生きる運命(さだめ) (にゃんちゅう)
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プロローグ
その日は、朝から穏やかな晴天で、雪道を行くのも汗ばむほどだった。男は、朝早くからの農作業をいったん終え、妻子が待つ家へと向かっていた。 この地では、厳しい冬でも農作物が育つ環境であり、他国の侵略もなく、人々の暮らしは平穏であった。
なぜなら、ここは古くから住む神々が人々を守ってきたからである。だから、人々は、不自由なく暮らしてきた。
男は、家から森に続く何か引きずった痕跡と血の線に気付いたが、マタギが獲物を山から下ろし、自分の家で休んでいるものと男は思った。 先月、知り合いのマタギが子熊を仕留め、手土産に持ってきてくれたので、また見せに来たに違いない。
その時、家の中で飼われている馬が足をふみ鳴らし、しきりに嘶いて暴れる音が聞こえた。見ると、馬が吐く息が辺りを白く曇らせるほどだった。
どうどう、と男は声をかけ、何とか馬を静めようとした。馬はしばらくして漸く落ち着きを取り戻したが、今度は男の胸騒ぎが収まらなかった。
男は家の入口に近づくと蓆(むしろ)を排して土間に入った。雪道を歩いてきた男の眼には、炉に残った薪の炎の色が赤々と映って見えるだけだった。男は、いったん落ち着くために土間におかれた甕(かめ)の水を杓子ですくって飲むと、炉端には八歳の倅が座っていたので、ほっと安心した。男は自分をおど かすためにわざと狸寝入りをしているのだろうと思い、わざと大声で話しかけながら近づき倅の肩を揺すったが、眼を覚まさない。
「いい加減にしろ」
と言いながらのぞき込んだとき急に男の顔がこわばった。 倅の胸から膝にかけて、乾いた血のようなものがこびりついついるのに気がついたのだ。
男は、倅の顔に手をかけ仰向かせた。男の眼が大きくひらかれた。咽喉の部分の肉がえぐりとられていて、血液がもり上がり胸から膝へ流れ落ちている。さらに頭の左側部に大きな穴がひらき、そこから流れた血が耳朶をつつみ、左肩にしたたっている。
男は、倅の顔をはなすと土間の隅におかれた鉞に走り寄っ た。他国の者が金か食物を奪うために家に押し入り、倅を殺したに違いないと思った。男は、息をひそめ家の内部をうかがったが薄暗い家の中に動くものはなかった。
男は倅と留守をしていた妻のことを思い出し、名を呼んでみた。しかし、妻の返事はなく、家の内部に人の気配は感じられなかった。
静寂と冷気が、男の体を重苦しくつつみこんだ。 ただならぬ事態に家を飛び出した男は農作業現場にいる仲間の方へ走った。
途中に点在する家々の窓からは、女や子供が、男の走ってゆく姿を不審そうに見つめていた。
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嵐の前触れ
畑葉が部分的にしおれ黄変していて、葉の端が上側に巻いている。それは、どの畑も同じで、しんなりとした葉が地面の下に向いていた。 大人は、首を横に振った。
もう秋が迫っている。この時期に畑が全滅しているということは村全体に危機がせまっていた。
「お とっつァん……」
声がして、はっと振り返った。
「おらたち、これからどうなるん」
まだ幼い子供にも直感的に、ただならぬ事態を察知しているようであった。その言葉が村集の大人に重くのしかかる。 ただただ、 その問いに答えられず、口をつぐむばかりであった。
その夜、長老を囲んで村の男たちが集まっていた。村の年老いた者・若い者・ そして継ぎの長になる少年、頼邑(よりさと)である。 長老の世話役の女が湯飲みを運び終わり、去ると、
「長老、このままでは村が危うい」
と無精髭を生やした男が話を切り出した。 村の畑に異変が起きたのは半月前ほどである。初めは、一 部の葉が枯れていただけであって、それほど気にもしていなかったのだが、半月もしないうちにそれは 、村全体の畑に広がっていったのだ。
「何とかなりませぬか長老」
