

「ちょっとまっててくれ」と八木が車に戻ったとき、今度は叢雲がそそそ、と耳打ちをする。

「ずいぶんなお調子者じゃない。主計官さんっていったらエリートのイメージあったけど、大丈夫なの」

 先ほどまで一緒になって笑い転げていた相手に辛辣である。やはり女。花の匂いを嗅ごうと、うかつに顔を近づければ、潜んでいた蜂に痛い目に合わされるもの。

 清水は腰をかがめて、同じように耳打ちを返した。

「頭『は』いいんだ。お前も言っていたじゃないか、頭のいい変態はなんちゃらと」

 強調された助詞に喉を鳴らして、叢雲は清水の耳に言葉を返す。彼女の熱い息が耳にかかり、あやうく声を上げそうになるのをなんとかこらえる。

「あんたの親友だものね。堂の入り方だけは、新人とは思えないわ」

「腐れ縁だよ。昔から要領がいいんだ、あいつは。在学時からお上の覚えめでたく、業務の手伝いもしてやがったから、まあ、心配はいらん」

 バムン、とトラックの扉が閉まる音を認めて、二人は自然に体を離した。お互いに、今の内緒話の格好を見られたら、八木になんといわれるのか、手に取るようにわかる。会って数分で人の中に入り込むには、彼のようなおちゃらけも必要なのかもしれない。

「これ、受領書。それから、今後の輸送計画の話もしたい。時間を取らせて悪いが、よろしく頼む」

「わかった。倉庫まではこいつに案内させよう。叢雲」

「了解したわ」

 待機しているトラックへと駆け出す叢雲の背中を、旧友同士は眺めていた。

「良い子だろ」

 八木がにたにたと笑って、ひじでつついてくる。

 最初に配置される艦娘の手配も主計科の仕事だ。司令となる人間の性格に合わせて、あらかじめお上に決められた艦娘を手配される。頭のいい司令ならばサポートに特化した艦娘。戦闘意欲の低い司令には強気な艦娘。メンタルの弱い司令ならばやわらかい艦娘といったように。

 叢雲のように真面目で気の強い艦娘ならば、さしずめ不出来で粗野な司令といったところか。

 あからさまに挑発してくる八木を無視して、本館へと案内した。掃除の途中でひっくり返したバケツの水は、夏の気温でほとんど消え去っている。

「なんもないが、ひとまずの司令室だ」

 八木は雑草の積み上げられたトイレや、日焼けして真っ白になった机を見て、軽くため息した。

「ま、富津がひどい状態っていうのは聞いていた。というわけで、陸軍のやつらを多めに持ってきている。搬入が終わったら施設整備に使ってくれ。ちなみに、彼らのトラックは整備不良で、きっと帰り道はトラブルの連続だ。五日ぐらい、本隊へ戻るのが遅くなりそうだな」

「ありがたい」

 こういうところで手回しのいいやつだ。彼を苦手といいつつも尊敬するのは、いつも絶妙な気の利かせ方をみせるからである。彼らは輜重部隊ですらないだろう。おそらく、全員施設整備に特化した部隊の人間達だ。

 大勢のスペシャリストを五日も貸してもらえるなら、予想以上に早く、この泊地を機能させる事が出来る。ひっぱりだこな人材たちであろうに、ありがたいことである。

「俺は残念ながらさっさと帰らねばならない。横須賀の司令がおっかない姉さんでな。ほら、同期主席の」

 彼女か、と清水は苦々しい顔をした。

 ドベだった自分からしたら、雲の上の存在。七つも年下のクセに、横須賀のようなおおきな場所で艦娘部隊を率いるのは、なるほど、納得のいく人選だ。

「突っつきがすごいんだ彼女。お前の初めての城だというのに、手伝えなくてすまない」

「体力がからきしのやつに、こんな炎天下の中作業させられんよ」

「はっはっは。よし、ならデスクワーカーはデスクワーカーらしく、書類で仕事をするとしよう。受領書にサインをくれ。そのあとはスケジュールと、頻度と連絡手段、それから要望書について……」

 蝉の声がうるさい。

 椅子にも座らず(ないものはないから仕方がない)、男二人は汗を流しながら、今後のことを詰めていく。

 いよいよ、泊地が本格的に動き始めた。

 

 場面は再び日暮れである。

 八木の連れてきた陸の連中は、やはり精鋭であった。わずか半日で泊地全体の電気系統を復帰させ、本館の修繕はもちろん、道の整備まで終わらせた。聞けば、深海棲艦に崩壊させられた街の復興を担当する部隊であるらしい。炊き出しまで世話になってしまった。これならば、五日もあれば、各艦種ごとの居住区すらも完璧に修繕されることだろう。

 彼らは日暮れ前に突貫で作り上げた仮住居のなかで酒盛りもしている。司令たちも是非、と誘われたが、大勢の男を前にして意外と人見知りをする叢雲をかんがみて、丁重に断わった。最終日だけでも、ちらと顔を出そうと思う。

 あかりも灯き、見違えるようになった司令室の中で、ふたりは静かな酒盛りをしていた。子供にしかみえない彼女に酒を飲ませるのは抵抗があったが、これが好き者らしく、ニッカの瓶を見るやいなや飛びついてきたのだ。

「ストレートはさすがにきついけど、ウイスキーもいいものね」

 だばだばとスチールマグに注ぐ姿は、可憐な少女とはいいがたい。もうすこしきれいな飲み方を教えたほうがいいのだろうかと、自分のマグをかたむけた。氷のないウイスキーはぬるく、舌とのどを激しく焼く。

「ずいぶんと慣れているな。酒が好きなのか」

 搬入された秘書用の机の上に小さい尻をのせた彼女が「んふふ」と笑う。せっかく椅子が運ばれたというのに、なんと行儀の悪い。

「好きか嫌いかといわれたら、もちろん好きよ。お酒はいいものだわ。ほら、よくいうじゃない、『人生に 楽しみ多し 然れども』」

「『酒なしにして なにの楽しみ』。酒飲みってのはどうしてこう……」

 酒飲みほど詩人に向いている人種はいないだろう。そして酒飲みほど言い訳がうまいやつもいない。

 なにかと理由をつけて酒を飲みたがる。

「あんたも人のこと言えないじゃない。補給物資のリスト、酒保品のところで手がとまっていたくせに」

「『酒が飲みたい夜は 酒だけではない 未来へも罪障へも口をつけたいのだ』」

「あははっ。あんたってやっぱりキザだわね。ぜんぜん似合わない。それなら私は、あんたが罪障なんかのために酒を飲んだ時、『血が出るほど頬を打って』やるわ」

 うふふ、くくく、と笑う叢雲に鼻息ひとつ返して、暖色の灯りの中に佇む酒瓶を眺めている。長い山暮らしの中では、楽しみなど数えるほどしかなかった。騒ぐ酒も、静謐の中で呑む酒も、苔むす森の中では宝石のような価値があったものだ。

 懐かしい感触だった。

 酔うための酒しか知らなかった私に、本当の酒というものを教えてくれた、かつての職人達は元気しているだろうか。手紙を書こうにも、サンカとして山を渡り歩く彼らに連絡をとる術はない。またあの荒々しく熱い酒が飲みたいものだ。

「それにしても、一日でこんなにきれいになるなんて」

「これでわかったろ。ちゃらついているが、頼りになるやつだって」

 妖精たちにも、さっそく作業に入ってもらった。目下、所属する艦娘を増やすため、五人の建造をたのんだ。資材もカツカツであるからほどほどにと念を押して。六人もいれば、最低限の艦娘による部隊が編成できる。当面は近海哨戒を行いながら、戦力の増強というスケジュールで動いていくことになる。

 それまでは、横須賀から数人の艦娘が変わりに担当海域を哨戒をしてくれるとのことだった。例の主席女に借りをつくるのは怖かったが、背に腹は変えられない。叢雲だけでは、たとえば深海棲艦による二隻三隻の駆逐級の哨戒部隊でさえ脅威になる。横須賀と共に浦賀水道から太平洋に向かう位置にあるから、いわば前線にほど近い。近海から強大な敵は消えたとはいえ、やつらがいつ再度東京湾に侵攻してくるかもわからないのだ。

「よく気の利く、やっぱりあんたの友達なんだなってのはわかったわ。今どきこんなもの、手に入らないでしょうに」

 叢雲は秘書机の上にLP盤をばっさり広げた。もちろんレコードプレイヤーもある。木製で、浅黒く手垢のついた、それでもよく手入れされている骨董品である。LP盤は、清水の趣味にあったものをセレクトしてよこした。「着任祝いだ」といいながら個人的に。

「10代の頃にこじらせてな、こういったものをよく集めて、八木と一緒になって聞いてたんだよ。うお、カーターファミリーまでありやがる。どこで買ったんだ」

 どれもこれもよく聞いていたLP盤だった。

 そうそう、このジャケットがズルいんだ。ほら、このジャケットいいだろ。あとこれは金のないフォークシンガーの夢の塊。こっちのアルバムは一発撮りの、雑音や雑談まみれの音源なんだぞ。まあフォークはそんなのが多いんだけどな。お、この辺はロックが台頭してきたあたりの、きれいなものだ。洋楽も有名どころは網羅されてるな。さすが八木だ。

 深海棲艦があらわれる前は、音源はデータ販売となっていた。そんな中、少ない金で電車に乗り、東京のでかい音楽ショップに行って、一枚だけ買って帰るあのわくわく感。一時間以上も、紙ジャケを見ながら、この曲はどうの、あの曲はどうの、この録音がどうの、奏者がどうのとなどと分かったように話をしていたものだ。

 あっちもこれもと夢中になってみていると、しようのない男に見せる笑顔で、叢雲が清水のマグにウイスキーを注いだ。

「艦の記憶じゃ、SP盤までね。ずいぶん大きくなったものだわ。ね、オススメのかけてちょうだい。虫の声を肴にするのもいいけど、せっかくだし」

 少し気恥ずかしくなり、いや、それも酒のせいにして、またひとくち呑んだ。

 趣味を前にして自分を抑えられる男など、まったく、熱意が足りない。

「お前が知っている曲もあるんだがな。ほれ、この辺の民謡集とか。まあしかし、せっかくなら戦後の、聞いたことないような曲を開拓していくのも面白いだろう。特に、アメリカ、のものとかな」

 この言葉をだすのは、少し抵抗があった。

 彼女達は、かつてアメリカを敵国として戦っていた記憶を持っている。並々ならぬ恨みつらみ、確執もあることだろう。が、今の世の中では、その負の感情は、深海棲艦にぶつけてもらうしかない。ともに宇宙という、広大な時間を行こうと手を取り合った仲なのだから、過去の確執は取っ払ってもらうしかないのだ。

 だから、チョイスをしたLP盤を叢雲に手渡した。

 叢雲は受け取った。彼女の顔に後ろ暗い感情は道められない。

「そんなに気にしなくてもいいわよ。沈んだのは戦闘艦『叢雲』であって、この『叢雲』じゃないわ。そりゃ、口惜しい気持ちもあるけども、あの『叢雲』は自分の正義に殉じて沈んだの。戦争だもの。その辺は割り切ってる。あちこちに遺されているものを消すなっていったのも、なにもワガママじゃないわ。彼女達だって彼女達の正義のために沈んだはず。同姓同名、姿かたちが同じ他人。他人のような気のしない他人よ」

「それより、渡されても使い方がわからないのだけど」と、とりあえずビニールから取り出したレコードを置いて、あちこちいじくる叢雲を、姿勢を正してみていた。

 余計な気遣いをみせてしまった。

 艦娘としての彼女達は「同じ施設に着任して、初めてあった姉妹艦」のみを姉妹として認めるらしい。だから先に着任して散っていった彼女達に知った名前見た顔があっても、それは他人として認識する。よその鎮守府で姉妹艦や絆の深い艦娘と出会っても、混乱しないのはそのためらしい。いったいどういう仕組みになっているのか、解明するための学者たちは軒並み頭を拗らせている。

 壊しかねない扱い方をしはじめた叢雲の頭をぐしゃりとなでて、使い方を教えてやる。これから長い付き合いなのだ、いちいち自分で取り替えるのも楽しいものだが、それで業務が滞っても本末転倒。覚えてもらったほうがよい。

「まずは回転数を合わせるんだ。この大きさだと大体三十三回転だから、ここのレバーをあわせる。そう。そしたらレコードを乗せて。うっすら筋がみえるだろう。この筋が曲の境目だ。今は四曲目が聞きたいから、四つ目の筋に針を一応そっと乗せる。ボリュームが最低になってるか確認してな」

 アームを動かすとレコードが回転し始め、音も鳴っていないのに叢雲ははしゃいだ。

 そして、LP盤にそおっと針を乗せると、盤面につけられた傷を引っかき、音を出した。ボリュームをひねらなくても音が出るものだ。夜に聴くときは、よくこの状態で聞いた。低音のまったくない、味気ない音だが。

 ゆっくりとボリュームを上げると、音がはっきりとしてくる。

 ああ。

 清水の頭には夜の森と、十代の八木と一緒になって、なれない酒にむせながら聴いた昔の景色が、ありありと浮かんでは消え、浮かんでは消えた。あのころは世界がこうなるなんて、露ほどにも考えていなかったのに。

 まず歓声が聞こえる。二人の再結成にセントラルパークに集まった五十万人を超える観客。ゆったりと流れ始めるピアノに、もう一度観客が沸いた。このイントロは、二人が対立することになった原因となった曲。それをまた、二人の声で聴けるのだ。私だって、その様を思うだけで心が昂ぶる。

「ちなみに、なんていう曲なの」

 もう頭の中に叢雲はいない。流れる音楽に支配され、話せない英語の歌詞が次から次へと浮かんで、対訳すらも同時にこなす。もう何度聞いたかわからない歌だ、心に染みついている。

「Bridge Over Troubled Water」

「氾濫した川にかかる橋。いや、荒れた川にかかる橋かしら。なかなかいいタイトルね。泥臭くて力強いわ」

 鼻を鳴らしてしまった。たしかに直訳するとそうなるが。

 レコードが彼らの歌声を鳴らす。さもしい、素朴で儚げなハーモニーが執務室に響く。

「もっといい訳がある。日本じゃ、そっちのが有名だな」

「へえ」、叢雲は彼らの声と、ピアノに耳を傾けている。机に腰掛け、浮いた足でリズムを取りながら、「なんていうの」と、唇だけで先を求める。

 叢雲と同じように、机に尻をのせ、目を閉じて歌に浸った。

 聴衆の一人になって、つぶやくように答える。

「明日に架ける橋」

 ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの歌声がやんでからも、二人はしばらく波と虫の音に耳を傾けていた。

 



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3

 朝日差し込む司令室で一人の男と六人の娘が向かい合っている。

「では改めて。自己紹介を頼む」

 叢雲もいつもの私服ではなく、白いセーラー服と、ウサギみたいな機械を頭につけて、艤装も展開していた。もともと狭い司令室がさらに手狭に感じる。心配なのは、床がとんでもない歪み方をしていることだ。机の上に置いたマグの中身は大いに、彼女たちに向けて偏っている。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲よ」

「睦月型駆逐艦十番艦、三日月、です」

「白露型駆逐艦十番艦、涼風っ」

「夕張型軽巡洋艦ネームシップ、夕張です。まあ、夕張型は私一人なんだけど」

「球磨型軽巡洋艦五番艦、木曾だ」

「古鷹型重巡洋艦ネームシップ、古鷹です。どうぞよろしくお願いします」

「うん、ありがとう」

 清水が答礼すると、全員の背筋も改めて伸びた。

 一日一人のペースではあったが、妖精たちはしっかりと仕事をしてくれた。引き続き建造を頼んでいる。しかし人員を装備開発にも回したので、ペースはさらに落ちることだろう。ひとまずはこの六人で頑張ってもらうことになる。横須賀から毎日のように担当海域を哨戒してもらっているのも今日で終わりにして、自立しなければ。いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。

「早速ではあるが、これから毎日、十二時間交代で哨戒にあたってもらう。引継ぎの時間は、0600、1800だ。ローテーションは、昼の部を夕張、木曾、涼風。夜の部を叢雲、古鷹、三日月。仲間が増えればもっと細切れにできるんだが。旗艦は第一に呼称したものである」

「了解したわ」「了解よ」

「昼の部の担当のものは、このあとすぐにでも出てもらいたい。横須賀の艦娘と落ち合う予定だから、引継ぎを受けろ。それから、富津の清水が礼を言っていたと。直接言いたいんだが、終ぞ一度も顔を見せなかったから」

「横須賀の司令官にも電話したほうがいいんじゃないのかい」

「あぁ……もちろん、非常に非常に、非常に気が向かないが、しておくさ」

 涼風にいさめられて、全力で苦々しい表情をつくると、彼女達の涼しげな笑い声が響いた。

 いや、本心も苦々しいものなのだから、あながち作ったものでもない。

「最後に、この富津泊地は横須賀にほど近いため、多くの作戦を共にすると思う。しかし私は元一般人で、不慣れが多い。お前たちのかつての記憶が苦しいものであるのは知識として知っているつもりだ。それでも、私の手助けとなるものがあれば、その気持ちを抑えて、どうか教授を頼む」

 出撃のないときは後詰めとして自由に体を休めろ、と告げると、彼女達はもう一度敬礼をして、司令室を出て行った。

 出て行った後の司令室は鉄と油と火薬の匂いに混じって、花のような、混ざることのない匂いが混同されている。

 幸いな事に、全員が揃うと同じぐらいに、泊地の整備が全て完了した。艦娘の宿舎も、ほぼ一からに近かっただろうに、見事に寝泊りは問題ない程度に建て直されている。これで全員が司令室の寝室にはいるなんてことにならずに済んだ。そんなことになれば、野宿でもしたほうが精神安静上よいだろうと覚悟を決めていたから助かった。出撃ドックも、酒保も、食堂も、すべてがきれいになっている。けれど入渠ドックは、完全に崩壊した二つは妖精でなければ修理できないため、とりあえずは使えるところだけを整備してもらった。

 これだけやったのに、さらに簡易的な入浴場まで作って帰ったのだから、もう彼らには頭が上がらない。今度実費でなにか送ってやらねばと考えている。叢雲も許してくれるだろう。死に金ではないはずだ。

 これで清水も艦娘たちも、遠慮なく素っ裸でのんびりできる。

 敬意をこめてカーペンターズとでも呼ぼうかといったら叢雲は笑った。

「それで」一緒に出て行った彼女達に混ざらず、一人司令室に残った叢雲に声をかける。

「お前もみんなと一緒に行くといい。今日から秘書艦としての仕事は、しばらく休みだ」

 そういうと叢雲は、搬入された家具のうち、小さな冷蔵庫からコーラの瓶を一本取り出す。

「ひとつ相談があるんだけど」

 栓を抜いて清水に手渡した。

 まだコーヒーが残っていたが、渡されたものはしかたない。キンキンに冷えて、早くも汗をかいている瓶からひとくちのめば、強すぎる炭酸がのどを刺激する。

 気づけば叢雲は見慣れたホットパンツとタンクトップの私服に戻っている。これは妖精特製の服なのだという。どういうわけか、艤装を展開すれば制服に、納めれば私服に戻る。ただし、妖精の手によるものでなければ切り替えができないらしく、寝巻きなどは軍支給品をつかっているため、夜間出撃は着替えの手間がかかるらしい。

 ファンタジーの権限はらしくなく、表情を曇らせている。

「古鷹のことか」

「え、ええ。よくわかったわね」

 余った資材で作ってもらったレコード棚からウディガスリーのLP盤を取り出し、慣れた手つきで針を落とす。音質の悪い、軽快なカーターファミリーピッキングに乗せて、開拓時代の政府に怒る声がすぐに流れ出した。

「一応、お前達の艦歴は調べているさ」

 触れてはいけない地雷を踏まないように。

 肉体労働ばかりしていたせいで溜まった書類に向かいながら、彼女の顔を見ず、二の句をつむいだ。

「自分で言っていたじゃないか。あの時はあの時、今は今。古鷹も、自分を見つけてくれなかったといって、お前のことをうらんでいたりしない」

 書類の隙間からちらと覗き見ると、眉根を寄せて、でかかった言葉をかみ殺し、また出かけた言葉をかみ殺し、必死に言葉を探しているように見える。

「それならいいのだけど」

 結局でてきたのはその一言だけだった。

 あの後、救援にむかった「叢雲」も沈んだはずだ。そのことを知らない「古鷹」ではあるが、感謝されこそすれ、恨まれることなどなにもないはずである。

 肝心なところで気の弱い。

「気になるなら、ちゃんと話し合え。万が一仲たがいしてしまったなら、私が出張っていってやる」

 叢雲はそれを聞いて、「ありがとう」とだけ言って、司令室から退室した。

 度し難いものだ。記憶と言うものは。ああはいっても、こんなに早く、自分の最期の関係者と出会うことになるとは思っていなかったのだろう。

 叢雲も大概な見栄っ張りじゃないか。

 ふと禁煙したはずの煙草を吸いたくなって、引き出しに手をかけたとき、もう一度ドアが開いて、思わず手を引っ込めた。

「あんたは横須賀にちゃんと連絡しなさいよ。私は出撃まで寝るわ。おやすみ」

 最後に口角を吊り上げて、静かに扉が閉められる。

 まったく、度し難い。

 清水は頭をかきむしって、受話器を手に取った。

 

 ああは言ったけど、と叢雲は、駆逐艦の宿舎を通り過ぎ、重巡洋艦の宿舎へと足を向けていた。

 もんもんとした気持ちのままで寝られるとは思えない。

 まさかこんなに早くに着任するなんて、心の準備が。司令のこと笑えないわ、あたしだってあんな大きい口叩いといて、いざ目の前にしたらこの体たらく。昨日工廠から「着任した」と聞いてから、すぐに飛んでいきたかった。だけど、足が動かなかった。司令室に挨拶に来た時だって、休憩してくるといって、抜け出してしまった。あのときの「叢雲」が早く見つけていたら、もしかしたら……そんな考えが、昨日からずっと頭を渦巻いている。

 暑いはずなのに叢雲は汗を浮かべてはいない。それなのに喉はカラカラで、ドアをノックするために上げた手が、動かない。

「叢雲? どうしたの」

「んがあ"っ」

 心臓が口から出るかと思った。

 ぎこちなく振り返ると、手洗いの帰りなのか、階段の下に古鷹がハンカチ片手に立っていた。

 そういえば共同トイレは重巡舎の目の前だった。

「あ、ごめんね。まだ着任してから、お話してなかったよね。古鷹型重巡洋艦の」

「知ってる、知ってるってばっ」

 だめだ、完全にペースが乱れてしまった。今だって、わざわざ挨拶してくれたのに、さえぎっちゃって!

 けれど彼女はそんな失礼にも朗らかに笑って、こと、こと、と木製の階段を上ってくる。彼女また私服にもどっていて、つば付きの、薄いニット帽を脱いで、叢雲の正面に立った。

「サボ島沖以来かな。あっちの「古鷹」と、「私」は同じではないけれど。入っていきなよ、ちょっとだけお話ししよ」

 そう、そうなのだ。あの「叢雲」と「私」は違うのだから、そんなに神経質にならなくてもいい。ならなくていいのに、ヒリついた喉が声をだしてくれない。「あ」だの、「うん」だのと、古鷹のおしゃべりに、生返事を返すだけ。

「私、あの辺りの記憶が曖昧で。こんなこと聞いても、もうなんの意味もないんだけど、輸送作戦って成功し」

「あ、よ、夜っ。同じ哨戒部隊でしょっ。早く寝なきゃ、迷惑かけてしまうわ、おやすみっ」

 だめだめね、私。

 一気に流れ出した汗が顎を伝う。

 重巡舎、軽巡舎を駆け抜けて、特I型駆逐舎の扉に、思い切り頭をたたきつけた。

 

「切れとのことですので、失礼します」

 叩きつけるように受話器を置く。

 横須賀鎮守府の司令室。二十分にもわたる舌戦を勤め上げた加賀は、ひとつ鼻息を漏らした。

「私だって、明日の出撃に備えていろいろやることがあるのだけれど。わざわざこんなことで呼び出さないでくれるかしら」

 向こうからは「森友を出せ」の一点張り。こちらは時折司令からの伝言を伝えて、それ以外は「代われません」と言うだけ。ひどく不毛な時間に付き合わされて、加賀の機嫌はすこぶる悪い。

「今はヴェールヌイを愛でるのに忙しいんだ、少しぐらいいいだろ、なあ」

 ひざの上に乗っかって、なでられるままに頭を揺らしている白髪の少女に視線を落とすと、こちらのいらだちを一切気にしていない風に、ネコのような、甘ったるい声を出す。

「そうさ、加賀もひざに座ってみるといいよ。このまま溶けてなくなりたくなるから」

 頭をなでられ、耳の後ろをなでられ、顎をなでられ。顔中をこねくり回されているというのに、そんな気持ちよさそうにできる意味が分からない。

 秘書艦はあなたでしょう。なじるのもバカバカしくなり、踵を返した。

「赤城はどうしてる」

「演習場にいるわよ。このあとは私と一緒に艦載機の整備を受ける予定です」

「そう」

 加賀は一言を背中に受け、わざわざ聞こえるようにため息を吐いて、扉を閉めた。

 富津とは比べ物にならない様々な調度品に彩られた室内である。洋館然としたあしらいの部屋には、ほのかな、ビャクダンのかおりがただよっている。

 横須賀の主である森友は、SP盤から流れる「Home,Sweet home」にあわせて鼻歌を歌いながら、ヴェールヌイの髪で遊び始めた。

「でもよかったのかい森友さん。富津の人に、あんな失礼な態度とってしまって」

 いじられるままに、彼女の髪型は作り変えられていく。編まれてあげられてわけられて。しかし痛みを感じさせない熟練さに、女の髪の扱いに対する慣れがうかがえた。

「いいんだよ。伝えることは伝えたし」

「お隣さんなんだから、なかよくしておかないと。今後の作戦だって、彼らと一緒に行うんだろう」

「その辺りはもちろん、きちんとやるよ。ただ、まずこちらが主導権を握っているってのを叩き込んでおかなきゃ。ちょっとでも苦手意識をもたせときゃ、真面目な清水のことだ。強く反発はしてこない」

「ふうん、よく知っている人なんだね」

 それを聞いて森友は、わずかに眉根をよせた。

「アイツは、ただのいけすかない女としか思っていないだろうがな」

「恋慕の相手とか……あいたっ」

 森友は分かりやすく、少しだけ力をこめた。当然の報いだ、とばかりに、謝罪の言葉一つかけずに、編みこみを再開する。

「もう、髪をひっぱるのだけはよしてくれ」

 言葉の変わりに頭をなでられると、ヴェールヌイは再び目を細める。

 ゆったりとした時間。

 けれど、鎮守府ともなれば、所属している艦娘も多い。森友もまた、一般からの徴用であったため、軍規にさほどうるさくなく、部下達とフランクな付き合いをしていた。

 だから司令室にはひっきりなしに客人がある。

 扉を蹴り開けたのは、暁型駆逐艦の一番艦。

「あっ、やっぱりここにいた。なにやってるのよ、響っ」

 鎮守府のトップに挨拶ひとつなく、大またで暁が入ってくる。

 ヴェールヌイはとろけていた顔を、寒風にあたったかのように引き締めて、あからさまに目線を落とした。

「扉は静かにあけるものだろう。レディが聞いてあきれる」

「うるさいわね、扉が重すぎるのよっ」

 雰囲気じゃない。ヴェールヌイはガコンとSP盤から針を上げた。深く帽子をかぶって、これ以上は声を出したくないと、まるで子供のようにわがままな態度をとりはじめる。

 帽子をかぶられては、ヴェールヌイの髪で遊べない。森友は役割がなくなってしまった手を暁の頭に回した。

「はいはい、仲良く仲良く。こいつがここにいるのは当たり前だろう、秘書艦なんだから」

 それを聞くと、なにを言っているの、と憤慨した暁が、地団駄を踏んだ。

「今日は六駆でお茶するって言ったじゃない。響から聞いていないの」

「……。あー。ごめんなさい」

 暁に見えないよう、ギリギリつねりあげられる痛みに、なるべく顔色を変えないように答える。

 別に仕事もさほどたまらないから、秘書艦といえども、多少の自由を与えている。まして約束事があるならなおさらだ。戦時だからこそ、憩いの時間は大事にしなくてはいけない。

 今ここでヴェールヌイの尻をひっぱたいて六駆の部屋に行かせることは簡単だ。そのあとに簡単ではない面倒ごとが勃発するのさえ目を瞑れば。

 ヴェールヌイに鼻息一つかけると、すぐに手をどけてくれた。

「富津がようやく動き出してな。今まであっちの担当分も哨戒していた隊を西に向ける事が出来るから、少し話をしてたんだ」

 それを聞くと、「仕事なら」「でも」とぶつぶつもじもじ。

 明らかにそんな堅苦しい話をする体勢でなかったのに、こんなにだまされやすくてよいのか軍人、と少し心配になる。ヴェールヌイも大概だが、暁は輪にかけて子供っぽい。これが姉を自称するネームシップなのか。そりゃあ、練度も艦娘としての時間も、膝の上で黙りこくるこの子の方が上なのだけど。

 ダメ押しをするように二の句をつむいだ。

「ともあれ、連絡もしなかったのは悪かった。もうちょっとしたら終わるから、どうか今は勘弁してくれないか」

 暁は「しょうがないわね」と納得したのかしていないのか、また大またで扉へと向かっていった。

 最後に振り返り仁王立ちして、

「終わったらいらっしゃい。いつでもいいから。もちろん、司令官もね」

と、来たときと同じように、派手に音を立てて去っていった。

 嵐のようなやつだ。

 森友は、ひざの上で体をこわばらせている彼女の肩をやわらかくなでる。

 音楽の消えた司令室には、暁が残していった乳のような匂いと、わずかに蝉の鳴き声が聞こえている。

「行くか?」

「そういう優しさは、嫌いだよ」

 ひざから飛び降りた彼女は、黙って秘書机に向かい、まったく急ぎではない書類をさばき始める。

 結局その日、ヴェールヌイが司令室を出ることはなかった。

 

 連絡を受けた部隊は、命令をもって出撃。浦賀水道で待ち合わせた、横須賀の哨戒部隊との合流を果たして、太平洋を航行している。

 富津からは夕張、木曾、涼風。

 横須賀からは、那珂、黒潮、初雪。

 夏の海の、無限に広がる入道雲を追いかけて海をゆく少女達。見慣れぬ人が見れば、狐狸妖怪にでも遭ったのかと思うほど奇怪な光景ではあったが、聞こえてくるのはかしましい、軽やかな声であった。

 前方で騒いでいる涼風、黒潮。見守るように後ろをゆく木曾。その最後尾で、夕張はこれから哨戒にあたるルート。すなわち三宅島のさらに南、御蔵島をぐるりと回り、銚子沖を経由するルートにおいて、注意点や深海棲艦との戦闘報告などを、那珂から引継ぎを受けていた。哨戒というには範囲が大きすぎるが、パトロールと言えばわかりやすいか。未だ近海をうろちょろしている深海棲艦から本土爆撃を避けるために、とにかく近海、沿岸で防戦につとめるしかないのだ。

 だがそれも、今年から着任し始めた、艦娘部隊の指揮を専門とした人材が普及してきたおかげで、光明が見え始めている。

「とにかくぅ、銚子沖だよねぇ銚子沖。あの辺はよくお客さんがいっぱいいるんだよぉ」

 くるくるくるくる。よくもまあそんなに回りながら航行できるものだと、夕張は先ほどから頭を抱えていた。いちいち頭の中で変換しなくてはいけない引継ぎなど、面倒極まりない。敵である深海棲艦を「お客さん」とのたまうか、普通。

「お魚さんがいっぱいだからかなぁ。もう少ししたらイワシがいぃーっぱい獲れるんでしょう? それまでには、あの辺のお客さんには帰ってもらいたいなぁ。刺身も塩焼きも梅煮も、なーんでもおいしいよねぇイワシ」

 自分が初出撃で、気がはやっているのはわかっている。それでも、那珂の気の抜けっぷりはいかがなものかと思う。自分も何度も出撃すれば、彼女のようになってしまうのだろうか。

「夕張ちゃんはイワシ好き?」顔を覗かれて、慌ててメモ帳を海に放り投げそうになった。

「もう、航行中は危ないから、あまり近づかないでくださいっ」

 那珂はぶすぅと頬をふくらませた。

「えー、なんで。昔はさあ、こんなに近寄れることもなかったんだよ。せっかく人の形になれたんだから、もっとスキンシップしようよぉ。百合営業だって大事なんだよっ」

「なによ百合営業って……。いいから、ちゃんと索敵しましょう」

「ちゃんとって、那珂ちゃん一応偵察機も飛ばしてるんだけどなぁ」

「えぇっ」

 慌てて、夕張も自分の水偵を飛ばそうとして、正面に上げた手を那珂につかまれた。

「いいって、作戦行動中じゃないんだから。銚子沖向かう途中でいつも戻ってくるから、そしたらお願い」

 抱きつくように腕を絡められて夕張は少しだけ、歯軋りした。経験の差があるとはいえ、このようにふざけた態度の娘に遅れをとったなど。

 横須賀には多くの艦娘が所属していて、すでに何度も深海棲艦との戦闘を経験しているということは聞いていた。よほど立派な先輩方なのだろうと期待していたのだが、会ってみて、尊敬に値するものかどうか、わかりかねるようになった。

 那珂は言わずもがな、ずうっとこのような感じで、話が右往左往する。アイドル宣言をかましてきたあたりで怪しかったのだが。

 黒潮は、うちの涼風を巻き込んで、先頭でおしゃべりばかりしている。「あまり気を抜いちゃダメ」と無線で諌めても喜悦の声をあげて、同じ年頃の娘とわちゃわちゃ。あれでは哨戒どころではない。いざと言うときに命令を聞いてくれないと、恐ろしいことになるかもしれないのに。

 そのような横須賀の最後の良心と思えた初雪。彼女は口数少なく、たまに聞こえてくるつぶやきは、「ねむい」「かえりたい」「ゲームしたい」。

 夕張は先ほどから、イライラとため息が止まらない。

「浦賀水道を出て、すぐ飛ばすんだぁ。半日じゃあ青ヶ島ぐるりとまわるのは難しいし、そっちは水偵で確認して、その手前で私達はコースを変えるの。もちろん、敵影があれば、そっちに向かうよ」

 どうせ青ヶ島も八丈島も、人がいないからねぇと何事もないかのようにつぶやいた。

 その言葉にゾっとする。ぴったりとくっついていた那珂は、夕張の表情にいち早く気づいた。

「えっと、あっと、ちがくてっ。えっとぉ、島の人たちが死んじゃったわけじゃなくて、あたっ」

 後ろからの衝撃に、つんのめって海面に頭を突っ込みそうになった那珂は、涙目で振り返った。背後にはいつの間に忍び寄ったのか、初雪が立っている。

「言い方、考えなよ。ゆうばりさん、島のひとたちは、みんな脱出しただけ。すごかったらしい、よ。キスカ島までとは、いわないけど。艦娘がいなかったのに、民間人には、被害がなかったんだってさ」

「うぅ、そのとおりです。ごめんなさい」

 初雪の言葉をこんなに長く聞くのは、今日初めてではないだろうか。相変わらず眠そうな、ダウナー気味の声だが、中には夕張に対する気遣いがこめられているようにも思える。

 しかし、さらに先。小笠原諸島にも人がいたはずだ。ここからさらに倍以上遠い。青ヶ島でそんなに難しい作戦だったのなら、小笠原は。

 那珂も初雪も、夕張の表情を認めて、あえて何もいわなかった。それこそが解答だった。

 ふと、前方をいく駆逐艦の声が流れて来る。

「おぉ、あれが御蔵島かい。でも、あそこにいるのは……」

 見れば、じゃぎじゃぎな、下手したら艦影と見間違えるような島が見え、そこには、いくつかの通常の艦艇があった。

「あー、なんかなー、八丈島に基地つくろーって話になってんねんて。あれは下見の船やろなぁ。夜にこっそりでるんちゃうやろか」

 クルーザーだろうか。

 素っ裸の通常艦艇でここまで出てくるなど、自殺行為はなはだしい。艦娘の戦隊ひとつでも派遣してやればいいのにとも思ったが、戦闘艦の速度に合わせるよりも、クルーザー単船のほうがはるかに高速である。もしかすると、意外と安全なのかもしれない。

 黒潮は島を指差して、涼風に言った。

「よーっし、じゃああそこまで競争しようや、涼風ちゃん。よぉーい、どーんっ」

「ええ、ちょ、黒潮ぉっ。そんなの粋じゃねぇやっ」

 大きく水しぶきを上げて、二人は島へと向かっていった。遊びに来ているわけじゃないのに、と夕張が大きくため息を吐いて、そして彼女達の真後ろに立っていた木曾を見てふきだして、あわてて表情を引き締めた。

 出力を上げれば排水量は多くなる。図体こそ小さくなったとはいえ、航行するのに必要な靴はしっかりと熱をもつから、もちろん同じシステムで排水される。真後ろに立っていた木曾は海水をモロにかぶって、ぬれねずみとなっていた。

 涼風は先行する涼風に無線を入れようとしたが、木曾のつぶやきに邪魔をされる。

「なあ、夕張」

「なに。今涼風たちを呼び戻すから……」

「怒ってもいいよな、これは」

 まって、と言う前に、木曾は出力を上げて、未だ何も知らずにはしゃぎまわる二人を追いかけた。

「まてコラこのクソガキどもっ。二度と俺に頭が上がらねぇように教育してやるっ」

 木曾の上げた水しぶきはさらに細かくなり、夏の熱射をうけてきらきらと輝いた。その細やかなしぶきはじりじりと焼かれた肌に、とても気持ちがよい。

 夕張は逆で、最後の砦である木曾までもが、横須賀のたるんだ空気に引っ張られていってしまった気がした。今度こそ無線を入れようとしたら、割り込むように那珂が、抜けた声をはさんでくる。

「あはっ、みんな楽しそうだねぇ。ね、夕張ちゃん」

 なにが楽しそうか。私は今腹が立っているのに。

 表情に出ていたのだろう。夕張の表情に、那珂もぶうっ頬をふくらませた。「もう、せっかく笑ってくれたのに」と夕張の顔を伸ばすように、頬を引っ張る。間近で見る彼女の顔は日焼け一つなく、色白で、大きな目をしている。同姓でもかわいいと感じてしまう顔が、目の前にあった。

 ぐにぐにぐにぐに。肉をやわらかくするように顔をこねくり回される。こんなにいじられると、夕張にも女としての恥辱はある。助けを求めるように初雪を見ると、あからさまに目をそらされた。

 無視しやがったな!

「やめへくらはいっ」

「だーめっ」

 ぐにぐに。必死に顔を背けようとしても、那珂は合気道家のようにぴったりと体をくっつけてくる。

「あぶあいえふからぁ」

「だーーめっ」

「なんえでふはぁっ」

「もーぅ、かたいっ」

 最後にパチンと両頬を叩かれて顔を潰される。さすがに恥辱のきわみだ。夕張は速度を緩めて、その場にしゃがみこんだ。

 那珂は夕張と目線を合わせるようにかがんで、じいっと目を見すくめる。

「あの子たちと、夕張ちゃんの違うとこ、なーんだ」

 彼女の顔は、先ほどまでの抜けた顔ではなく、いたって真剣な顔をしている。濃いとび色の瞳が、夕張を諌めるように、微動だにせず見つめている。

 木曾や涼風と違うところ。

 私は、そう、私は違う。彼女達がふざけているなら、代わりにしっかりしなくちゃ。万が一が、想定外が、もしかしたらがそこら中に転がっている場所なのだから。私達は遊びに来ているんじゃない。旗艦である私のミスひとつで、彼女達だって沈むかもしれない。ミスひとつで、日本が大変な事になるかもしれない。

 パチンと、もう一度頬を張られた。

「なんか面倒なこと考えているでしょう。那珂ちゃん、勘は鋭いんだよ」

「面倒って。私達がしっかりしなくちゃダメじゃないですか」

「しっかりってなに? 那珂ちゃんがしっかりしてないからムカついているの」

 それは、と口ごもった。

 的を射ているようで違う。夕張が腹を立てているのは、那珂にではない。彼女は態度は不真面目だけど、やっていることはやっているのだ。

 でもね、経験が違うんだもの、仕方ないじゃない。

「それとも、単純に私達と一緒にいるのがつまらないの」

 違う。

 大事なところが、根本的なところからズレている気がする。那珂は遊びかなにかと勘違いしているのか。気を引き締めておかないと、いざというときに行動できないじゃない。

 那珂はこちらの気持ちを知ってか知らずか、大きくため息を吐いた。

「こりゃ、涼風ちゃんよりも重症だねえ」

 背後で一緒に立ち止まっている初雪に視線を送ると、彼女は舌をべっと出して同意した。

 こいつら。

「どういうことですかっ」

 凪いだ海の上にいると、上からも下からも、陽に焼かれているように感じる。

 先頭をいく三人の声は遠く、耳をすまして、ようやく聞こえるかといったところ。そのような海原の真ん中で、味方が一人もいなくなったような。

 那珂は立ち上がって、もう一度ぐぐぅっと体を伸ばして、木曾たちのほうをみた。

「涼風ちゃんも大分やわらかくなったよね」

 やわらかくだと。夕張は文句を言いたくなった。あれはお前のところの黒潮にそそのかされただけじゃないか。涼風は、はじめは真面目にしていたのに。無駄口も叩かず、しっかりと隊列を守って。

「あの子、ビビってたんだよ。黒潮がこっそり教えてくれた」

 頭に上っていた血が一気に下がっていく。

「ガッチガチでさぁ、さすがにこんな状態で攻撃されたら、まっさきに沈んじゃうなぁって思ったの。だから、ある程度こっちでカバーするから、なんとかしたげてって。何言ったかは知らないけど、あのぐらいリラックスできてれば、動けなくなるなんてことにはならないっしょ」

 そんなの知らない。

 今日泊地を出るまでは、そんな感じしなかったのに。いつもどおりチャキチャキに話していたし、ご飯だっていつも通り食べてたし。

「初めて出撃する子ってね、海に出たときにああなっちゃうことがあるの。地上なら息巻いてても、海に出ればいつ沈められるかわからないでしょ。自覚しちゃうんだよ」

「で、でも。それならなおさら、隊列を崩して、あんなに先行しちゃうのは危ないじゃないですか」

 ただの揚げ足取り。重箱の隅をつついてるだけ。なんとか自分を守るために、夕張の口は回る。

「なんのために水偵飛ばしているの。それに、黒潮がわざわざ木曾ちゃんに海水ぶっかけたのも、それを追いかけるであろう木曾ちゃんの性格も分かってなかったわけ」

「……っ」

 見透かされたように言葉をぶつけてくる那珂に腹が立った。かわいらしく見えていた顔も、今では憎たらしい、ひどくベトついたものに見える。

 木曾は、唯一のとりでだった。そのことは正しかった。わき目もふらずに先行する二人のお守りとして追いかけていったのだ。

「ま、木曾ちゃんはわりとリラックスしてたからね。わざわざあんなことしなくても大丈夫だったと思うけど」

 なぜ。

 私だって、日は浅いとはいえ、同じ釜の飯を食べた仲だ。それがぽっと出の、今日初めて会った様な子が、こんなにわかったような口利けるの。

 けれど言い返せない。全てが的確で、見事に、自分の中の空いた隙間にぴたりと当てはまっていく。

「今後はあなたたちが三人で哨戒にあたるんでしょう? いっとくけど、哨戒なんて基本中の基本。作戦でもなんでもないんだよ。だのに、この体たらく。向いてないんじゃないかな、旗艦」

 パシン。

 那珂は打たれた頬を押さえることもせずに、じっと夕張を見つめている。

 一番言われたくないことを、一番深く心にあったことをえぐられた。怒りにわななく声で夕張は、那珂に言い返す。

「わかってるわよ、戦闘向きじゃない私が、旗艦に向いていないことなんて。いくら記憶があるっていったって、今の私はまったくのぺーぺー。そんなこともわかってる。だけどね、私は旗艦になったの。富津の、私達の泊地の、一番初めに出撃する戦隊の旗艦になったのよ。せっかく司令が選んでくれたのに、万が一を起こすわけにはいかないじゃない。石橋を叩いて壊すぐらい慎重になったっていいじゃない。もし私が見逃した敵が、町を攻撃したらどうする。もし私が見逃した敵が、誰かを沈めたらどうする」

 怖かったから。彼女には悟られたくなかったことでも、もう回りだした口は止まらない。

 静かな海面に夕張の怒声が飛んでゆく。

「私の目の前で、私のミスで、人も仲間も死んじゃうかもしれないの。なんであなたはそんなに軽薄でいられるの。私には理解できないっ。私に旗艦を任せてくれた司令に顔なんてあわせられないじゃない。なにかあっても私、責任とれない! 耐えられない!」

 まだ何かあったわけではない。たかだか哨戒でこの体たらく。那珂の言うとおりである。

 司令が何を考え夕張を旗艦としたのかわからないけれど、任命してくれたのなら精一杯期待にこたえなければならない。たとえ、木曾のほうが旗艦に向いていると自覚していたとしても。

 痛いほどに肩をつかまれた那珂は何も言わなかった。ただぶつけられるまま、夕張の告白を聞いていた。

 はじめに口を開いたのは、那珂たちの隣に立って見張りをしていた白雪である。

「沈むときは、どうやったって、沈む」

 静かでなければ聞き逃してしまうよな声量。間延びした、緊張感のかけらもないように聞こえる声は、低く、頭に直接言葉を叩き込まれているような気がした。

「だけどね、『せいいっぱいやって』満足して沈むよりも、『まだ楽しいこといっぱいあるのに、沈みたくない』って思いながら、沈むほうが、いい。私は、そうやって、沈みたい」

 沈む気はないけどね、と最後に付け足して、白雪は機関を動かした。彼女の上げた水しぶきをモロにかぶり、夕張たちもずぶぬれになる。

 熱射にあてられてカッカしていた頭が、スゥっと冷えていくのを感じる。夕張の表情が、若干緩んだのことを認めて、「責任を感じるのもわかるけどさ」と、初雪の後を継いだ。

「もっとリラックスしようよ。白雪がいったとおりだよ。あの子達が沈みたくないって思えるようにしよう? 那珂ちゃんたちががんばったって、どうしようもないこともあるんだよ。夕張がそうやって苦しそうにしてたら、みんなが苦しんじゃう。いざというとき、皆が頼るのは夕張ちゃんなんだよ」

 でも、でも。

 感情が昂ぶりすぎて制御ができない。ああ、女の体というのは面倒だ。海水で濡れた頬を、生暖かい涙が流れている。こんなもの、艦ならばなにも感じなかったのに。

 那珂は泣きじゃくる夕張の髪の毛をかき回して、さらに言葉を重ねる。

「苦しむのは、後に残しておこう。ちゃんと苦しめるように。それ以外は、後に何も残らないぐらい笑っておこう。一人じゃ楽しい思い出なんてつくれないから」

 何度も何度も頭をかき回されて、一つ縛りにしていたゴムからも髪の毛がはみ出る。髪の毛が結ばっちゃう、なんて言ってられない。言いたくない。

 沈みたくないし、沈ませたくないけども。人を守るための力をもって生まれてきたのに、守れないのはイヤだけど。私一人ががんばって苦しんでも状況は好転するわけじゃない。それなら、みんなとたくさんの思い出を残したい。いざ海の底に向かうときも、苦しい記憶よりも楽しいことをたくさん思い出せるように。

 不謹慎ではあるけども、と前置きをする。

 不謹慎ではあるけども、夕張は那珂の言葉に救われた。

「ごめんなさい」

 そのことを理解できたから、夕張は素直に頭を下げる事が出来た。嗚咽だけで言葉になっていなかった気もするが、那珂はそれはもう偉そうに胸を張って、「許す!」といった。

 肩を叩くと、ふにゃっとした笑顔がかえってくる。

「よぉーし、それじゃあ、初雪にやり返しにいっちゃおっかぁ」

 那珂の声はよく通る。わざわざ大声で宣言した。

 耳に届いたであろう初雪が、「そんなつもりじゃないぃ」とさらに速度を上げて逃げ始めた。

 先行していた三人は、島の影に隠れないよう、手前で待っているのが見える。

 戦隊は私一人で成り立つものではないのだ。彼女達だって、彼女たちなりにがんばっていて、彼女達なりに悩んでいる。私は舵なんだ。あとは皆を信じて、皆でなんとかしよう。皆でうまくいかなかったら、なるべく私一人が苦しむようにしよう。

 それでいい。今は、楽しい思い出を。

「まてぇ、はつゆきーっ。那珂ちゃんまでびしょぬれにしやがってぇー。髪の毛がパリパリになっちゃうでしょーぉ!」

 ふざけるわけじゃない。リラックスが大事。

「ちょ、ちょっと待って、置いてかないでよぉ!」

 大して速度もでない、実験艦の自分。必死に追いすがっても、那珂たちの背中は小さくなるばかり。髪の毛はぐしゃぐしゃで、顔もぐしゃぐしゃ、それでも私は旗艦なのだ。

 目の前に広がる海が、入道雲を背に突き出る島が、十倍大きく見えた。

 

 格好つけて窓際に机を置くんじゃなかった。このままでは夏が終わる前に、陽に背を焼かれて制服が焦げそうだ。かといって、日中にカーテンをしめることはあまりしたくなかった。薄暗い室内にいては、気分も滅入ってしまいそうだから。

 哨戒中は緊急時をのぞいて、無線を使用しないよう伝達してある。だから、彼は自分の命令で初の出撃となった彼女達のことが心配でたまらない。結局、書類整理も大してすすんでいない。浦賀水道に入ってから通信されるはずの無線を合図として、夜の哨戒部隊を出撃させる手はずである。時刻は1823。距離が長いとはいえ、三十分近くの遅れに、清水の気持ちははやっていた。出撃前に声をかけた、旗艦の夕張の緊張っぷりが思い出されて、余計に不安になる。これでも考えた結果である。涼風が上に立つには、まだしばしの経験が必要であると思うし、木曾は前線に出して暴れてもらったほうが性にあっているだろう。夕張は頭を使うタイプであり、知識欲のある女性と踏んだ上での決定なのだ。間違いない。間違いはないと思うが、と、先ほどから思考がループしていた。

 ザ、ザ、とサイドチェストの上に置かれた無線機が、久方ぶりに声を出す。

『哨戒部隊より富津泊地。哨戒部隊より富津泊地』

「夕張かっ」

 半ば飛びつくように無線のマイクに向かってつばを飛ばした。あまりの反応の速さに驚いた夕張が「もう、うるさいですよ司令」といたずらに諌める。

『まもなく浦賀水道へ入ります。時間的な事情により銚子沖へは水偵のみの索敵となってしまいましたが。深海棲艦との交戦はなし。異常もとくにありません』

「了解した。こちらも次の部隊を出撃させよう。今朝横須賀の艦娘と待ち合わせたポイントで待機していてくれ」

『了解』

 緊張がドっと溶け出したのが自分でもわかるほど、マイクを握りながら安堵した。腰から下がなくなったようだ。

 出撃待機所への連絡を入れようとして、手を引っ込めた。後で直接聞けばいいことなのに、安心からか、少し気分が昂ぶっているようだ。もう一度夕張に無線をつないで、一つ問いかける。

「初出撃はどうだった」

 しばらくの無音の後、もう一度無線機が鳴る。

『不謹慎かもしれないですけど』と前置きがあり、それから誰にはばかっているのか、聞こえにくい、小声で言った。

『これからも楽しくやっていけそうです』

 夕張の言葉を聞いて清水は「じゃ、またあとで」と無線を切った。

 横須賀の艦娘になにか言われたのだろうか。今朝受けた最後の無線よりもはるかに明るく、弾んだ声色だった。そう、彼女達には楽しくあってほしい。笑い声のない娘など、娘ではないのだから。絶望のただなかである世の中だからこそ、そうあってほしいものだ。それを理解したのかしていないのか分からないが、旗艦である彼女が楽しくやってくれるのなら、もう心配はない。

 そして今度こそ出撃待機所への連絡を入れようとして、司令室のドアがノックされた。この時間に泊地にいるのは、出撃予定の艦娘しかいない。出撃が遅くなり、痺れをきらした叢雲辺りがきたのだろうか。

「今夕張たちから連絡があった。ようやく出撃だぞ」

 ドア越しに声をかける。

 そのまま踵を返すと思いきや、扉が開いた。艤装をまとい、すぐに海に出れる準備を終わらせた古鷹が立っていた。

「古鷹か。どうした」

 火急の用事か、と声をかける前に、古鷹の、湿った唇が柔らかく動く。

「提督、一つだけ教えてください」

 準備の前に風呂にでも入ったのだろうか。飾り香のない、石鹸の匂いが司令室に舞い込んだ。

 

 古鷹が待機所に戻ってすぐに、司令からの命令が下った。

 夏の日は長い。水平線に沈む、濃い卵の黄身のような夕日に、全員が目を細めている。誰彼時とはよくいったものである。装備開発が間に合っておらず、寄せ集めの装備しか持たない富津の夜間哨戒部隊たちは、夕張たちの間近にいたというのに、無線が入るまで気づかなかった。お守り代わりにかぶってきた司令の帽子では、えぐるように目を射す光をさえぎれない。サングラスでも装備したいわ、と、旗艦である叢雲は夕張と笑いあう。

「お疲れ様。どうだった、初出撃は」

 夕張たちはびしょぬれだった。髪の毛なんかはボロボロで、とても潮風だけのせいとは思えないほど乱れきっている。

「異常はなかったわよ。でも、ごめんね。私のせいで、ちょっと時間が押しちゃって。銚子沖の索敵は、私と那珂ちゃんの水偵を全部飛ばして確認しただけ。敵影はなかったけど、気をつけたほうがいいかも」

 ね、と夕張は那珂に声をかけた。初出撃の自分だけの意見ではないと、ことさら印象付けるように。

「うーん、そうだね。あの辺は駆逐級のお客さんがちらほら出てくるから。夜はいつもお姉ちゃんが出てたんだけど、手ごたえがなくてつまんないっていってたよ。参考までにっ」

「ありがとう」叢雲が声をかけると、那珂はふやけた笑顔を見せた。

「それで、どうして時間が押したのかしら。夕張の速度でも、十分帰ってこれる時間だったと思うけど」

「それがさあ! 夕張ちゃんたらかわいいんだよ。もぅぼろぼろ顔真っ赤にしッぼッ」

 驚くほど汚い声を出した那珂が、体をくの字に折った。

 腹には夕張のこぶしが突き刺さっている。

「なーかーちゃーんー?」

「うぶぇ……那珂ちゃん大破ぁ……」

 彼女のだす、あまりに汚い声に、周りから自然と笑い声がもれる。斜陽の海上に、たちまちかしましい花が咲いた。

 あまり長く話し込んでいるわけにもいかない。二人の旗艦から哨戒ルートとその方法について確認した後、すぐさま出発した。間際、那珂たちの背中を見届けた後、夕張は叢雲のかたをやさしくなでて、その後ろを追っていった。

 意図している事がわからないほど間抜けではない。叢雲は困ったように笑って、出立の連絡を送る。

「哨戒部隊より富津泊地」

『泊地より哨戒部隊。引継ぎは受けたか』

「ええ、つつがなく。もうすぐ浦賀水道を出るわ」

『そうか』昼に気を張り続けて、若干疲れた声が聞こえる。

 サイズが合わずすぐに吹き飛びそうになる帽子を片手で押さえながら、叢雲はカマをかけてみた。

「深夜何かあったら、どうすればいいかしら」

『起きている。連絡して来い』

 即答だった。

 本当にバカねあんたは、となじる。

「交代要員が建造されるまで寝ないつもり? そこで一つ意見具申なのだけれど、横須賀の緊急用の無線、知っていれば教えてくれないかしら」

 無線がしばらく沈黙する。

 先頭をすすむ三日月に声をかけ、速度を落とすように指示した。ならって古鷹も速度を落とす。

 まだうじうじ言うようなら思い切りどなりつけてやるんだから、と鼻息荒く返事を待っていると、意外にもあっさりと了承された。

『横須賀からお前のところに、連絡を入れさせる』

 今朝とは大違いである。「随分殊勝じゃない」と、拍子抜けした声で言った。

『夜を駆けるお前達には申し訳ないが、人間ってのは厄介でな。睡眠不足の回らない頭で、緊急時の対応を的確に指示する自信はない。私の頭一つでお前達の安全が確保できるなら、よろこんで横須賀にいじめられるさ』

 なによそれ、といって無線をきった。それでも、自分が表現できる最大の感謝を裏に貼り付けて。あの間抜けにそれが伝わるとは思えないのが、すこし癪ではあるが。

 本当によい司令官の下についたと思う。

 いつまでもうじうじとしているわけにはいかない。早くこの、胸につかえたままの、やり場のない気持ちの整理をしなければ。自分で頬をひっぱたき、上ずりそうになる声を押さえつけて、古鷹に話しかけた。

「古鷹さん、日が暮れる前に水偵飛ばしてちょうだい。日が暮れたら、その時点で引き戻してくれてかまわないから」

「了解っ」

 いつでも出せるように準備していたのか、声をかけると同時にカタパルトがはじける。那珂たちは青ヶ島からさらに大きく銚子沖方面へ飛ばしていたようだが、水平線に沈む陽は早い。そこまで広範囲にわたる索敵は期待できないだろう。それから、返ってきた水偵に別の搭乗員をあて込んでもらって、夜偵の練習もしておきたい。

 叢雲は夕張とちがい、まっさらな状態で出撃しているわけではない。知識はある。大本営で建造されてから、清水が着任するまでの二週間、みっちりと訓練した。香取は叢雲の教官でもあった。彼ほどひどい成績ではなかったが。艦娘とは強力な戦力である、なんて、兵器かなにかのように教育されたものだ。

 もしあなた方が沈んでしまいそうになったら。けれど彼女は最後の講義を終えた後、そう切り出した。「どうしようもない状況というものがあります。誰かが犠牲にならなくてはならない場合もあるでしょう。そのとき、生を手放さなければならない順序としてはじめにあるのは、駆逐艦であるあなたたちです。撃たれ、傷つき、目がかすんできたとき、考えてください。あなたが簡単に沈んでしまったら、追撃部隊が、逃がした娘たちに向かうことを。あなたが逃した艦載機一機が、本土の町を焼くことを。頭が沈んでも、砲だけは空に向けなさい。そうしていれば、もしかしたら」。彼女の声はここまでだった。かぶりを振って、たしか直後に、それぞれの着任先を告げられた。これから死地に向かうことを、いやでも叩きつけられる、ひどすぎる送別の言葉。いざというときには命を捨てろ。たとえどんなに苦しくても、簡単に沈むな。絶句する教室の中で、叢雲は彼女の言葉の続きを見ていた。

 かぶりを振る一瞬前の空白に動いた唇。

 すくい上げてくれる手があるかもしれません。

 そう動いているように見えた。

 自分の教え子が何人生き残っているかは分からない。教鞭を取るために、いろいろな記録をみているはずの彼女が、最後に口にしようとした夢物語。最後まで生をあきらめるなという真意に気づいたのは、あの教室で何人いたのだろうか。

 だれもかれも、難儀な問題をかかえている。

 ため息を一つ吐く。

 結局、偵察機が青ヶ島にたどり着く前に、陽は水平線の向こうへと沈んでいった。

 しずんでからもしばらくは明るいと言うものの、夜に慣らしていない搭乗員を、そのまま飛ばしておくのは怖すぎる。帰ってくる頃には真っ暗になっていることだろうし、古鷹に帰投するように連絡を入れてもらった。

 ちょうど古鷹が連絡を入れ終わったのと同じぐらいに、後方からプロペラの音が聞こえてくる。ずいぶん低空を飛んでいて、まさかと思い身構えたが、日が沈んで薄暗い中で、バンクしているのを認めた。横須賀のものだろう。そのまま、見事に叢雲の頭に小さなカプセルを落として、Uターンしていった。中には、無線の周波数と思われる数字だけが書かれた紙が入っていた。

「叢雲さん」

 わざわざな場所に落として行った偵察機を、恨みを込めて見送っていたら、潮風に乗った三日月の声が耳に入った。

「どうしたの、三日月」

「御蔵島が見えました。どうしましょう、このまま青ヶ島まで向かいますか」

 薄紫に染まる空を背景に、真っくろい島が見える。

 叢雲は少し考えた。さすがに青ヶ島は遠すぎる。昼と夜では勝手が違うことをいまさらながらに実感した。海上にでてから気づくなど、よほど私の頭のめぐりは悪いようだ、自己嫌悪する。もっと司令と詰めておけばよかったのだが。というか、司令から言ってくれるものでしょう、こういうものは。

 あたりはどんどん暗くなっている。オレンジ色に染まっていた世界が、濃藍色に代わり、そして墨のように変わっていく。

 周波数の書かれた紙を飲み込んで、結論を出した。

「古鷹さん。夜偵をお願いする妖精さんは、ちゃんと目を慣らしているかしら」

「うん、大丈夫だよ。今日のお昼ごろから、ずっと私のここに入ってるから」

 ちょんちょん胸元を引っ張って、暗がりにいることを示す。その中で眠りこけているであろう妖精を思って、苦笑いがでた。あまりにセクハラ的だ。

「コース変更よ。御蔵島直進、八丈島を回り込むようにして、それから北東に進路をとるわ。古鷹さん、今飛んでいるのは、どの辺までいけた?」

 古鷹がぼそぼそとなにかつぶやく。彼女のどこかにいる、水偵に宿らせている妖精と話しているのだろう。

 艦娘が不思議ならば、艤装も不思議である。砲塔や機銃、魚雷管、そして艦載機にいたるまで、まるで艤装自体が生きているかのように動く。装備には妖精がやどっていて、彼らに指示を出しているわけなのだが、稼働中に彼らの姿は見られない。文字通り、やどっているのである。艦娘が願えば姿を現すので、意思疎通がはかれないというわけではない。結局艤装の開発も妖精が行うから、仕組みは彼らのみぞ知る、である。艦載機もまた、搭乗員をやどして飛ばすわけであり、能力はやどる妖精次第となる。本体はひとつ、精神は機体の数だけ。神社の分霊を例にあげよう。古鷹は二人の搭乗員妖精をつれていた。そうなると、妖精のやどる装備を用意しなくてはならないから、体の小さい彼女は装備を犠牲にしている。機体の数だけ分霊できるとしても、妖精一固体に縁のある装備にしかおこなえないというのだから仕方がないことだ。

「八丈島の南だって。大体青ヶ島との中間あたりで、今は半分ぐらい戻ってる」

 これならば、彼女には夜偵用の装備だけを載せてもらって、日中用の搭乗員は降ろしてもいいかもしれない。その分副砲を乗せてもらったほうが、重巡本来の火力に期待できるだろう。

「じゃ、八丈島を過ぎたら訓練ついでに、青ヶ島まで飛ばしてもらえるかしら。そこから先は任せるから。みんな、それでいい?」

 二人から「了解」と返事があった。

 香取の教育のおかげで、初の航行でも恐れることはない。むしろ彼女から教授していない、艦娘の記憶に関する問題が苦しい。三日月もまた、ふたりの(あるいは一方的な)空気感をよみとっているのか、口数がすくない。それが申し訳なくてときおり叢雲が話しかけるのだが、古鷹の頭上を飛び交う会話になってしまう。叢雲は話す。三日月は気まずそうにする。古鷹の表情はうかがいしれない。三つ巴の不穏が濃藍色の海にとけずに、塊となってうごめいている。

 古鷹は無言のまま、戻ってきた水偵を回収し、夜間用の艦載機を飛ばすため、再度カタパルトを炸裂させた。 

 あたりには三人が海を行く音しかない。八丈の二島をぐるりとまわり、銚子沖へ向かう航路に入った頃には、まさに原始の世界ともいえる、つきとほしの明かりだけが世界を作っていた。足元に広がるのは完全な闇で、世の深淵をすすんでいるよう。うねり、ときおり月明かりを反射することで、ようやく自分達の足元には海があるのだと確信できる。夜の海と言うのはなにもない。本当に何もない。太平洋に突き出した犬吠崎の灯台も、今となっては廃墟となっていたはずだ。

「海って、何も変わらないですね」

 延々広がる黒の世界に、三日月はすこし上ずった声を出す。

 叢雲は帽子をおさえたまま、すこし胸を張った。

「ええ、懐かしいとも、新鮮ともいえる。あのころはいったい、どの目線で海を見ていたのかしら。艦橋? 艦首? それとも、缶から?」

 あなたの後ろに恐怖はない。そう伝えたくて、努めて明るく振舞った。甲斐あり、三日月は笑った。弾んだ息の音が聞こえる。

「私はマストからだと思います。もっと遠くまで、向こうを見ていた気がしますから」

「言われてみれば。でも、主砲が火をふくのを間近でみていた気もするし、機関室でてんてこ舞いに動く人たちも見ていたのよね」

「ということは、艦全体に目があったってことなんでしょうか。百目鬼であるまいに、なんだか気持ちが悪いです」

「ふふ、確かに」

 三日月は首だけ後ろに回して、真後ろにいく古鷹に話しかける。

「古鷹さんはなにか、印象的なこととかあってありますか」

「私? うーん」

 急に話をふられた古鷹はすこし考えて、まさに該当する記憶を探し当てたようで、笑った。

「艦の私が進水してすぐ、皇族の方が乗られたんだけどね。その人がまた未練たらしくて」

 しばらくくすぐったそうにして、「でもやっぱり」と繋げる。

「戦争中のほうが頭には残っているかな。ぜんぜん怖いとかは考えていなかったけど。戦うために造られたんだもん、当然かもしれないけど」

「そうですね、艦だったころは、必死でしたから。私の最期は、ちょっと恥ずかしいですが」

「そんなことないよ」語調を強めてもう一度繰りかえす。「そんなことない。みんな頑張ってた」

 またしばらく沈黙があった。はからずしも暗い話題に展開してしまったことを、三日月はきっと申し訳なく思っているだろう。『艦と艦娘の生は別物』というのは、三日月も古鷹も、おおよその艦娘も同じように考えてることは同じである。けれど、この時代に生まれてから、まだ浅い。濃くうずまく艦の記憶を新しいもので上書くには艦娘としての生が浅すぎる。

 最後尾を航行する叢雲は、彼女達のことを苦々しく見つめていた。いや、見ているのが怖くて、顔をそむけていた。古鷹の巻き上げる海水に、帽子と絹糸の髪が湿気る。あれほど探した彼女が前にいるというのに。何度もめぐる思考に、脳みそがミキサーにかけられたように頭痛がする。

「私の最期の記憶はですね」三日月が話し始めた。めぐり続ける邪魔な考えを振って飛ばし、彼女の独白に耳をかたむける。

「とてものんびりした時間でした。思い切り座礁してしまって、どうしても動けなくて。敵に見つかっても動けずに、魚雷を受けて、もうどうにもならんと、皆さん脱出されまして。そこから私の意識がなくなるまで、ただぼーっとしていました。世界があわただしく動いていた中で、何も考えずに、ただあるものを見ていました。あんなに動き回っていた海も、皆が戦っている海も、そんなことはちっとも考えずに、のんびりとしていました。休みなしの艦隊勤務がうそのように」

 笑いながら話せるのは、彼女が吹っ切っている証なのだろうか。先頭をゆく、見た目は自分よりも幼く感じられる三日月の告解を黙って聞く。

「艦娘として生まれ変わって、もう一度戦ってくれって言われて、私うれしかったんです。また御国の役にたてるって。だけど、陸に立って、人と話して、艦の頃とは違う気持ちが湧いてしまいました。戦えばよかっただけとは違います。今は、叢雲さんとも、古鷹さんとも、夕張さんも涼風さんも木曾さんも、そして司令とも。『お話』できるんです。すこし、戦うことが、怖くなりました」

 おびえているわけじゃないんですけど、と付け足して、彼女は恥ずかしそうに笑った。

 艦娘とは。再度この世の土を踏みしめた夜、一人考えたことがある。艦が海をすすむものならば、人の形と艦の魂をもつ自分はいったいどこをすすめばいいのだろう。結局答えは出せずに、あわただしい司令との時間に埋没していったのだが、三日月の言葉で、ふと糸がつながった気がした。

 三日月の言葉に、「わかるなあ」と古鷹がつぶやいた。

「お話できるってすごいよね。私の言葉が相手に届いて、言葉が返ってくるって、すごいことだって思った。私と同じように、相手も私のことを考えているのかなって思うと、うれしくもあるけれど、時々怖い」

 叢雲はその言葉が自分にあてられているものではないかと感じた。だから、ふたたびゆっくりすすみ始めた彼女の後を、何も言わずについていく。

「もう、ただ戦えばいいだけじゃないんだなって、司令と会ってわかったの。私が建造されて、司令室に挨拶にいったときに、いろいろ聞いて、聞かされて。私、あまり頭がよくないみたいでさ、ごちゃごちゃに混乱して目を回してたらね、司令に笑われちゃったの。そしてら、『これだけ覚えてればいい』って、教えてくれた言葉があるの」

 古鷹は詠った。

 月明かりの下で詠う彼女の顔を見ることはできなかったが、きっと、綺麗なのだろう。目を閉じて、頬をちょっぴり染めて、目蓋の裏には、おそらく司令の顔を思い浮かべて。「花にもし香りがなかったら」彼女は最初の一文を口にだした。

「花にもし香りがなかったら、なんで花といえよう。若者に燃える火がなかったら、なんで娘たちの心を暖められよう」

「それ!」三日月が喜悦の声をあげた。

「私にも教えてくれました。いい詩ですよね。そうあれかし、といわれているようで」

 叢雲はすこし嫉妬した。彼女はこの詩を聞かされた事がない。私が一番初めに会ったのに、私の知らない詩を、古鷹たちは知っている。

 すこし強がってみようとして、それよりも先に、ふきだしてしまった。

「あ、叢雲ひどい!」

「あはは、ご、ごめんなさい」

 想像してしまったのだ。薄暗い司令室で、混乱する少女を落ち着かせようと、キザったらしく詩を滔滔と詠み上げる司令の姿を。想像すれば想像するだけ、くっきりと場面が頭に浮き出てきて、笑いが止まらなくなる。ツボにはいったようだ。あはは、ひひひ、からだを折り曲げて、顔は真っ赤になっているだろう。

 古鷹は鼻息ひとつ吐いて、それから一緒に笑った。三日月もまた、しのぶように笑っていた。おだやかだった海面に波が立つ。腹をかかえてただ笑う彼女達は、まさしく娘。ただの娘だった。

「私たちは艦娘になったから」一通り笑い終えた古鷹が、いまだ震えている腹を押さえながら声を出す。

「娘になったんだ。笑うといい。笑って、歌って、やりたいことはなんでもやれ。わがままも言え。それが女というものだ、なんて」

 これも司令に言われたんだけど、と付け足された言葉で、またもや腹がよじれた。あまりにひどい口説き文句だ。一瞬感じた嫉妬は、笑い声と一緒に、海原のどこかに吹っ飛んでいってしまった。

 古鷹の言ったとおりだ。言葉はすごい。たった数文字で、思考を変えさせる。司令はこういいたかったのだ。「艦であるまえに、娘なのだ」と。そのためには怖がることも、命を惜しむことも、時には間違った自分に突っかかってくることも、すべて許す。真意がどうあれ、女として『そうあれかし』というのだ。この場合の「若者」というのが司令官自身なのだとしたら余計に間抜けである。

 何もなかった夜の海に、ハチが飛び回るような音が、だんだんと大きく聞こえてくる。夜間偵察に向かっていた古鷹の艦載機が戻ってきた。

 また腰をかがめて、偵察機をすくい上げる古鷹を見て、決心がついた。それもこれも、思い出したくもない過去の話をしてくれた三日月と、そのあとに宝石のような言葉で背中を押してくれた古鷹のおかげだということも理解した上で。

 うじうじするのは、もうやめだ。きちんと話そう。

 それが、私が艦『娘』になるために必要なものだから。

 考え方ひとつ変えるだけで、まっくらな海が淡くなる、全身が沸き立った。沸き立つ体でみんなに抱きつきたいけれど、今はガマン。私が娘になれたら、もう遠慮なんかしないんだから。

 時刻は深夜二時。月明かりに照らされる、はるか遠くの陸地に、太くて長い影が立っていた。犬吠崎の灯台だ。叢雲は危険地帯に入ったことに、改めて気を引き締める。駆逐級なんて、無傷でぼっこぼこにしてやるんだから、と息巻きながら。

 かつては、深夜であるこんな時間であっても、銚子港の船に灯りがあったはずときいている。灯台が回り、海保の船がゆったりと哨戒し、海岸沿いには夜釣りの竿がたくさん立てかけられていた。伊勢えびを獲りにきている民間人が、テトラの近くをうろちょろしていることもあったろう。灯台は真っ先に壊された。度重なる空襲と砲撃で、硫黄島のように、海岸線の形は変わっている。もちろん、ひしめきあっていた漁船は全滅。漁獲量一位を誇った港は沈黙していた。

 そのさらに沖あいで、三人は神経を尖らせていた。潜水艦にでも攻撃されたらたまらない。ただでさえ、水中探信儀は、未だ泊地に配備されていないのだ。最低限の装備ぐらい大本営から送られてきてもいいのに、とごちたところで、ないものはない。そういった装備は、太平洋側とは比べ物にならないほど激戦区である日本海側に優先的に渡されるのである。

「気持ち悪いほどに静かね」

 遠くに聞こえる波の音以外が聞こえない。先ほどまでたてていた排水音は、速度を抑えたことでほとんど無音。なにか雑談しようにも、この海域には「物音を立ててはいけないのではないか」と思えるほどの緊張感があった。

「……うん。私の電探では、あたりに敵は確認できませんね」

 三日月は、この部隊の命綱ともいえるべき水上電探に宿る妖精と密に話し合っていた。

 彼女の身長は一メートルと四十センチに満たない。叢雲も多少上とはいえ同程度であるから、目測で見渡せる範囲は、四キロほど。古鷹は二人に比べて身長はあるが、それでもいいところ六十ほど。目測で見える距離ならば、相手からも丸見えである。

 時代はすすんでいる。よほど高性能なレーダーや、まして衛星を使えばもっと正確に敵の位置を把握できるはずなのに。叢雲は大本営でそのような質問をしたことがある。が、人間だってバカではない。散々試したのだ。試して、ダメだった。深海棲艦には、おおよそ人の知能では敵わない。人同士の戦い用に開発されたレーダーを、ことごとく深海棲艦はすり抜けてくる。反応しないのだ。衛星でも、深海棲艦が活動している付近は映像が写らない。「なにかしらの妨害電波を放出している」調査の結果出された答えは、それこそ三才の子供が出すような結論から、一切の進展を見せていない。

 唯一の望みは妖精の開発する、はるか昔の、黎明期の装備のみ。仕組みは同じはずなのに、彼らが開発しない限り、深海棲艦に有効な装備が作れない。完全なブラックスボックスに頼らざるをえないのが、科学を第一に成長してきた、人類の末路だった。

「やっぱり、私が装備したほうがよかったんじゃないかな」

 おっとりした顔つきを引っ込めて古鷹が言った。多少なりとも身長のある古鷹が装備したほうが、たしかに広範囲をカバーできる。

「今日は古鷹さんは水偵を多く持っていますから。明日以降の装備は考え直しましょう」

「そうね」叢雲が賛成する。「水偵は一つおろして、夜偵用だけ積んでもらおうかしら。ごめんなさい」

 正直、今日の装備は、完全に失敗だった。

 清水からは、「お前たちのほうが詳しいだろうから」と、一切合財を任されていたのだが、頭を使うにはコンディションが悪すぎた。いや、そんなのは言い訳にしかならない。

 叢雲の謝罪を受けて、古鷹は振り返った。

「叢雲のせいじゃないよ。私たちだって、何も言わなかったし」

 その言葉に三日月も「そうですよ」と続く。

「そもそも、司令が叢雲さんに投げっぱなしにしたのがわるいんです。そういうことにしましょう」

「くくっ。三日月、あなた意外に腹黒いのね」

「上司とは恨みを引き受けてくれるものです。……言わないでくださいよ?」

 畳みかけるような言葉に、古鷹もふきだした。

 三人はゆっくりと銚子沖を哨戒する。けれどそこには敵の影はおろか、魚の飛び跳ねる音すら聞こえなかった。

 そうして一時間ほど、適度に雑談をはさみながら滞在していても、結局なにも起きず。よく考えてみれば毎日のように敵が出るのならば、ここは激戦区だ。常駐軍を置いたほうがいいほどの。

「適当なところで切り上げましょうか」提案する叢雲に、全員が賛成した。

 妖精たちにしいていた戦闘配備の号令を解除し、重い装備に凝った肩を回す。艤装を展開していれば人間離れした怪力を発揮できるといっても、重いものは重い。泊地にマッサージ屋でも導入してくれないかしら、と本気で考えた。これから毎日、十二時間労働である。かえって、ご飯を食べて、寝て、ご飯を食べて、また出撃。ひどい環境だ。はやく戦力を整えてもらわないと、倒れてしまいそうだ。

 というか、司令の面倒みる時間がない。

 彼にはまともな書類処理能力はない。頭脳労働向きではないのは、叢雲がこの一週間見ていてイヤというほど理解した。書類に書かれている言葉がわからないといわれたときは、鼻で笑ってしまった。あれで本当に、「学校をなかなかの成績で卒業した」というウソを貫き通すつもりだったのだろうか。「四十一センチ砲ができたぞ、叢雲もってけ」。バカ、殺す気か。そもそも戦艦がいないのに、なぜそんな装備を依頼したのかしら、と問いただしたら、「口径がでかいほど威力があると習った」と、なんとも前時代的(艦だった頃ですら時代遅れの)な思想をさらけ出してくれた。もちろん、他の着任した艦娘たちにも笑われていた。そのことが「使えない上司」ではなく「しようがない人」と思われたのは、人柄によるものなのか。どちらかといえば親しみやすい印象に転んだのは、まこと運がよい。手の空いた艦娘が勉強を教えるということで、ひとまずの対策とした。部下に教育されることを厭わない性格であることもひとつの要因だろう。一度崩されたプライドを立て直すことはあきらめたらしい。

 右手に九十九里海岸をみていると、ときおりうごめく影が見えた。

 この辺りは遠浅だが、座礁するという概念が艦娘にはない。艦に比べれば喫水が浅すぎるし、万が一座礁しても、艤装をとけばいいだけだ。機関が致命的なダメージさえ受けなければ、乗り上げても心配はない。

 彼らは海の上を行く影を見ると慌てて逃げ出そうとするが、月明かりに照らされた艦娘をみると、大きく手を振った。夜のうちに、釣りや仕掛けを使って、食料を確保している民間人だろう。本来ならば海岸線に立ち入ってはならないのだが、そうでもしないと飢えてしまう。このあたりはまだ、戦闘の少ない場所だったはずだ。

 貿易のできなくなった島国の宿命。増えすぎた人口をやしなえるだけの食料は、いまの日本には残されていない。まして漁業は全滅。山を拓いて田をつくったって、焼け石に水の状況。

 叢雲たちは彼らに手を振りかえして、その行為を黙認した。「陸にいても海に出ても人は死ぬ。生きあがこうとする人々を護るのが私たちの仕事だろう。さすがに沖合いに出てこられたら困るが」清水の言葉が三人の頭に残っている。立派な思想であるが、戦争に生きた記憶のある艦娘らには、別の考えがあった。このような言葉が出るほど人類は追い詰められているのだ。現状はもはや、深海棲艦と戦争をしているのではなく、一方的な制圧状態にあり、ネズミのように這いずり回っているだけ。

 浜辺をみつめる三人の目に憐れみの情が浮かんでいても、とがめることは出来ない。

 元鴨川魚港を過ぎた辺り、空が白んできた。

 海が色づき、陸が色づき、空が色づくと、凝り固まった思考がさらさらと流れ始める。何事もなく泊地へ帰還することに拍子抜けするよりも、ようやく陸に足をつけられることに安堵していることが、なんだかおかしい。

「――っぁあ。あー、髪がベタベタですね。お風呂はいりたいなぁ」

 三日月が伸びをすると、ぽくぽく骨が鳴る。単縦陣の先頭で気を張っていた彼女の体もまた、よく凝り固まっていた。

 潮風だけならまだしも、と叢雲は苦笑いした。最後尾を航行していれば、風にのって、彼女たちの巻き上げた海水が、しぶきになって体を濡らす。かぶっていた帽子すらもしっとりと重くなって、髪の毛も服も湿っている。長い髪は固まって細い束になっていて、これならいっそ、次の出撃時には結んできたほうがよいだろう。

 そんな折、古鷹が何気なく、とんでもないことを口走った。

「そういえばさ、お風呂の壁、すこしゆがんでて、向こう側すこし見えるの知ってる?」

「えぇっ。ちょ、向こうって男湯ですよねっ」

 三日月の足元に波が立つ。

 日は彼女達の背後から昇ってきていて、だから三日月の見開いた目と、ひきつった口元がはっきりとよく見える。

「司令から丸見えってことですかっ」服の上からでも貧相な胸を隠すと、左手に展開されている主砲が鈍く輝く。

「私たちがお風呂いただく時間と、提督が入る時間はかぶらないから、大丈夫だとは思うけど。たしか0時を回ってからだよね、提督が入るのは」

 ねぇ。

 なぜ自分に答えを求めるのかと思いながらも、叢雲は苦々しく口を開いた。

「……お風呂ができたのって、わりと初めのころだったじゃない。いい加減においを気にし始めた私たちをおもんぱかって、陸の人たちが急いで造ってくれてさ」

 一番初めに建造された三日月がそれに同意した。

 最初の三日間、全力で動いていた叢雲たちは、なかなかの匂いになっていた。それもそうだ、夏の炎天下、ひたすら土木作業にいそしんでいたのだから。艦娘といえども汗はかく、トイレにだっていく。清水のように上半身裸で、夕方素っ裸で海に飛び込めたらどんなに楽だったろうか。現世に天使なんていない。

 さらに言いにくそうに叢雲が続ける。

「お風呂ができてすぐは、仕事終わりにすぐに入ってたのよ。あのひと、日が暮れたら仕事したくないって言ってたから、夕方にね。夜中に入るようになったのは、二日ぐらい前」

 古鷹は「へえ、そうなんだ」なんて気楽に応えたが、三日月は頭を抱え始めた。

「それって、もしかして」

 縋るように叢雲を見つめても、彼女が見るのは、額に手をあててうつむく、希望のない姿。

「『気を利かせて』時間をずらしたかもしれないわ」

「あああぁぁぁ……」

 いやいやと頭を振ると、彼女の黒い長髪が風になびく。色も香も知らないおぼこではないのだ、最低限の生理知識は、建造されてすぐからでも持ち合わせている。そして、自覚さえしていれば、女は幼くとも女である。

 このなかではおそらく一人だけ「みられていない」古鷹は、コトの重大さに気づいていない。そもそもといったところ、あまり重要視していないようだった。

「なんで早く教えてくれないんですかあっ」

 噛み付くように詰め寄る三日月にすこしのけぞって、古鷹は手をふる。

「私がお風呂にはいったの昨日がはじめてだよ? 結構分かりやすいとこにあったし、誰もなにもいわないから、別に気にしてないのかなって」

「そんなわけないじゃないですかっ。お風呂ですよ、すっぽんぽんですよ、油断しまくってるんですよっ」

 ぐいぐい詰め寄る三日月、さらにのけぞる古鷹。

「ちなみに聞きたいのだけど、その穴、どこにあいているの」

 大きくのけぞった古鷹は、苦しそうな顔で、なんとか首を後ろに向ける。

 あまり体がやわらかくないのかもしれない。

「ちょうど洗い場のうしろ。後ろ向いてるし、大丈夫じゃない?」

「かーがーみっ! 目の前に鏡あるでしょー! あぁぁあああもうだめだぁ、司令に全部みられてたんだぁ!」

 この世の終わりとばかりに天を仰いで、三日月は慟哭した。

 さすがにノゾキのようなことはしてないと思うけど、と叢雲がフォローしても、ダメだった。あまりの狼狽ぶりに、さしもの古鷹も悪いと思ったのか、平謝りしている。元々気づかなかった私たちがわるいのだけど、というのは口に出さないでおいた。裸を見られていたかもしれないという重大な状況において、古鷹の危機意識が薄すぎたからだ。

 突貫で造ってもらった建物だし、使っているのは廃材。窓もないから、電球ひとつの薄暗い屋内では、なかなかアラを見つけづらいのは仕方ない、と頭の中で言い訳する。

 ちょっと待て。一番マズいのは私じゃないかしら。思い当たるフシがある。

 三日ぶりに風呂に入ったことを思い出したのだ。あの日は二人して、「風呂を造っておきました」と聞いて、駆け込んだ。三日ぶりだ。三日月には悪いと思ったが、一日多く作業している分、もはや限界は超えていた。そして盛大にくつろいだ。壁は薄いから、隣で司令がオッサンのような声を出しているのを聞いて、さすがに音は気にした。が、振る舞いは気にしていなかった。三日ぶり。艦ならいざしらず、人の姿であるならば、垢もほこりも出る。

 あの日は全身を念入りに洗った。それはもう、くまなく念入りに。体勢も考えず。

「うがあああぁぁぁぁっ!」

 急に背後から叫び声が上がって、ふたりは飛び上がった。さすがに海に浮かんでいたら艤装をつけていても跳ねられない、飛び上がらんばかりに驚いたといったほうが正しい。

「む、むらくも?」

 おそるおそるといった体で古鷹が話しかける。ようやくコトの重大さに気づいて、一番背の大きいはずの古鷹が、一番小さく見える。器用に上目を遣うが、帽子をすっぽりと顔までかぶっている叢雲の表情は、彼女達からは見えていない。

 見せられるはずがない。ただの裸ならまだよかった。よくはないが、まだマシだと思える。

 叢雲は全身から、日の昇り始めた暑さとは違う、じっとりとした汗をかいていた。

「ふさぎましょう」

 帽子をかぶったまま隊列を維持する器用さを見せて、ぼそりとつぶやいた。

「帰ったら、速攻でふさぐわよ。報告なんて、それが終わってからでいいわ。で、忘れましょう。今後一切話題に出すの禁止。司令にもなにも言わないし、何も聞かない。いいわね」

「は、はい」

 有無を言わせない、深くよどんだ声色だった。

 結局、責任を取って、という形で工事は古鷹が受け持った。ただ板を打ち付けるだけだが、他にも危ないところがないか点検もしてもらうことにした。彼女からしたらむしろなんで今まで気づかなかったという話だが、こればかりは仕方ない。もうすこし危機感を持ってほしいものだ。女所帯に男が一人。司令は山暮らしで禁欲には慣れているだろうが、男と女なのだから、そういったものはきちんと意識して注意しなければならない。それが司令のためでも、艦娘たちのためでもある。

 ちなみに同じベッドで眠りこけていたことは、他の娘たちには内緒にしてある。今思えば、初対面の上がりきったテンションのまま、随分なことをしたと反省している。

「うぅ……ごめんね」

 千葉の最南端、野島崎灯台の跡地に建つ軍の建造物を過ぎた。ここまでくれば、泊地はもう目の前だ。

 時刻は五時をすこし回ったところ。このまま浦賀水道に入ってしまっては、引継ぎには早すぎる。大島まで出ることにした。

 三日月にずっと説教をされていた古鷹が、この短時間で五十回はくだらないんじゃないかというほどの謝罪の言葉を、またひとつ追加した。

「古鷹さんだって、まだ建造されたてで混乱しているかもしれませんが、今は女の子の姿なんです。そして司令は男のひとです。さっきいったこと、ちゃんと覚えていますか!」

「えっと、足を広げない、べたべた触らない、肌はなるべく見せない……でもこの制服って、足丸出しだよ。どうしようもないんじゃ」

「これはこういうものです! それにちょっとの露出はオシャレに必要ですから。だからこそ、ちゃんとした所作を身につけてなければいけないんですよ。その服装で足広げて座ったら、ぱんつ丸出しの痴女ですからねっ」

 肌を見せるな、だけど露出は必要。

 古鷹は完全に混乱していた。

 べたべた触るなというのも分からない。そんなに触ることって、日常生活にあるのだろうか。

 妖精からもらった私服はボーイッシュにまとめられているので、普段はそんなに気にしなくてもいいんじゃないかと出来心で口答えしたとき、涙があふれそうなほどボロクソに言い返された古鷹は、おとなしく聞いていた。

「わかったよぉ。一応、恥じらいは持っているつもりなんだけどなあ。人の姿でいることにあまり違和感ないし。司令の前で裸になったりしないよ?」

「そ、ん、な、の、は、当然ですっ。私が言っているのは、みっともないことをしない、といったものです」

「はいぃ、ごめんなさい」

 また追加。

 だんだん三日月のイメージする女性像の話にシフトしてきているのを、叢雲はすこし楽しんでいた。どちらかというと人をからかうタイプの性格にうまれたらしい叢雲には、新鮮な話である。艦娘によってこんなに意識の違いがあるのは面白い。

 なるほど、今度アイツが私をいやらしい目つきで見てきたらすこししおらしくしてみよう。叢雲は考えた。私は古鷹と逆で、私服で足を出しているから。ちらちら太ももを見ているの、気づいてないと思っているのかしら。もしそうなら、男ってのは想像以上にバカ。

「ほらほら、大島が見えたわよ。三日月、面舵」

「ふぉおう、了解です」

 舵なんてないからこんな号令に意味はないのだが、ついついクセで口に出してしまう。最後まで隊列を乱さないように航跡をなぞると、ググっと体が左側に投げ出されそうになる。

「何事もなく終了、かしら。みんな、お疲れさま」

 このまま浦賀水道に入れば、ちょうどいい時間になるだろう。それでもすこし早いが、もう夏の陽が、半身水平線から覗いている。

 叢雲はしょぼしょぼする目をしばたたかせて、ひとつあくびをした。

「すこし拍子抜けした気もするけどね」

「そうですねぇ。那珂さんたちの話で注意していた銚子沖も、結局静まり返っていましたし。今ならやる気あるのにな」

 すっかり興奮した三日月が、後ろを振り返って力こぶをつくる真似事をした。

「叢雲も旗艦おつかれ。三日月……さんも先頭で疲れたでし……ましたよね」

 それとは真逆に、最後の最後で体力と精神力をすべてもっていかれた古鷹は、声が一トーン落ちている。言葉遣いもメチャクチャでおかしくなっていた。 

「古鷹さん、やめてくださいって、 うー、言い過ぎました、ごめんなさいぃ」

 真っ赤になって目の前でぱたぱたと手をふっていると、先ほどまで毅然と説教をしていたようには見えない。妹のようであり、姉のようでもある、不思議な性格だ。げっそりとしながらも笑顔で三日月をなだめる古鷹も、背伸びする妹に相対する姉のようである。

 もう一度叢雲があくびをすると、遠くから変わった音が聞こえてきた。エンジン音とも、ウミネコの鳴き声のようにも聞こえる。どこかで聞いたことがあったが、それがなんだかは思い出せない。

 だんだんと近づいてくる。時間も時間であるから、横須賀の部隊が飛ばしていた偵察機かもしれない。

「横須賀かしら、さすがに朝早いわね。私たちの交代までこのまま行ってもすこし早いから、軽く演習でもする?」

 思い返せば、着任してから一度も砲を撃ってない。とにかく泊地をまともな住家にすることに全力だった。叢雲はともかく、残りの艦娘は演習すらした事がないのだ。

 さすがに実弾をつんだまま撃ちあいはできないが、動きだけでも練習しておいたほうがいい。それに、戦闘を意識するのは、頭をからっぽにできる。帰ったら古鷹と話し合う決意をしている叢雲は、一発おもいきりからだを動かしたい気分だった。

「いいですけど」三日月が目をこらして、空から飛んでくる音のほうを見つめていた。

「この音、なんでしょう。何か飛んでるみたいですけど」

「ん、対空電探はないからなあ。叢雲、識別信号ってわかる?」

「電探が欲しいわね、まったく。発光信号しかないわ」

 資料を見る限り、近頃太平洋側には駆逐級や軽巡級の水雷戦隊しか出没していなかったので、対空装備はおざなりにしていた。よくよく考えてみれば、味方識別でも使用するのだ。艦娘は六人そろい、装備開発にも妖精を回せるようになったので、帰ったら作ってもらおう。司令の頭さえ回っていれば、もう依頼をだしているかもしれない。

「横須賀には空母の人たちもいるから、長距離索敵でもしているんじゃないかしら。夜明けから出れば、わりと遠くまでいけるでしょう」

 そういって、叢雲は胸がずぐんと高鳴った。

 まて、そういえば司令がいっていたじゃないか。引継ぎをもって、横須賀は西に部隊を向けると。

 ずぐん、ずぐん、心臓が高鳴る。

「長距離索敵って、編隊組むんですか? どちらかというと航空隊の演習に見えます」

 慌てて振り向く。

 大島はもう大分遠い。その大島と自分達の中間辺り、四機編隊の飛行隊が、七つ。叢雲が視界に納めると同時に、隊列を変えた。

 明らかに戦闘態勢。

 叢雲は、全身の血の気が引くのを感じた。

「航空戦の演習でしょうか。ということは、この近くに横須賀の方がいらっしゃるんですかね」

 三日月は座学も、演習すらもしていない。それに、資料は見ていたとしても、この辺りに直近、敵空母が出現したとは書いていなかった。だからこそのんきに、いもしない艦娘の影を探して、きょろきょろ辺りを見渡している。艦のころの記憶があるといっても、「あのときとは勝手が違う」と叢雲でさえ建造されたてのころ思っていた。

 まさに今空を飛んでいる航空隊は、こちらを狙っている。

「演習じゃないわ」

 やっとで絞り出した声は、老婆のようにしゃがれていた。

 緊張でのどがひりついているのだ。

「え?」

 古鷹がいぶかしげに叢雲を見た。

「演習じゃない! 敵襲よ!」

 艦娘となっても、速度は艦のころから大して変わっていない。航空機のほうが圧倒的に早いのは昔から変わらない。気づけばいくつかの敵機は高度を下げていた。

「敵襲って、そんな、ここ泊地の目の前ですよっ」

 三日月も古鷹も、旗艦である叢雲を、完全に混乱した表情でみていた。しかし、叢雲は敵機の挙動を、まばたきもせずに見つめている。

 指示することもせずに。

 そして高度を下げた機体が海面に何かを落としたのをみて、思い出したかのように叫んだ。

「雷撃よ! 魚雷がくるっ、かい、回避運動っ!」

 白い雷跡をなびかせて、叢雲たちへまっすぐむかってくる魚雷に全身があわ立った。

 昔はあれに何隻もやられた。姿かたちが変わっても、恐怖は脳に染み付いている。

「か、回避運動! 右てんか、って古鷹さ、きゃああ!」

 おのおのが近づきすぎていた。

 まだ帰投していないというのに、油断しきっていた。

 同じ方向にすすんでいれば、艦娘の姿であるなら航行中でも触れ合うことは出来る。けれど、別々の方向にすすもうとしていた同士が、時速五十キロ近くでぶつかれば、いくら艤装を展開して頑丈になっているからといっても無事では済まない。

「古鷹さん、三日月!」

 古鷹と三日月は、まさしく衝突した。バチンという肉の音と、艤装同士がぶつかりひしゃげる金属音があった。

 一度放たれた魚雷は止まらない。約束された時限まで、ひたすらすすみ続ける。叢雲が人の心配をする余裕もないほど肉薄しているというのに、二人は動けないままだった。

 叢雲は、皮肉ではあるが二人が団子になって動きを止めたため、魚雷のコースからかろうじて逃げ出す事が出来た。

「いったぁ……」

「う、ぐ、ごめんなさ」「早くたって! にげてぇ!」

 どこにもつながっていない、地獄からの糸が自分を通り過ぎたのをはっきりと見た。

 直後、腹の内側から響くような爆音があり、二人が真っ白い水柱の中に消えた。

 離れたところまで回避していても、大きく爆ぜる風としぶきに顔をそむける。おさえた中折れ帽のつばがひっくり返るほどの暴風。

 まっすぐ昇った海水がまっすぐ落ちて行く。中には足元からの水圧で不恰好に体を持ち上げられたまま、ふたりは立っていた。

「ふたりとも、大丈夫なのっ」

 水を飲んだのか、痛みなのか、古鷹も三日月も不規則に全身を使って呼吸していた。まだ浮いている。生きている。それだけで足の力が抜けそうになるのを、なんとかこらえる。

 航空隊は編隊を組んでいた。規模はそれほどでないと言えど、まさか雷撃機だけを出撃させるわけがない。予想通り、エンジン音とキィキィミャアミャア不気味な音をさせて、ぐんぐんと戦闘機が近づいてきていた。

 ふたりも心配だが、状況は着実にすすみ続ける。

「対空戦闘よぉーい!」叢雲は艤装の各部が熱く、駆動していくのを感じる。装備にやどる妖精が、ようやく主の号令がかかったと、戦闘配備についたのだ。

「うちぃーかた、始めェ!」

 命令と同時に、腰に展開している装備の一部が火を噴いた。一転、澄み渡っていた海上に硝煙がまき散らされ、きたない朝もやとなって陽をさえぎる。しかし対空装備など考えていない。申し訳程度に備えられた機銃の発砲音が、むなしく、なににもさえぎられることなく海のかなたへ消えて行く。

「古鷹、三日月、動ける? とてもじゃないけど落とせないわ!」

 三次元機動する豆粒のような敵機に、点で攻撃を撃ち込んでもまったく意味がない。一機の損失も与える事ができず、耳障りな音を立てて近づいてくる。うち何機かは空高く高度を上げて、明らかに急降下爆撃の準備に入っていた。

 爆撃機まで!

