ねーさま、ヨロシク!-桂木エリふたたび- (北河まき)
しおりを挟む

FLAG±00 Wheel of Siblings
兄を追いかける妹


 時は過ぎ去り、舞島市で半世紀以上昔に建ったショッピングモール・イナズマート。薄い肌色の外壁は十年前に増築された立体駐車場の近辺が一番明るく、補修改修による塗りの違いがまだら模様を描く。おまけに建物の隅では目立たない細長いひび割れがのたうちまわっていた。

 正面の中央に出入り口があり、その脇をサマーセール開催の幟が並ぶ。平日の駐車場はまばらで客はなるべく近くに車を停め、そそくさと中へ入っていった。寂れた外観を眺めて舞島の歴史を気に留める人は既にいない。7月初めの風が吹かない午後。揺れることなく旗は新しい訪れを出迎えた。

 出入り口の自動ドアがゆーっくりと開き、セーラー服の少女が慌てて飛び出した。駐車場まで来て真っ直ぐ、勢いそのままに白いスニーカーが車止めを四つ、五つと飛び越えていく。

 右足を踏んばって植え込みへジャンプ。スカートの裾を枝に引っ掛けても気にしない。前に流れる体勢に「よっ」と腕を前後に突っ張り、歩道の上で一息ついた。途端に、右へ左へと首を振る。『新舞島駅2㎞』と書かれた下に橙色のリュックを見つけ、また走り出した。

 

「おにーぃーちーゃーん、待ってよーー」

 

 兄は広げた雑誌に左から右へじっくりと眼を動かし、頭を傾けたまま歩を進めた。目当ての占い月刊誌はイナズマートの書店には二冊しか置いてなく、発売日は二週間前だった。棚で残っていた一つを手にしてすっかり有頂天になった。部屋まで持ち帰ることにした1cmの厚みがある本。今はもう読まれ、包んだ紙製の袋がどこにいったのかは開けた本人も分からなかった。

 ふと、彼は雑誌から顔を上げた――さっきから誰かに呼ばれているような気がする。

 

ピッポー、ピッポー、ピボッ

 

 歩行者用信号の音が途切れ、前方で青色が点滅を始めた。頭を覆ったキャップを回避するかのように地面から横断歩道の白線で反射する太陽に眉をひそめた。信号横は立ち木が植えられ、根元のまとまった日陰にリュックを下ろして500mlのペットボトルを取り出して封を開けた。

 スポーツドリンクに口をつけ、あらかじめ用意した自分の行動に満足する。イナズマに向かう途中のコンビニでお釣りを数えて直前に袋を受け取り、千円札が支払われて店員に愛想なく、レジに置いた商品にそっと横からおにぎりを妹が……と、ようやく声の主を思い返し、彼は後ろの方向に目を凝らした。

 

「待ってよー」

 

 声を張り上げた少女がこちらへ駆け寄る光景に頬を緩め、帽子のつばをずらして額を掻いた。

 学校、公園、神社、竹やぶ、……と妹が後を付いてくる。色んな場所で繰り返された行為は二人の日常に根を張り、今日も彼女は施設から一人でやってきた。

 彼女はだんだんと近づいた。その姿に比べてモールの入り口は大分と遠くに見え、そこに立てられた看板は色だけが場所を示す。後方から来た車がスピードを落とさず、あっさりと彼女の側を通過した。彼は交差点を気にかけるのをやめ、雑誌に視線を落としてしばらく待つことにした。

 

 

 妹は手で空気をかき、やっとこさ兄のところにたどり着いた。涼しい顔の彼から閉じた雑誌を片手に迎えられるが、顔が紅潮した彼女は答えを返せなかった。前屈みになって膝に手をつき、肩で息をして呼吸を整えていった。太陽は高く昇り、経年によって道路の表面をも劣化させる。少女の腕や首回りに汗が光った。

 呼吸が少しラクになり、気づくと彼が後ろを向いてしゃがんでいる。鼻の奥へ空気を吸いこみ、嬉しそうに無防備な背中へ飛びついた。

 

「追いついたよ、お兄ちゃん」

「ねえ、ちょっと離れてくれるかい」

 

 突然の体当たりと首筋へのベタベタした感触にも大して驚かず、兄がゆっくりとリュックを閉じて日の当たる方へ立ち上がる。反対に、背中をずり落ちる妹は木陰で地面に足が着いた。

 取り出したタオルで首を拭く兄の様子に、少女は顔の前方へ両手を持ってきて手首をくるくると回した。それを彼から放り投げられ、空中で広がってあたふた。そんな彼女にペットボトルが差し出された。

 

「汗をちゃんと拭くんだよ」

「うん」

「はいこれ、飲まないと熱中症になるから」

「うん、オッケー」

 

 タオルを広げて顔を一拭き。僅かに減ったスポーツドリンクを受け取り、彼女は一気に飲み干した。制服の袖口から手を入れて背中を拭こうとするのを横目に再び雑誌が広げられた。もはや兄が手伝わなくてもさほど困らない。母親が死んだ病院でわんわん泣いていた少女は大きくなり、身の回りの事を自分でやるようになった。

 拭き終わったタオルを首に引っ掛け、妹はページをめくる彼の手元を覗きこんだ。

 

「お兄ちゃん、何読んでるの」

「イナズマの本屋で買ったやつさ」

「わたしがソフトクリーム食べてる時、これを探しにいったの」

「そう。今日はラッキーだったよ」

「……なんで帰っちゃったの」

「やっと買えたんだし、早く読みたいでしょ」

「…よ」

「何か言った?」

「ひどいよ。わたしのこと忘れてっ!!」

 

 ヘソを曲げた妹が木の傍らで俯き加減にペットボトルを両手で掴んだ。兄の視線は宙を泳ぐと、そのまま今日の占い欄へ。ラッキーフードの項目に『コーヒー』の文字が目に入った。

 頭上を伸びる枝に遮られた陽光は少女の体へ斜めに差し込んで足元を照らした。彼は静かに雑誌を閉じ、彼女の前で下から急にパッと振り上げた。驚いて顔を上げた妹に腰を屈めて目線を合わせた。

 

「何か食べていこうか。お腹すいたんじゃない?」

「コンビニでおにぎり食べたからいいよ」

「一緒に来れば大好きなチキンを食べれるんだけどなぁ」

「へーきだよ。すいてないもん」

 

 妹は両手を背中にまわして顔を背け、ご機嫌取りに乗らないように聞こえないそぶりをした。

 突如、兄が腰を伸ばして胸のポケット辺りで何かを手に取った。彼女はおもむろに左手を口の前へ持っていき、あくびを小さくした。耳をそばだてるも無言の手先に音はなかった。薄目を開けてスマホを発見。思わずハッと声を漏らし、口元を隠して瞳が慌てた。

 

「エリ、ここに行こう!」

 

 兄が目の前に出した画面でコーヒーの絵柄と価格表示の天地がひっくり返り、妹は不思議そうな顔。指をトントンされ、カップが大きくなって少女は目を丸くした。

 

「なに、なにこれ…」

「これでコーヒーの支払いをするんだよ」

「え、お金は……」

「その代わりになるの」

「へー、便利ね」

「駅前に新しくできたんだ。二階にオープンテラスもあるよ」

「それって喫茶店?」

「それは行ったらわかるさ」

「う、うん」

 

 一抹の不安とともに新しい行き先への期待が膨らみ、兄を見上げた。そこへ手が伸びて軽くポンポンと白いキャップがかぶせられる。妹の温まった頭部はすぐに冷静さを取り戻し、自由になった彼女の手元に注意を向けさせた。

 早速、雑誌を仕舞った少年。彼はリュックの肩紐を持って勢いよく背負った。幹にぶつかり、枝が揺れても気にしない。道路上の白と黒の縞々をセットで一歩ずつ越えていった。

 残された少女は右手に持ったペットボトルを捨てる場所を探して周りをキョロキョロした。

 

「あ、待ってよー」

 

 横断歩道も終わり、妹は車道と歩道の段差をスキップで乗り越えた。小走りで兄に追いつき、足元を見ながら前に出す足を揃えようと悪戦苦闘して苦笑い。キャップの後ろを押さえてつばを少し浮かせ、額にかざした手の下から進行方向を見渡した。

 

「この辺りって色んな店があるんだ。都会だわ~」

「舞島はまだまだだよ。鳴沢は高いビルが多いし、イベント会場もあってね」

「へぇー、すごいや」

 

 兄と妹はいつも通りの何気ない会話を交わし、舞島の新駅へと延びる道筋を歩いた。あくまでも容赦なくギラギラと照りつける太陽の下、熱を帯びた地表を二人は進む。ともすると人の心に入り込んだ悪意が満ち溢れる現在。それに対抗する風は吹くのだろうか。

 肩を並べる兄妹が向かう一本道の先に待ち受けているセカイはいかに――

 




―― 次章予告 ――

舞島市の桂木家で暮らす彩香。独身生活を謳歌する彼女だが、父からの見合い話を断りつつ他人の幸せに嫉妬した。前を通り過ぎたエリたち兄妹にも勘違い。彼らの後ろを歩いて… ⇒FLAG+01へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+01 シットから始まる物語
のんきな孫はバイク乗り


―― 前章までのあらすじ ――

セーラー服の少女はショッピングモールを飛び出し、歩道に兄の背中を追いかける。
信号待ちをしている木陰にたどり着き、置いて行かれたことに頬を膨らませた。それでも、兄から新しくできたコーヒーの店へ誘われると、嬉しそうに付いていく。
兄妹は7月初めの太陽に照らされ、新舞島駅へ向かって並んで歩いた。
舞島市の東に広がる市街地。住宅の路地から気ままなエンジン音が聞こえてくる。



 人口15万人を超えた舞島市は中心市街の商業施設が年々新しくなり、IT化が完成して全ての都市インフラはネットワークで結ばれていた。それでも、隣の鳴沢市に比べてまだまだ田舎の地方都市。在来線の沿線は相変わらず閑散とし、市街地を少し離れると田んぼが広がる。

 平日にもかかわらず交通量が多い新舞島駅の通り。歩道脇では夏の日差しを受けてガラス越しに数台のスクーターが並び、建物は二階に『寺田モータース』と大きく店名が掲げられた。

 店の奥で女性は両腕を上へ伸ばし、他人がせわしなく働く日にとれた休みの解放感に浸った。

 

遠くどこからか女の子の声が聞こえてくる。

この近くで遊んでいる子供かしら。

午後の時間が自由に使えるっていいわね。うーん、久しぶり。

思いきって伸ばした体はそこかしこがカターイ。

もう三十路、めんどくさい事はもう結構。

 

 イナズマートで夕食の材料を買った帰りに親戚が経営するバイクショップへ。おじさんは外出中で、息子にガレージでエンジンを診てもらっている。事務所は冷房のおかげで涼しい。ドアを閉めるとすぐ汗が引き、契約カウンターにレジ袋を放って反対側の窓際に来た。ここならジャケットをガレージに置いてきたけどちょうどいい温度。

 通りに面した窓はすべてガラス張りで隅に低いテーブルと椅子が置かれた。彼女が椅子に座って組んだ足を抱え、道路を眺めるとバスが音もなく通り過ぎていった。今の時代は二輪、四輪にかかわらずEVが主流であり、路線バスは排気ガスを出さずに静かに運行した。

 手持ち無沙汰になり、テーブルに置いてあった販促用うちわを片手にうろつく。ひっそりとした事務所で棚からバイク雑誌を取って戻り、一ページめくっては最新のモデルに目を通しつつ右手のパタパタを繰り返した。腰のポーチからスマホを取り出して気になる型式をパチリ。一応、メール等を確認するも、父からの同じ男性を薦めるメッセージの山に辟易してすぐに仕舞い込んだ。

 すると、ガレージから入ってきた作業着の男性が正面にドンと座った。整備をする油臭い彼・純一は舞島で一番気が合う。中肉中背だが腕っぷしが強く、山道のツーリングに欠かせない。

 

「ブレーキパッド減ってるけど、ついでに交換しときます?」

「もう減っちゃってるのね。じゃあ、頼もうかな」

「彩香さん、自分でメンテしてないんすか」

「う~ん。いろいろ忙しくってねー」

「へー、会社員っていいっすね」

「まだ契約社員よ、契約」

 

 彩香は伯母の芸能事務所に雇ってもらって三年目になり、毎週土日は決まって時間が取れた。けれど、慣れない仕事でストレスを受けるせいなのか、フリーター時代と違ってなぜか少しもやる気が起きなかった。

 この店にも今年になって初めて。だから純一の顔は半年以上ぶりに見たことになる。店内が模様替えされたような気がして周囲に目を配り、テーブルの脚に引っ掛かっていた冊子を見つけて拾い上げた。表紙は舞島出身のアイドル・Masamiが飾り、つまんで彼へ向けて振り回した。

 

「まーだ、Masamiの追っかけなんかやってんの」

「あっ、それ探してたやつ…。ちょっと、変なとこ持たないでくださいよ」

「私がサインもらってきてあげようか」

「マジっすか。この前、おばさんが『毎日パソコンとにらめっこ』って言ってたんすけど」

「えっ、母さん来たの」

 

 母の来訪を聞いた途端、父からのメッセージが頭をよぎり、背筋にイヤな汗をかかせる。純一はそれを打ち消すように母が舞島市に来た理由を報告した。

 

「お姉さんのところですよ。下の子ってもう中学生なんですね」

「そう、お姉ちゃんの家に……」

 

 相手をせずに済んでホッとする。父の見合い話をことごとく無駄にしてきた彩香には元より母と合わす顔などないが、来た時ばかりはしおらしく嫌味を聞く義務が発生した。

 知らない間に厄介事が片付いて自然と機嫌も良くなった。こうなると姉の苦労も他人事だ。

 

「ほんと、お姉ちゃんも子育て大変ねー」

 

 低い背もたれに体を伸ばす仕草に、彩香と付き合いが長い純一はその本音を見透かしていた。

 

「私にはまだ先の事だって言ってるように聞こえますけど」

「あんたはどうなのよっ、純一」

「俺の心配なんかしてていいんすかぁ」

「うわー、生意気なヤツ!」

 

 手に持つうちわで純一の眉間を指して悪態をついた。いつの間にか家族の話になり、彼はテーブルに両肘をついて手を組み、正面のそばかす女を見据えてニヤニヤした。こうして、純一とはいつも自分のことを棚に上げて他人の話で盛り上がるのだった。生来、物事を深く考えない彩香は目の前にいい人が現れないかと漠然と思っていた。身近に変わりない同世代の彼がいることが安心感をもたらす要因とも言えた。

 彩香は中学生から鳴沢市の実家を出て今は亡き曾祖母の家で世話になり、死後もそのまま住み続けた。三歳下の純一は弟のような存在であり、周りが結婚していく中で相手がいないのはこの二人ぐらい。早くに結婚して子どもを育てる姉も舞島市に住み、ときどきやってくる母は孫に関心が移りつつあった。

 ジーンズの膝を叩いて笑った彩香がポニーテールを揺らした。バイクジャケットを脱いだのを忘れ、Tシャツの半袖から出る白い肌に窓から刺す強い紫外線を浴びた。彼女は一人で毎日のほほんと暮らし、日常の細かい変化に気がつかなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

光の射す窓へ

ガラガララーン、ラーン

 

 入り口の鈴が音を立てて静かに事務所のガラス扉が開いた。髪が内巻きに毛先がくるっとした女性が顔を見せ、彩香に向かってペコリと頭を下げた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 入り口へ振り返った純一と手でコミュニケーションをとって奥へ入っていく。スーツを着た彼女はどこかの会社員のようであり、とてもバイトを雇ったようには見えない。女性が気になる彩香をよそに純一は雑談を再開した。

 

「彩香さん、今年も舞島レディースは出ないんですよね」

「あぁ、ちょうど仕事が外せなくてさ」

「この前木梢町まで行ってきたんですけど、みんな寂しがってましたよ」

「どうせ陰口のオンパレードでしょ。口が悪いんだから紗世とか」

「そういや、また新しいマシンに変えるそうです」

「フン。夫婦仲良く共働きだといいわね。こっちは服を買う余裕もないってのに」

 

 自分のことに無頓着な彩香も、他人の充実した生活にはすぐさま愚痴が口を衝いた。お決まりのぼやきを無視し、純一はテーブルに身を乗り出して声を潜めた。

 

「親父も心配してますよ。まだ体調悪いのかって」

「あー、大丈夫って言っといて。ほんっと大丈夫だし」

「でも本当は…」

 

 急に黙った純一の視線の先、女性がお盆にコーヒーが注がれたカップと皿を乗せ、カタカタとさせて現れた。彼女はテーブルの端から「ど、どうぞ」とぎこちなく差し出した。そして、純一に耳元で何かを囁かれて手で口を押さえて頷いた。彼の隣に空いたスペースへと腰を下ろし、お盆を椅子の横に立て掛け、彩香の方を向いて姿勢良く膝の上に両手を置いた。

 

「初めまして、田辺遥です。鳴沢市の出版社に勤めてます」

「実は、俺たち結婚するんすよ」

 

 雑談のノリで話す純一に彩香は冗談とも本気とも分からず驚いて口を開いたままに。一方で遥は少し緊張した面持ちで話を続けた。

 

「その、以前ご自宅にお邪魔させて頂きまして。おかげさまで――」

 

 長々と話した彼女の馴れ初めは彩香の耳にほとんど入ってこなかった。頭で同じセリフが堂々巡りした。

 

「いつから婚約者が……」

 

 彼らの笑顔も想定外の驚きに湧く嫉妬は悪意をもって迎え、さっきの余裕ある純一の態度に腹が立ってきた。彩香は落ち着かない気持ちで置かれたコーヒーへ手を伸ばす。指が当たったカップの側面は熱く、手を引っ込めてTシャツの袖口をさすった。すかさず、遥は目を留めた。

 

「あ、冷房がちょっと効き過ぎですよね。彼って暑がりだから」

「えぅ…。わ、わたし、お手洗いに行ってくるわ」

 

 親切な気遣いにも彩香の口調は慌てる。これ以上ボロを出さないように、できるだけゆっくりと席を立った。動きの鈍い体よりも混乱した頭を何とかする必要があった。

 

ジャーーーッ

 

 彩香はトイレで用を足してすっきりした気分でパタンと扉を閉めた。備え付けの洗面台で手を洗い流して顔を上げ、ついでに鏡に映った頬をつねってみた。でも大して痛くもなく、はっきりと皮膚に残る指跡と間延びした脂肪がつまんだ自分をガッカリさせた。

 ため息をついてカウンターまで戻ると、純一と遥の飾らないやりとりが聞こえてきた。

 

「だから麦茶を出してくれって、手でこうしたじゃん」

「えー、絶対わかんないって」

「でもこの暑さでコーヒーはないんじゃない」

「そうだけど」

「ふっ…」

 

 気づいた二人はそれまでの会話を切り上げて含み笑いで出迎えた。だが、少し離れた位置から眺める彩香にこれといって込み上げる怒りはなかった。窓ガラスのすぐ横に並ぶ彼らへ陽光が明るく射し込み、事務所の奥まった場所に自分がぽつんと一人立っていた。カウンターの上に転がるレジ袋からは空腹を満たす菓子パンが見え隠れし、彩香はそれを袋ごと掴んで唐突に純一たちに別れを告げた。

 

「私、用事を思い出したから帰るわ」

「えっ。今日は夕方まで居るって言ってませんでしたか」

「週末取りに来るから、じゃあ」

 

 言い終わらないうちに背を見せ、入り口のガラス扉に体を寄せて押し開けた。できた隙間から這い出て外の空気を吸い、彼らと離れて安堵した――しかし、同時に寂しくもあった。彩香は二人の幸せを目の当たりにして、それを受け止めて祝福できるほど冷静になれない。かといって、彼らが恋人として家族として試行する姿を遠巻きにして焦りを感じずにはいられなかった。

 今年で三十一歳。桂木彩香に浮いた話は聞こえてこなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嫉妬が見せたもの

 バイクショップの入り口は建物から少し突き出た屋根に覆われた。そこから先の狭い駐車場には夏の太陽がきつく照りつけ、アスファルトからもわっと醸し出された熱気がTシャツから出た腕にまとわりつく。だらだらと足を動かして歩道の手前で立ち止まった。あまりの暑さに目を慣らすため、彩香が駐車場のポール横でゆっくりと首を回した。

 歩道を揺らめく陽炎に制服の男女が向かってきた。六角形に『MAIJIMA』の刺繍を胸に付けた男子高校生が女子と楽しそうに並んで歩き、セーラー服の少女は頭に丸みを帯びた『M』がデザインされたキャップをかぶっていた。野球部の彼と彼女を思わせる二人。彩香は二人が迫るなり首の後ろで髪を結んだゴムを触り、上へ視線を逸らした。雰囲気に目が拒否反応を示しても、彼らの会話は構わず耳に入った。

 

「ねえ、お兄ちゃん。一階にあったフードコートって何?」

「たくさんテーブルが並んでいる場所だよ。色んな食べ物を持ち込めるんだ」

「じゃあ、今度お弁当持って食べに行こうよ」

「ダメだよ。その周りのお店で買って食べるためにあるんだから」

「えー、そうなの~」

 

 兄妹は目の前を通り過ぎた。恋人同士が勘違いと分かった彩香はぽりぽりと頬を掻き、去っていく彼らへ顔を向けた。

 

「フードコート知らないってどこのお嬢様よ、ったく」

 

 皮肉を言い放って早合点を誤魔化し、彼らを眺めて歩道に体を傾けた。彩香の火照った顔から汗が路上に滴った。下を向くとつま先はまだ側溝の手前で店の敷地から一歩も出ていない。足元に落ちている小石を蹴り、同じ方向の帰り道に二人を追って歩き出した。

 

 

 彩香は彼らの後方でその背中へ考えを張り巡らせた。彼は細身で短い髪を刈り上げてなく、彼女は髪を肩で揃えて中学に入りたてに見えた――兄はリュックを背負って買い物に、妹は手ぶらで待ち合わせ、そこへ大人の私がどんぶらこと流れてきた…って、どんな昔話なの――と想像して口を押さえた。前を行く兄妹からはバイクショップでの煩わしい事を忘れさせてくれた。そのかわり、だんだん彼らに興味が湧いた。少年の制服は自分が通った高校の夏服で彼は後輩に当たる。低いビルや小さい商店がごちゃ混ぜになった通りを歩いていた学生時代を思い起こした。高校二年生で免許を取ってシートに跨がるまでは彩香も歩道をぶらぶらと行き来した。

 兄の腕を引っ張る妹は歩きながら通りの向こうへと人差し指を出した。指された先では商店街がアーチを構えるが、近くの横断歩道で二人は信号に立ち止まる様子はなかった。程なくして彼らは何事もなかったように通り過ぎ、今度は脇の雑居ビルを指して騒ぐ。彼女のシルエットは全体的に白っぽかった。覗いた横顔にキャップの青いつばが目立ち、その下で笑顔を弾ませ、揺れた髪とともに後ろ襟を跳ねさせた。自分には代わり映えのしない通りも少女にとっては帰るまでの楽しい行程とさえ思われた。

 日中の路上に人の姿は少なく、兄妹との間は誰もいない。遮るものがない細長い道は距離感を鈍らせ、彩香の眼に二人の後ろ姿だけがぽっかりと映っていた。

 

ドサッ!!

 

 視界が回転し、歩道に植えられた細い街路樹に倒れ込んだ。盛り上がった土につまずいた体を慌てて起こすと腕に絡まった枝が一本、ポキッと折れた。目玉を左右へギョロギョロさせて背中越しに人目を気にしてさっと手を伸ばして引きちぎり、こっそり幹に立て掛けて額を拭って「セーフ」と一息ついた。

 街路樹にぶつかってレジ袋からこぼれ落ちた菓子パンを拾って腰を屈めた。地面に近い目線になり、かなり車道寄りに歩いてきたことに気づかされた。彩香は立ち上がって何もない足跡を後ろへ振り返り、Tシャツに付いた葉がひらりと落ちた。腕には枝で擦れた跡に幾つかの赤い筋が浮かんでヒリヒリと痛んだ。上着を着ていればと後悔し、バイクショップのガレージに忘れたジャケットを思い出した。

 一連の出来事に後ろ髪を掻き上げて前方へ振り向くと、もはや兄妹は見えなくなった。下ろした腕を太腿でバウンドさせ、また一息。彼らの後ろを歩いても自分の現状は変わらない。彩香は再び歩き出して一人、帰途に就いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

バス停に腰掛けた少女

「えー、まだ施設に帰りたくないよ」

「実習は遊びじゃないんだ。分かるだろ、エリ」

「うん…」

 

 渋々頷いてエリは手を振る兄へやる気なく手を上げ、彼が来た道を戻る姿に肩を落とした。病院前のバス停に彼女は一人残され、リュックが海を望む丘へ遠ざかっていくのを見つめた。行くはずだった喫茶店を諦めきれずに唇を尖らせた。信号待ちをしている時に兄が突然方向を変えても疑わずに付いてきた自分に嫌気が差した。

 運行状況で変わる案内板の電子時刻表へ体を向け、施設への路線を調べると次のバスが来るまで二時間近くある。ため息をついて顔を上げた道路向こうにクリーム色の病棟を歩く人影。暇を持て余す入院患者を想って疎ましくなり、エリは背を向けて後ろへ手をまわして案内板にもたれた。

 

「アッツーー!!」

 

 エリが金属部分に触れて飛び退いた。熱くなった鉄板と赤くなった手のひらを交互に見比べ、再度ため息をついた。

 バスを待つエリは屋根もなくベンチもなく仕方なくその場にしゃがんだ。スカートの広がりを片手で押さえ、しかめっ面で反対の手をアスファルトへ近づける。表面の空気から熱が伝わるや否や腕を後ろへ引っ込め、バス停の土台に手が当たって熱くもないのに跳ね退いた。白い指に息をフーフーし、くるりと回ってツンツン。手前や奥を何度も確かめた。そろそろとコンクリートの端へ寄り、鉄板の位置を気にかけながら腰掛けた。

 

 

 兄は交差点の手前まで引き返してバス停へ振り返った。この先、新舞島駅の通りを横切る道路は海岸へ下っていき、もうエリをしばらくは見守れない。否応なく置いてきた妹が時刻表に顔を近づけるのを目にして一安心し、後ろ髪を引かれる思いで彼が振り返った直後、角のビル陰からのっそりと人が現れた。

 止まれずにドンとぶつかり、足がふらついて尻もちをついた。顔を上げた彼は雲一つない青空から手が伸びてくる先に屈む女性と目を合わせた。

 

「あのー、大丈夫ですか」

 

 彼を見つめる小さい瞳の下にはそばかすが目立った。センターで分けた髪が左右に流れ、後ろで結った残りを耳の前に垂らして顔の大きさが隠されていた。午後の日差しにたっぷり汗をかいた女性は桂木彩香だった。心配した彼女は倒れた少年の顔を覗き込んだ。

 

「頭、打っちゃったの」

「…………」

 

 彼は脳の奥底に精神が引き込まれたかのように口を開ける。だが、振った手に視界を遮られると瞳に反応があり、指に合わせて黒目が左右に動いた。彩香に「大丈夫、ほら」と片腕を支えられて一緒に立ち上がり、パンパンとお尻を払われて意識が戻りかけた。突き合わせた顔のポツポツへ、どこからともなく声を絞り出した。

 

「…バカ……ヘ………マ………」

「えっ、何て言ったの」

「………ト……シ………ネ」

「は?」

「その、ぜんぜ…前…見て…ません…した」

「そんなこといいから病院行った方がいいんじゃない」

「す、すいませ…」

 

 朦朧とした少年が申し訳なさそうに頭を下げて後頭部を掻いた。彩香は脳震とうを起こしたのかと通りの向こうに掲げられた『舞島市民病院』の看板を指差したが、横をすーっと通り過ぎる彼に合わせて体を反転させた。

 彩香は拍子抜けして横断歩道に彼を見送り、背負うリュックが点滅した信号の下へ遠くなった。

 

「かわいい顔してさ。あの子も舞高だけど一年生なのかな……ん?」

 

 後ろ姿から歩道で前を歩いていた兄だと気づき、隣に居るはずの妹を思い出した。彼が来た方向へ首を振り、目に入った案内板の側に彼女が一人でいた。

 妹の待つバスは山深い舞島市北部へ向い、兄の向かう海岸の先には彼が通っているであろう『舞島学園』がある。また会った兄と妹は別々の行動をとった。路上付近に座る彼女は体を前に傾けて両腕で太腿を抱え、一緒に行けないからか寂しそうにして元気がなかった。

 汗の浮く額にポーチから出したハンカチを押し当てた。少女を元気づけようと考え、体裁を整えた彩香はバス停へと足を向けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

オバさん、とうとう切れる

 案内板を支えるコンクリートに腰掛けたエリはつまらなそうな顔をし、歩道とビルの分かれ目へ視線を向けた。雑草が路面とそこに立つ壁を押しのけるように斜めに生えた。太陽が燦燦と照りつける地面は少女にそれが今にも干からびそうに思わせた。

 彩香は履いているブーツの硬い足音に気をつけながらバス停に近寄った。案内板へ斜めに体を倒し、エリに覆いかぶさって時刻表を確認した。

 

「ああ、二時間待ちなのねー」

「へ……」

「こんにちは。そんなとこ座ってたら暑くない?」

 

 いきなりの影にエリは驚き、顎を上げて頭をひねると知らない女の人が横に立っていた。「このオバさん誰だろう」と戸惑いつつも、目の前にぶら下げられたレジ袋から飛び出るネギに買い物帰りと分かった。来る途中にバスから見た住宅街を思い浮かべ、彼女の家族が待つリビングを想像して羨ましがって一層兄と別れた寂しさが募った。彼女から頭を背けてコンクリートに生える雑草を見つめ直した。

 エリがふさぐ様子を見て取り、彩香は驚かせようと兄の話にわざわざ手を突っ込んだ。

 

「今までお兄さんと一緒だったよね」

「えっ」

 

 少女は知らないオバさんに兄のことを持ち出され、呆気に取られて彼女へ顔を向けた。なぜ兄を知っているのかという表情を見せた。その反応に彩香は笑みを浮かべ、膝を少し曲げて前傾姿勢でしゃべり続けた。

 

「バイク屋にいたの。出てきた私の前をお兄さんと歩いてたでしょ」

「…………」

「舞島学園に通っているんだよね、お兄さん」

「舞島学園……」

「うん、私も舞島学園だったの。中等部と高等部の六年間」

「……」

 

 エリはますます混乱した。確かに兄は舞島学園に通っている。卒業生だから調べられるのかとも考えたが、楽しく歩いた時間の記憶にバイクの店は存在しなかった。

 オバさんが…バスで…買い物に…後ろから兄を…調べる。目を閉じて頭の中でそれらの言葉がぐるぐると回転して螺旋を描いた。やがて、一本の線となった人物像は昨日見たテレビに。旦那とうまくいかずに若い男子を追いまわす不倫願望を持つストーカー主婦だ――との結論に至る。彩香を不審な人物と決めつけて開眼。意を決すると太腿を抱えた両手を膝に当て、向かい合わせた指先で膝小僧を掴んだ。肩を怒らせたエリは彼女をキッと睨みつけて低い声で囁いた。

 

「ケーサツ呼びますよ」

 

 急変した少女の態度に、背中を丸めてへらへらとする彩香は目を見開いた。怒らせた覚えはなく困惑した。遠く聞こえてきた救急車のサイレンがやみ、背後でスピードに乗ったクルクルと近づく赤色灯が右折して病院へ入っていく。彼女のTシャツはにわかにベトついた汗が滲んだ。

 慌てるオバさんを見上げ、エリは引いた足先とお尻のコンクリートで踏ん張って立った。スカートの後ろを手で一回パンパンと払った。つり上がった目に大きい瞳孔をさらに大きく、足を小股に開いて彼女に向き直り、右手を水平に掲げて左手の人差し指を前へビシッと突き出した。

 彩香は何もできずに突っ立ったまま、魔手が伸びてくる錯覚で腕をハの字にして首をすくめた。

 

「お、怒らないで。声かけたの、寂しそうだったから」

「このストーカ…」

「私、悪くないし、怪しくないし、家近くだし、顔こんなだしー!!」

「へぇっ」

 

 エリが彼女に目をパチパチさせた。自白により彩香は『悪くも怪しくもないと言い張る近くに住む顔こんなオバさん』と判明した。けれど、それは頭で考えた犯人像と何か違った。腕を組んだエリはこれまでの過程を逆に考え始め、最初までたどって首をかしげた。

 

「なんでバスを待ってるんだっけ」

 

 しかし、幸せそうなオバさんが兄を追いかける理由はストーカー主婦以外に見いだせない。しばらくして自信なく手を少し上げて上目遣いに口を開いた。

 

「質問いいでしょうか」

「うん」

 

 両手を下げて彩香がゆっくりと頷き、エリはきょとんとする彼女に疑問をぶつけた。

 

「お、お兄ちゃんに興味あるんですか」

「興味ってなんのこと」

「えっ。それじゃあ、今日はお買い物ですか」

「ええ、そこのイナズマートで」

「そうですか。オバ…奥さんは今からお帰りですか」

「んん?」

 

 最後に彩香は怪訝な顔に変わって手招きし、呼び寄せた少女に耳元で「老けて見えるのかな」と小声で問いかけた。エリは顎に指を当てて考えるがよく分からなかった。

 

「大丈夫ですよー、奥さん」

 

 ニッコリと笑ってエリがテキトーに話を合わせると、彩香は顔を真っ赤にさせて肩を震わせた。

 

「……そうじゃない」

「だから旦那さんにお聞きになってもらえば」

「ワ、タ、シ、独身だからーー!!」

 

 今日の不満をぶちまけるかのように彼女は叫んだ。口角泡飛ばす勢いに、少女は思わず頭を抱えて「ごめんなさ~い」と目を白黒。彩香の周りに白い湯気が立った。それは夏の大気によってそう見えるのか、怒りに任せた感情がそう見せるのか。中学生のエリにはまだ分からなかった。

 




―― 次章予告 ――

エリは人の良さそうな彩香に誘われ、桂木家のカフェへついていく。ほこりをかぶったテーブルを兄のために使えると拭いた。他方、彩香が一緒に夕食をとる叔母は姉と仲が悪く… ⇒FLAG+02へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+02 ありがちな妹です
兄の帽子を抱えて


―― 前章までのあらすじ ――

中学生のエリは7月の日差しが注ぐ新舞島駅の通りを兄と喫茶店へ向かっていた。
同じ頃、桂木彩香は弟のような純一と婚約者・遥の仲に嫉妬してバイクショップを飛び出した。
歩道でエリたちの後を付いていく彩香だが、街路樹につまずいて二人を見失う。その後、バス停で兄と別れて寂しそうな彼女を見かけて元気づけようと声をかけた。けれど不審人物として睨まれ、誤解がとけても既婚者と間違われて散々な目に。
彩香がそれまでの鬱憤をぶちまけ、お姉さんの怒りに困惑してエリは頭を抱えるのだった。



 彩香とエリは建物の日陰が届かないバス停の案内板前で向かい合った。舞島市民病院の救急車搬入口と道路を挟んだ反対側の歩道。海から山へ走る市道はジメジメした南風が吹き、太陽熱を吸収した自動車の通過で車道周辺は気温が上がっていた。

 青信号に変わった交差点から物流トラックが発進し、遅い速度で立て続けに通り過ぎた。ドライバーの衆目を感じた彩香は熱くなった目頭から力を抜いて少女へ傾いた体を起こした。

 

「私は別に怒ってないの、いい?」

 

 軽く首を横に振って前置きし、努めて冷静にと自分自身に言い聞かせた。キャップを押さえて見つめてくるエリに顔を下げ、顎の目立たない丸く小さい顔に口調を優しく語りかけた。

 

「社会には悪い大人がたくさんいるの。ニコニコして近づいてきても、何を考えてるか分からないでしょ。だから、他人にむやみなことを言っちゃいけないのよ」

「はい、お姉さん」

 

 少女のしっかりした返事を聞いて彩香はうんうんと頷き、新しい呼び方を耳にして満足げに腕を組んだ。それにしても、見たところ彼女は中学生。首にタオルを掛けて腰の辺りからペットボトルが飛び出し、近隣の公立校ではないセーラー服は襟が薄い灰色でスカーフがない――平日にバスで来て向かった先はどこだろう。

 瞼の下がった両目からは歩道を歩く楽しそうな兄妹の後ろ姿が影を潜めた。なかなか頭から離れない左手とエリの沈んだ様子が気にかかった。

 

「ねえ、今日はどこかに行ってきたの」

「あ、はい。イナズマートに行ってきました」

「あなた達もいたのね、そう」

 

 同じ店内にいた驚きよりも、大した答えの返ってこない不満が勝った。もっと賑やか場所を想像していたせいか余計にモヤモヤした。普段はあまり使わない頭に強い日差しを浴び、思考が停止して彼女をぼーっと眺めた。

 彩香が首の後ろにある不快な湿り気に手をまわした。エリも左手を離してタオルの端を持って頬に当て、キャップが心持ち前に傾いた。ようやく、彩香はそれがやや大きめだと気づいた。

 

「それっ、お兄さんの帽子でしょう」

「え、はい。どーしてわかったんですか」

 

 エリは顔を上げて驚いた表情を見せた。仰ぎ見る少女の反応に彩香はすぐさま胸を張った。

 

「ふふふ、私にはそんなの見ればすぐ分かるのよ」

「……兄と喫茶店に行くところでした」

 

 上調子な彩香に目を合わせず、エリは浮かない顔で両手を頭へ伸ばし、かぶっていた形のまま兄の帽子を小さな胸に抱えた。実現しなかった約束を残念に思う気持ちがいっぱいになった。彼女は下を向いた。けれど恰幅のいい体は伏し目がちな視界にも広く大きく映り込み、朗らかに話す彩香の腹は見たくもないと目を背けた。ところが、考えてもみない言葉が耳に入ってエリの視点は引き戻された。

 

「これから、うちに寄っていかない?」

 

 彩香は少女を真っすぐ見ながらこめかみから汗が滴る広がった頬をさすった。エリは喫茶店へ行きたかったのだ。そうと分かれば、彼女にぴったりの場所があった。

 

「私の家にカフェがあるんだけど」

「えっ、ほんとに…」

「う、うん。バスが来るまで時間あるし、ここに居ても暑いしさ」

 

 下ろした腕からためらいつつ彩香の手のひらが差し出された。怪しいオバさんだと思った人がカフェをやっているなんてエリには意外な事実だった。柔和な顔を向けた女性の手は分厚く頼もしく見えた。

 

「わたし、行きます!」

 

 キャップの後頭部をしっかり押さえ、つばを左右に回して眉に重ねた前髪を出した。斜めに深くかぶり直して準備OK。彼女は彩香の手を取った。

 掴んだ手のひらがネバネバして見上げた顔に額から雫が垂れ、エリがさらりと首からタオルを巻き取った。その手を伸ばしてニコッと。彩香の鼻先に少々酸っぱい匂いが漂ってきた。それでも自分の背中のような嫌なベタベタ感はなかった。彩香は遠慮がちに顔や首の汗を拭い、礼を言ってそれを返して頭を掻いた。

 エリは受け取ったタオルを再び首に引っ掛け、取り戻した元気と明るい太陽の光へ前を向く。

 

「さあ、行きましょう。お姉さん」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久しぶりに開けたカフェ

 二人は新舞島駅の通りに戻り、駅へ向かってその一つ前の交差点を曲がった。飲食や雑貨の小型店舗が並ぶ道路をしばらく歩くと、月極駐車場の脇へ斜めに勾配を登る枝道に入った。曲がり角で四角いミラーが電柱を賑わし、路地は対向車がスピードを落として通過する。車二台がギリギリで擦れ違う住宅街に来て物音も少なくなった。彩香は音量を抑えて会話を続けた。

 

「そう、寮に帰ったんだ。舞高生は商店街を通るから、お兄さんは急に用事を思い出したのね」

「そーなんですか。お詳しいんですね、お姉さん」

「ここに住んでもう十……な、長いのよ」

「それじゃあ、お家にはご家族とお住んでいるんですか」

 

 エリがおかしな敬語に一生懸命。中学生の少女に小さい見栄で年齢をぼかしたことを彩香は悔やんだ。着飾った態度では一緒に居ても楽しくないはずだと、彼女のキャップ下へ顔を傾けた。

 

「エリちゃん、無理して丁寧にしゃべらなくていいわ」

「はい、『家族と住んでいるんですか』ですか」

「ううん、『家族と住んでるの』よ。で、私は30歳で今はとりあえず一人。でも叔母さんが毎日のように来てくれるし、お姉ちゃんの家も近いし、バイク屋も親戚。ま、母さんは別に来なくても」

「オバさんもいるん…の?」

「ええ、父さんの妹なの。年齢は私やお姉ちゃんに近いんだけど」

「姉さんの家族って、色んな人がいっぱいね」

 

 エリは顔を前に向けて小さい歩幅で、彩香は「そうよ」と彼女に合わせてゆったりと歩く。緩やかに続いた長い坂道を下り切って十字路にたどり着き、右へ曲がって広くなった道路は少し上りに変わった。平日の人がいない住宅街の道を二人はのびのびと歩いた。

 角に建つ庭木に囲まれた家の向こうは開けていた。路地に近づくと水平なフェンスの乗る塀が見え、さらに進むと塀の上から壁が薄黄色をした二階建ての家が姿を現した。敷地隅にある門扉にエリが駆け寄って柵から中を覗いた。家は1メートル弱高い所に建ち、門扉からスロープがLの字を描いてコンクリート舗装の駐車場を回り込み、一段高くなった正面の玄関ポーチへ繋がる。彼女は一階の途中から高い棟の三角屋根へ長く伸びる窓に圧倒された。

 

「あそこの塀がない場所から入ってちょうだい」

 

 彩香が腕を伸ばして塀が途切れた辺りを指し、スマホを手にリモートで門扉を開けて玄関へとスロープを上った。無線による通信制御を備えた住宅は珍しくない。だが、それを知りもしない施設育ちのエリは片手で機械を器用に扱って入っていく女性へ羨望の眼差しを送った。スロープの先で玄関のドアが閉められ、彼女は塀の外側にできた坂道のでこぼこを踏みしめた。

 エリは一本だけ生えた背が高い木の横を過ぎ、塀の端まで来て向こう側へ繋がれたロープの正面に立った。短い進入路が導く『カフェ・グランマ』と書かれた小屋に見とれた。細長い葉の樹木とウッドフェンスに挟まれた落ち着くたたずまいと赤茶色の三角形が合わさる屋根で覆った斬新なデザイン。早速、ロープのたるみを跨いで飛び越え、長方形のタイルが互い違いに隙間なく並ぶ小道に足を踏み入れた。表面がざらざらした舗装の上を跳ねるように歩き、狭い屋根の日陰にトンッと着地すると段差が見えない。体をひねって道路際にもなく、高低差が感じられない緩いスロープに「へー」と感嘆の声を漏らした。

 

 

 後ろでカチッと外れた音がした。エリはCLOSEの看板が掛かった入り口に振り返り、ゆっくりと取っ手を横へ引いた。開けた隙間に顔を入れると真っ暗だが奥から光が漏れた。体を横にして中に入ったが、彩香の「すぐ電気点けるからー」と叫ぶ声に立ち止まった。

 カフェはパッと明るく電気が点き、小さくまとまった店内が一目で見渡せた。入った場所は八角形の空間があり、左に二人用のカップル席と右に低いテーブルの家族席が配置され、そこから先は細くなって一本脚の椅子が並ぶカウンター席が奥へ延びた。L字のカウンターは突き当たり手前で曲がって壁に繋がり、その壁に開く扉の脇で彩香がパネルを操作していた。兄が連れていこうとした喫茶店に心躍らせたエリは両手を水平に広げて一回転して戯れた。

 店内の窓シャッターが一斉に上がり、さらにエリの視界が広く明るくなった。天井に備わる吹き出し口から涼しい風が吹き始め、急いで入り口の戸を閉めると彩香がテーブルに歩いてきた。手にした雑巾を見せて申し訳なさそうにして。

 

「あのさ、拭くの手伝ってくれるかな」

 

 頭を掻いた彩香は卓上へ目を伏せた。エリが指でテーブルをなぞると見事に跡が付き、ほこりの多さに目を丸くしてさっきまでの喜びが半減した。

 

「ここって普段掃除してないの」

「ごめんなさーい。本当のところ開店休業中なのよ」

「じゃあ、お客さんを入れてないの」

「そうなの。ははは、飲み物持ってくるわ」

 

 彩香はテーブルに雑巾を置き、そそくさと出てきた壁の向こうに隠れた。一人になったエリはカウンターの脇から内側を覗いた。無造作に置かれる段ボール箱にカップや皿を見つけ、ほこりをかぶったシンクは錆てもなくカビも生えてなく、反対の隅は型の古い冷蔵庫が据え置かれた。

 奥の扉から音程を外した鼻歌が聞こえてくる。少女は人のいい彩香と使えそうな物件を天秤にかけた。兄を思い浮かべた彼女が顔を綻ばせ、キャップを取って口元を隠した。

 

「きっと分かってくれるよね、姉さんも」

 

 エリは片手で掴んだ雑巾でテーブルをささっと拭いて綺麗にし、光を反射した卓上にキャップを両手で丁寧に置いた。窓に近づいてサッシに立て掛けられたモップを握った。持ち手の位置を確かめて左右へブラブラさせると、乾いたヘッドを床に押し付けてほこりを一掃し始めた――よーし、このカフェを再開させるぞ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見つめるまっすぐな瞳

 彩香はお盆にアイスコーヒーを入れたグラスを二つ載せて両手で持ち、食器棚に転がるスナックの袋を指につまんで横の扉からカフェに戻った。桂木家は一階の端をカフェの店舗が占め、キッチンの壁に付けた扉から店内の奥まった短いカウンター席の後ろに出られた。

 カウンターの角で腰を浮かして軽快に曲がり、どんな話で楽しませようか考えつつ少女の元へ向かった。テーブルに近づくと道路に面した窓際だけが周りと違って見えた。テーブルと二脚の向かい合う椅子に輝きが戻り、周辺にほこりの消えた床が広がった。その側に雑巾で間違えて汗を拭くエリの姿。彩香はすぐ駆けつけてピカピカの卓上にお盆と袋を置き、彼女が持つ雑巾を投げ捨てて首に掛かったタオルで顔を拭いてあげた。

 

「やるじゃなーい、エリちゃん」

「エヘヘ、施設では毎日やってるから」

「そうなんだ。で、どんな施設に通ってるの」

「児童家庭施設です。両親が死んだので、今はそこで…」

「えっ」

 

 活発な少女が通うスポーツ施設を予想したが、施設で暮らす事情を告白する低めの声に戸惑って言葉に詰まった。母がボランティアで勉強を教える福祉施設の子が目の前に今、遠ざけていた母が身近な大きい存在に思えてきた。エリから離した手に二人の間が空く。途端に背中で冷房の効き目を感じ、聞きづらいことを避けて何から話そうかと思案を巡らせた。来る道すがら彼女が話してくれたのは、通っている中学校、バスでの出来事、兄の入学した舞島学園、兄が……。

 エリを座らせてグラスを勧め、彩香はスナックの袋をパーティ開けで広げた。彼女の前にドカッと腰掛け、片腕をテーブルに乗せて彼の話題を振ることにした。

 

「確か舞島学園の職業訓練コースだったよね、お兄さん」

「そーなんですよ。そんなの有りかって話で」

「私の頃は無かったけど、普通に授業するのかな」

「いいえ、工場で実習があるんです。そのせいで寮に入らないといけなくて」

「それで寂しくて遊びに来たんだ」

「その、それもそうですけど、実は…」

 

 兄の話はエリの口を滑らかにして会話が進み、楽しそうな彼女が自分の話に少しはにかんだ。

 

「お兄ちゃんが通う学校の下見も兼ねてと」

「ははあ、彼と一緒に通いたいのね」

「はい。今年、舞島学園を受験しようと思ってるんです」

「そうなの。金かかるわよ~」

 

 ハッとして彩香は頭の後ろに組もうとした両手をUターンさせた。養う親がいない子にお金の話をすべきではなかった。エリはアイスコーヒーを一口飲み、グラスに両手を掛けて静かに答えた。

 

「知ってます。白鳥育英会の奨学金に申し込みました」

「そう、ちゃんと考えてるんだ」

 

 思いがけずしっかりしたエリの考えに感心し、同時にホッとする。彩香は椅子に座り直し、手を背中にまわしてジーンズに挟んだ贅肉を引っ張った。彼女がグラスに片手を置き、つまんだスナックを一つ口へ運んで動きが止まった。

 

「わたし、お兄ちゃんしかいないから」

 

 彩香はその一言にジンときた。鳴沢の実家で母、父、姉、叔母、祖母、亡くなった祖父に囲まれて育った。舞島に来てからも、曾祖母、純一、親戚の人たち。周りに人が溢れる自分と違い、まだエリには兄しかいなかった。それを考えると自然と目に涙が込み上げた。テーブルの木目に逆らうように寄せた自分の大きな手を彼女の小さい手にそっと重ねた。

 彩香が顔にありありと同情の色を浮かべ、エリはテーブルに身を乗り出して兄の話を続けた。

 

「お兄ちゃんの側に居たいと思ってます。悪い女の人に騙されないか心配で」

「うまい話に乗らないようにね」

「ていうか、女子が苦手で口ごもるんでサポートしなきゃ」

「あら、エリちゃんが居たら余計に恥ずかしがっちゃうんじゃない」

「大丈夫です。落ち着いた雰囲気ですし」

 

 人差し指を立てて明るく話す様に、彩香は赤い目と鼻で作り笑いを返した。「また来ていいですか」と聞かれるのにも黙って頷く。エリが体を引いて前髪を揺らし、喜んでスナックに手を伸ばした。

 

「よかった、いい場所が見つかって」

「ん、いい場所かな…」

「はい。このカフェならお兄ちゃんも女子と仲良くなれるわ」

「えっ……。どーいうこと?」

 

 エリの言うことが呑み込めなくなった彩香は思わず口に出した。まばたきを繰り返してぐちゃぐちゃと溜まった涙に前が見えない。目をこすって目を開いた。そこで彼女は立ち上がり、「それはですね――」と胸に決意の握りこぶし。

 

「お兄ちゃんに告白させます、ここで!!」

 

 細い腕がビシッと伸び、カフェの先へ驚きとともに彩香の視線を連れていった。カウンター上は物が整理されて置き場のないメニュースタンドだけが残る。フィラメント型照明の下、閑古鳥が鳴くカウンターと椅子を背にほこり舞う通路。とうの昔にコーヒーの淹れ方なんか忘れていた。

 

「えぇ~~」

 

 彩香は休日の気が抜けた眉を精一杯寄せてエリに困り顔を向けた。負けじと彼女はテーブルに両手をついて大きな瞳で見つめ返し、だらしなく放り出された彩香の手を上から強く握った。

 

「手を貸してください、姉さま!」

 

 またしても彩香の心が揺さぶられる。アルバイトや契約社員ではお目にかかれない、純一からは聞いたことのない、目下の者から助けを求める真っすぐな心。『姉さま』という甘美な呼称に酔いしれ、少女に懇願されて言葉を呑んだ。エリの目を見てコクリと頷いた。喜ぶ彼女は饒舌になって雑談に興じ、楽しげに兄と遊んだ話をする姿から寂しそうな表情は思い出せなかった。窓から薄く入り込む日差しに彩香は満足していた。

 バスの時間が近づき、エリは一人で帰っていく。彩香は道路に出て塀の前で坂を下る彼女へ手を振った。角を曲がるまで見送ってから店内に戻り、空のグラスや完食された袋を片付けにテーブルへ向かった。

 

ズルッ

 

 前の足が内側に滑って後ろ脚がくの字になり、あっと言う間に真横に倒れた。肩口から半身がほこりにまみれ、床を巻き上がった灰色の粉を吸って咳き込んだ。両手で支えた上体の周りをほこりに囲まれ、また日常が戻ってくる。彩香は窓際の席へ目をやった。

 

「はぁ…。私、悪い女の子に騙されたのかな」

 

 エリが座っていた綺麗な椅子を見つめ、脱げたスリッパの脇に落ちる雑巾を拾い上げた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夕食は姉のような叔母と

 西の空が赤くなって住宅街に夕風が吹いた。桂木家は雑に閉じたカーテンの隙間からリビングの明かりが漏れ、レンジフードを通して炒め物の匂いが外へ立ち込めた。ちょうど、キッチンで食事をほぼ作り終えた彩香がエプロンを外した。

 

ガーッ、ドン!!

 

 敷地の反対側。駐車場の跳ね上げ式門扉が自動でゆっくりと下りた。バックで車止めにピタリと停められたミニバンから女性が降り、薄暗い中に玄関灯の光が届いてパンツスタイルの彼女が長い髪をなびかせた。

 玄関ポーチの端への短い階段を上って彼女はカフェの方向に目をやり、いつもと違う雰囲気を感じつつ玄関先へスマホをかざした。解錠表示がされない画面を確認して舌打ちし、我が家のようにドアを開けて中へ入っていく。パンプスを脱いで框に上がって向き直って揃え、出してあるスリッパを履くと振り返って廊下を足早に進んでリビングの戸を引いた。

 

「お帰りなさい、ちはるさん」

 

 左手のダイニングキッチンとは間仕切りがなく、彩香がカウンター越しに声をかけた。右手は壁際にテレビが置かれ、その前にローテーブルが長方形の三辺をソファーに囲われる。ちはるの目は誰もいなかったであろう部屋のシーリングライトへ向けられた。直線的な髪型に整う顔が電灯に照らされ、高い身長が彼女の体形をシャープに見せた。

 

「ちょっと彩香、電気はこまめに消しなさい」

「ハイハーイ」

「それに玄関は閉めときなさいって言っているでしょ」

「はい、分かってますよ」

「こんなんじゃ変質者が入ってくるわ」

 

 リビングの隅に干された下着へ視線をチラッと向け、ちはるはスーツの上着を脱ぎ、ソファーの背に掛けて横に座って足を組んだ。側に投げ出されたリモコンを拾って冷房温度を3度上げ、それをローテーブルの端に合わせ置いた。

 彩香は適当にコンロの火を止め、雪平鍋から移したみそ汁のお椀を両手にダイニングテーブルへせっせと運ぶ。ペットボトルのお茶を湯呑みに注いで椅子に腰掛けた。新聞に目を通したちはるがやってきて正面の席に座り、二人で「いただきます」と夕食に手を合わせた。

 

「今日の外ハネ揃ってますね」

「テレビに出たからよ。ここ数年、無茶な運転が多くて呼ばれるの」

「それにしても女性が多いですよね」

「ええ。なぜかしら…そうそう、私にも兄さんから見合いメール来ているわよ」

「がはっ」

 

 外堀を埋める父の見合い戦略に、彩香はご飯が喉につっかえて胸をこぶしでドンドンと叩いた。

 

「もぉ、そんなの捨てちゃってよ」

 

 怒りで口調が昔に戻った彩香が箸でご飯とおかずを口一杯に詰め込んだ。ちはるは子供のようなふくれっ面を見ながら、一番手前にある野菜の皿に箸をつけて肉ごと口へ運んだ。一瞬、舌を襲う苦み。皿の上をよく見て緑色のギザギザをつまんだ。

 

「この野菜炒め、ゴーヤ入りなのね」

「何言ってるんですか。チャンプルーですよー」

「は、卵も豆腐も入っていないじゃない」

「豆腐はここに、ほら」

 

 彩香はお椀から白い四角をすくい出して何食わぬ顔で説明した。彼女が多少の事を気にしないことは織り込み済み。豆腐は諦めて卵を自分の皿で探すが、やはり見当たらなかった。

 

「私のところに卵は入っていないわ」

「おかしいなぁ。ちょっと待っててください」

 

 フライパンの残り物を取りに席を立つ彩香。しかし行くまでもなくカウンターの角でビニール袋と包丁に隠れた白い楕円が目に入った。「今から入れます?」といつも通りに苦笑い。ちはるの箸もいつも通りに止まらない。

 

「もういいわ、このままでも味がついているから」

「ハハハ、今日はちょっと」

「何かあったの。カフェのシャッターが上がっていたけど」

「まあ、少し綺麗にしてみようかと」

「また店を始めるつもりなら電気調理器を一度業者に見せないとダメよ。内部が故障してて火災を起こすかもしれないし、それに水道だって……」

 

 ちはるは出かかった言葉を呑み込んで口をつぐみ、今更細かいことをとやかく言う年齢ではないと箸を進めた――もう、彩香も三十だし。

 箸と食器がぶつかる音、皿や椀を置く音、汁をすする音しかしなくなった。リビングの端からカウンターまでの間、狭いダイニングに置かれたテーブルの両サイドに椅子が二脚ずつ並ぶ。廊下側と窓側に彩香とちはるがそれぞれ卓上を広々と使い、無言で食事が続いた。

 最後にみそ汁を飲み干したちはるがお椀を持ったまま気にかけていたことを彩香に尋ねた。

 

「外にバイクが無かったのはどうしてなの」

「あー、おじさんとこ」

「それじゃあ、今年は舞島レディースを欠場する理由をきちんと伝えたんでしょうね」

「うん。純一にはちゃんと仕事って言っといたし」

「あんたねえ、親戚といっても最低限の礼儀があるでしょ」

 

 彩香は大学生の頃から舞島サーキットで開催されるバイクレースに参加し、母の従兄が経営するバイク店は移動や整備を担った。彼には感謝するべきだが、中学生から店に入り浸る彼女は一向に遠慮がなく、ちはるはそれが歯がゆい。苛立ってくる自分を抑えようと箸を置き、ゆっくりと喉にお茶を流し込んだ。それでも行き場のない感情にその矛先が変わってきた。

 

「大体、姉さんは人使いが荒いのよ。演歌歌手の握手会だっけ」

「山河原崎せーじ、って人です」

「その人は例のディナーショーに行ってなかったの」

「舞島の姉御が取り仕切ってたやつですか」

「そう、それよ。参加した全員なるさわTVを出入り禁止になったわ」

「大丈夫だと思います。社長が怖い顔してみんなに『絶対近づくな』と言ってたから」

「姉さんの顔は元からでしょ」

「ははは……」

 

 雇い主である伯母の悪口に頷く訳にもいかず、彩香は愛想笑いを浮かべてやり過ごす。ちはるは湯呑みをテーブルに置いて立った。

 

「でも勘だけは取り柄だから、あの人」

 

 気に食わない姉を投げやりにフォローし、自分のお椀や食器を重ねてキッチンへ向かった。

 ちはるは全てを流し台に置いて手が空くと、使われなかった卵を両手に取って踵を返した。手の甲で器用に開けて冷蔵庫に仕舞い、閉じた扉に貼ってあるカレンダーの数字を目で追った。彩香がダイニングで残ったおかずに口をもごもご動かした。彼女へ振り返らずに声を上げた。

 

「まだレースに間に合うわね。片付けが終わったら姉さんに頼んであげる」

「うぇあ、びびべすけぼっ」

 

 食べ物と一緒に口から出た言葉を無視してキッチンを片付け始めた。ちはるは十分大人になった彩香を遠くから見守るべきだと頭では理解している。けれど、事あるごとに一回り年下の彼女に対して前のめりに。次々と食器がスポンジの泡に吸い込まれ、水を切ってかごに並べられた。彼女をテーブルに残して食事の時間はつつがなく終わっていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

叔母と伯母の狭間

 リビングは入り口側の壁際に低めの棚が置かれ、雑誌が並んで電話台を兼ねる。ちはるは受話器を取って家庭電話機のディスプレイを眺めた。数回で呼出音が途切れ、そばかすが顔にうっすらとした女性が映し出された。「今日は何?」といった反応を見ていきなり要件から入った。

 

「もしもし、姉さんに替わってくれる」

「ええ、分かったわ」

 

 挨拶なしで通じる女性が消えて居間の薄白い天井が映り、受話器の向こうで彼女が移動しながら義母を呼んだ。背後でわめく子どもの声が聞こえ、棚の上を指先でトントン叩いて姉が出てくるのを待った。

 通話相手の端末が切り替わるメッセージが出た。何かの棒をくわえた女性のショートヘアが映ったかと思うと真っ暗になり、揺れる銀色の筋が電灯に照らされてディスプレイの上部に現れた。

 

「もしもし…」

 

 低い声の主は相手を確かめるため、スマホ画面を前に持ってきた。ちはるは姉の顔がアップになるや否や映像のスイッチを切った。耳元へ漫才番組が囃子を奏でる中、彼女は咳払いをして静かに会話を始めた。

 

「もしもし、ちはるです」

「で、何なのさ。私忙しいのよ」

 

 ちはるはその無愛想な顔を見なくても脳裏に描けた。お笑いコンビの調子の良い喋り声が遠くに聞こえ、隣で義兄がお構いなしに笑う。普段は鋭い目つきで物事を見通す彼女も、この姉の前に出ると眉間にシワを寄せた普通の女性となった。

 

「再来週の日曜日、彩香は握手会に行けないから」

「はぁ。仕事よ、仕事」

「警備なんてアルバイト雇えばいいでしょ」

「そーじゃないわ。彩香も他に仕事が色々とあんだしさ」

「ただの契約社員でしょ。土日に呼び出して、こき使うんじゃないわよ」

「だから、ちゃんと代休あげてるけど」

 

 ちはるの要求は取り留めなく、姉からの適切な答えに交渉にもならない。そこに彩香を諭す時の冷静さはない。側のシングルソファーで張本人も聞き耳を立て、肘掛けに寄り掛かった。

 

「姉さんとこの仕事が彩香を太らせたんだわ」

 

 電話口での突然の言い出しに、彩香が思わず腕を滑らした。ムッとした姉は反撃に転じた。

 

「何言ってんの。あんたが肉ばっかり食わせてたからでしょ」

「いいえ、それはとっくの昔だわ」

 

 もちろん、妹は突っぱねる。興奮した彼女の口からは有ること無いこと。だんだん本来の目的を離れ、ただの言い争いになっていった。

 

「彩香にボーナス払いなさい、このケチ」

「へいへい、どうとでもお言い」

「どうせ保険と年金の経費を誤魔化してんでしょ」

「ま、失礼ね。健康診断は毎年事務所の指定病院で受けさせてるわよ」

「あら、姉さんが行ってる病院ってシワ伸ばし専門じゃないの」

「ぬぁにー、言ったわね。あんたこそ全然似合わない金髪に染めてるくせにさ」

「そっちのメッシュの方がどーかしてるわ。還暦過ぎたばーさんが――」

 

 ちはるが受話器を棚の上にドンっと立てて声を張り上げた。立ち上がった彩香は止めようとしてソファーの脚に引っ掛かって前方へ倒れた。勢い良く棚と彼女の間に飛び込み、彼女の体をテレビ台の横へと押しやった。

 彩香はたまたま掴んだ受話器にビックリ。恐る恐る耳に当て、伯母にどうやって取り繕おうか考えあぐねた。その向こうで投げられたスマホを拾った少年が面白そうに使い出した。

 

「ハロー、ちはるさん。俺の声聞こえてるー」

「あぁ、良かった。裕太くん、そこに姉さん居る?」

「え、おれ長男だよ」

「……。じゃあ、電話切るから」

 

 甥とは会話が噛み合わず口げんかの仲裁を諦め、受話器を置いて振り返った。ちはるは反対を向いて片手で後ろ髪を掻き上げ、「悪かったわ」と声を落ち着かせた。元の彼女に戻ったと彩香は胸を撫で下ろした。すると、彼女が後ろへ首をひねった。

 

「肉ばっかり買ってきて…」

 

 ちはるが残念そうな表情をし、彩香は開いた口が塞がらなかった。いざこざに疲れてリビングからキッチンの方へのそのそと離れた。

 

 

カラ、ララーン

 

 氷を落とした二つのコップにお茶を注ぎ、両手に持った彩香はリビングへ戻った。隅の棚に飾った写真では曾祖母と中学生の自分の間に自信ありげなちはるが立ち、背を屈めて二人の肩に手をまわす。桂木家に来た頃からずっと彩香にとって頼りになる大人の女性。上着に袖を通したちはるはソファーに座って天気予報を前に考え事をした。彩香が傍らにコップを近づけると、彼女はそれに気づいて「ありがとう」と受け取った。

 

「ごめんなさい。姉さんとはいつもああなっちゃう」

「きっと社長も事務所が忙しくてストレスが溜まってるんですよ」

「そうかしら、家でビールを飲むと全部忘れるんじゃない」

「まだ怒ってるんですか。麻里ばあちゃんの見舞いやお葬式に来なかったとか」

「そんなことないわ。昔から……」

 

 聞かせたくない過去を思い起こし、ちはるはコップに口をつけた。鳴沢で生まれた彼女は母が仕事で忙しく構ってもらった記憶があまりない。家には年の離れた兄がいて妻である彩香の母が幼い彼女の相手をし、彩香たち姉妹が生まれて一緒に育てられた。中学生で舞島に来て『峠の雪女』と呼ばれた祖母から直接バイクの手ほどきを受けた。近くに嫁いでいた姉は義母と折り合いが悪く、たびたび桂木家を訪ねてきて鬱憤を晴らすように彼女にも悪態をついた。胸に燻ぶる小さな反発心は母親と瓜二つの姉へ向かった。

 隣に座った彩香がローテーブルのリモコンに手を伸ばし、ちはるは優しい顔を向けた。

 

「明日は来られなくなったから、帰ったら戸締りはちゃんとしてね」

 

 冷たいお茶をゆっくり飲み干し、立ち上がって入り口へ歩き出した。リビングの戸を引くと廊下に流れる空気の生ぬるさを感じ取れた。すっかり冷静になった彼女は見合いの件を思い出し、テレビ番組に噴き出す彩香へ振り返った。

 

「志穂さんが来る前に返事しときなさいよ」

 

 ちはるは部屋の戸をピタッと閉めた。また余計なことをしてしまったと頭を掻き、ぶつぶつと反省を口にして玄関を出ていった。リビングでは彩香がリモコンをローテーブルへ放り投げ、スマホを横目にソファーに足を伸ばして転がった。父からのメールを開こうかやめとこうか逡巡しながら天井を眺めた。

 路地からEVの疑似エンジン音が遠ざかり、ひっそりと静まるリビングで等間隔にいびきが音を立てた。叔母によって高めに設定された冷房温度は彩香が出して寝ている腹に心地よい。妹たちの想いが起こした行動は交錯し、住宅街に騒がしい声を響かせて夏が始まるのであった。

 




―― 次章予告 ――

夏休みが始まった頃、桂木家にセーラー服の中学生が訪ねてきた。ちはるは少女に懐かしい面影を感じ、困惑する彩香に決断を迫る。彼女は迷った。カフェで肘をついて物思いに… ⇒FLAG+03へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+03 CHILD DON!
訪ね人、懐かしくて


―― 前章までのあらすじ ――

中学生のエリはバス停で兄と別れて寂しそうにし、優しく声をかけてきた彩香に不審を抱いた。
だが桂木家にカフェがあると聞き、気を取り直して彩香に付いていく。
彼女は開店休業中の店内で小躍りし、ほこりの溜まった床を綺麗に磨いた。身の上話に涙を浮かべた彩香に兄を告白させるため使いたいと懇願する。エリの真摯な瞳を見て彩香は頷いた。
その夜、彩香が一回り上の叔母・ちはると夕食をとって仕事でレースに行けないと話した。彼女は仲が悪い姉に休めるよう頼んであげると言うが、結局電話で口げんかになった。
ちはるが見合いの返事を促して帰り、天井を見上げた彩香はソファーでごろ寝を始めた。



 7月も下旬。土曜日の午後、よそ行きの恰好をした女が桂木家に帰ってきた。駐車場の奥で彩香の250ccバイクが暑さを避けるようにカバーをかぶり、透明なブラウンの屋根に覆われたど真ん中で赤と黒の斜めに筋が入ったフルカウル、ちはるの125ccは磨かれた姿を晒した。ハンドバッグの口を掴んだ彼女は門扉を半開きにして擦り抜け、駐車場の縁を回って重い足取りにスロープを歩いて玄関先までたどり着いた。玄関は取っ手を引っ張っても扉が開かない。スマホをバッグから取り出し、解錠してやっと中に入れた。

 土間の端に外へ向けて揃えられたブーツ、その向こうのすりガラスに人影が映った。腰の高さにある手すりに掴まって先の尖ったヒールを脱ぐと、リビングから廊下に流れ込んだ冷たい風で生き返った気持ちになる。戸を開けたちはるが顔を向けて意外そうな表情をした。

 

「あら早かったじゃない、彩香」

「まぁ……」

「ねえ、なんでストール掛けてんの。この前は『冷房が効いてない』って怒っていたのに」

「そ、そりゃ、流行ですよ。ハハハハ」

「フーン。もう着替えてきたら、冷房の温度を下げておくわ」

「ええ、着替えますとも」

 

 廊下に用意されたスリッパを履いた彩香は頷くものの動こうとしなかった。髪を上げて広がったおでこから湧き出る汗が光り、涼し気な水色のワンピースは袖が二の腕に押し広げられた。ちはるは彼女の後ろ暗さに納得し、雑誌を読んでいたソファーへ戻った。

 彩香はリビングの戸が閉まると急いで横の階段に足を掛けた。階段を折り返して上り切り、左へ廊下をすたすたと最奥まで行く。右手の部屋に入って戸をピシャリと閉め、胸の結び目をほどいたストールをベッドへ投げ捨てた。懸命に両手を背中にまわし、肩甲骨の間で止まったファスナーを「くっそー」と力任せに引っ張った。

 

 

 髪を下ろしてゴムで結んだ彩香は柄のないTシャツとハーフパンツで戻り、ハンドタオルを片手にそのままダイニングへ、一瞥もせずにソファーの横を通り過ぎた。並んだ椅子の後ろを通り、突き当たりの冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを出す。斜め後ろの水切りかごに残った逆さまのグラスを取って注いで立ったまま一気飲み。水道水でジャブジャブして元のかごに戻した。

 レンジの上から菓子パンの袋を取って移動し、ダイニングテーブルで開けて出したスティックを一本かじりつく。リビングで後ろ向きのちはるがたまらず今日の出来を尋ねた。

 

「で、今回の相手はどうだったのよー」

「ハイ、ちょっと無理かと」

「公務員らしくない軽快なトークって触れ込みだったけど」

「さぁ~、なんとかボルタとできたからバイバイとか言われても」

「できたか、出来高……。ああ、ボラティリティでしょ。株式売買の話ね。投資に詳しいっていいじゃないの」

「私じゃ会話にならないですよー」

「そうね、兄さんも彩香と話が合うような人知らないのかしら。純一の彼女みたいに」

 

 ちはるは雑誌を手に座り直して足を組んだ。彼女が口にした名前に驚き、彩香は半分くわえたままでそろそろと近づいてソファーの背に手を掛けた。一旦、食べかけのパンを手に退避し、顔を後ろから覗き込んだ。

 

「ちはるさん、なんで純一の婚約者を知ってるんです」

「それは私があの店を紹介したからよ」

「ぱのぴぽぽーぴぺぴっぺぷぽ」

「もー、汚いわね。家を建て直してすぐ取材に来た子じゃない。ほら、憶えてない?」

「ぺぇっ」

 

 彩香は口に残りを押し込んでゴクリと飲み込んだ。思い起こす桂木家の一階はカフェを広げた建て直しで若干狭くなり、真新しいリビングには掃き出し窓から太陽の光が射した。長いソファーの右端に座った人物はちはるへレコーダーを向ける髭の生えた中年男性。純一の婚約者であるはずもなく首をひねった。

 

「でも、その人ってオジサンでしたよね」

「横で髪の長い新人女性が一生懸命メモを取っていたでしょ。あの子よ」

「あ~、あの人かー」

 

 ぼんやりした輪郭で思い出した気分の彩香は菓子パンの袋を持ってソファーを回り込み、ちはるの横にちょこんと座ってパクパク。口をもごもごさせた。その仕草にちはるは遠い目をした。この家に彼女が来てからずっと見続けてきたせいか、それほど容姿が変わったように思えなかった――あの頃のままなんだけど――だが、体重計と服のサイズが嘘をつかないことも理解していた。

 

「おばあちゃんの食卓は皿が多かったわ。彩香、憶えてる?」

「うん、賑やかだった。従姉さんも居たし」

「母さんの従妹さんよね。今どうしているんだろう」

 

ピンポーン、ピンポーン

 

 二人の思い出を遮るように門柱のインターホンが家の中に音を立てた。彩香は食べ終わった指をなめ、来訪者を出迎えに行く。ちはるの目に彼女の後ろ姿が中学の頃とダブって見えた。開けっ放しにしていった戸口から元気な声が懐かしく聞こえてきた。

 

「こんにちわー、姉さま」

 

 バス停で知り合ったままのセーラー服に『M』のキャップ。閉め忘れた門扉をエリが自然と通り抜け、スロープの踊り場で大きめのトートバッグを肩に掛けて手を振る。彼女は玄関先に真っすぐ来てキャップを手に取った。

 

「よろしくお願いします、カフェでの職業体験!」

 

 エリが深々と頭を下げた。その意味が分からず、彩香はアイボリーの鞄に走り書きされたロゴを眺めた。

 

「エリちゃん、その荷物はどうしたの」

「はい、今日からお世話になるので着替えを持ってきました」

「えっ…」

 

 顔を上げたエリの口から出た言葉がすぐに理解できなかった。しかし、何かを訴える彼女の目に一瞬で気づかされた。良からぬ企みを想像して腰が引けている彩香を大きな瞳が離さない。薄いグレーのスカートで膝を隠した少女は玄関の湿度以上に目の前にいる大人に汗をかかせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少女から慕われる者

 ちはるは誰が来たのか気になり、開け放たれた入り口から廊下へ目をやった。玄関先に彩香の背中が小さく見え、夏の陽光に包まれた空間は緊張感を漂わせた。すっと腰を上げ、そうさせる正体へ足を向けた。

 

「そこじゃ暑いからこっちに来なさいよ」

 

 わざわざ框まで出向いて来客用スリッパを置いて陰に隠れる人物をいざない、振り向いた彩香に目で合図をしてさっさと戻った。気づいた彼女が扉とエリの間に体を挟み、家の中に促してドアを閉めた。玄関でエリはスニーカーをくっ付けて脱ぎ、合わない足元にパタパタと開いた戸からリビングに入った。

 テーブルにお茶を入れたコップが置かれ、ちはるが手を上げて微笑んだ。近づいてきた制服姿の女子を腕組みで迎えた。

 

「あなた中学生ね。もう夏休みが始まっているの」

「はい、今週からです」

「それじゃあ、遊びに行く時は私服でもいいんじゃない」

「そうよ、エリちゃん。びっくりするわ」

 

 ダイニングに来た彩香がほっとした顔を見せた。セーラー服の後ろ襟に手を置き、二人は目を向け合った。笑顔のエリはバッグを下ろして中をゴソゴソ。テーブルの上に「これです」と印刷された横書きのプリントを差し出した。

 突然訪れた少女と触れ合う彩香に、ちはるは不思議そうに首元をさすった。下ろした手で用紙を拾い上げ、書かれた文章を読み上げた。

 

「職業体験事業許可証、桂木彩香殿。右の者に、職業体験を目的として下記の事業所で当施設の学生を受け入れることを許可する。名称、カフェ・グランマ。住所、舞島市美里南一丁目……」

「何ですか、それ」

 

 彩香はエリをかわして前に出た。顎に手を当てたちはるが目をもう一度ゆっくりと下から上へ、次いで手元を見る興味深そうな大きい顔へ向けた。

 

「つまり、カフェを職業体験に使う許可が出たようね」

「え、そんなこと勝手に決められても」

「あんたの名前が書いてあんのよ。それで許可申請が出されたの、よく見なさい!!」

「はあ……」

 

 彩香がとぼけているとちはるは思ってなかった。だが、出所の分からない文書に利用された事へのゆるい反応に語気を強めて前へ差し出し、つまんだ紙を受け取らせた。気が小さい彩香は市長の公印へ釘付けになって困惑した。

 彼女の背中でゴクゴクとお茶を飲み干したエリ。垂れた肩の上に覗く澄ました横顔へ、ちはるは再び腕を組んで疑惑を向けた。

 

「いったい誰が申請したんだろうね、エリ」

「えへっ、わたしが書きました」

「あら正直ね。けど公的機関の書類が簡単に通るものかしら」

 

 あっさりと白状した彼女をちはるはなおも訝しんだ。四十過ぎた大人の目線が厳しく、肉厚な腕の陰へ注がれた。すると彩香の脇からひょっこりと椅子に乗っかり、エリは親指を突き出した。

 

「天下りで来た施設長は机の決裁箱に入れときゃ、何でもハンコくれます!」

 

 明らかな偽造にも悪びれることなく自信満々な態度を見せた。ちはるはあきれ果てて沈黙する彩香へ目を向けた。余白の多い印刷物をギュッと掴んだ両手に、文字を追う眼球がまるで間違い探しでもしているかの様。ずる賢い中学生の算段でうろたえて文鎮化する三十路女に苛立ち、少女へ声を荒らげた。

 

「でも彩香の、桂木の印鑑はどうしたのさっ」

「あ、うん、色んな名前のを持ってる職員さんがいて――」

 

 しゃがみ込んだエリはバッグの底に手を突っ込み、平然と施設で不正に手を染める人の裏話をした。ちはるは彼女の周りにろくな大人がいないと分かって俯き、ケロッとした表情が目に入って頭を掻きむしった。エリはぎゅうぎゅうに詰めた荷物に肩まで入れて何かを探していた。引っかきまわされた服が飛び出して床に広がり、一番上のシャツが皺んで胸に描かれた口のないキャラクターが笑ったように見える。ちはるは子供のしたことに考えを落ち着かせた。

 

「それでエリちゃん、働くと言ってもカフェは営業してないわよ」

「あの、これ失敗した外泊届なんですけど……」

「えっ、失敗したのをなんで。それに外泊届って何?」

 

 渡されたクシャクシャの届け出にズレた電子三文判。「職業体験のため」と書かれた欄は殴り書きで読みにくく、期間は「夏休み最終日まで」と大きい。手のうちをさらけ出してエリは小さく隠れるように彩香の後ろへ。彼女を桂木家に迎えた時と変わらない背恰好に、その想いにピンときた――彩香と同じで来たかっただけなのか。

 

「そう、こっちが本命と言いたい訳ね」

 

 ちはるは苦労の証をテーブルの先に置き、片手をついて折れ目を見つめた。ようやく彩香も慕われるようになったかと目を細める。彼女を見守る者としてエリの努力に感化された。虚偽の申請に対する非難は消え、純真な少女を迎え入れる方向に傾いた。

 

「ねえ、エリを泊めてあげるんでしょ」

 

 彩香は呼びかけにも応じず、ペラペラの文書を大切そうに掲げて顔を上気させたまま。ちはるはポカンとする埴輪のような面構えを見て嘆息を漏らした。

 

「だから、職業体験をしたくて来たんじゃないのよ」

 

 その耳へ外泊届の理由に必要だと教えても、まったく聞こえていない様子。

 その手から用済みの紙を取り上げると首を左右へ行ったり来たり、背後に居るエリを探した。

 その間が抜けた口の両サイドをちはるが指を入れて引っ張る。渋い顔を見上げた彩香は「はおはらっへひまふ」と両手を上げ、壁際の棚に腕をぶつけて廊下へ出ていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

困ったときは叔母頼み

 早々とカーテンの閉まったリビングはLEDが明るさ最大で部屋を照らし、エリは足元にバッグを置いて長いソファーの真ん中に座らされた。正面にあるテレビは興味のないアニメが流れ、ダイニングの向こうを気にしてチラチラと顔を後ろへ向け始めた。

 対面キッチンで夕食を作る二人。長い髪をまとめ上げたちはるが顔をまな板に近づけ、縦半分のニンジンへ片手で慎重に包丁を当てた。彩香は研ぎ終わった米の内釜を炊飯器に移動させる。顔を洗ってもエリの文書偽造が気になって仕方なく、スピード炊きのボタンを前に何回も蓋を開け閉めして背中合わせで話しかけた。

 

「ちはるさーん、あれって逮捕とかされないですよね」

「カフェは営業許可あるんだし…。ちょっと黙って、綺麗に切れないでしょ」

「それなら左手で押さえたらどーですか」

「いいのよ。で、この夏は彼女の面倒を見るのね」

「だから、警察沙汰になったら社長にも迷惑かかっちゃうんで」

「姉さんなら大丈夫よ。あっ、小さくなっちゃったわ」

 

 二人の不穏な会話を耳にしてエリはそっと壁際をキッチンに近づいた。ちはるが気づいて目で彼女を制止すると、喉元に手を振って素知らぬ顔で冷蔵庫の前へ。貼られたカレンダーの記号に首をかしげた。横で棚板のスライドにも位置を決めかねる彩香に尋ねた。

 

「この赤マルは何ですか」

「ああ、カレーの日。ちはるさんが作ってくれるのよ」

「じゃあ、バツは」

「ちはるさんが来れない日。旦那さんの休み予定で」

「へっ、結婚してるの」

 

 驚く少女を横目に、ちはるは玉ねぎを切り終わって額の汗を拭った。ステンレスの片手鍋に入れた肉と野菜を炒めて自慢げな表情で鍋を思いっきり振った。エリが飛び上がるニンジンや玉ねぎのサーカスから目を背け、彩香に近寄ってTシャツの袖をちょいちょいと引いた。

 

「ねえ、なんでマルの後は全部バツなの」

「え、どれどれ。えっと……」

 

 彩香は目を細くし、カレンダーを人差し指で何度かつついた。ちはるがコンロの側に落ちた野菜を拾って小さくつぶやいた。

 

「今日も明日もカレー、さてさて」

 

 ちはるのつぶやきに彩香は耳をピクピクと動かし、自分で思い出したように手を叩いてみせた。

 

「そーそー、三人分作っとけば次の日は私のご飯だけを用意すればいいの」

「ふーん。この日は姉さまがラクできるって訳か」

「うん。ちはるさんが考えたんだけど」

「こんな日に来ちゃってお邪魔でしたね、わたし。ごめんなさい」

「え、あ、その……」

 

 エリが殊勝な態度を見せると途端に何を言っていいのか分からなくなり、うろたえた顔がキッチンの奥へ助けを求めた。ちはるがあきれ半分に「テレビ点けっ放しよ」と対面キッチンの向こうへスルーパス。彩香が反応してエリの両肩に手を乗せてリビングへ押していった。

 彼女をソファーに座らせて彩香は隣に腰を下ろし、盛り上げようとテレビ画面へ騒がしい子供向け番組の話に懸命になった。

 

「そうだ。これ、六十年も前に作者が死んじゃってるのよ」

「えー、そうだったの」

「私も子供の時に知ってビックリしたけど」

「ふーん。姉さまも見てたんだ」

「でも何回か終わっててね。リメイクが多いらしいわ」

 

 アニメでは目の形が様々な小学生が教室の後ろで視線をばらばらに会話が空々しい。それを前にときどき向かい合い、まったく他人の大人と子供が雑談をためらわなかった。彩香とエリの様子に見入ってちはるは鍋に水を流し込んで跳ねさせた。不思議と親子であるかに見えるのだ。実際、彩香の姉はそれくらいの子どもを三人抱えていた。そうであってもおかしくないし、そうであって欲しかった。

 ちはるはコンロの弱く燃える火を気にかけつつ、休憩で使ったコップを片付けた。冷蔵庫から固形ルーを取り出して放っておいた鍋に入れてかき混ぜた。リビングの時計で長針が12時を跨いでテレビに硬い顔つきが映し出され、その人物を指してエリが振り向いた。

 

「うわっ、ちはるさんが出てる~」

「ええ、けど私は交通評論家じゃないわ」

 

 キッチンでゆっくりとお玉を動かしてちはるが答えた。なるさわTVでは多発する交通事故の特集が組まれた。彼女は黒い背景にスポットライトを浴びた顔のくすみを気にし、表示された隅のテロップに不満を表した。

 信じられないといった感じのエリは彼女が大きく映った画面へ向き直り、隣の肩を揺らした。

 

「バイクレーサーってなってるよ、姉さま」

「んぁ、『元』って付いてるでひょ。もう引退してるから」

 

 彩香はソファーでうつらうつらと眠たい目をこすった。関心を引こうとする少女からお腹周りの脂肪を振られ続け、空腹の胃袋が刺激されて脳も活性化した。開いた眼にジグザグと路面を迷走するタイヤが飛び込み、フレームの中で転がる人が自分に重なった。その度に倒れた体を支え起こしてもらった昔を懐かしんだ。

 

「それで、今はバイクの乗り方なんか教えてるのよ」

「え、教えてる?」

「うん。ほら、古い舞島駅の北の方にサーキットあるでしょ。あの近くに学校があるの」

「へー、先生なんだ。たしか姉さまもバイクって…」

「あ、あたしは会社員。子供の頃はレーサーになりたかったけど」

 

 彩香が見つめた女性はキッチンの明るい電灯下であくびをした。レースで数台を一気に追い越す彼女をテレビで見て憧れ、バイク乗りだった曾祖母を泣き落としてやってきた。

 番組に目を向けたエリはフロントガラスを破って頭からすっ飛んでいく再現シーンから反射的に体を引き、ちはるへ向けられた顔に気づいた。テーブルの薄暗がりを越えた先には頼られる家族が存在していた。片手をソファーの背に掛け、片膝を座面に乗せて同じように眺めた。

 リビングから届く期待する視線を受け、ちはるが壁のスイッチでダイニングに電気を点けた。

 

「できたわよー。そろそろお皿出しなさーい」

 

 目を合わせた二人は一緒にソファーを立った。ダイニングを通り抜けたキッチンでは寄ってくる彩香たちにとって甘い香りが満ちた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

卓上で見る夢

 夕食を終えたテーブルに黄色い跡の付く皿が三枚あった。叔母との生活が染み付いた彩香はいつも通りに米を炊いた。一人分ご飯が少なめのカレーに物足りない食事を済ませ、ちはるは自分の皿とスプーンを持って立ち上がった。腰を浮かせた彩香に目配せしてキッチンへ向かった。

 右手と左手にそれぞれ二つと一つの四角い紙パック。自分用に買ってある豆乳を手に戻り、並んだ二人の間に後ろから差し出した。

 

「さ、タンパク質を取りなさい」

「ごめんなさい。ボーっとしてちゃって」

 

 彩香が申し訳なさそうに受け取り、折り畳まれた端を広げて飲み口を作った。エリは彼女の手元を見て真似た。ちはるに促されて紙パックを傾け、口に入った飲み物に顔をしかめる。その表情に向かいの席でしてやったりと小指が立てられた。隣の女性は口から噴き出して鼻からも液体が白く垂れた。食事の時間に難しい話はなく賑やかに終わり、流し台の前にエリも立って少ない食器にスポンジを握った。横に立つ彩香の手際に見とれ、あまりない経験に戸惑いながらも洗剤の油落ちの強さを感じさせる出来事はあっさりと片付いた。

 食後のリビングはエリの希望でテレビ画面にサスペンスドラマを映した。正面のソファーに彩香たちを座らせ、ちはるは革のジャケットに袖を通し、バレッタを取って長い金髪を肩甲骨の後ろに広げた。カーテンを背にしたソファーに置かれたヘルメットとグローブを手にし、二人の背後を通り過ぎて戸を開けて廊下に出た。感知式の電灯が廊下を明るくし、リビングから物言いたげな表情の彩香が追ってきた。

 玄関でちはるは座ってブーツを履き、背中に無言を貫いた。立ち上がって振り返ると、くるぶしほどの段差に立つ彩香と同じ高さで顔を合わせた。背を丸めた彼女に微笑みかけ、だぶついた腹に軽くパンチを当てた。

 

「五人分作ったから、残りは明日二人で食べるのよ」

 

 手を上げて帰っていく姿を彩香は口を開けたまま見送った。首を後ろのリビングへ向け、戸に空いた隙間からローテーブルに出された着替えの山が見えた。膝をついたエリが鞄を覗き、忘れ物に肩を落とす。少女をどうするか彼女はまだ迷っていた。

 

 

「『お兄ちゃんに告白させる』か……。あの子、本気で再開させる気なのかなぁ」

 

 カフェの天井にぶら下がるカウンターの半分を照らすライト。ちはるは店の名称を変え、内装を新しくすると言ってテーブルや椅子と調度品は海外から取り寄せた。彩香はテレビを見ているエリをほったらかし、明かりの下でほこりに両肘をついて腰掛けた。冷蔵庫の上に商店街の福引で当てたアナログ時計が掛けられ、横に舞島市の正式な営業許可証が飾られる。有効期間を目にしてため息を漏した。

 

「まだ一年半も残ってるんだ」

 

 カウンターの上にカフェの日誌を開いた。パラパラめくりながら、時折イラストの描かれた淹れ方のコツを一つ、また一つと思い返す。中にはインクが滲んで読めないページ。ちはるが首の長いパイプに袖を引っ掛けて水を飛び散らせた記憶がよみがえった。

 

「もー、口ばっかりで全然ダメなんだから」

 

 頭の中にある昔のイメージに口を出す。ちはるの無責任な自信で再開したカフェも、元々は曾祖母が始めて地域に根付いた。伯母から聞いた話では従姉おばさんが手伝って繁盛したという。

 

「そういや、従姉さんってなんて名前なんだろう」

 

 首に手をまわして結んだ髪を前へ出し、指にくるくると巻き付けた。彩香はエリが手伝うカフェの青写真を描いた。既に曾祖母が生きていた頃の常連客は離れ、もう一度再開するにしても客が入るかが問題だ。可愛らしい少女が接客して愛嬌を振りまけば、看板娘の噂が広まってカフェに客が集まるかも知れない。その気になった彼女は日誌を途中でパタンと閉じて立ち上がった。

 

「とりあえず協力してあげよう。それでいいよね、麻里ばあちゃんも…」

 

 表紙に『Mari's Diary』と題されたノートを前にカウンターに手をついた。確固たる自信がある訳でなく、うまくいきそうな未来への淡い期待を抱いた。

 エリが室内へと繋がる扉の脇でこっそりと彩香を見つめた。煮え切らない様子にあれこれと頭をひねったが、真剣な顔で立った彼女にニッコリした。スリッパを手に足音を忍ばせてキッチンの角を曲がり、LEDの明るさへフローリングを靴下で飛び跳ねた。

 

 

 彩香はカフェから戻り、ダイニングで冷えたお茶をグラスに用意した。ソファーの後ろから飛び出た頭頂部に声をかけても返事がなく、不思議に思ってリビングへ足を向けた。

 ニュースが読まれる画面の前で制服を着たエリが手足をタコのように伸ばし、薄く口を開けて寝ていた。頬の赤いお人形さながら。かえって説明する手間が省けてホッとし、上から掛けるものを探しに廊下へ飛び出て階段をドタドタと駆け上がった。寝たふりをした少女は目を開かずに雰囲気を感じ取ろうとした。冷える腕を少し体に寄せ、音だけが騒がしい部屋で彼女が戻ってくるまでに深い眠りへ落ちていった。

 ソファーでエリを横にして薄手の毛布をかぶせ、エアコンをお休みモードに。後ろのテーブルで彩香は一段落し、硬い板に突っ伏して疲れの元へ顔を向けた。空になったグラスでゆがむ景色に目をこすり、反対を向くとカウンターの端に置いてあるお茶請けの饅頭と目が合う。すかさず手が伸びた。お腹が減ってきた彼女は一口で頬張った。

 エリは新しくリビングの主となり、寝返りを打ってソファーの広さを確かめた。追い出された方はダイニングの食卓に額を付けて腕を放り投げ、口内の甘さを名残惜しそうにした。慌ただしく過ぎた午後に二人の距離はさして変わらない。しかし、早くも彼女たちの周囲が騒ぎ始めた。

 




―― 次章予告 ――

夏休みに共同生活を始めた二人。数日後、ちはるが様子を見に来た。エリは兄を紹介しようと予定を聞いたが、彼女は怒って来なくなる。彩香はよく分からないままフォローして… ⇒FLAG+04へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+04 Growing stout
共同生活にかけろ


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは彩香と出会い、桂木家のカフェで「兄に告白させる」と宣言して去った。
7月下旬、ちはるが彩香と昔を懐かしんでいると、エリが着替えを持って訪ねてきた。
彼女は彩香名義で申請し、舞島市が出したカフェでの職業体験の許可証を見せる。ちはるはそれが桂木家に来るためにした事だと分かり、彩香も慕われるようになったと目を細めた。
しかし、当の本人は偽造にうろたえ、頼りのちはるが帰ってしまった。
カウンターで物思いに浸った彩香。カフェの再開に淡い希望を抱き、泊めることを決断する。
思惑通りに事が進み、エリは寝たふりをしたソファーで居心地よく眠りに就いた。



 ぼんやりとした意識にすがすがしい白さが細目の奥へと突き刺さり、ざらざらした模様の天井がはっきりする。目を開けたエリは上体を起こし、毛布をかぶってソファーで横になっていることに気づいて周りを見渡した。垂れ下がる濃い色のカーテンが薄く透けるリビング。一階の片側は朝のうち日差しが届かず、夜間の冷房でひんやりと湿気が感じられなかった。背もたれの向こうで夕食の記憶が新しいテーブルに、突っ伏した彩香が腕を下にだらりと寝息を立てた。

 薄明りの真ん中でエリがほくそ笑み、爽やかな朝に腕を伸ばした。皺の付いた上着とインナーを投げ捨て、焼けてない素肌でローテーブルの下に潜り込み、バッグからTシャツとホットパンツを引っ張り出す。着替えた彼女は栄養食品の小箱をつまみ出して硬いスティックを口に挟むと、静かに廊下へ出て玄関でスニーカーを指先につり上げた。

 ダイニングで彩香はTシャツの裾に手を入れて乾いた背中をボリボリ。その奥の戸がそーっと開き、廊下からエリが洗面所で濡らした雑巾を持って現れた。キッチンに面したカフェへの扉を開けてスリッパをスニーカーに履き替え、漏れ入る光を頼りにカフェのカウンターを拭き始めた。

 

 

 キッチンの奥で勝手口のすりガラスが明るさを周囲に撒き散らす頃、彩香は身体にまとわりつく不快感にうなされた。顔を上げて唇と卓上によだれの橋が架かる。手の甲で目をこすって囲まれた壁の家具や椅子が並ぶテーブルを見回し、下着の張り付いた肌に暑さを認識した。

 冷房のスイッチを求めてソファーの方へ足を出した。何かを踏んで引っ掛けた後ろ足のつま先で予期しないところに落ちているキャミソールを拾い上げた。制服の上下が散らばった床に、彩香は目が点になった。リビングの戸を引いて土間のタイルに彼女の靴が見えず、肌にハリがない顔は焦りが増す。スリッパのまま下りた玄関先で開けた扉からの外気に汗がじっとりし、表情を曇らせて室内に戻った。

 すると、キッチンの壁に暗いカフェからエリの顔が明るい家の中へうっすらと見えてくる。

 

「あっ、おはよー。姉さま」

 

 ほこりで汚れたTシャツは先日の雑巾で滑った一幕を思い起こさせ、彩香は二の足を踏んだ。閉じられて久しい奥のカフェからはむわっとした空気が漂ってきた。蒸し暑さに顔を背け、ローテーブルのリモコンへ膝を曲げて手を這わせた。一つしか押せないボタンに指を伸ばし、急いで彼女の元へ駆け寄った。

 

「どうしたの、こんなに汗かいて。水分をちゃんととらなきゃ」

「うん、冷蔵庫の飲んだよ」

 

 エリの指した流し台にちはるが箱買いしてくるトクホ表示のペットボトルが置いてある。彩香は空になった2ℓの容器に目を凝らした。

 

「ちょっと、あのお茶全部飲んだの」

「えーっとね。半分くらい入ってたかなぁ」

 

 エリは勝手に飲んだことも大して気にしてない。ベタベタする体を触りながら自分より背が低い華奢な少女に芯の強さを感じた。対抗するものを持たない彩香は怒ったふりをし、汗臭さから感じる熱意への嫉妬が険しい表情に隠された。

 

「シャワー浴びてきて。昨日、風呂入んなかったんだから」

「はーい」

「廊下に出て右よ。脱いだものは全部洗濯かごっ」

 

 少し開いた戸の先を指してエリを見る。彼女はくるぶしを使ってスニーカーを脱ぎ、「じゃあ、バッグ!」と着替えを催促。腕を組んだ彩香は小刻みに顎を振り、スリッパで廊下へ跳ねる元気な姿を見送った。エリが脱衣所に入る音を聞くと扉からカフェを覗いた。光が満足に届かない暗闇に足を踏み入れる度胸はなく、スイッチで明かりを点けた。カウンターで迷った昨日の肘跡は一掃され、奥に並ぶ一本脚の椅子は輝いていた。彩香は彼女のやる気に押されるように扉を閉めた。

 エリが脱ぎ捨てた制服を腕に掛けて脱衣所へ跡を追い、彼女の鞄を入り口の脇に下ろした。洗濯機に掛かったネットを取って手を入れ、かごに溜まるシャツから靴下までを一巻きにして裏返し、全自動ボタンを押して洗濯槽に放り込んで蓋を閉じた。

 帰り際、すりガラス風の半透明な折り戸を横目に持ってきたバッグの中が気になる。けれども、シャワーが止まって近づく人影にすごすごと引き上げた。

 

「あ、そうそう。ここにタオル置いとくから」

 

 彩香は室内に戻り、リビングの壁で上を向く長針と短針の狭い角度にまた焦って汗をかいた。冷蔵庫へ向かうとバターの箱と卵を出し、コンロでフライパンを火にかけてバターの角をスプーンで落とした。流し台の下からボールを取り出し、卵を割って入れ、冷蔵庫を開けて取り出した牛乳をパッとかけた。最後に砂糖をなるべく一つまみ。レンジの上の食パンを一枚、押し漬けるのもそこそこに溶けたバターで焼き始めた。

 エリの髪が半分濡れた状態で戻った時にはテーブルの上に料理が並ぶ。彼女に牛乳を入れるよう言い、フライパンから移された目玉焼きの皿に魚肉ソーセージを付け合わせた。皿を運んできた彩香が腰を下ろす隣にエリは陣取り、それほど甘くないフレンチトーストに舌鼓を打って脂っぽい目玉焼きをつついた。

 

「これ、おいしいねー」

「お腹すいたでしょ。でも、もう昼だし、足りなかったらカップ麺とかで我慢してね」

「うん。全然、大丈夫だよ」

 

 彼女の返事をへこんだ腹に言い聞かせる彩香は少なめの食事へ残念そうに微笑む。一方、エリは履き替えたスカートのお尻に突っ込んだ潰れた箱をさらに押し込んだ。

 とりあえずのブランチを終え、頼まれたエリは流し台で水をジャバジャバして慣れない洗い物に苦戦した。壁を一枚隔てて洗面台で彩香は指の腹をせわしく動かし、脱水が回る音に急かされつつ顔の土台をこしらえた。午後を回ってようやく洗濯物が外に干し出され、リビングで角ハンガーのピンチに下着を掛け終わると、二人はソファーに並んでインスタントコーヒーで休憩を取った。

 

「エリちゃん、この後は買い物があるから出かけるわね」

「じゃ、何をやればいいの?」

「うーん。何もないけど…。カフェの方はちょっと待ってて」

「そっかあ」

 

 自分の言葉に少し退屈そうな表情を見せるエリを置いて二階へ。彩香は厚めのデニムに着替えて脇のスタンドミラーで体裁を整え、麻のジャケットを羽織って部屋を出た。

 階段を下りて玄関を出る前にリビングを覗き、浅めに座って足を伸ばす少女に声をかけた。

 

「うちの中は二階とか勝手に見てもいいからさ」

 

 ドアを出て玄関ポーチから駐車場へコンクリートの数段を駆け下り、久しぶりに訪れた共同生活に充実感を噛みしめる。跳ね上がった門扉にタイマーを設定し、押し出したバイクに足を後ろへ蹴り上げ、ブレーキを緩めて発進させた。スロットルを回すと静けさの残る路地から徐々に感じる風に胸を躍らせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

うまくいってるわね

 週明けの朝にスーツ姿の彩香が玄関から出ていった。笑顔で見送ったエリはスリッパの方向を変えてトントンと二階へ上がり、真っ直ぐな廊下を進んで木目調の引き戸に背中を向け、子供用に作られた部屋の扉をバンッと押し開けた。隅のベッドは整った夏布団の上にパジャマが広がり、反対の壁際にバッグの着替えを移した収納ボックスが重ねられた。カーテン越しに窓からの陽当たりで暑さを溜め始めた部屋に眉をひそめ、彼女はソッコーで手前に転がるハンディタイプの掃除機を持ち出した。

 一階に下りてキッチンでカフェへの扉に向いて立ち、教えてもらった通りに扉を手前に引いて手を入れた。脇のボタンで冷房と明かりにスイッチオン。程なくして動きやすくなった店内に入り、カウンター席に並ぶ椅子の後ろでホースの先をぶつけないように振り回した。

 昼になると両手で持った皿の冷凍チャーハンを電子レンジへ差し出してかかとを浮かせた。食べ終わって洗い桶に残された朝食の皿と一緒に食器を洗い流す。少し泡が残っていても水切りかごにちゃちゃっと収め、拭くことを忘れて再び掃除機の電源を入れた。夕方までカフェで雑巾片手に汗をかき、帰った彩香にシャワーを促されて従った。

 次の日は夜に洗濯された肌着を外へ移した。狭い庭先にある一本のプラスチック竿。リビングの室内物干しからハンガー数本を手に行き来した。エリは掃き出し窓の桟に腰掛けて片足のつま先を地面から上げてつっかけをポトリと落とし、太陽に照らされた塀を眺めてリビングの涼しさを背に受けた。彼女は親しくすべき人には素直さを見せた。その彩香の言いつけを終えると、一息ついてカフェへ向かった。

 お腹が減ってきてキッチンに入った。水を入れた鍋にインスタント麺を放って火を点け、袋の説明を読んだ。後ろの棚から見当たらない丼の代わりに深めの皿を作業台に置いて出来上がった鍋の中身を移した。腰を曲げて器に口をつけて汁を吸い、肘をついて息を吹きかけて麺をすすった。

 食後に冷蔵庫からお茶のペットボトルを出し、閉じた扉のカレンダーを前に立ち止まった。

 

「お兄ちゃん、まだ忙しいよね。週末にならないと来れないかなぁ」

 

 エリは夏休みの少ない兄を想った。彼のためにカフェを掃除し続け、彩香にいい顔をして雑事をこなした。店内はカウンター、テーブル、椅子、その周りの床からほこりが消えて少しずつ綺麗になった。

 

 

 ちはるが夫との連休を満喫した翌日、夕方にやってきた。対面キッチンのカウンターにお土産を置き、ダイニングの椅子を引いて横向きに腰を下ろした。未だ浮かれ気分でジャケットを腰に巻く彼女は背もたれに手を掛け、しばらく彩香と旅行の話に興じた。ひとしきり喋った後、エリがどうなったのか尋ねた。彩香はフライパンで野菜炒めに普段より多めの肉を転がし、隣の鍋でみその塊が沈むのを気にして答えた。

 

「はい、居てもらうことにしました」

「やっぱりね。じゃあ、上の子供部屋を使っているんでしょ」

「ええ。納戸の前の部屋がいいって言うから」

「そうだわ、彩香が使っていた奥の部屋のベッドは寝にくいんだった」

「マットレスが少しへこんでるだけですよ。それなら従姉さんのやつは修理してあるけど、かなり古いベッドじゃないですか」

「大丈夫よ、彼女は体重が軽くて小柄だったし…」

 

ガラッ

 

 彩香が雪平鍋で菜箸をかき混ぜて火を止め、廊下から入ってきた少女に気を留めた。ほんのりと乾き切ってない髪を見て頭の上で手を握って振った。

 

「わたし、ドライヤー使ったよ」

 

 エリは裾の感触を確かめた。彼女の目に組んだ脚を彩香へ向ける女性が映った。ちはるは敬語を使われ、話し方に年上の威厳を感じさせた。彼女はタンっと前に進んだ。この家の年長者には丁寧にという意識が働いた。

 

「こんばんは、ちはるさん。お世話になってます」

「こんばんは。居心地はどう?」

「はい、おかげさまで毎日快適です」

「良かったわ。それで今どこで寝てるのかしら」

「あ、二階で…奥へ行った……えっと、真ん中に…フローリングの……」

 

 上手に話そうとしたエリだが突然の質問に口が回らずにばつが悪そうな顔をした。慣れていないしどろもどろな答えに、ちはるは目を細めた。彩香が「エリちゃ―ん」と炊飯器を叩いた。彼女は対面キッチンの端をぐるりと回り、奥で食器棚を物色した。

 ちはるはテーブルに肘をついて上体を寄せ、向かい合って一枚の皿を前にちぐはぐに口を開ける二人を見つめた。後ろへ頭を向けるとリビングの隅に今まで見られなかった生活感が出たハンガーの列。振り返ってキッチンの壁に浮き出た扉がオレンジ色で縁取られる。電灯を消し忘れたカフェは再開がまだ先になりそうな感じを受けた。

 ともあれ自分のいない間にできた協力関係の垣間見える室内に機嫌が良くなった――彩香はきちんと面倒を見れてるようだし、それなりに家事をこなせるし、そろそろいい人が現れる……なんて事があったり――と期待を滲ませ、なるべく口を挟まずに彼女たちを眺めることにした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プッツンさせる能天気

 エリはテーブルの横に立ち、ペットボトルを傾けてコップにお茶を注いだ。彩香の作った料理をダイニングに運んで並べたのも彼女だった。ちょこまかと動く彼女から座っていただけのちはるが醤油差しを受け取り、ほうれん草の小皿にかけた。前回と同じ廊下側は彩香とエリで窓側はちはるが座り、手を合わせて食事が始まった。彩香は少し不満そうにし、小さい瞳の周りに広がる白目を正面へ向けた。

 

「もぉ、ちはるさんもちょっとは手伝ってよー」

「いいじゃない。同時に三人が台所に立ったら狭いわよ」

「だからって…あっ、また醤油かけて」

 

 目の前で野菜に箸がつけられるのと対照的に彩香はガツガツとご飯に肉を乗せて頬張った。隣のエリが箸を置いたまま上目遣いをした。視線の先、ちはるは「私かしら」と自分へ箸を向けた。

 

「そ、その、兄のことなんですが……」

 

 エリが思いも寄らない話を始め、口が風船のように膨らんだ彩香と目を合わせた。彼女の兄については舞島学園に通っていることぐらいしか知らなかった。記憶に残るニュースの中から選んで糸を垂らした。

 

「ああ、舞島学園の職業訓練コースはマイジマ工業と関連があるのよね」

 

 ちはるは野菜炒めの皿に肉を探しながらエリに言った。しかし、横から彩香の方が食いついた。

 

「その会社、どーいう関係があるんですか」

「あそこは白鳥のグループ企業でしょ…って新聞くらい読みなさい」

「テレビ欄以外もたまに見てますよ」

「じゃあ、職業訓練コース生が社員だって分かるわね」

「へっ、シャイン!?」

 

 彩香は顎が上がって壁と天井の境をぼーっと眺め、無意識の口に箸をくわえた。ちはるが思考停止した顔へ冷ややかな目を向け、つられて天井を探すエリへ「もう食べちゃいなさい」と手を振った。気づいた彼女は茶碗を持って手前に置かれた箸を掴み、どんぐり眼を左右に揺らした。

 

「それがですね、今週は工場へ実習に行ってまして」

「手当が出るのよね、確か」

「はい、兄は作業が大変だと言ってたような。それで……」

 

 唐突に畏まったエリに、ちはるはみそ汁をすすって話を合わせた。回りくどく話す態度は明らかにおかしく、お椀に口をつけて器の反対に目をやってつぶさに表情を観察した。彼女は兄が工場でトラブルを起こしたと言い出すのか、それとも、工場に行きたくない兄の相談したいと言うのか思慮して刹那が過ぎた。

 

「えぇ~~、社員。給料もらってんのー」

 

 彩香が耳に入った「手当」の意味を遅れて理解し、驚きと一緒におかずを吐き飛ばす。ちはるは口に我慢を眉間にシワを寄せて立ち上がった。片足を斜めに出してつま先で立ち、カウンター越しのまな板に転がる布巾へ手を伸ばした。湿った布を掴んだ手に気が緩んで間もなく、テーブルからエリの声がボソッと耳に届いた。

 

「兄を土曜日に連れて来たいんです」

 

 ハッとしたちはるが並んだ二人へ怪訝な顔を向けた。彩香が申し訳なさそうに手を合わせ、頼み終えたエリが満足げに醤油容器の丸い頭を撫でた。隣り合う彼女たちはそれぞれ別々の方向を向いている。ちはるはテーブルに背を向けて腕組みして考え込んだ。なぜこんな簡単なことを彩香に頼んでいないのだろうか、自分が来なかった間に話す時間は十分あったのにと。考えれば考えるほど彩香の面倒見に疑念が湧き、だんだんと腹が立ってきた。

 後ろ向きで固まったのを奇妙に思って彩香が立ち上がると、振り返ったちはるが何も言わずに彼女の腕を取り、そのまま廊下へ引っ張り出した。洗面所のアコーディオンカーテンが閉じる行き止まりになった場所に彼女を立たせた。ダイニングの光が射し込んで照らされ、前へ垂れた長い髪の間からちはるのつり上がった目が見えた。

 

「ね、なんでエリは私の顔見て頼んでるのよ」

「それは彼女に聞いてみないと」

「そういう事を言ってんじゃないの。ちゃんと悩み事とかを聞いてあげないとダメでしょ」

「まあ、今聞けたんだし、それで十分じゃないですか」

「あんたって人は……。それなら彩香がお兄さんの相手をしてあげなさい!!」

 

 ちはるは廊下の暗がりをどすどす歩き出した。玄関の電灯が自動で点き、下駄箱のヘルメットを前に立ち止まってジャケットを広げた。呆然とする彩香は頬に付いた米粒を取り、指先につまんで口へ入れようとして叫んだ。

 

「ちはるさん、ご飯どうするんですかー」

「あんた達で食べときなさーい」

 

 無責任に言い放って閉じた玄関ドアの先にブーツの音がどこまでも響く。彩香はもやもやしてダイニングに戻り、見上げたエリが前髪の下に心配そうな瞳を見せた。

 

「ねえ、ちはるさんは何て言ってたの」

「あ、ええ、お兄さんのことは私に任せるって」

「そうなんだ。よかった」

 

 エリが彩香のテキトーな気休めに胸を撫で下ろし、野菜炒めに入った肉へ箸を伸ばしてパクパク食べ始めた。桂木家に兄を呼ぶお願いを聞いてもらうため、従順に家事を手伝ってちはると彩香の機嫌を取った。首尾は上々と彼女はニコニコして食べ続けた。それとは逆に、テーブルに放置された食べかけの夕食を見て彩香は唇を尖らせた。

 頭に血が上った彩香はカウンターとテーブルの間に入り、持ち上げた椀に大きく口を開け、みそ汁の残りを具ごと一気に飲み干した。その様子にエリの箸は止まった。彩香が卓上に器を叩きつけて少女へニヤリと笑う。

 

「明日の昼はこの野菜炒め、よろしくっ」

「えー、姉さまの口から飛んだところは取ってよ」

「それもそうねぇ。分かったわ」

 

 まっとうな抗議に熱が冷め、ちはるの皿から箸で手前の方を削り取った。横の茶碗に残りご飯は少なかった。首を回して食器棚の前にズラリと並んだカップ麺を眺め、またニヤリ。

 

「こっちのご飯食べちゃおうか。カレーヌードルにおかず乗せてもいいよね」

「うぇっ。それ、くどいんじゃない」

 

 ちはるから散々聞かされたこの手の忠告はいつも通り華麗にスルー。「食べたらわかる」と言わんばかりに、幅広のTシャツにどこだか分からない脇腹をバシッと叩いた。さすがのエリも顔を背けてそっけなく箸をくわえた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誤解は解かねば

 住宅街は子供の声が消えて辺りが薄暗くなり、彩香は薄手のスーツジャケットを腕に掛けてレジ袋を片手に帰ってきた。蒸し暑さで額から汗を滴らせ、桂木家の玄関に入って廊下にのっそりと上がった。戸を開けてリビングの明かりを点けると、キッチン奥の扉からエリが飛び出した。

 

「姉さま、シャッターが閉まんないよー」

「え、どこ、どこのやつ」

 

 上着をソファーの角へ放って彩香は足早に向かった。商店街で買った惣菜と卵のパックをキッチンの作業台に載せ、白いブラウスの首元に人差し指を入れて広げた。冷房が効くカフェに足を踏み入れ、カウンターに面したガラス張りの窓の上部に細長く上がり切らない影が目に入る。エリが壁のボタンを押し、プラスチックの軋む音が「ガガガ」と聞こえて彩香は肩を落とした。

 

「はぁ~、ダメだ。これは開かないわ」

「えー、このままなの」

「そーね。これが要るから」

 

 彩香が指で丸を作って上げた。昨日今日と窓を拭いて綺麗にしたエリは落胆し、反対側のボタンでゆっくりと下がっていくシャッターに疲れを感じて室内へ引き上げた。

 テーブルの片側で袋から出された照り焼き、湯気が立つ茶碗とお椀、左利きの少女が取りやすいように二人の食器は左右対称に並べられた。立ったまま彩香は二の腕に圧迫された汗ばむ脇パッドのずれを直し、シャワーを浴びる前のエリが座って手を合わせた。

 

「明日も来ないのかな、ちはるさん」

「うん、結構引きずるのよ。麻里ばあちゃんが亡くなった時もそうだったし」

「え、おばあさん死んでるの」

「ええ、ちはるさんの祖母に当たる人だけど…。もう十年以上前か、ひどかったな。レースの方も成績が振るわなくて家に通販の段ボールがいっぱい届いて。父さんが仕事終わりに訪ねてきたわ、鳴沢の家にも凄く心配されてね」

 

 皿がない前の席で少し飛び出た椅子へ吐息を漏らす。ちはると過ごした歳月は彩香に今週は来ないような予感をさせ、商店街で三人分のおかずを買うことをためらわせた。

 彩香はようやくの食事に椅子を引き、エリが箸をくわえて表情が冴えないのに頭を掻いた。

 

「あっ、ゴメン。食事の前に変な話しちゃって」

「……妹だったよね、ちはるさんも」

 

 エリには母が死んでからの慌ただしい日々の記憶が苦々しく残る。狭い部屋でお経を唱える坊主頭を後ろから眺めて退屈に時間が過ぎた葬式。それから色々な所をまわって難しい話を聞く兄を不安げに見つめた。忘れられない硬い横顔と違い、お棺を開いた死に化粧はすぐ思い出せなくなっていた。その後、身寄りのない彼らは施設に連れていかれた。

 ちはるとは違う境遇に苛立つ少女の手元で木の箸が鳥のように皿の上をついばんだ。彩香は不満のはけ口にされたおかずを不憫に感じ、ちはるがエリに良く思われてないのではという考えが頭をもたげた。何とかしようと知恵を絞って語り始めた。

 

「あのね、ちはるさんって頼りになるんだよ」

「ふーん、そーなの」

「うん。私が家出した時も一人で探し出してくれてね」

「姉さま、不良だったの!!」

 

 他人のことに興味を示さないエリは話の後半だけを聞いて目を丸くした。彩香は「違うわよ」と自分を見上げる少女の眼差しに優しく微笑んだ。

 

「わたし、大学を卒業できなくて逃げだしちゃったの。母さんが怖くて」

「頭悪かったから?」

「はは、半分当たりかな。バイク乗り回して夜間のバイトに眠くて午前中は授業出なかったし」

「やっぱり不良ね」

「まぁ…それでね、ちはるさんがバイクで泊まれるところ色々調べて迎えに来てくれたの」

「ふーん」

 

 エリは箸を動かし続けた。彼女は彩香の思い出につれなかった。それでも、キャベツに堰き止められたボロボロの鶏肉をつまみ、話の続きにある関心事に「どうなったの」と顔を向けた。彩香は少女の眼に興味の色を感じて箸を置き、空腹を我慢して片肘をついた。

 

「ちはるさんが母さんを説得してくれて、そのまま彼女の仕事を手伝ってたわ」

「姉さまがカフェもやってたの」

「その頃は休業してた。でも、ちはるさんが建て直して再開したのよ」

「それじゃあ、あの店舗は築何年なの」

「え、家の改築と同じだから六、七年かな。営業してた期間は半分くらいだと思うけど」

「うわぁ、もったいなーい」

 

 軽く非難を浴びせるエリは端に置かれた小皿へ箸を伸ばして彩香に背を向けた。昔の話より扉があるキッチンの奥に心があった。併設されるカフェの比較的新しい床で輝くワックスと接した少女に過去への郷愁や愛着はなかった。

 彼女の年齢に違わない態度に彩香は悔しい気分で頬から離した手をテーブル上に握った。足かけ二十年、正面に座っているはずの女性の背中を追い、その言葉や行動にたびたび助けられた。それを隣に座る年若いエリがすぐに理解してくれることは絶望的で、だとしても、ちはるをただの小うるさい人とは思われたくない。カッとなった彩香の体内に有り余る脂肪は燃焼を開始した。

 

「いい、ちはるさんは校長をしてて偉いのよ。この前は言わなかったけどさ。おかげでレーシングスクールは大人気で、彼女に会うために鳴沢から通ってくる人だっているんだから」

「えっ、そーなんだ」

「レースがない日に講師を引き受けたら評判になって、レーサーを引退したらすぐにオーナーから『是非、校長になってくれ』って言われたの」

「ふーん」

「それに舞島サーキットの利用も直接、ちはるさんが白鳥グループと交渉してるのよ!」

 

 せっかく凄さをアピールしても平然と食べるエリに我慢ができず、有名企業の名をダシにしてちはるの社会的地位を誇った。もはや、彩香の腹ペコは極限状態。子供相手だということは頭から吹き飛んでいた。

 エリは口から箸をすーっと横に滑らす。ゆっくり噛んで頭に情景を思い描き、白い歯を見せた。

 

「わかった。白鳥技研のシーイーオーに会ってるんだ」

「え、あ、えっと……」

 

 すぐ調子に乗る彩香は言ったことの火消しに迫られた。エリを納得させるための決定打も足元へのレシーブに混乱させられて大きく打ち上げた。どうやって誤解を解こうかと考え、長話に冷めたみそ汁に箸を浸けてぐるぐるとかき回した。

 

「そ、そんなに偉くないわ。ただ広いだけの田んぼに囲まれたバイクの学校だし」

「そっか。舞島に土地をかなり持ってるのね」

「いや、そうじゃなく……」

 

 彩香は弁解する気力がなくなって彼女の横顔を見つめた。口元にご飯を付ける少女が変に誤解をして喜ぶ姿に、自分もこんな風だったのだろうかと過去へ思いを寄せた。キャベツを多めに盛った手前に鶏肉は小さく見え、平たい胃袋に満腹は遠い。伝わらなかった想いをよそに口の中で唾液が広がっていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

こうゆう女性に見せられる

 会話の途絶えた食卓には少し離れたリビングからテレビの音が聞こえてくる。皿を占める野菜に箸の止まったエリがリモコンを手に体を半分画面へと向けていた。彩香は頭が動かない少女に顔を向け、口の周りにソースを付けてマナーに苦言を呈した。

 

「ぼーい、ぐぢばぶぼびでだびばぞ」

 

 クリアな映像と見応えのある演技に箸をくわえ、エリは耳に入ったノイズで振り返る。そこではお預けをくらった食欲に、現実の女性がいつも以上に頬を膨らませた。口を動かすスピードに目を奪われるエリ。箸先でキャベツを掴んで頬張ると味もそこそこに食が進んだ。人として価値が下がる行為は少女を惹き付け、心にもない気遣いを口走らせた。

 

「姉さま、早食いは肥満の元で良くないって。テレビで言ってたよ」

「かはっ……そ、そんな芸能人の言ったこと信じちゃダメっ」

「それ報道番組だったんだけど…」

「あら、子供がニュースの始まる時刻まで起きてる方が健康に悪いのよ」

「ふーん。そだねー」

 

 エリはちはる張りの冷たい視線を浴びせてコップのお茶をすすり、自分のことを棚に上げる彩香を捉えた。だが細くした目はすぐ反対へ向いた。佳境に入ったドラマに釘付けになり、タイヤの太いレトロな自転車を引く女性と寄り添って男性が歩く路上を目に焼きつけた。兄に勧めるデートの見本として。

 そして、手を合わせて「ごちそうさま」と閉じた目にさっきのシーンを思い浮かべた。

 

カチャカチャ、カチャカチャ……

 

 箸のぶつかる音が耳に障り、側で上げ下げする腕がうっとうしい彩香に雰囲気は壊された。諦めて彼女を見たエリは少しの間繰り返される動きに目を合わせた。食器の中身が見る見るうちになくなっていく。こういう女子は間違いなく対象外とリビングへ顎を向けた。

 突如、エリはふっと笑った。この人は何でこんな懸命になってるんだろうとの感情が湧き起こってきた。意外に、兄のパートナーを探そうとする自分の努力とは通じるところがあった。

 兄は桂木家で妹が世話になっていることを知らなかった。彼をおもんばかったエリは苦手な工場に行く間の連絡を控えた。それも今日の金曜で終わり、片付けの後に電話をかける予定。少女は明日の午後にカフェへ来た彼がどんな顔をするかを楽しみに頬杖をついた。唯一の気がかりは彩香にどん引きして二度と来たくなくなってしまう事だった。彼女の粗が目立たぬよう二人の側で橋渡し役を買って出るつもりでいた――お兄ちゃんは女性に慣れてないけど、きっと……。

 

ドンッ

 

 テーブルに彩香の箸を載せた茶碗が置かれ、エリがパッと目を見開いた。両腕をついて前傾した上体を起こす。食事が終わって洗い物の合図が鳴ったように聞こえた。

 

「エリちゃん、片付けは待ってくれぅ~」

 

 満足した腹にゆるりと声を響かせ、彩香が年季の入った椅子でコップを片手に肘をついた。隣の少女は座席の布地にあまり使われてないクッションの弾力で立ち上がった。

 エリの気持ちはもう明日だ。この一週間、カフェのほこりを払って綺麗に掃除した目的は兄を迎えることにあり、他はついでに過ぎなかった。流し台に自分の食器を置き、慣れてきた皿洗いに余分な油をまず拭き取る。洗剤が付いたスポンジに水を含ませ、まだ汚れの残った食器をこする手に力を込めた。

 




―― 次章予告 ――

桂木家にエリの兄が来る日。夏休みに必要なものを取りに彼女を施設へ行かせ、彩香は猛暑の中で家事をこなした。「カフェに来て」と言われた少年が扉を開ける。リビングには… ⇒FLAG+05へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+05 今そこに、カフェをたずねて
たまには大人らしく


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリはカフェ再開を目論んで桂木家を訪ね、夏休みに泊めてもらえることになった。
朝から掃除を始めたエリの元気な姿に影響され、彩香は共同生活に胸を躍らせる。
彩香が仕事に行っている間、エリはカフェ以外にも食事の後片付けをしたり、洗濯物を干したりと雑事をこなした。しかし頭の中は兄のことばかり。
夕食の時、エリに「兄を連れてきたい」と頼まれたちはるが腹を立てて帰った。彩香は叔母を悪く思われないように思い出話をするが、彼女は無関心だった。それでも、懸命に食べる彩香には親しみを感じて気遣いを口にした。
テーブルでくつろぐ女性を慕いつつも、エリの気持ちは兄を迎える明日へ向かっていた。



 一週間ぶりの湯舟を堪能した彩香はヘアバンドとゴムを取って髪を背中へ解放的に、乳液の力を借りて潤いを閉じ込めた肌に自信を持って廊下から戸を引いた。

 桂木家のダイニングキッチンは出来合いの食事でウィークデイの最後を節約し、明かりを落として静まり返る。片やリビングではシーリングライトの下、壁の両サイドに浮かんだ小さい窓をカーテンが覆い、中央で横長のディスプレイが光を放った。

 しんとしたテーブルに若干の湯冷めを感じつつ、気を取り直して明るいリビングへ足を向けた。

 

「う~ん」

 

 点けっ放しのテレビに四角い枠の懐かしい番組が特集され、ソファーの背に見えないエリから呻きが聞こえてくる。窮屈そうな声の主を確かめにそっと横へ回った。座面上で芋虫のように腰を浮かせて手をバタバタと、彼女は画面を真似してお尻を動かす。綿のハーフパンツと裸足を眺めて彩香は肘掛けに腰を乗せた。

 

「何をしているのかしら、一体」

「んー、この子の無理~」

「おやめなさい。そんな恰好、下品よ」

 

 噴き出しそうになるのを我慢して口を押さえた。いつもは自分がテレビに向かって唾を飛ばして大笑いが定番だが、風呂に入って気を良くして思春期の少女を前に大人の顔を見せた。

 エリの体が転がって化学繊維の生地に手をついて起き上がり、正座をして前傾姿勢でソファーの前方へ両腕を空転させた。それにも彩香は膝に手を乗せて構えた。動きが止まった彼女に微笑み、入浴前の生返事をした用事に遅ればせながら気を遣った。

 

「それで、朋己くんに連絡できたの。うちの電話古くて操作が不便だったでしょう」

「できたよ。お兄ちゃん、『明日来る』って言ってた」

 

 ソファーのばねに元気良く跳ねたエリは手を上げて彩香へ目を輝かせた。テレビ番組の古めかしい映像で狭い教室に生徒達が同じポーズを取る。ちらちらと画面に映った見慣れないボードが彩香の目に留まり、嬉しそうな彼女に目線を合わせて指で差した。

 

「エリちゃん、あれ黒板って言うんだよ」

「知ってる。まだ中学にもあるし」

「え、そうなの。私は実物を見たことないんだけど」

「へー、姉さまの方が昔なのに。ウソだ~」

 

 ジェネレーションギャップを感じさせる若いエリが過去の遺物を知っている。彩香は彼女から遠く山奥の雰囲気を感じた。耳を隠して裾をまっすぐ揃えた髪に素朴さを、『田舎者』と書きたくなる白いほっぺに柔らかさを。事務作業で溜まった疲れがほのぼのとした少女に癒された。その上、ぽかんと口を開けたエリに注目され、ちはるに教えられてばかりの彩香は相好を崩した。一段高く腰掛けて人差し指を立て、なけなしの知識で都会生まれの鼻を高くした。

 

「鳴沢市はこっちと違って進んでるから、デジタク云々」

「デジタイゼーション?」

「そう、それよ。小学校とかにITネットワークのあるやつでさ」

「社会の授業で習うんじゃないの」

「あ、うん、昔は習ってないの。ほんとよ~」

 

 不意に突っ込まれた彩香は雑なでまかせにエリの肩をポンポンと叩いた。「またか」という目を向けた彼女に、のっけから腰の折れた話を元に戻して調子づいた。

 

「でね、先生に怒られた事がぜーんぶ、帰る前に母さんにバレちゃうの」

「じゃあ、その頃から少し不良だったんだ」

「なっ…宿題忘れたくらいよ。そーいうことあるでしょ」

 

 雲行きが怪しくなってムッとしながらも無難な所で手を打ち、ひねた少女に同意を求める。しかし、エリは手を這わせてソファーに転がるリモコンを探り、表示された番組表に難しい表情で顎を押さえた。彩香は肩透かしを食わされ、彼女の横顔に目が行った。急に硬くなった頬は母の小言を去来させた。

 

「宿題はちゃんとやってるの、エリちゃん」

「えっ、何か言った?」

 

 目を合わせようとしないエリは手を伸ばしてチャンネルを変える。笑っていたバラエティ番組へ面白くなさそうにした。終いには「もう寝てこよっと」と立ち上がり、宿題をしていないと疑う彩香の前を何食わぬ顔で通り過ぎた。

 

「ちょっと待ったー」

 

 彩香に呼び止められ、エリは戸のハンドルを引いて目を泳がせた。ぎこちない笑顔を作り、くるりと振り返って手を後ろに隠した。下を向いた彼女へ、両肩を怒らせた彩香は目を光らせてじわりと近づいた。捕まえようと手を上げると、顔の前に細い腕がさっと伸びてきた。

 

「い、今は宿題ないんだよ~。コレ、本当っ!」

 

 突然、掲げられた人差し指に彩香が一瞬ひるんだ。エリは戸を閉じることなくスタコラと二階へ逃げ出した。ハッとした彩香は廊下に追って出た。彼女が暗い階段を駆け上り、折り返しで外側にひらりと身を翻して回るのが見えた。

 彩香はやれやれといった感じで入り口脇で肩の力を抜いた。リビングに戻って無秩序にばらけた後ろ髪に手をまわし、どうするべきかと振り返った。テレビに向かう三人掛けのソファーは以前と変わらないちはるや曾祖母・麻里と過ごした位置にある。電話の棚に置かれた記念写真から見守る視線がそれを撮った人の分までプレッシャーをかけた。彩香はポケットに手を入れ、ゴムを掴んで廊下へ出た。

 明日の献立を考えて二階へ上がり、納戸に入って風呂上りに毛穴を開いて汗をかく。エアコンの涼風を受けて布団にくるまるエリを廊下の向こうに、仕舞われた衣類をせっせと掘り起こした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

着せられて戸惑って

 押しかけてきて再び訪れた土曜の午後。エリはつばの広い麦わら帽子を深くかぶり、快晴に照りつける太陽をお腹に浴びてカフェの前に立たされていた。ボタンを全部留めた薄手のベストに日が射し、たちまちTシャツの裾が温まった。

 日焼け止めを塗られた腕を鼻に持ってきてくんくんと嗅ぐ。彼女は朝食の時に宿題を取りに行くよう言われて頷いた。エリには緊張感の欠けるこれからの予定。大きなあくびを手のひらで受け止めた。さらに、閉じた口に食後のゲップが出る。音を聞いて彩香が手にしたスマホ画面に映る時刻表から顔を上げた。

 

「もー、分かってるの。今日は駅前のバス停だし、遅れると二時間待ちよ」

「わかってるよ。でも、誰のせいで……」

「それならいいわ。あれっ、やっぱり少し長いかな」

 

 彩香は少女がたすき掛けしたポーチの長さを再調整して肩のほこりを払う。顔に納得した表情を浮かべた。だが、今度は白日の下に出した古着の臭いを気にして鼻を近づけた。あちこちと嗅ぎ出す顔をエリが手で押さえた。

 

「も、もういいよ。どこも悪くないってば」

 

 エリは恥ずかしそうに断った。彩香の服装チェックが続き、なかなか出かけられないでいた。

 

「それじゃ、行ってきまーす」

 

 やっとこさエリは塀に渡されたロープを跨ぎ、振り向いてカフェへ右手を上げた。入り口の彩香があきれ顔で反対を指す。彼女はくるっと体を返し、てくてくと家の塀沿いに歩いていった。

 その姿が庭木の向こうに隠れ、彩香は息をついた。自分が足を通すはずだった七分丈のパンツを履いた少女を我が子のように見送った。少し元気がない様子が気になった。それでも、彼女の兄が来るまでに家の中を片付けなければならない。焦ってカフェに入るつま先を溝に引っ掛けた。

 駐車場の前を越えたエリは桂木家の角にある門で足が止まった。肩までの髪が門柱からフェンスへゆらり、体をひねって傾けた。カーポート奥の八角形をしたカフェをぼーっと眺め、シャッターが下りた窓の内側の綺麗にしたカウンターと椅子を想像した。早く戻って兄を出迎えるつもりだったが、叶わなくなって残念がった。

 路地の暑さで胸元に手をパタパタと振った。今日の服装を見てエリは手が止まり、午前中に緊張した疲れで瞼をこすった。朝食の後に二階へ制服を取りに行こうとすると、彩香がソファーの脇に置かれた段ボール箱から服を出した。「ほとんど着てないの」と笑顔を見せ、エリの胸にシャツを押し当てた。何着かは実際に着せられ、ぶつぶつ言って脱がされてローテーブルに並んだ。エリが記憶にない体験に戸惑っているうちにどんどんと時間が過ぎていった。

 

「これ、変じゃないかなぁ」

 

 前髪は左端をスリーピンで留めて眉が透けて見える。エリは手でそっと耳に掛けられた非対称の髪に触れた。彩香が自分のお古から選んで着せてくれた恰好に不満はなかったが、好意に対しては複雑な気分だった。手を下ろして腕に巻いた時計の針が目に入り、バスの時刻を思い出した。帽子を押さえて車二台が通れる道の端をトテトテと駅へ向かった。

 リビングでは彩香が散らかった衣類を折り畳み、ぽりぽりと頬を掻いた。エリに合う古着の少なさはこの家に来てからの体形変化を表した。けれども長く落ち込む暇はなく段ボール箱に仕舞い、両腕に抱えて階段をドタドタと二階へ上がった。ベランダに干した布団をパンパンと叩いて部屋に入れ、すぐに一階に下りてダイニングテーブルで菓子パンにかじりついた。施設に戻ったエリはしばらく帰ってこない。今まで彼女に任せていた洗濯物を掃き出し窓から出て取り込み始めた。

 八月がすぐそこに迫り、住宅街は猛暑が続いた。桂木家は三方をアスファルトの路面に囲まれて逃げ場のない熱気に包まれる。最後に、彩香は洗濯ばさみを外してシーツを勢い良く家の中に引き込んだ。高々と上がった太陽で額に汗が滲み、頬を伝って庭先へ飛び散った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

兄が打ち明ける話

 エリが出かけてから数時間経った。ハーフパンツから出る足元に西日が射し込んで冷房の効きも鈍くなり、彩香は背中のべったり感を我慢し切れずソファーを立った。畳んだ洗濯物のTシャツを取ってダイニングへ行き、無造作に椅子の背に掛けた。湿った方を吸い付く肌から引っ剥がして脱ぎ、乾いた方に手を伸ばして替わりに載せた。両手を袖に通して首を出すと扉が開く音がした。

 

カチャッ

 

 カフェから押し開かれた扉にひょいと顔が現れ、前髪を分けた少年がおでこを晒した。目を大きく見開き、すぐ身を引いた。彩香は慌てて腕をくねくねするが、火照った体に汗がたぎってシャツの裾は落ちなかった。「えいっ」と無理やり手で引っ張って腰まで下げた。リビングに戻って洗濯物のタオルで顔の周りを拭きまわし、首に引っ掛けてキッチンへ近づく。冷蔵庫の前で彩香はもう一度体中を見回した。他に肌が露出してないかを確認し、少し開いた扉に手を掛けた。

 

「朋己くんね。困るわ、そんなところから」

「す、すいません。妹にカフェに来てって言われて…」

「そう。エリちゃんは今出かけてるけど、そのうち帰ってくるわ」

「あ、そうなんですか」

「ささ、家の方に入ってちょうだい」

 

 朋己が決まりが悪そうに頭を掻いた。彩香は足元に脱がれたスリッパをひっくり返し、白い半袖ワイシャツを着る彼をカフェの暗がりから明るいダイニングへいざなった。

 他人の家に上がった朋己は緊張しながらキッチン台の角を回り、彩香が引くダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。ぎこちなく頭をペコっと下げた彼は妹のエリと目元がよく似ていた。彩香はグラスのお茶を差し出すと髪を結んだゴムを引き上げ、前髪を指で払って恰好をつけた。彼の正面に座ってまだ幼さが残る顔へ微笑みかけた。

 

「ふぅ、恥ずかしいとこ見られちゃったわ」

「そ、その、彩香さんですか」

「そうです。ハイ」

「どうも、妹がお世話になっています」

「気にしないで。脇腹にういろうをくっ付けてたこともねっ」

 

 生真面目な高校生に向けて彩香はイタズラっぽく唇の前で人差し指を立てた。だが、腹に付いた脂肪を見なかったことにして欲しいという意図は伝わらず、朋己は何のことだろうかと目を左右に動かした。ちょうど、カウンターに置かれる土産のお菓子が見えた。

 

「あぁ、つまむと感触がもちもちとして美味しそうですね」

「え、そうね。アハハハ」

 

 彩香はふざけているのかと思って苦笑いし、それが大好物だと朋己は思いっきり勘違いした。

 

「それじゃあ、肌身離さず持っているんですか」

「へっ。これはただ余ってるだけで、できればどこかに捨てたいと…」

「そんな、もったいないですよ!」

 

 朋己が人の良さそうな女性に目尻を下げ、元気良く彼女の贅肉を褒めた。妹が世話になる先で失礼のないようにと硬くなった彼もグラスへ手を伸ばし、喉を潤して流れ落ちるお茶と一緒に心拍数も下がった。テーブルの反対では彩香が手元に目を落とし、皮肉に聞こえた言葉に唇を噛んだ。コンプレックスを刺激されて「食わしてやろうか」と低くつぶやく。しかし大人げないことはできない。辛うじて残った理性が彼女の上体を起こさせ、前を向いた口に社交辞令を喋らせた。

 

「それにしても、夏休みなのにわざわざ制服で来てもらって悪いわね」

「こちらこそご挨拶が遅れてしまってすいません」

「あら、そんなに畏まらなくてもいいわよ」

「いいえ。エリが施設に提出した外泊届の電話番号がでたらめで困って、一週間も連絡できなくて申し訳ないです」

「ううん、構わないの。一週間といっても昼は仕事でいないし」

 

 平静に戻った彩香は椅子にもたれて足を組んだ。非礼を詫びる朋己は正しく叔母・ちはるが口を酸っぱくして言う『礼儀』の正しい少年。些細なことで怒ったりしないで大人の応対をしようと思い、思いやりの気持ちを持って接した。

 

「勉強しながら手当もらって働いてるわけでしょ。偉いわ」

「偉いというか、お金が無いとエリに好きなことをさせられないですから」

「やっぱり、ちゃんと考えているのね」

 

 朋己はグラスを掴んだ両手がエリより大きく相手の目を真っすぐ見て話した。妹想いできちんと将来を見据える態度に感心し、自分で奨学金を申し込んだ少女の兄だと実感させられた。

 

「二人ともしっかりしてさ。それに比べて……」

 

 頭の後ろに手を組み、朋己と比べた今の自分に思わず自嘲しそうになる。普段、ちはるが使っている席から少年を前に虚勢を張って喉が渇いた。冷蔵庫から飲み物を取ってこようと後ろへ体を倒し、もたれた背中の厚みを椅子の背に軋ませて立ち上がった。

 カウンター側に寄ってさりげなくテーブルの横を通り過ぎると、いきなり彼に腕を掴まれた。

 

「えっ」

「あ、あの、エリが迷惑かけてませんか」

 

 空中を揺れる頑丈そうな丸みへ朋己はタイミング良く手を伸ばし、胸に抱える妹の心配を彼女に打ち明けた。驚いて彩香は横を向いた。他人のことを考える余裕がない少年の真剣な瞳が自分へ向けられた。彼の握る手は力なく肉厚な腕から離れてテーブルで反対の手と合わさった。彩香にはそれが捧げる行きどころのない祈りに見え、歩道で仲良く歩いていた兄妹の隠れた部分を見た気がした。

 彩香はホッとした。エリのことを悩む朋己は普通の高校生であり、自分の方が相談される側の大人であった。優越感を覚えるとニンマリと笑って顔の前で手を横に振った。

 

「ないない。家事をよく手伝ってくれるわ」

「それが、施設で結構わがまま言って周りから浮いてたんです」

「そうなんだ。でも――」

 

 いじらしい朋己の姿は彩香に自信を回復させて心と体を軽くした。彼の肩をポンと叩き、グラスを受け取って対面キッチンへ回り込んだ。カウンターの奥から開けたリビングの天井へ根拠のないフレーズが響いた。

 

「大丈夫よ、大丈夫!」

 

 人差し指をピシッと透明なグラスから伸ばす仕草に、朋己は施設で他の子に偉そうなエリの姿を思い返した。高圧的な態度をウザがられて相手にされない少女はむくれた顔を見せる。中学三年生になって年下が多い中、誰からもお姉さんとして慕われてなかった。その性格を彩香は「問題がない」と言う。妹を真似して。明るく振る舞って安心させようとする彼女は心優しい女性なのだと脳内で好ましく解釈されていた。彩香にすっかり気を許した朋己はリビングへ顔を向け、妹が彼女と生活する光景を想像して息をついた。

 彩香は二つのグラスにお茶をなみなみと注いだ。久しぶりに男子と二人きりで話す。気分が高揚して急いで戻って卓上にトンっと置き、向こう側へまわって椅子に腰掛けてテーブルに組んだ腕を乗せた。

 

「実習はマイジマ工業なのよね。じゃあ、国道を南雲市方面へ行く途中に見える工場に行ってるんだ。白鳥の子会社だから車かバイクでしょうけど、何の部品を作ってるの」

「はい、作業には慣れてきたんですが。まだ名前が分からなくて」

「まぁ、おいおい分かるわ。でも職業訓練コースを選ぶってことは、朋己くんは機械いじりが好きだったりするのかな」

「実は……」

 

 興味があるか問われて朋己は目を伏せてお茶に口をつけた。機械が苦手なら好きなバイクの話を諦めるかと、彩香はため息をついた。ところが、グラスを置いた彼が「ふっ」と笑みを浮かべた。

 

「実は神のお告げを聞いたんです」

「はぁ?」

 

 打ち解けた会話のテーブルを冷ますかのような空気が流れた。信頼した女性に遠慮がなくなった彼はエリの兄だった。嬉しそうな朋己の黒い瞳を受け、彼を告白させる協力を懇願されたカフェの記憶がよぎった。彩香は前方に傾いた体をそーっと後ろへ引いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二人まとめて姉気分

 朋己とエリが暮らす施設は舞島市の内陸にあった。去年の今頃、夕食後に自室へ戻るために廊下を歩く彼は進学先について考えていた。窓の外を見ると満月が綺麗で、ウサギと思った黒い模様が動いて人影に見えた。空中に浮かぶ人は手に持った杖で海の方向を指して飛び去り、共用ルームに入ってPCで調べて海に突き出た島に舞島学園があると分かった――という『神のお告げ』の話を朋己が笑顔で語った。ダイニングテーブルで彩香は椅子の背に深くもたれ、両腕を抱えて目を閉じて想像力をフル回転させた。

 朋己の話は勢いに乗って定期購読する占い雑誌にまで及び、運勢に従って進路を決めたと説明した。彩香の耳に入った単語は堅い頭で堰き止められて漏れ始める。溜まったストレスで彼女は手を前へ突き出した。

 

「ち、ちょっと待って。分かったから、うん」

「こんな風に感情線が近いと…。見にくいですか、結婚線って言うんですけど」

 

 朋己がなぞる指を止めて手のひらを向け、目を細くしてまた大きくした。彩香は男子に見つめられて満更でもなかった。けれど食傷気味に両手の輪に挟まったグラスを傾け、もう少し現実的な話をしてくれないだろうかとチラリと目を向けた。ふと、彼から今朝の洗濯物に嗅いだ臭いが漂ってきた。

 

「あっ、あの帽子洗ったわ。『M』が刺繍されたキャップ」

「エリが持っていったMasamiモデルの帽子ですか」

「え、野球のじゃなかったんだ」

「ちょっと前のアイドルが好きで集めているんですが、変でしょうか」

「全然変じゃないわよ。私のはとこ、純一っていうんだけどMasamiグッズを段ボールに溢れるほど持ってるわ。へぇー、あなたもなの」

 

 自分たち世代で流行ったアイドルに傾倒する朋己は妙な男子だった。だが、彩香は口では驚いてみせるものの、内心は喜んでいた。年下で話し相手の純一が婚約して寂しさを抱えた彼女は新しく弟ができたような気がした。彼も趣味に理解のある女性へ白い歯を見せた。二人の間を隔てるものがなくなり、日が暮れて窓の外は赤みを帯びた。これまでの我慢に次は自分が話す番と、彩香は少年をからかうネタを探し始めた。

 

「朋己くん、学園では何部に入ってるの」

「天文部です」

「えー、占いやアイドルとは関係ないじゃない」

「いやいや、占星術がありますよ。昔から天文に限らず、自然現象は占いと関係が深いんです」

「まあ、天気予報も占いみたいなもんよね。よく外れるしさ」

「天気は靴を飛ばして占ったりできますけど、本当に色々なことで占えますね」

「じゃ、家の中でも占えるかしら」

 

 グラスを持ち上げて片肘をつき、朋己へ目をやりながらお茶を口に含んだ。彼が何をしてくれるのかと楽しみにして待った。彼女の期待に胸を張った朋己が部屋をざっと見渡し、リビングの隅に掛かった洗濯物を干したハンガーを指す。彼は吊るされた布の乾き具合に目をつけた。その途端、彩香がお茶を噴き出し、目の色を変えて自分の席から飛び出した。

 

バンッ!!