その男の顔には、悲痛な表情が浮かんでいる。 誰もが、その男の問いに答える者はいなく、重苦しい空気 が漂う。
「口減らし」
その声にいっせいに皆の視線が呟いた男に向けられた。 男は、下をうつむき、もう無理だ、と言った。
「子らを犠牲にするというのか!」
無精髭の男が口を挟むと
「こうするしかあるまい。我らが飢え死にするよりかは… …」
そう言って眼をつむった。
「仕方のないことだ。いずれにしろ 、子らの分まで飯はない。いや、我らの分すらないかもしれないのに情けをしておる場合ではなかろう」
別の男が険しい顔で言った。
「何を言うか。子らを守るのが我らの務めではないのか」
男たちは、いっせいに双方の意見によって言い争いが始まった。 若い者は、その間に入れず困惑した表情で見ている。どうしていいか分からないらしい。
「これ、静まらぬか」
それまで口を開かなかった長老の言葉に、しんと静みかえる。
「争いは何の種にもならぬ 。我らがまた、一から種を植え 、育てるのじゃ 」
ゆっくりと話す言葉に皆の耳が傾いていき、さらにそれは続いていく。
「これよりはるか地では、作物が豊富で豊かな国だという 。そこでは、冬でも作物が育つ環境だと聞いたことがある。まだ、そこには我らには足らぬ何かがあるやもしれない。それを確かめてみるというのはどうじゃ」
そう言い 、皆を見渡した。 ここにいる全員が長老と意見に納得したが、誰が確かめに行くのかと男たちは胸がざわついていた 。互いに顔を見返すばかりで、いつまで経っても返事をしない。肯定するでも否定するわけでもなく 、咽喉につまったような呻き声が洩れただけが聞こえる 。
無理もない。過酷な旅になることを皆、知っている。 この時代の旅というと街道も宿場も整備されておら ず、食料の調達な困難で、およそ、一般の者が容易に旅を行えるものでなかった。 旅の途中で死ぬよりかはここで死んで いく方がまだいいと考える者までいた。
「そのお役目、 私に任せていただけませぬか」
凜とした声で言ったのは頼邑だ。瞳に強い光を宿した、端整な顔立ちをしている。
その言葉に“おお、 頼邑なら安心だ”と賛同する者が多かったが 、中には、“次期の長となる身を旅に出す わけにはいかない”と、言う者もいた 。
「 ご心配なさらず。必ず皆の元に戻って参ります」
頼邑の強い眼差しを見た長老はため息をつき、
「頼邑よ。やはり、そなたはわしの思いとは裏腹じゃ」
長老も、次期の長となる頼邑を行かせたくはなかった。だが、強い正義感を持つ頼邑なら行くだろうと分かっていた 。
「…………」
頼邑は、眼をそらすことなく、全てを覚悟した。数少ない若い者は、顔をしかめていた。
「頼邑よ。よい、報せを待っておる」
馬蹄の音が力強く地面と一緒になっていく。 寒月が皓々とかがやいている。まるで、数奇な運命がこれから先、せまっているよな予兆であった。
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呪森
暗がりの夜から日の出が頼邑を迎えるように辺りがうっすらと明るくなり始める。それでも、休むことなく走り続けていく。 やがて 、陽はだいぶ高くなってきた。よく晴れて、 大気には秋を感じさせる清々がある。ここも雨がないせいか、砂埃がたっていたが、爽や かな陽気である。
さらに休めることなく、走り続けていくと海原が見えてくる。青い空と海原のなかにくっきりの陽の光が浮かび上がって見えた。
「これが、海というものか」
海を見るのは生まれて初めてのことだ。いつか、長老が海といのは青々とした水は塩辛いと言っていた。海は地平線にのび、それはどこまでつづいているのか頼邑には想像できないものだった。 東へ向かう頼邑に潮風が心地好かった。
そして、海をはなれ、再び景色は森へと変わる。 しばらくすると、右手に寺が見えてきた。境内はひっそりしている。
頼邑は 、馬のアオをとめ、そこから足で歩き、山門をくぐると庵の方に歩いた。ふいに、前を歩いていた頼邑の足がとまった 。庵の前に人が立っていたのである。
