八幡のちょっとリアルな大学生活。 (23番)
しおりを挟む

EX
ex.Ⅻ月


 メリークリスマス


 ホワイトクリスマス。

 そんな現象がこの日本で起きるのは何年ぶりなのだろう。近年の温暖化の所為か、平年よりも気温は高い日が続いていたが、図ったように空気は冷え、肌を刺す。

 家を出るときは既に日を跨いでいて、ホワイトクリスマスイブあんどホワイトクリスマスだったかは定かではない。缶詰め状態でペンを走らせていて夜更かし。これをサンタはどうカウントするだろうか。いい子なのは確かだが、寝ないとプレゼントがもらえない。いつかグリーンランド行ったら国際サンタクロース協会に聞いてみよう。いい子に勉強していたのにプレゼントなかったんですけどー。

 

 薄く浅く、コンクリートの凹凸に入り込むように敷き詰められた結晶は、閑静で灰色の住宅街を別世界へと変貌させていた。深夜の街に振動はなく、降りしきる雪が音を吸い込んでいる気がした。

 鳴らない足音に自らの口で効果音をつける。

「さくっさくっ」

 誰もいない舞台で、八幡のひとり劇場が始まる。始まらない。

 

 寒さでマフラーに顔をうずめ、角を曲がるとこれまた煌々とした異世界が姿を現した。オレンジ、グリーン、レッドの三色の帯は今の時期にはぴったりにも見えた。

 夢の扉を押して開くと、サンタ帽子をかぶった美少女。ではなく、ただの青年が棚に商品を置いていた。こちらを一瞥して再び棚に向き直ってから、ぶっきらぼうに「らっさいませー」と言う。

 店員の視線は冷たいが、店内には暖房が効いていて、ほっ、と一息つく。雑誌の棚を通り過ぎ、アダルトコーナーに視線が吸い寄せられるのを堪える。お、男の子だもんっ。

 ダラダラと物色しているが、イマイチこれといったものがなく迷う。家に帰ってから作る物は面倒で、どうせなら帰りがけに食べられるものがいい。まだ勉強するつもりなので多少がっつりしていても可。

 アイスのエリアを見て、流石に無理だと身体を震わせる。その先にあったショーケースに目を奪われた。

 

 少し歩いてから取り出すと、暖かそうな湯気が立つ。あまりの寒さに肉まんが悲鳴を上げたようにも見えた。

 ほくほくと齧り付くと、肉汁が口の中に広がり、旨味が染み渡った。抉られた肉の部分から先ほどの倍の量の湯気が立ち、今度は断末魔かな? と思う。容赦なく口に運び、咀嚼を続ける。身体の中から温まり、切れた集中力がまた繋がり始める。

 デザートとして、マッ缶を握り込む。じんわりと温かさが掌に広がり、逆に一人だと実感した。俺の恋人はマッ缶だけだよ…。

 クシャリと形容しがたい音を立て、プルタブが沈む。折り返して戻すと一気に煽った。甘さが脳まで貫き、ブドウ糖が活発に吸収されていく感覚が分かった。

 

 気付いたら家の前まで歩いて来ていた。静かに鍵を回しドアを開ける。両親はまだ仕事の様で、家には小町一人が寝ているだけの筈だ。

 そろりそろりと階段を昇り、足とドアを滑らせるように部屋に入る。トム・クルーズも真っ青だぜ。コートを脱ぎ、マフラーをベッドに投げ捨てたところで見慣れない箱に気付く。コンビニの色によく似た包装用紙で包まれている。

 付箋が貼ってあり、サンタクロースより♡と書かれている。小町の字だ。手のひらサイズの箱を持ち上げると、少しの重量感に驚き、苦笑する。

 部屋を出て、隣の小町の部屋を目指す。恐らくまだ寝ていないだろうが、一応形式として慎重にドアノブを下げる。小さな音で開いた。隙間から覗く。壁を向いて寝ている小町は月明かりで照らされていて、神々しさを纏っていた。

 そっと近づき、サンキュと呟く。髪の毛が揺れたが気の所為だとしておく。背中に隠していた小さな箱を取り出し、枕元に置いた。サンタクロースはまだ仕事らしいから、これで勘弁な。

 同じように部屋を後にして自室へと戻る。一度伸びをしてから椅子に座ると、厚くない壁の向こうからもぞもぞと動く気配がした。

「メリークリスマス」

 そう言い、参考書に目を落とす。

 カイロも貼っていないのに、胸の内がぽかぽかと温かかった。マッ缶すげえ。ということにしておこう。




 


 
 社会人の方はまだもう少し仕事らしいですね。少しでも楽しみになったら嬉しいです。

 本編の続きは製作中で数日以内に出来上がりますが、せっかくのクリスマスということで書きました。これと一週間前に出していた『陽気なギャングの青春と間違い。』を読んで待っていていただけると幸いです。
 
 伊坂幸太郎さんの作品をダブルパロディしていますが、俺ガイルのキャラの個性は残しているので雰囲気は楽しんでいただけると思います。「陽気なギャング」シリーズが気になったりしたらラッキーに思います。

 それでは。
 メリークリスマス


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ex.Ⅰ月

あけましておめでとうございます

読んでいただけるだけで嬉しいですが、感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。



 

 

 冬晴れの空に、白い息が吐き出され、消える。

「指定校、断ったんだな」

 誰にとも明言はされていなかったが、彼女も俺たちと同じく勉学に勤しんでいる様子を見ると、どうにもそうらしい。指定校枠は雪ノ下次第。そんな噂がさざめき立った時期すらあった。

「ええ」そう笑う雪ノ下からは清々しさが滲んでいる。

 陽乃さんとの対決が一端終息した高校三年、雪ノ下の感情は歪んだ憧れから情熱に近い、というかこいつの本性である大の負けず嫌いが発動しただけなのだが、対立という形で復活を遂げた。要するにあの人が余裕で通過した大学受験というものに私が手こずるはずがないという趣旨のものだ。推薦も立派な成果だと感じるのは俺だけなんですかね…。

 まあ、枠が一つ空くなど他の奴からしたら寝耳に水ものだろうし、それでしくじるような雪ノ下ではないから教師も安心して任せられるだろう。

「おーい! ゆきのんもヒッキーも早く―!」

 しばし雪ノ下の微笑に目を奪われているところで、前方を歩く由比ヶ浜が手を振ってきた。その横では小町がニコニコと笑いながらこちらを覗いている。明らかに去年とは表情が違う。

 彼女らの背後には朱色の鳥居と、烏合の衆と化した参拝客。うへぇ…。

 足を速め追いつく。

「ごめんなさい」雪ノ下が瞑目して謝罪をすると由比ヶ浜は被りをふるが、俺が「人多すぎ」と毒づくと「ヒッキーうるさい」と言われた。

 苛々しているのかしらん? と目を向けると、由比ヶ浜は悪戯めいた笑みを浮かべている。この時期であるから多少心配していたが、彼女はいつも通りだった。

「お参り終わったらおみくじ引きましょうよ!」

 小町が威勢良く叫んだ。

 

 

 例年通り、出店の出ているエリアを過ぎ、境内へと歩を進めると人ごみも緩和された。行列に並び、牛歩戦術のようにじりじりと進む。仏様もたじたじだろう。

 高校三年間同じ財布を使い続けていた所為で綻びが見え始めたそれは、年季が入ったなどと言えるほど上等な革を使っているわけでもなく、そろそろ替え時かなと考える。

 小銭入れをパチンと弾き開く。じゃらじゃらと漁るが、五円玉はなかった。

 用意してこればよかったな、と絶対に用意してこない後悔をしながらどの組み合わせで参拝するか悩んでいると視線を感じる。チラと顔を向けると小町がいた。ぼーっと俺の手元を凝視している。

「どうした」

「あ、いや、ううん」目を覚ましたようにビクついた小町は、何かを取り繕うような表情をしたが、すぐにいつもの調子に戻る。「ふっふっふ、お兄ちゃん」

「な、なんだよ急に…」

「じゃじゃーん!」

 盛大な口果音と共に差し出されたのは、打ち出の小槌。ではなく五円玉だった。

「え、なに自慢?」意味が分からず訝しんだ視線を向けと、「違うよお兄ちゃん…」と呆れたようにため息をつかれた。

「じゃあなんだよ…」

「お兄ちゃんが持ってないとき用に小町が用意していたのでしたー!」

 はいどーぞっ! と掌に載せこちらに向けて来る。断る理由もなく親指と人差し指でつまみ上げる。「サンキュな」

「いえいえー、あ、今の小町的に超超ポイントたっかいー!」小町がニッと笑う。

「それがなければなぁ」

 しばし兄妹談議に花を咲かせていた為に、二人がいる方向へと顔を向ける。するとバッと風を切るかのように両手を後ろに隠された。

「え、なに…」

 目の前で起こった不思議な出来事に目をパチクリとさせていると、由比ヶ浜と雪ノ下はなんでもないと言わんばかりに首を振る。

 確認の為に再び小町へと視線を戻す。

「うおっ」数秒前とはかけ離れた姿の妹に思わず後ずさる。

 小町は両手で頭を抱えて、項垂れるようにして唸っている。「うぐぐぐ…やってしまった…」どうやらなにかやらかしたらしい。

「こ、小町…?」

「くうう、小町は今ほど自分の事を無能だと思ったことはないよ…」

 頭の上のクエスチョンマークが会話の度に増えていった。

 行列は大分進み、賽銭箱はもう目の前だった。

 

 

 長いこと祈っていた由比ヶ浜が走って来るのを目で確認して、本堂向かって右側にあるおみくじ売り場に足を向ける。財布から百円を取り出し、巫女さんに渡す。六角形の木筒を受け取りガラガラと振ると、一本の細い棒が顔を出した。

「十八番ですねー」巫女さんは木筒に棒を戻しながら後ろの棚の十八と書かれた引き出しを開ける。

 丁寧に紙を渡してくれた彼女の耳にはピアスの跡が見えて、少し気分が下がった。

 少し離れた位置まで下がり、雪ノ下達を待つ。首を巡らせると常香炉が見えた。参拝客はここぞとばかりに煙を自らの身体にかけ、清めようとしている。俺の場合は目に当てればいいんですかね。失明しちゃうんですがそれは…。

「なんだったー?」おみくじを引いて戻ってきた由比ヶ浜が声高々に言う。「あたし大吉だった!」

「お前去年も大吉引いてなかったか」

 走ってきた由比ヶ浜と反対にゆっくりと近づいてきた雪ノ下が紙を広げる。先ほどの由比ヶ浜の歓声が聞こえていたのか渋い顔をした。あ、負けたんですね…。

 二人とも短いスカートに黒いタイツといった風貌で、タイツへの信頼感半端ないなあとつい見てしまう。雪ノ下の方が少し細いか…。雪ノ下の白いコートは長く、傍から見たら履いていないように…ゲフンッ、何でもないです。

「まあ、おみくじに勝ち負けとかないから…」囁くように説き、手に持つ紙を広げると言葉が止まった。

 訝しんだ由比ヶ浜が俺の手元を覗き込む。「末吉?」首を傾げる。俺もイマイチ良いのか悪いのか分からん。

「凶の次みたいだよお兄ちゃん」おみくじ売り場を振り返って小町が言う。どうやら張り出されているらしい。

 びっみょおおおおお…。確実に良くはないが悪いというわけでもない…。太鼓の達人でいうと可って感じ。カッ!

 雪ノ下をはじめ皆が一様になんとも言えない表情をする。うん、分かる。

「仕方ないなあ、はい」またもや小町が何かを差し出してくる。

 受け取って開く。「大吉じゃねえか」小町がふふんと胸を張ったのが見なくても分かった。ついでに雪ノ下の歯ぎしりも。駄目だよ?おみくじに課金とか駄目だよ?

「いや、いい」自然と口から出た。「そもそも神頼みってのが性に合わん」

「えー、受け取っときなよ。せっかく小町ちゃんがくれたのに」由比ヶ浜が子供じみた声で言う。

「いいんだよ、自分の力でやるから。それに今まで助けてくれなかった神なんてろくでもない奴に決まってる」

「確かに、比企谷君の事を助けるなら出生時まで遡らなければいけないものね」雪ノ下が顎に手をやり思案する。

「さらっと俺の人生スタートからミスってる事にしないでね?」

 端に設置されたおみくじを結ぶところへ行き、末吉の紙を括りつける。悪いやつは結ぶとか言われてるけど本当のところはどうなんだろうか。

「そういえば、ゆきのんは何だったの?」

「……中吉よ」雪ノ下は少しの逡巡ののち答える。

 やめてあげて! 彼女のライフはもうゼロよ! 流石おみくじガチ勢雪ノ下さん。

 この後死ぬほど神に祈って、神を恨んだのは別の話…。

 

 

 なだらかな坂を上るように進んでいくと、東の空に霞がかった雲が見え始め少し嫌な感じがした。

「雲が出てきたわね」同じように上を見上げた雪ノ下が心配そうに言う。

「まあ雨は降らんだろ」

 今朝のお天気お姉さんが言っていたのを思い出す。

 駅の改札を通り抜けると、雪ノ下が少し言いづらそうに声を出す。

「あ、あの、私こっちだから…」

 小さく指で指示したのは、雪ノ下のマンションとは逆の方面だった。

「おお、そうか」特に気にすることでもなく軽く返す。しかし由比ヶ浜は聞いても差支えない内容だと踏んだのか、身を乗り出した。「買い物でも行くの?」

「いえ、ただの姉さんとの食事よ」微笑が返ってきた。

「そっか! 楽しんできてね!」由比ヶ浜が笑う。

 ただの陽乃さんとの食事で、楽しんできてね!と往復したが字面だけ見たらラスボス前のセーブポイントに見えるのは俺だけでしょうか…。いや、今はそれをできる関係になったと言うべきだろう。

「ええ、ありがとう」踵を返し、ホームへと消えていく。

 雪ノ下の氷が溶けたような微笑みに満足げに頷いた由比ヶ浜がクルリとこちらを向く。「じゃあ帰ろっか!」

「いっけなーい」やっぱり来た。どこかの小さな名探偵のあっれれ~に匹敵する登場回数。もうこまいっちんぐ!「小町、お守りと絵馬を忘れたのでダッシュで戻りまーす!」

「おー、俺も受験生だしお守り…」言いかけて遮られる。「お兄ちゃんさっき神頼みしないって言ってたよね」声が冷たすぎてお兄ちゃん怖いよ…。「おお…でもお守りってそういうんじゃなくない?」

「じゃあ行ってくるので結衣さんそこのごみいちゃんのことお願いしますねー!」

 そう言い残し、小町は猛スピードで姿を消した。

 しばらくあっけに取られていたが、由比ヶ浜が照れ臭そうに笑うのをキッカケに歩きはじめる。

 

 

 息を吐いて開いた扉を潜り抜ける。背後に付いて来ているはずの由比ヶ浜に声を掛けた。

「座るか?」

 勉強を優先して参拝だけに留めたお陰か電車の中はわりかし空いていて、隣に人がいることを我慢すれば座れなくはなかった。

「ううん、少しだから大丈夫」由比ヶ浜が笑う。

「そうか」

 足元に目を向けると、低いながらもヒールのショートブーツを履いていた。

「えへへ、ありがと」

 突然の感謝に、驚いて顔を上げる。「え、なに」

「ヒッキー優しいね」そう意地悪そうに言う彼女は、どこかのあざとい後輩を思い出させる。

 由比ヶ浜に一色のあざとさが追加されるとかそれどこのチーター?氷の女王も流石に陥落、あ、もう攻略済みでしたね…。

 電車の揺れにも少しのぐらつきで耐えた彼女は、気恥ずかしさを隠しながら言う。「ゆきのん、頑張ってるんだね」

 窓の外に向けられた視線は遠い過去を回顧しているようで、憂いが滲んでいた。

「そうだな」追うように、過去へと向かう。

 諦めたように、選択しないことを選択した俺たちに興味を無くした彼女は去るかに思えた。しかし、強く優しく成長した雪ノ下は陽乃さんの影など微塵も感じさせず、凛とした佇まいでむしろ彼女を惹きつけた。

 初めて対等となった彼女達は、互いに切磋琢磨し、時に罵倒し合いながら日々研鑽を積んでいた。表現は臭いが、そうとしか言いようのない鋭さだった。遅れたら置いていく、そんな緊張感も含まれていた。

「でも、ゆきのん楽しそう」

 そう呟く由比ヶ浜は、先ほどの雪ノ下の微笑みを思い出しているのだろうか。反対方面へのホームに消えた雪ノ下からは、過度の自信や謙遜はなく、ただ正面から正々堂々と立ち向かう。そんな凛々しさすらあった。

「ただの姉妹の食事なんだけどなあ…」そこまで考えて、呆れるように零れた。

「あはは、ほんとめんどくさいねっ」

 突然発せられた罵倒に近い物言いに驚き、顔を見るが、そこには無邪気に笑う由比ヶ浜がいるだけだった。神社での事といい最近鋭いとこ突いてくるわこの子。しかもそれが満面の笑みなもんだから何かに目覚めそうゾクゾクッ。

「最近どうだ、勉強の方は」気になり、訪ねる。

「うーん、順調? かな?」由比ヶ浜は首を傾げる。

「大丈夫かそれで…」

「大丈夫大丈夫! ちゃんとやってるし、大吉だったし!」

 両腕でガッツポーズをする由比ヶ浜を見て、思わず頬が緩む。そうだ、彼女はこうやって乗り越えてきたのだ。受験も、人間関係も、ちゃんと見てきた。

「そうだな、由比ヶ浜なら留年しても気付かなそうだ」

「流石に気付くし! 馬鹿にしすぎじゃない!?」

 ポコポコと肩を殴られるが、手はミトンに包まれていて痛くはない。

 電車が何度目かの減速を始める。気を抜いていた由比ヶ浜が躓き、俺の胸に飛び込んできた。つり革を掴む手に力が入る。

「わっ」俺のコートを握りこむようにしたが、素材かミトンのせいか掴めずそのまま抱き着く格好になった。反射的につり革とは反対の手をポケットから出し、由比ヶ浜の腰を支える。

 電車が完全に停止するまでの五秒間、時間は停止していたように思えた。

 タンクから空気が噴射され、扉が開いた。

「あ、ヒッキ…」くっついたままの由比ヶ浜が口を開きかけたが、遮ってしまう。「大丈夫か?」驚いた由比ヶ浜は頬を赤らめながら何事か口をパクパクさせている。微かに口角が緩んでいる気がした。

 車掌の笛が鳴り響き、扉が閉まる。体勢を整えた由比ヶ浜にもう一度聞く。「大丈夫か?」

「う、うん、ありがとう…」恥ずかしそうにお団子をくしくしとして、こちらを見る。「でもヒッキーよかったの?」

「あ? なにが」顔が熱く、マフラーにうずめるように首を縮める。

「だって今の、ヒッキーの降りる駅…」

 電車の進行方向とは逆に指をさす。俺の人生で一番見慣れた駅は、遠く、小さく、薄くなって消えた。

「あ」

 由比ヶ浜と顔を見合わせると、二人して笑いあった。

 まあ、急いで転ぶよりはマシだろう。

 

 面倒な回り道は、俺たちの得意分野だしな。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本編
3月


 進学前、彼らの関係性の説明です。

 3月ということでオープニングのつもりでしたが、思ったより長く?(初めてなのでこれが長いかどうかも分かりません...)なってしまいました。
 大学生活の部分はショートショートで書くつもりですが、助言いただけると幸いです。

 感想などもらえると助かります。


「ねぇ...」

 

「...ん?」

 

 教室で最期のHRを終え、廊下を歩いていると後ろから声をかけられた。俺に学校で話しかけて来るやつ、というか明らかに由比ヶ浜の声なのだからわかっていたが、少し見とれてしまう。普段と変わらぬお団子、制服にも関わらずそうなる理由はブレザーの胸元に咲く一輪の薔薇の所為だろうか。

 

「最後だし...部室いかない?」

 

 彼女にしてはしおらしい、しかし確かな意思を感じさせる眼差しを向けられるとこちらも弱る。

 まぁ、今日という日を迎えたときからそうなるだろうと思っていた自分もいる、もしくは期待していたか。

 

「別にいいぞ、小町は先に帰ったみたいだからな」

 

「小町ちゃん基準なんだ!?」

 

「何言ってんだ当たり前だろ。千葉の兄妹の愛は120tより重い」

 

「そんな落花生に例えられても分かんないし...」

 

「わかってんじゃねえか...」 

 

 ガハマさん...恐ろしい子ッ!ってこいつに覚えさせるとかどんな教育したんだよ雪ノ下...。

 

 雪ノ下さん...恐ろしい子ッ!

 

「ゆきのん勉強の合間に豆知識入れて来るから...」

 

 千葉の豆知識、略して豆チバってか。枝豆から出て来るチーバ君を想像したら商品化待ったなしだと思いました。なんならコンプするまでガチャガチャしちゃうまである。

 

 雪ノ下に降り積もる雪は、由比ヶ浜という温かい陽気を待って結い続けていたのだろう。そう思わせるほど、彼女らの関係は美しく、この桜のように咲き誇ったのだ。そして、この桜はもう散ることはない。保存ともいえるし、停滞ともとれる。が、この胸の造花も、あの校庭の桜も今では同じように輝いて見える。

 

「ヒッキー!何見てんのはやくー!」

 

 元気な声に急かされ、歩を早める。そう、元気な声に急かされただけだ。

 

 

 

***

 

 

 

「やっはろー!」

 

 由比ヶ浜が勢いよくドアを開けると、全開まで開いたそれは怒号のような音をあげた。こいつどんだけ気合入ってんだよ...

 

 大きな音を訝しく思ったのはこの部屋の主も同じだったらしく、驚きと警戒を含んだ目線を投げかけていた。

 

「由比ヶ浜さん、入るときはノック...、というかそれ以前の問題よ、扉は静かに開けなさい」

 

 ふえぇ...、雪ノ下さん激おこだよう...。まぁ、激おこだったのは一瞬で、由比ヶ浜だと認識するといつもの優しい目に戻ったのだが。あ、言わなくても分かると思うが俺にその目は向けない。

 べ、別にさみしくなんかないんだからね!そう、寂しくはないが視線は痛い。

 

「うぅ...、ごめんねゆきのん...。なんだか力が入っちゃって...」

 

「お前はいつから怪力キャラになったんだよ」

 

 由比ヶ浜に続いて部室に入ると、ドアをそっと閉めた。静寂を愛し、静寂に愛された男おぉ。なにそれ芸人やめた方がいいんじゃないか。あんまり静寂静寂いうと、メールで告白した次の日教室入った時を思い出すからマジやめてほしい。女子ってなんで言うの...。

 

「仕方ないわね...改めてこんにちは由比ヶ浜さん、と...、おめでとう晴れて公認となったヒキタニくん」

 

「うるせぇよ、何となくそんな気はしてたよあの校長」

 

「あはは...、確かにヒッキーの名前の前だけ一瞬考えてたもんね...」

 

 生徒の名前把握しろとは言わんから、この日くらいは頑張ってくれてもいいんじゃないですかねぇ...。実は何してるか知らない職業トップ5に入る校長先生。かっこ俺調べ。

 

「でも、ほとんど反応なかったのよね...」

 

「確かに!寧ろ比企谷って言われた方がざわついたかも!誰?って」

 

「おい、同情してしてんのか追い打ちかけてんのかはっきりしろよ」

 

 雪ノ下の冷笑の言葉には耐性がついたものの、由比ヶ浜がたまに発動させる天然の攻撃にはいつまで経っても慣れない。いつの間にあついしぼうを身に付けてしまったんだろうか...。

 

 ピロリン♪

 

 雪ノ下の対角線、いつもの低位置に座ったところでパソコンがなった。あれ?誤変換じゃない?もしもし?

 

「ヒッキー...仕事だよ」

「比企谷君...仕事よ」

 

 何この職場丸投げ体質だったっけ。オー人事しちゃうよ?スタッフサービスしちゃうよ?あのCM何なんだろうな、でも調べたら負けって思うことない?ないか。

 パートでも派遣でもない自分には縁のないものでしたね、ついでに正社員でもない。なにそれ超ボランティア。

 まあ、慈善事業であることは百も承知、お腹を空かした人には魚の取り方を、でしたっけ。最後に一仕事やりますか。

 

 すでにメール画面を開いている雪ノ下と由比ヶ浜の間に移動し、パソコンを確認する。どれどれ。今夜の迷える子羊は...

 

 

 

〈PN:剣豪将軍さんのお悩み〉

『心の友よ!新しい小説のプロットが完成したぞ!とくと目にするがよい!』

 

 

 

 子羊じゃありませんね、あついしぼうを身に纏ったトドですね...。しかし残念ながらこいつの脂肪には氷体制ががついていない。ご愁傷さまです。

 

「今日も平和で何よりだ」

 

「職務怠慢は処罰の対象よ?」

 

 見て見ぬふりを決め込もうとした部下に上司からの叱責が飛んだ。過ちは先に報告した方がいい。なぜならなぜ報告しなかったのかと後から二重で叱られるからだ。ソースは俺。三日でバックレたバイトの理由はそれだ、一日目のミスを黙ってたら三日目に怒られた。さらには隠ぺい工作まで図ったものだからもう三重、スリーアウトチェンジってこと。ごめんなさい盛りました、フェードアウトですね。

 

 なんて考えていると由比ヶ浜が上目遣いでこっちを見ている。

 

「ヒッキー...、最後だし、ちゃんと答えてあげよ?」

 

 だからその目は反則だ。

 

「はぁ...、分かったよ。やればいいんだろ」

 

「わ、私も手伝う!」

 

 俺の気のない返事にも元気に反応してくれる。こいつの明るさにはいつも助けられた、俺たちのような理由をもらえなければ動けない面倒くさい奴らの背中を優しく押してくれる。そんか彼女にいつも...。

 

「いいけど勝手に送るなよ、お前の一言で夢が一つ砕けかねん」

 

「なんか酷い言われよう!?」

 

「ふふっ、お茶、淹れるわね」

 

 「助かる」と返事をしながら思う、あいつの脂肪は、好きなものに対する攻撃には完全無欠の防御力を誇るのだ、例え雪ノ下の絶対零度でさえも、弾き返すのだろう。

 

「ありがとーゆきのん!ヒッキーなんか言った?死亡?」

 

「いや、なんでもない。あと殺すのだけはやめてね」

 

 

 

***

 

 

 

 下校時刻に近づく。それはこの部活の終了を意味する。本当に、最後だ。

 

 そこにコンコンとノックの音がする。この時間に校内に残っている人など、生徒会か先生くらいだと分かっていながら、期待してしまう。

 

「こんにちは~まだいてよかったです~」

 

 そう言いながら、我が総武高校生徒会長一色いろはは現れた。

 

「いろはちゃん!やっはろー!」

「こんにちは一色さん」

 

「なに、まだいたの暇なの生徒会」

 

 分かっていながら、つい口を突いて出てしまう。実際三期連続の生徒会長など前代未聞だ。立候補者を次々となぎ倒す姿はまるで三国無双。

 立ち回りに慣れ、内申点が良くなったからという理由で、二期の時は手伝わされたものの、三期目の時は俺たちに依頼することなく生徒会長となった。

 先輩たちを送るのは私の役目だーとかなんとか言って、頑張っていたらしい。と、小町に告げ口されたのは内緒だ。

 

「むぅ、雪ノ下先輩ー、腐った眼をした人がいじめてきます~」

 

 そう甘えた声で雪ノ下にすり寄ると、椅子を並べて抱きついた。由比ヶ浜がジェラっているのは見なかったことにしよう。

 だが伊達に氷の女王と呼ばれていない!(本当に呼ばれていない)雪ノ下さん、やっちゃって!

 

「比企谷君、その深海魚のような目は早く捨てた方がいいわよ。まあ腐り落ちるのも時間の問題だと思うけれど。」

 

 おっともう陥落済みでしたね、ぼっちは過剰なスキンシップに慣れていない。ソースは雪ノ下、そして中学時代の俺。それはもう自動ドアのように心ひらきっぱ。

 

「それどこのウォーキングデッド?そんな死臭してないよね?してないよね?」

 

「あ、あの一色さん...そろそろ離れてくれないかしら...」

 

「いいじゃないですか~私と雪ノ下先輩の仲なんですから~」

 

 俺の切実な確認もこの百合畑の前では無意味でした。ぼっちは匂いには敏感なのだ、なぜなら指摘してくれる人がいないから。仲が良くても指摘しづらいのに、ぼっちが死臭なんかしたらそれこそATフィールドが発動してしまう。

 

「な、なぁ由比ヶ浜、俺臭わ「ヒッキーうるさい」」

 

 辛辣ぅぅ...

 

 耐えきれなくなったのか由比ヶ浜が口を開く。

 

「そ、そういえばいろはちゃん何か用があったんじゃないの?」

 

「あ、そうなんですよ~。先輩方にプレゼントがあって~」

 

 見れば一色の手には紙袋が握られていた。

 

「え、なになに!?」

「そんな気遣いしてくれなくてもいいのに一色さん...」

 

 対照的な反応を見せる彼女らにのって期待してはいけない。プレゼントもらえるかもと思っている状態の人間程滑稽なものはないのだから。

 

「ちゃんと先輩の分もありますからねっ♪」

 

 おっふ、危ない頬が緩むところだった。

 

「ヒッキー顔キモイよ...」

 

 緩んでましたね、もうゆるゆる。どうでもいいけどパンツのゴムって緩んでも履き続けちゃう。あれなんで?

 

「まあまあ、結衣先輩。今日くらいは許してあげましょうよ~」

 

「そうね比企谷君が気持ち悪いのは今に始まったことじゃないでしょうに。」

 

「あはは、確かに言えてるかも」

 

「泣くぞお前ら」

 

 式でも泣かなかった俺が泣くとしたら...

 

「先輩の涙...」

 

 いま、自惚れかもしれないが、三人の頭の中には同じ光景が広がっているに違いない。ただ一つ追い求め、手を伸ばし、妥協という形で幕を下ろした本物が。

 

「まぁあれだ、別れの季節とか言ってるがぼっちには別れがないからな。別れを惜しむとしたらもう学校で小町の制服姿が拝めないぐらいか。まじで惜しい...」

 

「「うわぁ...」」

 

 若干二名本気で引いてる人がいますね。

 

「比企谷君、小町さんに通報されたら本当に終わりよ?社会的にも人間的にも」

 

「あと倫理的にもな、そんな訳ないから安心しろ。寒気がする」

 

 これでいいんだ、俺が本物と位置付けたものは確かにここにある。

 

「で、プレゼントって何なんだよ。もう下校時刻だぞ」

 

「うわやばいです先輩、抜け出してきてるんで戻ったら先生になんて言われるか...」

 

 うわ言のように呟きながら彼女は三つの包装されたも物を取り出した。本か?あの一色が本を選ぶなんて...

 

 おろろ...と泣いていると由比ヶ浜が一足先にプレゼントに手を伸ばした。

 

「いろはちゃん開けていい?」

 

「はい!ぜひぜひ~先輩もどうぞ~」

 

 一色に手渡されたそれは確かな重量をもって存在している。うん、本じゃないね俺の期待返して。などと心の中で呟いていると歓声が上がった。一人から。

 

「わああーー、ありがとういろはちゃん!」

 

「喜んでもらえてよかったです~」

 

 俺は自分の手の中にあるモノを見ると、そこには...

 

「ねぇ、こんな写真立てに入れたらマジで七五三みたいじゃない?大丈夫?これ」

 

 三者三様というべきか、様々な苦難を乗り越えた三人にはふさわしく、そしてその不思議な関係性を表す表情が見えた。

 

「フリーペーパーの時の写真ね...」

 

「はい!といってもその写真しかなかったからからですけど...」

 

「ううん、すっごくうれしい...。ありがとう...いろはちゃん」

 

 由比ヶ浜は知ってか知らずか同じ言葉を繰り返しプレゼントを胸に抱く。そこに見える一筋の涙を皮切りに様々なものがこみ上げてきた。

 それは他の2人も同じだったらしく。嗚咽が混じる。

 

「うぐっ...、ごめん...なさい...、先輩方が泣かない...限り...泣かないって...うぅっ...決めてたんですけど...」

 

「いいのよ...一色さん...ありがとう...ありがとう...」

 

「いろはちゃん...」

 

 一色は雪ノ下の胸で泣き、それを守るように由比ヶ浜が二人を引き寄せる。包容力というのはこういう表情ができる人に使う言葉なのだろうと思ってしまう。

 おっと、あまりゆるゆりしてるところを見てると通報されてしまう。あとちょっと目から汗が..などと言い訳しながらあるはずのないタオルを探していると、入れた覚えのないハンカチが出てきた。

 

 お兄ちゃんの為にハンカチ入れておくなんて小町的にポイント高ーい!という声が思わず聞こえてしまう。

 ほんと、ポイント高い。八万ポイントあげよう。

 

「せんぱい...」

「ヒッキー...」

 

「見てんじゃねえよ...]

 

 俺は彼女らに背を向ける形で目元を拭った。見られてない、見られてないぞ八幡。

 

「あら...、ついに腐って変な汁が出てるわよ?大丈夫?腐り谷くん」

 

「原型ないぞそれ。あと先週のプリキュアを思い出しただけだから気にすんな」

 

「グスッ...先週のプリキュア泣くとこありましたっけ...?」

 

「馬鹿お前、プリキュアとか毎週涙なしには見れないだろ」

 

 マジでプリキュアと犬をメインにした映画は反則だ。涙腺操作されてるのかと疑うレベル。将来涙腺ビジネスとははやりそう(はやらない)。

 ていうかなんでいろはす観てんの...

 

 

 

***

 

 

 

 日は一層傾き、水平線に沈むのも時間の問題だろう。

 

 一色は渋々といった様子で作業に戻っていったが、涙の痕は消せなかったようだ。まああいつなら涙を理由に切り抜けるのではだろうか。

 

 由比ヶ浜の提案で雪ノ下の鍵返却についていくこととなった。

 

「別について来てくれなくてもいいのに...」

 

「いーの!皆で...返すの」

 

 腕を組んで歩く彼女らについていくが、ふと考える。顧問の先生は今誰なのだろうか。ていうか顧問の先生も知らないとかどうなってるんだこの部活。いやこの部員...。

 

「失礼します」

 

 雪ノ下が職員室の扉を開けると、教師の視線が一点に集まる。いつまでたってもこの視線には慣れない。

 そんな視線を意にも介さず雪ノ下はしっかりとした足取りで進んでいく。

 

「どーするヒッキー、廊下で待ってようか」

 

「そーだ...」

 

 思わず目を見開く、平塚先生が、いた。

 意表を突かれたのは雪ノ下も同じだったらしく、中途半端な位置で足を止めてしまっている。

 

「やぁ雪ノ下、由比ヶ浜、それと...比企谷」

 

「なん...で...」

 

 人は驚きすぎると声が出ないというのは本当らしい。聞きたいことは山ほどある。

 

「なんでって、前任の学校を離れたら二度と来ちゃいけないのか―?」

 

「平塚先生、どうして何も言わずに出ていったんですか」

 

「それは悪かったと思っている。すまない。でも、しんみりしたのは嫌いなんだ。分かってくれ雪ノ下」

 

 平塚先生は本当に心を痛めた表情をしている。確かにあの頃はいろいろあった。しかし...

 

 先生は由比ヶ浜に近づき肩に手を添えると、あの頃見せていた優しい眼差しをこちらに向けた。

 

「由比ヶ浜、私の期待に応えてくれてありがとう。比企谷...相変わらず死にかけの魚のような目だな」

 

「今そんなこと言う場合じゃないでしょう。どうして...」

 

 言葉を続けようとするが、平塚先生は手で制す。先生には先生なりの確かな信念があるのだろう。有無を言わせぬ視線と意志が感じられた。

 

「三人とも、卒業、おめでとう」

 

 じゃあ、仕事があってきたから忙しいんだ、とだけ言い平塚先生は去っていった。

 言いたいことは山ほど、それこそ塵のような内容を寄せ集めても山となるほどの量を抱えている。

 

「せんせーい!また今度ご飯行きましょう!」

 

 由比ヶ浜の声が職員室にこだまする。

 平塚先生は手だけで返事をして見えなくなった。

 

「ヒッキー、ゆきのん!絶対みんなで行こうね!」

 

 いつの間にか鍵を返した雪ノ下がそこにいた。仕事が早すぎる...、流石効率厨ゆきのん...。

 

「そうね、いろいろ白状させないと気が済まないわ」

 

 怖いです雪ノ下さん...

 まあ思うところがあるのはこいつらも同じなのだろう。

 

「じゃあまた何か決まったら連絡してくれ。そろそろ帰らないと遅くなる」

 

「うん!」

「そうね」

 

 ある者は選ばず、またある者は変わらず、ある者は成長し、ある者は決意する。彼ら彼女らの人生は彼ら自身のものでしかない。いくら望んでも変えられないし、自分が変わろうとも変わらない。ましてや過去など変えられるわけがない。この選択を後悔するのかは未来の自分にしか分からないのだ。

 

 これは選ばなかった場合の話、彼が彼のままの場合の未来の話。

 

 

 

***

 

 

 

「ただいま」

 

 すでに暗くなった夜の街、鍵穴をやっとのこと探し当て家に入ると、元気な声が返ってくる。

 

「おっかえり―お兄ちゃん!」

 

 みんなのアイドル小町ちゃん!といわんばかりにきゅるんと登場した妹は頬に白いクリームを付けながらボウルを抱えている。まあ、小町がみんなのアイドルになったら本当に兄ちゃんレーザーポインターを密林でポチらなかんくなる。

 

「おお、何やってんだ」

 

「なんてったって卒業式だよお兄ちゃん!今日はパーッと行かなきゃ!」

 

 お前はどこのOLだよ。青い制服着て横並びで歩いちゃうのかよ。

 まあOL並みに愛想振り撒いて日々過ごしてるのだから労ってやらなきゃとも思う。こんな兄が同じ高校とか死んでも嫌だ。

 

「ありがとな、小町」

 

 頭に置いた手から少し伸びた身長を感じ、成長を実感する。小町ちゃんお兄ちゃんより大きくなったりしないよね?

 

「おろぉ?」

 

 なんのことか分かっていない妹を通り過ぎ自室へ向かう。今日も一日拙者頑張った!

 あおお!結衣さんに電話しなきゃ!なんて聞こえたのは気のせいだろう。気のせいだ。

 お礼なんて言わなきゃよかった!

 

 机に鞄を置いて制服をクローゼットにしまうと、一着のスーツが目に入る。

 春は別れと出会いの季節。ぼっちかどうかにかかわらず、出会いはある。出会いだけはあるのだ...。

 

 入学式は4月2日だったか。

 

「おにーちゃーん!ご飯できたよー!」

 

 つかの間の休息だ。俺もまた新しい環境に身を投じなければいけない。

 

 マジで憂鬱だ...。




 次は4月を書きますが、人と人のつながりよりは、もしも八幡が現代の大学に入学したらという体で書きたいと思います。
 

 ご意見感想など、頂けると嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4月①

 八幡が入学式に行くところから始まります。

 3月から来年の4月まで、計14話ほどで終わるつもりだったのですが、3月で言っていたショートショートなどどこにいったんだという程、ダラダラと書いてしまいました。

 なので4月の①です。

 今回も、稚拙な文章力で申し訳ないのですが、読んでもらえると嬉しいです。

 できたら感想なども頂けると励みになります。

 皆様の暇つぶしになれたらと願っています!


 曇天だ。曇天。まるで俺の心を映す鏡のように空は灰色に覆われている。

 どこかの省エネ主人公の学生生活のようだ。あの無造作ヘアー、灰色灰色グダグダ言っていたくせに、灰色だったのはオープニング映像の数秒だけじゃねえか。

 窓から見える空色を横目に、くだらないことを考えながらベッドのぬくもりにもう一度身を委ねようとすると、部屋の扉が勢いよく開かれた。

 

「お兄ちゃーん!朝だよー!」

 

「うぅ...あと一日...」

 

「お兄ちゃんそれはもう明日だよ...ほら起きてっ!」

 

 今日の小町は積極的だ。どうしようお兄ちゃん、人生相談とかされたら付きっ切りで話聞いて逆に引かれそう。引かれちゃうのかよ....

 

 卒業式から約二週間、薔薇色、なんて表現ができるような輝かしい青春を送ってきたとは言えないが、それなりに濃い時間は過ごしてきた...らしい。

 つかの間の春休みを入手した俺は、買い貯めてしまっていた本を消費しようと引きこもっていたが、何かが足りない。課題か、学期明けの実力テストへの微かな憂鬱感か、それとも...

 

 答えはとうに出ている。失いたくないと願い、選ばないことを選んだそれは、残酷な時間の経過とともに消失した。

 時間はすべてを勝手に奪い傷つけ、そして勝手に癒していく。もし、もしも新世界の神になれたとして、時間を止めることはできるのだろうか。

 時間はすべてを解決する。怪我も、別れもすべてを解決してしまう。ならば、あの場所をもう一度手にしたいという願いはなぜ解決してくれないのだろうか。都合のいい言葉ばっかり並べてんじゃねえよくそ野郎。

 

 我ながらとんでもない暴論だ。雪ノ下に言ったらなんていうだろうか。由比ヶ浜が聞いたらなんておかしなことを口走ってしまうのか...。

 

 失ったあの日からこんなことばかり考えてしまう。そして考えている間にも時間は容赦なく進む。ていうかマジヤバイ遅刻しそうだ。

 

 リビングに行くとすでに小町は朝食を食べ終わり、片づけをしていた。

 

「おはよう、お兄ちゃん」

 

「ん、おはよう」

 

 高校生の小町はまだ春休みの真っただ中が故、俺に合わせて用意をさせていることに申し訳なさを感じる。やはり謝辞の一つも言っておくべきだろう。

 

「悪いな、せっかくの長期休みなのにこんな兄の世話までさせちまって」

 

「そんなこと考えなくていーのお兄ちゃん。早く食べちゃってよ、小町スーツ取ってくるから」

 

 お兄ちゃんの新しい門出なんだから、と付け加え、小町は2階へ上がっていった。

 本当に、頭が上がらない。

 

 

 ちゃっちゃとご飯を流し込み、皿を洗い終わると。ビニールに包まれたままのスーツを手に戻ってきた。

 本当にできた妹だ...、できすぎてできなさすぎる兄の評価が相対的に下がっていき、父親からのおこずかいとして表れる。そしたら俺への愛情ゼロになっちゃうんですがそれは...。

 

 

 スーツに袖を通すと、なぜか身が引き締まる。

 拝啓 喰種殿、人を食べるならスーツを着た瞬間がいいと思います。

 

 そろそろ家を出ないとやばいか。自転車だとある程度の調整が利くが、自転車+電車となるとまた変わってくる。いまいち流れが掴めない。

 まあそれも、時間が解決してくれるのだろう。万能薬なのだから。

 

 玄関に腰を下ろす。スーツと共に買った靴の履き心地はよくない。これも毎日履いていたら慣れるのだろうか。こんなにも、履きづらいのに、慣れるものなのだろうか。

 

「いってきます...」

 

 無駄な思考が止まらない。

 扉に手をかけるところで、小町に呼び止められた。

 

「お兄ちゃん、もう行くの...?」

 

「ああ、、、」

 

 小町もなのだろう。

 新しい肩書を手に入れるということは、前の肩書に上書きされるということ。ソフトと同じだ、上書きすると前のデータは消える。違うところは、前のデータを保存しておくことができない、ただそれだけ。

 

 だが、ここで立ち止まっていては、選ばなかった意味がない。彼女らにも失礼だ。

 

「大丈夫だ小町、兄ちゃんは変わらない」

 

 扉を開き、一歩前へ。あの時間に繋ぎ止められた鎖を、一歩、また一歩、ひと漕ぎ、またひと漕ぎ引きちぎって進む。

 大丈夫、大丈夫だ。

 

 万物が流転し、世界が変わり続けるなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、俺の在り方は変えられてしまう。

 だから。

 --だから俺は変わらない。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 自転車で15分、電車を一回乗り継いで45分。所要時間は一時間。は大学への通学時間。入学式は別のホールを借りてやるらしいよっ☆

 それを忘れていた俺は今、絶賛振り子ダンシング。良い子はマネしちゃだめだぞっ!

 

 その甲斐あってか、スマホのナビより早く駅に着くことができた。しかし電車はあれだな、時間が決まっているから諦めがつく。諦めちゃったよもう...

 

 8時53分、時間ぴったりに電車がホームに滑り込む。少し時間は遅い為通勤ラッシュは避けられたが、それでも席はすべて埋まり、手を広げることはできない程度の人は乗っていた。

 時間を守る車掌さんには悪いが、日本の電車が正確であることが、日本という社会の時間を重要視する価値観を生み出しているのではないかと感じてしまう。

 いっそのこと15分20分遅れることが日常茶飯事となれば、会社も時間に対する認識を改めて遅刻に寛容になるのではないか。いやないな。遅れることを承知して早めに家出ることを強要されるのだろう。会社って怖い。働きたくない...。

 

 電車に乗っている会社員の姿を見て思わず日本を憂いてしまう。

 そこで電車は暗闇に飲み込まれた。ごうごうと音を立て、一筋の光を目指し突き進んでいく。

 ほらそこにも、疲れたサラリーマンが一人...あ、窓に映る自分の姿でしたね。齢18にしてこの貫禄、将来有望な社畜エリート街道まっしぐら。

 いやまだ専業主夫の夢を諦めた覚えはない!大学で見つけるんだ、理想のキャリアウーマンを!

 

 そこでごうごうとなっていた音が止み、視界は光に包まれ、俺の専業主夫への道にも、光明が見えた気がした(気のせい)。

 

 本でも読むか...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 目的の駅に着き、中扉の開閉音と共に降り立つ。プシューという音といい扉の開き方といい、ターミネーターになった気分だ。思わず仁王立ちするが、これを通勤ラッシュ時にやったが最後、好奇の目と大量の舌打ちに囲まれ、そのままホームを渡りお家に帰るまである。

 ストレスフルのサラリーマン程怖いものはない。ソースは俺の両親。かっこ小町に対してを除く。

 

 人の流れに乗り階段を上り、改札を降りた時点で時刻は9時47分。因みに入学式の時間は9時半スタート。うん、ただの遅刻ですね。

 

 空は相変わらずの曇天だ。雨が降るのも時間の問題に見える。

 遅刻が確定した瞬間の解放感はすごい。急ぎの課題などがない場合はもう無敵。だって手遅れなのだから。

 頭の中でマリオのスター状態の曲を流しながら、人の間を縫って歩く。

 

 ものの数分でホールにはたどり着いた。当たり前だが外には誰もいない。もしかしたら、遅刻仲間がいて、それが女の子で、それが偶々同じ学部で、それがetc...、などと妄想しながら歩いていたのは内緒だ。え、みんなしないの...?ですよね。

 

 ホールの玄関口から入ると、パイプ机の受付が沢山あった。見れば学部ごとに分けられているらしい。それぞれの受付に立っている事務員の方の視線が痛い。最近注目ばかり受けている気がする。自意識過剰か...。

 

 そのうち一人の女性がが、持ち場を離れ話しかけてきた。持ち場を離れるなと上官言われなかったのか!

 

「あのー、新入生の方ですよね?」

 

「あ、いや、いやずあ、あはいそうです...」我ながら酷いな俺。

 

 上官は臨機応変に対応せよと言ってましたね、サーイエッサー...

 

「じゃ、じゃあ事前に届いた入学証明書を貰えますか?」

 

「は、はいすみません」

 

 悪いことをしてないのに責められている気がして謝ってしまう。遅刻?悪いのは俺じゃない!社会だ!

 内心とは裏腹に体はそさくさと動く。

 

「お願いします」 

 

 受け取った事務員は、用紙を一瞥し、視線を通路の奥に移動させた。

 

「経済学部の方は法学部の奥になりますね。通路を左に折れてもらえれば受付がありますので」

 

 ありますのでなんなんだ、などと考えながらお礼を言い、紙を返してもらった後通路を進む。

 

 通路の突き当りには、右に心理学部、左に法学部が見える。

 そこに立っているのは事務員であり、何の権利も罪もないと分かりながらも、思わず恨めしい目線を送ってしまう。あからさまに目をそらされると、お前なのかと聞いてしまいそうな衝動が沸き上がり、抑える。そんな勇気もないくせに。いや、ただの負け惜しみか。

 

 恐らく日本国民ならば聞いたことがあるだろう、有名私立大学の法学部に俺は落ちた。法学部に入りたかった理由はいろいろあるが、とにかく俺は落ちた。そこで一緒に受けていたのが同大学の経済学部、そして滑り止めとしての他大学だった。

 落ちた理由など、自分の実力不足にほかならないのだから、言い訳をする意味もないのだが。目の前で見せられると思わず視線が吸い寄せられてしまった。

 この大学に拘った理由は、公務員試験対策の充実と合格率、そして採用率が主な理由だ。さっきも言ったが専業主夫を諦めたわけではない。どんなことにも保険は大切だってどっかの窓口が言ってたもん。

 

 法学部受け付けを通り過ぎ、経済学部の受付へと歩を進める。

 

「新入生の方ですね、入学証明書をお預かりしてもよろしいですか?」

 

「遅れてすみません、お願いします」

 

 やっと頭がさえてきた、環境がかわるのだ。覚悟を決めなければいけない。

 

 学生証と入学に関するパンフレットが入った手提げを受け取り、ホールへ向かう。

 証明写真がうまく撮れた試しがない。それともこれが最高なのか、だとしたら私の目...腐りすぎ...!

 

 重厚感のある観音開きの扉をそっと開け、体を滑り込ませる。OK.ホール内への潜入に成功した。どうぞー。誰にもばれないように行動するってドキドキするよね!

 

 後から入るという心配もしていたが、そんなことは杞憂だった。生徒はこれから始まる新しい生活に希望を膨らませ、長い話に聞き入っている。

 静かに最後尾に着席すると、学生のひそひそ話が耳につく。同じ高校出身なのだろうか、それとも今仲良くなったのか、はたまた今話題のSNSで、すでに友達として登録されていたのか。

 新たな環境に身を投じた人間は、周囲に溶け込もうとし逆に違和感のある行動もとってしまいがちだ。それが俺。やっぱり入学式って友達作った方がいいのかと考えちゃう!

 

 ソワソワ...ソワソワ...

 

 

 

***

 

 

 

 曇天は雨天に変わり、人々の頬を濡らす。駅への道を急ぐ人々は、傘をさしたり、鞄を頭に抱えるなど、様々な方法を駆使し、雨風を防ごうとしている。

 俺はというと、涙で濡れた頬を隠すように水を滴らせ帰路をのんびりと歩いている。

 だってあいつら最初から友達できとるもん...そんなの普通できひんやん...半端ないって...。

 

 というわけで友達戦争に参加する前に敗退が決まった自分の選択肢は小町の待つあったかハイムに帰ることだけだった。

 因みに、新入生のガイダンスは一部の学部を除いて明日になるとのこと。経済学部はその一部に入っていないので今日の仕事は終了だ。早く帰って小町に癒してもらおう...

 

 涙がこぼれないように、雲に包まれた空を眺めていると、真っ赤な何かで視界を遮られた。

 

 急な警告色に首を巡らせ振り返ると、そこにいたのは、赤い傘、赤い口紅、赤いスカート。点滅信号の様に赤を散らした、雪ノ下陽乃が立っていた。

 

「やーっぱり、比企谷君だ。偶然だねぇ」

 

 ...まだ今日の仕事は終わらないらしい。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 陽乃さんに促され、少し入り組んだ住宅街の中にひっそりと営業している喫茶店に足を踏み入れた。

 

「どうしたの~比企谷君。顔が赤いぞ~?」

 

 分かっている癖にこの人は...

 もうすぐ駅というところで引き留められた俺は、帰路を急いでいることをやんわりと伝えたものの、陽乃さんに通用するわけもなく、さらには傘を持っていない俺を傘の中に招くという愚行を行った。

 途中のコンビニでビニール傘を購入することを提案するも、あえなく却下され、要するに衆人環視、同じ大学の学生も見ている駅前からこの喫茶店まで相合傘をしてきたという...。

 初めてを奪われちゃった...もうお婿に行けない...!!

 

「少し歩いて暑くなっただけですよ、もう春ですし」

 

「ふーん、まあいいけど。比企谷君もあの大学だったのねぇ...」

 

「...も?」

 

「んーん♪何でもないよっ」

 

 陽乃さんは不敵な笑みと意味深な言葉を残し話をすり替えた。ウインクといいしぐさ一つ一つから魅力を余すことなく伝えて来る彼女を見ていると思わずペースを握られてしまいそうになる。

 視線を無理やり外し、店内を見渡す。ここは千葉ではない、故にオサレなカフェがあってもおかしくはないが相も変わらずこの人の選ぶ店はセンスがいい。

 

 はいっ!と何かを差し出してくる。波状攻撃をどこかで止めないとのまれてしまう。が、そこにあったのはかわいらしい花を刺繍してある、小さなハンドタオルだった。

 

「風邪ひくよ?」

 

 純粋無垢な表情で差し出してくる彼女は、本当に心配しているのかと錯覚してしまうほどの潔白さを見せている。

 

 いや、大丈夫です。と制し、鞄を弄る。頼むコマエモン、あの時の優秀さをここでも発揮してくれ!

 

 という大きな希望も儚く散った。

 

「ほら、本当に風邪ひかれるのは私としても望んでないよ。なんたって可愛い妹のお友達なんだから」

 

 真剣な顔をされるとまた違った威圧感がある。そこまで言われて受け取らないのも失礼だろうと自分を納得させる。

 

「すみません、ありがとうございます」

 

 礼を言い、受け取る。小雨とは呼べないほどの雨とは言え、数分間浴びえしまえばそれなりに不快なものだ。

 ジャケットは座席にかけ、頭、首、腕と拭かせてもらう。頭から首にかけて拭うとき、確かな香りが、しかし全く不快ではない質の香りがした。

 この人どんだけ良いにおいするんだ...。

 

 ハンカチ、タオル等を借りてしまえば、言う言葉など決まっている。

 

「これ、洗って返しますね」

 

「えーいいのにー、比企谷君が拭いたタオルならお義姉ちゃん歓迎だぞっ?」

 

「じゃあ、また今度返しますね。あと漢字違いますよ」

 

 ちぇーとか、ぶーとか聞こえるが聞こえない。好意には甘える形にはなったが、甘やかすつもりはない。たまに妹レーダーが反応しそうになるが気のせいだ!!

 

「とりあえず合格おめでとう?でいいのかな?」

 

「俺が落ちた大学の入学式にスーツ着て参加するようなイカレた奴じゃなきゃそれでいいんじゃないですか。」

 

「ん?落ちた?」

 

「言葉の綾です、気にしないでください」

 

 陽乃さんに対する言葉を選んで会話しているつもりだが、それでもボロが出てしまう。さっきのいい匂いの所為か...卑怯な...

 

 まあそこらへんは総武校行けば分かるからいいんだけど~などと恐ろしいことを言っている。マジで怖いこの人。

 

「大学合格おめでとー」

 

 入店したときに頼んで貰ったアイスコーヒーで乾杯を促してくる。恥ずかしさを覚えながらも、人からの称賛は素直に受け入れるとするか。

 

「ありがとうございます」

 

 スチールのカップとカップがぶつかりカンッと音がする。

 

 そろそろ本題が知りたい、なぜこの場所にこの人がいたのか。そしてなぜいつもよりも強引な方法で拉致されたのか。

 彼女の本性は未だ得体が知れない。俺が3年になった辺りから奉仕部への興味をなくし、まあ、俺たちの関係性に面白みを見出せなくなったのが主な理由だろうが...、部室を訪れる等の行動は鳴りを潜めた。

 それでも姉妹の仲は良好のようで、良好?なのかあれは...

 とりあえず大きな衝突などは起こらない関係性を築き上げた。

 

 殆ど会うことがなくなり、文化祭などの学校行事の際にはちょっかいをかけて来るものの、以前のようなボディタッチはなくなった。べ、別に残念がってなんかないんだからね!

 

「私の分析は終わった?」

 

 ...!!思わず目を見開きかける。動揺を見せるな。

 

「私があの場所にいた理由はその内分かるよ」

 

「そうですか...、じゃあ、俺を強引にここまで連れてきた理由は何ですか」

 

 店に意味はなさそうですが、とだけ付け加える。

 

「比企谷君にはあんまり意味ないし、単刀直入に聞こうかな。3年の終わり頃の隼人の様子何か知らない?」

 

 質問の意図が汲み取れない。なぜ俺に?もちろん葉山に接点はある。しかし、3年ではクラスも別になり、会話することはとうとうゼロといえるほどになった。

 

「知りませんよ、クラスも違いますし」

 

 実際、葉山の進学した大学などもしらない。かくいう俺も進学する大学は身内と奉仕部の二人以外には教えていない。あ、戸塚は天使だからノーカウントで。

 

「なんでもいいの、些細なことでもいいから」

 

 様子がおかしい...珍しく陽乃さんが食い下がる。訝しむ目線を送ると、陽乃さんは自分の状態に気付いたのか姿勢を正し、コーヒーを一口啜った。

 

「ごめんなさい。ちょっと長いこと気になってて」

 

 落ち着いたのか、陽乃さんは脚を組み替える。

 ぬおお、視線が吸い寄せられるぅぅ...3.14159265あこれ円周率だ。

 

 素数と円周率を間違えているうちに、彼女の中で整理がついてしまったのか、残った液体をあおり、会った時と変わらない余裕たっぷりの表情で向き直った。

 

「ありがとう比企谷君。変なこと聞いてごめんね。また今度ちゃんとお祝いしなきゃねっ♪」

 

「いいですよそんな。小町に沢山祝ってもらったんで」

 

「相変わらずのシスコンぶりだねぇ~」

 

「あなたに言われたくないです」

 

 わかるぅ?この間雪乃ちゃんにね~...と雪ノ下にもらったプレゼントの話などを話し始めた。

 どんだけ好きなんだよこの人...

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「じゃーね♪比企谷君っ」

 

 首肯で答えると、黒塗りのセダンは窓を閉めながら走り去っていった。車、変えたのか...。

 

 いつの間にか迎えを呼んでいた雪ノ下さんは、送っていくとありがたい申し出をしてくれたが、丁重に断った。せめてもと、傘を渡されそうになって断ろうとしたが、どうせハンドタオルも返すのだからと受け取った。

 

 車に乗る前、肩に手を添え、耳元で囁かれた言葉が脳にこだまする。

 

 

 -私はまだ、君に期待していいのかな?-

 

 

 真っ赤な傘をさして、駅へと戻る。雨は少しづつ勢いを強めている。雲は厚く、太陽の光でさえも全く通さない。

 振り返れば、喫茶店を囲む新緑の木々が生い茂る。しかしその葉は、日光を避けるように下へ下へ力なく垂れてしまっているように感じてしまう。

 

 

 雨に濡れた陽乃さんは、香水の匂いと湿った香りを纏い、少し人間らしいにおいがした。




 次もまだ4月を書きます。この流れでいくと確実に人と人とのつながりになりますね。

 八幡が大学生だったら、そして周りとどうかかわるのか両立できるよう頑張りたいです。
が、前話で言ったことももう外れたので、今回もそうかもしれないので聞き流してください。


 更新は不定期なので、待っていただけると嬉しいです。週一は破らないよう頑張ります。

 優柔不断なあとがきですみません。

 ご意見ご感想など頂けると嬉しいです!

 ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4月②

 4月の後半になります。
 八幡の大学生活と、人間関係両方かけたと思います。
 今回もダラダラ長々と書いてしまいましたが、読んでもらえると嬉しいです。
 
 感想をいただけるともっと嬉しいです。

 

 文章力の心配をしていましたが、そもそも話がつまらないのではという心配が出てきました。

 今回も、皆さんの寝る前のお供や、暇つぶしになれば幸いです。


「お兄ちゃん、今日はガイダンスだけ?」

 

 朝食の味噌汁を飲み込んだ小町が訪ねてきたが、学校が主催する行事のほかに用事があるわけもなく。

 

「おう、多分午前中で終わるから早く帰ってくるぞ」

 

「そこは新しい友達と遊んでくるとか言ってくれると、小町的にポイント高いんだけどなぁ...」

 

 

 入学式から一夜明け、土曜日だというのに大学では新入生の各種ガイダンスが開催される。大学一年目から休日出勤とか、マジで社畜養成機関じゃないのかと疑ってしまう。

 

 心なしか、小町の表情は昨日より明るく見える。それはあの時間に存在した名前が出てきたからだろうか。

 

 身に覚えのない傘を持って帰ってきて、洗濯物の中に身に覚えのないタオルを見つければ噂話好きの年頃の女の子であれば反応しないわけがない。

 その日の晩御飯は話し終わるまでお預けと言われてしまえば仕方がなく、入学式での友達戦争の戦果から、陽乃さんとの邂逅までの一部始終を説明した。

 

 陽乃さんが話に登場すると、小町は温かい表情になったが、戦果については苦虫を嚙み潰したような顔を見せた。

 

 何の成果も!!得られませんでした!!

 いや遅刻してなかったらワンチャンあったから、ほらワンチャンワンチャン。好きだろ?ワンチャン。

 

 俺の陰鬱な雰囲気を察してか、小町の足元からカマクラが移動し、リビングを出ていく。

 

 

 わんちゃんじゃないですね、のーちゃんですね...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 大学に到着すると、ガイダンスの15分前。今日は余裕をもって到着できたことに少し気が楽になる。

 周囲を見渡すと、俺のようにガイダンスが開催される教室を探して彷徨っている学生が数人いた。2回生以降の学生はまだ春休みなのだろう。未だ、高校生から垢抜け切れていない1回生のみが学内にいる気がする。

 

 もれなく俺も一緒にオロオロしていると、事務員とも先輩学生ともとれる若さの女性が一帯に向けて声を発した。

 

「新入生のガイダンスは2号館になりますので、ここから北に向かって進んでくださーい」

 

 よく通る声に促され、ぞろぞろと移動が始まる。

 

 見れば簡易的な看板が置いてあり、学部ごとに館を記してあった。

 迷路のように進んでいくと、大きな建物が3つ、姿を現した。大学というのはまるで1つの都市のようで、この場で衣食住が完結してしまうのではないかと考えてしまう。

 

 その中の左側の建物が2号館らしく、多くの学生が吸い込まれていく。

 この移動の最中にも、君も経済学部?不安だよね~。と距離感を図りかねる学生によるジャブの応酬が行われていた。むろん俺はそんな手荒い真似はしない。平和主義者は拳を振るわないのだ。

 

 おかしいな、ノーガード戦法を使っているのに誰も打ってこない...。なんなら右ストレートも避けないのに...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「えー、本日は新入生各種ガイダンスに参加していただきありがとうございます。えー、昨日はホールでの入学式だったのでね、えーこれで晴れて皆様も本学の学生となったわけですが~」

 

 高校の教室四つ分ほどの広さの講義室、そこに隙間なく詰められた学生は400人ほどだろうか。中央やや左の席に着いた俺は、配布されたパンフレットを眺めながら必死に耳を傾けていた。

 ぼっちは聞き逃したことを人に尋ねることができない、故に新しい場所に飛び込むときはできる限りの情報を取り込む。

 

 

 大学の主な流れは理解した、とりあえず履修する科目の選択を最初にするべきことらしい。まあそれぐらいなら一人でできるからいいか。

 話も収束に向かっているし、もうすぐ帰れそうだ、よかった。

 春休みにも兄の世話をさせてしまっている小町の為にも、今晩はお兄ちゃんが晩御飯をつくってあげようかな、などと考えていると、信じられない言葉が発せられた。

 

「じゃあ、最後に親睦を深めるために隣の人同士で雑談でもしてもらいましょうか~」

 

 なん...だと...

 自由の国アメリカすら恐れる大学生活において、高校時代のような隣の人と会話してください文化があるなんて...

 

 だがここは正念場、この場で一人でも友達をつくればぷよぷよの連鎖のように友達ができるはず!!

 逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ、とシンジ君ばりに自分を奮い立たせる。いざ勝負!!

 

 まず右から攻める!左が女子なのは関係ないんだからね!

 

「あ、あの...」

 

「でさー、履修登録どうする~?」

 

 右側は取り込み中のようだ。ならば左!もダメ...。

 

 両サイドはもう一つ奥の人との会話に忙しいらしい。うん、やっぱり人の会話の邪魔って良くないよね!

 

 ぷよぷよの連鎖もまず3つ並ばないと起こらない上に、消えちゃうんだよなぁ...

 

「ねえねえ、体育って必修なんだっけ?」

 

 キタッ!音ゲーとコミュニケーションは反射神経が命!!

 

「あ、ああ!そうみたいだよ、大学にも来て体育なんて大変だよ...」

 

 言い切ってしまう前に気付いてしまう。前の女の子に話しかけていたと。

 

「え、あ、うん、ありがとう...」

 

 突然の不審者の登場に引き攣った笑みを見せる彼女は、ゆっくりと目線をそらしていった。

 

「では、そろそろ時間となりましたので、今日は解散とします。履修修正期間は一週間ありますが、定員となりますと抽選となりますのでお気を付けください」

 

 お疲れさまでした、と言い教授やら事務員の方が解散していき、それに続く形で講義室は喧騒に包まれた。

 

 学生も三々五々散っていくが、俺はというと冊子に落とした顔を上げられずにいた。

 

 うおおおおおお、しにたいいい、しにたいよおおおおおお。

 まだ学生生活始まってすらいないのにいいぃぃぃぃ...

 

 両隣の席が空くのを待って、俺も席を立つ。

 

 外に出ると、昨日とは打って変わって雲一つない空が広がっていた。

 

 もし空が俺の心を映していたら、快晴なのはスーパーヒーロータイムだけかもしれない。

 今日晩御飯作るわ、と簡潔な文をメールで送り、帰路につく。

 

 帰りの電車で本を読みながら、登場した食材を使おうと決意した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 電車に乗り、扉の近くで本を取り出したところで後方から声がする。

 

「八幡っ!」

 

 車両の中で神社の名前を叫ぶおかしな奴など早々いるはずもなく、しかし俺の名前を呼ぶ奴も早々いるはずもない為そっと振り向く。

 

 そこにはなんと、天から舞い降りた女神の様な笑顔を見せる、大天使トツカエルがいた。トツカエルって新種のカエルみたい。戸塚なら全然大丈夫!目に入れても痛くない!

 戸塚の背中に天使の翼が見えてしまった為、目をこすり正気に戻る。ついでに本物の戸塚なのかも確認する。

 

 はい、ラブリーマイエンジェル戸塚たんですね。オーケー、今日の快晴はこの時の為だったのか。温暖化すすんじゃうううぅぅぅ!

 

「大丈夫?目、痛いの?」

 

「大丈夫だ戸塚、生まれてきてくれてありがとう」

 

「う、うま?」

 

「なんでもない気にしなくていい」

 

 危ない危ない、うっかり恋人を通り越してプロポーズしてしまうところだったぜ。

 俺のそばに寄ってきた戸塚は、うんしょっと声をあげ、つり革をつかむ。うっ、尊いっ...

 

「八幡の大学聞いてたから、もしかしたら会うかなとか考えてたんだけど...、もう...叶っちゃったね」

 

 頬を染めながら上目遣いで見つめてくる。桜の見頃は終わったはずなのに、まだここにいたんだね...

 心の中でキモいポエムを呟きながら、戸塚の大学を思い出す。

 

「そうか、その先だったか」

 

「うん、八幡の大学の3駅先なんだよ」

 

 そういえば、都心に近いにも関わらず、運動できるスペースを多くとっている大学があったな。因みにうちの大学はグラウンド一面、テニスコート一面、体育館一つと最低限の施設しかない。

 

 乗る線が同じであれば、登校下校がかぶることもあるだろうが、3月の終わり頃は、そんなことを考える余裕すらなかったのだろう。

 

「戸塚もガイダンスか?」

 

「うん!早く終わったから、テニス部に顔出そうかなって...」

 

 迷惑じゃないかな...、と少し俯き言葉を続けた。

 

 確かに、うざい先輩の訪問や天下り程鬱陶しいものはない。ソースは踊る〇捜査線。

 だが、戸塚の精力的な活動は俺も知っている。時に励まし、時に叱責するその姿は正に理想的な部長だった。うちのとは大違いだ。

 最後の大会も前年度を大きく上回る成績を残し、全校生徒の前で表彰される姿は目に焼き付いている。

 

 思い出すと目頭が熱くなる。昼休みにベストプレイスから戸塚を観察...ではなくテニス部を応援していた身としては親心のようなものを感じてしまう。(勝手に)

 

「迷惑なんかじゃないと思うぞ、戸塚の頑張りはみんな知ってる。俺的にはいつでもウェルカムだからな」

 

「そうかな...、ありがとう八幡っ!」

 

 首をちょこんと傾け、笑顔を見せる。

 

 守りたい...この笑顔。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 途中の駅で戸塚と別れ、俺も自宅最寄り駅に降り立つ。

 思わず伸びをすると、小町に送っておいたメールを思い出す。

 

「返信は、っと」

 

〈小町〉

『愛してるぅお兄ちゃん!

 でも食材ないから一緒に買いに行こ―!』

 

 そ...っとお気に入りに追加して、歩き出す。

 

 

 はっ!!戸塚が登場したということは、戸塚を食べろという神の啓示だったんじゃ!

 くそぅ...、早く気付いておけばぁ...。

 

 

 早く気付いていたらなんなんだ...

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ガイダンスから1週間と少し経ち、選択した科目が確定した。今日は水曜日。

 因みに時刻は11時過ぎだ。

 

 社会公認で休めるとか最高、授業がないのだから、休んでも許される。

 遅刻確定の瞬間に似ているが、皆が働いている時に休むという優越感。会社に入って有休をとった時もこんな感じなのかなぁ...。

 はっ!危ない危ない、社畜に対して一つの希望を見てしまうところだった。

 

 

 体育とか、コミュニケーションイングリッシュとか、あまりよろしくない必修はあるが仕方ない...。今スルーしても後に取らされることになる。

 あと、数学全般、社会はもっと将来使える教育をするべきだと思う。世界平和とか、世界平和とか、そこらへん?

 

 学部固有の学科を履修し、全学部共通の科目から受けたい講義を選択していると、水曜日に授業を入れないことができると気付いた。他に受けたい講義があるのだ、遠慮なく休ませてもらう。

 

「ふあぁ...」

 

 生あくびをしながら階段を降りる。

 向こう4か月は水曜日休みなんて素敵すぎる。何しようかと考えちゃうっ。

 

 リビングの扉を開けると、足元に寄って来たカマクラがご飯を訴えて来る。

 

「お前そんなに食ったら太るぞ...小町にご飯貰っただろ?」

 

 いーや、貰ってませんよと言わんばかりに鳴いてくる。にゃーにゃ。

 

「はぁ...」一応あげとくか、小町が忘れている可能性も捨てきれないし。

 

 キャットフードのある棚に近づくと、カマクラは体を足に擦り付けてくる。ほんとにこいつ甘え上手だな...

 世の中の男子はツンデレに弱い、ツンからの偶に見せるデレにより相乗効果を生む。

 

 だから奮発しちゃうっ!

 カラカラーとカマクラのお皿に盛る。ほーら大盤振る舞いだー。

 

 こんなもんか。

 

 キャットフードしまい、テーブルを見る。

 今週から小町はいない、総武高校も始業式を終えたらしい。

 

 椅子を引き、作っておいてもらったご飯をのどに通すと、一枚の紙が目に入った。

 

『八幡へ

 定期券の代金、最初の3か月は払ったけど、次からは払わないからヨロシク。』

 

 な...。

 

 こんなもの死刑宣告と同じじゃないか...

 じゃあどうしろと、徒歩で行けと?自転車?一輪車?

 誰かに送ってもらう?誰に?

 

 

 俺に、俺に...働けというのか...。

 

 

 

 ほら、学校での教育なんて何の意味もない。

 もっと媚びるとか、せびるとか、ツンデレとか、そういった方法を教えるべきなのだ。

 

 

 にゃーにゃ...

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 4月22日、問題となっているコミュニケ―ションイングリッシュだが、俺の隣の席に指定された生徒は未だ姿を現していない。

 なに?俺のことが嫌いなの?会ったことないけど、隣の席が不穏なので行きませんとかないよね?

 

 隣の席がいないときのぼっちほど苦しいものはない。嘘!今八幡嘘ついた!隣がいても苦しい。

 前、又は後ろのペアに混ぜてもらい、二人も振り向かせるのはあれなので大概後ろのペアだが、一緒にワークを行う。しかし、英語の会話を主にした教科書で三人が登場する回など少ない。詰まるところ俺の存在により、なんともやりにくい多重人格コミュニケ―ジョンが誕生するのだった...

 

 始業の時刻となり、教師が入ってくる。既に一つを除いて、全ての席は埋まっていた。

 はぁ、今日も後ろのペアに入れてもらうのか...

 

「じゃあ、今日も授業を始めましょうか」

 年配の教師が開始の合図を口にしたところで、突然教室の扉が開いた。

 

「っべー!すんません風邪が長引いて休んでましたー!」

 

 

 

 ...戸部だ。マジで戸部。っべー、まじっべー。え、まじ?

 

 

 

「あら、風邪だったのね。全然出てこないから心配してたのよ。えーっと、戸部君でよかったかしら」

 

「はい!休んでてすんませんしたっ」

 

 勢いよく頭をさげ、トレードマークの金髪が揺れる。出席を最初の小テストでとることが災いし、隣の席の奴が男なのか女なのかの判断すらついていなかった。

 

「じゃあ、あそこ、真ん中の列の空いてる席に座ってもらえるかしら」

 

 はーいと言い、教室の生徒に手刀を切りながらこっちにに向かってくる。えんがちょ、えんがちょ。

 

「いやぁー、39度とかありえなくね?マジ焦ったわー!」

 

 席に着くなりこちらに語りかけて来る。

 

「お、おお。大変だったな...」

 

「もう体も痛くて動けなくってさー、って、うおっ!?」

 

 戸部は驚きのあまり、椅子から転げ落ちそうになるのを、床についた手で支える格好となった。

 だからそのリアクションどうにかならんのか...

 

「ヒキタニ君!?何でここにいんの!?」

 

「いや、ここに通ってるから...」

 

「マジ?っべー、マジラッキー!知り合いいたとかサイコーなんだけど!ヒキタニ君とかまじっべーわ!」

 

 戸部は目を輝かせて話しかけて来る。声は教室中に響き、生徒の注目を集める。ええいうざいうるさいやかましいうっとうしい。

 

「ほらそこ、休み明けだからってうるさい!授業はじめますよ」

 

「すんませーん!」

 

 反省のない声色で返事をすると、こちらにウインクを決めてきた。バチコーン☆

 

 同じ学校に誰がいるかぐらい知っておくべきだったな...

 聞く相手いないけど。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 家に帰ると、小町が晩御飯をつくっていた。4限まであると、高校の終業時間には間に合わないらしい。

 

「ただいま、遅くなってすまん」

 

 リビングの扉を閉め、謝罪をする。人に怒られている時はとりあえず謝罪、謝っておけば何とかなる。口答えをするとろくなことはない、ソースは平塚先生。だめだ、謝っても拳入ってるわ。

 

 高校時代の鉄拳を思い出しながらビクビクしていたが、当の小町は気にも留めていないようで、口からレタスをはみ出しながら答えた。

 

「ふぉふぁえふぃー」

 

「飲み込んでからしゃべれ...」

 

 キッチンの後ろを通り、冷蔵庫を開ける。小町は何かを炒めていた菜箸を置き、口の中のものを飲み込みながら振り向いた。

 

「んくっ、おかえりお兄ちゃん。1週間お疲れ様ー」

 

「おお、お疲れさん」

 

 お疲れ様にはお疲れ様。みんなで労い合えば働かないという選択肢も出て来るんじゃないでしょうか!

 

 晩御飯もちょうど作り終えるところだったらしく、棚から食器を取り出し、机に置く。

 小町もテキパキと料理を並べてくれる。本当に素晴らしい妹だ。どこに嫁に出しても恥ずかしくない。出さんけど。

 

 すべての食材、と小町に感謝を込めて...主に小町。

 

「「いただきます」」

 

 

 

 

 食事が終わったタイミングで、妹に依頼をする。

 

「なぁ小町」

 

「ん?なーに?」

 

「俺に服選んでくれない?」

 

 高校と違って大学は私服登校。自慢じゃないが外に出ない俺は、服装のレパートリーがほぼ皆無。

 2,3日に一回同じ服というのも流石に気が引ける。いや、誰も見てないと思いますけどね?一応ね?一応。

 

「お兄ちゃん...流石に妹にせびるのはどうかと思うよ...」

 

「いやいや、金は俺が出すに決まってんだろ...」

 

「ふーん、いくらあるの?」

 

 ちょっと待ってろ、といい自室に走る。えーっと、ここら辺にへそくりがー。

 あったあった。

 

 ホクホクとしながら一階へ降りると、小町の声がする。

 電話か?

 

「えー!?ほんとですかー!どうもうちのごみぃちゃんがすみません...」

 

 俺の話?由比ヶ浜か雪ノ下か?食器を片付けながら様子を伺う。

 

「ちゃーんと言っておきますので!ええ、ええ、はいはい任せてください」

 

 お前は親父か、思わず突っ込みそうになる。深夜に会社からの電話に出る親父はあんな感じだ。うっ...、思い出したら目から汗が...

 

 ほんとに誰と話してるんだろうか。小町をまじまじと見ていると、目が合ってしまった。

 だ・れ・だ?口の動きだけでそう尋ねると、小町がはっと思いついたような表情になる。

 え、なに。怖いんだけど...

 

「じゃーあ、いろはさん!こうしましょう!」

 

 ん?

 

「今度のゴールデンウィークうちの兄を一日貸し出しますので!それでちゃらってことにしませんか?」

 

 は?

 

「はいっ、はいっ、大丈夫です絶対連れていきますので!ではそういうことで、はいはーいお休みなさーい♪」

 

 もしもし小町ちゃん?お兄ちゃん何が何だか分からないよ?

 

 電話を終えた小町はこちらを振り向きながら、言った。

 

「ごみーぃちゃーん?4月16日いろはさんの誕生日だったの忘れてたよねぇ」

 

 あれ?顔が怖いよ小町ちゃん?

 そういえばそうだった。大学のことに手いっぱいですっかり忘れていた。

 

「ああ、そうだったな」

 

「そうだったじゃないでしょ!馬鹿!ゴミクズ!八幡!」

 

 八幡は悪口じゃないだろう。え?八幡ゴミクズよりカースト下?

 そういうと小町は,不敵な笑みを浮かべこちらに向き直った。

 

「でも優しい小町ちゃんは、未来のお義姉ちゃんの為にひと肌脱ぎました!」

 

 何言ってんだこいつ...、陽乃さんといい小町といい人称間違えすぎじゃないか?お兄ちゃんちょっとしんぱいだよ?

 あ、別に小町に対してお兄ちゃんと言っただけで、他意はないんだからねっ!ていうかあの姉妹の兄とか、絶対心臓持たない...

 

「いろはさんの誕生日プレゼントを渡して、服を選んでもらうだいさくせーん!」

 

「なんだそれ...、ネーミングセンスの欠片もないな...」

 

 ふくれっ面を見せながら手を差し出してくる。

 

「で、お兄ちゃんの全財産は?」

 

 そこだ、と食器洗いで塞がっている手の代わりに顎で示す。これが顎で人を使うってことか...、このメス豚がっ(脳内)。

 封筒を取り上げ、中身を確認、ため息。ある程度予想はしていたが傷つく。

 

「はぁ、期待した小町が馬鹿だったよ。お金は小町が用意させるから、お兄ちゃんはいろはさんへのプレゼントを考えてね!」

 

 小町は捨て台詞を吐き、風呂に向かった。

 え...お兄ちゃんの予定は無視?いやないけど...ないけど...

 

 

 

 かっこ悪い兄と歩きたくないから...と、父親にお金をいただいた事は、俺はまだ知る由もない。(泣いた)

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 たなかーハイッ、つつみーハイッ、てごしー...

 ここはグラウンド、サッカーグラウンドよりは狭い程度のものだが、体育を行うには十分だろう。

 

 卓球に落ち、テニスに落ち、バトミントンに落ちた俺に残されていた選択肢はサッカーだけとなっていた。履修登録を舐めていたのだ。

 ガイダンス、そして雨天中止と続き、今日も厚い雲が覆っているものの、実質しっかりとした授業はこれが初めてだった。俺としては雨天中止×15で終わってもよかったんだけどなぁ。

 

 グラウンドを囲む木は、桜だろうか。既に散ってしまったそれは、新緑の目をつけているのが微かに分かる。

 

「...がや、ひきがやっ!いないのか!」

 

「ひゃぁいっ!」

 

 どっ...と笑いが起こる。

 くそぅ、現実逃避をしていたら最悪の現実になってしまった...。

 

「いるならちゃんと返事しないか!」

 

「すみません...」

 

 だめだ、スタートダッシュに失敗しかしてない。クラウチングスタートも慣れた人なら早いが、素人がやると遅いだけだ。なんだこれ全然関係ねぇ。でもそんなの関係ねぇ!!

 再び現実逃避を行っていると、出欠確認が終わったらしい。横に広がり、ストレッチが始まる。

 

 いっちに、さんし、ごーろく、ひっちはっち。

 

 周りを見渡すが、全学部合同の為、知った顔は見えない。まあ、同じ学部の人間も覚えてないんですけど...

 

「よーし、じゃあ2人組になってパス交換しろー」

 

 はい、でました伝家の宝刀2人1組。その業物は錆を知らず、数々のぼっちを地獄に落としたという逸話は語り継がれている。だめだぼっちは語り継ぐ相手がいない。しかし語り継がれずとも恐れられている。全ての代に存在する古の化け物なのだ。

 

 辛すぎて刀なのか化け物なのか分からなくなった所で、後ろから声がした。

 

「やぁ...、比企谷。一緒にやらないか...?」

 

 知った声に驚きながら、首を巡らす。

 文武両道才色兼備、完全無欠のスーパーエリート。

 

 葉山隼人がそこにいた。

 

「なんだ、お前がいたからか...」

 

 何のことだ?と言わんばかりの表情で見つめて来る。

 陽乃さんがいた理由、それは葉山隼人の入学式が行われるからだ。そして俺のも。

 

「驚いたな...君と同じ大学に進学するなんて」

 

「お互い様だよ、馬鹿野郎...」

 

 葉山の胸に一つ、シミができる。そしてそれはすぐに広がり、ジャージの色を変えてしまう。

 

「うわーーまじかよーー」

「全員ボールしまって、室内へ入れーー今日の授業は中止だー!」

「タオル持ってきてねーよー」

「最悪だーーー」

 

 皆口々に言葉を吐きながら走っていく。そこで葉山の隣で盛大に転ぶ生徒が一人いた。

 

「うわっ!いってぇー!」

 

 すぐ起き上がるも、膝は破れ、血が滲んでしまっている。

 

 それを見つめる。葉山が、見つめる。

 

「大丈夫か!先生に掴まれ!医務室まで連れていくから!」

 

 まだ、見つめている。

 

「お前らも早く入るんだ!風邪ひくぞ!」

 

 俺と葉山にそう叫び。生徒を抱えたまま歩いていく。

 ようやく、葉山がこっちを見た。

 

「どうした比企谷、早く戻ろう」

 

 冷たい目、ではない悲しい、哀しい、目。

 

「ああ、」

 

 

 

 来週はもう、ゴールデンウィークだ。

 

 

 




 次は5月です。頑張って書きますので、読んでもらえると嬉しいです。

 今回のようにできるだけ早く書きたいですが、最低週1ぐらいの気持ちで待っててもらえると助かります。

 今回も優柔不断ですね、ごめんなさい。

 表現方法などのアドバイスもお待ちしておりますので、ご意見ご感想など頂けると嬉しいです。

 ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5月①

 ゴールデンウィークの話になります。
 一色いろはが書けません、可愛く書けませんでした。すみません...

 長いです、長いくせに内容は良くないです...

 でも一生懸命書いたので読んでもらえると嬉しいです。
 感想をいただけるともっと嬉しいです...。
 

 今回も暇つぶし程度に、お手すきの時に読んでもらえると幸いです。


 葉山との邂逅を果たしてから、はや三日。あれれー?おかしいぞー?祝日なのに学校があるぞー?

 どこぞの名探偵ばりに疑問点を挙げていると、隣から声がした。

 

「どうしたべー?ヒキタニ君。元気ないんじゃないのぉー?」

 

 このこのーと言わんばかりに肘で小突いてくる。どうしてリア充はこういうスキンシップが好きなの?

 鬱陶しさに身を捩りながら答える。

 

「いつもこんなもんだよ。まあ、祝日なのに学校があるってのも原因だが」

 

「まじそれなー。ハナキンだべ?」

 

 花の金曜っていうか。薔薇の祝日のはずなんですけどね...。どうなってんの大学さんよぉ。社会に出てから祝日でも出勤を言い渡された時のデモンストレーションですか?

 

 

 

 陽乃さんの意味深な発言。そして葉山隼人の憂いに満ちた目。どうにも頭にこびりついて離れない。もう彼ら彼女らとは関係ないはずなのに、一挙手一投足が意識に障る。

 

 高校3年の時の状態、陽乃さんはそう言った。それを知っていそうな人間は身近にはコイツしかいない。

 少し確認してみるか。

 

「な、なあ戸「戸部君さー今日この後ひまー?学部の親睦会でカラオケいくんだけどー」

 

 最悪のタイミングで後ろの女子が話しかけてきた。

 

「え、なになに楽しそうじゃん!いくべいくべ、ライン教えてちょー!」

 

「あはは戸部君面白ーい!」

 

 ねえ君たち人の話の邪魔はしちゃいけないって習わなかった?僕は習いました。なので邪魔しません。

 

 プリントを鞄にしまい、席をたつ。

 

「あ、ヒキタニ君またねー!」

 

 扉を開ける直前で、戸部が叫ぶ。

 手だけで答えて、教室を後にする。

 

 

 

 誘うわけじゃないんかいっ!いやいかないけど...

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 やはり4限のある日は遅くなる。帰ると既に晩御飯の準備となっていた。

 どうにかならんもんかなぁ、頭を掻きながら自室に入る。

 

 途中の駅で取ってきた、バイト情報誌を取り出してパラパラと捲る。

 朝の新聞配達なんてやりたくないし、工場のライン作業も拘束されすぎて嫌だ。

 当たり前のように人と関わらない業種に絞られていることに安堵しながらも、そうは言ってられないとも悟っている自分がいる。

 

 まあ、なんにせよ時間だよな。大学から直行で、晩御飯なしとかは避けたい。

 あの時間だけは、ちゃんとしていたいから。

 

 ば、ばか!小町のことが好きなだけなんだからね!なんだこれ照れ隠しにもなってねぇ。

 

 

「おにーいちゃんっ!なにみてるの?」

 

「うおお!ちょ、おまえ驚かすなよ...」

 

「んー、珍しくただいまも言わずに上がってったから。どうかしたのかなーって」

 

 本当だ。小町の事を考えていて、小町の事を忘れるなんて本末転倒じゃないか。

 そこで1つ、思い出すことがあった。

 

 見えているのに、見えていない。

 

 何だろう。その事実にどこか既視感を覚えてしまっている。あれは...

 

「お兄ちゃん!聞いてる!?小町の事無視しないでよ!」

 

 また考え事にふけっていたようだ。小町が少し寂しそうな顔をして訴えてきていた。

 

「あ、ああ悪い。ただいま小町、今日もかわいいな」

 

「わー、なにその取ってつけたようなセリフ...」

 

 と、そこで小町は、俺が手に持っていた冊子に気付くと、驚きに目を見開き、アワアワと口を開閉した。

 驚きすぎじゃないですかねぇ...

 

「お、おおお兄ちゃんが...求人雑誌を見てるなんて...」

 

 大丈夫?熱ある?辛いことあった?と本気で心配した声をかけて来る。

 

「おふくろに定期代払わない宣言されたから仕方なくだよ...」

 

 ワケを聞いた小町はなーんだと言わんばかりのため息をつき、再び軽侮の目でこちらを見つめてきた。

 

「はあ、お兄ちゃんが求人情報で専業主夫を探し始めたら、どうしようかと思っちゃうところだったよ...」

 

「それだとただのヒモ募集雑誌じゃねえか...」

 

 ヒモ希望のあなたにピッタリ!ヒモな男性が欲しい女性多数掲載の『月刊ヒモ』絶賛発売中!

 なにそれ定期購読したいんだけどどこに行けば売ってますか。どこに行けば売ってますか!

 

「っていうか、そんなことはどうでもいいんだよお兄ちゃん!」

 

 どうでもいいって言われちゃったよお兄ちゃん...、もっと褒めてもらえると思ってたのにぐすん...

 小町はビシッと人差し指を立てこちらを指さしてくる。

 

「今一番大事なのは、直近のいろはさんとのデートだよ!」

 

 一週間前のやり取りを思い出す。服買ってー電話してー金せびってー俺泣いてーだっけ。

 机の上には、小町に恥かかすんじゃないぞという旨のメモと一緒にそこそこの金額が入った封筒が置かれていた。

 

「ああ、そういやあそんなこと言ってたなぁ。デートじゃねぇけど」

 

「まーたひねくれボッチがなんか言ってるよ」

 

 なんか最近妹の毒舌が鋭い気がする。なにこれ書籍化待ったなしじゃん!読まないけど。

 

「それにしてもお前、一色と仲良くなるの早かったよなぁ。高校入ってすぐだったっけ。」

 

「え、う、うんそうだけど...急にどうしたのお兄ちゃん...」

 

「ん?いや、一応な」

 

 頭の上にはてなマークを浮かべている妹は置いておいて先を急ぐ。

 

「一色に服選んでもらうって言ってた件も、話続いてないしわすれてんじゃねえの?」

 

 立っているのも何だったので、ベッドに腰掛けながら携帯のメール画面を開く。

 密林・密林・密林・密林・密林...

 やだ、私の携帯超ジャングル。先住民や野生動物も引くほどのスコールを心の中で降らせていると、小町が隣に腰掛けて来る。

 

「それなんだけど、もう集合場所も決まってるから。あとは行くだけだよ♪」

 

 わー頼れるぅ。こんな幹事さんだったらぁ、私何回も頼んじゃいそう~。

 思わずいろはすが乗り移ってしまう。

 

 せめてもと小町の同行を嘆願したが、予定があると一蹴される。

 

「不安だなあ...」

 

 思わず本音がこぼれた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 流石ゴールデンウィークというべきか、車両内はそれなりの混雑を見せている。

 午前10時、千葉集合。それが一色と小町が立てた予定らしい。あとは知らん。

 小町姉さんによる、服装チェックが入ること3回。ようやくOKが出た俺は急いで千葉に向かった。あれれー?小町も予定があるって言ってたんだけどなぁ?

 俺が出かけるときもまだパジャマ姿だった妹に疑念を抱きながら、つり革を握る。

 

 小町との会話で思い出しかけた既視感。それもまた小町との会話で頭の中から消え去ってしまった。

 あれから何度か記憶を掘り起こしているのだが、靄がかかっているようで思うように出てこない。

 

 うーんうーんと唸りながら考え事をしている内に電車はホームに滑り込んだ。

 

 ぞろぞろと移動する人に続いて、降りる。一色との待ち合わせがどこかは知らないが、電光掲示板の横に設置されている時計の示す時刻は9時55分、時間には間に合ったらしい。

 改札に向かう階段を上りながら雪ノ下の言葉を思い出した。

 

 5分前集合は社会行動の基本、か。

 

 そう言った彼女、そしてその直後に登場した彼女は、何をしているだろうか。

 卒業式から、連絡は取っていない。

 自分の忙しさもそうだが、彼女らも忙しさに目が回っているのだろう、と、言い聞かせている。

 

 そんなことなど、どうとでもなるのに。

 

 改札を抜け、以前待ち合わせをした場所、千葉駅東口側の前に立ち止まる。

 俺のような千葉プロともなると、千葉駅周辺のマップはすでに頭に入っているものの、一色が迷っている可能性も存在するため携帯を確認する。

 

 高校3年に進学してすぐ、一色いろはの意味不明な宣言と共に携帯電話をふんだくられ、半ば強制的に登録されることとなった〈一色いろは〉の文字。

 もうすぐ待ち合わせの時間も過ぎる。居場所をメールで送っておくかと、柱に右肩を預けながら携帯をピコピコていると、不意に耳元に風を感じる。

 

「せーんぱい...♪」

 

「うおっ!」

 

 なんか最近驚きっぱなしだなぁ、なんで女子って急に出て来るの幽霊なの?儚い存在アピールを亡霊的な何かを利用してしてるんだとしたらいつか祟られるよ?

 

 恨めしやと念じながら後ろを振り向く。

 

 黒のタイツに花柄のスカート、白色のブラウスにカーディガンを着ている。そして耳元に揺れるイヤリングと、亜麻色の髪。

 

「お久しぶりですっ♪」

 

 紛れもない、一色いろはだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 千葉駅集合というだけで、千葉で買い物をする訳ではなかったらしい。なら目的地で集合でもよかったんじゃないですかねぇ...

 座席の前に立ち、一色は握り棒、俺はつり革を掴み並んでいる。席が一つ空いていた為座ることを薦めたが、首を振り遠慮された。消え入りそうな微笑を湛えていて、言葉に詰まってしまう。

 

 最初の威勢はどこに行ったのか、集合してからここまでほとんど口を利かないでいる。

 気まずいっ、気まずいよコマエモン!助けて!

 

 空気に耐え切れなくなった俺は、一色の体調を慮り、あわよくば解散にならないかと口を開く。

 

「なあ...」

「あの...」

 

 また被ったぁ、最近被ること多いよなあ。ソシャゲのガチャもよく被る。なんでだろうな、確実に持ってないカードの方が多いのにすぐ被る。

 

 一色も驚いた顔をしていたので先を促すが、お先にどうぞと制されてしまう。

 

「た、体調でも悪いのか?あんま無理しなくていいぞ?なんなら今すぐ帰っても全然...」

 

 言葉を一つ一つ並べているうちに、一色の目が少しずつ伏せられていく。

 え、何、言霊でも宿ってんの。霊能力的な何かに目覚めちゃったの俺。

 

 様子のおかしかった一色がようやく口を開いた。

 

「先輩...、やっぱり忙しかったですかね...」

 

 上目遣いでこちらを覗いてくる。その目には涙が見えなくもない。

 

「結衣先輩に聞いたんですけど、卒業式から連絡とってないって...。だから本当に忙しくて、私と会うのもの億劫だったんじゃないかと思って...」

 

「一色...」

 

 一色は一色なりに気を使ってくれていたのだろうか。思えば、誕生日だって必要ならば一色から連絡をよこしてもよかったのだ。

 進学すると感じるのかもしれないが、中学の時は高校が、そして高校の時は大学が、イメージとは違ったものとして映ることはよくある。大学という自分の知らない環境に身を置いてしまった俺に、どんな対応、接し方をしていいのか図りかねているのだろう。

 心なしか、握り棒を掴んでいる手にも力が入っている気がしてきた。

 

「いや、全然忙しくないぞ。午前中で終わる日もあるし、水曜日に至っては授業ない。完全週休3日制の超ホワイト大学だ」

 

 ブラックな大学って何なんだろう...、授業が超多い?それはそれでホワイトだよな...。

 それ基準で行くと俺の大学ブラックなのでは?

 ブラックでソロプレイヤーとかもどこかの剣士なんじゃないかって気がしてきた。あと最近のキャラクターネーム、キリト多すぎ。

 

 一色は伏し目がちだった顔を上げ、浅い息を吐きながら言葉を紡ぐ。

 

「本当ですか...?」

 

「嘘つくメリットもないだろう...、それにブラックな大学だったらとうにやめてる」

 

「それはちょっとどうかと思いますけど...」

 

 一色の顔にいつもの蔑んだ表情が少しずつ戻ってくる。

 いつもの蔑んだ表情って何、俺そんな表情されてたの?

 

「まあ、だからあれだ。気遣わんでいいぞ別に」

 

 その言葉で封を切られたように、いつもの一色が目を覚ます。

 カツンとヒールを鳴らし、ウインクをばっちりと決めながらこちらに向き直り、言う。

 

「じゃあ...じゃあ、今日はトコトン付き合ってもらいますからね先輩!私の誕生日も忘れてたんですからっ」

 

 自惚れになってしまうが、あの場所を、あの時間を少しでも大切だと感じ、気遣っていてくれたことに、胸が震える。一色いろはという、あの空間に欠かせなくなってしまった存在に。

 

「いや、一応先輩だから敬ったり労ったりはしてね?」

 

「私もう誕生日過ぎてるので先輩と同い年ですよ?」

 

 確かに...、8月生まれの俺と4月生まれの一色では4か月間の同い年期間がある。いやでも、それを同い年にしたら世の中下克上祭りになってしまう...

 今まさに下克上にあいそうでびくびくしていると、一色は年齢という壁をやすやすと破壊してくる。

 

「後輩も同い年も、両方デートできるなんて贅沢ですね、ハチマン君♪」

 

 少し顔を赤らめながら発せられた言葉に、後輩一色いろはの影はなく、思わず顔を背ける。

 ていうか女子に名前呼ばれるなんて、同年代では戸塚ぐらいしかないから、むず痒い気持ちになる。あ、これ実質ゼロだわ。

 

「だから、そういうのがあざといんだよ...」

 

 目的の駅に到着するアナウンスが流れ、車内の人がざわめき立つ。皆目的地は同じなのだろう、俺たちも例外ではない。

 扉が開くと共に、人が雪崩のように出ていく。一色は先に出たのだろうか、流れに乗れなかった俺はほとんど最後の方で降りることとなった。

 降りたホームで、少し先に立つ一色を見つけ、傍に駆け寄ると手鏡で何かを確認しているところらしかった。耳まで少し赤みが残るその後ろ姿に、一応と思い声を掛ける。

 

「本当に体調は悪くないんだな?」

 

 まだ降りてないと思ったのか、不審者に声を掛けられたと思い驚いたのか、びくりと体をこわばらせて振り向く。前者であってほしい...

 

「...大丈夫です。ていうか、先輩のそれも結構あざといとおもうんですけどね。」

 

「やだなぁ、素に決まってるじゃないですか~」

 

 ぷくーっと頬を膨らませている一色の横を通り過ぎ、階段を降りる。後ろからついてきていることを確認しながら、改札を潜ると、看板が見えた。

 目的地までは徒歩1分らしい。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 幕張新都心にある大型ショッピングモール。と言えば皆さんお分かりだろうから説明しないが、とりあえず日本の新都心を狙っていることだけは伝わってくる。流石だぜ千葉...、これから千葉県民が千葉に出かけた後は期待してほしい。さぞかしビッグになって帰ってくるだろう。

 

「とりあえず、小町ちゃんに聞いた話だと、先輩の服買うってことでいいんでしたっけ。」

 

 駅からすぐのモール内に足を踏み入れた俺たちは、ファッション系の店舗が多く並ぶフロアに向かっている。

 エスカレーターの2段上に立っていた一色が後ろを振り返る。

 

「先輩って服の好みとかあります?」

 

「普通なやつ」

 

「はあ...そうじゃなくて、カジュアル~とか」

 

 大仰なため息をつき、ジトーっとした目つきで半ば投げるように質問をしてくる。

 と言っても、ファッションに疎い俺がそんなジャンルなど分かるはずもなく、カジュアルもアメカジもエレカシも分からないということを伝えると、諦めを含み納得をしてくれた。

 

「まあ、ある程度キレイ系というか、シンプルな恰好すれば似合うからいいですよね。目以外はそこそこ悪くないですし。」

 

 何かブツブツ言っているが、まあ一色に任せていれば問題はないだろう。今の一色の格好もセンスのない俺でもおしゃれなことはよくわかる。

 一色の姿を下から舐めるように見ると、顔の辺りで目が合ってしまった。

 エスカレーターから降りつつ声を掛けて来る。

 

「なんですか?じろじろ見て」

 

「いや、しゃれてるなぁと思って...」

 

 俺のセンスはともかく、いいと思った事実をそのまま伝えたが、反応は思ったより薄く...

 

「先輩、ファッションとか分かるん...」

 

 と、そこで言葉を切り、はっとした表情で言葉をまくしたてる。

 

「はっ!なんですかもしかして今わたしのこと口説いてましたか下から上まで舐めるように見られるとか先輩以外ありえないですけど心の準備ができてないので終盤に差し掛かってからにしてくださいごめんなさい。」

 

 距離を取るように両手を押し出すと、酸素を求め深い呼吸を繰り返す。

 

「...ああ、うん、見てたのは悪かったよ。ここ危ないから移動しようぜ。」

 

 俺が先に進むのに慌ててついてくると、息を整え、むくれる。

 

「先輩人の話聞いてないですよね...」

 

「聞いてる聞いて「せんぱいっ!ここ良いですよ入りましょう!」

 

 袖を思いっきり引っ張り、横に現れた白い壁が眩しい店舗に引きずられる。

 うん、話聞いてないのは君だよね...

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 それなりの買い物をし、間に昼食、そして突然この間観るのをやめたからという理由で映画を挟んで、一色の買い物に少し付き合っていると、家族連れは帰り始める時間となっていた。

 最後に一色に本屋に寄りたい旨を伝えると、快諾してくれたため北西に歩を進める。

 

 電車での通学時間を読書に充てると、すぐに一冊終わってしまう。少しストックをしておきたかった。

 自転車通学という自分1人の時間を確保できるのも悪くはなかったが、両手の塞がってしまう朝の通勤ラッシュ時以外、帰りの時間などは、本を読むことができるのは利点だろう。

 

 新刊コーナーを抜け、日本人作家の棚に着くと、物色を始める。

 一色はどこかへ行ったようだ。

 

 さて、鞄の中にあるものはいつ渡そうか...

 

 

 

 10分ほどだろうか、購入する本をある程度見積もっていると、いつの間にか一色が後ろに立っていた。

 

「おお...どうした?」

 

 少し伏せられていた顔を覗き込みながら訪ねると、不敵な笑みを浮かべた悪魔のような美少女の顔がそこにはあった。

 嫌な予感が...

 冷たい何かが背中を這うような感触から逃れようと、レジに向かう。

 

「じゃあ、これ買ってく「せんぱい。」はいなんでしょうか」

 

 一色は唇に指を当て、提案をするように上目遣いでこちらを覗く。

 

「私って~、誕生日過ぎてるじゃないですか~」

 

「はい」

 

 ショッピングモール内の書店のはずなのに、正座をさせられている気分になる。

 あれれ~、いろはす目が怖いよ?さっきまでそれなりに楽しくやってたような気がするんだけどなぁ...。

 

「でも今日~せんぱいから何もしてもらってない気がするんですよね~」

 

「はい...」

 

 一色の目がキラリと光る。

 

「私の言うこと一つ聞いてもらえませんか?」

 

 何でも言うことひとつ聞く。そんな条件を飲んではいけない!耐えて!八幡!

 

「いや、できることなら聞くけど...」

 

「そんな無理なお願いをするつもりはありませんよ~」

 

 そうなの?てっきりいろはすの事だから、難題を押し付けて答えられなかったら食べられるとかそういうスフィンクス的な何かだと思った。どんだけ恐れてんだよ...

 

 今一度、一色の顔を覗き込む。

 しかしそこには、不敵な笑みを湛えた顔があるのみだった。

 

 不安だ...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色に連れられたのは、高校2年の冬、雪ノ下と由比ヶ浜、主に由比ヶ浜に連れられた葛西臨海公園だった。あれ以来、来る用事もなければ、連れてこられることもなかった為、少し懐かしさを感じる。

 時刻は5時を過ぎた位だろうか、日は傾き始め、オレンジの色彩を強めている。

 

「本当にここでよかったのか?水族園も売店も閉まってるが...」

 

「いいんですよ、観覧車乗りに来ただけですし」

 

 それに、水族園はまた一緒に来ますから。と一色は付け加える。

 

「次があるのね...」

 

「あるに決まってるじゃないですかっ!忘れたわけじゃないですよねっ!」

 

 ああ、忘れるわけがない。高校3年のはじめ、突然奉仕部の部室にやってきた。まあそれ自体は珍しくもなんともないのだが、そこで葉山隼人を諦めるという宣言を高々と行った。

 それはもう高々と。雪ノ下と由比ヶ浜には伝わっていたようだが、俺はというと携帯の窃盗に合い、無理やり連絡先を登録されるという猛獣に襲われたんじゃいかと思う経験をした。

 は!あれは俗に言う逆ナンというやつなのでは!まあ、ナンパしたことないから何が逆なのかも分からないが。

 世の中、逆を付ければ何でもいける風潮、あると思います。逆ナン逆セクハラ逆エビ反り、なんだ逆エビ反りって。

 それ以来、事あるごとにデートの練習に連れていかれた。普通に受験期だったので、あんまり相手をしてやれなかったのは申し訳ないと思っている。

 

「ほら先輩っ、乗りますよっ♪」

 

 当たり前のように手を引かれ、乗り込む。

 

 あんまり、そういうことしてると、運命の相手が悲しむぞ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「うわぁ、きれいですね先輩っ!」

 

「それはどっちだ...」

 

 俺の言葉に、むぅ、と膨れる。

 

「素に決まってるじゃないですか~、ていうか、先輩に対してはいつも素ですよ♪」

 

「ハイハイ」

 

 もうすぐ、頂上に到達する。渡すには絶好の場所だろう。

 鞄を開き、小さな紙袋を取り出す。小町には悪いが、あれは底に隠させてもらう。恥ずかしいし...。

 

「なあ、一色」

 

「ほあ?」

 

 素っ頓狂な声をあげ、窓から離した目をこちらに向ける。それ絶対素じゃないだろう...それ素だったらただの2歳児だぞ...。

 

「なんというか...遅れてすまん...」

 

 未だ身体は外を向いている一色に向かって、紙袋を差し出す。

 

「あんま期待すんなよ...」

 

 一色は驚きのあまりか、目を見開きジッとしていたが、思い出したように背筋を正すと仰々しく受け取った。

 

 だからそんな重く受け取らないでっ!

 

「あ、ありがとうございます...あ、開けてもいいですか?」

 

「好きにしろ...」

 

 なんだかむず痒く、思わず顔を背けてしまう。

 日はあといくばくかで沈んでしまうのだろう。水平線に、落ちていく。

 

「先輩、なんですかこれ」

 

 いろはすの冷たい声が背筋を伝う。本日2度目だけど、こいつの声マジで怖いんだよなぁ...。

 

「これは、あれだ、俺が受験勉強の時に使っていたのと同じ種類のシャーペンだ。」

 

 第一志望には落ちてしまったが、志望校には受かった。何この詐欺。詐欺だけど誰も不幸にならない。不幸なのは俺だけだ...

 

「はあ...先輩に期待した私が馬鹿でしたね...」

 

「おい、だから期待すんなって言っただろう」

 

 予想通りの反応だったため、寧ろふんぞり返る。小町に指摘されたことと同じ言葉を言われた。

 

「高いんだぞそれは、軽いし、折れないし、シャー芯がたくさん入る!」

 

 シャーペンの芯がたくさん入ることは重要だ。集中力が高まって、スタディーズハイになりかけたところで芯が切れたらもう終わり。その日の大半は集中できずに終わるだろう。俺の集中力弱すぎ...

 

 ジトーっとした目つきのいろはすだったが、何を思ったのか急にいろはすスマイルで問いかけて来た。

 いろはすスマイルってなんかすごい純粋な感じがしてこいつには合わない気がする。

 

「こういう時は、先輩が実際に使ってたシャーペンを渡すといいんですよっ♪」

 

「はぁ?」

 

 そんなんあげたら、なにそれキモ、そんなの使うわけないじゃんとか言われるに決まってんじゃねえか。うっ、トラウマが...

 まあでも、勝者のコイン的なもんか...。

 鞄を漁ると、偶々持ってきていた小さな筆箱から一本のシャーペンを取り出す。

 

「ほらよ、一応第一志望の大学には受かったし。持ってても悪くはねえと思うぞ。」

 

 一色は意外だったのか引いているのか分からない表情でこっちを見つめている。

 あれー、地雷ふんじゃったかなぁ。これはまた新しいトラウマの1ページが刻まれる奴では...。

 

「いいんですか...?」

 

「お、おお、あれだしな、一色に渡したやつも最新のしかなくて、型変わってるみたいだったし...」

 

 俺の手からペンをおずおずと受け取ると、プレゼントした奴と一緒に握りこむ。

 そしてそのまま顔を外の景色に向けてしまって感情を読み取れない。

 

 え、いいのか。正解なのか。分からん、俺のトラウマディクショナリーをいくら引いてもアウトの3文字しか出てこない。時代が違うのか、ようやく時代が追い付いてきたというのか...。

 

 分からん...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 観覧車を降りても一色はこちらを振り向くことなく歩いていく。

 これは...不正解ですね。呆れられてるやつですね。

 やってしまいましたよ小町さん。お兄ちゃん燃え尽きちまったよ...

 

 どこぞのジョーのように白い背景に身を任せたまま、駅まで歩く。

 一色は一向にこちらを向かない。

 

 

 

 電車は白い光を吐きながら、突き進む。まるで冬の寒空の下、白い息を吐いているかのようだ。

 俺と一緒だな...、俺も寒い、極寒。早く帰りたい。

 

 もうすぐ千葉というところまできて、ようやく口を開いた。俺が。

 

「い、一色さん...?」

 

 名前を呼ぶと、こちらを振り返る。そこにはいつもの一色がいて少し安心してしまう。別れ際まできて、気を使わせているのだろうか。申し訳ない。

 

「どうしました?せんぱい」

 

「あ、いや、今日は何点ぐらいだったのかなぁと思って...」

 

 ばかあああ、俺の馬鹿あああ。自ら死刑台に上っていくなんて馬鹿すぎるだろう。やばい、雪ノ下ばりの罵詈雑言が飛んでくると思い。思わず目をつむる。

 

「そうですねー...」

 

 言葉が止まり、ちらりと伺う。とあの指折りが始まった。

 

「まず、言動諸々でマイナス40点と、女の子に呼ばれてホイホイついてきちゃう辺りはマイナス50点ですよねー」

 

「ま、まあ妥当...だな...」

 

 ここからシャーペンマイナスが入ってもうマイナスの点しか思い浮かびませんね。

 数学の試験でも9点は取ってたのに...(低すぎる)。

 

「あとは...」

 

 ゴクリ...

 

「私のお願いを聞いてくれたので、10点あげます...」

 

 ん?お願い?というかプレゼントの件はなしでいきます?思い出すのもつらい系ですかー?

 

「お願いって、観覧車だけでよかったのか...?」

 

「はい、むしろそれがなかったらマイナス80点です」

 

 ええ、どんな採点基準だよコイツ...。なんならこいつのデートコースに観覧車組み込めば80点は確定とか寧ろ優良物件じゃねえか。(数学9点)

 

「女の子にはいろいろあるんですー」

 

「そ、そうか...」

 

 とりあえず今日のところは何も言うまい。罵倒されたらすぐ泣く準備ができてしまっている。もうマジ絹ごし豆腐メンタル。

 

 

 

 目的の駅に電車がつく。俺は乗り換えだが、一色はそのままらしい。

 

「じゃあ、気をつけて帰れよ」

 

「はい、先輩もお気をつけて♪」

 

 扉の閉まる音に合わせて笛が鳴る。それに合わせて一歩下がると、駅員さんの旗も下がる。

 完全に閉まったのを確認し窓に目を向けると、一色と目が合い、こちらに向かって手を振ってくる。

 

 少し迷って、そのまま捨てられるのももったいないと思い、一色が腕から下げている紙袋を示す。と、そこで電車が発車した。

 一色がどんな表情をしたか、それ以前に気付いたのかは分からないがもう知る由もない。

 

「小町に叱られるか...」

 

 ついでた独り言に駅員さんがギョッとする。

 

 

 

 す、すみません...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 家に入ると、小町が仁王立ちしていた。

 こいつ...いつから待機してたんだ、エスパーなの?鞄とかに入っちゃうの?

 

「た、ただいま小町今日もかわ「おかえりお兄ちゃん」

 

 まー、最近の子はどうして話を聞かないのかねえ、お兄ちゃん心配になっちゃうよ。

 よーしここはお兄ちゃんの威厳を見せるために、世間の一つでも説いてやろう。

 

「なあこま「ちゃんとプレゼントは渡した?」

 

 ふえぇ、怖いよお。よくよく考えなくても俺が世間を語るなんて100年早かったですね。つまり死ぬまで語れないと。

 

「渡したは、渡したよ...気付いたかは知らんけど...」

 

 兄の曖昧な表現にしびれを切らしたのか、携帯を片手にリビングへと駆け込んでいく。

 やだなあ、怒られたくないなぁと思いながら、階段を上がる。

 

 自室に入ると、買い物袋を床に置き、ベッドに寝転がる。

 触っていないため、充電が90%を超えたままの携帯を開く。そのタイミングで1通のメールが届いた。

 また密林かと思いながら開くとそこには〈一色いろは〉の文字。

 

 〈一色いろは〉

『今日はありがとうございました♪

 すっごく楽しかったです!

 あとプレゼントも...

 おまけで30点あげますね♪

 途中会話できなかったお詫びです↓』

 添付ファイル:1件

 

 

 え、なにお詫びとか言って実はウイルスがとかじゃないよな。頭の仲とは裏腹に指は素直に動く。まあ、あいつにそんな知識ないし。

 

 ファイルを開くと、そこには洗面台だろうか、赤を基調とした髪留めで一つにまとめ、手には2本のシャーペンを持った一色いろはの自撮り写真があった。

 

 そこでもう一通メールが届く。

 

 〈一色いろは〉

『写真、保存してもいいですよ♪」

 

 口がにやけそうになるのを抑え、返信を打つ。

 

 〈比企谷八幡〉

『しねえよ、早く寝ろ

 

 俺も楽しかった、

 疲れたけど。

 

      おやすみ』

 

 

 そこで急激な眠気に襲われた、下の階からお兄ちゃんやるぅーとか聞こえるが、もう、聞こえない。

 

 

 

 




 どうでしたでしょうか...。
 次も5月ですね。頑張って書きたいです。

 また最低一週間以内だと思っておいてください。(保険)


 ご意見ご感想お待ちしております。

 ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5月②

 5月の後半になります。
 最初の話は、ある作家さんの新刊に触発されて書いてしまいました。
 
 今回も長くなってしまいましたが、一生懸命書いたので読んでもらえると嬉しいです。
 感想を貰えるともっと嬉しいです。

 
 暇つぶし程度、お手すきの際に読んでもらえると幸いです。



 大学というシステム、そして流れに慣れて来ると、月曜どころか毎日夜更かししてしまい、生活のリズムは狂い始める。

 

 黄金の一週間が終わりを迎え、一日だけ学校を挟み再び休日を迎えた。祝日はもうちょっと気を使ってくれてもいいのに...これはもう国民を代表して党を立ち上げるしかないな。

 誰か頼んだ。

 

 いくら生活のリズムが狂おうとも、日曜日の朝は早く起きる。もう数分で始まるスーパーヒーロータイムが俺を待っていてくれるから。

 

 台所に立ち、小町と自分の分の朝食の準備をする。両親がいつ帰ったかは記憶にない為、昨日も遅かったのだと思う。いつものように親父とおふくろは昼か夜に食べるのだろう。まあ、早起きは三文の徳と言われているのも、元々はポジティブな内容ではなく、早起きしても三文しか徳はないんだよ、だから起きても仕方がないよね!という意味だったらしいし(脚色あり)。

 

 そんな御託で両親を肯定していると、時間が近づいてきてしまう。テレビの前の机に自分の分の朝食を運び、小町の分は食卓に置いておく。

 そのまま棚からマグカップを取り出し、インスタントコーヒーを淹れる。即席だからといって舐めてはいけない。確かな香りと確かな苦み、コーヒーを形成するほとんどの割合を”確か”で占めている。

 まあ、味は砂糖を大量に入れるからどうでもいいんだけど。おっと、時間だ、小町もそろそろ起きて来るだろう。

 

 俺にとっての三文(戦隊・仮面・プリキュア)はプライスレス。

 至福の時間のはじまりだ。

 

 ソファに腰を下ろしたところで、テレビが突然俺を映す。え、何、死んだ目のヒーローとか求めてないんだけど...。

 

『カードを挿入しなおしてください。』

 

「...ちょ、まてよ!」

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 プリキュアのエンディングが流れ、もうひと泣き。お決まりの流れを消化し、ティッシュで鼻をズビズビしていると、小町がコーヒーを淹れなおしてくれた。

 戦隊のロボが合体を始めた頃に、リビングの扉が開いたから、おそらくそれが小町だろう。やだ、ヒーローの動きで大体の時間がわかってしまう。その内推理ドラマとかにも採用されそう。(されない)

 

 コトンッとカップを目の前に置いてくれた妹に挨拶をする。

 

「サンキュー、おはよう小町。今日は早かったな。いつもはプリキュアの途中に起きて来るのに」

 

 小町はおはよう、と言いかけ、口を噤んだ。目を見開き、今度は一語一語丁寧に紡ぐように言葉を発する。

 

「え...小町、プリキュアで起きたよ...?」

 

「え、いやでもロボが合体した時、扉開いたぞ......」

 

 そこで一つの可能性に気付き、仮説を立てる。家には両親がいるじゃないか、何をそんな深刻な顔をしている。

 未だ口をわなわなさせ、両手をこすり合わせるようにして震えを抑えている妹に声を掛けた。

 

「ああ、親父かお袋が起きて水でも飲んでったんだろう、そうだ、それしかない」

 

 半ば自分を納得させる様に、慎重に言葉を選び、伝えた。しかし、それが良くなかった。

 仮説を立て、ある存在による現象だと限定することによって、その仮説が否定された時。もう、その存在は如実に表れてしまうのだ。

 

 小町はついに、擦り合わせていた両手を握りこんだ。

 

「お兄ちゃん...、お父さんも、お母さんも...昨日から出張だよ...?」

 

 な...、いやそんな、まさか。その存在を否定したく、小町に目で訴える。嘘だろ...?

 小町は瞑目し、首を横に振った。

 

 これほどまでに自分の仮説を恨んだことはない。あんな安直な考えなど思いつかなければ、それしかないなどと、状況を制約しなければ、こんな事態にはならなかったのかもしれない。

 

 

 そこで、生ぬるい風が首筋を伝い、空いた鎖骨に冷たい感触が残る。声が出そうになるのをグッとこらえる。ここで音を立ててはいけないと、直感が言っている。

 たかが20年ほどの人生だが、これほどの寒気は経験したことがない。一番近いのは、雪ノ下の車に轢かれた時だろうか。ひた...ひた...と、一歩ずつ近づいて来ていたのだ。それに気づかなかった。

 

 傍でこちらを見ている小町の目が限界まで見開かれる。お兄ちゃん、と、声なき声で叫んでいるのが分かる。

 

 

 

 俺は、もう...限界だった......

 

 

 

 

 

「ふぁ...はぁっくしょんっ!!」

 

 

 突然の音に驚いたカマクラは、俺の耳の裏をひっかきながら飛び降りた。ああ、よかった...、動脈とか持ってかれたら死んじまうところだった...。

 

「もー、お兄ちゃん。今声出したら、カー君驚くの分かってたでしょ?」

 

「いや、そんな毛玉が顔の周り這ってたら我慢できなくなるに決まってんだろ...」

 

 カマクラの寝床はまちまちで、大体は決まっているが、ちょこちょこ変わる。今晩はリビングではなかったらしく、お腹を空かせたマイキャットは扉を器用に開け、リビングへと侵入してきた。

 小町の突然の子芝居の所為で、軽傷を負った箇所を指でなぞる。少し擦り傷になっている程度だろうか。出血まではいかなかったらしい。

 

 カマクラにご飯をあげた小町が、自分のコーヒーを淹れて戻ってくる。俺のカップに並ぶように手に持っているものを置くと、ソファの開いているところに勢いよく座った。

 反動と重量により、中のクッションの偏りが均一になることで体が少し浮くような錯覚に襲われる。早起きしたせいでまだ眠いらしい。

 

 俺より一時間近く多く睡眠をとった小町が、コーヒーを啜りながら感慨深い表情でこちらを見つめる。

 

「いやぁ~、お兄ちゃんがそこまでできるとは思わなかったよ~」

 

 一色とのデ、デ、げふんっ、一色との買い物が終わった翌日からずっとこの調子で、俺の事を生暖かい瞳で見つめて来る。なにを吹き込まれたんだコイツ...

 

「しつけぇな...、髪留めあげるくらい誰にだってできるだろ...」

 

 小町は、全然わかってない、といわんばかりに大きくかぶりを振ると、乙女のような表情をして、天井を見上げた。悪いが蛍光灯しかないぞマイシスター。

 

「いやぁ...、そっちじゃないんだよおにいちゃ~ん」

 

 何かに撃ち抜かれたように身体が傾き、倒れて来る。必然的に俺の肩に頭を預ける格好となった。

 小町は両掌で顔を覆い、頭をぶんぶん振った。

 

「憧れの先輩の...キャー!使ってたのキャー!」

 

 何やってんだこいつ...。意味の分からん妹をよそに、左側にあるコップを不自由な左手ではなく、右手を伸ばし、手に取る。

 

 カップに口をつけると、肩口から声がした。

 

「小町は、予想以上に頑張ったお兄ちゃんを誉めなければなりません」

 

 急に口調を変えるもんだから、思わず小町の顔を覗く。

 

「なに、なんかくれんの」

 

 にぃ...と笑い、身体を起こした小町は、勢いそのままに立ち上がり、片足ターンでこちらを向く。

 

「なのでー、小町が一日デートしてあげまーす!」

 

 行先は千葉です。レッツゴー!と叫び、ドアを開け階段を駆け上がる音がする。

 驚いたカマクラがまた変な動きをしていた。

 

 俺の予定がないことは共通認識なのね...。

 まあ、一色へのプレゼント選びも手伝ってくれたし、小町にお礼の一つや二つしてやらんとな。

 

 重い腰を上げ、コップを片付ける。

 身体は重いが、気分は軽い。

 丁度食べ終わったカマクラの皿も拾い上げる。

 

「~♪」

 

 

 

 上機嫌で皿を洗っているが、この時俺は、まだ恐ろしいことに気付いていなかった。

 

 両親の不在を、一家の長男に知らされていないという。恐ろしい事実に...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 足の、内側に振動が起こる。もう一度、振動。そしてまた。

 インサイド、というらしい。

 

 トレーニングシューズなるものがない俺は、滑り止めがまだすり減っていないスニーカーを引っ張り出し、体育を行っている。

 

「悪いっ!」

 

 突然のその掛け声に、靴を見ていた顔をぱっと上げると、こっちに向かうボールが俺の体の正面から右に逸れていくところだった。

 少しの駆け足でボールに追いつくと、インサイドを利用しボールを止める。が、回転が収まりきらず足から離れてしまう。

 

「おっとっと...」

 

 ケンケンをする格好になりながら、今度は足裏でボールをコントロールする。ボールでも人の頭でも、支配したがる側は、足の裏で抑えがちだ。その表情など見えないのに。

 ボールに反旗を翻されるのではないかなどと考えていると、後ろから声がした。

 

 なんでもない、と首を振り、ボールを蹴り出す。

 

 中学高校と、体育でサッカーは必ずあった。幸いなことに、サッカーもテニス同様壁があれば一人でできるスポーツの一つである。さらに言えば、リフティングなど究極のぼっちにによる、ぼっちの為の行為と言っても過言ではない。

 おそらくサッカーの父と呼ばれる人はぼっちだったに違いない。ならなんでチームスポーツにしたんだ...

 きっと足裏で従えようとしたが、それが失敗に終わり、やーい、あいつ仲間外れにしようぜーなどと言い出したいじめっ子がわざとチームスポーツにしたんだ、絶対そうだ。許せねえいじめっ子。

 

 途中から、トラウマに対する恨み節なっていたが気にしない。俺は悪くない。

 

 顔を上げ、ボールの行方を追うと、そこは壁ではなく、スラっと伸びた足の足元だった。

 ついでにいうと顔もスラっとしている。芸能人で言うと、あのよく火曜日の夜にアポなしで撮影お願いしたり、突然ロンドンへの留学を宣言するなど店内と世間を何かと騒がせているあの人(偏見)。

 

「いくぞー」

 

 葉山は軽く注意とも掛け声とも取れる声を発し、綺麗なフォームでこちらにボールを蹴り上げる。

 

 いやさっきまでゴロだったのに何してんのアイツ。

 

「うおあっ」

 

 突然の浮き球に反応できるはずもなく、腿の内側に当たったボールは手前に転がる。

 くそお、内ももいてえ...

 

 当の加害者はというと、申し訳なさそうな態度を見せながらも顔は笑っている。

 これだから体育会系は...。

 

 体育会系と、この2週間は快晴が続くと予想される原因を作った松岡〇造に対し反旗を翻すつもりで、ボールを蹴り上げる。が、浮いたのは俺の身体だった。

 ボールを踏み、足を取られた俺の身体は背中からグラウンドに叩きつけられた。周りからはわっと歓声が上がる。

 眼だけで葉山を確認すると、お腹を押さえて笑いを堪えている。

 

 

 こちらに寄ってくる様子はない。

 

 

 再び上を見ると、雲一つない空が広がっていた。

 松〇修造は体育がある日だけ海外に旅行してくれ...

 

 

 先生が号令をかけ、生徒が集まる。俺も起き上がり、円を形成するその外側に位置取ると、葉山が俺の横に近づいてきて、一緒に話を聞いた。

 

 最後にミニゲームをして終わるという。簡単なチーム分けの後、近くのフェンスにもたれかかった。俺の配属されたチームは後からのゲームらしい。

 

 日陰となっているこの場所で、風を感じていると、葉山がピンク色のビブスを両手に持ち、やってきた。

 

「比企谷、同じチームだろ、ほら」

 

 さわやかな笑顔と共に、差し出してくるそれを受け取ると、葉山も横にもたれた。

 

「比企谷、数学出来なかったのに、経済学部に入ったんだな」

 

 唐突な質問に一瞬言葉が詰まる、が、よく考えなくても普通の会話だった。

 

「ああ、入りたい学部に落ちたんだよ」

 

「なるほど」

 

 なるほどってなんだ。

 意識していないだろうが、精神攻撃を食らった為、反撃をするつもりで質問を返す。

 

「そういうお前も、もっといいとこ行くと思ってたけどな」

 

 すこし挑戦的な表情になっていただろうかと思い、慌てて顔をそらし、前を見る。

 しかし当の本人は何も感じていなかった様子で、簡単に答えてきた。

 

「俺の親、弁護士なんだけど、ここの修了生でさ。俺もここに通うことになってたんだ」

 

 あ、裏口とかじゃないからな。と爽やかな笑顔で言ってくるため。今コイツは冗談を言っているんだとすぐに、分かる。

 こういう表情が人を引きつけ、惹きつけていくのだろう。

 

「なるほど」

 

 目線を外しながら答え、思い出す。では文理選択の際、周りが悩んでいる時、こいつは何を考えていたのか。

 同じラインに立ち、同じところから見ているはずだったのに、見えていた景色は違っていたのだろうか。

 

 外した視線の先、一面のコートを無理やり分けて二面にしたグラウンド、そこの片方のコートで試合が始まっていないことに気付く。どうしたのか。

 先生を探すと、ゲームのできない女生徒の相手をしていて気づいていない。

 

 もう一度視線を戻したところで、試合が始まっていない方のコートから、一人の男子生徒が走ってきているのがわかる。

 

「すいませーん、人数が足りないので一人助っ人で入ってもらえませんかー?」

 

 その男子生徒は、どちらでもいいのだろう、俺とは葉山を交互に見て、答えを待っている。

 葉山が答えるだろうと思っていた俺は、たった一秒の沈黙に心がざわつく。

 

 恐る恐る葉山の方を見ると、俺の顔に視線を目線を固定したまま、口だけで「どうする」と語りかけてきた。

 

 葉山のセリフとこの状況に動揺してしまった俺は、とにかく言葉を連ねた。

 

「ああ、はや、あ、こいつサッカーうまいからこいつが入るって」

 

 右にいる葉山を指さし、何とか言葉を繋いだ。文になっていたのか、自分でも分からない。

 

「ほんと!?ありがとう!じゃあこれ、うちのチームのビブス」

 

 見知らぬ男子生徒は、葉山にビブスを渡し、元居たコートへ駆けていく。

 それに続きフェンスから腰を上げた葉山が走っていった。

 

 途中でクルッと振り向き、顔を見せた葉山は、いつもの葉山隼人だった。

 

「じゃあ、いってくる!」

 

 さわやかな笑顔でかけていく姿は、皆の知っている葉山隼人だった。

 

 俺の右側のフェンスは、未だ軋んで、音を立てている。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 少し暑いか。

 

 服装の選択を間違えたな、と思い羽織を脱ぐ。着ている間のそれは、寒さをしのぎ、役立つことこの上ないのだが、手に持つと邪魔以外の何物でもない。

 今日は全休の水曜日にもかかわらず、午前中から移動を繰り返していため、休息がてらカフェに入る。

 

 千葉駅近くを歩いていて見つけたそこは、陽乃さんに連れられた店のようなセンスが光ると言ったものではないものの、ゆっくりとした時間の流れる落ち着いた雰囲気の店で気に入ってしまいそうだ。

 

 店員さんに一人であることを告げ、店内へと案内される。お一人様って単語、丁寧にしたつもりで一周回って強調してしまっているように感じてしまうの俺だけだろうか。

 

 窓際のいい位置に案内され、気分が少し上がる。美容院とかって美男美女を外から見える位置に案内するそうですね!

 店員さんが水を持ってきてくれた。注文は後になることを告げると、僅かに日の射した窓のブラインドを下げ、戻っていく。うん...。

 昼食の時間と、マダム達のお茶の時間の丁度隙間に当たったのだろう、店内にはほとんど客の姿は見えずちょっとした隠れ家感まで出てきてしまった。

 これはもうお気に入りに追加するしかないですね。

 

 ちょっとした優越感に浸り、メニューを開く、店員さんを呼び出すボタンがあることも重要だ。いや、別に恥ずかしいとかそういうんじゃないから。

 

 呼び出し音に反応した店員が、こちらに向かってくる。さっきの人とは違うらしい。パンツ姿の似合う、細身な体系だということだけ確認できた。

 

「すみません、このエッグサンドとアイスコーヒーください」

 

 あ、噛まずに言えた。すごいよ八幡っ!

 

「比企谷?」

 

「ん?」

 

 てっきりフレッシュの有無を聞かれると思っていた俺は、虚を突かれ、顔を上げた。

 

 そこには青みがかった黒髪を後ろで一つに束ねた、川...川...川なんとかさんがいた。

 

「川崎...、こんなところで何してるんだ」

 

「いや、どこからどう見てもバイトでしょ。あんたこそ何してんの」

 

 俺と川崎両者の疑問も無理はない。こここの店は千葉と言っても、駅の近くなどではなく、そこそこ歩いた所にある言うなれば辺鄙な地域に立地していたのだ。

 俺はというと、バイトを募集している本屋をめぐり、店員さんの顔や接客、そして客層までを細かく分析をするという重要な任務をこなしていた。

 まあ、平日の昼間などパートの人と、じいさんばあさんの客しかいなかったため、なんの参考にもならなかったのだが...。

 

 また夜に調査しようと決め、帰る前に腹ごしらえをしようという魂胆だった。

 

「いや、ちょっとな...。腹ごしらえをしようと思って」

 

 俺の濁すような説明に訝しげな表情は見せたものの、深くは追求してこない。まあ、深い関係でもないしな。

 

「ふぅん、まあいいや。エッグサンドとアイスコーヒーだっけ。フレッシュいる?」

 

 おお...、店員さんの常套句も知り合いの口から発せられるとまた違ったものに聞こえる。不思議だ。

 

「頼む」

 

 短くそう伝えると、川なんとかさんは、首肯だけで去っていく。

 こんな知り合いに会うなんて偶然もあるもんなんだな。それとも、同じぼっち同士考えることは同じなのだろうか。人のいない方いない方へと進み続け、たどり着いた。俺の人生とおんなじだ。

 

 でもまあ、高校3年で少しづつ人が寄ってきて、多くはないものの知人ができた彼女と同じというのも失礼だろう。そこには海老名さんらの尽力もあったが。

 

 去っていく後ろ姿を見つめていると、川崎がこちらを振り向く。トレードマークのポニーテールが揺れた。

 

「ねぇ、私も昼休憩なんだけど、一緒に食べていい」

 

 あれ?質問なのに?が見えない聞こえない。有無を言わさぬ上司からの、やってもらいたいいんだけどいいよね、みたいな雰囲気を感じる。つまり俺に選択肢はないのだ。

 

「は、はい...」

 

 川崎は、またもポニーテールを揺らし、去っていった。

 

 ふえぇ、怖いよぉ...。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「うまっ」

 

 口に入れてすぐに襲い掛かってくる旨味に思わず言葉が漏れた。

 エッグサンドの永遠の課題となっている、食べ方問題はこの店も解決していないものの、味は確かなものがある。

 この店の従業員で、向かいに座る川崎に美味しさを伝えようと、顔を上げたが、当の彼女はなぜか耳まで赤くし、そっぽを向いていた。

 そんなに暑いか?

 

「これ美味いぞ川崎」

 

 聞こえなかったかと思い、もう一度繰り返した。

 

「分かった。分かった聞こえてるって。それはよかった」

 

 ブラインドが下げられ、景色の見えなくなった窓を見つめたまま、答えた。

 あれえ、褒めたつもりが思ったより反応が悪いぞぉ?