 

 勢い良くカフェから扉が開いた。つばが最初に、麦わら帽子と肩ベルトが次に見え、ぬぅーっとエリの顔が室内の明るさに浮かび上がった。彩香が立って顔を押さえる少年の後ろ姿が兄だとすぐ分かり、彼女は目を覆われた彼の彷徨った両手の動きがおかしくて笑った。

 

「ふふ、二人とも何やってんの」

「エリー、せ、洗濯物っ。はーやーくーー」

「えっ……。そっか」

 

 エリは必死に振る顔がリビングの隅に干された下着を指していることに気づいた。帽子を朋己にかぶせて二人の横を靴下で駆け抜けてハンガーへ向かった。かかとを上げて長方形の枠にぶら下がるピンチへ手を伸ばしてダイニングに振り返ると、彩香が押し付けた麦わら帽子が兄の顔に丸く、笑いをこらえて胸で抱えた下着をソファーの座面に放った。

 足取り軽くテーブルに戻ったエリはお茶でシャツを濡らす彩香の横から顔を出した。思わず、朋己への声がニヤついた。

 

「お兄ちゃ~ん、私のパンツ見えた?」

「な、何言ってんだ。ただの布にしか見えないよ」

「ねえ、どーいうことなの」

 

 彩香は兄妹の会話に首をひねり、エリがするりと朋己の前に出て帽子を剥ぎ取った。急に明るくなり、彼は目頭に指をこすって目をパチパチと二人の顔を見えにくそうにした。

 

「最近、目が悪くなってしまったので」

「え、何も見えてなかったの」

「しっかり見ようとしてるんですけど、ぼやけちゃって」

「なんだ、そうだったの」

 

 彩香は理由が分かって頬をさすった。朋己が目を細くしてリビングからキッチンまで壁をぐるっと見回し、自分へ真っすぐな視線を注いでいた彼を物寂しく見つめた。

 エリが新しいスリッパを取りに玄関へ行き、彩香は床に放置されたポーチを拾い上げてテーブルへ向いた。そこで大人しくお茶をすする兄とやんちゃな妹では性格の違いを感じさせた――思い込みが強いところは似てるけど、お兄ちゃんの方は積極的じゃないわね。入ってきた時も静かで――と彼が来た時の出来事を振り返り、着替えも見られてないと分かった。

 薄暗くなった室内に朋己が目をしばしばし、彩香はお腹の周りに余分な肉が付いているなどと自虐的なギャグをかましたことを後悔した。ただ彼は意味に気づいてないと考えられた。早速、なしの方向に軌道を修正するべく口に手を当てて小さい声で話しかけた。

 

「ね、カフェから顔出して脱いだとこを見てたわね。ナイスバディだったでしょ」

「えっ。もしかして裸だったんですかっ」

 

 驚いて見上げる少年。彩香は薄笑いを浮かべ、おもむろに腰を曲げて顔を近づけた。

 

「ふふふ、冗談冗談。残念だけどTシャツを着てたわ。今日はエリちゃんが着られそうなシャツを洗濯していたの。『M』サイズのが納戸に残ってるのよ、まっだまだ私も着れるんだけど」

「彩香さんの体形はエリと変わらないんですね」

「ええ、間違わないでちょうだい。太ってないんだから」

「思ってませんよ。ははは」

 

 朋己が都合良く納得し、彩香は大笑いしないように口を押さえる。二人が仲良く笑うダイニングにエリが戻った。楽しそうな彼らの間に入ってきて両腕を前に突き出した。

 

「ねえねえ、姉さまの下着のゴム伸びてたよ。こーんな風に」

 

 両手をびろーんと彼女は広げてみせた。朋己が手に持った空のグラスに口をつけ、彩香が視線を逸らして首の後ろに手をまわした。微妙な空気を醸し出して互いに反対を向く。エリは両方へ顔を上げ下げし、二人の関係を計りかねた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カフェは気に入った?

 空騒ぎの末に明かりが点ったダイニング。今日の夕食は成長期の兄妹のため、彩香が一口カツ用の豚ロースを揚げた。テーブルの中央を占拠する大皿に焦げ目が所々の揚げ物が積まれる。エリは小皿に取ったその一つを箸で指し、横の兄を肩で小突いた。

 

「この豚肉、わたしが瓶でトントンしたんだよ」

「そうなんだ。それじゃ、彩香さんに教えてもらったんだ」

「うん、大変だったんだから」

 

 右手に市販のソースを取ってかけると口に半分かぶりついた。妹を横目に朋己は遠慮が表に出て躊躇した。見かねた彩香が「どうぞ」と大皿を押し出した。彼は促されて箸を取り、エリと利きの異なる腕が当たらないように小さめのカツへと手を伸ばし合う。彩香は仲良く並んだ兄妹との縁に不思議なものを感じた。二人の背中へ思いを巡らせたことが昨日の事のように思い出され、正面で黙々と食べる朋己に交差点での一件を尋ねた。

 

「朋己くん、一ヶ月くらい前に歩道で私とぶつかったよね」

「えっ、彩香さんとは初対面ですが」

 

 朋己が箸を止めてまばたきをした。彩香は疑問を抱いたが、言おうとした言葉を呑み込んだ。

 

「ううん、覚えてないなら構わないの」

 

 無理に思い出させるのは悪い気がした。見覚えてなかったんだと深く考えないようにして自分の小皿を手に取った。もてなす側の人間として彼らとの食事に参加しているのだ。

 彩香は作り過ぎた感のある大皿へ腕を伸ばし、カロリーが気になって手を止めた。だが、エリの箸が大きめカツをひょいっと掴み上げる。脂っこい食事で箸が進む若さに嫉妬し、中高生は多少食べ過ぎても太らないからと思い込んだ。今朝彼女に着せた服の袖に腕が通らなくなった過去をとっくに忘れ、彩香の目は自分より背が高い男の子に期待した。

 

「ところで朋己くんは今、体重何キロあるのかな」

「はい、4月に計った時は53でした」

「へぇっ。そ、そんなに軽いの。身長がそこそこあるのに、私より10キロも」

「体重より背がもう少し伸びないかと。やっぱり運動をした方が…」

「そんなことはどーでもいいから、どんどん食べなさい!」

 

 大皿の真ん中にある塊を箸で「どうぞっ」と朋己の方へ寄せた。彩香がテーブルにぐいっと首を突き出し、体重差の責任はそっちにあると言わんばかりに唇を噛み、彼の小皿が空くのを凝視して食べ切るよう迫った。朋己は向けられた顔に照れくさそうに口を動かし続けた。

 

 

 食事が終わって流し台の前に彩香が一人で片付けをした。エリは兄をカフェへ連れ出し、電灯の下で暖色に照り返されるカウンターの椅子に座らせた。

 

「わたしがキッチンに入ると、姉さまは『疲れた~』って帰ってくるの」

 

 一週間でカフェを掃除して綺麗にしたことを得意げに話した。シャッターが下りてガラス張りの窓にはしゃぐ妹が映る中、朋己は気を利かせて二人にしてくれた女性を気にしていた。キッチンの扉へ視線を向けて真面目に話を聞かなかった。エリは頬を膨らませ、彼の耳を引っ張った。

 

「もぉ~、ちゃんと話を聞いてよ」

「痛い、分かった分かった」

「じゃあ、そこ。トイレの前から入り口まで綺麗にするのに二日かかったんだから」

「へー、この通路は結構広いね」

「え、あぁ、車いすで通れるんだって」

「こんな小さい店でもバリアフリーなんだ」

「何それ?」

「うん。チェーン店では当たり前なんだけど――」

 

 朋己が話をしようとするエリに顔を合わせた。カウンターに手をついた妹はしばらく黙って兄の話に聞き入り、ときどき合いの手を入れる。カフェでの時間はすぐに過ぎ、彼女の思ったほど彼はこの場所を気に留めなかった。

 門限のある朋己は寮へ帰るためにカフェの外に出た。敷地のへこんだ角に兄妹で柵を背に並んで夜空に夏の大三角形を見つけ、北極星を探す妹が明るく輝いた星々を指して見上げる。彼女への不安を軽くしたのは見送る彩香の微笑みだった。兄がボーっとする様子に、エリは自分が見つけた星を見ているかを気にした。

 

「お兄ちゃん、ちゃんと見てるの」

「ああ、明るいのは見えてるよ。ベガとデネブくらいは」

「ふーん。ところでさ、今日はどうだった?」

「うん、いい人だね」

「えーっ。カフェのことだよ」

 

 カフェに興味を示さなかった反応にエリは口を尖らせた。とはいえ、店内はまだ手の届かない高さにほこりや蜘蛛の巣が残って問題があり、ひとまず堂々と彼をこの家に呼べることに満足して朋己の顔を覗いた。

 

「ねえ、今週はヒマなんでしょ」

「違うよ。工場で実習がないだけで学校には行くの」

「え~、おんなじだよー」

 

 路地を帰る朋己へ手を振ってエリは見送った。彼の夏季休暇はもう少し先。それまでに相手を探そうと決意し、彩香に借りた服の背中にジワリと汗をかいた。駅前から漂う明るい空の境は住宅街の端まで広がり、振り返った彼女の頭上で北極星が控えめに輝いた。桂木家に来て兄以外の頼れる人ができたエリは行動に弾みをつけた。カフェを再開するために何が足りないのか、顎に手を当てて入り口の先を見据えた。

 




―― 次章予告 ――

黒田京太は中学二年生。叔母・彩香が住む桂木家にお使いで来た。ダイニングで祖母の妹・ちはるにUFОを探しに行った話を聞いてもらっていると、廊下から長い黒髪の女性が… ⇒FLAG+06へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+06 ベイビー・オブ・エルダーズ
ふつーの中学生



【挿絵表示】

―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送る桂木家のカフェに兄・朋己を呼ぼうとした。
兄に電話して喜ぶ彼女だが、宿題を持ってきていないとバレて施設に取りに行くことになった。
翌日、彩香にお古を着せてもらう体験に戸惑いながらバス停へ向かう。
朋己を迎えた彩香は妹への不安を打ち明けられ、「大丈夫」と言い切った。明るく振る舞う彼女に彼はすっかり気を許し、彩香も弟ができたようで喜んだ。
帰ったエリが綺麗にしたカフェを見せるが、朋己は真面目に聞かず彩香を気にしていた。
エリは路地で帰る兄を見送った。カフェの再開に何が足りないのか、顎に手を当てて考えた。



 鳴沢駅を出発して20分が過ぎ、車窓から見える住宅街の奥に山がそびえ立つ。少年は7人掛けロングシートの端に座り、ドアから斜めに射す太陽へ不満そうに顔を上げた。携帯端末の向きを上右下左と順に回して首をかしげ、プラスチックレンズを通して鋭く目を左右に這わせた。耳とつるの隙間に指を入れ、レンズを支える二本のサイドフレームを浮かす。学年が上がって視力が低下し、怒った母が用意した眼鏡に、まだ彼はしっくりきていなかった。

 長い橋に差しかかった線路の後方で広大なテーマパーク南端が小さくなり、渡り切って行く先に市境へと続く山々が見えてきた。少年はまばらに座る周りの人達に目もくれず、頭を後ろへドンともたれた。今日の遠出が成果なく終わったことだけ分かって肩を落とした。

 端末をシャツの胸に仕舞って彼が目を閉じた。トンネルで周囲が真っ暗になって列車はゴォーと音を立てて山の中を通過していき、車内では心地よい揺れが乗客の眠気を誘った。

 

ピロロローピィーピィン、ピロリンーピィ……

 

 少年は耳の側を風が流れる気配に目を覚まし、「しまった」と横のポールを握って体を回転し、発車メロディーが鳴る中を慌ててホームに降り立った。新舞島駅の南改札を出た彼に8月の西日が照りつける。帽子をかぶらない頭上に直射し、手をかざした脇へ青白い肌を日差しが照らした。

 黒壁の木造建築が真新しいコーヒーのチェーン店前を過ぎ、新舞島駅の通りを商業施設が少なくなっていく方向へ歩いた。人が減ってだんだんと綺麗になるアスファルト上を15分。橋の手前で大型トラックに気をつけて横断歩道を渡り、川の中程まで進むと土手の先へ広がった田畑の景色に散在する住居が見渡せた。彼は河川敷でサッカーに夢中な小学生を苦々しく眺め、堤防の一本道を進んで雑草に囲まれた脇へ下った。とぼとぼと歩いて青い稲穂が絨毯のように生え揃う田んぼの間を近くの家並みへ向かった。

 

 

 しばらくして畔の先で黒土から伸びる野菜が色づく。畑が取り囲む二階建ての家は瓦屋根が傾く太陽に照らされて青灰色を、それ以外の部分がまぶしそうな薄い色を晒した。塀までたどり着いた彼は『黒田』と彫られた表札だけの門柱の横に何もない空間から敷地の中に入った。目に飛び込むナスとその枝を支える柱の列。離れの前に広がる菜園を見ないようにし、玄関へ延びるコンクリ舗装の上を急いだ。

 祖父は跡を継がなかったものの、古くからある農家の一人息子だった。孫たちと住むために建て替えた家は間取りに伝統的な田の字型の面影を残し、台所は日の当たらない北東に置かれて和室の客間と仏間が南西の方角に並んだ。戸を引いて玄関に入った少年は靴を脱ぎっ放しにして廊下に上がり、南向きの縁側からのもわっとした空気を浴びた。反対へ顔を振ると玄関の壁に飾られた作者不詳の人物画と目が合ってドキッとさせられる。静かに廊下を奥へ歩いて居間の入り口もこっそりと通過し、突き当たって台所から聞こえる雑音に耳を塞いだ。彼は隣の階段へ上りかけ、台所の扉が開いて甲高い声が響いた。

 

「京太、おじいちゃんの野菜持っていってちょうだい」

 

 少年の背後にピンと手が伸びて袋から黒っぽい野菜が覗いた。母が顔を傾けて頬に膨らんだ髪と寄せた小さい瞳で断れない空気を作った。だが、彼は目も合わせずに階段を上って無視。母は口を尖らせて言った。

 

「どーせ、宇宙人とは会えなかったんでしょ」

 

 返答のない息子の背中に向かって嫌味を浴びせる。勇んで出かけた様子を彼女が知らないはずはなかった。その上、耳障りな小言を始めた。

 

「それといい加減、玄関のとこに置いてある自転車を物置に入れときなさい。裕太はちゃんとしてるじゃないの」

「それは餌を物置に置いてあるからだろっ!!」

 

 京太は階段途中でこぶしを握って振り返った。ドンドンと音を立てて彼女の前に下り、袋をひったくって玄関へ戻った。廊下を抜けて間口の広い玄関ホールで八方に手足を殴る蹴るして怒りを発散させた。反抗的な態度に腕を組んだ母はため息をつき、ふと思いついてもう一声。

 

「ワンピースの件、彩香に言うの忘れないでよー」

 

 自分の用件を強く主張するような高い声に京太の鼻から息が漏れた。彼はつま先で靴の向きを変えてかかとを踏み、玄関を出て戸をピシャリと閉めた。

 玄関脇に停めた自転車はそのまま放っておき、大きい歩幅で靴底がコンクリートを蹴った。門の手前に来ると庭の隅に物置が大きく口を開け、裕太を呼び寄せる餌のサッカーボールが据え置かれていた。少年は旧来のブロック塀が囲んだ家から飛び出した。沈みかけの太陽に足を向け、むしゃくしゃした気分を晴らそうと住宅街へ歩いていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

話せる相手が集う場所

 国道から新舞島駅へ抜ける住宅街の道路は人通りがなく薄暗かった。カフェの前を通り過ぎた京太が塀の上から桂木家を覗くと、玄関側は少年を待つかのように一階の明かりが点っていた。彼はデニムのポケットに手を入れ、端末を通信させて施錠を外して門を通り、手すりを伝ってスロープをぴょんぴょんと玄関ポーチへ上った。

 珍しく聞こえるシャワーの音を耳にして玄関のドアを勝手に開ける。「入りますよー」と小さく声をかけ、スリッパを履いてリビングの戸を引いた。いきなりの来客へ二人の女性は同時に視線を注ぎ、新聞の社会面を読むちはるが厳しい顔をしたままソファーから声をかけた。

 

「フーン。とうとう壊されたのかしら、この家のインターホンも」

「また迷惑な人が出たんですか。でも、俺はちはるさんを煩わせてないでしょ」

「まあ、言い訳していると私の姉さんみたいになるわよ」

 

 彼女は大げさに読者を煽る記事を閉じ、血の繋がった京太をソフトに諭した。彼は自分に向けられた祖母への悪口を軽く無視する。かわりに端末を取り出して部屋の隅を指し、ビデオ通話しかできない機器へ目を動かした。

 

「せっかく無線が届くんだから自動応答なんかに変えればいいのに」

「お金がかかるのよ。それに志穂さ…おばあちゃんが来た時に使えないとね」

「鳴沢のばあちゃんなら平気さ。あの家は家電メーカーが試作品を送ってくるらしいし。今は二階の廊下をゴミが浮いて集まってくるんだって。さすが有名作曲家だよね、ひいばあちゃん」

「そ……」

 

 ちはるは明らかに母の話題を嫌がった。苦虫を噛み潰したような表情をし、屈託なく話す京太に「元作曲家でしょ」と下を向いた。しかも相手をしてくれなくなり、彼はダイニングの方へ行って持ってきた袋を掲げた。レンジフードの下で彩香がフライパンに滑らせる魚から顔を上げた。二人のやりとりに笑っていた彼女は目配せをした。

 

「あー、そこに置いといて」

 

 手際良く菜箸で魚の身が上にくるようにひっくり返し、小麦粉の焦げ具合に満足を見せた。京太はナスが入った袋をテーブルに置き、役目を終えてカウンターの皿にまばたきした。小さく四角い野菜が縦に並ぶのを見てすぐに別の用事を思い出した。

 

「そうそう、母さんがチャック壊されたとか、11号なのにとか言って怒ってたけど」

「ぬぉっ…」

 

 彩香はお椀から溢れそうなみそ汁に肝を冷やした。姉に借りた洋服を宅配クリーニングに出して一週間。お礼のメッセージを添えて運んでもらうサービスを使い、生じた不具合に知らん顔を決め込んでいた。ぐつぐつとする音に慌ててコンロの火を止め、いわしを二尾ずつフライパンから皿へ移した。余った漬け汁が付いた長さの異なる箸二本をくるくるっとして空中で垂れた。四つ上の姉は子供の頃からヒステリーな一面がある。怒った顔が頭に浮かんだ。

 

「どんな感じなの、お姉ちゃん?」

「さあ、いつも怒ってるし」

「なら土下座してたって言っといてよー」

「え、何か差し出した方がいいんじゃないですか」

「う~ん。そうねぇ……」

 

 少年の的を射た意見に現在の所持品を考えて悩み始めた。しかし、縦に長い姉に横が勝る彩香のあげられる服は少ない。靴、バッグ、コート、……。洗ってない包丁やまな板に散らかる野菜くずの前で転がったお玉に映る伸びた顔を見つめた。

 ちはるが醤油の甘い匂いに誘われ、カウンターにやってきて皿をテーブルに持っていく。椅子に腰を下ろした彼女は両肘をついて京太へ手招きした。

 

「それで今日はどこへ行ってきたの」

「あ、やっぱり分かりましたか」

「シャツの襟がよれてないわ。よそ行きでしょ」

 

 彼女の言葉に待ってましたと京太はテーブルの端に近づいて端末を振り回した。待ち受け画面にボブが似合うアイドル風の女性が映り、それをさっと隠して自分で付けた目印が点滅するマップを表示させた。

 

「動画でやってたUFOが下りてくる場所が分かったんですよ」

「また、山追ダイスケなの」

「そうです。あ、グラサンどうもです」

「美雪には内緒よ。それに目立つから外でかけちゃダメ」

「かっこいいじゃないですか、オレンジ」

「そういうものかしら。で、どうして分かったの」

「ええ、角研が売ってるソフトで空気中の炭素波長を分析して――」

 

 得意満面に彼は隣り町へ行ってUFOを探した話を語った。家族には飽きられたオカルト話に、まだ耳を傾けてくれる人がいる桂木家で目を輝かせた。一方、ちはるは鳴沢の同じ家で美雪と彩香の姉妹より先に生まれた者の使命として、幼き日に相手をしてくれた義姉への感謝の気持ちから、彼女の孫である京太に優しく接する。母親の美雪に代わって拙い説明に進んで耳を貸し、いつ終わるかも分からない話に好物が冷めるのを我慢した。

 

「でね、その場所は小さいコンビニがあってさ」

「じゃあ、店の奥から宇宙人が出てくるって言うの」

「そうじゃなくて駐車場の方に――」

 

 はつらつとした甥の様子が彩香の目にも入った。ダイニングに久しぶりの賑やかな夕食。日頃、一人しかいない静かな家に何やかやで人が集まってくる。彼女は考え事をやめて調理台の前でほっと息をついた。冷めてしまったお椀をレンジに入れ、上に載った菓子パンへ目を向けた。盛り上がる会話の区切りを待つ間、空腹を抱えて一点を見つめていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

奇妙な遭遇

バンッ!!

 

 勢い良く廊下から戸が引かれ、ダイニングの壁に備わった食器棚の脇にエリが現れた。振り向いた京太は目につく広いおでこと髪の長い女性を物珍しそうに見た。彼女は腰のぶかぶかを引っ張り上げ、ずり落ちそうになって片方の太腿を慌てて押さえた。露出した素肌の肉感に、少年の両手が目を覆った。

 彩香はキッチンに一人でパクついた棒状の菓子パンを折り、口をもごもごさせて横を向いた。

 

「ぼーしたの、それ」

「見てよ。姉さまのコレ、落ちてきちゃう」

「はぁ、何言ってるの。前のとこに紐があるでしょ」

「どこにもないよー」

「えー、そんな。それ新品なのよ」

 

 エリに近寄って前屈みになる。間に合わせに封を切った彩香サイズのハーフパンツに紐がなく、首をかしげて腰を伸ばした。

 

「ここで待ってて。別のを持ってくるわ」

 

 彩香は結んだ後ろ髪を振って廊下へバタバタ。頬を膨らませて立ち尽くすエリを眺め、ちはるはくすくすと忍び笑いした。

 状況を確かめようと、京太はそっと指を開いた。キッチンの入り口で暗い廊下側に背の低い女が白く浮かんだ。黒髪の彼女はハーフパンツを掴む手元で腰がくびれている。彼は両手を下ろして大人びた少女に頭を傾けて見入った。両腕に沿って垂れる髪は胸の膨らみに横たわり、首を囲んで丸い顎へとその上に瞳が大きく、彼女は京太を睨んでいた。怒りを含んだ目に怖気づき、ちはるへ向いた。

 

「あの子って誰なんですかっ」

「ああ、エリの事ね。後で紹介してあげるわ」

「あ、あの、カラダ…じゃなく恰好してるのはどういう訳なんです」

「彼女はカフェの職業体験に来てうちに泊っているから」

「それじゃ、住んでることに……あっ」

 

 京太が目を離した隙にエリが戸の奥に消えた。夏休みに入って学校の宿題とUFO出現ポイントの分析でしばらく忙しく、桂木家に彼女が住み着いたことは寝耳に水だった。

 エリの行った方を向いて京太はボーっとし、ちはるが背中に伸びた髪を掻き上げた。さっきまで熱心に説明した地図画面を手にぶらぶらとさせ、姪の息子は知らない女子に興味深そうな態度を見せた。彼の横顔に成長を感じてちはるは目尻を下げた。普段は祖母ゆずりのきつい目つきの彼女も顔を綻ばせ、まるで保護者のように。エリが隠れた入り口へ指を差した。

 

「そんなにあっちの方が気になるの」

「いや、その、なんていうか」

「エリは中学三年で、確か14歳と言っていたわ。身長が148cm、体重は自称39kgだから41、2ってところかな。血液型はO型。スリーサイズも後で聞いておいてあげる」

「べ、別に聞かなくてもいいですよ。え、一つ上?」

「そうよ、かわいいでしょ。彼女はお兄さんが好きだからアプローチは慎重に――」

 

 ちはるは面白がって聞いてもないことを次々と喋った。京太は適当に返して肩をすくめ、改めて無関心を装って奥の入り口へ視線を向けた。エリは十分気になったが、まだ年が近い女の子としての実感が湧いてこなかった。

 二階から戻った彩香の声が壁の向こうからし、何かがパサっと床に落ちた。京太は廊下でハーフパンツを履き替えるのかと唾をゴクリと飲み込んだ。二人が小さい声で会話してがさごそと袋から出した。彼は手のひらに汗をかいた。布や金具がこすれる音に気を取られ、端末を腰のポケットに仕舞おうとして何度もデニムに押し当てた。

 廊下の暗がりから先に体形のふっくらとした彩香が頭を掻いて入ってきた。後から着替えたエリがすらりと伸びた脚でつかつかと歩み寄った。

 

「あなたが京太くんね、よろしく!」

「えっ。こちらこそ…」

「ふーん。お兄ちゃんよりも背が高いかな」

 

 エリが後ろ手に組んで顔を下からニコッと見上げる。素直な愛くるしい顔立ちにも京太は奇妙な感覚にとらわれ、きちんと揃った前髪の下に見せる微笑みに釈然としなかった。それでも、エリの頭からシャンプーが鼻に香り、胸先に迫った彼女の息吹に気づいた。彼は大きな瞳に見つめられて目を逸らし、テーブルへ向くと口元を緩めたちはると目が合った。

 

「俺、もう帰るよ」

 

 途端に恥ずかしくなり、汗で湿った端末を仕舞ってリビング側の戸から廊下に出た。スリッパを脱ぎ捨てて土間の靴を足先に引っ掛け、玄関先に出てスロープを足早に下った。せかせかと門扉を小さく開け閉めして門から少し離れて路上で息を整えた。

 京太は屈んで靴を履き直し、落ち着いてエリのことを考えた。彼女は開店休業中のカフェで職業体験をしに来たという。これだけでも怪しいが、加えて彼女に感じる色気と可愛さに違和感を覚えた。何者なのだろうかと思いながらフェンスの隙間から桂木家を垣間見た。来た時は電気が点いていた玄関横の窓。あの時、シャンプーの匂いをさせたエリは面格子の向こうにいたのである。少女の一糸まとわぬ入浴シーンを想像し、少年の彼は顔を赤くしてカフェの前を走り去った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

得られぬ共感

 京太が黒田家に着いた時にはすっかり日が暮れ、家からは所々に外へ光が漏れた。玄関を入って母のスリッパを見つけ、居ないと知って廊下を堂々と我が物顔で歩く。突き当たりの台所から祖父が扉の細長いガラスを指で叩いて夕食に呼んだ。桂木家で色々あって彼はお腹がすくのを忘れていた。

 台所は食卓が中央にあり、座る位置は奥に母、兄、京太、手前に父、妹、祖父の順で、祖母は適当に空いた席や側面に座った。奥のキッチン台は端っこに七人家族用の大容量ワイド冷蔵庫がすっぽりと納まった。京太はレンジと炊飯器が載る収納ラックの前を通り、冷蔵庫からプラスチックボトルの手作り麦茶を出して水切りかごのコップを取った。流しで麦茶を飲む間に祖父が茶碗にご飯をよそってくれる。椅子の後ろをぐるっと食卓の反対側に回ると、引かれた椅子の上に出がけに見たサッカーボールが居座った。眉をひそめて隣の自分とそっくりな少年へ指差した。

 

「早くどけろよ、持ち主の頭と同じ中身すかすかのボールを」

 

 けんか腰な京太。まともに話を聞かない双子の兄・裕太は動じずにニヤニヤして弟を眺めた。

 

「お前、鼻の下を伸ばしているだろ」

「な、なんでそんなことを…」

 

 冷やかす言葉が胸に突き刺さり、京太は叔母の家でエリと出会ったことが頭によぎった。顔を赤らめて気づかれてないかと周りを見回した。兄の正面で体をひねる妹が椅子の背に片手を置き、背中でパタパタと反対の手を動かし、それとなく間違いを教えようとする。頷いた裕太が箸を持った手で前へ小さくパタパタを返し、横の京太に鋭い目つきをして顔を向けた。

 

「今日は母さんが出かけてて怒られないからな」

 

 裕太は妹のサインを見事に取り違えて誇らしげ。京太はそれが分かって手で顔を押さえた。超がつくアホの兄に乗せられてしまったと大声を上げた。

 

「それを言うなら『羽を伸ばす』だろっ!!」

「ん、怒ってるのか」

「誰が。別に怒ってねーよ」

「ところでこの手はどういう遊びなんだ、みちほ」

「けっ、どうしようもない兄貴だな」

 

 京太は直接指摘しても理解しない裕太にあきれ、冷静に腕組みして見下ろした。だが、彼に構わず妹・みちほが「違う違う」と手を横に振り、兄があやすような笑顔で手を振った。二人だけのやりとりに苛立ちを見せ、彼が目の前にある邪魔な球体に足を振り上げた。

 

「やめんか、お前達」

 

 兄弟げんかは茶碗を持ってきた祖父に止められた。京太の不恰好な蹴りが表面をこすってボールは椅子からポロリと落ちた。テーブルの下で跳ねて椅子の脚に当たって転がり、結局は扉の脇で動かなくなる。三兄妹が家で起こす騒動は必ず二対一になり、毎回決まって要領を得ない結果が待っていた。京太は口を結んで座り、ご飯に箸をつけた。

 この日は母がママさんバレーに体育館へ行き、兄はいつも言ってることが意味不明、無口な妹と気にかける祖父を前に口を動かし、少し遅くれて父がいつの間にか居て、食べ終わった後の台所に祖母がどすどすと帰ってくる。平日の夕食はこんなもの。彼はみそ汁をすすった。

 みちほは扉を開けっ放しにして部屋に戻った。祖父が彼女と自分の食器を流しに置き、「閉めときなさい」と兄弟に言って居間の戸から離れに向かった。先に裕太が食べ終わり、転がるボールを蹴ってフェイントで扉をかわした。兄が閉めなかったのを見て京太は口に食べ物を噛みながら手を合わせ、お茶をすすって立った。扉に一番近い席で何も言わない父を横目に、そのままにして二階へ上がった。

 部屋に入ると未確認生物フィギュアに頬が緩んだ。ローチェストの上から手に取って顔の前へ、頭を超える高さに瞳を上下させて迫力に惚れ惚れした。鳴沢市の祖母に買ってもらった書架は超常現象に関する本や雑誌がずらっと並んだ。学習机に載る夏休みの宿題用端末を隅へ追いやり、月刊誌『メー』の最新号を広げて途中から読み進める。夢中になった少年の夜は更けていった。

 

 

「京太、早く風呂に入んなさーい」

 

 母の声が階段から真上へ抜け、うつらうつらした彼は目を覚ました。部屋を出ようとして本棚の書籍前に置かれたサングラスが目に入り、それを大事そうに抱えて一階に下りた。

 足先で脱衣所の戸を引いた。洗面台の前で眼鏡を外して手に持ったサングラスに変えるが、案の定、前はオレンジ色にぼやけてしか見えない。めげずに京太は直線的なデザインに合わせて目つきを険しくし、指を突き出してUFOを呼ぶポーズを取った。

 

トンッ、トトン、トン

 

 予期せず人影が鏡に映って通り過ぎ、ぎょっとして階段の脇まで身を乗り出した。短い通路奥のトイレにショートヘアの少女が消えて戸が閉まった。目を細くして入り口へ視線を注いでいると、中で「ピロリーン」と電子音が鳴った。彼女が収集する古いゲーム。それらは時代遅れというよりも骨董品に近く、妹はクラスの女子と違う風変りなマニアだった。しかし、京太はちっとも変だと思ってなかった。むしろ世間に迎合しないところが自分と似ているとさえ感じていた。

 情緒的な音楽とともにボタンが押されてカチャカチャと響く。一階のトイレを彼女が占領しては母を怒らせた。京太は脱衣所へと入り、ふーっと深く息を吐いた。その瞬間、呼応するかのように楽しげな音が途切れた。彼は首をかしげた。「ぷぷぷ…」と押し殺した笑いが漏れ伝わった。

 

「み、みちほの奴……。くそっ」

 

 京太は宇宙人を信じることが周りから白い目で見られる状況には慣れていた。とはいえ、家の中で馬鹿にされると腹が立った。引き戸をピシャッと閉じ、今日の汗を流すために振り返った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

怒った少女にオーマイガッ

 明くる日の昼はお歳暮に送られてきた木箱のそうめん。黒田家の食卓に三兄妹が揃った。彼らの前に母が小さいコップのようなガラスの器を出した。午後からのパートに行くため、バタバタと忙しそうに台所を動き回った。

 

「いい、食べ終わったら片付けとくのよ」

 

 兄妹に後片付けを言いつけた彼女はハンドバッグの取っ手を掴み、扉を開けて廊下を駆けていった。食卓の中央、大きめの透明なガラスボウルに白くて細い麺がどっさりと盛られた。

 裕太は練習時間が迫って食事を口にかき込んだ。室内用のサッカーボールが手元になく、飲み込んだ後で見当たらないのが悔しそうにテーブルを叩いた。そのボールは彼がぐっすり眠る部屋から母が回収して物置にセットされていた。父の考えた自転車を誘導するロジック。出ていく後輪が紐に引っ掛かって入り口へ転がった丸い球体に帰宅した彼が目を留めない訳はなかった。このパターンで裕太は毎日物置に駐輪し、リフティングしながら家に入ってくる。彼以外には公然の秘密だった。

 親の手のひらで踊る兄が眉間にシワを寄せて箸をせわしなく動かす。京太も教える気はさらさらなく、上から目線に彼をからかった。

 

「とうとう、ボールに嫌われて逃げられたな」

「言うじゃないか。ボールから逃げてゴールネットに絡まったのは誰だったっけ」

「い、いつの話してんだよ」

「まあ、今でも自分からは向かっていけないだろうけど」

 

 恥ずかしい過去を蒸し返され、京太は麺つゆの容器を握ってこらえた。とっさの思いつきで考えなしに喋ったとは思うが最後の言葉は嫌味に聞こえた。それ以上に悪く言い返そうと唇を尖らせて箸を振った。

 

「そっちは棒みたい突っ立ってるだけじゃないか」

「そりゃあ、俺ぐらいになるとポストプレイのために必要なのさ」

「何だ、背が少し高いだけなのに自慢かよ」

「それでいいじゃん。仲間が信頼してパスくれるんだから」

「フン、どーせ決まらないんだろ」

 

 サッカー部キャプテンの兄に最後まで強がってみせ、京太はボウル内のそうめんを箸先で多めに巻き付けて器に取った。兄たちの様子にみちほが目をパチクリとさせる。いつになく二人の会話は噛み合っていた。麦茶を飲み干した裕太は立ち上がり、せせこましい弟へ余裕の笑みを向けた。

 

「ま、神のみぞ知るって……あっ、時間だ」

 

 慌てて裕太がスポーツバッグを肩に掛けて台所を出ていった。飛び出た椅子の前では卓上に箸や食器が散らかった。そして、妹もそそくさと後ろの戸から居間へ消えた。まるで計ったかのように京太だけ取り残され、食卓にそうめんが有り余った――ちぇっ、お前らの分まで片付けてやらないからな。

 京太は母から隠した携帯端末を太腿の間から取り、箸を口にくわえて人差し指でアプリを起動した。

 

 

 台所は端末を手に首をかしげた京太がもごもごと食事を続けていた。午前中に二階の家族で使うPCに修正したデータを入力した。再計算されたUFOの出現ポイントが無線通信を介して端末に送られてくる。前回と位置があまり変わってなく、失望した彼は器に残る伸びた麺を無理やり口へ押し込んだ。

 

プルルルー、プルルルー

 

 正面の壁から統合端末の電話機能が音を立てて近くの人間を呼び、焦った京太は胸を叩いて喉につかえたそうめんを胃に流した。椅子を立ってもたもたと食卓を居間側へ回り、戸を開けて面倒くさそうに体を伸ばして台に片手をつき、ディスプレイを確認せずに受話器を取った。

 

「ハイハイ、黒田です」

「京太くん?」

「え、え、えっと」

 

 聞き慣れない若い女性の声に名前を呼ばれて動揺した。彼は足を居間に移動させて体を回転し、カメラに寝ぐせが跳ねた頭を晒す。ようやく画面に映った顔が昨日の少女だと分かった。

 

「エリさん。ど、どうしたんですか」

「彩香さんに家で暇してるだろうって聞いたから」

「え、はい。それほど忙しくないですけど…」

「じゃあ、今から来てくれないかなぁ」

 

 無遠慮な声の背後で窓へ光が射し、薄く影がかかる表情は不遜な態度に思えた。そうでなくても叔母のでたらめを真に受ける人間にいい気がしなかった。京太は断ろうと顔の前で両手を合わせて彼女の反応を見た。エリが肩に揃えられた髪を揺らして首を振った。画像を拡大させ、あどけなく頬を膨らませた少女に納得がいった――やっぱ見た目通り子供っぽい性格だな、怒ってる――叔母の家で怖い顔をして睨まれた事が頭に浮かんだ。腰まで長い黒髪の彼女に。

 

「アアァーッ!」

 

 手で滑った受話器が台に転げ落ちた。ディスプレイに映るエリが着替えをした前後で変わったと気づき、回転する受話器の集音口へ叫んだ。

 

「行きます、すぐ行きます!!」

 

 震える指でパネルを押して居間から廊下に出て首を左右へ振り、Tシャツにパジャマの下という恰好に自分の部屋へと舞い戻った。

 家を出た京太は火が点いたように自転車を漕いだ。田んぼの間をジグザグと通り抜け、乾いた泥にタイヤの跡を付けて広い道路に来た。端に引かれた白線の外で狭いアスファルトが切れて雑草を踏みつつ、車が向かってくる横を住宅街に通じる橋まで上った。銀のフレームに耐久力を高めた通学用の荷台付き自転車はペダルが重く、体を傾けて無心で足を動かした。

 昨日の壁際に迫力ある女性の髪が長く、今日の画面に愛らしい少女の髪が短い。この食い違いに桂木家へ向かう感情は道路脇にできた凹凸からの振動に煽られて沸き立った。

 上り終えた橋の歩道で開放的な気分を抑えて平坦な路面を車輪が回った。住宅街から吹く新しい空気が川の反対に渡った京太に爽やかさを運ぶ。並んだ家々へ向かって次第に下っていき、少年は風を切って特徴的な屋根のカフェを目指した。

 




―― 次章予告 ――

桂木家に呼び出された京太はカフェでエリの言動に振り回される。外出に付き従わされ、朋己の恋人探しを手伝うことになった。彼女の口から「UFО」と聞かされて空を見上げ… ⇒FLAG+07へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+07 Drive you on to follow me
ぞうきんをどうぞ


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送りつつ、桂木家でカフェの再開に汗をかいた。
彩香が三十で独身なのと対照的に、姉の美雪は結婚して三人の子がいた。次男の京太は宇宙人に興味を持ち、叔母の家でUFO探しに行った話を祖母の妹・ちはるに聞いてもらう。そこへ長い黒髪の女性が現れて彼は驚いた。廊下で着替えた彼女は「エリ」と呼ばれ、愛くるしさに奇妙な感じを受けた。
家では超常現象に理解のない兄妹と孤立する京太。翌日、電話が鳴って画面に映るエリの姿は髪が肩までと短い。姿が変わった不思議な少女に彼の胸が高鳴る。
京太はカフェに呼び出され、自転車で橋を渡り切った。新しい空気が爽やかに吹き始めた。



 海から山へ広がる農耕平野の美里町で叔母・彩香が住む辺りは小高くなっている。京太は住宅街の坂道を上り切り、なだらかな下りでペダルを漕ぐ足を休めた。ウッドフェンスとカフェ入り口の前を通り過ぎ、袖を上げるチェック柄シャツの後ろが目に刻まれ、両手を強く握って急ブレーキをかけた。自転車をフェンス際に停め、飛ばした分ぜえぜえと肩で息をして戻った。

 戸を拭くエリが雑巾をどけ、小窓に黒い影が映って振り返った。ボタンが外れた胸元に目が行く京太に「どうぞ、どうぞ」と手を差し出し、愛想もそこそこにカフェへ入っていく。彼はおずおずと後を付いて入り、人の姿が見えない店内でカウンター席の椅子に腰掛けた。普通の人間は一瞬で容姿を変えられない。彼女が変身能力を持った地球外生物なのか、宇宙の科学技術を使って変身したのか調べに来た。

 桂木家のキッチンでエリは水切りかごのコップを取ってお茶を入れ、レンジの上へ手を伸ばして半分残った菓子パンの袋をつまんだ。カフェへの扉脇でスニーカーにつま先を入れた。体をひねって曲がったカウンターを端まで真っすぐ闊歩し、コップを手からトンっと卓上に打ちつけ、座った京太の服に染みができた。

 

「はい、お茶どうぞ!」

「え、何も頼んでませんが」

「おでも、おても…お、おもてなしよ」

 

 慣れない言葉を言い終えてエリが満足げに雑巾を上へ放り投げた。京太は思わず肩の力が抜けそうになるが、彼女の正体が分かるまで油断できなかった。念のため、カフェの戸を通れるくらいに開けておいた。パンの切れ目からはみ出るバナナクリームへ京太が嫌な顔を返し、投げられた布はカウンターの向こうにペタッと落ちた。

 

「そう。甘い菓子パン、彩香さんは大好きなのに」

 

 エリは眉を寄せて面白くなさそうに体を横へ向けた。椅子に片膝をついてカウンターから身を乗り出して床を覗き、体を曲げて今にも落ちそうな体勢で長いスカートに腰を浮かせた。京太は昨日見たくびれを思い返し、横からお尻をじっと眺めて腕組みする。やましい気分になって彼は左右に首を振った。

 

「あ、俺が中に入って取りますよ」

「うん、ありがと」

 

 作業台に手をついて体を起こし、エリは上方へ目をやった。カフェの棚は高い場所に蜘蛛の巣が張る。その棚の前に京太が入り、肩幅の広い体を丸めて床を這った。彼女は椅子に腰を下ろして前髪を掛けた耳を触った。

 

「あなたの名前は『ひろ』って読めるから京太なのね」

「はい、兄貴が父さんの字で裕太。俺のは双子と分かってから調べたらしくて」

「ふーん。お父さんも背が高いんでしょ」

「まあ、身長は遺伝なんで」

 

 京太はまだ食器のない棚を前に立ち、寂しそうな少女へ握った雑巾をぶらつかせた。エリが手に頬を乗せてカウンターに肘をつき、少年の上へ遠い目をしていた。

 

「わたし憶えてないんだ、お父さんの顔」

「エリさん…」

 

 こーいうお話に弱い彩香の甥はほろりとさせられ、高まる感情で来た目的を見失った。「でね、ちょっと手を貸して欲しいんだけど」と言われたのにも黙って頷く。エリはそーっと手を伸ばして計画通り。垂れた雑巾の湿り気を確かめ、赤い目をこする京太の上へ見ていた角度に人差し指を向けた。

 

「あそこは手が届かなくて綺麗にならないのよ。拭いてくれない?」

「はぁ」

「わたし、やる事があるから。お願いねっ!」

 

 頼み事をした彼女が早々に扉から家の中に消え、京太は呆気に取られた。側の棚へ顔を上げて試しに雑巾を天板に振り上げた。ふわふわと落ちたほこりの固まりを頭にかぶり、またしても自宅と同様に一人残された。馬鹿馬鹿しくなって彼はカウンターへ雑巾を投げつけ、狭いカフェの作業場を抜け出した。

 

 

 時計で下向きの長針が反対へ傾き、エリがまんじゅうの箱を抱えてカフェに戻ってきた。右の壁にある扉へ向いて奥のカウンター席を背にしゃがみ、蓋を開けてキーホルダー、ストラップ、その他色々と詰まった中身をかき混ぜた。金属の鍵を見つけては扉の鍵穴へ挿し込もうとした。一つ目は大き過ぎ、二つ目は合わない、三つ目は途中で止まってしまう。彼女は似たような小物がいっぱいの箱に眉をひそめた。息をついて窓の外をまぶしそうに眺め、カウンターの端からお茶をすする音に唖然と立った。のんびりする京太を目にして怒りが込み上げ、雑多な山に目立つ縁結びのお守りを手に振りかぶった。

 京太は肩への軽い衝撃で顔を向け、腰に手を当てて仁王立ちする少女に気づいた。エリが手のひらを上に四本指をクイクイと折り曲げる。自分へ向けた人差し指で一応確認し、大きく頷いた彼女の元へ向かった。

 

「えっと何ですか、いきなり」

「サボってちゃ駄目じゃない。拭くの手伝ってくれるんでしょ」

「でも俺くらいの背丈じゃ、全然届かないですし」

「へー、そう。じゃあ待っててよ」

「……ち、違う。一言も手伝うなんて言ってませんから」

 

 慌てて雑巾がけを拒否した京太だが、大真面目なエリは手元の紙箱を見つめた。「えいっ!」と擦れが少ない銀の一本つまんだ手を高々と上げ、そいつを縦に鍵穴の奥まで挿し入れた。ゆっくりと横に倒して取っ手をひねって扉をガーッと開け、窓のない暗い倉庫へ飛び込んだ。そして、彼女は急に大人しくなった。

 

ガチャガチャ、ガチャガチャ……

 

 繰り返される単調なリズムが終わりそうもなく、京太はそろりと覗いた。カフェの窓から射す日光が入らず薄暗い。脇のスイッチで明かりを点けた。右の棚で薄い色の豆が詰まったピッチリとした袋が数個見え、奥で赤みがさした顔のエリが脚立を右に左に引っ張った。

 

「ほらっ、これを使えば手が届くわ」

 

 獲物を捕まえて周りが見えない彼女と異なり、京太は冷静に横たわるものに手を伸ばして棚と脚立の両方に引っ掛かった棒を取り上げた。軽い彼女の体が後ろへ倒れた。すぐ倒れ込まないように手首を掴むと、足で踏ん張ったエリがニッコリと微笑んだ。狭い空間で頬を紅潮させる少女に彼は胸をドキドキさせて細い腕を放し、後ずさって棒の先がザッと床で弧を描いた。

 途端にほこりがブワーッと小さい部屋一杯に舞い上がった。目が開けられない状況に口と鼻を押さえ、二人は奥のカウンターまで避難した。ほこりはカフェの奥の方に流れ込み、時間が経ってもなかなか床に落ちなかった。エリは頭上で大きく手を振り、それが顔の前に迷惑そうな京太は大して長くもない柄を見上げて首をかしげた。白っぽい繊維を束ねた穂先の箒にしか見えない棒を手に考えた。

 

「んー、超高速で振動する新しい掃除機とか」

「何よそれ。ただのホウキじゃない」

「ええ、これを少し振ったらこうなったんですよ」

「何を言ってんの……アーッ!」

 

 エリは指をあちこちへ、床の所々に白い模様ができていた。カフェ中に目をやり、カウンターに雑巾を見つけて一目散。戻ってきて腕を伸ばし、掴んだ雑巾を見せて目に力を込めた。

 

「京太、これも拭いてくれるよね!!」

 

 目元まで赤くなったエリの頬へ耳に掛けた髪の毛がはらりと外れる。可愛らしい少女が開けた扉からは積年のホコリが店内に飛び出た。倉庫の奥に残った脚立を見つめ、京太は何となく胸騒ぎを覚えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ナゾの上から目線

 文句一つ言わずにカフェの床を這う京太。散らばるほこりを雑巾で拭きがてら、目地の詰まりが気になってゴシゴシとこすった。彼を見下ろしてエリがカウンター席で脚を組んで踏ん反り返り、放置されていた菓子パンを頬張った。倉庫を拭き終えたモップを立て掛け、フレアスカートの裾をポンポンと蹴って従順な少年へ自分の話に鼻息が荒い。

 

「べはー、ぴぺぷも…チビ共は全然言うこと聞かないんだー」

「その施設はエリさんより年上の人がいないんですか」

「まあまあ新しい施設だからお兄ちゃんくらい。れもりょひはひたはら…」

「そーですか。あ、それと叔母さんの真似しないでくれませんか」

「べっ、ばんべ」

 

 喋る口からボロボロとパンくずが床にこぼれ、直ちに京太が腕を伸ばしてゴミを回収した。その拍子に胸ポケットの端末はエリが動かすスニーカーの前に転がった。

 エリは座ったまま腰を折り曲げて拾い上げ、思ったよりも軽いプラスチックの筐体をまじまじと眺めた。どす黒いカラーリングに見たことのない文字が彫られた携帯端末。横に小さい差し込み口が開く他はスマホと同じでカメラレンズが一つあり、表面は特殊加工を施されたのかまったく傷がなかった。高級感に緊張する彼女が裏返した画面に指を上下させると、大人っぽい女性の姿が表示されて薄笑いを浮かべた。

 

「小顔ナチュラルか。こーいう女子が好きなんだ」

「あ、いえ。それは半世紀以上も前に現れた舞島巨人です」

「えっ、じゃあ後ろはビルってわけ」

 

 ピントがずれて顔がぼけた画像に唇の赤色が艶めかしい。腰から上のみ映った女性が置いた手の場所で崩れた何かと下に窓らしき透明な枠が見える。エリは「変なの」と首をかしげた。

 床を見つめる京太は思い出していた。叔母の家で少女に覚えた違和感と目にした長い黒髪。巨人を見て知らないふりをしたエリは明らかに何かを隠したいのだろうと。今、疑わしい人物を問いただすチャンスが来た。指を丸めてスクッと立ち上がり、カウンター席へ振り返った。

 

「変じゃないですよ。人間以外の知的生物がいても…」

「そうかなぁ」

 

 ロックを解除できないエリは端末で遊ぶのを諦め、パンの端を口に放って待ち受け画面を京太へかざした。

 

「ぼべって普通の人が立ってるだけだったりして。特撮とかあるし」

「地球上では普通に見える人の方が怪しいですからね」

「え、この舞島巨人のこと言ってんじゃないの」

「はい、近くにいます」

「ふーん。わたしの近くにいるかな」

「宇宙人の正体はエリさん、あなたです!」

「へぇっ」

 

 宇宙人に間違われて返す言葉が見つからず、ただ目を丸くした。彩香が「変わり者」と言う話で口を濁す昨日のちはるに騙されたとエリが感じたのも束の間。眼光鋭く京太がバッと手のひらを前に差し出し、彼女はちょこんと端末を載せた。手を膝に置いて顔を上げると彼の長話が始まった。

 

 

「――で舞島をあちこち回って情報を集めた結果です。ほら、赤くなってるここ。海岸の突き出た岩だけど管制塔だと思います。おそらく、UFOが下りてくる場所ですね。エリさんも本当は胸が大きく…じゃなくて、体が成長した宇宙人の大人で普段は小さい子供に見えるんでしょう」

「ねえ、人間にわかるレベルで話してくれない?」

 

 きりのいいところでエリは口を挟んでお茶を飲んだ。京太は平然と人間アピールする彼女をますます怪しみ、腕組みして髪の長さが変わった出来事の説明を求めた。

 

「俺、叔母さんちで見たんすよ。エリさんの胸まで伸びる黒髪が短くなったのを」

「肩までしか伸ばしたことないけど。京太、夢でも見たんじゃないの」

「いやいや、夢なんかじゃなくて……」

「そーだ、片付けがまだ終わってないんだったわ」

 

 エリは空になった袋をポンっと叩き、コップを掴んで奥の扉へ早足で向かった。京太の話に興味がある訳でもなく、黙って聞いてやるほど大人でもなかった。ポカンと口を開ける彼を置いて家のキッチンに入って壁際で胸を撫で下した。

 流しには朝食と昼食で使われた皿が所狭しと残っていた。彼女はエプロンを腰の後ろでキュッと縛り、水道の蛇口をひねった。洗い桶から取った食器がガチャガチャと音を立てた。施設では食べ終えた食事トレーが洗われず給食センターに回収される。彩香との共同生活に面倒くさい片付けも手際良くこなせるようになった。それでも、洗剤の垂れる透明な筒先で指先を付けたり、離したりと、まだ細長いグラスの底はうまく洗えなかった。

 

「あははっ、ぜんぜん指が届かないや」

 

 失敗しても上機嫌な理由は京太が自分に協力的だから。施設の子達は嫌な顔をするか、とっとと立ち去るか、またはその両方。わがままを拒絶された反動はいつも兄が受け止めた。だが、今日の彼女は少し違った。こする手を動かしつつ、首を横に向けて後ろを気にかけた。

 

「京太に悪いことしたかな。でも話が長いんだもん、あくびが出ちゃった。これから外出しなきゃいけないのに…」

 

 逆さにしたグラスを水切りかごに置き、コーヒーカップを代わりに取った。スポンジをくるりと回して内側を得意げに洗い上げる。いい案が浮かんだエリは泡の付くカップを手のひらに載せた。

 

「そっか、連れてってやろう。どうせ暇なんだろうし」

 

 都合良く決めつけるのは相変わらず、京太を外出に付き合わせることにし、食器を洗うスピードを早めた。片付けを終えてレンジ台の横にエプロンを引っ掛けた。カフェへの扉の取っ手を引いたものの、カウンター席に彼の姿は見えなかった。スリッパのままでカフェに入って音のする倉庫へ首を伸ばした。

 

「なーにやってんの、こんなとこ入って」

 

 開いた扉の隙間からエリが微笑んだ。京太は脚立に雑巾を掛け、きびすを返して歩いてきた。

 

「あ、帰ろうと思って片付けてました」

「どーして、黒髪が短くなったとかいう話はもういいの」

「はぁ。よく考えたらあれは夢じゃないかなーと」

 

 京太が頭を掻いて半笑いした。あれだけテンション高く宇宙人やUFOについて語った少年の姿は影も形もなく、エリは不思議そうに突っ立っていた。彼は仕舞った胸ポケットから端末を少しつまみ上げ、数値やグラフが表示される画面を彼女に見せた。

 

「これ、拡張端末って言います。センサーデバイス搭載で角研のアプリを入れると、超常現象を探知したり、判定できたりするんです。動画配信サイトにこれ使って撮影したUFOが幾つも上がってるんですよ」

「へー、スマホじゃないんだ」

「それでさっき試してみたんですが、未確認生物アプリの判定でエリさんが宇宙人の可能性は低いという結果が出ました」

「そ、そう…」

「という訳で、なしの方向で……」

 

 視線を逸らせた京太は後ろを向いて静かに扉を閉めた。態度を小さくした彼に、エリはビビッときた。背後を通ってカウンターの角に先回りし、両手を広げて進路を塞いだ。

 

「指紋を登録してあるし、カフェは閉めていくわ」

「もしかして、どこかに行くんですか」

「そうよ、今から出かけるの。あんたはここで座って待ってなさい」

 

 そう言ってエリは近くの椅子をパンパンと叩いた。せっかく見つけた自分の言うことを聞く年下を手放しては面白くない。夏の明るさが入り込むカフェの窓辺で汗がじわっと肌着に滲み、キッと京太を睨んだ。扉の前で当惑する彼の腕を掴んでカウンターに引き寄せた。

 

「わたし、宇宙人じゃないって言ってないんだからっ」

 

 冗談とも受け取れるフレーズを発してキッチンへ入っていった。全開の入り口からひんやりした空気が流れてくる。残された少年はどうしていいのやら、彼女が叩いた椅子に腰を下ろした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小さな先導者

 住宅街を抜け出した二人は青信号で横断歩道を渡った。エリが白いキャップをかぶって8月の日差しを避け、頭を押さえて白のスニーカーで白線上を跳ねた。京太は後ろを付いて歩く。色褪せたベージュのパンツに手を突っ込み、彼女の背中に目を凝らした。先にある踏切を越えれば緑豊かな駅裏にマンションが建ち並ぶ。彼らはパカパカと点滅する下を人の多い駅前へ折れ曲がって歩道を進んだ。

 エリはゆったり目のチェックシャツの半袖を振り、身の丈に合わない長いスカートを揺らす。京太は顎に手を当てて変身すればサイズが合うのだろうかと思った。そう考えると、大きめの帽子も何だか怪しく見える。彼女が斜め上を見上げ、急に止まった。彼はぶつからないよう両腕を回して前後に体をくねらせた。

 

「道の真ん中でいきなり、どうしたんですか」

「えっ、うん、お兄ちゃんの店だ」

 

 後ろからの問いかけに少し驚いてエリはつぶやいた。歩道脇にコーヒーのチェーン店がバスケのリングくらいの位置に緑の看板を掲げていた。兄のスマホで見たマーク。店内では同じ色の制服を着た店員が接客する。ガラス張りの中を覗き、窓際で並んだ客にじーっと顔を向けた。しかし逆に見つめ返され、彼女は駅の方へ向き直って幾度か首を振って足を大きく上げた。

 

「ううん、なんでもないわ」

 

 未練を断ち切って歩き出した。彼女とまったく別の想いに、京太は店内へ不審の目を向けて窓に手をつき、セーラー服姿を前にぼんやりと見つめた――お兄さんって男なんだよな…いや待て、ヒトと同じ生体じゃないのか――と真面目に考える彼を指してゲラゲラと女子が笑った。そのまま片手で軽く壁立て伏せ。京太は汗を拭い、ゆっくり眼鏡を掛け直した。周りを見回してひょこひょこと歩道を行くエリを追っかけた。

 

「待って下さいよ。どこに行くつもりですか」

「そーね。まずは繁華街かな」

 

 前を歩くエリに行先が決まっている様子はなく、京太は彼女に近づいて目的を確かめた。

 

「舞島の繁華街って。それで一体、何をする気なんです」

「もちろん、UFО作戦よ」

「えっ、何ですか。どこに来るんですか」

 

 彼女の口から「UFО」と聞いた京太は側のビルへ上を向いた。信用金庫『まいしん』の縦書きホログラムが飛び出す青空から通りの反対側へとぐるぐると首を回し、少し傾いた太陽が目に入ってクラっときた。

 エリは駅前のロータリーを囲う舗装路に足を踏み入れて振り向いた。何もない場所でよろける京太に大きなため息をつき、一度コホンと咳払い。左手の人差し指を彼に向け、右手で腰を押さえて得意の仕草を見せた。

 

「うーんと(UHUNTO)、ふさわしい(FUSAWASHII)……」

「はぁ?」

「お兄ちゃんの恋人(ONICHAN NO KOIBITO)を見つける作戦よ!」

「NANDA SORE」

 

 連れてこられた目的は彼女の兄の恋人探しと知り、京太が天を仰いで再び太陽を目に入れた。

 

「あぁ~、頭がくらくらする」

「もうちょっと経てば涼しくなるし、今日は頑張りましょ!!」

 

 ドヤ顔をしたエリが左手も腰に当てて胸を張った。ちょうど駅の入り口前をバスが回り、彼女の後方の乗り場に来て止まった。やはり、エリは宇宙人ではないのだ。京太は冷房の効くEV車両で帰りたくなった。終点で人がぞろぞろと降りてくるスモーク屋根の下へ、彼女はキャップを取って軽快に後ろ歩きをした。

 

「コレ、お兄ちゃんのなの」

 

 キャップのつばの両端を持ち、上へクルッと回転させて頭に載せた。京太が刺繍された『M』にチラッと目をやった――そういや、ちはるさんが「お兄さんが好き」とか言ってたな。兄貴の汗や臭いは気にならないのか――と小首をかしげるが、それよりも帰宅交渉。彼は揉み手をして柄にもなく微笑んだ。

 

「あの、今日から宿題やらないといけなくて…」

「え、ちはるさんが言ってたのと違うな。『8月だとほとんど終わってるから京太は喜んで手伝ってくれる』って事だし。それに作戦はもう始まってるんだから」

「チッ、余計な…ははは、何かしましたっけ」

「彩香さんの家のカフェを掃除してるでしょ。お兄ちゃんたちにデートの場所を用意しなきゃ」

「えっ。あの店やってないですよ」

「大丈夫、すぐに再開できるわ。夏休みの間に……あっ」

 

 エリは叫び、バスの発車で吹いた突風にキャップが舞い上がった。京太も「アッ」と叫んだ。彼女が背後で話をする女性の肩を手で押さえてジャンプしていた。グッと手を伸ばして掴み、スカートの裾をふわりとさせて着地した。それを大切に胸に抱えて肩を丸める。小さくなった背中は兄の帽子に余程の思い入れがあるのだと京太に感じさせた。彼らの周囲はざわつき始め、肩を使われた年配の女性が眉をひそめて文句を言いたそうにした。とりあえず、前に出た彼はその場の体裁を取り繕った。

 

「どうもすいませんでした。彼女、まだ小学生なんです」

 

 代わりにペコペコ謝る京太の後ろでエリは頬を膨らませた。当の女性が一緒にいた人とぶつくさ言って扇子をパタパタ動かし、隣のビルに入っていった。彼は一息ついて振り返った。

 

「エリさん、怖くないんですか。モンスターおばさんが街に現れるってのに」

「ベーだ、チンタラしゃべってるからよ。お兄ちゃんが施設にいた時から大事にしてる帽子がもう少しで汚れるところだったわ」

 

 ほこりを払ってかぶり直し、すたすたとロータリー沿いを駅へ向かった。エリは遠回りを選んで行ってしまう。彼女の突き進む原動力は二人しかいない家族で支え合ってきた兄との絆だ。京太は仕方がないと首の後ろをさすった。彼の家にも妹・みちほがいる。けれど小学校の行き帰りと彼女の面倒を見たのは双子の兄、裕太だった。放課後は早番で帰った祖父が相手をし、代わった裕太はサッカーの練習に行った。友達のいないみちほも兄には笑顔を見せる。反面、いつも京太へ冷めた目を向けた――もっと構ってやれば、こんな状況じゃなかったのだろうか。

 エリの姿は駅名の下を通り過ぎ、奥の広場に老若男女が集まっていた。そこへ彼女が手を振って歩いていく。この先は何が起こるか分からない。京太は遅まきながら少女をサポートするため走り始めた。心の中に仕舞われた兄妹の憧憬を追いかけるかのように。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沸き立つ歩道と御令嬢

「あっついわねー。なんで涼しくならないのかなぁ」

「もっと日が暮れてからでないと無理ですよ」

「うそっ、ちょっとは太陽が傾いたから風が吹いてくるでしょ」

「どんな田舎から来たんです、エリさん」

 

 彼女たちが歩く新舞島駅の通りは東西へ延びる二車線道路で少し離れた国道と並走する。駅周辺は交通死亡事故を防止するため、全ての車両が法律で指定された制動装置を載せた。運送会社の不評を買った条例は大型トラックの流入を大幅に減らしたが、かわりに遅い速度で走る普通車が列を成してアスファルト上に暖気の壁を作った。

 頭の位置が車より低いエリは手で胸元をあおいだ。歩道の先はガードパイプが途切れ、角張った黒いセダンがガソリン価格の書かれた看板の所を曲がった。フロントグリルで反射した太陽光に彼女は唇を尖らせる。横へ向いて京太は肩をすくめた。

 

「あれは高級車ですね。ハイブリッドだし余分に熱が出ますよ」

「は、お金持ちなの。セルフって書いてあるじゃない、あそこのスタンド」

「たぶん、運転手が入れるんだと思いますが…」

 

 しばらく進むと、歩道沿いの建物がなくなった。スタンドの真っ白な高い屋根の下、停められた黒い高級車の後部座席にパッチリした目の見覚えがある女子の顔。京太は名前を思い出そうと立ち止まってもぞもぞと背中を掻いた。

 

「えーっと……」

「何、トイレならもう少し先よ。コンビニがあるわ」

「あっ。宮町だ、宮町未紗紀です」

「え、誰のこと?」

「あの後ろの席に座っている女の子。妹の同級生なんですよ」

「フーン」

 

 興味がないエリは真っ黒なドアの窓に白い襟のセーラー服へ重そうな瞼に眼球を動かす。親指の爪を噛むお嬢様の仕草に、彼女を指して反対の手を京太へ大きく振った。

 

「あははっ、あれ見てよ。彩香さんの方が上品じゃない」

「はい、どれどれ。あ、指四本で隠れるんじゃ、叔母さんの大あくびには及ばないですね」

 

 目を離す間に未紗紀はあくびをし、側溝の前に出た京太が眼鏡のフレームを上下させた。自分が引き合いに出した彩香の悪口を言い返され、今日も彼女の服を着るエリは馬鹿にされたような気になった。彩香がきつくて履けないスカートを借り、長い半袖シャツは腰にベルトを巻いて着こなした。桂木家で一緒に過ごす中で、家族と考えられないまでも彩香に親近感を抱いていた。エリはへそを曲げて高級車へ背を向けて腕を組んだ。

 

「フンッ、彩香さんは歴史ある舞島学園出てんだから」

「でも向こうは桐山女学園の制服ですから、歴史は変わらないかと。いやむしろ、舞島市でも線路のあっち側で山の手に校舎があるし、比較にならないお嬢様学校なんじゃ…」

「だ、旦那さんになる人は逆玉なのよ!」

 

 ムキになってエリが彩香のことを良く言おうとし、京太は理解できないといった顔を彼女へ向けた。

 

「えっ、どーして。というか相手がいればの話ですよねぇ」

「ちはるさんが言ってたの。彩香さんと結婚すれば、もれなく家が付いてくるって」

「あー、そんなところですか」

「ふふふ、こんないい話は他にないわよ」

 

 エリはウェディングドレス姿の彩香が中年男性と寄り添う様子を思い浮かべて目をつぶった。得意げな彼女に現実を教えるべく京太は近寄り、耳元へ手をかざして「未紗紀は使用人付きの屋敷に住んでます」と囁いた。目を開いたエリは驚きのあまり声を出せずにスタンドの誘導看板をバンバンと叩く。鉄製の枠に触れて熱さで飛び上がった。勢い任せに仕掛けた論戦はやけどを招き、京太が肩をすくめた。

 ドタバタに気づいた未紗紀は明るい二人に硬い表情を和らげ、思わず車のドアを開けた。座席の外へ揃えた足に白いスカートから膝を伸ばし、降り注ぐ日差しに前髪のウェーブを手の甲で持ち上げた。革靴で静かにコンクリートの上を歩いて京太の後ろに来て止まった。

 

「あの、黒田さんのお兄さんですね」

「はいっ…俺かな」

 

 不意に呼ばれた京太は振り返って少女を不思議そうに見つめた。コンクリブロック一つ分の段差で目が合う小さい顔。未紗紀は中学一年生としてはやや背が高く細身だった。

 

「確か、裕太さんでしたかしら」

 

 可愛いと思った未紗紀がポツリと裕太の名を出し、京太の眉がピクリと動いた。双子の兄に間違われると嫌悪感を覚えて敏感に反応する。彼は悪意を持って微笑んだ。

 

「すいません。家族以外の顔はすぐ忘れてしまう脳ミソなもんで」

「はあ、大変ですね。二年ほど前にみちほさんのことをお話させて頂いたのですが」

「あ、そーですか。あひるの飼育係とか」

「クラス委員ですわ。いやだ、本当にお忘れなんですね」

「ええ、馬鹿ですから。アハハハッ」

 

 京太が頭を掻いて大口を開けて笑った。ひょうきんな人間と思われたのか、未紗紀もくすくすと笑った。二人の笑い声をエリは後ろ向きで聞いた。ジンとする手をもう片方で押さえつつも、交わされる男女の会話に耳をそばだてていた――割と社交的な女子、お兄ちゃんと合うかも――と横に寄って京太の脇腹を肘で突っつき、黙って歩道の端へと行った。

 京太は未紗紀に手で断りを入れて付いていく。エリが後ろ手に組んでパイプの支柱をトントンと蹴り、「仲良しさんね」と皮肉った。彼は訝る背中へ手を振った。

 

「違いますよ。未紗紀は俺を兄貴だと間違えてるんです」

「へぇ~、あんな可愛い子と関係があるんだ。裕太もやるわね」

「ご冗談を。兄貴は妹のおまけです、どーせ何にも覚えてませんから」

「そう、彼女が覚えてればいいの。その方が好都合」

 

 垂れた横髪を耳に掛け直し、エリがニヤッとした顔を覗かせた。怒るどころか嬉しそうな表情で逆に京太を不安にさせる。彼は両手を横に広げた。彼女が何かを企んでいるのは間違いない。

 

「早まっちゃダメです。お、落ち着いて下さい」

「何、もう忘れたの。あの作戦のこと」

「う~んとねぇ、騒がしいお兄さんの小人をやっつける策謀?」

「どんな耳してんのよっ、あんた」

「いえ、あんまり聞いたことがない言葉だったので」

「だったら、もう一回」

 

 エリは鼻から息を吸い込み、口の両脇に手を当てて未紗紀に聞こえないよう車道へ吐露した。

 

「うーんと、ふさわしい、お嬢様を義姉さんにするの~」

「ん、何か違うような。いや、それって本気だったんですか」

「もっちろん、これからコンタクトを開始するわ」

 

 振り返った彼女は透き通った空へ人差し指を突き立てた。キャップのつばを上げて開けた視界にターゲットを捉えた。成功の暁には幸せだけでなく、朋己に財貨をもたらすことにもなる。太陽が強く照りつける路上で熱意をみなぎらせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

いざ、屋敷へのルート

 歩道の端で小さな女の子が先程まで笑い合った少年とじゃれていた。未紗紀は兄妹のような二人と少し離れて足元の溝に目をやって時間を持て余した。自転車が通り過ぎ、彼らが来た。お下がりなのか、先頭の子はだぼだぼの襟付きシャツとスカート。彼女が表情をにこやかに自分へ向け、年上の自覚を持って笑顔で迎える。一段盛り上がったスタンドから手のひらを小さく横に振った。

 

「は~い、こんにちは。私は宮町未紗紀、よろしく」

「こんにちわ、エリって言います。け…裕太の叔母さんの家の者です」

「あら、親戚のお子さんなの。夏休みで遊びに来たのかな」

「中三で職業体験に来たんですけど。まぁ~、そんなところで」

 

 エリは曖昧な返事でへらへらと笑った。それを訂正しようとする京太は前へ足を出し、すかさず彼女が斜め後ろに手を伸ばして胸を小突いた。彼はムッとして顔を背けた。誤解させておいた方がプラスという彼女のやり口に嘆息が漏れた。

 彼らのやり取りの意図が理解できない未紗紀はただ単に年齢と背恰好のギャップに驚いた。

 

「えっ、中学生なの。私、はなはだ勘違いをしておりました」

 

 歩道から見上げる子供っぽい笑顔の女の子が年上だと知って見方は変わる。緩んだシャツの裾を腰で絞るスタイルがお洒落に見え、汗をかいた出無精の肌も潤いある女性の美白を感じさせた。焼けて皮が剥がれてきた自分の腕を反対の手で押さえた。ぱっと見て似合わない恰好のエリへ称賛する言葉が口を衝いて出た。

 

「とても素敵なコーディネーションなさってますわね、エリさん」

「いえいえ、未紗紀さんには敵いません」

「まあ、私なんかは子供ですから…」

「宮町家のご令嬢といえば舞島市では有名じゃないですか」

「そ、そんなことありませんわ」

 

 お世辞に慣れた未紗紀が謙遜した態度をとった。否定するのを見てエリは嫌らしい口振りに変えた。

 

「またぁ、すっごいお屋敷に住んでいるんですよね」

「えっ、あなたも。それが目当てで近づき……」

 

 未紗紀は「屋敷」と聞いて顔が強張り、エリを見る目つきが鋭くなった。わなわなと震える肩で視線が合わなくなり、頭がふらついて前へ倒れた。

 さっと縁石に足を掛けたエリが両手を広げ、未紗紀の体はキャップを引きずって肩に落ちた。腰を落とした京太が二人の傾く体をがしっと後ろで受け止めた。早速、エリは肩に乗っかる後頭部へわざとらしい声を上げた。

 

「いいなあ。あーいう所で働いてみたいなー」

「はぁい?」

 

 未紗紀はもうろうとしかけた意識で耳元への振動に気のない返事をした。体温に包まれた感触とひしゃげた帽子が目に。ハッとして反対へ振り返るとエリが小鼻を膨らませた。

 

「お嬢様、屋敷で使用人体験できませんか。わたしたち何でもします」

「ああ、私なんてことを…ご迷惑をかけて申し訳ありません」

「何をおっしゃる、未紗紀さん。知り合いの知り合いは家族も同然ですよ」

 

 体を起こすのを手伝うエリは笑顔を絶やさなかった。彼女に優しく手を添えられ、未紗紀があまりの親切に畏まって微笑んだ。頭の中は人前で取り乱した恥ずかしさが溢れんばかり。張り詰めた顔を上げると、京太がそっぽを向いて指先で頬を掻く。彼のあきれ顔が目に入って愕然とし、凄くたまらない気持ちが込み上げ、未紗紀はこぶしを握り締めて口に持ってきた。気づくと親指の爪を噛んでいた。

 何か言った方がいいのかな――とエリは歩道から見上げ、キャップを頭の形に整えてつばを握った。未紗紀から怒り、不安、苛立ちといった感情が伝わってくる。兄が居たら頭を撫でてなだめてくれるだろうと思った。彼女は思いきって側溝をぴょんっと飛び越えた。段差の端に両足を着いたものの、体が後ろの歩道へ落ちかけて腰を振り、反動で顔を未紗紀の肩にぶつけた。

 

「――してないで。ちゃんと相手の話も聞かないと」

 

 優しい声が肩口から聞こえて未紗紀の目は覚めた。自分に引っ付いたエリが鼻を赤くし、失敗も笑って済ます。二つ年上の先輩は精神的に大きく見えた。いきなり抱きつかれて意表を突かれ、離れる時には一人相撲で膨らませた緊張がすっかり解けていた。

 正気になった未紗紀はエリからの頼まれ事を思い出して真剣に考え込んだ。屋敷に職業体験をしに来た人は今までなく、心配そうに胸元に指を絡めて彼女へ顔を寄せた。

 

「あ、あのー、調理場での作業なんかでよろしいですか」

「はい、三日でいいので!」

 

 エリが頬の近くに「オッケー?」と親指と人差し指で輪を作って三本の指を立てた。その仕草が可愛らしく見え、未紗紀は初めて遠慮なく笑った。

 

「屋敷へご案内しますわ。さあ、一緒に参りましょう」

 

 艶のある栗色の髪で背中を覆い、給油の終わる黒塗りの車へ向かっていった。エリはキャップの接ぎ合わせ部分を指先でなぞり、堂々と歩く未紗紀をうっとりと眺めて独り言を口にした。

 

「小麦色の肌をした健康的な美少女。背が高くないからお兄ちゃんとは釣り合いそう。三歳差なら恋人としてピッタリだわ。でも彩香さんみたいに料理はできないんだろうな。まあいいか、なんといっても金持ちのお嬢様だ」

 

 エリがうまくいったかのような表情をした。京太は腰に手を当て、冷ややかな視線を送った。

 

「口車に乗せられていっちゃいましたね、彼女。最後なんて言ったんです?」

「人聞きの悪い言い方しないの。こっちからウソは言ってないし」

「やっぱり、分かってるじゃないですか。兄貴とか親戚とか思わせて」

「怖い顔してないで。さ、わたしたちも行くわよ」

 

 革のシートに座った未紗紀が奥に見え、ドアの側に立つ運転手。給油スタンドの太い柱が伸びた屋根で陰になる高級車へとエリは大手を振った。元気な後ろ姿に揃った髪が肩で揺れた。後を追う京太はエリとの関係に少しも疑問を持たれないのが頭に引っかかった。特に、血縁もなく似ているはずもなかった。

 

「後先を考えないで行動するし、やたらに自信家だし。例えるなら、叔母さんとばあちゃんを足したような性格して……あれっ」

 

 

 車はエンジン音を静かに発車して新舞島駅の通りを走った。子供が三人でゆったりとした後ろの座席で真ん中のエリは乗った記憶がない普通車を珍しそうに低い天井を見回していた。来た方向へ戻り、未紗紀が通う桐山女学園に通じる交差点も越えた。彼女は膝に手を置いて前を向き、京太はリアガラスへ首を曲げた。

 

「あ、学校の方はいいんですか」

「はい。クラブ活動は自主性を持って行うものですから」

「へぇ~、さすがにお嬢様学校ですね」

「そういえば、裕太さんはサッカー部だと噂で聞きましたけど」

「さあ、聞いたことありません」

 

 兄の名を聞いて京太の悪癖が出た。未紗紀が首をかしげ、エリは二人の間でパッと両手を広げてカーテンを作った。思いついたかのように片足を上げてボールの蹴り真似をした。

 

「ははは、そーなんですよ。シュートってね」

 

 後ろに手をまわして京太をバンバンと叩いた。未紗紀は目を細め、手を合わせて身内の遠慮のなさに興味を示した。

 

「ふふっ、お二人はいつも仲がよろしいんですね」

「まぁ、こんなの普通以下ですよ」

「羨ましいですわ。私、兄妹もいないので」

「欲しければどうぞ、持ってっても構いませんから」

「いいんですか。あっ、もう一人ご兄弟がいらっしゃたとかも…」

「さあ、聞いたことありません」

 

 エリは彼女の気を惹くように話を合わせる。背後で京太はふてくされた。取り出した端末で使い慣れたアプリを起動するために指先を何度も画面に押し付けた。

 和やかな雰囲気の後部座席と対照的に運転手は黙ってハンドルを握り、泥のはねたフェンダーに車は橋を渡り切って田園地帯へ入っていく。並走する線路の列車に追い抜かれ、センターラインが白くなった道路を真っ直ぐ、温度を下げる効果のあるアスファルトにも先は白く揺らめいた。

 屋敷に向かってレールが敷かれた進行方向に、エリの計画は細部がまだ真っ白のままだった。

 




―― 次章予告 ――

二人は高級車に乗り込んで未紗紀の家へ向かった。赤レンガの外壁に囲まれた屋敷に着き、エリがはしゃぐ。翌日から朋己の恋人にしようと情報を収集。命じられた京太が調べて… ⇒FLAG+08へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+08 アフルーエント・ガール
許されうる進入者


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送る桂木家に彼女の甥・京太を突然呼びつけた。
エリを宇宙人と疑う京太はカフェで掃除を手伝わされ、機嫌を良くした彼女に兄の恋人探しへと新舞島駅の通りに連れていかれた。宇宙人でないと分かるとすぐに帰ろうと考えるが、彼女の姿に双子の兄・裕太を慕う自分の妹を重ね合わせ、放っておけなくなって跡を追った。
二人が通りを給油スタンドまで来ると、屋敷で暮らす宮町未紗紀が裕太と勘違いして京太へ話しかけてきた。エリは年下のお嬢様を言いくるめ、使用人体験をしたいと高級車に乗り込んだ。
後部座席でエリが懸命に話を合わせる。京太は後先を考えない少女にあきれつつ付き従った。



 エリたちが乗る車は夏の太陽に照らされて新舞島駅の通りを東へ進んだ。進路を鳴沢市へ向かって北寄りに変えた線路が見えなくなり、歩道が途切れた道路に未紗紀の屋敷を目指した。

 稲の葉が青々と敷き詰められた田んぼの間を、似つかわしくない高級車がエンジンを振動させて通り過ぎる。両脇の白線が狭まって左手に大きくなった山肌に、車内で窓の外を見つめた未紗紀は口数が少なくなった。隣でエリは反対の窓から田畑の広がりを眺め、画面へ背を屈める京太の頭を押さえた。ポツンとした横長の建物に目が奪われていた。

 

「ちょっと、邪魔っ。見えないじゃない」

「ああ、波形が消えたぁ。せっかく、集まってた宇宙ガンマ金属粒子が…」

「ふーん、そんな物質あるんだ。それより、あれ何よ」

「え、なんだ、うちの中学校ですよ」

「へー、おんなじ田舎なのに。おっきくない?」

「こっちは校区が広いですから、叔母さんとこまで入ってるし」

「うわ~、かなり田舎ね」

 

 エリは大きな屋敷へ行く道中を楽しみ、車窓から見える自分が住む場所とは別の雰囲気を持つ田園の景色を堪能した。未紗紀へ振り返ると、白い襟の下で青色のリボンが映える胸に髪を垂らしてツンとした顎は外を向く。彼女の視界に入るようにエリが首を回した。

 

「お嬢様、小学校はどこなんですか」

「えっ……。何かしら」

「あ、その、小学校が近いのかなと思って」

 

 心ここにあらずといった未紗紀が手で口を押さえ、エリはお嬢様の驚く顔に上品さを感じて見とれた。京太にも見せようと後ろに手招きし、彼が二人へ目を向けた。

 

「小学校は通り過ぎてますって…あれ、どうかしたんですか」

「いいえ、何でもありません」

 

 未紗紀はくせ毛の抑えられた裾を指先で触った。まるで物憂げな表情をする思春期の少女を演じているかのようだった。京太は本当に考え事をしているのか疑問に思った。車は中学校の裏手で反対へ曲がって山に向かう。近くで見る中学校はコンクリートの外壁が黒ずみ、私立に通う宮町家のご令嬢が関心を示さないのは当然な気がした。

 

 

 アスファルトの色が薄い一本道を入ってすぐ両端に木々が生い茂り、遮られた日光に車内で急に涼しさが増した。斜面に沿って緩やかな上りが続く坂道。折り返しのカーブでエリはスカートの上から膝を押さえて両脚を踏ん張った。けれど両側の二人に圧迫され、遠心力でいつも一緒に体を傾けた。彼女はそれを指折り数えて曲げた本数にため息をつく。程なくして訪れた次のカーブでは傾いた途中でハンドルが戻され、後部座席で揺れる三人の体は逆へ振れた。

 

ガコッ

 

 新しい舗装で盛り上がった脇道へ車は上っていった。急な短い坂の先にだんだんと建物が姿を現す。砂をまぶしたような薄くゴツゴツした表面の塀と閉じた門扉が見え、エリは解放された気分で叫んだ。

 

「わー、赤レンガだ。レンガー、レンガー」

「そうです。学校からも見えてみんなが『レンガ屋敷』って呼ん、で、ま、すっ」

 

 京太は落ち着かせるため、フロントガラスへ伸びたエリの腕を押し下げて手を膝に付けた。真ん中ではしゃぐ少女をよそに未紗紀は窓際で虚ろな目をした。車は柵状扉が柱の後ろへ自動的に隠れる門を通過し、バッテリー駆動に切り替わって静かにそろそろと屋敷の正面へ、左右にスロープが広がる車寄せに乗り付けた。屋敷から突き出た立方体部分に車体がすっぽりと納まった。

 僅かなブレーキの反動で未紗紀は体をビクッとさせて頬に当てる手を離した。ドアを開けて車を降りて二段上り、両側が開く木製扉の縦に長いハンドルを押し開けた。玄関は高い天井につり下げられた電灯が一つ、五、六歩ほどの奥行きで薄暗い。サイドの壁にはめ込まれた黒いパネルを横目に、すたすたとホールへの三段を上がってノブを握り、左右の上半分ガラス張り扉の片方が奥へ開いた。彼女は段差に足を掛けて振り返った。

 屋根に覆われた車寄せには車を降りた二人が残り、エリは側面に設けられたアーチを見上げ、京太は端末に顔を下げていた。少女が両腕を広げて回転し、少年とぶつかって手にした端末が落ちる様子に未紗紀は少し口元を緩めた。

 

「こちらへ来て下さい、エリさん。認証しますから」

「はーい」

 

 不満そうに腰を屈めた京太を置き、エリはそそくさと彼女の元に駆け寄る。未紗紀が指した壁にはまったテレビ画面に似た形状のパネルへ体を向けた。

 何も映らない黒い半透明の長方形へ目を凝らしたエリの背後から甲高い声が発せられる。

 

「登録開始、使用人二名、by 音声」

「えっ、何?」

「後は音声アシスタントに従って下さい」

「はぁ」

「調理師見習いでよろしいですね」

「あ、よろしいです」

「階段の先を左へ行った奥に調理場はあります。私は二階にいますの…」

 

 未紗紀は最後まで言い終わる前に真っ直ぐ去っていく。玄関の間口を保った広いホールから奥へ深い赤色の絨毯が延びた。彼女は右手に大きく開いたサロンの入り口から漏れる光を避けるように左端を歩いた。突き当たりの手前で廊下側へ広がった階段を上り、セーラー服の上に厳しい横顔を覗かせた。

 玄関に天井から軽快な音楽が流れ、テレビドラマで聞き覚えのある渋い声が玄関先まで響いた。

 

「――を開始します。ご準備はよろしいですか」

「ふぁっ!?」

「これ統合セキュリティシステムですね。あのCMで有名な」

 

 頭上に人影がぬっと現れた。声に振り返ったエリは少年の顔を見て息をついた。京太がパネルの隅に貼られた『SOSAME』のステッカーへ指を向けた。

 

「ほら、企業や病院、学校にもあるでしょ。部外者を侵入させないシステムなんで最初にサーバへ登録するんです。このまま屋敷に入ると警告音でもっとビックリしますよ」

「ビ、ビックリなんかしてないわ」

「言われたことに答えたり、あそこに指紋を付けたりすればいいんです」

「そんなの分かってるんだから」

 

 エリはプイッと壁へ向いて胸を張った。質問が始まり、初めは名前や生年月日を上擦って答えてしまう。だが次第に返答が慣れていき、システムからの質問内容にカメラの存在を意識した。彼女はにこやかな表情でパネルに手を開いて指を押し付けた。そして、最後に登録する職種を問われて「調理師でーす」と声を上げ、ニヤリと京太の方に振り向いた。

 

「――は完了です。ありがとうございました」

「ハイ、お先に。じゃーねー」

 

 わざと見習いを外した職種をシステムに登録し、京太へ手を高く上げて一段飛ばしで中に入っていく。彼が残された天井からは聞き漏らした最後のアナウンスが流れた。

 

「なお、この仮登録は一時間のみ有効です。必ず本認証を行って下さい」

 

 階段を上った未紗紀を追う勢いでエリはどんどんとホールを奥へ歩いた。靴を脱がなくてもいい屋敷は右手前のサロンや左奥の階段横から光が入り、大きな球を六つの小さい球が囲むLEDシャンデリアの明るさに補われた。彼女が冒険気分で手を振って突き進む姿に、京太は先行きを憂慮して頭を掻いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煙たがって腹固める

 未紗紀が住む屋敷は西向きで赤いレンガを使って四角い中庭を囲むように建てられ、外観からレンガ屋敷と呼ばれた。玄関は一般住宅の部屋ほどの広さがあり、玄関ホールはその倍くらいの奥行きがある。ホールは左手に北への細い通路が延び、右手にサロン、真っ直ぐ行くと階段の横に広い通路が続いた。完全に閉じた中庭では日光が当たりやすい北側に植物が集中し、囲んだ四方の壁面に数多くの細長い窓が並んだ。未だ日が高く照りつける洋館は西の棟から廊下に赤く敷き詰めた絨毯へ日影が伸びた。

 エリは階段の先を道なりに左へ曲がり、せり出した棚が反対側の窓と向き合う細い通路を進んで両開き扉の前にいた。窓から木漏れ日が首筋に射し込み、合わさった隙間を覗いてしゃがみ込んだ彼女はジワリと汗をかいて立つ。開かない扉へ両腕を横に上げて後ろへ足を振り上げた。

 

「ハイ、そこまで」

 

 こっそりと近寄った京太が手首を掴んだ。長いスカートに脚を広げて屈んだ姿が見えた瞬間から怪しんでいた。エリはスニーカーのつま先で床を叩いた。彼が手を離すと、振り返って腕組みして口を曲げた――年下のくせに、大きな顔をするんじゃないっつうの――見下ろす眼鏡野郎から目を逸らし、人差し指を棚の間にある扉へ伸ばした。

 

「そこの食堂と調理場を行き来できないと困るでしょ」

「扉を壊れされた方が困ると思いますが」

「ち、違うわよ。これは靴が脱げそうだったの」

「まーた、見え透いた嘘を」

「嘘じゃないもん。この廊下滑るんだから……って、何するのよ」

「俺が助けてあげますよ。扉が開かなくて困ってるんですね」

 

 京太は早口になった少女をさらりとかわし、扉の前で天井の隅をじーっと見上げる。エリも同じように視線を上げた。彼はレバーをぎゅっと握って躊躇なく回し、顔を下げたエリが「あの黒いの何?」と聞く。彼女は開いた扉の先にいる少年を見て驚いた。

 

「えぇー、なんで開いたのよー」

「あのカメラが執事で登録した俺を画像認証して開いたんです。調理師では無理でしょう」

「あ、ずっる~~い」

 

 つかつかと近寄るエリに、京太は閉じられた短い廊下の脇を指して注意を逸らす。彼女が目を丸くする間に先にある扉を開けて足を踏み入れた。それまでより天井に圧迫感がある細長い廊下は木製の床に左側から日差しが入り込んだ。窓の向こうに小さい扉があり、どん詰まりの壁にトイレと思われる赤と青の人型マーク。そこから左右へ通路が延びる。京太は右側の壁に目を戻していき、ただ一つある横の扉をゆっくりと押した。

 広めの部屋は入った所の左に食器棚が並んだ薄暗い場所が壁で仕切られ、奥から電灯が漏れて短いシンク付きの作業台が見えた。誰もいない調理場は前方にメインの調理台が備え付けられ、広めのシンクと作業スペースにコンロが三つ。反対の壁に並ぶ冷蔵庫やオーブンは大型の市販品。レンジは叔母の家で見たものと同じ。窓はなく白い壁紙に囲まれ、中央に長めのテーブルが台代わりに置かれる。家庭的な雰囲気の中、右隅に天井へ繋がる幅の広い機械だけが場違いだった。

 後ろの扉がバーンと開いてエリが入ってきた。京太は顎に手を当てて面倒くさそうに首だけ横へ向けた。彼女は思った通り、ありふれた台所に興味を示さない。彼の勝手な行動に怒っていた。

 

「ちょっとエレベーターよ。何でスルーしてんの」

「まあ、フツーに資産家ですから」

「あっち側の廊下見えるし、あんな大きいやつデパートにしか…」

 

ガチャッ

 

 今度は左奥で扉が開き、半袖の白衣を着たひょろっとした男が入ってきた。テーブル上を漂ってくるタバコの臭いが京太の顔をゆがめる。アレルギーの彼は鼻を押さえた。男性は入り口で固まる少年を見下ろし、台に腰を乗せた。

 

「ああ、働きたいっていうの君だ。未紗紀さんのメッセージ見たよ」

「ファッ、ファイ、そーれす」

「俺はここの調理師だ。しかし、手で皿洗いなんて感心だな」

「ふぁい」

「ま、せいぜい頑張ってくれよ。蓋すれば勝手に洗浄モードになんだけど」

 

 調理師は京太の脇にあるシンクを指し、ニヤニヤと横を向いた。しゃがれた声が聞こえたエリは壁から身を乗り出す。頬が京太の腕に当たり、ざらついた感触がして見上げた。苦しそうな表情を目にして無理やり連れてきた責任感がふつふつと湧いた。それと助けてあげれば年上として面目が躍如される。「よーし」と意気込んで彼の前にすっと体を入れ、後ろに両腕をまわして彼の腹に手を付けた。

 ドンッと勢い良く京太を押し、彼の体が仕切り壁の後ろへ倒れた。エリはテーブルの方につんのめり、男が視線を向けた。小さい女の子がスカートの前に両手を置いて可愛く一礼する。とっさに調理師は卓上から降りて彼女に不真面目な態度の言い逃れをした。

 

「困るな~、妹連れだったのか。ここは女人禁制なんだぞ」

「それじゃあ、この屋敷ってメイドとかいないの」

「ああ、あの給仕装置がそれやってんだ」

「ふーん。機械化して人件費削減してるのか」

「お嬢ちゃん、難しい言葉知ってんね。そう、あと運転手と警備員くらいさ」

「たったそれだけという事は…ねえ、執事もいないの」

「そんなの見たことないな。たまに庭師や掃除のおばさんは来るけど」

「でも大きな屋敷だし、管理人がいるんじゃない?」

「まあ、いろいろさ。あ、兄さんに今日はもう終わってるんで明日からと言っといてよ」

 

 子供の相手が面倒くさくなった男は部屋を出ていき、扉が閉じた音が食器棚の前でしゃがむ京太の耳に入る。両手で顔を押さえていた彼は立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。何度目かの呼吸をしてようやく落ち着いて調理場を向いたが、そこに騒がしいエリの姿はなく奥の壁で換気扇が回った。京太は自分の方が助けられてしまったと頭をぽりぽりと掻いた。

 彼女の跡を追って京太は廊下に出た。エレベーターへの扉は閉じた状態で戻れない。反対方向へ走り、突き当たって左へ体を向けた。廊下は西日が射す窓まで長く真っ直ぐ伸び、右手に壁がない部分の床が白く輝いた。ひんやりした通路で新鮮な温かい空気が背中に触れ、彼は後ろへ振り返った。角を左に折れると狭い通用口。キャップをかぶるエリは開く扉の脇で壁にもたれてたたずんでいた。腕を組んだ彼女が京太にとって大きく見えた。

 

「もう大丈夫なの、京太」

「ええ、あのまま吸い続けたら倒れるかも知れませんけど」

「敏感なのね。でも良かったわ」

「え、俺のこと心配してくれてるんですか」

「うん。だって、帰る方法を考えてもらわなきゃ」

 

 エリが親指を立てて白い歯を見せ、京太は彼女に従わされることを納得した。ほいほいと端末を片手で操って自宅へ電話をかけ、早番で家に居る祖父に迎えにきてくれるように頼んだ。

 レンガ屋敷の北側は車が通れる裏門が設けられ、塀の方に駐車スペースの白線が引かれた。西寄りの『宮町アンティーク家具販売』の看板が立つ玄関と少し隔てて東端に通用口がある。エリと京太は日陰になった階段に腰掛けた。しばらくして門の前に軽トラが現れた。傾いた陽光に照らされたアスファルトを駆け、荷台に並んだ二人は山道で揺られて帰った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レンガ屋敷の深層

 太陽が真上に照りつける物置からは気温以上の暑さが放たれていた。後輪を眺めた京太が右手にスパナを構え、左手の金属棒を軸に近づけたり、遠ざけたり。彼は自転車を二人乗りして喜ばせるつもりで桂木家に電話をかけた。だが、エリは車で送ってもらえると思い、Tシャツに膝上のジーンズでリュックを背負って黒田家まで歩いてきた。カーポートの端で肩ベルトを掴んで待たされるとは知らずに。

 

「まだ終わんないの。これじゃ初日から遅刻するわ」

「もうちょっと待ってくださいよー」

「そんな錆びたの使えるわけないじゃない」

「これで後ろに一人立てるってばあちゃんが言うんですよ。でも、ネジが合わないな」

「もぉ~、他に何かないの」

 

 エリは不満に任せて物置前に転がるサッカーボールを蹴飛ばす。青空に飛翔したボールの行方を気にせず、入り口に座る京太を跨いだ。途端に暑さが体中を襲って汗をかかせた。早く出ようとした彼女は別の自転車を目にして逆に奥へ入り込んだ。

 

「ちょっと、これ。電気自転車でしょ」

「本当だ。バッテリー付いてるし、ナンバープレートがないや」

「じゃあ何も問題ないわね」

 

 コンパクトな自転車に少女は目を輝かせ、隠すように置かれたポリタンクや段ボールをせっせと脇にどけた。京太がフル充電を示すパネルに首をひねりつつも、端末でメーカーのサイトを調べて地図情報を送信する。彼の腕を取って荷台へ引きずり、彼女は物置から出すのを手伝わせた。

 門の外でエリはキャップをかぶり直し、サドルに座って塀に手をついた。つま先でバランスを取り、漕ぎ出したペダルに車体の重さを感じることなく、得意げな表情で走り出す。一般車お断りと書かれた農道でスピードを上げ、悠々と京太を引き離して走った。一人になってもハンドル前に付いたウインカーが点滅して簡易ナビ機能が目印のない田んぼで方向を示した。小高い山の中腹にレンガ屋敷が姿を現し、彼女は目的地を見定めて突っ走った。

 

 

 山道に入ってエリの自転車はまったく見えなくなった。ついに京太は足が止まり、屋敷の正門からは高い塀際を押して上がった。角を曲がった先にある裏門に彼女が立っていた。

 

「遅っーい。時間過ぎてるわよー」

「ハァハァ……。そんなこと言っても、こっちは自力なんですから」

「ここよ、ここ。あっちは昨日の調理師がタバコ吸ってるわ」

「はぁ、そっちですか」

 

 振られる手に誘導され、京太は駐車場に停まった黒い高級車の横を通り過ぎた。通用口の階段脇に自転車を止めてヘルメットを外し、引っ張った半袖で額の汗を拭った。エリはキャップを抱えて屋敷に入っていく。彼も後から通用口に入り、昨日とは逆に右へ左へと廊下を曲がった。調理場の前に来ると待ち構えたエリが『М』のキャップを脱いで両開き扉を指した。

 

「じゃあ、今から未紗紀さんの情報収集に行ってきてちょうだい」

「え、俺がですか」

 

 汗が引いたばかりの京太は彼女に従う意欲が起きなかった。彼は頭の後ろに手を組んだ。

 

「エリさんが行けばいいじゃないですか、未紗紀の裏の顔が見れていいでしょ。たぶん、相当気位が高いですよ。うちの中学なんか見向きもしなかったし」

 

 京太は昨日の車中での様子から未紗紀の性格に見当をつけた。それはエリが求める「兄にふさわしい女子」に程遠く、彼女が血気にはやるのを期待させた。しかしながら、少女は冷静に首を振った。

 

「いいえ、お嬢様は家でのしつけが厳しいから外でリラックスして明るく振る舞ってたの。人柄は問題なし。だから、京太には屋敷での上品な日常を見てきてもらうわ。帰ってからお兄ちゃんにもレクチャーしないと。執事だし、部屋をぜーんぶ覗けるでしょ」

「そりゃあ、そうなんですけどねえ」

「あんたが頼りなのっ。さあ早く、また調理師が来るわよ」

 

 少年を両開き扉へ追い立てて調理場に入り、すぐ扉をパタンと閉めた。京太は仕方なく太腿のマチ付きポケットに手を伸ばした。エリの読みが正しいかは不明だが、勝手に屋敷内を歩き回ったら怪しまれるのは確実。まったく面倒くさい仕事を任された。だとしても、彼女に信用されていると感じた彼はちょっぴり嬉しかった。

 エリの手先となった京太はエレベーター前の廊下に入り、端末で屋敷のマップを作った。画面にコの字型の廊下が出来上がり、彼は顔を上げて窓の外に目を向け、中庭を挟んで相対する窓の先を注目した。

 

「うん、向こうにも階段があるな。こっちと同じでセキュリティの緩衝地帯って訳だ。レンガ屋敷は上から見ると四角いドーナツ状で北と南に別れてる。北側は会社や使用人が使う場所で、南側は宮町家の私邸になっていて中庭に沿う廊下と階段、外周部分に部屋。扉を通れるかはソサメで認証したアカウント次第か…」

 

 先の両開き扉に近づき、レバーを押して玄関へ向かう廊下に入った。閉じられた扉は何事もなく開き、セキュリティを通過できた。つまり、彼の仮登録はそのまま本認証されていた。

 京太は棚の間にある扉を開けて食堂へ入った。テーブルと三つずつ椅子が両サイドに並び、奥に出入りのガラス扉と先にテラスが見える。家族団らんの場に思えた。木製のガラス棚を眺めながら横壁の入り口へ、隣の部屋はさらに長いテーブルがあって広い。「……、11、12」と椅子を数えて曲線を描く出窓の側を歩いた。また入り口を通り、端にピアノが置かれた南東の角部屋。窓の外で庭に青い芝生がまぶしく広がった。京太は大人サイズの靴音を絨毯に、部屋先で大きな両引き戸の片方を壁に吸い込ませた。丸テーブルの周りをお洒落な椅子が囲む明るい部屋は行き止まり。広い階段前に出ると、センサーが反応してパッと明かりが点った。天井の左奥から流れるような手すりが右手前へ下りてくる。腰壁は中央に切り込みが入って模様が彫られた木製の焦げ茶色。左手の玄関ホールから入れるサロンはテーブルと椅子がいっぱいで壁に大きな暖炉があった。一階のテラスに面した部屋は来客用でどれも豪華な造り。リッチな気分になった少年は階段の上がり口に足を掛けた。

 淡い色のステンドグラスが天井まで高く伸び、階段から中庭を望むべくもない。それでも上下の廊下へ相応の明るさをもたらした。京太はしんとする二階の廊下に上がり、右に見えるアーチをくぐった正面の扉へ向かった。調理場から最も遠くてちょうど玄関の上にある。ノックを二回、開けて中を見渡した。西の細長い窓から日差しが入り込む部屋で低めのテーブルが肘掛けと背もたれの繋がった椅子に囲まれた。ベッドに薄いピンクの枕やレースのシーツ。学習机は見当たらないが、女の子の使う装飾は姉妹がいない未紗紀のものと考えられた。

 

「――にある剣の錆にしてやるわ。もうっ、どっか行きなさいよ!」

 

 彼女の強い口調で怒った声が聞こえ、京太はそっと室内へ首を伸ばした。右を向くと奥の壁で扉が半開き状態。だが姿は確認できなかった。彼は後ろへ下がって廊下の角に戻り、右の細い通路に別の扉を見つけてドタドタと歩いた。未紗紀には兄の裕太として馬鹿をアピールした効果があり、多少の事は冗談で済ませられる。端末をポケットに仕舞ってとぼけた顔で扉を開けた。

 ずらりと壁際に並んだ本棚が目に飛び込んだ。部屋の中に二階があり、あたかも小さな図書館のようだった。机は四人掛けが一つで脇に観葉植物の鉢が置いてある。未紗紀の気配はなく、隣の部屋への扉も同じ状態で開いていた。レンガ屋敷のサスペンスに遭遇し、京太は顎に手を当てた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

静かに躍る回廊

コツコツ、コツコツ、コツコツ

 

 遠くから扉の閉まる音がして硬い靴底が木の段を打ち、日陰の廊下奥を両開き扉へ迫る。少なくとも屋敷の北側と私邸を行き来できる立場の大人がやってきた。京太はエリから宮町家には執事がいないと聞いていた。

 

「一体、誰だろう。見つかったら怒られるかな」

 

 うろたえた彼は逆へ走った。角を大回りして南の通路は幅が広くなり、階段横のステンドグラスに目もくれず、中庭に沿って延びた反対側の廊下へと急いで曲がった。

 

ドンッ!