「ふたりとも!」

 咳と隙間風のような呼吸音。

 言葉がなくとも、答えだった。

 せめて、せめて呼吸が整うまではかばわなければ。隊列から分離してまっすぐ向かってくる機体に機銃を打ち込みながら、腰のアームのもう片方、主砲の発射準備にうつる。火力を、とにかく火力をつぎこまなければ。こちらに注意を向かせなければ。

「主砲、ってェ!」

 腰を落として衝撃に備えた。

 聞こえてきたのは、過去にイヤと言うほど聞いてきた音とまるっきり同じ。モノが小さくなっても威力は変わらないということだ。これもまた妖精マジックのたまものである。体が後ろに投げ飛ばされる感覚に思い切り足で踏ん張る。艦と違い、二本の細い足しか支えるものがないというのは、また勝手の違うことで、いささか不便でもあった。

 主砲につんでいるのはまったく普通の弾薬のみ。発砲炎をみて、一瞬で散開した敵機には当然当たらず、危険域まで侵攻された。

「っ! まだまだあっ。準備が出来次第ボコスカ撃ちな、きゃあっ!」

 正面ばかりに気をとられていて、側面からの攻撃に思わず声を上げる。

 敵の別働隊の機銃が、とがった火箸で連続で突かれているような痛みを叢雲に与えた。五発、十発、十五発。艤装を展開した艦娘の肌を食い破り、白い制服がみるみる間に破れ、赤くしみを作っていく。幸いなのは、肉に食い込むほどではないこと。目だけは潰されないように顔をおさえて、ひたすら四方八方から弾を撃ちこまれるのを耐えた。ガン、ガン、艤装に当たって、耳障りな金属音が連続する。さすがに衝撃は殺しきれず、まるで痛みから逃げるように、一見でたらめな軌道で逃げ回っているように形ばかりの回避行動を取る。

 ほら、こっちにきなさい。ビビって逃げ回るカモが、小うるさく抵抗しているわよ。

 敵機は動かずに沈黙しているふたりよりも、未だ健在で反撃をしてくる駆逐艦を先に潰そうと標的を定めたらしい。腹に、脇に、肩に腕に背中に、倍以上の衝撃が加わりはじめたのを感じて、苦し紛れにほくそえんだ。攻撃を集中されていることで、もはやどの部位を攻撃されているかわからないほどに、全身が痛い。右わき腹を突き刺すような痛みがあったかと思えば、逆方向からネイルハンマーで殴られたような激痛が走る。それでいい。火力を私に集中させなさい。ふたりから離れるようにすすむ私に、ついてくるといい。

 腕の隙間から空をみると、あちこちに艦載機が、クソにたかるようにとんでいた。その合間にも主砲と機銃は火を噴いて、攻撃にやっきになって近づいてきた機体を一機、三機、四機、落としていく。

 制服が七割方赤く染まったころ、叢雲はふたりから戦闘機を完全に引き剥がすことに成功した。くわえて、落としきれなかった戦闘機も弾切れを起こし、大島方面へと帰っていく。合間をぬってふたりのほうを振り返れば、離れた場所でゆっくりと航行しはじめた姿がみえた。

「あっ、ぐ、大丈夫?」

 音声通信を送る。声を出すだけで、肺のあたりがひどく痛む。骨というものは意外にもろいらしい。

 残った敵機が動き始めた二人に向かって頭を向けたのを認め、全火力をそちらに向けた。背後からの砲撃にはさすがに回避が遅れるようで、見事撃墜する。

『私はなんとか、ちょっと速度がでにくいけど。だけど三日月がっ』

『だ、だ じょぶ、です。わ、たし って戦え、かふ』

 聞こえてくる音声は雑音がひどく、通信機能にも障害が出ていることが伺える。

 遠目からみても、その小さいサイズのどこからそんなに、というほど三日月の艤装は黒煙をふいていた。ところどころ火があがっているのも見える。缶をやられたのか、それではまともに戦闘などできない。しかし震えながらも左手に展開している単装砲を空へ向けたのを、叢雲はみた。もう敵はほとんどいないというのに、意識ばかりが興奮してしまっているのだろう。

 意気は汲むが、古鷹に肩を貸されてようやく立ち上がっているのに、無茶だ。

 叢雲が止める前に、彼女の主砲が火を噴いた。

『三日月っ!』

 そんな体で主砲の衝撃に耐えられるわけがない。彼女の小さい体は古鷹から離れ、肩口からはじかれたように吹っ飛ぶ。古鷹は慌てて彼女の元に駆けた。再度起こされた三日月の左手は、おもちゃかなにかのようにぶらぶらと力なくゆれている。衝撃で肩が外れたのかもしれない。右に、左に、大きく揺れるたびに、慣れない痛みで悲鳴を上げているのが、風に乗って聞こえてくる。

 ちっ。叢雲は舌打ちしながら、足りない血にぼやける頭を働かせる。

 状況はTARFU、いや、FUBARね。打つ手がない。大破がひとり、中破がひとり、まともにうごける私だって、進行形で攻撃を受けてる。対空手段はほとんどなし、そもそも敵がどこにいるかもわからない。どうしようもない、最悪の状況。

 行きがけに覚えた周波数に打電するよう、妖精に命令した。せっかく顔面は無傷だったというのに、悔しくてかみ締めた唇から血がにじむ。

「富津哨戒部隊より横須賀鎮守府! 我、敵機動部隊と交戦せり! 当方対空装備の用意なし、応援求む! 急いで送りなさい!」

 敵がどのような編成でいるのかわからないが、まさか空母一体で侵攻してくるとはおもえない。ヤケっぱちの電文だが、戦闘中の混乱として許してもらおう。

 頭の中に単調な電子音が聞こえる。はじめに富津に打たなかったのは、たとえ連絡しても装備がないから。横須賀には空母連中もいる。錬度だって、きっと比べ物にならない。残酷な事に、基地の力としてはまったく及ばない。

 打ち終わった後に、一応富津にも打電した。報告代わりだ。今日は彼の顔を見る前に、入渠場に直行することになるだろうから。「寝ていて緊急連絡に気づかなかった」と罪悪感にさいなまれないよう、横須賀に応援を依頼済みと添えて。

 背後から重く、太い砲撃音が聞こえた。衝撃で髪の毛がざわつく。新しい敵か、と背筋が凍るが、あたりを見渡しても、機影は見当たらなかった。

 となれば、味方のものである。

「古鷹、大丈夫なのっ」

 左肩を三日月に貸した古鷹が、深く腰を落として右手の主砲を空に向けていた。

 叢雲の頭上をめがけて。

『それどころじゃない! 上、直上!』

「え」

 古鷹の絶叫が、無線を通して耳元から聞こえる。と、同時に背中が爆発して、叢雲は前方に大きく吹っ飛んだ。

 背中が熱い。ヤスリで何度もこすられているような痛み。ヒリヒリして、背中とは関係がない、手や足が痙攣する。

 いたい、いたい!

「がっ、は、はああ、ふぐううぅ」

 頭がふわふわする、体を動かせない、気絶してしまいたい。

 古鷹の声が遠い、けれど気絶できない。焦げ破れた服が擦れるたびにイヤでも意識を引き戻される。

 そうだ、爆撃機。

 亀になり必死で痛みに耐えていても、そんな苦労は敵からしたら好機でしかない。敵爆撃機は、わざわざひきつける必要もなく、ひとり落伍したように離れた位置で止まっていた叢雲に標的をしぼっていた。至近弾が何発も落とされ、うずくまった背中にも、また一発、爆弾が投下された。

「ぁ……けっ……」

 髪と肉の焼けるいやなにおいがあたりにただよう。

 言葉を出すのも、波にゆられて姿勢が変わるのすらも苦しい。上手く息がすえなくて、まさか自分の喉からこんな、といった妙な音がでる。

 すべての敵が、一仕事終えたとばかりに帰投して行くのを、かすんだ目で見送る。

 終わった。

 いや、第二次攻撃がすぐにくるはずだ。

「叢雲、むらくもぉ!」

 いつのまにか古鷹が近くにきていた。叢雲の通信機能は完全に沈黙していた。

 古鷹は、おとりとなって一心に攻撃を引き受けた叢雲を見て上げそうになった声を飲み込んだ。爆撃を二発も食らった叢雲は、どこをどう触ってもさらに苦しむだろうぐらいに負傷している。服も、もはや服として機能していない。首の部分でかろうじてつながった一本の糸のようなもので、なんとか体に引っかかっているだけ。背負った艤装は、肌を焼きながらゆっくりと溶け落ちている。

 せめて、と海水をかけて冷やすと、命を吐き出しているのではないかというほどの絶叫が響いた。古鷹はひりだすように謝りながらも、水をかける手を止めない。放っておけばさらに怪我がひどくなるだろう。いまさら来たって、私にできるのはこれぐらいだから。ごめんね、ごめん、絶叫、絶叫。

 鉄が本来の色に落ち着いて、肌を焼かなくなってようやく、叢雲は意識を飛ばす事ができた。水に浮かぶはずの艤装はすっかり浸水し、腕がとっぷりと海中に浸かってしまっている。胴体がかろうじて海の上に浮かんでいるだけの、危ない状態。けれど、まだ沈んでいない。一週まわって古鷹は冷静になっていた。

 あたりを見渡す。先ほどの攻撃で激しく波打っていた海面も、だんだんと穏やかさを取り戻していた。後ろを見れば、立ち上がるので精一杯な三日月、目の前には、轟沈直前の叢雲。

「三日月、つらいだろうけど、お願いしてもいいかな」

 視線を、大島方面に定める。

 なるほど、そういうこと。諦観した顔で、古鷹は状況を理解した。

 夜のあいだは島に寄り添って隠れていたのだろう。水雷戦隊と水上打撃部隊が、傷ついた獲物に愉悦するようゆっくり近づいてくるのを見つけた。人型ならば陸に潜む事が出来る。空から見ても、木陰に邪魔されては意味がない。陸に潜んでいた深海棲艦が、錬度の低い部隊に担当が替わったことに気づいて攻撃を開始したのだ。錬度の高い横須賀の部隊が配置換えになるのをじっと待ち続けて、初出の艦娘を狙って。

「だいじょぶです、先ほどのようなヘマは、もうしません」

 ゆっくりと古鷹のもとにたどり着いた三日月が、今度こそはと腰だめに構える。構えは立派だが、足がおもしろいぐらいに震えていた。そのことに気づいて苦々しい表情を作り、それならいっそとひざを海面につけて安定させた。しかし、これでは回避行動ができない。固定砲台になるのは、最後で最期の悪あがきだ。

 古鷹はひきつっている顔をみせないよう、さらに震えそうになる声を張って抑えた。

「叢雲をつれてってあげて。私がしんがりをやるから」

「だめです、さすがに一人じゃ!」

 予想どおりの返答に、ひきつった笑みを浮かべて、すこしだけ顔を三日月に向けた。目だけはじいっと深海棲艦を見据えている。

「しんがりは一人でやるものだよ。それに、このままじゃ叢雲が沈んじゃう。初出撃で叢雲が沈んじゃったら、提督はきっと戦えなくなる。それでもいいの?」

「それはっ……でも、でもっ」

 私って意外と性格悪いなーなんて、場違いに頭に浮かんだ。「それでもいいの」なんて言いかたは、我ながらズルい。まだ一緒にいる時間はすこしだけど、三日月は相手のことをしっかり考える娘だ。これだけズルい言葉を使えば、どんな罪悪感を感じても、彼女は叢雲をつれて帰ってくれる。叢雲と司令がいいコンビになるだろうことは、昨日今日着任した私だって、わかる。つらいばかりの戦いのなかでも、ちょっとキザでお父さんみたいに優しい提督と「悲しいぐらい優くて」古女房みたいな叢雲がいれば、きっとみんながんばれる。あの泊地を、提督を、みんなを護ろうって思える。私だってそう思ったんだから。建造されたばかりの私なら、提督の負担も、きっと。

「……あなたが沈んだって、提督はひどく苦しみますから、絶対!」

 自己犠牲の考えを見透かしたように吐き捨てて、なるたけ傷に触れないよう、叢雲を担いで背中を向けた。彼女もまた魚雷の直撃を食らって、ボロボロである。のろのろ航行していると、せっかくやり返された言葉が、滑稽におもえてしまう。

 彼女の精一杯の応援に対して配慮するように、古鷹はふたりのことを頭から消した。言葉だけを何度も何度も頭に再生する。そうしていると、見えている絶望に震えていた体は落ち着きを取り戻した。たぎる腹の熱さに上がった口角には気づかない。

 軽巡二、駆逐四、重巡三、戦艦二。そして未だ隠れているはずの空母一。よくもまあ、一応は制海権を取り戻した太平洋側近海にこれだけ展開したものだ。艤装を構えて、調子の悪い缶を全力で回すよう指示した。すぐに足が熱をもち、下手をすればやけどをするのではないかと思うほどに熱されたのを待って、はじかれたように前進する。

「重巡古鷹、突撃します!」

 三日月たちに戦闘開始を告げるため、叫んだ。

 



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終幕

 背中に砲撃の音を聞きながら歯を食いしばる。

 今の音はどっちだ、敵か、古鷹さんか。

 撃ちあいの音がしていれば、彼女はまだ無事。無事、な、はず。今すぐ反転したい。ひざ立ちならば私だって主砲のひとつは撃てるだろうし、魚雷は……発射管がメチャクチャだから無理か。戦いたい、何もせずに撤退なんてイヤだ。でも右肩には、叢雲がいる。今ここで戻ったら、きっと古鷹に嫌われてしまう。雷鳴のような音。戦艦の主砲に体を食い破られる古鷹の姿がくっきりと思い浮かんだ。振り返らない、振り返ってはいけない。みれば、彼女の最期を確定してしまう気がして。

 今の状態を曳航といっていいのか、とにかくまともに速度を出す事ができない。せめて艤装を解かせる事ができれば、人と変わらない重さになるので楽になるが、この怪我ではあっさりと死んでしまう気がして怖かった。艦娘としての頑丈さは、艤装を展開することで発揮されるのだ。耳と頭に砲撃音が、何度も何度も侵食してくる。耳をふさぎたくとも両手が使えない現状では、歯を食いしばるぐらいしか抵抗できず、ただ必死に機関を回して、引き絞った唇からは嗚咽ともうめきとも取れる音が漏れていた。未だ戦場からほど近く、ときおり流れ弾で波が寄り、そう大きくない波だとしても、満身創痍である彼女たちには、全身が悲鳴を上げるぐらいに筋肉を使う。今もまたひとつ、おおきなうねりで体勢を崩した。

「あっ、い、ひぐうっ」

 三日月が姿勢を崩せば叢雲もしわ寄せを受け、しゃっくりをするようにうめいた。

「ごめんなさいっ。ガマンしてくださいね、今泊地に向かっていますから」

 長く細い銀の髪が、体液で薄く赤く染まっていた。潮風にさらされて傷が乾きつっぱるような痛みがあるのだろうか、すこし身じろぎするだけでくもぐった叫び声を出す。まだ多少水気があるうちにと髪の毛を前に垂らした。傷口にくっついてしまったら、きっとひどく痛むだろうと思って。司令からもらったと言っていた帽子も、ところどころに焦げと破れができてしまっている。

「ぁ、ぃ、き、わたぃ、が」

「がんばってください、あと少しですから!」

 ウソだ。泊地へは、このままだと一時間以上はかかる。

 それに、どんどん叢雲の体が重くなっている。足首まで海面にのまれ、彼女の浮力は殆どない。こうして肩を貸していなければ、そのままずぶずぶと沈んでしまいそうである。なんとか速度を上げようとしても、叢雲の体が枷になり、余計に遅くなる。三日月も叢雲につられて、足が海に沈んで行く。

 だめだ、もっと速度を上げなければ。

 石臼は回し始めが一番力をつかう。勢いさえついてしまえば、あとはさほど力を入れないで済むが、三日月にはもう、回し始めの力が出せない。足が燃えるように熱い。無理に機関を回しているせいで爆発寸前まで熱せられていた。

「てき、は」

 だいぶ小さくなったとはいえ、未だ聞こえてくる砲音へ首を向けようとして、また悲鳴を上げた。

「古鷹さんが足止めしてくれていますっ」

 すぐに状況を察した叢雲は大きく目をみひらいて、今度は思い切り体をひねった。激痛だろうに、声ひとつ上げない。

 引き返そうする叢雲の体を抑えて、引きずるようにすすんだ。

「も、どって」

「戻りません。古鷹さんがしんがりを引き受けるといったのです。戻ってはダメです」

「もど、りなさ、い」

「戻りません」

「もど、るのぉっ」

「戻らせません!」

 叢雲の抵抗は弱弱しく、簡単に押さえつける事ができる。しかし、暴れれば暴れるほど速度が落ちる。

 抵抗していたが、すぐに体力切れを起こしておとなしくなった叢雲を担ぎなおした。彼女の口からはもれるのは、苦痛か、悔恨か。今はどのあたりだろう。せめて館山湾を超えていれば、浦賀水道まであとすこし。

「いやだ、あぁ」

 髪を前に垂らしたままうつむいていると、顔がまったく見えない。潮風になびくはずの長髪は、ところどころバリバリに固まってしまっていて、重そうにしだれていた。

「また、たすけられないの、は、もうやだあ!」

 振り絞った叫び。

 彼女がなんの事を言っているのか、容易に理解できる。

 自分はとくに、過去に対して思うことはない。終わってしまったものよりも、膨大に横たわる未来に対する憧憬のほうが大きい。けれど、全員が全員そう考えているわけではない。未だ艦の記憶は濃密なのだから。

「大丈夫です、目と鼻の先にいるんですから。泊地に頼んで、すぐに応援をだしてもらいましょう」

 砲音は音と言うより、衝撃のみが伝わってくるぐらいには離れた。波もおだやかになり、これなら多少航行しやすくなる。

「おうえん、そう、応援。横須賀は、まだきてないの」

 思い出したように叢雲がつぶやいた。静かな海上にしゃがれた声が転がる。彼女が連絡を入れたことは三日月は知らなかったので、眉根を寄せてありのままを報告した。

「横須賀? いえ、まだ」

「つうしん、いれたのに、いっ。はやくしないと、古鷹がっ」

 意識も朦朧としているのだろう、でたらめにぱたぱた手足を動かして、苛立ちと焦燥を表現していた。痛みを感じていないのかと、背筋に冷や汗が流れ鳥肌がたった。

 アリ地獄に立っているように暴れれば暴れた分だけ、叢雲の足は海に沈んで行く。もう、ひざ下まで海に浸かってしまっている。

「おとなしくしてください! 大丈夫、大丈夫ですから、まだ古鷹さんは戦っていますっ」

 ぎりぎりと重みがかかり、外れた肩が痛む。

 このままでは本当に沈んでしまう。叢雲も、自分も。それだけは避けねばならない。必死に声をかけるのだが、半ば夢遊して活動している彼女に届く言葉はない。

 強く口肉をかんで、ただれた背中に軽く爪を立てた。当然、想像を絶する痛みに叢雲は体中を痙攣させる。

「ぅああっ!」

 噛み千切った口内の傷から、鉄の味が染み出てくる。

「私の声が聞こえますか。聞きなさい、聞け叢雲!」

 無理やりにでも覚醒させようと、耳元でがなる。ひどくうつろな顔で、彼女の瞳だけがしっかりと三日月をとらえた。

 首にかかる重さに脂汗を流しながら声を叩きつける。

「古鷹さんは私たちのためにあそこに残ったんです! 今叢雲と私が戻ったって、なにができるの。ただ邪魔になるだけでしょう。今は逃げるしかない、がんばってくれている間に逃げるしかないっ。そして、ぼろぼろになって帰ってくる古鷹さんに『おかえり』っていってあげましょうよ。ええ、そうです、帰ってくる古鷹さんに!」

 叢雲に向かって声を荒げても、言葉の一つ一つが自分に突き刺さる。脳にしみこんでいく。自分だって戻りたい。戻りたいのに。

 戦場となっている方向から、髪の毛を引っ張るように音が聞こえて、振り切るために叫ぶ。叢雲のために、自分のために。

「私ひとりで『おかえり』なんていえません。私ひとりに『ごめんなさい』と言わせるのですか。そんなことになるくらいなら、ここで一緒に沈んだほうがマシです。古鷹さんに任された以上、意地でもあなたをつれて帰らなきゃいけないんです!」

 もう叢雲は、ただ泣いているだけ。

 気丈に振舞っていた「旗艦・叢雲」はどこにも見る事ができず、口から甲高い泣き声をもらす少女が一人。聞き分けの悪い妹を叱り付ける気持ちで言葉を選ぶ。機関を動かせず着実に沈んで行く叢雲を引きずり出したくて、自分にこんな声が出せたのかと思うほどに、あらん限り小さい体をふるわせた。

「古鷹さんの気持ちを踏みにじりたくないなら、生きて帰らなきゃいけないんです。わかったら返事をしなさい、叢雲!」

 しゃっくりをあげて首を振る叢雲は、ただの駄々っ子のよう。顔中をぐしゃぐしゃにして、こびりついた煤にスジをつけて涙を流す。そのあまりにも情けない姿に、体力を消耗していた三日月はいらだちを感じた。

 この、わからずや!

 布がほとんどなくなった叢雲の胸倉をつかんで、まったく持ち上がらないことに気づいて、全身の血の気が引いた。自分の力が出ていないことももちろんだが、叢雲はどうしようもないほど、沈もうとしていた。

「叢雲さ……」

 海の音、遠くに聞こえていた砲撃音、緩やかに吹く風の音。またひとつ音が増える。

 三つ。三つの、航行音。それと、鉄を破いたような、気味のわるい鳴き声が潮風に混ざっている。

 まさか、そんな。ゆっくり目を向けると、黒点が三つ。駆逐級が三体、まっすぐ向かってきている。古鷹さん、息だけの呟きが自分の口から漏れたことに、三日月は気づかない。

 二体の敵は黒煙をふいていた。黒煙は彼女の奮闘の痕でもあるし、敵がこちらにきたということは、つまり。痰がからんでしまったように、吸い込む空気がのどにひっかかる。

 足の力が抜けそうになり、がくがく震える。

 もう、おしまいかな。

 いいや。

「……そんなこと、言ってられませんよね」

 ぐったりした叢雲の下敷きになるよう姿勢を落として、砲を構えた。背中に乗せると重みでとっぷり沈むが、こうでもしないと、片手で主砲を構えることなどできない。蛇行して近づいてくる敵に照準を合わせる。

「撃ち方用意!」声のひっくり返った号令に妖精が応えて、艤装が熱を持った。キィキィさえずる奴らの声も、はっきり聞こえる。こちらも敵も十分射程圏内だ。

 初っ端から随分な状況だなあ。目の力を抜いて、すこし表情を和らげた。負け惜しみとは考えない。

 ぐ、と足と腰に力を入れる。いくら駆逐の砲といっても、いくら艦娘の力が発現しているといっても、今は満身創痍。ただでさえ体が小さいのだし、きっと一発撃てば体がばらばらになりそうなぐらい痛むに違いない。

 装填の済んだ主砲が、いつでも火をふけると言っている。目測で距離を測り、おおよその着弾位置を頭で思い描き、雑念として振り払った。計算している余裕なんてない、とにかく撃って当てる。それだけ。

 これを最期の戦いになど、してたまるものですか!

「うちぃーかたっ、は」『富津部隊、砲撃中止しなさい!』

 じめ、と言う前に、自分の真上を何かが通過したのを感じた。

「いぃやっほぉう! 那珂ちゃん弾頭、しゅっつげきぃ!」

 三日月は呆けて口を開けたまま、空から降ってきた叫び声を聞く。

 なんだあれは、人だ。艤装も展開していない、ただの人だ。聞こえてきた名前は、でも今、那珂と。昨日の夕方会ったはずの、横須賀の艦娘の名前。艦娘がなんで空を飛んでいる。そもそも本当にあれは那珂なのか。意味が分からない。

 目の前をあっというまに飛び去っていった怪奇現象は敵まで混乱させた。航空機ではない、ワンピースと麦藁帽子というあざとすぎて反吐が出る格好の少女が、帽子を手で押さえたまま、自分達に向かって飛んできているのだ。さしもの深海棲艦も、どう対応していいのかわからずに、とりあえず射線上から離れるために散開しようとしていた。

「させません!」

 今度は真後ろから突き刺さる叫び声が聞こえて、直後重低音がふたつ。振り返ろうとしていた三日月は体をビクりと硬直させ、目をつむった。高音と低音がまぜこぜになった、なじみのある音が頭の上を通り過ぎる。砲弾の行方は左右にわかれ、展開しようとした深海棲艦は足を戻して固まりになった。着弾の水柱が二本上がり、至近弾でもない砲撃に敵は健在である。

「おねーちゃんありがとぉーっ。それじゃあ那珂ちゃんオンステージ、いってみよぉー!」

 くるり。空中で見事に一回転すると、オレンジ色のスカートをひるがえして艤装を展開させた。重みでグンと勢いが落ち、緩やかな放物線から急降下に線を変える。

 なんだ、この状況。左手を下ろして立ち上がり、ずり落ちそうになった叢雲の体をあわてて抱きとめた。

「まずは那珂ちゃん攻撃隊、きゅーこーかばくげきぃ!」

 敵のほとんど真上で何かをばらまいた。行く道を制限されて固まっていた敵はまとめて大爆発をおこす。魚雷。艦載機の真似事をしたというのか、軽巡が! 

 直上からそんなものを雨みたく降らされた敵はたまらず海上で大炎を上げ、げっぷのように黒煙を吐き出して、果てた。爆発の衝撃、遅れて熱と臭いが生暖かく前髪を上げる。

 だが全て仕留められたわけではない。炎と煙の幕の中から、敵が一体だけほうほうの体で抜け出てきた。傍目にも沈むのは時間の問題であろうほどに燃え盛り、あさっての方向に向かってすすんでいる。ぼん、ぼん、加速と減速を繰り返して、機関も完全にイカれてしまっているのだろう。おまけだといわんばかりに、海面に激突間近な那珂は体勢を変えた。両腕に設けられた砲を向けて「そーれっ、どっかぁーん!」、火を噴かせる。空中で撃ったものだから、衝撃のあおりをうけて、きりもみ回転して後方に吹っ飛んでいった。が、遠目にみても体勢が綺麗過ぎる。体を上手く丸めて、体にかかる衝撃を全て移動へのエネルギーに変えていた。空中でロンダートのように動いた彼女は派手な水しぶきを起こして着水に成功……した。多分。

「……は。な、なにが」

 一連の現象に、三日月がようやくしぼり出せた言葉はそれだけ。直接砲弾をぶちこまれた最後の駆逐艦は爆炎を上げて、ずぶずぶと海の中へ還っていく。一瞬々々変化する状況のなかで、真後ろまで近づいていた航行音に初めて気がついてゆっくりと振り返ると、三人の艦娘がいた。うち一人は、昨日も会った初雪。半開きの目は増して開いておらず、一目で眠そうだということがわかる。

 先頭の、那珂とよく似た服を着ている艦娘が朗らかに微笑んで、三日月を見下ろした。

「横須賀の神通ともうします。この二人は川内と初雪。あとはどうぞ、お任せください」

 神通は逆側から叢雲の肩に手を回し、そのまま一気に彼女の体を引き揚げた。下半身をとっぷり沈ませていた体は足首まで持ち上がっている。馬力の違いをまざまざと見せ付けられた気がした。万力の重みから開放されて、勢いあまってしりもちを搗く。スカートの上から海水がしみて下着まで濡らして体があわ立つ。

「初雪」神通が声をかけると、初雪が叢雲の手を握り、触れている場所が淡く発光した。

「なにを、したんです」

 光はゆっくりと脚部に向かう。ぼろぼろになっていた艤装が水を吐き出し、スクラップ同然となっていた艤装が、目に見える形で修復されていく。折を見て神通がゆっくり力を抜くと、叢雲の体はしっかりと水に浮くようになっていた。 

「ダメコン妖精さん、わたしの、あげた」

 のったりとした話し方が、場に充満していた緊張感を取りのぞいていく。三日月はもう、足にも腕にも、体全体の力が抜けてしまって、自らの重みで動く事ができなかった。

 助かったのか。空っぽになった頭が考えることを放棄させようと、眠気が津波となって押し寄せる。

 目の前に白く長い指をした手が差し出されて、目線だけをあげると、川内が気の強そうな笑みを浮かべていた。目の前に手を出されても、自分の腕を持ち上げるほど体力が残っていない。いつまでたっても動かないことをいぶかしんで、「あ、ごめんごめん」肩を入れて立ち上がらせた。しみこんだ海水が内腿をつたう。生暖かく、粗相をしてしまったかのような感触がくすぐったくて、腿をすり合わせた。

「体は、なおせないから。はやく、入渠させて」

「ありがとう、ございま、す」

 川内に体重を預けたまま眠ってしまいたかった。梅の甘い香りとほんの少しの火薬の臭いに余計、安心を覚える。目を閉じてしまいそうになって、脳のすみっこに押しやられていたものを踏み抜いた。弾かれたように頭を上げる。すぐそこにあった川内の顔に思い切りヘッドバッドをかました。

「ンぶえっ」「古鷹、古鷹さん! まだもう一人、仲間が!」

「大丈夫」神通が片耳に手を当てながら、また微笑んだ。

「まだ戦っていらっしゃいます」

 なら早く向かってください、神通に噛み付こうとして、航空機の音が聞こえてきた。反射的に体がこわばって、鼻をおさえた川内に「はいひょうぶ」とたしなめられた。

「あれはうちのだよ……。神通、鼻血でてない?」

「あらあら、鼻が低くなってしまいました。大丈夫、どんな顔でも姉さんはかわいいですから」

「うぇえ! 戻れもどれーっ、あたし、今日から嘘つきまくるからね!」

 自分達の上空を航空隊が通り過ぎてゆく。編隊を作って次から次へと。かつての光景とは逆の、味方の、航空支援。一波、二波、通り過ぎて行く航空機を見上げている。鼻の奥が痛い。表情が作れない。顔がゆがむ。

『加賀です。敵部隊が対空攻撃を開始したわ。……赤城さん、見えているかしら』

『はい。うふふ、慢心しましたね。敵空母、発見しました。加賀さんは下をお願いします。私は、上を』

 川内にくっついているお陰で、彼女に流れる無線を聞く事ができた。彼女の口元のマイクに向かって叫ぶ。

「古鷹さんは! 大丈夫なんですかっ」

 しばらくの無音のあと、再び無線が帰ってくる。無礼など一切考えない、ただ感情のままの言葉にも、相手は怒ることなく応答してくれた。

『今のは富津の娘? 心配いらないわ。注意が逸れたからって戦艦に突っ込んで行くような娘は、そう簡単にくたばりません』

 矢継ぎ早に、今度は那珂から無線が入る。相変わらず、戦場を戦場と思わない軽快な声で、爆撃や砲撃の音と一緒に、彼女の声が聞こえる。

『那っ珂ちゃんでーすっ。ちょーっと興奮してるみたいだけど、引っ張って帰るからねー! 加賀さーん、援護よろしくうっ』

『あんまり小うるさいと、直撃弾をぶちこむわよ』

『ええ、ひっどーいっ。さーて、那珂ちゃん、突入しまーすっ』

 本当はだめかもしれない。絶対なんて、私は信じていないから。冷静であろうとする自分がストップをかける。でも、川内のやわらかい体に寄りかかっていると、不思議と確信を持てる。

 いいよね? はちきれんばかりに張っていた糸がぷつりと切れた。

 もう、いいよね? 大丈夫だよね? 助かったんだよね?

 あとはなし崩しだった。絶望の涙ではなく、怒りのものでもなく、安心したがゆえの情けない涙を、必死に声だけは抑えて、あふれるままに垂れ流した。目から、鼻から、口から、息もうまく吸えないほどに。

「うわー、お願いだから私の服で拭かないでよ? 洗ったばっかりなんだかあああぁっ」

 いじわるな声がしたので、黙れとばかりに顔を押し付けた。ふくらみがちょうど顔を包み込むように当たる。やめろと体を押し戻されても、顔を離さない。意地でも離さない。吸水性の悪い生地で、押し付ければおしつけるだけ顔に汚れが広がる。知ったことか。もう体は言う事をきかない。頭も、もうぼやけてきた。

『ほーら、古鷹ちゃん、かーえーるーよー! ってうわあっつうっ、加賀さん、間近で爆撃するのはやめてぇっ』

『敵重巡沈黙、やりました』

『やりましたじゃないっ。古鷹ちゃーん、ほーら、もうおしまいっ。早く帰らないと鬼ババに誤爆されぅぎゃあ! タンマタンマ、焦げる、髪が焦げるっ! 待って、那珂ちゃん小破っ、加賀のせいでぇ!』

 にぎやかな無線。さっきまでの大変さなんか、なかったみたい。戦いなのに、いきいきとしてて、楽しそう、なんて。横須賀の艦娘たちはすごいなあ。

 私もあんなふうになれるかな。

 川内はもはや引き剥がすことをあきらめて、おとなしくなった三日月の髪の毛を梳いている。

 くすぐったくて、きもちいい。いいにおい、やわらかい。

 髪の毛の根元から先まで、十二回目の往復まで数えて、意識を飛ばした。

 

 天頂から暴力的に射す陽に焼かれて、軍服はアイロンがけの後のような焦げ臭さをかもしている。清水は入渠ドックからの帰り道すがら、内ポケットに忍ばせていたロングピースに火をつけて、久々の濃厚な煙を肺に落として、むせた。酩酊感。ヤニクラあるいは熱射病の前兆、そんなことはどうでもいい。からだの中にうねっていた「はやり」を吐き出すために、咳をこらえて、細く長く息を吐き出す。

「良いところですね、ここは」

 風上に立つ、青い弓道着の女性が汗ひとつかかずに右に左に顔を向けている。潮風に押し付けられたスカートが彼女の尻を形づくるので、悩ましい光景である。よい具合に筋肉のついた足が、濃い青から伸びて、体重がかかるたびにうっすら筋を浮かべていた。

「横須賀に比べりゃただの田舎道だろ」

「それはそうなのですが」加賀が強く吹いた風にスカートと前髪をおさえる。「土を踏むと帰ってきたという気持ちを強く感じることができますから」

 片方に結わえられた髪の毛が重そうに上下する。ゴムを取り、跡のついた髪が風になびく様を想像しながら歩いていたら、だいぶ距離を詰めてしまった。彼女によく似合うレザーノートがピースの香りとまざる。

「ん、ここだ」靴の裏でタバコを揉み消して、吸い殻をソフトケースの中に突っ込んだ。鍵もかからない薄っぺらな板でこさえられたドアを開けてやり、叢雲にしたのと同じよう、軽く頭を下げて建物の中に誘う。

「私は一艦娘です。司令ともあろう方が、そう簡単に頭をさげるものではないわ」

 彼女が気にしすぎないよう、顔をあげずに、目だけですこし微笑んだ。

「うちの娘たちの命を救ってくれた恩人だ。つま先にキスだってしようじゃないか」

 いたずらな軽口を叩いて、出方を見た。

 自分のところの艦娘がやられて混乱していた無様な男をよその艦娘には見せたくない。命の恩人ではあるが、基地のトップとして、せめてもの威厳を見せ付けたかった。自分が軽視されすぎれば、部下達も軽んじられてしまう。滑稽なほど情けない意地。

 その哀れな男の気持ちを知ってか知らずか、微笑む加賀が堂々と部屋へ足を踏み入れる。

「あら、ではお願いしようかしら……お風呂上がりにでも」

 部屋へ入り込んだのを見て、後手に扉を閉めた。窓を開けっ放しにしていたが、やはり暑い。潮風にはためくカーテンが、生ぬるい室温を換気しようと躍起になっていた。

 清水は執務机に、加賀はその正面に立つ。

 砂防林は離れているというのに蝉の声は盛況。暑さなどおくびにも出さない加賀が口を開いた。

「横須賀第三艦隊第一航空戦隊所属、加賀です。本日の戦闘について、貴基地部隊に変わり報告致します」

 擦り切れ、意識もない叢雲と三日月がまず最初に。しばらくして、あちこちに打撲を作った那珂と初雪が引っ張って来たのは古鷹。富津泊地に属する艦娘の初舞台は、惨敗に終わった。練度もあったかもしれない、油断もあったのかもしれない。それより一番大きい敗因は、敵戦力が大きすぎる点だと、必死に自分をなぐさめた。こちらは重巡一、駆逐二。対する敵艦隊は戦艦二、空母一、重巡三、軽巡二、駆逐五。哨戒のために即席で組んだ部隊に対して、あまりにひどすぎる戦力差だろう。誰も沈まずに帰ってこれたのは、一番に横須賀に打電した叢雲の機転である。評価すべきことだ。自分たちの泊地に余る戦力と対することを見越した。だが、この無力感に振り上げた拳をどこに下ろせばいいのか。戦闘を終えた加賀が入港するまで、叢雲と古鷹が入渠するドックの前で佇んでいた。基地の修繕を最優先にしていれば、三日月もすぐ入渠できたはずなのに。彼女は今、一人宿舎で眠っている。体が「まだ」無事である三日月には、叢雲か古鷹が入渠から上がるまで待ってもらうしかない。

 清水の顔色を見て、横須賀の戦闘記録をつらつら述べていた加賀が話をシフトさせた。「あくまで私が観測していたものですが」そう前置きして、少しだけ声色が機械的なものから人間味のあるものに変わった。

 目をつむって、今彼女のまぶたの裏には、艦載機を通した視界が再生されているのだろう。

「しんがりを務めていたのは古鷹さんでした。水上部隊十二隻相手にひとりで殴り合いを挑むなんてどうかしていると思うのだけど、たいしたものよ。初めての娘とは思えない立ち回りだったわ。戦闘も、度胸も」

 口を挟まずにじっと聞いている清水に、ためいきをひとつ挟んで言葉を繋げる。

「叢雲さんと三日月さんをはじめに見つけたのは川内たちだから、伝聞になってしまうけれど。古鷹さんを出し抜いた敵駆逐が三隻、彼女たちに向かっていたらしいわ。艤装はボロボロ、片腕はブラブラ、肩には沈みかけの娘がひとり。そんな状況で、三日月さんは砲を向けました」

 組んだ指は手の甲の皮をめくり、汗ばんだ皮膚に傷がしみる。この時勢、フェミニストであろうとは思わないし、艦娘についての知識もある。あるが、いざ自分の指揮下にある少女同然の形をした生き物が、痛みと絶望にまみれたことは、決して気持ちのいいものではない。仕方ないこと。そのために顕れた、人類の救世主。いくら頭を説得しようとしても、こればかりは慣れることはできないだろう。

 もし、今回の件で誰かがいなくなったら。

 ひどい話であるが、彼女たちが傷を負ったを行ったことで、清水は心の準備を整えることができた。戦いとは無傷で成せるものではないのだと、しっかりと現実として捉えることができた。

 今度こそしっかりと、彼女たちの安全を守るには、今の自分では役不足だと認識した。

「なあ、加賀さん」

「何かしら」

 強い風が吹いた。じりじり熱せられていた背中が少しだけ冷やされ、こもった部屋の空気が少しだけ入れ替わる。

「少し甘えさせてもらってもいいだろうか」

 あからさまに一歩後ろに下がる彼女に、慌てて言葉を投げた。

「いや、すまん、違うそういう意味じゃない。横須賀に、もうしばらくうちの担当海域の哨戒を頼めないかと言う意味だっ」

 顔を引きつらせていた加賀が肩を下ろしたのを見逃さない。

 こいつ、本気にしやがった。

「それは」失態をそよ吹く風で、咳払いをして答える。「力不足がゆえにですか」

「その通り。それからもう一つ、そちらの艦娘たちと演習を組ませていただきたい」

「演習、ですか。確かに、貴基地の娘たちの練度は高いとは言えませんが」

 片眉をあげる、特徴的な困り顔。

 横須賀の部隊とでは大きな差がある。こちらの得るものが大きくても、向こうは素人を相手にしているだけで、得るものは少ない。ここは学校ではないのだ。両者にとって利益のあるものなくてはいけない。清水が言っているのは、無償の奉仕をしてくれと頼む乞食同然のタカりだ。

「例えばだ」一度言葉を切って、加賀が頷くのを見た。

「お前も分かるだろうが、今後うちとそちらでは共同で作戦行動を行うことになるかもしれない。いざという時に足を引っ張りたくないんだ。もちろん精一杯練度を上げる努力をする、戦力の増強もする。だが、うちは妖精の数も少なく、まだしばらく準備に時間が掛かる。今回がいい例だ。中途半端な状態で敵とやり合うのはどんなに無謀か思い知ったんだ。もう少し時間が欲しい。お前からも森友に頼んでくれないか」

 立ち上がり、机に手をついて、頭をこすりつけた。

 基地のトップが、よその基地の艦娘に懇願している。上に立つものの意識が必要であることはわかっているのだが、現状では伏して慈悲を請わなければならない。これがぼろぼろになった彼女たちへの責任であり、叢雲たちの悔しさを共有するための覚悟。頭ひとつと思われても、プライドを捨てた男などなんの価値もない、そうあらねばならない。少なくとも、山の職人にはそう教えられた。

 清水の行動の被害者は加賀だ。ただ報告をしに来ただけなのに、新人とはいえ上役の人間の懇願を受けなければならないのだから。頭の上でおろおろしているのが雰囲気で伝わる。「私に言われても困ります」肩をぐいぐい持ち上げられても意地でも頭を上げない。艤装さえ展開させていなければ、か弱い女性だ。少し頭を持ち上げるたびに机に頭を打ち付けることをしばらく続けて、加賀がため息をついた。

「その件について、森友司令から言伝を預かっています」

 やがてあきらめたような、吐息まじりの言葉がすぐ近くで聞こえた。

「言伝?」顔をわずかにあげると、変わらず片眉をあげたままの加賀がいる。姿勢を直すまで話す気はない、そう表しているように、口は固く閉じられている。

 こんな失態を犯したのだ、森友が黙っているはずがない。大方、代替の人材をすでに向かわせたから荷物をまとめてさっさと田舎に帰れとでも言われるのだろうか。まだだ、まだ帰るわけにはいかない。一戦交えてようやっと戦いというものを理解できたのだ。頭のめぐりが悪いのは重々承知であるが、この覚悟を持って、今更一般人になど戻れるはずもない。

「頼む、俺もこれから死ぬ気で努力する。もう二度とこんな失態はしない、だからどうか今回ばかりは許してくれとっ」

 額に脂っこい汗が滲む。

 はあ、衣ずれの音と、大きなため息。

「口だけならだれでも言えます。いいから、頭を上げてください。うちの司令はそちらの艦娘に、むしろ賛辞を送ってやれと申されています」

「はあ」拍子抜けして聞き返した。「あの森友が、賛辞?」

「嘘ではありません」加賀が駄目押しとばかりに、優しく肩を押し上げた。今度は抵抗せずに、素直に体を起こす。

「重箱の隅をつつくように粗探しをして、少しのほころびを全力でほじくるあいつが、賛辞だと」

 少なくとも、記憶ではそういう女だ。戦力不足、装備不足、練度不足、見事なないない尽くしの上、状況ばかりに焦って出撃させた自分は責められることこそ当然である。「信じられん」

「あなたがどのような印象を司令に持っているかはわかりませんが、褒めるべきところは褒める人です。確かに、あなたの知識と判断はひどいものです。艦娘の身として、とてもではありませんが命を預けることはためらいます」

 直接意見をぶつけてくれる加賀は気持ちがいい。しっかりと打ちのめしてくれる。

 そう、叩きのめしてくれればいい。今のうちに叩いて、打ってもらったほうが、腹にしっかりと刻むことができる。

「ですが今回はイレギュラーです。近海に、あれだけの兵力で攻めてこられたら損害が出るのは当たり前でしょう。そもそも、陸上に敵が潜んでいるかもしれないという予測を立てられなかったこちら側にも責任があります。あの敵が練度不足である部隊を狙っていたのなら、むしろ責任はこちらにある。申し訳なかった、と伝えてくれと」

「森友が謝ったのか」

「ええ」薄く笑って答えた。「すごく、苦々しい顔をしていたけれど」

 学校で散々いじめられた森友の顔はすぐに思い描くことができる。年下だというのに、常に見下されているような感覚に陥らせる高圧的な性格。少しミスしただけで嬉々として暴言を投げかけてくる彼女を、頭の中で何度胸倉をつかんだことか。

 そんな彼女が謝った。いよいよ、娘たちを出撃させるのが怖くなった。次は戦艦の二十隻や三十隻が出てくるんじゃないだろうか。

「それで、演習の件ですが」

「お、おお。そう、記憶があると言っても、艦娘としての戦闘経験はないから。ぶっつけ本番で戦わせるよりいいかと思って」

「もちろん賛成です。が、建造されたての娘たちと私たちが演習しても、一方的な蹂躙に終わります。それに、私たちには私たちのやるべきことがあるので、長々と講釈を垂れている時間もありません。そこで、司令が提案を」

 懐から一枚の書類を取り出し、差し出された。まだ温もりが残る紙を受け取ると、一番に目についたのは「辞令」の二文字。提案と呼ぶにはいささか段階をすっとばしている。

 簡潔に書かれた書類。数行の文字列をたっぷり時間をかけて読み込んだ。何度もなんども読み返す。

「おい、なんだこれ」書類と加賀の顔を何度も往復させて、三往復目に加賀の顔を見上げた。

「『横須賀所属部隊 軽巡洋艦娘、川内、神通、那珂。駆逐艦娘、卯月、初雪、曙、浦風、島風。水上機母艦娘、千歳、千代田。以上十名を富津泊地に異動とする』。そう、書いてあるはずですが」

「お前は頭がいいんだな」紙をひらひらと振って、机に置いた。「そのとおり。それから、私の承認を求めるメモ書きだ」

 『文句は受け付けんから判を押せ』相変わらずの、憎たらしいほど整った字。

「こんなに艦娘を異動させたら、そちらの戦力がなくなるだろう」

「役割分担です」加賀は表情を変えずに答えた。

「役割分担?」

「ええ、うちは空母や戦艦を中心として、そちらは重巡、軽巡、駆逐を中心とした戦隊を。互いの特色を生かした連合艦隊を望めるというわけです。あなたの言うとおり、共に作戦行動を執る前提の話になるわ」

 うぅむ、清水は腕組みをして、頭を巡らせる。

 人材不足でひとつの基地に艦娘を指揮できる人間はひとり。これは、全国いたるところに基地を増設していることに由来する。これから反抗作戦に出たところでさらに基地は増えるだろうから、それぞれが特化した戦隊を受け持つというのは非常に魅力的な話だ。まして自分は勉強が苦手である。全艦種の運用方法をおぼえるよりも、分担となれば負担も減るし、集中できる。もともとの役割が違うのだから、バラバラの基地に属する艦娘が艦隊を組んだとしても、チームワークでばらけることも少なくなる。

 あくまで共同作戦をとればの話だ。

「共に艦隊行動を取るのならば、良いことだと思う。が、普段使いが悪くないか」

「別に縛りを作るわけではありません。余裕ができたならば、補強していけばいいでしょう。私たちだって、護衛の娘は自前で用意しますから」

「なるほど確かに、近くに置くなら同じ基地の人材を使った方がいい」

 こういった形を提案してきたということは、森友は本当に今回のことを見逃してくれるらしい。それに、少なからずともこちらの働きに期待を持っているとも受け取れる。主導権を完全に握られているのは癪であるが、頭が回るのは彼女の方だ。自分はどちらかというと、用意されたものを部下たちにこなさせる、現場監督が性に合っている。

 机の引き出しを開けて、物々しい装飾の付いた判子を取り出した。学校を卒業した際に渡されたものだ。森友のメモ書きと比べてもひどい字でサインをして、上から判を押す。どうも万年筆というものの力加減がわからない。インクを大量ににじませた書類を手渡す。

「森友によろしく言っといてくれ」

「確かに受け取りました。戦闘報告書は後ほどお送りいたします」

 受け取った紙を再び懐にしまいこみ、加賀は敬礼を示した。答礼をして、話はまとまったと席を立った。「それじゃ、見送りさせてもらうよ」

 外は風が常に吹いている分、屋内よりも涼しい。同じように扉を開けてやると、熱気で汗ばんだ体に心地いい。

 加賀はサイドポニーをひょこひょこ揺らしながら歩いている。彼女の持つ硬めなイメージとアンマッチで、電話口で受けた冷たい女という印象は完全になくなっていた。大方、あの時は森友がわがままでも言っていたのだろう。上司を選べない艦娘も大変なのだ。

 分かれ道で足を止めた。まっすぐ進めば出撃ドック。右に進めば宿舎、左に進めば入渠ドックがある。足音が続いてこないことに気づいた加賀も振り返り、じっと立ちすくむ清水に、彼女は柔らかい声色で声をかけた。

「大丈夫です。私たちはしぶといですから」

 どちらかに顔を向けることができたら、分解しそうな心持ちが多少は楽になったのだろうか。この分かれ道のどの先にも、自分の部下たちがいる。自分の命令で人が傷つく。当たり前のことにようやく気づかせてくれた彼女たちのことを思った。

 強い風が吹く。

「私もしぶとくいたいものだよ」

 声色と違わず、目尻を下げた加賀が微笑んで、足を動かした。

 蜘蛛の糸のように絡みついてくる分かれ道の誘惑を振り切って、彼女の背中を追う。

 ドックで艤装を展開させ海面に一歩踏み出し、どうやって安定させているのかわからない靴艤装で浮かぶ。低く、耳に刺さるような高音を混じらせた音が響き、ふと彼女が振り返った。切れ長の視線は柔らかい。

「司令官と艦娘は同じ天秤の両端にあります。ここは、きっといい基地になるわ。」

 そう言って加賀は海へ出て行った。彼女の残した波が、出撃ドックをにわかに賑やかにさせる。

「同じ天秤の両端に、ねえ」ポケットからロングピースを取り出して、マッチを擦る。一口目の甘い香りを吐き出して、クールスモーキングなどさせんとばかりに吹く潮風が灰を吹き飛ばした。「慰め方が気取りすぎだな」

 煙草をくわえたまま踵を返して、来た道を引き返す。軍服を脱ぎ、シャツのボタンをほとんど外して、そうして差し掛かった分かれ道。どちらに進もうかと一瞬逡巡して、かぶりを振った。

 彼女たちには彼女たちの、私には私の仕事がある。見舞いに行くよりも、努力こそが必要だ。

 踏み出したのは、まっすぐ進む道。

 一歩、一歩、一歩。まとわりついていたものが落ちていく。

 一歩、一歩、一歩。目線が上がり、世界が広がる。

 天頂には陽が輝いている。

 今日もまた、景色だけは変わらない、夏の一日が過ぎてゆく。

 

 

 




最後までお読みいただきありがとうございます。
以下、登場作品です。

順不同

若山牧水 人生に 楽しみ多し 然れども 酒なくして 何の楽しみ
石原吉郎 酒が飲みたい夜は
中国現代文学選集20-少数民族文学集 ウイグル民謡 花に香りがなかったら(高田渡 MyFriend抜粋)

Simon & Garfunkel Bridge Over Troubled Water
Woody Guthrie DoReMi
Amelita Galli-Curci Home,Sweet Home

敬称略


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2話
幕開


 司令室には音をかすらせたレコードが流れる。背中を焼く陽はまだ熱く、窓から入ってくる潮風はだいぶ冷たくなった。1800を過ぎれば陽も沈み、わがもの顔で水平線にあぐらをかいていた入道雲も薄くちぎれ、空を遠くした。数日前の台風以降めっきり秋めいてきた富津泊地は、隙間風と家鳴りが、眼前の冬を感じさせる。

 さだまさしの私花集B面が秋桜を歌い終わったところでぷっつりと音が途絶え、富津の責任者である清水が顔を上げた視線の先には、日替わりで当番を頼んでいる艦娘が、鼻歌まじりにレコードを変えていた。 

「おい、せめて『主人公』を聴かせろ」

 青い髪が秋風になびき、彼女の羽織った薄いカーディガンもそよぐ。

 横須賀から異動してきた浦風は、勝手知ったる我が家とばかりに、眉根を寄せて唇を突き出す。

 満面の渋顔。

「こんなん聴いとったら気が滅入るけぇ、ただでさえこの時期はうら寒いんじゃから」

 レコードを変える手際よく、流れてきたのは泣きのエレキギター。フォークと呼ぶには騒がしいしゃがれた声でプレーヤーは歌い出し、スピーカー前の彼女は足でリズムを取り始める。

「お前も気にいると思ったんだがな。……拓郎か。この曲も気が滅入らないか」

「かァーっ、わかっとらん、わかっとらんな提督。過去に犯した過ちを抱えて、けれど意地張って生きようとする男の生き様じゃろう」

 自分の体を抱きしめて、うっとりとした表情を浮かべる姿を見つめていると、父性なのか呆れなのか、とにかく隠せない苦笑いに口元がゆがんだ。清水の趣味のせいで、彼女の趣味もまた、古臭いものになっているのだろう。

「お前はダメな男につかまりそうだな」

 ジャケットを片手に半身で振り返った浦風が、片眉を吊り上げて、とてもねっとりした視線を送る。

「ひとつやふたつ、スネに傷がある男のほうが女の気を引けるんよ。提督はずいぶん綺麗な足をしていそうやね」

 ため息ひとつ、やぶへびである。秘書をたのむのは二度目だが、司令室には毎日のように入り浸っている。浦風に限ったことでなく、娯楽がまったくと言っていいほどない基地だから、たまに取り寄せる本と、ここに置いてあるレコードぐらいしか退屈を慰めるものはない。最近では詰所と入居ドック、食堂に脱衣所と、いたるところに夕張が複製したプレーヤーが設置されて、どこに行っても音楽が流れている。清水自身は過ごしやすい反面、艦娘たちのようなうら若い少女たちは満足しているのだろうかと首を捻ることもある。

 夏の終わり頃から夕張は、吹っ切れたように工廠から廃材をもらってきて何かしら手いたずらをしていた。もちろん仕事をこなした上なので言うことはないが、元来こう言った精密作業が好きなようで、司令室に置いてあるプレーヤーを複製し(針だけは取り寄せたものをつかっている)、おまけにオートチェンジャーとリピート機能を増改造するということまでやってのけた。時には夜っぴて作業をしているようで心配したこともある。しかし、自分の作ったもので皆が楽しんでいる姿を見ている時、彼女は一番いい顔で笑うのだ。そんな顔を見てしまえば何も言えない。

「人が好きィーやけ、ネー」口ずさむ彼女のぴったりした七分丈のジーンズがリズムに合わせてふとももの震えをあらわし、組んだ腕はカーディガンの上からでも体のラインを強調させ、幼さ残る顔の造形と比べて成長著しい体は、例えば三日月に比べると高校生と小学低学年程度の差が感じられた。まこと彼女達の体の基準に不思議なものだ。

 はずむ彼女の声と、年を取って渋みのでた拓郎の声がまざり、清水自身も足でリズムをとりながら、名残おしく目を書類に戻した。慣れとはすごいもので、あれだけ苦手だったことも、二ヶ月みっちり休みなしでこなしているうちに流れ作業に変わった。机をすっきりさせて一日を終えるのは気持ちがいい。日暮れは書類仕事はしないつもりでいるので、冬場は少しペースが落ちるかもしれないが。

 シングル盤はすぐに鳴り止み、フェードアウトしていくエレキを最後まで追いかけて針を上げた浦風は「ええのう」余韻に浸る。艦娘に出身地があるのか知らないけれど、広島弁を使う彼女に『唇をかみしめて』は、何か郷愁に訴えかけるものがあるのかもしれない。満足して手近にあったレコードを三枚、四枚と適当にプレーヤーにセット、ようやく秘書机に戻った。

 日暮れも近い。スパートをかけてしまおう。流れ始めた、毛色の違いすぎるポップな曲調と筆記のリズムが合わせていく。

 深海棲艦というものがある。

 数百万年、王座にあぐらをかいていた人類をあっさりと打ち倒した化け物である。母なる海から顕れたとされる者たちは、海だけでなく空すらも奪い、海を超えて栄えた人口を一気に減らし、各国に設けられていたインフラ設備(発電、港湾、空港施設。果ては河川まで)を軒並み破壊し尽くした。漁業に出れず、自給率の低い島国日本はまさしく滅亡寸でまで追い詰められたのだ。深海棲艦は奪った王座に座るのではなく、王座ごと消滅させるがごとく侵攻してきた。

 平和な時代に生きれば精神に贅肉がつく。でっぷりと肥えた人らは栄養失調に陥った。精神の飢饉。こうなっては、右翼だ左翼だのはなく、とにかく抵抗をという民意に、自衛隊は再び『軍』の旗を翻す。しかし「自衛」という役割は変えず、国土防衛のための軍。受動的な鎖国状態である現状に、口をはさむ国などありゃしない。

 地球上に顕われたものなら人類でも抵抗が可能、驕りを捨て切れなかった新生日本軍は、まさに強姦される処女だった。必死の抵抗はいきのいい獲物がここに在りと声高に叫んでいるだけで、まったく損害を与えられずに、ただただ攻められるまま、詰められ、撃たれ、爆撃され。沿岸の形が変わるほどに攻撃を受け、食料の自給自足すらもままならず、残飯生産量世界一位の国は肉体的にも飢餓になり、日本全国かつえ殺しの形が整った頃、彼女たちが顕れた。

 艦娘。

 オートチェンジャーが動き、一転ジャジーな曲に変わる。富津では出撃詰所でよく流されているもので、往年の喜劇スターが歌ったもの。浦風は小さい声で口ずさむ。清水も、口だけで歌詞を追う。「こ、い、し、い、家、こそ」歌っている時に声が変わる奴がいるが、浦風もそのクチらしい。鼻にかかった声が戦時の艦隊司令室に泳いだ。

 人の増えた富津泊地の司令室には、ここ最近、ひっきりなしに客がくる。

 大きな音を立てて開いたドアに浦風は飛び上がった。

「うーちゃんの青ぞベッ」

 ただの板っきれに近いドアは勢いを殺さず、また派手な音をさせて閉まった先に一瞬、ピンクの髪のいたずら娘が見えた。

 清水は小さく鼻をならす。

 ふたたび、今度はゆっくり開いた向こうに、半べその卯月が立っていた。 

「びっくりしたあ。うわちゃ、卯月、大丈夫?」

 今にもこぼれ落ちそうな涙を瞳にためた卯月に駆け寄って肩を撫でる姿は、駆逐隊の母という言葉がしっくりくるほど、板についている。「うあはえぇ……」ぽろり、ひとつ涙が溢れて、浦風の胸に顔を埋めた。「あっ、ちょ、もう。も少しおとなしくせんと、提督さんの迷惑じゃろ?」困ったように笑う姿は、同じ駆逐艦とは思えないほどに大人びていて、自分も少しぐらいなら許されるんじゃないかと邪念を抱かせる。

 清水の仕事は、彼女たちを戦地に送り込むこと。往時の人権団体が大騒ぎするようなことであっても、この時勢では美化されてしまう。ぜい肉をそぎ落とされた人類はもう、なりふり構っていない。

 浦風のふくらみに一通り顔を押し付けて、まんぞくげに顔を離した卯月の鼻からは、横一直線に赤い線が走っていた。

「うわっ、うわわっ」

 慌てた浦風が胸元を確認する。清水もつられて目線をやれば、しっかりと赤くシミがある。

「鼻血!」

「ぷぇ?」首をひねる卯月が鼻をこすればこするだけ、顔と手が赤くなっていく。そうして染まった手を見て、やっと慌てだした。

「提督、ティッシュ、ティッシュっ」 

「おうよ。ちっと待ってろ」

 二三枚引き抜いて、上むきに鼻をおさえている卯月の顔をつかんだ。小さな鼻の穴にはぬるりとした血が詰まって、奥から次々にあふれてくる。狙い定め、丸めたティッシュを突っ込めば、小さい鼻が限界まで押し広げられて、鼻翼がぱんぱんに膨らんで間抜けな顔になった卯月、自分でやるのと人からされるのではわけが違う。目を白黒させて、幼いながらに、今度は羞恥に顔を赤くした。

「ありえない、ありえないっぴょんっ。いいから箱ごとよこせっぴょんっ」

 言っておいて、机に置いてあったティッシュ箱をむしり取り、部屋から駆け出て行った。

「……今年の台風はまだ終わらなそうだな」

 開けっ放しのドアと窓が、良い道ができたとばかりに風をまっすぐに通し、冷えた空気に体が一つ震えて、日暮れがもうすぐそこであることを了解した。「そんなこといっとったら、一年中台風だね」けらけら笑って鼻血がべっとりと付いている胸元を引っ張り、それから眉を寄せて、苦笑いした浦風が言った。

「悪いが、服を貸してくれんか」

「上がってもいいぞ。もうそんなに仕事もないだろ」

「あー、それがな。スケジュールが全然で……。うちらとそっちと、なんとも難しくてなあ」

 清水は大きくため息をついた。

「もうお前らが来て二ヶ月目だぞ。まだダメか」

「うちはともかくとして……。仲たがいしているわけでないんじゃけっど」

 眉間にしわを寄せてこめかみをおさえる浦風と話していると、教員同士が職員室で生徒の扱いに悩んでいるようで、どこかちぐはぐな気分になってしまう。

「私の部屋のタンスの二段目。サイズは合わんぞ」

「すまんのう、駆逐舎はなにぶん遠くて。部屋に鍵はかかる?」

 いたずらな笑みを浮かべて、試すようにさえずる彼女に、清水はわざとどっかと音を立てて椅子に座り、うっとおしがっているように顔を作る。

「鍵はないが、お前が信用してくれるならば、覗かないと約束しよう」

「ひひ、そうやって女に選択肢を与えるのは男らしくないなあ」 

「早く着替えなさい。早くしないと、私が脱がせるぞ」

 大げさにリアクションし、ちらりと服をまくった浦風を睨みつけると、「おお、こわいこわい」声が執務室横の部屋に消えていく。やはり舐められているのだろうか、と女所帯の肩身狭さにため息をもらしても、肩をたたいて同情してくれる男はここにはいない。

 軍人の異動といえど、艦娘は名称の通りに娘である。横須賀の加賀のような妙齢から童女まで幅広く、この基地には若いを越して幼い艦娘たちが多い上、横須賀との提携で、さらに増えていくことだろう。相手は生身で多感な少女。人間関係のひとつやふたつ、うまくいかないのは当然と思う横で、横須賀の森友が送ってきたのはとりわけ面倒なやつらだったんじゃないか、と邪推するほど問題児が多い。反骨精神たっぷりなやつ、ゴム球のように自由奔放なやつ、出不精、酒飲み。資料上ではそれなりに実績があるとしても、自分に扱えなければ、ただ腐らせるだけだ。

 さいわい艦娘の教育が得意な軽巡と、面倒見のいい浦風のような艦娘もいるのでなんとかなっているが、早く解決せねばならないのは第一課題だ。現状ではまだ、部下といえるほど、彼女たちを扱えている自信はない。

 薄暗くなった室内に裸電球にかさをつけただけの照明をつけると、再度客が来た。

「第一水雷戦隊、演習から戻ったわ」

 しっとりした服に口が開かず、歯の隙間から息をする叢雲が、両腕で自分の体をかき抱いて入ってきた。

「おう、おつかれさん。そろそろ暖房も容易しとかなきゃなあ」

 着ていた軍服をかけてやると少しはマシになったようで、からだの震えは大人しくなり、頬の力が抜けて、いつもどおり秘書机に小さい尻を乗せた。夏の敗戦で焼けてしまった髪は、ようやく伸びて肩甲骨の上辺り。軽く活発な印象になったが、早く元の長さに戻って欲しいとひそかに願っていた。似合わないわけでなく、月明かりに輪郭が銀色に輝く彼女は、現実と思えないほどに美しかったから。

 ちなみに叢雲は、秘書机に人がいる場合は清水の机に腰掛ける。

「うすめでお願い」

 部下に飲み物を作ってやるのもおかしな話ではあるのだが、コーヒーも酒も、人に作ってもらったほうが美味いのだから仕方がない。自分に入れる半分ほどの粉を入れて湯を注ぎ、「むらくも」と油性マジックで書かれた色気のないマグを両手で受け取った叢雲は、熱さに口をすぼめて一息ついた。清水は冷たくなった自分のマグに今度は濃い目に淹れなおす。湯気立つマグをふたりで掲げて、彼女と同じよう、自分の机に尻をのせた。熱すぎるコーヒーが舌を焼く。

「そういえば」二口目をずずっと、ほんのり顔を赤くした叢雲が、鼻もすする。「卯月がティッシュ箱抱えてすっとんでったけど、なんかあったの」

「撃った銃口が自分に向いていたというか、なんというか」

 意味わかんない、と目で訴える。「どうせまた何かやらかしたんでしょう」そう言ってまたコーヒーをすすった。

 清水は悩みの種の一つである卯月について、初期艦である彼女に聞いてみたいことがあった。

「お前はあいつのこと、苦手に思ってたりするのか」

 ずず、ずず。コーヒーと鼻水を忙しそうに交互にすすられても、ティッシュは持って行かれてしまったのだからどうしようもない。

 鼻を赤くした叢雲は「ああ、そのこと」、曲に合わせて足をぱたつかせた。

「別に、かわいいものじゃない、ちょっと警戒心が強いだけで。言っておくけど、あの娘を邪険にしてる娘はいないわよ。異動組も、すくなくとも私の見てる限りだけれど問題ないわね」

「お前が言うならそうなんだろうなあ。……なんとも難しい」

「ふふん、あんたがうちの中では一番懐かれているんだし、がんばんなさいな。それよりも」

 とん、机から飛び降りた叢雲は勢いのまま清水に迫った。肩から羽織った軍服が重そうになびいて、こぶしふたつ分の位置まで近づく。生乾きの服が、汗と海の匂いを濃くかもし、鳩の血のような瞳が影に光る。

「『お前』っていうのやめてって、何度言ったらわかるのかしら、このボンクラは」相変わらずの上目遣い。髪と同じ、白いまつげが赤を強調させる。いい加減彼女にこうやってにらまれることに慣れた清水は、鼻息ひとつ吐いて、その長いまつげを揺らした。「お前が『あんた』っていうのをやめるまでかな」

 ガン、手に持ったマグを揺らさず、器用に足を踏みならして抗議されると、本当に自分に司令としての威厳はないんだなあとしみじみ感じる。叢雲はわりとはじめからこういった風であったからいまさらかもしれない。こちらも少々意地になってしまっているのはわかっているが、相手の呼び方を変えるというのは、はじめのとっかかりがなかなかに難しい。特に、相手が異性であるならばなおさらで、気恥ずかしさが先にたち、どうしてもふざけてしまう。べつに固執することでもないというのは分かっていてもだ。

「あんたがお前っていうのをやめれば、あたしもやめたげる」

 毎度のやりとり。結局のところ、清水と叢雲はおなじ穴の狢。

「つまりはお互い様ってことだ。それよりも、演習の報告をたの」「えへへ、提督の服はぶちでかいのう」

 そこへ、清水の部屋着をかぶった(着ているとは言いがたい)浦風が出てきた。

「叢雲、お疲れさん。いやあ提督、うちも言おう言おうおもっとったけど、女の子に『お前』はアカンて。ちゃんと名前で呼んであげな」

 ふとももまですっぽり被さるシャツのすそを結びながらにらみつけられて、言葉に詰まる。叢雲ならばいくらでも言い返せるのに、浦風にたしなめられると不思議と逆らえない。けれど今は、ゆるい胸元からのぞく肌が非常に目の毒だ。

 そのなさけない男の習性を見逃す叢雲ではない。

「お疲れさま。女の子に自分の服を着せるなんて、ずいぶんいい趣味してるのね」底冷えのする声でようやく目線をはずした清水が、目玉をとめずに目の前の少女を映すと、顔だけはにこやかに口が動くのを認めた。「浦風、気をつけなさい。司令に隙を見せたら、頭の中で素っ裸に剥かれるわよ」

 思わず吹き出してコーヒーをぶっかけそうになるのをこらえ、出口を塞がれた液体が鼻に逃げてむせたが、対照的に本人はきょとんとした後、からから笑い、いたずらっぽく胸元を隠した。

「叢雲っ、おま、そんなことはない!」

 女所帯でそんなことが広まれば仕事が回らなくなる。が、わずかな罪悪感が焦りを生み、虚を突かれた男の滑稽な言い訳が、余計に彼女たちを楽しませ、口を回らせて、さらに責めあげる。一度取り乱した男は目も当てられないもので、何ら厚みのない言葉がむなしく司令室にひびき、かしましい少女たちの声と飽和した。「俺はお前たちにそんな感情を抱いたことはないっ」「さっきのあんたの目線、真似してあげる」叢雲が背伸びして鼻の下を伸ばし、大げさに胸もとをのぞけば、浦風は顔を真っ赤にして大笑いだ、涙まで浮かべた。

 こうなってはなにを言ってもからかわれるだけ。

 無線のマイクを取り、詰所にいる誰かに向けて連絡を入れた。逃げの口実の、とにかく彼女たちの搦手からの脱出を図る。

「司令室から詰所。誰かいるか。……誰かっ」

 哨戒の交代には早いのだから当然、用意のできていない詰所からの迅速な応答はなく、ただの一人芝居に、艦娘ふたりが腹をかかえて笑った。汗でぬるつく額に手を当てて、無線機のスピーカーが遅れて『おう、どうした、緊急か』木曾の声を伝える。こちらのマイクが伝えるのは大声量の笑い声。またからかわれているのか、木曾の呟きが聞こえてきそうなためいきが向こうから聞こえ、もはやどうでもよくなった清水は再度マイクを握り、やけくそに舌を回す。

「私も夜間哨戒、ついてっていいか」

 返ってきたのは無情にきられた無線の、短い電子音。

 限界かと思っていた笑い声がさらに大きくなった。

 



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1

 軍事施設といえども民間あがりの人間に海の男の艦隊勤務はあまりに負担がおおきいので、緊急時の対応をのぞく、富津独自の休日がある。本当ならば生活リズムを昔に合わせたかったのだが、雨がふるたびに休むのは下界のルールから逸脱している。日曜日。キリスト教に基づいた由緒正しき安息日。教会に行くわけでもなく、祈りをささげるわけでなく「周りの業者は日曜休みがおおかった」からという、いかにも日本人らしい性格で決めたものだ。

 総員起こしの放送(当番ごとにかかる曲が変わる。今日は三日月がピートシーガーのヤンキードゥードゥルを流した)に起こされ、寝間着のまま自室を出れば、夜勤をたのんでいた青葉が、年代物のポロライドカメラの手入れをしていた。少し赤くなった目で、それでも慣れた笑顔を見せる。

「おお、司令官、おはようございますっ」朝から耳に突き刺さる高音にのけぞって挨拶をかえす。彼女はどのタイミングで会っても元気が良く、寝起きのような、頭がぼうっとするときに会うとなかなかに釣り合いが取れない。しおらしい瞬間を見てみたいものである。「問題は何かあったか」あくびをかみ殺しながら要点だけ聞くと、通信記録を1枚差し出された。流し読む。

「0146時頃、八丈島北東六五海里ほどで敵偵察部隊と交戦がありました。島風さんが小破するも、航行に問題はないようなので、そのまま行動をお願いしてあります」

「ううん……最近おおいな。先週もきてたろ」

「ですねえ。犬吠埼の詰所も、毎日のように深海棲艦をみかけるらしいですよ」

 そうだ、最近、犬吠埼に艦娘が詰める場所ができた。基地と言えるような立派なものでないが、富津から向こうまで足をのばさずに良くなったぶん、じっくりした哨戒ができるようになったのでありがたい。所属は大本営から直接派遣されたり、よその基地で再起不能の傷を負った艦娘たちで、指揮は清水が卒業した学校の生徒と、本営付きの指導艦が担当している。敵の活動が活発になってきているので、森友の提案を強引に通した結果である。指導艦の中には、清水が恐れる香取も詰めているので、傷のある艦娘の部隊でも十分戦えるだろう。

 あくびが一つ出た。ダメだ、今日は頭を使わない日なのだからしっかりと休めねば。

「くぁあ、了解。今日は難しいことを考えるのはよそう。顔洗ってくる、朝の哨戒部隊が出たらお前も寝なさい。お疲れさん」

「了解でーすっ」青葉の声を背中にうけてドアをあければ、ひりついた冷たい風が頰をなぜ、温まった体をかき抱く。見慣れた水平線からは寝ぼけた朝陽が顔を半分ほど出していた。

 カルキ臭い水で頭を締めてぬるつく顔を洗い、流れで歯を磨く。毎日やっていることでも今日は机に座っていなくていいのだと思えば、憎らしい朝陽も美しい。わざとらしいミントの香りを感じたまま、ポケットに入れっぱなしのよれた煙草に火をつければ、濃いバニラ香が鼻腔に広がる。

 さて、今日は何をしようか。煙を吐き出して朝陽に目を焼く。駆逐舎の増築に手をつけるか、それとも司令室と執務室を分ける設計に手をつけるか。道を整備して、コンクリートでも流そうか、レンガ敷きにするのもいい。それとも草刈り。夕張に手伝ってもらって、ストーブもつくっておきたい。せっかくの休みだ、寝ているのはもったいない。背中、首、腰、股関節、指と骨を鳴らして、唯一灰皿が設置されている吹き抜けの休憩所に足を運ぶと、起床時間すぐだというのに先客がいた。

「ん、おはようございます、提督」

 千歳だった。ショートの髪は風にそよがずしっとりぬれていて、濃い石鹸の匂いと、裏にひっそり香る酒の匂い。「また徹夜か」彼女に対して風下になることを確認し、少し間を空けてベンチに腰掛け、灰皿の上で煙草を叩く。

「失礼な。ちゃんと寝ましたよ。アルコールが残っていたので抜いただけです」心外だ、とばかりに清水の太ももを叩けば、ぱん、いい音が鳴る。

「毎日々々よく飲める。私だって寝酒の一二杯は飲むが、べろべろになるまでは飲んでられん」吐いた煙が潮風にとけた。「ところで、富津には慣れたか」

「もう、顔合わす度にそればっかり。バリエーションに富んだ会話希望です」

「寝起きに風呂上がりの美女がいれば、そりゃあ緊張して頭も口も回らんさ」

「うふふ、お上手お上手。使いまわされた感がありますが」ずり、ずり、砂の擦れる音をさせて、ごほうびとばかりに寄り添われた。お互い寝間着のために、体温がしっかりと伝わり、凍みた体の触れている箇所が、千歳のほてった体温と同じになっていく。

「うちで唯一の航空戦力なんだから自重してくれよ」

「それも聞き飽きました。今日は千代田が当番だからちょっとぐらい、いいじゃないですか」

 水上機運用に長けた艦娘の千歳と千代田は、横須賀からの異動組。航空戦力心もとない富津唯一の水上機母艦である彼女たちには、隔日で陸上から艦載機を飛ばしてもらい、近海の航空哨戒を頼んでいる。問題は姉の千歳が大ザルであることだが、今の所支障はないし、自分の仕事のある日は控えてくれるので、別段扱いづらいわけでない。

 半ばを過ぎて辛くなった煙草をもみ消す。禁煙していた期間などなかったかのように煙草の毒はよくなじんで、おそらくこの仕事をしている以上やめることはない確信がある。

「さて」朝の日課を終えた清水が立ち上がって大きく伸びをした。せっかく温まった右半身が寒い。

「あら、もう行ってしまうのですか」

「そろそろメシ作らんと、育ち盛りのガキどもが騒ぎ始めるから」

「残念ながら育ちませんけどね。毎日ごちそうさまです」

「どうだ、口に合うか。横須賀はさぞ豪華なメシが出たんだろうなあ」ここは大きな基地ではないので、運ばれてくる物資もそれなりだ。そもそも手の込んだ料理なんかできるはずもないので、毎日代わり映えのしない料理なのが申し訳ない。

「確か横須賀にゃ、専属の料理人がいたよな」

「間宮さん。料理人というより給糧艦ね。でも、あれを基準にしてしまうのはダメですよ、異次元ですから、あの方の料理は。特に甘味です甘味、間宮さんの饅頭と日本酒の相性ったら!」

「甘いもんで酒飲むやつは、もう戻ってこれないぞ」

「ふん、別にいいですよーだ。提督のお料理は、うん。私は好きですよ、素朴で」歯に引っかかる言い方。確かに子供に人気なメニューは、一度挑戦して、個人的な問題から封印している。得意料理は地味なものばかり。つまみも、炙ったイカか塩があればいいのだから世話ない。「文句があるなら言ってくれ、それか手伝え」

「あはは、私お料理はちょっと。個人的には本当に好きなんですよ。だけど、あの、卯月が……」

 ため息を吐いた。また卯月。

「だ、だいじょーぶです。ちゃんと言い聞かせますからっ」

 ぐ、胸の前で拳を作ると、彼女のぱつんぱつんに張った胸に細い腕が食い込んだ。

 卯月だけでないだろう。食というのは士気に密接に関わる。間宮や伊良湖のような給糧艦の存在も知っているし、艦娘の中には料理のうまいものもいるというが、立ち上げの流れのまま、富津基地の調理は清水が全て受け持っていた。そも、そう言った艦娘を建造している余裕が今はないし、大本営から派遣されるのも、激戦区の日本海側基地が優先なのはわかっている。八木にわがままをいうのも考えたが、いざというときに、本当に欲しいものが手に入らなくなる可能性は否めない。

 仕事量も増えてきて、さらに着任している娘も増え続けているのだから、もうそろ調理も当番制を導入してもいいかもしれない。

 日々のギャンブルも、士気を刺激するにはいい材料だ。

「そのことについては考えておこう。私たちは同じ釜のメシを食う家族なんだから」思いを込めて千歳の肩をたたくと、裏に隠れた嫌な気配を感じ取った千歳の顔はひきつった。

 怯えた女性は可愛い、と思うのは、自分の心が汚れているからだろうか。

 不気味に頷く清水の顔と肩に置かれた手を交互に見て、やがて「そうですね」と搾り出した声で肯定した。

 

「飽きたっぴょん」

 引き寄せの法則、とはまた別だろう。噂をすれば影、瓢箪から駒、灰吹きから蛇、とにかく口に出したことが本当になるというのはよくあるもので、千歳との会話から一時間後の食堂、ついにいたずら娘の堪忍袋の緒は切れた。

「卯月、せっかく作ってくれとるんじゃけえ、めったなことは言うもんじゃないよ」珍しく真面目な顔で叱る浦風を無視して卯月は立ち上がる。「飽きた、あきた、飽きた! もうイヤぴょん! せめてお肉食べたい!」地団駄を踏んで、全身で不満を表している中、清水は一つ味噌汁をすすった。

 今日は追いがつおに挑戦をしてみたが、なかなかにうまい出汁がでてくれている。

 ご飯には大根を混ぜ込み、食感が楽しく、ほんのり香る辛味と風味がある。ちびっと醤油をたらして一口。うまい。米を飲み込まないうちに、昨夜漬けたぬか漬けのキュウリを一つ。まだ塩っ辛さが物足りないが、ぬか床もいい感じに育っている。多分、今日の夜には一緒に漬けたナスがいい具合になっているだろう。最後に味噌汁で口を洗う。うまい。

「司令官、聞いてるのおっ。うーちゃん怒ってるんだからねっ」

「ウインナーなら冷凍庫に入ってるぞ。焼けばいい」

「早く茹でろぴょん!」

 浦風が落ち着かせようとしたが、一度火のついた子供の癇癪は簡単におさまるものではなく、どすどす、というよりはぽてぽて、といったオノマトペで迫ってきて、思い切り清水を睨み付ける。

「昨日の朝ご飯、覚えているぴょん?」

 座っていれば同じ目線だ。ここで立ち上がるのは大人気ないし、してはいけない。

「卵かけご飯とぬか漬け」「昼ごはん」「菜めしとぬか漬け」「おやつ」「ぬか漬け」「夜ご飯っ」「炊き込みご飯とオオバコのおひたしとぬか漬け」「その炊き込みご飯にはお肉が入ってなかったことを覚えておけぴょん! で、今朝は」「大根飯とぬか漬け」矢継ぎ早の質問にも清水は動じず、的確に淡々と答えていき、答えれば答えるだけ、卯月の目は釣りあがっていく。

「ぬか漬けばっかっ。なんなの、司令官は修行僧か何かなのっ。ええい、違うぴょん。言いたいことはそうじゃなくて、一日置きに同じメニューを繰り返すのはやめるぴょんっ。どうせ今日のお昼は小豆ご飯とぬか漬け、夜は芋ご飯となんかの天ぷらとぬか漬けでしょ」

「いや、栗があるからな、栗飯だ。それに、今日のナスはきっといい具合に漬かっているぞお」頭を撫でてやると、今度こそ爆発した。

 まあ、仕方ない。

「いい加減にしろぴょん! ここに来てから毎日かて飯とぬか漬けばっか。ハンバーグとかシチュー食べたいっ。さんまも食べたい、アジのお刺身も食べたい、アイスも大福もあんみつも食べたい食べたいっ」

 何度もなんども地団駄を踏み、顔はどんどん赤くなっていく。清水は叩きつけられる不満をまっすぐに認めて、ただじっと、決して目をそらさずに聞いていた。

「せっかく来てやったっていうのに、ちょっとはおいしいもの食べさせてくれたっていいじゃんっ。うーちゃんの力が必要なんでしょ、だったらもっといい扱いしろぴょん! オンボロ基地なんて、なんにも面白いことないっ」

 浦風がいい加減に落ち着かせようと立ち上がったのを目で抑え、最後の叫びが吐き出されるのを待った。

「もうやだっ、間宮さんのご飯食べたい、おやつ食べたいっ、暁と遊びたい、黒潮に会いたい、美味しいもの食べたいっ。こんなとこもうやだっ、横須賀に帰りたいよお!」

「卯月ぃ!」

 食器や金属が震える音が聞こえるほど静まり返った中に、乾いた音が響いた。我慢の効かなくなった浦風に頭をひっぱたかれるという形で黙った卯月は間髪入れず、ガソリンをぶっかけたように激しく泣きはじめる。せっかくの休日が最悪な形で始まってしまったことに清水は頭をかいて、それから味噌汁を一口すすった。

「なんでそんなこと言うん。提督だってお仕事あるのに、うちらのために頑張ってご飯作ってくれてるんだよ。富津の娘もいい人ばっかじゃろ。わがままばっか言っとったらいけんっ」腕をつかめば振り払われ、暴れる卯月をなだめようとしても、えづくほどに全力で泣いているのを抑えるのはどだい無理な話だ。辛抱強く声をかけても意味はなく、他の艦娘たちは食事の手を止めて、音すら立ててはいけないような、緊張感あふれる場になった。

 食堂はこれではいけない。もっと和気藹々した空気があふれ、楽しげな、用がなくてもつい居ついてしまう場所でなければいけない。基地の雰囲気は、組織の雰囲気は、ともに食事をする場所から生まれるのだから、そんな大事な場所が居づらい場所であってはいけない。いつも通り古鷹の正面に陣取った叢雲と目が合い、お手並み拝見、とばかりに味噌汁をすすったのを見て心の中で苦笑いする。異動組の一番の問題児。人見知りするせいで、清水の見ているかぎり、一度も富津の艦娘と話しているところも、遊んでいるところも見たことがない。それとなくほかの娘に聞いてみても「ごくたまにいたずらはされるけど話したことはない」というばかりで、見ているものと状況は変わらないのだろう。上官という存在は別なのか話すことはあるが、いつもそばには異動組の誰かがいた。浦風がスケジュールを組めずにいたのも、いざという時に行動できなくなる可能性があるからだ。戦力が増え、駆逐隊を組んだ際、あえて異動組だけで組まずに涼風を投入したのも、間違った采配ではないと清水は信じている。いつまでも前の住処に固執させるわけにもいかない。 

 ボルテージが上がり、もう一発かましそうな浦風の柔らかい肩に手を乗せる。

「事実だからもういい。つまらん食事しか出せんのは私のせいだから」

「でも頑張ってくれてるのに、卯月がわがまま言うのは、うち許せんっ」興奮した彼女の目は潤み、卯月と同じく顔を赤くしていて、普段隠れていた子供っぽさがにじんでいた。

「男やもめの生活が長くてな、ロクな飯が作れん。んで、そろそろ私もかて飯にも飽きてきたところだ。多分、口に出さないが同じことを思っている奴も多いろ。一つ、提案がある」

 清水はなるべく音を出さないように立ち上がり、全員がこちらに傾注しているのを確認した。

 こう見るとうちも大所帯に見える。

「料理も当番制にしようと思う」

 視界の端で千歳が頭を抱えたのが見えた。今朝の怯えっぷりから予想はついていたが、どうやら本当に料理が苦手らしい。

 人とは違う生まれ方、育ち方をしている艦娘の料理がどういったものなのか興味があった。給糧艦はうまいものを作る、料理がうまい艦娘がいる。これらの基準がわからない。もしかすると、うちの中にも、腕の立つ料理人がいるかもしれないのだ。このまま不満をため続けるより、食えないものが出てくるか、涙を流すほどうまい料理に出会えるか、賭けに出るのも悪くない。毎日味が変わればいい刺激にもなるだろうという、見切り発車の提案である。

「というわけで、後で表を作っておく、スケジュールの兼ね合いもあるしな。一週目はどんなもんか見ておきたいから、一食づつ、だが基本は一日の食事を全て受け持ってもらうぞ。食料は倉庫の中のもの、自分でとってきたもの、なんでもいい。食えなくてもマズくてもいい。自信がなけりゃ本だって取り寄せるし、米の炊き方ぐらいは教えてやれる。細かいことは今日の夕食までに決めておくから。もちろん卯月、お前もやるんだ」

 しゃっくりを上げて、涙でぐしゃぐしゃになった目で見上げられる。

「で、で、でも、ぃぐっ、うーちゃん、りょ、料理なん、てしたことな、いぃ」

「知るか。誰かに教えてもらえ。それか、私がかて飯の炊き方と、ぬか漬けのつけ方と、ぬか床の管理の仕方を教えてやってもいい」

「ぜ、ったい、ヤ!」噛み付いてこれるなら大丈夫だろう。頭を撫でてやれば、にらみつけられこそすれ、払われることはない。「浦風もな」言葉をかけると未だ興奮さめやらぬ風で、不満そうに卯月を見て、言った。

「料理なら自信あるよ。けど、うちは提督が作ってくれる料理も好き」

「そいつは楽しみだ。私の当番が回ってくれば、またいくらでも作ってやるさ」気を利かせて言ってくれたのはありがたいが、自身が飽きているのだ。彼女だっていつかは飽きが怒りに変わるときがくるかもしれない。浦風の頭もなでてやると、こっちは逆に払われてしまった。子供扱いするんじゃないということなのか、単純にうっとおしかったのか。「そういうことだ、終わり。今日一日は我慢して、私のメシを食え」

 清水の一言で、再び食堂に食器が擦れる音と、先ほどよりも大きいざわめきが戻る。どんなもんだと叢雲を見れば、彼女は千歳と同じよう、頭を抱えてうつむいていた。なるほど、清水は今度こそ隠さず苦笑いを出す。

 まずい料理には慣れているつもりだ。誰も食えなくても、せめて自分の皿だけはきれいにしてつき返してやろうと心に決めて、ぬか漬けをひとつ口に放り込む。うまい。

 

 仕事以外で頭を回すのは苦痛にならないもので、前に浦風が残業して出した一ヶ月分のスケジュールと調整し、日の暮れには表が出来上がった。清水の勝手な印象で、料理の得意そうな艦娘と、そうでなさそうなものを交互に配置してある。もちろん、自分もその中に組み込んであるし、例外なんてない、全員道連れ。

 晩飯の仕込みをして(生米と剥き栗を釜に入れてかぼちゃの天ぷらの用意をするだけ)風呂に入り、熱い湯で顔を洗う。この建物を突貫で作ってもらった当初は、さすがに歪みがあって向こう側が湯船の真正面から覗けてしまったもので、いつか直さなければと思っていた矢先、いつの間にか板が打ち付けられていた。女性側から気づかせるのは申し訳ないと思っていたが、すぐに手をつけなかった自分も悪い。偶然とはいえ、実際に「見て」しまった叢雲が気付いていないことを祈るばかりだ。

 体を洗い終わってもう一度湯船に足を突っ込んだところで、哨戒から戻ってきた娘らのかしましい声が、薄い壁を通して聞こえてきた。

 神通、叢雲、三日月、曙、山風の富津第一水雷戦隊。一人でいっぱいいっぱいの男湯と違い、女風呂は広く作ってある。体の小さい艦娘たちならば、七八人入って、なお余裕だろう。盗み聞きしているわけでない、聞こえてきてしまうのが悪いのだと、清水が静かに物音を立てないよう湯船に浸かると、ちろちろしたかけ湯の音が聞こえてきた。

『くぁっ。この時期になると、熱いお湯は辛いわ』叢雲の声。

 次に聞こえたのは、はじめの流水音の倍以上。気持ちのいい豪快さだ。

『私はもう少し熱い方が好みですね。あ、山風、髪の毛上げませんと』

『ん、んぅ。……ありがと』

 横須賀の艦娘も、何も問題のあるやつらばかりではない。神通を旗艦とした第一水雷戦隊、那珂が旗艦の第二水雷戦隊、川内旗艦の第三水雷戦隊、川内型三姉妹は、劇的に富津の艦娘たちの練度を上げてくれた。自分たちが元横須賀の異動組というのを念頭に置いた上で、決しておごることはない。だからこそ旗艦に置いた時も、富津組からは純粋な祝福を受けていた。やはり、経験のある艦娘から直接教えを乞えることは大きい。

 メリットがあったのは艦娘らだけではなく、清水にもある。開発能力の乏しい基地に対して、最優先で作らなければいけないものをアドバイスしてくれ、さらに戦術や艦隊運用に関わることも教えてくれる。彼女たちの異動のおかげで、基地が基地たりえるためにかかる人月を、大幅に短縮できたのだ。おかげで夏以降、戦闘が活発になってきた今であっても、横須賀に手助けしてもらうことは少なくなった。向こうは向こうで何かしらが動いているらしく、どうも最近は慌ただしいようで、双方にとって喜ぶべきことだろう。大事な戦力をこちらに渡してくれた森友に足を向けて眠れない、というか大きすぎる借りを作ってしまったことが恐ろしい。

『さっきの話の続きなんですけど、そちらの間宮さんって、そんなにお料理上手なんですか。給糧艦は知っているんですが』三日月の振りに答えたのは曙の声。清水に対してつっけんどんな態度を取る娘は、同僚同士なら受け答えが柔らかいのだということに、彼は初めて気づく。

『美味しいというか、もちろん美味しいんだけど、なんていうんだろう。すごくしっくりくるのよ、間宮さんの料理は』

『しっくり、ですか』

『アタシはそんなに味にこだわりはないんだけど、ううん、なんて言えばいいのかな』シャワーを弾く音がして、一度曙の声が途切れる。『ぷう。シャンプー……あ、ありがと。間宮さん以外の料理って、ここの提督のが初めてなんだけど、まあ、それなりに食べられる味という感想がまず初め。別にまずくもないし、どちらかといえば美味しいと思った』

『ぼのたんがデレたわ』すかさず水音が爆ぜて、叢雲の可愛らしい悲鳴が上がった。「さすがに飽きるわよ!」

 クソだの役立たずだの、散々な罵倒を会うたびにぶっつけてくる曙が、自分の料理をうまいと言っている。それだけで鼻の奥がツンと痛み、垂れてくる鼻水を、音を立てないようにお湯で拭った。艦娘指揮官として力不足なのは認めているから言われるがままに耐えていても、小指のつま先ほどに残った「男」としてのプライドがある。それが指揮官として関係のない、料理をほめられたぐらいで嬉しくなってしまう時点で情けないことこの上ないとしても、曙を見る目が変わってしまう。この先、裏表の裏をぶつけられた時、きっと都合よく捉えてしまうのだろう。表が存在する言葉でないとしてもだ。

『ともかく』仕切り直しとばかりに、語調を強めた声が続く。

『きっと料理って、食べればそれなりに感想があると思う。でも、間宮さんのは違うのよ。スっと舌に馴染んで、今までずっと食べてきた味に感じるの。だから初めて食べた時も、食べる前から味が予想できて、予想通りの味。それでいて毎日食べても飽きない、不思議な料理だった。うち……横須賀の提督が言うには、「おふくろの味」ってやつらしいけど』

 艦娘のおふくろって誰なんですかね、三日月の声で女湯からそぞろ笑い声が小さく響いた。彼女の言葉には、単純な疑問だけがある。

『あの方、人によって味付け変えていましたから』

『へぇ、それはまた手間のかかっているものね。横須賀に行けば食べさせてもらえるのかしら』

『大丈夫でしょ。あたしか神通、というか、元横須賀組と一緒に行けば顔も利くし。明日は出撃もないし、ちょっと行ってみる?』

 湯船から上がる音、入る音、髪を洗う音、体をこする音、差し込まれる生娘の声。男湯と女湯の温度を別個にできず、向こうが熱ければこちらも熱い。いい加減じっと浸かっているのも限界だった。聞き耳を立てているのも申し訳なく、気付かれないうちに、忍んで風呂から上がった。冷えた脱衣所の空気と火照った体の折り合いがつかずに酩酊する。風呂場の隙間がなくなったから大丈夫だろうと思っても、すぐ隣に若い娘がかしましくしていると心が休まらない。やはり夕方、いや、艦娘たちが風呂に入るであろう時間帯は司令室でおとなしく酒でも飲んでいよう。ほろ酔いで浸かる風呂も、またいいものなのだ。

 拭いても拭いてもにじみでる汗の上から寝巻きを着て戸を開けると、波音と一緒に、薄い膜に体を突っ込んだように体が冷える。血の管が一脈々々狭まって軽い立ちくらみをおこしたところに、追い打ちをかけるよう煙草を一本くわえ、マッチをする。甘いバニラの香りが立ち込めて昇るはずの紫煙が潮風にかき消えていく。入浴所から食堂に行くまでの道のりで強い潮風に吹かれていれば髪も乾く。からからに乾いた喉は煙を引っ掛けて、いがらっぽさに少しむせた。この後にはいつも通り、大量の天ぷらを揚げなければならない。隔日ごとの行事のため、いい加減腕前は上がっていると信じたいが、自分が飽きているものなのに艦娘がそうでないはずがない。まして、聞いた通りの間宮で過ごしていた者たちならば当然だろう。卯月の爆発はむしろありがたいことだ。因習は怖いもの知らずが壊さなければならない。士気に関わる調理を清水一人が担当していたという因習を打ち壊してくれたのだから、感謝こそすれ、苛立つなんてもってのほか。料理のできない卯月が今後どう立ち回るかも、彼女を縛る因習を壊すための布石となるだろうと踏んでいた。そうでなくては困ってしまう。

 道すがら、夜間哨戒に向かう部隊が出撃した合図の鐘が聞こえた。できれば出撃前には暖かい料理を食わせてやりたいが、専属の料理人が望めない弱小基地では、作り置きでガマンしてもらうしかない。

 戦力は整いつつある。ならば、彼女らや自分にとっての『狭いながらも楽しい我が家』を創りはじめるのも悪くない、と考えたところで、胃がひしゃげた気がした。風呂上がりの酩酊と、加減を考えずにピースの煙を肺に入れたヤニクラが重なったせいだと言い聞かせ、せり上がった苦い胃液を無理に飲みこむ。一二度深呼吸をすれば治って、真っ暗い道、支えるものを求めて闇をまさぐっても何も見当たらず、腹から空気を絞り立ち上がった。

 体が冷え切る前に火の前に立ちたい。一気に冷えた体をさすりながら、食堂までの道を急ぐ。

 



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2

 交代制の食事当番は幸いに好評だ。

 はじめに固めた、出撃がかぎられている第一重巡戦隊(古鷹・青葉・足柄・熊野・摩耶)の腕前が高かったこともある。清水の所感では、料理が苦手と踏んでいた青葉・熊野・摩耶が見事に作り上げてくれたことにおどろいた。「知識だけならありますから」「淑女として当然ですわ」「ナメんな」いとも簡単にいってのける三人が頼もしく、新たな一面が見られたことも、制度がうまい具合に転んでいることをあらわしている。こっそり古鷹と足柄に料理指導を受けていたのは微笑ましかったが、彼女たちの名誉のためにも知らぬふりをつらぬき通さなければならない。おかげで卯月の機嫌も多少回復して、当番表の前で一人百面相をしているところをたまに見かけるようになった。相変わらずコミュニケーションはうまく取れていないようだが、このままゴキゲンを維持させておけば、少しのきっかけさえあれば事は回るだろう。布石も打ってあるのだから、あとは時間の問題になってくれることを清水は願っている。今朝の当番で軽巡組も終了、昨日の神通と川内で期待が上がったところ、那珂の番にブーイングが上がったのも、刺激として考えれば良いことだ。はじめからこうしておけばよかったと、塩っ辛すぎる口内を必死で洗いながら思った。食事時の気分一つで、淀み始めていた基地の雰囲気に、新しい流れが生まれつつある。

 何度歯をみがいても那珂がつくった味噌汁の、焦げた鉄みたいな甘ったるい香りと、味噌のかたまりをそのまま頬張った味が抜けず、煙草をくわえて司令室に足を向けた。今日の昼は山風だったはずだ。おどおど弱気だった彼女も、同じく物静かな(どちらかと言えば無気力な)初雪に料理の手ほどきを受けていたし、あれでいて真面目な娘だから、それなりに期待が持てるというもの。今朝の様子も、眉がいつもよか力強く見えた、かもしれない。潮風に背を押されて、短く刈った襟足に体中を冷やされながら歩いていると、司令室の扉が開けっぱなしだった。中には今日の秘書艦が通信手として詰めているはず。これでは寒かろうと覗き込めば、千代田と卯月が、ほとんど一方的な形で話していた。躊躇せずドアを叩き、先読みして煙草を持つ手高く上げる。

「おう、おはよう」

 同時、まさしく脱兎のごとく卯月が、清水の脇の下をくぐり抜けて走り去って行った。ご丁寧に拳を脇腹に叩き込んだ上でだ。

「こら卯月っ! ああもう、すみません、あとでいっときます」

「くゥ……、別にいい、自由に遊ばせてやりなさい。どうせ仕事前だしな」

 艤装を展開していなければ彼女らの力は相応なものだから、体格の小さい卯月に殴られたところで大した痛みはない。後ろ手に扉を閉めて靴の裏で火をもみ消すと、千代田が灰皿を差し出してくれる。