この寺の和尚だった。
頼邑の姿に気付いたのか和尚が近寄ってくる。
「もし、旅人のお方であられますか」
和尚は、穏やかな微笑みを浮かべて頼邑を見つめていた。
それから、頼邑は庵の中で茶菓子を馳走になった。
「では、あなたの国ではそのようなことが起こっておりましたか……」
頼邑が旅をしているわけを聞いた和尚は、湯のみを持ったまま虚空な眼で、
「やはり、あの森のせいか」
と、顔をゆがめてつぶやくように言った。
「森」
頼邑が訊いた。
「ここから、さらに山を越えたところに、豊かな暮らしをしている集落があるそうです。その先には、神々が宿る深い森がある。それは、不死の森と呼ばれております」
和尚は、まだ湯のみに虚空にとめたままである。
「その森は、ここから何里ほどでしょうか」
和尚は手にした湯のみを飲まず膳に置いた。
「行こうとするのはやめなされ。その森は、またの名を呪われた森と呼ばれております」
急に声を低くし、眼付きも変わっていた。
「…………」
山の向こうの夕日が辺りを赤く染めていた。カナカナと ひぐらしが鳴いていた。
縁側に虫の音が聞こえる。 夜気が青く澄んで 、十六夜の月がかがやいている。宿無しの頼邑に和尚は、快く泊まることをすすめてくれた。ちょうど、弟子たちの使っている部屋の斜向かいの部屋が空いていたので、そこへ頼邑に好きに使っていいと言ってくれたのだ。
頼邑は、夕餉のときに、和尚が話したことが頭からはなれないでいた。瞼を閉じれば、故郷が脳裏に浮かぶ。もうわずかな食糧さえ残っておらず、餓えに苦しむばかりではなく、 挙げ句、里の宝とされてきた子供まで手にかけようとした。 里の皆の痛みがよみがえったと同時に、和尚の言葉がまるで交差するかのようによぎった。
頼邑の背後に真夜中の寝室にゆるやかに揺れる庭木の影が落ちている 。まるで、気持ちがそこに写り出されているかのようだ。 月は、頼邑の心情を試している かのように雲に隠れてはまた、光を照らし、隠れてい った。
薄らと夜が明け始めた紺色の空に細かい枝葉が影を落としている。秋らしい清やかな風が吹いている。庭にある柔らかい緑が青白く浮かんでいた。
チュン、チュンと鳥の鳴き声が聞こえる。
二羽の鳥が庭先で餌をついばんでいる。
和尚は、頼邑が寝ている部屋に足を進めた。その足は、腰高障子の向こうでとまり 、和尚は障子に手をかけた。しかし一瞬、 時がとまったかのように手が動かない。遠方から聞こえてくる鳥の鳴き声が耳元で聞こえ る錯覚がした 。
がらり、と障子を開け和尚が見たのは、すでに畳まれていた布団とその上に紅葉が置かれていた。
「行ってしまわれたか」
呟くような声であったが、その声は空へと向かって消えていった。
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死ぬ運命(さだめ)
林の中を風と共に駆け抜けていく。途中で白い斑点模様の小鹿が、ぴょんと林からとびだした。小鹿は、アオに驚き 、また林の奥に消えていく。
やがて橋の傍の渓流を渡った。頼邑は支流沿いの道を上流に向かって進むことにした。それから山林の傾斜を登り始めてから時が経ち、いつのまにか西日に太陽が傾き始めていることに気づいた。
……もう陽が 沈みかけているとは。
頼邑は、手綱を強く握りしめ、体勢を低くするとアオはみるみると 速度を上げ、力強く斜面をかけ上がっていく 。せめて、一軒の家でも見つけたいと思っていたのだが、今日は諦めるしかないとみた 。
仕方なく、一晩過ごせそうな場所を注意深く、辺りに視線を配りながら見た。もうすでに辺りは暗闇につつまれているため、あまりむやみに動くことはできない。
どうしたものか、と思いながら少し前に進んでいくと、岩があった。ちょうど座れ頼邑が隠れるくらいの大きさである。
傍にあった枝や葉をかき集め、焚いた。辺りは静寂と して、焚かれた枝が亀裂と共に音をたてる。 静か闇の中で、何かの気配を感じたアオは耳をたてた。頼邑もその気配を感じる。
……人か!