 

 東の廊下へのアーチ下で倒れた京太の脇を小包サイズの機械がかすかなモーター音を残して離れた。壁側のへこんだ場所で腰壁が開き、赤いランプを点した機械は中に入っていった。膝の下をぶつけた彼は叫び声を押し殺し、絨毯に転がってエビのように身をもだえた。

 京太は膝の下の痛みが少し治まると、すぐ怒る少女を想って立ち上がった。片脚をかばって奥へ行き、両開き扉を開けてエレベーターで一階へ、屋敷の壁を伝って調理場に戻った。部屋では換気扇が全開で回り、正面に座るエリが水筒をテーブルのコップへ傾けた。彼女の前の座席が足裏で蹴り出されてするすると滑る。止まった椅子に彼が腰掛けて横を向いた。ごくんと飲み干したエリは卓上に腕を組み、聞いてやろうという顔で京太を見つめた。

 

「どう、部屋でバレエやピアノのレッスンでも受けてた?」

「え、ああ、ピアノは一階にありました。けど、あんなとこで練習はできませんね。玄関を入ってぐるーっと来客用の広間ばかりですよ。二階に行ったけど、こっちも静かでした。未紗紀のらしい部屋は人の姿がなく、隣にミニ図書室があって何かと戦ってる声がしたんです」

「へぇー、通信ゲームブックが趣味なんだろうか」

「それが部屋に彼女は居ないんです。ちょうど誰かが来て廊下で転んじゃいましたよ」

「未紗紀さんは部屋に居たはずだけど…」

 

 話に納得がいかない様子でエリはコップを逆さにして水筒にくっ付けた。テーブルに片手をついて立ち上がり、人差し指を部屋の隅へ向ける。給仕装置は取っ手が上に付いた扉の棚が三段。一番上は横に「未紗紀の部屋 ティーセット」の文字が表示されていた。

 

「ほらっ、そのパネルに名前があるでしょ。わたしが来た時は緑で点滅してたから、彼女が部屋に居て届けられたんじゃないかしら」

「気づかなかった。じゃ、どうやって出たのかな」

「答えは簡単。図書室には入り口が二つありましたとか」

「あ、そう、そうです。イテテ……」

 

 京太はエリの疑問に適当に答え、椅子の上でズボンの裾を上げて足をさすった。彼女がジロッと目を動かして頭の中でドジな奴と烙印を押した。未紗紀に気づかず戻ったことにあきれ果て、眉をひそめたエリは椅子を立った。ごそごそとリュックに手を入れて畳んだエプロンを仕舞い、荷物を肩に担いでさっさと出口へ向かった。京太も慌てて跡を追い、二人は調理場から廊下に出た。

 

 

 突き当たりのトイレまで来たところで通用口と反対から男の怒声が聞こえた。エリはすぐに足を止め、強引に京太の肩を押して通路の角に潜んだ。声がした近くでバンッと扉が開き、出てきた髪の薄い中年男性は首を後ろへねじ曲げた。

 

「昼から待ってたんだぞ。未紗紀の奴はどうしたんだっ」

「私は従業員ですからねー、ハイ」

「君、秘書なんだろ!!」

「まあ、お嬢さんのことまではちょっと」

「フンッ。役に立たんヤツだ」

 

 ダブルスーツの上着を肩に掛け、怒ってわざと足音を立てた。屋敷北側の玄関は男が帰り、後に来たアロハシャツの男性は何も言わず突っ立っていた。だが、帰った男の黒い車が会社の門を跨ぐと肘を伸ばして大きくあくびをした。エリは様子を知るために身を乗り出し、京太の背中に体重をかけた。そのせいで彼がジタバタして床へ振り払われてしまった。

 

「うわーっ」

「い、痛ーいっ!」

 

 京太はバランスを崩して壁に足をぶつけ、隠れる二人が廊下に崩れ落ちた。エリはすぐさま起き上がり、頭を掻いて男性の方に微笑んだ。すると、緊張した少女へ真っすぐ向かってきた。

 

「やぁー、未紗紀さんからCC受取ったよ」

「え、あの、その…。わたし、エリって言います」

「私は小畑と言います。どうも、どうも」

「あ、これは京太です」

「おー、サンキュー京太君」

 

 彼女の真横でうずくまった少年へ小畑は調子良く手を上げた。性格はともかく調理師よりも年がいって来客の相手までしている。このざっくばらんな秘書からエリは未紗紀のことを聞き出せるかも知れないと考えた。

 

「小畑さんは部下が多いんですよね。会社の偉いさんだから」

「お世辞がうまいね~、エリちゃん。でも、残念ながらゼロ。ここ数日は泊まり込んで一人寂しく資料整理してるんだ。そろそろ帰りたいなあ」

「あの、未紗紀さんはどうしてます?」

「そうそう、午前中に居た学習室を見に行ったら居なかったね」

「図書室じゃなくて学習室か…じゃあ、自分の部屋に居たんじゃないですかねぇ」

「いや、そっちも声をかけたんだけど」

「そうすると他の部屋に居たことになるのかな」

「それはないよ、彼女は社長の書斎や部屋に勝手に入らないし。社長も居るには……」

 

 口ごもった彼にエリが興味深そうな顔を見せた。そこで小畑は誤魔化すように手を打ち、得意の講談を始めた。お題は『屋敷の機械化』。身振り手振りを交えて小節をきかせた。

 

「やあやあ、そこに居るのは給仕ワゴン、掃除機、洗濯かご。毎回、廊下の腰壁から出ては勝手に動き回りやがって。今日こそ成敗してくれる、えいっ。今度はよけられないぞ。あっ、逃げるとは卑怯なり、それに扉を開けて隠れるなど言語道断だ」

 

 こんな芸を見せて誰か喜ぶのだろうか――エリは口を手で押さえてあくびを我慢した。けれど、終わった途端に笑顔と拍手で迎えた。他人に見せてストレスの発散になったのか演者本人が非常に喜んだ。小畑の口はさらに滑らかになり、愛想笑いをする少女の思う壺だった。彼女がさりげなく未紗紀を呼び捨てにした人物を持ち出した。

 

「そういえば、さっき帰った人ずいぶん怒ってましたね」

「社長の弟さんだよ、最近よく来るのさ。しかし何で会社の方から入って来るんだろう」

「えっ、未紗紀さんの親戚なんですか」

「そ、あの人は先代に替わって宮町建設の社長になって今は会長をやってんの」

「ふーん。弟の方が会社を継いだってわけだ」

「おぅ、社長は屋敷をもらったって噂だね。あ、これナイショよ」

 

 人差し指を立てたついでにウインクした。さすがのエリも不快を覚えて顔を下へ背け、小畑は視線を京太に移した。膝をさする彼を見て真面目な顔に変わった。

 

「屋敷内は走ると危ないからね。それじゃ、仕事があるから」

 

 彼らに手を振ってふらりと西の廊下へ向かい、角を回ると扉の開く音がした。小畑は期待通りにペラペラと喋り、未紗紀が姿を消したことが正しかったと証明された。エリは疑って悪いという気がした。腰を曲げる京太に手を差し出して腕をギュッと掴んだ。

 

「さあ、うちに戻りましょ。手当してあげるわ」

「え、打っただけだから…」

「ううん。いいから、行くわよ」

 

 二人は通用口を出て自転車が停まる階段の脇に立った。屋敷の影が東側にある林へ伸び、エリがキャップを目深にかぶった。彼女はノーブレーキで勢い良く山道を下りた。カフェで待つのはコーヒー豆。宮町家の不穏な事情を忘れて頭をリフレッシュした。兄の帽子からはみ出す髪を風で弾ませ、揺れる稲穂の間をペダルに足を置いて走り抜けた。

 その頃、ほこりをかぶった未紗紀が二階の階段前を歩いていた。アーチをくぐって角部屋に閉じた扉を一瞥し、隣のバスルームに入って扉をロックする。ピカピカに磨かれた鏡に汚れた後ろ姿をさらけ出した。汗で張り付いたワンピースと下着が肌をこすり、彼女は思わず舌打ちをした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

話によく聞く娘と

 夕日が赤く染まる中、二人は日陰になったカフェの前に自転車を停めて店に入った。エリは奥に行って壁のスイッチで冷房と明かりを点け、扉から家のキッチンへ入っていく。京太が座るカウンター席の前はコーヒーを淹れる道具が並べられた。

 エリは左手に薬箱、右手にぴっちりと詰められた袋を持って戻り、京太の背中を回り込んで隣の椅子に座った。箱から肌色のシートを出して彼の青い膝下に貼り付けた。

 

「ほら、これで大丈夫。もう帰っていいわよ」

 

 薬箱の蓋を閉じてカウンターの端に寄せた。代わって手にした袋の上部を開け、鼻を近づけて空気を吸い込んだ。京太は椅子を回転させて彼女の反対側へ下りた。卓上の紙や容器類が目に入って香ばしい匂いが鼻に届き、息をついた彼は振り返って分かり切った質問をした。

 

「それには何が入ってるんです」

「フフフ、新しい豆。あのミルで挽いてコーヒーを淹れる練習よ」

「俺も手伝いましょうか」

「いいのね。じゃあ、味見してちょうだい」

 

 彼女がひらりとカウンターの内側に向かい、彼は腰を下ろした。ミルに豆が入って縦ハンドルが回された。鼻歌交じりに数分。エリは挽いた粉を箱からごそっとフィルターに移し、透明な容器の上に載せた穴の開いたカップに置いた。キッチンから持ってきたポットのお湯を注ぐと、コーヒーの香りがカフェ全体に漂う。白いカップに黒々と濃い液体を注ぎ、二人は口をつけた。

 

「ん……苦いわ。何これ」

「うーん、入れた豆が多いんじゃないかな」

「そ、それよ。次は大丈夫」

 

 エリは気を引き締め、普通のスプーンを数回往復させて豆挽きをやり直した。粉の分量が大幅に減った。抽出したコーヒーをごくごくと飲み、彼女は「薄くなった」と唇を噛んだ。もう一度ミルへ豆を投入し、ハンドルを高速で回転させて細かい目のさらさらなパウダーに。前回より倍に増やした。まろやかな味が口の中に広がるのを想像したが、最初より苦くなった。手動の豆挽き器はエリには難しく、何回かやるうちに味が分からなくなって途方にくれた。

 ガラス張りの窓外が暗くなり、ステンレスポットの湯も冷めた。最終的に、奥の扉が開いて夕食を作りに来たちはるが待ったをかけた。

 

「エリ、まだ居るの。程々にしておくのよ」

「あ、教えてください。ちはるさん、コーヒーの淹れ方が分かんないんです」

 

 ちはるは早々に室内へ引っ込んだ。すぐ後をエリが駆け込み、話し声がカフェへ漏れてくる。

 

「ごめんなさい、私は彩香と違って詳しく知らないの」

「えぇ~、姉さま今日遅いんですよね」

「そう、だからカレーにしましょう。って、枯れ葉が背中に付いているわ」

「え、どこどこ?」

「もっと右よ。それ付けに自転車で山の方へ行ったんでしょ」

「えへへ、サイクリングに行ったんだ」

「虫に刺されるから、今度は長いのを履いて行きなさい。それにヘルメットもよ」

「納戸の段ボールの中ね。わかった、後で探しとく」

 

 ちはるとの会話は仲の良い家族を思わせた。桂木家に早くも馴染んでいることに疑念はあるが、京太は屈託ない性格がそうさせるのだと感じた。彼自身が裏表のないエリに惹かれ、こうして一日中付き合っていた。決して嫌々従った訳ではなかった。

 京太の口内はコーヒーの苦みが残り、彼は腰を上げた。調理台へ手を伸ばそうとすると、エリがキッチンからひょっこりと笑い顔を見せた。

 

「おーい、ちはるさんが京太も食べていきなさいって」

「うん、すぐ行くよ」

「よかった。歩けるなら、コーヒー飲んだやつとか全部持ってきてね」

「え、それはないんじゃ…」

 

 京太が掴んだポットは空だった。カウンターに斜めに置かれたトレーに載せ、二人分のカップを添えた。キッチンへ向かう彼の両手は塞がり、鎮静剤が効いた脚がジンとした。レンガ屋敷では自動化された機械がやってくれる。ぶつかったのがティーセットを運ぶワゴンじゃなくて良かったとしみじみ思った。

 

 

 黒田家に京太が帰った時には辺りが真っ暗で家族の夕食も済んでいた。台所へ向かわず廊下から居間に入り、通り抜けて渡り廊下への扉を開けて出た。渡り廊下の先は離れで、風呂がない2DKの祖父母が居住するスペース。離れの廊下に上がった京太は真っ直ぐ進んでダイニングキッチンに来た。仕切りがない部屋の入り口から祖父が座るテレビ近くの窓際へ話しかけた。

 

「レンガ屋敷の家が代々建設会社って有名なの、じいちゃん」

「え、家でも建てるのか」

「なっ…兄貴に言ってんじゃねえよ!」

 

 耳が遠い祖父の代わりに反応した裕太へ容赦なく罵声が浴びせられた。6畳のフローリングは布団を外したこたつ机の下にい草ラグが敷かれ、兄がサッカーの練習着のまま床にはみ出て寝転がった。部屋の手前はもう一人、祖母がいた。家に居る時は京太が着れなくなった体操シャツと緑色のジャージを着て生活し、夜は大抵テレビを見ながらビールを飲んで過ごす。彼女は空き缶を手にして卓上に肘をついて赤い顔を向けた。

 

「京太、屋敷ろおりょーさんはどうらった」

「もう酔ってんのか。まあ、ばあちゃんでもいいや。宮町建設って有名なの」

「あ、あろめえらら買っちゃいかん。れったい下ある」

「へー、いろいろ知ってるんだ」

「うんにゃ」

「え、なになに?」

 

 京太はいそいそと部屋に入って近寄り、地獄耳の祖母に有力情報を期待して話に耳を傾けた。

 

「彩香んとこ中らくへー居るらひぃ。かわいい女ろ子らんられら」

「えっ。ばあちゃん、どうしてその事を…」

 

 ろれつが回らない祖母に京太が驚いた顔をした。帰ってくるとこんな風。だが、外ではぶすっとして貫禄があり、彩香が気軽に話しかけられるタイプでなかった。彼女は孫を指して笑った。

 

「ははは、やっぱ京太ろ本命はこっひぃか」

「へへ、聞いたぜ。年上だし、気が強い子なんだってな」

 

 裕太が引き続き冷やかして笑い出し、京太は兄もが桂木家のエリを知ることに呆然とした。しかも、気性までが詳細にバレている。真相を聞こうとしたが、なかなか笑いの収まらない二人。彼はとうとう焦れて離れを後にした。

 

「あいつら許さん!!」

 

 気色ばんで渡り廊下を歩く京太に南風が吹いて腕に暑さがまとわりつく。エリと出会って三日、彼女のことは家族に話してない。謎が解けずに母屋に入り、涼しい居間でソファーの肘掛けに腰を乗せた。母・美雪の呼ぶ声が格子状のすりガラスを突き抜け、無視して考えていると台所の引き戸が開いた。

 

「こら京太っ、夕飯どうすんのって言ってんだろーが」

「京太、ちょっといいか」

 

 吹き荒れる美雪の怒鳴り声を遮断するように戸を閉め、物静かに父・真裕が京太に近づいた。

 

「女子の言うことばかり聞いてはダメだ」

 

 日頃子どもに何も言わないだけに妙な父。肩を叩いて背後にドンと座った。190cmを超えてそこそこガタイはいいが、理系の秀才で大人しく三兄妹にとって美雪の影のような存在だった。京太は「またか」という心境になり、壁の方にぴょんと立って廊下への戸を引いた。一瞬、台所の扉から漏れた光に影が横切った。その方向に真っ直ぐ進むと妹の部屋がある。彼は噂の出所がみちほだと悟った。あの時、慌てて出かけた後に通信画面が切れておらず、廊下にいた彼女はエリを見に来たのだ。

 京太は悪趣味な妹に腹を立て、盗み聞きしたと思われる薄い壁の方へ睨んだ。結局、屋敷で未紗紀の顔すら拝めずにエリを憮然とさせた。部屋の音なんか聞こえない廊下が羨ましく思えた――何かいい方法ないかなぁ、作戦に役立ちそうな――頭をひねった彼はソファーの側に舞い戻った。

 

「父さん、確か二階にマイク内蔵の発信機があったよね」

「学生の時に試作した注文送信機か。PCデスクの一番下の引き出しにあるけど何に使うんだ」

「うん、エリさん……。いや、本棚の雑誌を出した隙間を埋めようと思ってさ」

「それはそうと、たまに断らないと遠慮なく次々と頼まれてだな…」

 

 真裕が横を見ると京太は居なくなり、廊下から階段を上がる足音が響く。彼を探しに来た美雪はムスッとしてエプロンで手を拭いた。その娘に息子も振り回されるのかと父はため息をついた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

部屋にたどりついた光

 翌日の午後、二人は屋敷に着いて北側の通用口前に自転車を止めた。オーバーオールに身を包むエリは顎紐をほどいてヘルメットを前かごへ放り入れた。ちはるの言いつけ通りに虫に刺されない恰好で来た。ヘルメットは昨晩遅く帰った彩香と納戸で見つけ、大きな星がサイドに描かれたオープンフェイスでシールドが取れていた。納戸のお古探しは夜中までかかり、睡眠不足でボーっとしてエリは電気自転車から降りた。

 京太は裏で調理師がタバコを吹かす様子を確かめ、戻ってきて前かごのショルダーバッグを肩に引っ掛けた。リュックを背負う彼女と通用口から屋敷に入って廊下を並んで歩き、バッグの蓋を開いて手のひら大の薄い機器を見せた。

 

「うちの前で言いましたけど、これが音声と発信した位置を端末へ送ってくるんですよ」

「にしても大きくないかな。怪しんで捨てちゃうかも、彼女」

「それはご心配なく。これもティーセットと同じロココ調のデザインになってます。縁の曲線が精巧に彫られてるでしょ。鳴沢のワークスペースで最新3Dプリンタを使って作られたんです」

「ふーん、古そうな色してるけどねぇ」

「任して下さい。きっと、未紗紀の居場所が分かって会話を聞けますよ」

 

 いきいきした京太が先に扉を開けて調理場に入った。バッグから出した機器は彼の父がカフェで使うために作り、外側に洋風の食器に合う柄を施してあった。彼は鼻をつまんで真っ先に換気扇を点けると、隅に行って給仕装置で未紗紀の名を表示した最上段を開けてトレーに機器を置く。閉めた扉の透明な窓を覗き、扉横パネルで設定されたスケジュールへ目をやった。

 眠気と戦うエリはペタッとした髪を指ですき、テーブルの上にリュックを置いた。今日に限ってきびきびと働く京太を眺めつつ、側の椅子にゆっくり腰を下ろした。

 

「ふーん。で、どこで買ったのそれ」

「売り物じゃありません。父さんが汎用ICで回路を組んだんです。ウェイトレスロボットはレンタルも高いからって作ったけど、お蔵入りになって。うちの父さん、中学から評判の天才で美里東高校から鳴沢大へ現役合格したんですよ」

 

 彼は自分のアイデアを披露して得意になり、実際に行動して浮かれた。両親がいないエリに、つい父の自慢をしてしまう。嬉しそうな顔へとろんとした目を向けて彼女は話を聞き流した。いつも朋己がいて母がいなくても寂しくなく、見たことがない父親に何の感情もなかった。

 オーバーオールの裾が下がって足首に掛かり、エリは前の椅子にかかとを乗せて折り曲げた。立ち上がって両腕を少し上げ、サイズが大きいと気づいた。今朝、持ってこられない兄のキャップへ気移りし、ハンガーの列から洗濯物を取り違えたのだ。胸元を引っ張ってびろーんと広がる彩香のTシャツを見つめて恥ずかしそうにした。

 振り返った京太は少女の仕草にデリケートな問題を妄想し、バッグの中を引っかき回した。

 

「あ、そ、そうだ俺の端末も結構すごいんですよ。昔の通信規格にも幅広く対応してるし、角研のアプリがすべて動く優れものだし、UFOが近づくと波長で探知可能なんです」

 

 端末、エプロン、タオルと卓上に等間隔で整理される。その動作をエリはテーブルに片手をついて見入っていた。徐々に、彼女の表情は興味の色を浮かべた。

 

「へー、意外ね~」

「そ、そう、似合うかな」

 

 京太が初めて着けたエプロン姿を気にして頭を掻いた。しかし、感心は彩香の甥と思えない几帳面さに対してだけ。彼の作戦で行くと腹を括り、エリは胸当ての両脇をキュッと押さえてオーバーオールを揺すり上げた。肩紐を調節して準備完了。ようやく脳細胞も働き始めて目を見開いた。

 やがて、京太の後ろで作動音がしてゆっくりと銀のティーポットが横へ滑る。二人は給仕装置の青い点滅でしばらく無言になった。ベルトコンベアで天井へ吸い込まれ、顔を見合わせるとエリが壁へ向けて指をツンツンした。彼らは皿が漬けられたシンクをそのまま通り過ぎ、そろりと食器棚の前までやって来た。上を向いた端末が薄暗い部屋の片隅を明るく灯す。7インチの画面に映った屋敷のマップをエリは京太の反対側から覗き込んだ。

 

「この光ってるのが今の位置ね」

「はい、これ二階です」

「けど壁の外側を動いてるわ、これ」

「屋敷の広さを少し狭く見積もってますね。ははは」

「もぉー、しっかりしなさい」

「はい……あっ、急に曲がりました」

「廊下に出るんだわ。そこからが重要よ」

 

 給仕ワゴンは真っ直ぐ進んで回廊の角で曲がらずに止まった。南側の廊下の一番端で赤外線を照射し、扉が開いて中に入った。そこは未紗紀の部屋からは離れた静かな寝室だった。部屋の中程で移動する光が止まり、京太は固唾を呑んで見守った。端末を持つ彼の腕を掴んでエリが囁いた。

 

「京太、音を聞くのよ」

「は、はい。大丈夫ですって」

 

 返事とは裏腹な汗ばんだ指を画面に押し付け、部屋からの音をオンにした。端末の左右に空いたブツブツと細かい穴から聞こえてくる。未紗紀の声が震えていた。

 

「うぅ…。目を開けて、お父様。私を置いていかないで」

 

 突然の事に京太が顔を上げてエリを見ると、彼女は黙って光源を見つめた。未紗紀は病気の父親へ苦境を訴えるほどに心細く、家族以外で支えになる人が必要だと感じた。お嬢様を助けるナイト役は兄しかいないとエリは考えた。

 なおも、音声のインジケーターが上がったり下がったりを繰り返して悲痛な叫びが続いた。

 

「お母様が亡くなってから三年しか経ってないのよ。お願い、私を一人にしないで。叔父様は信用できない。あいつはきっと、この屋敷を狙っているわ」

 

 京太は膝の下に手を当て、レンガ屋敷で得られた未紗紀の情報を再考した。痛みをこらえた廊下の角にある寝室で病に伏せる父と学習室の扉から耳にした叔父への憎しみ。彼女を取り巻く状況が見えてきた。彼は再びエリの顔を見る。大きな瞳が動かず小刻みに揺れる画面からの光を映し、意外にも口元は緩んだ。

 ターゲットに定めた未紗紀の不運が急に告げられた。少女が山間で直面した事態を利用しようと画策する間に、舞島市では海上を台風が近づく。顔を上げたエリは髪を揺らし、前を向いた。

 




―― 次章予告 ――

朋己は電話での呼びつけを拒み、仕事中の彩香へ助けを請うメッセージが届いた。屋敷に叫び声が響くと、エリは屋外を玄関前へ走り、京太は通用口から廊下に向かう。未紗紀は… ⇒FLAG+09へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+09 パーティーはそれきりに
雲行き怪しい調理場で


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送り、彼女の甥・京太を連れて兄の恋人探しに出た。
宮町未紗紀の住むレンガ屋敷へと来た二人。屋敷にはしゃぐエリを京太はサポートするつもりが、逆に調理場で苦しむところを助けられて彼女の作戦に従うことにした。
使用人体験の三日間が始まり、エリは調理場から未紗紀の生活を調べに京太を行かせた。成果なく戻った彼にあきれて帰ろうとすると、屋敷に併設された会社の社長秘書・小畑と出会って宮町家の内情が分かった。
翌日、マイク内蔵機器を載せた自動給仕ワゴンが屋敷内を移動して端末に音声を送信する。エリは病床の父へ未紗紀が震えて話す声を聞き、彼女を助けるナイト役は朋己しかいないと考えた。
山あいに建つ洋館へ風が吹き始めた。悲嘆にくれる令嬢を兄に会わせようとエリが前を向いた。



 中学校の裏山に立った屋敷に東寄りの風が吹き、上空を千切れた雲の集団が流れた。陰に隠れた北側の少し低い屋根は一瞬の暗転にも蓄えられた熱を保つ。先代が建てた洋館は側面に事務的な外来者を迎える玄関と通いの使用人が出入りする通用口が設けられた。屋敷の周囲をアスファルトが敷かれ、正門から野生の林まで濃紺が広がっている。昼間は裏口の門扉が折り畳まれ、いつ来るか分からない来訪者を待ち受けた。

 未紗紀の嗚咽が過ぎ去り、部屋に口をポカンと開ける少年と手で押さえる少女が残った。二人の間は調理場から漏れる光のみで薄暗く、お互いの表情がよく見えない。それでも、食器棚と仕切り壁に挟まれた細長い空間で、点滅するディスプレイの両側は明らかな温度差があった。

 

ガチャッ

 

 奥の壁で扉が開く音がしてエリは手を伸ばす。手のひらで京太の顔を押さえ、「すぐ切って」と自分の口元に人差し指を立てた。フッと光が傍らから消え入った。彼女は仕切り壁の端に近寄り、横髪を耳に掛け直すと両手を枠に添えて様子をうかがった。換気扇が回った調理場でぷんぷんとタバコ臭を撒き散らす男。やはり調理師だった。彼はテーブル上にあるリュックを見て食器が漬けられたシンクへ目をやった。

 

「嬢ちゃん、トイレでも言ってんのか」

 

 二人がいる壁の裏で音を立て始めた彼は特に不審がることもなかった。隅に置かれた冷蔵庫から何かを取り出し、エリたちへ近づく。彼女は翻って背中を壁に付けた。調理師は四角い紙の包装をレンジへ放り入れ、足音を残して部屋を出ていった。

 エリは調理場に飛び出て棚の中段に納まる白いレンジの窓を覗き、開けて箱を両手でゆっくりと手前に引き出した。鼻を押さえた京太ものろのろと現れてパッケージを見下ろす。

 

「らぶるかいとーひょくひんでふねー」

「そんなに臭ってないわ、ここ」

「ふぇ、ああ、本格フレンチシリーズです。ソースが濃厚で美味しいし、俺も好きだなあ。うちのばあちゃんは知り合いの業者に卸し先が値下げしないか時々聞いてますよ」

「ふーん。お屋敷のご令嬢も立派なグルメね」

 

 箱を元に戻してエリは皮肉交じりにつぶやいた。宮町家への失望も含まれた。未紗紀は中学一年だから味が分からないんだと頭に納得させ、エプロンを着けながら朋己を屋敷へ呼ぶための理由を考える。シンクの中から皿を取り上げ、顔の前で丁寧にスポンジを添わせた。背後で京太が悪臭をかき分けるように手を振った。

 

「いやぁ、未紗紀の家庭は大変なことになってますね」

「そうかしら、ドラマではよくあるわ」

「テレビと同じにしちゃかわいそうですよ、彼女泣いてたし」

「じゃ、存分に泣いたら気でも晴れるんじゃない」

 

 エリは振り返らず肩をすくめた。施設に新しく来た子がそうであり、いずれは慣れる。自分の場合は兄にくっ付いていられたから、集団内での孤独を紛らわせることができた。その結果、彼女は他の子よりも恵まれていると自負を持っていた。当然、そういう目で未紗紀を見ていた。

 らしくない見下すような態度に京太が憤りを表し、彼はエリの背中へずけずけと言い放った。

 

「エリさんひどいですよ、未紗紀に同情してないんすか」

「そうじゃない……。親なんか、死んじゃうんだから。早いか遅いかよ」

 

 抑え気味の怒りがポチャンと落ちる音で小さく聞こえた。未紗紀との違いは兄がいるかいないかであり、同情しない訳はなかった。ただし、それは少女にとって大切な事柄だった。京太は固まった後ろ姿を眺め、嘘は言ってないのだろうと溜飲を下げた。沈んだ食器を前に、エリがぶかぶかのシャツで長く垂れる袖をまくり上げた。彼も気持ちを入れ替え、スポンジがないかと調理台を見回した。黙々と皿の汚れを取る彼女はぽつりと口を開いた。

 

「京太、明日は裏門辺りの掃除がしたいんだ」

「はい?」

「調理師や小畑さんがメッセージを受け取ってたけど、未紗紀さんへも送れるのよね」

「あ、ローカルサービスですか」

 

 京太が端末を出してエリの要望通りの文章を作った。屋敷のネットワークで執事が送れる宛先のリストから選択して未紗紀へメッセージを送ると、「OK!」と書かれた返信がすぐに来た。

 昨日よりも少なかった食器の山を洗い終えたエリは水を流して蓋を閉め、台の横に並ぶボタンを押して水気を飛ばす。作業が終わって休憩なしに帰り支度を始めた。それぞれ荷物を持ち、二人は屋敷を出て大して会話もせずに帰宅した。

 

 

 桂木家に着いてエリは自転車を庭木に立て掛けてカフェに入った。キッチンへの扉を開けっ放しにし、スリッパを履かずリビングへ小さくスキップした。端に来て棚の上で受話器を取り、パネルに登録済みの番号を探して朋己の名前に微笑んだ。押して壁にもたれた彼女。画面に彼の顔が映ると正面にまわって声を張った。

 

「ねえ、明日ちょっと来て欲しい所があるんだけど」

「ダメだよ。天文部の打ち合わせがあるんだ」

「えぇ~、そんなの聞いてないよ。今週は暇なんでしょ」

「だから実習がないだけだってば――」

 

 朋己の話はそれまでした話の反復で頑固な兄は首を縦に振らない。都合の悪いところを聞かないエリは怒り出した。

 

「もう知らない!!」

 

 通話を切って受話器を側に放り、ソファーへ飛び込んだ。舞島学園の寮は目と鼻の先だが、この家に兄は一度来ただけ。兄が施設を出てからほとんど会えなかった。とても未紗紀より自分が幸せだとは言えなかった。リモコンをテレビへ向け、画面にバットを振る高校生が映し出された。しばらくして不貞腐れた彼女はうたた寝をして床に腕を垂らした。

 

「お兄ちゃんのバカバカバカ……」

 

 エリが目を覚ました時には窓の外が薄暗くなっていた。カーテンを閉めて壁のスイッチでリビングに明かりを点けた。重い体に寝汗のベトつきを感じ、おのずとシャワーへ向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ほうきと強気を振り回す

 仕事から帰った彩香は戸を引いてリビングに入った。電気が点くダイニングに一人でエリが夕食をとっていた。献立は叔母・ちはるが作り置きした昨日のカレー。テーブル上に自分の皿が並ぶのが見え、上着の袖を引っ張りながら近寄った。

 

「ありがとう。私の分も用意してくれたのね」

 

 隣の椅子に脱いだ上着を掛けても返事はなかった。エリの横顔は目つきが鋭く、皿に音を立ててスプーンを動かす。彩香は鎌をかけつつ多感な年頃の彼女をからかった。

 

「あれー、怒ってるの。京太くんとケンカでもしたのかな」

 

 反応はなく、彼女はパクパク、パクパクと黙って食べた。彩香は何かあったのだと推測したが、これ以上は踏み込まないことにした。今朝、確かエリはオーバーオールだった。Tシャツとハーフパンツに着替えた姿を見て話題を変えた。

 

「服大きかったでしょ。でも、エリちゃんに合うサイズだと実家で探してこなきゃ」

「……いいよ」

「え、なになに?」

「ねーさま、全然カフェの手伝いしてくれないしっ!!」

「あっ、あれ、ちょっと…」

 

 彩香はいきなり自分に不満をぶつけられて驚いた。エリが立ち上がって脇を通り、皿とスプーンを持って流し台へ向かう。水を勢い良く流して洗い出した。それらが水切りかごに入れられた後は台の左右に飛び散った水滴や放り投げられたスポンジが残った。

 対面キッチンを呆然と眺め、側の扉から彼女が出ていって彩香は口を閉じた。少女の無作法な振る舞いを叱るべきだろうかと迷った。よその子に対する遠慮がその場で動けなくさせていた。

 

ピィン、ピィン、ピィーン、ピィーー

 

 聞き慣れた着信音が彩香を困惑から引き戻し、ブラウスの胸元をつまむと室内の涼しさが肌に染み渡った。彩香は上着のポケットからスマホを取り出し、『M』のキャップを模したスタンプを押して耳に当て、エリが仕舞わず去った椅子にゆっくりと腰を落ち着けた。タイミング良く電話をかけてきた彼とは話題がすぐ彼女のことになり、食事を忘れて会話を弾ませた。

 

「ええ、最近は甥の京太と自転車で遊びに行ってるわ」

 

 

 とっくに朝が過ぎてリビングは午前中。よれたパジャマを着たエリがソファーの背もたれに手をついて指で目をこする。彩香はもう仕事に行ってしまった。テーブルを囲むダイニングの椅子は仕舞われ、昨日までと違ってキッチンの洗い桶が空になっていた。彼女は八つ当たりした夜の出来事に後ろめたさを感じて顔を背けた。窓の外を見ると久しぶりに曇り。時計の針が動く壁を見上げ、差し迫った午後に焦って体を廊下へ反転させた。

 部屋に戻ってエリはキュロットを履き、袖だけ朱色のTシャツから首を出した。動ける恰好をして荷物を持って外へ出た。ヘルメットの顎紐を垂らした彼女が栄養スティックをくわえ、足をペダルに掛けて白い靴下を目一杯伸ばす。電気自転車は飛ぶように住宅街を走り抜けた。

 後ろに京太を従えて未紗紀が住むレンガ屋敷の裏門にたどり着き、エリは自転車を通用口付近に停めた。荷台に括り付けられた長い棒を下ろし、それを掴んで駐車場の方へ行った。塀際で植わる高木に棒の穂先を下にして立て掛け、たすき掛けしたポーチの紐をきつくした。とぼとぼとやってきた京太は彼女が再び掴んだ手元へ人差し指を向けた。

 

「エリさん、その箒は倉庫にあったやつですよね」

「そうよ。使用人体験なんだから、ちゃんと掃除しなきゃ」

「危なくないんですか、それ」

「は、何言ってんの。どう見ても外用でしょ」

 

 エリが地面に落ちる葉っぱを軽く掃いてみせた。突風が吹き上げ、彼女の髪は顔を覆う。瞬く間に細切れが数メートル先へ飛ばされた。さっと前髪をかき分け、片手をかざして空を見上げた。

 

「ふぅ~。今日はすっごく風が強いわ」

「イヤイヤイヤ、塵になったじゃないですか。って、こっちに振らないで下さい」

「ふふ、まったく心配性ね。それより、このメッセージ出してよ」

 

 一晩寝たエリは機嫌が直り、京太にいつもの自信を見せた。背中のポーチからノート大のプラスチックが差し出される。見た目通り軽くて安っぽい学習用タブレットだった。受け取った彼が開いた右半分は文字がびっしり詰まっていた。

 

「黒田京太です。現在、レンガ屋敷の北側の門にいます。エリさんが襲われて……」

 

 京太は自分が名乗り出て始まる文章に嫌な予感がした。途中を端折って最後の方を読んだ。

 

「――早く彼女を助けに来て下さい。あの、これ何です?」

「お兄ちゃんへ送ってここに来てもらうの」

「え、でも、まるで俺が書いたみたいじゃないですか」

「そうよ、わたしが差出人だって分かったらイタズラかもって怪しむでしょ。だけど、見ず知らずの第三者が送ったのなら信じてくれるわ。京太が偶然居合わせたように書いてるし」

「へー、そっか。なるほどな」

 

 寝過ぎの目を腫らして力説するエリに、一度は納得したが京太は朋己へ送るメッセージの効果を疑った。そもそも、誰とも知れない人を信用するのだろうかと。端末表面をシャツの裾に擦り付けて綺麗に拭いて彼女へ顔を向けた。

 

「こっちの門に来てからどうするんですか」

「正面の玄関に行ってもらうわ。ノートにちゃんと書いてあるでしょ」

「けど認証してないと玄関の扉を開けられませんが」

「そのために外にいるんじゃない。お兄ちゃんがそこの角に来たら、私達が屋敷の中に入って開ければいいの」

 

 朋己を待ち遠しそうにエリが門から外へ体を傾ける。京太は書かれていない未紗紀を兄の恋人にする段取りを尋ねた。

 

「じゃあ、未紗紀をお兄さんと会わせようってことなんですよね」

「うん。玄関で未紗紀さんを紹介するの」

「それで作戦がうまくいきますか」

「そりゃあ、うまくいくに決まってるわ。今、彼女は父親の代わりに誰かを頼りたいの。で、お兄ちゃんはしっかりした高校生。アドバイスして叔父の件は弁護士に解決させる。まあ、少し時間がかかるけど、相談してるうちに自然に惚れるはずよ」

 

 エリは向こう側の門柱へ跳ね、植え込みを囲むブロックに乗って両腕を伸ばした。時折、彼女は体がふらついた。レンガ塀にもたれた京太はエリの行動から目が離せず、様子をうかがいつつタッチパネルに指を滑らせた。

 学習用タブレットは教育委員会認定の機器以外とは通信できない。京太はエリが書いたメッセージを自分のスマホに写し終え、朋己の宛先を登録するために送信マップを開いた。

 

「ま、住所は後で変えればいいか…」

 

 とりあえず入力した宛先をマップ上の桂木家に登録し、メッセージを人差し指で押さえて画面のそこへ移動させた。これで送信完了して「ピロリーン」と音が鳴った。やれやれと顔を上げると、エリが小石の多いアスファルトの上で危険な箒を振り回す。京太は端末をポケットに突っ込んで止めに駆け寄った。耳の近くを強風が吹き抜け、聞き慣れた既読音はすっかりかき消された。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桂木家の長女

 鳴沢駅から地下鉄で6分。地上へ出ると繁華街から離れた閑静なエリアにオフィスビルが建ち並ぶ。さらに歩くこと10分。古びた九階建てビルの三階ワンフロア半分を芸能事務所・桂木プロダクションが占める。事務所の島式デスクでは彩香がパソコンの画面に向かって両肘をつき、出がけにエリとの朝食をとらなかった些細な出来事を気にした。

 

「あー、やっぱ起こすべきだったのかな~」

 

 甥と遊びに行く中学生の少女と暮らして二週間ほど経った。それは彩香に一定の充足感を与え、独り身の人生にも期待を持たせた。といって、仕事に良い影響がある訳でもなく、社長までが外出した社内に一人残り、大して電話が鳴らないのをいいことにサボりに余念がなかった。

 

「う~ん、子どもの世話より結婚がねぇ。でもその前に相手を見つけないと」

 

 厚い面を両手に挟んでへらへらとする時間は割と早く過ぎていく、本人が気づかないうちに。

 

カツカツカツカツ……バンッ

 

 LEDが床を白く照らす窓がないビルの廊下、くすんだ縦書きの看板横でドアが開いた。紫色のジャケットを羽織った女性は形ばかりの受付を通り過ぎた。目の下にできた小ジワが間仕切りの先へ向き、並んだ机上で妄想にふける姪に唇を震わせた。彼女は黒田千夏。創業した母が相談役に退いた六年前、この小さな芸能事務所の代表取締役に就いた。

 その昔、活発な髪の短い女の子は舞島市で年少の子達を連れて駆けまわった。彼女は中学生の頃に鳴沢市へ引っ越し、彩香の母と出会ってずっと妹分として可愛がった。やがて本当に義理の姉として助け合う間柄となり、悩みの種だった下の娘を二つ返事で会社に雇い入れた。

 ファンデーションから透けるそばかすと目元に母親の面影がある彩香だが、他人の席までパンの袋やペットボトルが散乱する様子は紛れもなく自分の姪だった。千夏は銀メッシュを入れた前髪を掻き上げ、静かに後ろを通過して奥の社長室へ向かった。ガラス張りの壁で区切られた社長室は端にレバーの付いた窓から外の光がもたらされる。扉を閉めて脇のスイッチを押してシェードをすべて下ろし、窓際のノートパソコンが置かれた机に来て上着を脱いだ。ノースリーブのシャツに上下真っ黒。椅子の背に上着を掛け、くるりと体を回転させてドスンと腰を落とした。

 並んだキャビネットの横で空気清浄機に大きなバッテンの裏紙がテープで貼られていた。千夏は机に片肘をついて舌打ちをした。あれを直さないと一服できない。四十年も前のアイドル時代、好奇心で喫煙に手を染めた。けれども今は業界でも吸う人は数少なく、社内ではお堅い専務が目を光らせる。彼女はおもむろに体を伸ばして閉じた入り口へ目を這わせ、さっと椅子の向きを変えて後ろのレバーに手を掛けた。

 すでに手の中にはライターと一本の紙に巻かれたものが収められた。少ししか開かない窓の隙間から火の点いたタバコが出され、白い筋は外へ上ってゆく。彼女も落ち着いて煙を吐いた。

 

バーン!

 

「社長っ!!」

「うわーーっ。こ、これは、あれは、それは…」

 

 指に挟んだタバコを落として後ろへ振り返った。だが、Vになった間から窮屈そうな上着の女性が目に入り、胸を撫で下ろした。部屋の中央で彩香が何か言いたげに固まっていた。彼女は真面目に仕事をしているか疑わしく、たとえ姪でも今は部下と、千夏はキリッとした声で問いただした。

 

「報告よ、報告。山河原崎せーじファンクラブ通信のコンテントはできたんでしょうね」

「うっ……」

「な、泣くこたーないだろっ。怒っちゃいないしさ」

 

 目に涙を溜めた大の大人に色めいて腰を浮かせた。彼女の母・志穂に対し、ひとかどの社会人にしてみせると大見得を切ってある。緊張感が薄れた社長室で彩香がスマホを差し出した。

 

「このメッセージ、見て下さい」

「なんだぁ、岡田の嫌味か。そんなの気にしなくていいって」

 

 机に乗り出して5インチの画面へ目を細めたが、千夏は老眼で見えなかった。卓上の大型電卓を取って裏返し、背面のディスプレイを点けて小さい文字へ近づけた。同じメーカー製の社員に配布したスマホと簡単にメッセージ交換ができた。再度腰掛けた彼女は手を離して焦点を合わせ、文面に目を通す。レンガ屋敷の位置情報付きで京太から送られたものだった。

 メッセージは強盗集団が現れて女の子が襲われているから助けに来てくれとの事。警察に出すならまだしも、到底信じられない内容だ。京太は妹・ちはるとウマが合って桂木家によく遊びに行くし、彩香への悪ふざけなのだろうと思った。屋敷には数年前に妻を亡くした資産家がみちほと同い年の娘を連れて戻ってきたと千夏の耳にも入っていた。家で酔っ払って聞いた話はどこかへ行き、夏休みに彼が校舎から見える建物に興味を持ち、年下の子と仲良くなるというストーリーが出来上がった。彼女は読み終えてポンっと電卓を置いて後ろへ体を倒した。

 

「ったく、京太のイタズラね。それでレンガ屋敷の子がエリなの?」

「バス停で…カフェで…兄のことを想う少女で…」

「でも、京太が女の子となんて嘘みたいでしょ。あいつ意外と面倒見がいいのよ」

「あの子……何するか分からないし……」

「そうそう、変な物もらって家で喜んでるわ。京太は外面を気にするから使わないだろうけど」

「私、どうしたらいいのかな…」

「あー、もうっ」

 

 千夏は動揺した言葉の意味を掴めずに苛立った。もっとも、昔から顔の真ん中に寄ってまごつく瞳に弱かった。ガラッと引き出しを開け、指をなめて職業別電話帳を引いた。ページに挟んであるICチケットを前へ放り投げた。

 

「タクシーを使っていいわ。もちろん、鳴沢駅までよ」

 

 両手で受け取った彩香は首をコクリとして部屋を飛び出した。千夏は座り直して後ろの床へ手を伸ばす。預かって二年余り。仕事の失敗にも見せない取り乱した表情を思い返し、拾ったタバコをくゆらせた。

 捨て置かれた上着の内ポケットに手を突っ込んで携帯灰皿を出して口を開けた。しかし、虚しくも固まりは机に落ち、崩れて広がる。それはいつもの前触れであり、決まって彼女の周りで何かが起こった。千夏は再び電話帳をめくった。巷で評判の補正アプリを起動し、通話カメラの前で顔の両端を引っ張り、旅行会社のカレンダーを背景に不気味なスマイルを繰り広げた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お嬢様を探せ!

 エリが言い出した使用人体験も最終日。曇天に覆われた屋敷を湿った空気が包み、未紗紀が二階の南側で病床の父を前に緊張して時を過ごすのと対照的に、彼女たちは北側のアスファルト上で騒いでいた。塀際に根を張った木の幹に浅くへこんだ跡。兄・朋己を待つ間の暇つぶしと、エリは立ち木をキャッチャーに見立てて腕まくりをして箒の柄を短く持って構えた。半袖半ズボンの装いで耳を覆うヘルメットをかぶる彼女へ、十数メートル先から投げた京太の石は背中を通過した。

 

「もう、どこ投げてんの。下手くそなんだから」

「ハイハイ、エリさんは運動神経がスゴーイですからね」

「じゃあ、今度はこっちから行くわよー」

 

 投げやりな称賛に鼻を高くしたエリが自分で石を上へ投げ、穂先で打とうとする。京太は周りに人がいないか見回した。次の瞬間、目に留まらぬ速さで空気を切り裂いて吹っ飛んでいった。彼はゆっくりと後ろへ顔を向け、壁にめり込んだ石の粒を見て肝を冷やした。

 思案する京太がシャツの胸ポケットを押さえた。手に取った端末で昨日使った機器をリモートで起動し、調理場の声でも拾ってエリの注意を引こうと音量を最大に上げた。

 

ゴゴロゴゴゴロゴゴロ……

 

 重たい回転音が屋敷の外で響く。首をかしげる京太へ近寄り、エリはヘルメットを脱いだ。

 

「何、この音。工事現場の動画でも見てんの」

「いいえ。昨日仕掛けたマイク付き発信機から聞こえるんです」

「トレーを片付けなきゃ、今日も未紗紀さんのとこへ行くんじゃない」

「はぁ、あの調理師は真面目に仕事する気ないんすかね」

 

 京太はしゃがんで四角いコンクリートの車止めに端末を置いた。エリも箒を水平にして膝を曲げて覗き込む。画面に表示された点滅は昨日と同じ経路をたどり、二階角部屋の寝室に入った。

 彼らがいる屋敷の裏には塀沿いにエンジン音が近づき、角を曲がって裏門へ向かってきた。塀を向くエリが腰を伸ばし、京太に手のひらを上へ向けて振った。彼が端末を手に立った時、未紗紀の声が二人の間で空へ突き抜けた。

 

「いやあぁぁぁーー!!」

 

 短い叫び声が収まった後、ドアを開ける音がして未紗紀の足音が早く遠ざかる。音声スイッチを切った京太の前をエリは駆け出していた。彼は通用口を指し、屋敷の正面へ走る彼女へ叫んだ。

 

「エリさん、入り口はこっちでーす」

「あっちが出口よ!」

 

 顎紐を掴んだエリがヘルメットを大きく振って屋敷の角を曲がっていく。「出てくるとは限らないのに」とつぶやいて京太は通用口へ歩き出した。黒塗りの車二台が門を通り、先頭の高級車が会社の玄関に横付けして止まった。彼は未紗紀の叔父が降りてくるのを目にして屋敷に入った。

 京太は調理場の横を通過して両開き扉を開け、ずんずんと東の廊下を進んだ。回廊の角を曲がって階段前に出ると、なぜか右手に悪寒が走り、小指からの脈動が腕を遡って鳥肌が立った。階段が気になるものの、屋敷に入れずに困るエリのことを考えて早足で離れてホールへ通り過ぎた。扉を開いて玄関に下りて木製ドアに耳をそばだてた。

 案の定、外ではエリが騒がしく声を上げてバンバンと叩く。急いで京太は左右の扉を引き開け、顔へ突っ込んだ箒の柄を避けてよろけた。突進したエリは前へ片足ずつ右、左、右、左と出して止まり、屋敷のホールへ目をやった。

 

「ねえ、未紗紀さんは?」

「え、俺が来た通用口の方へ来てませんけど」

「それじゃあ、彼女は今どこに…」

 

 エリは短い階段を上ってホールに進み、応接室がある西の廊下へ向いて顎を押さえ、反対側の広いサロン入り口に寄って右端の枠に手を掛けた。サロンは左奥に暖炉のマントルピースが目立ち、脚が細く湾曲する椅子に囲まれたテーブルの列が手前と奥でずらして配置されている。おしゃれな洋風カフェのような部屋は窓際のガラス扉を開ければ誰でもテラスへ出られた――未紗紀さんは玄関を開けられるから、あそこへは行かないんじゃないかな。

 

「あぁ、分かんないっ」

 

 解決しない疑問に両手で後ろ髪を押さえ付け、前髪に付いた葉がひらひらと落ちてくる。不満とともに彼女がパッと箒で横へ払った。時を同じくして階段を下りた男性がホールにやってきた。

 

「おー、今日は風が強いね~」

 

 小畑は短く刈り上げられた髪を撫で、玄関ドアを片側ずつ丁寧に閉じる京太を見やった。エリはいいところに来たと、小走りに彼の元へ向かった。

 

「小畑さん、未紗紀さん知らない?」

「ああ、一緒に社長の寝室にいたんだがね。部屋を飛び出して階段を下りて行ったんだ」

「部屋で何があったんですか」

「一瞬ね、電源が切れてバイタルの表示がすべてゼロになったのよ。彼女は心臓が止まったと勘違いしたみたい。すぐ元に戻ったんだけど」

 

 アロハシャツのお腹をまくり、ベージュの腹巻きから赤い十字マーク付きの白いタブレット端末が出される。小畑は医療ライセンスを持っていた。彼が口に人差し指を立て、未紗紀の父の健康状態を示す数値や波形をエリに見せた。機器でピピッと音が鳴った。彼女はギョッとした。

 

「社長っ、危ないんですか」

「こっちは叔父さんの呼び出しだね。うん、それじゃ」

 

 小畑は手をパーに広げて西の廊下を去っていった。ホールの中央でエリは息をつき、箒を抱いて腕を組んだ。玄関とホールの扉を閉めた京太が来て彼女の後ろでちょんちょんと指を出す。屋敷の北側に通じる扉を開けた小畑を指して何の話だったのかを聞いた。

 

「小畑でしたっけ。あの社長秘書と何を話してたんです」

「さっき屋敷で停電が起きたみたい」

「じゃ、未紗紀は停電に驚いたってんですか」

「心拍数が『0』になったの。彼女、お父さんが死んだと思ったんだわ」

「えっ。医療機器が止まって……」

「いいえ、すぐ戻って大丈夫よ。だから安心して」

 

 絶句する京太に首を横へ向け、エリは軽く表情を和らげた。小さいながらも二の腕を見せてドンと構える背中は戸惑う少年の動揺をたちどころに抑え、彼もホッと一息ついた。

 一旦落ち着きの戻ったホールでエリはお嬢様の予想外の行動に作戦を考え直した。病気の父を抱えて心細い未紗紀も玄関で頼れる兄と会えば惚れるだろうと考えたが、その彼女は屋敷で姿を暗ました。まず、朋己が来るまでに何としても探し出さなければ話にならない。いつになく神妙な顔をして肘をトントンと指で叩き、天井からの短い壁と壁際の柱で区切られた先に見える階段の手すりや上がり口、廊下の突き当たり、側面の壁や扉を見回した。

 

「階段を下りてどこへ行ったのかしら」

「そうそう、北側の玄関に未紗紀の叔父が来てましたよ」

「じゃあ、小畑さんが行った方へは行かないわ」

「外に出てないなら一階の部屋のどこかにいるんじゃないですか」

「そうしか考えられないわね。よし、調べましょう」

 

 結論に導かれたエリは颯爽と歩き出し、玄関から延びた絨毯をホールとその先とで分ける両端の柱を越えた。自信満々で左手に箒を振って右手に顎紐を握ってヘルメットを揺らした。彼女は階段の上がり口で振り返り、勢い余って通り過ぎた柱に近い壁の扉を見た。

 

「最初はあの客室……京太、何やってんのよ」

「あ、あれ。階段の下に…」

 

 ところが、京太は廊下に尻もちをついて口を開け、腕を上げて震えた指を必死に手すり下の壁へ伸ばす。彼には腰壁と上の部分の切れ目から白いモヤが立ち込めて見えた。それが目の前に迫って床に腰を落としたまま後ずさった。レンズが曇らず臭わない白煙は中学生の男子を怯えさせ、全身に冷や汗をかかせた。

 エリは気勢をそがれて腰に手を置いて仕方なく屈んで手を差し出した。掴んだ京太の手首が湿り気を帯び、言葉の続きにある危険を察した。いよいよ、二人にも緊張の瞬間が訪れた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

守ってくれる人

 屋敷玄関からホールを抜けた階段前の廊下は開口部が少なく曇り空の光が弱い。シャンデリアに照らされた京太は赤い絨毯に尻をついてわなわなと震えた。

 彼の異変に気づいたエリは警戒した。何も見えない空中へ向けて穂先を水平にゆーっくりと箒を動かす。引っ掛かりはなく、また彼へ目を向けた。顔の方向、二階から下りてきた手すりの下に壁が広がり、いつの間にか壁に絵が掛けられ、怪しいと睨んだ彼女はその前に立った。

 エリは瞼を閉じて見えない敵に耳を澄ました。そして、息遣いがする階段下の腰壁を蹴った。

 

ゴトッ、バッターーン

 

 木の模様がずれて手前に倒れ、階段下に設けられた部屋から廊下に明かるさが届いた。窓が付いた狭い空間に未紗紀は座っていた。白い壁の下に両膝と床へ伸びる短い靴下が覗き、奥の少女は立ち上がった。折り目が付く紺のスカートとふくらはぎの横っ面が晒されても、エリは壁の向こうをすぐに覗こうとはせず、指先でヘルメットを回して挑発的な態度をとった。

 

「お嬢様ったら、中学生になってもかくれんぼが趣味なんだぁ」

 

 その物言いで京太の前に白さがモクモクと天井まで広がった。階段すら見えなくなった状況で彼は泡を食って力なく手足を動かした。突如として口を塞がれ、緊張がピークに達すると目に溜めた涙に黒い線が揺れた。直後に「しっ」と声がして京太は我に返った。エリが箒を持つ左手で人差し指を立て、右手は京太の口を押さえる。彼女は片膝を立ててしゃがみ、彼だけに見える霞がかった先へ顔を向けてじっと見つめた。

 急に廊下が静まり返り、未紗紀は不安を胸に腰を屈めて狭い入り口から這い出た。姿を目にしたエリは立ち上がって鼻を鳴らす。顔を赤らめた少女は重たい口を開いた。

 

「そうよ、隠れなきゃ。お父様が死んだら、あいつから狙われる……」

「警戒して叔父さんに会わなかったの」

「ええ、アカウントも消してやった。お父様にも近づけさせない。セキュリティシステムの管理を勉強して屋敷に入れないようにした。入ったら十秒以内に出ないと警報が鳴って警察を呼ぶ設定にしたんだから」

「ふーん。身内なのに信用してないんだ」

「当然だわ、彼はお父様の遺産を欲しがっているのよ!」

 

 心の奥に溜まった叔父への強い憎しみが吐き出された。彼女が襟元のフリルからバーッと右手を広げ、途端に京太は首をすくめた。未紗紀の体から発する白い気体が憎悪感情を拡散させるように見えた。それとは逆に、まだ物足りないと考えたエリはヘルメットで下から上へ煽って意地の悪い顔をした。

 

「けど叔父さんが何かしたってわけ?」

「……あいつは自分が社長の座に就くために宮町建設から父を追い出したの」

「それで会長になったんなら、お金持ってんじゃない」

「ふふっ、笑っちゃう。今や叔父の会社は倒産寸前。だからだから…」

 

 下を向いた未紗紀は肩を震わせて今にも泣きだすかの様子だった。待ってましたと、エリはほくそ笑んだ。ゆっくりと側に近寄ってそっと彼女の肩に手を掛け、大きい瞳が捉えた悲しげな表情へ口調を一変させて優しく切り出した。

 

「でも、あなたを守ってくれる人がいるわ」

「うぇっ。ほんとに誰が、わたしを守って…くれると言うの」

「それはすぐに分かるから、ねっ」

 

 エリは首を傾けてニッコリと笑い、未紗紀の潤んだ目には少しずつ輝きが戻った。これで屋敷に来た朋己に彼女が頼るための下準備が完了した。

 

バァーン!!

 

 屋敷の正面玄関が勢い良く開く音。エリはメッセージを読んだ朋己が到着したと確信し、未紗紀の背中に手をまわして「行きましょう」と連れ出した。不思議と階段前を厚く覆っていた白いモヤモヤが晴れ、京太は立ち上がって彼女たちの跡を追った。

 

 

 ホールに来た二人へ扉が両方開いたドアからヒューッと風が吹いた。玄関に十人前後の黒いスーツを着た男性がたむろし、ホールにダブルスーツの男が一人だけ立った。サロンの入り口横でエリが頬を押さえた。

 

「えぇー、お兄ちゃんじゃな~~い」

「なぜ叔父様が…」

 

 未紗紀はたじろいだ。彼らが屋敷の正面玄関に入れた上、叔父がホールに上がっても設定したアラームは鳴らなかった。呆気に取られるエリの背後に彼女が隠れるようにまわった。すると、玄関に控える男の一人が数段をひょいっと上がり、手に持つメカニカルスイッチのキーボードを掲げて威張った。

 

「どうだ、管理トークンを全部付けたアカウントを作ってやったぜ。システムを再起動したから、もう屋敷は会長のモノって訳だ」

「あ、あいつはタバコ臭い調理師ですよ」

 

 京太がホールに来てエリの横で止まり、前に立つ痩せた男の顔へ指差した。調理師と分かって未紗紀は悔しそうに親指の爪を噛んだ。万全だったはずのセキュリティは屋敷の使用人によってハッキングされ、侵入させてはいけない叔父に入り込まれた。

 勝ち誇った叔父が余裕の笑みを浮かべた。スーツに二列並んだボタンを外し、内側から折り畳まれた紙を出して広げた。

 

「この相続放棄の書類に名前を書いてもらおうか」

「だ、誰がそんなことしますか」

「うぉら、こっちは手ぶらで来てるわけじゃないんだぞ」

 

 叔父は歯向かった未紗紀へ素の顔を見せて凄んだ。後ろの玄関では男達が手にした得物を構えたり、振ったりして威嚇した。窮地に追い込まれた彼女はエリの言葉を信じ、思いきって前の背中にしがみついた。

 それまで呆然としていたエリは体が揺れて初めて攻撃的な集団に目をやり、ようやく自分が最前列に立って危険が迫る事態を把握した。逃げ道を探って首を右へ左へ。けれど、後ろで懸命に押す未紗紀の小さい手が少女の思い出を呼び覚ました。怖い人を見れば兄の背中に隠れた過去。朋己に「エリが彼女を守ってあげる番だ」と言われたような気がし、前を向いて強い風を巻き起こす箒の柄を固く握った。

 エリはくるっと振り返り、右手からヘルメットを彼女の頭に載っけた。一歩下がって男達へ背を向けて穂の付け根を掴んだ左手を高く上げた。彼らは一斉に笑った。

 

「あーっはっはっは。なんのマネだそりゃ」

「それは……こうよっ!!」

 

 右膝を高く上げて左腕を後ろに引いた。右足を斜めにタンと出して手を横からグイーっと回し、大きく前傾した姿勢からサロンの暖炉へストレートが投げられた。京太は慌てて両腕で顔を覆って目をつぶる。エリは未紗紀の肩を抱いて壁へ向き、一緒にしゃがんで頭を下げた。

 暖炉に突っ込んだ箒の先端は灰を斜めへ吹き飛ばし、玄関の男性達に向かって強烈なシャワーを浴びせた。咳き込んだ後ろの連中と違い、前の二人は顔や喉を押さえて床に転がった。

 

「逃げるわよ。ついてきて!」

 

 エリはホールに舞う大量の灰に腕を振り、未紗紀の手を握って薄く明るいサロンの入り口へ飛び込む。整然と置かれた椅子やテーブルを器用にくねくねと避けながら窓際にたどり着き、ガラス扉の一枚を開けてテラスに出た。追ってきた京太は窓に手を掛け、段差を下りた先に広がる庭へ叫んだ。

 

「エリさん、どこ行くんですかー」

 

 彼の声は奥にある林へ吸収され、かわりに遠くからサイレンの音が聞こえた。エリは階段の途中で芝生へジャンプし、両膝を揃えて見事に着地。未紗紀は足を引っ掛けて前へこけた。

 屋敷の門は緊急車両の通行のために自動で開き、三人は入ってくるパトカーへ顔を向けた。赤い回転灯の波が建物の正面に向かい、エリも玄関へ走った。庭に下りた京太の横でヘルメットがずり落ちた。ふらりと未紗紀が立ち上がり、屋敷の角に生えた高い木に向かって歩き出した。彼女は体が隠れるほどの幹に手をつき、警官の姿を見て膝が内側に曲がってへたり込んだ。

 未紗紀は父の容態を気にしつつも、叔父に対する一切の憂いが消えた。安堵した彼女からは白く泡のように蒸気が天へ向かって立ち昇っていく。京太は目の当たりにして身を震わせた。黒く曇った上空高く、一つの影が人知れずヒュッと飛び去った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

風と共に去った姉妹

 屋敷の正面は『美里警察署』の文字が入る警察車両でごった返し、開けっ放しの門から頻繁に車が出入りした。男性警官が手錠をかけられた男達を一人ずつ二名で挟んで車寄せの段を下り、玄関先で女性警官数名が笑顔を振りまくエリのオーバーな話に目を細めた。

 拾ったヘルメットを手にした京太はコンクリートの端を上がり、行き交う警官を前に辺りを見回した。どこにも未紗紀はおらず、アーチの中に賑やかな集まりが見えた。スロープを上って手を振る女性警官達と擦れ違い、屋根の下に来て玄関側の壁にもたれた。話す相手が仕事に戻ったエリはぐったりした彼へ視線を動かした。

 

「どうしたのよ。ユーレイでも見たのかしら」

「ええ、いっぱい。もうたくさんです」

「それって宇宙人の親戚でしょ、満足したんじゃないの」

「全然違います。宇宙人はアメリカでは国籍を――」

 

 緊張から解放された京太がUFO関連の持論を語り始め、エリは無視して誰か来ないかと額に手をかざした。ちょうど、止まった車から白髪の男性が降りた。制服姿の胸に金色のバッジが光り、周りの警官に道を譲られて威風堂々と歩き、車寄せの前に来て制帽へ手を上げて敬礼した。

 

「Chinatsu Fans No.0007、只今参りました。これはちーさまのお孫様、可愛らしい」

「へぇっ。ちーさま?」

「桂木…いえ、今は黒田千夏様ですな」

「あ、京太のか」

「ちーさまのご希望通りに手の空いた署員を急行させました。では、これで失礼致します」

 

 男性は仰々しく回れ右をして戻っていき、ぽかんとするエリの背後でひがむ少年の声がした。

 

「どーせ、中学生なのに変な趣味ですよ。俺なんか相手にされないしさ」

「何言ってんの、おばあさんは凄いじゃない。こんなに警察が集まって…さっきのは署長かな」

 

 振り返ったエリは京太の祖母・千夏を褒めた。千夏が孫のために依頼しただけで、レンガ屋敷に警官が大量に投入された。相当の権力があるに違いないと考えていた。だが、不思議な現象の話をしたい彼は嬉しくなく、面倒くさそうに彼女の話に付き合った。

 

「ばあちゃんはしがない芸能事務所の社長です」

「え、そうなんだ」

「金のことになると細かいし、ケチだし」

「へー。だけどお金って怖いわ。やっぱ、お兄ちゃんの恋人は普通の人でいいや」

「へいへい、宮町家のご令嬢はもう諦めるんですね」

 

 京太がパタパタと手で顔をあおぎ、エリは「じゃ、帰りましょ」と屋敷へ歩き出した。応接間で刑事に事情を聞かれる未紗紀に挨拶して帰るつもりだった。

 ブォーというけたたましく門から向かってくる音。二人が振り向くと猛スピードのバイクが車寄せへ真っ直ぐ来た。段の手前ギリギリで白地に青ラインのテールカウルを見せて止まり、ヘルメットを脱いだ彩香が気疲れした顔を向けた。サイドスタンドを立ててヘルメットを上に置き、矢も盾もたまらずエリの元へ駆け寄った。ゴンッと後ろで音がしても気にすることなく、両手を伸ばして彼女を腕ごと抱きしめた。

 

「何ともないよね、エリ―。大丈夫、怪我はない?」

「え、うん、全然」

「ダメじゃな~い。こんなとこに来て危険なことしちゃ」

「違うよ。ここのお嬢様が……」

「そうだ、お腹すいてるでしょ。お昼食べてないみたいだし、朝だって寝ちゃってて」

「う、うん」

 

 汗臭い首筋に顔をうずめ、エリは記憶の片隅をつつく感触に言葉が出なくなった。自分のことを心配する女性にくるまれた心地よさは何物にも代え難く、この屋敷に朋己を呼んだのすら忘れさせた。彼女は兄が来ずに呆然とした玄関の一歩外で兄と似た温もりを感じて寄りかかった。彩香が腕をまわして背中をさすり、エリの黒髪は風になびいて揺れた。

 彩香はスーツのスカートだけデニムに履き替えていた。おかしな恰好をした叔母を眺め、京太は頭の後ろに手を置いて家族によくある光景……と、エリがまた長い髪に変わっているのに目を奪われた。呼吸を整えて興奮を抑え、音を立てず足を出し、なだらかな肩へそーっと手を伸ばした。

 

ガーーッ、ドンッ!!

 

 警察官がいる中を物凄い勢いで軽トラが突き切り、バイクを前に反転して止まった。運転席から降りた美雪は金バッジの男性へ頭を下げた。ビシッと敬礼が返され、全員がアスファルトのタイヤ痕を見て見ぬふりをした。ずかずかと京太の元へ歩いてきた。その形相に彼は目を見張った。

 

「か、母さん……がはっ」

 

 シャツの胸ぐらを掴まれて息を呑み、すでに身長が超えた母の前で小さくなった。一転、美雪は表情を和らげて面長な顔を横へ向けた。

 

「悪かったわね、彩香」

「あ、お姉ちゃん。ううん、この子が誘ったのよ」

「色々あるし、きつく言っとくから」

「そ、そう。じゃあ、私たちはもう帰るけど」

「分かったわ。後は任せてちょうだい」

 

 直線に揃った前髪の下でキッと目がつり上がり、京太は「待って」と手をバタバタさせた。姉の親子関係に苦笑しながら彩香はエリの肩を抱いて一緒に階段を下りる。一番下で腰を曲げて落ちたヘルメットを拾い上げ、彼女の顔を見上げた。

 

「オープンフェイスのやつかぶって来てるよね、エリ」

「あっ、ちょっと待ってて」

 

 エリは振り返って段上へ跳ね、京太の垂れた手から自分のヘルメットをもぎ取った。横へ向いて美雪にペコリ。一瞬の微笑みを引き出し、すぐにアーチをくぐった。最後の段で踏ん張ってリアのシートへ足を掛け、バイクに跨った彩香の腰にしがみついた。顎紐を締めた彼女に前のフルフェイスが軽く傾いた。

 

「シールドが取れてるし、苦しかったら背中に顔付けていいから」

「うん、オッケー」

「じゃあ、私たちの家へ帰りましょう」

 

 彩香はクラッチを握って発進させ、膝を強く締めてバランスをとった。少しずつ速度を上げて彼女たちのバイクは硬い路面を安定して走り出した。坂道を下る後ろでエリは薄手のスーツジャケットをきゅっと掴んだ。ひんやりとした風が吹き抜ける山道に入って彼女は温かい背中にすぐ顔を押し付け、二人はカーブで同じ方向に体を傾けて帰っていった。

 

 

 一方、薄暗い車寄せに残された親子の間では厳しい追及が始まり、美雪は仁王立ちで腕組みして京太を睨みつけた。

 

「いたずらメッセージで騒ぎになったって、お義母さんから聞いたわ」

「それは……。悪かったですよー」

 

 京太は不貞腐れて母から目を背けた。エリの考えとはいえ、自分がしたことを認めて曲がりなりにも反省してみせた。だからといって、パートを早退した地味なパンツ姿の美雪は手を緩めようとしなかった。

 

「裕太のサッカーボールを捨てにいったのもあんたでしょ」

「え、違う違う。あれはエリさんが蹴ったはず」

「何しらばっくれてんのよ。お向かいの人が裏の田んぼで拾ったの持ってきてくれたんだから」

「え、そんなとこまで。うっそー」

「まったく、あんな大人しい子を連れ回して危険な目に遭わせて」

 

 美雪は頭ごなしに普段から反抗的な息子を悪者にし、完全にエリのことを誤解した。それから一時間近く説教を食らい、京太は徒労感を覚えた。加えて、彼には自転車二台を軽トラの荷台に積んで縛る作業が待っていた。

 警察が来てから数時間経ち、屋敷はほとんどのパトカーが引き上げて警備をする警官のみが残った。軽トラは北側の駐車場に移動した。京太は軽トラの荷台に自転車を固定し終えて降り、後ろへまわってフックにアクリルロープを引っ掛けて固く結んだ。彼が手首で額を拭って息をつくと、玄関の透明なガラス扉を開けた未紗紀が階段を下りて近寄った。

 

「あの、京太さん。これをエリさんにお渡し下さい」

「な、なんですかっ」

 

 白いワンピースに着替えた彼女に京太の腰が引ける。しかし、箒の柄を前方へ出され、彼はすんなりと受け取った。今の未紗紀は怪しい雰囲気どころか凛とした表情で振る舞いが堂々として見えた。

 

「ああ、どうも。あっ、どうして俺の名前を」

「セキュリティシステムの登録をチェックしましたから」

「なーんだ。バレちゃいましたか」

「はい、それで私のメッセージの宛先なんですけど」

 

 未紗紀は背中に隠した反対の腕を前へ、手のひらに載る折り畳み端末を差し出すと頬を赤くして俯いた。京太が胸から端末をひょいと近づけ、彼女へチラリと目を向けた。恥ずかしそうにする女の子に気分を良くし、彼は調子に乗ってからかった。

 

「でも俺なんかに教えちゃっていいのぉ」

「いえ、是非ともエリさんにお伝え下さるように!!」

「あ、そーですよね。ハハハ」

 

 真面目な顔でエリの名を口する未紗紀がお辞儀をして振り返った。京太は端末の画面で頭を掻いて苦笑いし、荷台の横にもたれて去っていく彼女を名残惜しく見つめた。

 どんよりした空の下、強くなってきた風が屋敷を囲んだ木々の葉を揺らす。少女がすっと伸びた背中に緩いカールの髪を弾ませ、毅然と看板が立つ玄関へ向かった。父の病気が気がかりなことに変わりはないが、守ってくれたエリに想いを寄せる新しい自分がいた。未紗紀はこれから会社を継ぐ覚悟でアンティーク家具や語学の勉強をすると心に決めた。彼女のように自ら道を突き進む女性になりたいと思うのであった。

 




―― 次章予告 ――

桂木家では騒がしい姉妹の声が響き、ちはるは海に行くと言った。朋己が来てエリは喜び、波打ち際で男女が楽しそうにはしゃぐ。京太の手伝いで宿題が進み、夏休みも終わりに… ⇒FLAG+10へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+10 ガールズ・ネクスト・ステップ
騒がしいテーブル


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは夏休みに彩香の甥・京太とお嬢様を兄の恋人にしようと山間の屋敷へ行った。
未紗紀の家族が病床の父一人で心細いと知り、兄・朋己を頼らせようと考えた。屋敷の裏門で遊びながら朋己を呼ぼうと画策するが、彼への「助けに来て」というメッセージは誤って彩香へ送られた。
屋敷では叔父を恐れて未紗紀が階段下に隠れた。涙を見せる彼女にエリは守ってくれる人の存在をほのめかし、ドアが開く音に朋己が来たと思ってホールへ向かった。ところが、玄関に宮町家の財産を狙う叔父達が居た。呆然とするエリだが未紗紀を守るために箒をサロンの暖炉へ投げ、彼らに強烈な灰のシャワーを浴びせた。
エリたちは外へ逃げ出して警察が来た。安堵した未紗紀からは白い蒸気が天へ立ち昇っていく。
彩香が心配してバイクで駆けつけ、後部シートでエリは温かい背中に顔を押し付けて帰った。



 コンクリートの塀で囲まれた道路を京太は緩やかに歩いて下った。左への路地が見える桂木家の角は切り取られたかのように斜めへ木の柵が立つ。カフェのシャッターが日光を反射し、目にして額を手で拭った。店先から家の敷地に足を踏み入れて高木の下へ行き、木陰でTシャツの前をバサバサと湿った外気を体に当てた。台風一過の週末はムシムシした晴れ。気軽に自宅を出た彼は引かない汗に幻滅し、雑草が生えた庭から玄関へ向かった。

 靴を脱いで廊下をぬらぬらと進んでリビングの戸を引いた。乾燥した涼しい空気が気持ち良く、鼻から大きく息を吸い込んだ。一息ついて見渡した部屋は右にテレビが点き、左のダイニングからエリの視線が向けられた。

 テレビは法律相談の番組が流れ、不倫でできた子の養育費に関する質問にスーツを着た弁護士が答えた。エリはテーブルに片肘をついて大きな瞳で結論にうんと頷く。京太はズボンのポケットからROMカードを出した。画面へ夢中な少女の奥で対面キッチンの端に、女性が深い鍋に菜箸を軽く一回し。うなじで金髪をまとめた彼女は火を止めて顔を上げた。

 

「あら京太、こんな時間にどうしたのよ」

「はい、これ持ってきたんです」

「ん、良く見えないわ。何なのそれ」

 

 ちはるがカウンター越しに目を細くした。後ろから水が流れる音とともにバタバタと彩香が入ってくる。「まーた来たの」と笑顔を向けるが、彼が指につまんだものを見て顔色を変えた。

 

「もしかしてそれ、宿題の答えをコピーしたやつとか」

「え、問題のコピーですよ。叔母さんの頃と違って答案はメディアに書き出せないんですから」

「でもエリに持ってきたんでしょ」

「うん、問題を忘れたって。公立校の宿題はライセンス一括購入で中身が同じだし」

「怪しいわね~。ちょっと、こっちに見せて」

 

 彩香はラベルのない黒いカードを手に取って何度も目に近づけた。疑い深い叔母を残して京太がテーブルへ向かうと、ちはるが運んだそうめんの器を両手から下ろした。椅子が引かれてすでにエリはいない。キッチンの奥で手を伸ばし、食器棚からつゆを入れる容器を出していた。

 京太は椅子の背に手を掛け、彩香のいる入り口へゆっくりと首を振った。ちはるも二人の様子に目を配り、ふーっと息をついて囁いた。

 

「どうやら、彩香とエリは冷戦中みたいね」

「エリさんが何かしたんですか」

「あなたたち学校の裏山に行って騒動を起こしたでしょう。聞いたわ」

「だけど、叔母さんは迎えに来て笑ってましたよ」

「違うわよ。その前の夜、お兄さんから電話があったのにってエリが怒っているの」

「あ、そうだったんですね」

「それはそうと食べてないでしょ。京太の分、用意してあげる」

「あっ、今日は…」

 

 何かを言おうとした京太は素早く目を左右へ動かす。両脇に二人が同時にやってきた。ちはるは振り返ってパタパタと奥へ向かい、しゃがんで対面キッチンに姿が隠れた。

 エリは五個も重ねられた小さい容器をドンとテーブルに置き、京太の前に引かれた椅子へお尻を飛び乗せた。彩香はテーブルの端にカードをそっと置いて彼の後ろを通過した。顔を背けたエリの反対側から席に着き、腕を組んで目を閉じて押し黙った。

 京太は知らぬ存ぜぬでテーブルの横にまわり、端に両手を掛けて腰を落とした。エリの顔を見上げてカードを指先で突いた。

 

「宿題はこの中ですが、未紗紀のメッセージの宛先はどうしますか」

「知らない。お兄ちゃんに送っといてよ」

「そーですか。あ、あの箒ですけど調べました」

「あっそ」

「柄の真ん中辺りに穴があって突っついたら掃いた時に物が飛ぶ勢いが変わったんです。父さんに見せてダイヤルを付けてもらいました。危険だからってビニール紐で縛って最小威力にして」

 

 リビングへ向いたエリは話を聞いているのか分からない。京太は立ち上がって向かい合う椅子に座った。汗が引いた背中にも愛嬌のない顔を見せられては重い空気が肩にのしかかった。テーブルに容器が点々と置かれ、ちはるが再び両手にそうめんを持ってきて眉をひそめた。

 

「ちょっと彩香、お茶くらい入れたらどうなの」

「えぁっ、は、はい」

「ついでにつゆも出してちょうだい」

 

 彼女に言われて目を開けた彩香は慌てて冷蔵庫へ行った。ペットボトルを二つ持って戻り、腰を下ろしてコップがないのに気づく。椅子をガタガタさせて立ち上がった。

 食器がばらばらに卓上に並べられ、四人はそれぞれ手を合わせて食べ始める。エリが置かれた容器を握ってテレビへ顔を向け、彩香が持った容器を口につけて麺の固まりを頬張った。協力しようとしない二人のせいで昼食の時刻が大幅に遅れ、ちはるは静まったテーブルにため息をついて箸を休めた。

 

「あんた達、いい加減にしなさい」

「ぷえぼでぶねー」

「彩香、口にものを入れてしゃべらない!」

「うぁい、でもですねー。エリだって悪いんですよー」

「わたし悪くないもん」

 

 自分の責任にされたエリは完全にリビングへ体を向けて唇を尖らせた。小さい背中から非難を浴び、彩香は箸を掴んで真っ白なTシャツへ首をひん曲げた。

 

「勝手に怒って寝たんだからしょうがないじゃない」

「寝てないよ~だ。勉強してたんだから」

「あー、嘘だー。京太くんに問題を持ってきてもらったくせに」

「こ、答え合わせだから、問題も一筋縄じゃないんだし」

 

 振り返ったエリは勢い良く両手を広げて嘘を誤魔化し、彩香の仏頂面に向けて話を変えた。

 

「大体、家族からの電話だったら替わってくれるでしょうがっ」

「替わってくれって言われなかったのよ」

「ウソだー。お兄ちゃんはそんなこと言わないし」

 

 二人の言い争いはいつか見た姉妹げんかだった。上からの目線へエリは突っかかる。同じように鳴沢の実家で姉を相手に怒っていたのは他ならぬ彩香だ。本物さながらの妹を加えてダイニングに家庭の喧騒が戻った。ちはるはだんまりを決め込んで食事を続けた。

 隣では背中を丸めた京太が大人しく麺をすすった。ちはるは孫のような彼にも微笑んだ。

 

「昼を食べずに来るなんて、エリも気に入られたわね」

「あっ、そうじゃなくて……」

「あ、そうだ。もっと前に来たら良かったのに」

「はぁ?」

「エリの生着替えが見れたのよ。彩香が昨日そのまま寝たでしょって」

「がはっ。ごほ、ごほっ」

 

 京太が飲み込みかけたものを容器に吐き戻し、「大丈夫?」と彼の背中をさすった。ちはるの満足した感情を抑えた声には笑いが漏れた。さりげなく目を上げた京太は横を向くエリの胸から飛び込んだ膨らみに顔を赤くした。

 

ピンポーン、ピンポーン

 

 インターホンが鳴って京太がこれ幸いと玄関へ走り、部屋の戸をそのままに出ていった。玄関のドアが開けられる音が聞こえてから少しの間静かになり、女性の挨拶がリビングの壁を回り込んでダイニングに届いた。ちはるは顔を上げてガバッと立ち上がった。優しい物腰の話し声が彼女の目を輝かせ、体を廊下へと向かわせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

姉へ向ける顔

 新舞島駅の南側に広がった住宅街。桂木家の前は国道に繋がる道路が走り、電線が埋まって白線が引かれる。真夏の昼下がりに『わ』から始まるナンバーの三列シート車が家の門を塞いだ。

 玄関先にスリッパで出て京太は指差した。お団子をふわりとさせた頭の女性がスロープを上ってきた。ドアの開く半径内にたどり着き、祖母の志穂は出迎えた孫に向けて目の周りにできたシワと一緒にニッコリと笑いかけた。

 

「こんにちはー、京太。元気そうね」

「桂木のばあちゃんが…なんで」

「まあ、ダメでしょ。スリッパを外まで履いてきちゃ」

「え、はい。これでいい?」

「ああ払わないと。もう、しょうがない子」

 

 彼女はホールに上がって頭を掻く京太にたるみかけの頬を緩めた。ひさしの下から玄関に入り、部屋の前に立つ女性に気づいた。ちはるが手を後ろにまわして外の会話が途切れるのをじっと待っていた。日頃はきっちりと閉める戸を開けたまま、自分の方を向いた志穂に顔を綻ばせて手を差し出した。

 

「こんにちは。駅から暑かったでしょ、さあ入って」

「こんにちは、ちはるさん。お久しぶり」

 

 二人は目を合わせて微笑んだ。ちはるは思いがけない来訪の志穂を歓迎し、一年足らず前に会った義姉にもかかわらず何を話そうかとうずうずした。耳の横で軽くウエーブした彼女の髪を見てまとめた自分の髪を弱く引っ張った。

 ちはるにリビングの入り口脇で手招きされ、志穂は慌てて何も持ってない両手を上げた。

 

「あ、でもここでいいの。本当に…」

「遠慮しないでよ、中は涼しくしてあるんだから」

「ほら、ねえ……」

 

 胸の前に手を合わせてウインクした。彼女はボーダーシャツにチノパンと普段よりカジュアルな服装をしていた。首をかしげたちはるに耳障りな声が聞こえた。

 

「上がったらいいじゃない。この家って玄関も暑いしさ」

 

 髪の短い女性は直角に曲がるスロープでなく、カーポートを斜めに横切った。駐車場から玄関へよく通った低い声が響く。志穂の後方から千夏が現れ、穴の空いたジーンズで階段を上がってポーチに足を上げた。

 家の中から小さく見えた姿が大きくなり、ちはるは表情を強張らせ、本物の姉へ半身に構えて腕を組んで口を尖らした。

 

「私のバイクに傷を付けてないでしょうね」

「今日は一つも指輪してないわ」

「年寄りは手すりを持ってスロープから上がってきなさいよ」

「陰になってるし、近いんだから断然こっちじゃない」

「じゃあ、お帰りもそちらでどうぞ」

 

 二十近く離れた姉に冷たく言い放ち、手の甲を見せて振った。疎ましい肉親へは容赦なく嫌味を浴びせた。そんな心無い対応にも千夏はどこ吹く風。Tシャツの襟に指を入れて首を振り、カーキジャケットの袖をたくし上げた。顔に向けて手をパタパタして孫の元へ近寄った。

 

「さあ京太、鰻を食べに行くわよ」

「ばあちゃん、その、実はそうめん食べてるんだけど」

「はぁ、仕方ないわね。ちゃんと断らないと」

 

 振っていた手を京太に向けた。ぷっくりとした頬をふいと、ちはるへ向いてニヤリとした。

 

「どーせ、ただ茹でただけの代物なんだからさ」

「ちょっと、失礼じゃないの」

「あら、事実でしょ。他はカレーとうどんしか作れないとか」

「うるさいっ。パスタも作れるわよ!!」

 

 ちはるは顔を上気させて馬鹿にした姉に詰め寄り、タンクトップから覗く丸い肩を怒らせた。対する千夏は上着のポケットに手を突っ込んで胸を張った。結婚生活の長さだけでなく、身長が高く体格的に妹なんぞ恐れるに足りないと迎え撃つ。険悪な姉妹の間は見えない火花が散り、狭い玄関でケンカが開始されようとした。側にいた志穂は壁の手すりを掴んで運動靴のかかとに指を掛け、ボーっとする孫に叫んだ。

 

「京太、何してんの。早く止めなさい!」

 

 とっさに京太はちはるの片腕を取った。だが簡単にはねのけられ、勢い余って廊下に飛び出た角で背中を打った。志穂は靴を後ろへ放り脱ぎ、反動でホールに上がって飛びついてハグをした。

 

「ストップ、ちはるちゃん。さあ落ち着いてちょうだいね」

「あっ…。う、うん」

 

 懐かしい匂いを嗅いでちはるは怒りが収まり、子供のように頷いて首元へ顔を寄せて余韻に浸った。騒ぎを聞きつけたエリが箸とガラスの器を手にしてリビングの戸口に姿を見せる。ホッとした志穂は知らない少女が目に入り、手を振って話を逸らした。

 

「あら、かわいらしい。誰かな~」

「エリっていうの。今、彩香が面倒見ているのよ」

「こんにちは、エリちゃん」

 

 ちはるの肩で微笑んだ女性へ、エリは箸をくわえてペコっと頭を下げた。むっつりと壁を向いた千夏へ上目をチラリ。すぐダイニングへ入っていった。志穂はぶかぶかのTシャツを着る女の子を小学生だと思った。とにかく彼女の出現によって玄関に沈黙が訪れ、ちはるを冷静にさせる貴重な間ができた。

 京太は腰をさすってリビングに入って戸を閉めた。がらんとした室内にエリが一人テーブルで食事をし、箸を置いて黒いボトルを手に取った。麺をつゆに浸した彼女は容器を持って彼へ顔を向けた。

 

「京太はウナギ食べに行かないの」

「はい。じいちゃんばあちゃんのお供なんか兄貴たちで十分」

「じゃあ、聞いていい?」

「どうぞどうぞ」

 

 大人しく座るエリの横へ向かった京太は胸を叩いた。放っておけないというのもあるし、やっといつもの対応をしてくれて嬉しくなった。彼女は警察に顔が利く黒田家の祖母に興味があった。

 

「レンガ屋敷に警察を呼んだ千夏さんはどっちなの」

「いかつい方。若い頃ガールズユニットでギターを弾いてたらしいです」

「そうか、署長は熱狂的なファンなんだ」

「まあ、アイドルは5年で引退宣言して結婚したんですけど」

「それだけ人気ばっばぼべ」

 

 納得したエリが喋りながら口を動かし、京太はさっき同じことをした彩香がいないのに気がついた。

 

「あれ、叔母さんはどこ行ったんですか」

 

 無言でツンツンと箸が対面キッチンへ指された。隠れるようにして背を屈めてそうめんをすする彩香が目に入った。祖母たちを前に委縮する姿は珍しくなかった。それよりも京太は屋敷で見た不思議な現象の話を聞いてもらえると、テーブルを回って正面で勢い良く椅子を引いた。

 玄関では姉妹のバトルが再燃し、けんか腰な声が壁の向こうのダイニングにまで聞こえた。

 

「何さ、親の七光りでアイドルやってたくせに!」

「うっさいわねー。おんなじ道路ぐるぐる回ってるよりマシでしょっ」

「まあまあ、義姉さんも落ち着いて下さい」

 

 彼女たちの間で右往左往する志穂は玄関口から外を覗き、車内の後部座席で待つ家族を思って気を揉んだ。口の悪い二人は互いに譲らず、いたずらに時間を消費していがみ合いは続けられた。

 

 

 キッチンで彩香が腰をトントンと叩いた。ひっそりと一人で食べ終わり、容器はすぐ隣の流しに置かれた。ダイニングで手を合わせたエリが容器を重ねて持ってくる。トンっと置いて目も合わせず、テレビへと一直線に離れていった。彩香は固く口を結んで残った汁を流し、ゴシゴシと汚れの少ないガラス表面をこすった。

 

「フンッ。こんなとこ居たら飯がまずくなる。行くわよ、志穂」

 

 千夏の捨て台詞が聞こえると玄関は静かになり、ばねが柔らかく弾んでドアが閉じた。ちはるがリビングに入って戸をピシャリと閉め、不満な表情を浮かべた。

 

「あぁ~、もう。なんで姉さんまで来るの」

「へへ、母さん帰ったんですね」

 

 布巾を手に彩香はテーブルへ戻った。清々とした顔つきが目に入り、ちはるは眉をひそめた。

 

「親に挨拶もしないで、どういう了見なの」

「だってぇ。前の見合いの人が会いたがってるってメールがいっぱい来るんだもん」

「良かったじゃない…って、そうじゃないでしょ」

 

 両手を上げてイヤイヤと首を横へ振る様子に、ちはるは顔を押さえて大きくため息をついた。玄関でのヒートアップに彼女の背中は汗でじっとりとした。後ろからザバーンッと涼しい水音が耳に届いた。テレビにプールのCMが流れ、彼女はリビングの画面へ振り返った。

 

「そうよ。鰻なんかより夏は海水浴だわ」

「どうしたの、いきなり」

 

 ソファーの背もたれからエリが顔を出した。驚いた少女へ顔を向け、ちはるは微笑んだ。

 

「来週は海に行きましょう、エリ」

「え、わたし泳げない…」

「教えてあげるわ。志穂さん直伝の泳ぎをねっ!」

 

 片目をパチッとつぶってみせた。戸がある方の壁へ向いてこぶしを握り、模様のない白い壁紙に鼻で笑った。玄関を意識した彼女の目には姉の大きな背中が映っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浜辺の思惑

「夏風邪はこじらすと厄介ね。それじゃ、お大事に」

 

 受話器を置いた彩香は振り返り、ソファーに並ぶ兄妹へ首を振った。ヨレてないモスグリーンのTシャツを着て新しい水着も用意した。ちはるの提案した海水浴に行く日。出かける間際に姉からかかってきた電話で甥の不参加が伝えられた。

 

「京太って、ぜんぜん体力ないのよ」

 

 病気と知った妹が肩をすくめ、遊び友達との仲良さげな話しぶりに朋己は目を細める。少ない夏休みが始まってすぐ彼女から連絡を受けた。天文部の合宿前に買い出しする予定が、彩香と海に行くと聞いて顔を出した。彼は一度好きになったものに対してこだわる性格であり、慌ただしく必要な物をリュックに詰めて駆けつけた。

 朋己の参加は別の効果をもたらし、彩香は有り難く思った。彼が来ることが分かってエリとの張り詰めた関係が一気に沈静化した。ちょうど天気も曇りが続いて過ごしやすく、ただ砂の上で子供たちを見ていれば良いイベントに心が軽かった。

 

バンッ

 

 玄関を開けたラフなジーンズ姿。ちはるが自動車の暗号チップに付けた紐を振り回した。

 

「何やってんの、もう行くわよ~」

「はーい」

 

 エリが肩にバッグを引っ下げ、朋己もリュックを背負って後ろを付いてリビングを出た。玄関で妹は真新しいビーチサンダルの鼻緒に足を引っ掛けた。彼が買ってあげたものでなく、見たこともなかった。ピンクの細い裾から出たくるぶしに目をやり、兄は吐息をついた。

 最後に来た彩香はむくんだ足をサンダルに突っ込み、カーゴカプリのほこりを払った。ポーチに出て手提げ鞄にスマホを押し込む。家を施錠した音をくぐもらせてコンクリートの段々を下りた。

 カーポートでエリは兄へ手を振った。車に乗って後部シートの前を中腰で奥へ歩き、横を空けるため荷物を抱いて腰掛けた。開いたドアの外で話し声がしてバックドアが上がり、彩香のガハハという笑いとスペースに物を置く音がした。手ぶらの朋己を見てエリが「そっか」とバッグを両手で頭の後ろへ放り投げた。

 彩香が助手席に乗り、光沢あるブルーのボディが跳ね上がった門扉をくぐった。左右からの飛び出しに目を光らせ、ちはるはハンドルを右へ切った。ラゲッジの隅で小さい箱が滑り、二人の間にあるシフトレバーを倒すと車は静かに走り出した。

 

「今度のやつもミッションなんですね、ちはるさん」

「ざんねん、ATよ。指で押すよりレバーの方が慣れているから特注したの」

「じゃ、後ろのリフトもオプションですか」

「ええ。まあ……」

 

 前の二人が少し話をする間に、緩やかな坂を上り切って道は平らになり、徐々に斜度が増す下りが待っていた。ちはるの視線はEV側のランプが点灯したパネルへ向けられ、アクセルペダル上でつま先から力が抜かれた。海に突き出した島を見下ろした景色へまばたきを数回した。

 

「五位堂のオーナーを乗せることもあるし」

「マダムも車いすでしたっけ。年齢の割に元気だから無理を言って大変ですねー」

「そうね。確か、母さんよりもいくつか年上だわ」

「でもサーキットの半分以上が五位堂家の土地なんて凄いですよね」

「こっちは共同運営さまさまよ。スクールの宣伝材料だしさ」

 

 ちはるはブレーキを踏み、前車の後輪が見える位置で止まった。顔を傾けてイタズラな微笑みを浮かべ、助手席で彩香が口を開けて笑った。坂の下で信号は青から赤に切り替わった。

 

「ちはるさんはバイク学校の校長なんだよ」

 

 後ろではエリがシートに体を伸ばして朋己に顔を向けた。キャラクターのTシャツを着た妹は自家用車でのお出かけを楽しみ、初めて座る兄は緊張して小さくなった。後部座席からは嬉々とした声だけが前に聞こえ、ちはるは後ろへ頭を反らせた。

 

「朋己くん、バイクに興味ないかしら」

「はぁ…」

「うちに来たら十日で免許とれるわ。来年辺り、どう?」

「それいいよ、お兄ちゃん」

 

 隣でエリが喜び、妹の表情に朋己は少し笑ってみせる。ちはるはバックミラーに目を細めた。

 

「彩香も来た時はそんなだったわ。でもすぐに慣れたのよ、体重も増えて」

「ちょっと何言うんですかー」

「あら、褒めてるつもりなんだけど。ふふふ」

 

 すぐに唇を尖らせる彩香に車内で失笑が漏れた。青色になった信号で四人を乗せた車は左折して車線の流れに従った。舞島市と愛美市を繋ぐ国道858号。車線をはみ出して大型トレーラーが追い抜いていき、ちはるは平然と見送った。市の中心部を離れるとメンテナンスが行き届かず、速度検知システムは不定期に故障した。海を眺める道路はたびたび危険な高速レーンとなった。

 

 

 30分走って国道にショッピングセンターの看板が見え、市街地近くで普通車が増えた。ちはるの車は愛美市西端の商業地域に向かわず市道に入って真っすぐ海を目指した。雑草が生えた畑の間を通り、突き当たりを折れて坂を上がると堤防に出た。堤防沿いの右手に海が広がり、エリが指差して朋己の前に身を乗り出した。海岸線の先は崖が迫って狭い入り江となっていた。

 海岸は堤防の入り口から車のまま下りられ、砂利を敷き詰めた駐車場が設けられた。細いロープが区切る十数台分の枠が向かい合い、ちはるは堤防を背に車を停めた。その側にはコンクリートブロックの更衣室が砂浜に面した。

 バッグを持ったエリが朋己と別れて元気良く最初に女子更衣室へ入っていった。そして、最初に出てきたのも彼女だった。背中へ顔をひねってお尻をふんわり覆ったスカートの裾をつまんだ。朋己が出てくるのを待つエリは考えた――まず、初めて買った水着が似合っていると褒めてもらわなきゃ。それから、お兄ちゃんと渚を歩いて波を追いかけて――とシンプルな計画を。飾りのないワンピースは遊ぶために動きやすい。それでも授業用の半袖短パン型と違って肩を出し、腰の周りをゆったりと囲んだひだの広がりに可愛らしさを求めた。

 

「ふふっ、バッチリ。後は……」

 

 エリは浜辺へ目をやり、ビーチボールを投げ合う女性達を見つめた。それとなく朋己のタイプを聞き出すという目的も忘れてなかった。海を楽しみながら兄の恋人探しと両にらみ。鋭い目つきを見せつつ、彼女の口元は緩んで薄く笑った。そこへ男子更衣室から子供が出てきた。こぶしを握ってニヤつく女子を見上げ、指をくわえてそーっと立ち去った。

 待ちくたびれたエリがかかとで足元を掘った。しばらくして後ろから肩を叩かれて振り返ると、赤いビキニのちはるが筋肉を程よく保ったプロポーションを見せた。上げた髪はほぼ水泳帽に収められ、顔がやる気満々だった。

 

「エリ、今日はじっくり教えてあげる」

「あ、あはは。後でいいかな~」

 

 エリは愛想笑いを浮かべて静かにつま先を後ろへ退いた。自分で掘った穴にはまり、ふらっと体が沈む。途端に腕が引っ張られ、ちはるの胸元へ引き寄せられた。目の前で三角に膨らんだものがぶら下がっていた。

 

「へぇっ。こ、これは?」

「見たことないかしら、この浮き輪。ほら、細長い穴があるでしょ」

「はぁ、それをどうして持ってるの」

「それはこうして使うためよ」

 

 ちはるは掴んだ三角形の中心にエリの手を突っ込んだ。グッ、ググーッと肩まで差し入れ、彼女が反対へ伸ばした手も体ごと引き寄せた。元レーサーの腕力は半端なかった。

 

「まずは基本のバタ足からやりましょう」

「え~っ。おにーちゃーん」

「朋己くんにも後で自慢しよう。そう、手の動きはいい感じね」

 

 顔の下でバタバタする少女にゴーグルをかぶせ、ちはるは脇にがっちり抱えて歩き出した。エリは更衣室に顔を向けたまま、砂浜を足が後ろへ歩かされた。叫びも虚しくバシャバシャと浅瀬に入り、だんだんと深くなって腰まで浸かり、水面に胸を浮かせて曇り空を眺めた。彼女が選んだ水着は腕を回して泳ぐのにうってつけだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

兄が妹のする事に…

 愛美市の西端に位置する『愛美西海岸』は海水浴に地元の人が集った。雲が判別できない灰色の空に気温が下がり、週末は子どもを連れた一行が目立つ。舞島市から車でやってきた四人。ちはるに沖へ連れて行かれたエリは両手を持たれて水中でバタ足の練習をした。その頃、残りの二人は心の準備に時間がかかっていた。

 

ガチャリ

 

 更衣室の扉が同時に開いた。左側から出てきた朋己がすぐ驚いた顔を見せた。右側からの彩香は周りを見渡すように首を振り、側にいた彼に気づいて肩をビクッとさせた。

 

「あっ、朋己くん。着替えまだだったの」

「は、はい。ちょっと……」

 

 朋己は言いにくそうにした。彼の背中には大きなタオルが引っ掛けられ、彩香はパーカーで上を隠して膝までのパレオが巻かれた。二人のしじまが伝播し合い、より自信の無い彼女が岩場の方へ離れた。彼は賑わう沖を眺めたが、目が悪くぼんやりとしか見えない。人の少ない奥に行った灰色の上着をとことこと追いかけた。

 波しぶきの音を邪魔する声が聞こえない場所で彼女たちは砂の上に腰を下ろした。彩香は長袖で隠された二の腕をさすり、朋己へ少しだけ顔を向けた。

 

「どうしたの。エリはちはるさんに泳ぎを教わってるはずよ」

「いや、それが…。占いで水に入らない方がいいって」

「ふーん。それは都合がいいお告げね」

 

 彩香は膝を抱えて水平線の先へ目をやった。完全防備でたたずんだ浜辺に涼しさを感じた。

 

「ここって昔から穴場なの。それに今日は日差しがなくて良かったわ」

「それじゃあ、ここはよく来るんですね」

「ううん、中学生以来。実は私も泳げないのよねー」

「あっ、同じ、エリとそれは」

 

 朋己の慌てた様子を見て彩香は微笑んだ。少年ぽっさを残す顔をした彼が隣でじっと自分の話を聞いているのは海にそぐわないような気がした。

 

「泳いできたら、タオル持っててあげるわ」

「その、これは……」

「女の子はね、はっきりした男の子が好きなのよ」

「え、そうなんですか」

「ええ、誰だってそうなんだから」

 

 顔の横で人差し指を斜めに振った。顎を上へ向けて鼻で笑い、お姉さん風を吹かす。目だけ彼へ向けると、俯いて決心のつかない姿が目に入った。また、二の腕をさすった。彼女は目をつぶって大きく息を吐き、朋己へと顔を向けた。

 

「じゃあ、私も上脱ぐから。そのかわりタオル取りなさい」

「え、あ、あの」

「もぉ、女を先に脱がせるつもりなの」

 

 少年をからかいつつ、膝を押さえてゆっくりと腰を上げた。朋己は目をパチパチさせ、コクリと頷いて立ち上がった。さっとタオルを取り払った背中の下辺りには大きなやけどの跡があった。

 

「なっ」

 

 頭を抱えた彩香は左右の髪を掻き上げた両手をだらりと下ろした。砂浜でのんびり過ごそうとして何もせず垂らす横髪がパサっと頬に掛かり、緩みきった顔が潜んで呆然とした。手のひら大に広がった紫色の部分を見つめ、無理やり立たせたことに罪悪感を覚えた。岩々が壁を作る静かな場所で波音が大きく響いた。彼女は手で口を押さえて小さい瞳を真ん中に寄せ、打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。

 

「朋己くん、せ、背中のそそそ……」

「あ、これですか。大分経ってるし痛みはないんですよ」

「そうなんだ、知らなかった」

「あまり他人に見せたくなくて。けど、彩香さんなら構わないかな」

「ごめん悪かったわ。絶対、他人に言わないからっ」

 

 彩香は手をパンッと合わせて頭を下げた。少し経って頭を上げるとニコニコした表情。こうして朋己が鷹揚に構えるところに、エリが兄としての頼りがいを感じるのだろうかと彼の顔を眺めた。

 ん?――朋己が腕をさすって何かを待っている仕草に気づき、彩香はパーカーを脱ぐ約束を思い出した。体よく泳ぎに行かせる考えだったが、気が変わった。彼のやけど跡に比べたら、気になる腕の二本や三本見せてやろうと思えた。わざわざ他の水着から取ってきたパレオがへその上から太腿まで広くガードし、一番見せたくない腹はどうせ隠れるとも思っていた。

 ファスナーを下までガーッと引っ張って袖から腕を抜き、もう片方を抜いて砂上に落ちた。パーカーの下はあざが多い肌にオレンジ色が鮮やかだった。ホルターネックのビキニがぷよぷよした肉を締めて谷間を作る。彩香は恥ずかしそうに手をこすり合わせ、意識して腕を抱えた。

 

「あ、じろじろ見ないで似合ってないし」

「ゴクッ。そ、そんな素敵です」

「そう、派手じゃないかしら。あの子が勝手に購入を押しちゃってね」

「すいません、エリはそういうイタズラをよくするんです」

「別に謝らなくても。私が迷ってたから代わりに決めてくれただけだしさ」

「そうか、こんな事してたんだ。エリの奴……」

 

 たちまち朋己が体を背け、彩香は背中を丸めて妹想いの彼に微笑んだ。しかし、腰の痛々しさが目に入った。妹のした事に兄が頭を掻くのだと思うと、彼女は容姿ばかり気にして汲々とする自分が情けなくなった。朋己はエリをかばって社会の風雪に耐えてきた。施設に入るまで二人は母親と小さいアパートに住んでいた。シングルマザーが世間を騒がす事件も多い昨今、『虐待』の二文字が頭に浮かんだ。

 彩香の目に海岸の楽しそうな家族が遠く映った。彼女は白昼に傷痕を晒したまま座っているのに我慢できなくなった。涙を指先で拭い取り、彼に近寄って両肩をガシッと掴んだ。

 

「朋己くん、せっかく来たんだから一緒に泳ごうよ!」

「えっ。それは『二人で』ですか」

 

 目を見開いた少年の手を取って彩香は引っ張った。そうして波が打ち寄せる方へ顔を向け、さらさらの砂を踏みしめて歩く足に力を込めた。脂肪の乗った腕を振って先を行く。今の彼女には恥も外聞もなかった。

 朋己は嬉しそうな顔をして浜辺にへこんだ跡をたどった。結んだ髪の束が肩から背中にかけて大きく開いた水着に揺れ、彩香の白い肌では太陽の色をした紐が水平にびよーんと伸びた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

妹がした事は兄に…

 海水浴場は湾曲した砂浜が数百メートルしかなく、両端に岩礁がちらほら見られた。彩香は岩に手を掛けて立ち尽くし、すっきりしない空と同様にもやもやして漂う水面を眺めた。彼女は深みで溺れてから水が怖かった。泳げないことを話したのすらも忘れ、朋己を連れてきてしまったと水着が食い込む首筋をさすった。

 

「今日はち、ちょっと水が冷たいかな。アハハッ」

「あの、お気持ちだけで十分ですが」

 

 物分かりの良い朋己の声に、彩香は自分への怒りを抑えて大人として意地を張った。海風に口をゆがませて彼に振り返った。

 

「ふぁーに、浅いとこなら全然大丈夫よ」

 

 顔を戻さず片目をつぶって足を前へ差し出した。打ち寄せる波の間隔は穏やかで彩香の恐怖心を和らげた。勇気を持って足の裏を水にポチャンと浸け、子供が走り回る場所に立った。胸を撫で下ろすと、どっしりと育った両脚は頼もしく、波の方から勝手に避けていく。彼女は思わずニヤリとした。そろりと腰を屈め、後ろへ水を振り撒いた。

 

「えいっ。冷たいでしょ、朋己くん」

「うわ、やめて下さーい」

「ほらほら、こっちに来て捕まえてごらん」

 

 彩香が調子に乗ってパレオの裾を濡らして後ずさり、過ぎ去りし高校生の頃に戻った気分で年下の男子を誘った。朋己は顔の前で両手を盾にしてゆっくりと追いかけた。飛び散る水滴を体で浴びながら足を摺らせ、笑顔でキャッキャッと手を振る彼女に引き寄せられた。オレンジ色のブラに白い胸元がまぶしい。柔肌に届くのではないかと手を伸ばし、ひらりと半身でかわされてやや悔しそうに笑った。彼らはまるで二人だけが海辺にいるかのように戯れた。

 駐車場を正面に望む沖ではエリが海面に顔を浸け、ちはるの前で両手を揃えて両脚をバタバタさせた。すぐ苦しくなって水底の砂利に足を着けた。首を傾けて耳をトントン、水が抜けてぼわっとした耳に兄の声がかすかに聞こえる。浮き輪で動かしにくい両肩と体をひねり、ゴーグルの狭い視界から遠くの楽しげな朋己が目に留まった。

 たまらずエリは足元の小岩に指を掛けて浜辺へターン。思いっきり水を蹴り、腕を横から振り回した。ちはるは水しぶきを上げるバタ足に「その調子よ」と手を叩いた。だが、沖から遠く浜へ離れていき、慌てて大きく手を振った。

 

「エーリー、どーこ行くの~。戻ーって…………あれ?」

 

 エリが向かう方角へ目を向け、波打ち際でポニーテールを揺らす女性が映った。以前に彩香と来た時は祖母が生きていた頃。海に入った彼女のはしゃいだ様子は遠い記憶のことだった。ちはるは半信半疑で腕を下ろした。

 海水に膝まで浸した彩香は横へ後ろへと体を動かし続け、ぜえぜえと息を切らした。隙を狙って朋己が近寄り、とうとう片腕を捕まえられた。

 

「はぁ~、疲れたわ。もう上がりましょう」

「そうしま……」

「え、どうかしたの」

「その、それって重くないですか」

 

 彼の指先で透けたパレオが水分を吸って白い肌に張り付いた。ただ忘れただけでたとえ取ったとしても、もはや恥じらいはなかった。それでも、少年と夢中になって遊んだ事実を素直に認める彩香ではなかった。見栄っ張りな彼女は大きな岩の横を砂浜へ歩きながら朋己に講釈した。

 

「こういうのは取らないのがオシャレなのよ。ふふふっ」

 

 彩香はポカンとする彼へ満足げな表情で軽く手を上げた。その瞬間、乳酸の溜まった軸足がふらつき、上げた方の足が布に引っ張られた。太腿の外側が角の削れた岩にガンッとぶつかり、濡れた砂の上に尻をついた。

 

「ぐわーーっ。ふ、太もももががーー」

「こ、こういう時はあまり動かさずにですね。落ち着いて、落ち着いて」

「姉さま、大丈夫?」

 

 海から上がったエリが横から彩香を覗き込んだ。体を倒した彼女の側で朋己は取り乱して膝をついた。白目をむく頭へ波が打ち寄せては引き、赤くなった顔に横髪が張り付く。エリはゴーグルを取ってびしょびしょの頭をブンブンと振り、肩の上で水分を飛ばして髪を軽くした。ひょいと跨いで彩香と岩の間に体を入れて屈んだ。さっと腰から布を取り払い、色が変わった大腿部に顎を押さえた。患部から視線を上げ、言葉を失う兄を見て腰を伸ばした。

 

「ちーはーるーさ~~ん」

 

 エリは浜を向かってきた女性へ叫び、あらわになった腹と脚を飛び越えていった。ビキニからの肢体に朋己の目が泳ぎ、彩香は痛む腿を手で押さえて二人が来るまで体をぷるぷると震わせた。

 結局、それで家に帰ることになった。太腿は紫に腫れていたが、ちはるの助けを借りて自分で歩けた。彩香は着替えを済ませて車までたどり着き、エリと代わって後ろに乗り込んだ。氷を買いにコンビニへ寄り、ビニール袋に入れて打った箇所を冷やした。ゴムを取って胸の前に垂らした彼女の髪には湿り気が残り、海水にまみれた惨事の香りを車内に漂わせた。

 車は国道を舞島市に入り、助手席でエリはうとうとと首を前後に揺らした。ちはるはハンドルの下を軽く握り、先の長い道路を眺めて微笑んだ。

 

「彩香が海に入って遊ぶなんて珍しいわね」

「まあ色々あって…」

「なら、動きにくいんだからパレオを取れば良かったのに」

「そ、そんなことしたら朋己くんが目のやり場に困るじゃないですか」

 

 裾をまくり上げた太腿に氷の袋を押さえ、彩香がチラッと横を見た。朋己の目は窓の外へ向いていた。ちはるは後部座席の静けさに口元を緩めた。

 

「ふーん。案外見たかったりして」

「高校生なんだし、からかっちゃ悪いですよ」

「へー、そうかしら」

「それより、ここの打ち身ってどれくらいで治るものなんですか」

「そうね。今度、彼氏と海に行くまでには綺麗になってるわ」

「え~、それっていつですかー」

 

 彩香は前のシートに手を掛けて身を乗り出した。体を揺さぶられたエリは一瞬、目を覚ます。反響したちはるの笑い声が耳に入り、少女は再び目を閉じた。トラブルに見舞われた帰り道は何となくのどかな雰囲気に包まれた。

 

 

 住宅街に陽が沈み、朋己は裏の出入り口に下りる階段の上で屈んだ。火を点けたろうそくを欠けたコップへ傾けてじっと待ち、垂れたろうに底を付けて立ててそのまま段差に腰掛けた。

 花火のパックを握ったエリが彼の近くにバケツを置いてしゃがみ込んだ。早めに帰ってくることになった穴埋めに途中で夕食の弁当と一緒に買ってきた。彼女は細長い花火を二、三本束ねてろうそくで点火し、後ろに下がって夜空へ向ける。四方八方へ噴射する火の粉に、朋己は珍しく口調を厳しくした。

 

「火は危険だって言ってるだろ、エリ」

「ほーい、これでいい」

「なあ、頼むから止めてよ。もう入院は勘弁なんだ」

 

 腰をさすった朋己は妹の花火が原因でやけどを負った頃を思い返した。彼らは舞島市北部の施設に入って山や谷に囲まれて暮らした。石がごろごろした河原でよく遊んだけれど、砂浜に座るのは初めてだった。当然、女性とも。エリの後ろへ顔を上げると、カーテンの隙間からはソファーの肘掛けにもたれる彩香の姿が見えた。

 エリは火が消えた棒をバケツへ投げ入れ、袋に手を突っ込んで新しい花火を鷲掴みして兄へ向いた。

 

「わたしがやった事、まだ怒ってるの」

「イタズラは良くないよ。けど、あの水着はなかなか良かったなぁ」

「え、何のこと?」

「えっ。あ、今日は月が綺麗だね」

 

 妹に悟られないように朋己が空を見上げ、雲がかかる月へ笑みを浮かべた。長い髪をたなびかせる人影から振られた取っ手の大きい杖に導かれ、数ヶ月前に彩香が暮らす海に近い街に来た。彼は胸をときめかす人と会わせてくれた神のお告げに感謝していた。

 兄の横顔を不思議そうにエリは見つめた。彼が気に入る女子を探して連れてくる作戦はなかなか進まない。明るさが宿る朋己の表情に、彼女は「必ず見つける」と決意を新たにした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

めぐる少女への想い

 ようやく夏の猛暑が落ち着きを見せ、吹く風が八角形の建屋より高い庭木の枝を揺らした。入り口の脇に停まった自転車もすっかり日陰に覆われた。アプローチを挟んだカフェの前を近所の子供達は走り、周りに誰も存在しないかのごとく通り過ぎた。

 路地へ向くカフェの屋根に一人の女が仰向けに寝転んでいた。真下の店内では棚と天井の狭い間にアンテナが置かれ、無線通信で耳の前に引っ掛けたイヤホンへ振動が伝わった。午後からずっとそこに居た。黒いロングカーデの彼女は片膝を立てて両手を枕に気だるく上空を眺め、盗聴するエリたちの会話に顔をしかめた。

 

「はぁ、何もかも忘れてるわ。駆け魂が見えるように想起魔法をかけとかないと…」

 

 彼女は上体を起こして頬横の髪に手を入れた。プラスチックのフレームを耳から外して首に掛けると、足の下で戸がガラーッと開いた音がし、出てきた薄い頭頂部がカフェに沿って動いた。

 その男性は軽トラのドアを開け、四角い道具箱を携えて運転席に乗り込んだ。ウッドフェンスの側へ斜めに突っ込んだ車体が後ろへの警告音を鳴らしてバックした。フロントガラス越しの温和な表情を追ってエリが京太とカフェを出た。Tシャツとハーフパンツに店内履きサンダルで道路際まで行き、大きく手を振って車が離れていくのを見送った。

 

「グッジョブ、おじいさん。これでシャッターが直ったわ」

「じいちゃんは器用なんです。それに普通の扉なら上のとこに余裕で届きますし」

「ふーん。京太の家族ってみんな背が高いんだ」

 

 カフェの修復を喜ぶエリの背後で京太は聞いてもらおうと手の甲をさすった。超常現象の話は飽きられたと分かっているが、今日は宿題を手伝いに来たとの思いが再び口に出させた。

 

「で、未紗紀から出た白いモヤっとした気体ですけど」

「ハイハイ、それは湯気よ。汗かいてたんでしょ、彩香さんが帰ってきたら扉のガラスが曇るのと同じ原理ね」

 

 エリは振り返ってとっととカフェの入り口に向かう。日陰に入った少女の頭上へ、落雷のような閃光が走った。ほんの一瞬の出来事でエリの体に変化はなかった。何事もなく二人は店内に入り、鼻であしらわれた京太が乱暴に戸を閉める音が響いた。屋根の上では女が右手に持つ長い得物が振り下ろされていた。内側に弧を描く鎌状の刃先に魔法を放った余波が揺らめく。姿形が人間と同じ彼女は冥界から来た『悪魔』であり、この世界の人に干渉することなど本来ないが、エリの場合は違った。

 女は上着のポケットに左手を入れてスマホの機能も備える端末を出した。今はこれ一つで用事が済む時代。人間社会に入り込んだ仲間によって開発され、魔学校の頃に幾つも抱えたボードはもう必要なくなった。スケジュールを表示させ、丸っこい文字に「また山奥か」とつぶやいた。胸元に覗く紫のインナーに膨らみは薄く、前でがっちりと腕組みをした。

 

「二ヶ月後に戻って来れるかしら。とりあえず、端末の注文が先かな」

 

 依頼のメッセージを用意し、送信マップで鳴沢駅近くのビルへ指を擦らせた。用心深い彼女は送信の完了を確認し、端末を仕舞おうとした矢先にピピッと音が鳴った。数年来着る毛羽立った袖をまくり、手首で腕時計のデジタル表示が赤く点滅した。

 

「ゆっくりしてらんないわ。飛行機が出ちゃう」

 

 彼女は舞島市を少し離れた町に住み処があるものの、専ら海外へ出かけた。僻地を中心に『駆け魂』と呼ばれる冥界から抜け出した霊魂の回収任務を担う。所属する部署は人手が足りず、現地に行けば駆けずりまわされる日々。優雅なファーストクラスでの往復は彼女にとってささやかな楽しみだ。永らく人と暮らす中で角が取れてラクすることが身に付いた。元々頭が良く、乗り継ぎの便も含めてフライトの時間を全部暗記していた。

 顔を上げて右へ左へ体を向けた。フレアスカートを翻して現れた膝を軽く曲げて跳ねる。空中に浮いた体はどんどんスピードが増して高々と上がり、頂点に至って反転した。黒い衣服を風になびかせ、太陽を背に飛んでいった。

 

 

 リビングの彩香は西日が射し込む窓へ顔をやり、草むしりを怠る庭を見つめた。明るい桂木家の一階はテレビが点く壁際からダイニングの奥へひっそりとした時が流れる。対面キッチンの水切りかごにお茶碗とみそ汁のお椀が一人分並んだ。

 海に行ってから日が経ち、脚の痛みは引いて跡もそれほど目立たなくなった。長かった夏休みも終わりが来た。この日、彩香は有休を取った。普段通りの生活にもエリが施設へ帰るため、いつもより夕食を早く作り、彼女には早めにとらせた。メインは野菜炒めだが、豚こまをしっかり多めに入れた。配偶者もなく、正社員でもなく、月給は乏しく、ほっとする部分も正直あった。

 エリはソファーで取引時間の終わった経済指標に難しい顔を見せ、彩香は画面の隅で繰り上がる数字を見て壁の時計へ視線を上げた。少女が出発する時間が迫った。

 

「宿題もちゃんと終わったよね。荷物は全部入れた?」

「うん、オッケー」

「じゃあ、門の外まで送るわ」

 

 立ち上がったエリがバッグを肩に掛け、彩香は先にリビングから廊下へ出た。玄関に下りてサンダルを履き、ドアを開けて振り返った。彼女が框に座ってスニーカーの紐を結び直す時間が短く感じられ、顔を上げた少女の笑顔につられて微笑んだ。

 

「明日から寂しくなるわ。だけど、エリのこと忘れないからね」

「え、姉さまもう忘れたの。カフェのメニューをちゃんと考えてよ」

「あっ、そうだったわね。でも運転資金がいるんだから…」

「わかってるって!」

 

 エリは彩香の脇からポーチへ飛び出した。両手を広げて体を回転させ、大きな瞳を輝かせた。

 

「あ、見送りはいいよ。きっとすぐ来るから」

「そう、じゃあ、私もバイクでエリに会いに行くわ」

「それじゃ、またね~」

 

 玄関先でスロープを駆けていくエリに手を振りながら、彩香は反射的に出た自分の言葉に口元を緩めた。クリーニングから戻ってきたセーラー服の背中を見せる少女。後ろ襟まで伸びた髪の長さがこの家で過ごした時間を物語った。

 フェンス越しに覗いたエリの姿がふっと消えた。彼女は門を出て駅のバス停へと向かった。思い返すと最初に話しかけたのもバス停だった。偶然の出会いに生活を共にし、いなくなった寂しさが募った。玄関ドアを閉じようと取っ手を握り、家から突き出す建物へ目が向く。兄のため再開させに来る妹を、掃除されたカフェが首を長くして待っているかに思わせた――早くてもエリが舞島学園に入学してからしか無理よね。たぶん、夏休みにまた……となると一年近くか。

 彩香は手を離して下駄箱の下に放置された道具箱に振り返った。一歩足を踏み出し、腕を伸ばして引っ掴んだ手に駐車場の階段へ駆けた。カーポートの屋根から外れた奥で掛けたままのカバーを取り、汚れた布切れでチェーンに指を入れて磨き出した。襟のよれたTシャツとハーフパンツでコンクリートに尻を着けて額に汗をかいた笑顔に、住宅街の木々から後を追うようにミンミンゼミの大合唱が始まった。

 




―― 次章予告 ――

奨学金の審査結果にエリは慌てふためく。桂木家に相談に来て彩香の母・志穂と会い、京太から隠し子と偽って家族になった人の話を聞いた。彼の端末を借りて登録された女性に… ⇒FLAG+11へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+11 Ride Traditional See-Saw
コーヒーを淹れる日々



【挿絵表示】

―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは三十歳独身の彩香と夏休みに共同生活を送り、八月も中旬を迎えようとした。
ちはるが姉妹のように口げんかをする彩香とエリに目を細める中、姉・千夏がやってきた。玄関でいがみ合う二人。彼女に鰻を食べると聞き、ちはるは対抗して海へ行くと言い出した。
翌週の愛美西海岸には朋己も来ることになり、喜ぶエリだが、泳ぎを教える気満々のちはるに沖へ連れていかれた。朋己は浜辺で彩香と腰を下ろし、海に入って一緒にはしゃぐ。帰ってからエリは微笑む兄の横顔を不思議そうに眺めた。
カフェではシャッターが治り、エリは再開に自信を深める。その頭上で彼女を監視していた悪魔が飛び去り、長い夏休みも終わりを告げた。
笑顔で施設へ帰るエリに「会いに行く」と見送り、彩香は早速バイクを布切れで磨き出した。



 新舞島駅の通りからミニバンが日の落ちた住宅街へ曲がった。見通しがいい道路で30km制限を守って左側に寄り、路地際に立つ電柱が照らす光の波を何本も通過した。ドライバーは家に近づくとセンターディスプレイの黄色いランプへ眼を動かし、ブレーキペダルを踏んだ。さらに速度が落ちた車が跳ね上がりの最高になった門扉の前を越えて止まり、後ろを向いてハンドルを回した。

 ちはるは駐車場に停めた車から降り、荷物を片手に提げて颯爽と家に入った。リビングの戸を引いて鼻を上に向け、ダイニングから漂う香りを吸い込んだ。

 

「ただいま。コーヒー淹れたのね、久しぶりだわ」

「おかえりなさい。ちはるさん、残業だったんですか」

 

 座る彩香の前に飲み口が少し広くなったカップが置かれていた。テーブルはすでに夕食の皿が取り除かれ、奥で隙間が空いたカフェへの扉から明かりが漏れる。彼女が細い取っ手に指をかけて持ち上げた。ちはるはソファーの端に鞄を下ろし、両肩から剥ぎ取るように上着を脱いだ。

 

「いいえ、マンションに着替えを取りに戻ったの」

「え、土曜なんかありましたっけ」

「志穂さんが来るから午前中に掃除しなきゃ」

「へぶっ……母さんまた来るんですか」

「ついでだけどね。みちほがまた休んでるらしいから」

「ああ、そっちは大問題だわ」

 

 卓上の布巾で吹き出した液体を拭きながら彩香は顔を横へ向けた。ちはるがネクタイを緩めて彼女に近寄り、白い器の内側にできた濃く透き通った輪を見て顔が綻んだ。

 

「血は争えないものね。やっぱりカフェのマスターが合ってるのかしら」

「こんなの大したことないですよ。大体、お店は客が来ないと」

「だったら、エリみたいな可愛いウェイトレスを雇ったら繁盛するんじゃない」

「そうですね。バイト代として何を要求されるか分かりませんけど」

 

 ちはるの言葉に吐息をついた彩香はテーブルをささっと片付け、カップを残してキッチンへ立ち上がった。

 

「ご飯用意します。まだ食べてないんですよね」

 

 彩香が食器棚の扉を開けてパタパタと動き、対面キッチンのつり戸棚と腰壁の間に見えた。壁の棚からコップを出したちはるは自分の席へ回り、椅子の背に手をかけて「お願いするわ」と彼女を見つめた。以前と変わりなく冷蔵庫とコンロを行き来する姿に目を細めて腰掛けた。

 テーブル上に食器を並べ終えて彩香はお茶のペットボトルを置き、ちはるの正面にドカッと座った。今日の献立もハンバーグ。夕食は二日連続で大きい皿に油の汁が広がった。

 

「これで最後なんで協力して下さい。焦げた小さいのなんかは残ってるんですが…」

「ほんと、計算が苦手なのね。わいわいロードの肉屋が大助かりだわ」

 

 ちはるは箸を親指に挟んで手を合わせ、頭を掻く彩香に微笑んだ。二人の食事に戻ったテーブルはリビング側の半分に広がりを保ちつつも、LED電灯が部屋全体を明るく包んでいた。

 みそ汁が溢れそうなお椀に口をつけ、ちはるが静かな方へチラッと目をやって口を開いた。

 

「彩香、言ってたレンチも持ってきたわよ」

「あ、すいません。なぜか、セットって必要なやつがなくなるんですよね」

「ケースにちゃんと入れないからでしょ」

「ははは。まぁ、これでプラグ交換もできるし」

「明日、時間があったら手伝ってあげる。けど分かってるの、電気系統とか」

「新しい250では初めて。でも昔取ったナントカですよ」

「はぁ~、国語の先生の娘がこれじゃ…志穂さんもがっかりね」

「そ、そんなことより旦那さん、このまま土曜日が常勤になるんですか」

「うっ、うん、まあね。どーやら朝勤に固定されそう――」

 

 ダイニングの二人は雑談で社会の不満に花を咲かせる。リビングの隅でセキュリティ機能付きの機器がパカパカと赤く点滅した。前の家主が設置した電話は登録していない公衆回線からの着呼に対して音が鳴らない。この家の電気製品は古いものが多かった。不器用な今の住人にはアナログな機械がお似合いだった。

 

 明くる日の午後、外は晴れて残暑が厳しく太陽が照りつけた。リビングではちはるが腰に片手を当て、反対側に掃除機を持ってホースを真っすぐソファーの下へ伸ばす。午前中に済ませた掃除を念入りに繰り返した。

 階段をトントンと彩香が下りて戸を引いた。休日の顔にファンデが塗られ、部屋の外でジャケットに手を入れて立った。ちはるは肘掛けを回ってソファーの後ろへ、前を向いて驚いた。

 

「えっ。あんた、バイクの整備するんじゃなかったの」

「帰ってきてから始めようかと…思って」

「そうなの、行ってきなさいよ。志穂さんと会いたくないんでしょ」

 

 キッチンへ首を振り、背中で結んだ外ハネの束が跳ね返った。あからさまに面白くない表情を浮かべられ、彩香は頬をさすった。汗ばむ手のひらで触れたが、遠出に使う落ちにくい化粧品は簡単に崩れなかった。手の込んだ顔へジロッと、ちはるの視線が刺さって廊下で腕を抱えた。こうなると叔母の熱が冷めるのに時間がかかった。

 

バンバンバン、バンッ!!