 なに、窓の外に犯人でも見えてんの。カシャッとか指で抑えちゃうの。

 

 

 

 俺と川崎、両方の昼食が終わり、コーヒーのおかわりをサービスしてくれるという。お代を払うことを申し出たが、断られてしまった為、言葉に甘える。

 

 俺の分と自分の分を持ってきた彼女は、カップを机の上に置くと、先ほどから疑問に思っていたのだろう事を口にした。

 

「で、何してたのこんなところまで」

 

 あ、それ聞くのね...興味がなかった訳ではないのね...。いや、ただの雑談か。

 別に隠すことでもない為、シンプルに答える。さっきは立ち話だったので長くなるのも迷惑だと思ったから濁したまでだった。

 

「バイトを探してたんだよ、親に定期代止められてな」

 

 俺のバイトという単語に一瞬関心の表情を見せたが、理由を聞くと顔が元に戻る。

 え、皆その反応だけどどうなってんの俺の評価。

 

「そう、何のバイトするつもりなの」

 

 川崎は自分のカップに建てられているストローをクルクルと回しながら。掘り下げてきた。

 そこまで聞かれてはもう答えるしかなく、正直に話す。

 

「一番は本屋だな、とりあえず暇そう。あとせめて好きなモノに囲まれてないと働けない。働きたくない。」

 

 色々考えたが、接客業を避けると条件は限られてきてしまう。

 

「ふぅん、あんたが接客業ねぇ。その店つぶれないといいけど」

 

 あなたも大概ですよ?川なんとかさん。

 少しだけ蔑んだ表情を川崎に見せると、鋭い目つきを返された。だから怖いですって...。

 

「まあでも、似合ってんじゃない?あんたに」

 

 そう言われ、言葉に詰まる。こいつが人を誉めているところなどあまり見たことがなかった。

 

「お、おお、サンキュー?ありがとう?」

 

「なんで疑問形なの...」

 

 

 未だ、高校時代の知り合いに会うと、あの時間を思い出してしまう。

 これは、引きずっているとかそういうものなのだろうか。過去にしがみついたことのない俺には分からなかった。

 

 思い出を振り返るのも、過去を回顧するのも、悪いことではない、と思う。悪いのは、その記憶にしがみつき離れようとしない弱い心なのかもしれない。

 

 だから、だから今の話をしよう。彼女らに、今の話ができるように。

 

「で、大学はどうなんだ?川崎」

 

 

 

 先の話を、しよう。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 5月も下旬。もう半袖で外を歩く人も多くなってきただろうか。

 土曜日の昼下がり、俺はある書店へと足を向けていた。

 

 俺の完璧なリサーチによれば、家からそう遠くなく、なおかつ客が少ない(恐らく)。そして従業員はみな柔らかい表情をしている(気がする)。そして店長がおじいちゃん(多分店長)!

 

 それに、募集時間がちょうどいい。大学から帰り、晩御飯を食べ、バイトに向かって間に合う時間だ。

 

 

 ああ、帰りたい。このままバックレたい。面接とか嫌だ...。

 でもバックレてもどうせバイトはするんだよなあ...

 

 重い脚でなんとかペダルを漕ぎ、店に着く。確かこの時間に着いたら裏口から入っていいって言ってたな...。

 STAFF ONLYも関係者以外立ち入り禁止も書いてないがここなのか?

 

 扉の横にはインターホンがあるため、これを押せということなのだろう。

 逃げても始まらないし、先の話をしようと決めたばかりだ。

 

 押した。

 ああああああ、かえりたいよおおお。

 押した瞬間から後悔が始まるこの感じ、嫌いです。

 なんだろうな、遊びに誘われてテキトーに返事してたら具体的な話になっていて後悔するやつ。センセー、八幡君がネットからコピペしたものをそのまま使ってまーす。

 うるせぇよ、仕方ないだろそんな経験ないんだから...。

 

 思考を飛ばして逃避を図っていると、扉が開く。

 こちら側に向かって開く仕様のようで、数歩後ろに下がる。

 

 中から出てきたのは、やはり、おじいちゃんだった。

 

「ああ、君が比企谷君ね。どうぞどうぞ」

 

「はい、ほ、本日はよろしくお願いします」

 

 頭を下げたが、店長は中に入ってしまい、見てはいなかった。

 

 

 店長に促され、奥の椅子に座る。

 面接だ、ああ面接だ。

 

 鞄から履歴書を取り出し、準備をする。

 

 ああ、面接だ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一通りの質疑応答が終わり、店長は履歴書とにらめっこしている。

 ああ、これは落ちたかなぁ。

 

 気まずい空気に視線を彷徨わせていると、突然扉が開いた。事務所にはロッカーも備わっているため、従業員が入ってきたのだろう。

 落ちるかもしれない店の従業員と顔を合わせるのも何となく憚られ、視線を店長に戻す。

 

「おはようございま~す」

 

 柔らかい声が事務所に響く。声からマイナスイオンでも出ているのかと感じ、心なしか鬱蒼とした室内の空気が緩んだ気がした。

 

「おはよう城廻さん、ちょっと今新人君の面接してるんだけどどう思う?」

 

 ん?しろめぐり?

 いや、まあ同じ苗字の人間なんかごまんといるし、偶然だろう。

 ほら、比企谷とか由比ヶ浜とか材木座とか城廻とか。だめだ他に会ったことねぇ。

 これはもう確定ですね。

 

「新人さんですか~?」

 

 俺の調査では知っている人などいなかったはずなのに...甘かったということか...

 

 総武高校元生徒会長城廻めぐりが、顔を出した。

 

「わあ、比企谷君だ~すご~い♪」

 

「知ってるのかい?彼はどんな子なの?」

 

 俺の事を図りかねた店長は、知人だと分かった城廻先輩に俺の素性を聞くことにしたらしい。素性ってなんだ。

 

「うーん、そうですね~。考え方はひねくれていて、人と話すことがあんまり得意じゃなくて~」

 

 あれ?俺城廻先輩に嫌われてる?すごいネガティブな言葉しか出てこないんだけど。泣きそう。

 城廻先輩の一つ一つの言葉にうなだれていった頭も、その後に続けられた言葉によって持ち上げられた。

 

「でも、真面目で人の事をちゃんと見てて、優しくてかっこよくて、あ、あとリスクリターンの計算と自己保身に関しては定評があるって言ってましたっ♪」

 

 さ、流石ですめぐりん先輩!落としてから上げる、その相乗効果によってより高く飛んでいるように見えるという完璧な誘導だ!

 既に底辺を這いつくばっている俺でも少しは飛んでいるように見えるだろうか。ねえ平塚先生。

 

 城廻先輩は、こちらに顔を向けると、ばっちりと言わんばかりにウインクをしてきた。

 ああ、癒される...。どこかの養殖ゆるふわびっちとは訳が違うぜ...。

 

 その理屈でいうと城廻先輩は天然ゆるふわびっちになるわけだが、なにそれ誰得俺得なんかいい...。

 

「そうかー、まあ城廻君がそういうならいいかな」

 

 回る椅子をこちらに向け、言い放つ。

 

「じゃあ、採用で」

 

「え、本当ですか。ありがとうございます」

 

 感謝を述べ、頭を下げる。心は城廻先輩にだけどなっ!

 

「やったね比企谷君っ!これから一緒に働けるよっ♪」

 

 やばい、超癒される。ここ選んでよかった...

 城廻先輩はピョコンピョコン跳ねながら笑顔を向けてくれている。

 

 

 

 またこの人が先輩か...頼もしい限りだ。

 

 




 ホラーになってたでしょうか。どうでしょうか...
 次は6月ですね。頑張ります。

 最低でも一週間以内に出る、程度で待ってもらえると助かります。(保険)


 ご意見、ご感想を貰えるともっと頑張れます。


 ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6月①

お久しぶりです。
6月に入りました。


またお暇ができたら読んでもらえると嬉しいです。
感想をもらえるももっと嬉しいです。


 

 雑踏に包まれているような感覚。それが煩わしくも心地よく感じ、再び睡魔が襲ってきた。

 少し肌寒く、薄い掛布団を掛け直すと、横目で窓の外を見る。

 6月も2週目に入り、止まない雨に身体も慣れたことで、雨音さえも眠りに誘う要素となっていた。

 

 毎週訪れる水曜日の休み。惰眠を貪る事ができる為、火曜日の夜からの夜更かしが常となっていたが先週からちょいと理由が変わってきた。

 

 面接に合格してすぐにバイトのシフトに入ることになった俺は、12時閉店の店舗のラストに入ることになり、帰宅は1時近くになることが判明した。

 

 固定制のシフトを敷くこの店は、履修の状況を見て働く時間を申請することができる。4限が終わってから間に合う時間なので入れない日はないのだが、サークルがあると嘘をついて日曜日に休みをもらったのは内緒だ。

 

 八幡おやすみないと死んじゃうっ!

 

 というわけで、火曜・木曜・土曜の週3日の勤務に決定した。

 

 昨日も1時に帰宅。煌々とした店にいたこともあり、なかなか寝付けずに結局3時の就寝になってしまった。

 そういえば、水曜日もお休みじゃないか。接客にうなされていた所為で忘れていたが日曜日に続き、水曜日も完全休暇。

 

 これはかの有名な完全週休2日制というやつなんじゃないですか!

 週休2日制と完全週休2日制の違いは社畜の皆さんならわかっているだろうが、大きな違いがある。

 

 小町に「日に日に目が死んでいく」と評されたこの1週間だったが、完全週休2日と聞くとテンションが上がってきた。

 思考を切り替え、この休みを甘受するようにと身体に伝達する。

 

 重いことには変わりない腰をあげ、朝食とも昼食ともつかない食事を取ろうと階段を下りているところで、携帯が軽快な鈴の音と共にメールを受信した。

 

 

 <☆★ゆい☆★>

 『ヒッキー!

  週末3人でごはん行こー!』

 

 

 なんだスパムメールか...。

 

 携帯の画面を開いたまま洗濯機の上に置き、洗面台で顔を洗う。

 表情による凹凸で、うまく洗えない。

 しびれを切らし、そのまま顔を上げる。

 

「気持ちわりぃ顔しやがって...」

 

 こんな顔してるとまた女王にキモがられてしまう。

 

 顔を拭き、上がった口角を手で抑える。

 

 完全週休2日制じゃなかったのには騙されたが、仕方ない。

 

 仕方ないから、行ってやるか。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「皆さん、日本語って50音ありますよね。でもアルファベットは26種類しかないんです。ということは、日本語ができている皆さんは英語なんてすぐできちゃうんです」

 

 どこにも筋の通っていない論理を展開している英語教師をよそに隣の席をチラとみる。筋がないのは刺身だけで十分だ。

 

 休みすぎと釘を刺されたにも関わらず、戸部はいない。まあ、単位に響くほどじゃないからいいんだが。べ、別に心配なんかしてないんだからねっ。うん本当にしていない。

 

 寧ろ俺の方が心配まである。この時期になると隣の人ともある程度の信頼関係を築いている訳でそこに俺が入るということはまた変な空気を生み出してしまうということでいやこの時期じゃなくても変な空気生み出すんですけどあ俺の存在が空気なるほど。

 

 涙が零れないように上を向いたところで、教室の扉が開く。

 

「スンマセン、遅れましたー...」

 

 戸部か?声に覇気がなく一瞬知らない人が入ってきたかと錯覚したが、顔を向けると確かに戸部だった。

 元気のなさに疑問を抱いたのは、教師と戸部の友人も同じだったらしく、口々に心配の声を上げる。

 

「大丈夫?戸部君、また体調悪くなった?」

「大丈夫ー?」

「どうしたー?」

 

 関係の深さはどうであれ、これだけの人間が口を揃えて心配するというのは、戸部の人格によるものなのだろうと思い、素直に感心する。

 

「うぇっ!っべー、元気ないように見えた?なんでみんな腹壊したの知ってんのよー!」

 

 チョットー!と戸部は自分に覇気がないことに今気づいたかのように大仰に手を振り、何でもないと全快ぶりをアピールした。

 

「んだよー、トイレ籠ってただけかよー!」

「戸部君超陰キャー、キャハハ!」

 

「チョイチョイ、俺以上の陽キャは居ないっしょーっ!そこんとこヨロシクゥ!」

 

「「ワハハハ」」

 

 一瞬にして、教室が喧騒に包まれ、雰囲気が柔らかくなった。

 

 

 

 なんだそれ。

 

 と、素直に思ってしまった。

 

 戸部の視線が、戸部に纏わりつく黴雨の湿気ではない陰鬱な影が、そして、観衆が。

 

 隣に座り、周りの奴等と一言二言交わすが、誰も気付き、気遣う様子は見られない。

 授業に向き直り、和やかな雰囲気で教師とコミュニケーションをとる姿は、確かに戸部だった。確かに。

 

 横目で見つめながら、平塚先生の言葉が頭の中を反芻する。

 

『いつか彼女の事を理解できる人が現れるかもしれない。彼女のもとへ踏み込んでいく人がいるかもしれない。...ただ、私はそれが君だったらいいと思う。」

 

 なんで今それを思い出しているのか、自分にも分からない。

 真の本物まで手を伸ばさなかった、後悔と自責の念からだろうか。

 

 しかし、それを何故。

 

 視線を戻し、時計を見つめる。彼には、踏み込んでくれる人は存在するのだろうか。沢山の人間に囲まれて、幸せな人生を送っているのだろうか。

 そんなくだらないことが、頭をよぎる。

 

 人に囲まれている人が、人を好いていると決まっているわけではないのに。

 

 

 

 戸部からのアプローチは、放課後だった。

 

 

 

―――

 

 

 

「ヒキタニ君っ!」

 

 授業が終わり、颯爽と帰宅しようとしているところで、後ろから声を掛けられて、止まる。

 振り返ると、息せき切って走ってきたのだろう戸部が、深い呼吸を繰り返していた。が、それもすぐに止み、通常の呼吸に戻る。

 

 伊達にサッカーやってないなコイツ。なんだっけ、確か最後の大会いいところまで行ったんだったか。あんまり覚えてないけど。

 

「いや、っべー、引退してから殆ど走ってないから体力落ちてるわー」

 

 やっぱフットサルサークルとか入った方がよかったべかーとぶつぶつ言い、額に手を当てて、大げさにリアクションをする。うぜぇ...。

 

「なんだ、用がないなら帰るぞ」

 

 背を向けようとしたところで、戸部がまたも大きく身振り手振りをしアピールをしてくる。

 

「チョチョチョ!用あるからっすっげーあるからっ!」

 

 慌ててんのか一周回って余裕なのか、よくわからない動きで俺の足を止めにかかる。

 

「ヒキタニ君、この後時間ある?」

 

 戸部が俺に用...?

 

 訝し気な視線を投げかけながら、予定を思い出す。うんまあ、バイトのない曜日なら暇なので予定とかはないんですけどねっ!

 改めて、今日はハナキン。金曜日だ。

 

 バイトあるって嘘つくか...。

 

「悪いけ...」

 

 言いかけたところで、先ほどの光景が頭に浮かぶ。あの気色の悪い光景を、そして、その一人となっているを俺を。

 

「いや、別に用事はないが...」

 

「マジ?ラッキー!」

 

 用事に付き合うとかは言ってないんだけど...。

 

「いや、ちょっと相談があってさ...」

 

 突然神妙な顔つきになったことで、こちらも少し気が引き締まる。

 

 場所を変えたいとの希望を受け、少し歩いた先の喫茶店に向かうことになった。

 

 

 

―――

 

 

 

 閑散とした店内には、有名アーティストのオルゴールバージョンが流れていて、よくある喫茶店という感じがした。

 戸部は、店員に奥まった位置の席を希望した。

 そこまで徹底されると、他人に知られてはいけない話なのかと疑うが、たかが学生にそんな話があるとも思えずいまいち気が張らない。

 

 注文を終え、店員が去った所で口を開く。

 

「で、相談ってなんだ?」

 

 緊張なのか、向かいの男はしきりに水の入ったグラスを口に運んでいた。

 それを置くと、右手を襟足に伸ばし髪を掻きながら話し始める。

 

「いや、その、ヒキタニ君ってさー、隼人君のことなんか知ってたりしない?」

 

 突然の改まった、戸部らしくない口調に面を食らいながら、やっぱり、と思う。

 

 陽乃さんの様子、質問から、高校3年の時に何かがあったのは明白だ。

 

 そして何より、戸部がこの大学にいる以上、体育で葉山と同じサッカーを履修しないのはおかしい。

 

 もちろん、その高校3年の出来事により、葉山との縁を切る。もしくはサッカーへの興味をなくしたということもあり得るが、先ほどのサークル云々の言葉、そして今しがた彼の口をついて出た、葉山への執着ともとれる発言でその可能性は否定していいだろう。

 

「なんかってなんだ?高校3年のことならクラス変わってるから知らんぞ」

 

 俺のカマを掛けるような発言にも、彼は敏感に反応を示す。

 

 高校という言葉に、一瞬身体を強張らせたものの、本題ではなかったのか別の時期の葉山の事を訪ねて来る。

 そう、今の葉山隼人の事を。

 

「いや、なんつーか、さっきさ、隼人君とばったり会ってさ、大学の中でよ?俺もうびっくりして話しかけたんだ。最初は隼人君も驚いた顔して話してくれたんだけど、やっぱり様子おかしくて、授業遅れるからって行っちゃって...」

 

 戸部もまだ整理できていないのだろう。どうにもまとまらないが、整理すると、戸部が遅れてきた理由は、葉山との邂逅を果たしてたから、そして彼はぬぐい切れない違和感を、この場まで引きずってきたというわけだ。

 

 どうにも彼らの関係がつかめない、しかしまあ、戸部の疑問にはすぐに答えられる。

 

「葉山の様子がどうとかは知らんが、一緒に体育はやってるぞ」

 

「うえっ?まじ?ヒキタニ君隼人君が同じ大学って知ってたん!?てゆーか友達だったべ?」

 

 目を見開き早口にまくしたてる、やはり戸部は知らなかったのだ、そして葉山も。

 

「別に友達とかじゃないんだけど...」

 

 一応補足しておく、大事なところだからな!ハチマンウソツカナイッ!

 

「いや、そっかぁ...、ヒキタニ君でもしらないかー」

 

 なんで俺なら知っていると思ったのか甚だ疑問だが、これで戸部の相談は終わりを迎えるらしい。

 

 ただ、俺の中にあるしこりはまだとれないままだ。

 

 既に来ていたコーヒーに口をつけ、窓の外を見る。梅雨の雨は止むことを知らず、太陽との顔合わせはまだまだ先になりそうだ。

 

 空が曇っているのに、頭の片隅まで曇っていては気分が悪い。

 

 雨を見ると、彼女の囁きを嫌でも思い出す。

 

 

 -私はまだ、君に期待していいのかな?-

 

 

 言葉と共に、彼女の手が置かれていた右肩に何かがのしかかってきている気がした。

 

 期待というのは、傲慢な感情だと思う。

 期待に添えて当たり前、期待に添うことができなければ失望。

 コンスタントに結果を残し続けていると、その期待というのは知らず知らずに重くのしかかり、しかもそれに気付くのは失望の渦に巻き込まれた時なのだ。

 

 教師が性犯罪を起こす。病院で死亡事故か起こる。イクメンと呼ばれていた政治家に不倫疑惑が出る。これらの事が大きく取り出たされるのは、期待、とのギャップによるものだ。

 

 逆にどうだろう、期待されていない者が結果を残した時、周囲の人間の反応は。そして結果を残さなかったとき。期待されている人とは、真逆ではないだろうか。

 

 何が言いたいのかというと、つまりは結果を残せということなのだ。クレバーな人間は一生クレバーで居続けなければならない。

 

 陽乃さんが何を求め、何を期待しているのかは分からない。

 それでも、何かを求め、何かを期待していることは明白だ。

 

 ていうか、そろそろ原因を知らないとムカついてくる。

 

「なあ戸部、高校3年の時、何があったか教えてくれないか?」

 

 期待に添おうとか、そんな大層なことは考えていない。とにかく自分の靄を晴らしたい。そう思い、訪ねだけだった。

 

 聴くだけのつもりだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 

 揺れる車内で、本を開きながら戸部の話を思い出す。

 読もうと取り出したが、思考が始まると止まらなくなり、本をしまうのも億劫となった。

 

 

 きっかけは、大岡に彼女ができたことから始まる。

 葉山グループには属さない、それも別のクラスの子だったということで、教室内では特段変わったことはなかったらしい。しかし、放課後の遊びに、大岡は参加しなくなった。

 

 まあ、高校生の恋愛なんぞそんなものだろう。それだけがすべてで、それ以外は見えなくて。その恋人と一生一緒などと勘違いし、間違える。高校生からの付き合いで結婚しました。なんていうカップルはテレビで紹介されるほど稀なのである。

 しかしそれは、逆説的に高校からの付き合いそのまま結婚、というのも確かに存在することに他ならない。

 

 話が逸れてしまったが、大岡は幸せなリア充ライフに勤しんだという。

 付き合いが悪くなったというだけで、葉山グループが彼を無下にする訳もなく、いつも通りの関係性を葉山の仲介により、続けていた。

 リア充を恨むのはリア充以外なだけで、全員がリア充と言えるそのグループでは大きな問題にはならなかったのだろう。

 

 だが、変化というのは悪いことだけではない。人生に一度きりしかない高校生活。その時間を薔薇色に染めたいとの希望は誰しもが抱いている。

 彼ら彼女らは、大岡の生活に羨望を覚えた。部活帰りまで健気に待つ少女、時には部活をサボり街に繰り出していく様子をまざまざと見せつけられた。そして学校では、校内一のイケメンが率いるグループでの楽しい会話が行われる。

 

 そんな彼を追い出す、ではなく、そんな彼のような生活を送りたいという願望。高校3年という残り少ない時間に、彼らの思考は乗っ取られてしまった。

 

 以前から思いを寄せている、三浦、そして戸部は一念発起の思いで行動に移し始める。もちろん、葉山は止めた。海老名さんもそうだ。

 

 まだ早い。もう少し待ってみよう。気持ちがわかってからでも遅くはないのではないか。

 そんな常套句が長く通じるわけもなく、時を迎える。

 

 これは俺の推測だが、海老名さんが奉仕部に依頼をしなかったのは前科があるからだろう。

 

 元々由比ヶ浜が同じクラスではなくなった時点で、綻びはできていたのだろう。必死に縫い合わせ、時に新しい布を充てる。そんな均衡を保つような存在を失った集団に残された道は瓦解のみだった。

 

 憧れ、手を伸ばした彼ら彼女らは、何も手にすることはなかった。

 葉山が気持ちに応えられるわけもなく、その葉山のサポートがなくなり、奉仕部という退路(来たとしても雪ノ下と由比ヶ浜が受けたかは分からないが)を自分で塞いだ海老名さんも拒絶をした。

 

 ”君たちにとっては、今この時間が全てのように感じるだろう。”それは彼らも例外ではなかった。希望を失った人間程脆いものはない。

 

 夏休み前に、由比ヶ浜が慌ただしく走り回っていたのはそのせいだったのだろうか。いつか話してくれる。そうたかを括って待ち続けた俺たち二人は、ついに何も知ることはなかった。

 そういう関係を、築き上げてしまった。 

 

 三浦と海老名さんがグループにいられるわけもなく。告白の手伝いどころか、阻害にも思えてしまった戸部も悪化。

 極めつけは大岡の彼女だ。葉山との繋がりが切れかけた大岡に、彼女は価値を見出せなくなった。要するに葉山に近づくための手段にしか考えていなかったのだ。

 もちろん、大岡本人に伝えて別れたわけではなかったが、女子の秘密ほど脆いものはない。人づてに伝達し、大岡の耳にまで届いてしまう。それを聞いた大岡の感情は落胆、ではなく、怒りだった。

 元々鬱憤が溜まっていたのか。チェーンメールの件もあるし、仲が本当に良かった訳ではなかったのだろう。

 

 三浦がその元彼女をシバいたという噂も出たらしい。さすがあーしさん...。

 

 様々な要因が重なり、葉山が死に物狂いで守ろうとしたものは、儚く、散った。

 

 後から事の重大さに気付いた戸部は、葉山との必死なコンタクトを図ったが夏の大会を最後に、葉山との関係は冷めきってしまったという。

 

 それでも定期的に連絡は取っていたそうだ。

 

 ただ、卒業してから会うという戸部の思いは、葉山には受け入れがたいものだったのだろう。

 

 ここまでが、高校三年からの出来事。

 そしてここからが、俺が一歩踏み出してしまったが故に発生してしまった、本題だ。

 

 戸部は、謝りたいと。

 自分にとっての葉山の存在は大きく、彼が頼ってくれなくても、一緒にいた時間は楽しかった。

 葉山がどう思っているのかは分からない。しかし最後の大会、葉山の尽力により、総武校サッカー部は過去最高の成績を収め、その経歴のおかげで独力では入ることのできなかったこの大学に推薦という形で入ることができたという感謝も伝えたい。

 

 そう、言っている。

 

 もちろん戸部が行動に移してない訳もなく、それとなく連絡の内容には入れていたという。

 だが、葉山の反応はイマイチで、本当に伝わっているかは分からない。

 

 何より、それを完全に伝え、拒絶をされてしまえば彼らの関係は決定的になってしまう。

 その危惧が、戸部の行動を制限してしまっていた。

 

 戸部の願いは、わだかまりのない関係の再建。

 それも、可能な限り高校時代の人間を含んだ関係。

 

 その為の葉山へのアプローチと情報収集。

 

 

 それが、戸部の依頼だ。

 

 

 陽乃さんの言葉が頭をチラつき、ついできる限りの事はやるなどという返事をしてしまった。

 失望されるのが怖いのか、それとも、未だあの場所を葬ることができていないのか。

 

 そんな曖昧な自分が、嫌なはずなのに。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 1枚の紙を、折り、折り、折ると、ブックカバーができる。

 こんな簡単な作業なのに、知ろうとしなければ知ることはないのだから不思議だ。

 

 折ったカバーを備品棚に入れ、もう一度折々する。

 

 かれこれ30分近く同じ作業をしているが、全く苦じゃない。というか接客が嫌すぎる。接客なければ本屋最高なのに。接客のない本屋って何、密林?

 最近は密林でさえ宛名入れますかとか聞いてくるぞ。偶に一人で、八幡神宮様へとかやってるのは秘密だ。え、俺だけじゃない?ダヨネッ!

 

 一度顔を上げ、時計を見ると11時を少し過ぎた頃だった。そのついでに店内を見渡すが、人はまばら、という表現を使うのも申し訳ないくらい人がいない。

 

 客が少なそうという理由で選んだ俺が言うのも何だが、大丈夫かこの店...。

 

 レジの淵にある作業台で、今のところ毎回シフトに入るたびに立ち読みをしている常連客を見ていると、不意に視界が暗闇になる。

 

「うぉっ...」

 

 急なことに驚き、身を捩るが思ったより力が強い、いや違う。後ろの柔らかい感触に力が入らないだけだこれ。

 

「だ~れだっ♪」

 

 社員は2階の事務所で作業、売り場にはバイトが2人ときたらもうこの人しかいない。

 

「いや何してるんですか城廻先輩...」

 

 名前を当てたところで目の拘束が解かれ、明るさの変化に戸惑う虹彩が瞳孔を絞っていく。

 背中の体温が消え、身体が離れたのが分かった。べ、べつに残念がってなんかないんだからね!

 

 それに続いてゆっくりと後ろを振り向くと、そこにいたのはやはり総武高校元生徒会長だった。

 

「社員さんも上に行ったし~、比企谷君とお話ししようと思って♪」

 

 優しく両手を合わせ、首をかしげるその姿は昔と変わらない、高校時代と同じあどけなさだった。

 

「今みたいなことしてたら怒られますよ...、そこに防犯カメラありますし...」

 

 レジの外にあるカメラは、客の顔ではなく、レジスタッフが映るような位置に設置してある。あれ意味あんのかよ...。

 事務所に一括管理するモニターがあったことを思い出し、心配するが、当の本人はあっけらかんとして答える。

 

「この作業台カメラの死角なんだよ~」

 

 あ、そうなんですか...。めぐりんおそるべし。

 

 

 驚いた、本当に驚いた。

 

 

「比企谷君、学校はどう?友達はできた?」

 

 作業台の横に立ち、俺の目の前の紙束に手を伸ばしながら聞いてくる。

 

「城廻先輩でも悪口とかいうんですね」

 

「えっ、ごめんなさい...。そんなつもりじゃなくて...」

 

 からかわれた仕返しに、軽口を叩いたつもりだったが彼女には伝わらなったらしく、涙目になってしまった。

 

「あ、いやすみません冗談です...、いや友達いないのは本当なんですけど、全然悪口じゃないんですみません」

 

 慌てて謝罪をすると、城廻先輩はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、上目遣いで覗いてくる。

 

「えへへ、分かってるよ~。比企谷君が素直じゃないからからかっちゃった♪」

 

 やはりこの人は1枚上手だ。そのほんわかした雰囲気からは想像できないほどの芯を持っている。

 人を好いて、人から好かれ、周囲を作っていく手腕は、いまだ健在なのだろう。

 

 ただ、こんな表情を見たのは面接の時以来だ。

 

 今日初めて二人きりで話す機会ができたが、これまでは他の人がいたり、城廻先輩が先に帰宅してしまったりと一緒に働く時間はあまり多くなかった。

 

 しかしその限られた時間でも、彼女の様子がおかしいことは分かった。微かな違いかもしれない、それでも分かった。

 

 目の前で俺について質問し、時に自分の事を話す彼女は、確かに城廻めぐりだった。

 では、この店内で、店長と俺以外に見せる表情、対応は、どういうことなのだろう。

 

 初めて一緒の時間に働いたとき、俺の一つ上、城廻先輩の同級生に当たる男性バイトと話をしている表情に昔の面影はなかった。雰囲気は、陽乃さんに重なる。

 

 近いのに、絶対的に遠い。

 物理的な距離も、心なしか離れている気がする。

 

 それが意識的なものなのかは分からなかったが、今目の前の彼女を見る限り、自ら選択した結果なのだろう。

 

「あっ、比企谷君!もう閉店準備しなきゃ!」

 

 そう言い、パタパタと駆けていく彼女の後姿に、コートに走っていく葉山の姿が重なる。

 

 選択をしたというのなら、それを尊重するのは大事だろう。

 選択をして、うまくいったにせよ失敗したにせよ、それが結果だ。

 

 ただ、人生にセーブデータがあると仮定して、やり直しができるかの仮定をしたのは誰だろうか。

 最初から選択肢を持たない人間に、そんな仮定は無意味である。

 

 彼、彼女に、選択肢は現れたのだろうか。

 

 どうあがいても、そうなったのかもしれない。

 どうしても、そうせざるを得なかったのかもしれない。

 

 

 後悔すら、できなかったのかもしれない。

 

 

 

―――

 

 

 

「「お先に失礼します」」

 

「はいお疲れさまー」

 

 残って金庫の照合やらの作業を行う社員の言葉を背に、従業員出入り口から外に出る。

 

 まだまだ雨は止みそうにない。ぽつぽつと肩を叩かれるのも煩わしく、傘をさしたいところだが生憎両手に花、ではなく両手にゴミを抱えている為甘んじて受け入れるしかない。

 

 だが断る!

 

 ゴミ捨て場まで走っていこうとしたところで、またも視界を遮られる。が、今度は水色だった。

 

「袋もってくれてありがとっ、一緒に行こ?」

 

 全てを癒す女神の様な笑顔と女神の様な一言で、心が奪われる。

 キュンッ。

 

 おっと、危ない。勘違いし(以下略)

 

「すみません、ありがとうございます」

 

 城廻先輩の傘に入れてもらい、歩幅を調整しながら一緒に歩く。妹で培ったスキルが色んなところで火を噴くぜ!

 

 ん?傘?

 うおおおおいい!これは伝説のレジェンダリィウェポンと噂の相合傘とかいうアレでは?

 

 意識をし始めると、肩に触れる体温が急に熱を帯び始め、心臓の鼓動で身体が跳ねているような錯覚に陥る。

 

 やばいやばい早く離れないと身が持たない...。

 

 店専用のコンテナに捨て入れ、自分の傘を差す。だ、だから残念がっ(以下略)

 

「じゃあ、お疲れ様です」

 

 これ以上の接近戦は自分のヒットポイントを削るだけなので、素早く離れようとすると、鞄をごそごそとしていた先輩が顔を上げ、聞いてくる。

 

「比企谷君、今日は歩き?」

 

「はい、そうですけど...」

 

 普段は自転車で通勤しているが、今日は朝から雨だったため、徒歩で来た。そんなに離れているわけではないが、思ったより時間がかかり、途中から小走りで出勤した覚えがある。

 そういえば、城廻先輩とは初めて上がり時間が被った。どうやって通勤しているんだろうか。

 

 俺の言葉を聞いた彼女は、鞄からデスティニーランドのクマを取り出し「じゃあ、送っていくよー」と言った。

 よく見ると、クマの頭から延びる紐の先に黒い長方形の物体が付いている。

 

「え」

 

 俺の返事を聞かずに、踵を返すと駐車場へと進んでいってしまった。

 

 慌てて追いつくと、そこには軽自動車が一台ぽつんと置いてある。街頭に当たるその車は、黒色にも見えるし、もしかしたら紫色な気もしてきた。

 駐車場を一台空け、手前の車に隠れる形で奥にもう一つ、ミニバンが止まっている。広い駐車場の片隅に止まる車はこの2台だけなので、恐らく従業員のエリアとして使われているのだろう。線引きや目印もない為、今まで気付かなかった。

 

「いや、そんな大丈夫ですよ、家すぐそこなんで」

 

「自転車で10分って、歩くと結構あると思うんだけど~」

 

「なんで知ってるんですか...」

 

 もしかして俺の個人情報流出してる?やる気のない態度とかしたら家にピザ届いちゃうの?

 

「えへへ、実は比企谷君の書類見えちゃって」

 

 まあまあ、乗って乗ってと促される。これ以上雨空の下に女性を立たせるのも申し訳なく助手席に乗り込んだ。

 

「お邪魔します...」

 

 人のテリトリーを侵している気がして、ぼそりと呟いてしまう。

 うおっ、なにこれいい香り!なんなの女の人って車の中までいい匂いするの?香水肌に塗り込んでるの?

 

 ボンネットをくるりとまわって、城廻先輩が運転席に乗り込む。

 鈍い破裂音のような開閉音が響くと、車内は静寂に包まれる。こちらに向き直る彼女は、髪から水が少し滴り、どこか艶っぽく見えた。

 

 見てはいけないものの様な気がしてしまい、思わず顔を背ける。

 その動作を違う意味で受け取ったのか、少し身を捩り、髪を撫でつけながら少し俯く。

 

「あ、ごめんね。汗かいてるからちょっと臭うかも...」

 

「え、いやいや、すごいいい匂いですよ。むしろ先輩がいい匂い過ぎて、車の中にもフローラルな香りが充満してるくらいで...」

 

 勘違いを急いで訂正しようとして思わず捲し立てるが、言葉の途中で、先輩の顔が赤くなっていくのがわかり、言葉に詰まった。そしてそれは俺の顔面も同じだろう。

 

「あ、ありがとう...、車は消臭剤だと思うけど...」

 

 そう言い、吹き出し口を指さす。

 なんだか見覚えあると思ったら、松岡〇造がCMをしているアレが付いていた。

 

「これの匂いか...、あ、いやでも先輩もすごいいい匂いですよだーれだってしてきたときも後ろから赤ちゃんみたいな匂いがして...「も、もう、大丈夫だから!あ、ありがとう...」

 

 だめだ、死にたい。なんというか、こう、死にたい。

 誰か殺してくれ...。

 

 ミスを挽回しようとして、急にハンドルを切るものだから、逆の車線すべてを止めるような、二次災害が勃発してしまっていた。

 

 葬式の様な静寂が車内に響き、エアコンの音だけが嫌に大きく聞こえる。

 

「や、やっぱり俺「ひ、比企谷君の家あっちであってる?」

 

 エンジンをかけると、歯車が空転するような小気味いい音に続き、重厚なエンジン音が轟く。

 

「え、あ、はい。あってます...」

 

 俺の声を確認すると、シートベルトの注意と共に車を発進させる。

 急いでシートベルトをしたところで、すぐに信号に捕まった。

 

 顔を右側に向けると、前の車のブレーキランプに照らされた彼女がこちらを見て、笑っている。

 

「あはは、やっぱり比企谷君といると楽しいなぁ」

 

「俺も、城廻先輩と話してると楽しいですよ」

 

 先ほどの痴態の後も、互いの顔が朱色に染められている今は、素直な言葉がすんなりと出て来る。

 

 一夜の過ちと評してもいい(俺史)今晩だったが、俺と彼女の「楽しい」という感情には嘘も偽りも、そして間違いもない。

 そう、確信できた。

 

 




どうでしょうか、次も6月ですね。

更新頻度はまちまちになりそうですが、2ヶ月3ヶ月開くという事はないと思います。

また読んでいただけると嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6月②


6月の②です。

奉仕部の面々が登場しますので、よろしければ読んでいってください。




読んでもらえるだけで嬉しいですが、ご意見ご感想を頂けるともっと嬉しいです。

またお手すきの際にどうぞ。


 

 黴臭い。

 大学に通うようになってから雨の日の電車内の異臭を知った。

 

 連日の雨には慣れたが、この臭いに慣れることはないんだろうと何故か分かる。

 

 水滴の付く車窓から除く景色が、左から右へと流れていく。

 異臭に耐え切れなくなると、指の甲で鼻を抑えるように擦ってしまう。

 

 人間の鼻は刺激の強い臭いでも3分もすれば慣れるという。しかし、鼻を擦るなどして臭いに反応する神経をリセットしてしまうと、再び過敏な反応を見せてしまうらしい。

 

 3分も臭いを嗅いでられるかという思いと、そんなものに丸め込まれるのも癪だと感じてしまう所為でついつい鼻を触ってしまう。

 なにより俺の前にいる雨なのか汗なのか分からない液体に身を浸してきたのか、と勘繰りたくなるような容貌をしたおっさんの臭いを受け入れてしまう気がして嫌だ。

 

 ちらと周りを見渡すと心なしかしきりに鼻を気にしている人が多い気がする。

 

 いや、どうだろう。自分を映しているからだろうか。

 そう思うと視線は顔に手を近づけている人を追いはじめる。

 

 そこばかり、目に入る。

 

 

 

―――

 

 

 

「ふわぁ...」

 

 チャージしておいたICカードを通し、改札を抜けたところで生欠伸が漏れる。そこで自分が寝不足だということを思い出した。

 昨日のめぐり先輩とも痴態まで思い出しそうになるが、ついでにトラウマフォルダも燻り始めたので急いで思考を別に飛ばす。

 

 時間の確認がしたく駅に設置された大きな時計を見ると、10時55分。集合時間5分前。上等だろう。

 

「早いのね」

 

 いつの間にか横に立っていた彼女の存在に驚き身体が固まり、首だけを向ける。

 

「お、おお...5分前集合は社会行動の基本だからな」

 

「あら、社会に馴染めていない人に基本ができているとは思えないけれど」

 

 恐ろしく整った顔に微笑を称え、開幕早々毒舌を飛ばしてくる。おいおいそんなに飛ばしてると後半もたないぜ?

 

「ていうか、いつからいたんだよ...」

 

 素通りしていたりしたら申し訳ないので、一応確認する。

 

「ホームに降りたらあなたが居たのよ、同じ電車に乗っていたようね」

 

 片方の手でもう片方の肘を支え、顎に手を持っていくいつもの仕草を行いながら回想と解説をする。

 変わってないな。でも少し髪が伸びたか。

 

「そうか」

 

 少し流した前髪に大人っぽさを感じていると、俺の視線に気が付いたのか目を逸らす。が、コホンとわざとらしい咳払いをしもう一度こちらに向き直った。

 

「と、とりあえず、久しぶりね、比企谷君」

 

 そういえば挨拶がまだだったか。妖怪のように突然登場してきたため順序がおかしくなってしまった。雪ノ下先輩まじ雪女。

 

「おう、久しぶりだな雪ノ下」

 

 俺が挨拶をし終えたところで、駅内に軽快なメロディーが響き渡る。11時を知らせる音楽だ。

 空気を読むことに特化してしまうばかりに小説も国語の教科書すらも読まないことに定評のあるガハマさんが来ていないことに2人して気付き、お互いに首を巡らす。

 

 遅刻かと思ったがすぐに見つかった。柱の陰からこちらを窺っている。何やってんだあいつ...。

 未だキョロキョロしている雪ノ下の視線に重なるように腕を差し出し、指先を由比ヶ浜のいる位置に向ける。

 雪ノ下が見つけたのをキッカケに、由比ヶ浜もバレたことを察したのだろう。こちらに駆け寄ってきた。

 

「やっはろー!ゆきのん!ヒッキー!」

 

 サブレの様な笑顔を振りまき跳ねる様子はもはや犬。

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん。久しぶりね」

「おう」

 

 三者三様の挨拶を繰り出すと、由比ヶ浜は駆け寄る勢いそのまま突っ込んでくる。

 

「久しぶりー!ゆきのん!」

 

 テンションと語尾を上げながら雪ノ下に抱き着き、再会を喜ぶ。

 

 雪ノ下はというと部室のように照れる様子も邪険にする様子もなく、ただ受け入れ身を任せていた。

 灰色の雲をパズルのように敷き詰めた空の下で、彼女達の頬だけが赤く染まっている。

 

 場違い感のすごい俺を他所にイチャイチャしている彼女らから視線をはずし、雨の打ち付けるガラス張りの天井を見上げた。

 

 やはり空は俺の心を映しているわけではないらしい。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ゆきのん可愛い~!」

 

「あ、ありがとう...でも由比ヶ浜さんいくら何でもこれはちょっと...」

 

「え~可愛いのに~、次こっち着てみようよ~」

 

 えーこちら試着室前、若干一名目が腐っている不審者あり。いや、自分でしたどうぞー。

 

 軽めの朝食を取り由比ヶ浜と雪ノ下のウインドウショッピングについていくことになった俺だが、この場所は予想していなかった。今も店員さんの視線が痛い。

 ついでに言うと俺の挙動も痛い。

 

 存在というのは万人に与えられた権利と言えよう。存在の定義から考えてしまうと哲学してしまうことになるので明確にはしないが、誰にも許されたものであるはずだ。が、場所によってはその存在が否定、拒絶されることもある。女湯、女子更衣室はその最たる例で社会的に抹殺されてしまう。ルールに明記されている場所は常人ならば立ち入ることはなく、生活に不便を被ることはない。しかし、この社会には空気というものが存在する。時にそれは個人の存在よりも肥大し、飲み込む。恐ろしいのはその膨れ上がった空気に誰もが従い、疑問を出すことすら制限されることにある。

 故に俺がこの状況で店員さんに抗議の目を向けることも、社会に対する正当な自己防衛と言えるはずだ。

 

 俺は女性水着売り場の棚越しにこちらの様子を窺う店員に、抗議の視線を投げかけた。が、ひらりと躱され受話器を手に取る。

 やばい通報される...。

 

 この明記されない女性テリトリーから離れようとしたところで、見ないようにしていた背後の試着室が乾いた音を立て開いた。

 

「あれ、ヒッキーどこいくの?」

 

 元々大きな瞳をこちらに向け、歩き出そうと足を踏み出していた俺に声を掛ける。

 

「待たせてごめんね?ゆきのんなかなか気に入るのがないみたいで...」由比ヶ浜が腕に色とりどりの布を抱えて試着室から出て来る。

 

「由比ヶ浜さんがそんな露出の多いのばかり選ぶからでしょう...」

 

 同じ試着室から雪ノ下が出て来る。最近の女子は一つの試着室に二人で入るらしい、なにそれどこのゆるゆり?

 一つの試着室から2人の女の子が出て来る様子が珍しく、思わずをまじまじと見てしまう。それに気付いた雪ノ下が両腕を身体の前に組み慎ましやかな胸を隠す。

 

「比企谷君、変な想像するのはやめてくれないかしら。身の危険しか感じないわ」

 

「変な想像が何か教えてほしいもんだな」

 

 身の危険という単語に通報されたことを思い出し雪ノ下の頭越しに店員の様子を伺うが、まるで存在など全く知らなかったかのように仕事をしている。場所によっては異性を連れていることがパスポートになる場合が多い。ゲームセンターにあるプリクラコーナーも最近は女子専用やカップルOKといった男性個人を拒む文句が多くみられる。異性の存在が社会の免罪符となっているのだ。

 

「ヒッキーキモッ!サイテー!」

 

 行こーゆきのんと言いレジに向かっていく。ああ、行かないで俺の免罪符。

 

 離れていく彼女らを見て、異性免罪符は男性にしか使えないんだと思う。女性は免罪符などなくてもどこにいても大概は許される。男性トイレに女性が入り、そこに遭遇した男性が捕まるというニュースを思い出した。

 

 まあでも、その場で何があったかなんて分からないから、女性も大変だなと思いました。(小並感)

 

 

 

―――

 

 

 

「本当にヒッキー水着いらなかったの?」

 

 前を歩いていた由比ヶ浜が振り返り後ろ歩きで話しかけて来る。隣を歩いていた雪ノ下が転ばないか心配して、支えようかどうか手が彷徨っているのが見えた。

 

「ああ、別に行く用事ないしな」

 

 前向かないと転ぶぞと付け加えると、身体を反転しながらボソッと喋る。

 

「そんなの分かんないじゃん...」

 

 ぷくっと頬を膨らませた由比ヶ浜を見て、雪ノ下がフォローを入れる。

 

「女性はともかく、男性はサイズが分かればどこでも買えるからいいんじゃないかしら」

 

 ん?これは誰に対するフォローなんだ?

 

「そっか、じゃあいいのか」

 

 うんうんと頷き何かに納得したらしい。

 置いてけぼりの俺をよそに話は大学の内容になる。

 

「ヒッキー友達出来た?」

 

 ナイフが刺さった音ってどんな音なんだろう。グサッとか、ドゥクシッとかあるけどとりあえず今そんな感じの音が鳴った気がした。

 

「由比ヶ浜さん...、言ってはいけない言葉というものもあるのよ...」

 

「あ、いやそういうんじゃなくて、ヒッキーだって成長してるかもしれないじゃんっ」

 

 溌剌とした言葉を聞いた雪ノ下が確かにという様子で顎に手をやる。

 

「そうね、今のは私が比企谷君に失礼だったかもしれないわ」

 

 謝るわ、ごめんなさい。と小さな頭を軽く下げ、髪の毛が垂れる。それだけで髪の質が分かってしまう程に優雅な謝罪だった。

 俺はというと太平洋より広い心を以って雪ノ下を許すことにした。

 

「そうそう、失礼なことを言ったら謝るのが当たり前だよな。苦しゅうない」

 

 ほっほっほと胸を張りふんぞり返る。俺の心狭あ。もう琵琶湖より狭い。

 俺の言葉にピクリと反応して、雪ノ下が身体を起こす。

 

「あら、じゃあその成果の話でもたっぷりとしてもらいましょうか」

 

 妖艶とも凶悪ともとれる笑みを浮かべ、小首を傾げる。

 背筋を冷たい汗がつたい、首筋にナイフが当てられているような錯覚に陥る。どんだけ殺気出してんだよ...。

 

「いやまあ、それは追々...」

 

 とりあえず誤魔化し風化するのを待とうと歩を進めようとしたが、先ほど謝罪をした女王が立ち塞がり逃げることを許さない。

 

「時間はあるわ、沢山聞かせて頂戴?」

 

 これはもう逃げられないやつですね。

 媚びるときはプライドを捨てて媚びること、それが俺のプライド。

 

「すみません...いません...」

 

「なにが?」

 

 ふええ、怖いよお。

 

「友達出来てません...」

 

 頭を下げ、再び上げるとそこには雪ノ下の満足げな表情があった。後ろを見ると何故か由比ヶ浜までもが満足、というか安堵の視線をこちらに向けていた。

 

「分かればいいのよ」

 

 笑みと勝ち台詞を残し、歩き出す。やっぱり勝てない。まあ見栄を張った時点で負けは確定してるんですけどね。

 着いていこうとしたところで、由比ヶ浜が隣に並んできた。

 

「友達以外は順調?」

 

「俺の心配よりお前の成績の心配した方がいいんじゃないのか」

 

「あ、あたしは大丈夫だよ!?ていうか今はヒッキーの話をしてるんだけど!」

 

 話を逸らそうとしたが、そうはさせまいと踏ん張ってきた。こいつ、やれる...!

 

「まあ順調なんじゃねえか?数学使うやつは壊滅的だけど」

 

「それ順調じゃないよね!?」

 

 まじで順調じゃない...、行ってはいるが文科省の助言というか指示により最近の大学は出席に重きは置いていない。確かに出ることを重要視していては窓際社員となってしまうが(ならない)、俺の様な究極に嫌いな教科が必修科目にある場合は話が変わってくる。っべーわ...。

 

「まあなるようになるだろ、必修なんてそうそう落とされねーよ」

 

「あら、そうもいかないわよ。単位を与える割合で決めている教授もいるそうだから、まああなたの問題はそもそも点数が取れるかどうかの問題のようだけど」

 

 聞いていたのだろう雪ノ下が歩くスピードを緩め、由比ヶ浜の隣に並んだ。

 

「ヒッキー教えてもらう人も見つからなそう?」

 

 そう言われ大学生活を回顧する。が、いない。

 っべーわ、まじっべー。

 言葉に詰まる俺を憐みの視線が包む。

 

 心配をかけてはいけないという思いと戸部の依頼が頭をチラつく。

 

 まあ、情報収集しなきゃいけないしな...。

 

「一応...同じ大学に戸部と葉山がいる」

 

 案の定、驚きの顔を見せた。

 

 

 

―――

 

 

 

 ズゾゾッ、ストローの先がコップの底に辿り着き悲鳴を上げる。

 偶然通りかかったカフェを由比ヶ浜が指定し、大学での再会から今までの一通りの出来事を話した。

 

「そう、それであなたは戸部君の依頼を受けたわけね」

 

 静かに瞑目していた雪ノ下が口を開いた。

 

「いや、なんというか成り行きというか…」

 

 依頼を受けるという言葉に気恥ずかしさを覚え、はぐらかす。

 

「成り行きでもなんでも協力すると言ったのならそれは依頼を受けたことと変わりはないと思うけれど、違う?」

 

 友人問題同様に詰めて来るが、先ほどとは打って変わって優しさが滲んでいる気がする。軽蔑の視線を向けられすぎた俺の願望かもしれない。どんだけ怯えてるんだよ...。いつも怖い先生に褒められると倍嬉しいあの現象に似ていた。

 

 返す言葉が見つからず襟足を掻いてしまう。

 

「なんだよ...」

 

 彷徨わせた視線が由比ヶ浜とぶつかり、謎のにやけ顔に腹が立った。

 

「ううん、何でもないよ!ね、ゆきのんっ」

 

「そうね、何でもないわ」

 

 前の席のイチャイチャがすごい。恥ずかしくて見ていられないレベル。

 二人の共感が分からず飲み切っていたコーヒーを吸い上げまた悲鳴を上げてしまう。

 

 調子が狂い、思わず顔をしかめるとそれを察してか由比ヶ浜が話を再開させる。

 

「依頼なら私たちも手伝うよっ!」

 

 優美子達と連絡とれるのあたしくらいだろうしと続ける。

 

 実際、手詰まりだった。元々人間関係というものに疎い俺が一人で考えてもいい案が浮かぶはずもなく、正直由比ヶ浜の申し出を期待していた自分もいる。

 

「悪い、それに関しては助かる。けど俺が葉山とコンタクトを取ってみてからの方がいい。三浦の状態は知らんが変な期待はさせない方がいいだろ」

 

 言いながら、三浦の気持ちを推し量ってしまっている自分に胸やけがする。

 

「確かに葉山君の様子を私たちは見ていないから、比企谷君に任せたほうがよさそうね」

 

 頷きを返すと同時に雪ノ下も葉山の事を知らないことを再確認する。気付いていたのは陽乃さんだけということか。

 一瞬、高校3年の三浦の様子を確認しようと思ったが、待ち続けた時間、本のページをめくる音だけが響いたあの時間がフラッシュバックし言葉に詰まる。

 

 

 まあ、今じゃなくてもいいか。

 

 

 話題が少し深刻な方向に向かった所為で3人の口数が減った。奉仕部で幾度と経験した沈黙に比べれば大したものではないが、如何せんこの空気の元凶が自分だという所に問題がある。

 

 責任を取って話題を振ろうと思ったところで、俺よりも一足も二足も先に空気読み機ことガハマさんが流石の展開力を見せる。

 

「そういえばヒッキーの話が途中だったしまた質問してもいい?」

 

「好きにしろ」

 

 由比ヶ浜が話を振り、俺たち二人が聞く。そんな構図を与えてくれる彼女にはいつも感謝しかない。

 

「ずっと気になってたんだけど、ヒッキーおしゃれになった?前までそんな服持ってなかった気がするし...」

 

 そう言い彼女は品定めをするような視線を向けて来る。雪ノ下も続いて俺の頭のてっぺんから机の下の靴までまじまじと見る。

 

 そんなに見られると恥ずかしいんですけど...。

 

「あなたにしては小綺麗過ぎるわね...その調子で眼球も浄化されるといいのだけれど」

 

「悪いが初期設定を変えるには課金が必要なんだよ」

 

 ほんと隙あらば毒を吐いてくるなコイツ...。毒ヘビでもそんな吐かねえぞ、天敵が近づいてきたときくらいで、あ...(察し)。

 

「あはは...小町ちゃんに選んでもらったの?」

 

 俺と雪ノ下のやり取りに苦笑していた由比ヶ浜が割って入る。

 一色のやつ、由比ヶ浜と連絡とってるみたいだったからてっきり言ってるもんだと思ってたけど違ったか。

 

 空のカップにささるストローを弄びながら答える。

 

「いや、一色に選んでもらった」

 

 

 静寂。

 

 ん?俺今ヘブンズタイム使った?でも喧噪は聞こえてるし...。

 

 恐る恐る視線を戻すといつも通りの優しい笑顔、ではなく訝し気な4つの眼。

 あれ?どっちがいつもの視線だ?逆だったかな?

 

「ヒッキー、いろはちゃんとは遊んでるんだ...」

 

「小町さんではなく一色さんに...」

 

 二人同時に冷たい声を出す。

 ガハマさん?そんなキャラじゃないでしょ?おちついて?

 

「いやまて誤解だ。俺は悪くない小町が悪い」

 

「あら、誤解は解けないんじゃなかったかしら?解は出てるとか言って」

 

 強力なクロスカウンター。いつかの拳が返ってくるとは...。

 

「小町ちゃんの所為にするなんてヒッキーサイテー」

 

「いや、一色の誕生日忘れてたお詫びとか言って小町の策略で...」

 

 そこまで言ったところで雪ノ下がハッとした顔をする。コイツも忘れてたのか。

 しかし仕方がないと思う。本当に大学というのは今までとはシステムも人間関係もまるで変わる。それにすぐに慣れ、ついていくというのはさしもの雪ノ下と言えど難しいだろう。

 

「不覚だわ...私としたことが一色さんの誕生日を忘れるなんて...」

 

「あーでも4月は忙しかったもんねー、あたしもメールでしかおめでとう言えてないし」

 

 まあこいつ等が悪いわけではない。どっちかって言うと4月という大変な時期に生まれた一色が悪い。元を辿ればその時期に子作りを...ゲスんっ、間違えた、ゲフンッ何でもないです。

 

「なあなあになっちゃうのも嫌だし、これから一緒にプレゼント買いに行こうよゆきのん」

 

「そうね、すぐに行きましょう」

 

 あの雪ノ下が友達の誕生日を忘れただけで唇をワナワナと震わせ顔を青ざめさせるなんて(脚色だらけ)、会ったころには想像もできなかった。

 慌てふためく雪ノ下をみてそう思う。ていうかどんだけ一色の事好きなんだよ...。

 

 財布を鞄から取り出そうとする二人に続いて尻のポケットに手を突っ込んでいると、何かを思い出した由比ヶ浜が「あ」と声を出す。

 何事かと視線を向けると、先ほどの訝しむ目つきを再びこちらに向けていた。

 

「じゃあヒッキーはもうあげたんだよね、プレゼント」

 

 その発言に雪ノ下の肩がピクリと動いたのが見えた。

 

「あ、ああ、あげたぞ」

「何あげたの?」

 

 早いっ!質問が早いよガハマさん!絶対その質問するつもりだっただろ...。

 

 高校3年の頃3人で一緒に選んだ一色の誕生日プレゼントとは違い、今回のは俺の独断と偏見で選んだ為、恥部を見られる気がして言いたくない。

 何より選んだものが...。

 

「いや、別になんでもいいだろ...」

 

 聞かないふりをしているのか知らないが、顔を鞄から上げない雪ノ下さん。しかしその手は止まっていて耳を傍立てているのが分かる。心なしか耳もピクピクと痙攣している気がする。

 ほんと注意深く見ると分かりやすい奴だよな...。

 

「なんでもよくないし、ほら、被ったら嫌じゃん」

 

 ここが攻め時と判断したのか、ふらふらしていた雪ノ下が攻撃に参加してきた。

 

「そうね、あなたとセンスが被ることは一生ないでしょうけど、実用的なものだったりすると利便性を優先してしまってもしかして被ることもあるかもしれないし」

 

 待って!まだ八幡ディフェンス足りてないっ!

 

「その長台詞よく噛まずに言えるな...」

 

 とりあえず時間稼ぎだ!ディフェンスの戻りを信じろ!

 

「いいから答えてよ」

「いいから答えなさい」

 

 ふええ...怖いよお...もう無理。

 2人してオサレな喫茶店によくある小さな机に身を乗り出して来ると、威圧感というかいい香りというか片方の絶景というか...。

 

「シャ、シャーペンと髪留...」

 

 重力が発生しているかのように引っ張られる視線を剥がしながら答えたため最後の言葉が掠れた。が、二人の耳にはしっかりと届いていたようだ。

 

「「へえ...」」

 

 なにその同調...。これが噂の同調圧力というやつか。俺は屈しないぞ!嫌だ死んでも働きたくない。

 顔を寄せ合い、俺に聞こえない音量でひそひそ話を始める。

 

 あの...それトラウマが蘇るんでやめてほしいんですけど...。

 

「よし、じゃあいこー」

 

「どこに行きましょうか」

 

 一言二言だったのだろう、話し終えると席を立ってレジに向かう。

 

 置いてけぼりにされポカーンとしていると両隣の席の視線と小声の会話が辛い。くそう、ここでも免罪符が必要なのか...。

 急いで追いつき自分の分の金額を由比ヶ浜に渡す。

 

「ヒッキーお金あるの?」

 

「あ?俺だってバイトしてるから金くらいあるぞ」

 

 バイトは本当だが給料日はまだだ。しかし親父からもらったお金の余りをこっそりとへそくっているから少し余裕はある。

 

 二人の表情はまさに鳩が豆鉄砲をくらった顔だった。

 

 

 

―――

 

 

 

 雨は降り続け、夕食を終えた頃にはついに姿を見ることはなかった陽も沈んでいた。

 つり革に掴まり、太陽が沈んだであろう方向を見つめるが水滴に焦点が合っていまい、雨粒ばかり見つめる。

 

「今日は2人ともありがとう」

 

 携帯に視線を落としていた由比ヶ浜が口を開き、その彼女を挟むようにしていた俺と雪ノ下が顔を向ける。

 

「いいえ、誘ってくれ嬉しいわ。こちらこそありがとう、由比ヶ浜さん」

 

 えへへ、と八重歯を見せて笑う彼女の顔は未だ高校生の様に幼い。

 そこで電車が減速し、ふらついた由比ヶ浜がもたれて来る。再び笑い、小さな声でごめんと謝られた。

 

「またすぐ遊ぼうねっ!」

 

 お団子を揺らし、開いた扉から軽やかに降りる。

 電車の中では噛み締めるように会話をしていた彼女だが、今はもう会った時の様なはじける笑顔を称えていた。

 

「おう、そのうちな」

 

「ええ、そのうち」

 

 元気に手を振る彼女を、扉がシャットアウトする。二度と開かない。開けようと思えば開けられるが、とても勇気のいることだろう。

 進んでしまったものは止まらない。環境は変えられるし、環境は人格まで変えてしまう。

 

 ただもし、もし変わらないものがあるのだとしたら、勇気を出すのは簡単なことかもしれない。

 見えなくなるまで腕を振る彼女が、そう思わせてくれた。

 

 

 

 長い沈黙を破ったのは雪ノ下だった。

 

「ねえ、由比ヶ浜さんの誕生日の事なのだけれど」

 

「ああ、考えねえとな」

 

 二人とも、同じことを考えていたのだろう。

 今日は6月12日。由比ヶ浜の誕生日は6日後だった。

 

 俺の言葉を聞いてか、雪ノ下が安堵の様子を見せる。

 流石に忘れない。

 

 だがもうすぐ雪ノ下の最寄り駅らしく、細かな予定を立てる時間はなかった。

 

「ごめんなさい、もう駅についてしまったから、詳細は近いうちに連絡するわ」

 

「わかった」

 

 ホームに降り立ち、こちらを向くとぎこちなく片手をあげる。こういうところは変わらない。

 

 振らない腕を、下げない彼女に、心の中で変わらないと約束した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ぷはー」

 

 やっぱ風呂上がりのマッ缶はたまんねぇなぁおい。

 細長い筒を一口に煽ると、喉に刺激的な甘みが染み渡る。

 

 家に帰って小町の詰問というか尋問というかどちらにしても酷いが、帰ってマッ缶すら飲ませてくれないという拷問を受けた。

 もうリラックスモードに身体は移行してしまっている。というか今日結構歩いたし、もう眠い。

 

 ベットに身体を投げ出し、充電がついに95%以上残っていた携帯に習慣で充電器を挿す。

 枕元に置いて歯磨きしていないことに気付きながら眠気に任せようか迷っていたところで携帯が鳴った。

 

 こんな時間にかけてくるやつなどいるのかと思いながら、電話を薄目で見ると『雪ノ下』の文字。

 

 ああ、そういえば近いうちに連絡するとか言ってたな。

 

 今日の余韻に浸るのも悪くないかと思い、耳に当てる。

 

「はい」

 

『ひゃっはろー』

 

 バッというサウンドエフェクトが布団から奏でられ、思わず携帯の画面を確認する。『雪ノ下陽乃』

 雪ノ下雪乃がこんな時間に電話をかけて来るはずがなかった。

 

 眼は冷めた。

 確認か、プレッシャーか。

 

 どちらにせよ、催促であることに変わりはない。





6月の後半ではなく中盤になっていしまいました。
次回は6月の③ですが、陽乃さんと由比ヶ浜の誕生日だけでそんなに長くならないと思います。


また待っていただけると嬉しいです。

意見感想を貰えるともっと嬉しいです。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6月③

6月ラストになります。
思ったより長くなってしまいました。


読んでいただけるだけで嬉しいですが、感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。

またお手すきの際にどうぞ。


 

 横たわっていた身体を起こしベッドに腰掛ける。一息吐き、携帯を耳に当てた。

 

「何か用ですか?」

 

『聞いたよ~、雪乃ちゃんとデートしたんだって~?』

 

 妖艶さと可愛らしさが混在した声が鼓膜に響く。ノイズまじりの声でさえも人を惹きつけるのだから恐ろしい。

 

 確かに今日は出かけていたが、それは由比ヶ浜も一緒でデートというわけではない。恐らくすぐに雪ノ下と出掛けることがあると思うがわざわざ言うことではないだろう。

 

「デートではないですし、由比ヶ浜もいましたけどね」

 

 一瞬、陽乃さんが妹のスケジュールを管理するほどのシスコンかと勘違いしそうになったが(ありそうで怖い)、姉妹の仲は良好らしく今日の会話にも少しだけ登場していたのを思い出す。

 

『あはは、知ってるよ~。どう?感動の再会は』

 

「別に、普通ですよ」

 

 そう、普通だ。正直、普通に楽しかった。だから煩わしい問題を運んできた張本人を前にして語尾が強くなる。

 

 微かな沈黙があり、陽乃さんの息遣いが聞こえた。

 

「それだけなら切っていいですか」

 

『ごめんごめん、本題に入るよ』

 

 陽乃さんの声色が変わり、自分の背筋が伸びるのがわかる。

 何故か気恥ずかしくなり腰を上げて部屋をうろつく。

 

 本題というのはもちろん葉山の事だろう。4月の入学式の帰り、葉山の付き添いかなにかで訪れていた陽乃さんに見つかった俺は、喫茶店に拉致され高校3年の時の葉山の状態を探られた。

 それから特に連絡があったわけでもないが、陽乃さんの表情から簡単に解決するようなものではないのだと薄々感じてはいた。故に、コンタクトを取ってきたのだろう。

 

「葉山の事ですか」

 

 ピンポーンとスピーカー聞こえる。。

 

『そうそう、賢い子は好きよ』

 

 しかし、実際葉山に近しい関係という意味では陽乃さんの方に分がある。陽乃さん自身でもの問題解決の材料になりそうなものを揃えてきている可能性もあるだろう。

 近しいからこそ言えない事というものもあるけれど。

 

 まずは情報の擦り合わせから。もっとも彼女が有益な情報を手にしているかは別問題ではあるが。

 

「雪ノ下さんから見て、どうなんですか?」

 

 まずは曖昧な、それでいて相手の情報を引き出す質問から伺う。

 

『んー、いや、やっぱりやめよう』

 

 ん?やめる?

 

『ごめんね比企谷君、実は私は何も分かってないんだ。隼人にそれとなく聞いてみたり、偶然を装って戸部君?に話を聞こうともしたんだけどねー。彼ら、まるで自分のかさぶたを剥がされそうになるのを嫌がるみたいに逃げていくのよ』

 

 だから、無意味な問答はいらないよ、と続けた。

 

 偶然を装って美女とエンカウントとかどこのエロゲー?戸部裏山ゆるすまじ。

 

 葉山は分かるが戸部までもが話を避ける。それも陽乃さんを相手に。

 

「そうですか」相槌をうつ。

 

 陽乃さんの話を聞いて彼らの問題に対する認識を少し改める。高校生の後腐れ程度と思っていたが、人と人との関係性にしっかりと亀裂が入った問題らしい。

 

 秘密というのは知っている人間で重要性が変わる。それが大勢であればあるほど価値は下がり、意味をなさなくなる。簡単なことだ。本当の隠し事は誰にも言わないし、そうでもなければ話す。秘密の拡大率は、その内容の重要度を表す。つまり、彼らの中でその出来事のポジションは思ったより深い。

 

 陽乃さんに話さなかったということは、そういうことなのだろう。

 子供の頃のように軽々しく信用といった言葉を弄し、薄氷よりも薄い関係性を盲信していた時とは違う。神社の綺麗な石を持ってきてしまい、親にも言えず夜中に返しに行くような、自分の中にある確かな信念で行動した結果なのだろう。

 

 ならば、彼らの行動に答える事だけが、俺の選択肢と言えるだろう。それに...。

 

「じゃあ、そろそろ寝る時間なので切りますね」

 

 陽乃さんの意識が鋭くなるのが電話越しでも感じられた。挙動を誤魔化そうと、部屋を出る。

 

『私、つまらない冗談を言う子は嫌いよ?』

 

「つまらない冗談を言うやつを好きな人なんているんですかね」ベランダに出てそっと手すりに触れる。先ほどまで雨が降っていたのだろう。水滴に顔をしかめた。

 

「そういうところは嫌いじゃないけど、今は必要ないわ」

 

「そうですか?嫌じゃないなら『どうして』

 

 濡れていない部分を探し当て、体重をかけると金属の軋む音がした。

 

「依頼だからです」

 

『私がそんなへまするように見える?』

 

「見えなかったら、話してますよ」

 

 陽乃さんが息を吞むのが分かった。ようやく気付いたのだろう。前回と変わらない前のめり過ぎる姿勢。

 

 沈黙を確認し切る旨を伝えると、か弱い声が発せられる。

 

『期待して...いいのかな...』

 

 しかし、裏を返せば彼女の反応こそが彼女の中でのことの大きさに他ならない。これも本気で心配をし、本気で解決をしようとした結果なのだ。

 だから、応えなければいけない。

 

「どうでしょうね、期待されたことないんで分からないです。ただ」

 

 一息置いて、続ける。

 

「依頼は受けました」

 

 電話を耳から離し、中央下部に赤く光るボタンに指を重ねる。

 その赤色が緊急事態に思え指が固まるが、引きちぎるように持ち上げる。

 

 うなじに雨粒が一粒、二粒と当たり、少しづつ喧騒になる。

 

 空模様が陽乃さんの感情でない事だけを祈り腰を上げると、また、嫌な音が耳に響いた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「いつにも増して調理された魚の様な目をしているわね」憐れな瞳をこちらに向け雪ノ下雪乃が言う。

 

 普段なら恨み節の一つでも返すところだが、今日の目は自分でも思うが酷い。朝洗面台で自分の顔を見たときは思わずウォーキングデッドしてしまったかと思ったくらいだ。

 

「ああ、すまんな...」

 

 返す言葉もなく、受け入れるとそれを不思議に思ったのだろう雪ノ下が気遣うように言葉を選ぶ。

 

「体調が悪いなら無理にでも出てこなくてもよかったのに...」

 

「いや、ただの寝不足だ。心配すんな」

 

 本当に体調はすこぶるいいので、余計な心配を掛けまいと隣を歩く雪ノ下の方を向くと、彼女の顔がやけに近くにあった。俺の猫背がいつもより酷いのか、雪ノ下の靴がヒールなのかなどとぼんやりと考え足元を見ようと視線を下げ始めると「ちょっと顔上げなさい」と言い、俺のおでこに掌を当てて無理やり持ち上げた。

 

「っ...」

 

 そこには向こうが透けて見えるんじゃないかという程の白い肌があった。距離は...だめだ分からん。え、こいつ毛穴ないんじゃないの?睫毛なが。

 

「うおあっ」

 

 驚きに身を捩りながら距離を取る。なんだこいつどうした。ショッピングモールの通路だった為周りを窺うが幸いにも辺りは主婦が数人いる程度だった。どこが幸いなんだ...。

 

「熱はないようね。辛くなったらすぐに言うのよ」

 

 そう言ったと思えばすぐにくるりと背を向け、軽やかな足音を立てて歩いていく。

 結論、俺の猫背は酷いし、雪ノ下はヒールの靴だ。

 

 

―――

 

 

「なるほど、じゃああなたが不審者で連行された訳ではないのね」

 

「当たり前だろ。あと来たのは警察じゃなくてセ〇ムな」

 

 〇コムしてますか?セ〇ムしてました。はい、俺のバイト先の本屋はセコ〇してました。

 昨夜のけたたましいブザーを思い出すとやってしまった感が尋常じゃなく溢れ出し、穴があったら入りたい気分になる。

 

 先輩バイトが帰った後、マッ缶でも買おうと自販機に近づいたところで裏口の鍵が気になり何となくドアノブに手を掛け引っ張ると、開いた。そして防犯のブザーが鳴った。

 

 それからのことはしっかりとは覚えていない。逃げようかどうしようかおどおどしていると、シルバーの車が駐車場に入ってきて完全武装の大男二人に挟まれた。

 その大男に謝ったり指示され店長に電話を掛けて来てもらったり、謝ったり店長に処理してもらったり謝ったりと兎に角昨日は忙しかった。比企谷八幡の謝罪会見でも開いているのかという気分だ。

 

「セキュリティの事はまだ説明していなかったけど、いつか比企谷君にも鍵の管理をしてもらうから丁度良かったよ」と店長が優しく言ってくれたところで俺の涙腺は崩壊したが、深夜で暗かった為気付かれなかった。ひとりでシクシクと自転車を漕いだのはいい思い出だ。

 

 雪ノ下が眼鏡を試着しながら俺の話を聞き終わると、肩を震わせながら笑っているのが分かる。楽しそうですね...。

 

「そう...、体調不良じゃなくて安心...ふふ...」

 

 言葉を言い終わらないうちに俺から視線を逸らし、再び肩を震わせる。どんだけツボに入ってんだよ...。

 

「はあ...俺の話はもういいから。それにするのか?」

 

「ええ」笑いを噛み殺した雪ノ下がこちらに向き直り答える。

 

「由比ヶ浜にブルーライトカット眼鏡ねえ...」

 

 由比ヶ浜がここと同じ場所でポーズをとっていたのを思い出す。雪ノ下の希望で由比ヶ浜に貰ったものと同じブランドのものを同じ店で選びたいとのことだった。

 

「あら、由比ヶ浜さんも自分のパソコンを購入してレポートを作成しているらしいわよ」

 

 ”らしい”の部分に微かな疑問が混じっていることが気になるが、話を続ける。

 

「由比ヶ浜にパソコン...宝の持ち腐れじゃねえのか?」

 

 これにすると言った割には未だ試着を続けている。

 

「あなたも買ったのでしょう?」由比ヶ浜の様な阿保らしいポーズではなく、恥ずかしがりながらこちらを覗く。

 

「ま、まあ一応な...」

 

 思わず目線を逸らし答え隣の台に並ぶ眼鏡を眺める。眼鏡とは縁のない生活を送ってきたので、こういった場所は由比ヶ浜と来た時も感じたが新鮮だ。

 

「由比ヶ浜さんも頑張っているから、何らかの形で助けることができたら...」背後で小さな声が聞こえる。

 

 振り返ると二つの眼鏡を手に持ち、胸の近くに持っていっている。

 

「まあ、由比ヶ浜の事だから一個作るのにも常人の何倍もの負荷が目にかかるかもしれないしな」

 

 俺の眼みたいになっても困る。ウォーキング由比ヶ浜だ。なんだそれただの歩いてる由比ヶ浜じゃねえか。

 俺の言葉に優しい微笑みを取り戻した雪ノ下は(俺に向けている訳ではない)、二つの眼鏡を恥ずかしがりながら試着してみせ、朱色が可愛らしい方を購入した。

 

 

―――

 

 

 目的地もなくショッピングモールをぶらついていると、しびれを切らした雪ノ下が声を上げる。

 

「あなた、本当に何も考えていなかったのね...」

 

 あまりに冷たい物言いに、後ろに付いて来ているはずの女性は雪女だったかな?と思いながら速度を緩め横に並ぶ。

 

「いや、思いつかなくてな...」

 

 半分本当、半分嘘、というやつだ。考えてはいたが、陽乃さんとの電話の一件から思考に邪魔が入りしっかりと考えることができなかった。

 月曜、火曜、そしてバイトをやり過ごし今日は水曜日。偶然午前中で講義の終わる雪ノ下に誘われ由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに来たのだが、時間がなく思いつかなかった。

 

「はあ...ふわふわぽわぽわした頭の悪そうなものがいいんじゃないのとか言っていたのは誰なのかしら...」

 

「いや、選べるとは言ってないから...」

 

 いや本当にいつの話を掘り返してくるんだよ...。

 しかし、どうしたもんかなあ。

 

 腕を組み歩いていると、雪ノ下の小さな床を叩く音が止んだ。

 振り返ると視線を右に釘付けされている。つられて右側に首を巡らせるとそこには...。

 

 にゃー。

 

 ペットショップか。

 踵を返し先に進もうとするが、俺の進行方向とは垂直に進んでいく美少女がいた。

 

 あ、寄っていくんですね...。

 

 

 

 雪ノ下はガラスに鼻が付きそうなほど顔を近づけ、猫との対面を果たしている。

 

「にゃー、にゃー?」

 

 しゃがんでいる彼女の足元を見るが、今日の格好はスラックスというやつだろうか。太ももが露出する心配もなく、店内を回ることにした。

 

 カマクラの御飯の予備あったかなと考えながら歩いていると、色とりどりのリングや革が飾られているコーナーに着く。

 

「あ...」

 

 高校二年の一学期、由比ヶ浜の誕生日を祝った際の記憶がよみがえる。渡したサブレの首輪を自分の首に巻き付けアホポーズを見せた彼女の姿。

 

「決まった?」いつの間にか後ろに立っていた雪ノ下が声を掛けてきた。

 

「あ、ああ」びくりと体が強張ったが、なんとか気持ちの悪い声は上げずに済んだ。「もう少し付き合ってくれるか?」

 

「ええ」優しい微笑みで、頷いてくれる。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 6、7、8...扉の上に表示された光る数字が1つずつ増えていく。数字は増えていくが、目的の階層が分かっているとカウントダウンとそう変わりはなく、気持ちがソワソワする。いや、ソワソワしているのは俺ではなく隣に立っている女の子か。

 

 万人が万人彼女を見てソワソワしていると思う程にソワソワしている由比ヶ浜は、しきりに視線を俺の鞄に寄せては返す波のように彷徨わせている。

 

 普段荷物の少ない俺は鞄を持たない主義、というか入れるものがないだけだか、今日は雪ノ下と買いに行った由比ヶ浜の誕生日プレゼントを入れている為、大学に通う際使っている鞄を持ってきていた。

 

「なんだよ...」あまりに視線が鬱陶しいので、思わず恨み節が出た。

 

「あ、ううんごめんね?えへへ...」髪を手で梳きながら答える。

 

 なに、怒られて喜ぶとかMなの?まあ悪くないけど...。

 

「ヒッキー顔気持ち悪いよ...?」

 

 おっと危ない顔が気持ち悪くなるところだったぜ(手遅れ)。

 

「ゲフンッ、ほらもう着くぞ」誤魔化しつつ由比ヶ浜の訝しむ視線を電気の数字に誘導すると、再びソワソワし始めた。

 

 エレベーターが静かに止まり、扉の中央から光が差し込む。

 

 

―――

 

 

「いらっしゃい、すぐ用意できるからリビングで座っていてもらえるかしら」

 

 重厚感のある扉から姿を現した雪ノ下雪乃は、部屋着というにはおしゃれすぎるようなラフな格好をしていた。

 由比ヶ浜が緊張に身体を少しこわばらせながら入るが気持ちはよくわかる。何回来ても慣れない。

 

「お、おじゃましまーす」

「お邪魔します...」

 

 由比ヶ浜と共に靴を脱いでいると、雪ノ下が来客用のスリッパを並べてくれる。これがお・も・て・な・しというやつか...。

 

「ありがとう~ゆきのん」

「すまん」

 

 借りてきた猫のように大人しい俺たちを見て、雪ノ下が微笑を称える。

 

「由比ヶ浜さん、その腐った眼の深海魚と一緒だったけれど、変なことされなかった?」

 

「お...」否定をしようとして、エレベーターの思考が蘇り言葉に詰まる。

 

 その姿を見て雪ノ下の眼光が雪女のそれになった。

 

「不審谷くん、なぜ黙るのかしら...」

 

「いや、何もしてない無実だ。ていうかそれなんて読むんだ」

 

 不審者を見る視線から逃れ、由比ヶ浜に助けを求める。

 

「え、ああ、うん。何もされてないよ?」

 

 なぜ視線を逸らす。まるで俺が強要しているようじゃないか。

 

「携帯はどこだったかしら」

 

「おい待て、通報しようとするな。すみませんお願いします」

 

 クスクスと二人して笑うと、背を向け長い廊下を歩いていく。

 

 本当仲いいですね君たち...。

 

 

―――

 

 

「二人ともありがと~」

 

 そう言うと、由比ヶ浜はお腹いっぱいとばかりにお腹をさすり、ソファの背もたれに体重を預けた。

 

「俺は何もしてないけどな」雪ノ下の用意してくれた温かいお茶を啜る。あったけぇ...。

 

 実際、雪ノ下の家で誕生日パーティーをすることになり用意をすべて任せてしまっていた。悪いとは思いながらも手伝えることもあまりなく、来てから少しばかり手伝おうとしたが来賓を一人にするなと逆に叱責された。どんだけVIP待遇だよ...。

 まあでも、よくあるタスキのように本日の主役だから仕方ないか。

 

「いいえ、お口に合ったかしら」

 

「合う合う!合いまくりだよ~!」

 

 謙遜する雪ノ下に由比ヶ浜が最大級の賛辞を贈る。が、そこでガバッと起き上がりちゃんとお礼を言おうと思ったのだろうが、余計な一言を。

 

「ゆきのん!お粗末様でした」

 

 深々と頭を下げる。

 

「ゲホッ!ゲホッ...」

 

 思わず吹き出しそうになったがギリギリで飲み込む。おかげで喉が痛い。こいつそのセリフを言わなくて安心していたところで...。

 

「だ、大丈夫ヒッキー?急にどうしたの?」

 

 当の本人はと言えば呑気に俺の心配をしている。お前は自分の身の心配をした方がいいぞ。

 気管に入ったお茶を出そうと喉が頑張っているのを抑えつつ、雪ノ下の方を見ると口を抑え笑っていた。細くなった瞳がきれいな弧を描いていて少し動機が早くなる。

 

「だ、ゲホッ大丈夫だ...」未だ咳き込む俺の背中をさすってくれる由比ヶ浜の手を、なるべく優しく払う。「由比ヶ浜、お礼を言おうとしたのは分かるが意味が違うぞ」

 

「え!なんか違った?」

 

 ごめんゆきのんっと声を上げ向かいのソファに移動すると、料理長にすり寄った。

 

「由比ヶ浜さん、お粗末様というのは...」「うんうん...」

 

 失礼な事を言ってしまった、言葉を正されてしまったというような関係には見えない、まるで旅行の計画を立てるように楽しそうに雪ノ下の教えを受ける。

 

 彼女らの前に、間違いなど小さな出来事でしかないのだ。そう、2人の間には。

 

 もう1度、お茶を啜る。

 

 

「ねえ、由比ヶ浜さん...」

 

 授業が終わったのか雪ノ下が緊張気味に声を出す。

 

「なーに?ゆきのん!」と元気な声で返事をした。

 

「渡したいものがあるのだけれど...」

 

 雪ノ下の言葉に収まっていたソワソワが復活する。

 

「え、あ、うん。なにかな...えへへ」

 

 あからさまに挙動がおかしくなる。そしてそれは雪ノ下も同様。加えて俺も。

 

 これも何回やっても慣れない。気に入ってくれるかななどと考えてしまう。慣れるほど経験ないからか...。

 

「これ、つまらないものだけれど。遅くなってごめんなさい...」ソファの横に置いてあった紙袋を差し出した。

 

 見ると、眼鏡を買った店に貰ったシンプルな袋とは違っていて、由比ヶ浜の為に新しく、可愛らしい紙袋を買ったのだと分かる。

 由比ヶ浜がパッと明るい笑顔を見せると、高い声を上げ受け取った。

 

「ありがとうゆきのん!」受け取る勢いそのままに抱き着く。

 

「あ、ちょっと由比ヶ浜さん...」雪ノ下の方もまんざらでもないらしく頬を桜色に染め、抵抗ともつかない抵抗を見せる。

 

「開けていい?」「あげたものなのだから、好きにしなさい」

 

 プイッと顔を逸らしたと思えばこちらの視線とぶつかる。見られていたことが恥ずかしいのか、俺の視線が気持ち悪いのか急いで首を逆方向に向ける。前者であってくれ...。

 雪ノ下と肩を寄せ合いながら、由比ヶ浜が紙袋を開ける。

 

「わああ...、めがね?」歓声を上げたかと思えば尻すぼみになり、ついには首を傾げる。「でもこれどこかで見たような...」

 

「ええ、由比ヶ浜さんもパソコンを使う機会が多くなったでしょうし、眼の疲れにいいと思って」

 

「えへへ、ありがとうゆきのん!」

 

 喜びを露わにしているが、記憶が刺激されるのか「うーん?」と小声で唸っている。

 

 雪ノ下は喜んで貰えて満足だが、気付いてもらえなくて寂しいというなんとも形容しがたい表情をしていた。

 

 なんだこの状況...。冷めてきたお茶をまた啜り、一言。

 

「雪ノ下は使ってんのか?あの眼鏡」

 

「あ!」

 

 俺の言葉に一人は可愛らしい声を上げ、一人は恨めしいが喜ばしい複雑な視線を投げかけて来る。

 

「ゆきのんこれ!もしかして一緒のやつ!?」由比ヶ浜の眼が輝き、声が跳ねる。迫られた雪ノ下は俯きつつ頷いた。「ゆきのん!大好きっ!」

 

 既にくっついている上にさらに押し付けるものだから饅頭のように形を変える。何がとは言わん。

 

 

―――

 

 

 由比ヶ浜の要望で眼鏡をかけた雪ノ下と由比ヶ浜の視線に晒され、重罪を犯し磔にされている気分になる。いや実際このプレゼンをミスったら事実そうなるかもしれない...。

 

「はあ...、ん」

 

 ん!やる!とどこぞのタンクトップ少年のように愛想悪く差し出す。一応穴は開いてないしそもそも傘ではない。

 

「ありがとっ!」こちらは愛想よくA5ランクの笑顔で受け取る。マックの店員だったらスマイル注文して引かれる奴だ。すみません嘘つきましたそんなこと言えません。「開けていい?」雪ノ下の時と同様に律義に確認を取ってくる。

 

「あげたやつだから好きにしろ」同じように返す。と雪ノ下の視線が鋭くなった気がした。気のせいだと思おう。

 

 えへへと微笑みながら、箱のリボンを丁寧にほどこうとする。

 

「適当に切れよ...」もどかしく気恥ずかしく言い放つ。

 

「んーん、いいの」固く結ばれた箇所に難航しつつ答える。「綺麗に開けたいの」力強い受け答えだった。

 

「そうか...」

 

 雪ノ下は中身を知っているはずだが、由比ヶ浜に寄り添い一緒に開封を見つめている。

 

「できた!」リボンをクルクルと丁寧に指に巻くと、一度こちらを窺い、目だけで開けていいか問うて来る。

 

 好きにしろという意味で目線を逸らすと、先ほどまで見ていたところから歓声、じゃなく「サブレ?」という疑問詞の付いた声を上げた。

 

 恐怖で目線を戻せないでいると、中に入っている紙を見たのか小さな歓声を上げた。

 

「ブレスレットだ!」

 

 空間に活気が戻り、ひと安心と胸を撫でおろす。

 

「ありがとうヒッキー!」いつの間にか付けたそれを顔の近くに持ってきながらお礼を言われる。

 

「どういたしまして...」

 

「由比ヶ浜さん、比企谷君に貰った首輪は使っているの?」先ほどの仕返しかどうか分からないが、雪ノ下が確認をする。

 

「うん!ずっと使ってるよ!これでサブレとお揃いだっ」

 

 丸わかりとは言え、大きな声に出されると気恥ずかしい。

 

「二人とも本当にありがとう!ありがとうっ」見ると、微かに涙を浮かべている。

 

「いいえ、お誕生日おめでとう。由比ヶ浜さん」なぜかつられて涙目の雪ノ下が語り掛ける。

 

 体温にすっかり溶けた湯飲みに再び口をつける。が、もう中身はなかった。

 

 女子っていうのはなんでこう集まると涙脆くなるかねえ。といつも思うことも、彼女たちの瞳から流れるものは、とても儚く美しいものに見えた。

 

 




次は7月ですね。また待っていただけると嬉しいです。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7月

7月です。
春学期試験の月ですね。

あ、あの男が出てます。


読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


「あっちぃ...」

 

 額に汗が滲み、手の甲で拭う。タオルを持ってこればよかった。

 背の高いコンクリートのビルに囲まれているのに、てっぺんに向かう太陽は容赦なく照り付けて来る。梅雨は終わり、気温は本格的な夏に近づいてきた。服もTシャツ一枚と、自分が用いる範囲で一番薄い格好をしている。

 

 今から半袖着てたら8月9月どうするんだ...、もう皮膚しか残ってないぞ。

 

 目的の棟に着きエレベーターのある方へと足を向けようとしたが、人の列が連なっているのが見え階段で登ることを選択する。

 目指す4階へとよっこらよっこら足を動かしていると、まばらに人が上っているのが分かる。運動不足解消かと考えたが、格好や雰囲気が俺と似たようなものを感じエレベーターを嫌ったのだろうか、と勝手に想像する。足に意識を集中すると疲れを意識してしまうためいつも別の事を考えるようにしていた。

 

 エレベーターに大勢で乗るとボタンの押すタイミングとか降りるときの「すみません...」とか色々不安なことがあってあまり好ましくない。ボタン押せなかった日には上の階までやり過ごし、あたかもこの階ですよ?といった顔をしながら降りて階段で目的階まで降りるという無意味なことをしなければいけなくなる。これは電車でも同じだ、席に座ると譲らなきゃいけなくなった時に自分という人間の無力さを味わい、隣の席の人が譲った暁には人格を全否定されるというダブルパンチを喰らう。ていうか人が下りる前に電車に突撃隣の晩御飯してくるおばさんはなんなの?今朝それで打った肘が未だに痛い。

 

「ふう...」

 

 階段を登り切り一息ついた。まだ思ったより体力は落ちていない。自転車通学が少し残っているからだろうか、それとも体育で一応身体を動かしているからか。

 階段から向かってT字路の様になっている通路を左に曲がろうとしたところで後ろ、つまり俺が先ほど昇りきった階段から慌ただしい足音がする。こんな足音を立てる奴は厄介な奴しかいない。

 

 逃げるように左に曲がると、右肩に衝撃が走る。

 

「っはよー!ヒキタニ君!」

 

 トレードマークの金髪が颯爽と登場する。衝撃は戸部の挨拶らしい。随分な挨拶だなあ?

 

「お...」

 

 言葉を返す前にバタバタと走り去り、右側の教室に消える。

 驚きに立ち止まっていると左側のトイレから女子学生が出てきて、目の前を横切りながら怪訝な視線を投げかけて来る。中途半端に上げていた腕が恥ずかしくなりポケットに突っ込んだ。

 

 戸部、そしてその女子生徒が入っていった教室に足を踏み入れる。

 

 ああ、この授業は一番嫌いかもしれない。

 

 

―――

 

 

「えー、12回に渡ってやってきたこのロジカルシンキングですが、残り3回で最後の発表をしてもらいたいと思います」

 

 爽やかな口調にはっきりとした顔立ち、今シャワー浴びてきた?と聞きたくなるワックスで撫でつけられた髪型。この大学の教員ではない男だ。なんとかという会社の特別な講座で、数年前から全国の大学で取り入れ始めているものらしい。

 ロジカル論理的云々言われると両手を前に出してクルクルしてしまいそうになる。

 

「これまでは隣同士、又はその前後と少人数でのグループワークでしたが最後はそれらを生かして少し大人数でのワークをしてもらいたいと思います」

 それでは最後の席替え用紙を配るので少々お待ちください。と言い、スーツに身を包んだ男たちが動き始める。

 

 前から順番に学生の手を渡り紙が送られてくる。席替えするなら最初に紙張り出して座らせときゃいいのに...。もっとコンセプトをシェアしてデフォにしていこうぜっ!

 受け取った学生から移動が始まり、教室内が突然の喧騒に包まれる。知った顔と離れる、近づくというイベントは授業中という概念を通り越して人の心理と口を動かす。まあ競技の集団行動みたいに黙って交差されても怖いからいいんだけど。

 

 俺の今度の席は、黒板を正面にして一番右のブロックの壁際だった。よかった、教室も映画もやっぱり通路に面してると安心するよね!え、俺だけ?いやいや。

 

 頬杖をつき、横目でメンバーを確認するが見知った顔はいない。いや、俺の前の列の一番左、俺のいる位置の対角線上に見知った金髪ヘアバンドがあった。

 前の列と合わせて10人ほどでのグループワークだろうか、二列ごとに不自然な空列がありブロックが形成されている。

 

 前の講師が再び口を開き、説明を始めた。東京郊外の再開発のアイデアを出すらしい。

 

「では、各グループで好きなように始めてください」

 

「じゃあ、はじめは全員の自己紹介からでいいかな」

 

 開始の合図とほぼ同時に、俺の前にいる男が声を出した。教室内はまだリーダー決めや牽制で時間を消費している中の事で、近くのグループの数人が首をこちらに向けたのが分かった。

 

「僕から時計回りで、どうかな」

 

 グループ内からパラパラと賛同の声が上がったのを確認し、満を持して彼が口を開く。

 

「僕は玉縄、海浜総合の元生徒会長なんだ。よろしく」

 

 白い歯が、きらりと見えた。

 

 

―――

 

 

 ざわざわ、ざわざわ。あ、別に賭け事とかしてないから。

 おばちゃんから親子丼を受け取り、水を取りに行こうとしたところで奥の机から声がする。

 

「ヒキタニ君ー、水あるよー!」

 

 俺の分を取っておいてくれたのだろう、両手に持ったコップを頭上に上げアピールをしている。恥ずかしいやめろ、いややめてください...。

 戸部の隣にいる玉縄も少し困惑した表情をしていた。

 

「サンキュ」

 

 彼らの向かいに座り水を受け取る。キンッキンに冷えてやがる...!!

 

 奇しくも同グループとなった俺たち3人は、玉縄の提案で昼食を共にしている。もっとも、彼の予定ではさらに数人の参加は見込んでいただろうが。

 

「いやー、みんな忙しいみたいだべー」

 

 本当のところは分からないが、グループワーク初日に昼食を利用して討論など皆忙しくなっても仕方ないだろう。かくいう俺も戸部に連れてこられなければ急用ができたり架空のお友達と御飯に行かなきゃいけなくなるところだったからな。

 

「そうだね、残念だけど僕たちだけで少しでもアイデアのプライオリティを順位づけて、ブラッシュアップして質を高めておこう」

 

 ...はっ!おっと少し意識が高くなっていたようだすまない。で、なんだって?

 

「っべー、玉縄君超頭いいじゃん!っべー」

 

 それなー、難しい言葉使ってる人見るとすごく頭いいように見えるよねー。ただ、言葉を弄するだけなら誰にでもできる。

 

「でもあれだべ?勝手に決めると皆困るかもしれないし今日は楽しく御飯食べるべー!」

 

 どんなに簡単な言葉でも、時には言葉にせずとも必要なことは伝わる。重要なのは横文字でも第二外国語でもないのだ。

 

「そうだな。悪くないアイデアも結構あったし、俺たちだけで精査してもあんまり意味ないだろう」

 

「そ、それもそうかもしれないね...」

 

 俺たち二人の言い分に渋々納得してくれたのか、玉縄もこれ以上先ほどの話題は出さなかった。

 

「それにしても、イベントの時の生徒会長さんに会えるなんて偶然だべー」

 

「本当だね、一緒の大学に入学しているなんて思わなかったよ。運命かな」

 

 おいおいよくそんなセリフ言えるなコイツ。恥ずかしくないのか、俺は聞いてるだけで恥ずかしいぞ。

 

「まあ、僕の場合は指定校だから、少し無理して上の学校に来たんだけどね...」

 

 いつもは体の前でひらひらさせている手だが、今は照れ臭そうに髪を掻いている。AOや推薦入学というものは恥ずかしいことなのだろうか。

 

「っべー!おんなじじゃんっ、俺もサッカーで推薦貰ってこの学校に来たんだべー」

 

 そうなのかい、と玉縄の顔が少し明るくなる。

 戸部の様にサッカーに打ち込む、玉縄の様に生徒会長として頑張るなど、非凡と言っていい行動は誇っていいものではないだろうか。努力は報われるべきなどとは言わないが、何もしてこなかった人間よりは報われていいと思う。親子丼うまっ。

 

「だから勉強むずかしいんだよなあ、このままじゃ単位落としそうだべー」

 

 学部固有の教科は入門など簡単に設定されているが、一部の教科はそうでもなく、レポートのあるものや全学部共通の科目も取らなければいけない為想像していたよりも大変だ。

 でもまあ、普通に話を聞いていれば問題はない。ただし...。

 

「あはは、確かに先生によっては難しい教科もあるね」

 

 二人が話している間に自分の取っている教科を頭の中で整理する。レポート課題は全く問題なく全学共通も苦手分野は避けつつ取った。となると最大の敵は、経済数学...。こればっかりは話を聞いていても分からん。嘘です。聞いているけど聞こえてません。鼓膜が数式だけ拒否するようだ。

 

「一応理系も考えてたから数学は全然余裕なんだけどよー、レポートだけ昔から本当に苦手でさ...」

 

 戸部が頭をがっくりと落とし項垂れる。

 その言葉に記憶が刺激された。マラソン大会の時期だっただろうか。戸部との会話で出てきた理系志望というセリフ。彼に似合わないその言葉に意外だと感じたのを覚えていた。まあそれも結局は葉山についていく形で文系にしていたのだから何の意味もない。

 

「あ、ヒキタニ君って国語の成績よかったべ!?」

 

 ガバッと頭を上げたかと思えば、眼を輝かせこちらに向かって口を開く。頭の上に電球が見えそうなひらめき顔だ。

 

「え、ああ、まあ理系科目よりは得意だと思うが...」

 

 俺の言葉を聞き、軽快な音を鳴らしながら掌を合わせ拝む仕草をした。

 

「お願い!俺のレポート見てくんね?」合唱した手の向こうにチラチラとこちらを窺う瞳が見えた。「どんな風に作ればいいか分かんなくてさ」

 

「いや、俺も初めてだし何が正解かなんて分かんねえぞ?」

 

「いやいや、やっぱりここはヒキタニ君でしょお!」

 

 もはや俺の言葉など聞く耳を持たず、わっしょいわっしょいと言わんばかりに持ち上げて来る。いやまあ、悪い気はしないけども。これがいろはすだったら俺のターン無しに事が済んでいるだけマシか。

 

「いやでもなあ...」

 

 それでも人の成績に責任など軽々しく持てるものでもなく、答えに渋っているともう一度戸部の発言がフラッシュバックした。

 

「なあ戸部、経済数学受けてるか?」

 

 一応経済学部1年の必修科目だが、相手が戸部の為確認をする。

 

「取ってる取ってる!めっちゃ取ってるべ!」

 

 めっちゃってなんだ。まあいい。

 

「じゃあ俺に数学教えてくれないか?そうしてくれたらレポートの件も考える」

 

「え!マジマジ!?全然教えるって!」戸部の上体がこちらに傾き、勢いに押され思わず仰け反る。「ヒキタニ君に教えることがあるか分かんないけどさ」

 

「いや、助かる。まじで数学分からん」

 

「じゃあどうして経済を選んだんだい...」今まで沈黙していた玉縄が口を挟み、思わず顔を向ける。「あ、いやまあ学部選びなんて人それぞれだしね...」

 

 言葉が尻すぼみになり、喧騒に消えていった。今の俺の視線はあまり良いものではないだろう。雪ノ下に罵倒、ではなく叱責を浴びる気がした。

 

「法学部が第一志望だったんだよ、落ちたけどこの大学に通いたくて一応受けておいた経済にしたんだ」

 

 この場をこのまま終わらせては、本当に腐ってしまうようで何とか口を動かした。腐るのは目だけで充分だ。

 言葉を聞いた玉縄の表情が少し、綻ぶ。

 

「なるほど、ここに通いたいってことはやっぱり公務員講座が目当てなのかい?」

 

「まあな」吹聴する様な事でもない為、軽く流す。

 

「っべーヒキタニ君すげー」

 

 何がすごいのか分かっているのか分からない物言いで戸部が話す。

 

「別にすごくねえよ、それよりさっきの条件でいいのか?」

 

「おう!いくらでも教えるって!ていうかそんな条件なくてもいつでも聞いてくれていいっしょ!」

 

 友達なんだからよっ、と続けた。

 

「それ、僕も参加していいかな」玉縄が口を開く。「不安な教科結構あって」

 

「いいねいいねー!みんなで勉強するべー!」

 

 喧騒に包まれる食堂を見渡す。大きな長机に様々なグループが陣取り、いびつな形で領地を形成している。そしてその向こう、壁際には主に少人数、一人や二人の学生がいた。

 

「じゃあいつやるか決めるべっ!」

 

 戸部の呼びかけに、視線を戻すと玉縄と共に携帯を取り出している。スケジュールの確認でもするのだろう。

 そのまま視線を下げると、大きな長机。このまま右に首を向ければ別グループの占有域が広がっているはずだ。

 

 学校とバイト以外の予定はない為、あまり意味をなしていないカレンダーアプリを開く。

 

 

 壁際にいた学生が去り際、食堂全体に向けて毒のある視線を向けていた、気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 折り、折り、折り、折り込み、もう一度折る。するとあら素敵。図書カードケースの包装紙が完成しました。コツは最後で両端を内側にキュッとしながら折ることだよっ!きゅるんっ。

 

 いつかめぐり先輩が教えてくれたやり方。もちろんきゅるんは俺が感じたことだ。

 

 教えに習い、備品の一つである図書カードの包装紙を折り続けている。時刻は11時。

 

「終わったよ~」

 

 優しい声色が後ろから響き、振り返るとめぐり先輩がいた。

 

「お疲れ様です、早いですね」

 

 レジ内の仕事とレジ外の仕事の二手に分かれ、商品整理に行った先輩だったが俺がいつも終える時間の倍の速さで帰ってきた。

 

「うんっ!比企谷君とお話ししたくてダッシュで終わらせてきちゃった!」

 

 ...はっ!思わず意識が天に昇ってしまうところだった。惚れてまうやろー!

 

「そんなに早く終わらせてきても面白い話は出てきませんよ」赤くなっているであろう顔を背けつつ答える。

 

「えへへ、別に比企谷君に面白い話は求めてないからいいんだよ~」

 

「ああ、なるほど...」 

 

 暗に期待されていないような口ぶりに、心がシュンとなった。

 

「あ、悪い意味じゃなくて、存在そのものが面白いというか、ああこれも悪い意味だ、うーん」

 

 一人で頭を抱え悩み始めた彼女がおかしく、思わず笑ってしまう。

 それを見ためぐり先輩も笑った。すまん戸塚。守りたい、この笑顔...。

 

 今度戸塚に会ったら謝ろう。ほんの出来心だったんだ!魔が差して!ついカッとなって!もうしないからっ!

 おっと最後のはする奴のセリフですね。

 

 俺の隣に立ち、包装紙を折り始めためぐり先輩だったが、こちらの胸のあたりを見たかと思えば何かに気付く。

 

「比企谷君って、5月からバイト始めたよね?」

 

「えーっと、そうですね。どうかしました?」

 

「一応3ヶ月は研修期間になってるけど、比企谷君優秀だからもうとってもいいかもね、それ」

 

 というと俺の胸元にある名札を指差す。透明のケースに紙を挟む至ってシンプルなものだが、名前の横に”研修中”の文字が印刷された紙も挟まれていた。

 

「いやいや、まだまだですよ」自分の名札を見つめ、研修中の紙が確かにあることを確認する。「まだ経験のない仕事もありますし」

 

 実際そうだった、定期購読関連や手書きの領収書の発行、各種検定の受付等々と挙げればまだ出て来る。そもそもお客さんが少ないうえに、頻度の少ない仕事だと滅多にやらない為メモしておかないと忘れてしまう。ラッピングなどもあるが、時期の関係もありまだ一度しかやったことがない。クリスマスシーズンにはもっと増えるのだろうか。店内を見渡すと、増えない気もした。

 

「それは私もだよ~、私ももうすぐ入って1年半くらいだけど、まだやったことない仕事あるし」

 

「え、城廻先輩でもあるんですか」思わず聞いてしまう。

 

「あるよ~、定期購読なんて一回も!」

 

 そもそも申し込む人が少ないからね、と言う。

 

「そうだったんですか...、やっぱり紙離れなんですかね」

 

 電子書籍の台頭や違法アップロードの横行により、最近の書籍全体の売れ行きは悪くなっているという。

 

「そうだね~、でもそれ以上に本のシステムが悪いから根本的に利益は上がらないんだけどね」

 

「そうなんですか?」

 

「うん、確かに電子媒体が発達してるのは原因の一つなんだけど、本って言うのは利率が悪すぎて採算がとりにくいんだよ。書店は昔、文化が残る場所みたいな扱いだったから何もしなくても売れたんだけど、経営努力をしてこなかったせいで惰性の今の状況になっているんだってさ」

 

「なるほど...」

 

 確かに単行本一冊売れたところで利益はたかが知れている。書店がない景色に、そのうち慣れていくのだろうか。

 

「でも、このお店がなくなることはないと思うから大丈夫だよ」

 

 俺の不安げな顔を見て察したのか、心を読まれた気がしてどきりとする。

 

「世の中には赤字部門というのが存在するのだよ比企谷君」掛けてもいない眼鏡を上げる仕草をする。「まあ、本が売れたときは嬉しいんだけどね」

 

 そう言うと、店の一角に視線を向けた。釣られてそちらを向くと、本の表紙が見えている棚がある。話題の本を取り上げ、簡単なPOPを作ってアピールするコーナーだった。めぐり先輩の担当だ。

 

「比企谷君も手伝ってくれてもいいよっ」いたずらっ子の様な笑顔を向けて来る。

 

「ええ、俺にできることならなんでも」

 

 意外だったのか、めぐり先輩が少し驚いた顔をしたがすぐに顔を逸らされた。

 

「えへへ、ありがと」照れくさそうに髪を手で梳き答える。「あ」

 

 そこで何かに気付いたかと思えば、急に踵を返し去っていく。めぐり先輩がこの反応をするときは決まっていた。

 階段のある方、先ほどまでめぐり先輩の視線が置かれていた方角を見る。社員が降りてきていた。

 

 素を見せてくれている、かは分からないがそうだとしたら嬉しく思う。

 

 ただ、たまに見せる辛そうな表情はどうにも晴れない。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「悪いな、比企谷」着替えを終えシャワーを浴びてきたのだろう、金色の短髪に少し水気を含ませた美少年が声を掛けて来る。「じゃあ、生協に行こうか」

 水も滴る良い男と言うが、彼ならカピカピのミイラになろうと美形と呼ばれるのではないかと感じる。それほどまでに整った顔立ちをしていた。嫉妬も湧いてこない。

 

 石で造られたベンチに座って待っていた俺の前を通り過ぎ、生協のある号館へと進むのを確認し、その背中を追うように腰を上げる。

 

 蛇口を捻り、顔を洗おうと水を掌で受けたところで葉山に声を掛けられた。春学期最後の体育ということで、この機会を逃せば一ヵ月半を超える夏季休暇に入ってしまう。どうにかコンタクトを取れないかと思案していたところでの呼び掛けであり、自分も考えていた運転免許取得の話ということで二つ返事で受け入れた。まあ、突然のことで「お、おお」しか言えなかったんですけどね。

 

 夏に差し掛かる直前のささやかな抵抗か、雲は厚く、風が強い。今日の体育は小町の助言で持ってきていた長袖のジャージに助けられた。

 

「生協に行くって、あそこなんかあんのか?コンビニしかイメージないけど」

 

 前を行く俺より少し高い背に向け、声を出す。

 

「使ったことないのかい?学生向けの色々な手続きができるんだよ。運転免許取得もその一つさ」

 

 見返り美男か、と突っ込みたくなるほど爽やかな物言いだった。ていうかさっきから俺褒めすぎじゃね?バーカバーカ、ぶさいくっ、キンパツッ、えー...虚しいからやめよう...。

 

「ほお」

 

「本当に知らないのか」俺の反応に苦笑し、答える。「写真館もあるし、床屋もあるよ」

 

「なんだそれ、そこら辺の寂れた商店街より活気あるんじゃねえか?」

 

「どっちも利用している人は見たことないけど」

 

「なんだよ...」結局寂れてるのかよ。

 

 棟に挟まれた長い坂を上ると、少し広い場所に出る。そのまま西に進み目的の生協のある館に入る。

 バイトを始めてから帰宅時間が延び、夜中に小町と会う時間は夕食の時間だけの日が増えた。まじ寂しい。深夜の一時に帰宅をすると、ちょくちょく両親と鉢合わせすることもあった。今まで長い時間話すことのなかった親と子が、些細なことをキッカケとして積もる話を...、なんてことになるわけもなく。ただいまとおかえりが逆になるだけだった。まあそれでも生活するうえで必要な会話もある。それが今回葉山との話題でも出た運転免許だ。

 

 社畜で娘にゲロ甘な親父だが。社畜故に必要なスキルというものには敏感らしい。俺が服を買いたいと言った(実際には小町だが)時には滅多にない羽振りの良さを見せ(小町のお陰だが)、支援をしてくれた。それもまあ、言い換えれば世間体の確保と言えなくもない。駄目だこれ全部小町の先導だ...。

 

 つい先週、偶然お袋と親父の帰宅時間に被り、いつも通りすぐに就寝しようとしたところで呼び止められた。夏休み中に自動車学校に通って免許を取れとの指令だった。お金は出すからマニュアルで取ってこいと言われ、学割とかの話を聞いて来いと言われたのを思い出す。

 

「ああ、あれのことか...」

 

「ん?なんだって?」俺の突然の呟きに、葉山が振り返る。

 

「いや、何でもない」

 

 呼び止められたと思ったのか、葉山が速度を緩め隣に並ぶ。なんとなく気恥ずかしく距離を空けるが、向かいから来た学生とぶつかりそうになり、慌てて戻ると肩が触れた。

 並んで歩いていると、折本となか...なか...中なんとかさん?と出掛けた光景が思い出される。生徒会選挙の時期であり、嫌な記憶であると共に、一生忘れられない記憶になった。

 

 そうこうしている間に、ほぼほぼコンビニと言っていい生協に着いた。葉山の先導で奥のカウンターに行くと、設置されているラックから一枚のパンフレットを手に取り見せてくる。

 

「これなんだけど、近くの自動車学校がこの大学と提携していて、2人で申し込むコースが人気らしいんだ」

 

「ほお、で、そのメリットは?」

 

 人気ならばそれなりのワケがあるのだろう。

 

「割引とキャッシュバック、あとは教習の順番を二人で受けられるように融通を利かせてくれるらしい」

 

「なんだよそれ...」

 

 割引とキャッシュバックを別にする意味あんのか...。まあ、そこらへんは大学と自動車学校の間に何らかの契約があるのだろう。それよりも...。

 

「後ろの気持ち悪い制度はなんだ」

 

 最近の奴等は大学内だけでなく、自動車学校通うのにも一人で満足に受けられないのか。

 

「はは、確かに。気持ち悪いな」

 

 聞きなれない声で、聞きなれない言葉を言うものだから、思わず葉山の顔をまじまじと見てしまう。しかし彼は、そんな事意に介さない様子で先を続ける。

 

「でも、この2人で受けさせるというメリットが車校側にもあるんだ」

 

「それ以外にもか?」

 

「寧ろそれ以外の方が重要らしい」そう言うとおもむろに鞄に手を入れ、銀色のボールペンを取り出す、俺もよく知っているものだ。「印鑑持ってるか?持ってたら申込用紙書くけど」

 

「持ってるには持ってるが、まだやるとは...」

 

 言い終わらない内に、葉山はカウンターへと進んでしまう。

 どうしてこう俺の周りには強引な人しかいないのかしらっ!本当に。

 

 どうせ書くなら机が必要だろうから、生協のすぐ脇にある椅子に腰かける。鞄を開き中から筆箱を取り出す。

 

「お待たせ」

 

 葉山が戻り、向かいに座ると申込用紙を差し出してくる。

 別に待ってなどいないし、紙を取りに行かせたのだからもうちょっと態度ってもんがあるだろう。俺の。

 

「それ以外の理由ってなんだ」

 

 筆箱から葉山と同じボールペンを取り出す。一瞬、葉山の視線が俺の手を捉えたのを、捉えた。何を隠そう、この頭でっかちなペンこそ総武高校卒業記念品の印鑑付きボールペンだ。

 一万回を超える押印数。これがシャチハタクオリティ!まあ、シャチハタはインク浸透印の総称みたいになっているから本当のメーカー知らんけど。

 

「簡単だよ、友達と一緒だから頑張れるってことさ。免許の取得にはかなりの金額が必要だから、やめるなんて言う人は少ない。ただ、辞めるまでいかなくてもても授業が億劫になったり、予約が取れなかったりとモチベーションが下がることは多く、車校に通えるギリギリの期間までかかる学生というがよくいるらしい。期間が近づくと車校側もなんとか取らせようと予約を優遇したりしなければいけなくなって、業務に支障が出るんだって」

 

 ついこの間、父さんの古くからの付き合いがある人に聞いたんだ。と恥ずかしそうに付け加えた。

 

「なるほどな...」

 

 まあ、確かに理にかなっている。友人同士で勉強をして、片方が片方の足を引っ張り共倒れなどよく聞く話だ。しかし、親の金が関わってくるとそうはいかない。30万円に近い大金を我が子に預け、車校に通っている気配がないなど恐怖以外の何物でもなく、口出しが入る。それにこの用紙を見る限り、一定の条件を満たせばトカゲのしっぽ切りもできるらしいから、二人仲良く最後まで行く確率は上がり、最後まで行かなくても途中まででも安定して通ってくれたらラッキーって感じか。

 

 葉山の話を聞きながら、殆ど記入をし終えた紙を見直す。するとその先に葉山の視線を感じた。

 

「なんだ?」

 

「いや、予想よりすんなりと乗ってきたな、と思って」葉山の眼が細められる。

 

「誘っておいて随分な物言いだな」図星を突かれた。「俺みたいな奴を誘ってくれる奴なんていないからな、数万浮いてラッキーだ」

 

 視線を下げ紙に向かうが、しつこく食い下がってくる。

 

「でも、君なら馴れ合いなど捨ててでも一人で行動しようとするんじゃないのかい?」

 

「はっ、馴れ合いじゃねえよ。合理的な選択と言ってくれ。親に初期金額を請求すれば、この浮いた分は俺のものだ。逆に感謝したいくらいだね」

 

 少ししゃべりすぎたか、言ってから思う。しかし葉山は苦笑し、そのまま破顔した。

 

「はははっ、そうだな。契約だ」爽やかな顔で手を差し出してくる。「よろしく」

 

 なに?こいつ本格的に留学とか考えてんじゃねえの?ありそうだ...。

 

「オーケー」差し出された手に、ハイタッチで答える。

 

 じゃあ、スケジュールを確認しようか。と言われ携帯を取り出す。

 

「悪いが、夏休み中に講座が入ってていける日がちょっと制限されるかもしれん。大丈夫か?」

 

「ああ、そうなのか。実は俺も講座が入ってて...」

 

 既に入力されているのだろう、画面にカレンダーを表示しこちらに見えるように机に置く。

 

「ん?」なんか見たことある日付だな。

 

「どうした?」

 

「いや、なあこれ、公務員準備講座だったりするか?」

 

「え、そうだけど...よくわかったな」

 

「俺もその講座受けるから...」

 

 視線を上げると、少し驚いた表情を見せる葉山と目が合った。

 

 

―――

 

 

 地下鉄に続く階段を降りる。人のいない通路にスニーカーの乾いた靴音が響いた。通路の向こうから近づいてくるヒールの音に視線を向けると、20代だろうか、女性がこちらを見ていた。正確には葉山を。

 

 葉山の方をちらと見ると、電車の時間を気にしてか腕時計を確認していた。

 カツカツと鳴る音が一番大きくなり、徐々に小さくなっていく。通路を曲がったのか音が消え、再び乾いた音だけに包まれる。鼓膜に響き、身体を伝い、指先までささくれ立つような錯覚を覚える。

 

「なあ」

 

 彼はここを歩くような人間ではない。もっと華やかで、色があり、打てば響くような活気に囲まれているべきだ。

 

「どうして俺を誘ったんだ」単なる牽制のつもりが、止まらない。「もっといるだろう、大学の知り合いだとか」

 

 戸部とか、と声に出したつもりが出なかった。

 

「いや、いないよ」

 

 葉山の表情が、いつか見た哀しみを孕んだものになる。

 

「この大学に親しいと呼べる関係の人はいない」

 

 この大学には、の部分に引っ掛かりを覚えるが、彼の交友関係に知見はなく、流す。それよりも親しい人間がいないという言葉に意識が引き寄せられた。

 確かに、体育の授業でも特定の人物と一緒にいることは少なく、しいて言えば俺といる時間が一番長いくらいだった。しかし、葉山の名前は恐らく火曜4限の体育を選択している学生全員に知れ渡っているはずだ。それどころか、戸部と一緒に受けている英語の授業でも、後ろの席の女子生徒の会話で”法学部の葉山隼人”が話題に上がっていたのを覚えている。

 何かを投げかけるような戸部の眼と共に。

 

「馬鹿か、お前みたいなやつが人に囲まれていないわけがないだろう」

 

 知らず、口調が攻撃的になる。嫌悪感か、なぜか湧き上がる罪悪感か。

 

「はは...、まあ、俺にも色々あるってことさ」

 

 気力の灯が消えかかったようなか弱い声にも関わらず、これ以上は踏み込ませないといった力強さも感じられる声だった。

 

 改札に着くと、別の鉄道を利用するために別れる。

 

「今度会うのは講座かな。一緒に受ける友達がいないなら一緒に受けないか?」

 

「ケンカ売ってんのか...」

 

「ははっ、じゃあまた」

 

 俺の答えがない事も確かめずに、ホームに降りていく。

 

 気を抜くと、何の問題もなく、誰も困らず、誰も助けを求めていないように見えてしまう程の自然体は、落としたらすぐに割れてしまう硝子を思い起こさせた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ただいま...」

 

 春学期定期試験の最後となる金曜日を終え、帰宅した。

 少し戸部に話があった為、夕食の時間ギリギリになってしまった。

 

「おっかえりー!」リビングのドアを開けると、エプロン姿の妹が目一杯の笑顔で迎えてくれる。「テストお疲れ様!お兄ちゃんっ!」

 

「おお、さんきゅ」小町の持つフライパンからだろう、鼻孔をくすぐるいい匂いがした。「今日はなんだ?カツ丼か?」

 

「ピンポーンッ!」

 

 くるりと周り、既に食卓に置かれていたどんぶりに旨そうなカツが載せられた。卵と玉ねぎが絡み合い、きらきらと輝いているように見える。

 

「すげーうまそう」

 

 俺の月並みな感想にも、喜んでくれたのかピョンピョン跳ねる。尻尾があったら振りまくりだろう。

 

「がんばったお兄ちゃんにはご褒美をあげないといけないからねっ!」

 

「ありがとな、でもカツ丼って普通試験の前に食べるもんじゃねえの?」

 

「今日が安売りだったんだよ」

 

「お、おお...」

 

 身も蓋もないことをさらりと言われ、傷つく暇もない。

 

「ちょっと待っててね~」

 

 そう言うと、エプロンを畳み始めた。その横に行き、手を洗う。

 

「ありがとな、一週間飯作ってくれて」

 

 改めてお礼を言うことほど恥ずかしいものはない。しかし、言葉になければ分からないこともあると彼女達が教えてくれた。

 あれらしいぞ、彼氏は彼女に愛してるって定期的に言わなきゃいけないらしいぞ。そうしないとあなた本当に私の事愛してるの!?とかヒステリックされてしまう、らしい。だから俺はちゃんと伝える!

 

「愛してるぞ、小町」

 

 キリッ。決まった...、これにはヒースクリフも真っ青だ。

 

「小町はそうでもないけどありがとー!」俺の渾身のメッセージはいつものセリフにかき消されてしまった。「いいんだよ、小町お兄ちゃんより10日も早く夏休み入ったんだから」

 

 大学の夏季休暇のはじまりは遅く、8月からと言っていいだろう。その代わり終わりは遅い、遅いどころか高校時代より10日も伸びているのだ。なにこの天国。

 

「それでもだよ、9月は俺がいっぱい飯作るからな」

 

 下に掛けてあるタオルで手を拭き、小町の頭をわしゃわしゃと撫でる。

 

「えへへ、楽しみにしてるでありまーすっ!」

 

 

―――

 

 

「ごちそうさまでした」俺と同時に小町も言う。

 

 カチャカチャと音を立てながら皿を重ね始める小町を制し、机の上の皿をすべて自分の元でまとめる。

 

「いいの?」「ああ、風呂入ってこい」

 

「うーん、お兄ちゃんが洗い終わったら入るよ」

 

 俺の時間を使い、小町の時間を増やそうとしたのだが、肝心の妹には伝わらなかったらしく、頓珍漢な事を言う。

 

「なんでだよ...」

 

 妹の馬鹿さ加減には呆れたが、ニコニコとこちらを見る顔は言うことを聞かない時のもので諦める。

 スポンジに洗剤をつけ、潰しながら泡立てる。

 

 キッチンにくっつけられている食卓に座り、お茶を飲んでいた小町が思い出したように口を開いた。

 

「そういえばお兄ちゃん、大学のテストってどんな感じなの?できた?」

 

「まあ、できた、けど」

 

「けど?」

 

「思ったより拍子抜けって感じだな」

 

「どゆこと?」

 

 知らない世界に興味津々なのか、小町がオープンキッチンに身を乗り出す。

 

「いや、新しい勉強は勉強なんだけど、高校みたいに試験の為にって感じじゃないんだよ」

 

「ほお...?」

 

 なんとも歯切れの悪い俺の答えに、小町がよく分からない声を出す。まあ、分からないよな。

 

「俺もイマイチわからん、小町も大学行けば分かる」

 

 少し突き放すような言い方になってしまったかと思い、小町の表情を確認する。が、そうではないことが伝わっていたのだろう、穏やかな顔でこちらを見ていた。

 

「そっかそっか」椅子に座りなおし、コップに手を添える。「分かったら教えてね」

 

 色々、といたずらめいた顔で、八重歯を見せた。

 

「ああ、友達の作り方以外ならな」

 

「はあ...これだからごみいちゃんは...」

 

 そう言うと、俺が食器棚にしまい始めるのを確認し、リビングを出ていこうとする。扉が開く音と、小町の「あ」という声が重なり、視線を向けるとまた、いたずらめいた顔をしていた。

 

「免許取ったら、どこか連れてってねお兄ちゃんっ」

 

 捨て台詞の様に言い残し、扉が閉まる。

 

 

 明日から、夏休みだ。

 

 




 次は8月ですね。夏休みです。

 また、待っていてもらえると嬉しいです。


 ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8月①

夏休みに入りましたね、8月です。

長くなってしまいました、すみません。

「需要と供給」ですよね。

最近適当にタイトルをつけたせいで、内容が分かりづらいのでは?と気付きました。


読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


「はい、お兄ちゃん」

 

 小町が壁に掛けてあったカレンダーを取り、差し出してくる。お礼を言いつつ受け取るとボールペンを握る。夏休みは公務員の準備講座に車校、バイトと色々な予定が重なり、それに合わせて夕食などの用意も変わってくるため、リビングに共用として掛けてあるそれに書き記す。

 

 バイトは火曜、木曜、土曜の固定、準備講座は月曜、火曜、木曜とこちらも固定なため、丸一日自由な曜日は水曜、金曜、日曜ということになる。良かった...ちゃんと休みがあって...。

 

「水曜日と金曜日に車校行くの?」

 

 今日から始まる準備講座の細かな時間割とにらめっこして書いてるうちに小町も気付いたのだろう、問いかけて来る。

 

「ああ、水金とあとは、月曜の夕方以降も行けたら行く」

 

「毎週?」

 

「いや...」問われ、言葉に詰まる。もちろん体力的な面もあるが、そもそも葉山のバイトを知らなかった。

 

「いや?」急に黙りこくった俺を訝しんで、小町が上目遣いで覗き込んでくる。

 

「それも含めて、今日聞いてくる」

 

「ふーむ、小町はよくわかんないけど、無理はしないでね?」

 

 小町からすれば、夏休み中の特別講座も自動車学校のシステムも未知の領域の話だ。心配になるのも無理はない。しかし案外、飛び込んでしまえばその程度か、と思うことは世の中によくある。大学の講義もしかり、入学する前は選択をして大変だと思っていたが、実際は休みも作れるし2限からの曜日もある。

 だが、最悪を想定することは悪いことではない。その状況は避けられるし、最悪であることの方が少なく安堵する確率の方が高い。まあ、その過程は地獄なわけだが。俺のバイト先の某セキュリティ事件など、次のシフトに入る時何を言われるかビクビクして出勤したが、蓋を開けてみれば誰もそんなことがあったと知らない、俺だけが心配していたという結果だった。なぜかめぐり先輩は知っていたが。

 

「無理なんかしねえよ、悪いが講座とバイトのある日は夕飯頼むな」

 

 書き終わったことを確認し、カレンダーを元に戻すため立ち上がった小町の背に言葉を発す。

 

「あいあいさー!」ビシッと敬礼をして、ウインクを決めてくる。上げられた腕はやせ型と言えるほど細いのに、頼りになるからすごい。「あ、そろそろ準備する時間じゃない?」

 

「ああ、皿ありがとな」腰を上げ、リビングを後にする。

 

 

 部屋について一番にすることは着替え、ではなく電話だ。

 昨夜から挿されたままだった充電器を抜き、電話帳を開く。あ、か、さ...あった。名前をタップすると、暗く、赤と緑のボタンが表示された画面になる。上部にある名前は〈城廻先輩〉。

 

 基本的には問題のない講座とバイトのシフトだったが、隔週で火曜日の時間が少し変わり、夜のバイトに間に合わなくなる。その為、交代をお願いしようと思い電話を掛けるに至った。夜のバイトってなんか卑猥っ!

 会ってお願いするほうが確実かとも考えたが、めぐり先輩とシフトが被るのが最短でも木曜日であるためにこの手法に頼る。

 

『プルルルルル、プルルルルル』無機質な音だけが、鼓膜に届く。

 

 やがてその音も止み、通話が切れた。耳元で一分近く鳴り響いていたために静寂が一層静かに感じ、耳鳴りがする様な錯覚を覚える。いや、実際にしていたかもしれない。

 中学時代のトラウマが甦り、心臓の音が大きくなる。

 

 いやいや、そんな下心丸出しだった訳じゃないんだから、仕事上の用事だから。本当にその通りなのに、なぜか誰に向けるでもない言い訳が出る。

 

 もう一度、画面に表示される〈応答なし〉の文字を確認し、準備をする事にした。

 

 

―――

 

 

 携帯が鳴ったのは家を出て、自転車に跨った時だった。

 

「はい、もしもし」

 

 めぐり先輩からの折り返しであることを確認し、電話に出る。バイトの電話に出るときはお疲れ様ですが第一声だって教えられたな、でもめぐり先輩との間でそのセリフは...などと考えていると、スピーカーから発せられた声に携帯を落としかける。

 

『あ、出た。ひゃっはろー』

 

 こちらのすべてを見透かしたような笑みで、手を振る姿が鮮明に思い出された。携帯を握りなおし再び表示されている名前を確認するが、〈城廻先輩〉で間違いはなかった。

 混乱したままの頭でどうにか携帯を耳に当てる。

 

『比企谷君?あれ、めぐりこれ繋がってるよね?』そのセリフで、大体予想はついた。

 

「聞こえてますよ」冷め始めた脳みそを回転させる。

 

『あ、比企谷君だあ。ひゃっはろー』

 

「どうして雪ノ下さんが出るんですか」

 

『電話に出たのは君だよ』

 

「切りますね」

 

『えー、めぐりに用事があったんじゃないのー?』

 

「ぐ...」確かに用事はある、それを理由にこちらから電話を掛けたのも事実だ。「じゃあ城廻先輩に代わってください」

 

『どうしよっかなー』陽乃さんは焦らすような声を出す。

 

 余裕をもって家を出たが、それでも話をしていれば時間は過ぎてしまう。過ぎる時間は俺の心理を単調化させ、事を急がせる。それがいけなかった。

 

「どうすれば変わってもらえますか、何が望みなんですか」適当に終わらせようという、浅はかな言葉だ。

 

『うーん、比企谷君がデートしてくれたらかなあ』

 

「はあ、冗談はいいですから...どうすればいいんですか」

 

『冗談じゃないよ、私は本気』陽乃さんの声が、確かな芯の通ったものに変わる。『隼人の事は聞かない』

 

 鋭いが、甘い、そんな声質に圧倒され、返事ができない。とそこに耳元でガサゴソと音が鳴る。

 

『はあ...はあ...、ごめんね比企谷君、陽乃さんが勝手に...』

 

「あ、いや、大丈夫です」めぐり先輩の声に、日常に引っ張り戻されるような感覚を覚えた。

 

『それで、どうしたの?』奥でブーブーと嘆く陽乃さんの声が聞こえる。

 

「あ、バイトの事で...」咄嗟に先ほど書き記したカレンダーの記憶を引っ張り出し、交代を頼んだ。「...っていう感じなんですけど」

 

 こういう時に手帳があると便利だなと思う。電話しながらスケジュールアプリを開くにはスピーカーにしなければならず、打ち込むのも難しい。

 

『うん、大丈夫だよ!講座頑張ってね!』

 

 嫌な顔一つせず(多分)、快く受けてくれた。それどころか激励の言葉まで頂く。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 部屋で電話が切れた時のざわざわとした胸のわだかまりは消え、城廻先輩への信頼へと昇華される。百戦錬磨のぼっちも、地に落ちたものだな、と誰の声でもなく頭に響いた。

 

『あの...ごめんね比企谷君、陽乃さんが代わって欲しいみたいなんだけど...』

 

 めぐり先輩も陽乃さんの我儘に困り果てているのだろうか、今度は申し訳なさそうな声を出す。本当のところは切りたいところだったが、お願いを聞いてもらった手前、助けを無下にする訳にはいかない。

 

「代わってもらって大丈夫ですよ」できる限り迷惑ではない雰囲気を意識して伝える。

 

『ありがと、ちょっと待っててね』

 

 そう言うと、奥で二人の会話が始まるが、何を言っているのかは分からない。すぐに厄介の元凶が来た。

 

『もしもし、代わりましてお義姉ちゃんだよー』

 

「だから漢字が違いますって」

 

 時計を確認する。急げば間に合うか。

 

『じゃあ、日曜日の15時、千葉駅ねー』

 

「いや、まだ行くとは言っ...『じゃあまたっ』

 

 言い終わらないうちに、見えない回線を手で引きちぎったかの様な音を立て、電話を切られる。

 

 あっけにとられるが、覚悟はしていたためそこまでのダメージはない。恐らくボディブローよろしく後から後悔の波に苛まれるのだろうと思う。

 

 跨りなおし、勢いをつけてペダルを踏みこむ。ギアの付いていない自転車は変則がなく、壊れにくい安定性があるように感じた。

 安定、安寧、安泰、実にいい響きだ。この言葉は誰しもが求めるだろう。危険か安全か、選択できるとしても大多数の人は安全を選ぶはずだ。そしてそれは彼女も同じ。

 

 あの夜の電話、突き放したのは俺の望みではない。しかし事実は変えられず、俺の精神を蝕み続けている。与えられる安心を、与えないのは罪だろう。

 

 放棄、虐待、縋る場所を求める彼女に対して行った俺の言動はその表現が近い気がした。それほどまでに、彼女の叫びは、幼く、か弱く、脳裏に響き続けるものだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 今いる館で一番広い講義室。その真ん中あたり、左窓際の席二つに俺と葉山は座っている。視線を外に向けると、騒がしい車の往来に、人が蠢いているのが見えた。見ろ!人がゴミのようだ!

 

 陽乃さんの所為で時間を喰ってしまった俺は、自転車と電車の乗り継ぎを最高速でこなし、始業時間2分前という雪ノ下の小言待ったなし!の成績を残した。

 そんな時間に入室しては席もほとんど残っていない。注目を避けようと後ろの扉から入ったために前まで歩くことになったが、途中で目に入った金髪がそれを制す。わざわざ隣の椅子に荷物を置き、席を取っておいてもらい(頼んでない)、爽やかな笑顔で手を挙げ「比企谷」などと言われ周囲の女子の嫉妬の視線を独り占めしては(望んでない)、俺に選択肢など存在しない。

 

「~な為、えー、数的処理というのは公務員において~」

 

 バーコード頭の教員が試験の事や、公務員とは何たるかをご丁寧に説明している。公務員排出においては屈指の成績を残すこの大学だが、教壇に立つバーコードが言うような素晴らしい志を持った人物はいったい何人いるのか。社会に貢献をしたいのならそういった団体やら、企業に所属した方が直接的だろう。正体すら分からない、どこまでかも分からない、そんなものを公務だと胸を張っている方が阿保らしい。まあ、ここにいる俺が言えたことではないが。

 犬の糞を片付けて、何を救うのか。

 

「えー、では、教材に不備がないか、ざっと確認していきましょう」教員の合図で、室内が一斉に紙をめくる音に満たされる。

 

 右隣の男も例外なく、夏休みに入る前に学生窓口で受け取ってきた教材を開く。

 室内いっぱいの音が流れだした頃、俺も手を動かした。

 

「数的処理と言っても数学はほとんど出てきません」

 

 教員の言葉に続いて、順々にページを捲る。文章題、図、x,y、ん?