「何聞きます?」返す足でレコードをかけようとする。清水は少しだけ考えるそぶりを見せて、結局何も思い浮かばずに、彼女に丸投げした。

「胃もたれしそうにないやつ」

 秘書机の上には、食堂から運ばれてきた朝食が、行儀悪く食べかすを残した状態で置きっ放し。一人は無線機の前に詰めていなければならないから、卯月が食事を運んでくれたのだろう。今日に至っては、むしろ抜いたほうがよかったかもしれないと、だいぶ苦労が見て取れる食器の具合を見て苦笑いが出た。千代田も抑揚のない笑い声で応えてレコード棚の前であごに手を当てている。その間に、濃いめにコーヒーを淹れて口を洗い、昨日さっぱり片付けたはずの机に散らばった郵便物や資料、書類にざっと目を通す。一枚、毛色の違うものがあった。

『友軍募る』見出し文字の下に、簡単なプロパガンダ絵、一番下に大きく舞鶴鎮守府とだけ。手書きのものを印刷した、簡単なチラシを手にとって眺めていれば、しっかりした単音のブルースが流れ始める。盲目であるブラインドボーイフラーのギターは軽快で心地がいい。ジャケットを棚の上に立てかけた千代田が「何ですか、それ」と手に持ったチラシを取り上げた。

「向こうも大変みたいだな。そういったもんをバラ撒く程度には困窮しているらしい」書類でも何でもないので、誰に見られたところで問題ない。そもこの簡潔な文面のものは民間にも回しているはずだ。まじまじと書面を眺める千代田の柔らかそうなポンチョ・セーターの腹が目の前で、呼吸に合わせて膨らんだ。

「私も話でしか聞いたことはないですねえ。朝鮮のどこかがどうたらこうたらとか、台湾がどうとかの話?」

「別に朝鮮に限った話じゃないが、大陸の沿岸一部が深海棲艦の基地になっててな、おかげで日本海は元気いっぱいな敵がわんさか、隠岐諸島はオセロゲームだ。九州は佐世保と対馬泊地が頑張っているが、北海道なんてひどいぞ。小さいとはいえ、奥尻島にやつらの基地を作られたせいで、もうここ数年、青森から北へ行けた試しがない」

 言葉に出せば出すほど、よくもまあ日本のような島国が存続できているものだとしみじみ思う。艦娘がいなければ深海棲艦の大規模基地として新しい使われ方をしていたかもしれない。

 少し、彼女に踏み込んだ質問を投げかけた。

「確か、千代田はここの前任がいた頃から横須賀で戦っていたよな」

「えー、あー、うん、まあ……そうですね」歯切れ悪く答える顔には予想外の質問に対する驚きと、内側の軟い部分に踏み込まれた嫌悪感の表情がうっすら認められる。もらった書類上では千代田は二年以上前に建造されていて、ちょうどその頃、富津のみならず太平洋側の近海掃討作戦が発令されていたはずだ。この基地に残されている、前任者たちの祈りの言葉を見かけて、当事者は何を思うのか。純粋な興味でなく、新しい椅子を受け継いだ責任として知る義務がある。話したくなさそうに摘んだチラシの角を、折り曲げたりさすったり手遊びする千代田の目を、清水はじいっと見つめた。極力目つきが柔らかくなるように心がけて、右に左に上に泳ぐ瞳を捉えようとする。

 やがて下向きに固定されていた顔が上げられて、視線がかち合う。

「ごめんね、今は話したくないかな」

 困ったような笑顔で言われたらそれ以上突っ込むことはできない。空気に似合わない陽気なラグが急に大きく聞こえる。

「いい、いい。悪い、ちょっと急いた」清水も笑って返すと、哀れみをかもしていたようで、少し言葉を被せられた。

「違います、朝に話すことじゃないかなーって。そのうち千歳おねえと一緒に飲みましょう」片手で猪口を持ち上げる仕草はサマになっていた。妹のほうはあまり酒を飲む印象はなかったが、やはり姉妹。いま笑ってしまうのも空気を乱す気がして、「はいよ」コーヒーをすすって濁した。輸入の問題で洋酒は国内在庫を絞り出している段階なのだ、他にも沖縄、北海道のような海を渡らなければならない酒も手に入りにくい(四国は別として)。机に入っているニッカ『余市』は八木がわざわざ毎月探してくれているもの。一人やサシ飲みするならいざ知らず、できればこっそり飲んでいたい。メーカー銘柄を問わない国産の酒はそれなりに支給されるのだから、余市以外は優先的に回してやれば釣り合いは取れているだろう。

「やっぱり、提督であろうお方は良いお酒とか持っているの」

 まったく油断ならない。

「……いい酒というか、個人的に思い入れのある酒なんだ。そのうち飲ませてやる」

 不満そうに頬を膨らませられても、こればかりは。困ったな、コーヒーをすすれば、「けち。ま、そのうちがなるべく早く来るように祈るわよ。ちなみに私もおねえも日本酒派だから」あっさり引いてくれた。最後の言葉は条件付けだろうか、何かいい酒でも仕入れておけよと捉えられる。探しておいてもらおう。男と女の不文律はいかなる時にあっても心地がいい。割りを食うのは口の悪い親友だ。

 書類仕事に入る前の、うら若い女性との楽しいひと時。もう少し引き延ばそうとして、清水は会話をつないだ。

「酒といえば、千代田はつまみなんかどうしているんだ。さすがに玉ねぎかじりながらというわけじゃないだろ」

 支給される食料はほとんどが未加工品の常備菜なものだから、一部艦娘らは釣りをしたり、演習ついでに艤装に網をひっかけたりと当番に向けて作れる料理を色々試しているらしい。姉の千歳が頭を抱えていた以上、妹の方ももしかしたらという思いがある。ジャブ代わりに繰り出したお題に、千代田は言葉を濁らせずに応えた。

「冷凍庫のお肉ちょっと拝借して焼くぐらいなら、まあ。千歳おねえはそれすらできないからね。あんまりおつまみいらないのよ、太っちゃうし。あとは水雷の娘たちと組んで、魚群を見つけ次第……でお刺身とか」

「千歳、そんなに料理が下手なのか」

「一回練習だーって野菜炒め作ってくれたんだけど、さすがの私も無理だった。塩舐めてた方がマシ。正直、那珂ちゃんの方が上手」

 何かにつけ姉をヨイショしているのにこの言いようだ、余程なのだろう。それに比べ妹は簡単な物なら、といったところだろうか。清水が当番の時は肉をほとんど使っていなかったのでいいとして、刺身に心が惹かれる。魚介類は本当に出回っていないから食べられないのだ。艦娘部隊を率いるということは、海の幸に手が出せるということなのだということに今更ながら気づいた自分のマヌケさに呆れる。

「刺身がある時は私にも声をかけてくれ。なんなら仕込みはやるから」

 意外だ、と彼女の顔が言っている。

「全然お肉食べないから菜食主義の人かと思ってた。お魚は食べるんだ」

「肉だって食えないわけじゃないぞ、ここ数年まったく口にしてないだけで」

 おそらく千代田はその後に「へえ、なんで?」と何気なしに聞いてきたに違いない。だが、清水は疑問に答えられるほど、彼女に配慮した言葉を持っていなかった。気を持たせる発言をしたのにずるかったかもしれないが、外から声が近づいてきていることに気づきていたから、あえて話した。

 見込んだ通り、良いタイミングでドアがノックされる。

「……むぅ。私だってお話しするんだから提督も続き聞かせてくださいね、お酒の席で。はーい、入っていいわよ」

 千代田が声を張るとドアが開かれ、清水の目に馴染んだ二人組が立っていた。

「おう、どうした」清水が声をかけると前に立った古鷹が人見知りの子供を親戚に挨拶させるように背を押す。

「お疲れ様です、提督。叢雲がお話あるみたいなので、私はその付き添いです」

 いつも我が物顔で司令室に入ってくる奴が珍しい。かといって、予想がつかないわけでもない。千歳と同じく頭を抱えたもう一人。彼女の食事当番は今週中だ。

「ふ、古鷹ぁ」

 情けない声を出してすがる姿は初めて見る。自然と上がりそうになる口角を、失礼にあたると思い無理やり抑え込んだが、千代田を見れば同じく察していて、こちらは無遠慮ににやけていた。にこにこ笑ったまま知らぬ存ぜぬ、楽しんでいるようにも見える古鷹にすがるのは、今は間違っている気もしないでもない。アテにしていたのだろう、やがて「裏切ったわね」と恨みがましく台詞を吐いて、言った。

「料理、教えて」

 顔を赤くしてうつむいても短くなった髪は顔を隠しきれず、白の隙間から赤がよく見える。嗜虐心が鎌首もたげて、ついいじわるを言ってしまう。

「私なんかよりも、古鷹の方がきっとうまいぞ。こないだの胡麻汚しなんて絶品だった」清水の言葉に、叢雲は頭の上をひっかくような妙な動きをした。いつも出撃時に帽子をかぶっているからクセになっているのだろう。だが今、頭の上に、顔を隠せるものは乗っていない。もみあげの髪の毛で口元だけ隠すような、いじらしい姿に落ち着いた。

 料理の不得手で恥ずかしがることもないだろうに、微笑ましくて鼻から息を吐く。

「いや、本当に。私の教えられるものはたかが知れているから、また卯月が暴動を起こす」

「あはは、私も教えるよって言ったんですけど、「あの味で作りたい」なんて言われたら、何も言えぐッ」「古鷹ァ!」

 いつか清水が八木の口を塞いだように、自分より背の高い古鷹を壁に叩きつけるほどに慌てていた。にやけていた千代田はなぜか真面目な顔になり、うんうん一人でうなずいている。

「あんたねぇ、天然も大概にしなさいよっ」

「まあまあ、叢雲ちゃんの言いたいこともわかるから。危ないから暴れないの」体だけで判断しても年長組に当たる千代田が仲裁に入ると空気が回り、部屋の香りが一気に華やかなものになる。ただ仲裁しただけではない、「別に隠さなくてもいいじゃない」言葉を繋げて、唸り声を上げている叢雲の肩を撫でてなだめている。

「神通から聞いたよー。こないだ間宮さんのご飯食べに行ったんだよね。美味しかった?」

 古鷹ちゃんも、と付け足して、二人の意見をまった。いつぞや風呂場で聞いていたが、まさか本当に行っていたとは、何の報告も受けていないぞ、困惑しても、後ろめたさで発言がしにくい。幸い、葛藤でアホ面を晒していても、清水の方を見ているものはいない。力を抜いたのを感じたのか、千代田が一歩下がった。

 解放された唇をむにむにもみながら先に応えたのは古鷹。

「はい、とても。毎日あんな美味しいもの食べてたら、確かに、卯月ちゃんが爆発するのもわかっちゃいます」ほんわか答えれば、バツが悪そうに叢雲が後に続く。

「美味しかったけど」

「けど?」

「なんか、よそよそしい味だった」

 あの風呂場で聞いたのとだいぶ違う評価。あれだけ絶賛されていた間宮の料理だ、叢雲の舌がおかしいんでないかとも思える。艦娘のおふくろの味をよそよそしい味と例えるのはどういうことか、口を挟みたくても挟めないもどかしさが清水をおそう。

「ふうん。よその娘は、そう感じるわけ」さして腹をたてるでも意見するでもなく、納得がいったというふうに千代田は頷いた。

「事前になんて聞いてた? 懐かしい味、とか、馴染むー、とかでしょ」

 元横須賀の娘の言葉に、純粋な富津の娘がこくこくうなずく。

「私たちは一発目からあれを食べていたからそう感じるし、間宮さん自体の腕前も超弩級だから忘れがちだけど、富津の提督であらせられる清水さんのご飯を初めて食べた時、二人の感想は。はい古鷹ちゃん」

 急に振られた彼女の顔が少しだけ驚きに変わる。「えー」「あー」記憶を探るように視線が上向きに行ったり来たりして、自信なさげに答えた。

「落ち着くなあって思いました、はい。多分」

 しり切れとんぼの言葉だが、面と向かって自分の料理をそう評価されるのは気恥ずかしいもので、顔を引き締めるためにぬるくなったコーヒーを一気にあおる。もう一杯作ろうとすると、叢雲から「私の分もね」と不遜に告げられ、先ほどまでのしおらしい娘はどこに行ったんだと愕然としていると、さすがに、と言った体で、古鷹が全員分のコーヒーを淹れてくれることになった。

 部屋中に香ばしい香りが立ち込める中「じゃあ叢雲ちゃんは」、話が戻る。

 コーヒーを頼んだあたりから顎に手をやり考え込んでいたのだが、頭の中で合点がいったように、表情が弾けた。

「そういうことねっ」

 いきなりの発言に全員が訝しげになるのは当然のことで、しかし千代田だけが「そういうこと」と同意した。清水もすぐに、そう多くない話の焦点に行き当たる。

「刷り込みみたいなものか」

 またしても千代田は「そういうこと」相槌を返して、未だ眉根を寄せている艦娘たちへ体を向け、説明を始めた。

 艦娘は赤ん坊のまま生まれてくるわけでない。歩き、思考も思想も、体もある程度成熟した状態の、しっかり自立して動く存在として生まれる。人間ならばそこに行き着くまでにいろいろなことを経験しているはずである。食べ物一つとっても母乳、ミルク、米のとぎ汁みたいな液体食から始まり、離乳食を経て、それぞれの好みを持つまで数年。食というのは面白い。思い出は匂いと味でできている。まっさらな状態で生まれてきた艦娘は、その辻褄合わせのために、初めて食べる料理を、まさに思い出の味として錯覚するのだ。

 では叢雲はどうなのだろう、清水は彼女を見た。まだ一度も料理についての感想をもらっていないが、文句を言っている事も、顔をしかめながら食べているところも見たことがない。彼女は大本営で建造されたのだから、大本営で出されていた食べ物に郷愁を感じるのが筋なのだろうか。が、「あの味で作りたい」とまで言ってくれたのだ、評価は悪くないはず。ふと目があって、「なんだ」とばかりに片眉を上げられて、目をそらす。

「ま、私もよくわかんないけどね」千代田はそう締めくくり湯気の立つカップを傾けた。自分の体のことがわからない、大した恐怖のように思えることでも、初めからそうある艦娘たちはおくびにも出さずに、感心していた。今体が動いていて、ものを考え、言葉を交わし、感じることがすべて。健康そのものの精神は見ていてまぶしい。

「だから、差があるんですね」

「そうそう。卯月みたいに毎日よその家のご飯食べてる気になる娘もいれば、浦風のように自分の味覚に合うって感じる娘もいる。古鷹ちゃんは富津っ娘だからね、清水さんの料理がおふくろ……オヤジの味?」くもぐった笑い声が広がった。「叢雲ちゃんはドンピシャなんでしょ。なかなか、同じ味を作れるようになりたいなんておもわないぞお」

「うるっさいわね。好きなものは好きなんだから、人の好みを茶化さないで」

 そっぽを向いたところを見計らって古鷹が、清水の脇に忍び寄り小さい声で言った。

「胃袋をつかまれたようで恥ずかしいんだって。でも、叢雲って初期艦ですよね。提督の料理、懐かしいって言ってたんですけど」

「味覚なんて生きてりゃかわるし、勘違いだってするもんだ。しかしなんだ、ここまで自分の作ったものを気に入ってもらえるのは、気恥ずかしいな」

「ふふ、意外と提督のお料理は人気あったんですよ」

 古鷹の身長は、清水の顎あたり。横に並べば見上げる形になり、それで自然に笑いかけるものだからタチが悪い。色の薄い片目が茶髪の隙間からのぞいて、しばらく見つめ合い、体温で昇ってくる香りを濃く感じる。色恋とは違う上等な愛おしさがあった。

 二人が静かにしていれば目立つのは当然で、いち早く二人の距離が近いことに気づいた叢雲がいらただしげに、マグを揺らさずに足を踏み鳴らした。

「何でそこは見つめ合ってんのよっ。ああもう、ムカつく!」

 

 夜も更けた食堂には誰もいない。少し前まで風呂上がりの三日月らがおしゃべりをしていたが、日付が変わる頃には解散して、うすら寒い空間に変わっている。その中にあって、厨房の明かりだけが煌々と点いていた。

「ああ、もう、かっ……たいっ」

 冷たい明かりの下でまな板の周りに、にんじんの残骸を生産している叢雲がいた。横には清水が付いていて彼女を見守っている。

 だん。だん。

 生のにんじんは固い。だのに彼女はまな板に対して包丁を平行におろしているものだから、きれっぱしはどれも、途中で薄くなって途切れたものばかり。素材は斜めにひん曲がり、いつ手を切るかヒヤヒヤする。艤装を展開させれば人間離れした力が出る艦娘である、前に試した奴がいた。まな板を割られてから、料理に対する艤装の使用は一切を禁止している。それに、コツをつかんでもらった方が応用が利くというものだ。なお、壊れたまな板は、夕張に言って、適当な木材で作り直してもらった。

 まくった腕からのぞく細い腕は時期外れに日焼けしていて、力を込めるたびにうっすら筋が浮かぶ。下を向くと邪魔になる髪の毛は後ろでひとつに結ばれているので、頭が揺れるたびにひょこひょこ動いて、見ていて楽しい。

 もし、自分に娘がいたら、こんな一コマがあったのだろうか。

 目をこすったところを、偶然ふりかえった叢雲に目撃されてしまった。バツが悪そうに包丁を置く。

「つき合わせちゃって悪いわね。毎日忙しいのに」

 つとめて笑って応える。

「私の料理のファンなんだ、無下にするわけにもいかないだろ」

 髪が結ばって細いあごの線が出ていると、わずかに動いたのもわかりやすい。結局何も言わずに包丁を持ち直して、またリズム感の無い、甲高い音が厨房に響いた。背後にあるシンク台に尻を乗せて、再び揺れ動く叢雲の髪の毛を見つめた。

 深海棲艦が顕れたことで人間の暮らしは変わった。順風満帆に思えた人生を壊された人も、もちろん大勢いる。清水も例外ではない。しかし彼は考え方の問題だと割り切ろうとした。人生を壊されたのでなく、こうなる人生だったのだ。そう考えておかないと、きっと自分は廃人になる確信を持っていた。深海棲艦が現れて間もない頃に転職し、誰も行きたがらなかったサンカたちと同じ現場にすすんで入ったのも、とかく現実を見たくなかったからというのもあるし、今まで得てきたものを全て捨ててしまいたかった心持ちがあった。彼らはは手荒だった。だが賢かった。ぽっと出の未熟な監督を受け入れてくれ、仕事が終われば立場が逆転し、若造扱いをする。そして、絶対に深入りはしてこない。野生動物並みの勘と警戒心でわかっていたに違いない。掘り返せば山が崩れてしまうことを。

 妖精を初めて見たのは、そんな山の中でのこと。はじめは酒のせいでみている幻覚かと思った。怪異譚や神秘的な話に事欠かない場所だったし、職人たちのネタにも多かったから、すぐに慣れた。相談しても「じゃあ、そなえもんの一つでもしておかなきゃな」ぐらいで、なんとおおらかな人たちであろうかと感心したものだ。工事の報告のため久々に山から下り、会社の上役に「小人を見た」と話をしたところ、すぐさま軍に行けと言われて、あれよあれよと言う間に司令官である。自転車操業の日々だったからこそ今まで生きてこれたのかもしれない。

 だのに、目の前の少女である。

 夏の、あの大敗北を喫した戦闘で、久々に現実を叩きつけられた。結局自分は何も変われていないと絶望して、こちらに関しては、しっかり立ち直る事ができた。人間、悩むよりも、一度とことん絶望しきったほうが良い。

 ごどん。

 三本目のにんじんを真っ二つにして一センチほどの厚さで切っていき、最後に短冊切りにしていく。文字にすればこれだけでも、かれこれ三十分かけて三本だ、総勢二十五人分で、五本は仕込みたい。

 ず、どん。ず、どん。たんたん、たん、たん。

 それなりにリズムが取れ始めてきたころには一時を回った。哨戒ついでに獲ってきてもらったイカと、砂浜に打ち上げられた昆布を夏の間に干したもの。松前漬けなんて、年寄りじみたものをリクエストしてくれた。イカを入れない、にんじんと昆布だけのレシピなら付け合わせにたまに出していたが、千代田の話で魚介類を仕入れることができるというので、どうせならと組み込むことにした。

 物音を立てないように厨房から出て、暗い食堂でマッチを擦って煙草に火をつけるとぼんやりした橙色の玉になる。半分ほど吸い終えたところで不安げな声が清水を呼んだ。

「ねえ、いるでしょ、どこ?」

 風の音も静かな夜、厨房に明かりがついていると言っても、蛍光灯の白は、余計に暗さを際立たせて、空間を倍以上に広く恐ろしげに見せる。ここで意地悪をすれば、ひどいしっぺ返しを食うのはわかっていたので、「すまん、煙草」そう返した。

「にんじん切り終わったわ、ちょっと見てくれない」

「最後の方はよくできてたから大丈夫だ、次は昆布をハサミでできるだけ細く切ってくれ。あと少しで吸い終わる」

「水で戻したほうがいいのかしら」

「いや、そのままで。終わったら、イカをさばいてボイルだ」

 了承の返事が聞こえ、煙草を一口吸った。普段からこのように素直であれば可愛げがあるというのに、苦笑いが出る。

 それに、情報が不透明すぎる艦娘について自分なりの答えを持ちたくて色々考察していたが、叢雲の手つきを見て、一つ確信に至った。

 彼女たちの学習速度は異常なのだ。

 物覚えがいいというものではない。「忘れていたものを思い出した」かのようだ。教える側からすればこれ以上ない優秀な生徒である。もちろん、得手不得手はあるようだが、上達速度が人間の比ではないのだ。機械いじりを始めて半月もしないうちにレコードプレーヤーを複製した夕張が一番けん著であるが、叢雲も負けじ劣らじ、初めて料理をする割には、コツをつかむのが早い。古鷹も建造以降料理をさせたことはないが、彼女の場合、はじめからレシピを知っていて、みごと形にすることができ、今では他人に教えるほど。戦闘艦時代に関係があるのか一度調べてみる価値がありそうだ。

 ふと食堂の空気が冷え込んだのに違和を感じて扉を見ると、うすく開いていた。立て付けが悪くなったか、根本まで吸って辛くなった煙草をもみ消し、扉から顔を覗かせて誰もいないことを確認した。なぜか練習しているのをあまりおおっぴらにしたくないというので、こんな夜更けにこそこそしているのだ。知っているのは今日の夜間通信手である三日月、それから古鷹、千代田の三人だけ。

「昆布、切り終わったわよ。イカはとりあえず内臓だけ抜いたけど、下処理とかわからないわ。ちょっとこっち来て」

 返事をして後手に扉を閉め厨房に戻ると、まな板の上には綺麗に内臓を抜かれたイカが、哲学者の瞳を天井に向けて横たわっていた。

「すごいじゃないか、ワタの抜き方なんて教えたっけか」

「こんなもの引っこ抜けばいいってのは見ればわかるでしょ」

 簡単に答えに行き着くものでもない。

「このまま茹でればいいの」

 綺麗に抜かれた内臓を見ているとどうしても塩辛を作りたくなる。ゲソをもらってホイル焼きにするのもいい。

「ねえってば!」

「うおっ」袖を引き下ろされて、耳元でがなられれば当然おどろく。「ああ、いや、開いてから茹でるんだ」

 若干ごきげんが斜めになった叢雲は改めて包丁をにぎり、言葉だけだというのに、見事にイカを開いた。軟骨も取り除かれている。あまりにも手際が良すぎる、一時間前に初めて厨房に立ったとは思えないほどに。

 水を張った鍋に下処理をしたイカを入れてしばしの休憩。あとで酒のアテにイカ肝のホイル焼きを作ろうと、未処理のものをビニール袋に入れて冷凍庫に放り込み、鍋の中をじいっと見つめている叢雲の横に立った。

「料理本見たのか。古鷹に教わったとか」

「あんたに教わるまで、料理のりの字も知らなかったわよ。なんで、どこか変?」

 厨房の中は肌寒く、火に近づこうと体をずらしたら叢雲の肩にぶつかった。彼女は気にしたそぶりを見せない。

「はじめはまさに初心者って感じだったがな、今改めて見ていると、なんとも手馴れている」

「ほんと」見上げてくる顔には喜色があった。「よかった」

 本当に嬉しそうにする姿を見て、つい頭に手を伸ばしてしまい、睨みつけられた。彼女もまた、不用意に頭をなでられることを嫌うのだった。置き場のなくなった手を、仕方なく自分の頭にもっていく。

 沸騰する前に火を止めさせ、さてあとは冷まして切るだけだという段階で、いい加減底冷えにやられたのか、叢雲の体がすこしふるえ始めた。

 肩のひとつでも抱けるような男であるならば、もう少し違った人生を歩んでいたのだろう。

 羽織っていたドテラをかぶせてやると、片眉を上げて、「まあ上々」といった風に表情をつくられて、蟲惑的であり、また挑発的なものであることに清水は気付かない振りをした。

「あんたってさ、子供いたこと、ある?」

 何気なしに聞かれた事が胸に刺さる。だが、努めて冷静を装い答えた。

「いなかった。どうしてだ」

「ん、いや、なんとなく。古鷹が言っていたのよ、『提督はお父さんみたいだよね』って。お父さんってのがどんなものか知らないけれど、いわれてみれば、一番近しい表現だなって思ってね。スケベなとこさえ目を瞑ればだけど」蛍光灯の灯りで、薄くなった瞳の赤色が、無邪気に笑った。

「悪かったって……。視線がいっちまうのは仕方ないだろう、私だって男だぞ」

「あははっ。そう、私たちは女で、あんたは男」同じことをもう一度繰り返して言葉を繋いだ。「それなのに色恋に気持ちが浮かれないのは、やっぱり戦時中だからってのもあるんだろうけど、それ以上に、あんたから漂うお父さんオーラのせいかもしれないわね」

 まな板の周りに散乱した残骸を、その他の食材が入っているタッパーに放り込み、「洗い物終わるまで持ってて」といって、たった今かぶしたドテラを手渡された。冷たい水に顔をしかめ、手を真っ赤にしながら道具を洗う背中に、清水は困った物言いで言葉を返す。

「それを聞いて何を返せばいいのかわからん。父親のようだと言われて悲しいとでも言えばいいか」

「悲しいの?」肩がゆれていた。

「古鷹はそれなりに女と言っていい年齢に見えるからな、ああ、見た目だけは」

 蛇口を閉じた音が甲高く響いて、肩越しにひねって見せた目つきは、とてもじゃないが上司にみせるものではない。

「わたしは?」手から滴った水がコンクリートの床にしみる。

「寸胴だしなあ」うっかりしたと口をつぐんだことが決定打になった。耳聡い叢雲は顔を赤くして、今にも飛び掛らん気迫を見せている。

「すまん、いや、いつもあれだろ、お前の私服はダボついたものが多いからそう見えるだけであって」我ながら顔がひきつっているんだろうなと分かっているのだから、真正面から見る叢雲が気付かないはずがない。怒りと羞恥で光る瞳のままおもむろに近づいて、痛みを感じるほど強く、清水の部屋着で手をぬぐった。

 これ以上口を開けば、またぞろなにか失言してしまいそうで怖かったので、なすがままに胸を開いてまな板の鯉に成り果てていると、彼女はドテラを奪い、そいつで自分の体を隠すようにして、吐き捨てた。

「最っ低!」

 鍋の湯はすでに水になっている。

 

 数日後、いざ叢雲が晩飯の当番になった。

 どうせなら最後までとあれからも料理を教えていたのだが、例の失言は後を引き、針のむしろの毎日であった。こちらが話しかけてもウンともスンとも言わずに、言ったことを黙々とこなされ、近寄ろうものなら大げさに距離をとられる。もちろん日常にも影響し、事情を知っているであろう古鷹だけが苦笑いをして、他の艦娘たちには「夫婦げんか」などと囃される。いい加減機嫌を直していただきたいものだが、自業自得なのだ、勘弁してくれとしか言えない歯がゆさを感じていた。

 食堂の長テーブルの上には素朴な料理が並んでいる。麦飯まじりの米にはかさましに拍子木切りの大根、いわゆる大根飯。時間をおいて粘りの出た松前漬け。だしの取り方から教えた味噌汁。それから、誰から教わったか、揚げ出し豆腐。見事に切りそろえられた、にんじんときゅうりのぬか漬け。彩りも申し分ない。ほとんどが自分の教えたものであるのが奇妙な背徳感をさそう。

「うし、じゃあ全員、叢雲に向かって」立ち上がり、チラと叢雲を流し見ても、彼女はこれ見よがしに鼻を鳴らして無視する。「いただきますっ」

 少女たちの華やかな声が広がり、やがて食器の擦れ合う音と雑談の喧騒に変わっていく。毎回席順を決めているわけでないので、清水の脇は都度変わり、今回は千歳と、正面に千代田になった。二人はまず味噌汁に口をつけ、それから暖かく微笑んだ。

「おいしいっ。お出汁ちゃんと取れてる」

「ね」千代田が近くで話に花を咲かせている浦風に聞こえないよう、体をずいと乗り出して、小さい声で清水に話しかける。「提督の指導の賜物ですかねえ」育った胸が今にも食器をひっくり返しそうだ。隣からも、ぼそり耳打ちされた。「女の子に自分の味を教え込むなんて、男冥利に尽きてます?」

 内緒にしてくれと言われただろうに、姉妹間の情報共有だけであることを祈りつつ、一口味噌汁をすすった。自分のものよかわずかばかり味が薄いが、散らされた小口ねぎがそれを気にさせない。一を教えれば十で返してくる艦娘の学習能力とはおそろしい。

「ねえ、ところでさ、叢雲はなんであんなに怒ってるの。ここ最近ぜったい提督のこと避けてるでしょ」

「千代田、提督にも触れられたくないこともあるだろうから、そうやってなんでも突っ込まないの。あ、松前漬けもすごいおいしい。ほら、食べてみなさい」

「食べてるって、おねえはちょっと黙ってて。ねえ、なんでなんで?」

 あからさまに嫌な顔を見せてもひるまない水上機母艦の妹は言葉の通り、まんべんなく箸をつけながら話しかけてくる。

 無視を決め込んで喧騒に耳をそばだてると、評価は上々。叢雲を盗み見ると、いつも通り行儀よく食べているようでそうでない。ご飯だけなんども口に運んだり、揚げ出し豆腐を食べようとしてポトポト落としていたり、食べ物に意識がいっていないのに、顔だけは隠しきれずににやけている。今も古鷹に褒められて、必死に顔をとりつくろおうとしているのが丸わかりだ。

 嬉しくないはずがないだろう。自分が作ったものが美味しいと言われるのは。これがあるから料理を作るのは苦ではないのだ。きっと夕張が機械いじりに没頭するのも同じ気持ちであろう。叢雲の喜びを我が事のように嬉しく思い、歪んでしまう口元を隠そうと松前漬けを口に含むと、隣から矢が飛んできた。

「やっぱあれかな、お風呂覗いたってやつ」

 せっかく口に入れたものをもう一度小鉢に吐き出した。

「うっわ、汚ったな!」

 下品な音に何人かの艦娘が振り向いたが、すぐにおしゃべりの波に埋没していく。ぬるつく口の周りは、すぐに千歳が拭ってくれた。

「千代田、千代田」手招くと、服を気にしながら、また前かがみになって顔を近づけてきた。容赦なく突き出された頭にげんこつを下す。「あいだっ」暴れればテーブルを汚すことはわかっていたようで、おとなしく椅子に座った後、頭をさすりながら憤慨した。

「痛いじゃないっ」

「ふざけんじゃねえバカ野郎っ。誰が覗きなんかするか!」

 できる限り絞った声で叫んだ。性に関係することには非常にデリケートな職場なのだ、間違ったことを流布されたらたまったものでない。どこから広まったことなのか知らないが、どこかで断ち切っておかないと、尾ひれ背びれ胸びれがついてからでは遅いのだ。

 二人でにらみ合っていると、浦風と夕張が会話の横槍を入れてきた。

「なんじゃ、隣でガチャガチャやられると気になるのう」

「覗き? ああ、叢雲のやつでしょ。浦風は知らないんだっけ」

「待て、待て、待ってくれ。いうな、拡めるな!」

「いいじゃない、間違ったことが拡まるよりも、事実を先に教えておいてあげたほうがいいわよ」

「まずなんでお前らが知っているんだ。叢雲が言いふらしてるのか」

 夕張と千代田(千歳も)は全員が同じ艦娘を指差した。先には、曙らと楽しそうに談笑する三日月がいる。

 なるほど。

「今夜あいつを呼び出せ。2200に司令室に来いと伝えろ、命令だと付け加えてな」

「夜に呼び出してナニするん? 上官に逆らえん、いたいけな駆逐艦にナニする気?」

「誰か浦風の頭ひっぱたけっ」

 清水の一団が騒がしくすると周りも声を張り、一時騒然となった。ちょっかいを出されて、きゃあきゃあくすぐったそうに身をよじる浦風、「うちの愚妹がすみません」本当に申し訳なさそうにする千歳。軽口のスイッチが入った娘らを抑える術は自分にはないと諦めて、揚げ出し豆腐を一口食べた時、爆発的な懐かしさが清水の中に渦巻いた。

 出汁を吸った衣の柔らかさ、申し訳程度に乗せられたおろし生姜と万能ねぎ、ただ出汁醤油を薄めただけのつゆ、誰が作っても同じ味だろうに。溢れそうになる嗚咽を必死に飲み込む。そんな無様を見た周りの艦娘たちははしゃぐのをやめ、焦った。

「千代田、浦風! ふざけるのもいい加減にしなさい、ほら謝ってっ」彼女らがからかいすぎたのだと勘違いした千歳が激昂した。からかわれて泣くような男に見られているのだろうか、余計に悲しいことである。

「えっと、ええ? うそでしょ、ごめんねっ」

「お豆腐が泣くほど美味しかったん? うわ、ごめんなさい、にらまないで」

 声を出すと余計なものまであふれてしまいそうで、必死に感情をなだめつつ、少し待ってくれと片手を突き出した。背中をさすられ、あやされ、注ぎなおされたほうじ茶をあおってようやく落ち着いた。

「悪い」言葉を吐き出したあと、恥ずかしさをごまかすために、咳払いを一つ入れた。

「こちらこそ本当にすみません。もうほんと、千代田と浦風にはよく言っときますから」

「違う違う、そう目を吊り上げてやるな。お前らが楽しそうにしてくれるのが、私にとって一番だから」

「じゃあ本当に美味しくて泣きそうになったの?」

「それも違う。美味いのは確かだが」まじまじと食べかけの揚げ出し豆腐を見た。「うん、美味いよ」

 答えにならない答えを聞いて一同首をひねった。が、結局それ以上話を続けない清水を訝しんで、これ以上掘り下げることはいいことではないと気づいたのだろう、停滞した空気を壊そうと、浦風が声を張った。

「叢雲ー、提督がお豆腐おいしいって言うとるよー!」

 相変わらず騒然とした中で声を届かせようとしたのだから、もう食堂全体に響く声量だった。人をからかうことが好きな連中が多い、囃されて顔を赤くした叢雲が、「当然のこと言われても嬉しくない!」と叫び返して、大きな笑いが上がった。

 そんな中にあってもじいっと揚げ出し豆腐を見つめている清水に、千代田が話しかける。

「提督の、おふくろの味ですか」

 からかっているものでない。とてつもない温かみを持ったものだ。

 人には事情がある。親がいない人間など掃いて捨てるほどいる世の中。

「そうでもない」未だ両親が健在である清水には、その手の話ならいくらでもする用意がある。

「えー。本当、提督は自分のこと話さないですよね。私が知ってるのは、学生の頃からあんな古臭い歌にハマってた変な人、学校で良い成績だったって嘘ついたこと、元山男ってぐらい。こないだのお肉を食べないお話だって、結局まだしてもらっていないし」

「隠してるわけじゃないんだが、わざわざつまらない話する必要もないと思って。こんな時勢なんだ、面白くない話の一つや二つ事欠かない」

「私たちもですけどね」千歳が静かに答えて、失言だったと額に手をやった。

「悪かった」

「いえいえ」

 彼女たちだって、一番辛い時期を乗り越えてきたのだ。自分よりもよっぽど地獄を見てきたにちがいない。司令官として前任の話を聞き出そうとしている以上、代わりにというわけでないが、いざ聞かれたら答えられる心持ちを作っておかなければならないだろう。

 詫びにもならないだろうが、前哨として、清水は自分の内側を少しだけ露出させた。

「おふくろの味ってわけじゃあないが、まあ、懐かしい味だったんだ。昔何度も食わされたことがあってな、一生分の揚げ出し豆腐をあの時に食った気がする」

「へえ、青春のお話? 手作りのお弁当って本当にあったんだ」

 茶化しを入れてくる千代田に苦笑いを返しておいた。話の邪魔をするんじゃないと姉がたしなめ、妹は口をつぐむ。そも、弁当に揚げ出し豆腐を入れられる青春なんてたまったものじゃない。

「青春というか、まあ、元嫁の話。結婚してはじめの頃は料理がヘッタクソで、毎日が苦痛だった」

「ええ、結婚してたの」夕張が心底驚いた顔をしたのがおかしくて、胸に渦巻く吐き気がなんとかごまかされ、幾分か楽になる。

 あまり気持ちがいい話ではない。嫁の話ではなく、「元」嫁の話なのだから。

「私も三五なんだよ、結婚していてもおかしくないだろ。嫁に来てうちの母親と一緒に料理をしている間はよかったんだが、いつかどこかの居酒屋で食べた揚げ出し豆腐がうまかったと言ってしまったんだ。したっけ対抗心を燃やしやがって、「お母さんは今日からお料理休んでください」なんてな。朝、夜、毎日食わされた。衣は剥がれて、かと思いきやぺちょぺちょ粉っぽくて、味は濃かったり薄すぎたり、そんなに難しいものでもないだろうに」

 艦娘たちに話をするのが少し気恥ずかしくて、熱かった茶をまた飲み干してしまう。自分のことを話さないと言っても、話すのが嫌いなわけでないから、話し始めればあれもこれもいろいろなエピソードが湧いてきて、どうしても顔が緩んでしまう。

 知らない人の話というのはあまり面白くないはずなのに、千歳たちが実に楽しげに聞いているものだからやめどきが見つからなくなってしまった。適度に突っ込まれる質問で、さらに口は回る。

「中学ぐらいの時か、私の通っていた学校にやつが転入してきて、クラスメイトから距離を置かれていたのが、こんなつまらない男と仲良くなったきっかけだ。八木と……と、今ここの主計を担当してるやつなんだが、つるんで悪さばっかしてたところに、急に割り込んできたんだ」

「不良やったんかあ。そんな風に見えんけど」

「はは、そんな大層なもんじゃない。ただ斜に構えて、当時クソまずく感じた煙草を吸って、「勉強なんか将来使わん、学校なんて潰れちまえ」ってな、ああ恥ずかしい。それでいてサボる度胸もないもんだから、学校にはきちんと行く始末」

「そんなところによく転校したての、しかも女の子が声かけようと思いましたね」

「気の強いやつだった。誰とも話しているところを見たことがなかったから、「大人しい女かと思った」と言ったら『そっちの方が話しかけやすいと思ったのに、田舎の人ってホント排他的ね』とのたまいやがった。面白いだろう? それから毎日つるむようになったよ。古い曲も、やつから教わった」

「普通逆じゃない? 男の人に染められるシチュエーションが私は好きだなあ」千代田は肘をついて、行儀悪く箸を回した。

「じいさん家に引っ越してきたら、古いレコードがいっぱいあったんだと。初めてフォーク・ソングというものを聞いた時、糸の付いていない風船のようだった自分がしっかり根付いた気がした。……傾倒したよ。新左翼について調べたり、思想や現代詩、プロレタリア文学を読みあさったりして、いくら調べても勉強しても、何もかもが楽しかった。これは本当だが、国語だけならいつだって満点だったんだぞ。点数がいきなりひっ飛んだもんだから、教師たちがカンニングしたんじゃないかってツノを生やした」

 日本のフォーク・ソングは学生運動、新左翼思想、つまりはマルクス・レーニン主義、反マルクス主義、トロツキー主義などに深く根付いたもので、どうしてもぶつかるものだ。おかげで危険思想と疑われたこともある。ただ清水たちはそんな時せいにあって、純粋にフォークを探求していた音楽家たちに特段心を奪われた。音楽という題材を使って学のない大衆にわかりやすく、いざ掘り下げようとすると奈落のように深い底に飲み込まれる、宗教じみた魅力がある。

 当然、つるんでいた三人はさらに孤立を深めることになり、余計に結束を固くした。

 千代田は笑った。

「あっはっは、そんな知識をたくわえた人が、今じゃ軍の提督サマですよ。世も末だねえ。平時なら真っ先に弾かれるでしょ」

「媒体を深く知るための知識を蒐集していただけで、私自身そういったものとは関係がない。フォークしか知らない奴は、フォークを知らない。その時代に何があったか、他に流行っていた曲は何か、どのような文化があったか。結局熱は冷めず、海外のフォーク、民謡や労働歌などにも耳を広げて。どんどん同世代から乖離していく私たちにあって、紅一点だった女に心惹かれるのは、我ながらなんとも単純なやつだと思う」

「じゃあ、告白は提督から?」

「幼馴染の男の子二人、『お前は俺たちのどっちが好きなんだ』、詰められる女の子! ある日、片一方から告白されて、三人の仲に亀裂がっ。くう、胸がキュンキュンするっ」

 だいぶ勝手に妄想をふくらませている浦風が、また体をくねらせていた。

「……そんなバカみたいな恋愛話はない。奥手だった私の方が告白されて、あれよあれよと言う間に大学を卒業、んで結婚。その間八木と仲違いしたことは一度もない。むしろデートプランを考えたりしてくれたし、何より告白された時に相談に乗ってくれたのがアイツだ。曰く『女としては好みじゃなかった』んだと」

 そう言うと、話を聞いていた艦娘らからブーイングが起こった。「ロマンのかけらもない」「男気なし」「ダサい」「意気地なし」散々な言われようで、もう笑うしかない。事実なのだから、もう言い訳も何もできずに、四方八方から吹き荒れるなじりの言葉を受け止める。

 よくよく思い返せば、ことの始まりはいつだって彼女からだった。男らしさなんて一度も見せられなかった。プロポーズまで彼女からだったと言ったら、見損なわれるに違いない。

 だが会話というのは自分の思っている通りに進まないもので、どうごまかそうかと考えていたところに、一足飛ばしの質問が、鋭い針となって、清水を貫いた。

「そんなに仲の良かった奥さんなのに、なんで別れちゃったんですか。その、八木さんだって反対したでしょ?」

 すかさず千歳が妹のすねを蹴っ飛ばしたようで、がたん、椅子を鳴らして声のない悲鳴をあげた。衝撃ではねた清水の汁椀がひっくり返り、ぬるくなった味噌汁がズボンにしみていく。だのに、身じろぎひとつしなかった。

「このバカっ。ああもう、ほら、何か拭く持ってきなさいっ。駆け足!」

 冗談ではない怒気に一も二もなく立ち上がり、びっこを引きながら厨房に向かった。その間、千歳は不始末をさんざん謝り通して、他の艦娘らは気まずそうに箸を置いてしまった。ある程度察しがついていたのだろう。ただ熱が冷めて離婚したわけではないということにだ。人には過去がある。このご時世、そう面白くない話の一つや二つ、誰だって抱えている。同じ基地で、命を預かる側と預ける側、いつかは「清水」を構成している事柄として話そうと思っていたが、心の準備ができていない。彼女のことに関して整理をつけられていないのだ。

 どれほど強く蹴ったのだろう、顔を歪めて戻って来た妹から受け取った雑巾で太ももを拭かれて、さすがにそれは、とやんわり断り、ガシガシと雑に拭う。どうせ部屋着、いくら染みになったところで構わない。

「聞きたいか」つとめて笑って言葉にしたはずでも、まともな表情になっていないのは、当の清水自身がよくわかっている。周りの艦娘は、興味はあるが迂闊に踏み入れないという、複雑な顔を見せていた。空気の読めない千代田も見事に意気消沈し、がっくり肩を落としている。

 対応を間違えてしまった。この空気は粘度が高く、話題を変えても糸を引く。かといって続けても、盛り上がる展開は一切ない。どうしたものかと閉口していると、都合よく、はねっかえり娘が飛び込んできた。

「食べないならもらうっぴょんっ」

 ムチウチにでもなりそうな勢いで、背後から飛びつかれた。

 後ろから伸ばされた腕が、話の発端である揚げ出し豆腐を鷲掴みし、汁を滴らせながらまた後頭部に消えていった。すぐに頬を膨らませた卯月の顔が真横から出てくる。肩が重い。跳ねた細い髪の毛がくすぐったくて、首をかしげて避ける。

「ああ、卯月っ、提督の服がまた汚れちゃうじゃない」

 千歳が声を上げたが、本心を邪推するならば「よくぞ来てくれた」といったところか。清水も似たようなことを思っていたので世話ない。

「んっふっふ、お残ししてた司令官がわるいんだもぉん。おお、千歳のももーらいっ」

 ググッと体を伸ばしてまたも豆腐を掠め取っていく。背中に身体が押し当てられていてもまったくそそられず、卯月自身も気にしていないようだ。肩口をだし醤油と衣で、汚れた指を胸元で拭われてようやっとおでこをひっぱたいた。「あう」

「こら、行儀の悪い。ちゃんと座って食べなさい」服を汚されたことなど露ともせずに、的外れな指摘をする清水に、千代田は半ば呆れた目をする。

「むむむぅ、じゃあおひざを借りてぇ、よいしょ」

 とすん、柔らかい尻が乗り小さい体がすっぽりとおさまって、ケアなど考えていない、だのに絹糸のように細く柔らかい髪が暴れて鼻をくすぐった。まだ風呂に入っていないのか、一日中駆け回って遊んでいた身体からは、甘い汗の香りが服の隙間から昇ってくる。

 こいつは甘やかしたくなる。自分を諌めてもついつい甘い顔をしてしまうのだ。目の前で勝手に夕食を食べ進められても「どうだ、うまいか」なんて聞いてしまう。

「提督もちゃんと怒ってくださいよ。私達の言うことなんて聞きやしないんですから」

 姉妹そろって同じような顔をして、姉が言う。

「え、ああ、はは。まあいいじゃないか、美味しく食べてくれているし」

「……おじいちゃんか。私もこうしたら、甘やかしてくれる?」

 素行は悪いが、おかげで湿っぽい空気は霧散したのだ。天真爛漫な艦娘も一人くらい必要と、誰に向かってでもなく言い訳する。当の本人は頭上を飛び交う会話など聞く耳持たず、「これ! うーちゃんこれ好き!」松前漬けをかきこんでいる。

 あれほど飽き飽きしていたであろうぬか漬けも綺麗さっぱり食べて、それでもまだ物足りなさそうにしていた。

「今日は誰とメシ食ってたんだ。だいたい浦風と一緒の印象だったが」

 浦風を見ると、黙々と食を進めていた。

 同じ駆逐艦で、どうしてここまで差がついた。

「んー、あっちで島風とだよ、あと初雪。ねえ、それ、残ってるならちょーだいっ」また松前漬けの小鉢をかすめ取ろうとして、すんでのところで千歳が防衛に成功した。相変わらず富津組との接点はないようだが、さっきから夕張が話しかけようかそわそわしているのが視界の端で認められる。

「ダーメッ。食べたいなら叢雲に言って残ってるかどうか聞いてきなさい」

「ぷっぷくぷぅ、けちだからそんなにおっぱいが大きくなるんだねぇ」

「うーずーきぃ?」

 にこやかに怒髪されてさすがにまずいと感じたのだろう、体を清水に押し付けて袖口をキュッと握った。一瞬の隙間に言葉をねじ込んだのは夕張だ、とってつけた笑顔で小鉢を突き出す。

「あの、これ、私はまたお代わりするから、よかったら食べて」漫画的に表現するのならば、おそらく冷や汗の一つでも描き足されていそうな顔である。

 人見知りを発揮していてもやはり食べ物には弱いようで、うずうずどうしようか悩んでいた。警戒心の強い飼い猫飼い犬、果たして受け取っていいものかと思惑を巡らせて、この場にいる異動組の顔を流し見る。誰しもが「もらっちゃいなさい」と目で伝えていても、決して口には出さなかった。

 奇妙な緊張。

 間。

「いい」

 とてもとても小さな声だった。喧騒にかき消されるほどの声は、ぶつけられた本人にはそれこそ砲撃の暴力的な轟音に寄ったものにちがいない。「あ、そう、あはは」すぐに小鉢を引っ込めた夕張には、注目を集めておいて失敗した恥ずかしさと拒絶された悲愴感を背負って、今度こそ本当に汗をにじませていた。

 今この一瞬を一番気にかけたのは誰だろう、当の本人の夕張はもちろん見た目からして落ち込んでいる。千代田は額に手をやっているし、千歳は夕張に関係ない話題を振りながら、恥をかき消そうとしている。清水は上官である。ほつれた穴を直す方法を口伝することはしても、糸を差し出すことはしない。艦娘と人間、男と女、上官と部下、引き金と銃弾、様々なしがらみを鑑みて、彼自身が敷いたルールである。

 ただ黙々と食を進めていた浦風が立ち上がった。

 手のひらをテーブルに叩きつけ、またひっくり返りそうになった汁椀がだるまのように揺れる。

「ごちそうさま」

 声と物音というのは根本的に違うもの、食堂は一瞬だけ静まる。が、すぐに盛り返し、一挙一動を見ていたものだけが、彼女の異様に気づいた。

「浦風、ごちそうさまっぴょん? ねえ、遊ぼっ!」

 行儀悪くテーブルの下に潜り込んで向かい側に回って、食器を片付けている浦風の腕に絡みついた。食器は自分で片付けろよ、声をかけようとして、次の光景に瞠目する。

 力任せに卯月を引っぺがしたのだ。

「触らんといて」

 一言だけ残し、さっさと食器を持って洗い場の方へ足早に去っていく彼女を卯月が見つめていた。きょとんとした後、何をされたか理解したのか、今にも泣き出しそうな顔で、堪えるようにうつむく。夕張とは違う、悲痛なものだった。付き合いの長いであろう他の異動組も驚いて同じ方向を見つめている。

「ちょっと、浦風!」千代田が後を追いかけていく。

 確かにわがままが過ぎるが、周りは卯月を子供として認めている。好意を無下にされた夕張だって、悲しみこそすれ恨みはしない。横一直線の関係にある艦娘同士で最も持ってはいけない感情とは。事実何を思っているかは知る由もないが、今見せた行動には清水が危惧するほどの暗さがあった。

 おしゃべりに夢中になっていた他の艦娘も「なんだなんだ」と、やがて立ち尽くして様子のおかしい卯月に焦点がいく。

 千歳は雑に髪に手を突っ込んでため息を吐いた。

「はあ……千代田はお節介が過ぎるのよ」

 自分に視線が集まっているとわかるや、相変わらずのすばしっこさで外に駆け出していく姿を追いかけようとしたところ、腕を掴まれて椅子に押し付けられた。

「いい薬です、卯月にとっても、浦風にとってもね。ほら、ご飯足りていませんよね。私の半分わけてあげます」

 食器に取り分ければいいのに、わざわざ一口ごと食べさせようとしてくる千歳の強引さに押されていると、厨房の方から二人の言い合いが漏れてくる。

 ああ、なぜこうなるんだ、食堂は楽しい場所であってほしいのに。当番制は上手く回っていると思ったのにこうなってしまうのなら意味がない。

 冷えた米を押し込まれながら改めて女所帯の面倒さをかみしめる。

 世話焼き女房さながらな真似事をしながら、今あったことを忘れさせるとぼけた顔で、「ちょうどいいですね」何か考えついた千歳が言った。

「提督にも協力していただきたいのですが」

 



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3

 秋雨は楽しい。

 梅雨と同じ、絹糸みたいな雨が地面を叩く音はとても静かで、なのに賑やか。気分次第でどちらとも取れる、この時期の雨が好きだ。行潦に草舟を浮かべて流れの行く着く場所まで追いかける。小さな土塊や小石すらが草舟にとっては大きな障害で、引っかかったり、急流のたんびに浸水したりひっくり返ったり、その度に「頑張れ」「あと少し」なんて小声で応援したりしてみる。もちろん、どこがゴールなのかわからないけれど。こっちに移ってきてからは、道があまり整備されていないから、雨が降るといろんな場所に流れができる。横須賀は石畳だったからこういう遊びには気付けなかった。道端の猫じゃらしは水滴をうんと付けて、名前も知らない菖蒲みたいな草は雨をぴんぴん跳ねている。大きな水溜りを草舟から目を離さないようにして飛び越えると、出撃ドックへ続くゆるい下り坂になった。流れはうねって、道の端にはたくさんの小石がよけられている。難所だ。一気にスピードを増した舟はあちこちにぶつかって、くるくる回って前後不覚。舟底をこすりながら、浮かんでいるというよりは流れに押されているだけ。でもまだ止まってはいない。転びそうだから傘は捨ててしまおう。晴れの日とは違う動き方をしているせいで火照った頭に、秋の雨は気持ちが良い。水をよく吸うパーカーがすぐに重くなって、いっそ脱いでしまいたかったけど、きっと誰かに見られたら叱られるだろうから、やめておく。千代田は怖くない、千歳はちょっと怖い。那珂と川内は優しいけど、神通は鬼。島風は一緒によく遊んでくれるけどかけっこばっかで疲れるし、初雪と曙はあまり遊んでくれない。浦風は、うん。最近の浦風は怖いけれど、でも、横須賀で同じ時期に建造されてから、ずっと一緒だし。黒潮や暁とさよならするのは本当にイヤだったけど、浦風が付いてきてきてくれるって言ってくれたから、行ってやってもいいかななんて思った。新しい友達もできると思ったけど……、けど。真ん中にでんと置かれた石を草舟がうまいこと避けて、少し段になっているところに飛び込んで、消えた。「あと少し、頑張るっぴょんっ」行潦の壺に声をかけても何も浮かんでこない。本当、何があと少しなのか。どこかから浮かんできていないか、少し先を見に行っても何もなかった。目の前には木造の、横須賀に比べたら粗末なドック。中からは待機している艦娘たちの声が聞こえて、つい聞き耳を立てた。声は、島風と、秋月と、木曾と、川内。何を話しているかまでは雨が食ってしまっているけれど、笑い声だけは、はっきりと聞こえた。島風がまたバカをやっているらしい。それを秋月がたしなめて、川内が囃して、木曾が呆れる、そんな気配。木っぺら一枚隔てた先に雨は降っていない。泥に足を取られながら元来た坂を駆け上る。傘はどこかに吹き飛ばされてしまっていてもうなかった。もう一艘草舟を作ろう、手近な葉っぱをちぎって、切れ目を入れて、編んだ。今度はコースを変える、もっと難所があるところがいい。新しい流れをさがしに行こう。雨はまだ止みそうにないから、まだ遊べそうだ。

 

 食堂のひと騒動から数日が経ったが、相変わらず浦風は卯月と接するのをアレルギー的に拒絶した。風呂の時間も意図的にずらし、食堂でも席を離して、話しかけらればあからさまに無視をする。そのくせ目の前で別の艦娘と笑顔で話すものだから、卯月は胸をえぐられる疎外感を味わされていた。しかし、日常というものは過ぎていく。

 朝、艦娘寮近くの水道は、洗顔の順番待ちでいつも通り混雑していた。早い者勝ちである、例外として出撃前後の艦娘が優先という暗黙の了解がある。ようやく自分の番が回ってきて、あくびをしながら蛇口をひねると、背後から声がかかった。

「ういーす、卯月、おはよ」出撃帰りの川内が目を赤くさせて立っていた。髪の毛はバサバサになって、前髪が固まっている。「川内、おはようっぴょん。すぐ終わるから、ちょおっと待っててね」お疲れなのだから譲るのが筋であろうが、蛇口をひねってしまった、今更恩着せがましい。日に日に冷たくなっていく水が、夜のうちにたるんだ顔を引き締める。「ぷう。はい、どうぞ」肩から下げていたタオルで顔を拭いて、邪魔にならないように端に寄った。見れば出撃帰りの、川内率いる第三水雷戦隊の面々がいた。口々に挨拶をしてきて、入れ替わり立ち替わり、蛇口をひねりっぱなしの水道に頭を突っ込んでいく。「うひぇ、つっめたーいっ」島風が、この時期にどうかと思うほど薄着の戦闘服のままで、体を震わせていた。めくらにうろうろし始めた彼女の顔に、タオルを投げつける。「だれー? ありがとーう」なんの遠慮もなく顔を拭いて、彼女のきめ細やかで、日焼けしない真っ白な肌が、朝日を正面から受け止めた。「卯月じゃん、おはよ」

「おはようっぴょん。見ていて寒いから、さっさと着替えるっぴょん」

「んー、私はこの服の方が動きやすくて好きなんだけどな。よいっしょっと」

 ずっと目をそらさずいたのに、島風は暖かそうなニットセーターの上からジャケットを羽織って、スキニーを履いていた。頭には黒いキャップを斜めに乗せている。痴女のごとき格好から一転、露出が一切なくなった。服装の切り替えは、たとえ目をそらさずいても、認識がズレたように目視できない。同じ艦娘同士でもそうだし、いざ自分が切り替えを行うときもそうだ。ぼやけたような、何を見ていたのか忘れたような、とにかくどうなっているのか確認できない。 

「卯月ーぃ、私にもタオル貸して」川内が豪快に水を垂らしたまま突っ立っていた。他にもいっぱい人がいるんだから、そっちに借りればいいのに。

「はいはい、島風、貸してやれっぴょん。ふぁーあ」

 朝日が暖かくて、また眠気がやってきた。手の甲で溢れた涙をかしかしこする。

「そういや、島風の料理当番、明日だよねえ。ダイジョーブなの?」

「ふっふーん、よくぞ聞いてくれました」一切の膨らみがない胸を張って(自分の方が絶対にある)、背後を指差した。「秋月が教えてくれてたんだよ。節約料理っていうのかな、とにかく何でも使うんだけど、美味しいの、ね」

 ふーん、体の内側が、カッと熱くなった。

 自分の名前が聞こえた秋月が、洗顔もそこそこに体を起こす。

「コンセプトとしては司令のお料理と似ていますよ。おからだって美味しいんです……、むが」

 川内の手から奪ったタオルを、そのまま秋月の顔に押し付けて、小走りに食堂へ向かった。「これ誰のですか」後ろからそんな声が聞こえてきたが、無視。

 道すがら、眠そうに歩いている、何人もの艦娘とすれ違う。一人で歩いている娘はほとんどいない、それぞれが二人ないし三人の束になって、陽に目を細めながら談笑している。彼女らを追い抜くたんびに声をかけてくれるが、今まで一度も返事をしたことはない。いや、返事はしている。相手に聞こえない声量の返事を、返事というのであればだが。富津の艦娘が嫌いなわけでない。でも、どうしていいかわからずに、結局目を合わせないようにするしかない悪循環。なんの話をすればいいのだろう。何かしちゃいけない話とかあるのかな、嫌われてないかな、役立たずとか思われていないかな。ただでさえ富津の艦娘が未知の世界に生きているようで恐ろしい。そこに一人じゃ答えが求められない設問が渦巻き、話しかけられるたびに言葉がいくつも浮かんでは消えて、何も言えずに逃げてしまう。わかっている、富津の艦娘たちが受け入れようとしてくれていることぐらい。その好意を受け入れられずに逃げてしまう、自分の性格が大っ嫌いだ。

 目の前に青い髪が揺れていた。長い髪。寝起きだからか、あの特徴的なドーナツ状のお団子は作っていない。最近はやたらと風当たりが強い。いつもなら背後から飛びついて驚かせて、お小言を言われるまでがワンセット。けれど、あの冷ややかな目で見られたくない。無視されるのが怖い。

「お、おはようっぴょん、浦風……」

 彼女は振り返らない。潮風に髪をなびかせて泰然と歩き続ける。朝に強いのは知っている、一人で歩いているからか、少し早歩きの浦風と距離を詰めるために、小走りになる。

「浦風、おはようっ」

 振り返らない。

 あのひょうきんで柔らかい笑顔を向けてくれない。もう、長いこと(三週間ほどであるが)、自分に向けて、微笑んでくれない。鼻の奥がツンとした。が、すぐにふつふつと苛立ちが湧いてくる。こんなのは卯月らしくない、浦風相手にこんなおどおどする必要ないじゃないか、向こうがかまってくれないなら、こちらから押していく。そうすればいつか「しょうがない奴じゃのう」とか言って、ふにゃっと笑ってくれるにちがいない。

 右足を引いて力を込める。つま先がしっかりと土を掴まえている。二三度膝を曲げてバネをつくり、ひっ跳んだ。抱きつくというよりはまさしく飛びつく。肩甲骨の真ん中あたりに頬を叩きつけて「ぐえっ」逆くの字に折り曲がった彼女が五歩六歩よろめいた。

「お、は、よ、う、ぴょん!」応えてくれるまで逃がさないから、回した腕に力を込めるともう一度「うぐえぇ」空気を絞り出される、あまり綺麗ではない声が漏れた。

「なになに、だれ、卯月ぃ?」

「そうだよおっ。おはよう、浦風っ」

「あたい、浦風じゃあないよっ」

「へえ?」腕をすこしあげると、憎たらしいほど腫れ上がった乳がない。全身の血の気が引いていく。顔をくすぐる髪の毛も、よくよく見てみればすこし暗い。朝日の加減で、直接日が照っているところは淡い水色であるのに、影をかぶせてみると、海の色。深い深い海の色。

 体を離し、胸下に手を当てて、半身に後ずさった。自由になった艦娘は振り返った。

「涼風でした。あはは、確かに髪の色、似てるかも」

 毛先を持ち上げて光を当てて快活に笑った。それから肩口で二つのおさげを作る。

「こうすりゃわかるかい? まあ、あたいの方が長いから、そう間違えることもないだろうけどさ。あ、おはよう卯月。朝っぱらから生きがいいねえ」

 浦風とは違う勝気な笑顔。青くて丸い大きな目が、少し上から自分を見下ろしていた。

 人違いだった!

 とは言っても、涼風は同じ駆逐隊のメンバーで、浦風、卯月、涼風の三人で構成される富津第四駆逐隊。これは千歳型姉妹所属の第一航空戦隊の護衛を想定された部隊。話したのは一度きり、部隊が発表された時の顔合わせに、ほんの一言だけ挨拶を返しただけ。清水はコミュニケーションのとれていない部隊を海に出すことを嫌っているから(夏の敗北の一端と考えている)、名前だけの部隊と成り下がっているのだが。

 目の前で意味もなく怯えられて笑顔を維持するのが辛くなったのか、だんだん涼風の顔は引きつっていく。

 一挙一動にいちいち体がビクリと反応してしまう。脳みそはもうとっくに仕事を放棄している。一歩寄られれば一歩下がり、喉はヒリつく。なぜ朝からこんなことになってしまったのか、自分が人違いをしたせいなのだけれど。

 いい加減困り果てた涼風が話題を変えた。

「とりあえずさ、朝ご飯食べ行こうよ」くるり翻って、歩を進めた。「今日は夕立だっけ、あんまり期待できないよねえ。こないださ、何作るのって聞いたら、ビーフシチュー作るとか言ってたよ。ルーもないのにどうするのーって言ったら、『何とかするっぽい!』だって、気合いで何とかなればいいけどねえ」

 ついていこうか悩んだが、一人で勝手に話し続けてくれるのならばと、彼女の五歩後ろをキープした。声は大きく、後ろを向いたままでもよく聞こえる。

「あー! そういえばあたいも来週当番じゃん。うええ、どうしよう、何も考えてなかったなあ。なんか食べたいものある? そしたらそれ作ってみようかな」

 思ったそばからこれだ、いちいち話しかけないでほしい。振り返った涼風に首を横に振って否定を意思を見せると「そっかあ」また前を向いて歩き始めた。

「なーににしようかな。粉物が楽だなあ。お好み焼き、もんじゃ焼き、かんこ焼き、うどん、たこ焼き、すいとん。お肉はいっぱいあるから餃子でもいいし。鉄板があればなあ」

 たこ焼き。黒潮がたまに作ってくれたなあ。わざわざ妖精さんに作ってもらって、「油をなじませて育てるのが楽しいんよ」とかなんとか。

 あ、食べたくなっちゃったかもしれない。

「あ、の」

 勇気を振り絞ってみた。蚊の泣くような音でも、後ろを歩いていたので、追い風が味方してくれた。

「なんだいなんだい、何か食べたいものあった?」

 勢いよく振り返られて思わず後ずさる。涼風は「おおっと」両手を上げておどけてみせた。「ごめんごめん、で、どしたの」

「たこ焼き、作れる、んですか」

「作れる作れるっ。と言いたいところだけど、あれは鉄板がなけりゃあねえ」ころころよく表情が変わる艦娘だな、そして朝から元気がいい、まるで東京版浦風だ。

「鉄板が、あれば……」

「作れるよ。だけど、知ってるかい? うちは妖精が少なくてさあ。余計なリソース割けないのさ。今だって朝から晩まで装備作ってくれてるじゃん。そんな忙しいところに、『来週までにたこ焼き用の鉄板作ってください』なんて言えるかい、いや、言えないよ」

 ワシャワシャ頭を掻きむしって、長い髪が風に舞う。舞う髪の一本一本は淡い水色になるというのに、まとまると濃い青になる。

 それならうーちゃんに任せておけっぴょん、黒潮に頼んで、ちょっと借りてくるよお。

 言葉が喉のすぐそこまでせり上がってきた。あとは放出するままにしておけばいいというに、引っかかって上手く出てこない。心臓は内側から暴れて飛び出しそうだ。顔がほてり、足が震える。言葉を出すだけ、出す言葉は決まっている。これ以上ないお膳立てされた状況、今言わなくていつ言うんだ、頭が緊張でぐわんぐわん回って、自分の髪の毛が顔をくすぐっても気にならない。歩き出した涼風は二の句を紡がずにいる。

 踊る心臓を抱えたまま食堂の近くまで来てしまった。彼女は明るいから、誰とでも仲がいい。ご飯の時は離れ離れになってしまうかもしれない。今でもギリギリなのに、これ以上人が増えたら言えなくなってしまう。

 いうぞ、よし、いうぞ。

「あのっ」

 意を決した瞬間、ものすごい勢いで何かが自分たちを通り過ぎて、食堂に飛び込んでいった。「うわわ、何だあっ」驚いた涼風が道端に飛びのいても何もない。ただ、シャンプーの香りが、潮風に飛ばされる一瞬香った。開けっ放しにされた扉が潮風に煽られて壁にぶつかっていた。中からはすぐに怒号が聞こえてきた。

『こンのばっかヤロウが、今更起きてきやがって、何にも準備してねえじゃねえか!』

『ごめんなさいぃ。今から頑張るから許してっぽいっ』

『ふざけたこと言ってんじゃねえ。一から作ってどうにかなる時間はとっくに過ぎてんだよ、どうしてくれんだ』

 穏やかではない。当番の夕立が寝坊したようだ。

 しっかり怒声を耳に入れた涼風が恐る恐る中を覗いて、その少し後ろから彼女の突き出されたお尻を呆けてみている。

 だめだ、もう先ほどの話を蒸し返せる空気はない。

『ああもう、どうする、とりあえず米は炊いてる、おかずはぬか漬け、いや、昨日漬けたばっかだし一晩じゃさすがに無理だ……ん、涼風か』

 入り口から覗いていた顔に司令官が気付き、気付かれた方もおずおず中に入っていった。

 せっかくのチャンスが……、夕立を恨んでも仕方ない。小さくため息をひとつ吐いた。それよりも朝ごはんはどうなるんだろうか。今ご飯を炊いてるってことは三十分以上かかるはずで、食堂と反対側に目を向ければ続々と艦娘たちが歩いてきているのが見える。食事はただ腹を膨らませるものでなく、ルーティンでありながら一大行事なのだ。日々の楽しみ、それも最大級の。ああ、可哀想に、きっといろんな人から怒られるんだろうなあ。

 何はともあれ人が集まってくる場所にとどまっているのは都合が悪い。工廠あたりにでも行って、適当に遊んでこよう。

 踵を返して、背を向けた食堂から、涼風の声がぶつかった。

「ねえ、卯月。今からご飯作ることになったんだけど、手伝ってくれる?」その後ろから夕立も出てきて、申し訳なさそうな、しょぼくれた顔をして言った。「お願いっぽいぃ。みんなで作れば、少しは早くご飯食べれるからさあ」

「元はと言えば寝坊した夕立が悪いんじゃん」というのは飲み込んだ。涼風の声に少し振り向いて、それから逃げようとした。が、いつの間にかそこまで来ていた川内が声をはりあげる。

「おーい、何かあったの?」今だにオレンジ色の、目に沁みる戦闘服を着たままの彼女が、一仕事終えた後の食事を楽しみに笑顔で小走りで向かってくる。ああもう、タイミングが悪すぎる!

「夕立が寝坊しちゃってさあ、まだご飯できてないんだよ。だから手伝ってくれる人、絶賛某集中ってわけ」涼風が答えると、川内はあからさまに顔を引きつらせた。

「ええ! 勘弁してよ、もうお腹ペッコペコなのにさ。……仕方ない、三水戦で手伝うね。あ、卯月も手伝うんでしょ、先行ってて」

 川内は嫌いではないが、こんな風に勝手に話を進めるところは好きではない。言うだけ言って走り去ってしまう。後に残されて何をしろというのか。逃げるに逃げれず、ただ立ち尽くすほかない。背中には二人の視線が、熱を持って、強かに感じる。

 さらに駄目押しとばかりに、今度は司令官の声が背中に投げられた。

「すまん、本当に手伝ってくれないか。メシが一時間以上遅れていいのなら、まあ無理とは言わんけども」

「それはイヤっぽい!」反射で答えた夕立が頭を軽くひっぱたかれて縮こまった。

 仕方ない。頷いた。

 夕立は援軍が来たことに喜んで抱きつこうとしてきたが、近付けばその分だけ怯える様を見て、途中で足を止めた。別に仲良くなったわけではないのに、馴れなれしい娘だ、恐ろしい。そもそも、自分は料理できないんだけど。手伝いなんてできないし、ああ、やっぱり断ればよかった。今から逃げようかな。

 だが、さすがになれたのか、それとも意図があったのか、涼風がずんずん近づいてきて手首を掴んだ。電流を流されたみたいに体が大きく跳ねる、腕を引き寄せようとしても、ぐいと引っ張られて、足を動かされる。散歩から戻りたくない犬はこんな気分なのだろうか、違うだろうな。むりやり食堂に押し込まれて、少し息を上げた涼風が言った。

「ふっふっふ、逃がさないよ。さすがにたこ焼きは無理だけど、とりあえずなんか作っちゃおう。卯月は料理できる?」無言で首を振った。自分の髪の毛の甘い香りが振りまかれる。

「じゃ、味噌汁作っちゃおう。ピーラーないよね、皮むきはー……難しそうだから、ナス、ナス適当に切ってもらおう」

 展開がめまぐるしい。厨房に押し込められて、手を洗わされて、目の前にまな板と包丁が置かれ、大量のナスが積まれる。まずは手本と、涼風がへたを切り、半分に切って、小さめの乱切りにして、あっという間に一本のナスを仕込んだ。

「こんな感じ! 適当でいいよ、へただけ落としてくれればさ。終わったら教えてね。夕立ー、何か焼き物できるかい? 卵焼きとか」

「むりむり、無理っぽい。料理なんかしたことないし」ビーフシチューはどこに行ったんだ、突っ込むのも野暮だろう。言われた通りに、ナスに包丁をあてて、ぐ、ぐ、上から押し込んでいくと、硬い皮がへこみ、甲高い音を立ててへたが飛んだ。わっ。「あー。今晩初雪が卵料理にするとか言っていた気がするから、残してやってくれないか」涼風が在庫をチェックして言った。「ううん、今日は搬入ないし、使えないね。大根おろしに大葉きざんでポン酢かけてみようか。すぐ作れるし、量も稼げるよ。その代わり……」「夕立やる! 簡単そうっ」「腕がつりそうだ。よし、じゃあそこにある大根三本おろせ。おろし器コレな」「え、なんか小さいっぽい」「あとあったかいものがもう一品欲しいねえ。何かあるかな」「鴨肉がある。ネギとゴマ油で炒めればいい。私は食えないが」「食べられないんじゃ意味ないじゃん。しょうがない、提督のだけ野菜炒め別に作ろっか」「連れてきたよー」ぞろぞろと入ってきたのは三水戦。合わせて八人が厨房に詰めることになり、必然、人と人との距離が縮まる。脇に木曾が来て、未だ山になっているナスに手をつけた。

「手伝う。乱切りでいいのか?」

「えっ、あ、はい、そう、です」

 しゃらりと置き場から抜かれた包丁が、自分の手つきと比べ物にならないほど鮮やかに動き、次々鍋に放り込まれていく。時には飾り包丁まで入れる余裕を見せていた。

「出汁は何にする」「昆布でいいんじゃない」「小口作るからネギの頭残しといてくれ。卯月、手が止まっている」「あ、はいっ」「うーでーがー痛いっぽいいぃ」「罰だ罰。全部一人でおろしたら、寝坊は勘弁してやる」「勘弁されてないっぽいいぃ」「鴨肉なんて高級食材、朝からこんな豪勢な……」「はいはい、お肉の仕込みはあたいがやるよ。ネギを斜め切りにしといてくれるかい、八本くらいかな」「お、きゅうりが残ってるじゃん、島風、エスニック漬け作ってみる?」「何それ、美味しそう! 作る作るっ」「じゃ、こっちおいで。卯月、ごめん、ちょっと端っこ借りるね」「みそ汁の具がナスだけってのは寂しいな。もやしと……油揚げでいいか」「なんとかなりそうだ。じゃんじゃん作って、出来た順に並べていこう」「はーい」

 一枚の大きなまな板に二人が詰めて、時折包丁の使い方を川内が指導してくれる。隣では木曽が鍋に次から次へと食材をぶち込んでいる。大きな中華鍋に火が入れられて、油がばちばち、声をあげた。鉄火場のようにみんな真剣であるというのに、ぎすぎすした印象はない。へたを落として、半分に切って、乱切り。両脇に比べれば明らかにおぼつかない手つきだが、それでも確実に量は減っていく。切り終わったものは片っ端から木曽のまな板に置いていけば、勝手に処理してくれる。

 結構、楽しい。

 飛び交う会話は真面目なものだし、無駄口も叩いている暇がないけど、みんなの中にいる。みんなの中に入り込んでいる。みんなと同じことをしている。忙しいけど楽しい。嬉しい。

 ナスの山があと少しでなくなりそうだという頃、木曾が鍋に水を張って野菜を洗い、それからごま油を回し入れて火にかけた。香ばしい匂いがすぐ鼻に入ってくる。

「すまん提督。昆布とってくれ」

「こんなもんで足りるか。おら、肉とネギ、仕込めてる分入れちまえ。片っ端から炒めてやる」

「お、いいねえ男らしい! じゃあまずお肉ね、どーんっ」

 瞬間音が弾ける。熱せられた油がコンロの火を舐めて、大きな火柱が上がった。司令官は意に介さず、ガシャガシャ中華鍋を振る。

 最後の一本を仕込み終われば、手空きは許さんぞと油揚げが置かれた。切り方が分からず、ああでもないこうでもない、包丁をあてがっていると木曾が鍋を気にしながら言った。

「まず縦に、あとは垂直に細く切ればいい」

 言われた通りに包丁を入れれば、少し不格好だが、よく見る形になった。今まで食べるだけだったものを自分で作れることが楽しい。案外料理もいいものかもしれない。誰かが髪をまとめて、ゴムで縛ってくれた。視界明瞭になり、格段に作業がしやすくなる。一瞬だけ目をまな板からそらして誰かを確認すると、持ち場に戻ろうとしているのは涼風だった。いつもは二つにおさげにしているのに、今は一つ縛り。地団駄を踏みたくなるほど胸がいっぱいになる。けれどお礼を言う空きなんかない、彼女もまたまな板に向かっているし、こっちも仕事がある。あとで返す時に、しっかりとお礼を言おう。たこ焼き機のこともその時に話してみよう。それ以外にもいっぱい、もっと、お話しできるかも。

 ちょっと待てよ。毎日見ていた当番表を思い返す。

 多少の前後があるにしても、食事当番は部隊ごとで区切られていることがほとんどだった。属しているのは出撃予定のない第四駆逐隊。涼風の当番は来週。

 そういえば、うーちゃんの番、その次だ。 

 

 どうしようか、どうしよう。悩んでいても時間が止まるわけでない。あっという間に日付は過ぎていき、あと数日で自分の当番が回ってきてしまう。夕立みたいにとぼけてみようかとも考えたが、あのあといろんな艦娘(司令官にも)にこっぴどく叱られていたのを見たら気がひける。そりゃそうだ、軍人にとって時間は絶対的なものだから。かといって、やる気でレシピが浮かべば苦労はない。料理は誰かに教えてもらう風潮が蔓延した中では、料理本の取り寄せに願いを託すのもむなしく、今更頼みに行っても「次の搬入は来週だぞ」。ならば風潮に従おうとして横須賀組に片っ端に声をかけたのだが、誰一人として首を縦に振ってくれない。川内、神通、那珂、初雪、曙、島風、千歳、千代田、一応浦風にも声をかけて一人もだ。司令官に恥を忍んで頼み込んでもダメだと言われた。全員訓練だとか細々した出撃があるとか執務があるとか、いよいよ八方塞がりである。

 手段は、まだあるけれども。

 富津の艦娘にと頼み込めばよい。自分から話しかけて、お願いして、教えてもらう。

 ポケットに入れっぱなしになっていたヘアゴムを何度もなんども指でこねくり回す。目の前の扉が重厚なものに見える。ノックをするために持ち上げた手が二十分も空中で固まっている。涼風の部屋の前、時刻は夜夜中。消灯時間はとっくに過ぎていて、彼女が起きているのかわからない。体が固まってしまったんじゃないかと感じる寒さでありながら、顔は上気して、手足先の感覚がない。夕食を食べ終わって、お風呂に入って、それからずっとタイミングを計って、結局部屋の前に立ったのが〇時過ぎとは、我ながら笑ってしまう。いくら好意的に考えても迷惑になる時間帯だがこちらも時間がない。明後日の夕食は、自分が二十五人の食事を作らなくてはならないのだ。この追い詰められた状況で何を怖気付くことがあるのか!

 生唾を飲み込んで固まっていた手首を動かした。撫ぜるようにノックした、当然音は小さい。家鳴りの方がまだ大きい。気づいてもらえるはずもなく、もう一度、今度はしっかりとノックした。口から心臓が飛び出しそう、最近はこんなことがよくあるなあ。

『……んー、ねえ、いま、物音しなかった』声が聞こえた。が、涼風の声じゃない。ああ、なんて自分はバカなんだろうか。一人部屋なんて勘違いをしていた。同室の艦娘がいてもおかしくないじゃないか、富津の白露型は三人もいるのに。

『風のおとでしょーう。今日強いしさあ。くぁあ』

『夕立姉が帰ってきたのかも』

『そんなわけないじゃん、哨戒行っているのに。山風は明日総員起こしの当番でしょ、早く寝ときな』

 あ、ああ。どうしよう、起こしてしまった。しかも一人じゃない、どうしよう、どうしよう。でもせっかく来たし、これだけ頑張って勇気を、それこそ振り絞ったし。涼風だけ出てきてくれないかな、ゴム返して、お料理教えてくださいっていうだけだから、神様。

『うぅ。そう、そうだよね。おやすみ、涼風』

『あいあい、おやすみぃ』

 誰も出てこないことにホッとして、かぶりを振った。ダメじゃん、ちゃんと気づいてもらわなくちゃ。緊張でどろどろになった頭ではもう考えることなど無意味だった。今度はしっかりと、聞き間ちがいのないように、三回、素早くノックした。

『涼風ぇ、やっぱ何か聞こえる』

『……こんな時間に? 誰だろ、提督かな』

『なんかヤだよぉ。夕立姉に、何かあったんだよぅ』

『そんなわけないって、夕立だよ? もっとポジティブに考えよう。あの娘はたとえ戦艦にぶち抜かれたって生きてるって』『そんなこと言わないでよおっ』

 下手をすると泣きだすんじゃなかろうか、切羽詰まった山風の声の後に木材の軋む音がする。

 ヘアゴムをいじっていた指が止まる。

『怖がる必要ないって。誰だい、提督だったら身支度整えるまで待ってね。山風がすっぽんぽんだよ』

『バカなこと言ってないで、早く確認してよっ』

 ひとつ、ふたつ、みっつ、足音が聞こえる。わずか遅れたふたつの足音、中の様子が手に取るようにわかるのが微笑ましい。心臓はいよいよ小動物並み。ここまで来たんだ、もうあとはないぞ。追いつめろ、逃げ道はもうない。

 数センチの板っきれを挟んで向かい合ったことを確信した。

『どちら様ですかあ』

 長い時間外で固まっていた、かさかさの喉を震わせる。全身に久々に血がめぐり、体が寒さを認識した。

「卯月、です」

『卯月だって?』

 警戒なく扉が開けられた。

 ノブを握って前傾に出てきたのは今まで寝っ転がっていたであろう、長い髪に癖をつけてしまった涼風。彼女の腰の服を握り、盾にして隠れているのは山風。二人は、扉のすぐそこに立っていた自分に一瞬驚いた。生ぬるい部屋の空気が、彼女らの濃い生々しい匂いと一緒に、寒風に運ばれていった。

「さむっ。どしたの、こんな時間に」

「こ、これ、返しに」

 手を突き出す。かたく目を閉じてしまったので涼風の表情はうかがえなかったが、声の調子は、笑っているようだった。

「別にいいのに、ゴムなんかいっぱい持ってるしさって手ぇつめた! ちょ、震えてんじゃん、ほら、入って入って」

 また腕を引かれた。今度は、それほどびっくりはしなかった。全身が涼風の、いや白露型の匂いに包まれる。部屋の真ん中に穴が開けられて砂が敷かれていて、その上で木が赤く光っていた。窓が少し空いているのは換気のため、それでも十分すぎる暖かさがある。

「ほら、ここ座って。山風、毛布貸したげて」いろり端に座らせられて毛布でくるまれ、天井から吊った鈎に引っかかっていた鍋から白湯を、これまた使い込まれたスチールマグに注がれた。冷えた手に火傷しそうな熱さがちょうどよく、黄色い暖かさが指をすぐに温める。「またどっかで遊んでたのかい。風邪ひくよ、私たちが病気するのか知らないけど」肩をこすって頭の上から声が降ってくる、力の緩んだ顔から鼻水が垂れてきた。白湯を一口すすると予想以上の熱さに舌を火傷した。びくり、跳ねた体で察した涼風が笑う。

 自分には同室の娘がいない。異動組の同型艦がいない、もっともらしい理由だが、初雪と叢雲が同室なのを見れば、ここには三日月もいるのだ、同室になってしかるべき。少し考えればわかる。気を利かせてもらっているのだ。建物も限られているのに広い駆逐舎の一つをまるまる使っている。そう、考えればわかることなのだ、自分がいかに特別扱いされているか。ただ囲炉裏は予想外だった。これからの季節、毛布一枚でどう乗り切ろうか思索する意味がなくなる。少し前ならば浦風の布団に潜り込めばよかった。が、それも今のままではできない。囲炉裏があれば暖かいし、何より灯りになる。

「ちょっとは温まった?」

 隣の辺に腰を落とした涼風が、火かき棒で炭をかき回すと熱が吹き出て、目を細めた。その対面に山風もしとやかに座った。二人とも私服でも戦闘服でもない薄い寝巻きで、それでも寒くはなさそうだった。

「これ、作ったん、ですか」目の前を指さすと、白湯をもう二つマグに注いだ涼風が声を殺して笑った。

「寒いっつったら夕張がね。提督には言わないでよ、一応火気厳禁なんだから駆逐舎は。いくら決まりごとでも寒いもんは寒いしねえ。言えばやってくれるよ、代わりに工期の間はご飯のおかずがひとつ消えるけども」かき回すたびに火の粉が秩序なく舞う。

「炭もね、夕張が作ってるの。あんまり量はないけど、寒い夜をしのぐぐらいはね、できるよ」

 初耳だ。他の艦娘の部屋にもあるんだろうか、少なくとも浦風の部屋にはなかったはず。最近行っていないからわからないけれど。

「あの、すずかぜさん」すんなり言葉が出た。一緒に同じ作業をしたことで、わずかだが話しやすく思う。「涼風でいいって。同じ部隊じゃん、なあ」からから笑う彼女は裏表がない、説得力のある表情をする。

「あたし、席外した方がいいかな」

 山風が普通にしていても困り眉に見えるのを、さらに顕著にした。それも申し訳なく、恐縮してしまう。「大事な話?」涼風がころりと表情を変えた。

「いえ、大丈夫、です。山風さんが、あの、いても」

 失礼な言い方をしちゃっただろうか、一言発するたびに同じ言葉を繰り返して反芻して、果たして正しい言葉の選びだったか考える。眉間に寄ったしわが薄くなったのを見ると、最悪な間違いをしていなかったようで安心する。

 が、山風は立ち上がった。

「先にお手洗い、行ってくるね、消灯前いってなかったから。気にしないで、お話してて」

 そう言うとさっさと立ち上がって部屋から出て行った。ドアの方へ顔を向けた涼風の横顔が、窓から入ってくる月明かりで青白く光っている。

 山風には申し訳ないが、二人きりなら話しやすい。

「で、どうしたの。誰かに聞かれたらまずい話? なんかやらかした?」

 首を横に振った。いつも何かやらかしているわけではないのだ。「じゃあ何だい」月が雲に隠れた。赤熱した炭が涼風と自分を形作る。彼女の深海色の髪は、橙色と混ざって、どっちつかずの色。目を火からそらさず、時間の過ぎるままにしていた。贅沢な時間をもらった。ゆっくり、けれど無駄のないように、口に出す言葉を何度も頭の中で練る。語尾を変え、主語を確認し、礼儀を踏まえ、確実に理解してもらえるように。

 炭の一つが弾けた。ウッドブロックを打ち鳴らしたような、そこいらの木材で作った炭とは思えない甲高い音。

「私に、料理を、教えて下さい」

 言った!

 惜しむらくは目を見て話せなかったこと。どうしても視線が横にずれてしまう。マグを握る手は汗ばみ、それなのに外にいた時と変わらないぐらい感覚がない。無意識に力が入って中の湯に慌ただしい波紋を描いた。

 涼風は唖然した。火かき棒がただ炭に焼かれる。それから燃え上がるように笑った。

 彼女の仕打ちに愕然して、それから苛立ち、一周して涙が溢れそうになった。今、持てるすべての勇気を総動員したのに笑うなんてあんまりじゃないか。満杯のカップに最後の一滴が落とされ、ついに決壊した。あふれても次から次へと得体の知れないものが入ってきて、事態を収拾できないまま、際どく均衡を保っていた木の葉が強烈なスウェルに翻弄されて、ついに沈んだ。この醜悪な空間にこれ以上いたくない、とにかく体の動くまま跳ねて、扉を壊しかねない力で開けた。「ちょっと待って、ごめんって!」嘲笑したヤツの言葉なんてもう耳に入れたくもない、煮立った頭がただひたすら呪詛を唱える。

 だが扉のすぐ向こうに山風がいた。

 手首を掴まれて強引に引き擦られた。いくら暴れてもビクともしない。普段見かける怯えたような足取りではなく、意思を持った行進で涼風の前に仁王立ちした。

「駄目じゃない! なんでそんなことするのよ」

 もちろん山風とは話したことがないのだが、遠目に見ることは多々あった。あの鬼の神通率いる一水戦の面子といても子供っぽく消極的であったと思う。それが今、涼風を怯えさせていた。

「涼風はわからないでしょ、人とお話するのが、どれだけ難しいか。どれだけ怖いか、どれだけ恐ろしいか! 一人ってね、本当に辛いんだよ。だから誰かと一緒にいたいのに、上手にできない娘だっているの。素直な言葉を出せないもどかしさを抱えて、延々と苦しむ気持ちがわかるの? 卯月がどれだけの覚悟を持って扉の前に立ったかわかる? どれだけの勇気を持ってドアを叩いたかわかる? どれだけの迷いで言葉にしたのかわかる? わからないでしょ。わからないならなんでわかろうとしないの。あなたのしたことは、最低のことよ!」

 初めて山風が涼風の姉に当たることを思い出した。威風堂々した叱責は微塵も臆病さを感じない、粗相をした妹への強烈な攻撃だった。掴まれた腕に力が入り震えている。暗闇が退いていく。乱れた髪の隙間から、山風の怒りに染まった瞳が隅に照らされて輝いていた。

「いや、ごめんって、えと、山風、姉……」「謝る相手が違うでしょ!」「ひいっ」

 性格が逆転したようだ。山風の一言にしどろもどろになる涼風。同じ部屋で暮らしていたにもかかわらず、おそらく初めて見せられ、たたきつけられたのだろうことがわかった。今度は困惑と恐怖が一緒くたになった顔をしている。

「ごめん、卯月。いやほんと、悪気があったわけじゃないんだよう」

「じゃあなんだっていうの。言えないようなことだったらあたし、涼風のこと嫌いになるからね」

 こうなると涼風がかわいそうに見えてきて、山風の裾を引っ張って落ち着かせようとした。こちらを向いた表情はいつもの困り眉。阿修羅像でも見ている気分だ。

「本当にごめんね。涼風にはきつーく言っておくから、許して。涼風の代わりに、あたしがお料理教えてあげる。一応、できるから」

「ちょ、待って! 教えないなんて一言も言ってないってっ」

 わずかに反論をしても一刺にらめば妹は黙る。

「あなたに任せられないわ。どれだけひどいことをしたか、しっかり反省なさい」

 頭をかきむしった涼風が今度は苛立ちを隠さず声を荒げた。

「話を聞いてって。笑っちまったのは悪かった、だけどさあ、よくよく考えて。何をそんなに大真面目になる必要があるんだい。おびえなくたっていいじゃないか、同じ釜の飯を食う仲間なんだよ」

「磊落なあなたにはわからないでしょって言ってるの。卯月は繊細なのよ、あなたとは違って! 仲間っていうけれどあなたは卯月に対して何かしてあげたの。あなたが信頼に足らないと思われているから、いらない苦労をかけているんじゃないの」

「わからないだのわかるだの、山風こそ何がわかるっての。いっつも勝手に自己完結してまともに話さないくせに、こういう時には饒舌になるんだね。普段ためこんでいる鬱憤をあたいに叩きつけられて満足かい? だったら明日からもっとシャンとしてほしいもんだね」

「今は卯月のことで怒ってるの、この分からずやっ。あたしのことを悪く思う暇があるなら、もっと卯月と仲良くしてあげればよかったじゃない。それが毎日々々フラフラして、あたしが知っている限り気にしてあげている素振りすらなかったくせに、大きな口叩かないで」

「なあっ、好きでフラフラしてるわけないじゃん。あのさあ、卯月にも卯月の考えがあるんだよ、そうやってお人形さんみたいになんでもかんでも決めつけて、山風こそ卯月の何がわかるの。それこそ最低のことじゃないの。誰彼構わず甘えて、嫌なことがあったらすぐ自分の殻に閉じこもってりゃそりゃあ楽だろうさ、そう考えりゃ、卯月の方が立派だとあたいは思うね」

「卯月をダシにしてあたしの悪口言いたいだけ? 今言う必要ないじゃないっ」

「最初に仕掛けてきたのは山風だろっ。ああもう、気分悪い!」

「バカ! それはこっちのセリフよ」

「なんだとっ」

 涼風が立ち上がって山風の胸ぐらを掴んだ。身長差がある。持ち上げられる形になっても、山風はひるんだ顔を一切見せない。

「あたしだって色々考えてんだよ、なんでそれをわかってくれないんだい。山風が一番人のこと考えてないじゃんっ」

「あなたみたいな無神経な娘が? じゃあ何を考えているか言ってみなよ」

「それはっ……」

「ほら、結局何も考えてない。いいわ、提督に頼んで、卯月は一水戦に入れてもらうから。あなたみたいな娘と一緒の部隊なんてかわいそう。そうやって、ずっとヘラヘラしてればいいのよ。海にも出ずに、ずっと陸で!」

「言いやがったなあっ。表に出ろ、山風っ」

「もうやめろっぴょん!」

 とにかく腹の底から声を出した。時間なんて考えない、全力で。「もうやめて」もう一度同じことを言った。今度はかすれた声にしかならなかったが、余った力を山風の手を振りほどくことに使った。振りほどかれた手はいつもの不安げな山風の胸元に戻っていく。

「全部うーちゃんが悪いっぴょん。涼風が海に出れないのはうーちゃんのせいだから。ケンカになっちゃったのも、うーちゃんのせいでしょ」

 感情が爆発して泣いたことは何度もあった。悲しくて泣いたのはどのくらいだろう。こんなに耐えられない、胸がぎゅうっと締め付けられて呼吸も苦しくなって、静かに泣いたのはいつぶりだろうか。黒潮が大破したとき。浦風が偵察に行ったまましばらく帰らなかったとき。横須賀を発つ日。初めて富津に来て一週間経ったとき。あ、割とある。でも毎回思う。二度とこんな気持ちになりたくない。

 涼風と山風はこちらを見ていた。きっと彼女たちはとても仲がいい。

「あ、うづ……ごめ……」落ち着きを取り戻した山風が、先ほどの威勢はどこに行ったんだという風な顔をする。だから精一杯笑った。笑えていたかはわからない。

「もういいっぴょん。涼風が笑ったのだって、ちゃんと理由がわかったからもういい。山風がうーちゃんのために怒ってくれたのも嬉しかったっぴょん。心配してくれてありがと、でも、もういいっぴょん」

 一歩引いた。山風が手を伸ばしてきたからだ。空を切った手は、橙色に照らされた部屋の空気をつかむ。

 もう何もかもどうでもよくなった。自分のせいでケンカになってしまうなら、自分がいなくなればいい。火種がなくなればいつか火は消える。コミュニケーションを取ろうとしなかった自分が悪いのに、そのせいで二人が傷つけあうのは見たくない。きっとこのままだと、他の娘たちも同じことになってしまうかも。そんなことは絶対に嫌だ。

「お料理もね、もう大丈夫。なんとかしてみせるっぴょん。だから、だからっ、……仲直りしてね。ごめんなさい、おやすみっ」

 外に出ると頬の濡れた場所が一気に冷えてつっぱった。すぐに暖かくなって、また冷たくなる。こすってもこすっても意味がない。流れるままにして走った。

 あーあ。だめだったなあ。だから異動なんかしたくなかったのに。みんないい娘なのはわかってたけれど、受け止められない欠陥品みたいな自分じゃ意味がない。輪を乱す腐ったりんご、それが卯月。どうしよう、もう眠れないし。というか、もう、居たくない。こっそり出て行こう。そうした方がきっとみんなのためになる。第四駆は海に出れるようになるし。司令官は悩みの種が消えて胸をなでおろすだろうし、浦風だって、もう卯月のことなんて嫌いだろうし。食事当番だってわがままを言う奴がいなくなればまた元どおり。司令官が頑張ることが一番角が立たないのはわかっている。彼の料理は嫌いではなかったのだが、どう考えても同じメニューばっか食わされていたら飽きるのは当然で。いろんな娘の料理を食べたんだし、少しはレパートリーを増やせばいい。

 出撃詰所には誰もいない。そりゃそうだ、もうとっくに夜間部隊は出発している。今日は誰だったか、壁を見ると二水戦の札がかかっていた。そうだ、夕立は二水戦だったっけ。那珂の下とか大変そう。部屋の真ん中に置かれたダルマストーブがごうごう音を立てて灯油を燃やしていて溶けてしまいそうになるほど暖かい。いつかこの空間で出撃前の恐怖を笑い話で吹き飛ばすおしゃべりをする日が来たのだろうか。まあ、もうどうでもよいことだ。横須賀じゃいろんな娯楽品が備えられていたものだが、ここには何もない。何もないからおしゃべりぐらいしかすることがない、らしい。こっちで出撃したことがないから伝聞だけど。これが初出撃、そして最後の出航。一人っきり、見送りもなし。役立たずの自分にはお似合いだ。

『……誰かいるの?』

 急に天井から声が聞こえてきて飛び跳ねた。拍子に、ストーブの上に置いてあったヤカンをひっくり返した。

「あっつぅ!」

 誰だ、天井に隠れてたとか反則!