 

 突如として玄関ドアが叩かれ、ゆっくりと彩香は振り返った。庭の雑草を踏む音が聞こえては離れていった。また、別の戸を開く音がした。タタタッとカフェの中を誰かが走ってきた。まさかと思いながら、リビングに出した足を二歩、三歩と進めた。

 キッチンの壁で扉が開き、Tシャツとジーンズのエリが現れた。裾を折り曲げた足を振って靴を脱ぎ、白い靴下でバタバタと駆けてきた。テーブルに来た彼女は困った瞳を向けた。

 

「ねーさま、わたし落ちちゃったよー」

「はぁ?」

 

 彩香は両方のこぶしを握った少女に首をかしげた。けれど切迫した彼女の様子を目にし、自分のつまらない用事を思い出して開手を打った。これを利用しようと思いついた。

 

「それじゃあ、今から一緒に行こう……」

 

 そっとエリに近寄った彩香だったが、後ろからちはるが肩を掴んで部屋の中央で止められた。

 

「今からカフェでコーヒー淹れて話を聞いてあげなさい」

「えっ、私これから出かけるんで…」

「淹、れ、て、あ、げ、な、さ、いっ!」

 

 紅潮した顔が横に近づく。渋々、彩香はジャケットの袖を引っ張った。それを脱いで椅子の背に掛け、エリの肩を抱いて歩き出した。舞い戻った少女に、仕方がないという想いと面倒を見てやるかという気持ちを半々にカフェへと入った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カフェで憂いのさじ加減

 桂木家にあって陽当たりの良いカフェ。八角形の屋根だけでなく、カウンターの方にも日差しがきつく照りつけた。一方で、ひさしが覆ってガラス戸から入り込むのをかなり緩和していた。

 シャッターを上げて照明も明るいカウンターでエリは真ん中の席に座った。彼女の頭につけられたピンクのアクセサリー。以前に自分があげたヘアピンを目に入れ、内側で彩香がIH調理器からコーヒーポットを持ち上げて作業台に移動した。挽かれた粉が入った紙フィルターの上へ注ぎ口を傾けて小さく回す。しゅんとした少女へ冗談めかして問いかけた。

 

「突然、ぴょーんと飛んできた理由は何なのかな~」

「昨日の夜、電話したけど繋がんなかった」

「あー、あの電話どこか触らないと鳴らないのよね。で、どうしたの」

「……ぅん、奨学金もらえないんだって」

「白鳥育英会かぁ。どうしてかな…学校の成績が悪いとか」

「わたし、テストで80点以下取ったことないのに」

 

 エリが悔しそうに見上げた。彩香はあまり勉強をしない彼女に意外な思いで作業を続けた。

 

「それは凄いわねー。じゃあ、内申書が原因なのかな」

「えっ、内申書?」

 

 初めて聞いた言葉にエリのまばたきが繰り返された。ポットの細く伸びた先で熱湯が粒になり、それを彩香は作業台に置いた。サーバーに滴る雫へ目をやりながら彼女に顔を向けた。

 

「あれ、知らないの。うちじゃあ、母さんがよく言ってたけど」

「そんな事、施設じゃ誰も教えてくんないよ」

「あ、そう。そうなん…だね」

 

 一緒に下を向きそうになるのをこらえた。彩香はフィルターに浮いた雑味を残し、ドリッパーを隣の流しにバンッと叩きつけた。涙するのはまだ早かった。

 エリは両肘をつき、抽出された濃い液体が容器に溜まったのをじーっと見てつぶやいた。

 

「あーあ、これでお兄ちゃんと同じ高校に行けないや」

「い、いつだって会えるじゃないっ」

 

 寂しそうな表情を見せるエリに声が上擦っても、手は冷静にコーヒーをカップへ注いだ。口では慰める彩香だったが、これといって考えはなかった。彼女は前向きな性格だと分かっていた。金の工面は難しく、できる事は沈んだ気持ちを支えてあげるだけだった。

 砂糖を付けず、ただ皿の上に載せる。苦くて温かい飲み物をカウンターの上に置いた。入り口が完全に閉まっていない店内に、アプローチ横の木からセミの鳴き声が聞こえてきた――まだ十分な時間があるし、これからのことは彼女自身が決める。ここは見守るのが正しい選択だ。

 

「はい、少し熱いけど飲んだらスッキリするわ」

「ありがとう、姉さま」

 

 引き寄せた器にエリが鼻を近づけた。香ばしさを堪能した彼女は取っ手を握り締めて持ち、唇を前に出してふーふーした。口をつけて「おいしいなー」と驚いてカップを置くと、両手で掴んだ内部を覗き込んだ。黒く揺れる液面にうっすらと反射した顔は真剣モードになっていた。

 自分の分を用意する彩香は彼女の感想を聞いて気を良くし、いつもの調子で自慢を始めた。

 

「まあ、これくらいわね。こう見えても…」

「ねーさま、わたし決めました」

「ん、何を?」

 

 彩香は前を向いたエリにふと顔を上げた。目を輝かせた彼女の腕が真っすぐ上へ伸ばされた。

 

「高校に行かず、このカフェで働きます!」

「えっ」

 

 一瞬固まったものの、すぐピンと立った指先に視線が導かれた。住居と変わらず高くない天井につり下げられたライト。直接、電球を仰ぎ見てチカチカして顔を下げる。目の前で無鉄砲に意識を高める少女の瞳があった。彩香はデジャヴを見た気がした。

 

「ええぇ~~」

 

 エリへ向いたメイクの下で迷惑そうにそばかすが踊った。彼女は気にせず、ずずっとコーヒーを飲み干す。彩香は後悔した。少女に何を言うべきだったのかと今更ながら考え、腕組みして狭い通路をうろうろした。

 その時、奥でキッチンへの扉が開いた。ちはるが何事かとホースを片手に入ってきた。

 

「どうしたの、大きな声出して」

「ああ、ちはるさ~ん」

 

 彩香の前に救世主が現れた。情けない声を聞き、ちはるが扉の脇に掃除機を置いた。やれやれといった感じで奥のカウンターに近寄り、うろたえる大人の思考に耳を傾けた。

 ちはるは話を聞いた後、エリに乗ってきたバスの時間を尋ねた。彼女は施設を昼前に出たと答えた。思った通りだと小さく頷き、手招きして彼女と一緒にキッチンへ入った。しばらくして一人で大きなビニール袋を持って出てきた。

 

「エリに棚のパンと冷蔵庫の残りを食べさせるわ。それとゴミ、ここに置いといて」

「はい、いいですけど……彼女、ちゃんと高校行きますよね」

「当り前よ。奨学金の募集は他にもあるし」

「でも、朋己くんの近くに居たいって。だから白鳥のじゃないと」

「会いに行けるくらいでもいいんじゃないかしら」

「公立だと寮がないから通えませんよ」

「あのね、私立でも入学金や授業料が安いところはあるし、家庭環境によって補助金も…少しは美雪と世間話をしたら」

「え~、嫌ですよ。私には真兄ちゃんとの話ばっかして当て付けてさ」

 

 エリの将来を案じる話の最中に彩香がブツブツと口先を尖らせた。ちはるはまぶしい窓の外を見やって嘆息し、ともかく掃除を終わらせるのが先と、かさばるゴミ袋の口を強く握った。週明けの収集日に備えてカウンターの端まで運び、ポイっと放した。そして、腹立ち紛れに片付けられる作業台へ振り返った。

 

「私がエリを説得するから、彩香はコーヒーのお湯を沸かしといてね」

「はぁ、ちはるさんも飲むんですか」

「もう忘れたの。今日は志穂さんが来るでしょ」

「え、待って下さいよー」

 

 伸ばした手の前をすたすたと通り過ぎ、ちはるがカウンターの角を回ってキッチンへ入り、扉をバーンっと閉めた。彩香はとばっちりを受けたような心境になった。頭の中で少女への気がかりが薄らぎ、母が来る煩わしさへと傾いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

母の想いと潜む娘の心

 テーブル席は八角形の天井に梁が交差し、屋根との空間が広さを感じさせる。エリが慌てて閉めた戸の隙間をピタリと閉じ、彩香はカウンター内へ戻った。来客の受け入れが整ったリビングからの物音に耳を澄まして冷蔵庫にもたれ、IHの丸い枠に置いたポットの湯気を見つめた。

 

ガラッ

 

 不意にカフェの戸が開いて見覚えのある顔が目に入った。彩香はその場にしゃがんだ。が、もう先方からは丸見えだった。入り口の女性は後ろを向いて静かに閉め、振り返って膝下のスカートを広がらせず、カウンターまでそそと歩いてきた。床に置かれたゴミ袋に目を落とし、上の方にある膨らんだ包装を見て口火を切った。

 

「間食がやめられないようね。昼過ぎから菓子パンにかじりつくなんて」

「はっ、昼過ぎから?」

 

 彩香はお尻を向けて立ち上がり、ゆっくりと彼女の方を向いた。母の志穂がねずみ色のざらざらした生地を上下にまとい、紐のない黒いハンドバッグを抱えていた。ほうれい線が薄く見える顔にあきれた様子を浮かべた。

 

「三十にもなって、それが親を迎える態度なの」

 

 彼女は会う度に小言を言った。三十路を迎えて年齢が枕詞になり、彩香はうんざりしていた。

 

「すみませんねぇ……ったく、母さんのまぶたかって…」

「えっ、なんて言ったの。きちんと人の顔を見てはっきり話しなさい」

「あ、うん、こちらからのお入りで驚きましたって」

 

 とっさに苛立ちを隠して愛想笑いを返した。志穂がふらふらした生活を見かねて伯母に相談したおかげで社会人になれた。それで身に付いた人当たりの良さを見せるのは彼女への恩返しであり、子供扱いに対しての嫌味が込められた。

 母の目には彩香のおざなりな応対ばかりが映った。ろくに目を合わせず、ボットを手に忙しそうにしている。志穂は抽出器具が重ねられた真向かいに来た。遺伝からか娘たちの顔は大人になっても鼻の周りにそばかすが残った。背が高くスラリとした姉と違い、彼女の方が自分と似ていた。その分、心配もひとしおだった。

 

「あなたが窓から見えて……それより今度の男性は乗り気なのよ、なんで連絡してこないの」

「え、父さんに断るって返したけど」

「メールで一言じゃ相手方に返事ができないわ。それに、あなたも悪い感じは受けなかったんじゃないかしら。今回の彼はわざわざ役所へ来て『花柄のストールが素敵ですね』ってベタ褒めするのよ。父さん、帰ってきてから万歳したりして」

「そんなとこ褒められてもねぇ。大体、誰でもよく見えるんでしょ」

 

 用意してあった粉末の中心に湯を垂らしながら、彩香は確信を持って言った。空振りの連続に、両親が舞い上がったのも無理はない。心当たりのある志穂は視線を逸らした。見渡したカフェは数年前に訪れた時の溜まったほこりが見られなかった。

 

「あら、このお店キレイね。また再開するつもりがあるの」

「ううん、掃除しただけ」

「そのコーヒーも練習なのね。それくらい隠しても分かるのよ」

「別に意味はないわ。休みだから」

「もしかして素晴らしい出会いがあって事が進んでいるとか」

 

 志穂がバッグを脇に置いてカウンターに身を乗り出した。とうとう彩香は耳を塞ぎ、サーバーを傾けて手元に集中した。「分かるんでしょ」とカップを差し出す。大人しくなった娘に何かあると感じ、志穂は椅子を引いて腰掛けた。器の中を眺めながら持ち上げ、一口だけ飲んでゆっくりと下ろした。器が軽くコトッと音を立てた。

 

「ねえ、私はいい人ができたら紹介して欲しいの。美雪の時みたいに驚かされるのは…」

 

 落ち着いた口調に期待を込めて顔を上げたが、彩香の手は止まって口が開いたままとなった。

 

「な、なに考えてるのよ、バカじゃないのっ」

「これ、その口の利き方は何ですか。こっちは心配してるのよ」

「もぉ~、ちはるさんが待ってるから家の方に行って!」

 

 それまで話を合わせていた彩香の本音が出た。勘違いをきっかけに母親への甘えが怒りになって表れ、普段の彼女が炸裂した。志穂はもうお手上げとすっと席を立った。

 

「まったくね。こんな子の面倒を見てもらってお礼を言わないと」

「面倒見て…ん?」

 

 今日はエリが来ていた。志穂が奥の壁に近づき、彩香は作業スペースを飛び出してカウンターの端を回り、慌てて追いかけた。キッチンへの扉の前で彼女の右腕を掴んだ。これ以上、事を荒立てたくはなかった。

 

「ちょっと待って、母さん」

「何なの、鍵はかかってないでしょ。彩香がいるんだから」

「いや、その……」

 

 うまく続きが言えない彩香の態度こそがはっきりと志穂に何かを隠していることを伝え、彼女をいつも心配させるのだった。

 

 カフェと住居を隔てる壁の扉はキッチン側へ開く。この先に彩香が見られたくないと隠す事態がある。志穂は静かに少し扉を押し開けた。

 ダイニングはテーブルの片側が見え、誰もいなかった。ずっと先、テレビに地図が映り、ちはるが脇に立っている。彼女は画面を指して口を動かす。ソファーの背もたれから出た小さい頭が揺れた。首を左右に振った子供の横顔が志穂の記憶を呼び起こした。

 

「エリちゃん……近所に小学生の女の子いたかしら。ねえ、どこの子なの」

「えっ。そ、そ、そこら辺の子」

「そこらって、彩香。素性が分からない子を家に連れ込んでいるわけ」

「知らないわけじゃ…」

 

 言い淀んだ彩香の両肩を押さえ、側の席に掛けさせた。腕を組んで彼女の前に立って問い詰めると、夏休みにエリを泊めた顛末をあっさりと白状した。カフェの回転する椅子の上に背を丸めた娘の姿があった。志穂は優柔不断な彩香が一時の感情に流されて判断を誤るのを子供の頃から間近に見てきた。

 お団子に結い上げて広がった額に手を当て、ふーっと息を吐いて小さい瞳をまっすぐ見た。

 

「しっかりしなさい。未成年を勝手に留め置いて捕まりたいの」

「でもエリ寂しそうで…お兄ちゃんを連れて来るってカフェを綺麗にして」

「本人が望んでも納得させるのが大人でしょ」

「さっきもお金がなくて高校行かないって、頭良いのに……どうしようかと」

「それは施設の方で解決してくれる。個人が考えることじゃないわ」

「朋己くんが通ってる舞島学園に入りたいんだって」

 

 母の言葉を聞いていないのか、彩香は独り言のように口を開いた。ソファーにいた一人の少女に固執する娘を変に思いつつ、志穂は取っ手を握って彼女へ首を振った。

 

「あなたはパートナーがいないから彼女を養うことは無理なのよ」

「…うん、そんなの分かってる」

 

 彩香が膝に挟んだ手をギュッと組んで頷いた。志穂はキッチンに素足を着け、床のひやっとした感触にも顔色を変えずに水切りかごが載る作業台を回った。ちはるが気づいてリビングの壁際で声を上げ、桂木家の反対側でようやく歓迎を受けて微笑みを見せた。

 エリを改めて紹介された志穂は少女のはきはきとした受け答えに目を細めた。この日は和やかに会話が行われ、何の問題なく過ぎ去った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

昼下がりのアクトレス

 時折、雲が流れて影ができる道路上を京太の自転車が通過した。ハンドルに乗せた片手に端末が握られ、画面に目盛りがピコピコと出て横に一桁台の数値が表示される。彼はため息をついて顔を上げ、ポロシャツをはだけた。新しいUFO探索ツールは期待外れだった。前かごに茶色の袋を入れて来た。嫌々していた母親の使いもエリの出現ですっかり生活に組み込まれた。彼女の黒い髪が伸びて見えたり、未紗紀から白い幽霊のようなものが飛び出たりと一緒にいて不思議な体験をさせてくれた少女。新学期が始まり、彼女はいなくなった。

 祝日の午後に桂木家へ、ロープが張られたカフェへの通路前を過ぎて門柱の手前で停めた。門を通ってスロープをとぼとぼ上った。玄関先へ端末をかざして解錠が表示され……ない。京太は手すりを持って角を回り、一気にポーチへ駆け上がった。深呼吸してドアを開けた玄関の端にサンダルとスニーカーが並んだ。廊下へ飛ぶように上がってリビングの戸を引いた。

 少女がテレビの地図機能を使って前に立っていた。隣の立て看板へ向いて腕組みをする。彼女は切り揃えられた髪を振り、セーラー服の後ろ襟を翻した。横髪を片方だけ耳にかけてピンで留めたエリの中学生らしい恰好にしかめっ面が添えられた。

 

「ちょーっと、どっちがこれ近いの。この辺りの地理に詳しいでしょ」

「ハイハイ。あ、叔母さんは仕事ですか」

「彩香さんなら故障したバイクを取りに来た純一って人の車に乗って行ったわ」

「あぁ、手入れをサボってると機械はダメになるんですよね」

 

 軽やかに近寄った京太は彼女がトントン叩いた緑の部分へ腰を曲げた。黒板になっていた。白い文字と数字が細かく、眼鏡の位置を直した。

 

「鳴経大付、聖ハデス…進学先を考えてるのか。ま、どっちもどっちかな」

「ちゃんと考えてよ。短いチョークで一生懸命書いたんだから」

「この小さい黒板どこにあったんです……あれ、舞島学園には行かないんですか」

 

 京太は何気なく疑問をぶつけた。テレビ画面に映った舞島市の道路地図は複数のルートに赤く色が付き、そのどれもが舞島学園のある島へ集結した。

 いかにも自ら辞めたかのような言い回しにエリはカチンときた。手にしたチョークを真上に放り投げ、ローテーブルの脇で飛び跳ね、ソファーの中央にドンっと尻をついた。スカートの下に隠れるリモコンを探り出して表示を地上波に切り替えた。

 

「白鳥の奨学金に落ちたんで他を比較してるとこ」

 

 ぶすっとしたエリがつぶやきながら手元でころころと映像を変えた。胡散臭い司会者の生番組を梯子し、代わり映えのしない絵面に指を止めた。ちはるに説得された彼女は他の奨学金で寮がある私立高校に行こうと考え始めた。メモ代わりにカフェの倉庫から看板を持ち出し、入学金や授業料といった必要な金額を書き込んでいた。

 京太の背中にツンツンした空気を感じさせた。「朋己と舞島学園に通えなくなった」というのはエリにとって大問題だ。機嫌が悪い訳だと彼は振り返った。

 

「まあ、二つとも舞島駅に近いんですけど。南側の鳴経大付属が少し近いかな。聖ハデスは数年前にできた女子高でカトリック系とか。北東寄りで周りに何もないところです」

「うーん、市の奨学金だと鳴経大はムリ。青山基金は審査が厳しいという話だし…」

 

 進路に頭を悩ませつつも、エリは再放送の昼ドラが始まって画面に目が吸い寄せられた。二十年以上前の作品だったが、服装が派手に見える以外は高精細で見劣りしなかった。お屋敷のセットで主演女優が深刻に考え込み、俳優が現れて二人が向かい合う。テレビに集中した彼女は首を前方へ突き出し、京太も一息ついて側のシングルソファーに腰掛けた。

 CМが始まるとエリは大きなあくびをした。両腕を伸ばしてソファー上で反り返り、上着の裾が引っ張られた。スカートの帯より上が覗き、素肌と思って京太は顔を背けた。

 

「そ、その…制服。で、出てきて…ますが」

「うん、学校行くと言ってきた。そういう風に見せておかないとね」

「じゃあ、見せてるんですか。今だって見えて…」

「ん、ああぁ~~」

 

 エリが立ち上がり、前へ腕をぶんぶんと振る。京太は身構えて首を思いっきり横に振った。

 

「うわぁ、み、見えてませんよ。お、おなかに何も」

「お腹ってタンクトップに何か付いてる?」

「へっ……なんだ、そういう色か」

「それより、あれ京太のおばあさんじゃないの」

「はぁ?」

 

 京太は彼女が指したドラマへ顔を向けた。とっくに男女の逢瀬は終わり、ひざまずいた女優を罵る継母。正しく口が悪い祖母だった。ふてぶてしい面構えに頭の中で小ジワを付け加えた。

 

「そういや、テレビドラマに出たとか、出てないとか言ってたな」

「これ、はまり役だわっ。千夏さん、若いわね~」

 

 意地悪そうに顔を引きつらせた迫力に、エリは手を叩いた。どうしようもない状況を一時忘れさせて彼女は笑顔になった。京太もつられて笑った――やっぱり、彼女は自信満々な方が様になると思う――指差している祖母並みに。彼は小さい頃に聞いたエピソードを思い出した。肘掛けと膝に手を置き、エリの方へ体重をかけた。

 

「エリさん、隠し子の話を知ってますか。いきなり他人の家に行って『私、ここのお父様の隠し子です』と言った女の子がいて」

「ふーん、それで?」

「死んだ母が書いた手紙を渡すんです。そしたら、あっさり家族になれたっていう」

「へー、そんな事ありえなくない?」

「ばあちゃんがその人を知っているらしいけど」

「そっか。じゃ、スマホ貸してちょうだい」

 

 エリは急に納得し、ニコッと手のひらを差し出した。京太が横へと立ち上がった。怪しむことなく、ポケットから出した端末を載せる。それを掴んだ彼女は腰を下ろして指を上下に動かした。

 

「えーっと、連絡先リストは左側でいいのね」

「はい、そうですけど何を…」

 

 突っ立った京太の前で五十音順のインデックスがすーっと流れ、指先がディスプレイに押し付けられた。電話アプリでドクロ顔のキャラが表示される。エリはニヤッと口を押さえ、端末を耳に当てた。呼び出し音が続いた後、女性の声が聞こえた。

 

「もしもし、何の用。母さんは仕事中だから手短にね」

「わたし、あなたの旦那さんの隠し子です」

「えっ……あ、あなた京太の友達ね。ちょっと替わってくれるかしら」

「はーい、分かりました」

 

 言われて素直に、エリが端末を両手で差し出す。京太は怪訝な顔で受け取って頬に付けた。

 

「もしもし。えっと、誰で…」

「こらっ、京太。いつも遊びで使うなって言ってるでしょ!!」

「いや、俺じゃない。き、切るから」

 

 京太が簡単な操作にも慌てて両手をせかせか動かした。ソファーで足を組んだエリへ体を傾けて怒りをあらわにすると、彼女は平然と横を向いて両手を広げた。

 

「すぐにバレちゃった。誰かさんが言ったのと違うんだ」

「それなりの相手にしか効かないんですよっ。信じそうな人とか、年とった人とか」

 

 脇に立った少年が詰め寄ってツバを飛ばし、エリは眉をひそめた。しかし、はたと耳に入った言葉を頭で反芻し、もう一回借りようと彼の前へ手のひらを見せた。反対の垂れてきた髪を耳にかけ直してヘアピンを触って先日会った人物を思い浮かべた。唇の形を新しいセリフに合わせ、真剣な目の真ん中で大きな瞳が輝いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

求ム、いい家族!!

 窓からの弱い光でふわっと白く包まれた室内でエリがソファーに踏ん反り返った。京太は彼女の小さい手のひらを見つめた。左手を腰に当て、右手に掴んだ端末を渡すかどうか悩んでいた。視線を下に向け、京太が口をすぼめて出方をうかがった。

 

「今度は何に使うのかを教えてくれないと貸せませんから」

「京太のおばーさんに電話すんのよ」

「ばあちゃん……って、またイタズラですね」

 

 あきれた顔を向けると、エリは水平に開いた手を結んで天井へピッと人差し指を立てた。

 

「ふふん、隠し子になって奨学金の代わりに養育費をもらうわ」

 

 手首がくるっと角度を変え、指先が京太へ向けられた。ちょうどテレビから昔のドラマに映った祖母の演技であざけり笑う声がリビングに響く。千夏は黒田家で最も他人を信用しなかった。彼は肩をすくめた。

 

「ばあちゃんに電話したら『何言ってんだ、あんた』で終わりですって」

「そこは手紙がカギになるわ。わたし、国語の成績『A+』だし」

「そりゃ凄……いやいや、未紗紀ん時はイタズラ扱いされ、俺が怒られたんですよ」

「ま、今回失敗したら京太の言うこと何でも聞くからさ」

 

 笑みを浮かべてエリが悠然と手を上下に振った。彼女の甘い誘惑に京太は迷い始めた。胸の前で握った指の力を緩め、眼鏡の端から座る少女の首元へジトっと目を向ける。その黒髪が長く伸びて見えた現象に遭遇してからずっと触ってみたかった。多少叱られても悪くはないと思えた。

 京太は端末を下にして手を差し出した。エリの手がひらりと返された。けれど、下心があるのを気取られたくなく、手のひらの上で離してさっと引き、体の後ろで手をもぞもぞと動かした。

 

「べ、別に何かして欲しいわけじゃないですけど」

「サンキュッ。成功したら、わたしの言うことを聞いてね」

「あれっ、なんでそうなるの」

 

 彼は交換条件に呆気にとられた。といって、千夏が引っかかるとは論理的に考えられなかった。

 エリはぴょんと立って窓へ向いた。名称を縦にゆーっくりとスクロールさせ、相手先を見つけて指先をつけた。端のスイッチで音量を上げていき、周囲に単調な呼出音が流れた。やがて、女性の低い声が聞こえた。

 

「もしもし桂木です。あ、映っとらん…あんた誰?」

「エリです。実はわたし、ご主人が浮気してできた子だったんです」

「あ、あいつ。そんな子がいたとは……」

「あの、それで母が亡くなりまして」

「エリ―、うちにおいで。今から来れるね」

「はい、行きますっ。それじゃ」

 

 話はとんとん拍子で進み、元気よく切ったエリが体を反転させた。京太はどこかで聞いた声としか分からず、誰にかけたのか尋ねた。背の低い彼女が腕を伸ばして通話履歴を掲げる。ぷるぷると震える手元へ京太は目を細くした。番号の上に表示された『鳴沢桂木』の文字に目を丸くしてエリを見下ろした。

 

「えぇっ、桂木のばあちゃんの方を騙したんですか」

「うん、でも今からが本番。彩香さんって実家お金持ちなんでしょ」

 

 エリは借りた端末をいじりながら答えた。一方、京太は真剣な表情で彼女の顔を見つめた。

 

「俺は反対です。桂木のばあちゃんを騙すなんて」

 

 志穂は孫を心配して遠方からでも訪ねてくれるし、家に居る祖母と違って優しい。エリに従順な京太もこればかりは賛同しかねた。

 少年からの非難の目に、その場でエリはくるりとセーラー服の真っ白い背中を見せた。

 

「それじゃ、話の隠し子だった人はその後どうなったの」

「え、えーっと、たしか。そこまで……」

 

 京太が考え込み、後ろ手を組んだエリは窓の外を眺めた。無言のリビングへ隣の家に立つ庭木が塀の上で枝葉を揺らす音が伝わった。彼女は風が止むと、振り返った。彼の腕をとって手のひらに端末を載せ、そのまま柔らかく握り締めて微笑んだ。

 

「京太、難しく考えようとしてる。結局さ、お互い幸せならいんじゃないかな」

「けど騙されて幸せな人って…」

「じゃあ、彩香さんがいて、ちはるさんがいて、わたしがいて、京太は楽しくなかったの。みんなバラバラの方が良かったかしら」

「そりゃあ、どちらかと言えば一緒の方です」

「そう、一緒に仲良く。よーするに、いい家族になればいんだよ!」

 

 元よりエリが頼れる家族は朋己一人だが、彩香が遠慮なく頼み事ができる存在になった今、その母・志穂を巻き込むのに悪気はさらさらなかった。彼女の言葉は自信と相まって妙な説得力を持った。

 確かに、京太は来たばかりで桂木家に馴染むエリを見た。志穂も同様に彼女を受け入れると感じさせるものはあった。それに彼にとっても彼女と一緒に居られたら、髪が伸びたり、白い発光体が出たりする現象に出くわす機会も増える。ひょっとすると、UFOが来るかも知れないとの考えが頭に浮かび、京太は八方丸く収まるのではないかと算盤を弾いた。

 早速、エリはローテーブルの端に片足をかけ、手に握りこぶしを作って意気込んだ。

 

「さあ忙しいわよ、鳴沢に行くんだから。で、お金持ってるの」

「あ、うん。これくらいだったら」

 

 素直に応じた京太はデビット残高の画面を提示した。四桁の並ぶ数字に頷いてエリが立て看板の前へジャンプした。黒板を裏返して膝をつき、スカートの裾を床に着けて文章を書き出した。彼は後ろに近寄って筆の走りを眺めた。

 木の枠内が白い文字で埋まり、最後に立ったエリは全文を黙読した。間違いがないとチョークを置いて首を曲げた。

 

「これが手紙なんだから、ぼーっとしてないで写してよ」

「そうでしたね、分かりました……前略、桂木様、この手紙を読んでいる頃、私はすでに生きていないでしょう……ん、この後なんて書いてあるんですか」

「うーん、字がぐちゃぐちゃ。あ、スマホの音声認識を使えばいいのか」

「ええ…にしても手紙というより遺書ですね。はい、どうぞ」

 

 京太が出したマイク部分にエリがすらすらと話しかけ、早々に隠し子になる作戦の下準備を完了させた。あいにくプリンタがなくて印刷を諦め、テレビの電源を切った二人。リビングの戸も閉めずに黒板の文面を残したまま、玄関から外へ飛び出した。早足な彼女に遅れないよう、彼は端末を強く握って施錠もしないで門を出た。

 

 彼女たちは新舞島駅の通りを渡り、歩道沿いのローサンに立ち寄った。京太が入り口脇のサービス端末から出た『死んだ母からの手紙』を受け取ってレジで精算した。鳴沢へUFO探索に行く一回分の金額が失われても、出し渋る様子はなく楽しげですらあった。それだけエリと居て遭遇した不思議な現象は彼を魅了し、調べるためには協力を惜しまなかった。渡された封筒を持って彼女は信用金庫の角を曲がり、意気揚々と駅舎に入っていった。

 

「人が居るコンビニって親切でいいわ。封筒までくれるし」

「田舎だと無人が多いですからね。あと、詰めたおかげで一枚になって助かりました」

「デザインにも料金とられんだ。あっ、貸して貸して」

「え、ちょっと待って下さい……左端のレーンですよ、はい」

「うん、オッケー」

 

 手と手を重ねて受け渡した端末を手に、エリは腕を振って改札の前に進む。並んだ細長い機械の間にある閉じてない中央の通路へ近づこうとした。京太がすかさず肩を押さえた。

 

「だから、左ですって」

「えっ、ゲートはここだけしか開いてないのよ」

「二人分の支払い設定したから大丈夫です」

 

 京太の話にしばし考え、三つの改札機を右から眺めた。『×』、『〇』となぜか真っ黒のパネル表示。試しに左端の間際に立った。瞬時に『2』が表示され、レーンの手前と奥のゲートが同時に開いた。口を開けたエリは背中を押された。

 

「どうしたんです。入らないんですか」

「う、うん。これで分かったわっ」

 

 少し緊張しつつ勢いよく改札の通路を通り過ぎる。エリは私鉄に乗った事がなかった。ホームに停まった車両を目に入れ、開きかけたホームドアへ歩き始めた。また京太の待ったがかかった。

 

「あ、それ乗っちゃダメです」

「何よ、これ鳴沢行きじゃない。それくらい分かるわよ」

「違うんです、エリさん。準急に乗らないと」

「はぁ?」

 

 エリは天井に吊るされたモニターに首をかしげ、十分間隔で発着する電車の目的地と運行の種類を示す色の違いに目を迷わせる。だが、信頼のおける道先案内人がいるから心配無用。向かうのは彩香の実家であり、甥の京太が間違うはずがない。この間を利用し、祝日で学生の少ないホームをキョロキョロと見回した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳴沢から呼ぶ声の主

 新舞島駅を二時過ぎに出た列車は舞島市と鳴沢市の山間部で二回ずつ、住宅街が広がってからも二駅に停車した。数人が座る車内でエリが長いシートの端で足を伸ばす。ドアが開くたびに彼女は外の景色を覗いた。ストレスも最高潮。少し離れて端末に夢中な京太へ不満を爆発させた。

 

「もぉ~、なんで各駅停車を待ってたのよ」

「あぁ、次で降りますから…」

 

 京太が画面に目を落としてさらっと重要な事を言った。エリは呆気にとられ、首を振って座面をバンバン叩いた。

 

「桂木のおばあさんって鳴沢に住んでるんじゃないの」

「あ、UFOの波長が……だから、もう鳴沢市に入ってます」

「えっ。じゃあ、鳴沢駅に行かないんだ」

 

 彼女は車窓へ顔を向け、まだ緑が目立つ街並みに残念そうな口振りをした。用事を済ませた後に駅ビルで遊んで帰る予定だった。兄への土産話が一つなくなって吐息をついた。

 電車が坂にさしかかってエリの体が少し傾いた。上りきってゴトゴトと橋の上を通過し、下りとともにブレーキの音がして後ろに引っ張られる。屋根の下を『中鉢野』と書かれたプレートがゆっくりと流れた。電車が止まり、スカートの膝に両手を置いて立ち上がった。ホームに降りた彼女は反対側を通過する特急のなめらかな曲線へ目を奪われた。途端、京太が背中にぶつかった。

 

「痛っ…急に止まらないで下さいよー」

「う、うん、すぐ行くから。えーっと、あれっ」

 

 エリは島状ホームの左右に顔を向け、両側にある出口への階段に首をひねった。「またか」という感じで京太が指を北へ向けた。

 

「ほら、出口はあっちです」

「ちょっと京太、こっちは初めてなんだから先行ってよ」

「ハイハイ。じゃ、はぐれないで下さいね」

 

 すたすたと歩く彼の後ろをエリはついていった。結局、階段は上でもベンチを挟んで向き合い、彼らは北側の改札を通った。正面は一面ガラス張りで二本の線路が鳴沢の都心へと延びた。再び階段を下りて西口から駅を出た。

 鳴沢に京太が良く来るのは舞島よりUFO関連アプリの反応がいいからであり、準急に乗るのは初めてだった。いつも家族と車で行く桂木の祖母宅から駅までの経路を詳しくは知らない。急行より遅く走る電車内で宇宙ガンマ金属粒子が広範囲モニタに引っ掛かったと喜ぶ京太はなるべく画面から目を離さないようにし、アルファ波長の数値が上がる前方への道を選んだ。そうとも知らずにエリは大船に乗ったつもりでいた。

 居酒屋と歯医者の脇を過ぎ、電柱も街路樹もない大通りに来た。飲食店が歩道にズラリと並び、エリは手の甲でよだれを抑えて横断歩道を渡り切った。都市部の細長い建物が立ち並ぶ路地は奥で道幅が狭まり、さらに進むとフェンスに囲まれたコンクリートの用水路。短い橋を渡った先のせり上がっていく丘の斜面では上り坂の両側に四角い二階建ての住居がひしめいた。

 

「こ、この住宅街、彩香さんとこより断然大きいわ。さすが政令指定都市」

 

 エリが頂上へ目を凝らした。それ程駅から離れていない住宅街まで運よく来られた。とはいえ、上の方にあるとしか手掛かりのない家は簡単に見つかるものではなかった。

 ここでも京太はUFOに気が向いていた。特に、山のてっぺん付近は目撃情報が多く、彼は手元を見て坂を上った。最初の内はエリも住宅の塀際に植えられた樹木に手を伸ばしながら歩いたが、横道に入って何度も同じ場所を通り、次第に口数が減っていった。ブランコだけの狭い公園の入り口を通過し、子供達がペットボトルを振り回して遊ぶ。喉が渇いた彼女は奥の古ぼけた蛇口を羨んで首を垂れた。

 

 碁盤の目のような道をうろつくこと一時間。京太は行き止まりへ擁壁が伸びた敷地の角を折れ、家の正面へ向かった。手前の塀は彼の背丈程あり、先でガレージがもっと高く構えている。シャッターまでのほぼ中央に目隠しの門扉があった。

 太い門柱に張り付いた黒いパネルの前で京太が立ち止まった。エリはアルファベット表札と高い塀を見上げ、溜まった驚きを吐き出した。

 

「すご~い。ここが彩香さんの実家なんだ」

「はい、そうです。かなり前に建てられたと聞いてます」

 

 京太は顔を上げ、少し下へずれた眼鏡を直した。それまでの不満にエリが唇を尖らせた。

 

「あんた、下ばっか見てよく歩けるわね」

「はぁ。通常、一度見たマップなら頭の中で再現できますね」

「ふつーはそんな事できないわよっ」

「俺だってそれだけですよ、妹なんかは…」

「あっ」

 

 彼女たちの前で幅広い門扉の片側が奥へ開き、エリはすぐさま姿勢を良くした。けれど、物音がしない内部に腰を曲げて覗き込んだ。すると、門柱のスピーカーから声が聞こえた。

 

「エリ―、いいから入っといで」

「へっ。カメラどこ?」

「ほれほれ、ここだぞぉ~」

 

 門柱の膨らんだパネルを京太が指して入っていった。エリも後に続き、門扉を閉じてそっと振り返ると、横向きに車を停められそうなスペース。目の前でつづら折りになったスロープは右奥から上っていけた。彼女はガレージある左の壁へ首を向けた。京太が玄関ポーチに足を掛け、遅れたと思って小走りで自転車が置かれた低い屋根の脇を通って階段を駆け上がった。

 エリが踏み入れた玄関で甘い香りが鼻をくすぐる。前方に四角いガラスのはめ込まれた白い扉が見え、すぐ右の壁にも同じ扉があり、脇の台で瓶に入った花びらが色をつけた。京太は土間の右端の扉が開いた小さい部屋で手を洗っていた。彼女は後ろから覗き込んだ。

 

「へぇ~、手洗い場があるなんて学校みたいね」

「それじゃあ、扉を閉めてみて下さい」

「え、嫌よ。こんな狭い場所に京太と一緒なんてさ」

「なっ……い、一緒とは言ってませんよ」

「で、この部屋は何なの」

「服に付いた花粉とか砂粒とかが取れるんですっ」

「ふーん、色んなのがあるのね」

 

 効果があるのかとエリは疑った。玄関で時間がかかっている二人へ廊下の奥から呼ぶ声がした。

 

「何しとるんだ。早くおいでー」

 

 エリは急いでスニーカーを脱ぎ、下駄箱がなく靴下のままで奥へ行った。京太は舌打ちをして手すり下の壁を叩いた。開いた引き出しのスリッパに履き替え、彼女の分を手にして跡を追った。

 入った部屋でエリは開いた口が塞がらなかった。舞島で過ごした桂木家のリビング・ダイニングよりやや広い部屋は二階の屋根まで吹き抜け。へこんだ壁際に薪ストーブが置かれて煙突が上へ伸び、向かいは中二階があり、階上の両サイドが回廊の透明な腰壁に挟まれた。天井までの高さと広さに、不安を感じて側の柱に手をかけた。

 呆然としたエリの足元へ、京太が横からスリッパを離した。彼女は下を向いて足を入れ、顔を上げて目に階段を下がってくる人影が映った。右手を彼女たちに振って左手を手すりに滑らせる。足を動かしていないことに気づき、エリは人差し指を向けた。

 

「ふぁっ。京太、あれ本物のユーレイよ!」

 

 少女の叫びが耳に入り、海外ロックバンドのロゴ入りTシャツを着た老女は腕を振り上げた。

 

「だ~れが幽霊じゃ。まだ足はついとるわいっ」

 

 彼女は床で止まり、七分丈のパンツから伸びた細い足で板の上から軽く跳ねた。顔はシミとシワが多い肌で白髪の生え際を赤と黒に染めていた。折りたたまれる機械音を背にして二人に近寄ってきた。

 その声と姿で京太は電話に出たのが彼女だったと気づき、手をポンっと叩いた。ぼーっと眺める少女の耳元へ囁き、奥の壁にあるレールを指して室内エスカレーターであると示した。

 エリはハッとして我に返った。手をスカートの前で合わせ、聞いた名前を出してお辞儀した。

 

「初めましてエリです、ちひろおばあさま」

「こんにちは。高校生かい、エリ―」

「あ、えーと……そ、そう見えますかぁ」

「うん、そうかそうか。こんな子がいたんだな」

 

 ちひろは少女が髪につけた三角形のヘアピンに目を細めた。彼女の濁った眼に制服姿がぼやけて映る。脳裏に焼き付いた高校時代の日々を懐かしんで口元を緩ませた。

 予定と違う自分より背が低い老婆に堂々と応じられ、エリは珍しくうろたえた。混乱を最小限に抑えつつ、余計な事を言わないように話を合わせる。浮気した父とする人物はおそらく高齢。この家の隠し子になる計画は仕切り直しを迫られた。

 




―― 次章予告 ――

ちひろが手紙を読んで呆然とする中、志穂が帰ってきた。夕食の後に彼女は子供たちを送っていく運転席で優しく語り始めた。けれど一瞬、本音を漏らした。エリの目には彼女が… ⇒FLAG+12へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+12 Any Bad Girl Deserves Favour
追憶の主人公


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは三十歳独身の彩香と夏休みに共同生活を送り、新学期を迎えて施設に帰った。
彩香の夕食も再び叔母・ちはると二人。だが、週末にエリは舞い戻った。カフェで彩香がコーヒーを淹れると、奨学金審査に落ちて朋己と舞島学園に通えないと困った顔を見せ、「ここで働く」と訴えた。ちはるがエリを説得し、その間、彩香は来訪した母・志穂に彼女の事を打ち明けた。
後日、桂木家に来た京太が隠し子と偽って家族になった人の話をエリにした。彼女は彩香の実家に電話をかけ、声の主に招かれた。鳴沢の家を訪ねた少女のセーラー服に老婆が目を細める。
高齢のちひろに死んだ母からの手紙を渡し、隠し子と通じるのか。エリは岐路に立たされた。



 政令指定された鳴沢市で中心部へ比較的アクセスの良い鉢野区。住宅街の広がる丘の頂上付近に作曲家『ちひろ』が建てた家は近所で桂木邸と呼ばれる。百五十坪を超える敷地に洋風瓦がなだらかな寄せ棟の屋根をふき、古い外壁はこまめな塗り直しによって白さが保たれた。

 屋根まで吹き抜ける桂木邸中央のリビングは二つの天窓で明るく、一枚板のテーブルは子や孫が一堂に会して話し合う場所だった。ちひろは端に片手をついてエリの脇に立つ少年を見上げた。

 

「ところで裕太、こんなとこ来てサッカーはいいのか」

「違うよ、京太だって。ちゃんと俺の顔見て」

「ん、眼鏡かけて…アイツによう似とる、孫だな。キャプテンだと聞いたが本当にモテるんか」

「ひ孫だよ。それにストーブの柵へボール蹴って喜ぶアホがモテる訳ねーし」

「ああ、あっちが裕太か。そーか、そうか、草加クッキー」

 

 彼女は会うと大きい声でギャグを言った。京太が乾いた笑い声をあげ、つまらなくても仕方ないと高齢の曾祖母に付き合う。彼をつんつんとエリが突いた。口元が「旦那さんは?」と動くのを見て京太は亡くなっている事を耳打ちした。ふんふんと頷いてエリはへその下をさすった。平たく膨らんだセーラー服の中に手を入れ、スカートに挟んだ封筒を掴んだ。一瞬、タンクトップがめくれ上がり、ちひろの前に両手を添えて差し出した。

 

「これ、私の死んだ母からの手紙です」

「なんと、あたしに破れかぶれラブレターを読んでくれだー」

「あ、ははは…はは…はっ……」

 

 愛想笑いが得意なエリも目が死んで頬を引きつらせた。ちひろは機嫌を損ねるかと思われたが、封筒を鷲掴みにしてニッと笑った。背もたれのない長椅子を跨いでドスンと座り、テーブルの上に折り畳んだ手紙を広げて背中にぶら下げた鼻眼鏡に手がわさわさ。彼女は紙面へ首を伸ばす。指で文章をなぞって体を震わせる姿に、エリは振り返って安堵の表情を見せた。

 京太は無駄な演技に小首をかしげた――正直に話したら、学費くらい出してくれるんじゃないだろうか――と訝る視線に気づいたエリが成功を確信して親指を立てた。彼は本人が満足しているならいいかと玄関の方へ目を逸らした。すると、扉の向こうからガラスに光が射した。

 人影が映って徐々に大きくなり、扉を押し開けて女性が入ってくる。ストレートな髪にTシャツとティアードスカートの軽い装い。初めにエリが騙そうと考えた彩香の母・志穂が現れた。

 

「あら、こんにちは。よく来たわね、京太。今日は買い物行ってたのよ」

「こんにちは…えっと、どうしよう」

「まあまあ、ズボンをきちんとベルトで引き上げなきゃ。裕太が合わなくなったのを履かされてるんでしょ。美雪もケチだから」

 

 まっすぐ近寄ってきた志穂が床に手提げ袋を置いた。エリはそっと横に移動し、ちひろを背中に隠した。とはいえ、すでに分かっていた。京太の腰に手を回そうとしてエリに目をやった。志穂は彼らが遊びに来たのだと思った。

 

「あなたたち、手を洗ったわね。じゃあ、みんなでおやつにしましょう。スーパーでお義母さんの好きな詰め合わせを買って来たのよ。エリちゃんもこんにちは」

「こんにちは。きょ、今日はちょっと野暮用で…」

 

 エリは近づいた志穂に慌て、腕を後ろへ回してテーブルの角で手首を打った。不自然に傾いた上半身で制服からインナーがはみ出し、彼女が微笑みかけた。

 

「女の子も服装はしゃんとしないとね」

 

 膝を床に付けて志穂はエリのタンクトップの裾をスカートに入れた。以前に会った時と違って髪を下ろし、老けた彩香といった雰囲気を感じさせた。エリは安心感を覚えた。立ち上がった彼女にお腹をポンポンと叩かれ、無意識にはにかんだ。

 テーブルではちひろが視点も定まらずに口を半分開けたままでいた。優しい眼差しの志穂が長椅子でたたずむ老女を目にし、何があったのかと目を見開いた。エリの体を脇に寄せ、ゆっくり前に出た。

 

「お義母さん、どうされたんです。クリニックへ行きましょうか」

「おお、志穂ちゃん。これをあの子にもらってな」

 

 ちひろは人差し指と紙の束を彼女へと出した。じっくりと目を通す女性の後ろで、エリがすーっと腰を引いた。志穂は振り向いて目をギロリとさせ、バックルを弄ぶ少年の腕をとった。

 

「ちょっと京太、台所に来なさい」

「えっ、まだベルトが留められないんだけど」

「いいから、一緒に来なさい」

 

 彼女は京太の手を掴んで歩き、奥の戸を引いて入っていった。ピシャッと閉められてガミガミと叱る声が漏れてきた。エリは足音を立てずに忍び寄り、戸に耳を当てた。

 

「京太、どういうこと。お金を用立ててもらって何に使うつもりなの」

「知らないよ。エリさんの死んだ母からの手紙だし」

「嘘おっしゃい、コンビニの封筒で大切な遺書を残す人がいますか」

「それは時間がなくて駅前のローサンで印刷して……あっ」

「やっぱり、そうなのね。UFOを探しに木梢町の展望台に登ったりして、もう小遣いが無いんでしょ。それに漢字の間違いが多いわ。塾に行った方がいいんじゃないかしら」

 

 志穂に問い詰められる京太。彼が変な事を言って話がややこしくなっては困る。エリはため息をついてテーブルに戻った。リビングの床でちひろが袋からお菓子のパックを取り出していた。抱えたまま開封して個別包装を掴み、頬に手を当てる少女へ一袋を放り投げた。

 

「あんたも食べなよ。おいしいから」

 

 手前に落ちそうになり、エリは体を乗り出してキャッチした。ちひろは欠片を口にくわえた。

 

「ぼべでアイツは『オタメガ』と呼ばれててね」

「旦那…あ、お父さんの。どういう意味なんですか、それ」

「眼鏡かけたオタクって意味さ。歩行中にいつもPFPを両手で持って画面見てんの。額から血を流して帰ってきたことがあったけど、平気でゲームを続けてたよ」

「それじゃあ、軽症だったんですね!」

「うんにゃ、数針縫った。妹が手当して病院行ったし」

「ははは…はは……」

 

 エリには冗談のように聞こえた。ちひろが記憶を掘り起こすのに目をつぶる。やがて、戸が開いて志穂が顔を見せ、荷物へ指を差して手を合わせた。老婆は卓上に肘をついて自分の世界に浸っていた。手提げ袋を拾い上げたエリは素直に台所へ向かった。

 お説教は収まって天井に昼白色の灯が点り、志穂が受け取った袋をテーブルに置いた。台所はシンプルな六人掛け。彼女はニンジンやタマネギを出してエリに顔を向けた。

 

「もうすぐ暗くなるから車で送っていくわ。夕飯は食べていってね、アレルギーは大丈夫?」

「まったく平気です。ごちそうにあずからせて頂きます」

 

 少女が丁寧に頭を垂れ、志穂は利発な女子中学生と思った。エリはちひろに隠し子と思わせるための延長戦にしめしめと口元を緩めていた。京太がテーブルの反対で手を振り上げると、食器棚の脇でオートの扉が開いた。目を離した志穂は鼻歌とともに袋から青々としたブロッコリーを取り出し、子どもたちが隣の部屋へ入ってパタンと扉は閉まった。

 ソファーで脚を組んだエリは正面の巨大なスクリーンに向かって手を振った。が、思った通りに画面が映らない事にムッとして端に座る京太へ目を向け、青くなった手首に息を吹きかけた。

 

「イテテ……で、彩香さんのお母さんはうまく誤魔化せたの」

「ええ、反省して見せたし。勉強の事以外はくどくどと言わないんだ」

「じゃあ、オーケーね。けど、あのおばあさんって有名人だったの。彩香さんたちは何にも教えてくれなかったわ」

「そりゃあ、ちはるさんが良く思ってないからさ」

「ふーん。悪い人に見えないし、本当のお母さんなのに…」

 

 エリはつるっとした革張りにもたれ、死んだ母を思い浮かべた。小さい座卓の前に朋己と座って食事を急かされたおぼろげな記憶が頭でリフレインしていた。

 少女のテンションは天井が低くなった部屋で少し落ち着いた。後は渡した手紙を真剣に読んでいたちひろのリアクションを待つばかり。エリが菓子の小袋を広いローテーブルの手前にポンっと放り、頭を倒して出窓から薄暗い空を見上げた。判然としない過去はさておき、台所で流れる水音が聞こえてお腹を押さえた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ゴー・勘違い・ウェイ

 備え付け棚の上で数字のない壁掛け時計がコツコツと音を響かせた。エリたちは桂木邸の玄関から右へ入った所にある応接間にいた。120インチシート型テレビの黒い画面と向かい合い、長いソファーで夕食を待った。飽きてきたエリは肘掛けに顎を乗せてうつ伏せに寝転び、スカートの裾で足をパタパタさせた。逆側に座る京太が顔を端末に向けつつ、チラチラと横へ目を動かした。

 

「その…暇だったら、テレビを付けましょうか」

「そーね。でも、ひとんちで勝手なことして行儀悪くないかなー」

 

 エリはソファーの外へ両腕を出し、壁際のリビングボードに飾られた盾やカップを眺めた。表彰された物の中には彩香の名前がなかった。がっくりと下を向き、ふと視線を上げた。

 

「あっ、あそこに映ってるわ」

 

 ガバッと立ち上がったエリが足を上げてコーナーテーブルを大股で飛び越した。「ドンッ!」とフローリングに音を立てた。自動でシーリングライトが点り、照らされた透明の板に近寄って振り返った。目が合った京太はすぐ手を横に振った。

 

「見えてませんよ。け、決して白いパンツとか」

「彩香さんは黄色いパンツじゃない。あんた、ほんと目が悪いのね」

「ふぅ……けど、その画像って叔母さんの子供の頃でしょ」

 

 彼が胸をなで下ろし、そろそろとローテーブルに沿って歩くと、台所の扉が勢いよく開いた。

 

「何を騒いどるんだ、京太。志穂ちゃんが怒っとるぞ」

「えー、また俺が悪いの。もう勘弁してよ」

 

 京太は側面に置かれた三人掛けソファーの肘掛けに尻を乗せ、部屋の隅へ顔を向けた。彼の横に来たちひろは同じ方向に視線を注いだ。L字型出窓の角でエリが一枚の写真に腰を曲げていた。

 

「この制服でギター弾いてんの、千夏さんだわ」

「違うよ。それは私さ」

「えっ、ちひろおばあさま。それじゃ、これ何年前なの」

「そうだな、かれこれ六十年以上か」

 

 ちひろはシワが八方に広がった表情を綻ばせた。灰色のスカートを履くエリが目を留めた自分の華やかだった高校時代。その隣にウェディングドレスと白いタキシードの二人が丸いフレームに収まっている。作り笑いをした男性へ指が伸びた。

 

「あの写真に写っているのがあんたのお父さんだよ、エリ―」

「へぇっ…あ、そうそう、見たことあるわ」

 

 すっかり忘れていたエリはやおら上体を起こし、わざとらしく顔の前で手を叩いた。その揺れる髪の耳元で彩香にあげたヘアピンがちひろの目に入った。

 

「お母さんに買ってもらったのかい。そのパッチン留め」

「あ、いえ。母は小学生のときに死にまして」

「そうか、エリーも苦労してるんだね」

「ハイ、手紙の通りです。志望の高校は舞島学園なんですけど進学できるかどうか…」

「そういや、あの学校も変わったなあ。昔は低かったのに」

「高くて困ってます……おばあさま、なんとかならないでしょうかっ!」

 

 ここぞとばかりにエリがソファーへ駆け寄って背に乗り出して懇願した。顔にひたむきな花を咲かせ、養育費をもらおうと大きな瞳に期待の色をにじませた。

 少女の目を見たちひろは枯れた亡き夫への想いが呼び覚まされ、首筋を押さえて微笑んだ。

 

「まあ、アイツの忘れ形見だしな。私に任せときなさい」

「本当ですか。あ、ありがとうございます」

「夕食ができているから、志穂ちゃんとこにお行き」

 

 ちひろが二人に手を上げ、廊下への扉を開けてどたどたと歩いていった。彼女の背中に向けてエリは小さくガッツポーズをした。ソファーの後ろから角を回って京太の前を通過し、ルンルンと台所へ向かう。彼はしばらく腕組みをしていた。ガラス越しに八十半ばの曾祖母があくびをするのが見え、小さく息を吐いてエリの跡を追った。

 

 テーブルで待っていた志穂と並んだ深さのある皿。夕食はクリームシチューだった。座って手を合わせたエリは野菜のふんだんに入った料理をぱくぱくと食べる。社交的な優等生と思って志穂が話しかけ、彼女も兄や学校の事をぺらぺらと喋った。横の京太がスプーンでニンジンを端に寄せ始め、祖母が目ざとく注意して彼は口を尖らせた。料理について言い合う彼らをよそにエリは綺麗に食べ終えて周りを見た。残業で遅くなる彩香の父がいない台所はやや広かった。

 

「ちひろおばあさんが来ませんけど、どうしたんですか」

「ああ、お義母さんは食べ過ぎたらしくて就寝するそうよ。あなたたちも遅くなるといけないし、すぐ送って行くわ。片付けは機械にお任せだから食べたらガレージへ行ってね」

「はい、ごちそうさまでした」

 

 エリは椅子を仕舞って隣の部屋へ行った。京太も残した野菜を頬張り、彼女に遅れないようにと立った。志穂の小言を耳に入れず、口をもごもごさせて退散した。

 応接室の中央でエリは天井へ大きく伸びをする。彼女が後ろの京太に気づいて首を傾けた。

 

「やっぱ広くて色々と便利ね~。でも、ちょっと寝るの早くない?」

「ええ、年齢が年齢だし。それより、あの手紙で書いた母親が死んでると分かりましたかね」

「そりゃー、『私は生きていないでしょう』っていう表現でバッチリよ」

「だけど、生きてるみたいに聞いてましたよ。それに『任せときなさい』なんて言う時ほど忘れてしまうんです。中学の入学祝いも結局くれませんでしたし」

 

 京太は端末を操作してメッセージ動画を再生した。二年前の動画に映るちひろは染めた髪の色こそ違うが、寒いギャグや京太を裕太と間違えるのは同じだった。画面を覗いたエリの目がみるみる点になった。

 

「これじゃ、お兄ちゃんと舞島学園に…」

 

 真っ黒なテレビ画面の前に立ち尽くしたエリは捕まえた獲物が手からするりと抜け落ちたようなショックを受けていた。

 ガレージに行こうとして京太が出口へ向かった。ちひろはすでに寝てしまって起こす訳にもいかないし、後は帰るだけだった。扉を開けて人差し指を玄関へ向け、室内に顔を振った。エリはセーラー服の半袖をまくって肩を出した。

 

「もうこうなったら、志穂さんに学費を払ってもらうしかないわ」

「わ、腕力にものを言わせて言うことをきかせる気ですか」

「ううん、彩香さんのお母さんも話せば分かってくれる。桂木家の家系は皆いい人なんだから」

「はぁ。それじゃ、今から…」

 

 京太は部屋の方に一歩踏み出した。だが、脇を通り過ぎてエリが玄関へすたすたと行った。彼は首をひねった。しゃがんだ彼女はスニーカーに足を突っ込み、立ち上がった。

 

「何、ぼーっとしてんの。ガレージに行くわよ」

 

 エリの地団駄を見て京太はあたふたと応接室を出た。彼の頭に何かが引っかかった。

 

 

チィリーン、チィリリーーン……

 

 台所のラック前で老眼鏡を掛けた志穂が薄い説明書を広げていた。めったに使わない装置に皿を微調整して扉を閉めた。電子食器洗い機のパネルをポチポチ押して起動させ、床の買い物袋に腕を伸ばした。手にしたスマホに彩香の名前が点滅する。握った手の甲で髪をかき分け、耳に当てた。

 

「母さん、そっちにエリが京太くんと行ってるでしょ」

 

 相変わらず不挨拶な子だが、いつもと異なる切迫感があった。片時答えないと催促する程。

 

「ねぇ、どっちなの。早く教えてってば」

「挨拶もしないで何ですか。ええ、一緒に来て食事を済ませたわ、今から送っていくところよ」

「やっぱりか、お姉ちゃんがGPSで家だって言ってたし。エリのやつぅ~」

 

 娘が怒っている様子に、志穂は意外そうに画面を前へ持ってきた。数ヶ月前に出会ったエリを心配する顔が映った。閉じた説明書をラックの端に立て、口をマイク部に近づけた。

 

「ちょっと落ち着きなさい。エリちゃんに一体何があったというの」

「そ、それがエリは帰ったら居なかったの。黒板に『私は生きていないでしょう』って走り書きが残っててもうビックリ。お金が欲しくて早まったことしないかと…」

「ははあ、手紙の下書きか……切るわよ、私はもう出るから。あ、それと美雪に連絡しといて」

「分かったわ。じゃあ、お母さんも道中気をつけてね」

 

 最後は妙にしおらしかった。エリを相手に苦労しているせいなのかと思った。それによって周りの人への接し方がましになるのなら喜ばしいことだった。志穂はサイドポケットからバレッタを取り出し、手早く後ろで長い髪をくるくると、お団子を作って根元を留めた。帰りに少女が現す本性とも向き合うつもりでいた。老眼鏡を静かに外した。彼女のうなじが白い玉のように光った。

 ガレージで志穂を迎えるエリは車にもたれ、何度も目をしばたかせる。朋己と舞島学園に通う資金を得る計画の第二幕が開いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の中のお姉さん

 桂木邸のガレージを出発した車内では志穂がハンドルを握って街中に目をやり、中学生が入れる店を紹介した。その間、エリは助手席で淡々と相槌を打った。住宅、商店、ビルと明かりが次から次へ通り過ぎても喜ぶことなく、暗い景色を待っていた。そして今、鳴沢南ICのゲートを通過して鳴舞バイパスに乗った。真西へ延伸する高速道路に代わって南寄りに山間部を抜け、新舞島駅の北側に出て舞島市の桂木家に一時間足らずで行ける。走行レーンに合流して速度メーターの点滅が自動運転システムの作動を知らせ、志穂は肩の力を抜いた。

 

「『気晴らしが必要』って、ちはるさんの薦めでこの車を買ったの。三角窓がフロントドアに付いてて珍しいでしょ。買い物しか乗らないけどスピードは出るのよ」

 

 志穂の愛車は白鳥技研のEVクーペで車高がやや低く丸いデザイン。運転席の後ろに座る京太は狭そうに頭を下げた。エリが愛想笑いをした後、きょろきょろして窓の後方を指で差した。

 

「あの電気がいっぱい点いてる場所は鳴沢大学かな」

「あ、大学ならもっと北で駅の向こうだし見えないんじゃない」

「そうなんですか。こっからは見えないのか、うーん」

 

 エリは後部座席へ上体を向け、額に手をかざして遠くを見るふりをした。視線だけを京太へ向けて無言で合図を送った。すでにガレージで打ち合わせ済み。彼は手のひらを見せて頷いた。彼女らの思惑通りに、志穂はドライブ設定パネルを操作しつつ聞き返した。

 

「そうね、今は進学する人も減ったわ。エリちゃんは大学に興味があるの」

「はい、高校は舞島学園に入って大図書館で歴史を勉強して大学に行きます。海外留学から帰って族議員の秘書をして大臣になるつもりです」

 

 体を戻したエリは両手にこぶしを握り、志穂に向かってきっぱりと言い切った。微笑み返されて心の中で「イケる」とつぶやく。真っ暗なシートの後ろで京太が事前のメモを読み上げた。

 

「マ、マイジマ学園ですか、たしか入学金とかが相当タカイ……」

 

 省エネで暗くなった画面に京太は一旦口を閉じた。だが、頭上が少し明るかった。そーっと見上げると、志穂の首元が青白く光っていた。飛び退いた彼の手の中から端末が落ち、手前の座席下へ転がっていった。彼が意識を取り戻すまでは時間がかかった。

 志穂はハンドルの固定スイッチを押し、助手席へ視線を向けた。やはり、ひねたところがなく元気のいい少女に見える。夫に似てお人好しな彩香が真面目に話を聞いたのは分かるとしても、どう騙すと面倒を見る気になるのかが疑問な点だった。焦れたエリが後ろへ首を振り、シートに片膝を立てた。志穂がセンターアームレストを指でトントンと叩いた。

 

「こっちからは下着が丸見えよ」

「あっ、ははは…」

 

 すぐ足を下ろしてエリは両手をスカートの膝に置いて苦笑いをした。何かを誤魔化したと感じた志穂はハンドルに片手を掛け、上半身を彼女へ向けた。

 

「ねえ、あなたがあの手紙を考えたんでしょ」

「ははは、何のことでしょう」

「別に怒っている訳じゃないのよ。この前、行った時に彩香から聞いたの。お兄さんと舞島学園に通いたいのは分かるけど、他人を騙してお金をもらうのは良くないわ」

「はい、ごめんなさい……あれ、どっかでこんな事あったな」

 

 頭を下げたエリが記憶をたどっていると、志穂がフロントガラスへ向いてボソッと言った。

 

「彩香も中学生に騙されちゃうんだから…」

「へぇっ」

 

 エリはびっくりして顔を上げた。まったくの誤解だった。ちひろに渡した手紙はまだしも、彩香に対して悪気もなく計り事をした覚えもなかった。彼女は志穂へ両手を広げてバタバタした。

 

「ち、違います。騙してなんかいません。わたしが寂しそうにしていたら誘ってくれたからついて行きました。そしたら素敵なカフェがあって、兄の話を聞いてもらって嬉しかったんです」

「それで知らない人についていったの。悪人かも知れないし気をつけなきゃ」

「いいえ、彩香さんはいい人です。でなきゃ、育ち盛りだからって毎日肉ばっかり食べさせてくれません。今日、鳴沢市に来て分かりました。志穂お母さんも優しいし、ちひろおばあさん、ちはるさん、周りにいい人がたくさんいます。大きな家で育って、バイクにも乗れて、わたし、姉さまが羨ましいんです!」

 

 必死な顔をしてエリが言い返した。感情的な子供っぽい言い分だが、志穂は彩香が彼女の成長を気遣っていたことや羨望の的となっていることに驚かされ、嘘とは感じなかった。ただ、一つだけ気になり、赤くなった瞳を覗き見た。

 

「エリちゃん、今言った事を彩香に話した?」

 

 少女は首を振った。納得した様子で志穂はシートに深く腰掛け、前をまっすぐ見つめた。もう一つ彼女から気づかされたことがあった。つい、彩香を過小評価してしまう癖。いつからか娘に自分と同じように生きて欲しいと願い、それができないと失望した。志穂にもエリの気持ちを理解できる時期があった。

 

「言わなくてもちゃんと伝わっているのよね、彼女には」

 

 志穂は記憶の中の自分に問いかけた。指で目尻をこすったエリは運転席の満足そうな表情を目にした。

 

 平日と変わらず、夜間の鳴舞バイパスの下りはすいていた。エリは白いLED灯の吸い込まれる道路の先を眺め、舞島学園に通う学費だけでも借りられないかと思った。三人を乗せた車は自動運転で走行し、追越レーンを数台が通過した。Tシャツにスカートの志穂は運動靴を履いた足をアクセルから持て余し、ゆらゆらと揺らした。

 

「私は住宅街が造成された頃から家族で住んでいたの。まだ空き地や公園が多くてね。小学六年の時、近くの公園のベンチで本を読んでいたら、黒いセーラー服の背が高いおねえさんが歩いてきて目の前で両手を振ったわ。『拭くもの貸してくれない?』って。私がハンカチを差し出した。そして、彼女は手を拭き終わったら『洗濯するから来てよ』と一人で歩いていった。昔から強引だったのね。そのまま桂木邸に連れていかれちゃった」

「あっ、それって千夏さんじゃ」

 

 黙って聞いていたエリが志穂の顔を見た。彼女は前を向いたまま、口元に笑みを浮かべた。

 

「ええ、鳴沢に引っ越して来た千夏さんはギターを始めてバンド仲間を集めていたの」

「志穂お母さんもギター弾けるんですか」

「私はキーボードを多少ね。桂木邸はガレージの扉を入った所がおばさん…つまり、お義母さんの音楽関係の仕事場で楽器を練習したり、音合わせをしたりする部屋があるの。ひょこひょこついていってそれだけでも度肝を抜かれたけど、ギターを持った千夏さんは弾き方が凄くダイナミックなの。音も凄くて別世界に来た気分になって、それから遊びに行くようになったわ。実は適当に指を動かしてただけなのに」

 

 一通り過去を語り終えた志穂は顔を横に向けた。バイパスは山間部に差し掛かり、追い越してゆく車のライトを浴びた。みずみずしい肌のエリを見て少しため息をついた。

 

「義姉さんは髪型から態度まで全然変わらないわ。なのに、こっちはすっかりおばあちゃん」

「いえ、そんなことないです」

「いいのよ、孫たちも大きくなって……そういえば京太はあまり義姉さんに似てないわね。美雪は頑固で自信過剰でそっくりだし、彩香はお調子者のところが似てると思うけど」

「姉さまがお調子者か。言えてる、ふふふ」

 

 想像したエリが彩香にぴったりな表現と、手で口を押さえて笑った。顔立ちは志穂と似ているが性格は違う。一口に遺伝と言っても父親から受け継ぐ部分があり、千夏と似るということは正しく桂木家から来ていた。そう考えると、彩香と京太の涙もろいところは志穂にない。エリは真剣な面持ちで彼女に進学の意志をアピールする方法はないかと考え込んだ。

 落ち着いて考える様子を、志穂は読書好きで聞き分けのよかった昔を思い返して見ていた。自分と比べて活動的であるものの、少女から大人の考えを十分理解する利口な面を感じ取った。年の離れた彩香と付き合おうとするエリには社会の道理が通じると思えた。

 

「大学に行くなら公立高校でも行けるじゃない。舞島学園だと進学コースになるし、偏差値が高いから難しいわよ。ほら、京太の父親の真裕さんは美里東でしょ。彩香から聞いてないかしら」

「聞いてます。大学を中退したって」

 

 エリがパッと顔を上げ、テキトーに話を合わせた。志穂は呆気にとられ、一瞬言葉を失ったが、苦笑して少女に顔を近づけた。

 

「そうじゃなくてね。聞いてないかな、鳴沢大学に合格した話」

「え、彩香さん鳴経大を中退したんじゃないんですか」

「しっ、声を静かに。そっちじゃないわ。いい、外で話しちゃダメよ」

 

 そわそわして人差し指を立てる志穂の額にシワが寄っていた。エリは何がいけないのかじーっと見つめた。彼女はひどく世間体を気にする。彩香と同じように他人から良く見られたいとの欲求は母娘で似ていた。志穂は首元の汗を手で拭い、固定したハンドルを掴んで背筋を伸ばした。

 

「その、それで彩香自身はなんか言ってた?」

「えっと、ちはるさんは頼りになるとか。あと笑ってました、彩香さん」

「は、笑ってたっての。ほんっと、迷惑かけて反省の色がないわ」

 

 志穂の目が今までにない怒りをはらんだ。彼女は独り言で顔を赤くし、足元に力を込めた。

 

「わっ」

 

 自動運転が解除されてスピードが上がり、エリは背中からシートに倒れ込んだ。そこに運転する志穂の横顔が目に入った。一言で態度を豹変させた女性。思わず、バス停で激怒した彩香と重なって見えた――そうか、姉さまの嫉妬深いところが志穂さんと似てるんだ――エリは彼女を怒らせてみようと考えた。心に溜まったものを吐き出せば何か起こるだろうと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

車内でポツリと

 エリは彩香のだらしない性格を意図的に持ち上げ、かっかした志穂がアクセルペダルを強く踏み込んだ。速度メーターの数字が70、80、90と上がって先行車に近づき、白鳥技研の安全テクノロジーが自動ブレーキングした。彼女はハンドルを豪快に切り、赤いテールランプが見えなくなった隣の車線で再びスピードを上げた。

 闇夜のバイパス道で前を走る乗用車を二台、三台と抜き去り、志穂は娘たちへの不満をぶつくさと言った。自分で怒りの炎を燃やす彼女にエリは助手席から話を合わせた。

 

「美雪さんは舞島市立大学。鳴沢からだとちょっと遠いですね」

「そう、初めから魂胆があったの」

「魂胆?」

「電車で通学すると一限目に間に合わないから下宿させてくれって……こっちは子供を作るために下宿させた訳じゃないのよっ!!」

「あ、それで京太たちが生まれたんだ。でも初孫だし、ハッピーじゃないですか」

 

 ずけずけと言うエリの態度は志穂を苛立たせ、彼女の声調がヒステリック気味に変わった。

 

「も、物には順序があるのよ、エリちゃん。きちんと夫婦で生活基盤を整えてから子供を産むのが筋道だわ。単に避妊を忘れてたってだけでしょ、なーにが『授かった』だ」

 

 志穂は先行車感知の警告が表示されたセンターディスプレイを乱暴に手のひらで叩き、ブレーキを足裏で蹴るように踏んづけた。

 

「それは凄く分かります、うんうん」

 

 急にエリは神妙な顔をして頷いた。車の前方から『危』マークが付いたタンクローリーの背面が迫っていた。ここでハンドル操作を誤れば大事故になる。本当に燃えてしまっては洒落にならないと固唾を呑んだ。

 

ドロドロドロドロ……

 

 後部座席に怪しげな音色が聞こえて京太は虚ろに目を開けた。座席下に端末を落としたのを思い出し、狭い足元に肩を挟み入れて拾い上げた。端末の画面にはドクロマークが表示され、目と鼻のくぼみが赤く点滅した。彼がタッチした画面からフードをかぶった黒いマント姿の3Dホログラムが現れ、ゆっくりと柄の長い鎌を運転席の方へ振り下ろした。

 

「こんなアプリ入れたかな。そうだ、さっきの青白い…」

 

 京太は志穂の首元へ顔を向けたが、奇妙な現象は見られず端末に目を落とした。どす黒い色をして背面のロゴが読めなくてスペックも詳細不明。だが、超常現象のアプリが満載のこの端末を信用していた。

 志穂が荒っぽく車線変更して京太の体は前後へ揺れた。手の中で跳ねた端末の角を掴むと、ホログラムの鎌の方向が変わった。何かを検知したかのような怪しい動きで、指した方向は首元が青白く光った祖母が居た。試しに画面を縦、横、斜めと回転させた。黒いマントの人物が持つ鎌は画面の向きに関係なく運転席を指し続け、彼はある考えが浮かんだ。

 

「これって白いやつに反応してるんじゃないかな。やっぱり、まだ桂木のばあちゃんの中にいるんだ。未紗紀の時みたいに」

 

 京太が言った「白いやつ」とは冥界から抜け出した悪魔の霊魂・駆け魂である。人間界へ逃げた彼らは女性の中に入って心のスキマに隠れ、負の感情を食糧にしてエネルギーを蓄えた後でその子供として転生する。偶然京太の手に渡った端末は悪魔が使うもので、彼の推測通り、このアプリは人間界で駆け魂を探すための道具『駆け魂センサー』だった。

 駆け魂の事をエリに教えようと京太は気がはやった。しかし、前の座席からは彼女が志穂に話す声が聞こえ、うかつに割り込むと作戦の邪魔になる可能性があった。会話が彩香の話題に変わって志穂の声は元気がなくなり、感傷的な雰囲気を漂わせた。

 

「最近のお見合いは三人に一人しか会ってもらえない。とっくに適齢期が過ぎちゃったわ」

「そんなこと…ないですよ。つまり、その、えーっと。そう、明るい彩香さんの旦那さんはきっと真面目な男性です。それにお尻が大きいから、丈夫な赤ちゃんを産めます」

「そのパートナーを探すのが大変なの。だから、子供を産むなんて無理……はぁ」

「これからじゃないですか、彩香さんは料理上手だし、ポイント高いですよ。まあ、気分で味が甘かったり、辛かったりしますけど」

 

 エリは志穂の怒りが峠を越えて大分収まってきたと感じた。そして、舞島学園に通う学費の話をしようとチラチラと様子をうかがい、ため息をついて頬をさする志穂へ体を向けた。顔の前で手を合わせたものの、彼女の首元に淡く白い光が見えて指で目をこすった。

 志穂の心のスキマは不満をぶちまけたことで狭くなり、駆け魂の一部が飛び出した。エリが目にしたのは残像。その実体である霊魂は後部座席に出現した。目、鼻、口の位置に穴が開いたバレーボールより一回り大きく白い塊。レンガ屋敷で見た時になかった表情は不気味さを伴い、駆け魂の顔に驚いた京太は後ろへ体を引いた。

 志穂に隠れた駆け魂はエネルギーを蓄えながら外の状況にアンテナを張り、そこで聞き捨てならない言葉を耳にしていた。今、目の前に人間が居て都合が良かった。駆け魂は静かに問うた。

 

「コイツ…コドモ…ウメルカ…」

 

 駆け魂の低い声は威圧感があった。シートに背中をへばりつけた京太は「コイツ」が誰を指すか分からなかったが、車内には祖母と中学生のエリしかないため首を横に振った。ショックを受けた駆け魂が口をへの字に曲げた。志穂が産む子供の肉体を我が物にできなくなって抑えていた敵意が表情に現れ、心のスキマに隠れた残りが飛び出して青白く光を放って合体した。

 駆け魂は天井いっぱいにぐるぐると旋回して明かるさを振りまく。突然の事にエリが口を開けたまま、顔のようなものがある白い霊魂を気持ち悪そうに見上げた。

 

「ニガサナイ…コドモウムマデ…」

 

 凶悪な呻く声が響き、少女は何が起こったのか全く理解できずに鳥肌が立つ腕を抱えた。

 

 助手席で横を向くエリの頭上を白い霊魂が飛び回った。その時、センターディスプレイにフードをかぶるお茶目なドクロの顔が表示された。状況に困惑するエリは助けを求め、志穂へ手を小さく振った。だが、彼女は何事もなく平然とハンドルを握って運転していた。

 テーテレッテーと効果音が流れ、ディスプレイには「駆け魂を勾留しますか」という短い文章の下にOKボタンが表示された。エリは駆け魂を見上げ、恐る恐る画面に手のひらを押し付けた。

 

しゅるる~、しゅるるる~~

 

 白い渦を巻くようにして駆け魂は三角窓へ吸い込まれる。一瞬で元の暗さに戻った車内。窓ガラスの内側に閉じ込められて顔の模様が残り、エリは呆然と見つめた。京太が後ろの窓を開け、さっと首を出して前後を見回した。彼の位置からは行方が分からず、外へ出たのではないかと思って捜していた。周辺はオレンジの照明灯で明るく、すぐそこにバイパスの出口があった。

 

「あれ、私どうしたんだろう。何だか肩と首のコリがとれて軽いわ」

 

 志穂が頭を左右に振った。ウインカーを出してミラーを確認し、ハンドルを持つ手をゆっくりとクロスさせた。中学生のエリに愚痴をこぼしたことに後悔の念があった。それでも、久しぶりに素直になれた気がする。彼女は自分自身に言い聞かせた。

 

「結局、娘たちが私の期待通りに生きるとは限らないのよ」

「そこに白い顔が……」

 

 駆け魂が勾留された窓を指してエリは固まっていた。志穂は出口までの距離を示す『美里北』の標識に目をやり、速度を落とした。

 

「ふふふ、静かになったわね。もう眠たくなったの、エリちゃん」

「えっ、何?」

「ね、こんな話聞いても大学に行きたいかしら」

 

 祖母の顔に戻った志穂は優しく尋ねた。エリは悪魔の形相が頭から離れず、うっかり本音で答えた。

 

「ええ、よく分からないです」

 

 エリは口に出してからハッとした。舞島学園に行く理由は大学に進学するからだったはず。駆け魂のせいで学費を出してもらう作戦は失敗に終わった。志穂が「やっぱりね」と小さく頷いた。

 車は一般道に降り、だんだんと建物が多くなっていった。真っすぐな道路にいくつもの青信号を通り過ぎた。線路の高架下をくぐり、舞島市民病院の看板が見え、反対側の歩道にバス停。エリは彩香のにゅっと出たポニーテールが揺れる顔を思い返し、頭の後ろに手を置いてシートにもたれ掛かった。京太が肩口に現れ、くさくさした彼女はわざと知らないふりをした。

 

「何かいるの、きょろきょろして」

「未紗紀の屋敷で見た白いやつが車内で飛んでて。その後、一瞬で消えたんです」

「ふーん。どうせユーレイだったんでしょ」

 

 興味のない返事で座席間に会話は途切れた。エリが誰かを喜ばせたり怒らせたりする必要もなくなった。彼女は正面の赤信号を見ながら兄と離れず高校に通う方法を考えた。交差点を新舞島駅の方へ曲がれば桂木家は近く、街角に浮かぶ三次元電飾で帰ってきた実感が湧いた。

 志穂は髪を肩で揃えるエリに目を向けた。頭の回転が速く、中学生なのに短い間で彩香のことをよく理解している気がする。天を仰ぐ少女の傍らに母親の熱い眼差しが潜んでいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誰がために妹となる

「それじゃあ、暗いけど気をつけてね。飛び出しちゃダメよ」

 

 車の前で志穂は帰っていく京太の自転車へ手を振った。彩香に彼を送り届けてもらうつもりだったが、桂木家に到着して車をカフェの入り口に止め、降りて気が変わった。門に立つ彼女が息を切らして駆けつけた。助手席の窓をバンバンと叩いて開けさせ、沈着な態度のエリにいきなり食ってかかった。自転車が角を曲がって志穂が振り返ると、まだ彩香は覗き込んで怒っていた。

 

「帰ってくるまで玄関開けっ放しだったのよ。ちょっと、エリ聞いてるの」

「聞いてるしー。でも、姉さまがタイマーロックを切ってたんでしょ」

 

 エリはいい加減嫌になり、シート脇に手を伸ばした。徐々にリクライニングが倒れ、カッとした彩香は窓に体を突っ込む。Tシャツのぴっちりした脇腹がセンターピラーに食い込んだ。

 

「こら、逃げるな。閉めていかなかったのが悪いんだぞ」

「えぇー、違うじゃん。バイク整備する時の出入りが面倒で電源を切ったせいだし」

「そ、それは…ちはるさんが帰ってくる前にちゃんと戻してるんだから」

「じゃあ、わたし関係ないもーん」

「あー、開き直った。わー、わー、悪いんだー」

 

 彩香が太い脚をバタつかせた。その有り様を見た志穂は顔を押さえ、大きなため息をついた。

 

「彩香、ちょっと来てちょうだい」

 

 一度呼んでも窓から首を出した彼女は突っ立って動かない。横着な娘に怒るのを我慢し、志穂は大きく手招きした。母の元へのそのそと彩香は歩いてきた。

 

「何なの、まだ終わってないんだけど」

「私がエリちゃんを施設に送って行くわ。あなた、明日出勤でしょ」

「え、母さん休み?」

「明日の受け持ちは午後からなのよ」

「そっか。教師ってラクね~」

「何言って…まあいいわ。それより、今度来る時までに叱り方くらい覚えときなさい」

「はぁ……イテッ」

 

 ぽかんとする彩香のおでこを軽く叩いて志穂は運転席へ向かった。ドアを開けると、助手席の窓が閉まってシートはちゃんと戻っていた。エリの要領の良さに感心しつつシフトをDに入れ、額をさすってへらへらと笑う娘へパッシングした。彼女の側を通過する際、安堵して浮かれる姿に頼りない印象を受けた。

 

 車は路地でUターンして新舞島駅の通りに来た。二人になった車内が大型トラックと擦れ違って振動した。最終バスが戻ってきた駅前を過ぎ、志穂はおもむろに話しかけた。

 

「ところで彩香とはどこのバス停で会ったの」

「あ、はい、舞島市民病院前です」

「ああ、あそこは通ったわね。いきなり『こんなとこで暇そうね』とか言われたんでしょ、彩香は挨拶が苦手だから」

「はっ、ど、どーだったかなー」

「でもね、私はあの家に子どもがいれば事態が違ってくると思うのよ」

「ハイ、旦那さんの一人や二人。すぐ見つかります!」

 

 エリはとぼけながら答えた。舞島学園に通う学費をもらう作戦の話を蒸し返されないように軽口をたたき、視線を車道から脇へ逸らした。志穂はハンドルの下に手を置き、顔を動かさずに前を向いて続けた。

 

「エリちゃん、桂木家の子になって彩香を困らせてくれない?」

「えっ、わたしが姉さまの…」

「違うわ、私の養子にならないかってこと。当然、朋己くんも一緒に。そうすれば、舞島学園にも通わせてあげるし、いい話だと思わないかしら。さっきみたいに彩香の手を焼かせて欲しいの」

「本当にいいん……で、でも、それって迷惑なんじゃ」

 

 降って湧いた提案に困惑し、エリは大きく見開いた瞳を志穂に振り向けた。彩香を困らす事に背徳感があった。反面、兄のもとへ来れる願ってもない話に心が躍った。

 エリの気持ちの整理がつかないまま車は交差点を曲がった。歩道に立つ案内板が小さく見え、信号からは五十メートル以上距離がある。再び市民病院前のバス停。そこに座っていた自分を親切な彩香が見つけてくれた。ゆったりしたシートに腰を沈め、エリは窮屈そうに身を縮めた。助手席に目を向けた志穂が不安を振り払おうと手を振った。

 

「あ、全然いーのよ。どれだけ迷惑掛けても一向にかまわないわ」

「そんな…彩香さんを困らせるなんてできません、わたし」

 

 口を結んだエリが俯き、車内は静けさに包まれた。志穂はバックミラーに目をやり、Pスイッチをちょんと押した。勝手に速度が落ちた車は路肩に寄り始めた。完全に止まってハザードランプが点滅し、志穂は体をひねってハンドルに肘を掛け、彼女に目を細めた。

 

「彩香に悪いと思っているのね。有難いけど、もっと長い目で見て」

「長い目?」

「そうよ、桂木家での彩香の立場を逆にするの。あの子は困るとちはるさんを頼ってばかりで物事の対応力に欠ける。だから、エリちゃんが問題を起こし、彩香が解決する構図に変えるのよ」

「それじゃあ、姉さまのためなんだ」

「ええ、とんだ親バカでしょ。けど、彩香が少しでもしっかりしてくれれば言う事はないわ。あなたに義理はないし、嫌なら断ってちょうだい。ちはるさんにもなるべく助け舟を出さないようにお願いする。家庭がある人とはいつまでも一緒に居られないもの」

 

 言い終えた志穂がドサッと座席にもたれた。エリも両腕を伸ばして体を後ろへ倒し、夜空を見上げて頬を緩めた。カウンターに彩香の淹れたコーヒーが置かれ、トレーに載せてテーブルに運び、目の前の女性に遠慮する朋己に笑顔で差し出す――カフェの甘い生活を頭に描いた。嬉しそうな彼女の表情を見届けた志穂は一つ肩の荷が下りた気分だった。街灯に照らされた前方を眺め、ぼんやりして両目を閉じた。

 エリはフロントガラスの角にある車検ホロデータの有効年月日に気づいた。「いつまで困らせればいいのかな」と疑問を口にする。ふっと顔を向けると、志穂が低い声でブツブツと言った。

 

「ニガサナイ…ムスメシルカラ…」

「うわっ、また白いやつだ」

「ふぁ~あ、ちょっと眠っちゃったわ。寝言とか言ってたかしら、私」

 

 志穂が口に手を当てて姿勢を正した。エリは首をブンブンと横に振り、背けた体をゆっくりと戻した。ふーっと大きく息を吐いた彼女に今日の疲れが襲ってきた。

 車を発進させようと志穂は目をこすってサイドミラーに視線を向け、三角窓に目のような模様が見えた。ガラスの前で首をかしげたが、定期的に変わる流行りのホログラムかと考え、自動車にも詳しいちはるが夫に購入を薦めてくれたのを思い出した。志穂がエリへ振り返った。

 

「あ、それで、朋己くんと相談して返事を聞かせて……って眠たそうね」

「うぅん…お兄ちゃん…姉さま」

 

 エリの答えは夢うつつ。当初の目的を果たして朋己と高校に通う道が開け、彩香と食卓を囲む賑やかな毎日が始まる。進学校に変貌した舞島学園への合格も余裕に思えた。シートで安心しきったエリが寝息を立て、こくりこくりと揺れた耳元でピンクの髪留めが多くのばらけた毛を一か所に集めていた。少女は桂木家に迎えられ、一月後には家族となる。気持ちよく眠っている間に、車が山あいの家庭から漏れる明かりの少ない田舎道をひた走った。後は児童家庭施設で荷物を整理して過ごすだけ。兄に会いに行くため、もう長い時間一人しゃがんでバスを待つことはなかった。

 




―― 次章予告 ――

エリは桂木家の一員になり、養子の件を断り続ける兄の朋己に会いに舞島学園に行く。だが帰った後で替わりに京太の妹・みちほが居た。彼女と一緒に帰る途中、公園にアクマが… ⇒FLAG+13へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+13 エリー SO ANGRY
人材補完計画


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは奨学金の審査に落ち、鳴沢市にある彩香の実家・桂木邸を京太と訪ねた。
ちひろに舞島学園への進学を相談するものの、京太に物忘れが酷いと聞いて諦め、彩香の母・志穂から学費をもらう作戦に切り替えた。
エリは車で送っていく志穂に彩香を騙したと疑われ、彼女を慕いつつ羨む想いを吐露した。志穂が千夏に憧れた過去を語って微笑んだ。だが、彩香の中退した話を持ち出すと、一転怒り始めた。彩香に会った時と似ていると感じたエリは不満を吐き出させる。心のスキマに隠れる駆け魂が飛び出し、車の窓ガラスに勾留された。呆然としたエリが本音を漏らして作戦は失敗に終わった。
舞島市で京太を降ろして車は施設へ向かった。志穂はエリに妹として彩香を困らせて欲しいと頼んだ。
娘をしっかりさせたい母親の気持ちを知り、兄と舞島学園に通えるとエリは喜んで養子となった。



 黒ずくめの女が大通りに面したビルの玄関へと入った。鳴沢駅に程近い一等地を所有するのは言わずと知れた角習研究社。エントランスホールは三階まで吹き抜け、休憩エリアとしてテーブルや椅子が並んだ。もこもこしたロングカーデと裾の広がるスカートにスノーブーツを履き、会社員と思えない恰好をしていた。彼女は中央に立つ受付ロボットに名前と用件を告げ、エスカレーターに背を向けてトイレの奥にある右隅の通路へ歩いていく。先で待ち受けるエレベーターに乗った。

 十月も半分が過ぎ、秋空に恵まれた快晴が遠くまで広がった。彼女はガラス張りの窓に近寄って手をつき、ビルの合間から見える都会の眺望を楽しんだ。昨日まで文明の香りがしない地域に居たおかげで自慢のロングヘア―がぼさぼさだった。それでも、家へ帰る前にやる事があった。

 ノンストップで最上階に着いてエレベーターを降りて進むと、T字になった通路の突き当りにスライド式ドアがあり、上に社長室のプレートが掲げられていた。脇の認証パネルを無視して彼女は人差し指を横へ動かす。扉が静かに滑った。部屋の左側は広くソファーセットが置かれ、太陽が射し込んだ東南の角は全体が窓で開放的。一方、扉のある右側は窓にブラインドが閉じ、電灯の下に簡素なデスクと壁際に業務用キャビネットが配置された。室内に入って真っすぐ机の前にたどり着く。椅子の背もたれにスーツの上着が掛かり、卓上に黒縁眼鏡と雑誌が散らばった。

 彼女は経済誌を手に取り、表紙に『怒野ユイの提唱する新教育・TEELE』という大見出しが躍った。インタビュー記事をパラパラとめくり、口をへの字に曲げ、部屋の隅へ顔を向けた。

 

「私なんか前時代的な瓶持って山ん中の駆け魂を拾い集めてるってのに。あなた人間にでもなったつもり、ノーラ。こんな偽名まで使って金稼いでどうしようってのよ!」

「ん、誰……ハクアか、待ってなさい。よっこいしょっと…」

 

 浅黒い肌の女性がソファーの陰から現れ、幼子を白いブラウスの肩に抱いて姿を見せた。ノーラと呼ばれた彼女は光の中に穏やかな表情をたたえて近づいてきた。我が子を慈しむ顔に、ハクアは嫉妬が掻き立てられて雑誌を放った。デスクにお尻をつけ、両手をついてドスンと跳ね乗った。

 

「ふつう、子供は新地獄に置いてくるもんでしょ。旦那はどーしてんのよ」

「あの人は研究所で働いて忙しいから。ほら、シンちゃん。オバさん怒ってるね~」

「大体、何で私が資源課なのよ。そっちは情報局でも調査部だし、すぐに部長に昇進して」

「そりゃ、私はあんた達と違うし。ま、主任になれて良かったじゃない」

 

 ノーラは分厚いカールをかき上げ、ちらっと短い角を出した。由緒ある家柄の証拠と言える。ただし、悪魔の間では。彼女たちは死んだ人間の魂を浄化する地獄に住み、本来は地上に居座ることもない。人間界へ許可なく抜け出した悪魔の魂を『駆け魂』と言った。冥界と称する現在の地獄は法に則った統治組織を作り、駆け魂を捕獲するために部隊を編成した。かつて、ハクアとノーラは隊員を束ねる地区長として舞島市でキャリアを重ねた。

 その後、冥界内で二つの勢力が覇権を争う。二人も粛清に巻き込まれて左遷された。階級こそ落ちなかったものの、ハクアは自分を含めて六人の回魂資源課に送られた。弱って動けない駆け魂を収集するのが主な任務であり、アジアを一人で飛び回った――彼女が諦めたように息を吐き、手を横へ上げた。

 

「さっさと冥界情報端末を渡してちょうだい。午後から面談するんだから」

 

 魔力を持つ少女に駆け魂センサー内蔵の端末を渡して協力者にする。それまでは考えられなかったが、とある病院で女性に出会った。彼女の話を信用して準備を進めた。後は本人に会って口説き落とす段階に来ていた。

 お構いなしに息子が柔らかい胸元に手をトントンし、ブラウスのボタンを突っついた。ノーラは下がってきた彼を「よっ」と引き上げた。逆に、ハクアの鼻先に手を差し出した。

 

「データが先。山に逃げ込んだオールバックの刈り上げは撮ってきたんでしょうね」

「分かってるわよ、もうっ」

 

 ハクアが小さいメモリカードをポケットから出してデスクに滑らす。彼女たちは腐れ縁であって気が置ける仲間ではなかった。ノーラは止まったカードに目をやりつつ、背中で隠して引き出しを開けた。一個のどす黒い端末を指先でつまみ上げ、彼女が座る脇に下ろした。

 

「安い取引でしょ。長官に知られず手に入れるのは結構大変なのよ」

「そう、ご苦労さん。けど元独裁者なんか本になるのかしら」

「そこは知り合いにってね。もし買い手がつかなければ音声を加工するわ。オカルト雑誌の付録にビックフットの声と偽ってもマニアなら受けるし」

「ふーん、あこぎな商売だこと。ノーラに騙される間抜けの顔を見てみたいわ」

「よく言うわよ、旧悪魔の魂をこっそりと転生させてさ。あいつ等がタダで仕えると思う?」

「そ、それは違う。彼女は抗体チェックでも反応しなかったし、羽衣を持っていた。訳アリなのは認めるけどヴァイスじゃないわ。凶悪な駆け魂が増えてるのを話したら、自分から協力したいって言ってきたのよ。それと経費の範囲内で報酬は払うつもりだし……ちょっと聞いてんの」

 

 いつの間にか静かになった母子は授乳を始めた。そっちのけにされたハクアは握りこぶしを振り上げた。だが、すぐに腕を降ろした。これがうまくいけば自由に動かせる部下ができ、駆け魂が多い舞島市近辺の雑用を押し付けられる。彼女はノーラが放つ幸せな雰囲気へ手を伸ばそうとする自分に気づいていた。

 ハクアは音を立てずにデスクから降りた。体を半分ひねって冥界情報端末を掴み、卓上の小物にひらめいた。側の眼鏡を指で引き寄せた。

 

「コレもらってくわ。どうせ伊達メガネなんでしょ」

 

 返事を聞かず振り向かず、すたすたと出口へ向かった。自分の欲望に素直になった彼女がそこに居た。

 

 ところ変わって桂木家は土曜日の昼前。志穂はローテーブルにケーキと紅茶を出し、黒田夫婦をリビングのソファーで接客した。隣に義姉・千夏が座り、窓際に彼女の夫が並んだ。立ち上がった義兄が尻ポケットからキャップを取って頭にかぶせた。裾のごく短い毛を押さえて妻の横を通り、掃き出し窓に手をかけた。大きなお団子頭の志穂が慌てて立ち、ソファーの後ろへ回った。

 

「ああ、お帰りですか。今日はありがとうございました」

 

 志穂はお腹の前に手を重ね、義兄へ頭を下げた。毎年、この時期は庭木の剪定に来てくれる彼にお茶を出してきた。それも最後との想いで千夏も一緒に招いた。

 エリと彩香はちはるの車でイナズマートへ出かけた。今朝着いた志穂は午前中に掃除をしておくからと三人に生活用品を買いに行かせた。ちはるが居ない方が都合が良く、彼女と仲が悪い義姉に新しく娘に迎えるエリの性格や育った環境を伝えておきたかった。

 千夏がティーカップを傾けて飲み干す。立ち上がり、長居をしたといった感じで腰を押した。

 

「そんな畏まるこたぁないよ。新しく買った機械の試用みたいなもんだし」

「いえいえ、雑草まで刈って頂いて助かりましたわ。これからは家の周りの清掃とか彩香がエリに見本を示せると良いのですが…」

「なあに、大丈夫さ。このところ彩香に仕訳の勉強をさせてるんだ。次の年度にはいよいよ正社員だろ。うちは経理がいないから、締め日の前は私も忙しくてね」

「は、はいっ。でしたら四月までに資格を取らせますわ」

 

 志穂は側に近寄って思わず千夏の手を取っていた。壮年を過ぎて共通の孫が生まれ、学生時代のように会う機会が増えた。ただ、長女が黒田家で押しかけ女房になったり、次女を会社に採用してもらったりと迷惑を掛け通しの感があった。

 千夏が力を抜かせようと志穂の肩をポンと叩く。彼女もまた両親の世話を任せきりにし、持ちつ持たれつの間柄だった。彩香に期待する話しぶりも元気づけるため。本心では自分と似て面倒くさがりな姪が一念発起するとは思わなかった。生真面目な義妹に柔和な表情が戻り、眉にかかる銀のメッシュを払った。顔を横へ向けると、時計の針が正午を指そうとした。

 

「さ、帰るかな。うるさい妹が現れる前に……おっと、これは預かっとくよ」

「あら、一体何なんでしょう。理科室にありそうですけど」

「そうだな、世の中は前方だけ見て歩いてちゃいけないってことさ」

 

 それはハクアが棚の上に仕掛けた盗聴するためのアンテナである。アルミハンガーのような細い楕円形をした金属に緑色の基盤が付く。どこかで聞く人物がいるのは分かっていた。千夏は事務所で同じものを見つけたからだ。彼女が中に指を入れてくるくると回し、庭へ出ていった。

 志穂は窓の枠に両手を添えて舞島市で一番頼りになる背中を見送った。裏口の路地から軽トラのエンジン音が聞こえ、夫婦が平らげた皿を片付けながら役目の終わりを感じた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思わぬ人物

 玄関のドアが開く音がして騒がしくなった。紺のフレアワンピース。真っ先に、エリが手に紙袋を下げ、リビングに入ってきた。白いシャツ襟の上に満足げな笑みがこぼれた。

 

「志穂母さん、たっだいまー」

「はい、お帰りなさい。今からご飯の用意をしようと思うんだけど…」

「食べてきたよ。姉さまがお腹すいて動けないって言うから」

「じゃあ、手を洗ってきて。そうそう、部屋に学習道具が届いているわ。段ボールを開けて整理しなさい。来週から通学だし、制服のクリーニングカバーも取るのよ」

 

 ダイニングテーブルで迎えた志穂に、「はーい」とエリが片足を上げて半回転した。彩香が両腕にレジ袋を通し、コメの詰まるビニール袋を抱えて背を丸め、彼女の後ろをすり足で進んだ。妹の白い靴下が軽く跳ね、リビングを出ていく。志穂がジーンズを履いたガニ股の姉へ無言で手を振った。彩香は荷物を全て下ろし、カットソーの袖で額を拭って近づいた。

 

「疲れたぁ。ちはるさん全然持ってくれないし。ねえ、何で10kgもコメを買ってこさせるのよ」

「定期購買で二週間後に届くのよね。それまでカップ麺とおかずを夕食に出すつもりなの」

「なっ……そ、そんな事すると思ってんの。私だって栄養ぐらい考えてんだから」

「はいはい、わかりました。ところで例の件、手続きが進んでないようね。連絡を取り合っていると聞いて一任したのに。このままじゃ彼女が心配するわ」

「エリには審査が長いと誤魔化してる。けど、朋己くんの方から忙しいって言われちゃあねぇ」

「くれぐれも二人を不安にさせてはダメよ。にしても一ヶ月ね、ふぅ…」

 

 志穂は腕を組んでまばたきを繰り返した。彩香の目を見つめて近寄り、小声で会話を続けた。

 

「話す前にエリの養育委託を受けてしまったから。朋己くん、気を悪くしたんじゃないかしら」

「そうかな。母さんが棚に置いてった縁組制度の説明を読んだらお礼言われたし」

「彼自身について切り出した時はどうなの。嫌な顔してなかった?」

「そんなのスマホだったからよく分かんないわ。『ああ』とか『ええ』とか言った後に考えさせてくれって。それからは一週間おきに同じメッセージが来るだけだしさ」

「まあ、それで放って置いたの。あなた今年で三十一でしょ」

 

 静かに喋ってはいても母からいい加減な娘へ、つい小言に年齢が出てしまう。触れられた彩香は頭に血が上り、テーブルを平手で叩いた。

 

「もぅ、何で私が責められんのっ。朋己くんが養子になりたくないなら仕方ないじゃない!」

 

 彩香が声を張り上げ、志穂をキッと睨んだ。ちょうど、リビングの戸口にエリが顔を出した。

 

「この先っぽ、取れちゃったけど……姉さま、ほんとなの」

「いぇっ、居たのね。エリ…」

 

 しまったと思い、彩香は振り返った。眉をひそめたエリと目が合って苦笑いを浮かべた。彼女が壊れた書道の筆を放って姿を消した。穂先を蹴飛ばして廊下へ追いかけると、玄関のドアは開いたままだった。ため息をつき、朋己のところに行ったのかと顔を押さえた。

 手を洗ってきたちはるが廊下からキッチン横の戸を引いた。水切りかごの二枚の洋皿を目にし、ニコッとした。ダイニングに立つロングスカートの後ろ姿へそろそろと歩き、パッと飛び出た。

 

「志穂さん、駅裏で買った苺ショートおいしかった?」

「あっ、脅かさないで。え、ええ、とってもおいしかったわよ」

「義兄さんの分、もう一個買えば良かったわ」

「いいのよ、彩香が我慢してくれるでしょうから」

「そうね。お昼でしょ、すぐに用意するから待ってて」

 

 ちはるは椅子を引き、遠慮する志穂を座らせた。冷蔵庫のカレーを温めに台所へ向かった。

 リビングには彩香が腕組みして戻ってきた。朋己は養子の話をしてから電話が通じない。志穂はテーブルに片肘をつき、楽しそうなちはるを見ている。なぜか自分だけが焦っていた。彩香は母とエリの密約を知る由もなかった。床で自立するコメ袋に腰掛け、首をかしげた。

 

 エリは新品の白いスニーカーで路地を走り、住宅街の坂を下りきった。大型トラックが行き交う国道に横断歩道はなく、自動車用信号は赤色が点っていた。側に歩道橋が架かるが、彼女は右左と首を振り、両方からの車の接近を見計らって横切った。

 樹木がうっそうと両脇に生い茂った二車線道路は島の先端へ延びた。エリが歩道を真っすぐ行くと、開けた入り口から自然公園と奥に複数の集合住宅が見え、テレビドラマに出てくるような団地が並ぶ風景を眺めて通り過ぎた。交差点で舞島学園を示す案内標識を見上げた。横断歩道を渡って曲がり、制服姿の数人が目に留まる。六角形の校章を胸に付けた男女がバスに乗り込んでいき、来年は自分もと鼻息荒くコンクリート塀の横を進んだ。

 校門に『学校法人舞島学園』の黒い文字が浮き出ている。聞きしに勝る広大な敷地で建物までは少し距離があった。エリは葉が落ちた木の並ぶ通りを歩いていく。タイヤの隠れた自走式ロボットが追い抜きざまに顔や背恰好をレンズで捉えた。頭に当たる部分がピカピカと光った。

 

「舞島学園へようこそ、中学生ですね。今日はクラブ活動ですか。それとも、学校見学ですか」

「えーっと、見学の方かなぁ」

「それでは15分以内に中央校舎の事務に届け出て下さい。許可なく校内をうろ……」

「いいよ、わたし勝手に見て回るからさ」

 

 腰くらいの高さの頭をパンパンと叩き、エリは駆けていった。天文部の部室を探して朋己に会うのが目的だった。左右対称な二つの校舎を繋ぐアクリル屋根の下を歩き、大木の太い根元を通って中庭に出た。芝生の中央に生える黄葉したシンボルツリーへ午後の日が射した。左右の二棟は扉が開かれ、汗をかいた彼女は日陰になった西の校舎に入った。

 ガラス張りの中庭側は最上階まで吹き抜け、一直線の階段が全ての階を繋いだ。一階でエリが職員室、会議室、保健室、……と教室札を確かめた。部活に使えそうもなく、手すりを掴んで階段を上り始めた。

 エリは最後の段を上がって廊下の最奥に着いた。四階は特別教室ばかり。早速、側の教室に駆け寄ってドアの取っ手を引いたが、ビクともしなかった。学園内は電子ロックが使われ、施錠と開錠は専用端末で管理された。彼女が片足を上げてドア枠にかかとを掛けて両手で引っ張る。青筋を立てていると、自走式ロボットが警告音を鳴らして近づき、胸の部分に赤い点滅を繰り返した。少女はハッとして飛び退いた。

 

「うわっ、いきなり何すんのよ!」

 

 片膝をついて怒鳴った。ロボットの背部から投げられた三角形の網が床に広がり、回収するモーター音が激しく唸る。エリは廊下の先から聞こえてくる別の物音へ首を振った。同じ機体が二体とさらに増え、顔色を変えてスタコラと逃げ出して階段を二段飛ばしで下りた。

 一階でもロボットが三体並んで待ち受けていた。だが、エリは構わず猛然と迫った。残り数段という所で両手を前に伸ばし、両足を揃えてジャンプする。最前の頭頂に手を突いて跳び箱のように足を水平に広げて一気に飛び越えた。勢い余って素っ転んだ少女が急いで振り返り、飛び出た網が互いに絡まる様子に大きく息を吐いた。彼女はゆっくりと立ち、めくれたワンピースの裾を直してほこりを払った。

 エリが向かう出口でタブレットを持ったスーツの人物は口元にシワを寄せる。センター分けの白髪の女性が二、三歩前に出て腰に手を当てた。

 

「私は副校長の二階堂だ。いけないな、学校を遊び場にしてもらっては」

「ち、違います。天文部の兄を探してただけです」

「天文部、天文部と。すでに部室が閉まっているし、午後の使用許可は出ていないが」

「それじゃあ、寮に帰ってるんだ」

「ほう、お兄さんは寮生か。今日は田舎から出てきたのかい」

 

 二階堂はタブレットから目を離し、少女に微笑んだ。エリは朋己に会いに行っても同様に許可が必要だろうと押し黙った。後ろでピコーンと音が響き、二人は廊下の隅へ顔を向けた。二枚の扉が外側に吸い込まれ、エレベーターを車いすの生徒が降りた。ショートヘアの中学生は頬がぷっくりとし、エリは写真で見覚えがあった。

 

「あれっ。たしか京太の妹、みっちゃん」

「小阪…いや、黒田みちほか。彼女と知り合いなのだな」

「親戚です。わたし、桂木エリって言います」

「では中等部棟に来た訳は……おい、ちょっと待て」

 

 エリは止めるのを聞かず、みちほの元へ走っていった。二階堂は細い肩に揃う髪が小中学生を思わせて調べるのをやめた。職員室へ戻ろうとした時、彼女の背中に髪が黒々と伸びて映り、改めて目を向けた。

 

「あれは確か桂木妹、名前は――」

 

 向いた表情はあどけなく見えるものの、二階堂がつぶやいた。みちほが顔を背け、後ろのエリが大きな瞳で笑いかける。女性はタブレットで頭をポンポンと叩き、その場を後にした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

実は〇〇〇んです

 舞島市の海にちょこっと突き出た島は緑豊かな土地にコンビニの他は店舗もなく、舞島学園の中等部・高等部と大学、学生寮といった関連施設がある。歩道が広く取れる通学路は電柱の地中化やバリアフリー化が完了していた。

 校門を出たところのバス停に二人。みちほが眉間にシワを寄せて小ぶりのスポーツバッグを抱きしめた。車いすに座る彼女の頭にお腹が乗っかり、エリは案内板へ首を出していた。

 

「バスは休日ダイヤか。三十分もあるし、わたしが送っていくよ」

「うぇっ、いいです。じいちゃん呼ぶから」

「遠慮しない。フフフ、こう見えても二つ年上なんだぞ」

 

 歩道にスニーカーのかかとを着けてエリが胸を張った。車いすを引いて左に曲がり、得意になってスキップした。みちほはそばかすの上の瞳を端へ寄せた。面倒な他人との付き合いを避け、お節介なタイプは苦手だった。交差点で前方を横切る車が目に入り、慌ててアームレストを持って上体を反らせた。ブレーキが掛かってバッグが転がり落ち、エリは笑いながら前に来て拾い上げた。

 

「へへ、ごめんね。今度は気をつけるわ」

「どうも」

 

 みちほは不愛想に荷物を受け取った。エリは慎重に黄色い点字ブロックを乗り越え、横断歩道を颯爽と車いすを押し、信号の下で「上がるよ」と声をかけた。僅かな高さをスムーズにキャスターが上がった。秋空を遮るものがない歩道に兄と会えなかった鬱憤は晴れていた。また、無口で控えめな末っ子を相手して歩き、自然と心が広くなった。フットレフトに女子の学生靴が乗り、灰色のカラーブロック上に先頭を行く。膝から足元まではそれぞれの裾で覆われた。

 

「みっちゃん、スラックスなんだ。お姉さんは…」

 

 正面から眼鏡を掛けた暇な大学生風の男子が自転車で近づいてきた。エリは車いすを公園の入り口へ向け、脇に止めた。みちほの顔を後ろから覗き込んで人差し指を立てた。

 

「来年、お姉さんは舞高に通う予定だけど、スカートを選ぶわ。長い両脚にハイソックスが伸びてスラッとして映えるでしょ」

「ハイッ、その話は嘘が混ざってまーす」

「いっ……いつから居たの。てか京太、何しに来たのよ」

「彩香さんが連絡取れないって言うから、こうして探しに来たんです」

 

 通過した京太の自転車は近くに停まっていた。エリは彩香の顔を思い浮かべ、首をさすった。

 

「心配しなくてもちゃんと帰るわ。でも喉が渇いたし、ジュース奢ってよ」

「あれ、お姉さんはお金持ってないんですか」

「そうよ。お兄ちゃんが端末で払ってくれるからね、みっちゃん」

 

 振り返ったエリは背を屈め、みちほの腕に両手を掛けた。彼女がさっと上げて振り払い、ハンドリムを回して車いすの方向を変えた。後頭部を見せた少女は声を尖らせた。

 

「自分で買うわ。京兄なんかに出していらないっ」

 

 みちほが怒って公園に入っていき、両手を上下させて一人で自販機へ向かった。彼女の剣幕に圧倒され、エリは上体を起こして頭を掻いた。後ろに首を回し、突っ立っている少年の顔をじろりと見つめた。

 

「あんた達、けんかでもしてんの?」

「さあ、俺は知りませんよ」

 

 京太は自転車から手を離して肩をすくめた。エリはとぼけていると直感し、隠したい兄妹の事情に口をつぐんだ。

 

 三人が訪れた公園は広がる芝生に木々が生え、散策するための遊歩道が設けられた。文教地区にあり、土曜日に人影は少なかった。エリは自販機が並んだ横にあるゴミ箱へ空き缶を投げ、ピンポイントで縁に当たって外に落ちた。まだ京太やみちほは飲んでいる最中。仕方なく自分で拾いに向かった。芝生の手前でエリはポイっと捨てて顔を上げ、照明灯の上に腰掛ける女性が映った。

 

「ちょっと、あそこに変な人がいるわ」

「五メートルはありますよ。自力で上ったんですかね」

 

 京太は芝生に足を踏み入れてゴミ箱の奥へ出た。後ろから飛んできた金属が当たり、カコンと音がした。頭を押さえて振り向くと、みちほが知らん顔して公園の出口へ向かう。彼女も細い目を横へ動かし、体をビクッとさせて車いすが止まった。

 腕組みする女性が黒いスカートであぐらをかき、黒いロングカーデの裾を宙に垂らした。そして自身も浮き始めた。彼女は魔法の使い手であり、考え事をしながら空中で姿勢を保つ芸当をやってのけた。彼女こそ前々からエリを盗聴していた悪魔・ハクアだった。今もイヤホンをして桂木家から受信したと思われる音声に耳をそばだてた。しかし、競馬実況と「くそーっ」という女性の低い声しか聞こえてこなかった。

 

「ふぁ~、真昼間から賭け事をするなんてヤクザが住んでるのかしら」

 

 帰国したばかりで曜日感覚がないハクアは上空に両腕を伸ばし、地面へ目を転じた。目当ての少女は近くにいた。イヤホンを外した彼女が頭から飛び下り、中間でブレーキを掛け、両腕を軸にふらりと下半身を振った。スノーブーツで硬いコンクリート舗装にスッと着地し、腰まで伸びた薄紫の髪を翻した。

 エリを目指す途上、背の高い京太が隠すように行く手を阻んだ。身構えるハクアに、背を丸めた彼は胸の前で手を擦り合わせた。

 

「こんにちは今日はお日柄も……そうだ。バイバイキーン、パピプペポ~」

「変わった挨拶ね。ま、握手してあげてもいいわよ」

「やったぁ、『メー』に書いてあった宇宙語が通じたぞ」

 

 ハクアの差し出す右手を京太が喜んで両手で握り締めた。彼女は感動する彼を押しのけて歩いてくる。憮然としたエリだが彩香を怒らせた反省を生かし、急に愛想笑いを浮かべた。

 

「お、お姉さんはどちら様でしょうか」

「私はハクア。あなたと同じ、正真正銘の悪魔よ」

 

 笑みを見せるハクアを上から下へエリは眺めた。長髪はボサボサ、服の汚れがひどく、ブーツも泥だらけ。不審な言動といい、どこからどう見ても怪しい人物だ。しかも、彼女は異臭を放っていた。とりあえず、一歩引いて鼻で息をしないよう努めた。

 

「ぎょーあどごがらぎだんでずがぁ」

「冥界のことは思い出してない……あら、やけにつらそうね」

「ばい、あだじいまがぶんじょーだんでずぅ」

 

 エリが舌を出して喋った。ハクアは周りの枯れ葉が落ちた芝生を見やり、袖口を鼻先に近づけて嗅いだ。見る見るうちに顔が赤くなった。プライドの高い彼女は遠まわしにバカにされたと感じ、目の前の小娘に気色ばんだ。

 

「シャワーを浴びた後で家に行くわ。待ってなさいよ、桂木えり」

 

 ハクアは少女の脇を走り抜け、出口へと勢いをつけた。両手を後ろに向けて浮かび、ヒューッと低空を飛んで公園から見えなくなった。緊張を解いたエリは鼻から思い切り空気を吸い込んだ。

 静まる芝生に鳥がさえずり、京太は辺りを見回した。ハクアに名指しされたエリが遊歩道の端で顎を押さえた。駆け寄った彼は土に足を取られ、握手した手のひらを大事そうに顔へ向け、肘が肩甲骨を小突いた。すぐさま彼女は振り向いて肩に息を吹きかけた。

 

「もぉー、新品おろしたてのワンピースを汚さないでよ」

「ところで空飛ぶ宇宙人、どこ行ったんですか」

「宇宙人は普通に走って帰ったわ。それに下に落ちただけで飛んでないでしょ。濃い色の洋服着てりゃ、『あなたと同じ、正真正銘の悪魔』って何のコスプレなの」

「いや多分、『あなたと同じ小身長のア・クマ星人』の聞き違いです」

「は、わたしの事バカにしてんの。じゃあ、第三者に飛んでたか聞こうじゃない」

 

 向き直ったエリは車いすのシート上がスポーツバッグだけなのに目を丸くした。後ろへ手を伸ばして顔を叩いた。

 

「あっ、居ないわ。みっちゃんが消えちゃった」

 

 唾液の付く指を京太が落ち着いて反対側の芝生へ向けた。ぽつんと生えた木は子供が足を掛けて登れる二股に分かれた太い幹を伴った。みちほは緑の下にたたずみ、スマホをいじっていた。

 

「脳性麻痺と言っても軽度なんです。ズボンで見えないけど、右足に装具を付けてるから少しなら歩けます。家ん中じゃ跳ねて移動してるし、車いすは外用ですね」

 

 エリは障害の程度を言葉で受け取ったが、頭にイメージが湧かなかった。遠くの彼女はスラッとして見えた。ブレザーのボタンを外し、スラックスを身にまとい、ボーイッシュな短い髪型で何となく恰好よかった。内向的な大人しい少女がエリに詩人を思わせた。

 

「ねえ、彩香さんより背が高くない?」

「そうですね。叔母さんだと165cmはないでしょう」

「みちほ、真面目で女の子にもてそうね」

「あいつがですか。ははは…」

 

 苦笑した京太と違い、初めて会ったエリには良い所ばかりが目についた。素敵な身内がいるのを朋己に教えれば、養子を断る彼も翻意するのではないかと思った。しばらくして、祖父の軽トラが迎えに来た。みちほが助手席に飛び乗り、車いすを荷台に積んで先に帰った。別れた後の帰り道は彼女の話で持ちきりだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

姪は名が冥からメイト

「顔つきは千夏さんだけど目元がおじいさん似なのね、みちほって」

 

 エリはスカートを揺らし、桂木家のスロープを上りながら振り向く。京太が自転車を引き入れてカーポートへ向けた。彼は妹の顔を気にしたこともなく、早く話題を逸らしたかった。

 

「よく分からないなあ。それなら、エリさんは朋己さんと似てるんですか」

「うーん、そう言われると。でも実際そうだと思うよ、兄妹とっても仲良しで……だから、京太もお兄さんだし、みちほを可愛がんないとさ」

 

 角を曲がったエリが頭の上に手を組み、気取って歩いた。京太は停められた叔母のバイクと自転車を並べ、彼女に目もくれずにスタンドを立てた。しれっと無視して端の階段を上がると、玄関先で人差し指がビシッと彼へ伸びた。

 

「京太、このまま妹に嫌われててもいいの」

「そんなことを言われても…」

「お互いの理解が大切よ。わたしとお兄ちゃんは心が通じてるでしょ」

 

 大マジメな顔してエリは家に入っていった。リビングはすでに志穂とちはるが帰った後、彩香がローテーブルの折り畳みタブレットに顔を寄せる。廊下から戸が引かれて彼女は立ち上がった。

 

「あ、お帰りなさい。ケーキがあるから手を洗ってきて」

「うん、ただいま」

 

 二人が頷いて廊下の奥へ行き、彩香もキッチンに向かった。ボソボソと口にして彼女は白い箱からケーキを出して皿に載せた。脇の戸を入ってきたエリたちに手渡し、落ち着かない様子で調理台に戻り、下を向いてコポコポとお茶を注いだ。

 京太と並んで座るエリはセロハンを巻き取って舌なめずり。フォークを握った背後に、気まずそうに頬を掻く彩香が立っていた。彼女はもぐもぐする横からコップを出した。

 

「はい、お茶……あのさ、と、朋己くんの事なんだけどね。さっきは口が滑っちゃっただけで彼にはっきりと断られた訳じゃないの」

「れも、姉さまは養子になりたくなさそうって思ったんでしょ」

「そこはそれよ。あ、そう、朋己くんはこっちに来てクラスや部活の友達といった人間関係ができてるの。高校生って敏感な年頃だし、他人の目も気になるわ。名字が変わったら、どう思われるか悩んだりするんじゃないかな」

「えぇ~、お兄ちゃんはそんなこと気にしているの」

 

 ぽろりとケーキの欠片がテーブルに転がった。彩香は椅子の背に手をかけてエリの顔を覗いた。

 

「だからね、母さんが…わ、私も少しそっとしておこうと思ってるのよ」

 

 エリが生クリームの付いたフォークをくわえ、口をすぼめた。朋己が頑固なのを一番よく知っていた。わざわざ面倒な話を持ち出して彼に避けられるよりも、他人に兄妹である説明をする不便の方がましだった。

 首を曲げると彩香が微笑みかけ、向こうで京太にくすくすと笑われた。エリはムッとした。

 

「何笑ってんのよ」

「だって、お兄さんと心が通じてるんでしょ」

「と、当然よっ。当たり前じゃない」

 

 残ったケーキにフォークをぶっ刺し、口へ運んだ。実際に会えたら兄の気持ちを理解する自信があった。しかしながら、画面越しでは妹からの一方通行になりがちだった。

 

 日が暮れる頃、ハクアは桂木家の玄関ドアの前に下り立った。取っ手を引くが、鍵がかかっていた。こうした機器は万能電子制御ソフトを用いる。悪魔の魔力を使って念じるだけで専用端末から電子機器を自在に操れた。玄関に自動で電灯が点り、ドアを閉めた彼女が手を低く差し出した。

 

「ああ、お控えなすって。ハクア・ド・ロット・ヘルミニウムと申します」

 

 玄関からドスが利いた女性の声が反響し、リビングの戸口からエリがそっと顔を出した。

 

「あっ、誰か勝手に入ってきた」

「ほ~ら、ロックをしないとこうなるでしょう」

「え、したはずだけど」

 

 エリの肩を押さえて彩香が渋い顔でリビングを出た。玄関ではパンツスーツを着た四角い眼鏡の人が大股を開いていた。廊下の真ん中で足を止め、首の後ろに手をまわした。

 

「あのー、うちは訪問販売はお断りしてるんですが」

「え、あれ、極道の家じゃ…」

 

 ハクアは間違いを察し、「えいっ」と人差し指を突き出した。錯覚魔法をかけて見なかった事にさせた。彩香はぼんやりした気分になり、ふらふらと歩く。エリがとことことやってきた。彩香の背中にバッと抱きついて支え、ハクアへ語気を強めた。

 

「あんた、彩香さんに何したのよ」

「忘れさせる魔法を使ったわ。公園で言った通り、私は悪魔だし」

「あの時のオバさんが……姉さま、起きてっ」

 

 エリが前に回って彩香の顔へ手を振る。寄り添った姉妹にハクアは舌打ちし、上着の内側に手を入れた。邪魔な家族を遠ざける物は用意してあった。以前からノーラの出版社に籍を置いて地上で活動した。会社員を演じるのはお手の物と、薄い胸を張って二人の先へ紙の名刺をヒラヒラとさせた。失礼な態度に怒った少女が手を伸ばしてもぎ取った。

 

「フンッ、今時こんなの使って。ロクな人間じゃないわ」

「あ、エリ、失礼でしょ。黙ってなさい」

 

 ここで我に返った彩香はエリの手で破られる寸前の名刺を取り上げた。堂々とするハクアと役職名を見比べ、自分と年の変わらなく見える女性に感心した。あっかんべーをする妹を制止し、彼女へ歩み寄った。

 

「角習研究社って、教科書や参考書の会社でしたよね」

「ええ、それ以外に調査や研究もやってるわ。私の部署は全国の優秀な学生を調べて学習の状況をモニタリングするのが仕事。今日はその子に会いに来たの」

「えぇっ、エリが全国レベルの成績?」

「そう、聞こえなかったかしら」

「こ、これは何のお構いもしませんで。お茶いれてきますわ」

 

 彩香は偉そうな仕草のハクアを疑いもしなかった。パリッとした身なりで一流企業の人間と信じ込み、あたふたとリビングへ引っ込んだ。

 玄関でエリと二人になり、悪魔と名乗るハクアは框にドスンと腰掛けて両手をついた。

 

「舞島市北部の児童家庭施設に居たでしょう。あ、座っていいわよ」

「何でそれを。ていうか何様、この人」

「あなたが桂木えりって事は悪魔DNAで調べがついてるの。けど、私が教えた方角だけでここに来れたのは褒めてあげる。それと記憶が戻ってないのは仕方がないわね」

「悪魔DNA…教えた方角…記憶がない…何のことだ」

 

 腕組みしてエリは顎に指を押し当てた。怪しい人物なのは間違いないが、さらに人を惑わそうとしている。体をくるりとリビングの戸へ向けた。

 

「そうだ、姉さまに聞いてこよう」

 

 分からないふりをして入った脇にある電話で110番と。ハクアは慌てず、伊達メガネを取って床に置いて不敵に笑った。

 

「ふふふ、待ちなさい。見たでしょ、人間から飛び出した駆け魂を」

「え、駆け魂?」

「ええ、表情がある白くて、人間はユーレイとか言ってるわ。奴等はヴァイスと呼ばれる邪悪な悪魔の魂なの。女性の心のスキマに侵入して生まれる子供の肉体を乗っ取る」

「じゃ、あれが……」

 

 エリには一度だけ心当たりがあった。鳴沢の桂木邸から帰る車中で狂暴な形相をした白い霊魂が「コドモ」と呻いて飛び回り、よく分からないうちに窓ガラスに勾留された。霊魂は志穂から出たように見えた。あの車はお下がりとして使えそうな衣類、日用品、学習椅子を運ぶため荷物スペースが多い車に買い替わった。忘れていた奇妙な現象を思い出し、体をゆっくりと少しずつ後ろへ回転させた。

 志穂に買ってもらったワンピースを着たエリは桂木家が自分の家となった。玄関に我が物顔で居座るハクアに闘志をみなぎらせ、ヒヒヒと笑う悪魔は悪いことを企てているに違いないと、股を開いて片腕を水平に伸ばした。

 

「駆け魂め、この家に手出しはさせないわ!」

「そうじゃなくて、冥界から抜け出した駆け魂を追ってる方。私は警察みたいなもんよ」

「め、冥界って死者が行くとこで、うちは墓場じゃないぞ」

 

 エリが廊下の中央で頑なに突っ立った。顔を後ろへ向けたハクアはやむなく革靴を脱ぎ、腰を上げて家に上がった。手の届く距離まで近づくと人差し指を立てた。

 

「よく聞いて、私はあなたに会いに来たの。悪魔の桂木えりにね」

「へぇっ、わたしが…」

 

 腕を下ろしてエリはまさかと口を押さえた。物心がついた頃には兄が側に居ていつも遊び相手をしてくれ、母親が亡くなって施設に引き取られてからも離れ離れになった記憶もなかった。自分が悪魔とは思えないし、朋己も悪魔とは思えない。ましてや、朋己は兄であり、兄でない朋己は有り得ない。兄妹は血が繋がってない他人というシナリオはまったく考えられなかった。

 ハクアは押し黙った少女の顔へ手を振り、反応がなく肩をすくめた。間もなくしてエリは怒りで体をわなわなと震わせて叫んだ。

 

「わたし、悪魔なんかじゃないもーーん!!」

 

 正面にいたハクアが思わず廊下に尻もちをついた。さっきまで侮っていた記憶のない小娘が全身から魔力を放出し、背後に長い黒髪の女性像を浮かび上がらせた。彼女はヴァイスかと見紛う迫力のエリに目を見張った。それは強い悪魔である証であり、待ち望んだ有能な部下の出現だった。

 ハクアは後ろに両手をつき、ニヤリとして見上げた。エリに悪魔である自覚さえ戻れば仲間に引き入れられると舌なめずりをした――見てなさい、ノーラ。必ず男作ってデートしてやるわ。

 




―― 次章予告 ――

ハクアから自分の正体を教えられ、エリは朋己と兄妹であると信じて事実を受け止める。京太にも妹とは仲良くして欲しいと思った。翌日、黒田家を訪ねてみちほの部屋に入ると… ⇒FLAG+14へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+14 悪魔が人間と言われて
魔力は分かりやすく


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは桂木家の養女になり、施設を出て彩香の妹として一緒に暮らすことになった。
十月半ば、彩香は朋己の説得が進まない件を母・志穂に責められ、彼が養子を嫌がるせいだと怒った。それを聞いたエリは確かめようと舞島学園へ行き、朋己に会えなかったものの、京太の妹・みちほが居て家に送っていく。エリを迎えにきた京太に、みちほはきつく当たって公園に入っていった。
公園ではハクアが悪魔と称し、エリは怪しい人間と決めつけた。だが、桂木家に再び現れた彼女は駆け魂の話をし、悪魔と呼ばれたエリは怒り心頭に。体の全身からは魔力が放出された。
人間である朋己と兄妹でもなく、他人なんて有り得ない。エリは「悪魔じゃない」と叫んだ。



 桂木家に来た悪魔・ハクアは彩香がキッチンへ引っ込んだ隙に、玄関でエリに自分と同じ悪魔だと告げ、信じたくない彼女は怒って叫んだ。ところが、全身には魔力が溢れ、えも言われぬ感覚が手足に走った。キラめく両方の手のひらを並べてエリが見つめた。

 

「あれ、どうしたんだろう。ビンビンしてる」

「どうやら魔力はよみがえったようね」

 

 立ち上がってハクアはスラックスに付いたほこりを払った。太腿の辺りをごそごそとし、エリにポケットから出した手を伸ばした。

 

「冥界情報端末『М42』。私からのプレゼントよ、触ってみて」

 

 ハクアの手のひらに置かれたどす黒い色は京太のと同じだった。エリは腰を引いて端末の上で手を右へ左へ払い、意を決して取り上げた。手触りはツルツルとしてプラスチック製で軽く、真っ暗な画面にフードをかぶったお茶目なドクロが3Dホログラムで浮かび上がった。「あなたが使用者ですか」と尋ねられ、彼女がうんと首を縦に振った。

 手に載った端末は普通のスマホっぽい。エリは画面に指を当てトントンと触り、顔を上げた。

 

「このスマホ、わたしにくれるの。でも何で?」

「ま、あなたがうまく使う事ができるならばの話だけど」

「そりゃ、スマホくらいは…」

「それじゃあ、『玄関の電気が消える』と心の中で唱えてくれるかしら」

 

 ハクアが腕組みをしてニヤニヤと笑った。エリは何かの引っ掛けと疑い、乗らないように天井を見上げた。今からでも警察に連絡できないだろうかと頭の中で考えた。すると、玄関の電灯が赤く光ってパカパカと点滅を繰り返した。彼女は口を開けて驚いた。

 

「えっ、何これ」

 

 顔を下げてエリが端末に首をかしげた。ハクアは反対側から覗き込み、ディスプレイパネルの上にあるセンサー部分を指した。

 

「ここに念じて端末をかざせば他の電子機器を操作できるわ」

「へー、最新のスマホは脳波で動くのか」

「ただし、使う者の能力に依存するし、それなりの魔力を消費するの」

「え、それって…」

 

 話の続きを察したエリは後ずさって冷や汗をかいた。ハクアは人差し指を振り、胸を張った。

 

「この端末は充電も不要で、悪魔が放出した魔力を魔法に変換できるの。昔はバディに首輪を付けて支配してたけど、今はこれを渡すと進んで協力してくれるわ」

「じゃあ、わたしが悪魔ってことに……」

 

 エリの表情はだんだんと曇っていく。ハクアが技術力を誇らしげに紹介し、これ見よがしに冥界を知らない少女に語り始めた。彼女は聞きたくないと、手を突き出した。

 

「もういいです。やめて下さい」

「あら興味がないの。冥界は死んだ人の魂を浄化し、それを天界で人間に与えるとか」

「わたし、お兄ちゃんとここに生きてるから」

「そう、じゃあ…あなたがどうやって地上に生まれたかを教えてあげるわ」

「ど、どうせ怪獣みたいに卵から出てきたって言うんでしょ!!」

 

 プイッと横を向いたエリは目に涙を溜めた。朋己と兄妹でないと分かっても実際に言葉で聞くのはつらくてたまらないことだった。彼女の顔はトイレがある廊下の隅へ向いた。怒り出した少女の横顔に、ハクアは腹を抱えてゲラゲラと笑った。

 

「あーははは、怪獣なんて映画の見過ぎね。あなたの魂は人間の魂として天界へ送られたのよ」

「フン、悪魔と人間が同じな訳ないじゃん」

 

 エリに懐疑的な目を向けられ、片手で腹部を押さえたハクアが反対の手を彼女へ振った。

 

「まあ、分からないように加工したわ。でもバレたら冥界に不良魂として戻ってくるし、あなたがここに居るってことは人間の両親から産まれた人間でしょ。魂は悪魔だし魔力を持つけど、家族と血が繋がっているのも間違いないわね」

 

 ハクアの目は笑っているが、エリは話に真実味を感じた。というか、信じた。支え合って歩んできたこれまでの兄妹関係を嘘とは思いたくなく、兄に守られてきた妹の想いはこれから兄の恋人を見つけて幸せになってもらうことである。そんな二人の絆を根底から覆す危機が去り、胸の前で手を組んでホッとした表情を浮かべた。

 

「はぁ~、良かったぁ。お兄ちゃんと家族で」

 

 エリはワンピースのスカートを太腿に挟んで腰を落とし、ペタッと尻をつけた。廊下に力の抜けた彼女が座り込み、ハクアは笑いを抑えて背筋をシャキッとさせた。ボーっとする彼女の前にしゃがんで床に膝を付けた。

 

「オホン。で、今日はバディとして働いてもらうために会いに来たの」

「えっ、バイトの勧誘だったんだ」

「駆け魂にも色々あって人間に取り憑くことができるのは一部なの。それ以外の駆け魂は大抵人間界ではエネルギーが尽きると動けない。私の仕事はそういった駆け魂を回収する事だけど、忙しくてね。あなたのような魔力を持つ人間が手伝ってくれれば少しはラクになるわ」

「それでわたしの家に……バイト代も出るのかな」

「ええ、成功報酬よ。法治省のサイトから申請できるから、まずはスタートメニューを押して」

 

 ハクアはてきぱきと指図をして冥界情報端末の説明から始め、少女をすっかり自分の部下扱いした。お金に目がくらんだエリは前髪を揺らして何度も頷いた。二人は時が経つのを忘れ、いつしか窓の外は真っ暗になっていた。

 廊下で座るエリたちの頭上が暗くなり、明るくなった。リビングからお盆を抱えた彩香が現れてスイッチを切り替えた。

 

「こらっ、緊急用の電灯なんか点けちゃダメでしょ。警察が入ってくるじゃない」

「あ、戻すの忘れてた」

「ははは、遅くなってすいませんね。知り合いにもらった玉露が倉庫にあるのを探してて」

 

 エリの横で彩香は愛想笑いをして頭を掻き、ハクアはすっと立ち上がって微笑み返した。

 

「お気遣いはいりませんわ。彼女には高校に入ってからレポートを提出してもらおうと思っています。つきましては後で我が社の調査方針を送らせて頂きます。差し上げたスマホはご自由にお使い下さい」

 

 でまかせの話をしたハクアはお辞儀して下を向いてほくそ笑んだ。彼女が背を向けてすたすたと歩き、框で飛び跳ねて玄関から出ていった。

 エリは這って土間の手前まで行き、彩香も変な顔をして来た。立ったエリが後ろへ見上げた。

 

「靴履かないで帰っちゃったわ、ハクアさん」

「そーねー。キャリアがあるってのはやっぱり特殊な人間なのかなぁ」

「ううん、わたしたちと同じ人間だよ」

「そういうこと言ってんじゃないの。さあ、夕飯にしましょ」

 

 彩香に優しく微笑みかけられ、彼女は視線を逸らした。ハクアから聞いた悪魔の話を打ち明けるのはよそうと考えていた。まだ残った魔力によって手がビリビリした。彩香は「行くわよ」と手を上げてリビングへ向かった。他人から妹になった自分が人間かどうか怪しいと知ったら、どう思うのだろうかとエリは玄関に留まった。

 

 南雲市某所、住宅街に庭の雑草が背丈以上に伸び放題な古い木造家屋がある。コンクリート塀に囲まれ、門扉はなく、門柱の表札は文字が剥げ、心ない人間が庭にゴミの詰まったレジ袋を投げ捨てた。ゴミ屋敷も同然の家へ、ハクアは引き戸を開けて中に入った。

 上機嫌のハクアは玄関で脱いだ靴下を廊下から洗面所の洗濯機へ放り入れ、暖簾をくぐって台所に入った。脇の冷蔵庫を開けてコンビニ弁当と500mlのペットボトルを手にしてテーブルへ向かった。卓上に置かれたレンジに弁当を入れ、キャップを取って口をつけた。いつもはくたくたで帰ってきてわびしく食事にありつくところだが、今日は珍しく鼻歌を歌った。