 

「少しは出てきますが、準備講座ということでゆっくり苦手意識を克服していきましょう」

 

 一つ、ページを捲ると、数式が現れた。あぁぁ、目がぁ、目があああぁぁぁぁ...。

 

 俺の挙動に、葉山が怪訝な反応を見せた。

 

 

―――

 

 

「お疲れ、比企谷」と、葉山が疲れていない表情で言う。

 

「...お疲れさん」

 

 講座が終わり、労いの言葉を掛け合う。体育会系ってすぐお疲れっていうよな、疲れてないくせに。

 俺の返事に満足げな表情で頷くと、机の上に広げられたものを片付け始めた。それに釣られ、俺も床から鞄を持ち上げる。

 

 この講座で使用する教材はそう多くなく、鞄も軽い。しかし今日は車校で申し込む書類が入っていた為、慎重にしまった。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 葉山の合図で、同時に席を立つ。

 

 

 人を避け、エレベーターホールとは逆にある階段を使う。葉山の先導でこちらに来たため、少し意外に感じた。

 数段下を歩く彼が首だけで振り返り、質問を投げかけて来る。

 

「本当に良かったのか?予定とか」

 

「あ?」質問の意図が汲み取れず、思わず聞き返す。

 

「返事が全部『了解』とか『それでいい』とか一言だったから」

 

 いつぞや由比ヶ浜にも同じことを言われたな。どうしてこうリア充は返信に敏感なんだろうか。まるで中学時代の俺だ。はっ、まさか葉山が俺に恋して...いややめよう海老名さんが喜んでしまう。

 

「それでいいんだから他に言うことなんてないだろ」

 

 何かあった時困るからと交換した連絡先。電話帳に『葉山隼人』の文字があることに対する違和感は未だ拭いきれていない。しかし、葉山の送ってくるメールには俺のバイトの予定も考慮された無駄のない内容しかなく、文字通り返す言葉も無かった。

 

「ならいいんだけどさ」葉山が呆れたように苦笑する。

 

 せっかく生まれた会話を無駄にする意味もなく、今度はこちらから問いかける。

 

「そういえば、お前はなんのバイトをしてるんだ?」

 

「あれ、言ってなかったか」

 

「ああ」

 

「塾の講師だよ」

 

 個人経営のところだけどね、と続けた。

 

 葉山の答えを聞くと、妙に腑に落ちた自分がいた。朝方、彼のバイトは何かと疑問を抱いてから様々な憶測が脳内で飛び交ったが、居酒屋、ネカフェ、どれも似合わないもので最終的にたどり着いたのは美容師だった(無理)。

 

「なるほどな、曜日とかは決まってんのか?」

 

「ああ、火、木、金でシフトが組まれているから、金曜日の夜だけは申し訳ないけど車校は入れられないんだ」

 

 用事など誰にもある。しかし、それを彼はあたかも自分だけが世界で一番の悪者であるかのような表情を浮かべ、謝罪をしてくる。社交辞令の様なものだろうが、深読みしなければ分からない程の感情が込められている気がした。深読みしないと分からない感情的な社交辞令ってこれもう意味わかんねえな。

 

「わざわざ謝るような事でもねえだろ、俺だって土曜の夜はバイトだ」葉山の表情に軽度の嫌悪感を抱く。「こっちまで気にしなかんくなるからやめろ」

 

「すまない」どう受け取ったのか分からないが、葉山の表情が少し緩む。ドMかコイツ...。

 

 それきり会話は途切れ、黙々と足を動かした。すぐ近くと言っていた割には15分近く歩かされ、途中から恨めしい視線を背中に放ち続けた。

 

 

―――

 

 

「はいはいお待たせしました~」

 

 50代前半といったところだろうか、年齢を感じさせないしっかりとした物言いで語り掛け、時折見せる笑顔は可愛いと感じるほど愛嬌があった。おっさんだが、表情筋年齢とかあったら多分俺負けてる。

 

「こんな感じでどうかな~?」

 

 口角をあげたまま話す姿は、やはり可愛らしい。やだ...これが噂のおっさんずラブ...。いやまだ俺10代。

 

「明後日の水曜日からもう入れれるだけ入れてみたんだけど~」

 

 それぞれに渡された用紙を手に取る。

 ちなみに今俺たちがいるのはエントランスにあるカウンターだ。後ろには、予約キャンセル待ちとやらをしている人がちらほらと長椅子に座っていた。俺たちが申し込んだコースは、予約を優先どころか日付を伝えるだけでスケジュールを決めてくれるというもので、先ほど書いた希望日から仮のスケジュールを確認する。

 

 しばらくの沈黙のあと、葉山が口を開く。

 

「うん、俺は大丈夫だけど、比企谷はどうだ?」

 

「ああ、問題ない」

 

 葉山は無言で頷く。車校の職員に向き直り、「これでお願いします」と言った。

 

「はーい、ありがとうございます」

 

 上がったままの口角がさらに吊り上がり、裂けるんじゃないかと心配になる。

 

「では次回は水曜日ですね。本日お渡しした教材は学科のある日は忘れないようにしてください。貸し出しもしておりますが、書き込みなども授業内で行いますので、お気を付けください」

 

 先ほどまでの崩した話し方から、マニュアルの様な話し方に変わり少し面食らう。

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 葉山は声で、俺は首肯で答えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ぱー、ともふぁー、ともつかない音で現実に引き戻された。壁にもたれ、時間を忘れるほど読みふけっていた本の終盤に栞を挟み、顔を上げる。するとまた同じような音。

 意識の覚醒を祝福するファンファーレにしては癇に障る。その音のした方向に首を巡らせると、駅のロータリーに一台の外車が停車しているのがに見えた。どんな野郎が運転しているんだかと運転席に目を凝らすと、ひらひらとこちらに向け手を振る陽乃さんがいた。

 何やってんのあの人...。

 

 げんなりとしながら彼女の車のある方向へ歩を進める。変な注目を浴びていないかと周りを窺うが、甲高いクラクションに意識を向けるのは一瞬の事で、既に気を留める人はいなかった。しいて言えば、高級そうな外車に乗る圧倒的な美人に目が釘付けとなっている二人組の若者が見ている程度か。

 

 その二人を見据えながら思う。今のクラクションの様に、自分の意識を持っていかれるようなことが起ころうと、大多数の人はものの10秒もすれば忘れてしまう。その他大勢のすることなどに、人は興味がないのだ。そうだと分かっていても人の目は気になり、大衆の面前でイレギュラーな事態に遭遇してしまえば、狼狽し、羞恥に溢れ、場を去る。人の評価など、一瞬の出来事で、それ以上は何も生まないのだ。

 

 目の前に近づく白い外車も、クラクションの音に目を向けた瞬間はそこら辺の成金野郎(偏見)がまた騒いでんのかと思ったが、今となっては高貴さを感じさせる佇まいだった。それこそ、彼女の様な人間を乗せるための白馬にすら見えた。

 

 俺が近づくと、助手席側の窓が下げられる。

 

「何やってるんですか」丁度下がりきった窓に顔を近づけ、恨み節をぶつける。「クラクションなんて使わなくても」

 

「いくら連絡しても気付かない君が悪いんだよー」

 

 そう言うと、助手席に伏せられていた携帯を手に取り、発信履歴を見せて来る。ギョッとしてポケットから携帯を取り出すと、数件の着信。

 しまった、と思った。昨夜、土曜のバイトでマナーモードにしていたのを思い出す。そしてバイブレーションを嫌い、ご丁寧にサイレントにしている自分を恨む。

 さらに言えば時刻は15時10分。ここに到着してから優に20分も充実した読書タイムに浸っていたらしい。

 その時には着信はなかったが、最高でも20分は待たせていた可能性が生まれる。

 

「...すみません」

 

 彼女の表情が恐ろしく、ゆっくりと視線を上げる。いや、恐ろしいのは表情ではないか。

 

「いいよ、優しい私は比企谷君を許してあげる」彼女の笑みと言葉にほっと胸を下ろしかけるが、続く言葉に息をのむ。「ただ...」

 

「ただ...?」思わず、繰り返す。

 

「君はお義姉さんの言うことを聞かなきゃいけないとは、思わない?」笑みに妖艶さを孕ませ、言う。

 

 恐れていたこと、それは陽乃さんにどんな形であれ借りを作ることだった。

 ゴクリと、何かを飲み込む音が身体で反響する。抗議の言葉か、漢字の訂正か、なんにせよ”覚悟”は体内に準備しておかなくてはならない。

 

 

―――

 

 

 西に向かい、車は国道を進んでいる。ちらと運転席に目をやれば、『美人の横顔』の検索トップに表示されても不思議ではない彼女がいた。ヒールの付いたサンダルを右足だけ脱ぎ、裸足を晒した足首からふくらはぎは細いが、太ももは女性らしさという成分を適度に含んでいるように感じる。細い腰、腕とのギャップか、シートベルトの所為か、豊満な胸が一層大きく見えた。

 

「どうかした?」

 

 俺の視線に気が付いた彼女が横目で確認してくる。胸を見ていたことがばれてしまったかと思い、どうにか誤魔化そうと慌てて視線を彷徨わせると、素足にキラリと光るペディキュアが目に入る。

 

「あ、いや、サンダル、脱ぐんですね...」

 

 だめだこれなんか変態臭いぞおい。まだ「胸大きいですね」の方が健全に聞こえる気がする。え?ちがう?

 

 国道を走る上で避けられない定期的な赤信号にタイミング悪く捕まると、陽乃さんはブレーキに掛けたままの右足を左足の太ももを少し持ち上げるようにして隠す。

 

「比企谷君のえっちー」陽乃さんの煽情的な動きに呼応するように柔らかなスカートが少し捲れ、白い肌がさらに露出する。

 

「な、なんでそうなるんですか」

 

 いやそうなるわ。現代でそれは立派なセクハラに値するだろう。バイト先のホワイトボードにも『ハラスメント撲滅』といった趣旨の注意喚起が記載された用紙が張り出されていたのを思い出した。

 髪切った?すらもセクハラと捉えられてしまう昨今、男は言動に細心の注意を払わなければならない。だから露わになった太ももなんかに負けない!八幡屈しない!

 

 気合と根性と世間体で視線をなんとか引っぺがし、青になった信号に目を向ける。

 

「あはは、比企谷君なら見られてもいいのに」

 

 絶対にからかっていると分かる口調で笑っている。ここで振り向いたら負けだろう。

 

「馬鹿なこと言っていないで、運転に集中してください」

 

 バツが悪く、助手席側の窓から過ぎ去る景色にピントを合わせては剥がされる作業に逃げる。

 

「集中してるよー、なんたって大切な雪乃ちゃんの大切な人だからね」

 

「シスコンですか...」

 

 軽口を叩き合いながらも、乗り心地の良さには驚かされる。高級外車のシートだけではない、これは運転手の技量によるものだと確信できた。雪ノ下家と車が関係すると、あまり気持ちのいい記憶は出てこないが、必ず少し年配の運転手が登場した覚えがある。

 そのイメージとはかけ離れた、スマートで清潔感に溢れるセダンタイプの車両には嫌悪感が全くと言っていいほどなかった。

 

「これは雪ノ下さんの車なんですか?」

 

 率直な疑問だった。陽乃さんらしいと言えばそうだろうし、らしくないと言えばそう思えるこの車は誰のものだろうか。大体の予測はつきながらも質問をする。

 

「ううん、これは父の車だよ」車で出かけることはあまりしないのか、カーナビをチラチラとみる。それにしては運転には慣れている様子で、彼女が分からなくなる。「父は外車コレクターでね、地下の車庫に何台も所有しているの」

 

 どこか呆れたように呟くその表情で、陽乃さんがその趣味を芳しく思っていないことが分かる。

 

「それを偶に借りてドライブしているって訳」

 

「いいんですか?」

 

 コレクターと聞くと、フィギュア然りカード然り、大切にしまいこみ、ショーケースに並べているところを想像してしまう。彼女の父親にとってそれが外車であり、車庫に値するのではないか。

 

「いいのいいの、車は乗るものでしょ、違う?」

 

「いやまあ、確かにそうですけど...」

 

「そういえば比企谷君は免許持ってるの?」カーブに差し掛かり、この話は終わりといわんばかりに会話のハンドルも一緒に切る。

 

「今車校に通ってるところです」

 

 嘘をつく必要もなく、正直に答える。ここから葉山を連想することなどできないだろう。

 

「そっか...」陽乃さんは何かを考えるように数台先の車を見つめる。「どう?順調?」

 

「いや、まだ今週通い始めたばかりなんでなんとも...」

 

 正面に向けられていたかと思えば、流し目をこちらに送っってくる。その視線の冷たさに背筋が凍った。車の中は冷房が効いているというのに、嫌な汗が噴き出すのが分かる。

 蛇に睨まれた蛙とはまさに今の俺の状態にぴったりだ。彼女の眼が爬虫類の様に吊り上がり、獲物を捉えるものに変化する錯覚を覚えた。思わず、強く瞬きをして、視界をリセットするようにと脳が緊急指令を出す。

 通常よりも深い瞬きをし終え、もう一度顔を確認する。「頑張ってね」と愛想よく激励する彼女の表情は、皆の知る雪ノ下陽乃だった。

 

 

―――

 

 

「君は映画、好きでしょ」

 

 は、の部分に含まれる断定的な言い草に、少し反抗心が芽生えた。

 

「どうしてそう思うんですか」

 

 目を合わさず、答える。

 

 国道を走ること30分、ここら辺で一番大きなショッピングモールに連れてこられた。行き先も、目的すらも聞いていなかった為、途中から拉致されているんじゃないかと思い始めた頃、この大きな建物が見えてきた。

 そして現在、モール内を陽乃さんに連れられて歩いている最中、会話に飛び出した単語でようやく目的地が分かる。

 

「読書をする人は大概、映画も嫌いじゃないよ」

 

「それは偏見じゃないですかね...」

 

「それに、比企谷君は映画嫌いになるほど観に行ってないだろうし」

 

 失礼だ、とも、正解だ、とも思ってしまう心を制御できずに、陽乃さんを見やる。抽象的な話題に抽象的な定義を乗せては、何が正しいのかなどもう分からない。大多数の人に言えることを声高々と叫ぶ占いに似ているな、と感じる。

 

「まあ、嫌いじゃないですけど」

 

「嫌いじゃない、ね」

 

 陽乃さんが口の中だけで噛み締めるように、繰り返す。それを眺めていると、彼女はなんでもないと言いたげに首を振る。

 

「最後に映画を見たのはいつ?」

 

 陽乃さんの疑問に、記憶を探る。一色...とは観ていないし、折本とは観た。とそこまで考えたところで、あの頃の葉山の表情が甦る。苦悩を抱えながらも、彼なりにもがき苦しんでいたその表情は、今の彼より遥かに健全だと思えた。

 

「そんなに前なの...?」

 

 陽乃さんの表情が、からかいを含んだものから、可哀想な生物を見つめるものに変わる。そんな目で見ないでっ。彼女の嗜虐的な視線も良いが、母性を感じさせるような瞳も良いと思いました。(末期)

 

「いや、そんなに前じゃ...」思考に風呂敷を掛けるように覆いかぶさった記憶を引っぺがし、急いで思い出す。あれは確か、「高2の秋か冬頃に観て以来ですかね」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜と映画を鑑賞し、その後サイゼで感想を言い合った記憶が暖かな気持ちと共に甦る。眩しいくらいの懐かしさに、思わず目が細まる。

 

「それは誰と行ったの?一人じゃないよね」

 

 あれえ、おかしいな後半にクエスチョンマークが見えないぞ?女子にメールを送るときは、疑問形で送ると返信が返ってくる確率が高くなるらしいぞっ。ソースは俺、次の日の朝には『ごめーん寝てたー』と(以下略)。

 

「奉仕部の依頼で、ですよ」トラウマが勝手によみがえり、その元凶を作った彼女に恨みをぶつけるよう、少し口調が荒れる。しかし彼女は意にも介さない様子で、「比企谷君、友達と映画行ったことないの?」とさらに抉ってくる。

 

 なに?なんなのこの人。トラウマ掘り返し装置なの?どこぞの全自動卵割り機より需要ないぞそれ。

 他人の家に土足、どころかわざわざ丁寧に足に泥をつけてズンズンと進んでくる。

 

 いや、ある!あるぞ!どこかのずんぐりむっくりした体のトドの所為で記憶の奥底に封印してしまっていたが、俺には輝かしいあの子との思い出があるじゃないか!

 

「戸塚とは行きましたよ」顔に自信が満ち溢れるのが自分でも分かった。

 

 面接とかで戸塚君との思い出は?と聞かれたら、一発合格ものの表情を見せてしまうまである。

 

「ああ、あの可愛い男の子ね。女の子とは?」

 

「ないです...」

 

 止めて!八幡のライフはもうゼロよ!

 ずたずたに引き裂かれた自尊心と小さなプライドを優しく胸の中にしまい込み、どうにか平静を装う。

 

「そっか、じゃあ比企谷君の初めてを貰うわけだ」彼女の笑みが、艶やかで嗜虐的なものになる。

 

 やっぱり母性よりもこちらの方がいいと思いました。(手遅れ)

 

 

―――

 

 

「では、大学生2枚でご用意しましたのでご確認ください」

 

 チケットカウンターのお兄さんから券を受け取り、時刻と座席を確認する。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 軽く会釈し、踵を返すように店員に背を向ける。

 人に運転してもらう機会など今までなかった為、ガソリン代の相場は分からないがとりあえず映画のチケット代は無理を言って払わせてもらうことにした。

「アメ車は500円玉を撒き散らしながら走っているようなものだ」と昔、父が毒づいていたのを思い出した。現代の乗用車がそのような燃費だったら売れないのではと考える。車に詳しくない為需要は分からないが、俺にそう言った後上司からの電話で「アメ車なんて課長すごいです羨ましいです」と見えてもいない課長様の虚像にお辞儀を繰り返す父親の姿がフラッシュバックした。

 

 歩を進め、壁際にもたれるようにして腕を組み、どこか遠くを見つめる陽乃さんに近づく。視線の先を追うと、大きな窓から空が見えた。穏やかな風で動かない雲は、1枚の大きな絵画かと思わせるほど優雅なものだった。

 

 視線を戻し、もう一度彼女を見る。

 

 今日の格好は、うなじが見える抜き襟、という奴だろうか。朝の情報番組で取り出たされていた気がする。そのネイビーのシャツをへその位置で結び、その下にはフレア寄りの白いスカートを履いていた。膝小僧が隠れるか隠れないかぐらいの丈だが、運転席はお尻が沈むからかさらに短くなる。というのは置いておいて、さらに足元に目を向けると黄色を基調としつつも、余計な派手さは微塵も感じないヒール付きのサンダルを履いていた。

 綺麗なラインを描く脚を手持無沙汰、この場合は脚持無沙汰というべきか、そうに交差し、手を耳に添えて揺れるイヤリングを確認している。一つ一つの仕草に気品が見えてしまうのは俺だけだろうか。

 

「お待たせしました」

 

 俺の存在に今気づいたのか、はっとした様子でこちらを覗いてくる。

 

「ううん、ありがとう」陽乃さんはお礼を述べるが、それだけでは済まず、鞄のファスナーに手を掛ける。「やっぱりお金払うよ、いくらだった?」

 

「いやいや、いいですから」

 

 鞄から財布を取り出そうとする陽乃さんの手を制す。こんな時に何だが、”美人は鞄が小さい”は本当かもしれないな、と思う。

 

「でも、後輩にお金出させるのってお姉さんとしてどうなの」

 

「俺が出せる瞬間なんて限られてるんですから、出せるときは素直に受け取っておいてくださいよ」なんとか説得しようと、御託を並べる。「無理な時はお願いしますから」

 

 小ボケのつもりが、ただのたかりに聞こえたのは俺の人相の所為か。

 

「んー、まあそういうなら」

 

 渋々納得してくれたのか、引き下がってくれた。ここでこっちが折れたら後に小町の罵声が飛んでくることが確定していたので少し残念に思う。残念に思っちゃうのかよ。

 時間を調べていたわけではなかったが、丁度良く開場時間となった。陽乃さんに飲み物を買うことを提案し、列に並ぶ。そこで彼女が時間を調節していた可能性に気付き、鼻歌混じりの彼女を横目で見る。

 

 これから見る映画はこの劇場に入ってから決めたもので、事前に相談などはしていなかった。それに一度は陽乃さんが選択したハリウッド映画と、俺の希望した邦画で意見が食い違い、「私はいつでも来れるから」という理由で俺の希望した映画を見ることになったのだ。俺もいつでも来れますよと言ったが、来ないでしょと一蹴された。

 

 まさかとは思いながらも、すべて陽乃さんの掌の上で踊らされている気がして、彼女の底知れなさに勝手に恐怖を覚える。

 

「あ、比企谷君。ポップコーンは食べちゃダメだよ?」

 

 ぱっと思いついたようにこちらを向いた彼女は、俺の視線に少し驚きながらも話しかけて来る。

 

「え、いや、別にいいですけど、なんでですか?」少し気まずく、視線を逸らす。

 

「夜御飯入らなくなっちゃうでしょ?」

 

「まあ、そうですね...」

 

 俺の家庭にか、小町にかは分からないが、気を遣ってくれているのだとは分かり、流石の社交性だなと思う。

 

「せっかくのディナーだから、美味しく食べたいしね」

 

 ニコッと微笑む顔は幼く、可愛らしさしかなかった。ん?

 

「ディナー?雪ノ下さんこの後用事あるんですか?」

 

 だとしたら申し訳ないと思う。今日の待ち合わせ時刻が午後だったのも俺のバイトを気遣っての事だろうと薄々感じていたからだ。

 

「うん、目の腐った人と食事に行くんだー」

 

 ほお、陽乃さんの周りにはよく目の腐った人間が集まるものだ。あれですしね、ぼっちキラーですもんね、魔性の。

 

 

 胸の内が少しざわざわとしたのは、なぜだろうか。

 

 

「そうですか、気を付けてくださいね」

 

 何に気を付けるのだろう。

 ざわざわが少し膨らみ、口を開きたくなくなる。

 

「あれ、小町ちゃんから聞いてない?」

 

 目の淵から何かが侵食し、視界と考えようとする思考回路が狭まっていく感覚がした。陽乃さんの声も、微かな靄がかかり始めたが、知った単語に脳が反応する。

 

「小町、ですか?」

 

「うん、言っておいたはずなんだけどなあ」細い腕を組み、顎に手をやる仕草は、瓜二つに見えた。「今日、夜御飯に小町ちゃんのお兄ちゃん借りるねーって」

 

「え」

 

 陽乃さんは、最初と変わらない笑顔で、ずっと語り掛けてくれていた。

 

「ああ、目の腐ったって俺の事ですか...」

 

「そうだよー」と言い、彼女はクスクスと笑う。「こんな目をした人、そうそういるはずないじゃん」

 

「さいですか...」

 

 店員の呼び声で、カウンターに着く。いつの間にか先頭にいたらしい。それぞれに注文を口にして、陽乃さんの方が多く払う状態を何とか回避し飲み物を受け取る。

 会計時に取り出しておいた映画のチケットを陽乃さんに渡す。

 

「楽しみだね~、お願いしま~す」

 

 陽乃さんが入り口前の店員にチケットを渡し、ちぎられた半券を受け取る。その店員は女性だったが、陽乃さんの姿を見るなり尊敬や羨望の色が瞳に浮かんだのが分かった。そして、その後の俺を見る残念な目も。

 

 ごめんね、俺で、店員さん。

 逃れるように目的のスクリーンを探そうとすると、視界の端で何かが動いた。

 

 ぎゅっ。

 

「なっ」

 

「早く行こっ!ダーリン!」

 

 素早かった。俺の右腕を上半身全体で抱え込むようにし、抱き着いてくる。

 うっわやんわらけええええぇぇぇぇぇ...。じゃなくて。

 

「ちょっ何してんすか」

 

「早く行こーよー」

 

 制止も聞かず、引っ張っていく。その寸前、俺の背後に視線を送ったのを見逃さなかった。

 ズルズルと引っ張られながらも後ろを振り返ると、先ほどの女性店員の口がだらしなく半開いているのが見えた。まるで目の前で一つ概念を持っていかれてしまったかのような表情だ。

 

 目的のスクリーンの扉まで到着して、ようやく掴まれていた力が緩む。が離してはくれなかった。

 

「いや、ほんと何してるんですか...」

 

「んー?」とぼける仕草は外面100%だったが、俺の訝しむ視線に気が付くと語尾を引き締め始める。「勝手にはかられるの、そろそろうんざりしちゃって」

 

 そう言う彼女の顔は、今日一番、裏表のないものに見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 いつだろう、映画を観る前には消えていただろうか。胸の中のざわざわとした黒い影は、正に見る影もなく霧散していた。今もあの瞬間の感覚を思い出そうとしているが、指先がかする気配もない。

 

「着いたよ、比企谷君」

 

 右側から聞こえた声に窓の外を見渡すが、目の前には巨大なホテルしか見えない。え、ここ?

 近づくと天辺が見えないほどの高さを持つそのホテルは、誰しもが聞けばわかる名前のものだった。周りには噴水があり、湿気がすごそうだなと思いました(小並感)。

 

 回転扉の前に車を停め、陽乃さんが外に出る。

 俺も出ようかと迷い、シートベルトだけ外しておいた。

 

 タキシード姿の白髪紳士が陽乃さんと話をして、何かを受け取った。すると車のフロントを回り、運転席に乗り込んできた。目が合う。

 

「...よろしいですか?」

 

 なにが?

 

 助けを求めるように彼女を見ると、お腹を抱えて笑っている。

 え、どういうこと。降りればいいの?

 

 何が何だか分からないが、とりあえず降りて扉を閉める。すると車は発進していき、少し先の地下駐車場と思しき入り口に消えていく。ああ、なるほど。

 

「すみません...」

 

「あははは」手の平を額に当てるようにして笑っている。「ごめんごめん、ふふ...じゃあ行こうか」

 

 堪えきれない笑いを無理して押し込んでいるが、肺が痙攣しているかのように空気が漏れ出す。

 さっきのは訂正だ。今が今日一番いい顔をしている。

 

 

―――

 

 

「ごちそうさま」陽乃さんが口元を拭き、言う。

 

「ごちそうさまです...」

 

「どう?口に合った?」

 

 この食事中だけでも何度目かのセリフがまた飛び出した。

 

「すごくおいしかったですよ」

 

 これまた何度も同じセリフを返す。同じことしか言わないから、同じことを聞いてくるのかもしれないなと思う。

 

 エレベーターの扉が開いた先は、地上37階のレストランフロアだった。

 正装をしている従業員しか見ていなかった為、自分の格好に不安を募らせながら上がってきたが、店のコンセプトなのか客層なのかオフィスカジュアル程度の姿をしている客の方が多かった。さらに言うとホールも通らず、夜景の見える個室に案内されたため、どんな格好でも問題はなさそうにも思えた。

 今日の服は小町の選択でジャケットスタイルだった為、落ち着いた雰囲気の店に相違はないようにも感じたが、小町は知っていたのではと少し恨む。

 

 恐らく場違いが服を着て歩いているように見えただろう俺とは違い、カジュアルながらも気品を兼ね備えた目の前の彼女は,バックの夜景すら従えているのではないかと錯覚するほどだった。

 

「本当にいいんですか?御馳走してもらっちゃって」

 

「もちろん、お祝いだからね」

 

 大学祝いもしてなかったし、と続ける。

 

「なんかすみません...」

 

「そこは、ありがとうございますだよ」

 

「ありがとうございます...」

 

 俺の言葉を聞いた彼女は満足げに頷き、右手に掲げたワイングラスを一口煽る。

 

「でも、そうだなあ...」グラスの中の液体を遊ばせていた彼女だったが、視線だけをこちらに向け、語り掛けて来る。「そっち、行ってもいい?」

 

「え、いいですけど...」言いながら、自分の左側をちらりと見る。

 

 椅子とソファの間の様な特殊なそれ、面倒だからソファと呼称させてもらうが、二人が腰掛けられるように作られていた。この個室にはそのソファが一つの机を挟むように設置されており、最大4人で利用できるらしい。

 食事の際は対面であったが、夜景でも観たいのかと思い少し右側にずれ一人分のスペースを開ける。

 

「ありがとう」

 

 既に横に来ていた陽乃さんが俺の隣に腰掛ける。ソファが沈み、またスカートが少し捲りあがる。が今度は手で押さえるようにして隠された。べ、別に残念じゃないし。ほんとだよ?ハチマンウソツカナイ。

 

 彼女はこちらに持ってきていたワイングラスの中の紫色に輝く液体をまた一口、煽る。

 眼下に広がる夜景は、圧巻の一言だった。

 

 そこで左肩にコツンと何かが乗った感触がした。何だと思う前に、袖をまくっていた腕に垂れた髪が軽くかかり、頭だと分かる。

 

「ちょ...」マテヨ、と頭の中で唱える。この時はまだ余裕があった。

 

 陽乃さんは黙ったままだ。

 

「雪ノ下さん、それほんとにお酒じゃないですよね?」いつの間にか机に置かれた空のグラスを右手で指さし、聞く。「酔ってます?」

 

「酔ってないよ。前にも言ったでしょ、酔えない。君もね」

 

 それにお酒じゃないし、これ。と視線を眼下の星空に固定したまま、力の抜けたような声で言う。

 

 それきり静寂が残った。陽乃さんの少し荒い息遣いだけを、耳が敏感に拾い、動悸を早める。

 良くないと思いながらも、身体が動かない。いや、そんなことはないのだ。緊急の事態でもない限りそんなことはない。頭のどこかで良いと思っているのだ。求めてはなくとも。

 

 先に口を開いたのは、陽乃さんだった。

 

「今日の映画、面白かった?」

 

「え、ああ、まあ、面白かった、ですよ?」

 

 嘘だった。

 

「嘘」

 

「はあ...いやまあ、そうですね、原作の方がよかったですね」

 

「大人になるとね、利害関係で人をみることが多くなるの」

 

 突拍子もない内容に、頭を働かせ、見つける。今日の映画での内容だった。

 

「子供の頃はいいのよね、すべてが綺麗で」

 

 

 

 映画に登場した大学生の男の子は、いじめられていた過去があり不登校となったと最初は言っているが、実はいじめよりも、成績が落ち始めたことの方が大きな理由だった。それ故、友人関係は冷え切ったが、瓦解することはなく、遊びにも誘われていたらしい。

 

 

 

「男も女も関係なくて、休みの時間はドッヂボールをして」

 

 陽乃さんの記憶だろうか、先ほどまで夜景を見ていた彼女の瞳が、遠い過去を見るものに変化する。

 

 

 

 ただその男の子は、2度と遊ぶことはなかったという。

 理由は、『汚いものを見たくなかった』から。

 

 

 

 そこで陽乃さんが体勢を直し離れるかと思ったが、さらに腰を近づけ、肩に手を回してくる。

 左を見れば、息がかかる距離に顔があるはずだ。

 通常ならば引きはがすところだが、陽乃さんの状態が気にかかるのと、身体が硬直しているのとで首すら動かない。頭にあるのは、映画のワンシーンのみだった。

 

「ねえ、男の人にとっての”利”って何かわかる?」

 

 陽乃さんの言葉に、艶めかしさが乗る。嗜虐的ともまた違う、背中をなぞられるような声色だった。

 

「な、なんでしょうね...」答えなど想像がつくのに、そんなことを言う。

 

「ふふ...身体だよ。からだ」

 

 肩に回された手が鎖骨と首筋に添えられ、びくりと体が反応する。

 可愛い、と陽乃さんが耳元で囁いた。

 

 

 

 その男の子は、『歩むはずだった人生のルートから外れることで、その道筋を客観的に見ることができた』と言う。故に、彼ら彼女ら汚れていく様子がよく分かったそうだ。そして、自分も。

 

 

 

「だから、比企谷君は好きなんだあ。大人で、子供で、すごくかわいい」

 

 その言葉は、確信犯的に俺の耳に届けられ、脳に染み渡る。

 そこで限界が来た。

 

 陽乃さんの両手首を持ち、彼女の顔の横で小さく万歳をさせる格好にする。

 

「わあ、大胆だねー」

 

「やっぱり酔ってるでしょう」

 

「だから酔ってないって」むっとした表情を見せる。が、「あ、でも、雰囲気には酔ってるかも。はじめて」と言うと少し嬉しそうな顔をした。

 

「もう出ましょう。頭冷やした方がいいです」

 

 有無を言わせないようにさっさと立ち上がり、行こうとするが彼女が立たない。

 

「立たせて?」振り返ると、上目遣いで万歳をするように手を伸ばしている。

 

「はあ、まったく...」

 

 手を握るのは恥ずかしく、手首をつかみ立ち上がらせる。この逡巡さえも見透かされるようで、どうにも居心地が悪い。

 

「きゃっ」

 

 目を逸らしたせいで、油断していた。

 恐らく躓いたフリで、俺の胸に飛び込んでくる。反射で支えるが大して体重はかかっていない。その代わり、握るように俺のジャケットを掴む指が微かに震えているのが見えた。

 

「...も欲しいよ」

 

「え?」

 

 小さく、しかし強く訴えられた言葉は届いていたが、思わず聞き返す。しかしそれには答えず、俺から離れると向かいのソファから鞄を取り、扉へ向かう。

 

「ごめん、行こうか」

 

 こちらに顔を向けず、行ってしまう。

 

 

 

 その男の子は、その選択を全く後悔していないという。

『思い出を、綺麗なままで保存しておけるから』と。

 

 

 

―――

 

 

 街灯が二秒後の未来を照らす。どのアーティストの曲だったか。

 猫背の街灯が等間隔にオレンジ色の明かりを垂らし、その光の中だけ他の夜より暖かそうに見える。いや、実際に調べれば誤差の範囲で温かいのかもしれない。

 

「でね、雪乃ちゃんがねー」

 

 先ほどから右側の運転手は当り障りのない話を永遠と続けていて、もはやその道のプロなんじゃないかと思う。俺の返事がなくても成立するまであった。いやこれ、ただのシスコンのプロだ。

 

「雪ノ下さん」

 

 話を切られ、陽乃さんの反応が止まる。

 

 あのような状態を見ては、もう無理だった。彼女に使う言葉は、虐待、がやはりふさわしく思えてしまう。それほどまでに追い詰められていたのだろう。

 いや、そう思わなければ、自分で自分を律することができない気がした。

 

「葉山は...」

 

 それで察したのか、軽く息を止めたのが分かった。

 

 

 

 

 

「そっか」

 

 話し終えたのは、もう家の近くだった。

 

「すみません、こんなところまで送ってもらって」

 

「ううん、それは全然いいのよ」

 

 長い話をした所為か思ったより消耗していて、彼女の言葉に含まれる意味すら脳が考えなくなった。

 

「あ、その家です」

 

 ちょうどよく右手に家が見え、大海原に見つけた一つの港のような安心感を覚える。鉄の塊を岸に着け、アンカーを下ろすようギアを入れた。

 

「今日一日、ありがとうございました」言ってから、半日も一緒にいなかったことに気付く。

 

「こちらこそありがとう、楽しかったわ」

 

 当たり障りのない会話を済まし、ドアを開け外に出る。猫の様に伸びをしたかったが、何となく失礼に値する気がして我慢をした。

 フロントを回り、車の右側、家の玄関がある方へと進む。

 

 運転席の窓が開けられ、手招きとともに「耳貸して」と言われる。

 

 レストランでの一件が頭をよぎり躊躇するが、陽乃さんがボソッと「遅刻...」と言い始めたので、仕方なく耳を近づける。

 

「隼人の事だと勘違いされると思っていたけど、やっぱりそうなったからちゃんとするね」

 

「え、ちゃんとって...」

 

 そこで、陽乃さんの右手が俺の頬に、左手は襟足近くに添えられる。

 時間が止まるようだった。

 右頬に柔らかい唇が触れ、離れる。

 

 寝違えたかのように固まる首をどうにか向けると、口元を恥ずかしそうに隠す彼女がいた。

 

「誕生日おめでとう。はじめてだよ、私の」

 

 いつもの余裕な表情になりきれず、赤く染まった頬は可愛らしい、そう思った記憶だけは鮮明に覚えている。

 その日の記憶は、そこで途切れている。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は、「静ちゃんの事、笑えないなあ」と呟いた。

 

 目の前に表示されるメーター。速度を示すその針が、じりじりと時計回りに進む。数字が増えれば増えるほどハンドルは生き物のように意思を持ち始め、両手に力を込める。

 

 いつからだろう、夜の高速を走るようになったのは。

 

 左手をハンドルから離し、唇に触れる。不思議と恥ずかしさはなかった。

 初めてのチュウ、などと謳う曲もあったが、想像していた程でもないなと感じる。

 

 はじめて異性として人に興味を持ち、キスをしたいと身体が欲求したのだから、自分の恋愛観にそぐわないファーストキスだなと、雪ノ下陽乃は思う。

 それよりも、レストランでの一幕が何度も頭の中で再生され、顔に熱がこもる。彼の身体に触れるのは確かな自分の意志での事だったが、あんなことを言うつもりなどなかった。

 

『本物なんてものがあるなら、私も欲しいよ』

 

 足がもつれ、意図せず彼に体重を預けてしまい、思考回路ももつれてしまった。

 思い出してしまい、また顔が熱くなる。

 何度も過ぎ去る暖色の街頭が熱を持ち、こちらを照らしているのではないかと思った。

 

「あんな甘え方...」雪ノ下陽乃は、バックミラーに映る自分に向け、恨めしそうに呟いた。

 

 しかし、今夜の出来事で雪ノ下陽乃の意志は固まった。あれは彼女らに向ける、開戦の合図とも取られるだろう。

 

「やっぱり、雪乃ちゃんにはもったいないね」

 

 もう一度、鏡の中の自分に呟いた。

 




次も8月ですね。

デート回、プール回、需要と供給...ですよね...。

また、待っていただけると嬉しいです。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8月②

8月の②です。

13巻が出ましたね。どこかの生徒会長さんが成長してしまっていましたが、とりあえずスルーします。すみません。

今回も長くなってしまいました。
供給…。

読んでもらえるだけで嬉しいですが、意見感想などをいただけるともっと嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


 

 

 比企谷小町は困惑していた。一人残されたリビングのソファでカマクラを膝に乗せている。

 兄の帰還と共に連行、拘束、尋問を予定していたのだ。しかしそれは未遂、にもならず計画不実行のまま終わりを迎えてしまった。

 携帯の画面を表示させ、時刻を確認した。

 

『0:12 8月8日 月曜日』

 

「はあ」小町は思わずため息をつく。

 

 愛猫の頭をぐりぐりと撫でまわすと、力が強かったのか抗議の鳴き声と共に軽やかに床に降り、立ち去って行ってしまう。

 ショートパンツから伸びる太ももにあった温もりが消え、一人であることを今一度実感した。

 

 兄は成長していた。中学生の頃、人間に怯える野犬の様な振る舞いは見る影もなく今では複数のお姉ちゃん候補を侍らせるという荒業にも出ていた。

 もっともその自覚は”それほど”ないようだが。

 

 今日もその候補の一人、雪ノ下陽乃とのデートで間違いはなかった。

 ダークホース、台風の目、もしくは大穴。

 勝手に候補に加え、勝手に順位を低く見積もっていた。

 

 帰ってきた兄の様子を見れば何かあったことは明白だ。

 

 力のない「ただいま」がいつもの疲れからではない事に小町は訝しんでいたが、「おかえり!」とかまわず駆け寄った。

 対応は塩。ド塩。は〇たの塩よりしょっぱい。知らないけど。

 

 リビングを出て階段を上がる。兄がシャワーを浴びた気配はなかった。自分の部屋に上がったきり物音もしない為眠ってしまったのだろうかと考えた。

 階段を見るように顔を下に向け、自分の身体を見る。

 

 思い出すのは高校受験。兄の様々なサポートを受けたが、その過程で妹離れを考えていた。結果として全く離れられていないから、その思惑は失敗に終わったわけだが。

 あれから身長も伸びた。胸も少し大きくなった。体重も、恥ずかしながら少し増えた。

 自分で考え、二の腕をつまむ。うん、まだ大丈夫、と思う。

 

 兄の目線に近づいたことは嬉しく、くっつくたびに自慢げに鼻を鳴らすと怪訝な表情で頭を抑え付け縮めようとしてきた。それが楽しく、何度も繰り返してしまった。

 

 小町は目の前の扉の取っ手を掴み、ゆっくりと開ける。部屋にはジャケットだけ脱いだ兄がベッドにうつ伏せに倒れていた。体勢で分かるように疲れも確かにあるのだろう。それでもしっかりとジャケットはハンガーに掛けられているを見て、口元が綻ぶのが分かった。無頓着な兄に繰り返し言うことでやっと習慣化した。これも立派な成長だ。

 エアコンのリモコンを探し当て、電源を入れた。タイマーをセットするのも忘れない。

 

 ベッドに近づくと、スース―という寝息が聞こえていた。何も掛けておらず、薄手の掛け布団をお腹周りに掛ける。ピクリとも動かない為、意識は夢の中だろうと想像できる。

 ベッドの横に座り、学校の机で寝るのと同じ姿勢を取った。こんなくつろいだら寝ちゃうよ、と脳が言ってくるが無視して体重を預けた。

 

 早熟。早く、熟れる。

 同年代の友人を子供だと思うことはしばしば。由比ヶ浜結衣や一色いろはを子供っぽく思うこともあった。

 放任気味な家庭、これまた早熟な兄と共に育てば嫌でもこうなった。別に自分の事が嫌いなわけではない。

 

 ただ、兄も私もまだ青い、と小町は思った。

 

 だから、

 

「お兄ちゃん...おいてかないでね」

 

 小町の意識は、そこで途切れた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 眩しい。

 目を閉じているはずなのに瞼を貫通するほど陽の光が刺さり、顔を背ける。

 

 エアコンをつけた覚えはなかったが部屋は適度に涼しく、再び眠気が襲ってくる。小町がつけてくれたのだろうか。

 薄手の掛け布団を被り直そうとしたところで、再度刺すような光が瞼の裏を赤く滲ませる。

 こうも邪魔されては気持ちが良くない。

 

 目を開けると、カーテンの隙間から夏の太陽が差し込んでいた。眩しい。

 気付けば顔の周りだけが熱い。

 熱を持つ頬に手を添えると、日焼けしていないかと心配になる。マスク焼けならぬカーテン焼けだ、笑えない。

 

 角度を変えた手に陽光が重なり頬まで届くような感覚がした。

 思い出した。

 

 頭の中で記憶がはじけるように再生され、連動して身体をがばっと起こす。

 意識した右頬だけが、かあっと熱くなる。

 そこで、ベッドについた左手にこそばゆい感触を覚える。みると貞子の様に髪を垂らす人の頭が。

 

「う」声を上げそうになるが、何とか堪える。小町だ。

 

 何やってんだこいつ。

 

 ミディアムという長さだろうか。ベッドに晒されるように広がるその髪は縁起がいいものにも見えた。少し伸びた髪の毛に相反して、変わることのないアホ毛に安堵にも似た感情を覚える。

 考えるより先に手が動いてしまっていた。小町の頭を撫でる。

 慌てて手を離す。幸い起きなかったようだ。小さな寝息を断続的に立てている。

 

 お兄ちゃんスキルオート発動も大概にしなきゃな。

 

 小町が起きないようにベッドから降り、いつの間にか掛けられていた(おそらく小町だろう)掛け布団を小町に返す。

 エアコンのリモコンを探し出し電源をつける。タイマーも忘れない。

 

 

 階段を降り顔を洗うため洗面台に向かう。鏡の前に立ち、薄く細めていた目を一気に開く。ピントを鏡面に映る自分の右頬に合わせる。が、特に何かが残っていることもなく、杞憂に終わった。

 昨晩の彼女の唇に怪しく、艶やかに光るグロスを思い出した。

 

「つくわけじゃないのか」ぼそりと呟く。

 

 そこで、一つの可能性を探り当てた。これ、夢オチじゃね?

 映画の内容も、食事の味も、しっかりと記憶に刻まれている。しかし、車に乗った辺りからの記憶は曖昧だった。葉山の話をしたこと以外イマイチ覚えていない。

 

 リビングで、朝食の準備を始める。

 起きたときに確認していたが、もう一度時計を見る。登校まではまだ余裕がある。昨日早寝をしたおかげだろう。

 

 生卵をフライパンに割りながら、考える。

 夢オチの可能性はかなりある。今のところ8割夢オチだろう。すでに頭は切り替わっていた。

 いや、元からイタい子だとは思っていましたよ?思っていましたけど、そんな夢と現実をごっちゃにする程だとは思っていなかった。

 

 頬に手を添え、ゴシゴシと擦り取るように拭った。

 

 

―――

 

 

 ごうごうと音を立て、列車は進むよどこまでも。

 おっと、ついつい鼻歌が混じってしまう。

 小町がお祝いをすると言ってくれただけでお兄ちゃんは幸せ者だよ。おろろ…。

 

 

 

 玄関に腰を下ろし靴を履いていたところで、バタバタと階段を降りる足音と共に呼び止められた。「お兄ちゃん!」振り返ると、軽く息を切らした小町がいた。

 

「おはよう小町」

 

「お、おはよう。じゃなくて!」

 

「ん?」小町の謎の慌てように、首を捻る。

 

「あれ、なんともないの?」

 

「何がだ…」

 

 言いながら、昨晩の事だろうなと見当をつける。詳しいことは覚えていないが小町と会話した覚えはなかった。起きた時の俺の格好からも部屋に入ってそのまま寝てしまったことは想像できた。

 

「いや、大丈夫ならいいんだけどさ…」納得のいっていない様子を見せる。歯に挟まった食べ物が取れない時のような、不快感を含んでいるようにも見えた。

 

「じゃあ、行ってくる。朝ご飯は冷蔵庫に入れてあるぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って!」何やら息を整える。「おにいちゃん!誕生日おめでとう!」

 

 小町は満面の笑みで、祝福の言葉を口にする。

 誕生日おめでとう。誕生日。また、記憶が刺激される。靄が晴れるように、磨りガラスを削るように、記憶が鮮明になり始める。

 

「そうか、誕生日か」かき消すように、目の前の妹に意識を向ける。「ありがとな小町」

 

「うん!」今夜はお祝いだからね、と言う。

 

「ああ、じゃあ行ってくる」

 

 後ろ手に、扉を閉める。

 認めてしまっては、何かが進んでしまいそうで、戻れなくなりそうで、懸命にぼかした。

 

 

 

 車内にアナウンスが響き、乗り換えの駅に到着した。夏休み中であることと通勤時間に被らないことで、車内に人はあまりおらず、大きな駅にも関わらず降りたのは数人だった。

 

 乗り換え先のホームに立ち、電光掲示板を見る。次の電車までは五分ほどあった。

 そういえばと、今日になって携帯を確認していなかったことに気付く。いや、嘘だ。メッセージを見るのを身体が拒否していた。しかし、先ほどメールの受信を示すバイブレーションが起こったのをポケットで感じていた為に見なければならない。

 新着メールは、3件。

 おーおー、今日は大分スパムメールにやられてんな。俺の個人情報ガバガバか。

 思考に反して、名前の上を滑らせる指は軽い。

 

<メールボックス

 全受信

〈城廻先輩〉8:31

〈一色いろは〉0:12

〈☆★ゆい☆★〉0:02

 

 

 無いはずの名がないことに少し安堵し、一つずつ開く。

 

――――――――――――――――

〈☆★ゆい☆★〉

お誕生日おめでとー!

今日0:02

ヒッキーお誕生日おめでとー!

誕生日パーティーやるから開いて

る日教えて!

 

今年もよろしくー!

――――――――――――――――

 

 お正月か。

 こいつの頭は年中謹賀新年状態だな。

 

――――――――――――――――

〈一色いろは〉

無題

今日0:12

先輩誕生日おめでとうございます~

また一つおじさんになりましたね(笑)

 

夏休み中にまたデートしましょうっ♪

今週末か来週末どっちがいいですか?

――――――――――――――――

 

 こいつ、あざとくないところまであざとく見えてきて困る。おじさんって言われて悪い気がしない俺は壊れ始めているのだろうか。

 ていうか拒否っていう選択肢はないのね。この手法詐欺師とかがよく使うやつじゃない?

 

――――――――――――――――

〈城廻先輩〉

お誕生日

今日8:31

お誕生日おめでと~

8/8で合ってるかな?

間違ってたらごめん!

悩みとかあったらなんでも聞くからね!

今年もよろしく!

――――――――――――――――

 

 うん、やっぱり誕生日の挨拶は今年もよろしくだよな。それ以外ないよな。マジめぐりん最高。

 

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、前半二人に適当に返信をする。めぐり先輩にはたっぷり時間を掛けて内容を考えて返信をした。

 いや、やっぱりメールって緊張しちゃうよね。書いては消して書いては消して、サイトからコピペして、熟考すること二十分、送信ボタンを押したときには大学の最寄り駅に到着していた。結局コピペかい。

 悩んでいた時間が少し恥ずかしく、誰に見咎められるわけでもないのに地上への階段をそさくさと上がる。

 

 大学に併設されているコンビニに足を踏み入れる。ここはチェーンにも関わらず定休日もあり、夕方になると閉まる。ホワイトコンビニだ。大統領御用達かもしれない。

 サンドウィッチにおにぎりどっちにしようかなと考えつつ、右へ左へ視線を彷徨わせる。偶に小町が弁当を持たせてくれるが、今日は小町がおねむだったことと、めんどくさかったのと、面倒なので自分では作らなかった。

 あー、こういうことしてるから小町が見かねて作ってくれるんだろうなあ。ほんと、妹冥利に尽きる。

 南無南無と言いながら、サンドウィッチ伯爵の功績を称える為に手に取る。ついでにおにぎり子爵も崇め奉っとく。両方買うんかーい。

 

「楽しそうだな、何かあったのか?」

 

 指摘されたようご機嫌でピン漫才をしていたところで、後ろから声を掛けられた。葉山隼人だ。

 振り返ると、爽快な笑みを浮かべ軽く手を挙げて挨拶してきていた。「げ」

 

「おはよう」

 

「お、おう…」

 

「で、何かあったのか?」言いながら俺の隣に並び、棚の物色を始める。すぐにサンドウィッチを手に取る。

 

 意図したわけではないだろうが、葉山が俺と同じ商品を手に取った為自分の手に持つものを身体で隠す

 

「べ、別に何もねえよ…」

 

「ははっ、嘘つくの下手だな」気に食わない口角の上げ方を見せ、レジに向かっていく。

 

 それから特に掘り下げられることもなく、葉山はそういう奴か、と思う。

 俺もレジで会計を済ませ店から出ると頼んでもいないのに葉山が壁にもたれる形で待っていた。いや、自意識過剰か、素通りする。

 目の前を通ると壁から背中を離し、半歩程後ろをついてきた。人がいない為エレベーターのボタンを押す。

 投げかけるような視線を葉山に向けるが、肩を竦めるだけだった。

 葉山はこういう奴だったか?と思う。

 

 音もなくランプが灯り、扉が開く。乗り込むと目的の階を押した。

 会話はない。

 所詮、この状態に過ぎない。まあこの状況ことが異常と言えるのだが。

 偶々利害が一致し、同じ空間で事が過ぎるのを待っている。ただそれだけ。

 一つの箱に、偶然入っているだけ。肩が触れ合うことも、ましては心が触れ合うことなど未来永劫ない。

 

 意識しなければ分からない浮遊感を伴い、箱が停止する。扉が開くのと同時に葉山の指が〈開〉ボタンに重ねられた。

 アイコンタクトで礼をし降りる。やだ、八幡君シャイ過ぎ……!!

 工藤静香を頭の中で流しながら目的の講義室へ入り、ゴールのピンが立っている席に腰掛ける。隣にイケメンが座るのはご愛敬だ。え、何がご愛敬って?周囲の女子の愛嬌がよろしくなるからに決まってんだろjk。

 

 始業まで時間がある。俺は本を、葉山はなんかの参考書を広げ、各々の世界に入った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 小町の待つ帰路を急ぐ。シャカシャカ自転車を漕ぎながら、先ほどの情景を思い出していた。

 

 葉山との挨拶もそこそこに電車に乗った俺は、乗り換えの駅で多分、海老名さんを見た。急ぎ足で歩いていると、同じく急ぎ足で歩く肩で髪をそろえた眼鏡の少女が前を横切った。咄嗟に俯きながらやり過ごし、少し経って振り返ると、青みがかった黒髪を一つに束ねた、すらりと背の高い女性に向かって手を振りながら近づいていったのが見えた。恐らく、いや、確かにあれは川…川なんとかさんだった。ああ、川崎沙希だ。ということは、見覚えのある少女は海老名姫菜だと、思う。

 もしかしたら、そう願っているのかもしれない。

 

 キコキコとルーティンをやり過ごすと、自転車を停め鍵を抜く。

 今度は家の鍵穴に鍵を差し、クルリと回すと軽快な音が鳴った。

 

 玄関に入り、靴を脱ぐ。何となく靴を揃える。

 リビングに続く扉は閉ざされていて、それが期待を膨らませてしまう。どきどき、どきどき、動悸かしら。

 

 そんな茶番をやり過ごし、夕食は何だろうと考えながら普通に扉を開ける。

 

 ぱぱんっ!ぱんっ!

 突然の破裂音に、思わず身体を捻り無様にびくついてしまう。小町ちゃんそこまでしてくれたのかい、と思うも一瞬、確実に一人では鳴らしきれない量のクラッカーが存在することに気が付き戦々恐々する。

 

 瞑った瞳をゆっくり開ける。明るい室内にカラフルな髪色が映えてもう一度目を細めてしまうが、意を決して開眼する。額が割れて第三の眼とか発現しちゃうかもしれない。

 そこには五人五色の表情を見せる美少女が総勢5人。

 一人は優しく、一人は悪戯めいて、一人は勝ち誇り、一人は照れながら、一人は当惑しながら。

 

「せーの…」という小町の掛け声で、一斉に声がする。「誕生日おめでとう!」一人が思い出したように机に手をやり、もう一発とクラッカーを鳴らす。ぱんっ!

 

「………」

 

「お兄ちゃん!反応は!?」呆けている俺に小町が近づいて言う。

 

「……なにこれ」辛うじて、声を出す。

 

「サプライズパーティーに決まってるじゃないですか先輩」一色いろはが悪戯っ子の様に言う。

 

「えへへ、ヒッキー騙されたでしょー!」由比ヶ浜結衣がしたり顔で言う。

 

「お、お誕生日、おめでとう…」雪ノ下雪乃が頬を桜色に染め、言う。

 

「ご、ごめんね八幡っ。勝手にお邪魔して…」戸塚彩加が気遣いながら言う。

 

「いや、いいんだ戸塚。ありがとう、なんなら泊っていっていいぞ」回らない頭で声を出すと、戸塚は恥ずかしがりながら答える。「は、八幡…」

 

「さいちゃんにだけ優しい!?」

 

「やっぱり戸塚先輩呼んで正解でしたねー」

 

「妹として嬉しいような嬉しくないような…」

 

 ようやく働き始めた脳みそに発破をかける。働け細胞!ワンッ・ツー・スリー・フォー!

 

「なに、どうしたの君たち…」

 

「先輩の誕生日を祝いに来たに決まってるじゃないですかー」一色が頬をプクーッと膨らませ言う。「結衣先輩の時は呼んでくれませんでしたしー」

 

「ご、ごめんなさい一色さん…」思いもしない流れ弾に肩をびくつかせ、雪ノ下が申し訳なさそうな声を出す。

 

「ふーん、別にいいですしー」

 

 一色は拗ねたように顔を背け、それを見かねた雪ノ下が困惑するよう手をワナワナと彷徨わせる。

 

「一色さん…、あの…」

 

「一色、その辺にしといてやれ」

 

「わーごめんなさい嘘です」仲裁に入るとすぐに雪ノ下に抱き着く。「私の誕生日をお二人で祝ってくれただけで大満足ですから!」

 

「そ、それならいいんだけれど…」

 

 視線を変えると、せかせかとクラッカーから延びる紙を片付ける由比ヶ浜がいた。戸塚もそれに習えだった。一色も雪ノ下も会話しながら自分の手元のクラッカーは片付けていて、由比ヶ浜が手に持つゴミ袋に入れた。

 

「はーいみなさーん、ご飯食べますよー」一足先にキッチンへと消えていた小町が叫ぶ。

 

 それを合図に、女性陣がせわしなく動き出す。誕生日パーティーという割には主役置き去り?こういうの初めてだからわからん。などと思っていると、トコトコと戸塚が近づいてきた。え?戸塚は女性陣じゃないのかって?女神だよ言わせんな。

 

「八幡、改めて誕生日おめでとう」

 

 ハニカミながらそう言う彼女(違う)は、偶に電車で会うジャージ姿ではなく、カジュアルな私服姿で心臓がドギマギする。世の中の大学生よ、木こりとか言ってごめん。木こり最高、絵本から飛び出してきたみたいだ。

 

「ああ、ありがとう戸塚」精いっぱいの気持ちを込めて、感謝をする。

 

 思いつき、確認する。

 

「そういえば戸塚の誕生日っていつなんだ?」

 

 やっば超自然、見た?ちょっと中学時代の自分に見せてやりたい。八幡ここまで成長したよ!自然すぎて多分答え返ってこないまである。

 

「えーっと」少し言いづらそうに、「僕は五月九日なんだ…」

 

 なん…だと…。え、今の暦ってなんだっけ、四月の終わりだっけ、君の嘘だっけ、なんだが新入生な気がしてきた。え?八月?八ってなんだっけ?

 俺の心の眉が八の字になっていることを察したのか、戸塚が慌てて手を振る。

 

「あ、ううん大丈夫だよ八幡!言ってなかったしあんまり誕生日とか気にしてないから!」

 

 ぶんぶんと目の前で大きく手を振られるが、ショックのあまり心の眉が(以下略)

 

「すまん戸塚…、今からでも…」

 

「大丈夫だよ八幡!」戸塚が溌剌とした声を出すが、尻すぼみになり、「でも、来年は八幡に祝って欲しい…な」

 

 上目遣い、髪を耳に掛ける、可愛い。ごちそうさまです。

 

「ああ、約束する。今すぐ来年の手帳買ってきて書き留める」踵を返しかける俺を手で制し、ぷんぷんと効果音を出しながら怒ってくる。「もうっ八幡ったら!」

 

 尊い…。

 

「お二人さーん、どいてもらえますかー」

 

 キッチンから魅力的な料理を両手に抱えた小町が戻ってくる。雪ノ下、由比ヶ浜もその後ろに続く。

 戸塚と共に道を開けると、リビングの机に俺の好物ばかりが並べられていく。バランス悪そう…。

 

「先輩なに飲みますー?」背後から右手にお茶、左手にジュースを持った一色が問いかけて来る。

 

 重そうに腕をプルプルとさせているのを見かねて、手を伸ばし半ばふんだくるように奪い取る。そうしないと八幡恥ずかしくて動けなくなっちゃうっ。クリスマスでもないのにチキンが出来上がってしまうところだ。

 

「わー頼れるー」一色の表情は女子に嫌われるであろうそれになっていた。

 

「へいへい、だが俺に飲み物を聞くときはマッ缶の一つや二つ用意してもらわんと」

 

 気恥ずかしさは消えず、誤魔化すように話をすり替える。が一色はそれも承知のうちと言わんばかりに手をグッドの形にし、背中側を指さす。なに、表出るの?

 勝ち誇ったような笑みに不快感を全面に押し出しながら、一色の後ろを覗き見る。そこには見覚えのある黄色を基調とした麗しのマッ缶の束がそこに。

 

「おお…」

 

 あまりに荘厳な情景につい涙腺が潤みそうになる。病気かな。

 そんな俺を横目に、一色が片手でマッ缶を取り上げ自分の頬に当てるようにする。小顔効果かな?

 

「そう言うと思って買っておいたんですよ♪」

 

 結衣先輩のアイデアですけど、とぼそりと呟いたのを聞き逃さない。が、今大事なのはそこではないだろう。

 

「なんか、色々してもらって悪いな」

 

 言いながら、ちらと一色を窺うとキョトンとした顔をしている。こいつ今絶対失礼なこと思ってるだろ。かと思えば袖口で口元を抑え、瞳をアーモンド形にする。

 

「ふふ、いいんですよ、なんたって天下の誕生日なんですから」

 

 天下、天下か。いい響きだ。秀吉の天下統一は思ったより範囲が狭いが、俺程度ならリビング位がちょうどいいだろう。ごめんなさい調子乗りました。

 

「じゃあパーティー始めるよー!」由比ヶ浜の音頭に、皆が続く。

 

 宴のはじまりだ。

 

 

―――

 

 

 一色の受験の事、小町の生徒会の事、雪ノ下と由比ヶ浜の大学の事、戸塚のテニスの事、そして俺の事。

 なぜか余裕たっぷりの一色やそれをニヤニヤしながら見つめる小町、受験生よりもブルーな気分で成績開示を待つ由比ヶ浜の状態がおかしく、思わず笑ってしまう。雪ノ下は成績優秀者として表彰され、贈呈品まで貰ったとか。戸塚は小さなテニスの大会で5位入賞を果たしたらしい。

 

 一通りの工程を終え机の上の全ての皿の底がしっかりと見えた頃、またも由比ヶ浜の音頭で場面は切り替わる。

 

「さて!お待ちかねのプレゼントタイムだよー!」由比ヶ浜の掛け声に小町と一色がヒューヒューと声を上げ、戸塚が控えめに拍手をする。

 俺はというとどうにも居心地が悪く、心のソワソワが血管を通り全身へと張り巡らされていく錯覚を覚える。何故か正座した膝が落ち着かない。

 

 こんな感じで祝われるのは何度も言うが初めてで、自分の家にも関わらずアウェー感が半端ない。もうマジ中東、アウェーの洗礼だわ。

 生卵とか投げられちゃうのかしら…とビクビクしていると、牽制をしていた彼女らから一人手を挙げる。

 

「ぼ、僕最初でもいいかな…」

 

 勇気ある行動だと言わんばかりに歓声が上がる。え、なに俺に何かあげるのって試練みたいな扱いなの?クリアできたらワープできちゃうの?

 

「は、八幡!」急に名前を呼ばれ「ひゃい!」と変な声を上げて答えてしまう。一色あたりから「気持ち悪い…」と聞こえたのは気のせいだろう。と信じたい。

 

「八幡、イヤホンの調子悪いって言ってたよね。まだ買ってなかったらいいんだけど…」

 

 おずおずと差し出してくるそれをおずおずと受け取った。

 戸塚とは偶に電車が同じになる。行きの電車だったり帰りの電車だったりと固定ではないが、戸塚が可愛く手を振ってくるのを目で捉える度にアーメンアーメンしていたのは内緒だ。

 その時、俺のイヤホンの状態を話した覚えがある。音楽は聴こえるが、口元近くにあるマイク機能付き音量調整兼再生ボタンが故障してしまったのだ。携帯を操作すれば音量も曲の選択もできる為、わざわざ買いに行くのももったいないと思いながらも戸塚に言ってしまったのだろう。会話の種のなさがここで出た。え、普通の会話?ほんと?

 結局、イヤホンはその時から変わらず、音楽を耳元で聞くことだけができる機械のままだ。

 

「おお、ありがとう戸塚。全然まだまだ買ってないあのままだ」人からの純粋な厚意に、素直な感想が出る。

 

「ほんと?よかった~」胸に手を当て、ほっと撫でおろすような仕草をした。可愛い。

 

 人から一方的にプレゼントを受け取るというのは存外気恥ずかしいものだと分かる。なにかお返しをしなきゃと考えるが、そのお返しが世間一般でいう相手の誕生日になるのだろう。

 

「来年の誕生日は、絶対返すからな」すんなりと、絶対という言葉が出て来るが、それはついて出たものではないと確かに分かる。自分の底から出たものに違いなかった。

 

「うん!」戸塚のはじける笑顔で、俺の理性もはじけそうになった。

 

「はいはい!次あたし!あたしがいく!」由比ヶ浜が犬の様に手を挙げる。

 

 どうぞどうぞとダチョウ倶楽部ばりの譲りで、由比ヶ浜が一歩前に出る。やっぱり大事なのは譲り合いだよね!

 

「えへへ、ゆきのんと選んだんだけど、今度は私の番かなって」由比ヶ浜がそのまま話す。

 

「ま、まあ良いものだから、共有したいと思うのは当然の事と言えるわよね」雪ノ下が言う。

 

 言葉の意図が汲み取れないまま差し出された紙袋を受け取るが、そんなに重量のあるものではないらしい。

 そのまま開けると、今度は見覚えのある柄が目に入る。これは…。

 

「今度は俺かよ…」半ば呆れながら言ってしまう。

 

「うん!ヒッキーも沢山パソコン触るでしょ!」元気よく話し、それにと続ける。「これで、みんなでお揃いだし…」

 

 由比ヶ浜はお団子をくしくしと弄りながら、頬を赤らめる。

 

「お、おおう…」恥ずかしいからそういうこと言わないの…。

 

「へーなんですかそれー」一色がこそこそと近づいてきて肩口から紙袋を覗いてくる。なんか柔らかいものが…いや気のせい…いやでも…。

 

「そういえば雪乃先輩と結衣先輩同じ眼鏡持ってますよねー。あ、先輩が今貰ったのも同じなんですかー?」

 

 一色が確認なのか圧力なのか分からない声音で聞いてくる。こわい、こわいよいろはす。どうしたのん?

 

「掛けてみてよ!」由比ヶ浜が机に乗り出し語り掛けて来る。

 

「八幡の眼鏡姿かー、楽しみだね!」戸塚が楽しそうに笑う。

 

 見世物にされるのは御免だったが、女神の所望とあれば馳せ参ずるのが下僕の役目と言えよう!

 テレビのタレントがよくやる、先に下を向いてから顔を上げる流れを再現する。道化になるなら潔く!

 失笑や嘲笑を覚悟し勢いよく顔を上げたが、反応は期待、及び懸念していたものとは大きく違った。簡単に言うと女性陣の口が半開き、口を慎めよお前ら。

 

「わあ!八幡似合うよ!」戸塚の反応が一番早かった。

 

「そ、そうか?お世辞でもサンキュ…」

 

「お世辞じゃないよ!ね、小町ちゃん!」戸塚は横の小町に同意を求める。

 

「ううん、これは困った。お兄ちゃんの存在自体がポイント高くなっている…」

 

 何言ってんだこいつ…。

 

「そうかあ。短所があるなら隠しちゃえばいいのかあ」小町がウンウンと頷きながら感嘆の声を出す。

 

「ヒ、ヒッキー、やっぱりそれ学校で使わないで、欲しいな」プレゼントした本人がとんでもないことを言い出す。

 

「なんでだよ…」

 

「いや、思ったよりというか、似合うやつ選んだからなんだけど…」

 

 ボソボソと喋る由比ヶ浜の声はついに聞こえなかった。

 追い討ちをかけるように、その隣から一色が「そ、そうですよ先輩。それ家専用にしましょうよ。ほら、最近はやりの家専用シャアみたいな」と言う。

 

 君が言っているのは違う赤い彗星では?あとシャア専用ね?

 

「そ、そうね。比企谷君もそろそろ気を遣うということを覚えた方がいいものね」

 

「俺が外でこれを使わないことが気を遣うことに繋がるとかどんだけだよ…」

 

 雪ノ下の言い様に、少し不安を覚える自分が顔を出し始める。洗面所で見てこようかなと考えていると、それを察したのか由比ヶ浜がさらに身を乗り出す。

 

「いや、そういうことじゃなくて!あのー、ね!いろはちゃん!」

 

「え、そ、そうそう!雪乃先輩の言う通りですよ!私たちに気を遣ってください!」

 

 言って、ハッとした表情を見せる。何のことかわからず小町に目をやるが、生暖かいゴミを見るような目つきでこちらを見つめる。略して生ゴミを見るような目。なにそれゾクゾクッ。

 

「とりあえず、それは屋外使用禁止だから。小町さん管理の方お願いしていいかしら」

 

「えー、でも小町的にはこういう兄も良いというか「小町さん?」はい任せてください。完璧に兄を調教して見せます」

 

「なんでそんな物騒な言葉が出て来るの?俺どうなっちゃうの?」

 

 小町の発言にドキドキワクワク(末期)していると今度は雪ノ下が前に出る。

 

「次は私でいいかしら」雪ノ下は店でもらうような袋は持っていない。「と言っても、由比ヶ浜さんと一緒に作ったものだけれど」

 

 手にあったのは長方形の小さな包装用紙、ラッピングを2人でしたってことかしら?などと考えながら受け取る。軽い。

 

「サンキュ」

 

 目だけで開けていいか問うと、瞑目を以って許可が下りる。

 本日二度目の工藤静香を流しながら包装用紙を開けると、…革のケース?

 

「眼鏡入れだよ!」顔の前に持ってきて、クルクルと回していると見かねた由比ヶ浜が声を上げる。

 

「おお」なるほど。

 

 肌触りのいい革でできたそれは、お店で買ってきたと言われても何の疑いも持たないほどのクオリティだった。口を留め金で閉める仕様らしく、パチパチと試す。

 

「これお前らが手作りしたのか?」

 

 雪ノ下は顔を少し逸らしながら、由比ヶ浜は自信満々と言った様子で答える。

「ええ簡単なものだけれど」

「うん!一緒に作ったの!」

 

「まじかよ…」思わず、感嘆のため息が出た。

 

「うへぇー雪乃さん結衣さんすごーい…」

 

 横から顔を出すように近づいてきた小町も同じような感情を抱いたようだ。伸ばしてきた手に握らせる。

 

「で、由比ヶ浜はどこを担当したんだ?」

 

「え」由比ヶ浜の視線が泳ぐ。

 

 あまりにも高いクオリティに、あのぶきっちょで有名なガハマさんが入る余地はあったのだろうか。

 背後では妹と一色、戸塚が三者三様の称賛の声を上げていた。

 

「えーっと、素材選びと…仮縫いを少々…」由比ヶ浜の肩が言葉と共に小さくなっていく。

 

 ははーん、仕上げはお母さんと言わんばかりに雪ノ下が手を入れたんだな。それはもう幼稚園児の稚拙な歯磨きをすべて上塗りするが如く。

 

「由比ヶ浜さんが選んでくれたから、作れたのよ」

 

「ゆきの~ん」雪ノ下の優しい物言いに、由比ヶ浜が抱き着く。

 

 はいはい恥ずかしいからそういうのは他所でやってね。いやでも他の奴に見せるのは…。

 肩をトントンと叩かれ、いつの間にか近づいてきていた戸塚から眼鏡入れを受け取る。少し指が触れてドキッなんて……、今のなしで。

 しかし、由比ヶ浜も不器用なりに作ってくれたのだろう。プレゼントは出来ではなく、気持ちだといつか諭したことを思い出す。

 もう一度よく見ると、下の方に〈ヒッキー〉とローマ字で刺繍してあるのを見つけた。前言撤回だガハマの仕業だろ。

 

「おいこれ」

 

「それは由比ヶ浜さんに脅されてやったのよ」

 

「あれ!?ゆきのん!?」

 

「まあ、比企谷君にはそれぐらいがお似合いということよ」雪ノ下が食後のお茶を啜りながら言う。

 

「なにも言い返せねえ…」ぐぬぬ…と唸っていると、由比ヶ浜が横から「嫌だった?」と聞いてくるものだからこちらとしてもバツが悪い。

 

「…いや、サンキューな」もごもごと動かなくなる口を何とか開く。

 

 殆ど蚊の鳴くような声量だっただろう。しかし、蚊ほど耳が感知する音もないかもしれない。由比ヶ浜が耳ざとく聞いていた。

 

「どういたしまして!」

 

 彼女の笑みに、少し救われる。

 

「あのー、そろそろいいですかー?」

 

 振り返ると、焦れるような視線を向ける一色がいた。

 俺の身体が一色に向いたことを確認すると、ビニールの袋からこれまた紙の包装用紙を取り出す。

 

「はい!先輩、お誕生日おめでとうございます♪」

 

 にこやかに差し出されるそれを受け取り「開けていいか」と聞くと、「あげたもんだ、好きにしろ」と誰のモノマネかよくわからないことを言う。俺じゃないよね?違うよね?

 

 開くと革ともつかない、サラサラとした肌触りのカバーが出てきた。大きさ的に文庫が入るくらいだろうか。

 

「ブックカバーか?」一色に問いかけると、ピンポーンと軽快な声が返ってくる。

 

「先輩、いつも紙のカバーつけてるじゃないですかー。だから本のカバーなら使うかなって。それなら薄くて丈夫ですし邪魔にはならないかと」

 

 人差し指をクルクルと回し、どこか諭すように解説をする。

 

「おお、超助かる。いつも読み終わったあと捨ててるからよかった。サンキュ」

 

 一色にしてはとても実用的で利用可能なものをプレゼントしてくれたからか、するすると感謝の言葉が出てきた。

 

「え、あ、どういたしまして?」腹立つ顔で言う。

 

「なんで疑問形なんだよ…」

 

 不思議な肌触りにサワサワ触っていると、また後ろから手が伸びて来る。

 

「ヒッキー見せて?」

 

 何故か囁くような物言いに、少しドキリとしながら差し出す、雪ノ下も興味があるのかチラチラと伺っているのが分かった。

 気を取り直して再び前を向くと、一色がまた何かを取り出していた。後ろでは小町と戸塚が皿をできるだけ簡単に運べるよう一つにまとめているところだった。

 

「あと、これはおまけです」

 

 正座をしている彼女から受け取ろうと手を上げかけたが、それより先に一色が動く。

 片手を地面につき、上体がこちらに傾く。俺の胸の近くに頭が来たかと思うと「私だと思って、食べてもいいですよ」と囁いた。他の誰にも聞こえない大きさだった。

 

 心臓が跳ねる力を利用するかのように上体を後ろに逸らし、なんとか距離を取る。当の本人は艶やかという表現が正解と思える顔をしていた、十八歳には見えない。

 にっと笑ったかと思うと、手に持つそれを投げて来る。がさりと音を立てながらキャッチすると一色は後ろを向いてしまって「私も手伝いますー」と小町と戸塚の方へ行ってしまう。

 

 未だ心臓の音が鳴りやまないまま袋を見ると、紙袋に小さく設えられた小窓から美味しそうなクッキーが見える。様々な形があり、人型の物もあった。

 そこで背中に悪寒が走り、ばっと振り向くと、訝しむような視線をこちらに向けるお二人の姿が…。

 

「えーっと、ちょっとトイレ…」

 

 逃げるように立ち去るが、ジトっとした視線が追尾してきていたのは分かった。

 

 

―――

 

 

 用を足し、一度顔を洗おうと洗面台に立ったところで自分が眼鏡を掛けていたことに気付く。様々な評論を頂いたが、自分では当然かもしれないが違和感しかなく顔をしかめる。

 眼鏡を脇に置きバシャバシャと顔を洗う。目が悪い人は大変だな。

 

 リビングに戻ると、既に片づけは皿洗いに入っていた。早いなと思ったが、全員でやればこんなもんなのかとも思う。

 

「あ、ヒッキー戻ってきたよ小町ちゃん!」

 

 皿洗い班には入れてもらえなかったのか、机を拭いていた由比ヶ浜が小町に語り掛ける。

 

「はいはーい」とととっと近付いてくると、小さな箱を差し出してくる。「はいっお兄ちゃん!」

 

「おお、ありがとな小町」受け取るついで、頭をポンポンと撫でる。周囲から謎の視線を感じたのは気のせいだろう。

 

 どういたしましてーと言い、小町は片付けへと戻っていった。それと入れ違うように由比ヶ浜が近寄ってくる。

 

「何貰ったの?」

 

「ん、ちょっと待ってろ」

 

 リボンは解けたが、テープで止められていためカッターを取ってきて開ける。薄い正方形の形をしたそれの蓋を持ち上げると、鈍く、黒色の光沢をもつ財布が姿を現した。

 

「わあ、お財布だ」由比ヶ浜が観光名所を見たような声を出す。

 

 彼女の良いところだろう。

 

「そういえば、財布が壊れかけだったんだよな」思い出しながら言う。

 

 イヤホンと言い、財布と言い、私の私物…壊れすぎ…!次は心かな、そしたら新品の心が貰えるのかな…はは…。

 未だ新品の匂いが鼻孔を掠める財布を手に持ち、今一度周りを見渡す。

 

 自分の家に、人がいる。妹と戸塚というダブル天使以外、未だ関係性は曖昧で、触れたら崩れていまいそうな、足元のおぼつかないものかもしれない。それでも、この光景は忘れないだろう。とりあえず走馬灯に出ることは確実だ。

 

「ありがとな」

 

 代表して、由比ヶ浜に声を掛ける。

 

「うん」

 

 また優しい微笑みを向けてくれた。

 本当に、救われている。

 

 

 

―――

 

 

 

「ここでいいわ」前を行く雪ノ下が振り返り言う。

 

「ありがとね、ヒッキー」並んだ由比ヶ浜もこちらに向き直る。

 

「別に、小町に言われたからだよ」

 

 つい口を出た言葉だったが、二人には通用しないらしくクスクスと笑われてしまう。

 

「一色さんのこともちゃんと送っていくのよ」

 

「はいはい」

 

「なんでそんなに適当なんですかー!」ぷんぷんと横にいる後輩がむくれていた。

 

 

 一夜の宴は終わりを迎え、月明かりも雲に遮られてしまったころ、小町に送っていくよう言われた。まあもともと天使を夜更けに外に出せるわけもなく、なんなら一夜と言わず泊っていくことも仕方なしと考えていたがそんな願望は虚空に消えた。

 必然的に彼女らも送っていくことになったが、肝心の戸塚はというと家を出て十分ほどで家の方向が違うからと帰っていってしまった。

 俺の目的はここで終了したのだが、帰っても小町の怒声が轟くだけなので駅まで送っていくことにした。

 

 

 駅構内に消えていく二人を見送り、少し先のバス停まで一色を送る。

 由比ヶ浜の悪戯めいた顔を思い出すと、今朝のメールからのサプライズと一本取られたことを思い出し少し悔しい。

 黙って考え事をしていた所為で、一色の行動まで気が回らなかった。

 いつの間にか前に立っていた一色にぶつかりかけ、つんのめる。口元に髪が触れ慌てて離れる。

 

「おま、なんで…」

 

「先輩、デートは今週末でいいですよね」一色は俺が触れてしまった箇所を揃えた指で擦りながら言う。

 

「は?」

 

「は?」いや君失礼じゃないそれ。

 

「え、あのメールもドッキリじゃないの、違うの」

 

「私と先輩のデートとサプライズが何の関係があるんですか…」

 

「いやほら、注意を逸らすとか違う事に意識を向けさせるとか」

 

「へー、先輩私とのデート意識してくれてるんですか」一色は口元に手を当て、プークスクスと言わんばかりに笑う。

 

 今日は虚を突かれすぎてもう容量オーバーだ。疲れた表情筋を労わるために一番素直に出てきた言葉をそのまま伝える。

 

「はあ…当たり前だろ…」

 

 一色の顔色が変わるその瞬間、曲がってきたヘッドライトの強い光につい顔を逸らす。ごうごうという音が止み、空気の抜けるような音を立て鉄の巨体が停車した。一色が止まったのはバス停に着いていたかららしい。

 目を開けると、とんっとヒールを鳴らし一色がバスに乗り込んだところだった。クルリと振り返る。

 

「じゃあ、次の日曜日。楽しみにしてますね♪」

 

 図ったように、扉が閉まる。

 首を傾げるようにして手を振る彼女に頷きで返す。夜の帳に包まれた世界で、彼女のステージだけが輝いて見えた。ここが世界の中心なのではないかと錯覚する。

 

 見えなくなるまで手を振る彼女は、一等星よりも輝いて見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 S字カーブを過ぎると直線が待つ。三速四速と入れ、40キロまでスピードを上げる。

 

「はーいオッケー。じゃあ次は坂道発進ね」助手席に座る教官が言う。

 

 来た。俺が、いや殆どの人が苦手とするであろう坂道発進。アクセルとクラッチの絶妙なバランスを保たなければ発進してくれない。サイドブレーキを上げてから発進する方法には慣れたが、手際よく、いや足際よくブレーキから足を離しアクセルとクラッチを調節する方法は未だ一回での成功はなかった。

 ハンドルを左に切り、小さな丘になっている場所へ車を進める。坂道を上がりきる前にブレーキを踏み、停車させる。

 

「はいじゃあ坂道発進お願いしますねー」

 

「は、はい…」緊張で声が裏返る。

 

 一つ息を吐き、素早くブレーキから足を離す。クラッチを上げつつアクセルを踏み込んだ。昨日の感覚ではこの辺りが噛み合うところだという記憶を頼りにギアが入るよう願う。

 ガタガタという音と共に、車が揺れ坂道を下がり始める。慌ててブレーキを踏んだ。

 

「あー、残念だったねー。じゃあもう一回やってみようか」

 

「はい…」

 

 だめだった。前日の記憶も虚しく、エンストしてしまった。これだからなー教習車ごとにクラッチの位置が違うのどうにかならないかなー、いやまあ、いろんな車に乗る人もいるだろうから?そりゃあ全部一緒なんて無理だとは思いますけどー。

 頭の中で愚痴呪文を唱えながらやると、今度はうまくいく。これくらい気楽にやったほうが膝も柔らかく動くんだよな。分かってんだけどなあ。

 

 坂を下りる直前、サイドミラーに教習車が映る。目を凝らすと金髪頭の葉山隼人だった。クランクに入るためゆっくり進みながらちらと様子を見ると、一発で坂道発進を成功させていた。教官と笑いあっている。

 この野郎こんなとこでも無双かよ。

 

「…君、比企谷君」

 

「あ!は、はい!」

 

「次クランクね?大丈夫?」

 

「すみません大丈夫です」

 

 くそお、どれもこれも葉山の所為だ。

 

 

 

―――

 

 

 

 教習が終わり、車庫から建物内へと進む。その途中で同じく教習を終えた葉山が歩きながらこちらに寄って来るのが分かる。

 

「お疲れ、比企谷」

 

「…お疲れさん」

 

 葉山特有のお疲れ攻撃にも慣れはじめ、汗を滴らせながらエアコンの聞いた室内へと足を踏み入れた。

 ふええ…超涼しい。このために生きてるって感じ…。今日の講習はこれで終わりだ。午前中から学科実技とこなしていた為に身体はもう悲鳴を上げ始めていた。ついでにいうと本日一回目の教官が恐い人で心は既に死んでいる。

 葉山と一緒に。なんかこの表現うざいな。葉山に続いて自分の教習内容が書かれたプロフィールの様なものをフロントに返す。そこで背後の自動ドアが開く音がする。

 なんの変哲もない音なのに、今日はやけに耳が敏感に反応するのは昨夜届いたメールのせいだろう。

 

 振り返ると、ヘアバンドで留められた額の汗を拭うようにしている男がいた。

 目が合う。顎で未だフロントのお姉さんと雑談に興じている葉山を差す。戸部が頷くのが分かった。

 

 一度、車校に設置されているウォーターサーバーへ近づき水を入れる。

 俺の動きが目に入ったのか、葉山も近づいてきた。

 

「あれ、隼人君じゃね!?」

 

 うっわあ偶然!と言いながら、戸部翔がこっちに走ってくる。

 

 偶然などではない。夏休み前最後の試験の後戸部を呼び出した。そこで葉山との一部始終を話し、戸部を車校に通わせることで偶然を装い会わせることにした。戸部もちょうど免許の取得を考えていたところでの作戦だった。

 昨夜、俺が戸部に送信していた教習スケジュールに対しての返信が来た。つまり今日、この時に葉山に突撃するという趣旨の内容だ。

 

 水を一口含み、まずは事の顛末を見守る。

 

「…戸部か」葉山の表情は暗い。が発した声がそうでもないのは意外だった。

 

「は、隼人君もこの車校来てたんだ。っベーほんとすごい偶然だべー」

 

 おいなんだお前演技下手か。千葉村の不良演劇はどこいった。あ、元からあの気があったのかしら…。偶然偶然言うと怪しまれるぞ。

 

「偶然…まあ、学校も推奨しているから、そういうこともあるか」

 

 葉山が振り返りこちらを向く。背筋に暑さからではない嫌な汗が伝うのが分かる。寧ろ寒さからと言えよう、彼の眼が、冷たい悲しみを含み、凍てついた視線になっていた。

 

「まあ、大学で見かける奴もよくいるしな」嘘だ。人の顔なんて覚えていない。

 

「君は覚える程人と関わってないだろう」葉山の口調は軽くも、冷たい。

 

「失礼だなお前…」

 

「本当の事だろ」

 

 いかんいかん、こんな会話をするために戸部を呼び出した訳じゃない。戸部に目だけで合図を送る。

 それに頷き、「隼人君っ!」と声を上げた。

 

「あのさ…」言いかけたがそれを葉山が制した。

 

「戸部、どうせ比企谷に相談して来たんだろう」

 

 すべてを見透かしたような口調に、戸部が面食らった表情をした。

 忘れていた。こいつの洞察力を。雪ノ下、雪ノ下姉、そしてコイツにはどんなに捻ったことも意味をなさない。

 しかし、今回はヒントが多すぎるか、俺も騙したままいけるとは思っていない。戸部にかかっている。むしろ、戸部にかかるようにしている。

 

「それで、用は?」

 

 よし、とりあえず葉山の興味を引く、もしくは足を止めさせるという目的は達成された。あとは戸部がどうにか葉山を誘い出すだけだ。

 

「あ、いや、バレちゃったか…はは…」戸部が頭を掻くようにして微苦笑を浮かべる。

 

「……」葉山はまだ動かない。

 

 今しかないぞ。

 

「いや、なんでもないべ。はは…偶然見かけたもんだからさ…つい」

 

 は?

 

「本当に用はないのか」葉山が念を押す。

 

 歩み寄ってきているはずの言葉なのに、確実に距離を取ろうとしているように聞こえてしまう。いや、葉山はそのつもりなのだろう。

 

「ごめんっ、俺今から受付なんだわ。じゃあね隼人君ヒキタニ君」

 

「お、おいっ」思わず口をついて出た。

 

 しかし、戸部は俯き行ってしまおうとする。唇を噛むその表情に言葉が詰まった。

 俺たちの横を通り過ぎる瞬間、葉山が口を開く。

 

「どうして、そんな事をしたんだ」

 

 戸部の肩が一瞬跳ね、再び避けるように進む。受付へと逃げ込む彼に、俺は失望とも同情とも取れない感情を抱いた。

 視線を葉山に戻すと、なにかに耐えるような、苦虫を舌の上で踊らせているような、そんな表情をしていた。

 

 この空間に、救いはないように感じた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは決意する。

 

 職員室の一角、パーテーションで区切られたその場所で私は待っていた。ブレザーのポケットに無造作に突っ込んだ右手で、小さな、歪な塊を握りこむように弄ぶ。

 

「すまん、待たせたな」担任で、体育教師を兼ねる厚木がのっしのっしと入ってくる。

 

「いえ、お時間を取らせてすみません」軽く頭を下げた。

 

 いつも苦しくて開けてしまうシャツのボタンも一番上まで留め、リボンも限界まで締めた。生徒会活動に奮闘していた時でさえ、そんなこと気にしたことはなかった。

 

「まあ、単刀直入に言うと、学校側としても一色の希望を通すことは吝かではない」厚木は頭をポリポリと掻きながら、一瞬口ごもる。「しかし、ついていけるかは分からんぞ」

 

「はい、自分の身の丈に合っていないのは重々承知しています」身体は前のめり、語気も強くなる。

 

 すると、言葉の勢いに押されたように厚木が背もたれにもたれる。年季の入ったそれは、軋んだ音を立てる。彼が平塚先生に呼び出され、縮こまりながら説教を聞いていた姿を思い出し、顔がにやけそうになるのを堪えた。

 

「それでも、行きたいんです」心の底から、伝える。本物を手に入れる為に。

 

「…分かった」厚木が両ひざに手をぱんっと当て、勢いつけて立ち上がる。「一色の頑張りはみんな知っている。これからも精進し続けると約束できるなら、俺が話をつけよう」

 

「本当ですか!?ありがとうございます!」もう戻らないのではないかという程の勢いをつけて、礼をした。厚木が苦笑したのが分かった。

 

 じゃあ、と言い厚木が席を外す。

 緊張が解け、その場にへたり込みそうになるが、なんとか足に力を入れ職員室を出る。はきはきとお腹から声を出し、「失礼しました」も忘れない。

 すこし廊下を進み、角を曲がったところでついにしゃがみこんでしまった。そのままの勢いで目の前に現れた階段に座り膝を抱える。

 

 下着が見えているだろうなと頭をよぎったが、今はただ頑張った自分を抱き締めてあげたかった。それに夏休み中で校内に生徒はいない。

 もう一度ブレザーの右ポケットに手を突っ込み、小さな塊を取り出す。掌に載せるようにして、顔の前に持ってくる。

 

 三月、何かから逃げるようにして去っていく彼の背中を追いかけ、引き留めた。それが最後だと分かっていたから。チャンスはそこしかなかったから。

 引き留められたことに驚く彼の顔が、私の言葉で更に引き攣るのが分かった。今考えてもあの反応は失礼だ…。

 グダグダと駄々をこねる彼の胸倉を掴み制止させると、彼の着ていたブレザーの第二ボタンに指を掛け、勢いよく引き千切った。今までで一番という程力を込めた。それくらいしないと手に入らない気がした。

 今後悔していないのはあの時の自分のお陰だ。

 

 掌の上で、強く引っ張った所為で金具が曲がった彼のボタンをコロコロと転がす。こうしていると、彼のすべてを手に入れたようで心が弾むのが良く分かった。私はSなのかもしれない。確かに彼はマゾ気質がある。いやでも意外にSっ気なんて見せられたらイチコロで落ちそうで自分で自分が怖い。

 彼なら、何でもいいと思えた。彼であるのなら。

 

「逃がしませんよ♪」掌で踊る先輩に、そう呟いた。

 

 

 




次も8月になります。すみません。

待っていていただけると嬉しいです。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8月③

8月の最後です。

長いです。今回も長いです。
一色いろは回ですかね。

読んでいただけるだけで嬉しいですが、感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。




 

 

 城廻めぐりは躊躇していた。肩が上下する。

 

 土曜日の夜中なのに、いや、夜中だからというのが正解かもしれないけど、休みの前の日は皆遅くまで買い物してたりするものじゃないだろうか。店内をざっと眺め、客の少なさに肩を落とす。なんとか店長の力になりたいんだけど。

 八月の二週目、月曜日は横にいる比企谷君の誕生日だった。彼への誕生日プレゼントは難しかったなあ。いつも本読んでるから私なんかのオススメは既に手に取ってる可能性が高い。芳香剤なんかあげて合わなかったらちょっとショックだし、何より気を遣わせたくない。

 結局は無難にハンカチを渡してしまった。嘘です無難じゃないです。すごく選びました…。

 ショッピングモールで比企谷君に合うハンカチを選ぼうにも、彼の雰囲気や性格からするとなんというか、おじさま方御用達といった店で選ぶことになってしまい、店員さんにお父さんへのプレゼントかと思われてしまった。

 ロッカーに入れておこうかとも思ったけれど、直接会って渡したくて未だ渡せずにいる。バイト帰りにちっぽけな勇気を出さなければ。

 

 チラチラと比企谷君の顔を見ていた所為で、視線に気づいた彼がこちらを向く。

 

「ど、どうかしました?」平静を装いつつも少し目が泳ぐ。

 

「ううん、なんでもないよ!」

 

 比企谷君と一緒に仕事をしている時間は、まるで白昼夢を見ているようで頭が彼で埋め尽くされる。目が合うとなおさらだ。

 

「あ!ゴミ出ししてくるね!」ちょっと離れなければ。

 

「え、ああ俺行きますよ」

 

「大丈夫!一人でできるよっ!」右腕でマッスルポーズをする。まかせなさいと言わんばかりに力こぶを逆の手で叩いた。

 

 彼は微苦笑を浮かべながら、首肯で下がる。ゴミ袋を抱えてから子供っぽすぎたかなと反省した。

 

 自動ドアをくぐり、店の裏側に設置されているゴミ用コンテナへと歩を進める。

 比企谷君は優しいなあ。

 ニヤニヤが抑えきれない頬を掌で揉み解す。既にほろほろに砕けているからなんの意味もなかった。

 

「うよっと」コンテナを開け、ごみ袋を放り込む。蓋が重くていつも変な声が出てしまう。

 

 そこで建物の角に人影が見えた。若い子がたむろしているのかなと思い、少し様子を見ようと足を一歩踏み出したところで自分が今置かれている状況と、一年前の光景が重なる。蒸し暑い夜だった。

 人影が少し動き、赤い袖が見えた。

 その色に、また記憶が刺激される。どうしよう。

 お店に戻らなきゃ。

 

 震える足を何とか動かし店へと戻る。少ししてから自分が走っていることに気付く。パタパタと鳴るスニーカーに、もう一人の足音が反響しているように聞こえ、嫌な汗が噴き出した。振り返れない。

 自動ドアに半ばぶつかるようにして、煌々と光る店内へと体を投げ出した。

 

「はあ…はあ…」息が切れている。心臓が熱い。

 

 後ろに人がいるのに気が付かなかった。

 

 背後の気配に、ゆっくりと首を向ける。一秒もかからない動作なのに、一分以上かかっているのではないかという程に世界が止まる。思わず目を瞑った。

 薄目で確認すると、怪訝そうな瞳をこちらに向けている女性がいた。

 

「あ、すみません!いらっしゃいませ!」

 

 慌てて道を開ける。横を女性客が通り過ぎた。

 自動ドアの外に目を向けるが、駐車場には誰もいない。

 

 息を整え、レジを見ると心配そうにこちらを伺う彼がいた。今にも走り寄ってきそうに見えた。いや、そうしてほしかったのかもしれない。

 どうしよう、比企谷君に言うべきか、でも…。浅い呼吸に、肩が上下する。どうしよう。

 

 恐怖と迷いが思考を包み込んだころ、階段から聞きなれた足音がする。そちらに目を向けると店長が下りてきていた。

 その姿を見るだけで、肩に重くのしかかる何かが下りた気がした。

 震えている私を見て、店長の足取りが早くなるのが分かった。大分呼吸が楽になる。

 

 

 店長と戸惑う比企谷君が話していたのは覚えている。詳しい会話は頭に入っていなかったが、帰りに比企谷君は私が車に乗るまで何も言わずに付いて来てくれた。

 

 

「ごめんね、ありがとう」ちゃんと話せているだろうか。

 

「全然大丈夫ですよ」そう言う彼はどこかで見たことのある瞳をしていた。

 

 そうだ、奉仕部だ。あの空間だ。雪ノ下さんや由比ヶ浜さん、それに一色さんに見せるその暖かい視線を、私に向けてくれている。そう思うと、感情の波が喉からこみ上げて来る。全部話せば、全部話せば…。

 

 彼は私を助けてしまうだろう。

 

 何度も留飲を下げる。

 

「ごめんね、心配かけて。あ!これ誕生日プレゼント!」

 

 助手席に置いてあった紙袋を彼に押し付けるように手渡す。ハンカチだから大丈夫だろう。

 

「え、あ、なんかすみません…」

 

「お誕生日おめでとう!」そう言い、送ったメールを思い出す。

 

『悩みとかあったらなんでも聞くからね!』

 

 あれは、私のどこから出た言葉だったのか。

 

 別れを告げ、ギアをドライブに入れる。逃げるようにアクセルを踏んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 なんとなく。無意識に依然と同じ場所に立ってしまった。

 耳鳴りの様に脳内でこだまするクラクションが嫌でも思い出させる。いや別に嫌な思い出って訳じゃないんだけど。

 携帯を確認する。まだ待ち合わせの時刻には五分ほどあった。首を巡らせて移動する場所を探すが、誰しもが日陰に陣取り丁度いい場所はない。かくいう俺も日陰を理由にここに立っている訳で人の事は言えないのだが。

 

 さて今日はどれくらい待たされるのだろう。十分か十五分か。おいおいもしかして呼び出しておいて来ないとかいうあれか?脱水症状で弱ったところを狙っているのか?

 どこからか汗が滴り、鎖骨を通る。駅の中で待っていればよかった。

 日課になっているソシャゲへのログインだけを淡々とこなしていると、昨日の出来事を思い出す。

 

 ぎこちない笑顔のめぐり先輩に、深刻な表情でしきりに店の周りを見に行く店長。夜は危ないからとすぐそばの駐車場まで付き添いを頼まれた。距離の短さが、事の大きさを物語っているように聞こえた。

 店に駆け込んできた時、駐車場で何かを言おうと口を開きかけた時。彼女は助けを求めているように見えた。

 

 ハンカチのお礼を言っていないと思い出して、メールアプリを開いたところで後ろから声を掛けられた。

 

「先輩、また手ぶらですか」

 

 振り返ると、右手に結露をみせるペットボトルを持って立つ一色いろはがいた。

 

「おお…」

 

 少し、見とれてしまう。懐かしさか、後悔か。そのどちらも含んだ感情が湧き出て来る。毎日目にする小町の姿とはまた違った。

 一色は俺の視線に気づいたのか、ローファーを鳴らしクルッと一回転する。スカートが重力に逆らい、落ちる。

 

「どうです先輩、制服ですよ。JKですよJK」スカートの裾をチラっと持ち上げ言ってくる。

 

 いけないものを見てしまった気分で、思わず顔を背ける。どうして女子高生はJKブランドを自称してしまうのか。それが数年後の自分に返ってくる呪いとも気付かないで。

 

「べ、別に普通だろ。小町の制服姿も毎日見てるし」

 

「え…先輩気持ち悪いです…」

 

 若干、どころかドン引きと言った様子で俺から距離を取る。お前が言ったんだろうが…。と思いきや軽口も少々、右手を持ち上げ先ほど目に入ったペットボトルを差し出してくる。

 

「これどうぞ、暑い中待たせてすみません」

 

「お、おお…」おずおずと手を伸ばし、受け取る。

 

「なんですかその顔は」

 

「いや、一色が気を遣ってると思って…」

 

「だから私をなんだと思ってるんですか…」俺に向ける視線に蔑み要素が追加された。「待たせてるんですから、これくらいは当然です」

 

 うーんいつぞやの時はハチ公並みに待たせたような気がするんだけどなあ。俺まじ忠犬。銅像になっちゃう勢いだ。俺だったら自分の銅像の除幕式になんか出席したくないけど。いらん心配だこれ。

 

 一口含み尋ねる。「いくらだった」しかし一色は学生鞄をガサゴソしたまま「いいですよそれくらい」という。

 

「いやそういう訳には」

 

「もういいですか?」一色はこちらに手の平を差し出すようにする。

 

 お手かな…?ついに俺も忠犬デビューか…。

 微かなプライドと格闘してると、一色は鞄に突っ込んでいた左手を引っこ抜く。カラフルで可愛らしいペットボトルケースを持っていた。

 丁度プライドが負けたところで合点がいき、ペットボトルを差し出す。危なかった。

 

「先輩のお茶、一緒に入れておくので欲しかったら言ってくださいね」

 

 遅刻もせず、ニコッと微笑み気遣う様子は完璧超人にも見えた。「あ、間接キスじゃなくて残念でした?」いやそんなことはなかった。

 

「なわけねえだろ」嘘です。「なんか悪いな」

 

「いえいえ」と言い、俺の前を通り過ぎる。「じゃあ行きましょうか」

 

 どこに行くとも聞かされていなかったが、どうにも電車を使うらしい。やはり駅の中で待っていればよかった。

 遅れて、一色の後をついていく。亜麻色の髪は見覚えのある髪留めで一つに纏められている。一色が歩くのに合わせて、右へ左へ揺れ、誘われている気分になった。

 

 駅構内へ入り、歩を早め横に並ぶと一色に向かって手を差し出す。伝わるか心配だったが、一色は遠慮の色を見せつつ観念したように鞄を肩から落とす。ワイシャツのボタンが一番上まで留まっていることに気付いた。

 それを受取ろうとしたところで、一色が何かを思い出したようにブレザーのポケットに手を突っ込んだ。「ちょっとあっち向いててください」言われた通り、過ぎ行く駅の広告に焦点を当てていると鞄のチャックを開ける音が二回、内ポケットだなと高校時代の記憶が言う。

 家の鍵か何かだろう。仕舞い終わった一色から鞄を受け取り、肩に掛ける。ずっと気になっていた疑問を口にした。

 

「聞いていいか」一色がこちらを向く。キョトンとした顔は悔しいが可愛い。「今日日曜だけど、なんで制服なんだ?」

 

「ちょっと学校に用事がありまして」一色は少し思案し答えた。

 

 この時期ということもあり聞かな方がいいかとも考えたが、一色の口調が思いのほか軽く、目だけで続きを促してみる。

 

「ああでも、もう大丈夫ですよ」一色が悪戯めいた顔をする。「もう大丈夫なんです」

 

「そうか」

 

 一色の真意は読み取れないが、無理をしていないことは伝わってきた。

 これなら、今日は息抜きしてもらって大丈夫そうだ。

 

 未だ目的地は知らされていないが、買った切符で東京に行くことだけは分かった。

 

「私まだ行ったことなかったんですよねー」

 

 楽しそうにしている彼女を見ていると、自然と口から出た。

 

「その…似合ってる…」囁きにも似た言葉だったが、確かに届いたらしい。

 

「あ、ありがと…ございます」

 

 同じような囁きが、鼓膜に響いた。

 

 

―――

 

 

「次なんか買うときは俺が出すから」横に座る一色に声を掛けた。

 

「スカイツリーの近くってブランド店ありますかね」

 

「勘弁してください…」

 

 電車に乗り込んで数駅、偶然にも二人分空いた席に座った。一色の肩が触れるが、逆側に詰める訳にもいかず素数を数えてやり過ごしている。

 一色と並んでいるとやけに視線を感じた。嫉妬や疑念を含んだそれは身体に刺さる。あのそういうやつじゃないんで通報とかやめてくださいね?

 

 電車に揺られ20分ほど経った頃、年配のご婦人が乗り込んできた。席は埋まっている。優先席ではない為義務ではないが、車内に牽制ムードが流れる。人と人とではなく、自らの意志と身体の。

 

「どうぞー」

 

 そんな葛藤などどこ吹く風。颯爽と立ち上がった一色は軽い口調でおばあさんに席を譲る。すげえ。しかしここからだ、ここからスムーズにいくのであれば誰も躊躇などしない。両者の社会性、しいては人間性まで試される。

 

「あら、御親切にありがとう」にこやかに礼を言い、俺の隣に座った。

 

「いえいえー」一色は笑っている。

 

 スムーズにやり取りされるそれはお手本のようなものに見え、どこかでカメラが回っているのではないかと首を巡らしたくなる。

 例え断られたとしても、老人扱いするなと叱責されても、彼女の行動は誇らしく勇敢なものだ。それにどんな結果になろうと俺は彼女に対してプラスの感情しか抱かない。

 無言で俺も席を立ち、一色の隣に立つ。一色とおばあさん両方が訝しい視線をこちらに向けてきた。

 

「どうして先輩まで立つんですか…」

 

 理由を考えていなかった。一色だけ立たせて自分だけ座っているのは気分が良くないし、距離が離れると話しにくい等あるが、どれも気恥ずかしく言いたくない。

 適当なことで言い逃げしようとしたところで電車は次の駅に着き、こんどはおじいさんが乗り込んできた。そしてそのまま俺が先ほどまで座っていた場所にゆっくりと座る。

 失礼ながら追ってしまっていた視線を剥がし、一色に向ける。

 

「未来予知的な…ね…」

 

 ここぞとばかりに理由をでっちあげるが、一色の冷たい目の温度がさらに下がっただけだった。ふええ怖いよお…。

 

 

―――

 

 

 一度乗り換えをして再び電車に揺られること数分、電車はホームに滑りむ。一色は我先にと降りると、両腕を上に上げて伸びをした。

 続いてぞろぞろと人が下りる為、一色の背中を軽く押して先を促す。咄嗟の事で動いたが、意識すると腕が固まった。

 少し進むと一色がこちらに向きなおり、不自然に上がったままの腕を見つめる。

 

「なにしてるんですか」

 

「いや別に…」

 

 ぎりぎりと骨が鳴るような錯覚を覚えつつ腕を下げようとするが、途中で手を掴まれる。

 再び固まる俺を他所に、一色は楽しそうな声を上げた。

 

「そんなことより早く行きましょうっ!」

 

 否応なく引っ張られ、脚がつんのめりながら階段を上る。

 口角が上がっているのには気付かれていないだろう。

 

 

 

「わあ…」空を貫くような巨大な槍を見上げ、一色が感嘆のため息をつく。

 

「おお…」右に続く。

 

 首を限界まで曲げても天辺が見えず、なぜか不安を覚える。

 

「先輩も来たことなかったんですか?」

 

 いつの間にか手元に携帯を出し、ポチポチと何やら検索をしながら聞いて来る。携帯の画面には有名な検索エンジンが表示されており、〈スカイツリー お昼ご飯〉と打ち込んでいるのが見えた。

 

「ああ、初めてだな」もう一度上を見上げるが、展望台までしか見えない。「いまさら感もあって来るタイミング逃した」

 

「ですよねー」

 

 携帯に噛り付いているからか返事はおざなりだった。まあわざわざ飯の事を調べてもらっているから何も言うまい。それにおざなりにされるのは慣れてるからね!クラスメイトにも親にも!親にも…。

 昼を少し過ぎ、お腹の中身も空っぽになってきたところだった。

 手持無沙汰に周りを見渡していると、水族館のパネルが目に入る。ペンギンがいるらしい。こんな都会にペンギンかよ。

 

「先輩お腹すきません?」一色はパッと携帯から顔を上げ言う。

 

「すいたな」

 

「もんじゃ食べません?」

 

「食べるか」

 

「じゃあレッツゴーです!」

 

 少し進むと、スカイツリーの下にあるショッピングモール内へ入る。お土産から服まで色々な店が入っている複合施設らしい。一色を先に行かせ、七階のレストランフロアへ行くためにエスカレーターを昇る。

 

「こんなに近くにあるのに来なかったなんて」上をいく一色が身体ごとこちらを向き言う。「灯台元暮らしってやつですね」

 

 ひらりと舞うスカートは脚が露出していて涼し気だが、制服だと重みがあってかそこまでの印象は抱かなかった。対して俺は黒色の長ズボンで普通に暑い。大学には小学生の短パンみたいなのを履いている奴がうじゃうじゃいるが、全然分からない。モードからリアルクローズとか言うらしいが、全然降りて来てないぞ。あれか、本当はダサいって言いたいけどその感情をリアルの圧力でクローズさせているのかな?

 

「そうだけど、使い方間違ってるからなそれ」

 

 何度目かのエスカレーターを降り、通路をジグザグに進むと目的の暖簾が見えた。潜ると途端にいい匂いが鼻孔をくすぐり、お腹が鳴る。食べ終わる時間と重なってか、席は少し空いている

 立ちすくんで首をキョロキョロしている一色に気付いた店員がこちらに近づいてきた。

 

「いらっしゃいませ、二名様でよろしいですか?」中年の店員が言う。

 

「はいー」一色が答える。

 

「席へご案内しますね、こちらへどうぞー」腰に巻くエプロンで手を拭いていた。

 

「ありがとうございますー」

 

 あまり広いとは言えない店内は賑わっていて、そこかしこで笑い声と鉄板で生地の焼ける音がする。一番奥の席に通された。

 

「座席を開けると荷物置きになっていますので、注文が決まりましたらお呼びください」

 

 そう言われ、蓋になっている座席の上部を持ち上げると中に空洞があった。なるほど。

 

「鞄入れとくか?」一応確認を取る。

 

「あ、もらってもいいですか」

 

「ん」

 

 聞いておいてよかった…。社畜魂に感謝だな。はっ!いくない!はちまんいくないよ!

 一色が自分の隣に鞄を置いたことを確認し、逆さにメニューを広げる。一色も押し返してきてせめぎ合いが始まったが横で落ち着いた。

 

「何にします?」一色が聞いてくる。

 

「ううん、これにするかな」パッと目についた東京スカイツリー名物のもんじゃを指さす。

 

「まあ無難ですよねー」

 

 え、なに駄目?無難駄目?それとも俺がダメ?

 

「一色は何にするんだ」

 

「先輩、女の子を急かすのは駄目ですよー」

 

 メニューに視線を落としたまま説かれる。いや、先に聞いてきたの君なんですけどね。

 

「す、すまん」納得はしていないが、急かしたように聞こえた可能性もあったので一応謝る。

 

「なーんて、冗談ですよー」

 

 一色は言いながら俺の肩をバンバンと叩いてくる。しかし視線はメニューに固定されたままで、誠意のなさを感じた。社畜失格だな。社畜たるものどんなに不当な扱いをされても謝罪の姿勢は崩しちゃいけない。クレームおやじを思い出して苛々してきた。いかんいかん。

 店員をやると否が応でも店員に優しくなる。やる前は接客クソとか思っていたけど、どこぞの接客業必修化という持論は超賛成。

 

「決まりました!」

 

「早いな」

 

 待ちモードに入ろうとしていただけに驚いてしまう。これが小町だったら五分は覚悟するところだ。カップ麺作って食えるまである。ごめんなさい盛りました。

 

「私あんまり迷わないんです」そう言い、手を挙げる。「すみませーん」

 

 店員に注文をして、立ち去るのを見届ける。

 

「私の半分あげるので、先輩の半分くださいね」

 

 悪戯めいた顔でそう言う。

 

 

―――

 

 

「あー腹いっぱい」

 

 会計を済ませ、暖簾をくぐって外に出ると白い眩しさに目を細める。

 

「ちょちょちょ先輩だめですよ」一色は先ほどから俺の肩に掴みかかっている。「財布出させてください」正確には俺の肩にある学生鞄。

 

「はいはい次行こうぜ」無視して進む。

 

「ちょ、先輩ってば」

 

 適当に進んでいると、お土産コーナーがあったので誘われるように踏み入れる。一色はむくれていたが、俺の鉄のように固い意志を認めたのか諦めてくれた。

 折角ここまで来たし、小町にお土産でも買っていくかと物色するが。スカイツリーペンやスカイツリーマグカップと実用的でないものが溢れていて中々手が伸びない。さらに少し進むとキーホルダーコーナーが目に入り、近づく。そこで一色に「先輩、買い物するので鞄貸してください」と言われたので渡す。キーホルダーって旅行中はいいものあったわーとか、現地っぽくていいわーとか思うけど実際貰ってみるとつける場所もなくて結局机の上の肥やしになるだけなんだよなあ。

 結局何も買わないまま、店を後にする。

 一色から鞄を受け取ろうと手を伸ばすが、親の仇の様な視線を向けられ断られた。

 

 

 ガラスの先に青い世界が広がっている。その空間までもが海に沈んでいるようで、空調を伴っていっそ寒々しさを覚えるほどだ。

 事実、一色は二の腕をさするようにして腕を組んだので、羽織っていたカーディガンを脱ぎ肩に掛ける。

 

「え、あ、大丈夫ですよ?」

 

 一色はすぐに脱ごうとするのを手で制す。どうせ断られると思い直接羽織らせたのは正解だった。

 

「いい、暑かっただけだ」

 

 無視して、さらに深く進む。

 水の反射する景色に誘われ、厚さ三十センチを超えるであろうガラスの前に立つ。これほどまでに分厚い壁に遮られているのに向こうの世界は透き通り、手を伸ばせば届くのではないかと勘違いする。

 後ろから、俺のカーディガンに袖を通した一色が歩いてきて横に並ぶ。水槽を見上げて口を少し開いていた。俺がそうしたら間抜けと揶揄されるだろう表情にも可愛らしさを確かに含んでいる。

 

「すみません、ありがとうございます」

 

 青白い顔をして言う。俺も同じだろう。

 

「気にすんな。風邪ひかれても困る」ぶっきらぼうに答える。

 

 余った袖をくしくしと遊ばせると、ぎこちなく手を差し出してくる。顔は伏せられていて、表情は窺い知れない。鞄を握る手が震えているのは見えた。

 俺の反応がないことに焦れたのか、限界だったのか、口を開く。

 

「はぐれるといけないので…」

 

 首を巡らせずとも、休日の水族館は人が多く歩くのに気を遣うほどだった。今も背後にはまだかまだかと人がいるはずだ。

 様々な情景が頭をよぎるが、答えはシンプルなものだった。

 

「そう…だな。はぐれるといけないから、な」

 

 ズボンで軽く手汗を拭き、一色の拠り所を求めて彷徨う手を握る。握ったとたんに手が湿るのが分かり、意味なかったなと思う。

 恥ずかしさを捨てていかないと次に進めない気がして、意を決して足を動かす。一色も同じだったのか一緒に動いた。

 カラスの集団の様に背後に群がる人々に、置いてきたものを喰い散らかしてもらう。

 

 

 魚の空間を数個回ったところで、ようやくいつもの勢いが戻ってきた。一色に手を引かれクラゲの漂う水槽に顔を近づける。

 ふらふらと漂う彼らは、拠り所を探し続けているようで手を差し出したくなる。差し出した結果がこれなので既に限界なんですけど。お察しの通り勢いが戻ったのは一色だけですね。

 俺の不甲斐なさに慣れてしまったのか、右へ左へ手を引き連れ回される。

 

「あっち行きましょう!」「おお」

 

「あ、あれなんですか!」「ああ」

 

 一色はゾンビでも飼ってるのかな、カメラ止めちゃダメなのかな。思考が回らない。

 柔らかく細い手は強く握ると壊れてしまいそうになる。前が見えていないのか、猪の様に人ごみに突っ込んでいった。一色の手が離れそうになる。なぜか分からないが、離してはいけない気がした。

 ぎゅっと強く握ると、人とぶつかりそうになった一色がつんのめり俺の胸に背中から飛び込んでくる。

 

「すみません」怪訝な視線を向けてきた男性に謝り、人のいない壁際に誘導するように手を引く。

 

 忙しなく歩き回った所為でいくつかの水槽は見れなかった。手を取ったまま目の前で項垂れる彼女が言葉を発さない為、顔を覗き込む。そこには大きな瞳に涙を溜めた少女の表情があった。

 

「え、な、どう…」狼狽えてしまう。

 

 零れてはいないものの今にも頬を伝いそうに涙を溜めている。顔を上げた彼女は唇を噛んで何かを堪えていた。吐き出すように、言葉が漏れる。

 

「せんぱい、楽しくないです…かね…」ギュッと目を瞑ると、一粒の涙が零れ落ちた。「すみません…変なこと頼んで…」

 

 一色の手から力が抜け、するりと逃げていく。

 

「ごめんなさい、次の水槽行きましょうっ」絞り出すような声を出し、涙を拭おうとする。寸前で俺のカーディガンを着ていることに気付き、ゆっくりと腕を下げる。彼女の動きは電池が切れるように停止してしまった。

 

 俺は、俺は何をしていたのだろう。震える彼女の手を取ったくせに、何も責任など取らず、任せ、しまいには泣かせてしまった。彼女は俺の手を引いている間、どんな顔をしていたのだろう。もしかしたらずっと泣いていたのかもしれない。俺の性格を知って、彼女は手を差し伸べたのだ。

 いじけて膝を抱えていた俺に、優しく何度も手を差し伸べていたのだ。

 

「嫌…なんかじゃない」だらりと下がる一色の腕を取る。

 

 精いっぱいだった。自分で自分を嗤うのが分かる。今まで嘲て、貶して、欺瞞だと吐き捨てたものを振り返る。

 本物など、未だ手に入らない。いや、あの時から探してなどいなかったのかもしれない。切り捨て、選ばず、停滞を選んだ。捕まっていれば、地球が運んでくれるのではないかと。

 進みなどしなかった。過去に囚われ、周りの景色だけが進んでいく。勘違いできる鳩の方がまだマシだ。

 成長や進歩、日々足を止めない周囲に取り残され、自分だけがあの場所から進んでいないことを騙すために先の話を無理にでも考えた。それでも見えない自分に苛立ち、透き通った世界を羨む。

 

 陽乃さんの依頼を受けた理由。戸部の下げた頭に声を発した理由。停滞している彼ら彼女らに触れることで、自分のなにかを許し、騙し、留め続けていたのかもしれない。

 俺は、自身に課したままの依頼を未だ解決できていない。あの時へと延びる影を未だ許している。

 そろそろ、立ち上がらなければいけないのかもしれない。

 

 一色の顔が、綻び、また唇を噛む。「いいんです」

 掴んだままの手と逆の手を上げ、一色の頬を流れる一筋の涙を拭う。

 

「ちゃんとつかまっとけ」握った華奢な腕を俺の腕に誘導させる。責任も男気もあったもんじゃない。「はぐれたら、見つけられないぞ」

 

 全てが終われば、すべてが終われば。

 

「せんぱいは優しいから…」辛うじて捕まったままの手に力はない。

 

 優しいか、本当に優しい奴はもっとちゃんとしているのではないだろうか。何様なんだろう。自分では動けないくせに。本当に面倒くさい。

 

「すまん…」

 

「…嫌です」

 

「…すまん」

 

「…許しません」

 

 何も言えない俺に、一色は何かを要求するように言い続ける。

 

「どうしたら許してくれる…」

 

 一息つき、一色はようやく言葉を紡ぐ。

 

「ていうか…許してくれるって思ってるのがいけないんですよ。女の子から勇気出させておいて反応なしとかありえます?私がどれだけの気持ちで手を差し出したのか分かります!?」

 

 ぼそぼそと繋げるような口調が、徐々に熱を帯びてきて最後には叫びになっていた。いつの間にか手は離れている。

 

「すまん…」

 

「謝ればいいってもんじゃないんです!」

 

 そこで一色は肩に掛けていた鞄のチャックを乱暴に開け、これまた乱暴に中身を漁る。突然のことに呆けている俺を他所に一色は財布を取り出し、中から数枚のお札をひったくる。それを俺の胸に突きつけた。

 

「はいっ」

 

 意味も分からず一色の意図を図りかねていると、チッと舌打ちをして俺のズボンのポケットにくしゃくしゃになるのも厭わずに押し込んでくる。

 

「ちょ、おい…」言い、思い出す。おおよそ昼食の金額だった。

 

 ああ、なるほど。縁を切る男から金なんて借りていたくないよな。押し込められたお札を取り出し、なるべく優しく開く。

 今日はここで終わりか。一緒の電車で帰るのもあれだしどっか本屋でも探すか。

 帰りのプランを頭の中で自作し始めると、唐突に腕を掴まれた。

 

「ほら、次行きますよ!」

 

「え」

 

「え、じゃないですよ。ペンギン見るんですペンギン!」

 

 グイっと引っ張られ、足がもつれそうになる。我に返り辺りを見渡すとこちらを遠巻きに見る人がいた。大きな声を出していたからだろう。

 

「いや、お前…縁切るんじゃ」そう言ったところで一色が急に立ち止まり、振り返る。

 

「は?」怖い。

 

「いやだって、金返してきたからそういう…」言葉の途中でも一色の眼が冷たくなるのが分かった。

 

「はあ…」一色は大仰なため息をつき、肩の鞄を背負いなおす。「これだから」

 

 口が悪いよこの子。

 

「いいですか、女の子は、本気の相手には奢られたくないんです」一色は俺を説き伏せるように人差し指を立てる。「お金の問題はデリケートなのに、親密になればなるほど曖昧になっていくんです。そこに甘んじて『今日はいいかな~』とか『彼氏出してくれて~』とかふざっけんなって感じです。親しき中にも礼儀あり、親しくなりたきゃ仁義ありです!」

 

 長ゼリフを言い終わると、肩で息をする。俺はというとあっけに取られていた。

 

「どうでもいい相手なら『ソフトクリーム買ってくるよ!』とか『クレープ買ってくるね!』とかにも甘える奴はいますよ?あ、私は後々面倒になりたくないからそういうのはしませんけど。好きな相手にはそういう奴だって思われたくないんです。一回目奢ってもらって次は私がなんて方法もありますけど、次会える保障なんてどこにもないんですよ!特に先輩みたいな人は!ひょっこりどこ行ってるか分からないんですから!」

 

 さらに肩が上下する。

 

「お、おお…」

 

「ぜえ…分かりましたか…はあ…はあ…」

 

「はい…」

 

「はあ…まあ、ならいいでしょう…」

 

 いろはす怖い…。ていうか女子怖い…。

 

「ああもう!今日は最後まで付き合ってもらいますからねー!」

 

 うがーといい俺の腕を取ってグングン進む。

 触れた一色の掌はほんの少しだけ湿っていて、それだけが真実だと感じられた。

 

 

―――

 

 

 再びショッピングモール内に入った。ベンチに座っている。隣の亜麻色の髪をした少女は、掌で顔を覆うようにして表情を隠していた。かれこれ十分はそうしている。

 ペンギンを愛で、数枚の写真を撮り、一周水族館の中を回った。一色はずっと俺の腕にしがみついていたが、水族館から出たあたりで様子がおかしくなり、音もなく進むとベンチに腰掛けて顔を覆ってしまった。

 

「あ、あの、一色さん?」

 

「すみません話しかけないでください…」

 

「お、おお…」余りに恐ろしい声色にこちらの声も震える。

 

 ありったけの勇気をかき集めたが、届くことはなかった。もっと動物や植物、大地や水からオラに元気をわけてくれー!ってやらなきゃいけなかったかもしれない。あと十分一色がこのままだったら両手を天に掲げよう…。

 

「こんな…こんなはずじゃ…」覆っていた手を離し、今度は頭を抱えるようにして項垂れる。

 

 やがて、顔を上げると何かを諦めたような視線をこちらに寄越しながら、「まあ、先輩ですしね…」と呟く。

 ぐうの音も出ない。

 

「すまん…」謝罪はすんなりと出るが、言ってから気付く。「あ、いや今のなしだ」

 

「…次謝ったら、あの二人にチクりますからね」

 

「すみ…、げふんっ、はい…」

 

「これは私が好きでやってるんですから、いいですね!?」念を押すように、腕も押してくる。

 

「ああ…」

 

 俺の反応に怪訝な視線を向けつつも、切り替えは早いらしい。ぱんっと手を鳴らし、勢いよく立ち上がる。

 

「さあ、陰気臭い話は終わりです」俺に向かって手を差し出してくる。「メインディッシュですよ!」

 

 その手を掴み、立ち上がる。西向きの全面ガラスに目をやると、既に太陽は彼方に沈んでいた。辛うじて光を伸ばし存在を誇示しようとしているようにも見えた。忘れられないように、消えてなくならないように。

 一色に手を引かれ、スカイツリーの展望台に足を向ける。

 

 

 大きな箱に敷き詰められると、案内人の合図で扉が閉まった。

 間もなく微かな重力を伴い、空に運ばれる。上に上に、そのまま突き抜けてしまうのではないかと思わせるスピードに、俺の胸に収まっている一色がしきりに顔をしかめる。気持ちはわかる。耳がツーンとする。

 そんなことも、開いた扉の先の景色で消えてなくなる。360度の大パノラマだ。雪崩のように降りる乗客から次々に悲鳴にも似た小さな歓声が上がる。

 波に乗り遅れた俺たちは、ゆっくりとガラスに近寄る。周りがはしゃいでいると突然冷静になるあの現象ない?旅行の計画立てている時が一番楽しいやつみたいな。

 

「わあ…」一色が溢すように言う。

 

 眼下に広がる夜景は、日本一に相応しいものだった。ついでに言うと値段にも釣り合うように見えた。口には出さないけど。

 窓に額をつけるようにして下を覗き込むと、直下に赤いテールランプが縦横無尽に軌跡を残していた。

 一色も同じように下を見つめ、俺の腕をつかむ手に力が入ったのが分かる。「痛いです一色さん」

 

「あ、ごめんなさいっ」パッと手を離すが、すぐさま掴まれる。

 

「すげえな」

 

「はい…」

 

 隣で同じように夜景を楽しんでいたカップルが、「綺麗」「君の方が綺麗だよ」と言い始めたので、一色に目配せして移動する。

 ぐるりと一周すると、大体の構造が分かった。この展望デッキの上には展望回廊というさらに高い位置から景色を楽しめる場所があるそうだ。しかしそこに行くのにもお金がかかるため、一色と相談して今回はやめておいた。

 

「まあ、またいつでもこれんだろ」

 

 一色が驚いたようにこちらを向き、すぐさま冷たい目になる。「それ来る気ないやつですよね」

 

「よく分かったな」

 

「どうせ先輩ですからねー」

 

「はいはいどうせですよ」

 

「でも、今日は沢山お金使ったので、今度はピクニックにでも行きましょうか」

 

「このくそ暑い時にか…」

 

「やだなあ、こんな時に行くわけないじゃないですかー。日焼けしちゃいますよ」

 

「確かにそうだな、もったいな…」言いかけてやめる。

 

「え、何か言いました?」

 

「いや、ただでさえ日に当たりすぎて髪の色変わってるしな」

 

「そうなんですよねー、こんなに痛んじゃって…って地毛ですよ!傷んでませんし!」

 

「自分で言ったんだろ…」

 

「先輩が言わせたんですー」

 

 やんややんや言いながら、フロアを一つ降りる。先ほどはカフェは設置されていたが、こちらはレストランらしい。そこそこ賑わっていた。この絶景を観ながら食事できるなら当然だろう。遅めの昼食を取った俺たちには縁はなく、フロアを回る。やがてお土産が置いてある小さな店に着いた。

 

「ここにもあるのか」小言を言いながら近づく。内容は下のショッピングモールと似たり寄ったりだった。

 

「まあ、どこにでもありますよねー」一色は言いながら、なにか思案する顔になる。

 

 特に見どころもなく、最後のフロアへ向かい階段を降りる。一色は俺から離れ、なにやら鞄を漁っている。

 フロアに降り立つと、目の前にまたカフェがあった。ここまで用意されると、何か一つ飲んでいかなければいけない気がしてくる。

 

「なんか飲むか?」後ろにいるはずの一色に声を掛ける。

 

 振り返ると、一色は手に小さな紙袋を握っていた。首を傾げ何か尋ねると、紙袋を開け始める。中から出てきたのはスカイツリーを模したキーホルダーだった。二つ。

 

「これ…」一色が差し出してくる。緑が俺のものらしい。

 

「くれるのか…?」一色の手元に残ったのはオレンジ色のものだった。

 

「なにか、思い出になりそうなものが欲しくて…」

 

「そ、そうか。さんきゅーな」いくらか聞くのは不躾というものだろう。あとで何か買ってやらなければ。

 

 あれほど嫌厭していたのに、今は自然とどこに付けようか脳が心当たりを探し始めている。

 

「あれだったら別に付けなくても…大丈夫ですから…」

 

 一色がこちらを向かずに、言ってくる。後ろの階段から降りて来る人がいた為、背中を押して誘導する。人が固まっている場所があった。目を凝らすと床に穴が開いている。

 

「一色、あそこ」指さすと、彼女も顔を向けた。

 

「あ、ガラスの床ですよあれ」

 

「ああ、透ける奴か」テレビで良く紹介されていた気がする。建設当初。

 

「行きましょうっ」手を引かれる。

 

 少し待つだけで、ガラス床の前に来る。本来上に乗るものなのだろうが。周囲の人がそれぞれに気を遣い誰も乗ろうとしない。ガラスの窓を覗いているだけだった。

 

「大学で使ってる筆箱にでも付ける…」

 

 覗き込んでいた一色の背中に呟く。肩がピクリと動き、届いたと分かった。

 

「…はい」

 

 優しく、強い返事が返ってきた。

 

 

 地上へと降りるエレベーターに乗り込むと、先ほどのカップルと思わしき男女が乗り込んできた。「ごめんって」謝る彼氏を、彼女は無視している。

 またも一色と顔を見合わせ、苦笑しそうになるのを抑えた。

 

 

―――

 

 

 昼過ぎに集合した駅に舞い戻ってきて、夕食を取った。日は沈もうとも空気は湿気を多く含みじっとりと肩にのしかかってくる。改札はすぐそこだ。

 俺の腕を確かめるように撫でまわしていた一色が顔を上げ、話しかけて来る。

 

「先輩、今自動車学校行ってるんでしたっけ」

 

「ああ」

 

「へえ…」腕からすすすっと下がり、俺の手を握り込んでくる。狙ってやっっているわけではないのだろうが、艶めかしい動きが心臓に悪い。「助手席、乗らせてくださいね…?」

 

 恥ずかし気に顔を逸らしながら、ぼそぼそと呟いた。

 

「…乗せられるようになったらな」

 

「やった…」一色は小声で喜ぶ。

 

「ほら、離れろ」

 

 改札を通り、一色を待つ。小町からもらった財布はまだ固く、新品の匂いをさせていた。遅れて一色も改札を抜ける。

 

「じゃあ、気をつけて帰れよ」

 

「はい、あ…」一歩踏み出した俺に、名残惜しそうな声を出す。そんな声出されたら帰れないだろう。

 

「どうした」

 

「あ、いや、ホームまで送っていきますよ!」

 

「なんでだよ…」

 

 当然の疑問に、身を引いてしまう。しかしむくれた顔の一色は詰め寄ってくる。

 

「むう、これだから女心が分かってないって言われるんですよ!」

 

「へいへい」言い、ホームへ続く階段に足を向ける。

 

「え」一色は驚いた声を出す。「なんでそっちなんですか」

 

「見送られても心配だからな、まだ見送る方がマシなだけだよ」首だけ振り返り言う。

 

 それを聞いた一色は顔を輝かせ、たたたっと付いてきた。階段を降りる。

 

「やればできるじゃないですかー」

 

「なにがだよ」

 

「女心ですよ女心。今のは満点です!」

 

「さいですか…」

 

 階段を降りきると同時に、電車がホームに突っ込んでくる。生暖かい風が顔にかかり、顔をしかめながら一色に聞く。

 

「一色、この電車か」

 

 こちらは前髪の辺りとスカートの裾を抑え、風から逃れていた。いじらしく布がはためく。

 

「っはい…」

 

 歩き、階段とホームの先の真ん中あたりに陣取る。少し時間が遅くなったため、人は少なかった。

 耳障りなブレーキ音を響かせ電車が止まる。数人が降り、続いて一色は乗り込んだ。

 

「気をつけて帰れよ」二度目の言葉だ。

 

「はい、今日はありがとうございました」恭しく頭を下げられる。

 

「ああ、ありがとな」

 

「またデートしましょうね!」

 

 一色は届かないのに、握りこぶしに小指を立て指切りのポーズをした。電車の発車ベルが鳴り響き、一歩下がる。右手を肩の高さに上げる。

 

「また今度…な」

 

 自分の小指だというのに、言うことを聞かずプルプルと震えている。冬でもないのに、悴んでいるようだ。

 一色はあどけない少女の様に笑い、可愛らしく右手を振った。

 

「はい!」

 

 無情にも、扉は閉まる。見えなくなるまで一色は手を振っていた。音が止むと、上げていた腕を無造作にポケットに突っ込んだ。家に帰り小町に指摘されるまで、カーディガンがないことに気が付かなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「はあっ…はあっ…」

 

 自分の息切れが耳に響く。心臓の音は五月蠅く、肺が焼けるように痛い。

 住宅街に不自然な木々が見え、あそこかと呟いた。

 

 

 由比ヶ浜の電話に気付いたのは偶然だった。大学へ行く日は常にマナーモードにしていて、家に帰ってから解除することが多い。偶々携帯を手に取っていてよかった。

 

『駅の近くの公園にいるんだけど、ヒッキー助けて』

 

 電話口から聞こえた悲痛な叫びに、俺の足は突き動かされた。どこにいるかも分からない。もしかしたら家かもしれないし、旅行に行っているかもしれない相手に向け、いの一番に助けてと言う事態など俺は遭遇したことがない。だから走った。

 車校帰りだったのも幸いだった。ついでに葉山に言われ夕食を共にしたのも幸いだ。車校のスケジュールの事で話す時間が必要だった。

 電車を飛び出し、改札をつんのめりながら抜ける。人にぶつかりそうになりながら北口を目指した。

 

 

 公園の入り口にある鉄パイプに手を突く。一瞬、息を整えて公園を見渡した。連絡があってから十分少々と言ったところか。

 

「だから、大丈夫って言ってるじゃん!」叫び声が聞こえる。

 

 夜闇に紛れる空間に、スポットライトの様な明かりを見つける。その下のベンチに人影が見えた。近づくとベンチの傍に二人、囲むようにして立っているのが分かる。

 

「だから、俺たちが運んであげるって言ってるだけじゃん」髪の色の抜けた、長身の男が声色は優しく言う。

 

「そうそう、結衣ちゃんだけじゃ無理だって」隣の黒髪の男も同調する。

 

「だから、もうすぐ友達が来るからいいって!」由比ヶ浜の声が、ひときわ響く。

 

 切らした息をそのままに足を引き摺りながら近づくと、土を擦る足跡に三人が一斉にこちらを向いた。由比ヶ浜の表情が晴れる。

 

「ヒッキー!」

 

「…何してんだ」

 

 スポットライトから外れ、顔の見えない俺に男二人が怯むのが分かった。

 

「いや、別になにも…」

 

「…何もしてないことはないだろ。じゃなきゃこんなに叫ぶか」

 

 結構な距離を走り、頭が沸騰していたのが功を奏して言葉がすらすらと出てくる。由比ヶ浜の心配そうな視線が見える。

 脅しでもなんでもいいか。どのみちなんかあってからじゃ遅いし。

 

「ちょっと警察呼ぶから、待ってろ」

 

「は、なんで」

 

 男が砂を蹴り、近づこうとしてくる。無視して携帯を取り出し110番を押す。見えるように一度、彼らに画面を向けてから耳に当てる。

 男の腕は空中を彷徨ったままだ。まだ焦りが脳を支配しているだろう。冷静になればなんともないことも、畳み掛けられるとパンクする。

 耳元で硬質な声がした。

 

「すみません、駅近くの公園で女性が絡まれて困っているんですが」

 

「は、まじかよ」「なんだよこいつ」

 

 口々に由比ヶ浜に向かって口を開いている。ここで俺に向かってこない辺りも近頃の若者という感じだ。

 

「はい、茶髪と黒髪の大学生らしき人ですね」そこで携帯を離す。「今帰れば、やめるけどどうする」

 

 二人の動きが停止する。頭の中で思案しているのだろう。メリットデメリット。必要不必要。現在将来。今日明日。

 彼らに効果的な言葉は分からないが、今は続けるしかない。

 

「大学に連絡するのもやめる」

 

 二人の肩がビクつくのが分かった。ここか。

 

「はあ、もういい。親でも大学でも迷惑かけろ」携帯を耳に当てると、茶髪が動いた。「やめろ!」

 

 飛んできた手が俺の手と携帯を弾く。爪が目尻にかかり、瞬間的な痛みが走る。携帯が地面に落ちる音がして静寂に包まれた。

 頬を何かがゆっくりと伝う。それに触れると、指先が赤い粘性をもった液体で染まる。電話口で警察の声がくぐもって響いている。

 

「あーあ、終わりだな」震える口で、言葉を紡ぐ。

 

「ヒッキー!」由比ヶ浜が叫ぶが、膝にのせているものの所為で動けないのだろう。

 

「おい、逃げるぞ!」「は!?」

 

 男二人は混乱していた。肉食獣のくせに、草食男子で、こういうときだけ牙をむくのかよ。しかし、彼らの様子からこれ以上悪化することはない様に見えた。近づき、比較的おとなしそうな黒髪の肩に触れる。拭うように手を下げると、彼の爽やかな青色のシャツに血が滲み、その部分だけ黒くなる。

 

「お、俺関係ないから!」走り出してしまった。

 

「おい!」茶髪が逃げる黒髪に叫ぶ。しかし止まらない。

 

 頭が混乱しているのか、茶髪の足は動かない。その隙に携帯を拾い、警察の声が響くスピーカーを彼に向ける。

 

「今離れたら、切ってやる」噛まないように、無機質に言う。

 

 茶髪は一瞬思案したが、すぐに走り出した。確認して、通話を切る。

 

「はああああ…」思わずへたり込んだ。

 

「ヒッキー!」膝のものをどかせたのか、由比ヶ浜が近づいてくる。ハンカチを取り出し俺の目尻に当てる。

 

 呟くようにごめん、ごめんと繰り返していたが、やがて何かが切れたように由比ヶ浜の瞳から涙が溢れてきた。

 夏休み中にこんなに涙を見るとは思わなかった。

 

「ごめん、ごめんねヒッキー…」

 

 携帯がけたたましく鳴り始めた。見ると知らない番号だ。右目が抑えられているために、左耳に当てる。「はい」

 

 電話の向こうから聞こえてきたのは再び硬質な声だった。警察だ。かけ直すに決まってるよなあ。

 

「あ、はいもう大丈夫です。いなくなったので。はい、特にないみたいです、すみません」

 

 大丈夫という旨を伝えると、そさくさと電話を切る。

 

「…ヒッ…キー」ぐずぐずと鼻を鳴らし言葉ともつかない何かを口にする。

 

「大丈夫だ」言い、立ち上がる。「それより早く離れるぞ」

 

「え…」由比ヶ浜は目を聞いてくる。「なん…で」

 

「その内警察が来るだろうから、早く離れよう」

 

「でも、今…大丈夫って…」

 

「一応通報があったんだ、大丈夫と言われようとパトカーは回すだろう。そこに俺たちが座っていればどうせ聞かれる」

 

「やっぱり、警察行った方が…」

 

「いいんだよ、行くぞ」

 

「ヒッキー血!絆創膏だけ、貼らせて」

 

 由比ヶ浜の厚意に甘え、止血だけする。ベンチに近づき、横たわる彼女を由比ヶ浜に手伝ってもらいながら背負う。

 首に金髪の縦ロールがかかり、こそばゆい。抱えた太ももは素肌だったため指が沈むが何とか抱える。

 

「ていうか、どこに向かえばいいんだ」

 

「優美子、一人暮らししてるから、そこに。あたし行ったことあるから」由比ヶ浜が先に行く。まだ袖で目を拭っている。

 

「そうか」寝ている人間を抱えるのは辛く、なんども背負い直す。

 

「だから、あの人たちに付いて来てほしくなくて…」振り返り、赤い目で漏らす。

 

「知り合いじゃないのか」

 

「うん…今日初めて会った。優美子の飲み会に着いていって。優美子、ずっと調子がおかしくて」

 

 調子がおかしいというのは、体調の事ではないのだろう。調子がおかしい奴等なら、良く知っている。

 

「由比ヶ浜は…、なにもされてないか」

 

 正直なところの一番の危惧を尋ねる。それだけがずっと気がかりで、それだけの為に走ってきたと言っても過言ではない。ずれてきた背中の彼女を、由比ヶ浜の手を借りてまた背負い直す。

 

「うん、ヒッキーが来てくれたから…」

 

「そうか…」ならよかった。

 

「ごめんね、途中で休もうね」

 

「大丈夫だ、早く行こう」何故か分からないが、足の疲れは麻痺していた。アドレナリンという奴だろうか、分からない。

 

 そこで由比ヶ浜が目を見開き、後ろをチラと振り返ると公園から赤い光が見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは包まれていた。

 

 それに気付いたのはお母さんに言われてだった。お父さんじゃなくて助かった。深く詮索される前に、自室に逃げ込む。

 キーホルダーだけ取り出し、鞄を部屋の隅に放り投げる。ベッドに腰掛けた。

 揺れる銀色に目を奪われてしまう。こんなに輝くキーホルダーは初めて手に入れたかもしれない。買った時より光っている。

 そのまま後ろに倒れて、後頭部の違和感に気付く。先輩に貰った髪留めだ。あれからほぼ毎日付けていて、昔からつけているかのように馴染んでしまった。抜き取るように外し、目の前に持ってくる。頬の筋肉が緩むが分かった。

 そこで、何度も焦がれた香りがした。今日、ずっと近くにあった香りが。袖口を握り鼻の近くにもってくる。

 

「せんぱい…」

 

 どうしよう。どうしよう。私変態なのかな…。普通…じゃないよね多分…。先輩の匂いだ。

 心配する気持ちとは裏腹に、匂いを放つそれから離れられない。まるで抱き締められているようだ。先輩に包まれている。

 そういえば、結局先輩からくっついて来てくれることはなかった。思い出したら少し腹が立ってきたが仕方ないだろう。私はまだ何も言っていないし、先輩の口から何かを聞いた覚えもない。これでいいと選んだのだ。今はまだ。

 決意したその日に曖昧な彼と自分に腹が立って、臆病な私は泣いてしまった。それからは吹っ切れてすごく楽しかったんだけど。面倒くさい女だって思われたんだろうな。

 

「先輩が悪いんですよ」

 

 先輩が背中にいる気がして、ぶつけるように言ってみる。当たり前だが返事はない。どうせすまんとか言うんだろう。

 でも、決めたのだ。

 携帯を取り出し、メールアプリを開く。メールなんて先輩だけだ。今度会ったらLINE入れさせよう。

 

――――――――――――――――

〈せんぱい〉

楽しかったです。

 

途中、迷惑を掛けてしまってすみません。

でもすごく楽しかったです!