ペタ、ペタとゆっくりと足音が聞こえる。頼邑は火を消し 、腰刀に手をそえ、張りつめた空気の中で息をひそめつめた空気の中で息をひそめる。 ところが、足音がしだいに遠ざかり再び、辺りは静寂が戻った。
「アオ、すまない。ここで待っていてくれ」
そう言い、月の明かりだけをたよりに頼邑は歩き出す。しばらくあるいていると、 目にうつったのは小さな村だった。
……村 ?こんなところに。
小屋の前に人が横たわっている。慌てて、傍に駆け寄り、 肩を揺すろうとしたが、 もう体が硬直していた。それだけではない、この遺体は皮と骨だけになっている。とても人の姿とは思えないほどだった 。 辺りをよく見ると、遺体がいくつも転がっている。心ノ鼓動が大きく鳴る。
そのとき、頼邑の耳にかすかな呻き声が聞こえてき た。それは、小屋の内部から息を吐くような声がする。頼邑は動きをとめた。生きている者がいるということはあきらかである。
その声は、 口からもれる声のようであ った。頼邑は、内部をうかがってから足をふみ入れた。 暗さに 眼がようやく慣れ、入り口に近づくと小屋の中に何が あるか識別できるようになる。
寝間に誰かが横たわっている。声の主は、この者らしい。
「大丈夫か」
頼邑は慌てて駆け寄ると、女だった。
月の光に照らし出された女の体に頼邑は顔をゆがめた。頬はこけ、骨が浮き彫りになっている。
「あんた、誰」
その口からもれるかすかに言葉がでる。
「私は 、旅をしている者だ。この村で何があった 」
女はゆっくり起き上がり、おぼつかない足で歩き出した。
「そんな体で歩いてはだめだ」
頼邑の声に反応した女は、
「もう村で生き残ったのはあたしだけ……。夫も死んで、 きのう赤ん坊も死んだ… …」
女の片腕に布でくるまれたものを抱えたまま頼邑の足元に下ろした。布で包まれていたのは赤ん坊だっ た。
「ここだけじゃない。いくつもの村がなくなった。皆、飢え死にして、豊かだった森は死んだ……。もう何もない… …」
女はうなだれるようにその場に座りこんだ。頼邑は 、うつ 向いたまま赤ん坊を抱え 、女に言った。
「私の村も同じだった。ここまでひどくはないが、それでも答えを求めて」
女は、 ゆっくりと顔を上げる。
「倶にくるか」
頼邑の思わぬ問いに女は口を開けていたが、
「 行けば、何があるというの」
と、すがるような眼で言った。
「それは分からない……。だから無理にとは言わない」
苦々しい顔で頼邑は答えた。 しばらく女は黙っていたが、身をふるわせ、
「あんた馬鹿だね。どうせあんたも死ぬ運命(さだめ)なんだ。そうやって、死ぬことから逃げたって結 局、みんな死んでいったんだ!」
そう言うと、頼邑の腰刀に手をのばし、刀を抜くと自 の首を切りつけようとした。
「やめろっ 」
頼邑は必死に女の腕をつかみ、刀を取り上げようとしたとき、女は頼邑の腕を斬りつけた。一瞬、女の腕から手をはなした隙に女は 、自分の首を斬りつけた。
ビュッという音ともに赤い帯のように血が噴出した。女の首根から噴出した血が驟雨のように頼邑の顔にかかっ た。 女は、その場に倒れこむと、震えながら顔を上げて、
「ありがと……。村にあった鎌は錆びて切れなくてさぁ」
消えるような声で言うと、ガクンと頭が倒れ、もう動 くことはなかった。 頼邑は、くちびるを噛み締め、止めることができなかった悔しさと 悲しみが沸き上がった。
……なぜ、生きようとしない。この女は、ただ死ぬために今日まで生きていたというのか。
やりきれない思いがなお、自分の無力さを思い知らされた 。刀を納め、村を後にしうとしたら茂みから音がしたので 振り返るとアオがいた。
「心配したか、アオ。すまない……。来てくれたのか」
アオは、頼邑の頬を舐めた。まるで、頼邑の心境を理解したかのように。頼邑は、 さっきの女の言葉を思い出した 。
『 死ぬ運命なんだ』
山間から日の出が見え始める。
「夜が明ける」
頼邑の眼に眩しい光が映えた。
……死ぬ運命(さだめ)などない。生きる運命(さだめ) があってこその死がある。
「行こう、アオ 」
チラッと村を見た後、再び出立した。
その後、飢え死にでなくなった村に唯一、ここだけ墓があることを人が知った 。
シリアスな話になりました。
次回くらいは、ちょっと明るい部分も出してみようと思います。
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霧深き幻の里
頼邑は初秋の陽射しを浴びながら旅を続けた 。その十日 間の経験で、陽射しを浴びながらの旅は疲れることを知ったのである。山をおりたところで、頼邑はそれとなく背後を振り返って見た。何かの気配を感じたが、それらしい人影もなかった。
「いや、まさかな… …」
そう小声で言った。