 恨みがましく目を向けるとスピーカーがあるだけ。司令室に詰めている、夜間通信手だった。

『大丈夫? 何かあったの。ええと、どちら様でしょうか』

 ドックにつながる扉の脇にマイクがある。常につなぎっぱなしなのか、単純にスイッチの切り忘れか、送信がオンになったままだった。

 こっそり出て行く計画がパーだ。必死に頭を巡らせてごまかしを考える。声は古鷹だろう。ぼうっとしている印象しかない。

「三日月です。すみません、忘れ物をしちゃいまして。もう、びっくりするので急に声をかけないでください。ヤカンひっくり返しちゃったじゃないですか」ここに卯月がいるのは不自然すぎるから名前を騙る。軍規違反は気にしない。

『三日月かぁ。ごめんね、でももう消灯時間過ぎているから、あまり出歩いちゃだめだよ。あ、あとついでにマイク切ってもらっていいかな。誰か入れっぱなしにしたまま出てっちゃって、雑音が入って耳が痛いの』

「了解しました、お疲れ様です。おやすみなさい」

『おやすみぃ』

 ぶつん。

 スイッチを切ると、以降スピーカーは沈黙した。しゃっくりが出そうだったり鼻声だったり、ボロボロの声だったけど、彼女も眠いのかもしれない。全く警戒された気配はなかった。大丈夫か富津泊地。

 マイクが本当に切られているか確認してドックに入った。温められた体は、海から吹き抜ける風に一気に冷やされた。裸電球が一つ、ベニヤと端材で作られた簡素な机の上で揺れていて、哨戒用の日誌があった。見る必要もない、自分の名前は一度たりとも書き込まれることはないのだ。ぐるりと空間を見渡すと新しい柱と古い柱が入り混じっている。机の横には土埃をかぶって白茶けた黒板が一つ、ひっくり返して後悔した。一人で海に出る前に見るものではない。自分が建造された頃すでに以前の富津泊地は壊滅していた。その残滓を残しておくなんて……、なかなかできた司令官じゃないか。彼の下でならば、よしんば沈んでしまっても悲しくない気がする。自分の死をとても大事に扱ってくれそうだ、と考えて頭を振った。その資格が自分にないのだから出て行くのだ、何を今更。これから往く海が、ドックのわずかな明かりを食って、真っ黒くたゆたっている。指先をつけると気温よりも暖かい。辺りを見渡すとドラム缶があり、中にはどろどろの液体が入っていた。匂いでわかる、重油だ。艤装を展開させて、ドラム缶の中から伸びている機械を背中の艤装に突っ込んでスイッチを入れると、恐ろしい勢いで見た目の内容量を超える重油が飲み込まれていった。ドラム缶一本をまるまる飲み込み、それでも足りないが、どうせ行くあてなどないのだ。今更横須賀にも帰るわけにもいかない、適当に沿岸沿いを走って、とにかくここではないどこかへ行こう。重い体を波打ち際まで引き擦って海に足を入れると、艤装が浮力を出して浮かんだ。体が波に揺られて、陸では重くて仕方なかった体が途端に軽くなった。

 振り返った。

 誰もいない。暖色の一つの明かりが風に揺れているだけ。

「お世話になりました。……ぴょん」

 電球に向けて頭を下げると途端に体の内側が持ち上がったような浮遊感が生まれ、陸に背を向けて機関に火を入れると低いうなり声が、深夜の、波の音だけの世界に大きく響く。海鳴りに消されてどうせ艦娘舎の方までは聞こえないだろう。ああ、艦娘というのは素晴らしい。半日も暖気せずともすぐに動き出せる。

 ゆっくりドックを抜け、久々の海上ではほの暗い気持ちが溶けていく。夜の海に一人で出たことはない。いつも部隊の誰かと一緒だった。これからは一人、一人でこの海で生きていくのだ。途端に湧き出るワクワクした気持ち。雲が厚くなり、涼風を照らしていた月は隠れていた。それでも勘と経験を頼りに浦賀水道まで出る。海水をすくってパリパリになった顔を洗い、服をまくってはしたなく顔を拭けば、腫れぼったかった目がシャッキリして、両脇に顎のように見える陸地をことさらはっきり意識させた。そりゃあ昔はこのあたりまで敵潜水艦が来ていたものでひどかった。出撃前の合流地点にたどり着く前に沈められるなど笑い話にならない。最優先で対潜哨戒のちに撃滅作戦が発令された、自分の初戦果だって潜水艦だ。とは言っても、ほとんど掃討が進んでいて、たまたまはぐれた潜水艦が目の前に浮上してきたからなのだが。深海棲艦といえど酸素は必要なのか、ガチガチの哨戒網が構築された中で逃げ場がなく限界だったのだろう、何をするわけでもなく、ただ浮かび上がってきて、じいっとこっちに顔を向けているだけ。見つめ合っていた。浦風の叫び声で我に帰り、無我夢中で主砲を打ち、爆雷を放り投げた。波が落ち着いた海には、何も浮いていなかった。腰を抜かした浦風を震える膝で引っ張り起こした場面、写真でも撮っておいてもらいたかった。今見たらきっと笑えるにちがいない。

 浦風。浦風。何が彼女をあそこまで怒らせてしまったのだろう。燃え上がるようなケンカはたくさんしたが、こんなに冷たいケンカは初めてだ。頭を叩かれるくらいなんともない、でも拒絶されるのだけは本当にイヤだった。

 やめよう、また涙がにじむ。

 もう一度海水をすくって顔になすりつけた。

 両脇から陸地が見えなくなり、ちょうどよく月がもう一度出てきたので速度を落とした。この先は三つの航路がある。まっすぐ進み御蔵島方面へ向かうルート。これは富津の艦娘の哨戒ルートだから問題外。それから、右手に進む、相模湾から西日本に臨む航路。これも横須賀の哨戒ルート。今の時間で、順調に進んでいるなら初島あたり、それから伊豆に向かうはず。そして左手。沿岸沿いに九十九里を往くか、太平洋に出てしまうか。太平洋に出てしまえばもう戻ってこれない。確実に、燃料切れ云々ではなくて、沈められる。深海棲艦から未だ制海権を取り戻せていない場所だから。昔太平洋に出たことがある。思い出したくもない。沈む娘がいなかったのが奇跡だった。自分だって命からがら、他の娘なんて気にする暇もなく逃げ帰ってきたのだ。一人でなんて自殺しに行くだけ。

 となれば選択肢は一つ。体を傾けて左の、沿岸沿いに航路をとった。犬吠埼に新しくできた基地の艦娘たちと出くわすかもしれないが、初対面であるなら問題ないだろう。嘘をつくのは得意なのだ。

 鴨川を越え、勝浦の沈黙しきった漁港を眺め、九十九里に入ると弓なりに延々続く砂浜が月に照らされてぼんやりと光っていた。波が砂を洗う様が蠕動しているようで気持ちが悪い。念のため、装備に宿る妖精たちに警戒を厳にするよう命令しておく。新しくできた基地の練度を知らない、多少警戒させてもらうしかない。横須賀を出た時のままの装備であるため、索敵には不向きなのが難点。それよりも燃料切れの心配をした方が良い。出がけに入れたドラム缶一本程度じゃあそう遠くへ行くこともできない。犬吠埼で燃料を分けてもらえるだろうか、分けてもらえたとして、さて次はどこへ行くのだろう。東北の方、柱島の泊地とかどうだろうか。奥尻島の深海棲艦と激戦を繰り広げている大湊基地の後方支援だとか、時折の火力支援が主な場所だったはず。すぐ近くには三陸の海岸があるから、漁業の復興に力を入れているとかなんとか。艦娘の随伴と時間の制限を強いて、限定的に船も出しているらしい。もちろん全て伝聞なので確実なことはわからないが、いっそ艦娘であることを忘れて、海女さんになるのもいいかもしれない。艤装さえ展開させなけりゃわからないはず。

 夢は膨らむ。行ったことのない場所に自由に行ける。もういいじゃないか、艦娘であることを忘れたって。艦娘として役に立たないのだから辞めてしまえ。釣り糸を垂らしていれば生きていくぐらいできるだろう。砂浜で寝たっていい、雨が降ればどこか雨宿りできる場所を探せばいい。そうだ、艦娘なんてやめてやれ!

 そうするにしても、もっと富津や横須賀、とかく自分の知り合いがいるだろうところからは遠く離れた方が良い。陸路を行ってもいいのだが、内陸に向かうにつれて治安が悪くなっているとの話。ぼやかした言い方をされたが、軍が出張っていることを考えると相当なものなのだろう。それならば海岸沿いを行った方が燃料があれば抵抗できる、安全なのかもしれない。

 反っていた海岸線が終わりを見せてバイオリンの弓の頭みたいな出っ張りが見える。

 速度を落とし、限界まで砂浜に近づいて、戦闘服のまま艤装だけを収納した。途端に浮力がなくなって海に落ちるが、陸地はすぐそこである、腰あたりまで沈んだ体を波にあおられながら砂浜まで持っていく。数ヶ月甘やかした身体はそれだけで息を上げた。あたりを見渡しても人の影はない。少し先の浜辺の終わり、堤防の向こうには建物の残骸がある。ある程度状態のいい(天井は吹き抜けになっていたが)一軒に忍び込み、砂まみれになっていた畳敷きの部屋で横になる。妙な寝苦しさで濡れている服を思い出した、少し場所を変えて、私服に戻した。

 明日になれば脱走兵が出たと泊地は大騒ぎになるのだろうか。前代未聞だろうな。艦娘の脱走だ、きっと付近の基地にも捜索願が出されるに違いない。残りの燃料でどこまで行けるだろうか。東北まで行く余裕はないから、やはり露呈する前にどこかで油をもらわなくてはいけない。早起きして、すぐそこの犬吠埼基地にもらいに行くしかない、密令だとか言っておけば多分大丈夫だ。あとは行けるとこまで海路、折を見て陸路に切り替え。銚子だからきっと釣竿ぐらいあるはずで、お一つ拝借して、肩に担いで太公望。軍の外だって楽しめそうだ。傾いだ月は見えず、薄く膜を張った雲の隙間から見える見事なオリオン座を眺めているとすぐに眠くなってきた。今日は疲れた。明日からは、新しい生き方が始まるのだ。富津泊地所属の卯月は寝てしまえば終わり。目が覚めれば……、どうしようか。はぐれ艦娘じゃあ悲しすぎる。

 まあいいや、呼び方なんて自分で決めるもんじゃない。

 星の明かりすら眩しくなった、こういう時は、まぶたを閉じて暗闇に逃げ込むべし。

 

「密令だって?」

 翌朝、時計すらもなく、とりあえず日が昇ったらすぐ海に出て犬吠埼詰所に向かい、ちょうど哨戒から戻ってドックで作業していた艦娘の一人に声をかけた。

「そうだっぴょん、大湊まで行かなきゃいけないから、燃料を分けて欲しいっぴょん」

「待て待て、お前はどこの卯月さん?」

「それもいえないっぴょん。そういう命令っぴょん」

 片目に眼帯をかけた艦娘は鼻から息を吐いて頭をかいた。所属も言えないという怪しい乞食だ、司令官にお目通ししてもいいか悩んでいるのだろう。他の何人かも遠巻きにこちらを見ている。正直少し居心地が悪いが、嘘をつくときは堂々としているのが一番だ。決して平常心を崩してはならない。

「まあ、大丈夫じゃない。艦娘が敵に寝返ったなんて話聞いたことないもの」着物に袴を履いた、全体的に赤い娘が答えた。見たことはないが確か神風だったと思う。「そういう問題じゃあねえだろ。一応ここだって軍なんだからさあ」こっちは天龍。過去に横須賀に在籍はしていたらしいが会ったことはない。もちろん、今目の前にいる天龍とは別人だ。

「固苦しく考えすぎなのよ、天龍は。ここは日本海じゃないの。神経質になりすぎると頭までおかしくなっちゃうわよ」

 片腕を直角に曲げて、ぱっと見お腹をずっと抑えているように見える神風が眉根を寄せて笑った。艤装を解いても荷物を片付けていても曲がった手を伸ばさない。ずっと片手で作業している。神風だけでない、目の前で困ったふうに腕を組む天龍も、右手首から先がない。視界に入る他の艦娘もどこかしら動きがおかしかったり、見てわかる形で体が欠損していた。

「わかったわかった、んじゃ司令室行こうか。案内する、ついてこい」

「出撃日誌は書いとくね。報告はついでによろしく」

 神風から投げられた言葉に明朗な返事をして天龍は艤装をしまった。手首から先はカーディガンにすっぽり隠れて見えなくなり、目を吸い寄せられることもなくなる。

 途中すれ違う艦娘も、遠目に見える艦娘も、どこもかしこも戦闘に行ったまま入渠していないんじゃないかと思うような人ばかりだった。顔に及ぶ大きな火傷があったり、びっこを引いて歩いていたり、肩口から先がなかったり。けれど体の欠損に暗い顔をしているのは認められず、目はしっかりと前を向き、話していれば笑っている娘ばかり。犬吠埼は傷病兵が集められたところだというのは聞いていたが、まさしくその通り、どこかしらに傷を負ったものしかいなかった。あんまりじっと見ているのも悪い、わかっていても目線がいってしまう。もちろんすれ違う艦娘たちもこちらの目線に気づいてしまうのだが、欠損部位を隠す娘はほとんどいなかった。恥ずかしそうに笑ったり、誇らしげに見せつけるようにしてくる。中にはおどおど挙動不審になってしまう娘もいて、そういったときには慌てて目をそらした。

 意識が放散していて立ち止まった天龍に気づかず、彼女の背中にしたたかにぶつかった。

「うがっ。おい、ちゃんと前見て歩け」

「ご、ごめんないさい」硬い体だった。鼻を押さえて視線を上げると訝しげにこちらを見下げた天龍の頭の上には『艦娘隊司令室』の文字があった。

 左手でドアをノックした天龍は扉の中に声をかける。

「犬吠埼四水戦旗艦天龍、入室します」

『はーい、お疲れさま。どうぞ』

 部屋の中に入っていった天龍の後どうしていいかわからずに右往左往していると、手だけが伸びてきて、入室するよう促された。それなりにカッチリした基地のようだ、もちろん、そういった場所は苦手である。

 部屋の中は殺風景だった。くすんだ木材の上にはとりあえずといった形で安そうな絨毯がひかれて、壁には本がぎっしり。見ているだけで頭が痛くなる。真ん中には大きな海図が置いてあり、小さな駒が散らばっていた。正面には、これまた簡素な机があって、窓の外には海が延々と広がっていて、景色は良好。まさしく、艦隊司令室と呼べる、格式ある部屋。

「こら、お客さまがいるときはちゃんと教えてください。卯月さん? どうしたのかしら、異動のお話は聞いておりませんけど」

 逆光の中、湯のみを傾けていたのは香取。艦娘が司令官をしているというのは本当だったのか、驚いた。

「密令で動いているっぴょん。貴基地にて補給をさせていただきたいっぴょん」

 みたところ香取はどこも怪我をしていない。歩いてもびっこをひかない。火傷もない。

 高慢に依頼を出されて一瞬眉根を寄せたが、何か一人で合点がいったらしく「ああ、はいはい」笑顔で歩み寄ってきた。

「横須賀の卯月さんね」

 体が飛び跳ねてしまうのを抑えるのが精一杯だった。なぜバレたのだ、どこかに自分の知らないマークでもついているんじゃないかと冷や汗が出たが、待てよ、冷静になる。自分はもう富津に移動して三ヶ月になる。それを「横須賀の卯月」と言ったのだ、異動したことを知らないなら、多少のハッタリをかます余地はある。

 どうせもう開き直っているのだ、たといバレても逃げればいい、足の速さには自信がある。

「違うっぴょん。どこに所属しているかいうなと厳命されているから教えられないよお」困ったような、泣きそうな顔を作るのがミソ。命令に従って動くだけの一艦娘を全力で演じる。

 じっと見つめられていたが、眉間に指を当てて「あらら外れちゃった」と崩れ落ちる演技をおちゃらけて見せた香取を見てハッタリが通ったことを確信する。やはりこういう時は堂々とするに限る。

「また森友さんが何かやっていると思ったんだけど……、私も勘が鈍ったものね。えっと、補給でしたか。もちろん許可します。わたしがサインしなくちゃいけない書類とか、あるかしら」

 そんなものはない。高尚な理由なくかっぱらっていくだけなのだから。

「何にもありまっせん」

「了解しました。じゃあ天龍、燃料と弾薬、卯月さんに渡してあげてください。数はちゃんと記録しておいてね。それから私は今日の午後に東京に戻ります。入れ替わりで鹿島と学生さんが来るから、哨戒の報告もそっちにお願い」

「了解っ」

「では退室してよし。卯月さん、ご苦労様です。お気をつけて」

 柔らかな笑顔に見送られて外に出ると足の力が抜けそうになって身体が傾いだ。数分しか顔を合わせていないのになんでこんなに疲れなくてはいけないのか。簡単だ、香取は絶対に怖い人だ。言い表せない圧力がある。

「すげえなあお前、香取相手にぴょんぴょん言えるなんて。怒るとマジでおっかねえんだぞ」

 自分の顔がよっぽどげっそりしていたのだろう、言葉を出さずとも疲労を理解した天龍が笑った。「だよなあ」元来た道を戻る彼女の後ろをまた歩く。できたての割には艦娘の数は多く、ひっきりなしに誰かとすれ違う。

 先をずんずん歩く彼女についていくには小走りにならなければいけない。いい加減疲れたので、雑談がてら、気になっていたことを聞いた。

「ここには入渠するところって、ないぴょん?」

 気だるげな声で返事をして、眼帯をしていない方で振り返った。息が少し上がっている自分を見て速度を緩めてくれる。「なんだ、どっか怪我でもしてんのか」脊髄反射だったのだろう、そう言ってから「こっちの方か」と右手を持ち上げた。私服に変わってからは見えなかったが、布の可愛らしい袋で傷口が覆われていた。手のひらのない腕を振って彼女は答える。

「治んねーんだ、これ」

「治らないって……」

「治んねーもんは治んねえ。けど入渠場はあるぞ。まあ、ここにいる奴らはそれでも治らねえカタワばっかだけどな。はは、心配しなくたって戦闘で受けた傷は治る」

 そんな顔をしていただろうか。

 顔をペタペタ触って確認する様を笑われた。こちとら心配しているというのに失礼なやつだ、自由に体を動かせないことで、いざという時望んだ動きができないというのは、戦闘で致命的だと思うから。

 傷病兵の集まる犬吠埼詰所。掃き溜めというには基地の雰囲気が良い。誰も彼も暗い顔一つしていない、普通の基地だった。

「聞きたいか」

 おずおずボサボサの髪の毛の隙間から彼女を見た。やはり影一つささない、さっぱりとした顔で天龍が、口角を上げていた。

 傷の理由。主語がなくても焦点にはいきあたる。

 頷いた。

「くっく。気にならねえはずがねえもんな、正直でいい。とは言っても簡単な話だ、俺ぁ能登半島の基地にいたんだけど、ある日作戦をしくじって手が吹っ飛んだ。一緒に戦っていた龍田と一緒に」

 能登半島。

 日本海に突き出した佐渡島のすぐ脇。今一番激戦区と言われているあたりの艦娘。前線中の前線から、しかも姉妹艦を失っただと。今にも口笛を吹きそうな雰囲気でとんでもない話をする。段々になっている短い階段を下りながら「簡単な話だろ?」と笑う彼女の大きさが変わった。もともと自分は身長が小さいが、それ以上の、巨人を見ている錯覚に陥る。

 けれど傷が治らない理由。ショックを受けたから? よほどひどい傷口だったから? 精神的なもので傷が治らないという話は聞いたことがあるが、艦娘の、あの妖精特性の治癒液にも適応されることなのだろうか。段々と気温が下がっている、出撃ドックに直通するこの廊下は風が強く、前髪がめくれ上がって、それから賑やかな声が風に乗ってここまで聞こえてきた。

「龍田ってあなたの姉妹艦でしょ。なんでそんな、悲しくないの?」

 ふつふつと怒りが湧いてきた。自分の仲間がもし沈んでしまったとしたら、きっとひどく悲しむ。口に出すのすら嗚咽と一緒に、そして海に出るのが怖くなり、逃げ出すか、引きこもってしまうか。どちらにせよ癒えることのないトラウマになるはず。少なくとも、こんなに飄々と人に話さない。

 しかし自分が口を出すことではなかった。すぐに今の発言は間違いだったと謝罪する。

「あ、と、ご、ごめんなさい」何かを言われる前に回り込んで頭を下げた。天龍は足を止めて「気にしてない」頭を左手で雑に撫でる。また歩き出した天龍の、少し後ろをついていく。

「悲しんださ。そりゃあもう、悲しくて悲しくて大暴れした。あそこの提督は物腰こそ柔らかいがおっかない人だった、そんなのおかまいなしに司令室で『何であんな作戦を発令しやがった』って胸ぐら掴んで引きずり回したよ、俺らの力で」

 艦娘の力のことを言っている。それは何というか、生きていたのだろうか、そこの司令官。

「凄かったぞお、艤装を展開した山城すらぶん投げてたらしいからなあ、俺。もちろん提督も血まみれだ、あと少し落ち着くのが遅かったら死んでたんじゃねえかな。そしたら晴れて解体処分だったんだが」へらへら笑いながら話をしているが冗談ではない。軽巡が装備を展開した戦艦を力でどうこうしたというのもありえないが、上官を血まみれにしといて、のうのうとまた軍に居ることが異常だ。「とどめだったなあ、ありゃ。とどめ刺すつもりで、最後の一発を叩き込もうとした。この潰れた右手で、提督の顔をぶっ潰してやろうと思ってた」ぶん、右手を思い切り叩き込むジェスチャーをした。生身の人間相手にそんなことをすれば確かに。ひとたまりもないはずだ。

「それで、どうしたっぴょん。大和あたりに取り押さえられたとか」

 先を促す。

 ドックにつながる最後の階段に差し掛かって、階段の途中の、踊り場の横に備え付けられた扉の中に入っていく天龍の後についていく。濃い油の香り、重油の保管庫だった。言われるままに艤装を展開してホースを突っ込まれ、機械が動く低いうなり声が空間に響いた。頭がぼうっとしてくる。だんだん重くなる体が、艦娘として燃料を食っているというのを感じさせる。ふらっといなくなった天龍が戻ってきた時、彼女もまた艤装を展開していて、頭の上の機械が近未来的な発光をしていた。薄暗い室内がぼんやりと明るくなる。

「弾はなんだ。一応、十センチと二十五ミリ持ってきたが」

「機銃弾だけでいいっぴょん。ありがと」

 もともと、補充というよりは予備の弾が欲しかっただけだ。いや、弾も本当はいらない。燃料だけあれば、いざとなれば陸に逃げ込めばいい。自分は、もう艦娘をやめてしまうのだから。

 目の前に置かれた弾をひと撫ですると、まるで初めからそこに何もなかったかのように消えた。これで自分の体のどこかにある弾薬庫に補充される。あとは各装備に宿った妖精たちが勝手に分配して、戦闘の時に消費されていく。一体、自分はどんな生き物なのだろうと不安に思うことはない。このように生まれてきたのだから疑問を持つことが間違いだ。

 そんなことより話の続きが聞きたい。まだ半分ほどしか燃料が入っていないから時間はある。

 扉の向こうをかしましく通り過ぎる艦娘がいた。多分、神風だ。

「提督に言われたんだ」

 空になった弾薬箱を雑に片付けて彼女は艤装をしまった。それから端っこに備えられた机の上のノートに何かを書き込んだ。

「『天龍、あなたのなくなった右手は、最後に何を掴んでいたのですか』。笑顔でな。血まみれの笑顔ってすげえぞ、ちょっとした化け物に見えるんだ。つうかお前、ずいぶん燃料食うじゃねえか。どっから来たんだ?」

 どっからって、距離的にはすぐそこだ。富津じゃまったく補給を受けていなかったから(出撃がなかったし)数ヶ月ぶりで、確か黒潮たちが最後に遊ぼうと言って、横須賀の前の海で陣取りゲームか何かをしてそのまま。もちろん、余計なことは口に出さず、「ちょっと遠くの方だぴょん」とだけ答えた。

 最後に掴んだもの。

「何て答えたの」

「龍田の手」

 しばらくの沈黙の後、機械がおとなしくなった。満タンになった背中の艤装が重くて身体がかしぐ。ホースが抜かれたのを確認して艤装をしまう。

「龍田の手だ、俺の右手が最後に掴んだものは。お互いもうほとんど動けなくなって、けれど向こうに撃たれた雷跡がまっすぐ龍田に向かっているのに気づいて、あいつから差し出された手を握った瞬間にドカン」

 天龍は後片付けをして、タンクのメーターを確認して、またノートに何かを書き込んだ。もう用は済んだが、自分の足は動かない。

「最期に龍田が手を差し出したかはワケは知らねえが、ま、助けを求めたのか、こっちに来るなと言っていたのか。とにかくそういったら提督が、血まみれのまま幸せそうに笑うんだ。『龍田はあなたと一緒にいけたんですね。よかった』って。ふざけんじゃねえってな。その頃にゃ基地中の艦娘が司令室に集まってた。そりゃあそうだが」一通り仕事が終わって天龍は机に腰掛けた。ようやくゆっくり話に集中できるという、腰を据えた体制に、こちらも彼女の目をきちんと見た。何度見ても辛そうな記憶を引っ張り出しているようには見えない。

「だが恥ずかしい話」困ったように笑う顔はとても可愛らしかった。自分よりも年上な風体をしているのに、庇護欲をそそられる笑顔だった。「提督の言葉のおかげで俺は上官殺しにならずに済んだんだ。そう言われて、決してはっきり思い出せなかった龍田の顔が見えた。あいつは、あくまで俺の想像の中でだと思うけれど、俺の手を握った時にな」深呼吸を挟んだ。何度も何度も取りだしてすりきれた思い出をもう一度取り出したような、そんな言い方。

「笑ってたんだよ」

 人の頭を撫でてあげたいと思ったのは初めて。抱きしめてあげたいというのも初めて。でも体は動かせなかった。見飽きるほど眺めた思い出を大事そうに見つめる天龍はひどく儚く見えて、まったく消え入りそうにない。それどころか絶対的な存在感を放ち、自分にとって巨人に見えるわけがわかった。

 彼女は二人存在しているのだ。死人である龍田を背負っているとか陳腐なものではない。前に歩き出した天龍と、立ち止まったままの天龍と、くっきり別れた二人の天龍を内包している。龍田と一緒にいた天龍を、色あせさせることなく、あの時の存在をしっかり生かしている。理解した時、彼女は巨人ではなくなった。異質なものではなく地続きの、他の艦娘と同じ存在に収縮した。途端に自分がみずぼらしく感じた。

「不便だよ、片手がねえってのは。だけど俺の右手は龍田と一緒にあるんだ。あいつが寂しくねえように、俺の体が海の底に逝くまで、しばらく貸しといてやんなきゃ。だから治らねえ。俺の右手は治らねえんだ」

 誇らしげに、布に覆われた右腕を掲げた。薄暗い明かりの中で宝物でも掲げているみたいな荘厳さを見出している。

「……神風も?」

「そうだよ、あのひん曲がった腕だろ。筋肉まで焼けただれて変なくっつき方しちまってるから伸びねえんだと。舞鶴だったかな、姉妹艦じゃねえが、まあ仲の良かった同じ部隊のやつの死に際を看取ったっつってた。燃え盛る艦娘を抱き続けたんだろうな、あの形は」

「なんで……」

「人のことをべらべら話すのは俺も好きじゃない。だからこの辺にしとく、けど本人に聞いてもいいんじゃねえかな。ここはカタワのやつばっかで、どいつもこいつもシャレにならない傷つき方してるが誰も後ろを向かねえ。誰かに話したくて仕方ないんだ、魂の形が変わるほど大事なやつがいたことを誇りに思っているから」

 机の上に乗せていた尻を持ち上げて「わり、長話しちまった。驚かせるからあまり話すなって言われてんだけどな」と、また恥ずかしそうに笑った。彼女に対して首を振る、子供っぽいことしかできない。

 また彼女の後についてドックに向かった。来るときには気づかなかったが、階段の片側にレールが付いていて、下に簡単な椅子があった。電動ではない、それに一人でも動かせない。誰かが上に乗り、誰かが引っ張ったり押したりするアナログなものだ。動けないほどではないが、足が不自由な艦娘がいるのだ、いろいろな助け合いの形が設備として、よく見ればそこらじゅうにある。きっと目に見えないところでも様々なことが行われているのだろう。はたから見れば異質な基地である。でも、普通の基地だった。

 艤装を展開して海に浮かび、機関を動かす轟音の中で、天龍は見送りをしてくれた。嘘つきの脱走兵に向けたものではない顔で、「また来いよ」と気持ち良く送り出され、進路を北にとった。

 惚けていた。何も考えられずに、崩れた漁師町を左手に見ながら進んでいた。凪いでいるのに足元がふわふわして、果たして今進んでいるのか止まっているのかわからず、思い出したように顔をくすぐる髪の毛で、ようやっと前進していることに気づく。今攻撃を受けて沈んでも、きっと何かを思うことなく沈んでいくだろう。だまくらかして燃料を盗った自分が急に情けなくて、恥ずかしくて、頭をかきむしった。犬吠埼の基地からかなり進んだことを確認して、周りに誰もいないことも確認して、思い切り叫んだ。何度も叫んだ。喉が痛くなっても、むせ込んでも、顔を真っ赤にして叫んだ。まっすぐ進めず、航跡が醜く歪んでいるのがわかる。一通り叫んでガサガサになった喉を、出がけにもらった水筒で潤した。暖かいお茶が食道から胃袋に落ちていくのが、溶けた鉛が固まっていくみたいにはっきりとわかる。涙を流すことなんておこがましい。体の中に溜まった悪いものを全部出すまで叫び続けたい。頭を撃ち抜きたいほどに汚らわしい自分が憎くて憎くて仕方なくて、きれいなもの、あんなにきれいなものを見せられてしまったら、今度こそ自分という存在の価値がなくなってしまったように感じて、どうすればいいかわからずに、とにかく叫んで安定しようとした。

 魂の形が変わるほど大切なものだと? 自分は何だ。勝手に他人と壁を作って、ひたすらわがままして、好意を蹴っ飛ばし、挙句自分のために起こったケンカが嫌になって逃げ出してきた。何だ、何なんだ自分は! 笑顔を向けて送り出してくれた天龍が、そんな価値自分にないのに! 何一つ本当のことなんか言ってないのに、嘘を信じ切って、どこの誰かもわからないやつにあんな話までして。きれいすぎて吐き気がする。腹が痙攣して、卯月という存在を吐き出そうとする。辛かっただろうに、そんな、魂に影響するほど悲しい出来事だっただろうに、あんなに笑顔で話せるなんて、妬ましい、妬ましい! 自分はああはなれない、たとい傷病兵になったとしても、あそこの仲間にはなれない。恐ろしい。恐ろしい場所だ。二度とあそこには足を踏み入れられない。二度と天龍と会うことはない、会えない。こんな汚らわしくいやらしい卯月は会う資格なんてない。

 頭がクラついて速度を落とし、空を見上げた。雲の厚い、灰色の曇天。

 

 卯月と天龍が司令室を出て行った後、香取は無線機の前に立っていた。

「これから出て行く卯月さんに一機、偵察機をつけてくださいますか。……ええ、はい、ごめんなさい、お休みのところ。……わかりました、お土産に何かおいしいもの仕入れてきますから」ため息を吐いて、今度は電話機に手を伸ばす。呼び出し音二つ、素早く連絡が通じたことに、相変わらず几帳面にやっているだろう森友の懐かしい顔が思い浮かんだ。

「あら、そうなんですか。じゃあそっちに連絡を取ってみます」

 受話器を置くことなく、手で回線を一度きり、もう一度ダイヤルする。ツ、ツ、ツ、ツ、と単調な呼び出し音。1分ほど待たされた後、秘書艦だろう艦娘が出たので、柔らかく声を作る。

「犬吠埼詰所司令官の香取と申します。清水クンいるかしら」

 さらに待たされそうだったのでお茶を一口すすった。電話口の向こうから察せられる雰囲気は、朝だというのにものすごくバタバタしている。渋すぎるほど濃く入れた茶が気持ちを引き締めてくれる。まったく、教え子から巣立ったというのに、まだお小言が必要とは。思わず指示棒を握る手に力が入る。

 息をあげて電話口に立った彼の声を聞いてつい口角が上がってしまった。

 

 夕方になる前には曇天の空が雨を降らせ、視界が不明瞭になったために陸に上がらざるを得なくなった。

 またしても廃墟の一軒に忍び込み、艤装だけしまって、濡れたままの戦闘服で火をおこそうと躍起になった。寒かった、体が冷えていた。戦闘服を着ている状態ならば体は艦娘の頑丈さを出す。乾いた私服を展開させた方が暖かいことはわかっているが、ダイレクトに気温や風にさらされて心が折れた。人と同じ性能になると子供となんら変わらないのだ、歯の根が合わず、手先は震え、そんな状態で乾いた廃材を集めに雨の降りしきる外を歩き回ることはできなかった。

 選んだのは艦の記憶からすれば当時に近い、玄関口が土間になっている平屋の一軒。集めた木材を適当に積み上げ、物置に積んであった新聞紙とマッチを使って着火する。たちまち新聞は燃えあがり、木に燃え移るまでエネルギーを補給し続けた。換気など考えておらず家の中が煙っぽくなる。二束目の新聞紙を投げ入れたあたりで倍の量の煙がもくもくと立ち上り、ようやく熱が通り始めた。薄いものとゲバ棒に使えそうな角材を艦娘の力を使ってへし折り、適当に投げ入れていく。気付けば家の中全体が真っ白くなったので奥につながる引き戸を閉めた。立て付けの悪いすりガラスがはめられた戸板の脇の柱には、自分の身長と同じぐらいの位置に何本も傷跡があった。見上げても幾つか跡があり、一番高い所は、まっすぐ手を上げてようやく届きそうな位置にある。上に行くにつれ傷の間隔は広くなっていて、ははあなるほど、女の子のものじゃないな、男の子のだ。確信した。なんとなしに自分も、いつかここに男の子が立っていたように立ち、近くにあった金属片で頭の上で傷をつけた。もともと付いていた傷の、ちょうど真ん中あたり。一番上のは何才ぐらいのものなのだろうか、どちらにせよ、身長の高い子なんだな。

 温まってきた玄関口、そろそろいいだろうと戦闘服を脱いで真っ裸になり、すぐに私服を展開させる。誰もいない海上とは違う、ここは、人の営みがあった場所なのだ。さすがに恥じらいを感じる。脱いだ服が重ならないように小上がりに並べた。濡れた服のしゃくしゃくした音と湿った木が爆ぜる音が、しんとした家の中に、生活音として響いた。喉が痛くなるほど煙が充満してきてこれはたまらんと玄関を少し開けると、外はどしゃ降り。しとしと降っていた先ほどとはまた違う叩きつけるような雨。これではしばらく動けない。せめて夜までに福島には着きたかったが仕方ないだろう。雨と夜のコンボで動くなんて自殺行為だ。

 今回はきちんと家を選んだので屋根もきちんと付いている。雨漏りはないだろうか確認するために電気が通っていない、うす暗くなり始めた家の中を歩き回った。古い家だがしっかりしているようで、ほこりや砂がたまっていることに目を瞑れば、すぐにでも住めそうなぐらい綺麗な家だった。雨漏りもなく床もほとんどきしまない。畳も腐っていないし、昨夜に比べれば段違いの快適さがある。

 押入れを漁ってハの字に広がった土間箒を探し出し、畳に積もった砂をはきだして、台所で水道をひねるとまだ水が出る。かけっぱなしになってカチカチに固まった雑巾を濡らし、畳と、真ん中に鎮座するやたら重厚なテーブルを拭くと、使い物にならなくなるぐらい真っ黒に汚れてしまった。だが畳は黄土色の輝きを取り戻した。一仕事終えた達成感で寝転がるとほぼ二日、何も補給を受けていない胃袋が抗議した。それは困る、食べ物など持ってきていないのだから。犬吠埼にもらった水筒も、叫んで乾ききった喉を潤すために、昼すぎに空にした。しかし腹が減るのは仕方ない、寝転がったばかりの体を起こし、火事場泥棒さながら台所を漁る。が、見つけたのはしなびた常備菜だけ。乾麺も缶詰もカップ麺もない。小さいジャングルみたいなジャガイモはいくら腹が減っていても食べる気にはならない。仕方ないので、鉄の味が濃い水道水をがぶ飲みして、今度はこれでお納め下さいと、胃袋に媚びへつらった。刻一刻と暗さは増し、手元すらも危うい。暗闇にじわじわと飲み込間れるあの感覚が、特に人の営みがあった場所だと海の数倍の恐怖がある。また玄関口に行く。灼熱した火の明かりがあった。開けっ放しにした扉の向こうの雨の音がうるさくて寂しさが和らいだ。ねっころがる。素足をぶらぶらさせて、指先が少し冷たいと思えば火にあてて、足の裏が遠赤外線でじわじわ温められる、こそばゆい感覚。誰もいない家は静かだ。

 それからじいっと天井を見つめていた。頭に渦巻くのは今朝の犬吠埼の一件、ずうっと、天龍の言葉が反響している。「魂の形が変わるほど大事なやつがいた」。空きっ腹に米を大量に入れた気分だ、頭が重くなって、胸の奥で虫が這いずり回っている。艦娘とは人の魂に艦の記憶を練り込んだもの、そんなことがまことしやかな噂になっていることは知っている。実際のところ、事実を知ることはきっとないのだが、思考することができる以上、答えを求めたがるのが性だ。魂は形を作り、記憶は存在を創り出す。魂の形が変わる、体を形作る設計図が損傷したと、彼女らはまさに、第三者によって魂に傷をつけた。ああそうだ、それならば、彼女たちが誇らしげに生きている理由になる。誇らしくないわけないじゃないか。じゃあ自分には? 自分の魂が傷つくほど大事な人がいるだろうか。自分のために魂を傷つけてくれる人がいるだろうか。意味のない設問だ。けれど頭から離れない。日は暮れ、焚き火の明かりだけが頼りになり、未だ外からは雨音が、先ほどよりも激しく聞こえていた。明日に続くのだけは勘弁してほしい、さすがに腹が減った。東北に入ったら陸に上がり、海岸線を一度離れて内陸に向かおう。子供の姿だ、ある程度甘く対応してもらえる気がする。食べ物の一日分ぐらい分けてもらえるかもしれない。ああ、雨が止んだらこの付近の家を探索して、釣竿の一本でも見つけておかなくては。昨日は寝ぼけていて忘れた、今日はしっかりと寝るぞ。そうやって現実的なことを考えて、深淵につながる考えを頭から掃き出した。

 手の届くところにある木材を火の中に放ると火の粉が大きく上がり、散らばった、赤熱している炭が熱源を広げる。折を見て干していた服をひっくり返す。まだ湿っている。いくら火で空間が温められていると言っても排煙のために玄関を開けているからまだらな寒さがあった。毛布の一枚でもないものかと、おっくうに体を起こして、火のついた木材を一本引っぱり出して、再度家探しをしてみる。儚げな灯り一つで家探しをしていると、外の世界なんてないような、とても窮屈な世界を生きている気になった。和室、和室、和室、ふすまを開けるたびに畳敷きの部屋が現れる。どれも客間のような作りをしていて、埃まみれでぺしゃんこの座布団こそあれど、目当てのものは見つからない。

 建物の広さから考えて最後の部屋、最奥の部屋のふすまに手をかけた。力を入れなければ開かなかった今までと違い、ロウでも塗られているかと思うほど滑らかに開いた。

 寝室。

 生活感にあふれた部屋。桐たんすはぴっちり口を閉じて、剥製や日本人形が入れられたガラスケースがほこりをかぶっている。ゆらめく灯りに照らされた彼氏彼女は非常に不気味だが、恐怖することは不思議となかった。柔らかく微笑みをたたえる人形達は、ケースの内側から、こちらに挨拶をしているようにも見えた。

 だから敷居をまたぐ前に不恰好にお辞儀をした。

 改めて部屋を見渡す。布団が入っていそうな押入れがあったのでひとまずは凍えずにすみそうだ。美味しいものは最後にいただく、この家から人がいなくなってどれほど経ったか知らないが、不思議に小綺麗なたんすを開けてみた。いいものだ、心地よい重さなのにすんなりと開く。防虫剤の強い香り。中には綺麗にたたまれた、どう贔屓目に見ても若者向けでない服があった。一枚引っ張り出してみると紺のスラックス。それからパリッとノリを効かせたシャツ。家の広さから想像は付いていたが、ここは良い家柄のようだ。別の段を開けると今度は婦人服。服というよりは着物。普段使いに適していそうな、派手でもなく地味でもない、誰かの後ろを歩く柄のメリンス生地。畳めないので広げることはしなかったが、毛布がもし使えなかった時のための予備として考えておく。一番下の段には、今度は時代を一気に上った、若者向けの服が入っていた。女物だった。短めのスカート、生地の薄いTシャツ、他にも服がぎゅうぎゅうに押し込まれていた。一人娘だろうか。自分の体に当ててみると少し大きいぐらい。一二枚、着替えに拝借していこうか悩んだが、そのままにしておいた。せっかく廃墟にならずきれいに残っているのだ。この家に人が戻ってくる時、娘の服だけがなくなっていたら、薄気味悪さを感じてしまうことだろう。自分にそのケはないし、知らない人でも、勘違いされるのは心地いいものではない。小さい引き出しにはこれもまたきれいに整頓されて、おんな物の細々としたアクセサリーが、娘の物と母の物と、きっちり仕切られて入れられていた。値の張りそうなものは持ち出したようだ。けれどどれも上品なもので、娘のものも、若者らしくないといえばそのようなものだった。あとは服用薬の入った引き出しと(よいのだろうか)、父のものか、紐タイが入っているだけだった。

 タンス一つで家の内情が見えてくることが楽しくなってしまい、押入れを開けた時もわくわくした気持ちでいた。中には布団一式が入っていて、奇跡的なことにほこりもたまっておらず、今すぐにでも使える。いっそここに住んでも良いぐらいである。布団は三組あった。反対側を開けると、こちらには衣装ケースや段ボールが、一分の隙間なく詰め込まれていた。人の家を漁る罪悪感はとっくに消え去っている。これは重労働だぞと一人ほくそ笑んで、手近な箱を片っ端から開けていくと、冬物の婦人服、冬物の紳士服、コート、暖房器具と、この家から人がいなくなったのが夏場だということがわかった。両手が使えないことに不便し、タンスの引き出しに木材をくわえさせて本格的に漁る。服、服、ストーブ、よく分からない機械、よく分からない鉢、絵。まさに物置。奥に行けば行くほど、もう二度と日の目をみることのないようなものが出てくる出てくる。娘の学生服もあった。名札には『小坂』とあった。別の箱から出てきたノートの名前に『小坂千綾』。アクセサリーはともかく、中身は若者らしい娘だったらしい。名前欄にはよく分からない記号が乱舞していて、内容は授業を真面目に聞いていたと言い難いもので笑ってしまった。ただひたすら、教師の授業に対する文句が垂れ流されているページもある。筆談した跡も残っている。小綺麗な女性の字、汚い男の筆跡。甘酸っぱい青い春を送っていたのだろう。筆談の書かれたページは何度も開かれたように、ノートにしっかりと跡がついてしまっていた。これらを眺めているだけで一晩越せそうだが、楽しみは最後にとってくのだ。だが、娘の荷物は、おそらく高校以降のものは一切なかった。あとは父の趣味だろう、古文学の色あせた本やレコードが今度こそほこりをかぶっていただけで、興味をそそるものはなかった。

 ノートを取り出しやすくするために箱の順番を変えて片付け、ひとまず古そうなものだけを持って、布団を引きずりながら玄関口に戻った。別格に暖かいこの空間の狭い小上がりに布団を敷いて、枕に頭を乗っけて、時間つぶしにノートを開く。少しカビ臭い布団が、自分の知らないノスタルジーを思い起こさせた。

 なんてことはない、黒板に白墨で書かれたことをそのまま写したような面白みのないことがずっと続く。余白に大量の落書きがあることを除けば。断片的な言葉だ、学生らしくない言葉遣いは、これが詩や歌の類であることを教えてくれる。この時代の流行曲など知っているわけもないが、とりわけ目を引くのは『部落』や『資本家』『祖国』の単語。こんなものが流行るわけがない、となると、文学少女だったのだろうか。それも自分の記憶にあるような古いもの。父の影響もあるかもしれない。

 そんな自分の内側を書き綴った余白は、ある時を境にガラリと印象を変える。

ーー『ダルい、帰らない?』『ふざけろ』『ケイは?』『数学好きなんだよ俺』『つまんない!』『無視すんな!』ーー『ホーボーコンサートの音源手に入った!』『朝比奈逸人の曲入ってるやつ? 今日行く』『俺ムリ、明日は』『明日はムリ。あさって』『あいよ』『雨と直ちゃんね。カナメおいで』『お前んとこの爺さん怖い』『お茶目だよ?』『行くには行く』ーー『あのハゲなんつってんの?』『さすが国語以外胎児頭脳』『カナメがいじめる』『つんぼさじき』『キサマら! 休み時間おぼえとけよ!』ーー『二十二日ヒマな人ー』『塾』『山掃除』『じゃー山内商店前集合、九時』『メクラかお前』『私は傷ついた、おごってくれなきゃ泣きわめく』『俺はチアヤの味方だ、泣かないでおくれ』『あんたは塾サボりよろしくね』『メクラかお前』

 何てことはない日常のほんの一幕。授業に飽き飽きした彼女が仲のいい男子を巻き込んでいる。千綾、カナメ、ケイの三人が、このノートに登場する全員だ。他にも似たような、益にならない日常が書き綴られていた。後半になればなるほど筆談の占めるスペースは大きくなり、最後数ページに至っては授業の内容など何一つ記録されておらず。

 二冊目、三冊目も同じような内容。知らない人の青春を覗き見る楽しさにすっかり魅せられてしまった。何度か押入れを往復して、ついにメモ帳にまでサイズダウンした筆談用ノートを見つけた時、胸の奥がくすぐったくなった。ピンク色の表紙には二つの日付が書かれていた。始まりと終わり。それから名前が三人分あり、きちんと順番に積み重なっていて、彼女がこの記録を大事に思っていたことが強く伝わった。お互いを罵りあって、巻き込んで、それぞれが自分以外の二人と絡まり合っていることを大切にしていた。人生は終わった青春を惰性で生きること、なんて誰かが言っていたが彼女らの青春はどうなのだろうか。もう終わってしまったか、まだ続いているのか。紙の端が黄ばんでいるからだいぶ前のものであることはわかる。それに海沿いに家があるのだから……。避難できたのだろうか。できただろう。できたに違いない。見たこともない他人を思うことができるような聖人ではない。が、彼女らの幸せを願わずにいられない。

 今でも三人一緒にいてくれたらいいな。

 時計を持っていないので今が何時だかわからない、けれど日が暮れてから、だいぶ長い時間が経っていた。枕元にはノートとメモ帳を散らかして、沸き立つ心で眠気が訪れないのだから仕方ない。散々ひっくり返した段ボールに入っているのもあと僅かでどうせなら全部読んでしまいたくて。

 読んでいたのは彼女たちが中学から高校までのもので、男二人に女一人という構図であっても、下品なことは一切書かれていない。かといって女をヨイショするわけでもなく、いたって健全な、友人の付き合いを六年も続けていた(千綾によるセクハラはかなりあったが興味ゆえの気がする。徹底的にボロクソ言われていたし)。その間、他の人物が出てくることは一回もない。この三人の世界だけがある。恋愛的な要素も何一つなく、本当に暇つぶし。対面した上では何か進展があったのかもしれないが、ここにはいない、まったく別の人とそれぞれがくっついても不思議ではない、妙ちくりんな関係。

 メモ帳が読み淡ってもノートの方にも何かまだ書いてあるかもしれないし、もしかすると他の箱にもっと面白いものが入っているかもしれない。

 次のメモ帳に手を伸ばしたところで音が聞こえた。

 瞬間、目が玄関に釘付けになる。それから家の、目に付くところをぐるりと見渡す。誰もいないし何もない。物音を立てないよう、獣になって警戒した。

 足音と声。今度ははっきりと聞こえた。

 急いで布団から飛び起きて(物音には細心の注意を払って)、少し逡巡したが、燃え盛る火に布団をかぶせた。布が焦げる甘い匂い、何度も足踏みをして焚き火を踏み消す。玄関を閉めて煙が外に逃げないようにする。

 冗談じゃない! 散らばったメモ帳やらノートを拾い集めて、寝室がある最奥の部屋に引っ込み、押入れの中に乱雑に詰め込んだ。こんな時間にこんな場所をうろつく奴らにロクなのはいないはずだ、犯罪者の類に違いない。いざとなれば艦娘の力を使って圧倒できるが、民間人に危害を加えたとあっては艦娘の立場がなくなる。そんなことをしてしまえば……深海棲艦と何ら変わらない! 

 干しっぱなしの服を思い出してそろりそろり、外に傾注しながら玄関に戻った。雨にかき消されかけた足音はまだ遠く、声は着実にこちらに近づいてきていた。二人、いや三人か。玄関の鍵を閉めて裏口を探した。が、人のいなくなった家の劣化は凄まじく、玄関に比べて貧相な作りの勝手口は枠が歪んでしまい、少し動かしただけで耳をつんざくような音を出した。全身の血の気が引いた。ドアノブを握ったままじっとしていると、この雨の中で耳聡く今の音を聞きつけた奴らの声が明らかに目標を持った。足音も、ここからハッキリ聞こえるぐらいに近づいた。バレることを前提で扉を蹴破り外に出ようか、いやしかし、じっとしていればやり過ごせるかもしれない。夜になってこの辺をうろつく浮浪者が動き始めたのかもしれない、そうなったら外に出ることの方が危険だ、どこで鉢合わせするかわからない。時間が引き延ばされている。雨の音が大きくなる。全神経を研ぎ澄ませて、知覚できる範囲を広げる。

 声が聞こえた。

『卯月っ卯月っ! どこ! いるんでしょ!』

『家の中探さなきゃダメだって、あんま先行かないでよっ』

 顔が引きつった。

 そして恐怖した。なぜだ、なんで。

 なんで涼風たちの声が聞こえるんだ!

 まだ泊地を出て二日ほどしか経っていないのに、こんな北茨城の、哨戒コースからも索敵コースからも外れた場所に涼風が、居場所がバレたんだ。ついこないだなのに、こんなに早く追いつくなんて、後を尾けられていたとしか……。

 考え至ったのは、犬吠埼。

 香取、騙しきれてなかったのか。間違いない、騙されたのはこちらだったのだ。平然と燃料弾薬を補給させておきながら、潜水艦か艦載機か、見張りも怠った自分にずっと尾かせてきたにちがいない。そうすれば朝のうちに近隣の基地に連絡を入れて、すぐに富津に行き当たり、あとは定期的に位置情報さえ送ればいい。天気も鑑みれば、おおよそどこに宿を取るか、いや、自分が陸に上がったのは雨の降り始めだ、ピンポイントで場所を送ったに決まってる。全速力でここに向かえば、なるほど、なるほど。

 すべてのつじつまが合う。

 どれだけ家出の才能がないんだ、自分。

『この区画! 木の折り口んトコが新しいよっ』

『コラァ、卯月ぃ! はよ出てこんと主砲ぶっ放すっ』

 慌てて家の中で隠れ場所を探していると懐かしい怒号に体が止まった。

 浦風。

 浦風も来ているの。

『待って待って、家壊すのはダメだってぇ、それにここ陸だからっ』

『しるかぁ!』

 直後、どこか近くで、腹の底に響く砲音と、かろうじて形を保っていたはずの家がガレキになる音が聞こえた。遅れてもう一つ、何かが転がる音。浦風はなんだ、私を殺したいとでもいうのか! 

『ああもうほら、言わんこっちゃない! 大丈夫かい、生きてる?』

『うちのことはええから、はよあのバカ探してっ』

 久々に浦風が自分のために動いてくれた感慨など、たった今崩された家とともに消え去った。顔を合わせたら命の危険すら感じる。もう外には出れない。出た瞬間に砲撃されるかもしれない、下手な暴漢よりもよっぽど恐ろしい浦風の雷が落ちる。

 とにかくどこか隠れる場所を、と至ったのは、寝室の押入れ。箱が閉まっている側は既にスペースがないが、布団を一組引っ張り出したので、そちらには人一人入る余裕がある。今ほど体が小さいことに感謝したことはない。カビの匂いのする布団に頭を突っ込んで、後ろ足でふすまを閉める直前、この家の玄関がけたたましい音を立てた。

『ここ! 鍵閉まってる!』

『だから先行かないでって山風っ。家の人が閉めてっただけかもしれないから、どっか入れる場所を』

 けたたましい音を立てた玄関は激しい断末魔をあげた。すりガラスが割れる音、サッシがひしゃげる音。

 急いでふすまを閉めた。全身をすっぽり布団に隠れるように体制を変えて、なるべく平べったくなるようにうつ伏せになる。息を潜めて自分はもうこの家にいないと見せかけることに全力を尽くす。

『……これ、まだあつい。卯月、いるんでしょ、卯月ぃ!』

 振動が体に伝わるほど近くにいる。

 自分がやったことがかわいいと思えるほどの、本当の家探し。聞こえてくる音は、ふすまがふっとびそうな勢いで開かれるものや、床を踏み抜かんばかりの足音。せめて艤装はしまっていてくれ、床が抜けてしまう。

 やめて欲しかった。合わせる顔なんて持ってない。

 自分のような輪を乱す厄介者なんかに、そんなに一生懸命にならないでほしい。いない方がうまく回るに決まっている。涼風も浦風も、山風と海に出てこれたじゃん。第四駆はいっそ解散して、どこかに編入された方が絶対にうまくいくじゃん。

 このまま見つからずに、自分は一人で生きていった方が、みんなに迷惑かけないで済むから。お願いだから、このまま帰って。

 ついに隣の部屋に、それから、この部屋に端を踏み入れられる。

 わかってる、世の中、そんなにうまくいくはずがないってことぐらい。ふすまがスタンッと勢いよく開いて、すぐそこで息を切らせる山風の気配。

「……よかった、よかったぁ、卯月ぃ」

 柔らかいものが床に落ちる音と振動。鼻をすする音、嗚咽。

 間。

 息を切らせた呼吸と、山風の嗚咽だけがあった。とっくに隠れている意味など無くなっていたが、この布団を押しのけることはしない。顔を合わせたくないのだ。遠くの部屋をまわっていた足音がゆっくりとこちらに向かってきて、山風の後ろあたりで止まった。立ったままなのか、定期的にたつんたつんと水滴が垂れる音がする。

「卯月」

 三人の荒い息遣い。意地になっているのは重々承知だが、頑なに、身じろぎひとつ取らずにいた。しゃくしゃくした衣摺れの音がして、「山風、ちょいとすまん」目の前の人物が変わった。どすんと重いものが床に座り込んだ。布団が剥ぎ取られる気がして、体に巻き付けるようにして抵抗の意思を見せる。が、浦風はこちらの爪が剥がさんばかりの力でひっぱり、虚しく自分と彼女らを隔てる最後の防壁が崩された。

「卯月、帰ろ」

 体を丸めて顔は髪の毛で隠す。話を聞かない。自分でも駄々をこねた子供のようで、恥ずかしくて、悔しい。けれどどうしていいかわからなくて、腹立ち紛れに主砲をぷっぱなしたとは思えないほど優しい浦風の声を無視する。狭い押入れの中に、富津から全力で飛ばしてきたであろう彼女たちの汗の匂いが、雨で濡れた布の匂いと混じって充満した。

 お尻を誰かが揺する。「卯月、ごめんね。ね、帰ろ?」山風が懇願するように言った。

 吐きそうだ。犬吠埼の一件でかき乱された心がまた大時化になる。山風の謝罪がガリガリと頭を削った。そんな愛情を向けられる資格なんてない、このまま忘れ去ってくれればよかったのに。山風となんて会話したことないし、ここまで一生懸命になられる筋合いなんてない。涼風だってそうだ、同じ駆逐隊で散々迷惑をかけてきた。海が本分の艦娘がずっと陸にいるストレスは自分も感じていた。特に、姉妹艦が海に出ていた劣等感を鑑みれば、もっと辛かったにちがいない。責めてくれればいいのに、じっと事の成り行きを見守るように、一言も発せず立っていた。

 おとといのケンカだって、笑われたのは辛かったが、よく考えてみればなんてことない。冷静になって考えてみれば、本当になんでもないのだ。彼女の性格を知っていれば。竹を切ったような性格といえば話が早い、自分と同じ駆逐隊の艦娘が、あんなに改まって、しかも結婚でも申し込むのかと思うほど緊張していれば、笑い飛ばして「気にすんな」と気を回してくれたことぐらい理解できたはずだ。緊張をほぐして、富津の艦娘たちの橋渡し役になろうとしてくれていた。朝食を作った時に無理やり引っ張ったのもきっとそう。結果的に一瞬、卯月という波紋が富津の艦娘の間に広まったことは事実で、隣でナスの仕込みを手伝ってくれた木曽や、ポカした夕立、タオルを貸したお礼を言ってくれた秋月は、しっかりと自分を認識してくれたに違いない。

 ああ、そうか。人と仲良くなるというのはそういうことなんだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、一回だけじゃなくて、何回も卯月という波紋を浸透させていくことなんだ。

「ほら、帰ろ。卯月のお料理当番は明日だよ。あたいも手伝うから、みんなにおいしいもの食べさせて、あやまろうよ」

 きっと涼風は何度もチャンスをうかがっていたのかもしれない。自分と同じ部隊になったという特大の波を受けていたから。となれば姉妹艦の山風にも波が行っていて、あんなケンカに、自分のためにケンカになってしまうようなことになったのかもしれない。自分の都合のいいように考えることはいくらでもできる。

 だからこそ合わせる顔がない。

 申し訳が立たない。絶望的にバカな自分。何が人見知りだ、人と話せないだ。差し伸べられた手を払いのけるような、ただの薄情者じゃないか。今度こそ本当に自分が嫌になった。今差し伸べられている手を握るわけにはいかない。こんな汚らわしい女は、呆れられて唾でも吐かれた方が似合っている。

 じっとしていた。

 雨の音が強くなった。

「……ええ加減にせえっ」

 急に足をひかれて押入れから引っ張り出された。苦し紛れに握っていた最後の布団がだらしなく伸びて、それでも決して顔を上げなかった。声も上げなかった。

「こんだけ提督さんにもみんなにも迷惑かけて何様のつもりなん。今海にゃ、千歳と千代田が必死こいて付いてきてくれてるんよ。護衛に一水戦までつけて、距離あるから念のためにと対潜警戒に二水戦と三水戦まで出して、哨戒に古鷹さんら重巡戦隊を借り出しとる。おかげで基地はすっからかんじゃ。富津総出で卯月を迎えに来とるんに、あんたはまだワガママやんのかあ!」

 強引に体をひっくり返されて胸ぐらを掴まれて、それでも顔は腕で覆って隠した。

 見られたくない。絶対ひどい顔になっているから。

 やめて、本当に、そんな価値、うーちゃんには、ない。

 腹が痙攣して声が正しい音にならない、なんとか聞き取った浦風が一つ鼻息を漏らした。重みが消えて、代わりに頭の後ろに手が回されて座らされる。うつむいて髪の毛と手のひらで顔を隠す。

「無視してごめん。頑張っている人を無下にした卯月に腹が立った、それは事実。ごめんなさい」手は退けないから、浦風がどんな顔をしているのかわからない。「でもそっから先は、うちにくっついてばっかじゃダメだと思って、わざと卯月を無視した。本当にごめん。まさか家出するとは思わんかった……」

「あー、それはあたいらが原因。行きがけに話したっしょ、ちぃーっと口論になっちまって」涼風が言った。バツの悪そうに若干声を曇らせて。

「卯月、ごめん。バカにして笑ったんじゃないんだよ。ちょっとは楽になるかなと思ってさ、山風に怒られてわかったよ。頭悪くてごめんね」

 やめて。やめて。

 謝んないで。

「……あたしは謝らないから」

 山風の声は震えていた。大丈夫、謝られるほど、今の自分に効くことはない。もう、心はズタズタになっている。「でもさ」彼女の声は、声だけで、今までの数倍の力があった。

「何があっても、お願い、お願いだから、もう一人で出て行くことなんてしないで。そのためならあたし、なんでもするから。気に食わなければ、ぶたれてもひっぱたかれてもいいから。だからお願い、もう二度と、一人でどっかに行かないで」

 それだけ言って、あとは針のような細い泣き声。何か山風のとても大事なところを汚してしまったような悲しい泣き声が、激しい雨の音と混ざった。

 限界だ。胸が爆発しそうな良心の呵責と、暴れたいほどに暖かい、彼女たちが想ってくれていた事実を、頭はごちゃごちゃで、それでもまだ意地を張り続けなければいけないと言うちっぽけなプライドが小さな体にぎゅうぎゅうに押し込まれて、薄っぺらい皮膚を突き破って風船の空気が抜けるみたいにしぼんでくれればいいのに、ただただ押し込まれるばっかりで、嗚咽と涙でしか発散することができないもどかしさで頭がおかしくなりそうだ。

 背中をさすってくれている浦風は黙っていた。涼風も一言も発さなくなる。山風はずっと泣いている。

 雨の音。

 手のひらで抑えきれない涙が指の隙間から漏れて、手の甲を生暖かく濡らす。喉まで出かかった言葉を、しゃっくりが邪魔する。みんな自分を見ている。自分を中心に据えている。卯月をここまで追いかけてきた。誰のためでも誰のついででもない、富津の艦娘たちが、うーちゃんのために動いてくれている。

「おこんない?」

 背中を撫でていた手が頭の後ろに回されて引き寄せられた。柔らかい、久しぶりの感触。汗と、すえた乳の匂いと、嗅ぎ慣れた浦風の香りを、しゃっくりと同時に胸いっぱいに吸い込む。

「誰も怒っとらん。帰っといで」

 顔を浦風の胸に強く押し当てて背中に手を回した。もういい、一人でいることだけを考えていると深みにはまっていくことがわかった。自分のためにここまでしてくれるのが富津の艦娘と司令官なんだ。この事実さえあれば、難しいことなんて、もうどうでもいい。意地も何もかもいらない。うーちゃんのためにここまでしてくれる、富津のみんながいればもうどうでも。

 浦風はゆっくり慈しむように頭を撫でてくれている。手付きこそ柔らかいが、力強い。絶対に離してくれなさそうだった。だからこちらも力を込める。ぎゅうっと、浦風の魂に跡をつけるつもりで抱きしめた。

「ゴメンなさい」

「それはうちじゃなくて涼風たちにいわんと。昨日から一睡もせんでずっと海に出とったんじゃから、ほれ」体を引き剥がされた。抵抗する力をわざわざ出すこともない、心地よい場所から顔を引き剥がして、袖を伸ばして顔を拭いた。鼻水も伸びた気がする。目をこするとくちゅくちゅ音を立てて、こすってもこすっても押し出される涙で埒があかず、視界が歪みきったまま、ようやく彼女たちを見た。山風の足元にある小さなライトが唯一の光源で、それ以外はぼんやりと黒い。二人もこちらを見ている。山風は自分と同じように涙で汚れた顔をしているし、涼風は彼女に寄り添って、快活そうな笑顔で、何も言わずに待っていた。

 浦風を見た。

 見て、驚いた。

「浦風、血!」

 ライトに照らされた浦風の顔の半分はぬらぬらと光る赤で塗りつぶされていた。綺麗な空色の髪もまだらになっている。心臓が握りつぶされた気がした。

「うそ、もしかして敵と遭ったの? ごめん、ごめんなさいっ」涙と鼻水で汚れた袖で血を拭う。拭いたら拭いただけ引き延ばされていくが、後から血が流れてくることもない。深くはないようだ。

「違う違う。さっき主砲ぷっぱなした時に踏ん張りきれなくてすっ転んだだけ。痛くもなんともないし大丈夫じゃ。そんなことよりほら」

 肩をぐいとひねられて、もう一度涼風たちに向けられた。傷があるのは浦風だけ、どうやら本当に戦闘はなかったようだが。海と言うクッションの上で艤装を使うのと違う、この細い二本の足では、どうあっても砲撃の衝撃を殺すことはできない。無茶なことをする。

 肩越しに振り返ると浦風が微笑んでいる。いつもの、あの、見守るような、優しい顔で。

 姿勢を正した。

 大丈夫、背中には浦風がいる。それに、自分のためにこんなに一生懸命になってくれた。だから今度こそ応えなきゃいけない。

 咳払いを一つして、喉に絡んだたんをスッキリさせて、しっかり彼女たちを見た。

「ごめんなさい」

「うん。あたいもごめんなさい。あともう一ついい? 山風の言ったこと、守ってくれるかい」

 今度は涼風は笑っていなかった。真剣に答えを求めている。

 迷うことはない。即答だ。

「もう絶対にどっかに行ったりしないぴょん。どっか行く時は」少し照れくさくて言葉を切った。けれど、背中に熱く当たる視線が背中を押してくれる。大丈夫、遠慮なんて何一つない。

「みんな一緒に」

 言い終わると同時に山風が飛びかかってきた。言葉通りだ、跳ねるようにして抱きついてきた。耳元でわんわん泣かれて、その声が悲痛なものじゃなく、安心しきったような、そんな泣き方だってことがわかった。わかるようになった。

 つられて一回おさまったはずの涙腺が緩んで、また頰が生ぬるく濡れる。山風の細くてふわふわな髪の毛はたっぷり雨を吸って自分の服にどんどん染みていくが冷たくなんてない。二人分の体温があれば冷たさなんて感じない。

 抱き合ったまま気の済むまで泣いて落ち着いた後、お互いの汚れきった顔を見て、もう一度強く抱き合った。向こうからはもう離さないと、こちらからはもう離れないという気持ちを込めて。頭をすりつけあって、猫のマーキングみたいにお互いの匂いをこすりつけた。もう心配ない。よしんば離れてしまっても必ずまた会える。電探なんかなくても絶対に見つけ出してみせる。

「さあて、帰るかあ」

 膝を叩いて立ち上がった涼風が、浦風の脇に頭を差し入れた。「すまんのう」と、体重を預けて引っ張り上げられた浦風の足には力が入っていないようだった。

「あだだだ、あー、二度と陸で砲なんか撃つもんか」

「むしろなんで撃ったのさ。この家に当たってたら卯月死んでたよ」

「いやあ、気がはやってたんじゃなあ。お恥ずかしい」

 足がおかしくなって当然だ。道路はアスファルトなのだから。

 よろけながら立ち上がる山風も心配だが、一言ことわりを入れて、涼風とは逆の浦風の腕を首に回した。

「浦風は任せるぴょん。うーちゃんがうちまで担いで帰るから」

 涼風は「ああ、そう?」と肩から頭を抜いた。すると、本当に全体重が自分にのしかかってきた。「うぐっ」

「大丈夫? まさか卯月に肩を借りることがあるとはなあ」本当に足に力が入らないらしい。折れているわけではなさそうだが、たとい途中で暴れたって下ろしてやる気はない。なんでもいいから自分の体の上から下ろさずに連れて帰る。そのぐらいしなきゃ気がすまない。それに肩を貸したのは初めてじゃない。初戦闘の時、腰の抜けた浦風を背負って横須賀に帰ったことを忘れたとは言わせない。

 まあ、もうどうでもいいけど。

「あ、ちょっと待って」

 ふと思い出して押入れに向き直った。つい勢いで浦風を振り回してしまい、耳元で絶叫が上がった。

「うづ、卯月っ、いだい、痛いってえっ」

「うわごめんぴょん。あのね、借りていきたいものがあるの」

 そして、つい肩を浦風に貸したまましゃがみこんだ。当然浦風はまた絶叫する。

「あんたいい加減にせえよっ」

「うわわ、ごめんっ」

「謝る前に体制変えてっ。足変な方向に曲がってるからあっ」

 山風が浦風の足をまっすぐ伸ばしてきちんと座らせるのを手伝い、布団をたたんで押入れにしまいこんだ。一枚燃やしてしまったけれども、残ったものはちゃんと片付けていきたい。

 反対側の、雑に放り込んだノートやメモ帳も、順番はとりあえず考えず、元あった場所に戻した。ただ一冊、メモ帳の一番新しい日付のもの、つまり、最後の一冊を拝借していく。半分ほどしか書き込まれていないが、彼女たちの青春の最後がどのように終わったのか気になるのだ。

「誰か鉛筆持ってない?」

 ポケットを漁った三人は首を横に振った。それからライトを持っている山風が軽く家探しして、台所にあったペン立てを持ってきた。メモ帳の何も書かれていないところにメッセージを残し、ちぎって、段ボールの中に他のノートたちと一緒に入れておいた。

『一冊かります。あなたたちの青春が続いていますように。富津泊地所属艦娘 第四駆逐隊 卯月 追伸、布団燃やしてごめんなさい』

 それから今日の日付。泥棒ではない。彼女らの青春を祈って、憧れて、借りていく。基地や部隊は移動になるかもしれないが、今日この日、卯月がここに所属していたことはずっと残る。自分が沈んだとしても、問い合わせがあれば返却できるようにしておかなくてはいけなかった。

「お待たせぴょん。もういいよ、いこ」

「食器すら片さない卯月が廃墟の片付けするなんてね。……なんでそんなもん持ってくんじゃ」

 んふふ、喉をくすぐって笑った。

「後で話してやるぴょん。涼風と山風にもね」

 よっこいせ、今度こそ浦風に肩を貸して立ち上がった。ゆっくり、ペースを合わせて歩いていく。涼風は後続の部隊に連絡を入れると言って先に外へ向かった。山風は自分たちの足元を照らしてくれている。めちゃくちゃに壊された玄関を見て、「あ、これも謝っとけばよかった」とも思ったが、バレないうちに、そのうち直しにこようと思い直す。いつここに人が帰ってこれるかわからない。開けっ放しにすることで風化が進んだり、荒らされたりするかもしれないが、今はごめんなさい。大事な人たちと、大事になる場所に、急いで帰らなくてはいけないから。いつかピッカピカに直しに来る、読み終わった青春の影を、必ず返しにきますと心で謝った。

 秋の夜長、あれだけ寒く感じた雨も今は顔を洗い流してくれるちょうどいいもの程度にしか感じない。片方には浦風、もう片方には山風が腕を組み、手引きするように歩いてくれているから、むしろちょっと暑い。砂浜に出て艤装を展開し、戦闘服を脱いでいたことを忘れていて素っ裸になって赤っ恥をかいた。あっさり浦風を肩から下ろして、我が事のように慌てる山風からライトを借りて。急ぎ先ほど別れを告げたばっかりの家に戻った。まだしっとり濡れている戦闘服と下着をつけて砂浜に戻る頃には、先行していた一水戦が到着していた。ひるまずしっかり歩き、微笑みをたたえてこちらを見つめる彼女たちに頭を下げた。

「大丈夫そうね。おかえり卯月」

 全員びしょ濡れだった。服もピッタリ張り付いて、寒いはずなのに雨と海の匂いに混じって汗の匂い。夜の、大時化の海。作戦行動でもないのに潜水艦と遭難の恐怖に脅かされながら自分を迎えに来てくれた彼女たちには謝るよりも伝えなくてはいけない言葉があった。叢雲は満足して腕を組み、曙は、意外にも抱きしめてきた。三日月はあからさまに安堵のため息を吐いて、「無事でよかったです」と微笑みかけてくれた。神通は……神通は、ちょっと目を見ることができない。にこにこしていたのは一瞬認めた。意図は考えたくない。ただ、部隊の統率にうるさい彼女が配下の山風を先行させたことを考えれば、うん。自分の想像が完全な妄想ではないのだろう。

 全員が自分を見ている。みんなが卯月のために動いてくれた。富津の基地全体をうーちゃんのせいで混乱させてしまった。

 これを取り返すにはいっぱいいっぱい働かなくちゃいけない。しばらく遊びにも行けないかもしれない。一人で遊ぶのは飽きたが、これからは、遊んだことない娘ともいっぱい遊べそうなのに。それだけが残念。まあいい。時間はいくらでもある。誰かがいなくなりそうなら、魂を傷つけても助けてあげればいいだけだし。

 今度こそ艤装を展開させて浦風を持ち上げた。身長差がわりとある娘をお姫様抱っこするのは妙な感じだが、艦娘の力があれば人の体重の浦風ぐらい軽いものだ。本人は恥ずかしがって「おんぶにして」と抗議したが、背中には艤装がある。これ以外どうしようもない。観念した浦風に「落ちないようにつかまっててね」と声をかけ、準備ができたことを伝えて、みんな一斉に海に入り、機関をうならせる。四方八方に仲間がいることがわかる。布団の中で子守唄を聞いているみたいだ。自分を中心にして他の娘たちは輪になった。多分、途中で千歳たちも合流して同じ輪の中に入るのだろう。

 今は何時かわからない。真っ黒で雨が顔を叩きつける中、神通が指揮をとって、乱れのない輪形陣で富津を目指す。なるべく浦風に雨が当たらないように体をかがめて、精一杯屋根になった。

「ごめんね」顔が近づいたついでにもう一度謝った。彼女が言葉を出す前にもう一つ付け加える。「ありがと」

「うちもごめん」胸の前でたたんでいた腕を首に巻きつけて、浦風が力を込めた。

「卯月のことが嫌いになったわけじゃないから。うち、自分で思ってる以上に子供っぽいみたいじゃ」

「別に怒ってないぴょん。建造されてからずうっと一緒なんだから、ケンカぐらいとーぜん」

「無視してごめんなさい」雨でびしょびしょになっているし、きつく抱きついてきているから顔が見れないのが残念だ。

 声が震えていた。

「うーちゃんの方が迷惑かけてるぴょん。釣り合いなんか取れないよ」

「卯月の手を振りほどいて、本当にごめん」

 首筋に生暖かい息が当たる。全身こそばゆいが、震えた息が何度もため息みたく当てられては体をよじるわけにいかない。甘んじて受け入れるしかない。

「ねえ、浦風」

「なんじゃ」

「うーちゃんが沈んだら、浦風の魂は傷つく?」

「……」

「浦風?」

「……やだ。そ、そんな、こと言わ、ん、といて」

「もしもの話だっぴょん。沈む気ないでっす」

「い、やだ。想、像、した、くないぃ」

「そ」

「やだから、ね。卯月、いな、くなら、んよね」

「もういなくならないぴょん、大丈夫だよ」

「卯月が沈んだらうちも、一緒にいったげるから」

「それはダメぴょん。ああでも、何か欲しいな。何くれる? 浦風が死なない程度で」

「何でもあげる。どこでもいいからもってき」

「……やっぱいいや。うーちゃん沈まないし。誰も沈ませまっせん」

 艤装を展開している艦娘が痛いと感じるほど力を込められて抱きつかれればもう十分だ。早いとこ犬吠埼に、かっぱらった物資を返しに行こう。第四駆逐隊のみんなの初任務はきっとうーちゃんの尻拭いからはじまる。なんと情けない。情けなくて笑ってしまう。

 ふと、頭に声が響いた。

『沖に出ますので、現時刻から無線封鎖を実施します。……卯月、艤装の妖精さんに気を引き締めるように言っておきなさい。マイク入れられてますよ』

 ……。

 ウソでしょ!

 



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終幕

 それから〇時過ぎに泊地に帰ってきて、翌日の晩ごはんが終わるまで、その通り目の回る一日が始まった。

 何が誰も怒ってないだ、浦風め、嘘をつきやがって。

 帰ってきて早々司令官に謝りに行けば怒鳴られて(男の人に怒られたことがなかったから本当に怖かった)、明日の朝一番で犬吠埼にかっぱらった資材を返しに行くことを条件に許された。

 半べそかいていたら第四駆の二人と山風に慰められて、そのまま自分の部屋でみんな一緒になって寝た。浦風は入渠場で足湯してくるなどと言って寝付くまでには帰ってこなかった。狭いベッドにおしくらまんじゅうになって寝た。ただし、朝方に涼風が山風を蹴り落としたらしく、なんやかんやケンカになり、結局寝不足のまま総員起こしの放送に頭を痛めるはめになったが。

 涼風らと冷水で顔を洗い、すっかり元気になって当番をこなしていた浦風の手伝いをして、手早く朝食を作り上げた。米と、ナスの味噌汁と、ほうれん草のゴマ汚し。それからぬか漬け。「これはうちの全力じゃのうて、時間がないから仕方なしに」なんてブツブツ言っていたが、小さい声でつぶやいたって、自分たち以外の誰にも聞こえない。米は余分に炊いて、みんなが朝食を食べている間におにぎりを大量にこしらえる。昼食の当番は涼風だが、一緒に犬吠埼に向かう任務があるから作り置きしておかなければならない。山風が代わりを申し出たが、「あたいらの責任だしねえ」と断っていた。とんでもない、自分の尻拭いなのだ、責任なんかないのに。謝ろうとしたら頭を軽く叩かれて黙らされた。

 立ったまま朝食を流し込み、洗い物は帰ってからまとめてやることを報告し、おにぎりを四つ持って、夕張を巻き込んで泊地を飛び出した。

 夕張、浦風、涼風、卯月。富津第三艦隊第四水雷戦隊。初の任務は輸送作戦。しかも盗んだものを返しに行くだけ。

 情けない。情けないなあ。

 二十ノットほどで沿岸沿いを、極力陸に近いコース取りで、片道五時間。昨日の今日なので、犬吠埼の艦娘らも自分のことを覚えていた。夕張らはあからさまではなくとも、やはり視線が落ち着かない様子であった。そして犬吠埼の艦娘の反応はやっぱり変わらず、逆に見せつけるように堂々と肩で風を切っていた。残念ながら天龍は海に出ていて不在だった。香取もおらず、代わりに司令官の席に座っていたのは、香取とよく似た服を着ている艦娘、鹿島。それから軍礼服を着用した、妙にキビキビした男性が一人、鹿島の横で、彼女の一挙一動に注視していた。あらかじめ事情は知っていて、「今回ばかりですからね」と諌められ、四人で頭を下げた。まったく自分のせいなのだけれども、旗艦である夕張と浦風は、親がするように、全責任を負う勢いで頭を下げていたのが心苦しかった。

 あとはもう時間との勝負。犬吠埼を飛び出して海水にさらされながらおにぎりを食べ、全速力で富津に向かった。手のかからない料理をさまざま提案してくれたが、実は作りたいものは決めていた。

 なぜ最初からこの考えを思いつかなかったのだろう。やっぱり落ち着くと、見えてこないものが見えてくる。

 暮れの早くなった太陽が半分ほど水平線に消えた頃、浦賀水道まで戻ってきて、そのまま富津には向かわず横須賀へとコースをとる。連絡の一つもなしにドックに入り、中で談笑していた黒潮や時雨が驚いて、「久しぶりやなあ!」なんて抱きしめてくれたのもほどほどに用件を伝えた。快諾した黒潮は自室まで走り、戻ってくるまで時雨と話をした。自分たちが抜けてから大きな作戦の準備に入ったようで、編隊を見直し、鎮守府に赴任してくる軍人が多くなって、落ち着かない毎日になのだと。富津は司令官一人で雑務まで回しているが、横須賀はそれ以外の軍人も多数在籍している。確かに、ドック内の掲示板にもびっしり文字が書き込まれて、木箱やドラム缶、木材が乱雑に、それでいてある程度整然として積み上げられていた。艦娘の指示に従いながら動く人も、自分の知らない人ばかりだった。

 二枚の鉄板を黒潮から受け取って、別れの挨拶もそこそこに横須賀を発った。

 そして。

 今、自分の前に夕張が即席で作った簡易コンロが二口、ごうごうガスを噴出させて火を燃している。仕込みをしている間に夕食の時間は多少オーバーしてしまって、食堂には腹を空かせた女どもが、何も並べられていないテーブルと自分とを訝しげに見ていた。

「うちのボスは横須賀さんとお電話中よ。話し込んでいるみたいだったから、先に始めてしまってもいいと思うわ」

 叢雲が口火を切った。

「さあ、何が出てくるのかしら。そこで熱せられている鉄板で、何か作ってくれるんでしょう」

 みんなこちらを見ていた。

 むず痒さと居心地の悪さで落ち着かない。昨日の夜は帰って話する間もなかったから、迷惑をかけて改めて全員(哨戒に出た三水戦除く)の前に立っているのは晒し者になった気分だ。

 仕込みを手伝ってくれた浦風と夕張は席に着いている。ただ、涼風だけは隣に立っていた。彼女が力強く尻をひっぱたいてくれたおかげで、はからずしも喉が声を出す準備が整った。

「ッた、たこ焼きを作りまっす」

 おお、食堂が少し賑やかになった。

「たこがないでしょうに。誰か獲ってきたの」叢雲のまっとうな突っ込みには、涼風が言葉を返す。

「だから、具はありもので適当にやるよ。何が入るかはお楽しみってことで」

「あらそう」空きっ腹を温めるために用意しておいたお茶を一口すすって、叢雲は目をつむった。「たこ焼き自体食べたことないし、楽しみにしてる」

「もう少しお待ちくださいっぴょん。黒潮直伝の、絶対美味しいやつだから」

 ディスペンサーに入れたごま油を鉄板の窪みにちゃっちゃと落としていくと、食堂の中にこもっていた女の匂いを一瞬で上書きして、興味を持った艦娘らが席を立って群がってきた。手元に視線が集中しているのを感じたが、黒潮の名前を出したから、彼女の名誉のためにも無様は見せられない。邪魔になる髪の毛は涼風がまたゴムで結んでくれて、山風から借りたピンが前髪をきっちり除けている。額にじっとり汗がにじんでも隠すことはできない。

 実のところ直伝なんて嘘っぱちで、何度も見ていたから自然と覚えただけだ。だから生地の分量はおおよそ目分量。ゆるさを合わせたぐらい。ただ、ひっくり返すのは教えてもらった。大丈夫、なはず。

 油が十分温まったのを見て、おたまで生地を流し入れていくと、じうじう音を立てて、鉄板に接したところがふつふつ泡立った。別のボウルに入れておいた具を落として、さらに生地で蓋をする。

「実演してくれる晩ご飯もいいものですねえ」

 青葉がカメラで自分と、それから鉄板とを撮った。そのカメラはどこから持ってきたのか。ネガ式の、一番流通しているデジタルなものではない。彼女が着任してどのぐらいか知らないが、ネックストラップを見る限り、相当使い込まれている。

 続けて叢雲が言った。「だけど犬になった気分よ。ねえ卯月、その具って生で食べられないの。一個ぐらい、いいでしょ」三日月がそれをたしなめた。「やめてくださいよ。みっともないから」伸ばした腕は、苦笑いする古鷹にしっかりつかまれていた。青葉はそれすらも写真におさめていた。

 折を見て竹串を二本使い、生地と鉄板を剥がしてひっくり返すと、焦げ目のついた丸い生地が油を泡立たせていた。うまくできて顔がほころぶ。ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、リズムをとりながらひっくり返していくと、何人かの艦娘が声をあげて楽しんでいた。そちらを見る余裕なく、自分で作ったリズムを崩さないように集中する。

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。

 失敗しなかった。焦げ目のついた面がポコポコ鉄板から隆起している。

「ほお、上手いわね」足柄が唸った。「黒潮ってアレよね、涼風と知り合いの」

「そうさ。久々に会ったけど、あんま話しできなかったねえ」

 知っていた。涼風の初出撃の時の話を聞いていたから。時間を取ってあげられなくて申し訳なかった。

 今度、間宮さんとこ連れてったげよう。そしたらお話しできるはず。

 そこかしこで溢れる雑談に耳だけ傾けて焼き加減を注視した。「こんなん適当でええんよ、適当でえ」なんて黒潮は言っていたが、一から自分でやるのは初めてなのだ、緊張もする。

 もう一度ひっくり返してみる。両面しっかりと丸く固まった。

 完成だ。

 涼風に渡された皿に出来上がったたこ焼きを乗せていく。叢雲が爪楊枝を握って待っているのが本当に犬みたいで、さっきから視界の端で捉えるたびに笑いそうだった。平然な顔してお茶をすすり、席に座ってそわそわしながら爪楊枝を握っているのだ。ようやく気が抜けて笑えた。

「できたっぴょん!」群がっている艦娘らから拍手があがる。

 見た目は完璧だ。もっと表面が柔らかくなればよかったが、作ってもらったコンロは火加減が細かく調節できない。トロ火か強火の二択では、のんびり焼いているわけにもいかない。一度に焼ける数は二十四個。全員の腹を満たすのに何個焼けばいいのだろうか。

 皿をテーブルに置いて早速手を伸ばした叢雲を古鷹が諌めた。

「こら、ちゃんと全部焼きあがるまで待たないと。行儀わるいよ」

「いいっぴょん、熱いうちに食べちゃって」また油をしいて、生地を流しながら促した。これ以上お預けにするとかわいそうだ。

「うーちゃんどんどん焼いてくから! 涼風もありがと、あとは一人でだいじょぶっ」

「そうかい。それじゃあ甘えまして。ほらほら、ソースはこっちにあるから慌てないでね」

 はじめは浦風たちに食べてもらいたかったけど、端っこの方で山風と一緒に自分に作ったたこ焼きに群がる人だかりを柔らかい顔で見ていたのを認めた。だから何も言わないで、次を作ることに集中した。

「いただきます……あっふ!」

 待ってましたとばかりに先にかぶりついたのはやっぱり叢雲で、出来立てのたこ焼きの洗礼を味わっていた。顔を真っ赤にして口をとんがらせ、なんとか冷やそうと躍起になっている。取り皿の上で割って冷ますものもいるが、だいたいが、そんなゆっくりしてられんと丸ごと口に放り込んでいた。

 あちこちでほふほふと息の音が聞こえる。

 緊張して具を入れ忘れたり、二つ入れたりした。自分の料理を食べてもらうことは初めてだ。美味しいと言ってもらえるか、こんなに不安になるものか。

 咀嚼されている間のちょっとした静寂。生地を流し込みながら生唾を飲み込んだ。

「ッく」

 口火を切ったのは、やはり叢雲だった。

「うっくっく、たこ焼きって初めて食べたけど、漬けものを具にするとは予想外よ」

「あはは、私は見てたから想像ついてたけど、生野菜はやっぱり火が通らないよね。……生のナスは美味しくないなあ」

「わたくしの、何かしらこれ。うどん?」

「青葉のはイカですね、当たりです!」

「当たりとかハズれあんのかよ。キャベツって何だ、当たりか?」「そりゃ多分お好み焼きもどきですねえ」「だよなあ」「摩耶はまだいいじゃない……、なんかすっごい舌がビリビリするんだけど、卯月あんた、食べられるもの入れてるわよね?」「それ、多分、山椒。私も、……辛っ」「あ、これ美味しいじゃん! なんだろねこれ、わかんないけど」「あんたは幸せそうねえ。ああ、お姉! ソース垂らしてるって! 胸んとこ!」

 ワッと盛り上がった食堂。

 反応が様々すぎて、果たして受け入れられているのかさっぱりわからない。近くにいた熊野に「美味しい?」と尋ねたら、「分かりませんわ」と言われた。そのあと「でも面白くていいですわね、これ」と付け足された。反応に困る。

 二弾目が焼きあがると皿に盛る前に、鉄板から直接とっていかれるという暴挙に出るのもいた。食べてくれているというのなら、少なくともまずくはないのだろう。

 三回、四回、五回。

 焼きあげる側からすぐに空になった皿が突き返される。海に出ると腹が減る。自分も、手が離せない代わりにいろいろな艦娘から、熱々のたこ焼きを口に詰め込まれた。涙が出るほど熱かった。浦風と山風、それから涼風も反応をうかがったが、なんとも複雑な表情をしていた。自分の感想も同じだ。少なくとも、二度と生野菜は入れない。それから、味に刺激が出ると思って入れた香辛料もだ。嫌がらせ以外の何物でもない。あと硬いもの。炒り豆の食感がたこ焼きの柔らかさをぶち壊してくれる。

 でも楽しいというみんなの気持ちはわかる。ギャンブルだこんなの。

 途中からそれぞれ食材を引っ張り出してきて、あれはうまいだのこれは合わないだの、勝手に具材を放り込まれた。生地も二回追加で作った。面白がってわざとまずいものを作る奴も出てくる。三日月がこっそり入れた生のオオバコに当たった足柄は、虫と勘違いして絶叫して吐き出していた。揚げ物油を温めた古鷹が、焼きあがったたこ焼きを油に放り込んで揚げた。具は入れなかったが、カリカリの表面がいいアクセントになり、酒を持ち込むものも出てきて、夕食はあっという間に宴席に変わった。

 あとは大騒ぎである。喉が痛くなるほど笑ったのなんていつ振りだろう。自分も飲まされて、手元があやふやになりながらふにゃふにゃのたこ焼きを焼いて、熱々のものを酒で冷やしながら食べる。焼酎だ、焼酎が合う。三日月は足柄に早々に潰された。それでも飲ませようとするのを摩耶と熊野が取り押さえ、その向かい側では曙が初雪に絡み、那珂は誰も見ていないのに、レコードに合わせて歌って踊っていた。千歳姉妹は変わらない。静かにたこ焼きをつまみながら飲んでいて、同じ席に叢雲と古鷹が、同じように落ち着いて飲んでいた。青葉はここぞとばかりにカメラを構えて右往左往していたし、能代と神通が暴れる夕立に説教をしている。そして自分のそばには第四駆が、それから山風も一緒に、酒を飲み交わしている。

「なんだなんだ、なんでこんなことになってんだ。臭いぞここ」

 出来上がった女の酒宴に異物が一つ。

 仕事を終えた司令官が、魔窟と化した食堂に顔を出した。

「おお、てえとくいいから座れ、食え、飲め、追いつけえ!」

 摩耶に引っ張られて体制を崩した司令官は熊野の上に尻を乗せた。

「きゃあっ、ちょ、提督、 おーもーいーでーすーわー!」

「悪い、おい摩耶ひっぱるな、お前も女なんだから足広げて座るなバカ」

「いいからいいからぁ、ほれ駆けつけ一杯」 

「……焼酎ストレートを駆けつけで飲ませるバカはどいつだあ! お前かあ!」

「はっはっはぁ、卯月ぃ、てえとくにも酒、じゃねえ、たこ焼き焼いたれぇ。おい足柄、三日月が死にそうだからほんともうやめてやれ。おーい叢雲ぉ、三日月の保護頼むー」 

「無理に飲ませるのだけは感心しないわね。ほら三日月、立てる?」

「……ぉう、ぉえんなあい、ぉおぉみたくぁいぃ」

「どんだけ飲ませたのよ」

「草を食わせた罰よ。フンだ」

 焼きたてのものを新しい皿に盛り、司令官に持って行くと、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。

「おお、うまいじゃないか。いただきます……あぐっ」

 すぐに口を冷やそうと手近にあったグラスを煽れば、それは先程渡された焼酎のストレートで。すぐに顔を赤くした司令官は涙目になりながらむせ込んだ。

「ゴフ、ゲフッ。から、辛っ!」

「あはははっ、花山椒だっぴょん!」

「貴重だから使うなつっただろうが、辛えっ!」

 もうこれで全員分焼いた。あとは、混ざってしこたま飲める。

 笑いすぎて痛くなった腹筋を抑えながら、浦風たちの元に戻ると、もうこちらも出来上がっている。右を見ても左を見ても、正面を見ても後ろを見ても、もう酔っぱらいしかいない。怒号と嬌声立ち上る、今深海棲艦に攻め込まれたらあっさり全滅する、情けない泊地だった。もちろん、自分の提案し、作り上げた料理が大元なのだが。

 みんなが自分の料理を食べて笑い転げている。酒の力もあるが、その通り、大元は自分なのだ。そして今、孤立することなく、この狂宴の中に混ざっている。誰彼構わず抱きつき、ちょっかいを出し、指をさして笑った。耐えきれずフラフラと外まで出て行った三日月が食堂のすぐ脇で吐き戻したのを見て、夕立に誘われて一緒に大ボウルいっぱいの水を持って、頭からぶっかけた。うろんな顔で追いかけてくる三日月をからかいながら外を駆け回る。この基地のことならよく知っている。一人で遊びまわっていたから。行き止まりの道を行こうとする夕立の手を引いて、食堂の裏手に回る獣道に誘導して、ゾンビみたいな動きで追ってくる三日月を、影から見て忍んで笑った。

 楽しい、楽しい!