先輩はどうでしたか…?

 

次はピクニックにでも行きましょうね!

私お弁当作りますから!

先輩の好きな食べ物教えてください。

あとカーディガンはまた今度返しますね。

添付ファイル:1

――――――――――――――――

 

 次は、のあたりで指が一瞬躊躇したが、自分を奮い立たせて打ち込んだ。これくらいで落ち込んでいては先輩の相手などできない。止まってはいけない。私はあの二人より遅いのだから。

 

 携帯を充電器に差し、制服にしわが付かない内に着替えることにする。

 スカートを専用のハンガーに掛け、ラフなTシャツに首を通したところで携帯が鳴った。自分史上最速で手に取る。

 画面に表示される〈メール:一件〉に触れる。

 

――――――――――――――――

〈せんぱい〉

Re:楽しかったです。

今日21:38

別に気にしてない。

謝る代わりになるか分からんが、俺も

楽しかった。

 

なんでもいいけどトマトは入れないで

くれ。

あと恥ずかしいから送るな。

―――――――――――――――

 

 だめだ、しっかりしろ表情筋。いや、今日一日頑張ったから許すべきか。口角が上がっていく。

 写真アプリを開き、送った写真を見る。

 バックにはライトアップされたスカイツリー、その手前に映るは私と首根っこを掴まれた先輩。恥ずかしそうに眼を逸らしている。すごくかわいい。

 壁紙にしてもいいかな。何か言われるかな。学校が始まる前に変えればいいか。

 

 下の階から、お母さんの声がする。お風呂に入れと言っているのだろう。

 

「はーーい!」

 

 聞こえる声で返事をする。

 返事はすぐにしちゃだめだって誰かに聞いたことあるけど、駆け引きなんてできない。やっとわかったかもしれない。軽快に指が動く。送信。

 返信が来る前にお風呂に入ろう。

 部屋を出るところで下に何も履いていないことに気付く。どれだけ頭がいっぱいなんだと、自分に苦笑するしかなかった。

 

 先輩のカーディガンは、まだ洗わなくていいよね。

 

 

 

 




高校生の夏休みは終わりですね。大学生はまだまだです。

すみません、次の更新は2週間程空くかもしれません。
ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9月①


9月に入りました。高校生は学校、大学生は天国の時期ですね。

長いです。でも読んでもらえると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 三浦優美子は揺蕩っていた。

 

 少し荒い息が背中越しにも伝わってきていた。少しの上下を伴いながら進むそれは、ゆりかごの様でもあり再び意識が朦朧とし始める。回らない頭で、何とか思い出す。

 確か、飲み会に誘われて、結衣も一緒に行こうと誘った。

 そこまで考えたところで、頭に激痛が走る。嫌な記憶を抑え込もうと、固く閉ざした門をこじ開けるような痛みだった。いくつもの針に思考がかき乱され、一瞬、諦めそうになる。しかし、結衣の事だけが気にかかる。結衣だけは。

 それに気付いたのは偶々だった。喉からせりあがるものがあり、何とか抑え込んだ時、耳元で会話が聴こえてきた。

「優美子…暮らししてるから……った事あるから」

 断片的ではあるが耳が音を拾い始める。結衣の声だ。哀し気な色を含んでいて、今にも泣きだしそうに震えている。

 結衣を傷つけられた。そう思うと頭の中が沸騰するようで、意識が明滅する。激しい頭痛が、火花の様に後頭部でばちばちと音を立てている。

 どうしようもない状態を打破しようと、とにかく目の前にあるものを叩き、燃え上がらせなければと身体を動かしたとき、背負われている背中が震えた。

「由比ヶ浜は…、なにもされてないか」今度ははっきりと聞こえた。動かしかけた身体が重力に引っ張られ、落ちそうになるのを細い指が抑える。少し骨ばった背中が一度大きく揺れ、再び背中に収まった。

「うん、ヒッキーが来てくれたから…」結衣の声だ。

 よかった。そう思うのと同時に、背中の筋肉が弛緩したのが分かった。こいつもずっと緊張していたのだろう。また一つ、居心地がよくなった支えに、意識は飛び始める。

 背中が一呼吸おいて大きく揺れた。振り返ったと推測できるその横揺れがとどめとなった。

 

 隼人じゃないんだ。

 

 曖昧な記憶は、そこで途切れている。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 夢と現実を彷徨っている意識を楽しみながら寝返りを打つと、カーテンの隙間から刺激的な光が刺す。

 あまりの眩しさに目尻に皺を寄せ、続いてあまりの痛さに顔全体に皺を寄せる。

「いっ」

 飛び跳ねるように起き、傷口のある目尻に手を添える。そうすると心なしか痛みが和らいだ気がした。

 昔から”手当て”というように人の手には不思議な力があると言われている。患部に手を添えることで身体の緊張が解けることが理由だそうで、腹痛時にお腹を抑えるのもそれが発端らしい。確かに小町とかに撫でられたら骨の一つや二つくらいくっつきそう。(無理)

 携帯の画面を表示させ、時刻と日付を確認する。9月1日、木曜日、もう出ていったか。

 充電器を抜き無造作にポケットに入れる。足早に部屋を出て階段を降りる。表情を動かし、痛みの度合いを確認した。顔をしかめる。

 あれから一週間以上経過しているが、傷口は未だ生々しさを帯びている。幸いというべきか綺麗に切れていて、塞がりも早く治癒も早いことを期待したが、やはり深さは侮れず、今も苦しめられていた。

 由比ヶ浜とは連絡を取っているが、三浦自身からは何の音沙汰もない。別に何かを期待している訳でもなく、ただ単純に気になっているだけなのだが、由比ヶ浜とやり取りで様子は把握できるため杞憂にも思えた。

 

 あの夜、三浦を背負って二階建てアパートの一室に足を踏み入れた俺は、記念すべき三人目の女子の部屋というものを数えた。しかしそれは思っていたものとは程遠く、いや雪ノ下が異常なだけだろうが、物が氾濫していて思わず首を巡らせてしまった。由比ヶ浜の苦笑に悲しみが含まれていたのには辛うじて気付いた。

 テレビショーで紹介されるごみ屋敷とは程遠いが、メイク道具や洋服、下着、通販で届いたのだろう段ボールが崩されず積まれていて、人ひとりにために造られた獣道があるだけだった。キッチンには即席麺やコンビニ弁当のゴミが散乱していて、その食生活が窺える。水垢ひとつないシンクが不釣り合いに浮き上がって見えた。

 ベットに横たえると可愛らしいおへそがちらりと見え、そのウエストも相まって胃下垂かな?と思う。

 彼女の状態はキッチンから想像できないほど健康的で、意外と自炊もしてるのかなと考えたが、厚い化粧でも隠せない隈が不安を煽った。

 目のやり場に困った俺は早めに退散をしようとしたが、由比ヶ浜に制止され、どこからか救急箱を取り出すと消毒液を垂らした。キッチンは綺麗で救急箱は置いてあるとかやっぱりオカン体質なのかな、とガーゼの当てられた目尻に力が入る。

 ガーゼで抑え、由比ヶ浜にお礼を言うと、その日は別れた。

 

 ぼーっと階段を降りきると、小町が玄関で靴を履いているところだった。ローファーのつま先を軽快に鳴らした。

「あ、お兄ちゃんおはよう」小町が鞄を背負い直し、笑う。

「おお、おはよう」今日からか、と声を掛けると「うん、夏休みは昨日で終わり」と言い、小町の表情が沈む。

 分かる、分かるわー。登校初日ってなんかこう、死にたくなるよね。

 それでも、二日、三日と経てば身体は馴染み、空気は整い、カースト上位は騒ぎ始める。いやあいつら初日からはしゃいでたわ。どんだけ学校好きなんだよ。お前の焼け具合とか知らんわ。

「小町はミディアム派だもんな」俯きがちな小町の髪の毛に語り掛けると、顔を上げて冷たい視線が返ってきた。冷凍食品派でしたか…楽だしね…。

「傷はどう?」小町がこちらに手を伸ばしてきて、思わず避けた。心臓が鳴る。「ど、どうしたのお兄ちゃん」

 あの日の出来事はトラウマに近いものとしてカウントされたらしく、不意に顔に何かが向かってくるのに過剰に反応するようになっってしまった。

「いや、すまん」居住まいを正し、傷のある顔の右側を小町に向ける。傷ができた理由は言っていない。

「うーん、結構深いねー」小町が手を傷口に添えるが、もちろん治ったりはしない。「走ってて転ぶなんてお兄ちゃん運動不足じゃないの」ジョギングでも始める?と腕を振る。

「おっさんかよ…」

「それは偏見だよお兄ちゃん…今のご時世ジョギングは趣味にもなるんだよ。あれ? ランニングかな? あれ?」

 壊れた人形のように首を傾ける彼女が可笑しく、笑みがこぼれる。「なんでもいいけど学校遅れるぞ。生徒会の仕事あるんだろ」

「あーそうだった! 行ってきますお兄ちゃん!」

 慌ただしくドアを閉め、ガチャガチャと自転車を出す音がする。「気を付けてな」呟き、踵を返す。

 食卓には朝食ができていて、申し訳なく思う。どうせ早起きだから小町が作るよと、言ってはくれたがやはり明日からは俺が作ろう。

 椅子を引き、携帯を取り出しながら座る。電話帳を開き、や行までスワイプする。〈雪ノ下雪乃〉をタップし、メール画面を開く。

――――――――――――――――

〈雪ノ下雪乃〉

 聞きたいことがある

 

 雪ノ下さんの誕生日教えてくれ

――――――――――――――――

 我ながら無駄な贅肉が削ぎ落された文に納得しつつ送信ボタンを押す。朝も早い為返信は来ないと思い、机の上に伏せるが、その瞬間に通知音が鳴る。レスポンスの速さに驚きながら開く。

――――――――――――――――

・受信メール

〈雪ノ下雪乃〉

Re:聞きたいことがある

今日7:56

 

 自分で聞いて頂戴。

――――――――――――――――

 ですよね。

――――――――――――――――

〈雪ノ下雪乃〉

Re:聞きたいことがある

 

 了解

――――――――――――――――

 まあ仕方ないな、雪ノ下の言い分が正解だ。誕生日のお祝いをしてもらった以上、お返しをしないのは礼儀知らずというものだろう。あんなディナーは御馳走できないが、些細なプレゼントなら用意できるはずだ。

 陽乃さんに会うと考えるだけで、なぜか顔が熱くなる。思い違いだと振り払った記憶は、手を振り回せば振り回す程絡まり、思考が占領される。彼女の蠱惑的な笑みだけが、頭を埋め尽くしていた。

 やり取りは終わったと高をくくっていた為に、新たな通知音に味噌汁が気管に侵入しかける。数回咳をして追い出すと、再び携帯を持ち上げた。

――――――――――――――――

・受信メール

〈雪ノ下雪乃〉

Re:Re:聞きたいことがある

今日8:05

 

 7月7日よ。

――――――――――――――――

 なんだこいつ、ツンデレか。

 変わらない彼女の姿勢に、思わず苦笑する。軽い指を動かし、礼をした。

 そうか、もう過ぎてるか。じゃあ仕方ない、で済むような人じゃないよなあ。

 彼女について知る度に一歩ずつ沼に足を踏み入れている錯覚を覚え、足を止めようかと悩む。しかしもう遅いようで、ずずずと沈んでいくように、指が動いた。

 自分の奥底を隠すように、白飯をかき込んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 どうしてこうなった。

 ガタンゴトンと車輪が継ぎ目を通るたびに音が鳴る。夏はレールが熱膨張するから隙間が空いているのだといつかのバラエティで紹介されていた。

 つり革に掴まるのにも飽き、手首をひっかけて鉄塊の空中散歩に身を任せる。隣では鼻歌交じりにご機嫌なめぐり先輩がいた。

 

 総武高校の始業式が行われた木曜日、固定シフトであるバイトに勤しんでいた俺は、同僚の休みに代打として打席に立っためぐり先輩に陽乃さんへのプレゼントの相談をした。右目の傷については追及されかけたが、俺の反応を見るとすぐにやめた。こういうところも人からの信頼につながるんだなと思った。

 めぐり先輩は終始にこやかに応じてくれたが、結局まとまらず、諦めかけたところで一つの提案をされた。大学生の特権である九月の休みを利用して、一緒に買いに行こうと。

 偶然にも葉山の用事で金曜日の車校がなかったが、もちろん俺の買い物に付き合わせるのもおこがましく、一度は拒否した。しかし結果は今のこの状態である。

 最近気づいたが俺は押しに弱いのかもしれない。まあ押して駄目なら諦めろがモットーですし、押されたら諦めるに決まってますよね。

 

「あの、これどこに向かってるんですか?」またもや目的地を知らされない旅に不安がよぎり、聞く。

 めぐり先輩は鼻歌を止め、こちらに笑いかける。「私の通ってる大学だよ」思いもよらない返答に、頭が混乱していると、めぐり先輩があははと笑う。「ごめんごめん、正確には大学の最寄り駅近くの雑貨屋さんかな」

「ああ、なるほど」店と聞いて、合点がいく。めぐり先輩の通う大学は確か女子大で、その周りには専用とも取れる女性向けの店が乱立していた。「そこに目当てのものがあるんですか?」

「うーん、あると言えばあるんだけど、雑貨屋さん沢山並んでるから」顎に手をやり、悩まし気に呟く。「はるさんの趣味かあ」

 めぐり先輩の真似ではないが、顎に手を持っていき思案する。陽乃さんの趣味。数回しか見たことはないが、私服はナチュラルなものから赤い刺激色を散りばめたものまであり、好みまでは想像できない。

 めぐり先輩へと視線を向けると、困ったように眉を下げるだけだった。

 電車は緩やかに速度を落とし、めぐり先輩がドアの近くに移動する。降りる駅だと目配せをされてそれに続いた。

 

 改札にICカードを通し、白い日差しの下に出ると、めぐり先輩は眩しそうに手で光を遮る。肩の出ている花柄の白いワンピースは太陽の元でさらに輝き、白い肌を際立たせる。視線に気づいたのかこちらを見ると、頬を赤らめ目を逸らす。申し訳程度に肩に手を添え隠された。

 凝視してしまった罪悪感と少しの背徳感に、嗜虐心が芽生える。

「どうしましょうか」近づいて、横に並ぶ。

「う、うん、どうしよっか。えっと、とりあえず順番に見ていこっか」

 恥ずかしそうに眼を逸らしたまま答えるその姿はか弱く、陽乃さんがめぐり先輩に執着を見せる理由が少しわかる気がした。

「分かりました」足を踏み出し目で方向を問うと、そそくさと先を行く。くるぶしに光るアンクレットが誘うように揺れた。

 

 綺麗に舗装された街並みはどこか西欧の雰囲気すら感じさせ、異国に迷い込んだ気分になる。めぐり先輩の通っている大学のイメージとぴったりだなと思う。片側一車線の道路の両脇には雑貨屋をはじめ、おしゃれなカフェや洋服屋が並んでいて、気品が漂っていたが時折聞こえる大学生の甲高い笑い声が全て台無しにしていた。

 九月の平日など外に出ているのは大学生しかいない。人が少ないのは大歓迎だったが、目障りな学生が一層際立ち、苛々に拍車がかかった。

 めぐり先輩の買い物にも付き合いながら一帯の雑貨屋を回り終えると一時間半ほど経っていて、昼食にとイタリアンのレストランへと足を踏み入れた。一応言っておくがサイゼではない。

 座席に案内され、メニューからそれぞれに注文を終えるとめぐり先輩が少し気難しい顔をする。

「うーん、やっぱり難しいね」

「そうですね」水を一口含み、転がしてから飲み込む。「でも、決まりました」

「え、決まったの?」

「はい、城廻先輩のお陰です」店名を思い出しながら伝えると、「お店がいいだけだよ」と照れ臭そうに笑う。

 それから少し他愛のない話をしていると、料理が運ばれてきて食事を取る。

 皿の上のパスタが残り少なくなってきた頃、めぐり先輩がフォークを置いた。

「ひ、比企谷君にお願いがあるんだけど…」

 俺はと言うと最後のひと巻きに苦労していた為、少し恥ずかしくなる。

「な、なんでしょう」誤魔化しつつフォークを持ち直す。

「えっと、比企谷君に服選んでほしいんだけど…」そう言うと小さな鞄から携帯を取り出し、写真フォルダを開くとこちらに向くように置いた。

「俺センスないですよ?」女性の服選びなどという重役に耐えきれる訳もなく、言い訳が口を突いて出る。「今の服装だって小町に選んでもらったやつですし」

「そんなに身構えないで? この二つで迷ってて比企谷君ならどっちがいいかなって」

 細い指を画面の上で左右に振り、二枚の写真を交互に見せて来る。

「ああ、なるほどそれくらいなら…」

 先のショッピングで試着した姿を写真に収めるように頼まれたのはこの為かと合点がいく。俺がシャッターを切ったそれは全身が映されていて、恥ずかしそうに斜め下を向く彼女がいた。カシャリという音に身をよじる姿には妖艶さすら感じさせたが、新しい扉はノックするだけに留まった。

 自分が撮影したものにも関わらず、被写体が良いのか映りはモデルの様だった。女性誌の表紙を飾っても不思議ではない。言わないけど。

 二枚を見比べ、首周りの開いた方を指差す。袖にフリルが付いていて彼女の雰囲気に合っているように思えた。

 俺の選択に満足げに頷くと、料理を完食しためぐり先輩は手洗いに立った。その隙に会計を済ませると、彼女は頬を膨らませ、しばし財布を取り出させない攻防が続いたが最後は受け入れてくれた。

 なんで俺は小町に選んでもらったなどと嘯いたのだろう。わだかまりだけが残った。

 

 ここまで来たら後は自分で選ぶもの、と言われめぐり先輩と別れた。とはいえ既に中身まで決まっている為一瞬で会計を済ませ、記憶を頼りに俺の選んだ店まで行くと、城廻先輩を含む女子大生数人の塊が目に入り、街灯の下に隠れた。怪しまれないように携帯を取り出す。

「めぐりどうしたのこんなところで」茶髪の女性が言う。めぐり先輩の友人だろうか。

「ちょ、ちょっと買い物に…」めぐり先輩は少し困った声を出す。

「へえ、何買ったの?」こちらも茶髪の女性が言い、めぐり先輩が手に持つ紙袋を覗き込むと避けるように抱える。「もう、恥ずかしいからダメだよー」

「お、可愛い服ー」後ろから覗き込んだまたまた茶髪の、って茶髪しかいねえじゃねえか!

「あ、えへへ、ありがとう」困っていた声も、その時だけは少し明るくなった。気がした。

 それにしても、傍から見たら女子大生の休日エンカウントも、目を凝らすと若者のカツアゲにしか見えなくなる。めぐり先輩のことを知っているからだろうか。

 そこで茶髪一がめぐり先輩の肩に手をやり、「どうしたのめぐり、こんな肩出して」と言う。茶髪二と三もそういえばと言わんばかりに声を上げる。

 確かにずっと気になっていた。バイト先ではズボンで、制服も決まっていた為に、今日初めて見た私服は普段の彼女からは肩だけとはいえ刺激的とも取れる格好で、微かな高揚と微かな失望を抱いたのを思い出す。しかし茶髪団の口ぶりから、同級生でも珍しいことが分かった。

「え、あ、まあちょっとね…」めぐり先輩が歯切れ悪く言うと、茶髪団はさらに喰いつく。

「怪しいなー。めぐりのこんな格好初めて見たし、もしかしてデート?」

「え! めぐり彼氏できたの!?」

「大丈夫? めぐり」

 そう言う彼女達の口調には不思議と嫌悪感は湧かず、むしろめぐり先輩を心配するようなセリフも聞こえてきた為に認識がまとまらない。

「うん、大丈夫。ありがとう」めぐり先輩の声は懐かしむようなものに変わっていた。

「そっかそっか、で、もしかして後ろの人が彼氏?」

 突然の指名に体が跳ねる。名探偵でももうちょっと溜めるぞおい。

 俺の事ではないと態度で表すよう、携帯のホーム画面を右へ左へ往復させる。

「あ、比企谷君!」めぐり先輩の声も跳ね。俺の肩も共鳴した。

 仕方なくそちらに向き直り、「ど、どうも」と挨拶をすると、茶髪団の視線が一斉に俺に注がれ品定めを始める。顔に始まり服のセンス、頭髪のセット具合。全てにランクをつけ、俺の評価がめぐり先輩の評価になる。こうなるなら髪の毛のセットでもしてくるんだった。やり方知らないけど。

 申し訳ない気持ちと、逃げ出したい気持ちが同居して、気分が落ちていくのが分かる。比例するように顔が下がっていく。そこで視界に白い手が侵入してきた。俺の腕を掴む。

「じゃあみんなまたね!」

 めぐり先輩の声に、弾かれるように足を動かした。小走りで先を行く彼女に手を引かれ、連れていかれる。後ろを振り返ると「今度話聞かせてねー!」と叫ぶ茶髪団が見えた。

 

「はあ、はあ、ご、ごめんね」両ひざに手を付いていためぐり先輩が顔を少し上げ、笑う。謝っているのに、その顔には清々しさが滲んでいて、はかれない。「あの子達、おんなじ学部なの」

「いや、全然大丈夫ですけど…」俺も少し息が切れている。

「はあ、あ、比企谷君買えた? 走ってきちゃったけど…」

「それなら大丈夫です。ちゃんと買えました」見せつけるわけではないが、めぐり先輩の顔の前に小さな紙袋を持ち上げる。「ありがとうございます」

「そっか、よかったー」

 めぐり先輩は一度大きく息を吐くと、大きく伸びをする。ショルダーバッグのベルトが食い込み、主張が激しくなったそれから目を逸らす。

「これで目的は達成だね」めぐり先輩は笑いかけ、腕時計に目を落とす。「まだお昼過ぎだけど、比企谷君この後予定ある?」

「いや特には…」

「じゃあ、ちょっと行きたいところあるんだけど、一緒に行ってくれないかな…」

 上目遣いに覗き込んでくる。赤く可愛らしい髪留めがきらりと光り、長い睫毛に気付く。

「別にいいですよ、どこへでも」

 自分一人では完遂することのできなかった用事を手伝ってもらい、昼食代だけではお礼のしがいもないと思っていたところでの申し出に快諾する。

「ほんとに?」念を押してくる。

「本当に、です」念を押し返す。後で後悔する。

「やった」手を握りこみ、小さくガッツポーズをする姿は愛らしいと思う。「じゃあ行こうか」

 少し先に進み、駅に続く階段を数段昇ったところでクルリと振り返る。

「あ、あの比企谷君。今日の服、どう…かな」

 唇を浅く噛み、俯き気に立つ彼女は、テストの答案用紙を待ってるようで不安がありありと分かる。言われて、朝から服装について触れていないことに気が付く。小町的にポイント低い。

「すごく、似合って、ます」いつまでも慣れない言葉に詰まるが、噛み締めるように紡ぐ。「でもちょっと、意外でした」

 そう言うとめぐり先輩は腕を交差して肩を抑える。顔は赤らんでいた。

「いや、でも、すごく」慌てて言葉を繋げる。「か、可愛い、と思います」

 いつも間にか自分も唇を噛んでいて、薄い痛みに後から気付く。何とか顔を上げると、彼女の手をへその辺りで組み、指を遊ばせているところだった。

「そっか、えへへ。そっかそっか」

 楽しそうに笑うと、踵を返し階段を上り始める。跳ねるように進むせいでワンピースは風に乗り、白い太腿が見え隠れする。咄嗟に顔を後ろに向け、他に人がいないことを確認する。

 再び上を向くと、既に昇りきっていた彼女が手を振っていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一通りの皿を洗い終えると、ソファでくつろぐ妹に声を掛ける。「コーヒー淹れるけど飲むか?」

 ひと月半ぶりの学校に疲れたのだろう、首だけこちらに向けるとこくりと頷く。テレビでは毎週生放送の音楽番組がやっていて、若手アーティストの疾走感だけがウリと言うような曲が流れていた。頭が空っぽにできるという意味では今の小町には最適なBGMかもしれない。

 市販の粉棚から取り出したところで、思い直してコーヒーメーカーを出してくる。電源を差し、スイッチを入れる。専用のカップをセットしてお湯を入れる。少し時間が経つと、黒く光る液体が流れだしてきてマグカップを満たしていく。

「珍しいねお兄ちゃん」

 気付くと、オープンキッチンの角で両肘をつき顎を支えている小町がいた。リビングのテレビではトリなのか高齢バンドの中途半端に荘厳な曲が流れていて、俺の準備に焦れたのか曲に焦れたのか分からない。

「ああ、ちょっとな」言い、昼間のデザート地獄を思い出す。甘いことに耐性、どころかむしろ弱点まである俺だが、雰囲気の甘さには定評はなかったらしい。

 

 めぐり先輩に連れられて訪れたのはデザート食べ放題がメインのレストランで、壁、椅子、机はピンク、皿もピンク、ついでに客層もピンクとどこかの魔法学校の拷問ピンクババアを思い出す。店内を見渡しても女性が九割を占めていて、いたとしてもカップルの男性に限られた。傍から見たら俺とめぐり先輩もそう見えるとは後になって気付いた。

 拒否も考えたが、めぐり先輩の楽しそうな表情を見ると言葉に詰まった。

 ケーキにゼリー、アイスにシュークリーム。取るもの取るものすべてが甘く、あるとしてもパスタやピザ。口の中の甘味パラダイスには流石の俺もコーヒーに砂糖を入れなかった。その店の記憶が甦り、何となくブラックで飲もうと現在に至る。

 

 ポタポタと垂れる黒い雫が止まるのを待ち、カップを取ると差し出す。小町は熱そうに受け取ると、フーフーと息を吹きかけ冷まし始めた。冷房をつけて毛布を被るのと似た背徳感が少し見える。自分の分を作ると、冷蔵庫の下の段から氷を二個取りカップに沈める。ピシッと音を立てて氷にひびが入った。

 小町の隣に腰掛け、いつの間にか映画に変わっていたテレビに視線を向ける。

「おや、こりゃ珍しい」小町が俺の手元を覗き込む。「どしたのお兄ちゃん。何かあった?」

「いや別に…、あ、そうだ小町知ってるか」今日行った甘い店名を言う。

 小町は知ってる知ってると言い、一色と行ったことがあると教えてくれた。そう言われると型にはまったようで、ストンと自分の中で落ちた。なるほど、一色が行くようなところね。

 へらへらと笑うと、小町が怪訝な表情をする。しかし俺がブラックのコーヒーを口に付けると、納得がいったように手を鳴らす。

「誰と行ったの?」

「城廻先輩」

「あー、あのほんわかした人」うんうんと更に頷くと、考えるように唸り。「あの人もいいよね、うん」ともう一度大きく頷く。

 何がだ、とは面倒くさいから言わない。代わりに息を吐き、小町の瞳を見つめる。

「ちょっと頼みがある」

 小町の眼が少し開き、そのあと目尻が下がった。

「うん、なあにお兄ちゃん」

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 パソコンの画面に表示された印刷実行のボタンをクリックし、慌ただしく階段を降りる。リビングに転がるように入るが小町は学校に行っている為誰の反応もない。昨晩小町に謝り、作り置いてもらった朝食をかき込みシンクに皿を置いて水を溜めるだけに留める。プリンターから念のため二部刷った紙束を取り出しリビングを飛び出す。歯磨きもそうそうに着替えると鞄をひったくり今度は家を飛び出した。

 自転車を俺史上最高速で飛ばし、駅の駐輪場に止めると改札に走る。ちょうど入ってきた電車に飛び乗った。

「ふうう」

 扉に向かってか細く息を吐き出すと、ようやく肩の力が抜けた。諦めないで、と心の中で励ましてくれた真〇みきさんにお礼を言う。

 そういえば顔洗うのを忘れていた。目ヤニが気になり指を動かすと、見えない壁に遮られる。窓に薄く反射した自分の顔に目を凝らすと眼鏡を掛けていることが分かる。昨晩から徹夜で行っていたPC作業で使っていたのだ。

 外し、少し目を掻いてからどうしようかと悩むが、眼鏡ケースも置いて来ていた為にレンズを軽く拭いてからかけ直す。そういえば由比ヶ浜がなんか言ってたけど、まあいいか。壊す方が嫌、いや、面倒だ。

 

 大学の最寄り駅に到着し、電車が材木座の吐く息の様な音を出す。うっ、朝から嫌なものを思い出してしまった…。

 次の電車だったら間に合わなかったなと思いつつ階段を昇ると、前方に知った金髪が見えた。癪だがレポートの存在を教えてくれた為、礼の一つくらいは言っておくべきだろう。

 早歩きで近づき、横に並ぶ手前で声を掛ける。「よお」葉山は振り返るとこちらに笑いかける。「おはよう比企谷、終わったか?」

 その笑顔に少しの嘲笑が入り混じっているのが分かり、礼を言うのが億劫になったが何とか搾り出す。

「ああ、昨日はサンキューな」視線は逸らした。

「はは」葉山が笑い、「ラーメンでいいよ」と続けた。

「替え玉はなしだぞ」

「替え玉がメインじゃないのか?」

「お前ラーメン屋に殺されるぞ…」

 そうこう喋っている間にも、葉山の視線は俺の顔の辺りを彷徨っていて、眼鏡を見ているのか絆創膏を見ているのか分からない。

「なんだよ」

「いや、どうしたのかと思って」

「どっちがだよ」苛々を隠さず言うと、「どっちもだよ」と葉山は肩を竦めた。

 簡潔に嘘を交えつつ真実をひた隠し曖昧に答えると、葉山は政治家にはぐらかされる記者の様な表情をした。やだ、八幡政治家向いてるかもしれない! 汚いところとか叩かれると弱いところとか! ゴキブリかよ…。

 世の善良な政治家に謝罪しながら歩みを進めると、いつもの講義室の扉が見えた。葉山の先導で入ると教室はほとんど埋まっていて、視線が集まる。ついでに講師も教壇に立っていて同じようにこちらに一瞥くれた。知らず肩が縮こまるが、葉山は見られているのに慣れている様子でスイスイと進む。

 いつもの場所はぽっかりと二席分空いていて、まるで汚してはいけない神聖な空間を演出しているように見えた。

 女子の視線はさることながら、男子の羨望と嫉妬の視線も受ける葉山は光って見え、改めて人間としての箔が窺えた。しかし今日は少し様子がおかしい。いつもは葉山に視線が集中していて気にならないのに、なぜかこちらを向いている気がしてこんなに考えてしまう。それも、誰? といったよく向けられていた視線に近いもので、一瞬トラウマが顔を出し始めるが、どうにもそれがプラスのものに感じられ、益々分からない。マゾへの覚醒を遂げてしまったかと思ったが、めぐり先輩との買い物の後では、むしろサドの扉をノックしただけに違うと推測する。

 席についてチラリと前を向くと、知らない女子と目が合ってしまう。慌てて逸らそうとするが相手の方が早かった。通常の場合、こちらへ軽蔑の視線を向けた後、ひそひそと隣の女子と俺の気持ち悪さを共有、今流行りのシェアをし始めるのだが、はっ、俺は流行の発信源だったのか!(違う)今回のそれは訳が違うように見えた。ていうか俺の通常異常すぎ…。

 チラチラと視線を感じながらも、講座は始まり、ペンを取り出した。

 

 途中、眠気に負けて数回落ちたが、何とか昼過ぎの休憩に入った。

 毎回の例に習えば、コンビニの袋を持っていればそれで飯を食い、二人とも持っていなければ何故か葉山が付いて来て一緒に飯を食いに行っていた。夏休み中は小町が偶に弁当を作っておいてくれたが、九月からはずっとコンビニおにぎりだ。今日はご存知の通り遅刻ギリギリだったのでコンビニに寄る時間もなく手ぶらだった。

 いつもの流れで黙って席を立とうとすると、前に座っていた女子二人組が急にこちらを振り返り、金髪の方が笑いかけてきた。「ねえねえ、一緒にお昼食べない?」

 金髪ロングに黒髪ボブと髪型は個性を出しているが、化粧や顔の系統は二人して似ていた。アイデンティティに縛られ、テンプレに望んで沿いに行っている印象を受ける。どちらも綺麗な顔立ちをしていることに変わりはないが。

 葉山の価値を測りかねているのか、周囲の女子は互いに牽制し合っている様子を見せていて、誘いがあったのは初めてだった。周囲でごくり、と何かを飲み込む音が聞こえた気がした。

 葉山を一瞥して、席を立つ。

「あ」と金髪とは違う声がした。聞こえてはいたが、振り返っても恥をかくだけなので気のせいだと言い聞かせる。望んでいるのは葉山なのだ。窓の横の通路を進むと、「ごめんね」という葉山の声がした。

「また誘うねー」と言葉の威勢はよかったが、先ほどよりは沈んで聴こえた。

 ポケットに無造作に手を突っ込んで階段に続く扉を通ると、パタパタとスニーカーを鳴らした葉山が隣に並ぶ。

「いいのか」葉山の性格を分かっていながら、ぶっきらぼうに聞く。

「それはこっちのセリフだよ…」ため息交じりに葉山は呟いた。

 返答の意味が分からず、思わず葉山の顔をまじまじと見つめてしまう。「は?」

「無視なんかして」

「俺を誘ってるわけじゃないんだからいいだろ別に」階段を降りる二つの足音が反響する。

「気付かなかったのか?」

「はあ? 言ってる意味が分からん」また鬱陶しい言い方を、と手をひらひらさせる。

「まあ、比企谷がそれでいいなら」葉山は苦笑する。

「それだよそれ」

 毒づくと、それきり沈黙が流れる。

 ラーメンで眼鏡が曇るという初の出来事に少し興奮を覚えたのは内緒だ。

 

 講義をすべて終え、鞄に教材をしまっていると葉山が確認してくる。

「今日は比企谷用事あるんだよな」

「あ?」

 言ってから思い出す。小町に協力を仰いで手に入れた連絡先。夕刻すぎに入れた予定を葉山に言った覚えはなく、なんで知ってんだと言いかけたが、最初のスケジュール決めの際あまりに俺と葉山の予定の埋まり具合の差に落胆、そして虚勢を張ってありもしない予定を突っ込んだのだった。何故かこの月曜日だけ空いていて不思議に思っていたが自分の所為でしたね。

「あ、ああ、そうだな用事だ」

 歯切れの悪い俺を見つめて来るが、それ以上の追及はなかった。葉山も机の上を片付け始める。

 指定された喫茶店への行き方を思い出す。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 通学に利用する路線を途中で降りた。定期区間内は余計な出費もなく、ラッキーだなと思いながら改札を潜る。

 日が傾き始めたとはいえ今は九月、汗は滴りTシャツが嫌に張り付く。指先でつまむとパタパタと風を通す。気休めは気休めでしかなく、仕方なくタオルを出して拭う。

 携帯のGPSを利用して、赤いピンの指し示す場所へとスムーズに進む。住宅街に入ってほどなく現れたそれは、ウッドデッキの設えられたただの一軒家にも思えたが、煉瓦を埋めて作られた小道の先にOPENと書かれたプレートがぶら下がっているのが見えた。

 少し見とれてから、ゆっくりと進む。コンクリートを叩く足音が、草を踏む柔らかな感触に変わり、汚してしまった罪悪感が並ぶ。

 扉を開けると、小さなベルの音と共にクラシックが聞こえ始めた。視線の吸い寄せられた先には黒い円盤がクルクルと回っている。いや、遠目では回っているか判断はつかない。しかしそこから音が出ているのは確かで、金属製の大きなラッパから重厚な音色が流れている。

 正面からは分からなかったが奥に続いているらしく、カウンターを抜けると小さな空間があった。四人掛けのテーブルが二席しかなく、彼女らの姿はすぐに捉えた。

「ひ、比企谷、こっち…」遠慮がちに青いポニテが揺れる。

「はろはろ~」特徴的な赤い眼鏡を光らせ、ひらひらと手を振っている。

 彼女らを呼び出したのは他でもない俺の訳だが、イレギュラーな事態に少々頭が混乱している。予期していなかった三人目の美女、になる予定の彼女がいた。

「はーちゃ…、はーちゃん?」

 小さな物体がトコトコと走り寄るかと思えば一度停止して、再び近づいてきた。そういえば眼鏡をしていたままだった。俺の前まで来ると両腕をピンと伸ばして挨拶をする。遠い昔の小町の事を思い出し、腕の下に手を入れると「よっ」と声を出して持ち上げる。

「よー、けーちゃん。元気だったか?」いつか会った時よりも身長は伸びていて、成長の速さを感じる。俺の方は未だ立ち止まったままだというのに。

「うん!げんきー!」声で判断したのか、いつもの京華に戻る。

 ひまわりの様な笑顔を向けられると、太陽になった気分になる。え、大丈夫だよね?八幡まだ大丈夫だよね?

 左手で抱え、余った方の手でこめかみの上を触る。だ、大丈夫のはずだ…。

「けーちゃんっ、ひき…、はーちゃん困ってるよ!」川なんとかさんが慌てて言う。

 その横にいる海老名さんは不敵で、微かな不安を覚える。

「別に困ってないからいいぞ」軽く抱え直して、体勢を崩しながら椅子に座る。

 京華は俺の膝の上でもぞもぞと動くと、胸にもたれるようにしてくつろぐと大人しくなった。定位置が決まったようだ。

「はーちゃんひさしぶりー」ニコニコとした表情のまま、こちらを振り向く。

「そうだなー久しぶりだなー」軽く受け答えをして、向かいに座る二人の女性を見やる。

 申し訳なさそうに困った顔を見せる川崎に対して、海老名さんは余裕の表れか悠々とカップに口をつけている。

 何が余裕なのだと、頭の中で誰かが叫ぶ。そんなことを考えるのは自分に余裕がないからではないか。

「ご、ごめん比企谷。姫菜が連れて来いって言うから…」川崎に顔がさらに曇る。

 海老名さんの事を姫菜と呼ぶのか、と気になったが、今はそれどころでがなかった。海老名さんの方を向き睨め付ける。何を考えているのか。

「はーちゃん顔こわい…」

 京華の怯えた声がする。はっとして下を向くと、俺のシャツを握りこむ彼女がいた。そういうことかよ。

 軽く舌打ちをしたい気持ちを抑え、水を持ってきてくれたマスターにそのままコーヒーを頼む。姿勢の良い背中を見送ると、今一度海老名さんを見る。

「急に呼び出してすまん」京華に当たらないように少し首を垂れる。目が合った京華に笑いかけると、はしゃいだように手を動かした。

「全然いいよ~」海老名さんが表情を変えずに言う。

「お、同じく…」控えめに川崎も続く。

「ちょっと聞きたいことがあって」こうなってしまえば仕方なく、本題へと入る。「葉山の事で」

 俺の言葉に、ぴくりと眉が動いたのが分かる。しかしそこで横槍が入った。「その前にいいかな…」川崎だ。

「なんだ?」

「その、目、大丈夫?」腫物を触るように聞いてくる。

「ん?ああ」絆創膏の貼ってある右目付近を撫でる。「なんでもない、転んだだけだ」

「はーちゃんいたそー」京華が手を伸ばし、思わず目を瞑った。「よしよし、いたいのいたいのとんでけー!」

 目尻と右肩に力が入ったが、幸い二人には気付かれなかったようだ。「あらがとな、けーちゃん」ぽんぽんと頭を撫でる。川崎の表情も先ほどより大分柔らかくなった気がする。もしかしたらずっと俺の傷を心配していたのかもしれない。自惚れか。

「隼人くんの事、でいいの?」海老名さんが突然口を開き、確認とも取れない言葉を発した。

「あ、ああ、そうだ」

「そう」興味なさげに呟くと、視線を窓の外に向けた。

 そうしていると彼女もまた整った容姿をしていると分かる。パーツは整っていて、今日葉山に話しかけてきた前の席の二人組を思い出す。生かさない個性が、浮き彫りになって光る。

 陽が沈む手前で、室内には暖色の筋が入り始める。

「高校三年の時の事を、できるだけ」膝にのる京華は、先ほど運ばれた俺のストローで遊んでいた。

「何から話そうか、概要は?」

「キッカケといざこざの内容くらいだな」

「じゃあもう大体知ってるんだ」

 こちらを見据えているのに、俺の事は見ていなくて、それが何かを伝えようとしているようにも思えた。

「戸部と三浦が原因で、あとは葉山が拒否をしているで間違いはないんだな」

「それは誰に聞いたの」声は冷たい。

「戸部だ、あと由比ヶ浜にも確認した」

「結衣か…」再び窓の外に視線をやると、目が細められた。過去の自分にピントを合わせるのに苦労しているのかもしれない。「結衣はクラス違ったから、まあでも、合ってるよ、それで」

 煮え切らない返答に、焦れる。

「他に何かあるんだな」少し身を乗り出すが、膝の可愛らしい物体がそうさせない。

「とべっち、言ってなかったの?」

「戸部…?」雨の喫茶店を思い出す。「必死に繋ぎ止めようとして…失敗したとしか…」

「必死、ね」乾いた笑みが、海老名さんから零れる。

 舌が乾くような空気に、自動車学校の戸部がフラッシュバックする。舞台を整え、台本まで用意したあの劇場を。

「違うのか」自分の思考をケーズごとにしまい込み、整理するように言葉を紡ぐ。

「うーん、違うと言えば違うし、違わないと言われれば」海老名さんは一度溜め、「違わないで合ってるよ」と言う。

 京華は飽きてしまったのか、膝の上からぴょんと降り川崎の元へと歩いていく。それを見送り、一度黒い液体を喉に通す。混沌としている思考を、冷ますように煽る。

 所々否定や肯定を繰り返す海老名さんは、俺の事をからかっている風ではなく、どちらかと言えば苦しんでいるようにも見えた。

「皆勘違いしてるんだよ。何も変わってないのに、勝手に傷ついて、勝手に被害者面して、まあ、こういってる私も被害者面ってやつをしてるんだろうけど」海老名さんは自嘲気味に笑う。「できるって信じてた…」

 雫が零れるように漏らされたそれは、なぜか彼女の本心だと分かった。瞳に、煌めくものが見えた。

「本物…」

 何を連想したのか、口から出た。思わず口を塞ぐ。

「あの、比企谷…」ここまで沈黙という方法で場を提供してくれていた川崎が口を開き、聞かれていたかと身構える。「ごめん、京華連れてきたから、そろそろ帰らなきゃいけなくて…」彼女の腕に収まる京華が眠たそうな顔をしていた。

「ああ、すまん、そうだよな」心配は杞憂に終わった。

「どうする?姫菜ともう少し話してく?」

 川崎は海老名さんと俺に視線を彷徨わせながらおどおどと聞く。こいつ今日ずっとこんなんだな。

 しかしそれより先に京華が動いた。

「はーちゃんとかえる…」

 空気を掴むように伸ばされた手は小さく、紅葉のように可愛らしいものだった。

「こら、けーちゃん、はーちゃん困るでしょ?」その呼び方の方が困ります川崎さん。

「いいぞ、もう十分だ」

 十分ではなかったが、これ以上は話してくれないだろう。海老名さんは昔からそういう人だ。それに、川崎にも聞きたいことがある。

「私はもう少しゆっくりしてくから」空になったグラスを持ちながら言う。

「そう、じゃ、じゃあ比企谷、駅まで一緒に行こうか」

 西日なのか、川崎の顔はオレンジ色に染まっている。京華の鞄やらを用意して忙しない。当の本人は眠そうに立っているだけで、羨望の視線を送ってしまう。本当に羨ましい…。あ、世話されることにだから! だから!

「これは確認なんだが」窓側の席に顔を向ける。「海老名さんは変わってないんだな」

 海老名さんは窓の外に向けていた視線をすーっとこちらに返すと、ぐぐぐっと溜めて喋り出す。

「そ・れ・よ・り・ヒキタニくん! 隼人君と同じ大学って聞いたけどそれどこの運命!? 私の事殺す気なの? 腐乱死体にする気!? あ、腐乱ってなんか卑猥…」

 早口言葉のように捲し立てられ、川崎は口がぽかーんと開いている。手に持ったままの京華の帽子が空中で静止していた。

「お、おお…、戸部も一緒だけどな…」

「三角関係キターーーーーー!」

 ぶしゅっと音を立てて鼻血を出す。慌てて川崎がティッシュを取り出した。

「な、なにやってるの姫菜…今日それやってなかったじゃん」

 あ、いつもはやってるんですね…。

 川崎が興味のない話をして、勝手に鼻血を出して世話を掛ける。そんな情景がありありと浮かび、微苦笑を浮かべてしまう。

 そして、これが彼女の答えだ。

 血も止まり、来た時同様ひらひらと手を振る海老名さんに見送られ、川崎姉妹が先に行く。付いていこうとすると背中に語り掛けられる。

「隼人くん、とべっちが頑張ってた頃、他の事で悩んでいたみたいだよ」

 彼女の声は透き通るように耳に届いた。振り返ると、そこにいたのはいつもの読めない笑顔を称えた彼女だった。踵を返し、ドアへと向かう。

「おいしいの、期待してるから」

 そう聴こえたのは、あの時の幻聴か、確認はしなかった。

 

 

 駅へと向かう道すがら、耳元では小さな寝息が聞こえていた。チラリとみると、当たり前だが既に瞼は閉じられていた。

「ごめんね…」

「気にすんな」

 おねだりをされたら弱い。世の中のお兄ちゃんはおねだりに弱いのだ。むしろお兄ちゃんじゃないお兄ちゃんの方が弱いまである。なにこれ哲学。

 おんぶして少し歩くとすぐに京華は動かなくなった。

「今日は助かった、急に合わせてくれてサンキュな」

「ううん、京華連れてきたり、早く帰ったりしてごめん」

「いや、俺も会いたかったしな」

「へぇっ!?」川崎が奇妙な声を出し、数歩後退った。「え、あ、いや、私も会いたかった、けど、そんな…」

 うーん、勘違いどころかもう駄々洩れ。

 あまりに恥ずかしいから訂正しないでやんわりとレールを戻すことにする。

「いやその、聞きたいことがあって」

 ワオ、川崎さんの表情が怖い。いやむしろ恐い。

 京華を背負っているアピールをすると、上げかけていた拳を納めてくれた。危なかった…。

「はあ、で、聞きたい事って?」

「川崎高3の時に仲良くなったグループあったよな」

「ああ、うん、あんた知ってたんだ」

「いやまあ、ちょっとな」知人が楽しそうにしている姿を多く目にするのはシンプルに気分がよかった。だから自然と目で追っていたのだろう。「今も仲いいのか?」

「うん、でも誘ってもらってばっかりだけどね」照れたように笑う彼女は、年相応の女の子だった。

「どうやって仲良くなったか教えてほしいんだが」

 できれば海老名さんとの馴れ初めも、と付け加える。

「どうって言われても」思案するように言い淀むが、先はスムーズだった。「あんたも知ってるだろうけど、あたし、こんなんだからさ、遊びに何回も何回も誘ってくれて」川崎は大切な思い出をノートに書き留めるように紡ぐ。知らない名前が出てきたが、その中の良い女の子たちの事だろう。「姫菜も一緒、あたしからは誘えなくて、それでも何回も誘ってくれて。楽しかったし、嬉しかった」

「そうか」胸の内に温かいものが広がり、零れるようにして声が出た。

「なに」

「す、すみません」

 恐らく頬が緩んでいたのだろう、聞いているだけで、彼女がその子達と海老名さんを大切にしていることが伝わってきた。逆もまた然りだと容易に想像できる。

「まあ、そんな感じ」川崎はプイっと照れたようにそっぽを向いた。

 陽は光を失いかけ、紺色の勢力が増しているにも関わらず、彼女の頬はまだ赤かった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 電車の音で目を覚ました京華と川崎に手を振ると、車掌の笛と共に扉は閉まる。

 短い腕をぶんぶんと振り回され、苦笑しながら返した。見えなくなると突然静寂に包まれた気分になるが、いつもの事だと言い聞かせる。

 携帯の画面を表示させると、一件のメールが届いていた。

――――――――――――――――

 

〈☆★ゆい☆★〉

無題

今日18:56

 

優美子が直接会って話したいって

 

 

――――――――――――――――

 由比ヶ浜にしては簡素なメールだが、それが不必要な不安をあおった。三浦の腕を思い出す。

 了解と簡単な予定だけ送り、画面を閉じる。

 

 川崎とは同じ高校なだけあって数駅しか離れおらず、ものの数分で自分の最寄り駅に着いた。

 ホームに降りると、ため息が出た。電車が駅ごとにプシューと言うのも分かる気がした。それある!と心の中の折本が共感してきた。

 同じ大学、同じ高校、ときたら。当たり前だが、今まで遭遇しなかったのが逆に偶然だったのかもしれないと気付く。それある!なんて考えなければよかったなと、意味のない後悔だけが尾を引く。

 駐輪場で鍵を取り出し回すと、カシャッと軽率な音を立てる。夕暮れを過ぎたカラスが鳴いた時だった。

「あれ、比企谷じゃん」

 折本かおりは、いつだって折本かおりだ。

「ひっさしぶりー」

 そう、いつだって。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜は回顧していた。

 

 読みふけっていた本から視線をずらす。だいぶ前に空になったカップには蒸発したコーヒーが影のように残っていて、自分の内を表しているようで居心地が悪い。

 外に目を向けるが、そこは知っている景色ではなく。暗がりだけがあるだけだった。鏡のように反射する窓が、髪型もメイクも変わらない自分を映し出す。

 ガラスの向こうの世界は学校で、馬鹿みたいに騒ぐ彼ら彼女らがいた。私は輝いている。俺は充実している。別にそれでよかった。一度も否定などしたこともなかった。冷めた視線を送る人間の存在には気付いていた。嫉妬や羨望、恥辱を含んだそれには寧ろ心地よさすら感じさせたのだろう。それが彼らの栄養源で、骨格だった。

 良くなかった。勘違いは勘違いを助長させ、気付いた時には全身へと回っている。悪性の細胞は望んで悪性になった訳ではない。気付かないうちに生まれ、気付かないうちに侵食していた。思えば、アレが癌細胞だったのかもしれない。あの女が。

 ただ、できたはずの対処に反応できなかったのは彼と彼女の罪咎だろう。それにすら気付いていないのなら論外。必要はない。

『おいしいの、期待してるから』

 つい口をついて出てしまったが、囁くように叫んだ声は流石に聞こえてないはずだ。

 

 何故だろう。彼が動き出してからおかしい。身体を貫く何かが震え、まだかまだかと期待をしている。

 一つ一つの細胞を治癒していくように、彼の動きを結衣から聞くたびに自分が許されていくような錯覚がしていた。悪しき細胞に取り込まれていたのは自分も同じだったのかもしれない。それが今日、やっとわかった。

 彼に引き出された言葉たちは、罪を降ろし自分の元へと帰ってきた。その錘は、彼が背負ってしまったのだろうか。

 

 期待など、してはいけないと分かっているのに。

 秒針が動き出した気配がする。

 

 

 





読んでくださってありがとうございます。
年内の更新はこれで最後なので、続きはまた来年になりますね。

クリスマスの2,000字に満たない短い話でも、沢山の人に読んでもらえてすごく嬉しかったです。ありがとうございます。

意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。

ではまた、良いお年を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9月②

お久しぶりです。9月②です。大学生の夏休みも終わりに近づいてきましたね。

今回も長いですが、読んでもらえると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 折本かおりは憂いていた。

 

 揺れる電車内でLINEを開く。赤い丸の数字が付いた新規メッセージが画面を占めていた。

 意味のない内容に意味のない返事を返していく。深く関わらず、されど切らず。女子同士の面倒な関わりはお手の物で、大学でもすぐにグループができた。しかし、最近はそれも酷く、Twitterや動画投稿アプリなど事あるごとに手を取り合う。

 中学から連絡を取り合っている女子へのLINEも最近はおざなりだ。なんというか、少し寂しがりな子だから、連絡をとる相手がいなくなるとあたしのところに来るのだろう。別にいいけど。

 電波だけの繋がりだと分かっているのに、誰もが縋り、癒され、救われる。私も例外ではないかもしれない。いや、一つ訂正した方がいいかな。誰もがではないことをあたしは知っている。

 すべての通知に返信し終えたところで、また一つ新着メッセージが追加された。〈かいちょー〉そう名称登録された海浜総合高校元生徒会長からだ。少し、頬が緩む。

 軽くなった指を滑らし、内容も軽快に送信ボタンを押す。

 それから意味もなく画面をスクロールしていると、サークルでの出来事が脳裏をよぎった。涙目で訴えて来る彼女の瞳が、反芻する。

 

 バドミントンサークルというのは名ばかりの、所謂飲みサー。しかし体裁としてバドミントンの活動は行われていて、サークルに所属する三割ほどの学生はそちらにも参加していた。バドミントンをおまけみたいにするのはどうなんだろうかとも思いながら『結構体力を使うスポーツだから運動不足解消に』と毎週健気に参加する一人の友達に流されて行っていた。

 ただその子の目的が違うことはすぐに分かった。サークルで人気のある先輩を狙っていたのだ。一緒に行こうと言いながら、体育館ではその先輩にべったり。春学期の途中からは先輩二人と、私と彼女の四人で組むことが固定になった。どうでもいいスポーツにどうでもいい男が二人、自負するコミュニケーション力で上手くやっていたが、友達が狙っていた先輩が彼女を送っていくようになり私は用無しかなと判断し、夏休みからサークルに行くのをやめた。しかし、想定外の事が起きた。その先輩までもがサークルに来なくなったという。夏休みのサークル初日、私がもう来ないことを伝えると次から来なくなったそうだ。試験期間から連絡が来ていたのはそういうことかと、後から気付いた。

 本当に面倒くさい。

 仕上げに今日の集まりだ。飲み会に呼び出されてみれば帰り際、涙を浮かべて私を糾弾するように叫んだ。サークルのみんなが帰った後だったのは彼女なりの最後の気遣いなのだろうか。もう笑うしかない。

 男が絡むと女は戦争なんてよく表したもので、誰が始めるとも知らず開戦してしまう。

 

 空は夕暮れに染まり、赤く透き通っている。シャッターを切って残したいと考えるが、画面越しに見る瞬間すらももったいない気がしてしまう。

 けたたましいブレーキ音に続いて扉が開く。きゃっきゃと楽しげな声が聞こえ、そこで子供が乗っていたことに気付く。考え事に耽っていて、もうすぐ家の最寄り駅だった。

「はーちゃんばいばーい!」

 小さな女の子と、思わず二度見してしまった青髪の美人が電車から降りた。手を振り返す男は猫背が様になっていて、後姿から冴えない。

 扉は閉まり電車が動き始めると、手を下げたその男が少し肩を落とし、反転すると壁にもたれかかった。

 眼鏡に伏せられた目は憂いを帯び、流すように車両を見渡す視線は湿気を孕んでいた。魅力的を通り越して、官能的ですらあった。

 一瞬、目が合った気がして思わず逸らす。彼の瞳に見据えられると、心の中まで見透かされそうだった。

 そういえば、彼女らはどうしたのだろうか。あの二人は。確か奉仕部とか言ってたっけ。

 二人の比企谷に向ける視線は明らかに他と違っていた。恋愛の要素は溢れるほどに見受けられたが、それだけで説明するにはあまりに失礼な気がした。

 ファミレスの一幕に、仲町千佳を思い出す。懐かしいが、特に感情は湧いてこなかった。葉山くんの後ろを歩く、比企谷の猫背が、重なった。

 ぱっと顔を上げる。デニム調の靴に紺のパンツ、白シャツにカーキのカーディガン。無造作な髪型に、特徴的なアホ毛が跳ねる。

 見覚えのない眼鏡で分からなかった。

 比企谷だ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 自転車の鍵とにらめっこしていた視界に、肌色の脚が侵入してきた。ヒールの付いた靴をコンクリートに鳴らし、不自然に立ち止まったそれに顔を上げる。

「あれ、比企谷じゃん」折本かおりが、そこにいた「ひっさしぶりー」

「お、おお」曖昧な返事とは裏腹に手は自転車を出そうと素早く動く。

「やっぱりねー、電車で見かけてさー、ていうかそんな眼鏡してたっけ?」

 一色や由比ヶ浜とは違い余計なスキンシップがない分、容易に抜け出せると考え曖昧に返事をする。

「いや、ちょっとな」急いで出そうとした為、隣の自転車に引っ掛かってしまう。ガチャガチャと音を立てていると、折本が手を伸ばしてきた。「あーあー、引っ掛かってるから無理だって」

 よっとか、よいしょっとか言いながら器用にペダルを回す。知恵の輪を解くように鉄を器用に動かすと、外れたのか急に自転車の重みが腕にかかった。

「す、すまん助かった」手をパンパンとはたく折本に礼を言う。さっさと逃げ出したいのが本音だが。

「いーよいーよ」折本かおりはいつもの笑みを浮かべる。何かを思い出したように手を鳴らした。「あ、そうだ。偶然だし途中まで送ってよ」彼女の指さす方向は中学の方面。つまるところ俺の家もある方角で、断る理由が咄嗟に思い浮かばなかった。

 

「へー。比企谷あの大学なんだー。やっぱり頭良かったんだー」

 感嘆という言葉でしか形容しようのない反応で、折本は笑う。押して歩く自転車は邪魔な鉄塊でしかなく、少しの苛立ちをぶつけるようにブレーキレバーを軽く握る。

 パコパコと鳴らす靴は黒く、引き締まった脚から視線を上げるとこちらも黒のショートパンツを履いていた。更に上半身に目をやると、ポンチョを改造したジャケットの様なものを着ている。柄はシャーロックホームズに出てくるチェックだ。耳元にはリングのピアスを付けていた。

「ん? なんかついてる?」視線に気付いた折本が身を捩り、自らの服装を見直す。

「いや、なんでもない」少し失礼な見方をしてしまい、慌てて弁解する。「ホームズみたいだなと思って…」

 我ながら酷い展開だと苦笑しそうになるが、折本は俺の話など聞いていないかのように「なにそれ、意味わかんない! ウケるんだけど」と腹を抱える。

「いや、ウケねーから……」

 ひとしきり笑うと、指で目元を拭う仕草をする。涙など出ていないのに、相手を持ち上げる為だけに行われる仕草には、すこしの哀愁すらあるように見えた。

「その奉仕部の二人は違う大学なんだー」折本が足元の小さな石を蹴りながら口を開いた。

「ああ、まあそうだな」適当に相槌を打つ。

「なにそれ、喧嘩別れ?」

 喧嘩別れ、という言葉に反応するよりも、折本の喰いつき方に驚いた。首を傾げるようにして誤魔化しているが、前のめりになっている姿勢と言葉は隠しきれていない。

「いや、違う…が」

「ふーん、そうなんだ」折本の感情は落胆にも安堵にもとれる。

 いつか見たときより明るくなっている髪色に、今一度折本かおりという人間を意識する。こうやって自転車一つ挟んで並んでいることも、折本にとっては日常の一幕でしかない。数多ある状況の、ひとつにすぎない。そしてそんな彼女に、本物はあるのだろうか。

 嗤い飛ばした感情を、理解するために言葉を繋げる。彼女にこんな質問をするときがくるとは。

「なあ、折本」前を見ていた彼女がこちらに向き、目をしばたたかせる。「親友っているか…?」

 親友なんて幼稚な言葉に思わず目を細める。いつかあこがれ続けたそんな存在に。いつからか諦めてしまったそんな存在に。

 てっきり軽口が返ってくると思っていた彼女の足が止まり、ハンドルを持つ手に力を込めて停車する。

「…なんで?」声に覇気がない。

 何故足を止めたか分からず彼女の顔を確認するが、少し伏せられた目に前髪がかかり窺い知れない。微かに口元に力が入っている気がする。

「いや、深い意味は無いんだが…。あのほら、いつか葉山と一緒に出掛けた女子とか」葉山という言葉に、折本の肩がピクリと動いた。「あ、いや覚えてないか…」

 それもそうだ、俺の人生におけるハイライトなど、折本にとってはただの一幕に過ぎない。

 そういえば誰かが言っていた。『人生は要約できない』と。

 出生、入学、進級、受験、就活、転職、結婚、出産。人生の岐路となった華々しいシーンだけを切り取って、人の一生はこうこうこうでした。なんて要約される。しかし、実際は違う。人を作り上げるのは、トピックとして扱われない、地味で、無味な、毎日だ。ハイライトに残らない一幕の積み重ねが人格を作り上げる。

 正に無味乾燥、無職童貞な毎日を過ごした人生は積み重ねられ、俺という人格を作り上げた。なら彼女はどうだ。俺にとってハイライトとして記録されるような毎日を、消化するだけで過ごしてきた彼女は。

「あはは…、千佳は違うかな…多分…」呟くように聞こえてきた。

「そうか…」

 これ以上踏み込むことを、なぜか自分が拒否していた。聞きたくないとすら叫んでいた。

 力の入っていた手をハンドルから離し、ズボンで汗を拭った。握りなおすとゆっくり自転車を進ませる。

「比企谷は…」背中越しに折本の声がする。「比企谷はどうなの…」

 振り返ってはいけないのか、振り返りたくないのかは定かではなかったが、そのまま口を開く。「……分からん」

「そっか…、うん、じゃあ私も分かんないかな」

 彼女のヒールがまたコンクリートを奏で始め、俺も歩を進める。

「仲悪くなったのか?」その千佳なんとかさんとやらと、と続けた。

「ふつー女子にそういうこと聞くー?」隣に並ぶとクスリと笑い、手をグーにして肩を軽く殴ってくる。

 さっきよりは明るい表情をしていた。自分の中の影も、今はいない。

「すまん、ちょっとな」

「ふーん、比企谷ってそういうの気にするんだ」

「いや、まあ、それでいい」いつ彼女と別れるか分からず、この答えだけ聞きたくて促す。「やっぱり合わなかったとかあるのか?」

 クリスマスやバレンタインイベント、プロムと多少関わっていたのが功を奏してか、質問を投げかけるのにそう躊躇はしなかった。

「合わなかった、っていうのはもちろんあるんだけど」折本は回顧するように暗くなった空を見上げた。「元々ずっと一緒にいられるような友達じゃなかったかな」

 折本の横顔に少し見惚れていると、沈黙を受け取ったのかさらに言葉を紡ぐ。

「一緒にいたかったら、多分こうなってないと思う。どっかで合わないって分かってて、でも一人になるのが怖くて続けてたのかも」

 見上げる瞳には、うっすらと光るものが見えた。

「そう…か」目を逸らすのに精いっぱいで、言葉が詰まる。

「あー、なら中学の同級生とかの方が一周まわって気合うのかなー」

 そう付け足すと、彼女は携帯を取り出して緑色の画面を表示させた。ああこれがLINEか。

 最後の独り言に返す言葉もなく、すこし広めの道路に突き当たる。

 何やらメッセージを送ったのか、折本は少しの間を置いて顔を上げる。「あ、私こっちだけど、比企谷は?」

「俺はあっちだ」折本とはほぼ逆方向を指差す。

「そっか、送ってくれてありがと」

 電車で見た瞬間よりは少し表情が明るくなった気がする。理由は分からないが、電車で目が合ったことも気が付いてなさそうだ。

「じゃあ」惜しむ別れでもなく、自転車に跨りペダルに足を掛ける。

「うん、じゃあまたね」手をひらひらと動かし、なにかに気付いたように止めた。「そういえば、比企谷も同中じゃん。親友かもね」

「はっ、それはねーだろ」思わず鼻で笑ってしまう。乱暴にペダルを漕ぎ始める。

 自転車のチェーンが久しぶりの仕事に景気よく音を鳴らす。背後で折本の笑い声がした。「確かに、ウケる」

「……いや、ウケねーから」

 錆び付いたブレーキ音で、かき消すように囁いた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 家に帰ると既に小町が夕食を作り上げていて、お礼を言って口をつけた。

 眼鏡をしていた俺を見るなり、結衣さんごめんなさいなどと呟いていたが、すぐに切り替えたのか食事中ずっと学校で何もなかったか詰問された。

 

 カチャカチャと皿を洗いながら、頭の中を整理しようともがいているが靄がかかるように思考は遮られ、集中できない。

 葉山の状態。戸部の逃走。海老名さんの依頼。

 ピースが足りない。やはり三浦に話を聞く必要がありそうだ。

 タオルを取り、皿を拭き始める。一つ一つ丁寧に、ピースを精査するように、汚れを見逃さないように整理する。しかし、何も思い浮かばない。

 最後のコップを食器棚にしまい、扉を閉めると磨りガラス越しに食器がぼやけて見える。

 一枚一枚磨いたはずなのに、ケースに入れるとぼやけてしまう。

 ガラスに指を這わせると、嫌な凹凸が撫で、不快感に神経が揺らぐ。

「…何してるの?」

 不意に掛けられた言葉に驚いてしまう。振り返ると小町がバスタオルを頭に巻いて立っていた。

「いや、何でもない。早いな」手に持つタオルを置く。

 食事を終えて風呂に向かった為、まだまだ戻ってこないと思っていた。まだ十五分も経っていない。小町にしては早い帰還だった。

「いやあ、録画しようと思ってた番組のこと忘れてて」そう言いテレビに近づくとリモコンを手に取る。

「普通に観ればいいじゃねえか…」

 ポケットから携帯を取り出し、メール画面をスクロールする。

「8時から友達と電話する約束しててさー」リモコンを操作して番組表を表示させながら言う。「見れないんだよー」

「電話って約束するもんなの?」

「いやまあ、確かにそうだけど…ほら、LINEって通話無料でいくらでも長電話できるから」

「マジか、すげえな」そんなに長電話する友達がいることに驚きだわ。

 キャリアの回線は未だに三十秒何円とかやってるのに、そんなんあったらもう使わねえじゃん。まあ、通話する相手いないから関係ないけど。

 画面スクロールを続けているが、最近通販したものが多いのと、大学と公務員準備講座からメールが多く届いていて目的の内容が見当たらない。

「よっしできたー!」小町が飛び跳ねると、たたたっと冷蔵庫に近づいていく。

 ようやく見つかったメールを開く。あれから戸部との連絡は途絶えていたのに加え、色々あった為最後の会話も忘れてしまっていた。

「なあ、LINEってメール探すの簡単か?」内容を見返しながら小町に尋ねる。

 小町は牛乳を取り出していて、コップに注ぐ手前で止まった。「お兄ちゃんそれ頭痛が痛いみたいになってるよ…」

「え、なんで」

「LINEとメールは別だよお兄ちゃん…」小町は憐れんだ目でこちらを見るが、「LINE入れたいの?」と言うと今度は心なしか目が輝いているようで思わずたじろぐ。

 今しがたのメール捜索に嫌気が差し、それが楽になるならと小町に伝えると、どうにも一人ずつの会話画面があり、すぐに分かるらしい。さらになんと会話が画面に常に表示されるためいちいち前のメールを開く必要もないという。

「なにそれめっちゃ便利じゃん」

「だからみんな使ってるんだよ…」

「頼んでいいか?」携帯を小町に渡すと、おろろと泣き真似をして受け取る。「お兄ちゃんがついにLINEデビュー…、小町は嬉しいよ…」

「はいはい、じゃあ頼んだ。パスワードはメモにあるから」

 なんだかむず痒く、小町の方を向かずに言う。リビングを出て風呂場に直行する。

 バタバタと出てきたのだろう、水滴はあちこちに飛び、下着やシャツが散乱していた。それらを摘まみ上げ洗濯機に投げ入れる。

 自分の服も入れ、風呂場に入ると先に身体を洗い湯船に浸かる。夏場は別にシャワーで良かったが、小町はお湯に入りたいらしく、毎日溜めていた。

 大きく息を吐くと、身体が思い出したかのようにどっと疲れがのしかかる。そういえば一日外に出っぱなしだった。

「はあぁぁぁ……」更に息を吐く。

 天井を見上げ、もう一度ピースの精査を始める。川崎と折本の会話が頭を掠めるが、特別収穫もないと判断して取っ払う。瞑目すると意識が遠くなる気がした。

 風呂で寝るのは危険らしい。ぼーっとしてしまうのは眠気ではなく、失神に近いそうだ。

 汗は昼間に図らずとも流していたため、すぐにあがることにした。

 

 リビングに戻り時計を見ると八時を少し回っていて、すでに小町の姿はなかった。テーブルに携帯が無造作に放置されている。

 クーラーが効いたままの室内は心地よく、ソファに寝転ぶと再び眠気に襲われた。今度は逆らう気力も体力もなく、意識は沈んでいった。

 

 

―――

 

 

「んん…」息苦しい。何か乗せられているようだ。確かな質量をもったそれが腹部を圧迫し、気道が締め付けられる。

 錘を背負ったつもりはない。身体を動かすが、それは揺れるだけで離れなかった。意識が半分覚醒し、夢であることを認識し始めるが、従うことしかできず身を捩る。

 場面が変わった。目の前には大きな箱がある。長方形のそれは磨りガラスで覆われていて、中身が確認できない。近づいてガラスを触るが、不快感のみが指を這う。顔を近づけるとさらにぼやけた。

 仕方なく離れることにした。少しの距離を取りながらその長方形を見回る。

 ぐるぐると回っているうちに色が付く。懐かしい色合いが、脳裏を刺激する。

「教室…か」声にならない声で呟く。

 全体を俯瞰すると、沢山の机に黒板らしきものも確認できた。すると黒い塊が床から湧き始める。生徒だ。

 教室の後ろと思われる位置で立ち止まると、窓際後方、つまり俺の目の前に黒い集団がある。笑っているのか、良く動く。何故か近づくことが躊躇われ、再び周回すると恐らく廊下側、真ん中あたりの席に小さな塊があった。違う。人が突っ伏しているのだ。

 そこで、霞がかっていた箱が崩れる。壁がこちらに倒れてきて思わず叫んだ。しゃがんでしまった身体を起こし倒れたはずの壁を見るが、塵ひとつなく消え去っている。

 急に日が差し込んだように明るくなったそこは紛れもない教室で、壁もないのに笑い声が反響していた。教室後方には相も変わらず生徒が溜まっていて、よく見ると、いやよく見なくても葉山のグループだった。

 いつか嗤い、憧れ、何度も観察した彼らの姿だ。

 目の前に突っ伏していた生徒が急に立ち上がり、こちらに近づいてくる。見覚えどころじゃない。俺だ。

 一歩一歩足を引き摺るように歩いてくる俺から逃げられない。身体が動かない。そこまで考えさっきの周回も自分の意志ではなかったことに気付く。

 ぶつかる。

 衝撃に備え肩を縮こまらせたが、そうはならなかった。背後を振り返るともう一つ箱があった。

 扉を開けてもう一人の俺がその中に入ると、再び壁が倒れ始める。四方に割れ、中から顔を出したのは夕日に染まった奉仕部だった。

 いつもの定位置に雪ノ下、由比ヶ浜、俺。そしてなぜか一色がいた。

 脚が自然と動く。眩しいほどのその場所に、近づく。近づく。そして気付く。

 由比ヶ浜がいる。

 謎の悪寒が背筋を走る。先ほどまで聞こえていた笑い声が、いつの間にか止んでいた。

 後ろを振り返っていいのか考えるよりも先に、身体は勝手に動く。まるでシナリオに踊らされる人形のようだ。

 教室は薄暗く、目を凝らすと葉山のグループだけが見えた。言葉も発しずただ虚空を見つめている。葉山の首が持ち上がり、穴が開いたような瞳がこちらに向けられた。

 咄嗟に、逃げなければと思った。あの暖かい空間に。

 踵を返し奉仕部に身体を向けるが、そこには暗闇があるだけだった。

 

 どしんっという大きな音と身体に響いた衝撃で目が覚めた。カシャカシャと爪を鳴らしながらカマクラが全速力で離れていく。

 ソファから落ちたと気付くのにそう時間はかからなかった。薄手の掛け布団が身体に巻かれていて、小町に心の中でお礼を言った。

 クーラーが切れて時間は経っているが、それとは明らかに関係のない汗でTシャツがはりつく。壁に掛けられた時計を見ると五時を少し過ぎた頃だった。立ち上がり、風呂に入ってから忘れていた携帯をテーブルに取りに行く。

 嫌な夢を見たのは確かだが、内容をしっかりと思い出せない。少し頭が痛い。

 食卓の椅子を引き、腰掛ける。携帯を開くと見知らぬアプリアイコンがあった。LINEとかかれたそれをタップすると、一番上に小町と書かれた欄があった。赤い数字で①と表示されている。

『可愛い妹小町だよー!』

 開くとそんな一文が目に飛び込んできて、思わずキュンとしてしまう。我が妹ながら恐ろしい子っ。

 その下のゴミのスタンプは見なかったことにした。

 ポチポチと弄っていると、友達追加という画面に移った。電話番号から友達追加という説明文が見え、スクロールすると知った名前や知ってるけど分からない名前が表示されていた。

〈雪ノ下 雪乃〉これは確実に雪ノ下だな。プロフィールの画像猫だし。

〈☆★ゆい☆★〉これは由比ヶ浜かな。画像はプリクラなのか、雪ノ下と一緒に写っている。今知ったけど、プリクラって元々可愛い人は撮らない方がいいな。目とかでかくて変。ってことは可愛くなる人は、あっ…(察し)。

 他にも名前が並ぶが、ひとつの名前に引き付けられた。〈平塚 静〉プロフィール画像はスポーツカーで、ホーム画面はラーメンだった。もしかしてこの人結婚する気ない…?

 外でバイクの音がして、カタンと新聞が投函された。こんな朝は久しぶりだなと考えながら思い出す。平塚先生にヒントを貰い、奉仕部に自分の答えを導き出したことを。

 窓に近づきカーテンを引くと、昇り始めた太陽が光の柱を何本も空に伸ばしていた。あの夜の時計の進む様子はよく覚えている。答えは出ているのに何度も問答して、引き出していった。平塚先生の言葉は今でも焼き付いているが、今回の場合は自分の事ではなく、いくら試行錯誤しても事実は変わらない。ピースは殆ど出揃い、取るべき行動がない。

 もう一度手に持つ携帯を見る。平塚先生の画像は数分前と変わらないスポーツカーで、記憶を刺激してくる。

『心理と感情は常にイコールなわけじゃない』

 そんなことは戸部を見ていれば分かる。

『計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ』

 あいつらの気持ちは恐らく一致している。

『考えるときは、考えるべきポイントを間違えないことだ』

 考えるべきポイント…。ポイントは間違えていないはずだ。ひとつずつ確認してきた。ひとつずつ…。

 そこで夢で見たシーンが甦る。箱。教室。視点。誰の視点だ。俺は誰の視点に入っていた。

『それは比企谷だけだろ』また一つ、こめかみに響く。頭痛に紛れてガンガンと響く。『俺と君は違う』

 ああ、そうだ。あいつは何も変わっちゃいないのだ。海老名さんと一緒だ。

 彼らの依頼は、破壊でも透過でもない。

 それだけは確かだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 数十分前はせかせかとペダルを漕いでいたのに、今はエンジンを吹かして風を切る、というより貫くようなスピードを出す白い外車に乗っているのだから、人生は分からないなと思う。

 因みに言うと今いる場所は高速道路で、向かっている方角は南。

 鼻歌交じりにハンドルを握り、暴れ馬を操って追い越し車線を悠々と走る。馬力が違うのか、それなりの速度にも関わらず乗り心地は良かった。

 カーナビに目を向ける。俺が乗車した時にはすでに目的地は登録されていて、操作すれば分かるのだろうが、何かしらのルールに反する気がして手が伸びない。

「あの…」何となく高速道路の合流は神経を使うのではないかと考え、先ほどから黙っていたがそろそろいいかと口を開く。「どこに向かってるんですか?」

 運転手は軽く首をこちらに向けた。未だ自動車学校の第二段階である路上講習に出たばかりの俺からしたらとんでもない仕草で、思わず背筋が凍る。

「どこかなー?」チラリと視線で前方を確認し、再びこちらを見た。優先順位が逆ではないかと言いたくなる。「当てたらご褒美あげるよ」

 ご褒美、という言葉にあまりワクワクしないのは彼女の日ごろの行いの所為だろうか、と考えたところで、彼女が、雪ノ下陽乃が不意に唇を触った。

 トン、トン、と誘惑するように跳ねる指先に俺の目線は釘づけになる。今盗塁したら絶対アウトだなと下らないことが頭を掠めた。

 専業主夫に経験値全振りする(予定)俺には今の状況に対処する術はなく、言葉が出てこなかったが、陽乃さんはフロントガラスに顔を戻したことでやっと息を吸うことができた。

 視線が合っていないうちに、早口に言う。「か、鎌倉とか…」残像を残し過ぎ行く看板に、頻繁に表れた地名を出した。距離的にも一番無難だと思う。べ、別にご褒美とか意識してないし!

「ふーん、なるほどー」陽乃さんは片手をハンドルから離し、顎に手をやる。またヒヤリとしたが、その仕草は雪ノ下雪乃と瓜二つに見え、少し微笑ましくなる。「正解発表は、CMの後で!」俺の視線には気付かず、陽乃さんは悪戯めいて笑った。

「テレビじゃないんですから…」と陽乃さんに言い、ついでに「この人結局教えてくれないんだけど」と心の中で雪ノ下に毒づいておく。

 

 

―――

 

 

 コインパーキングに停めた車から降りると、独特の匂いを含んだ潮風が鼻孔を掠めた。沿岸部で風は強く、一瞬愛する千葉を思い起こさせたが、辺りに散りばめられた観光客に首を振る。見渡してみれば外国人も多く見受けられ、この場所の人気が窺えた。平日でこれなら休日はやばいんだろうなあ。

 チラリと渡ってきた橋を見ると、向こう岸の本土と繋がっていて、ここが島であることを改めて実感した。背後には江の島タワーが聳え立っているはずだ。

 運転席から降りた陽乃さんを見るが、自然と口元に視線が吸い寄せられた。ひと月前の出来事は頭から取り払ってこの日を迎えたが、会ってしまえば淡い抵抗は難なく突破され、期待が鼓動となり響いた。

「比企谷君、お昼抜いてきたんでしょ?」車の鍵を遠隔で閉めた陽乃さんが聞いてくる。そういえば、昨夜小町に食べるなと釘を刺されていたために我慢をしてきていた。

「はい、ちょっとお腹すきましたね」嘘だ。めちゃめちゃお腹空いてる。お腹空き過ぎて腹痛が起こる謎現象も発生し始めた。胃が空っぽという表現がどんぴしゃりな気がした。

「あはは、ちょっとじゃないでしょ」陽乃さんが軽快に笑う。「もう二時過ぎだよ?」

 腕時計をする習慣はない為、携帯を取り出して時刻を確認した。空腹も妥当な時間だと認識すると、さらに拍車がかかり胃が悲鳴を上げる。

 携帯の画面には時刻の他に、数件の通知が来ていて軽く確認する。小町からのツーショットがなんちゃらと、由比ヶ浜との日程相談の内容だった。そう急ぎでもない上に、小町に至ってはついに本性を現しただけに無視する。

「すみません…、かなり空きました…」お腹に手を当てる。

「ううん、ごめんね無理させて」彼女の表情は本当に労わっているようで、少し安らぐ。「お詫びに美味しいお店知ってるから、案内するね?」と言い、俺に目配せをして先の階段を昇っていった。

 後ろ姿を追う。風は強いが、今日の陽乃さんの格好は膝丈のタイトスカートで、俺が何かを心配することはないなと思う。日焼け対策なのか薄手のカーディガンを羽織っているのと、鍔の小さな麦わら帽子を被っているのが印象的だった。

 夏らしい、低いヒールの付いたサンダルからは健康的なアキレス腱が浮かび上がり、誘うように上下する。

 

「まさか比企谷君の方から誘ってくれるなんてねー」

 陽乃さんは器を空にすると口を開いた。俺の方は既に完食していて、窓の外に見える非日常の風景を堪能しているところだった。

「いや、まあ…」遅めの誕生日プレゼントを渡すためとは言えず、言葉を濁す。「そういえば雪ノ下さんは四年生でしたよね」

「うん、そうだよ?」小首をかしげる姿も可愛らしく、少女の雰囲気すらあった。

「就職とかって決まってるんですか?」

「ああ、うん決まってるよ。父の会社を手伝うことになってるの」陽乃さんはそこまで言うと、息を吐くように「前からね」と続けた。

「そうなんですか…、すみません」旅行中に話すことではなかったなと思い、すこし反省するが、陽乃さんが被りを振った。「ううん、今は両親に感謝してるの」

 今は、の部分に苦笑しそうになるが、黙って促す。

「あの子より先に行けるから」

 そう言い彼女の瞳は外の景色に向けられた。釣られて首を動かすと、遠くに海が見えた。すべてを飲み込んでしまう余裕すら感じられた。

 彼女は変わったなと思う。あの頃の様な歪んだ言葉も態度もなく、ただただ真っ直ぐに進んでいく。彼女の邪魔をするものはなにもない様に見えた。

「じゃあ、いこっか」陽乃さんはこちらに向き直ると無邪気に笑った。

 その合図で席を立つ。

 

 

―――

 

 

 石階段の一番下に腰掛け、夕暮れ前の海に目を向けると、分かっていても言葉が奪われた。

 沈んでいく太陽はその存在を最後に誇示するかのように輝き、人々の瞼に焼き付ける。

 

 食事を終えた俺たちは土産屋や人気のジェラートが食べられる店などを巡った。折角だからと妹に喜ばれるお土産対決を申し込まれたが、陽乃さんが選んだものは写真立てで、中には最初からなのか猫の写真が入っていて勝てる気がしなかった。

 日が傾き始めると、陽乃さんの主動でこの砂浜に案内された。ごめんなさい今日ずっと陽乃さん主動でしたつよがりました。

 

 この砂浜は夕焼けが写真に映える人気のスポットらしいが、そこまでの人ごみでもなかった。沈む直前は太陽の力で声帯が燃やされたのかと思うくらいに、皆が景色に見惚れ、記憶しようとしていた。今しかない、と思った。

「雪ノ下さん」隣に座る陽乃さんに小さく呟くと、夕焼けに照らされた彼女がこちらを向いた。景色の邪魔をするなという趣旨の視線はなく、すこし安心する。「遅くなりましたけど、誕生日おめでとうございます」

 元々間に合わせるといった状況でもなかったため、謝るのはやめた。

 陽乃さんは俺の手元にある小さな箱を見ると一瞬言葉を詰まらせたが、手を伸ばしてきたのでその上に載せる。

「ありがとう…」か細い声だった。

 弱弱しい彼女は見ていけない気がして顔を逸らした。陽は海に沈み、残照を伸ばすばかりだった。観光客は続々と浜から引き返していく。

 開けていいかと聞かれ、了承する。江の島タワーには光が灯り、海に向かってメッセージを発し始める。誰にとも分からず、ただひたすらに信号を発し続けるその姿は往々しくも、痛々しくも見えた。

 陽乃さんの反応がなく、焦れてきたころに声がした。「かわいい」

「ほんとですか?」ポジティブな反応に、ようやく肩の力が抜けた。

「うん、可愛い」今度の言葉は噛み締めるようだった。

「それはよかったです」

「こんなに可愛いの、比企谷君が見つけたの?」

「ええ、まあ」

「絶対女性ものだよね、一人でお店入れたの」

「え、ええ、まあ…」

 同じセリフを言うだけなのに、つい詰まってしまった。その反応に陽乃さんの声が少し湿る。

「嘘」陽乃さんは口を尖らせた。「嘘つきだ」

 拗ねるように膝を抱える。可愛らしかったが、慌てて否定する。

「城廻先輩に教えてもらったんです。いいお店があるって」

「一緒に行ってないの?」

「それは…」再び詰まると、顔をぷいっと逸らされた。「いや、付いて来てもらっただけですよ、ちゃんと俺が選びましたから」

「このトカゲも?」

「はい」

「この装飾も?」

「はい、全部です」

「そっか…」陽乃さんはそこまで聞いたところで満足したのか、抱えていた膝から手を離した。「つけてもいい?」

「あげたものなので」と言うと、陽乃さんは会った時からつけていたイヤリングを外す。

「ちょっと持っててくれる?」

「あ、はい」

 外したそれをこちらに渡し、俺のあげた方をつけた。

「どうかな」陽乃さんは髪を耳に掛ける。その仕草はずるく、良いなと思ってしまう。

「に、似合ってます…」

 トカゲなのかは分からないが、爬虫類をモチーフにしたイヤリングは赤く透き通り、その周りには葉の装飾も揺れている。似合っていた。しかし自分のあげたものを似合っているというのは変な感じで、むず痒くなる。

「あはは、ありがとう」と言い、指先で弄ぶ。「嬉しい…」

 やはり気恥ずかしく、視線を彷徨わせるが観光客はもう殆どいなかった。ぼそぼそと何かが耳に届き、陽乃さんを見るが、両手の平で顔を覆っていて伺えなかった。

 

 車に戻る道すがら、陽乃さんは「そのイヤリングあげるよ」と俺が預かっていたものを指差した。断ると「だって、もうこれしか着けないし」と言い、小悪魔のように笑った。

 再び髪をかき上げて現れたイヤリングは、陽の光を溜めていたかのように赤く煌めいて見えた。

 

 

―――

 

 

 夕食はこちらも陽乃さんがよく行くというお洒落なパン屋でとり、鎌倉の夜景を見に行くことになった。

「せっかくくれるならもっと早くてもよかったのに」陽乃さんは少し愚痴るように言った。

「え、プレゼントって早い方がいいんですか」

「そういう訳じゃないけど…」陽乃さんはハンドルを回す。「今日一日つけられたから…」車体は戻ったが、俺の心は遠心力で揺れたままだった。

 

「着いたよ」最新の車は停車もスムーズで、車校の旧型セダンとは比べ物にならなかった。

 促されるままに車から降りると、そこには白い巨塔…ではなく白いホテルがあった。なにこのデジャブ。

「え、夜景観に行くんじゃ…」そう言いかけるが、当の連れてきた本人はスタスタと扉の前で姿勢よく立つホテルマンに近づいていく。

 一言二言話すと、手招きされた。

 派手なエントランスを横切り、重厚なエレベーターの前に立つ。陽乃さんがボタンを人差し指で押すと、すぐに開いた。陽乃さんに続いて乗り込む。

 扉が閉まったところでようやく会話ができた。

「あの、夜景は…」ご機嫌に揺れる彼女に声を掛ける。

「ん? 夜景観に行くのよ?」

 何を言っているの? と言わんばかりの視線を向けられ、何言ってるんですか? という視線を向ける。

「何言ってるんですか?」考えが口から洩れた。

「あはは、比企谷君の顔おもしろーい」陽乃さんは口元を抑え、くすくすとわざとらしく笑う。

「ずっとこの顔ですよ…」答えるのも億劫で軽く受け流すが、陽乃さんは目を細め、「知ってるよ」と呟く。

 声に艶めかしさが乗り、思わず身を引いてしまう程の色香だった。

 エレベーターが開くと、そこにはまた同じような重厚感のある扉が現れた。両脇に置かれた観葉植物を見ると、玄関と言えなくもない。

 陽乃さんはどこからかカードを取り出し、ドアノブの上の隙間に差し込むと、抜くと同時にピッと軽やかな音が鳴った。そのまま手を掛け、押し込むように開く。

 そこまでの重さはないはずなのに、扉の存在感が強く、開くのが遅く感じた。

 長い廊下を突き抜け、その先には夜空が見える。そこでようやく、このフロアすべてが一部屋だということに気付いた。恐る恐る足を踏み出す。

「両親の出張とかでよく使うの」先を行く陽乃さんがこちらを振り返り言う。「偶々空いていたから、ここから見ようと思って」

 慣れた手つきで全面ガラスの窓を開けると、ベランダに出る。昼間もからっとした天気で過ごしやすかったが、夜になると程よい風が肌を撫でた。

 手すりに手を掛け、俺を促すように手を差し伸べて来る。あまりに優雅なその仕草に思わず手を取ってしまう。その瞬間だけ、世界には二人きりの様な気がした。

 言葉は出なかった。眼下には夜を彩る街並みが広がり、少し先に目を向けると、昼間に登った江の島タワーが姿を変貌させていた。キャンドルのように揺れるその光は、俺の言葉を奪うのには十分すぎた。

「どう?」陽乃さんが語り掛けて来る。ぼんやりと耳に響いたその声にゆっくりと返す。「…綺麗です」

「あは、それは私の事?」陽乃さんはこんな時でも笑う。

「陽乃さんの事はいつも綺麗だと思ってますよ」

 視線は固定したまま、流暢に口が動いた。内容も分からず出た言葉は、きっと本音なのだろうなと思った。

 少しの沈黙の後、「もう…」と呟いた。「ずるい」

 手を引かれ、室内に戻ると、隣の部屋に移る。寝室なのか、二人が寝ても余裕のあるベッドが中央に鎮座していた。同じような全面ガラスはベランダがない代わりに、ベッドからでも夜景が一望できた。

 景色から引きはがされた名残惜しさと、期待感に思考のバランスが取れない。

 そのままベッドに腰掛ける。視線を外に向けるとキャンドルが揺れ、名残惜しさは消えた。

「ねえ、比企谷君」陽乃さんが首に手を回してくる。「キスしてもいい?」

 艶めかしい声は鼓膜に届く。妖気すら孕んで、確かに響く。

 しかし俺はそれに答えられない。何も言えない。

 視線が下がり、すこし俯く形になってしまう。

 陽乃さんはそれを首肯と捉えたのか焦れたのか、左の頬に唇が当たる。そのまま離れず、欲しい欲しいと何度も啄むように吸われた。

 力強く抱き寄せられ、陽乃さんの双房が腕に絡みつく。

 頬から首へ、小鳥のように突いたり離れたりを繰り返し、下がっていく。彼女の左手は俺の胸元を撫でるように上下していた。

 頭は回らず、ただただ堕ちていく。そんな感覚に助け舟を出してくれたのは、皮肉にも堕天使本人だった。

「…いいよ」耳たぶを掠め、囁く。「答えなくても」

 それは駄目だと、心の内が叫んでいる。汚れた期待を抱いていた自分を呪う。

 叫んでいるのに、心の内から出てこようとはしない。

「私が好きなだけ」陽乃さんは猛毒を吐く。「好きなだけだから」

 両肩に手が添えられ、力づくでベッドに押し倒された。そこで初めて陽乃さんと目が合う。

 赤かった。顔も目も。おそらく心も。

 一瞬だった。

「…ん」どちらの声か分からない。どちらともの声かもしれない。合わさった唇の隙間から、漏れた。

 陽乃さんの息は荒く、欲しがる子供のように何度も何度も口づけをした。

 子供の頃に見た、結婚式で見た、華やかなものではなかった。

 とても醜く、とても酷く、爛れたキスだった。

 

 帰りの車内で、陽乃さんの「また会ってくれる?」という問いに頷いたのは、誰の罪だろうか。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 恥の多い夏休みを送って来ました。

 夏休みも残すところあと数日。五十日にも及ぶ長期休みは、あれよあれよという間に終わりを迎えてしまう。

 無事前期の単位をすべて取得した俺は、秋学期の時間割を決める作業に追われていた。というのも履修登録の存在を忘れていて、今日が最終日だったのだ。

 公務員講座で葉山に言われたことを思い出す。後期も一緒にサッカーの授業を取らないかというものだ。もちろん舌を突き出して断ったが、現在、登録最終日の俺にある選択肢は定員の空いているサッカーだけだった。

 火曜日と木曜日、どちらかの授業に葉山はいる。南無三! と唱えつつ木曜日の四限にチェックを入れた。

 机の上にある電波時計に目を向ける。9月15日(木)11時12分。学生の履修登録に時間を充てる為、その期間だけ公務員講座は午後からだった。

 パソコンを閉じ、鞄を引っ掴むと家を出る。

 空には厚い雲が充満していた。

 

 自転車のペダルに力を込める。ぬるく湿った風が口元を撫で、下唇を噛んだ。

 ファーストキスなんて勿体ぶっても、所詮は肌の接触。味もなければ感動もない。想像や妄想を膨らませ続け、理想を描いたそれを済ましても、世界が、景色が変わることはなかった。なのに。

 なのに、内の火照りが消えないのはなぜだろう。

 

 駐輪場に自転車を置き、改札を潜り抜けるとホームを進む。

 歩きながら出した携帯に戸塚からもらったイヤホンを挿す。白色のそれは以前の物より音質が良い気がした。戸塚補正がない気がしないでもない。

 家での音漏れチェックも欠かさず、音量に注意しながら再生ボタンを押す。一世代前のアニソンは気分を高揚させるには丁度良く、次第に心は軽くなった。

 携帯の画面下部にあるボタンを押すと、画面が切り替わり碁盤の目のようにアイコンが立ち並ぶ。見慣れないLINEのアイコンに新規メッセージの到着を告げて数字が灯った。

 由比ヶ浜から送られてきた内容を見ると、一度スケジュールアプリを確認してから返信した。

 夏休み中の講座も終わり、大学生活が再開する。バイトに講座、自動車学校とそれなりに忙しく充実した毎日だったと言えよう。車校はまだ終わってないけど。

 三浦との邂逅に一抹の不安を感じながら、到着した電車に歩を進める。乗り込む直前で二人組のおばさんに追突されたが、彼女らは俺のことなど見えていないかのように、ずかずかと笑いながら椅子を占領した。

 握っていた携帯を誤って操作したのか、耳元に響いている歌の曲調が変わっていることに気付く。故ボーカルが、大丈夫だ。大丈夫だ。と歌い上げる。励ましているのか、言い聞かせているのか今の自分には分からない。

 なぜだか心地よく、扉にもたれてそのまま聴き続けた。

 流れゆく景色に目をやると、雲の隙間から陽が射し顔を覗かしていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は求めていた。シーツに縋るよう、握りしめる。

 

 シャワーを浴び、生まれたままの姿でベッドに横たわる。

 素敵なプレゼントを貰ったのが引き金だった。

 私の事を受け入れもせず、拒みもせず、只々流されていた彼を思い出すと胸が締め付けられるようで苦しい。それでも、帰り際に抱き締めてくれた震える肩と、確かな首肯がおかしくなるほど嬉しかった。

 勢いでしてもよかったけど、私も彼もそうできないことは分かっていた。

 貪るようなキスをした後、これでもかという程に彼に触れた。首も手も、腰も足も、全てが欲しかった。そして、手に入らなかった。

 彼の心はまだ、囚われている。

 あの場所に繋ぎ止められたままだった。

 

 彼を送った後、再びホテルに戻ってきた。そんな元気があること自体が不思議だったが、自分を突き動かすものの正体はついに現した。

 出ていったままの状態のスイートルームは薄暗く、月明かりのみが唯一の救いだった。

 

 何者かに荒らされたように乱れたシーツが、彼の存在を確かに示す。

 両手を使い掻き集めると、赤ん坊を抱くように優しく包んだ。

 片手でイヤリングを器用に外し、手のひらで転がした。トカゲと勝手に認定したそれは月光を浴びて息を吹き返したように輝く。

 目の奥が熱くなり、止めどなく溢れ出す。

 こんなに誰かと話したいと思ったことなどなかった。人生を俯瞰した罪を償わされているかのように、今が苦しい。誰もいない。

 助けてほしいとすら、願う。

 ベッドに投げ捨てていた携帯に手を伸ばすと、アルバムを開く。

 海やお店で不機嫌そうにこちらを睨みつける彼。ふとした瞬間に遠くを見つめる瞳。世の中を嘆いているようで、縋るように手を伸ばしている。

 セルフカメラで撮ったツーショット。頬をくっつけると彼の顔は火を噴くように赤くなった。

 ごみ箱のアイコンに触れるだけなのに、動かない。自分の身体なのに、こんなにも言うこと聞かないなんて聞いてない。

 この部屋のように薄暗く、最高で、最低の口づけだった。

 

 削除することを諦めていた携帯に着信があった。映画を見に行った時に聞いた、彼の好きなアーティストの曲だ。デート中はマナーモードにしていた。聞かれたら流石に恥ずかしい。

 霞む視界に画面を捉えると、表示された名前に目を見開く。

 蜘蛛の糸に縋るように、通話ボタンを押した。

 

 

 




読んでくださってありがとうございます。
次回も9月が続く予定です。

意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。
今年もよろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9月③

お久しぶりです。遅くなって申し訳ありませんでした。
9月の最後になります。

大分期間が空いてしまいましたが、今回も読んで頂けると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 城廻めぐりは喘いでいた。

 

 お客さんの探していた本を見つけ、手渡すと柔らかな笑みとお礼が返ってきて、心が温まった。それが小さい子であるから、愛らしさまで追加されてつい頬が緩む。

 会計を終え、「ありがとうございました」と言うと、母親に連れられながら「お姉ちゃんバイバーイ」と手を振ってくれた。

 レジ前に設置された不要レシートを入れる箱に手を伸ばす。覗くと白い紙が溢れかけていて、危ない危ないと思いながらゴミ箱へと捨てる。時刻を確認すると、時計の針は八時を指す直前で、彼の休憩が終わることを示していた。

「ごめん、手洗い行ってくるわ」隣から声を掛けられた。4年の先輩だ。いかにも書店員と言うと書店員に失礼かもしれないが、前髪が目にかかる暗い顔をしていた。

「あ、はい」不意を突かれて思わず背筋が伸びる。

 エプロンを外しながら去る後姿を見つめる。三人で回すシフトに店長と社員はおらず、学生だけがこの店にいた。

 コトン、と本を置かれた音でお客さんの存在に気付いた。「あ、すみません。いらっしゃいませ」と言いつつ、お願いしますとか言ってくれたらいいのに、と心の中で毒づく。

 商品を手に取り、赤いライトに翳すと軽快な音を立てて金額が表示された。スリップを抜き取りながら、金額を口頭で述べる。そこで手に持つ本がライト文芸であることに気付いた。

「こちらの商品にカバーはお付けしますか?」顔を上げ、マニュアル通りの言葉を発した。が、そこで息が詰まった。

「ああ、じゃあ、お願いします」赤いジャンパーに身を包み、毛が逆立つような笑みを浮かべた男がいた。

「あ…」声を発しようにも、喘いだ声しか出ない。

 辛うじて動く眼球で男の姿を捉える。店内に冷房が効いているとは言え、今は夏。それなのに長袖のジャンパーを着ている男に、過去の記憶を蒸し返される。

 夏なのにすごいねー、と笑い、それ以来長袖しか着てこなかった目の前の男に、皮膚が拒否反応を起こし始めた。

「あのぉ、めぐりさん、カバー」

濁った声で名前を呼ばれ、吐き気すら催す。

 暗澹とした空気が体中を占めようとしたとき、冷たい手が私の腕を掴み、思わず悲鳴を上げそうになった。しかし、弾かれるように視線を動かした先にある顔は懐かしく、芯のある、あの教室でよく見た顔だった。

「すみません城廻先輩、事務所の金庫が開かなくて、ちょっと行ってきてくれませんか」頼み事をする言葉なのに、断定的な口調で手を引かれる。

「ひ、きが…」足に力を入れ、何とか踏み出す。

「すみません、少々お待ちください」比企谷君が男に向かって低く叫び、私を強引に連れる。

 階段近くまで来ると腕を離し、腰に手をやり、押してきた。「走って」と呟く。

 言われるがまま、押されるがままに足を踏み出し階段を昇る。途中、嗚咽が洩れ、口元を抑えた。

 事務所の扉に震える手でなんとか鍵を挿し、回すと転がり込んだ。背筋に悪寒が走り、急いで中から鍵を掛ける。

「はあ…はあ…」肩が上下しているのか、震えているのかすら分からなかった。

 耳を済まして誰も近づいてこないことを確認してから、大きく息を吐いた。

 事務所に設置してあるモニターに近づいて目を凝らすと、ちょうど赤いジャンパーの男が自動ドアをくぐるところだった。

 レジを映すカメラに切り替えると、比企谷君の顔がカメラに向いていた。その視線を受け、掠れる視界に涙が溜まるのが分かった。

 

「お疲れ様」セキュリティをかけて、振り返ると比企谷君が何かを言いかけるところだった。「どうしたの?」と尋ねる。

「…いえ」比企谷君は少しの逡巡のあと、首を振った。「車まで送りますよ」と言い、辺りに目を光らせた。

「…ありがと」申し訳ない気持ちが胸を締め付ける。

 ゴミコンテナに袋を投げ入れた後も、建物の影を睨みつけるなどしている彼を見ると、すごく頼もしく見えてしまい、いっそ縋ってしまえばいいのにと駆り立てる。

 先行する心を押しとどめ、深呼吸を繰り返す。

 闇夜に紛れて色の判別がつかない軽自動車の前に立った。元の色を知っている自分でも、実は夜になると色を変えるのではないか、と勘繰ってしまう程の紛れようだった。

「今日はありがとう」今日も、かなと心の中で苦笑する。「ごめんね」

「いえ、全然大丈夫ですよ」比企谷君の声は無理に明るくしている事がバレバレで、思わず笑ってしまった。

「あはは、ごめん、ごめん、ね」笑い声と泣き声の混じった音が自分の口から出ていることには後から気付いた。

 伸ばしてくれた彼の手を制して、頭を振る。揺れた髪が頬を打ち、発破を掛けられている錯覚がした。それでも、今は助かった。

「よし!」パチンッと頬を両手で叩いて顔を上げる。「またね比企谷君!」

 今できる最大の笑顔を、浮かべたつもりだ。

「…ええ、また」比企谷君は察してか、それ以上追及しては来なかった。

 私が車に乗り込むのを確認してから、彼は去っていく。正確には私が扉の鍵を掛けるところまで確認してからだ。

「比企谷君は優しいなあ…」憧れるような、欲しがるような声が出て、自分でも驚いた。

 ブレーキを踏み込み、エンジンを掛ける。車体が震え、フットブレーキを外した。ギアに手を掛け、ドライブに合わせる。前方に視線を向け、また息が止まった。

「あ…う…」

 息ができない。喘ぎ声だけが喉を通過する。

 肺が、身体が、空気を求めているのに、入ってこない。どうやって息をするのか忘れてしまったかのように何もできない。空気が、空気が欲しい。比企谷君…。

 いや、駄目だ。頼っては駄目だ。

 浅い呼吸を繰り返しながら、高校で習った講座を思い出した。生徒会を含めて行った体育祭向けの応急処置の内容だ。

 一端息を止め、お腹に手を当てる。ゆっくりゆっくりと腹式呼吸を繰り返す。負けない。私は負けない。

 呼吸が落ち着いてきたところで、強い覚悟をもってフロントガラスを見た。

 乗り込む前は暗さで気が付かなかったが、ガラスに液体が張り付いている。所々に塊の様なものも見えた。なんとか頭を働かせ、携帯で写真を撮った。証拠を残しておくといいと、いつか平塚先生に教わった。

 数枚撮り、一度顔を近づけ目を凝らすと、それは割れた生卵だった。視界に入っているだけでも六つは投げられていた。

 もったいないな、というのが率直な感想だった。流石に食べられないし、あの男が触ったものだと考えると指先にチリチリと違和感が出てくる。

 割れて垂れた生卵の先に、赤いランプがきらきらと近づいて来ていた。警察の巡回車だろう。

 視界に捉えてすぐ、ギアを入れてアクセルを踏んだ。警察が走る方向とは垂直に曲がると、赤いランプがバックミラーを横断するのが見えた。

 これ以上心配はかけられない。

 これ以上迷惑はかけられない。

 絶対に負けない。

 挫けそうな自分を置き去りに、強くアクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 夏休みが明けた。明けた明けた言うけど、全然めでたくないんだよなあ。

 後期の木曜日は一限から講義があるが、それでも小町の方が家を出るのが早い。見送ってから部屋に戻ると、財布の中身を確認する。

 学期が始まってから二週間ほどは教科書販売の期間となっていて、大学内に併設された書店で教科書の購入を行う。前期は慣れない新入生の為に、一年生専用の期間が設けられていたが、後期からはその温情もない。ちらと見たことがあったが、すべての学年が入り乱れて購入する様はまさに烏合の衆。

 ため息をつきながら家に鍵を掛け、自転車に跨ると早々に漕ぎ出す。

 未だ夏は真っ盛りで、滴る汗に顔をしかめる。空には隆々とした筋肉を思わせる雲が漂っていた。

 

 駅に着いた車両から学生が雪崩のように吐き出された。もちろんその中に俺もいる。

 躓きながら流れに乗ると、一息ついた。通勤通学ラッシュにはいつまでたっても慣れる気がしない。外国人が満員電車に憧れるとか聞いたことあるけど、毎日乗ってたら絶対苦痛。まあ、その外国人も毎日乗りたくて憧れている訳じゃないだろう。

 駅構内をand more...として歩いていると、前方に見知った茶髪が見えた。確か木曜一限は学部固有科目だったから戸部も履修しているのだろう。

 話し掛けようと一歩踏み出したが、戸部に近寄る集団が見えて速度を緩める。挙動のおかしい俺に左右から怪訝な視線が飛んだ。

 まあ普通に面倒だし?話したいわけじゃないし?と言い訳しつつ首を縮こまらせる。エスカレーターではなく階段を選択し、駆け足でその場から離れた。

 教務課の近くで教室一覧を入手し、講義室へと向かう。

 さて、後期のはじまりだ。

 

 

―――

 

 

 例の通り、学期の初回講義はガイダンスで終わるため、早く終わったり、説明だけが長く続いたりと正直来る意味はない、と思う。一応行くけど。

 三限も早々に終了を告げられ、一時間を残して放り出された。教室に残っていてもよかったが、騒ぐ集団が必ずと言っていいほど存在するので距離を取る。え、友達?ミンナ、トモダチ、イーティー。

 小腹も空いたためにコンビニに寄る。昼時を過ぎた棚には残り物しかなく、空席の多いライブ会場の様でもあった。そりゃあガラガラの席でなんかやりたくないよなあ。

 仕方なくレジ横にあるスナック類に目を向けると、ハッシュドポテトが並べられたところだった。

 

 並べられた瞬間を見ていたのに、レンジでチンするよう指令を受け、コンビニに併設された電子レンジにポテトを突っ込んだ。十秒のボタンを押すと、勝手に動き始める。

 カップにささったストローを咥えて冷たいコーヒーを流し込むと、淹れたて独特の痺れるような苦みが口いっぱいに広がる。持て余した視線を店内に向けると、微かに残された商品を一つ一つ丁寧に並べ直す店員さんが見え、何となく居心地が悪くなった。

「鳴ってるぞ、比企谷」背後から掛けられた声に、驚いてコーヒーを溢しそうになる。ピーピーピーとレンジから音が鳴っていた。

「うおっ」振り返ると葉山がいた。「何してんだお前」

「何って、コンビニに来たに決まってるじゃないか」と肩を竦め、「次の体育までに小腹が空いてね」と笑った。

「ふうん」興味のなさが口から洩れてしまったが、特に罪悪感も感じない。ん?

「比企谷は何を買ったんだ?」と言いレンジの中を覗き込んだ。開ければいいものを、そうしないのは育ちの所為か、こいつの性格なのかは分からない。

 葉山をどかし、粘着を剥がすような音を立てて扉を開ける。「ただのハッシュドポテトだよ」言い方に棘があるのはご愛敬だ。うわあ、可愛くねえ…。

「特別なハッシュドポテトがあるみたいな言い方だな…」葉山は苦笑し、大股で店内に入っていった。

 スタイルがいいから大股に見えるだけで、葉山にとっては普通の歩幅なんだろうなと思う。

 近くの椅子ではふはふと冷ましながら食していると、葉山が戻ってきた。別に戻ってこなくてもいいんだけど…。

「すまん、真似した」椅子に座ると楽しそうに笑う。

「は?」なんだこいつ。俺の真似?他人に合わせて自分のレベルを下げるなって偉い人が言ってましたー。

 見ると、葉山の手には俺と同じポテトが握られていて合点がいく。そのまま追うと、葉山の口の中に三分の一程が消えた。

 口の淵を舐めた舌が油で光ったが、嫌悪感は湧かないから不思議だ。同じ仕草を材木座がしたら、向こう三年はハッシュドポテトが食えなくなるところだった。危ない。

「で、こんなところで何してんだ」一足先に食べ終えた袋を折りたたむ。「まだ三限の時間だろう」

 俺の問いに最後の欠片を口に含むと、俺と同じアイスコーヒーで流し込んでこちらを向く。「ガイダンスだけでね、四限までの時間潰しさ」さっきも言ったけど、微苦笑した。

 面倒くさくて頭を働かせていなかったが、先ほどの違和感が頭を貫いた。体育?

「もしかして四限のサッカー取ってるのか?」ストローを咥えた葉山に訊く。

「え? ああ、そうだよ。比企谷に断られたから一人でやって来るよ」そう言う姿には哀愁が滲んでいる。

 講座に車校と夏休み中に頻繁に会っていたからか、葉山の感情に少し敏感になっているのかもしれない。

「そういえば比企谷は何にしたんだ? 体育」葉山が少し身を乗り出し、「卓球か?」と言う。一色といい馬鹿にしてんのかコイツ。チョレイすっぞ。

「…サッカー」自分でも驚くほど声が出なかった。案の定、葉山は「え?」と聞き返してくる。

「サッカー」今度ははっきりと、でもぶっきらぼうに言うと、葉山の顔に陽が射した、気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 三浦との邂逅を果たす日。俺の心を映したわけではないだろうが、あいにく天気は崩れた。黒々とした雲が空を覆い、雨粒が安物のビニール傘を突き破らんとばかりに打ち付ける。お陰で気温はさほど高くないが、じめじめとした空気が身体に纏わり付いてため息が出た。

「ヒッキー?」

 以前は毎日のように耳にしていた名前を呼ばれ、ハッとして声のした方向を向く。

「おお」あの晩以来か、由比ヶ浜が立っていた。

「ごめんね、行こうと思ってたカフェがこの近くで…」由比ヶ浜が申し訳なさそうに眉を下げる。外で待たせていた為だろう。

 学校終わりの集合に、定期区間外だったお金を少しでも節約しようと歩いた俺の落ち度でもあるので「いや、気にすんな」と首を振った。

 ピンクの傘から滴り落ちた水滴を目で追うと、由比ヶ浜のペディキュアが目に入った。素足にサンダルという夏らしい出で立ちだ。視線をそのまま持ち上げると、膝が見え隠れする紺色のフレアスカートにボーダーのシャツ、その上にネイビーのMA-1を着ていた。少々暑そうな気もしたが、生地が薄いのと腕まくりをしているので汗の一つも見えない。

「どうしたの?」由比ヶ浜が首を傾げる。それに再び首を振り、由比ヶ浜の奥に見え隠れする赤色の傘を見つめる。

 それに気付いた由比ヶ浜が横にずれる。傘で顔は見えないが、お馴染みの金髪縦ロールが目に入った。どうしてこうも厄介事を持ってくる主は警告色を用いるのか。

「よ、よお」あの夜の一件を思い出すと、彼女の肌に罪悪感が湧いてくる。傘を持つ手には夏だというのに袖が掛かっていた。

 地面と垂直に持ち上がる傘は、スローモーションのように遅かったが、それは実際に躊躇していたからだろう。焦れるように持ち上がり、ついに面と向かって再会を果たした。

「ひ、ひさしぶり…じゃん、ヒキオ…」俺の傷を目視したのか、最後の言葉は横に逸れた。

 いつかの彼女とは程遠い、覇気のない雰囲気に言葉が詰まる。

「よし!」由比ヶ浜が宣言するように声を高く上げ、「いこっか」と俺と三浦を交互に見た。

 その瞳は優しく、彼女のすべてを受け入れているのだと感じた。

 そんな三浦を、羨ましく感じる自分すらいた。

 

 

―――

 

 

「でさー、結局C判定ばっかでー」運ばれてきた飲み物に口もつけず、テーブルの向かいに座る由比ヶ浜は沈黙を縫い合わせるように話していた。「優美子はどうだったんだっけ?」と隣に訊く。

「あたしは…一応フル単」三浦が呟くように答えた。

「ヒッキーは?」とこちらを向いたが、「いや、やっぱり言わなくていい!」と手を振り、「なんか悲しくなりそうだし…」と項垂れた。

「忙しない奴だな…」ため息に近いものが零れる。

 ぽつぽつと会話も生まれ始め、お目当てと思われるパフェが運ばれた時には三浦の顔には笑顔が見えた。二人から感嘆の声が上がる。

 俺も運ばれてきたケーキを頬張っていると、チラチラと視線を感じた。そちらを向くと三浦が急いで顔を逸らす。再びケーキを食べていると、やはり視線を感じる。しかしその視線は嫌悪や敵意に近いものではなく、何か腫物に触るようなものだった。

 ああ、と納得し絆創膏で守られた傷を思い出す。

 

 傷は順調に治り始め、もう瘡蓋となっていたのだが、今朝の俺の枕は血に濡れていた。唖然とする俺に小町が面倒くさそうに顔を歪め、絆創膏を貼ってくれた。そんな顔しなくても…。

 治りかけ特有の痒みに襲われてはいたが、そのような誘惑に乗るような歳でもなく完治を目指していた。しかし意識のない俺に抗う術はなく、あっけなく瘡蓋は剥がれ流血事件となった。血の塊となった傷に再び痛みがやってきたが、負った当初の様な酷いものではなく胸を撫でおろした。

 手際よく枕カバーを洗う小町になんでそんなに上手いんだと尋ねたら、視界が明滅するほどのビンタと他の女の子にそれ言ったら駄目だよ、という旨のお叱りを受けた。傷よりも叩かれた頬の方が痛い。ご褒美とか言ってるやつマジまんじ。

 

 今朝の記憶を掘り起こしている内に知らず頬をさすっていて、由比ヶ浜に怪訝な視線を向けられたが、「いや、ほっぺたが落ちるほど美味しくて」というと満開の桜のような笑顔ではしゃいだ。

 頬は千切れないが、それなりに美味しいケーキを食べ終えた俺は一回無料というコーヒーのおかわりを頼み、再び彼女らを見やった。

 二人で一つを食べていたパフェはとうに空になっていて、テーブルの淵へと追いやられていた。用のないグラスに既視感を覚えてか、心がざわつく。

「あーし…、その…」声にも少し元気が戻り、お得意の口調も再発したところで三浦がゆっくりと口を開いた。隣の由比ヶ浜の腕が三浦の太もも方向へ伸びている。テーブルで隠れているが、いつか俺も励まされた状況がありありと浮かぶ。「ごめん…なさい」

「あのね、優美子ずっと気にしてたんだよ」そこで由比ヶ浜が口を挟む。「ちゃんと謝りたいって、ずっと言ってたの」

 今の三浦の状態を見ると、誠実な謝罪には見えない。項垂れ、か細い声は、恐らく誰にも届かない。しかし、それ以上に彼女に再会してからの視線はとても痛々しく、あのグループで偶に見せる心配性な一面をこちらに披露していて、謝罪以上に胸を突いた。そしてそれ以上に、俺が気にしていないのだからどうしようもない。

「ああ、いいぞ」コーヒーを啜りながら、あっけらかんと答える。

「え…」三浦の声が裏返った。

 こちらに向けて、意味の分からないといった趣旨の視線を送る三浦の肩に、由比ヶ浜が手を置く。

「あはは、ほらね優美子」由比ヶ浜が笑う。「ヒッキーはそんなこと気にするような人じゃないって」

「いや、でも…怪我して…」尚も沈んだ声を発する彼女を見て、許さない奴がいたら俺が許さない、と口走ってしまいそうな程に、涙ぐむ瞳はか弱かった。

「いや全然いいぞ、むしろ講座でグループワークの練習したとき会話の種になってめっちゃ助かったし」と言い、「最近猫の忍者に追われている」と付け加えた。

 とんでもなく冷たい視線が飛んできたのは承知の上だったが、それが三浦からも向けられるのは想像していなかったために背筋が凍る。いつかの女王の風格が漂い始めたのかと肩をすぼめた。

 それでも、と声がした。「それでも、迷惑かけてごめんなさい」と三浦が頭を下げた。再び顔を上げると、今度は身体を由比ヶ浜に向け、「結衣も、ごめんなさい」と首を垂れた。

 最初は驚いた顔をしていた由比ヶ浜だったが相好を崩すと、「うん、いいよ」と三浦の肩を持ち上げた。

 

 

―――

 

 

 俺が葉山の名前を口のすると三浦の表情は強張ったが、由比ヶ浜から事前に話は聞いていたのだろう、拒否するようなことはなかった。

「海老名が…」三浦はどこか上の空でそう溢した。

 海老名さんが関係の修復を望んでいることは確実で、戸部の話を聞くかぎり大きな蟠りはない様に感じた。だから、この問題に関してはストレートに伝えた。あとは三浦の答えを聞くだけだ。

「優美子は、姫菜の事嫌い?」由比ヶ浜が優しく訊く。

 それに三浦はぶんぶんと首を振った。

「じゃあ、大丈夫だよ」由比ヶ浜が続けるが、三浦はなかなか首を縦に振らなかった。

「結衣は知ってるでしょ…」

 囁くように、毒づくように、三浦が言った。その声は由比ヶ浜の励ましを減退させるには十分だったようで、表情が曇る。

「姫菜も気にしないって」由比ヶ浜が苦しそうに言うが、三浦は、「そんなの分かんないじゃん」と何度も唇を噛んだ。

 水掛け論のように何度も繰り返す彼女らを見て、考える。手元にある携帯には、新規メッセージが到着していた。

 一つ息を吐き、ゆっくりと、ただしっかりと口を開く。「パニック障害」

 二人の視線が俺に向られた。そこに含まれているのは驚き、そして困惑。

「な、なんで…」三浦の口がワナワナと動いた。「なんで知ってんの」と言うと由比ヶ浜に顔を向けた。「まさか結衣…?」

 由比ヶ浜は首を振ったが、三浦がさらに詰め寄ろうとしたために言葉を続ける。「由比ヶ浜は関係ない」三浦の動きが止まる。「本当だ、由比ヶ浜は何も言ってない」

「じゃあ、どうして…」少し息が荒い。

「薬だ」三浦の眼を見て言う。

「薬…?」

「三浦の家に入ったのは知ってるよな」俺の言葉に二人が頷く。「その時、救急箱があるのが不思議だった」

「え、でも救急箱くらい普通あるんじゃ…、私の家にもあるよ?」由比ヶ浜が首を傾げる。

「それは所謂実家だからだろう、一人暮らし、ましてや大学生の部屋に救急箱なんて普通は置かない。置いたとしても、精々消毒液か絆創膏程度が相場だ」

「それだけで…」三浦が歯を食いしばった。彼女の中で病=悪という方程式ができてしまっているのが分かる。

「それだけじゃない」と言い、あらかじめ検索してあったネット記事を画面に表示させて二人に見せる。「悪い、ちょっと調べた」彼女らの視線の先には”抗不安剤”の文字があるはずだ。

 救急箱の中にあった薬の中に、不自然にゴムでまとめられた薬があった。市販の薬ならば箱ごと保存するのではと気になり偶々名称を覚えていたのだ。

「あ…」三浦が観念したかの様な声を出す。

「いや、別に病気がどうこう言いたいわけじゃない」慌てて言葉を繋いだ。事実、病気について聞きたいわけじゃなかった。

 彼女の足枷となっているものの正体を暴き、それを取り除きたかっただけなのだ。

「優美子…」由比ヶ浜が三浦の背中をさする。

 キッチンだけがやけに綺麗だったのも、精神疾患で見られることだという。どうしても汚く見えてしまう。それも判断材料ではあったが、この場でさらに追及する必要もないだろう。

「三浦が長袖を着ている理由もそれか」二人の肩がビクついた。

「ヒッキー」由比ヶ浜が責めるような声を出す。

「すまん」一言謝るが、やめるつもりはなかった。「見せてもらわなくてもいい」拳を握りこむ。「それは痕を隠すためか」

「ヒッキー!」平日の昼間、俺たちしかいない店内に由比ヶ浜の大きな声が響く。それを無視して、三浦を見つめ続けた。

「違ったら、否定してもらってかまわない」意地悪だなと、自分でも思う。

 項垂れたままの背中に、由比ヶ浜の手は添えられたままだ。三浦の腕が動き、ゆっくりと袖に近づく。思わず唾を飲み込んだ。心臓の音と共に、救急箱の下に隠された包帯の束を思い出した。

「そう」三浦が顔を上げ、それと同時に袖をまくり上げた。「これを隠すために長袖を着てる」強い口調だった。そうしなければ、立っていられないとでも思わせる口調だった。

「そうか」否定も肯定も、してはいけない。

 三浦の腕には数本の、皮膚が切れ、修復した痕が見られた。薄いものではあるが、確かに彼女の身体に刻まれている。

「もういいよ優美子」由比ヶ浜が宥めるように袖を戻す。「ヒッキー…」こちらを向くと、非難するように哀しい目を見せた。

「引いたでしょ」三浦が吐き捨てるように言う。

「いや」それを否定する。

「嘘つかないでよ」

「嘘じゃない」さらに否定し、「そして、これから彼女が言う言葉も嘘なんかじゃない」と後ろを振り返る。

 彼女たちの表情は見えないが、椅子が動く音がした。

 俺と由比ヶ浜の予定合わせがこんなに難航した理由、振り返った視線の先には、一人の女の子が立っていた。海老名姫菜だ。

「え、びな…」三浦の声が後ろからする。掠れた声に、怯えが混じる。

「姫菜…」由比ヶ浜も驚いたのだろう。これは俺の独断で行ったことなのだから。

 海老名さんは一歩ずつ近づくと、由比ヶ浜の隣に立つ。「結衣、そこ座ってもいい?」と訊ねた。

 コクコクと頷いた由比ヶ浜は俺の隣にそさくさと移動し袖を掴む。

「久しぶり、優美子」海老名さんが微笑む。

「海老名、あの…」しどろもどろになりながらも、何とか口を開こうとする。しかしそれを海老名さんが制した。

「見てもいい?」三浦の腕を取り、優しく訊く。「嫌なら見ない」

 三浦の肩は震えていたが、息を吐くと瞑目し、了承した。

 袖をゆっくりと持ち上げ、傷を見るや海老名さんは触り始める。「痛くない?」「うん」「結構古いね」「うん」「最近はしてないんだ、偉いじゃん」

 二人のやり取りはまるで、母親が子供の怪我を誉めるときのように見えた。三浦の瞳にはみるみる内に涙が溜まっていく。

 小さな声でやり取りを続ける彼女らを見てか、由比ヶ浜の眼にも涙が浮かぶ。俺の腕は潰れるくらいに握られていた。「痛いですガハマさん」

「あ、ごめん」と言い、手が袖に戻った。

 

 三浦の頬を涙が伝う頃、俺は席を後にする。後の事を由比ヶ浜に託した。

 今になって店内に流れる音楽に気付き、そんなに緊張していたのかと苦笑しそうになる。

 些細な事で発症する精神疾患。誰しもにトリガーがあり、それが彼女には人間関係だったのだろう。その根本的な原因を作ってしまった葉山に、彼女は会えない、でも会いたいと心の乖離が起こった。

 しかし、彼女の状況は良さそうに見えた。病に侵されている様子はなく、傷跡も海老名さんの言う通りに古いものばかりに思えた。

 葉山なら真摯に受け止めてくれそうな、という甘い考えかもしれないが、奴なら問題ないだろう。

 店を出ようとしたところで、遠くの席に青髪のポニーテールが見えた。近寄って声を掛ける。「寂しいか」

「別に」俺の視線から逃れるように、窓の外に目を向ける。「姫菜が楽しいのが一番だし…」

「そうか」海老名さんも怖かったのだろう。拒絶された時の恐怖を考え、川崎に付いて来てもらったのかもしれない。

 それは歪んだ関係だ。と誰かは言うかもしれないが、そんなことはないと思う。誰かの拠り所になるという事は、もっと誇っていいはずなのだ。

「京華、あんたと会いたがってるんだけど」とぶっきらぼうに言われたので、「じゃあ、今から会いに行くか」とぶっきらぼうに言うと、驚かれた。

 店を出て川崎と共に傘を差したところで、何故か”共依存”というフレーズが頭を掠めた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 今にも雨が降り出しそうな曇天の下、相も変わらずじめじめとした空気は肌を障る。

 9月最終日、木曜日の四限は前期に続いて受けることとなったサッカーが恒例となっていた。隣に座る葉山に目を向けると、前期と同じ講師の前期と同じ説明をにこやかに聞いていてイラっときた。さらにその向こうには葉山目当てと思われる女子生徒が増えていて、今度は悲しくなった。

 例年男子に人気のサッカーに女生徒が押し掛けた為、人数調整がうまくいかずに最終的に定員が空いてしまった、という噂が大学内に出回っているのはあながち嘘ではないのかもしれない。イケメン過ぎて大学に迷惑かけるとかどんだけだよコイツ。

 体育講師に視線を戻すと、色めき立つ女生徒への対応を図りかねているのか注意力は散漫な気がした。大人しく座っている男子生徒もどこか浮足立っているようで、やけに髪の毛を整えたり、わざとらしく身体を伸ばしているのが見て取れる。

 準備体操が始まる頃には暑い雲の隙間から陽が射し、未来への光明が見えた気がした。

 依頼もようやくひと段落しそうだ、と息を吐く。

 

 憂鬱な体育も終わり、あとは葉山と話をするだけだ。しかし、胸の中には何故か暗澹とした空気が立ち込める。

 着替えを先に済ました俺は、体育施設の出入り口付近に設置された石造りのベンチに腰掛けていた。扉から続々と出てくる顔には、一日の拘束から解放されたという晴れやかな表情が浮かんでいる。

 葉山と会話をする。それは俺の今日における至上命題だったにも関わらず、気分が下がる。いや、下がるというよりは、揺らぐ。訳のない不安が背中に圧し掛かっていた。

「すまん、待たせた」

 頭上から語り掛けられた言葉に顔を向ける。今日もシャワーを浴びてきたのだろう、濡れた髪が長身痩躯に映える。

「いや、そんなに待ってない」と言い、立ち上がる。「二十分ぐらいだ」嘘だ、十分も待ってない。

「あはは、授業中からカウントされたら俺も弱る」葉山が白い歯を見せた。

「とりあえず行くか」

 葉山を連れ、学部棟のある方向へと足を向ける。陽が差したと思った空には灰色の雲が再び覆っていて、雨が降る前に着きたかった。幸い葉山も天候を察していたのか、二人の歩みは揃う。

「すまない」歩き出してすぐ、葉山が口を開いた。「君の頑張りには答えられない」

 半歩後ろに鳴る足音がコンクリートを叩く。その音が俺を責めているようで、思わず唇を噛んだ。

「何のことだよ」声に苛立ちが孕んだ。

「今朝、優美子から連絡がきた」葉山は用意された台本でも読むかのように、無機質に話す。「もう一度会いたいって」

「会えばいいじゃねえか」と口を挟むが、「優美子の病気の事も聞いた」と葉山は構わず続ける。

「ならなおさら…」と言いかけたところで、葉山が低く、鋭く叫んだ。「できないんだ」コンクリートの道が砂利に変わり、歯ぎしりの様な音を立てる。「これ以上迷惑は掛けられない」

「迷惑…?」葉山が何を言っているのか分からず、繰り返す。

「だから、すまない。色々していたらしいが、俺は応えられない」

「どうしてそこまで」俺は直接訊ねることにする。こうなった以上はそれが一番近道で、最善に思えた。

「……」

 だが、それに葉山は答えなかった。代わりに意外な言葉が返ってくる。「戸部に…」後ろを振り向くと俺は目を剥いた。「戸部に伝えてくれ」葉山の顔は苦痛に歪んでいる。

「何をだ」

「俺は、別に怒ってないって」そう言い、顔を伏せた。

 立ち止まる俺を追い越し、そのまま去っていく。聞きたいことが山ほどあるのに、葉山に追いつこうと歩を進めるのに、暗闇に取り残された気がした。

 その日はそれきり別れた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ただいま…」

 深夜一時近く、両親は寝静まったのだろう、靴はあったがリビングに光はない。スイッチを押すとチカチカと音を立てて電気が付いた。

 ソファに身体を預け、ポケットから携帯を取り出す。戸部からの返信は、まだない。

 怒っていない。そう言った葉山の言葉が今日一日、頭の中を反芻していて仕事に集中できなかった。何回かポイントのサービスをつけ忘れてしまったが、怒られないだろうか。

 いくら考えても、その言葉に心当たりがなかった。風呂敷の上に広げ、あれでもないこれでもないと探し回っているうちに、ついにピースはなくなった。

 それもそのはず、あの葉山の表情を見れば、俺の推測は間違っていない、筈だった。

 

 彼らの願いは関係の再構築、それで問題はない。戸部の願い、海老名さんの依頼、三浦の涙、葉山の瞳。全てが一つの居場所を目指し、そこに戻ろうともがいている。

 海老名さんと三浦の障害はもうない。病気の告白は上手くいったようだし、なにより三浦の独断での接触は吉報以外の何物でもない。あの後すぐに由比ヶ浜に連絡を取ったが、三浦の状況は良好らしい。会えないと言われて一悶着あったそうだが、それは三浦自身が葉山の状態の不可解さに納得できなかったからだという。

 戸部に関しては最初から何も問題はなかったはずだ。謝罪したい。それだけが戸部の願いだ。確かに自動車学校の一件での戸部の行動は予定外だったが、後に緊張や不安で上手く話せなかったと言われてしまえばどうしようもない。とにかく、戻りたいという四者の意志が統一されていることに、俺の気が囚われていた。

 戻れない理由、というものの存在を考慮していなかった。

「俺は比企谷とは違う」その言葉に含まれた意味。もちろん俺と葉山は違う。「進級や進学程度では人間関係はリセットされないよ」と言ったのもあいつだ。では、何故。

 

 もう一度、携帯の画面を表示させる。相変わらず戸部からの返信はない。葉山の発言の意味を理解しなければ、戸部が何を隠しているのかすら分からない。

 机の上に携帯を置き、シャワーを浴びようと立ち上がる。

 窓の外には、未だ蝉の鳴く声は響き渡り、秋の訪れはまだまだ先に感じられた。

 廊下へと続く扉のノブに手を掛けたところで、携帯から新規メッセージの通知を告げる音が鳴った。素早く近寄り、手に取る。

 日付は回り、十月に入っていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 平塚静は表層に触れていた。

 

 店内に響く音楽は何だろうか、と耳を傾けているとセンスのいい、アンティーク調の時計が目に入った。時刻はもう一時になる。

「ねえ、聞いてるのーしずちゃーん」下の方から声がした。

 この世で唯一、私をこの呼び名で呼ぶのは彼女しかいない。

「陽乃、少し飲みすぎだ」机に突っ伏す彼女の手から、グラスを取り上げる。「マスター、水二つ」

 かしこまりました、と言い五十代半ばといった白髪の似合う男性が奥に下がる。もうあの年代でもいいかなあ…。

「比企谷君があ…すう…」小一時間ぶつぶつと一人の名前を呼び続けて疲れたのか、すうすうと寝息を立て始めた。

「こらこら陽乃、風邪ひくぞ」肩を二、三度揺らす、が深い眠りに入ってしまったようだ。「まったく…」

 お二つでよろしかったですか?とマスターが声を掛けてきた。それに、いや、と首を振り一つだけグラスを受け取る。

 完全無欠の傍若無人。そう振る舞う彼女もこうしてしまえばただのあどけない少女。精神的な面でいえば妹の方が自立していると思われる。それを言うと益々対抗心を燃やすから言わないが。

 さあ、このあどけない少女を爪牙に掛け、昔の教師に腹心を布くほど追い詰めた主に説教の一つもしなければならない。

 携帯の画面を表示させ、メール画面に切り替えようとしたところでLINEに通知が入っていた。

 期待に胸を膨らませ、画面を這うように指を動かす。もしかしたら今日の婚活で連絡先を交換した男性かもしれない。二十六歳とかいう食べごろ…ゲフン、自立したいい年齢だった筈だ。

 はあはあと息を荒げていると、マスターが奥に引っ込んでいった気がした。しかし今はそんなことどうでもいい!