山をおり、人里に向かうには川を渡らねばならない。川には橋が架かっておらず、自力で渡るしかないようだ。幸い 、このところ雨が少なかったせいか 水量がなく、難儀せずに川を渡ることができた。
もう、川を渡れば人里は目の前である。 頼邑は人里に入る前にもう 一度、後ろに眼をやり、尾行者らしきのがいないか確かめたが、姿はなかった。
これから人里に入るため、アオを連れ、道を歩いていると、 向こうから人がちらほや見えてきた馬子や商いを 生業う人であふれている。 初老の親父が、 茶道具を持って、
「お煎じ物ーお煎じ物っ」
と呼びかけをすると、まるで合図のように人がどこからか集まり、茶を頼んでいた。 この時代は、茶道具を持ち込んでの立売が基本で店を建てた茶屋はなかった。
頼邑も、その茶売りに寄り、茶をすすいでくれた初老の主人に話を聞いてみた。
「不死の森に何か知りませんか」
ここ数日、手かがりをつかめずにいたので少しでも手かががほしいと思っていた。
「旅人かね」
主人は、眼をしょぼしょぼさせながら訊いた 。
「はい」
「 じゃあ、分かんねぇはずだ。不死の森は、 あそこの手前にある森よりずーっと奥にある 。そんで、おめぇさん 。そんなこと訊いてどうすんだ」
主人は首をひねった。
「その森と共に住む里があると」
「月霧の里のことか 」
主人の話によると、月霧の里は、またの名を霧深き幻の里とも言われるそうだ。月霧の里は、不死の森に近い場所にあり、古来から住む神々の力で作物をよく育ち、人々の暮らしは豊かだという。
しかし、半年以上前に熊が人を食い殺すという恐ろしい出来事が起きたと言った。今まで 、熊は人を襲うことはなく 、まして人里に下りてくることはなかった。 その出来事が起きた日から、畑に異変が起き 、人々の暮らしは苦しくなっていったという 。
「みんな、祟りじゃないかぁなんて妙な噂がたって余所から来る連中が興味本意で森に入って帰って来なかったなんて話もある」
そこまで、話すと商人らしいふたり連れが入って来たので主人は頼邑からはなれた。
この地で明らかな異変が起こったためにその影響が自国の里に及ぼしたのかもしれないと思った。
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謎の二人組
里の入口の杉林に入ってほどなくしたときだった。頼邑は 、背後から歩いてくるふたりの男に気づいた。男が途方からふたり歩いている。川を渡る前からの気配はこのふたりだったのかと直感した。
……私をつけているのか 。
だが、ふたりは頼邑に近づくとわけでもなく 、一定の距離を保ち襲ってくる気配はない。 ふたりに尾行されているような気がしたが、 それにしては、身を隠さず、普通に歩いている。
しばらく、振り返るのをやめ、 先に進んでいたが、また振 り返って見たりふたりの姿はなかった。途中にあった横道に入ったらしい。 やはり、気のせいだったようである。
近くに川があるのか汀に寄せる川波の音と枝葉を揺らす音だけが聞こえていた。 陽は山の向こうに沈み、樹陰に淡い夕闇へと変わる。
霧が辺りを覆い、視界が悪くなってきた頃、 前方に畑や町家が見えてきたとき、背後にかすかな足音がした 。
ヒタヒタと跡をつけている音である。頼邑は振り返った。月光の中に人影が見える。ふたりいた。脛が夜陰に白く浮き上がったように見えた。
……あのふたりだ。
杉林に入った頃、眼にしたふたりである。ただ、そのときと違ったのはふたりとも脇差を差し、草鞋をはいていることだった。 ふたりの男は、 小走りに近寄ってきた。
その姿には殺気があった。 他に人影がないので頼邑を狙っているようだ。狙われた覚えはなかったし、 追剥ぎにも見えなかった。頼邑は、 アオからおり、ゆっくりとした歩調で歩いた。恐れはなか った。相手はふたりだが 、身なりは町人である。遅れをとることはないはずだった 。
頼邑は足をとめ、アオを背にして立った。 見ると、ふたりの男の双眸が夜陰に白くひかっていた。野 犬を思わせるような男たちである。
「そなた等、何者だ」
頼邑が誰何した 。
ふたりの男は”ここから去れ “とつぶやく。 その言葉に 頼邑は、
「里の者か」 と訊いたが、男たちはなお、“去れ、 去れ” と同じ言葉を繰り返すばかりだ。
すばやい動きで頼邑の左右にまわり込み、腰の脇差を抜いた。 少し前屈みの格好で、脇差を構えている。ふたりの脇差が月光の反射でにぶくひかった。 短い抜き身が頼邑の眼に野獣の牙のように映った。
「やむを得ぬ」
頼邑も抜いた。 頼邑の顔が引き締まり、双眸がひかっている。頼邑は左手にいる顎のとがった男へ切っ先を向けた。もうひとり、右手の小柄な男も視野に入れている。
ふたりの男は 、脇差を前に突き出すように構えていた。剣術を修行した者の構えではないが、一撃必殺の気魄がある。
ふたりはジリジリと間介をせばめてきた。 獲物に迫る野犬のようである。
……初手は右手の男。
と頼邑は読んだ。
ウワッ!