 夕食を簡単に済ませて彼女は容器を端に寄せた。冥界情報端末を胸ポケットから出し、ノーラの会社のサイトから文章を切り貼りしてファイルにまとめた。

 

「はい、送信完了。えーっと、ブックマークは…」

 

 やっつけ仕事を終えて端末に顔を近づけた。冥界で有名なマッチングサイトにアクセスし、名前を登録して片肘を突いた。魔力による相性診断で成功率90%以上を誇るサービス。男性とのデートを思い描いたハクアがにたにたした。

 

「うふふ、これでクリスマスには……」

 

 診断を待つ間、ハートの絵に矢印が回転する。端末を握ったハクアの手に魔力がメラメラと湧き昇った。矢の刺さった終了を告げる画面が見えないかのごとく、孤独な悪魔は幸せの幻想を抱いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

気になる事とならない事

 黒田家はとっくに夕食の片付けも終わり、台所を出た美雪と真裕が子供たちの話をして階段を上がってきた。階段を折り返すとすぐ二階になり、廊下は正面にある長男の部屋に沿って左右へ延びる。二人は左に折れた。

 

「京太、風呂入んなさーい。裕太は入ったわよ」

 

 突き当りの戸へ声をかけて脇の扉を開けて入っていった。二世帯が住む家には息子家族の自由に使える部屋があり、寝る前や休日に夫婦が過ごした。

 隣の部屋に次男が居た。入り口から一番遠い隅に学習机が置かれ、机上の端に敷いた四角いワイヤレス充電パッドに端末が載った。椅子に座る京太は学習用タブレットで授業の予習をしながら、斜め前の雑誌『メー』の異星人特集ページをペンでめくった。端末がブルブルと振動し出し、手を伸ばして不明な電話番号が表示された画面をタッチした。

 

「イェーイ。京太、見てるー」

 

 少女の意味不明な切り出しを聞き、耳に当てた端末を前へ持ってきて映像を点けた。画面に大きく映った指紋の意図は何なのかと彼に思わせた。

 

「どこから掛けてるんですか、こんな時間に」

「ふっふっふっ、ジャ、ジャーン」

 

 画面から親指が取り払われ、後ろのベッドと学習机が映り込んだ。京太はスマホを買ってもらって自慢したいのだと思った。パジャマ姿で鼻息の荒いエリが端に映り、わざとらしく膝を叩いた。

 

「あぁ、エリさんの部屋だったんですね。じゃあ映像はスマホかな」

「そうよ、このスマホはハクアさんからもらったの」

「あれ、叔母さんにじゃなくてですか…ハクアとかいう人、知り合いにいたっけ」

 

 京太が画面の外へ向いて考え出し、彼の反応にエリは耳をピクピクさせる。待ちきれなくなって端末をむくれた顔で覗いた。

 

「もぉ、忘れたの。公園で女の人に会ったでしょ」

「でも走って帰ったと言いましたよ。一体、その宇宙人とどこで会ったんです」

「うちに決まってるじゃない。それにハクアさんは悪魔なのっ」

「おかしいなぁ、コスプレとか怒ってたのに。認めてるって事は何かあったんですね」

「えっ……」

 

 エリは言わなくてもいいことを言ってしまい天井へ目を泳がせた。なるべく、自分が悪魔であることは隠しておきたかった。京太に話せば絶対に食いついてくる。端末から顔をそーっと離し、視線を画面へ向けた。彼の目はらんらんと輝いていた。

 

「隠さなくていいんですよ、エリさん。誰にも言いませんから」

「ははは…」

 

 とっさに苦笑いをしてエリが頭を掻いた。オカルトに関して盲目になる京太が黙っているとは信じられなかった。話すべきかどうかを迷った挙句、彼女はふーっと息をついた。

 

「彩香さんとちはるさんには絶対に秘密よ、あとお兄ちゃんにも。話したら絶交だからね」

「ハイハイ、分かりましたー」

 

 軽々しい返事を聞いた画面の少女が一瞬顔をしかめ、映りが暗くなった。京太は端末を壁に立て掛けて音量を上げた。スピーカーからは彼女のヒソヒソとした声が聞こえてきた。エリはベッドに敷かれた掛け布団の端に腰を下ろし、顔に寄せた端末へ手を口元に当てていた。しゃべる内容の要点を京太が学習用タブレットに新しいノートを作って書き取った。あちこちに無駄な自己主張を含みつつ、三十分に及ぶ長い話は大団円を迎えた。

 

「――でお兄ちゃんとは血が繋がっていて、わたしは人間だったの」

 

 話し終えたエリは感動に酔って胸を手で押さえた。京太は箇条書きした横に公園で見たハクアの似顔絵を描き、ペンで頭を掻いた。

 

「えっと、冥界は高度な技術がある文明社会。そこに住む悪魔は容姿が人間とそっくりで魔力を備え、魔法が使える。『駆け魂』と呼ばれる邪悪な悪魔の魂が冥界を抜け出して人間界に入り込み、そいつらを追う悪魔・ハクアが角研の調査員と偽って訪ねてきた。彼女の話ではエリさんは悪魔が生まれ変わった人間で、バディとして駆け魂の回収を手伝うことになった。で、いいですか」

「うーん、そんな感じかな」

 

 エリは雰囲気でテキトーに答えた。対照的に、京太が真剣な顔つきでタブレットの似顔絵に考えを張り巡らせた。眼鏡のずれを直した彼はペンの先を端末の方へ振った。

 

「エリさんが悪魔の魂を持って生まれてきたとなると、俺が見た長い黒髪の女性は悪魔の頃の姿と考えられませんか」

「長い黒髪?」

 

 画面でエリが小首をかしげ、京太はペンを落として信じられないといった表情をした。

 

「えー、もう忘れたなんて…最初に会った時に言ったじゃないですか」

「そうだっけ。全然覚えてないや」

「ちぇっ、こっちの話はちっとも聞いてくれてないしさ」

 

 薄情な少女に京太が口を尖らせ、ひがみモードに突入して下を向いた。エリは画面越しのいじけた様子を見てあくびをし、両手を上げて後ろへ上半身を倒した。寝転ぶと掛け布団はふかふかでいい匂いがする。こんな心地よさは悪魔では味わえないだろうと目をつぶり、人間で良かったと感慨に浸った。天井は暗くて見えず、何も見えなかった。目を開けてエリは体をガバッと起こした。

 

「でもさ、京太は人間なのに何で見えるのかなぁ。未紗紀さんも志穂さんも駆け魂が見えてなかったじゃない」

 

 エリは端末を両手で掴み、両足をブラブラさせた。画面に映る京太がハッとして顔を上げた。

 

「それはエリさんが来て……いや、この端末を使ってから女性がぼやけて見え出したんだ。母さんに言ったら眼鏡を買ってきたんです。そうそう、最初にUFOと遭遇したのは舞島市内でした」

「ま、UFOは置いとくとして、京太のやつもМ42なの」

「ええ、駆け魂を検知するアプリが入ってますし。ばあちゃんがくれたからどっかのスポンサー企業の試供品と思ってたけど、充電不要な冥界情報端末だったなんて。これを持たせて捕まえるのを手伝わせるためには渡した人間が悪魔の魂を見えないとダメなんでしょうね」

「そっかー、端末を持ってるとバディになれるんだ」

「いいえ、渡してバディにするんですよ。それにしても、こうやって舞島に冥界のモノが出回るのだから悪魔も結構近くに居るんじゃ…」

 

 自分で口にした言葉に京太はペンを置き、ハクアと握手した手のひらを見た。夕方、家に帰って美雪に命じられて渋々手を洗ったが、ほのかに感触が残っていた。宇宙人でも異星人でもない知的生命体。他にも悪魔がいるなら会ってみたい気がした。椅子の背にもたれると、端末の画面に映るエリからニコニコして見られていた。

 

「わたしのバディになって駆け魂回収に協力してよ、京太」

「はぁ、どうやってバディになるんですか」

「簡単だよ、法治省のサイトに申請する時にバディの欄にわたしの名前書けばいいの。冥界に住民票か戸籍なんかが残ってれば通るわ。そしたら、京太の分までバイト代もらえるでしょ!!」

 

 画面いっぱいにVサインが表示され、京太は相も変わらず無茶苦茶だと思った。よっこらしょと壁に立て掛けた端末へ腕を伸ばした。

 

コンコン、コンコン

 

 ノックの後、戸を半分開けて真裕が胸から上を差し入れた。本当に疲れた顔で「風呂~」と言って壁へ指を差した。隣の部屋から母のヒステリックな声が響いた。京太は父にコクリと頷き、手に取った端末へ顔を向けた。

 

「もう遅いんで話は明日にしましょう。それじゃ、お休みなさい」

 

 京太は端末を元通りに置き、充電パッドのケーブルを外して引き出しに仕舞った。タブレットを机の横に掛かる通学リュックに入れて立ち上がった。雑誌を手にして風呂に向かうついでに本棚に戻そうと歩き出したが、部屋の真ん中で止まってパラパラとめくった。奥付の発行者名を目にして彼がニヤッとした。

 

 廊下奥の戸からキッチンに入ってエリは冷蔵庫を開けた。ドアポケットに三本の牛乳パック。午前中に買ってきた二本の横にある開いたパックを取り、揺らして残り少ないのを確かめた。直接口をつけて飲み干し、空を流しに置いた。

 ダイニングは明かりが点き、テーブルで彩香がスマホを凝視していた。難解な文章に集中力が切れた彼女は頭を後ろに倒した。

 

「さすが角研ね。もっと英語を勉強しとくんだったわ、テーレって何だっけ」

 

 天井を見上げる彩香のポニーテールへ、エリはキッチンの角を回って心配そうに微笑んだ。

 

「そういうのは真面目に全部読まなくていいんじゃないの」

「あー、まだ起きてる。今日は布団干したし、歯を磨いて寝なさい。これくらい大丈夫よ」

 

 彩香は角習研究社の教育理念をまとめた文書に再び挑んで四苦八苦した。ハクアの肩書から真っ赤な嘘だがエリは本当のことを言えず、口を閉じてリビングへ離れた。ローテーブルの上に置きっ放しの折り畳みタブレットが見えた。隅に刺さるROMカードのラベルに『教育心理学』と端正な字で書かれる。教師である志穂に借りたのは容易に想像ができた。

 エリは二階の短い廊下に入り、洗面台を前に歯ブラシをくわえて休み休み手を動かした。色んな出来事があった一日だった。彩香とちはるとの楽しいショッピングから始まり、朋己を探した舞島学園で警備ロボットに仰天して逃げ、みちほの車いすを押して帰る途中に京太が迎えにきて険悪な空気になり、家でハクアに自分が悪魔だと告げられて怒った。口から出した毛先をジャバジャバと洗い、彩香の歯ブラシの隣に並べた。

 本当の妹でないからか、この家に引き取られてから彩香が気を遣っている感じがした。タオルで口を拭いて顔を上げると、側の小窓に明るい星が輝く。腰壁に寄り掛かり、三角の屋根へ伸びる階段の吹き抜けの細長い窓に星空が広がった。朋己に聞いたオリオン座流星群を探すが、残念ながら見つけられず、エリはため息交じりに部屋へ戻った。

 卒業まで半年を切り、奥の壁でハンガーフックに掛けられた灰色のセーラー服を着続ける。京太と同じ中学校は遠く、黒田家から電気自転車を借りることになった。明日、受け取りに行ってみちほと会って話そうと考えていた。兄妹の心が離れたままは良くないと思い、温かい布団にくるまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ふたを開ければ

 日曜は十月にもかかわらず蒸し暑く、午後はよく晴れた。住宅街から橋を渡ったエリは細い農道を歩いて黒田家の前まで来た。暑い中、帽子をかぶる男性が塀に沿って道路を箒で掃いた。彼女が会釈して「お仕事、大変ですね」と門を入り、その半袖シャツとスカートの少女は二階のベランダから見えた。

 京太が階段を裸足でドタドタと下り、廊下の角で体をひねって玄関へ向かった。うろうろする小さい人影がすりガラスに映り、忍び足で歩く。彼は戸をガラッと引いた。長袖の部屋着を前にしてエリが上へじとっと目を向けた。

 

「イ、インターホンを探してたのよ。イタズラなんかしてないわ」

「見えてたから分かってます。だけど、勝手に開けて入ってきたらいいのに」

「家族が居るんでしょ、いくら何でも失礼じゃないの」

 

 戸へ伸びた京太の腕を押しのけ、エリは玄関に入った。土間は泥土の付いたゴム長、甲にシワが寄る革靴、ねじれた紐のスニーカー等々の家族の履物が散らばった。

 

「へー、靴がいっぱいだ。それにうちより広いかな」

 

 玄関の雑多な光景を物珍しそうに見回し、下駄箱の反対にきちんと揃った学生靴と折り畳んだ車いすを目に入れてスニーカーを脱いだ。ホールにスリッパを出した京太が奥へ真っすぐ行った。縁側の白いカーテンから射す日光が暖かさをもたらし、兄妹間のわだかまりが解ける結末を予期させた。壁に手すりが設置された廊下へエリは彼の跡を追った。台所は扉が大きく開けられ、彼女が蝶番に手を掛けた。

 

「わたし、みちほと話しに来たの。遊んでる場合じゃなくて」

「まあまあ、外は暑かったでしょう」

 

 テーブルでは二つのコップにペットボトルのお茶が注がれ、やむを得ずエリは腕を下ろして足を進めた。ほくほく顔の京太は片方を手前に押し出した。

 

「公園に悪魔が居てエリさんも悪魔の魂を持つ。いやぁ~、悪魔がいれば宇宙人はいますね」

「そこまでは言ってないから。で、わたしのバディとして申請してくれた?」

「まあまあ、慌てない慌てない。それより、怒野ユイって名前を聞いた事ないですか」

「はぁ。誰なのよ、それ」

 

 エリは座面に尻を向け、すぐ立てるように椅子の背に手を掛けて腰を下ろす。側に落ちるビーフジャーキースティックの小袋を指でトントンと叩き、もどかしい表情を京太へ向けた。正面に座った彼はお茶を一口飲んでから楽しげに話した。

 

「知らないんですか、鳴沢駅の近くに自社ビルが建つ角研の社長。有名な超常現象雑誌『メー』の出版元だし。そうそう、今月の特集は世界各地の異星人の伝承が集められてて海外の専門家による解説付き。それが結構あるんですね~。怒野社長もそういう方面の研究家だろうと思ってたんですけど…悪魔だったんですよ。エリさんが考えた方法は正解でした、彼女のバディになれるとは」

「ふーん、ハクアさんの会社の……え、今何か言った」

 

 またオカルト話が始まったと思ったエリは話半分に聞いていた。「バディ」の一言を耳にし、そろりと立った。破顔一笑した京太にきょとんとすると、背後で低い声がした。

 

「やあ、来てたのかい。こんにちは」

 

 台所の扉口で鴨居との隙間が見えない大柄な男性がキャップを取った。エリは振り向いて口を押さえ、後ろへ手を振ってきょろきょろした。戸惑う少女へ彼は細い目をさらに細め、ふらっと出ていった。

 階段を上がる足音が響く壁に、エリは下から上へ向けて指差して驚いた声を上げた。

 

「えぇっ。前の道路を掃いてた人、市の清掃員じゃなかったの」

「外で父さんを見たんですか。まあ、家の掃除や片付けは母さんに言われて義務的にやってるんですよ。そのお目付役がママさんバレーの大会でいないし、これからベッドで昼寝です。俺も眠いっす、ふぁ~あ」

 

 京太が大口を開けてあくびをした。昨夜は冥界から返信されたバディの許可通知に添付した駆け魂回収マニュアルを全部読むのに夜中までかかった。眠気もあり、いつもより軽口。だが彼の見方はエリとは違った。腕を抱えた彼女は京太の内輪話をふんふんと聞き流した。

 

「うん、おじさんも背が高いのね。きっと三世代に渡って真面目なところも遺伝してるんだわ」

 

 京太の祖父がカフェのシャッターを直し、父が掃除を黙々とこなすのを見て妹にも同じ好印象を持った。みちほと話すつもりで来たはずだったとエリが首を振った。台所で油を売っている場合ではなかった。テーブルで京太が眠たそうに目をこすり、彼女はひとまずバディの事を後回しにして一人で廊下へ出た。

 

 エリは北東の台所から廊下の和室側の手すりを伝い、西へ歩いて奥で壁に背を向けた。若干へこんだ反対側にある戸を両手で静かに開けた。入り口の脇にコンパクトな車いすがほこりをかぶり、部屋はやや長細いフローリングと小上がりに別れた。シェードの下りた先からガヤガヤとする声が聞こえ、人の居る気配がした。高窓から明るく澄んだ青空が覗き、端に天井から垂れる紐が見えて抜き足差し足で入った。

 隅に学習机があり、壁に貼られたカレンダーに目をやった。『△』が縦に並び、『×』は所々ある。顔を戻して側にある紐を二本とも握って引いたが、シェードは動かなかった。イラつき気味に一本を強く引っ張った。瞬く間に小上がりの半分が全開した。

 息を呑んだエリの前に障子付きの窓が白い三畳の和室。布団は寄ってくちゃくちゃになり、髪の短い少女がうずくまって緑の背中を見せる。彼女はワイヤレスヘッドフォンを着けていた。順番に顔を向け、角を塞ぐ薄型テレビ、手元のノートPC、壁に垂れ下がったシート型テレビと三ヶ所へ目を配った。時折、じっと一つを見やって固まった。

 

「でへへ、つくづく和哉はいい人だなぁ」

 

 みちほが一人でのろけてへらへらと笑った。彼女は警戒心もなく、だらしなく頬を緩めた。

 30cm程度の高さにエリは手を付いて膝を乗せ、畳を這った。斜め後ろに近づいた所で両耳からイヤーパッドが外れた。みちほはくるりと上体を向け、ボロボロと肉片が口から落っこちた。

 

「こ、これが本当のみちほなんだ…」

 

 驚愕するエリがスリッパで立ち上がった。腫れぼったい目の少女がほつれたジャージを着てあぐらをかき、ビーフジャーキーと書かれた大きい袋と空の小袋が周りに散乱した。壁際の板の間に色褪せたゲーム機が置かれ、三つの画面はそれぞれ美少年のグラフィックが映っていた。甘い言葉で女子に告白するシーンはエリを唖然とさせた。

 せわしない大きな瞳と見上げる細い目が向かい合い、みちほも驚きを隠せなかった。が、エリの顔から面食らっているのを即座に見抜いた。平然と後ろへ体を戻し、コントローラーをパパッと叩く。男子に口説かれる音声を部屋に流しながら彼女へ出ていくように言い立てた。

 

「土足で畳に上がられちゃ、わたしが後で掃除しないといけないんですけどー」

「へっ、あ、これは……ううん、こんな気色悪いゲームはやめなよ」

「これは心外な。どれも十万本以上売り上げがある立派な作品です、京兄の買ってるオカシナ雑誌と違ってさ。あんなのと付き合ってると他人から変な人と思われますよ、エリさん」

「うそっ…」

 

 みちほが鼻の先でせせら笑い、エリは言葉に詰まった。昨日から抱いてきた物静かで誠実な像はあっと言う間に崩れ去った。同時に兄妹の確執は京太が悪いという一方的な考えが消え、兄を兄とも思わぬ妹に腹を立て、顔も見たくないと振り返った。

 カッとしてエリはフローリングへ跳躍し、荒っぽく引き戸を開けて出た。部屋の真向いで京太が頭の後ろに手を組んで壁にもたれていた。戸を閉めた彼女の口からみちほへの文句がこぼれた。

 

「あんたの妹どうなってんの。ゲームの絵と恋愛ごっこしてたわよ」

「ははは、2Dの乙女ゲームですね。母さん以外は勝手に入ってこないから驚いてたでしょう」

「京太の事も小馬鹿にしてさ、笑っている場合じゃ……あー、吐きそう」

 

 エリは恥ずかしいセリフを思い出して喉を押さえ、廊下のどん詰まりに寄って手をついた。京太は悠長に顎をさすり、はたと手を止めて視線を動かす。ニヤつく顔で見られた彼女が目をパチクリとさせた。

 

「何よ。わたし面白いこと言ったかしら」

「そうじゃなくて、机のとこにあるスケジュール表を見ましたか」

「え、壁のカレンダー?」

「はい、毎月一定のバツが付いてて桂木のばあちゃんによると休む日と決めてるらしいんです」

「学校が嫌いとかじゃないんだ。じゃあ、みちほも不良少女だったのね」

 

 段々になった壁から手を離し、エリは直立して腕を組んだ――出席日数を計算してるって訳か、ちゃっかりと。

 

「あれぇ、『も』って他に誰がいるんですか~」

 

 調子が外れた京太の問いかけは考え始めた少女には届かなかった。うまく挑発され、怒って部屋を飛び出したのが悔やまれた。みちほは中一でありながら知恵が回る。実際の性格は単に大人しいだけではなかった。だとしても、気に入らない兄を蔑んだり、登校拒否で祖母を心配させたりして家族を顧みない言動は許せないと思い立った。

 

「京太を慕わせ、学校をサボらせない、乙女ゲームをやめさせる。新しい作戦を考えなきゃ」

 

 エリの顔は閉めた戸へ向き、スリッパが床を叩いた。我がままな妹を部屋に放って京太はのんきに口笛を吹いた。やはり兄としては朋己が一番だと思わせた。とはいえ、今は自分が快諾した養子の件に難色を示す彼とは会いづらい状態であり、当分の間は待つだけだった。エリは腰のベルトに手を当てて二階の天窓から日差しが入る階段の前を見据えた。不確かな兄妹の先行きに明るさをもたらそうと、みちほの問題を解決する事を最優先に掲げた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

非協力的兄貴

 みちほは黒田家の不良少女だった。彼女が京太と話し合う糸口を求め、エリは部屋の前で廊下を行き来し、奥に並ぶ段状の細い壁に近づいた。手をついた時から気になっていた表面をさすった。

 

「これ扉かな。掃除のロッカーと違って引くところがないけど、どうやって開けるの」

「ああ、ようやく気づきましたか」

 

 京太が壁の右側に手のひらをかざした。上にずれたパネルの下に現れたボタンを彼は押した。

 

「あっ、あああ…」

 

 二枚の扉が一枚ずつスライドして収納され、エリは口を開けて見守った。納まった壁枠を押さえつつ、中に足を踏み入れた。両手を広げて指先が壁に届く大きさのホームエレベーター。木目調の手すりをなでた。

 

「わぁ~、スゴイ。ほんとに一般住宅にも付いてるんだ」

「じゃ、俺はトイレ行くんで。二階に着いたら遊んでないで下りてきて下さいよ」

 

 エリに指示を残して京太が廊下を戻っていった。扉が閉まるアナウンスが流れ、彼女は後ろを向いた。

 

「もぅ、不親切ね」

 

 エリは狭まる隙間へ唇を尖らせた。体が重く感じ、エレベーターが上昇して二十秒程して静かに止まり、体がふわっとした。開いた扉から出た彼女をまた真っすぐな廊下が待っていた。壁がある部分に手すりが設けられ、みちほがこうやって移動するのだろうかと端を伝い歩いた。

 階段の方へ曲がると、緑色の中学ジャージを着た少年がサッカーボールを浮かせ、二階に上がってきた。彼は床に跳ねるボールを足裏で引き寄せ、少女を見てニヤッと笑った。

 

「エリさんだろっ。ちょっと待って」

 

 呆気にとられる彼女をフェイントでかわして戸が空いた部屋へボールを蹴り入れた。満足そうな横顔は眼鏡を外した京太と同じだ。エリは体を反転させ、思わず指を差した。

 

「あなた、裕太ね。双子でソックリって聞いてた通りだ」

「おっ、知り合いか。ほんじゃ、表裏をしないとな」

 

 裕太はエリの肩をポンと叩き、廊下の突き当りに行って脇の扉を押し開けた。背丈が京太と同じくらい高く、体格の良さは頼りがいを感じさせた。彼は人懐こい笑顔でエリへ手招きした。初対面の彼女もすいっと近寄り、体を傾けて部屋を覗いた。

 

「テレビがあるし、何だかリビングみたい。ね、表裏ってどんな遊びなの」

「みんなで使ってる部屋だよ。遊び相手なら喜んでするぜ」

「それは有難いけど、今は考える事があるから」

「そうだ、外は暑かっただろ。台所から飲み物を持ってくるよ、俺」

「まあ、親切なのね。ありがと」

 

 エリは階段を下りる裕太に吹き抜けから軽く手を振り、案内された洋室に入った。中はシーツをかぶったソファーに脱いだ服が掛かり、シミつきのクッションが転がる散らかり様。気乗りはしなかったが、せっかく彼が勧めてくれたからとトコトコとソファーの後ろを回った。座ろうとした彼女は扉の陰で見えなかったディスプレイを載せた机が目に入った。傾いた上体を起こし、座面を見せるオフィスチェアへ向かった。

 お尻を乗せた椅子でエリが回転し、黒いパネルに顔が映った。感知式のPCによってログイン画面が表示された。彼女はディスプレイの下からキーボードを引き出して首をひねった。『keita』の後に誕生日を続け、Enterキーを押す。一瞬でデスクトップに大量の動画アイコンが広がり、彼女を辟易とさせた。

 

「うぇ~、これ全部UFOのやつなの。これじゃあ、みちほに言われるのも無理ないわ」

 

 息を吐いたエリはディスプレイ全体を目玉でぐるりと見回した。一つだけノート型のアイコンがあるのを発見し、タッチパネルの画面へ指を伸ばした。そこには不定期の日付と短い文章がズラズラと日記風に並んでいた。母親の悪口や裕太をバカにする言葉の他はUFOや宇宙人などの用語が溢れ、頭を押さえて「う~ん」と唸って最後まで目を通した。

 

「はっ、角研社長のバディになるってどーいうことよ」

 

 エリが昨日の記事を読んで机を叩き、その時、眼鏡を掛けた少年が部屋に入ってきた。平然とした彼へ彼女は目をギロッとさせた。

 

「ちょっと、何でわたしのバディとして申請してくれなかったの」

「あれ、『メー』の発行者に興味がないなんて…冥界から現れた悪魔が超科学で地球に来るUFOを探してるんです。この凄さ、分かりませんか。大体、エリさんの方は駆け魂回収を手伝えばいいんでしょ」

 

 開き直った京太は画面をタッチして雑記帳を閉じ、エリは腕を肘掛けに乗せて踏ん反り返った。

 

「フン、どうなっても知らないんだから」

 

 少女は電話で京太にバディの申請を頼んで失敗したと不貞腐れた。彼は机の横からディスプレイへ身を乗り出し、嬉しそうに動画アイコンをあれこれと指差した。うんざりしてエリは足を組んで頬杖をついた。

 

「似たような動画を整理すればいいじゃない。無断で他人のデータを消さなくてもさ」

「さっきの雑記帳に書いてありましたか、そんな事。でも削除したのはファイルサーバーに残ってたじいちゃんの園芸動画の要らないやつだし、ディスク整理ですよ。俺の動画は消えると困るので冗長化してあります。世界中の人々から『アッパレ』、『グッド』、『ハラショー』の声を送られまくる人類の宝ばかりで誰に見せてもUFOが飛ぶシーンには感動するという――」

 

 京太は隅に置かれた3ベイのストレージ機器の上に手を乗せ、集めたUFO動画に鼻を高くして話す。彼の妄言を手の甲でポイっと払いのけ、エリは不満な顔を向けた。

 

「お兄さん、こっちの作戦の事も考えてくれるかしら」

「え、だって今回はみちほからゲームを取り上げたらいいだけでしょ」

「ブッブー。お兄ちゃんなら絶対しないわ」

「はぁ、どうして朋己さんが出てくるんですか」

「とにかく、そんなの最悪。みちほの機嫌を取るとか少しは裕太を見習ってよ」

 

 エリが頬から手を離して見上げ、京太が顎を押さえた。しかし、考え込んだかの姿勢をとったのも束の間、彼は両手を広げて肩をすくめた。

 

「兄貴のようにはいきませんよ、みちほの面倒を小さい頃から見てきたんだから。まあ、このまま適当に付き合ってくのがいいんじゃないですか」

「ほ、本気なの…京太」

 

 当然とばかりに少女を見る京太の目に、エリは大きな衝撃と失望を覚え、すっと立ち上がった。

 

「……もう、今日は帰るわ」

 

 部屋を閉めた扉に背を向けたエリはすたすたと歩いた。二階の廊下を回って階段を下り、玄関へ真っすぐ向かった。彼女がスニーカーにつま先を突き入れ、かかとを引っ張った。土間に置かれたみちほの車いすを見ながらつま先をトントンし、初めて台所へ振り返った。ガラスの部分から動く人影にため息をついた――そりゃ、裕太の方がいいお兄ちゃんよね。

 

 エリは借りた電気自転車に乗って桂木家へ戻ってきた。門扉の前で止めて降りた彼女を蒸し暑さが襲った。もんもんとした帰り道を過ごし、シャワーを浴びたい気分でもあった。

 

「ただいまー。今帰ったよ、姉さまー」

 

 玄関のドアを開けて彩香に聞こえるように叫んだ。リビングからの応答はなく、代わりに二階で物がぶつかる音がした。何事かとエリは靴下のまま階段を駆け上がった。彼女の前に垂れ下がった階段の裏側があり、頭上から呼ぶ声が聞こえた。

 半信半疑で手すりがない幅の狭い段差を天井の四角い穴へ上がった。そっと顔を出すと、傾いた

天井の低い空間でTシャツにトレパン姿の女性が横座りしていた。

 

「屋根裏部屋か。ねえ、ここで何をしてるの」

「洗面所に棚が必要だから探してたのよ。ほら、この組み立て式のやつ」

 

 彩香がステンレスパイプの束を床に両手を突く少女の前へ出した。よく見えなかったが、エリは周りに積まれた段ボールから年季が入ったものだろうと思った。屋根裏は小さい天窓が一つだけで電灯をつけなければ文字を読める明るさもなく、頭を打ちそうな気がして膝で立った。手前に置かれた箱を開けたり、閉めたりした。突如、その中の一つで手が止まった。彩香は彼女の反応を面白がった。

 

「ふふ、まるで宝さがしね。何か珍しいものでも入ってた?」

「この携帯ゲーム機なんだけど、姉さまが遊んでたの」

「あー、それは私じゃないし、ちはるさんでもないと思う。うちは母さんが厳しくてゲーム機とかダメだったの。かなり古い物だろうし、欲しかったら持ってってもいいわよ」

「そっか、よく見ると色褪せてる。みちほが集めてそうな感じだわ」

 

 エリは段ボールごと自分の部屋へ持っていくことにした。ソフトが一緒に入っていて動作させてみようと思った。みちほを説得するならゲームの事を知っておいた方が良いからだ。彼女とはもう一度会わなければならない。ただ、京太との関係だけは悩みの種であり、答えを欲しがった。

 

「姉さま、仲が悪い兄妹はどうしたらいいのかな…」

「えっ。どうしたの、いきなり」

 

 箱を抱えたエリが俯き、出口の段差に片足を乗せた彩香は振り向いた。屋根裏の床に半身であぐらをかき、反対の頬をぽりぽりと掻いた。志穂からエリの相談にいい加減な応対をしないよう強く言われたものの、当てがある訳ではなかった。姉の苦労を実感したくない彼女はできる限り子供の相手は先の事にしておきたかった。

 

「三人もいると大変よね……兄妹の仲か。昔はお姉ちゃんとよくケンカしたし、苦手だったけど、今となっては普通に話せるわ」

「『だった』ってことは美雪姉さんと仲が悪かったの」

「そうね、近くに住むようになっても学生と小さい子を抱えた主婦じゃ、生活スタイルが全然違うから長い間会わなかった。三年くらい前までは…」

「何かきっかけがあったんだ。それを教えて、お願い!」

 

 エリは床に膝小僧を擦りつけて迫ってきた。彩香は彼女の気勢に押され、観念してパイプを下に置いた。面と向かって話すとなると小恥ずかしさを感じ、ぽつりぽつりと語った。

 

「エリと出会ったバス停前の市民病院。私、バイクで事故って担ぎ込まれんだ。目が覚めた時には病室の天井を眺めてた。両足を骨折してベッドの上から動けなくてトイレは看護師を呼ばないとできなかった。それが嫌で誰かに来てもらおうとしたら運悪く平日続き。ちはるさんを始めみんな昼間は無理だって。仕方がないからお姉ちゃんに連絡したの。きっと断られるんだろうなって思ってた。でも違ってて、文句も言わずに来て看護してくれたんだ」

 

 彩香の苦い経験をエリが作戦の手掛かりにしたい一心で耳を傾けた。彼女は抱える段ボール箱を脇に置いてちょこんと正座して聞き、話の結末に目を輝かせた。

 

「へー、優しい。京太なんか怖がってるけど」

「あ、でも、そうじゃないの。その、何というか」

「思いやりとか?」

「つまり、必ず協力し合う時が来るんだなって。定めがあるような気がするの」

「…兄妹の協力かぁ、いい言葉ね」

「そ、そうかな。えへへ」

 

 少女に感心されて彩香は年不相応に顔を赤らめた。照れ隠しに忙しそうなそぶりを見せ、パイプの束を手にし、そそくさと二階へ下りた。頬を緩めた彼女は締めるねじを忘れ、廊下を跳ねて洗面所へ行くのだった。

 残ったエリは腕組みをして考え込んだ。そして、方向性は決まったと立ち上がった。危うく頭をぶつけそうになり、真上を見上げて天井の近さにドキッとしてよろけた。

 

「うわっ、と……痛っ」

 

 箱に足をぶつけ、尻もちをついた。眉間にシワを寄せたエリはスカートの後ろを押さえ、へこませた箱の元へ這った。中身の状態を気にして蓋の片側をつまみ上げると、倒れたDVDの間から透明な容器が頭を出していた。彼女は両手で掴んで顔に近づけた。太めの筒状の中で駆け魂が弱々しく光る。階下から彩香の戻ってくる足音がし、慌てて手の中で滑らせた。瓶は階段を転がり落ちていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

布石を打つのダ

 京太が息を切らして二階への階段を駆け上がった。学ランの中を汗で湿らせ、かれこれ三十分は探し回った。月曜の放課後、六限目が終わって教室を飛び出した。端末にドクロマークが点滅して駆け魂が近くにいると警告する。教師の目が光る学校で3Dホログラムを起動するのはマズイと思い、着いて自転車を停めた時から同じ状況。焦りを感じつつ、校舎端の教室の戸を引き開けた。

 

「キャーッ、痴漢。ヘンタイ男子」

「あっ、こいつUFOがいると思ってるバカよ」

「消えろ、この眼鏡っ」

 

 着替え中の部活の女子が京太に気づき、ボール、ごみくず、罵声を次々と投げた。彼は戸を閉め戻して怒りを心の内にとどめた。探すどころではなく肩を落とし、次の場所を調べに行った。

 一方、三階の教室でエリは窓を開けて人待ち顔にグラウンドを眺めていた。転校初日は碁盤の目に机が並ぶ学級で黒い中に一人だけ灰色の制服を着てクラスメートの質問攻めを受けた。誰もいなくなった教室に緊張がほぐれ、なかなか来ない京太に不満が溜まった。運動部が騒々しい窓の外から突風が吹き込み、しびれを切らして通学リュックを担いだ。肩ベルトに引っ張られた腰の辺りでサイドポケットの端末が短く振動した。

 

「あ、ハクアさんからメールだ」

 

 彼女は故障した場合にもう一つM42をもらえるかと尋ねるメールを送った。その返信はイエスでもノーでもなく、角研社長のメールアドレスと「彼女に依頼してくれ」の文言だった。エリは読み終えて口をすぼめたが、ひらめいてパチンと指を鳴らした。早足になって入り口へ、戸を引いて教室から出たと思った瞬間に目の前が暗くなった。

 

ドカッ!

 

 平らな胸にぶつかってエリは倒れて尻を打った。床に片手をつき、反対のこぶしを突き上げた。

 

「おそーい。あんた今、何時だと思ってんのよ」

「あ、ゴメン。倒すつもりはなかったんだ」

「アタタ、昨日もお尻……えっ、あなた京太じゃない」

 

 知らない男子がいた。白い体操服にラインが入った黒いジャージを履き、左手に焦げ茶色のミットをはめている。身長は朋己ぐらいの割に肩幅が広く下半身がどっしりした感じ。切れ長の眉が特徴的な彼は腰を曲げ、笑顔で右手を差し出した。

 

「僕は一組の高原夏也。君が転校生の『エリさん』だね」

「ええ、そうよ。こういう話はすぐ他のクラスに伝わるんだ」

 

 助けを借りずに立ち上がってエリがスカートの後ろを払い、彼を見上げた。三年はクラブ活動を引退したはずだと怪訝そうにじろじろと見た。夏也は下心を疑われたと思い、急に釈明を始めた。

 

「ち、違うよ。ウォーミングアップが終わって教室にタオルを取りに来たついでで…バックネットから姿が見えたから」

「ふーん、目がいいのね。わたしってそんなに有名かな」

「いや、サッカー部のキャプテンがうちのクラスで話したのさ。彼は教室が隣だからか休み時間にいつも堂々と入ってきて椅子に座って友達みたいに話しかけてくるんだけど、黒田君だっけ。みんなに君が知り合いと言い触らしてたよ」

「へっ、あ、うん。裕太は姉とちょこっと……」

 

 身内の恥ずかしい事実が発覚して言葉に詰まり、エリは話を逸らそうと顔の前で手を叩いた。

 

「そうだ、何で体操服なの。まだクラブを続けてる訳じゃないわよね」

「ああ、これは野球部のセレクションを受けるために練習しているからなんだ。確か、君も舞島学園を目指してるんだろ」

「一応、早期選抜を受けるけど。そっちの試験も十二月にあるの」

「僕のは来月さ。舞島学園に一緒に入学できるようにがんばろうよ、エリさん」

「う、うん」

 

 エリはあまりにもストレートな激励に戸惑い、階段へ向かう夏也をじっと見守った。彼が見えなくなり、制服の裾を整えて前髪を横へ払った。明るく誰とでも話せる爽やかなスポーツマンという第一印象を持った。見たところ恋人の一人や二人いてもおかしくない気がするけれど、みちほに先日騙された事もあり、本当だろうかと考えて彼女も階段へ歩いた。

 一階に下りたエリは昇降口の前で立ち止まった。女子の下駄箱を開ける息の荒い人物がいた。

 

「京太、あんた警察に捕まりたいの」

「あ、エリさん。捕まえようとしてるんです、駆け魂を」

「駆け魂…ってメッセージを見てなかったのね」

 

 あきれた表情でエリはリュックを前に抱えた。手のひらにがっちりと掴み、駆け魂が入った透明な容器を京太に突き出した。彼は眼鏡のフレームを持ち上げて細めた目で凝視し、外側を指でつついた。マニュアルで旧式と紹介された駆け魂捕獲用の勾留ビン。現在は委託業者に連絡すれば冥界から15分以内に回収車が駆けつけるため、サービスが提供されない地域で主に使用される。実物を前にして彼は身震いをした。

 

「ど、どうやって捕まえたんすか。小さいから暴れたりしないのかな、こいつ」

 

 勾留ビンを前に京太が喜んでいるかのように見え、エリは教室でのイライラが息を吹き返した。

 

「だから、それをメッセージに書いたのよ。見てないなら待たなきゃよかったわ」

「見てませんが、既読かどうかはそちらで確認できますけど」

「は、既読?」

「もしかして使い方が分かってませんでしたか」

「うんとね…そう、今日は裏の田んぼでやることがあるから早く行くわよ」

 

 都合が悪くなったエリが瓶を仕舞い、先に自転車置き場へ向かった。京太は「へーい」と返事して端末をポケットから出した。自慢しないとこを見ると自力で捕まえた訳ではないのだろうと思いつつ、駆け魂センサーの検知機能を切った。

 美里第二中学のグラウンドは野球部とサッカー部が折半した。エリは校門で電気自転車を停め、フェンス越しに眺めた。かぶったヘルメットの紐を持って夏也へ目を向けた。校則で敷地内のアスファルト上は自転車に乗れず、京太が遅れてのろのろと押してきた。彼は物思いにふける少女の肩を叩いた。珍しく怒らない彼女はペダルに足を掛け、校庭を向いてサドルに腰を下ろした。

 

 秋の田んぼは乾いた土に孫生え混じりの稲の根元が列をなす。閑散とした風景と曇り空。二人は裏山へ向かう道で話をしながら、自転車でゆっくりと走った。といっても、ほとんど喋っていたのはエリで京太は学校中を探し回った疲労からハンドルに腕を乗せて顔を伏せて漕いだ。

 昨晩、エリはベッドに寝そべって屋根裏から持ち出した携帯ゲーム機でレーシングゲームを初めてプレイした。にもかかわらず最高ラップで優勝した――と得意げに話した。相手をしてあげれば機嫌が直るので彼女は分かりやすい。追い越さないように京太は時々顔を上げ、灰色のセーラー服の後ろ襟を斜めに見ては適当に返した。

 

「やっぱり、M42を持ってない叔母さんは駆け魂が見えないんですね」

「うん、わたしが二階に下りたら『煮干しの入れ物にちょうどいいな』って勾留ビンを持っていこうとしたから慌てちゃった。あ、この辺この辺と」

 

 脇の道へ曲がってエリがペダルに立った。力強く何回か漕ぎ、座って両足を上げて後は自然の勢いに任せた。ひとしきり走ったと見るや、今度はブレーキを握ってサドルからぴょんっと飛び降りた。立ち漕ぎで追っかけた京太は不意を突かれ、前方に行き過ぎた。

 田んぼに挟まれたぼろぼろ舗装の道から新舞島駅に通じる道路を走る車が小さく見え、反対側に裏山が迫っていた。京太が自転車をバックさせる間にも、スタンドを立てたエリは調子に乗って事を進めた。前かごのリュックから勾留ビンを出して蓋のコルクを抜き、駆け魂はフラフラと空中へ舞い上がった。すぐにサイドポケットからМ42を出して飛んだ方向へ掲げた。

 

「よし、駆け魂の担当登録完了。これで色んなことができるわ」

 

 ハクアから渡された冥界情報端末は念じると魔力で人間界の電子機器を操れる。ただし、周りに協力者以外がいる場所での使用は目撃した人間の脳から都合の悪い記憶を置き換えなければならなく、法治省の人員を動かす名目が必要になった。エリは回収担当者として登録したいがために駆け魂を解き放した。

 弱々しい白い魂は徐々に離れていった。自転車のハンドルを握ったまま京太は呆然と見上げた。

 

「駆け魂を逃がしてもいいんですか、エリさん」

「大して動けないんだから、後で捕まえればいいの。駆け魂センサーで追跡できるし」

「はぁ。あいつ、どこまで行くのかな…」

 

 甘い見通しに京太は息をつき、エリの方を向いた。やる気満々の彼女がМ42を持つ手を田んぼの向こうへ伸ばす。離れた道路を走る大型のEVトラックに腕を振ると、信号のない場所で急停車した。運転手も仕事中にいい迷惑だろうと彼は諦め顔で自転車に寄り掛かった。

 何度かの練習を繰り返し、ようやく左右へちょこまかと動くエリが止まった。気が済んだ彼女は右手を腰に当て、左手のМ42を扇子のように振った。

 

「京太、怒野ユイに会わせてあげようか」

「ははは、また冗談を」

「そういや、ノーラっていう名前だったかな。それにメールアドレスも書いてあったわ。今しがたハクアさんのメールが来てたのよねー」

 

 エリが頭を斜め後ろに倒し、もったいぶった口ぶりで眼を動かした。臭わせただけで京太は心酔する角研社長『怒野ユイ=ノーラ』と分かり、相好を崩して上着のポケットから端末を出した。

 

「やだな、早く言って下さいよ。それで何て書かれてたんです」

「このアドレスを写してちょうだい。後で送信してもらう文章を教えるから」

 

 振り返ってエリはМ42の画面をサッと京太の顔の真ん前へ上げた。彼が喜んで自分の端末に文字を入力した。これで京太を鳴沢市の角研ビルに行かせられると、彼女は口元を緩めた。どんどん頭の中でみちほを従わせるプランはできていった。エリが鼻の下を指でこすり、コロッと話を変えた。

 

「でね、今日野球部の高原夏也くんに話しかけられたの」

 

 学校の出来事に胸を張る少女へ京太の目がチラリ。転校したてで注目の的なのを自慢しているとしても、他の男子の話は面白くなかった。彼は端末の画面に息を吹きかけ、学ランの袖でゴシゴシと拭いた。

 

「もう引退した前のキャプテンですよ、二年の女子には超人気だけど。高原先輩はイケメンだし、足も速いし、頭はそこそこ良いと三拍子揃ってるし」

「うんうん。じゃあ、彼女は何人いるのかしら」

「何人ってドラマじゃ……そうですねぇ、特定の子がいる噂は聞かないなあ」

「そう、良かった。他の男子と違った感じがしてイイのよね」

「それじゃ、エリさんも…」

 

 手を止めた京太はエリの恍惚とした表情に気が気でなくなった。だが、彼女は意外なことを口にした。

 

「うん、みちほにピッタリだわ。どこでデートさせるか考えないと」

「デ、デート?」

「そうよ、このこと日記にきちんと書いときなさい!」

 

 京太の自転車の荷台をバンバンと叩き、大きな瞳を細めてエリが不敵に微笑んだ。京太は背中に嫌な汗をかいた。部屋でみちほとゲームをして済む話ではなく、デートをさせると言い出した。しかも、女子に人気の今日初めて出会った夏也まで利用しようとする。彼女は自分の作戦に絶対的な自信があり、その実現に貪欲な悪魔の魂を持つ少女であった。

 




―― 次章予告 ――

いよいよ、エリは家でゲーム三昧のみちほに作戦を実行した。舞島学園の前で待ち伏せ、M42を使ってバスの案内表示を改変。強引に車いすを押して送っていき、公園でわざと… ⇒FLAG+15へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+15 Triangle/With
目論見アドバルーン


―― 前章までのあらすじ ――

中学三年のエリは桂木家で彩香の妹として暮らし始めるが、ハクアが来て悪魔だと告げられた。
冥界情報端末・M42を魔力で使いこなせたエリは「悪魔の魂を持つ人間」と言うハクアを信じ、朋己と兄妹に変わりないと安堵した。しかし、その事を彩香には言えず、電話で京太に打ち明けてバディになるように頼んだ。
翌日、黒田家を訪れたエリはみちほが乙女ゲームをする姿に驚き、京太を小馬鹿にする態度に腹を立てた。その上、学校をサボる不良少女と分かった。彼女の悪行を正すと決めたものの、作戦が思いつかず彩香に相談し、姉妹が協力する話に感銘を受ける。週明けの月曜、学校帰りにエリは魔法を使う練習をし、みちほを従わせるプランに自信を見せるのだった。
妹と仲良くさせるため、頼りない京太の尻をエリが楽しそうに叩いた。悪魔の血がたぎるかのように。



 深夜の黒田家で廊下を動くジャージ姿の人影が一つ。みちほは尖足のつま先で跳ねないように階段や吹き抜けの腰壁に体重をかけて横歩きし、PCのある部屋にこっそりと入った。エレベーターは降りてすぐ脇の部屋で両親が寝ているからNG。彼らが二階へ行った後に電灯の自動スイッチを切ってあった。

 暗闇でディスプレイの前に座った彼女は京太のパスワードを入力した。リモートでも操作できるが、タブレットの狭い画面は見落とす可能性がある。一度痛い目を経験した彼女はデスクトップの動画アイコンを指で数えた。以前より増えているのに舌打ちし、サーバーのリンクを押した。

 

「……なす、なす、なす、きゅうり、きゅうり、きゅうり、トマト、トマト、トマト。うん、じいちゃんのファイルには異常なし。しっかし、後100ピコしか残ってないんじゃなあ」

 

 こちらを調べるのが一番の目的。画面のメニューを触ってコンソールを出した。データを確認するためコマンドを叩き、ファイル先頭の数百バイトを見て胸をなで下ろした。

 スイッチに手を伸ばしかけ、点滅するアイコンに気がついた。京太の雑記帳をОSが編集中であると警告してくる。勝手に見ても良心の呵責に苦しむ相手でなく、彼女は躊躇なくファイルを開いた。おとといの日付が書かれた下の文章中に『みちほ』の文字が目に入った。

 

「はぁ~、気持ち悪い。勝手に他人の名前書くんじゃねえよ」

 

 自分の行為を棚に上げて雑言を吐いた。しかし続きに彼女は驚き、その文章を人差し指でなぞった。

 

『みちほを三年の高原先輩とデートさせる気らしい。エリさんは――』

 

 椅子から腰を浮かせた彼女はディスプレイに顔を近づけた。エリには軽蔑させるつもりで横柄な態度をとり、自分に関わりたくないと思わせたはず。予測と全く違う展開に、ルートを間違えたのかと寝ぐせのついた髪を掻きむしった。

 みちほは今の生活に満足していた。家では何でも言う事を聞いてくれる祖父と優しい上の兄がいる。祖母や父は仕事が忙しそうで何より。怖い母は怒らせないように気を配り、変な下の兄貴がいても問題はない。学校の授業は教科書を読めば大体理解でき、無理に行く必要を感じなかった。当然、計画的な登校を好ましく思ってない桂木の祖母・志穂は煩わしいお客さんだった。エリを養子にしたと聞き、そちらに教育的指導が向けられる期待を持った――彼女は再び深く腰掛けて原因に考えを巡らせた。

 家まで車いすを押して帰ろうとした行動から、エリを面倒見がいい真面目な委員長タイプと仮定した。であれば、志穂が気に入ったのも頷けた。世間体を大事にする考え方の古い祖母だが、現実的な面もある。桂木家にエリを住まわせたのは孫たちに生活面や学習態度の模範を示す狙いがあるのだろうと腹の上に指を組んで画面へ目をやった。運動神経抜群で腹筋が割れた背の高い美少年とのデート。文章で誇張された夏也を頭に思い描き、少々めんどくさいが与しやすい相手だと顎をさすった。

 

 京太からみちほがログインしたと聞き、エリは午後の授業が終わってすぐ学校を出た。M42を電気自転車に向け、制限された加速の最大値を三倍に引き上げた。田舎の一本道を原付並みにぶっ飛ばし、十分程で黒田家に着いた。門を入った塀の内側に自転車を立てて玄関へ駆けた。

 

「ごめんくださーい」

 

 引き戸を開けたエリは玄関の脇にある車いすを目にし、廊下の奥へ大きな声を発した。使用者はテスト週間で家に帰っている。リュックの肩紐をギュッと握り、靴下のままで上がり込んだ。

 ようやく彼女のお出ましかと、みちほは慣れた手つきで母の目を誤魔化すために用意されたゲーム機のコントローラを掴んだ。エリが気を引き締めて部屋に入ると、シェードは全開して障子が開けられた窓から小上がりの畳へ光が射した。クローゼットの陰に隠れるテレビ画面でゲームをする少女。緑のジャージを着たショートヘアの彼女にエリは笑顔で近づいた。

 

「ふふふ。こんにちは、みっちゃん」

「こんにちは」

「私立はテストが早いのね。でも、テレビゲームで遊んでて大丈夫?」

「夜は勉強してるから」

「あ、そうだ。わたしのことはエリ姉って呼んでね。聞いたわよ、ちはるさんや彩香さんを『ちは姉』、『彩姉』と呼んでるんでしょ」

 

 小上がりに腰を掛けて鼻歌交じりでリュックを下ろし、無愛想な顔を向けるみちほに明るく振る舞った。彼女へのアプローチは仕切り直し。布団は端に寄せてあるものの、前と同じくティッシュや食べ終えた菓子の袋が散らかった。エリは足元の畳に転がるテレビのリモコンをチラッと見た。

 みちほは笑いを漏らした。小さい頃、「ちはるばあちゃん」と呼んだ時につり上がった女性の目を思い出した。祖母の妹なのにと怖気づき、子供心に考え抜いた呼び方だった。

 

「ま、そう呼んで欲しいのであればいいですよ」

「それじゃ、今からそうしようね」

 

 エリはうんうんと頷きながら、内心で首をひねった。今回はみちほを自分のペースに引き込むために押しつけがましい人間を演じたのである。落ち着き払った態度をとられ、最初からつまずいてしまった。やはり彼女に小手先は通じないとリュックを開けた。用意した携帯ゲーム機の電源ボタンを押し、掴んだ手を後ろへ回した。

 

「ジャーン、このゲームで勝負よ。PTAだっけ、えっと……」

「ほほう、かなり古いPFPですね。けど復刻版の方か。それなら親機と通信対戦できるな」

「そうそう、PFP。このゲームはホームラン、フォームラン、フォーミュラん?」

 

 エリが自分の好きなゲームに理解を示すのを予想していた。テレビゲームは専門外の彼女がしどろもどろになり、みちほは畳に手をついて壁際へ体を伸ばして立ち並ぶゲーム機から『PF九』と刻印された黒い筐体を手元に引き寄せた。

 咳払いをしたエリは足裏を払い、小上がりに上がった。みちほの隣にお姉さん座りでPFPを両手に持ち、壁に貼られたシート型テレビへ向かう。もちろん、M42でチート済み。

 

「よーし、レース勝負よ。かかってきなさい」

「あ、まだ繋いでないんだけど…そっちのメニューに接続出てないよね」

 

 みちほは古いゲーム機用の万能コンバーターに絡まるコードを配線し直した。PFP側のスタート画面とにらめっこするエリの接続設定も代わってこなし、やはり彼女は先生に言われた通り勉強する良い子なのだと澄ました顔でPF九を起動させた。

 50インチ画面の左右に二台の運転席からの眺めが並び、カウントダウンの数字がゼロになると両者は同時に発車した。だが全10周で始まった対決は呆気なくエリの敗北に終わった。彼女が不正を感づかれない程度に最高速を上げたマシンは周回遅れにされ、圧勝したみちほはコントローラーで体をあおいだ。

 

「コーナリングが甘いな、ギリギリまでブレーキを我慢しないと」

「ははは、練習したのにおかしいな」

「今日はゲームしに来たんすか、エリ姉。もっと他に大事な用件があるんじゃないんですかぁ」

 

 余裕の表情を浮かべ、みちほは彼女へ目を向けた。ついでにエリがデートを画策する男子・高原の話でもしてもらおうとあぐらに組んだ足を回転させ、ゴミを周囲にまき散らした。

 

「うっ。な、何のことかな~」

 

 エリが視線を逸らして指で頬を掻き、見覚えのあるポーズにみちほは首をひねった。黒田家に電話を掛けてくる彩香の気まずそうに話す映像が留守録に溜まっていた。口を押さえて「そうか」とつぶやいた。京太の日記には『らしい』と書いてあった。日頃、いとも簡単にゲームの美少年と仲良くなってデートする彼女は現実でも同様にいくものと勘違いしてしまった。頭をポンポンと叩いてみちほが窓側へ顔を背けた。

 隙を突いてエリは画面の切り替えボタンへ指を伸ばし、立ち上がった。壁の中央で乙女ゲームのキャラクターが大きく表示され、気づいたみちほが彼を見て頬を赤く染める。彼女に憐れみの目を向け、画面に映った金髪をかき上げる碧眼の美少年を指した。

 

「みっちゃん、これはゲームよ。こんなペラペラな絵に惑わされちゃダメ。あなたに寄り添ってはくれないの。全然口が動かないし、どう見ても木偶の坊でしょ。いつか、わたしが本音で語り合える男子に会わせてあげるから!!」

 

 エリは反対の手で胸を押さえ、みちほに訴える芝居を打った。あらかじめ京太の雑記帳で高原の名前を見せておき、その上で彼女が大好きな2Dキャラをけなした。怒らせて自分から男子に会うと言わせるのが目標到達地点。得意のレーシングゲームで負かして悔しがらせる一段目が不発に終わり、鎌をかけられてフラフラし、やっと最後の綱である二段目のエンジンが火を噴いた。

 作戦ではカッとしたみちほが反論してくるはずだったが、彼女は俯き加減で陰鬱な雰囲気を醸し出してブツブツと口にした。

 

「ルークルークルークルークルークルークルークルークルーク……」

「え、誰が来るの」

 

 不思議そうな顔でエリが見守る中、みちほが正座になった。彼女は両手を天に向けて絶叫した。

 

「ルーク、許しておくれ~。ゲーム世界の女王たらんとする、このわたしが少しでもリアル男子に浮気をした事を心から謝罪します。もうしませーん、二度としませーん、絶対にしませーん」

 

 住宅街と違って隣の家が離れているとはいえ、窓が閉まっていても騒ぎが伝わる程に大声を張り上げ、それから何度も畳に両手をついて頭を下げた。エリは乙女ゲームのキャラに平謝りする様子にドン引きし、ガックリと下を向いた。作戦は失敗したかに思われた。ところが、みちほは上体をむくっと起こし、ぷっくりとした頬を向けてエリを横に見上げた。

 

「でも、本当に連れてこれたら何でも言うことを聞きますがね」

 

 怒りでもなく、乗せられたのでもない。乙女ゲームのプレイ経験とエリの言動を元に、みちほが弾き出した答えだ。遊んでくれた裕太が中学生になって忙しくなり、2D美少年に囲まれて過ごすのが日常になった一年半。物入れにパッケージを積み重ね、薄暗い北側の小上がりで男子と会話の山を築いた。乙女ゲームを現実のように生きる彼女は頭の堅い志穂好みの優等生に手順よく男子とのデートを用意できるまいと踏んだ。完璧な計算――ただ、エリの性格を見誤った点を除いて。

 棚ぼたが降ってきたと少女はニンマリとして荷物をまとめた。早速、リュックを肩に担いだ。

 

「さっきの言葉忘れるんじゃないわよ、みちほ」

 

 勢いよく戸を閉め、足音を立てて廊下を走っていった。また、みちほが首をひねった。彼女はなぜ呼び捨てにしたのだろうと、背中に手をまわしてぽりぽりと掻いた。

 エリが玄関を出たところに門から来た京太が自転車を降りた。彼へ自信に満ちた顔で近寄り、かかとを上げて耳打ちで作戦の変更を告げた。トンと肩を押して離れて電気自転車へ駆け、途中で振り返って頬横に垂れる髪を耳に掛け直して言いつけた。

 

「ちゃんと来なきゃダメよ。明日は京太に任せるから」

「はぁ、普通に学校あるんですけどね」

 

 渋々と応じた京太がサドルを持って自転車のスタンドを立て、しゃがみ込んで空気が減った後輪のチューブを指でつまんだ。エリは屋根の上を見上げて飛行機雲に空高く目を細めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

待つや待たざるや

 冥界法治省の情報局で人間社会の情報を集める部署の一つが東アジア調査部。ノーラが部長に就任後、日本全国に支社がある角習研究社を買収し、冥界のグレタ東砦と繋がる人間界の舞島沖から近い鳴沢市に今の本社ビルを建てた。

 悪魔の拠点である角研ビル最上階は端の一部分だけが完全に隔離される。社長室に行くには一階からの直通エレベーターを利用するか、屋上ヘリポートからの階段を使うしかなかった。社内の会議は全てリモートで行われ、社長が一般社員に細かく指示することはないが、部下の悪魔に直接命令することはあった。カットソーの上にジャケットを肩掛けしたノーラはデスクに尻を乗せた。腕と脚を組んで八分丈のパンツ裾から足首を覗かせ、冷ややかな目で後ろのノートPCの画面へ首を曲げた。

 

「冥界情報端末を失くして桂木プロの調査報告は一切できない訳ね。つまり、この半年間何もしてないと…」

 

 奥のソファーに寝る子どもが目を覚まさないようにトーンを落として話した。しかも、相手はコネで法治省に入った名家の若い御令嬢。どんな役立たずでもクビはおろか、怒ることさえもできなく、やれやれと肩越しに手を振った。

 

「もういいわ。けど、端末はお父様の方に頼んでちょうだい」

 

 振り向かずに画面へ手を這わせてウィンドウを閉じ、降りて椅子に腰を下ろした。デスク上に片肘をついてマニキュアを赤く塗った爪でコツコツと叩いた。特に、東アジア調査部はヨーロッパのお嬢様方が物見遊山感覚で任務に就き、責任者の彼女を苛立たせた。いつもなら廊下の壁を蹴りに部屋を飛び出ている。だが、今日は思いも寄らない客があり、PCのキーボードへ指を伸ばして一階で待つ彼に上がってくるようメッセージを送った。

 今朝、ノーラは社長室に来てメールが届いているのに気づいた。差出人は黒田京太。数日前に法治省本部から彼女のバディに採用したと通知が来た正にその彼だった。調査部にバディは必要性がないと思ったが、部下の体たらくを見て気が変わって会うと決めた。

 メッセージを送って五分もしないうちに社長室の扉が開き、学校の制服を着た少年が入ってきて立ち止まった。若くして他人を待たせない京太にノーラは感心し、忠実な面構えに使えそうな奴だと微笑んだ。線は細いが背は大人と比べても遜色がなく、秘書にして連れ回すのも悪くないと思わせた。ノートPCを閉じて彼女が椅子の背にもたれた。

 

「見どころがあるわ、おまえ。名前何て言ったかしら」

「は、はい。黒田京太と申します」

 

 京太はエリが考えた作戦の一環で学校をサボった。新舞島駅裏の駐輪場に自転車を止めた時は母にバレたらどうしようかと心配していたものの、電車に乗って鳴沢駅が近づくにつれてソワソワしてきた。一階の休憩エリアで缶コーヒーを飲みながら悪魔との対面に心を躍らせ、社長室に入って激しくなった鼓動は落ち着き、冥界の一員になったようで最高に気分が盛り上がった。

 機嫌を良くしたノーラは引き出しを開けてひょいとM42を取り、立ち上がって颯爽とデスクの前に回った。

 

「今日は冥界情報端末が欲くて来たんでしょ……って、どうしたの」

「ぐへへへへ」

 

 京太の様子がおかしくなり、ノーラは二、三歩踏み出して止まった。眼鏡の下で彼の目がニタッと笑っていた。彼女は見つめてくる視線を手のひらで遮り、眉をひそめた。

 

「げっ、こいつ何かヤバイわ」

 

 ノーラは邪気を感じない人間相手にひるんでいた。角研の採用は大学卒以上であり、最後に未成年の男子と話したのは駆け魂隊の地区長の頃。半世紀以上経ったが、自分のバディの他にもう一人いた事が脳裏にある。顔がよく思い出せない誰かのバディとして行動を共にしたと薄っすら残っていた。京太の不気味な笑みは頭の片隅に封印されし男の記憶をよみがえらせた――確か、名前は桂木と言った。

 

「ヒィ~、気持ち悪い」

 

 眼鏡を掛けたキモオタ顔が浮かんで背筋がぞっとし、しつこく追いまわされた出来事を思い起こして非常に不快な気持ちになった。思わずノーラはM42を床へ放り捨てて両腕を抱えて後ずさった。

 カラカラと音を立てて端末が横に回転して滑り、京太の靴にぶつかった。彼はへらへらと妄想にふけり、円盤型UFOに乗ってエリに冥界を案内中だった。不意に黒光りの床に亀裂が入り、バランスを崩して後ろに倒れて尻もちをついた。正気に戻った彼が側に落ちているM42を拾った。

 

「あれ、この端末…そうそう、これをもらってもいいですか」

「ほ、欲しけりゃ、くれてやるわよ」

 

 端末を向けられたノーラが「帰れ」と言うかのように彼へ手の甲を振った。京太は彼女が豹変した理由が分からず、立ち上がってとぼとぼと出ていった。

 ノーラはこぶしを握って閉まった扉へ敵意をあらわにし、デスクに載る雑誌を投げつけた。

 

「フンッ、あんな奴はタダ働きでこき使ってやる!」

 

 ムカムカした感情を必死に抑え、ソファーへ向かって歩き出した。午前中は思い通りにいかないこと続きでストレスが溜まっていた。応接テーブルにジャケットを放り、我が子を胸に抱いて微笑みかけた。目を開けた子が安心して笑った途端に、ノーラの服に温もりある染みが広がって彼女は顔をしかめた。

 

 車いすの少女は一人で廊下を移動し、二階のエレベーター乗り場に来た。クラスメートとろくに会話しない彼女にも放課後は誰かしら付き合ってくれるが、テストで早く終わる今日のような日はみんな元気に階段を下りていった。みちほはドアが開くとハンドリムを回して中央へ行き、車いすを一回転させた。もう一台乗っても大丈夫なくらい広く、ボタンに手が届かない。彼女はスマホを取り出してタッチした。するとすぐ上向きの矢印は下向きに変わり、ふと口を衝いて出た。

 

「リアルの世界も分かりやすいな」

 

 生徒が学ぶ棟を隠すように学園正面へ向く二つの中央校舎が建ち並んだ。その間はアクリル板の屋根が覆い、真ん中に木が生えた。みちほは校舎の壁に貼られる舞高祭のポスターを横目に、段差が撤去された広い通路を通り抜けて日の当たる場所に出た。色白でそばかすの目立つ顔はニタニタしていた。彼女がバス待ちで教室にいる間に他の生徒は帰り、葉のない枝が多い木々に囲まれて校門へ向かう頭の中は乙女ゲームの続きをする事でいっぱいだった。

 テストの点数は各教科ごとに75~85の範囲に収めた。休みが多いのに満点では周りから不審に思われ、低過ぎると母から文句を言われる。エリが帰った後に夜更けまで2D美少年の攻略に専念した彼女はあくびをして校門を出た。

 

「おっ帰り~、出てくるの待ってたよ」

 

 舞島学園のプレート前で左のこめかみ辺りにヘアピンをしたエリが立っていた。昨日と同じ灰色のセーラー服を着て手を振り、自分へ向かってくる。みちほは興奮して指を差した。

 

「こ、こんなとこに来やがって。あんた、いい加減にしろ」

「ちょっとぉ、エリ姉でしょ」

 

 エリが唇を尖らせて腰に手を当てた。みちほは話にならないと無視し、すぐに来る舞島学園前のバス停へ急いだ。IT化された電子案内板はバスの現在走る場所や到着予測を表示した。今回は体よく断れると下から上へ目を這わせていった。

 

「次の市内循環Bは現在位置不明、7時間45分遅れと……え、えぇーっ」

「こりゃ当分来ないわ。今日暇なのよね、わたし」

 

 背後から楽しそうなエリの声が聞こえる。慌てたみちほは祖父を呼び出そうと、ジッパーを全開させてバッグからスマホを掴み出した。

 

「繋がらない。どうしてこんな時に…」

「ああ、そうだ。今日はインターネットできないって聞いたわ」

「じゃあ、ネットワークに障害が出ただけか」

 

 みちほは辻褄が合う答えが見つかって素直に信じた。悪魔がポケットに手を入れてM42で魔法を使ったなどと考えつくはずもなく、案内板の表示もバグだと結論付け、エリが学校に来るイベントはリモート講師の授業が潰れて公立中学が午前中で終わったせいかと納得した。彼女の車いすが校舎方向へ回転して脇を通過し、エリが慌ててブレーキに飛びついた。

 

「なんで学校に戻るの。待ってもバスは来ないのよ」

「固定回線借りるに決まってんでしょ」

「え、固定回線?」

「そう。学校、駅、公共施設には緊急時用にあるんだよ、エリ姉」

「待って待って。ほら、わたしが送ってくし」

「いいよ、じいちゃんを呼んで来てもらうからっ」

 

 みちほはハンドリムを握る手に力を込め、エリは路上の点字ブロックに足を引っ掛けた。いつもドライな少女が顔を真っ赤にさせ、スラックスの足先をバタつかせた。高等部が授業中で静けさを保つ舞島学園の正門前でギャーギャーした声が響いた。

 ちょうど、学園の敷地から出て来た人物が二人の騒ぎに気づいた。革の書類入れを持った女性は真っすぐに向かった。少女たちの近くで長い白髪をかき上げ、諭すように声をかけた。

 

「我が舞島学園の生徒が路上でけんかとは頂けないな」

「あっ、副校長」

 

 後ろ暗いところがあるエリは両手をパッと離し、反動でみちほの体はつんのめって膝に載せたスポーツバッグが歩道に落ちた。舞島学園の副校長・二階堂の足元に転がり、彼女がスカートの裾を押さえて屈んだ。中等部と高等部を兼任する彼女は双方の生徒から慕われるが、みちほは微笑みの裏で考えを見透かされる気がし、廊下で擦れ違う時は目を合わせなかった。二階堂は拾って軽く上下させた後、頬を緩めて差し出した。

 

「テストの日も勉強道具を持ち歩いているようね、黒田さん」

「ど、どうも…」

 

 上目遣いのみちほがおずおずと受け取り、さっとバッグを抱えた。しおらしい態度に、エリは背後へ抜き足差し足。車いすのグリップを片手で握って二階堂へ手を挙げた。

 

「はいっ、ふざけてたんです。彼女を送っていくので失礼します」

 

 言い終るや否や、エリは車いすを回転させてピューッと走り去った。取り残された二階堂は頭を掻いた。指先に髪が絡まり、根元が黒くなった毛が抜け落ちた。彼女は訳あって過去に舞島学園で教師をしていた悪魔である。二十五年前、当時の白鳥家当主に請われて舞い戻った。彼らは人間より寿命が長く姿形が変わらないため、怪しまれないよう髪を白く染め、目元や口元にシワを書いてカムフラージュした。副校長として忙しい日々を送り、今日は私立高校関係者の集まりで鳴沢市まで行くところ。前髪の分け目に手を当てつつ、バス停へと歩を進めた。

 7時間40分遅れ。二階堂は疲れているのかと目をこすった。しかし、横断歩道を渡り切ろうとする二人へジロリと視線を向けた。

 

「タクシー代の分はいずれ返してもらうぞ、桂木妹」

 

 上着のポケットからスマホを取り出し、画面をすーっと顔から遠く離す。彼女は老眼でもないのに目を細める仕草が身に付いた。表示が改変された案内板からは魔法の痕跡が市街地の上空へ広がる放物線を描いた。二階堂はバスが来るのを諦め、少女の計り知れない魔力に訝しげな目つきをしてたたずんだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

智将混乱

 前回と打って変わり、静かに歩道上を車いすが押された。天気は秋晴れで爽やか。会話の押し売りを覚悟していたみちほも気を許して時間を持て余し始めた。早速、手をバッグに入れてPFPを引っ張り出し、昼休みにやる乙女ゲームを起動する。彼女の耳元へエリが意地悪く囁いた。

 

「いーけないんだ。今度、副校長に言ってやろっと」

 

 ありきたりな脅し文句に、みちほは構わずゲームを続けた。志穂の養女が外聞の悪い行為をするはずがなかった。足を止めてエリは彼女の頭を撫でた。

 

「うそうそ、言ってみただけ。でも、それって野球ゲームとかと違ってクリアしたらできないんでしょ。好きなのは分かるんだけど、何本も買わないとダメじゃない?」

 

 エリが乙女ゲームに関して知った風な口を利いた。みちほは面倒くさいと思いつつ、バッグの上にPFPを置いて両手を上げた。

 

「フリマのサイトで中古をまとめ買いするから……こんだけしか持ってないけど」

 

 彼女は右に人差し指をピンと立て、左に手のひらを広げた。想定内の本数にエリは頷いた。

 

「15本か、結構持ってるわね。じゃあ後どれくらい…」

「あ、一桁違ってますよ。それに買い増す予定、積みゲーはほぼクリアしたし」

「ひゃっ、百本以上あんの」

 

 ぎっしりと乙女ゲームのケースが並ぶ棚を想像してエリは手で口を押さえた。しかし、ここで驚いてはいけないと、ブンブンと首を振って半笑いした。

 

「あははは。じゃあ、乙女ゲームを買い続けるの」

「うん」

 

 みちほが首を縦に振り、エリは黙ってしめしめと微笑む。PFPの画面に再び目を落とした彼女のうなじを見つめ、グリップを握って出発した。車いすは前輪をキュルキュルと回転させ、エリが

京太との仲を優しく言い聞かせた。

 

「ゲームもいいけど、お兄ちゃんと仲良くしないとダメだよ」

「裕兄とは仲がいいからいいじゃん」

「そっちじゃなくて。もう一人いるでしょ、もう一人」

「まあ、一応ね」

「そうよ、京太も案外いいとこあるし。一度じっくり話し合ってさ」

「ハイハイ、分かりました」

 

 みちほは淡々と応じた。朋己の事を聞かされてないため、熱のこもった言葉も兄がいないエリの知ったかぶりに思えた。学校の部活にも入らず、日記で母や兄をののしり、口を開けばUFOの話ばかり。面倒見の良さは裕太と比べて天と地ほどの差があり、ゲームの世界でも京太を良く言う妹などいるものかと思った。

 さすがに暇つぶし用のゲームは同じキャラに会ってフラグ回収する作業が多く、みちほは黙々と親指を動かす。彼女の後ろでエリが大きい声を出した。

 

「そうだ。ジュース飲もう、みちほ」

 

 エリは勝手に車いすの向きを変えて押すスピードを上げた。公園の入り口が顔を上げたみちほの横を通り過ぎ、人気のない遊歩道を車いすがそのまま突っ走った。自動販売機の手前で有無を言わせず急ブレーキが掛かり、青ざめたみちほが胸を手で押さえて後ろを向いた。

 

「ビックリするから急に止まらないでよ」

「オーケーオーケー。喉が渇いたでしょ、ジュース十本ね」

「え、いや、そんなには…」

 

 彼女の驚く顔を気に留めずエリはスカートのポケットからM42を出して念じた。端末を向けると、側の四角い自販機がまばゆい光に包まれた。魔法が制御回路上に電流となって次々とジュースが溜まった列のストッパーを外し、がたがたと音を立てて何本もアルミ缶が落ちてきた。みちほは体を前へ倒して取り出し口を覗いた。立ち上がって自販機前まで歩き、商品のタッチパネルを指で突っついた。

 離れたみちほを見てエリは車いすを公園の側溝へ向けて前輪を金属の網に載せた。横へそうっと股を開いて足を摺らせ、スニーカーを乗せて踏んづけた。みちほはジュースの缶を一本取り出して振り返り、エリが彼女へ手をバタバタと振った。

 

「大変大変、前輪が溝にはまっちゃった」

「は、何でそうなるの」

 

 みちほは戻ってハンドグリップを掴んで揺らした。車いすはキャスターが固定され、キィ―ッと悲鳴を上げた。真面目な顔をしてエリは彼女の手を押さえた。

 

「ダメよ、壊れちゃうわ。このまま動かさないで」

「けど外さないと帰れないしさ」

「いい、待っててちょうだい。わたしが人を呼んでくるから」

「エリ姉、ちょっと…」

 

 すっ飛んで行く背中へ手をかざし、みちほは呆然と突っ立った。が、すぐ彼女は手で首の後ろをさすった。

 

「まあ、いいか」

 

 みちほが車いすの前に回り込み、バッグを芝生に置いてシートに腰を下ろした。桂木家には誰もいないから黒田の家へ行くだろうし、昼休みに帰っている祖父が来てくれるだろうと悠長に缶の蓋を開けてジュースに口をつけた。彼女の関心は自然に乙女ゲームの続きへと切り替わった。

 

 手元のPFPからテーマ曲が流れ、みちほは乙女ゲームのエンディングに胸を打たれた。祖父が来て帰るまでに他のキャラクター攻略を始めるべきかどうかを考えて車いすの背に体を預ける。彼女の横顔に傾いた太陽が射し込み、頭をほかほかと温めた。

 みちほの髪型は地味なペタッとしたショートボブ。月末は祖母が行きつけの美容院に連れて行ってもらい、毎朝洗面所で顔を洗って適当に髪をブラッシングした。教室では車いすが置ける窓際の後ろの隅に座り、無口で特段可愛くもなく目立たない。それでも、リアルはどうにでもなると固く信じて疑わなかった。ゲーム世界の女王は男子にモテモテだからだ。

 

「遅いなぁ、エリ姉」

 

 PFPのホーム画面を表示し、現在時刻はすでに一時を過ぎた。みちほは目を丸くした。

 

「あっ、じいちゃんの昼休み終わってるじゃん」

 

 乙女ゲームに夢中で時間を気にしていなかった。祖父が来れないとなると、エリが呼びに行ける人は限られた。みちほの表情から余裕が消え失せた。エリや兄たちが通う中学より直線距離が近い母・美雪がパートで働く道の駅が国道沿いにある。自転車を使えば遠くなく、行く時の様子は必ず誰かを連れてくる感じだった。美雪が来れば怒られるのは必至の上、車いすを壊したら家に帰ってから長い説教が待っている。黒田家のピラミッドの頂点に君臨する母。みちほは上体を前傾させて前輪のはまり具合を確認した。

 公園内への侵入を禁止される車両が入り口の方で止まった。遊歩道を動きやすい靴が気ぜわしい足音を響かせ、次第に大きくなった。反対を向いて座るみちほは誰が来たのか分からず、心臓をバクバクさせて後ろを向く。彼女の細い目がギョッと見開いた。

 

「な、何で京兄が……」

 

 みちほは美雪でなくてほっとしたものの当惑した。学ランを着た京太が目の前に立っていた。

 

「動けないんだろ。自転車の荷台に乗せてってやるよ」

 

 まっすぐ駅から来た京太は一仕事終えた勢いで自信たっぷりに手を差し伸べた。信頼する裕太が迎えに来たならすんなり従ったであろう。だが京太の場合は尊大な態度に思え、みちほは顔目掛けて空き缶を放り投げた。

 

「フン、余計なお世話だ」

「おっと」

 

 京太が軽く頭を倒し、缶は首の横すれすれを通過した。調子に乗った彼はノーラと会ったことを思い返して胸を張った。

 

「午前中、エリさんに言われて学校サボって『メー』の角研ビルに行ってきたんだぜ」

「はぁ、んなこと知るかよ」

 

 みちほは顔をPFPへ戻して乙女ゲームを再開した。京太のオカルト武勇伝に興味はなく、母にチクってやろうかと思った。ゲーム画面の文章に目を動かして恋愛イベントを読み進めた――ん、エリさんに言われて?

 饒舌に喋る2D美少年を眺めながら、みちほが周囲に聞こえない小さな声でつぶやいた。

 

「本当にエリ姉がサボれって言ったのか…」

 

 京太の言葉に疑問を感じた彼女は会話の終わった所でセーブし、PFPを持つ手を下げて太腿に置いた。超常現象関連の自慢話で嘘をつく可能性は低かった。ならば、桂木の祖母に気に入られた前提でエリに設定した真面目なキャラが間違っている。みちほは冷静に順を追って振り返った。

 出会った日のエリは先輩気取りで話しかけてきた。翌日は部屋に押しかけて乙女ゲームをやめろと言い、京太と付き合うことをバカにすると怒って出ていき、さらに翌日の学校帰りに高原とデートさせると宣言した。次に来た日は高原とのデートの話をはぐらかし、随一の2D美少年・ルークを侮辱して替わりの男子を連れてくると啖呵を切った。今日は乙女ゲームに多少理解を示したり、京太との仲を取り持とうとしたり。

 日によって変わるエリの行動は脈絡がなかった。しいて言えば気分屋だが漠然としたキャラ設定に納得がいかず、みちほは髪を掻きむしった。いずれにせよ、ここに居ては仕事中の美雪がやってくると考えて彼女はPFPの電源を切って立ち上がった。

 腕組みする京太はブレザーの背中を見せた妹へ口笛を吹いた。みちほが帰りたがらない時の対処法は聞かされてなく、一安心して口を滑らせた。

 

「ふぅ、作戦通り。そりゃ、母さんが迎えに来るよりはマシだしな」

「さ、作戦だと……それをエリ姉が考えた…」

「なんか言ったか。ああ、ここへ自転車持ってくるよ」

 

 京太が公園の入り口へ向かった。みちほはスポーツバッグを拾い上げ、ハメられたと悟って天を仰いだ。最初に車いすを押されて帰る歩道で京太に怒った時から始まっていた。エリの行動で「高原」に関する部分はPCのファイルを読んで彼女が鵜呑みにしただけであり、そこを抜くと目的が見えてくる。エリは兄妹を会わせるつもりだった。

 

「くそ~、やられたぁ」

 

 素人の作戦に簡単に引っ掛かり、みちほが猛烈に悔しがった。今まで数多の乙女ゲームに挑んで全てやすやすと成功し、その経験を活かしてリアルの世界も漂う雲に乗るがごとく周りを気にせず飄々と生きてきた。だが、いきなりエリに未知の飛行物体で追い抜かれ、つむじ風が吹いて彼女は真っ逆さまに地上に落ちた。

 二人が仲良くなる帰宅イベント。エリが連れてくると匂わせた男子は兄の京太だ。みちほは見え見えのセッティングには乗らないとバッグの持ち手を強く握り締めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一兎を追う兄妹

 舞島学園に程近い公園を出て北へ行くと国道にぶつかり、国道は西の旧市街へ延びて鳴沢、舞島を含む複数市をまたぐ大動脈と繋がる。舞島市の交通はパニックになっていた。それもそのはず、エリのかけた魔法で市内のバスは明後日の方向に走り出し、国道の信号機は赤に固定されて旧市街を中心に大渋滞を引き起こした。おかげで、新市街方面はすいて一台の車が通ってから次の車が来るまで大分時間がかかった。

 制服のエリが両手をついて角に足を掛け、スカートを擦らせて屋根に上がった。川の手前に建つ農機具小屋は前を走る国道を遠くまで見通せた。首にぶら下げた双眼鏡を交差点へ向け、500メートル先に眼鏡を掛ける少年が見えた。歩道が途切れて兄妹の乗った自転車は車道の端をフェンスに沿って走り、彼女は今のところ問題なしと頭を低くした。荷台に妹が横向きで座り、運転する兄の腰に掴まって会話していくうちに仲良くなるのが一番理想的な展開だった。

 実際は口を結んだ京太がせっせとペダルを漕いだ。事前にエリからみちほに嫌われている理由を聞けと言われた。だが、彼女はスポーツバッグの二つの持ち手を両肩に通して後ろ向きで荷台を跨ぎ、エリの作戦を封じ込める姿勢をとった。彼は声をかけるどころか黙って乙女ゲームのBGMを聞き、学ランがバッグの硬い底板と接して汗ばんだ背中にもたれる体重がのしかかった。

 国道は橋に近づいて徐々に上っていき、ペダルが重く回らなくなった。諦め顔で京太が両足を路面に着けて自転車を右へ傾けた。みちほはずり落ちそうになり、左足を道路についた。

 

「おっと」

 

 PFPだけは離さず乙女ゲームを続け、みちほが右足を浮かせた。京太は後ろへ首を曲げた。

 

「なあ、向こうへ渡りたいんで降りて歩いてくれないか」

「…ったく、役に立たない運転手だ」

 

 みちほは片足で路面を蹴って荷台をずって端まで進み、反対の足をコトッと下ろした。自転車の脇に立った彼女がゲーム画面のほこりをブレザーの袖で払った。ほっそりして同い年の男子より背が高く、エリが褒めるのも京太は分かる気がした。

 二人の側を前方から来たトラックが通り過ぎ、先にみちほが両手をPFPに添えて車道を渡り始めた。

 自転車の向きを変えて京太はサドルに跨ったまま跡を追った。彼女は茶色の学生靴で左足を真っすぐに出し、障害がある右足を斜めに引きずり気味に歩いた。スラックスを履くのは短下肢装具を裾で隠したいというより、あぐらがかきやすいためだ。小学生の頃はスカートを履いていた記憶があった。

 

「低学年の時は遊んでやったよな、みちほ」

「あン?」

 

 センターライン付近で止まったみちほが顔を向けた。元から膨らむ頬とそばかすの上に瞳が寄る不満げな細い目。京太はハンドルの上に腕を乗せ、前へドサッと身を倒した。

 

「おまえさ、何でいつも怒ってるんだ」

 

 まるで他人事のように尋ねる京太。みちほはあきれた表情を見せてプイッと顔を背けた。彼女の前を乗用車が猛スピードで通過して風圧で分け目のない前髪が揺れる。彼女が唇を噛んで肩を震わせた。これ以上エリが掘った穴にはまらないために誰もいない畑へ向かって怒鳴った。

 

「知りたきゃ、自分の胸に聞いてみろっ」

 

 みちほが怒りをむきだしに突き放し、京太は体を起こして首をかしげた。心に思い当たることはなかった。

 

「うーん」

 

 頭を抱えた京太だが、嫌がる時ほどしつこく聞けともエリからアドバイスを受けていた。怒らせたら必ず人は本音が出るらしい。みちほがセンターラインを越えていくのを見た彼は両足で同時に路面を蹴り、自転車で追い抜いて彼女の肩を掴んだ。

 

「待てって、分からないから聞いてるんだから」

「この人殺し野郎め」

「な、何のこと言ってんだ……」

 

 京太は謂れのない悪態に面食らった。彼の手を強引に振り切り、みちほはPFP画面へ向いて道路を斜めに横切った。兄の頭は疑問符だらけになった。妹の乱暴な言葉遣いは初めてではないが、今回はより切ない気持ちにさせた。その様子を眺めるエリが屋根に這ってまずまずといった顔をした。

 エリは双眼鏡を構えてレンズを覗いた。国道を走ってくる車の種類と大きさを見定め、M42を向けて「それ!」と魔力を放った。

 

 歩道の先にある民家や畑に京太は目を凝らして人影を探した。橋の近くで新たな作戦を受け取る手はずとなっていた。切妻屋根の奥からエリがひょっこりと顔を出し、M42の画面を見せて指で叩く。農機具小屋へ視線を上げた京太が変な顔をすると、ムキになって何度も叩いた。彼は上着のポケットから端末を出してメッセージを読んだ。

 

「練習した魔法をやるわ、車の前へ大げさに飛び出して――か。はねられたり…しないよな」

 

 不安を感じて京太は横を見た。目前に配送トラックが超スローな速さで迫り、フロントガラス越しにドライバーが懸命にドアを開けようとした。彼が思ったのとは逆だが賽は投げられた。

 通常走行時はスピードに応じて人工音を発するEV車も低速過ぎて静かで気づかれにくく、彼の30センチ手前でピタリと停止した。みちほが白い線まであと少しと近づく。彼女の方へ京太は自転車を放り倒した。即興で演技する恥ずかしさで頬を赤くし、みちほの後ろで両手を広げて大きく横に振った。

 

「止まれー、ぶつかるぅー」

 

 京太が体を張って妹を守ろうとした風に見えるエリの演出。みちほは数秒平べったいガラス窓を眺め、ヒゲ面のオッサンに興味なさそうな顔で歩き出した。あえなく三文芝居は終わった。

 

プップーー、プーーーッ

 

 突然クラクションが近くで鳴り響き、みちほの体がビクッとした。彼女は手からPFPを道路に落とした。正面で大音量を受けた京太はふらふらと後ずさって腕をぶつけ、振り向いた路上に妹がすとんと膝をついた。

 

「悪い悪い。ん、どこか痛いのか」

「……真人が死んじゃった」

 

 みちほがPFPへ愕然と手を伸ばし、画面に『Now Saving...』の文字が固まっていた。そっと京太は彼女の手元を覗いた。キャラクターのセーブデータが消えたのを悲しんでいると分かり、手をパンっと叩いた。消えることを「死ぬ」と言うなら、消すことは「殺す」を意味した。

 農機具小屋からエリの手が伸びてM42が左右へ動き、しーんとする兄妹の横をトラックが走り去った。京太は自転車を起こして車道の端に停め、振り返って端末で頭を掻いた。

 

「ゲームって大抵メモリカードに保存するけど、多分PCの方か…」

 

 考えても考えても乙女ゲームのファイルは出てこなかったが、みちほが根に持つ辺りはファイル整理で一緒に捨ててしまったのかと悪い気がした。もっとも、原因が分かって胸のつかえが取れてすっとした部分もあった。エリに言わせれば問題が解決したら結果オーライだし、気落ちした妹を助けてやるのが現状のベストに思えた。

 京太はPFPを元通りに直す依頼のメッセージを送った。それを読んでエリが両腕で丸を頭上に作って道路へ掲げ、指でOKサインを返した彼は端末を仕舞って戻った。へたり込むみちほに京太が申し訳なさそうに手を揉んだ。

 

「あのさ、二階のサーバーにデータを転送してたんだな」

「それが何か」

「お、俺が間違えて乙女ゲームのを削除したなら謝る…ゴメン」

「そう。いいよ、消されたのはやり直したし」

 

 みちほはゲーム機の本体とデータが壊れて意気消沈し、京太を目の敵にする気も失せた。エリが現れたせいでとんだ災難だと電源の入ったPFPで顔をあおいだ。彼女へ手を差し伸べ、屈む兄がぎこちなく微笑んだ。

 

「ここに居るとまたトラックが来るからさ」

「ま、それもそうだな」

「ほら、ゲーム機は持っててやるよ」

 

 素直に彼の手のひらにPFPを載せ、みちほは肩を借りて気だるく立ち上がった。自転車の元へ歩き、荷台に手をついて体を車道へ反転させた。顔を上げた彼女がポカンと口を開けた。

 京太は左手を広げて雑誌で覚えた宇宙語をペラペラと喋り、農機具小屋の上にいる少女へPFPを持つ右手を高々と上げた。妹を喜ばせるため家族にもバカにされるポーズを彼は堂々と往来の真ん中でやってのけた。みちほが周りをきょろきょろと見回した。誰も見当たらずホッと吐息を漏らし、京太へ頬を膨らませた。

 

「ちょっと、早くやめてよ。人が来るだろ」

「へへ、ア・クマ星人と交信して直してもらうんだ」

 

 構わず京太は雲一つない青空を見上げて手首をぐるぐると回した。自分から成りきった役は爽快だった。

 

「そーれ、元通りになれっ」

 

 発せられた魔法の閃光がPFPに届き、京太は直ったのを確信して口元を緩める。みちほが不審な笑いへ白い目を向けて小さく肩をすくめた。本気で宇宙人を信じている兄に付き合いきれず、妹は大きくあくびをした。

 

「ふぁ~あ、もう好きにしてくれ」

 

 横を向く彼女の予想に反して乙女ゲームの音楽が聞こえてきた。誇らしげな京太がPFPの画面を見せて近寄り、みちほが信じられないような顔で受け取った。フリマで手に入れたゲーム機は魔法によってドット抜けが全てなくなって液晶の発色が格段に良くなった。血色のいい2D美少年が投げキッスをし、一転して彼女は満面の笑みをたたえた。

 

「サンキュー、京兄」

 

 嬉しそうな妹の短い言葉は兄をジンとさせた。小屋の上へ目をやるとPFPを直した悪魔の姿はなく、すでに次の場所に先回りした。京太は自転車の反対側に回ってみちほの肩を叩いた。

 

「さあ、俺たちも家に帰ろう」

「おーし。安全運転で急いでくれたまえよ」

 

 みちほはあくまでエリに対抗して荷台に後ろ向きで座り、京太は一通り作戦をこなしてペダルを力強く漕いだ。背中合わせの兄妹はそれぞれに満足感を得ていた。手を携える二人が昼下がりの穏やかな海風を受け、橋を渡った自転車はエリの待つ黒田家へ一直線に向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

乙女のお約束

 兄妹の乗る自転車は門を入り、タイヤが滑らかにコンクリ舗装を玄関先までたどり着いた。黒田家の二台置けるカーポートには軽トラも背の高いミニバンもなかった。みちほは荷台から両足を下ろし、スポーツバッグの持ち手を両肩から外した。中からスマホを取り出すが、画面に開錠マークが表示されずにため息をついて仕舞った。バッグを手に提げて玄関の戸をガラガラと引くと、案の定、土間で白い靴下とスニーカーが揺れた。

 

「ずいぶん早かったじゃない、みちほ」

「遅いの間違いだろ。大体、京兄を寄越すなよ」

「あら、ちゃんと帰って来れたのに。ところで、昨日言った約束は覚えてくれてるかしら」

「や、約束…何かしたっけな」

 

 みちほはとぼけながら玄関に入った。下駄箱の上にバッグを置き、へりに肘を乗せて寄り掛かった。面倒見のいい真面目女子と思いきや、平気で人をたばかる油断がならない相手。話を合わせないようにし、片足を前に引き上げて学生靴のかかとに指を入れた。

 玄関マットの中央に座るエリは考えをお見通しと、得意げにみちほへ人差し指を振った。

 

「それじゃあ、ちゃーんと言う事聞いてね。本音で語り合える男子を公園に行かせたでしょ」

「ははは、ご冗談を。ルークの替わりと言うならもっとちゃんとした顔、性格、趣味の男子じゃないとさ。京兄なんかモブキャラにもなれないよ」

 

 そっけなく下を向いてみちほは足裏で横になった靴を転がして揃えた。バッグを肩に担いで彼女が下駄箱に手をつき、ホールの床に片足ずつ足を乗せた。エリは立ち上がってみちほの脇に寄り、背中から裏を合わせたスリッパを出し、猫の刺繍を見せて微笑んだ。

 

「かわいいスリッパ履いてるわね」

「ばあちゃんが買うんだよ」

「へー、千夏さんたちと一緒に買い物に行くの」

「そうじゃなくて勝手に買ってくるのっ」

 

 目の奥で笑われている気がし、ぶすっとして先っぽを掴んだ。廊下へ向いて引っ張ったみちほの手からスリッパがすっぽ抜けた。彼女は前に倒れそうになった体を必死に後ろへ反らした。

 

「おい、こけるじゃねーかよ!!」

 

 血相を変えてみちほがこぶしを上げて振り向いた。だが、エリはスリッパで胸を押さえ、彼女を真剣な表情で見つめた。

 

「そしたら起こしてあげる。でも、この家は廊下の壁の至る所に手すりがあって奥にエレベーターもある。うちもだけど最初は何で引き戸が多いのか不思議だったの。両親や祖父母だけじゃなくてちはるさん、彩香さんまでみんながあなたの事を心配して助けになろうとしてるのよ」

「はぁ、いきなり何を……」

 

 みちほは説教を始めたエリに困惑して口をつぐんだ。至極まともなことを昨日騙された時と同じ口調でまくし立て、どちらが素なのか分からなくなった。胸先でエリが甲部分を反対の手のひらにバシバシと打ちつけた。深く考えさせる間を与えず、土間からスリッパに付いた猫の顔をビシッと掲げた。

 

「もちろん、志穂さんも。だから、ちゃんと学校へ行ってちょうだい。まずはカレンダーのバツが半分ぐらいになるように!」

 

 前回同様やたら偉そうな態度。やはり裏があるとみちほは見て取った。下手に反発するより適当に切り抜けようと口をすぼめて頷いた。

 

「分かったわ」

「約束よ。はい、どうぞ」

 

 スリッパが足元に置かれ、みちほは「ありがと」とつま先を入れた。内心では早く帰ってくれと思いつつ、神妙な顔で手を上げて別れを告げた。笑顔で応じたエリは手を振った。

 京太は自転車を物置に入れて戻り、玄関の戸の空いた隙間から顔を出した。二人の会話は最後の方しか聞けなかった。スポーツバッグを担ぐ妹が廊下の奥に消えると、引き戸の溝を跨いで廊下へ手を振り続ける少女の肩を指でツンツンした。

 

「学校に行くなんて口約束守ると思いますか、エリさん」

「妹のことが分かってないわね。みちほは結構素直だし、意外と照れ屋なのよ」

「はあ、そーですか……あれ、この前は乙女ゲームをやめさせるとも言ってませんでしたか」

「そういうのはもっと後でいいの。できるところから少しずつ、これから変わっていけばいいだけなんだから」

 

 得意満面のエリは手のひらを上に向けた。頭を掻く京太はノーラからもらったM42をその上に載せた。

 

「そういえば、この端末は何に使うんです?」

「ふふふ、今から使うの。さあ、乙女同士の話し合いをするから京太は邪魔が入らないように外で見張ってて。誰もみちほの部屋に近づけちゃダメよ」

 

 エリが京太の顔へ人差し指を向け、彼はふーっと息を吐いて玄関から出た。戸を閉めた彼女はスニーカーを脱いでホールにぴょんと飛び乗った。廊下を奥へ真っすぐ歩き、取っ手を握って台所の扉を押し開けた。

 

 みちほがブレザーの横にスラックスを掛けてクローゼットを閉じた。制服を脱いだ後は半袖のTシャツに下着姿。いつも通りに小上がりの端に腰を下ろし、足首の装具を外して靴下の上から圧迫された跡をさすった。やや内反した右足は踏ん張りが利かず立つのが面倒くさかった。覆われない手足に肌寒さを感じ、彼女は上半身を後ろへひねって片手で丸まったジャージを引き寄せた。体を起こして座った体勢になり、上着に首と両腕を通して両足を上げてズボンを膝まで引き上げた。

 週末に祖父が掃除をしてゴミが一掃される部屋にあっても壁際の据え置きゲーム機はずっと電源が入れっ放しだった。みちほは側に転がるヘッドフォンを取って耳につけ、リモコンで壁のシート型テレビに2D美少年を表示させた。体を裏返して腰を浮かせ、両手をついてビーフジャーキーの小袋が散らばる畳にコントローラーを探す。乙女ゲームを楽しむ準備は万端と鼻歌を歌った。

 

ゴッ、バーン!

 

 ヘッドフォンをずらしたみちほは首を後ろへ曲げた。勢いよく部屋の戸が全開し、横へ足を蹴り上げたセーラー服の少女。両手でお盆を持つエリがお尻を見て笑みを浮かべた。

 

「まあ、パンツにも猫ちゃんね。それもおばあちゃんが買ってくるんだ」

「げぇっ。なんで、わっ、ちょっ」

 

 慌てたみちほはズボンの履き口を引っ張って裾を踏み、畳にゴロンと尻を着いて腰パン状態で仰向けになった。引き戸を開けたままでエリが近づき、お盆から「どうぞ」と彼女へコップを差し出した。

 みちほが小上がりにあぐらをかき、エリから分捕るようにコップを取って一気に飲み干した。

 

「まだ何か用があんのかよ」

 

 ジャージの袖で口を拭いて彼女は不機嫌そうに見上げた。エリは側の畳上にお盆を置き、腰に両手を当てた。

 

「実は、わたしの正体は悪魔なの。それに魔法が使えるわ」

「フーン、そーですかー」

 

 聞くだけ時間の無駄と思ったみちほが顔を後方へ向けた。窓の方に寄せられた布団の脇にコントローラーを見つけ、ゲームを始めようと腕を伸ばした。畳に手をついて体の向きをテレビへ変え、画面に映る乙女ゲームのキャラに向き合った。

 お気に入りの2D美少年・ルークと同じゲームに出てくる男子・成海がキスするシーン。衝撃を受けたみちほはボーっと口を開け、エリが小上がりに片膝を乗せて鼻息を荒くした。

 

「どう、こんなこと魔法でやれるんだけど」

「…知らなかった。BLの裏モードがあったなんて」

「ち、ちがーう!!」

 

 思い通りにならなかったエリは畳の上でバタバタと這ってみちほの前に躍り出た。彼女の両肩を掴んで激しく体を前後に揺らし、正座になって口角泡を飛ばした。

 

「みちほも公園に居たでしょ。照明灯から空を飛んだの、黒い服装の悪魔が!」

 

 エリが桂木家にハクアが来た時のことを話し始め、みちほはすぐ飽きて顔を背けた。エリの話は息をつく間もなくビデオの倍速再生のような身振りを交え、悪魔や駆け魂の存在とM42やバディに関する事情が力説された。京太に話した内容と同じだが、早口になった分だけ十分とかからずに大団円を迎えた。

 

「――でお兄ちゃんとは血が繋がっていて、わたしは人間だったの」

 

 話し終えたエリは感動に酔って胸を手で押さえた。みちほの方は布団にもたれてくちゃくちゃとビーフジャーキーを噛んでいた。飲み込んだ彼女がコップを前へ傾けた。

 

「ドリンクサービス、おかわり」

「ないわよ、映画館じゃないんだから。で、わたしの話をちゃんと聞いてたの」

 

 エリが腕を組んで疑わしい目を向け、みちほはテレビ画面をチラ見して頬をぽりぽりと掻いた。

 

「よーするに、ハクアとか言う悪魔のバディになったエリ姉は専用スマホで魔法を使って駆け魂を集めるバイトを始めました。て、話でしょう」

 

 頭の後ろで手を組んだみちほに、エリは難しい顔をした。畳にはビーフジャーキーだけでなく、あられの徳用パックが二袋置かれてどちらも口が空き、食事以外は部屋で乙女ゲームにどっぷりとはまる。自分のバディにするのは既定路線と言えども先が思いやられた。

 みちほを協力させる策は用意してあった。膝頭を押さえたエリは体を前へグーッと傾けた。

 

「それじゃ、わたしのバディになってくれるわね」

「えっ。わたしがエリ姉の…」

 

 お盆の上に載るM42を見ていた彼女が布団の背もたれから上体を起こした。悪魔が使う端末を渡して駆け魂回収を手伝わせようという腹積もりなのかと驚いた。ルークと成海のBLに未練は残るものの、面倒事に巻き込まれるのは御免だった。関わらない方が良いと判断し、冗談めかしてエリへ手を振った。

 

「駆け魂を捕まえるなら京兄でいいじゃん。宇宙人追いかけるの得意だしさ」

 

 しかし、エリは背中を向けて壁際へ移動し、みちほの視線もそちらへ向いた。エリが四つん這いになってゲーム機の表面を指で突っつく。奇妙な行動にみちほはきょとんとして声をかけた。

 

「それPF3だから、高いし壊わさないでよ」

「ふーん。乙女ゲームとかは全部フリマサイトで手に入れるんだっけ」

「え、うん、まあね。今のショップは3Dしか置いてないから」

「ということは電子機器を使うのね、結局。フフフ……」

 

 怪しく笑ってエリはゆっくりと立ち上がった。スカートのポケットからM42を取り出し、後ろへ突き出してニヤリとした。みちほはハッとして身を震わせた。端末画面のフリマサイトでPF3が落札され、価格はなんと500円。魔法の威力をまざまざと見せつけられ、両手でショートヘアを掻きむしった。

 

「リ、リアルでこんな不正は許されないだろ」

 

 言葉とは裏腹に彼女は大きく心が揺さぶられた。すぐさまお盆からM42を手に取り、端末に生体情報を登録して親指を立てた。したり顔でエリは眉にかかる前髪を軽くはらった。

 利害が一致する二人は何も言わずとも意志が疎通した。彼女たちは乙女ゲーム買い放題の絆で堅く結ばれ、みちほは無二の協力者となった。いずれ駆り出される朋己の恋人探しも、彼女の学校である舞島学園を中心に行われて不登校は解決してゆくのだった。

 




―― 次章予告 ――

舞島学園の選抜試験が終わったエリは新舞島駅裏商店街で駆け魂を探した。偶然見かけた朋己の跡を追い、山の上に怪しげな寺を見つける。門から覗くと、兄が巫女装束の女性に… ⇒FLAG+16へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+16 一花良縁
本当のところ



【挿絵表示】

―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
先輩とデートさせる気らしい。エリさんは――京太の日記を覗いたみちほはエリに男子を連れてきたら何でも言うことを聞くと約束する。その言葉にニンマリとしたエリ。舞島学園の校門で待ち伏せ、みちほの車いすを公園に押していった。前輪を溝にはめて動けなくし、人を呼んでくると言って姿を消す。迎えに現れたのは自転車に乗る京太だった。
荷台の上で押し黙ったみちほだが、エリの暗躍によって京太に怒る理由が分かり、兄妹は仲直りして黒田家へ帰った。玄関で出迎えたエリが不登校を減らすことを命じる。みちほが頷いて部屋へ向かい、得意げなエリは自分のバディにするため彼女の跡を追った。
みちほは乙女ゲーム買い放題の魔法に感動し、利害が一致する二人の少女は手を結んだ。



 新舞島駅のロータリーがある駅表は宣伝文句や安売り価格の看板が目立つ新舞島通りに面し、普段から賑やか。反対に、駅裏は駐輪場以外何もなかった。だが、しばらく歩くとヨーロッパの街並みを意識した石畳の商店街があり、コンクリートの壁面に石造りやレンガ模様が描かれた。週末は若い女性が一点物の洋服や靴、小物が並ぶガラス窓を見て歩いた。

 腹をくくった朋己が占いの雑誌を閉じ、入り口に掲げられた小さい店名を見て回った。駅裏には初めて来た。十月は養子の件で会いづらく、誕生日は何も渡せず過ぎてしまった。十二月中旬、理由もなくプレゼントできる日までは二週間を切る。彼は焦って着てきた作業上着のポケットに手を突っ込んだ。

 細い路地を抜けて複数の通りからなる商店街のメインストリートに出た。日曜日で広めの通りは歩く人が途切れない。買う気のない女性たちを避け、雑誌を腹に抱えて革バッグ専門店の扉を押し開けた。

 

「いらっしゃいま……」

 

 扉の鈴が鳴って奥で作業中の男性が立ち上がり、怪訝そうに朋己の顔を眺めた。女性向け製品の店に中高生の少年は似つかわしくなかった。ゆったりしたサイズの上着の胸に「マイジマ工業」と刺繍され、工場で働く父親の制服なのかと思わせた。男性は工房になった一角を出て朋己へ近寄った。

 

「誰かへの贈り物を買いに来たの?」

「は、はい。僕の大事な…」

 

 用件を言いかけて朋己は店内へ視線を逸らした。側の台に陳列された大きいバッグの値札は七万近く、その上の小さいのでも二万を超える。今日は余裕で払えるくらい準備した。だからといって数万円もする物を渡したら遠慮されるかも知れないと頭を掻いた。

 店の男性は考え込んだ少年の様子に、それほどお金を持っていないのだろうと蓄えた髭をさすった。

 

「親孝行だね。リユース品なら安くなるけど」

「えっ、中古ですか」

 

 意外な提案に朋己がまごついて目を左右へ動かした。彼の求めるものとはかけ離れたくたびれたイメージ。不安を見て取った男性は少年に手招きし、「こっちきて」と奥の工房へと導いた。

 

「お客さんから下取りしたバッグの中には程度のいいものが結構あるんだ。店に置いといてもすぐ売れるんだよ。ちょうど昨日、一つ引き取って…」

 

 レジカウンター奥の作業台には片方の持ち手がない黒いハンドバッグが載っていた。朋己は売り物になるのか疑問に思った。

 

「これが中古品。使い込んで持ち手が取れたのか」

「いやいや、持ち手の部分は猫の噛み跡があるから外す作業をしててね。前の持ち主によると数回しか使ってないらしいよ。だから、新しいのを付けたら元通りさ」

「でも、一万円以上するんですよね」

 

 朋己が恨めしそうな声を出して下を向いた。職人としては彼の母を喜ばせたいが、経営者としてはもう少し欲しいところだ。店の男性は腕組みして窓の外を見やった。商店街そのものが独身女性をターゲットにしているため、主婦層の客はほとんどいない。うまくいけば口コミで増えるかも知れないと算盤を弾いた。

 

「ま、これなら9800円かな」

 

 少年は固まっていた。大柄な男性が口を押さえ、金額を間違えたと少し焦った。しかし、朋己は見上げて大きな瞳を輝かせた。

 

「ほんとですかぁ~」

「じゃあ、次の週末に取りに来てくれるかい。お金はその時でいいから」

「はい、よろしくお願いします」

 

 ペコリとお辞儀をして朋己は店を飛び出した。人の流れと逆方向へ歩き、女性たちをかき分けるように手を斜めに振った。都合よく事が進んで自信満々だった。

 

「よし、ラッキーアイテムは手に入れたぞ」

 

 来た時とまったく違った気分の彼は路地の角を反対へ曲がり、知らない商店街を行当りばったりで楽しんだ。

 

 桂木家は十時を過ぎた頃、彩香が歩いて帰ってきた。ポニーテールを揺らした表情は晴れやかで恰好はフード付きの黒いパーカーにジーパン。いかにも朝の散歩にぶらりと行ったかのように振る舞う。体重を減らすため休日にウォーキングを始めたが、近所の人にダイエット目的で黙々と歩く独身女と見られるのが嫌で見栄を張っていた。

 

ブロロロロロ……

 

 門扉に手を掛けた彩香が振り向くと、ちはるのバイクが側に停車した。ヘルメットのバイザーを上げた彼女はバイクに跨ったまま話しかけた。

 

「感心感心、その分だと必ず痩せられるわ。来年の舞島レディースもOKね」

「しっ。声が大きいですよ、ちはるさん」

 

 彩香は口の前に人差し指を立て、顔を左右に振って人影がないかを確かめた。ちはるは思わずフルフェイスの口部分を押さえた。

 

「ふふ、ごめんなさい。それじゃあ、お詫びのしるしに映画のチケットをあげるわ」

「もしかして旦那さんと行く予定だったのが急に行けなくなったって言うんじゃないですか」

「実はそうなの。キャンセルしても良かったんだけど、ちょうどエリの選抜試験が終わったところでしょ。来週の日曜に二人で行ってきなさい。メールで予約コードを送るわ、じゃあね」

 

 手短に用件を言ってちはるがバイクで去っていった。彼女は志穂になるべく手助けしないよう頼まれた意図を酌み取り、桂木家へ顔を出すのを週一、二日に減らした。仕事が忙しいと聞いた彩香は薄々母がエリを養女にした事と関係があると感じた。

 時折寒風が吹く中、ポカポカした体で彩香は玄関に入った。靴を脱いでスリッパを履いたが、一階はしんとしていた。ため息をついて階段に足を掛けて上った。

 彩香は扉の前に立って静かに少し開けた。ベッドに掛け布団の盛り上がりが見え、遠慮なく扉を押し開けてつかつかと横へ移動した。ピクリとも動かない体を前に、思いっきり布団と毛布を引っ剥がして後ろへ捨てた。彩香の声が部屋の中に響いた。

 

「エリ、起きろー。もうすぐ昼だぞー」

「う~ん」

 

 パジャマ姿のエリが両手を股の間に差し込んで丸まった。腰に手を当てた彩香は枕元に転がるスマホを目にした。

 

「あきれた子ね、舞島学園の試験から帰ってきて夜中までテレビを見てたのに。ベッドに入ってもスマホで遊んでたの」

 

 彩香がどす黒い端末・M42を拾い上げ、軽さに驚いて背面を向けてロゴを見た。読めない文字に首をひねった。だが、どんなスマホでも志穂がデビット口座に振り込んだ小遣いが使えるエリの財布である。端末を手にして彩香は廊下へ向かった。

 体を震わせたエリはもぞもぞと動き出した。手で毛布をかぶっていない太腿や尻をさすり、指で目をこすった。

 

「毛布と布団がない…って。あれ、もう朝だ」

「朝じゃなくて昼前。スマホは預かってるから、早く起きて下に来なさい」

 

 扉が閉まってスリッパの足音が離れていった。エリは枕に手をついて体を起こし、ベッドの上に横座りであくびをした。口を押さえた彼女はM42がないのに気づき、彩香の言った意味が分かって慌てて跡を追った。

 リビングではキッチンからの香ばしい匂いが漂っていた。ちはるの土産が置かれなくなったカウンターの反対にあるトースター。彩香が白い皿とマーガリンを持ってダイニングテーブルに運んでくる。そこへ戸が引かれてエリがとことこと向かう。エアコンが利き始めた部屋に廊下から冷たい空気が入り、彩香は渋い顔した。

 

「戸が閉まってないわよ。それと何でパジャマのままなの」

「だって『下に来なさい』としか言わなかったもん」

「あれ、着替えてと言わなかったっけ。まあいいわ、とりあえず戸は閉めてくれる」

 

 彩香が棚のコップを取って冷蔵庫へ向かい、その背中へエリが舌を出した。二ヶ月経って慣れたのか、彩香の小言が多くなった。エリは志穂の小言にはあれこれ文句を垂れるくせにと思いつつ、リビングの戸をピシャリと閉めた。

 ダイニングに戻ったエリは棚の引き出しからバターナイフを取り出し、何も載っていない皿の前にドカッと座った。

 

「スマホの目覚ましかけてたから起きるとこだったのに……大体、少し早く起きてウォーキングって、姉さまが簡単に痩せるわけないじゃん」

 

 子供扱いに不満げなエリは悪態をついた。後ろから頭を挟むように腕が伸びてトーストと牛乳のコップがテーブルに載った。次の瞬間、太い指が彼女の両頬をつねった。

 

「コラ、誰が太ってるって言うのよっ」

「ひはう、ひってはひはら」

 

 手首への必死のタップで痛みが和らいだ。だが、まだ背中に攻撃的な視線が突き刺さった感じを受ける。エリは赤くなった頬をさすり、苦しい言い訳をした。

 

「ウォーキングで痩せないのは一般論で、太ってるのは具体的な体形だから…」

「へー、じゃあ思ってないのかしら」

「う、うん。アメリカの指数ではそうなってる、多分」

 

 椅子を引いてエリは深く腰掛け、トーストにかじりついた。彩香には「太っている」が禁句だと一ヶ月もしないうちに分かった。ただ、うっかりと口から出てしまう時があり、矛先を逸らす必要があった。口をもごもごさせたエリが振り向いた。

 

「あろれ、昨日寝ようとしたらスマホにメッセージが来たんだ。みちほは一人で服買いに行くのが恥ずかしいんだって」

「えっ。みっちゃんが服を……それは珍しいわ」

「駅裏の商店街についていく約束をしたの。だから返してくれないかな、スマホ」

「まあ、そういう事ならね」

 

 彩香が反対側の席に回って椅子に腰掛け、パーカーのポケットから出したM42をテーブルに置いた。エリは口にトーストの残りを詰め、コップの牛乳を流し込んだ。何の話をしていたのか思い出そうとした彩香はハッとした。が、一足先にエリが立ってリビングへ行く。彼女の逃げ足の速さに脱帽するしかなかった。

 ダイエットを始めて一ヶ月半、彩香はそろそろ体重を測ってみたかった。しかし、ちはるにすぐには効果が出ないと言われ、怖くなって体重計に乗れないでいた。少なくとも、エリは痩せたとは思っていない。年末まで先延ばしにしようと、空の食器を持つ彩香はすごすごと流しに向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Give and Take

 新舞島駅裏の商店街でみちほが舌打ちした。整然と敷かれた石畳の通りは長方形の石の間に溝があって車いすが移動しづらく、平坦なアスファルトの路地へと入った。祖父の軽トラを降りてから二十分は経った。

 エリに数回メッセージを送ったものの、返事どころか読まれてさえいなかった。彼女と駆け魂の回収を手伝う約束をした日から、みちほは放課後や週末に部屋で乙女ゲームを存分に楽しむ事ができた。それも舞島学園の早期選抜試験を受けるエリが家で勉強していた昨日まで。試験の終わった夜にメッセージをもらい、駆け魂センサーが指し示す方角の駅裏商店街で待ち合わせとなった。

 みちほが狭い路地に置かれた自転車をよけて別の通りに出る時、太腿の辺りが振動した。

 

「やっとか。どの通りにいるんだ、エリ姉は」

 

 腰のポケットに手を入れてM42を取り出した。魔力のない人間に駆け魂が見えるようにしてくれたり、駆け魂センサーといった冥界ツールが使えたりする以外はスマホと同じ。電話アプリの着信通知をタッチし、スピーカー部分に耳を当てた。

 

「それで、まだ家って一体いつ来るんだよ……あ、切れた」

 

 眉一つ動かさずにみちほは通話終了の画面を眺めた。彼女が他人に迷惑を掛けて平気な顔をするのも承知の上。それを補って余りある電子機器を自在に操れる魔法を彼女は使う。フリマサイトで乙女ゲームを新たに五十本手に入れ、すでに三分の一近くを攻略した。エリ様々である。

 M42を仕舞ってヘッドレストに腕を乗せ、仕方がないと空を見上げた。外は日差しがあっても風が吹くと寒い。エリが来るまでどこで過ごそうかと考えた。

 この日、みちほは珍しく私服を着ていた。朝の台所で送ってもらおうと祖父に話したのを聞いた母・美雪が用意した。オフホワイトのタートルネック、濃いブラウンのジャンパースカート、ハイカットのブーツ。美雪が若い頃のものらしく中学生の娘には多少緩めだが、身長はあまり変わらずピッタリとはまった。おまけに、ケチな美雪が服を買ってきてもいいとお金をくれた。オシャレに興味を持たせ、家でゲームばかりしている子を何とかしたいという親心だったが、みちほは渡されたポシェットにちゃっかりとPFPを忍ばせてきた。

 美雪が自分の娘に嬉々としてコーデする服装に、みちほは鏡を見てもピンとこなかった。時間に遅れそうになり、出がけにほこりをかぶった黒いダウンジャケットを掴んで部屋を出た。こちらは昨年祖母が買った安物でファスナーが壊れていた。通りから風がピューッと吹き、上着の前が空く彼女は大きなくしゃみをした。

 

「こんな所にいては風邪をひきますよ。商店街は初めてですか、お姉さん」

 

 紺色のエプロンを付けた少年が前に立って揉み手で迎えた。みちほが呆気にとられていると、後ろに回ってグリップを握った。彼は車いすを通りへ押していき、路地の角にある店の戸をガラッと引いた。

 

「さあ、中に入って温まって下さい」

「うぇっ。ちょっと…」

 

 ガラス張りの四枚の戸が並ぶ店舗は暖簾に『高原煎餅店』と書かれる。シャッターの下りた店が目立つ寂れた通りの一角にあった。外へ漏れる暖かい空気に誘われ、みちほは見るだけにしておこうと中に入った。

 少年はパイプ脚の丸い椅子をテーブルの脇にどけ、いそいそと車いすのスペースを作った。

 

「ばあちゃん、俺走りに行くから。ゆっくりしていって下さいね」

 

 エプロンを外した少年が袋入りの煎餅が並ぶショーケース上に置き、くりくりした目でみちほに笑いかけて店を出ていった。メーカー製のジャージを着る彼は伸びたもみあげと襟足がハネて幼く見えた。彼女は右側に空けられたスペースへ車いすを向けた。一つある小さいテーブルを囲んで壁に沿ってL字に細長いテーブルが置かれ、「試食」の紙が貼られた複数のガラス瓶に割れた煎餅がぎっしりと詰まっていた。

 隅の石油ファンヒーターが足元を温める。みちほはダウンを脱いで脇の椅子に載せ、ポシェットの紐を首から外した。PFPを掴んだ彼女の耳にコツコツと響く足音が聞こえた。

 

「奥さん、お安くしときまっせ」

 

 テーブルの横に来た人物の褐色の腕が伸び、卓上に湯呑みが置かれた。メイド服を着た外国人っぽい女性がお盆で顔をあおぐ。みちほはポシェットから手を抜いて一瞥して振った。

 

「頼んでませんから、わたし」

「いやいや、これはサービスサービス。煎餅はカネ必要」

「その…買う気ないんで」

「か、買う気ないって……せっかく起きたのに」

 

 女性はお盆を脇に抱え、店の奥にスーッと消えていった。みちほは日本語が下手なバイトと思った。店舗兼住居の一階は中央から奥へ通路が延び、左側のショーケースの向こうが煎餅を焼く畳の部屋。住居と同じ高さにある部屋は接客しやすくするため前方の壁が取り払われた。頭に手ぬぐいをかぶる老女が土間に足を下ろし、つっかけを履いて立ち上がった。

 背を丸めた老女は通路の奥を覗いて首をかしげた。手を後ろに組んで少女が一人で座る試食コーナーに来た。

 

「遠慮せず飲んでよ。無理やり買わせたりしないからさ」

 

 車いすのハンドリム横に立って湯呑みを両手に挟んだみちほへ声をかけた。ゆっくりゆっくりと歩いてテーブルの反対側に回り、老女が丸い椅子に腰掛けた。

 

「ごめんなさい、あの子は接客を覚えてくれないの」

「気にしてませんが…」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。まあ、人が来てくれるだけでも嬉しいけど。商店街が変わってからこっちの通りはめっきり人通りが減ったし、煎餅屋は儲からなくて……あらあら、何だか話が湿っぽいわね。でも、うちの煎餅は醤油味でパリッとして美味しいわ。創業百二十年、私がお嫁に来た時から味が全然変わってないのよ」

 

 立ち上がった老女が側のガラス瓶の蓋を開けて上から一枚取った。体をテーブルの方へ向け、手のひらの半分くらいの煎餅を笑顔で差し出す。みちほは老獪なセールストークに聞こえた。シワが明らかに祖母より多く相当な高齢に見えるが、その割に口ぶりは滑らかでけれんみを一切感じさせなかった。受け取った煎餅の欠片を持ったまま上目遣いで老女を見た。

 店名の入った紺の手拭いから白髪が覗く。老女は思い出したように口を押さえて微笑んだ。

 

「聞いてくれるかしら、転校してきた女の子を可愛いって言うの。孫もそういう年頃になったんだなあって。今日もきっと、あなたが素敵な女性に見えて声をかけたんだわ」

 

 顔の前で手を組んで老女がみちほを見つめた。表情を崩さない少女も心の中で満更でもない気分になり、指で頬をぽりぽりと掻いた。面と向かって「素敵だね」とは時々言われる、乙女ゲームの攻略対象から。中にはこの店の少年のような髪型の2D美少年キャラが存在し、ファンタジー世界の小さい村でパン屋を営んだ――そういえば、彼の相談によく乗ってやったなぁ。

 みちほは煎餅をバリバリと頬張り、含み笑いで乙女ゲームの記憶に酔った。しかしながら、現実は壁のそこらじゅうにキャッチコピーの張り紙と剥がしたテープの跡が多い煎餅屋。奥歯に詰まったカスを小指で掻き出し、彼女は湯呑みを傾けて後ろへ顔を向けた。

 

「この店って、一人でやってるんすか」

「ああ、おじいさんは今ちょっと出てるの。孫と家族三人の零細企業よ」

「家族三人?」

「…そう、三人さ」

 

 急に老女は元気がなくなって肩を落とし、俯いて目を閉じた。かと思うと、すうすうと寝息を立てた。リアルは往々にしてグダグダな展開になるものだ。手持ち無沙汰になった彼女は膝に載せたポシェットをテーブルの端に置いた。手をゴソゴソと動かして腰からM42を取り出し、画面に指を擦らせてメッセージアプリを起動した。だが、エリからの連絡はなく、頬を膨らませて片肘をついた。

 焦れるみちほが卓上を指でトントンと叩き、何十年と使われるテーブルが揺れて老女が目を覚ました。みちほは適当に相手をしておくかと割り切った。老女は端末をいじる少女を見て思いつき、パタパタと手を振った。

 

「そうだ、見たことあるかい。うちの煎餅も通販サイトで買えるんだよ」

「有名なサイトですか」

「サイト名は忘れたけど。とにかく、一月に三回は煎餅セットの注文がくるの」

「へー、割と売れるんですね」

「何言ってんだい、雀の涙にもなりゃしないわ。それに買ったのか買ってないのか分からん連中がマズイだの湿気ってるだの書きやがって。どんどん表示されるページが後ろに回されるシステムでさ」

「ははは…」

 

 話を合わせたつもりが老女を怒らせてしまった。みちほは愛想笑いを浮かべ、飲みかけのお茶を前へ押し出した。頭に血が上る老女は湯呑みを掴んで一気に飲み干した。

 

「今じゃ検索しないと出てこなくて……あれ、飲んじゃった」

「あ、気にしないで下さい」

「もうね、年取ると記憶力が弱くなって困るのよ。新しいの用意するわね」

 

 苦笑して老女が通路の奥に向かうが、みちほはもう一杯付き合う気にならなかった。テーブルに置いた端末の画面へ目を向け、遅れるエリにため息をついた。これ以上待たせるなら何かしてもらわなければ割に合わないと腕を組んだ。

 

「そういや、煎餅食っちゃったな」

 

 みちほがメッセージアプリに指を弾き、遅刻の帳消しに魔法でして欲しい事をすらすらと入力した。内容は今いる高原煎餅店の通販サイトから悪いレビューを削除して評価を上げること。エリが頼みを聞けば、煎餅が少しは売れるだろうと軽い気持ちだった。意外にも、すぐにエリからOKが返信され、魔法の使用に関してはみちほの“貸し”になった。

 

「は、遅刻はいいのかよ。ったく、都合がいいんだから…」

 

 自分勝手な年上の少女に愚痴を言いながらM42を腰のポケットに仕舞うと、店の奥からお茶を運ぶ足音がコツコツと響いた。メッセージには商店街の待ち合わせ場所が書いてあった。みちほはダウンを手にして車いすの向きを変えた。

 ショーケース裏では画面の前で老女が慌てた。奥に鎮座するレジスターの斜め手前のノートPCでウィンドウが相次いで開く。彼女は肩から覗く女性にビクッと体を反応させた。

 

「驚かさないでよ、メル。テーブルにお茶運んでくれた?」

「うん。ところで歩美は何しているの」

「さっきから何件も通販の注文が来てて。おじいさん早く帰ってきてくれないかな」

「そうそう、これ落ちてた」

 

 メイド服の女性は両手で老女の前へお盆を差し出した。モノトーンで長方形のポシェットと携帯ゲーム機が横たわり、ポシェットの金具は外れていた。老女が険しい顔をした。

 

「他人の物を持ってきちゃダメって言ってるでしょ。それに中身出しちゃって」

「違う、女の子が忘れてった」

「そう帰ったの、残念ね。あら、それは確かPFP……懐かしいわ、まだ売ってるんだ」

 

 学生時代の残り香が漂うゲーム機に、スポーツに打ち込んだ当時を思い返して老女は苦手なPCの画面で次々と注文の確認ボタンをタッチした。畳に置かれたプリンタが音を立て、印刷した紙を一枚ずつ吐き出していく。積み重なった注文票へ満足そうに頬を緩めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

視線の先に

 エリは桂木家から住宅街を走り抜け、新舞島駅の通りで信号待ちする間も足を上下させ、踏切を越えて駅裏の商店街へ走った。自ら逃がしたレベル0の駆け魂は今やレベル2に達した。前日まで部屋で舞島学園の激ムズ想定試験問答集と格闘した少女。試験後にM42で駆け魂センサーの3Dホログラムを表示させ、黒いマントの人物が指す鎌の刃部分が大きくなったのに気づき、マニュアルで駆け魂のレベルを知った。翌日にごろごろして過ごす予定は無残に吹き飛び、京太とみちほに緊急招集をかけた。

 古い住宅が軒を連ねる道路から出たエリの向かい側に石畳が敷かれた通りが延びる。商店街の入り口はアーケードがなく青空が覗く。膝に手をついて顔を上げ、通りの先を端から端へ眺めた。

 

「ハアハア……みちほはどこにいるんだろう。もう一度電話してみようかな」

 

 ジージャンのポケットから取り出した端末画面に溜まるメッセージ。全て読んだエリはみちほが煎餅屋で油を売っていると思ってムッとした。だが彼女の頼みを聞き入れ、通販サイトで高原煎餅店が良いレビューで溢れるようにM42を額に当てて念じた。手伝ってくれると思った京太に断られてエリもみちほに少し気を遣った。腰に巻いた勾留ビンを入りのポーチをさすり、商店街に吊り看板が見える店の前で待つとメッセージを送った。

 五分後、石畳を迂回したみちほの車いすがアスファルトの路地を出た。壁際で膝までのスカートを履く少女が手元を見つめ、みちほはダウンのポケットに両手を突っ込んだ。

 

「エリ姉、生足出して平気なの」

 

 彼女が寒そうな顔を向けた。エリはM42をポケットに仕舞ってデニム地の袖をまくった。

 