 三日月が通り過ぎたのをしばらく見て、宵闇に彼女が溶けていくのを、ずっと隠れて見ていた。心臓がまた跳ね上がっていた。あの夜、と言っても二日前だが、涼風の部屋のドアをノックした時と同じような緊張。

 涼風と、それから山風と。彼女たちとはもう友達で、仲間になった。自分の頑なな殻を打ち壊して、こっちに来てくれた。同じ部隊の夕張とは、これからもっと仲良くなれるはず。だから、自分の力で友達を作ろうと思った。

「あの、夕立」

 三日月の消えていった方向を見ていた夕立が、酒で赤くなった顔をこちらに向けた。

「んー? どしたの、虫でもいた? とったげる!」

「うーちゃんと、友達になってくれる?」

 ……。

 ……。

 夕立は笑った。

 つられて笑ってしまった。

「いまさら何言ってるの、こないだ料理手伝ってくれたでしょ。あたし、本当に助かったんだから。……今回はうちの妹たちがずいぶんご迷惑おかけしたっぽい。ごめんね」

 また謝られた。

「あれはっ。……んーん、うーちゃんこそ、ゴメンなさい。涼風たちのこと、怒んないでね」

「怒ってないもの。妹の友達だもん、あたしだって混ぜてくれなきゃイヤっぽい。というか、そんなこといちいち考えてる娘なんて富津にいないよ。ちっちゃい基地だし、提督だってお父さんみたいなものっぽい。あ、ちょっと待ってね」

 夕立は立ち上がって艤装を展開させた。足元の地面が、変化した重みで少し揺れた。

 耳に手を当てて、ぶつぶつ何かを言っている。音声無線の通信のようだった。

「うん、わかったっぽい。ねえ、三日月そっち行ってる? ……リョーカイ、通信終わり。ほら、卯月」艤装を引っ込めた夕立が差し出した手を握ると、よいしょと立たされる。「戻ろ。みんな待ってるってさ」

 服に引っかかったひっつき虫を取られて、軽く全身をはたかれて、手を引かれた。わけもわからず引かれるままに夕立についていく。あれほど爆発的に盛り上がっていた食堂の前に立つと、シンとして、建物全体が息を潜めたように、ひっそりとしていた。自分がいない間にみんな別の世界に飛ばされてしまったみたい。スズムシの鳴き声がことさらはっきり聞こえて、今までのことは全部夢だったんじゃないか、なんて妄想にとりつかれそうになる。

「ほら、行くよ」

 ぐっと引かれて、上半身をつんのめさせて食堂に飛び込んだ。

 青白い蛍光灯の明かり。かかっていたレコードは針を上げられていた。そこにみんながいた。

 そこに、みんながいて。

 視界が歪んだ。

「こんな感じのがお前もスッキリするだろ」

 みんな固まって、こっちを見ていて。

 壁に、『着任祝い』って、それだけの、簡単な飾りがあって。

「ようこそ富津泊地へ。私たちは、卯月を」

 あ、だめだ。

 抑えられない。

「大歓迎する」

 あんなに酔っ払っていたのに、相変わらず空気は酒臭いし、食べ散らかしたものと酒瓶が転がっているきったない場所なのに。人数だって、そんなに艦娘のいない小さな基地なのに。鼓膜が痛くなるぐらい拍手の音が大きくて。もうここ数日泣きっぱなしだ。こんなに濃密に感情が動いたこと、今までで一回もない。もう顔を隠すのも面倒になって、手放しで、ブサイクに顔を歪ませて泣いた。夕立が抱きしめてくれて、しがみつきながら声をあげて、背中を撫でられるたびに涙がこぼれた。

「よしよし、いいこいいこっぽい」

 同じ駆逐の、しかも浦風ほど背も体型も変わらない夕立に慰められるのは癪だが、もうどうしようもないのだ。嬉しすぎてもう、自分じゃ全くコントロールできない。鼻水だって出ている。でも、ずっと抱きしめててくれた。

 富津に異動する夜、黒潮が抱きしめてくれた。その時もしがみついて泣いた。横須賀を発つドックの中で、暁や電が泣いてくれた。隣だからいつでも遊べると言ってちょっぴり強がった。富津での初夜、周りの艦娘が怖くて、一人部屋を割り当てられて、それも怖くて浦風の布団にもぐりこんだ時もやっぱり泣いた。浦風に頭をひっぱたかれてないて、腕を振りほどかれ時もこっそり一人で泣いた。涼風の部屋から逃げた時も泣いたし、あとは昨日か。そして今だ。泣きっぱなしだ。

 少し汗の匂いがする夕立の首筋に噛み付かんばかりにしていた。泣いている間は時間が止まっているみたいに、誰も何も言わない。昨日もそうだった。ああもう、子供っぽいなあ! 大人にならなくちゃ。いつまでも子供じゃダメだ。もっと、みんなの力になれるようにならなくちゃ。

「落ち着いた?」

 しゃっくりをしながら頷いた。「全然落ち着いてないっぽい」困ったように夕立が笑った。ぽんぽん背中を叩かれて、奥に残っていた涙が叩き出された。

「それじゃあ、新たに着任した卯月、ぜひ自己紹介をお願いしたい」

 司令官が大仰な仕草をして言った。芝居がかっていて、なのに真顔でやっているもんだから、ダサくてキザっぽくておかしい。

 夕立から体を離して顔をこすった。吸収の良いパーカーが顔をきれいにする。鼻水は伸びた。

 しっかり前を向いて、もう一回鼻をすすって、喉にひっかかった痰を咳払いして、精一杯、笑顔を作った。

 よし。

「横須賀鎮守府から富津泊地へ異動してきた卯月でっす。これから、よろしくお願いしまっす!」

 

 

 




順不同

■幕開
 さだまさし 
   私花集(アンソロジィ)~アルバム名 
   秋桜
   主人公
 吉田拓郎
   唇をかみしめて
   純
      →【〜こぶしふたつ分の位置まで近づく。】 
 榎本健一 
   私の青空(My Blue Heaven)
      →【~もので、往年の喜劇スターが歌ったもの。】
        他

■1章
 高橋俊策-作詞 江口夜詩-作曲(WIKIより)
   月月火水木金金
      →【海の男の艦隊勤務は〜】
 Pete Seeger
   Yankee Doodle-アメリカ民謡

■2章
 Blind Boy Fuller
   Trucking' My Blues Away
      →【盲目であるブラインドボーイフラーの〜】
        他

■3章
 ホーボーコンサート -オムニバス アルバム名
  (1974 HOBO'S CONCERTSⅡ(大きな青空が胸に))
  朝比奈逸人 収録曲
    雨
    直ちゃん
 チューリップ
   青春の影
      →【読み終わった青春の影を〜】
        他  

敬称略



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3話
幕開


 わざわざ外の便所で用を足し、緑錆のついた蛇口をひねってハンカチで手を拭った。水垢がこびりついた鏡に映る顔はここ最近のせわしなさで脂ぎっており、まだらに生えた髭が一層みずぼらしい。一服でも、と胸ポケットをまさぐったが、執務机に置きっぱなしにしていたことを思い出し、いまいましげに舌打ちをした。時間を潰す口実もなくなり、いよいよ司令室の扉を開けると、部屋の真ん中に勝手に設置された折りたたみテーブル、勝手に物色する二人の女性と、それぞれに付き添ってきた他基地の艦娘が押し込まれていて、時折カニ歩きをしなければいけないほど密度が高まっていた。新しく設えた薪ストーブがごうごう音を立てて、窓が水滴に曇っている。

 横須賀鎮守府司令長官、森友。付き添いにヴェールヌイ。

 犬吠埼詰所特別司令官、香取。護衛に天龍、神風、潮、磯風。

「カーペンターズかガリ=クルチは何かあるかい。うちのが好きでね」

 レコードラックをぱたぱた漁りながら森友が言った。

 今時ガリ=クルチの名前が出てくることに閉口する。曲は知っていても、あれはSP盤で聞くからこそ良いのだ。よって、LPで蒐集はしていなかった。

「SP盤はさすがに。カーペンターズは『ア・ソング・フォア・ユー』と『ナウ・アンド・ゼン』だけだ。二段目の左のほうに、多分」

「『キング・オブ・ハッシュ』は」

「……すまん。そんなに詳しくない」清水が言うとわざわざ目を見て鼻で笑った。この性悪加減がむしろ心地よい。

「やめてよ森友さん。それよりも犬吠埼さんの好みをかけてあげて」

 机の上の書類を勝手に改めていた香取が視線を上げて応えた。

「会議の邪魔をしないものならばなんでもいいですよ」

 片腕を曲げたままの神風が言った。「エノケンがいいな。俺は村中でいっちばーんって」手首を青い柄付きの布で覆った天龍が笑った。「モ・ガだもんなあ、白露に今度聴かしてやろう」「高田渡がいい」びっこを引いて磯風がジャケットを取り出し、「しかもなかなかの品揃えじゃないか。趣味が合うな。あきらめ節の入っているのはなんだったか。潮はなんにする」と話を振る。潮の左腕はまるまるなくて、動くたび袖がひらひら揺れた。よく見ると首から顎下にかけて皮膚の色が違う。「私は特に。好みもありませんし」「フランスギャルが好きだろう、ゲーテとナポレオンの独語のやつ」「ああ! なんで知ってるんですかっ」

「清水クン」香取がにこやかに笑っていた。清水のよく知っている顔だった。「あなたのおすすめのブルースをかけてください。残りは落ち着いた曲を」

 天龍があげたブーイングは笑顔の下に鎮圧された。

 ミシシッピ・シークスの落ち着いた歌声と軽やかなフィドルが絞られたボリュームで主張しない環境音になり、三人の司令官がテーブルの周りに集まった。付き添いの艦娘たちは壁際で整列する。

 雰囲気が変わった。

「では」香取が背後の黒板に白墨で文字を書き込む。

 カツン、カツン。清水と対面の森友はそちらに注視する。「なんだか懐かしいわ」香取の背中が言った。「先生の後ろ姿は未だ大きく感じます」森友の本気なんだかおべっかなのかあやふやな言葉の後、背中を向けたまま香取が応えた。「やめてください。あなたはもう横須賀の長官で」カツン。「作戦の中枢人物なのだから」

 湊川作戦。

 数年前、前触れなく海から現れた怪物があった。映画の撮影か、ファンタジーの顕現か、世界中は沸き立った。怪物たちははじめ、女性の形をしていたから敵意をあらわにすることもなかった。青白い肌、整った顔、それから未知の装備。国が怯えても大衆は色めき立つ。アトランティスが浮上した、彼女たちは海底でひっそりと生き残っていた超古代文明の子孫に違いない、オカルトマニアはそう言った。ジャップがついにアニメを現実のものにした。一部の外人はそう言った。CGだ、どうせ映画配給会社の悪趣味な宣伝だ、現実主義者はそう言った。いろいろな話があった。特に当時は人間の到達できる最高点、宇宙への挑戦がついに始まったことも相まって、祭り前の浮かれたムードだった。数千人を乗せて、世代交代をしながらスーパーアースを探し、時すら存在しない宇宙へ人類の版図を広げるための宇宙母艦打ち上げが間近に迫っていた。科学者、各部門の専門家、政治家、各国の軍隊、抽選で選ばれた一般人。母艦に国際社会を作り上げた『小さな地球』号が打ち上げ施設のある島に到着する寸前、怪物が牙をむいた。

 地球外生命体との戦闘すら考慮された装備は軒並み役に立たず、子供が無邪気に虫を虐殺するみたいだった、という人もいる。ものの数分で人類最高の叡智は海に沈む鉄くずと魚の餌になり果てた。

 楽観していた大衆たちは憤り、怯え、ようやく各国の軍隊が連携を取り始める頃にはパニックは最高潮。力を持った警察機関やシラケ世代の究極にいた時代で、暴動はすぐに鎮圧されるものだと思われていた。けれど怪物たちは船を沈め、数日の静寂の後、今度は国土を壊すために、文明を崩壊させるために、再び海から上がってきた。

 人権団体が声高に叫んでいたのは初めの一月だけである。彼らはすぐに、あれが人の形をしただけの、全くの敵性生物であることを認めた。

 二月目には世界の海軍の四十パーセントが海の肥やしになった。

 三月目には主要沿岸都市の大半と、五十パーセントの海軍がなくなった。

 半年すれば孤島から人が消え、海底ケーブルは全て破壊され、制海空権はなくなった。一年経った頃、日本は受動的な鎖国状態に陥り、川を上られインフラ設備も軒並み破壊された。渡島半島は占拠され、北海道と沖縄へ連絡が取れなくなった。

 輸入に頼りきって膨れ上がった人口を養える自給率は日本にはない。欧米化したモラルは攻撃性にも影響し、かつてないほどの国家危難が日本を襲った。警察機関では抑えられぬ、ならばどうするか。勝手に自滅するのを待つか、その時は共倒れだ。どうする、どうする、とかく秩序を戻さなくては、国が国の体をなさなくなる。内にも外にも不穏がはびこる中で、自衛隊が悩みに悩み、断腸の思いで決断をし、時の総理がそれを受諾した。

 自衛隊が再び『日本国軍』の旗を翻して半年で、崩れた中に崩れたなりの秩序を生み出すことに成功した。短絡的でわかりやすく、けれど取り返しのつかない方法、『みずから大衆が戦える敵になる』という手を使って。

 内はどうにかしたが、外からの暴力に辟易して、いよいよ玉砕かという時、一つの報告が軍内部を駆け巡った。

 一人の少女。彼女は艦娘だった。

「その艦娘、なんと呼ばれていたかしら。清水クン」

 香取が言った。授業をするよう滔々と話すものだから大半を聞き逃してレコードに耳を傾けていた。が、質問から何の話か、すぐに推測できた。脳みそに染み付いている。何度もなんども繰り返し聞かされたことだからだ。

「『貧民窟の少女』、または『少女A』」

「あれだけ言い聞かせればさすがに覚えてるか」褒めもせずに、ただ微笑んだ。

「深海棲艦に対抗できる力を持った少女の出現から今まで、たくさんの犠牲がありました。あなたたち人間が戦う理由はわかります。では私たち艦娘が戦う理由は? 未だに、考えます」

 冷めたお茶を一口すすって間をとった。何度も聞かされた話。けれど、森友は一言一言をかみしめるように、身じろぎせず、背筋をピンと飛ばして彼女の話を聞いていた。

 今、香取が発した言葉はここだから言えること。公の場でないから言えることだ。二人きりで暴力的な補修を受けている時、香取はよくこの話をした。森友は優秀だったから初めて聞くのかもしれない。

「だから私は、『貧民窟の少女』が受けた悲しみのために戦っています。彼女が愛した人間という種族を、いつか生まれ変わったとき、今度こそ幸せを逃さないように」

「……聞いたことがないですね。まったく話が読めないのですが」

 香取は喉を鳴らして笑った。

「軍機です。内緒よ?」

 この場において貧民窟の少女の話を知らないのは横須賀鎮守府の連中だけ。香取が連れてきた艦娘も、叢雲も、何も口を挟まず、思いはせるようなような顔つきで、彼女の話を聞いていた。自分の知らないことを知っている、ささやかな嫉妬で睨みつけてくる森友に、清水は反応することをしなかった。

 一つ咳払いをして香取は崩れかけた空気を組み立て直した。

「森友さんが発案した湊川作戦の概要を、不肖香取がご説明いたします。なお、すでに各鎮守府長官との合議は済んでおり、全基地にも通達済みです。詳細は清水クンにも送ったわね。だから、作戦全体はかいつまんでお話しします」

 香取の表情は柔らかいままだった。部屋の空気だけが質量を持って、体全体に重くのしかかり、小春日和の陽が場違いに爽やかさを醸していた。

 勉強は苦手だが、さすがにここで手を抜くわけには行かず、あらかじめ渡されて、穴が開きボロボロになるまで読み込んだ資料を開く。おかげで通常の業務はほとんど秘書艦にお鉢が周り、しばらくてんてこ舞いの毎日だった。知恵熱を出したのは久しぶりだ。

「湊川作戦は大きく分けて五段階の作戦に分かれます。イ号、国土奪還。ロ号、大陸連絡網の構築、ハ号、輸入ルートの再構築、ニ号、世界解放戦争、そしてホ号、深海棲艦の殲滅。イロ号の間に資源が尽きたら詰み、わかりやすいでしょう?」

「調べた」清水は頭の隅に追いやっておいた不発弾を処理するために声を上げる。「湊川作戦。湊川の戦い。南北朝の一合戦を作戦名に採用した理由はなんだ」

「名称なんて記号だ、そんなことを突っ込むヒマがあるなら、資料の隅から隅まで暗唱してみろ」

 ならば、森友を指差して言った。

「なぜ補給ルートの構築が最優先でない。あの戦いと同じ轍を踏むつもりか」

「ロシア、南北朝鮮、中国は、敵の陸上基地だらけで近づけん。ああ、それから、すぐ耳に入ると思うが、昨日対馬の基地が落ちた」

「人員と艦娘は」

「佐世保に異動しました」「敗北して逃げた、ということだろう。言葉は選ぶべきだ」「異動です。言葉は選ぶべきよ、清水クン」

 べたつく頭をかきむしって悪態をつき、テーブルを叩いて苛立ちをあらわすと、軽い音が大きく鳴った。誰も清水の行動を諌めず、当然の反応と流して、香取が指示棒を手のひらに叩きつけた。

「国土奪還は最優先です。北海道は広大な土地に耕作施設を作って国内の飢餓を緩和させる目的があります。それからロシアに接触してカムチャッカ半島を間借りし、ベーリング海からカナダとの接触を実現するには必要です。それから沖縄。フィリピン以南から資源の輸入を受けるために早期奪還し、強固な拠点を作り上げる必要があります。北は日本海側と東北地方の基地が担当、南は私たち太平洋側と中部以南の全基地が行います。イ、ロの二つのステージをいかに電撃成功させるかに全てがかかっているわ。国内に残された資源を全て放出してね」

「後がない。失敗すれば」口角を吊り上げて言った。「日本の終焉」

「いざとなれば大豆油でも突っ込んで戦うわ。私たちは、こんな状況には慣れてるの。勝てるかは別として」

 穏やかな雰囲気を崩さない香取が頼もしかった。壁際に立ち並ぶ艦娘も、悲観した顔のものはいない。みんな飄々としていて、むしろあれだけ辛い記憶を刻み込まれているはずなのに、楽しむような気配すらある。

 あの頃と大きく違うのは、さんざん頭を悩ませた資源の困窮に対する問題の解決が単縦明快だということ。元あったものを復旧するだけで良い。韓国だって、考えようによっては尻尾を振る相手を選ぶ嗅覚は凄まじい。南北和平によって一時期極限状態に陥った国交だが、ここ五十年の北の政治家は歴史に残るほどの辣腕である。さらに大陸に属しているから窓口として利用することができる。混乱状態のうちに文句を挟む余地がない恩を売っておきたい、という打算もあるが。

「つまり、先に国土を奪還しておかないと輸入ルートが確保できない。いいかしら」

「承知した。もう一つ、それだけ戦線を拡大すれば稼働する艦娘も増え、資源の減りも当然激増する。国土奪還から各国への接触にかけられる年月はいくらとお考えか」

「きりよく一年。実際は十ヶ月ほど。だったわよね、森友さん」

 首を縦に振って、神妙に応えた。

 そのあと自分の手元の資料から一枚紙を抜き取って、清水の方に滑らせた。見ると細かく数字が記載されている。想定される資源の増減を記したものらしいが、清水には理解ができずに、それっぽくうなずいたり唸ったりした。それを見て森友は鼻で笑った。

「司令長官着任からほぼ半年で作戦草案をまとめ上げ、秋のうちに各基地とすり合わせを完遂し、国を納得させた森友さん。一般から召集されたというのに、天才ってきっとあなたのような人のことを言うのね」

「同期の主計官が協力してくれたおかげですよ。各基地の権力者と折衝し、各方面に首を振らせたのは元帥です。私はこんな背水の作戦を得意げに提案しただけの狂人です」

 鼻持ちならない謙遜に胸焼けがしてこっそり舌を突き出したところを、しっかりヴェールヌイに目撃され、慌てて顔を引き締めた。彼女は表情を変えずに、じっとりと湿気た目で見つめてくるだけで、子供のような見た目と相反して、かなり大人びた性格に思えた。

「それじゃあ本題に入りましょうか。作戦の狼煙は私たち三基地があげるの。南方軍イ号作戦最大の目標、沖縄奪還のための。そして北方軍を少しでも動きやすくするための初手天元」

 香取は再び白墨を黒板に滑らせた。

 カツン、カツン、硬い音が文字を創っていく。

 画数の多い文字を美しいバランスで書き上げて、威厳をもって振り返った。

「小笠原諸島の奪還」

 薪ストーブがごうごう音を立てている。

 オートチェンジャーは『ティファニーで朝食を』のレコードに針を落とし、オードリー・ヘプバーンの歌声を控えめに演奏した。

 



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1

 森友の好意(怒涛の皮肉と一緒に)でこの日は哨戒を休ませ、全員が揃った。

 その晩の夕食どき情報を共有して、いよいよ大規模な作戦が発令されたことに彼女らのかしましさは鳴りをひそめて、これから始まる激動の毎日に不安を抱いているようだった。哨戒だって重要なものだが、作戦ともなればさらに厳しい戦闘が確実に起こる。隣に座っている艦娘が明日となりに座っているとは限らない日が始まる。

「この唐揚げなんでこんなにパサパサしてるの。喉に引っかかる」

「ムネ肉しかなかったんだよ、ウッセーな、黙って食え」

「ボスが肉食えないっていうのにおかずが唐揚げだけって。摩耶って乙女なのか大雑把なのかわからないわ。私物は可愛いのにね」

 顔を赤くして叢雲に掴みかかろうとしたのを止め、「違うからな!」と暴れる摩耶の肩を押し沈めて椅子に座らせた。作戦に対する質問はないかと尋ねたら、「作戦前夜はもちろんご馳走よね、毎回」と返された。片栗粉で揚げた唐揚げをかじる音が食堂のそこかしこで聞こえ、ストーブでは回しきれない暖気のせいで、大半の艦娘たちは支給された毛布を裁断し、ひざ掛けにして使っている。

「お前ら真面目に聞いていたんだろうなあ。いよいよ国が総力を挙げて戦おうってんだ、唐揚げよりもこっちに集中してくれないか」

 疲れた顔をしているのは清水だけで、彼女たちは血色よく、中央に大量に盛られた唐揚げを奪い合っていた。ついに加工肉の配給が滞りにわとりそのものが送られてきたのには頭を痛めたが、ペット兼食料として基地内の癒しに一役買ってくれているし、かと言って潰すのを躊躇する艦娘も少なかった。生かしている限り腐らない上、鶏糞を集めれば肥料にもなる。海から離れるが小さな畑も間借りした。どこかの農家が捨てていったものだが、ささやかに食料を自給自足しようと画策して、まだ土壌を作っている段階ではありつつも、春あたりトマトやとうもろこし、枝豆、大根あたりを植えるつもりだった。日に日に減っていく物資が作戦に備えた一時の節約のものか、ついに底をつき始めたのか、真実を知るつもりはない。

「お国が総力を挙げて戦うんは経験済みじゃけえ、提督は一言「やるぞ」って言ってくれりゃええよ。うちらが泣きわめいたところで状況は変わりゃあせんし。代わりに提督が出てくれるなら別だけど」

 近海掃討作戦後期に建造された浦風が言った。でれるものなら出てやりたい、清水がそう願ったところで海に浮かべるわけでないし、新しく支給された拳銃では到底太刀打ちできるはずもない。銃なんか撃ったことがないのになぜ支給するのか。酒と食い物の方がよほど実用的である。記念品の役割なのだろうが。浦風が「それともうちの戦闘服貸したろうか、意外と艤装扱えるようになるかもしれん」などとけらけら笑い、「ミニスカ姿の三十代って誰に需要ありますの。ひたすら汚いだけですわ」と熊野が顔を引きつらせた。

 早々に食事を終えた卯月が片付けに席を立ったところ、すれ違いざまに立ち止まり、挑発するような目を向ける。

「気遣いなんかいらないぴょん。司令官は何をやればいいか教えてくれるだけでいいの。うーちゃんがいるんだよ、失敗なんかありえないありえなーい」

 足柄が口を挟んだ。「卯月ったら、家出以来すっかり大人びじゃって。頼もしいわねえ」卯月にとっても家出騒動は触れられたくないようで顔を歪めて抗議した。「うるせーぴょんっ。山風いつまで食べてんの、早く行くよ」「まだ二個しか食べてない……、あ、引っ張らないで、わかった、わかったからっ」立ち上がり際に手づかみで一つ口に押し込んで手早く食器をまとめていた。口が小さいから大半がはみ出ている。

「こら、まだ話は終わってない。輸入ルート確保後の基地の話が」

「そんないっぺんに詰め込まれても覚えられないっぽい。唐揚げ詰め込んでる方がまだ美味しいよ」

「あんたの部下である私らにとって大事なのは来週の輸送作戦だけ。何をすればいいのか、何をしたらいけないのか。全体の説明をしてくれるのは嬉しいけれど、部下にいたずらに情報を与えるのは感心しないわ。知り過ぎれば判断しなくちゃいけないことが増えてしまう。私たちは戦場に立つのよ、最低限の知識があればいい」

 箸休めに味噌汁をすすって叢雲が言った。お椀を置くと同時に唐揚げに手を伸ばす。

 彼女たちがいざ始まる戦いに怯えていたら司令官として無理やりにでも戦線に立たせければならない。背中を押す一編の詩でもと色々考えていたが、杞憂だったようだ。「わかったよ、叢雲の言う通りだ。じゃあくだんの輸送作戦の詳細を話そう。前日にも確認するが、各々で改善案があったら教えてくれ。森友に伝えとくから」そう言うと新しく着任した朝潮を巻き込んでいた卯月が抗議の声をあげた。

「ええ! 今からきりたんぽ作るのにいっ」

「きりたんぽだぁ? コンロでか? 今メシ食ったばかりだろ」

 一瞬卯月の顔が固まった。

 そして思い出したように睨んできたあと、「もう、わかったよ! 早く終わらせるぴょん」朝潮の椅子に無理やり尻を押し込んだ。山風は立ったまま溜息をついた。

 古漬けを焼いた漬物ステーキを一口食べて、司令室から持ち込んだ黒板に書き込む。粉が出るからここに持ち込みたくなかった。今度ホワイトボードを発注しておこう。艦娘全員を収容できる施設がここしかないから、これから会議はすべて食堂で行わなくてはならない。

 基地らしくないが、これも富津らしくて味がある。と思うしかない。

「来週と言っても一週間きっている、五日後の水曜日から三日間かけて前線補給基地を建設するための物資輸送作戦を敢行する。場所は八丈島。それから監視基地を青ヶ島に作る。青ヶ島の建物は現地の木材で作るから機材を運ぶ一度で済むが、八丈島へは三度、一晩につき四隻の輸送船が使われる。三基地合同作戦だ、私たちに割り当てられたのは誉れにも、この船の護衛」

 要所要所を書き込んでいく。背後からは咀嚼音が聞こえているあたり間抜けな気分になった。

「輸送船はどのぐらい速度が出ますか」青葉の声が聞こえた。

「まちまちだ、寄せ集めだしな。内航海運船舶を使うから二十ノット出ないらしい。速度を合わせるために常時十二ノットで航行する。これでもモノによっては最大速力を出してもらうんだぞ」

「おっそー」島風の声がしゃがれていた。「八丈島って何キロ離れてるの? 富津から」

「二百五十弱。海里でいうなら百三十とちょっと」資料を見ながら答えた。漬物の汁が飛んで少しシミができてしまった。

「片道十時間ほっほっへほこあいあ」

 口に物を入れたまましゃべるんじゃないと注意しようとして振り返ったらちょうどよく飲み込んだところで、叢雲は唇に引っ付いた油と衣を舐めとって言葉を繋げた。

「荷物の積み下ろしは……二時間ぐらいかしら。帰り道を考えればほとんど丸一日。キツいわね」

 叢雲たちは横須賀から異動してきた川内型に演習と訓練を受けていた。あの夏の大敗北からは比べものにならないほど練度も上がっている。けれど丸一日、深海棲艦がどこから襲ってくるかわからない緊張感に苛まされることになる。訓練がどうあっても削られた精神力はなかなか回復するものでない。

 部下に無茶な命令を下すことにもいつか慣れるのだろうか。慣れてしまってはいけない気がして、イカが歯に引っかかったみたいな気持ち悪さを感じた。

「三隻は東京湾を出航し、重機を積んだ一隻が初日だけ熱海から出る。二部隊は三原島と利島の間で合流し、そのまままっすぐ八丈島を目指す。先んじて横須賀の水上打撃部隊と機動部隊が待機しているからさほど心配することもないと思うが、そこまで行けばの話な。翌日に第二次輸送作戦、さらに四日後に第三次。七日で全てを終わらせる予定だ」

「青ヶ島も同時にいくんじゃろか」至極当然の質問に白墨を置いて答えた。「二次の便に紛れる。こちらは漁船が三隻に、高速の小型貨物船が一隻。八丈島から青ヶ島まで二十四ノットで駆け抜けるが、ここは横須賀の駆逐艦に向こうで引き継がせてくれと頼んだ。さすがに辛いだろう」

「それはありがたいわ、でもなんでその貨物船初めから用意しないのよ。速度が倍ちがうじゃない」

「そんなに生き残っていると思うか? 日本から世界を股にかけていた船だぞ、ほとんどが海の肥やしになっている。漁船を輸送船扱いしている時点で察してくれ」

 文字の上から二枚の地図を重ねた。一枚はまだ深海棲艦が出てくる前の、観光雑誌の切り抜きを引き伸ばしたもので得も言われぬ滑稽さがある。細かく地名や施設名が記載されているから都合がいいのだ、もう一枚は縮尺を変え、本島と島が記載されているもの。

 島の東側の『神湊港』西側の『八重根港』に赤く丸をつけ、それから縮尺の小さい方に予定されるルートを書き込んだ。

「初日は神港港の方に船をつける。お前らに前もってもらった情報では破壊されているようだが、トラックや重機が沈まない程度には問題ないと判断した。陸のには強行上陸してもらう。二三次は八重根港につける。コースは書いてある通り」

 そこまで言って席に着き、漬物ステーキと米を口に詰めた。

 艦娘たちは食い入るように黒板を見つめて内容を頭に叩き込んでいるようだった。さすがに咀嚼音ももう聞こえずに、箸を茶碗の上に置くチャキチャキした音があちこちで生まれて、立ち上がってよく見ようと集まってくるものもいた。

 ただ一人、叢雲が漬物ステーキを物欲しげに見つめている。

「……食いすぎだ。やらんぞ」

 一瞬呆けた顔をした。すぐに「そこまで卑しくないわよ、失礼しちゃうわね!」と怒りながら、唐揚げの皿に箸を伸ばして、箸は皿を突いた。あれ、と叢雲が皿に目をやると、油を吸ったキッチンペーパーがあるだけだった。彼女の正面では古鷹が最後の一つを半分口に入れて、気まずそうに噛んでいた。

「あ、あはは。ごめん、食べちゃった」

 ほっぺたの片側を膨らませて苦笑いする古鷹をこれまた呆けた顔で見たあと小さい声で唸った。餌を横取りされた野良犬みたいだった。真剣に話を聞こうと立ち上がった周りのものも叢雲を見て苦笑いしている。

 明らかに身体が丸くなっている。顔も丸くなっているし、服だって腹の辺りが少し張っている。このご時世太れるだけありがたいけれど、同じ訓練を受けている他の艦娘は体つきがスラッとしたままだというのに、叢雲だけが太っている。原因は明白である。食う量がおかしい。太ったか、なんて口に出せば撃たれそうなので黙っていたが、そろそろ古鷹あたりにそれとなく伝えてもらった方が良いだろうかと考えあぐねて、やはりやめておいた。食えるうちに食ってもらった方がいい。作戦が始まったら忙しくなるから定期的にメシなんて食えない。動きが鈍くなったり燃料の消費が激しくなったら突っ込んでもらおうと清水は箸を進めた。

 視線がなお突き刺さっても無視した。

 まだ足りぬと、誰もいなくなったテーブルからこっそりつまもうとしたのを古鷹が止めた。

「叢雲……、あのね、あんまり食べ過ぎない方がいいよ」

「なんでよ。神通さんの訓練受けたあとっておなか空くの、あと一個だけいいじゃない」

「ううん、一個だけなら。でも……」眉を八の字にしてどうすべきか清水の方を見た。こちらに振るなと口いっぱいに詰め込んで無視する。「最後の一個だからね。それ以上はダメです」

 姉か母のようにたしなめても、当の叢雲は嬉々として唐揚げを一つつまんで、目を輝かせて咀嚼した。食べ方だけは一応女らしくして、さほど大きくない唐揚げを二口に分けて食べていた。手づかみというのに目を瞑ればだ。

 黒板を見ていた島風が肩にのしかかりながら言った。「ねーえ、補給基地の建設ってどのぐらいかかるの? その間の護衛は横須賀でやるんだろうけど、小笠原にもいかなきゃじゃん。これ、きっと工期と攻略作戦の時期かぶるよね。電撃作戦って言ってたし」

 島風の少し太くサラサラした髪の毛を撫で回して言った。「お前は賢いな。説明する、物資輸送が済んだらすぐに攻略作戦が始まる」気持ちよさそうに顔を擦り付けてくると暖かくてこの時期にはちょうどいい。彼女の戦闘服は目のやり場に困っても、今は全く露出がない。今は冬だ、艤装を展開していなければ人間と変わりないのだから当然である。

「この基地を一週間で修繕した部隊がいてな」

 叢雲が思い出したように言った。

「カーペンターズだっけ。あんたが勝手に呼んでるだけだけど」

「うん。補給基地の建設は彼らの部隊が行うらしい。それと呉から明石という艦娘が来る。工期は驚きの二週間、しかも補給だけなら三日のうちにできるようにしておくとさ」

「補給だけ? 別の施設も作るのかしら」

「簡易ではあるが、入渠施設と仮眠所も作る予定だ。あと飯場。バーベキュー広場みたいなもんだけどな」

「それを二週間でやるって? 相変わらずの化物集団ね。ごちそうさまでした」

 満足げにお茶をひとすすりして口の中の油を流していた。見ていて清々しい食いっぷりだった。

「物資と部隊を八丈島に送り込んだあと、二日置いて南烏島を偵察、奪還、そこにも補給基地を作る。したら、いよいよ敵の基地がある父島と硫黄島の攻略作戦だ。予定では来月の今頃は父島に泊地を作るため輸送作戦を実施していることになるな」

「簡単に言うけれど、どれだけ馬鹿な作戦かはわかっているんでしょう。そうなった理由も、成功させる方法も」

「電撃戦において一番の問題は補給だ。ナチの二の舞はしない。だからカーペンターズと連絡を密にして、補給基地の目処が立つまでは動かない。これを電撃戦というのか甚だ疑問ではあるが、一月のうちに補給を考慮した戦線を作り上げ、沖縄奪還までを三ヶ月でやる。八丈島は南方への橋頭堡。確実に、迅速に作り上げなければならない」

「敵基地の情報はあるんでしょうね」

 笑って答えた。

「あるわけないだろう」

「だと思った」困ったように叢雲が笑った。「一発威力偵察かまさなきゃね。私たち駆逐隊の見せ場だわ」

「休んでいる暇はなくなる。これからお前たちの顔を見ることも少なくなるだろう。寂しくなるな」

「私だってさみしいわ。だけど?」

 叢雲がいたずらな目を向けた。こういった遊びが好きなやつだ。

 期待に応えて、しっかり全員を見渡してから言った。みんな口元が緩んでいる。これから始まる反抗を待ち望んでいたと言わんばかりだった。

「やるぞ」

 かしましい声が静かな冬の夜、確かに響き、窓枠がビリビリ震えた。

 翌朝から基地内は慌ただしくなり、川内型の訓練もついにお役御免。実戦に備えて身体を休ませろと達したせいもあるが、神通一人が納得していないようで、改めて『鬼の神通』と呼ばれた艦の記憶を持つ恐ろしさを味わった。

 やることは山ほどある。

 部隊の再編成、シフト組、燃料弾薬の発注、決まった事柄を横須賀と犬吠埼に連絡、すり合わせ。他基地の艦娘たちの予定も加味して深海棲艦の行動をシミュレーションし、鈍足の輸送船を一隻も失わないように脳みそを絞る。暗号無線の取り決めや各部隊のコミュニケーションの橋渡しにも奔走、動きを見せないようにしつつ対潜警戒を厳に、今まで会敵した場所に全てチェックを入れる。艦娘の建造をストップさせ、神通たちのアドバイスに沿って装備を充実させた。一週間で足りなさそうな電探類は横須賀に貸し出してもらえないか打診した。その他細々とした合図を決めて、カーペンターズの隊長と三基地が集まって会議行い、補給施設のほか、何を最優先に作ればいいかを、あらかじめ要望を聞いておいたものを伝え、認識を合わせた(入浴施設が一位、そのあとに飯場を作れ。あとは野宿でもするという。女らしいのかそうでないのか)。

 その席でカーペンターズの隊長はこういった。

「我々は全ての輸送船に分かれて乗ります。どれか一隻が沈んでも残りの仲間が仕事をします。深海棲艦に襲撃され、どうしようもなくなった時は、遠慮なく見捨ててください」

 秘書艦として会議に参加していた叢雲は反発した。「お断りします。責任もってあなた方の盾となります。私たちはあなた方人間よりも頑丈なのです」が、隊長はこれにやんわり首を横に振った。「どんなときにも命には順位があります。人間の命は、奴らに対抗できるあなた方に比べて軽いですから」叢雲は食い下がった。「月並みな言葉だけれど命に貴賎はないの。今の私には目の前で溺れている人を救える両手があるのよ。もう、あの声は聞きたくありません」隊長は譲らない。「ならば黙って沈むよう部下には徹底させましょう。水に濡れても問題のない火薬だってあります。なに、全国に散らばっている我が隊は二千、今回の建設作業に参加するのはわずか百五十名。五十人を別に横須賀さんに置いておきますので、作戦に支障は出しません」

「そういうことではないわ」と話を停滞させようとした叢雲を、清水は片手を上げて制した。

「お前が救助活動をしている間に沈んでしまえば、お前と同じレベルの艦娘一人が育つまで部隊に穴が開くことになる。そんな奴が二人も三人も出てきてみろ、錬成された部隊が消える。その間に深海棲艦が攻めてきて人員不足なんて理由で負けることになったらどう責任取るつもりだ、この基地も、横須賀も、それから内地の民衆らもみんな死ぬんだ。いいから言われた通りにしなさい」

 そう言うと叢雲は不満を満開にさせて一歩退いた。

 会議の休憩に外に出ると、胸ぐらをつかまれて「本気で言っているわけじゃないでしょうね」などと睨んできた。「誰か一人でもお前に賛同した奴がいたか」というと上目遣いに睨みつけてきた。

 艦娘の建造一人でも軍艦そのものよりか少ないとはいえ資材を消費するし、育成は人と変わらない。物覚えのいいやつもいれば悪いやつもいる。輸送船が沈められて人材と物資が消え去るのももちろん痛いが、大規模な作戦が発令されたのだ、不用意に深海棲艦に対抗できる戦闘力を失えない。人道的に間違っていることは清水も重々承知の上で、けれど自分の命令で艦娘部隊を運用する立場であるのだから、どっちつかずな態度を見せられるはずもない。大を生かすなら小の虫を、というわけだ。

「……頭冷やしてくる!」

 ぷりぷり怒りながら去っていく叢雲の背中を見て改めて胸ポケットの煙草を取り出して火をつけた。ロングピースの濃い煙が潮風に吹かれてくゆりもせずにけし飛ぶ。腰を鳴らして大きく伸び、さてトイレにでもと足を動かしたところで声がかかった。

「お疲れ様です。お手洗いに行きたいのですが、案内をお願いしてもよろしいですか」

 隊長だった。まだ若いように見えてすでに四〇代、冬だというのに顔は色黒く、しわの一本々々に泥がこびりついているような小汚さがある。二千の兵を束ねる隊長なのだからデスクワークを主を置いていそうだが、叩き上げのために現場に出ていないと気が済まないとは挨拶時に言われたことだ。

 軽く敬礼して付いてくるよう促した。煙草をすすめると「ピースは重くて吸えません」と笑い、自分のポケットからキャメルを取り出したので火をつけようとした。が、「泊地の主人が商売女みたいなことをするもんじゃありませんよ」と断られた。ピースの比較にならないほど甘い煙の香りがする。

「珍しい煙草をお持ちだ。国産葉ではないから生産が難しいと聞いたが」

 一本取り出して隊長が言った。

「どうぞ。建物を修復したとき煙草屋のばあさんにいただきましてね、一般流通していない、外国ものですよ」

「あるところにはあるんだなあ、じゃあ交換しましょう。吸えないならどなたかにあげるか、捨てるかしてくれればよろしい」

 煙草をくわえたまま用をたして灰皿のある吹き抜けの喫煙所に二人して詰めて座った。男同士でむさ苦しくある、しかし寒さには勝たれないのだ。ピースとキャメルの、特にキャメルのナッツの香りが強く香っている。

「いや、しかし珍しい。かの大震災から先、キャメルは香りが変わったでしょう。ヨーロッパのものは元々のものに近いと仄聞していたが本当でしたか」

 吸い殻を灰皿に押し付けて、隊長はもう一本くわえて火をつけた。先ほど渡したピースだった、いつもの調子で煙を肺に入れた隊長は大きくむせた。

「ゲホッ……きっついなあやっぱり。ですがさすが、美味しいですね。いつもはエコーなんですが、車にこのカートンを積んだままでしたので、お話のタネにでもと思いまして。司令官どのにはうちの十五小隊にわざわざ酒を差し入れてくれてありがとうございます。奴らも大はしゃぎでした、味のわからない連中ですよ、響なんかもったいなくて。私宛に送ってくれればどれだけよかったか」

「ははっ、あれの在庫はありませんが、ニッカの酒ならあります。よろしければ今度」

 彼も好きモノのようでしばらく酒の話を弾ませた。

 肉体労働連中ばかりで酒の飲み方の荒さが目に余る、アルコールさえ入っていれば何でもいいという、果ては割材のような安酒を美味そうに飲むバカもいる。特に隊長は芋の焼酎が好きなようで、なのに焼酎に付き合ってくれる隊員はおらず、酒の味のわかる奴はもっぱら日本酒党ばかりで肩身がせまい、現在の芋は粗悪な原料を使っているから香りが顕著でいいのに、それをわかってくれる奴がいない。などなど。

 話好きな男だった。一を話せば五十で返ってくるのが、聞き手であることが好きな清水に心地よい。

 酒の話に区切りをつけて、かねてから気になっていた街中の様子を聞いてみた。

 清水が過ごしていた時よりも緊張状態にあると教えてくれた。海岸線六キロ以内に人はいない。内地にぎゅうぎゅうに押し込まれているものだから食糧不足ももちろん、他人と常に近い距離にいるストレスが限界で、攻撃性に現れている。憲兵を練り歩かせて軍国主義の再来だと騒ぐ左翼連中が盛り返してきて非常に厄介だ、「私たちもたまに石を投げられます」なんてあっけらかんと言う彼はしたたかだった。陰陽すべてひっくるめて国民、自衛隊時代から在籍しているから慣れたもんです、影のない笑顔で笑っていた。

 煙草も三本目に入り、これを吸ったら戻りましょうと苦い顔をしたら、隊長が言った。

「先ほどはどうもありがとうございました」

「何がでしょう」清水は本気で分からずに煙をふかした。

「叢雲さんを抑えてくれたことです。彼女のようにまっすぐ好意をぶつけられると……お恥ずかしい、意地悪したくなってしまいまして」

 清水は吹き出した。四〇過ぎてなお枯れない男だ、女性に優しくされたらあえてムキになる姿を楽しむ。あの場をしのぐなら「ありがとうございます」の一言だけ行って退けばよかった話である。

「失礼、ふくく……ふはっ」

 ツボに入ってしまいしばらく体をくの字に折り曲げていた。その様を見て隊長は冗談がウケたことに機嫌を良くして、にこやかにしていた。

 自重に耐えきれなくなった灰が指に落ちて一瞬飛び上がるほどの熱さを感じて気持ちがおさまった。半分以上無駄にしてしまったものを一口吸うと、半ばを過ぎてからくなった煙が肺を汚す。「言い方が狡いですよ」清水が言うと「お堅い会議にお疲れと思いまして」と返してくる。

「ですが事実、挺身護衛だけは絶対に行わせないよう徹底していただきたい。体力の有り余っている連中ですから、最悪泳いでどこかの島にたどり着ける可能性もあるので」

「叢雲の気持ちを汲んでいただけていれば、もちろん。彼女らのことはご存知と思いますが」

「ええ」隊長は煙草を揉み消して、清水が吸い終わるのを待った。「大戦時の記憶ですよね。艦として自分と苦楽を共にした仲間が沈んでいくのを黙って見ているしかできなかった、艦の記憶」

 どういった原理かわかっていないが、そうなっているのだからそうなのだろう、状況によく適応できる男は頼もしい。

「我々は仕事があるから生きているだけの連中です。死して護国の鬼となれ、そんな精神は持ち合わせておりません。あるのは、死ねば家族に会えるという安らぎだけなのです」

「……そうでしたか」

 インフラ整備をする部隊は雑用にも思える。だが街の修繕だけでなく、清水がしてもらったように海岸線の危険地帯へも赴く。軍事施設や発電施設なんて深海棲艦が第一目標で攻撃してくる場所なのに、そんな場所を渡り歩いて仕事をしている彼らなのだ。常に艦娘という戦力を持っている清水のような人間とは違い、襲われれば背を見せ逃げるしかない。人間の武器は深海棲艦に通用しない。

「親が死に、兄弟が死に、家内も殺され子も焼けた。天涯孤独な人間で構成されているのが我が誇り高き部隊。深海棲艦に対する憎しみは人一倍強い。我々を助けて艦娘が危険にさらされるより、我々を救助する時間は、奴らをせん滅する架け橋を造るために使って欲しい。おそらく我が隊の誰に聞いても同じ回答が得られるでしょう。大丈夫、先ほども言った通り体力はあります。仕事がある限り生きあがきます。自死は選びませんし選ばせません。そも、緊急用のゴムボートだって人数分以上積んでいますから、司令官どのから上手く言っておいてください」

 彼の目は嘘は言っていなかった。まっすぐ清水を見据え、ただし、未来は一切見ていなかった。かといって終わってしまった人間ではなく、一歩先に出てきた足場を踏んでいく刹那的な雰囲気を漂わせていた。

 彼みたいなのは今の時代珍しくない。職にもつけない子供が道端で腐っていくのを知っている。仕事という、明確に世界に根付いていることを認識できるだけ、彼らは幸せである。壊された施設を片っ端から修繕していくことが彼らなりの深海棲艦に対する復讐なのだ。強烈な絶望を乗り越えた彼らは彼らなりの真理で生きている。その気持ちは清水にも深く理解できる。

 だから少し視野が狭まっている。自分が口に出すより、やはりここは女の口から言わせた方が効果がある。

「だとよ。彼らの言うこと守れそうか」

 腰の高さほどある壁の向こうに声をかけると、銀色が立ち上がって、少しバツが悪そうに服の裾を握っていた。隊長は真後ろにいた叢雲に気づいていなかったようで飛び上がって驚いた。

「うわっ、おられたんですかっ」

「いいタイミングで声をかけろと、ずうっと私の足を蹴っ飛ばしてくれたもんですから」

「……向こういけって意味だったんだけど」

 ここの壁は下が少し空いているので、喫煙所に入る前には壁の後ろに誰か座っているのはわかっていた。喫煙所の近くにいるから悪いのだ。わざわざ隠れるようにしていたのだから、清水達がここに来るのを予想していたのだろうが。

 吸い殻を揉み消して彼女に合図を作ってやると、大きくため息をして隊長を見上げて言った。

「死にたいから助けるなってことじゃないのですね。あなたの目が生に固執しているように見えなかったものですから。失礼しました」

「あー……はは、そんな暗い顔していましたか。岩手県から荒れた道を徹夜で飛ばしてきたもので」

 照れたように頭をかく彼は年相応には見えなく、清水は自分よりも幼く見えると感じた。

 隊長どのの茶目っ気、それだけで済んだ話の、叢雲は別の言葉に食いついていた。

「でも、天涯孤独とはどういうことでしょうか」

 彼らの真理をいきなりぶった切ろうとした叢雲に、少し体が粟立った。隊長はにこやかに話を聞いているが、張り付いたような笑みに変わったのをしっかり認めた。叢雲はひるまずに、壁越しに一歩近づいた。

「敵を憎んでいるのは理解しました。というか、そんな人ばかりなのはわかっています。一体でも多く倒せなんて、言われなくてもわかってるわ。だけどね、天涯孤独だからってなに」叢雲は繰り返した。「私やこいつがあなたと関わった。あなたと繋がりができたのよ。私たちは、あなたにまとわりつくしがらみにはなれないのかしら。私だけじゃない、部隊の仲間同志だってそう。一度天涯孤独になったら二度と大事な人ができないとでもいうの」

 もう少し言葉を優しく使ってくれと冷や汗が出てきた。彼らは彼らの真理を生きてきたのだ、真っ向から否定することは、彼らの今までを否定すると同義である。どれだけ後ろ向きなものであっても否定する権利は誰にもない。言いたいことの大枠は言ってくれたが、言い方というものを考えろと額に手をやると、隊長は声をあげて笑った。

「はっはっ、いや、確かに。なるほど、そうか、叢雲さんでしたか、あなたは強い。ダメですねえ、もっと前向きに生きなくては」

「危険を冒して助けることはしない、それは守るわ。だけど考え方は改めて。天涯孤独な人間なんて狭い部屋にこもって一生を終える人ぐらいしかいないのよ。じゃないと……」

 そこまで言って言葉に詰まった叢雲の頭を雑にこねくり回した。これ以上続けさせると彼女の大事な部分が冬の空っ風に吹かれてしまう。

 叢雲には親も家族も旦那も子供も兄弟もいない。隊長が天涯孤独なら彼女だってそうなのだ。人の世に生きる人の言葉を話す、人でないもの。艦娘という種族として仲間はいるけれど、姉妹艦なんていうのもいるけれど、血のつながりがあるわけじゃない。型番としての姉妹。彼女は彼女らなりに、この世にどう紐付けされているのか悩んでいる。

 ただ叢雲は頭を撫でられることが好きでないのであっさり払いのけられたが。

「さてそろそろ戻ろう。冷えてきたし非喫煙組が怖い」

 叢雲の肩を撫でてやり足を進めた。喫煙者の肩身がせまいのは今に始まった事ではない。叢雲は小走りで清水のすぐ脇に、珍しく寄り添うように歩いた。

 司令室に戻る途中、隊長は一切口を開かなかった。

 もちろん、清水たちから声をかけることもしなかった。

 



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2

 水は上から下に流れるもので変わるものでない。

 有限であるから清水たちは忙しくあったし、迫り続ける時間に心を燃やすことができた。

 作戦決行の前日の夕食どき、所属艦娘全員の前に立ち、ちょっとした激励をした。この時ばかりは艦娘らも箸を止め、しっかりと清水を見ていた。彼が全員の視線で穴が開くんじゃないかと感じるほど熱いまなざしで、一通り話しが終わると艦娘らは彼を拍手でたたえた。

 今度こそ誰もが顔を引き締めて緊張状態にあった。

 東京湾には貨物を積んだ船が慌ただしく準備をしているはずで、横須賀の艦娘らは既に基地を出て八丈島近くに展開している。犬吠埼は北からの深海棲艦を食い止めるために防衛線を敷いているし、カーペンターズは横須賀で待機という名の酒盛りが盛況である頃だった。富津はいつも通りの夕飯の時間で、準備の総決算へ向けて、じわじわと体をおろし金にかけられるイヤな焦燥感の真っ只中にあった。

 壁には願掛け代わりに寄せ書きしたシーツが、勇ましく、泰然としていた。今日ばかりはレコードをかけるような雰囲気ではない。針を上げられたプレーヤーが事の成り行きを口を閉ざして見守っている。

「これから先の基本となる部隊編成が決まった。作戦前夜になってしまった自分の手際の悪さには閉口するが大目に見てくれ。お前たちなら誰と組んでも大丈夫だろう」

 清水は一枚の紙を黒板に貼りだした。立ち上がって見に来ようとした艦娘を目で抑える。普段部屋で埃をかぶっている軍帽をかぶって、「今から言う」と、彼女らに対し最大限の敬意をはらい、声を張った。

「第一駆逐隊」

 この日ばかりはおふざけは一切なし。卯月ですらも静かに話を聞いている。叢雲が人の話の途中に箸を置くなんてきっと初めてだ。

「司令艦・叢雲。以下、三日月・曙・春風」

 椅子がなり、今名前を呼ばれた四人が立ち上がって、清水に向けて最上位の礼をした。清水も答礼をする。

 ストーブがごうごうと燃えている。

「第二駆逐隊。司令艦・初雪。以下、夕立・朝潮」

 億劫そうに立ち上がる初雪と、対照的に、尻にトゲでも刺さったかのように立ち上がる夕立。建造間もない朝潮が一番しっかりした姿勢なのが対照的だ。答礼をする。

「第三駆逐隊。司令艦・秋月。以下、島風・涼月」

 島風が二人に負けるかと立ち上がり、椅子が大きくずれる音がした。続いて基地内で一番真面目である秋月涼月姉妹が乱れなく頭を下げた。答礼。

「第四駆逐隊。司令艦・浦風。以下、卯月、涼風、山風」

 艦娘の家出騒動という珍妙な事件を起こした卯月が一番に立ち上がり、彼女を中心にして浦風、涼風、山風が立ち上がった。全員が卯月を気にかけ、卯月は全員を見渡して、自身たっぷり含んだ笑顔を見せた。答礼。

「続いてここに軽巡をつけ、水雷戦隊としたもの」

 こう見ると数が少ない。今はともかく、異動や建造をして戦力を増やしてやらなければいけなかった。駆逐隊として名前を呼ばれたものに一度座るよう声をかけ、座る直前、彼女らの顔を一人一人しっかり見た。

「第一水雷戦隊。旗艦神通。これに第一駆逐隊をつける」

 二人が立ち上がり、神通は少しも緊張していなさそうな涼しい笑顔。が、目だけはギラギラとしていた。頭に巻かれた日の丸の鉢巻は今日びどうかと思うが、これはなるほど、気が引き締まる。答礼。

「第二水雷戦隊。旗艦・那珂。以下、能代。これに第三駆逐隊をつける」

「はーいっ」

 掛け声と一緒に立ち上がった那珂。困ったように笑う能代。凹凸なコンビだが、那珂は川内型で一番他人を目に見える形で気にかける。島風のお守りは真面目な秋月姉妹や能代に、全体の世話は那珂がしっかりと引き受けてくれるはず。答礼。

「第三水雷戦隊、旗艦・川内。以下、木曾。これに第二駆逐隊をつける」

「はいよー!」

 妹に負けじと声を出した川内が不敵な笑みをたたえて、木曾も倣って胸を反らした。攻撃色の強い三水戦。二水戦と駆逐隊を付け替えてみたが、防空と攻撃と、うまく役割を全うしてくれることを願った。初雪だって、戦いになれば意外と良い動きをする。だろう。答礼。

「第四水雷戦隊、旗艦・夕張。これに第四駆逐隊をつける」

 少し不安げに立ち上がった夕張が辺りを見渡して「声はあげないの?」と笑われていた。しっかり者で、ガス抜きのうまい娘だ。煮詰まる浦風たちのいいフォロー役に回って、なおかつこれで一つ自信をつけてくれればと思う。答礼。

 役割を分担できるように構成した水雷戦隊は使いどころさえ間違わなければシナジー効果でいい働きをしてくれるはず。彼女らの顔を見て座るように促した。どの娘も目がギラギラしている。作戦の主役になる部隊の上に立つものたちだから、うずうずしているぐらいがちょうどよいだろう。

「続いて富津泊地の主攻部隊。戦艦や正規空母は横須賀との提携で建造しないことになっているから、うちだけで作戦遂行する場合はお前たちの突破力を大いに頼ることになる。あまり気にかけずに、なんて言わない。大いに期待させてもらうぞ」

 できるだけ不遜に笑ってプレッシャーをかけた。「失敗してもいいや」と思わせるわけにはいかない。心配などしていないが、いざという時の悪者を作っておくのは必要な工程と信じている。何か失敗した時、「過度に期待をかけた」自分を恨んでくれれるよう布石を打っておきたかった。

「第一重巡戦隊、旗艦・古鷹。以下、青葉、足柄、熊野、摩耶、酒匂」

 まず旗艦の古鷹がスカートを気にしながら立ち上がり、青葉が古鷹を複雑な表情で見つめながら立ち上がった。足柄は余裕をもった振る舞いを見せて、熊野は所作美しく、摩耶が力強く。新しく着任した酒匂が最後に立ち上がった。練度不足で作戦が始まってしまったのは申し訳ないが、この戦隊は面倒見がいい奴ばかりである。戦闘になると古鷹が独断専行しがちで青葉がいつもそれをフォローする。記憶ゆえか性格か、足柄たちもついていくしかないので、純粋な富津の艦娘では一番練度の高い部隊にまとまっているはずだ。答礼。

「第一航空戦隊、旗艦・千歳。以下、千代田」

 二人はゆったり立ち上がった。横須賀から異動してきてなじむのが早かった二人、作戦に直接関係するわけではないが、彼女たちは日中に出ずっぱりになる。練度はさすがといったところで、掃討作戦から戦い続けている威風堂々した艦載機運用はこれからも部隊の空を守る要となる。航空戦は彼女らにしかできない基地だ、清水が何も言わずともプレッシャーは相当あるだろうに、そんなことは微塵も感じさせない態度で敬礼をした。

「うん」

 清水は彼女たちの顔を見渡して答礼した。座るように合図してまとめに入る。

「富津泊地第一艦隊、第一水雷戦隊。旗艦・神通、旗艦補佐、叢雲」

 神通と第一駆が息を合わせて立ち上がった。『鬼の神通』の下でしごかれていた部隊を第一艦隊に起き、必要な際は重要な艦の護衛を任せる。人手が増えれば一番に増強してやりたい部隊。神通に相談すると「今度の作戦なら今のままで問題ありません」と言ってくれた。もう、答礼はしなかった。首を一つたてに振る。

「富津泊地第二艦隊、第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第一重巡部隊。旗艦・古鷹、旗艦補佐、那珂」

 今度は誰も声を上げずに全員がバラバラに立ち上がる。椅子の音がそこかしこで鳴った。輸送作戦では艦隊は組まずにそれぞれ行動させるから出番はないけれど、小笠原諸島奪還に入れば活躍してもらう。旗艦を古鷹に置いたのは前線に出過ぎないよう縛り付ける目的もあった。

「富津泊地第三艦隊、第四水雷戦隊・第一航空戦隊。旗艦・千歳、旗艦補佐・夕張」

 ここは卯月のやる気が凄まじく、後方担当だというのに血気盛んなのが心配だった。全員が保護者みたいなものだからうまいことコントロールしてくれるだろう。千歳と夕張は頭を使うタイプだから、こちらと連絡が取れない時、戦局をみて艦隊の采配を任せることもする、艦隊全体の頭脳的な役割を持たせた。

 全員、普段のメシ時と比べ物にならないほど軍人をしていた。

 ここまで彼女らがキビキビしているのを目の当たりにしたことがなく視線が定まない。ごまかすために端から順に艦娘の目を一人一人見据えていった。

 これから始まる戦いの日々に誰も暗い顔を見せず堂々としていて、威圧に一歩下がりたくなるのをこらえた。今ここに充満している女の匂いは、戦いが始まれば硝煙と油の匂いに取って代わる。明日、誰かが沈むことだってありうる。

 たっぷり時間をかけて、「うん」と小さく言った。

「呼ばれていないものはないな。明日の輸送作戦の護衛は」「あんたがまだでしょ」

 叢雲に突っ込まれて不覚にも言葉が詰まった。それが間抜けだったらしく、小さい笑い声がさざなみみたく広がる。

 妙な気恥ずかしさがあり、つい目をそらしてしまって、それがまた面白かったようで笑われた。威厳なんてあったもんじゃない。

 頭を雑にかき回して笑い声をかき消す勢いで大声を出した。

「富津泊地司令長官、清水。私の命令は絶対だ、どんな場所でも遠慮なく送り込むから覚悟しろ。死んで帰ってきたら何があっても許さんからな。この基地の輪は完全なものでなくちゃいけない、お前らの『狭いながらも楽しい我が家』はここだ、『天により良い家』などないんだ。私を、独りにするなよ」

 全員が右足を踏み鳴らした音と震えが一つになって清水を包み込むように響いた。そして今度こそのけぞってしまった。人の上に立つとはこういうことなのかと目の前で見せられて、怖気付く自分を叱責して、笑みをたたえるように努力した。

「明日の作戦は一水戦、二水戦で行う。二水戦は先に発ち相模灘で熱海から出てくる輸送船と合流、一水戦は少し遅れて浦賀水道出口で、東京湾から出てくる船と合流。落ち合う先は以前伝えた通りだ。翌日以降のスケジュールは張り出しておくし、都度説明する。散々確認したが、分からないところは今のうちに聞きに来い」

 一拍置いた。

「わたしたち人間の明日に橋を架けてくれ。よろしく頼む」

 清水が頭を下げると同時に、もう一度足を踏み鳴らす音が響いた。

 頭を上げると、みんな変わらずこちらを見ていた。

「青葉」

「なんでしょう、鬼司令官」

 青葉のいたずらな声が立ち並ぶ艦娘の中で飛び跳ねていた。戦闘時以外はおろしている髪がわっさわっさ、とっ散らかる。

「せっかくだから写真撮ってくれ。お前にやったポラロイドカメラ、あったろ」

「んー……こっちでいいですか? 大事にしているので持ち歩いているわけではないんですよお」

 胸元のネックバンドがついたデジカメを持ち上げた。「もう一台欲しい」と駄々をこねる青葉のために八木に頼んで自腹をはたいたものだ。この手の娯楽品は安価に手に入るから懐に痛くなくとも、街へ出ることを赦されないというのは窮屈に思う。

「なんでもいい。おら、お前ら並べ、せっかくだからこのシーツの前に。……でも三脚がないな。テーブルにおきゃいいか」

「いいえ司令官」動く艦娘に紛れて目の前に来ていた青葉がふにゃりと笑った。

「青葉がシャッターを押します」

「それだとお前が入らん。みんなで撮ろう。おい那珂、お前は後ろだバカヤロウ。駆逐艦が前」

「青葉がシャッターを押しますから。ちゃんと写っていますよ、写真の後ろにね」

「ふうん」清水は鼻を鳴らして納得した。「お前がそれでいいなら」

「じゃあ司令官はどうします? 駆逐艦の膝の上にでも乗りますか、それとも古鷹さんたちの肩でも抱きますか? あれだったら寄り添わせますよお。足柄さんあたり」

 顎の下で楽しげに揺れる頭を小突くとくすぐったそうな悲鳴が上がる。

「いちゃついてないで、ほら、早く来なさい」

 真ん中をぽっかり開けて脇に叢雲がいた。清水は首を振って答えた。「主役はお前たちだから、わたしはここ」一歩引いて、いちばん端っこに立った。

「上官が端っこって聞いたことないわよ。いいから早く来なさい」服をひっつかんで真ん中に引っ張ろうとする叢雲の肩をぐるりと回して正面に向かせる。

「サッサと撮っちまえ。腹が減った」

「ええ、いいんですかあ? ……いいんなら、いいですケド。はーいじゃあ、そのまま動かないでくださいねえ」

 椅子に乗っかった青葉がファインダーを覗いて細かい指示を出していく。なるたけ目を瞑らないように意識して、押さえた肩がもぞもぞと動くのを感じたので一瞬視線を下ろすと、叢雲が首を後ろに倒して見上げていた。

「いいの?」

「ああ」

「そ。もっと偉そうにしてくれた方が頼り甲斐があるのに」

「いいんだよ」

 フッとわざわざ息を吹きかけて首を元に戻した。「真ん中誰か入ってくださーい」そこに叢雲が声をあげた。「いっそ空白のままでいいじゃない。わざわざ開けたげたのに入らないバカがいたってことを残してやればいいのよ」上官をバカ呼ばわりするのに一瞬顔が固まった。けれど周りの女たちの笑い声を聞いていたらどうでもよくなった。口で男が勝てるのは、きっと世界がひっくり返ったとしてもありえないことなのだから。

「あーい、じゃあもう一枚いっきますよおー」

「今の撮ってたの! ちょっと待って、チェック入りまーす!」那珂が騒いだ。

「さっきから何回かシャッター切ってますって。データ見せてあげますから、納得いくまでいくらでも撮ったげます、ああもう、動かないでっ」

 写真一枚撮るのにばたばたうるさいのにため息を吐く。

 肩を揺らしている叢雲の頭の上で、一つつぶやいた。

「我ら狂か愚か知らず、一路遂に奔騰するのみ……って感じだ」

 視線を前にしたまま叢雲が言った。「また古いものを持ち出してくるわね。縁起悪いからやめときなさい」

 執拗にカメラを覗こうとしていた那珂をなんとかなだめた青葉が改めて声を上げた。

「はあ……はーい、じゃあ撮りますからねー。目が乾いても瞑んないでくださいよお、那珂さんのリテイクもめんどくさいんですから。じゃあ、五枚撮りまーす。一枚目、三、二、一、はいっ!」

 全員が顔を作る妙な沈黙の中に、間抜けな電子音と、フラッシュの焚かれる音が鳴った。

「じゃあ二枚目ー。ちなみに那珂さん、バッチリ目閉じちゃってますから、フラッシュぐらい我慢してくださいね」

「ええ! すぐ消してえ!」

 

 翌日一六五○。二水戦が大島北七海里に向けて出港した。

 一七二○、時間通り一水戦が浦賀水道出口で警戒ののち、無事輸送船と合流した。

「泊地了解、以降緊急時を除き無線封鎖を命じる。……気をつけてな」

 神通の途切れがちな音声を聞いて椅子にもたれた。無線機の周りには煙草がカートンで、それからコーヒーポッドと三冊の詩集があった。山之口獏、吉野弘、細田幸平。どれも学生時代に読み込んで、ページの端は色あせ、背に跡がついて読みにくくなっている。清水は煙草に火をつけて一番上にあった獏の詩集を手に取り、適当に開くと『思弁』という詩が出てきた。

【ゆきつ放しの船舶はないものか】

 縁起でもないところを開いてしまったと煙草をひと吸いして、さて『座布団』はどこだったか、索引を見ているところにノックがあった。鼻から煙を吐き出しながら生返事し、扉が開かれて部屋の空気が一気に冷える。

「古鷹入室します。提督、ご飯どうしますか」

 ロングカーディガンの前を手で押さえ、口元をマフラーですっぽり隠した彼女の顔は食堂からここまでのわずかな距離で潮風に吹かれ、真っ赤になっていた。ずび、鼻をすすって、水っぽい音がした。「一水戦から連絡ありました?」ローヒールのブーツをゴツゴツ鳴らして清水の脇に立ち、通信記録を流し見る。「あ、たった今でしたか。もうちょっと早く来ればよかった」

 彼女に生返事をして煙を肺に入れた。耳に音として入っていても、頭は目の前の詩にとっぷり浸かっており、古鷹の言葉に意味ある返事をするだけの言葉を作り出す余裕はなかった。「提督、ご飯は」「んん」「持ってきましょうか?」「んん」「……。今日はちょっと自信作だったり」「んん」「『楽の上にはなんにもないのでしょうか」「んん」「もう!」急に首に負担がかかって、慌てて煙草を持つ左手を前に突き出した。右頬がくすぐったくて目をやると、古鷹の髪の毛がわっさり視界に広がっていた。

「古鷹、重い」清水が言うと、顔の真横で彼女が頭をぶんぶん振った。髪の毛が顔を叩くから余計にくすぐったくて、体を傾がせて避ける。

「悪い、メシなら持ってきてくれないか。ここで食う」

「せっかく酒匂の初秘書なのに仕事うばっちゃって。落ち込んでいますよ」 

「あー……謝っといてくれ。それか連れてきてくれ。今日ばっかしはちょっと、私が待機するから」

 頭の上でため息を吐かれてつむじが涼しくなった。

 作戦初日ぐらいは許してほしい。別段、自分が無線機の前にいようがいまいが何か変わるわけでないけれど、彼女らの安否と、作戦の成功をいの一番に知りたいのだ。哨戒に出すのとわけが違う、明確な命令を与えて海に出した彼女らを思うことぐらい、泊地の主人として当然のことと思っていた。

「わかりました。ちょっとごめんなさい」

 体を乗り出して無線のマイクを放送に切り替え、古鷹は『食堂』と書かれたボタンを押したまま、清水の耳元からマイクに向かって言った。「酒匂ー酒匂ー。提督のご飯を司令室に持ってきてくださあい。厨房に置いてあるから」そんなことにいちいち放送を使用するな、右手で古鷹の頰をつかんで振り回すと間抜けな抗議の言葉が上がった。何を言っているかわからなかった。

 作戦を実施している間は非日常を意識するために食事の時間を一時間ずらしてある。ここ半年染みついた生活パターンが感じる違和は、戦場に立たない自分からしたら唯一実戦を感じることができる。

 まとわりついて離れない古鷹に何か一曲かけてくれと言い、最後の一口を吸って吸い殻を灰皿に押し付けた。いがらっぽくなった喉をコーヒーで戻す。空っぽの胃が耐えきれずにキリキリ痛んでわずかばかりの吐き気を催した。

 レコードに針が落とされて聞こえてきたのはサイモン・アンド・ガーファンクルのセントラルパークライブ。いつか叢雲と一緒に聞いたきりだった。古鷹はポットからコーヒーをマグに入れて清水の視界から消えた。木のきしむ音がする。秘書席についたようだった。衣擦れの音がする。外套を脱いでいるのだろう。一言も話さず、『明日に架ける橋』に耳を傾けていた。

 最後の大サビに入ったところで、扉の向こうから声がかかった。

『ご飯持ってきたよー。あーけーて』

 古鷹が返事をして扉を開けた。寒そうに歯の隙間から息を漏らす酒匂が五つの白い饅頭を皿に乗せて部屋に入ってきて、酒匂は一瞬清水を見た。

「酒匂」本に目を落としたまま清水が声をかける。

「ぴゃいっ」

 手に皿を持ったまま姿勢を正すものだから、饅頭が転がって落ちそうになった。手招きして先に皿を受け取る。それから笑いかけた。

「今日だけは無線手をやらしてくれ。お前じゃ不安とかそんな理由じゃなくて、病的に心配性な私が悪いんだ。次はちゃんとお前に任せるから。ごめんな」

「ええっ」本気で驚いたように目を丸くして、酒匂は清水と古鷹を見た。「ちょっとなんで酒匂謝られてるの? 古鷹ちゃん、なんか言った?」

 古鷹を見ると楽しそうにコーヒーをすすっていた。「酒匂が仕事とられて落ち込んでるって。今日一日元気なかったから」

「違うよぅ……。ただ、司令が最近忙しそうだから、体が心配だなって思ってただけ。もー、変なこと言わないでえ」

 足を踏みならして不満をあらわす酒匂を見ながら饅頭を割った。中には高菜が入っていた。「中華まんか、よく作ったな」清水が言うと、「夕張に蒸し器を新しく作ってもらったので。レパートリーが増えます」とはにかんだ。一つ噛み付くと高菜の塩梅よく、衣ももちもちしていて程よく甘い。

 初めから古鷹たちもここで夕食をとるつもりだったようだ。「これとこれはお肉ですから。ほら、酒匂」と皿から一つずつ取って食べ始めた。濃く味付けされた焼豚の香りが漂って少し気分が悪くなり、コーヒーをがぶ飲みしてごまかした。

 中華まんを平らげて三人で一服ついていた時、無線機がモールスを受信した。暗号化された信号を自動翻訳したロール紙が吐き出される。

「『She's Loaded』二水戦が無事、輸送船と合流したとさ。これから南進するって」

 酒匂が歓喜の声をあげて、古鷹がそっと息を吐き出した。

 このまま二水戦は伊豆半島を右手に見たまま進んで利島と大島の間を抜け、南東に進路をとるはずだ。進路上で一水戦の護衛する輸送艦隊と合流する。現時刻が約一八二○、合流までざっと三時間ほど。輸送船と邂逅しただけでようやく作戦が始まった段階。安心などしていられない。『泊地了解、以降無線の使用を禁じる』そう返信して、横須賀と犬吠埼に電話を入れた。それからホワイトボードに大きく書かれた項目のうち、A段階に打ち消し線を入れ、また煙草に火をつけた。

「吸いすぎると毒ですよ、提督」煙たそうにしていた酒匂のために古鷹が窓を開けて換気した。凍みる風が一瞬で淀んだ空気を吹き飛ばした。

「落ち着かないんだ。大島と三宅島の間は一番会敵する確率が高い。輸送船を守りながらだと自由に動けるわけじゃないし、もし夏ごろみたく戦艦級や空母が出てきたらと思うと」

「大丈夫ですって、あれ以来戦艦は見ていないし、夜だから空母はお休みです。潜水艦だって、あれだけ対潜哨戒して何もいなかったじゃないですか。横須賀さんが南、犬吠埼の艦娘たちが東を抑えてくれているんです、叢雲たちなら大丈夫」

 悪夢を見た子供をあやすような口ぶりだった。が、今の清水には一番効果的で、「そうか、だよな」煙草をくわえて大きく伸びをした。景気良く骨がなって、鳴るたびに酒匂が感心したような声を漏らした。

「男の人ってそんなに音なるんだねえ。んー……んっ、ふんっ」

 酒匂が立ち上がって体をひねったり首を倒したり色々やっても衣擦れの音がするだけ。いたずら心が沸いて、火を揉み消し、酒匂の肩を持って体をひねりながら後ろに倒すと、控えめにいくらか音が鳴った。無理に鳴らしたせいで痛かったようだ、腰を押さえて唸り始めた。呆れた古鷹が清水の二の腕を叩いて、「子供じゃないんですから」とじっとりした目で見てきたので、笑ってごまかす。

 お風呂に入ってきます。そう言って酒匂は退室した。風呂あがりにまた来ると言っていたが、来たところで、一緒に無線機の前であくびをするほかない。「お前も入ってきたらどうだ」古鷹に言うと、「私はお夕飯作る前にいただきました」と返された。言われてみれば、さっき髪の毛を目の前で振られた時、シャンプーの匂いがしたような気がする。女の匂いというのは男には複雑怪奇だった。

 針をもう一度同じレコードの上に置いて、また儚げでさもしい二人の声に沈み込む。古鷹はよくわかっていて、一言も声をかけず、一緒に歌声と民謡調の伴奏の中に入り込んだ。

 けれど最後のサビに入る前の一節に古鷹が反応した。

「叢雲と二人でこの曲を聞いたそうですね。やっぱり『銀の少女』だからですか」

 鼻で笑ってやると、「むう」と不満げにしてマグを置く音が聞こえた。いくら消化を助けると言ったって、コーヒーの飲み過ぎだ。

「クサすぎるだろ、流石にそこまでキザにゃなれん」

「私の目の前で『花に香りがなかったら』なんて吟じておいて、それは今さらだと思うんです」

「でも少しゃ元気になったろ」

「はい。ですが、なんでそれ以降このレコードかけていないんですか。これだけ貸し出しも禁止でしたよね」

 紙ジャケの裏表を見ながら古鷹が続けた。「特別な思い入れのあるものですか」首をかしげた。

 清水は答えた。

「ただ好きだからここに置いておきたいだけ。思い入れなんて、そんなものどのレコードにだって詰まっている。どれもさんざん聞き込んだものばかりなんだから」

「そうだ、提督の学生時代のお話してくださいよ。どうせ今日はずっと起きているんですから」

 椅子を引きずって隣に行儀良く座った古鷹の頭をわしわし撫でて、言葉の意味を消化して彼女の顔を見た。

「はあ、お前も起きてんのか?」

 カーテンを閉め切っていて外が見えない。暖色のランプに照らされた古鷹の、色の違う瞳が清水を見つめていた。

「もちろんです。私だって心配ですし」

 頭に置かれた手に自分の手を重ねて顔を伏せた。髪が顔をおおって表情が隠れる。

 言及はしなかったが、叢雲が無事古鷹とのわだかまりを克服したのは、二人の距離を見ればわかることだった。基地内にいる時はどこに行くにも一緒、メシもほとんど隣同士で食べる、海に出る時は必ず片一方が見送りをする。二人して夜に酒を飲みに来ることもしばしばあった。無神経な一言だったと頭をかく。詫びのつもりでもう一度頭をこねくり回して、うっとおしがられて手を払われた。

「雑ですっ」

 乱れた髪を直しながら怒ったフリを見せられて、「悪かった」と謝った。どちらの意味にとってくれるかは彼女に任せる。

 自分の話をするのは苦手だった。終わってしまった面白くない結末が待っているから、今はもう少し未来のある話をしていたい。

「私のつまらん話よりこの場所の話をしよう。あの夏の日、叢雲と何を話したんだ。お前らがべったり仲良しになったのはわかるが、あいつがどう踏ん切りをつけたのか知りたい。後学のためにも教えてくれると、これから迎える艦娘たちへの接し方を考えられる。お前ら二人の内緒というなら無理には言わんでもいいけれど」

 かといって話題豊富な人間ではなかったから、あえて、今まで触れていなかったことを無理に挙げた。「いっつもそうやってお話ししてくれないんですから」そっぽを向いて膝の上に置いた手太ももを叩いて苛立ちを表した。

 じっと彼女が話し出すのを待つ。

 片眉をあげてこちらを見た古鷹と目が合う。しばらく見つめあった後、ため息して「その目、やめてくださいよお」と体を縮こませ、「……大したことは、っていうと失礼ですね。それにずっとおしゃべりしていたわけじゃありませんし。叢雲が起きたの、入渠が終わる十分前ぐらいですよ」しぶしぶ答えてくれた。

「……俺がドックまで付き添った時は、途中ずっと呻いていた」

「中でも変わりません。隣で自分の名前呼び続けられるって恥ずかしいです。返事するにもあの子の意識がないのはわかりきっていましたし、手を握ってあげるにも、ドックの間隔が広くて届きませんし。私だって疲れてすぐ眠ってしまって、起きたのはあの子の目が覚めるちょっと前。叢雲も静かな寝息を立てていて、妖精さんが艤装の調整をする音があって……。だけどちょっと寝返りを打った水音で、あの子が目を覚ましました。寝ぼけたような、とろんとした目で私を見て、『おかえりなさい』、だから『ただいま』って。それだけです」

 清水は間をおいて相槌を打った。叢雲の言った言葉にどれだけの意味が込められていたのかを察して、もちろん古鷹も理解したから、それ以上何も言わずにいるのだった。元から叢雲の杞憂である。

 あの日の出撃前に古鷹が清水の元へ立ち寄り、『戦闘艦・叢雲の最期を教えてくれ』と言った。手短な説明だとしても、『戦闘艦・古鷹』を捜索に行ったことで沈んだとあれば、思うこともあったはずだ。ただ記憶を持っているだけで、かつての艦船と、艦娘になった今とではまるっきり違う存在だとしても。経験していないただの記憶だとしても。

「……そういえば青葉は。確か、お前が沈んだのは」「私は沈んでないですって。ここにいます」

 わかってはいることだが、いざ本人から口に出されると頭が一瞬こんがらがる。確かに彼女は沈んでいないが、彼女は『古鷹』なのだ。

 二の腕を叩いて抗議されて、会話の間を持たせるために煙草をくわえたら、今度は火を取られた。吸うなということだろう。いじけたように口から吐き出すと、煙草は意外にも飛ばず床に落ち、「だから子供じゃないんですからっ」と二度目のお叱りを受けて煙草を拾った。

「青葉は同じ部屋ですもん、もちろんお話しました。何でみんな、深刻になるんでしょうか。気にしてないって言ってるんだけどなあ」

「そりゃお前、『戦闘艦・古鷹』がそれだけ壮絶な最期だったからじゃないか」

「だからそれは『戦闘艦』です。今いる私は記憶があるだけで……ああもう、頭がこんがらがってきたあ!」

 ぶんぶん頭をふるとシャンプーの匂いか、元々の匂いか、とにかく古鷹の匂いが撒き散らされて、隙間風が拡散させた。どうも変な気分になってしまって彼女の手からライターをもぎ取り火をつけて思い切り吸い込んだ。「もう!」古鷹は椅子を引きずって、半歩分ぐらい下がった。

「青葉は……『古鷹』が沈んだ後、どれだけ頑張ったか教えてくれました。ここにきた初めての夜、提督から教えていただいたあの戦いの結末も、もう一度。その直前、『青葉』は浮き砲台になって、それで終わりましたって。『謝らないよ。謝っちゃったら、頑張った『青葉』が、全部無駄になっちゃうから』って言われました。私はなんて返せばよかったんでしょうか、『うん』だなんて、笑ってくれたからいいけどバカみたい」

「それがあいつの真理なんだろうな。そうか、あの時頑張ったことが無駄に……『青葉』というのは……なるほど」

 何か糸口がつかめそうな気がして燻って消える煙の行方をじっと見ていると、煙が大きくたなびき、椅子が滑る音が大きく響いた。

「悪い、気分悪くなったか」

 慌てて火を揉み消して、もたれてきた古鷹の背中をさすった。

 窓を開けようとして立ち上がったところ、「いえ、大丈夫です」と裾を掴まれて、椅子に押し付けられる。清水はしなだれてきた彼女をどう扱えばいいかわからずに、ただ黙って肩を貸していた。

 呼吸で上下する体の動き、息の音、少し身じろぎされる動きを逐一感じる。時折顔をすりつけるようにしたり、大きく深呼吸したり。裾をつかんだ手が、赤ん坊が差し出した指を握るみたいに強弱つけている。椅子の肘掛がなければぴったり寄り添ってくるのではないかと邪推するほどに近くに古鷹がいた。ストーブの薪がぱちぱち弾ける。それ以外には、二人の息の音。風の穏やかな夜。

「どうしたんだ、眠いか」

「いーえ。ただ……ただちょっと、思い出しちゃって」

 何を、とは聞かなかった。改めて自分の無神経さをかみしめて、一言「すまなかった」と謝った。

 子供の頃の記憶に時折心に波を立たせるのと同じ。まして体をズタズタに引き裂かれ、いわば惨死を迎えた記憶。迂闊なことをしてしまった。「私ので悪いが」片手で自分のマグにコーヒーを入れて、静かに息をしている古鷹に渡した。「ありがとうございます」と両手で受け取り、一口すすって、体が熱さに驚いて少しだけ固まった。一挙一動が全て伝わる。

「生き物でいられるっていいですね。悲しい気持ちにもなれるし、嬉しくもなれるし、冬はこんなに寒いのに、コーヒーはびっくりするぐらい熱い。提督も……提督にも……」マグを目の前のテーブルに置き、一瞬何か思案したような顔を見せ、今度こそ肘掛を乗り越え、体を摺り寄せた。「あったかいなあ」

 抱きつくようにしている彼女の差し出された頭を撫でてやった。彼女の辛さをわかってやることができなかったから、どうすれば慰められるのか、どうしてやれば心を落ち着かせてやれるのか、その答えが見つけられなかった。撫でられるたびに鼻をならすのが犬とか猫みたいで、まして彼女の傷をほじくり返してしまった状況で劣情など抱けるはずもなかった。短い髪の毛を梳いてやると、もぞもぞとくすぐったそうにする。上半身をそらして煙草を一本取り出し、清水にくわえさせた。

「いいですよ、吸ってて」

 真下から見上げられる。「さすがに目の前にお前がいるのに吸えるか」煙草を外すと、手から煙草をもぎ取って、また口に押しつけた。「吸ってください」

 頑なに吸わせようとする。

「上司に毒を薦めるのか」清水が笑うと、今度はライターを取り出して火をつけた。

「はい、どうぞ」

 ここまでお膳立てされるのなら吸うしかあるまい。差し出されたライターのぼんやりした明かりに煙草を差し入れて少しだけ吸うとすぐに火がつき、初めの一口の、一番香り高い煙が二人の周りに燻った。間近で煙を受けた古鷹が少しむせ、毒から逃げるために清水の胸に顔を押し付けた。深呼吸した息が服を抜け、胸元が生暖かくなる。

 古鷹が言った。

「この匂いを嗅いでいると、私は私なんだって思います」

 哲学的な問い。だから清水は口を閉ざす。こういったとき、無理に話を返すのは愚かさをさらけ出す。

 古鷹は続けて言った。「服にも、髪にも、肌にも、身体中にこの匂いが染み込んでいたら、安心して海に出れる気がするんです。私の帰るところはここなんだって、この広い海にひとりぼっちになったとしても。深い深い、海の底にいってしまったとしても。ずっと……。……。みんながいる基地のことを思い出せます。自分の想いで、ここへ帰ってこられます」

 くわえたまま煙をふかして、力を込めて抱きついてくる古鷹の肩を撫でた。そのまま寝入ってしまいそうな甘い声だったから、いっそ寝かしつけてやろうと思った。うぬぼれるわけではないが、ここまで体を預けてくれるのだ、彼女だって幸せに寝付けるだろう。

 古鷹率いる第一重巡戦隊は三次の輸送部隊護衛に就く。さんざん情報封鎖をしたから今日出た一次部隊はあまり会敵せずに行ける予想が立っていても、明日の二次部隊には多くの敵部隊が押し寄せてくるはずで、だからこそ三日連続で作戦を行うことは危険だと判断された。数日空ければ肩透かしを食らった敵が少なくなるかも、なんていうのは結局戦略というのは予想でしかなく、敵がどう動くのか予知することはできない。八丈島に攻め込む敵の主力艦隊にたまたま当たってしまう可能性もあるのが、三次輸送部隊。一番危険とも言えるところに配置してしまったからこそ、弱気になっているのだろう。

 基地の主人として、彼女を戦場に送り出すものとしてできることは、不安がる彼女のしたいようにさせることである。意を汲むことである。一晩中自分のそばにいれば嫌でも煙草臭くなるからこんなにくっつく必要はない。だが、そうしたいのならば、一本分ぐらいは甘えさせてやろうと、背中に手を乗せて存在を感じさせてやった。肘掛だけはどうにもならないが、わずかに体を古鷹に向けて、楽な体勢になれるよう調整してやる。すると、「あんまり動かないでください」と怒られてしまった。いつもは朗らかでどことなく気丈な古鷹だが、ここまでべったり甘えられるのは提督冥利に尽きる。胸の奥がポカポカして、腹の奥がむずがゆい。惜しむらくは、彼女を守る立場でなく、守られる立場にあることだった。

 あと一口で吸い終わろうとする頃、体をひねって古鷹が顔を上げた。

 間近に彼女の顔を見る。色の違う瞳が、うすらぼんやりしたランプの明かりを伴って、清水を映している。

「提督って、奥さまいらっしゃったんですよね」

 火を揉み消して答えた。

「昔の話だ」

「聞きたいって言ったら、話してくれますか?」

「……」

 息がかかるほど近い距離で甘ったるい話し方をする古鷹の真意が溶けていく。しばらくの沈黙を否定と捉えた古鷹が、また顔を押し付けて、「これもダメですか」とちょっと拗ねた声を出す。

「面白くない結末だから。今話したら士気が下がる。私の」

「なんですかそれ」また顔を上げた古鷹が言った。「聞きたいです。提督がどんな人を愛されたのか。人が人を大事に思う感情が、私のような艦娘にも理解できるのか」

 真剣な口ぶりだった。

「艦娘を人というのはおこがましいが、きっと変わらないよ。艦の記憶を持った娘が艦娘なんだから。叢雲を心配したり、戦いを不安に思ったり、ここに帰ってきたいと思ってくれるのだって人と変わらない、感情があり、考える頭を持った、人間と同じだ」

 胸元から体を起こして清水の真正面に顔を置いた古鷹がが、熱っぽい瞳で言った。

「でも聞きたいんです」

 彼女が清水の頰に手を当てた時、部屋の中が感傷もへったくれもない白い光で覆われた。飛び上がるみたいにして古鷹が清水から離れたと同時、入り口から声が聞こえた。

『やばっ』

『あんたバカじゃないの! フラッシュ切らないでどうすんのよっ』

『ダメだもう気づかれた、ズラかれっ。おいこら酒匂、ボサっとしてんじゃねえ!』

『ぴゃああ!』

 ……。

 何人かの足音が遠ざかっていく。

 顔を入り口のドアに向けて固まっていた古鷹がゆっくりと立ち上がり、「ちょっと大声出しますね」とわざわざ断って、窓を開けた。通り道を見つけた風がドアを全開にする。

 両手を合わせて謝罪の体勢をとる熊野がいた。

「第一重巡戦隊集合! かけあーしっ! ……提督のご命令です!」

 冬の空にこだまをさせるぐらいの大声は初めて聞いた。

 よく通る声だ、耳が痛い。

 

「もうそんなところで許してやれよ」

 床に座らされた重巡部隊が足を痺らし苦しそうな顔をしている。まだまだ話し足りぬとマグを大きくあおった古鷹が大きく息を吐いた。よくもまあ、これだけ話を続けられるもんだと感心する。いい加減声も枯れているし、灰皿も剣山の様相。ストーブの燃料も三度補給した。その間懸念していた無線は一切入らず、純粋な説教だけが司令室の中にあった。

「じゃあ最後に青葉。写真消して」

「あはぁ……わかりました……」三十分ほど前から頻繁に足を組みかえていた青葉が答えた。だが間髪おかずに追撃がある。「今、ここで、私が見てる前で」「わかった、わかったからぁ」床に置いてあったカメラを渡して操作の仕方を早口で伝え、自分の手で画像を消去してくれと言った。「……ああっ」しかし、目を吊り上げて青葉をにらむ古鷹の怒りの熱が盛り返す。「こんな写真! 変なの全部消すからね!」青葉はうつむいたまま「なんでもいい……です……から! もう、いいですか」と震える声で言った。一心不乱にデジカメをいじる古鷹は返事をしない。どんな写真か気になって清水が覗き込むと、胸元にかき抱くようにして、「絶対ダメです、見せません!」と慌てる。

「も、ムリ、限界!」

 青葉がころげるみたいにして立ち上がった。そのまま部屋に設えられたトイレに駆け込んで、すぐに水が流れる音がした。

「ずりいぞ青葉ァ!」今度は摩耶が立ち上がって外へ出た。巻き上げた風が入り口近くにあった、輜重部隊に提出する書類を巻き上げていく。足柄が片付けもせず追いかけ、熊野がため息をついて足を崩した。

 急に閑散とした司令室をカメラを抱えたまま呆然と見つめている古鷹に「みんなお手洗いですわ」足を揉みながら熊野が言い、「酒匂、あなたももう足を崩しなさいな」と続けた。

「二時間も話続ければ当然でしょう。あの人たちお酒入っていたし」

「そんなに話してた?」

 愕然といった風な顔をする。

 トイレから二度目の水が流れる音がして中から出てきた青葉が言った。

「青葉が悪いから黙ってましたけどぉ……察してくれてもいいじゃないですか」

 ちらと清水を見、小さい声で唸る。唸られてもどうしようもないので、清水は剣山になった灰皿の中身をゴミ箱に入れて、散らかされた書類を片付けた。部屋に直結しているので、普段艦娘たちがここのトイレを使うことはない。

 説教中、何度か「トイレに行かせてくれ」と懇願があった。そのたび無下に却下して話しつづける古鷹を絶望した目で見つめる三人の顔は面白かったとしても、ここで漏らされたら後始末が面倒なので、想像しうる限界であろうところで声をかけたつもりだ。後の二人が間に合ったかどうかは知らない。今度は古鷹が平謝りしながらデジカメを持ち主に返し、「きれいに秘蔵写真だけ消えてますねえ……」などと遠い目をした青葉に「人様に見せられない写真なんか残させるわけないでしょ」とぷりぷり怒っていた。耳に珍しい。清水と話すときは敬語か準じた言葉遣いだから、砕けた話し方の彼女の声が新鮮なのだ。

 コーヒーを淹れなおして大きくあくびをし、頭をリフレッシュするのに清水は少し席を立つ旨を告げ、冬の夜へ足を向けた。外套を羽織っても突き刺さる潮風が即座に体温を奪い歯の根が合わなくなる。風上に背を向けて煙草に火をつけ、便所に向かった。彼女のすぐ後に入るのは気が引けたからだ。冷えて動きが鈍くなった手で用を足し、そそくさと司令室に戻ろうとして、道の途中にこちらに来る人影が、雲に隠れた月明かりの下の闇に紛れていた。

「誰だ」

 足を止めずに軽い調子で声をかけると、「古鷹です」と返事があり、影は小走りに近づいてきた。色の薄い左目が、宵闇の下で、猫の目みたいに光っている。口元まですっぽり隠したマフラーからは白い息がもうもうと上がって、両手はポケットに突っ込まれたままだった。この寒さでは無作法だとなじる気にもなれず、二人して司令室への道を往く。古鷹は、トイレに向かうわけではなかった。

 途中、おずおずと話し始めた。

「あの、さっきのこと、みんなには……とくに叢雲には言わないでくださいね。青葉たちにも釘さしますけど」

 返事代わりに煙をふかして眉根を寄せた。「説教のことか」と言うと、「違いますっ」二の腕をぱしんと叩く。

「えと、だからぁ……甘え、そう、甘えちゃったこと、です」

 話すごとにうつむいていく古鷹である。突き出された後頭部の髪の毛を逆立てるように撫でまわして、つんのめりそうになった彼女の肩を支えた。

「わかったわかった。不安な気持ちを恥じるなとは言わんが、うん、お前がそうしてほしいなら、私はその通りにするよ」

 なでられるままにして足を進めている。司令室はそう離れていない。短い髪の毛が指の股からはねている。

 寒さを緩和させようと体を摺り寄せてきた古鷹が腕を組もうとした。が、左手に煙草を持っていた清水が腕を上げたせいで望みは達成されなかった。不満そうにする彼女に煙草を持ち替えた腕を借してやり、そのまま会話を続ける。

「ありがとうございます」

「恐怖を恥じるなとは言わない。お前には旗艦を任せているし、うちの主力部隊だ。私にできることならなんでもしよう。いくらでも甘えてくれ。それぐらいしかできんのだし」

「ううん、そりゃあ不安に思うことはいっぱいありますけど、正直緊張はあまりしないです。というか、旗艦は私じゃなくて青葉の方が適任だと未だに思います」

「そいつは本人に直接言え。私は各人の希望をなるべく通しただけ」

「希望?」

 古鷹が首を傾げたと同時、少し先の草むらをかき分けて人影が出てきた。

「ああもう、ちっくしょう、最悪だ……」

 摩耶だった。

 彼女はこちらを認めて、あからさまに体をのけぞらせる。雲が流れ、澄んだ大気から入ってくる月明かりが顔を照らし上げた。

「なんで草むらからお前が出てくるんだ。……まさか」

「あー! わー! うるせえ、黙れ、何も言うなあっ」

 上官に暴言吐きやがって、そんな文句を言う前に摩耶は背を向けて走り去った。

 いい歳した女が、などとわざわざ沽券を下げることもない。今あったことを忘れようと古鷹に一発張り手をかましてくれと冗談で頼んだら、「上官に手を上げられるわけないですよ」と困ったように笑われた。

 司令室に戻るとくだんの摩耶が顔を赤くして清水を睨みつけた。「とばっちりだ」両手を上げ、もったりした熱気の部屋には暑く感じる外套を脱いで、それを古鷹が受け取り、コートハンガーへかけた。通信記録を流し見ても自分の部隊に関係したものはなかった。ため息とともに椅子に腰掛け、軋みを楽しむ。

 遅れて足柄が帰ってきて、全員揃った重巡部隊がにぎにぎしくなった。元凶な上に、一番近いトイレをかすめ取った青葉が摩耶に罵倒されている。清水が「足柄はトイレまで行けたのか」そう言うと、秘書机の上にあったボールペンを投げつけた。

「はいはい、この話題はおしまい。けが人が出ますわ」

 手を鳴らして事態の収拾を熊野がとった。今日一番冷静なのは彼女である。壁際に追い詰められていた青葉が胸をなでおろし、清水は投げられたボールペンを手遊びに回してコーヒーを飲んだ。一番の懸念だった写真のデータを消せたことで古鷹ももう何も言わずに、黙って清水の横の椅子に腰掛けた。熊野はレコードラックを漁り、サイモンアンドガーファンクルのレコードを丁寧にしまうと、今度はグレンミラー楽団のレコードに針を落とす。ビッグバンドジャズのブカブカした管楽器が演奏され、淹れたばかりのコーヒーをポットから、全員分用意した。「あ、いいよお熊野ちゃん、私がやるから」一番後輩という負い目からなのか酒匂が働こうとしたのを「ここまでやってしまったんですもの、いいですわ、座ってて」と柔らかい口調で断った。目の前で先輩に働かせているというのがどうにも落ち着かないらしく、熊野は困ったようにしながら「じゃあ、配ってくださる?」と言うと、ぱっと顔を輝せて受諾した。あまり下っ端根性を染みつかせてもらっても困るのだが、やらせたいようにするのが富津である。清水は一連の流れを黙って見ていた。酒はないのか、摩耶と足柄が文句を垂れながら勝手に机を漁り始めたので、自分の部屋から持って来いと一喝した。

 無線機がせわしなく、飛び交う電波をつかんでいる。全国の基地が慌ただしくしている中、まさに作戦を実行中であるこの基地、この場所には、いつもと変わらないような、張り詰めたものではないドタバタさがあった。戦の勝敗は準備が八割を占める。作戦が発令されてわずか一週間、それまで森友たちが動いていた半年間、果たして国を賭けたこの戦、準備が十分なはずがない。

 飲みかけの一升瓶を抱えた摩耶と、倉庫から新しい瓶を抱えた足柄が戻ってきた。味が混ざるのなど気にせずに酒を注いで回る。見目麗しい、駆逐や軽巡とは違った、妙齢に見える摩耶たちから酌をされるのはやぶさかでない。が、緊急の時に頭を働かせておきたいから、清水は断った。

「いいじゃない一杯ぐらい。私知っているのよ、提督ってお酒強いの」

 足柄が顔を近づけてわずかに酒臭い息をかけてきたので、フッと息を吐き返してやった。「んにゃあ」、情けない声を出して顔を背ける。

「あいつらが海にいるのに、私だけ美人に酌をされて鼻の下を伸ばしているわけにもいかないんだよ」

「口が達者ねえ。女所帯を一人で束ねる男は大変だ」

 封する金具を外して清水のマグに遠慮なく注いだ。口切なのだからせめてコーヒーの香りが移らないようにして欲しいものだ。基地全体で考えれば、平均で一日四本の日本酒が空いているからいまさらではあるが。いらないと言っているのに、しかし注がれたからには飲まざるをえない。足柄の手から瓶を奪い、返杯をして、全員何かしら飲み物を持っていることを確認した。

「じゃあ作戦の成功を祈って、乾杯」

「そんなの祈らなくたって成功しますわ。もっと別のものに乾杯してくださる」

 あげた腕を下げて清水が眉根を寄せた。

「いちいち小うるさいやつだな。何に乾杯すりゃいいんだ」

「何んでもいいですけれど、もっと明るいものに。まだ始まったばっかりですのよ、神頼みみたいな辛気臭いのは後でやればいいことですわ。それに、こういう時の音頭は青葉が得意ですの、ね」

「ええ、無茶ぶりはやめてくださいよおっ」

 隅っこでおとなしくしていたのに、急に白刃の矢が立ちぶんぶんと顔を横に振った。白に近い、薄紫色の髪の毛が波打つ。

「誰のせいでこんな硬い床の上で正座させられたと思っているんですの。わたくしと酒匂をお風呂から引っ張り出して『古鷹さんと司令官が二人きりです、見に行きましょう』なんて。おかげで湯冷めしてしまいましたわ」

「う、お酒のせいですって……。まあ、酒飲みってのは酒を飲みながら反省するものですけど」

 ぶつぶつ文句を言いながら立ち上がった青葉が部屋を見渡した。「あまり皆さんに注目されるのは得意ではないんですよう」体を丸くして居心地悪そうにした。摩耶と足柄の「早く酒を飲ませろ」という囃しにヤケになってマグを掲げた。

「わかりましたよっ。では、我ら最大の反抗作戦が開始されたことを祝いまして、乾杯!」

 酒をこぼす勢いで全員がマグを掲げた。近場にいるやつと打ちならすものもいる。一斉に口をつけている静寂の後、ゆるやかに雑談の飲みが広がっていった。清水も一口だけ舐めるようにして、酒匂にコーヒーを持ってくるように申しつけた。

「あ、ねーえ酒匂。ちょっと厨房行っておつまみとってきてくれない。そのまま食べられるようなやつでいいからさ」

「お豆とかでもいい?」

「なんでもいいぜえ。あん肝とかあればサイコーなんだけど。ああ、そういえばクリームチーズあっただろ、あれ持ってきてくれ」

「明日の晩ご飯はチーズメンチだからだーめー」足柄が摩耶の頭を小突いた。

「ぴゃあ。適当にみつくろってくるね」

 コーヒーを入れた新しいカップを清水の傍らに置き、その足でコートを羽織って外に出た。部屋の空気がわずかばかり換気され口々に「寒い」とか、言葉がもれた。

 なぜいきなり酒宴になったのか理解しがたいが、酒飲みとはこういうものだと諦めた。便りがないのは元気な証拠、確かに、熊野の言う通りあまり辛気臭くしていると、まさかの不運を招いてしまうかもしれない。清水はコーヒーに伸ばした腕を、思い直して酒のマグへと向きを変えた。

「お、司令官も飲まれますかあ。はーいじゃんじゃん」

 かさが減れば減るだけ注ごうとする青葉の手から瓶を奪って自分のマグを持ってくるように言った。断らせなどしない。何がどうあれ、彼女らの出撃は今日はないのだから。たっぷり八分目まで注いでやり、軽くマグを打ち鳴らして呷ると、安い醸造酒特有の甘ったるいアルコール臭が鼻を突き抜けていく。後味に残る甘さを打ち消すつまみが欲しかったが、酒匂はまだ帰って来ない。

 そんな安酒を美味そうに飲む(なんでもいいのだろう)青葉に、せっかくだからと話を振った。

「なあ青葉」

「ん、なんですか司令官」

 眉を上げて可愛らしい顔を作る。下ろした髪の毛を一本くわえてしまっていたので、頰をこすって外してやった。きめ細やかな柔らかい頰。

「古鷹とさっき話していたこと知りたいか」そう言うと体を乗り出して目を輝かせた。

「ぜひ!」

 隣で熊野と話していた古鷹がこっちに顔を向けて悲壮な顔を作った。今更蒸し返すなと、なんでわざわざほじくり返すのかと言っている表情だった。

 心配するなと口を動かし、目の前で興味深々にしている少女に向けて言った。

「まあお前のことなんだけども」

「……青葉のこと? なんかやらかしましたっけ。心当たりがありすぎてなんとも」

「それはそれで後で古鷹から聞くとしようか。覚悟しておけよ。そうでなくて、もっと真面目な話。『頑張った「青葉」がぜんぶ無駄になってしまう』という言葉の意味が知りたい」

 今度は青葉が生のピーマンでもかじったかのような顔になった。

 人の話題で盛り上がるのは大好きだろうが、自身を話題に挙げられるのはどうも苦手なのだろう。「よくそんなおもしろくない話を古鷹さんから聞き出しましたね」ちょっと拗ねたように言うのは、彼女的には二人の内々の話にしておきたかったのにちがいない。

 古鷹に矛先が向かないよう、「近頃、目に付いたやつに色々と質問しているんだ」と付け加えておく。

「『青葉』の記憶。叢雲が初めて古鷹に会った時、様子がおかしくなっていた。山風も一人で海に出た卯月を知った時、あいつらしくない取り乱し方をした。なのにお前は飄々と明るく、楽しげに毎日を生きている。艦娘として順応している。これからやってくる艦娘らのためにも、その秘訣を教えて欲しい」

「……みんな、それなりに考えていることはありますよ。青葉が特別なわけないです。三日月さんは『過去よりももっと膨大な未来を生きたい』と言っていました。そんな感じじゃダメですか」

「人それぞれなのはわかる。だけど今はお前が出した答えを知りたい」

 目を見つめて問いかけると、ちょっと驚いたふうにして視線が定まらなくなり、マグを持った指をいじらしくなんども組み替えていた。

「あの時頑張った自分を否定したくない、それが青葉が青葉たることだから、そういうことなのか。別に責めているわけじゃないんだ」

 しばらく落ち着きなく視線を彷徨わせて、怯えたみたいにして清水の目を見返した後、困ったように酒臭いため息を吐いた。「違いますよ司令官」マグを一気に飲みくだしたので、おかわりを注いでやる。瓶を奪われた。話し始めるのかと思いきや、「早く空けてください、重いです」と唇をとんがらせた。

 酔いたくはないのでペースを抑えていたが、待たれていると断りづらい、半分ほど一気に飲み干した。

 丁寧に飲んだ分だけ注ぎながら青葉が言った。

「何か勘違いされているようですね司令官。艦は艦です。自分じゃ動けません」

 清水の中でドロドロだった考えが凝固し始めた。

 なおも続ける。

「確かに、私はあの時代の光景を、『戦闘艦・青葉』として憶えています。古鷹さんだってそうでしょうし、足柄さんも、熊野さんも、摩耶さんも、酒匂さんだって憶えているはずです。夜戦に飛び交う砲弾が花火みたいだったのも憶えています。匂いだって憶えています。だけど、憶えているだけです。自分で何かしたいと思ったことはないです。だって、艦ですから」

