ウサギ小屋からは出られない (ペンギン13)
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アコースティックギター。CD。おにぎり。

 死にたいと思った。

 仕事帰りの最終電車。いつもの繰り返し。つり革を掴んで、流れていく景色を眺めているとき、真っ暗なガラスに映った自分の顔を見てふと思った。

 目当ての駅に到着して、他の乗客と一緒にドアから吐き出される。歩き出す気になれず突っ立っていると、後ろにつかえた人達が肩をぶつけながら追い越していく。そっけないアナウンスの後でそそくさと去っていく電車の光を見送った。

 電光掲示板を見上げると、本日の運行を終えた旨を告げる文字が右から左に流れている。飛び込む電車は来ないらしい。もともと飛び込む気なんてなかったけど。痛そうだし。

 誰もいなくなったホームの階段を下り、改札を出ると、湿度を含んだ空気が頬を撫でた。排ガスの臭いに、わずかにアルコールの臭いが混じっているような気がする。

 もう遅い時間なのに、行き交う人の陽気な笑い声が遠くに聞こえた。そういえば今日は金曜日だっけ?曜日感覚が先々週くらい前からあいまいだ。

 ずるずると、鉛みたいに重たい身体を引きずって歩く。家までの道が果てしないものに感じた。

 

「お兄さん一曲聴いていかない?」

 

 唐突に腕を掴まれた。

  

 緑色の瞳と目が合う。新緑の若葉をギュッと凝縮したみたいな緑の目をした女の子。目線の高さが近くて男かと思ったけど、夢に出てきそうなくらい端正な顔立ちは間違いなく女の子。

 

 女の子は僕の無言を肯定と受け取ったのか、腕を掴んだままずんずん歩いて、すぐ近くの閉店したデパートのシャッター前に連れて来た。

 ここで見てて、と言って、女の子は地面に横倒しに置いていたアコースティックギターを拾い上げた。周りを見ると、僕と同じように引っ張ってこられたのか、何人かの男が、ギターの先っちょの金具を弄る女の子のことを眺めている。

 のろのろと、僕はその場に腰を下ろした。近くで突っ立っている男が咎めるような視線を送って来たけれど無視する。仕方ないだろ。疲れてるんだから。

 

「お待たせしました!それじゃあ一曲目!」

 

 夜中のコンクリートの林の中に、場違いなギターの音が鳴り響いた。

 瞬間、じっとりとした空気が吹き飛んだ。

 アスファルトの地面に注いでいた視線を持ち上げる。揺れる黒髪が見えて、次いで弾けるような笑顔。不思議だった、あんなに楽しそうなのに、女の子の手の中で歌うギターの声も、女の子自身の歌声も砂漠のド真ん中みたいにカラカラに乾いている。

 けれど、その音は不思議と心地よかった。じめじめした僕の中身を乾かしてくれるような気がして心地よかった。

 ひとり、またひとりと、女の子を眺めていた男の姿が消えて、気づいたら僕一人しか残っていなかった。

 それでも女の子は歌い続けた。少なくとも、僕の意識が暗闇に落ちていくその瞬間まで、女の子の歌は聞こえていた。

 

 

ーーーー

 

 

「お兄さん!ちょっと!お兄さん!」

 

 目覚めは今までの人生で五本の指に入るくらいに最低なものだった。

 意識を手放す直前、おぼろげに見えた、街の灯りに照らされた女の子の笑顔が、脂ぎった中年の苛立たし気な顔に上書きされた。中年の顔の後ろには抜けるような青空が広がっている。いつの間にか夜が明けていたみたいだ。朝日が目に痛い。

 

「ほら起き起きた!盗られたものは無い?確認して早く!」

 

 警官らしい男が耳元でギャンギャン喚いて、煩いなと思いながらも、素直に持ち物を確認する。見覚えのない真っ白なCDが一枚、鞄に入っていて、代わりに千円札が一枚、財布の中から姿を消していた。何だろうと思ったけれど、とりあえず警官に、大丈夫です、と言うと、ボタボタと文句を落としながら彼は去っていった。