 勢いよく画面をタップする。

『今日はありがとうございました。

 これからもお互い頑張りましょうね!』

「チィッ…!!」思わず舌打ちが出た。渾身のシュートがゴールポストに弾かれた気分だ。

 実際は掠りもしていないのではないかという自問を無視して、赤いマークのついた友達追加画面を開く。もしかしたら今日いた人が表示されるかもしれない。

 一番上の欄が少し色が違う為、これが新規の友達候補だろう。名前を目で追う。ひ、き、が…。

「ふっ…」君は変わらないな。

 画面の表層に軽く触れ、友達追加のボタンを押した。

 プロフィール画像はいつか聞いたカマクラという猫だったが、名前をタップして開くホーム画面は、夕日の眩しい、懐かしい景色だった。

 奉仕部の窓から何度も見ていた、彼の思い出だった。

 

 

 




読んでくださってありがとうございます。
次回は10月に入ります。

申し訳ないのですが、更新が遅くなると思います。ひと月に一話は完成させたいとは考えているので、もしよろしければ待っていていただきたいです。

意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。
では、また。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10月①

こんにちは、逃げてきました。
10月に入りました。残暑が厳しいそうです。

いつも通り拙いものにはなりますが、この文章を読んで少しでも楽しい、癒される等、なにか感情がプラスになる方が一人でもいたら嬉しいです。

沢山の感想ありがとうございます。すごく励みになります。

感想、意見、アドバイスなどお待ちしております。
誤字報告も助かりました!
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 戸部翔は後悔していた。

 

 高校三年、夏の大会。総武高校サッカー部創部以来最高の県大会ベスト16という成績を残し、学校から多くの祝福を受けると共に願ってもない推薦の話を貰った。サッカーの名門校という訳でもないのに学業を疎かにしていた俺にとっては正に寝耳に水、晴天の…っべー、まあいいか。大学、それも中々偏差値の高い大学らしく学校側も無理をしたとは顧問から聞いた。ギリギリだから少しのトラブルも勿論、テストの点も下げるなと喝を入れられたのをよく覚えている。

 

「はい、じゃあ問三を…戸部君お願いしていい?」英語教師が叫び、現実へと引き戻された。

「あ、え、おおっ!」急な声掛けにクルクルと回していたペンを落としてしまう。コロコロと隣の席に転がるのを目で追うと、白い手がそれを包んだ。「はい」黒髪をシュシュで一つに束ねた女子が振り返る。「戸部君話聞いてなかったでしょ。答えは二番だよ」拾ったそれを渡しながら、囁いてきた。

「…っべーマジ助かるわー」そう言うと、名前も知らない女子はニコッと笑い元の位置に戻る。

 立ち上がり、教えてもらった答えを言うと教師が驚く。教室からはお~という感嘆の声が上がった。「ちょっとちょっとー、どういう反応それー」頭を抱えると、さらに教室は笑いに包まれた。

 春学期と秋学期で英語の講義は変更することができ、何となく別の講義を取った。だからかは知らないがヒキタニ君の姿は見えない。もう一度隣を見ると、名前も知らない女子が小さくグーサインをしていて、同じポーズを返す。

 未だ残暑が続く十月、半袖シャツから伸びる腕には寒くもないのに鳥肌が立っていた。

 

 教師に呼び出されたのは他でもない、痴話喧嘩の件だった。もう恋人同士じゃない二人にはこの表現も通じないか。大岡が大きな声を上げていた為だろう、部活で後輩の指導を終え、仲裁に入った俺と隼人君、そして元凶の女は早々に解放され、職員室から出た。

 一連の恋愛旋風は過ぎ、隼人君ともギクシャクした関係になり果てていた俺は素早く退散しようとしたが、女が飄々と放った一言で身体が動いていた。

 白いシャツとブレザーを一緒に握りこみ、持ち上げるように掴んだ腕は部活終わりの半袖だった。

 

「戸部君?おーい」顔の前で手をひらひらとさせ、覗いてくる。思わずシュシュを目で追ってしまう。「もう終わったよー」

「あははは、戸部君授業ずっと聞いてないじゃーん」

「戸部ー、カラオケ行くんだけど一緒にいかねー!」

 気付けば数人に囲まれ話しかけられていた。大学が人が多く、経済学部だけでも三百人を優に超える。その中でも悪目立ちをしている俺は知り合い以上友達未満といった関係の学生が殆どだった。今俺を囲む六人ほどのグループも少し遊んだだけで、深く関わった覚えはない。「っべー、授業終わってんの気付かなかったー!」

「あはは、今度ノート見せてあげるよ」シュシュの女が机に手をついて言う。

「うわー、マジ助かるわー」女を拝むように手を合わせる。「授業中もあんがとねー」ぺこぺこと頭を下げた。感謝からではない、視線を追いたくなかった。

「ううん、いいよいいよ」シュシュが揺れる。「それより戸部君もカラオケ行くでしょ」

 女が言葉を続ける前に、鞄に手を伸ばしていた。「いや、今日バイト入ってて」素早く教材と筆箱をしまうと肩に掛ける。「ごめんみんな! また誘ってよ! 約束ね!」

 ぽかんとする集団を背に、扉を押し開け外に出る。そのまま足を止めず階段を降り始める。

 似ているというだけで苛ついてしまう自分に腹が立つ。ただ、それ以上に身体を占める後悔は日に日に増すばかりだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 例えば、一面の銀世界に黒い墨でも落とそうものなら、俺はそれを阻止するのだろう。潔癖と倦厭されようとも今まで通り、いつも通り、仮初の布でも当てて取り繕うのだろう。

 そんなことを考えている今も、白い世界には邪悪な異物が紛れ込もうとしている。

「この感じにも慣れてきたね」隣から声を掛けられた。

「あ?」半分意識がトリップしていた為、ぶっきらぼうに聞き返す。

 頬杖をついていた右手とは反対方向、左の席に腰掛ける海浜総合高校元生徒会長の玉縄が少し身を引きながら言葉を発する。

「あ、いや、高校は黒板にチョークだったじゃないか」玉縄の頬は少し引き攣っていた。「大学に来てホワイトボードをよく見るようになったからね。チョークの音が久しくて」と言い、前方で教師がペンを滑らせる様子を視線で示してくる。

 だから気にしないでいいよ、となぜか頭を振った。

 今朝、家を出る前に小町に言われたことを思い出す。――うわ、お兄ちゃん目がゴミ捨て場みたいだよ。

 どゆこと?ごみ捨て場ってどゆこと?いや確かに週末寝付けなかったけれども。

「ああ、まあそうだな」適当に相槌を打ってから考える。大学の講義は主にプロジェクターを用いて行われていた。毎回の講義にプリントを各自印刷してきてそれを元に授業を進める事が多く、教授もパソコンから直接操作して書き込みを行う場合もあった。書き込みすら行わず、マイクで九十分間喋り続ける講義もあったのを思い出す。それでも黒板とチョークが奏でる軽快な音は少ない講義でも印象に残り、久しいとは思わなかった。「確かに、あんまり聞かないな」

 考えたうえで流した俺のセリフにも多少意味はあったのか、玉縄が目を輝かせる。「うんうん、でもどんどん変わっていくんだろうね。i-Padを導入している学校とかもあるみたいだし」お得意の手をクルクルする仕草が発動するのと同時に、口も流暢になる。

 それに相槌を打つ簡単なお仕事をこなしながら、この週末の睡眠不足の原因を遡る。

 

 葉山が発したキーワード。「迷惑は掛けられない」「怒ってない」これが示す先はなんだ。

 迷惑、これは戸部にだけではない筈だ。でなければ三浦や海老名さん、その他と距離を取る必要もなくなる。そして現在、大学で葉山の周りを囲む人はいない。導き出される答えは、葉山に近しい人間に迷惑がかかる可能性がある。というところだろう。

 では、怒っていない、とは。これも迷惑と一緒くたに考えていいだろう。短い学生時代にそう何度も迷惑を掛けるといった事態が起こるとも考え難い。戸部が葉山を怒らせることをした、という考えに至るのが必然だろう。しかし……。

 

「――そういえば、君はこの講義、前期も取っていたんだよね?」

「ああ、ああ?」玉縄の急な変化球を思わず後逸するところだった。おいおいなんの為のサインだよ。お前との間に十八メートルの絆は無いぜ?

「あれ、違ったかい?」玉縄が首を傾げる。「教科書に書き込みが見えたからてっきりそうかと…」

 玉縄の言葉にテキストのページを前へと戻す。そこには前期の戦果が乱雑に残っていた。

「いや、取ってたぞ」ページを今へと戻す。そういえば戸部はどうしたのだろうか。

「そうかい、どんな授業だったか教えてくれると助かるんだけど」玉縄は窺うような視線を向けて来る。「どうかな?」

 その視線を受け流しす。「別にいいぞ」と答え、授業の流れから小テストの頻度。ついでに試験の中身も手短に伝えた。「まあ、前期と後期で内容変わるかもしれんから、鵜呑みにすんなよ」と付け加えた。

 うんうんと頷きながらメモを取っていた玉縄だったが、俺が話し終えると顔を上げた。「ありがとう」白い歯が見えた。

 人に素直に感謝されることもあまりない為、身体をもぞもぞと何かが這いまわった気がした。

「気にすんな」顔を背けると教室内が目に入る。半年、正確には四月から七月の四か月だが、慣れ親しんだ講義と講師だからか見知った生徒がちらほらといた。小さな講義室であるために顔くらいは覚えている。「なあ玉縄、聞いていいか」丁度いいと思い訊ねる。

「なんだい?」教科書に目を落としていた玉縄がこちらを向く。

「どうして講義変えたんだ?」言ってから単位を落とした可能性に気付き、肩を竦める。「いや、意味とかなかったらいいんだが」

 玉縄は一瞬意外そうな顔をしたが、俺の意志を汲み取ったのかすぐに顔を綻ばせる。ちょっと気持ち悪いです玉縄さん…。

「ただ単に受けてみたかったからだよ。せっかく大学に来たんだし、色々な講義を受けたくてね」玉縄の視線は俺を見ているようで、その先を見据えている気配もあった。

「そうか」戸部にそんな思惑があるとも思えず、参考にはならないなと目を伏せた。「サンキュ」

 玉縄は再び教科書に向かう、が訊きたいことがもう一つあったと思い出し再び口を開きかけた、が、突然脳天に衝撃が走る。

「いっ!」舌を噛んだ。

 じんわりと血の味を口で転がしながら後ろを振り返ると、鬼瓦を思わせる形相で年配教師が立っていた。手には丸まった教科書。

「うるさい」女性に似合わない低い声が、棘をもって鼓膜に刺さる。

「す、すみません…」頭を擦りながら答えるのが精いっぱいだった。

「まったく、戸部君がいなくなって静かになったと思ったのに…」

 英語教師はぶつくさと小言を吐きながら教卓に戻っていく。

 クスクスと教室内に小さな笑い声が響く。首を縮こまらせて逃れようとしたが、どこからか視線を感じる。チラと覗くと、どこかで見たことのある黒髪ボブの女生徒がいた。

 前期で見たことのなかった顔だ。どこで見たんだか…。

 教師の終了を告げる声に、思考は消え去った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「なあ小町、受験期に電話かかってきたらどう思う?」底の深いフライパンを振りながら隣の小町に訊ねる。

「自分がどう思うか考えればいいじゃん」小町はほとほと呆れた声を出す。ノースリーブにエプロンをしていて、裸エプロンに見えなくもない。微塵も興奮しないのはDNAの所為か。

 手元の野菜と肉を溢さないように気を付けながらヘラを扱う。「そうだな、やめよう」

「はあああ」盛大なため息に手が滑り、キャベツが飛んでいった。「これだからゴミいちゃんは…」

「え、なに。今朝から口悪いわよ? 小町ちゃん?」

「お兄ちゃんは口調が気持ち悪いよ」

「う…」返す言葉もなく、無心でヘラを動かす。まあ、と声がした。「まあ、一色さんならいいと思うよ」カシャカシャと味噌を溶かす小町の声色は、少し優しくなっていた。

「え、なんで分かんの」

「小町にはお兄ちゃんの感性が分からないよ…」と思ったら再び呆れが混じる。「ほら」と言い俺の手からフライパンを奪い取った。「電話しといで」

 飯を食ったらすぐにバイトに向かうからだろう、小町が強制力をもった声で言う。

「お、おお、さんきゅ」水道でさっと手を洗い、リビングを出た。

 

 数回のコール音、では出ない。プルルルルと無機質な音は廊下に響く。諦めてかけ直そうかというところで、ぶつっと線が切れるような音を立てて繋がった。『は、はい』

「一色、今いいか」玄関の時計を確認しながら言う。

『だ、大丈夫です』一色の声が微かに震えているのは、スピーカー越しでも分かった。『ど、どうしたんですか?』

「お前が大丈夫か、どうした」

『え、いやいやなんでもないですよ!』図星を突かれたからか一色は一際大きな声を上げる。人は本当の事を言われると怒る。『せんぱいが掛けてきたんじゃないですか!』

「まあ、そうだな、すまん。で、本題なんだが」一色が唾を飲み込む音が聞こえた気がした。「去年の夏から秋にかけて、総武高校で何か事件がなかったか調べてほしい」『は?』

 はやい、はっやいよいろはす。怖い。いや、確かに急な内容だよ、突然なんだよって感じは分かる。でも怖い。

「いや、すまん、突然で戸惑うのは分かる」見えてもいないのに、言い訳がましく手を振る。「ただ必要で…」

『は?』怖い。

 怖いよこの子。今のところ、は? しか言ってないよこの子。

「だから、事件とか…」『それはもういいです』「はいすみません」

 

 授業終わりに玉縄にアンケートを取った。周りに迷惑をかけるかもしれないから距離を取る理由とは。勉強の邪魔をしない。集中を乱したくない。といった事も上げられたが、これはどちらかと言うと距離を取る側の理由になる。俺が玉縄に聞いて導き出した解答、それは自分自身が"害"になる場合、だった。

 近寄ること、関係を持つことで、周りに何らかの害を与えてしまう可能性。これが俺の答えだ。そして葉山が害になる原因、またはそれに起因することとなった戸部に、葉山は"怒っていない"ということだろう。

 その調査を一色にお願いしようとしたところで……。

 

『せんぱい、受験を控えた女の子に電話がかかってきて、それが先輩だったとして、女の子は何を求めてると思います?』一色の声は打って変わって、芯の通ったものに変化している。しかもそれは怒りに近い芯となって。『励ましとか、もしかしたら気分転換のお誘いとか、分かります? せんぱい』怖い、最後の「先輩」が特に。

「いや、はいすみません」土下座をする気分で謝る。現実に膝は着いていた。

『すみませんじゃないですよ。電話がかかってきたらせんぱいで、二度見どころか三度見して、短い時間で水飲んで声作ってしてた私が馬鹿みたいじゃないですか』ねえ先輩、と続ける声が怖い。

「すみませんでした」気付けば額が部屋の床についていた。はっ! 考えるより先に身体が土下座する。社畜もびっくりのスキルを身に付けてしまった!

『デート』

「はい」

『日曜日』

「はい」

『千葉』

「はい、え?」

『は?』

「すみません」

『調査結果もそこで言います』

「あ、さんきゅ」

『あ?』

「すみませんありがとうございます…」

『じゃあ、バイト頑張ってくださいね♡』

 ぶつ、と今度は正真正銘切れた。

「はあ」後輩に調査を依頼したら何故かデートすることになった件。聞きたい人、いる?

 携帯をポケットに突っ込み、リビングに足を向けるとドアの隙間からアホ毛が見えた。「何やってんだお前」

 ぴょこんとアホ毛が動き、続いて四つん這いで小町が出てきた。

「はあ、お兄ちゃんに期待した小町が馬鹿だったよ…」ため息をつき、がっくりと頭を下げる。「最初は『勉強お疲れ様、無理してない?』 でしょ」

「なんだその気持ち悪いセリフは」動線を塞ぐ小町の剥き出しの脇に手を入れ、持ち上げた。「膝悪くするぞ」

「ちょ、やめ…!」すると小町が暴れ、俺の手から逃れる。フシューと気を吐く。「お兄ちゃんのばか! 変態!」ガルルと臨戦態勢に入った。

「なんでそうなる」そんな小町を無視し、完成間近だった夕食を取ろうと食卓を見るが食器ひとつなかった。「おい、まさか最初から聞いてたのか」

「お兄ちゃんが廊下で土下座してるところなんて見てないよ」小町がわざとらしく口笛を吹く。

「ちょっとこっち来い」手を伸ばすが小町は避け、笑いながらキッチンへと走る。

 あはははと声を上げる小町を見て、バイト選びも間違ってなかったかなと思いを馳せる。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 残暑が残る十月上旬だったが、生憎の天気で俺の脚の間にはビニール傘が挟まれていた。大きな車窓に目を向けると、垂れた雨粒が風で流され模様を作っている。見慣れない土地の景色は、灰色の思い出になりそうだ。

『間もなく、千葉運転免許センター。千葉運転免許センター』

 バスの車内に軽やかなアナウンスが流れる。女性が吹き込んでいるのか、合成の音声なのかは分からない。

 降りる駅の為窓枠に付けられたボタンを押そうとするが、手を伸ばすよりも早くランプがついた。バスの車内を見渡すと、席が埋まるほどの混雑にもかかわらずほぼすべての乗客がもぞもぞと動き始めている。

 まあ、このバスに乗る人9割の目的地は一緒だよな。

 前方にひときわ大きな建物が見えた。

 

「はい、ではあちら、四番の視力検査へお願いしますねー」必要事項を記入した用紙を渡し、受講手続き料を納めると背後を手で示された。「あ、はい」手際の良さにビビりながらお釣りをしまう。

 わざわざ全休の平日に来たというのに、免許センターはそれなりの混雑を見せていてげんなりする。前を見ても後ろを見ても人がいて早起きした意味を感じられなかった。それでも空間の隙を見る限り休日の混雑具合は予想でき、なんとか許せた。

 視力検査の列に並ぶ。大きな機械の横に検査官が座っていて、検査を受ける人が座るたびに機械が上下をするのが見えた。それを抱き抱えるように座る様子は少し滑稽だったが、自分もやる未来は分かっている為に笑えない。女性は大変だなと思っていると、両足を揃えて半身で検査を受ける人がいた。

 ちらと辺りを見渡すが葉山はいない。これは別に期待したわけではなく、自動車学校によって免許を取れる曜日が決まっているのだ。俺が通っていた自動車学校の場合は火曜水曜、金曜だった。同じ日に卒業検定を受けた俺と葉山だったが、免許取得日までは一緒じゃなくていいらしい。

 というかその旨のラインが葉山から届いた。

「次の方どうぞー」年配だが、どこか貫禄を感じさせる雰囲気のある男性が呼びかける。いつの間にか先頭に立っていたおれはペコリと頭を下げ、紙を渡す。「はい、えー、コンタクトではないね?」

 丸型の椅子に腰かけながら答える。「あ、はい。裸眼です」股を開く。

「はいじゃあ覗いてもらって、大きな声で穴の開いてる方向を言ってくださいねー」機械が静かに上昇し、俺の視線に合う。

 一応国家資格である為どんな検査が待っているかと身構えたが、簡単な二、三回の問答で検査は済んだ。「はいおっけー、両目0.7以上だね」

 じゃあ次は七番の受付へどうぞ、と言いながら紙を渡され、再び手際の良さにアタフタしながら離れる。

 それでいいのか国家資格。

 

 少し開けた場所、前方には大きな電光掲示板があった。合格していればそこに自分の番号が表示されるそうだ。ベンチに座って待つ人もいれば、柱に寄りかかってソワソワと携帯を触る人もいる。俺はと言うと階段の手すりにもたれていた。掲示板がギリギリ見える位置だ。

 Q.なぜこんな辺鄙なところに立っているのか。A.親父が言ったから。

 なんでかは分からないが親父に免許取ってくると言うと、「番号が電光掲示板に出るから階段近くにいろ」と言われた。

 確か百点満点中九十点以上で合格だったかなと考えていると、ビーーという音と共に掲示板が光った。自分の番号は覚えている為素早く目を走らせる。あった。ああよかった。で、次はどうするんだっけ…。

 手順を確認しようとすると、掲示板を見ていた人が一斉にこちらに向かって歩いてくる。中には走って来る人もいた。え、なに怖い。

 階段の上を見ると、合格者という文字と矢印が二階に伸びていた。そういう事か…。

 背後から迫るゾンビから逃走するように足を回し、階段を昇る。先頭を歩いていると何となくマラソン大会の葉山を思い出した。そういえば三連覇して殿堂入りしてたっけ。

 ベンチの沢山置かれた部屋に通され、先頭に座ると俺の番号を聞いた職員の人が紙を差し出してきた。それを見ると九十八点という数字が見えた。どうやら成績らしい。

 そこからすぐに終わると思っていた免許取得は、写真撮影と取得者対象の説明で二時間以上拘束される結果となった。

 

 疲弊しきった帰り際、免許が出来上がった順に名前を呼ばれるシステムらしく、俺が最初に呼ばれた。さっさと帰ろうとバスに乗り込み、後ろを振り返ったところで親父の言っていたことに納得する。

 雨のバス停にはその日初回の免許取得を終えた人が列を成し、人の渋滞を引き起こしているのが見えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 やってきました幕張新都心。ってまたここかよ。

「せんぱい、またここかよって顔してますね」隣を歩く一色がジトっとした目つきで言う。

「おおお思ってねえし」図星を突かれて慌てる。人は本当の(以下略)。「人の多さにちょっとやられただけだよ」

「これくらいで多いって」一色がため息をつく。「デスティニーランドも行けないじゃないですか」

 駅から続く歩道には人がごった返していて、前後左右囲まれていた。そこを歩く全ての足は一つの目的地へと向いている。

 揺れる髪の毛とそれを束ねる髪飾りに少々目を奪われていた。「ゲフン、いいんだよ行かねえし」咳払いで誤魔化す。

「似合ってます?」目敏く一色が俺に訊ねる。誤魔化せてなかった。

「前も言っただろ」半ば面倒くさそうに言うと、「ほんと、せんぱいってダメですよね」と頬を膨らます。そのまま置いていこうというのか足を速め俺の前に躍り出た。

 ゴールの商業施設はもう目の前で、これが賞金の懸かったレースであるなら大外からまくっていくところだが、何も出ないなら仕方ない。

「…よく似合ってる」蚊の鳴くような声を発するが、一色の耳は高性能らしい。ピクピクと動いた気がした。「え?」わざとらしく振り返る。

「せんぱい、今なんて言いました?」跳ねるように笑い、身を乗り出してきた。

 それを無視して追い抜く。「何も言ってねえよ」

 背後からブーイングが聞こえたが足は止めない。自動ドアをくぐったのは結局俺が先だった。

 

 一色に続き、二階から三階へと続くエスカレーターに乗る。ブティックを数店覗き、今度は一つ上の階らしい。

「せんぱいってストレス感じるんですか?」乗った時から後ろを向いていた一色が言う。

 一色の格好は珍しくパンツスタイルだが、ツナギのようにサスペンダーの付いたデニムだった。細かい花柄のシャツを合わせていて、ボーイッシュと言うか少年っぽいというか、可愛らしさと活発さが共存しているように見て取れた。足元はスニーカーで、今日は歩くぞという気概を感じる。

「感じるに決まってんだろ」ここは強気に心外だと声を出す。「ストレスに弱いから家にいると言っても過言ではない」胸を張る。

「そんな自信もって言う事じゃ…」一色の呆れ口調にはもう慣れた。「じゃあストレス発散の方法とかなさそうですね」

「まあ、ないな」

 自分の過去を掘り起こすが、ストレスから逃亡し続けてきたために記憶に残るような出来事はなかった。今までの行動も、自分の欲求に従ったものが大半でストレスを感じる方が少ない。

 スニーカーだった為、俺も油断していた。

「じゃあ、あっと…」一色が段差に躓きよろめく。「きゃっ」咄嗟に腕を伸ばしていた。

 社交ダンスを踊るように、とはいっても傍から見れば滑稽な映像だろうが、一色の身体を支えなんとかステップを踏み体勢を整えた。「なにやってんだ…」

「す、すみませ」息を吐いた一色の顔が強張る。「せ、せんぱ…」

「あ?」

「て、手が…」顔が紅潮していく。

「手がどう…」一色を支えることと、後ろから来る人の波に気を取られて気付かなかった。

 脇に差し入れて支えた指先が一色のそれなりに発達した胸に入り込んでいた。指の甲には固いものが当たっていて、何だっけこれはと思い出す。なんだっけ…。

 頬に衝撃が走る。「いっ!」パチンッと音が遅れて聞こえてきた。

「いつまで触ってるんですか!?」一色が胸元を腕で隠しながら距離を取る。

「す、すまん…」パチパチと視界が明滅しながらも何とか謝罪した。「いやまじですまん…」あ、下着の硬さか。

「ありえないですよ!? なにを堪能してるんです…か…」

 一色が状況を察し始めたのか、声が尻すぼみに小さくなる。周りには恐らく痴話喧嘩を見物しようとするギャラリーが数人足を止めていた。遠くで子供がこちらを指差している。

 その内の一人だった男性が一歩踏み出した。「君、大丈夫?」数人のグループの内の一人だった。一色に話しかけている。頬を擦りながらそれを見る。

「あ、だ、大丈夫です…」一色が肩を竦める。「騒いですみません」周りに謝罪するようにか、少し声を張った。

 こちらに歩いてこようとする一色の腕を、勇敢な男が掴む。「ちょ、ちょっと、危ないよ」俺を見て、視線が鋭くなった。「警備の人呼ぼうか?」

「は?」一色の声は素が出ている。

「いや、その男に何かされる前に」男は俺と一色交互に視線を彷徨わせる。

 葉山だったら、こんな事態になってないんだろうなあと考えていたが、一色の腕をつかむ男の腕に、胸の奥から何かが湧き出てくるのが分かった。男の背後に陣取り、矮小な笑みを立てる集団を睨みつける。大学生か。

「ヒューカッコイイー」「ヒーローじゃん」と仲間内で視線を交わし、笑いあっていた。

「やめろって、そういうんじゃないって」と男が照れ臭そうに言い返し、再び一色に目を向ける。「とりあえず離れよう」腕を引っ張った。

 おい、と口を出す前に一色が腕を振り払う。「やめてください!」甲高くよく響いた。「勘違いしてるようですけど、せんぱいは知り合いです!」

 俺に背中を見せている為に表情は分からなかったが、一色の耳は赤くなっていた。勢いよく身体を反転させるとこちらに向かって足を踏み出す。顔も赤かった。

「す、すまん、大丈…」一色に迎え入れる言葉を探しながら発したのに隠れ、聞こえてきた。「プレイ?」

 一色の歩みが止まる。

「あー、店か」「どおりで」「あれじゃね、今流行りのレンタルなんちゃらみたいな」「あー」「なんだよ水商売かよ」

 再び振り返ろうとする一色の肩を掴み、制止させる。

「ちぇ、助けようとして損した」一色の腕を掴んだ男が舌打ち交じりに言った。

 一色の顔が歪む。怒りはあるが、それ以上に悲しみが満ちていた。俺の中にあった火山から、溢れるように、零れるように、煮えたぎる何かがどろりと垂れた。「ふざけんなよ」

「あ?」グループの一番奥、顔も見えない男が声を発す。

「男がだらだら寄り添って、女子を助けた気分になってはしゃいでんじゃねえよ」一色が胸に顔をうずめる。「自分の非を認めたくないから皆でくっついて相手を辱めるとかどんだけ小さいんだよ」

「おい、何言ってんだ」勇敢な男がまた一歩踏み出した。「お前だよ」と叫び、足を止めさせる。

「お前が原因だろ」気分が悪く、吐きそうになるのを堪える。

「は? 俺たちは彼女を助けようと…」

「助ける!」俺は吐き捨てるように言う。「はっ、こいつの顔見てから助けようとする奴がよく言うわ」

 これ以上集団の顔も見たくない為一色の背中を手で押し離れる。後ろから何か言ってきたが、追いかけて来る様子は微塵もなかった。

 

 

―――

 

 

 モールの端、奥まったところのベンチに腰掛けさせると、一色は取り出したハンカチで俺の服を拭き始めた。

「いや、いいから、顔拭けって」制止させるが手を止める気配はなく、諦めて身を委ねる。

 金券ショップと旅行会社のエリアだからか、他に人はおらずもう一つのベンチも空いていた。拭き終わった一色がまたしゃくりを上げ始めた。

「お、おい大丈夫か?」顔を覗き込もうにも、ハンカチで押さえてしまって窺い知れない。ごめんなさい、とくぐもって聞こえてきた。

「ご、ごめん、なさい」嗚咽交じりに一色の声が揺れる。何度も何度も謝るその顔を無理やり起こした。「どうした」

 目元が赤い一色は見られたくないのか、俺の胸元に再び顔をうずめる。

 さっき拭いたばっかだけどいいのか、と思ったが口には出さない。

「せんぱい、のこと悪く…言われ、たのに」ぐずぐずと鼻水を啜る音が肋骨に響く。「怒れ、ませんでした…」

 そこで合点が言った。怖かったのだと勘違いをしていた彼女が涙を見せた理由。

 俺の事を守ろうとしてくれたのだ。

 一色の頭に手を置く。髪の毛に逆らわないように上から下へと撫でる。「ありがとな」と言うが、一色はフルフルと頭を振るだけだった。

 何度も何度も、柔らかい髪を撫でた。

 

「はあ…」起き上がった一色が感嘆に近いため息をつく。

 それに少し驚き、思わず目を向けた。目元の赤みが少し色気を纏い、心臓が跳ねる。

「せんぱい、ありがとうございます」目尻に小さな皺を掘り、笑いかけて来る。無理して笑っていないのは俺でも分かった。

「大丈夫なのか?」と訊くと、「はい、大丈夫ですよ」と言い俺の手を握ってきた。「せんぱい、手汗凄いですね」一色が苦笑する。

「悪かったな…」気恥ずかしいが、握りこまれて逃げられない。「というか、すまん」

 俺の謝罪に、一色の握力が強くなる。

「なにがですか?」

「せっかく息抜きに来たのに、嫌な思いさせて」本心だった。少しでも勉強の息抜きになればいいなという思いは、会った時からずっと胸の中にしまっておいた。「だから、すまん」頭を下げる。

「ちょ、せんぱい顔上げてください」一色が慌てて言い、俺の肩を持ち上げる。「せんぱいは悪くないです、悪いのは全部あいつらです!」励まそうとしているのか、そのまま肩を揺すってくる。

「まあ、それはそうだな」揺れる脳みそを働かせて言葉を紡いだ。

 それに、と一色が呟いた。「それに、せんぱいのカッコいいところも見れましたし」いたずらっ子のように笑う。

 怒りの沸点とよく言うが、沸点で物事は表せないと思う。人によっては些細なことが鉄を溶かす程の温度になることもある。全ては受け取り手の問題だ。

 これ以上この話題を引きずる必要も感じず、勢いよく立ち上がる。「で、次はどこ行くんだ」

「え」一色は口を半開きにして固まる。

「せっかくの休日だ。後味悪く終わる必要もないだろ」一色を持ち上げるつもりで手を差し伸べる。

 ぱあっと季節外れの向日葵を思い出させる笑顔を見せ、彼女は俺の手を取った。

「そういえば私パンケーキ食べたいんでした! パンケーキ!」

「ああそう、でそれはどこにあるんだ」

 モールを出るまで、その手は離れなかった。

 

 

―――

 

 

「はい、チーズ」男の店員が可愛らしい声で言う。

 ぎこちないピースと、ばっちり決まった決め顔が対照的な写真が一色の携帯に保存された。

「せんぱいにも送っておきますねー」一色はそう言い、携帯を操作し始める。「そういえばいつの間にLINE始めたんですか?」

 俺は既に切ったパンケーキを口に運んでいたところで手を止める。「最近だぞ」言ってから口に放り込んだ。

「誰かにやってもらったんですか?」一色は俺の顔色でも窺うかのように聞いてきた。

「ああ、小町にやってもらった」チョコが付いた口を拭く。「便利らしいからな」

「そうですか…」何故か安心したような声を出す。散々写真を撮っていた一色が携帯を置くと、俺の携帯が鳴った。写真が送られてきたのだろう。「あれ、見ないんですか?」気にせず次のケーキを食べようとした俺に一色が言ってきたので、頷く。「ああ、自分の顔なんか見たくねえよ」

「私の顔は見たいんですね」一色が身を引く。

「どうしてそうなった」

 俺の嘆きもそこそこに、一色がフォークを動かし始める。一切れ喰うたびに悶える彼女を見て、あざといなと感じました(小並感)。

 

 食べ終えた一色が口元を拭きながら言う。「調査結果ですけど」俺はそれに身構える。「あんまりいい情報は得られませんでした」

「そうか…」肩の力が抜けたが、一色の追加情報に身体が跳ねる。

「でも、一応事件はあったみたいです」

「まじ?」

「はい」一色がストローを咥え、喉を潤す。記者会見を開く芸能人の様で、こちらも息をのんだ。「十一月頃ですかね、男子生徒が女子生徒に手を上げたっていう事件が」

 一色の言葉に、言葉が詰まる。

「ですよね、私も聞いた時そんな顔しましたもん」あ、せんぱい程腐ってませんよ。と付け加えたので、うっせと返した。「暴力沙汰なんてあったら学校中に広まりますし」

「ああ」腕を組んで考える。「それが葉山…?」

「やっぱり葉山先輩が関係してるんですね」一色が興味なさそうに言うが、「あ、葉山先輩の事は別にどうとも思ってないので安心してくださいね」とあざとい笑顔を見せた。

「何を安心するのか知らんが」俺が言うと一色の顔が怖くなる。「他には?」

「それだけですね、私も結構甘えたんですけど」一色は項垂れる。「それ以上は話してくれませんでした」

 一色が甘えても口を割らないとか人間かよ。俺だったら三秒で口開くぞ。わあ八幡君口軽ーい。

「そうか、さんきゅな。助かった」軽く頭を下げる。

「いやいや全然、これくらいならいくらでも聞いてください。私、元生徒会長ですし」一色が胸を張る。「ですし」二回言った。

「そうだな、お前の猫かぶりなら余裕だよな」

「そういうこと言うともう調べませんよ」

「すみません…」

「分かればいいんです、分かれば」

 引き続き調査は続けますね、と言ってくれたのでお代は持とうと注文票を手に取る。「たっか!」

 思わず叫んだ。

 

 

―――

 

 

 海風が吹き付ける駅のホームで電光掲示板を見上げる。

「私の方が早く来ますね」一色の声は寂し気に風に乗る。

「そうだな」

 家に帰ったら勉強するのだろうか、彼女の休日は有意義だっただろうか。そんなことばかりが頭をよぎり、彼女の横顔をまじまじと見てしまう。

 俺の視線に気づいた一色の肩がビクつく。「な、なんですか」

「あ、いや、すまん」小さく謝り視線を逸らすと、「いや、別にいいんですけど」と小さく呟くのが聞こえた。

 それきり沈黙が流れ、遠くでさざ波の音が聞こえる気がした。それを破ったのはアナウンスだった。

『間もなく電車が参ります。黄色い線まで下がってお待ちください』

 そのアナウンスをキッカケに一色の方を向くと、同じ行動をした彼女がいた。

 脳裏に焼き付いた一色の涙が、零れた。 

「また、どっかいくか」一色の目が見開かれる。「息抜きでも、なんでも」

 けたたましい音を立てて電車がホームに滑り込む。

 届くように、響くように、叫んだ。

 

 手を振る一色の顔は晴れていて、良かったと思う。がんばれよ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは叫べない。

 

 先輩の姿が見えなくなるまで手を振った。周りの視線が気になったが、それでも振り続けた。

 こんなに健気に振る舞っていても彼氏じゃないんです。車内の人に愚痴るように、唇を動かす。

 今日を思い出すと、自分が嫌になる。また泣いてしまった。また先輩に面倒くさい女だと思われてしまった。

 というのに、だというのに、頬は緩む。

「今度は泣かせない」

 ちゃんと聞こえるように、ちゃんと届くように叫んでくれた。

 先輩の声、ちゃんと響いてますよ。今も、ずっと。

 

 イヤホンを鞄から取り出し、ほどくと携帯に挿す。慣れた操作でアプリを立ち上げると音楽が流れ始めた。先輩が好きだというアーティスト。不純な動機で聞き始めたが、今は胸を張って好きと言える。

 窓の外に目を向けると、薄暮の水平線が見えた。

 もっと強くならなきゃな、今日の騒動で強くそう思った。先輩が悪く言われたのに何も言えなかった。

 そんなこと考えんでいい、とか言うんだろうな。そのくせ自分は怒って、ほんと意味わかんない。凄くカッコいい。

 LINE始めたの見たときはどっかの泥棒猫が手を出してきたかと思ったけど、小町ちゃんなら安心だ。

 携帯に新規メッセージを告げる表示が出た。そういえば今日一日放置してたな、と思いながら開く。

『これ、いろはじゃない?』

 クラスのグループに属する友人からのLINEだ。不穏な文面に、背筋を冷たいものが伝う。まさかと思いながら携帯を操作し、殆ど使っていないTwitterを開く。

『痴話喧嘩ww』と評されたそれは、一分弱の動画だった。見覚えのある光景に思考が硬直する。次に考えることが、分からない。

 イヤホンを介して、先輩の叫びが鼓膜に響く。

 繰り返し再生されるそれから、何度も何度も悲痛に響く。

 

 




読んでくださってありがとうございます。
次回も10月になります。

また逃げにくるかもしれませんが、逃げられなかったら遅くなるかもしれません。ただ、待っていていただけると、とても嬉しいです。

感想、意見、アドバイスなんでもお待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10月②

こんにちは、おひさしぶりです。
10月の2回目ですね。夜風が心地良いそうですよ。

ココが読みにくい、この表現はおかしい等も勉強になるのでどんどん言ってもらえると助かります。
今回も拙い文章ですが、これを読んで少しでも気分が上がると凄く嬉しいです。
またまた沢山の感想ありがとうございました!すごく励みになります!
 
感想、意見、アドバイスなどお待ちしております。
誤字報告ってめちゃめちゃ便利ですね。よければしていただけると助かります。
またお手すきの際にどうぞ。

あ、あらすじの書き方は考え中なので、それはまだ待っていてもらえると嬉しいです。



 

 

 折本かおりは探していた。

 

 揺れる電車内。既に窓の外は暗闇が占めていて、街の明かりが流れるように視線を誘う。線路の横を通る道路、一台の車が前を走っていた。色は分からない。何色だろうか。

「あはは、ねえねえこれ見てよ」肩を叩かれた。

 車窓に向けていた視線を剥がし、振り返る。嬉々とした様相を見せる彼女がいた。

「んー?」私に見せるように差し出された携帯を覗き込んだ。ツイッターの動画らしい。「なにこれ、どしたの」

「なんか回ってきてー、超ウケる」

 彼女は口を抑える仕草をしてから、携帯を持つ手で動画を再生させた。全画面表示になる直前、『痴話喧嘩ww』という文字が目に入り、眉をしかめる。

 デパートだろうか、見覚えがある。といっても吹き抜けにエスカレーターを設置するスタイルをとった大型商業施設などごまんと存在するため、似たような景色に既視感を覚えているだけかもしれない。男女の姿が見えた。

『プレイじゃね?』相手を卑下するような、気分を害する類の声質だった。要するに嫌いな声だ。『水商売かよ』と続く。気持ちのいい言葉ではなく。再び窓の外に視線を移したかった。ただ一瞬、動画の中央に陣取る男と目が合った、気がした。

 画面越しの私に気付いた訳ではあるまい、カメラに気付いたのだ。彼が、比企谷八幡が。

 少し手前に映る女の子の肩を掴み、自分の胸に抱いた。顔を隠すように見えたその動きは私の買い被りだろうか。

『助ける!』吐き捨てるように叫び、囲む一団から離れていく。見方を変えればカメラから女の子を逃がしている様にも見えた。亜麻色の髪をしていた。

「あはは、おもしろー」彼女は餌を見つけた犬のようにはしゃぐ。尻尾まで生えそうな勢いだった。「なんかコメントしよっかな」

「やめといたらー?」舌打ちしたい衝動を抑え、視線を逸らした。窓の外では赤色の車が電車と競うように並んでいた。赤色だったのか、いやさっきの車じゃないかもしれないな。

 勝手に破滅しろ。そう思っていた。汚い尻尾でも振って、週刊誌に群がる下劣な人間に成り下がれ。心の中ではそんな黒い感情が渦巻いている。

 辟易としながら、彼女がスクロールする画面に目を向ける。指の動きを見るとかなりの反応がありそうだ。テレビのニュースでよく見る光景だったが、いざ近い人間が標的にされると実感が湧かないものだ。そこで彼女の指が止まる。

「あれ、動かなくなっちゃった」おかしいな、と首を傾げて指を繰る。

 おかしいのはお前だよ。喉まで出かかるが何とか飲み下した。「消されたんじゃない? ほら、顔とか映ってるとあれだし」

「えー、つまんなーい」彼女は口を尖らせ、違うSNSを開いた。

 私はあんたといるのがつまんないよ。

 車窓の先には、住宅から洩れる光が見えるだけだった。

 

『ご乗車、ありがとうございます』

 甲高い笛に続いて、背後で扉が閉まった。先を歩く彼女が振り返ると、こちらを怪訝そうに窺う。「どうしたのー、いかないのー?」

 そうだよ、行きたくないんだよ。「ううん、何でもない」足を踏み出す。

 残暑の残る季節だが、夜風は程よく肌を撫で、不快な湿気は姿を消しかけていた。だから腕を組まれても暑くはなかったが、皮膚が拒絶するくらいには反応が出る。

 鳥肌って確か体毛を逆立てる役割で、人間には意味がない機能だってテレビで言っていたな。彼女の顔を覗き込む。綺麗な顔立ちをしていた。二重の瞳はビー玉のように輝き、鼻筋が通っている。唇は薄い方か。アヒル口は古いよ。

 腕に絡みつき笑う彼女を見て、よくこんな態度が取れるなと思う。あの飲み会の帰り、私を糾弾したことはまるで前世の行いだったかのように彼女は振る舞う。それもこれも周りの所為だ。

 話があるからと呼ばれてみれば、いつものグループに囲まれた彼女がいた。まあ、大方予想はできた。夏休み中のひと悶着より、後期も仲良く一緒に授業を受けるメリットの方が大きいからだろう。大学はボッチに優しいとよく言うが、実際一人でいる奴は目立つし、浮く。ただ中学高校とは絶対数が違う為に目立たなく見えるのは確かだ。

 比企谷なら、そんなこと気にしないんだろうな。

 周りに促され、無理やり仲直り。「悪いと思っててー」「反省してるんだってー」「一緒に授業受けよーよー」引き攣りながら笑顔を作った。ただ、泊りに来るなど予想していなかった。余りに突拍子もない出来事に、流石の私も流されてしまった。そして今に至る。

「かおりの家、そんなに遠くなかったんだねー」じゃあ帰れば?「って海浜総合じゃん。近いわけだ」

「それなー」やんわりと腕を払い、改札を抜けた。彼女も遅れて着いてくる。

 駅の出口はひとつしかなく、彼女が先導してそちらへ動く。私の脚も乗り気でないらしい。

「歩いてどれくらい?」階段を下りながらこちらを振り返った。ピアスが光る。

「うーん、十分くらいかなー」もしかしたら辿り着かないかもね。

「えー! 遠くない!? 私絶対無理!」

「あはは、私ほら、太りやすいからさー」

「あー、ダイエット? 私体質なのか太らないんだよねー」

「それあるー、ほんと羨ましいもん」

「そお? かおりだってスタイルいいじゃん」

 私の腰を指で突いてくる。くすぐったいというよりも、嫌悪や怒りの感情が沸き上がってきた。「ちょっとー、やめてよー」

「えーいいじゃーん!」

 マジでやめろ。逃げるように自転車置き場に進んだ。乱雑に置かれたそれは進行を妨げる役割を存分に果たしてくれた。

「もーどこいくのー」彼女を見ると頬を膨らませている。

 それ以上は進んでこない。服が汚れるのを嫌ってだろう。そういうところはちゃっかりしている。だから逃げ込んだのだが。

「だって、”遥”が追いかけて来るから…」嫌々ながらも、戻ることを考えた瞬間、言葉が詰まる。

 耳にうめき声の様な音が入った。後ろからだ。

「どうしたのー?」遥が呼んでくる。聞こえなかったのか。

 振り返って周りを見るが、誰もいなかった。

 気のせいかと納得しかけ、視線を落とした時だった。再び呻き声、何かを吐くような声がした。植え込み近くに蹲る影がある。

 やば、酔っ払いかも。そう思い離れようとしたが、自転車置き場の場所だけが気がかりだった。比企谷の自転車がそこにまだあった。

「かおりー!」後ろから甲高い声がした。「あ、うん! ごめんすぐ行くー!」彼女を見ないで返事をする。

 そこからすぐ、踵を返そうとしたところで黒い影か少し動く。離れようとした私の瞳が、ある一点に釘付けになる。

 アホ毛が、揺れた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 気持ちが悪い。何だこれ。

 電車の扉に体重を預け、手で身体を支えていた。

 電車酔いか? いやそんな経験ない。じゃあ病気か? 心臓病とか。しゃがみこみたい衝動をグッとこらえ、最寄り駅に辿り着くまで何とか耐えた。扉が開くといの一番に飛び出し、改札を潜った。口元を手で抑えながら階段を降りる。

「う…」限界だった。何とか自転車置き場の植え込みまで足を踏み出し、その裏の排水溝に向かって胃の内容物を勢いよく吐いた。

 吐瀉物と言っていいのか分からない。まだ黄色いそれはドロリと逆流し、喉を這い上がってくるように身体を揺すった。吐き出しきれなかったそれが排水溝の横に垂れ、小さな塊になった。最後に食べたパンケーキを思い出す。パンケーキミックスに逆戻りだなと、くだらない事を考えたのがよくなかったのか、忘れかけた頃に再び胃を這い上がる。胃が苦しそうに収縮し、無理やり出そうと心臓のようにポンプの役割を買って出る。

「はあ…はあ…」

 胃が空っぽになるとはこういう事かもしれない。植え込みに突いていた手には泥が付着していて、少し持ち上げるとぽろぽろと落ちる。払う気力はなかった。落ち着いてきたころ人の気配を感じ、首を巡らせるが誰もいない。それどころではなかった、周りの迷惑も顧みず自分の事しか考えられなかった。苦しい。

 身体に負荷がかかっていたのだろう、体力が一気に奪われ、目を瞑れば眠ってしまいそうだった。いや、いっそ気絶した方が楽かもしれない。

 今日という日の締めくくりが、なぜこうなったのか。そう考えると再び胃が握りつぶされる。「おえっ…」もう何も出ない。半透明の液体が口から涎のように垂れるだけだった。やばい。誰か。

 声に気付いたのは、それが女性特有の甲高い声だったからかもしれない。「ごめんすぐ行くー!」耳が反応したのは、聞き覚えがあったからだろうか。助けを求めるあまり幻聴かとも考えた。

 ただ足音が近づいてきたものだから、顔を上げざるを得なかった。もしかしたら俺の近くに自転車を停めているかもしれない。

「あ、あのー」やっぱりか。

 植え込みのレンガに手を付き、身体を起こそうと力を込める。こんなに重かったかと驚くがそうは言ってられない。「…すみません、今どきます」辛うじて発声できただろうか。

「やっぱり! 比企谷! 大丈夫!?」

 突然名前を呼ばれ、思わず目を剥く。しかし視界は霞み、誰なのか分からない。立ち上がり切れず、座ってしまった。

「ちょ、ほんとにどうしたの!?」女性の声がまだ耳元に響いていた。倒れそうな身体が華奢な腕に支えられている。「救急車呼ぶ!?」

 人と言うのは意味の強い言葉に反応するのだろうか、救急車と言う単語に自然と口が動く。「いや…大丈夫だ…」

「でも!」

「大丈…夫」息が浅いのがよくわかった。体中に呼吸の音が響いていた。

 何故か女性が隣に座ったことまでは覚えている。いつ意識を失ったのかは分からない。

 季節が聞こえた気がした。

 

 

―――

 

 

 気絶の定義はなんだろうか、一時的に意識を失うことを指すのなら、それは睡眠にも当てはまる。そういえば寝つきの良さと気絶に関係があるといった記事を見た覚えがあった。

 意識の覚醒が緩い。そんな雰囲気を感じた。徐々に光が入ってくる。街灯の明かり。月の明かり。一つ一つ視界が認識し、判別し、ゆっくりと覚醒していく。そんな雰囲気。

「……がや、ひきがや」

 声が降ってくる。音が空から降りて来る。アーティストがよく言う曲が下りてきたというのはこんな感じかもしれない。いや、違うだろうな。あれは経験則だ。何度も何度も頭の中で反芻した記録が、一瞬の覚醒で繋がるのだろう。点と点が繋がり、線を結ぶように。この空に広がる星座のように。

 頬に響く刺激に気付いたのは視界が遮られたからだ。影が落ち、再び暗闇に飲み込まれたと一瞬勘違いをした。垂れるそれに、無我夢中で手を伸ばした。触れるか触れないかで、離れる。

「おーい、大丈夫ー?」

 身体を揺られた。内臓が揺れるが、腹の中はすでに空っぽだった。意識が戻り始めると、寝心地の悪さに気付く。首にかかる負担が大きい。寝返りを打って手を突こうとしたが、皮膚の柔らかい感触に力が抜ける。「ちょ、痛いって比企谷」少し怒気を孕んだ声が降ってきた。

 ようやく、夢でないことが分かった。身体を腹筋の力で持ち上げる。筋肉も使っていたのか、胃と共に悲鳴が洩れた。くらくらとする頭を手で押さえ、記憶を振り返る。

「大丈夫?」隣から声を掛けられた。振り返れば奴がいる。折本がいた。

「折本…」思考が追い付かない。「なんでここに…」

「なんでって」折本は呆れた声を出す。「比企谷が突然倒れたから付いてたんだよ」馬鹿じゃないのと言わんばかりの勢いだ。

 付いていてくれたことは分かっていた。ただ折本の言葉は、なんでここにという俺の問いが求めていた回答ではなかった。

 気分は大分良くなっていたが、活発に動けるほどではなかった。項垂れる形で視線を落とすと、ショートパンツから伸びる白い脚が見える。さらに眼を凝らすと、何かが乾いた跡が見えた。ハッと思い出し、自分の口元に触れる。同じように何かが乾いた跡がある。爪で弾くと少し剥がれた。

「おり…」どうしていいか分からず、とにかく声を出そうとするが、俺の行動をみた折本が先に動いた。「あー、比企谷気絶したみたいに寝てたもんねー」そう言うと、太ももの唾液の痕を爪で弾いた。

 益々混乱した頭が働かず、思考が絡まる。意味が分からなかった。

「比企谷、立てそう?」折本の視線は確かに気遣っていた。

「あ、ああ」二、三度足踏みをしてから、力を込める。目の前にあった自分の自転車に手を添えることも忘れなかった。「大丈夫、すまん」

 どうにか口から絞り出したのは謝罪だったが、折本は気にも留めずに一緒に立ち上がる。「歩けそう? 自転車はやめた方がいいと思うけど」チラと自転車を見た。

「そう…だな」今ならこの壺買いませんかと言われても「そうだな」と答える自信がある。

 よくわからない夢気分に浸っている状況を、電車の過ぎる轟音にたたき起こされる。思わずビクついた、その音に続いて多くの乗客が改札機を通り、階段を降りる音がした。「あはは」折本が笑う。

「なんでビビってんの! ウケるんだけど」

「いや、ウケねえから…」本当にウケてる場合じゃない。今でも通り過ぎる人は植え込みに佇む俺たちに怪訝な視線を投げかけて来ていた。

「もー、比企谷が寝てる間大変だったんだからねー」折本が手をグーにして肩を殴ってくる。「知らない人から、どうしたんですか? とか、救急車呼びますか? とかめっちゃ言われたんだから!」

「お、おお。そう、だよな…」すまん、と続けたが届いたのかは分からない。

「とりあえず歩こっか」そう言うと折本が俺の脇に手を差し入れる。俺がギョッとして仰け反ると、「あれ、いらなかった?」と言い、離れた。

「ああ」身体の緊張が少し解ける。「一人で歩ける」

 一瞬、記憶が掘り起こされた。それはとても眩しいものだったが、再びタイムカプセルを土に埋めるように、保存するようにしまった。

「よし、じゃあ行こう」快活に叫び、歩き出した。俺もそれに続く。

 駅に設置されている柱時計を見ると八時半を示していた。一時間以上眠っていたらしい。こんこんと自分の頭を叩いた。

 

 しばらく歩いて、折本が顔を覗き込んできた。「うん、大分顔色よくなってきたじゃん。寝てる時と起きた瞬間、唇の色ヤバかったんだけど」と笑う。

「そうだったのか、すまん」さっきから謝ってばかりだが、折本はそれを意図的に無視しているようにも思えた。

 未だ足元は覚束ないが、少しずつ回復しているのは自分でも分かった。意識と身体の乖離が少なくなる度、折本への負い目が湧き水のように溢れる。

 それからしばらく歩くと、以前別れた国道に突き当たった。折本は迷うことなく俺の帰路に足を向ける。

「ここまででも大丈夫…だが…」先を行く折本に向けて言う。しかし彼女は振り返らず、「ここで別れる方がおかしいでしょ」と一笑する。

 黙って横に並ぶ、折本がゆっくりと口を開いた。「実はね、探してたの」

 宙に彷徨わせていた視線が俺を捉える。すると折本は沈黙を受け取り、自嘲気味に笑う。

「友達がいたの知ってる? 比企谷が気を失う前」

「ああ、確か遠いところにいた気がするな」正直全く覚えていなかったが、とりあえず話を合わせる。そして周りを見渡してその友達がいないことを確認する。「邪魔してすまん」

 頭を下げた俺に向ける折本の声は優しかった。

「ううん、逆。感謝してるんだよ。実はあんまり合う友達じゃなくて、私の家に泊まりに来たんだけど比企谷利用して追い返しちゃった」舌を出して笑う。その姿は可愛らしく、胸が跳ねる。比企谷八幡あざとい女の子に弱すぎ問題。

 胃を逆流する気配があった。反射的に口元を手で押さえる。

「どうしたの?」折本が素早く反応して、鞄を漁る。「袋あるから、吐くならこれ使っていいよ」そう言って結ばれた袋をほどき始める。

「いや、大丈夫だ」首を振って制すが、折本はそれを無理やり俺の手に握りこませる。「…サンキュ」

 折本が頭を振り、俺の様子を確認してから再び進み始めた。

「だから、ありがと」

「は?」

「助けてくれて」

「いやすまん意味が分からん」本当に分からず、頭を掻く。「礼を言うのはこっちの方だ。ありがとな、色々」

「あはは、いいよ」

 それに続いて呟くように溢した「ーー助けられてるし」という台詞は聞き流した。これでおあいこだろう。

 俺の家まで送った彼女は最後に自身の太ももを指で示してから、手を振って去っていった。

 返す言葉もなく、すぐに謝罪の品を脳みそがリストアップし始める。

「高級なハムとかでいいか…」太ももの柔らかな感触が思考を埋め尽くしていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 白飯を口に運ぼうと箸を持ち上げる。が、食べる気になれず手が止まった。

「はあ…」ため息が出る。

「無理しないでいいよ?」食卓の向かいに座る小町が俺を気遣う言葉を発する。

「すまん。せっかく作ってくれたのに」

「いいよいいよ、お兄ちゃん今日は学校休んだら?」

「……そうだな、そうするか」

 箸を置き、窓の外を見る。カーテンの隙間から塀を跳ねる雀が見えた。一足も二足も先に食べ終えた小町が立ち上がる。「片付けちゃうね」

「すまん」昨日から謝り続きだ。「いーの」と小町が笑う。

 カチャカチャと音を立てて皿を重ねる小町は既に制服姿で、スカートの裾がひらひらと揺れる。今更だけどあの学校スカート丈短くない?モラルやらTPOやら五月蠅い時代に我が道をゆく千葉マジまんじ。

 蛇口を上げたのだろう、水の流れる音が聞こえてきた。いつもならば時間に余裕のある俺が洗い物を担当していたが、今日は甘えることにする。

「お兄ちゃん貧血じゃないのー?」皿をスポンジで擦りながら小町が少し声を張る。「立ってられなかったんでしょ」

 少し思案する。が、人生で貧血になった記憶がなく、「分からん」と答える。

「唇が白くなって、力が入らないなんて貧血ドストライクだよ」

「なんだそのキャッチコピーみたいな言い方…」

 折本との出来事は小町に話してある。というか、昨日帰宅したところを見られていた。昨晩は俺の身を案じた小町も、今朝は起きた途端に擦り寄ってきた。小町に隠し事をしていいことはない。まあ、言わないことは言わないが。

「とにもかくにも、その折本さんには感謝しなくちゃね。今度菓子折りでも買いに行こっか」

「ああ」ハムの事は飲み込んだ。

「あ」小町が急に振り返る。「お兄ちゃん昨日いろはさんからLINE来てたよ。見た?」

「そうなの?」

「そうなのって…、ちゃんと返信してきな」

 湯飲みを手に持ち、温かいお茶を堪能していた俺を小町が責める。最近オカン体質になってきたなコイツ。と思いながら自室へと向かうことにした。

 昨夜の記憶は曖昧だったが、どうやら充電器には挿さなかったらしい。携帯を持ち上げると画面が自動的に表示された。新規メッセージ12件。12件!?

 驚いてスクロールするが、すべて一色からのものだった。ひとつに触れるとLINEの画面が立ち上がる。視界に入ったのは『ごめんなさい』の文字だった。

 なんの事だと思いながらリビングに引き返す。トークの一つにURLがあったので何の気なしにタップする。少しのロード画面に続いて表示されたそれに、俺は目を見開いた。

『このツイートは削除されました』

 Twitterの画面に削除という表示。心当たりがあるとすれば昨日のあれか。

 人の影から向けられた嫌な視線。携帯の背面がこちらに向いていた。咄嗟に一色を隠したが、結果は消されて分からない。まあ、削除されたならいいか。

 リビングのドアノブに手を掛けようとしたところで中から小町が飛び出して来る。お互いに仰け反る形になった。

「なんだった?」

「いや、特になにも」

「ふーん」小町は訝し気な視線を送ってくる。そのまま通り過ぎ、沓脱にあるローファーに足を入れた。小町の肩にはいつの間にか鞄が掛けられている。コンコンとつま先で地面を叩く背中に念の為声を掛けた。「今日俺が休んでること一色には内緒にしておいてくれ」

 小町はくるりと回ってこちらを向く。「倒れたことは?」

「それもだ」即座に答える。

「心配かけたくないから?」

「まあ、そんなとこだ。今余計な情報はいらんだろ」

「余計かどうかはいろはさんが決めるんだけどなー」

「まあそうだが。頼む」

「仕方ないなー、今日はちゃんと休むんだよ?」

「ああ、さんきゅ」

 小町は「行ってきます」と言い、扉を開けた。それを見送るとLINEを開き一色に返信をする。

 胸やけが治まるのは、まだ先だった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 記憶を掘り起こし駅を歩く。暇つぶし機能付き目覚まし時計、最近はコイツも携帯らしい活躍をするようになった。その地図機能を使えば一瞬で分かるものも、駅に着くとその気も失せた。

 十九時を過ぎた駅前には人がごった返していた。平日だというのに、いや平日だからこそか、そこかしこにスーツを着たサラリーマンが店を探しうろついている。皆同じような格好に身を包み、ささやかなパーツで個性を主張しようとしている。重なり合った歯車が色を変えるだけであるかのような、役割の変わらない仕事を繰り返しているように見えた。

 駅を少し過ぎたところ、赤色の暖簾が見えた『お好み焼き もんじゃ よしえ』と書かれている。祭りのあと。俺の中では人生で一番の祭りがあった場所だった。そしてそこを指定したのは平塚先生だった。

 周りを見渡すが、雪ノ下や由比ヶ浜の姿は見えない。平塚先生は遅れるとの連絡があった。予約は済ましているから先に入っていてくれとのことだ。それに従い暖簾をくぐる。

「いらっしゃいませー!」入ってすぐ元気な、どこか勝気な声が響く。俺を見て近づいてきた。「何名様ですか?」

「あ、えっと四人なんですけど…」店員は俺の言葉を聞き終わらないうちに後ろを振り返る。

「あー、今予約のお客様で満席でして、少しお待ちいただく形になりますがよろしかったですか?」早口にまくしたてて来る。

「あ、いや、その予約で…」

「あ! 申し訳ございません! お名前伺ってもよろしいですか?」慌ただしい。まあ忙しい時間帯だからだろう。

 でも八幡いらつかない! だって店員さんの頑張り知ってるから! アルバイトを始めてから店員さんに一層気を遣うようになる。それある!

「……平塚です」やだなんか照れる。

「平塚様ですねー。少々お待ちくださー、あ! はい確認取れましたのでご案内します。こちらへどうぞー!」

「四名様ごらいてーん!」と俺を案内する店員が言うと、店のあちこちから「いらっしゃーい!」と声がする。打てば響く、指導が行き渡ったいい店ですね! 因みに俺のバイト先にそんなルールはない。レジにやってくる客にだけ言っている。

 通された席は四人が座れる掘りごたつだった。靴を脱いで上座の反対側に脚を入れる。

 店員は案内するとすぐに下がった。それと入れ替わりで柱に人影が見えた。

「あ、ヒッキー!」

「こんにちは」

 雪ノ下と由比ヶ浜が半個室状態の暖簾から覗くと声を上げた。

「おお、久しぶりだな」頬が緩む。

 平塚先生へと空けておいた上座に由比ヶ浜がずんずんと進み、収まった。雪ノ下は一瞬の逡巡の後、由比ヶ浜の隣に座る。

「いやー、久しぶりで場所分かんなかったからさー。でも最近の携帯ってすごいよね! 自分の場所が出るの! なんだっけ…PHS?」

「Sしかあってねえ…」何となく、喉が渇いてもいないのに水を含んだ。

「GPSって言うのよ由比ヶ浜さん。グローバル・ポジショニング・システム。日本では全地球測位システムと呼ばれているわ」雪ノ下が優しい眼差しで諭す。

「地球!? 地球にいればどこでも分かるの?」

「でた、ゆきペディアさん」小さく呟くが雪ノ下は拾ったらしく、由比ヶ浜に向けていた温かさとは一変して刺すような氷点下の視線が飛んでくる。「その不愉快な呼び名はやめなさい」

 ふええ…怖いよぉ…。俺が肩を竦める仕草をすると、由比ヶ浜が苦笑する。

「平塚先生もうすぐ着くって」携帯に視線を落とした由比ヶ浜が俺たちに言った。

「そう、なら注文はそれからでいいかしら」

 雪ノ下は気遣わし気に俺に視線を向けてくる。その仕草は変わらず、頬が緩むのを抑えた。「ああ、そうだな」

 平塚先生が到着するまでのんびりしていようかと体勢を崩そうとしたところで、思わぬところから矢が飛んできた。「ヒッキー、女の子のこと守ってたね」

「……え」由比ヶ浜に視線を向ける。少し怪訝な顔をしている。

「そうね、比企谷君にしてはよくやったと言うべきかもしれないけれど」雪ノ下も続く。

「え、なんで」思考が追い付かず彼女らを交互に見やった。

「ツイッターで回ってきたの、今は消されてるけど」

「私は知らなかったのだけれど、由比ヶ浜さんから送られてきたのを見たわ。あれはあなたよね」

 褒められているのか責められているのか分からない感情で、困る。しかし動画のことは見ていないので正直に答えることにした。

「ああ、多分俺だと…思う。一色に送られたのを開いた時には消されてたから正確には知らんが…」

「やっぱりいろはちゃんだったんだ」

「やっぱり一色さんだったのね」

 二人の声が重なる。室温が軽く下がった気がした。

「あ、ああ。ほら、受験だし、息抜きにな…」聞かれてもいないのに言い訳がましく言葉が喉を通る。

 問わず語りに、彼女らの視線は冷たくなる。居心地の悪さを感じ一度トイレに立とうかと思ったところで由比ヶ浜の表情がパっと明るくなる。

「ヒッキー偉い!」目尻が下がっていた。「まあ、やり方は褒められないけど、それでもヒッキーはヒッキーだもんね!」

 見れば、雪ノ下の表情も氷が解けたように柔らかくなっている。

「やめろよ…」見透かされていたのかと分かり、気恥ずかしさに身を捩る。

「勘違いしないで頂戴、やり方を誉めているわけじゃないから」

 水を掛けるように雪ノ下が口を挟んだ。これは彼女らなりの称賛で、警鐘なのだろう。

「ああ」答えるだけで、精いっぱいだった。

 再び水を含もうとしたところで、頭上から声が降ってくる。

「そろそろいいかね」

 驚いて顔を上げると、微笑を称えた平塚先生が暖簾の隙間から顔を出していた。

 

 二時間経たない頃だろうか、それなりの盛り上がりを見せた食事も終わり、店を出た。会計は平塚先生が持つという。おっとこまえぇ!

 居所なさげに店の前で待つ。

「平塚先生,新しい学校でも上手くいってるみたいでよかったね!」

 雪ノ下の腕に絡みつく由比ヶ浜が笑う。雪ノ下も満更ではなさそうだ。しばらく会っていなかったからだろう、お互い甘えている様子が所々で見受けられた。

「そうね、まあ、人柄じゃないかしら」

「そういや平塚先生の事嫌ってる生徒なんていなかったな」

「あなたの狭いコミュニティでは信頼に値するデータ量はなさそうだけれど」雪ノ下が口元に手を添え、笑う。「でも、確かに聞いたことはなかったわね」

「お前のパーソナルスペースも大概だけどな」

「あら、スペースは有り余っているのに誰も入ってこない人に言われたくはないけれど。私の場合はちゃんと選んでいるから」雪ノ下はそう言い、ちらりと隣を見た。

 それを受け取り、由比ヶ浜は幼児のようにはしゃぐ。

「えへへ、ゆきのん大好き!」一層深く抱き着いた。

「ちょ、ちょっと…」雪ノ下は恥ずかしそうに頬を染める。

 うわー、今なら糖分の過剰摂取で流石の俺でもマッ缶吐きそうだ。隣を見るといつの間にか出てきていた平塚先生と目が合う。俺と同じような表情をしていた。

「ゲフン、さあ駅まで送っていこう」キリッと気を引き締めた先生が駅の方向を見つめた。

 それを合図に四人の足並みが揃う。

 駅まではそう遠くなく、迷わず歩けば数分で着いた。

「まだ九時は回っていないが、気をつけて帰るんだぞ」先生が先生らしい事を言ったので、思わずニヤつく。

「はーい!」由比ヶ浜の元気は底なしだ。

「先生も身体に気を付けて」雪ノ下さんそれは年齢の事考えてないよね? ね?

「お、おお、ありがとう」不穏な空気を察知してか先生の言葉も濁る。

 由比ヶ浜と雪ノ下が足を踏み出し、駅の入口へと進んでいく。数歩歩いた所で何かを察知したのか、こちらを振り返った。俺の足は動いていない。

「ヒッキー?」

「悪い、ちょっと用がある」そう言い平塚先生を横目に見るが、予想通りといった様子で車のキーを鳴らした。

 雪ノ下が理解するのが早いか、平塚先生に向き直る。「では先生、比企谷君の事、よろしくお願いします」

「ああ、まかせろ。たっぷりしごいてやる」先生が不敵に笑った。危険な空気を感じ取り日を改めようかと考えた瞬間肩を掴まれる。終わった……。

 雪ノ下がなにやら由比ヶ浜に囁き、二人は満足そうな顔で改札に向かっていった。それを見送り、肩から手が離れる。

「さあ、行こうか」

 踵を返した平塚先生がカツカツとコンクリートを鳴らす。駅の裏側へと向かっていた。確かそこには何ヵ所かコインパーキングがあったはずだ。

 振り返りもしないその姿勢に、やはり敵わないなと苦笑した。

 

 

―――

 

 

 気持ちのいい音を立て、車が滑る。車高の低いスポーツタイプのそれは走るというより、道路を低空飛行している気分だった。赤いボディは月夜に輝いている。

 運転免許を取得してから、さらに先生の技術が分かる。いつかのクリスマスイベントの際、眠気に誘われたのも無理はないなと思い出した。安定した速度で走るそれは、再び眠りへと誘い始める。

「そういえば、免許を取ったそうじゃないか」それを察知してか、話題を放り込んできた。

 まどろみの中、ボールをスルーしたい気持ちもあったが、受け止め、投げ返す。

「ええ、まあなんとか」

「なんだその自信なさそうな言い方は」先生はけらけらと笑う。

「いやほら、まだ取ったばかりですし。先週ですよ、先週」

「私なんか取ったその日に走りまくったぞ」

「そういうとこなんじゃ…」また一つ、要因を見つけてしまい思わず呟く。

「何か言ったかね」

「いえなにも」

「運転中じゃなければなあ」そう言い、拳を二、三度握りこむ仕草をした。

「運転中で良かったです。本当に」

「久しくないか。どうかね、そろそろ一発」

「先生下ネタがきついでグハッ!」

 脇腹に拳が刺さる。運転中だって言ったのにこの人…。超いてえ…。ただ、どこか懐かしさすら感じるもので、少しの高揚があった。八幡目覚めてないよね? 大丈夫だよね?

「着いたぞ」

 小気味よくブレーキ音がして、車体が制止した。手際よくハンドブレーキを引いてドアの鍵が開錠された。いつの間にかハザードが焚かれている。

 外に出て車体に扉を叩きつける。心地よい夜風が髪を揺らし、夏が息を引きとる気配を感じた。左ハンドルの車から降りた俺は道路側にいる為、素早く歩道へと回り込む。潮風が鼻孔を責め立てた。

 美浜大橋。いつか同じ状況で連れてこられた覚えがある。流石に夜景の見えるスポットでも二回目は萎えますよ? というか女性に連れられてる時点で萎えるも何もない。

 平塚先生の横まで行くと、缶コーヒーを手渡してきた。温かい。前回の反省を生かしたのか投げるような真似はしなかった。

「あ、ありがとうございます」ぎこちない手つきでプルタブを持ち上げ、礼も言う。

 いつの間にか煙草に火を着けていて、煙を一息で吐き出す。こちらは風上で流れて来ることはない。近頃アイコスとやらが流行っているが、先生はこちらの方が似合っている。身体の事を考えると良くないのだろうが。

「君の話から聞こう」そう言い、筒を口に運ぶ。

 俺も助走をつけるように、苦い液体を口に含んだ。「じゃあ、単刀直入に」

 葉山の事、大学での依頼、そして現在調べている事件について、なるべく簡潔に話した。手繰るように纏めてもやはり推測の域を出ない。

 平塚先生が聞き終えるころ、煙草は微かな灯を残すばかりで、どこからか取り出した携帯灰皿に擦り付けた。

「ダメ教師もいるもんだ」

 そう言い遠くを見つめる瞳には、一色に漏らした教師の虚像が映っているのだろう。

「それで、その事件の真相が知りたいんです」一歩詰め寄る。

「私はその時総武校にいないが?」

「それは、もう勘の域ですよ。卒業式で先生は学校に顔を出していた。教師の事は知りませんけど、生徒指導をやっていた先生なら問題があったことぐらいは知っているんじゃないかと」

 そう、これは論理的ではない。高校とのつながりが消えた今、俺に残されているのは平塚先生だけだ。学校がもみ消した問題なら、いくら一色とてそれ以上は踏み込めまい。

「知らないな」先生は持っていた缶を車の上に置いた。予想範囲内の答えに落胆はなかったが肩は落ちる。「と言ったらどうするつもりなんだね」

「……それはもう、厳しそうですかね」正直、そうだ。

「ふむ、確かに学校側がもみ消した事実となればそうそう表には出てこないだろう」ただ、と続ける。「ただ、口は堅く、既に学外の人間となっている者と、その時から所属していて尚且つ女生徒に軽く情報を漏らした人間、どちらが疑われるかは明白だな」と先生は口角を上げた。

 思わず笑ってしまう。この人も大概だ。

「最近独り身が長くてなあ、独り言が多いんだ。許してくれるか?」自嘲気味に、しかし凛とした瞳で見つめて来る。

「ええ、いくらでも」俺は肩を竦めた。

「それは助かる」そう言うと煙草を取り出し火を着ける。「私も直接見た訳じゃない、ただ、聞いた話によれば手を上げたのは葉山だ」

「っ……」自分でも息をのむのが分かった。

「手を上げられた女子生徒、言うなれば被害者の名前は”遥”」

「はるか……」

 聞き覚えがあるような、無いような名前だった。

「偶然にも君の学年に遥という女子生徒は一人だ。調べれば分かるだろう」そこで一度瞑目した。「葉山はその女生徒を殴った。はたいたという表現の方が正しいか。それを教師が目撃してな、当たり前だが問題になった」

 事件があった。という一色の調査は正しかった。平塚先生は続ける。

「なんにせよ葉山だ。学年一の秀才で、弁護士の息子。教師は事態の収束を図った。その場だけで済ませようとしたんだな。ただ手際が悪かった。目撃した教師と言うのが大分ヒステリックな状態だったらしく、職員室は荒れたそうだ」

「そこで」俺が呟くと、平塚先生は首を振る。「洩れてはいなかった。ばたばたしていたが、事態の終息には至った。つもりだった。もちろん緘口令は敷かれたが、その遥という女子生徒がリークしたんだ。葉山の弁護士事務所に」

 俺は頭の中で整理しつつ、話を促す。「それはもう、無理ですよね」

「ああ、葉山の親は動いた。自分の息子が暴行まがいの事をしたんだ。ここからは大人の事情になるから割愛させてもらうが、葉山の進学は取り消しだ。指定校で決まっていた国公立は辞退。大学側にもその事件は広まってな、なにしろ葉山弁護士の息子だ。どこでも欲しい駒が爆弾を抱えていたらどうなる」

「まあ、置いておきたくはないでしょうね」

 葉山の表情がフラッシュバックした。俺に大学進学の事を聞いてきたとき、彼は『俺の親、弁護士なんだけど、ここの修了生でさ。俺もここに通うことになってたんだ』と言い、裏口じゃないからなとまで付け加えた。あれは後ろめたさからだったのだろうか。

「葉山の両親はなんとか自分が修めた大学に入れたらしい。まあ、コネだな」やっぱり。「そして、葉山の両親は雪ノ下家の顧問弁護士をおりた」

「は?」

「知らなかったか?」

「いや、知らないというか、それなら雪ノ下達が知らないはずが…」そこまで言いかけて、雪ノ下母の冷たい表情を思い出す。「……なかったことに」あのモンスターなら、徳のない人間を排除するなど造作もないのかもしれない。

「それに関しては私も知らないが、君から訊いてみたらどうかね」

「そうですね…」と言いながら、先に浮かんだのは陽乃さんの顔だった。

「大変だったらしいぞ。なにしろいっぺんに物事が動きすぎた。あの状況では流石の葉山も身動きが取れないんじゃないか」

 周りに迷惑をかける。当時の自分を取り巻く環境の変化を、彼は今でも危惧しているのかもしれない。自分を信じてくれた教師、そして親を裏切り、一人の女子生徒に狂わされた時間を。

 もう迷惑は掛けられない。そう言った。戸部達を避けているのであれば、この大学で親しい人間を作ることに障害は無いはずなのだ。それでも人とのかかわりを断ち切った理由。

 自分自身に爆弾がついているから。

 ただ、そこまで恐れることなのだろうか、とも思う。葉山に関わる学校、そして親に響くことは未成年では当たり前だ。しかしそれが一友人にまで至るだろうか。ただのクラスメイトにまで毒は回るのだろうか。

「これが全貌だ」平塚先生は顔をしかめた。「ただ、妙な噂がある」

「噂…ですか」

「ああ、ヒステリック気味な教師がいたと言っただろう。その教師が暴行を加えた人間は二人いると口走っていたらしい、ただ葉山が自分が殴ったと認めていたのと、その教師には精神病の診断が下っていた事を考慮して、その発言は虚偽だと判断されたそうだ」

「そう…ですか」

 ふたり。

「これにて私の独り言は終わりだ。見苦しいものを見せたな」平塚先生はそう言いながらもどこか涼し気な顔をしていた。

「いえ、助かりました」深くなりすぎない程度に、頭を下げる。

「私は…、無力な自分が嫌だったのかもしれない」しかし、再び顔を上げた頃にはその表情に影が差していた。「教え子の危機に、何もできなかった」

「それは仕方がない事じゃ…」

「割り切れればよかったんだが、どうにもな…」

 微苦笑を称え、平塚先生は目を伏せた。

 生徒など数えきれないほど相手にしているのに、一人一人に向き合っている。依怙贔屓をすると言っていたが、それは他の生徒をないがしろにするという意味ではない。確かに俺たち奉仕部には特別な感情をもって接してくれていたが、他の生徒にも信頼され、それに応えていたのは良く知っている。

「いや、なんでもない。ただの独り言だ。忘れてくれ」一際明るい声を出し、平塚先生は車のドアを開けた。「少し移動しよう、さっきパトカーが通り過ぎた。多分もう一度見回りに来る」

「……分かりました」

 道路に車が来ないことを確認して素早く回り込む。扉を閉めるとシートベルトに手を掛けた。

「運転してみるかね」

「は? いやいや、無理ですよこんな車」とんでもないこと言うなこの人。

「ははは、まあその気になったら言いたまえ」

 平塚先生は俺から視線を外し、フロントガラスを見つめた。はるか先の虚空を見つめる様子は、回顧しているようにも思えた。もしこの車がバックトゥザフューチャーよろしく過去に飛べるのであれば、彼女は迷わずアクセルを踏み込むのだろう。

 そんなことを考えていたから、平塚先生がカーステレオに手を伸ばしたのを見て驚く。ぽちぽちと操作すると、甘い声が流れてきた。歌詞が英語なのは分かった。

「嫌いかね」

「いえ、嫌いじゃないですよ」好きとは言えない。そういう風にできている。

 男性ボーカルの歌声はメロディに乗り、車が唸ると二重奏となった。美声は音と共に滑り、やがて一つになる。彼が歌になる。そんな錯覚がした。

「では、私の話を聞いてもらおう。と言っても君に関しての事だが」

 平塚先生が、ハンドルを強く握り込んだように見えた。

 オレンジの街灯に照らされた白線は、燃えたぎる道標となる。

 前に進めば過去に戻ると、そんな焦がれにも似た思いを抱き、二人進んでいく。

 いっそ燃え尽きてしまえばいいのに。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 そして、葉山隼人は―――

 

「ごめん、優美子」

 痛いほどに唇を噛んだ。このまま噛み千切ってしまえば、贖罪になるだろうか。握った拳で爪が食い込み、暖かいものが広がる気配がする。

 去っていく後姿に、もう一度「すまない」と呟いた。

 まだ、俺は彼女を清算できていない。そんな状態で一緒になることなど、俺にはできない。

 そんな欺瞞に満ちた言い訳を、未だ言っている。

 

 崩壊した日常を取り繕う程の布は存在しなかった。滑りをよくする潤滑油など、今はもうただ流れ落ちるだけだ。ただただ、掌から零れ落ちていくだけだ。

 自分の感情を清算するために、優美子を泣かせたことは後悔している。

 きっと、きっとと繋ぎ止めた本物は、あっけないガラクタへと変貌した。場所を提供されただけの、紛い物へと堕落を認めた。認めてしまった。

 

「気持ち悪っ、マジ最悪なんだけど。あんなの騙される方が悪いんじゃん」

 職員室を後にし、扉を閉める直前だった。気付いた時には戸部の腕が伸びていた。襟元を握りこんでいる。

 いいな、と思った。嫌いじゃない、戸部のそういうとこ。

 ただ、出入り口と俺で挟むようにして行われたその劇場の先、いてはいけない人物がいた。生物かなにかの先生だったか、ここ最近休みがちで常に目が泳いでいた記憶がある。

 咄嗟に思い出したのは、顧問に小突かれている戸部の様子だった。「トラブルなんか起こすんじゃないぞ」と言われて笑顔で返事をしていた。

 戸部は気付いていない。襟を掴んだ腕とは反対の腕を振り上げようとしていた。

 遥の眼は驚きに見開いている。

「きゃーーーーーーーー!」

 既に教師の悲鳴はこだました。職員室に集まるは問題を生徒ごと潰す大人たちだ。教師ではない。自分に降りかかる災難を振り払おうとする。醜い大人たちだ。

 上げた手が彼女に向かう瞬間。二人の間に右半身を差し込み、そのまま伸ばした右腕で首もとを狙う。虚を突かれた戸部は手を離し、実質バトントスのように彼女を預けてくれた。

 あとは派手にやるだけだ。

 

 その後の事はよく覚えていない。女性教諭は唇の右端を自分の歯で切った彼女を取り囲み、暴れてもいない俺を体育教師をはじめとした男性教諭は捕まえにかかる。職員室内に飛んでいくように掌で殴ったそれは、衝撃に顔を青ざめさせ視線は宙を泳いでいた。

「なにやってんだ!」耳元で叫ぶ教師、そんな声出さなくても聞こえてるって。

 掴まれた腕を振り払う。俺も案外潔癖だ。

 少し離れた位置に立つ戸部に、離れるように顎で示す。

 ああ見えて賢い。あとの立ち回りは任せていいだろう。

 

 天井には蛍光灯が点滅していた。チカチカと音を立てて明滅を繰り返す。風前の灯のように、消えては燈り、燈りは消える、を繰り返す。その光景だけは強く覚えている。

 やがて消える間隔が延び、二度と俺を照らすことはなかった。

 

 

 




読んでくださってありがとうございます。
次回も多分10月になります。

あまり楽しい話ではなかったですが、どうでしたか…。
また頑張って書くので、よろしければ待っていていただけると嬉しいです。

感想、意見、アドバイスなんでもお待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10月③

10月最後になります。

拙い文章になりますが、読んでいただけると嬉しいです。

感想・意見・アドバイスなど頂けるともっと嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。

ごめんなさい小一時間悩んだのですが、あらすじが書けません…。
どこを抽出すればいいのか、そもそもあらすじって毎話用意するものなのか、調べましたがよく分かりませんでした…。すみません。
あらすじなしでも楽しんでいただけるか分かりませんが、読んでもらえると嬉しいです…。



 

 

 平塚静は間違える。

 

 バンっと破裂音に近い音を立て、ドアが閉められた。メーカー特有の細長い窓を覗くと、かつての教え子、比企谷八幡が頭を軽く下げたところだった。身体の横に見える表札には『比企谷』の文字。

 軽く手を上げてから、ギアを掴む。

 アクセルを徐々に踏み込んでいき、法定速度に達したところでバックミラーに目を向ける。先ほどまで停車していた家の前、闇夜に紛れる比企谷がこちらに手を伸ばし助けを求めているような仕草をする。驚いて一度瞬きをすると、比企谷の姿は消えていた。

 ブレーキに移動させた足をアクセルに戻し、フロントガラスに視線を戻す。住宅街を抜けた先の交差点、信号は赤色を煌々と光らせていた。

「思ったより重症かもしれないな」彼の状態を思い出し、独りごちる。

 

 陽乃に相談を受けて臨んだ今日。比企谷の気持ちを確認することを目的として呼び出した。彼の出した答えは褒められたものではないが、彼なりの答え、考えはちゃんとあるらしい。しかし、彼は潔癖すぎる。

 青白くなった彼の口元がフラッシュバックした。あれはただの車酔いではない、気がした。

 人の恋愛観に口出しするつもりはないが、私は正しいのだろうか。彼に対して偉そうに人生を語り、偏った視点に固執する思考を解きほぐしてきた。ただ、私が彼に答えを与えたことはあっただろうか。正解を教えることは教育ではない。教え、育てることこそが教育である。私の手を離れてしまって何が教育だと誰かが言うかもしれないが、私はいつまでも比企谷の”先生”だ。

 選択肢の多さ、価値観の多様さを教えてきたつもりだ。もちろん雪ノ下にも。その先は本人次第だと、そう促してきた。それが良い形であろうと悪い形であろうと、選んだ未来を尊重するつもりだった。数ある選択肢を見つめ、考え尽くし、それで出した答えならば”本物”だと。

『いつか許せるときがくると思うぞ』と言ったのは自分だ。社会を生き、否が応でも流されることで、次第に飲み下すことができるようになると。

 彼が、彼自身を許せなかったらどうする。

 いつだって一人で生きてきた。そんな人間が周りと関わるようになり、いつしか業を背負う所などいくつも見てきた。

 彼なら大丈夫。彼は違う。いつからそう思っていた。

 私は陽乃に相談されて盛り上がっていたのではないか。いつかいつかと、信じ待ち続けた哀しい教え子を導けることに酔っていたのではないか。

 何か、見落としていたのではないか。

 

 甲高い、トランペットのようなクラクションで身を固くする。信号は青色に変わっていた。すぐにブレーキを離しアクセルを踏む。ハンドルを握る手に力を込めた。

 ちらとバックミラーを確認するが、クラクションを鳴らした車は左折していった。ほっと息を吐く。

 

 大きな過ちを犯したのではないか。

 そんな不安だけが胸を覆い尽くし、暗幕を下ろそうとしてくる。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 騒がしい空間に足を踏み入れる。ロッカーを乱暴に開ける音や、大きな話し声、喧騒という言葉そのままの更衣室は居心地が悪く。そさくさと着替える。早く出ようとロッカーの扉を閉める直前、画面を上にして置いておいた携帯が光った。差出人は<一色いろは>。

 内容を確認してすぐに戻す。返信は後に回してとりあえずグラウンドの土を踏んだ。後ろを振り返ると葉山が歩いてくるところだった。数人の女子の相手をしているが、愛想は少ない。俺を見つけると女子に手を合わせこちらに駆けてきた。

「おはよう」葉山が笑う。

 戸部の話をしていた時に見せた険しい表情はどこ吹く風。秋風のような爽やかさだった。それがまた、俺の不機嫌を煽る。

「ああ」ぶっきらぼうに答え、フェンスを背にして腰を下ろした。靴ひもを結ぶ。

 葉山はチラリと周りを窺い俺の横に座る。胸中の靄が濃くなる。

 アプローチの方法をあれこれ考えていたが、葉山の姿を見るとどうでもよくなってしまった。手榴弾を溢すような気持ちで打ち出す。

「殴ったんだって?」葉山の手が止まった。「遥って奴を」

 こちらを向いた葉山の視線は怒りや当惑といった感情が読み取れる。しかし、どれも何故という表題に隠されていた。

「な…」葉山の口がパクパクと動く。声は出ない。

「心配すんな、情報が流れたわけじゃない。数少ない知ってる人から教えてもらっただけだ。その人も情報を漏らす気はないし、もちろん俺にもない」一色が狙った教師が一瞬頭をよぎった。

 俺の言葉を聞くと警戒の泡がはじけたのか、安堵の色が見える。

「そうか」再び靴紐に手をかけた。「聞いたか」

 しかし葉山はそれ以上言う事はないと判断し、言葉を切る。はっきりとしない態度に俺はまた煮え湯飲まされた気分になった。どんなお門違いだろうと、そんな気分が湧いてきた。

「なんで避けるんだ。暴力沙汰なんて共犯でもない限り、影響なんて及ばないだろ」少し早口になった。

 共犯と言う言葉が咄嗟に出たのは、平塚先生のセリフからだろう。

「……もう、迷惑は掛けられないんだ」一瞬、逡巡が見えたが、葉山は同じ言葉を繰り返す。

「だから、その迷惑がかかるような関係じゃないって言ってんだ」俺は何を焦っているのだろうか。「親や教師ならともかく、ただのクラスメイトに何がある」現に、と続ける。「現に俺とこうして過ごしてるだろ」

 葉山の口から乾いた笑いが洩れた。

「はは、それでも迷惑は掛けられないんだ。聞いたんだろう? 俺がこの大学に来た理由も」上目遣いでこちらを窺う。それに首肯で答えると葉山はため息をついた。「弁護士っていうのは大変らしくてね。実績もそうだけどそれ以上に信頼がものをいうんだ。俺の犯した罪の所為で、多くの場面で責任を取らされた。何度も何度も頭を下げていたよ」

 自嘲気味に言ってはいるが、そこに親を馬鹿にするような感情が微塵もないことは受け取れた。ただ、泳いだままの視線が何かに怯えている。そんな雰囲気を醸し出していた。

「でも、もう終わったんだろ」確認するように、もしかしたら念を押すように言った。

「ああ、終わったさ」葉山は遠くを見つめる。薄くかかった雲の隙間に、希望を見つけ出そうと目を細める。「関係がね」

「関係…?」いつの間にか立っていた体育教師が集合の声を上げる。葉山は立ち上がり、俺はその背中を追った。「お前は…、お前は何に怯えているんだ」

 葉山の足がピタッと止まる。ゆっくり振り返ると、口を動かした。

「そうだ、俺は怖いんだ。自分の汚点を晒されるのが。だから知っている人間を近くに置きたくない。これじゃダメか?」声が苛つきを伴って届く。

 そんな、嘘を嘘だと隠さない言い方を、彼はする。

 お前もか、と思う。

 葉山は俺に背を向ける。

 その日、彼が声を発することはなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 コール音が一回なったところで、電波がつながる気配が分かった。『は、はい』相手が出る。

「一色か」体育終わりの大学を歩きながら電話を掛けていた。もう総武校の授業は終わっている時間だ。

『はい! あれでよかったですか?」一色の声はおっかなびっくりに発せられた。

「ああ、大丈夫だ。さんきゅーな」一色に頼んでいたのは、遥という女子生徒の進学先の調査だった。できる限りの事は調べておこうと動いた。「どうやって調べたんだ?」

『ちょっと生徒会に提案をしまして』

「提案?」

『はい、私まだ生徒会に顔きくので、従順な部下もいますし』

 一色のあざとい顔と、それに振り回されるかわ…川なんとかさんの弟、川崎大志の顔が浮かんだ。たしか副会長をやっていたはずだ。

『〈OB・OGの声〉っていう企画を提案したんですよ。大学進学した先輩にアポをとって、どうやって勉強しましたかーとか、どんな気分転換しましたかーっていうインタビューをするんです。それを学校の掲示板とかプリントにまとめて受験生を応援しよう! という』

「おお…それを受験生が提案するのね…」

『せんぱいが発端なんですけど』一色の声が低くなる。怖い。

「そうだよな、すまん…」

『あ、いや、全然いいんですけど…。とにかく! それで名簿を見せてもらって、その遥って人の行った大学を調べたんです』

「すげえな」ほんと、有能だ。雪ノ下が褒めるのも頷ける。

『そんなことないです…』一色の声が沈んだ。動画の事を未だ気にしているのだろう。『せんぱい…』

「なんだ」

『あの、ごめんなさい…』

「はあ…」頭を掻く。いつの間にかベンチに座っていた。「いいって言ってるだろ、何度も言わせんな」

『でも…』

「ほら、俺今大学にいるけど誰も見てねえぞ」

『それは先輩の影が薄いからじゃ…』

「そうそう、だから気にすんな。なんも起きてないから」

『はい…すみません…』

 再び謝られ、さらに一言小言でもと思ったが、何の気なしに上げた視線がぶつかる。戸部がいた。「すまん、切る」

『え?』

「調べてくれてサンキューな」

 赤く表示されたボタンをタップしながら立ち上がる。戸部が俺に背を向けたのが分かった。肩に鞄を掛け、踏み出したところで視界がぶれる。戸部が,揺れる。

 力が入らなかった。膝がなくなった気がした。実際にはそんなことはないのだが、痛みが走る。膝をついていた。地面が近い。手を突く。まただ。

「うっ…」頭が痛い。

 戸部の掛け声が聞こえた。また吐き気がする。ただ、この間よりはマシだった。

「ヒキタニ君! 大丈夫!?」

 耳元で声がする。今は縋るしかなかった。

「はあっ…、すまん…。トイレ…」

 体育会系は慣れているのか、言葉を察してすぐに動いた。脇に手を入れ身体を持ち上げる。俺は膝の存在を意識するように力を込めた。ほとんど引き摺るように、歩く。幸い近くにトイレはあり、そこに向かうようだ。戸部は邪魔だったのか、背負っていたはずのリュックをベンチに置いて来ていた。こういう所か、と思った。

 空いていた個室で、胃の中身を吐ききった。

 

 

―――

 

 

 戸部に連れられた場所は、教務課がある棟だった。そこに救護室があるそうだ。

「っべー、ヒキタニ君辛くない?」俺を支える形で進む。

「超つらい」

「っべー、もう少しだから!」励ますように声を上げる。

 無機質な棟内で、そこだけがパステルカラーの色合いだった。見るのも、もちろん使うのも初めてだ。踏み入れると保健室と同じような造りで、違うのはポスターの内容くらいだった。中学高校はインフルや怪我の情報が多かったが、大学は妊娠やカウンセリングといった文字が目に入る。

 養護教諭といっていいのか、白衣の女性が迎え入れた。

「あら、どうしたの?」言いながら、椅子を用意し始める。しかし俺の姿を上から下まで見るや、ベッドへと促した。

「なんか体調不良みたいで…」戸部が先に口を開く。

 ベッドに腰掛けると状態の説明をした。座るのが辛かったら横になっていいと言われ、甘えることにした。

「ー―貧血だね」俺のシャツを直しながら、断言する。「立ち上がった時にふらついたんでしょ?」

「そうです!」何故か戸部が叫び、俺と白衣の女性は顔を見合わせた。

「ふふ、お友達?」

 何の気なしに聞いてきたのだろうが、会話が止まる。そうだとも、そうでないとも答えられたからだろうか。なんにせよ俺が言う事ではなかった。

 シャツのボタンを閉めていると、時計が目に入る。今日は木曜日だ。

「……あの、すみません、バイト先に電話してもいいですか」

「ええ、いいわよ」白衣の女性はなにやら紙に記入しながら了承してくれた。

 ポケットから携帯を取り出し、横になったまま電話を掛けていると、見知らぬ学生が戸部と俺の荷物を届けに救護室に来た。耳に携帯を当てながらその様子を見つめる。戸部が応対し、笑顔で礼を言っていた。

「…はい。…はい、すみません。ありがとうございます」

 電話口に出たのは社員で、休みをもらった。来いと言われても無理そうだったので助かった。

「じゃあ、体調良くなるまで休んでていいから」そう言い残し、白衣の女性は部屋の奥に消える。

 高校の保健室の様に何個もベッドがあるわけではなく、ひとつしかないそれに俺が、横に置かれた椅子に戸部が残された。気まずい沈黙が流れるが、俺にも礼儀はある。

「すまん、助かった」身体を起こし、頭を下げる。

「ちょっ、いいっていいって横になって!」慌てた様子で俺の肩を押し、そのまま倒された。枕で頭が跳ねる。「っべー、ヒキタニ君貧血持ちだったっけ」

 戸部の視線は気遣い、労わったものだった。気恥ずかしくなり目を逸らす。

「いや、そんなことないはずなんだが…」

「っべー、まあでも、部活やってた時も突然倒れる奴いたし、大丈夫大丈夫!」

「何が大丈夫なんだそれ…」

 戸部は俺を元気づけようとしたのか、過去の話をし始めた。

「夏場とかやっぱりヤバくて! あいつ水分あんまり取ってないなーって見てたらふらふらし始めんの!」嬉々として話しながらも、俺に気を付けた方がいいと警告をしてくれているようだった。「一度に二人倒れた時はもうやっべー! って感じだったから!」

「それは大変だったな」

 戸部の話に相槌を打ちながら、その光景を頭に思い浮かべてみる。サッカー部の練習で中心となる葉山と、元気よく走る戸部。倒れたチームメイトを助けるために動く二人。

 気分が晴れ、胃の中身を吐ききった今だからか、思考が冴えた。頭が回った。戸部を見る。「……おまえ、いたのか」

「……?」戸部は首をひねる。

「葉山が殴った時」

 戸部の眼が、見開かれた。

 

 葉山は口を滑らせた。『自分の汚点を晒されるのが。だから知っている人間を近くに置きたくない』知っている人間。それは殴った当人。殴られた被害者。教師。親。それだけだ。情報を規制した。遥という女子生徒のリークも委員側にだけで留まった。彼女が再び喋り出す恐れもある。しかし現時点でその状況にはない。ならば…。

 

「三浦と海老名さんは知らない」俺が目を見ると戸部の肩がビクついた。「あいつらはフラれたのを原因だと思ってる。でも葉山は別の理由で避けてると言った」

「っべー…ヒキタニ君…何言ってんの…?」目が泳ぎ、語尾が震えている。

「そこにいたんだろ、戸部」

 戸部は黙って俯いた。

「何があったんだ。何をしたんだ」懇願するよう、叫ぶ。「なあ、戸部」

 二人だけの世界で、俺の声だけが響いていた。

 

 

 

***

 

 

 

 

 改札を抜け円形に造られたロータリーを見渡す。目当ての車は存在せず、手持無沙汰に自販機へと近づく。小銭を入れ、ボタンを押すとマッ缶が落ちてきた。

 再びロータリーに首を巡らせながらプルタブに指をかける。しかしうまくいかず、指先に痛みだけが蓄積されていった。爪をひっかけても剥がれそうなるだけだ。

「はぁ……」

 開かないマッ缶をだらりと下げ、空を見上げる。身体の調子は戻ったが座り込みたい気分だった。ベンチを見つけ、ロータリーに背を向けて腰を落ち着ける。再びプルタブと格闘を始める。

 

 戸部の依頼の全容は把握した。

 本質に変わりはなかった。葉山へ謝罪がしたい。最初からそれだけだった。もちろん関係の再構築も望んでいる。しかしそれが無理なことは戸部自身が一番よく分かっていた。

 推薦入学に必要な条件は無事に卒業すること。それを戸部は守れなかった、はずだった。教師が見ている前で手を上げようとした戸部を抑え、わざと注目を集めるように騒ぎを起こした葉山。自分を庇った葉山は問題行動として教師間で丁重に扱われたものの、弁護士である親がそれを見過ごす訳もなく。葉山の処遇は決まった。

 すべて、戸部の横を並走するよう、でも交わらぬよう行われたことだった。

 自分を庇ってくれた葉山を何度も助けようとした。しかし、それではすべてが水の泡になってしまう。葉山が守ろうとしたものを台無しにしてしまう。戸部は身動きが取れなかった。

 やがて高校生活は終わり、ついに葉山と交わることはなかったそうだ。自己嫌悪に陥り、一時は大学進学を辞退することまで考えたという。だがその度に喜んでくれた両親や先生、そして人生に傷を残した葉山の顔が浮かんでしまい、ズルズルとここまで来てしまった。

 大学に入学して驚いただろう。もう一生交わってはいけない相手が目の前に現れたのだ。思わず話しかけ、そして拒絶された。

「もしあの女が過去を暴露した時、俺と戸部の関係はない方がいい」

 それは唯一、葉山と戸部、遥という歪な三角形が生み出したパンドラの箱だった。

 行く当てのない暗闇に取り残された戸部は思わず頼ってしまったという。そう、俺に。比企谷八幡に。

 どうしようもない。どうすることもできないと分かっているのに依頼をしてしまった。葉山と戸部の、身体と感情が乖離したような行動はそれが原因だろう。

 葉山は危惧しているのだ。常に戸部の身を案じ、行動してきた。

 話し終えた戸部は俺に頭を下げ、救護室を出ていった。

 それは依頼の終了を意味しているのだろう。

 比企谷八幡の延長戦は、終わった。

 

「終わった、のか…」ぬるく湿る空気に、そっと吐き出した。

 自分が縋っていたものが、ハリボテだと分かり倒れそうになる。葉山が求めた理想郷には、三浦と海老名さん、そして戸部がいるのだろう。大岡は問題外だったが、大和の方もダメだった。元々その程度だったということだ。

 救えない。活動ができない。依頼を達成できない。

 俺の価値が、無い。

「くそっ……!」

 立ち上がり自販機横のごみ箱に向かって、飲み切った缶を投げる。ライナー気味の軌道を描きそれは届く。並んだゴミ箱の空き缶入れに弾かれ、燃えるゴミの方に入った。甲高い音が響き、視界の端で女性が離れていくのが見えた。

 追い求めていた本物は、蜃気楼のように消えてなくなった。

 手を伸ばしていたそれは、誰も望まない。誰も望めない。一縷の希望も存在しえない、四方を壁に阻まれた箱だった。あの教室のように、誰も踏み入れることのできない。もう、手に入らない。

 知らず、冷たいものが頬を伝った。一瞬雨が降り始めたのかと思ったが、空を見上げても星空が広がるだけだ。

「はは……」どうしようもなくなると、人は笑うのだろうか。いや、そんなことはない。多分、嗤っているのだ。それにしか縋れず、なくなった途端に折れる自分を。

 崩れ落ちるように、ベンチに座る。振動でまた一筋、涙が頬を流れ落ちる。

 有限だと分かっていたのにそれを選ばず、仮初の永遠に身を置いた自分を。

 選ばないことを選ばせ、仮初の永遠に閉じ込めた彼女らを。

 そして、例え過去に戻ったとしても選べない今の自分を。

 流せるのなら、涙で流して終わらせてくれ。

 

 醜くすすり泣いていたから、背後に車が止まるのに気付かなかったのだろう。

 隠そうと顔を覆っていたから、伸びてきた手に気付かなかったのだろう。

 背中に体温を感じる。身体に手を回された。

 多分。

 恐らく。

 自惚れかもしれない。

 勘違いかもしれない。

 ただ一人。

 愛してくれている。

 雪ノ下陽乃が、いた。

「よしよし」後ろから抱き締め、頭を撫でられる。

 恥ずかしく、服の袖で目元を拭う。止まらない涙を何度も拭う。鼻水を啜り、顔を隠す。

「すみま…せん…」呼吸が下手になる。

「大丈夫、大丈夫」何度も何度も髪を撫でられ、指で梳かれる。「おいで」

 手を引かれ、白い外車に乗せられた。

「シートベルトだけはしてね?」陽乃さんは優しい音色で囁く。俺の動きを確認してギアを入れる。チラと見るとマニュアル車であることが分かった。

 変速に伴う振動も感じさせず、しなやかさを見せて車は走る。

 涙を拭った汚い手は自分の鞄を漁るのも躊躇するほどだというのに、彼女はそれを握り込む。抱き締めるように、包み込む。

 行き先を見失った暗闇で、それだけが光だった。

 心に安堵が広がり、意識が遠のくのが分かった。今だけは、今だけは、と誰に言い訳するでもなく眠りについた。

 

 

―――

 

 

 目を開けた時には暗闇だった。何度か瞬きをして瞳孔が調節するのを促す。徐々に光を集めると剥き出しの鉄骨が視界に入った。

 横で何かが動く気配がありそちらへ首を動かす。座席の下に腕を伸ばし、シートを下げる陽乃さんがいた。目が合う。

「あ、おはよう。比企谷君」

 目尻を下げ、口角を上げる仕草はいつもと変わらず、今の俺には安心感をもたらした。肩の力が抜けていくのが分かる。

「おはよう…ございます」覚醒に向けて姿勢を直す。見慣れない布が身体にかかっていた。「あ、すみません」それを持ち上げると、カーディガンであることが分かった。

「ううん、寒くなかった?」俺からそれを受け取ると、そのまま袖を通す。

「ええ、大丈夫です」

 眠る前を思い出し頬に手を当てるが、涙の流れた後はなかった。不思議がっていると陽乃さんが口を開く。

「母に確認したわ」俺がメールをした件だろう。結局雪ノ下にはまだ送っていない。「そしたら『葉山なんて知らないわ』なんて言うの」

 絶対零度の冷血モンスター。雪ノ下と陽乃さんの母親なだけある。と思ったが意外にも陽乃さんの顔は晴れやかだった。「流石よね」

「さすが?」

「ええ、母の顔は一片の曇りもなかった。やるべきことをした顔だったわ。葉山家にとって何が最善なのかを判断したんでしょうね」

 俺は陽乃さんの言っている意味が分からず、首を傾げる。陽乃さんはこちらを一瞥すると俺の頭に手を伸ばした。優しく、撫でる。

「雪ノ下家だもの、お抱え弁護士なんていくらでも守れるわ。圧力かけて仕事回して、信頼を回復する手助けは造作もない。でも、そうはしない」

「……葉山家の為にならないから?」子供のように扱われるが、不思議と嫌な気分ではない。素直に言葉が出てきた。

「そう、今助けたら葉山という名前にずっと雪ノ下家という枷が付きまとうことになるわ。未来に向けて様々な障害を生んでしまう」彼女は微笑んだまま続ける。「それに、これぐらいの試練であれば葉山家に任せておけばいずれ戻ってくると確信した顔だったわ」

 流石、雪ノ下と陽乃さんの母親なだけある。とまた思ってしまった。底知れぬ懐の深さは母親譲りか。

「そうですか…」ポンポンと頭を数回叩かれ、手は離れた。

「うん、黙っていたことは腹が立ったけどね」陽乃さんは困ったように笑う。

「問題がなければ、良かったです」

 それに、もう俺にはどうでもよかった。依頼主もいない。首を突っ込む道理も意味もない。価値なんて、どこにもない。

 心が拗ねているのか、自然と俯く。気付いたら唇を噛んでいた。

「ありがとう」耳に届く。顔を上げると、陽乃さんが抱き締めてくる。「ありがとう、探してくれて」

 喉仏が抑えられ、少し苦しい。

 苦しいから、涙が出たのだと思う。

「ぐ…うっ…」

 堪えても、洩れる。

 彼女も依頼主だった。俺に助けを求め、こうして抱き締めてくれた。認めてくれた。

 自己肯定が追い付かなかった。

 背中に回された手が、トントンと優しく叩く。繰り返し、繰り返し、優しく叩く。

 自分の手が陽乃さんの服を握りしめているのに気付いたのは、離れる直前だった。

 

 朦朧とする意識の中、子供みたいに手を引かれ、連れられる。車を降りてすぐに自動ドアをくぐった。目の前には大きなパネルがあり、沢山の部屋番号と簡単な写真が載っている。

 陽乃さんは淀みない動作で指を動かし、上の方に表示された部屋を押した。

 出てきたルームカードを慣れた手つきで取り出すと、俺をエレベーターへと引っ張る。覚束ない足元を気遣い、ゆっくりと動く。

 繋いだ手は離れない。マンションのような扉の前、電気が点滅している。なすがままに身を委ねていると、背後で扉が閉まった。

 口を塞がれた。眼前には長い睫毛が焦点を外して映る。ぼやけたそれに恐れを抱き、彼女の背中に手を回す。確かに存在する身体に、緊張が解けた。

「…っはぁ」唇が離れる。

 陽乃さんは優しく頬笑むと、片手で器用にパンプスを脱いだ。それに続きつんのめるように靴を脱ぐ。

 広い空間へと手を引かれながら振り返ると、靴が絡まるように転がっていた。

 意識はあるのに、半分眠っているような雰囲気に頭がくらくらする。泳ぎ続けるイルカはこんな気分なのだろうか。

 陽乃さんに促され、ベッドに腰掛ける。救護室のベッドと全然違うな、なんて考えていると肩に手を置かれる。そのまま体重をかけられ、倒された。天井には無駄に煌めく電飾がぶら下がっている。

 影がかかる。

 彼女の顔だった。耳元に揺れるそれが赤い警告色に見えてきた。赤く、赫く、引き返せと鳴らす。

 生の色だと思った。赤は生だ。流れる命は、赤色をしている。三浦の気持ちが少し分かったかもしれない。

「んっ……」また、塞がれた。陽乃さんの吐息が鼓膜から脳を反芻する。体重がかかり、彼女がいつの間にか俺に跨っていることに気付く。「ん…口、あけて」妖しい囁きに、従う。

 生き物が侵入してくる。

 思考が溶ける。彼女の赤い情熱に、溶ける。俺の口内を犯す。熱く熱く、爛れるような深いキスを続ける。

 時間を忘れるとはこのことだろうか、何秒何分、もしかしたら何十分かもしれない。このまま一緒に溶けてしまいそうな頃、口が離れた。舌が痙攣している。

 陽乃さんが身体を起こした。気付いた時には一部分に血液が流れていて、痛いくらいに主張している。ジーンズのチャックを壊そうともがいているようだ。その膨らみに手が添えられた。

 視線を持ち上げると、陽乃さんの嬉しそうな顔がある。恍惚という表現がぴったりの、意識が軽くトリップしているようにも見えた。

「…苦しいよね、ごめんね」そう言い、彼女はチャックに指をかける。

 いつかの様な吐き気も、意識が急降下するような感覚もなかった。堕ちている。堕ちて、いる。

 今、堕ちていることが分かる。夢であることを認識した時の様な感覚がある。ただ、夢と同じよう、抗うことはできない。分かっていても、抵抗する術はない。用意された道筋を辿るだけ。ストーリーテラーが展開する物語を成立させる為に、生きている。

 この場所の語り手は、目の前の彼女だ。今にも咥えようとしている。彼女だ。

 瞼を、閉じる。

 

 きっと、向日葵が枯れようともこの夏の事は忘れない。残暑の記憶は、身体と心に焼き付いた。心臓の奥。俺だけがいける世界で、彼女は立っている。

 ピントがぼやけるからなんて、見守っていては捕まえることはできない。

 笑って泣いて、すべてを曝け出して、それが”本物”となる。

 

「――好きですよ、陽乃さん」

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 城廻めぐりは振り返る。

 

「あちゃー」

 幼児向け絵本の置かれた玩具コーナー。電話やお店屋さん、電車ごっこなど種類は多く、見本を置いているものも多い。

 先ほど小さい子の楽しそうな声がしていたが、このおもちゃで遊んでいたのだろう。乱雑に散らかり、プラスチックの破片が転がっていた。他の子が手を切るといけなので、手早く集めた。破片の主である見本は回収し、破損と書いたメモ用紙を張り付ける。バックヤードの返本棚に置いておいた。

 チラリと設置されたデジタル時計に目を向ける。10月31日。ハロウィンだ。今頃イベントができそうな広場にはコスプレお化けの大行列だろう。ケガする人とかいないといいけど。

 そういえばさっきアニメのキャラクターの格好をしたお客さんがいた。白い身体に所々紫色の装飾があった。全身タイツはコスプレに入るのか。曖昧なラインはよくわからない。

 再び売り場に戻る。無事だった見本を元の位置に戻し、商品整理を再開した。時間も遅く、子供の姿は見当たらない為、アンパンマンの映像を電源ごと切った。アナログ時代から使っているテレビはプツンと音を鳴らし、眠る。自動ドアの開く気配がした。いらっしゃいませは、言わない。

 チラリと見ると、ひとりの警察官がいた。いや、コスプレ? じゃらじゃらと付けた装飾や白いヘルメットは本物のようだ。でも警察官は二人一組で行動するって聞いたことあるしニセモノかな。レジを担当している男の先輩も、戸惑った表情をしている。助け舟を出そうか迷ったが、やめた。

 

 商品棚を綺麗にしつつ店を一周する頃には警察官は姿を消していた。レジに戻り、閉店準備をしようとしたところで先輩に声を掛けられる。「ねえ、さっきの見た?」

「何のことですか?」しらばっくれる。大分上手になった方だ。

「警官警官」先輩の声は少し興奮していた。

「警察ですか?」

「そうそう、さっき来てさ」と言い、チラリと自動ドアを示す。「一瞬コスプレかと思ったけど、本物だった」本物という言葉にギクリとしたが、続く言葉に動けなくる。「最近不審者情報が寄せられてるらしくて、警戒を強化しますだって」

 取り出した鍵を落とした。

「あ」ゆっくりと、拾う。先輩は特に気にしていないようだ。

「紛らわしいよなー、ハロウィンに来られても困るって」

 困るのは警察官の方だろう、とは言わなかった。

「…カギ閉めてきます」

「おねがいしまーす」先輩の気の抜けた声に、普通は気にしないのかと少し気を緩める。

 店外にあるトイレへ向かい、多目的トイレから覗く。人はおらず、鍵をかけた。女子トイレも同じように鍵をかける。男子トイレに足を向けたところで、ゾッとして後ろを向いた。しかし何かあるわけでもなく、店内から漏れ出た光が筋となって伸びているだけだった。

「…はあ」安堵のため息をついたところで、そういえば比企谷君と閉店作業する時はトイレの鍵閉めたことなかったなと思う。暗闇で危ないからだろうか。

 急に扉が開き、仰け反る。

「うおっ」男性が出てきた。

「あ、す、すみません!」通路を開け身体を縮こまらせる。早くどこか行ってくれと願う。

 男性客はこちらを見ると、上から下まで身体を舐めるように視線を動かしてから去っていった。鳥肌が立つのが分かる。両腕で身体を抱きかかえるように、震えを押さえる。

「大丈夫、大丈夫」自分に言い聞かせるよう、呟く。

 嫌な臭いに顔をしかめながら、鍵を閉めた。

 白い光を放つ店内に戻ると、ほっと息を吐く。

 そういえば最近比企谷君の様子がおかしいな。振り返り、閉まり始める自動ドアを見つめる。上の空なのは今迄もあったことだが、なんだか様子がおかしい。具体的には言えないが、おかしい。

 扉が、閉まる。

 

 ――私は、あまり好きじゃない。

 

 

 

 




 読んでくださってありがとうございます。
 次は11月になる、はずです。

 意見、感想、アドバイスなんでもお待ちしております。
 では、また。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

-a false image -
ask for help


こんにちは、お久しぶりです。
11月から、ということに一応なっています。
タイトルは今までと違うものにしたくて、取り敢えずこれにしました。

そもそも拙い文章力にも関わらず、書き方を変えたので読みづらさは増してるかもしれません。すみません。

沢山の感想ありがとうございます。誤字報告も助かってます。

受け入れづらい内容かもしれませんが、もしよろしければ読んで頂けると嬉しいです。
また、お手すきの際にどうぞ。



 

 

 比企谷八幡は虚像に染まる。

 

 微睡の中、ゆっくりと瞼を持ち上げる。横を向いて寝ていたのだろう、白いシーツが視界の右側に広がっていた。その先には肩甲骨が浮き出た白い背中があった。耳を澄ませるとすうすうと寝息が聞こえてきた。

 起こさないように動き、ベッドから這い出る。何も身に付けていない自分の身体を見下ろし、横のソファに掛けられていたバスローブを手に取った。袖を通しながら部屋を見渡すが、時計はない。仕方なくガラステーブルに置いてある携帯を見る。夜中の三時だった。

 携帯を元の位置に戻そうとして、やめる。ベッドに視線を送る。乱れたシーツからは左足が覗き、装飾された爪が光った。指を動かし、携帯を横たわる彼女に向けた。画面には広角に処理されたベッド全体が映る。枕元に設置されたスイッチの類や小さな正方形、ティッシュ箱が生々しさを残して画になる。

 こんなにも無防備で。

 シャッターを切らず、電源ボタンを押してベッドに放り投げた。携帯が跳ねた先には黒いショーツが無造作に丸められていて、昨夜剥ぎ取った記憶が甦った。

 それを無視して風呂場に移動する。身体に残る液体が乾き、肌にこびりつくのが不快だった。ローブを脱ぎ、風呂へ続くドアを開けた。少し大きな音が鳴ったが、別に気を遣う事でもなかったと思い出す。

 蛇口を捻り、身体を流す。ぬるま湯が丁度良かった。熱くも冷たくもない、その程度がお似合いだった。

 

 風呂場を出ると、正面の洗面台の下に手を伸ばす。昨日使ったものではないタオルを取り出す為だ。さほど濡れていない頭を一撫でしてから身体を拭いた。鏡に映る自分を見て、顔をしかめる。

 これまた新品のバスローブを着て、リビングとも呼べる広い部屋に戻る。先ほどのソファに腰掛け中央に鎮座する大きなベッドを見ると寝室かもしれないなと思った。物音に気付いたのかベッドの彼女が動き始める。モゾモゾと動き、シーツが剥がれる。剥き出しとなった両足は白く細い。羞恥心もクソもない。陰部を隠そうともしない女に軽く嫌悪する。

 携帯が震えた。ベッドの上でブルブルと震えている。手を伸ばし画面を確認する。

『雪ノ下陽乃』

 そう表示された画面を確認して緑色のボタンをタップする。耳に当てるとベッドに転がる彼女を一瞥した。更に視線を持ち上げると巨大な鏡が置かれていて、自らの姿を映す。染まった自分を克明に、嘲笑いながら映し出す。

 携帯を握る手に力が入った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 玉縄は呆然としながら、金髪に染まった比企谷と黒髪ボブの女生徒を見送った。並んで歩く二人の背中は暗く、白に近い金髪だけが痛々しく光っていた。

 

 教室に入ってきた比企谷を見て、玉縄は思わず絶句した。もちろん、大学には色々な学生がいて金髪など珍しくないが、まさか彼が染めるとは思わなかった。似たり寄ったりの人間の中で少しのアイデンティティを確立しようと必死に変化をつける気持ちも分からなくない。しかし彼の個性はそんなところではないと感じていた。

 比企谷ほど地味で強烈な個性を玉縄は見たことがなかった。

「どうしたんだい」と訊いたが、「別に」と言い残し見たことのない眼鏡をかけた。確かに髪を染める理由なんていくらでもあるし、いち友達が口出しすることではないが。

 髪は金髪で、フレームの細い眼鏡をかけた彼はもはや別人で、男から見ても整っていると言える顔をしていた。心なしか目元の隈も消えているように見えた。

 何より驚いたのは授業後だ、教室の右側の席にいた女子生徒が比企谷に話しかけてきた。肩にかからないくらいの黒髪ショートヘアで毛先が内に巻いている。一般的にはボブヘアというのだろうか。名前を意識したことはなかったが、いつも一人で授業を受けていてクールな女性という印象だった。常に周りを見渡している女子生徒の中では異彩を放っていて、少しいいなと思っていただけに玉縄は関係が気になった。

 席から少し離れた彼らに耳を澄ませながら教室を見渡すと、滅多に口を開かない二人に興味をもった数人の生徒が手持無沙汰に残っていた。

 教卓で生徒の質問に答える英語教師の声がうるさく、所々の単語しか聞き取れなかった。準備講座だとか、ツイッター、動画、御飯などと聞こえたが、会話の内容はついに聞き取れなかった。

 

 去っていく後ろ姿、黒髪ボブの彼女はショートパンツから細い脚を惜しげもなく披露していて、通り過ぎる男子生徒の視線を釘付けにしていた。かくいう玉縄もご多分に漏れず視線を剥がせずにいたが、この半年で聞きなれた笑い声が横を通り過ぎ、ハッとなる。奥の教室から戸部が出てきていたのだろう。玉縄は手を上げた。

「あっ、戸部君!」

「っべー! でさー、ん?」戸部は玉縄に気付くと周りの学生に手を合わせる。「ちょ、ごめんね先帰ってて!」少しの駆け足で戻ってくると玉縄の前で止まる。「玉縄君どしたの」

「あ、いや、ちょっと彼の様子が」玉縄は戸部の身体の奥を覗くようにする。

「彼?」戸部は廊下の先を振り返り、手を帽子の鍔に見立てて遠くを見る。

「あの金髪の!」指をさす。

「っべー。すげー金色じゃん!」戸部は言い、口笛を吹いた。「で、あいつがどしたの?」

「あれ比企谷君なんだよ!」

 玉縄が叫ぶと、戸部は目を丸くして再び廊下の先を見た。しかし既に角を曲がっていたのか、二人の姿はなかった。

 何か悪いことが起きているような、でも何が悪いのか分からない、そんなあの会議にも似た暗雲が胸に立ち込めるのを、玉縄は抑え込めなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「ほあーーー! なんのおおおーーー!!」

「剣豪さんうるさいです」

「早く負けを認めてくださいよ」

 秦野と相模に横から、ついでに画面内でも詰め寄られ、材木座はしどろもどろに口と手を動かす。ボタンとレバーを操作し、二対一の状況を何とか脱しようともがく。

「ぬおおおおお、今こそ目覚めよ邪眼! 高速十六連撃いいいい!!」

 カチャカチャとボタンをならし、画面内の重戦士が剣を振る。ブンブンと唸るそれを秦野と相模の操作するキャラが颯爽と躱す。ついでにカウンターも喰らい、体力ゲージが三割を切った。

「剣豪さんが悪いんですよ」相模が性格悪そうに笑う。

「そうそう、コンピュータと組むから二人でかかってこいとか言うから」秦野も続けて笑った。

 騒がしいゲームセンター内は人の声を遮断する。叫び声に近い声量で声を発しないと届かない。一人で来る時は周りの会話も気にならず、逆に不干渉という妙な連帯感が漂う。

「ふはははは! 我の力は三割を切ってから跳ね上がるのだああああ!」

 材木座は自分を鼓舞するセリフを叫び、秦野と相模を一瞥した。するとその先に赤いチェックのプリーツスカートが見えた。視線を少し持ち上げると、プリクラを撮りに来た女子高生がこちらをドン引きといった表情で見ている。これだからプリクラとゲームコーナーを一緒に設置する店は!