「ええ、太陽が出てるし、少し動けば体が温まるわ。レギンスは雪が降ってから衣替えよ」

「ひぇ~、まだ衣替えしてないのか」

「さ、わたしが押していくから。駆け魂センサーの反応を見てて」

 

 車いすの後ろに回ってエリはグリップを握った。レベルの上がった駆け魂が女性に取り憑いて悪さしないか心配で足早に押した。みちほはホログラムが浮かぶM42をスカートの上に載せ、手のひらに息を吹きかけた。

 二人は商店街のメインストリートを奥へ進み、駆け魂センサーに従って途中で交差する通りへ曲がった。だんだん新舞島駅から離れて山並みへ向かい、3Dホログラムの鎌は変わらず前方を指し示す。意味もなく過ぎる時間にみちほはシート上で渋面を作り、とうとう人気のない石畳と店舗が途切れる場所まで来た。周辺は民家がまばらで空き地が多く、数十メートル先に道路が右から左へ走り、奥に隣接する林がある。鎌の方向へ指差してみちほが後ろを向いた。

 

「林っていうかさ、あそこ山があるんだけど」

「いいえ、少し斜め向いてるからあっちに……いるのはお兄ちゃん!!」

「はぁ。お兄さんて、どこに」

 

 エリが突如一人で走り出し、残されたみちほは道路へ顔を突き出した。歩く人物はいるが朋己の風貌は知らなかった。そのうち民家に隠れて見えなくなり、諦めてハンドリムを回した。

 T字路は信号がなく、車いすが斜めに横切ってエリのいる方へ向いた。みちほは上方を見上げるエリが見えてパチンと指を鳴らした。額に手をかざして信号の地名表記を読み、片手に端末を持ってパパッと祖父に電話をかけた。

 白い御影石が無造作に草木が生える林の斜面に積まれた。エリは場違いな印象を受け、朋己を別の人と見間違えたのかと思った。素知らぬ顔でみちほが近づいて驚きの声を上げた。

 

「うわっ、こんなところに階段があるのか」

「お兄ちゃんが上っていったの。お寺があるみたい」

 

 道路脇に「安らぎの寺」と書かれた板切れが刺さり、綺麗に整備された石段が緩やかなカーブを描いて昇る。駆け魂センサーが指す駅裏の外れに怪しげな寺の案内。彼女たちはおそらくこの上に駆け魂がいるのだろうと目を合わせた。

 帰る気満々でみちほはM42をスカートのポケットに入れ、頭の後ろに手を組んで背もたれに体を預けた。

 

「でも、残念だなあ。車いすじゃ階段は上れないわ」

「美里南一丁目よ、みちほ」

「え、ここ美里北だよ」

「うちの最寄りのバス停。明日、学校が終わったら家に来てね」

 

 微笑んだエリが車いすの前へ体を傾けた。みちほが残念そうに「分かった…」と肩を落とし、エリはこぶしを強く握って向き直った。

 

「大丈夫、わたしに任せときなさい」

 

 胸を叩いたエリが寺への階段を上っていった。駆け魂を見たことがないみちほは意気込む理由が分からなかった。吹いた風で道路に枯れ葉が舞い、彼女はダウンの袖を引っ張って軽トラが迎えにくる交差点へ向かった。

 

 五十メートルもない頂上では敷地が白壁で囲われ、表札のない簡素な山門が口を開けて待ち構えた。エリは石段の端から山門の脇へ音を立てずに近寄り、そーっと中の様子をうかがった。正面に建つお堂前で朋己が巫女装束の人物と向き合い、棒立ちで口を開けていた。女性を前にした兄の姿だった。

 すぐにでも朋己のフォローに行きたい一心を抑えた。女性の周りを薄く覆うように駆け魂の妖気が漂い、エリはM42を出して画面にドクロマークの赤い点滅を確認した。兄が側に居ては凶悪な駆け魂を刺激する訳にもいかず離れて見守った。しばらくすると、女性が会釈して朋己の横を通り過ぎていき、慌ててエリがM42の裏を向けて後ろ姿をカメラで撮影した。

 エリは端末を掴んで土の境内を兄の元へと一目散に走り、朋己は頭を掻いて駆けつけた妹に顔を向けた。

 

「エリが一緒にいる。おや、ここはどこだっけ」

「お兄ちゃん、大丈夫なの」

「え、顔が赤いけど何かあったのか」

 

 朋己が心配そうな顔をしてエリを見つめた。妹を任せっきりにして最近は彩香と連絡を取っていなかった。彼女を頭に思い浮かべた彼は巫女装束の女性がいないことに気づいた。

 駆け魂の事を話さずに危険性を伝えようと、エリが立てた人差し指をくるくると回した。

 

「えっとね、ここまで走ってきたんだ。それより、さっきの女の人何か怪しくなかった?」

「さっきの女の人……あっ」

 

 朋己はエリの言葉で女性が幻でなく実在するのを思い出した。寺の山門をくぐった彼は彩香に体形が似た巫女装束の後ろ姿を見かけ、どんな顔か知りたくて彼女の背中へ声をかけた。そこから彼の記憶は飛んでいる。けれど、その女性の外見で妹が悪い人間と判断したと思った彼は無性に腹が立った。

 

「怪しいなんて失礼だぞ、エリ。世の中にはいい人も多いし、きっと彼女は美人なんだよ」

「えぇ~、さっきの人がタイプだったの!」

「は、何を言い出すんだ。いい人は一般論で、美人は具体的な…」

 

 当たらずといえども遠からず。照れて赤面した朋己をエリはじろじろと見た。日曜にもかかわらず、兄は実習用のジャンパーを着て占いの雑誌を持っていた。妹は金曜までの実習でヘトヘトなのに占いを信じて彼女に会いに来るくらいの本気度と推測した。

 朋己は体がむずがゆくなり、また迷惑を掛けないために有らぬ誤解を解こうと口を開いた。

 

「タイプじゃなくてさ。ほら、エリに似てショートヘアだから親しみが湧いたというか」

「え、わたし髪は肩までだし、彼女みたいに短く……ってことは、お兄ちゃんから話しかけたの」

「いや、それはその…」

「そんで何を話したの、美人さんと」

「う~ん」

 

 ますますエリに誤解されて朋己は頭を抱えた。こうなると残された手段は一つ、彼はポンと手を叩いた。

 

「あ、寮でやる事あるんだった。今度電話するからね」

「えっ。ちょっと、お兄ちゃーん」

 

 エリが体を反転させる間に、朋己は山門の近くまで走っていた。急いで跡を追ったものの、弧を描いた石段に姿はなく樹木がうっそうと生い茂った。

 結局、エリは昼食をとりに家へ帰ることにした。駆け魂に取り憑かれた女性は気になるが、肝心な心のスキマから出す方法を知らなかった。彼女に兄が恋したと思うと悩ましく、歩いて体が冷えた帰路でスカートから出た生足に風が吹きつける。ヒヤッとした少女は走って帰った。

 

 桂木家のキッチン隅でエリはボールペンを口にくわえ、冷蔵庫のカレンダーに目を向けた。汁までペロリと平らげたカレーヌードルの容器が流しに置かれた。みちほが言うには京太は角研の週末職業体験に応募して土日は忙しいとの事。月曜の欄に彼の名前を書き、並んだ黒い数字の下に線を引っ張った。

 エリの後ろで戸が引かれ、彩香が買い物から帰ってきた。入ってくるなり彼女は屈んでエリのふくらはぎに手のひらを当てた。

 

「ほ~ら、冷たいでしょう。そんな格好して出かけて」

「全然。姉さまと違って走ってきたから」

 

 カレンダーの前でエリは動こうともしない。腰を伸ばした彩香はやせ我慢を察し、口を押さえて少女の顔を覗き込んだ。

 

「天気予報では今週末から寒くなるらしいわよ」

「そっか。じゃあ、それまでに駅裏の方は何とかしないと」

「あら、今日は服買えなかったの。意外と気難しいわね。そうそう、みっちゃんや京太君を呼んでクリスマスの夜にパーティしようと思ってるんだけど、プレゼント交換してさ。裕太君は冬合宿があるからダメなの。それで、朋己くんは忙しかったりするのかしら」

「クリスマスは来週の土曜日…」

 

 エリが「24」の青い数字を丸で囲んだ。先週に実習があったと思い込んだ妹は朋己が一週おきの苦手な実習で疲れていると思った。その下に京太とみちほの名前を書き、ボールペンにキャップをはめてつぶやいた。

 

「お兄ちゃんは来れないと思う」

「そうなんだ。まあ、仕方ないわね」

「よし、今週が勝負だっ」

 

 ボールペンを握り締めてエリは振り向いた。帰ってから部屋でジージャンを壁に掛けた後、駆け魂回収マニュアルをペラペラとめくり、『攻略』のページを見つけた。駆け魂を出す方法が書かれた文章を読み進めると、巫女装束の女性と朋己のデートが現実味を帯びた。彩香の脇を通ったエリが目を血走らせ、廊下に出てずんずんと歩いていった。

 エリの様子に彩香は小首をかしげ、買い物袋の口を広げて白菜を取り出した。袋の底に黒いものが見えた彼女は廊下への引き戸に手を掛けた。

 

「エリ、Sサイズのレギンス買ってきたわよー」

 

 階段を上るエリは返事もなく二階に行った。彩香は夕食の時に渡せばいいかと思い、戸を閉めて冷蔵庫へ向いた。カレンダーに何やら線が引いてあるが、今度の日曜日は無印。ちはるにもらったチケットの映画に行くのは問題ないと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

決まった仕事

 月曜日の放課後、桂木家のダイニングで第一回駆け魂攻略会議が開かれた。テーブル横の席でスラックスを履くみちほが足を組み、手元のマニュアルに眉をひそめた。前もって、エリは彼女のためにいつも座る廊下側の椅子一つをリビング側に移動させた。みちほへ向いてエリが卓上を片手でバンと叩いた。

 

「どう、みちほなら美人巫女さんを攻略できるでしょ」

「わたしが心のスキマを埋めなくても、エリ姉でもできるじゃん」

「ううん、それはダメ。バディの役目だから」

「ていうか、何で寺に巫女がいるのさ」

「えっ……」

 

 端末をテーブルに置くみちほに、エリは目をパチパチとさせた。朋己と女性が面と向かうシチュエーションに気を取られてまったく変に思わなかった。顎に手を当て、実は神社だったのだろうかと考えた。

 暖房の効いた部屋でみちほがブレザーの下に着るセーターの首元に指を入れ、反対の手のひらで悠長にあおいだ。

 

「まあ、もう一回行って調べてきたら。その人を攻略する情報もないしね」

 

 みちほは面倒な事を避けるうまい口実にほくそ笑み、床のスポーツバッグを拾い上げた。

 

ガラッ

 

 リビングの戸が引かれ、遅れて会議の主要メンバーの京太が登場した。通学リュックを背負った彼はへらへらした顔で「どうもどうも」と、セーラー服の少女に歩み寄った。学ランのポケットからM42を出しながら立ち話を始めた。

 

「聞いて下さいよ。俺、山追ダイスケのボディーガードになりました」

「何でUFOの特番に出てくる人と……あれ、角研って出版社じゃなかったの」

「だから『メー』のイベントです。これを見れば分かります」

 

 京太は画面でアプリを操作して端末を手のひらに載せた。浮かび上がった3Dホログラムはトークイベントの舞台が立体的に描画される。真ん中寄りにサングラスの男性とマイクを向ける女性が座り、観客も一列目は体全体が映り込むが、端末サイズに収まらない二列目は脳天から真っ二つになっていた。エリは舞台の下に立つ警官の恰好をした人物に目を細くした。

 

「ふーん、単なる警備員か。てっきり黒いスーツ着て拳銃持ってんのかと思った」

「な、何言ってんです。山追ダイスケはUFOの追跡では世界的に有名で、イベントに来た外国人が勝手に舞台に上がろうとして大変だったんですから」

 

 京太が苦労話に熱くなって端末を揺らし、3Dホログラムが様々な角度を見せた。エリは精巧さに感心して彼の手首を押さえた。

 

「でも、その大変な中でどうやってこれを撮ったの」

「え、ああ、それは撮ったんじゃなくて動画の複数フレームを合成してるんです。会場を撮影した動画を使ってM42の3D化ツールで自動的に作られたホログラム。PCでやると結構時間と金がかかるんですけど、冥界の技術だと簡単なんですねぇ」

「そんな事ができたんだ。じゃあ、わたしもやってみようっと」

 

 エリはリビングの戸から飛び出し、自分のM42を取りに部屋へ行った。駆け魂攻略会議も一時中断し、みちほはバッグからPFPを出して乙女ゲームを始めた。会話の選択肢に目を落としながらも自分の仕事を押しつけようと、エリの動向を気にする京太に照準を合わせた。

 

「京兄、メッセージを呼んだよね。新舞島駅裏の寺で見つけた駆け魂の攻略を…」

「メッセージ呼んだぞ。エリさんのバディになったのか、頑張れ~」

 

 みちほの話をろくに聞かず、京太が側の椅子に横向きに座ってテーブルに手を掛けた。指でリズムを取る彼は魅惑的な悪魔・ノーラのバディとなって充足感を得ていた。

 卓上にPFPがコトッと置かれ、みちほが顔を向けて京太へニヤニヤと笑みを浮かべた。

 

「エリ姉が今回の攻略も頼りにしてるってさ」

「まさか、頼りなんて言うかぁ」

「甘い甘い。男子の前では本心を隠すもんなんだよ」

「まあ、エリさんは危なっかしいから…」

「そんな女子に付き合ってあげるのが男ってもんだぜ、兄貴」

 

 みちほが当然と言わんばかりに片肘をついて鼻を鳴らした。律儀な京太はエリのことも気になるが、ノーラに黙って駆け魂回収の手伝いをして良いものか悩んだ。廊下から階段をドタドタと音が響いた。リビングに入ってきた少女の得意顔を見て彼は手元のホログラム表示を消した。

 

「しょうがない、社長にメールしておくか」

 

 端末に指で文章を入力する京太を横目に、エリはM42を握って椅子の背に近づいた。みちほがテーブルに置くPFP画面の2D美少年へ背中を丸めた。彼女の頭上に端末が差し出された。

 

「はい、巫女さんの3Dデータがあるから受け取って」

「ふーん。エリ姉も撮影してきたの」

 

 みちほはPFPの横に転がるM42を持ち上げ、設定画面で端末間通信を許可した。すでに駆け魂攻略は兄に任せたので気楽。端末を下ろして彼女がPFPのボタンを指でポチポチと押し、そっけない態度にエリが嘆息を漏らした。

 ファイル転送にまごつくエリは端末をずいっと出して京太に任せた。その上でコホンと咳払いをし、みちほの肩に優しく手を添えた。

 

「巫女さんの情報はそれだけなの。これから寺に行って仕入れてくるから、みちほはカフェの掃除をお願いね。掃除機は倉庫に入ってるわ」

「うぇっ、何でそうなるんだよ」

 

 驚いてみちほは後ろへ首を曲げ、エリがニコニコした顔を近づけて人差し指を立てた。

 

「駆け魂を回収した後、お兄ちゃんが巫女さんと仲良くする場所が必要になるでしょ」

「そうじゃねーよ。何でわたしがカフェ掃除の担当なのかってこと!!」

「お寺は石段があるから京太と行ってくるわ。でも、みちほの力を借りたい時はちゃんと来てもらうし、カフェは金曜までに綺麗にしてくれればOKよ。あなたを頼りにしてるんだから、ね」

「『ね』ってマジか、エリ姉」

「うん…あっ、もう日が暮れちゃう。早く行くわよ、京太」

 

 エリが端末を受け取って玄関へ走り、渡した京太がやれやれと歩き出した。玄関ドアはリビングの戸が閉まる前に開き、冷たい空気がダイニングに流れて憮然としたみちほが口を閉じた。

 みちほはテーブル上のM42を掴み、画面の転送完了アイコンをタッチして3Dホログラムを表示させた。寺での映像は女性の後ろ側からしか映っていなく、正面にかけてはエリが入力した文字情報「美人」を元にインターネットから画像が集められた。仕上がった像へ彼女が不満をあらわにした。

 

「フン、悪魔のくせに人使いが荒いんだから」

 

 端末上に浮かぶ巫女装束の女性は太めの体つきに対して顔が妙に小さく、人間から見るとアンバランスだった。みちほは首をさすってPFPの乙女ゲームを続けた。

 

 ヘルメットをかぶった二人は自転車で新舞島駅の通りと踏切を越えて山へ向かい、1kmも走ると上り坂の交差点に差し掛かった。前方でエリが山裾へ曲がり、同じく曲がった京太は自転車を止めて声をかけた。

 

「ちょっと待って下さい、エリさん」

「何、ぐずぐずしてらんないのよ。帰りは電灯がないから真っ暗になるわ」

「それじゃあ、上に行って停めましょう」

「はぁ?」

 

 Uターンした京太に首をかしげてエリは跡を追った。彼はペダルに立って漕ぎ、再び来た坂道の歩道へ勢いをつけて上がった。だが、きつい勾配は上り切れずに途中で降りて押し、後ろから勝ち誇った顔の少女が電気自転車で追い越していった。

 坂の上は民家がなく奥へ道路がカーブし、歩道の外に芝生が整備される。脇道のところに大きな字の『新舞島寺宿坊』の案内看板が立っていた。

 

「そうか、新舞島寺っていうのか」

 

 迷わずエリは看板のある脇道へと曲がった。林に挟まれたアスファルトの道幅は乗用車がすれ違える程広く、奥の開けた場所に駐車用の白線が見えた。数台の車が停まった中にはМAマーク付きの白い軽トラがあり、キャップをかぶる背の高い男性が荷台へ手を伸ばした。ブレーキを握ってエリは彼の側にピタリと止めた。

 

「黒田のおじいさん?」

「あれ、お嬢さんは確か彩香ちゃんの家に…」

「エリといいます」

 

 自転車のサドルに跨ってエリがお辞儀をし、彼は段ボール箱を荷台の縁に載せて額を掻いた。

 

「やれやれ、道に迷ったのかい。ここは宿坊だよ」

「いいえ、京太…君と一緒に来ました。ところで宿坊って何ですか」

「宿坊は寺の宿泊施設を言って本来は関係者しか泊まれないんだが、ここのように客を入れる所もあるのさ。それにしても京太は山が好きだな」

「ホテルみたいなもんか。で、野菜を仕入れてるんだわ」

 

 エリは荷台の箱に描かれた大根やほうれん草へ視線を向けた。京太の祖父は段ボール箱に乗せる手を上げて振った。

 

「おーい、京太」

 

 ハンドルに腕を乗せた京太が漕ぐのをやめてふらーっと近づき、アスファルトに片足を着けて自転車を傾けた。

 

「じいちゃんか。ねえ、ここに昔から寺あったっけ」

「ああ、宗教法人はどうなっとるか分からん。宿坊は今年の春からやってるが」

「お寺だから仏教なんでしょ」

「それが住職を見たことがなくてな。伝票も『鳴沢パートナーズ』で……いかんいかん、サボってちゃ怒られるから、もう行くぞ」

「うん、仕事頑張って」

 

 京太の祖父は段ボール箱を抱えて裏の入り口脇に入っていった。寺の裏手は門がなく、手入れされた植物が建物を囲んだ。アスファルトは宿坊の入り口から玄関まで短い石畳となり、和風旅館を思わせる入母屋屋根の玄関ホールは引き戸のガラスから自動チェックインの専用端末が見えた。

 巫女装束の女性を調べる事が目的のエリたちは駐車場の隅の目立たない場所に自転車を停めてヘルメットをかごに入れた。京太の祖父と反対の脇へ入り、宿坊の周囲をぐるっと回って表側に行くことにした。出入りの業者が向かう先に行くと従業員と会う可能性が高い。建物沿いに砂利を踏んで真っすぐ進み、宿泊施設の端で寺の本堂と敷地を囲む白壁が姿を現す。二人は薄暗く狭い隙間を奥へ通り抜けた。

 広くなった土の境内に出た。エリは制服のほこりをパンパンと払い、本堂の横を山門の方へ歩いた。兄が恋する女性はどこにいるのか考え事をしつつ、廊下が張り出す角を曲がった。

 

「あっ、巫女さん」

 

 エリと女性は距離にして2メートル弱。寺の物陰から情報を集めるつもりが、いきなり本堂前で彼女と鉢合わせした。

 

「あ、はい、どうも当麻と申します」

 

 目の前に現れたエリに呼ばれ、思わず巫女装束の女性はペコリと頭を下げた。耳打ちする京太とそれに頷くエリ。すぐしまったと苦笑いを浮かべて彼らの恰好をまじまじと眺めた。学生服を着る眼鏡の少年とセーラー服の髪を肩で揃える少女にホッとして胸に手を当てた。

 

「二人とも仲がいいわね。あなたたち中学生?」

「はい、そうです。お姉さんのお歳はいくつですか」

「ふふふ、いくつに見えるかしら」

「そうですねぇ。わたしの母よりは相当若いと思います」

 

 年齢を聞かれて曖昧に答えたエリは誤魔化した彼女が十代ではないと思った。大人の女性が毎日コスプレで白い小袖に鮮やかな緋色の袴を履くのも考えづらく、元気よく当麻へ手を上げた。

 

「ハーイ、当麻さんに質問です」

「えっ。何でしょうか」

「どうしてお寺で巫女さんの恰好なの」

「ああ、それは私が宿坊の従業員だからよ。お堂には朝、昼、夕方の三回見回りに来るだけ」

「うわぁー、巫女装束がホテルの制服って社長の趣味ですか」

 

 エリはオーバーに驚いて見せ、当麻の周りを興味深そうに一周した。ふわっとパーマがかかったショートヘアで彩香よりやや目線が低いが、二人は体形的に似通って見えた。施設にいる頃、朋己はMasamiという華奢なアイドルが好きと言っていた。なのに、彼女は少し太めで変な気がした。

 少女の喜びように表情を曇らせ、当麻は宿坊の向かい側へ向けて袖を振った。そこには社務所のような寄棟造りの平屋があった。

 

「じゃなくて作業着、あそこの休憩所の。私は無料カウンセラーをしているから悩みがある時に来てちょうだい」

 

 小さく手を振って当麻が自分の職場へ戻っていく。寺内は白壁がコの字に囲む本堂と観光客向けの宿坊に分かれ、太陽が当たる宿坊の庭に造られた丸い池を樹木が囲んだ。宿坊の端と石畳で繋がる休憩所はエリたちへ台形の屋根を向け、本堂前に広がる土の境内からは宿坊の自然景観が八割方隠された。

 日が暮れて辺りも薄暗くなり、休憩所に明かりが点って窓ガラスがオレンジに発色した。入り口に手を掛けた当麻の背後にどんよりと妖気が浮かんだ。彼女が寺で働いていると分かり、明日からの攻略に備えてエリは帰った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それゆけ、バディ

 月曜日の夜、楽器を肩からぶら下げたエリがリビングの戸を閉めた。彼女はソファーに腰掛け、側に転がったリモコンでテレビの電源を入れた。端末画面に指を擦らせて『人間管理アプリ』を起動して音声入力に切り替えた。

 

「姓は当麻、名は不明、女性、身長は155cmかな、体重は60kgくらい、年齢二十代前半、鳴沢パートナーズ社員であとは…そういえば、カウンセラーとか」

 

 当麻のデータは画像欄を空白にして各項目に数値や文字が埋められ、BMIの数値や推定収入が計算されたり、資格と学歴の欄に心理師と大学卒が「?」付きで表示されたりした。帰って部屋でスウェットに着替えたエリは夕食までベッドに寝転がってМ42で冥界アプリストアを徘徊し、このアプリを駆け魂攻略する時のメモ帳代わりにインストールした。

 心のスキマを埋める方法は「人間の欲望」とマニュアルに書かれる。難しい顔をして攻略について考え始めたが、ドラマを見たい誘惑に負けてテレビに見入った。CМで「結婚したくなったら鳴沢パートナーズへ」のキャッチフレーズと行進曲が流れると、ソファーの横に風呂上がりの彩香が立っていた。

 

「屋根裏で見つけたのね、ベースなんか持ち出しちゃって」

「あれ、ギターじゃないんだ」

「確かベースギターって言うのよ。それより早くお風呂に入って寝なさい、明日も学校でしょ」

 

 隣に来た彩香はドスンと腰を下ろし、不機嫌そうにチャンネルを変えて潤い不足の頬に手を当てた。エリは聞いてないふりをしてベースの絃に指を掛けた。

 火曜日の放課後、前髪が逆立つ京太はローサンで買った黒いサングラスをかけ、革ジャンを着てベースを持っていた。電話によるエリの服装チェックでハーフコートのように見える背が高い父の革ジャンは却下され、祖母から借りてファスナーが閉じれずに少し袖と裾が短い。桂木家に着いて洗面所で髪をセットされた後に彩香の化粧道具で顔に白いメイクを施された。

 制服姿のエリが山門脇から新舞島寺の中を覗いた。アーティストの恰好で当麻の欲望を試そうと考えた。京太に酔っ払った祖母で芸能事務所社長・千夏のスマホから電子名刺データを彼の端末へくすねさせた。準備万端整ったと握りこぶしを作り、土の境内へ熱い視線を送った。

 

「きっと、当麻さんは有名人になれるチャンスに飛びつくわ」

「ばあちゃんの名刺を渡しても有名になれませんが…」

「フフフ、問題は彼女がどこまでで満足するか。テレビに自分の姿が映って心のスキマが埋まるんなら、М42でマイクを握って歌う当麻さんを作り出せばいいの」

 

 京太に笑みを見せてエリはベースの絃を上から下へ四本指で弾いた。休憩所から土を食む草履が足音を奏でた。

 

「あっ、来た来た」

 

 エリが京太の腕を引っ張って思いきり山門からぶん投げた。倒れ込みながら彼は境内の真ん中で腕を回し、片足を前に出してベースを弾くまねをした。

 

「あー、うちのバンドに誰か入ってくれー。折角デビューが決まったのに」

 

 背筋を伸ばして京太は上擦った声を出し、当麻は彼の横顔へにっこりと営業スマイルを見せた。

 

「新舞島寺にようこそ。見たところ悩み事がおありのようですね」

「あの、俺の祖母が芸能事務所やってまして……」

「無料カウンセラーの当麻と申します。どうぞ、あちらへ」

 

 当麻が会釈して手のひらを休憩所へ向けた。差し出された端末画面の名刺に目もくれず、彼女はすたすたと先に歩いていった。ぽかんと口を開けた京太は山門へ顔を向けた。首を横に振るエリが両腕で大きなバッテンを作った。

 水曜日の放課後、新舞島寺の山門脇に彼らは並んで当麻を待った。京太は髪をペッタリと七三に分け、中学校の保健室にあった白衣をまとって首から聴診器をぶら下げた。エリは初心に立ち返って現実的な路線で攻めると決めた。京太に指で丸を作り、土の境内へ熱い視線を送った。

 

「やっぱり、当麻さんもお金が一番。М42でデビット残高の表示を十桁以上にしてあげれば心のスキマも埋まるわ……あっ、来た来た」

 

 エリが京太の背中を両手でドンと押した。山門から倒れ込みながら彼は境内の真ん中へ躍り出て立ち止まり、咳払いをして白衣のポケットに両手を突っ込んだ。

 

「あ~、病院の脱税に誰か協力してくれないかな~。ほんの十億円くらいだし」

「無料カウンセラーの当麻と申します。どうぞ、あちらへ」

 

 当麻が会釈して手のひらを休憩所へ向けた。指で丸を作った彼を放置し、彼女はすたすたと先に歩いていった。頭を掻いた京太が山門へ顔を向け、エリは目を閉じて肩をすくめた。

 木曜日の放課後、新舞島寺の山門脇で当麻を待つエリが焦れて柱を叩いた。富の次は名声。必ず仕留める気で石段へ向いてシャドーボクシングを始めた。

 

「今の時代、キャリアアップは重要よ。М42で白鳥技研CEOからのヘッドハンティングのメールを送りましょう」

「うまくいきますかねぇ。ま、行ってきますけど」

 

 ダブルのスーツを着た京太がエリの背後を通り抜けて山門を入った。クッションを詰めた腹を手で押さえてのっそのっそと歩き、両面テープで付けた髭を指の甲でさすった。境内の真ん中で一休みした彼は後ろから声をかけられた。

 

「お疲れ様、中学生君。今日の衣装は大変ね」

「えっ」

 

 京太が驚いて振り返ると、昨日までと違うあざけりを含んだ笑顔で当麻が迎えた。彼女は人差し指を彼へ向けた。

 

「私は明日休みだから、支配人に見つからないようにした方がいいわよ」

 

 両手で口を押さえて当麻が休憩所にすたすたと歩いていった。山門では口を開けたエリが京太へ何度も手招きする。気づいた彼は小走りで戻った。

 

「どうやら、俺だとバレてたようですよ」

「それじゃあ、もう京太を変装させる作戦は通じないんだ」

「はい。とりあえず帰りましょうか」

 

 ベルトを緩めた京太はシャツの下からクッションを引き出し、石段に足を踏み出してエリへ向いた。

 

「あ、それと金曜は休みだそうです」

「そっか。サービス業は土日が出勤だし、これはチャンスね」

 

 エリは今までの失敗をコロッと忘れ、当麻攻略の第2ラウンドに意欲を見せた。週末はみちほが京太と交代する。人間のバディに攻略を任せ、悪魔の少女が本堂の仏像へファイティングポーズをとった。

 

 金曜日の夜、風呂上がりのエリは廊下からキッチンへ入って冷蔵庫を開けた。牛乳パックを掴んで電灯が消えた暗いダイニングへ行き、壁の棚からガラスコップを出してなみなみと注いだ。リビングで点いたテレビの画面が明るく、ソファーに手を掛けた彩香が後ろへ振り向いた。

 

「エリー、学校がないからって長いこと起きてちゃダメよ」

「分かってるよー。もぉ、小学生じゃないんだし」

 

 頬を膨らませたエリはコップに口をつけて冷蔵庫へ向かった。ほんの少し空くカフェへの扉から光が漏れ、牛乳パックを仕舞ってキッチンの壁に足を向けた。

 ゆっくりと扉を開けると、店内がライトに照らされてピカピカと光を放った。エリは家のスリッパのまま恐る恐るカフェに入った。まるで別世界に来たみたいだった。しばらく放って置いたカウンターにはほこりどころか塵一つなく、みちほに掃除の才能があったことに感動してパジャマ姿で飛び跳ねるように歩いた。そのつま先にコツンとぶつかる音。床に転がっている棒状のものを拾い上げた。

 

「あっこれ、葉っぱや灰を吹き飛ばせる……この箒で掃除したのか」

 

 機転が利くみちほを頼もしく感じたエリは部屋に戻ろうとしたが、心なしかカフェに違和感を覚えた。電灯の点けっ放しは彼女のズボラな性格のせいとしても、不自然に四本脚の椅子が入り口を塞いだ。

 カフェの入り口に近寄ったエリが置かれた椅子を横にどけた。戸は下の方に大きなへこみと亀裂があり、エリはびっくり仰天した。

 

「げぇっ。何で、何で穴が開いてるの~」

 

 他に壊れていないか心配でカフェを後ろへ振り返った。よく見るとカウンター席に一本脚の椅子が一つ足りない。エリはカウンターの端に戻って辺りを見回し、ハッと思いついてスイングドアの上から内側を覗く。案の定、脚の折れた椅子が横たわった。

 

「犯人はみちほだわ。せっかく綺麗にしたカフェを壊すなんて」

 

 彼女をとっちめてやりたい気持ちは強いが、作戦に支障をきたす訳にいかなかった。エリは箒をカフェの床に叩きつけた。

 土曜日、午前中は流れる雲の切れ間から太陽が覗いた。イヌツゲの枝一つ一つが丸く剪定された新舞島寺宿坊の入り口近く、エリがスカートの上から太腿をさすった。昼食で家に帰らなくて済むように菓子パンを詰めたリュックを背負い、もこもこのフード付きブルゾンを着てファスナーを首まで締めた。

 駐車場に入った軽トラの助手席ドアが開き、ベンチコートに身を包むみちほはアスファルト上に滑り降りた。先に運転席から降りた祖父が荷台の車いすを彼女の側に置いた。彼へうんうんと素直に頷いてみちほが車いすに腰掛けた。

 みちほはエリの前に来てピンクの花柄ランチバッグを腕で隠し、ぶすっとした顔を見せた。

 

「おやまあ、衣替えが済んで温かそうな足元だことで。こっちは誰かさんが電話をくれたおかげで発熱繊維のフリースとレギンスを脱がされて下はTシャツとハーフパンツだよ。母さんはスポーツ教室だと勘違いしちまったぞ」

「美雪さんには『室内で運動するのでジャージでお願いします』と言ったんだけどうまく伝わってなかったみたいね。悪かったわ、さっそく行きましょ」

「ちぇっ。それで謝ってるつもりかよ」

 

 みちほの非難をさらりとかわし、エリは車いすを宿坊の入り口へ向けて押し、自動で二枚の戸が外側に開いた。堂々と車いすが玄関ホールに入ってチェックイン専用端末の横で止められた。

 

「ほら、みちほも端末のカメラへ向いて。これで今夜の予約『客』になるわ」

「えぇー、予約なんかしたら金取られるだろ」

「大丈夫大丈夫。帰る時にМ42でキャンセルするから」

「は、何の意味があるんだ……」

 

 みちほはエリの不可解な行動に首をひねった。名前以外はタッチパネルを押すだけで分かりやすく宿泊予約が完了した。天井を見上げたエリは黒い半球のカメラへ腕を伸ばして指でピースをし、颯爽と宿坊内の廊下へ車いすを押した。真っすぐ行った最奥の壁に休憩所への順路が矢印によって示され、車いすは廊下の角を曲がった。みちほが前へ手のひらをかざし、自動ドアが開いて二人は石畳の通路に出た。

 今回、エリは大胆に事を進めることにした。クラブ活動をする男子のふりをしたみちほに当麻のカウンセリングを受けさせ、逆に巧みな話術で秘めた欲望を引き出す。休憩所の外で盗み聞きするエリがМ42で魔法を使って彼女の心のスキマを埋めるという算段。車いすを宿坊の建物脇に停めてみちほの肩をポンと叩いた。

 

「休憩所へは歩いてちょうだい。わたしは窓の外にいるから、うまく欲望を聞き出してね」

「けど、何で男子のふりしなきゃならないのさ」

「そりゃあ、女性の神経は繊細だからよ。異性に言われた方が色々と心に響くものなの。みちほは乙女ゲームで散々やってるから当麻さんの気を惹くのも簡単でしょ」

 

 車いすの前方に回ったエリがポケットに両手を突っ込んで鼻息を荒くした。みちほはシートから立ち上がり、ランチバッグを置いてケラケラと笑った。

 

「アハハハ、女子の攻略なんて無理無理。わたしギャルゲーとかしたことないもん」

「ふーん。ところで、カフェの倉庫にあった強力な箒使った?」

「うん、昨日ね。ちゃんと掃除しといたから」

「あの箒は柄のダイヤルを回すと威力が倍増するの。だから、カウンター席の椅子を吹き飛ばして入り口の戸に穴を開けるくらいはカンタン。ほーんと、誰がやったのかな」

 

 エリは恨みのこもった低い声を発し、冷めた表情に変わった。速攻でバレると思っていなかったみちほの笑いが止まった。後ろめたさを感じて彼女は威圧的な大きい瞳から視線を逸らし、エリの脇をそろりと通過して休憩所へ歩き出した。

 

「ま、まあ、エリ姉のために一生懸命頑張るよ」

「ええ、期待してるわ」

 

 みちほの背中を押してエリは石畳の通路から外れ、休憩所の横へ走った。宿坊の各部屋から望む庭の外周はモミジが群生し、黄葉と紅葉が壁に沿ってうろうろする不審な少女を覆い隠した。

 透明な窓からエリが中を覗いた。休憩所内はカラフルなお守りや金色の小さい仏像が台に並び、

正面にレジカウンターを備えた。エリに近いサイドの壁にスライド扉と無料カウンセリングの幟が立った。網戸と窓ガラスを少し開けると同時に、レジ奥から巫女装束の当麻が出てきて会釈し、恥ずかしそうなみちほが視界に現れた。

 

「あの、僕サッカー部に入ってて……お姉さんに話を聞いて欲しくて」

「ふふふ、かわいい男の子ね。どうぞどうぞ」

 

 当麻が隙間の空く窓へ近づき、エリはさっと頭を引っ込めた。スライド扉が溝を滑って二人が中へ歩いていく足音が耳に入った。中腰になったエリが壁際を物音を立てないように奥へ進み、腰を伸ばして曇りガラスの窓に手を掛けた。

 

「あ、開かない。どうしよう、当麻さんの欲望が聞けないわ」

 

 再度エリは両手を窓の端に掛けて引っ張ったが開かず、施錠されていると考えた。ヘアピンの前に垂れた髪を引っ掛けて耳をペタッと窓に貼り付けた。

 

「隠さなくてもいいのよ。あなたの心の声が聞こえたから」

「心の声?」

「そう、私が好きなの。私もかわいい女の子は好き」

 

 当麻とみちほの会話を聞いたエリは窓から耳を離して首をかしげた。詳しく聞かないと分からないと思い直し、エリはもう一度耳を貼り付けた。

 

「一体何しようってんだ、あんた」

「うふふ、いい事しましょう」

 

 雲行きの怪しい会話にエリがほっぺたを窓に押しつけると、みちほのうろたえる声が聞こえた。

 

「うぇっ。た、た、助けて~」

 

 エリは落ち葉を踏んづけて駆け出した。休憩所の角を曲がってあたふたと室内へ入り、みちほがいると思われるスライド扉からは駆け魂の妖気が漏れた。

 縦長の取っ手を引いたものの鍵がかかり、エリはすぐポケットのМ42を掴んで扉が開くように念じた。光に包まれた扉が一気に全開し、どす黒い妖気が腰の辺りから天井まで漂うカウンセリングルームの様子が目に入った。部屋はローテーブルを挟んで長いソファーが向き合った。扉の方へソファーの脇からジャージ姿の人が床を這い出てきた。

 

「お尻に猫ちゃんのパンツ……みちほだ。でも、何で脱いだのかな」

「エリ姉、助けてよぉ」

 

 顔を上げたみちほが目に涙を溜める。ハーフパンツごとズボンを脱がされた彼女は駆け魂の恐ろしさに体を震わせた。エリは向こうに立つ人影に魔力を感じた。口元に笑みを浮かべた当麻が目を光らせ、両手を広げてみちほを捕まえようと迫った。

 




―― 次章予告 ――

聖夜まで一週間。エリとみちほは宿坊に泊まった。一方、彩香は相手がいなくなって朋己と映画を見に行く。当麻の駆け魂を出すためデータを偽造しようとすると電話がかかって… ⇒FLAG+17へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+17 聖夜落着
告白インポッシブル


―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
季節は師走に入り、日曜は朋己が女性に渡すプレゼントを買いに出かけ、彩香がダイエットのためにウォーキングに勤しむ。一方、エリには自ら逃がした駆け魂を捕まえる仕事が待っていた。
エリは新舞島駅裏の外れで朋己を見かけ、跡を追って寺の石段を上った。山門から境内を覗くと、彼と話す巫女装束の女性に駆け魂センサーが反応した。彼女は当麻と名乗り、宿坊の従業員で無料カウンセラーと分かった。
心のスキマを埋めるのは人間の欲望。当麻の欲望が何かを試そうとエリが差し向けた京太の変装はバレて失敗した。代わりに、乙女ゲーム好きのみちほに白羽の矢が立った。
みちほが当麻と休憩所のカウンセリングルームに入り、エリは外で曇りガラスに耳を貼り付けた。



 みちほは休憩所と呼ばれる平屋に足を踏み入れた。土産売り場の様相を呈する手狭な右側の端にレジカウンターがあり、左側はパンフレットの棚に台が併設されて壁に「アンケートコーナー」の紙が貼られた。パンフレットは結婚情報のものが観光案内よりも多かった。左奥の壁際にチラッと目をやり、横に立つ幟がカウンセリングルームはスライド扉を入った部屋だと教えた。

 暖簾のかかった奥から巫女装束の当麻が人のいないレジカウンターに現れた。会釈した彼女は寺のお薦め商品が置かれた台の前へ出てきた。エリから言われた通りに、みちほが男子のふりをしてモジモジと手のひらを擦り合わせた。

 

「あの、僕サッカー部に入ってて……お姉さんに話を聞いて欲しくて」

「ふふふ、かわいい男の子ね。どうぞどうぞ」

 

 当麻が愛想よくスライド扉へ向かい、扉を開けて部屋に入った。少し太めの彼女にみちほは悪い印象を受けなかった。駆け魂が取り憑く女性とは聞かされていたが、到って普通の大人の女性に見えた。

 カウンセリングルームの中へ、みちほは考えもなく入った。アイボリーの細長い本革ソファーが透明な天板のローテーブルを挟んで向かい合い、窓の両脇に背が高い観葉植物を置く室内。スライド扉を閉じた白い壁紙が囲む空間はシェードが上がった南の窓から斜めに短く日が射し込み、曇りガラスに窓外の赤いモミジが映えた。当麻が壁のパネルを押し、天井の明かりとエアコンを点けてニッコリと笑った。

 

「そちらの壁に脱いだコートをお掛け下さい。扉に鍵はかかりません。ですが、密閉性は十分で少しでも開くとテーブルの端にあるランプが点ります。壁は防音になってますから隣の部屋へ会話が漏れたりしないので安心して下さいね」

 

 説明を聞いたみちほは壁からハンガーを取り、脱いだベンチコートを掛けて戻した。まともに洋服すら持たないみちほが着るのは兄・裕太が着れなくなったスポーツウェアである。つっかけた白いランニングシューズはかかとに指が入り、両腕両脚にラインが入った青いジャージは丈こそ合うものの、横はぶかぶかで成長期の女子の体形を隠して都合が良かった。ついでに壁に掛かる四角いミラーを見て前髪にボサボサ感を付けた。

 手前のソファーの背に手を掛けて角を回ってみちほは曇りガラスへ向いた。下の方にエリと思われる人影が黒く映り、ストンと腰を下ろして正面に座った当麻に苦笑いを浮かべた。頭の中は彼女の気を惹くことに考えを張り巡らせるが、なかなか良いセリフは思いつかずに安直な作戦に愚痴をこぼした――だって、わたし男子じゃないもん。

 当麻に顔には出ないみちほの気を惹こうとする考えが伝わった。なで肩で短髪でもなく髪を伸ばして結んでもない中途半端に襟足が伸びる首筋を見つめ、膝の上に肘を乗せて手を組んだ。運動部と言う割に白い肌。「わたし男子じゃないもん」と耳の奥深くに聞こえてきた。彼女は駆け魂に取り憑かれた影響で観察しているうちにカウンセリング相手の思考が手に取るように分かった。そのかわり、自分の欲望を前に理性がぶっ飛んだ。

 

「嬉しいわ、男の子じゃなかったのね」

「え、何のことでしょう」

「隠さなくてもいいのよ。あなたの心の声が聞こえたから」

「心の声?」

「そう、私が好きなの。私もかわいい女の子は好き」

 

 頬のそばかすがチャーミングに見えて当麻が微笑んだ。立ち上がった彼女は負の感情に突き動かされてふらふらとローテーブルの周りを歩き始めた。

 みちほはジャージの前を上下になでた。中学に入って胸のカップが大きくなったとはいえ、いまだにスラックスで通う舞島学園では先生に顔を見て男子と間違われた。本当に心の声が聞こえるのだろうかと考え込んだ。

 ソファーに腰掛けた当麻は少女が無防備に置く手を取って両手で揉んだ。みちほがビックリして飛び上がった。

 

「一体何しようってんだ、あんた」

「うふふ、いい事しましょう」

 

 思った通り、当麻は触れた手が小さく柔らかい女子のものだと笑顔を見せた。心のスキマに入り込んだ駆け魂のせいで気分が高揚して見境がなくなり、目の前の中学生をソファーの反対側へ押し倒した。バディにも見えるくらい彼女の妖気が体を覆った。ソファーの背もたれと座面に上半身が挟まったみちほは押さえ付けられた両腕を抜こうとじたばたした。

 

「うぇっ。た、た、助けて~」

「防音壁と言ったでしょ。でも、誰か入ってくるかしら」

 

 当麻は人差し指を立ててスライド扉へ腕を振った。駆け魂の魔力で扉に鍵をかけて人間を入れなくし、ソファーに仰向けになった少女の体にクスリと笑った。ジャージのズボンに両手を掛けてスルッと膝まで下ろすと、いい加減に紐を結んだハーフパンツも一緒に脱げてクリーム色のショーツがあらわになった。みちほはぐるぐると目を回して気絶した。手の甲で口を押さえた当麻が高笑いし、勢いよく膝下からズボンを引っ剥がしてみちほの下半身は軽々と宙に舞い上がった。

 当麻にとっての誤算は足首でとどまるはずが、抵抗なく靴が両方とも脱げてズボンがすっぽ抜けたことだった。そのため、窓際へ彼女の体がぽーんと倒れていった。

 みちほは両足を革のソファーに打ちつけて目が覚めた。上体を少し起こしてパンツと靴下のみにされた危機的状況に慌て、体を反転させてソファーから転がり落ちた。立った当麻は指に掛かったハーフパンツを両手で引きちぎった。彼女から逃げ出そうとし、みちほが四つん這いで頭を低くして障害がない方の足で床を蹴った。

 カウンセリングルームの扉が光に包まれ、一気に全開して小柄な人影が浮かんだ。ソファーの角から這い出たみちほに、エリが目を見開いた。

 

「お尻に猫ちゃんのパンツ……みちほだ。でも、何で脱いだのかな」

「エリ姉、助けてよぉ」

 

 顔を上げたみちほは目に涙を溜め、体を震わせて当麻に襲われた惨状を訴えた。エリが曇りガラスの方へ目を向けた。口元に笑みを浮かべた当麻は目を光らせ、両手を広げてみちほを自分のものにすべく狙いを定めた。

 

 駆け魂の妖気を漂わせてソファーの前をゆらりゆらりと移動する当麻。それを見たエリはカウンセリングルームの外側で腰を屈め、手のひらを下にして両手を並べてみちほへ振った。

 

「こっちにゆっくりと這うのよ。当麻さんを十分引き付けて」

「え~、捕まっちゃうよー」

 

 みちほが後ろへ首を曲げて悲鳴に似た声を上げた。スライド扉の脇にエリはリュックを下ろしてブルゾンを脱いで上に載せた。パンフレットの棚まで戻って振り返り、目をつぶってトレーナーの胸に手を当てて大きく深呼吸すると、魔力が全身を覆って淡い光を放った。体にみなぎる力を感じてエリが目を開けた。

 エリは猛然と走ってカウンセリングルームに入った。みちほの直前で踏み切ってジャンプし、空中で体を横に向けて黒いレギンスの両足を揃えた。

 

「悪魔キーーック!」

 

 靴裏が床へ腰を曲げた当麻の胸にヒットし、彼女が後ろによろけて床に尻を着いた。みちほのつま先を越え、エリは両手を上げてトンっと着地した。めくれたスカートを直して巫女装束の女性へ怖い顔で睨んだ。

 トレーナーの袖がちょいちょいと引かれ、後ろに立つみちほが気まずそうに耳打ちする。エリはスライド扉へ向いて親指で差した。

 

「リュックに大きいタオルが入ってるわ。それと、荷物持って扉を閉めてきてちょうだい」

 

 こくりと頷いてみちほが扉に向かい、エリは当麻へ視線を向けた。すっかり妖気が消えて正気に戻った彼女の顔をじっと見てエリが手のひらを差し出した。

 

「さあ、すべて話してもらいましょうか」

「は、はい……」

 

 伏し目がちに返事をした当麻はエリの手を借りて立ち上がり、観念したかのようにとぼとぼと奥のソファーへ歩いた。

 腰にスポーツタオルを巻いたみちほが股を閉じて戻ってきた。ローテーブルの横でエリが腕組みして背を向け、みちほは足元の床にリュックとブルゾンを置いて肘掛けに手をついてそっと太腿の裏をソファーの座面に着けた。当麻は端に居並ぶ少女たちから離れた真ん中寄りに膝に手を乗せて座った。みちほにした事は全て記憶にあり、小さくなった彼女が目を泳がせながら口を開いた。

 

「も、申し訳ありません。私、相談者の考えることが分かって行動が制御できなくなるんです」

「多分、それは駆け魂のせいね」

「いいえ、全部私自身がしたことです。どうやってお詫びしたらいいのか」

 

 初めて聞く「駆け魂」が何か分からない当麻は責任転嫁するような気がして即座にエリの言葉を否定した。胸中は少女たちに平身低頭するばかりだが、別の胸中では会社への不信感が渦巻いていた。

 

「宿坊を経営する鳴沢パートナーズは成婚実績が重視されてノルマに厳しいんですよ」

 

 当麻はローテーブルの天板に映る天井を見つめ、他人事といった感じでこぼした。分かりにくい社内事情にエリが立ったまま頬杖をついた。

 

「カウンセリングも結婚の会社に関係するって事かな」

「はい、相談を受けて結婚に興味ある人には登録を勧めます。登録は結構してもらえるのですが、成婚はまだ一件だけで支配人にカウンセリング内容が悪いと会う度に責められるんです」

「ふーん。カウンセラーは大変ですね」

「ですから、ノルマに焦って心の中でもやもやが大きくなってこんな事を…」

「それでムラムラしてみちほのジャージを脱がしてパンツ……は男子のじゃないな」

 

 エリが人差し指を顎に当てて後ろへ顔を向けた。みちほは閉じた股を両手で押さえて視線を上へ逸らした。当麻は顔を赤らめて下を向き、恥ずかしさに唇を震わせた。

 

「私、女の子が好きなんですっ」

「へぇっ」

 

 彼女が打ち明けた事実に思いも寄らずエリは口を閉じた。これでは当麻から駆け魂を出したとしても、朋己とデートさせることはできない。作戦のハードルはかなり下がったが、エリのやる気は大分とそがれた。カウンセリングルームの三人は黙って互いに牽制する空気を作った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

気が置けない少女との関係

 話は終わって当麻がスライド扉に手を掛けた。休憩所の土産売り場へ戻っていく彼女に、エリは戸口でカウンセリングルームを二時間程貸して欲しいと頼んだ。その原因である彼女が断るはずもなく、一緒に部屋から出ると宿坊の建物脇に行って車いすを取ってきた。みちほが肘掛け越しにランチバッグへ手を伸ばして内ポケットからPFPを取り出して乙女ゲームを始め、エリもM42の端末画面で時刻を確認してソファーの中央に座った。

 朋己のデートがご破算になり、物憂げに腕を抱えて過ごす間に十二時を過ぎ、エリは床のリュックから出した菓子パンとお茶のペットボトルをローテーブルに載せた。スポーツタオルから伸びる白いスラッとした両脚が寒そうに膝をこすり合わせ、足元のブルゾンを放り投げた。

 

「これを足に掛けておけば寒くないわ。どう、漏らした箇所は乾いたかしら」

「アァーーッ、それを口に出すんじゃない」

 

 PFPが両手からタオルの上に落ち、みちほはエリを指差して腕をブンブンと振った。目をつり上げて室内をキョロキョロし、腕を組んでふくれっ面を見せた。

 

「もぉ~、言葉を選んでくれないと。そんなじゃ他人から嫌われるよ」

「そうかな。気を遣ったのに…」

「あ、そうだ、そのパンと弁当を交換してくれたら許してあげる」

「作ってもらった弁当食べないの」

「うん、おにぎりだから手が汚れるしさ」

 

 機嫌を直してみちほがランチバッグをひょいとエリの太腿に載せ、替わりにローテーブルの菓子パン三袋を両腕で囲って自分の前に引き寄せた。パンをかじる彼女は袋を持つ人差し指でPFPのボタンを押した。いつまで経ってもジャージのズボンは丸めて横に置かれ、エリは不思議な顔をして彼女を見つめた。

 

「ちょっとは乾いたでしょ。だから、もうズボン履いてもいいんじゃない」

「まだ湿ってる、それと……に、に、臭いは乾いても付くじゃん」

「どうせ帰ったら洗濯するんだし、科学と自然の酵素パワーで嫌なニオイもひへふは」

 

 エリはタッパーに入った小さいおにぎりを口に運んでもぐもぐした。頬が赤くなったみちほは壁へプイッと顔を背けた。

 

「エリ姉、田舎の物々交換ネットワークを知らないだろ。裕兄たちの学ランも最初のは他人の手に渡ってるし、じいちゃんの作ってる野菜が魚や果物に変わるんだから。このジャージだってどんな奴に着られるか分かったもんじゃないよ」

「へー、そういうこと気にするのね」

 

 タコさんウインナーを指でつまんでエリがソファーの端へ視線を送った。みちほは家ではゴミが散らかった部屋で気にせず寝起きし、外では他人に悪く思われなければ良い程度に考える大雑把な性格だ。しかし、見えないところで男子を意識する一面に少女の繊細さを感じさせた。

 

「みちほも可愛いとこあるんだ」

 

 エリは美雪が作ったおかずをパクパクと口に入れ、俄然みちほを自分の妹分として面倒を見ようと思った。

 食べ終えたエリがタッパーをランチバッグに仕舞い、一緒に入っていたウェットティッシュの袋から一枚取って手を拭いた。ティッシュを丸めて部屋を見回し、ゴミ箱がないのを確認して立ち上がった。みちほのいない方からソファーを回って壁からベンチコートを取り、彼女の後ろに戻って乙女ゲームの画面へ丸める背中に乗せた。

 

「これを膝に載せてくれる、ゴミを捨ててくるから。あと、菓子パンの袋も渡して」

「あ、この袋ね」

 

 みちほは片手を往復させてエリに空のビニール袋を渡し、もう片方の手でPFPのボタンを押し続けた。最後に膝に載るブルゾンを手渡してベンチコートを取って後ろへ振り向いた。すでに扉は閉じられてエリの姿はなく、両足を伸ばしてコートを体の上に広げた。

 ゴミ箱は当麻がいる土産売り場の控室にあったが、エリはブルゾンを着て宿坊へ行った。十五分後、スライド扉を開けた彼女がつかつかとソファーの肘掛け横に来た。

 

「みちほ、今日は一緒に泊まるわよ。駆け魂の攻略は夜にでも考えましょう」

「は、わたしも…てかそんな金どこにあんの」

 

 みちほがあきれ顔を向けた。エリはソファーの方へM42の端末画面を掲げて胸を張った。

 

「それは問題ないわ。十月から勉強してて全然小遣い使ってなかったから」

「けど、母さんが許してくれる訳ないしさ」

「フフフ、よく見なさい。これは新舞島寺のサイトよ」

 

 エリの腕が回転して画面が向けられ、みちほがページ内の文章に目を細くした。行事予定の一番上に今日の日付と『中学生必見!本堂で体を動かして宿坊で受験勉強一泊プラン』の一文。読んだみちほは短絡的な考えにあきれ返った。

 

「エリ姉が魔法でサイトのページに文章を挿入したのか」

「そうよ。このイベントにわたしがハクアさんの招待で来てることにして、みちほは運動して帰る予定だったけど泊まりたくなった、ってメッセージを送ったら美雪さんも許してくれるわ」

「アハハハ、こんな短い文を母さんが信じるとでも。これじゃあ、旅行会社の宣伝だよ」

 

 バカにしたようにみちほがバシバシと肘掛けを叩いた。彼女の態度はデリケートな少女の問題を優先させたエリの親切心を踏みにじるものだった。

 エリは両手をブルゾンのポケットに突っ込み、笑うみちほの顔に横から覆いかぶさった。

 

「その恰好で帰って家族に漏らしたってバレていいのっ」

「うっ……」

 

 ムッとして顔を近づけるエリの言葉に、みちほはぐうの音も出なくなった。エリが固まる彼女の前に腕を伸ばしてリュックを取り、スライド扉へ歩きながらソフトな口調で言いつけた。

 

「3時に宿坊の玄関ホール集合。半分残ってるお茶飲んでいいわ。わたしは一旦家に帰るけど当麻さんには言ってあるから、ちゃんと片付けて来るのよ」

 

 小うるさい叔母がカウンセリングルームを出ていき、みちほはソファーにもたれてため息をついた。桂木家の養女だとしても元々エリとは赤の他人。同じ屋根の下で寝泊まりすることに幾らかは抵抗感があった。

 メッセージを母へ送信したみちほが側に転がるジャージのズボンを指先で引き寄せた。それぞれの穴に足を入れて膝上まで引き上げ、立ってベンチコートに袖を通した。ぱっと見はコートの裾でふくらはぎまでが隠れてズボンを履いた状態に見える。装具を付けた右足を上げて前後に動かし、家族の前で落ちない自然な歩き方に知恵を絞った。

 

 壁際で車いすに座るみちほはランチバッグを両膝に渡して押し潰し、台の代わりにしてPFPの筐体にカチャカチャと音を立てた。母・美雪の覚えがめでたいエリと一緒という事で突然の外泊にもかかわらずOKが出た。時刻は午後四時。玄関ホールの自動ドアが開き、エリが肩から掛けた大きいスポーツバッグを手で押さえて中に入った。

 

「ごめんごめん、色々と用意してたら遅れちゃった」

 

 みちほへ手を上げたエリは楽しそうにチェックイン端末の画面でパネル操作した。どっさり詰めた荷物を腰の後ろに回し、ルームカードを受け取って車いすの元に向かった。

 

「夕食は部屋で6時から、チェックアウトは明日の11時ね」

 

 エリが乙女ゲームに没頭する横顔を覗き、みちほはめんどくさいといった感じで目を動かした。

 

「母さんが『よろしくお願いします』ってさ」

「やっぱりね~、美雪さんは物分かりがいいわ。任せといて、いっぱい持ってきたから」

「は、社交辞令だよ」

 

 みちほが手を止めて顔を向けると、グリップを握ったエリは鼻歌交じりに廊下へ車いすを押していった。シート上でみちほは目をパチパチとさせた。

 エリが部屋の表札を一つ一つ確かめて廊下を進み、ルームカードと同じ番号の前で足を止めた。

 曇りガラスがはめ込まれた格子戸はルームカードに反応して自動で開いた。土間は車いすが入ると奥行きにスペースがなく、みちほは車輪脇にあるブレーキを引いて車いすを固定し、座る位置を前にずらして靴を取った。廊下に足裏を着けて腰を浮かせ、奥へ行ったエリの跡を追って壁に手を付けて歩いた。ふすまを開けた先は十畳の和室に縁側付きの部屋があり、観音開きのクローゼットにブルゾンを掛けてエリが腰を曲げた。

 部屋に入ったみちほの前でトレーナー、フリース、Tシャツ、スカート、レギンスと次から次へ服が脱ぎ捨てられた。室内はカウンセリングルームより暖房が効き、浴衣の帯をギュッと蝶々結びしたエリを見てみちほは頭を掻いた。

 

「なんだエリ姉、もう寝巻き着てんのか」

「ふふん、これが正しいスタイルよ。みちほも変な恰好してないで着替えなさい」

 

 得意げなエリは近寄ってベンチコートのファスナーを下ろし、後ろから彼女の両腕に手を回して剥ぎ取った。ジャージのズボンをずり下ろした格好のみちほは膝へ手を伸ばした。

 

「ちょっと、いきなり脱がさないでよ」

「今からお風呂入りに行くわ。臭いの染み付いたパンツを洗いましょ」

「え、あの、温泉で……」

「大丈夫、時間が早いから誰も入ってこないわ。温泉じゃなくて共同浴場だし」

 

 スポーツタオルを巻いた尻をポンポンと叩き、エリはクローゼットに行ってもう一つ浴衣を取り出した。間髪をいれず入浴にみちほは面食らったが、確かに一理あると思った。

 宿坊の共同浴場は五人まで同時に入れ、入り口の左右が洗い場で反対側に大きい浴槽が備え付けられる。仕切りがない洗い場に裸の少女が並んでバスチェアに座り、湯を張って下着用洗剤を入れた風呂桶に両手を突っ込んだ。エリのカラン周りだけは色々なチューブボトルが置かれた。二人は脱いだブラジャー、ショーツ、靴下を浴場に持ち込み、体を洗う前に押し洗いして何回かすすいでから水分を切った。手洗いの方法をみちほに教えてエリは鼻を高くし、洗い終わった布を彼女の分まで重ねて立ち上がった。

 

「脱衣所で絞って置いてくるから、そのまま待ってるのよ」

 

 起伏の少ない後ろ姿が引き戸の向こうに消え、白いタオルで股を隠したみちほはシャワーの蛇口へ手を伸ばした。シャンプー液を頭に載せて両手でささっと髪を洗い、ボディソープをタオルに付けて腕や脚をゴシゴシとこすり、体の前と後ろを適当に洗ってシャワーで泡を流した。

 エリが意気揚々と戻ってくると、みちほが壁と浴槽の段差に手をついてしゃがんで湯に足を浸けるところだった。すぐに駆け寄って後ろから彼女の背中を支えた。

 

「一人じゃ危ないわ。それに体洗わないで入っちゃダメじゃない」

「頭と体を洗ったから入るんじゃんか。うん、ちょうどいい温度だな」

 

 湯船に浸かったみちほが気持ちよさそうに顔を上げ、エリが有り得ないと素っ裸で見下ろした。

 

「えー、今からが本番だったのに」

 

 少し怒った様子で洗い場に腰を下ろしたエリはバスチェアを横へ90度回転させた。シャワーを流しっ放しにして首を傾け、髪を両手の手のひらで挟んで優しくさすった。

 

「わたしがやるのを見て覚えるのよ、みちほ。最初に髪に水分を浸透させ、次にシャンプーはよく泡立てて……あれ、根元からだったかな。まあ、いいか。最後にトリートメントコンディショナーで――」

「オッケー、見てるだけでいいんでしょ」

 

 問題が片付いたみちほは湯の中であぐらをかき、エリが偉そうに聞きかじった髪や体の洗い方を披露する様を眺めた。そして、つくづく自分にとって面倒な人だと思った。それでも毎回喜んで車いすを押してくれるし、いつも障害のある右足を気にかけてくれる。みちほは組んだ両手を裏返して伸びをした。たまに会うくらいなら彼女と付き合っても構わないと思えた。

 エリが体を洗い終えて浴槽の前へ来て背中を向けて屈んだ。みちほは軽く笑みを見せ、湯船から出て彼女の左肩を借りる形で左足で立った。浴場の入り口まで裸で二人三脚。入り口横の手すりへみちほが手を伸ばした。

 

「それじゃ、座ってちょうだい」

「えっ?」

 

 入り口の側のバスチェアにみちほは座らされた。ピチャッと液体がつけられた背中に手のひらが小さい円をくるくると描いた。後ろを向いた驚く顔に、エリが白いボトル容器を突き出した。

 

「はい、前は自分で塗りなさい。このボディミルクは乳液代わりに顔にも塗れるからね」

「も、もういいって。今のままで十分だよ」

「ううん、今よりずっと素敵な女の子にしてみせる。今夜は寝かさないわ」

 

 エリが大真面目で言い切り、ボトルを逆さまにして無理やり手のひらに垂らした。みちほは考えが甘かったと溜まったネットリする液体に口をすぼめた。

 共同浴場から戻った部屋で夕食までの間、みちほは畳に足を伸ばしてリラックスできた。彼女の頭皮を熱心にマッサージする指。眉を整える重要性を説く子守唄を耳にし、目をつぶってうとうとした。

 夕食後は宿坊の従業員が精進料理の膳を下げ、テーブルを脇に寄せて布団を二つ並べて部屋を出ていった。エリはスポーツバッグに腕を肘まで突っ込んで底からジェル入りの小さいボトルを出した。みちほに渡して「腕や脚に塗って」と言い、手で握るタイプのキャップ付き機器をテーブルに置き、何かを念じてM42を向けて振った。

 みちほは体育座りして浴衣の裾をはだけ、手に付けたジェルをすねから足首にかけて塗るふりをした。目を光らせたエリは背後から這って近づいた。無垢な白い足に腕を伸ばすと、みちほの手に掴まれてキャップを外した電気シェーバーがぽとりと落ちた。

 

「ムダ毛処理か。する程生えてないけど、冬でもするもんなの」

「甘い甘い、年が明けたらすぐ夏がやってくるわ。手を上げた時に男子がワキを見てがっかりしないようにしとかなくっちゃ。さっき魔法をかけたから毛根まで剃れてバッチリよ」

「ふーん。それじゃあ、エリ姉が試してくれる」

 

 シェーバーを拾った彼女がニヤリとしてボトルを差し出した。エリは愛想笑いを浮かべて廊下の方へ振り返ったが、簡単に捕まって上背があるみちほに羽交い絞めにされた。

 

「分かったわ。わたしが先にやるから後でちゃんとやるのよ」

 

 シーンとなった部屋にエリが帯をほどいて浴衣を脱ぎ、下着姿で正座して右腕を上げてジェルを塗った。みちほは羽毛の掛け布団にあぐらをかいて神妙な顔を向けた。目前で電気シェーバーが一回撫でたワキは魔法によってツルツルの肌に生まれ変わり、おもむろにみちほが浴衣の袖から左腕を抜いてボトルを手に取った。ジェルが塗られた場所へエリが中腰でシェーバーを差し伸べると、彼女は無言で頷いて薄い毛の密集に刃の部分を押し当てた。

 エリはすぐ掛け布団に両膝を着いて腕を上げ、剃った直後のみちほのワキと隣りに並べた。

 

「そっちも結構剃れたわね、へこんでるのに」

 

 大きく首を倒した顔に垂れた横髪が揺れ、鼻息がかかってみちほの体はブルっと震えた。エリが豆鉄砲を食った鳩のように視線を上げた。目を合わせた二人はたまらず腹を抱えて笑い出した。同時に腕を下ろした息はピッタリと合い、静かな宿坊の一室に少女たちの笑い声が響いた。それから小一時間、代わり番こに反対側のワキ、腕、すねへと順番に電気シェーバーを向け合った。

 布団カバーに開く穴に倒れ込んだエリの下着が白とピンクのボーダー柄を晒した。普段は何とも思わないみちほが心の中で見咎めて壁へ向き、横座りではだけた浴衣の前を合わせた。彼女の方は彩香が施設から桂木家に来る少女のために準備したサイズを間違えた三着セットの一つだった。脱衣所でエリが下着の替えとして渡したのを素直にもらって身に着けた。ノーワイヤーのブラは胸にフィットし、ショーツはお尻がきつめだがウエストは緩かった。肩を動かしたみちほがブラの伸び具合に違和感を覚えて胸の谷間に指を差し入れた。

 

「ねえ、ここのゴムが緩い感じがするんだけど」

「うーん、サイズ合わなかったかな。ウエストはわたしと1センチしか違わないのに、ヒップは彩香さんと同じで大きいのよね」

「すみませんねぇ、ケツがでかくて……じゃなくて、ブラが伸びるって言うかさ」

「あー、それはナイトブラだから着けて寝てもいいよ。朝起きたら昼用のを渡すから…」

「なるほど、こんな便利なブラがあったのか。サンキュー、エリ姉」

 

 膝で立ってみちほが笑顔を向けた。布団と畳との境にエリが浴衣にくるまってうたた寝をしていた。風邪をひくと思ったのか、みちほは掛け布団を引っ張り取ってエリの体に掛けた。

 時刻はまだ九時前。PFPを手にしたみちほはふすまの脇で部屋の明かりを消して戻り、エリが寝息を立てる隣の布団にうつ伏せで寝転がった。攻略させられる駆け魂の恐怖で不快な目に遭った一日だが、乙女ゲームをしながらゴロゴロするのが日課の彼女にとって伸縮性のある締め付けないナイトブラは申し分ない贈り物になった。みちほが乙女ゲームの音量を最小にし、一人で楽しげな表情を浮かべた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗中模索のち

 目が覚めたエリは汗ばんだブラに手を入れた。寝ぼけ眼で薄暗い部屋に気づくと、一瞬、天井に青白い光が走った。慌てて左右へ頭を倒し、PFPの画面に目を落とすみちほの顔に胸をなで下ろした。

 

「あぁ~、良かった。みちほと宿坊に泊まったんだった」

「何、変な夢でも見てたの。ブツブツ言ってたよ」

「うん。それがさ、彩香さんが怒ってるんだけどお兄ちゃんが隣で笑ってるの。理由聞いても教えてくれなくて帰っていっちゃうんだから」

「ふーん、心当たりがあるんでしょ。勝手に家のボディミルクを持って来たとか」

「ギクッ」

 

 エリがそうっと掛け布団をめくり、下着から出た自分の肌をさすった。図星だったかとみちほはジトっとした目で眺めた。

 

「あと十分くらいはあるし、汗かいたんなら風呂に入ってくれば」

「ううん、別にいいわ。だけど寝る時は暖房を切らないとね」

 

 足元に挟まった浴衣を引っ張り、エリが肩に掛けて立ち上がった。畳に落ちた帯を拾うと布団の上に寝転がるみちほを跨いでテーブルの前に腰を下ろした。喉が渇いたエリは湯呑みをひっくり返し、ティーバッグを入れてポットの湯を注いだ。ゴクンと一気に飲み干して何かを思いついたように振り返った。

 

「当麻さん、ノルマでもやもやすると言ってたわ。これって駆け魂の攻略に使えないかな」

「ノルマねぇ。心のスキマを埋めるじゃなくて重しを取ることに……」

「どっちでも同じだわ。だから、彼女のノルマを水増しする方向で考えましょうよ」

 

 四つん這いでエリはPFPの画面がピカピカと光る枕元に向かい、乙女ゲームに興じるみちほが寝ながら片肘をついて冷ややかな視線を向けた。

 

「まさかとは思うけど、舞島市のサイトでカウンセリングを受けた人達の偽造婚姻届を出そうなんて事しないよね」

「へー、そういう事できるの」

 

 まるで考えてなかったかのように少女が聞き返した。エリは浴衣の前を大きくはだけて小さい胸をかすかに揺らし、答えを待ち構えて大きな瞳で見つめた。みちほは興味なさそうにPFPを持つ手元へ顔を戻した。

 

「まあ、本人確認のデジタル認証がアレだけど魔法使えば受け付けられるんじゃない」

「うんうん。で、結婚した証拠はどうやって手に入れるの」

「証拠というか証明だね。役所からの電子文書はユニークID付きのデジタル証明書が発行されるし、多分届け出にアドレス欄があってメールで送ってくるんだよ」

「そんな簡単に結婚したことになるのか」

 

 エリは帯を締め直してみちほの体をぴょんと飛び越えた。自分の掛け布団をめくって中へ両足を挿し入れ、手を伸ばして彼女の背中から肩をガシッと掴んだ。

 

「朝食は8時だから早く寝なさい。明日は攻略に忙しいわよっ」

「ん、何?」

 

 自信ありげな言いつけはエンディングに涙するみちほの耳に入らなかった。後ろを向いて彼女は大人しく眠るエリに吐息をつき、次の攻略相手のためにPFPのスタートボタンを押した。

 

 日付が変わって日曜日の十時ごろ、太陽が射す住宅街の坂に朋己がいた。朝、寮で同部屋の人に女性物のハンドバッグを見られた彼は自ら茶化して門を出た。リュックに忍ばせたバッグを彩香に渡すアイデアを考えて歩き回り、寒かった体がずいぶんと温まって実習用ジャンパーの胸元を少し広げた。

 朋己はこのまま坂を上がると考えなしに桂木家に着いてしまうと思い、横の路地へ曲がった。すると、黒いパーカーを着た彩香が目に入った。マズイと思って立ち止まったが、すぐに相手に気づかれた。

 

「おーい、朋己くん散歩してるの」

「あ、いや、その……え、駅に行くところです。午後から用があって」

「そう、忙しいの。にしても寒そうな恰好ね」

 

 彩香は振った手を再びポケットに突っ込んで朋己の元に近寄った。この日は最低気温が0度近くまで下がり、ニットを中に着込んで黄色いマフラーを首に巻いてウォーキングした。彼女にとって直接会うのは三ヶ月ぶりだった。彼が元気そうで安心した反面、養子の件に触れられず何を話していいのか迷って口を閉じた。

 目を合わせない朋己が下を向く態度を見せ、彩香は彼も居心地が悪いのだと感じた。あいにく、エリがみちほと宿坊に泊まって家に不在。けれど彼女と行く予定のチケットが余っていた。

 

「まだ時間あるよね、今から映画に行かない?」

「はい、時間はありますが…」

「じゃあ、イナズマの隣にあるシネコンへ行って観た後でお昼にしましょう。ちょうどエリの選抜試験が終わってから行こうと予約してたの」

「僕でいいんですか」

「もちろんよ。マイジマ工業ならバイクで送ってくわ」

 

 胸に刺繍された社名を見て彩香が肩をポンと叩き、路地を出て住宅街の坂を上った。朋己は都合よくバッグをプレゼントできるかも知れないと彼女についていった。

 桂木家からは法定速度を守ってタンデム走行で五分。新舞島駅の通り沿いのイナズマートと屋外駐車場を共用する舞島シネマズに到着し、白に青のラインが入った250ccバイクが建物前の二輪駐車場に停められた。彩香は朋己と並んで歩いてエリの近況について話し、入り口の自動ドアが開くと革ジャンのファスナーを下ろした。

 

「結果は明日発表だけど、選抜の方はちょっと難しいかなって。まあでも、エリの学力なら一般入試で合格すると思うから心配してないわ」

「すいません。何から何まで任せっきりにしちゃって」

「あら、エリはもう私のいも……い、今頃どうしてるのかなー、ハハハ。でね、この映画は前から彼女が楽しみにしてたのよ」

 

 つい養子話の方向へ口を滑らせそうになり、慌てて彩香は入ってすぐに並ぶ上演作品のデジタルサイネージ前に朋己を案内した。これから観る映画のタイトルは『メイド長は見た。三兄弟の泥沼不倫遺産相続バトル』。思わず二人はスクリーン番号をスマホの予約チケットと見比べた。

 

「すいません。昔からテレビを見てばかりで、特にドロドロしたドラマが好きなんです」

 

 申し訳なさそうに朋己が額を押さえ、彩香は彼の背中に手をまわして「とりあえず、観てみようか」と一緒に奥へ向かった。

 大河ドラマの主役に抜擢された大根女優と大して演技もうまくない元アイドルがスクリーンでつまらないドタバタ劇を繰り返した。観客がほとんどいない座席の暗がりに彩香が大あくびをして目をこすった。一方、隣の席は映画どころではなく、朋己がリュックを抱えて後のことを考えあぐねていた。おそらく昼食は二人きりになってプレゼントを手渡す絶好のチャンスだが、クリスマスを名目にするにはまだ早い気もする……などと考えて上映時間はもんもんとして過ぎていった。

 入り口側の角にフードコーナーがあり、ファーストフードは完全無人で提供された。彩香は四角いパンズのハンバーガーと脂っこい太めのポテトの入った紙製容器を二つプレートに載せて朋己が待つテーブルへ運んだ。窓は全面ガラス張りで日当たりが良く、革ジャンを脱いで彼女が横の椅子に掛けて彼の正面に座り、プレートを押し出して先に買った飲み物を引き寄せた。

 

「さ、遠慮なく食べてちょうだい」

「はぁ…」

 

 朋己は映画をイメージしたカップのストローを口に含んだ。この場でプレゼントを渡すと決心した彼は食事で手が汚れる前に渡そうとタイミングを見計らっていた。週末でカップルや家族連れで賑わう昼時のフードコーナー。周りの人達を服を着たマネキンと思うことにして雑音に耳を塞ぎ、テーブルの脚に立て掛けたリュックに手を伸ばした。

 膝に載せたリュックを開けて朋己が中を覗き、彩香はハンバーガーを一口かじって彼へ目を向けた。

 

「ほーひや、フリスマスは忙しいんだってね。エリに聞いたわ」

「えっ、僕ですか」

 

 驚いた朋己は顔を上げて知らないという表情をした。彩香は首をかしげて聞いた時の様子を思い浮かべた。

 

「気合入った感じで言ってたんだけど。あれ、何か勘違いしてたのかな」

「そうですね、エリは思い込みが激しい時があるので」

「それじゃ、土曜の夜に朋己くんも来れるかしら。みんなで食事してケーキ食べたり、プレゼント交換したりするのよ」

「プレゼントを……はい、行かせて頂きます」

 

 すっきりした気持ちで朋己は返事をし、蓋を閉じたリュックを側の床に置いた。ハンドバッグの出番は当日に決まった。彩香と妹が暮らす桂木家のクリスマスは静かでいい雰囲気になりそうな予感がした。彼は三人でのパーティを想定し、エリのプレゼントを用意する必要があると考えながらポテトをつまんだ。

 笑顔になった朋己に、彩香は誘って良かったと思った。何だかんだ言っても高校生だし、妹だけが養子にもらわれて何も知らされず一人で寂しいのだと感じた。

 

「エリも慣れてきて最近は色々と言うのよ。こないだは私がウォーキングから帰ったら……あ、その、健康のために始めたんだけどね」

「そう言えば、彩香さんは顔が以前より痩せてるような気がします」

「でしょでしょ。でも、エリは全然気づかなくて逆に痩せる訳ないとか言うんだから」

 

 彩香は家でエリが気兼ねなく過ごす話をしたつもりだった。だが、愚痴っぽく言ったのが悪かったのか、聞いた朋己は真顔に変わった。

 

「信じられない、なんて失礼な事を。よく言って聞かせます」

「ははは、そんな大した事じゃないけど」

 

 苦笑して手を振る彩香の前で朋己が上着のポケットからスマホを出した。彼はせかせかと電話をかけた。相手の名前を出さずに終始冷静な口調で叱りつけるような声が聞こえた。

 

「分かってるのか。そういうのを世間ではハラスメントと言うんだ。パワハラやセクハラは法律で明確に犯罪と規定されているし、制定された年は社会の教科書にも載っているしな。これからは気をつけろよ、もう切るぞ」

 

 朋己は有無を言わせずに通話を切り、スマホを仕舞って頭を掻いた。その妥協のない態度は普段大人しい彼だからこそ通じるものであった。エリに怒ってばかりの彩香には大いに参考になり、さすがに兄としての年季が違うと思わせた。

 シネコンを出て彩香は朋己を後ろに乗せてバイクで十五分ほど走った。マイジマ工業は舞島市南西の国道沿いに工場が広がり、同じ敷地内に本社ビルが建っていた。社名が彫られた石碑を囲む芝生の前でスタンドを立て、リアボックスに彼から受け取ったヘルメットを入れて黄色いマフラーを取り出した。

 

「寒いから風邪ひかないでね、お兄ちゃん」

 

 彩香がマフラーの両端を持って朋己の首にふわっと掛けた。彼女の言葉は彼を家族同然に思っている証だったが、少年は毛糸地に残る女性の匂いに興奮して上の空だった。

 早速、朋己はマフラーを首にぐるぐる巻きにし、桂木家へ帰っていく彩香を見送った。昼食帰りの工員にジロジロと見られても夢見心地で小さく手のひらを揺らした。カーブの先にバイクが見えなくなると、ようやく腕を下げた彼は大きな瞳を輝かせて歩道にバス停を探し始めた。彼の頭では彼女が喜んでハンドバッグを受け取る姿がはっきりと描かれ、リュックの紐を握ってためらいなく寮へ帰った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

計算された時間

 宿坊は日曜日の十時過ぎ、すでにエリたちが泊まった部屋の掃き出し窓はカーテンが空く。掛け布団が足元に寄せられ、浴衣のみちほが敷き布団の上に大の字で股を広げた。隣の布団はもぬけの殻。室内は窓から日が射して縁側を明るく照らし、暖房も効いて温かさを感じさせた。

 廊下からドタドタと足音が響き、昨日と同じトレーナーとスカートを着たエリが部屋のふすまを開けた。まだ起きていないみちほに目を見張り、乱暴にブルゾンをスポーツバッグの上へ放り投げた。布団を回ってエリは枕元にたたまれた着替えを拾い上げて指で靴下の伸びた片方をつまんでぷらぷらとさせ、意地悪そうな顔をして右足の脇にちょこんと正座した。下を向いて尖足のつま先をさすり、足先に半分裏返した靴下を入れた。

 少し目を開けたみちほは布が皮膚をこする感覚に腹を掻いて目を閉じたが、足裏をくすぐられて飛び起きた。

 

「ひゃっ、な、何やってんだよ」

「これで目が覚めたわね、早く服を着てご飯食べなさい。縁側で乾かした下着はそこの手提げ袋の中だから。そうそう、脱いだナイトブラはビニール袋に入れて持ち帰るのよ」

「ああ、もうチェックアウトの時間か」

 

 みちほは帯をほどきながらテーブルに置かれた朝食の膳に目をやった。エリが湯呑みにポットの湯を注ぐ手を止め、血相を変えて大きく手を振った。

 

「違うわよっ、昨日聞いてなかったの。当麻さんの駆け魂を攻略するって」

「だから暖房は切って寝たじゃん…」

 

 みちほがのろのろとブラの後ろに両手をまわして背中へ顔を向けてつぶやいた。すぐさま彼女の背中にエリが回り、ホックを留めてTシャツを頭にかぶせてジャージを肩に引っ掛けた。

 

「今、宿坊の事務所に行ってきたのよ。あなたの体調が悪いからチェックアウトを2時間延ばしてもらうように。だから、あと3時間あるわ。当麻さんにノートパソコンを借りたし、ノルマ達成のためにどんどん舞島市のサイトで婚姻届を偽造しましょう!!」

 

 テーブルに戻ったエリはノートPCの画面を開いて気勢を上げた。みちほはTシャツを下へ引っ張って頭を出し、薄い筐体の13型ディスプレイを細い目で苦々しく眺めた。彼女たちは文書偽造に抵抗感のない点では共通していた。それでも、単調な入力作業をさせられる方はたまったものではなかった。

 みちほは時間稼ぎしようと考え、布団の上でのんびりとジャージに着替えた。そうして、朝食のおかずを少しずつ口に運んで「うわ、おいしい」、「これは初めての味」、「どうやって作るんだろう」といったコメントを言ってはたびたび箸を止めた。テーブルに両肘をついて訝しむエリの視線を物ともせず、食後に彼女は廊下の洗面所で長々と歯を磨いて身だしなみを整え、いつも以上に入念にエリに借りたヘアブラシで髪をとかした。

 気長に構える彼女の鼻歌が聞こえ、エリは立ち上がってふすまをバンッと開けた。洗面所の横に現れて怖い顔で手を上げた。みちほが首をすくめて目をつぶると、前髪を二つに分けて耳の手前で自分のヘアピンを留めた。

 

「これで髪型はいいでしょ。さあ、早く攻略を手伝ってよ」

 

 エリは髪をくしゃくしゃとばらして部屋へと入り、みちほは別の手を考えるかと鏡に映る前髪の分け目に沿って人差し指を這わせた。

 何もしないまま一時間が過ぎた。エリが横で足を崩して画面を覗き込み、ノートPCの前にあぐらをかいたみちほがタッチパネルを指先でつんつんと突いた。ブラウザに舞島市のサイトが表示されたものの、彼女は畳に片手をついてズボンの中に手を入れた。

 

「エリ姉、このレギンスぶかぶかで気持ち悪くて」

「だって彩香さんのLサイズだから……って今は関係ないでしょ。さ、上部のリンクから届け出のページに行けるわ」

「あははは。それがさ、画面が小さくてわたしの指だと押しにくいんだけど」

「今度は何なの。じゃあ、ちょっと手を出してよ」

 

 エリは見るからにやる気のないみちほにあきれて手のひらを向けた。だが、実際に手を合わせてみると彼女の指は自分より1センチも長く、ポインティングデバイスがタッチパネルのみで不便に思えた。仕方なくブルゾンを手にして立ち上がった。みちほが気持ちよさそうに両腕を上げて後ろの布団に体を倒し、エリが当麻と休憩所で使い古しのマウスを探して借りてくるまで三十分かかった。

 作業できる態勢が整ってみちほはノートPCの画面に向いた。当麻がカウンセリングした人達のデータは全てディスク内に残り、その個人情報を使って婚姻届フォームに入力した。不意に、頬を緩めた彼女がエリの手にするM42を指差した。

 

「婚姻証明を受け取る二人分のメールアドレスが必要なんだ。そっちの端末でフリーのアカウントとってくれる」

「え、フリーって一体どこのを…」

「ああ、わたしが知ってるサイトを教えるよ」

 

 みちほが言った短縮URLを手打ちして端末画面に表示し、エリは右端で揃う蛇のような文字のページに目を丸くした。アラビア語と聞かされて半信半疑でアカウントを登録し終えた頃には残り一時間を切り、テーブルに顔を伏せてため息をついた。みちほが「トイレに行く」と言って部屋を出ていき、廊下から軽快な乙女ゲームのBGMが耳に入ると不満は爆発寸前だった。

 M42を握る手に振動が伝わってエリは顔を上げた。電話アプリが朋己の名前を通知し、端末を頬に寄せて当麻が女性を好きな事を説明しようとして言葉に詰まった。

 

「もしもし、お兄ちゃん。あの人のことなんだけどね。それが、その……」

「誰のことを言ってるんだ。彩香さんの件でかけたんだが」

「へぇっ、彩香さん?」

「そうだよ、彼女に痩せる訳がないと言っただろ。言う前に相手の気持ちを考えないとダメじゃないか」

「何だ、そんな事だったの。てっきり彼女のことを聞かれるのかと」

 

 エリがスマホの向こうで無責任な態度をとり、朋己は冷静な口調で叱るように言い聞かせた。

 

「分かってるのか。そういうのを世間ではハラスメントと言うんだ。パワハラやセクハラは法律で明確に犯罪と規定されているし、制定された年は社会の教科書にも載っているしな。これからは気をつけろよ、もう切るぞ」

 

 朋己が有無を言わせずに通話を切り、エリは顎に手を当てて押し黙った。わざわざ電話をかけてきた理由は分からなかったが、兄の話を聞いて何となく攻略のヒントをもらった気がした。当麻が水増しされたノルマを喜んでくれるだろうかと考えた――そうよ、他人に強制されたり、押しつけられたりすると気分が悪いわ。

 ふすまに聞き耳を立てていたみちほは静かに戸を引いた。端末を持って動かない様子に、朋己を怒ると怖い母・美雪のような人物と想像を膨らませた。彼女を見上げたエリはノートPCを閉じて「もう帰ろうか」と笑った。

 

 クリスマス当日の土曜日。午後を回って桂木家は彩香が買い物に出かけ、エリが家庭電話の受話器を取って月曜日に登録した通話先・鳴沢パートナーズを押した。リビングの隅で壁へ向き、自動応答のハラスメント通報システムに年寄りの喋り方を真似て訴えかけた。

 

「それが休憩所の方から大きな声で罵詈雑言が聞こえてきてねぇ。直後に支配人のバッジを付けた人が出てきたんだよ。心配で入り口から覗いたら巫女姿の女性が泣いてるじゃないか。わたしゃ、もうかわいそうになってさ」

 

 戸が引かれる音がして振り返った。反対の手に握るM42に、声色を変えるために使った魔力の泡沫が漂っていた。

 みちほは怪しい笑みを浮かべるエリを見なかったかのごとくダイニングへ歩き、ダウンジャケットを脱いで自分が座るリビング側の席に掛けた。今日はパーティにだけ参加して帰ろうと思い、家で着る猫柄のトレーナーにジーンズという食べ物をこぼしてもいい服装で来た。

 ダイニングテーブルには平たいラジコンカーのような機器上に受け皿が付いた物が四つ置かれ、そのうちの一つにフラワーリボン付きの白い紙袋が載った。それらは音楽をかけると一定の速度で卓上に円を描いて回ってランダムで止まるプレゼント交換に定番のグッズであり、みちほも町内の子供会行事で見たことがあった。前の受け皿に持ってきたプレゼントを置き、左斜め前に寝かされた紙袋の中身が気になって後ろを向いた。

 

「エリ姉、この前宿坊の支払いした時にスッカラカンになってたのにさ。よくプレゼントなんか買えたね」

「ああ、納戸にあったブラとショーツをお土産の袋に入れてみたの」

「は、京兄も来るんだろ。それが当たったらどうすんだよ」

「ふっふっふ、それはどうかな」

 

 エリは顔の前で人差し指を横に振り、不思議がるみちほの脇を通り過ぎてテーブルの奥へ向かった。対面キッチンを背にしてカウンター端にあるスピーカー付き音楽プレーヤーの前に両方の手のひらを並べて出した。

 

「プレゼント交換は音楽が命。今から実演してみせましょう」

「実演?」

「それじゃあ、ミュージックスタート!」

 

 音楽プレーヤーの再生ボタンが押されると、ジングルベルが流れて受け皿を載せた機器が同時に速いテンポに合わせて青く点滅して右回りにテーブル上を回転し始めた。エリは両手を指揮棒のように振ってリズムをとった。二つのプレゼントが数周回ってから音楽の途中でパッと止まって一瞬赤く光り、彼女が用意した下着セットはみちほの前でピタリと止まった。

 エリは音楽を止めて自慢げに手を広げてテーブルを回り、みちほの横に立って肩に手をまわしてかかとを浮かせた。

 

「どう、みちほが欲しがってたナイトブラは二つとも入れておいたわ」

「別に欲しいとは言ってないけどさ。そうだ、これ返すよ」

 

 みちほがジーンズのポケットから小指くらいの大きさの薄い物を取り出した。宿坊で付けたまま帰った三角形のヘアピン。彼女の前に回ったエリは手のひらを両手で握って受け取り、曖昧な分け目が付いた前髪を分けて耳の手前に留めた。

 

「うん、こっちの方が可愛い。気に入ったんでしょ」

「それじゃ、エリ姉が使えないじゃん…」

「いいのいいの。わたし、高校に入ったら背中まで伸ばす予定だから」

「そ、そう。要らないなら、もらっとくよ」

 

 気恥ずかしそうにみちほは頬を掻き、受け皿から垂れる赤いリボンへ目を向けた。容姿を褒められて悪い気はしなかった。駆け魂の攻略を手伝わされる面倒な相手と思っていたエリは女らしさを引き出してくれる年上の人だった。

 各席前に配置された機器はテーブル上を同じ距離移動し、みちほが祖父に頼んだビニール包装のぬいぐるみは右斜め前に移った。エリはプレゼントを元あった席前の受け皿に戻し、止まるまでの時間を念じてテーブルへM42を向けた。パーティの準備は完了してリビングに行き、ソファーの後ろから体をくの字に曲げて座面のブルゾンへ手を伸ばした。

 宿坊に泊まった時と同じスカートから黒いレギンスが覗き、みちほも椅子の背からダウンを取って歩いていった。

 

「新舞島寺に行くんだよね、エリ姉」

「え、みちほ……無理してついてこなくてもいいけど」

 

 上半身を起こしたエリは彼女をきょとんとして眺めた。みちほが視線を下げてボソッと言った。

 

「プレゼントのお返しくらいは手伝うよ」

「えっ」

 

 意外な申し出にエリは驚いてブルゾンを床に落とした。兄に怒られて嫌がるみちほを連れていくことを断念したけれど、凶悪な駆け魂に立ち向かう場面にバディがいるのは心強かった。一転して生き生きした表情に変わった。

 エリがブルゾンを拾おうと床にしゃがみ、近寄ったみちほが膝に手をついて腰を曲げた。

 

「で、ノルマはどうしたの。京兄が代わりにやったとか」

「ううん、当麻さんを責めてる支配人を宿坊から追い出す作戦に変更よ。今週は毎日本社に通報の電話をして、境内で京太と駆け魂が出てくるのを見張ってたの」

「ノルマを課してた方がいなくなれば心のスキマが埋まるって寸法か」

「ええ、社内からパワハラで犯罪者が出たら一大事だし、絶対処分されるわ」

「ま、昨今はハラスメントに厳しいからな」

「それじゃ、今日も駆け魂を見張りに寺へ行くわよ」

 

 ブルゾンに袖を通してエリがリビングの戸へ向くと、慌ててみちほが彼女の肩を掴んだ。

 

「あ、待ってよ。今日はじいちゃんがいないからバスでしか行けないんだ」

「だったら、次のバスは新舞島寺で降りましょう」

「次のバスって…駅裏へ行くバスは山の手まで停まらないけど」

「フフッ、わたしにはこれがあるわ」

 

 後ろを向くエリの笑みと顔横に掲げたM42は魔法でバスの運行経路を強制的に変えてタクシー代わりにすると物語っていた。その無秩序な悪魔の行動は冥界法治省によって人間の記憶から消されるのだが、知らないみちほは大胆不敵さにあきれて口を閉じた。

 エリは勾留ビンをシートに座るみちほに預け、後ろから車いすを押して玄関ポーチからスロープを下った。かくして駆け魂回収へ結束した二人は桂木家を出て最寄りのバス停に向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

困った贈り物

 市内循環バスが駐車場のアスファルトに停まって中扉が開き、電動スロープが出てエリは車いすを押してみちほと降りた。運転手は何が起こったかを理解できずにいたが、しばらくして制帽をかぶり直してエンジンスタートさせた。エリがかけた魔法により、新舞島駅の通りを駅表へ向かうバスはいきなり自動運転に切り替わって右折して踏切を越え、山を上って脇道に入って新舞島寺にたどり着いた。

 走り去ったバスの陰からスーツ姿の薄い黒鞄を手に提げる中年女性が歩いてきた。エリとみちほはしれっとした顔で擦れ違った。その人物は肩を落として二人の横を通り過ぎ、奥に停められた国産セダンに乗ってバスと同じ脇道へと消えた。

 寺では男性従業員が竹箒で宿坊の入り口前を掃いた。急いでエリは彼の前へ車いすを押し、少し首を傾けてニコリと笑った。

 

「すいません、宿坊の支配人さんいらっしゃいますか」

「あ、ちょうど出ていったところでして」

「いつ頃戻ってこられますかねぇ」

「ははは、それが正直分からないんです。申し訳ありません」

 

 苦笑いをした彼はそそくさと入り口脇へ入っていった。エリは車いすを反転させて石畳を押してアスファルトまで戻った。シート上で後ろへ体をひねったみちほが手のひらを出し、パーンと勢いよく二人でタッチした。

 

「やったね、エリ姉。さっきのは支配人で本社に呼ばれたんだよ」

「ええ、これで心のスキマが埋まって当麻さんの駆け魂が出てくるわ。勾留ビンをこっちに貸してちょうだい。それから、M42で駆け魂センサーの方向を確認しなさい」

 

 てきぱきと指示を出すエリに従い、みちほが前を向いて勾留ビンの底を掴んで後ろへ向けつつ、反対の手でダウンのポケットからM42を取り出して太腿の間に載せた。

 端末画面に浮んだ駆け魂センサーの鎌は入り口を指したが、宿坊内はガラスから二階への階段が見えるだけだった。次第に、3Dホログラムの人物が着る黒いマントが紫色に変わり、みちほは車いすの後ろへ振り向いた。教えようとしたエリは姿をくらまし、背中に向かって冷たい突風が吹きつけた。

 

「へ、へっくしょん……もぉ~、エリ姉は一体どこ行ったんだ」

 

 みちほは背中を丸めてファスナーが壊れたダウンジャケットの前を引っ張って合わせた。視線を上げると、石畳を歩く巫女姿の当麻がゆっくりと近づいた。彼女の頭のてっぺんからは白い霊魂の顔がにゅっと飛び出た。驚いたみちほは両腕を回して体を反らせた。

 

「うぇっ」

「あら、みちほさんなの。外にいると風邪をひくわよ」

 

 イヌツゲの枝脇にみちほの上体がさっと隠れた様子を目にし、当麻が暗い顔をして下を向いた。

 

「ごめんなさい。無理ないわね、あんなひどい事をしたのだから」

 

 悲しげな声を聞いてみちほの脳裏に『BAD END』の文字が浮かんだ。せっかく心のスキマから出かかった駆け魂がまた入り込んでしまう可能性があった。みちほは意を決して車いすのハンドリムを回し、当麻の前に行って声を振り絞った。

 

「あのっ、お仕事頑張って下さい。たぶ…きっと素敵な女性に出会えますから」

 

 な、なんてありきたりなセリフなのだ――と、みちほは自分の口から出た言葉に驚愕した。だが中学生らしい物言いに、微笑んだ当麻が車いすの傍らに来た。しゃがみ込んで赤い袴の膝を抱えて少女の顔を見上げた。

 

「みちほちゃん、将来就きたい職業とかあるかしら」

「ま、まだ考えてませんけど」

「私もそうだったわ。心理師の資格を取ろうと思ったのは学部の三回生の時だった。大学院に行けば2年で取れる。でも、現場で経験を積みたかったから鳴沢パートナーズに入社したの」

「はぁ、そうなんですか」

「会社説明では鳴沢市内のお店で相談助手として働けるって言われたけど、なぜか舞島市の宿坊に配属されてカウンセリングをすることになってね。支配人が作ったノルマに耐えられなくて仕事を辞めようと思ってた……だけど、もうしばらく頑張ってみようかな」

 

 何かが吹っ切れたように彼女は笑った。安堵の吐息を漏らしたみちほ。アームレストから当麻が身を乗り出し、頬に軽く口づけして「ありがとう」と微笑みかけた。

 その時、当麻の頭上に鮮烈なスパークが四方八方へ走り、霊魂が凶悪な唸り声を上げて駐車場の方へ飛び出した。体長三メートルを超えるブヨブヨした駆け魂は糸の切れた凧のように中空を旋回し、軌跡が青白い渦を巻いて地上のアスファルトを明るく照らす。この光景が見えているのは悪魔とバディを務める人間だけで、みちほは車いすの後ろに首を倒して呆然と眺めた。

 やがて、駆け魂は宿主からエネルギーを受けられなくなって弱々しい表情になり、フラフラして動きが鈍くなった。宿坊を囲む植物の間から様子をうかがうエリが枝をガサガサと揺らした。勾留ビンの蓋を開けると円柱形容器は膨張して直径が丸のみできる程に大きくなり、両腕で抱えて芝生が短く刈られた土手を駆け魂へ向かって飛び跳ねた。強力な吸引力を発生させる勾留ビンは弱った駆け魂に抵抗する間を与えず後ろ向きで内部に吸い込んだ。

 

「駆け魂、勾留!!」

 

 アスファルトに着地したエリはつんのめった体を起こして勾留ビンの蓋をポンッとはめた。振り返ってドヤ顔で親指を立てた。当麻が宿坊に戻って石畳にみちほは一人たたずみ、ダウンの袖で頬を拭ってエリへ恨めしい目を向けた。

 

 曇り空に太陽が沈みかけた頃、桂木家の一階はカーテンを閉じてダイニングとキッチンに電灯が点った。ダイニングではテーブルの中央に小さいクリスマスツリーが飾られ、少し早く来た京太が窓側の席で端末画面に目を落としてUFO動画のチェックに勤しんだ。キッチンでトレーナーの袖をまくった彩香はチキンやソーセージの詰め合わせの箱とコーン入りポテトサラダのカップを出して作業台に両手をついた。年長者として子供たちと初めて開くホームパーティ。ささやかな身内の集まりを冷蔵庫に入れたショートケーキが今か今かと待った

 キッチンに門扉のインターホンが鳴り、彩香が引き戸脇の壁にあるパネルを押した。モニターに朋己が映って開閉スイッチを押して「入ってちょうだい」と言って玄関へ向かった。ドアを開けた彼女はダッフルコートを着た少年をすぐ玄関に招き入れた。

 

「いらっしゃい。外は曇ってて寒かったでしょ、どうぞ上がって」

「はい、お邪魔します」

「今日は廊下も温めてあるし、ここでコートを脱いで、ついでにプレゼントも預かるわ」

「あ、これ洗っていいのか分からなかったので……」

「あら、そんなの気にしなくていいのよ」

 

 差し出されたマフラーを彩香は適当に掴んで下駄箱の上に置いた。玄関ホールに上がった朋己がコートを脱ぐのを手伝い、腕に抱えるリボンを結んだ緑色の袋と一緒に受け取った。ピッタリしたスキニージーンズを履いた彼は十センチ以上高いが足が細く、コートを腕に掛けた彼女は高校一年生の体型に微笑んだ。

 

「それじゃあ、奥にある洗面所で手を洗ってからダイニングへ来てね」

 

 リビングの戸口に消えた彩香に、朋己は手渡そうとしたプレゼントを回収するように持っていかれて変に思った。だが、信頼する彼女に従ってスリッパを履いて廊下の奥へ行った。

 洗面所で手を洗った朋己はハンカチで拭いてポケットに仕舞い、鏡の前でネルシャツのボタンを二つ外して胸元の襟を開く角度を整えて恰好をつけた。服のほこりを払って廊下からキッチン横の戸を引くと、ダイニングに背が高い眼鏡を掛けた男子が見えた。首をひねって彼がテーブルに近づき、彩香は椅子を引いて手を広げた。

 

「紹介するわ、美雪お姉ちゃんの子で京太君。双子で兄の裕太君は部活の合宿で来れなくて、妹のみっちゃんはエリと出かけたみたいなの。帰ってきたら早速プレゼント交換しましょう」

「どうも、京太です」

「彼はエリの一個下で中学二年よ。さ、遠慮なく座って座って」

「はぁ、エリがお世話になっています」

 

 朋己はテーブルで五角形に並ぶ機器に気を取られ、敬語を使ってペコっとお辞儀した。彼も音楽に合わせて卓上を回転して止まるパーティグッズを知っていた。しかも、すでに機器の上に緑色の袋が置かれる。ポーカーフェイスで椅子に腰掛けたものの、内心は「聞いてないよ~」と叫びたい気分だった。中身のハンドバッグが彩香に当たるか心配で緊張した面持ちに変わり、縮こまって太腿に手を置いた。

 リビングの戸を引いてエリたちが喋りながら室内に入った。みちほはダウンジャケットから両腕を引き抜き、側の一人用ソファーへ放り投げた。

 

「自分だけ逃げるんだもんな。ほんっとに、彼女の記憶から消えるんだよねぇ」

「だから、ゴメンって言ってるじゃない。それに記憶の方は法治省で消してくれるとハクアさんに聞いたわ」

「フン、こっちの記憶も消して欲しいよ」

 

 へそを曲げたみちほが一人でダイニングへ行き、エリがソファーの背に脱いだブルゾンを掛けると彼女に朋己を紹介する声が聞こえた。テーブルの横に立つ彩香の奥に座る人物が見え、スリッパで大きな足音を立ててカウンター側に回った。

 

「どうして来れたの。お兄ちゃん、金曜まで実習があって忙しいんじゃ…」

「今週は実習なかったよ。そんなこと言ったっけ」

「ほらほら。洗面所で手を洗ってきて、エリ。みっちゃんもよ」

 

 彩香が朋己の頭越しに首を振って二人に声をかけた。廊下へ向かうみちほが彼をまじまじと見て椅子の後ろを通り、すかさずエリは肩を押して彼女とキッチン横の引き戸から出た。いつも一緒に行動する仲の良さに目を細めた彩香は戸の脇へ電灯を消しに行った。

 エリは洗面台で両手を流し洗いしてタオルで水分を拭い、戸のガラス部分からダイニングをうかがいつつアコーディオンカーテンを閉じた。壁にもたれたみちほが小さな声で不平を漏らした。

 

「どうなってんのさ。プレゼントが一個増えちゃったじゃん」

「ジングルベルが流れる時間はおんなじだし、移動距離は変わらないわ。だから少しずれて止まるくらいよ。4つだとプレゼント間の回転角が90度ずつで、5つになったから……」

「360度を5で割って72度。最後の周は270度回転するから、昼間エリ姉のプレゼントがわたしの席の前に来た時と違って18度右にずれるって言うんだろ。だけど、叔母さんが適当に配置を動かしたみたいだし、京兄の近くに止まる可能性もあるんじゃないの」

「それじゃあ、反射神経を研ぎ澄ますしかないわね。多少遠くても京太に取られないように止まったらすぐ手を伸ばすのよ」

「結局、力業になるのか。しょーがないなぁ」

 

 首尾よくナイトブラを手に入れたい彼女が朋己の参加に気を揉んだ。昼の実演が頭にある二人の検討は京太との間に下着セットが止まることを前提とした。作戦が決まってエリが指をぽきぽきと鳴らし、みちほは頭を掻いて洗面所を出た。

 キッチンとともに電灯を落としたダイニングは全体的に暗く、テーブルの中央に置かれたミニツリーのLED電飾が赤、青、黄、緑色に光って卓上にほのかな明かりを宿した。キッチン側に立った彩香が各席の前にあるプレゼントを一つずつ指差し、ほぼ五角形に位置する機器を確認して頷いた。彼女はカウンター端のスピーカー付き音楽プレーヤーに手を掛けた。

 

「みんな準備はいいわね。さあ、今からプレゼント交換するわよ」

 

 再生ボタンが押されてダイニングに流れる曲がゆったりした雰囲気を醸し出した。プレゼントを載せた機器が同時に遅いテンポに合わせて動き始め、テーブル上を右回りに彩香、京太、みちほ、エリ、朋己の順に前を通過する。明るいミニツリーを囲んだ五個の点滅する青い光が輪となって広がった。光景にうっとりした彩香は胸の前で手のひらを合わせ、室内の暗がりに目を凝らした。

 

「いい感じでしょ。やっぱり、クリスマスは『きよしこの夜』よね」

「え、ええ、そうですね」

 

 テーブルを挟んで向かい合う朋己がハンドバッグの行方にドキドキしながら答え、隣の席でも妹が別の意味で焦っていた。ジングルベルのはずがゆっくりした音楽に変わったことでエリの用意した下着セットはどこで止まるのか。公式は『距離=速さ×時間』であり、魔法の効果で曲が止まるまでの時間は一定。とどのつまり、プレゼントを載せた機器の速度は曲に合わせるため遅くなって移動距離が当初の予定より短くなってしまう。頭を抱えたエリが斜め前の席へ助けを求めた。

 みちほはイントロを聞いた時点で失敗したと分かって椅子の上にあぐらをかいた。ばくち打ちのような眼差しで白い紙袋を見つめ、席の前を通過する度に膝を叩いて露骨に舌打ちした。もはや、エリにはどうする事もできずミニツリーの周囲を回転するプレゼントを眺めた。

 そうこうするうちにテーブル上で一斉に機器が止まって一瞬赤く光り、暗い中でエリは椅子から跳ね降りて朋己の後ろをキッチン横へ電灯を点けに走った。その間に、京太が前に止まった平たいプレゼントに手を伸ばし、包装紙をベリベリと破って箱の中から黒いタブレットを出して肩をすくめた。

 

「クリスマスのプレゼントに学習用ノートはないよ。これは叔母さんかなあ」

「ふふっ、来年は受験生だし京太君でちょうど良かったわ」

 

 彩香が横を向いてイタズラっぽく笑い、二人の会話を聞いたみちほは前のプレゼントへ嫌そうな顔をした。直方体の古びた箱は京太が用意したもの。超常現象グッズの他になく、手に掴んで前を向いたまま後ろへ放り投げた。

 ダイニングに電灯が点いて明るくなり、朋己の席から向こう側に緑色の袋が見えた。ホッと胸をなで下ろした彼は前にあるプレゼントを機器から卓上に置き、折った口に貼られたテープを剥がして紙袋の中に手を突っ込んだ。ふわふわした感触の厚みを掴んで出すと、二つ連なる山なりの布が目の前に現れた。

 

ガタッ

 

 急に朋己が立ち上がった。キッチンから戻ったエリが椅子の脇で驚いて斜めに腰を下ろし、彩香が心配して彼の元に近寄った。

 

「どうしたの、朋己くん。大丈夫?」

「へぇっ、いや、何でも……」

 

 動揺した様子の朋己が視線を上方へ逸らし、彩香はテーブルに目をやった。彼が開けた袋の外に転がるブラは納戸に仕舞っておいたはずと思い、エリの用意したプレゼントを手に取った。中学生用のブラジャーとショーツが一枚ずつにナイトブラが二枚。再び袋に入れて彩香はテーブルに片手をつき、キッと睨んでエリの方へ身を乗り出した。

 

「エリ、この下着はどういうことなのっ」

「え、えっと、その。今日はお兄ちゃん来ないと思ったし…」

「ダメじゃない、京太君もいるのよ。母さんから小遣いもらってるんでしょ」

「ごめんなさーい」

 

 怒られたエリが顔の前で両手を擦り合わせた。彩香は下着が入った袋をテーブルに置き、頭を掻いて代わりになる物がないかと見回した。自分の席にある機器の上は朋己が用意したプレゼント、エリの席は透明のビニールからぬいぐるみの耳が見え、みちほの席はすでに何も無かった。朋己が胸元を開けて突っ立つ姿に、彼女はポンと手を打ってリビングの引き戸へ駆けた。

 ダイニングの一同が注目する中、彩香がマフラーを手にしてテーブルに戻ってきた。エリが座る椅子の背を回り込み、それを立っている朋己の首に掛けた。

 

「映画行った日に初めて下ろしたの。だから新品同様よ、これ」

「もらってもいいんですか」

「当り前じゃない、プレゼント交換だもの」

「じゃあ、僕が買ったプレゼントも開けて下さい」

 

 朋己はテーブルの向こう側へ体を伸ばして緑色の袋を取り、満悦した表情で彼女に手渡した。サンタやリースが描かれた袋の口を結ぶ赤いリボン。クリスマスらしいラッピングで彩香はどんな可愛らしい物が出てくるのだろうとリボンをほどいた。

 袋から出した彩香は半円の持ち手を掴んで黙って顔の前に持ち上げた。蓋付きで台形のしっかりした黒いハンドバッグだった。反応が薄い彼女をエリが意外そうに見上げた。

 

「姉さま、そのバッグもらって嬉しくないの」

「あー、そうじゃなくて。こういうのは結構値が張るかなと思ってね」

 

 革製バッグの価格を知らない彩香ではなかった。いくら彼が純粋に他人を喜ばせるつもりだったとしても、プレゼント交換の常識とは違う気がした。プレゼントを用意しないエリを怒ったからには朋己にも何か言うべきだと静かにミニツリーの前にハンドバッグを立てて置いた。

 

「ねえ朋己、このハンドバッグ高かったんじゃないの」

 

 下を向いてごく自然に、まるで親しい年下に尋ねるかのように聞いた。ニコニコしていた朋己は価格を問われてギクリとした。受け取りを拒否されてはたまらないと、とっさに嘘をついた。

 

「い、いえ、フリマサイトの中古で4千円です」

「ほんとに4千円?」

「僕が彩香さんを騙す訳ないじゃないですか、ははは」

「まあ、それはそうだけどさ」

 

 顔を上げた彩香は彼が嘘をつく理由が思いつかず、それ以上の追及をやめた。改めてテーブルの上を見るとハンドバッグは朋己が選んだだけあって堅い印象を受け、冠婚葬祭や見合いにしか用途がなさそうなデザインに思えた――プレゼントに一万円以上使ったりはしないか、まだまだ朋己も子供だから――と首をさすり、気を取り直してパンパンと手を叩いた。

 

「はいはい、次はケーキを食べるからテーブルの上を片付けてちょうだい。エリ、あんたは今すぐ下着を二階へ持っていきなさい」

 

 彩香がギロッと目を向け、急き立てられたエリは立って白い紙袋とぬいぐるみの袋を掻き集めて腹に抱えた。リビングへ少し歩くと横にみちほが立っていた。長い腕が伸びて肩を組まれ、彼女は「車いすに載せといて」と囁いて親指を立てた。

 ダイニングテーブルはミニツリー以外の物がどけられ、卓上に種類の違うケーキの皿とコーヒーカップが並んだ。京太が箱から出したグレイ人形をツリーの前に掲げて鳴沢駅路地裏の怪しい店で買った話をし、それを無視してエリはみちほと互いにケーキを交換して食べ比べをした。ちはるがいない桂木家で彼の話を聞いてあげるのは彩香の役目。彼女が頬杖をついて隣へ顎を傾ける仕草に色気を感じながら、朋己はフォークをくわえて向こう側を眺めた……がしかし、これ以降の彩香は完全に弟として朋己に接するようになった。エリとみちほが私生活も含めて協力関係を深化させるのと対照的に、彼の恋心は気づかれないまま年が暮れていくのだった。

 




―― 次章予告 ――

エリは駆け魂レーダーが示す千匹以上の弱った駆け魂を全て回収しようと意気込む。だが、一匹を捕まえた頃には日が暮れた。暗くなった桂木家のスロープではメイド服の女性が… ⇒FLAG+18へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+18 Windy Weekenders
悪魔が来りて隙間風が吹く


―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
駆け魂が取り憑いた当麻は宿坊の支配人から度々責められてモヤモヤしてみちほを襲ったと打ち明けた。強制は良くないと気づいたエリ。魔法で声を変えてハラスメント通報の電話をかけまくり、一人で宿坊へ行こうとする。ヘアピンをもらったみちほは自分から協力を申し出た。
クリスマス・イブを迎えて宿坊から支配人が去り、吹っ切れたように笑う当麻。彼女がみちほの頬にキスすると、駆け魂が駐車場の中空へ飛び出した。「駆け魂、勾留!!」。エリはアスファルトに着地してみちほへ親指を立てた。
桂木家では彩香がパーティを開いた。納戸の下着をプレゼントにした横着なエリを叱り、高そうなバッグを買った朋己を諭すように値段を尋ねた。
エリたち兄妹は彩香から家族同然の扱いを受け、朋己の恋心は気づかれないまま年が暮れた。



 二月に入って最初の週末は日差しも風も弱く、乾燥した空気がひんやりとした。玄関ドアを開けた彩香が外に出てポケットに手を入れた。ドアを背にして立ち止まり、後から来た朋己が玄関から出るのをためらった。彩香は胸にロゴが入ったスタジャンを羽のように広げてパタパタさせた。

 

「ほらほら、先行って。弟を行かせるために道を空けてるのに」

「じゃあ、お先に失礼します」

 

 朋己は「姉弟」という間柄に慣れたくはなく、改まった口調を変える気もなかった。玄関ポーチから端の階段を下りるとミニバンが駐車場に待っていた。志穂の養子になることを承諾した彼を実家のある鳴沢市に連れていくため、彩香は二週間も前にちはるから借りて練習した。朋己が正式に家族となるまで後は家庭裁判所の審判を残すのみだった。

 唐突に、朋己の両頬が温かくなった。車の後ろでため息をつく彼に彩香が背後からカイロを押し当て、笑みを浮かべて緊張を和らげるコミュニケーションをとった。

 

「二つあるから一つあげるわ。向こうに着いて車を降りた時寒いでしょ」

「そうですね」

「うぇっ、たったそれだけなの」

 

 彩香は気だるそうに体を捻る朋己の反応に口をゆがめた。彼の首根っこをむっちりした二の腕が押さえて体重がかかり、首が前に倒されて顔はワキに抱えられた。

 

「こら、元気ないぞ。ほっぺたをつねってやろうか!!」

「わ、分かりましたからー」

 

 すぐに手をバタバタさせて降参する朋己。彼は志穂に何回も会っているものの、桂木邸を訪ねるのが初めてで硬くなるのは理解できたが、彩香は相談もなく鬱屈した態度を見せる弟に物足りなさを感じた。かりかりして彼の崩れたダッフルコートの襟を荒々しく直し、手を取ってカイロを二つとも載せた。

 

「私が側にいてあげるのよ。何も心配しないでついて来なさい」

 

 そのまま朋己の手を引っ張って車の前方へどすどすと歩いた。助手席の横に来た時、門から視線を向ける人物に気づいて二人は立ち止まった。顔が半分隠れる程の大きな段ボール箱を抱えた人がいた。

 彩香が男性と手を繋いで立っている。ハクアは見た目がぱっとしない彼女にも恋人がいるのかと唖然として眺めた。クリスマス・イブは結局仕事で休暇をとれず、冥界のマッチングサイトで知り合った男とは音信不通になった。段ボール箱の中で住所を間違えて自宅に返送された勾留ビンがカンカンとぶつかって音を立て、ハクアは嫉妬に震えながら必死に笑顔を作った。

 

「こ、こんにちは……あははは」

 

 真冬なのにロングカーデを着てスカートやブーツまで黒い服装の女性。変な人が訪ねてきたと眺めていた彩香は四角い眼鏡をかけるとハクアに似ていると思った。朋己の手を離してポケットからスマホを出し、門扉のロックを外して門の方へ近寄った。

 

「こんにちは、角習研究社の方ですよね。今日は何か用ですか」

「あぁ、学習道具を持ってきたの」

「エリは家にいますから、どうぞ入って下さい。朋己、この前話した角研の人よ」

 

 ちらりと後ろを見た彩香が彼に手を向け、「私の弟に…」とハクアに紹介しようとすると、急に朋己が彩香を手で押しのけて前に出た。

 

「『エリ』の兄、朋己です。妹ともどもよろしくお願いします」

「そう、私はハクアよ」

「話をお聞きしたいところですが、彩香さんと予定があるので失礼します」

「それじゃあ、今度握手してあげるわ」

 

 門扉を体で押し開けたハクアは側の手すりに段ボール箱を載せ、会釈する二人が乗って出ていくミニバンへ手を振って見送った。エリが「姉さま」と呼ぶ彩香と「エリの兄」を名乗る朋己。恋人でなく家族だったのかと溜飲を下げ、玄関へ向かってスロープを上り始めた。

 久しぶりに車を運転して出かける彩香はあまり速度を上げずに走らせた。人気のない路地に目をやりつつ、不満そうに助手席へ話しかけた。

 

「朋己って意外と外面が良かったのね。それとも、母さんから何か言われてるのかしら」

「いいえ、普段と変えていませんよ」

「そうかな。普通、高校生はそういう話し方はしないと思うけど」

 

 彩香はエリと一緒に暮らす一方でそれなりに朋己に親しく接し、そろそろ何でも話してくれると思っていた。だが、彼は相変わらず他人行儀であり、ハクアへの応対と同じように自分と話すのは納得がいかなかった。いつもと違う丸いハンドルを強く握った彼女は運転に集中するためにも押し黙った。

 

 彩香たちが出かけて静かな桂木家の玄関に入り、ハクアは「おーい」と一声かけた。直ちにリビングからエリが框に駆けつけ、ニッコリと笑って両手を揃えて前へ差し出した。

 

「いらっしゃいませ。お荷物、預からせて頂きます」

「ええ、任せるわ」

 

 ハクアは車いすの横を通過して土間へ伸びた手のひらに段ボール箱を載せた。くるりと体を回転させ、廊下にドスンと腰を下ろして脚を組んだ。その箱は髪をかき上げる彼女の後ろに置かれ、ガムテープを一気に剥がす音が壁を越えてリビングまで伝わった。エリが中から一つ取り出して透き通る瓶を両手に挟んで満足げに眺め、一息ついてハクアが後ろへ顔を向けた。

 

「この前の勾留ビンは私の方で冥界へ送ったわ。これからも捕まえた駆け魂は南雲市の住所に送ってくれればオーケーよ」

「了解しました、わたし頑張ります!」

「それと弱った駆け魂はセンサーだと反応しない場合が多いからレーダーで探しなさい。ただ、あまり期待できないけどね。そいつらは魔力がほとんどないし、色も薄くて背景に透過して見つけるのは――」

 

 体を反らして偉そうな口振りのハクアと廊下に正座して背筋を伸ばすエリ。様子を見に来たみちほがリビングの入り口に立ち、エリらしくない振る舞いに首をひねった。他人にペコペコする姿は初めてで違和感を覚えた。

 ハクアは視線を感じたエリの向こうに、ゆったりしたトレーナーを着て壁のように立つ眠そうな顔の少女を目にした。ジーパンを履く髪の跳ねたみちほが冴えない男子に見えた。

 

「あれが報告のあったバディか。まあ、一人くらいなら経費で落とせるわよ」

「はい、どうぞよろしくお願いします」

「でもトロそうな奴ね。こっちもあまり期待できないんじゃない?」

「そ、そうですねぇ……あははは」

 

 エリのへらへらと誤魔化す笑い声が聞こえ、みちほは背中をムッとして眺めた。言いたいことを言ってスッキリしたハクアは立ち上がった。

 

「じゃあ、もう私は仕事があるから行くわ」

 

 玄関のドアを開けてハクアが空へ飛び上がり、エリは土間にスリッパで降りて玄関先で手を額にかざして見上げた。元々は一月中に宅配で届く予定だったが、彼女から直接持ってくるとメールで連絡が来た。待ちに待った勾留ビンは段ボール箱に緩衝材もなく三段重ねでいっぱいに敷き詰められ、廊下に戻って箱を持ち上げてリビングへ向かった。だが入り口でみちほが腰に手を当てて道を塞ぎ、正面に回ってエリがまばたきを繰り返した。

 

「どうしたの、みちほ。どいてくれないと部屋に入れないわ」

「あんなオバさんの悪口に笑うことないじゃん」

「なんだ、聞いてたんだ。上司だから機嫌を損ねないようにするのは当たり前でしょ」

「大体、今日のエリ姉はおかしいんだよっ」

 

 肩を怒らせてリビングに戻っていった。みちほは公衆の面前でもなければ他人からバカにされて何も思わなかった。けれども、ハクアの悪口にエリが同調して裏切られた気分になった。非社交的な彼女は物事を自分の側からしか見ようとせず、気心が通じるエリが常に自分の味方である意識を持っていた。

 PFPを掴んでソファーにごろりと寝転がるみちほ。エリは彼女が朝まで乙女ゲームをしてほとんど寝てない上にブラッシングをサボった事も知っている。ハクアの態度はともかく、言われても仕方ないと思えた。

 

「世間体を気にするのってみちほにも遺伝してるのかな…」

 

 エリが小声でブツブツとつぶやき、廊下からリビングへ歩を進めた。段ボール箱内の勾留ビンは冥界の技術で作られて軽くできていた。ただ、500mlのペットボトルより一回りも太く、鞄に入れるとかさ張る難点があった。ハクアから大量に仕入れたエリは舞島学園の入学試験が迫る中、早くも駆け魂回収で一儲けを目論んだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逃がさん!