 あれ、今何時だ?ハッとして腕時計を見る、そして大きく息を吐いた。良かった一度家に戻る時間はありそうだ。

 大きく伸びをすると、背中の辺りから物騒な音が鳴った。地面で寝ていたせいか。体中がギシギシと痛んだ。

 

 家に着いてシャワーを浴びると、もう出勤しないといけない時間になっていた。慌てて鞄に必要なものを詰め込んでいると、正体不明の白いCDが目に入った。

 時間はないけれど、好奇心が勝った。埃を被ったコンポの電源を入れて、開いたトレーにそっとCDを載せる。コンポがCDを呑みこんで、数秒間の読み込み音の後、昨日意識を手放す直前に聞こえていた音が、安っぽいスピーカーから流れ出した。

 乾いたアコースティックギターの音に、女の子の歌声が溶ける。あれは実は夢だったんじゃないかと思っていたけれど、どうやら現実だったらしい。

 コンポのボリュームをグイッと上げて、スピーカーに耳を近づける。目を閉じると、女の子がギターを掻き鳴らして歌う姿が見えて、何故か涙が零れた。

 少しだけ、生きていて良かったと思えた。

 

 

ーーーー

 

 

 あの日から、女の子の姿を頻繁に見かけるようになった。

 夜の人通りが多い時間帯、例の閉店したデパートのシャッター前で歌う女の子の歌を、近くのガードレールに腰掛けて聴くのが、いつの間にか僕のささやかな楽しみになっていた。

 

「あれ?今日はもうお終い?」

 

 残業が長引いていつもより少し遅い時間、駅中のコンビニに寄ってから例のデパートの前に来ると、女の子がかがみ込んでギターをケースに仕舞おうとしていたから、思わず声をかけてしまった。

 女の子の顔がギターからこちらに向く。普段離れたところから見てて思ってたけど、やっぱり凄く美人。こうして近くで見ると、本当に同じ人間なのか不安になってくる。

 

「うん。お腹空いたから、今日はもうお終い」

 

「そっか」

 

 それは残念、と心の中で呟く。仕方がない、また今度、聴きに来ればいいだろう。

 じゃあ、おやすみなさい、と言って立ち去ろうとすると、手首からぶら下げていたコンビニ袋を引っ張られた。

 

「・・・どうしたの?」

 

「お兄さん、良いもの持ってるね」

 

 ずっと無表情だった女の子の口元に笑みが浮かんだ。

 

 

ーーーー

 

 

「美味しい?」

 

 一心不乱に三つ目のおにぎりを頬張る女の子に訊くと「美味しい!」と、元気な返事が返って来た。

 それは良かった。行き交う人たちがチラチラとこちらを見ているような気がした。降りたシャッターの前、体育座りでおにぎりを頬張るTシャツにダメージデニム姿の女の子と、くたびれたスーツ姿の僕。傍から見たら一体どんな風に見えるんだろう。缶チューハイを呷る。口の中で炭酸が弾けて、わざとらしい葡萄の味が舌にべったりと貼りついた。

 

「それ、一口頂戴?」

 

「未成年じゃないよね?」

 

 こくりと頷いたから、缶を差し出すと、受け取った缶を女の子はグイッと傾けた。ケミカルな葡萄の味とおにぎりの味が口の中で混ざる所を想像して、少し具合が悪くなる。

 ぷはっと缶から口を離して唇をひと舐め。ありがと、と突き返された一口ぶん軽くなった缶を受け取る。

 満足そうな溜息を洩らした女の子は、ギターケースのポケットをごそごそと漁り始めた。取り出したのは、煙草の箱と青い使い捨てライター。赤白の箱から口で直接一本引き抜いて火をつけた。浮かぶ白い煙。それが夜闇の黒に溶けるのを女の子は夢でも見る様に眺めている。