「もらった!」秦野が叫ぶ。

「あ」材木座の操作するキャラが勢いよく吹っ飛び、画面端の見えない壁にぶつかった。体力が一割を切った。

「もう終わりですね剣豪さん。どうします? 十秒くらい攻撃させてあげましょうか」

 相模は眼鏡をクイッと上げ、挑発してくる。

「ぐぬぬ…」

 そこで微かに、材木座は胸ポケットでメロディが鳴っていることに気付いた。手を添えると確かに震えている。

「なんですか? 心臓でも捧げるんで…」材木座は秦野の追い打ちを手で制す。ポケットから携帯を取り出すと勢いよく立ち上がった。「すまぬ、緊急指令だ。今回はドローにしてやる!」

 そう言い残し、店外へと続く階段へ走る。背後では「うわセコっ!」「逃げたぞ!」と叫ぶ声がした。構わず走る。女子高生の横を通り過ぎるときに悲鳴が上がったのは気のせ、気のせいの筈…。

 

 店外へと出ると、夏も終わりの清々しい風が吹いていた。材木座はぜえぜえと吐き出す息を整え、携帯を耳に当てた。「我だ」

『材木座、今いいか』懐かしい声だ。

「ああ、グッドタイミングだ相棒」

『気持ち悪い、頼みがある』

「んんーー? その枕詞いるー? ねえ、いるー?」材木座はひとつ息を吐いた。長らく連絡してこなかったかつての同志からの頼み。八幡が人に頼みごとをするときは決まって追い詰められている時だと知っている。「けぷこんけぷこん、話してみよ、相棒」

『だからキモ…、いや、助かる。調べてほしいことがあるんだ』

「我にできることなら」材木座はかつて一緒になって苦難(体育)を乗り越えた相棒を馳せ、西の空に目を向けた。「弱者に手を差し伸べる我、超かっこいい」

 ふっ、と笑い。電話口からの軽口を待つ。が、応答がない。四秒、八秒、そろそろ口を開こうかというところでようやく聞こえてくる。

「……ありがとな」

「お、おっふ、いいいいってことよ」材木座の舌は戸惑いで事故を起こした。

 依頼内容を聴き終わり電話を切った。かっこいいからと持ち歩いている手帳に記した内容を確認する。難しいことだが、できることはしてやろうと思った。

「何してんすか剣豪さん」

 材木座は自分を呼ぶ声に振り返る。そこには秦野と相模が不思議そうな顔をして立っていた。手には箱に入ったお菓子があり、既に封は開けられていた。

「ふっ、久々の仕事だ」材木座はロングコートをはためかせ、二人に向けて手を伸ばす。「ついてこれるか!」

「え、なんですか」

「よく分かんないですけど、とりあえず嫌です」

 辛辣な物言いに材木座は肩を竦めるが、本当に久しぶりだった。材木座は腰を折る。

「八幡の頼みだ、我たちにしかできない」

 二人は顔を見合わせると、渋々と言った様子で頷いた。

「まあ、姉ちゃんがあれで収まったのはあの人のお陰だし…」相模が呟く。

「受験勉強ばっかで暇だったし…」秦野は言い訳をする。

 材木座は二人の言葉を聞き、腕を天に掲げる。

「よおおし! 剣豪将軍義輝と愉快な仲間たち! いくぞおおおー!」威勢よく足を踏み出した。

「やっぱやめようかな…」

「この人が司令塔かよ…」

 ぶつぶつと溢しながらも、二人は材木座の後ろをついていく。

 材木座は謂れのない不安を拭い、八幡の様子を思い浮かべる。もう一度手帳を開き、そっと『八幡のこと』と書き加えた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「では、ペンを置いてください」

 試験官の声掛けでカチャカチャとペンを置く音が響き渡る。さざ波のように部屋を満たし、流れ出していった。一息吐き、一色は自分の答案用紙を眺める。環境問題に関する論述を求められたそれに一マスだけ残して書ききった。部屋を見渡す。

「解答を回収しますので机の右側に集めてください」

 後ろで足音がして試験官がもう一人いたことに気が付く。それだけ集中していたのか。

 オープンキャンパスで来たことはあったが、こうしてじっくりと教室、いや講義室と言うべきか、見渡すのは初めてで身体が変に硬くなる。最後列に身を置いて、回収していく試験官の後姿を見送る。由比ヶ浜から講義室に時計がないことは聞いていた為、机の上には安物だがシックな腕時計が置かれていた。

 現在、この講義室にいるのは指定校を受けた生徒で、揃いも揃って真面目な顔をしている。一色の亜麻色をした髪もこの場では少し浮いていた。

 せんぱいもこの講義室で受けていたかもと考える。少し胸が躍った。担任に無理を言ってせんぱいと同じ大学を目指してよかった。

「では、試験は以上になります。気を付けてお帰りください」

 一色はその言葉にすぐさま立ち上がり教室を去る。大仰な扉を開けると息苦しい空気から解放され、肩の力が抜けた。首を巡らせ大学の中心部に足を進める。鞄から携帯を取り出し電源を入れる。家のパソコンよりも数倍立ち上がりの早いそれを操作すると新規のメッセージが数件。急いでLINEを開くが『せんぱい』からのメッセージはない。歩く速度は気分に比例し、トボトボと遅くなった。

「はあ…」一色はため息をつく。

 いつの間にか一色の周りに人はいない。入試が行われる期間、大学生は休みだ。由比ヶ浜から訊いたのを一色は思い出す。

 せんぱいの事だから、家で存分に休んでるんだろうなあ。休みに休まないでどうすんだ、とか言いそうだし。

 一色は推薦入試の事を伝えていなかった。何より八幡の驚く顔が見たいと考えていた。ゆっくりと歩き、微かな可能性にかけて大学内を歩き回った。

 階段を降りると少し広い場所に出る。机と椅子が沢山置かれ、学生と思われる男子が数人、コンビニ弁当を広げていた。制服姿の一色を見ると何やらコソコソと話し始めたため、逃れるように角を折れる。

「きゃっ」人とぶつかった。軽く尻もちをついた。

「うおっ! っべー、大丈夫っすか」

「いたたた、すみません大丈…」聴いたことのある言葉遣いに顔を上げる。

「あれ? いろはすじゃね?」戸部が目を丸くしていた。

 一色は差し出された手を握ろうとして、止める。自分の志望している大学内に戸部の姿を確認して、まさかと思う。

「な、なんで戸部先輩がここに」いそいそと立ち上がり、スカートを直す。お尻をパンパンとはたいた。

「なんでって、ここに通ってるからだべ。いろはすこそなんでこんなところに? あ、分かったヒキタニ君に会いに来たんっしょ」

 一色は額に青筋が浮かぶのを認識しながら口角を上げた。

「あはは、試験受けに来たんですよ」お前じゃない、と思いながらキョロキョロと辺りを見渡すがせんぱいの姿は見えない。

「っべー、いろはすもこの大学入るん?」

「ええ、まあ」一色は無駄な雑談に辟易しながら、意を決して口を開いた。「せんぱいもこの大学にいるんですか?」

 阿保面で一色を見ていた戸部が目をパチクリとさせる。「え、俺? 俺はいるよ?」

「いや、戸部先輩じゃなくて」

「あー、ヒキタニ君ね! いるいる、おんなじ経済学部だもん」

 学部は知っている。同じところを受けた。

「へー、そうなんですね。で、今はどこにいるんですか?」

 一色はわざとらしく辺りを見渡す仕草をしたが、戸部の言葉にその努力は無駄になる。「へ? 今日は来てないと思うけど」

「そうですか…」

 半分察してはいたが、そう言われると少し凹んだ。なにより十月の中旬から途切れていた連絡が一色の胸を締め付ける。

「どうしたんいろはす」戸部が気遣わしそうに首を傾げる。

「いえ、なんでもないです」一色は踵を返そうとしたところで、一応聞いておこうと踏みとどまった。「あ、せんぱい元気ですか?」

 何か忙しい用事を抱えていたとしても、大学には来ているのだろう。どんな様子かくらいは確認してもいいのではないか。

「あー……」戸部が頭を掻く。

 かつての部活の先輩が言いづらそうに視線を逸らす。暗澹とした空気が一色の胸に立ち込めた。

「なんですか? 何かあったんですか?」

「いや、別に何も無いは無いんだけど…」戸部はっべー、っべーと言いながら何かを言おうか逡巡している様だった。それに対して一色が口を開こうとすると、すうっと息を吸い込んだのが分かった。一色は言葉を飲み込む。「……き、金髪になった」

「……は?」

 分からなかった。意味が分からなかった。そこら辺の男子学生が髪を染めるのとは訳が違った。一色の頭がパンクしそうになる頃、第二撃が放たれる。

「あとなんか、彼女ができたっぽい…」

「………は?」

 あなたの想い人は既に死んでいました。と言われた気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「どういうことだ陽乃」

 平塚静はかつての教え子を睨みつける。その先にはショットグラスにしなやかな指先を突っ込み、カラカラと氷を撫でる雪ノ下陽乃の姿があった。

「んー? なんのこと?」

 抜いた指をちろりと舐め、赤い舌先が艶やかに光った。

「とぼけるな、私は陽乃と比企谷の事を信頼して応援したんだ」平塚静はテーブルを叩いて主張したくなる気持ちを抑えて言う。「どうして”比企谷の浮気を手伝う”ことになるんだ!」

 バーのカウンター。雪ノ下陽乃は赤いワンピースに身を包んで足を組んでいた。こんな話題がなければハリウッド女優かと指摘し、似合ってると心の底から言っているところだ。

「あはは、浮気じゃないよ。だって付き合ってないんだもの」陽乃は自虐的に笑う。

 その表情が痛々しく、自分の顔まで歪むのが分かった。グラスを撫でていた彼女の腕を掴む。そうでもしていないとこの叫ぶように輝く赤色を失ってしまいそうだった。

「そんなのは間違っている」平塚静は断言する。

「どうして? 何が?」陽乃はこちらを見ない。「あ、マスター同じのもらえる?」

 彼女の腕はこんなに細かっただろうか。握る掌を通して、骨、筋肉、皮膚の頼りなさが伝わってくる。元々握ったことなどないし、たかが数週間で変わるものでもないのだろうが。

「私と比企谷君に世界を教えてくれたのはしずちゃんだよ? それなのに私たちを否定するの?」

「違う。私が伝えたかったのはもっと、もっと…」

「もっと、なに?」陽乃の瞳は見開かれ、今にも雫が零れ落ちそうだった。

 あり方を教えたのは事実だ。歩み寄ってくれる人の存在を提示したのも私だ。しかし私はそんな歪な鍵穴を、認めたわけではなかった。

 いつの間にか掴んでいた手は離れ、雪ノ下陽乃の手はグラスに添えられていた。

「それにしても、比企谷はどうしてそんなことを…」歯を食いしばり、軽い自暴自棄に陥りながら発端を探す。

 カラン。

 オルゴールが流れる店内。その静かな空間で氷が鳴らした音は確かに響いた。それは怒りにも似た、蓋が外れてしまったような、そんな音色だった。

 陽乃の腕がひらめく。視界に捉えた時には振り抜かれていた。

 バチンッと大きな音を立て、左頬が弾かれる。

 脳がそれを認識するとともに、皮膚が沸騰を始める。「は…るの……?」

「あなたたちのせいじゃないっ!」甲高い声が店内に響く。

 陽乃の叫びに呼応するように蛍光灯が明滅した。暖色が包む店内で彼女の周りだけが酷く、冷たい。視界の端画マスターと客が硬直しているのが見えた。

 陽乃は小さなバッグから千円札を数枚取り出し、カウンターに叩きつけると椅子から跳ねるように降りる。踵を返したヒールがカツカツと鳴り、赤色は残像のように揺れた。

 悪い予感が的中したのか、平塚静は拳を握る。

 やはり離さなければよかったと震える視界が訴えてきた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「雪ノ下達には内緒にしておいてくれ」

 そう言った兄の表情は憂いを帯びていて理由も目的も訊くことができなかった。頭を撫でる手がいつもより優しく、それが一層針を刺すようにチクチクと傷んだ。

 静まり返ったリビングで、ピチョン、と蛇口から垂れた水音が反響した。静けさに耳が痛くなる。ソファでくつろぐ小町は、握った携帯を見つめていた。着せ替えをしていないLINEの画面には、『雪ノ下雪乃』『結衣』『いろは』の名前が浮かび上がって見える。そのどれもが優しく存在しているのに、誰も求めてはいけなくて、指が震える。

 兄はバイトに行っていた。そういえばあんな髪色許されるのだろうか。バイト先が認めてくれなくて黒い髪に染め直して帰って来たりしないだろうか。実は金髪は小町の見間違いで、いつもの兄が帰ってこないだろうか。

 兄の表情を思い出すと、そんな儚い願望は無為に思えた。

 画面をスクロールすると『川崎沙希』『平塚静』『雪ノ下陽乃』という名前が出てくる。

 沙希さんは多分知らない。先生はお兄ちゃんの言う”雪ノ下達”に入るような気がする。陽乃さんは。陽乃さんは分からない。全然関係のない気もするし、すべてに関係しているのではないかという気もする。完璧超人な雪乃さんのお姉さん。抱き着いたりなんだりしたがいまいち分からない人だった。

「はあ……」温かい我が家で、自分のため息だけが流れる。この時間が小町はあまり好きじゃない。

 携帯の側面にあるボタンを押すと画面が消える。相談できる人がおらず、途方に暮れた。いっそ両親に相談しようとも考えたが、放任主義がいきすぎて放置主義にまで発展している我が家では期待もできない。

 本人の都合であれば期待も何もないのだが。

 十月の半ば、ある日を境に兄の様子が変わった。本質的なものは変わっていないように見えたが、何かを諦め、逆に何かを強く欲しているような状態だった。「お兄ちゃんの事好きか?」と聞かれた時は戸惑った。思わず「え、その質問は気持ち悪いよお兄ちゃん…」と引いてしまったがあれは正解だったのだろうか。いや、恐らく正解も不正解もないのだ。兄が求めている答えだったのか、その群には入っていたのか、それだけが気がかりだった。

 軽口も返ってこないあの瞬間を、もう少し繋ぎ止めるべきだったのか。

 時計を見る。まだ十時を過ぎたところで兄の帰宅はまだまだだ。まあ、帰ってきたところで聞くことはできないし、話してくれないことは分かっているが。

 そこで、携帯が震えた。震えてもがき、SOSを求めるように曲が流れる。表示された画面を覗くと『いろは』という文字が見える。

 取るべきか一瞬迷ったが、このタイミングには意味があるのではないか。そんな思いが沸き上がった。

 一度拳を握り、それから手を伸ばした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 騒がしかった周辺が途端に静寂を帯びる。そんな雰囲気を葉山は感じていた。

 高校から使っているトレーニングシューズに足を突っ込み、靴紐を固く結ぶ。いつかのニュース番組でやっていた二重に結ぶ方法は中学時代で知った。コンコンとコンクリートの地面を叩き、グラウンドへと歩を進める。

 のんびり歩く葉山の横を友達連れのグループが追い越していく。葉山はそれを見渡し、少し頬が緩むのが分かった。比企谷の気持ちはこんな感じだったのだろうか。いや、彼の場合はもっと酷いか。そう思うと苦笑が洩れる。

 誰も彼もが群れる時代に孤独と生きる。そんな彼も一種の理想を求めていた。俺と同じように。そして彼はそれを手に入れているはずだ。喉から手が出るほど渇望したそれを、彼は自分を律しながら掴み取った。それは誰もが羨望を覚えるほどの美しいものであるはずなのに、誰もが気付いていない。誰も意識していない。

 すべての関係を断っていたにも関わらず、なぜ比企谷とは一緒にいてもいいと思ったのだろうか。酷い奴だから酷いことになっても大丈夫とでも思ったのだろうか。

 いや、既にその答えは知っている。

 俺は頼りたかったのだ。

 彼に助けてほしかったのだ。

 自分から絶望の淵に立ち、いっそ踏み外した方が楽なんじゃないかとまで考えていた。そんな勇気もないくせに。

 俺は怖かったのだ。比企谷に置いていかれることはもちろん、戸部にも。

 戸部が手を出そうとしたとき、誇らしい気持ちになった。そんなことができる人間はそういない。知っているだけでも一人だけ。例外もいたが、あの姉妹は別だろう。

 生まれた時からかけられている鎖を引き千切ることのできる人物。世間は時にそれをサイコパスと呼ぶのかもしれない。善や悪を超越した存在。良心のその先を垣間見ることのできる存在を。

 つまりこの茶番は俺の自作自演の駄作に過ぎない。俺が恐れたから。俺が俺のままであることを恐れたために始まってしまった茶番なのだ。それに巻き込まれた戸部は本当に何も悪くない。しかしそれで俺が満足したかと聞かれればそうではないとしか言いようがない。数段下がった位置から見上げる世界は眩しく、尊い。

 ただ何食わぬ顔でそこにいる自分を想像すると吐き気がする。要するに動けないのだ。壊れた歯車のように、前にも後ろにも進めず、停滞と言う波に揺られている。停滞は後退だ。周りが進む限り自分は後退していることと変わりない。地球にしがみついても、運ばれる先は以前と変わらぬこの場所だ。ひっくり返そうとも鏡に映そうとも変わらない。自分が変わらない限りは変わらない。そんな檻に俺は入ってしまったのだ。そして内側から鍵をかけた。親指と人差し指で、少しの力で、捻った。今もその錠は目の前で佇んでいる。

「早く集まれー!」

 既に時間だったのか、体育の講師は葉山とその後ろに向けて叫び声を上げている。木曜四限の体育、三限の講義が少し押してしまった為に間に合うか不安だったが、ギリギリアウトだったらしい。

 葉山は講師の視線を追って後ろを振り返る。葉山が出る頃の更衣室にはほとんど学生はおらず、ちんたら歩いていた為にそれにも追い抜かれていた。まだいたのだろうか。

 思わず足を止めていた。

 ゆっくりと歩いてくる金髪の学生に目を奪われた。そこで思い出す。十月の後半、二回ほど彼は休んでいた。前期も数回休んでいたので特に気にしていなかった。体育の二人組には苦労したが、幸い誘ってくれる人もいた。

 なんだそれ。

 そう思った。

 ギラギラと輝く髪色ではない、彼の顔、その皮膚の前に張り付いた不自然な笑顔だ。いや、不自然ではないのか。その証拠に二人の女子と連れたって歩いている。

 講師に気が付くと三人は小走りで向かってきた。「ごめんなさーい!」と歯を見せる女子二人に続き、比企谷も寄って来る。近くで見てもやはり知らない女子生徒だった。

 比企谷は横を通り過ぎてフェンスの近くに腰を下ろした。葉山は講師の目に留まらない程度にそれを追い、横に腰掛けた。

「比企谷、あの二人は誰だ」

 訊きながら、葉山は目を剥く。

「知らん」

 そう言う彼はいつもの彼で、覇気もなく、目の中は濁っていた。しかしその周りに隈は見えず、目を凝らしても腐っているとは言えなかった。

「何をしているんだ」

「あ?」

 やはりいつもの彼だった。ただ一点、主張の激しい髪色以外は。

「だから、何をしているって訊いているんだよ」語気が強くなるのが分かった。しかしそれを抑えることはできず、感情ばかりが先行する。「なんだその髪の色」

 比企谷は講師を見るでもなく虚空を見つめていたが、自嘲気味に笑うと口元を歪めた。「ああ、似合ってるだろ」

 どうして、と言おうとしたところで講師が威勢良く叫ぶ。「二人組でパス回しろー!」

 ゆっくりと立ち上がった比企谷がこちらを振り返る。「どうする?」

「やろう」葉山は即答した。

 ボールが入っているカゴに近づき、空気圧を確かめてからそれを手に取る。比企谷の位置を確認すると、密集した集団とは少し離れた所に移動していた。

 バスケットボールを扱うように手でドリブルし、数回弾ませたところで足で触る。勢いが吸収されたボールは地面と接触すると二度と跳ねなかった。つま先で優しく触れるようにドリブルし、比企谷に向けてパスを出す。最初は五メートルほどの至近距離でのパス回しだった。

 返ってきたボールを足裏で止め、少し強く蹴り返す。「いつ染めたんだ」

 比企谷は偶然だろうが上手く勢いを殺して足元に収めた。その動きがまた葉山を動揺させる。もっとかっこ悪くあれよ。

「十一月入ってからだな」比企谷は昨日の献立を離すように言う。こちらにボールを蹴った。

「どうして染めようと思ったんだ」

 会話のキャッチボールとよく言うが、こちらはパス交換だ。言葉と一緒にボールを発射する。

「何となくだな」

 比企谷は葉山の眼を見ない。後ろめたさからか興味がないからなのか。これまでの比企谷なら迷うことなく後者だが、今は分からない。

 葉山は堪えきれなくなり、口を開いた。

「俺の所為か」

 つま先で蹴ったボールは勢いが死んでいて、相手の元まで届かなかった。コロコロとあらぬ方向へ転がっていき、やがて止まった。比企谷はそのボールの行く末をただ黙って見つめていた。

「はっ」鼻で笑うその声に、葉山の意識は呼び戻された。向けた視線の先にはいつもの比企谷の表情があった。「自意識過剰だろ」

 その時だけは、彼の髪の毛は黒く、暗いように錯覚した。

「似合ってない…、似合ってないぞ、比企谷…」

 パス回しの終了を告げられ、走っていく彼の後ろ姿にぼそぼそと呟いた。

 届いているか分からない。届いているけど反応しないのかもしれない。ただ、いくら叫んでも届かないのではないか、そんな感覚だけはずっと残っていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 折本は千葉駅の構内を歩いていた。改札を抜け、待ち合わせの場所へと向かっていた。

 比企谷から誘われるとは思わなかった。まあ、この間のお礼というのが名目だから義理堅いと思うのが正しいのだろう。

 比企谷が倒れた時の事を思い出す。自分でもなんであんなことをしたのか分からない。もちろん遥と一緒にいる時間が苦痛ではあったが、それでも意識のない男性を膝枕するなど、それも外という人目にしかつかない場所で、彼氏にもするかどうか怪しい。いや、好きならするか。

 そこまで考えて折本は首を振る。余計な思考だったと頭を振る。顔を上げた時には既に指定された場所だった。

 建物を成す太い柱にもたれかかる。視線を巡らせるが比企谷はまだ来ていないらしい。サラリーマンが数人立っているのと、そのすぐ横の柱に本を読んでいる金髪の男性がいた。目を細めてみる。伏せられた顔には辛うじて眼鏡が確認できた、ああいった雰囲気の男性が本を手にしているイメージはなかったために意外に感じた。

 人間観察もそこそこに逆方向へと目を向けると薬局が目に入った。駅構内のテナントとして入っているささやかなものだが、急いでいる時などは助かっていた。店内に設置された大きな鏡がこちらを向いていた。

 折本は自分の姿を確認する。全身鏡のように映しだした服装は秋の初めにしては涼し気なものだった。そんな恰好じゃ寒いわよ、という母親の助言を無下にして履いた膝上のスカート。上は迷ったが、腕を出さない代わりに開襟の物を選んだ。学校でも露出の多い服装について少し訊かれたが、気分だよと答えた。遥のしつこい追及にはうんざりして殴ろうかと二、三回思った。

 彼氏がいるくせに他の男に媚を売る姿勢はいかがなものか。遥は”そういう”女子だった。バドミントンサークルの一件以来私の事を目の敵にしていたのは忘れていない。

「来てたんなら連絡しろよ」

 距離のある鏡で前髪を整えていたところに声を掛けられた。そのこと自体にはさほど驚かなかったが、振り返って見た彼の姿には思わず開いた口が塞がらなかった。

「え、え? ひ、比企谷?」口周りが硬直しているが何とか声を出す。

「じゃあ行くか」

 当の本人は生まれた時からこれですけど、と言った様子で背を向けた。その後姿を呼び止める。

「ちょちょちょ、ストップストップ!」

「なんだよ」

 首だけをこちらに向け、面倒くさそうな視線を送ってくる。しかしそこに以前の様な腐敗した雰囲気はなかった。目元が明るいからか。

「いやいや、何その頭。ウケるんだけど」

「いや、ウケねーから…」彼は足を止めない、しかしその歩幅は短く、こちらを気遣っているのが分かった。私の履いたものを知っての事だろうか。カツカツとかかとが鳴る。。

「え、なにどうしたの」折本は比企谷の顔を覗き込む。

「別になんでもねーよ、気分だ。気分」比企谷はその視線から逃れるように顔を逸らした。

「えー、何でもなくないでしょー!」

 折本は自分の声が高くなっていることに気が付いた。自然とテンションが上がっていたのだろう。それもそうだ、今の比企谷は贔屓目に見なくてもかっこいい。

「あーはいはい、少し歩くが大丈夫か?」比企谷の視線は私の足に向けられていた。

「あ、うん! 全然大丈夫!」

 イケメンに気を遣われて嬉しくない女子はいない。少なくとも私はそうだ。少しうるさい心臓と共に気になったことを尋ねることにした。

「そういえば眼鏡変えた? 前は違うのしてたよね」何の気なしに尋ねたことだが、比企谷の目元がピクリと動いたのを見逃さなかった。「あ、言いたくない事だったらいいんだけど」と付け加える。

 比企谷は肩を竦める。「ああ、ちょっと合わなくてな」

「そっか、あー、それも似合ってるよ」

 褒めるのってこんなにも難しいものだっただろうか。いつでも、どんな相手にも軽く褒め続けていたはずなのに。本音を伝えたからだろうか。なら私はいつから本音を言わなくなったのだろうか。

「さんきゅ」

 比企谷の反応は冷たかったが、今迄もそうだったかと思い出した。少し肩が触れる距離に詰める。

「どこに連れてってくれるの?」

 総武校の二人とは離れたと聞いていたからだろうか、なんとなく近づいても許される気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は実像を染める。

 

 陽乃さんの顔が近づいてくる。そのまま唇を重ねると、目を閉じた。

 ホテルに入るなり貪るように彼女を求めた。身体に残る影を掻き消すように何度も何度もキスをした。俺が彼女の上に吐き出すことで終わるその行為は、とても情熱的で、人間的に冷めていた。

 ベッドの上。単なる肌の接触なんて表現はもうできないほどに舌を絡める。撫でて、突いて、口内を侵略する。攻撃したかと思えば、こんどは陽乃さんが侵入してきて犯される。そんなことを繰り返して、顔が離れた。彼女の指が動き、俺の瞼に触れる。

「どう? お風呂に入っても取れないでしょ」

 目元を覆うそれを彼女は撫でる。隠すために、覆うために、虚像であると証明するために施された化粧を、彼女は撫でる。

「はい…、大丈夫でした…」

「そっか、…よかった」

 そう言い、俺の頭を乳房に抱き寄せる。彼女の囁きは俺の耳によく響いた。メイクなんて落ちてしまえばいいのに、と響いている。それを押し込めるように俺も彼女を抱き締めた。

 愛なんて、そんな曖昧な感情に縋る日が来るなんて思いもしなかった。酸素がそこにあるように、愛がそこにあるとはだれにも分からない。それなのに、陽乃さんからは深い愛が感じられた。底の見えない木の洞のようにいくらでも堕ちる余地が残されていた。

 俺はそれを利用している。くだらない自己肯定の為に利用している。

「あれから、何人としたの…?」

 陽乃さんの声は沈んでいる。おそらく聞きたくは無いはずなのに、分からない状況に耐え切れないのだろう。俺にできる誠意は正直に答えることだけだった。

「…二人です」

 陽乃さんの大きな胸が心臓の鼓動で跳ねた。ドクンと響き、彼女の脳へと正常な血液を回そうと働いている。身体がイヤだと叫んでいるような、そんな気がした。

「…うん、そっか。……ありがとう」

 一層強く抱きしめられる。それは俺を罰しているのか、確かめているのか分からなかった。

「陽乃さん」空気を求め顔を上げる。そこには涙を流した彼女がいた。息を呑む。

「ごめん、ごめんなんでもないから」

 口を噤み耐えるように目を閉じる。また一筋、重力に従い、垂れた。彼女はそれを恥ずかしそうに手で拭う。

「陽乃さん」もう一度呼びかける。「もう一回しましょう」

 俺の言葉に一瞬目を見開いたが、嬉しそうに微笑み、目を伏せた。

 

 腰を振り、泣きながら喘ぐ彼女は美しく、永遠を体現しているような気がした。

 

 誰としようとも、陽乃さんの嬌声だけが身体に染み込んでいた。

 

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。嬉しいです。

どんな反応があるのか怖いですが、感想を頂けると嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

signs of resonance

こんにちは、お久しぶりです。
多分まだ11月ですかね。
タイトルは響きだけ意識した適当なものなので気にしないでください。

沢山の感想ありがとうございます。
つまらなかったり、こんなの嫌だという方もいらっしゃったと思いますが、これを読んで尚楽しみにしていてくれる方の存在がとても嬉しいです。

また読んでくださることが一番嬉しいです。
お手すきの際にどうぞ。


 

 

 

 比企谷八幡は実像と乖離する。

 

「ーー”ハルカ”ごめん!」

 意識が飛ぶ直前。季節が耳元に残ったのを覚えている。暖かな夢を見た。それは折本の包み込むような太腿だけでなく、最後に聞いた”ハル”という単語が原因だろう。

 折本と食事をしている時にそれは核心に変わった。彼女の大学名、そして交友関係。何より俺が口を出さずとも彼女の口からハルカという女の愚痴が垂れ流されていた。

 相当な確執があるのか、俺のナイフが皿まで断ち切ろうかという程にそれを聞かされた。壊れた蛇口のようにダラダラと流れ続けるそれを、聞く。相槌もそこそこに、それを聞く。それだけでいいのだ。それだけが正解なのだ。

 同調し、共感し、同情の言葉を掛ける。相手が気持ちよくなる為だけに発する。そしてそれは時に効果を発揮する。特にそれを繰り返してきた、目の前のベッドに横たわる彼女のような人種に。

 鬱陶しいピロートークを済ませると彼女は眠った。折本かおりは最後まで共感を求めた。喉だけで愛を囁くと彼女は満足そうに瞳を閉じた。

 布団をゆっくりと捲ると彼女の身体が曝け出される。いつの間にか下着を身に付けていたが、大した影響はないだろう。モノよりも、事実が大切なのだ。

 どうか使わせないでくれと願いながら、携帯のシャッターを切った。

 

 深夜二時、折本は俺の横を歩きながらしきりに、「信じらんない…」と呟いている。それを無視して駅を目指す。駅裏はホテル街になっているために、十分も歩けば着くだろう。

「比企谷とするなんて…」折本は頭を抱える。

「いつまで言ってんだ」少し歩き辛そうな彼女の姿を横目に確認し、「大丈夫か?」と声を掛ける。

「あ、うん…。大丈夫…」彼女がそう言ったので視線を戻したが、でも、と続けたので耳を傾ける。「ちょっと腕貸して…」

 彼女にしてはしおらしく、俺の袖を摘むと上目遣いでこちらを覗き込む。いや、俺は彼女の事を知らない。これが男といるときの素なのかもしれない。ふつふつと何かが湧いてくるのが分かった。ただこれは怒りや嫉妬などという甘いものではなく、ただただ純粋なる嫌悪。彼女の摘む袖から、今日彼女に向けた俺の言葉全てが嫌忌となって襲い掛かってくる。

「…好きにしろ」

 そう言うと満足そうに頷き俺の腕をとった。そこからじわじわと何かが侵入してきて、俺の中の白い何かを黒く染め始める錯覚がした。唾を飲み込みそれに耐える。今の比企谷八幡は虚像だと、視界に垂れる白い頭髪に囁く。

 彼女は共感に弱い。それも理由ある共感に。理由もなく意味もなく、そして自分もない。そんな彼女が欲しがったものは真の共感だ。彼女に心の底から共感している。ただ人間として彼女という人間に同調する。それだけでよかった。だから。

 だから俺は自分を殺した。

「これだ」俺はコインパーキングの隅に置かれた乗用車を指さす。親父が買った5年ローンの大衆車だ。

「へえ、これ比企谷の車?」

「んなわけないだろ」

 助手席側に回りドアを開ける。腕にくっついた折本を促し車に乗せた。

 運転席に乗り込むとすぐにシートベルトをし、折本を一瞥してからギアを入れる。一瞬、一色の事が思い浮かんだがアクセルと一緒に掻き消す。

「比企谷免許持ってたんだ」折本が言った。「運転上手いじゃん」

「初心者だけどな」

「いやいや上手い上手い」

 彼女は歯を見せ、手を叩いて笑った。それを無視してハンドルを握りこむ。限界に近い自分の感情と身体を鼓舞して目を瞬かせる。

 しばらく走り、家の近くだというコンビニの駐車場に車を停めるとサイドブレーキを引いた。

「ありがと」

 折本の顔は正面の光源に照らされてもなお赤みがかっていた。何を思ったか顔を近づけて来る為、俺はわざとらしく眼鏡を外す。唇が触れた。

「なに、そういう趣味でも?」コンビニ内で立ち読みしている客を視線で示す。

「ばか! そんなんじゃないって!」折本は顔を更に赤くするとバッグを持ち直し、ドアの取っ手に手を掛けた。首だけでこちらを向く。「ねえ、これで終わりじゃないよね…?」

 折本の眼は食事の時より潤っていて、俺の芯がグラつく。見えない位置で拳を握ると、その手を伸ばして彼女の頭を撫でた。それを同意、または得意の共感と受け取ったのか照れ臭そうに頷くと、ドアを開けた。

 車内を覗き込むシャツの胸元は開いていて、ベッドで乱れる姿がフラッシュバックした。嬌声を恥ずかしがる吐息が耳に反響し、彼女に手を振りながら身体の一部分が熱をもつのが分かった。

 

 歩き去るのを見送ってからコンビニのトイレに駆け込み、あるだけの内容物を吐いた。これまでで一番酷い吐き気と頭痛を覚えながら、硬くなったままのそれを意識して顔を歪めた。

 口や鼻、目から液体が流れ、苦痛で何が何だか分からなくなった。

 自分を律するものを思い出しながら、何度も何度も嗚咽を繰り返す。

 家に着いた時には空が白み始めていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「いいんですか? 店長」

 城廻めぐりは事務所の椅子に座るこの書店の店長に訊く。その男はパソコンを開いて作業をしていた手を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。

「なにがだい?」

 優し気な瞳で首を傾げるその仕草は若々しく、それでいて頼もしい雰囲気を持ち合わせる不思議な人だった。昨年の事件の時も頼りになった。城廻めぐりにとって恩人と言える人だった。

「比企谷君の事です」私は言う。「あんな髪色、一応華美な頭髪の色は禁止してましたよね」

 その訴えはもっともだと言わんばかりに頷く。しかし返ってきた答えは意外なものだった。「まあ、いいんじゃないか? 少しの間だそうだし」

「え、そうなんですか?」

 初耳だった。しかし比企谷君が金髪に染めて以来、あまり話していないのも事実だった。

「うん、なんか劇団で必要らしくて、二ヶ月くらいって言ってたよ」

「げ、劇団…?」思わず繰り返してしまう。それを不審に思ったのか、店長が首を傾げた。「あ、いえ、そういえばそんなこと言ってました」何とか笑う。「髪染める事もあるとは知りませんでしたけど」

「確かにねー、カツラとかじゃないんだって聞いたら演出の人がうるさくてって笑ってたよ」

「あー、確かに違和感あるかもしれないですね。でも最近のはよくできてるみたいですよ?」

「そうなの? 僕も着けてみようかな」僕と呼称するところも嫌いじゃない。店長はわざとらしく頭を撫でた。

「あはは、まだ必要ないですよ。大丈夫です」思わず笑ってしまう。

 こういった軽口を言えるところも素敵な大人だと思う。触れてはいけないことはあるが、本人がその壁を壊してくるとこちらも気が緩む。

「それに」店長は優しく微笑む。「城廻さんが薦めた子だしね、変なことは何もないって分かってるから」

 そう言ってくれることは嬉しかったが、ちくりと胸が痛むのが分かった。

 おそらく劇団と言うのは嘘だ。十中八九、彼は嘘を付いている。ただ、彼が無駄な嘘を付くとはどうにも思えない。彼の周りには問題が付いて回り、いつも奔走していた。

 つまり、今現在比企谷君には何かが起こっているという事だ。

 感じが変わった。風貌が変わった。それだけで一瞬でも距離を取ってしまった自分がイヤになる。恥ずかしくなる。

 もうすぐ彼が出勤してくる。

 今日は話そう。沢山話そう。

 そう、決めた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 耳を澄ませると、玄関の扉が閉まる音がした。材木座義輝の母親が出かけた事を意味する。

 材木座はまとめたノートを見つめ、携帯を取り出した。電話を掛ける先はもちろん比企谷八幡の元だ。素早く操作し、通話ボタンをタップする。LINEの知り合いかも? に比企谷八幡と出てきたが、彼が何も言ってこないのだから追加するのは失礼だろう。べ、別にコミュ障じゃないし!

『よう』少しくぐもった声が聞こえてきた。

「むふう、八幡よ。調査の結果が出たのだが、知りたいか?」

 言い方がうざいからいい、とでも言ってくるかと半分期待、半分心配の感情を抱いたが、それは杞憂に終わった。

『ああ、頼む』

 少し寂しさを感じていると、カチャカチャと何かを用意する音がした。慌てて付け加える。

「けぷこんけぷこん、すまぬ、今から資料を送る」

『今からかよ』

「だ、だって連絡していいか分からなかったんだもん!」

『はいはい、早く送れ』

「冷たいぞ八幡! 鈍感系主人公か!」

 材木座はふしゅうと息を吐きながら、まとめたデータを八幡のメールアドレスに添付する。不毛だが意味のあるやり取りに少し安堵するのに気付いた。やがてカチカチとマウスをクリックする音が聞こえ始めた。ファイルが届いたのだろう。

『一応説明聞いていいか』

「ふむ、よかろう」

 比企谷八幡の依頼。それはハルカという女子学生について調べることだった。できる限りの調査。なにも探偵の真似事をしろという頼みではないことは材木座も理解していた。これだけネットが普及した時代、SNSを通して情報は手に入る。無論、ハルカと言う女子の情報管理意識が杜撰であることが前提になるが、過去を遡り、ネットの海を渡り歩けばそれなりの情報は手に入った。

 出身小学校、中学校、高校。誕生日、おおよその身長。交友関係。好きな男性のタイプ。嫌いな同性のこと。彼女の周りに集まる人物が少しづつ情報を垂れ流してくれる。もちろん本人も。

「八幡の言う通り、折本かおりという女子も友人らしいな」材木座はパソコンの画面に広がる遥と折本のツイッターを見つめて言う。「写真がよく上がってる。キャピキャピ鬱陶しい。チイッ!」

 自分でも自然と舌打ちが出たが、それを聞いてか八幡が口を開いた。『…すまん』

「ふ、ふん! 八幡が謝ることではなかろう! こいつらがっ、こいつらがっ」

 状態がよくないのか、八幡からはいつもの覇気が感じられない。ただ材木座はこの四月から十月までに彼を知らなかった。特に連絡も取らず、生きてるのか死んでるのかすら知らなかった。それでもどこかで繋がっていると感じ、電話がかかってきた時も久しぶりという感慨よりも、何の用かという感情が先行した。

『他にはどうだ』

 八幡が先を促した為、一度咳払いをしてから材木座は資料に視線を落とした。

「ふむ、恋人がいる。同じ大学の学生だ」

『みたいだな』彼も同じ資料を見ているのだろう。話が早い。

「プロフィールはそこに書いてあるとおりだが、一枚捲ってみよ」材木座の声に、紙を捲る音が聞こえてきた。「裏アカを見つけた」

『まじか』

「ふんっ、造作もないわ」嘘だ。偶々見つけただけだった。それでも成果だ。材木座は胸を張る。「しかしまあ、アイドル関係のアカウントと言うだけだろうが、彼女に隠していることは分かった」

『いや、何でもいい。助かる』

「ふ、ふむ。まあこれくらい朝飯前よ」

『これで大体全部か』

「大まかな概要はこれで制覇したと言ってよかろう」

『で、今は何してんだ?』

「いい質問だ八幡よ。今は秦野と相模に指示してアカウントを作ってもらっている」

『アカウント…』

 電波を隔てた先にいる相棒はそれだけで考えを看破したのか、なるほどと呟いた。

「数種類用意している。まあ、どれもが実用的とは言えないが、意識高い系、自己啓発系、株扱ってる系大学生などを用意するつもりだ」

『それ何がどう違うんだ…』

 材木座は八幡の小言に少し浮き立つ。携帯を確認する指が軽くなった。

「げふん、秦野と相模の報告もまずまずだから、あと一週間もあればコンタクト取れるくらいにはできてると思う。いや、我の手下は有能だ。間に合わせるだろう」

『頼もしいな、助かる』

「だが一つ、あるアカウントが難しくてなあ。ネットのモデル写真を使い続けるのも無理がある…」

『写真があればいいのか?』

 八幡の食いつきが早く、材木座は言葉に詰まるが何とか返事をした。

「へ、えあああ、まあそうだ」

『そうか…、とりあえずさんきゅーな。またなんかあったら教えてくれ』

「ちょちょちょはちま…」

 制止も聞かず、スピーカーはプープーと間抜けな、そしてどこか寂し気な音を鳴らし始めた。

 また彼の事を聞けなかった。

 材木座は部屋で一人、肩を落とした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜は青髪の姉妹を見送ると逆方向のホームに滑り込んだ電車に乗り込んだ。窓から見える海岸にはこの寒さだというのに制服姿の学生が走り回っていて、思わず目を細める。

 カーブに差し掛かり視界から外れるまで、沈んでいく太陽を目に焼き付けていた。眩しい過去と照らし合わせようとして、ふっ、と笑みが漏れる。今はもうその必要はないのだ。

 携帯が震えた。

 鞄から取り出し、画面を確認すると由比ヶ浜からのLINEだった。『もう着いたよー』と書かれている。それによく分からないスタンプを返すと、電車の進行方向を見つめる。ガタンゴトンと、この車輪のように歯のない人間だったらどんなに楽だったろうか。

 どんなにつまらなかっただろうか。

 

「お邪魔しまーす!」

 海老名姫菜は由比ヶ浜に続き部屋に足を踏み入れる。相変わらず物が氾濫した廊下は三浦の意向でそのままにしている。ゆっくり片付けたいそうだ。黒光りする虫が出るのは嫌だという由比ヶ浜の願いで、キッチン周りや食品関係だけは清潔に保たれている。

「いらっしゃい」

 奥の部屋から聞こえてきた優美子の声は沈んでいる。いつもの事だ。未だに私や結衣が離れていくことを恐れている節がある。それも数時間一緒にいるだけで解消されるが。

「はろはろー」海老名姫菜はベッドに腰掛けていた三浦に手を振る。

「は…い、いらっしゃい」

 三浦は一瞬手を上げかけたが、慌てて引っ込めた。こういうところも可愛いなと海老名姫菜は感じる。相変わらずの長袖だが、もうすぐそれも違和感のない季節に入る。もじもじと袖を弄る彼女はまだよそよそしい。

「優美子見て!」由比ヶ浜が手から下げたスーパーの袋を見せる。「鍋やるよ! 鍋!」

「え、早くない…?」

 優美子は先刻私がスーパーで見せた反応と同じものを見せる。一字一句同じ反応に結衣は顔をしかめた。「姫菜と同じこと言う!」

「そりゃそうだよー、だってまだ11月だよー」海老名姫菜は三浦の肩を持つように隣に腰掛ける。「ねえ、優美子」と顔を覗き込んだ。

「う、うん。あ、でも鍋も食べたい…かも」

 三浦は由比ヶ浜劣勢の状況にすら怯え、しどろもどろに声を出した。海老名姫菜はおどおどと顔を動かす姿を見て意地悪しすぎたかなと反省した。

「ほらほら! やっぱり食べたいんじゃん!」由比ヶ浜がはしゃぎ、容量の小さい冷蔵庫に向かう。「腕によりをかけるから待ってて!」

 由比ヶ浜の発言にベッドに腰掛ける二人の肩がビクつく。二人同時に声を発していた。

「結衣は触らない方がいいんじゃ…」

「あ、あーしやるよ…?」

 海老名姫菜と三浦は同じ未来を危惧し、思わず顔を見合わせる。「あははは」堪えきれない笑いが両者の口から溢れる。そこには時間も空間も超越した何かがある気がした。それすら乗り越えられる、そんな気がした。

 由比ヶ浜だけがポカンと口を開けていた。

 

「もう食べれないよー!」

 由比ヶ浜がお腹をさすり、仰向けに倒れた。熱いからと脱いだ薄手のニットは彼女の顔の近くに丁寧に畳まれている。面白みのないキャミソール姿のお腹は確かに膨らんでいた。露わになった脇を見て、海老名姫菜の衝動は抑えられなかった。

「結衣…無防備だよ…」そーっと手を伸ばし、解放する。「こちょこちょこちょー!」

「ちょ、や、あははは! ひなっ、ひなやめ、あはははは!」由比ヶ浜は転がり、悶えている。

「ふふ…」三浦も笑った。

 季節外れの鍋に顔を赤らめていた三浦の口から笑みが漏れ、それを鼓膜に認めた海老名姫菜はギアを上げた。

「ほらほらー! そんな格好してる結衣が悪いんだよー!」

「あははは! ごめんっ、ごめんなさあはははは!」

 ひとしきりくすぐると満足を覚え、由比ヶ浜を開放した。ぜえぜえと涙目で息を切らす彼女は色香を残し、海老名姫菜の何かを更に掻き立てたが彼女はそれを堪える。逸らした視線の先に携帯が光っているのが見えた。

 海老名姫菜は手を伸ばしそれを手に取った。メッセージの内容は見えない設定になっている為、画面には『新規メッセ―ジを受信しました』と表示されている。念のため見えないようにロックを外すと自動的にLINEの画面が立ち上がる。

『頼みがある』

 トークルームの名前を見ずとも誰からのメッセージか察し、由比ヶ浜から見えないように気を遣った。続きの内容はない。その短い響きが逆に質量を増やす。

「どうしたの?」結衣がこちらを窺う。

「ううん、なんでもないよ」海老名姫菜はそう言って笑った。

 彼には大きな借りがある。もしかしたら人生を捧げても足りないくらいの大きな借りが。だがそれは今ここで分かるものではない。いつか時が流れ、この時間が記憶でなくなった瞬間に感じるのだろう。だからそれに似合うお返しをしなければならない。私に与えてくれたものと同じくらいのものを。

 結衣にすらできないものが私にできるとは到底思えないが。

 海老名姫菜は息が整ってきたお団子少女を見つめる。大切なものほど無くなってからその大きさに気付くという。彼女がそれだ。いるだけで場が整う。そんな存在は彼女以外に見たことがない。

 依頼の内容は何も聞いていない。しかし、海老名姫菜の答えは決まっていた。

『いいよ』

 画面を伏せて携帯を置き、机の上のグラスに手を伸ばした。転がったままの由比ヶ浜をもう一度見つめた。

 ちょっといってくるね。

 海老名姫菜は声にならない声で呟き、優しく微笑んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「じゃあ、俺は体育館で作業してるんで、もし一色先輩が先に帰るときは鍵閉めて職員室に返しちゃってください」

 そう言い、川崎大志は持ってきた鍵をドアに差し込む。今日は生徒会のない日だが、無理を言って部屋を貸してもらうことにした。

「うん、ありがとー」

「いえいえ、色々助けてもらってますから」川崎大志は歯を見せて笑う。「あ、OB企画の件、ありがとうございました。仮で先生に提出したんですけど大分好評で」生徒会室に入っていく。

 一色は少し申し訳なく思いながらも、悪いことが起きていないことに安堵する。

「大志君の手柄にしていいから」一色は言い、後ろをチラリと振り返った。そこにいるのは渦中にある比企谷八幡の妹、比企谷小町だ。

 それを察したのだろう、川崎大志は指定の場所に鍵を掛けるとそそくさと書類を集め、再びドアに近づく。一瞬小町に目配せをして出ていった。

「すみません、いろはさん…」生徒会室に入ることの少ない小町がブレザーのボタンを弄りながら言う。

「ううん、元生徒会長だからこれくらい平気だよ!」一色は努めて元気な声を出し、椅子を引いた。「ここ座って?」

「ありがとうございます…」

 小町が座ったのを確認して隅に置かれた魔法瓶に近づく。休みの予定だったからだろう、コンセントは抜けていた。蓋を開けると二人分の水は入っていた為、電源を繋ぎスイッチを入れた。紙コップを用意しながら、あの教室を思い出した。時が止まっているかのような、不可侵領域を。

 平塚先生が去り、奉仕部の三人が去ったこの学校に、紅茶の香りはもうしない。

 それはとても残酷なことに思えた。残り香ひとつ掬えず、空虚な時間だけが過ぎ去っていく。この学校の心臓が止まったような、教室に、廊下に、グラウンドに、送り続けた血流が止まったかのような、そんな感覚がしていた。

 暇を見つけて教室を掃除していたのは内緒だ。そこで話すこともできたが、今回の内容には相応しくない気がして自然と避けるように動いた。生徒会室を指定したのは自分のホームだからだろうか。それとも、信じたくない事実に何かが決壊するのを危惧してだろうか。

 一色は立ったまま世間話をして、湯が沸くのを待った。やがてカチッと押し込んだスイッチが戻り、ティーバッグを入れた紙コップに注ぐ。

「はい、小町ちゃん」二つ持った内の一つを彼女に渡し、残りに口を付ける。鼻孔を掠める偽物が一色の琴線に触る。

「すみません、ありがとうございます」

 恭しく小町はお礼を言い、受け取った。なかなか口を付けない為、「飲んでいいよ?」と言うと「猫舌なんです」と照れ臭そうに笑った。

 やっぱり兄妹なんだな、そう思った。

 かつて会長職として馴染んだ椅子に座り、口を開く。偶然にも今小町が座っている席は、せんぱいがフリーペーパーに奔走した席だった。

「それで、せんぱいの事なんだけど…」

 一色がゆっくりと訊くと、小町はちびちびと飲んでいた紅茶を置いた。

「はい…、様子がおかしくて」

「様子っていうのは、格好のこと?」

 質問を遮り、姿形だけであってくれと願った私の想いが口から洩れてしまった。

「いえ、あ…、ごめんなさい、分からないんです…」

 まるでその飲み物がコーヒーだったかのような表情を見せる。いっそすべてが変わっていたならどんなに楽だったろうか、そんな思いが受け取れた。

「じゃあ、少なくとも小町ちゃんの前では変わってないってことかな」

「はい、そうです」小町は言った。「変わっていないどころか、前より気を遣ってくれたり、いいお兄ちゃん…、いえ、良い男性っぽい感じになりました」

「っぽい?」

 一色は虚を突かれた思いで聞く。彼女も今日までにそれなりに思いを巡らせてきた。彼女ができたことにより、急激に態度が変わったのではないか。気を遣うことを覚えたのではないか。しかし、そのどれもが彼女の知っている比企谷八幡像とはかけ離れていて、靄がかかるように脳が拒否する。

「うーん、なんて言うか、おかしい日がある、って感じなんですかね」小町は右に左に首を傾げ唸る。「基本的にはごみいちゃん何ですけど、偶に遅く帰って来る日があって、そういう日の後だったりは少し変な感じがします」

「そうなんだ…」一色は意識せず顎に手をやっていた。「その遅くなる日は毎日じゃないんだ」

「はい…、昔の事って話しましたっけ?」

 小町がそう尋ねて来る為、一色は記憶を辿る。小町とせんぱいについて会話した記憶で心当たりは一つしかなかった。いつ聞いた話かは覚えていないが、これだろうか。

「お父さんお母さんの帰りが遅い時の話?」

「そうですそうです! よく覚えてましたねー」小町が少し悪戯めいた表情をする。

 一色は顔を逸らし、咳払いをした。「た、偶々だよ」

「へへー、それはまあいいんですけど」軽くあしらわれると凹む。「それきり早く帰って来てくれるようになったのは変わらなくて、だから余計に分からなくて…」

 小町も困惑しているのだろう。比企谷八幡は決して道を踏み外した訳ではないのだ、犯罪を犯した訳でも、ましてや誰かを悲しませた訳でもないのだ。姿形が変わろうと、恋人ができようとそれは個人の自由でしかない。後者に関しては寧ろ、動くのが遅かった一色いろはに原因があるとも言えてしまう。

「そういえば、こ、恋人ができたって聞いたんだけど…」

「へ? 恋人? 誰にですか?」

「その…せんぱいに…」一色は自分でも声が小さくなっていくのが分かった。

「あー、それは多分ないんじゃないですか?」

「え! ほんと!?」

 思わず身体を乗り出す。二秒前の一色とのギャップに、小町が椅子ごと後ろに下がった。

「あ、はい…、それは気になって、まあ恋人ができるのは良いことなので、それなら応援しようと思って、でも違うみたいで…」

「せんぱいが言ってたの? 自分の口で?」

 一色の剣幕に小町の顔に怯えが混じる。

「は、はい。お兄ちゃんが言ってました…」

「そ、そっか…」一色は自分の肺に新鮮な空気が満ちるのが分かった。戸部に話を聞いてからというもの、ずっと息苦しさを感じていた。「それで、せんぱいに会うことはできそう?」

「それは」小町が言い淀む。「一色さんから動く場合はいいんですけど、小町が主導することはできないです…。兄が言った『雪ノ下達』にいろはさんはほぼ間違いなく入ってますから、小町は兄の味方です。兄が望まないことを手伝うことはできません…」

 膝に乗せた手が悔しそうにスカートを握りこむ。小町は目を伏せた。

「そうだよね、うん、ありがとう」一色は立ちあがり、小町の前まで行くとしゃがんだ。握られた拳を解くように手を添える。「じゃあ、小町ちゃんから聞いたことは内緒にするから、できる限りせんぱいのこと教えてくれる?」

 小町は声を出さず、首だけを縦に振った。その瞳は少しだけ充血していた。

 せんぱいがする事のすべてを、私は拒絶したりしない。それでも、彼が彼でいられないのなら、必ずそれを支えよう。

 比企谷小町の瞳に、一色いろはは誓った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像を遺す。

 

「あ、いたいた」

 その呼び掛けに俺は現実へと引っ張り出された。振り返る。そこには手を振る海老名姫菜が立っていた。待ち合わせ場所に郊外の駅を指定されたが、少し早く来すぎてしまった為にすぐ近くにあるテラス付きのカフェへと入っていた。持ってきた文庫本があまりにも面白くてつい夢中になっていたらしい。店の中央にある時計を見ると、待ち合わせ時刻を数分過ぎたところだった。

「よく分かったな、海老名さん」

 俺は海老名姫菜という存在を確かめるように名前を呼んだ。当の彼女は向かいの椅子に腰を下ろし、近づいてきた店員に注文をし始めていた。去り際に海老名さんがこちらをチラリと見たので、空になったコーヒーカップを差し出しつつ、もう一杯同じものを注文した。

 店員の後姿を見送りつつ「分かるよ」と彼女は言った。「姿形が変わろうと、腐ってることには変わりないから」

 俺は彼女の視線から逃れ、ガラスに映る自分を見た。数日前まで明るかった髪色はどこ吹く風、アッシュグレーに染め上げられた髪は目にかかるくらいに伸びていた。今日この場に来る前、陽乃さんにセットの仕方を教えてもらった。

 海老名姫菜が言う。「何? その色」

「さあ、これが好きな女子がいるらしい」俺は肩を竦め、その手の話題は避けるように努める。嘘はついていない。遥という女子の情報の一つだった。

「ふーん」彼女は興味なさげに鞄を弄り始めた。

「とりあえず、今日は引き受けてくれて助かった」

 そう言ったタイミングで先ほどとは違う女性店員が注文したものを運んでくる。小さな声でお礼を言うと、その店員と目が合った。大学生だろうか、可愛らしく微笑むと店の奥に引っ込んでいく。

「気持ち悪い」

 海老名さんはカップをソーサーから持ち上げ、食器が立てる音のように無機質に言い放つ。自覚はしていた為に俺は言い返さない。

「知ってる」

 俺も手を伸ばし、ブレンドコーヒーで満ちるカップを取る。秋風が吹く街を見渡すと、駅前の中央に生える大きな樹木が葉を落とし始めていた。

 この格好を始めてからよくあることだった。まず人の態度が違う。大学で、店で、バイト先で、殆どすべての人間の態度が変わった。それも好意的な方面に。講義室で本から顔を上げればどこかしらの人間と目が合い、カフェに入れば女性の店員はにこやかに笑いかけて来る。バイト先に本屋では客の求める本を探す手伝いが増えた。

 煩わしい。

 海老名さんは鞄から黒い塊を取り出した。よく見るとそれはカメラで、一眼レフと言うものだろうか。

「写真を撮ってくれって言ってたけど、話を聞く限りじゃ自撮りの方が重要かもね」カメラのボタンを操作しながら、海老名姫菜は呟く。

 事前に軽く打ち合わせはしていた為、海老名さんも考えてくれたのだろう。どうせ勘付かれると思って偽アカウント作りの事も話してあった。自己啓発系などの自立型の人間を作ることは簡単ではないが、できない事ではないだろう。しかし、一般の大学生をでっちあげるのは難しい。写真を撮るにしても人数がいるし、大学名を出すとボロが出やすい。そこを突かれたら終わりだろう。

 そこで目を付けたのが裏垢だ。名前も出さず、学校名も出さない。匿名の大学生として一人の人間を作り上げる。哲学書からでも引用したセンスのいい呟き、そして目を引く写真。どちらかと言うと後者が重要だろう。大多数に引っ掛かる必要はない。材木座が集めた情報から抽出した男性像をあてはめ、それに近い人間をつくる。

 もちろん、それが機能するかは分からない。活躍する場が出るかは分からないが、念には念を重ねる必要があった。

「できればそっち方面も頼みたい」カップに口をつけ、苦い液体を流し込む。

「いいよ、調べてきたから任せて」海老名姫菜は言った。「それ、服だよね?」

 俺は海老名さんに視線を追い、自分の足元を見た。そこには大きな紙袋があり、着替えが入っていた。今日一日でできる限りの写真を撮りたかった。「ああ、五、六着はある」

 それに頷いた海老名さんはカメラを仕舞い、今度は携帯を取り出した。最近のものはデジタルカメラと遜色のない機能が備わっている。撮影し、加工をすればそれなりのものはできるだろう。

「そういえば比企谷君って、甘党じゃなかったっけ」

 目線も合わさず、意味もなく語り掛けてきた。指は素早く動いている為に彼女なりの世間話なのだろう。それであればもう少し興味を持つ素振りを見せてもいいのでは? そう考えたが、彼女の性質上バツが付いた事にはもうバツでしか向き合えないのだろう。

「…今だけ、ちょっとな」

 含みのある言い方に、海老名さんの眼鏡の奥の視線がこちらに向いた。それを遮るようにわざとらしく音を立ててカップを置く。彼女の意識が机と空中に分散された。

「そろそろ行くか」注文票を手に席を立つ。

「はいはーい」

 海老名さんは俺がお代をもったことに何も言わなかった。ただそれはこの数週間で俺が味わった気持ちの悪い甘えではなく、今日一日における正当な報酬、対価として、それ以上もそれ以下も求めない。そういう趣旨の行動だった。

 歩道に出ると、小さな子供が追いかけっこをして遊んでいた。車が来ないことをいいことに走り回っている。

 ピピッ、と音が鳴り、続いてカシャッ、とシャッターが切られた。驚いてそちらを見ると、いつの間にか海老名さんの手にカメラが握られていた。

「え、なに」怪訝な視線を向ける。

 それに応えず、彼女はカメラの本体にある小さな画面を見せてきた。「こういうのが理想なんでしょ」

 そこには街並みを見つめる男の後ろ姿があった。背景と被写体のバランスが取れていて、あの海岸を思い出させる写真だった。あの夕日よりも眩しい砂浜を。

「もうちょっとチープでいいんだけどな」俺とは思えない、男性ファッション誌の表紙を飾れそうなその一枚に気後れする。

「安っぽくね、了解」

 再びボタンを弄る彼女を横目に、俺は歩き出す。「腐腐腐、これを隼人君に渡せば…」とか後ろで意味の分からない事を呟いているが、突っ込まない。

 数歩歩いた所で、どこか安心している自分に気が付いた。それは綺麗に映った被写体が、俺とはかけ離れた人種だったからだろう。見ず知らずの誰か。俺ではない誰かに、ちゃんとなっていたからだろう。

 重く圧し掛かっていた何かが、少し軽くなった気がした。

 

 

 

 




今回も最後まで読んでくださってありがとうございます。
とても嬉しいです。

また感想、誤字報告など頂けると嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

shake in tears

こんにちは、お久しぶりです。

11月の終わり頃ですかね?多分。
書きたいことは決まっているのですが、迷走してしまっている感が否めません。でも最後までは必ず書きますので、また読んでもらえると嬉しいです。

またまた沢山の感想ありがとうございます。またまた読んで頂けるととても嬉しいです。

お手すきの際にどうぞ。


 

 比企谷八幡は虚像に揺れる。

 

 大学の授業が終わりすぐにやってくる電車に乗り込むと、学生でごった返し読書もままならない。だから俺はいつも時間をズラす。学生の去った講義室で時間を潰すも良し、生協主催の書店に足を運ぶも良し、とにかく少し寄り道をしてから電車に乗り込むのが常になっていた。

 今日だけは、その習慣を恨んだ。

 

 一つページを繰ると『署名運動の無力』という単語が目に入り、手が止まった。その理由はここ最近世間を騒がせている県民投票の件が頭を掠めたからかもしれないが、そんなのは誤魔化しでしかなく、叩かれた肩と、振り返った先にいた人物に虚を突かれたからに他ならない。

「八幡! 久しぶり!」戸塚彩加が歯を見せる。

 戸塚の格好は紺色を基調としたジャージ姿で、蛍光色のラインが入っていた。胸元には大きくスポーツブランドの名前がプリントされていて、間延びした素材を引き締める。

 思わず、電車の窓に映る自分の姿を確認してしまった。そこには紛れもなく比企谷八幡が映っているのだが、そうであってはならなかった。

「お、おお」動揺で口が動かない。「久しぶり…だな」

 しかし戸塚は俺の逡巡など意にも介さない様子で、はにかんで首を傾げる。「どうかした? 八幡」

「…いや、なんでもない。よく分かったな、俺だって」

「うん! 八幡かっこよくなってたからビックリしたけど、すぐ分かったよ!」

 戸塚ははしゃぐように言い、俺の隣のつり革を掴む。眼下の座席に座る女子大生が俺と戸塚を交互に見やり、悪いと思ったのかすぐスマホに視線を落とし、今度は上目遣いにこちらを窺ってきた。少し見開かれた瞳はこの数週間で嫌と言う程味わった。

「…かっこよくはないけどな」俺は視線を逸らしつつそう溢す。

「ううん! すごくかっこいいよ!」戸塚はかぶりを振った。「八幡ってどんな髪型でも似合うんだね!」

 彼の表情は純粋に俺を見てくれていて、心臓がきゅうと締め付けられる感触がした。いっそ軽蔑や侮辱の言葉を掛けてくれた方がましだったかもしれない。

「そうか、さんきゅな」

 戸塚の顔が歪み、慌てる。それが自身の涙によるものだという事に気付くのにそう時間はかからなかった。額に手を伸ばし、スプレーで固められた前髪を乱暴に壊す。視界が隠れるようにがしがしと扱った。

「八幡?」戸塚の気遣う声が聞こえたが、表情を見ることはできなかった。

 無理やり涙腺を抑え、こみ上げるそれを何度も飲み込んだ。「…はぁ、なんでもない」一度鼻を啜る。「なあ戸塚」と言うと、視界の端で首を傾げるのが見えた。「俺、変わってないか?」

 戸塚は二、三度瞬きをし、そして笑った。「うん! 変わってないよ!」

 簾のように視界にかかる前髪を通しても尚、きらきらと光る笑顔だった。

 これはもう、病気ですね。

 

 戸塚の降りる駅に着く直前、「八幡、何かあった?」と意を決した表情で語り掛けてきて、俺はそれに首を振った。「すまん」と言うと、彼は少し悲しそうな顔をして「僕、待ってるから」と呟いた。

 去っていく背中は小さく、抱き締めたら壊れてしまいそうなのに、俺は何度も唇を噛んだ。

 駆け込み乗車も許さない冷血な車掌に少し感謝した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 由比ヶ浜結衣は駅のシンボルとなっている時計を見やり、そのまま癖で腕時計を確認してしまって一人苦笑する。雪ノ下雪乃の入学論文も終わりを迎え、秋学期も落ち着いてきた頃、あの二人に連絡をとった。またご飯に行こうという内容に、ぶっきらぼうに、それでいて温かい返事が同じく二通返って来て思わず跳ねた。

 奉仕部の二人とこうして卒業後も会えることが未だに信じられなく、由比ヶ浜はやり取りのあったLINEの画面をもう一度確認した。つい頬が緩む。

 喧騒の止まない改札前は人の往来が激しく、柱に隠れるようにして立っていた。集合時間までまだ十分以上ある。彼女は鞄から手鏡を取り出し、薄い化粧をチェックした。柱の影から声を掛けられたのはその時だった。

「はやいな」

「うわあ!」由比ヶ浜結衣は飛びのき、意識への急な来訪者から距離を取る。「なんだ、ヒッキーか…」

「なんだってなんだ」比企谷八幡が呆れた顔でこちらを見る。

 由比ヶ浜は彼の姿を頭のてっぺんから足の先まで見渡した。やっぱり変わったな、と思う。「ヒッキー、変わったよね」

 なぜか彼は大げさに肩をビクつかせる。「な、なんだよ急に」

「あ、ううん、変な意味じゃなくて、やっぱり服装とか大学生っぽいなーって」由比ヶ浜は手をぶんぶんと振り、訂正をする。

「まあ、そう見えるように小町に選んでもらったからな」

「やっぱり小町ちゃんかー」由比ヶ浜は駄目な子供を見るように眉を下げる。「あ、今日ヒッキーの服買おうよ!」

 彼女は、それがいいよ! と元気よくはしゃぎ、携帯でブティックを調べ始める。

「いや、いらねえよ…」と溢す彼を放置して、指を動かす。

 一分にも満たない時間だったが、彼が沈黙していたことに気が付く。由比ヶ浜は顔を上げた。比企谷八幡は視線を宙に、ではなく少し離れた位置に立つ女性に向けていた。少し驚く。

 視線に気が付いた彼がこちらを訝し気に見つめる。「なんだよ」

「え、あ、いや、ヒッキーってスタイルいいからさ、何でも似合って羨ましいなって」誤魔化すように発した言葉だったが、彼の表情が少し曇ったのを見逃さなかった。

「…別によくねえだろ」

 そう言うと、後ろめたさを隠すように視線を逸らす。

 様子がおかしいな、とは感じたが時間が立てば治るだろうと考え、一度辺りを見渡した。改札を抜けて来る雪ノ下雪乃が目に入った。

 少し歩を速めてこちらに近づいてきた。「ごめんなさい、遅刻してしまって」と彼女は小さく頭を下げる。

 由比ヶ浜が時計を確認すると、時間を二分ほど過ぎたところだった。「全然遅れてないよ!」笑顔で返す。

「いえ、遅刻は遅刻だわ。ごめんなさい」

 それでも雪ノ下は目を伏せ、申し訳なさそうに手を身体の前で組む。彼女の可愛らしいところだったが、元気づけたくて由比ヶ浜は隣に立つ男を見る。視線がぶつかると彼はすぐに納得したのか、一歩踏み出した。

「まあ、遅延なら仕方ないだろ」と乗り換え先のホームに進む。それに追従するように由比ヶ浜と雪ノ下が歩く。

「でも、遅延する可能性を考えなかった私が悪いわ」

「やめてくれ、そういう考えが日本の社畜魂に火を着けるんだ」比企谷八幡はしっしと手を払う。「人身事故じゃなくてよかったじゃねえか」

 由比ヶ浜はその言葉にチラリと電光掲示板を見た。そこには、『遮断機を切断』と意味の分からない文字が流れていた。

 雪ノ下も言い淀む。それを認めた彼はトドメの一言を発した。

「それに、お前が沈んでると楽しみにしてた由比ヶ浜が可哀想だろ」

 雪のように白い肌の彼女がこちらを見て、視線がぶつかる。由比ヶ浜は彼女の腕に抱き着いた。「そうだよ、遅刻なんてどうでもいいの。今私たちがここにいることが大切なの」

 久々のスキンシップに彼女は困惑していたが、すぐに微笑むと「そうね」と頷いた。

 エスカレーターの先に立つ彼の背中が、どうにも小さく見えたのは気のせいだろうか。由比ヶ浜は目を擦った。

 

 

―――

 

 

 雪ノ下雪乃はショッピングモール内のブティックで由比ヶ浜結衣に服を選んでもらっている男を見る。比企谷八幡の頭髪は高校時代より少し伸びたが、それ以外は変わっていないように感じた。ただ、拭いきれない違和感がずっと胸の中に蔓延していた。

 雪ノ下は思考を振り払い、近くにあるセーターに手を伸ばした。白から紺色へとグラデーションしているそれは、冬の寒さも、秋の涼しさも快適に過ごせそうな生地だった。

「あ! ゆきのんそれ可愛い!」由比ヶ浜が彼に合わせていた服をハンガーに戻しながら言う。「ほら、ヒッキーあれ似合うよ!」

「そうかあ?」比企谷八幡は面倒くさそうに近づいてくる。首元に合わせるように身体に押し当てると、彼は恥ずかしそうに顔を逸らした。

「あら、意外と似合うじゃない」

「うんうん! ヒッキーかっこいい!」

「なに、なんも買わねえぞ」

 本心から褒めているのに、そんなことを言われて雪ノ下は少しムッとする。「あなたから出るものなんて期待していないから結構よ」

「あ、でもちゃんとバイトしてるもんね」由比ヶ浜が思い出したように手を叩いた。「そういえばヒッキーって何にお金使ってるの?」

 雪ノ下もそういえばと思い当たり、彼の言葉に耳を澄ました。

「別に、本とかゲームとか、あと本とか」

「本しか読んでないじゃん!」

「ばっかお前、大分空気も読んでんだぞ。人のいないところで昼飯を食ったり、講義が始まるまで寝たフリしたり」

「それ高校時代と何も変わっていないじゃない…」彼が胸を張ってそれを言う為、雪ノ下は呆れてこめかみに手をやる。

「あははは」由比ヶ浜が声を上げ、それにつられて思わず笑みが漏れる。

 彼も結んだ口の端を持ち上げ気持ち悪く笑う。傷んだように見えた髪の毛も、この三人の中では無意味だった。少しくらい離れても大丈夫だろうと、雪ノ下の決意に背中を押してくれた、そんな気がした。

 

 

―――

 

 

 比企谷八幡は目の前の機械から溢れ出る黒い液体を見つめていた。ドロドロと垂れ、白いカップを汚すように満たしていく。何の変哲もない光景なのに、何故か目が離せないでいた。

「早くどいてくれないかしら」

 背後から声を掛けられ振り返ると、両手でカップを握り込む雪ノ下がいた。「すまん」と謝り、横にずれると彼女もドリンクバーのコーヒーマシンにカップをセットした。白く細い指がエスプレッソと書かれた赤いボタンを押し込む。ピッと音が鳴った。

 それを横目に席に戻ろうとすると「比企谷君」と呼び止められる。首だけで振り返ると、再びしなやかな指先が見える。しかしそれは何かを押し込むでもなく虚空を指していた。

「なんだ」指の細さでも自慢してんのか?

「忘れているわよ」雪ノ下は少し心配そうな声を出す。

 爪から伸びる線を宙に想像し、その先に視線を動かすと白い筒がいくつも置かれていた。砂糖だ。

「…っ、ああ、さんきゅ」

 スティックシュガーに腕を伸ばしてから、自分の手が震えていることに気が付いた。少し乱暴に三本掴み取り、雪ノ下に背を向ける。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。彼女には見抜かれているのでは、なんて考えが頭によぎったが、遅れて席に戻ってきた彼女の表情に俺を訝しる様子は読み取れなかった。俺の勘違いは、雪ノ下に「そろそろその腐った視線を向けるのをやめてくれないかしら」と言われ、由比ヶ浜に「何見てんのヒッキーマジキモイんだけど!」と言われるに留まった。

 なんにも留まってねえ…。

 

「あたし、夢ができたかもしれないの」由比ヶ浜がストローから口を離し、一息置いてからそう言った。机の上についた水滴を見つめながら、誰に聞かれるとも知らず呟いた。「まだ夢なのかも分かんないんだけど」と続け、えへへと笑う。

「そう」と雪ノ下が微笑む。「そう、由比ヶ浜さんの夢が何かは分からないけれど、応援するわ」

 二人は目を合わせ、それから手をとった。「ありがとう、ゆきのん」と嬉しそうにお団子が揺れる。

 そんな様子をコーンスープで火照ったままの身体で見つめていると、雪ノ下がこちらをチラリと窺ってから口を開く。「私も、いいかしら」

「うん、なーに?」

 由比ヶ浜は言葉で、俺は少し大げさな首肯で続きを促す。

「由比ヶ浜さんと同じでまだ決まったわけではないけれど、私もやりたいことができたの」

「え、なになに!?」由比ヶ浜が身を乗り出す。

「ち、近い…」と少し避けたが、雪ノ下はすぐに観念し「本当にまだ決まってはいないから、結果が出てから伝えるわ」と微苦笑を浮かべた。

 由比ヶ浜は、えー、と渋っていたが、最終的には「私も応援する!」とはしゃいでいた。

 俺はそんな二人を見ながらカップに口を付けた。脳がとろけるような甘みが口内に攪拌し、喉を侵しながら通過する。彼女たち視界は先の光を見据え、希望に溢れていた。今が一番、だなんて言うつもりはない。二人が進む先に別れがなければ何も問題はなかった。

 心の中で祝福した。

 時間が止まればなんて、俺はいつまで考えているのだろうか。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷小町は空になったスプレー缶を玄関の沓脱に置いておいた。これで明日になったらガス抜きは終わっているだろう。父親は(母親もだが)危険なことはさせない主義を貫いている。※小町に対してのみ。

 リビングに戻ろうとすると、廊下の先からザザーと音がする。先ほど帰ってきた兄の比企谷八幡は、すぐに浴室に引っ込んでいった。特に会話はなかったが、もう少しあの頃の面影を見ていたかった気もする。知らず、小町の足は音の鳴る方へ誘われていた。

 どうせ歯磨きするし、と自分に言い訳をしてわざと無遠慮に脱衣場のドアを開ける。その音に気が付いたのか、キュッと音がしてシャワーが止まった。「小町か?」

「小町しかいないよ」共働きの家庭で不毛な質問に小町は呆れた声を出す。

「だよな、すまん」と磨りガラス越しの曇った声で謝り、「ちょっと確認してほしいんだが」と依頼をしてきた。

 小町は兄の頼みに少し心が躍る。そこに風呂場という場所の意味はなく、ただ兄に頼られるだけで嬉しかった。彼女は知られないように頬を緩ませる。「なーに?」

 そう言ったところで急に浴室のドアが開けられた。先ほど小町が脱衣場に入った時よりも無遠慮で、彼女は湿気に身を捩る。

「すまん、自分じゃ後ろ見れなくて」

 身内の裸など別に見たくない為、咄嗟に顔を手で覆う仕草をしたが意味はなく、兄は椅子に座って背を向けていた。そこにあったのは今朝、小町が黒染めのスプレーを吹きかけ、高校時代へとタイムスリップした兄とはかけ離れた姿だった。黒に近い灰色の後頭部が目に入る。

 小町は自分のお腹にモヤモヤが溜まるのが分かった。シャワーで落ちるとパッケージに書いてあったが、もしかしたら一生落ちないスプレーなのではと薄い希望を抱いていた。むしろそう願いながら手伝った。

「色落ちてるかってこと?」

「ああ」

「うん、大丈夫だよ」

 急激に体温を奪われる錯覚に陥る。あなたは誰だ、と言いそうになる。

 兄は後頭部をがしがしと掻いたあと「そうか、助かった」と言い、ドアを閉めた。

 再びシャワーの音がして、ひとつの空間で独りと独りになる。

「あなたは、誰」小町は震える唇で呟いた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色いろはは改札を通り抜けると携帯の画面に視線を落とす。比企谷八幡に持ち掛けたデートは、『すまん』と一言だけで断られた。次に当たったのは平塚静だった。連絡先は知っていた為にすぐさまコンタクトをとった。十月の半ば、比企谷八幡の様子がおかしくなったこと、そして雪ノ下陽乃の存在を聞いた。

 平塚静は詳細を明かさなかった。雪ノ下陽乃が関わっていることは確かだが、しっかりと握りこまれた拳を開くことはなかった。ただ一文、送られてきたメッセージが一色いろはの不安を煽る。

『私は間違えたのかもしれない』

 少し進むと背筋に冷たいものが伝うのが分かった。ただそれが、十一月の寒さからではないことは明白だった。一色の視線の先、待ち合わせにうってつけの柱にもたれかかる一人の女性がいた。雪ノ下陽乃だ。

 ローファーが見えない何かに躓く。足が進むのを嫌がっているのが分かる。

 こちらに気付いた雪ノ下陽乃がにこやかに手を振る。

「ふう…」一色いろはは気を吐く。

 正々堂々、正面から、対決だ。

 

 雪ノ下陽乃に案内された店は住宅街を右に左に進んだ先にあり、良く知ってるな、と思わずにいられなかった。ただ、「懐かしいな、入学式で比企谷君と来た以来かも」と彼女が不穏な言葉を発したので、一色いろはは控えめに睨みつけた。

 席に着くと雪ノ下陽乃は「ブレンドを一つ貰えるかしら」と店員に告げ、一色いろはも「あ、じゃあカフェオレを」と追従した。舌も大人なのか、と一瞬自分を卑下したが、自分が目の前の女性と同じ年齢になってもコーヒーなんて飲めないのではないか、と彼女は感じた。

 木で作られたテーブルの上にガラスがはめ込まれていた。その為机の下が透けて見え、雪ノ下陽乃の艶めかしい脚が晒されていてドキリとする。しなやかなふくらはぎは同性でも色気を感じるほどだ。

 そんな一色の視線を察したからではないだろうが、雪ノ下陽乃が脚を組む。

「久しぶりだね、一色ちゃん」口元に微笑みを称えて言う。

「はい、お久しぶりです」一色いろははペコリと頭を下げる。「急に呼び出してしまってすみません」

「可愛い後輩のお願いだもん、全然いいよ」

 その言葉に、ありがとうございます、と返そうとしたところで「それに」と続いた。

「それに、私もあなたと話したかったし」

 笑っているのに、先ほどとは違う趣旨の笑みに背筋が伸びる。蛇に睨まれた蛙とはこのことだろうか、一色いろはの直感が、敵わないと警鐘を鳴らす。

 唇を噛んで堪えていると、「こちら、カフェオレになります」と頭上から声が降ってきた。

「あ、私です」一色は手を上げる。

 空気を引き裂くように置かれたカップに口を付ける。唇、舌、喉を湿らせ、落ち着きを取り戻す。

「落ち着いた?」

 ハッとして前を向く。どこまでお見通しなのだ、と言いそうになる。彼女は薄く湯気の立つカップを口に運んでいた。

「大丈夫です、最初から」一色は姿勢を正し、攻勢に出る。

「そう」

「最近、せんぱいの様子がおかしいんですけど、何か知ってますよね?」

 一色の背後は底の見えない崖のように口を開けている。踏ん張り、前に出ないとすぐに挫けてしまいそうになる。強気に、一歩踏み出す。

「先輩って比企谷君のこと?」雪ノ下陽乃は可愛らしく、わざとらしく首を傾げる。

「はい」

「様子が変ってどんな風に?」

「どんなって」あなたは知ってるんじゃないんですか。「髪を染めたり、とか」

「ふうん、だめなの?」

 予想はできていたがそう言われると、一色は答えることができない。歯を食いしばる。

「だめ、という訳では…」

「髪を染めようが、彼女を作ろうが、それは比企谷君の自由じゃないの?」

「それはそうなんですけど…」

「一色ちゃんは何を求めてるの?」

「え?」

 雪ノ下陽乃の口元が怪しく歪む。

「一色ちゃんは比企谷君に何を求めてるの?」

 予想だにしない問いかけに、カップに伸ばしかけた一色の腕が空中で停止する。

 何を求めている?

 何って、何。

 頭を埋め尽くすその問に、一色の思考は揺れる。対面に位置する雪ノ下陽乃は優雅にコーヒーを飲んでいた。

 私がせんぱいに求めているもの。それは、なんだ。

 優しさ? 頼もしさ? 卑屈さ? 

 一色いろはは首を振る。余計な思考を振り払う。すぅ、と空気を吸い込む。口に出すのは初めてかもしれない。

「私は、せんぱいの事が好きです」その答えが意外だったのか、的外れだったのか、雪ノ下陽乃は少し目を見開く。「私は、普段はどうしようもないダメ男で、でも人の事をちゃんと見てくれてて、心の底から優しいせんぱいが好きです」

 言い切ると、ストンとなにかが落ちるのが分かった。口に出すことでこんなにも明確になるものなのか、とも感じた。ただ、雪ノ下陽乃の大きな瞳が妖しく光るのを一色は見逃さなかった。

「一色ちゃんは比企谷君の事を沢山知ってるんだね」

 一色は強く頷いて見せる。虚勢だとしても、負けるつもりはなかった。

「一色ちゃんは比企谷君の事を沢山知っていて、沢山好きで」雪ノ下陽乃はそこで言葉を切る。「だから今の彼は違う。そう言いたいのね」

「はい」返事をしたが、一色はしこりの様なものを感じた。「そうです」

「でも、それは一色ちゃんの望みなんじゃないの?」雪ノ下陽乃が机の下で脚を組みなおしたのが見えた。手をパンプスに伸ばすと器用にそれを脱ぎ、黒色のフットカバーをしなやかな指先で直した。

「どういうことですか」

「一色ちゃんがそうあってほしいと望んでいるんじゃないの?」言っている意味が分からず、一色は彼女の顔を見つめる。「今の変わった彼は違うから、高校時代の彼に戻ってほしい、なんて傲慢じゃない」

「そ、そういう」

「そういうことでしょう?」雪ノ下陽乃の剣幕に押される。「以前の彼がかっこよくて、素敵で、好きになった。だけど大学に行ったら彼の素敵な部分が変わってしまった。だから前の彼に戻ってほしい。違う?」

「ちが…」一色は言いかけるが、言葉が続かないのが分かった。一文字一文字探しながら暗闇に手を伸ばせど、行きつく先に正解はないと悟ってしまった。

 いつの間にか握りこんだ拳がほどけ、手汗が滲むのが分かった。

 悔しさに唇を噛み、俯く。

 違う違うと言いながら、自分の愚かさを隠してきた。

 一色は大学を知らない。何度オープンキャンパスに足を運べど、入試で訪れようと、あの場所の意味は分からなかった。二十歳を挟んだ四年間。思春期は終わり、子供は終わる。されど大人は始まらない。指針もなければゴールもない。人生で一番不安定で、叩けば固まる夢の舞台。

 それを一色いろはは知らない。

 彼が変わってしまったのは必然なのではないか、そう考える思考に鍵を掛け、無かったものとしてしまった。

「一色ちゃんは夢見てるんだよ」

 自らのローファーを見つめる形だった頭上から声がして、頬を伝う雫を指の甲で拭いながら視線を上げる。”それ”を視界に捉え、一色いろはは言葉を失う。

 雪ノ下陽乃の目尻から一筋の雫が頬を伝っていた。

「比企谷君に、夢を見るのはもうやめてあげて」

 一色の視界は揺れていた。湧いて出てくる液体が洩れ、制服のスカートを握り占める。雫が手を濡らす。止めどなく流れるそれを只々受け止めながら。眼前に広がる美しい光景に見惚れていた。

 自分の為ではなく人の為に流せる涙が、こんなに美しいものだとは知らなかった。

 平塚静の言っていたことが脳裏に浮かんだ。

『私は間違えたのかもしれない』

 先生と私が間違えたのかは分からない。ただ、彼女の涙は本物だと、それだけは確信できた。

 あんなにも溢れていた一色いろはの涙だけが、いつの間にか止まっていた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 人のいない深夜の書店で、城廻めぐりと比企谷八幡だけがレジにいた。

「ねえねえ、触ってもいい?」私がそう言うと、比企谷君は少し膝を折り、頭をこちらに傾けた。それに手を伸ばし、ふわふわと触る。「わあ、思ったよりごわごわだ」

「まあ、傷んでますからね」

「ふふふ、でもかっこいいよ」

 お世辞でなく笑うと、彼はぷいっと顔を逸らした。

 やっぱり変わってなかったな、と思う。姿形が変わろうと彼の本質は変わっていない。そう思えた。

 ただ、少しおかしい日があるのは確かだ。張り詰めた背中には何か重いものがのしかかっているような、そんな日もあった。今日は幾分空気が優しい。

 なんていうか、柔らかい。

「比企谷君、明日早い?」逸らされた彼の顔を覗き込む。

「いえ、昼からですけど。どうかしたんですか?」比企谷君は視線を戻すと、手元のブックカバーを折りながら器用に聞き返してきた。

「あ、ううん。変なことじゃなくて」身体の前でぶんぶんと手を振る。「帰る前に少しお話したいなあって」

「ああ、いいですよ」

「あ、いいんだ」断られると思ってた為、思わず訊ねる。

「え、駄目でした?」

「ううん! 嬉しい!」

 城廻めぐりのはじけるような笑顔に、比企谷八幡は再び顔を逸らした。

 そんな彼をからかい、夜は深くなる。

 店内には二人の笑い声と蛍の光が響いていた。

 

 閉店作業を終え店を後にすると、すぐ近くの公園に移動しベンチに腰掛けた。風に揺れるブランコは少し不気味で、きいきいと音を鳴らしていた。

「どうぞ」

 比企谷君が近くの自動販売機から缶コーヒーを買ってきてくれて、それを受け取る。

「ありがとう、いくらだった?」

「いいですよ」

「だめだよ。うーん、じゃあ、次にお話しする時は私が払うね?」

「まあ、次があれば」

「え、無いの…?」

「あ、いや、城廻先輩さえよければ俺はいつでも」

「そっかそっか! じゃあ次はあるよ!」

 受け取った缶のプルタブに手こずっていると、比企谷君が黙ってこちらに手を差し出してきて、それを渡す。かしゅっと心地よい音が弾け、缶が戻ってきた。「ありがと~」

「いえ、これくらい」

「ふふ」

 つい頬が緩むのを感じながら、月明かりに照らされる顔を見る。はっきりとした顔立ちは陰影が見え、ドキリとした。

「ねえ、最近奉仕部の皆とは会った?」

「ええ、本当につい最近会いましたよ」彼の視線がブランコへと吸い寄せられた。

「その髪型なんて言ってた?」私もそれを追うが、すでに揺れは収まっていて首を傾げる。

「ああ、似合わないって言ってました」

「えー、こんなにかっこいいのにー」

 奉仕部の二人が比企谷君の髪を見て、怪訝な表情を浮かべる。そんな様子を想像しようとしたが、何故か途中で霧散した。もう一度考えようとしても、不自然な三人の顔が出来上がるだけで、その内諦めた。

「私も会いたいなー」

「まあ、そのうち。今は雪ノ下も忙しそうですし」

「そうなの?」

「ええ、なんか夢ができたとか」

「へえー! 雪ノ下さんの夢かー」私は気付かず拍手していた。「なんだろうねー!」

「なんでしょう…」

 優しげだった比企谷君の表情が強張り、視線が公園の外、先ほど彼が購入した自販機のあたりの向けられている。不思議に思いそちらを向こうとすると、彼の手が優しく頬に添えられ、視線を彼の顔に固定された。

 添えられた指で頬が少し凹むのを感じながら、顔が赤くなるのが分かった。しかし、彼の表情は険しさを増してきていて、尚且つ未だに私の事を見ないから、事の深刻さを感じ始める。

「ど、どうしたの」なるべく平静を装い、訊ねる。

「城廻先輩、去年問題になった男ってどんな人ですか?」

「どんなって…」

 質問に質問を返されたことで少し混乱したが、何とか頭を働かせ、嫌な記憶を掘り起こす。少し出たお腹に、丸い鼻…。「眼鏡をかけていて、赤いジャンパーを着ている」

 思わず、目を見開いていた。私が考えている姿を彼が言葉にしたからだ。まるで私の思い描く姿を彼が目の当たりにしているような。

「うそ」

「城廻先輩、ゆっくり立ち上がってください」

 比企谷君が私の手を取り立ち上がらせる。視界の端で自販機の明かりに照らされる赤い物体が見えた。肌が無い毛を逆立てようとしている。公園を出た。

 こんな時にまで、カップルにしか見えないんだろうなと考える私は変なんだろうな、と思う。ただ身体は正直な様で、歩き方を忘れていた。比企谷君の腕にしがみついていないと今にも倒れてしまいそうだった。

 比企谷君はずっと「大丈夫、大丈夫です」と囁いてくれていた。

 私が掴んでいる手を握りしめながら支えてくれる。

 角を曲がるときにチラリと後ろを見たが、そこには赤い物体も、人影さえも見当たらなかった。

 車に着いてから彼の腕で少し泣いてしまった。意外に逞しい胸板に抱かれていると、暖かい感情と共に、罪悪感がじわじわと滲む感覚がした。

 髪を梳くように撫でられた頭は、家に帰っても熱をもっている気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は実像を探す。

 

 暗い室内で、陽乃さんの嬌声だけが響いていた。四つん這いで背を向けている彼女の表情は窺い知れないが、反った腰が小刻みに震え、それが俺の欲情をさらに駆り立ててくる。動きを止めると不思議がった陽乃さんはこちらを向く。お約束だった。期待と不安に満ちた視線を投げかけ、汗ではりついた髪の毛を手で避ける。彼女の視線が逸れた瞬間にまた動き出す。そうすると彼女は身体を震わせて鳴き、悦ぶ。

 シャワーを浴び終わるとベッドに戻る。シーツにできた染みを隠すように陽乃さんは動くため、わざとそれを剥き出しにすると彼女は顔を赤らめて抗議してくる。

 可愛らしく動く唇を塞ぎ、黙らせてからベッドに潜り込むと、彼女の腕が伸びてきて俺を抱き締める。優しく撫でる頭から、俺のすべてを許し、肯定する感情が流れ込んでくる。

 幸せの具現化の様な状態を全身で受け止めながら、比企谷八幡は一日の出来事を回想し始めた。

 

 週末の今日は陽乃さんに時間を割く約束で、朝から弁当を持参して郊外の自然公園に来ていた。弁当はもちろん彼女の手作りだが、三ツ星クラスの料理人に頼んだと言われても納得するほどの出来で、ほっぺたが落ちなかったことに安堵するほどだった。

「比企谷君は何がしたい?」陽乃さんはレジャーシートの上に脚を崩して座り、笑いかけて来る。

 それを横目で確認してから、再び手元の文庫本に視線を落とした。

「なんでも、陽乃さんといるだけで俺は楽しいですよ」

「わお、嬉しいこと言ってくれるねえ」

 陽乃さんの満足のいく回答ができたと高を括り、焦点を文字列に合わせると素早い動きでそれを奪い取られる。唐突に視界に入ったカラフルなレジャーシートに瞼を瞬かせた。

「何するんですか」目を擦りながら抗議する。

「お姉さんと遊びなさい」

 じゃーんと言い、バドミントンのラケットを取り出す。そのケースの下部分には小さな空間があり、どうやらその中に羽が入っているようだ。

「いいですけど…」チラリと視線を横に置かれたパンプスにやる。彼女の趣味なのか、スニーカーの類を履いているところは見たことがなかった。決して高くないヒールだが、運動するのに最適とはお世辞にも言えない。

「大丈夫大丈夫、裸足でやるから」

 陽乃さんはそう言うと、薄い靴下を脱ぎ鞄に入れた。小さな足の指がぴょこぴょこと動くのが可愛いらしい。

「まあ、それなら」俺も重い腰を上げた。

 彼女はいっくよーと叫び、ラケットを振る。青い空をバックに白い羽が飛んできて、それを打ち返す。それを何度か繰り返し、喋る余裕が出てきた。

「陽乃さん、上手いですね」腕を振る。

「そう? 普通じゃない?」彼女も腕を振る。

 お世辞じゃなく上手い。フォームは美しく、飛んでくる打球は俺の利き手に吸い込まれる。俺がほとんど動かなくてもラリーが続くレベルだった。

 彼女が優しく振りかぶると、重力をあまり受けなさそうなフレアスカートが揺れ、白い脚が根元まで見えかける。例の如く俺は空振りした。

「比企谷君のへたくそー」

「卑怯な…」

 可愛らしく首を傾げる彼女に恨みを込め、思いっきりオーバーハンドでサーブをすると、一秒も経たずヒュンッと音が鳴り俺の耳を掠めた。怖えぇ…。

「私が勝ったらお願い一つ聞いてもらおうかな」爪でガットをかりかりと弾き、言う。

「え」

「きまりー」

 突然の提案を拒否する前に腕が振りぬかれ、先ほどのキャッキャウフフな状態から五割増しのスピードで羽が飛んできて思わず避ける。

「はい、いってーん」

 やっぱこの人怖い。てか怖い。

 

「お願いってこれでいいんですか」

 俺が訊ねると、陽乃さんはもちろんと言った様子で首を縦に振った。「うん、お願いね」

「はいはい、分かりましたよ」

 彼女の鞄から出てきたウェットティッシュを開け、二枚取り出す。レジャーシートにお尻だけ乗せ、脚を投げ出していた彼女がこちらに向き直る。左足を差し出してきた。

 黙って足首を掴む。きゃっ、という言葉は無視する。先ほど取り出したウェットティッシュで彼女の足を拭き始めた。指の間まで念入りに拭いていると、くねくねと誘うように動いた。顔を上げると目が合う。「比企谷君の変態」

 少し視線を落とすと、脚の間から紫色の見えてはいけない布が見えてしまう。気のせいかどうか、その視線を受けてから脚が開いた気がした。

「なにやってんですか」鼓動を抑え、辟易とした雰囲気を出しながら言う。

 しかし彼女には届かないようで、「んー? 何ってなーに?」と妖しく笑う。

「はあ…。ほら、逆の脚出してください」

「はーい」

 もう一方の脚を拭き終わると、靴下まで履かせられ、ようやく解放された。ペットボトルにキャップを外し、口を付けるといつの間にか陽乃さんは正座をしていて、腿をぽんぽんと叩いた。「おいで」

 チラリと辺りを見渡すがこちらに注目している人はいない。俺はゆっくりと近づき、陽乃さんの太腿を枕に横になった。

 必然的に目が合い、彼女は微笑を称える。

「お疲れさま」

 優しく囁き、俺の視線を掌で遮った。突然暗闇に放り出された気分だが、首元から伝わる熱が決して独りではないと教えてくれる。

 暗くなると寝るとか、俺はインコかなんかか、そんなくだらないことを考えながら眠りについた。

 

 ショッピングモールによって買い物をしている間も、彼女は俺の存在を常に意識し、肯定し、賛同してくれた。俺が哲学書を手に取れば趣味が良いと褒め、俺がチラリと女性下着売り場に目を向ければ趣味が良いと褒めた。あれ? 後半褒められてる?

 それでも掴まる腕から、彼女は俺を許し、俺に許されている状況を作り出してくれていた。

 ずっと欲しかった打てば響くような関係が、ゆっくりと構築されている。そんな勘違いをしてしまいそうなほどに俺を求めていた。

 彼女の運転する車の中で俺が心から愛を囁くと、自然とハンドルはホテルへと向かった。

 四六時中俺を求めるその姿は、恐ろしく依存的で、俺の何かが染められていく気がした。

 

 目を開けると、そこにあるのは豊満な胸だった。下着も着けずに俺を抱き締め寝てしまったようだ。か弱く主張するそれを舌で転がすと、彼女は優しく喘ぐ。

 こんなにも満たされているのに、俺はなぜ頑張っているのだろうか。

 気を張って、身を挺して、心を殺して、俺はどこに行こうとしているのか。

 俺は何を待っているのか、その答えは彼女が持っているのか。

 今となっては、それすら分からない。

 

 

 




今回も最後まで読んでくださってありがとうございます。
とても嬉しいです。

また感想、誤字報告など頂けると嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

continue to hate

こんばんは、お久しぶりです。
遅くなってすみませんでしたm(_ _)m
12月入ったぐらいですかね?

待っていていただいた方がどれだけいるかは分かりませんが、読んでもらえると嬉しいです。

たくさんの感想ありがとうございます!
お手すきの際にどうぞ。


 

 

 比企谷八幡は実像に交わる。

 

 終了の鐘もなく教授の合図で教室は喧騒に包まれる。三百人以上を収容する講義室だが、半分も埋まっていなかった。選択必修ではあるが少なすぎるだろ、と思う。

 空いているために隣の席に置かせてもらっていたリュックを持ち上げる。陽乃さん選びのそれは流行りのブランドではあるものの他には見ないセンスがあるのか、パリピグループのおしゃれ番長らしき男に、それどこで買ったん? とエセ関西弁で訊ねられたこともあった。

 ふと視線を感じ背後を振り返ると、二つ後ろの列にいる女子二人組と目が合った。リュックに興味を持った訳ではあるまい、視線は俺の顔面に注がれている。

 わざとらしく首を傾げると、なんでもないよ、と言わんばかりに手を振ってきた。なら見るなよ、とは言わない。チラと手を振った女子の隣に目を向けると、目尻が赤く装飾された鋭い眼球に捉えられる。艶やかな黒髪をボブヘアにしていた。

 良く知っている。

 丸首のセーターから覗く鎖骨に記憶が刺激され、何回か共にした夜を思い出す。華奢な身体からは想像が容易な胸に物足りなさを感じたことは秘密だ。

 俺はそこで少しの違和感を覚えたが脳内で頭を振りそれを逃がす。特に会話もなくリュックを背負い直すと、講義室前方の扉に向かって歩き出した。鉄製の大扉がいつもより重く感じたのは後ろ髪引かれる何かが、俺から、もしくは彼女から発せられていたからだろうか。否、前者はない。何故なら現在俺の腕をバドミントンの筋肉痛が襲っているからだ。

 新鮮味をなくした地下鉄の構内を歩きながら腕時計を確認する。覚えてしまった授業終わりの時刻表を頭の中で広げると数分間の余裕があり、足をトイレがある方向へ向けた。

 甲高い笑い声をあげる学生とすれ違い男子トイレに入ると、独特の異臭に少し顔をしかめながら用を足す。成人男性の平均身長を図ったわけではないだろうが、ちょうど視線の先に小さな注意喚起が貼ってあった。『お酒の失敗はアナタの失敗!』という見出しに付随して暴行を加えようとする図と胃の内容物を吐く行為、要するに嘔吐している図が描かれていた。

 また、違和感が俺を包む。

 トイレを後にして目的とするホームに降り立つと、前方には霜月の終わりにも関わらず脚を曝け出した女子学生がいた。正反対にニットにダッフルコートを重ね、動くたびにモコモコという効果音が発生しそうな男子学生と談笑している。分厚い化粧の赤い口紅が妙に視界に入り、先ほどから胸に渦巻く違和感に突き刺さる。

 分かったっての、と差し出される手を無理くり掴むような気持ちで違和感を受け入れた。

 このひと月で何度も経験した”それ”に身体が慣れつつある。以前の様な気持ち悪さはなく、先ほど情事を思い出した際も胃からせり上がる感覚は皆無だった。

 感じた事と言えばどくどくと波打つ自身の欲と、比例して立ち上がるものの気配だけだった。

 成長したものだな、と自虐的に笑ってしまう。奥歯を噛み締めるように堪える嗤いを轟音と共にやってきた電車が掻き消してくれた。

 例え物事が失敗したとしても、その失敗をしたことは糧になる。失敗したことで学ぶこともあれば、失敗したことで辞める決断ができたことも成長と呼べてしまう。人のすべての行動は糧になる。反復もそうだが、新たな経験など養分をたぷたぷに含んだ水風船のように弾ける。

 そう、それが成長なのだ。

 昨日の自分より、今日の自分。

 今日の自分より、明日の自分。

 だから明日も、今日の自分を恨み続ける。

 

『かしこまりました、二名様でご予約ですね』改札を抜けた先で、耳に当てた携帯から綺麗な声が聞こえる。電波を介しても美しく響く声は勝手に想像を駆り立て、発生源を頭の中で美化してしまう。

「すみません、お願いします」

『では、お待ちしております』

 忙しいのか、失礼します、と言い終わる前に電話が切られた。何度か経験した予約という作業にも慣れつつある。この予約という作業しかり、アルバイトしかり、世の中で人が苦手としていることの殆どを場数が解決する場合がままあるという事を大学に入ってから感じた。新たな環境に身を置くことが多くなったからだろう。

 待ち合わせの大時計に近づいているうちに視界がひらけた。低く無機質な天井は消え、今度は千葉の星空が降ってくる。空気の澄んだ空は高くより鮮明に大三角形を認めることができた。

 街灯の並ぶロータリーに一際明るく照らされた一角がある。花壇と一体となった大きな時計の前にはささやかなベンチが設えられており、憩いの場として休日には子供のはしゃぐ声がこだまするのだろうと想像できる。そんな場所も夕方、陽が沈んでしまえば早くも酔いのまわったサラリーマンやこれから夜の街に繰り出さんとする若人が群がり始める。

 その酒池肉林を夢見んとする一団から離れた位置、手持無沙汰に脚を交差させて立つ女子が見える。俺は奇声をあげる集団を横目に彼女の方向へ進んでいった。

 所謂萌え袖というのだろう、白のタートルネックニットの袖を弄ぶのに忙しそうで俺には気付いていない。ミモレ丈の赤いスカートに大人っぽい印象を抱く。程よく引き締まったふくらはぎは黒いタイツに包まれていた。

 どんなふうに脱がそうか。そんなことが第一に頭をよぎり、少し自分に嫌悪を抱く。

「すまん、遅れた」大時計を見ても遅れてはいないが、そう言うだけのメリットがこの言葉にはあると思う。

 俺は折本かおりにそう声を掛けた。

 彼女はハッとしたように顔を上げた。「あ、比企谷」と言い、恥ずかしそうに袖を隠す。「ううん、全然遅れてないよ」とはにかんだ。

 俺はわざとらしく腕時計を確認して言う。「確かに、お前が早すぎるんだな」

「ちょっとー、なにそれ! 私が楽しみにしてたみたいじゃん!」

 折本は手を握りこみ優しく殴って来るが、それを躱して先ほど予約した店へと向かう。後ろからタタタッと小気味いい足音がしたと思えばポケットに突っ込んでいた俺の右腕に絡みついてきた。腕の組み方一つにも人の性格だったり癖が出るのだと知った。彼女は左腕を通し、右手を俺の肘の近くに添える癖があった。身体をくっつけるその仕草に胸の感触がよく分かる。

「楽しみじゃなかったのか?」少し背の低い彼女の長い睫毛を見つめながら話しかける。

「それはまあ、楽しみだったけど…」

 恥ずかし気に、しかし満足そうに唇を尖らせる様子を見て俺は視線を前方に戻した。歩けば十分ほどで着くだろう。ただそこで再び右方向に意識を引っ張られたのは懐かしさからだろうか、数日前の記憶が掘り起こされ、”夢”という単語が頭を掠めた。

「どうしたの?」折本がこちらを上目遣いに覗き込み、そこに答えがないと悟ったのか今度は俺の視線の先を追って特徴的な店の外観を捉える。「あー、サイゼ! ウケるんだけど!」

「いや、ウケねーから…」会えば一回は行われるこのやり取りに軽く辟易しつつ足を更に進めようとするが、腕の拘束元が移動せず身体がつんのめる。「なんだよ」

「いいよ」

「は?」

「だから、サイゼでいいよって言ってんの!」

 折本は歯並びを自慢するように笑い、俺の腕を強引に引っ張り始めた。

「いや、でも…」「好きなんでしょ?」「まあ好きだが…」

 ならオッケー! といつの間にか移動した手が俺の掌を掴み、そのまま指を絡めると所謂恋人繋ぎの格好になる。

 彼女の背を追従する俺の頭の中は、過去のサイゼを馬鹿にされた記憶や折本の変化に支配されていた。なんてことはなく。ただただ予約キャンセルの電話を掛けなければいけない憂鬱さに包まれていた。

 

 折本を先に行かせて電話を掛け、迷惑そうな声に謝罪をした俺はミラノ風ドリアとその他数品を平らげた。ついでに折本の残飯も食べさせられ、腹を擦っている今に至る。

 テーブルの上のグラスに手を伸ばそうとして空振りに終わる。今折本が食後のコーヒーを取りに行ってくれているところなのを思い出した。戻した手をそのままポケットに突っ込み携帯を取り出す。写真フォルダをタップし隔離されたファイルまで辿りつくと、そこには折本のあられもない姿を納めた写真が十数枚保存されていた。情事そのものの記録はないが、一糸まとわぬ身体で寝そべる姿や、マジックミラー越しに撮影したシャワーシーンなど様々だ。

 沸騰して気泡のはじける劣情を抑えつつ辺りを見渡した。壁際のテーブル席の為後ろから見られる心配はなく、右側は仕切り、左のテーブルは空席になっている。折本がカップを両手に抱えて戻ってくるのが見え、伏せるように携帯を置いた。

「お待たせー」ゆっくりと二つのカップを置いた。

「サンキュ」

 ブラックのままでそれに口をつけ、不安や動揺、怯えを黒く濁った液体で流し込む。身体の芯から堕ちなければならない。そうしなければいけない。

「どしたん、比企谷」気付けば折本がカップを持ち上げこちらを見ていた。少し怪訝な表情を見せつつ一口啜る。「なんかいつもと違うね」

「そ、そうか?」飲み下したはずの動揺がひょこっと顔を出してしまう。

「うん、あー、いや、どっちかっていうと前の比企谷っぽいのか」

「は?」

「あはは、ウケるんだけど何その顔」

「いや、ウケねーから」

 いつもの問答を行いながら俺は動揺を隠せずにいた。そんなことがあってはならない。それを避けるために髪を染め、服装を整え、関係を変えた。そんなことが。「で、どしたん?」

 もう駄目だろうと悟った。なにより俺の反応が正直すぎる。今も驚きに目を見開いてしまっているはずだ。いや、むしろそれを望んでいるのかもしれない。今ここですべてを看破され、邪知暴虐の王を除く手段を一つ一つ削られ、最後の一本まで切り落としてしまえば、もうやれることはないと諦めることができるのではないか。そうなればどんなに楽なのだろうかと。

「言って? 私、比企谷の為なら何でもするよ」

 だから、そんな頬を上気させ、潤んだ視線を俺に向けないでくれ。

 

 ベッド横のソファに深く腰掛け、五十インチはあろうかというテレビを見上げる。まだレンタルも始まっていない映画が観られるようになっていて、すでに映画館で観たにも関わらず惰性で流している。期間限定や先行公開という言葉に弱いのは世界共通なのかもしれない。コンビニのおにぎりは同じ商品を売る期間で変えて新商品と謳っているらしい。それで売れるのだからどうしようもないが。

 手元の携帯に目を落とすと出番のなかった折本の画像が表示されていた。ゴミ箱のボタンを触ろうかというところで風呂の方からシャワーの音が止まり、画面を切ってリュックに突っ込んだ。

 薄いバスローブを羽織った折本が柱からこちらを覗く。それに気付かないふりをしているとしびれを切らしたのだろう、ちょこちょこと近づいてきて隣に腰掛ける。俺が黙って腰に手を伸ばすと水滴のついた頭を肩に乗せてきた。

「これ、最近有名になったやつだよね」折本がテレビを指さして言う。

「そうだな」

「なんだっけ、外国だよね、ヨーロッパのバンド」

「イギリスな」

「そうそう! 結局どんな映画なの? 面白い?」

 俺は想像を膨らませる。愛の在り方だとか、家族の在り方だとか色々浮かんだが、この手のノンフィクションに無粋な考察はいらない気がした。彼の人生で、すでに終わった時間に意味を持たせるのは自由だが、彼自身がまっとうしたものを語る気にはなれない。

「さあ、でも、見てもいいかもな」

「なにそれ、ウケる」

「べつにウケねーから…」

 それから何分そうしていただろうか、一人で抱える苦悩を描いたシーンに胸を痛め、折本が耐え切れなくなったのか俺の袖を摘む。「ねえ」

「なんだ」

「遥のことが好きとかじゃないんだよね」

「ああ」

「必要なことなんだよね」

「ああ」

 数秒の沈黙のあと、折本は俺の首に手を回し頬にキスをしてくる。それを受け入れ口の中でつつき合う。はだけたバスローブの隙間に手を入れた。

 彼女の意思を押し殺した肯定を全身で受け止め、応える。力いっぱい抱き心の中で涙を流した。

 ベッドは軋み、不協和音を奏で出す。

 ピッチもなにもあっていない、外れたキーで謳いつづける。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 材木座の携帯が軽快な音を鳴らしLINEのメッセージが届いたことを知らせる。それを手に取ると相模と表示されていた。材木座はパソコンの画面に映るツイッターアカウントの操作をやめ、一度携帯でも触ろうかと背もたれに体重を預ける。すると椅子が悲鳴を上げるように軋み、ひっ、と言いながら体制を立て直した。

『見つけました』というメッセージと共にURLが貼られていて、相模と秦野がウイルスでも送って来るのではないかという懸念を抱きつつタップした。一秒と経たず現れたページは見覚えのあるアイコンで、アイドルグループ出身の女優がCMをしているフリーマーケットサイトだった。材木座は画面の大半を占める写真に視線を走らせ、その下のテキストエリアに目を向ける。

 そこで画面が暗転し、『八幡』という文字と赤と緑のボタンだけの世界になる。軽やかなメロディも急な来訪には不快になることもあると今知った。しかし相棒の登場となれば話は別だ、エンターキーさながらに緑のボタンを、ッターン! と押し、耳に当てる。

「我だ」材木座は鼻から息を吐き、酔いしれる。

『よお、材木座』

「ふっ、久しぶりだな。八幡よ」

『いや、一週間もたってなけどな』

「もー! そこは感動の再会を演出してくれー!」

『はいはい分かった分かった』呆れた声を出し、同じニュアンスを含むため息も追加したダブルアタックに耐える。『で、今はどんな感じだ?』

「ふっふっふ」待っていた言葉に思わず笑みがこぼれる。「聞きたいか、八幡」

『そんな自信満々だと期待しちまうぞ』

「存分にしてくれてよい!」はっはっは! という高笑いに、コンコンというノックの音が割り込んでくる。「はひゃい!」

「うるさいよ!」騒音に反応した材木座の母親が声を荒げた。

「す、すまぬ母上」

 ぶつぶつと小言を言いながら離れていくスリッパの音に耳を澄ませ、いつの間にか離していた携帯を再び耳に当てる。「我だ」

『よくそのテンション保てるな』

「ええいうるさい! とにかく報告させてくれ!」

『ああ、頼む』

 それから材木座はアカウントの動き具合を説明した。海老名姫菜に協力してもらったハイセンス系アカウントの調子が良いこと、意識高い系ブログが変な方向に走り秦野が投資を始めたこと、そして遥の彼氏の裏アカウントに接触できたこと。遥の彼氏、長いのでハルカレシと呼ぶことにするが、そのハルカレシが推しているグループのエース級アイドルの卒業公演がクリスマスイブにあるという。今をときめくトップアイドル、テレビをつければ見ない日はない。そんなライブのチケットはプレミア、既に当選発表は終えているが、そのハルカレシも手に入れることはできなかったらしい。悔しさを滲ませ、ツイートを乱発していたのを材木座は見逃さなかった。

 チケットが当たったと謳い、材木座は巧妙に近づいた。二次元にしか興味のなかった材木座はそのアイドルを勉強し、気付けば出る番組をすべて録画するほどにはまっていた。ただそんなことはどうでもよく。チケットは当たったものの、どうしても外せない予定が入る可能性があることを匂わせる。同じ地域の大学生で、そのアイドルに対して強い愛を見せてくれればチケットを譲ることも考えると誘い込んだ。

 そしてそれが功を奏する。食いついたハルカレシを気に入ったふりをして近づくことに成功した。番組を見れば語り合い、ニュースがあれば送り合った。ほとんど材木座個人の入れ様にも感じられたが、それは話さずに八幡に説明した。

『で、必要なのが』

「ふむ、そのアイドルの卒業コンサートのチケットという訳だ」材木座は八幡の”作戦”を理解していた為に気を吐く。「見つけたぞ」

『まじか』八幡の驚く顔が伝播してくる。

 それに気を良くしたいが、材木座の目の前に表示された画面を見るとそうはいかない。十二月二十四日、卒業コンサート、アリーナBブロック。

 九万五千円。

 材木座は顔をしかめる。定価一万のチケットが大体十倍の値段設定になっていた。アイドルの最後の雄姿を見たいという思いの足元を見た行為だ。材木座は八幡の事関係なく憤りを覚えた。しかし、それを伝えると、『よし、買ってくれ』と即答されるものだから、材木座は目を瞬かせるしかなかった。

「ほ、本気で言っているのか? おぬし」

『ああ、売れる前に早く』

「ほとんど十万だぞ? 八幡?」

『大丈夫だ、金ならある。それにいい席の方がいいだろう。喰いつきも良くなるし、さっさとチケットを見せた方が信憑性も高くなる』

「しかし…」としぶる間もなく、『頼む、材木座』と芯の通った声で言われてしまえば材木座の指は自然と購入ボタンに触れた。

「買ったぞ、八幡…」

『すまん、助かる』八幡の声は本当に痛ましく、材木座の脳内でこだまするようだった。『支払い番号が送られてきたら教えてくれ』

 息を切る気配に、材木座は慌てて呼び止める。「は、八幡よ!」

『ん?』

「いいんだぞ! 我は基本暇だからな! ゲーセンでも図書館でもどこでも付き合ってやるわ!」材木座は唇を噛み、どうしようもなく溢れる不安と言葉をおしとどめる。「八幡とならデスティニーランドもやぶさかでは…」

『いや、それはいい』

「ひどいっ!」

 材木座の悲痛な叫びが届いたのか、携帯の小さなスピーカーが震えた気がした。くすくすと堪えきれない笑いが洩れて聞こえてくる。

『…はあ、さんきゅな材木座。でももう少しなんだ』

「ふむ、ならば終わり次第我の薦めるゲームセンターに連れて行ってやろう」

『ああ、頼む』

 その言葉を最後に電話は切れ、材木座のいる部屋は静寂に包まれる。

 痛いくらいの静寂を掻き消すために卒業公演を迎えるアイドルの歌を流し始める。ヘッドフォンを介した音楽が耳をつんざくほどに鳴り響き、正しいか分からない自分の行動を有耶無耶にする。

 マウスを掴み、また一つ新しいツイートをした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 月光が薄くかかった雲を貫通して家々を照らし出す。比企谷小町は生徒会の手伝いですっかり日の沈んでしまった住宅街を歩いていた。あと数ブロック進めば比企谷邸が見えてくることだろう。

「はあ…」人通りの少ない路で小町のため息が空に消える。白く凍った空気を見るとより一層辺りが寒く感じられ、マフラーに顔をうずめた。

 学校指定のコートは見た目以上に暖かく、耐え切れないほど寒ければ走って家に帰るのにと小町は思う。夜半のコンクリートに溶け込むローファーで小石を蹴り飛ばした。凍える手をポケットから抜き取りその手に握られた携帯を表示させると、開いたままのトーク画面が現れる。『了解』とだけ記された吹き出しはひどく簡素で、読むだけで小町周辺の空気が冷えた気がした。

 クリスマスイベントの手伝いは急務でもなく、偶々声がかかっただけなのだが小町は受け入れた。帰りは暗い時間になっちゃうかもという忠告も参加する意思をより硬くするだけだった。今日は小町が夕飯を作り、兄である八幡を待つ予定の日だったが、解放される理由を探してしまっていた。小町にとっては寝耳に水の要請は非常に楽しい時間であったが、没頭する度合いに比例して時間は残酷に進む。気が付けば小石は側溝に身を投げ、チラリと顔を上げれば表札には比企谷と刻まれていた。特に聞いていなかったがリビングの電気は点いていて、兄が家にいることが分かる。

 意外だな、と小町は感じた。夕食の決まりから解放されれば今の兄であればどこかに出かけているのではと思っていた。女の人を連れ込むのも時間の問題だろうな、などと勘繰ってもいた。

 門扉を開け、玄関のドアも開けるとようやく一息ついた。温度差に汗が滲み、急いでマフラーを外す。リビングに顔を出そうか迷い、一度部屋で着替えて来ようと歩を進める。階段を昇った先にある兄の部屋は扉が開け放たれていて、学習机の引き出しに見つけた避妊具を思い出す。嫌悪感に舌を突き出して自分の部屋へ向かった。

 着替えも終わり、このまま寝てしまおうかと考えたところでお腹が悲鳴を上げた。空になった胃が質量を求めているらしい。一分ほど悩んだ後で、仕方なくリビングに降りることにした。どうせお風呂入るしね、と言い訳しながら階段を降りる。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと押す。食卓に兄の姿を捉え少し身構えるがその上体が卓上に突っ伏しているために思わずこけそうになる。なんでそんなところで寝ているんだ、と思いながら近づくと兄が作ったのだろう夕食が広げられていた。それも二人分。

「なにこれ…」小町がぼそっと呟くと、兄の背中がびくっと震えた。ジャーキングだったか忘れたが、がばっと跳ねた兄の顔も筋肉に起こされたことで戸惑っていた。

「お、おお」八幡は目を瞬かせ、目を擦りながら夢と現実をすり合わせているようだった。「おかえり、小町」

「ただいま…、もしかしてお兄ちゃん夜ご飯食べてないの?」

「え、ああ、まだ食ってない…、って冷た! 俺どんだけ寝てたんだ…」

 兄の触った大皿にはラップが掛けられていて、元々一人では食べる気がなかったのだと気付く。よだれを拭いながら立ち上がり、慣れない手つきでレンジに皿を入れる背中を見つめてしまう。「なんで」

「え、小町食ってきた? じゃあ親父にでも食わせるか…」

「そうじゃなくて…」

「ん?」兄は半分くらい聞いていないのか、ピッとボタンを押した。

「お兄ちゃん遊びに行くんじゃないの」小町は自分の声が震えていることに気付かなかった。「お兄ちゃんはどっかいくんじゃないの」頬を伝うものの感触でようやく気付き、鼻を啜る。

 兄は困惑しているのか、手を身体の前から動かせずにいる。「ど、どうした小町」

「お兄ちゃん、はもう他の人とご飯食べる、んじゃないの」鼻水を袖で拭いたのをきっかけに兄がティッシュ箱を取ってくれた。「ありがと…」

「すまん小町、全然わからん」

 頭上にクエスチョンマークの見える兄の表情が鬱陶しく、思わず顔を背ける。「外でばっ、かりご飯食べるんでしょ…」

「え、そうなの?」

「そうだよ!」ぐずぐずと泣きじゃくる小町は兄との感情の差に困惑し始めていた。アホ毛を揺らした兄のアホ面に胸の内のモヤモヤが萎み始める。ここまで悲しい気分になった元凶の記憶を辿る。「あれ…」小町の涙が急に止まり、兄のクエスチョンマークが一つ増える。「お兄ちゃんいる…」また増えるのが分かった。

「小町ちゃん…? 情緒がおかしいわよ…?」継続して困惑している兄の口調もおかしくなる。

 兄は変わってしまった。見知らぬ女性と遊ぶことが増えた。そして、小町とご飯を食べることが少なく…なっていない。「なってない」

「何が?」

「少なくなってない」

「だから何が?」

 兄はひと月前からバイトをずらすようになった。日曜日に入ったり、逆に平日に休んだり、今まで気が付かなかったが、小町とご飯を食べる日は四月からずっと変わっていない。

 ずっと、変わっていない。

「お兄ちゃん、変わってないの?」

 兄は首を傾げるが、眉根を寄せて少し逡巡した後、小町の頭を撫でた。

「大丈夫だ小町、兄ちゃんは変わらない」

 髪型や髪色、服装まで変わろうと、ずっと変わらない腐った眼が確かにある気がした。

 その日は久しぶりに兄の腕で泣いた。抱き締める腕が優しく、それは女の人と遊んで慣れたのかと想像してしまったが、あの日小町に誓ってくれた兄がずっといたのだとようやく理解できた。

 変化しない為に変化する。変化し続けるから変化しない。そんな難しいことは小町には分からない。ただ、変わらないものがあると目の前の腐った瞳が教えてくれた。

 許容しないで強要する方がおかしい。誰の言葉だったか、まあ、どうせどこかのロクでもないない人が言った言葉だろう。

 久しぶりに、帰ってきた気がした。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 一色はLINEを確認すると小さく舌打ちをし、踵を返した。帰って来ると思っていた千葉ではなく、東京方面に乗り込んだとの連絡が入ったのだ。改札に定期券を通すと残高が表示される。多くないそれを見てどこかでチャージしなきゃなと一色は思う。

 比企谷八幡との距離は空き、雪ノ下陽乃の涙にどうすることもできなかった一色の取れる行動はほとんど残されていなかった。一縷の望みを掛けるはターゲットへの突撃、真実を確かめる為のエンカウントしかない。一色は階段を駆け下り、普段は使わない、いつか八幡とデートに行った電車に乗り込む。スクールバッグに光るスカイツリーのキーホルダーはまだ新しく、思い出と一緒にきらきらと輝いていた。

 一色はLINEの画面を再び見やった。『戸部先輩』と上部に表示されたそのスクリーンは今現在、せんぱいの心へとつながる唯一の手段に感じられ、胸が苦しくなる。肝心の『せんぱい』画面にはいつからか返事がない。窓の外を見ると薄暮が広がっているが、もうすぐ闇が全てを飲み込むだろう。街灯が灯り、どこからともなく叫び声がこだまする。ネオンがいやらしく誘う、大人の時間がじきに来る。

「お願い…」

 いつしか一色は胸の前で祈るように手を組んでいた。ビル群に消えゆく光に望みを託すように、強く強く握りこむ。抗えない闇夜などないと信じ、軋むほどに手を握る。

 

 携帯の検索機能を存分に活用しせんぱいの行動を読む。戸部先輩が尾行してくれてはいるが目的地までは分からないだろう。一色は路線図を見て、次の乗り換えで絞ることにした。LINEがポップアップを表示する。標的が乗り換えのホームに移動したらしい。一色も動く。

 かなり移動してしまった。運賃が合計で千円に達している頃だ。トンネルを通過しているため分からないが、頭上には高層ビルが乱立しているのだろう。走っている路線の主要駅は次のが最後で一色は降りることを決意する。扉が開くと同時に飛び降りた。戸部先輩の報告によれば同時刻に到着しているはずだ。ラッシュに揉まれながら階段を昇り、同時に携帯を確認した。

『ヒキタニ君降りた!』

『北改札の方行った!』

『ごめんいろはす!』

『見失った!』

 無能っぷりを確認した一色は画面を落とし顔を上げた。乗換駅でもある為、改札を出ずに移動していた場合は万事休すだろう。改札を出て振り返ると西改札口という旨の案内が天井から吊り下げられていて、素早く視線を走らせた。北という文字に敏感に反応し、駆け出す。

 人の間を縫うように走る制服姿の一色。スーツを着たの大人たちが驚きにまず目を見開き、一色のスカートから伸びる脚に視線が移動する。かと思えば顔を見られ、汚い欲を一秒に満たない時間で吐き出された気分になる。普段は気にならないその視線も、今は何故かとてつもなく気持ちが悪く、助けを求めて叫びたい気持ちだった。

 肩がぶつかるたびに、すみません、と小さく叫び、また足を動かす。それを繰り返し、北口という文字の頻度が増える。ビジネス街が先にあるのだろう、堅い服装に身を包んだ大人が一色に向かって歩いてきて思うように進めない。小綺麗なオフィスレディも今はただただ歩みの遅さに不快感が募る。頬が垂れ始めた中年を避けると、視界の端に何かを捉えた。

 この場にそぐわない格好。スーツでもなければオフィスカジュアルにも属さない。若者だったが、それに収まらない服のセンス。灰色がかった髪の毛。人の深層の一歩奥を覗き見るような、猫背。

 キュッ、と音がした。その音が一色のローファーから発せられたものだとは、一色の周りは気付いているが、本人は気付いていない。

 それほどまでに無我夢中だった。

 バスケットボールの攻守の切り替えよろしく、一色は反転した。

 背広の後姿が眼前に灰色の壁のように立ち塞がる。浅く呼吸をするように小さく上下する光景は、巨大な生き物のうろこが蠢いているような不気味さもあった。

 それでも、一色は進む。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 向かい合って一色の姿を確認できた先ほどとは違い、背後からぶつかられた大人たちは露骨に嫌な表情をする。分かっている、私だってそんな表情をしてしまう、と一色は申し訳ない気分になる。しかし脚は止めない。

 微かに見える特徴的な髪色を時折背伸びしつつ視界に入れる。ここで離れてしまったらもう会えないのではないか、そんな勝手な想像が頭をよぎり、一色を焦らせる。躓き、ぶつかり、冷たい罵声を吐かれながら手を伸ばす。

 灰色のロングコートに手が掛かった時、一瞬空気が弛緩したかのように音が消えた。

 ラッシュを抜けたことで人ごみを外れ、小さな空間へと足を踏み入れたところだった。

「な、なんでお前…」

 ようやく捕まえたせんぱいの表情は、私の求める弱い彼の表情だった。

「やっと会えましたね、せんぱい」

 よくも可愛い後輩を、なんて小言はあとにしてあげます。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像を張る。

 

「な、なんでお前…」

 呼び出されて訪れた東京。その地下街を歩いていると背中を引かれる感触がした。気のせいだと放ることもできたが、嫌に残った静寂と切れるように吐き出される息が俺の首を動かした。

 一色いろはがそこに立っていた。

「やっと会えましたね、せんぱい」

 もう二年近くになるだろう。生徒会選挙から変わらない悪戯めいた笑みを口元に称え、いじらしそうにコートの裾を摘むしなやかな指先が見える。なんども惑わされてきた、紛れもない一色いろはだった。

「あ…」思わず求めてしまいそうになった。

 背後に伸びる希望の轍。この電車に乗ってきたのは彼女に会いに来たのではないか、そんな気までしてきたのは俺の意志が弱っているからだろうか。いや、そんな問答に意味は持たない。俺は俺をやめたがっている。今の俺をやめたがっているのだ。

 ただそれを許さず、戻れず、しかし絶対に許してくれる視線が俺を刺した。

 約束をしていた相手、雪ノ下陽乃が柱にもたれこちらを見ていた。一色の背後に位置している為彼女は気付いていないだろう。

 突然の来訪により陥落しかけた、いや、一度陥落した意志は陽乃さんの存在一つで再び凝結した。助けを求めかけた口元までもを氷漬けにされたような、一瞬の出来事だった。

 会ったばかりだというのに、言い残したことがあるように口を開く俺に一色が首を傾げた。「どうしました?」

 俺は意識を保ち、首を振る。「…いや、なんでもない」身体を一色の方に向けると裾を摘んでいた手は離れた。代わりにと言わんばかりに一歩近づいてくるのがあざとい。チラと陽乃さんを窺うが、近づいてくる気配はない。「どうしてここに一色がいるんだ?」

 俺の問いに一色は、そんなのいいじゃないですか、と言おうとしたのだろう、というか一回言ったのだが、咳払いをして「せんぱいに会いに来たに決まってるじゃないですか」と言い直した。

 一色の瞳が有無を言わせないもので、どうやってここまで、とは聞けなかった。しかし彼女に付き合うつもりもなく、俺は息を吐いた。「で、何の用だ」

 ぱちくりと瞬かせたガラス玉のような瞳が一際見開かれたのは、俺の言葉が冷たく突き放す類のものだったからだろう。それもそうだ、そのつもりで言ったのだから。

「なんですか、それ」一色が顔を伏せ、肩を震わせる。「せんぱいの様子がおかしいから会いに来たんですよ? その意味が分かって言ってるんですか」

「…そうか、なら心配ないから帰れ」

「ふざけないでください! なんですかその髪! その気持ち悪い笑い方! 何もないわけないじゃないですか!」

 一色の言葉は地下街には、いや、群衆には似合わない声量で周囲の気を引きつけてしまう。俺は壁際に寄り、柱の陰に隠れるように立った。一色もそれに追従するように近づいてくる、が俺はさらに言い放つ。「お前には関係ないだろ」

 彼女の肩がピクッと震えるのが分かった。「どうしてそんなこと言うんですか」潤んだ瞳で見つめてくる。「なんで関係ないなんて言うんですか、教えてください、何があったんですか」

――比企谷君はね、大人になったんだよ。

 俺と一色の間に透き通った声が侵入し、二人してそちらを向く。俺までもが驚きを抱いたのはその声が冷たさと一緒に、怒気を孕んでいたからだろうか。しかし、萎縮しそうな俺とは反対に一色の眼は突然の来訪者を強く睨みつける。「大人? せんぱいはまだ未成年ですよ」

「一色ちゃんの大人の定義だけは、つまらない大人と一緒なんだねー」少し高いヒールを鳴らし、近づいてきた。

「は?」一色の声質は年上に向けるものではない。

「だから比企谷君に避けられるんだよ」

 一色が動揺するのが分かった。自覚はしていただろうが、人から宣告されるのはまた意味が変わってくる。自身で死を感じるのと、医師からそのステージを聞かされるのとはまた違うように。

 なおも陽乃さんは続けた。「一色ちゃんは比企谷君が好きなんだよねー」そんな事を、意地の悪い顔で言う。

「なっ…!」一色が敏感に反応し俺に視線を寄越したが、すぐに元凶に向き直る。「それが、どうしたって言うんですか」

「ダメ男で、優しい先輩が好き、だったっけ?」陽乃さんは膝丈のスカートを揺らし、俺の元に歩み寄って来る。「一色ちゃんだけがその魅力に気が付いている、私だけの先輩」、かな? とこちらを見る為、俺は顔を背けた。

 そこで陽乃さんが腕を絡めてきた。まるで生き物のように、逃げるなよ、と言わんばかりに絡みつく。音もなく蠢き、気付けば指と指を絡めていた。

「何してるんですか!」と一色は叫び、「せんぱいも!」と追加した。

 拒絶をしない俺に腹を立てているのだろうか、それとも失望を覚えているのだろうか。一色の顔からはその両方が見られ、脈が速くなる。

「一色ちゃんは、比企谷君が浮気するようなダメ男でも好きでいられる?」

「は? なに言ってるんですか?」

「聞こえなかった? 比企谷君が何人もの女の子とエッチするような男の子でも、好きでいられる?」

「ちょっと言っている意味が分からないですけど、そんなことある訳ないじゃないですか」

 一色の顔は陽乃さんの虚言を看破したと言わんばかりに威勢が戻る。ただ哀しいのは、それが虚ろなものではないということぐらいだろうか。

「比企谷君に訊いてみたら?」

 陽乃さんが誘うように頭を俺の肩に乗せる。

「聞く意味もないですよ、そんなこと」俺と陽乃さんの距離感に苛ついているのか、一色に焦りの様なものが見える。

「あ、怖いんだー」

「はい? はいはい、分かりましたよ」一色は不快感を隠さず陽乃さんを睨みつけ、それからこちらに顔を向ける。「せんぱい、そんなことないですよね?」

 美女二人が言い争う、傍から見ればだが、光景は非日常を演出し、俺の意識をどこかに飛ばしてくれていた。それを世間は逃避と呼ぶのかもしれないが、一色の言葉には反応ができなかった。「せんぱい?」だから、二度目の問いかけにも俺は、何も言えない。「せんぱい!」

「もーやだなー、一色ちゃん、本気にしちゃってー」確執が音を立てた瞬間、陽乃さんが快活な声を挟む。「もしだよ、もし。もし比企谷君がそうだったらっていう話」

「ふざけないでください! ねえ、せんぱい、何とか言ってくださいよ」

 一色が近づいてきて、俺の胸倉を縋るように掴む。力のない指先で、何度も指を動かしていた。陽乃さんは絡めた指を強く締め、無言で促してくる。

「俺は…」そこで気付く。

 あの気配。

 口を開きかけたところで、一色の懇願も陽乃さんの強要も関係のない、あの気持ち悪さが襲いかかってきた。一色の小さな白い手を見ると、さらに気分が悪くなる。急激な浮遊感に陥り、腕が絡む陽乃さんに体重がかかる。「比企谷君? 大丈夫?」

 一色も察したのか、怪訝な顔をした。それに構わず、俺は一色の肩を押す。

「すまん、一色」後方へと押し出された一色の顔は、徐々に現実を認め始めるように変化する。「これ以上、俺に近づかないでくれ」

 俺の言葉が一色の何かを開錠した音が聞こえた気がした。開けてはいけない、開けたくはなかった重い扉が、ガチャリと音を立てて開く。

 俺があの日彼女に誓った約束は、俺自身の手で破り捨てることとなった。

 一色の足元に水滴が落ちる。

 頬を伝い、小さな水滴は重力に従って落ちる。

 一色は不安定な足取りで数歩下がると、来た方向へと走り出した。

 ローファーの乾いた音が離れていくのを聞き、俺の頬を何かが伝う。陽乃さんは腕を引き、気持ちの悪さで前かがみになる俺を支えながらどこかへ連れて行った。今までとは違う趣旨のものだとは気付いていた。気持ちの悪い女性への嫌悪、俺と言う骨格と皮膚に過ぎないものに惑わされる女性への悲観。それとは違う、俺を理解し、好意を抱いてくれた数少ない女性へ失礼な態度を取った自分への煮えたぎるような失望がそこにあった。

 カチャンと音が鳴り、そこが多目的トイレだと分かった。

 陽乃さんが俺をトイレの蓋に座らせる。気持ちの悪さによる嘔吐感はなかった。彼女もそれを察しているのか、朧気な視界の俺に口づけをしてくる。舌を入れ、口内を舐める。息継ぎも忘れ、夢中になる。

 いつしか彼女は俺に跨り、首に手を回してきていた。

「ごめんね、醜い私の嫉妬なの」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と彼女は何度も謝りながらキスをする。垂れた唾液が汚すことなど厭わずに、陽乃さんは貪るようにキスをする。いつしか俺も手を回し、許しを請うように深いキスをしていた。それは一色に対するものなのか、陽乃さんに対するものなのか、今はただ、彼女の縋ることでしか保てない自我を投影していた。

 彼女に溺れている俺は、きっかけすらも見つけられずにいた。先の見えない暗い海を泳ぎ続ける。目の前に見えた仄かな灯りだけを頼りに、不確定な未来を求め続ける。

 終盤の序章は終わり、クライマックスが訪れる。

 エンドロールは未だ見えない。

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。
とても嬉しいです。

感想、誤字報告など頂けると嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

では、また。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

loss of light

こんにちは、お久しぶりです。

12月の中旬にはいったくらいですかね。

また読んでもらえると嬉しいです。

沢山の感想ありがとうございます。すごく励みになります。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 比企谷八幡は虚像に陰る。

 

 自らを貫く感触とはどんなものなのだろうか。鋭利なものではなくとも、身体の中を異物が出たり入ったり、それはどんな気分なのだろうか。男に生まれた俺にはそれは分からない。いや、分かることもできるのだろうが、今現在その気分や好奇心はないし、今後もその予定は未定だ。

 まあ、眼前で口をだらしなく開ける黒髪の少女を見れば、それがどんなものなのかは想像に難くない。ただしこれが演技でなければ、という注釈付きではあるが。

 それを抜くと彼女は少し息を吐き、約束事のように四つん這いの格好になった。ルーティーンのように手順を踏むこの行為に意味はあるのだろうか。小さなお入り口をこじ開けるように、刺した。愛のないこの行動になんの意味があるというのだろうか。全身に力が入り、身体が震える。身体の芯を快楽という電気信号が貫く。愛を超えるそれが世界に蔓延しているから、それには意味があると結論づけられるのかもしれない。ゆっくり抜き取るとまた、少し喘ぐ。獣のように気を吐く彼女を貫いていたこれは、俺が一瞬味わった快感という電気信号を持続的に発生させる謂わば電化製品の様なものなのかもしれないな、などと考え、自家発電とは上手く言ったものだ、と発明したどこかの誰かを憂う。

 そしてその電化製品を愛おしく舐めているこのボブヘアを、哀しく撫でる。

 

 目の前の信号が黄色に変わり、ブレーキペダルを強く、しかし優しく踏み込む。歩行者信号のない交差点ではタイミングが計れない。癖で助手席に左手を伸ばし、慣性に圧される彼女を支えた。車が完全に停車すると彼女の胸に触れていた俺の手が払われる。そういうのいらないから、ということだろう。これぐらいの距離間だから俺も関係を続けられていた。情事だけを行う、その関係を。

 彼女の膝には手触りの良い紙袋が置かれていた。ホテルに行く前、ある事を頼んだ代わりに買わされたもので、もしかしたら世界一有名なパリのブランドロゴが入っていた。十万円をくだらない財布だったが、仕方ないと言い聞かせて購入した。使い道もなく貯金し続けた金がこのひと月少々で吹き飛んでいく。つい先日もフリマサイト宛に十万近くの入金をしたところだった。

「約束は守れよ」信号が変わると同時にアクセルを踏む。

「何その言い方、守るって言ったじゃん」顔は前方に向けているために分からないが、心外な、という様子だった。

「ならいいけどな」

「男二人でしょ」と彼女は言い、紙袋を漁り始める。「あとなんだっけ、えーっと…、お、お…」意識が紙袋の中に注ぎ込まれているからか、その続きが出てこず、俺は舌打ちをしそうになるのを堪えた。

「はあ、折本な」なんとかため息に抑え、呆れるように溢すに留めた。

 彼女は細長い箱を大切そうに開け、中身を取り出しているところだった。「あー、はいはい、折本ちゃんね」と興味なさそうに言い、「了解了解」と光沢のあるその財布を眺めていた。

「十二月二十四日だぞ」念を押すように確認すると、「クリスマスイブでしょ」と訂正か追及か、それとも彼女なりの確認とも取れる言葉が返って来て少し詰まる。

 そうだ、クリスマスイブだ。キリストの生誕を祝う祭りだ。特段信仰がある訳ではないが、去年まで小町と祝ってきたクリスマスだ。

 今年は二十五日にしてもらわなきゃな。

 すべてが終わり、解放されたその日を夢見て気分が弾んだ。ただその日まで解放されないのだという現実が軋む音を立て、俺の胸を締め付ける。

 ブレーキペダルを踏み込むと車体がキュッと音を立てるように停まり、助手席の彼女が驚いてこちらを見る。「なんで停めたの?」

「着いたからだ」

「着いたって、駅じゃん」フロントガラスを覗き込むようにして、辺りを見渡している。「家まで送ってよ」

「今日はここまでだ、用事がある」

「ふーん」

 彼女は最後まで不服そうな表情をしていたが、最後には諦め、興味をなくしたように一度も振り返ることなく駅に消えていった。

 力が抜け、ハンドルに額を預けるようにして項垂れる。用事などない。一刻も早く離れたかった。しかし、突き放したことで約束が反故にされるのではないかという危惧が今になってゆっくりと湧いてきた。

 それでもいいか。

 大義もなく走り出したこの旅路に、終止符を打つことなど容易なのだ。やめてしまえばいい。立ち止まってしまえばいい。

 やめてしまえばいい。そう考えると身体が震える錯覚を覚える。がたがたと震え、俺の意味がなくなっていく感触が手に取るように分かった。こんなにも汚れたのに、こんなにも。人を欺き、利用し、気持ちを蔑ろにしてきたのに。誰が受け入れてくれるというのだろうか。

 堕ちそうな意識のなか、朦朧とする意識のなかで真っ先に浮かんできたのは、陽乃さんの顔だった。俺の骨の髄まで撫でつけるような酷い包容力。その底の見えない暗闇が今ではとても暖かく、居心地の良い場所になっていた。

 気付けば自身の身体を弄り、携帯を探していた。車内でばたばたと暴れる男の姿は駅を出入りする人々からすれば滑稽以外の何物でもないだろう。自分でも思う。こんなにも弱いなんて。やっと見つけたが、指先まで凍えるように動きづらい。

 早くしなければ。早く呼ばなければ。一人でいてはいけない。独りでいてはいけない。

 一種の錯乱状態だったのかもしれない。俺の指は勝手に動き、LINEではなく当分使う事のなかった電話帳を開いていた。指を醜くスクロールし、五十音順の終盤まで滑らせる。『雪』という文字を確認して何度もタップした。通話画面に切り替わる前に耳に当てた。鼓膜にルルルと焦らすような音が響く。早く、はやく、速く。

『はい』透き通る声が聞こえた。

「はる…!」頬を伝う涙に気付かず、叫びそうになった。ただ、違和感が俺の意識をギリギリのところで遮断した。

 ソプラノに近い叫びをあげかけた俺を訝しんで、声が聞こえた。『比企谷君?』雪ノ下雪乃の声が、聞こえた。『どうかしたの? 比企谷君?』

 ゆっくりとした動作で携帯を耳から離す。暗い画面に浮かび上がるのは『雪ノ下雪乃』の文字だった。一行間違えたのだ。『雪ノ下陽乃』と。

 再び耳に当てる。『…谷君? 何かあったの?』その先では細い芯が通っているが、少し狼狽した様子の声がしていた。

「すまん、雪ノ下」

『あ、比企谷君。急にかけてくるんだもの、びっくりしたじゃない』

「間違えたんだ、すまん」

『そう、ならいいのだけれど。まさか姉さんと間違えたとは言わないでしょうね』

「なわけないだろ、指が変なとこ触っちまったんだ」

『あら、指先から進行が始まっているのね』

「おい、なんのことだ、なんの進行が始まってんだよ」

『脳に達したら自我がなくなようだから気を付けるのよ』

「勝手にゾンビ化すんなおい」

『あら、ちがった? ゾンビ君」

「ちげーから、せめて谷つけろ」

『…ふふ』

「ぷっ…」

 いつの間にか生気が指の先まで染み渡っていて、身体をシートに預けていた。薄く漂う雲を見つめていると、弓張り月を得意気に隠す。しかし透き通るように見せてしまい、薄っぺらい雲は流されていく。

 ひとしきり笑い『気を付けなさい』という雪ノ下の注意で電話は切れた。

 再び訪れた静寂に、比企谷八幡の心は落ち着いていた。人の靴音、エンジンの燻り、ハザードの奏、すべての音が現実のものと捉えられ、変わりようのない事実だと教えてくれる。

 ギアを握りこみ、ドライブに入れた。

 アクセルを踏むと、彼の背中を押すように車は進み始めた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 城廻めぐりは何度も時間を気にしていた。会計を澄ましては時計をみて、レジの点検をしては時計をみて、商品整理をしては時計をみてしまっていた。しかし、過ぎてほしいと思う時間ほど長いものはなく、ついには二回確認した内に長針の居場所は変わっていなかった。。

 手持無沙汰に棚を整えていると、文庫の新刊コーナーに人影が見えた。城廻めぐりは客がいないと思っていた為少し背筋を正したが、見慣れた店員のエプロンを身に付けていて比企谷八幡だと分かる。城廻は自分の頬がだらしなく上がるのを隠そうともせず近づく。

「比企谷君、何見てるの?」

 チラリとレジを見るが当たり前のように人はいない。今日は店長も社員もいない為、店は二人で回していた。監視カメラはあるが殆ど機能していないから自由時間と言っても差し支えない。レジ内の作業が終わった比企谷君は時間つぶしの本でも探しに来たのだろう。

「ああ、城廻先輩」比企谷君は見られていたことが恥ずかしいのか少し頬を掻きながら微笑む。「好きな作家の本が文庫化されたって情報が出てたんですけど」そう言い、かがむように棚を覗き込んだ。

「なんていう作家さん? 一緒に探すよ」

 この小さな新刊コーナーで二人で探す意味があるとは思えなかったが、最近はなんだか比企谷君に近づくことが許されているような感覚がしていた。

 いや、甘えているのかもしれない。

 頭を軽く振り、比企谷君が言った作家の名前を探す。中性的なその名前からは男性か女性か分からなかった。その他出版社と括られた場所から取り出し、彼に渡す。

「すみません、ありがとうございます」

「珍しいとこから出てるね」

「そうですね、時事を扱っているからでしょうか」

 作者の漢字を見ても、その結局性別ははっきりしなかった。

「比企谷君は男性の作家さんか女性の作家さんどっちが好きなの?」レジに戻る途中の他愛ない話のつもりだったが、彼が意識が私の口元に注がれているのが分かり、思わず手で隠す。「ど、どうしたの」

 比企谷君は、しまった、というように視線を逸らし、慌てて手を振った。「す、すみません。いや、作家に”さん”ってつけるの、いいなって思って」

「え、あ、作家さん、ほんとだ」

 私は恥ずかしくなってしまい、両頬を隠す。子供みたいと思われたかと少し反省する。いや、違う。

「いや、いいと思いますよ。尊敬の表れみたいで」

「あはは、ありがと」

 彼の視線に粘りつく何かがあったと勘違いしてしまった事を、反省する。

 

 事務所での作業を終わらせ、店から出るとクルリと振り返って比企谷君に向き直った。

「じゃあ、いこっか!」

 彼は頷き、私を先導するように歩いた。しかしそれが私の車がある方とは別で、慌てて駆け寄る。「比企谷君、私の車あっちだよ」ゴミ捨てのコンテナ近くに駐車してある軽自動車を指さす。

「俺の車はこっちですから」

「え、車で来たの?」

「はい、お世話になりましたし、今回は俺が運転しようかと」そう言って頭を掻く彼の姿は、違うのに同じで、すこし安心する。「まあ、親の車ですけど」と申し訳なさそうにするのも私としては、すごくいい。ただそれは口に出さず、ドアを開けてくれた助手席に収まり、彼が運転席に座ったところで人差し指を立ててクルクルと回す。「じゃあ、お姉さんが運転を見てあげましょう」

「お手柔らかにお願いします」

 プッシュボタンで始動したエンジンは軽自動車よりも迫力があり、それでいてしなやかだった。

 アクセルを踏み込んだ彼の横顔はいつかの邪気を見る影もなく、すっきりとしたものだった。

 

 比企谷君が連れて行ってくれたラーメン屋さんは深夜だというのに盛況していて、すでに一組が待っていた。回転の速さは流石と言うべきか、ラーメンが来てから数分で平らげ、帰っていくお客さんもいて何度も比企谷君の袖を引っ張ってしまった。

 深夜のラーメンなんて女子からしたらとんでもないことで、夜ご飯を食べずにきていた。しかしぺろりと平らげるのもどうかと思い箸が止まりかけたが、一口含んでしまえば完食というゴールを遮る障害物はあれよあれよという間にいなくなっていた。彼の満足そうな顔が見れて、お腹と心も満足してしまった私の意識はゆっくりと沈んでいった。

 意識をゆっくりと引き上げたのは、頭を撫でる優しい手だった。髪を梳くように何度も撫でられ、覚醒しきっていないのにもう一度眠りへと誘ってきた。抗うように重い瞼を持ち上げる。

「あ、おはようございます」

「ん? え、あ、あ!」幸福感に満たされていた身体が一瞬でアドレナリンを分泌し始める。「ご、ごめんなさい! 私、寝ちゃって」

「いやいや、いいですよ全然。どうでした、運転は」

「すごくよかったです…」

 いつのまにか景色はバイト先の駐車場に変わり、辺りは静寂に包まれていた。

 頭にのせられたままの手は止まっていて、私はぐりぐりと押してみる。すると彼は困ったように笑いながらもう一度撫で始めた。少し傾けた頭を幸せが往復し、このまま時が止まればなんて思ってしまう。

 こんなにいいことがあったら、幸せのバランスを取るために何か嫌なことが起きるんじゃないかと、嵐の前兆を感じ取り、城廻めぐりは身体を強張らせた。

 なんてことは、まるでない。

 城廻めぐりは緩んだ頬を隠そうともせず、もう一度目を瞑った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「お腹いっぱいだからいらない」

 リビングから顔を出した母親に素っ気ない返事をし、自室へ入るなりベッドに身体を投げ出した。一色いろはの見つめる天井には、今日の出来事が白黒映画のように映っていた。辿り着き、握りしめたコートの裾と、彼の哀し気な瞳。瞬きをしてみれば、雪ノ下陽乃の勝ち誇ったような笑みまで浮かんできた。

 ぎゅっと目を瞑り、逃がすように寝返りを打つ。しかし実際に天井に映し出されていた訳ではあるまい。自分が勝手に想像し、作り出した映像なのだ。瞳を閉じようといなくなるものではなかった。

 彼の拒絶と共に思い出される様々な記憶。出会いの場面から生徒会選挙、クリスマスイベントなど一緒に過ごした時間が早送りのように流れてゆく。右から左へと一つ一つの仕草がフラッシュバックして、やがて辿り着く。肩を押されて後退る映像。泣きそうな顔をこちらに向けるが、決して揺れることのない意思を宿した瞳。喉の奥から堪えきれない思いが嗚咽となり、漏れてしまう。

 現実が受け入れられず、戸部に連れられて駅を後にしたとき、一色の涙は止まっていた。虚空に焦点の当てられた一色は抜け殻の様な状態で、戸部の掛けてきた言葉も耳に入らなかった。デスティニーランドの一件と言い、重要な場面でこうも振り回される戸部に申し訳ない思いを抱き始めた一色は頭を下げたが、戸部はつまらない冗談を披露して慰めようとしてくれた。千葉駅で別れてから家に帰るまで、一色の感情は無風状態の灯りのように漂うだけだった。そこにあるだけ。風前の灯のほうがよっぽど人間らしいのではないか、そんな危うさを大量に孕んでいた。

 それも今、人間らしさをたっぷりと含んだ泣き声に変わる。

 赤子のように泣きじゃくり、それはドアの向こうに立つ母親が狼狽するほどのものだったが、思考が一人の人間に支配された彼女は知る由もなかった。

 この恋はもしかしたら、彼女の初恋で、初めての失恋だったのかもしれない。

 上辺だけを、相手の殻だけを撫で続けた彼女にとって、自らの内から溢れ出る欲求に従ったのは初めてだろう。若気の至りなんかではなかった。ちゃんと調子に乗り、ちゃんと失敗し、ちゃんと叱られて、ちゃんと成功した。そして沢山、間違えた。

 一歩進んで三歩下がる。そんな順調ではなかった。一度に十歩進んだ日もあれば、百歩後退した日もある。人は皆そうやって成長する。もしかしたら、いろんなものを削ぎ落して可能性をなくしていく作業が大人になるということなのかもしれないな。そんなことを一色は思った。

 何がいけなかったんだろうか、そんなことばかりが一色の頭をよぎる。

 もしかしたら彼はずっと傷ついていたのかもしれない。私がそれに気が付かなかったのかもしれない。だとしたら言って欲しかった。だとしたら相談してほしかった。彼の為ならいくらでも協力したし、できない事でも力になるつもりだった。

 別れを告げられるのは残酷だ。言う側は整理を付けて言うのかもしれない、しかし言われる側は突然爆弾を落とされたようなものだ。平和な一日をぶち壊す、爆弾を。いや、予兆はあったのだろう。それを一色はないものとした、きっと何かの間違いだと言い聞かせた。プリンセスを唆す魔女の言葉だと一蹴した。

 一色いろはは立ち上がり、スクールバッグに近づいた。月光を受けて光るスカイツリーのキーホルダーは、今朝よりもどこかくすんだ輝きを放っていた。それを握りこみ、思い切り引き千切った。

「…っ!」一色いろはは瞬間的な痛みに顔を歪める。

 見ればキーホルダーの脚の部分が一色の掌に食い込み、微かに肉を抉ってしまっていた。しかしその思い出を繋ぎ止めていたオレンジ色の紐は無残な残骸を遺し、真っ二つになっていた。大きく腕を振りかぶり、ごみ箱へと投げる―――寸前で腕が止まった。

 一色は、地獄を取り除かなければ、と悟った。

 地獄はどこにある。地獄の場所は彼女の頭の中だった。このキーホルダーを投げ捨てたところで、彼の残したものは彼女の脳裏に焼き付いたままだろう。すでに二度の夏を越え、しっかりと刻み込まれたそれを取り除かなければ、地獄は終わらない。

 振りかぶったままだったの腕を降ろし、ブレザーのポケットに乱暴に突っ込む。一色は掌から滲み出る鮮血をちろりと舐め、痛みに顔をしかめながら一人の男を想った。

 彼の真意を、最後の真意を確かめなければ、この恋は終われない。

 一色いろはは未だ熱く存在する心に約束した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜は心地よい音楽に身を委ねて窓の外を眺めていた。昼下がりのカフェは人も疎らで、情けない陽光だけが賑やかしのように木造の床張りを這っていた。大学という喧騒から外れて逃げ込んだこの場所は時間がゆっくりと進んでいるように思えた。降り注ぐスローバラードが身体に沁み込んでいく。

 懸念と言えば、このカフェがあの一件で使用した店であることと、呼び出し人が優美子であることと、結衣には何も知らされていないことぐらいだろうか。

 軽い、夏の縁側を思い起こさせる音が聞こえ、そちらを見やれば三浦優美子が立っていた。彼女の思いつめたような表情に身を固くしたが、結衣との誓いを思い出して身体を揺する。近づいてくる優美子に柔らかく手を振った。「はろはろ~」

「おはよ、海老名」優美子はゆっくりと四人掛けの席の向かいに腰を下ろし、大きなリュックを隣に置いた。大学の帰りだろうか、重量感のある音がした。

 コートを脱ぐと、白いニットが見え、「かわいいね」と伝える。ありがとう、と照れる彼女は可愛くて、胸が苦しくなった。しかしそれも一瞬、再び何かを背負うように影が走る。こちらが身構える前に、「あのさ」と彼女は口を開いた。

 分かりやすく首を傾げる。「どうしたの」

「これ、見てほしいんだけど」

 優美子はそう言うと携帯を差し出し、あらかじめ用意していたのだろう画面を見せてきた。すぐ目に入ったのは今や誰もが利用する空色。そこから少し視線を彷徨わせれば、ある一点に引き寄せられる。

 なんで、と口を開きかけ、グッと堪えた。「これがどうかした?」

 優美子が気のせいだと引き下がることを期待したが、その瞬間だけは彼女の表情が時間を巻き戻した。鋭い眼光に有無を言わせぬ口調。女王、三浦優美子だった。

「ヒキオだよね、写ってるの」

 逡巡の後メリットがないことを悟り、私はわざとらしく手を上げて見せた。

「そうだよ、ヒキタニ君」

「海老名、依頼がどうとか言われてたもんね」

 あちゃー、見られてたか。結衣にばれないように気を張ってたから逆方向が疎かだったかな、ごめんヒキタニ君。隼人君の貞操に免じて許して。

「よく見てたねー」軽口を叩いて流そうとすると、「はぐらかさないでよ…」と急に寂しがりやな声を出すから、それもできなくなった。重ねてごめんヒキタニ君。隼人君の(以下略)。

 私は数秒稼ぐ為、目の前のカップにスプーンを突っ込む。クルクルと攪拌して、一口啜る。「それで」潤った喉をゆっくりと動かす。「それで、優美子は何が知りたいの?」

「ヒキオが何をしてるのか」

「気になるの?」

「そういうんじゃないけど…」彼女はそこで自信なさげに手を組み、目を伏せた。「なんか、危ない気がしたから」

「危ない? ヒキタニ君が?」

「上手く言えないけど、追い詰められてる気がする。いつかのあたしみたいで…」

 思わず彼女の腕に視線が寄ってしまう。急いで剥がした視線はバレているだろうか。手にもつ比企谷八幡の姿がゆっくりと切り刻まれる。割れたガラスから血がぷくぷくと泡立つ幻覚が見えた。

「どうしたいの? 助けたいの?」

「分かんない…けど、もし、もし助けを求めてたら、助けてやりたい」

 彼女の瞳は綺麗で、零れ落ちそうなほどに溢れていた。

「そう、結衣には秘密にできる?」

 問題ないだろう、彼からの要望は奉仕部周辺への秘匿だ。

 優美子は力強く頷き、お願い、と言った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は実像に灯る。

 

 大学の講義を終え、家路を急いていたところにLINEがメッセージを受信し、俺は途中の駅で降りることになった。

 思えば、それが人生における所謂岐路というもので、俺がその選択を間違えたかと問われれば、恐らく、確実に、間違えたのだろう。

 すっかり日の短くなった師走は半ばに差し掛かっていた。広大な海はただただ深淵と化し、俺の行く末を暗澹とした気持ちで見つめられているような、あるいわ憐れんでいるような、そんな底の見えない存在として横たわっていた。電車がゆっくりと速度を落とし、完全に停車する。外に出てみれば海風が肌を撫で、そのいつまでも変わらない匂いに少し安心する自分がいるのに気が付く。

 視線を横に向けた。海岸沿いの駅の隣には大型のショッピングモールが誇示するように光っていて、平日にも関わらずあちこちで車のヘッドライトが躍っていた。

 無論、俺の目的地もこの巨大な塊で、歩を進める。

 何度も言うようだが、ここで俺は間違えたのだろう。用事を後回しにすれば、もしくは時間をずらせば。もしかしたらこの場で屈伸の一つでも披露すれば、未来は変わったのかもしれない。

 いくら考えたところで、後の祭りなのだろう。きっと。

 

 マリンをもじったその施設は多くのテナントが入っている。その中でも俺が向かっているのは、かの有名なカーネルおじさんがにこりと笑いかける店だ。因みにカーネルおじさん、もといケンタッキーおじさんは、カーネルでもないしケンタッキーでもない。店はケンタッキーだが。

 店員にパーティバケットを予約したいと告げ、四千円の前払いをして予約カードを受け取った。たしかに二十五日になっていることを確認し、お礼を言って店を後にした。

 小町と祝うキリストの誕生日を想像し、思わず顔がにやけてしまった。全てが終わり、解放されて過ごす至福の時はすぐそこだ。

 いや、それ以前に俺の頭は混乱していた。

 それは一色の肩を押した瞬間からだったのかもしれないし、もしかしたら陽乃さんが現れた瞬間だったのかもしれない。脳裏にチラつくはあの赤い警告色だった。春に似つかわしくない雨を背負い、俺の前に現れた雪ノ下陽乃。脳が危険信号を痛いほどに受信していた、あの入学式。

 すべてはあの人が起こしたことなのではないか?