「だが叢雲は古鷹の救援ができなかったことをずっと悔やんでいた。それは艦に意思があったのと同じではないのか」

 言葉に出して、解決した。

「船員の意思が、艦の意思」

 ふにゃりと笑った。

「青葉はそうだと思っています。誰の意思か知りませんけど、艦の意思ではありません。モノですよ、艦というのは。何かを刻むことはできても、自分でどうこう動き始めるものではないです。まったく、日本人は八百万だの何だの言って夢見すぎなんですよ、ねえ古鷹さん」

 艦の記憶に人の魂、夢の権化のような存在がさえずる。

 そうなれば青葉の言葉の意味が想像していたものとは変わる。清水はてっきり、『青葉』自身が『古鷹』の犠牲を目の当たりにし、その後奮戦した自分を認めなければアイデンティティが崩壊してしまうという、一種の自己肯定だと思っていた。大きな誤り、ひどい妄想だった。

「すまない」謝らずにはいられなかった。

「つまりお前は、自分に乗って戦っていた水兵たちを」

「これ以上お話するにはお酒が足らないなあ」

 くすぐったそうに体をよじって青葉が言う。みんなこちらの話に耳を傾けていて、「全身痒くなりそうです」なんて言って背中を掻くフリをした。

 がぶがぶ狂ったようにマグをあおる青葉に酒を注いでやりながら、ようやく艦娘にかける言葉が固まった気がして、同じようにクッとあおった。返杯しようとするのを「これ以上はやめておく」と断り、ぶう垂れる文句を聞き流しながら、コーヒーにも口をつける。

 しんとした司令室の中で、一気にアルコールを回した青葉が、小さく言った。清水にしか聞こえていないような声量で、酒灼けしてかすれた声で。

「水兵さんたちこそが『青葉』なんですよ。艦は記憶するだけの入れ物です」

 揺れる酒をじっと見つめる青葉を心配して声をかけると、「別に落ち込むようなこと言ってませんって」と笑う。

 急に体をひねって後ろを向き摩耶へ飛びつく。

「摩耶さん、おっぱい触らせてください!」

「はあ? 自分の触ってろよバーカ。なんであたしがそんなもん触らせにゃいけねえんだ、おいあぶねえって」

「自分の触っても面白くないじゃないですかあ。この中で一番あるの摩耶さんですし。ほら、司令官、触らせてくれるってっ」

「触らせねえからっ。おい、こっち見るんじゃねえ!」

「じゃあ熊野さん。小ぶりな、青葉の手にもフィットするお胸を是非!」

「東京湾の浮き砲台にしてあげますわ。表でなさい」

 てろんてろんだ。

 はじめは重い空気になっていたのに耐えられなくてふざけているのかと勘違いした。が、ぐにゃぐにゃした動きが、冗談でなく酔っ払っているのだと確信させた。抱きつき癖があるようで、全員に体当たりするように体を擦り付けた後、古鷹にもたれかかっておとなしく酒を飲み始めた。酔うとカメラには触れないようだ。秘書机の上に置かれたまま放置されているカメラが、レンズをみんなのいる空間に向けて黙っていた。

 帰ってきて早々酌に奔走する酒匂だが返杯も受けるので、一番に潰されてすぐにひっくり返った。土足で上がれる床はきれいなものではない。清水は自分の部屋のベッドに酒匂を放り投げ、勝手にかしましくしている飲んべえどもの嬌声を背中に聞きながら、細田幸平の詩集をひらき、煙草に火をつけた。すると常香炉に群がる老人たちみたいに、艦娘たちが周りに集まってくる。女たちが群がる喜びなど何一つなく、ひたすらに酒臭かった。

「なんですの黄昏ちゃって、詩? 『一杯飲み屋で安酒を呷って』……」右肩に顎を乗せた熊野が鼻息を荒くしながら読み込んだ。反対の肩には足柄が腕を置き、寄りかかって同じように詩を読み込んでいる。

 足柄が言う。「『人生の宿命を少しでも』……。なあによこれ。こんな説教くさいモン読んでるからあ、そんなつまんない男になんのよう」

 頭をぐわんぐわん回されてうっとおしくなり、足柄の顔をつかんで頰をつぶした。唇をとんがらせてブサイクになった顔が真横でパクパク口を動かす。漏れる息はもれなく酒の匂い。

「順調にいっていれば、あと二時間ほどで八丈島への到着予想時刻」控えめに口をつけていた古鷹が、この熱気の中で隙間風のような涼しさで言った。「帰ってくるのは明日のお昼頃かあ。足柄、明日のお昼は豪華なの作ろうね」

「ご飯食べるだけの体力が残っていればいいわね、多分、すぐ寝ちゃうんじゃないかしら」

 すぐに自分の頭のなかに思い浮かんだことで体を折りたたんで笑った。笑いながら聞き取りにくい声で言う。

「む、叢雲だけは、食堂に直行するわね、絶対!」

 夜夜中にボリュームを加減しない笑いが巻き上がった。

 こっちを出る前に携帯食をもたせているし、にぎりめしだってもたせた。唐揚げもつけた。向こうにつけば荷下しの間は横須賀の水上打撃部隊らが警戒に当たっている代わり、護衛部隊は陸に上がってしばしの休憩がある。その間に炊き出しがあるはずだから、腹の問題はないはずである。が、そこは叢雲。食える時に食っておく、金魚みたいなやつである。

「もーう、笑い事じゃないんだよ。知ってるでしょ、あの子が太ったの」

 一番近くにいる古鷹だけが本気で困った風にしている。

「顔丸くなったよなあアイツ。着太りするから体はそうでもないとしても」

「提督が甘やかせ過ぎなのよ。食事制限入れたげた方がいいんじゃない。このままだと軽巡になっちゃうわ」

 またそぞろ笑う音がした。

 全員が本気で言っているわけではない。酒のつまみが欲しいだけなのだ。まとわりつくようにしてくる艦娘らをやらせたいように放置し、意見を求められれば返事代わりに煙を吐く。古鷹だけが力を入れて話しているのが滑稽だ。

 時刻は〇時を回っている。

 だというのに誰一人としてお開きにしましょうと言うやつはいない。

 さらに一時を回り、青葉が古鷹にもたれかかって寝息を立て始めたところで、ようやく騒ぎもおさまった。足柄は秘書机に、熊野は恐れ多くも清水の机に突っ伏している。彼女らと酒を飲むのは初めてのことではないけれど、今日は一段とペースがはやかったので仕方ない。唯一起きている古鷹へ暇つぶしに、先ほど読んでいた獏の詩集を貸してやり、あとは黙ってコーヒーをすすった。ストーブへの燃料を補給する音と、煙草に火をつけるマッチの音が、ことさら大きく聞こえる。

 この退屈は朝まで続いた。

 当日の秘書艦は足柄で、総員起こしは青葉。

 醸造アルコールに痛めつけられた頭と、無茶な体勢で熟睡してこわばった体で絶不調の彼女らが、顔を洗いに外へ出て行く。

 大きなあくびをした古鷹が出て行ったところで一つ電話があり、一瞬心臓が高鳴ったものの、「定刻通りに八丈島へ輸送部隊が到着・出航」した旨の連絡が横須賀の部隊から来ていたという連絡だった。ほぼ同時に犬吠埼から電信があり、そちらも「夜間部隊はいつも通りの戦闘状況、今引き継ぎ部隊が出て行った」とある。ようやく全身の疲れが抜けて、徹夜で脂ぎった顔をこすり、冷蔵庫の冷えた炭酸を一気に呷って眠気を覚ます。

 総員起こしの放送で目覚めた酒匂にも飲み物をわたし、「何もなかった」と告げると、酒でむくんだ顔をほころばせて、「よかった」とだけ言い、炭酸を封切ることなく顔を洗いに行った。

 万事つつがなく昼に帰ってきた第一・第二水雷戦隊は、潮の匂いを体にまとわりつかせ、髪の毛をパリパリに固めた状態のまま司令室で作戦を報告、のちに食堂へ直行した。疲れ切った顔をしていたが、輸送段階とはいえ、湊川作戦の先鋒を全うした彼女らには、寒さで真っ赤になった鼻と、ベタベタになった肌、それからほんのちょっぴりの誇らしさがこびりついていた。

 休んでいる暇はない。

 食堂に向かった飢えた獣たちとは別の道を往き、夕方から再度始まる二次輸送作戦の確認と、報告をもとにした微調整をするために、清水は一人出撃詰所へと向かう。

 



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3

 輸送作戦自体は順調でした。

 二次部隊も、襲撃こそされましたが、犬吠埼部隊に削られた駆逐艦数隻、いわば「はぐれ部隊」。血の気の多い、それも夜戦狂いの川内さんが率いる三水戦が護衛に当たっていたのです、損害らしい損害を出さずに、輸送は成功しました。

 けれど、補給基地の工期は遅れています。

 呉鎮守府所属の艦娘、明石さんの到着が遅れているのです。

 明石さんは特務艦です。戦闘能力はゼロに近いですが、艤装を修理したり、装備を作成・改修したり、艦娘に関わる設備を建築したり、いわゆる、艦娘のなんでも屋さんです。基本、艦娘の装備や設備に関わることは妖精さんしか行えません。そして妖精さんと意思疎通が図れるのは、司令官のような特殊な人たちだけ。誰にでも認識できる艦娘、しかも土地に根付いてしまう妖精さんとはちがい、あちこちに移動することができます。どれぐらい重用されるかお分かりでしょう。国内の基地には三人の明石さんがいて、滅多に建造されないこともあり、どこでも引っ張りだこな人材です。

 西日本の戦況は逼迫しております、つい先日対馬の基地が深海棲艦によって壊滅したのは周知のことです。ですから、負傷した艦娘たちのケアに追われているのが到着が遅れている理由……と、司令官はおっしゃっていました。事実、どうかはしりません。安全をとって陸路でこちらに向かっているのが原因だ、という噂もあります。国内は、現在はそれほど安全ではないですから。特に軍関係者であるならば。それも、街中に出ることが普段許されていないので、伝聞や漏れ伝うお話でしか知らないのですが。

 さて、残す輸送作戦もあと一つ、青葉たち重巡戦隊の出番のみとなりました。

 私達だけではなく、一次に参加していた、第一、二水戦の皆さまも一緒です。

 八丈島に基地を建設していることが深海棲艦にも伝わったらしく、連日お客さまがいらっしゃるそうです、というのは、司令官が横須賀の森友さんとお電話でやりとりされていた記録を見せていただいたので間違いない情報です。戦艦や空母が護衛に当たっていますが、ゲリラ戦のように水雷部隊が押し寄せてくるので、だいぶ疲労がたまっていらっしゃると。さいわい、青ヶ島の監視基地は、少人数で作業に当たっている事もあり、まだ見つかってはいないようです。あちらには護衛がいません、見つかったら、はい、終わりなんですけど。

 あ、今明石さんがコースを変えたと連絡があったようです。三重県の鳥羽から海路に変更するそうですね。

 というか、まだそんなところにいたんですか。

 そして、護衛依頼が来ました。明日の昼十三時、鳥羽まで来て欲しい。司令官はこちらに、四水戦と千歳さんたち一航戦を向かわせるようですね。攻撃色の強い三水戦がお留守番となることに旗艦の川内さんや木曾さんが不満を漏らしていましたが、次は、休みなく小笠原の攻略作戦があるのです。主攻は横須賀さんだとしても、こちらにもいろいろと雑用があります。休めるのは今のうちだけでしょう。 

 青葉たちの三次輸送作戦も、明日、決行です。

 

 妖精さんたちにお願いしていた艤装の確認が終わり、今青葉の目の前には、出撃ドックの古ぼけた豆電球が、空っ風に吹かれて揺れています。出撃にあたり、必要項を日誌に書き込むのはもっぱら青葉の仕事です。古鷹さんたちもいつものぽわぽわした雰囲気を抑えていました。

「そろそろ時間よ」

 艤装を展開させた叢雲さんが重そうに体を引きずって、レコードから針をあげました。詰所ではおなじみの『私の青空』。彼女の頭には元司令官の私物だった、ボロボロの帽子がすっぽり乗っています。焼け焦げたり、シミになっていたり、出撃の度にかぶっていればさもあらん、ですね。神通さんと那珂さんは黙ったまま海を見つめて、口元には薄く笑みまで張り付かせていました。川内型の好戦的な性格には驚きます。一度は輸送船を八丈島へ送り届けたのです、自信もあるのでしょう。

「青葉、大丈夫?」古鷹さんが背中をさすってくれました。なので、いつも通り笑顔を作って答えます。

「んっふっふ。ちゃっちゃと終わらせて、勝利の美酒に乱れるみんなの痴態を撮影したいですね」

 頭をひっぱたかれました。

 日誌を閉じ、艤装を展開させます。

 輸送本隊をとり仕切る神通さんがマイクを握りました。

「ドックから司令室。○六二七、輸送本隊司令艦第一水雷戦隊・神通、以下」

「叢雲」

「三日月」

「曙」

「春風」

「以上五名、出撃いたします」

 スピーカーから司令官の声が返ってきました。

『司令室。あいわかった。気をつけて行ってこい』

 カメラは付いていないのに、全員がスピーカーに向かって敬礼をして、神通さんが那珂さんとすれ違いざまに人差し指を絡めました。おまじないの一種でしょうか。

 肩で風を切り、日の暮れた海に出て行きました。続いて那珂さんがマイクの前に立ちます。

「同じく司令室へ。那珂ちゃん戦隊きかア痛っ」勝手に部隊名を改変した那珂さんを摩耶さんがひっぱたきます。「もーぅ、別にいいじゃんさあ! 第二水雷戦隊旗艦なーかー以下っ」

「のし」「島風っ」

「……能代」

「秋月」

「涼月」

「以上五名、行ってきまーすっ」

 大きなため息がありました。

『那珂ちゃん戦隊はダサすぎる。もっといい名前を考えたら採用を考えよう。気をつけて行ってこい』

 ぶうぶう文句を垂れる那珂さんの後をみんながついていきます。能代さんの苦労が偲ばれますね。

 そして、古鷹さんがマイクの前に立ちました。緊張します。きっとみんな同じでしょう。

「輸送部隊別働遊撃部隊旗艦・古鷹です。以下」

「足柄」

「熊野」

「摩耶様」

「青葉っ」

「さ、酒匂」

「まーやー? すみません、以下六名、出撃します」

『司令室了解。酒匂は初の実戦だったな。ま、先輩たちの言うことをよく聞いて頑張ってくれ。気をつけて……いや違うな。武運を祈る』

 戦闘を控えて進む輸送本隊とは違います。青葉たちは、輸送本隊に近づこうとする敵を追い払う役割です。こういったことにはちゃんと気を回せる人なんですよね、司令官は。

 同じように敬礼をし、重い体でのしのし歩いて海に足を入れました。浮力が生まれ、たゆたう水の上に立つことができます。機関に火を入れるよう妖精さんたちに伝えれば、一日暖気しなくちゃいけなかった頃とは大違いの、すぐに動き始められる準備が整います。

 古鷹さんが動き始め、それから青葉が少し離れて脇を進み、複縦陣を作りました。一度海に出てしまえば、私たちは艦娘です。陸で感じていた不安などなかったかのようで、冬の寒さすらも心地よく(艤装を展開しているからですが)、身体中にこびりついていたものがポロポロ剥がれ落ちていく快感。青葉たちは富津から真南に進路をとる輸送部隊とは違い、南南西に進路を定めます。本隊よりおおよそ四十キロ西に陣取り、時には先行して、露払いを務めるからです。東側には犬吠埼さんがいますので、警戒するのは西のみ。八丈島を攻める深海棲艦の艦隊は小笠原諸島の方から来ているらしいので、青葉と古鷹さんはひたすら前方南側に注意をします。すぐ後ろをついてくる熊野さんと摩耶さんは両サイドを、足柄さんと酒匂さんは全体を俯瞰しつつ、後方に注意を払っていただく手筈です。

 大きな船が見えました。

 浦賀水道、東側の陸地が途絶えるところ、輸送船団の周りに輪形を描くように、水雷隊の皆さんが展開しているところでした。ちょうど同じタイミングで電信がありました。横須賀の長門さんからです。あらかじめ決めてあった符丁に照らして解読すると、つまり、『明石が到着。本人小破、護衛部隊に損害アリ。轟沈ナシ』といったものでした。

 展開中の部隊、もちろん、青葉たちにも緊張が走ります。

 送信時刻を妖精さんに聞くと、今から三分ほど前、ついさっきのことでした。

 西側に、千歳さんたちを攻め立てた敵艦隊が存在していることになります。どの地点で戦闘があったか、おそらく後ほど情報をいただけるとは思いますが、俄然、今度の輸送作戦の危険度が上がりました。わざわざ轟沈ナシと送ったのは、もしかすると、大破状態の方もいるのかもしれません。本来ならばこの後千歳さんたちは一時間の休憩のち、泊地へ帰投する手筈でしたが、それも難しいかも。

『本隊から遊撃隊』

 音声無電が入りました。青葉に答える権利はなく、旗艦の古鷹さんが、胸元のマイクに向かって話します。

『遊撃隊から本隊。どうしましたか』

『もしくだんの艦隊に遭遇したら、駆逐、軽巡は撃ち漏らしても、こちらで対処いたします。もし大型艦や潜水艦が確認できた場合、すぐに電信をください。それから、大型艦はなるべくそちらで対処をお願いします』

 だいたいこう言った注意は徒労に終わるものですが、大事なことです。古鷹さんが『了解しました』と返すと、『ご武運を』と返って、無電は切れました。言われなくとも青葉たちはそういう部隊です。痛い思いはしたくないですけど、輸送船を操縦しているのは人間です。青葉たち艦娘と違って、敵の攻撃を食らったらひとたまりもありませんので、ちょっとぐらい我慢しなくては。

 月明かりに照らされた陸地が見えなくなりました。陣形を整えるため、低速で航行していた本隊がわずかに速力をあげます。それでも十二ノット。中には『イル・ド・バカンスプレミア』と書かれた、ちょっとお高そうなフェリーまで。明らかに貨物船ではありません。吃水を深め、中にはぎっしりと資材が詰め込まれているのがわかりました。

 客船団を尻目に、青葉たちは第一戦速、十八ノットで進みます。時代はこんなに進んでいるのに、妖精さんが作る電探は昔と同じような性能。深海棲艦というのはどういう存在なのでしょうか、地球全体に及ぶ電波障害を引き起こし、まして最新式レーダーも反応しない。艦娘の装備のみが今までと同じように使える。この星における、人間の天敵みたいです。

 無電から足柄さんの声が聞こえました。どうやら、緊張している酒匂さんを気にしているようです。彼女は建造されてたった一度の訓練しか受けていません、性格もあるのでしょう。『戦闘艦・酒匂』自体がほとんど戦闘をおこなっていませんから無理もないです。いつ、どこで会敵するのか、戦闘はきっと、避けられないものになるのを誰もが肌で感じていました。だからみんなで酒匂さんをからかって、ちょっとはリラックスさせようとしました。

 からかいすぎて酒匂さんが「ぴゃあ」以外言わなくなった頃、割り込むようにして古鷹さんから無電が入りました。

『傾注、傾注。そろそろ大島だよ。両舷原速、取り舵当て』

 私たちは各各三百メートル離れて航行しています。使用している電話機は特別製で、千メートル以上離れると途端に雑音がひどくなり聞き取れなくなります。いちいち暗号を使わずとも良い利点はありますが、単縦や輪形の陣になりますと途端に使い勝手が悪くなるのが欠点です。

 重心を変えて舵をとり、誰もはぐれてないか目視で確認。酒匂さんもきちんとついてきているようです。

 利島をすぎ、新島をすぎ、神津島を越えれば、右手には広い広いあの太平洋がどでんと腹を出して、青葉たちはその上をゆきます。島影にも深海棲艦は認められません。青葉が建造される前、敵は島に上陸してじっと息を潜めていたというので油断できたものではありませんが。視界が開けたと同時、みんなで偵察機を発艦させました。夜偵……と言うほど専門的な機体ではないのですが、連日夜間訓練を行っていたので、まあ、ないよりはマシ程度の認識です。バタバタした聞き慣れた音とともに、偵察機は南から西にかけて十機、飛び去って行きました。はるか左手に、少しだけ三宅島が見えました。あの向こう側を本隊が通過するはずです。

 本隊は一貫して原速で進行しているので、わずかばかり青葉たちが先行している形になっていれば作戦通り。あと一万四千メートルほどまっすぐ行けば八丈島の西に出るはず。時間にして六時間ほど。ここまで来るのに五時間弱。目を皿のようにこらしていたのでしょぼしょぼ、髪はベタベタ、寒さはにぶく感じますが、凍えるほどではありません。特に足先は艤装のおかげで暖かく、しいて言うなら首元に感じる風がわずかに冷たいぐらいでしょうか。熊野さんや摩耶さん、それから酒匂さんはマフラー(のように加工したタオル)を着用していて、これが意外にも可愛らしく、すこーしだけ羨ましいです。帰ったらつくり方を教えてもらいましょう。

 辺りを見回し、少なくとも青葉の視界に敵の影や怪しい灯りがないことを確認して、思いきり背筋を伸ばしました。ぽくぽく、骨がなりました。

『おなかすいたねー。おにぎり食べちゃおっか』

 古鷹さんです。遠目から見られていたのかもしれません。

 間の抜けた、よく言えばリラックスできる声色です。

『さんせー。あたしんとこは何もないが、偵察機はどうなんだ? どうせ食べるならゆっくり食べたい』

『今出したばっかりだからなあ。とりあえず直近は大丈夫そう』

『では食べてしまいましょう。戦闘になって、水浸しになったのなんて食べたくないですもの』

 すると足柄さんが言いました。

『ご飯はいいんだけれど、酒匂、ちょっと分けてくれない』

『どして?』酒匂が応えます。『いいけどさ』

『食べちゃったのよ……』

『ええっ。いつ!』

 離れて航行しているので、各人の顔をうかがい知ることはできません。摩耶さんの笑い声が小さく聞こえただけでした。

 最後尾の彼女たちの会話は雑音まじり。

『いやあ、今日お腹の調子が悪くてね。お昼ご飯食べれなくて、ペッコペコで』

『大丈夫なの? おトイレとか』

 足柄さんの答えは耳が痛くなるほど大声でした。

『うっさい、下品なこと言わない! いいから一個ちょうだいな。というわけで、一瞬隊列崩すわよ』

 航行中ならトイレに行きたくならないんですよね、不思議と。その分陸に戻って艤装をしまうとすぐに駆け込みたくなりますけれど。

 月に薄く雲がかかり、ところどころ輝いていた海が墨のようになりました。

 腰にくくりつけたポーチから笹とイグサで包まれたおにぎりを取り出します。サランラップみたいな便利なものもありますが、海にそのまま捨てられるという点で、この昔ながらの携帯方法が、艦娘、とりわけ富津の基地では主流なんです。二個のおにぎり、中身はウメと唐辛子の佃煮です。少しお水を多めで炊いた、みずみずしいお米が具の味を引き立てます。

 青葉に割り当てられた個人通話用の周波数に応答要請がありました。妖精さんに送信者を確認すると、古鷹さん。こちらも古鷹さん用の周波数に合わせ、「どうしましたかあ?」親指にひっついた米粒を食べながら音声を送信しました。

『ごはん中にごめんね。聞きたいことがあって』

「気にしないで。どしたの、索敵はちゃんとしているよ」

 二個目、唐辛子の佃煮を頬張ります。甘い中にピリリとした辛味があって飽きがこない上に、唐辛子のおかげで体がポカポカします。これぐらいの辛さはちょうど良いですね。辛すぎるのは苦手です。青葉は佃煮が好きです、そこらへんの雑草ですら、適当に佃煮しておけば食べられる自信があります。

『それは心配してないよお。青葉だもん』

「いい皮肉ですねえ」

 しばらく返答がありませんでした。冗談のつもりだったのですが、自虐が過ぎたのかしら。

 おにぎりを食べ終わり、お腹がいっぱいになって頭に血が良く巡っている気がします。これまたそのまま捨てられるように竹筒で作った水筒。生ぬるくなったお茶を飲み下して、もう一回話しかけてみようかな、と思ったところで通信が入りました。

『あのね、言いたくなかったらいいんだけど。青葉、提督に旗艦やるように言われてたりした?』

「うん、言われてたよ。断ったけどね」

 隠すつもりもないので正直に答えます。こんな話題を振ってくるくらいです、ごまかしたって無駄でしょう。お米でベタベタする手を海水で洗って、もう一度マイクに向かって話しかけます。

「古鷹さんが役不足ってわけじゃなくて。記録を見て、昔の『青葉』に旗艦の経験があったから何気なしに頼まれただけ。だから『どう考えても古鷹さんの方がしっかりしてますよー』、って言ったら『それもそうだな』って言って決定したんだよ。あ、なんか今更ムカついてきました」

『そっか。確かに、青葉は肝心なとこで抜けてるからね』

「あー、言ったなー。司令官にべったり甘えてる写真、詰所に張り出すぞ?」

『うそ、まだ残ってたの! ごめん、それだけは、本当にそれだけはやめてっ』

 データって便利です、数枚、別のSDカードに差し替えて撮影してただけですが。『本当にやめてよ?』泣きそうな古鷹さんの懇願はそそるものがあります。

 雑談ついでです、友達として、ちょっと突っ込んでみましょうか。

「古鷹さんって、司令官のこと、もしかして好きだったりします? ラヴ的な意味で」

『違うからっ。もう、青葉には何度も話したでしょ。お父さんみたいだって』

「人間の女の子が一番初めに恋をする相手って、父親らしいよ」

『あーおーばー!』

 イヤホン越しで聞くと鼓膜が破れそうでした。肉声が聞こえてくるぐらいですから。

 でも青葉の考えはあながち間違っていなさそうなんだけどな。じゃなきゃ、あんなにきつく「叢雲にさんには言うな」なんて釘を刺される必要はないでしょう。あの時の古鷹さんも可愛かったです。眉をハの字にしてすがりつくようにしてお願いされました。まあ、叢雲さんは性格も相まって古女房みたいな貫禄がありますから、そこに割って入るのは至難だと思いますが。青葉の知る限り、甘え上手は古鷹さんの方ですね。あれを無意識にやっているというのなら、司令官も大変でしょう。男として。

「別に青葉はいいと思うけど。むしろ応援する」

 友達の恋バナほど面白いものはありません。叢雲さんとドロドロの愛憎劇を展開するならそれもよし。傍観者として徹底して事態の把握に努める所存なのですが……。

 ま、司令官はあの堅物ですからね。たいした面白い結果にならずに終わりそうです。

『むう。だから違うって……』

「本当のところ、どうなんですか」ちょっと声をかぶせました。

『……しつこい青葉はキライ』

 おおっと、不覚にも胸がときめきました。ダメですね、これはきっとオヤジと同じ感性になりつつあるということでしょう。「ゴメンなさい」謝ると、またしばらく沈黙がありました。

 ここで一つ無電が入りました。八丈島付近に展開している、横須賀の水上艦隊です。小規模な襲撃があったそうです、追い払ったはいいけれど、はぐれ部隊が近くにうろついているかもしれない、といった内容でした。人間の方々が指揮する艦隊とは違います、深海棲艦たちは野生動物のような行動パターンを取るため、ちょっかいを出して敵わないと見るや一目散に逃げ出します。指揮系統がない、とは言いませんが、どうやら末端の深海棲艦は独立して動いているようだ、というのが通説になっているほどです。

 続いて送られてきた敵の編成と、去っていった方角、速度を念のためメモしておきました。水雷戦隊のようです、輸送船を狙ったものでしょうか。撤退方角を見ても本隊と当たりそうにはないので一安心かな。微妙に青葉たちのコースに当たりそうだけれど、手負いであるならば勝ち目のない戦いにはならないでしょう。

『……誰にも言わないでほしいんだけど』

 緊張感をはらんだ、というのは青葉の妄想ですが、無電を挟んだ古鷹さんの声はそんな感じがしました。

 なのでこちらも真面目に答えます。

「青葉は何があっても古鷹さんの味方です」

『うさんくさい、一気に信じられなくなっちゃった。やっぱいい』

「わ、うそうそ、ごめんって。誰にも言わないって約束しますっ」

 くすぐったそうに笑う声をわざわざ送信してきました。

 どうやらからかわれたようです。

 ですが、続いて送られてきた本題は、青葉の手にあまるものでした。

『……人を好きになるって、どういう気持ちなのかな』

 はあ。ふむ、ふむ、なるほど、なるほど。

「ちょっと青葉とチューしてみますか。わかるかもしれませんよ」

『ちゃんと聞いてよ』

 青葉の答えはお気に召さなかったようです。

『提督は大事なひとだし、でも青葉だって大事なひとだし。足柄も摩耶も熊野も酒匂も大事なひと。叢雲だって、三日月だって、富津基地みんな大事なひとだよ。でも、それとひとを好きになるっていうのって、別のこと……なんでしょう。じゃあ、今私が思っている感情ってなんなのかな。私って、本当にみんなを大事に思っているのかな。「好き」っていうのと「大事」っていうのは、何が違うのかな』

 ああ、古鷹さんの頭に渦巻くマーブル模様の思弁が手に取るようにわかります。

「んー、きっとそれは、青葉が何を言っても無駄だと思うな。もしかして司令官にくっついてたのって、そういうこと?」

『うん。奥さまがいらっしゃったっていうのは、そのひとのことを「好き」だから、と思って』

 難儀な問題を抱えてらっしゃいますねえ。

 そんなもの聞いてポンと答えを出せる人なんて、宗教家か詐欺師ぐらいなもんでしょ。司令官に恋愛小説とか、活動写真とか、そういったものを仕入れるように言っときますか。今ある詩集やレコードの恋愛作品はちょっと回りくどすぎて、それが余計に古鷹さんを混乱させてしまっているのかもしれません。

 そんなに難しいことじゃないと思うんだけど。

「『大事』っていうのと『好き』っていうの、無理に分けようとしなくていいんじゃない? きっと根っこは同じことだと思うな。そこからどうしたいのかによって変わるのかも。というか、青葉だってそんなのわかりません」

『わっかんないなあ。私と叢雲の何が違うんだろう……』

 どう返せばいいのかわかりませんでした。

 はたから見ていれば、司令官は分け隔てなく艦娘と接しているように見えるのですが、古鷹さんには違って見えるのでしょうか。それに、どちらかというならお二人はドライにも見えてしまいます。叢雲さんだってそんなにべったりくっついていないですし、むしろ古鷹さんと一緒にいる時間の方が多いのでは。初期艦としての信頼感ゆえなのかな。確かに考えれば考えるだけ煮詰まってきました。濃い霧の中を航行している気にもなります。ぬるいどころか冷たくなり始めたお茶を一口飲んで、古鷹さんにかける言葉を探します。

 それにしても友達からこんな悩みを聞かされるというのは、こう、心が沸き立つような楽しみがありますね。同じ問題について、両者が必死に頭を巡らせているという感覚が、艦娘、ひいては生き物らしくて面白いです。人間の方々も、青葉たちのような悩みを持つのでしょうか、気になります。

「古鷹さんって、人を妬むこととか、ある?」

『うぇ? うーん、ふふ、ないかも。私にできることは限られてるから、できることを精一杯やって他の娘に届かなかったとしても、仕方ないし。向上心がないって……神通さんに怒られたことが……はい、あります』

「あはは」

 つい笑ってしまいました。踏み込んでみましょう。

「例えば青葉が」『待って』

 急に声色が変わりました。

 理由はすぐにわかりました。青葉の受信機でも、同じ電信を受けたからです。

《八丈島東、敵水上打撃部隊、交戦。応援求む》

 送信者は……送信コードが犬吠埼詰所の部隊ですね。平文です、切羽詰まったにおいが伝わってきます。

『どう思います?』

 熊野さんが全体送信で投げかけました。主語がありません、しかし、何を言わんとするか、わからないものはいませんでした。

「違うんじゃないかな、距離的には行けなくもないけれど、千歳さんたちを襲った部隊がみすみす八丈島を攻撃せずに素通りする意味がわかりませんもん」

『規模がどんなもんか、って話だな。まだ誰も西の艦隊の情報は受けてないだろ?』

 それぞれの短い返事が、混線したように流れます。

 単純に青葉たちの通信能力が低いだけならいいのです、ですが、艦娘になってからは、どの艦娘も同じような能力に均一化されていますから、それはないでしょう。あと考えられるのは、口もきけないほどの損傷を明石さん護衛部隊が受けていること。物質的な艦ではないですから、艤装のダメージだけで沈むことはありえません。生命力を上回る傷を肉体が受けた時、艦娘としての死があります。意識も朦朧するレベルとなれば相当な被害です。ころころ走り回っていた卯月さんの苦しんでいる姿が頭をよぎりました。

 胸くそが悪いです。

『西と東に艦隊がいる。そして八丈島の護衛艦隊が水雷隊の襲撃を受けて、すぐ逃げられた。あらあら、これはいやーな夜になりそうですわ』

『あの、どういうこと?』

 ほぐしたはずの緊張がぶり返した酒匂さんの一言はありがたかったです。状況をまとめる理由付けになりますから。

「先の水雷隊は威力偵察と考えましょう。両脇に艦隊がいるってことは、敵が本格的に攻めようとしてるってこと。んで、偵察部隊がどこから来たかわかりませんがおそらく南と考えて、あともう一艦隊、でっかいのがいそうってとこかな」

『遠からず、と思う。さてそれでは酒匂に問題です、もしそうなったら、私たちは何をすればいいでしょう』

 場違いに明るい古鷹さんの声。

 この後に及んで怖気付くような艦娘はいません。むしろ、血が湧きます。

『えっと……本隊の護衛、だよね』

『その本隊は八丈島へ向かっている。だから、敵艦隊を八丈島に近づけないようにするのが、今すべきこと。私たちは護衛部隊でもあるけれど、遊撃部隊でもあるでしょう』

 古鷹さんって、ぶっちゃけ戦闘狂っぽいんですよね。無線越しでもわかります、きっと口角がつり上がっているのが。

『偵察機からの報告はまだないわよ、どうするの』

『とにかく見張りを厳にしておいて。夜間専門の航空部隊じゃないしね。意地でもこっち側の敵は私たちが見つけて、抑えよう』

 今の一言を聞いて、青葉の装備に宿る妖精さんが抗議しました。「だったら飛ばすな」と。それから、意地でも見つけてやると息巻きます。気合いでどうにかなるものではないでしょうに。同時に警戒を厳にするため、一人の妖精さんが顕現しました。頭の上にしがみついて、じっと目を凝らします。侮るなかれ、目に見える以上の索敵能力を持っているのです。なにせ、超技術をもった、超不思議生命体(かどうかは怪しいです)なのです。

 青葉たちは宵闇の海をゆきます。

 誰も無電を使っておしゃべりすることはありません。黒の中に死の象徴とも言える光が生まれた時、戦いの火蓋が切って落とされます。建造されてから初めての大規模な戦いになりそうです。体が震え、腹の内側がぞわぞわとします。自然と、口角も上がってしまいます。

 あまり古鷹さんのこと言えないですね、青葉だって、戦えることに、ワクワクしてしまうんですから!

 

 南西に飛ばしていた青葉の水偵が不審な影を発見したのは、八丈島まであと4万キロの地点でした。おおよそ十五ノットで真東、八丈島へまっすぐ移動しておりまして、漁船である可能性は排除してもよいでしょう。

 以降のコミュニケーションは発光信号でおこなう旨の連絡がまわり、妖精さんたちに戦闘態勢につくよう命じます。各艤装が心なしか暖かくなった気がして、第二戦速で受ける風ですら体を冷まさない。

 この不審な艦影(人影ではありますが、便宜上そう呼称することになっています)を発見した水偵の妖精さんがわざわざ顕現して、胸をふんぞり返らせていました。人差し指で撫でてあげると満足したように姿を消し、また青葉の艤装のどこかに溶けていきました。あわよくば艦種も調べて欲しいのですが、それを知るためには高度を下げねばならず、敵に迎撃される恐れがあるので断念しました。水偵自体は無人でも妖精さんの、おそらく魂が乗っています。撃墜されるたびに苦しむ妖精さんを感じるのは忍びありませんからね。

『水偵は島の近くに降りてもらおう』

 古鷹さんから信号が来ます。青葉は受け継ぎ、後ろへ伝言しました。遠く離れた水偵だって艤装の一部ですから、今ここにいる妖精さんに命じるだけでわざわざ無線を出す必要がありません。

 水を巻き上げる音だけがあります。

 ざあ、ざあ、と同じ調子の音が、いつしか寄せ返しのリズムを持ち始めました。

 おしゃべりがない海からは、ときおり魚の跳ねる音が遠くで聞こえます。この辺は、後二ヶ月もすればカツオが取れますからね、初ガツオ、食べてみたいなあ。司令官はニンニクのスライスが至高だとのたまいましたが、そんなものは女の敵です。いや、美味しそうなのはわかるんですけれど。ワラで包んだカツオを火で炙って、ショウガとミョウガを散らし、ポン酢であっさりと。いいですねえ、いいですね! 補給基地ができたら、青葉専用の釣竿の一本でも置いておきましょう。任務の間にぶらりと太公望、なんて優雅な海軍生活。

 そんなことを考えながら三十分、見張りの妖精さんに頭を叩かれて現実に戻りました。

 横を航行する古鷹さんに発光信号を送ります。

《右六○度、距離一万、艦影五》

 星月夜です。

 こちらが認めたということは、向こうからも見えているということ。けれどこの時は運が味方したのでしょう。続けて信号を送ります。

《まだこちらに気づいていないよ》

《こっちも見つけた。ありがと》

《恐縮です!》

 そしてすぐに古鷹さんから号令がかかりました。

《単縦陣、作れ》

 後ろまで号令を回し、酒匂の合図を待って、陣形を作ります。古鷹さんの列を起点にして、青葉たちが滑り込む形。夜間だからと言って手間取ることはありません、夜目は効く方ですから。

 主砲に装填をすると、ほのかに香る火薬の匂いで否応なしに興奮し、鼻息が荒くなりました。口元が釣り上がります。

 先制として雷撃を放る指示が出ました。必殺の力を持った兵器が、夜の海に音もなく消えていきました。

 残り八千。

 七千五百。

 砲塔構え。

 波間に聞こえるのは妖精さんの夜戦ラッパ。

 海には異質の管楽器の音が、青葉たちの士気を最高潮にまで押し上げます!

『砲撃開始、てェ!』

 古鷹さんの無電と同時、主砲が火を噴き、目の前が明るくなりました。

 着弾より前に魚雷が命中したのでしょう、一隻が水柱の中に飲み込まれ、すぐに爆炎に変わります。遅れて、砲弾が何隻かの艤装を貫き、小規模な火災を引き起こしました。

『目標を指定します、あの一番大きく燃えている敵重巡っ』

『おうよ摩耶了解、ははは、うてぇ! うちまくれぇ!』

 無電がひっきりなしに仲間たちの声を伝えて、同時に周りからごおん、ごおんといった、腹の奥底に響く音が途切れることなく弾けていました。

 向こうからも散発的に反撃はあるものの、どれも狙い定まらず至近弾ですらないものが海面に吸い込まれていきます。こちらからは炎のおかげで、どこを狙えばいいのか、どのくらい離れているのか、ピンポイントで絞ることができます。

 一方的です。

 集中攻撃を受けた重巡は、地上で花火が爆発したみたいに大きく弾け、海に還っていくのを確認しました。

『いやっほうっ。古鷹、そろそろいいでしょ、突撃よ突撃ぃ!』

 十分近づいてはいるんですが、私たちは艦娘で、相手は深海棲艦です。至近距離にはまだ程遠い。さらに言えば、流れは完全にこちら側にあります。多少の犠牲を払ってでも、相手方を全員沈める気勢で、湊川作戦の狼煙とするのもいいでしょう。

 古鷹さんは少し間をおいて答えました。

『わかった、いこう。十分気をつけ』『摩耶様が一番槍だぁ、突っ込むぜぇ!』『ああこら、あたしより先に行くのは許せない、待ちなさいよっ』

 最後まで話を聞かずに二人が突っ込んで行きました。当然敵の攻撃が集中しますが、右に左に、踊るみたいにして回避行動をとる小さい的に当てるのは至難の技です。特に、調子に乗っているお二方が相手ならば。小さい波をうまく使ってとびはねる姿はとても『艦』とは言えません。

 あっという間に懐にお邪魔した二人は直接砲弾をぶち込んで、そんなことをされたらたまったものではありません。一隻が海中に引きずり込まれ、さらに一隻がまた大きな炎をあげました。

 もちろん至近距離にいれば敵だって指をくわえているはずがなく。足柄さんと摩耶さんと、健在の敵の砲撃、それから艤装の火災。真っ黒い海の上に街ができたみたい。

 きれいだなあ、なんていうのは場違いでしょうか。

『……足柄たちの援護しよ。もう、全然話聞いてくれないんだからっ』

 腹立ち紛れとも取れる攻撃を放ち、青葉も苦笑いで続きます。熊野さん、酒匂さんからも敵艦隊の中で大暴れしている二人に当てないよう、よおく狙いをつけて砲弾を放ちます。

 中と外から攻撃され、完全に瓦解した敵の艦隊はそれでもまだ撤退しません。かろうじて間近にいる艦娘に砲塔を向けても、青葉たちの攻撃が照準を狂わせ、直撃弾を出すに至らず。足柄さんに至っては殴りかからんばかりの勢いです。あ、殴った。ダメージあるんですか、あれ。

『わたくしたち必要ありますの?』 

 熊野さんだって文句を言いながら、深海棲艦の近ず遠からずの位置に着弾させています。艤装へのダメージだけならば問題なくとも、あの距離ならば、当たりどころが悪ければ一撃で昇天です。心配をよそに砲音の隙間から足柄さんたちの、ちょっと狂ったような声が聞こえてきました。うちの部隊でも一番血の気の多い二人ですからね、あそこまであけっぴろげにやられると、青葉もちょっとヒきます。人の振り見てなんとやらです。

 最後の一隻に二人して砲弾をたたき込み、悶絶しながら沈んでいく深海棲艦。船が真っ二つになったみたいな声とも音とも取れる断末魔を上げて、後に残るのは海の上に溢れた油にうつった炎のみ。アクション映画さながらの光景の中、二人がゆっくりと、一見仲むつまじげに体を寄せ合い、帰ってきました。

 ものの十分ほど、圧倒的な戦闘でした。

「お疲れさま」

 古鷹さんがちょっと不満げ。そりゃ、旗艦の言うことを最後まで聞かずに飛び出して行ったんですから当然でしょう、場所が場所なら怒られるでは済まないところです。

「おーいてえ……引き分けかあ」

「最後の一発、あんた致命打になってなかったわよ。土手っ腹に叩き込んだ私のおかげだわ」

「んなこと言ったら最初の軽巡、あたしのぶん投げた魚雷で沈みかけてたじゃんか」

 至近距離の殴り合いを終えたお二人は体のあちこちに煤をつけて、髪の毛が寝起きもかくやと言うほど乱れていました。手ぐしと海水でさっと整え、顔を拭い、なおも口が減りません。

「そもそも何で魚雷投げてきたのよ、私が向かっているの見えたでしょう」

「あれは絶対に向こうの方が撃つの早かった」

「そんなの避けられるしっ」

「お前は近づきすぎなんだよ、万が一当たってみろ、その空っぽの頭がフッ飛んで酒匂にトラウマ植え付けるだけだ。なあ酒匂、こいつが首なしになったところみたいか?」

 ぶんぶん頭を振って酒匂さんが否定します。

「そんなヤワな体してないしぃ。何よ、そんなひらひらのスカートでパンツ丸出しにしながら戦っているくせに。痴女は黙って私の援護していればいいの」

「見せパンだから。いちいちそんなとこ見てんじゃねえよクソレズ女。みてぇならいくらでも見せてやるって、ほら」

「んなきったないもん見せんじゃないわよ、提督の前で野ションする奴が何言ってんのさ!」

「してねぇよ! いやまじでしてねえよ、お前だって間に合わなかっただろっ」

「私はちゃんと離れたところまで我慢しましたー。そもそもあれはどこぞの裏切り者が……」

 あ、矛先がこっちに向いた。

「はいはい、わかったから。とにかく私たちの勝ち。完全勝利、ほら、ばんざーい」

 投げやりな。

 こちらに向けられた銃口から発砲されることなく、何か言いたげにもごもごしていたところに、気を利かせた酒匂の「わあい、初勝利ぃ」なんて声が上がったものだから、大きなため息が吐かれました。こっそりサムズアップすると、酒匂も少しひきつった顔を見せます。初めての実戦、初めての勝利。なのに締めがこれでは、これからの苦労が偲ばれます。青葉のせいじゃないです。

 妖精さんたちにしいていた戦闘配置を警戒配置に変更し、みんなでお水を飲むわずかな休憩時間。

「あ……」

 摩耶さんが何かに気づいたように顔つきを変え、青葉にも同時に無線が入りました。

 横須賀の護衛艦隊から、近海で作戦行動中の全艦娘に宛てたものです。

「やっぱり来ましたわね」

「しかも主力艦隊……なのかな。戦艦四、重巡七、軽巡四に駆逐十二って。島の護衛部隊の編成覚えている?」

 まず敵の数を表す暗号。

 それから『南、真正面に敵を認めたので迎撃態勢をとる、誤射に注意されたし』というもの。戦闘中に近寄って巻き添えを食らっても文句言えません。敵か味方かなんて、いちいち判断する時間も惜しいんですから。

 メモ帳をめくりながら答えます。

「戦艦組が長門さん、金剛さん、比叡さん。重巡組に愛宕さんと高雄さん。大淀さんと第〔六〕駆逐隊の水雷隊。三航戦の葛城さんと瑞鳳さんが陸上待機、ですね」

「戦艦三、重巡二、軽巡一に駆逐四。空母が二といったって、明らかに苦戦必須だな」

「東の犬吠埼の救援依頼って誰が行ったんだ? あれ以降連絡ないだろ」

 沈黙の帳。

 全滅したなんて考えたくありませんが、今送られてきた敵編成を聞くと、向こうにも同じような部隊がいたんじゃないか、なんてよぎります。

「大丈夫ですよ、青葉たちがやっつけたのと同じような編成ですって」

「だけどよ、犬吠埼の連中は体が自由に動かせねえ。あたしたちより苦戦するのは確実じゃんか。しかもこっちとは違って、向こうは水雷隊だし」

「どうしましょう、古鷹」

 熊野さんの言葉と同時、全員が古鷹さんを見ます。

 この部隊が生き物として動くには、頭は一つで十分。

「……各員、被害状況報告してくれる? その間に考えまとめるから」

 こちら側の警戒をおろそかにして輸送部隊が襲撃された、なんてことになったら元も子もありません。今、青葉たちには三つの選択肢がありました。どれを取るかは、古鷹さんしだいです。

「青葉、被害なし」

「熊野、被害ありませんわ」

「酒匂、元気だよ」

「摩耶、艤装小破、それからちっと足の筋に違和感。首もいてぇ」

「足柄、艤装小破、砲塔が二門ひしゃげちゃった。体の方はなんともないわ」

 そりゃ、いくら「殴り合い」という表現があるとはいえ、艤装で深海棲艦をぶん殴ればそうでしょうねえ。

 すぐに古鷹さんは、唇を引き絞って言いました。

「これより私たちは遊撃部隊として、八丈島を狙う敵主力艦隊を背後から攻撃し、東に抜けます。犬吠埼部隊が交戦しているのは、八丈島から十五海里北東。どちらも殲滅戦はしません。場を引っかき回すことに専念します」

「輸送部隊はどうするんですの。こっち側の警戒に当たる部隊がゼロになりますわ」

「東側の神湊港につけるよう連絡しよ。時間的にも、きっとちょうどいいから。青葉、電探はどう?」

「すみません、ちょっと調子悪くて。先ほどのも目視で確認してようやく反応があったくらいで」

「ううん、大丈夫。……今のがこっちから攻める別働隊と考えれば、もういないはず」

「希望的観測ですわね。違ったらどうするんですの。島が多方向から攻撃されかねないんですのよ」

 熊野さんはあえて反対意見をぶつけてきます。それが、この部隊における役割だからです。

「ううん、こない。私の勘だけどね」

 古鷹さんの判断を固めさせるために必要な役割。

 どんな理屈であれ、後ろを気にしたままでは全力で戦うことができませんから。

 勘などと言われて反論するのもバカバカしくなった熊野さんは困ったように笑って、「あなたについていきますわ」と砲を胸まで持ち上げました。

 他に反論を求めても、誰も何も言いません。

「いこっか。単縦陣、第二戦速、進路東。妖精さんは戦闘配置につかせたまま行くよ。とにかく駆け抜けるから、酒匂、ちゃんとついてきてね」

「ぴゃ、はいっ」

「それじゃあ、第一重巡戦隊、出撃!」

 今度こそ古鷹さんが先頭を進み、みんながついていきます。

 時刻は深夜一時を少し回ったところ、まだまだ夜は始まったばっかりです。

 三〇キロも離れていない八丈島の空が明るく染まりました。かなり遅れて振動が伝わります。

 どうやら、戦闘がはじまったようです。

 

 八丈島沖十海里。

「倒れるなら前向きに倒れろ、背中に傷を負ったやつはこの長門が指をさして笑ってやる!」

 衝撃が海をえぐる。両翼には金剛と比叡が、その間には高雄と愛宕による、お椀型の防衛陣が敷かれていた。

『あと数日おとなしくしてくれれば、こっちから行くっていうの、にっ』

 十キロほど離れたところでパッと大きな灯りがあらわれた。照明弾だ。二つの小さい太陽の手前には黒点にしか見えない敵の横陣が、味方の轟沈にもひるまず、壁となってじわじわと距離を詰めてくる。

『バグパイプ兵みたい。全砲門、ファあいたっ。一張羅に何するデース!』

『お姉さまに何するのよ、このやろーっ』

 水雷隊が壁になり、敵の打撃部隊は後ろから出てこない。倒しても倒しても数が減らない錯覚に陥り、距離を詰められるプレッシャーもあって焦りが生まれていた。いたずらに被害だけがある。無傷のまま弾幕を張ってくるおかげで大淀率いる水雷隊が前に出れず、そのくせ向こうは適当に魚雷を撃ってくるだけで距離を詰めるだけの時間を得られるのだ。砲撃だって敵は当てるために撃っていない。自分たちの安全圏を確保するために。やみくもに砲弾を撃ち込んでくる。下手な鉄砲数撃ちゃなんとやら、暗闇の中のめくら撃ちでも、至近弾の一つは当たり前のように出てしまう。

『なんだかいやらしい戦い方してくるわね。むやみに突っ込んでくるだけが能じゃなかったのかしら』

『ちょっと愛宕、前出すぎ。……東の応援に行かなくちゃならないってのに!』

 散発的に襲ってきた今までとはまったく違う動き方。

 せいぜい待ち伏せぐらいの策しか使ってこないはずだった。あとは数の暴力で、沈めた倍の数で侵攻してくるぐらいだった敵が、今日は三方向から計画的に攻め上げてくる。駆逐艦を盾にして打撃部隊を後方においているのだって、そんなことをするのはせいぜい空母ぐらいのものだったはずなのに。

 統率がとれている。

 長門は考えた。

 もし自分たちに潤沢な艦隊を作る能力があったらどうするだろうか。わざわざ足止めされるぐらいの艦隊で攻めに来るだろうか。そんなはずはない。圧倒的な戦力で完膚なきまでに叩きのめすための艦隊を用意する。

 では今はどうだ。

 数は多いがどうにかできない数ではない。後先考えず突っ込めばなんてことはない数。轟沈は一人も出さずに戦闘を終えられる、大破の二人や三人は出てくるだろうが。作戦通りに動く艦隊があったとして、一隻一隻の練度を見れば一律、そう恐れたものではないから。虫や魚と同じ、状況に対する反応として攻撃してくる節がある。

 ならば。

「長門だ。葛城と瑞鳳は起きているか」

『両名起きてますよーっと。どしました、航空支援が必要ですか』

「今から五分後にもう一度照明弾を撃つ。今交戦中の艦隊よりも遠くに飛ばすから」

『見てこいってわけですか。吊光弾積ませるんで大丈夫です。せっかく暗闇に慣らした目がダメになっちゃいます』

「おおそうか。わかった、頼んだぞ」

『んじゃ、すぐ発艦させますからねー。瑞鳳ー、あ、コラあくびしている暇なんてな― ―』

 話している途中に切るとは、文句の一つでも言いたくなったが、あれで赤城と加賀の弟子。仕事はきっちりやってくれることを信用して何も言わずにおいた。

『シィーット! なんでワタシばっか狙うんデスか! 金剛、艤装中破、もう帰りたいネー!』

「愛宕、高雄、照明弾はしばらく控えてくれ。今から葛城たちに、あの壁の向こうを見てきてもらう。わざわざ目潰ししてくれるな」

『了解』「りょうかいでーす」

 杞憂ならいいが。

 装填完了の合図が出て、腰だめに四十一センチ砲の衝撃に耐える。

『こちら大淀。私たちは独立し、東に向かいたいのですが如何でしょう』

 水雷隊もしびれをきらしている。

 この距離では有効的な射撃はできない。ただの置物に成り下がっているのが我慢できないのだろう。

「長門だ。持ち場から離れるな。お前たち四人がいるから相手が警戒して速度を出せないでいる、もう少し辛抱してくれ。必ずタイミングは作ってやる」

 突撃するのが水雷屋の仕事とはいえ、この砲弾の雨嵐の中に突っ込ませるわけにはいかない。奇襲こそあいつらの真骨頂なのだ。近づく間もなく沈められてはたまらない。

 戦況が膠着し始めていた。無駄に時間をかけるわけにもいかないというのに、冬の海上だというのに全身がじんわり嫌な湿り方をしている。無尽蔵の兵力を持つ深海棲艦とは違う、限りある兵力を効果的に運用し、数の差をひっくり返さなければならない。

 昔は失敗した。失敗したからといって間違っているとは限らない。そんなもの信じない。

『ひええ、比叡艤装小破、一番砲塔がぁ……』

 生きたままカンナで体を削られたらこんな気分なのだろう。深海棲艦の主力部隊に未だ攻撃が通らず、駆逐艦が煙をふきあげながらなおも前進してくる。

「バグパイプ兵とは言い得て妙だ、なァ!」

『大淀です。犬吠埼部隊から無線です。共有します』

 ほとんど同時に、おそらく同じ無線を掴まえた。

 自分の顔が醜く歪んでいくのがわかる。

『敵増援、東南東よりきたる、水雷隊四、重巡戦隊二、戦艦五、戦線を下げる。再度援軍を依頼する』

 悪態を吐く前に、自分たちの頭上がパッと明るくなった。照明弾は撃つなと言ったろう、八つ当たりに無電を飛ばそうとして、わざわざ真上にあげるバカはこの部隊にはいないことに気づく。敵が放ったものだった。先ほどとは比べものにならないほどに攻撃が激しくなる。

 こちらはおとりなのか。

「西の富津部隊に声をかけろ、援軍求む、以上送れ!」

 艤装の妖精が電文を打つ。

 大淀たちが照明弾を打ち落としたおかげで、海は再び砲撃のみの明かりがあった。

 収まらない苛立ちと歯がゆさを、四十一センチ砲弾に乗せて炸裂させる。

 

「だってさ。頼りにされているみたいで嬉しいね」

 おでこを丸出しにした古鷹さんが言いました。敵艦隊との距離は照明弾が上がった際に調べたところ、おおよそ十キロ。なおも勢い止まらず。艦ならともかく、この暗闇で小さい生き物を視認するのはよほど神経を使っていないとできません。まったくノーマークで近づくことができました。

 深海棲艦の後方から一定間隔に、その前列から断続的に、最前列と思われる駆逐艦の横陣から間断なく発砲炎が上がるおかげで、コマ送りを見ているみたいに、牛歩とも言えるほどですが前進をしているのがわかります。

「古鷹さん、そろそろ一度、進路を青ヶ島にとりましょう。ど真ん中に突っ込んじゃいますって」

 青葉が声をかけると振り向き、さも当然とばかりに答えました。

「このまま突っ込むつもりだけど、ダメかな」

「いやいや、いやいやいや」

 てっきり遠く離れた位置から砲撃してかき乱すつもりとばかり思っていたので混乱しました。よくよく考えれば、今お互いの顔が見えるほど近づいて航行している意味がありません。

「死んじゃいますって、相手の戦力考えてください」

「大丈夫じゃないかな。あ、複縦陣作って。距離そのまま」

「はーい。……じゃなくて」

「逆に懐に入ってしまったほうが安全よ。駆逐隊と背後の巡洋艦の戦列の間、でしょう?」

「うん。砲撃は食らうかもだけど、同士討ちしないために雷撃はしないはず。あとは、体制を立て直す前に振り切る」

 根性論は勘弁してください、なんて言える雰囲気ではありません。先ほどの一線で昂ぶった神経のお二人が黙々と砲雷撃戦の用意をしている音が、背後からガシャガシャうるさく聞こえます。

 もう文句を言うのもばかばかしいです。うちの旗艦はちょっとおかしいんだと思います。さっき自分が突撃できなかったからって、みんな巻き込むことないじゃないですか。熊野さんと目を合わせると、「遺書の一枚でも書いてくるんでしたわ」と、わざわざ大声で言いました。今のうちに電文跳ばそうかしら、とも。

「被弾して速度に支障が出るようならすぐに艤装をしまって、近くの人が抱えてあげて。そうなったら戦闘に参加しなくていいから。とにかく駆け抜けることを厳守。分かった?」

 返事がまばらにあります。

「横須賀の砲撃はどうする。どぼんどぼん音が聞こえんだけど。むっちゃおっかないんだけど」

「突入前に無電送るからすぐ止むと思う。各員、前の人とかぶらないように、少しだけ陣形ずらして」

 雁の群れのような形。青葉と古鷹さんが先頭になって、その後ろを広げるように展開しました。

 砲音と、横須賀さんの撃った砲弾の着弾音、それから深海棲艦の立てる、鉄を引き裂くようなギィギィという声が、うっすらと聞こえるほど近づいています。

 後ろを振り返り、想像通りの形になっていることを確認して古鷹さんが静かに言いました。

「雷撃開始。撃ったら酒匂と足柄は、前列に位置を合わせて」

 とぷん、とぷんと、魚雷が旅立ちます。

 魚鱗のような陣になり、、いよいよ気の狂ったような号令が出されました。

「我ら援護のために突撃する、送って! 砲撃戦、開始!」

 突撃ラッパが鳴り終わるより先に砲撃の音で耳が一瞬潰れ、墨海に糸引く白い筋に気づいたとき、敵は驚愕の……声です。あの耳障りな声が甲高く上がり、押し上げられた海水の中に消えて行きます。落ち着くのを待たず、ほぼ真横から、まさしく横っ面を叩くがごとく砲弾が命中し、幾つか弾薬庫を抜いたのでしょう、地上で爆発する花火みたく断続的な爆発があちこちで発生しました。

「あっはっは、奇襲がこうも決まるとサイッコーね、突撃するわ、いくわよ摩耶!」

 先行しようと列を崩した足柄さんに、古鷹さんの鋭い待ったがかかります。「絶対に隊列を崩しちゃダメ。青葉、後ろに列を合わせて、距離を開けないように注意してね。そっちは頼んだよッ」お尻を広げる形を取っていた陣形ですから、必然的に両翼の距離は離れます。即席の、三人による単縦。敵陣のど真ん中を突っ切るのに六隻で大蛇となるよりは、ということでしょう。

「了解です、古鷹さん、お気をつけて。よおし、青葉隊、突入します!」

「正気の沙汰じゃありませんわ」

「正気だろうが狂ってようが、沈んだら敗者よ、それなら狂ってた方が楽しいじゃない。ふふふ、太平洋に足柄ありと刻み込んでやる!」

 味方が燃え盛る中、突如暗闇の向こうから突っ込んでくる敵。深海棲艦の側に立てば、これ以上ない絶望と混乱の暴風雨のはず。いよいよ陣の中に切り込んだ時、砲口を向けてくる敵は、少ないものでした。

「青葉隊、第一目標狙え!」すぐに動きだしていた敵に探照灯を目潰し代わりに照射し、ついでに砲撃指示を行います。「撃てえッ」三度、腹に響く音が轟き、着弾までの余韻などなかったかのように、敵重巡がズブズブと爆炎をあげ沈んでいきました。

「次は」「そんなのまだるっこしい、とにかく撃つ!」

 頭上がパッと明るくなりました。局所的な炎による灯りとは違い、全体が俯瞰しやすくなりました。横須賀からの砲撃が止んでいます。

「わかりました、各自、兵装自由使用。こちらに砲口を向ける敵を最優先でお願いします」

 陰陽の強調された中、わずか数分間の青葉たちの突入劇。

 この照明弾が落ちきるよりも先に終わってしまう生きるための時間。

 音が轟き、海がえぐれ、空気震えて火薬と硝煙で濁る視界。純粋な『殴り合い』による戦いほど、私たち重巡の誉れとなることはありません。戦艦の方々には悪いですが、今、この状況において敵が脅威と認め、恐怖を感じているのは長門さんたちの巨砲ではありません。青葉たち、富津第一戦隊。

 限界まで研ぎ澄ませた集中力はわずかな予知能力を生み出し、揺らめく影の一つ一つが自分のよう。身体中の産毛が音をつかみ、攻撃を受ける前にこちらの弾を叩き込む。「敵中突破の粋ここにあり」誰かが叫び、真横で敵が倒れこみ、弾け飛んだ艤装が顔をかすめ皮膚を割く。唇が生暖かい、舌をなめずり、唾液ではないぬるつきと鉄の味。目を見開き、目につく敵に砲撃すれば肩に衝撃、殺さず、勢いのまま次の目標へ。次の目標へ。次、次。耳元を弾がかすめる、鳥肌が立つ、髪が焼ける、伏せた体制から砲撃、まだ、まだ終わってはいません。終わりません。足元に敵弾、体制が崩れ、崩れたまま砲撃、勢いで体制を戻し、次いでくる肩口に受けた砲撃で体が傾ぎ、痛い、狙い定め、撃ちます、撃ちます、喰らいつき、敵に砲口を押し当て撃ちます。飛び散り、またも細かい鉄片が弾け、体のあちこちに刺さり、かすめ、敵の姿は爆炎の中、次へ、次へ。まだ終わりません、終わらせません、青葉たちの舞台はここで、ここに、今こそ、今こそが、今こそ!

『青葉さん!』

「っ」氷柱のような声。煮えたぎった頭が冷え切るよりも先に背中が折られるような衝撃。衝撃、横からも前からも。腹、肩、頭、足、肩、足。

 ですよね! 無理無理、そんなうまくことが運ぶはずがありません。

『先行しすぎですわ、速度落として!』

「うぎゅっ、いだっ、ゲッ」

『青葉! 熊野、とりあえずあんたの魚雷全部ばらまいちゃって』

『構いませんわ、おバカさんを任せましたわ、よッ。なんでうちの部隊のツートップは死にたがりなんですの!』

 失礼な。

 古鷹さんがこんな突入指示出さなければこんなことにならなかったんですからね。

 間近で立ち上がる水柱に飲み込まれたおかげで多少砲撃は止んだとはいえ、後ろからなお続く砲撃に体をつんのめらせ、危うく顔から海面に突っ込むところを、力を振り絞って踏ん張ります。水を突き破ってきた砲弾に空いた脇腹を殴られ、変な音がしました。

「青葉っ。ちっきしょう、倒しきれるわけないのよ、こんな数! 撃てぇッ! ……んにゃっ、あだッ!」

 足柄さんが覆いかぶさるようにして必死に応戦していますが、さすがは野生動物と変わらないだけあります、もう現状に適応しはじめ、致命打を与えられていない敵が無表情に立ち上がっていました。

「あんた艤装しまえる? 担ぐから全速力でうぎゃっ! ……抜けるわよ。私がまだ動けるうちにね」

「……無理そう、ですかねえ。気が狂いそうです。それかショック死します」

 今でさえ足が震えているし、鼓動に合わせて身体中が崩れてしまいそうでした。冗談ではないというのに、「まだ平気ね」と言われ、改めて戦闘狂の恐ろしさを垣間見ました。曰く、言葉を理解して言葉で返してくるうちは重症ではないらしいです。砲音で脳をやられてるんだと思います。あ、内緒ですよ。

『青葉、青葉! 大丈夫なの?』

「あは、大丈夫ですよ、まだ浮かんでますから。足柄さん右舷! ……失礼しました。そちらはどうですか」

『もう数が多く、酒匂、左舷! 早く撃って! ちょっとごめんっ』

 無電が切られた直後、離れたところでバアっと火の手が上がりました。不穏な空気が流れた後、何事もなかったかのごとく、古鷹さんの、この状況下にあって癒される、ほがらな声が再び通信されます。

『後少しだからがんばろ。こっちはなんとかなっているからさ』

「青葉りょーかい。ああ、あの暗闇が恋しいなあ」

 照明弾の照らしきれない宵闇の向こう。そこへ行けば、轟きの渦から抜け出せるということです。後ほんの数十秒耐えれば「んがっ、熊野、右九〇度回頭急げ!」『は? 戦艦の中に突っ込めって――』体を倒して無理やり横滑りする形で右に逸れた青葉たちの脇を、何か大きなものが通り過ぎて行きました。

「熊野!」

 通信は返ってきません。前方への好奇心より仲間を気にしない艦娘がありましょうか。振り返れば、先ほどまでこちらが作り出していた光景を、熊野さんが作り出していました。

 身につけた艤装から火を吹き出した熊野さんが、両腕をだらんとぶら下げ、今にも倒れ込もうとしていました。

「青葉あんたは頑張れ! ――足柄よ、真正面、敵戦艦の横列、熊野被弾、大破っ。チィ、どうすんのよこれ、 熊野、く、ま、のォ! 起きて進みなさい、それじゃあ的になるわ!」

 支えを失って傾ぐ体を、まだ力の入る足でなんとか踏ん張り、顔を上げました。逃げ込もうとした宵闇の中、照明に慣れた目をこすりこらすと、残りカスの光ににぶく輝く、巨大な艤装。

 戦艦ル級が、青葉たちの行く末に蓋をするように、こちらを悠然と眺めていました。

 奴らは低速のはずです、ほぼ停止に近い速度から、青葉たちに割り込む形で、自分たちの作り上げた一・五キロの横列を移動できるはずがありません。

「青葉たちが突入する前は、確かに後ろに……そんなに早く、判断が」

『古鷹です、熊野の容体を早急に!』

『意識あり、だけど艤装もめちゃくちゃ、左腕が使い物にならないわ。あと多分通信もできてない。かろうじて浮かんでいるけれど速度は出せない!』

『摩耶、青葉隊に就いて。ちょっと辛いかもだけど、左舷もお願い』

『それはいいけどよ、目の前どうすんだよ。今更引き返せねえぞ』

『私と酒匂で突撃します。なんとか道を開けるから』

 まさか。

 粘着質な前方から目をそらし、今まで青葉たちが戦っていた右舷。その向こう側。近場にいた軽巡と重巡に意識を取られて見ていなかったその奥。今まさに、たっぷりと時間を取り、狙いを完璧に定めた戦艦が火を吹かんとする砲口を、ゆっくりと前進しながらこちらに向けていました。

「戦艦は四隻ではなかった、んですねえ」

 こちらに向かっていた摩耶さんも同じものを目にしたようです、『おい、待て待て待て、敵増援! 戦艦四!』そう叫び、直後、殺意が放たれ「させないわよぉ」ませんでした。

「喰らいなさいッ」

 ものすごい勢いで目の前を紺と金が通り過ぎました。急に飛び込んできた人影からの轟音は、戦艦ル級の狙いをブレさせるには十分。致命打こそ与えられなかったものの、集中力の分散された砲撃に当たるほど青葉たちも落ちぶれちゃいません。痛む身体をこらえ、鋭く角度をつけ回避行動をとります。熊野さんも、足柄さんが引きずるようにして避けました。

 第二の混乱に陥る深海棲艦。

 火山は噴火しない期間が長ければ長いほど、溜め込むエネルギーが多くなるそうです。

 と言うたとえがしっくりきました。

「そのままおとなしくしていなさい。……ふふ、馬鹿め、と言ってさしあげますわ」

 一度砲撃した戦艦は、青葉たち重巡よりも少しだけ装填に時間がかかります。艦船も艦娘も深海棲艦にも横たわる不文律。新たに飛び込んできた生きのいい横須賀の艦娘二人は後先考えない雷撃で、あっという間に戦艦を二隻、炎上させました。あの燃え方は、もう長くないでしょう。

『そのまま突っきれ、富津部隊!』

 無電が入るほど近く。

 それから、前方の戦艦が一隻、水柱に持ち上げられ沈んでいくのを、新しくあげられた照明弾の下ではっきりと目撃しました。

『そんな無茶を見せられて黙っていられませン! 比叡、ワタシたちも見習うネ』

『だから砲塔がダメになってるんですってばあ……。まあいいや、気合、入れて、行きますッ』

 言葉通りの、狙いの定まらない砲撃。しかし注意はこちらから完全に逸れ、突っ込んでくる高速戦艦を脅威と認識しているようでした。

『青葉、熊野、頑張って! 富津第一戦隊、前方の敵戦艦をすり抜けるよ』

 最後の一踏ん張り、悲鳴を上げ始めた機関を回し、第三戦速まで速度を上げつつ、ぶつからん勢いで戦艦に突撃しました。かすかに目を見開いた戦艦ル級の顔がはっきりと見えます。ピタリと止んだ横須賀の砲弾は、まさしく、私たちの花道を作り出してくれている。そう思うと足の震えが収まり、同時に胸にボイラーが増設されたみたいに、体がカッカと熱くなりました。

 よし。

「……てぇ!」

 痛みをこらえて、すれ違いざまに放った砲弾は見事命中。砲塔の一つを潰すも、致命打は与えられなかったらしく、腹立たしげにこちらを睨んできた深海棲艦に苦笑いしておきました。

「青葉、青葉。もういいから。大丈夫」

 急に横から抱かれて全身が固まりましたが、ちょっぴり汗の匂いの向こう側、嗅ぎ慣れた古鷹さんの香りに気づいて、全身の力が抜け、思わず膝をつきそうになりました。ですが、すぐ後ろから聞こえる戦艦同士の殴り合いの音にハッとなり、力を入れなおします。

「あはは、火力がちょこっと足りないのかな。沈めてやるつもりだったんですけど。でもでも、砲塔は潰しましたよぉ」

 古鷹さんが肩をさすってくれるだけで、体の痛みが和らいでくる気すらしてきます。

「見てよ、私たちが突入したとこに横須賀の娘たちが、ほら」

 私たちが一直線に作った炎の道と、ほころびを食いやぶらん勢いで突入していく金剛さんや長門さんたち戦艦、魚雷と砲撃で的確に穴を広げていく高雄さんと愛宕さん重巡。瓦解した陣形は、未だ抵抗激しけれど、練度の差をまざまざと見せつける横須賀部隊の歯牙にかかり、撤退、もしくは全滅まで追い込まれるのは、確実に見えました。

「あー……生きてますの? ぃきゃッ」

「腕は見ない方がいいわよ。なんかすごいことになっているから」

「……この上着は足柄さんのかしら。ありがとうございます。片腕が動けばなんとかなるでしょう」

 背中をさすってくれていた手を止め、古鷹さんが熊野さんの元へ向かいます。

「熊野、ごめんね」

「まったくですわ。死ぬかと思いました」

 なんども謝る古鷹さんだって血まみれです。ちょっとしたスプラッターなぐらい、青葉たちの部隊は傷だらけの艦娘ばかりです。いますぐ入渠して、お風呂に入って、ちょっと硬くてペラッペラな毛布にくるまっておやすみなさいをしたいぐらいです。

 が、そうもいかないのが作戦行動というもの。

「でも生きていますから。突入も無駄ではなかったようですし。さ、次に行きましょう」

 本隊が待っています。こちらよりももっと劣勢な、犬吠埼の水雷隊が、大量の戦艦相手に立ち回っているのです。止まっているわけにもいかず、両舷強速、少し火照った体に寒風が気持ちいいかと思えば、汗が冷えて歯の根が合いません。

 熊野さんに併走しつつ、さらに申し訳ないように、小さい体をさらに縮こまらせ、それからぐっと背筋を伸ばして古鷹さんが言いました。

「熊野、八丈島に向かってください。命令です」

 少し間をおいてこれに応える熊野さん。声が遠くなっています。

「ありがとうございます、なんて言いませんわ。私の気持ちを汲んでくださる?」

 落伍しているのです。第一戦速も出せない、十ノット以下で走る大破した艦娘が、この後の戦いを生きて帰還することは、本人にも理解できるほど、無理なことでした。

 急がねばならないのに、青葉たち全員、熊野さんに速度を合わせます。

 緩やかに流れる潮風を全身で受け止めながら星空をあおぎ、つぶやくように言葉が続きました。

「今度は、生きて帰れるといいですけれど」

 この距離です、もちろんちょっとした自虐ネタだというのは何度も一緒に海に出ているのでわかっているのですが、ただ一人、酒匂だけが不安そうにみんなの顔を見渡しています。「一人で行かせるなんて」そう顔に書いてあるのがあからさまです。けれど、熊野さんが抜け、さらに護衛に一人つけてしまったら、青葉たちは四人で敵の本隊の足止めを行わなければなりません。酒匂さんの心配を払拭することができないことに、一路、沈黙が流れます。

 それも古鷹さんの一言で流れが変わるんですけど。

「酒匂、じゃあ護衛について行ってあげてくれる?」

「ふーるーたーかーさーん? もう無茶はやめてくださいってぇ」

 熊野さんも「冗談ですわよ」と言ってやんわり断ろうとしましたが、横槍が突っ込まれました。

「それがいいかもな」

「摩耶さんまで。この後の敵戦力、わかってて言っています?」

「わかってる。わかった上で、酒匂は一旦引かせたほうがいい」

 真面目に言っていました。

 急に話の焦点が自分になったことに驚いた酒匂さんがちょっぴり眉根を寄せます。

「酒匂、何か悪いことした? ……あ、護衛が全然、イヤってワケじゃないけどっ」

「悪いことなんかしてねえよ。ただ、何もしなかっただろお前」

「頑張ったもん! ちゃんと雷撃だってしたし、砲撃だって」「何発撃った?」

 畳み掛ける摩耶さんに酒匂さんが答えます。「……一、ぱつ」

「最後だって古鷹が見てなけりゃ、見事に雷撃放たれていたんだぞ。お前が撃ってりゃなんともなかったのに、無理に目標を変えたせいで古鷹は被弾。途中途中、アタシだってフォローに回っていたの、気付かないとは言わせないからな」

 唇をぎゅっとひきしぼって耐えるように摩耶さんの説教を受けている姿は、いじめのようにも見えてあまり気分はよろしくありません。が、あの通信の向こう側で酒匂さんがもたついていたのは事実なのでしょう。左に敵を見ていたはずの古鷹さんが右肩を負傷しているのは、途中で強引に転舵したことを証拠として突きつけています。

「何もしてないってんならそれでいい。だけどな、お前のせいで何かを犠牲にしなくちゃいけないってんなら、何もしないよりもタチが悪い。それなら熊野の護衛という、明確な役割を持って島で待っていてくれた方が」「まあまあ、酒匂は初出撃だし、ね?」

 足柄さんが摩耶さんを遮り、勢いを削がれたのかさっさと行ってしまいました。

「あ、コラ摩耶、先行しないで。……もうっ。酒匂、気にしないでね。どちらにせよ、横須賀さんを抜けてきた深海棲艦が襲ってくるかもしれないから、護衛はつけなくちゃって思っていたの。敵が来たら、しっかり守ってあげるんだよ」

 焦げた匂いをたなびかせ、摩耶さんを追いかけて行きました。

 気まずさの中、酒匂さんに熊野さんの体を預け、二人を追いかけようとする足柄さんに続こうとしました。背中に声がかかります。

「酒匂、邪魔だった?」

「……」

 青葉には答えられませんでした。自分のことが精一杯で、彼女のことをきちんとみてあげていられなかったからです。震えた手を握ってあげることもできません。陳腐な慰めは酒匂のためにならないと、半端に賢しい頭が答えを弾き出していたから。

 こういう時に細かいことを気にしない性格は、本当に羨ましいです。肩越しに振り返って、きちんと笑顔を見せた後、足柄さんは大声で叫びました。

「一層の努力をもって見返すべし! 生きていれば先は長いのよ、摩耶の鼻をへし折ってやるぐらい強くなりなさい。そのためには今できることをきちんとやり遂げな」

 ぽかんとした酒匂さん、青葉と目があうと、顔つきが変わりました。帽子などかぶっていないのに敬礼を見せ、足柄さんに負けない大きな声が返ってきました。

「どうか、ご武運を!」

 バッと片腕を上げて答えた足柄さんの脇に滑り込み「やーい、かっこつけ」と言ってやると、「うるっさい」グーで小突かれました。まだ身体中が痛みますが、こんなやり取りの後ですから、ぽかぽかあったまったようなきもち。

 あの顔なら心配はないでしょう。遠くから熊野さんの悲鳴が聞こえてくるあたり、悲しんだりしていないようですし。多分無理に引っ張っているんだろうな。別件で怒られそうですが、へこんでばかりいるよりも、空回りしているぐらいがちょうど良いです。なんせ戦闘が大好きな戦隊なんですから、ここは。

 なぜか古鷹さんに頭を撫でられていた摩耶さんたちに追いつき、お互いの残弾の確認をしました。弾薬はまだ半分以上ありますが、魚雷が四人合わせて八本。全弾撃ち尽くした摩耶さんと足柄さんに二本づつ渡し、戦力を均一化しておきます。奇襲として打ったら最後、あとは主砲だけが火力の頼りです。あれだけ至近距離でも沈めることができなかった戦艦相手では、何発叩きこめば良いのでしょうか。横須賀の打撃部隊が早くこちらに来てくれれば良いのですが。

 見るからにズタボロですが、きっとこれが最後の戦闘でしょうから。会敵まで誰も話さずに体を休めることに専念していました。

 

 とっても帰りたいです。

「怖い、重巡が怖い!」

 あれだけカッコつけていた足柄さんが涙目で叫びます。「おまえも重巡だろうがあ!」摩耶さんに突っ込まれても縦横無尽に飛んでくる砲弾が海に牙を立て返事はかき消されました。

「みんな固まらないように、だけど」

「離れないように、ですよね、わかっているけど、わかってはいるんだけどなあっ」

 回避してから陣形を維持するために元の場所に戻ろうとすれば次が来る。上に気をとられていたら足元をえぐられる。奇襲がそう何度も成功するはずもなく、逆に敵戦隊の一つに待ち伏せを食らった青葉たちは総崩れ直前の、きわどい戦闘を強いられました。ガグン、ガグンと調子の悪い推進機関が安静にしろと言っているようです。速度が安定しないおかげで目の前を砲弾が横切る、すんでの生にしがみついたこともあるからいいものの、このまま戦闘を続けていたら、そのうちに的なってしまうでしょう。そうなる前に深海棲艦の皆様方にはお引き取りいただきたいところです。

 両者の頭上には燦然と輝く花火、いや、照明弾が、深夜三時を回った海を明るく照らしあげています。おかげさまで戦艦の砲撃も届く届く。

「さっきのよりもきっついわ」

 たまたま近くに回避してきた足柄さんが言います。

「そりゃあ、一仕事終えた後ですから。砲塔大丈夫ですか」

「半分潰されたわよ。ちくしょう、クソ駆逐艦めえ、ピンポイントで狙いやがって」

「あはは。……ッ」嫌な予感がしたので、二人で協力して急旋回、直後とても大きな水柱があがりました。反対方向に逃げていく足柄さんの背中に声をかけます。「摩耶さんの口調がうつってますよ!」

「あんな口汚ない露出狂と一緒にすんな!」着弾の隙間を縫いつつ返ってきたのは本当にいまいましげな。あれで陸ではよく一緒にお酒を飲んでいるんです。げに不思議なのは世の真理ではなくあの二人の関係性だと思いますね。

 さて、どうしましょう。 

 先ほどの仕返しなのか、見事に横っ面から突っ込まれたおかげで体制を立て直せないほど間近に深海棲艦がいます。同士討ちを気にしないものですから、敵本隊からの砲撃がやむことは期待できません。このままでは防戦一方、まずは近場をどうにかしなくてはいけないのに、先ほどの敵中突破が響いて満足いく戦い方ができない。

 砲を抱える肩は、持ち上げるたびにグギグギ変な音がします。

 衝撃を支える足は、力の入れ方を間違えれば脳天に刺さる痛みがあります。

 撃てば脇腹が軋み、腰が悲鳴をあげ、受け止めきれなかった衝撃に体を大きくのけぞらせてひっくり返りそうになります。

 歯を食いしばって、なんて青葉のキャラじゃないんですけども。もっとこう、飄々ヘラヘラしていたいんだけどなあ。あんまり頑張ってしまうと……うん、疲れる、し。

「青葉、辛かったら無理しないで下がっていいから」

 灯りに照らされた古鷹さんの鳶色の髪の毛がまだらに赤くなっていました。「古鷹さんこそ、頭部に被弾しているなら下がるべきでは」とヤケクソの笑顔を見せてあげると自分の髪の毛を梳いて言いました。

「うわっ、固まっちゃってる。お風呂はいりたいなあ」

「あはは、心配いらなそうですねえッ」

 頭上の敵弾にしゃがみこんで(通り過ぎた後なので意味はないのですが)、お返しに一発。少しだけ後退させましたが沈黙させるには至りません。ただ、同じ敵を狙った古鷹さんの攻撃は足を見事に撃ちぬき、体制を崩した敵は足柄さんたちの一斉射を受けて爆沈していきました。

「もう突撃はできないし、魚雷も少ない。こんなに食い込まれて、挙句向こうの方じゃあ戦艦サマがいっぱい健在。詰んでいるのでは。いっそ朝まで待って航空支援を待ちませんか」

「夜明けまであと三時間もあるんだよ、島の形が変わっちゃう。夜が明けて水上部隊がこんなにいたら、どこかに待機している空母が絶対に出てくるから泥試合になる。ならいっそ、被害覚悟で門前払いしておかないと」

「真面目ですねえ」と強がってみても、青葉だって同じ意見なのだからこうして闘っているわけです。

 ぐわん、と大きく回頭をして古鷹さんについていきます。

「そういえばさ、さっき何を言いかけたの」

「さっき? はて、いつでしょうか」

「ほら、司令官の話をしている時だよ。『もし青葉が』って言って敵が来ちゃったとき」

「ああ」本当に何でもない話を蒸し返してきたので、自分では思い出せませんでした。「何で今さら」

 こちら側の照明弾が海に落ち、間断おかずもう一度敵を照らしあげます。

 じわりじわりと前進している。

 八丈島まで二十キロ切りそうなほどです。戦艦の砲戦距離に達しています。逆側から犬吠埼の水雷隊が、そしてこちらからもあてずっぽうの砲撃で気を散らしていても、もし敵が全て島に注意も向けた場合、止められる術は青葉たちにありません。猛進する猪の群れに立ち塞がれば、たやすく食い破られるだけ。罠だって用意されていないのです。

「古鷹さん、この先どうするおつもりですか。もはや青葉たちに、あの艦隊をどうこうすることはできませんよ」

 話をぶった切る青葉を頰を膨らまして睨まれます。

 足柄さんも摩耶さんも、青葉も古鷹さんだって傷だらけ。まともに動く砲をなんとかやりくりして反撃しても機嫌を損ねるだけ。まさしく、火力が足りません。限られた数の魚雷は切り札、しかし、無駄に切ってはいけないのが切り札なのです。確実に、確信とともに放たなければ、全くの無駄打ちとなり、その時こそ富津第一重巡戦隊の存在意義がなくなります。

「だからって刺し違えるなんて考えは許可できないからね。摩耶、もっと下がって!」

「犬吠埼の皆さんも攻めあぐねているようです。よくもまあ、こんな大艦隊相手に立ち回っているものだよ、こっちはもうボロボロなのにさ!」

「……違うよね。うん、やっぱり違う」

 血で固まった髪の毛を爆風でなびかせながら古鷹さんがつぶやきます。目線の先には、変わった動きで敵に肉薄しつつも、駆逐隊の弾幕に踏み込めない犬吠埼の部隊。

「そりゃあ今は人の姿ですからね」

「ちがうの、ちがう、ちがう……」うわ言のように繰り返していました。この状況に気でも違ってしまったのか、張り手を一発かまそうと手を挙げたとき、顔を上げて言いました。

「あとふたつ」

「はあっ?」

 手首をぐっとつかんで顔を近づけた古鷹さんの目は救いを求めているように揺れていました。

 

 古鷹隊が敵主力隊との交戦を始めたころ。

 息をひそめる八丈島、その東、神湊港に酒匂と熊野が到着した。

「だれか、だれか手伝って!」

 息をひそめる島に、白い戦闘服を真っ赤に染めた酒匂の声が響いた。本隊と別れた後、背後に戦闘音を聞きながら帰投する途中で気を失った熊野は、酒匂の首からちぎれたネックレスのようにぶら下がっていた。艤装を展開している。酒匂だって同じだというのに、熊野の体が重くて仕方がない。彼女の側に向けて体が傾ぐ。大汗をかいているせいで滑り落ちそうになるのを必死に支える。

「誰か!」

「どちらに所属ですか!」建物の影、視線の通らないところから男の声が上がった。

「富津第一重巡戦隊の酒匂だよ、熊野がケガしているの、おねがい、助けて!」

 半端にスロープのついた桟橋に上がると酒匂は動けなくなった。両者の重みで首がミシミシ音を立てている、足の艤装が管轄外だと悲鳴をあげ、いたずらに壊さないようにとついに膝をついた。

 声がしたところと同じ方面から、何十もの人がこちらに整然と荒々しく近づいてきた。どれもこれも星月の下でもわかるぐらい垢に汚れていて、衛生的にも生理的にも受け付けない男たちが酒匂の周りを取り囲み、一帯、すえた汗の臭いが充満した。

「おい、管理棟に連絡、急いで明石さんをこっちに!」

 何人かが走り、すぐに長身の女性が手を引かれて小走りにやってきた。

 ながい桃色の髪、彼女は熊野を見かけるやすぐに艤装を展開させた。鎧のような艤装だ。顔つきは知的そのもので、一般的ではない巨大なクレーンのついた、おおよそ戦闘向きでない装備の持ち主。

「私は艤装は直せるけど、体は治せません。先に入渠させないと」

「第一入渠場は現在、卯月さんと千代田さんが使用中です」

「卯月さんを叩きおこして。もう傷は治っているはず、中で寝ていると思います。車を回してください」

 また別方向に人が消えていく。

 それから彼女が熊野に触り、なぜるようにすると艤装が消えた。

「あっ!」

 痛みで目を覚ましたが、覚醒はしなかった。軽くなった熊野の体を波打際から引き上げ、手早く止血し、何がしかの薬を飲ませる頃に一台、ライトも点けずにタイヤを鳴らせて到着した。

 後部座席に寝かして、「入渠液の交換を忘れずに」と運転手に告げると、頭を下げて、男がゆっくり速度を上げた。わずかな段差でもなるたけ振動させないように気をつけているのが、速度を見ればわかる。ブレーキランプは、おそらく夜間限定であるのだろうが電球が抜かれていて、よわいヘッドライトを頼りに進んで行く。

 あたりはある程度整備されているとはいえ、流したばかりのコンクリートは濃鼠色のままだった。軍で使用している木箱やコンテナが乱雑して、けれど中身はどれも空っぽ。港の建物は一律破壊され尽くしてはいるが、急ごしらえのテントや簡易的な木造舎が点在し、そのどれもに人の営みを感じさせるのであった。灯りは一切ない。この数十キロ先では、未だ長門や金剛らが砲戦交えているのだ、ここで島が灯りの一つでもつけようものならば、あてずっぽうであってもタマが飛んでくる。防衛する艦娘らに対する裏切りに等しい。

「戦局はいかがですか。無電で話されるとこちらには情報入ってこないんですよね」

 車を見送っていた明石が酒匂を少しだけ見下ろした。

 身長差がある。見上げるようにすると、筋肉痛か、鎖骨の下の筋肉が痛んだ。

「は、はい。えと、わが部隊は、敵部隊ソク部から、あー、突撃……をカンコウいたしまして」

「もっとくだけた話し方でいいですよ」腰を曲げて酒匂に目線を合わせた明石が人懐こく言った。

「えっとえっと……。今は長門さんたちが戦ってるよ。私たちは敵に突っ込んでって、その隙に横須賀さんが突撃して、それで古鷹さんたちは犬吠埼さんの援護に向かったの」

 状況ばかりを伝える言葉をすぐに噛み砕いた明石が頭をガリガリとかく。見れば腕や顔に治療の痕があるが、血も滲んでいないし、軽症なのだろう。「今正面にいるのって打撃部隊、戦艦が四隻もいるんでしょう? そんな中にあなたたちは突っ込んで行ったんですか。よく生きてましたね」呆れたため息があった。「被害は熊野さんだけ? あのくらいなら明日の朝には治ります。護衛、お疲れ様でした。おやすみになりますか」

 褒められたことと、無事任務をまっとうできたことに安心した酒匂だが、すぐにかぶりを振って明石にしがみついた。

 艤装がガシャリと音を立てる。

「増援を出して。東の敵はいっぱいで、正面は戦艦が八隻もいるの」

「八隻!」明石はのけぞった。「二倍じゃないですか」

「でもでも、あんまり強くないって摩耶が言ってたからだいじょーぶだと思う。でもでもでも、いっぱいいるから」

「東に対する有効打がいない、というわけですね。知ってはいるんです。そちらが主力艦隊だというのはね。けれど……」

 島の中央の方に顔を向けて舌打ちをした。

「私も、ここに来る途中で水雷隊に襲われまして。千歳さんたちが頑張ってくれて、全滅させたはいいんですが被害もあり。大したことではないですが、果たして数隻の水雷隊が援軍になるかどうか。いえ、富津部隊の練度の話ではなく」

「空母いるんでしょ、夜間出撃できないの?」

「できます。横須賀の空母部隊はレベルが高いですよ、呉でも時々話に上がるほど。だけど、今は全機発艦して青ヶ島の方へ」

「青ヶ島」酒匂はうまく状況が飲み込めず、そのまま聞き返した。せめて爆撃隊の三つか四つ出してもらうだけでも状況は変わるというのに。

「別働隊がいたんです」

 うつむいた酒匂の方を撫でて言葉を続けた。「巡洋艦率いる戦隊が青ヶ島を狙っています。ま、秘匿し続けることは無理でしょうからね。水上部隊の手が回らないので葛城さんたちが出張っているんです」

 足の力が抜け、艤装のおかげで体がよろけた。やはり艦娘、『艦』娘。陸の上で想定されていない装備だからこそ、二本の細い足で支えるには無理がある。「おっと」同じく装備を展開したままの明石が受け止めた。

「少し休みましょう。あなたも、戦われたんですし。……お願いね」

 酒匂がひと撫でされると、自分でそうしたかのように装備が収納された。重心が急に変わって尻餅をついてしまい、「あらら、すみません」と謝る明石に手を引かれて立ち上がる。彼女もまた、艤装を収納していた。少女に戻った体が悲鳴をあげるも、重く締め付けるような艤装がなくなったことで羽にでもなったかのように心地よい。

 散らばった木箱を一つ椅子にして腰かけた。周りには獣みたいな匂いが充満している。活動している男たちがいるはずなのだが、声や匂いはあれども姿が見えない。

「なんで、酒匂の艤装、いや人の艤装を」

 熊野もそうだった。

 艤装は本人以外がどうこうできるものではない。砲塔一つ、燃料一滴とっても、自分の艤装に取り込まれたものは、艤装に宿る妖精のものになるのだ、そして妖精は装備者以外の言葉に耳を貸さない。例外なのが妖精とコンタクトを取れる人間であり、さらに細かく命令できるものだけが部隊、もしくは基地の司令官に就任する。艦娘同士でも同じだ、昨日装備していた艤装を他の艦娘が装備したとて、自分の言うことは聞いてくれない。仕える主人が変われば、忠誠心も変化する。

 隣で髪をなびかせるのは明石。工作艦、明石。

「私の言うことはどんな妖精さんだろうが無視しません。無理矢理に機関を止めることだってできますよ、今度試してみますか」

「いや、やめとくよお」

 海の上でそんなことをされたら時速四十キロでドボンだ。下手すると水切り石みたいに跳ねるかもしれない、間抜けすぎる。

「一応、深海棲艦の艤装もどうにかできるんです。私の妖精さんを送り込んで、向こうの妖精さんを制圧する時間さえあれば、ですけれど。戦闘じゃまったくもって使えない、ちょっとした裏ワザです」

「……敵も、妖精さんと一緒なんだ」

「ありゃ、これ言っちゃいけなかったんですっけ。ま、そのうち発表されるからいいでしょう……うん、いいはず。内緒にしてくださいね」

 気まずそうにする笑いにつられて顔がほころぶ。一気に噴き出した疲れでまぶたが落ちそうになるのを、港の空気が一気に騒然とし始めて、すんでのところで防がれた。「なになに、敵っ?」立ち上がろうとして、それよりも先に艤装を展開させていた明石が「敵ではないです」と片手で制する。

「輸送船団がくるぞ、各部隊定位置につけ。荷物は片付いているな。道を開けるんだ!」

 野太くかすれた、荷下ろし担当部隊の隊長らしき男の声が響き軍靴の音が四方八方からこちらに集まってくる。「うわ、うわわっ」こんなに多くの男を見たことがなかった酒匂が怖がって明石に体を摺り寄せた。続いてやわいライトをつけてトラックやクレーンが、桟橋から離れた位置に整列された。物資輸送をするのに車両があんなに離れてていいのか、明石に聞いたら「先に船から出てくる車が優先ですから」と、働く男たちを眺めながら言った。すべて人力と思っていた酒匂が小さく感心する。

 邪魔にならないよう端っこに寄り、巣穴を塞がれたアリみたく動き回る姿を眺めていた。桟橋に整列する班、車列を走り回る男、屋内に引っ込んだかと思うと転げるようにまた出てくる人、車がスムーズに走れるよう石や木材の破片を片付ける雑用まで、誰もあぶれずに働いている。

「富津第一水雷戦隊から入電、三キロ以内に敵影なし、車両輸送船から先に着きます」

 彼らの鉄火場である。

 明石が声を上げると腹からの声が響いた。想定時間より遅くては意味がない。早ければ早いほど良い。迅速に無駄なく荷下ろしを行うための準備を着々と推し進め、多少散らかっていたのは、当初は西側の八重根港につける予定だったからだろう。車のエンジンがごうごう唸っている。いつでも誰でも手を貸せるよう、隊員たちが一挙、まるで王族を迎えるかのように整列した。

「護衛艦娘、警戒態勢に入りました。……荷下ろし用意!」

 音も立てず灯りもつけず、巨大な輸送船(観光用のフェリー)が島影からのっそりと出てきた。

 警戒態勢に入るのは、本来は横須賀の艦娘の仕事。今は戦闘中であるため、富津部隊が休憩を行わず、荷下ろしの間の警戒を担うようだ。

 スロープのついていない方に頭から雑に接岸した輸送船のフタが開くとすぐに、そのまま渡し板になったフタを踏み外さないよう、車列が出てくる。ライトをつけず、間近に並んでいた兵士たちがよわいサイリウムを持って立っているおかげで、パレードの花道のようなものを作り出していた。おかげで桟橋に降り立った輸送車はタイヤを鳴らし、一気に速度を上げて、道に沿うよう港の奥に設えられた倉庫の近くに次から次へと停車していく。一つの車が荷下ろしするのに一分かかっていない。フェリーの頭から生まれた車列は、最後の一両が降り立つと同時に、入れ違いで戻っていった。

 酒匂は目の前を行き過ぎる車列を呆然と眺め、働く男たち見つめていた。大勢いるのに、みんな一人づつ役割を持っている。一人サボればその分だけ作業の終わりが遠のく。ただ突っ立っているだけでも道を作り出す。明石を見た。明石は耳に手を当て、真剣な顔つきであたりの様子を伺っていた。「あと五分で次が来ます、どうですか」大声を出すと、倉庫の方から返事があった。「じゃんじゃん持ってこい!」それその通り、みるみる間に車列はフェリーに食われていく。残り数台、といったところだ。

「ネーちゃん、こいつはどこへ碇泊させりゃあいい。どこもかしこも敵だらけなんだろう」

 船の上からヒゲだらけの男が叫んだ。

「漁港の方へお願いします、エンジンは切らず、垂戸湾の方へ伸びる形で。誘導灯を一つ、白色でつけてください。もし敵が見えたら黄色に。後に続かせます」

「あいよ」大きく手を振って、男の姿が消えた。声だけが続く。「軍人さんらはもう休ませてもいいな!」

 トラック輸送船は接岸から二十分で役目を終えた。

 バックしていく船と入れ違いで、今度はさっきとはまた違った形の観光船が入港し、今度こそ湾内の男たちがこぞって動き出した。

「おうい、艦娘さんよお」

 また頭上から声がかかる。「碇泊は漁港です、先に一隻向かいました、誘導灯を目印に、お尻につけてください」

 明石の返事を聞くと「大変だろうが頑張ってくれ」と激励され、船の中に引っ込んでいった。

 またじいっと耳に手を当てる明石の袖を引いて酒匂は言った。

「今だいじょーぶ?」

「ん? どうしましたか、管理棟へは、あの車へ乗っていればいけますよ」

「違うの」あちこちで巻き上がる怒号に負けないよう声を張る。「船長さんたちは軍人さんじゃないの?」

「一般徴用の船ですからね、扱いに慣れた方にお願いしてあるんです。つまり、一般の方々ですよ」 

「……ぴゃあ」

 今、この場で何もせずにいるのは酒匂だけ。息苦しさを感じていた。

 軍人じゃない人も頑張っているのに、軍属の、深海棲艦に唯一対抗できる艦娘である自分がなにもせず、陸でのうのうとしている。荷下ろしを手伝おうにも艤装を展開させれば動きが鈍くなる。船に乗り込めば、変化した重みで迷惑をかける。なにもできない。なにもすることがない。

「酒匂、邪魔?」

 同じ部隊の仲間にかけた言葉をもう一度。

「いやいや、邪魔とかないです。大丈夫ですよ」

「……そうじゃないもん」

 集中している明石に酒匂のつぶやきは聞こえていなかった。

 戦闘でも、荷下ろしでも必要とされていない。息苦しさは心苦しさに変わった。自分は熊野の護衛という任務を与えられて完遂した。これ以上の命令は与えられていないから、休もうと思えば休める。自分がゆっくりしている間、横須賀の艦娘も、富津のみんなも、この島に敵を近づけまいと砕身の努力をしている。沈んでしまう娘だっていてもおかしくない戦力差で攻め上げられているのに、一人、命令がないからといって休んでていいものなのか。

 一層の努力を持って見返すべし。

 足柄が言った。

 酒匂は顔を上げた。

「明石さん、海、出れる?」

「航行能力に支障は出ていませんが、今出る必要は」

「ちょっと来て!」

 明石の手を引き、慌ただしくしている男に背を向けて波打ち際で艤装を展開させた。荷下ろしをしている部隊の何人かが歓声をあげる。「出撃されますか」振り返らずに応えた。「うん!」

 直後もっと大きな声が上がった。「御武運を!」わあっと騒がしくなっても手を止めていない。

「ちょちょ、酒匂さんっ。ウソでしょ、私戦闘できないですって。工作艦、こ、う、さ、く、艦!」

 激励を背中に受けて一気に加速する。明石が重いが、力任せにひきはがすほど薄情な艦娘ではないようだ、あれだけ盛り上げられて戻りにくいというのもあるのかもしれない。

「戦闘しなくていいよ、それは私たちの役目だから」

「じゃあ何しろってんですか。私があそこにいた方が、搬入がスムーズにいくんですって」

「警戒。あの人たちだけでも艦娘の通信は受信できるでしょ」

「けっ警戒? 敵が来たら速攻抜かれるのに!」

「来ない。来させないから」

「そんなのわからないじゃない。それに私一人じゃあ見張りにも限界が」

「……」

「あー! あー! 酒匂さん、それダメ!」

 途端、通信を入れていた妖精さんが途中で送信をやめた。

 そうだった、彼女に触っていたら、妖精さんが言うこときかなくなるんだった。

 手を離してもう一度、今度は引き離して再度通信する。《葛城さん、瑞鳳さん、どっちでもいいから、四水戦の元気な娘を海に出して。荷下ろししている船の警戒をお願いしたいの》送信完了と同時にしがみつかれた。全身の妖精さんが入れ替わったような感覚。

「あああっ」

 明石が絶叫した。

「酒匂さん、バカなんですかっ! 輸送船団の位置に関する通信はしちゃダメって、富津の提督から厳命されていないんですか」

「通信してたもん!」

「あれは短距離通信! 五キロも寿命がないもんです、今あなたが送ったのは普通の、長距離通信じゃない!」

 頭を抱えて唸っても、送ってしまったものはもう遅い。返事はないものの、艦載機を運用している空母組が艤装を展開していないはずがないから、受信はしているはず。

「しかも平文……ああ、終わった。一気に攻めてくるぅ」

 この世の終わりのような声を出す。

『今、通信をした愚か者はどなたですか』

 今度は凍えるような音声通信。耳元から聞こえてきた言葉に鳥肌が立つ。

 警戒に当たっている地点はすぐそこだった。返事をせず、真っ暗闇の中に人影を探す。遠くの空の明るみの中に、等間隔に佇む人影を見つけて舵を切る。

「さ、酒匂だよ」

「重巡戦隊の新入りですね。教育的指導か制裁か、お好きな方をどうぞお選びください。もちろん受けるのは旗艦である古鷹さんですが」

 目の前に立ちふさがるようにする神通は笑っていない。今すぐにでも殴りかかってきそうな雰囲気を持って、酒匂を睨みつけていた。

「東の援護に行きたいの。手伝って」

 無言。

 じっと睨まれ、内臓を握られたみたいに妙な痛みが生まれる。口を開かない。ただ雰囲気だけで圧倒されていた。唇をぎゅっと引き絞り、顔は上げ、目をしっかりと見返す。

「っ」

 思い切り頰を張られて目の前に星が舞った。無理に力を入れていたせいで首の筋がちぎれたみたいに痛い。張られた頰だってじんじんと痛み、涙が浮かんだ。

 他基地所属の明石は一転、死亡者でも出たかのごとき空気の重さに一人あわあわとしていた。他の艦娘はビンタの一つぐらい慣れたものだと平然としている。春風と涼風がちょっと目をそらしていた。

「向かわざるをえないでしょう」

 神通が大きくため息をついて言った。

「到着していることがバレてしまったのなら、攻勢に出ようが出まいが変わりません。明石さん、四水戦に引き継ぎをお願いしてもよろしいですね」

「は、はいぃ」

 酒匂に向けていた雰囲気そのままに話しかけられた明石の怯えた様子に、神通が「あら」とバツが悪そうにする。

「ご、ごめんなさい。うちの不始末の尻拭いをさせて申し訳ないのですけれど」

「いえいえっ、この明石、全力で引き継ぎ承りましたっ」

 そばにいた叢雲と三日月が吹き出した。

 熊野の血が乾き、肌触りがガサガサとしてきたブラウスがはためく。風が強くなってきた、波も少し高くなった。

 輸送船の護衛部隊は二部隊。司令艦は神通である。

「護衛部隊に告げます。我らこれより八丈島東、敵主力艦隊の撃滅に向かいます。鋒矢の陣、先頭は酒匂さんが担います、よろしいですね」

『那珂ちゃん戦隊りょうかーい、酒匂ちゃん、痛いだろうけどがんばれー』

 ざあ、一気に部隊が動き始めた。

「ほら、行きますよ。……一番狙われる配置にしてあげました。あなたは私の配下ではありません、死ぬ気で生き残りなさい」

「ぴゃあ!」

「返事は正確にしてください」

「りょうかいっ、ぴゃああ!」

 大きくため息をついた神通が、航行しながら陣形を整えていく。どうすればいいのかわからずに進んでいると、「そのまま進んでいてください」と、真後ろに収まった神通が言った。右後方に叢雲、それから三日月、曙、春風、合流した二水戦も、一糸乱れず言葉も出さず、決められた位置に決められたように入っていく。

 隣に誰もいないのは不安になる。けれど、尻には刺さるような視線があるから止まるわけにもいかない。

「形を見ればお分かりかと思いますが、突撃陣形です。囲まれたら終わり、とにかく、食い破ります」

「艦隊陣形じゃないよね」

「私たちは艦娘ですよ、艦とすべて同じように行動する必要はありません。あとで勉強してみなさい。あなたが先頭ということは、航路はあなたが決めるのです、戦闘中でも。とにかく前進することだけを考えなさい。背中は支えますから」

 それって盾にされるってことではないだろうか、冷や汗が流れる。

 いざ戦うところを想像すると体がうまく動かない。

 怖かった。さっきだって、間近で深海棲艦を見て、撃てなかった。だって、人の形をしているんだもの。人形みたいに表情がないと言ったって、人型なのだ。うろんな顔をしてこちらに砲撃をしてきても、人型。目をつむって撃ったって当たるはずがない。駆逐イ級は異形といえど、生き物のように動く。

「怖いですか」

 動きがギクシャクしていたのだろう、神通が目ざとく見抜いて言った。

「古鷹さんのことです、優しすぎるのもあるのでしょうが、戦力で劣っているのに護衛に一人割かせるなんて。当たらずも遠からずの推察はできます」

 ヒヤリとした手で首筋を握られて酒匂の体が跳ねる。耳元で睦言を言うように神通が話す。

「想像してみなさい」

 力を込められて逃げられない。

「深海棲艦の砲が古鷹さんの顎をこじ開け、あなたをにらみながら木っ端微塵に吹き飛ばされます。魚雷に下半身ごと持って行かれた青葉さんがはらわたをうねらせてあなたを見ています。両腕を吹き飛ばされた熊野さんが炎に焼かれあなたの名前を絶叫しています。足柄さんの顔に沢山の破片が刺さり、どこに目鼻があるかわからない顔であなたに手を伸ばします。航行不能に陥った摩耶さんが、沢山の砲に囲まれて涙を流しながらあなたを見ています。基地が燃え盛り、上陸した深海棲艦が清水司令の体を力任せに引裂きます。あちこち肉と臓物を引き摺った司令があなたの名前を呼びます『酒匂、な』」

「ヤダやめてッ!」

 突き飛ばされた神通は少しよろけただけで元の位置に戻った。掴まれていた首筋にずっと手が残っている気がして、マフラーの上から何度もこすった。

「深海棲艦は敵です。あなたが戦わなければ、死ぬ人がいるということを忘れてはいけません。国なんてどうでもいいのです、あなたの大切なものを壊されても良いのですか」

「いやだ、いやだッ」

「なら戦いなさい」

 何度も何度も首筋をこする。何度も何度も、皮がむけたのかヒリヒリするぐらいこすって、海水でさらに痛みを与えて、まだこすった。

 最悪だ、最悪な人だ。神通なんてだいっきらい!