 

「お嬢さん、良いの持ってるね?」

 

「吸う?」

 

 頷くと、女の子は咥えている燃え差しをよこしてきた。新しいのをくれるわけじゃないんだ。薄い赤色がついたフィルターを咥えて一気に吸い込んだ。盛大に咽た。

 かっこわるい、と笑いながら女の子は、新しい煙草に火をつける。二人分の煙が混じりあって、やっぱり消えていく。

 

「おにぎりありがとう。昨日からなにも食べてなかったんだ」

 

「どういたしまして。ダイエット?」

 

「ううん」

 

 金欠、と言って女の子は笑った。

 

「この間作ったCDに思ってたよりお金かかっちゃって、次のバイト代出るまでカツカツ」

 

「そんなにお金がかかるものなの?」

 

「五万円くらいだったかな?ジャケットを作るお金が無くなちゃった」

 

 だから真っ白だったんだあのCD。

 CDを作るのにかかる費用の相場なんて知らないから、五万円という金額が適正なのかわからないけれど、たった六曲しか入っていないCDが五万円というの僕には高いように思えた。だって五万もあれば、おにぎりを食べきれないくらい買ってもお釣りが返ってくる。

 

「お兄さん、最初に逢ったとき買ってくれたよね?嬉しかったな。あれが記念すべき一枚目」

 

「それは光栄だ。あれから売れてる?」

 

「ううん、一枚も。不景気ってやつだね」

 

 やだやだ、と他人事のように言いながら、女の子は煙草の灰を地面に落とした。

 CDが売れないと言われている世の中だから仕方のないことなのかもしれないけれど、勿体ないなと思った。あんなに良い音楽なのに。

 この真っ白な飾りっ気の欠片も無いCDを、あと最低でも四九枚は売らないと、赤字ということだ。女の子がここで歌い始めてからもう数週間。それは途方もないようなことに思えた。

 僕は鞄から財布を取り出して中身を確認する。千円札が三枚と、一万円札が四枚。それから比較的仲の良い同僚の顔を思い浮かべる。三人。

 

「CD、良かったら三枚売ってくれない?」

 

「なんで?握手券とか入ってないよ?」

 

 差し出した千円札と僕の顔を見比べて、女の子は首を傾げながら言った。僕も首を傾げたくなった。

 

「同僚に配るからさ。今日は持ってきてなかったり?」

 

「ああ、そういうことか」と納得した風に女の子は呟くと、ギターケースの横に無造作に置かれてるトートバッグから、CDを取り出した。

 

「三百枚だっけ?」

 

「僕にそんなに友達がいるように見える?」

 

「全然見えない」

 

 笑いながら女の子は言って、差し出した千円札三枚と交換で、CDを手渡してくれる。僕はそれを鞄に大切に仕舞い込んだ。

 

「それじゃ、そろそろ帰ろうかな。これ飲んじゃっていいよ」

 

半分も中身が残ってない缶を女の子に渡して、フィルターギリギリまで燃え尽きた煙草の先を地面に押し付ける。火の消えた煙草は、別にそのまま放置して良かったけれど、なんとなくポケットに突っ込む。

立ち上がろうとすると、女の子に待ったをかけられた。

 

「何?もう食べ物は持ってないよ?」

 

「それは残念だけど、そうじゃなくて」

 

 女の子はギターケースの口を開けて、中身を取り出す。木の色のギターは近くで見ると傷だらけだった。太い弦を二本鳴らして、女の子がギターの先の方に付いてる金属の部品を、細長い指先で弄ると音が高くなったり低くなったり。そういう風に使うんだ、そのパーツ。

 太い弦から細い弦まで、音の高さを合わせた女の子は一気に全ての弦を弾いて、よし、と小さな声を漏らした。

 

「お礼。一曲、お兄さんが好きな曲を弾いてあげる!」

 