ふいた、右手の男が喉のつまったような気合を発し、踏み込みざま青眼に構えた頼邑の刀身を弾こうと脇差を水平に払った。 と、 右手の男が、脇差を水平に構えたまま体ごと突っ込んできた。頼邑の脇腹を突くつもりだ。
頼邑は体をひねりざま、その切っ先を揆ね上げた。 すばやい太刀捌きだった。頼邑は右手の男の斬撃を読んで いたのである。
キーン、という甲高い金属音がひびき、夜陰に青火が散った。 小柄な男の脇差が揆ね上がり、勢いあまって体が泳いだ 。間切っ先 が男の肩口をとらえた。肩口から血の線が吹く 。
ヒッ、と悲鳴を上げ、男は後じさりし 、恐怖に顔をゆがめた。脇差が大きく揺れている。 まだ脇差を手にしていたが構えられないのだ 。顎のとがった男の顔にも驚愕と恐怖の色があった。
旅人の頼邑が、これほどの遣い手と思っ ても見なかったに違いない。ふいに顔をゆがめ、手にした刀を足元に落とした。
「か、堪忍してくれ。 命、命だけは」
ふたりは、声をふるわせて言った。
頼邑が、剣術が強いということが分かるシーンです。
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月霧の里へ
「なぜ、私を襲った」
頼邑が鋭い声で訊いた。 ふたりの男は答えず、恐怖に顔をゆがめたままだ。頼邑は納刀し、荷物から、行李から晒や貝殻につめた金創膏などを取り出した。 小柄な男は、怪訝な顔をしているが、かまわず頼邑は、小 柄な男の着物を裂き、金創膏をたっぷり塗った油紙で傷口を押さえ、晒を幾重に巻いた。
「情けなどいらねぇ……」
と、 憎まれ口を叩いたが、抵抗することはなく、 頼邑をじっと見ていた。
「しばらくすれば血もとまるだろう」
骨や筋に異常はないので傷口さえ塞がれば心配ないはずである。
「 可笑しなやつだ」
そう言葉を洩らし、視線をおとした。
それにしても、どう訳あって頼邑を襲ったのか分からない 。恨みを買うような覚えもないので、もう一度訊いてみた 。 すると、顎のとがった男が、
「話せば長くなる」
と、小声で言った。
「話す前に我らの里 へ案内しよう」
と、頼邑の背を向けた方向に眼を向けた。
その道は、霧と闇に覆われていた。
あちこちから、子供の泣き声、叱りつける女房の甲高い声 、亭主の怒鳴り声などがやかましく聞こえていた。
頼邑とふたりの男が路地木戸を通ってひときわ大きい家屋の戸口からバタバタと駆け寄る複数の足音がした。
「伊助ー」
と呼ぶ声がすると、わらわらと人が集まってきた。
「伊助それ、どしたんだ」
里の人は、伊助の姿を見て驚いたように眼を剥いて訊いた 。 伊助は、言いづらいのか逡巡としている。まさか、襲った相手に助けられたとは、自尊心が崩れる。
「すまない、その傷は私がやったのだ」
「ちっ、ちげぇ。い や間違っていねぇ。でも、これには訳があんだ」
伊助は、慌てた口調になる。 ふたりの会話に無精髭を生やした男が、頼邑の前に歩み寄り、突然、胸ぐらをつかんできた。顔が怒気で赫黒く染まっている。
「ん?よくここに来れたものだな!それとも 罰を受けに来たというか」
恫喝するように言った。 一瞬にして、場の空気が重くなり 、女達、特に子供がひどくおびえていた。慌てて、伊助は、無精髭の男の手を払った。
「やめろ、この方は、おれの傷を手当してくれた。それでいいだろう」
怪我を受けた本人に言われてしまっては、いくらか高ぶった気持ちが落ち着いた。それでも、どうも腑におちないのがあった。
「分からん。襲った相手をなぜ手当てをした」
と眉間にしわを寄せ、咎めるような視線を投げつけた。 なぜ、 襲った男が伊助を助けたのか皆目分からない 。男は、この旅人が戯れ言を言ったにしか思えなかった。そう思うと腹立しくなってきた。
「訳の分からぬことを。わしを愚弄しておるのか!」