 ソファーで仰向けになったみちほが口を開こうとせず、エリは腰に手を当てて仕方がないと頭を掻いた。勾留ビンが入った段ボール箱をローテーブルに置き、脇に立ってスカートのポケットからM42を取り出し、端末画面に指先を擦らせて駆け魂レーダーを表示させた。「ピンッ」と音がして真っ黒な背景に緑色の線が時計の針のように一周し、画面が切り替わって舞島市の白地図に大きさが違う幾つものカラフルな円が現れた。

 手のひらに載る画面に目を細くしたエリが段ボール箱の側からリモコンを拾い上げた。テレビの端にメニューを表示させ、スマホ映像を受信する設定に切り替えて駆け魂レーダーの結果をテレビ画面に映し出した。

 

「1203匹か。一、二ヶ月じゃちょっと無理かな」

 

 地図の桂木家辺りの円から引かれた線上の数字を指で差し、ソファーへと目を向けた。ゲームに集中していたみちほがPFPの電源を切り、ゆっくりと体を回転せて腰掛けた。エリは憮然とした彼女に近づいて顔を覗いた。

 

「一度に千匹って意味じゃないの。それに高校の試験終わってからが本番だから」

「エリ姉、あの人の話を聞いてなかったのか」

「あの人ってハクアさんのことよね、話は聞いたけど」

「それじゃあ、どうやって探すんだよ。駆け魂センサーが反応しないのに」

「えっ。それはえーっと……」

 

 エリが腕組みをして考え始めた。みちほはやれやれとソファーの背からダウンを手に取り、肩に引っ掛けて立ち上がった。

 

「ま、わたしは帰るわ。月曜から京兄が手伝ってくれるだろうし」

 

 慌てたエリは後ろへ半歩下がって一人掛けソファーとの間の脱出口を塞いだ。おだててでも彼女が帰るのを思いとどまらせようと、頭をフル回転させた。

 

「そ、そうっ、鎖骨が出てて今日の服装なんだか大人っぽいわね」

「同じトレーナー着てるから襟が伸びてるだけ。どうせ、エリ姉も本音はあの人みたいにトロそうと思ってるんでしょ」

 

 みちほに不貞腐れた表情で見下ろされ、エリはハクアにバカにされた事を根に持っていると気づいた。冷静に判断して行動するのとは裏腹に、彼女は嫉妬深い彩香の姪としての顔がある。これはみちほを引き止める好機だと、かかとを上げて跳ねた前髪を優しく耳に掛けた。

 

「バカね、こんな可愛い子をトロそうとか思う訳ないじゃない」

「でも一緒に笑ってたしさ」

「聞こえなかったから愛想笑いしただけよ。今度会ったら彼女に『ガツン』と言ってあげるわ」

「ほんとに?」

「うん、お姉さんウソつかない!」

 

 エリが笑って胸を叩くと、納得したみちほは肩からダウンを下ろして手に持った。エリはうまく翻意させたと一安心。室内に和んだ空気が流れ、彼女と駆け魂回収の話ができる状況に変わったと思われた。が、キッチンの方から「ピンポーン」と来客を知らせる音が聞こえ、肝心な時に誰だろうとインターホンの操作パネルへ向かった。

 廊下への引き戸脇に立ったエリは壁のディスプレイをONにした。画面に胸から上が見切れた男性の動く様子が映り、横からカメラを覗き込んだ彼の顔にエリが目を見開いた。

 

「え~、なんで黒田のおじいさんが来るの」

「こんにちは。今しがたね、みちほからメッセージがあって迎えに来たんだ」

「こんにち……あっ、いないわ。ちょっと待ちなさーいっ」

 

 リビングには姿が見えず、エリは廊下に出て玄関へ走った。すでに、膝に上着を載せてみちほが車いすをドアへ後退させていた。機嫌を良くした彼女は片手でハンドリムを回し、反対の手を伸ばして勢いよくバーンと押し開けた。

 

「じゃ、可愛い子をゲームの彼たちが待ってるんで。エリ姉バイバイ」

 

 玄関を出た車いすがポーチで方向転換して去っていった。ピューピューと冬の冷たい風が吹いてドアが自然に閉じ、エリはため息をついてリビングへ引き返した。

 みちほが帰って三十分経った。テレビ画面に表示される駆け魂レーダーの散布図は舞島市東南部の円が一番大きい。ソファーで片肘をついて座るエリは勾留ビンを片手に持ち、どうやって駆け魂を探したらいいか思案に暮れた。だが、このままでは時間が経つばかりとローラー作戦を決意して立ち上がった。

 

「みちほがいなくてもたぶん大丈夫、毎日ゲームやって目が悪いだろうし。わたしの両目2.0の視力なら簡単に駆け魂を見つられるわ。そういえば、ことわざではなんて言うんだっけな。たしか、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、下手の横好き、下手こそ物の上手なれ……」

 

 エリは受験勉強で暗記した言葉を復唱しながら、リビングを出て階段を上がった。前回、レベル2の駆け魂を勾留したことで自信を深めていた。志穂にあてがわれた問題集をやり終えて入試対策も万全で、余裕しゃくしゃくで弱って動けない駆け魂の回収に向かうのだった。

 

 玄関を出た頃には雲が多くなって強い風が吹き、ニット帽をかぶったエリは北風を受けて住宅街の坂を下った。目的地は前に行った舞島学園に程近い公園。正式名称は舞島緑地公園といい、真冬でもシイやカシといった常緑樹が細長い緑色の葉を残す高木に囲まれる。この季節はあまり人が中に入ってこないため、鵜の目鷹の目で駆け魂を探し回ってもまったく怪しまれない場所だ。

 公園の入り口でエリは勾留ビンを入れたトートバッグを肩から提げ、動きやすいようにジーンズの裾を丸めた。それから外周に生える木の根元に駆け魂が転がっていないか確かめ、周辺の芝生にも目を凝らした。

 

「うーん、駆け魂は一体どこにいるのよ」

 

 体が透ける彼らはハクアの言った通り簡単に見つからなかった。だとしても、エリは広い公園内のどこかに必ずいるはずと考え、時間をかけて反対側の雑木林まで駆け魂を探し歩いた。

 午後四時を過ぎ、エリがポケットから半分出したM42の表示時刻を顔へ向けた。じきに日が暮れて遊歩道の照明が届かない林の辺りは真っ暗になる。いつしか、風は止んで頭上からはカーカーという鳴き声が聞こえた。巣に帰っていくカラスの黒い群れを見上げ、エリの気持ちは諦めて家に帰る方向へ傾き、気が抜けて木の上をぼーっと眺めた。枯れた芝生と雑草が入り混じった地面とは景色がまた違った。何本もの枝に薄緑のギザギザな葉の裏が広がり、目がいい彼女には葉脈がはっきりと見えた。

 

「あれ、あそこの葉っぱに目があるわ」

 

 一枚の葉の筋がまばたきをしたように見え、しゃがんでバッグを地面に置いて小石を拾って枝へ放った。石が枝先を通過した瞬間、驚いた駆け魂は周囲にほのかな光を発し、枝と葉の間に挟まる白熱電球のような形の幽体が姿を現した。顔を綻ばせたエリはファスナーを引いてバッグから勾留ビンを一つ取り出した。

 

「そんな所にいたのね。待ってなさい、今行くから」

 

 勇んで幹のくぼみに片足のつま先を掛けて幹の裏に片手をまわし、反対の足で飛び跳ねて幹に抱きついた。しかし、反対の手は勾留ビンで塞がっていて上方に掛けられず、エリはやむなく木から下りることになった。

 みちほが居てくれれば下からサポートしてもらえたのに――油断して帰られたのを悔やんでエリが駆け魂を見上げた。京太はよく分からない週末バイトで使えないし、首に縄をつけてでも連れてくれば良かったと思った。口を尖らせて腕組みして木にもたれていると、再び公園に強風が吹きつけた。枝葉が大きくゆらりゆらりと揺れて小さく白い幽体は空にふわりと舞い上がり、風でどこかへ飛ばされるところだった。エリは幹をお尻で蹴って木から離れ、駆け魂を睨みつけた。

 

「今度は逃がさないわよっ」

 

 悪魔の魂を持つ彼女は何度も魔法を使ううちに魔力のコントロール方法が分かってきた。手のひらに精神を集中させて魔力を溜め、勾留ビンを掴んで腕を大きく後ろへ引いて駆け魂目掛けて力の限り投げつけた。「勾留ビーンボール!!」。叫び声とともに一直線に勾留ビンが光の航跡を描いて枝々の間を突き進み、ビンの底が駆け魂の両目の間にガツンと衝突。地面への落下を見届けたエリが得意げに前髪を払った。

 

「千匹の駆け魂も一匹目からってとこかな。ようやく一匹か……ふぅ」

 

 エリは拾い上げた駆け魂を勾留ビンに詰めて蓋を閉めた。辺りの薄暗さを感知して公園のLED照明が次々と点灯した。帰ることにした彼女はトートバッグを手に持って遊歩道へ向かった。

 手にしたビンの中で駆け魂が顔をゆがめて窮屈そうに呻く。こいつらは壊れたカフェの入り口や椅子を直す元手である。高校入学までにできるだけ回収作業を進め、舞島学園で見つけた女子と朋己をデートさせる目算だが、このペースでは資金不足でうまく事が運ばない。エリはもっと効率良く駆け魂を探す方法はないかと、桂木家に帰る道すがら頭をひねった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

偽らざる女神

 朋己は桂木邸の応接間で養父母となる彩香の両親と対面した。3メートルの六人掛けソファーに座らされた時は緊張したものの、隣に彩香が座って志穂の声を聞いて不思議な懐かしさに気が緩んでいった。

 この日は彼らを養子にする最終的な打ち合わせ。中学生のエリの場合は子どもの保護を目的とした制度のもと、一定期間桂木家で暮らした上で問題なければ養子と認められる。だが、高校生の朋己は半分大人とみなされて裁判官の前で明確に意志を示さなければならない。志穂は家裁審判の手順や想定質問を説明し、落ち着いて正直に答えるよう勧めた。二人一緒に養子話をまとめたい彼女が雑談を交えて積極的に話す中で朋己は「ハイ」を繰り返し、タブレットで作成された提出書類に署名をして固い話は一時間かからずに終わった。

 志穂がタブレットの画面を確認して静かになり、黙って足を組んでいた彩香は立って朋己の肩に手を乗せた。

 

「真面目な話で疲れたでしょ、リビングで休憩しようよ」

「はいっ」

 

 朋己はそばかすが目立つ彩香の微笑みに明るく答えた。決して美人ではないが彼にとって笑顔はまぶしく、たとえ戸籍上の弟になっても気持ちは変わらないつもりだった。

 彩香が廊下に出ようとすると、リビングの父親から見合いの件で引き止められた。朋己は後ろを振り返った。彩香は小さく手を上げ、「ごめん、先に行ってて」と扉を閉めた。会話が気になる彼はサッと花瓶が置かれた台に体を寄せ、ガラスを通して応接間から見えないように隠れて扉に耳をそばだてた。

 

「メールは全部見たけど、まだ何かあるの」

 

 彩香は渋々ソファーへ戻って元の場所に座った。今度の見合いは事前に相手の詳細なスペックを聞かされ、会う前からハズレと分かっていた。ウエストポーチを開けてあぶらとり紙を一枚出して鼻に当て、父の問いかけに聞いたふりをして適当に相槌を打った。

 志穂はいつもなら夫の肩を持つが、今回は立ち上がってタブレットを小脇に抱えて手を叩いた。

 

「ハイハイ、その話はお終い。リビングで朋己くんが首を長くして待っているわよ、彩香」

「そうね、じゃあ私行くわ」

「あ、台所にココアの粉とクッキーが用意してあるから」

「分かった、お湯入れてけばいいのね」

 

 彩香のスリッパが床を叩く音が応接間から伝わり、朋己は慌てて足からスリッパを取って廊下をそろりと奥へ向かった。リビングの中央には一枚板の大きなテーブルが置かれ、最初通された時に脱いだコートが載っていた。先に着いて彼はほっとして長椅子に腰掛けた。

 桂木邸のリビングは午前中から薪ストーブに火がたかれた。厚手のチェックシャツを着た朋己は体がぽかぽかし、襟元に指を入れて少しひんやりした空気を入れた。彩香を待ちつつ彼が考えるのは廊下に漏れ聞こえた彼女の見合い相手のことだった。人物像を頭に思い浮かべて廊下へ目を向けると後方から声がした。

 

「ごめんなさい、待たせちゃったわね」

「あ、台所の出口はそこですか」

「ええ、応接間の奥がキッチンでここと繋がってるのよ」

 

 トレーナーの袖をまくった彩香がテーブルに四角いお盆からクッキーの皿と彼のカップを置き、自分のカップを持って隣に腰を下ろした。朋己は見合いの話について聞きたくても聞けず、緊張で口の中が乾いた。カップに口をつけた彼は熱いココアを一気に流し入れた。

 

「ゴホッ」

「ちょっと大丈夫、朋己」

 

 吐いたココアを朋己が口から垂らし、彩香は腰を浮かせてウエストポーチからフェイスタオルを取り出した。そのタオルは首周りの汗を何回か拭いたが、彼女は「まあ、いいか」と、弟も同然である彼の顔を構わず押さえた。

 クリスマスにもらったマフラーと同じ匂いが鼻に込み上げた。興奮した朋己は目を見開き、彼女の手を取って顔を向けた。

 

「彩香さん、お見合いなさるんですか」

「えっ。どうしたの、急に」

 

 一瞬戸惑ったが他人の恋愛話を聞きたい年頃なのかと思った。それなら話をするのはやぶさかでない彩香も、純真な瞳に見つめられると失敗続きの見合い黒歴史を披露することに気が引けた。むしろ、姉として最初に良いイメージを植え付けておこうと考えた。彼女は朋己の手を放して長椅子に手をついて座り、人差し指で頬をぽりぽりと掻いた。

 

「まぁ、見合いの話は結構あったんだけど今まで全部断ってたの。でも父さんもそろそろ孫の顔が見たいだろうし、とりあえず会ってみようと思ってさ」

「それじゃあ、彩香さんも結婚を考えて……」

「やーね、いきなりはないわよ。付き合ってみないとどんな男性か分からないじゃない。あと、顔が良くても生活力がないとダメだし」

「そ、そうですか」

 

 本音と受け止めて朋己はガックリと肩を落とした。魅力的な彩香を周りの大人達が放って置かないと知り、彼が学生で太刀打ちできないと悟ったからだ。片や、彩香は自分のついた嘘でいい気になり、朋己の前にこぼれる液体をタオルで拭きながら調子に乗って妄想を膨らました。

 

「やっぱり性格は大事よね。上背がある方が腕力があって頼りになりそうかな。ねえ、朋己はどう思う?」

「はぁ。どうして僕に聞くのですか」

「だって、私の結婚相手はイコール朋己のお兄さんでしょ」

 

 あっけらかんとした彩香に、朋己は「ははは…」と笑うしかなかった。桂木家の養子になることで彼女がますます遠ざかっていった。嘆息を漏らした彼は皿のクッキーを手に取った。さすがに志穂が今日のために駅ビル地下の有名な洋菓子店で買ってきた代物である。すっきりしたバターの甘みが口の中に広がっておいしく、パクパクと何枚でも食べられた。しかしながら、カップに残ったココアを飲み干した朋己の表情には珍しく不満が浮かんだ。

 休憩後、彼らはリビング奥の階段を上がった。二階はリビングの吹き抜けと中二階部分のフリースペースを挟んで東西に分かれ、案内する彩香が西側の廊下へ上がって斜め向かいの両引き戸を開けた。何も置かれていない八畳の和室は床の間があり、南に面した窓から澄んだ空が見えた。

 

「朋己、そこら辺に座ってくれる」

 

 彩香は奥まで行って観音開きのふすまを開けた。内部は中段やや下に液晶パネルがはめ込まれ、上半分は扉がない棚に金箔が貼られて仏像が飾られた。一風変わったオリジナル仏壇。端にあるスイッチを押してパネルに表示された遺影は二十秒ごとにデジタルフォトフレームのように映る人物が切り替わった。香炉に線香を立てた彼女が顔を後ろに向けると、朋己は引き戸付近の畳に正座していた。

 

「ほら、そんな遠くにいないでよ。近くに来て仏前に手を合わせましょ」

「すみません。ずかずかと部屋に入ってくのは失礼な気がして」

「ふふふ、朋己もちょっとは妹を見習わないとね。エリは最初から我が物顔にうちで生活し始めたわ。ほんと、今日も私がいない間に何してるんだか」

「はい…」

「そうそう、ちゃんと受験勉強するように電話しとかないと」

 

 リビングに置いたスマホを取りに彩香が廊下へ向かい、擦れ違いざまにウインクして部屋を出ていった。朋己はすっかりエリの姉になった彼女を何とも言えない気分で見送った。

 一人になった朋己はあぐらをかいて腕組みした。彩香が見合いする事は問題だった。といって、彼女がその相手とどうにかなるとは限らず、おそらく彼女の父の用意する見合い話は今回が最後ではない。それよりも、彼女に弟扱いされていては彼に望みはない。彩香との関係をどうするべきかという脳内議論はまとまらずに堂々巡りを繰り返し、やがて目がぐるぐると回って頭がくらくらとしてきた――――とうとう、朋己は仏壇の前で意識を失った。

 

 住宅街は完全に日が落ちて大分薄暗くなった。桂木家に帰ったエリは両手にそれぞれ勾留ビンとトートバッグを持ち、門を入ってお尻で門扉を閉めた。一匹しか駆け魂を回収できず体力的にも精神的にも疲れてスロープを上った。とぼとぼと踊り場に来ると二本の足が横たわり、上から大きな寝息が聞こえた。黒っぽいワンピースを着て白いエプロンをした女性が仰向けで眠っていた。

 

「外国人かな。でも何でこんなところに…」

 

 エリはスロープの手すりに背中を付けて横に歩き、広がったスカートの裾を踏まないように脇を通り抜けた。だが、頭の後ろで手を組んで枕にする女性の肘にスニーカーのつま先が当たり、目がパチッと開いた。

 

「しまった、起こしちゃった」

 

 ひょいっと彼女の頭を飛び越し、エリは警戒して身構えた。上体を起こした女性は手で口を押さえ、大きなあくびをした。ゆっくり立ち上がってエリの方を向いてペコっと頭を下げた。

 

「どーも、すいません。寝坊で遅くなりまして」

「は?」

「あ、違う。これは配達じゃなかった」

「何言ってるの」

 

 エリは彩香が帰ってくるまでに部屋でずっと勉強をしていた体を作るため、一刻も早く家の中に入りたかった。用のない来訪者にはお帰り願う他ないと片足を引いて道を開け、コホンと咳払いをして腕を伸ばして庭に生えた高木の脇へ指差した。

 

「どうぞ、出口は向こうです」

「いやいやいや」

 

 女性がのろのろと手を横に振って断り、カッとしたエリは勾留ビンを握る手の甲を彼女の前へ突き出した。

 

「いい加減にしないとケーサツ呼びますよ」

「ほー、これは珍しい。中の駆け魂は少女が捕まえたのかい」

「へぇっ」

 

 勾留ビンと女性を交互に見やってエリは首をかしげた。駆け魂の事を知っていて、しかも見えるのは普通の人間では有り得ないはず。彼女は悪魔かバディだろうかと訝しんだ。

 エリが腕を組んで彼女の顔をじろじろと眺め、スロープを足裏でトントンと叩いた。少女の怪しむ視線に気づいた女性は片手を腰に当てた。もう片方の手が頭のホワイトブリムを取ると、彼女の頭上に天使の輪が現れ、背中から生える白い翼が肩や腕を越えて両側へ伸び広がった。

 

「わたしの名はメルクリウス。天界から来た女神だ」

 

 天使の輪が銀色のショートボブと褐色の肌を明るく照らし、瞳の奥に人生を達観するかのような落ち着きを感じさせた。反面、彼女は長い前髪が片側にどさりと垂れて右半分顔が隠れ、眠そうに左目がとろんとし、ふわふわしたメイド服をまとって言葉が軽々しい印象を与える。女神と聞いてなおエリは面倒くさげな顔を崩さなかった。ハクアの時と同じように何か目的があるに違いないと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

心配ご無用

 エリは寒風が吹く外での会話を避け、桂木家の玄関に女神・メルクリウスを招き入れた。パッと電気が点く玄関ホール。メイド服を着た女神は寒さを感じないが、公園を歩き回って温まったエリの体は徐々に冷えてきた。下駄箱の上に苦労して捕まえた駆け魂の勾留ビンを置き、スニーカーを脱いで廊下に上がってトートバッグを階段の脇に置いた。

 

「適当に座って下さい。床暖房が点くんであったかいですよ」

「少女、一人で住んでるのか」

「いいえ。それに少女じゃなくて桂木エリです」

「なるほど、セレブの家ってやつだな」

 

 土間にしゃがんだメルクリウスがホールの床を珍しそうに手でさすり、横を向いて太腿を乗せて寝転んだ。横たわる翼の背後に立ったエリはムッとした表情で彼女を見下ろした。頭からニット帽を取り、胸の前に握り締めて眉をひそめた。

 

「早く用件をおっしゃってくれませんかねぇ。こっちは急いでるんですけど」

「おぉ、悪い悪い」

 

 あたふたと体勢を変えてメルクリウスは座り直し、エプロンの胸部分の裏に手を入れた。そして反応をうかがう目つきでエリへ長方形の物を差し出した。

 

「ほい、これを探しているのだろう」

「え、これですか」

 

 エリは見覚えがないポシェットを受け取って金具を外して蓋を少し浮かせ、みちほの忘れ物だと確信した。角にボタンがある携帯ゲーム機。PFPしか知らないエリは彼女の目的がこれで片付いたと思った。早速、礼を言って帰ってもらおうと大げさに驚いて見せた。

 

「うわ~、ちょうど遊びに来たみちほが探していました。ご親切にありがとうございます」

「ん、彼女は住んでないのか」

「はい。いつも土日に来る親戚の子です」

「そうか、それは残念」

 

 メルクリウスは足を投げ出して両手を後ろにつき、再びとろんとした目をして天井を見上げた。

 

「最近、歩美が『ひ孫の顔が見たい』って言うんだ」

「ハイハイ、お帰りですか」

 

 土間に下りてエリは玄関のドアに手を掛け、心の中で「早く帰れ」と吐き捨てた。その悪態が伝わったのか、メルクリウスはムクッと前を向き、それまでと違うはっきりした口調に変わった。

 

「歩美はわたしの元宿主だ。もう九十のお婆さんだが、今も世話になってる」

「だから帰るんじゃ…」

「で、歩美の家には孫の男子がいてな」

「はぁ……」

 

 単に恩義がある大家の話を聞かせた訳でないのはエリにも分かった。ただでさえ高校受験と駆け魂回収で忙しいのに、これ以上やる事を増やしたくなかった。彼女が口を半開きにした顔を向け、エリは嫌な予感がして視線を逸らせた。桂木家の廊下は数秒間静まり返った。

 いきなりメルクリウスは立ち上がってエリに背を向け、下駄箱の勾留ビンを手に取って駆け魂の苦しそうな表情をLED灯に照らした。

 

「聞くところによると、人間は見合いをして結婚するそうじゃないか」

「えっ、誰に聞いたんです」

「あ、えーっと、店に来た客かな……だが百発百中らしい。ということで見合いのセッティングをしてくれたら、いいものをやろう」

「いいもの?」

「ああ。でもこれじゃ一匹しか入らないな」

 

 勾留ビンの蓋を開けてメルクリウスが駆け魂をつまみ出して放り上げ、白い霊魂が弱々しく上へ浮遊した。エリは金塊や土地の権利書ばかりに気を取られていたが、天井を向いて慌てふためいて玄関ホールへ飛び上がった。

 

「ちょっと何するんですか。逃げちゃうでしょ」

「いやいや、ここなら問題ない」

 

 女神の力を込めたメルクリウスは勾留ビンをバケツ大にして天井へ向けた。抵抗できない駆け魂はいとも簡単に中に吸引され、ビンが元の大きさに戻るとともに体長は親指くらいに縮んだ。彼女が蓋を閉めた勾留ビンを下駄箱の上にトンっと置いた。

 

「今の勾留ビンはリチャージブルできない仕様で魔力を使わないと普通の瓶だ。駆け魂を吸い込む距離は魔力にもよるが、十~二十メートル。小さければ複数入るし、魔力のコントロール次第で駆け魂以外も捕獲対象になる」

「へー。じゃあ、木の上にいる駆け魂も吸い込めたのか」

 

 彼女の横に近寄ったエリが体を傾け、勾留ビンの底にポツンと転がる駆け魂を眺めた。これで回収に使うビンを節約できる。エリは駆け魂回収マニュアルを斜め読みし、勾留ビンの機能も中学校の帰り道で京太が熱心に話すのをふんふんと聞いた程度だった。女神は冥界の事まで知っているのかと感心してメルクリウスの顔を覗いた。

 風船のように鼻水を膨らましてメルクリウスは立ったまま眠っていた。早く帰って欲しいエリは開いた口が塞がらず、彼女に感心して損した気分になった。

 エリは玄関の反対側に行ってバッグから勾留ビンを一つ取り、すたすたと歩いて戻った。蓋を開けたビンの口をメルクリウスへ向け、魔力を込めると透明な筒は人がまるまる入る程大きくなって彼女を吸い込んだ。「神さま、勾留!!」。手のひらで掴めるサイズまで縮んだ。

 

「おととい来やがれ!」

 

 ポーチに出たエリが勾留ビンを庭の高木のてっぺんへ投げつけ、葉が枯れ落ちた枝にビンが引っ掛かった。それでもメルクリウスは眠りこけ、玄関のドアは勢いよくバーンと閉められた。

 

 ベルトを外してエリは両足をジーンズから抜いた。黒いタイツ姿になってくるくると丸めてベッド下の収納ボックスに仕舞い、ウエストがゴムの部屋着スカートに早変わり。学習机の上に問題集タブレットのスイッチが入り、椅子の背にブルゾンが掛かった。勾留ビンが詰まったトートバッグや段ボールはクローゼットに隠し、捕まえた駆け魂のビンは机の一番下の引き出しに入れた。いつ彩香が帰ってきても部屋で勉強していたと言える環境が整い、キッチンから運んだコーヒーカップを持って菓子パンをかじってベッドの端に腰掛けた。部屋に漂うインスタントの香りは疲れた心身をリフレッシュさせた。

 外から二階の部屋にコンコンと叩く音が響いた。エリは口にパンをくわえて机にカップを置き、窓に近づいてさっとカーテンを引いた。天使の輪の下に恨めしそうに口を開ける顔が映った。

 

「ずいぶんとひどい仕打ちじゃないか」

 

 錠前が弾け飛んで窓がガラッと開き、宙に浮いたメルクリウスが頭から部屋にスーッと侵入し、ベッドの横にふわりと立った姿勢で静止した。机の側に退いたエリは床へ視線を落とし、彩香に言い訳できない壊れた金属片に顔を曇らせた。「蓋を閉めておけば良かった」と悔い、口にくわえるパンを食い千切った。

 メルクリウスは眠そうな表情こそ変わらないが、先程と違って長い前髪が顔の左側に垂れて右目が見えた。エリに対して片腕で抱えるボール状の透明なガラス容器を得意げに指し示した。

 

「ほら、店に帰って『いいもの』を取ってきたぞ」

「ぶーん。ばびばのびべ物ですか」

「煎餅が入っている。まあ、欲しければ見合いをお膳立てすることだな」

 

 煎餅の丸い瓶にメルクリウスは自信を持っている口振りだった。エリはごくんとパンを飲み込んでチラッと目をやり、魔力が上がる食べ物か、あるいは、武器として使えるのだろうかと顎に手を当てて考えた。回りくどい事をしているが彼女の目的は歩美の孫との見合いの依頼である。頼み方を知らないのは女神だからだとしても、煎餅と見合いの取引はエリを困惑させた。見合い相手を桂木家に当てはめると孫世代の女性は彩香になる。役に立つかも知れない煎餅と引き換えに、二週間後に父が用意した見合いを控える彩香に別の見合いをさせて良いものか。

 

「う~ん、お見合いを勝手に決めちゃうのもなぁ」

 

 腕を抱えたエリがガラス瓶へチラチラと目を動かし、少女の様子にメルクリウスは息をついた。

 

「ふむ、その目はこれの性能を疑っているようだな」

「え、そんなことないですよ」

「分かった、威力を見せてやろう。百聞は一見にしかずだ。この言葉は歩美が店でしょっちゅう使うから覚えている」

「えぇっ、ちょっと待って下さい…」

 

 エリは椅子に掛かったブルゾンを取り、頭にかぶって床に伏せた。女神の力で軽くアルミの錠を破壊した事を考えれば、煎餅も結構な威力があると考えられた。メルクリウスはバラバラと床に煎餅を巻き散らかした。覚悟してエリが目をつぶると、次の瞬間には体が持ち上げられた。真っ暗な空、それぞれの腕に少女と丸いガラス瓶を抱く女神は海の方へ飛び去った。

 

 一、二分暗闇を飛行して周りに何もない芝生に着地した。前からの風を受けて急激に体感温度が下がり、エリは下ろされてすぐブルゾンに袖を通した。タイツを履いた細い両脚に少女が着る膝下のスカートから風がスースーと入り、冷えた体を温めようとブルゾンのポケットに手を入れてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 二人が下り立ったのは舞島緑地公園の真ん中。照明灯が辛うじて届く芝生にメルクリウスはメイド服のスカートを広げてあぐらをかき、股の間にガラス瓶を置いてのんびりと蓋を回した。

 

「この煎餅ビンの内側は術を施してあるんだ。元々店で使い古して置いてあったのを見て何かに使えるなと思って作ってみた。けど、使うのも面倒だから売れ残りの煎餅を入れて――」

「もぅ、そんな話は帰った後でいいでしょ。早く見せて下さい」

 

 寒さに震えるエリが風になびく髪を口にくわえながら声を張り上げた。メルクリウスはこくりと頷いた。丸いビンの側面を両手で持って平たい底を芝生に押しつけ、少し離れて立って女神の力を込めた人差し指を上空へ突き上げた。

 

「はぐれった駆け魂、このビンたーまれ!」

 

 メルクリウスは煎餅ビンへ向かって腕を振り下ろした。彼女の指先からまばゆい光が放たれてビンを包み、十秒、二十秒、三十秒と時間が経った。何も起こらないのかと思ってエリが近づくと、ガラスがブルンッと振動し、中からキュイーンと回転するモーター音が聞こえ始めた。

 その後の圧倒的な光景にエリは寒さを忘れた。最初は遊歩道の溝、二匹目は自販機の下、三匹目は向こう側の芝生に生える木の上と、だんだん遠い場所から流れ星が移動するように一直線に駆け魂がビン内へと吸い込まれた。駆け魂はぎゅうぎゅう詰めで煎餅ビンに六匹まで入ったが溢れた残りは口の外で山積みになり、最終的に三十匹以上の駆け魂でガラスの上に白い柱ができた。メルクリウスがしゃがんで底部を持ち上げ、目を奪われたエリは腰を屈めてちょんと指で突っついた。

 

「へぇー、ぜんぜん動かないわ」

「それは宿主のいない弱った駆け魂だ。煎餅ビンは市販の勾留ビンより吸い込む力が弱くて魔力の強い駆け魂には効果がない。が、その分広範囲に及ぶんだ。半径三百メートルくらいかな」

「ねえ、この駆け魂ってずっとこのままなの」

「いやいや、これ自体はただのガラス瓶だからこうすると……」

 

 ビンを胸で抱えてメルクリウスは外側の駆け魂を手で払い落して蓋を閉めた。落ちた一匹が風で飛ばされ、エリが大慌てで芝生に膝をつけた。左右の手に二匹は掴めたものの、他の駆け魂はすべて公園に吹く強風に乗ってどこかへ行ってしまった。

 

「あーあ、飛んでっちゃった。あ、でも六匹は捕まえてるのか」

 

 エリは膝で立ってビンに残った駆け魂へ顔を向けた。メルクリウスが言おうとした言葉の続きは何となく分かった。煎餅ビンは蓋を閉めると駆け魂に対する吸引効果が失われる。勾留ビンへの入れ替え作業は必要になるが、センサーでも見つからない駆け魂の回収にうってつけだった。これは手に入れなければならないという感情がエリの心に沸き上がった。

 風で飛んだ葉っぱがガラスに貼り付き、メルクリウスはつまんでポイっと捨てた。交渉の大勢はすでに決まった。煎餅ビンを両手で抱えて立ち上がり、物欲しそうに見る少女を見下ろした。

 

「明日は日曜日だな。午後から見合いできるか、桂木えり」

「はい、ぜひ家にお越し下さい」

 

 満面の笑みを浮かべてエリが両手の駆け魂を強く握った。人づてに見合いの情報を得たメルクリウス。彼女は見合いをするだけで煎餅ビンをくれると言っているのだ。皮算用を始めたエリは彩香には三十分カフェで座っていてもらえば良いと、軽い気持ちで女神の依頼を引き受けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

明日の桂木姉妹

 桂木家に彩香が着いたのは完全に暗くなってから、予定の午後六時は大幅に過ぎた。ハンドルを切って車道から駐車場に入ると玄関ポーチへ向かうエリが見えた。彩香はエンジンを切ってドアを開け、顔を向けた彼女へ手を振った。

 

「お-い、何やってんのよー」

「あ、お帰りなさい」

 

 エリは短く挨拶を返してそそくさと玄関に入った。急いで下駄箱を開けてスリッパを二足出し、ホールに並べて片方につま先を入れた。弱った駆け魂を吸い寄せる煎餅ビンに目がくらんだ彼女は持ち主の女神・メルクリウスに媚び、「部屋まで運んでやろう」と言われたが遠慮してスロープで別れた。帰ってきた彩香と鉢合わせするのは計算外だった。ブルゾンの左右のポケットから駆け魂を出してきょろきょろと見回したが、刻々と駐車場からポーチへと足音が迫って両手をポケットの奥に突っ込んだ。

 怪訝な顔をして彩香は玄関のドアを開けた。部屋で勉強しているはずのエリが上着を着てどこかへ行っていたように見え、ホールでニコニコと出迎えた彼女はファスナーを開けて下から部屋着のトレーナーとスカートを覗かせた。彩香は手に提げたビニール袋を下駄箱の上に載せ、かかとに指を入れて靴を脱いで框に足を上げた。

 

「どうしたの、ブルゾン着てるじゃない」

「えへへ、なかなか帰ってこないから外へ見に行ってたのよ」

「そう。遅くなってごめんね」

 

 正直、エリの言動には疑わしいものがあったが、だからといって何の証拠もなく怒る訳にいかなかった。話を合わせた彩香はビニール袋から半透明のタッパーを出してエリに見せた。

 

「母さんが作った煮物をもらってきたの。それとコンビニで買った弁当で今日は夕食にしましょ、少し早いけど」

「じゃあ、手を洗ってくるわ」

 

 素直にエリが廊下へ走っていき、彩香はふーっと息をついてスリッパを履いてビニール袋を手に取った。

 ダイニングで席に着いた二人は上着を隣の席に置いて手を合わせ、弁当の蓋を取ってテーブルに置いた。コンビニ弁当の脂っこい唐揚げをエリはおいしそうに頬張ったが、向かい合う彩香は少々胃に重く感じた。こういう時はタッパーに入ったニンジン、ごぼう、しいたけのあっさりした母の味付けが有難かった。

 食事が終わって彩香が流しでタッパーやコップを洗っていると、カウンターにエリが近寄って上目遣いで手を組んだ。

 

「姉さま、明日はどこにも行かないよね」

「え、明日は…。ああ、お姉ちゃんとこに見合いの服を貸してもらいに行くわ」

「それってすぐ済むんでしょ」

「まあ、そんなにはかからないかな。でも何で?」

「うんとね。午後からカフェでコーヒーの試飲をして欲しいんだ」

 

 見つめるエリの瞳は彩香に桂木邸での朋己の顔を思い起こさせた――スマホを持ってリビングから戻った彩香が二階の廊下に上がった時、シクシクとすすり泣く声が聞こえてきた。朋己を残した和室からであった。入り口に近づくと話しかける声がして耳をそばだてたが、何を言っているかは聞き取れず彼は号泣に変わった。彩香は入っていくタイミングを逸し、一人ただ廊下にたたずんで腕をさすった。しばらくして部屋は静かになった。畳の上を忍び足で歩いて仏壇の前へ行くと、正座する彼が振り向いた。赤く目を腫らして笑う朋己にぎこちない微笑みを返し、畳にぺたんと座ってどぎまぎして祖父の遺影に手を合わせた。

 朋己を舞島学園の寮に送っていく車中、彩香はそれとなく悩み事がないか聞いた。状況から嬉しくて泣いたとは思えなかった。だが彼は相変わらず心の内を語ろうとせず、姉として頼りにされていないと思うと無力感を覚えた。

 彩香が洗い物をする手を止め、シャワーヘッドからの水はザーザーと排水溝に注がれた。流しを覗いたエリはカウンターに両手をついて不満げに見上げた。

 

「ちょっと~、わたしの話ちゃんと聞いてるの」

「えっ。なんの話だっけ」

「ヒント、『コ』から始まる黒い飲み物」

 

 もう一度関心を向けた彩香へ、エリが人差し指を立てた。彩香は水道を止めて彼女の得意そうな表情に見入った。

 

「そういえば、明日コーヒーを淹れてくれるとか…」

「うんっ。それで姉さまは黙ってカフェに座っててくれればいいから」

「へぇ、自信があるのね。少しは腕が上がったのかしら」

「そりゃあ、もう……フフフフ」

 

 明日はカフェに彩香を座らせ、そこへメルクリウスが歩美の孫を連れてやってくる。コーヒーを淹れて飲ませている間に時間が過ぎれば見合いが成立して煎餅ビンをもらえると計算した。エリは力こぶを作ってニヤニヤと笑った。

 

「なーに、いきなり変な顔しちゃって」

 

 コップを水切りかごに入れた彩香は手で口を押さえてくすくすと笑った。兄と違って面白い顔をする子。エリの面倒を見るのが今は自分の役割なのだと思えた。幸い、朋己は養子の件で家裁審判が確定する日まで志穂と定期的に連絡を取り合う。彼の気がかりな行動は母に話して対応を委ねようと思った。

 彩香はシンク扉に掛けたタオルで手を拭き、スリッパをパタパタさせてキッチンの角を回った。

 

「あ、エリ、待ってちょうだい」

「ん?」

 

 ブルゾンを腕に抱えたエリがリビングの戸の側で立ち止まり、彩香は椅子からスタジャンを手に取って早足で彼女の元へ向かった。

 

「試験の木曜はすぐよ。今日はちゃんと勉強してたの」

「うん。志穂母さんからもらった問題集は全部終わらせたし」

「じゃあ、昔の舞島学園の動画見せてあげるわ」

 

 彩香の方が戸を引いて廊下を先立って階段を上がった。二階の廊下を奥に進んだ彩香はぶるっと震え、小窓が開いてないかトイレ横の手洗い場へ振り返った。なぜか奥の空気は冷たいのだ。目をさらす彩香の脇をエリが擦り抜けて自分の部屋に入っていった。

 部屋に入ってエリはまず床に転がる壊れた窓の錠を学習机の下へ蹴っ飛ばした。次に散らかった煎餅をつま先で一ヶ所に掻き集め、その上にブルゾンを掛けて覆い隠した。女神が訪ねてきた事は話せないし、明日の見合いも寸前まで知られてはいけない。怪しいものを片付けてビュービューと風が入る窓へ走った。

 エリの部屋に足を踏み入れた彩香は床に落ちている煎餅を拾い上げた。窓際でエリは閉めた窓にカーテンを端まで引っ張り、振り返って苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

 

「アハハ、窓を開けたままだった」

「寒い部屋ね。あんたたち、お菓子食べながら何してたの」

「え、あ、それはみちほが持ってきて…」

「ふーん、母さんの問題集は用意してあるんだ」

 

 彩香は部屋を見回しながら学習机に煎餅を置いた。ほとんど口をつけていないコーヒーのカップがほったらかしで、受験勉強をしていたように取り繕った感じがした。机上を眺めて本来は説教すべきなのだろうと考え込んだ。

 腕を抱える彩香の背後にエリは音もなく回り込み、背中から抱きついて体の方向を変えた。

 

「姉さまの部屋行こうよ。舞島学園の動画見せてくれるんでしょ」

「うーん、そうねぇ」

「さ、早く早く。時間がもったいないわ」

 

 背中をエリが部屋の扉へ強引に押した。彩香は受験直前の大事な時期にストレスを与えるのは良くないと考え、試験が終わるまでは多少の横着や我がままを大目に見ることにした。今はまだ仮の姉妹だが、彼女が中学を卒業する頃には正式に養子縁組が認められる。廊下に出た彩香は「制服も残ってるのよ」と納戸の入り口を指差し、肩を組んでエリに微笑みかけた。

 

 黒田家の一階にあるテレビのない居間は主にプライベートな客の応接に使われ、二世帯が朝晩の食事と水回りを共有する母屋において端の部分は台所や風呂と離れを結ぶ生活導線でもあった。

 夕食の片付けを終えた美雪はカーディガンを羽織って湯呑みを持って台所を出た。廊下側の隅に行って台の前で壁に掛かったカレンダーに目をやり、日曜日の欄に書かれた「寺」の字を確認してお茶をすすった。少しして戸が開き、居間に頭頂部の薄い男性が入ってきた。彼は美雪の義父である。彼女は台に湯呑みを置いて申し訳なさそうな顔で振り返った。

 

「お湯冷めてませんでしたか。裕太が勝手に入ったせいで」

「いや、いい湯だったよ」

 

 義父は上に着た袖のないダウンジャケットを手であおぎ、彼女が見ていたカレンダーへ目を向けた。

 

「美雪ちゃん、午前中は掃除だろ。みちほが起きたら朝食は食べさせておくから」

「いえ、いいんです。あの子も中学生だから自分でやらせないと」

「まあまあ、遠慮しない遠慮しない。それじゃ、お休み」

 

 気さくに話しかけて彼は真っ直ぐ部屋の端まで行き、渡り廊下の扉を開けて出ていった。美雪は壁へ体を向けて吐息をついた。大学を中退して従兄・真裕とのでき婚から十五年。黒田家に転がり込んだ時こそ驚かれて遠慮もされたが、今では義理の娘より姪への応対に近かった。気の強い彼女は母・志穂が訪ねてくる度に言う「迷惑を掛ける娘」という嫌みに反発し、なるべく義母や義父の助力を仰がずに子育てをしてきたつもりだった。しかし、現実は聞き分けのない裕太と京太は言わずもがな、みちほは小さい頃から義父に頼るのが常態化してしまっていた。寺の掃除は必ず夫婦で参加する決まりであり、二人のいない間に朝遅く起きたみちほがスマホで離れの祖父を呼び出すのは目に見えた。

 廊下からドンドンと床が響いて脱衣所の戸が閉まった。みちほがゴキゲンな時は廊下を跳ねる音が大きく、今夜は部屋で夜通しゲーム三昧なのかと美雪は頭を押さえた。育て方を間違えたと後悔の念に駆られていると、台上で統合端末のディスプレイが光って反射的に受話器を取った。

 

「はい、黒田です。いつもお世話になっています」

「こんばんは、美雪姉さん。ちょっとみっちゃんとお話したいんですが」

「エリちゃんね。ごめんなさい、みちほは今お風呂に入っているの。もしかして、昼間何かあったのかしら」

「あの、それがその……」

 

 エリは送ったメッセージが読まれないので心配になって電話をかけたのであって、美雪に桂木家で行われる見合いの話はできなかった。だが、うまく彼女の耳に入ればみちほも明日はすっぽかせないと思った。

 

「実は今日、ボサボサの髪で廊下に出てきて配達の人に変な目で見られました。そのせいでへそを曲げちゃって」

「ま、あの子が怒ったの。珍しいわね」

「ええ。ちゃんとブラシで髪をとかしたら可愛くて非の打ち所がないのに」

「ありがとう、褒めてくれて。でも少し褒め過ぎよ」

「いいえ、みっちゃんは元がいいからもっと自信を持って欲しいんです。明日の朝、出かける前に洗面所で身だしなみを整えて来れば突然人が来ても問題はありません。あ、午後は他に人が来ますけど…」

「ふふふ、分かったわ。明日はきちんとした恰好でみちほを行かせるから」

「はい、よろしくお願いします。お休みなさい」

 

 みちほが見合いの手伝いに来るのが確定し、エリは声を弾ませて電話を切った。美雪もみちほを何かと心配してくれるエリを面倒見のいい子だと感心して統合端末のカメラへ微笑んだ。桂木家に預ければ義父の手を煩わせることなく一石二鳥だった。

 居間を出た美雪は廊下の奥へ向かった。みちほの部屋の戸を開けてずかずかと布団を敷きっ放しの小上がりに近寄り、掛け布団をテレビ画面側の端から引っ繰り返した。案の定、横置きしたゲーム機とコントローラーが現れた。彼女はディスクの回転音が唸るゲーム機の後ろから電源ケーブルを引っこ抜き、畳から膝を下ろしてパンパンと手についたほこりを払った。

 

「桂木家に人が来るとしたら純一君たちか母さんぐらいね。そうか、養子の件で……それじゃあ大人びた服は禁物だわ。子どもは子どもらしくってよく言ってたし」

 

 小上がりの側にあるクローゼットを開け、ポールに掛かったハンガーを一つ一つ手に取った。志穂の眼鏡に適う服装がないかと探した彼女は去年買った一着のスカートが目に留まった。みちほが小学校の卒業式に履いていき、その日に撮った写真は居間に飾ってある。初めて見た志穂が思わず目尻を下げた写真だ。これなら文句を言われないだろうと美雪は大きく頷いた。

 




―― 次章予告 ――

午後、桂木家に少年がやってきた。煎餅ビンを受け取ったエリがカフェで見合いを始め、彩香は小首をかしげて黒田家へ出かけた。そして、みちほが家に帰ると夕食がパーティに… ⇒FLAG+19へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+19 風が止んだら
思惑こもごも


―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
エリの卒業まで二ヶ月を切り、兄妹揃って正式な養子となるため、朋己は彩香と鳴沢市の桂木邸を訪れた。彩香と二人になった彼は見合いの話を聞き、前向きな彼女の言葉に肩を落とした。
舞島市ではエリが公園で弱った駆け魂を探し回った。一匹しか捕獲できずに帰ると、女神・メルクリウスが待っていた。彼女は世話になる歩美の孫との見合い話を持ち掛け、『いいもの』をくれると言った。暗い夜の公園、彼女の煎餅ビンは弱った駆け魂を次々と吸い込んだ。光景に見とれたエリは明日の桂木家での見合いを快諾した。
エリは桂木邸から帰った彩香にコーヒーの試飲を頼み、黒田家に電話をしてみちほが来る手はずを整えた。
エリによる見合いは彩香を前提に画策され、座っていれば良い極めて安直なものだった。



 メルクリウスと約束した日曜日。桂木家の昼食は早めに済み、時刻は正午を過ぎた。カフェでは彼女が連れてくる人物との見合い準備が少女たちによって着々と進められた。

 気だるそうなみちほの顔は血色が良く、髪はしっかりとブラッシングしてあった。昨夜、風呂上がりに部屋の戸を開け、小上がりに座る母・美雪が足を組んでゲーム機を叩くのを見て怒られると凍り付いた。が、母は予想外にニコニコして畳んだブラウス、吊りスカート、タイツを脇に置き、明日の朝起きて寝ぐせを直して桂木家へ行くよう言いつけた。みちほは向こうに着いてから寝れると踏んで夜中まで乙女ゲームをやり、2D美少年の声で目を覚まして髪をとかして身支度し、朝食後に美雪が運転する車で送ってもらった。

 

「せっかく、エリ姉のメッセージ無視してたのに。母さんに告げ口した奴は誰だよ」

 

 みちほは床を掃くのが面倒になり、箒を後ろのカウンターに立て掛けた。椅子に浅く腰掛けた尻を丸い座面を跨ぐように後退させ、装具を付けた足首を反対の膝に乗せてあぐらをかいた。履いてきた赤いチェック柄のスカートの丈は一年足らず前に膝が出るくらいだったのが、十センチ以上も背が伸びてその分スカートの裾から余分に白タイツの太腿を覗かせた。

 カウンター席後方は快晴の日差しがガラス張りの窓から射し込んで床が温かかった。みちほは祖父がチョッキ代わりにするダウンベストを借りて上着にしていた。寒いと感じないものの、カフェは換気のために窓が少しずつ開いて時折冷たい風が吹き抜けた。

 

「へぇっ…へくしょんっ」

「あ、そうだ、そろそろ窓を閉めとかないと」

 

 カウンターの中のエリはコーヒーカップを拭く布巾を置き、飛び出してテーブル席の窓を下げて回った。ちょこまかと作戦の準備に余念がない彼女に、みちほは片肘をついてカウンターに寄り掛かって視線を送った。

 

「そんで今日は何すんのさ」

「な、なんて恰好。その短いスカートであぐらはやめなさい、みちほ」

「だって、この方がラクなんだもん」

「ここは家じゃないし、これから男の人が来るのっ」

 

 ガラス張りの窓を閉めて振り返ったエリが血相を変えるも、悪びれる様子もなくクロスさせた足のつま先でカフェのスリッパがぶらぶらと揺れた。彼女はみちほのはしたない座り方に渋い顔をして近寄った。両手でスリッパを装具のベルトまではめて足掛けに下ろすと、隣の空いた席にスカートの裾を整えて腰を下ろし、両膝をみちほへ向けてその上に手を置いた。

 

「もぉ、みちほがソファーで寝てる間にカフェを一人で掃除してたのよ。ちょっとぐらい真面目に手伝っても……まあ、いいわ。メッセージは読んでくれた?」

「目は通したけどさ。コーヒーの試飲が叔母さんの見合いとはならないだろ」

 

 みちほはもたれてない方の肩をすくめた。昨夜は母にデータを消されたゲームを元のところまでやり直し、メッセージは寝る前に一読しただけだった。作戦をあざける態度に思えてエリは心中穏やかでなかったが、怒りを押し殺してわざと口元を緩めた。

 

「チッ、チッ、チッ。リアルは別々のイベントを同時にこなせるのだよ」

 

 出し抜けにエリが人差し指を振って胸を張り、みちほは乙女ゲームをバカにするかのような物言いにムッとした。股の間に両手をついて前傾姿勢で食ってかかった。

 

「だったら、その作戦を教えてもらおうじゃんか」

「ふふふ。いい、女神様御一行には彩香さんは予定があるから、見合いは三十分と断って同じ席に着いてもらうの。そして一言も『見合い』と言わず、偶然入ってきた男性とコーヒーの試飲を始めるのよ」

「偶然って…どうして入ってくんだ。それにカフェは開店休業中なんだぜ」

「塀のロープを外してあるし、看板もOPENに変えてあるわ。あとはみちほとメルクリウスさんが加わって4人でテーブルを囲めば、改まった感じがしないから彩香さんも怪しまないはず。みちほはうまく会話をコントロールしてね、乙女ゲームみたいに」

「はぁ。本気か、エリ姉」

 

 エリの自信満々な顔を目の前にし、いつにもまして行き当たりばったりな作戦に目をパチクリさせた。いくら人のいい彩香でもエリが正体の分からない男性をコーヒーの試飲に参加させて不審を抱かない訳がない。みちほは目をつぶって記憶しているメッセージを頭の中で黙読した。文章は女神・メルクリウスが来た事のアピールから始まり、続いて作戦の内容がざっくりと書かれ、文末は「明日は煎餅ビンを手に入れるぞ!!」で締めくくられた。

 カウンターには白い布地と布が付いた湾曲する細い物が置かれた。それらを取ったエリが椅子から下り、スカートの後ろでギュッと紐を結ぶと腰に手を当てた。

 

「それじゃあ、わたしの淹れるコーヒーを飲んでしっかり目を覚ましてね」

「なあ、煎餅ビンって一体何なんだ」

「え、何って煎餅を入れる瓶に決まってるじゃない。それより、どうかしらこの恰好。二階の納戸で昨日見つけたんだけどウェイトレスの制服の一部らしいのよ……フフッ」

 

 エリはフリル付きの前掛けとカチューシャを身に着けて小悪魔のような笑みを浮かべた。部屋着のトレーナーとスカートの上に少しカッコ付けただけの彼女が嬉々として通り過ぎ、みちほは再び片脚であぐらをかいてふくらはぎをポンと叩いた。

 

「こりゃ、かなり熱を上げてるな。だとすると…」

 

 煎餅ビンが欲しくてたまらないエリが強引に事を進めようとしているのだと察し、今回は早々に失敗すると高を括った。みちほが家に帰ってやることは一つ。昨日迎える予定だった乙女ゲームのエンディングを想像してへらへらとにやけた。おそらく、最後は異世界ファンタジーで一緒に戦う美少年との濃厚なキスシーンが待っていた。

 

 

 背中の白い翼を水平に広げたメルクリウスが住宅街の数十メートル上空をグライダーのように悠然と飛んだ。煎餅のガラス瓶を持たせた少年を胸に抱え、前髪から出たとろんとした片目で真下の家々から桂木家を探した。彼女はお目当ての三角屋根を見つけると、円を描きながら高度を下げていった。

 メルクリウスは歩美夫婦が経営する煎餅店でメイド服を着て来客への応対と配達を担い、店舗兼住宅で彼らと家族同然に暮らした。この少年こそが見合いをさせる歩美の孫だった。玄関ポーチに下ろされたジャージ姿の夏也はガラス瓶を手渡すなりブルブルと震えて腕や太腿をさすった。

 

「う~、さぶさぶ。空飛ぶのがこんなに寒いなんて」

「まあまあ、桂木家には床暖房とやらがあってすぐ体が温まるからな」

 

 ガラス瓶を片腕に抱えてメルクリウスは遠慮なく取っ手を引いたが玄関ドアは重くて開かなかった。ぽかんとした顔が後ろへ向き、夏也はポケットに手を突っ込んで首を横に振った。

 

「玄関は施錠するのが普通なんだ。メルが配達に行く田舎の方はそうじゃないけど」

「それでは家の中にいる人が出れないのだが…」

「中からは普通に開くんだよ。外からは取っ手のセンサーで指紋認証をしてるんじゃないかな」

「そうか。では、直接彼女を呼ぶか」

 

 メルクリウスは玄関ポーチの手すりまで下がって二階の窓を見上げた。手を口横に当てて今にも叫ぼうとする彼女へ、慌てて夏也は両手を大きく広げた。

 

「うわー、ダメダメ」

 

 必死な形相の夏也が口の前に人差し指を立て、唇を震わせて「しーっ」とメルクリウスの顔へ唾を飛ばした。

 

「家の人が出てきたら困るんだよ。彼女と二人きりになりたいのに」

「それなら後から二人にしてもらえば良いではないか」

「甘い、甘いぞ。世の中は素直に娘との交際を認める親ばっかじゃないんだ」

「そうなのか。聞いた話では親が見合いを勧めるはずだったが」

 

 微妙に会話が噛み合っていない原因は社会常識のないメルクリウスが言う「見合い」をデートと解釈したせいだが、夏也はそんな些細な違いは気にしてなかった――商店街で見かけたスラッとした女の子。気が強そうな澄ました顔の彼女と一度話してみたい――欲望を胸に秘めてこの機会を逃すまいとやってきた。

 

「いいかい、メル。女子と仲良くするには雰囲気が重要だから、見合いは邪魔が入らないようにしなくっちゃ」

「お、おう、分かった」

 

 メルクリウスはいつになく積極的な夏也に戸惑った。普段は明るく爽やかな少年があわよくば一気にラブラブな関係を築こうと目をギラつかせ、唾の垂れた指を振って彼女のエプロンに染みを付けた。

 一案を思いついた夏也がポケットからスマホを出し、画面にせかせかと指を擦らせた。メルクリウスは頭を掻きながら反対側から覗いた。

 

「もう見合いの時間だぞ。一体、何をしているのだ」

「桂木だっけ、家庭電話の番号が市民電話帳に載ってないかと思ってね。電話をして彼女だけ出てきてもらうんだよ。えーっと、ここら辺だと美里西かな、それとも美里南かな」

「夏也、お前も女にマメな性格だな」

 

 あきれたメルクリウスは手すりに腰掛けて右左と目を向けた。左の方向には多角形の建屋の上げ下げ窓から屋内が見え、明るい奥にチラチラと影が射した。中に誰かいるのだろうかと彼女は玄関ポーチから庭土に足を踏み入れた。

 電話帳サイトに「桂木」の記載を見つけられず、夏也は顔を上げて辺りを見回した。スマホを操作する間にどこかへ行ったメルクリウスは三角形の壁に挟まれる空間にしゃがみ、桂木家から飛び出した建屋の窓を角度がない方向へ斜めに覗いていた。彼女の後ろに立った夏也は窓から雑然と並ぶ二人用テーブルと椅子を見て使われてない店舗だと思った。

 

「へぇー、面白い形してるなあ。ああ、あそこが入り口だ」

「そっちじゃない。反対側をよく見てみろ」

 

 メルクリウスが教えた方向はガラス張りの窓があり、その上半分は彼女が女神の力で鏡に変えたことよってカウンター席の様子が映った。夏也はショートカットの少女の横顔を見つけるや否や身を乗り出した。

 

「あの子だ、今日は髪留めしてるのか。なんだか前と違う感じがする」

 

 店の奥へイタズラっぽく笑いかける表情が夏也の興味を掻き立てた。ドスンと彼の体重が背中にのし掛かり、メルクリウスは顔をしかめた。

 

「う、浮かれるのは早いぞ。彼女の後ろで動いてる家の者は邪魔なんだろ」

「あれ、奥にいるのは確か……」

「桂木えりだ。私は眠らせる術は使えないがどうする?」

 

 鏡の隅に映るエリを指差してメルクリウスは振り返った。だが、すでに彼は行動していた。

 

「夏也、どこへ行くんだ」

 

 メルクリウスに背中を向けて歩き出し、夏也は肩を押さえて腕をぐるぐると回した――転校してきた瞳の大きいキュートな女の子。クラスが違う彼女と落ち着いて話ができる――滅多にない機会に意気込んだ。しかも、期せずして両手に花状態になって嬉しくないはずはなかった。

 

「エリさんは一緒でも別にいいんじゃないかなぁ」

「な、さっきは『二人きりになりたい』と言っていたではないか」

 

 夏也の移り気にメルクリウスが目を大きく見開いた。彼女は口に出さないものの、彼にも歩美のように長く添い遂げられるパートナーを見つけて欲しいと思っていた。もっとも、食う寝るに困らない高原煎餅店は居心地がよい快適な生活拠点であり、夏也が跡を継いで店を守ってくれるのを期待しているからでもあった。

 

「やれやれ、人間とは現金なものだな…」

 

 メルクリウスは膝に手をついて立ち上がり、夏也の跡を追ってカフェの入り口へと向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

チェンジ

 エリはサーバーから湯気が立つコーヒーを得意げにカップへ注いだ。受け皿に載せて丸いお盆の真ん中に置き、両手で持ってカウンターの中を出て運んだ。久々に桂木家のカフェで挽いた豆から抽出したコーヒー。みちほの側まで来てお盆を片手に持って受け皿を親指の付け根に挟み、カウンター席で横を向く彼女の背後に「ほい、出来上がり」と腕を伸ばした。

 カウンターに皿を置こうとした時、ガラガラとカフェの戸が開いた。壁のアナログ時計は長針が真下を回ったところを指す。一時過ぎにメルクリウスが大人の男性を連れてくると思っていたエリはハッとして入り口の方へ顔を向けた。

 

「え、もう来ちゃった……じゃないな。高原くん、もしかして同じ住宅街に住んでたの?」

「あん、どこの誰が来たって」

 

 振り返ったみちほの肘が当たってカウンターに掛けた箒がパタンと倒れ、同時に丸椅子が回ってつま先で箒の柄を蹴っ飛ばした。その結果、箒は一回転して穂先がコーヒーカップの受け皿に軽く触れた。箒は以前にカフェの倉庫でエリが見つけたもので、筆状になった穂の先でちりやほこりを消滅させる能力を持った。おまけに、柄のダイヤルを回すと威力が上がってそれ以外の物を吹き飛ばす能力があった。

 

ドォーン

 

 受け皿ごとカップがカフェの入り口へすっ飛んでいき、夏也にぶつかる数十センチ手前で突如破裂した。この間、コンマ1、2秒。陰から現れたメルクリウスが人差し指を向けて指先から女神の力をビームのように放射して破壊したのだった。陶器の破片は粉々になって飛び散ったが、液体は半分程蒸発して残りは彼の着るジャージの胸にかかった。

 

「わっ、アチチ。一体何が起こったんだよ」

「説明すると長くなる。いいから、早く上着を脱ぐんだ」

 

 メルクリウスに言われた通り夏也はジャージの上着を脱ぎ、長袖シャツの胸の辺りを手で何回か撫でた。

 

「ふぅ、下まで染みなくて良かった」

「油断は良くない。やけどにならないように冷やしてやろう」

「高原くん、大丈夫?」

 

 彼らの元に来たエリが布巾を手に心配そうな表情で見上げた。彼女にじっと顔を見られ、夏也は嬉しそうに頷いて頭を掻いた。安堵したエリは側にいるメイド服を着た女性がメルクリウスと気づいて驚いた。

 

「うぇっ、メルクリウスさん。いつから…見合い相手はどうしたんですか」

「何を言っている、ちゃんと夏也を連れてきたぞ」

 

 メルクリウスが彼の胸に手を当てて女神の術を使いつつ顔を向け、夏也へ目をやったエリは腕組みして考え込んだ。夏也が見合い相手ということは彼が歩美の孫になる。歩美と十五歳の彼との年齢差を七十五と見積もり、歩美と彼女の子がそれぞれ三十代後半で子供を作れば辻褄が合わないこともなかった。

 カフェの奥にある扉が開き、大きな物音を聞きつけて彩香が保湿クリームを頬に塗り込みながら桂木家から入ってきた。

 

「ちょっと、あんたたち何暴れてるのよ」

 

 彩香は眉をひそめてカウンターの角を回った。呆気にとられるみちほの横を通り過ぎて腕を組んで仁王立ちした。入り口の戸は下の方にできたへこみと亀裂を隠すため段ボールが貼られ、てっきり、今日もエリたちが悪戯して何かを壊したと思った。だが、入り口脇に置かれた人工観葉植物の側にエリと高校生ぐらいの背丈の男女がいるだけで首をかしげた。

 

「あら、さっき大きい音がしたと思ったんだけど…」

「これはこれはお代官様。これはつまらぬ物ですが、どうぞお受け取り下さい」

 

 追い払われるのを恐れてメルクリウスはつかつかと彩香に近寄り、テレビで聞いたセリフとともに煎餅ビンを両手で差し出した。煎餅ビンは六匹の白い悪魔の霊魂が詰まっていた。けれど、普通の人間である彩香には空のガラス瓶にしか見えず、恰好からして冗談だと苦笑して受け取った。

 

「お、重いわね、これ。ははは……それで、あなたはエリの友達なのかしら」

「いやいや、私は夏也の見合いについてきただけだ」

「えっ、お見合い?」

 

 メルクリウスは眠そうな目をして真面目に言っているのか判断できなかった。困惑する彩香がガラスの瓶を腹に抱えて突っ立っていると、エリが入り口からバタバタと駆けてきた。

 

「待った待った。それはわたしがもらう予定なんだから」

 

 エリは丸めた服を天井へ突き上げ、煎餅ビンを持っていかれては困るという顔を向けた。彩香は彼女が仕組んだ事だとピンときた。「ついてきて、エリ」と言って体を後ろへ向け、ガラス瓶を落とさないようにそろそろと歩き始めた。

 奥に行った彩香は煎餅ビンをカウンターの角に置き、振り返って呆れ顔でエリを問い詰めた。

 

「で、あの人たちはどこの誰なの」

「三年一組の高原くんと、一緒に来た女性は女神…め、目が見えにくいお姉さんだよ」

「ふーん、同じ中学の子なのね。それで今から彼と何をするの。見合いがどうとか言ってたけど、受験前なんだし、羽目を外して遊んでちゃダメって分かってるわよね」

「え、えっと、その……」

 

 エリは腰に手を当てた彩香の顔がグッと近づき、見合いの話がバレて返答に窮した。夏也が来る事自体が想定外の出来事だった――なんでメルクリウスさんは大人の男性を連れてきてくれないのよ。作戦が台無しだわ。高原くんじゃ、どう見ても彩香さんと釣り合わないもの。ぜんぜん年齢も近くないし――と横へ視線を向けたエリはこの場を切り抜ける解決策に気づいた。

 

「あのね、実はみちほを紹介して欲しいって彼に頼まれたんだ」

「へっ。みっちゃんが男子に…」

 

 今度は彩香の方が絶句した。桂木家に来る姪のみちほはぶすっとした愛想のない顔を見せることが多く、姉の陰険な子供時代をいじめられた彩香に思い起こさせた。そーっとカウンターに手をついてみちほの陰から入り口の少年を覗き見た。襟足が少し伸びて女の子みたいな髪型だが真ん丸な瞳をして顔は悪くない。舞島学園に通う以外は家に引き籠もりがちと聞く彼女を知っているとなると、近くに住む男の子なのだろうかと色々と考えを張り巡らせた。

 彩香の頭が混乱していると感じ取り、エリはおずおずと染みを上にしてジャージを両手で持ち上げた。

 

「そ、それと姉さま、このジャージの上着にコーヒーをこぼしちゃってね」

「ああ、それは早く落とさないと。分かったわ、私に任せなさい。あなたたちしばらくここに居るわね。洗濯機に入れたら、お姉ちゃんの家に行ってくるから」

「うん。行ってらっしゃい」

 

 みちほと染みのことで頭がいっぱいになり、煎餅ビンを置いて彩香は家に入っていった。エリはしめしめと手で口を押さえた。しかし彩香に替わってカウンター席の椅子の上を四つん這いでしゃかしゃかと、みちほが凄い剣幕で迫った。

 

「何無責任なこと言ってんだよ。わたしをガラス瓶と交換するんじゃねえ!!」

「さて今日は日曜か。昼ドラの週間予約しなきゃ」

 

 エリがくるりと後ろを向いてM42をいじり始め、みちほは背中に噛みつかんばかりにこぶしを握って口をパクパクさせた。

 

「わ、わたしは家族以外の男と喋ったことないんだぞっ」

「ふーん」

 

 猛抗議を意に介さずエリは下を向いて指を動かし続けた。真面目に聞いていない態度に不満げなみちほは椅子から立ってタイツのずれを直し、ドカッと腰を下ろして斜めに足を組んだ。

 

「フン、あっちだってこんな変な取引に利用されていい迷惑だろ」

「そうかな。そしたら、高原くんは嫌々うちに来たの」

「ん?」

 

 みちほはエリの疑問に言葉を失い、きょとんとして椅子を反転させた。入り口の脇に立つ夏也は小さく手を振って微笑みかけた。途端に組んだ足を下ろして彼女が頬を赤らめ、股を閉じて中が見えないように短いスカートの裾を引っ張った。夏也にリアル男子を意識したみちほ。2D美少年とのエンディングは頭から消え、カフェに漂う深煎りコーヒーの香りがツンと鼻の奥へ突き抜けた。

 

 

 エリたちが見合いをしている頃の黒田家。カーディガンに袖を通した美雪は階段に掛けた足を下ろして玄関へ向かった。玄関脇に車の停まる音がして彩香が戸を開けると珍しく愛想よく出迎え、それから足元にスリッパを置いて二階のクローゼットに向かわず居間に通した。

 

「じゃあ、ゆっくり座っててちょうだい。お茶持ってくるから」

「えっ。気を遣わなくていいわよ。どうせ服を借りたらすぐ帰るんだし」

 

 彩香は手をパタパタと横に振った。今まで一度もお茶を出してくれたことはなく、元が意地悪な姉に無茶な頼み事をされないか不安混じりに上着のポケットに手を入れた。

 一方、台所に入ると美雪は戸をきっちりと閉めてテーブルの奥へ回り、スカートのポケットからスマホを出して電話をかけた。その目的は二階で昼寝をする真裕を叩き起こす事であり、自慢げにのろけ話を聞かせる相手の妹にだらしない夫の姿を見られたくはなかった。しかし、いくら待っても電話に出る気配はなく、舌打ちして美雪はスマホを仕舞った。

 居間は窓際のサイドボードの上に子どもたちの写真が所狭しと飾られた。暇を持て余した彩香はソファーの後ろから眺め、実家でも同じように応接間に飾ってあるのを思い出した。母・志穂への対抗心なのかと首をひねる彼女の後ろに台所から美雪が丸いお盆を持って戻った。

 

「なに立ってるの、彩香」

「あ、ちょっと写真を見てて。今日のみっちゃん、そこの写真と同じ服着てたけど、ずいぶん背が伸びたと思ってさ」

「ふふふ、成長したでしょ。みちほもやればできるのよ」

 

 美雪は桂木家でみちほを見て生活態度を改善させたと志穂が少しは自分を評価するだろうと柔和な笑顔になった。ローテーブルの左寄りに来客用の湯呑みを置いてソファーの右側に座り、真裕が起きるまで彩香と雑談でもして待つことにした。

 母親の顔を見せる美雪に、彩香は杞憂だったのかなと恐る恐るソファーの左側に腰を下ろした。

 

「そうそう、エリは毎日身長測っててね。高校卒業するまでに155cmを超えるんだって」

「155なら大丈夫じゃない。私も高校入ってから四、五センチは伸びたわ」

「でも、あの子はお姉ちゃんみたいに背が高くないから」

「そうね。それにしても、彩香が車で来るなんて珍しいわね。ちはるさんに借りたのかしら」

「ええ、鳴沢に朋己を連れていくために。昨日養子の件を話してきたの。これで朋己もエリも三月には正式に桂木の籍に入るわ」

「……えっ、昨日って。じゃあ今日は母さん桂木の家に来てないの」

 

 計算が狂った美雪は急に体を彩香へ向け、思わず膝に置いたお盆を下に落とした。カランという床に響く音にビクッとして彩香は湯呑みへ伸ばそうとした手を引っ込めた。

 

「へっ、なんで母さんなの。今日はエリの友達が来てるのよ」

「友達が来てる…ということは、エリちゃんはその事を言っていたのね」

 

 美雪はエリからの電話で桂木家に志穂が来ると勘違いしてしつけの成果を見せつけようと目論んでいた。当てが外れて悔しそうにサイドボードの上の写真に目を向け、卓上から湯呑みを取ってお茶を一気に飲み干した。

 突発的な美雪の行動に彩香は呆気にとられたが、エリが連絡をとっていたと知って彼女は桂木家での見合いの話を自分だけ知らなかったのかと口を尖らせた。

 

「なんだ、お姉ちゃんも見合いの話知ってたのね」

「何言ってるの。お見合いって、あんたがするんでしょ」

「今日うちのカフェでやってる方よ」

「え、結婚相談所にカフェを賃貸してるの?」

「はぁ、何それ」

 

 姉妹は互いの言う意味が分からなくて顔を見合わせた。沈黙する彼女たちのいる居間に渡り廊下の扉が開き、伯父でもある美雪の義父が入ってきてソファーの後方で彩香へ手を上げた。

 

「やあ彩香ちゃん、いらっしゃい。ところで、そっちに行っとるみちほはしばらく帰らんのかい」

「あ、お邪魔してます。多分そうだと思います。みっちゃんは男の子と会っているので」

「そうか、居ないなら掃除してやろうと思って今から……今、なんか言ったかな」

 

 一瞬立ち止まった彼は足早に彩香たちの後ろをぐるりと回り、対面するソファーに浅く腰掛けて前方へ顔を突き出した。

 

「みちほが男の子と会っていると聞こえたが…デ、デートなのか」

「みちほがデートですって!」

 

 ようやく話が飲み込めた美雪は口に手を当てて驚いた。彩香の話を総合すると、桂木家にエリの友達の男子が来てカフェで会っていることになる。エリと同学年なら二歳年上の彼。美雪たちはみちほが他人と会話する姿を微塵も想像できなく、それだけ部屋に籠ってゲーム三昧の娘は社会性に難があると思われていた。

 美雪がローテーブルの下からお盆を拾い上げ、空の湯呑みを片手に掴んで立ち上がった。

 

「喉が渇いたでしょ、代わり持ってくるわ。そうだ、お歳暮にもらった羊羹が残ってるのよ」

「えっ。ほんとに気を遣わなくても…」

「いいから、いいから。ゆっくり座っててちょうだい」

 

 嬉しそうな顔をして美雪は居間の隅へ向かった。統合端末のパネルを押した彼女が反転して台所の戸を開けると、エアコンが動き出して急速に部屋の空気を暖めた。正面のソファーに座る伯父は話を聞き漏らさないように、せっせと耳に小指を入れて耳垢をとった。

 彩香はいきなりの歓迎ぶりにお尻がむずむずしたが、みちほの恋愛は多分、黒田家の一大事なのだろうと思って上着を脱いで膝の上に置いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

攻略とリアルと

 みちほは椅子の上で背中を丸めて奥へ向き、カウンターの角を指でトントンと叩いた。メルクリウスがいたとしても空気感は夏也と二人きりの状態。煎餅ビンを持ったエリが桂木家に入ってから僅かな時間しか経っていなかったが、一日千秋の思いでキッチンへの扉に目をやった。

 

「エリ姉、早く戻ってきてくれぇ~」

 

 蚊が鳴くような声でみちほが弱音を吐くと、扉が開いてカフェにエリが現れた。駆け魂回収の便利な道具を我が物とした彼女は上機嫌で扉脇のスイッチを切って振り返った。

 

「作戦を終わらせるわよ、みちほ」

「い、いや。ちょっとまだ心の準備が……」

 

 みちほが不安そうに胸の前で手のひらを向け、エリは近寄ってみちほの肩をポンポンと叩いた。

 

「心配しなくてもいいわ。わたしがコーヒーを淹れてテーブルに持っていくから、それまで高原くんと話を合わせてればいいのよ」

「合わせるって言っても、あいつと話す話題がないと」

「大丈夫、大丈夫。天候や気温ってのは万国共通の話題だから」

 

 笑みを見せてエリがみちほが着るダウンベストのファスナーを下ろし、戸惑うみちほの背後に回ると、それを剥ぎ取って椅子をくるりと回転させた。彼女は丸めた上着を腕に抱え、顔を近づけて囁いた。

 

「どう、これで高原くんと同じような恰好になったでしょ」

「けどこの服装じゃ寒いし…」

「大丈夫よ。エアコン切ったけど日が射し込んでるから三十分くらいは持つわ」

「そ、そんなに長く話せってのか」

「ちゃんと聞いてなかったの。わたしがコーヒーを淹れて持っていくまでって言ったのに」

「それでもさ、十分以上かかかるんだろ」

「あーもう、ゴタゴタ言ってないで彼のとこへ行くわよ」

 

 煮え切らない態度にムッとして顔を背け、エリはテーブル席の方へ歩き始めた。みちほは仕方なく彼女の後ろに引きずり気味の右足を隠してついていった。

 カウンターの扉を出た場所にはそこだけ木の肘掛けを持つロングソファーの置かれる席があり、メルクリウスはソファーで仰向けに寝ていた。テーブル席の中央辺りで突っ立つ夏也がおもむろに近づいてきた。すやすやと眠るメルクリウスをチラ見したエリはこのまま煎餅ビンをもらっておいても問題なさそうだと心の中でほくそ笑み、夏也に愛想笑いを浮かべて後ろから来るみちほを紹介した。

 

「みちほって言うのよ、この子。わたしの親戚で中学一年。そうね、お見合いは空いた席を使ってくれるかしら」

「あ、それならちょっと寒いから窓際がいいな」

「オッケー。じゃあ、わたしは温かい飲み物を持ってくるわ」

 

 エリは振り返ってカウンターの作業場へ向かった。頭にフリルが揺れる彼女にくすっと笑った夏也は太陽光が明るく照らす席に行き、椅子を引いてのそのそと歩くみちほへ向いて微笑んだ。

 

「みちほさんは僕より年下だったんだね。てっきり、高校生なのかと思ってたよ」

 

 背は高いが子供っぽい吊りスカートの似合うみちほが去年まで小学生と聞いて納得した。ただ、短い丈から出た白タイツが妙に艶めかしかった。夏也はみちほに細い目で睨むように見つめられてブンブンと手を横に振った。

 

「ち、違うよ。決して変なことは考えてないから」

「身長172cm、体重65kg、駅裏商店街煎餅屋の孫、誕生日は……」

「えっ、5月31日だけど」

「双子座か。休みは店の手伝いをするし、髪は黒で少し伸び放題だが散髪に行く前かな」

 

 みちほは乙女ゲームでしか男子と話したことがない。当然、今回は夏也を攻略するつもりで話すプランを練り、今ある彼の全情報を頭の中で総合し、真面目で親孝行な少年キャラと仮定した。

 ボソボソとつぶやく少女に夏也は「どうぞ」と椅子の前に手を差し出した。みちほは考え事をしながら歩き出して椅子の脚に右足の短下肢装具を引っ掛け、上半身が左右によろけた。とっさに夏也は彼女の腕を掴んだ。

 

「ふぅー、危ない危ない。こけなくて良かったね」

「おい、離してくれよ。痛いじゃんか」

「ゴメン、つい力を入れちゃって。だけど可愛い顔にキズが付いちゃうといけないし」

 

 申し訳なさそうに謝る夏也にしれっと褒められ、みちほは黙って椅子に腰掛けた。もっとひねくれた態度をとって真面目な彼をあたふたさせて会話の主導権を握るつもりが、何も言えなくなって膝の上にちょこんと手を置いた――ちょっと待て、可愛いってなんだ。もしかして、わたしに気があるのか。

 夏也はうきうきしてみちほの正面に座り、そばかすの広がる頬が赤くなった顔を見つめた。

 

「高原夏也って言うんだ。エリさんの親戚だから『桂木みちほさん』でいいかな。それと君みたいな素敵な子は美里第二にはいないけど、どこの中学に通ってるの」

「わたし、黒田みちほ。ま、舞島学園中等部に通てます」

「かよてます?」

「いや、今のは父が関西弁をしゃべるので…」

 

 みちほは声を上擦らせて彼の問いに答えた。明らかに緊張していた。思いがけず夏也にフラグを立てられ、すっかり柄にもない下級生キャラに変貌した。恥ずかしそうに下を向き、ブラウスの袖を強く引っ張るとボタンが前へ弾け飛んだ。

 

「…あはは、話だけじゃなくて糸もこんがらがってましたね」

 

 テーブルの向こう側にボタンが転々とし、へらへらと笑ってみちほが顔を上げた。夏也は抱いていたクールなイメージと違うお茶目さに戸惑った。しかし、本当はこうして冗談が好きなの女子であり、もっと彼女を知れば違った面が出てくるのではないかと思った。彼の前で止まったボタンを指でつまんで体を伸ばして彼女に差し出した。

 

「僕は指先が硬いから裁縫は苦手。みちほさんは家に帰ったら自分でしてるのかい」

「は、わたしが裁縫を?」

「うん。細くて綺麗な指してるから上手そうに見えるんだけど」

「へ、変なこと言わないで下さいよ。こういうのは家で全部じいちゃ……」

 

 間一髪、みちほは口を押さえた。危うく自堕落な生活を彼に自慢するところだった。頭を掻いて夏也からボタンを受け取ると、今思いついたかのように手を叩いた。

 

「そういえば、高原先輩は野球部のキャプテンだったんですよね。スポーツができる人ってわたし憧れちゃうな~」

「この間は車いすに乗ってたっけ、みちほさん。足の怪我はもういいの」

「怪我じゃないんです。その、元から良くないだけです」

「あ、そうなんだ。室内では歩いても大丈夫って感じなのかな」

「ええ、学校も教室内は車いす使ってませんし」

「それじゃあ、夏休みになったらプールに行こうよ。水の中なら足に負担が少ないし、僕は泳ぐの得意だから手取り足取り教えてあげるからさ」

「へぇっ。まさか、わたしの水着姿に興味あるんですか!!」

 

 さりげなくプールに誘おうとする夏也に、みちほはキャラ付けした男子の相手ではなく本音で驚いていた。気づかないうちに彼の目を見て話せるようになった彼女はプイッと横を向き、鼻の下を伸ばす顔へ手を振った。

 

「先輩には野球があるでしょ。夏休みは真面目に練習してて下さい」

「ああ、野球の方はもう…」

「え、それって野球やめちゃうつもりなんですか」

「うーん。まあ、何というか……」

 

 みちほの質問に一転して夏也は言葉を濁した。言いづらそうな言い方をするという事は完全に気を許した訳ではないのかと、みちほが反省してふーっと息を吐いた。調子に乗ってずけずけと言ってしまった感があった。冷静になって情報を整理した彼女は煎餅屋の寂れ具合から金銭的な問題があると推察し、彼を気遣って別の理由を考えて胸の前で手を組んだ。

 

「そうですか。駅裏だと美里東高校まで通学が大変ですからね」

「いいえ、高原くんは舞島学園を受けたのよ」

「あれ、もう持ってきたの」

 

 テーブルに割と早くコーヒーが香り始め、みちほは面白くない表情をエリへ向けた。せっかく盛り上がってきた二人の会話を邪魔するのは絶対有り得ないと思った。それは彼女が少し前と打って変わって夏也の攻略に自信を持っている証拠だった。

 

 

 いい感じで始まったみちほと夏也の見合いは中断し、二人の前に受け皿に載ったコーヒーカップが置かれた。みちほは気を利かせてくれることを期待したが、エリは近くのテーブル席にお盆を置き、椅子の座面横を掴んで引っ張ってきてドンと腰を下ろした。

 

「高原くん、舞島学園での野球部の試験はどうなったの」

「あの、それがまだ……」

「ふーん。もう三ヶ月経ったのに変ね」

 

 エリが腑に落ちないような顔で夏也をじっと見つめた。視線を感じつつ夏也はカップに手を伸ばし、ブラックのまま出されたコーヒーを一口味わった。彼女が覚えていたことに嬉しくなった彼は強い苦みも美味しく感じられた。思い切って本当の事を言ってしまおうとカップをゆっくりと受け皿に置いた。

 

「実は野球部のセレクションに受からなくて…」

「え、落ちたちゃったの!」

 

 両手で口を押さえたエリは彼を憐れむ眼差しを向け、夏也が慌ててカクカクと手を動かした。

 

「で、でもね、グラウンドで走力を見るテストがあって陸上部の監督が偶然見てて陸上部の特待生待遇にしてもらったんだよ」

「特待生待遇?」

「特待生だけど陸上部は枠がないから、木曜に学科試験を受けて合格しろと言われたのさ」

「なーんだ。結局、わたしたち普通に試験受けることになったのか」

「ははは、また一緒にがんばろうね」

 

 胸のつかえが下りた夏也は体を外側に開いてエリと受験の話に花を咲かせた。みちほは楽しげな二人へ恨めしそうな目を向け、両手の人差し指同士をぐるぐると回した。本来ならば、自分が彼の話したくない事情を聞いてあげるはずだったのにと。

 彼らはは一通り互いの現状を語り合い、談笑中にエリが立ってみちほの方向へ手を広げた。

 

「ねえ、分かんなかったでしょ。みちほは裕太たちの妹なのよ」

「裕太……あぁ、サッカー部の黒田君か。それでみちほさんは背が高いんだね」

「ううん、黒田家はお父さんもおじいさんも長身なの。ほら、みちほもなんか言いなさい」

「あ、その、うん…」

 

 傍観していたみちほは話を振られても答えられず、今は攻略を目的にしたセリフしか頭に思い浮かばなかった。かといって、エリと夏也がわいわい話す場で「背が高い女子は好みですか」と言って雰囲気を変えられる豪胆な性格でもなかった。セリフに適したシチュエーションが訪れない状況でみちほは貝のように押し黙っていた。

 積極的な性格のエリに微笑みかけつつも、夏也は案外と大人しいみちほをますます気に入って頭を掻いた。

 

「いやぁ、その気持ち分かるよ。僕の妹もそうだったからさ」

「あれ、妹さんいるんですか。煎餅店のお婆さんは『孫と家族三人』と言ってたんですけど」

「ばあちゃんがみちほさんに話したの。へー、僕のこと何か言ってたかい」

 

 少し驚いた様子で夏也はテーブルで腕を組んで体を前へ傾けた。みちほは視線を合わせず上目遣いで夏也の表情をうかがい、興味津々な彼を会話に引き込むセリフの構成を色々と考えた。ところが、張り詰めた瞳のエリが両手でバンッとテーブルを突いた。

 

「夏也くん、おばあさんと妹の三人で暮らしているの」

「じゃなくて、ばあちゃんとじいちゃんだよ」

「でもさっき妹がいるって聞いたわ。それじゃ、両親がいないってことになるじゃない」

「エリさん…」

 

 今となっては大して気に留めていなかった祖父母との生活。それに敏感に反応するエリは悲しい境遇に置かれている気がした。立ち上がった夏也は彼女の肩にそっと手を置いた。

 

「両親は離婚したんだ。妹は母親が連れて出ていって僕は父親の元に残った。だけど、その父が出奔して帰ってこないから、おじいちゃんの家に引き取られた。別に病気や事故で亡くなった訳じゃなくて……それでエリさんの方はどう」

「わたしは二人とも死んじゃったけど、お兄ちゃんがいるわ。五年くらい施設にいて、お兄ちゃんが舞島学園の寮に入って、志穂さ…みちほのおばあさんが桂木家の養子にしてくれたの」

「お兄さんと一緒だと寂しくなかったりするのかな」

「うん、そうよ。いつもお兄ちゃんがいてくれるから全然平気。今は手続きがバラバラで時間がかかってるけど、来月にはお兄ちゃんも一緒に桂木家の養子になるの」

 

 朋己の話でエリは笑顔を取り戻し、腰の前掛けを取ってぐるぐると巻いてテーブルに置いた。

 

「妹さんの事とか、もっと夏也くんの話を聞きたいわ」

「妹の話…そうだなあ」

 

 久しぶりに思い出した夏也の妹はいつもエリと同じように髪を留めていた。彼女が頭からフリル付きのカチューシャを外し、彼はちょんちょんと指差した。

 

「あのさ、その髪留めは何て言う名前なの」

「ああ、これね。『カチューシャ』って言うのよ。でもなんで?」

「そのヒラヒラした部分は付いてないけど、昔妹がよく頭に着けてたんだ」

「ふーん、夏也くんにこれ着けたら妹さんに見えるかな」

「どうだろう。僕には分からないや」

「まぁ、わたしはお兄ちゃんとそっくりだけどね」

 

 エリが自慢げにカチューシャを手元で揺らし、それを頭に着けた男子を想像して夏也は腹を抱えて笑った。小学生の頃に別れて忘れかけていた妹。エリに話せる思い出を記憶にたどりながら席に着いた。

 腰掛けたエリはテーブルに腕を乗せ、作戦を忘れて夏也へ向いて普通にお喋りを続けた。二人は兄妹のエピソードを話し合って意気投合した。彼らが仲良く会話するシーンをみちほは呆然と眺める他なく、椅子の上で腕組みして鬱憤を募らせた。夏也の顔や話しぶりから判断してエリと話す方が幸せそうに見えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悩める二人

 商店街の裏通りにある高原煎餅店は二階が住居になっている。タンクトップとショートパンツ姿のメルクリウスは数回ノックして部屋の扉を開けた。奥の学習机では夏也が勉強そっちのけで桂木家のカフェでの会話を思い返していた。天井を見上げた彼の頭にはエリの屈託ない笑顔が浮かび、彼女の兄も明るい人なのだろうかと想像を膨らませた。

 頭の後ろに手を組んだ夏也は木製椅子の背に体重をかけた。「エリさん…」とポツリと呟いて両足を上げると、椅子ごと体が後方にドスンと倒れた。

 

「ほぉ、では彼女に乗り換えるのだな」

「うわっ。いつから居たんだ」

 

 メルクリウスに好奇の目で顔を覗き込まれ、夏也は慌てて起き上がって椅子を元に戻した。

 

「メル、黙って人の話を聞いてるなんて悪趣味だぞ」

「ノックしたが…まあいい。それより、桂木えりの方がいいのか」

「いいって言うか。彼女は可愛いからさ」

 

 椅子に座って夏也が学習用タブレットを脇にやって机に頬杖をついた。メルクリウスがベッドに腰掛けたにもかかわらず、ニヤニヤとした彼は時折気味の悪い声を漏らした。

 メルクリウスは大きな仕事を終えた気分でいた。夏也がエリとみちほのどちらとくっ付こうが、歩美を喜ばせる事ができる上に高原煎餅店の将来も安泰となる。この家唯一のベッドに横たわった彼女は気持ちの良い眠りに就こうとしたものの、腕の下に挟まる服を取るために体を起こした。帰り際にエリが上空を飛ぶのは寒いだろうと夏也に貸したダウンベストだった。

 

「おい、大切な彼女が着ていたものを放っておいていいのか」

「え、エリさんが何だって……ああ、そのダウンはみちほさんのだよ」

 

 夏也がエリの話だと思って体を横へ向け、あぐらをかいたメルクリウスは掴んだダウンベストに目をやった。

 

「なるほど、桂木えりでない方は『みちほ』と言うのだな」

「いい加減人の名前に敬称をつけてくれよ。みちほさんだって年下だけど、そこまで親しくないんだからさ」

「ふふふ、まあ良いではないか。そうかそうか、持ち主は女子高生じゃないのか」

 

 眠そうに笑うメルクリウスがファスナーの歯を持ってくんくんと匂いを嗅いだ。着古した感じのダウンは年配男性の酸っぱい香りを漂わせ、顔をしかめた彼女はそれを夏也へ投げつけた。

 

「その悪臭がする上着は椅子に掛けておけ、夏也」

「おっと」

 

 夏也は体が反応して飛んできたダウンベストを軽快に片手でキャッチした。だが、耳に入った言葉にはみちほに対する悪意が含まれた。普段から傍若無人な態度をとるメルクリウスでも、仲良くなった彼女をバカにされて感情を爆発させた。

 

「臭いとか言うなら出てけよ!!」

「なぜ夏也が怒るのだ」

「そ、そんなひどいこと言ったら誰でも怒るだろっ」

「それでは、みちほに何を言ったのだ」

「はぁ、何を言ってるんだ」

「それを受け取った時にみちほが怒った顔でお前を見ていたぞ」

「えっ。みちほさん怒ってたの、ほんとに?」

 

 信じられないといった表情で夏也はメルクリウスを見つめた。桂木家のカフェでみちほと話した感触は悪くなく、特に不機嫌な様子も見られなかった。彼女の顔を思い浮かべた夏也がダウンベストを胸に抱きしめ、「みちほさん…」と呟いて椅子ごと体が横向きにドスンと倒れた。

 思い悩む夏也を見下ろしたメルクリウスは腕組みをし、窓から見える向かいの真っ暗なすりガラスへ視線を向けた。

 

「……まさかとは思うが、みちほの方も狙っているのか」

「狙うって何の事?」

「いや、分からないなら何でもない」

 

 メルクリウスは表情こそ変わらないが、内心は「マズい事になった」とかなり焦っていた。彼がエリとみちほの両方に好意を寄せるとは思わなかった。

 

「う~ん、今度会った時はまた可愛い笑顔を見せて欲しいなぁ」

 

 夏也はダウンベストの匂いを鼻に吸い込み、床の上で体をくねくねと前後に動かした。メルクリウスは壁へ向いて横になった。いつもは途端に寝息を立てるところだが、彼の今後をどうするかに考えを張り巡らせた。幸いなことに木曜の入学試験までは家で勉強をしている。その間にエリたちに見合いについて話を付ける必要があった。

 

 

 みちほはブツブツと不平を漏らしながら自力でバス停からハンドリムを回して帰った。黒田家までの距離は遠くはないが、祖父が迎えに来なくて余計に腹が立った。

 

「どこにスマホ置いてんだ……ったく、今日は散々な目に遭った」

 

 桂木家のカフェではエリと夏也の会話を長々と聞かされ、彼が帰った後は苦いコーヒーを何杯も飲まされた。さらに、エリが煎餅ビンの話を始めるとあっと言う間に日が暮れた。祖父のスマホからの返信が来ず、エリに近くのバス停まで車いすを押してもらった。彼女には朝から振り回されたが、それほど怒っていなかった。夏也との盛り上がった会話を遮ったことくらい。それもその後の展開を予測できずに家族の話を持ち出した失敗への反省の方が強かった。救いは彼の好感度を下げるような発言がなく、次のイベントで再びルートの続きから再開を望める点だった。

 帰路は田起こしされた田んぼの間を抜け、北風が吹いて冷え込んだ。エリが貸してくれたフード付きコートは内側にカイロが貼られ、祖父のダウンベストよりも温かかった。身勝手なところもあるものの、彼女はよく気が回って頼りになった。

 みちほは黒田家の門を入ってコンクリ舗装を通り、玄関に着いて引き戸を開けた。車いすは段差のないレールを通過して上がり框に横付けされた。立ち上がった彼女が靴を脱いでホールに足を掛けた時、廊下の突き当りにある台所で笑いが起こった。スリッパを履いてみちほは廊下を歩いていき、台所の扉に目もくれず角を曲がって自分の部屋へ向かった。

 機嫌の悪いみちほは部屋の戸を思い切り閉めた。音が響いたことで人がやってくるのは分かっていた。案の定、ぶっきらぼうなノックがして引き戸が開いた。

 

「洗濯物持ってきたぞ、みちほ」

「なんだ、父さんか……わっ、なに突っ立ってんだよ」

 

 男性の声に振り返ってみちほは目を丸くし、父・真裕が抱える一番上にブラとショーツを載せた洗濯物を引っ手繰った。祖父でなく父が現れて期待外れな上に、彼がそれを畳んだと思うと不快な気持ちになって白い目を向けた。冷たい娘の反応に真裕はたじろいだ。

 

「じゃあ、今日はもう夕食が始まってるから」

 

 真裕が手を上げて逃げるように部屋を出ていった。みちほは洗濯物を小上がりの布団の上へ放り投げ、「何なんだよ」と頬を膨らませ、クローゼットを開けて脱いだコートを掛けた。

 洗面所で手を洗っている時も台所の方から明るい笑い声が漏れた。みちほは装具を外した右足を軽くついて廊下をトントンと跳ね歩いた。台所の前に来ると、祖父が中から扉を開けて赤い顔で迎えた。

 

「みちほ、お帰り」

「ただいま」

「早速で悪いがベストを返してくれんか。今日は一日寒くてな」

「ゴメン。貸しちゃった」

「おお、貸した相手はあの彼か」

 

 祖父は口を開けたまま嬉しそうにし、母・美雪がニヤリとしてみちほへ人差し指を向けた。

 

「帰る時に寒いから高原君に貸してあげたんでしょ」

「な、なんでそれを…」

 

 唖然とした表情でみちほはテーブルへ向いた。裕太と京太はまだ帰っていなく、美雪の隣には祖母・千夏が座り、向かい合って父たちが座っていた。卓上はビール瓶が何本も置かれて揚げ物や寿司のパーティパックが並んだ。まるで祝い事があったかのような雰囲気。夕方から大人達が集まって酒を飲む光景は奇妙に思えた。

 祖父は戸惑う彼女の背中を押していき、自分がいた席に座らせて隣の椅子を引いた。彼らに囲まれたみちほはキョロキョロと首を左右へ振った。千夏がガラスコップのビールを飲み干し、卓上にトンと置いて出来上がった顔を向けた。

 

「創業百十八年の老舗煎餅店か。ヨーロッパ通りが出来てから売り上げが落ちて廃業寸前だったけど、最近インターネット通販が好調らしいな。よし、高原夏也は買い目だ!!」

「高原先輩は馬券じゃないよ」

 

 泥酔した祖母は意味不明なことを言う。左隣で父があまり興味ないのかコップに入ったビールに手を付けず普通に食事中。みちほは右隣にいる祖父の肘を指でつんつんと突っついた。

 

「ねえ、何の記念日なの」

「そうだな。みちほの見合い…いや、デート記念日かな」

「デート……ど、どうして知ってんの」

 

 みちほは見合いの件が家族に伝わっていることにビックリした。エリが夏也を見て急に言い出した作戦で、誰も知らないとばかりに思っていた。祖父は祖母の空いたコップにビールを注ぎながら目を細めた。

 

「ホッホッホッ。まあ、今度はその彼氏を家に連れてきなさい」

「えっ、違う。先輩は彼氏じゃないよ」

 

 誤解されたままはマズイと思って祖父の腕を掴んで揺らすが、お酒が入った彼は聞く耳を持たなかった。黒田家ではみちほの初デートを祝って酒盛りが始まっていたのだ。そのせいで桂木家への迎えがなく、バスの車いすスペースでみちほは夏也をうまく攻略できない自分のふがいなさに自己嫌悪すら覚えた。その男子を恋人扱いされて祝宴にはモヤモヤするものを感じた。

 本当の事を言おうにも無口な父は頼りにならず、他は全員酔っ払い中でなまじ否定すると状況が悪化してしまう可能性があった。みちほは適当に食べて早く部屋に戻ろうと、割り箸を箸先からパキッと左右に割った。

 

「あ、失敗した」

「ハハハ、何やってんの。もう一本使いなさい、ほら」

 

 美雪が長さの違う割れた箸を見て笑い、使ってない自分の割り箸をみちほの前へ放り投げた。

 

「そんなんじゃ、高原君と食事に行った時に恥ずかしいでしょ」

「いいよ、笑われても…」

「違うわっ、母さんの方が恥ずかしいって言ってるの」

 

 立ち上がった美雪はテーブルに両手をついてふらふらした。隣にいる千夏の姪と納得させられる酔いっぷり。みちほは酔っているとはいえ理不尽な非難にムカついたが、素直に「分かった」と返事して黙々と食事を始めた。

 

「ヒ、ヒック。デートの時はちゃんと高原君に奢ってもらいなさいね」

「うん」

「彼の方が年上なんだし、遠慮は無用よ。恋人にワガママもへったくれもないわ」

「う、うん」

「それにね、男子って頼られると喜びを感じる生き物なのよ」

「ん?」

 

 美雪の傲慢な恋愛観が滲み出た発言に、みちほは耳を疑った。彼女が言う男子は恋人というより下僕に近く、攻略もへったくれもなかった。夏也は乙女ゲームにも存在しないような特殊キャラではない。だからこそ思い通り行かずに悩むのである。これ以上、テキトーなことを言う母には付き合いたくなかった。

 

「ごちそうさま」

「なんじゃ、もう終わりか」

「うん」

 

 みちほは心配する祖父に作り笑いを見せて席を立った。いつの間にか、真裕がガラスコップを傾けてビールをがぶがぶと飲んでいた。酒に酔うと気分が晴れるのだろうかと思いつつ、彼の後ろを通ってひっそりと台所を出た。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

手を差し伸べたのは

 リビングのローテーブルに鎮座する煎餅ビン。見合い翌日の月曜日はその道具が弱った駆け魂を次々と吸い込む雄姿を見せつけたいがため、エリが黒田兄妹に放課後の全員集合をかけた。

 いつもと違う路線に乗ったみちほは住宅街を上り切った所に設置されたバス停で降り、車いすで平坦から少し下りになる数百メートルを移動した。平日は兄・京太がエリの相手をする番であり、面倒くさいと思いつつも借りたコートを返して適当に帰ろうと考えていた。桂木家の門に着いて手袋をした指に息を吹きかけ、スマホを操作して門扉と玄関ドアの鍵を同時に開けた。玄関ポーチまでのL字になったスロープは緩やかだが距離があって時間がかかった。

 寒い中でハンドリムを回して玄関に入った。みちほは車いすのシートにスポーツバッグを置き、あたふたとコートの袖から腕を抜いて学生靴を脱いでホールに上がり、リビングの戸を通り過ぎてトイレへ駆け込んだ。ベルトとファスナーを緩めた制服のスラックスを下着ごとずり下ろし、便座に腰を下ろして息をついた。

 壁のタッチパネルを押してしゅるしゅると便器内の水が吸い込まれる。やれやれとスラックスを上げようと手を伸ばすと、玄関のドアが開いてエリの声がした。

 

「どうぞ、中に入って下さい。ところで今日は何の用ですか」

「実は見合いの件で話があるのだ」

「そうですか。あ、そっちの部屋で待ってて下さい」

 

 もう一人の声はメルクリウス。彼女は車いすをよけて土間に入ったが、トイレのみちほに気づかなかった。エリに促されるままに配達用の靴を脱いで廊下をリビングへ向かっていった。

 スラックスのベルトを握り締めてみちほはトイレの戸脇に近寄った。リビングの戸を閉める音と廊下の奥で水が流れる音が聞こえた。こっそりと戸を開けて顔を出した。エリが廊下からキッチンに入る瞬間が目に入り、夏也との見合いの話が気になってみちほも廊下に出た。

 みちほはそっと戸のガラス部分からリビングを覗いた。灰色のセーラー服の後ろ姿が見え、左のこぶしが天井へ突き上げられた。来た早々ソファーに寝転がるメルクリウスにエリが怒っていたのだった。が、すぐエリは両手をバタバタと大きく広げた。反対側に回ったみちほが戸をほんの少し開けて耳をそばだてた。

 

「――と言われても困りますっ」

「まあまあ、そう怒らずともよいではないか」

「そりゃ、怒りますよ。つまり、その…断るって言うなら誠意を見せてもらわないと」

「ふむ、この煎餅セットでは不満か?」

「だから煎餅の方が欲しいと言ってるんじゃないんです」

 

 メルクリウスは夏也がエリたちのどちらかを選ぶまで返事をずるずると引き延ばそうとやってきた。店から持ち出した煎餅セットは彼女なりの誠意だった。エリは破談を理由に煎餅ビンを返さなければならなくなるのを警戒し、腕組みしてローテーブルへ目を動かした。

 途中から聞いたセリフは会話の文脈から「断ると言われても…」と推測し、エリが反発しているように聞こえた。夏也の断りをメルクリウスが伝えたに来たと思い、みちほはしかめっ面で廊下の壁に寄り掛かった。

 

「畜生、わたしのどこが気に入らないんだよ」

 

 乙女ゲームでは完全無欠の攻略で男子を落とすみちほが出会いイベントの後に振られるまさかの展開。非論理的であいまいな理由でヒロインが無残に打ち捨てられ、正しくリアルはそういうものという失望が込み上げた。そして何より、初めて面と向かって「可愛い」と言われて舞い上がった分だけ夏也にノーを突き付けられたショックは大きかった。

 リビングの会話に動揺してみちほはふらふらと歩き出した。エリたちの声が聞こえない所へと遠ざかり、冷静になろうと黒田家の部屋で待つ乙女ゲームのキャラたちを思い浮かべた。

 

 

 みちほは気づくと靴を履いて玄関から出ていた。外は風が弱いものの空気は冷たく、頬を紅潮させてスロープの手すりを伝ってとぼとぼと下りていった。考えまいとしても頭に浮かんでくる夏也の顔。吸い込まれそうな黒い瞳で彼は話し相手を見つめる。エリの話によると、スポーツ万能で頭も良くて爽やかな夏也は中学でモテモテだとか。身長166cmの彼女からしたら背は高くないがややガッチリした体型。その腕に抱きかかえられたい女子も結構いるのだろうと思い、門を通り抜けて桂木家の敷地を出てからため息をついた――やっぱり、エリ姉が目的で見合いしに来たのかな――彼は自分との会話で微笑みかけてくれたが、それ以上にエリとの会話を楽しんで笑っている感じを受けた。嫉妬の眼差しで二人を眺めていたみちほも諦めしかなかった。

 これまではみちほがリアルに嫉妬なんか考えられないことだった。部屋に引き籠って2D美少年と優雅に恋愛を重ねるゲーム世界の住人であり、日常のつまらないことで激情する母や兄に冷ややかな視線を向けた。しかし、エリを羨んで夏也を想う今のみちほは現実に彷徨って周りが見えなくなっていた。

 

キキーーッ

 

 みちほの数メートル手前で白い軽ワゴン車が止まった。ドアが開いて車を降りた運転手がペタペタと歩いてきた。ボーっと突っ立つ少女に、白髪の老女が顔を覗き込んだ。

 

「こんな所に立ってると、車に轢かれるよ」

「煎餅屋のばあさん?」

 

 みちほが視線を下げると夏也の祖母・歩美。彼のことを考えている時にちょうど目の前に現れて息を呑んだ。けれど、袖がない服を見て「そのダウンは…」と声を漏らした。着ていたのは夏也に貸したはずのダウンベストだった。一度ダウンに目をやった歩美が襟元をつまんで顔を上げた。

 

「ああ、これかい。廊下のゴミ箱に捨ててあったんだけど、まだ着れそうだから配達の時にでも使おうと思ってさ。おや、あんたどこかで見た……あっ、前に夏也が店に連れてきた子だわ!」

 

 歩美は嬉しそうに目を大きく開け、みちほへ人差し指を向けた。そばかすが目の下にある人形のような白い顔と懐かしさを覚える耳の上に髪留めをしたショートヘアの女の子。スラックスを履いた学生が孫のお気に入りの少女だと分かり、上着がブレザーの制服姿をじろじろと上から下へ眺めた。

 反対に、みちほは夏也の祖母と再会しても嬉しくなかった。桂木家のカフェで見合いが行われる遠因を作った人物だからだ。横を向いた彼女は口をすぼめて関係ないふりをした。

 

「人違いじゃないですか。わたし、夏也なんて人は知りませんから」

「えーっと、名前は黒田みちほさんだったわね。昨日の夜夏也に聞いたの。中一だけど背が高くてスタイルがいいって言ってたわ。それと、スリーサイズが…」

「そ、そんなこと高原先輩には言ってません!!」

 

 顔を真っ赤にしたみちほが夏也との親しい関係を白状し、歩美は頭を掻いてニヤリと笑った。

 

「可愛いわね、みちほちゃん。そんなことは聞いてないから安心して」

「くそっ、ハメられた」

 

 見事に歩美の計略に引っ掛かった。みちほは悔しくて胸前でこぶしを握ったが、すぐ腕を下げてガックリとうなだれた。カフェで夏也が言った『可愛い』も歩美と同様にからかわれていたのかと思うと怒る気持ちが消え失せた。彼女が見るからに元気をなくした理由が分からない歩美は小首をかしげた。

 

「ねえ、夏也と何かあったの」

「ふぇっ」

 

 歩美のセリフが胸に突き刺さり、みちほが思わず変な声を出した。彼女は桂木家に来たメルクリウスの行動を夏也の拒否を伝えにきたと思い込んだ。頭の片隅に仕舞っておいた事柄に触れた歩美の一言はみちほの思考を完全に停止させた。

 桂木家の前はバスが通るくらい広くて幅が6メートル以上あり、新舞島駅の通りと国道を繋ぐ抜け道的な道路だった。立ち話をした数分の間にも彼女たちの脇を車が頻繁に通り過ぎた。歩美は路上で固まるみちほの顔へ手を振りつつ通過する車をチラチラと気にし、動きそうにない少女の手を引いて往来に停めたままの車へ向かった。

 茫然自失のみちほは歩美に腕を引っ張られ、体をカクンカクンと揺らしながら障害のある右足を引きずった。車の横に一人で立たされてしばらくすると助手席のドアが開いた。

 

「乗りなよ」

 

 運転席からハンドルを握った歩美が得意げに親指を立てた。我に返ったみちほは気後れし、ハキハキしたお婆さんの指図に大人しく従った。軽トラより少し広い車内を珍しそうに眺め、緊張した面持ちでシートに腰掛け、両足を入れて控えめにドアを閉めた。

 歩美は眼鏡を掛けてエンジンのスタートボタンを押し、畏まってちょこんと座るみちほへ顔を向けた。

 

「で、学校帰りに手ぶらでどこに行ってたのかしら」

「はい、親戚の家です」

「ふーん、黒田さんか……けど、ここら辺も電柱が埋められて変わっちゃったわね」

「昔は電柱が立ってたんですか」

「あれ、この前埋めたんじゃなかったっけ」

 

 住宅街はすでに若い世代が生活し、年老いた歩美が訪れることはなかった。それでも、みちほが店に来た直後からネット通販の注文が殺到して配達で来ることになり、見通しの悪い路地での事故防止のために車を買い替えた。彼女が車の前に飛び出したのは「運命」とも言うべきアクシデントだった。

 

「それにしても良かった、ちゃんと止まって。自動ブレーキが作動したのは初めてよ」

「はぁ、反省してます」

 

 ばつの悪い表情を浮かべ、みちほが太腿の上で手を組んだ。口元を緩めた歩美は恥ずかしがる彼女を愛おしく感じた。口癖の「ひ孫の顔が見たい」という言葉は遠い願望であったが、夏也が見初めた少女は上半身がほっそりしている割に腰回りが大きく、意外と近い将来叶うかも知れないと思わせた。

 高原煎餅店の軽ワゴンに乗ったみちほは先の事を考えるのをやめ、成り行き任せでいいやと思った。今までは選択したルートを通らない原因を頭の中であれこれと考え込んだ。だが、現実は不合理で何の前触れなく振られたり、偶然車に轢かれそうになったりと自分でイベントを制御するには限界がある。車内では後部座席に煎餅セットが山積みされ、歩美が一人で煎餅屋のアピールをうるさくまくし立てた。みちほは話を聞いているふりをし、今度は顔色に出ないように気をつけた。

 




―― 次章予告 ――

他人の気持ちを考えるみちほ。しかし、エリが駆け魂の回収に、京太がUFOのことにエゴを剥き出しにし、新たな悪魔も現れて陰謀が渦巻く。彼女は高等部の合格発表で夏也と… ⇒FLAG+20へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+20 たどりついたらいつもの臆病風
風呂・トイレ・煎餅付き


―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
日曜日の午後、メルクリウスが桂木家のカフェに同級生の夏也を連れてきた。目算が狂ったエリは急遽、みちほに会いに来たと彩香に告げ、見合いは想定外の組み合わせになる。仕方なく見合いしたみちほは夏也との盛り上がりに自信を持ちつつも、彼とエリの楽しそうな様子には嫉妬した。
一方、黒田家では彩香によって見合いの話が伝わった。夕食が祝宴と化し、みちほは夏也を恋人扱いされてモヤモヤするものを感じた。
翌日、桂木家のリビングでエリとメルクリウスが見合いについて話し始め、廊下で聞いたみちほは夏也に振られたと思い込んでふらふらと外へ出ていく。車に轢かれそうになり、運転席から降りてきたのは夏也の祖母・歩美だった。
歩美との再会は偶然か、それとも、運命か。みちほは高原煎餅店の車に乗って成り行きに身を委ねた。



 あくびをしたみちほはフロントガラス越しに路地を眺めた。道路脇に停めた白い軽ワゴンの助手席で待たされること十回。運転席との間にあるボックスのビニール袋を開け、割れた煎餅を出して口の中へ放り入れた。前回と同様、煎餅セットを届けた歩美が五分くらいで戻った。

 

「毎回悪いわね。あと一ヶ所だから勘弁してくれるかしら」

「ひひふぇ、全然気にしてません」

「あ、食べてくれたの。美味しいでしょ。一口と言わずにもっと食べてちょうだい」

「はい」

 

 乗った当初から勧められた袋に入った煎餅。空腹ではないが、あまりにも暇過ぎてつい手が伸びてしまった。みちほの方へ歩美が両手でビニール袋を持ち上げた。

 

「この前食べてもらった試食コーナーの瓶と同じ。割れてるから商品として販売してないだけで味は変わらないわよ。もちろん、焼きたてなら数段食感がいいけどね」

「へー、そうなんですか」

 

 乙女ゲームをする時につまむ程度で味にはまったく関心がないものの、みちほは早く帰るために調子を合わせた。二、三枚も取ると歩美は満足げにハンドルを握り、ボディに高原煎餅店の屋号を貼った車は時速12kmの低速フルオートで住宅街の路地をゆっくりと走った。短い距離を移動しては停車を繰り返して二時間弱が経っていた。

 

「あー、お腹すいた」

 

 太陽が落ちた薄暗い空に歩美は視線を上げてつぶやいた。みちほはすかさず同調してうんうんと頷いた。けれど、「うちで食べてかない?」とニコッとした顔が自分へ向くと、慌てて首を大きく横に振った。残念そうな表情で歩美が吐息をついた。

 

「ふーっ、夏也も喜ぶだろうって思ったのに」

「……先輩は嬉しくないと思います」

 

 みちほはやたら夏也を推す歩美が疎ましいが、彼に振られたとバレて傷口に塩を塗られたくもない。せめて、自然な形で二人を仲良くさせることを諦めてくれるように努める以外なかった。

 

「わたしを好きな男子なんかいないですよ。可愛くないし、顔にそばかすあるし…」

「若い時は小さい事で悩むのよね。私の周りじゃ、そういうこと言ってた子から順に結婚していったんだから。学生時代は私が一番モテてたはずなんだけど結局最後だったわ」

「いいえ、その人達は他に魅力的な部分があるんです。例えば胸が大きいとか、小柄で守ってあげたくなるとか理由がちゃんとあって」

「あら、みちほちゃんもあるじゃない。夏也もお尻が大きいって言ってたわよ」

「うぇっ。そんなことを……いやいや、ただケツがでかいのを褒められても。それにわたし身長まだ伸びますよ、先輩抜いちゃうくらいまで。男子って自分より背が高い女子は彼女として嫌だと思うんです」

「夏也は気にしないと思うけど…」

「だから、高原先輩にわたしは不釣り合いなんです!!」

 

 みちほは自分を否定的に見せようと頬が赤みを帯びてだんだんムキになった。しーんとする車内に、自動運転の目的地到着を告げるナビの音声が響いて車が速度を下げて路肩に止まった。歩美はそっと後部座席へ手を伸ばして煎餅セットの箱を取り、俯いたみちほを置いて車から降りた。

 会釈した歩美が住宅の門を入っていき、冷静さを取り戻したみちほは顔を上げた。彼女に分かってもらえたか心配しつつ見知らぬ家の塀へ視線を送った。しばらく待っていると、営業スマイルのまま歩美は運転席に帰ってきた。シートに座ってみちほの顔を見るなり、喜んで助手席の方へ手を振った。

 

「聞いて聞いて、あそこの庭バスケのゴールがあるのよ」

「はぁ、そーですか」

 

 拍子抜けしてみちほは歩美へ体を向けた。夏也との話題は忘れたのかと思い、ホッとして彼女の話に耳を傾けた。だが、不思議と歩美が胸元で手を合わせて目を輝かせた。

 

「うちもアレを買いましょう。屋上に置けないかしら」

「バスケットが好きなんですか?」

「ううん。細かいルールが良く分からないからテレビ中継も見てないわ」

「それじゃ、なんで買おうと思ったんですか」

「だって、ひ孫がバスケの選手になるかも知れないじゃない」

「ひ孫ってまさか…」

 

 ひ孫、つまり、歩美の孫・夏也の子である。みちほは嫌な予感がした。案の定、うっとりする彼女は二人の結婚を既定路線として先々を妄想していた。

 

「みちほちゃんのDNAを受け継いだら、どれくらい身長が高くなるかなぁ」

「ち、ちょっと勝手にひ孫の母親にしないで下さい」

「そうね、まだ中学生だったわ。でも高校の三年なんてすぐ終わっちゃうし、そしたら夏也と永久就職して店を手伝ってくれればいいからさ」

「永久就職?」

 

 みちほは目をパチパチさせて歩美を見た。とうに使われなくなった言葉はうら若い少女を戸惑わせるだけでなく、強制労働のイメージを与えて不安にさせた。自動運転の再スタートを促す効果音が鳴り、立ちどころに助手席からナビのタッチパネルに指先が押し当てられた。

 暗い住宅街の路面をハイビームが照らし、歩美が背を丸めて前方へ目を凝らした。彼女の煎餅屋へのスカウトも終わって車は黒田家に向かうだけ。みちほはやっとの帰宅に胸をなで下ろし、シートの背もたれに体を沈めた。運転席の様子を横目でうかがい、静かな老婆を見ているうちに疲れがどっと押し寄せた。

 

 

 街灯が少ない田舎道の真っ暗な闇。みちほが目を開けてきょろきょろと周りを見回した。束の間の眠りに落ちていた少女は車がアスファルトの段差を越える振動で飛び起きた。目が覚めると急に寒さを感じて腕を抱えた。

 

「へ、へくしょんっ」

「そう言えば、ブレザーの下はセーター着てるみたいだけど、コートは駄目なのかい」

「それが…さっき親戚の家に忘れてきちゃって」

 

 鼻をすすったみちほは恥ずかしがって頭を掻いた。住宅街から一川越えただけで商店の一つもない田畑が広がる。歩美は目を細めてLEDの光を頼りにエアコンの上三角ボタンを押した。

 

「ボーっとしてたもんね。そっか、校則は変わってないんだ」

「え、なんで校則を…」

「そりゃあ、舞島学園の卒業生だからよ」

 

 みちほが驚いて顔を向け、歩美はハンドルから片手を放して不満そうな表情で首をさすった。

 

「昔は制服が独特で自由な校風だったのに、今じゃ学力が高い生徒ばっかり集めて鳴沢大進学率が一位とか自慢してさ。それに授業料が毎年のように上がって他にも色々と取られるでしょ。夏也に受験したいって聞いた時は肝を冷やしたわ」

「それじゃあ、陸上部の特待生待遇になったのは家計を考えてなんですか」

「ええ。野球を続けさせてあげたかったけど」

「かわいそうですね、先輩」

 

 みちほの口からは同情の言葉が出るものの、カフェの見合いで夏也が誤魔化した話の背景が思った通りでスッキリした。歩美は助手席がしんみりしたと思い、笑みを浮かべて手を振った。

 

「大丈夫大丈夫。もう、夏也はすっかり気持ちを切り替えて受験勉強を頑張ってるわ。昨日も『みちほさんと毎日一緒にバス通学するんだ』って意気込んでてね」

「へ?」

 

 歩美の話にみちほがピクッと体を震わせた。男子が毎日一緒に通学したいと思う女子を振るとは思えない。それどころか、好意を寄せていると考えるのが普通だ。彼の気持ちが知りたくなったみちほは太腿の間に両手を挟んですりすりと手のひらを合わせた。

 まず、みちほは夏也がエリをどう思っているのかが気にかかった。桂木家のカフェで彼らが仲良く話すきっかけは妹の話題だった。妹がエリに似ていて懐かしさで胸がいっぱいになったのかと、推理して腕を組んだ。しかし、悩んでいても仕方ないと割り切ったみちほは運転席へ体をひねって恐る恐る歩美に話しかけた。

 

「あの~、先輩は妹さんがいるって聞いたんですけど…」

「あー、あの子ねー」

「そうです。その子のこと教えてくれませんか」

 

 みちほが真剣な顔を近づけるが、口元に指を当てた歩美はなぜか徐々に表情が曇った。終いにはハンドルにこぶしをガンガン打ちつけた。

 

「あんな鬼嫁が連れてった子なんか知ったこっちゃない。何かと理由つけて一度も来なかったくせに、慰謝料に店を寄越せなんてよく言うわよ。フン、息子と別れてくれて清々したわっ」

「ははは、ダメだこりゃ」

 

 みちほは反対へ向いて肩をすくめた。高原家の嫁姑関係が破綻していた事実が判明し、歩美から妹の情報を聞き出すことは無理そうに思えた。夏也のエリに対する感情を推測するのは一旦保留にした。

 次に、本当に夏也は真面目で朗らかな少年なのかを確認したかった。いくら孫思いの祖父母に引き取られたとはいえ、何もなければ家族の離散は一人になった子どもの性格に悪影響を及ぼすはずである。夏也が家での言動と正反対な態度を取る少年になり、歩美の前で好意がある風に見せたにもかかわらず、みちほを振ったというオチは握り潰す必要があった。その辺りの事情を知る人物は嫁への怒りが収まらず、ハンドル上部をバシバシと叩いていた。ため息をついたみちほは意を決して腹の底から声を発した。

 

「おばあさまっ、わたし夏也先輩の過去が知りたいんです!!」

「あ?」

 

 歩美が呆気にとられて何事かと顔を向けた。みちほは肩をすぼめ、人差し指同士をつんつんと突き合わせた。

 

「そ、その、先輩が煎餅屋さんに来た時はどうだったのかなと思って」

 

 頬を赤くしたみちほの様子に、歩美は落ち着きを取り戻して傾いたハンドルに両手を掛けた。

 

「そうね。最初の頃は誰にでも人見知りしてたわ」

「明るい先輩が人見知りするんですか」

「小学四年生だもの。学校に馴染めずに毎日行くのをぐずってた。でも、この商店街には同学年の子が四人いたの。みんなで朝夏也を迎えにきて帰りは店で煎餅食べながら話をして解散。その子たちのおかげで夏也はだんだんと周りに溶け込んでいったのよ」

「へー、そんな話が…」

 

 みちほは頬を綻ばせて手で口を押さえた。夏也の助けになる存在は想定通りだが、結構いい話で心が温まった。やはり、夏也は真っすぐな性格に育っていた。ということで彼に振られたと思ったのは何かの間違いと確信し、感動的な話の続きを聞こうとみちほがセンターコンソールに身を乗り出した。

 

「もしかして中学生になってから、みんなで野球部に入ったんですか」

「えーっと、一人だったかな。まぁ、あの子たちに野球はちょっと。けど今でも友達だし、時々店に顔を出してくれるわ」

「いいですね。幼馴染みが集まる煎餅屋さんって」

「ふふふ、店が気に入ったのなら一生居てくれてもいいのよ」

「はぁ、それはまだ早いかと……」

 

 助手席にみちほの体がそろそろと戻っていき、歩美はくすくすと笑った。態度を軟化させた彼女とはもう少し話していたかったが、自動運転のナビが黒田家に着いたと知らせた。

 

「みちほちゃん、今日はしつこい婆さんの相手をしてくれてありがとうね」

「いいえ、こちらこそ送って頂いてありがとうございました」

 

 塀まで来ると門の手前に停まる黒いセダンが見えた。その車を避けつつ速度を落とした軽ワゴンが門前で停車し、みちほはシートベルトを外した。降りる時にも再度礼を言い、運転席で小さく手を横に振る歩美にペコリと頭を下げて高原煎餅店の車を見送った。

 みちほは夏也の好意を知って気分も良く、狭い空間から解放された爽快感と相まって意気揚々と門をくぐった。ガミガミとうるさく言う母が帰っていないのか、玄関や居間は煌々と明かりが点っていた。夕食まで時間が空くと思った彼女は未開封の学園モノを開けようと決め、腹具合を確かめながら夏也の制服姿を思い浮かべた――特典は煎餅食べ放題か。恋愛ゲームなら先輩のとこに毎日通ってもいいなぁ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

未確認魔法物体

 火曜日の放課後、京太が自転車のハンドルを握って歩道をゆっくりと押し歩いた。荷台に5kgもある煎餅ビンが紐で括り付けられ、後ろから手で押さえるエリが彼に歩調を合わせた。本来は煎餅ビンが使われるはずだった昨日。メルクリウスが帰った後にエリは家の中や周りを探し、車いすと全ての持ち物を残してみちほが居ないと分かって青ざめた。慌てふためく声で彩香と美雪に電話をかけた結果、黒田家に警察が来る大騒ぎとなった。

 みちほを心配したエリは彼女が無事との連絡を受けて安堵した。だが、煎餅ビンを自慢する機会を先延ばしにされた恨みは残り、エリの愚痴を京太が聞かされる羽目になった。

 

「まったく、知らないおばあさんの車に乗って帰ったなんて有り得ないわ。そんなに駆け魂回収に付き合いたくないなら、正直に言えばいいのよ」

「ふーん。正直に言えば家に帰してくれるんですかねぇ」

「そ、そりゃ、駆け魂を捕まえる時は居てくれないと困るから……あ、ほら、ちゃんと前に気をつけないとぶつかるわ」

 

 歩道は舞島学園のブレザーを着た生徒が前から引きも切らずに歩いてくる。学ランとセーラー服の二人は公園側の端に寄った。エリはすでに合格したつもりで中等部と思われる一行へ笑顔で手を振り、無関心の京太はあくびをして彼らを迎えた。

 舞島緑地公園の入り口に来ると自転車進入禁止プレートを無視して脇を通り過ぎ、真っすぐ奥へ自転車を進めた。再び景色は人気のない遊歩道に変わり、エリがつまらなそうに顔を前へ戻した。

 

「ところで、あんた昨日うちに来なかったわね」

「はい、すっぽかしました」

 

 声を弾ませた京太は首を後ろへ曲げ、けろりとした彼を睨むエリに物怖じせず話を続けた。

 

「それが出たんすよ。日曜にメーの取材助手として舞島の廃鉱に行ったんですけど」

「ああ、幽霊が出るって噂のとこね。あんなの迷信でしょ」

「いいえ、違います。UFOです。暗くなって帰ろうとしたら市街の方へ飛んでく光跡が見えて」

「で、月曜日はどうしたの」

「だから、鳴沢の電気街に行ってUFOの不規則な動きに強いビデオカメラを買って…」

「ハイハイ、そんなことだろうと思ったわ」

 

 あきれた表情のエリは煎餅ビンから手を放し、芝生の方を向いて額に手をかざした。口を開けばUFOの話をする京太に辟易し、前にメルクリウスと来た場所へ走っていった。

 

「ここよ。蓋を取って煎餅ビンを持ってきて」

 

 エリは少しくぼんだ芝生を指差して大きく手を振った。人使いの荒さに京太は眉をひそめたが、言われた通り荷台に行って紐をほどいた。彼女が会ったと言う自称女神こそ宇宙人ではないかと見込んだ。その科学力を見せてもらおうと優しく撫で、蓋を外した煎餅ビンを大事に腹に抱えてエリの元へ向かった。

 準備万端整えたエリが肩幅に足を開いて腰に手を当てた。京太は芝生に煎餅ビンを置いて二、三メートル離れ、彼女は人差し指を空へ向けて魔力を集中させて足元のビンへ振り下ろした。

 

「駆け魂来い来い、煎餅ビンいーれる!」

 

 一筋の光がエリの指先から煎餅ビンへ注がれて表面がピカピカと輝いた。が、十秒近く経って何も起こらず京太が煎餅ビンへ近づこうと踏み出し、彼を片手で制止してエリは自信満々に首を横へ振った。

 

「あと二十秒待つの。そしたら、このビンに公園中の駆け魂が吸い込まれるわ」

 

 エリが口元に余裕の笑みを浮かべ、煎餅ビンを見下ろして二十秒待った。が、それはピクリとも動かなかった。腕を抱えた彼女はしゃがみ込み、肩にかかる髪をかき上げて耳を出した。透明なガラスに戻った煎餅ビンからは掃除機のような音が聞こえず首をかしげた。京太が近づいてきてビンの中を上から覗いた。

 

「うまく起動しないみたいですね」

「おかしいなぁ。メルクリウスさん、最初に何て言ってたっけな」

「その宇宙人にちゃんと教えてもらわなかったんですか」

「何言ってるの。宇宙人じゃなくて女神よ」

「それって自分から女神と名乗っただけでしょ」

「女神だってば、天使の輪があって背中から翼が生えてきたんだからっ」

 

 立ち上がったエリが手のひらで胸をバンバンと叩いた。京太は女神の存在に躍起になる彼女へクルッと背を向け、眼鏡を直して後ろで手を組んだ。

 

「いいですか、エリさんは未知の直立二足歩行生物と遭遇したんですよ。まずは目の形、鼻や耳の位置、口の裂け方、体毛の生え方、手足の長さ、指の本数、足跡、鳴き声をよく観察すべきだったんです。まあ、俺なら隙を突いてスマホで撮影しますね」

「靴履いてんのに足跡なんか必要ある?」

「それを輪っかや翼を見て女神と信じるとは…まさに自殺行為」

「し、信じる方が普通でしょうが」

「バスが一日数本しかない田舎に、スマホなしで遊びに行くが如しです」

 

 京太の顔は見えないが他人を見下す表情に違いない。この手の話に調子に乗った態度をとるのには慣れているが、バスで田舎から来て初めてスマホを持ったエリはバカにされた気がしてカチンと来た。あくまでも彼がメルクリウスを宇宙人だと言い張るなら、女神の煎餅ビンに悪魔の駆け魂を溢れさせ、その様を見せつけると空へ両腕を伸ばした。

 見る見るうちに手のひらが魔力を放出して巨大な丸い塊を作る。エリのストレートな髪が広がって空中に浮かび、ありったけの魔力が思い切り斧のように振り下ろされた。

 

「それじゃ、今から悪魔と女神のコラボを見せてやるわ!!」

 

 芝生上の煎餅ビンは入り切れない魔力で女神の術が大暴走し、カタカタと振動して物凄い音を響かせた。振り返った京太は危険を感じて後ずさった。エリが履くスカートの裾も、離れている公園を囲む木々の葉も揺れ、弱った駆け魂があちこちから吸引されて飛んでくる。エリは足元で生じた鳴動に思わず笑みをこぼした。が、煎餅ビンは内側に何本もの亀裂が走り、一瞬で圧力が外側へと伝搬した。

 

パリーン!!