 古鷹も青葉も熊野も足柄も摩耶も、みんなだいすきだもん。叢雲だって三日月だって、那珂ちゃん戦隊のみんなも四水戦も三水戦も一航戦も、横須賀も犬吠埼も明石も、もちろん司令だって、みんなみんな。答えなんて一つしかないに決まってる。こんなひどいこと言わなくたっていいじゃん。性格の悪い鬼ババめ。いいよ、やるよ、ギャフンと言わせてやる。

 ……だいっきらいだけど、神通も一応、仲間だからね。

 

 

「もうダメだ、任務失敗だぁ!」

「何なのよもう急にッ」

 電信を受けたと同時、同じものを深海棲艦側も傍受したのでしょう。エサを提示された猛獣が黙っているはずもなく、牛歩進軍は一転して、砲撃にて輸送船団と島に設えている施設を破壊せんと行動始めました。後方にかじりつく戦隊に尻を叩かれる覚悟で並走していますが、こちらの火力で本隊の足を止めることは到底無理なことと思います。犬吠埼組の方も駆逐艦隊が壁になっていて、致命の雷撃を放てずにいるようです。そも、ここに至るまでどれほど消費したかわかりません。もしかするとすっからかんなのかも。

 いよいよ膝をついて、反抗作戦の一発目から大失敗を被り、我らが司令官の顔に分厚く泥を塗りたくることになるかという状況下、古鷹さん呟きました。

「まずひとつ」

 独り言みたいなものです、青葉じゃなきゃ聞き逃しちゃうところでした。「何がですか!」古鷹さんが何を考えているのかわかりませんが、このやるせないモヤモヤを吹き飛ばしてくれる案の一つでもあれば、たとい藁であってもすがりましょう。

「あの子が何をしようとしているのか、青葉、どう思う」

 後ろを気にしながら言いました。発砲炎と同時に散開し、真ん中を水平に飛んでいく鉄の玉を見送ります。

「五十六さんの悲劇を知らないんですかあの子は。何をしようとしているかなんて、青葉はエスパーじゃありませんしっ」

「輸送部隊が島に到着したってことはだよ。警備に当たるはずの横須賀打撃部隊は戦闘中、なら、代わりに誰が警備に当たると思う」

「そりゃ神通さんたちに決まってます。……あ、なるほど」

 だから被害を受けた四水戦に声をかけたんですね。

「一水戦と二水戦を巻き込んでこっちに向かっているということですか」

「私の考えがあっていれば」

 しんがりを務める摩耶さんが苦しそうにうめきました。本隊からの砲撃が少なくなった今にあっても背後からの攻撃はかわしにくく、そして反撃しにくい。「足柄、本隊に向けて発砲。当てなくていいから、だけどなるべく近くに」

「はあ、わかった。ッ!」反転攻勢に出るわけでもない、意味のわからない攻撃命令でも命令です。複雑な表情で足柄さんが了承します。

 かろうじて生き残ってる砲塔が火を吹き、敵から大きくずれた位置に着弾しました。被害はゼロ、けれど一斉に反撃してきたおかげで、危うくこちらの顔が吹っ飛びそうになります。

「ぅぎゃあっ、ああもう、せっかく落ち着いていたのに!」

「誰も被弾していないよね。ほら、青葉見てよ」

 わざわざ攻撃させて何をのうのうと、文句を言いたくなりましたが、古鷹さんは薄く笑いながらこちらに近づいて言いました。

「もう撃ってこない」

「まあ確かに。反射的に攻撃しているといいたいのですか」

「反射というより、興味だと思う。敵は島や輸送部隊への攻撃を第一に考えているから私たちのことがほとんど見えていない。だけど、顔の周りに小虫が飛んでいたらうっとおしいでしょ。追い払う仕草の一つはする」

「青葉たちは小虫ですか」

 そりゃこっちはたった四隻、大して向こうは十隻近い戦艦と重巡戦隊、それから水雷戦隊まで配備された、絶望的な戦力差ですけども。

「それがひとつめ?」

 古鷹さんはかぶりを振ります。

「今のは確認、状況が動いたのがひとつめ。そしてもうひとつは……」

 じいっと行き先を見つめます、視線の先には、息を殺している八丈島があるはず。

「足柄、摩耶、ちょっと前に出て。青葉はそっち」

 言われるがまま陣形を整えると青葉の後ろに摩耶さん、右脇に古鷹さんと足柄さんが入り、青葉が敵からすっぽり隠れるような形になりました。四人で作る複縦陣。

「青葉は攻撃も回避も考えないでいいから前方を見張って、神通さんたちが目視できたらすぐに教えてくれる。絶対、敵よりも先に見つけるの。摩耶、青葉の分の後方の見張りよろしくね。助けてあげて」

「盾になれってハッキリ言えよ、摩耶了解、尻が焦げても守ってやらあ」

 言っているそばから力任せに体を引かれ、多少高い位置を砲弾が通り過ぎていきます。

 水上電探の妖精さんに命じて一帯の捜索をすると、確かに島の方から何隻かの塊があるのがわかりました。見張員の妖精さんが顕現し、頭の上で身じろぎもせず、かすめ飛ぶ砲弾などなかったかのように、目を凝らしました。深海棲艦側にもレーダーを装備したものがいるはずです。しかしこちらの電探はアテにはできない。あくまでおおよその位置をつかむためだけのもの。

 古鷹さんは作戦行動中どのように動くかを直前に話すことが多いので、何をしようとしているかを察しなければ、例えば先ほどの敵陣に突っ込むような時など無駄に驚かされます。

 摩耶さんに砲撃させた意味。

 青葉に戦闘させず味方発見に全力を注がせる意味。

 正面から援護に向かってくるのは水雷隊です、遠方からの援護射撃よりも、肉薄し雷撃でもって攻撃することが得意な部隊。打たれ弱いけれど攻撃力の凄まじい部隊。顔の周りに小虫が飛んでいたら。つまり。

 ……あー、そんなにうまくいきますかね。

 体をぶんぶん揺すられながら睨んでいる前方は、光で目の焼けた青葉にはただの暗闇しか見えませんが、見張の妖精さんはきちんと暗がりにいたはず。背中で摩耶さんの苦しげな声を聞いても振り返ることは許されません。今、青葉に望まれているのは優しさなんかではない。

 あの頃の記録を読み返すことは、いくら水兵さんが頑張っていたからとかっこつけても、拒否します。『青葉』の失態としてきっとひどく書かれていると思うから。味方と誤認して敵艦に近づき、『古鷹』や『吹雪』さん、間接的とはいえさらに二隻も……。青葉は見ていただけ、知っているだけ。だけど、今だって青葉だし、記憶にあるのも『青葉』。古鷹さんは「味方を見つけて」と言う。「敵より先に」とも。戦闘中ですし、旗艦として作戦を成功に導くために一番良い道筋を開拓することこそが古鷹さんのお仕事です。

 でも、嬉しいじゃないですか。嬉しいじゃないですか! 他の誰でもない、古鷹さんが任せてくれたんです。他の誰でもない、青葉に!

 妖精さんからレーダー波をつかんだと報告がありました。敵のものです。こうなればあとはどちらが早いか競争するだけ。負けるわけにはいきません。古鷹さんが考えている作戦は、先に発見されてしまっては意味がない。

 この命をどれだけ生きられるかわかりませんが、今が一番、未来を含めても重要な任務に就いています。

 青葉は精神論が好きではありません。そのように生まれてきたようです。が、この時ばかりはもう、敵に気合いで勝ったと信じています。

「古鷹さん」

 ちらとこちらを見た古鷹さんには「見つけた」なんて言葉は要りませんでした。

 すぐさま号令が出されます。

「右舷魚雷発射、全部撃っちゃえッ」

 用意させていたのでしょう、酒匂さんと同じく平文で《ライゲキ》とだけ送られました。神通さんたちに宛てたものではありません。やや前方を疾走していた犬吠埼への号令。それから敵艦へ教えてあげるために。

「本隊に寄るよ、でも、近づきすぎないように。右砲戦用意!」

 最期のやけっぱち突撃だと思われたのでしょうか、しかも敵戦隊の目の前で雷撃をしたものですから、ギィギィ耳障りな音が辺りに響き、本隊へ危険を知らせていました。速度を上げ、横に壁のようになった重巡が体制を整える前、「撃てッ」それこそやけっぱちの砲撃戦が幕を開けました。

 魚雷の壁には間に合わなかった重巡戦隊がもう一度声をあげ(通信のようです、肉声ともまた違う)、本隊が回避のためぐぐっとこちらに回頭してくるのがわかります。反撃も。本隊の壁になっていた駆逐艦が数隻、爆炎をあげました。本命よりも先に、青葉たちをマークしていた戦隊の至近距離からの砲撃、これだけ近ければ、側面にいた古鷹さんや足柄さんへの被害は必須です。

「くうッ、まだまだあッ」

「うぐっ、あ、足柄大破、もうムリ沈むぅ!」「首がついてりゃ大丈夫、こっちこい、代わってやる」

 砲弾が艤装を壊していく音。古鷹さんのあげるもうもうとした硝煙と爆炎。決して引かず、目の前に迫る敵戦隊、決して引かず。「あたしのケツひっぱたいてくれた礼だ、受け取れェ!」当たらぬなら近づけばいい、まさにその通り、重巡リ級の体に無事な砲塔を一門押し付けた摩耶さんの一撃必殺。たまらず動かなくなった敵に、後続の一隻が追突し、二隻仲良く海の底へ還っていきました。本隊からまた炎が上がります、遅れて放たれた、犬吠埼の雷撃。両脇からの攻勢、鬱陶しい小虫をついに脅威と認めてくれたようです。前進を止め、真っ二つに分かれるように、すぐに消し去れる小虫に向かってきます。だんだんと大きくなる艦影、巨人でも見ている気分になるのは、戦力差による恐怖心からでしょうか。「古鷹さん、ちなみにさっきの話の続きなんですが」振り向かずに古鷹さんが応えます。「遺言のつもりなら帰ってから聞くよッ」狙いすまされた一撃が戦隊の最後の一隻の足を撃ち抜き、本隊への道筋がくっきり見えました。

「あぶない!」

 腕を引いて無理やり位置を変えた瞬間、右半身が消し飛んだんじゃないかと思いました。「――!」誰かが叫んでいますが、耳鳴りで何を言っているかわかりません。なくなったかと思った右側が熱く、何度もえぐられる痛みで気を失うことすらできず、傷をおさえようとする左腕までもが弾かれました。

 なるほど、弾薬庫に被弾するとこんな感じになるようです。

 艤装から吹き出る炎がが顔を焼き、髪を焼き、イヤなニオイしか感じられない。えぐられる痛みもすぐに引き、代わりにふわふわと、心地よい酔い方をした時みたいな酩酊感。「青葉!」耳元から脳みそに突き刺さる声。大切な人の声。

 横に目をやると本隊がこちらに突っ込んでくるのが見えます。

 前に目をやると、肉眼でもしっかり見えるほど、変わった陣形の真ん中に酒匂さんが、腰の引けた格好で勇ましく敵を睨んでいるのまで観察できました。肩を引かれる感触。古鷹さんの汗の匂い。それから火薬の匂い。青葉なんかよりずっといい匂い。血が吹き出るように艤装が弾けても、これ以上の痛みは頭が受け付けてくれません。代わりに酔い潰れる寸前の、あの嫌な眠気が。多分、こう言ったと思います。「青葉が司令官のこと、本気で愛していると言ったらどうしますか」これだけ近ければ聞こえたはず。爆発に巻き込まれるのを恐れず、敵艦に突っ込むような無茶する勇敢な古鷹さんの表情。ここだけははっきりと覚えています。

 とっても可愛かった。

 ……そのケはないですよ? 念のため。

 青葉の心の中にしっかり刻まれた表情。もう酒匂さんは突入間近、へへ、バカめ、今頃気づいたってもう遅い。あの神通さんがこの距離で、何も仕掛けていないわけないじゃないですか。最後の一仕事、突入部隊に向けて発光信号を送ります。

 古鷹さんの胸の中、落ち着いて眠れる間際に見たのは、敵部隊の中枢から打ち上げられた、大花火。

 



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終幕

「……壮絶な防衛戦だったのはよく分かるな」

 提出された『戦記』をもう一度頭から読み返した。「なんで物語形式なんだ」読み返そうとして、これを適切な報告書にまとめる面倒を予想し、煙草をもみ消した。

「臨場感があるじゃないですか。ぜひ、青葉たちの頑張りを司令官にも追体験していただきたいと思いまして」

 机に尻を乗せた青葉が猫みたく寝っ転がっている。右と左で長さが違う前髪、戦闘が終わってまだ数日しか経っていないというのに、艦娘の回復は恐ろしいほど早い。人間にも転用できないだろうか、艦娘が使う入渠用の薬剤。

 指であごひげをなすられ頭が安定しない。

「展開が遅い。ラストが尻切れ、涙を誘おうとするのがあけすけで陳腐。お前、発光信号なんて送っていた余裕ないだろ」

「ダメ出しだあ。ちゃんと送りましたって。あんまり覚えていないのは事実ですが」

 いやそうに顔を歪めた青葉の手を弾き、マグをひっくり返されないうちに空にする。

 事実、文句のつけようもないほど活躍してくれたのは、横須賀かはも聞いていた。森友がわざわざ電話をよこしたのだ、おべっかなどではない。青葉の見ていない部分、酒匂の動向やその後の主力艦隊に大打撃を与え、撤退に追い込んだのは神通の詳報から読み取れる。しかし彼女のはきっちり書かれすぎていて、酒匂が神通を見るたびに唸り声を上げるようになった理由までは読み取れなかった。聞いても教えてくれない。また人間関係で悩まなければいけないのか、この問題は延々つきまとう気がして、胃がキリキリと痛む。

「八丈島防衛戦。おかげさまで基地の建設は順調に進んでいるよ。一隻も失うことなく、一人も喪うことなく。本当によくやってくれた」

 前髪を雑に撫でてやると「これが重巡なんです」と胸を張る。硬い机の上だ、頭を滑らせて背中を打ち付けて呻いていた。もう勝手にしてくれと思う。

 休む暇なく最低限の機能を持ち始めた補給基地を拠点に、富津の水雷戦隊は小笠原諸島の偵察任務をこなしている。漸減作戦じゃないぞと口すっぱく言ったのだが、初日から三水戦が派手に暴れてくれたおかげで資材の借金がかさばっていく。使った分は使っただけ、次の輸送時にうちの基地から補給基地に送らなければならないのだ。

「犬吠埼の話では近海で敵の姿をめっきり見かけなくなったんだと。今月の様子次第じゃ、再来週から始まる輸送船団の護衛は駆逐隊で事足りそうだ」

「うまくいかないのが戦争ですよ司令官。通商破壊なんてどれだけやられたと思っているんですか」

「確かにそうだ」

 八丈島の周りでも見なくなったというのはおかしな話だ。敵も様子をうかがっているのかもしれない。もしくは戦力を蓄えているのか。さらなる大規模攻勢に備え横須賀からは空母が四隻駐在することになっている。戦艦も。戦力が前線に集まり、戦線が押し上げられたことを意味していた。

「潜水艦だけが怖いなあ。対潜哨戒なんていくらしたってしたりない」

「んふふ、わかるでしょう、この怖さが。ですがほら」青葉が新しく搬入された機械のスイッチを入れた。音声が垂れ流される。《――信試験中。通信試験中。三輪山雲隠さず。三輪山雲隠さず》意味のない言葉。発信源は三輪山ですらない。

 ラジオだ。電波が通るようになった。

 不安定ゆえに公表していないが、民衆に広まるのも時間の問題だろう。はじめのうちは軍用として規制をかけるつもりで状況が落ち着けば、制限下で使用許可を出すことになっている。深海棲艦が現れてからこっち、一切通じなかったものが通じるようになった。八丈島は未だ通じないし、通じるのはごく一部、関東圏の一握りではあるにしても大きな進歩だ。

「ラジオが途切れたら敵が来た、わかりやすいじゃないですか」

「目安にもならないと言われているだろ、完全に通じるようになったわけじゃない。それに、一番重要な八丈島が通じないんだ、そこいらにうじゃうじゃいると考えたらやりきれん」

「確かに」

 払った手をまたあごひげに持ってこられ、諦めて好きにさせていると、扉が開き、最大の功労者が顔を見せた。

「提督の前でそんなはしたないっ」

「おっと、旗艦どのがいらっしゃいました」

 すぐ降りればいいものを、「仲良くしているところ見つかっちゃいました。恥ずかしいですね、ね、司令官」なんて挑発するものだから、古鷹が頰を膨らませている。

「すみません本当に……あーおーばー、いい加減にしないと怒るよっ」

「おーこわ。はーい、ゴメンなさい」

 最後に手のひらでジョリっとひげを撫でて机から滑るように降りていった。服がめくれて背中を直に擦ったようだ、ちょっと悲鳴をあげていた。

 青葉の提出した詳報が誇張なしというなら(ウラは取れているから大きな間違いはないだろうけれど)、危険な戦い方にさえ目を瞑れば、担当海域の敵戦力撃滅と横須賀との連携、さらに主力艦隊を撤退させる礎を築いた。青ヶ島へ向かう別働隊を除く、全戦闘に貢献した古鷹隊は、勲章の一つも授与されたっておかしくない。今度の防衛戦の花形と言って申し分ない。

 そのうちの一人がすりむいた背中を目の前であられもなく晒しているのは間抜けこの上なく。

「古鷹ぁ、ここ見てよ、赤くなってない? ヒリヒリするんだけど」

「こら、だからやめなさいって言ってるの」引き下ろされた服が痛いのかピンと背筋を伸ばしてまた小さく悲鳴をあげた。

「それで、一応ここは艦隊司令室。用事があってきたんだろう?」

 引き出しから軟膏を出して青葉に投げ渡した。

 レコードは流しっぱなしだし、昼食の食器がそのままになっているし、ストーブの上に置かれたやかんがシュンシュン鳴いている生活感あふれる部屋。灰皿は詳報を読んでいる間に剣山になった。喫煙者である清水すらも目がショボついているので彼女らにはさぞきつかろうと窓を開けると、凍みた風が温度を急激に下げ、むしろ暖かさに惚けた頭がすっきりした。

 古鷹が近づいて言った。「青葉の詳報見たいなーって思いまして。これですか」手元を覗き込むように体を寄せ、ざっと目を通す。「……なんで物語風?」

 同じセリフを吐いたことにおかしくなった清水が吹き出し、青葉がむくれる。目を覚ましたのが昨日でこの文量、下手すると徹夜かもしれないのに散々な評価なのが気に食わないと見える。

「ちょっとはユーモアだって必要だよ、古鷹の詳報なんてかっちり書いてあるだけで面白くないもん」

「面白さは求めてないんだ。書き直しはしなくていいが、次は真面目に書いてくれよ」

「今回のだって真面目に書きましたー。もうなんだよ、二人してさあ」

 むくれてそっぽを向いた。仕草がわざとらしい。

 体を寄せて資料を読む古鷹は、自分でめくればいいものを、わざわざ腕を叩いて次のページを求める。旗艦サマのわがままだ、めくってやらなければならない。空いた意識で青葉をなだめていると、一部気に入らない部分があったようだ。「汗の匂いとか書くのやめてよっ」「だって本当ですもん。詳報にウソは書かない主義です」「余計な一言!」

 差し出されている頭の匂いを嗅ぐと古鷹はとびのいた。

「ヤダ、やめてくださいっ」

「心配するな、臭くないぞ」

「ヘンタイっぽいですねえ」

「もう!」

 顔を赤くしてさっさと出て行こうとする古鷹の背中に声をかける。「お疲れさま。今回の作戦は、お前のおかげで成功した」一歩分立ち止まったが、「ふんっ」と鼻息ひとつ漏らして、今度こそ行ってしまった。本当に臭くない、シャンプーのいい匂いだ。

 冷えすぎた部屋、窓を閉めると次は青葉が近づいてくる。

「どこまで読みました? ……ちょ、青葉は嗅がなくていいんですって」

「嗅いでないって。ここまでだ」

「ふむ、横須賀部隊の援護までですか。最後のやつは読まれていないんですね。何言われるかわかったもんじゃないから、古鷹には言わないでくださいよ」

「最後最後……ああ、そういえばこっちも汗の匂い。青葉は汗の匂いが好きなのか」

「ちょっと泥臭い感じの表現をしてみただけです。実際は九割火薬の匂いですよ。ほんのりほのか、汗なのかなー潮なのかなーぐらいなもんで」

「可愛かったってのは何だ。なんの報告だこれは」

 突っ込まれるのを待ってました、と目を輝かせ、ずいと迫ってくる。

「聞きたいですかっ」

「……そこまで言われたら興味が沸く」

 自分が関わっている。

 こう書いてあった。『好きという気持ちがなんなのか知りたい』。

 古鷹は自分のことを頭が悪いだ要領が悪いだと卑下するが、そんなことはない、と清水は考えている。疑問を持つというのは頭の悪い奴には務まらない。まして概念的なことを懐疑するのは、彼女を構成する真理を構築しようとしている証拠。成長のための階段に足をかけているからだ。

 残念なことに満面の笑みで「青葉の秘密なんですけどね!」と言われた。「じゃあ書くな」と一蹴した。

「で、お前は私のことを本気で愛しているって?」

 ぐいと手首を握り、こちら向き直らせる。「男に冗談でもそんなこと言って、どれだけ危険か教えてやろうか」

 もちろんこれも冗談だ。言葉の機微がわからないほどしようのない男ではない。

 青葉は挑発するように、そして、瞼を少し下ろした不思議な表情になった。

「司令官はカメラを青葉にくれましたよね。だからわかると思うんです。写真を撮るためにファインダーを覗くと、よく顔が見えます。出撃前の神通さんの顔と酒匂さんや春風さんの顔を見比べてみると、それこそけん著に」

 抵抗するそぶりも見せない。片手を掴まれたまま話し続ける。押し倒そうと思えばできてしまう状況で、清水も動かずにいた。

「司令官には青葉をどうこうできません」

「よしきた、そこまで言うなら」

 ふるふる、頭を横に振る。

「あなたは自分を律していらっしゃる」

 思わず緩めた手、青葉が少し力を入れるだけで、掴んでいた腕がするりと抜ける。

「それもかなり堅固に。堅物とか、そんな俗的なことじゃないです。何だろ……卯月さんの言葉を借りるなら『修行僧』みたいな」

「……」

 原因がわからずとも的確に『清水』を表現されると鳥肌すら立つ。

 再びあごひげに指を当て、じょりじょり撫でながら「あんまり女の子を舐めてちゃいけませんよ?」と見上げられ、「秘密にしといてあげます。青葉と司令官の、ね」最後に手のひらでじょりっとすりあげられた。

「さてさて、報告も終わりましたし、今晩のおかずでも釣ってきますか。ウマヅラとか釣れないかな」

 いつもの調子に戻った青葉が出て行こうとする。先ほどの蠱惑的で悪魔的で慈母的な雰囲気なんて、白昼夢でも見ていたんじゃないかというぐらい、いつものヘラヘラした青葉だった。「そうだ司令官」扉を開けて言った。

「青葉は踏ん切りつけましたよ。『青葉』には負けてられません」

 閉じられた扉をしばらく眺めていた。

 わざわざ強調されたのは『青葉』の水兵たちには、ということ。詳報にも。多分これは青葉の偽りのない感情だ。古鷹がそこまで考えていたかは別として、ほんの小さなしこりが治ったのはいいことだ。

 もう一つ邪推をするならば。

 青葉『は』。踏ん切りをつけましたよ。

 まあいい、清水は思考を切り替えた。

 湊川作戦の前哨戦、さらに言うなら一手目は大成功と捉えていいだろう。物資の被害なし、人員の被害なし、さらに敵艦の撃沈多数。どこでどのように敵が生まれているのかは謎に包まれているが、艦娘だって建造には時間がかかる。夜間作戦ということで空母を潰せなかったのは懸念されるが、言うことを聞かない小笠原への偵察部隊も合わさり、ここいら一帯の敵艦は漸減されている。小笠原さえ攻略できれば、せめて相模湾あたりで限定的に漁を再開させられるかもしれない。まだまだ一つ作戦を成功させただけなのに、状況が好転したように錯覚してしまう。

 そう、まだたった一つ。大規模作戦の足がかりを得ただけ。

 沖縄奪還、ハワイへの牽制をしつつフィリピン、インドネシアと、南方軍の戦いは続く。全世界を股にかけなければいけない。長くなくっちゃ困る。内政に拘りはないのが唯一の救いか。

 ポッドから新しくコーヒーを淹れ、青葉の書いた物語を報告書にまとめ上げる長い戦いが始まった。

 

 深夜も0100を過ぎ、八割がたを報告書に写しを終えた清水は、背筋を伸ばして鳴る骨の盛大さに快感を覚えた。この基地だけで完結する書類ならまだしも、他基地との合同作戦、しかも大規模作戦の一発目。大本営に提出すれば各期地にコピーが出回るだろうし、細かいところまで突っつき回されるのは簡単に予想できるから、いつもより念入りに作成しなければいけなかった。敵の動向やこちらの動き方、燃料や弾薬の消費量、被害状況、作戦中の輸送船の航路から指示の一つに至るまで。艦娘から提出された大量の資料を散らかし、紙の上に灰皿や飲み物が置かれている。よく「お前のところの書類は汚い」と電話でなじられるのも仕方がない。

 カフェインの摂りすぎで痛む腹をなだめるのに白湯をがぶ飲みすると、備えられたセンサーの一つが鳴った。ドックに、出撃した部隊が戻ってきた時のものだ。三水戦ではない、数日間待機していた一水戦。入れ替わりで四水戦が八丈島へ向かっている。

 島の工事はカーペンターズが受け持っているものの、まだ宿泊施設は整っていない。最優先で行われているのは、運んだ物資を保護するための地下シェルターと艦娘に関する施設。それから風呂(港の建物に備えられた簡易的なシャワーだそう。急いで作ってもらったというのに苦情が上がっている)。希望を聞いた時、野宿でもいいと言ったツケが回ってきた。宿に民間の家を使うわけにもいかないから、リゾートだった特色を生かし、ホテルを改装する予定、というのは聞いているのだが、手が回っていないのだろう。

「おう、お疲れさん」

 マイクを通して声をかけるとしばらく返事がなかった。艤装の確認でもしているのかと白湯を飲みつつ待っていると、三日月の喑噁叱咤。

『おどいたなあ、もう!』

「はは、悪い。全員いるのか」

『いますよ、いますけど、急に声かけるのやめてくれませんかっ。ああ、痛い……スネ打っちゃいましたよう』

 ぷりぷり怒られる。傾注させるためのブザーの方が大きい音だから、気をつかったつもりなのに。『あんたまだ起きてたの』続いてマイク前に立ったのは叢雲。

「青葉の報告書をまとめていてな。残りでよければメシがあるぞ。青葉がでかいアジをたくさん釣ったんだ」

『よかったら一緒に食べましょう。曙が久々にあんたに会いたいって― ―いたっ、嘘よ、もう』

 夕飯を食べていなかったからありがたいきっかけであった。が、意識は仕事に乗っていたので、一気に終わらせてしまいたかった清水は喉の奥で笑った後、答えた。

「気持ちだけもらっておく。あと少しで終わりそうだから」

『了解。ご飯とお風呂もらってそのまま寝るわ。おやすみ』向こうのマイクが切られた音を聞いて煙草に火をつけた。疲れているのだ、休めるときに効率的に休んでもらわねば、艦娘といえど体をこわしてしまう。

 孤独な夜はまだ続く。深夜に帰投した場合の報告は翌朝まとめて受けることになっている。薪を足し、コーヒーの代わりに冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 輸送船から提出された通信記録や録音音声を文字起こしし、縮尺された海図に書き込みを入れ、先にまとめていた深海棲艦との交戦地点から敵の航路を予測し赤で記入していく。護衛に当たっていた部隊の記録と合わせて行けば、これ一枚であの夜を再現することができる。「文字だけじゃわかり辛い」と、森友に押し付けられた作業だった。

 外から小さく声が聞こえる。食堂に入っていく一水戦の面々。

 主力艦隊に突入していった詳細情報が欲しくて散らかった書類を床に落としながら探していると手が止まった。古鷹の提出した旗艦報告書。青葉の文字は丸っこく女の子らしいものだが、古鷹のは立つところが立ち、跳ねるところは跳ねている。今回の報告書は一見いつもと同じように見えて、ところどころにインク玉ができていた。特に最後、句点がただの染みになっている。

 何を書こうとしていたのか清水は知る由もない。考え巡らせても、句点のあとの書かれなかった文字が浮かび上がってくることもない。

「なに見てんの」「おああッ!」

 体が跳ねて椅子から尻がずり落ちた。他に支えるものなく、硬い木の床にしたたかに腰を打ち付け、勢い余って壁に頭をぶつけた。薄い壁だ、建物全体が揺れ、窓ガラスがビリビリと大きな音を立てて、声をかけた張本人も驚いて悲鳴をあげていた。

「びっくりするじゃない!」

「びっくりしたのはこっちだ!」

 体を半身にして胸に手をやっているのは叢雲だった。

 暗い、弱い明かりの下でわかるぐらい瞳を潤ませている。潤ませていながらも目は釣りあがり、自分のことは棚に上げてこちらを睨みつけている。確かに大げさだったかもしれない。だがノックもせずに入ってきた奴が悪いのだ、清水の意識は書類に飲まれていた。

 頭をさすりながら立ち上がる。「いってぇな……。もう少し気配をにじませてくれ。というか、ノック必須なんだから守ってくれよ」八つ当たりのつもりでなじると、すぐさま言い返された。

「本当に仕事しているとは思わなかったの。あんた、日が暮れたら書類仕事は一切しないから。お酒でも飲んでいるのかと」

「ただの酒飲みとは違うってことさ、ここは一応仕事場だし……あれ、おかしいな」ひっくり返った勢いで落とした古鷹の書類が見当たらない。机の下を見てもない。その紙っぺらを、叢雲が足元から拾い上げた。「これでしょ。あら、古鷹の? ……交戦記録か。すごかったのね」すぐに彼女の手から取り上げる。見られてはいけない書類だってたまにあるというのに。

「私たちが合流した時にはボロボロだったもの、まだゆっくりお話を聞けていないから、何があったか気になるわ」髪を指でいじくりながら言った。清水は倒れた椅子を起こし腰掛ける。「本人に直接聞きなさい。機密書類だってあるんだから、迂闊に手を触れないでくれ」指をさして忠告する。実際何が機密なのかよく理解できていないが、仰々しく送られてくる書類はきっとそれなりの価値があるのだ。「それもそうね」あっけらかんと叢雲が言った。「で、何か用事があるのか? 疲れているなら早く休むといい。明日は一日フリーだろ、ゆっくり寝てくれ」もう一度書類に目を落とそうとしたら近寄ってきた。「明日がお休みだから夜更かしするのよ。もったいないじゃない」机にでんと尻を乗っけて偉そうな顔をする。踏まれた書類がシワになった。

「仕事はまだ終わっていないと言ったろ。お前たちがいくら活躍しようと、誰にも知られなかったら意味がない」

「書類をこさえたって連絡役の輜重隊が来るのは明後日。明日できることは明日やればいいの」

「明日は明日でやることが……。はあ、わかった」換気のために開けていた窓を閉め、掴んでいた書類を机の上に投げて落とした。「コーヒーでも飲むか。あっついやつ」つまりは自分を優先してほしいのだ。清水の予想は当たっていた。上げられた片眉で、彼女の機嫌が良くなったことを確認する。「お願いするわ。お砂糖もね」机から一歩も動こうとせずに言い放った。「三杯は甘ったるいと思うんだがな」

 自分のマグと叢雲のマグ。酒代わりに乾杯をする。重い音が鳴った。

 帰ってきて時間が経っていない。さっき食堂に入る艦娘たちの声が聞こえたばかりだ、まだ食事を摂っていないだろうに、叢雲は長居を決め込もうとしていた。最近はゆっくり話をする時間も取れていなかったから、何か要望があるのだろうと清水は考えた。しかし叢雲はコーヒーをすすりながら足をぱたぱたさせるだけで話し出す気配はない。元の長さに戻りかけた髪が照明を受けて橙色に燃えている。その様が不吉な気がしたから、いっそ卓上照明を消してしまった。唯一の灯りだったから、道理、部屋が暗くなり、灯りに焼けた目には何も見えなくなる。「きゃあ、何、どうしたの」清水は何事もなく答えた。「明るいと書類を追ってしまうからな。それに今日は月が綺麗だ」じわじわと闇に慣れた目が、彼女の背中を浮かばせた。こちらを振り向き、月に照らされた表情が見えた。何とも意地の悪い顔をしている。「ふうん。襲われるかと思った」ませたことを言うので鼻で笑ってやった。

 こいつといるのは楽でいい、清水は落ち着いた心持ちでコーヒーをすすった。話をしようがしまいが変わらない。打てば響く言葉が返ってくるし、黙っていれば勝手に時間が進む。もう一年近い付き合いになる。体の輪郭を包むほどの髪は生え戻っていなくとも、月の明かりを吸って白銀に光る髪の毛はしなだれるほどの長さはある。少し身じろぎするだけで揺れ動き、服に引っかかってバラける毛の一本一本を丹念に見つめているだけで、文字のつまった頭が解けていく。小笠原諸島への攻略作戦が本格的に始まる前のほんの一服、数日後にはまた八丈島へ向かい、数日は帰ってこれない。たった数日、いつの間にか、艦娘と一緒に居るのが当たり前となっていることを実感した。

 何を話すわけでもなく、湯気をあげるコーヒーを半分のみくだした頃、ノックがあった。

「失礼します、三日月です」

 声を殺してそろそろとはいってきた。灯りが消えているから寝ていると思ったのかもしれない。清水を遮るように座っている叢雲の姿を見つけたのだろう、「こんな暗いところで何をやっているんですか。ご飯冷めちゃいますよ」と、入り口わきにあるスイッチで照明をつけて飛び上がった。部屋全体を照らす強い明かりに、清水と叢雲は顔をしかめた。

「司令官っ。む、叢雲さん、こんなに暗くして、二人で何を!」

 背中が揺れているのを清水は見逃さなかった。「ああ、助かったわ。危うく貞操が」「そういう嘘はマグを置いてから言うんだな。ずいぶんのんびりした羊じゃないか、なあ三日月」陋劣なことを吹き込む前に先手をとる。三日月には特に注意しなければ、翌日の朝食時には基地全体に『司令官が疲れ果て抵抗できない部下を手篭めにしていた』といったうわさが広まりかねない。彼女の場合、そのテのうわさはみんな半信半疑に聞いてくれるから良いとしても、うっかり信じ込む艦娘がいたらたまらない。

「むう、そうやってからかわないでください。で、なぜ電気も点けずにお話を?」

 腰に手を当てて不機嫌そうにしていても、背丈顔つきどれを取っても威厳を感じられない。取り立てて子供っぽい容姿をしている睦月型、こういうところは卯月と似ている。「自分で説明して」叢雲が顔をこちらに向けた。髪の毛がしゃらりと流れる。同じことを二度口にするのもかったるく、清水は立ち上がってもう一度背骨を鳴らした。

「三日月はメシ食ったのか?」

「まだですよお。神通さんが『みんな揃ってから食べましょう』って。だから探しに来たんです」

 叢雲を見ると、あからさまに不味った顔をしていた。勝手に食べ始めてくれるのを望んでいただろうが、相手は神通。清水よりも規律を重んじる艦娘だ。「私も何かつまみに行こう。叢雲は呼びに来てくれたということで」わざとらしい助け舟でも「ありがと」と、ホッとした顔を見せた。神通は恐れられているが、嫌われているわけではない。自分よりも司令官向きなのでは、清水は寝首をかかれないか、少しばかり恐怖していた。今でも色々教わる立場だから、大して変わらないかもしれないが。

 連れ立って外に出ると、千葉の南とはいえまだまだ寒さ厳しく、吹き続ける潮風が一層体を冷やす。何か一枚羽織ってくればよかった。叢雲と三日月も寒かろう、上着の一枚でも貸そうとしたら、二人は寄り添って寒さをしのいでいた。「あんたも混ざる?」叢雲の目が言っていた。ここで言いなりになってしまうのは何かに負けた気がして、わざと距離をとる。鼻息。

「……叢雲さん、ちょっと煙草くさいですよ。司令官、お煙草は、私たちの前ではお控えいただけると。匂いがついちゃったらなかなか取れないんです」

「本当に? 自分じゃわからないわね。服かしら」

「気をつけよう。体を壊されちゃかなわんからな」

「吸ってる本人が一番壊しそうなものだけど」少し早足になって、清水の脇に叢雲が寄り添った。触れているところにじんわり暖かさが侵食してくる。一人で風に吹かれた三日月は、逡巡してから、反対側にぴったりくっついた。「……本人のほうがずっと煙草くさいと思わない」叢雲が言った。「この後お風呂入りますし、別にいいです。今一番問題なのは寒さですから。艤装の展開を許可してください、司令官」「それは駄目だ」フンと鼻を鳴らした三日月の頭をつかんでぐわぐわこねくり回す。

 両脇を固められた清水は暖かい思いをしている。側面が冷える彼女たちをおもんぱかって上着のボタンを外し、内側に抱え込んでやった。前が見えない、オヤジくさい、煙草の匂いが染みつく。ぎゃあぎゃあうるさいが、暴れるのを抑えようとすればするだけ体が温まる。転ばせないようにきつく体を持ってやり、歩速を緩めて、自分よりも短い歩幅に合わせた。

 曲がりくねった足跡をつけて着いた食堂はむあっとするほど暖房が焚かれていて、一水戦の面々が食事に手をつけずにじいっと待っていた。第一声、「コバンザメ?」と、曙が呆れていた。いの一番に大皿から清水のためにおかずをよそう姿を見てしまうと、口の悪さが愛おしくなる。新人の春風が慌てて動いたせいで味噌汁をひっくり返しそうになったので、疲れているだろうし座っていなさい、と清水が言うと、「申し訳ございません」頬をほのかに染めておとなしく座った。

 脇に抱えていた二人を解放し、ぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛を直すのを見ながら席に着くと目の前にアジフライ二枚と白米が置かれた。曙に感謝の意を伝えると、いい加減腹を空かせているのだろう、神通が音頭をとった。

「叢雲、春風。早く席に着きなさい。眠る時間がどんどんと削られてしまいます。……ではお疲れさまでした。いただきます」

 唱和が静かに響く。

 咀嚼音と食器擦れの音だけの食卓。揚げ物には醤油を信条としている清水が腰を浮かせたところで、今度こそはと気を利かせた春風がソースをかけた。「足りなければもっとおかけしますよ」、ディスペンサーを握る彼女に文句は言えず、一言感謝をして、衣のふやけたアジフライにかじりついた。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。
以下、登場作品です。

順不同

■幕開
 カーペンターズ
  A Song For You (アルバム名)
  Now & Then   (アルバム名)
  A King of Hash  (アルバム名)

 榎本健一
  洒落男
   →【エノケンがいいな。俺は村中でいっちばーんって】

 高田渡(添田唖蝉坊)
  あきらめ節

 France Gall
  Ein bißchen Goethe, ein bißchen Bonaparte
   →【ゲーテとナポレオンの独語のやつ】

 ティファニーで朝食を(映画タイトル)
  →Audrey Hepburn
   →MOON RIVER
    →【オートチェンジャーは〜】

■2章
 榎本健一
  私の青空(My Blue Heaven)
   →【狭いながらも楽しい我が家】
 
 The Carter Family
  Can the Circle be Unbroken
   →【この基地の輪〜・天により良い家】

 Simon & Garfunkle
  Bridge Over Troubled Water
   →【わたしたち人間の明日に〜】他

 天壌無窮 - 野中四郎 遺書
  我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ
   →【我ら狂か愚か知らず、一路遂に奔騰するのみ】

 山之口貘
  思弁
  座布団
  
 細田幸平
  酒
   →【一杯飲み屋で安酒を呷って・人生の宿命を少しでも】

 スコットランド民謡
  Water is Wide
   →【She's Loaded】(歌詞一部引用)


■3章
 榎本健一
  私の青空(My Blue Heaven)
 
 イル・ド・バカンスプレミア
  熱海〜初島間運行中のクルーズ船(作中では改造済み)

 ザ・フォーク・クルセダーズ
  悲しくてやりきれない
   →【このやるせないモヤモヤを〜】

■終幕
 額田王(万葉集)
  三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや
   →【三輪山雲隠さず】


敬称略


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4話
幕開


『― ―上、報告終わりー。ちゃんと通話できてよかったよ、じゃ、あたしらはしばらく駐留するから、何かあったらすぐ連絡ちょうだいね』

「泊地了解。すぐに作戦を立案するからな、泥のように眠ってくれ。お疲れ様」

 メモを取っていた手を休め、A4用紙五枚に及ぶ偵察の結果をもう一度流し読んだ。裏表使った上でだ。

 八丈島防衛戦に参加できなかった三水戦は、小笠原諸島への偵察任務を全て任せてくれなきゃストライキを起こすと言った。三夜連続で行われたこの任務、危険度は未知数の上、距離もあった。被害がゼロ、とは言わないが、大きな事故なくやり遂げられたのは、ひとえに川内たちの士気の高さによるものだった。攻撃重視の三水戦、夜戦専門の部隊。想定されていたよりも敵陣深くに切り込んでくれたおかげで、より詳細なデータがもらえた。

 煙草を吸おうと一本くわえたところで、顔の横からマッチを擦る音が聞こえた。

「ふふん、どうです、私が開発した無電は。電波の指向性もバッチリですから、これぐらいの距離なら傍受される確率は数パーセントまで抑えられますよ」

 差し出されたマッチで火をつけ煙を吐き出す。よその鎮守府所属艦娘とはいえ、正式に泊地を預かっている身分。気を使ってくれるならありがたく受け取っておく。

 呉鎮守府所属・明石。

 八丈島に補給基地を作るためにしばらくこちらに駐留することになっているが、一時的に清水の指揮下に入るというのは、二時間前に森友からの電話で初めて知らされたこと。

「申し分ない。こいつは便利だぞ、深海棲艦の電波妨害に引っかからないとはな。問題は……」

「量産はできません、はい」

 艦娘、それも工作艦である明石にしか作成できない機械。この技術を一般化できれば、せめて国内だけでも往時のように戻せるとはいえ、この無線機は艤装と言って差し支えない。妖精を宿らせているからだ。よって妖精と意思疎通のできる司令官クラスにしか扱えないし、そんな人間はわんさかいるわけでない。使用条件が限定的すぎる。

 だが、八丈島までわざわざケーブルを引く必要がなくなったし、その分の工期や護衛戦力を全て攻撃に回せるようになったのだから御の字。国内では明石の関わる数基地しか使っていない貴重品だった。

「手が空いたらこちらの艦娘さんの通信艤装も弄らせてもらいますね。指向性は落ちるとはいえ、長距離で無電を使える便利さと安定性はあちらで保証されていますので、効率はグンと上がりますよ。暗号化については、ただいま民間の情報技術者と協議を重ねているらしいです」

「助かる、頼むぞ」

「了解です、司令官。それじゃ、私は島に戻りますね」

 これだけのためにわざわざ島から来てくれたのだ。「メシでも食っていくか」清水が言うと、「まだ余裕がありませんので」と断られてしまった。

 見送りのために外に出ると相変わらずの寒風にやられてしまい、外套を羽織って体を縮こまらせた。冬の大三角形が燦然と輝き、ほかの明かりは一切ない。八丈島まで戦線を押し上げ、近海へちょっかいを出しに来る敵もここ数日全く見なくなったとはいえ、海岸沿いの灯火管制がなくなることは、深海棲艦との戦争が終わらない限りありえない。緩和されることはあるかもしれないが、眠らない色街のような灯りを焚いていた人類は、未だ息苦しい日々を強制されている。

 食堂を通りかかって、「ちょっと待っててくれ」と声をかけた。テーブルに置いてあった荷物をひっつかみ、急いで明石の元に戻る。「甲斐甲斐しいですね」と茶化す明石の尻を引っ叩いてやった。

 人類は弱い。

 四百万年のあいだ地球の頂点にあぐらをかいていた栄光は、一年も経たないうち、新たに顕れた捕食者に奪われた。海沿いの歴史ある街も、国の象徴たるモニュメントも、人が繁栄するのに必需の施設も、ほとんど破壊された。抵抗できるならまだ救いがあった。海から顕れた『深海棲艦』、奴らに人が研鑽を重ねてきた武器は、一切通じなかった。銃弾を撃ち込んでも、砲弾を撃ち込んでも、ミサイルをぶつけても、小型の核を頭上で爆発させても、奴らの進撃を止めることはできなかった。海が奪られ、艦載機のような化け物に空も奪られ、奴らの顕現と同時に起きた地球全体を覆う電波障害は、島国日本に史上最大の危機をもたらした。受動的な鎖国状態、輸入に頼って膨れ上がった人口を養える能力などない。大衆が暴動を起こすのには十分な条件だった。日本の高潔なモラルは情報時代である現代で希薄になっている。膨大な知識を得て、狭窄した視野での正義が横行する国内は、思想家が群雄割拠し、家も意思もなくなった大衆を扇動して大きな運動が巻き起こっていた。このままでは国が崩壊する。深海棲艦のような人類が太刀打ちできないものを敵とするから混乱するのだ。ならばどうするか。大衆が戦える敵を作ればいい。

 新たに興された新生日本軍は、国内の風紀を厳しく統制することによって大衆が戦える敵となり、奇妙な形ではあるが、一時的な安定がもたらされた。しかしこのままでは外と、いつか爆発する内からの暴力で潰れる。軍が潰れたらもう大衆は弾けたゴム球のように予想がつかない跳ね方をする。どうする、玉砕覚悟で深海棲艦に反抗するか。武器を持ち、無駄に死んでいくのが正しいことなのか。悩みに悩み、玉砕に向かう作戦が話し合われるほどの窮地に立たされた時、彼女が現れた。

 のちに艦娘と呼ばれる『貧民窟の少女』。

 日本は、彼女のおかげで未だ国の体をなしている。

「ん、もういいの?」

 出撃する艦娘たちの詰所に入ると、真ん中に置かれたダルマストーブの前で、叢雲が鼻を赤くしていた。

「済んだ。すまないな、とんぼ返りになってしまって」

「任務だもの、文句なんてないわ。いい加減私たちの運用に慣れたらどう?」

 困ったように微笑む叢雲に持ってきた袋を投げて渡す。「……あら、お漬け物かしら」外からでもわかる糠の匂い。二重にしたビニール袋じゃ防ぎきれなかった。

「保存が効くし持ち運びやすいからな。たくさん入れておいたから、カーペンターズの皆さんにもお分けしてくれ」

「渋い差し入れですね。ま、おつまみになりますし。あの人たち、毎晩飲んで騒いでるんですよ、うるさくって眠れやしません」

 三日月が早速きゅうりをひとかじりした。「くっ、しょっぱ! 漬けすぎじゃないですか」それを聞いてわらわらと一水戦の面子が集まってきた。

 叢雲、三日月、曙、春風。それから神通。

「忙しくてぬか床を世話する時間がなくてな。四日ものだ」

「四日! ひとくちでお茶碗半分いけそうじゃない、三日月、ひとくち……しょっぱ!」

「はむ……あら、わたくしはこのぐらいの方が好みです」

 あっという間にきゅうりの半分がなくなり、最後に神通が小さくかじって言った。

「お茶の一杯も飲んで行きたいところですが、そろそろ準備しましょう。提督、ありがたく頂戴していきます」

「おすそ分け忘れるなよ。叢雲を見張っておいてくれ」

 むこうずねを思い切り蹴られて飛び上がった。

 各員艤装展開、神通が声をかけると、花々しい女の香りは鉄と火薬の匂いに変わる。狭い詰所が余計に狭くなる。明石も艤装を展開し、武将のような鎧をまとった。

「皆さん、復路もどうかよろしくお願いします」

「明石を頼んだぞ」

 全員が足を踏みならして同意した。艤装を展開して人間離れした力を発揮しているから地面が揺れる。ダルマストーブが細かく震え、金具がカチャカチャと音を立てた。

「一水戦、護衛任務承りました。.……時刻二◯◯◯、進路を八丈島に向け、富津泊地を発ちます」

「うん。出撃日誌は書いておくから、気をつけて行ってこい」

 詰所からつながるドックへの扉を開けてやると、潮風がストーブの火を揺らす。春風がスイッチを切り、暖房がなくなった詰所は急激に冷え込んで行った。ドック内に照明は点いておらず、緑色の発光塗料が儚げに海と陸の境目を示している。

 全員が海に入り、塗料の塗られた陸側ギリギリに清水が立った。

「戻っていいわよ。寒いでしょ」

 槍のような(マストらしいが)艤装の一部で胸をつつかれても首を振って「あと数分ぐらい待たせてくれよ。またしばらく会えなくなるんだし」と清水が言う。

 曙が口を挟む。

「惚気ないでくれる?」

「曙に会えなくなるのも寂しいなあ。ちょっと抱きしめさせてくれ。ほら、こっちこい」

 人間は海に浮かべない。さすがに真冬のこの時期に海に入るのは遠慮したい。「ふざけんなクソ提督ッ」大きな音を立てて蹴り上げられた海水が清水に向かってきた。が、一歩下がるだけで飛沫は届かない。鼻で笑ってやると、曙の悔しそうな唸り声が真っ黒な海から聞こえてきた。

 敵が日本の領海に戦力を集める前に作戦を立てなければならない。戻って関係者に連絡し、決まればすぐにでも八丈島に待機している攻撃部隊に命令を下す。作戦遂行まで、遅くて一週間。こちらの攻撃が開始されたと同時、南側では沖縄への漸減作戦、北では北海道への足がかりをつくるため、長年悩まされてきた敵の基地を壊滅させる作戦が始まる。八丈島への基地建設作戦は成功の狼煙を上げ、《湊川作戦》と銘打たれた、人類の反抗が開始される。

「二◯〇〇、一水戦、護衛任務開始します」

 神通が静かに宣言し、「よろしくお願いします!」明石が全員に頭を下げて、先行する神通に着いていった。

「行ってくるわね。ちゃんとお留守番しているのよ」

 叢雲が後に続き、「体だけは気をつけなさいよ」と曙が吐き捨てて行く。「ぼのさんのデレ、かわいいですよねえ。行ってきまーす」三日月がぶんぶん手を振って、「行ってまいります、お漬け物、向こうでも楽しませていただきますね」柔らかい物腰で春風が最後尾に着いていった。

 真っ黒海に溶けていった彼女らの姿はすぐに見えなくなった。煙草に火をつけ、ついでに日誌に書き込むため黒い布をかぶせた電灯をつけて、大きく煙を吐き出す。

 もうノートが一冊終わってしまう。一行ずつ書かれた文字はここに所属する多数の艦娘が書いている。崩れた字、整った字、大きな字、小さな字、丸っこい字に尖った字。落書きだって多数ある。大半が卯月かもしれない。一ページ丸々使いやがって、最初のページから見返して行くだけで一本吸い終えてしまった。

 いつもと変わらない潮騒がドックの中に響いている。 

 



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1

 濃い白檀の匂いが充満している会議室のテーブルの上に広げられた海図。駒がいくつも散らばり、薄暗い室内を照らすプロジェクターには、同じ海図に矢印と数字、時間が書き込まれている。男と女が二人きりなれど両者の距離は遠い。先ほどまでもう一人女がいたというのに、男は幸せな時間を享受した雰囲気を一つたりとて醸していない。風呂にも入らず、脂ぎった髪と顔の男。女の長い髪は、平時ならきちんとまとめられているのだろうが、わっさり広がって山姥みたいになっている。髪をまとめていたバレッタは、昨日の夜中、「私の髪を引っ張るのは誰だ!」と叫びながら、部屋の隅に投げつけられた。限界だったのだろう、いろいろと。

 横須賀鎮守府。その第一会議室に、清水と森友が突っ伏している。焚かれたお香は体臭をごまかすためだと、絞りきった脳みそでもわかった。

 備えられた電話で森友がどこかに電話し、二言三言ですぐに切った様を見て、乾きでひりつく喉で清水が話しかけた。

「水を、くれ」

 同じようにしゃがれた声で森友が答えた。「もう頼んだ。少し待ってろ」

 明石を八丈島へ護衛する一水戦を見送った後、すぐに横須賀と犬吠埼に連絡を入れた。二十分後に横須賀から駆逐隊が、一隻の高速艇に乗って到着した。競艇で使用していたものらしい。速さで船体が浮くというのを初めて経験し、情けなくも駆逐艦にしがみつきながら到着した横須賀鎮守府で、すぐに会議室に通された。メモ書きに等しい紙のコピーがすぐに刷られ、犬吠埼の到着を待たず攻略作戦の立案が開始された。

 数年ぶりの小笠原諸島の現状は、もうあの島が人間のものではなくなったのだとはっきり示されていた。

 機動艦隊や水上打撃部隊、水雷戦隊は当然として、潜水艦もうようよしている。恐ろしいのは、今まで交戦したことのない深海棲艦の姿が認められた。攻撃に参加してこなかったのが最悪で、どのような戦力を持っているかわからない。しかし、三夜に渡る偵察の中一度しか見かけなかったということで、数はいないと仮定した。さらに八丈島で片鱗が見えていた、計画的な深海棲艦の行動は、小笠原に近づくにつれ、顕著になっている。未確認の深海棲艦は頭脳役とも取れるだろう。奴さえ撃破してしまえば、真南の脅威はひとまずなくなるはずだ。

 八丈島輸送作戦の主役が富津ならば、小笠原攻略作戦の花形は横須賀。

 森友は防衛と警戒に回していた戦力を全て攻撃に当てる作戦を立てた。

「大井入ります、お茶を……むっ」

 茶髪の女性が湯呑みを盆に載せて入ってきた。「私このお香嫌いだと言ったではありませんか」片手で鼻をつまみながら、盆を片手で雑に置く。

 清水は冷まされてぬるくなった茶を半分ほど一気に飲み、喉に絡んだ痰を払った後、もう一度湯呑みを傾けた。空いたところに、急須に入れられた、湯気くゆる茶が注がれる。すするようにして飲むと、口の中に染み入る感覚がこそばゆい。

「お疲れ様でした。入浴の用意もありますが、いかがなさいますか」

「ああ、ありがとう。せっかくだからいただいて」「寝言は自分の基地に戻ってから言え。大井、すぐに高速艇にこいつを乗せて送り返せ」

 風呂の一つも貸す気は無いようだ。大井も一言ぐらい言ってくれればいいものを、「はいはい、わかりました。清水さん、船のエンジンは温まっていますから、準備ができましたらドックの方へ」と退室してしまった。

 激昂するのもバカらしくなり、寝ぼけた頭で散らかった書類をまとめる。ため息を吐いて嫌味も忘れない。だが鞄につめ終わるまでの間、森友は突っ伏したまま身じろぎひとつしなかった。「寝てるのか」何の気なしに声をかけると「寝てない」、不機嫌な声が返ってきた。

 荷物も詰め終わり、勝手に退室しようとしたところで、森友が言った。

「神通たちはどうだ」

「いつ寝首をかかれるかヒヤヒヤしている」

 体が少し揺れた。笑ったのかもしれない。

「まだ貸しといてやる。早く返せ」

 会議室を出た。

 廊下の窓から見える景色は富津と違い、都会的な整然さがあった。中は広い、花瓶ごときにあんなでかい壺を使う意味がわからない。幾つかの部屋の中から人の気配は感じるが、しばらく歩いても人っ子ひとり出会わなかった。富津と同じく、艦娘たちは大半が八丈島に詰めているらしい。先ほどお茶を運びに来た大井も作戦に組み込まれていたから、早くて今日には出発するのだろう。海にほど近いのは富津の基地と同じなのに、横須賀には潮騒の音は一つも聞こえなかった。冬の静けさ。すずめが梢で鳴いている。

 陽が当たらない薄暗い階段を降り(手すりすら細工が彫られている)、正面玄関から外に出ると、久しぶりに浴びる日光で頭が痛くなった。外にも人の姿はない。遠くの方で車の音が聞こえるから無人というわけでないだろうが、人口密度の低い基地のようだ。

 油断をすれば歩きながらでも寝られる。夢遊患者と見紛う足取りでふらふらしていたら肩を叩かれた。艦娘かと思い、驚かせないように一度立ち止まってゆっくり振り返った。

「よう、司令官どの」

「……八木か、久しぶりだ」

 相変わらずきっちり着込んだ制服と、がっちり固められた髪の毛。去年の夏以降、直接会うことはなかったが、何一つ変わっていない。同時に一歩距離をとる。「なんだ、別に臭いなんか気にしないぜ。女々しいな」と、彼は一歩詰めてきた。

 森友が言った、作戦を各方面に認めさせるために奔走した同期の主計官。名前は挙げていなかったが、間違いなく八木だ。清水が富津に着任した頃には、すでに横須賀に突っつき回されていると発言していたのを覚えている。

 ドックに向かう道を二人で歩いていると小春日和の陽が、今すぐそこの芝生に臥せてしまえと体をぐいぐい押す。その通りにできたらどんなに幸せか。ここが横須賀鎮守府の敷地内でなければ、まちがいなく従っているのに。

 ぐるぐる回る頭に八木の声が芯を通してきた。

「こもりきりだったらしいな。どうだ、うまくいきそうか?」

「私が意見を出す、森友が否定する、香取先生が折衷案を出す。ずっとこんな感じだったよ。体力よりも精神的に辛かった」

「ははぁ。気にすんな、森ちゃんが否定的であるうちは、ちゃんと意見を受け止めているから。もいい会議だと、彼女、一切発言しないんだよ」

「ひどい性格だな。ま、それらしい作戦になった」

「南烏島の補給基地建設はどうなった」

「うちの娘たちが昨日から偵察に向かってるはずだ。往復で三日ぐらいかかるから、明日には何らか動き始めるよ。遅れる代わり、横須賀の三四航空戦隊を貸してもらえるらしい」

「ああ、第四艦隊の娘らか。葛城、瑞鳳、飛鷹、隼鷹……」

「葛城と瑞鳳は八丈島にしばらく駐留していたから、うちのとも顔見知りなんだ」

「そりゃいい。空母や戦艦連中は誇り高くて扱い難い奴らが多いから。その分、一度仲良くなっちまえば、本当に全力を尽くしてくれる。まして横須賀の空母部隊と言ったら、全国でも指折りだぜ」

「夜間攻撃で部隊一つ消し飛ばしたって聞いたときゃわが耳を疑ったさ」

「お前のとこのだってすごかったらしいじゃないか、戦艦含む部隊を水雷隊と重巡隊だけで撤退させたとか」

「あんな心臓に悪い戦法は褒められたもんじゃない。酒匂はあれ以来神通に敵意をむき出して、神通に盾にされたのをよほど恨んでいるぞ」

「誰も沈まずに勝てたって結果だけで十分じゃないか。いくら周到に策をめぐらしたって、沈む時は沈むし負ける時は負ける。それに、神通の部隊に声をかけたのは酒匂ちゃんだろ? そんな娘が、盾にされたぐらいで毛嫌いするとは思えないな」

「……詳しいじゃないか。戦闘詳報は、おととい東京に送ったばかりなのに」

 八木は隣を歩きながら胸を反らした。服装を崩した清水とは違う、軍の宣材写真にそのまま使われてもおかしくない優等生な着こなしをした制服。「当然だろ」腹ただしい声で言った。

「俺は仕事のできる男だぜ。基地一つなんてちっぽけなこと言わず、関東圏をまたにかける主計官様だ。情報だって物資のうちだって」

 寝不足の頭に八木のふてぶてしい得意顔が気に入らず、清水が思い切り尻をひっぱたいた。二三歩飛び上がるようにした八木が歯を出して笑うものだから、清水は学生時代の通学路を思い出して、つられて口元が緩む。緩んだ口元は冬の空っ風に吹かれて、ほんの一瞬で引き締められた。

 あの頃と比べたら一人足りない。

 その意を汲んでか汲まずか、また隣に並んだ八木が話題を変えた。

「関東圏の主計官、しかも大本営付きだとな、本当に全国の情報が入ってくる」

「だろうよ」清水が生返事を打つと、目の前に立ちふさがった影が清水の足を止めた。寝不足でうろんになった目を向けると、いたって真剣な顔をした八木が言った。

「来月から何人か、憲兵隊をお前のとこに送るぞ。お前のとこだけじゃない、全国の基地に」

「どっかの色気違いが規律を乱すようなことをしたか」、清水が尋ねると「違う、そうだったら、一人をしょっぴけばいいから楽なんだ」と、背中を向けて歩き出した。止まったり動いたり面倒な動きをする、半ばゾンビになっている清水は、おとなしく後ろをついていく。

 人が増えるのは構わないが、宿舎がない。空母と戦艦寮がすっからかんだからそこに寝泊まりしてもらうしかないが、掃除しておかないと。

「お前の大好きな高田渡が言っていたな。フォークシンガーになりたいと言った息子に、彼は何と言った」

「『戦争でもおきなきゃ儲からぬ』。高田渡の言葉らしいが、なぎら健一の歌でしか知らん」

「そうそう」高田渡を勝手に師と仰いでいたなぎら健一が作った曲の一節。何をいいたいのか思考することもできず、頭の中で流れ始めた、軽やかで粒のはっきりしたフィンガリングのギターに酩酊していると、八木がもう一度振り向いた。

「まさに今、その時さ。ある一派が暴動を計画している。赤旗の連中みたいなもんさ、とかく国をひっくり返そうとしている連中がいる。内通者から聞いた話だから間違いない」

「そんなに人数が集まっているのか? 軍国の旗を翻した国をひっくり返そうなんて、よほど勢力がないと難しいんじゃないか」

「別に軍国じゃなくても無謀に近い。連合赤軍を知っていれば尚更。だが、あの時代と今とでは話が違う。ましてわかりやすい敵と、身近に鬱憤を晴らせる敵がいる今とじゃあな。拠り所のない民衆が縋ろうとするのは、いつだって甘言を吐き理想をかたる団体に決まってる」

「と言うと」清水は絞りかすみたいな脳を動かして、八木の言う団体とやらを予想する。しかし途中でまぶたが落ちそうになり、ふらついた体が八木にぶつかって改めて力を込める。

 早々に考えるのを放棄して答えを求めた。「すまん、どんな奴らなんだ」

「宗教団体さ」

「ああ」清水は空を仰いだ。

 二人の脇を一台の車両が横切る。全員制服をきっちり着こなしているから、事務方達にちがいない。軽く敬礼して見送っていると、八木が言った。

「数年前は左のやつらが息を吹き返して大騒ぎ、今度は宗教家。国が荒れた時に現れる救世主、なんてのは、国がひっくり返らない限りありえない。何とか奴らを『犯罪者』に止めておかなけりゃあいけない」

「そんで、憲兵隊で基地を護衛とな。警察と憲兵隊だけで、未然に強硬手段に出るってのは難しいのか」

「できなくはないが、人数が多すぎる。オカルターたちが出版していた小冊子が原典らしく、終末論やら陰謀論は今も昔もいい娯楽だろ。内陸に人が集まっているのも相まって、爆発的に広まってしまった」

「それは宗教なのか。マニアどもが集まって騒いでるだけにも聞こえる」

 八木は首を縦に振った。「深海棲艦をまれびとだなんて偶像化している。宗教以外何と言えばいい? 『裁きを受け入れろ』、奴らのスローガンは悲哀に満ちたものさ」

「裁きか」なぜこうもオカルトに傾倒する奴らは、人類の犯した罪だの、原罪だの、今まで積み重ねてきたものを否定したがるのか、理解ができない。

 罪の意識を感じているのなら一人で勝手に首をくくればいいものを、宗教に興味のない清水は大きくため息を吐いた。政治団体が立ち上がった理由はわかる。彼らは明確な目的を持って、現政権を打ちやぶろうと蜂起した。が、元がオカルト発祥の、くだんの集団の目的はぼやけていて、一体どうなれば彼らが満足するのかわからない。もちろん、彼らのことを何も知らないからかもしれない。

 宗教に興味はないが、彼らに興味がわいた。

 お祭り騒ぎ的に人が集まっているだけだとしても、憲兵を配置するほど脅威となっているのだから、心の拠り所を求めている民衆がそれほど多いということだ。自分の知っている街中の状況は一年前のもので、道端に座り込んだ家なき人々がうつむいていた頃とは、活気という面で大きく変わっているようだった。

 出撃ドックの中に入ると駆逐艦・時雨が、机に寄っかかってカップに口をつけていた。彼女は清水たちを認めると姿勢を正す。

「お疲れ様、清水さん。大井から聞いたよ、お風呂にすら入れてもらえなかったんだってね」

「ああ」苦笑いを作るのも面倒だった。片手を上げて挨拶代わりとする。「慣れたもんさ、ちっと臭いかもしれんが、我慢してくれ」

 時雨はなんら気負うことのない顔で微笑み、「すぐに出せるけど、どうする?」と清水に尋ねた。

「飲み物を、なんでもいいからくれ。少し話しをしていってもいいだろ」

 それから「森友に言うなよ」と付け足す。彼女は器用に片目を閉じた。

 整雑に置かれている木箱に腰掛け、受け取ったカップからはまだ湯気が立ち上っていた。凪いでいるドックの中に、ジャスミン茶の香りが広がり、三人で音を立てながらすする。

 半分ほどカップから口を離さずにすすり、清水が先ほどの話を蒸し返した。

「時雨は知っているか、憲兵隊が基地の護衛に就くってのは」

「そりゃあ、聞いているさ。自分の家のことなんだから。理由も知っているつもりだよ。何か隠していることがなければ、だけど」時雨の目線の先には八木がいた。見つめられている方は、少し慌てた様で、手をぱたぱた振りながら答える。

「ないない、何も隠しちゃいない。徹頭徹尾、説明した通り。ここは都心に近いから、清水んとこよりも早く、厳重に警備させるんだ。不都合かけるかもしれないけど、悪いな」

「横須賀は元から人の出入りが多いから今さら何人常駐しようが構わないけど……。司令の機嫌が悪くなりそうなのが問題かな」

「それについてはもう対策済み。こっちに回すのは女性が七割。目に付くところに男は置かない」

「あはは、ご迷惑をおかけします」

 時雨が頭を下げると、ぶら下げていたおさげが宙吊りになってゆらゆら揺れた。

「つくづく思っていたが、あいつは男嫌いなのか?」

 ぐっと背筋を伸ばして訪ねた。凝り固まった筋肉が伸ばされて、目の前に星が散らばるぐらいの快感に体を震わせる。

 二人は「今さら何を」と言った風に清水を見つめていた。

「お前が一番被害を受けていただろうに、なぜそんな質問ができるんだよ。彼女は男嫌いどころか、憎んでいる節すらある」

 森友の声を聞くのは、業務的なことか、ひたすらなじられる時だけだから、身辺的な話を聞いたことがない。無意識に清水も避けていたものだから、第三者に人となりを聞くこともしていなかった。

「身近だから気づかない……、青い鳥だっけ。いや、誤用なのは重々承知しているさ」

「青い鳥! 懐かしいなあ。あれのおかげで、俺は生まれる前に仲が良かった女の子を捜すことを心に決めたんだぜ」

「お前の女好きはそんなロマンチックな理由があったのか」

「ふふ、その女性は見つかりそうかい?」おかしそうに時雨が笑う。そして、すぐに鋭い針のような発言をぶつけた。「てっきり司令を狙っているのかと思っていたけどね」

 大げさな仕草で八木は否定した。「よしてくれよ時雨ちゃん。俺が横須賀を贔屓しているのは、昔のよしみだからだって」

「よしみだと? 養成学校で、そこまで二人に絡みがあった記憶はないぞ。むしろ、私の方が、接触と言うことでは多かったはずだ」

 八木の笑い声が静かな潮騒を打ち消した。

 過去のことを知らない時雨が、「詳しく聞きたいな。司令は、昔のことを教えてくれないから」と二人に向けて好奇心の瞳を向けた。

 清水は時雨の瞳を捉えず、八木に目を向けた。清水が森友の過去を話すのは、自らの汚点を露呈することになる。たかだか成績が悪かったという話でも、艦娘に命令を出す立場の人間なのだから、余計なことを言いたくない。意図をくみ取った八木が小憎たらしい表情を作った。ワンクッション、仕草を入れるのが気に食わなくて、清水は一つ咳払いした。

「俺も先週思い出したばっかりだから、清水は絶対に思い出さないだろうな。彼女、ずっと前に俺たちと繋がっていたんだぜ」

「あんな性格の歪んだ女、忘れようにも忘れんぞ」

「『昔は可愛かった』。お前、森ちゃんの下の名前知ってるか?」

「知らん。興味もない」

「だろうさ。時雨ちゃん、自分とこの司令のフルネームぐらい言えるな?」

「望未(のぞみ)さんでしょ。森友望未さん。一回も呼ばれているのを聞いたことない」

「聞き憶えないか」

 清水は腕を組んで、また疲れ切った脳みそを絞って記憶を探る。けれど答えにたどり着く前に息切れしてしまって、そのままうなだれた。「知らん。七つも年の離れた知り合いなんて……」と言いかけて、何かの背中に触れた気がした。

 そこへ、八木が最後の一押しをくれた。「ノンちゃん」

「あああッ!」急に大声をあげたせいで時雨が飛び上がり、カップから茶が溢れ、同じような声をあげた。八木は予想通りのリアクションとばかりに、余裕で茶をすする。

 五文字の、さして珍しくもない響きで、清水は過去の匂いや、音すらも思い出した。

 元嫁の実家の近所に引っ越してきた女の子。平屋の仏間を開け放ってレコードを聴きながら、青春を浪費していたのをいつも見ていた女の子。蝉の鳴き始めた頃、いつも一人でいる女の子に声をかけたのは彼女だ。『あんたらが行ったら通報されるわよ』なんて、一番初めに気づいたのは八木だったのに、先陣を譲らなかったのを憶えている。『こんにちわ』『……』『ひとり? 友達は?』首を横に振る。『何をしているの?』手に持った携帯ゲーム機。『どこに住んでいるの』すぐそこの、団地を指差す。『お母さんたちはお仕事かな』首を縦に振る。『おかし食べる?』動かない。『何か甘いものと、ジュース冷蔵庫に入ってるから持ってきて!』言われて二人して冷蔵庫に走る……。見かけるたび話しかけるうちに、少し言葉を返してくれるようになった女の子をついに家にあげたのを、八木と二人で『マズいんじゃないか』と顔を見合わせた。『一人で遊ばせているより安全じゃん』と至極正論をぶつけられて黙ったものだ。初めて家に上げた時、オレンジジュースを入れたグラスが汗をかいて、お盆に輪っかを作っていた。積み上げられたレコードをチラチラ見ながら、なぜか正座をする女の子。そう、その時、元嫁が言った。『お名前は? 何年生?』『のぞみ。四年生……です』『じゃあ、ノンちゃんだ!』

 いた。確かに、自分の記憶にいた。

 現在の『森友』と乖離しすぎていて気づかなかった。高校を出るまでの一年間しか遊んだことがなかったが、確かにみんなで『ノンちゃん』と一緒にいた。女が変わるというのは常に識られたことであっても、あまりに乖離していてて、いっそ今からもう一度、『森友』の顔を見に行きたい衝動に駆られる。

 男二人、共有する記憶を持たない時雨が、お茶をこぼした手を服で拭きながら、頬を膨らませた。

「うちの司令が、そんな可愛いあだ名で呼ばれてたの?」

「本当に『ノンちゃん』なのか? 人見知りなところがあって、ショートカットで、ちょっとぷっくりしてほっぺの赤い……」

「みんなでお菓子食べて、レコード聴いて、俺たちとおっかなびっくり話していたノンちゃんが、森ちゃん。横須賀総司令官で、湊川作戦の立案者、森友望未枝将」

 全身が脱力して、茶をこぼす前に気を利かせた時雨が、慌てて清水の手からカップを取り上げた。感謝を告げることもなく、寝不足の頭が、さらにぼうっとする。八木は優越感をそのまま形にしたような表情で、また茶をすすった。何の気なしに時雨を見ると、肩をすくめて、「僕は置いてけぼりだね」と拗ねていた。

 ノンちゃんと森友を繋げようとしても上手くいかない。そして、かくも世の中は狭いものだと清水は思った。どうしようもない思索は乾いた笑いになり、だんだんとおかしくなって、ついに口を開けて大笑いに変わった。時雨は一人、おかしなものを見る目つきで彼を見ていた。八木は黙って、真剣な顔をしている。

 おかしくってたまらない。何がおかしいのかわからない。ただ、腹の内側で硬い毛の塊が転げているみたいにおかしいのが止まらない。石造りの建物は清水の声をビリビリと反響させて、身体の揺れに合わせて、彼のすぐ横に置かれたカップの水面にいくつも輪っかができた。そうか、彼女はノンちゃんか。そうか、そうか、俺たちの青春にいたのか! 俺の中に生きていたのか! こいつは傑作だ、喜劇だ! 俺は何も知らずに彼女を恨んでいた。意味もなく俺のことをなじる年下の女を、石の裏の節足動物みたいにうじうじと妬んでいた! そうか、彼女の俺に対する態度は、男嫌いというものとは別だった。理由を持って俺のことを憎んでいたんだな、そうか、それなら、彼女の暴虐を受け入れることができる。

 清水の狂態がやがて落ち着きを見せ、時雨など忘れた彼が、八木に、掠れた声で話しかけた。

「彼女は憶えていたんだな」

 八木は答えた。「憶えていたよ」

「そうか」清水は拳で膝を殴りつけ、もう一度繰り返した、「そうか」

 八木は黙っていた。清水の狂態を見て微塵たりとも動揺を見せない。時雨は二人を視界に納めて、読もうにも読めない状況にやきもきしていた。

「もちろん、森ちゃんは由乃のことも」「言うな!」

 胸ぐらを掴みあげ、力任せに詰め寄り、たっぷり八歩動いて壁に押し付けた。油で撫でつけられた八木の髪が崩れ、背中を打ち付け胸を押さえられて、肺の空気が清水の前髪をなびかせた。

「俺の前で、あいつの名前を、出すんじゃない」人差し指を顔の前に突きつけ、言葉を出せずに頷く八木を確認して、胸ぐらを掴んでいた手を離す。彼は、ひどくむせた。

 そこへ、時雨が苛立たしさを隠さないで口を挟んだ。

「いい加減にしてくれないかな。僕は木石か何かかい? 意味も分からず暴力沙汰を見せつけられるこっちの身にもなってよ」

 彼女は艤装を展開させていた。いつでも、力づくで清水を抑えられるように。

「すまない」時雨に謝って、八木の背中をさすって同じ言葉で謝った。八木は片手を上げて応えたが、まだむせていた。

 棒立ちになった清水は、目にかかるすんでの前髪を雑に後ろに撫でつけて、もう一度謝った。

「悪い。帰る。時雨、ボートを出してくれ」

「……りょーかい」

 すぐに艤装を収納して、係留されているボートに乗り込んだ彼女がエンジンをかけると、バン、バンとガソリンが爆発する音が、ドックのすべての音を食った。自分の癇癪を音にしたようだ、と自嘲気味になり、耳を覆いたくなった清水の肩を、八木が叩いた。

「まだ、だめなのか。あれは決してお前のせいでは」

 彼の声は時雨には届かない。耳に入る前に爆発音が食ってしまう。

 黙って船の計器を見つめる彼女を見ながら清水が答えた。「あいつのことには触れないでくれ。それが、私のためでも、お前のためでもある」

「そうか。けどな」清水の八木の手を払ってボートへ近付いた。自己嫌悪でどうにかなりそうだった。

「じゃあまた」

 ボートに乗り込むと船体が派手に揺れた。乗り心地は良くない。シートベルトを締め、さらに投げ出されないように手すりをしっかりと握る。「よろしく頼む」ガソリンと、潮の匂いを、彼女の甘い匂いが打ち消す。「動くよ。八木さん、また後でね」

 音がすぐにかん高くなり、体が後ろに引っ張られるのを踏ん張る。無理やり付けられた後部座席は、船体をくりぬいただけの競艇ボートの後部に転落防止の枠を備えただけで、目の前にはバランスをとるために上げた時雨の尻が、目の前に突き出される形になった。波が高い、それでも三十五ノットほどで航行するボートは、船体を時折浮かせながら、ぐんぐんと富津へ突き進んでいった。ものの十分で到着する急進航路、風と、巻き上げる海水の音しか聞こえない。二日前、迎えに来てくれた雷という駆逐艦の運転は、船体がひっくり返りそうなほど怖いものだったが、雷より背が高く、体重もあるだろう時雨の舵さばきは、安定したものだった。それでも、手すりを握った手はガチガチに固まった。

 富津岬の先にある第一海堡の残骸を通り過ぎた頃、速度を少し緩めて、時雨が清水に声をかけた。

「ヨシノさん、って誰だい」

「……お前は肝が据わっているな」

 振り返った時雨の顔は真剣なものだった。「元嫁。それ以上は勘弁してくれ」

「そ」

 グン、と速度を上げたボートは、横須賀を出て十三分後、富津の出撃ドックに着いた。

 



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2

 富津基地内の堤防から釣り糸を垂らして浮きを見つめていた。かもめが数羽、すぐ横でウロウロしている。が、目的が同じ野良猫と縄張り争いをして、しょっちゅう羽ばたくものだから落ち着かない。小物が釣れれば分けてやるのもいい。しかし、富津内には愛玩動物以上に貴重な、食料としての家畜がいる。よく肥えさせるために、一匹たりともこいつらに呉れてやるつもりはない。カレイ、スズキ、ギンポと、食べるには申し分ない魚が掛かり、夕方まで糸を垂らしていれば、今晩の食事は全てまかなえそうだった。

「提督。こちらにおいででしたか。森友さんと、それから八丈島から連絡が来てますよ」

 振り返ると千代田が薄いコートをはためかせて立っていた。潮風は彼女の髪も巻き上げ、それを抑えようと耳のところで髪を押さえている。いや、耳に手を当てているのは、おそらく別の理由。

「八丈島からはなんと来た」

「南鳥島への出撃準備が整ったって、神通が」

「あいわかった。よろしく頼むと伝えてくれ」

 千代田は片耳に手を当てたまま、一言二言何かつぶやいた。何を言っているのか聞き取れなくとも、彼女がそこに立ったまま、八丈島と通信しているのはわかる。

 明石は何人かの艦娘の艤装を改造した。千代田の今しているのもそれだ。装備を展開しなくても良い通信機能。おかげで常時、意識的に通信を行えるようになった。線の繋がっていないイヤホンと侮るなかれ、妖精を宿らせている。

「便利そうだな。私も欲しいといったら明石は作ってくれるだろうか」

「提督には無理だって。仕組みは艤装といっしょだしさ。……第二艦隊出航、追って一水戦と横須賀航戦が輸送船の護衛に回り、南鳥島を目指します。ばい神通」

「委細承知した。気をつけて行ってこい」清水が言うと、千代田が一人の妖精を手のひらに顕現させて突き出した。手のひらの上で背伸びをしている妖精は、小さい、ままごとに使うようなマイクをこちらに突き出している。そして、自分の耳にはめていたイヤホンを清水の耳にはめ、「それはご自分でどうぞ」と、千代田が言った。

 使用するのは初めてだ。半信半疑で「あー、富津の清水だ。もしもし」と話しかけると、雑音が酷いものの、神通から返事が返ってきた。

『あら、提督も艦娘になられたので?』

「んなわけあるか。千代田だよ」

『冗談です。二十分前に電文を送ったのですが返事がありませんでしたので、ちょっと試してみました』

「すまん、外に出ている。基地と部隊の音声通信、便利じゃないか」

『ええ……、あ、少々お待ち下さい』

 布を擦ったような雑音がして送信者が切り替わる。

『叢雲よ』

「お疲れ様。今回も護衛よろしく頼むぞ」

『言われなくても分かっているわよ』

「ぬか漬けは、ちゃんとみなさんにお分けしてくれたか?」

『……ムカつく。ねえ、南鳥島に行くのはいいんだけど、駐留する艦隊ってどうなっているの』

 瞬間、竿が大きく曲がり、叢雲の指摘で力が緩んでいたのも相まって、危うく手からすっぽ抜けそうになった。慌てて持ち直しても、無理な力の入れ方と狡猾な魚の逃げ方で糸が切られてしまい、後ろ向きに倒れそうになったのを、千代田が体を壁にしてくれた。

 何も考えていなかったのだ。

『もしもーし』

 寄っかかったまま後悔した。彼女らは命令を受けて行動するのだ。自分が司令しなくてどうする。

「伝え忘れていた。一水戦に任せる予定だ」

「今考えたでしょ」

「そんなことはない」

『あっそ。で、護衛なんだけど。二三水戦と横須賀さんに任せていい? 私たち一水戦だけで拠点防衛なんか無理だし、ちょっと、この任務が終わったらそっちに帰りたい』

「富津に? 疲れたか。出ずっぱりだもんな」

『そうじゃなくて、話したいことがあるの』

「今じゃ駄目か」

『今じゃダメ』

 南鳥島は南東の最前線にある。基地を作って、すぐに奪われては意味がない。

 針の付いていない糸の先端を目で追いながら即断した。

「わかった。横須賀には私から伝えておく。葛城たちだろ」

『ええ。本人には直接お願いするわ。今、隣にいるし』

「清水も頭を下げていたと伝えてくれ」

『ありがと。じゃ、またね』

 あとは雑音が流れるだけになった。

 千代田に済んだ旨伝えると、清水の肩に乗り移っていた妖精とイヤホンが消えた。艤装と同じように収納したのだ。これだから清水に扱うことができない。代わりに据え置き型の、妖精を宿らせた通信機があるのだから、そう贅沢は言うものではないだろう。

「なんだって?」

 千代田が今度こそ髪を押さえながら隣に座った。

 針をつけ直そうと思ったが、気づけば水平線に太陽が足をつけている。糸を竿に巻きつけ、「今日は仕舞いだ」と、クーラーボックスを肩にかけて立ち上がった。

「座ったばっかなのに!」

 拗ねてみせる千代田の肩を二回叩いて清水が言った。

「今回の任務が終わったら一回帰ってきたいんだと。ほら、行くぞ。晩飯の支度、みんなでやるんだろ」

 あからさまな顔をして、「わっかりました」とゴチながら、歩き始めた清水の横に付いた。

 クーラーボックスの中で数十匹の魚が暴れている。

「釣れてよかったよ」背中に夕日を受けて、二人の影が引き伸ばされていた。腰の辺りから歩調に合わせて水音がする。「あたしもやりたかったなあ。向こう行ったら釣竿さがそ」コートのポケットに手を突っ込んで千代田が言った。

 たまたま空母連中を貸してもらえたから帰ってこいという、計画性のない帰投だった。富津第一航空戦隊と護衛の第四水雷戦隊、清水を入れれば七人の食卓になる。基地で艦娘を遊ばせておくほど無駄な事はない。富津所属の艦娘が一同に介するのは、湊川作戦が発令中の今では滅多にない。だから、少しでも手空きのある部隊はなるべく顔を見るようにしたかった。

 分かれ道で千代田にクーラーボックスを預け、清水はひとり執務室に向かう。もうひとつの連絡を済ませるためだ。

 薄暗くなった部屋の灯りをつけカーテンを閉めた。どうせ電話一本だから、とストーブに手はつけない。

「富津司令長官、清水だ。森友から連絡を受けた、代わってくれ」

 電話に出たのは艦娘でない事務方の女性だった。保留音のカノンを聞き、短い節が三周して、ようやく電話口に人の声が入る。「十分後に折り返す」と言われ、一方的に電話が切られた。以前ならため息ひとつ八つ当たりひとつしただろうに、今は黙って受話器を置いた。

 秘書机にかけてあったひざ掛けを拝借してうすら積もったほこりをはたき、自分の椅子に深く腰掛けた。煙草に火をつける。背もたれは不安な軋みを立て、よくよくリクライニングする(そういう椅子ではないのに)。あふれるぐらい吸殻が盛られていた灰皿はきれいに洗われており、書類や筆記用具が散らかる机の上で黒光りしていた。

 森友の正体を知ってから、彼女を見る目が変わってしまった。麗しい恋心となれば自分を笑うことができたものを、ひたすら彼女の声や態度に怯え、離れたくなり、何かを言われれば無条件で肯定してしまう。富津は横須賀の傘下とも言うべき基地。しかし長官たるものとして対等、叶わずとも意見をできる立場にあらなければいけない。それがどうだ、清水は大きく煙を吐き出した。今の自分にそんなことはできそうにない。どだい無理な『命令』を受けたとしても二つ返事で受けてしまいそうだった。負い目からくるものだ。どうしようもない。取り返すことも、取り消すこともできない。森友が一番懐いていた元嫁を殺したという「ていとっく!」

「・・・・・・頼むから扉は静かに開けなさい。壊れてしまう」

 跳ね返った扉が閉まるより早く飛び込んできた卯月は、勢いそのままに清水の執務机に体当たりをかまし、彼女が運んできた風と衝撃で、上に乗っていたものがいくつか吹っ飛んだ。拾おうとしたところで、頭の上から、机に乗り出した卯月の声が叩きつけられる。

「あんね、カレイの煮付けはうーちゃんが作るから! 口の中かっぽじってまっとけぴょんっ」

「口の中はかっぽじらなくても味は分かる。作り方わかるのか?」

「山風に教えてもらうよ。煮物は山風が一番上手いから。千歳はもうお酒飲み始めてるけど、なんかやらせたほうがいい? 怒る?」

「そのまま飲ませておけ。いっそつまみでも出して快適に飲ませてやればいい」

「りょーかいっ。あ、そうだ、あのヌメヌメした棒みたいな魚って、どうやって食べるの?」

「ギンポはてんぷらだな。涼風あたりなら知ってるんじゃないか」

「聞いてみるねっ」

 言うだけ言って、また扉を蹴り開けて去って行く。

 窓の向こうから「1930にはできるよ」と卯月の声が聞こえた。

 まだ時計は十八時前である。口ぶりからすれば食堂に全員が揃っているのだろう。溜まっている書類なんぞ後回しにして、今日は彼女らの顔をみていたいと思った。明日やれることは明日やればいい。

 煙草を二本吸い終える頃には時間もちょうどよく、イガっぽくなった喉を咳払いしながら、もう一度電話をかけた。

 こみ上げた胃酸が苦く酸っぱい。

 先ほどと同じ事務員が電話に出た。またカノンを聞かされ、初めの節が終わるより早く、耳にこびりついた森友の声がした、

『悪い、来客があった』

 なんてことのない調子。いつもどおりこちらを見下した不遜な声色なのに反抗意識も湧かず、つい返事が遅れた。

『おい』

「すまん、お前が謝るとは思ってなくて」とっさに出たのは、相手にこちらの不利をわざわざ渡してやるような言葉だった。

『これから謝罪はなるべくしないようにしよう』

 野暮だ。

 硬く目を閉じて心を落ち着かせようとして、それよりも早く森友が言った。彼女は無駄をきらう。

『明日、小笠原攻略の先行部隊が八丈島を出る。そっちは今出たそうだな、編成は申告と変わりは?』

「ない。うちの第一、第二艦隊の娘らだ」

『・・・・・・休息は取れるのか。第二艦隊とうちの航戦を、硫黄島攻略にぶつけること忘れていないだろう』

 全身があわ立った。

「一分後にかけ直す」相手の返事を待たずに受話器を置いた。

 急いで机の上に散らばった書類から今回の作戦に使うメモ書きを探し、横須賀で小笠原偵察の報告を行ったときの資料を発掘する。半ほどのページにカラーの地図が印刷されていて、南鳥島から硫黄島の間に一方通行の矢印が一本引かれていた。『一日と半日』、矢印にはそれだけが書かれている。

 二日に及んだ会議である。何かひとつ漏れていたっておかしくない、なんて言い訳は通らない。

 危うく横須賀の本隊を危険にさらすところだった。援軍ありきの作戦で援軍がこないなど、今後の関係に致命的な亀裂が入れることになる。

 すぐに電話をかけ直そうとした。そして、ため息をはいた。

 たった今、叢雲たちに「帰ってきても良い」といったばかりではないか。

 だが、清水は思い直して受話器を取った。それとこれとは話が別だ。個人的な約束なのだ、作戦とは比べ物にはならない。

 対応が機械的になってきた事務方に取り次いでもらい、千歳たちに今から出てもらう旨を伝えた。「いい加減にしろ。作戦前には資料をすみからすみまで読み返せ役立たずが。二度と貴様にうちの部隊は貸し出さん」と怒鳴られ、受話器をたたきつけられた。返す足で無線機をいじる。あて先は第二艦隊旗艦、古鷹。南鳥島に輸送隊が到着したら補給を受け、すぐに硫黄島攻略に向かって欲しいと伝えると、若干戸惑っていたが了承してくれた。

 輸送船で交代に睡眠は取らせるとはいえ、いくら艦娘でも五日もまともな休息なしで戦闘行動ができるはずもない。すぐに艦娘母艦を向かわせると伝え無線を切った。遠方に赴く艦娘らを海上で休息させるための、エンジンを積み替えたクルーズ船。今回使うつもりはなかったが仕方ない。硫黄島へ向かう娘らに正しく休んでもらわなければ、防げた事故が起きるのだ。八木に電話をかけて手配してもらい――無茶を言いやがると笑われ――予定航路を口頭で伝えた。もちろん深海棲艦に対抗できる装備などないので、こちらから護衛の艦娘を出すことを条件に、今晩中に出航させる確約をもらった。

 いらぬ苦労をかけている。わが事ながら腹が立つ。のんびり釣りなどしている暇があるなら資料を読み返しておけばよかった。『慣れ』が出てきてしまったと、清水は自分の頬を三回、おもいきりひっぱたいた。

 なんのために叢雲は黒焦げになった。なんのために古鷹は敵陣に一人で突っ込んでいった。なんのために三日月は絶望にまみれたんだ!