無精髭の男の顔が油に火を注いだように憎怒にゆがんだ 。
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伊助の真意
「やめぬか。治丘衛(じへい)」
あのひときわ大きい家屋の戸口が、がらりと開き、中から老人がでてきた。面長で顎がとがって、頬が痩けている。 一見、落武者みたいであった。 治丘衛とは対称に武芸などには縁のない体つきだったが、 頼邑にむけられた細い眼には能夷らしいものがあった。
「旅の方よ、無礼を赦せ。伊助が世話になったな」
そして、付け加えるように、
「客人をもてなしおやり」
そう言い残すと、自分は帰って行った。
「客人?この男が」
治丘衛は眼を丸くし、キョロキョロとした。 頼邑は、治丘衛に案内してもらうことにした 。その間、 治丘衛は、何かとぶつぶつと小言をしていた 。 女、子供 は珍しい客人の頼邑に好奇の眼で後ろ姿を見送っていたが 、やかて、ひとりふたりとその後をついていった。
その日の夜、頼邑のために宴が開かれ、男たちはここぞとおいて美味の酒を持って宴が行われる場所へ、ぞろぞろ集まってくる。 そこでは、男たちの笑い声が絶えない。その中に伊助の姿もある。怪我しているので伊助は 、酒はひかえ、飯だけにした。肩口の傷のた めである。
「さぁさぁ、頼邑どの。遠慮せずに飲んでくだせぇ」
そう言って頼邑のお猪口に酒をついだのは平八郎だ。 平八郎は、三十 六歳。あの伊助と酒をくみかわすほどの仲なので手当してくれた頼邑に、
「伊助の命の 恩人と一杯やりてぇ」
と言って、家から酒を持ってきたのだ。 平八郎は酒好きで、何かにかこつけては飲みたがるのである。
「にしても、伊助。とんだ阿呆だな」
「おれも聞いてあきれた。こんな話もあるんだな」
なぜ、 伊助が怪我を負ったのか伊助自身が、 事の成 り行きを話した。襲った相手に助けられたことを聞いたものだ から、おかしくて中には、 ひ っくり返るほど大笑いをしている者もいる。
「だってよ!頼邑さまが、あやかしかと思ってよ」
伊助は、口をとがらせ、拗ねるように言った 。 伊助は、最初は頼邑どの、と呼んでいたが、 頼邑さまと 呼ぶようになった。
「私が、あやかしに見えたのか」
予想もしない言葉に頼邑は驚きを隠せない。
「そりゃねぇだろう。頼邑どのが、あやかしなら伊助は 貧乏神だな」
平八郎が、伊助の顔を覗きながら言った。
「その言葉は、そっくりお前に返してやろう 」
平八郎こそ、酒臭い息をし 、だらしのない格好になっている。肩まで伸びた総髪が乱れてくしゃくしゃになっている 。 顎がしゃくれ、頬が肉を抉り取ったようにこけている般若のような顔が、貧乏神のようである。
「そいつはいいゃあ」
男たちは高々と笑い声を上げた。
「伊助どの、先の言葉の意味を教えてくれ」
笑いの中、頼邑の声に振り返った伊助は、思い詰め たような表情があった。
「それは、狐の化け物のせいだ」
平八郎が、しゃっくりをしながら言った。
「狐の化け物」
すると、脇にいた伊助が、
「馬の丈ほどある、でけぇ狐でよ。尾がいくつも生えてるんだ。人里におりて来なかったのに、ここら最近、現れるようになったんだ 。悪さもしねぇから、気にもとめていなかったんだが、ついに人間を食い殺した」
と、言い添えた。
「食い殺した のは熊だが、狐が従えてるってんだ。それより、厄介なのが人間が俺たちを殺そうとしてる」
お猪口を手に持ちながら、
「その人間は、恐ろしい力を持っている。おぞましい力だ 。巫女みてぇな力で、名は「覡 」(かんなぎ)という」
頼邑の横に座った、吉之介が言った。
頼邑よりさほど、歳が変わらないように見える。
「だから、伊助は見なれず、そなたを狐の類いだと勘違いしてしまったのだ。すまぬことをした」