 

 煎餅ビンが砕けてガラスの破片が辺りに散らばった。魔力から変換された強大な魔法のパワーに煎餅を入れる容器は耐えられず、瓶が割れてメルクリウスがかけた術は霧消した。京太は状況が沈静化したのを見計らい、エリの横に来て手の甲で額をさすった。

 

「ふーっ、本当に女神だったんですか」

「そ、そんなぁ。まだ一回も使ってないのに…」

 

 エリは芝生に膝を着いて呆然とし、バラバラになった煎餅ビンを眺めた。ヒューッと風が吹いて吸い寄せられた駆け魂たちは散り散りに飛ばされていく。女神にもらった魔法の道具は水の泡と消えた。

 

 

 エリは買った缶を両手に持ってスキップした。自転車の場所に遊歩道をニヤニヤして戻ってきたが、京太の手に盛られた煎餅ビンの破片に唇を尖らせた。

 

「そんなもん、自販機横のゴミ箱に捨てればいいのよ」

「いいえ、そうは行きません。前後の監視カメラに撮られてるんですから」

 

 京太が前かごに入れたヘルメットを引っ繰り返し、手のひらからガラス片を流し入れた。煎餅ビンが壊れたことは腹立たしいが、それをこつこつと拾い集める京太は役に立つ。振り返った彼へ、エリは手に持つ大きい方の缶を放り投げた。

 

「飲みなさい。今日はわたしが奢ってあげるわ」

「じゃあ、遠慮なく……って、なんでスープ焼きそばの缶なんですかー」

「それが好きって言うから買ったのに」

「いやいや、インスタント焼きそばの方じゃありませんよ」

「文句言わないで食べて、ふふふ。高かったんだから」

 

 満足げに笑うと自分のミルクティーに口をつけた。からかわれた京太は付属のフォークを取って蓋を開け、麺が漬かった濃い汁を覗き込んだ。見たことのない色だが彼女の機嫌が直るならお安い御用だった。煎餅ビンを失ったエリは気持ちが落ち着き、もう一度メルクリウスから駆け魂回収の道具を手に入れるための取引材料が何かないか考え始めた。みちほと夏也を単に仲良くさせても、歩美にひ孫の顔を見せるには程遠いが……。

 公園の入り口を通り過ぎる女子がキャピキャピした声を上げた。ブレザーの上に思い思いのコートを掛け、スカートを短めにする高等部の女子らしい恰好。男子とどこまでいったかを話す彼女たちとみちほの姿を重ねながらエリは手をポンと叩いた。

 

「ねえ、新しいビデオカメラを買ったのよね」

「はい。でも貸しませんよ」

「誰も貸してとは言ってないわ。ただ、土曜日にそれ持って出かけるのか聞きたかったの」

「そうですか、UFOの映像が見たいのでしたら任せて下さい」

「プッ。あんた本気でUFO撮れると思ってんの」

 

 横を向くエリが噴き出し、京太は口に運んだフォークから麺をポロポロと落として苦虫を噛み潰した。日曜の夜に見た鋭角的に動く光を信じてもらうには決定的な瞬間を捉えるしかない。今週は中学校の裏山に登って毎日張り込みだと、こぶしを握って澄み渡った空を見上げた。その時、黒い物体が雲より低い高さをちょこまかと飛び、とっさに京太は指を伸ばして叫んだ。

 

「あっ、あそこにUFOが……」

「まあまあ、慌てなくても見てあげるから」

 

 エリは新しい作戦を思いつき、ゆるりと缶を傾けて残りを味わった。ついでに、彼の指す方向へチラッと視線を向けた。

 

「なーんだ、空飛ぶバイクじゃない。施設にいる時はしょっちゅう飛んでたわ」

「エリさん知らないんですか…」

「知ってるわよ。郵便局や宅配業者が荷物を運んでるんでしょ」

「そうじゃなくて、住宅街や商業地、学校、公園とかの上は警察の許可が下りないんです」

「じゃあ、あれを運転してる人は警察に捕まるの」

「ええ、それが人間の場合ですけどね」

 

 飛行物体を見守る彼らは何度も顔を左右に動かして奇妙な動きに首をかしげた。空中の何もない場所で突然反転したり、フラフラと飛んだりして不安定だった。やがて、高度が下がってくるとバイクの形状がはっきりした。機体前後はタイヤがなくカウルが外側へ広がり、内側の大きな排気口に発光が見える。運転者はハンドルグリップを握っているものの、完全にシートの上に体が浮き上がり、竿に干された洗濯物のように風にはためいた。

 さらに空飛ぶバイクが高度を下げた。というより、同じところをぐるぐると回りながら公園に落ちてきた。芝生にカウル先端から突っ込んでエアバックが開いたバイクは土を掘り進んで停まり、透明なヘルメットをかぶる黒いマントの人が後ろへ飛ばされた。かなり大きな音がして五、六人の野次馬が集まったが、普段の公園と変わらず狐につままれた顔をして立ち去った。

 エリと京太が仰向けに倒れた人の元へ駆けつけると、ムクッと上半身が起きて周囲を見回して立ち上がった。ヘルメットは透明な球状部分が消えて首元にリングが残り、ボリューム感がある髪を解き放った少女がため息をついた。

 

「困りましたわ。人間界ではロードサービスも呼べないし」

 

 バイクで上空を飛ぶのにスウェットの上下と裸足でサンダル履き。めちゃくちゃな飛ばし方からして人間かどうか疑わしい彼女に、京太がポケットからM42を取り出した。レンズを向けようとする彼に気づいたエリは間に入って無言で首を振り、顔の左右に立てた人差し指を上へツンツンと突いた。ハクアに忠告された「関わらない方がいい金持ち連中」の角付き悪魔。彼女へ目をやった京太は髪から出る二本の短い角を見つけてM42を仕舞った。

 エリは角付き悪魔から離れるかと思いきや、笑顔を作って振り返った。バイクの浮いた後方を覗き込む彼女へ偶然を装って声をかけた。

 

「あれぇー、冥界のお嬢様ですよね」

「えっ、見えるの。あなた人間じゃなくて……」

「わたし、情報局のエリという者で駆け魂回収をしています。それにしても、素晴らしいバイクですね。二人乗れるかなあ。でも、これ土に埋まっちゃってるけど出せるんですか」

 

 軽く自己紹介してエリは興味深そうにバイクの前方へ回った。角付き悪魔の少女は単純に、自分の錯覚魔法が効かない=人間ではない=悪魔と考え、情報局所属と言うエリを信用した。家のコネで法治省に入って組織に疎く、他の部署がどんな仕事をしているか知らなかった。その上、育ちの良い彼女は警戒心がなく友人と話すように事情を説明して肩をすくめた。

 

「ま、最大出力の魔法で上昇すれば出せると思うけど。人間界に来る前にステーションで満タンにしたのに、最新型だから魔力消費量が多くてたった二日で空になってこの有様ですわ」

「へー、魔法で動くんですか。どこから入れるんです?」

「シート前にある丸いのが補給口で、キャップは自動開閉しますのよ」

「分かりました。わたしに任せて下さい」

 

 エリがシート脇に立って補給口へ片手をかざした。手のひらから魔力が注がれて十数秒でタンクのキャップが閉じ、正面パネルが全点灯して姿勢制御モードが作動した。前後の排気口から強力な反動魔法が噴射され、芝生に土煙を巻き上げながら傾く機体が浮き上がった。

 空飛ぶバイクは平衡を維持しつつ地面から30cm程上を浮遊した。角付きの少女は信じられない出来事に目を白黒させるが、指先で触れて機体の振動に喜びの表情を浮かべて手を組んだ。

 

「あぁ、助かりました。これで帰れますわ」

「いえいえ、悪魔同士困った時はお互い様ですよ」

 

 魔力が有り余っているところに燃料不足の魔法のバイクは渡りに船だ。へらへらした笑いの陰で彼女に作った貸しが後々プラスになると打算した。桂木家のカフェで兄・朋己に告白させるために利用できるものは何でも利用するエリ。バイクが飛べず困った悪魔に魔力を提供し、夏也のパートナーを望んだ女神にみちほを宛がう。エリの想いを遂げるには見返りとして手に入る魔法の道具で駆け魂を回収し、資金を貯めてカフェを再開するのが最短ルートだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

コレがあれば…

 京太は遊歩道に停めた自転車の脇に立ち、腕組みして角付き悪魔と談笑する背中へ冷ややかな視線を送った。見ず知らずの人に臆面もなく話しかけられる性格はエリの強みだが、どうしても金持ちに媚びる態度が好きになれなかった。

 彼の気持ちが伝わったかのようにエリが後ろへ向いて手招きした。渋々、京太は彼女たちの元へ歩いていった。

 

「何の用です。もう俺、忙しいから帰りたいんですけど」

「ダメダメ、京太にはしばらくシャイロさんをもてなしてもらうわ」

「あ、またテキトーなこと言ったんですかー」

 

 シャイロに聞こえそうな声で話す京太。エリが目をキッと吊り上げ、口横に手を当てて囁いた。

 

「駆け魂回収の邪魔になるかも知れないのよ。わたしがバイクを調べてくるから、京太は彼女がここで何をしてるか探ってちょうだい。さあ、頼んだわよっ」

 

 京太の胸をバンッと叩き、振り返ったエリは口を押さえて「ホホホ」と笑った。きょとんと突っ立つシャイロに、手を揉んでつつーっと近寄った。

 

「それでは、わたくしバイクがちゃんと動くか確かめてきます」

「あら、そんな事までしてもらっては悪いですわ」

「とんでもありません。イーマ家のお嬢様の役に立つのでしたら本望です」

「そう。じゃあ、このヘルメット使って」

 

 シャイロは首に掛かったリングを外して手渡した。同じようにエリが自分の首に掛けると、後頭部から額の方まで何かに包まれる感触がして透明なヘルメットが出来上がった。冥界の技術・電魔ナノマシンを管の内部に収容し、必要な時だけフルフェイス状に変形させる持ち運びに便利なヘルメットリングだった。

 セーラー服のエリは長いスカートを踏みつけてバイクに跨り、珍しそうに正面パネルを指で突っついた。メニューは表示されたが読めない地獄文字に首をひねった。ハンドル周りのレバーや足元のペダルを見回し、何度かクラッチを握って離しつつスロットルを回しても動かなかった。

 

「もー、彩香さんがやってる通りにしたのになんでよ」

 

 しかし、シートに踏ん張るとふわりと機体が少し浮き上がった。魔法で動くバイクだったと指を鳴らし、両足をステップに置いて全身に溜めた魔力をお尻の穴から放出するよう念じた。すると、公園の木々をはるかに超える高さまで急上昇。すぐに連続シフトアップして速度を出し、魔法で機体をコントロールして体を横に傾けた。エリは自在に風を切って気持ちよく上空でバイクを大きく旋回させた。

 青空に浮かぶ黒い物体が鳥と一緒に飛んでいる光景はのどかに感じられた。地上に角付き悪魔と残された京太が頭を掻いた。

 

「エリさん、楽しんでるなぁ。それにしても……」

 

 顔を下げて京太はジロリと目を動かし、シャイロと何を話したものかと様子をうかがった。絵に描いたような金髪碧眼の少女。エリより身長が低くトレーナーを着た小学生に見えるが、法治省に所属する悪魔で名家の令嬢という。口がうまくない彼は慎重に言葉を選ぼうと、下の方へ向く彼女の視線を追った。

 

「あっ、もしかしてこれに興味ありますか」

「ち、違います。気になさらなくても良くてよ、オホン」

 

 驚いて背筋を伸ばしたシャイロが無駄に咳払いした。分かりやすい態度である。京太は食べかけのスープ焼きそば缶を彼女へ差し出した。

 

「遠慮しないで下さい。見た目は悪いけど味はまあまあですから」

「そうですね、たまには立ち食いもいいでしょう…………ひゃら、ぼべぼびべぶばべば」

「ところで何の任務なんです、シャイロさん」

 

 ジャンクフードに満足げなお嬢様に京太はストレートに質問した。初めてのエリが簡単に飛ばすバイクを墜落させた事といい、彼女は有能な悪魔とは言い難く、小細工なしでも話が聞けると思った。果たして、スープまで飲み干すとシャイロは一人で喋り始めた。

 

「今回の任務は舞島学園への潜入と調査。ですから、あさって入学試験を受けますの」

「エリさんと同じ木曜日か…」

「こっちでしばらく暮らすために荷物整理が大変ですのよ。まあ、人間は受験勉強とやらをしているそうですけど、私の場合は魔法シートを貼るだけで問題を解いて正答データが作られるので楽勝ですわ。オホホホ」

「余裕ですね。今、引っ越し中なんですか」

 

 ひどく楽観的な悪魔だと京太は思いつつも適当に話を合わせた。が、シャイロは高笑いをやめて真面目な顔で手招きして彼を呼び寄せた。

 

「実は、舞島市に逃げた分裂駆け魂を探しています」

「分裂駆け魂?」

「勾留しようとすると本体が二つに分裂すると資料に書かれていましたわ」

「へー、資料が配られてるんですね」

「ノンノン。姉様の部屋で極秘ファイルを覗いただけですの」

「え、任務じゃないんですか」

「ウィ。この希少種を捕まえて……フフフ」

 

 下を向いてシャイロが駆け魂を勾留した姿を妄想してニヤニヤと笑う。京太はエリと似ている気がした。彼女の思考パターンからすると頭の中では自分に都合のいい展開を考えているのだろうと腕を組んだ。思った通り、顔を上げた彼女は高々と握りこぶしを天へ突き上げた。

 

「これで私も駆け魂隊になるのですわ!!」

「ははは、そりゃスゴイや」

 

 投げやりに京太はパチパチと拍手し、エリが戻ってこないかと空を見上げた。だが、余程楽しいらしくバイクが下りてくる気配はまったくなかった。

 自動販売機の場所を教えると、シャイロは一目散にスープ焼きそば缶を買いに走った。結局、相手の素性を確かめずにペラペラと情報を漏らすポンコツ悪魔だった。京太は彼女が話した内容をМ42で書き留めてエリにメールを送信し、ポケットに仕舞ってため息をついた。自分勝手な悪魔の少女たちを残して帰ろうと遊歩道に戻った。

 

 

 夕食後のダイニングテーブルでエリは席を立たずに頬杖をついてボーっとした。公園でバイクを飛ばすために魔力を使い過ぎ、体はテレビへ向くものの見る気も起きないくらい疲れていた。彩香は布巾でテーブルを拭きながら元気がない彼女の後ろ姿へ目をやった。

 

「エリ、火曜サスペンスが始まるわよ」

「ううん。今日はもう部屋に行く。勉強しなくちゃ…」

 

 ふらりと立ってエリが静かにリビングを出ていき、彩香は手を止めて心配そうな顔をして考え込んだ。食事中もあまり喋らず淡々と手と口を動かしていて変な感じがした。朋己と一緒に舞島学園に通いたいエリにとって木曜の入学試験は早期選抜と違って落ちると後がない。不安な彼女を励ましてあげなければならないと思った彩香は流し台へ布巾を放り投げ、廊下に出て階段をドタドタと上った。

 

「あぁ~、懐かしい。中等部で着たやつだ」

 

 彩香は段ボールから出した舞島学園のブレザーを天井の明かりに照らした。感傷に浸りたい気持ちもあったが、一刻も早くエリに見せたくて下にあるスカートを取って立ち上がった。

 部屋に入ったエリは服を着たままベッドに寝転がってうつらうつらとして過ごしていた。納戸の方から物音がして寝ようと思い立ち、ベッドの端に腰掛けて普段着スカートを下ろした。不意に、ノックがして部屋のドアが開き、着替え中のエリを見た彩香が表情を曇らせて側にやってきた。

 

「こんなに早く寝るなんて……体の調子まで悪くなったの」

「えっ」

 

 心配する彩香の瞳に当惑したが、エリは瞬間的にマズイ状況を理解した。昼間何していたかを聞かれる可能性大。入学試験は明後日なのに勉強せず外で遊んでいたとバレてしまう。

 エリがぴょーんとベッドの上へ跳び上がり、黒いタイツを履く両脚を前後に開いて着地した。

 

「今からヨガをするところだったんだよ。記憶力が高まって入試もバッチリ!」

 

 笑顔で親指を立てるエリに、呆気にとられた彩香は手で胸を押さえて大きく息をついた。

 

「ちょっと、驚かせないでくれる。夕食から元気がなくて心配してたのよ」

「へへ、食べてる時にヨガのポーズを考えてたんだ」

「それならいいけど。私てっきり、舞高の受験日が近いし相当緊張してるんだと…」

「んん?」

 

 彩香の腕に掛かる舞島学園の制服らしき赤とピンクの色。気づいたエリは瞼をしばたたかせ、合格のプレッシャーをかけに来たのかと指で目をこすった。ベッドに腰を下ろした彼女がスカートを膝に置いてブレザーを見せて微笑んだ。

 

「で、エリも制服を着たら気分が盛り上がるだろうと思ってさ」

「ふーん。気を遣ってくれたの」

 

 エリはあぐらをかいて腕を組み、自分の考え方がズレているのかなと首をかしげた。彩香に促されると素直にベッドから下り、背を向けて彼女が広げるブレザーに袖を通し、受け取ったスカートを履いて腰のファスナーを上げた。しかしながら、彼女のお古は肩が窮屈で腕が動かしづらく、スカートは膝下までだらりと長く恰好悪かった。制服姿に目を細める彩香へ頬を膨らませた。

 

「こんなんじゃ全然気分が盛り上がらないよー」

「ふふ、やっぱり中等部の頃のは上着が小さいわね。それにスカートが長いなら腰のところで折り返してくれるかしら」

「えぇーっ、なんで高等部じゃないの。舞島学園の制服は中高同じだから?」

「細かいこと気にしないでよ、ウエストは合ってるんだし」

「そりゃ、ウエストは余裕あるけど」

 

 大雑把な彩香に不満げなエリは腰の折り返す部分をつまみ、反対の手を伸ばしてスカートの裾に親指を当てて長さを計測した。

 

「何回折り返せばいいの。中学生でこのスカートが似合うなんて、みちほくらい…」

 

 自分の言葉にハッとして顔を上げた。すぐさまスカートを脱いで表や裏の生地に目を凝らし、擦れや汚れがない新品に近い状態にニッコリと微笑む。エリはこれでみちほに夏也を籠絡させる次の作戦が成功すると確信した。

 彩香は自分が喜んだ昔のスカートをエリが早々に脱いで少しがっかりした。それでも、エリにいつもの威勢が戻ったことは彼女を安心させた。

 

「分かったわ、新しい制服を買う時は自分でサイズを決めなさい」

「うん。じゃあ、古いのは納戸に仕舞ってくるね」

 

 ブレザーを脱いだエリは両手で抱えてトレーナーに黒タイツ姿で廊下へ出ていった。古い制服の仕舞ってある場所を知るために彼女が進んでした行動だが、彩香は新しい制服にやる気を掻き立てられたように思えた。無邪気に跳ねるエリも四月には高校生。下着が見える恰好についてよく言い聞かせなくてはと考えつつ、脱ぎっ放しのスカートを床から拾い上げた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

隠せない姿

 舞島学園の校舎内に試験終了のチャイムが鳴り響く。科目が終わるとすぐに受験生の解答データは学内無線ネットワーク網を介して収集され、成績管理室のサーバで正答認識ソフトによる採点が行われた。高等部の一般入学試験は最後の科目が終わり、教室から様々な制服を着た中学生がぞろぞろと出てきた。

 中央校舎東側四階の副校長室。東、西、南の各校舎は中庭に面してガラス張りであり、廊下や階段を移動する生徒の動向を観察できた。二階堂は市の広報誌を読み終えると厳しい目をして机の端へ放った。聖ハデス女子学園理事長・怒野ユイが語るエリート教育プロジェクトはなりふり構わず生徒を囲い込むようで気に入らなかった。窓際に歩み寄ってブラインドに隙間を開け、校舎から出るあどけない顔の生徒を眺めた。

 戻った時にすっかり荒れ果てた舞島学園を立て直したのが彼女である。舞島市は冥界でヴァイスが活発化した三十年の間に駆け魂が増え続け、市内の学校で女子生徒が取り憑かれて非行や暴力に走った。彼女は旧知の悪魔と協力して学園内に巣くう駆け魂の追い出しに成功した。その後は学園経営に直接関わらないものの、教壇に立ちながら副校長として怪しい者が入ってこないか常に目を光らせた。駆け魂隊の奮闘もあって駆け魂が徐々に減っていく中でいち早く正常化し、平穏を維持し続ける学校に優秀な生徒が流れてくるのは当然の帰結と言えた。

 

「相変わらず屈託がないな。だが、合格発表の時に笑っていられるかな」

 

 視線の先に後ろで髪を結ぶ少女がいた。明るく周りに話しかける彼女を見下ろし、含み笑いをして白髪をかき上げた。

 振り返った二階堂はどっしりしたオフィスチェアに腰掛け、広い机に置かれたコーヒーカップへ手を伸ばした。この日、一日中副校長室で試験の採点経過を見守った。ディスプレイには情報ウィンドウが複数開かれ、点数は一定間隔で最新に更新される。画面右隅に桂木エリの顔画像とともに表示された合計点数は合格のボーダーラインを確実に下回った。

 

「ふむ、やはり進学コースには学力不足のようだな」

 

 たとえ、合格しても初めからFランクでは先が思いやられた。進学コースの生徒はA~Fの学力ランクに振り分けられ、一般入試組の最初は点数によって決まるのであった。

 二階堂は進学コースの成績上位者が気になり、別ウィンドウを開いて採点結果のリストを表示させた。今年の試験問題はなかなか難しく教師間でも評判が良かった。しかし、トップの点数に目を見開いた。

 

「な、バカな。この問題で全科目100点をとれるなんて有り得ん」

 

 マウスカーソルは各科目の点数をなぞった後に右端で折り返し、スッと左端に動いて受験生の名前がクリックされた。

 

「シャイロ・M・イーマ。外国籍の人間か、それとも…」

 

 カップを置いて情報ウィンドウを見つめ、二階堂は軽くこぶしを握って顎を押さえた。シャイロが願書に添付したデータは微妙に頭の輪郭がぼやけた画像。白鳥技研が開発したAI画像解析ソフトを立ち上げ、それをドロップして改変された場合の元画像予測を始めた。数秒後、十個あまり表示された候補の一つは角が二本生えた悪魔の顔を映し出し、眉間にシワを寄せた二階堂が椅子にもたれて腕を抱えた。

 通常、魔法がかけられた後のデータに痕跡は残らないが、不完全な画像改変は人間界の技術で簡単に復元できる。魔法が下手なシャイロだから助かった。といって、ヴァイスの手の者かも知れない悪魔を発見してホッとはできなかった。舞島学園は建物の内外を問わず50体のロボットを巡回させて侵入者を警戒し、ロボットは魔法や邪悪な気を検知するセンサーを搭載していた。

 

「錯覚魔法で角を隠しても校門を入れば彼らに取り囲まれるだろう。ということは、羽衣のような道具を使うしかない。だがしかし、羽衣は持つ者の能力以上に強力な武器となるため、かなり前に製造中止になったはず。法治省は電魔ナノマシンの使用を厳しく管理していると聞くが……」

 

 きな臭さを感じる出来事に、手を頬に当てて悩ましげに考え込んだ。ジリジリと合否判定会議の時間が迫り、マウスを握ってタスクバーに並ぶ情報ウィンドウを一つ一つ閉じた。最後に残るウィンドウへ目をやって二階堂は思案した。

 

「仕方ない。もう一度彼女に入学してもらうか」

 

 早速、机上の電話機から受話器を取って内線ボタンを押すと、繋がった相手に丁寧な言葉遣いで補欠合格者の倍増を願い出た。

 

 

 トートバッグを手にエリは黒田家の玄関でスニーカーを脱ぎ、舞島学園に合格した気分でぴょんと玄関マットに上がった。高等部の入試日は中等部も休みで、スリッパを履いてL字に曲がる廊下をずんずんと歩いた。

 

「みちほ、一緒に合格発表を見に行くわよっ」

 

 勢いよく戸を開けて奥の小上がりに呼びかけた。部屋は暖房が良く効き、ジャージ姿であぐらをかくみちほが乙女ゲームの画面から面倒くさそうに横へ顔を向けた。

 

「発表は土曜でしょ。気が早くない?」

「早いに越したことはないし、それにこれ着てもらおうと思って」

 

 エリはバッグを開けながら近寄り、さっと中から舞島学園指定のスカートを差し出した。大事な入学試験と聞いてみちほは来ないと安心していたが、私服に着替えて後ろで髪を結んで十分気合を入れて来たように見えた。母がパートでいない平日午後はゲーム三昧の好機だ。エリに早く帰ってもらうため、シート型テレビの真ん前から這い出てスカートを受け取った。

 小上がりの端に腰掛けたみちほはスカートに両足を入れてフローリングに立った。エリは勝手にクローゼットを開けて制服を探し、ハンガーに掛かるブラウスとブレザーを取って振り向いた。

 

「あっ。こら、横着しないでジャージを脱ぎなさい」

「え、これを着るだけじゃないの」

「ううん、トータルで似合ってるかを見るの。はい、これもよ」

 

 それぞれの手に持たせたエリはしゃがんだ。「えい!」と思い切ってズボンを引き下ろすと、みちほは股間がスースーして両手でスカートの前を押さえた。

 

「ヒェッ。な、な、何してんのさ!!」

「あ、ごめんね。探すわ、ちょっと待って」

 

 エリは慌てて足元のズボンに埋まった白いショーツを膝まで引き上げ、顔を上げて苦笑いした。

 

「ははは、わたし後ろ向いてるから」

 

 立ち上がってエリが背を向けた。みちほは恥ずかしさを押し殺して小上がりに座って制服を畳の上に置き、お尻を浮かせてショーツをスカートの中まで引っ張った。2D美少年のために我慢我慢と気を落ち着け、ジャージの上を脱いでブラウスに着替え、裾をスカートに入れてブレザーに袖を通した。

 

「着替え終わったよ、エリ姉」

「終わった?」

「うん。ま、スカートだとこんな感じかな」

 

 赤色が濃いブレザーの下に真っ白なブラウスが覗き、畳に広がった大人しめピンクのスカートから出る丸い膝小僧とほっそりした脚。恰好は思い通りだが、姿勢が悪いみちほは背中を丸めて手を太腿の間についた。エリは納得いかない表情をすると小上がりへジャンプした。彼女の後ろに立って両肩を掴んで背骨を膝で押し込んで胸を反らせ、ぐるっと前に回って手を体の横に置いて両膝をピタッと合わせた。

 エリは壁際に下がって指で四角形を作り、スカートを履く楚々としたみちほを眺めて頷いた。

 

「よーし、これで第一段階はオッケーね」

「はぁ、まだ続くのかよ」

 

 みちほの不平に構わずエリは再びクローゼットを開け、棚から小物を取って振り返って彼女の側に立った。ぽっかり空いた襟元はスラックスのみちほが使わないリボンを結んだ。全下りした前髪を綺麗に分けておでこを出し、普段は三角形のパッチン留めをする耳の上は花柄に変え、仕上げにポケットから出したクリームチークを小指で塗って頬に赤みを持たせた。

 ぽかんとしていると、ブレザーのボタンがはまってみちほはクローゼットへ向いた。扉の内側にある鏡に映った自分の姿を眺め、可愛くて女の子らしい感じにドキッとした。

 

「こ、これで合格発表に行くのか」

「そうよ。掲示板で受験番号を一緒に探しましょう」

「あれ、それってわたし関係ないじゃん」

 

 みちほが怪訝な顔で振り向いた。エリは小さく首を振り、彼女の横にちょこんと腰を下ろした。

 

「わたし、みちほを友達だと思ってるの。年齢は違うけど作戦を手伝ってくれるし、いつも感謝の気持ちでいっぱいよ。合格発表はサイトで見れるけど、二人で合格の喜びを分かち合えたらいいなと思ってね。ちょうど京太がビデオカメラを買ったっていうし、掲示板の前で可愛い恰好をして撮影すれば、わたしたちの一生の宝物になると思うわ。でも、みちほは嫌かなぁ」

 

 長々としたセリフの後にエリが目を見て微笑み、みちほは疑いの眼差しを向けて頭の中でつぶやいた。「今度は何を企んでるんだ」。油断をすると理不尽な作戦に巻き込まれる。煎餅ビンを手に入れるために否応なしに夏也と見合いをさせられたことが脳裏によぎった。と同時に、彼が高等部の入学試験を受けると言ったことも思い出した。

 合格発表に行くと夏也と鉢合わせする可能性があった。口をつぐんだみちほは視線を逸らせて頬をぽりぽりと掻いた。エリは自分の話に彼女が照れくさそうにしたと見て取り、遠回しに舞島学園で会った時にいい雰囲気になると匂わせた。

 

「みちほがこの姿で行ったら、可愛い過ぎて男子が見とれちゃうわね」

「へっ。男子が…」

 

 男子という言葉を聞き、夏也の顔を思い浮かべてみちほは心臓をバクバクさせた。けど、彼女はこの苦しい原因がよく分からなかった。男子に好かれることは乙女ゲームで数え切れないほど経験し、リアルでも見合いの時は夏也と楽しく喋れた。条件は変わらないはずなのに、今は彼と会っても普通に話せる自信がなく、緊張して無口になるのが目に見えた。

 エリはバッグから出したA4用紙を広げ、立ってフローリング隅にある学習机へ行った。じっと下を向いたみちほは小さい声で疑問を口にした。

 

「ほんとに行くかな」

「大丈夫。わたしも市内循環に乗って一緒に行くわ」

「じゃなくて、その…先輩も来るのかな」

「ん?」

 

 机の上に紙とチークを置いたエリは後ろへ体をひねり、みちほの様子に小首をかしげた――今、夏也くんのこと言ったのよね。意外と気になってたりとか……はないか。見合いの後も不機嫌にしてたし。そうすると、彼が来るなら行きたくないってことかしら――夏也が苦手ならば秘密にしておこうと考え、申し訳なさそうな顔をして手を合わせた。

 

「ゴメン、みちほ。彩香さんがスイーツ店で合格の前祝いしてくれるからもう行かなきゃ。土曜の朝は紙を見てちゃんと支度するのよ、じゃあね」

 

 エリは床からトートバッグを拾い上げながらみちほを一瞥した。そばかすの上に物憂い瞳を見たものの、心のサインに気づかず彼女の部屋を出た。想像した甘い味を口内に広がらせて鼻歌交じりに玄関へ向かった。

 合格の喜びを分かち合う夏也とみちほをこっそり撮影し、うまく編集した映像を見せてメルクリウスに彼らの仲が進展中だと認めさせる作戦。女神から魔法の道具をせしめようと企むエリは心の動きを計算していなかった。この夜、みちほは布団に入ってなかなか寝つけず、心の中では夏也に会いたくない気持ちと会いたい気持ちがせめぎ合うのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

企みに気づいたら

 土曜日の朝、みちほは上半身Tシャツで洗面台の前に立ってブラシで髪をといた。昨日はかなりの寝不足で学校へ行ったため風呂を出てすぐ就寝し、睡眠が十分とれて色艶の良い肌が鏡に映っていた。

 いつもと同じに分けた前髪は三角形のヘアピンで留められ、エリがしてくれた可愛い顔は採用されなかった。他人の合格発表で目立とうとするのは場違いな気がし、夏也に会った時にじろじろ見られると困る。そう考えたみちほはスラックスを履いてブラウスの上にセーターを着た。いつもと変わらない恰好で台所へ向かったが、食事中にハプニングが起きた。考え事をしながら味噌汁のお椀を持ち、手が滑って太腿の上にぶちまけた。母・美雪は瞬間湯沸かし器のように怒ったものの、急いでみちほを脱衣所に連れていって汚れた服を脱がせた。エリに聞いたバスの時刻が迫っているからだった。

 

「いちいち母さんに電話するんだもんなぁ、エリ姉」

 

 みちほが寒そうに足を擦り合わせると、あきれた表情をした美雪がエプロンの前に着替えを抱えて後ろに立った。

 

「タイツも持ってきたわ。まったく、面倒くさがって履かないんだから…。それとパンツも濡れてるでしょ、ちゃんと替えるのよ」

「うん」

 

 頷いてみちほは着替えの山から白タイツとショーツを取り、着脱に使う丸い椅子に奥へ向いて腰掛けた。美雪はブラウスとリボン、スカートをランドリーワゴンに載せて不思議そうな顔をした。

 

「ねえ、この制服のスカートは誰が買ったのかしら」

「あ、それはエリ姉が貸してくれたの」

「ふーん。彩香が捨てずに取っといた物ね。ま、ちょうどいいから今日はこれ履いていきなさい」

「いや、そのスカートは……」

 

 慌てて振り向いたみちほの手からショーツが落ち、美雪は腰を屈めてプリントされた猫のキャラをつまんで下のかごへ放り入れた。腰を伸ばした彼女は恥ずかしがる娘に嘆息すると、優しく肩に手を置いた。

 

「みちほは女の子なんだから、スカートで学校に行っても変じゃないのよ。エリちゃんがこれを履いて合格発表を見に行こうって誘ったんでしょう」

「だって、履いてくの恥ずかしいしさ」

「あら、母さんはスラックスであぐらをかかれる方がずっと恥ずかしいわ」

「何言ってんの。そんなこと学校でする訳ないじゃん!!」

 

 みちほが珍しく美雪に向かって気色ばんだ。普段、母の前では怒らせないように素直に言う事を聞く良い子を演じた。美雪は手がかかる兄たちと比べてラクと思う一方で、感情を表に出さない娘に不安を抱くことが間々あった。その最たるものが小学六年の時に始まった理由の分からない登校拒否だった。だが、エリが家に来てからほとんど休まず学校に行くようになり、前髪を分けてヘアピンをしたり、下着を買ってきたりと行動に変化が現れた。そして、先日は男子とデートをしたと伝え聞いた。そうした事の一つ一つがエリの影響を受けているのだと美雪は思い知った。

 美雪は嬉しそうに微笑んで腰に手を当て、反抗的な目を向けるみちほの頭をポンと叩いた。

 

「ふふっ、諦めなさい。もう一本のスラックスは去年作ったまま裾伸ばししてないし、ちんちくりんで履いていくと笑われるわよ」

「そ、それじゃあ…」

「えーっと、あとはブレザーか。そうね、味噌汁がはねた紺のセーターは洗濯するからクリーム色のを持ってくるわ。ほら、ぼけっとしてないで早く着替えなさい」

 

 やけに乗り気な母の命令口調に、みちほは面白がっているのではないのかと勘繰った。美雪が脱衣所を出ていくと、脱いだ靴下をスカートの上にポイっと投げ、面倒くさそうにして両手でタイツのつま先を手繰り寄せた。

 リボンを結び終えたみちほは浮かない顔でたたずんだ。制服だけ女の子らしくしても彼が可愛いと思う訳はないと思った。ただ、美雪の機嫌を損ねてまでスラックスを履く気も起きなかった。

 

 

 田んぼに囲まれる平屋の地区公民館。隣は住職のいない簡素な寺があり、道路から建物まで駐車用にコンクリート舗装された。バス停の案内板は道路端のギリギリに立ち、乗客はほぼ公民館側でバスを乗り降りした。

 外はすっきりと晴れて日差しがまぶしく、みちほは母に借りたボテッとした黒いダウンが暑くて前を開けた。エリへ送ったメッセージは既読にならずイライラした。車いすのシート上で画面から視線を上げ、近づくバスに舌打ちしてスマホを仕舞った。夏也との鉢合わせを避けるために合格発表での時間をなるべく短くする。舞島学園に着くまでに受験番号を聞いておこうと気ばかり急いて他の事に一切考えが回らなかった。

 渋い表情のみちほは停車するバスの中扉まで移動した。電動スロープが早く出てこないかバスの下を眺めていると、開いた扉脇に黒い学生服のズボンが見えて顔を上げた。

 

「な、夏也先輩……」

「おはよう。ちょっと待っててね、そっち行くから」

 

 夏也はスロープが出終わるのを待ってコンクリートに飛び降りた。女性のバス運転手が前から来て「じゃあ、頼んだわね」と声をかけ、そちらを向いた彼が背中を見せた。みちほは事態が飲み込めないものの、隙を見てファスナーを太腿から首まで上げて制服を覆い隠した。

 みちほに目配せして運転手は背中を見せ、代わりに夏也が後ろに回って車いすをスロープに押し上げた。そのまま車いすスペースへ押していき、キャスターと後輪を壁のセンサーが感知して床の固定装置に自動ロックされた。乗客はまばらだが彼は後ろの握り棒に手を掛け、みちほの横で満足げに息をついた。

 

「ふぅー、板に上げるまでは重くて疲れたよ。あ、もしかして驚かせちゃったかな。みちほさんが乗ってくるって話をして運転手さんにお願いしたんだけど」

「そうですか。気を遣わせてどうも」

 

 顔を合わせようとせずにみちほは手を組んで斜め前方へ目を向けた。扉の閉まるブザー音がしてバスが発進し、車窓に公民館の建屋と寺のお堂が流れた。

 

「ああ、そうだ。エリさんは今起きたところで舞島学園には直接行くそうだよ」

 

 いきなり夏也の顔が近づき、みちほはギョッとして身を引いた。小恥ずかしさをエリに転嫁して「連絡ぐらいしろよ」と腹を立てた。だがしかし、来るつもりがないなら話は違ってくる。これも作戦の一環かと考え、夏也の方に体を戻して上目遣いをした。

 

「それで、先輩もエリ姉と一緒に行く約束したんですか」

「うん。入学試験が終わってから話しかけられて、三人で行こうって聞いたんだ。けど、今日はしばらくみちほさんと二人きりだね」

「ふ、二人きり……」

 

 みちほはゴクリと唾を飲み込んだ。男女が狭い部屋で肩を寄せ合うシーンを連想させる魅惑的な言葉に胸が高鳴った。時が止まったかのように夏也を見つめると、次の瞬間、バスが田んぼの十字路を曲がった。夏也が遠心力に上体を反らせて後ろへ足を引いて踏ん張り、ハッとしてみちほは彼へ手を差し伸べた。

 

「立ってたら危ないですよ。どうして座らないんですか」

「それはね、いつも君の側に居たいからさ」

「えっ、わたしと…」

「なーんてね。ほんとは一人でいると合格発表のこと考えて不安だし、みちほさんと話をしてれば気が紛れると思ったんだ」

「そ、そうですよね。ごめんなさい」

 

 頬を赤く染めたみちほは下を向いて胸の前で小さく手を合わせた。彼の気持ちを考えず浮かれた自分が恥ずかしかった。吊り革を掴んだ夏也は上から申し訳なさそうな顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、なんでみちほさんが謝ってるの」

「あ、その、それは……エリ姉が迷惑をかけたんじゃないかと」

「そっか、彼女と親戚だからね」

「はい」

「エリさんが寝坊か。試験の後は自信満々だったけど、昨日は眠れなかったのかな」

「ええ、多分そうですよ」

 

 エリを気にかける夏也の話に合わせ、みちほは自分の勘違いを誤魔化した。告白される訳がないと頭で分かっていても淡い期待を持ってしまう。邪念を振り払おうと前を向き、膝に手を置いて目をつぶって深呼吸した。

 無心のみちほに前より肌艶が良い柔らかな印象を受け、夏也は横顔に見とれて「ピンク色のヘアピン…」とつぶやいた。話かけられたと思ったみちほは目を開けて耳の上に手を当てた。

 

「あ、これですか」

「そうそう、前にエリさんも同じとこにしてたでしょ」

「へー。記憶力いいですね」

 

 確かに、夏也の言うヘアピンは数か月前までエリが付けていた。みちほは彼が覚えていることに疑問を感じつつも、合格発表の不安を吹き飛ばそうと手を叩いて盛り上げた。

 

「この記憶力なら入学試験の結果もいいんじゃないですか」

「あははは、僕の話はおいといて…エリさんは合格すると思う。早期選抜を受験するぐらいだし」

「は?」

「それにしても、エリさんは成績も運動神経も良くて凄いよね。体育の授業でトラックを走ってるのを窓から見てたら、瞬く間に他の女子と半周近く差をつけたんだ」

 

 夏也は自分の試験結果に触れて欲しくないのか、唐突に学校での話を持ち出した。ヘアピンのことも含めてクラスの違うエリに強い関心を向けていたと分かり、みちほは面白くなかった。不貞腐れると窓側のアームレストに肘をついて手に頬を乗せた。

 

「どーでしょうねぇ。入学試験の直前は余裕ぶっこいてサボってたし」

 

 みちほはしおらしい態度から素の話し方に戻って悪態をついた。せっかく邪魔の入らない環境で彼と一緒に居られる機会に聞きたくない話題だった。エリには同じ学校と学年というハンデの上に可愛さで敵わない。以降は彼女の話を続ける夏也にムッとした表情で適当に相槌を打った。揺れるバスの車内で、エリに対する嫉妬の炎がみちほの心にゆらゆらと燃え出し始めた。

 

 

 バスを降りた二人は舞島学園の校門を入り、警戒中のロボットから腰ほどの高さにある頭部カメラを向けられた。車いすを押す夏也は不慣れな様子でペコペコし、シートに座るみちほは我関せずとスマホを触った。一般入学試験の受験生と中等部の生徒としてそれぞれ認証され、冬芽が膨らみかけた木々の間を通って中央校舎の前に進んだ。

 みちほは画面に表示されたエリからのメッセージを怪んだ。降りたバスの舞島学園前発車時刻と一致する送信時刻。あらかじめ予約しておいたのかと、眉をひそめて後ろへ向いた。

 

「もっと遅れるとかエリ姉から来ましたけど、先輩どーしますか」

「じゃあ、先に僕の結果からか…」

「ビビッてるならここに居てもいいですよ。わたしが代わりに見てきますから」

「はっ、ははは。つれないなぁ、なんか怒ってない?」

「いいえ。何もないです」

 

 ツンツンしたみちほに夏也は観念し、合格発表が行われる場所へ車いすを向けて押した。校舎の周りはジャージを着た複数の集団が競技名を叫んでランニング中だった。彼らをよけるように車いすがくねくねと移動し、みちほは難しい顔で腕組みした。メッセージには書かれていなかったが、エリが学園内にいる確信があった。再び女神・メルクリウスから煎餅ビンや他の道具を手に入れようとすれば、夏也のパートナーを探す彼女が納得する彼との仲睦まじい男女関係の証明が必要になる。その証拠映像の撮影をエリが狙っているに違いないと考え、わざと固く口を結んで正反対の行動をとった。

 中央校舎東側の角を曲がり、人気のない壁の前で夏也が車いすを止めた。白い用紙にびっしりと並んだ四桁の数字。校舎の横壁は進学、情報、芸術、職業訓練コースの順に合格者の受験番号が貼り出された。彼は受験したスポーツコースがなく、ふーっと息をついて通り過ぎた。

 先にある高等部校舎裏は人だかりができて賑やかな声が聞こえた。人垣を回って後ろに来るとハンドベルが鳴り響き、長机の前で合格者が袋を受け取って周りから拍手が起こった。

 

「ああ、ユニホームが当たる福引きですよ」

「みちほさん、知ってるの?」

「スポーツコースの定員は少ないから、運動部が勧誘目的でやってるんです」

 

 みちほがゴソゴソと片手をポケットの奥に入れた。久しぶりの会話に夏也は車いすの横に回り、楽しげに「それでそれで」と腰を屈めた。スマホを仕舞ったみちほはハンドリムに手を掛けた。

 

「あ、先輩は人が減るのを待ってて下さい。わたし用があるんで」

 

 大した事のない恒例行事の説明より、エリを見つけて非難する方が大事だった。一階は教室の窓も多いが、どこかの壁に合格者が張り出されているのだろうと考えた。みちほは自分で車いすを動かし、そっけなく夏也を避けてエリを探しに行った。二階のベランダを見上げながら高等部校舎の端まで移動して車いすを180度ターンさせた。校舎と反対側は常緑樹が生い茂る林。地面の近くに寄って木の陰へ目を細くし、コンクリートの方に落ちた葉や折れた枝をよけつつ引き返した。

 どこにもエリの姿は見当たらなかった。両腕が疲れたみちほは合格発表の場所までやや距離を残して車いすを止めた。人だかりは受験生が大分と減り、受験番号が並ぶ白い紙と貼られた小さい掲示板が合間から見えた。発表方法が分かったところで、ふと夏也はどうなったのか気になって視線を向けた。

 掲示板から少し離れた後方に、夏也が呆然と口を開けて突っ立っていた。みちほは表情から『不合格』と思い込んだ。不安を抱える彼に冷たい態度をとったことをひどく反省し、追い詰めたような後ろめたい感じがして胸を手で押さえた。元気づけるために早く行かなければと焦り、ハンドリムを回すとキャスターに長い枝が引っ掛かった。思わずフットレストを上げてみちほが車いすから立ち上がった。「放課後は一緒に遊べるじゃないですか」、「バス通学より自転車の方が断然ラクですよ」、「わたしも公立高校を受けようかな」。幾つかのセリフを用意しながら、障害がある足を引きずって彼の元に駆けつけた。

 ところが、夏也はみちほへ体を向け、彼女の顔を見るなり嬉しそうにして掲示板を指差した。

 

「見えるかい、右側の列の一番上が僕の受験番号なんだよ」

「えっ、ほんとですか。合格……良かったぁ」

 

 みちほは合格だと知ってほっと一安心し、自分の事のように喜んだ。すると、「合格」と聞いた夏也は感極まって彼女に抱きついた。

 

「みちほさん、ありがとう!!」

 

 学生服の胸が勢いよくぶつかり、ダウンの上から男子にぎゅっと強く抱きしめられた。みちほは目を丸くした。正面から異性の体が密着してくるドキドキ感と冬の厚着が遠ざける温もり不足のもどかしさ。真横にある夏也の頬を意識して顔を紅潮させ、手の置き場に困って腰の辺りを軽く押さえた。

 至福と困惑の時はそう長く続かず、静かに体が離れて今度は両手を握られた。みちほは夏也の顔を直視できずに下を向いた。熱い抱擁からの流れはリアルでも相場が決まっている。チラチラと目を上げ下げし、彼の口から出る言葉を待った。

 

「これでみちほさんと毎朝一緒に通えるね」

「えぇ…ですね」

「病気で行けない時とか困るし、連絡先を交換しようよ」

「は、はい」

 

 コクリと頷いてみちほは顔を上げた。夏也が手を放してポケットのスマホを差し出し、自分のスマホを近づけた。二人は手元を見つめて情報の送受信を見守り、ピピッと音が鳴って夏也は沈黙を破るように口を開いた。

 

「前から思ってたんだけど。僕、ずっと――」

 

 話の途中で夏也は突然、空中へ体が持ち上げられた。彼の胴体を五、六人の柔道部員が頭上に水平にして運び、有無を言わせず彼は福引器やユニホームの袋が並ぶ長机の前に下ろされた。

 初めは面食らった夏也も先輩たちの祝福にいつもの笑顔を見せた。一方、みちほは告白シーンを台無しにされて憮然としていた。けれども、彼の屈託ない表情を眺めるうちに彼女は楽観的な気持ちになった。

 

「ま、エンディングは見えたかな」

 

 恥ずかしがり屋のみちほは面と向かって夏也に想いを伝えられなかった。だが、学校はイベント発生におあつらえ向きの場所であり、告白の続きを聞けるのではないかと期待を寄せた。

 カフェの見合いから始まった二人の関係は急展開で夏也が告白する寸前まで来た。みちほはこのまま行けると考えつつも、彼の会話に一抹の不安を覚えた。エリの話を楽しそうにする夏也。その一言によってみちほの感情は浮いたり沈んだり如実に喜怒哀楽が表に現れた。心の中で彼の存在が大きくなるに連れ、比例して彼に望むことが増えていくのであった。

 




―― 次章予告 ――

舞島学園に出現した駆け魂は分裂してどこかへ飛んでいった。時を同じくして校門を出る猛スピードの車いす。夏也から話を聞いたエリは魔法のバイクに跨って上空からみちほを… ⇒FLAG+21へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

FLAG+21 春風に踊れば
すれ違い学園ロード


―― これまでのあらすじ ――

中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
夏也の祖母・歩美と話をしたみちほは高原煎餅店にスカウトされ、彼に振られたことが誤解と気づいた。逆に、彼の好意を知って気分良く元の乙女ゲーム生活に戻った。
エリは舞島学園の入学試験を明後日に控え、京太に煎餅ビンの威力を見せつけようとするが、魔力を溢れさせて壊してしまう。試験を終えると早速、女神・メルクリウスから煎餅ビンの替わりを手に入れようと企み、みちほに制服のスカートを渡して合格発表に誘った。
合格発表で再び夏也に会うことを考え、みちほは部屋で物憂い表情を浮かべた。それでも、エリの作戦で夏也と二人きりになると、彼がするエリの話にムッとしたり、彼に抱きしめられてドキドキしたりと一喜一憂した。
夏也と告白寸前まで行き、気分はすっかり恋人同然。みちほの心は余裕があるように見えた。



 合格発表を済ませた二人は南校舎の中庭側を通ってグラウンドを見に向かった。未だ運動部がランニングする校舎の外周を避け、陰になった校舎沿いに夏也が車いすを押した。南校舎は中庭を挟んで向かい合う中央校舎と同様に建物が東西に二つあり、真ん中を通り抜けられる構造になっていた。グラウンドへの角を曲がって彼は車いすのグリップから片手を放して額に当てた。

 

「うわ~、土じゃないグラウンドは初めてだよ」

「え、前に『走力を見るテストがあった』って言ってませんでしたか」

「ああ、セレクションは野球部のグラウンドでやったからね」

「そうだったんですね」

「けど、ここならもっと速いタイムが出せたと思うな」

 

 緑の芝を囲む青いトラックを眺めて嬉しさが溢れる顔。夏也が見たいと言って来たが、ここを通るのにはみちほの思惑があった。中庭は主に校舎間を移動する時に使われ、中庭とグラウンドを行き来する南校舎の間も休日はほとんど人通りがない。彼女の思った通り、日陰の静かな場所に車いすが停められた。

 みちほはこっそりと左右の駐車ブレーキを引き、車いすを東や西の校舎内から見えにくい角度に固定した。視線を下げて緊張した面持ちで、前方に回った夏也の背中へ話しかけた。

 

「先輩、何か忘れているような気がしませんか」

「あ、エリさんはどうなったんだろう」

「いやっ、もうエリ姉は用が済んだから姿を見せないと……」

 

 慌てて手を横に振りながら反対の手で口を押さえた。この期に及んでエリの話は聞きたくないと思い、口が滑ってエリが仕組んだことを漏らしそうになった。振り返った夏也が悩ましげに手を顎に当てた。

 

「うーん、意外とせっかちな性格なのかなぁ。食事をしながらテーブルに置いたスマホに手が伸びてサイトの合格発表を見たとか」

 

 エリの行動を推し測る夏也に、みちほが黙ってアームレストを強く握った。彼は告白する様子もなく、不満が溜まった彼女は辛抱たまらずに車いすから立ち上がった。

 

「あ、あの、わたしに話あるんじゃ…」

 

 手のひらを擦り合わせて催促するような目を向けた。今日も黒いダウンを着るみちほが真面目な顔で迫り、唾を飲み込んだ夏也は胸の前でパンと手を合わせた。

 

「ゴメン、隠すつもりは全然なかったんだよ」

「は?」

「借りたダウンベストは失くしてしまったんだ。ゴミ箱に捨てられてたのをばあちゃんが取っておいたけど、メルがまたどこかへ捨てに行ったらしくて」

 

 夏也に思いもかけない告白をされ、一瞬呆気にとられたみちほは首をブンブンと横に振った。

 

「そ、そんなことはどーでもいいんです」

「いやいや、どうでも良くないよ。代金はきちんと弁償するから」

「もぉ、わたしはお金が欲しい訳じゃないんです」

「みちほさんの家は裕福なんだね。僕はお金は欲しいよ。たぶんエリさんも同じだと思う、施設で育って苦労してるだろうし。だからさ、今度会う時に受け取ってもらえるかな」

 

 夏也が聞き分けのない子供を相手にするように優しく微笑んで近寄り、表情を曇らせたみちほが車いすのシートにお尻をドスンと落とした。

 

「エリさん、エリさんって――」

 

 みちほは俯いて両膝に手をついた。彼女の声は低くくぐもり、彼の口を衝いて出る名前にうんざりという風に呻いた。頭の中は告白される期待が埋め尽くし、他の女子の話をする夏也が無性に腹立たしかった――なんでいつもいつも会話にエリ姉が出てくるんだ。一日中、エリ姉のことばっか考えてんのか。さっき何を言おうとしてたか少しは思い出せよ。

 下を向いて苦しそうな姿勢をとるみちほの前で夏也は腰を屈めた。機嫌が悪くなったとは露にも思わず顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、疲れたなら帰ろうか。調子が悪いんでしょ。エリさんから掲示板の近くで動かないように頼まれたのを忘れてたよ。ほんとに、エリさんって色々と気が回るよね」

「あン?」

 

 夏也の一言は火に油を注ぎ、顔をしかめたみちほはギロリと睨み、彼からプイッと顔を背けた。

 

「フン。先輩はエリ姉のこと考えてればいいんだ!!」

 

 みちほが完全にへそを曲げ、ハンドリムを回して車いすを反転させた。怒る理由が分からず頭を掻く夏也を置いて彼女は中庭へと離れていった。

 中庭に生えたシンボルツリーの脇を回ると、中央校舎の建物が東西に分かれた間から一直線上に校門が遠く見えた。唇を噛んだみちほは出口を求めて懸命に手を動かした。リアルの世界では彼を捕まえておく勇気はないが、彼を独り占めしたい願望は強い。今の夏也はノーマルエンドでさえ受け入れ難い特別な存在。自分だけを見ていて欲しい想いが膨らむ胸の内は解消されない不満がモヤモヤとなって大部分を占領していた。

 中央校舎前をランニングする運動部の隊列が走り過ぎる。みちほは車いすで休憩なく移動し、建物の間にかかる屋根をくぐり抜けた。日向に出てファスナーを全開させて胸元を広げ、天を仰いだ彼女が大きな声を上げた。

 

「わぁー、どうして……」

 

 突然、みちほは息が苦しくなるような感覚に襲われて手で喉の辺りを押さえた。心のスキマに駆け魂が入り込んだ瞬間。悪寒が走って背中から嫌な汗が噴き出し、異様に胸が火照ってダウンジャケットを脱ぎ捨てた。気持ち悪いなりに彼女の頭は物事を考えられるものの、体は次第に自分でコントロールできなくなった。

 少女の叫びを聞いた生徒が数人振り向いた。しかし、ブレザーを着た彼女は何事もなく手を動かし、車いすが瞬く間に80メートル先の校門に消えた。その衝撃的な速さに、彼らは目をこすってその場を後にした。

 

 

 遡ること30分前。エリはフード付きトレーナーにスキニーパンツという動きやすい恰好で中央校舎東側の角を回った。辺りは閑散として掲示板は見当たらず、受験番号が並んだ白い紙が壁に貼られた。体をひねったエリは入念にストレッチを行い、自信がある合格発表は後回しにして校舎と反対側の林へ向かった。

 自分の合格発表だけが目的ではなかった。後から来るみちほと夏也のツーショットを映像に収める事。そのためにみちほに可愛い恰好を指南し、舞島学園に向かう彼らを二人きりにして雰囲気を作った。夏也がみちほと合格を喜び合って笑顔を見せる場面を撮影し、動画編集ソフトでうまく加工すれば恋人同士で通じる。捏造した証拠を使ってでもメルクリウスを納得させ、壊れた煎餅ビン代わりの駆け魂回収に有用な道具を手に入れるつもりだった。

 エリは後ろで手を組んで林の木々に背を向け、右へ左へ視線を動かしながらそろりそろりと後ずさり、さっと近くの太い高木に身を隠した。幹にもたれて一息つくと、林の奥から何かに反射する光が目に入った。

 

「あれ、あそこだけなんか明るいな」

 

 舞島学園の東は常緑樹の林が広がり、気になってエリは奥へ歩いた。狭く開けた場所で見覚えのある空飛ぶバイクが停められ、側に黒いセーラー服に茶色い巾着リュックを背負う悪魔・シャイロがいた。冥界の令嬢である彼女は魔法の道具を持っていそうなので、先日出会ってからエリは積極的に媚を売った。偶然にも、彼女は任務でエリと同じ進学コースを受験していた。

 

「そ、そのバイクで合格発表を見に来たんですか」

「あなたは確か、情報局の…」

 

 驚いた顔をして近づいてくるエリに、体を向けたシャイロの表情がパッと明るくなった。

 

「ちょうど良いところに来ましたわ」

「へ?」

「今からこの学校の事務所に行こうと思っていましたの。案内して下さるかしら」

「え、事務室ですか。あっ、ちょっと待って……」

 

 シャイロがエリの腕を取って校舎へと引っ張っていった。合格発表サイトに受験番号がなかった彼女は何かの間違いではないかと舞島学園までバイクを飛ばし、上空から林に開けた場所を見つけて下りたところだった。

 舞島学園高等部の事務室は中央校舎東側の一階にあり、オンライン申請が当たり前の昨今は来客も珍しかった。事務員が言うにはシャイロは合格どころか受験した記録もなく、カウンターの上に身を乗り出した彼女が口角泡を飛ばした。何度調べてもらっても同じ答えしか返ってこず、エリは先に中庭側の玄関から出て太陽を浴びて大きく背伸びをした。

 その頃、みちほと夏也は合格発表を済ませて東校舎の裏から南校舎へ移動し、彼らの仲睦まじい映像を撮影する計画は潰えた。ポケットに手を突っ込んだエリはМ42を出して表示された時刻にため息をついた。

 

「はぁ~、みちほたち帰っちゃったかな」

 

 気を落とすエリの肩がポンと叩かれ、横を向くとシャイロが手を振って東校舎の方へ行った。

 

「帰りましょ、エリ―。私がバイクで送って差し上げますわ」

「あ、はいはい」

「まったく、責任者がいないってどういうことですの」

 

 文句を言って歩いていくシャイロの跡を慌ててエリは追った。相変わらず足元はサンダルだが、入学試験の日も今日も制服姿で頭に二本の角がない。魔法の効果で見えないのかと思い、彼女の横に回って話しかけた。

 

「シャイロさんの立派な角は錯覚魔法で隠してるんですか」

「いいえ、電魔ナノマシンを擬態に特化させた擬態エポキシですわ。角は周りの髪と同化して見えているのでしょう」

「ふーん。電魔ナノマシンって何でしたっけ」

「あら、もう忘れたのですか」

「ははは、シャイロさんみたいに頭が良くないので」

「電魔ナノマシンは魔力によって動く分子レベルの機械…と魔学校で習いましたわね。詳しくは分かりませんけど、自在に色や形を変えたり、物を見えなくしたりする技術の元とか。私のバイクも起動すると乗り手を含めて電魔ナノマシンの薄い膜に包まれますのよ」

「へぇー、だから公園の上を飛んでても逮捕されなかったのか」

「でも、スペックの都合で人間にしか効きませんわ。その点、擬態エポキシは一時間程で切れますけど悪魔でも見分けが付かないですし」

 

 シャイロは気を鎮めるように手で顔をあおぎ、東校舎の端に覗く林へすたすたと歩いた。冥界の様々な技術にエリは感心しつつも逆に不安な気持ちが込み上げて立ち止まった。

 

「えっ、悪魔でもって。それを……」

 

 その凄い技術をもってしても舞島学園のセキュリティはシャイロを悪魔と見抜き、彼女の受験記録が抹消されたのである。エリは自分が悪魔の魂を持つとバレていた場合に同じ目に遭うのではないか心配になった。中央校舎の壁で早く自分の受験番号を探したくなり、シャイロを走って追いかけた。

 中央校舎と東校舎の間には双方の通用口を繋ぐ屋根付き通路が設けられ、シャイロは柱が並ぶ通路を横切って右へ曲がった。合格発表の紙が貼られた中央校舎と反対へ向かい、エリは彼女を引き留めるために後ろからリュックを掴んで妙に明るい声を出した。

 

「さあ、合格発表を見ていきましょう。コンピューターが間違いで、紙に印刷された方が正しいこともあると思います。ほら、人間万事塞翁が馬ですよ!」

「何ですの、人間バンジー最高って」

 

 シャイロが言葉の響きに惹かれて振り返り、エリは愛想笑いを浮かべた。だが、すぐに血相を変えた彼女の様子に首をかしげた。手に持つМ42の画面が点滅して低い音を繰り返した。

 

ドロドロドロドロ……

 

 エリは駆け魂センサーを確認し、まさかと思って後ろへ顔を向けた。校舎二階の天井に届きそうな幽体が空中に漂った。通常のすっぽりした楕円形とは異なる丸い頭部がくっ付く駆け魂。冥界のデータベースから情報を取り寄せるためМ42に指を擦らせ、一秒と経たずに返信された画面には「分裂可能」と表示された。シャイロが探している駆け魂だと気づき、目の前に現れた希少な駆け魂にエリが大きく目を見開いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飛ぶっきゃないわ

 駆け魂の出現はエリがまったく予想していない事態だった。М42をポケットに仕舞ってフラフラした幽体の発生地点へ目線を下げると黒髪の伸びる背中があった。眼鏡の少女が壁に貼り出された受験番号を見上げて嬉しそうな顔をした。合格に満足する心に居づらくなった駆け魂が逃げ出す途中に見え、エリは勾留のチャンスと考えて後ろへ手を振った。

 

「シャイロさんシャイロさん、勾留ビンないですか」

「へっ。あ、一個だけ持っていますわ」

 

 シャイロは初めて見た駆け魂に度肝を抜かれていたが、名前を呼ばれてあたふたとリュックを背中から下ろした。リュックの蓋を開けて不安げな表情で手を突っ込んだ。

 

「どうしましょう。汎用タイプでも捕まえられるかしら」

「え、汎用ってどんな勾留ビンです?」

 

 振り返ったエリは「これですわ」とシャイロが差し出す透明なビンを受け取った。蓋を取って中を覗いて耳元で前後に振り、手のひらから放出した魔力が内部に溜まる様子に頷いた。

 

「大丈夫です。これで二匹捕まえましたから」

「うぇっ、あなた駆け魂を捕まえたことありますの。駆け魂隊でもないのに」

「はい、これより大きいと思いますけど全然余裕でした」

「そ、それは凄いですわね!!」

 

 駆け魂隊入りを目指すシャイロが向ける驚きと羨望の眼差し。エリは調子に乗って鼻を高くして駆け魂へ向き、自信満々な態度で脚を開いて身構えた。一目置く彼女の視線を背後からビンビンと感じ、浮ついた気分で目の前の敵に油断していた。

 

「ふふふ、一発で勾留して見せるわよ」

「グヒヒヒヒ…」

 

 駆け魂が若い二人の悪魔を見下ろしてニヤリと笑った。不敵な笑みを気にせず、エリは勾留ビンを脇に抱えられるぐらいまで大きくして上方へ口を向けた。

 

「駆け魂、勾留!」

 

 吸われた駆け魂の胴体は弓のように曲がり、吸い込む勾留ビンを抱えるエリが膝を曲げて後ろに体重をかけた。両者の魔力がぶつかってバチバチと火花を飛ばした。必死にこらえる駆け魂との綱引きの末、幽体の尻尾が眼鏡の少女から完全に切り離されてビンに半分以上収まった。ところが、駆け魂は頭部がスポーンと抜けて反対方向へ飛んでいった。

 エリは勾留ビンに駆け魂の胴体部分を吸い取って蓋を閉めた。分裂する事を失念して逃げられる大失敗だった。魔力を解放して縮んだビンを掴んでブラブラとさせ、駆け魂が去った中央校舎の角を眺めてぼーっと突っ立った。

 

「どうなさいましたの」

 

 呆然とするエリの眼前にシャイロが手を振った。エリは目をパチパチさせて小声でつぶやいた。

 

「…追わなきゃ」

「何です?」

「分裂した駆け魂を追わなきゃ」

「でもエリ―、勾留ビンがありませんわよ」

「うっ。それは……」

 

 エリが口ごもって下を向くと、足元にコロコロと透明な物体が転がってきた。十字形の外蓋が付いた勾留ビン。拾い上げたエリは戸が閉まる音を聞いて通用口へ向き、はめ殺しの窓に白髪の副校長・二階堂の後ろ姿が映った。

 

「なんで、舞島学園の副校長が勾留ビンを持ってるんだろう」

 

 不思議そうに通用口を眺めるエリの手から、ひょいっとシャイロがそのビンを手に取った。

 

「蓋が補強された勾留ビンに見えますわ。このタイプはレベル4の駆け魂用ですけど、角が蝶番になってますわね。もしかして、蓋がパカッと開いて魔法で駆け魂を捕まえるのでしょうか」

「う~ん。怪しいなあ」

 

 腕組みをしたエリは二階堂が転がしたと思われる勾留ビンを横目で睨んだ。二階堂はシャイロの正体を見破って受験記録を消した舞島学園側の人物である。学園に悪魔が入り込まないように警戒する彼らが学園から駆け魂を追い出すことに協力してもおかしくはなかった。エリは捕まえた分裂駆け魂の胴体を見つめ、「アァーッ!」と叫んでシャイロの方を向いた。

 

「駆け魂って普通の人間には見えないんでしたよね」

「いきなり大声で何ですの。そんなの初等魔学校で習うことじゃありませんか」

「そうか、だからあの人も悪魔なんだ」

 

 エリは二階堂を駆け魂が見える悪魔と断定した。彼女がくれた勾留ビンは分裂駆け魂を捕まえるための特殊なビンと考え、こうしてはいられないと中央校舎とは反対へ駆け出した。

 

「バイク借ります!!」

「はぁ、どうするつもりですの」

 

 脇を通り抜けたエリへ困惑した顔を向け、訳が分からずシャイロは立ち尽くした。けれど、空飛ぶバイクを持っていかれては彼女も帰るに帰れない。二階堂の勾留ビンをリュックに仕舞って肩に背負い、林に入ったエリを急いで追いかけた。

 

 

 舞島学園の上空をホバリングする魔法で飛ぶバイク。分裂駆け魂はデータが少ないせいか駆け魂センサーの広域チェックに反応しなくなった。ハンドルを握ったエリが魔力でバイクの姿勢を制御し、後部シートのシャイロが駆け魂を探して学園の敷地へ目をやった。

 

「駆け魂見えますか、シャイロさん」

「どこにも見当たりませんわ。というか、高度を取り過ぎですわよ」

「それじゃあ、ちゃんと腰に掴まってて下さい」

 

 エリはペダルを踏んで機体の高度を下げ、バイクが中央校舎の建物前に滞空した。その時、校門から向かってくる学生服の夏也が見えた。あろうことか彼は一人で来た。一緒にさせたみちほを勝手にほっぽり出したと思い、問い詰めるために真下に着地しようとしてさらにペダルを強く踏み込んだ。

 

「よくも一人でノコノコと現れたわね」

「どこ、どこですの」

 

 エリの独り言にシャイロは駆け魂が見つかったと勘違いした。急降下する最中にきょろきょろと地上を見下ろすと、彼女のヘルメットに突風で舞い上がった真っ黒なものが貼り付いた。

 

「な、何も見えませんわ。どこを飛んでいるのですかっ」

 

 視界を塞がれたシャイロはパニックになって両手で顔の前を掻きむしり、バランスを崩してシートから真っ逆さまに落下した。幸いなことにバイクは地上から数十センチの所まで来ていた。それでも、コンクリートに頭を打ちつけた衝撃から気絶してバタンと仰向けに倒れた。

 

「もー、何をやってるんです」

 

 シャイロが派手に倒れ込んだ音を聞き、分裂駆け魂の発見を急ぐエリはあきれた表情で振り向いた。彼女の手首を掴んでバイクを地面すれすれに飛行させて体をズルズルと引きずった。

 校門からの通路の端でバイクを降り、自分のヘルメットをリング状に戻して首に掛け、シャイロの上半身を木の根元にそっと立て掛けた。彼女のヘルメットに付いた黒い物は女性用のダウンジャケットだった。しゃがんだエリがそれを手に取ると後ろに人の気配がした。

 

「エリさん、私服で来てたんだ」

 

 夏也が軽く驚きの声を上げた。暗に「学校で決められた制服じゃないの」と責められた気がしてエリはムッとし、背中を向けたまま彼の行為を非難した。

 

「夏也くんこそ、みちほをほっといてひどいじゃない」

「みちほさんとは合格発表を見たよ。たぶん、もう帰ったと思う」

「『たぶん帰った』ってまるで他人事ね」

「帰る時は彼女と別々だったから、あははは」

 

 てっきり今来たところだと思ったが、すでにみちほと合格発表を済ませたと言う。それなら、何をしに戻ったのか分からない。苦笑いする夏也に隠し事の匂いを感じ、エリはダウンをシャイロに掛けて立ち、振り返って腰に手を当ててじっと彼の目を見た。

 

「みちほと何があったのかを話してくれるかしら」

「ははは、それはその……。実は、怒らせちゃったみたいで」

 

 夏也がみちほを怒らせた事を白状して頭を掻き、彼のリードに失望したエリはあきれたように質問を続けた。

 

「で、制服のスカート姿や花柄のヘアピンが可愛いとか褒めなかったの」

「制服は…スカートだったかなぁ」

「もぉ、せっかく可愛い恰好して来たのに気づかないなんて、みちほが怒るのも当然だわ」

「いいや、それは違うんだ」

「何が違うのよ」

「褒めたかったのは山々だけど、ダウンのファスナーが首まで閉じてたし、ヘアピンは三角形のシンプルなやつ付けてたし…」

「は、ダウンが首まで閉じてヘアピンが三角の?」

 

 作戦ではみちほが女の子らしく可愛い恰好で来るはず。合格発表が気に入らないなら初めから来なければいいだけだった。可愛さを封印してわざわざ来た彼女の真意が分からず、エリは頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。腕を組んで考えていると、夏也がポケットからスマホを出して見せた。

 

「それで校舎前に落ちてた彼女のスマホを拾ったんだ」

「え、そんな訳ないわ。スマホ持ってないとバスに乗れないもの」

「じゃあ、他の人の落とし物なのか」

「ちょっと待って、みちほにかけてみるから」

 

 ひとまずエリはお尻のポケットからМ42を取ってみちほの電話番号にかけた。コール音が数回流れ、夏也の手のひらでスマホが振動してエリの顔は曇った。

 

「何があったか最初から話してちょうだい、夏也くん」

「う、うん。分かったよ」

 

 みちほが行方不明では駆け魂を追いかけるどころではなかった。妹のように心配するエリに、夏也は彼から見た彼女の様子を語った。その話によると、舞島学園に着いてから不機嫌そうだった彼女も夏也の合格を知ると喜んでくれた。感激して彼は抱きついてしまったが怒ることもなく、二人で陸上のグラウンドを見に向かった。そこから、突然怒って「エリのこと考えてればいいんだ」と言って校門の方へ行った。

 夏也の話を聞いたエリは腕を抱えて渋い表情を浮かべた。みちほが捨て台詞に込めた気持ちを考えつつ、首をさすりながら夏也に顔を上げた。

 

「バスが着くまでの間、わたしの話をしてたんでしょ」

「そうそう、エリさんの足が速いって話だ。あれ、怒らせること言ってないよね」

「そうね。誰かさん以外は」

 

 みちほが怒った原因が自分への嫉妬と分かった。だが、彼女の気持ちが分からない夏也の目には急に機嫌が悪くなったように映っていた。エリは部屋でみちほの恋心に気づいてあげられなかったことを後悔した――夏也くんに「好き」と言える訳がないわね、ゲームじゃないんだから。あの時分かっていれば別の作戦を考えたのに――歯がゆい思いで中央校舎へ目を向けた。

 

「あっ、グラウンドの方からも見えないんだ」

 

 エリは校舎間に中庭のシンボルツリーが見え、校門を出たかどうかは向こう側から確認できないと気がついた。みちほが学園内にいるかも知れないと思い、中央校舎前へ走ってランニングをしている生徒の前に立ち塞がって両手を大きく広げた。

 

「はい、ストップ!」

「うわっ。どっから来たんだこの子は…」

「ねえ、車いすに乗ったショートヘアの女子見なかった?」

 

 首の後ろに手刀を当てて髪を切る仕草をした。人探しをする私服の少女にざわついた集団で、後方から聞こえた会話がエリの耳に留まった。

 

「さっきの猛スピードで校門へ行った車いすの女子かな」

「ああ、俺も見た。すげー速かったよな」

「それって車いす陸上の練習してたんじゃないの」

「いやいや、制服だったから。そんな恰好で練習なんかしねーだろ」

「こら、駄弁ってないで走るぞー」

「へーい」

 

 ランニングを再開して彼らは脇を通過し、エリが手で顎を押さえて深刻そうに考え込んだ。みちほは校門へ向かった姿が目撃され、しかも、尋常でない速度で車いすを漕いでいた。以前、エリは駆け魂が取り憑いた女性が正気を失って異常な行動した現場に出くわした。もし、分裂駆け魂が中央校舎前でみちほの心のスキマに入ったとしたら、駆け魂の影響で暴走した彼女が国道に飛び出て事故に遭う可能性も考えられた。

 急がないとみちほが危ないと思って全速力で戻った。夏也がぼけっと立つ前でエリは息を整え、面倒な説明を省いて単刀直入に言った。

 

「わたし、悪魔だったのよ!!」

「えぇーっ。いきなり何を言い出すの、エリさん」

 

 ビックリした夏也は上から下へエリをまじまじと眺め、信じられない顔をして口元にだけ笑みを浮かべた。

 

「はははっ、冗談だよね」

「いいえ。メルクリウスさんから聞いたことないかしら」

「話には…。でも、悪魔って本当?」

「うん、魂が悪魔なんだけど。それで今、みちほが悪魔に取り憑かれてるの」

「エリさんが悪魔で、みちほさんは悪魔に……」

 

 女神・メルクリウスが話す悪魔は人間に害を及ぼす邪悪な存在であり、エリがそうだとは信じられるものでなかった。だからといって、どちらも嘘をついていると思えない夏也は思索にふけって辺りをぐるぐると歩き回った。

 夏也が考え込んだと見るや、エリはシャイロの元に行ってヘルメットを回収し、リュックの中から二階堂がくれた勾留ビンを出した。彼女の体を動かすと上に載るダウンジャケットは翻り、首の後ろに『UNYGLO』のタグがあった。みちほの服でよく見るカジュアルブランド名を目にし、さっき聞いた一言を思い出した。「制服だったから」。みちほは恥ずかしがってダウンで女子の制服姿を隠していたが、夏也と別れてから脱いで放置していったことになる。これがそのダウンジャケットに違いないと判断したエリは袖を通して勾留ビンをポケットに突っ込んだ。

 側に停めた空飛ぶバイクをエリがパネル操作で少し浮揚させ、後部シートのほこりをパンパンと払って夏也に来るように呼びかけた。やってきた彼は心配げにみちほのスマホを握り締めた。

 

「悪魔に取り憑かれるとどうなっちゃうのかな」

「大丈夫。これで上空からみちほを探して駆け魂を追い出すから」

「え、これって何もないけど…」

 

 首をかしげて夏也が彼女のかざす手元へ人差し指を向け、短い沈黙の時間が流れた。ピンときたエリは彼の腕を引っ張ってシートの上に片手を着かせた。

 

「ここに空飛ぶバイクがあるわ。さあ、時間がないから今すぐ出発よ」

 

 エリはヘルメットリングを掴んだこぶしをビシッと突き出した。夏也はそれをこくこくと頷いて受け取り、彼女の真似をして首に掛けた。透明なナノマシンが丸くなって彼の頭を包む。メルクリウスに術をかけられた時のように不思議な力を感じた。夏也は彼女が悪魔ということを信じ、何も見えない場所に手を掛けて空中に跨るエリの後ろに飛び乗った。

 空飛ぶバイクで探す対象が分裂駆け魂からみちほに変わり、後部座席で探す担当もシャイロから夏也に代わった。事態はより緊急性が高まり、エリは下方向に魔力を一点集中してバイクを一気に空へと駆け上がらせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

出す決意と出される覚悟

 舞島学園を飛び出したバイクは舞島緑地公園の木々を越え、国道の上空でゆっくりと道路に沿って進んだ。夏也は落ちないようにエリの腰にしがみ付いて地上に目を凝らした。足元からは細長い帯状に間隔を空けて移動する四角い車の屋根が見て取れた。

 

「国道は車が流れてるし、事故は起こってないみたいだよ」

「ふー、とりあえず一安心ね」

「どこ行ったのかなあ、みちほさん」

 

 なおも夏也が左右へ首を振って車いすを探した。吐息をついたエリはバイクの正面パネルに指をトントンと押し当て、表示された黒い画面に唇を尖らせた。

 

「最新型って言うけど、新種の駆け魂に全然反応しないじゃない」

 

 片手をパパっと動かすエリが気になり、夏也は肩越しに覗こうと後部シートで首を伸ばした。

 

「ところで、その『駆け魂』は悪魔とはどう違うの」

「駆け魂は肉体を持ってないわ」

「だから、人間に取り憑つくことができるんだ」

「そう。心のスキマに入り込んで負の感情をエネルギーにするのよ」

「へぇー、そんなのが近くに居たのか」

 

 のんきに感心する夏也の様子に、エリが不満げな顔で駆け魂センサーの画面を閉じ、ハンドルを握ってスロットルを回した。

 

「それじゃ、早くそいつを見つけてちょうだいっ!!」

「わっ」

 

 空飛ぶバイクが急にスピードを上げて大きな弧を描いて旋回した。舞島市の海岸に突き出た島は東西に狭く、Uターンしたエリたちは海の上を飛行して舞島学園へ向かった。夏也は体が外側に振られて傾いたまま眼下に望む舞島海浜公園を眺めた。

 

「あー、ばあちゃんが話してた海浜公園のあかね丸だ」

「ちゃんと探してるの、夏也くん」

「さ、探してるよ。えーっとどこかな……ん?」

 

 エリの怒気をはらむ声に慌てて周囲を見渡すと、公園の桟橋に接岸する帆船へ向かう小さな点が動いた。近くにホイールらしい黒い輪が見えて夏也は喜びの声を上げた。

 

「車いすだ。あかね丸の近くにみちほさんがいるよ!」

「えっ、あかね丸って何なの」

「左側を見て、マストの長い船が見えるよね」

「ほんと、船だわ」

「うん。昔の客船なんだけど今は公園の一部として停泊してるんだ」

「分かったわ。あそこに下りましょう」

 

 目標の船を見定めたエリはスロットルを握る手を緩めてバイクを左に傾けた。ブレーキをかけて足元のペダルを踏み、一旦前と上への推進魔力を同時に切り、再びスロットルを開けてスムーズに120度曲がった。ノーズを下げて真っ直ぐに桟橋へ向かい、後部噴射口から排出された魔力を飛行機雲のように空にたなびかせた。

 すべての帆が畳まれた大型帆船・あかね丸。空飛ぶバイクは垂直に降下して甲板に着地し、すぐに夏也が後部シートから降りて船の端へ走った。手すりを掴んだ彼は上半身を突き出して公園を見下ろした。舞島海浜公園の桟橋は海岸を埋め立てて作られ、樹木が囲む公園の芝生より1メートル程低くなっていた。夏也は芝生寄りを歩くみちほを見つけたものの、不気味な雰囲気に圧倒されて声をかけるのをためらった。桟橋の向こう側を暗い表情のみちほがのっそりと通り過ぎた。

 

「みちほさんがあんな風に……。と、とにかく行ってみないと」

 

 夏也は胸を押さえて気分を落ち着け、近くに見えるタラップへと歩いた。船の降り口は魔力で大きくした勾留ビンが陣取り、彼へ向いてエリが表面のガラスをコンコンと叩いた。

 

「これを使ってわたしが駆け魂を捕まえるの」

「それなら、早く行こうよ」

「いいえ。みちほの所には夏也くん一人で行ってもらうわ」

「だって今、エリさんが捕まえるって言ったよね」

「駆け魂の勾留は悪魔の仕事よ。でも、みちほの心のスキマを埋めないと駆け魂は外に出てこないし、それができるのは夏也くんだけだわ」

「僕が駆け魂を?」

 

 駆け魂を出す役目を任された夏也が自分を指して驚いた顔を見せると、エリは静かにダウンジャケットのファスナーを下ろして視線を逸らせた。

 

「本当は言うべきじゃないけど…。みちほはあなたのことが好きなの」

「へっ」

「駆け魂が入り込んだことを考えると間違いないわ」

「そうだったんだ」

 

 夏也は好かれていると知った嬉しい気持ちを隠し、真面目な表情で話すエリの前で無関心を装って頭を掻いた。彼をチラッと見たエリはダウンを脱ぎ出し、桟橋のみちほへ慈しむような目を向けた。

 

「夏也くんがわたしの話ばかりするから怒っちゃったのね。ま、みちほの気持ちも分からなくはないわ。好きな男子が他の女子のことを気にしてたら機嫌が悪くなるのも無理ないわよねぇ」

 

 みちほへ向ける柔和な顔と裏腹に夏也の無神経さを当てこする口振り。夏也は腕組みして「僕のせいか…」とポツリとつぶやいた。エリの言葉に夏也はみちほに駆け魂が入り込んだ責任を感じ、神妙な顔つきで考え込んだ。悪魔がどんなものかはにわかに想像できないが、駆け魂に取り憑かれた彼女の表情は苦しそうに思えた。

 すかさずエリが首を横に振り、脱いだダウンを両手で畳みながら口を結んだ夏也へ歩み寄った。

 

「ううん、駆け魂が入ったのは夏也くんのせいじゃないと思う。みちほが怒る前にすでに心のスキマができていたのよ。きっと、夏也くんへの想いをうまく伝えられなくて心の中でもがいていたんだわ。昔から他人に本音を話さない子だったし、そういうことが苦手なのね」

 

 エリは一転してみちほをかわいそうな少女に仕立て上げ、彼女のダウンジャケットを差し出して彼の目をじっと見つめた。大きな瞳で「みちほのことをお願い」と言わんばかりに。受け取った夏也はそれをギュッと握り締めた。

 

「ねえ、駆け魂を出すにはどうすればいいの」

「みちほの望みを叶えれば心のスキマが埋まって出てくるわ。まず、彼女と話してあげて。表情の変化から何をして欲しいか読み取るの。夏也くんならそれができるはずよ」

「分かった。やってみるよ!!」

 

 エリの期待を意気に感じて夏也は船のタラップを駆け下りた。みちほの駆け魂を出す決意を胸に固め、桟橋を歩いていく彼女の跡を追いかけた。

 甲板に残ったエリは手すりに腕を掛け、М42を横向きにしてレンズを桟橋へ向けた。望遠モードでの動画撮影画面にみちほの背中が映った。駆け魂回収の道具を手に入れるために利用している負い目がありつつも、夏也が好きなみちほにとって彼との仲が進展する今回の作戦は決して悪い話ではないと笑みを浮かべた。

 

「さあ、お膳立ては整えたわ。存分に夏也くんと仲良くしなさい」

 

 夏也のパートナーはみちほだとメルクリウスを納得させる映像を撮る気満々だった。ついでに勾留した分裂駆け魂をシャイロに譲り渡して恩を着せられる。女神と悪魔の両方にコネがあれば駆け魂回収が捗ること間違いなしとエリは算盤を弾いた。

 

 

 みちほは林と海に囲まれた舞島海浜公園を歩いていた。夏也と別れて中央校舎に行った後の出来事はぼんやりとしか思い出せなかった。唯一、車いすが階段で倒れて芝生から桟橋に転げ落ちた記憶はあった。そのせいで左膝がヒリヒリと痛み、両腕はハンドリムを回した疲労でだるく、目がかすんで不快で重苦しい気分だった。

 歩きながら彼女は考えを巡らせた。夏也と二人になった校舎裏、エリへの嫉妬をぶちまけて彼を置き去りにして帰った。乙女ゲームなら好感度が一気に下がる最悪の選択であり、さぞかしあきれたことだろうと思った。夏也は高等部合格を喜ぶあまり告白しようとしたが、ヒステリックな面を見て気が変わってもおかしくない。そうなると一緒に通学する約束もご破算。夏也との仲を悲観するマイナス思考は途切れることなく駆け魂のエネルギー源となり、みちほを暗澹たる気持ちで歩かせ続けた。

 

「おーい、みっちゃーん」

 

 朦朧とした意識に親しげな呼び名が聞こえる。振り返ったみちほは見る見る近づく少年に幻覚を見ていると思った。彼は手が届く距離まで来てハアハアと息を切らし、黒いダウンジャケットを彼女の前に広げた。

 

「これ、中央校舎の所に落ちてたんだ。着てないと寒くないかい」

「いつの間に脱いだんだろ。けど、この顔…ふふふ」

 

 寒そうにブレザーの袖を抱え、みちほは夏也に似ている少年を見てへらへらと笑った。駆け魂に操られているせいだと思った彼が真剣な表情で彼女の顔を見つめた。

 

「ゴメン。合格発表が気になって考えてなかったよ」

「おっ、なんか謝ってるぞ」

「そりゃあ、エリさんの話ばかりじゃ嫌だよね。わざわざ制服のスカートを履いてきたんだから、褒めて欲しい気持ちに気づくべきなのに……」

「スカートとか言っちゃって。恥ずかしくないのかぁ、こいつ」

 

 話の腰を折るみちほの態度に彼は少し眉をひそめ、ダウンジャケットを前へ突き出した。

 

「絶対、僕が駆け魂を出してあげるから!!」

 

 幻覚と思った少年が奇妙なことを言い出した。みちほは口を閉じて彼の顔を見つめ返し、言葉の意味について考えた。心のスキマに駆け魂が入り込んでいるとすると、気分の悪い原因として説明がつく。目がぼやけて黒っぽく見えるダウンの首元へ恐る恐る手を伸ばした。

 手のひらが接触して「この手触りは…」と安物感に黒田家御用達のブランドと確信し、みちほがあたふたと彼の持つ袖に腕を入れた。本物と分かった夏也と顔を合わせづらく、ダウンを着た彼女は背を向けたまま手を組んで林へ目が泳いだ。スカートを履いてきたり、駆け魂に取り憑かれたりする事情を知るのはエリだけだった。一体、どうやって彼がこんなに自分を心配するように仕向けたのだろうと懸命に頭を働かせた。

 

「アイタタタッ」

 

 意識がはっきりして体の感覚が戻ったみちほは中腰になって膝を押さえた。横に回った夏也はスカートの下から出た白タイツが赤く染まる膝へ視線を落とし、驚いて彼女の肩に手を置いた。

 

「大変だ。早く治療しないと」

「いえ、じいちゃん呼ぶから大丈夫です」

 

 みちほがスマホを取り出そうとポケットに手を突っ込むと、足が地面を離れて背中が後ろに倒れた。それまでの鬱蒼とした木々の景色は冬の透き通った青空に変わった。いきなり、夏也は彼女を両腕で持ち上げて胸に抱きかかえた。

 

「僕がみっちゃんを運んでいくよ」

「へぇっ」

「あそこにベンチがあるから、まずは血を止めなきゃ」

「じ、自分で歩きます」

 

 お姫様だっこされたみちほは体を縮こませ、「わたし重いし、腕が疲れるので」と言って降ろしてくれるように頼んだ。しかし、夏也は平然と彼女を抱えて芝生の方へ歩き出した。

 

「平気平気。元野球部だからね」

「そうじゃなくて……」

「毎日マネージャーの考えてくる筋トレやってたんだ。それで――」

 

 彼は2D美少年と違って少女の恥ずかしがる気持ちを汲んでくれなかった。至って真面目な夏也の顔へ視線を上げ、みちほは口をポカンと開けた。エリの話で怒らせた前回の反省からか、続けて中学でのクラブ活動の話を始めた。興味をそそられないみちほも体の片側が密着した状態で動けず大人しく耳を傾けた。

 桟橋は停泊するあかね丸の他に反対側にベンチがあり、座って海の眺望を楽しめる隠れたデートスポットだった。ベンチ前に降ろされたみちほはストンと腰を下ろして体の横に手をついた。駆け魂による気持ち悪さが大分収まり、心のスキマが埋まってきたのかと夏也へ目を向けた。しゃがんだ彼は白タイツとにらめっこしていた。何やらしばらく考え込み、人差し指を膝へ向けると顔を上げた。

 

「ね、左足だけ脱がせられるかな」

「こんなとこじゃ脱げません。タイツですから」

「そっか。じゃあ、この辺を切って傷口を出していいよね」

「まぁ、いいですけど」

 

 やや不服そうにみちほは彼の提案を受け入れた。血が滲む怪我を放って置けないのは分かるが、再び二人きりになれたのにする事が手当てではもったいない気がした。そんなことは気にしないのだろうなと思い、口をすぼめて両手でスカートがめくれないように押さえた。

 夏也はみちほの顔色をうかがいながら学生服のポケットをごそごそし、小さいハサミを取り出して得意げに彼女へかざした。

 

「ほら、ハサミ持ってるの珍しいでしょ」

「それも野球部ですか」

「うん。テーピングするためだけど、なんで分かったの」

「何となくです」

「僕はよく突き指するからマネージャーに『持っとけ』って言われてて」

「そりゃ、マネージャーさんも面倒ですもんねー」

 

 みちほはつまらないといった表情で顔を背けた。その様子を見た夏也は気を惹こうと“彼女”のネタ話を口にした。

 

「それがね、顧問の先生が野球に興味ないからマネージャーが全部取り仕切ってるんだ。試合にボロ負けした次の日は毎回グラウンド30周。ただ走るんじゃなくて根性を鍛える的な練習をさせられて大変でさ。正直、うちの野球部は早矢ちゃんが監督だと思うよ」

「さ、早矢ちゃんって誰です?」

 

 女子の名前を聞いたみちほがグッと顔を寄せ、夏也は早矢の話に興味を持ったと思って満足してタイツをつまんだ。傷に触れないように気をつけてハサミを挿し入れた。

 

「うちのマネージャーが早矢ちゃんだよ」

「もしかして、商店街の4人で野球部に入ったのがその子ですか」

「ああ、ばあちゃんに聞いたのか。早矢ちゃんは和菓子屋の一人娘でね。少し我がままだけど気配りができる優しい子なんだ。僕が言いづらそうにしてると横から話に入ってきたり、話すタイミングを側で耳打ちしたりして助けてくれてさ」

 

 夏也が爽やかなスポーツマンという設定は間違っている。元々は人見知りで大して気が利かない普通の男子。おそらく、女子とも喋れる今の彼に変えていったのが一緒に居た幼馴染の早矢だ。話し振りから直感したみちほは太腿の上で握りこぶしを作った。

 膝の部分を半円状に切った夏也は布を傷口からべろんと剥がした。右手に持つハサミを地面に置いてズボンのポケットに左手を入れ、ハンカチを出して血が出る膝に押し当てて「ふぅー」と息を吐いた。すると、彼のゴツゴツした指に細く柔らかい手が重ねられた。上げた視線の先にみちほの思い詰めた目があった。

 

「わたし聞きたいです。先輩が前から思っていたことを…」

 

 みちほは伏し目がちに海の方を眺め、夏也に告白の続きを言わせようと演じた。このまま待っていてもエンディングは訪れないと考えた。女子の気持ちに鈍感な彼をフォローする早矢はおらず、自分の芝居で彼を攻略に駆り立てるしかない。彼女は覚悟を決めた。駆け魂を心のスキマから出してもらうには少なくともグッドエンドが必要になる。セーブなし一発勝負のラストシーン。成功への期待と失敗への不安で胸は高鳴り、汗をかいた手のひらが小刻みに震えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

始まりのエンディング

 うららかな舞島海浜公園。ブレザーの制服に黒いダウンジャケットを着たみちほがベンチに腰掛け、その前に学生服の夏也がしゃがんでいた。彼女は思い詰めたふりをして彼へ視線を下げ、自分を攻略させるために練ったシナリオを開始した。エリから話すように言われた夏也が約束を守ろうと口を開いた。

 

「みっちゃんが聞きたいなら話すよ。僕が勝手に思ってることだけど」

「そ、それでも聞きたいです」

「じゃあ、ちょっとハンカチを押さえててくれるかな」

 

 夏也は彼女の左手とハンカチの間からすっと自分の手を抜き、膝の傷口を彼女自身に押さえさせて立った。みちほから少し離れた位置でベンチに腰を落とすと空を見上げた。

 

「僕、前は鳴沢市に住んでたんだ。家はマンションの上の方で小学校から帰るといつもタブレットゲームで遊んでた。クラスメートと話すのは苦手で……」

「へー、そうだったんですかー」

 

 元々の性格が内気なのは予想通りと思いつつ、みちほは意外な顔をして目をパチパチし、話に聞き入るように彼の横顔を覗いた。ベンチに手をついた夏也は彼女の方へ体を開き、照れくさそうに鼻の下を指でこすった。

 

「こっちで友達ができた。早矢ちゃんたちのおかげだよ」

「良かったですね」

「うん。父さんはどっかに行ったけど舞島市に来れて良かった」

「元気にしてるといいですね」

「それでさ、ずっと商店街で暮らしたいから煎餅屋を継ごうと思っているんだ」

「へー、先輩ってお煎餅が焼けるんですね」

「ううん、今はできないよ。だけど修行したらいつか一人前になれるし、その時はみっちゃんも店を手伝ってくれるかな」

「ひょっとして女子を集めてメイド煎餅屋を開くつもりですかぁ」

 

 シナリオ通り返しにくい質問を投入して彼を一旦黙らせる。みちほがそばかすの上に嬉々として目を細め、夏也は出かかった「アルバイトで」という言葉を飲み込んだ。澄ました表情が多い彼女の微笑みを可愛いと感じ、自分のために履いたスカート姿をまじまじと眺めた。

 幾つか考えられた夏也の反応に対し、みちほがとる行動は抗議の目を伴う怒った態度の一択だった。

 

「やだ。どこをジロジロと見てるんですか、いやらしい」

 

 みちほはとっさに夏也の視線を読み、セリフを作り出して右手で左の腕を押さえた。彼女のツンツンした態度はご機嫌取りを誘う芝居である。褒めてきたら態度をだんだんと軟化させ、恥ずかしがって頬を染めるパターン。彼と反対へ向いてムッとして見せるものの、二人がイチャイチャする場面を頭の中で思い描いてにやけた気分に浸った。

 彼女の思惑と違い、マイペースな夏也は別の事を考えていた。体をみちほの方へ向けて静かに側に近寄った。

 

「みっちゃん、そのリボンが付いた制服とても似合ってるね」

「どうせ、お尻が大きいとか思ってるんでしょ」

「違うんだ。胸は大きくないけどスタイルはいいし、隠すなんてもったいないと思ってさ」

「もぉ、どういう目でわたしのことを見てるんですか」

「どういう目かって説明するのは難しいけど、路地裏で見た時に一目惚れしていたのかな。すぐに君のことが好きになっていたから」

「えっ、それって……」

 

 傷口を押さえるハンカチが桟橋にぽとりと落ちた。みちほは唐突な告白に慌てて彼へ向いたが、すでに夏也は真剣な黒い瞳で彼女を見つめた。凄く純粋で積極的なイケメン男子の彼を拒む理由はなかった。台本のいちゃつくシーンを削除した彼女はスカートの脇に手を置き、目をつぶって少し顎を上げて身を委ねた。

 唇同士がコツンと当たって接触と同時に夏也の緊張が伝わってきた。みちほは音のない呻き声を口の中で発した。何も見えずドキドキして彼と繋がる時間はほんの数秒で終わった――やっぱり、先輩も初めてなんだろうか――漠然と考えてみちほが目を開けると、夏也がキスの失敗を恥ずかしそうに視線を逸らせた。もし彼に完璧な口づけをされたら、それはそれで満足して終わってしまう気がした。ぎこちないキスは逆に恋愛関係の進展する余地を感じさせる後味があった。

 みちほが胸先で両手の指を合わせてチラチラと視線を送り、夏也は苦笑いして頭を掻いた。

 

「ははは、いきなりはマズかったかな」

「いえ。わたしも先輩のこと…好きですから」

 

 たった一言だけど自分の気持ちを伝える重要な言葉だった。頬を染めたみちほは不思議なくらい気分が晴れ晴れとした。感動のラストはエンディングテーマでなく現れたエリの威勢のいい声が聞こえ、心のスキマから駆け魂が出ていったことを知った。彼女は張り詰めた緊張が一気に解けてふらっと夏也の胸に倒れ込んだ。

 キスを交わした二人が付き合うグッドエンド――という風にリアルはいかなかった。エリに見とれていた夏也はみちほが倒れ掛かってギクッとして顔を下へ向けた。眠るようにもたれるいたいけな彼女に、思わず彼は本音を漏らした。

 

「いやぁ、一年生か。二年生にはかなり告白されたけどなあ」

 

 腕に抱えてデレデレする夏也は彼女が疲れて寝てしまったと思っていた。だが、彼の独り言を耳にしたみちほはパッと目を開けた。浮気を匂わす言葉に信じられない顔をし、本気で夏也を責め立てた。

 

「先輩は二年生に大勢好きな子がいるんですかっ」

「あ、いや、告白されただけだよ」

「喜んでるじゃないですか!!」

「そうかな。けど、今まで『好き』って言ったのはみっちゃん一人さ」

「それじゃあ、他の女子には言うつもりはないんですね」

「うん、たぶんね」

「たぶん?」

 

 みちほは曖昧な返答に幻滅を覚え、彼の満足げな表情に人間性を疑った。中学校で夏也が女子に囲まれてへらへらした姿を想像すると無性に腹が立ち、こんないい加減な奴のファーストキスに喜んだ自分にも怒りが湧いた。こぶしを握り締めた彼女は大した事ないと考える彼を睨んでプイッと顔を背けた。

 

 

 あかね丸の甲板ではエリがみちほと夏也のキスシーンを撮影し終え、М42と勾留ビンを手にタラップを急いで下りた。みちほから出た分裂駆け魂が今まさに飛び去ろうとしていた。

 

「グヒッ」

「今度は逃がさないわよ」

 

 エリは駆け魂の正面に回って身構え、十字形の外蓋が付いた勾留ビンを1メートル程度に長くして脇に抱えた。「駆け魂、勾留!!」。魔力を集中するとビンの蓋がパカッと開き、黒い鎖のようなものが凄い速さで真っ直ぐ伸び、駆け魂に突き刺さってぐるぐると全体に巻き付いた。頭を切り離せない駆け魂は咆哮を上げて懸命に体をねじ曲げたが、エリが注ぐ魔力によってビンの中へ引っ張られた。完全に駆け魂を吸い込むと特殊なビンは施された魔法が解け、大量の白煙を発生させて蓋が閉じた。

 

「ぶはっ。一体何なの、これ」

 

 勾留ビンを放したエリは大わらわで周りの煙を払った。トレーナーの袖口を伸ばしてスキニーの太腿をこすり、すすが付いていないかを確かめた。幸い、数回しか履いていないパンツは汚れてなく、全くもって迷惑な機能だと眉をひそめて元のサイズに戻ったビンを地面から取り上げた。

 一瞬、空が影になって目の前にドスンと人が落ちた。金色のふわっとした髪に二本の角が生える少女。黒いセーラー服を着たシャイロが桟橋に尻もちをついた。

 

「アイタタタ、また着地に失敗ですわ」

「シャイロさんどうして。魔法で飛行するの難しいのに」

 

 エリが空から降ってきた彼女に驚いた表情を見せ、お尻をさすって立ったシャイロは首に掛けたくねくねした布を手のひらに載せた。

 

「ですから、羽衣を使いましたの」

「え、羽衣って何です?」

「変形や伸縮が可能な魔布で、飛行もサポートしてくれますのよ」

「まさか、この縮んだタオルみたいなので飛べるんですか」

「ウィ。電魔ナノマシンから作られていて羽衣に包まれると完全に身を隠せますわ」

「へー、これ電魔ナノマシンでできてるんだ」

 

 魔法の布に感心してエリは先端を指でつまんだ。洗濯ラベルに『電魔ナノマシン100%』と表記されている。羽衣の生地は手が透ける程ペラペラで薄く、手触りが機械とはまったく感じさせない精巧な作りだった。何とかして分裂駆け魂と交換できないだろうかと腕を組み、勾留ビンで肘をトントンと叩いて思案した。

 うまく言いくるめる方法を画策すると、エリの手からポロッと丸いビンが滑り落ちた。転がった足元へ手を伸ばすものの、先にシャイロが腰を屈めて喜んで拾い上げた。

 

「分裂駆け魂を捕まえてくれたのですね」

「ええ、今勾留しました」

「それでは遠慮なく頂きますわ。オルボアール」

 

 シャイロは自分が捕まえたように勾留ビンを掲げ、羽衣でふわりと浮いて空へ飛び去った。

 

「あっ。ちょっと、まだ話が終わってないんですってーー」

 

 空を見上げたエリは両手を大きく振って叫んだ。分裂駆け魂をタダで持っていかれ、遠く離れていくシャイロへ悔しそうに指を鳴らした。だがしかし、魔法のバイクを置き忘れているので取りに来るはずと考え、次に会ったら必ず魔道具をもらおうと鼻息を荒く振り返った。

 

 

 シャイロの反対の方角にはメイド服のメルクリウスが翼を水平にして飛行し、エリを見つけると徐々に高度を下げた。桟橋に着地して白い翼は折り畳まれて小さくなり、彼女が背負う四角い配達バッグからはみ出ているように見えた。女神は背中に翼が生えているかに見えるが、実際は女神の力が翼形になって肩甲骨辺りから出現しているに過ぎなかった。おもむろに歩いて側に来た彼女はシャイロへ指差した。

 

「桂木えり、あの悪魔と知り合いなのか」

「あ、こんにちは。シャイロさんと何かあるんですか」

「いや、何でもない」

「メルクリウスさんは仕事ですか。大変ですね」

 

 エリは背中のバッグへ目をやり、いいところに来たとニヤリとした。キスした後の親密な彼らを見れば、彼女は夏也のパートナーをみちほと認め、壊れた煎餅ビン代わりの駆け魂回収道具を喜んでくれると踏んだ。回収した駆け魂の報酬で桂木家のカフェを再開しつつ、兄・朋己の恋人を探すことが舞島学園に入学してからエリの仕事だ。

 二人の仲良くする様子をメルクリウスに見せるため、エリが少し先のベンチへ人差し指を向けてわざとらしく驚いたふりをした。

 

「あーーっ、夏也くんとみちほだわ。こんなとこでデートをしてるなんて~」

「ほぉ、デートか。それで夏也のやつがペコペコしているのだな」

「げぇっ。何やってんの、あの子たち」

 

 桟橋に来てから初めてベンチを見て仰天した。みちほは頬を膨らませてそっぽを向き、夏也は手を合わせて彼女に謝っていた。さっきキスをしたばかりなのに二人の間に何が起こったのか理解不能だった。

 彼らの声が届かない場所からはけんかをした後のようで二人は仲良く見えなかった。それでも、メルクリウスは前髪から片方だけ出る目に笑みを浮かべた。宿主として長く同じ時間を共有した歩美も彼に怒ったり、彼になだめられたりして彼らはお互いの理解を深めた。仲違いと仲直りを繰り返す昔の歩美たちを思い返し、呆然とするエリの肩をポンと叩いて声をかけた。

 

「心配するな。しばらく仲が悪いだけだ」

「な、仲は悪くないですっ」

「どこをどう見ても仲が悪そうにしか見えんが…」

「そうだ、証拠ありますから。ちょっと待ってて下さい」

 

 エリは下を向いてムキになって画面に指を擦らせ、М42のストレージ内に二人がキスをする動画を探した。このまま夏也たちの仲が悪いと思われては駆け魂回収が滞り、カフェの再開も朋己の恋人探しも頓挫して困る。画面に表示されたファイルの保存先を手当たり次第に突っついた。

 端末と格闘するエリを見ながらメルクリウスは頭を掻いた。ロング丈スカートのポケットに手を挿し入れ、折り畳まれた紙を取り出して開いた。紙は住宅地図が印刷されて煎餅セットの配達先に印が付けられて商品名が書き込まれていた。彼女は手書きの赤い丸を目で数え、終わりそうにないエリの指操作へ視線を向けた。

 

「おい、配達が残っているから行っていいか」

「待ってって言ってるでしょ!!」

「分かった、分かった。夏也とみちほは仲が良いと認める」

 

 苛立って声を荒らげる少女に、話を早く済ませるためにメルクリウスは両手を上げて降参の意志を示した。「仲を認める」と聞こえたエリはМ42から顔を上げ、すぐさま駆け魂回収道具を要求した。

 

「じゃあ、新しい駆け魂回収道具を下さい」

「まだ何か欲しいのか」

「えっ。それはその、煎餅ビンはガラスだから割れたりするので」

「ならば、店に来るがいい」

「はい、ありがとうございますっ!」

 

 もらえると分かった途端にエリが満面の笑顔に変わり、メルクリウスは現金な奴だとあきれて吐息を漏らした。配達先の紙をポケットに仕舞うと背中に翼を広げ、いつか歩美夫婦と変わって煎餅店を切り盛りする二人を想い、祝福するような女神の微笑みをたたえて飛び立った。

 エリは作戦が成功裏に終わってホッと胸をなで下ろした。腰のベルト通しに手を当ててベンチへ目を向けると、もう彼らは向き合って話していた。メルクリウスの言う通りにたわいのない痴話げんかだったのかと眺めた。だが今も夏也だけ心なしか申し訳なさそうな態度に見え、さっきの様子を思い出して手で口を押さえてクスクスと笑った。

 

「みちほと付き合うのは大変でしょうね、ふふふ」

 

 これで残すは舞島学園高等部の合格を確認するのみ。М42を尻ポケットに挿したエリは足取り軽くバイクを停めたあかね丸へ向かった。

 

 

 正午を過ぎて舞島学園の合格発表はがらんとし、エリは堂々と中央校舎東側の横に空飛ぶバイクで下りた。ヘルメットリングの輪っかを首から取り、壁に貼られた用紙の前で受験番号を一つずつ指で差していった。

 

「653、659、661、673……」

 

 進学コースの『0』から始まる四桁の数字にエリの受験番号はなかった。桂木家の養子になって朋己と同じ高校に通おうとした努力は打ち砕かれ、大きな口を開けてエリは唖然として立ち尽くした。試験前の数日は余裕をこいて作戦にかまけていたとはいえ、一ヶ月近く真面目に勉強して万全のはずだった。

 通用口にパンツスーツを着た副校長・二階堂がタブレットを持って現れ、学園内の見回りに中央校舎の角へ歩いた。肩にかかる白髪をさっと後ろへ払い、私服姿の少女を「フッ」と鼻で笑った。

 

「残念ながら学力不足だな、桂木妹」

「そんなぁ~」

 

 エリは副校長から不合格を告げられてしょんぼりと肩を落とした。二階堂はつかつかとエリの側に近寄った。高等部校舎裏と駐輪場へ右左と視線を動かし、顔の横に立てたタブレットで口元を隠して声を潜めた。

 

「安心しろ。後日、家に補欠合格の連絡が行く」

「補欠……ご、合格でいいんですか」

 

 不正を案じるエリが二階堂の顔を二度見したが、目を逸らせた彼女は腕を抱えて話を変えた。

 

「ところで、さっきの勾留ビンは使えたか」

「はい、一発で勾留できました」

「フフフ、やはりな。弱い包魔陣だが発動するだけでも相当魔力が要ったはずだ」

 

 魔法が施された勾留ビンは並の悪魔が使える代物ではなく、二階堂は見込んだ通りと満足そうに口元を緩めた。何事もなかったようにタブレットで校舎東側を異常なしと入力し、軽く手を上げてエリの脇を通った。

 

「これから『も』学園内の駆け魂狩りを頼んだぞ」

「はぁ…。駆け魂ですか」

 

 半信半疑な表情で通り過ぎる二階堂を見送った。何より兄の朋己が大事なエリはたかが駆け魂と考え、入学させてまで駆け魂狩りを依頼する意図を理解できず小首をかしげた。大体、悪魔の世界は駆け魂隊がいるのだから彼らに任せれば良いのにと思った。

 ともかく、あとは舞島学園からの連絡を待つしかなく、桂木家に帰ることにしてヘルメットをかぶった。エリは魔法で飛ぶバイクに慣れて簡単に校舎よりも高く浮かせた。が、家で駐車する場所を考えて空中でピタリと固まった。人間に見えなくても実体として触れられるため、人が入ってきそうなカフェの前や駐車場には置いておけない。裏に停めてシャイロが取りに来るまで彩香に見つからずにいられるか、その事に頭を悩ませながら住宅街へとバイクを飛ばした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時に嘘は

 舞島学園高等部の合格発表から一ヶ月あまりが経ち、養女のエリは半年間通った中学校で卒業を迎えた。二階堂が計らった補欠合格は2日後に連絡があり、母・志穂に代わって彩香がオンライン入学手続きを行った。卒業式に保護者として参加するのも彩香の役目。務めを果たした今は下ろした髪を後ろで結び直し、上着を椅子の背に掛けてインスタントコーヒーに舌鼓を打った。弟や妹となる二人と食事をした夏から一冬越え、桂木家のリビングダイニングは春の温かな日差しが窓辺に射し込んだ。

 早々と昼食をとったエリは市販のジャージに着替えて制服の採寸に出かけた。朋己と舞島学園に通うことを楽しみにする様子は見ていれば分かった。彩香はカップをテーブルに置いてリビングへ向かい、ソファーに腰掛けてハンドバックからスマホを取り出した。

 

「でも、朋己がくれたバッグが役立つなんて」

 

 子どもの式に着ていく服がない彩香はまたもや姉・美雪に借りた。しかし、さすがにバッグまで借りる気になれなかった。部屋に戻ってグレーのスーツ上下を壁に掛け、クローゼットを開けて目に留まったのが黒い革のハンドバッグでその服にピッタリと合った。朋己のプレゼントは偶然だと思うが、妹想いの彼なら考えていたのかも知れないと思わせるものがあった。

 朋己へ送る得意げなエリの写真に微笑んでいると、雑誌棚の家庭電話機が鳴った。スマホを卓上に置いた彩香はやれやれと立ち上がり、リビング隅の棚に行って受話器を顔の横に当てた。

 

「もしもし、母さん。エリの卒業式に行ってきたわよ」

「ありがとう」

 

 ブラウスを着る志穂の上半身が電話機のディスプレイに映り、一言礼を言って彼女が老眼鏡を上げて視線を下へ落とした。

 

「エリちゃんは今、黒田家へ向かっているようね」

「ふーん。スマホのGPS見てんだ」

「昨日の電話で採寸に行くと聞いたけど美雪に何か用があるの」

「さあねぇ」

 

 もっとエリの卒業を喜ぶと思った彩香は棚に手を付いてつまらなそうにもたれ掛かった。桂木邸の方ではディスプレイが娘の背中で暗くなり、その投げやりな態度にあきれつつも志穂はエリの近況を尋ねた。

 

「まあいいわ。変わった様子はないか聞かせてちょうだい」

「エリに変わったことはない…こともないか。高等部の試験が終わってから積極的に家事を手伝ってくれてるわ。洗濯物を干したり取り込んだりとか、ゴミを出しに行ったりとか」

「じゃあ、元気がないと感じたことはないの」

「全然。『スマホ持って欠けた玉を探して走り回ってる』って京太くんが言ってたわよ」

「それは良くないわ、ゲームは時間を守らせないと。それじゃあ、ご飯を食べ残したことは?」

「ご飯は毎日お代わりしてるし、しないのはカレーの日くらいかな」

「そう。彼に聞いていないのかしら」

「ま、母さんが心配するようなことはないけど」

 

 エリに関する問答が終わり、ふと彩香は振り返って気がついた。有名人の祖母が建てた桂木邸は5台の電話機があり、いつもの母はリビングに話が筒抜けの台所横から電話をかけてくる。ところが、今日は後ろの壁から察すると和室にタブレットを持ち込んでいた。彩香は志穂が都合の悪いことを隠していると邪推して笑みを浮かべた。

 

「ねえ、そっちで何かあったんでしょう!」

 

 彩香が調子に乗ってディスプレイへ人差し指を振り、志穂は自分に関係しそうな話を他人事のように面白がる娘にため息をついた。老眼鏡を外した彼女は改まった顔つきで養子縁組の件について話し始めた。

 

「私たちが朋己くんと養子縁組の審理を受けたのは知っているわね」

「エリの試験前に打ち合わせした家裁でやる面接だっけ」

「ええ。朋己くんの心情を尋ねたり、私たちの家庭や経済の状況を調べたりするのよ。何も問題なければ裁判所が審判書を送ってくるから、区役所に養子縁組届と一緒に提出することになるわ」

「じゃあ、あとは役所に養子縁組届を出せば二人は正式にうちの養子になるんだ」

「それがエリちゃんの審判書は届いたけど……」

 

 エリの事だけ言って志穂は口ごもり、ディスプレイの彩香を見ながら沈黙した。母がもったいぶる態度に見えた彩香は固い話に飽き飽きし、後ろに下がってソファーの背に寄り掛かった。

 

「で、朋己のはいつ届くのよ」

「残念だけど、朋己くんは不許可だったの」

「えぇっ」

 

 彩香は朋己が養子になれないと聞いて腰が抜けて床に尻もちをついた。けれど、痛みは気が動転して感じなかった。初めて訪ねてきた時の妹を想う朋己の表情や、兄が養子になりたくないと知って家を飛び出したエリの姿を思い出し、立ち上がってとぼとぼと志穂の前に進んだ。彼らへの思いが胸に込み上げた彩香は兄妹揃って家族に迎えることを諦めきれず、棚の上に両手を乗せて横長の小さい画面を覗き込んだ。

 

「それでどうするつもりなの」

「どうするって、エリちゃんの養子縁組届を区役所に出すしかないわ」

「それじゃ、朋己は…」

「桂木家の籍にエリちゃんだけ入ることになるわね」

 

 志穂が冷静に養子縁組の現状を伝えると、彩香は感情が高ぶって電話機の横をドンと叩いた。

 

「朋己が一人になっちゃうじゃない!!」

 

 腰を90度折り曲げた彩香の顔がディスプレイに迫った。悔しそうな唇を噛む表情と心配で震える声は志穂を驚かせると同時にハッとさせた。母には娘の欠点ばかりが目につく。こういうところが彼には思いやりのある女性に見えるのかと目を細めたが、志穂は和室の壁時計へチラッと目をやると受話器の通話口にコホンと咳払いをした。

 

「落ち着きなさい、彩香。戸籍は別でもエリちゃんと区別したりしないわ。朋己くんは舞島学園の寮生活を続けるけど、これまで通り金銭的に支援するし、困ったらいつでも頼ってきて構わないと言ってあるのよ」

「でもでも、エリになんて言ったらいいのか」

「あら、『嘘も方便』と言うでしょう」

 

 真面目な顔の志穂がディスプレイへ人差し指を向け、体を起こした彩香は涙が溜まる下瞼に指を当ててきょとんとした。常々正直に生きる教えを説く母は「朋己が桂木家の養子になった」と周りに嘘をつく方針を淡々と彩香に話して聞かせた。

 

「朋己くんには本人の事だから話さないといけないわね。エリちゃん以外の人には必要になるまで黙っていましょう。それと、義姉さんは口が堅いから話しておくわ」

「それで、朋己になんて言うの」

「私が伝えてエリちゃんには言わないように説得するから」

「うん。分かった」

「じゃあ、私は午後の授業に行くから切るわね。あ、そうそう。あなたもいい大人なんだし、この件で話す時はくれぐれも彼の気持ちを配慮するのよ」

 

 エリにどんな嘘をつけば良いかは教えなかった。志穂は受話器を肩と耳に挟んでスーツの上着に袖を通し、思案する彩香の表情を目に入れながら通話を切った。

 彩香は手で顎を押さえてソファーに戻り、クッションを横にどけて腰を下ろした。エリにとって朋己が戸籍上だけでも兄でなくなるのは一大事だ。バレないような嘘をつく自信はないが、彼女の悲しむ顔は見たくないと思った。テレビの上にかかる時計を見上げてエリが帰るまでの時間を確認し、なるべく自然なセリフを考えてブツブツとつぶやいた。テーブル上のハンドバックを見つめ、「三人で」、「三人で」と自分の頭に言い聞かせた。

 

 

 それは美雪が鳴沢市で暮らす髪の長い小学五年生の頃。夜11時過ぎ、パジャマを着て二階の廊下に出ると、明かりが漏れる吹き抜けから話し声が聞こえた。一階の広いリビングで両親が長椅子の中央に並んで座り、テーブルに広げたノートPCの画面へ母が指を差した。

 

「選り好みしても仕方ないわ。この活動に決めましょう」

「うーん。なぁ、ボランティアなんてやめないか」

「ダメダメ。こんな大きい家に住んでいるんだから、少しでも社会貢献をしないと」

「母さんが慈善活動してるし、俺たちまでしなくてもいいだろ」

「分かっていないわね。私たちだけ遊んでちゃ、世間体が悪いでしょ」

「別にそんなの気にしなくても…」

 

 母が決めた事に父が渋々従うお馴染みの光景に、腰壁から下を覗いた美雪はすぐ興味なさそうに奥のトイレへ向かった。結局、父は長続きせず母は一人でボランティア活動を続けていく。

 この時は「世間体」という言葉を聞いたことすらなかったが、中学生になると事あるごとに言われるようになり、大学生の美雪が真裕との間に子ができたと言った時に母から二度と聞きたくなくなるほど浴びせられた。彼女は家を飛び出して舞島市で結婚・出産し、母に対する反発心から自分の子にやりたいようにやらせた。そして、黒田家では子どもたちが三者三様に育った――長男の裕太はグラウンドでサッカーの練習に明け暮れ、次男の京太はUFOや宇宙人を探すため鳴沢市に足しげく通った。彼ら兄弟が活発に行動する一方、人付き合いを避けて部屋でゲームをして引き籠る末娘のみちほは不安の種だった。

 家の外でキキーッと勢いよい自転車のブレーキ音が響き、美雪は台所を出てお彼岸行事の連絡に来た町内の人だろうと足早に廊下を歩いた。だが、玄関にはジャージを着たエリが立っていた。

 

「こ、こんにちは。今日は電気自転車を返しに来ました」

「あら、返しに来なくてもいいのよ。もう何年も使ってないんだから」

「いいえ。それでは真裕義兄さんに悪いですし」

 

 エリは体を後ろにひねって戸を閉め、土間の端にある車いすへ目をやった。本当は学校をサボったみちほと一緒に制服の採寸に行くために来た。早く来過ぎてエプロン姿の美雪と鉢合わせし、その場で借りていた自転車を返すことを思いついた。勘の鋭そうな美雪に嘘がバレていないか不安でエリは身を縮めた。

 以前に電話で話した少女は礼儀正しくハキハキした印象だった。美雪は何かを気にする様子を見抜き、脇のラックへ手を伸ばしてスリッパを取った。

 

「さあ、上がってちょうだい」

「は?」

「エリちゃんはみちほとメッセージアプリで連絡を取り合ってるの」

「はい、スマホで」

「忙しいとこ悪いわね。あんな子のために来てもらって」

 

 スリッパの置かれた足元からキリッとした目が顔を覗き込み、エリはみちほの仮病で疑われていると感じて息を呑んだ。美雪を怒らせると怖いというイメージはエリにも浸透していた。「あははは…」と笑って誤魔化し、スニーカーを脱いで框のスリッパにつま先を入れた。

 エリはビクビクして美雪の後ろをついていった。10cm高い彩香より彼女はさらに背が10cm高く、背筋をピンと伸ばしてロングスカートの裾を揺らして廊下を歩いた。

 

「実は一ヶ月前に初めてが来たばかりでね」

「初めて?……あ、女子のですか」

「ええ、今回も不安で学校は行きたくないんだわ。あの子友達が一人もいないから」

「そうなんですか」

「それで、いつにも増して今日は朝から死にそうなオーラ全開なの」

「はぁ。いつも大変ですね」

 

 話を聞いてエリは美雪が怒っていないと分かってホッとしつつ、我がままなみちほが日頃から手を焼かせていることに気づいた。これを利用すればみちほと二人きりになれると考えたエリが急に駆け出した。廊下の角と美雪の間を体を横にして擦り抜け、台所の前で驚いて立ち止まった彼女へ手の指を広げて胸をバンッと叩いた。

 

「みっちゃんの面倒は任せて下さい!」

「えっ。いいのよ、いつものことだから。これから制服の採寸に行くんでしょ」

「大丈夫です。美雪姉さん、午後はパートでお仕事ですよね」

「まあね。でも机の上にお昼を置いといても食べないし、多分夕方まで寝てると思うわ」

 

 学校を休んだみちほは昼食に一切手を付けず、毎度パートから帰ってきた美雪にため息をつかせた。登校拒否が終わってずいぶんと肩が軽くなり、彼女はその立役者であるエリに迷惑を掛けっ放しでは申し訳ない気分だった。

 美雪がやんわりと申し出を断ると、帰る羽目になると焦ったエリは目をキョロキョロさせて口任せに話をした。

 

「わ、わたし、施設で年下の子たちの面倒を見てました。本当の弟や妹のように一緒に遊んだり、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり。だから、みっちゃんも妹としか思えなくて。4月からは同じ学校に通うことになるし、これから何でも頼って欲しいんです」

「それじゃ、エリちゃん……」

 

 エリの面倒見がいいお姉さんアピールに美雪は深く考えさせられた。それまで、母・志穂が世間体を良く見せる目的で両親がいない朋己たち兄妹を引き取ったと思い込んでいた。「みちほのために…」と一瞬思ったものの、すぐに首を横に振った。身内の面倒を見させるために福祉施設の孤児を養子にする方が世間体は悪いはずだから。母の真意はつかめないけれども、養女となった年上のエリにみちほが見守られることは有り難かった。

 美雪は照れくさそうに手の甲をさするエリに腰を屈め、優しく微笑んで両肩に手を掛けた。

 

「ありがとう。エリちゃんがそう言ってくれて助かるわ」

「あ、でもその、まだ何もしてないので」

「じゃあ今からお粥を作るから、みちほに食べさせてもらえるかしら」

「はい、分かりました!!」

 

 エリは命令を受けた警察官のようにビシッと敬礼し、美雪が台所に入るのを見届けた。腕を下ろすとすたすたと廊下の奥へ歩き、みちほの部屋の前で台所の方へ顔を向けた。首をひねったエリがあんなクサイ芝居で本当に信じたのか不思議そうに部屋の戸を引いた。

 調理台の前に立った美雪はトレーナーを腕まくりした。出してあったタッパーを開けて片手鍋に残りご飯をバーッと入れ、たっぷりの水に浸った鍋をコンロの火にかけ、沈んだ米の塊を菜箸でほぐしながら鼻歌を歌った。これからはエリが社会性の欠如したみちほを姉代わりとしてサポートしてくれる。不安が払拭した彼女の心には桂木家の末妹に感謝するとともに、志穂へのわだかまりを融解させる気持ちが芽生えていた。

 

 

 みちほの部屋は西に青空が覗く高窓と北の窓に閉まる真っ白な障子が落ち着いた明るさをもたらした。奥の小上がりにすっぽりと人がかぶる掛け布団が見え、戸を閉めたエリはわざとスリッパの足音を立てて近づいた。

 

「ほら、起きてちょうだい。制服の採寸に行くんでしょ」

「だけど、まだ母さんが家に居るんだろ」

「美雪さんはお粥を作ってるわ。後で取りに行くことになってるから大丈夫よ」

「あー。そういうことか」

 

 部屋の奥から手前へ体がゴロンと回転した。片手を付いて横になった体を起こし、身にまとった掛け布団が後ろに落ち、みちほは寝巻き兼部屋着の緑色のジャージ姿で現れた。仮病を演じる彼女は母が来ないと分かって安心してあぐらをかき、ジャージの中に手を入れてTシャツの上から脇腹をボリボリと掻いた。

 

「で、卒業式はどうだったのさ」

「そうそう、彩香さんが髪を後ろで結ばないで来たの。よく分からないけど、母親っぽく見えるとか言ってたわ」

「まあ、叔母さんは30歳だからな」

「いいえ。30と1歳よ」

「どっちでもおんなじだよ。15歳の子を持つ母役なら少しでも上に見えないと世間体が悪いし」

「そっか、それで普段使わない黒のバッグを持ってたんだ」

「黒いハンドバッグか。そりゃ、エリ姉と写真撮ったら親子に見えるな」

「帰る前にスマホで撮ったわ。校門のところに夏也くんが居て撮ってもらったのよ」

「あはははは……」

 

 頭の後ろに手を組んだみちほは掛け布団にもたれ、卒業式の話に付き合う無責任な笑いがフェードアウトしていった。

 舞島海浜公園でキスをした後、夏也にとって好きな女子の一人だと知って怒ったものの嫌いになれなかった。彼からスマホに届くメッセージには愛想のないひねくれたメッセージを返し、あれから夏也とは一度も会っていない。もう他の女子に乗り換えたのだろうかと考え、みちほがボーっと白い天井を眺めた。

 

「なあ、先輩は何人くらいの女子に囲まれてたんだ」

「ん、夏也くんのこと?」

 

 エリはとぼけながらも、ようやく夏也の話題に触れたとポケットに片手を突っ込んだ。メルクリウスから駆け魂回収道具をもらうまではみちほと夏也の仲を良好に保つ必要があった。人差し指を頬に当てて思い出すふりをした。

 

「えーっと、たしか女子生徒は一人も居なかったわね」

「二年生女子に人気って聞いたけど」

「きっと野球部のみんなで集まってたんだわ」

「それ、ほんとか。野球部なら女子マネージャーの早矢がいるはずだぞ」

 

 みちほの向ける夏也の浮気疑惑を完全に無視し、エリは学習用タブレットに使うタッチペンを差し出した。

 

「ハイ、これ夏也くんからよ」

「これって例の…」

「うん。『ほんとは二人きりで会って手渡したいけど』って言ってたわ」

 

 好きな人に使い込んだペンを渡すと結ばれると言われ、卒業式で渡すことが中学校で恒例となっていた。教室を出て夏也を探すとすでに昇降口で周りに女子が群がり、彼が満更でもない表情を見せる。マズイと思ったエリはすぐスマホで校門に呼び出した。本当は「みちほが欲しがっている」と言ってもらったが、彼女を喜ばせるために堂々と嘘をついた。

 

「嬉しい?」

 

 エリが腰を曲げてニコニコして顔を近づけると、手に取ったみちほがペンを見つめて不敵に笑った。

 

「フフッ、これで先輩はわたしの物か。中学校じゃ醜い女子共が言い寄ってるらしいけど、うちの学園でそんなことをやる奴には罰が必要だな。校内で悪い噂を広めてやろうか、いや、SNS晒し首がいいか。何しろこっちにはエリ姉という悪魔がいるんだ。二度と先輩に色目を使えないようにキツイお仕置きしてやるわ。フハハハ――」

「へっ、お仕置き!?」

 

 みちほは喜ぶどころか夏也に対する独占欲を剥き出しにして高笑いした。背筋がぞっとしたエリは体を後ろへ引き、学習机に置かれたコップの水と薬が目に入った。

 

「あ、いっけなーい。台所にお粥を取りに行かなくっちゃ」

 

 異様なオーラを放つみちほにくるりと背を向け、彼女から逃げるように廊下に出た。だが、エリは部屋の戸をピシャリと閉めてほくそ笑んだ。彼女の態度は夏也の周りを囲む女子への嫉妬の表れだと。これ以上彼らの仲を心配することは杞憂と判断し、美雪を喜ばせるためにパタパタと台所へ向かった。

 みちほはまんまとエリを部屋から追っ払い、閉じた戸へ向かって舌を出した。もう作戦の都合で夏也と仲良くさせられても嬉しくなかった。彼は自分からくれる性格でないと考え、無造作に敷き布団の上にペンを転がした。

 

「ベーだ。先輩はそんな気の利いたセリフ言わないもん。そうだ、今日は卒業式のこと書いてくるだろうから『二年生女子とお別れで寂しいですね』でいいや」

 

 布団に埋もれるスマホを手を入れて探し出し、夏也に返す嫌みな文を入力して意地の悪い笑みを浮かべた。しかし、顔を上げたみちほは諦め半分にため息をついた。

 

「先輩にはパラダイスだなぁ。うちの学園って女子の方が断然多いから」

 

 エリに見せた演技は大げさとしても、自分一人の彼氏にしたい欲はあった。移り気な夏也と中学より誘惑の多い舞島学園。暗い顔をして彼が学園内で他の女子と仲良くするシチュエーションに考えを張り巡らせた。親密にならないことを祈るしかないのかと思い、頭を掻いてスマホ画面に目を落とした。

 みちほは何気なくアプリのタブを切り替え、カレンダーの日付に並ぶ印に気がついた。連絡先を交換した日から毎日メッセージが送られてくる。返信後に忘れるようにしていた夏也とのやりとりを一つ一つ思い出して読み返した。

 

2/11(土)

かなり膝から血が出てたけど怪我の方は大丈夫かい

                             まあ -

まだ怒ってるの

    いいえ。他の女子には告白しないと約束してくれましたから -

約束?

           海浜公園で謝りながら言ってませんでしたか -

よく覚えてないから明日会って話そうよ

                  結構です。わたし忙しいので -

ははは、おやすみ

 

2/12(日)

今日は風が吹いて寒かったね。でも月曜は温かくなるってさ

         わたしの心は昨日から冷たい風が吹き荒れてます -

その風で怒りの炎が吹き消えたりしないかな

      二年生女子のことは頭の中から消えたりしないんですか -

ははは、おやすみ

 

2/13(月)

今週はみっちゃんに会いたいなあ

            あいにく中間テストが始まるから無理です -

残念。しばらくは君の顔を想像して我慢するよ

       どうせ他の女子の顔と間違えても分からないんでしょ -

ははは、おやすみ

 

…………

 

 今にして思えば最初は不信感でいっぱいだった。みちほは海浜公園で平謝りした夏也が態度を一変してすっとぼけたと思い込み、浮気すると決めつけて彼を責め続けた。冷静にメッセージを読み返すと、自分に対する熱心な想いがひしひしと伝わった。

 みちほは胸の高鳴りを鎮めるように敷き布団へダイブし、うつ伏せで寝そべって枕に顔をうずめた。

 

「ほ、本当にわたしのモノなんかな。今のところ、先輩は……」

 

 想像するだけで顔から火が出る相思相愛状態だが、このままネチネチしたメッセージを送っていると陰険さに嫌気が差すに違いないと思った。横を向いて胸先にスマホを持ち、いそいそと用意した文の変更に指を擦らせた。「中学卒業おめでとうございます」と書いて手が止まった。俄然、高等部に通う夏也との学園生活に楽しみが湧いてきた。エリがくれた畳に落ちたペンを横目に、頬を赤らめたみちほは彼からのメッセージを待ち遠しそうに足をもぞもぞと動かした。

 




―― 次章予告 ――

ついに、舞島学園に入学。エリは朋己の所属する天文部が男子専用と知り、部室に潜入して男女混合部の申請を行う。だが、その場面を撮影した女子に隣の部室へ連れていかれて… ⇒FLAG+22へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。