 神通に連絡を入れようとしたのを止め、叢雲の個人回線宛に電文を打った。『南鳥島駐留は一水戦』とだけ。

 すぐに折り返し無電が入った。

『心変わりが早くないかしら』

 怒り心頭なのが手に取るように分かる。いきさつを委細説明すると、ため息のひどい雑音がしたあと、「わかった」、彼女は言った。

『葛城たちには直接言う?』

「このまま代わってくれると助かる」

 薄い雑音がして葛城が無線口に出た。はじめはとぼけたような態度でも、事態を説明すると、不満げな低い声色で「了解しました」と言って、無線が切られた。

 胃が痛い。

 また叢雲から無電が入った。

『怒ってるわ』

「わかってる。・・・・・・申し訳ない」

『しっかりしなさい。横須賀の部隊だとしても、あんたの指揮下にいるんだから。ちゃんと森友さんには謝ったの』

「あいつに言われて思い出した。怒鳴られた」

『当たり前でしょ。で、古鷹たちはどうするの』

「八木に無理言って、艦娘母艦の手配をしてもらった。第三艦隊を護衛につけて今夜中に出航させる。あさってにはお前達に追いつかせる」

『夕張たちがくるのね・・・・・・ふうん』

 叢雲の鼻息が聞こえたあと、「とにかく、これからは気をつけてよ。あんたの悪口なんて、私は聞きたくないわ」と、最後にお小言を残して通信が切れた。

 通信機の前で頭を抱えて、つっかえにしていた腕をはずし、思い切り机に頭をたたきつけた。たったひとつのミス。それが各方面に多大な迷惑をかけ、せっかく預かった横須賀の艦娘に不信を植え付けた。全て自分の落ち度。自分のミスは、部下のミスになる。富津の艦娘隊は使い物にならないと評価されてしまう。それだけは避けたいから、この海域で作戦行動中の艦娘全員が受信できるよう、謝罪文を打った。全部自分が悪いと。打って送信する前に、やはり消して、もう一度頭をたたきつけた。

 こんなことしたってなんにもならない。成果で返すほかない。

 食堂に向かった。

 潮風に乗って醤油とみりんの甘い香りが濃くなる。そうだ、たしか卯月がカレイを煮付けているはず。せっかく作ってくれているのに、今すぐ出航してくれと命令しなければいけないことに心臓が痛む。

 暗くなった道すがら、食堂の上がり口の階段に座り込む人影があった。

 千代田だった。

「ドンマイ提督。叢雲から連絡があったよ」

 清水が近づくと、彼女は立ち上がって彼に寄った。「よかったね、事前に気づけてさ。どうにかなったわけじゃないし、大丈夫だいじょーぶ」千代田は清水の背中を力強く叩きながら笑っていた。

 心遣いが余計にみじめにさせる。

「悪い、艦娘母艦を出すから護衛に回ってくれ。今すぐ握り飯をこさえる」

「ほらほら、あせらない。その艦が何時に出るか知ってるの」

 言われて、あくまで今晩中という話しかしていないのを思い出した。一度のミスで芋づる式にミスを続けてしまっている。どうしようもない苛立ちに舌打ちして、「八木に聞いてくる」司令室に踵を返そうとした。

 返そうとしたが、千代田が袖を引いて止めた。

「だから、あせらない。戦いはあせったら負け。いい練習だね」

 彼女の背後で勢いよく扉が開いた。

 中から出てきた二人は目の前に人がいたのに驚き、つんのめって倒れそうになったのを千代田の背中が受け止めた。

「うわあ、提督、いたの」

 涼風が丸い目をさらに丸くした。

 千代田の背中にぶつかった卯月が鼻を押さえ、彼女に抱きついたまま顔を出す。

「あとちょっとでできるから、中に入って待っとけぴょん。食べてからでも間に合うでしょ」

 気を遣わせているのがわかる。千代田を通して叢雲が何か言ったに違いない。

 彼女達に背中を見せたまま振り向くことはしなかった。みじめで仕方ない。艦娘といえど若い娘らに、自分の失態で大きな迷惑をかけ、しかも尻拭いは彼女達にしかできない。

 赤面を通り越し、血の気が引いた清水に、千代田が言った。

「八木さんなら出航前に連絡くれるよ。お友達なんだから」

「わかった」清水は振り返らずに言った。

「せめてメシは司令室で食う。すまないが、持ってきてくれ」

「もう、謝ってばっかり」

 最後まで背中で声を受け、清水は司令室に戻った。

 部屋に入るやストーブに火を入れ、上に乗っかっているヤカンから冷えた水を直に口をつけて飲んだ。

 一口、二口、五口、六口。

 すべて飲み干し、ゲップが出るより先に胃に満杯に入った水がこみ上げてきた。口の中にまで戻ってきた苦い水を飲み下して通信機の前に崩れ落ちるみたいにして座った。

 ロール紙が吐き出されるときを見逃さまいと機械をじっと見つめる。無駄に決まっている。いくら急いだって、出航準備には数時間以上かかる。

 やはり向いていないのだろうか、またため息を吐いた。

 集中できていない。清水は薪に火が移り、はじける音を聞いた。背中からじんわり熱が侵食してきて、冷え切った部屋が暖房されていく。さらに薪を足し、しばらく炎を見つめたあと、それを唯一の光源にして、通信機の前に戻った。当然、そうすぐに八木からの連絡があるはずもなく、煙草を吸うこともせずに、ぼんやりと座っていた。

 森友は。

 途端に、ここ数日渦巻いていたことが噴出した。

 気づかない振りをして、無理やり頭の奥底にねじ伏せていたものが、ゆるくなった上蓋を押し上げて漏れ出し、勢いを留めずに脳内を侵食してゆく。

 今回はともかくとして。森友がなぜ、男嫌い(八木の言葉を借りるなら憎むほど)になったのか。なぜ自分に強くあたってくるのか。もともと人見知りなところがあって、あまりこちらには懐いてくれなかった、しかし、こんなに攻撃的だった記憶はない。わかっている。彼女が一番懐いていた、元嫁を、由乃を、私自身が殺したからだ。なぜ彼女がそのことを知っているのかはわからない。八木には打ち明けた事があるが彼が教えたとも思えない。一度、内側に入れた人間にはとことん義理立てする奴だから。どこから漏れたのか、とにかく、彼女は知っている。そして、私はこの確執について謝ることも許しを乞うこともできないのだ。あれだけ苦しみ、ようやく生活ができるほどに立ち直ったのに、またひざをつきそうだ。否応なしに、あの光景を思い出してしまう。心臓が早鐘を打ち、こみ上げる吐き気に全身から汗が吹き出る。呼吸は浅く、肺に氷が張ったみたいに冷たい。事実を知っているのなら、彼女に殺されたって何ひとつ文句はない。

 むしろそのほうが良いじゃないか。俺は殺人を犯している。そうすれば、このような醜悪で凡愚な男が世界の行く末を賭けた艦娘たちの上に立たなくて済む。過去と、現在と、未来へ引きずって行く、決して払拭できない罪障に苛まされない。逃げと取られても良い、死ねばどうせ全てなくなる。死後の世界なんて、ちっぽけたりとも信じちゃいないじゃないか。由乃だって救われたわけじゃない。豚や鶏となんら変わりない。数日すれば消え去って行くその場しのぎのために死んでいった。報いられるわけないじゃないか、こんな、のうのうと幸せを享受してしまいそうな環境では駄目だ、毎日毎日、指先から寸刻みに体を削られていく苦痛の先に納得できる死が「ていとっく! ちっと開けろぴょん」

「・・・・・・」

 黙って扉を開けてやると、さまざまな皿を載せた身長の半分もあるお盆を片手で持ち、もう片手にこれまた大人数の炊き出しに使うお釜を持った卯月が涼しい顔して立っていた。

「勝手に艤装を展開するなといっただろう」

「そしたらこんなもん持ってられるかって話だぴょん。いいからどいたどいた」

 片足で押しのけられた。卯月が歩くたび大きくたわむ床が怖くて、「いいからその場においてくれ」と慌てて進路をふさいだ。邪魔された卯月は眉根を寄せたが、足元を見て、おとなしく荷物を置き、艤装をしまってその足で電灯のスイッチを入れた。

 床におろされた食器をひとまず机の上に置き、炊飯器もなんとか(腰を痛めそうになるほど重い)端に寄せた。まずこんなに米はいらないし、食器だって必要ない。どう考えても、今基地にいる全員分がそろっている。

「メシを持ってきてくれってのは私一人分って意味だったんだが」

「いいじゃない、みんなで食べましょう」

 夕張がフライパンを二枚持って入ってきた。中身は煮汁に浸かったままのカレイが電灯をあびて照っている。

 後に続いてギンポと野菜のてんぷらが盛られた大皿を持った涼風、わざわざ小鉢に漬物をいれてきた山風、ポットと湯飲みを持って浦風。遅れて一升瓶とゆきひら鍋を持って千歳、銀杏をビニール袋に大量に入れた千代田がぞろぞろと司令室に入ってくる。煙草と薪の燃える匂いしかなかった部屋は、一転腹を刺激するようになった。

「一人でいたって、どうせろくなこと考えないんだから。こういうときは、酒でも飲んで楽しくなっちゃえばいいのよ」

 熱されたストーブの上に銀杏を並べながら千代田が言った。「今からご飯なのになんで焼き始めるのかな」並べた銀杏は夕張が撤去した。

 食器擦れと水音と、せわしなく配膳する艦娘らの姿を見ながら、清水は椅子の背もたれに尻を乗せた。浦風が米をよそい、卯月が受け取って片っ端から秘書机に並べていく。全員が座るスペースを探し、仕方がないと部屋の真ん中におかずの入った皿を床に並べて行く夕張と山風。並べられた茶碗を涼風が床に置いて行く。千代田がお茶を注ぎ、千歳はよけられた銀杏をもう一度、今度は見つからないようにストーブの上に並べている。誰一人清水を気に掛けることなく、さっさと飯を食べるために準備をしている。人がふえて一気に温度が上がった部屋の窓が結露していて、夕張が慌ててカーテンを閉めた。

 居心地が悪い清水が「ちっと煙草を吸ってくる」と外に出ようとすると、卯月が灰皿を、彼の胸元に押し付けた。

「すぐできるから中で吸ってればいいぴょん」

 そのまま卯月は艦娘たちの輪の中に戻って行った。

 頭を侵食していたもやが晴れていく。

 一人酒を注いでいた千歳の湯のみを奪い、一気に飲み下した。冷酒がのどを焼き、胸と、たぷたぷになった腹を温める。口を開けて清水を見ていた千歳が抗議したが、彼女に空の湯飲みを返して言った。

「これ以上酒は呑むな。酔っ払いは海には出させん」

 体に抱き込もうとした一升瓶も奪い、千歳の声に目線をこちらにしていた山風に渡した。奪い返そうとした千歳が体を向けたが、大げさにおびえる山風が瓶を抱いたのを見て酒瓶を取り返すのをあきらめた。

 鍋の中に入っているカレイの煮付けは色が濃い。小指に煮汁をつけてしゃぶると、多少甘いぐらいで焦げもない。卯月が清水の一挙一動を見つめて、それから自慢げに鼻息をもらした。床に座り込み、仕度が整うのをあぐらをかいて待つ。水のせいで腹が空いているわけではなくとも、しょっぱいもののせいで口の内に唾が染み出る。

 まもなく、清水と艦娘らが円座した。

 山風が渡された一升瓶で重そうに酌をしようとするのを制し、清水は改めて、黙って頭を下げた。誰も、何も言わなかったものの、冷や汗をかくような重苦しい空気は一切なかった。

「それじゃあ、いただきます」

 後に続いて艦娘らが唱和し、いっせいにおかずに箸が伸びた。清水は争奪戦に参加せず、ストーブの上の銀杏を拝借しようとして、代わりにゆきひら鍋が置かれているのに気づいた。中には透明な液体。

 千歳を睨むと、卯月と数少ないうずらの天ぷらを奪い合っている。近くに瓶はない。

 瓶は清水から見えないよう、千代田の体の向こう側にあった。

 

 八木は当日中に一隻の艦娘母艦を東京湾から出航させた。三十分前には律儀に連絡を寄越し、護衛部隊はなんら不自由なく、いつもどおり浦賀水道で待ち合わせて古鷹たち先行部隊を追いかけていった。

 基地には誰もいない。全員が出払った基地で、清水は司令室に残された食器を片付けていた。卯月が軽々持ってきた食器類を持って、月明かりの下、えっちらおっちら足元を確かめながら食堂へ往復する。手袋もしていない手がかじかみ、仄か酒に酔った体が、がたがたとふるえている。

 都合、五往復。

 一通りシンク台に突っ込んだあと、真っ暗な食堂で煙草に火をつけた。

 灰が落ちきらないうちに、カーテンが閉まっているかを確認して明かりをつけ、灰皿片手に改めて席に着く。

 目の前の壁には、シーツにマジックペンで書かれた寄せ書きが、未だ真っ白く掲げられている。それを眺めていると、三口しか吸っていない煙草の灰が、白い海軍服の上に落ちた。叩き落とすと、灰の色がまっすぐこびりついた。

 南鳥島への輸送。硫黄島への急襲。

 同時に、西では奄美諸島への作戦が開始された。

 北は北海道の渡島半島西にある小島、奥尻島とその反対側、襟裳岬に居座る深海棲艦への攻撃が開始。

 中部、中国地方の日本海側では大陸に足がかりを得る為、沖縄奪還後の一斉攻撃に向け、兵力を温存しながら漸減作戦が。

 日本中が湊川作戦に沿って動いている。

 一手に束ねるのは、新生日本海軍、連合艦隊初代司令長官、添田柳蝉。自衛隊が名前を改めてからの初代長官を射止め、それでいて性格穏やかな頭の柔らかい男と聞いている。

 私は聞いているだけだ。

 清水は煙を大きく吸った。

 噂話を聞いて、せいぜい「キレ者に違いない」と、拾い集めた木片を合わせて新しい形を作り悦に浸っているだけの木っ端。修了式で壇上にいる添田の演説を聴いた有象無象の一人。

 森友は彼と直接やりとりをして、今、日本を動かす作戦を立案し、全国の長官たちにすら自分の考えをみとめさせた在野の傑物。

 彼女と同期である。おかげで森友はもちろんのこと、養成学校一期卒業生は誉れ高く尊敬されることだろう。長く続く戦いで、英雄的な活躍を求められ続ける。他にも同期はたくさんいる。もともとあった基地で司令官の一人として働くものもいる。自分のように、打ち捨てられた基地の再興を担うものもいる。八木のように裏方に回るやつもいるし、早速心をやられ、逃げたものだっているはずだ。

 色々なやつがいる。組織は、人間は、機械のように黙々と動くことはできない。それぞれに思惑があり、思想があり、思案するからこそ、人間は組織をつくる。組織は上に人が立ち、直上の権威によって働かなければならない。上司は部下の機微に心を配り、部下は上司の機微を受け取り、上司のために粉骨砕身働き、上司と共に権威を享受する。上司がいなければ部下は働かない。部下がいなければ上司は働けない。相互の依存によって、組織は永久の機関として存在し続ける。

 ここは軍だ。扱っているのはサンカの男たちではない。田畑を作るために山を切り拓いていた頃とは違う。

 事故に注意を払った。怪我をしそうな事はしないしさせない。彼らが働きやすいように環境を整えてもやる。寝食も共にした。彼らの悩みを聞き、酒を飲み交わす事だってした。間違いがあれば、年上だろうが構わずに叱った。苦労を分かち合い、工事が終われば同じ心地で宴会に臨んだ。一般と違う社会で生きる彼らが何を考え感じているのかを汲み取ることも仕事のうちだった。私は、上司として上手くやってきた。仕事のできる人間ではなかったが、後ろ指をさされるような男ではなかったはずだ。

 同じだ。同じ。

 清水は食堂の灯りを消し、雲ひとつ出ていない夜道を戻り、司令室に戻った。

 今度は灯りを点けない。基地には誰もいない。

 机の袖に設えられている引き出しの二段目を開けると、こまごまとした私物と、丸い瓶が転がっている。ラベルには素朴な細い筆幅で余市とあった。グラスや氷を用意することもなく、キャップを開けて匂いを一嗅ぎし、直接口をつけて思い切り呷いだ。常温の度数四十の液体が口腔を焼き、喉を焼いた。

 味わうために飲んだのではない。二口目をさらに多量口に入れて机に瓶を叩きつけ、固く目を閉じて飲み下し、酒臭い息を吐いた。喉元を過ぎて酒は胃を焼く。体中の血管に入り込み、体がカッカと燃え、顔が火照ってくる。

 サンカたちと違うこと。

 今、自分はサンカの男たちではなく、艦娘を率いている。恐れ多くも基地のひとつを預かって、艦娘たちに命令を下す。作戦のためなら、危ないと分かっていても出撃させる。させなければいけない。艦娘たちは私を信じて海へ出てゆく。私の命令に自らの生を見出す。それ以外に自分と世界を結びつけるものがないから、艦娘は上司を世界とのかすがいと考えているのだ。艦娘が上司に抱く情念は軽いものではない。

 基地には誰もいない。

 清水はもう一度ウイスキーを流し込んで、今度こそ酔いが回ったと確信した。鏡など見なくとも顔は真っ赤になっているのがわかるぐらい火照っている。

 彼の目は真っ赤に充血しながらも決してさまようことなく、まっすぐに闇の中を見つめている。

 

 艦娘母艦が先行隊と合流したのは二日と半日後の午だった。その間一切の敵襲はなく、よほど八丈島での戦いが敵に影響を与えているらしい。古鷹たちには母艦で休養をとりながら硫黄島へ向かっているだろう。

 さてこの艦娘母艦と言うもの、存外に快適らしい。

 機嫌を損ねていた葛城は、わざわざ通信を入れて感謝を述べてきた。入浴施設はもちろん、アメニティや食事が豊かなのだと。まともに施設の揃っていない八丈島での駐留が長かった彼女らは大いに喜び、むしろ母艦を手配した采配を讃える始末。夕立なんかは「うち(富津)より快適っぽい」とまで言いやがる。もともと、今回の作戦では初めから追従させなければいけなかったものなのに、そうであればまったく疲れを残さず、最高のコンディションで戦いに臨めたはずだった。

 というのは黙っておいた。

 一、四水戦は南鳥島での留守番だが、もちろん無線を傍受している。

 明石の通信機はひとつの通信機にひとりの妖精を宿らせている。別部隊に同じ妖精の分霊を宿した、つがいの通信機を必ず備えさせている。こうしておけば電波云々でなく、分霊の意識として通信を傍受できる・・・・・・と明石は言っていた。航空機艤装の応用らしい。とにかく、安全に通信できるのならば越したことはない。

 傍受した自慢話にわざわざ恨み節を送るあたり、士気や絆はそれなりにあると信じたい。硫黄島へ赴かない艦娘らは、これから南鳥島で警護のち野宿の運命なのだから。

 今度こそ見落としがないよう、何度も読み返した資料片手に、要綱をすべて暗号打ちして古鷹宛に送り、送った文章を五度、読み返した。森友が発案した作戦に、富津の特色を生かして、さらに磐石なものとした作戦だ。丸一日かけて何度もシミュレーションした。漏れはない。

 漏れはないがでっぱりがある。

 硫黄島の攻略が終わった後の各部隊の配置を見直していると、電話が鳴った。

 相手には心当たりがあった。

「森友か」

『そうだグズ』第一声は重く、震えていた。明らかに怒っている。

『勝手に作戦を変えるな』

「変えていない。すこし手を加えただけで」

『貴様らは硫黄島の三十五海里東に横陣。夜戦時には敵陣に突っ込まず、こちらが打ち上げた照明弾を頼りに遠距離砲撃、駆逐艦は魚雷の射程距離で待機。使うのは葛城たち機動部隊だけ。それがなんだ。貴様が今送った指令を、自分でもう一度読み上げてみろ』

「母艦分離地点から北硫黄島東を夜間急襲、横須賀本隊の露払いを勤めつつ、硫黄島東に布陣。昼は空母隊が主攻、夜間は敵陣を崩すために重巡、水雷隊突入、その後は横須賀の主力部隊が打ち崩す。連携せ」

『なにがすこしだ!』

 音が割れるほどの大声で森友は怒鳴った。

『そもそも、作戦を電文で送ったということがありえん。暗号文は破られるためにあるんだ、過信するんじゃない。そんなことに時間を割く暇があるなら、私の出した案が、なぜそうなったかを考えろ愚鈍! 一概に表面をなぞるだけが能か? 貴様はフォークソングが好きだったな。ひょうきんな詩の裏にある民の苦労を考えたことはないのか。歌の流行した時代背景を知ろうともしなかったのか』

 よかれと思って。

 清水は喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

『頭をちっぽけも使えん貴様に教えてやる。貴様の下の艦娘は優秀だ。それは八丈島の戦いで十分わかっている。いいか、なぜ富津部隊に突入させないか、理由は三つ。

 ひとつ、先の戦いで一番血を流した富津部隊に対する敬意。

 ふたつ、あげく威力偵察までやりとげてもらったがゆえの、感謝。

 みっつ、未知の敵が存在している以上、脆い駆逐を前に出すのは危険だというリスクマネージメント。

 貴様にではない。貴様の部下に敬意を表して、今回は体をいたわらせようと決めたんだ。前に出なくとも、八丈島襲撃に当たって撤退した敵は、富津部隊に手痛い目に遭わされたのを理解している。一部に陣を敷いているだけで、大きなプレッシャーを与えられる。あとは、我らの主力部隊が力でもって蹂躙すれば、撤退せざるを得ない。敵は有象無象ではなかった。明らかに指揮しているやつがいる。いくらか頭があるならば間違いなく撤退する。それも南か西に焦点をしぼらせる事ができる。

 それがなんだ。露払いだ? うちらを見くびるな!

 布陣前に重傷者が出たらどうする。東をふさぐ布陣が遅れたらどうなると思う。せっかく輸送隊が到着した南鳥島に向かうぞ。貴様らの部下は優秀だが、新たな拠点を得ようと死に物狂いの敵を、水雷隊だけで止められるか。最悪死ぬ。最悪じゃない、間違いなく。あそこら付近はどの島からも離れているから一切の援けを向けられん。艦娘は逃げられるとして、人間は間違いなく殺される。貴重な人材があの島で死ぬんだ。そうしてどうなる? 強固な敵の基地になる。こちらが攻めて行くのが丸分かりなんだから当たり前だ。

 沖縄攻略をすばやく遂行するには、小笠原諸島に早く磐石な泊地を造らねばならん。我らが万端の戦力で、南から沖縄の横っ面をひっぱたいてやることに意味があるんだ。ぐずぐずしていれば台湾や中国沿岸から戦力を集められてしまう。そうなれば長期戦になる。日本が終わる。艦娘たちは浮き砲台にもなれず内陸で腐っていき、我らは暴徒に潰される。河川を深海棲艦どもが遡上してきて、徹底的にやられる。そうして日本が終わる!

 わかるか?

 国土奪還、大陸への連絡網を作るまで何ひとつ失敗は許されない。だから私は貴様が仕様のないミスをしても、失敗につながらないよう忌々しくともカバーしてやる。だが自ら間違ったことを推し進めるヤツをかばいきれるほど私だって万能じゃない。私を見返そうと空回りして作戦を失敗に繋げようとするのなら、貴様一人を前線に押し出し、エサにしてやる。そのほうがよっぽど役に立つ。

 使えん頭でろくでもない意見をするのなら、さっさと死ね、この役立た――』

 受話器を叩き付けた。息がひきつっている。基地に誰もいなくて本当によかったと心の底から安堵した。ここに座って肩を震わせているのは、富津泊地の司令長官ではなく、情けないひとりの中年男だからだ。

 よかれと思って。

 夜間にいくら照明弾があったとしても遠距離砲撃では命中率などたかが知れているから。まして古鷹たちだ。川内たちもふくめた、うちの主力部隊。第二艦隊。突入は危険であるも、きっとうまくやってくれるだろうし、夜戦と言うものは諸刃で敵を切り崩すことに意味があると理解していた。今回はさらなる攻撃力、横須賀の水上打撃部隊もいるのだし、昼には空母機動部隊まで出ているのだから、それなりに安全にバトンタッチできるだろうと踏んでいた。徹夜で考えた連携作戦だったのに、そもそもの前提を間違えていた。設問が間違っていれば、当然正しい答えは出せない。

 先ほどの連絡は誤りだと第二艦隊宛てに電文を送り、改めて森友に言われたとおりの作戦を送った。

 こういうときどうすればいいと、夕張は教えてくれた。酒だ。酒を飲めと言っていた。酒を飲んで楽しくなってしまえばいいと。清水は机に置いた余市をひっつかみ、瓶底を天井に向けた。

 三口一気。鼻に突き抜けるウイスキーの匂いを感じて夢想などできるはずもない。飲む。今あったことを忘れたくて飲む。切り替えなくてはいけない。マズい流れに巻き込まれている。今までどおりにやればいいんだ。そこに病的な神経質さを付け足して、余計なものは排除していく。部下に不都合があるときだけ意見をすればいいじゃないか。なぜ余計な事をした! なぜいい格好を魅せようとする。彼女は全てを知っている。もうどうしようもないんだ。お前は何をしようとしているんだ? 頭の隅で自分が叱責している。何を取り戻そうとしているんだ? 手を伸ばした先にはなにもないだろ。振り向いたってあるのは荒野だけなんだろう。酒を飲む。切り替えるために。まとわりつく意地というものを振り落とすために飲む。頭がぼうっとしてくる。江戸川沿いに、由乃と暮らしていた頃。鮮やかなパステル色の日々はろくに出てこない。夜と、赤と、煙の匂い。川を上ってくる人影。火の灯りを頼りに、蝿のような化け物が低空に飛んでいる。コンクリートがえぐられる音、初めて聞く機銃の音。石油の匂い。人波、怒号、叫声、悲鳴。ガラスの飛び散る音、破片が顔を切るちくちくとした痛み。飲む。首根っこを掴む真っ黒い指をひきちぎるために飲む。火が顔を舐めている。焼けた脂が鼻腔にこびりつく。髪の焼けた匂いが脳髄に突き刺さる。べとべとしたりざりざりしたものが腕にのしかかっている。煙を上げている。煙が鼻にこびりつく。飲む。さらに飲む。胃が受け付けなくなった。こみ上げてくるものを押し込めるためにさらに酒を飲む。倍以上になって戻ってくるものをさらに押し込める。よだれを垂らそうが、涙が流れようが、吐き気を押さえ込むために飲む。声にもならない声が耳で反響し続けている。大好きだった。共に成長してきた。初めてのことをたくさんした。一緒にしてきた。しかし、終わりは、私が決めた。私が決めて、私ひとりが決めて、私ひとりが生きた。私はひとりで生きている。飲んだ。もう限界を迎えて瓶を握ることができなくなった。こぼれたウイスキーが書類を茶色く染めて行く。染み込んだウイスキーが気化して部屋中に匂いが満ちる。転がり落ちた瓶が立てた音が無性に苛立たしく、おもいきり蹴り上げた。瓶は壁に当たり大穴を空けた。そして、膝から下がなくなった。世界が回っている。回った世界はひたすら黒く、混ざる色なんかなく、ひたすら黒いだけだった。機械音がなる。どうでもいい。どうせ、第二艦隊からの突き上げだ。あとで見る。酒が足りない。這いずって冷蔵庫を開けると、ビールと日本酒の一合瓶があった。ビールを開け、こぼれるままにして流し込む。切り替えろ、切り替えるんだ。ほとんど服と床に飲ませたビールの空き缶を投げ捨て、一合瓶を開けたところで限界が来た。窓まで進む猶予なく、その場に四つんばいになって、今飲んだ酒を全て吐出した。機械音が鳴っている。それどころではない。胃の中からあがってきた酒は再び喉を激しく焼き、たまらずむせると吐瀉したものが肺に入り込んだ。苦しんでいる途中であっても胃袋は次を送ってくる。このまま 内臓もろとも吐出してしまいたい。そして、あたらしい、綺麗なものを入れたい。吐くものがなくなっても体は蠕動していた。消化の途中だった、ペースト状の食物がひどい匂いを出している。むせた事でさらに酔いが回った気がして、何とか体をよじって吐いたものの脇に体を倒した。

 部屋の中はひどい匂いだ。酒が混じった吐瀉物はじわじわと床に広がり、二の腕から染み込んでいく。そんなものも、どうでもよかった。 

 酒が足りないのだろうか。酒をいくら入れてもまったく楽しくならない。目を瞑るといやな事が目の前に再生されそうで、渦巻く天井を意味なく見つめていた。

 また機械音がした。

 目だけを通信機にむけると、想像以上の紙が吐き出されている。切れ目の入ったロール紙が波型をつくり、机から垂れるほどに。

 何かあったのか、呆けた頭でもそれぐらいは危惧する事ができた。吐瀉で汚れた部分を避けて、しかし立ち上がることは出来ずに、四つんばいで通信機の下に這って行った。

 ぶら下がった紙を適当にちぎって内容を見ると、ほとんどが一水戦。正確には叢雲。何通かは古鷹。識別コードには二人しかない。『なにしてんのよ』『他の娘たちには私からなんとか言っておきます。あの、お休み、とってます?』『あんまり古鷹たちに迷惑かけないで』『もう変更はないんでしょうね』『届いているかしら。返信求む』『横須賀さんも大丈夫です。よっぽど母艦が気に入っているみたいで。これ以上の変更はありますか』『寝ているの』『あんま送ると神通に怒られる』『どうせ森友さんに怒られているんでしょ。仕方ないわね』『届いている?』『試験通信、富津第一水雷戦隊第一駆逐隊・叢雲』『返事!』

 ざっと読み直しても清水を責めているものはない。そりゃそうだ、彼女らは部下なのだから。

 おぼつかない手つきで、ひとまず古鷹に『以降変更ナシ』とだけ返し、床に崩れ落ちた。上体を持ち上げているのも苦しい。こんな状態で叢雲のお叱りを受け止めることはできない、仰向けにひっくり返った。

 と同時、音声が入った。

『あー、富津第一水雷戦隊第一駆逐隊、叢雲。基地、応答願うわ』

 かなり離れた距離だというのに、通信局すらないというのに、もともとの雑音以上のものは入っていない。しっかりと声が聞き取れる。

 悩んだ。このまま放置して、届かなかったことにしてしまいたかった。けれど、次に会ったとき、通信記録を見られたら大変な事になる。叢雲のことだ、精神的にひどく攻め立ててくる。椅子によじ登り、胃酸で焼けた喉をひとつ咳払いをして、音声送信のボタンを押そうとして、追撃があった。

『あんたのことだから司令室にいるのはわかってる。いいから早く出なさい』

「こちら、富津」

 座っているのすら辛い。

 机に突っ伏したまま、マイクを口元まで倒して音声を送信した。いくらか遅れて、『わ、本当に届くのね。これ持って戦争やり直したいわ』と、叢雲の驚いている音声が入った。

「お前のところは何も変わらん。警護をよろしく頼む」

 清水が言うと、苛立ちを隠さずに叢雲が返す。

『あんた、近頃どうしたのよ。ミスが多い。怒っているわけじゃないけど、古鷹たちが混乱しちゃう』

「わかっている」叢雲の物言いがわずらわしかった。怒気を混めてもう一度言った。「そんなことはわかっている」

 だがこちらの苛立ちをそよ吹く風と受け止めた叢雲が、いつもと変わらない調子で言った。『何かあったの』

「何もない。早く切らないと神通に怒られるぞ」

『知ってる。というか、どうせもうビンタ決定だからいいの』

 事も何気に言い放つ。

 いくら指向性の高い通信機に換装したといっても、確実な安全は保障されていないのに、こうも個人的な連絡を入れていれば当たり前だ。

 それでも叢雲は通信を切ろうとしなかった。

『なにかあったんでしょ』

「しつこい。これから硫黄島警備の配置を見直す。切るぞ」

『切らないで。・・・・・・あんた、ちょっと「あー」って言って』

「・・・・・・あー」

『もっと長く』

「うるさい」

 もう限界だった。上体を持ち上げたせいで整理された胃が、もう一度吐かせようと体を蠕動させる。部屋に充満している酒と吐瀉の匂いのマッチポンプ。

 吐いている汚らわしい音は、もちろん送信するはずもない。

 同時に古鷹から『承知しました。がんばります』と、健気な電文が入った。

『声が変よ』

 咳払いをして送信した「そんなことはない。いいから、警護に集中しろ」

『あんた、私が言ったこと憶えているかしら』働く頭はアルコールに浸かっている。しばらく返事がなかったのを否定と受け取った叢雲がさらに続けた。『まあいいわ、体でわからせてあげるから。ちなみに今警護に当たっているのは四水戦。私はなーんにもない島で砂浜に寝そべっているの。神通の熱烈な視線を浴びながらね』

 だったら早く切ればいい、そう言いかけて、急激な眠気がきた。

 睡眠を取れといっているんじゃない。気を失わせろという命令を脳が出したのだ。

 もう通信機をいじる気力もなく、机に広がった吐瀉物に頬を押し付けながら目蓋を閉じた。その裏にはなにも写らず、不思議な安堵があった。

 意識が落ちる直前、叢雲の声が聞こえた。

 なんと言っていたのか、なんと応えたのか清水は憶えていない。

 憶えていないが、一水戦は南鳥島からわずか一日、翌日に富津基地に戻ってきた。

 叢雲の右頬は赤く腫れていた。




書き溜め(?)分は以上です。

更新前はついったで報告しますです。
@_Nnachy_へどうぞどうぞ。


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3

「なぜ帰って来た」

 通信して二十五時間といったところ。

 夕食もとらずに書類と睨み合っていた清水は、部隊がドックに入ってきたことを知らせるブザー音に飛び上がって驚いた。

 叢雲は暖房の効いた室内に洟をすすりながら、赤い目を吊り上げて反論した。「あんたが許可してくれたのよ。どうせ憶えてないだろうけど」清水を押しのけた叢雲はそのまま部屋の央に進み、ぐるりと見渡した。

 まず、洟をすすったときに眉をしかめたのを清水は見た。室内でぶちまけた吐瀉の匂いはなかなか消えない。そして床に残った染み。これも、冬の気象では消えなかった。壁に開いた大穴もそのままだった。まさか帰ってくるとは思わなかったからだ。

「私が言ったのか」

「そうよ。一水戦に帰投命令を出しなさいって言ったら、寝ぼけたような声で勝手にしろってね」

 だから勝手にさせてもらったわ、叢雲は言った。

 そして、清水に近寄ってきた。

「すっごい臭いのだけど、あんたまさか、ここで吐いた?」

 服に顔を近づけて匂いを嗅がれ――風呂にも入ったし着替えもしたので意味はない――思い切りにらみつけられた。

「森友さんになに言われたのか知らないけれど、あんなことで酒に逃げるなんてどうかしてる」

 もう一言叢雲は付け足す。「あんたにとって酒は逃げるためのもの?」

 何も言えずに叢雲の目線から逃げていると、彼女は清水の机に腰掛け脚を組んだ。「で、森友さんになんて言われたのよ」と、こちらの傷口をほじくり返そうとしてきた。

「まあ色々だ」清水ははぐらかした。

 南鳥島から一日で帰ってくるには、休みなく最高速度で走り続けなければ、到底たどり着ける距離ではない。叢雲の前髪はざんばらにめくりあがっているし、女らしい香りは、髪に染み付いた潮と汗にかき消されている。ただでさえ赤い瞳だ、潮風と眠気に苛まれている白目も赤くなって、洟を頻繁にすすっているものだからうさぎみたいだった。私服だけは汚れらしい汚れもなく、纏っている中身をそれらしく飾っている。

 疲れているのがよく分かる。しかし、彼女は相変わらず不遜にしていた。

「神通たちはどうした」

「お風呂じゃない? さすがにみんなへとへとだったし」

「その頬は」清水は自分の頬を指差して、彼女の赤くなっているところを示した。

「だから神通にぶたれたんだってば。『上司の情緒と作戦行動を天秤にかけてはいけません』ってね」

 叢雲は思い出したように立ち上がり、ストーブの上においてあったヤカンの中身を確認した。「天秤にかけているつもりはないわよ。自惚れないでね」、中身が十分入っていることを認めると、ペーパーフィルターを広げて、中に挽き粉をいれ、お湯を回し入れた。ふわりと香りが立ち上り、同時に命令無視をした――清水が許可を出したのだが――ことに対する清水の憤りも部屋の中に霧散してゆく。

 二人分のコーヒーを淹れた叢雲がカップを清水に手渡して言った。

「このままメチャクチャな指令を出されても困るし。今は、失敗しちゃいけないときでしょう」

 受け取ったスチールのマグは火傷しそうなほど熱く、香りは上品で、とても支給品の安物とは思えない。「いいから座んなさいな」再び机に腰掛けた叢雲はマグを傾け、ずるずる音を立ててコーヒーをすすった。

 彼女の斜め、通信機の前の椅子に腰掛けると、腰の力が抜けたみたいに立ち上がれなくなった錯覚を覚えた。清水に理由はわからなかった。しかし、自分の身体の異常に悪寒のひとつも感じない。

「それで」叢雲が細かく何度もマグを傾けている合間に言った。「なんて言われたの」

「だから、色々だ」

 清水ははぐらかした。

 子供でもわかるよう、森友の機微を懇切丁寧に説明されたなんて言いたくない。

 死ねなどと罵倒されたなんて言いたくない。

 せっかく全力で帰って来てくれた叢雲には悪いが、言いたくないものは言いたくなかった。

 かかとで机を思い切り蹴った叢雲の苛立ちが静かな部屋に響く。

「帰ってくるのに私がどれだけ苦労したと・・・・・・」

 マグを握る指に力が入っていた。指先が黄色くなってわなわなと震え、怒髪した髪がわっさりと広がっている。

 清水はうつむいたまま何も話さなかった。

 やがて叢雲は大きく息を吐いた。同時に、広がって見えた髪の毛も、体中の空気が抜けたみたいにおさまった。

「聞き方を変える。『由乃』さんって誰」

「――」

 清水の息が引きつったのを叢雲は見逃さない。片眉を上げて情報源を吐いた。

「時雨」

 清水は体を膨らました緊張を吐き出した。

 時雨から聞いたなら『嫁の名前』以上のことは知らないはず。せめて叢雲たちには自分の口から説明しなくてはと決めていたのだ。これでいざの時、事前に知られていたのならば、なんと間抜けな事か。

「あんたの『元』、奥様なんでしょ」コーヒーをすすって続けた。「いくら聞いても教えてくれなかったのに、なんで時雨が知っているの」彼女は勝ち誇ったような顔をやめて、静かな怒りをたたえて睨んだ。自分の部下よりも、他基地の娘に口を滑らせた男に苛立ちを感じるのはごもっともだと、清水は冷や汗を流して、見え透いた見栄の顔をする他なかった。

 悩む時間を稼ぐためにマグを傾けたあと、煙草を吸おうとして胸ポケットを漁った。だがポケットには何も入っていない。体中を叩いて探していると、叢雲が「これ?」と黄色いソフトケースをひらひらと振った。

「あ、ああ。投げてくれ」

 叢雲はソフトケースを後ろ手に隠し、また不遜に笑った。「欲しけりゃ話してちょうだい。・・・・・・もやもやするの。点は打たれているのに、線でつなげなくて。こればっかりは想像や推察をしてはいけないわ。あんたの口から真実を教えてもらわないと」

 ころころ表情を変えて叢雲が話す。清水は、巡らせているようで巡っていない考えをまとめられず、彼女の目をまっすぐ見返すことも出来ない。

 組まれた足に視線が落ち着いた。

 二人は動かない。

 窓に遮られた潮騒と、ストーブの薪が燃えるぱきぱき乾いた音を聴いていた。

 コーヒーが湯気を立てなくなった。

 ちょうど通信機がロール紙を吐き出す、目立った音があった。

 清水が意を決したように言った。

「なら、煙草はいらない」

 体を通信機に向けて、叢雲には背を見せる形になる。向き直る直前の叢雲は愕然として、おおきく目を見開いていた。きっと彼女を傷つけたという事がわかっていても、強情に我を通さなければいけないと判断を下した。自分達の上司が殺人を犯しているのだ、忠誠心に関わる。たとい情けなく頭の悪い上司であっても、それとこれでは話が違う。

 通信コードは古鷹。『警戒部隊と思わしき敵と交戦、以下戦闘報告』とあった。そのあと能代から交戦地点と戦闘時間、川内から被害状況と消費弾薬、青葉から編成と隊列が送られてきた。横須賀や銚子にも同じものが送られているだろう。これ以上母艦を追随させるのは危険と判断し、反転させ南鳥島に係留させるよう連絡した。いくらかのラグのあと、『委細承知』とだけ返事が来た。

「第二艦隊が交戦した」呆然としているであろう叢雲に話しかけたつもりだが返事はない。

 物音がしない。コーヒーがすすられる音もしない。洟をすする音もしない。

 清水は振り向くのが怖くて、ずっと背中を向けていた。

 必要事項の連絡を終えたはずの通信機は、もう一枚ロール紙を吐き出した。

 通信コードは古鷹。『大丈夫ですよ、なにも問題あ』手に持っていた紙をひったくられ、いくらなんでも暴力的だとなじろうとして、肩をおもいきり引かれた。あわや倒れそうになったのを、机にしがみ付いて堪える。

 叢雲は机に広がっていた記録もひったくり、ざっと流し読んだ後、再び清水の肩に手を置いて言った。

「終わったみたいね。じゃ、話してくれるかしら」

 冷たい、冷たい声。

 肩に置かれた手を払い、再び背中を向けて清水は言った。「話さない。まだ、自分の中で整理がついていないんだ」再び肩に手を置かれ、清水はもう一度彼女の手を払った。

 三十余年の人生、女性に強気に出て成功したためしがなかったなと、ふと思った。

 今度もそのとおり、頭の上からコーヒーをぶっかけられ、全身に鳥肌がたった。

「なにしやがる、てめえ、上官だぞ!」

 彼女に向き直ったとき、重心がつま先に偏ってよろけそうになった。

 叢雲は艤装を展開していた。

 艤装を展開させ、清水にまったくおびえることなく、声と同じ醒めた視線で清水を見返していた。

「気分転換になった?」ふざけるな、なんて反抗的な言葉は喉の奥につっかえて出てこようとしない。

「なんだ、そんなもん出して」

 血の気が引いた清水は一歩退いて言った。「なぜ艤装を展開させている。収めろ」

 叢雲は一歩踏み込んだ。「どうせなら熱々のものをかけてやりたかったわね」手に持ったマグを下投げに放り投げると、清水の机に備えてあったデスクライトを粉砕した。

 叢雲が一歩踏み込めば床が大きくたわむ。そのたび、清水はつんのめりそうになる重心を後ろに傾けて一歩下がる。

 一歩、一歩、一歩。

 やがて壁際に追い詰められ、こぶし二つ分の位置まで詰め寄ってきた叢雲は清水を見上げ、鳩の血のような瞳で彼を睨み付け言った。

「いつになったら整理がつくの。整理がついたら、本当に話してくれるの」

「艤装を収めろ。命令だ」

「意地の張り合いほど無駄なことはないわ。答えなさい」

「脅すのか」

「ええ」叢雲は事も何気に言った。「脅しているわ。私は、あんたに力ずくで話させることもできる」

 部屋の照明が鈍く艤装を光らせている。砲口こそ明後日を向いているとはいえ、人間離れした力で、大の男を引きずり回すことぐらいわけないのが艦娘だ。

「ただではすまんぞ。軍規はお前のほうが詳しいだろ」

 清水は唯一の切り札を切った。

 しかし、叢雲は哀れな、権力というものに縋った男を見て涼やかに笑った。

「別に、どうとでもしなさい」

 砲塔がゆっくりと動いた。じわじわと砲口が自分に向くのを、目だけで見ていた。あまりにゆっくり過ぎて艤装に具不具合でも出ているのではないかと疑うぐらいゆっくりだった。脂汗が全身からふきだす。それも自分に砲口がぴったりあわさっときには、逆に毛穴と言う毛穴から汗がひっこんでいく、じくじくしたかゆみを感じた。 

 砲口は止まらない。

 今度は逆に早回しを見ているみたいだった。「艦娘って便利だわ。艤装の稼動範囲を、自分で決められるから」自分に照準が合ったのと半分ぐらいの時間で、砲口は目標をしっかり定めた。

「死体相手に軍法振りかざす意味なんてないって、私はあんたより理解している」

 叢雲は自分に自分の砲口を向けていた。

「主砲、発――」「話す!」

 たまらず清水は声を上げた。

「いつ?」

「だから、整理が付いたら、必ず」

「主砲、発―」「わかった、話す! 今話す!」

 清水はまた汗をふきださせ、ねっとりとしたものが顔の脇を垂れているのを感じた。

「言質とった」憎たらしい顔をして叢雲が言った。「用具収め、ありがとね」重い金属の音がいくらかして、彼女は艤装をしまった。

 清水はひっくり返った椅子を起こすこともなく、突き出た脚にへたりこみ、暴れる心臓を落ち着けようと努めた。

 本気だった、彼女は本気で自分を撃つつもりでいた。任務から帰ってきて演習弾など積んでいるはずもない。実弾で、あんなに至近距離から、自分の頭に十二・七センチ砲弾を撃ち込もうとしていた。

 うなだれた清水の両肩に手を置いた叢雲が、彼に視線を合わせる。

「あんたが欲しかったのは、こういうのでしょう」

 平手で優しく顔を叩き、過呼吸気味に汗をたらしている清水の背中をさすった。「もう大丈夫よ。おおげさね」背中がうねり、何度かえずくような動作をしはじめ、ぐらついた体は力が入れられることなく床に倒れ臥した。

「ちょっと!」

 細い腕を頭の後ろに回し抱え起こすと、清水が血色の悪くなった唇をつりあげて叢雲の瞳を見た。

「おおげさだな、だいじょうぶだ」

 腕が引き抜かれ、床に後頭部を叩きつける鈍い空洞音が響いた。

 頭をさすりながら上体を起こした清水に鼻息ひとつ吹きかけ、叢雲は踵を返して机に尻を乗せようとして立ち止まった。机の上には、彼女が粉々にしたライトの破片が飛び散っている。

 その背中に言葉を投げかけた。

「すまんが、手を貸してくれ。腰が抜けた」

「はあ。・・・・・・え、ほんとに?」

 艤装を展開せず、全体重をつかって清水を引っぱり起こし、ひっくり返っていた椅子をなおして座らせた叢雲は、「コーヒー淹れなおして貰おうとおもったんだけど」と、部屋のすみに転がっていたマグに息を吹きかけた。湿ったカップについたゴミは取れなかったのだろう、ヤカンからお湯を注ぎ、窓をあけて中身を窓から捨てた。

 椅子に座りながら、清水は彼女の動向を見ていた。

 体調の不良は嘘じゃない。窓から吹き込む寒風が、汗とコーヒーで湿った体から熱を奪ってゆくせいで震えが止まらない。立ち上がろうにも足に力が入らない。清水のマグの中身もすっかりぬるくなっている。

「寒いの」マグを洗ったついでに外を眺めていた叢雲が、清水を見て窓を閉めた。それでも震え続けているのを、「おおげさね、なんて天丼してやりたいけれど、それじゃ仕方ないわ」と、清水の私室に勝手に入り、着替えを取ってきた。

 目の前に突き出されたぼろきれみたいな長袖シャツを見ていると、どうにもおかしくなってしまって、鼻息だけで笑った。

「お前は遠慮がないな」

「ん?」

 シャツをを引っ込められて受け取ろうとした手が遊ぶ。「・・・・・・叢雲は遠慮がないな」清水が言い直すと、もういちど服を差し出された。

 もろ肌を出して着替えている男から目を逸らすことなく、ストーブで足を暖めながら叢雲がコーヒーをすすって言った。

「すぐにでも聞きたいけれど、風邪をひかれちゃ困るし。先にお風呂ね」

「腹は減っていないか」清水が聞くと、不機嫌な顔を隠しもしないで叢雲が答える。

「減ってる」

「じゃあ、一時間後にここで。神通たちもそろそろ風呂から上がるだろうし、なにか作っているだろ。来る時に酒とつまみでも持って来い」

 まだ震える足に無理やり力を込め、コートを羽織って戸口に立った。中身の入ったままのマグを机に置いた叢雲は、そのまま清水の脇に体を滑り込ませた。「危なっかしいわね。いいわよ、寄っかかって」

「じゃあ途中まで頼む」

 遠慮なく体重をかけると叢雲が潰れて、音なのか声なのかよくわからない音が出た。「ちょっとは男らしくしなさいよ」と尻をひっぱたかれた。

 食堂と風呂場までの道を寄り添って歩く。

 今度は叢雲に体重をかけずに自立した。震えは力の抜けたものでなく、単純に寒さ。寄り添った側からは、叢雲も同じように震えているのがわかる。そして決して清水の歩幅にあわせようとせず、気を抜くと引っ付いている腕を引かれ、否応なしにゆっくり歩かされる。「入るか?」コートの内側に抱えようとすると、「いやよ、歩きにくい」なんて断わる。そも、彼女は暖かそうなダウンジャケットを羽織っていて、清水のコートでは薄着の下半身まではカバーできない。また潰されるかもしれないという警戒もあるかもしれない。

 けれど体を離そうとせず、少しでも歩調がズレれば腕を引いた。分厚い防寒具の上から、体温とは違う暖かさがある気がする。おかげで幾分か冬の潮風に耐えられる。

 まだまだ春の匂いはしない。

 

 天井にへばりついた滴が自分の重さに耐え切れずに落ちてくる。てとん、とてん、自分がどこに張り付いているのか身の程もわきまえず、制限なしに体を太らせた滴たちが湯船に落ちてくる。

 天井から湯船までの、人から見ればたいしたことのない距離でうんと冷えて、自分の何倍もある人間の体を縮こませる。首筋を伝い、背中を流れ、いずれまた湯船の中に還りゆく。湯はまた、自分と外気の差に湯気となって浴室を漂い、壁や、そして天井にまたへばりついて身を太らせる。へばりついた水滴は水垢に変わり、洗剤でこそぎ落とされる。薄暗く汚れた排水溝を通り、生活排水として汲み上げられ、再び蛇口から湯船に注がれるのもある。海を知り、地球の天井でたっぷり肥えて直径一ミリほどの取るに足らない雨粒になり、人々を屋外から追い出すのもある。服に染み付き、傘を叩き、人の体を叩き、地面にしみこみ、そしてまた天井にへばりつく。

 湯船の天井にへばりついていた水滴は地球の天井にへばりつく。

 彼らは足元から人間を見上げ、いつか人間を見下す。

 

 湯船に身を沈めた清水はタオルを土方巻きにして、湯船で顔を洗った。女湯と男湯で設定温度は変わらない。だいぶ熱めに沸かされているのは、長風呂を好かない神通の好みだろう。清水はその逆の、ぬるい湯で一時間も二時間も浸かっているのが好きだった。蛇口をひねって水を足しながら、ものの数分で茹りかけた頭を冷やした。冷水を染みさせたタオルで首筋を冷やし、尾てい骨からまっすぐ背中に虫が這ったようなこそばゆさに肩をちぢ込ませた。息苦しいぐらい充満した湯気が灯りを拡散させて、全体が、ぼんやりと橙色になっている。壁の向こうからは、潮騒がごお、ごおと鳴っていた。

 湯がぬるまるのを待つ間、清水は湯船の縁に尻を乗せた。足だけを浸けていても汗の玉ができて伝い落ちてゆく。どこからか冬の空気が漏れている、火照った体にはちょうどいい涼しさがあった。

 清水は腹を伝う汗玉のひとつがへそに吸い込まれたのを見ながら、奇妙な安堵に包まれていた。

 艤装の詳細など知る由もない、もしかすると弾なんて込められていなかったかもしれない。だまされたのかもという考えもあった。が、叢雲が自分の頭に砲口を向けたのは事実だ。

 おかげで話さざるを得ない。司令室で待つ彼女をはぐらかし、無視することはできなくなった。そうすれば今度こそ彼女は清水の目の前で頭を撃ち抜くだろうし、よしんば艦娘の頑丈さで死ななかったとしても、決定的で埋められない溝ができて、今後司令官として彼女の上に立つ資格がなくなる。民間に戻ったとて無力と後悔の自責で、さっさと首をくくる未来しか見据えられない。叢雲はあの砲口で、清水の選択肢を撃ち落した。そのことにどうしようもなく安堵してしまう自分がいる。

 いつだってこうだ。自分から何かをしたことなんて一度もなかった。司令官になってからもそう。富津基地を丸ごと再興させろという辞令が下るまで実家で怠惰に過ごしていた。母親が配給と、庭の畑で育てた野菜で作ってくれた食事を食べて自堕落に辞令を待っていた。そうしている間、森友は一足先に横須賀へと配属され――確か前任がまだ健在だったはず――自分が富津に入る数ヶ月の間に長官の座を獲った。どのようないきさつがあったのか知らない。たが、確かに彼女は海軍の中枢たるところに座った。自分の辞令が来るのが遅かった、そんなものは言い訳にならない。富津は横須賀の傘下にある予備的な基地である、というのはあらかじめ考えていた。サポートに回るべき立ち位置なのだ。意見が認められているとはいえ、合同作戦を執るのなら決定権は横須賀にある。富津は横須賀の命を受けて動かなければならない。清水は森友に従わなければならない。それが、組織と言うものだから。

 その前だってそうだ。山の中でも、サンカの職人たちに世話になった。転職したばかりで、しかも暗く沈んでいるのを良く助けてくれた。

 由乃だって初めて声をかけたのは八木だった。告白したのは由乃だし、プロポーズですら由乃だった。私が唯一自分の意思でしたことなど、彼女を殺したぐらいだ。

 自分から動いたことなど片手で数えるぐらいしかない。幼い時分を思い返しても。

 いくら振り返っても誰かがいた。誰かに引っ付く自分がいた。

 蛇口を止めて、だいぶぬるくなった湯船に肩まで浸かる。ともすれば、まだらに冷たさがあるような湯で顔を洗い、タオルを解いて顔をぬぐった。

 着任してもう半年。

 清水は天井を見上げた。

 廃材で作ってもらった建物は、かんな掛けをしたばかりの木のにおいがしていた。あの時は夏場で、しかも三日も風呂に入れなかった。カーペンターズが「風呂が出来ました」と伝えてくれたとき、叢雲と一緒に駆け込んだのを憶えている。突貫工事ゆえ、男湯と女湯を仕切る壁に隙間があったから、しかもそれは湯船の真横だったから、隣で全身を隈なく洗う叢雲を見てしまったこともあった。

 数日後、彼女は丸焦げになって帰ってきた。哨戒中の奇襲だった。深海棲艦が島影でなく、島に上陸して隠れていた。しかも、初出撃。横須賀の艦娘らから引継ぎを受けた日を狙い、敵は錬度の低い叢雲たちを、夜明けと共に襲撃した。戦艦や空母までいた、運が悪ければ誰か沈んでいてもおかしくない。運がよかった、そうとしか言えない。結果、横須賀に送った援軍要請が間に合い、誰も沈まずに帰ってこられたのだ。彼女らが黒こげになって初めて、深海棲艦と「戦争」 していると諒解した。遅すぎる覚悟だった。

 加賀に頭を下げ、森友に情けを掛けられた横須賀異動部隊。ようやく基地らしい人員が揃い、司令官としての知識を教えてくれる艦娘まで渡されて奮起していたのもつかの間、卯月の家出騒動。艦娘の家出なんて――脱走扱いにはしていない――、おそらく全土初だったにちがいない。艦娘たちだって一人ひとりモノを考えている。艦娘は「建造」されると言っても、見た目相応の考える頭を持っている。コミュニケーションをとるための言葉を持っている。発するための口だってある。軍とは規律で生きる生き物だと思っていた。艦娘が女の容であるのなら女らしい扱いをしなければと考えていたが、おかげではっきりした。彼女らは正真正銘生きた「娘」なのだ。軍属だの、大戦の記憶があるだの、艤装なんていう人間離れしたファンタジー的な装備を扱うだの、そんなことは些末なことだった。見た目通りの娘なのだ。娘の容をした娘の考えをもつ生き物に、すこし飾りがつけられているだけということを、痛烈にぶつけられた。

 ほかにもいろいろあった。

 叢雲のざんばらになった髪を整えてやったこともあった。三日月と古鷹と、三人で叢雲を囲んで、あの真夏のクソ暑い中、全身を汗でしっとりさせながら、彼女の美しい髪の毛にはさみを入れた。秋には、艦娘が浸かる修復液のお陰か、髪の毛の伸びも速いのだと知った。

 卯月はその後、富津や横須賀といった枠組みにとらわれない交友関係を築いていた。彼女に秘書を頼むと、遊びに来たりちょっかい出しに来るやつがひっきりなしに来て仕事にならないし、いつぞやかは銚子の部隊を招待するんだと息巻いて、基地を挙げてボロい建物を改修しようと企画案を出して――わざわざ書面にして――きた。湊川作戦が始まる前だったので断わったが、文字通り噛みつかれた。清水はその、噛み付かれた左腕をさすった。痕なんて残っているわけもない。痛かったのは強烈に憶えている。

 ついこないだの八丈島防衛戦のおかげで、艦娘単位ではあるが、共同作戦を執った二基地の間でそれなりに頼れる戦力として認められた。大本営の会議でも富津の第一重巡戦隊の話題が挙がったと、八木が教えてくれた。運用次第、一言戒めてくれたが、当の運用する男がこの体たらくでは、彼女らの功績に泥を塗ることになってしまう。

 いろいろあった。とるにたらないことだって、清水は思い出す事ができた。足柄と摩耶の夕食時の言い争いや、晩酌に付き合ってくれた千歳、千代田、木曾、夕張。神通や川内にため息を吐かれた座学の時間。能代の、奔放な同僚とどう付き合えばいいのかわからないという相談、秋月や涼月と、深夜の食堂で白湯を飲みながら、深海棲艦が現れる前の日本の話をしたことも。真面目すぎる朝潮を、島風や第四駆が連れ回して遊んでいるのも見かけた。初雪が春風によっかかって眠っていたそばに、電源が入れっぱなしの携帯ゲーム機が落ちていた。勝手にいじっていいものか、しかし興味が、と目が釘付けになっていた春風を、青葉と一緒に観察した。いつも暴言を吐く曙の秘密を、熊野が目の前で暴露して大騒ぎしたこともあった。

 清水は顔を洗い、腕時計を見て、まだ三十分ほど余裕があるのを知った。天井から滴が四ついっぺんに落ちて、湯船の中に溶けた。

 この半年間は、羊羹のように中身が詰まっていた。

 半年間どころではない。深海棲艦が顕れてからの、この四年間、いや、もうすぐ五年になるか。

 それなりに順調に生きていた。少ないながら友人に恵まれ、二十五で嫁ももらった。家族仲はおおむね良好、もともとの仕事だった大手製薬会社の営業職も、売り上げ一位とまでいかなくとも突き上げを食らうほど酷い成績だったわけでもない。いずれは一姫二太郎。それぐらい養えるぐらいの稼ぎはあった。営業職のさだめとして、さまざまな店で接待をしたりされたりしたものだが、一度だって浮気と捉えられることは――私の主観によるものでは――なかった。当然だ、学生時代から惹かれていた女性が嫁に来てくれたのだ。それ以上望むものがあるだろうか。自分を理解してくれて、自分と歩みを共にしてくれる女が一人いればよかった。それが叶った。幸せな生活だった。

 結婚して、お互い三十路の節目。そろそろ子供を作ろうか、なんて話をした。帰りの遅い営業職から、多少稼ぎが落ちたとしても事務方に下がり、定時きっちりに帰ってやるなんて胸を張った。ああそうだ、そのとき由乃は、「無理よ、あんた要領悪いもん」と言って笑ったのだ。内々の話で無事希望が通ることを知っていたから、一年後が楽しみだった。ニュースサイトでは近ごろ顕れた、人の形に似た海洋生物で持ちきりだったが、職場は海から離れていたし、自宅は千葉の市川だったから、せいぜい客先での話題に使ったぐらいだった。「タンカーにぴったり併走したらしい」「イギリスで被害が」「ハワイへの飛行機が飛ばなくなった」着実にきな臭くなっていく話題。その中で変わらず仕事を続けていた。周りも、たとえば輸入に頼るマテリアル系の商社などは打撃を食らっていたが、国内で作られた薬剤を売って歩く自分の周りでは、そう大きな変化はなかった。なかったはずだ。海外旅行に行けるような大型の連休もなかったし、実感がなかった。「日本の漁船が沈んだ」「中国からのタンカー船が消えた」いよいよ、生活や仕事に陰りが見え始めた頃、全国に海岸線への立ち入りを極力控えるよう通告があった。漁業は大打撃を被ったが、不思議と漁師からの不満を伝えるニュースは放送されなかった記憶がある。インターネットのニュースサイトのみが彼らの声を喧伝しようと蝉のように喧伝していたが、身のある話も、自分が知る限りではなかった。それでも日本は、東京は、日常であった。

 春。

 春だ。

 春に、奴らは来た。

 五年前の春は寒さが長引き、東京の桜開花は四月の半ばだった。

 引継ぎの不足を埋めたり、新しい仕事のマニュアルを読破し、それなりに回せるようになった春。結婚して初めてまともにGWを休めるとなって、遠出をしようと話し合っていた。北に行けば桜が見頃で、南に行けば長らくみていない緑の山々がある。かねてから行ってみたかった岩手は遠野か、長野の諏訪か。結局、どちらに行くか決めることができないまま、GWが三日前に迫った。

 そして。

 そして。

 そして。

 男湯の扉が鳴った。耳をすませば断続的にごとごとと鳴っていて、風の音も強く聞こえた。

 清水は流れるままになっていた汗を片手で拭い、腕時計をみた。叢雲との待ち合わせまであと十五分ほど。そろそろ上がるか、最後に湯を掬い頭からぶっかけ、腰を上げようとしたところで脱衣所から声がかかった。

「のぼせてない、大丈夫?」

 叢雲だった。

 迎えにきたのかもしれないと、「大丈夫、今上がるところだ」木戸の向こうにいる叢雲に返事した。

「司令室で待っててくれ。そろそろ薪も切れるだろうし、足しといてくれるとありがたい」

「いやよ」

 男湯の扉が閉められた音を聞いた。

 少し呆然とした後、清水はため息をついて立ち上がった。寒い思いをするのはお互い様だろうに。

 手ぬぐいで簡単に体を拭いていると、今度は女湯の方から声がかかった。

「あたしもお風呂はいるわ」

 別に文句を言うところではない。彼女らの明日の予定が決まっているわけでもない。夜は長いのだ。「先に上がっているぞ」一応そう伝えて木戸に手をかけたところで、返事があった。「いいじゃない、付き合いなさいよ」それからもう一言、「どうせぬっるーいお湯に浸かっていたんでしょう。脱衣所にお水置いといたから」

 木戸が閉められる音がして、それきり沈黙があった。

 脱衣所を見ると、フタのない水筒が脱衣かごの中に入っていた。新しい下着も入っていた。ありがたい気遣いだ、しかし勝手にタンスを漁りやがったな、清水は素直に感謝したくない複雑な心持ちで、水筒を傾けて雪解け水みたいに冷えている水を一気に半分ほど飲み下した。血管の一本一本に冷水が染み渡るような感覚と、暖房のない脱衣所の室温も相まって、立ちくらみを起こすほどの快感があった。

 扇風機をつけてもう一度体を冷やし浴室に戻ると、ちょうど叢雲が入ってくるところだった。薄い端材にタイルを貼り付けただけの――板一枚では、またよからぬ事故が起きると付け足した――壁の向こうから素足で歩くぺたぺたした音が聞こえた。足音は急に終わり、木で作られた小さい椅子を動かす音、直後にシャワーの音に変わった。

 同時に甲高い悲鳴が向こうから上がったのを聞いて、清水は笑いながら湯船に足を突っ込んだ。

「冷たかったか」

 いい加減ぬるいを通り越して冷め切っているところに熱い湯を足しながら清水が言った。シャワーを出しっぱなしにしているのがわかる。それからの行動を予想した。冷え切った体に水のシャワー。体を温めるには、目の前に湯気をもうもうと上げている湯船がある。木桶を手に取り、体にかける。しかし、向こうは神通たちが入った後の薄めていない、四十五度はある熱湯である。

 もう一度女湯から悲鳴が上がったのを聞いて、清水はもう一度笑った。

「熱かったか」

「いちいちうるっさいわね!」

 木桶を壁に投げつけたような堅い音。

 向こう側の様子が音だけで細やかに想像できてしまう。叢雲の肢体を想像して情欲を駆り立てられるウブな関係はもう終わっていて、たとい素っ裸でうろつかれても「さっさと服を着ろ」以上の言葉は出ない。ほぼ毎日ともに生活していれば男と女の関係は薄れてゆくものだ。まして、清水は今更男女の関係を作りたいとも思っていなかった。

 頭を洗い、体をスポンジでこする音がして、女湯の音が消えた。髪の毛を上げているのが想像できる。清水は持ち込んだ水筒から水を一口飲んで、彼女が湯船に入るのを待った。

 ぺたぺた歩く音と、ちろちろかけ湯をしている音。湯船にそろりと入る白い足。入ったそばから上気して、湯にいれたところと、そうでないところがくっきり線になって表れる。ゆっくりゆっくり体を沈め、尻が湯に触れたところで一度からだを止める。男も女も変わらない。熱い湯に入るときの共通事項のようなものに違いない。

 男湯の方はだいぶ温まった。清水は蛇口を捻って熱湯を止めた。今度は女湯の方から、足し水をしてるであろうドボドボとした音。それから、肩まで浸かったであろう叢雲の、体の底からの吐息。

「あぁ、ちゃんとしたお風呂は久しぶり」

 本当に機嫌のよい、叢雲の貴重な、明るい声色だった。

「八丈島ではどうなんだ。ホテルの整備はやはり間に合ってないか」

「間に合っているわけないじゃない。カーペンターズはがんばって地下の貯蔵庫掘ってるわ。ある程度無事な民家をいくつか接収してはいるけれど、全員を収容できるはずもないし。基本的にがれきの山よ、今度連れて行ってあげる。・・・・・・お風呂は覚悟した方がいいわ。海に入っていた方が、もしかしたら清潔かも」

「いや、せめて宿泊施設が充実してから行こう」

「部下と苦楽を共にしてこそ、よい上司だと思うけれど」

「観光気分で行けるような場所じゃないと、私らは海に出れないんだよ。知っているだろう」

「あんたは指揮官じゃないからね。たしかに、前線に出てこられても困る」

 叢雲は喉で笑ったあと、「邪魔だわ」と、上官に言い放った。

 しばらく女湯の冷水を流す音だけがあった。相当薄めているのか、かなりの水量で長い時間をかけていた。緑錆の浮いた蛇口を締める耳障りな音が聞こえる頃には、清水は水筒の半分を胃に流し込んでいた。

「お前はぬるい湯が好きなんだな」声をかけると、不機嫌を表しているのか水が暴れる音がした。言い換える。「叢雲さんはぬるい湯がお好みなんだな」

「どちらかと言えば熱い方が好きよ」叢雲が答えた。「長風呂はあまり好きじゃないからね。けれど、神通のは熱すぎるの」たしかに、ちんたら湯に浸かっているより一気に体を温めてさっさと出る方が彼女らしい。

 神通と行動することが多いのだから神通の熱さにあわせられるのだろうし、なにより今は熱い湯でパっと上がった方が都合がよいはず。ならばなぜ、わざわざ足し湯をしたのか。なぜ自分に風呂に付き合うように言い、水筒まで準備してきたのか。

「それじゃ、本題だけど」

 気の抜けた声のまま、湯船から手を持ち上げる控えめな水音が鳴った。

「あんたの様子がおかしい理由を話して貰いましょうか。それから、由乃さんの事もね」

「ここで話せと」

 清水は気落ちした。酒でも飲んで酔いつぶれて眠てしまえるぐらいの状況で話したかったのに、彼女が持ってきたのはただの水だ。これではいくら飲んでも酔っぱらえない。

 清水の心内を見透かしたのか、「お酒なんか飲ませないわ」と叢雲が杭を打ち込んだ。

「私の言ったこと、憶えていないでしょう」

「禁酒令なんぞ出された憶えはない」

「ま、似たようなもんよ」

「・・・・・・ここでか」

「ここで」

 清水はため息を吐いて言った。

「長くなるぞ、きっと」

「だからぬるくしたのよ。うんとね」

 それからなにか固い容器の中の液体をバシャバシャ振る音が聞こえた。用意周到なことだ。自分の分の水筒ーー代わりの一升瓶か四合瓶かもしれないがーーまで持ち込んで、長期戦に備えている。

 今更逃げようとも思わない。

 お互い素っ裸。壁一枚の隔たりはあるにしても裸のつき合い。茹だりかけた頭は湯気のもやの中に幻視させる。叢雲に語らなければいけない話。語らずとも良い、彼女の知らない過去の話。余計な事は一切言うつもりはない。弁明もしない。石鹸とシャンプーと、お湯のぼやけた香りが消える。焦げ臭くて埃っぽい匂いがした。この場所には似つかわない匂いだった。それを不思議に思わない。

 彼女に語るのではなく自分のために語るのだ。

 ふとそう考え至った。清水は最後の最後までつっかえていた喉の固まりが綺麗さっぱり消えてしまった奇妙さを感じ、胃の奥底がじくじくと暖まるような、全幅の安心感を覚えた。

「わかったよ。ーーのぼせそうになったら、遠慮なく言うんだぞ」

 橙色の灯りが湯気の中を乱れ飛んでいる。

 全身全霊を叢雲に預けてしまったような気恥ずかしさがある中、清水は話し始めた。

「そうだな・・・・・・。森友。ノンちゃんとの関係までとなると、私が十六の頃まで遡らなきゃあ」

「は、ノンちゃん?」叢雲の素っ頓狂な疑問の言葉に、清水は久しぶりに心の底から笑うことができた。

 

 横須賀鎮守府の長官サマだよ、ノンちゃんってのは。下の名前が望未つってな。何の因果なんだろうなあ、ここの主計官の八木と、私と、森友は幼馴染だ。年は、まあ七つも離れているんだが。私はアイツの小学校時代を知っているし、アイツは私たちの高校時分を知っている。私の青春とも言うべき時期を一緒に過ごしたんだ。幼馴染と言ってもいいだろ。

 それからな、もう一人いた。

 お前・・・・・・すまん、叢雲の知りたがっている由乃。

 私と、八木と、森友と由乃。私の青春にはこいつらがいた。

 というか、こいつらしかいない。

 由乃が中学――ああ、どっちだったかな。一年の終わりか二年の中ごろか。ともかくそのぐらいに、両親の元を離れて私たちの田舎に来た。地方都市にも及ばない、中途半端に栄えた田舎町、噂話が広まるのは早いもんだ。

 私の親から家庭環境を聞いたよ。両親の不仲だと。まあ、ありがちだろ。まして時代が時代だった。共働きは普通なことで、ただ社会的信用を得るために結婚するなんてザラだった。子を持っても仕事は待っちゃくれない。もともと好き合って結婚したんだろうに、お互いに人生を捧げる覚悟なんてなかったんだな。夫も嫁も、お互いの人生を大事にしていたってことだ。一人の時間を大事にして、夫は男で、嫁は女であることを大切にしたんだ。二人が同居しているのは世間体と、由乃というかすがいがあったから。別に責めることじゃない。家庭を持ったからと言って個人を捨てろなんて時代ではないから。――そうだな。不仲と聞いたが、幼心に思ったよ。不仲にすら至らない家庭だろうな、って。

 それでもバツイチともなれば世間体が悪い。「お互いの時間を大切にするため」「家族という枠組みを越えるため」「子の自立心を養うため」「これも教育」もっともらしい言葉をざらっと並べられたと由乃は言った。あっけらかんと。私も、彼女の両親と会ったのは結婚の挨拶に行ったときだけだ。式には招待しなかった。

 その代わり由乃の爺さん婆さんにゃ世話になった。母方のな、母方の両親だった。これが絵に描いたようなおしどり夫婦だった。信じられるか、六十五を超えて一緒に風呂に入ってたんだと。逆に居心地が悪いとボヤいていたっけなあ。

 遊びに行けばメシをご馳走になり、さっさと帰らないと私と八木の分の布団が敷かれる。私らの両親に電話までして、「危ないから泊まらせますね」と言って。十八時を超えたらレッドラインだ。早めに帰る由伝えておかなければならなかった。だけど、メシは毎回食って帰った。美味かったんだよ。特に肉じゃがコロッケ。それとメンチカツ。揚げ物が多かったのは、今考えれば私たちに合わせてくれていたのかもしれない。てんぷらなんて絶品だった。サクサクしていなかった。油を吸ってしっとりギトギトした、どちらかと言えば失敗に近いものだったけれど、なぜか米がすすむんだ。私がてんぷらを作りまくっていたのは、きっとあれが根底にあるからだな。未だ、なぜあれで美味いと思ったのか、分からないんだ。

 由乃と初対面したときの話。これは千歳らには話したんだが、聞いているか?

 ――そう不機嫌そうな声出すなよ。あんときゃ、確か叢雲が初めて全員のメシを作ったときだったから。

 転校してきてしばらくヤツは大人しかった。ま、引っ越してきた原因はクラス中が知っていたから、下手に刺激するよりも、そっとしておいてやろうという、暗黙の了解があった。

 葉桜になったころだったな。わざと学校に遅刻していくのが当たり前になっていた。――なんだ、不良に憧れがあったんだよ、悪いか。八木と一緒に学校近くの、誰も使っていない農具置き場の中で煙草を一服して、日中のシンとした通学路の彼方から小さく体育の授業をしている声を聞き、まるで出来ないことは何もない全能感に浸るのにハマっていたんだ。かといって丸一日サボる度胸はなかったし、一度学校に行ったらきちんと授業は受ける。中途半端な不良だろ。うわさの転校生も保健室登校をしているのか、俺たちよりも遅く教室に入って来ることが多くなってきた。このまま不登校になっちまうんかな、女というだけで、私はスカして、興味のないフリをしていた。内心、一度ぐらいはまともに話しておけばよかったと思っていた。だが、「話しかけられない」空気があったから、今更話すことも出来なかった。あるだろう、そんな同調圧力が。

 農具置き場の扉が勢い良く開いたときの八木の顔、憶えているよ。

 ――もちろん、私もクワやら鋤やらひっくり返しててんやわんやになった。俗に言う「キンタマが縮み上がった」瞬間だ。はっは、わからねえか。

 入ってきたのは教員じゃない。由乃だった。慌てふためいて情けない顔を見せる私たちを、指さして笑いやがるんだ。あんな大口を開けて顔を赤くしながら笑う顔は初めて見たよ。学校じゃずっと物静かにしていたからな。そして呆然としている私らに言うんだ。「ここ数日あんたらの後ろを尾けていたのに、一向に気づかないんだもの」、そんなことしらなかった。学校に馴染めなくていよいよ不登校か、と思っていたんだから。煙草の煙がくゆっている中に遠慮しがちに入ってきて、さらに彼女は言った。「あたしも混ぜてよ」だとよ。

 貴重な友人が一人増えた。私はまあお察しのとおり面白い話が出来ないもやしっ子だったから言わずもがな。八木は昔からあの性格だからな。だけどアレで変なところに潔癖でいやがる。固い絵の具はやわらかいものとなかなか混ざらないもので、気の合うやつをなかなか見つけられないでいた。たまたま私とやたらとツルんでいたけれど、結局固い絵の具と固い絵の具が同じパレットに、隣同士横たわっていただけだったんだ。昔からの友人や、部活動の仲間、学外スクールの生徒同士のグループの中に入れなかった私たち。いわば扱い辛いクラスメイトだった中に、転校生で、良くない噂を引き連れたやつが入って来るのは、違和がなかった。すぐに打ち解けたよ。・・・・・・初めて、学校を丸一日サボった。あとにも先にもこの日だけだ。「大人しいやつだと思った」と言ったら「そっちの方が話しかけやすいと思ったのに、田舎の人ってホント排他的ね」と攻撃を返してくる。面白いヤツだった。

 彼女が加わってから、私たちの青春というものが、華やいだ。女が一人いると変わるものだな。

 埃と黴と土のにおいのする農具置き場から、たとえば地方デパート、映画館、海に山に、足を伸ばして三時間もかかる都会へ、休みのたびに出かけていった。中学時分の小遣いなんてたかが知れていて、毎回遊べるわけじゃなかったのに、「出世払いでいいよ」と、由乃が半分以上もってくれた。なんであんなに金を持っていたのか当時わからなかった。今なら分かる。両親は、金だけは持っていたらしいから。金だけやって育てているつもりになっていたのかもな。

 出世払い? ああ、もちろんしたよ。

 同じ高校に進むのは決まっていた。八木が県外の全寮制高校からお声がかかっていたのを蹴っ飛ばしてしまったのを聞いて、私と由乃はせめて彼のためにレベルの高い学校に受かるよう、必死こいたもんだ。ほうほうの体で同じ高校に合格して、入学式のその日、学区外の離れた町の小さな店で、八木と二人でバイトを始めた。三駅も離れた裏道のもんじゃ焼き屋になんか教師が来るはずないと踏んでいた。これが笑ってしまうぞ、当時の担任のアパートが、その店の近所だった。最初の出勤日にバレた。事情を説明したら笑って「ならここで稼いだ金は、彼女のために使いなさい。それならバイトを黙認してやる」と言った。あとから聞いたらもんじゃ焼き屋の店長、そこに教師が来るのを知ってて雇ったんだと。面接の時に同じ事を話していたから、あらかじめ教師に伝えていたらしいんだ。今でも頭の上がらない人だよ。

 周りの大人たちの目があったからじゃない。全額彼女のために稼いだ。けどな、やっぱり女ってのはいつも男の一歩先を行く。彼女はいつだって私たちに、おごりというものをさせてくれなかった。「ごはん代はおばあちゃんたちからもらっているから」、「映画のチケット買って来ちゃった。はい、1500円ずつちょうだい」、「服ぐらい自分の金で買う、下着代まであんたらが払うっての?」って。これは服をプレゼントしたときだったかな。欲しい欲しいと事あるごとにボヤいていたブランドの服だったんだが、自分の金で買わないと満足感がないじゃない、という事らしいな。ううん、真面目なやつだったんだ。その足で返品させられた。みじめだったなあ。だってよ、後ろに腕組みした女に睨みつけられながら、高校男子二人が女物の服を返品するんだぜ。店員の苦笑いが目に焼き付いている。だから結局、金は溜まる一方。半年もしたころにゃ、八木と合わせたら結構な大金を持っていた。自分の娯楽品はほとんど買わなかったから。由乃と遊びに行くときにあれ買え、これ買えと言われるすべてが男ものだった。服やら、小物やら、香水やら。私たちをお人形さんにして楽しんでいるのかと邪推したものだよ。全部私たちのためだったんだけどな。おかげでちょっとしたお洒落な男子として扱われることが多かった。

 でも一度だけ、彼女が商品を持って、「これ、買って」と申し訳なさそうに言ったんだ。

 ヒッピーみたいな兄ちゃんがやっているレコード屋だった。「都会にゃこんな店もあるんだなあ」つって入った、一見の店。見たことも聞いたこともない古い曲ばかりで、当時の学生からしたらダサいジャケットをみて笑い、兄ちゃんの目が吊り上がっているところに、彼女が一枚のレコードを差し出した。

 なんだと思う? そのレコード。

 ――なんで分かるんだよ。

 マイクを握るモジャ毛の男。マイクの前で笑っている短髪の男。〈THE CONCERT IN CENTRAL PARK〉。初めて知った。サイモンとガーファンクル。教科書でしか知らない1970年代、確かに生きていて、10万人もの前でライヴした二人組。「いいから聞いていきな」って彼女の家のプレーヤーで再生した時、彼女は迷いなく、明日に架ける橋に針を落とした。拍手の中のピアノソロ、そしてガーファンクルの透明な声。〈When you're Weary......〉。発表から半世紀以上経っても色あせない歌というものを知った。八木も、女にウケのいい曲ならいくらでも知っていた八木ですら衝撃を受けていた。レコードが回るのを、三人で一切無駄口叩かず、黙って聴いていた。正直、歌詞の内容はありきたりなものだよ。君のそばにいてあげよう、君を守ってあげようというもの。だが、サビの最後。〈君の橋になろう〉という訳される〈I will lay me down〉。これな、そのまま訳すと〈私が下になろう〉となる。私を踏み、君は明日に向かってゆけという。共に明日を目指そうなんてもんじゃない。共に辛さを分かち合おうなんて思い上がらない。君は僕を踏み、輝く明日へこぎ出していけと、自己を省みない無償の愛を歌っているんだ。君の輝くのなら、僕は踏み台になろう。さあ、出航の時だ、僕が君を守ろう、君が輝く明日へゆくために、僕は君の橋になろう。何度も聴いた。買ったレコードは、一ヶ月も経たないうちにシャリシャリ妙な音がするようになった。それぐらい聞き込んだ。そんなとき、目を瞑ってじっと曲の世界を味わっている由乃を、初めて女として美しいと感じた。・・・・・・うるさい、黙って聞いてろ。

 それからレコード屋に通い詰めた。由乃のじいさんがそういった古い曲が好きな人で、いろんなアーティストや曲を教えてくれたから、リストアップして同じ物を探した。周りはインターネットやダウンロードサイトで曲を聴いている中、私たちは週に一枚のレコードを買うために、片道三時間かけて店に通った。初めは怪訝な顔をしていた兄ちゃんも、私らみたいな若者がメジャーからマイナーどころまでのレコードを買っていくのを見て、だんだんと話をしてくれるようになった。吉田拓郎、岡林信康、高田渡、同時期、日本で活躍していたフォークシンガーたちにも傾倒していった。私たちの青春は白黒の世界で彩られていった。

 由乃の奨めでアコースティックギターを、安いのを一本、八木と金を出し合って買った。三人で回し弾きしたさ。一番巧かったのは八木。時点で由乃。ペケが私。二人にコードを教えてもらいながら、やつらの半月遅れで同じものを弾けるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 




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 ウディガスリーだったかな、どこを探してもコード進行が見つからない曲があって、必死にコピーしようと一週間もレコードを聴き込んでいたときだ。由乃ん家は平屋の一戸建てで、私たちは縁側のある仏間でギターの音合わせをしていて、ふと由乃の視線が外に向かっているのに気付いた。珍しかったんだ、レコードを掛けているときは、彼女はじっと集中していたから。彼女の視線を追うと、一人の女の子が、二世代前の携帯ゲーム機片手に行き過ぎるところだった。ちょっとあわてて足早に立ち去ろうとしていたのが分かった。知らない人と目があってしまうと目を逸らすことがあるだろう? あんな感じ。さして珍しくない光景。「あの子、ずっとこっちみてたよ」由乃が立ち上がって言った。「よく通るよ、いつもこっち見て、俺と目が合うとすぐ行っちまう」八木が調子良く言うと、由乃がサンダルをつっかけて女の子の後を追って行った。

 こいつが森友さ。森友望未。ノンちゃん。のちの横須賀鎮守府司令長官サマの、小学校時代の姿。

 由乃が連れてきた森友は典型的な人見知り。誘拐になるんじゃないか、通報されやしないかヒヤヒヤしていた男二人をさておき、由乃はおかしやジュースでなんとか懐柔しようとしていた。由乃が話す、ノンちゃんが一言で答える。小さい声で、うわずった声でな。ノンちゃんの家は母子家庭で、夜の仕事をしている母親に一人の時間を作ってあげるためになるべく夕方までは家に帰らないようにしていると。行間を埋め埋め、話を統合するとそういう事らしかった。ちなみに私らが話しても一切答えてくれなんだ。高校生といえど小学生からみれば大人だからな。大人の男は、人見知りの女の子にとって恐怖以外なにものでもなかったんだろう。そんなことも相まって、由乃に懐くのは早かったよ。変な吊り橋効果だ。

 母親が休みの水曜日以外、ほぼ毎日遊びに来るようになった。由乃と普通に笑顔で話せるようになっても、私らとは一言返し。だが、一言だけでも返してくれるようになっただけ進歩だと感じた。どちらが懐いてくれたか八木と競い合った。八木はおどけ、話しやすい男アピールをする。私はどっしり構えて頼れるお兄さんをした。軍配は八木に上がった。悲しいことに。

 ノンちゃんに友達がいないのはなんとなく察していた。だって、いつだって一人だったからな。学校の話もこちらが振らない限りしなかったし、あまり楽しそうな話もしなかった。彼女の話から出てくる学校の話は硬い印象を受けた。色がなく、鮮度のよい話をしない。それはつまり、他のクラスメイトとの関わりがないのではないかと邪推した。親が夜の仕事をしているのが悪印象だったのかもしれない。蓋を開ければスナックの従業員で、至って健全ではあったんだが、子供に風俗とスナックの違いなんてわからんからな。私らは暗黙の了解で、そのうち学校の話を出さないようにした。そのかわり、私たちの遊びに付き合わせた。どこへ行くにも、森友も一緒に行った。金はもちろん、私と八木が持ってな。会計のときに由乃が外に連れ出してなるべく見せないようにしていたけれど、なんとなく察したんだろうな。昔からよく頭の回る奴だった。ゆっくり、ゆっくり、男らにも心を開いてくれるようになった。

 そんな関係を一年ぐらい続け、遊ぶ時間を増やすのに水土日曜にバイトを絞ったころ、ノンちゃんの母親が挨拶にきた。結構な金を持って、「すみません、いつも娘がお世話になっております」と。本当、普通の人だったよ。むしろ良い母親だった。高校生のクソガキ相手に頭をペコペコ下げて、ちょっと強い香水の匂いを振りまいて、声は酒でだいぶやられていて。出勤前だったのかな、初めて見る丈の短いスカートスーツの似合う、三〇代後半ぐらいの女性。高校生から見ればおばちゃんだけど、見た目のコンデションは良かった。美しい人だったよ。

 金は、男の意地として受け取らなかった。そのかわり、次からノンちゃんはお小遣いを多めにもらってきた。なるべくお金のかからない遊びを三人で考え、森友家の負担にならないように気を使った。お世辞にも金銭状況が良い環境ではないとはわかっていたから。でも、母親は私たちと遊ぶのを止めなかったんだ。「娘がね。他の人の話をするようになったんです。お姉ちゃんとお兄ちゃんとどこどこに行ったって、お化粧する短い時間に、毎日毎日」って、嬉しそうに言うんだよ。その脇でノンちゃんは顔を真っ赤にして母親の腕を叩いていたがね。

 母親、これは恵子さんというんだが、働いているスナックに私らを招待してくれた。酒は出さずにソフトドリンクだけ。初めて行く大人の店だ。薄暗い店内、時代錯誤なミラーボールが天井にぶら下がっていて、ソファはワインレッド。カラオケの画面が煌々としていて、何人か年のいった女の人がいた。ママは当時五八歳のすれっからし。でも緊張している高校生相手に気さくに話してくれる人だった。二〇時を過ぎて店が盛況になってきても、ノンちゃんの母親は私たちの席になるべく座るようにしてくれた。楽しませようとしてくれた。酔っぱらったオヤジが絡んできても「娘の友達なの」なんて睨みつけてくれたり。ま、最後はオヤジら含めて大盛り上がりのカラオケ大会になった。オヤジらですら知らない古い曲ばかり入れる若者を、大人たちは受け入れてくれた。

 四人が家族ぐるみのつき合いになっていくのに時間はかからなかった。・・・・・・うちの親父とそのスナックで顔を合わせたときは息が詰まったな。しかも常連だったし。ありきたりな苗字だから気付かなかったって、恵子さんも他の常連も大爆笑しやがった。

 カラオケといえば友達らだけでカラオケボックスというのが同級生には当たり前だったとき、私たちはスナックで大人たちに揉まれて歌っていた。由乃なんかお酌のまねごとしている始末。調子に乗ったオヤジらがママに一喝されてシュンとなるところまでがいつもの流れ。楽しかった。楽しかったよ。もちろん、同級生からは完全に乖離していったが。もちろんノンちゃんも一緒にいてな、女を売っている母親を見て嫌悪感を出すかと思いきや、誇らしそうに見ていた。「飲み過ぎ」だの「はしたないなあ」なんて言いながら、オヤジたちをさばいていく母親を、キラキラした眼で見ていた。

 大学受験の勉強もそこでやった。夕方の、仕込みをしている店の中で黙々と勉強したあとは、飲みに来るオヤジたちに勉強を教えてもらった。面接なんて、おそらく完璧なまでに仕込まれた。人事部の人もいたからな。もちろん、中には高校の勉強なんて憶えていないという人もいて、その人ら相手に無理やり説明することによって、復習にもなった。

 私らが真剣に勉強をしている時期、ノンちゃんはさっさと宿題を終わらせて、なんとまあ店の仕込みを手伝うようになった。店全体で森友家を歓迎していた。「子供がいちゃあしっぽり飲めない」という客に、ママは「うちはこういう店だから。いやならよそへ行った方がいいよ」と言い放った。バイト先では、客への文句は聞こえないようにやれと教えられていたから、「お客さんにそんな事言っていいんですか」そう訪ねた。ママの言葉が耳に残っている。「夜の仕事、水商売、なんて言われるけどね。バーってあるでしょ。バーテンダーさんのいるところ。良く病院なんて言われるの。ちゃんとしたオーセンティックバーで、良いバーテンダーさんのいるところは、疲れちゃったり、悩んじゃったりした人が、心を治しにいくところなんだ。それでね、居酒屋とかスナックっていうのは、学校。お酒の飲みかた、人とのつき合い方、人生のいろいろがある場所。お酒のあるところには、いろいろな人が集まる。そのいろいろをいっぱい知って、大人になっていくための学校なの。だから坊っちゃんたちもノンちゃんも、こいつら酔っぱらいどもと同じ学校に通っている。後輩をいじめたら、先生が怒るのは当たり前でしょ」。夜の店には夜の店なりの矜持があると、その時教えられた。

 私たちはそうした大人たちに背中を支えてもらいながら、堂々とセンター試験を受けて、なんの憂いもなく合格通知を受け取った。家族全員で、常連たちもまぜこぜで、スナック全体でお祝いされた。幸せな青春だろう。最高の思い出さ。

 受験も済んで、三人で同じ大学に通い、中学に上がったノンちゃんが店の厨房で軽食を作り始めてお小遣いと称したバイト代を貰ってから、長らくお世話になったもんじゃ焼き屋を辞めた。金は大分溜まったしな。これからは客として来ますよと言って。

 入学式を終えたあと、私は八木にひとつ、初めて重大な相談を持ちかけた。

 いざ話すと気恥ずかしい。

 由乃のことを好きだと自覚したんだ。

 女に手を出すのが早かった八木を警戒してしまったこともあると正直に告げた。たとい私に黙って付き合っていたとして、この関係を壊したくないとも。いつか由乃ではない別の女を見つけるから、そうしたら四人で一緒に遊んでくれと、もんじゃ焼きを食いながら頭を下げた。――笑われた。腹を抱えて笑い転げた。店で飼っていたダックス犬のダニーが飛び上がって厨房の奥に引っ込んでいった。真剣に相談したのに、どこかバカにされた気がして頭がカッとなった。くっく、聞き覚えがあるだろ。卯月の家出騒動の原因と、まったく同じ状況だったんだよ。ただ私は気持ちが前に出た。やつの胸ぐらをつかんで「人が真剣に話しているのに」と詰め寄った。やつはなおも笑っていた。笑いながら言った。「あいつを女として見れねえよ。俺は、俺を頼ってくれる女が趣味なんだ」ってな。頭からつま先まで卯月と一緒だ。だから、私は卯月の勘違いを責められない。無断で出て行ったことは怒ることができたがね。

 あいつは協力してくれたよ。自然に二人きりにしてくれたり、からかい口調で付き合ってしまえと囃したりな。ヒヤヒヤする、きわどいことをしたりもした。・・・・・・だが。ううん。

 ーーわかってる、話すって。急かすなよ。

 だがな、私は由乃に寄っていくことが出来なかった。大学生にもなって好きになった女をどうすればいいのか全くわからなかった。意識してしまってから巧く話せなかったし、距離が近くなるだけでどぎまぎしてしまう。眠れない夜だってあった。中学生時分に通るべき途をようやく辿っていた。いやあ、我ながらアレはないな。女からすれば気持ち悪いか、不審にしか思えないはずだ。八木のあきれ顔ったらなかったな。「ありゃねえよ」、苦笑いで背中を叩いてくれた。全力でサポートしてくれていたのに、それを活用できない男だった。

 だが女は何時だって男の先を行く。

 進展はすぐにあった。

 しびれを切らした由乃があっさり告白してきた。

 いやあ、たまげたよ。「ちょっと来て」って、みんなでギターを弾いている時にいきなり呼び出されて、由乃ん家の台所で「付き合おうよ」だ。

 ーー私か? うなずいたさ。鶏みてえに。うるさいな、いいよ、分かってる。好きなだけ笑え。

 もういい、隠すことなんてなんもない。告白してくれたのは由乃で、私はそれ承諾し、初デートからやつを少女から女にするまで、私が少年から男になるまで、なにからなにまで由乃に引っ張ってもらった。「付き合う事になった」八木とノンちゃんに告げたとき、ノンちゃんは口をあんぐり開けていたな。八木は終始ニヤけていた。種明かしをすれば、いいか、これはうぬぼれじゃないぞ。本人以外から聞いたんだからな。由乃も八木に相談していたんだとよ、私が好きなんだと。言われてみれば、八木のアシストとはいえ、やたら距離が近かったと思ってな。囃したてられても満更じゃない受け答えもしていたし。私は、いわば二人の手のひらで踊っていたことになるのかな。忌々しいが、どうしようもなくおぼこだった私が悪いんだ。文句はグっと飲み込んだ。板挟みになっていた八木がつらい気持ちになっていたんじゃないか、そんなことは微塵も考えなかった。大学に入ってから、私が知っているだけで九人、彼女がいたから。多分水面下には相当な数のキープがあったはずだ。よその学校にも手を広げてたし。

 ーーそれはもちろん、私の魅力・・・・・・と胸を張りたいな。うるせえな。それは自分で説明できん。しない。秘密だ。別に重要な事じゃない。由乃は私に惹かれていた、この説明だけで十分。

 もういい。

 ちょうど同じころ、ノンちゃんの高校受験があった。

 頭が良かったんだ。私たちと一緒に勉強していたから、中学はもちろん高校の勉強にまで手を広げていて、中学の勉強は復習ついでにやっていたぐらいでな。推薦をもらった。八木が蹴っ飛ばした全寮制の高校だった。地方の呼び名が変わるほど遠い場所だ。しかし、ノンちゃんは行くと言ったよ。別に今生の別れじゃないし、とね。

 特に私らが手助けをした記憶はない。いつも通りの日常を送りながら、気付けばノンちゃんは行ってしまった。・・・・・・見送りしたかどうか、憶えていないんだ。片足をプラットフォーム、片足を電車に乗せた背中を見た気がする。由乃に抱きついていた光景がある。だけど、それを自分の目で見たのか、それとも伝聞されたのを脳みそが勝手に映像付けしたのか、区別が付かない。どちらにせよ、印象的な別れではなかったのは確かだ。なぜなのか。いつだって四人一緒だったのにな。薄情な人間だとなじってくれ。ーーありがとう、ちょっとは気を使え。

 一番年下のノンちゃんだけが遠くに行ってしまった。私たちの大学は電車で一時間ぐらいだったから、三人とも実家から通えていてな。そこそこなレベルの国立大だった。学部も講義も、サークルにも入らなかったのも同じ。その中で、いろいろな地方からやってきている人の群に、私と由乃は完全に埋もれた。いいや、違うな。同年代の若者が同じ施設に集っているのがまるで巨大で形のない化け物に見えて怖かったんだ。誰彼の話している内容がわからない。都会に出たときは、人の群が人をしていた。意味が分からないと思うが、そうとしか言えない。大学の雑踏はな、風景と一緒だった。人が話し、跋扈しているというのに、まるで血の気を感じられなかった。熱がないというかな。もちろん若者らしくはしゃいでいるのも居るんだが、どうにも生きた感じがしない。私らの目には風景の一部だった。木や芝生と同じ、そこにあるのが当たり前で、なければ違和感のあるものであっても、人ではなかった。バッタみたいに跳ね回って遊ぶ八木に疲れた私たちは二人きりでいる時間が多くなった。八木と仲違いしたわけじゃないぞ。あいつが泊まりで遊ぶ日以外は一緒に帰って毎日、例のスナックに行ったからな。ああ、この頃はスナックでバイトしていたんだ。由乃は接客、私たちは厨房で。一番若かった由乃は、しかしおっかねえママのおかげである程度は健全な接客をしていた。私は嫉妬していた。ーー笑うところだぞ。実際はなんとも思わんよ。慣れない女の売り方をする由乃を、厨房から八木と二人で笑って見てたんだから。

 結局私と由乃が貝に閉じこもって、一切交友関係を広める事も出来ずに大学も四年目に入った。就活と卒論の地獄が始まった。周りの奴らからは起業しただの、どこそこの大手から内定をもらっただの、履歴書を三十枚も送って面接に一度もいけなかっただの、様々な話題が上がっていた。挑戦をしていた。だが私は、出来上がったばかりのIT起業を見繕って数枚の履歴書を送り、すべてから内定をもらった。当時はITバブルだったから、そういった会社が乱立していたんだ。本当、掃いて捨てるほどあったから簡単に受かると思っていた。事実、その通り内定をもらえた。将来性なんてなかったが、手に職つければいくらでも会社があったからな。もちろん技術者だって使い潰しだが、こちらだって選び放題だった。

 由乃は私の就活成功を、「つまらない」といって不満そうにした。 

 

 

 

 

 



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