伊助の代わりに吉之介が、詫びを入れてきたが、重いひびきはなく軽く聞こえた。 頼邑は、それには何も答えず、
「伊助どのは、川を渡る前からずっと私をつけておられたか」
と、伊助に言った。 すると伊助は、首をひねった。
「 おれがつけてきたのは、杉林のとこからですよ」
「本当か」
てっきり、川を渡る前からつけられているとばかり思っていた。あのとき、確かに気配はあった。
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おまかせ娘たち
腰高障子が、朝陽にかがやいていた。 晴天のようである。陽射しのかげんからみて朝餉ごろであろうか。家々のあちこちから、子供の泣き声、女房の子供 を叱る声、笑い声が聞こえてきた。いつもの騒々しい朝である。
伊助は、大きく伸びをして立ち上がると、シワだらけの着物をたたいて伸ばした。 昨夜の宴のあと、面倒なのでそのまま眠ってしまったのだ。
「顔でも洗ってくるか」
伊助は手拭い腰にぶらさげ、小桶を手にして戸口から 出ると井戸端へ向かった。
「おい、伊助」
井戸端の方へ歩きかけたところで背後から声をかけられた 。 振り返えると、平八郎が下駄を鳴らして近づいてくる。伊助と同じよう に手拭いを腰に下げ、手に桶をかかえている 。やはり、顔を洗いに行くようだ。
「その寝ぼけ眼を見ると、昨夜はだいぶ飲んだな」
伊助は、平八郎の顔をのぞきながら言った。
「いい男と共に飲む酒は進むものよ」
平八郎は、伊助と肩を並べて歩きながら言った。
「いい男ってのは、頼邑さまのことか」
「どっちもだ」
どっちもとは、自身のことだろう。こいつほ ど、図々しい男はいないと思った。 井戸端に行き、伊助と平八郎が顔を洗っていると、後ろからくる下駄の音がし 、話し声が聞こえた。
里の娘、お花とみねという娘である。ふたりとも十五・十 六で、ともかくよくしゃべる。
「お花ちゃん、知ってる。伊助さんのこと」
みねがお花に身を寄せて訊いた。
「知ってるわよ。伊助さんが襲って返り討ちになって助けられて、旅人の方がここまで運んでくださったそうね」
お花が眼をひからせて言った。
「それにしても、まぬけな話よね。襲った相手に助けられるなんて 」
「ねぇ、それでね。その旅人の方が男前でね 。その顔を見た子が、のぼせ上がって何か話しても上の空らしいのよ 」
「ほんと? そんなにいい男なの」
みねが足をとめて訊いた。
「私は、まだ見てないけど気品のある顔付きで優しい声と 、時々見せる笑みがたまんないらしいのよ」
「えー」
みねが眼を丸くし、ビクンと背筋を伸ばした 。
「うちの里の男とは、月のすっぽん」
「うちの里の男は、底辺の吐きだまりよ」
「そうね 、比べることすらおかしいわ」
お花は今度は両手を握りしめ、体と一緒に上下に振っている。
「ねぇ、今も里にいるの」
みねが訊いた。
「いるわよ。伊助さんの家の斜め向かいの空き部屋に」
「行ってみない。顔だけでも 見たいの」
「いいわよ、いいわよ」
みねが 早く水を汲まなきゃ、と言って、井戸端にい た伊助と平八郎にやっと気付いたのか慌てて鶴瓶を手にした。
「な、な、なんだ。あのふたりは」
平八郎が毒気に当たったような顔し て、井戸端からそそく さと去って行ったふたりの娘を見送っている。
「若い娘たちは、頼邑さまが気になるようだな」
伊助は苦笑いを浮かべながら言った。
「それにしても、俺たちを底辺の吐きだまりと言ったぞ 」
平八郎が苦虫を噛み潰したような顔をした 。 伊助はその表情を見て、頼邑と比べられてしまったら何も言い返せないのではと思った 。 男から見ても頼邑はいい男で、剣の腕も見事なものは身を持って体験したので、本当にいい男だと思った。
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