 おそらく正常な思考を持たなかった俺の脳みそはそんな結論をはじき出す。スーパーコンピューターよりはやく、スーパーコンピューターより愚かに。

 気が付けば、紙の匂いが鼻孔を掠めていた。いつの間にか書店に足を踏み入れていたらしい。書店のバイトを始めてから他の店によく行くようになった。本の販売というものに内側から触れることで分かることもあり、それを勝手ながら想像する作業などが密かな楽しみになっていた。

 この日も匂いを過敏に察知し、さながら犬のように追っていたのかもしれない。

 入り口付近は花形で、一見どこも同じような作品を並べがちに見える。ドラマ化や映画化、所謂メディア化作品をポスターと共に並べ、客の目を引く。しかしそこにも書店の色は出る。それは書店員の好きな俳優が関わっているのかもしれないし、もしくは実写化原作への贔屓が入っているかもしれない。そう悪いものではない。

 軽率な行動に出た理由は、財布に眠るケンタッキーの予約カードが引き金かもしれない。

 少し行けばコミック売り場に出る。本の売り上げが芳しくないと言われ続けているが、コミックの売り上げは右肩上がり、とはいかないまでも結果を残し続けている。最近では最大手の出版社が値上げに踏み切り、売り上げが上昇したそうだ。最近マンガを読んでいないな、と思う。

 安直な思考に陥ったのは、解放欲が原因かもしれない。抑圧からの解放、それは人類の永遠の課題なのだろう。

 チェックポイントのように存在するレジを通ってみれば、店員と目が合ってしまう。慌てて逸らすが、その視線が好意的なもの、というより驚愕、驚嘆というものだったために違和感を覚える。後から思い出してみれば、それは顔の整った人物が一度に二人も来たから、かもしれない。

 張り詰めていた空気が弛緩していたのは、あの電話からだと思う。

 違和感に首を傾げながら、文庫コーナーに足を踏み入れる。棚を占領する本の数はやはり圧巻で、後ずさりをしそうになる。在庫数はそのまま書店の強さを表していると言ってもいい。うちの店がこれだけの在庫を抱えていたら瞬く間にシャッターが地面を叩くだろう。

 俺は気が付いてしまったのだ、俺が俺である理由を。

 書店員の色が出るPOPを流し読みしながら、ゆっくりと進む。熱量がそのまま字に現れてしまっている、要するに読めないPOPに吹き出しそうになりながらも進む。最近の書店は五十音順が多い。出版社ごとではなく、すべてごちゃまぜで並んでいる。俺は出版社で揃えられている方が好きだ。マ行で切れていて、隣の棚に移動した。

 彼女が、彼女らがいれば他には何もいらないと、気が付いてしまったのだ。

 様々な要因が俺を吸い上げ、緩ませ、抜いていった。いつの間にかカラカラになっていた俺は思わず手を伸ばしていた。華奢な肩は、思ったよりもしっかりとした存在感を示していた。

 素早く振り返るとこちらを鋭く睨み、敵意と殺意を撒き散らしながら距離を取る。しかしその足取りはしだいに緩まり、ただでさえ大きな瞳をゆっくりと見開いてゆく。こちらの顔と頭部を何度も視線が往復し、瞬きを繰り返す。

 何やってんだこいつ。

 俺は小言の一つでも言ってやろうと息を吸い、そこで気道が詰まる。停止する。脳が、停止する。

 時間が、止まる。

「ひ、比企谷…君?」

 雪ノ下雪乃の表情は、俺が初めて見るものだった。

 

 ハッとしたように我に返った雪ノ下は俺の頭部から視線をゆっくりと降ろし、つま先まで確認したかと思うと再び戻ってきた。それは合っていたと思っていた答えが間違っていた時の様な戸惑い、まさに固定観念を疑う出来事だったのだろう。雪ノ下の命題が崩れた瞬間だった。

 一番最初に浮かんだのは、逃亡、の二文字だった。まだ間に合うのではないか。まだ認識されていないのではないか。自分に言い聞かせるようで、そうあってくれ、そうじゃなければおかしい、そんな精神状態だった。

 訝しむ視線を送ってきていた雪ノ下だったが、その目尻は少しずつ下がり、こちらを温かく捉えていった。

「色々聞きたいことはあるのだけれど」雪ノ下が髪を耳にかける。「とりあえず、どうしてあなたがここにいるのかしら」何度も目にした彼女の仕草を認め、俺は安堵を覚えていたのだが、それは後に分かった。

 一瞬、髪の色が変わっていたのではないかと期待したが、頭を掻いた指に髪が引っ掛かり、現実へと引き戻される。諦めろ、とどこからか蔑むような声が聞こえてくる。気付けば、いや、と口癖となってしまった前置きを口にしていた。

「いや、その、ああ、小町のな」口が回らない、何故、と思ったところで思い出す。大人に悪事を見つかった子供の気持ちだ。言い訳じみたセリフが漏れ出てくる。「クリスマスの予約をしに来たんだ、チキンの」

「そう、そのついでという事かしら」

「あ、ああ」

「偶然もあるものね」心なしか雪ノ下の表情が和らぎ、俺の強張っていた筋肉が弛緩し始める。

 しかし、どうしようもなく、彼女の視線は吸い寄せられる。何度剥がそうとも、今だけ宇宙の中心がそこにあるかのように、すべてがそこに吸い寄せられる。

 俺の口元が震える。

 今。

 今、今。

 今、言ってしまえば。

 世界中の人から忌避されたっていい。たとえ七十億が俺の敵になったとしても、あの夕焼けがあるだけで俺は生きていける。いつから彼女らは受け入れてくれないと思っていたんだ。彼女なら、彼女達なら俺のすべてを受け入れてくれる。当たり前じゃないか。当たり前じゃないか。

 三人がずっと一緒にいれば、それだけでいいんだ。

 そうだ、一色も加えよう。そうだそうだ。ちゃんと言えば分かってくれる。当たり前じゃないか。

「な、なあ雪ノ下」そう語りかけた瞬間、捉えてしまう。

 彼女が抱えていた数冊の本。そのカラフルな色に吸い寄せられた。しかしそんなことはどうでもよく、再び雪ノ下に視線を戻す。戻したはずだった。気が付けば、俺の視線は雪ノ下の手元に釘付けとなっていた。

 英会話、日常、フレーズ。

 そんな単語が飛び込んでくる。そこだけが立体的に浮き上がり、まるで意思をもった生物のように俺の脳に噛みついてくる。

 人差し指がそこにあり、数秒遅れで俺の手だと思い当たった。「それ」

 雪ノ下が首を傾げ、自身の手元を窺った。彼女は、しまった、という表情を浮かべ、次いで恥ずかしそうに眼を伏せた。「隠しておこうと思ったのだけれど」頬を赤らめている。

 俺の手が勝手に動く。雪ノ下の細い手首を掴み、本の背表紙が見えるように捻っていた。

「っ、ちょっと、痛いのだけれど」

 顔をしかめる雪ノ下など、俺の視界には入っていなかった。不安の具現化が行われ、ガタガタと何かが崩れだしていた。彼女の口からその言葉が飛び出すまで、信じてはいけないと警報が鳴り続けていた。しかしその儚い、儚すぎる望みは、雨風吹きすさぶ中の蝋燭の灯りよりも頼りなく消えた。

「まったく…」雪ノ下は俺の奇行より、知られてしまった事をどう処理しようかということにリソースが使われていたようだった。「本当は由比ヶ浜さんも交えた場で報告しようと思っていたのだけれど」

 唾を飲み込んだ音がやけに大きく響く。

「夢の事よ」と雪ノ下は照れるように笑った。「実は、留学することになったの。なったというのはおかしいかしら、留学できる資格が与えられた、というのが正解かもしれないわね」俺の言葉を失った状態を続きを促していると捉えたのだろう、雪ノ下はさらに続けた。「入試論文って、少し話したの覚えているかしら。私なりに頑張ったつもりではいたのだけれど想定以上の評価をされて、教授の提案でアメリカの大学に送ってみないかって言われたの」

 雪ノ下の口にした大学名は、いち大学生からすれば物語に登場するものに近く、ただただ空虚な言葉となって俺の鼓膜を叩くだけだった。

 そのときの俺は雪ノ下の話を半分も認識していなかったのだが。

「少ししたら返事が返ってきたの。それが留学の事なのだけれど、まあ、詳しいことは由比ヶ浜さんがいるときに話すわ」雪ノ下は自分の功績を誉めてほしいが、目立ちたくはない、そんな幼い表情をしていた。

 耳が遠くなっていく感覚がした。少しずつ音が薄く重なり、形を持たない波として受信し始める。視界が一度揺れ、次いでギューッと狭まってゆく。ピントを合わせる作業はとうの昔に放棄していた。雪ノ下の存在は今や小さな曇りガラスに閉じ込められ、口や鼻、目といったパーツが不安定に形を崩していく。

 吊り橋の強度を確かめるように足を出すが、地面を踏みしめた感触はない。動く唇、大げさに竦める肩、雪ノ下に小さく振った腕、それらすべてが自分のものではなく、いつの間にか月に覆いかぶさっていた分厚い雲から垂れるイトに操られているのではないか、それが一番しっくりくるほど、感覚と言う感覚が乖離していた。

 風を切る通過電車が目の前に飛び込んできた時、ようやく五感が身体にカチリと戻る。けたたましい汽笛に圧されるように仰け反り、点字ブロックを踏んだ感触がした。危険を知らせるアナウンスと共に駅員が駆け寄ってきて、酷く声を荒げていた。しかしその駅員の言葉には淀みの様なものが感じられず、珍しいことではないのだなと他人事のように感じる。

 励ますように肩を叩き、駅員が去っていく。その背中を見送りながら自身の行動に苦笑した。興味深そうに見ていたギャラリーも俺の卑しい笑みを嫌悪したのか、それともただ飽きただけなのか散り散りになっていく。

 左腕に違和感を覚える。掻き消すように頭をガシガシと掻いた。

 ぽつぽつと身体を叩くものがある。次第にそれは頻度を増し、威力までもが強くなる。数秒の内に辺りは豪雨に晒され、周囲では女子学生の小さな悲鳴やサラリーマンの落胆するため息がこだまする。大粒の雨が屋根に弾かれ、下がった俺の肩を、頭を、叩いてくる。

 これは励ましか叱責か。それとも、挑発か。

 土気色だった心に雨音が染み込んでゆく。

 証明しなければいけない。比企谷八幡はここにいると、証明し続けなければいけない。

 ――思い知らせてやる。

 隣にいた学生の肩がビクリと震えた気がした。

 

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。

感想、誤字報告など頂けると、とても嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

true or false

こんにちは、お久しぶりです。

終わりが近づいてきましたね。

読んでもらえると嬉しいです。

沢山の感想ありがとうございます。すごく励みになります。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 比企谷八幡は実像を落とす。

 

「どうしたの? 比企谷君」

 涙はとめどなく流れ、陽乃さんのブラウスを濡らしていく。俺の悲しみを吸収してくれているかのように染みは広がり、比例して身体を蝕む黒い感情が少しずつだが消えていく気配がした。腰に回した腕を締め付けると彼女も同じように抱き締めてくれる。決して裏切らない。彼女の想いは身体中の熱から伝わり、俺へと伝播する。

 俺が沈黙を貫くことを認めると、陽乃さんの手はゆっくりと俺の頭を撫で始める。「いいよ」と許す感情が脳内になだれ込んでくる。それは空から降ってきた声な気もするし、柔らかな掌から伝わる熱の形にも感じられた。

 顔を上げ、視線を巡らすと陽乃さんの足にはまだエナメル質のヒールが履かれていて、ここがホテルの部屋、それも扉を開けた沓脱だと思い出す。霞がかる思考でSOSを求めた俺は、一定のスピードで過ぎ去る街灯だけを眼で捉えていた。何も言わずに俺の意思を汲んだ彼女のハンドルは自然とこの場所に向く。部屋の扉を閉めた瞬間、身体を支える芯のようなものがぐにゃりと曲がり、だらしなく体重を預けることになった。曲がってしまった俺の支えは涙腺に刺激を与え、彼女のブラウスに縋ることを推奨してくる

 落ち着きを取り戻した俺は、陽乃さんに連れられてベッドに座らされた。彼女は一度俺を抱き締め、頬にキスをしてから浴室へと消えた。そのうち水音が聞こえてくるだろう。いつものパターンでもはや様式美と言っても差し支えないかもしれない。いや、あるか。

 浴室から戻ってきた彼女の胸元の釦はすでに外されていて深い谷間が見え隠れしている。膝を曲げ後ろ手にフットカバーを外すと、そばにあった化粧台に置いた。タイトスカートのジッパーをしなやかな指が摘むと、ジジジという音が官能を刺激する。彼女の顔を見ると微かな笑みが称えられている。カジュアルながらスマートな服装、後ろで結ばれた可愛らしい髪型をみると、今日はどこかに顔でも出していたのだろうか、と今更ながら思う。ストンと彼女の足元に落ちたスカートはただの布となり果て、下半身を隠すものは艶やかな下着のみとなった。こちらに近づきながら釦を外していく、俺の膝に跨る頃にははだけてしまい、黒いキャミソールが露わになる。

 肩に手を添えられ、軽い力で押し倒された。陽乃さんの唇が首筋に軽く触れる。視界に影が掛かったかと思うと、ベッドを照らしていた照明がゆっくりと絞られ、仄かな明かりを遺すだけになった。ベッドの傍にあるパネルを操作したのだろう。二人を囲う闇は大きな口を開けた怪物の口の中にも見える。陽乃さんの舌は俺の身体を彷徨っていた。

 天井を仰ぐ。豆電球よりも仄かな光は頼りないはずなのに、だんだんと大きくなり、ちかちかと瞬き始めていた。瞬きを忘れた眼が悲鳴を上げているのだろうかと思い一度瞑目するが、再びまみえた世界は先ほどよりも酷く曖昧模糊とした存在に成り果てていて、怪物にゆっくりと飲み込まれていくように意識は堕ちていった。

 

 夢を見ていた気がした。少女の泣き顔が見える。ただそれは悲しみからではなく、何かを憐れんでいるような、哀れで憐れで涙が出てしまうような表情だった。幼い顔からは想像のつかない絶望を味わってしまったような、そんな表情を。どうしたんだ、と手を伸ばす。すると視界の右側から日の出を彷彿とさせるオレンジ色の灯りが現れ、少女まであと数センチというところで俺の存在を飲み込んてしまった。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると、オレンジ色の照明に照らされながらもその白さが際立つ背中が見えた。後ろ手に下着を着けているところだった。一度は失敗したが、二度目は外さなかったようでホックが留まったのが見えた。下は先に身に付けてしまったのかと少し残念に思っていると、尾骨の辺りに小さな痣の様なものが見えた。どこかでぶつけたのだろうか。

 覚醒しきっていない頭のまま起き上がると、こちらに気が付いた陽乃さんがにこりと笑って抱き着いてくる。「大丈夫だよ。大好きだよ」そんな甘い言葉を耳元で囁かれ、どうしようもなく嬉しくなる。

 体重を支える為についた手が枕に埋まり、冷たさにびくりとした。清潔感のある白いシーツに包まれたそれには陽乃さんのブラウスと同じ染みが拡がっていて驚く。一瞬、夢の中に出てきた少女のものかと思ったが、そんなわけがないと首を振る。陽乃さんがこちらを窺うように覗き込んできた。

 なんでもないですよ、と言い彼女の髪に手櫛を通すと優しい香りが鼻孔を掠める。少し痛むこめかみに顔をしかめながら、謎の満足感に首を傾げる。行為をした記憶はないのに欲望を吐き散らした感覚はある。雪ノ下の一件以来数回、こんなことがあった。それは決まって陽乃さんといる時だったが、当の彼女が今と同じように甘えて来るものだから有耶無耶になってしまっていた。

「あの、どうでした?」恐る恐る聞くと、陽乃さんは楽しそうに笑った。

「珍しいね、君がそんなこと聞くなんて」

「いや、まあ、たまにはいいじゃないですか」

「へえ、そういう趣味があったんだ。意外、でもないか」

「からかわないでくださいよ」

 俺の方が耐え切れず顔を逸らしてしまう。がしがしと頭を掻いていると、しなやかな腕が伸びてきた。「覚えてないの?」手が頬に添えられている。

 思わず、え、と訊き返してしまった。すると彼女は一度目を伏せ、俺の左腕をチラリと見た。つられて目で追うようにするが彼女の手がそうさせない。「私にしたこと覚えてないの?}

 覚えていない、という事は簡単だったが彼女の瞳がそうはさせなかった。揺らめくものが見え、それは俺の答えによってはすぐにでも崩壊してしまいそうな不安定さを感じさせた。

 いや、と口から洩れかけたが、それより先に陽乃さんが口を開く。「酷い、比企谷君」俺は思わず謝りそうになるが、続く言葉に開けた口が塞がらなかった。「私にあんな辱めを受けさせて覚えてないなんて酷い!」

「え?」肩の力が抜ける。

 それからというもの、あんなことやこんなこと、放送コードに引っ掛かるような単語を次々と並べ、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような内容を紹介し始めた。しまいには、さては私に恥ずかしいことを言わせるプレイだったんだ! と嬉しそうに嘆いた。

 彼女の瞳には俺を慈しむ光が甦っていて先ほどのは演技だったのかと安心する。

 いつの間にか元気を取り戻していた俺は、彼女に覆いかぶさって消えた記憶を上書きするように身体を重ねた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 冬の空気は澄んでいて心地が良い。寒さはどうしようもないが少し運動すればそれも気にならない。頭上を覆う厚く黒々とした雲が圧し掛かってくるように鎮座する。

 大学の体育は前期と後期で同じことを繰り返すらしく、終盤に入った授業ではループのようにミニゲームが行われていた。勝ち点方式で戦績をつけ、最下位となったチームは最後にボールを片付ける担当になる。先ほどのゲームは勝ったため、葉山隼人はボードに書かれた自身のチームの横に勝ち点である三ポイントを書き込んだ。

 二分割されたグラウンドでは左側に男子、右側に女子という分け方で試合が行われている。激しく砂ぼこりが舞うグラウンドとふわふわとした雰囲気が歓声と共に沸いて出てくるグラウンド。仕方ないよな、と葉山は思う。

 ホイッスルが鳴り響き、試合終了が告げられた。

「次俺たち?」

 名も知らないチームメイトに訊かれ、葉山は頷く。「ビブス着る方な」

 えー、と言いながら、名無しの彼は渋々と言った様子で立ち上がる。

 彼らは体育が面倒くさそうでも、格好やピッチに入った態度は本気だ。ダルそうに見えてやるときはやる。どこかの誰かと響きは同じなのに、中身がこんなにも違うのは何故だろうと葉山は思う。そこに一本の芯が通っているからか、そうでないからか、そんなことは分からないが。

 けだるそうにビブスを脱ぐ男を視界の端に捉えた。

 葉山隼人は試合表を見て、グラウンドに残ったままのチームに視線を向ける。ゲームが終わったばかりだというのに、背の低い女子と談笑している比企谷八幡の姿があった。袖を余らせ、身体の前でくしゃくしゃと弄ぶ小動物の様な女子まで近づくと、会話が止まった。会話が止まったというより、小動物が挟まれておどおどとし始めたというほうが正しいだろうか。

「何を話していたんだ?」気付かないフリをして比企谷に訊く。しかし、「あ、ゼミの話を」と小動物が話し始めた。

「そうなんだ。ああ、もうすぐ試合始まるから外出た方がいいよ」

 できるだけ優しく言うと、小動物は俺たちに二人に手を振ってから離れていった。それに合わせて比企谷が離れていくものだから急いで呼び止める。「比企谷」

 鬱陶しいものを見るように、彼がこちらを向く。「なんだよ」

「比企谷のチームは二試合連続だから、すぐはじまるぞ」

「ああ、そうか、サンキュ」比企谷は寒さに首を縮こまらせてビブスを渡してきた。

 葉山がそれを受け取ると比企谷は背を向けて歩き出す。何の気なしに口から洩れた。

「彼女たちはどう思ってるんだ?」

 一瞬肩が震え、ゆっくりとこちらに向き直る。比企谷の瞳には何故か揺らめくものが見え、目を見張る。

「言う必要あるか」冷たく突き放すような言い方に、葉山は少しむっとしてしまう。

 口を開きかけたところで講師の叫び声が響き、会話が途切れてしまう。比企谷はいつの間にか離れてしまっていた。

 甲高い笛の音が空を切り裂き、中央にセットされたボールを蹴り出した。

 自由に動き回れるポジションを任せられ、ピッチを漂う。高校の体育とは違いサッカーを求めて選んでいる為、比企谷の様なあぶれ物の方が少ない。右からパスが飛んできて、トラップと同時に一人を躱した。葉山は高校時代何度も繰り返した動きが今も通用することに安堵しながらフォワードにスルーパスを出す。左に流れながら行方を眼で追うと、そのフォワードのシュートはクロスバーを超えた。

 ドンマイドンマイ! とチームメイトが口々に言う。ボールを取りに行くゴールキーパーの背中から視線を逸らすと比企谷と目が合う。右サイドのディフェンスを任されていたらしい。

 言う必要あるか、という比企谷の言葉が反芻する。それは葉山に対してなのか、彼女ら対してのものなのか、どちらだろうか。

「上達したな、比企谷」わざとらしく目を逸らす比企谷に、葉山はわざと話しかける。

「あ?」比企谷は眉をひそめる。

「見ていたんだ、さっきの試合。四月よりずっと上手くなってる」

「見てんじゃねえよ」

「はは」

 実際、比企谷八幡の運動神経は悪くなかった。テニスは人並み以上の腕前を見せ、マラソン大会ではペース配分を考えなかったとはいえ、中間地点までの長距離を葉山隼人に喰らいついた。陸上部の長距離に引けを取らないスピードを出した葉山はその衝撃をよく覚えていた。そして尚、噛みついた。

 戻ってきたキーパーがボールを大きく蹴り、葉山は比企谷に背を向けそれを追う。数歩歩くと、葉山は自分が酷く落胆していることに気が付く。何故かは分かっていた、失望したからだ。

 葉山隼人は比企谷八幡のようになりたかった。

 目を背けたくなるほどの眩しさは誰しもが憧れ、やがて背を向けてしまうものだ。ヒトは小さいころから永遠などという戯言に翻弄されてきた。友人や恋人、そしてそれ以上。世界中の誰もが一度は夢見た世界は徐々に色褪せ、陽が射すことのないコンクリート色に塗りつぶされていく。短い成長期に何度も何度もその永遠を信じては裏切られる。陽光が降り注ぐ過去の記憶はとても尊いが、いまとなっては葉山隼人の頭上を覆うこの雲のように重く圧し掛かっている。

 一つ一つ花占いをするように千切っては捨てていくのだ。ずっと抱いていた、希望という香りをふんだんに纏った花びらを。やがて知ることになる、全ての希望を削ぎ落して残った茎こそが自分で、それが人生だと。毎日笑いながらどこかで悟っている。高校時代の葉山隼人には既に花びらは残っていなかった。

 そんな中、必死に身体を屈めて、自分を守る奴が現れた。どんな強風に晒されようと、どんな敵意を向けられようと、人が無くしてはいけない純真無垢な希望を必死に守る男が現れた。そして、そんな憐れな男を外側から包み込むように現れた二つの光。光は周りを照らし、反射し、また周囲照らしていく。その男の想いが、周りを変えていく。

 そんな場面を、葉山隼人は目の前でまざまざと見てしまった。変わっていく彼ら彼女らと、変わらない信念。ひとつの信念が周りを変える。そんな二度と目にすることのできない光景。

 だから葉山は夢を見てしまったのだろう。もしかしたら自分にもできるんじゃないか。あの男にも劣らない光を自分は秘めているのではないか。それが、あの夏を終わらせたのかもしれない。

 いつの間にか葉山の足元にはボールがあり、逆サイド! と叫ぶ声に顔を上げた。はっ、と首を振れば敵チームのディフェンスが突っ込んで来ていて慌ててボールを引く。しかし間に合わず、半ば足を刈り取られる形でボールを失うと尻もちをつくように倒れた。葉山は重力に従って身体を倒して天を仰ぐようになる。黒い雲はすぐそこにあるかのような重量感をもってこちらを見下ろしていた。カウンター! と威勢のいい敵の声が聞こえる。

 葉山隼人は失望していた、いつまでも変わらない自分に。比企谷八幡は変わっていない。比企谷はそう簡単には変わらない。高校二年で葉山隼人がまざまざと見せつけられた比企谷八幡の生き方はすでに確立されていた。学生にとって世界ともいえる学校内に置いて、自分を持っている人間は教師を含めそう多くはいなかっただろう。比企谷の変化は何かに対する策で、抵抗だと分かっている。今もあの男は自分の信念に懐疑的な何か、又は世界を相手に戦っている。姿を変え、口調を変え、比企谷八幡が駄目だと叫ぶ世界から何かを守ろうとしている。そしてそれが葉山隼人と戸部翔、三浦優美子や海老名姫菜に関係することだとは葉山自身、理解していた。

 コンクリート色にくすぶっていた世界で比企谷八幡の存在が光っている。比企谷がいることでこの灰色に存在価値が宿るような錯覚を葉山は覚える。戸部翔は衝動に従い、三浦優美子と海老名姫奈は風雲急を告げられた。みんな、比企谷八幡に突き動かされている。

 では、葉山隼人は。

 変わる時ではないのか、葉山は心の中で叫ぶ。無理だと分かりながらもそこに向かって走り続ける。無様だと笑われようとも縋りつく。いつまで自分は弱いままなんだ。今が、今が立ち上がる時ではないのかと突き動かす。

 葉山は拳を僅かな砂と共に握りこむ、ざらざらとした感触が骨を伝って全身に響く、歯を食いしばり体を起こす――そこで、笛が鳴る。

 今更、どうすればいいんだよ。

 声なき声で、そう呟いた。

 既に奪われたボールはゴールに吸い込まれている。手遅れ、笛は鳴った。試合は、終わった。ここから立ち上がるなど前代未聞、延長戦でもない、ただの場外乱闘だ。どこの馬鹿がそんなことを。

 葉山隼人は縋るように比企谷の背中を探す。しかしその姿はすでに遠ざかっていて、ゆっくりと霞んでいく。自分だけが置いていかれる。いつだってそうだった。

 だから俺はずっと弱い。

 葉山隼人を呼ぶ声は、いつだって。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 海老名姫菜と三浦優美子は日を跨いだ深夜一時の公園にいた。空が雲で覆われた十二月の寒波は容赦なく吹きすさび、身体の体温を徐々に奪ってゆく。見渡す限り広場となっているが人はいない。電灯も疎らで深淵と化したエリアが所々で大きく口を開けていた。

 三浦はいつかの記憶が刺激されこめかみを抑える。同じような広場を持った公園で起こった出来事、心が不安定だった時期。比企谷八幡に助けられた記憶。

「優美子大丈夫?」様子を訝しんだ海老名姫菜が訊く。

 三浦優美子は一際強く吹き付けた風にマフラーを直し、海老名姫菜に身体を寄せる。「うん、大丈夫」

 三浦優美子の罪悪感は消えていなかった。当時は怪我をさせてしまった負い目の連鎖に過ぎなかったものも、周囲で起こる騒ぎは三浦の胸をざわつかせるに事欠かなかった。一色の件など嫌でも入る情報に、葉山隼人との接触。それがことごとく失敗に終わる状況は、創り上げては壊され、また創るという永遠に問いの訪れない作業にも見えた。海老名姫菜や由比ヶ浜結衣に聞いた話でも、比企谷八幡の奔走ぶりは手に取るように分かった。それがヒトの感情ともなれば掴めと言う方が無理だ、三浦は思う。

 そして、風が止む。台風の目に入ったかのような感覚になる。巨大な口から出てくる人影が見えた。

 この二ヶ月ほど、ピタリと止んだ動き。取る策すべてが無為に終わった世界では当たり前の静寂。しかし、耳が痛くなるほどの静寂は違和感の方が大きい。チクリチクリと鼓膜を刺す嫌な噂、不穏な動き。全てが嵐の前兆に感じられる。ぴりぴりと腕の古傷が痛む。

 ゆっくりと電灯に照らされ、図ったかのように月が姿を現して周囲を照らす。ゆっくりと怪物の正体が露わになるように、比企谷八幡は現れた。

 その見慣れない姿に息を呑む。暗闇に怪しく光る髪色。この寒さに似つかわしくない薄手のコートを着ている。砂を蹴るその足取りは揺れるように軽く、それは軽薄さを演じているようにも見える。しかし、「よう」と紛れもない比企谷八幡の声で言葉を発するから、唾を飲み込んだ喉が小さく鳴る。海老名姫菜でさえ既に一度見ていたにも関わらず、ぶるりと肩を震わせた。

「よう」比企谷八幡はもう一度言い、立ち止まった。「材木座」

 三浦優美子と海老名姫菜は草むらに潜み、比企谷八幡に対峙した材木座義輝を心許ない気持ちで見つめる。

「ひ、久しぶりだな! 八幡よ!」

 自信か虚勢か、無駄に良い声が広場に響く。

 風が吹き、材木座の背中を強く押した。

 

 材木座義輝は驚きに満ちた眼で携帯の画面を見つめた。クレーンゲームのレバーを持つ手が震え、瞬きを何度も繰り返す。「お、女から」

「なんですか、剣豪さん」相模の冷たい視線が刺さる。秦野に至っては株の動きがどうのこうのと携帯から目を離さない。

 材木座は、この可愛くない後輩に自慢を、と考えながら勢いで開いてしまったLINEのメッセージを確認した。そこには材木座にとっての唯一無二の親友であり、現在進行形での悩みの種である『比企谷八幡』という文字に吸い寄せられる。その瞬間材木座の決意は石と成り岩と成り、誰にも動かせないほど強固なものになった。胸ポケットの財布に忍ばせたチケットが逃げ出さんばかりに震えた気がした。それは材木座の心臓の音なのだが。

 ざわめきの元凶を目の当たりにして材木座義輝の心臓の鼓動が脚にまで伝播した。ツイートのたびに厳選して何度も見た姿だったが、卒業式以来の比企谷八幡の姿は形だけでなく、纏っている雰囲気、オーラの様なものが違って見えた。真っ先に出てきた感情は「ずるいぞ!」だった。

「は?」比企谷八幡の顔が歪む。

「ずるいぞ八幡! 貴様だけかっこよくなりよって!」そこで風が止んだのは神の悪戯か、静まり返った広場の中で材木座にだけ、背後から指を鳴らす音が聞こえた。「ひいぃ!」

 奇行にたじろぐ比企谷八幡をよそに、材木座は突然の連絡を回想した。海老名姫菜からの突然のメッセージには比企谷八幡の行動についての詳細を求める旨が記されていたが、その瞬間感じた違和感は材木座が見まいとしてきた現実で、今まさに向き合わなければいけないものだった。比企谷八幡が何をしようとしているのか、材木座義輝は知らない。いつからか記憶の底に眠っていた海老名姫菜という名前よりも、その事実だけが材木座に纏わりついた。親友の為に、という大義名分をもって手繰り寄せていた手綱が突然蛇に見えてしまう。そして気の迷い、虫の知らせに従って届け先指定を変えてしまったこのチケットに思いを重ねる。

「お主は、お主は、何が目的なんだ!!」材木座は訊く。

「いや、チケットだよ」

「お、おふぅ」

 旧友からの頼み、それも比企谷八幡からのものともなれば材木座に断る理由はなかった。それは雪ノ下陽乃の相談に興が乗った平塚静しかり、この材木座義輝の現状に現れている。不干渉故の過干渉。必要としてほしかった望みが時を超えて叶ってしまった事による歪みに正常な認識は間に合わなかった。海老名姫菜と三浦優美子の頼みで露呈した足元は、人を支えるほど分厚い氷にも、数ミリ隔てただけの透き通る薄氷にも思えた。材木座は敢えて問う、親友とは何か、信頼とは何か、材木座自身も強く憧れを抱く、最後の一片を握りしめて。

 材木座は握りこぶしを心臓に当てた。「チケットなら、我の胸ポケットにある」

「はあ、なんでもいいけど早く渡してくれよ」比企谷八幡は頭を掻き、バイト終わりの疲れを言葉にのせた。

「わ、渡す前に一つ訊きたい」材木座の言い方に含みが感じられたのか、比企谷八幡は手を止め、対峙する人間に目を合わせた。

 そこで初めて材木座は比企谷八幡と目を合わせた。そしてそこにあるはずのなにか、説明することが難しいなにか、生きるために必要な何かが無いことに材木座は身を引く。安いスニーカーの踵が砂を削る。三浦優美子もその異常さに気が付く。心を壊したことのある彼女だから分かる生気というものの存在。しかし、同時に確かな違いにも気付く。それは目的を失ったことで心を壊してしまった人間と、目的に囚われてしまうことで心を隔離した人間の違いだとは、まだ分からない。

「なんだよ」比企谷八幡の声は酷く冷たく、材木座の耳を凍らせるように射貫く。

 淀んだ変化に身を固くしたのは海老名姫菜も例外ではなかった。しかしただ一人、それでも前を向く人間がいた。それはその男が届け先を咄嗟で変更した時から決意していたことだった。

 材木座は一歩踏み出す。「八幡!」

 尚、比企谷八幡の視線は冷たい。

「今、何をしている。そして、このチケットを使って何をするつもりなのか教えてくれ!」材木座は息を吸った。「い、言えなければ、このチケットは渡さない!」

 材木座の主張は深夜の公園に何度も反響した。それは材木座のありったけの声量で、紛れもない気持ちの表れだった。その響きは確かに届いた。海老名姫菜は驚きに目を見開き、三浦優美子は口笛を吹きそうな程に肩を竦める。それほどに歯の浮くようなセリフで、本気だったのだ。だから、間抜けな声が出た。「え」

 比企谷八幡は砂を散らして近づいたかと思えばおもむろに材木座のジャケットに手を伸ばす。「な、何をする!」身体を傾け微かな抵抗をした刹那、バチンと音がして世界が傾く。痛みはなく、ただただ衝撃の強さに驚くのみだった。

 殴られた、そう認識すると昇ってくる。口の中で鉄分の味が広がっていく。鈍くずんずんと脈打つ感覚がせり上がってくる。材木座はいつの間にか尻もちをついていて、見上げるように仰いだ。ちっ、うるせえな。と小さく毒づくのが聞こえ、材木座の肩はビクリと跳ねる。

 真っ先に飛び出したのは三浦だった。草むらから飛び出すと声を上げる。「ちょっとヒキオ! あんた何やってんの!?」状況が飲み込めない材木座に寄り添う。

 比企谷八幡は手元にあるチケットの中身を確認していたが、知った声に顔を向ける。「ああ、何やってんだお前」

「何ってアンタ!」三浦は草むらから出てきた海老名姫菜に材木座を預け、立ち上がった。「ヒキオの事心配してこいつは!」

 比企谷八幡は鼻を鳴らす。「はっ、心配?」

「アンタほんと!」三浦は激昂し拳を振り上げるが、すんでのところで「優美子!」と叫び声が聞こえる。

 海老名姫菜はこの非現実的な状況に混乱していた。混乱していたから止めた。彼が何をするか分からない。本当に分からなかったから、怖いと感じた。同じように尻もちをついたままの材木座もそうだ。分からない、という恐怖が身体を包み込んでいた。

 比企谷八幡は感情のこもらぬ瞳で三人を見渡し、背を向けた。

 安堵。とりあえず嵐は去った。確かな被害は出したものの、もう大丈夫。と海老名姫菜は胸を撫でおろした。だから、三浦優美子の取った行動に目を見開く。地面を蹴り、比企谷八幡のコートの袖を掴んだ。海老名姫菜は理解する。先日喫茶店で見せた三浦優美子の表情、そしてセリフ。

『分かんない…けど、もし、もし助けを求めてたら、助けてやりたい』

 三浦優美子は確かめたいのだ。SOSのサインを見逃したくないから。

 袖を捲り比企谷八幡の綺麗な腕が露出する。それと同時に振り払われ体勢を崩した三浦は投げ出される。そのまま倒れてしまう。

「なにやってんの!」

 暗闇を裂くような甲高い声が耳をつんざく程に響く。誰もが誰の声だと首を巡らせ、それが海老名姫菜の声だと遅れて気が付く。この短時間で海老名姫菜が一番息を切らしていた。比企谷八幡の哀し気な瞳を見て海老名姫菜は思う。三浦優美子の懸念は間違っていないのかもしれない。比企谷八幡は傷つけている。髪を染め、関係を変え、心を隔離する。それは比企谷八幡が自身に課した自傷行為に他ならない。自分でない自分を染め、傷つけ、汚し、心を突き放していくことで本当の比企谷八幡を顕著にしてゆく。比企谷八幡はここにはいない。 

 三人が先の暗闇に目を向けるころには、比企谷八幡の姿は消えていた。

 透き通った空気の中では、今のが蜃気楼だという言い訳もできない。だが、気を抜けば幻覚でも見ていたのではないかと勘違いしてしまうほどに覚束ない空間だった。

 どこからか涙を堪える声がする。

 次第に大きくなるそれは獣のように猛々しく、圧し潰されそうな悲しみを背負った叫びだった。

 小さな花弁がまた一つ、音もなく散った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 比企谷八幡は虚像と語る。

 

 焦点が定まってゆく。霞がかるようにぼんやりとしていた景色が輪郭をもってゆく。視界の右側には大きな池があった。カモの親子が寒さを補うかのように寄り添って泳いでいる。水面には所々氷が張っていて今年一番の寒波とやらを物語っていた。

 チラリと横に視線をやれば透き通るような肌をした雪ノ下陽乃がいた。白いコートを羽織った姿は神々しさすら見える。雲の隙間から覗く月が彼女を照らしている。手を繋いでいた。恋人つなぎではない。

 俺はもう一度辺りを見渡す。公園だろうか。ズキリと頭が痛み、少し思い出す。材木座から受け取ったチケットとパスワードを書き換えたアカウント。なぜ俺はパスワードを?

 震えるように息が吐きだされ、そちらを向く。彼女の唇の端を見れば血が出ていた。「陽乃さん?」

「ん? どうしたの?」

 陽乃さんは俺の瞳を覗き込み、何かに安堵したよう息を吐いた。白い空気が解けていくのを見送った。

「いや、その、血が」俺は彼女の唇を指で拭う。

「あ、噛んじゃったのかな」

 あはは、と笑う陽乃さんはいつもの表情で少し安心する。そんなところ噛むのだろうか? という疑問は何故だか湧いてこなかった。

「明日だね、クリスマスイブ」陽乃さんはそう言うと腕に絡みついてきた。見下ろすと白いコートに土の様なものが付いているのに気が付く。

「そうですね」俺の頭はだんだんと冴えてきていた。徐々にアクセルを踏み込むように出力を上げている。「明日ですべてが終わります」

 右側にある池には巨大な満月が映っていて、その輝きで思い出す。むしろなぜ今まで忘れていたのかという程のものだが、俺は急いで鞄を漁る。小さな箱を見つけた。いつの間にか手を離して先を進んでいた彼女を呼び止める。カツ、とヒールが鳴った。「あの、陽乃さん」

「んー?」彼女は足を止め、鼻歌交じりに振り向いた。

 ジングルベルだろうか、綺麗な音で歌っている。色のない景色に美しい音色がよく映える。赤い血はもっと映えた。

 俺は膝をつく。砂利に顔をしかめて身体をずらす。陽乃さんを見上げる。月光が反射して彼女の顔を照らし出す。小さな箱を見せ、開く。彼女の瞳が見開かれる。

「陽乃さん、結婚してください」

 数秒の沈黙の後、彼女の口から洩れた笑みがそれを壊す。

「あはは、あはははは」陽乃さんはお腹を押さえて笑い続けるから、俺は妙な恥ずかしさと振られた衝撃を同時に味わうことになった。要するに死にたくなった。あ、ちょうどいい池が横にある。

 身を投げようと立ち上がったところで陽乃さんの笑いが落ち着く。「ねえ、比企谷君」

「はい」俺はすっかり意気消沈していた。

「比企谷君の周りにはとってもとっても素敵な女の子が沢山いると思うの」と微笑む。いや、そんなことは、と言うが首を振られた。「あるよ、そんなこと。雪乃ちゃんにガハマちゃん」「あいつらは」「ちがう?」「ええ」

「まあいいわ。一色ちゃんもそう、めぐりだって、その他にも沢山いる」

 俺は断られると身構える。本気で池をチラリとみた。「でも」と言われ顔を上げる。「でも、私はこうも思う。比企谷君の愛を受け止める事ができるのは、その中でどれだけいるんだろうって」

「愛、ですか」

「そう、あなたの愛はとても素敵だから、他の人には受け入れられないんじゃないかなって私は思う」陽乃さんは腕を擦った。

「じゃあ」

「うん」彼女は、おいで、と手を上げる。「いいよ」

 思わず抱き締めていた。豊かな胸とそれに似合わない細い腰を、思い切り締め付けた。陽乃さんは涙を流していた。声もなく泣いていた。それは何かが報われたかのような喜びだったが、俺も報われたような気がしたから泣いた。つられて涙が溢れてきた。彼女は身体を離すと左手を差し出す。俺は頷いて、小さな箱からエンゲージリングを取り出した。「結婚指輪はちゃんとしたの買うので」と言い訳をすると、「そういうサボりが後々不満の種になるんだよ」と笑い、「嘘だよ、嘘」と舌を出した。

 それを薬指にはめると小さな光が指輪につく。それは徐々に増えていき、見上げると雪が降ってきていた。二年連続のホワイトクリスマスなどいつぶりなのだろうか。この気温なら日を跨いでも止むことはないだろう。

 顔を見合わせ微笑み合う。

 寒さなど感じないかのように彼女の頬は紅潮している。

 もう一度抱き締めた。

「終わったら、すぐ迎えにいきますから」

「うん、待ってるね」

 陽乃さんに会う前からの断片的な記憶はとうに忘れ、今はただ彼女の体温だけが現実のすべてに思える。

 雪の下でのワンシーンは心に刻まれた。何があろうと鮮明に再生できる。そんな気がした。

 

『今日はクリスマスイブです! 皆さんお出かけの際は傘を忘れないように、では、いってらっしゃーい!』テレビでは顔の整った女性アナウンサーがビニール傘を片手に手を振っていた。

「雪乃さん、アナウンサーとかになったら人気出そうだよね」

 小町が卵焼きをつつきながら言う。雪ノ下のアナウンサー姿を想像するが、最近のアナウンサーはバラエティー番組にも出演している為首を傾げる。

「雪ノ下は無理だろ、どっちかって言うなら由比ヶ浜の方が人気出ると思うぞ」

「えー、なんで」

 あのドジっ子属性に主張の激しい胸は男性視聴者の視線を釘付けにするだろう。意外な身持ちの固さもアナウンサーっぽいと言えばぽい。壊滅的な頭の悪さが全ての望みを無にするが。

「最近はバラエティもこなさにゃならんからな」

「ほへー」小町は味噌汁を啜りながら既に興味をなくしたのかテレビを見ている。俺も味噌汁を飲み干し、皿を片付け始めた。

 材木座が見つけたハルカレシとの連絡は上手くいっていた。昼過ぎに連絡が取れればいいところだろう。作戦を行う二人の女子にも連絡はついていて、夕方の集合になる。予備のクリスマスプレゼントを買うためにそろそろ家を出るか、と蛇口の水を止めた。

「お兄ちゃん」リビングを出ていこうとする俺を小町が呼び止める。

「なんだ?」

「明日は、ちゃんといるんだよね?」

 不安げな小町の表情に少し可笑しくなる。近づくと頭に手をやった。「ああ、一緒にチキン取りに行くか」と言うと、小町の顔はぱあっと明るくなる。「うん!」

「よし、じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい、お兄ちゃん」

 最後の別れでもあるまいし、と思いながらリビングのドアを閉めた。そのまま玄関に用意しておいた鞄を引っ掴んで靴を履いた。マフラーを巻いてポケットから鍵を出す。外に出ると寒さに肩を震わせ、ささっと鍵を閉めた。

 ちょっといいですか、と声が聞こえた。綺麗な声だったから、ありもしないテレビの音声かと思った。

 振り返ると人がいた。見慣れた制服に驚く。その姿を見て一度家を振り返った。

「小町ちゃんを責めないであげてください。私の最後のお願いなんです」

 俺はもう一度彼女を見る。一色いろはを見る。もう二度と相まみえることの無いはずだったその小さな肩を見る。

「少しでいいので」

 ポケットに手を突っ込んで、一歩踏み出した。

 

 

 

 

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。

感想、誤字報告など頂けると、とても嬉しいです。

また書きます。もしよろしければ読んでください。

ではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

definition of answer

お久しぶりです。楽しみにしていていただいた方々、長いこと待たせてしまってすみませんでした。

エンドロールが流れまして、すごく長くなってしまいましたが待っていてよかったと思っていただけるよう頑張ったので、読んでもらえるととても嬉しいです。
お盆の終わりの楽しみになれたらなと思います。

感想などいただけるとすごく嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


 

 

 一色いろはは―――。

 

 

 視界の先に吐き出される息が白い。疲れている訳でもないのに呼吸が深くなる。凍える空気も吸ったそばから熱せられて内側の火照りを加速させた。駅に向かう道すがらの住宅街には、きん、と音がしそうな透明の冷気が漂っていて時間の流れが遅く感じられた。お気に入りのピンクの傘には音もなく雪が積もり少しずつ腕を、肩を、身体を重くさせる。ばさりと傘から雪を落とすと隣を歩く比企谷八幡の整った横顔が見える。その瞬間、まだ燃え上がるものがあることに一色は気が付く。このままちりちりと灰を落とすのみと思っていた想いは奥にまだ火薬を燻らせていた。湿けていた花火が徐々に暴発するように溢れ始める。やばい、と一色はこめかみを揉む。このまま泣いてしまっては話ができない。唇を噛んで懸命に堪えているところで低く、好きな声が聴こえた。

「これはまだ誰にも言ってないんだが」

 はい、と答えた一色は自分の声が震えていないか不安になる。しかし、久しぶりに話しかけられたという事実に確かな高揚があるのを隠し切れなかった。自然と頬が緩む。

「雪ノ下さんにプロポーズした」

 ―――瞬間、時間が止まる。一色は表情が固まりコンクリートに薄く積もった雪の道から目が離せなくなる。周囲の景色から色がなくなっていく。今しがた比企谷八幡の発した言葉が何度も往復していた。意味のない音として何度も何度も頭の中を往復する。別の事を考えながら本を読んでいる時のように文字を上滑りして全く脳内に入っていかない。踏切の音、車の音、雪の降り積もる音。景色の一部になってしまったかのように掴んだことのない音になっていた。数秒どころじゃない沈黙の後、比企谷八幡の身じろぎで生じた衣擦れの音がようやく鼓膜に届く。そこでようやく音が戻る。住宅街に響く家庭の音、通り過ぎていく自動車の音、それらが決壊してなだれ込む。氷漬けにされていた時間が動き出し、ひんやりとした空気が一色の身体を満たしはじめる。

「結婚って、その年でですか」

 一色が震える唇で薄ら笑いを浮かべて吐き捨てるように言うと、今すぐにって訳じゃないがちゃんと伝えておきたくて、と比企谷八幡は俯きがちに呟いた。

「それで、お相手は何ていったんですか」

「一応受け取ってくれたよ」

「そうですかおめでとうございます」

 一色の心が急激に冷えていく。破裂寸前だった花火は静かな音を立てて溶けた。一色の目に映るのは冷たい空気を取り込んでは吐き出すただの有機物だった。もう帰ろうかな、と一色は考えたが小さく舌打ちをしてそれを堪える。仕事なんて受けなければこのまま蹴っ飛ばして帰るだけなのに。一色はぐちゃりと雪が染み込んできたローファーに顔をしかめる。二年の途中で変えたローファーもだいぶほつれて目を凝らすと汚れも見えた。靴下が濡れて気持ちが悪い。ねえせんぱい、わたしせんぱいのこと好きだったんですよ。一色が笑うと比企谷八幡は目を伏せた。雪が地面に着くような音で、すまん、と言う。一色には届かない。ローファーのつま先で雪を蹴ると黒いコンクリートがむき出しになる。一色は白い獣の皮を剥いでしまったかのように居心地が悪くなって、今度は思い切り踏みつぶすことにした。せんぱいとデートして手繋いでキスしてセックスしたかったんですよ、一色の責めるような声に比企谷八幡の肩は縮こまる。比企谷八幡の手にある黒い傘は会った時より重さを増しているかのように何度も持ち直されていた。あ、でもせんぱいって好きでもない人とセックスするんでしたっけ私ともしてくださいよ。一色は哀しく謳い、比企谷八幡は沈黙を貫く。スロー再生のようにふわりと舞う雪は二人の間を隠すには弱すぎた。

 遠くで聞こえていた電車の音は徐々に大きくなり少し先で鈍く光る銀色の車両が確認できた。「せんぱいって何をするつもりなんですか」比企谷八幡は目を逸らしたが、振った女の子のちょっとしたお願いなんて聞けませんよね、と一色がぼやくと諦めたようにため息をつく。

「ため息つきたいのはこっちですよ」

「何が知りたいんだ」

「全部です」

 比企谷八幡は入学式で出会った雪ノ下陽乃の存在から話し始めた。戸部翔の依頼や三浦優美子との出会い、海老名姫菜の望み。その半分は一色も知るところで退屈な時間が過ぎた。そして一色の助力も虚しく儚く散った十月の夜。そこからの出来事を詳細に知っている人間はいない。雪ノ下陽乃を含めて海老名姫菜まで、詳細を語れる人間はただ一人比企谷八幡をおいていなかった。

 あの夜、と比企谷八幡は呟いた。腫物を障るように震えた声に一色は傘をもたげた。幕が上がる、そう思った。

「あの夜俺は死んだと思った」

「は?」

「いや、物理的な意味じゃない、でも精神的にというには大仰すぎるか」

「ちょっと何言ってるか分かりませんけど」

「多分、死んだんだよ」冷たい瞳が一色を捉える。「お前の知ってる男は」

 ガリッ、と耳障りな音が鳴った。一色は気が付けば道路脇に薄く積もる雪を踏みつぶしていた。ガリガリと踵を捻じりローファーを磨り潰していく。

「身体が動かなくなったんだ。戸部の依頼がただの虚構だと分かったとき」

「はあ」

「そんな時に俺を支えてくれたのがあの人だった」

 行く先を見据え、それは眩しそうに眼を細める比企谷八幡を見て一色は喉からせり上げるものを抑えるのに必死だった。

 ―――私を頼ってくれればよかったじゃないですか。

 一色はそんなことをつい言いそうになる自分に腹が立った。もう一度雪を踏みつぶした。

「葉山と戸部の事は分かってるよな」

「…まあ、はい、後ろめたさですよね」

「そうだろうな、じゃあその後ろめたさの原因はなんだ」

「暴行未遂を隠して進学した戸部先輩」

 比企谷八幡は一度深く息を吐いた。「情報の漏洩だ。簡単にいうと秘密の漏洩。世間に漏れてはならない、漏れない方がいい事実を懸念して二人は距離を取った」

「取らざるを得なかった、ですか」

「ああ」

 一色はそこまでを聞き、最低なことが思い浮かんだ。目には目を、歯には歯を。なんてことわざも存在するが、一色は首を振る。そんなこと考えても実行に移せるかと。ただ、彼の容姿を見れば、噂を聞けば、そんな最低なことしか思い浮かばなかった。車通りが増えて道路は黒々としたアスファルトが目立ち始める。一色は左腕で自らを抱くようにした。顎から何かが垂れて下を向く。ぽつぽつと雪にほんの小さな染みができては背後に消えてゆく。

「陽乃さんとしたあと、もう、それしか、思い浮かばなかった。秘密が、漏れることが怖いなら、同じ怖さを…」

 比企谷八幡の顔は歪んでいた。苦痛と言う苦痛をその身にたぷたぷに孕んでいるのではないか、そう思えて仕方のないほどに彼の表情は歪んでしまっていた。それに気が付いた一色は目を剥いて見つめる。湧いては溢れる一色の大きな瞳に瞬きは必要なかった。一瞬でも映像を切らせばデータごと吹っ飛んでしまうのではないか、そんな気持ちで瞼を震わせ、同時に自身の眼球を疑った。二人いる。直感でそう思った。そしてすぐ間違いに気が付く。二人じゃない。比企谷八幡は一筋の涙を流し、口を噤んだ。

 一色の涙が止まる。混ざった、と思った。何がとは言えない。現時点で一色が持ち合わせている言葉では表せなかった。ただ確かに感じた。交じり合ったと。

「無防備な姿を見たんだ」声が数音下がったように思えた。重く、静かな声だと思った。「信頼ではないもっと奥にある。本能に近いものだと思った」

 獣じゃないか、比企谷八幡は呟いた。

「獣…?」一色は首を傾げる。

「俺のしていることは知られたくない秘密の、創造だ」

 そうぞう、一色は口の中だけで繰り返す。やっぱりろくでもないと思った。結局は皆を平等に不幸にすることで曖昧にしてしまう。そんな手法だ。だから、「あの二人は…」と言いかけた時に塞がれた唇に感覚はなかった。しかもそれが彼の唇であるから一色の頭の中は雪よりも真っ白に光った。明滅する思考が弾けてもう一度目を見開く。小さく開けられた隙間に舌が押し込まれて歯茎の裏を撫ぜた。ぞわり、と数百の虫が背筋を這い上り一色は口内の虫を噛んだ。

 強く肩を押されて一色は民家の塀にぶつかった。肩の痛みより口に広がる鉄の味に呆けていた。コンクリートの塀にはざらざらとした砂が付いていて手をつくと不快な感触に背筋が冷える。路上にピンクの傘が逆さに転がっていた。はあはあと息が切れて視界がぼやけている。比企谷八幡は赤い唾を地面に吐いて、ほら、これで戻れない、と笑った。その瞬間一色の身体の隅々まで熱が伝わるのが分かった。

「さいってい!」一色は喉が震える限り叫んだ。

 カンカンカンと音が降ってきて踏切まで来ていたことに気が付く。比企谷八幡は一色に顔を寄せ、虚像を実像にするんだ、と耳打ちしてから線路を横切っていった。遮断機が下りきると一色は、せんぱい! と呼び止めた。視界の隅に高速で動く銀色の物体が見えていてすぐに叫んだ。自惚れんな! 比企谷八幡は立ち止まってこちらを振り返る。顔を見せる直前で轟音を立てて鉄の塊が横切る。切らした息と風に転がる傘がぴったりと重なる。いないだろうな、と一色は何故か感じた。音が鳴り止むと再び静寂が訪れる。地面の赤い染みがゆっくりと雪で上書きされていく。強くなるわけでも弱くなる訳でもない雪は先ほどと変わらず一色を囲んでいて現実感を薄めていた。

 背後で雪を踏む音がして振り返ると比企谷小町がこちらに傘を差し出していた。大丈夫ですか? と頭の雪を払ってくれる。一色は比企谷小町の肩に縋る。ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめん、ごめん、ごめん。力なく何度も呟く一色を比企谷小町は抱き締めた。ごめんなさい、ごめんなさい、いろはさんごめんなさい。二人の涙は肩の色をどんどん変えていく。

 赤い傘とピンクの傘は風に寄り添い静かに冷たい雪を溜めていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 まるで祭りだな、と周りを見渡して思わず呟いた。ドーム球場の周りには電飾がふんだんに散りばめられていて光の庭になっていた。澄んだ空気を滑るように様々な色の光が溶け合っている。一度鞄の中身を確認する。ブランド物のアクセサリーが数種類ありどれもシンプルな包装がされている。この中から気に入りそうなものをその場で選べばいい。

 約束の時間は十七時。携帯の画面を表示させて今一度、遥の彼氏の写真を確認した。海岸をバックに白い歯を見せる。焼けた肌が印象的な短髪の好青年といったところか、薄手のシャツを着て鍛え上げられた筋肉を披露する様子はいかにもという印象を受けた。ドームの広場を横切っていると前方に小さな行列ができているのを見つけた。開場時間は過ぎている為おそらくグッズ販売だなと見当をつける。同じ方角を目指すファンの様子を見ると、タオルの一つでも買っておいた方が自然か、と考え行列に足を向ける。しかしすぐその必要がなくなる。ドームを囲う柱の一つにターゲットを見つけて近づいた。

「すみません、”シュンタロウ”さんですか?」

 柱に体重を預けている通称シュンタロウに声を掛けた。シュンタロウは彼のツイッターの裏アカウントの名前だ。本名まで調査済みの俺からしたら単なるもじりだとは分かっている。シュンタロウは突然声を掛けてきた俺を警戒しつつも、約束していた時間の五分前であり、鍵を掛けているアカウントの名前を知っていることで徐々に肩の力を抜いていった。

「材木座さん…じゃないですよね?」彼は首を傾げ、「あ、代理の方とかですか?」と手を叩いた。

 話が早くて助かります、と笑いかけてみる。おそらく不自然ではないだろう。自然な笑顔を作るコツは本気で笑うことだ。材木座は本名で接触してんのかという呆れはとりあえず置いておく。そういえば材木座と連絡とってないな、会ったらお礼しなきゃな―――ズキン、と後頭部に痛みを感じた。夜の帳が落ちるように景色がこめかみを伝って広がる。ぼやけた物体が月明かりの元で鎮座していた。

 いや、会っている。俺は材木座に会っている。会話もした。どこでだ。公園だ。呼び出された。バイト終わりに向かった。チケットはここにある。

 ―――おかしい。

 思わず辺りを首を振った。東京ドームだ、ここは。どうやってここまで来た? 電車に決まってる。いつ乗った。昼過ぎだ。誰かといた? 誰とも、誰とも、いない。予備のプレゼントを買った。黒いスーツに身を包んだ店員と話した。クリスマスなのに大変ですね―――、誰の言葉だ。

「あの、すみません」

 ハッとして前を向くとシュンタロウがこちらを訝しんでいた。まずい、と思い慌ててチケットを取り出す。これチケットです、と渡すと「本当にいいんですか?」と気を遣いながらも受け取った。堪えきれずに口元が緩んでいた。俺は彼の肩に手をやり、お願いします、と念を押してから背を向けて歩き出す。後頭部を叩く鈍痛が続いていた。過去を遡るほどそれを切断しようとするかのように意識と視界に霞がかかる。背後から近づく足音に気が付かず、いつの間にか俺の右手には茶封筒が握らされていた。揺れる思考で中を確認すると一万円札が入っている。やっぱりお金は払わせてください、という申し訳なさそうな声が今になってゆっくりと脳内に侵入してきた。

 振り返るとシュンタロウは何度も頭を下げて手を振っていた。それに小さく会釈でこたえてから再び歩き出す。

 記憶を遮断して諦めろと諭してくる脳内に衝動が沸き上がって来る。目的を果たせと赤いランプを点滅させる。

 はやく行かなければ――――。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 池袋駅東口を出ると近くに大きなクリスマスツリーが見えた。既に日は完全に沈んでいるが、空から襲い掛かる闇に抗うように都市が発光していて視界がうるさい。空気はさらに冷え、いつの間にか雪も強くなって地面を薄く凍らせていた。破裂音を思わせる大きな笑い声が聞こえてそちらを見ると尻もちをついた男とそれを囲む大学生らしき集団が手を叩いてはしゃいでいた。ポケットにある携帯がぶるぶると震えた。

『みんなでクリスマスパーティーしよ!』

 由比ヶ浜からの奉仕部グループLINEには簡素な、しかしこんなにもこころが躍ってしまう一文とともにスケジュールのアンケートが送られていた。バイトはあるがパーティは夕方までだろうと考え二十六日以降の予定に全て丸をつけて送信する。その瞬間にまた一つメッセージが送られてきた。

『いろはちゃん今年は遠慮しておきますだって…』

『あら、でも仕方ないわね。受験生だもの』

 いつの間にか雪ノ下もトークに参加している。ということは俺が画面を表示させていることも向こうにはバレている訳で、ここには三人だけの空間が広がっているといっても過言ではないのかもしれない。小さな部屋が夕日を集めている。長机が見える。雪ノ下の椅子。由比ヶ浜の椅子。俺の居場所。そして、もうひとつ―――。

 自惚れんな! どこからかそんな声が降ってきて顔を上げる。小さな手がひらひらと振られていた。携帯の電源を切ってポケットに押し込んだ。目元には妖しく映える赤色のチークをさして、切り揃えられたショートヘアが外側に跳ねている。ボブヘアではなくなったから元黒髪ボブか、元ボブでいいか。思い出したように鞄から見覚えのある長財布を取り出して見せつけるように振ってきた。なにそれ、と元ボブの背後で水戸黄門を慕うかのように陣取る二人の男が首を伸ばして訊く。内緒、と赤い唇に人差し指を当ててこちらにウインクしてきた。

「――さっきの子めっちゃ可愛かったね」

「あー、多分男の子だけどね」

「え、まじ? 全然わからなかったー」

「あはは、ウケるんだけど」

 聞き覚えのある声に、初めて聴く声。いがみ合っているようでいて阿吽の呼吸のようにふしぎな調和を成している二つの声だった。俺は声のした方向を振り返る。たらたらと歩いているうちに後ろにいたらしい。折本の隣にはシュシュで纏めた茶色の髪の毛をサイドに流している女子がいた。うわ、かわいいじゃん、と元ボブに用意させた男の片方が口笛を吹く。やらねえけどな、ぼそりと呟いてから大きく息を吐く。伏せた視界にストラップのついたヒールが侵入してきた。しなやかな弧を描く黒いタイツから赤いスカート、紺色のトップスに同じような上着、そしてまた赤色のマフラーを巻いていた。

 いつもそこは赤色だった気がした。どんなときも、どんなところでも、いつもそこには赤がいた気がした。入学式の後に登場した陽乃さん。朱に交われば赤くなる、ではない、朱に交わるために赤くなった。いつだって傷つかない日はなかったのだろう。誰もが苦しんできた道をへらへらと笑い生きている。

 俺が顔を上げると”遥”は目を見開いた。

 はじめまして、そう笑いかける。

 多分、一番笑えていると思う。

 この瞬間のためだけだったのだから。

 

 西洋風の広い店内にはオレンジ色の灯りで満たされていて不思議な浮遊感が漂っていた。個室ではないため後ろと左隣から話し声が聞こえてくる。猫背になりそうなほど低い椅子に低いテーブルで意識的に背筋を伸ばす。それだけで効果があるのかは分からないがあの人なら、嫌いだけどね、と笑ってくれそうな気がした。テーブルに並んでいる料理を眺めていると、とんとんと膝を叩かれた。

「ね、”ヒキヤ”くん、本当に運命だと思わない?」隣に座る遥が小さな声で言ってくる。

 吹き出しそうになるのを堪えてグラスにつがれた液体を一口煽る。今更そんなミスはしないし、そもそも運命という単語を持ち出したのは俺なのだから遥はそれを忠実に受け止める素直ないい子だとも取れる。半分効力を諦めていた自撮りのアカウントが役に立った。先に気が付いたのは向こうで、声を掛けたのが俺からという構図は彼女の機嫌を取るには余りあるものだったらしい。遥の瞳は風に吹かれる炎のようにゆらゆらと揺れているように見えた。その眼は知っている。よく、知っている。

 同じように声を潜めて、実はずっと仲良くなれたらなって思ってたんだ、と囁く。遥は、嘘だ、と茶化すように俺の膝に触れてくるから、本当だよ、とそれに手を添える。

 ずっと狙っていたに決まってんじゃねえか、と喉がめくりあがりそうになる。チラリと周りを見渡すと既に出来上がっている男二人がそれぞれ折本と元ボブに絡んでいた。鬱陶しそうに話しながらこちらをチラチラと気にする折本と、慣れたようにあしらう元ボブは対照的で別々の空間にいるように見える。席替えの際の誘導や最初は気遣えるが酔うとダメになる男の人選といい、意外な助力を受けてしまった。まあそれも理想の金ヅルだと思っていただけたからだと光栄に存ずる次第だ。

 この調子でいけば上手くいくな、と少し緊張の糸が緩むのが自分でも分かった。なぜだか今日は朝から視界がぶれて焦点を合わせるのに苦労していた。街を覆う光はいつもより何割か増しで眩しく、ちかちかと眼の奥を痛めつける。肩の荷が下りるに比例して灯りの眩しさも収まっていった。

 ―――遥が携帯を触ってからだった。

 後頭部への鈍痛が甦ってきて木製の机のツヤに反射する灯りすらもまともに見れなくなった。いつの間にか会話の弾まなくなった彼女を見るとその瞳はすでにここではないどこかにいってしまい、好奇心という炎が消えていた。迷いのようなものはあるものの、先ほどのようなゆらゆらと大きく揺れ動くものではなかった。その迷いの揺れはどこかで見たことがあった。つい最近だ。

 クリスマスなのに大変ですね―――恋人が仕事でシフト入れたんですよ―――こんなに綺麗な人を放っておくなんてもったいない―――

 ブランド店の店員か、と思い出す。

 思い出すと同時に意識が”どく”のが分かった。堕ちるのでもとって代わるのでもなく、”どく”のが分かった。その感覚は横入りに近い気がした。少し、ムッとはするものの、関わるのが面倒で気にしないフリ、寧ろ自ら避けるような感覚だった。だから俺はいつものように、”どく”。それで今は上手くいく。

 黙って立ち上がると、何かを言いかけた遥を背にトイレへと向かう。個室に入って携帯を取り出すとすぐにトップニュースが目に入った。『人気アイドルの卒業ライブで事故。救急車も出動する事態に現場は混乱。』画面をスクロールすると、『ライブ参加者にはケガはなく退去は終えている模様。後日正式な対応をすると公式サイトが声明を出した。』携帯の電源を切ろうとしたところで新着の通知があることに気が付く。『二十九日にゆきのんの家で決定! プレゼント交換するから用意しといてね!』由比ヶ浜からのメッセージだった。

 今度こそ電源を落としトイレを出ると人影が見えて仰け反る。待たせていたのかと身体を避けようとすると腕を掴まれた。「ねえ、どういうつもりなの?」

「なんだ、折本か」

「なんだじゃないって、あんなに遥と仲良くしてどうするの?」

 どうするのとはどういうことだろうか。私のことは、とでも最初につけるのだろうか。「別にどうもしないが」

「嘘、遥のこと狙ってるんでしょ」折本は俺の顔を覗き込んで、持ち上げるように睨みつけてくる。

 やばいな、さっさと戻らないと遥に逃げられる。おそらく事故でライブが強制的に終わったシュンタロウが遥に連絡したのだろう。そもそもチケットを渡すという不確定な予定であるから濁すように出てきた可能性もある。どのみち俺の、お願いします、という頼みは果たしてくれたのだから文句は言えない―――見られている、と感じた。折本の奥からねばねばとした視線が身体に纏わりつく嫌な感触がした。頭越しに確認しなくともそれが遥から発せられてるのだとはすぐに気が付いた。約束したよね、と詰め寄って来る折本に顔を向ける。

 そういえば、と折本と遥のエピソードが頭を過った。遥が好意を寄せていた先輩が実は折本に気があったという夏休みの確執を嬉しそうに話してくれた。

 これがおわったらちゃんとこたえるよ、と折本の肩に手を添えて力を加える。すると折本は困惑と満足を混ぜ合わせたような表情を浮かべて数歩後退した。その横をすり抜けて席に戻る。わざとらしく別方向を見てグラスを傾ける遥に聞こえるよう、わざとらしくため息をつく。

「どうしたの? もしかしてかおりと知り合いだった?」

 文脈がおかしいことに気が付かないほど、彼女は高揚しているのだとすぐに分かった。彼女の瞳を見れば激しい火花がぱちぱちと攻撃的に刺さってくる。

「ああ、まあね」

「どういう知り合い?」

「いや、大したことはないんだよ」と頭を振って席に戻った折本を見る。それから目を伏せ、ただちょっとしつこくて、と弱々しく呟いた。

 遥のタイツに包まれた黒い脚が俺の膝に、ちょん、と触れた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「会えないってどういうことだ陽乃」

『だって、会ったら静ちゃん絶対説教するもん』

「説教などしないさ、近況くらい聞かせてくれたっていいじゃないか」

『あはは、この間会ってから二ヶ月も経ってないよ』

「はあ、比企谷とはどうなったんだ?」

『んー、どうもこうもないよ』

「なんだ、その、比企谷の浮気は終わったのか」

『――もうすぐじゃない?』

「もうすぐ?」

『そう、もうすぐ』

「そうか…」

 少し長い沈黙の後平塚静が再び声を上げようとしたとき、ほんの微かに雪ノ下陽乃の嗚咽を聴いた気がした。それは助けというにはあまりにもか細く、嘆きというにはあまりにも悲痛で平塚静の首を締め上げた。スポーツカーの鋭利な車窓には風に吹かれた雪がはらはらと舞っていた。パトロールカーが横を通り過ぎて赤い光が空間に満ちると一面に血飛沫が舞ったような気がして思わず目を逸らした。

「陽乃?」

『はじめてなの』

「何がだ」

『初めて口にしてくれたの』

「何を言ってるんだ陽乃」

『だから、だから辛いの。こんなに辛いと思わなかった』

「やっぱり会おう陽乃、今どこにいる」

『こんなにも辛いなら、自分のものじゃない方がよかったかな』

「言え、陽乃! どこにいる!」

『静ちゃん』

「なんだ」

『わたしね、どこまでも愛することか、殺すことしか知らないんだって』

「そんなこと誰が言った?」

『成長のないイケメンかなあ』

「大丈夫だ私がそいつを殴ってやる」

『だから、もう一回だけ、もう一回だけ、愛するために自分を殺すね――』

「おい陽乃! 陽乃! くそっ!」

 平塚静は、ダンッ、とハンドルに拳を振り下ろして顔を歪めた。しかしそれだけでは収まらずダンッ、ダンッ、と何度も何度も叩き続けた。くそっ、くそっ、くそっ、どうして何もできない。何が教師だ、何が頼ってくれだ、肝心な時に何もできない。成長という大義名分にかまけて促すだけに逃げていた報いなのか。くそっ、くそっ、ガンッ、と音がしてハンドルと額がぶつかった。じんわりと痛みが拡がり思わず、そもそも陽乃はわたしの事を信頼してくれていたのだろうか、と考える。いつだって悪戯っ子のように舌を出して、捕まえようと手を伸ばすとスカートを翻してひらりと躱す。平塚静と雪ノ下陽乃の関係は出会ってから何も変わっていなかった。平塚静は自分の恐ろしい感情に身体が震えるのが分かった。横を走るものは誰もいない。雪ノ下陽乃に近づこうとしては離れていく、そんな連中を見て自分は胸を撫でおろしていたのではないか。教師も友達も、脱落していく奴らを見て安心していたんじゃないか。自分だけがいつまでも見守っていられると、こころのどこかで優越感に浸っていたんじゃないか。暗澹とした感情は化け物と化してして平塚静の周りを覆ってしまっていた。ぐつぐつと唸るエンジンをエネルギーに腹を空かせる化け物が今か今かとよだれを垂らしていた。

 平塚静は陽乃の本性を知ったうえでそれを認めて付き合い、それが正しいと疑っていなかった。平塚静は理解者の存在はどこの世界でも必要だと説いた。生きにくい世の中だろう、そのままでいい、別にお前は悪くない、そんな言葉だけを雪ノ下陽乃に対して弄してきた。それがいけなかったのかもしれないな、と平塚静は顔を上げた。遠くで電車の音がしてアスファルトの凹凸がいきものの硬い鱗に見えた。それでは永遠に変わらない、意味のないカウンセリングのようなものだと思った。医師と患者を隔てる大きな溝。いくら手を差し伸べようと平塚静が雪ノ下陽乃に踏み込むことはなかった。理解者の存在で世界が変わるなら悲しむ人間などとうの昔に滅亡しているよな、と平塚静は自嘲気味に笑う。理解した気になって、知った気になったところで相手の求めているいることは分からない。平塚静と雪ノ下陽乃の関係はあの頃から変わっていない。職員室で椅子に座って脚を組んでいた平塚静とそれを立ったまま見下ろす雪ノ下陽乃、彼女の求めていたものを平塚静は理解できないで、認めた気になって胡坐をかいていたのかもしれない。

 雪ノ下陽乃の求めているものは考えて分かるものではないのかもしれない、ただ、彼女は”ああなんだろう”と認め始めた時からそれは終わるっているのだろう。平塚静はハンドルの奥に手を差し込みライトを点けた。

 生き方に対峙し、否定するだけでもきっと足りないのだ。

 比企谷、お前は何をしたんだ―――ばちんっ! 平塚静は自分の頬を強く叩いた。堕ちていきそうな視界が瞬間的な落雷にあったかのように見開く。平塚静は雪ノ下陽乃を諦めようとした思考を強く悔いた。ふざけるな、ふざけるなよ平塚静。宙を彷徨っていた意識を叩き起こして胸ポケットに手を突っ込む。会ってから今までの雪ノ下陽乃の背中を思い出す。確かに雪ノ下陽乃は人とは違う道を歩んでいるのかもしれない、理解りもせず追従するような阿呆に飽き飽きしているかもしれない、こんなこと考えている時点で雪ノ下陽乃が持ち合わせる範疇というものを逸脱しているのかもしれない。平塚静は窓を全開にしてライターの火を口元に近づける。すこしだけ息を吸う。それでも、雪ノ下陽乃が振り返ったとき、迷って首を回したとき、誰かがいた方が絶対に嬉しい。平塚静はブレーキペダルを力いっぱい踏む。絶対にだ、もう一度呟いた。

 極限まで冷やされた空気が肌に割って入り、煙草を挟む指先から徐々に感覚が奪われていく。それを少し楽しみながら白い煙を吐くと冬の夜に溶けて交じり合うように消えた。ギアを入れてクラッチとアクセルをゆっくりと噛みあわせる。

 ―――いつか彼女の事を理解できる人が現れるかもしれない。

 そんな綺麗なものではない、のかもしれない。吐いた息が空に溶けるように、落とした水滴が海に消えるように、ただ曖昧に、感情と感情をぼかしているのかもしれない。人間が想像できる世界など、小さな水溜まりに生まれては消える薄氷に触れるようなものなのだ。

 だから平塚静は雪ノ下陽乃が幸せになることを願った。

 そしてそのピースのひとつが自身の存在ではないかと、醜い感情をゆっくりと仕舞う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 やばい、飛ぶ。

「ねえ、どこいくのー?」

「疲れたし、ちょっと休憩しない?」

「えー、”ヒキヤ”君のえっちー」

 自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな―――やめろ! ハッとして横を見ると遥が白色の傘を持ち上げて首を傾げた、どうしたの? いや、なんでもないよ、と微笑む。声には出ていなかったらしく小さく息を吐いた。東京を覆う雲は厚みを増したのか、より暗く、より濃くなっていた。真っ暗ともいえる景色に小さな白が爛々と光る。世界にはその二色しかなかった。路地裏のホテル街を歩いていた。白い尾を引いた車がゆっくりとしたスピードで車道を走る。もうブーツの中までびちゃびちゃだよ、と遥が少し不満げにいう。俺の口が勝手に動くと遥は手を口元に添えて笑った。アーモンド形の眼が妖しくも可愛らしい。意識してみれば脚にも動かす感覚がなかった。しびれたときのように踏みしめる感触がなく、ただただ足の裏に地面が当たるという感覚だけだった。今もなお唇は複雑に動き、遥の笑顔を生み出していく。身体にのっている気分だった。皮膚ではなくもう一枚外側の存在、確かに中にいる。暴力的な何かがいる。

 なんだか軽くなった気がした。身体と精神にかかっていた悪い重力のようなものが全てなくなった気がした。いままで足枷でもつけていたのかという程にとても軽い。雪の粒がゆっくりと落ちていくのをはじめて眺めた。その数を数えようとして目で追えなくなるとすぐに諦めた。自惚れんな、とまた高い音が響いた。しかしそれはこれまでのようなうんざりする鈍痛ではなく、頬をぱちんと引っ叩かれるような心地よい刺激だった。久しぶりに頭がクリアになった。視界が広い。世界が広い。俺はどこまで来たのだろうか。暗く狭い視界の中で手さぐりしてきた旅路はどこに降り立つのだろうか。

 ―――そもそも俺は、どこから来たのだろうか。

 比企谷八幡とはどこから来た何者なのか、知っている人間は比企谷八幡しかいない。

 この醜い生物を知っているのか。嘘と欺瞞に塗りつぶされたこの醜悪な生物を。足を折られて腕を折られて首の骨を折られてぼろぼろの布切れのように一歩ずつ大げさに踏み出すこの大根役者を知っているか。比企谷八幡はよく知っている。ずっとずっと見ないようにしてきた。この醜い下等生物の存在を。人を騙し嘲り踏みにじってきたクソ虫にすらもったいない人間を。

 雪ノ下陽乃の挑戦。葉山隼人の哀愁。戸部翔の依頼。海老名姫菜の希望。三浦優美子の劣情。そんなもの吐いて捨てるほどどうだってよかった。仲間内のいざこざなど興味の欠片もなかった。葉山隼人の事件など、戸部翔の秘密など、海老名姫菜の望みなど、三浦優美子の自傷など、ぼっちの俺には一生関係ないことだ。

 比企谷八幡が気持ち悪くて気持ち悪くて吐きそうになる。比企谷八幡がかわいそうでかわいそうで泣きそうになる。比企谷八幡が醜くて醜くて蹴り飛ばしたくなる。

 俺は怖かったんだ。

 ずっとずっと怖かったんだ。

 それは比企谷八幡が捨てたもので、高校三年間で膨張してしまった感覚だった。

 知ってしまった、俺は味わってしまったのだ。

 人に頼られることの、快楽を。

 

 

 ―――ああ、口にしてしまった。答えにしてしまった。ずっと見ないフリをして、そっと隠して、時には破壊して、悲劇のヒロインを演じていた。比企谷八幡の醜い姿を、認めてしまった。

 卑しい、意地汚くて浅ましい、下賤で下等、野蛮で低劣な、下衆の誕生だ。

 あの教室を離れてからずっとだ。四月が訪れて俺を襲い掛かった恐怖は新しい環境への順応でも新しい人間関係の構築でもない。俺を必要としてくれる人間の存在だ。

 ずっとずっとぬくぬくとあの夕日にあたっていたかった。雪ノ下と由比ヶ浜がいて、依頼がきて比企谷八幡を求めるその瞬間を俺は知ってしまった。どんなに快楽を求めようとあの瞬間には到底及ばない。誰を抱こうがあの夕日には届かない。そんなものは捨てたつもりだった。必要とされないことなど当たり前、存在を認識されなくて当たり前、忌避して人が離れていくのが当たり前、それが比企谷八幡のはずだった。はずだったんだ。

 雪ノ下雪乃に由比ヶ浜結衣、材木座義輝に戸塚彩加、葉山隼人に戸部翔、一色いろはに三浦優美子、平塚静に城廻めぐり、川崎沙希に折本かおり、そして比企谷小町に雪ノ下陽乃。

 俺のことを見る目が変わっていく。好意的になっていく。近づいてくる。求めてくる。そんな快楽を知ってしまったらもう、怖くて怖くて仕方がない。離れていくことが恐ろしくて恐ろしくて足がすくみそうになる。雪ノ下陽乃の挑戦的な言葉を受けて真っ先に身体を纏ったのは恐怖だった。捨てられる、見捨てられる、あの人の中での比企谷八幡の存在価値がゼロになる。

 大学生活を送っている俺を包んでいたのは酷く醜い自己承認欲求だ。知らず知らずのうちに餌を与えられていたその番犬は奉仕部の部室でブクブクに太っていた。その結果が卒業後の冬休みで吐きそうなほどに溢れた、求められたいという欲求だった。

 そんなわけがないと何度も言い聞かせた。比企谷八幡はそんな人間ではない、比企谷八幡はそこまで堕ちてはいないと。しかしその醜い欲求は戸部の依頼でひょっこりと顔を出した。その獣は待ってましたと言わんばかりに涎を垂らして待ちわびる。また比企谷八幡の番犬は餌をもらえるようになった。毎日毎日、自己承認欲求という完全栄養食をばくばくと食べ続ける。

 十月だ。依頼が終わった。全ての依頼が虚無になった俺を再び襲い掛かったのは飲み込まれそうなほどの闇だった。視界がギューッと狭まり、飲み込まれていくと錯覚するほどの欲求は雪ノ下陽乃の存在でギリギリに踏みとどまった。

 愛されている、という蜘蛛の糸が麻薬のように揺らされた。

 しかしそれで満足はしなかった。俺の理性を超える欲求は雪ノ下陽乃を抱くことでまた肥大した。また役に立てる。また必要とされる。また、皆に愛される。そこで俺は喰われた。欲求に喰われた。

 葛藤だった。認められたいという思いと他人を傷つける地獄を味わった。進めば地獄、止まっても地獄。生きている限りの地獄で俺の足は黄色い警告ラインを超えてしまった。迷ったら終わる、止まったら無駄になる、その思いに憑りつかれた。

 戸部の依頼を意地でも達成する、という大義名分を掲げた比企谷八幡の大舞台は欲求という人間の醜さに支配された傀儡舞台だった。

 それに気が付いている人間はいるのだろうか。

 まあきっと、あいつらは気が付いているんだろうな、と思う。

 俺の皮を被ったこの化け物は比企谷八幡のぶくぶくに太った自己承認欲求だ。食べて膨らみ、痩せて人の形と成った。喰われるほどの欲求は人格をも乗っ取る。なぜならそれは”俺の”欲求だからだ。操るも何もない、心の中で俺が持っている欲求なのだ。理性のブレーキはとうに外した。

 無数の雪を浴びて、塗り固められた笑顔をみせ、ひょうひょうと歩き、べらべらと喋り、隣を歩く女の肩をいやらしく抱く人間は、紛れもない比企谷八幡なのだ。

 だから、だから、だから、誰か助けてくれよ。

 雪ノ下、由比ヶ浜、依頼があるんだ―――――俺を、比企谷八幡を、助けてくれ。

 ねえ、ホテルってここ? スピーカーから発せられるアナウンスでも聞いているように空から声が降ってくる。ああそうだよ、と返す俺の声も鼓膜のそとで反響する。俺という存在がゆっくりと沈む気配がしていた。抗いきれないその睡魔に呪われるように身体が重くなっていく。やばい、飛ぶ――――そこで、比企谷八幡の背中に、ドンッ、と何かが当たった。同時に体内に侵入する温度をもたない異物、そして引き抜かれる無機質な感触。

 視界がぐらりと揺れて膝をついた。

 足元を見ると世界に色が戻っている。鮮やかな赤色がぽたぽたと垂れて水溜まりをつくっている。戻った、と思った。指の先まで完全に身体に収まったと分かった。じわじわと何かがせり上がって来る。それは生に関するなにかで、人が生きるために必要な何かだと堕ちていく意識の中で感じた。

 首を捻り振り返った俺が最後に見たのは、めぐりさんの――、と叫びナイフを振りかぶる真っ赤なジャンパー男と、それに体当たりして吹っ飛ばす金髪の男だった。

 そのまま前のめりに倒れると手に持っていた携帯が滑り、カラン、と側溝に落ちる音がした。

 ブレーカーがゆっくりと落とされるように徐々に意識のシャッターが降りてくる。

 遠くで聴いたことのある声がいくつか聞こえた気がした。

 夕日を浴びるように刺された皮膚が熱い。

 身体の真ん中は酷く冷たい。

 意識が、堕ちた――

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 葉山隼人は―――。

 

 葉山隼人は雪景色の池袋を駆けていた。クリスマスカラーに彩られた街は一つの異世界の様相を見せ、すべての人が浮足立っているように見えた。人ごみを避けて居酒屋の角を曲がると人とぶつかりそうになって躱す。しかし相手は体勢を崩したようでゴミコンテナにぶつかっていた。あいた! と悲鳴を上げて倒れ込む。葉山隼人は慌てて近づいて手を伸ばす。大丈夫か、戸部。起き上がった戸部翔は、あいたたた、と腕を庇いながら恥ずかしそうに笑った。その様子をみて葉山隼人は胸を撫でおろす。おーい、と声がしてその方向へ顔を向けると戸塚彩加が走ってきていた。八幡いた? と息を切らして膝に手をのせる。葉山隼人は戸部翔と顔を見合わせてから首を振った。

 いいですよ、まあ私もせんぱいには用がありますし、と承諾された調査。葉山隼人が一色いろはに頼んだ結果は比企谷八幡が計画していることを突き止めるのみで終わった。接触は比企谷八幡が行動を起こす直前、ターゲットをホテルに連れ込む直前にしなければ濁される、ということは共有できた。しかしそこまでで万事休すか、とクリスマスイブのサイゼリアで肩を落とした矢先に戸塚彩加の携帯が鳴った。比企谷小町が比企谷八幡の携帯を盗み見て得ていた情報は、十九時、池袋、合コン、という単語だけだった。いろはさんには言える状態じゃなくて、と申し訳なさそうに電話を切った比企谷小町の思いを汲んで三人は電車に飛び乗った。

 葉山隼人は雪で濡れた腕時計を見る。時刻は二十一時に差し掛かろうとしている。すでにホテルにいるのでは、という内容に近い言葉は誰一人口にしなかった。合コンを開催している店の捜索は諦めて、ホテル街へと足を向けることにした。三人とも傘を持たず、ウインドブレーカーを着てフードを被っていた。頭に積もった雪を払い、駆け出す。

 葉山隼人は比企谷小町に送ってもらった比企谷八幡の服装の画像を見ながら走っていた。ネオンを撒き散らすビルを曲がった途端に、しん、と静まり返った路地裏に入って思わず足が止まる。なんか怖いね、と同じように足を止めた戸塚彩加が後退るように雪を踏みしめる。それと同時に葉山隼人は目を見開き、携帯の画面を素早く確認した。路地の先にいた側溝側を歩く女が傘を持ち上げ、隣の白いホテルを指さしてから口を動かした。車道側を歩いていた男も同じように傘を持ち上げてその建物を見上げると小さく頷いた。見つけた、と葉山隼人は呟く。え、とあっけに取られる戸部翔を他所に葉山隼人は雪を蹴った。雪の下に眠るアスファルトは漆黒の蛇のような鱗をしていて葉山隼人のゆく道を濃く暗く示していた。靴の底と蛇の鱗が噛み合う感触がしてスピードを上げる。比企谷八幡を止める――――そう決意した瞬間葉山隼人は信じられない光景を見た。標的の奥に微かに見えた赤い服の男の手には鈍く光るものが握られていた。初めはライターか何かだと思い、今にもホテルに足を踏み入れそうな比企谷八幡に視線を戻したが、街灯が男の手に反射してチカリと葉山隼人の眼を襲った。ファンタジーに出てくる武器を見たかのような衝撃を受けた。ナイフを確認した葉山隼人の頭に浮かんだのは、通り魔? という疑問だったが、それから一秒と経たず比企谷八幡がぐらりと揺れて地面に膝をついた。葉山隼人の筋肉が凍ったかのように凝固した。しかし比企谷八幡からぽたぽたと落ちる黒い液体が神経という火花の着火剤になるかのように、ぐんっ、と身体が動いた。首を後ろに捻る比企谷八幡を避け、血と雪を吸って妖しく光るナイフ男に思い切り突っ込んだ―――――――

 

 

 

 ―――隼人君! 突然呼ばれた懐かしい名前に葉山隼人は思わず顔を上げてしまった。体育が終わり比企谷八幡という道標を失った葉山隼人は呆然としていた。早く戻らなければ着替えられなくなってしまう、そう思いながらも届かない人間を横目に息をすることは葉山隼人には想像ができなかった。重い足取りの葉山隼人を訝しげに最後の片づけを終えた学生が走って追い越していく。バタバタと踏み奏でられたコンクリートの道に休符のような一瞬の静寂が訪れた。グラウンドを覆う木々のざわめきだけが静かに鳴っていた。乾いた葉が風に誘われ、葉山隼人の足元で落葉に役割を変える。その先に赤いスニーカーのつま先が見えた。

 葉山隼人は顔を背けて戸部翔の横を通り過ぎる。これでいい、とこころの中で言い聞かせた葉山隼人は思わぬ形で足を止めることとなった。腕を引かれ、話があるんだ、と真剣な声で言われた。葉山隼人は喜んだ。嬉しい、と子供のようにはしゃぎ、待っていたんだ、と握手を交わした。そのすべてを脳内で完結させて葉山隼人は、着替えたらな、と言い放って腕を振りほどく。そしてひっそりと裏口から姿を消した。捕まったのは大学内の広場だった。電車の時刻を確認して少し歩を速めた瞬間に再び肩を叩かれた。カッとなった葉山隼人は、いいかげんにしろよ! と大きな声で叫ぶ。広場で談笑していた大勢の学生の肩がびくりと震える中、一番驚いていたのは葉山隼人自身だった。怯えた顔でこちらを見つめるその顔には見覚えがあった。戸塚彩加だ。そしてその声に気が付いて走り寄ってきた戸部翔を加え、葉山隼人の退路は断たれることになる。

 皮肉なことに葉山隼人は、その瞬間を感傷に浸っていた。それは懐かしの面々に囲まれた回顧からではない。いつだってそうだった。葉山隼人はそれしかできない窮地に立たされなと動けない。誰かが困ったとして、葉山隼人でなければ助けられない、葉山隼人でなければこの状況を変えられない、という酷く醜い意志。葉山隼人は昔、”手遅れ”という経験をした。それは雪ノ下雪乃という存在を加味しなければ語れない出来事ではある。しかし、またもや皮肉なことに葉山隼人はそれから”手遅れ”になる状況を一度しか生み出していない。その直前に立ち上がる、否、立ち上がらざるを得ない精神に育ってしまったからだ。その為の求心力が葉山隼人の力だった。

 そして、今再びその退路が断たれた、と葉山隼人は感じた。高校三年のあの瞬間の直前に感じた狭心症のような苦しさとよく似ていた。そしてそれは、予期せぬ人物の登場が起こした予感かもしれない。それは、戸部翔の瞳に宿る新たな意思の存在に気が付いたからかもしれない。それは、葉山隼人が今まで培ってきた危機察知能力の集大成だったのかもしれない。

 ただ一つ確かなことは、彼らの瞳に射貫かれた葉山隼人の抗う意志はその時点でなくなっていたということだ。

 

 三人の地元である千葉まで戻るとお馴染みのサイゼリアに入った。戸部翔が、なにかあるといつもここだべ、と愚痴る。まったくだ、と葉山隼人は頷いてしまい、ハッとして顔を逸らす。クスクスと笑う戸塚彩加と戸部翔を無視して葉山はテーブル席の奥に収まった。

 戸塚彩加は比企谷八幡が想像しているよりも比企谷八幡の事を考えていた。いつだってそうなんだ、と悲しく怒る戸塚彩加の表情に葉山隼人のこころはまた揺り動かされた。電車で見る度に少しずつやつれていくように見えたという。実際そんなことはないのだろうが、比企谷八幡の纏う空気の色は気を抜くと薄く濁ってしまう危うさがあった。触れたら溶けてしまうのではないかと危惧しながらも話しかけた、と戸塚彩加は肩を竦める。結果は戸塚彩加の元気のなさから想像に難くなかった。待っている、と言ってから酷く後悔したそうだ、戸塚彩加は頼ってくれるのが嬉しかった。高校二年のマラソン大会で力になれたことは記憶に新しく、思い出のひとつになった、と照れ臭そうに笑う。それを初めて知った葉山隼人は痛し痒しで苦笑いしつつ先を促した。ただ、戸塚彩加は悩んでいた。”友達”の在り方について悩んでいた。頼られて嬉しい、という気持ちは戸塚彩加自身の傲慢な欲求なのではないか、なぜ頼ることだけが信頼たりえるのか、戸塚彩加は酷く悩んだ。比企谷八幡は人を頼らない。それは周知の事実だった。だからこそ比企谷八幡が戸塚彩加を頼るとき、信頼という結晶が目に見えるのだろう。別に戸塚彩加は頼り、頼られるという美しい関係を望んでいたわけではなかった。高校二年の戸塚彩加は比企谷八幡の人間性に触れ、ただただ比企谷八幡の力になりたいと素直に思った。それが今は何だ、と悔しそうに戸塚彩加はドリンクバーのグラスを置く。頼ってくれるの待っているからなんて、浅ましく醜い欲求なのではないか、戸塚彩加はそう思った。持ちつ持たれつが素晴らしいなど誰が決めた。明らかに助けてくれと叫んでいる”友達”に対して、待っているからなど、酷く傲慢な感情ではないか。身体を丸めて泣いている子供に対して、助けて欲しかったら言ってね、などどれだけ残酷な言葉か分かるだろうか。どうしようもないからそうしているのだと、戸塚彩加は気付いていながら突き放したのだ。おせっかいかどうかは話してから分かる、戸塚彩加が呟いた。叫んでいる”友達”も助けられないでなにが信頼か、と戸塚彩加は一筋の涙を流した。

 戸部翔は自立したかった。突然鞄に手を突っ込み取り出したのは山の様な参考書だった。葉山隼人が素早く表紙に目を走らせると一つの法律系国家資格の名前が見て取れた。これは? と葉山隼人が訊く。戸部翔は、受けるんだ、と真剣な表情で言った。葉山隼人は手を伸ばして一つの参考書を開く。赤色で線や要点がまとめられていたが、その量が少なかった。息を吐いて閉じようとした時、右手の親指が凹凸を撫ぜた。もう一度開いてよく見ると、多くの書き込みが為されてから消された痕がある。葉山隼人は驚いた。俺に言えば効率よく教えてやるのに、と考えた自分に驚いた。戸部が口を開く。

 ―――俺、大学辞めるから

 葉山隼人は頭に血が上ってガンッ、とテーブルを叩く。グラスが倒れて少し残っていたコーラが零れて戸塚彩加が抑える。それに見向きもせず葉山隼人は戸部翔を糾弾しようとした。自分がこんなにも身体を張ったのにそれを無駄にするのか、誰のおかげでここにいると思っているんだ、と絶叫しようとした。しかし溢れるように洩れたのは、なんでそこまで、という情けなく小さな嗚咽だった。葉山隼人は分かっていた。戸部翔の頭の良さと、同じくらいの頭の悪さを。戸部翔は、対等になりたい、と力強く言う。戸部翔は自分の人生で何を手に入れ、何を捨てるべきなのかをずっと考えていた。完全にほとぼりが冷めてからもう一度葉山隼人と友達になろうと思った、しかしそれはすぐに捨てた。そんなことはできない。できたとしてもそれはお互いに歪な仮面をつけた関係になってしまう。戸部翔は葉山隼人を選んだ。一秒ごとにすり減っていく何かを感じ取っていた。秒針がカチカチと進むたびに削られていく何かのイメージを膨らませていた。大学生活で手に入れられるものより、葉山隼人を失うことが恐ろしくてたまらなくなった。戸部翔はテーブルに額をつける。その時には既に涙が小さな池を作っていたが、俯いて目頭を押さえる葉山隼人はそれに気が付かなかった。ごめん、ごめん、隼人君。戸部翔は一年越しの謝罪を、一年分の後悔を懺悔するつもりで吐き出した。戸部翔の身体は震えていた。テーブルに震えが伝わりグラスがカタカタと鳴る。それは比企谷八幡に虚構の依頼をしたときと変わらない気持ちだった。失敗したらどうしようという人間の防衛本能のひとつで、抗いがたい戸部の気持ちの大きさだった。戸部翔は続ける。ごめん、ごめん、ごめん、ごめん―――――戸部翔の金髪頭を大きな手が強く撫でた。遅いぞ、戸部。戸部翔は涙と鼻水でべたべたの顔を上げる。葉山隼人は鼻水を啜って白い歯を見せる、ひとりにしてすまん。戸部は強く唇を噛んで嗚咽を堪える。それを見かねた葉山隼人はわしわしと金髪頭を撫でる。いつかサッカーの試合で興奮するとやっていた仕草が二人の脳裏に甦る。よかった、よかった、よかった、よかった、戸部が何度も何度も呟いて頭を振る。

 葉山隼人と戸部翔の歪な関係は頬を伝って流れ落ちた。戸塚彩加は最後まで戸部翔の背中を優しく撫でた。

 店を出て空を見上げると月が雲間から顔を覗かせていた。葉山隼人は手を翳してそれを隠す。自分の弱さを改めて認める。視線を落とすと戸部翔が手を振っていた。葉山隼人は歩き出す。

 初めの一歩を、今、踏み出す。

 

 

 

 世界は煌々とした赤色に包まれていた。複数台のパトカーが道の端に寄せられていた。バタン、と大きな音を立てて救急車のハッチバックが閉められるとそれを合図にサイレンが鳴り響いた。葉山隼人と戸部翔は目を細めてその命の運搬を見送ると背後の警察官に向き直った。その制服姿の男は葉山隼人と戸部翔を一瞥し、じゃあ話を聞かせてもらいたいんだけど、ここにいたのは君たちだけでいい? と手に持つ用紙に何かを書き記しながら無機質に訊く。戸部翔に視線で合図を送ると、はい、と悲鳴と共に逃げた女の存在を掻き消すように返事をする。葉山隼人はもう一度救急車の去った方角を見た。既にその白い車体は都会の喧騒に消え、少しずつ小さくなっていくサイレンの音に耳を澄ませた。雪は弱まり落ちる結晶を数えることは苦にならなくなっていた。ひとつ、ふたつ、みっつ、葉山隼人は視線の先を流れる光に願いを込める。黒く広がったなにかの地図のような模様を眼の端に捉えながら、よっつ、いつつ、むっつ、と願う。

 瞳を閉じて、生きろ、と強く祈る。

 

 




こんなにも長い文章を最後まで読んで頂いてありがとうございました。

感想、誤字報告など頂けるととても嬉しく助かります。

次が最後になる気がします。
また待っていていただけると嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

-END ROLL-
growing pains:prologue


 

 

 一色いろはは暗闇に響き渡った唸り声に身を硬くした。軽く寝がえりを打って、薄いカーテンの先を見る。今夜は外が騒がしい。ざあざあと止まぬ雨音が部屋を取り囲んでいる。かと思えば、轟音。直後、空が瞬きをするように白い光が部屋に侵入し、すぐに出ていく。ホワイトノイズの様な音に晒されていると、この時間が永遠であるかのように一色は感じる。平穏で静かな夜など存在していなかったのではないか、明日も、明後日も、この胸の騒めきを吐き気に変えて生きていくのではないか、そんなことを考える。

 少しずつ、音と光の距離が近くなっていくのを感じていた。否、数えていた。寝室に入る前は両手の指で余りあったその間隔は今、ピースサインでも心許ない。平和が崩れる。そんな安直な思考にすら囚われる。

 もういい、もういい、寝よう。一色は掛布団の端を握り、瞼を強く瞑る―――あ、光った。そう思うのとほぼ同時に、バチンッ! と鼓膜を思い切り張られたかのような衝撃と轟音。雷に打たれたかのように身体中の筋肉が硬直して、余韻にしては騒々しい唸り声が離れると共にゆっくりと弛緩していった。

 一色はカーテンの隙間に目を向ける。打ち付ける雨の冷たさは、その窓ガラスに触れれば鮮明に分かるだろう。暑さから逃れるためにショッピングモールに出かけ、エアコンの電気代以上に買い物をしたり、熱帯夜を乗り切ろうと決意し、結局タイマーを設定して冷房をつけた夏。その気配はもう、微塵もない。どこかで元気にやっていますか、そんな絵葉書でも送りたくなるほどに、夏の空気は、もういない。

 これ以上空が冷えれば、きっとその雨は雪へと姿を変えるだろう。儚くとも美しい、そんな存在へと変貌を遂げるのだろう。

 嫌だ。

 冬なんて、一生来なければいいのに。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 雪が舞い、光が流れている。猛スピードで走る鉄の塊は静かに唸りを上げていて、そのうち自分が動いているのか、光が動いているのか分からなくなる。煌々と前方を照らす街灯の眩しさと、遥か後ろに消えていった冬の結晶、その落差に眩暈がする。俺は誰だ。自問自答する。俺はどっちだ。

「あれ、もう気が付いた?」

 艶のある声が、するりと鼓膜を叩く。顔を向けられない。まだ意識が切り替わっていない。ちょっとしたきっかけで、それこそ小さな分銅をちょこんと乗せるだけで大きく傾く、そんな状態だった。

「まだ寝てていいから、大丈夫だよ、比企谷君」

 美しい音色が脳内を揺らす。何度も聞いたその言葉に俺の意識は引っ張られていく。滑らかな手で誘われるように、惹かれていく。

 でも、分かっているんだ、俺は。

 その誘惑に抗えることに、そして、その手を取らなかった時、すべての終わりが始まるということを。

 いや、きっとエンドロールはもう流れ始めている。

 長い物語は終わりを迎える。

 ターミナルはもうすぐ目の前で、俺の到着を待ちわびている。

 結末は、誰にも分からない。

 

 





原作が終わる前に、完結させます。
11月19日を皆さんと迎えられるように頑張ります。

どれだけの人に読んで頂けるか分かりませんが、もう少し待っていてもらえると嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

growing pains:iroha

お待たせしました。

もしかしたら皆さんが期待する話ではないかもしれません。でも、書きたいことは書いたつもりです。
駆け足になってしまい、回収が雑な伏線もあるとは思いますが、できる限りは尽くしました。

今更ですが、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』という作品が大好きです。
読んでくださった方々に深くお礼を申し上げます。
では、最終章です。


 

 

 一色いろはは暗闇に響き渡った唸り声に身を硬くした。軽く寝がえりを打って、薄いカーテンの先を見る。今夜は外が騒がしい。ざあざあと止まぬ雨音が部屋を取り囲んでいる。かと思えば、轟音。直後、空が瞬きをするように白い光が部屋に侵入し、すぐに出ていく。ホワイトノイズの様な音に晒されていると、この時間が永遠であるかのように一色は感じる。平穏で静かな夜など存在していなかったのではないか、明日も、明後日も、この胸の騒めきを吐き気に変えて生きていくのではないか、そんなことを考える。

 少しずつ、音と光の距離が近くなっていくのを感じていた。否、数えていた。寝室に入る前は両手の指で余りあったその間隔は今、ピースサインでも心許ない。平和が崩れる。そんな安直な思考にすら囚われる。

 もういい、もういい、寝よう。一色は掛布団の端を握り、瞼を強く瞑る―――あ、光った。そう思うのとほぼ同時に、バチンッ! と鼓膜を思い切り張られたかのような衝撃と轟音。雷に打たれたかのように身体中の筋肉が硬直して、余韻にしては騒々しい唸り声が離れると共にゆっくりと弛緩していった。

 声は上げなかった。唇を硬く結んで堪えた。その代わりにぽろぽろと涙が零れた。口元に意識を集中していた所為で、その水滴は突然渋滞が解消されたかのように流れ始める。

 冷たい指が、一色の目尻を撫ぜた。大丈夫か? 一色の心の隙間にするりと入り込むようにして温かい声が聞こえる。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」一色は首を巡らせ、隣で眠っているはずだった男の顔を見る。いや、起きてた。そう返され、一色は声の方向へ寝返りを打ちながら、眉間に皺を寄せて抗議する。「じゃあ、手を握るとか、抱き締めて、『大丈夫だ、俺が付いてる』とか言うもんじゃないんですかー」

 すまんすまん、と言いながら彼はベッドを抜け出す。温かい場所を探し求めていたかのように、持ち上がった布団の中に冷気が侵入してくる。こらこら、君たちが入ったら意味ないじゃないか、と一色は肩をすぼめる。

 ノイズが消えていることに気が付く。息を止めて耳を澄ますと遠くで雷鳴が聞こえた。激しい雨音も確かに存在している。11月の観測史上最大の大雨と気象予報士が報じたその豪雨は、その名に恥じぬ力強さを以ってこの千葉にたどり着いた。むしろ観測史上最大だなんて煽った所為で、空が張り切ってしまったのではないかと勘繰ってしまうほどだ。

 また、白い光に包まれる。しかしそれは稲光ではなく、部屋の電気が付けられたことによる発光だった。瞳が光に慣れるのを手助けするつもりでぱちぱちと瞬きを繰り返すが、役に立っているのかは分からない。徐々に輪郭がはっきりとしてくる。六畳程の部屋は簡素で、隅には腰まである箪笥、その上には黄色いネズミのぬいぐるみが飾られていた。一色は、この雷はおまえの所為か、と睨みつける。ちげえよ、と声がする。扉の方に顔を向けると、彼の手には湯気の立つマグカップが二つあった。

「ちょっと、心読まないでくださいよ」

 そんな一色の言葉を無視して、彼は、比企谷八幡は、カップを控えめに持ち上げる。「まだ寝れなさそうだから、付き合ってくれ」

 一色は口元を綻ばせ、飛び出すようにベッドを降りた。少し捲れた裾に冷たい空気が入り込む。マグカップを受け取ると、掌がじんわりと温まり、それも気にならなくなった。

「仕方ないですねー」

 一色は笑い、小さなテーブルと、それを挟むように置かれた座布団に座る。比企谷八幡もいつもの定位置に収まる。ありがとうございます、一色がカップに視線を落として呟く。少し遅れて、いや、別に、と照れ臭そうな声が聞こえた。

 一色はカーテンの隙間に目を向ける。打ち付ける雨の冷たさは、その窓ガラスに触れれば鮮明に分かるだろう。暑さから逃れるためにショッピングモールに出かけ、エアコンの電気代以上に買い物をしたり、熱帯夜を乗り切ろうと決意し、結局タイマーを設定して冷房をつけた夏。その気配はもう、微塵もない。どこかで元気にやっていますか、そんな絵葉書でも送りたくなるほどに、夏の空気は、もういない。

 これ以上空気が冷えれば、きっとその雨は雪へと姿を変えるだろう。儚くとも美しい、そんな存在へと変貌を遂げるのだろう。

 嫌だ。

 一色が口の中だけで呟くと、比企谷八幡がこちらを窺うように覗き込んでくる。「なんでもないです」一色は首を振って、クリーム色の液体を一気に煽る。

 冬なんて、一生来なければいいのに。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ちょっとせんぱい! いつまで寝てるんですか!」

 一色いろははベッドで薄い掛布団に包まる物体を揺する。何かに抵抗するかのように使用することを拒否していた毛布だったが、芋虫のように丸まっている比企谷八幡の姿を見ると、そろそろ出さなきゃいけないかな、とも思い始める。まだ大丈夫ですよ、まだいけますよ、そう言い続けて風邪をひいてしまうのは一色としても本望ではない。

「うう、あと一日……」

 ごろりと身体を傾けて逃れようとする布を掴み、勢いよく引っぺがす。「それ明日になりますって!」

「目が、目がああああ……」掛布団を失った先には、情けなく両目を抑えて悶える男の姿があった。

 寝癖も相まっていつもより多くのアホ毛を生やし、昨夜、夜更かしに付き合ってもらった所為でさらに濁った瞳でこちらを見る。陸に上がった深海魚を思い起こさせるその比企谷八幡の姿に、どうしようもなく心臓が高鳴るのだから、困った。本当に、困った。

「まったく、今日は週に一回、ゼミがある日ですよ。卒論終わってないんだからちゃんと…」一色はそこで言葉を切り、突然比企谷八幡の枕元に水泳のスタートよろしく突っ込んだ。ベッドのスプリングが軋む。比企谷八幡はその急な奇行に声を上げそうになるが、一色がすぐさま身体を起こし、何事もなかったかのように手に持つ掛布団を畳み始めた為、あっけに取られる。

「え、なに」比企谷八幡が肩をびくびくと震わせて訊ねる。

「ご飯、できてますから」

 一色が背を向けたまま答える為、比企谷八幡はそれ以上追及しない。できないと言った方が正しい。

 リビングに戻った一色は、朝食であるフレンチトーストが載ったミニテーブルを横切り、台所へまっすぐ進む。生ごみを入れるゴミ箱を開け、先ほど枕元から回収した小さな包みを投げ入れる。生ごみが入った小さな袋が数個あり、その上で図々しく鎮座している異質な包みを見て、一色の顔はさらに赤くなった。

 昨夜、眠れないとごねる一色を慰めるように、労わるように見つめる比企谷八幡の顔を思い出す。

 ぶんぶんと首を振ってそれを振り払い、一色は取っ手を上げて水を出す。掌一杯にそれを溜めると、勢いよく顔を洗う。きんきんの冷たさが頬の温度を奪う。顔を上げると、壁際に隠れるように比企谷八幡がこちらを覗いていた。

「なに、どしたの」

 あ、だめだ。

 一色は先ほどと同じ動作を繰り返して顔を洗う。慣れない! と、叫びたくなる。何回抱かれても恥ずかしい。未だに電気は消さないと無理だし、舐めてもらうなんてもってのほか。すっぴんは見せてるから許して、なんてことを考えていると、ミニテーブルの方から「いただきます」と声が聞こえた。

「あ、はい、どうぞ」一色は顔を上げて促す。

 比企谷八幡はフレンチトーストを一口齧ると、うまい、と思わず漏れてしまったかのように言う。一色はそれが嬉しくて、急いで顔を拭いて彼の元へと向かう。

「まあ、なんていったって私が作ったんですから」比企谷八幡の向かい側に腰を下ろしながら一色は胸を張る。

「でも白飯と味噌汁が恋しくなってきたな」

「は?」

「いえ、何でもないです……」

 小さく威圧して、有無を言わせないながらも一色は頭の中で朝食和食化計画が始まっていた。比企谷八幡が食べたいと言ったものは、まるで好きな歌手の新曲を覚えるかのようにインプットされる。一つ一つに意味があるように思え、それを披露した時の比企谷八幡の反応を想像して、自然と笑みがこぼれる。

「じゃあ、和食もたまに作りますね」

 比企谷八幡がぱっと顔を上げる。「え、まじ? やった」

「感謝してくださいよ?」一色がウインクすると、流石生徒会長様、と拝まれるため、「いつの話してるんですか……」と思わずぼやく。

 一色いろはは比企谷八幡の一挙手一投足に心を奪われている。寝癖のついた髪、ぼんやりとテレビの天気予報を見る横顔、かと思えば時折みせる憂いに満ちた瞳。そのすべてが、刺さる。

 一色が何げなくテレビに目を向けると、いつのまにか七時半を時を回っていた。

「って、遅いです早く食べてください!」

「片付けは俺がやるからいいぞ」

「え、せんぱい大好き」

「はいはい」

 一色は量の少ないフレンチトーストをすぐに平らげ、シンクに皿を置く。「じゃあ、お願いしますね」

「はいよ」

 洗面台に行くと、化粧ポーチのファスナーを開けた。

 

 鍵を差し込み、回す。小気味良い音がした。ガチャガチャとドアノブを回して扉が開かないことを確認する。

「戸締りよし、いってきますっ」

 二階建ての賃貸アパートにしては重厚な扉。一色はその先を透視するように見つめてそう言う。比企谷八幡と同棲を始めて、もうすぐ二年が経とうとしている。別に引っ越しをする訳でも、同棲を解消するわけでもない。

 ただ、首筋を撫でる冷たい風が、一色を感傷に浸らせていた。

 誰に言ってんだ、と声がして横を見る。しかしそれは気のせいで、少し先でこちらを窺う比企谷八幡の姿があるだけだった。

 同棲を始めた頃、何度も言われたそのセリフがフラッシュバックしたのか、と一色は苦笑する。

 パタパタと小走りで追いつき、「おうちにですよ」と笑いかける。「え、なにが?」と狼狽える比企谷八幡の横をすり抜け、一色は先の階段を降り始める。「ほらせんぱい、遅刻しますよ!」

「いや、俺の準備は終わってたんだけど……」

 比企谷八幡の小さな抗議を聞きながら、一色いろはは駅へと急いだ。

 昨夜、関東を襲った記録的な豪雨は見る影もなく、街にきらきらとした装飾を残して消えていった。露の滴る木々を横目に流し、改札をくぐる。大学は四駅先で、迷った結果電車での通学を選んだ。あと一本遅れたら遅刻という電車に二人で乗り込み、扉にもたれた比企谷八幡は文庫本を開いた。今では見慣れた車窓の景色が右から左へ流れていく。

 あ、と見えてきた水色の集団に目が留まる。電車は図ったかのように徐行運転を始め、やがて彼ら彼女らの正面で停止する。電車にも信号があるとは大学生になってから知った。歓声が聞こえ、幼稚園児の小さな集団が電車に向かって両手を振る。遅刻ギリギリという罪悪感を消し去って余りある笑顔だった。

 この電車に乗ると、偶に遭遇できる景色に一色は頬が緩む。小さく手を振ると目が合った児童がひと際大きく手を振って応えてくれる。

 ふと視線を感じてそちらを見ると、比企谷八幡が目を逸らしたところだった。そして表情を隠すように文庫本を顔の高さに上げる。一色は少し意地悪がしたくなり、彼のその腕を無理やり取って窓の外にぶんぶんと振ってみる。うお、とも、ちょ、とも微妙に違う声を出して比企谷八幡は抗った。彼の気恥ずかしさに反するように児童の歓声は大きくなる。手を振り返してもらうゲームでもしているのだろうか。

 再び比企谷八幡に見やると赤面して目を泳がせていた。可愛いからいいじゃないですか、と言おうとして、その泳ぐ視線の先をチラリと確認すると、席が埋まるほどの数の生暖かい車内の視線がこちらに向けられていた。

 一色の顔は比企谷八幡と同じように赤くなる。

 二人して俯き、地下へと沈む電車で二駅をやり過ごした。

 

「今日は卒論やって、そのままバイト行くから」

 ゼミ室へと続く階段、その一段目に足を掛けた比企谷八幡はこちらを見てそう言った。夕食はいらない、ということだ。「はい、がんばってくださいね」と一色は笑顔で返事をする。

 一色と比企谷八幡は同じゼミに所属していた。二年次の一月に迫られたゼミ選択で、比企谷八幡のアドバイスを受けた一色いろはは、アドバイスを無視して同じゼミに入った。別に学年を越えて交流があるゼミではない。ただ、一緒のゼミに所属していたかった。それだけだった。それだけで十分だった。

 踵を返してそのまま昇っていくかに思われた足が進まないことに気が付く。スニーカーのかかとが浮いたままの奇妙な姿勢は、比企谷八幡の浮ついた気持ちが如実に表れているように一色は感じた。

 襟足を掻き、口をもごもごさせながら比企谷八幡は振り返った。

「その、よろしく言っといてくれ……、あ、あと、もう怪我は大丈夫だって……」

 一色は目を瞬かせる。

 ふ、と唇の隙間から空気が抜けた。

「あはは、あははははは」

 お腹を押さえて笑う一色に比企谷八幡はじっとりとした視線を向ける。「なんだよ……」おかしそうに目尻を拭う仕草に、比企谷八幡の心臓はドキリと跳ねる。上気した頬が少し、艶っぽい。

「そんなの、当たり前じゃないですか」一色は優しく微笑む。「どうせ、せんぱいの事ばっかり喋るんですし」

 比企谷八幡は苦虫を噛み潰したような表情をする。居心地の悪そうなその姿に助け舟を出すつもりで、一色は自分の腕時計をトントンと指で叩く。比企谷八幡の腕にも同じブランドのものが付けられていた。文字盤をみて、長針が十二を示す手前だと気が付く。

「やべ、じゃあな一色」

 今度こそ、比企谷八幡は階段を昇っていく。

 それに手を振って、一色も一限の教室に向かい始める。

 三号館へと続く渡り廊下を歩いていると、対面する形で二人組のチャラチャラした男子学生が歩いてくる。何やら大きな声で、グラウンド、やら、助っ人、やら話している。すれ違う直前、威勢よく叫ばれた名前を聞いて意識が持っていかれた。

「どうすんだよ、助っ人なんて見つかるのかよ」

「だから、法学部の”葉山”って奴を―――」

 一色は、え、と言いそうになるが、グッと堪えた。そして不自然に止まった言葉を訝しんで首を巡らせる。すると、会話をしていた男子学生もほとんど牛歩のように進みながら、こちらを振り返っていた。

 あ、やば。

 一色は大学三年間で培った経験則からすぐに場を離れようとした、しかし一瞬、遅かった。

 ピタッと男子学生の一人が足を止め、「どうしたの、何か用?」と首を傾げる。

「いえ、別に……」その男の重力に従わない長い前髪に少し苛つきを覚える。

「きみ、一色ちゃんだよね、そうだよね」

 ちっ、これはうざい。

 少し視線をずらせば、もう片方の男子生徒が膝丈のスカートから伸びる一色の脚をチラチラと見ている。一色は息を吸い、そのタイツに包まれた脚を踏ん張った。

「あ、ごめんなさい、授業が――」

 言いながら、背を向ける。そして二度と振り返らない。大学生のナンパ程度ならこれだけで撒ける。流石は今をときめく草食系男子と言ったところか。昔をときめいた肉食系男子を知らないけど。

 講義室の扉を開け、ちらりと後ろを見たが誰もいなかった。ほっ、と息を吐き、室内を見やると三百人は入りそうな広い空間が広がっている。授業は始まっていたらしく、教授がこちらを一瞥するが、特に何を言われるでもない。一番後ろの席で手を振る女子がいて、少し身を屈めながら移動する。

 一色いろはは地味に生きた。ただそれは自宅に籠るとか、休み時間を一人で過ごすとか、要するに比企谷八幡のような生き方をすることではない。ていうか、せんぱいは休み時間だけじゃなかった。特別目立つような行動はとらず、ひっそりと、高校生の時の様な派手さは仕舞い込んだ。

 しかし現実は残酷だった。そもそも行事と呼べるものが殆どない大学では、主にコミュニケーション能力、そしてルックスがものをいう。そしてさらに残酷なことに、亜麻色の地毛が目立たなくなって尚、一色が一番と言っていいほどに顔が整っていた。寧ろ、料理人が同じなら素材の良さで差が付くように、同系色の溢れた世界では、一色の存在はより際立った。

「おはよ」一色が近づきながら挨拶をすると、手を振っていた友人が椅子を引いてくれた。

「おはよ、今日もお疲れ様」

 事情を知る友人が、いたずらっ子のように言ってくる。

「ちょっと……」荷物を置きながら一色が抗議の眼を向ける、が、横槍が入る。「え、なになに、何が疲れたの」前の席の男子生徒が振り返って話しかけて来た。「ううん、何でもないよ」と、いつものように軽くいなす。

 一色は席に着くと、カチカチとシャーペンを鳴らし、鞄から取り出したルーズリーフに文字を走らせる。

 ―――今日、昼からサボっていい?

 チラリと目配せをすると、友人は察しよく返事を書き始めた。

 ―――だんな?

「ちが……っ!」

 一色はハッとして口元を抑える。

 耳ざとく前の男子が再び身体ごと振り返ろうとしたが、友人が、しっし、と邪魔者を追い払うように手を振る。そしてこちらを見て、ごめんごめん、と口パクで言ってきた。そして、

 ―――いいよ。

 とシャーペンを走らせる。

 ―――ありがと。今度スタバの新作奢る。

 一色とその友人は互いに親指を立て、交渉成立、と言わんばかりに笑った。

 よかった、これで迎えに行ける。

 会うのは久しぶりだな、雪乃先輩。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 電車を乗り継ぎ、成田空港駅へと降り立った一色いろはは階段を昇りながら腕時計を見る。時刻は十三時三十分。雪ノ下雪乃の乗った飛行機はもう少しで到着するはずだ。

 一色は国際線のあるターミナルへと足を向ける。無機質な地下鉄というイメージが強かった駅構内から、歩を進めるごとに活気が溢れて来る。壁や床の質感が少しずつ変わり、艶が目立つようになるとそこはもう近未来のようにキラキラと輝きだす。ガラス張りの空間が広がり、自然光に包まれた一色の心は晴れ渡る、かに思えた。

 気がかりというものは、そう簡単にいなくなってはくれない。

 そういえば、と思い一色はリュックのポケットから携帯を出す。ブレザーだったらポケットに入れておけるのに、なんて大学に入って一年は思っていたが、今となっては慣れたものだ。予想通り、新着のメッセージを受信していた。講義からずっとマナーモードにしたままだったのだ。

『いろはちゃん! 迷っちゃった助けて!』

 メッセージを確認すると、画面を通して夕日のような温かさが身体を包み込んだ気がした。視線を横に逃がすと、小さな街のように賑わう空間が広がっていた。

 まったく、仕方のない先輩ばっかりですね。

 画面を数回タップし、電話を耳に当てる。

「あ、結衣先輩?」

 

「助かったよー、いろはちゃん」

 走り寄ってきた由比ヶ浜結衣は、太陽を彷彿とさせる笑みで一色に抱き着く。一色は周りの目を気にしながらも、まんざらでもなく表情が緩む。由比ヶ浜のトレードマークだったお団子はなくなり、髪の毛はロブヘアで外に跳ねている。

 これをせんぱいに見せたら嫉妬するかな、なんて。ん? 嫉妬したら駄目じゃないか?

 そんな思考を砕け散らせるほどに、破壊力抜群のその武器が一色に押し付けられる。なんていうか、この人雪乃先輩に謝った方がいいんじゃ、と一色は明後日の方角へ視線を逃がした。

「ゆきのんまだかなー」

 由比ヶ浜がクルリと辺りを見渡す為、一色は自分の腕時計を見せるように左腕を持ち上げる。「もう時間は過ぎてますし、もう少しじゃないですか?」国境を超えるのだ、手続きにそれなりの時間はかかるだろう。

「そっかそっか、楽しみだね!」由比ヶ浜が笑い、一色もそれに習う。「あ、いろはちゃん今日は学校午前中?」

 思い出したように訊ねる由比ヶ浜に、ぺろりと舌を出して答える。「サボっちゃいました」

「え、大丈夫?」由比ヶ浜が眉根を寄せて顔を覗き込んでくるため、一色はぶんぶんと手を振る。「全然大丈夫ですよ!」

「そっかあ、よかったあ」

 へにゃりと相好を崩す由比ヶ浜を見て、一色は、いいな、と思う。

 自分が大変な状況でも人の心配ができるなんて、結衣先輩はすごく強い。思い返してみても、結衣先輩のまわりはいつも温かかった。

「そういえば、結衣先輩は雪乃先輩と連絡取ってたんですよね?」

「うん、そうだよ?」

 アメリカのマサチューセッツ州にある大学に留学した雪ノ下雪乃はこの三年ほどアメリカで生活していた。初めは一時帰国などで会っていたが、卒業が近くなると、こちらで言う卒業論文のようなものに忙しくなり、最後にあったのは一年ほど前だった。

「じゃあ……」一色が言いにくそうに口を噤む。

 由比ヶ浜を想っての行動だったが、当の彼女の頭にはクエスチョンマークが目に見えるほど湧き出ている。業を煮やした一色はゆっくりと言葉を繋いだ。

「じゃあ、結衣先輩が、その、落ちちゃったことも……」

 由比ヶ浜結衣は教師になりたかった。それが夢なんだ、と打ち明けられた時、一色はすぐに賛成した。由比ヶ浜が教師だったら絶対に嬉しい、そう思った。雪ノ下雪乃も比企谷八幡も応援してくれたそうだ。大学の教職課程を選んだ由比ヶ浜は必死に勉強をし、四年の夏前に卒業と同時での教職免許取得が確定して、来る採用試験に臨んだ。

 結果は、今の一色の丸まった背中が物語っている。

 雪乃先輩ももう知ってるんですか、そう訊ねようと顔を上げた瞬間、由比ヶ浜の大きな瞳と目が合う。

 一色はその瞳に、この子何を言ってるんだろう、というニュアンスが含まれていることに驚き、少しだけイラっとした。

「あ!」

 何かを見つけたような、思い出したような、突然の叫びに一色の肩がびくりと跳ねる。

「な、なんですか結衣先輩」

「言ってなかった! あたし先生になれるの!」一色は突然の告白にポカンと口を開ける。それを見て由比ヶ浜は慌てて続けた。「あ、あのね、あたしのゼミの教授が、臨時的任用講師っていうのに推薦してくれてね、勤務年数を重ねれば正規採用されるの!」尚も動かない一色に由比ヶ浜が慌てる。「とにかく先生になれるの! あたし!」

「ほん、とですか……」

「うん! 頑張ってたからって、あたし、運、いいかも」

 照れたように目を伏せる由比ヶ浜に一色はぶんぶんと首を振る。

「違います、違います、結衣先輩の力ですよ。私知ってます、頑張ってたの、ちゃんと、知ってます」

 言葉が切れるようになり、一色は唇を噛む。鼻の奥がつんと痛い。

「ありがとう、ありがとう、いろはちゃん」

 優しい掌が頭にのせられ、ゆっくりと撫で始める。一色はそれに何度も何度も頭を振った。泣くのは私じゃないし、今日は雪乃先輩と再会する日なんだ、と涙を堪える。

 その時、あ、と由比ヶ浜が声を洩らす。それは先ほどの驚きに満ちた音ではなく、幸せだったり、温もりだったりを身一杯に含んで、洩れ出したような、そんな陽だまりの音だった。

 一色はいつの間にか到着していた国際線のゲートに赤い目を向ける。大きなキャリーケースを持った人々が続々と出てくるその不可侵領域から、スラリと伸びた黒のスキニーがゆっくりとした足取りで近づいてくる。

 由比ヶ浜と一色は互いに目を合わせ、示し合わせたように足を踏み出す。

 雪ノ下雪乃は、目尻を下げて優しく微笑んだ。

 

「日頃から連絡する習慣がないからそういう事態になるのよ。まして教師は生徒の模範とあるべきなのだから、伝え忘れはただのミスでは済まされないのだけれど」

 空港内のカフェ、その四人掛けのテーブル席に収まったはいいが、目の赤くした一色に気が付いた雪ノ下は事の顛末を聞くなり、声を低くして隣に座る由比ヶ浜の脇の甘さを列挙し始めた。

 再会一番に説教を受けるなんて結衣先輩も落ち込んでいるのではないか、そう思い対面に座る由比ヶ浜の顔を覗き込むが、だらしなく緩んだ表情を見て、一色も笑ってしまう。気持ちはよく分かる。久しぶりだ、この感じ。

 雪ノ下もそれを察したのか、軽くため息をついて運ばれてきたコーヒーに手を付ける。「まったく…」

「えへへ、ごめんねゆきのん」

 一段落したところで一色が口を挟む。

「雪乃先輩、疲れてないんですか?」

 雪ノ下は流した前髪を指で梳きながら一色を見る。「大丈夫よ、ありがとう一色さん」

「あ、いえ」やばー、めっちゃ大人っぽくなってる。

「ねえねえゆきのん! 論文の結果はどうだった?」

 由比ヶ浜が子犬のように跳ねて聞き、一色はカップに注がれたカフェオレをこくりと飲む。

「それについては心配ないわ、無事合格できたから、それより……」雪ノ下の瞳が一色を射貫く。「聞いて、いいかしら」

 カップを置く。カチン、と食器が音を立て、それをキッカケに一瞬の静寂が訪れた気がした。

「どこから、話しましょうか」

 一色は力なく、微笑む。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 三年前、比企谷邸にて比企谷小町と共にクリスマスイブを過ごしていた一色いろはは、突然鳴り響いた固定電話の音に敏感に反応した。小町もめったに鳴らないそれに驚いていたようだが、おずおずと近づく。外に降り積もった雪が空気の波を吸っていたのか、容赦なく人の心をざわつかせるその音は、あまりにも無機質だった。

 受話器を取った小町の腕は震えていた。一色は炬燵から腰を上げ、彼女のそばに寄る。そして、魂が抜かれたように膝から崩れ落ちる彼女を支えた。

「小町ちゃん! どうしたの!」

 小町は床のただ一点を見つめ、口をゆっくりと開閉させて声を絞り出した。

「あ、お、兄ちゃんが、救急車、運ばれたって……」

 一色は目を見開き、その手から受話器を半ば強引に剥がした。「すみません、どこの病院ですか」

 告げられたその名称を一度復唱し、小町に向き直る。

「小町ちゃん、せんぱいに会いにいくよ」

「え、あ、うん……」

 まるで凍らされたかのように表情が変わらない小町に上着を着せ、一色はここから一番近いタクシー会社に連絡を入れた。小町の背中をさすり、十分と経たず到着したタクシーに乗り込んだ。一色は財布を開き、お金を余分に持ってきていた自分を褒めつつ病院の名を告げる。

 最悪な別れをしたのに会いに行くのか、そんな思考がなかったわけではない。小町を送り届ける、そんな大義名分を掲げていたのかもしれない。それでも、一色は心の底から比企谷八幡に会いたいと願った。一度振られて嫌いになるほど、彼への思いは小さなものではなかった。

 病院のロータリーで年配の運転手にお金を払うと、小町の手を引いてフロントに向かう。

 そこから先は、まるで色のない世界だった。一色は病院という施設がこんなに冷たいものだとは知らなかった。一歩踏み出す度に一度ずつ体温が奪われていく錯覚を覚えた。気分が悪いのだろう、後ろをついてくる小町の顔は土気色に染まり、何か言い残したことがあるかのように口は半開きだった。

 言い残したことがあるのは一色も同じだった。

 一色が関われたのは、バタバタとした足取りで比企谷小町の両親が背後に現れるまでだった。

 

 日付を跨ぎ、十二月二十五日、クリスマス。眠れぬまま朝日を迎えた一色はテレビのニュースを見ていた。女性アナウンサーが淡々と話す内容は、大学生、刺傷、殺人未遂、現行犯、怨恨など、よく目にする単語ばかりで、そんなことより、という勢いでクリスマスツリーが映った瞬間にテレビを切った。

 サンダルをつっかけて外に出ると、白い息が青空に消えていった。澄んだ空気が喉に刺さる。雪は降っていなかった。道路には車輪に潰された雪が黒ずんだ模様を描いていた。肩を震わせて空を仰ぐ。本当に寒い日は雪が降らないらしい。そんな話を聞いたせいか昨日よりも寒い気がする。

 いや、昨日の病院より冷たい世界があるとは思えない。

 一色の張り詰めた神経は、昼過ぎにかかってきた電話でようやく少し緩むことになる。

『お兄ちゃん、大丈夫でした』

「ほんと? 小町ちゃん」

 自室に籠り、布団に包まって奉仕部の二人、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣に連絡を取っていた際に電話がかかってきた。まずは命に別状はないということを確認して、胸を撫でおろす。

『神経に少し傷がついていたみたいですけど、恐らく後遺症はないって先生が言ってました』

「そっか……、良かった……」

『ただ……、まだ目を覚まさなくて……』

 酷く沈んだ声音に、一色の胸は締め付けられる。

「ねえ、お見舞い行ってもいい?」

『え、でも…』

「もしかしたら、私の声で目が覚めるかも! なんちゃって…」ちょっと苦しいか、と一人苦笑いをしていると、スピーカーから小さな嗚咽が聴こえ始めた。「小町ちゃん?」

『……い、です』

「え?」

『来て、欲しい、です……』

 一色は息を呑む。

「うん、すぐ行くよ」

 一色はベッドから起き上がるとすぐさま電話を掛ける。もちろん、あの二人へと。

 叩き起こしてやりますよ、と見えない彼に、宣言する。

 しかし、一色の意気込みとは裏腹に比企谷八幡が目を覚ますことはなかった。白い壁の個室では、いくつものコードが白いシーツの中に潜り込み、恐らく彼の体内へと繋がっているのだろうな、と一色は思った。由比ヶ浜結衣も雪ノ下雪乃も沈痛な面持ちで比企谷八幡の瞼が持ち上がるのを期待した。数時間後、三人は肩を落としてその場を後にしたが、比企谷小町の頬を伝う涙は一色の心を責め立てた。

 私が止めていれば、一色はそう思った。例え醜く掴みかかってでも止めていれば、そう後悔した。

 比企谷八幡が意識を取り戻したのはその二日後、十二月二十七日になる。ただ、面会することができたのは年が明けてからだった。

 

「記憶障害?」

 一色いろはと由比ヶ浜結衣は同時に声を上げた。雪ノ下雪乃は目を見開いただけですぐに先を促す。

 比企谷小町は神妙な面持ちで口を開く。「はい、所々の記憶が欠落しているらしくて……」

 年が明けて一月三日、神社は盛況を博している頃に、一色、由比ヶ浜、雪ノ下は病院内にあるカフェスペースで比企谷小町の話に耳を傾けていた。四人掛けのテーブル席で、小町と雪ノ下、一色と由比ヶ浜のペアで座っている。

 ちらりと一色が店内を見渡すと、見舞いついでといった雰囲気の主婦や、もう何十年も通っていそうな入院着姿の老人がいた。流石というか、流石にというべきか、話し声はさほど大きくなく、落ち着いたBGMが耳に残った。

「もし差し支えなければだけど、詳しく教えてもらえるかしら」雪ノ下が小町の顔色を窺いながら訊ねる。

 小町は頷き、知っておいてもらわないと兄が混乱するかもしれないので、と前置いた。「原因はショック性のものらしいんですけど、皆さん、記憶の種類って知ってますか?」

 一色が首を巡らせると隣の由比ヶ浜と視線がぶつかり、次いで台本でもあったかのように二人して正面の雪ノ下を見る。雪ノ下はそれだけで何かを察したのか、目の前にあるカップに視線を落として「それは、短期記憶や長期記憶の話ではなさそうね」と呟いた。

「はい」小町がゆっくりと頷く。

 一色と由比ヶ浜は再び目を合わせ、落第生同士の謎の友情を芽生えさせていた。

「手続き記憶、意味記憶、エピソード記憶というのは聞いたことあるかしら」

 雪ノ下のその問いが自分たち落第生に向けられているものだと気付き、一色と由比ヶ浜が揃って首を傾げる。それを見て雪ノ下が指を三本立てた。

「まずは手続き記憶、これで有名なのは自転車の乗り方かしら、体が覚えるとはよく言ったもので、一度覚えると恐らく一生忘れないものよ」

 雪ノ下はチラリと小町を見る。この話で合っているかの確認かな、と一色が思っていると、小町がこくりと頷いた。

「次に意味記憶」そう言って薬指を畳んだ。「これは文字通り意味の記憶よ、由比ヶ浜さん日本の首都は?」

「ふぇ!」由比ヶ浜は突然のクイズに素頓狂な声を出す。「えっと……ち、東京!」

 今この人千葉って言おうとしたよ、一色は耳ざとく聞きながら雪ノ下に視線を戻す。

「そう、『日本の首都は東京』『アメリカの首都はワシントン』『信号の赤は止まれ』『私は女性』といった一般的な知識といっていいかしら」

 そして最後、と雪ノ下が中指を折って人差し指をぴんと立てる瞬間、一色は由比ヶ浜が、「アメリカの首都ってニューヨークじゃないんだ……」と衝撃を受けているのを見逃さなかった。

「エピソード記憶よ」雪ノ下の言葉に小町の肩が震える。「これは思い出、生活の記憶よ。そしてこれら三つの記憶を管理するのは脳の中でも別の部分、それによって生じるのが、記憶ごと思い出せたり思い出せなかったりという事態ね」

 雪ノ下はそこで一度言葉を切って小町に目を向けた。小町は「分かりました」と頷いて雪ノ下の話を引き取る。

「アルツハイマー、認知症の方が記憶を失うのは、そのエピソード記憶らしいんです。だから思い出とかは忘れても、意味記憶、日本の首都とかを忘れる訳ではないって、そして兄もそれに近いそうです」

「え、じゃあ」と由比ヶ浜が身を乗り出す。「どんどん忘れてっちゃうってこと?」

 由比ヶ浜の何気ない一言に一色はまたも罪の意識に潰されそうになる。私のせいで、私のせいで、そう責め立てる声が身体の内側から、皮膚を突き破らんばかりに響く。

「あ、いえ、認知症の方のような脳が縮むといった症状はないらしいので、それは大丈夫だと思います」

 小町が宥めるように言い、由比ヶ浜がゆっくりと腰を下ろした。「よかった……」

 一色も同時に息を吐く。

「それに、忘れている断面も、殆ど大学一年の間の記憶らしくて」

「え、じゃあ私たち……」関係ない、一色はそう口を挟もうとして、ふと思い出す。私は、違う。「え、と、奉仕部の記憶がなくなったとかじゃないんだ?」

「はい、多分」小町がチラリと壁掛け時計を見た。「それを確かめて欲しくて」

 そろそろ検査も終わるので行きましょう、と小町が席を立つので、それに従う。リノリウムの床をぺたぺたと歩き、入院棟へと向かう最中、由比ヶ浜と雪ノ下は安堵の表情を浮かべていた。一色だけが、暗い顔をしてついていく。

 比企谷八幡と書かれたプレートが目に入ったところで、あ、と小町が振り返る。「大切なこと言い忘れてました、今お兄ちゃん、忘れた記憶を考えると酷い頭痛がするそうなので、気を付けてもらってもいいですか」

 それ早く言ってよ、と三人の顔に緊張が走った。

 

 カーテンを開けると、リクライニング式の白いベッドで文庫本を開く比企谷八幡の姿があった。久しぶりのその姿は少し痩せて見えたものの、体調は良好そうで、寧ろ沢山寝たせいか目の下の濁りは薄まっているように一色は感じた。最初はぎこちなかった奉仕部の面々の会話も少しずつ元の調子を取り戻し、雪ノ下の切れ味鋭い罵倒が出たところで一旦息をつく。比企谷八幡の記憶障害は高校時代にまでは遡っていないらしい。

 このまま滞りなく終わりそうかな、と一色が窓の外に広がる病院の中庭を覗いていると、「うっ」と呻き声が聞こえた。振り返ると比企谷八幡は眉間を抑えるように俯いていた。

「お兄ちゃん!」小町が近づくが、どうすればいいのか分からないのだろう、手が宙を彷徨う。

「どうしたんですか!」一色が叫ぶと、由比ヶ浜が泣きそうな声で、「あの、隼人君が助けてくれたんだよ、って話したら突然……」と言う。

 一色は呆然とする。

 そして同時に、やっぱりか、という思考が頭を過る。

「ナースコールを!」

 雪ノ下の一喝で、皆が落ち着きを取り戻す。

 看護師がやってきて、横になった比企谷八幡を背に病室を後にした。カーテンを閉める直前、一色の眼に映ったグレーの頭髪は、痛々しさだったり、助けを求める叫びだったり、そういったものが溢れだした顛末のように見えた。

 その後も慎重に対話を重ねた結果、失った記憶は昨年の四月から九月が虫食いのようになっていて、十月から十二月の大半が消え去っていた。正確には、靄が掛かっているのだと比企谷八幡は言う。磨りガラスのようにぼやけ、それを擦り落とそうと、ピントを合わせようとすると、眉間に違和感が生じるそうだ。

 

 そしてそれは、今も、殆ど思い出されていない。

 そう、比企谷八幡は、彼は、言う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「――ちゃん、いろはちゃん」

 一色の視界に肌色の物体が侵入して消えるを繰り返していた。由比ヶ浜の手だ。

「あ、ごめんなさい」カフェの内装が目に入り、一色は意識がトリップしていたことに気が付く。

「大丈夫?」雪ノ下が心配そうな声を出す。

「全然大丈夫ですよ、どこから話そうか考えてまして」

 由比ヶ浜が笑う。「そうだよね、ゆきのんが知りたいのは留学してからの事だもんね」

「ええ、でも、整理できてからでいいから、無理はしないで頂戴ね」

 一色は、ありがとうございます、と軽く頭を下げ、もう一度思い出す。

 何を話して、何を話さないべきか、よく考える。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 三月の上旬、比企谷八幡が退院してから三週間が経った。一色は清潔感のある広い施設で、備え付けられたベンチに座っていた。見つめる視線の先には、苦い表情をして平行棒の間を歩く比企谷八幡の姿がある。リハビリ施設の職員の笑顔と、せんぱいの渋面のコントラストが面白い。

 まあそれも、せんぱいの脚が治るものだから思えることだよね、と一色は比企谷八幡の奥で暗い顔をしている車椅子の少年を眺めた。すると、今日のセットが終わったのか、比企谷八幡は職員に頭を下げるとこちらに向かってきた。松葉杖を器用に使い一色の隣に座る。

「別に来なくてもいいんだけど……」と言う比企谷八幡に、自動販売機で買ったスポーツドリンクを渡す。「あ、さんきゅ」

「せんぱいの挨拶はいつから『別に来なくていいんだけど』になったんですか」

 一色は毎回のように言われるそのセリフを揶揄する。

「いや、まあ、すまん…」ペットボトルから口を離し、比企谷八幡が少し項垂れる。

「あ、いや、全然いいんですけど」一色は沈黙を恐れて、続ける。「どうですか? リハビリは順調ですか」

 比企谷八幡は一色をちらりと見ると、「まあ、そうだな」と呟いた。

「そうですか、よかったです」

「ああ、さんきゅな」

 結局、恐れていた沈黙は訪れ、二人の衣擦れの音が聞こえ始める。一色が言葉を捜し、口を開いては閉じるを繰り返していると、「試験だけど」と低い声が聞こえた。

「え」

「三個だけ落としたけど、大丈夫だった」

 比企谷八幡のそのぶっきらぼうな話題の振り方に苦笑する。未だ高校生の一色からすれば、三つ落したなど留年案件なのだが、そんなことはどうでもよかった。

「せんぱいはまだまだ私の先輩なんですから、しっかりしてくださいよ?」

 隣を覗き込むようにして、可愛らしい声を出した一色を比企谷八幡は手をひらひらと振ってあしらう。「はいはい」

「むう」

 頬を膨らませる一色を横目に、比企谷八幡は半分以上なくなったペットボトルを椅子に置いた。

「しっかりも何も、俺はもう一色の先輩じゃないからな」

「え、何言ってるんですか」

「あ、いや、人生の先輩的な意味ならそうだが」

「いやせんぱいから学ぶこととかないんで」

「さいですか……」肩を竦める比企谷八幡に、一色は大学名を耳打ちする。「え、なに」比企谷八幡はそれを訝しんで身体を引いた。

「私の学校です」にこりと笑う。

「いや、俺の学校だけど」

「せんぱいと私の学校です」

「え」

「よろしくです!」

「ええ……」

 小さく敬礼をする一色の瞳には、崩れ落ちる男の姿が映っていた。

 

 卒業式を終え、大学に入学してからも一色は比企谷八幡のサポートを惜しまなかった。友達作りなど二の次で、一色は比企谷八幡の移動に助けが必要な時間割を携帯アプリにメモして、一緒に登校し、松葉杖を持ち、昼食を代わりに買った。嫌がり、人の少ない時間に買い物を済ますなどしていた比企谷八幡も一色の熱量に気圧され、しぶしぶ頼ることを始めた。一色が預かった松葉杖を一色に気がある男子学生が代わりに持とうとしたり、美少女が脅されているという噂が流れるなど、様々なことがあった。

 様々なことの中には、謝罪をしたいけれど、刺された記憶すら消えている比企谷八幡に接触できない城廻めぐりの存在もあった。比企谷邸を訪れ、涙ながらに土下座をしようとする城廻めぐりを比企谷小町は必死で留めた。今現在も、謝罪はできていない。そして、城廻めぐりは書店のアルバイトを辞めた。

 もちろん、警察も動いた。殺傷事件という物々しい名称に相応しい存在感の刑事が二名、比企谷八幡とその周辺を調査した。しかし、被害者である比企谷八幡に話を聞くことは叶わなかった。記憶障害がある場合の証言は無効になる。そしてそれ以前に思い出そうとすることによる頭痛の症状が比企谷八幡を苦しめ、聞き取りにドクターストップが入る。警察の仕事は幸いにもすべてを話した加害者の証言を元に、周囲への事実確認のみとなった。目撃者である、葉山隼人、戸部翔、戸塚彩加はもちろん、その前に会っていた一色いろは、比企谷小町。アルバイト先の従業員。そして事件の直前、一緒にいたと思われる男性二人と、折本かおり、その他女性二人にも話を聞き、怨恨ということで事件は加害者の精神鑑定ののち、終局を迎えることになった。一色は”遥”という名前を、始めて聞いた、と証言した。

 

 四月、雪ノ下雪乃はアメリカへと旅立った。一色も由比ヶ浜も、その流れの速さに驚いていたし、事実、留学は三年からの筈だった。しかし、雪ノ下は自らの判断で大学側に直訴し、アメリカの大学もそれを承認した。その準備に追われた二月、三月は比企谷八幡の様子を見に来ることは少なく、由比ヶ浜も何かを察したかのように一色に全てを任せた。その為に二人は詳細を知らない、聞かれれば答えたものの、二人がそれを求めて来ることは今日までなかった。

 そして、松葉杖を病院に返却するころ、一色いろはと比企谷八幡は付き合うことになる。リハビリでも、学校でもずっと一緒にいた二人の間には、余韻のような空気が漂っていた。どちらともなく言い出した訳ではない、それが、今でも一色の気がかりのひとつだった。

 一色が大学に入学して二年と少し経ち、二人は同棲を始める。親の承認に手こずるかと思いきや、一色の尽力を知っていた比企谷両親は賛成、特に父親が張り切って助けてくれた、と小町は肩を竦めた。寂しがるかと思った当の小町も意外にあっけらかんとし、大学受験で兄がいない方が丁度いいです、とゴミ出しをする様な仕草を見せた。一色いろはの両親は、比企谷八幡自身が挨拶に行くことで承認を得た。大学で何をしたいのか、将来の設計など、意地悪ともとれる質問を繰り出した一色の父親だったが、比企谷八幡の具体的すぎるカウンターが炸裂し、一色いろはのみならず母親の心まで奪って帰っていった。

 そして、比企谷八幡四回生、一色いろは三回生、十一月現在に至る。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「えー、なんか、普通だね」

 由比ヶ浜結衣は、ココアのストローをちゅうちゅう吸って言う。

「そんな特別なことなんてありませんよ」一色は困ったように笑う。

 そこで雪ノ下雪乃が顎に手をやって考え事をしているのに気が付いた。「どうしました?」

「あ、いえ、何でもないわ」雪ノ下はカップに手を伸ばす。

「そういえば、ゆきのん突然アメリカ行っちゃったから、びっくりしたよー」

 ね、いろはちゃん、と由比ヶ浜が言ってきて、一色も頷く。

「雪乃先輩、せんぱいの事気にならなかったんですか?」

 ずっと聞きたかったことを口にすると、一色の中の錘のひとつが落ちた気がした。

「そうね、もちろん心配だったわ」雪ノ下が一色に挑戦的な視線を向ける。「それこそ一色さん以上に」

 一色はごくりと喉を鳴らす。「それは……」

「冗談よ」

「冗談に聞こえるように言ってください」

「心配していたのは本当、でもね、私はもう、関係ないから」

 関係ない、という言葉に由比ヶ浜が顔を向ける。「ゆきのん」

 雪ノ下はそれに首を振って否定する。「悪い意味ではないわ、そうあるべきで、そうなったということよ」

 一色が何も言えないでいると、さらに続けた。

「彼は選ばなかったわ、私と」と、言葉を切り、由比ヶ浜を一瞥する。「彼が選ばないことを選んだの、それは紛れもない事実であるし、変わることはないわ。もちろん心配だったけれど、彼の人生は私の人生ではないから」それに、と一色を見る。「貴方がいるとおもったから」

「え」

「由比ヶ浜さんもそうじゃないかしら」

 一色が由比ヶ浜に目を向けると、照れ臭そうに頭を掻く。「あー、えへへ」

「私たちは選ばれなかったの、そして貴方が選ばれた、それが結果よ」

 一色は少し突き放すようなその言葉に、目の前のテーブルが少し大きくなった気がした。「でもね、一色さん」

「はい」

「その出来事と、私たちが今一緒にいることは、関係がないわ」一色は机の上で組んでいた自分の手を見つめていた。それに手が添えられる。「違う? 一色さん」

 顔を上げると、瞬間、二人が制服を着ているように見えた。雪ノ下雪乃は前髪を揺らし、由比ヶ浜結衣はお団子をくしくしと触る。逆光の夕日にも関わらず、二人の笑顔は、ちゃんと見える。

「は…い……」

 いつの間にか隣に座った由比ヶ浜が一色の頭を撫でる。

「ありがとう……、ございます……」

 太陽は傾き、気温と反比例するように赫々とした存在感を増す。

 夕日は一色の胸に沁み込むように沈んでいった。

 

 路線の違う二人に手を振り、駅のホームで独りになった一色は、雪ノ下雪乃が去り際に残した言葉を反芻していた。

 ―――関係ないから、彼が不誠実なことをしたら、私に言ってね。

 ぞくりと背筋が凍る。

 一色は電車を変えることにした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「せんせー、さよならー」「さいならー!」「じゃーねー!」

 まだ若い、新芽の様な声が響き渡っていた。一色はそんな感慨にふけってしまった自分を少し責める。まだ二十歳ですよ、と誰にでもなく舌を出す。ここに来たのは久しぶりだな、と三階建てのビルを見上げる。

 比企谷八幡はリハビリを終えてから書店のアルバイトを再開した。城廻先輩が辞めたことを断片的な記憶を頼りに思い出そうとするも、どうも上手くいかない、と連絡を取ろうとした比企谷八幡を一色は制した。まだその時じゃないですよ、と優しく諭した。

 塾講師のバイトを始めたのは同棲してからだった。住む場所を変えたのはもちろんだが、お金が必要だったために新しいバイトを探し、この個人経営の塾に辿り着いた。破格の条件、とまでは言えないが、講師の技量によってボーナスが付く制度は金欠には魅力的な項目だった。現代文、国語を専門に社会を少々、大半が中学生だが、高校生の生徒もほんの少しだけいた。比企谷八幡の授業を受けた生徒はことごとく点数が上がった。その代わり、妙に口が達者になった、と保護者から確認ともクレームとも取れる電話がかかってきたが、中間期末と数回の試験を終えるころにはぱったりと止んだ。

 ビル手前の駐輪場スペースでたむろして携帯ゲームに勤しむ集団が目に入る。一色がその集団を眺めていると、その後ろのガラス戸が乱暴に開けられ、中からワイシャツ姿の比企谷八幡が現れた。「おい、早く帰らないと怒られるぞ」

「あとちょっとだけ! お願い!」生徒は手を合わせて懇願するように粘るが、比企谷八幡が首を振ると、渋々といった様子で立ち上がった。

 気を付けて帰れよ、と言って引っ込もうとする比企谷八幡に女子中学生二人が駆け足で近づく。「せんせー」

 一色は何故か分からないが、柱の陰に隠れていた。

「なんだよ」一色は比企谷八幡のぶっきらぼうな言い方に苦笑する。

「分かんないとこあるから教えてよー」

 無意識か、甘い声でおねだりするその中学生を一色は睨みつける。

「はいはい、どこだよ」顔近くない? と思ったのも束の間、パッと離れた比企谷八幡は顔の前で手を振る。「数学むり」

「せんせい大学生でしょ?」

「悪いが先生は国語しかできない大学生なんだ」

「でも経済学部なんでしょ?」

「ぐ……」

 ちょっとせんぱい喜んでませんかー? 一色の邪悪な念が伝わったのか、女子生徒はパタンと教材を閉じると、手を振って自転車に跨った。一色がため息をつくと同時に、比企谷八幡も同時に肩を竦めた。しかしまた「せんせー」と呼ばれる。

 せんぱい大変そうだな。

 生意気そうな、いうなれば野球部出身のような坊主頭が比企谷八幡に駆け寄る。って、さっきの携帯ゲームの少年じゃないか。比企谷八幡も同じことを思ったのか、まだ帰ってないのかよ、と言った。

「ねえねえ先生! 彼女の作り方教えてよ!」

「急にどうした」

「さっきあいつが先生に彼女がいるって言ってたんだよ」

 坊主頭が指さしたのは、先ほど数学を教えてもらおうとしていた女子生徒だった。べー、と舌を出してペダルに足を掛けると、そさくさと去っていった。

「あいつ……」と比企谷八幡は肩を落とす。

「どうやって先生みたいなのが彼女つくったの」

 失礼だな、と一色が思うと、「失礼だな」と比企谷八幡も坊主頭を小突く。

「いやいや、絶対嘘だって!」と声がしたのは坊主頭の後ろからだった。今度は髪の長い、サッカー部にいそうなイケメンの少年が比企谷八幡の前に立つ。「見え張ってるんだよ! 女子に訊かれて咄嗟に嘘ついたんでしょ!」

 決めつけるように指をさすその生徒を一瞥した比企谷八幡は、もう一度頭を掻き、「当たり前だろ」と自嘲気味に笑った。「彼女なんかいねえよ」

「ほらー!」とサッカー部風の男子がげらげら笑う。それを聞いた坊主頭は、お世辞にも整っているとは言えない顔で寂しそうに俯く。それは優勝の可能性が消えたうえに大差で負けているチームの打者が、バッターボックスに向かうような哀愁が漂っていた。

 一色の足は既に動いていた。

 サッカー部風の男子は比企谷八幡を指さして、「絶対童貞だって!」とはしゃいでいる。その視線が少し下がると、亜麻色の髪を見つけて口をポカンと開ける。

 比企谷八幡の腕に絡みつくように、一色は抱き着いた。そして「どうも、先生の彼女です」と自己紹介をする。

 時が止まった、ように一色は見えた。二人の男子生徒はもちろん、その後ろで帰ろうとしていた数人の生徒も皆目を見開いて静止している。

 予想外だったのは、一番驚いていたのが比企谷八幡だったことだろう。

「うおあああ!」

 比企谷八幡は情けない声を上げて尻もちをつく。一色は、せっかくカッコいい姿を見せてあげたのに、と落胆する。それを無視して、坊主頭に向き直る。

「私は人を貶す人より、先生みたいな優しい人のが好きだよ」

 一色が笑いかけると、再生ボタンを押したかのように周囲の男子生徒は浮足立って騒ぎ始める。そして、フェス帰りのバンギャよろしく、興奮冷めやらぬといったまま塾を後にしていく生徒に一色は比企谷八幡と並んで手を振った。

 不適切な場面を生徒に見せたとして、塾長から叱責を受けたが、一色が涙ぐんで謝ると許してもらえた。

 その後、比企谷八幡の業務量が増えたことと、生徒の間で『レンタル先生』と呼ばれていることを一色は知らない。

「せんぱい運動不足ですし、二駅くらい歩いて帰りましょうよ」

 帰り支度を終えて靴を履いている比企谷八幡に一色は声を掛ける。

「いいけど、何で来たんだよ」

「ちょっと寂しくなっちゃって」と一色はあの女子中学生に負けじと甘い声を出す。しかし、はあ、と比企谷八幡が身を引くために一色はその肩を殴る。「なんですかその反応」

「いや、別に」殴られた肩を擦り、比企谷八幡は目を逸らす。

「本当ですよー!」

「はいはい」比企谷八幡はポケットに手を突っ込んで歩く。

 むう、と一色が隣で頬を膨らませていると、「なんか食べたいものあるか」と言われて顔を上げる。

「え」

「いつも作ってもらってばっかだからな」

「いいんですか?」

「……なんか知らんが」と比企谷八幡は頬を掻き、「寂しい思いさせたらしいし」とぼそりと呟く。

 おっとあぶない、一色は頬を引き締める。

「えへへ、満点、いえ、百二十点ですせんぱい」

 引き締めてこれか、と苦笑しつつ一色はチラリと後ろを振り返る。塾のビルから離れたことを確認して比企谷八幡と腕を組んだ。「あつい」「私は寒いです。せんぱい顔赤いですよ?」「うるせえ」

 雪ノ下雪乃の言葉は、夜の灯りに照らされ、見えなくなっていた。

 一色はそれが気休めだと、一過性のもだと分かりながら、また笑う。

 瞬間を丁寧に紡いでいけば永遠になると信じて、一色は笑う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 白い壁があった。右をみて、左をみて、白い廊下だと分かる。目の前には扉とプレートがあった。『比企谷八幡』と書かれたネームプレート。

 またこの夢か、と一色は息を吐く。

 音もなく扉が開いた。中から現れたのは比企谷小町だった。「いろはさん、お待たせしました」と無表情で言う。それは実際に無表情だったのか、夢の中で改変が為されたのか、今となっては思い出せない。比企谷小町が背を向けて進む先についていく。白い箱の輪郭は掴めず、世界として不完全な印象を覚える。ベッドの横に立った比企谷小町は振り返って口を開く。「お医者さんが言ってました」無表情の比企谷小町に一色は、知ってるよ、と言う、しかしそれは声にならない。

「記憶障害にしては断片的過ぎるって」

 うん、知ってるよ。

「事件に関する事を脳が拒絶するなら、それに関すること、キーワードまでに障害が及ぶって」

 うん、聞いてるよ。

「でも、お兄ちゃんの記憶障害には一貫性がない」

 まるで、だよね。

「まるで、もう一人いるみたいって」

 暗転。

 誰かが電気のスイッチをオフにしたみたいに、世界が落ちる。

 一色の意識はまだ夢の中だ。事件から半年が経ち、夢を見るようになった。初めは責められているように思え、耳を塞いでいた一色だったが、段々と慣れていくと、声に意識を向けることができるようになった。この暗転も当初、恐怖で目を覚ましていたが、四回、五回と重ねるうちに覚え、そしてもうすぐ電気がつくことも分かるようになった。

 バンッ、とスポットライトが当たる。比企谷小町の姿は消え、代わりに赤いジャケットに身を包んだ背中が見える。ベッドで横になる比企谷八幡の頬にその女は触れている。

「ふうん、解離性、ね」

 触らないでもらえますか。

「”あれ”はそういうことだったんだ」

 触らないでください。

「あ、あの勘違い女、えーっと、折…なんとかちゃんは追い払ったから」

 触るな!

「一色ちゃん次第だよ」

 黙れ!

「愛に耐えられるかどうかは」

 暗転。

 夢の中で息が切れる。身体中に疲れがどっと圧し掛かり、膝に手をつく。一色は舌打ちをしながら、もうすぐ目覚めるかな、と感じる。どうせ汗かいてるからシャワー浴びなきゃ。

 夢の中で一色は目を瞑り、ゆっくりと瞼が持ち上がるのを待つ。

 指の先に力が入った気がした。

 一色は目をあける。

「あれ」雑踏に首を巡らせる。喧騒に包まれているが、音がぼんやりとしている。駅だ、と一色は思い出す。首を巡らせて時計を捜すと、日付まで表示された電光掲示板が目についた。二年前の一月二十八日、一色が大学に入って初めて秋期試験を終えた日だった。

 その瞬間、一色は事態をすぐに察した。

 もうすぐ、雪が降る。

 ふわりと視界を白い光が一粒過ぎて、ゆっくりと増える。周囲から歓声が上がり、一色いろはは携帯を取り出すと、『せんぱい、雪ですよ』なんてLINEを打つ。

 走れよ! そう一色は意識の内側から発散するように叫ぶ。

 力を入れようにも、今度は入らない。動けよ、動けよ、と足を踏み出すように信号を送るが言う事を聞かない。

 一色いろはは笑っている。柱の陰で恋人を待ち、今か今かと待ちわびる。試験が終わったお祝いをしようと約束した比企谷八幡を健気に待つ。

 一色は唇を震わして、やめてよ、と洩らす。一色は蹲っていた。膝を抱えて蹲っていた。やめてよ、やめてよ、そんな顔で待たないでよ。

 せんぱいは、来ないんだから―――。

 

 すん、と鼻を鳴らす音で目が覚めた。目尻が濡れている感覚がある。泣いていたっけ、一色は身体を起こした。起こしてから、隣にいるはずの比企谷八幡の姿がない事に気が付く。一色は目を見開き、身体中が粟立つのが分かった。ベッドから跳ね起きる。カーテンを引き千切らんばかりの勢いで開けると透き通るような青空が広がっていた。鍵を開けて窓を開けると十二月の風が吹き込んできて思わず顔を背ける。ゆっくりと外を見ると、風は冷たいが、雲の少ない空だった。

 力が抜け、崩れ落ちそうになるのを堪えてリビングに向かうと、束になっているメモ用紙の一枚目に新たな伝言が書かれていた。

『ゼミ室いってる、あいつらによろしく頼む』

 そうだった、と一色は壁に掛けられたカレンダーを見る。今日の日付には、経済学部サッカー大会、と記されている。午後から始まるそれに行く予定だった。せんぱいは来ないけど。

 テーブルに用意されていた朝食をみつけ、せんぱい最高、と呟いてキッチンへと向かう瞬間、身体が崩れ落ちてしまう。膝ががくがくと笑っているのに気が付かなかった、否、必死で忘れようとしていた。

 冬を、雪を、雪ノ下陽乃を。

 

 連絡のつかない比企谷八幡を捜して大学に戻り、ゼミ室を訪れ、小町に連絡を取った。しかし誰も行方は知らないという。一色は人気のない大学のラウンジで立ち尽くしていた。ただ、何も分からないのにも関わらず、脳裏にこびりついている存在がある。

 ―――雪ノ下陽乃。

 いや、と首を振る。そんなはずはない。だって、彼女の事は完全に忘れていたのだから。突然病院にやってきたあの人の事を、比企谷八幡は高校三年の記憶を手繰って会話をしていた。奉仕部をひっかきまわした記憶から、比企谷八幡の雪ノ下陽乃への対応は腫物を触るようなものだった、はずだ。

 そこで一色は一つのキーワードに行きつく。

『解離性記憶障害』

 比企谷小町が個人的に教えてくれたその言葉。異変を感じ取っていた一色には、と話してくれたその内容のひとつが、何かのきっかけで記憶が戻るかも、というものだった。

 一色の背筋に冷たいものが走る。

 あの日、あの夜、あの瞬間、彼を覆っていたその白い雪を。

 その後、連絡が取れないまま日付は変わり、訳もなく自宅のリビングで歩き回っていた一色の元に小町から電話がある。比企谷八幡は帰って来るなり頭痛を訴えて、病院へ向かったとの内容だった。一色もすぐに向かうと、病室には目を閉じた恋人の姿があるだけだった。

 小町を残して飲み物を買いに出たところで、リノリウムの床を叩く音に気が付いた。カツン、カツン、と響き渡るその軽音は、一色の大切ななにかを逆なでするには十分だった。

「せんぱいに、何をしたんですか」

 怒気を撒き散らすように鋭く言う。

「何も、比企谷君の方から求めてきたから、応えただけ」

「は? せんぱいがあなたに何を求めるって言うんですか」

 雪ノ下陽乃は、んー、と考えるように唇を触り、自分の腰に手を回すと、「身体?」と意地悪そうに微笑む。

 カッとなった一色は雪ノ下陽乃の頬を思い切り叩いていた。

 バチン! という音が病院の休憩室に響き渡り、その場にいた人がこちらを向いた。それを意にも介さず、雪ノ下陽乃は殴られた箇所に触れると、一色を軽蔑するように見つめ、「あなたには許してない」と平坦な口調で言う。

「は、なにがですか」

 取っ組み合いになろうと構わない、と身構える一色を他所に雪ノ下陽乃は踵を返す。「負けてなんかないから」

「はい?」

「私の愛は負けていない」

 そう言い残し、雪ノ下陽乃は去っていく。

 ヒールの音は無機質な廊下に反響し、一色の心臓と共鳴しているようだった。

 意識を取り戻した比企谷八幡は、記憶が無い、と項垂れ、心配をかけた、と家族と一色に頭を下げた。一色はそれ以上なにも言う事ができず、その日の事は有耶無耶になる。

 それから一色が比企谷八幡に同棲を申し込むのに、そう時間はかからなかった。接触を、時間を、愛を、その密度を濃くしていけば、一色の気持ちは超えることができるのではないか、そう信じて。

 

 それから一年後の二月一日、比企谷八幡はまたもや姿を消す。

 一色を残し、雪と共に行方を眩ました。

 2Kの小さな部屋には、雪の結晶が落ちる音と微かな嗚咽だけが響いていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 冬になると天気予報を見なくなる。テレビを自らつけようとはせず、携帯のニュースも開かない。一色がテレビを観ないようになれば、自然と比企谷八幡の行動パターンも同じようになる。一色にはそれが、比企谷八幡の優しさにも、比企谷八幡の傲慢にも感じられる。頬杖をついて文庫本に目を落とす比企谷八幡の横顔を見つめていると、本当は気が付いているんじゃないですか、と口をついて出そうになる。

 ざり、と音がして、地面が砂交じりになっていたことに気が付く。おーい、こっちこっち! と声がして顔を上げるとベンチで戸部翔が手を振っている。右手には総武高校の校庭の半分ほどのグラウンドが見えた。戸部翔の周りには海老名姫菜と三浦優美子、そしてスポーツドリンクを煽る葉山隼人の姿があった。

 すこし小走りで近づき、ぺこりと頭を下げた。「こんにちはです、遅れてすみません」

「いーっていーって!」と戸部翔が手を振り、「突然呼び出してすまない」と葉山隼人が眉を下げる。

 いえいえそんな、と一色が笑うと、三浦優美子が近づいてきた。「久しぶり」

「あ、お久しぶりです、三浦先輩」

 各人と挨拶を交わしていると、ゼミ名がアナウンスされた。それを聞いた戸部翔と葉山隼人は立ち上がり、こちらに手を上げてグラウンドに向かっていく。戸部翔は海老名姫菜にひときわ大きくガッツポーズをしていた。グラウンドの先を見つめると教授の姿もちらほらと見え、そこそこ乗り気な様子が伝わってくる。飲み会のお代賭けでもしているのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまい反省するが、自分のゼミの普段やる気のない教授が腕を振り上げている様子を見ると、あながち間違いでもないような気がしてくる。

 もしかして、と首を振るが、もちろん比企谷八幡の姿はない。

 心を読まれたかのように、「ヒキオ来ないんだ」と言われてビクリとする。見ると三浦が携帯を構えて、葉山隼人の様子を撮影しているところだった。

「そうみたいですね。せんぱい、こういうイベント好きじゃなさそうですし」

「別に運動できない訳じゃないんだし、やればいいのに」

 一色は思わず、三浦優美子の横顔をまじまじと見てしまう。それは言葉のトーンがお世辞ではなく、本心だと分かったからだ。そしてすぐ、彼女がこういった嘘をつく人間ではないと思い出し、心地よい嫉妬を覚える。

「隼人がんばれー!」

「がんばってくださーい!」

 青色のベンチに収まり、三浦優美子と共に一色が声を上げると、隣に海老名姫菜が移動してきた。

「ヒキタニ君、最近どう?」

 海老名姫菜はグランドに視線を固定したまま、口を動かした。三浦優美子は立ち上がり数歩移動すると携帯を構えながら応援を始めた。

「特に変わりはありませんよ」

「そっか」

 そう、変わらない。事件の後、罪の意識を覚えた葉山隼人をはじめとする人間は比企谷八幡の様子を窺いに来た。しかし、記憶に障害の残る比企谷八幡に近づくことは危険を伴うことを説明すると、少しずつ距離を置いていった。ただ変わらず、今日のように誘われることがよくあった。

 そういえば今回は久しぶりだな、と一色は思い出す。就職活動に追われていた四年生は誰も彼もが忙しないようで、葉山隼人と戸部翔も例外ではなかったらしく再会したのは半年ぶりだった。今の比企谷八幡同様、大学に来る頻度も極端に減るために、偶然顔を合わせることもなくなった。

 彼ら彼女らも、その内フェードアウトしていくものだと、一色は思っていた。

 いや、実際そうなのだろう。距離は離れ、関係は薄くなり、名前に霞がかかる。新たな人との関係が、否応に流れる時間の経過が、少しずつ私たちを消していく。周りの人間関係だけではなく、今ここにいる自分という存在を消していく。青色のベンチに座る一色いろはは、空に溶けていく。

 だから、一生懸命になるのかもしれないな、と一色は白い息を吐いた。

 今だけを求めて、今しかない瞬間を求めて、走っているのかもしれない。

 葉山隼人が、戸部翔が、三浦優美子が、海老名姫菜が、追い求めたものは今ここにあるものなのかもしれない。

 じゃあ、比企谷八幡が求めた本物は、どこにあるのだろうか。

 高校の三年間で比企谷八幡が探し続けた本物はついに見つからなかったのだろうか。否、それだけではない。大学一年でも比企谷八幡は走り続けたのだ。痛々しい姿になろうと、血を流そうと、最後まで彼は彼だけの本物の為に走り続けたのだ。

 そんな人間が不幸になっていいわけがない。

 比企谷八幡が報われないなんてことが、あっていいはずがない。

 それは世界の理に反している。

 少なくとも、一色いろはの世界には相応しくない。

 じゃあ、なにが。

 なにが幸せなんですか。

 せんぱいが求める本物は、私でいいんですか。

 一色いろはの視線の先、雫が模様を作り出していた。嗚咽の度に模様は面積を増やしていく。気が付けば背中をさする二つの手があった。それは大きくて、温かくて、一色の心にスッと滑り込んでくる。なめらかな温もりが一色の涙を溶かすと、雪解け水のように流れだす。

 身体の底に沈んでいた冷たい塊が、少しずつ小さくなるのが自分で分かる。

 これがなくなった時、私の気持ちが決まるんだな。

 一色は、そう感じていた。

 

「比企谷、市役所受かったんだって?」

 葉山隼人は湯気を立てるカップの淵をなぞりながら口を開いた。

 経済学部サッカー大会は戸部翔の所属するゼミが優勝で終わった。他学部から一人だけ助っ人を入れていいというルールの元、全国クラス、言うなれば超高校級の腕前を持つ葉山隼人を連れてきた時点で勝負は決していたようなものではあったが。

 一色は以前、渡り廊下ですれ違った男子学生を思い出す。葉山隼人の名前を出していたのは、サッカー大会のことだったのかと今になって気が付く。

「はい、せんぱいも『これで俺も国家の狗か』って喜んでましたよ」

 葉山隼人は口をあけて笑う。「税金泥棒の間違いじゃないか」

 恋をしているな、と一色は思う。葉山隼人が、ではない、一色いろは自身が。

 性格がよく、顔が整い、適度に髪の毛を遊ばせた美男子を前にして、一色は比企谷八幡の深海魚の様な寝起き姿を想像して心臓が高鳴っている。大学構内で営業しているカフェスペースで考えることは、比企谷八幡と共に数回訪れた記憶と、あと幾許もない大学生活でもう一度来れるだろうか、という邪な内容ばかりだった。

 なんにせよ、葉山隼人を目の前にして思うことではないな、と一色は笑う。

 虚像のようなシルエットを追いかけていた高校時代の一色いろははもういない。それは周りの視線もそうだが、なにより一色の中にすら、もういない。生徒会選挙、クリスマスイベント、バレンタイン、そのどれもが今でも鮮明に記憶されている。しかし、葉山隼人を想い歩いた通学路を、奉仕部を目指して駆けた渡り廊下を、比企谷八幡に恋して青春していた一色いろはを、忘れていく。今の一色いろはを構築することは、生徒会長職でも、デスティニーランドでの告白でもない、振り返れば切り取られた、タイトルのない瞬間だった。

「何か、言っていたか」

「え?」

 テーブルの模様を見つめてた一色は、その曖昧な質問に思わず顔を上げていた。

「あ、いや、変わりはないかって」何かを誤魔化すように、葉山隼人は文様を描く黒い液体に口を付ける。

 少しの逡巡があって、特には、と辛うじて声を絞り出す。

 ささくれにも似た違和感を一色が感じていると、隼人、と声がした。

 葉山隼人が一色の後ろに視線を向けるので、振り返ると、三浦優美子が立っていた。「いい?」

「ああ、いろは、今日はありがとう」

 葉山隼人は立ち上がり財布を出そうとするので、一色はあらかじめ用意しておいた一枚の小銭を机の上に置く。それを見た葉山は、ふっと息を吐き、摘みあげると伝票を手にレジへと向かった。

「何の話か、聞いていい」

 人にものを尋ねるときは疑問符を付けるべきだと思います、と一色は心の中で訴え、いつもと同じです、と声に出した。

 そう、と三浦優美子は安心したように息を吐いた為、少し意地悪く、恋人になったのに心配なんですか、と茶化してみる。怒られるかな、と危惧した一色に対し三浦優美子は、まだ付き合ってないし、とさらりと言い放ち葉山隼人に近づいていく。あっけに取られている内に背後から声がして振り返ると、戸部翔と海老名姫菜が連れたって歩いているところだった。「っべー! 賞品で図書カードもらっちったー!」と声を上げている。

 こちらまで近づいてくると戸部翔は、はい! と会計を終えた葉山隼人にそれを渡す。「三千円分だべ? っべーっしょ!」

「いいって、戸部が使えよ」

「でもでも、隼人君のお陰で勝てたようなもんだしー!」

 葉山隼人は困ったように眉を下げ、それから口元を緩めた。

「それで参考書買えよ」優しく諭すように言われ、戸部翔は口ごもる。「助けてくれるんだろ?」

 その言葉をキッカケに、戸部翔の表情に影が差す。ただそれは、一色の経験則からすると悲痛な面持ちとは程遠い、比企谷八幡がなにか決心をするとき、なにかを賭すときにする顔に似ていた。

 戸部翔は、うんうん、と何かに納得するように数回頷くと、ぱっと顔を上げる。「じゃあ今度、隼人君のオススメよろしく!」

「ああ、分かったよ」

 葉山隼人が肩を竦めて呟くのと同時に、戸部翔の携帯に着信がある。通話ボタンを押して耳に当てると、忘れ物という単語が洩れて聞こえる。ごめん! と慌ただしく去っていく戸部翔の背中を四人で見送った。そして三浦優美子の、ねえ隼人、というセリフを機に、葉山隼人と三浦優美子も駅方向へと姿を消す。

 残される形となった海老名姫菜と一色は、互いに目を合わせるとカフェスペースの外側にある椅子に腰を下ろした。

 あの、と一色は軽い雑談のつもりで訊ねた。「あの、参考書ってなんのことですか?」

「え? ああ、とべっちね」海老名姫菜はわざとらしく目を見開いて、一色の顔を覗き込んだ。「知らなかったっけ」一色が首を傾げると、海老名姫菜は「とべっち、大学辞めようとしたの」と遠い過去を回顧するようにいう。

「な、なんでですか?」

 一色が何かに気が付くのに対し、海老名姫菜は何やら思案するように顎に手をやった。そして、高校三年のとき色々あってね、と濁したことで、一色の考えは核心に変わる。知っている、ということを伝えると、海老名姫菜は驚くよりも先に、じゃあ話は早いね、と微笑んだ。

 海老名姫菜の話によると、責任を感じた戸部翔の覚悟を葉山隼人は十分なほどに受け取ったという。葉山隼人の手助けがしたいとの申し出を快く承諾したうえで、大学を辞めるという部分に関してはバッサリと切り捨てた。でもそれでは秘密が明るみになったとき、と動揺する戸部翔に対して、葉山隼人は首を振った。

 ―――元々、そんな心配はしていないんだ。

 信じられない言葉だっただろうね、と海老名姫菜は楽しそうに笑った。一色には笑いどころが分からず、困惑するばかりだったが、海老名姫菜は続ける。

 葉山隼人は戸部翔の身に被害が、被害とはいかなくとも不幸の火の粉が降りかかることを恐れた。戸部翔は葉山隼人に対して業を背負わせたことに責任を感じていた。それを葉山隼人は、戸部翔の身を葉山隼人自身が守ることで解消しようとしていた。戸部翔は、戸部翔が想像している以上に葉山隼人から信頼を置かれていた。そしてその信頼は、戸部翔が額をつけたことでより強固なものとなる。葉山隼人は自身が加害者となった騒動から、自分の身を守る術を、知恵をひたすらに掻き集めていた。そして、戸部翔を守る手段も。

 更に、葉山隼人の続けた言葉には、正直呆れたという。

「なんだと思う?」海老名姫菜はいたずらっ子のように笑い、一色はその幼さにドキッとした。

「わかりません」

 一色が正直に言うと、そもそもそんな事にはならない、と返された。

「え」

 一色は自分が話を聞いていなかったかと会話を辿ったが、海老名姫菜はそのまま薄い唇を動かす。

「いち高校生のトラブルが、そんな大事を引き起こすとは思えないって」

「そんな」

「本当にね、でも、確かにそうなんだよ。高校生のいざこざなんてこの世の中に溢れてる。もっと面白いニュースだって沢山ある。高校生が集団でいじめを行った、ネットではその首謀者を特定して祀り上げる。そして、その後は? そのいじめっ子の名前、憶えてる?」

「……覚えてない、です」

「そう、覚えてない、どうでもいいからね。みんな次の話題に忙しい。悪口言ってる人は、新しい悪口に忙しいんだ。確かに、就職とかでは不利かもね、親に迷惑をかけるかも。でも、前科がつくわけじゃない。隼人君の例は特殊、スペシャルだよ。スペシャルなことなんて早々起こらない。そして、もしスペシャルなことが起こったときに助けになるのは、自分の力だから、知恵だから、あの二人はそれを手に入れようとしている」

 それだけだよ、と海老名姫菜は一仕事を終えたように笑った。そして、目を伏せ、ごめんね、と苦しそうに呟いた。

 一色は何かに弾かれるように立ち上がり、テーブルの群れを藪漕ぎをするような乱雑さで走り出す。蹴った椅子が倒れて音を立てるが一色の耳には入ってこなかった。階段を降り、ドアをくぐり、外に出ると壁際に寄りかかる。十数メートルの移動で、ありえない程息が切れていた。

 あのままだったら、叫び出していたかもしれない。

 ぜえぜえと吐き出される空気を、一色は頑張って吸い込む。意識して呼吸をすると、段々と呼吸の仕方が分からなくなる。やばい、と考えた時にはすでに肺に溜まる空気は微かなものとなる。分からない、地面が曲がる、ゆれる、うえが、したが、わからない――――。

「ちょっと!」と叫び声がして、背中を乱暴に擦られる。「大丈夫!?」

 ゆっくり、落ち着いて、ゆっくり、深呼吸して、大丈夫、大丈夫、と何度も呼びかけられ、一色は涙を流しながら、口を開閉させた。震えるように揺れ動く世界で、青い髪が一緒にゆらゆらと漂っていた。

 苦しい、苦しいのに、これは苦しみからくる涙じゃない。

 辛い、辛い、嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやです、せんぱい。

 悔しい。

 悔しいです、せんぱい。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 燃料の塊に火がついて、それを食い尽くさんとばかりに燃え上がっていた炎も、いつまでも燃えていられるほどの継ぎ足しはなかったらしい。人は感情に左右される生き物だが、それは感情がなくなることにまで至っているのかとぼやけた頭で考えた。

「さっきは、ありがとうございました」ベンチに座った一色は深く頭を下げた。

「もういいって」

 川崎沙希は、数度目の感謝にすこしうんざりしたように手を振った。死線をさまよった気分の一色は、命の恩人というものを始めて目にした気分で、もういちどぺこりと頭を下げる。

 一色は自分の手に握られたココアの缶を置いて鞄から長財布を取り出すが、その上に手が添えられる。でも、というと、ちょっと落ち着きな、と低く、優しい声で言われた。一色はベンチの背もたれに身体を預けるようにして周りを見渡す。住宅街にぽっかりと開かれた公園は、都会のど真ん中を貫く皇居のような雰囲気があってか、人がいなかった。いや、単純に三時頃の公園はこの程度なのだろう。

「本当に大丈夫なんですか?」

 一色は公園に来る途中で出た話題をもう一度確認する。

「え、ああ、姫菜との約束までまだ時間あるから、でも、早く来てよかったよ」と缶コーヒーに口を付けながらぽつりと言うのでもう一度頭を下げると、「あー、うん、もういいよ……」と肩を落とす。

 一色にはそれが照れ隠しだと分かって何度か繰り返していたが、そろそろやめたほうがいいかな、と自重することにした。

 青い髪を切り揃えた川崎沙希。一色はその端正な横顔をまじまじと見つめた。高校時代の話になった際、比企谷八幡が当時から大人びていた、と評した理由はこの憂いに満ちた瞳だろうかと一色は思う。見れば見るほど世の中で数の少ない美形の顔立ちは一色の眼を釘付けにした。

「なに」川崎沙希が威嚇するようにいう。

「すみません」一色は肩を縮こまらせる。「あまりに横顔が綺麗だったので」

「え、ちょ、は?」

 あ、顔赤い。川崎沙希は居心地悪そうに立ち上がると、傍のゴミ箱に空き缶を捨てる。その後ろ姿に、一色は語り掛けていた。「川崎先輩は、浮気とかってどう思いますか」

 再びベンチに収まった川崎沙希は一瞬怪訝な表情をしたが、一色の思い詰めたように握りしめるココアの缶をみると、はあ、と息を吐いた。

「まあ、最低だと思うけど」

「ですよね」

「なに、あんたの彼氏が浮気でもしてんの」

 川崎沙希は当然の疑問を一色にぶつける。それは会話のキャッチボールとしては教科書に載せてもいいほどのテンプレートだったが、一色の頭の中では、浮気という言葉が反響していた。

 浮気ってなんだろう。

 どこからが浮気なのか、なんていう陳腐な問題じゃない。誰が、どっちが、浮気なんだろう。

 彼の本物は今、どこにあるのだろう。

 川崎沙希が顔を覗き込んでいることに気が付いて、頭を振る。「すみません」

「まあ、そんな経験のない私が何か言えたことじゃないけど」

「いえ、とても羨ましいです」

 一色が素直にそういうと、川崎沙希は言葉に詰まるようにして、恥ずかしそうに頬を掻いた。「あ、いや、交際経験がっていう意味なんだけど」

 一色は隣の美人が何を言っているのか分からず、外国語かな、バイリンガルなのかなこの人、ほにゃくこんにゃくが必要かな、とネコ型ロボットにまで発想が飛んだところで、え、と声を出した。

「えええ! そんな美人なのにですか!」

「いや、美人じゃないけど、うん……」

 一色は幻のポケモン、それも色違いレベルを見つけたような気持ちになったが、そういえば奉仕部の二人も、と考え付く。そして雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が拗らせた原因に思い当たり、まさか、と川崎沙希の赤い頬を見やる。しかし、それ以上追及するのも恐ろしく、一色はココアの缶にちびちびと口を付ける。

 ビッチ風清楚の恋人が、朴念仁風たらしだった。

 一色はあばばばとココアで溺れそうになった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「いらっしゃーい、いろはさん!」

 比企谷邸のインターホンを押すと、すぐに扉が開き、中から比企谷小町が顔を出した。

「お邪魔します」と一色がいい、「ただいま」と比企谷八幡が小さくいった。比企谷八幡の心から安心したような、温泉に浸かったときの様な気の抜けた顔をチラリと見て、一色は少ししょんぼりとする。

 比企谷八幡はリビングへと続く扉に手を掛け、あったけぇ、と呟きながら消えていく。それを見送り、比企谷八幡の分まで靴を揃える一色の隣に比企谷小町が立つ。

「お兄ちゃん、ハウコンだから仕方ないですよ」

 小町は申し訳なさそう口を曲げ、一色は「ハウコン?」と繰り返す。

「あれですよいろはさん、マザコン的な、ハウスコンプレックス的な」

 ああ、と一色は笑う。

「あれでも、実家ってなんていうんだろう、本物の家? あれ?」

 赤べこのように首を振り、うーんうーんと唸る小町に一色は抱き着く。「ありがと」

「ううん、いろはおねえちゃん」一色は何気なくそう言った比企谷小町の顔をまじまじと見る。「あ、嫌でしたか?」

「ううん、最高、ちゅーしていい?」

 一色が顔を近づけると、それはちょっと、と逃げられる。

「シスコンはお兄ちゃんだけで充分です」比企谷小町はアホ毛を揺らして笑い、一色の手を引く。

「えー、せんぱいばっかりずるい」

「ほらおねえちゃん、パーティですよ」

 リビングに向かう途中、一色は壁に掛けられたカレンダーをちらりと見る。

 今日は十二月二十二日。比企谷小町が、クリスマスはお二人で、と気を遣ってくれたので、少し早めのクリスマスパーティだった。

 扉の先に、暖色の光に満ちた白いホールケーキが見える。

「メリークリスマス!」

 比企谷小町が楽しそうに笑った。

 

 蛇口のノブを上げて水を止めても、微かに水音がする。比企谷八幡がシャワーを使っている音だ。一色は同棲している部屋より遠いその音を楽しみながら皿を拭き始める。

「小町ちゃんも大学生なんだねー」

 一色はシンクを洗う比企谷小町の前髪を見ていう。

「そうですよー、もう大人です」えっへん、と言わんばかりに腰に手を当て、泡が服につく。「わわっ」

「あははは、でも、うん、大人だよ小町ちゃん」

 高校時代よりほんの少し背が伸び、身に纏う服も大人びたが、ミスマッチな童顔とそれを生かすぱっつん気味の前髪が妙な色気を放っていた。しかし、泡を拭きとり照れ臭そうに破顔する様子は全く変わらない。小町ちゃんに会うと安心するよ、と知らず口にしていた。

「え」比企谷小町が虚を衝かれたような声を出す。

「あ、いや、そういえば小町ちゃん彼氏できた?」

 しまった、できてたら辛い、と言ってから気が付く。やっぱ今のなし、と訂正しようとしたが、その前に「いないですよ?」とあっけらかんとした様子で笑った。

「へえ、大志君とは連絡とってないの?」

 最近大志君のお姉さんとも会ったよ、とは言わなかった。

「たまにって感じですかねー、遊びに誘われたりはしてますけど」

「わーお、大志君やるー」

 思わず口笛を吹きそうになるが、男子が遊びに誘うことって珍しいのか? と自問自答してしまう。ここ数年まともな男子と連絡とってないしな、と一色は思い出すが、定期的にというか常に連絡を取っているのが比企谷八幡のみで、どちらにせよまともな男子ではなかったと気が付いて皿を落としそうになった。ひっきりなしに遊びに誘われていた高校時代を懐かしむ。

「でも、よく分かんないんですよね」と比企谷小町は洗い終わった手を拭きながら呟く。それに一色が首を傾げると、「大志君って、高校時代は割かし大人しくて真面目だったじゃないですか」

「え、今はやんちゃなの?」

「いえ、そういう訳じゃないんですけど、なんていうか、大学に入ると色んな人がいて、落ち着いてる人も増えて、誰も彼もが同じように見えちゃうんですよね」

 一色は、うんうん、と頷いていた。

 比企谷小町が通っているのは私立の名門といえる大学で、どこにでも一定数アホはいると思うが、真面目な学生は多いはずだった。川崎大志の熱烈なお願いで三年次に生徒会へと入った小町は、その人当たりの良さと、そこそこの学力で見事、指定校とはいかないが推薦枠を勝ち取り、無事大学進学を果たした。高校受験の際は奉仕部の面々と勉強しつつの初詣だったと言っていたが、一年前の初詣は推薦枠での進学も決まり、比企谷八幡、比企谷小町、一色いろは、由比ヶ浜結衣の四人で過ごした正月が記憶に新しい。

 比企谷八幡、雪ノ下雪乃、葉山隼人、比企谷小町のような、早熟といえる人間だけが見えていた景色。その歪んだ視界がゆっくりと世界と調和していく、そんな気配は一色も感じていた。

 いうなれば、世界から色が消えていくような切なさだった。

「もちろん大志君は変わらず優しいんですけど」比企谷小町は、あはは、と何かを誤魔化すように笑った。「なんだか分かんなくなっちゃって」

 一色は思わず、分かるよ、といっていた。

 周囲の動きに逆行するように歩くイメージを一色は思い浮かべる。その最たる例が比企谷八幡であった。誰もが足を止める最中、ただひたすらに歩み続ける。そんなイメージを。比企谷八幡に引き寄せられるように歩み始める雪ノ下雪乃に葉山隼人、そしてその様子を目の前で見せつけられた比企谷小町の心中は想像に難くない。そんな中、呼びかける声がしたのだろう、川崎大志も、比企谷八幡の起こしたバタフライエフェクトに影響された一人と言える。

「勝手だよね、本当に」一色は愚痴をいうような雰囲気で呟く。

「勝手?」小町が鸚鵡返しにする。

「勝手だよ、みんな。散々せんぱいたちのこと突き放しておいて、今更」

 一色が唇を噛み、俯いたところでリビングのドアが開く。「どうした」比企谷八幡はタオルで頭を拭きながら訊ねる。

 なんでもないですよ、と一色は顔を上げて微笑む。「あ、そうだ、せんぱいプレゼント渡しましょうよ」

「ん、そうだな、飯食ってる時タイミングなかったし」

 比企谷八幡はそういってソファに置いてあった鞄を持ち上げる。

 一色は比企谷小町に、ごめんね変な話して、と手を合わせる。

「ほらよ小町、俺と一色からだ」比企谷小町はおずおずと紙袋を受け取り中を見る。がさがさと漁ると、少し元気のなかった表情に彩が射す。「俺のが手袋で、もう一つが一色のな」

 わあ、と言いながら、比企谷小町は赤色の手袋とリールのついたパスケースを抱くようにする。

「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 涙を溜める比企谷小町の頭を、比企谷八幡と一色いろはが優しく撫でた。

 

 コーヒー淹れましょうか、比企谷八幡と交代で比企谷小町が風呂に向かったの確認して、一色はそう声を掛ける。すまん頼む、と比企谷八幡はソファに腰を下ろした。

 比企谷小町が一人きりになることを一色は危惧して、月に一回程のペースで比企谷邸に泊まりに来ていた。もちろんそれで比企谷八幡がいなくなった穴を埋められるとは思っていないが、それでも、この形は一色が表せる誠意のひとつだった。

 何十回と使ったポットも手に馴染んできて、一色は顔が熱くなる。訪問を重ねる度に何かが許されていく気がしていた。それが罪の意識からかは、一色自身にも分からなかった。

「お待たせしました」

 マグカップをテーブルに置き、比企谷八幡の隣に腰掛ける。持ってきていたスプーンで底に溜まっているはずの砂糖をかき混ぜようとすると、自分でやるから、と比企谷八幡は恥ずかしそうにスプーンを奪い取る。かわいいなあ、と一色は緩んだ口元を引き締める。自分の分のカフェオレが注がれたマグカップを手に取ると、息を数回吹きかけてから口に含んだ。

 沈黙が訪れ、比企谷小町のシャワーの音だけになる。一色はその心地よさに耳を澄ませた。

 今、この時間は何人たりとも邪魔できない。一色はゆっくりと目を閉じた。

 隣で身を捩る音がして、一色は片目を開けて様子を窺う。比企谷八幡は背を向けていて、一色は肩を竦めた。

 い、と声がして、ひらがなのいが頭の中に浮かぶ。い? 「いっしき」

「はい」一色はマグカップを置きながら首を向けた。

 比企谷八幡の手には、パステルカラーの紙が二枚握られていた。よく見ると、世界的に有名なキャラクターが両手を上げて笑っている。というか、すぐそこのディスティニーランドのチケットだった。

「せんぱい、これ」

「いや、なんだ、クリスマスだし、な」

 一色は視界がぷるぷると揺れるのに気が付く。見ていたはずのチケットはすでに色の塊になり、顔を上げても比企谷八幡の表情は確認できなかった。瞬きをすると、右目から一筋の水滴が頬を伝う。もう一度瞬きをすると、左目からも流れ落ちた。

「お、おい、なんで泣くんだよ」

 比企谷八幡はおどおどと手を彷徨わせ、箱ティッシュに手を伸ばした。しかし、その体勢から動けなくなる。一色いろはの身体が比企谷八幡の横腹に絡みついていた。

 一色は笑っていた。

 どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく楽しくて、沢山笑っていた。

 でも多分、泣きながら笑った顔はそんなに可愛くないから、一色は抱き着く。

「えへへ、せんぱい、大好きです」

 籠った声で、呟く。聞こえてないでしょ、と高を括って一色は額を擦りつけた。大きな手が頭に載せられる。はいはい、と一色の頭を撫でる。優しく、髪を梳かすように撫でる。

「いつもありがとな、一色」

 一色は笑いながら、顔をうずめながら、首を振る。

 何度も何度も首を振る。

 シャワーの音はいつの間にか消えていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 寒い、と一色は呟く。それだけで何かの栓が抜けてしまいそうになって、頭を振った。俯いた視線の先に、夥しい数の足が侵入しては消えていく。皆一様に向かうは、夢の国への入り口とでも形容しようか、巨大なゲートが待ち構えている。一色は白い息を吐く。マフラーに顔をうずめたまま、腕を持ち上げると手首を返す。小さな腕時計が指す時刻は十二月二十四日、十六時二十六分。パレードまではまだ時間があるな、と再びコートのポケットに手を突っ込んだ。

 ふっ、と思わず笑ってしまう。健気だねえ、と自虐的に笑ってしまう。

 顔を上げると薄い雲が空を覆っている。冬の空というイメージがぴったりで、その灰色の脱脂綿のように頭上に被さる天敵に「死ねよもう」なんて汚い言葉を浴びせる。顔を上げた拍子に頭の上に積もっていたそれが落ちるのが分かった。

 空からは無数の羽が降ってきていた。小さな天使の小さな羽。白く冷たい、小さな羽が。また一つ、一色の頬に触れて、羽を溶かす。

 比企谷八幡との約束の時刻は十五時だった。

 天を仰ぐ一色の前に人が止まる気配があった。ばっ、と正面を見ると、汚い笑顔を張り付けた革ジャン姿の男が二人立っている。誰だこいつら。

「ほら言ったじゃん、可哀想な女の子見っけ」一人が馬鹿丸出しで笑い、「マジじゃん、ていうかめちゃ可愛くね?」ともう一人の声も高くなる。

 そして同時に一色に近づく。「ねえねえ、どうせ彼氏にドタキャンでもされたんでしょ」並びの悪い、ヤニに侵された歯を剥き出しにする。「俺たちと遊ぼうよ」

「あは」一色は力なく笑っていた。もう何も、残っていなかった。「いいですね」

 一色の抱え込んでいたすべては、この雪舞う景色ですら溶けきってしまった。音もなく、叫びもせず、懇願もせず、雪の粒が黒いコンクリートの底に沈むように、誰にも気づかれず、溶けた。

 一色は震える脚を、ゆっくりと踏み出す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

growing pains:hatiman

 

 

 雪が舞い、光が流れている。猛スピードで走る鉄の塊は静かに唸りを上げていて、そのうち自分が動いているのか、光が動いているのか分からなくなる。煌々と前方を照らす街灯の眩しさと、遥か後ろに消えていった冬の結晶、その落差に眩暈がする。俺は誰だ。自問自答する。俺はどっちだ。

「あれ、もう気が付いた?」

 艶のある声が、するりと鼓膜を叩く。顔を向けられない。まだ意識が切り替わっていない。ちょっとしたきっかけで、それこそ小さな分銅をちょこんと乗せるだけで大きく傾く、そんな状態だった。

「まだ寝てていいから、大丈夫だよ、比企谷君」

 美しい音色が脳内を揺らす。何度も聞いたその言葉に俺の意識は引っ張られていく。滑らかな手で誘われるように、惹かれていく。

 でも、分かっているんだ、俺は。

 その誘惑に抗えることに、そして、その手を取らなかった時、すべての終わりが始まるということを。

 いや、きっとエンドロールはもう流れ始めている。

 長い物語は終わりを迎える。

 ターミナルはもうすぐ目の前で、俺の到着を待ちわびている。

 結末は、誰にも分からない。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 二つの人格がお互いを認識しているのか、それは場合によるのだろうが、俺の場合は一方通行のような状態だった。比企谷八幡という弱く優しい人間が耐えられない事、それを肩代わりするという名目で俺は生まれた、と思っている。比企谷八幡は人の心を傷つける事、そして比企谷八幡自身の心を傷つけることに耐えられなかった。前に進むのも地獄、引き返すことも地獄、そんな状態で比企谷八幡が選んだのが、自分の心を避難させるという方法だった。方法と言うと語弊が生じそうだから比企谷八幡しいては俺の名誉のために言っておくと、これは制御ができる問題ではないということだ。誰も俺の事を生み出そうと思ったわけではない。

 ただひたすらに、地獄から抜け出したかった、それだけだった。

 比企谷八幡には友達がいなかった。それは周知の事実だが、重要なのは、比企谷八幡が孤独を乗り越えた時期、彼は信頼に足る人間の存在を知らなかったということだ。知っている、ということは大きな代償を伴う。それは甘い蜜の味であり、苦い思い出の存在であり、麻薬にも近い快感への依存に繋がる。

 自分に価値がないと思わされるのは酷く苦しい。自らでは存在意義を見出せず、自分の力のなさと直面するような甘いものではない。指摘され、糾弾され、嘲笑される。気付いていなかった、気が付いていたけど考えていなかったことを、露見してしまう。必死に覆い隠していたものが、無理やり世間に晒されるような気分。

 いうなれば、比企谷八幡は強すぎた。

 逆風に晒され、荒波に呑まれ、いつ転覆するかも分からない船を漕ぎ続けた。日本人の男子が過ごす通常の十代とはかけ離れてしまった。そしていつしか彼は、堅固で強固な一隻の船を作り上げる。唯一無二の最強最弱、比企谷八幡の完成だった。

 しかしそれでは、あまりにも隔絶している。

 人間という醍醐味をあまねく捨てた道は、機械に近い。

 時に壊れ、修復し、強くなる。修復できなかったなら、布を当て、助け合い、攻撃から身を守る。少しずつ大きく船には、無数の傷と、そこに沁み込んだ確かな人生がある。

 選ばなかった比企谷八幡の心は、年月をかけて張り付けた硬い観念の内側、誰の眼にもつかない暗い影で腐り始めていた。ドアを開け、窓を開け、人が住む、使ってしまわないと壊れてしまう家のように、比企谷八幡の心を揺れ動かす必要があった。

 それに関しては、比企谷八幡の肥大した自己承認欲求は大きな意味を持つものだった。人間臭い、人間らしすぎる自己承認欲求を満たすために比企谷八幡は動いた。

 ただ、比企谷八幡のその欲求を満たす条件というのは、そうそう世の中には溢れていない。いや、極端に減る、という表現の方が正しいかもしれない。奉仕部という異質な条件下では発生していた問題も、――そもそも奉仕部でさえ暇な時間が多い――、年齢がひとつ上がるだけで大きく変わる。それは大学という括りの問題が大きいだろう。人は大きな流れに沿う生き物である。高校時代、彼ら彼女らの周りにあったのは、制服や厳しい校則、そして窮屈な人間関係だ。それは大きく反発を生む。押してはいけないと言われると押したくなるスイッチ。チョコ禁止と言われたバレンタインこそ気持ちが昂る。そんな反抗心は、若者の心を奪う。

 かくして、大勢の若者は大学に進む。大学で手に入れるのは、学問、知識、哲学か、否、自由と時間だ。学問にせよなんにせよ、修めるための自由と時間を与えられる。自らで考えて、自らでその価値を証明するための時間を。そこで取る行動はひとつ。見ることだ。周りを見る、周りを見る、周りを見る。そして周りに添った自分を図らずとも作り上げる。

 ルールに縛られた世界で旗を上げた若者は、より自由を謳歌するか、自分を律することで、過去の自分を若気の至りと評しへらつくのどちらかに分類される。先輩という存在に影響された若者も、その先輩が同じような先輩に影響されたことを考えもしない。

 自由な世界で、見えないレールを探し当てる。

 恋は恥、弱さは恥、人生は恥。

 大学という舞台が与えるのは、自由を元に自分で考えるという時間だ。

 そしてその条件は、比企谷八幡が追い求める欲求を満たすには、とても不十分な空間だった。そして以後、比企谷八幡が追い求める欲求は段々と満たされなくなることから、彼は目を逸らす。

 逸らした先にあったのは、比企谷八幡の腐った性根が飛びつくには十分すぎる代物だった。

 比企谷八幡は、己の自己承認欲求を満たすために動き、失敗した。諦めるという選択肢のない比企谷八幡が進むのは茨の道だ。それでも進むしかない比企谷八幡の元に俺が生まれた。人を傷つけることを肩代わりする、そんな酷く悲しい役割を、俺はこなした。

 では、俺はどこでその悲しいストレスを解消してたのか。

 主人格でなければ、ストレスとは無縁? そんなわけがない。俺も一人の人間で、一人の比企谷八幡だ。

 俺は謝らなければならない。

 陽乃さんに、雪ノ下陽乃に。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 事件後、俺が再び自分を認識したのは一月二十八日だった。一年の秋期で落とした講義分を余分に受講し、その試験を終えたところだった。座席指定の試験だった為に、左端の最後尾に座っていた俺は講義室全体を見渡すことができた。

 やっぱり一年ばっかりだな、と頬杖をいて、あれ、と気が付いた。なんで俺がここにいるんだ、と。

 チラリと真横の窓に目を向けると、暗く冷たい空に大粒の雪が舞っていた。試験官の合図で一斉に立ち上がる一年生に混じって外に出る。携帯を見ると、一色いろはからLINEが来ていた。『せんぱい、雪ですよ』

 その文字を見た瞬間身体がぐらりと傾く。途端に、俺が眠っていた間の記憶が雪崩のように襲い掛かって来る。頭を割らんばかりの勢いに思わずトイレに駆け込んだ。個室の鍵を掛けると、どん、と壁にもたれた。巻き戻すかのように次から次へと場面が切り替わる。とてつもないスピードで逆再生されるのに、言葉を認識できてしまう。認識できるが故に膨大な情報量が脳に負荷として降りかかり、膝をついて白い便器に吐いた。胃がひっくり返るような嗚咽の間も酷い頭痛が襲い掛かる。

 分かる、分かる、と呟く。全部分かる。

 全部俺なんだもんな。

 息切れする狭間に、俺の脳裏には雪ノ下陽乃の姿がこびりついて離れなかった。

 

 駅のロータリーで寒さに震えながらベンチに腰かけていると、目の前に黒く光るタイヤが音を立てて停まる。ドアの閉まる破裂音とヒールが奏でる音階に顔を上げると、身体に衝撃が走って仰け反る。鼻孔をくすぐる懐かしい匂い。腕を背中に回すと、ゆっくりと抱き締めた。

「おかえり」涙ぐんだ声は、何故か色香を感じさせた。

「ただいま、陽乃さん」

 人の往来など構わず、たっぷり時間をかけて存在を確かめると、どちらからともいわず立ち上がり、白い高級車に乗り込む。シートベルトをして、ギアに置かれた雪ノ下陽乃の手を上から包み込む。

「陽乃さん、多分、時間はないです」

「うん、分かってる」

 雪ノ下陽乃はフロントガラスを見据えたままそう言い、アクセルを踏み込んだ。インターを経て高速道路に入ると、鎌倉へと向かっているのが分かった。右車線を走り、次々と車を抜いていく様子は、焦っているようにも高揚しているようにも見えた。俺は舞う雪を見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じる。

 視界の片隅にあるのは、俺ではない比企谷八幡が歩んできた記憶だった。一色いろはの存在は俺の意識すら苛む。振り切るように、眠った。

 ドアの閉まる音で薄く目を開けると、前方に歩いていく雪ノ下陽乃の背中が見えた。数回瞬きをして、俺も外に出た。陽乃さんは浜辺へと続く階段を下りていくところだった。辺りを見渡して、江の島近くの海岸だと分かる。追従するように砂浜を踏みしめると、雪で湿った砂がスニーカーを飲み込む。砂浜に等間隔に刻まれた穴が消え、横を見ると陽乃さんのハイヒールが転がっていた。数歩先にもう片方も見える。視線を上げると陽乃さんが冷たい波打ち際で手招きをしている。俺はその月光に包まれた姿に目を奪われた。

「なにやってんですか」ストッキングを濡らしながら、海水に足を突っ込んでいる陽乃さんにいう。この寒さだ、水温は触れずとも分かる。

 陽乃さんは手招きをやめず、美しい顔で笑った。「ちゃんと冷たいから、夢じゃないんだって」

「それなら頬をつねるとかあるでしょう」

 言いながら俺も、靴のまま海に入る。波が打ち付ける度に冷水がくるぶしに強襲し、スニーカーの中を侵し始める。

 更に進み、ふくらはぎの半分まで浸かった陽乃さんは空を見上げた。傘も持たず、雪が白い肌に溶けていく様子は痛々しいと共に、この世で一番美しい光景に見えた。改めてその姿を見ると、コートの中はスーツに身を包んでいる。仕事中に呼び出してしまったか、と少し申し訳なくなるが、仕事だと分かっていたら呼ばなかったのか、と内なる声が叫び、それもそうだな、と思う。

「ねえ、このまま一緒に死のうよ」

 だめ? と可愛らしく首を傾げる。セリフの恐ろしさと、表情の純真さに頭がくらくらする。

「すみません、俺の身体じゃないんで」

 お前の身体だろう、とまた誰かが叫ぶ。

「やっぱり、比企谷君、おかしかったもんね」くすくすと手を口元に添えて笑うから、可笑しかったもんね、と言ったように思えてしまう。「じゃあ、あなたはどっち? 酷い方?」

 酷い方、と形容されたことに胸が痛くなる。それと同時に、なにか大きな力に押し込まれそうになった感情が沸き上がった。比企谷八幡が耐えられない出来事は同じように俺も耐えられない。俺の荒んだ心の矛先は、目の前で悲しく微笑み雪ノ下陽乃に向かった。

「そうですね」口が歪む。「酷い方です」

 すみません、と背を向けかけたが、水を掻き分けて近づいてきた陽乃さんの姿に動けなくなる。ゆっくりと腕を回して、抱き締められるのに身を任せた。唇が震える。お互い海水に足首まで浸かった所為も、過去に侵した失態の数々を思い出した所為も、それを加味して尚、抱き締めてくれた所為でもあった。頬を濡らすのは複雑な感情の入り混じった、紛れもない比企谷八幡の冷たい涙だった。

 極限まで追い詰められた俺は、その爆発した感情を雪ノ下陽乃にぶつけた。それは暴力行為という、一切許されない行為にまで到達する。破壊衝動、どうしようもなく壊したくなる、人も、物も、関係も。雪ノ下陽乃は俺の状態にいち早く気が付くと、妖しい雰囲気を纏い、俺を許した。俺のすべてを許した。

 雪ノ下陽乃は俺がぶつける劣情も、衝動もすべて受け入れた。身体中に痣を作りながら、俺がおさまる時間を作ってくれた。俺が自らの身体に傷をつけることでその行為から逃れようとすると、雪ノ下陽乃は自分の身体を差し出した。

 だんだんと自分の精神がコントロールできなくなっていった。折本やボブの女、そして遥を追い詰める度に心臓が誰かに握りつぶされるような苦痛が襲い掛かった。それでも、俺の思考は雪ノ下陽乃に助けてもらえるという酷い感情に支配された。廃人のような状態になろうと、雪ノ下陽乃は俺を抱え上げ、慰め、精神を差し出した。依存というのは、こういった状態から始まるのだな、とぼんやり思った記憶がある。それはもう一方の比企谷八幡が正常に機能していることの証拠でもあった。

「いこっか」と手を引かれる。

 逆らう意志のない俺は、濡れた身体のまま車に押し込められ、再び動き出した躯体に運ばれた。数十分すると、見たことのある景色、白いホテルが見えてくる。流れるような動作でホテルマンに鍵を渡す陽乃さんに倣うように俺も外に出て、乾く様子のない靴に渋面を作りながら歩いた。

 見たことのあるエントランスを抜け、エレベーターを使い、重苦しいドアを開けた。

 なにも変わらない、美しいままの夜景が目に飛び込んでくる。ちらちらと降る雪景色に心を奪われる。

 陽乃さんに呼ばれて浴室に足を踏み入れると、上はキャミソール、下は下着のみという刺激的な彼女の姿に驚く。風邪ひくよ、と言われて同じように服を脱いだ。熱いシャワーを二人で浴び、浴槽が溜まるのをまって浸かる。足の間にすっぽりと収まった陽乃さんは振り返り、俺の顔をまじまじと見る。彼女は薄く痣の残る自分の腕を撫でるようにして、「今日は叩かないの?」と大きな瞳で俺を射貫く。

「……叩きませんよ、叩くわけがないです」

「そうなんだ」

 少し俯くと、彼女は立ち上がる。露わになる臀部と腿の裏も肌の色が少し変わっていた。

 身体を拭いて浴室から出ると、バスローブに身を包んだ陽乃さんが月明かりの下、雪景色を見つめている。そこに近づこうと足を踏み出し、あることに気が付く。

 雪が止んだ。

 あ、と思うのと同時に、身体が後ろに倒れる気配がした。グッと堪えて、俺は陽乃さんの肩に手を置く。彼女は白い息を吐いて、光のない目でこちらを見た。

 意識が現実と夢を行ったり来たりしている。歩いている、車に揺られている、灯りが飛び散っていく。

 俺の意識は、家の玄関で電気を落とすように切れた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は愛に飢えている訳ではない。そう感じたのは、バイトが終わった時だった。自分の足元に目を落とすと革靴を履いていて、スーツ姿だと分かる。机の上の電子時計を見ると一月と表示されている。あれから一年が経っていた。そして再び襲い掛かる記憶の奔流。黙って事務室を立ち、化粧室に入る。人は二度目は慣れる、というが、その通りなのだろう。頭痛に振り回されるも吐き気を催すことはなかった。

 再び事務室に戻ると、設置されたテレビから流れる天気予報を見た。雪が降るのは空気が冷える夜中だけだという。俺はコートに腕を通すと、ビルを飛び出した。

 駅へと走る俺を包み込んでいたのは、愛の存在だった。

 それは紛れもない一色いろはから受け取ったもので、この一年、余すことなくその甘味な世界に浸っていた。比企谷八幡は、愛をふんだんに感じていたのだ。世界の色を変えるほどの愛を。

 だからこそ、比企谷八幡と雪ノ下陽乃を包んでいたものの正体に疑念を抱いた。

 これは愛と呼べるほど、美しいものなのだろうか。

 連絡を取って呼び出された場所は、都内のレストランだった。

 

 個室へと繋がる通路を経て、ステンドガラスで彩られた扉を引く。正面が全面ガラスになり、雪が舞う東京の空を臨む個室。陽光のようなライトに照らされて背を向けて座っていたのは、少し髪を伸ばした雪ノ下陽乃だった。

 向かいに腰を下ろすと、待っていたよ、と小さな声で言われた。

 俺は単刀直入にいう。「一色と同棲しています」

 雪ノ下陽乃の長い睫毛が震える。

「そうなんだ」

 伏せられた視線が再び俺を捉えるとき、やはりそこにあるのは一色いろはから溢れ出ていた純粋な愛ではなく、あの時間に取り残されたままの、哀しい瞳と、醜い期待だった。

 雪ノ下陽乃が父親の会社に入ったであろうことは容易に想像できる。一年前、雪の降る海で手を差し伸べる彼女はアイロンが掛けられたスーツ姿で、人生の岐路をひとつ越えた凛々しい姿だった。そして今の彼女の姿は少しカジュアルなジャケットに身を包み、裾の広がったスカートを履いている。

 タイトに自分を縛り、縛られていた雰囲気から、社会のルールを噛み砕き、自分のルールと照らし合わせる余裕を感じさせる姿だった。

 時間は万能だと、誰かが言った。果たしてそうだろうか。

 時間という薬は、風化することを表しているだけに過ぎない。人間は怒り、悲しみ、喜びを持続することができないのだ。いつまでも一つの事に怒り続けることはできないし、一つの事を喜び続けることもできない。怒り続ける、喜び続けることは力が必要だから。だから時間は万能だと、そう言うしかないのだ。

 ただ、期待なら、どうだろう。

 いつか感じたその快楽を目の前でチラつかせられて、では諦めてください、とそんな状態を続けられて、人が正気を保っていられるとは思えない。

 だから、俺もそれに溺れたのだ。

 時間が解決すると信じて、ゆっくりと足を踏み出した瞬間、たっぷりと蜜を塗られた釣り針が垂らされた。抗うなんて言葉はなかった。頭の中は真っ白だ。

 陽乃さん、と口を開こうとしたが、一瞬早く「比企谷君」と言われた。

「はい」背筋が伸びる。

「一色ちゃんとは上手くいってるの」

「そうみたいですね」

 分かりませんけど。俺だけれど、俺ではないので。

「もう……」雪ノ下陽乃はそれを言葉にしたくないのか、もしくは重要なことを強調するかのように、「壊れないのかな」と呟いた。

 え、と俺が前のめりになった時、「あ、雪が」と陽乃さんが引き攣るような声を上げた。

 俺は知りたくない現実と向き合うように、ゆっくりと背後を振り返る。東京を覆うのは、静かな空気と、激しい夜景だけだった。小さな冬は、どこにも見当たらない。

 俺は何かに憑りつかれたように椅子から立ち上がる。意志とは無関係のその行動に驚き、まだ話したいことのある陽乃さんに目を向けると、彼女も同じ目をしていた。

 口が小さく動いている。

「すみません……」

 辛うじて言葉を残し、やってきた店員にぶつかりながら店を出る。ドアをくぐると途端に体温が急激に奪われ始める。揺れる視界。東京の灯りは冷たく、白球のみ使っているのかと辺りを見渡したが、目の前を横切った車のブレーキランプが白く光ったことで、自分がおかしいのだと気が付く。

 酷い船酔いのような酩酊に近い状態のまま、視界に入った赤地に黄色いアルファベットのファストフード店、そのトイレに転がり込んだ。便器の蓋の上から力が抜けるように座る。前傾姿勢で頭を抱えた。

 時間は進んでいない。あの時から何も。雪ノ下陽乃の時間はもちろん、俺も、比企谷八幡も。そして、それは時間を奪っていることに他ならない。彼女の貴重な時間を奪い続けている。今なお、傷つけ続けているのだ。ならどうすれば、なんて吐き捨てるように口にする。

 答えは分かっているのに。

 やるべきことなど、ひとつしかないのに。

 雪ノ下陽乃の薬指にあった指輪を思い出す。それは一年前からそこに存在していたにも関わらず、見て見ぬふりをしていたものだ。

 プロポーズをしたのは比企谷八幡だった。比企谷八幡の身代わりとして生まれた俺ではない。なぜなら、俺は自分が比企谷八幡であって、比企谷八幡でない事を知っていたからだ。要するに、自分が存在し続けることができないと分かっていたのだ。

 俺は雪ノ下陽乃を幸せにすることができない。だから俺は、比企谷八幡が彼女にプロポーズをしたことが分からなかった。彼女に傾倒していたのはあくまで俺であって、比企谷八幡の精神はまだあの教室に取り残されていたはずだったからだ。

 一際、ズキン、と頭が痛む。交代時間を知らせるベルが頭の中で激しく鳴るようだった。交代ですよ、これ以上は違反ですよ、そんな幻聴が聞こえてくるようだ。

 今なら分かる、その理由が。プロポーズをした理由が。

 比企谷八幡の人格は二つあるが、身体は一つしかない。そしてその唯一の物質が影響を受けるのは、ぐらぐらと揺れる不安定な精神ではなく、何かに縋りついていたとしても、安定している精神の方だった。人を傷つけて、自らを傷つけるような橋渡りをしている人格よりも、不安定な精神を雪ノ下陽乃という支柱を頼りに立っている人格の方が安定していると身体が判断したのだ。そして比企谷八幡も、俺も、自然と影響を受けることになる。俺が求めていた心の安寧は、比企谷八幡も求めていると、勘違いし始める。

 そして今、俺の意識は蝋燭の炎のようにゆらめいている。もし突然現れた誰かが、ふっと息を吹きかけるようなことがあれば、俺という存在は跡形もなく消えてしまうだろう。対して、比企谷八幡の精神は驚くほど地に足ついている。ウィキペディアの充実というページを間借りしたくなるような状況だ。忌避していたリア充という単語をぺたぺたと身体中に張り付けられても文句はいえまい。

 一色いろはは俺の脳内にまで侵食していた。エプロン姿でキッチンに立つ後姿。比企谷八幡のオススメした本を首を傾げながら手に取る姿。ベッドの中で比企谷八幡の腕に抱かれる、あられもない姿。頭痛と共に濁流のように流れ込んできたのは、一色いろはが示した愛だった。

 健全なる魂は、健全なる精神と健全なる肉体に宿る、だったか。比企谷八幡の身体に宿るには、どうにも不安定過ぎたらしい。

 大きく風が吹き、投げ出されるように身体から剥がれるイメージ。

 またこの灯が燈ることはあるのだろうか。

 俺の意識は空気に沁み込んでいくように、消えていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 街が煌めいている。街路樹には電飾が巻かれ、過ぎ行くテナントにはリースが掛けられていた。スピーカーから漏れ出てくるのは、サンタが街にやってくるあの曲だった。手を繋ぎ、腕を組むカップルが、盛んに声を上げている。キャー、キャー、キャー。黄色い声が、悲鳴に変わる。街が白くなる。雪で覆われる。意識が霞んでいく。ポチャン、と音がして、見れば緑色のリースが赤色に染まっていた。また一滴、そこから赤い雫が垂れた。ピチャン。あ、と気が付いた時には、小さなナイフが腹に刺さっていた。

 ああ、またこの夢か、と呟く。

 きっと、事件とやらの記憶なのだろう。だとしたら背中側だぞ、と思いながら腹から生えるナイフを抜く。力を込めてから、抜いたら血が出るのでは、と考えたが遅かった。まるでケチャップを踏みつけてしまったように、ぴゅっと音がしたかと思えば、ポンプである心臓と同期しているように、ぴゅっぴゅっ、とリズミカルに血が噴き出る。

 血出すぎじゃない? と思うと同時に、お腹の傷口を抑える手が伸びて来る。ぐっ、と傷口を摘むような止血の雑さに苛つきながら顔を上げると、特徴的な金髪が揺れている。「何やってんだよ、戸部」

「いや、やっぱ責任感じるじゃん?」

 ニカッと笑い、血のついた手で襟足をガシガシと掻く。おいおい止血止血、あと責任感じた表情してね?

 もう自分でやるわ、と傷口に視線を戻すと、先ほどよりも短い髪がそこにあった。「葉山か」

「もう、いいのか?」

 俺を見ているのか分からない瞳を向けて来る。いい訳ないよね? 血出てるよね?

 葉山を突き飛ばすように押しのけ、自分の手で傷口を抑える。そしてまた同じように、俺の視界に人の頭が侵入してくる。さらり、と音がしそうなほど艶やかな髪質は、雪ノ下雪乃を彷彿とさせる。

 来た、と俺はそのしゃがみ込んで傷口を見るその女性を抱きとめる。

 自然と溢れ出るのは、頬を流れて顎から垂れるほどの大粒の涙と、内臓が破裂しそうになるほどの罪悪感だった。「ごめんなさい」と誰かも分からないその人に謝る。

 とにかく謝らなければならない、と俺は思うしかなかった。

 とにかく、とにかく、謝り続けなければならないという事だけがはっきりしている。

 でも、顔は見れない。

 見てはいけない。見ることはこの夢のデータにはない。そんな分岐はない。

 分からないからだ。

 きっと見ても分からない。

 それが雪ノ下雪乃の顔であっても、由比ヶ浜結衣の顔であっても、見てしまったら俺にはきっと分からないのだ。

 もう、俺の手から離れてしまったから。

 俺の手から離れてしまったものは、もう、俺以外の誰かが動かすしかないから。

 だからきっと、俺には分からない。

 一色ではない身体の感触を、俺の腕はしっかりと抱き締めていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

growing pains:haruno

「って」一色は踏み出した足に、ぐっと力を入れる。「諦めるかバカ!」

 下品な笑い声で腰を振る男の一人に体当たりをして一色は走り出した。一色の高い声と、男二人の抗議の声に周囲の人の意識が集まる。「ふっざけんな!」

 すみません! すみません! と一色は人混みを掻き分けて進む。ちらちらと降り注ぐ雪に騒ぐネズミの被り物をした女子高生集団を避けて、通りが一瞬見えた。それはすぐに人で埋め尽くされるが、方向は分かった。一色は再び声を上げて先を急ぐ。ぜえぜえと白い息が盛んに吐き出される。

 スペースを見つけてそこに飛び込む。突然現れた一色に並んでいた人の好奇の視線が刺さり、居心地の悪さに少し身じろぎをするが、またすぐに移動する。

「いっ」

 乱暴に腕を掴まれ一色は思わず声を上げてしまう。振り返ると、先ほどの男がニヤつきながら息を吐いている。

「ひどいじゃん、ねえ」

「ちょ、離してよ!」一色は必死に腕を振りほどこうとするが、一色の細い腕は掴みやすいのか、しっかりと握りこまれていて痛みが走る。「痛いって!」

「逃げるのが悪いんだって、っておい何見てんだよ!」

 男は唾を飛ばして周りを威嚇する。一色とその男を中心に少しずつ人の輪ができ始めていた。じりじりと離れつつも、まるで人生の貴重な一ページを記録するかのように携帯を構えだす姿を見て、一色は俯き唇を噛んだ。

「せんぱい……」

 小さく呻くように呟くと、視界の端に黒いブーツが侵入してきた。

 え、という間もなく、一色の腕は解放される。熱を持っていたはずの腕が突如冷たい風に晒された感触が気持ち悪い。

「ってえな! はなせよ!」

 男の吐き捨てるようなセリフに一色は腕を抑えながら振り返る。

「悪いな」

 葉山隼人は一色をチラリと見て、男の腕を捻り上げた。

「いてててて!」

「先約があるんだ」

 一色が突然のことに口を閉じたり開いたりさせていると、葉山は男の背中側に捻った腕を思い切り押して、遅れて登場していたもう一人の革ジャン男にぶつける。

「葉山先輩」

「いこうか、いろは」手首の存在を確かめるように蹲る男をよそに、葉山隼人は一色の背中を押す。「比企谷が待ってる」

「え、せんぱいが?」

 葉山隼人は首肯し、少し歩くと路上に停めてあったスポーツタイプの高級車、その助手席に一色を押し込んだ。一色は初めて乗るような車の内装に視線を彷徨わせ、シートの触り心地に少し引いていたが、運転席に葉山隼人が乗り込んできたのを確認して訊く。

「せんぱいはどこにいるんですか?」

「さあ」葉山隼人はギアに手を置いて、わざとらしく肩を竦めた。「急ごう」

 一色はフロントガラスを見つめるその横顔に驚く。

 葉山隼人が喜んでいる。

 この瞬間を噛み締めている。

 何に対しても冷めている男が見せる一瞬の熱に、一色の顔も熱くなる。

 多分、この顔がずっとできるなら、本物になっていたかもしれないな、と一色は笑う。

「もう遅いですよ」

 一色がそう言うと、葉山隼人は横目で一色を見て首を傾げた。

 車は国道に入り、インターを目指す。

 雪はなおも強く、濃く一色の視界を霞ませていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 低く唸りを上げる車内は静かで、地面に近い車高に慣れていない一色はお尻の辺りがムズムズしていた。高速道尾を南下しているのは分かったが、どこに向かっているのかまではまだ分からない。ハンドルを握る葉山隼人を見ると、ハンドルの右側に設置された携帯スタンド、その常に表示されている画面をちらちらと気にしている。

 なんでナビ使わないんだろう、一色がそう思うのと同時に車のスピーカーから聞きなれない音が鳴り響いた。ごうごうと唸る様子は巨大な獣の威嚇にも思えた。一色が耳を澄ませると、葉山隼人のスポーツタイプの車とは別の音がしていた。なんですかこれ、と訊こうとした刹那、ザザ、とノイズのような音が走った。

『あれ、もう気が付いた?』

 一色は自分の身体が硬直するのが分かった。辛うじて運転席に視線を向けると、葉山隼人は険しい顔で先を見つめていた。

『まだ寝てていいから、大丈夫だよ、比企谷君』

 あの女の声だ、一色は車内に響いた声に噛みつくのに耐え、口をわなわなとさせながらもなんとか話す。

「な、なんですか、これ」

 葉山隼人は深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。「比企谷の依頼だ」

「依頼?」一色は眉をひそめる。

「ああ、でも、一色の知る比企谷じゃない」一色が黙っていると、葉山隼人は何かを諦めたように続けた。「三年前、あの事件で消えた、もう一人の比企谷からの依頼だ」

 葉山隼人がおかしなことを口走り始めた、と一笑に付す一色と、やっぱり、と頭の中で漂っていた点と点が繋がる一色がいた。いやいや、と頭を振るも、拭いきれない過去が一色の思考を抑え付けてくる。

「もう一人の、せんぱい……」

 一色の頭を掠めたのは三年前のクリスマスイブ、踏切の前で一色の唇を奪ったあの一瞬だった。まるで、人格が入れ替わるような、あの一瞬。

 いや、と一色は考え直す。あの瞬間に感じた違和感は少し違う。もっと、なにか混ざり合うような―――。

「ここからは、もう一人の比企谷から聞いた話だ」一色はその口ぶりに、葉山隼人自身も完全に信じられている訳ではないのだと悟った。「比企谷は、自分の身を守るため、もう一つの人格を作った」

 そこから先は荒唐無稽、到底信じられるような話ではなかった。若気の至りで女に手を出したいい訳ではないのか、言い訳にしては幼稚すぎやしないか、一色は話の腰を折らないように必死だった。心を避難させるためにもう一人の人格を作り、それが今は雪が降る時だけ顔を出す。そんなことが。

 そんなことが、そんなことが、あって、欲しい……。

 一色は零れ落ちそうな涙を堪える。

 二月一日、と葉山隼人が言い、一色の意識は引き戻される。「一年前の二月一日、比企谷に呼び出されたんだ」

「せんぱいに……?」

 ふっと息を吐くように笑い、葉山隼人は頭を掻く。「びっくりだよな」

「いえ、そういう訳では」一色の語尾は消え入るようだった。

「協力してほしい、と比企谷に頭を下げられたよ」

「協力って何をですか」

「”もし、もう一度俺が出てくるようなことがあれば、一色に聴かせてほしい”って、比企谷八幡の出す答えを」

 黒く、うねるような感情が一色の胸に広がる。

『雪ノ下さんにプロポーズした』

 あの雪の日、あの静かな声が再生される。何度も忘れようとしたあの声は、この三年間一色の頭の中で幾度となく明瞭に蘇った。夢の中、ふとした瞬間、比企谷八幡に抱かれている時、気を抜けば一色の幸せなんてなかったことにされるのではないかと常に怯えていた。

 比企谷八幡の出す答え。

 聞きたくない、と一色は耳を覆いたくなる。聞いてしまったら、すべてが終わってしまうような気がして、一色が必死に抱え込んでいた幸せがするりと逃げてしまいそうで、気がおかしくなりそうだった。

 その時、また小さなノイズが走る。

『陽乃さん』一色はよく知った声に虚空を見つめる。『次、停めてください』

『次? パーキングだけどいい?』雪ノ下陽乃の驚く声がする。

 葉山隼人が鋭く視線を走らせ携帯を一瞥したかと思えば、ウインカーを出してアクセルを吹かした。車線を右に替え、スピードを上げる。

『はい、お願いします』

『うん、分かった』

 一色は息を止めていた。もしこれが通話状態だった場合、向こうに存在を知られてしまうのではと危惧したが、隣の葉山隼人が、消音状態だよ、と口を開いた為に、一色もため息をつく。

「そこに行くんですか」

「みたいだな」

 葉山隼人はギアに手を置き、前方に車がいなくなったのを確認して左車線に戻る。

 もしかしてせんぱいのGPSでも見ているんじゃ、と一色は葉山隼人の横顔を見たが、そんな訳ないか、と視線を戻す。雪は数十分前よりも勢いを弱くしていて、何かが終わりに近づいているんじゃないか、そう一色は感じた。

 

『着いたよ、比企谷君』

 フロントガラスが雪を跳ね上げ、夜の帳は完全に降りきった。雪ノ下陽乃の声はその闇に輝く一筋の光の様な艶やかさを持ち、一色は歯ぎしりをする。

『すみません、ありがとうございます』

 バタン、とドアを閉める音がして、次いでコンクリートと靴が擦れる音が続く。もう一回小さくドアを閉める音がしたため、雪ノ下陽乃も外に出たのだろう。

『どこいくの?』雪ノ下陽乃は怪訝な声を発する。

『少し歩きましょう』

 一色も、どこに行くんだ、と知らず握りしめていた拳に力が入る。車内に響き渡る声は、二人の会話を横で聞いているようで、何もできないという事をまざまざと見せつけられているようで一色の心臓は抗議するように跳ねる。

 しばらく、比企谷八幡の足音と雪ノ下陽乃のヒールが鳴らす音が流れる。

 一色は音に気が付く。比企谷八幡の足音だ。比企谷八幡が踵を擦って歩くとき、それは人混みだったり、嫌なことが待っている時だったりあるが、一番は体調不良の時だった。一色がスピーカーに耳を澄ませると、少し辛そうに歩く比企谷八幡の姿が脳裏に浮かんだ。

『海が鳴ってる』そう言ったのは雪ノ下陽乃だった。

『見えないですけど、多分、この下は海ですかね』

 一色は腕を伸ばし、目的地の設定されていないナビを触る。ピコピコと触れていると、現在地よりさらに南に海があった。

『雪、弱くなってきたね』雪ノ下陽乃の言葉と共に、自らの身体を擦る音も聞こえてきた。雪の降る海岸の寒さは、千葉県民ならよく分かっているだろう。『比企谷君?』返事がない事を心配してか雪ノ下陽乃は名前を呼ぶ。

『陽乃さん』

『うん』

『会うのは、今日で最後です』

「え」

 一色は思わず身を乗り出した。雪ノ下陽乃も同じような反応をしただろうが、一色の驚きによって掻き消される。今の比企谷八幡は、一色にキスをした”あの”比企谷八幡はの筈だ。続きを聞き漏らさないよう、一色は息をひそめる。心なしか葉山隼人の運転も一定の速度を維持しているようだった。

『どうして?』

『俺には、あなたを幸せにすることができないからです』

『そんなことない。十分幸せだよ。年に一回でも、二年に一回でも、雪が降ったら会えるだけで私は幸せだよ』

『すみません……でも、俺にあなたの時間を奪う権利はないんです』

『奪ってなんかない!』

 何かが破裂したような、突然の叫び声に一色と葉山の肩が震える。おそらく比企谷八幡のポケットにある携帯が通話中になっているのだろう、常に籠ったような音だったが、その声だけは鋭く一色の鼓膜に響いた。

『奪ってなんかない! 奪ってなんかないよ、ねえ比企谷君』

 縋りついているのか、比企谷八幡の着ているものがズルズルと音を立てる。

『陽乃さん、ひとつ聞いていですか』

『うんなあに?』

『陽乃さんは、俺に何を求めてるんですか』

 一色は、そんな曖昧な、と言いたくなる。しかし、その声には比企谷八幡には一つの回答が見えているんだな、そう思わせるような迫力があった。

『なにって、全部だよ。比企谷君の全部、比企谷君の生活の全部、比企谷君の心の全部だよ』

『俺はもう、壊れませんよ』

『壊れる……って何が?』

 比企谷八幡が空気を吸い込む気配があった。

『俺の心はもう、壊れませんよ』

 雪ノ下陽乃も一瞬沈黙し、一色は比企谷八幡の考えと言葉の意味が分からず頭を抱える。どういう意味ですかせんぱい、と呟きかけた時、「やっぱりそうか」と隣から声がした。一色が顔を上げると、険しい顔をした葉山隼人が暗闇を見つめていた。前方を見つめているのに、意識が別のところに飛んでしまっているかの様だった。フロントガラスに映っているのは、単なる景色ではない、そんな気がした。

『え、い、いいよ? なんでダメなの?』

 雪ノ下陽乃、その声が明らかに震えていることに一色は気が付く。

『陽乃さん、あなたは、壊れてしまいそうな俺が欲しかったんじゃないですか』

『何言ってるの…?』

『人を傷つけて、自分を傷つけて、ギリギリのところで精神を保っている比企谷八幡を求めているんでしょう』比企谷八幡が言葉を切っても、雪ノ下陽乃の応答がない。通話が切れたかと心配したが、比企谷八幡がさらに詰める。『二年前の冬からおかしいと思ってた。俺の知ってる陽乃さんはもっと慈愛に満ちた瞳で俺を映してくれた。でも今は違う。陽乃さん、あなたはきっと、きっと、雪ノ下陽乃がいなければ生きていけない、雪ノ下陽乃がいなければ壊れてしまう、そんな存在を求めていたんじゃないですか』

「以前、比企谷にも言ったが」電話口の比企谷八幡がそう言い切り、刹那の沈黙が訪れたかと思えば、突然葉山隼人が言葉を発した為に一色は首を向ける。「あの人は、好きなものをかまいすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すことしかしないんだ」

「どういうことですか」

「一番好きなものを、自分無しではいられなくしたいんだ。あの人は極端なんだ、自立するなら、自分一人で立ち上がれと要求する。雪乃ちゃんはそのそのタイプかな、自立を目指す癖に、少しずつ依存してしまう、そんな弱さをあの人は許せない。今は変わったようだけど」

 葉山隼人はちらりと一色を見てから言葉を紡ぐ。

「もう一つは、かまってかまって、自分の存在なしではいられないような弱さを要求する。昔の俺がそうだった。あの人の言う事を信じて、それに従っていれば幸せになれる、そんな思いすらあったよ。要するに俺は殺されていたんだ、殺し続けられていたんだ。そして、そこから抜け出そうとした時、あの人は俺に価値を見出さなくなった」葉山隼人の表情は苦く、先ほどの憂いに満ちた瞳は過去に思いを馳せていたんだと一色は感じた。「だから、今の俺の中途半端さが、あの人は大嫌いなんだろうな」

「じゃあ、その弱さをせんぱいに求めたってことですか」

「だと思う、でもただ弱いだけじゃだめだ。自分をもち、力をもち、哲学をもつ、それだけの強さを持ち合わせながら、雪ノ下陽乃の存在に縋ることでしかそれら全てを保てないような、そんな歪んだ弱さを捜しているんだ。あの人の欲望で壊された人間を俺は何人も知ってるよ」

 葉山隼人は、比企谷八幡がその一人であるかのように目を細めた。

 一色はスピーカーから絶え間なく流れるノイズに晒され続け、静寂を捜すように身を捩った。

 でも、必要とする気持ちは、愛する気持ちなんか分からないじゃないですか、不意に浮かんだそんな思いに、一色は驚く。忘れようとぶんぶん頭を振る。

『あははははは、はは……、何言ってるか分かんないや』

 狂ったような笑い声をあげ、雪ノ下陽乃はそう言った。

『陽乃さん、知ってますか』

『なにを?』

『俺が、比企谷八幡が心を保つために雪ノ下陽乃に縋ったことを、雪ノ下陽乃の欲求を満たす為に掌で踊っていた比企谷八幡の存在を』

『やめて』

『それを、あなたが嫌った共依――』

『やめて!!』再び空気が震える。一色と葉山隼人がいる車内にもひりひりとした波が伝わる。雪ノ下陽乃は鼻を啜り、切れ切れの声で叫んだ。

『私の愛を、―――共依存なんて呼ばせない!!』

 ブツ、と音が切れた。

 充電でも切れたのか、一色が運転席に顔を向けると、葉山隼人は舌打ちをしてアクセルを踏み込んだ。スタンドに置かれた携帯がピコンと何かを受信した。

「もうすぐ着くぞ」

 葉山隼人はそう言って車線を変える。

 一色は祈るように両手を握り合わせる。

 自分が何を祈っているのか、何を怖がっているのか、分からないまま一色は祈る。

 できるのならば、気持ちが、愛が、愛だと証明されますように、そんな恥ずかしい事を、一色は考える。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 クリスマスイブのパーキングエリアは車も疎らで、暗く広い駐車場はうすら寒さすら感じさせた。いくつかの乗用車と長距離トラックが間隔をあけて停まっている。正面の自動販売機とトイレだけが発光していたが、その黄色とも白色ともつかない灯りは酷く冷たく見えた。

 葉山隼人は少し乱暴に車を停めると、外に出る。呆けていた一色も急いで続く。

「比企谷を捜すぞ」首を振りながら一色に言う。

「せんぱいの居場所が分かってるわけじゃないんですか」

「分かっているのはこの付近にいるってことだけだ、細かい位置までは分からない」

「そんな」

 一色は広いパーキングエリアを見渡す。そこは一色のイメージする何もない場所ではなく、トイレを中央にして、左右に遊歩道が伸びていた。街灯も少なく危険な香りが漂っている。

 葉山隼人もそれを察知したのか、顎に手を当てて考え事をする。

 私一人でも大丈夫です、と言おうとした時、一色の背後で足音が聞こえた。タッタッタ、と駆け足のような音が近づいてくる。一色は驚いて葉山隼人を盾にするように隠れた。

「あ、よかった、葉山君」

 可愛らしい、中性的な高い声に一色は「あ」と声を上げていた。「戸塚先輩」

「こんばんは、一色さん」

「あ、こ、こんばんはです」

 戸塚彩加が丁寧に頭を下げる為、一瞬ここが大学の通路で、偶然出会ったかのような柔らかい空気に包まれる。一色はそのまま、せんぱいいるのでお茶でも、と言いそうになったのをグッと堪えた。

「せんぱいの居場所分かるんですか?」

「うん、こっちだよ」

 方向を指で示しながら走り出す戸塚彩加に一色と葉山隼人は顔を見合わせて続く。正面から左、ドッグランのような空間を抜けて木々の生い茂る遊歩道に足を踏み入れた。

 一色は白い息を吐きながら戸塚彩加に訊く。「戸塚先輩もせんぱいに頼まれたんですか?」

「うん」と戸塚彩加は微塵も疲れを感じさせない足取りで首だけ振り返る。「葉山君と一緒にね」

 一色が隣を見ると、葉山隼人がコクンと頷く。

「やっと、力になれたかな」戸塚彩加は力なく呟いた。

 一色は、はっと気が付く。葉山隼人が笑っていた理由、それは比企谷八幡からの依頼を遂行するからだ。”あの”比企谷八幡が葉山隼人に頼みごとをするなんて、と考えれば分かる。ただ、比企谷八幡の力になれると喜ぶ戸塚彩加と葉山隼人では少し感情に差があるようにも思えた。

「あそこだよ!」

 戸塚彩加が叫ぶ。一色の視線の先には白い灯りと、それに照らされて闇夜に浮かび上がるベンチがあった。せんぱい、と呼ぼうとしたが、一色は足を止めていた。戸塚彩加と葉山隼人もそれに習う。

「―――だから、全部勘違いなんです。あのプロポーズも」どくん、と一色の心臓が強く脈打った。ベンチに力なく座る雪ノ下陽乃から比企谷八幡は離れる。「さようなら、陽乃さん」

 雪ノ下陽乃に背を向けた比企谷八幡の身体がぐにゃりと曲がり、地面に膝をつくとそのまま横の芝生に倒れた。

「せんぱい!」

 一色は一心不乱に駆け出して、比企谷八幡の身体を起こした。どこか怪我をしていないか、血は出ていないか、気を失ったような力の抜けた顔を見て、少し落ち着く。葉山隼人と戸塚彩加も遅れて白い街灯の舞台へと立つ。

「分かんなくなっちゃったんだ、私」

 それが雪ノ下陽乃の声だと一色は遅れて気が付く。それほどに覇気を失い、色の抜け落ちた声だったからだ。一色は睨みつけようと力を入れたが、ベンチに座る雪ノ下陽乃は、少女のように小さく見えた。

「私がしてきたのは間違いだったのかな。好きな人のすべてを求め、受け入れるのは、悪い事なのかな」一色は思わず黙ってしまう。同じ境遇なら私も比企谷八幡を許してしまうのだろう、そう確信できるから。「私の愛は、全部勘違いなのかな」

「勘違いなんかじゃ、ないです」

 葉山隼人も戸塚彩加も驚いて一色の方を見る。一色も同じように驚いていた。それが自分の声だと気が付くのに、数秒かかる。雪ノ下陽乃も思わぬ言葉だったのか、頬を濡らした綺麗な顔を上げる。

「あ、いや……」

 一色が言い淀んでいると、それを引き継ぐ声が聞こえた。

「勘違い、なんかじゃない」

 とても懐かしく感じたその声に、一色は思わず涙してしまった。腕にある比企谷八幡の身体に力が入るのが分かる。筋肉が収縮するのが分かる。顔の筋肉が歪みながらも、動くのが分かる。

「せん、ぱい……」

 比企谷八幡は重そうな身体を起こすと、ちょんと一色の頬に触れ、それから雪ノ下陽乃に向き合った。

「雪ノ下さん、あなたの愛は本物ですよ。そして俺の、”あいつ”の愛も、絶対に本物です」

「どうしてそう言いきれるの」雪ノ下陽乃は力のない瞳で比企谷八幡を見つめた。「君は、比企谷君で、比企谷君じゃないんでしょう? もう彼は、戻ってこないんでしょう?」

「ええ、”あいつ”はもう戻ってきません。さっき話しましたから」

「ほら、分からないじゃない」

「いえ、もう、一緒になったので」そう言って比企谷八幡は胸に手を当てた。何かを懐かしむような、何かを悲しむようなしぐさに、一色と葉山隼人、戸塚彩加も息を呑んだ。「全部、分かります」

「記憶があるんですか?」

 一色が後ろから問いかけると、比企谷八幡はうなずいた。

「雪ノ下さん、俺はあの事件前、不安定だったかもしれません。でも、ひとつだけ確かなことは、あの瞬間、”あいつ”を包んでいたのは、雪ノ下さんの愛です」

「……でも、それが私の嫌う共依存なのよ。全部、勘違いなのよ」

 比企谷八幡は力強く一歩踏み出した。「共依存で何が悪いんですか! 共依存が愛じゃないなんて、誰が決めたんですか、雪ノ下さんの愛を受け取った俺がそう言うんです、他の誰がそれに反対できますか!」

 雪ノ下陽乃が目を見開いた。

「愛は主観です。もちろん、俺が、”あいつ”が雪ノ下さんにしたことは許されることじゃない。でも、雪ノ下さんが俺を大切に思ってくれたことを、誰にも勘違いだなんて言わせない」

 ぽつり、と雫がコンクリートに沁み込む。一色の足元を濡らし、戸塚彩加の足元を濡らし、雪ノ下陽乃の足元を濡らす。そして、比企谷八幡の足元にも垂れる。

「だから、だから言わなきゃならない、俺には、”あいつ”が大切に思った雪ノ下さんの時間を奪えない。俺は、”あいつ”じゃない比企谷八幡は、一色いろはを愛しているから」

 比企谷八幡が膝をつく。時間が止まったように、比企谷八幡は以外の者は動けない。その瞬間を邪魔することは、誠意を込めて託した一人の命を汚すような、そんな空気が漂っていた。

「雪ノ下さんにしたすべての事を謝ります。申し訳ありませんでした」比企谷八幡は額を地面に付ける。

 木々は騒めき雪を振り落とす。何秒、何分、十何分と感じられた時間のあと、比企谷八幡は顔を上げて叫んだ。

「そして、”あいつ”からの伝言です。愛してくれてありがとう、愛してます、陽乃さん」

 そう言って、もう一度額をつけた。

 葉山隼人が顔を逸らし、一色いろはは堪えきれず声を上げて泣いた。

 雪ノ下陽乃は顔を覆って嗚咽を堪える。身体中の液体を足しても足りないのではないかという程に、涙が止めどなく溢れる。

「……ごめんなさい、ごめんなさい、愛に、応えられなくて、ごめんなさい」

 潮が運んできた音は、比企谷八幡と雪ノ下陽乃の関係に静かに幕を下ろした。

 走り続けた列車は、忘れられない別れで終着する。

 長い人生の旅路、その一瞬、成長痛の様な時間が後に与える影響は計り知れない。

 正解なのか、間違いなのか、それは人生のもっと先、振り返った時に分かることなのか、それすら分からない。

 ただ、今起きているすべては間違いで、いつかそれが正解だったと気が付くその日まで、人は歩き続ける必要があるのだろう。

 だからきっと、彼ら、彼女らの、青春ラブコメは間違い続ける。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

growing pains:end roll

 

 ピューンとも、ギャーンとも表現しずらい騒音が空間を満たしていた。自動ドアを挟んだ店内はまるで異空間の様で、足を踏み入れた傍から比企谷八幡の耳を攻撃し始める。鼓膜が悲鳴を上げ、ぞれが徐々に収まり始めた頃、目的の場所にドカッと腰を下ろした。

 百円玉を投入し、『対戦申し込みをしますか』という表示にイエスで答える。数秒後、対戦申し込みが承諾されてキャラを選ぶと二人の女格闘キャラが画面で向かい合う。ゴングを合図に中央で拳を交わした。比企谷八幡が小癪な下蹴りでゲージを減らしていくと、台の向こう側から「小癪な!」という抗議の声と鼻息が聞こえてきた。比企谷八幡は構わず続ける。

 K.Oと表示され、相手側のキャラクターが地面に倒れた。よく分からない掛け声とともに、台の向こうで椅子が音を立てる。ガッ、とゲーム台の端を掴む手が見え、丸い顔が覗いた。

「卑怯だぞ! もう一回勝負しろ!」

 材木座義輝が顔を出して叫ぶ。比企谷八幡の顔を見ると、ただでさえ顔が丸いのに、目も丸くして、口も丸くする。昔のパソコンで円を利用して描いた顔の様な有様だ。

「ああ、受けて立つ」比企谷八幡が目を見ていう。

 材木座義輝は空気が抜けたように息を吐くと、台の向こう側に消えていった。しばらくして『対戦申し込みがあります』と画面に表示される。

 また同じキャラが画面で向き合い、ゴングが鳴る。

「材木座ぁ!」比企谷八幡がうるさい店内で叫ぶと、「なんだ!」と返って来る。「悪かった!」と続けて叫ぶが、返答はない。

 しばらくカチャカチャとボタンを操作していると、なら、と声が聞こえる。

「なら! 今日はとことん付き合ってもらうぞ!」

 少し涙ぐんだ声が店内に響き渡り、周りから視線を向けられて比企谷八幡は少し居心地悪さを感じる。

「悪い! 六時までな!」

「はぇ!? なぜだ!」

「彼女が待ってる!」

「このリア充がああああああああああああ!!」

 比企谷八幡のキャラは宙を舞い、同時に材木座義輝の豊満な肉体がゲーム台の横から現れる。

 今日だけはいいか、と比企谷八幡は自分の身体にしがみつく巨体をポンポンと叩く。

「……悪かったな、材木座」

 ピューンとも、ギャーンとも、ウオオオンとも、これだからゲームセンターは……まあ、耳が痛い、くらいか。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「やり直せるさ、人生遅すぎることなんてない」

「そうかなあ、じゃあJKになってオジサンでも誑かそうかな」

「冗談に聞こえないからやめてくれ……」

「えー、静ちゃんが遅すぎることはないっていったのにー」

「もっと違うことに情熱を燃やしてくれ……」

「ちぇ、じゃあ、いい人でも探そうかなー」

「え、は、陽乃が?」

「なに」

「いや、そんなこと言うの意外だな、と思って」

「なんだろうねー、でも、そうだね、かわったかも」

「ふっ、ふふふ」

「なに」

「いやいや、なんでもないよ。よし、今度一緒に婚活行くか!」

「ごめん、静ちゃんほど飢えてないからいい」

「誰かいい人いないかなあああああ!」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 三浦優美子のよく分からないお礼とやらで連れまわされ、最近葉山と付き合い始めた事を知った。逆に付き合ってなかったんですか、と言いたいところだったが、つい先日、葉山の何かが吹っ切れたという事を聞き、思わず黙る。その会話の途中で折本を見た。髪は黒く、短く切られていたが、折本だとは分かった。近づいて声を掛けようかとも思ったが、年上に見える男と腕を組んでいた為に、目を逸らす。三浦に肘打ちを喰らい、由比ヶ浜が困ったように笑った。

 平塚先生に呼び出されていることを由比ヶ浜に言うと、そうなんだ、と力なく頷いた。

 

 何故か総武高校に呼び出された俺は、二時間越えの超大作映画ならぬ、説教、ならぬカウンセリングのようなものを受け、最後には申し訳なさそうに謝られた。俺自身考えることもあったが、下駄箱のある所に行けと言われて渋々行くと、城廻先輩が立っていた。俺の姿を見るなり顔を歪ませ、土下座しそうな勢いだったがなんとか止めた。もうピンピンに動けることを示して腰を捻っていると、後ろから平塚先生がぬっと出てきて、奉仕部の部室であいつらが待ってるぞ、と言われる。城廻先輩に別れを告げた。

 

 特別棟の教室は、ドアをノックするだけで胸がすく思いだった。音を立てて扉を開けると、眩しい夕日が飛び込んでくる。逆光に佇む二つの人影に俺は近づいた。

 私は姉さんの味方だから、雪ノ下はそう冷たく言い、由比ヶ浜が、抱え込みすぎないでね、と俺の背中を擦った。しかしすぐ、勘違いしないで頂戴、と艶やかな髪を手で払い、あなたの事を見捨てたわけではないから、むしろ再教育と監視が必要だからよろしく、と雪ノ下節を炸裂させた。

 それが、俺にはありがたかった。

 校舎を後にするとき、雪ノ下の口からぽつり洩れた言葉には驚かされた。

 ―――もし、あなたが選んでいたら、変わったのかしら。

 由比ヶ浜に聞こえないように、そう呟いた雪ノ下を見て、鼻で笑う。

「はっ、俺の黒歴史が一つ増えるだけだよ」

 雪ノ下は一瞬目を見開いたが、すぐに口元を綻ばせた。

「そうね」

「ヒッキー! ゆきのーん! 早く早くー!」

 俺は雪ノ下と顔を見合わせ、歩を進める。

 眩しい夕日は、あの日とかわらず俺たちを照らしていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 あの後、葉山隼人に雪ノ下陽乃を任せ、戸塚彩加の運転してきていた車で帰路に就いた。俺と一色は口を開かず、戸塚も気を遣ってか話を振って来ることはなかった。最寄りの駅で降ろしてもらい、戸塚にまた礼をすることと、助かった、という事を告げて家へと向かう。途中まで一緒に歩いていたが、一色は突然足を止め、「実家に帰らせていただきます」と言い、家とは反対方向に歩き出した。

 クリスマスイブから日付も変わり、クリスマスになった寒空の下を歩く一色の後姿を、ゆっくりと追いかける。女性の数メートル後ろをトボトボと歩く様子はストーカーに間違えられてもおかしくなく、ビクビクしながら歩いていたのは内緒だ。

 駅へと戻ってきても、もちろん電車は来ず、一色はさらに歩き出す。

 雪の名残は道路の端を飾り付けるだけに留まり、しんと静まった住宅街を少しだけ華やかにしていた。家の電気の殆どは消え、子供たちはサンタの登場を今か今かと夢の中で待ちわびているのだろう。一色の背中は先ほどよりも小さく、力なく見えた。

 一駅分歩いて、少し広いロータリーが見えた。植えられた木々は既に葉を落としているが、飾り付けられた電飾の所為か、枯れ葉を纏っている時よりも誇らしげに見えた。青、赤、黄、緑、節操なく色を使い、木々を盛り立てている。

 コツンコツンと一色の低いヒールがタイルに変わった地面を叩く。この電飾は二十四時間営業なのか、なんて考えていると、バツン、と音がして一斉に電気が落された。突然の出来事に一色の足が止まる。光源を失い、目が暗闇に惑っていると、辛うじて一色がこちらに振り返ったのが分かった。

「せんぱいの求める本物って、なんですか」

 ぼやけた視界で、一色が揺れていた。

「……分からん」

 俺は自分の胸の内を正直に吐露した。本当に分からなかった。ずっと、ずっと追い求めていたものは今では肥大し、膨張し、あるいは破裂し、既に姿を変えてしまっていた。比企谷八幡が高校時代に目指したエデンは、地に落ち、何者かに踏み荒らされた土地に成り果てていた。

 今思えば、夢を見ていたのかもしれないな。

 人の裏をかいて、安心して、自分を守って、前に進まない。俺はそんなぬるま湯をいつしか本物と呼んでいたのかもしれない。葉山隼人、戸部翔、三浦優美子、海老名姫菜のように過去に囚われ、足を踏み出せないでいる連中をみて、心を落ち着けていたのかもしれない。

「世界は思ったより、生きづらいな」

 思わず、頭の中から漏れていた。一色は首を傾げつつも、そうですね、と頷いてくれた。

 自分の求めたものは手に入らないし、他人の評価が自分を縛りつけていく。そんな窮屈な世界で、いつしか俺の本物は歪み、汚れてしまった。目的地のない旅路は、ギャンブルに近い。たとえそれが遠く、かけ離れたものであっても、そこを目指す旅路はきっと豊かなものだろうな、と思う。

 それは、高校時代の自分が証明してくれた。

 眩しいほどのそれに手を伸ばし、手に入れることをやめた時間は無駄だった、間違いだったと言われても仕方がないな、と思える。

 でも、その時間が、必死に漕ぎ続けた船が見つけた一筋の光は、垣間見るだけでも価値があったと、確かに正解はそこにあったと俺は思っている。

「でも、思ったより、悪くない」

 そう、悪くはない。人と折り合いをつける。平塚先生の言っていた言葉を思い出す。『上手くやる術を身に付けろ』確かに、上手くやれば、そんなに悪くない。評価はされるし、助けても貰える。

 大学生活で俺は”上手くやる術”も学んでいたのかもしれない。

 天を仰ぐと雲がないことに気が付く。吐いた息が空に溶ける。沢山の星が見える。オリオン座は変わらず、そこにいる。ずっと変わらず、そこにいてくれる。

「せんぱいは、私に何を求めているんですか?」

 俺が一色に求めているもの。

 俺が一色に要求するもの。

 力なく垂らしていた腕を動かす。一歩二歩と一色に近づき、抱き締めた。コートに顔をうずめた一色は苦しそうに顔を背けて、不貞腐れるように息を吐く。

「俺の」腕が震える。「俺の本物に」声が震える。「俺の本物になってくれ」

 一色の肩に力が入るのが分かった。

「ずっと、ずっと一緒にいてくれ、もう独りになるのは耐えられない」

 何度目かの涙が頬を伝い、一色の頭に滴る。

 一色はもぞもぞと動き、俺の前に腕を突き出して身体から離れた。どの立場が、と言われようとも俺の頭の中には、捨てられる、という考えだけが埋め尽くされてしまう。

「せんぱい、私は『星の王子様』を読みました」一色は空を見上げ、まるでそこに王子様がいるかのように目を細めた。「世界には沢山の薔薇があります。とっても素敵な薔薇です。雪乃先輩も、結衣先輩も、綺麗な薔薇です」

 一色は踊るように、俺の前を行ったり来たりしている。

「もしかしたら、目の前で咲いていた薔薇が、何よりも輝く、たった一輪の薔薇かもしれません。でもそんなことはないんです。そんな薔薇を見つけられるのは、本当に世界で一握りです。せんぱいは自分がそうだと思いますか?」

「……いや、思わない」

「じゃあ、王子様からの助言です」

「あれって助言とかだっけ」

 そこうるさいです、と一色が俺を指す。「せんぱいが大切に育てて、一緒に時間を過ごした薔薇は、世界に沢山咲いている薔薇と同じですか。同じ輝きですか」

 俺はゆっくりと首を振った。

「その薔薇は、雪乃先輩や結衣先輩よりも、頼りないですか」

 一色の声が涙ぐんでいき、足も止まる。

「せんぱいと過ごした薔薇は、世界に一つの本物、じゃないん、ですか…」

 思わず、強く抱きしめていた。一色の細い肩が壊れそうなほど、強く抱きしめる。

「たった一つの薔薇になりますから、がんばり、ますから」一色がしゃくりを上げ始めた。「ずっと、一緒にいてください」

「ああ、ああ」

 一色の腕が背中に回る。小さく、きゅっと締めるように抱き締めるその姿が愛らしくなる。

「愛してる、俺とずっと一緒にいてくれ、いろは」

「…っ、はい」

 その瞬間、駅のロータリーを埋め尽くすイルミネーションがバチンを音を立てて点灯した。世界が色づき、今この瞬間を祝福しているかのように思える。眩しいくらいの光に目を細め、一色と共に笑う。

 頭を掠めるのは、結局この電飾は二十四時間営業の社畜か、ということだ。

 いや、嘘を付いた。

 隣にいる一色と俺の未来を照らしてくれたのではないか、そう思った。

 なんて、口に出せるわけがない。

 

 

 もし、あの時間、あの教室で、俺が選んでいたのなら。

 全宇宙で一輪しかない、光り輝く薔薇を見つけていたとしたら。

 世界は変わったのだろうか。

『例えばもし、ゲームのように一つだけ前のセーブデータに戻って選択肢を選び直せたとしたら、人生は変わるだろうか。答えは否である』

 いつか俺が自身に投げかけた問いに、選択肢の存在する人間には取りうるルートがあると説いた。

 なら、あの時間の俺は、選ぶ権利があったのではないだろうか。

 選択し、間違える、その余地も残されていたのではないか。

 雪ノ下雪乃を、由比ヶ浜結衣を、もし選んでいたらなんて、少し考える。

 

 

「どうしました?」

「ん? いや、なんでもない。うちに帰るか」

「はい!」

 

 

 

 

 

 

   -END-




最後の最後まで読んでくださってありがとうございます。

一年以上、こんなに長くなってしまった作品に付き合っていただきありがとうございました。
どんな反応があるのか怖い面もありますが、読んでもらえるだけで嬉しいという思いは今もずっとあります。

とにかく、14巻が楽しみですね。

ではまた、いつかどこかで。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。