 胡坐を掻いた腿の上のギターを、ぽんと叩いて女の子が言うから、僕は「じゃあCDの一曲目のやつ」と答えた。

 

「私の曲でいいの?有名な曲だったら大体弾けるよ?」

 

 女の子はポロポロと、どこかで聞いたことがあるメロディをつま弾いて見せた。

 

「君の曲が良いかな。落ち着くから」

 

「へぇ、落ち着くんだ?」

 

 僕が頷くと、女の子は「変なの」と笑って、上機嫌にギターを弾き始めた。

 目を閉じる。カラカラの歌が聴こえてきた。お酒が入っているせいか、いつもよりも少し音程が曖昧で、舌っ足らずなような気がする。

 まばらな足音や車のクラクションがごちゃまぜになった街の音と、女の子の音楽が混ざり合って星ひとつ見えない空に消えていく。それを僕は目を瞑ったまま見送った。

 

 それから、僕と女の子の間にはひとつの決まりごとが出来た。

 それは僕が女の子におにぎりを奢る代わりに、女の子はライブが終わった後で、僕のリクエストに応えて一曲演奏するというものだった。

 女の子は華奢な見た目とは裏腹に、なかなかに食欲が旺盛で、先日ものは試しにと五個差し入れてみたら、ぺろりと平らげてしまった。

 一曲に、おにぎり五個というのは果たして割に合っているのかと思ったけれど、ただのコンビニのおにぎりを頬張る女の子の横顔があまりにも幸せそうだったから、そのくらい、どうでもいいかと思えた。



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おかえり。ラーメン。

その日はたまたま帰りが早かった。

 月末の忙しい時期を超えた後だからなのだろうけれど、こんな健全な時間に帰れるのは珍しい。

 しかし、帰りが早いということは、普段微妙にずれていた帰宅ラッシュの時間帯にぶち当たるということで、満員の電車に揺られ、最寄り駅の改札から吐き出される頃にはもう、僕は使い古しの雑巾みたいにくたびれきっていた。

 だから僕にかけられている言葉にも、ひんやりとした手に掴まれるまで気付くことができなかった。

 

「どうして無視するの?」

 

 慌てて振り返ると、整った顔に少しだけ怒気を滲ませた、例の女の子の姿。

 美人が怒った顔は怖い、と聞いたことがあったけど、あれは本当らしい。凄く怖い。

 

「ごめん、ぼうっとしてて。なんでここにいるの?」

 

「おかえり」

 

「え?」

 

「おかえり」

 

 女の子の剣幕に押されて「ただいま」と、声を絞り出すと、万力のようにじわじわと僕の手を締め上げていた手がパッと離れた。

 

「挨拶は大切なんだから、ちゃんとしないと」

 

「気を付けるよ。それでなんでここに?ていうかギターは?」

 

 最初は、おっかない顔にしか目がいかなかったけど、よくよく見ると女の子の背中にいつもならあるはずのギターケースが無い。

 なんていうか、物凄い違和感。甲羅を忘れてきちゃった亀みたいな。そういえば亀の甲羅の中ってどうなってるんだろう?

 普段とは違う疲れのせいか、わけのわからないことを考え始めた僕に、女の子は青い長財布をちょっと誇らしげな顔で見せきた。

 

「バイト代、入ったんだ」

 

「そうなんだ?」

 

 僕の淡白な反応が気に入らなかったのか、女の子がムッとした顔をしたから、良かったねと、申し訳程度に付け加えた。

 

「だからお兄さんにご飯奢ってあげる。いつもおにぎりくれるから、そのお礼」

 

「そんな気を使わなくていいよ、お礼はリクエストで返して貰う約束でしょ?」

 

「約束?そんなのしたっけ?」

 

 したよ。と返そうとして思いとどまる。そういえば、なんとなくそういう流れが出来上がっていただけで、明確に約束を交わしたわけじゃなかった。

 女の子はさっき離したばかりの僕の手をもう一度掴むと、僕の家とは反対方向の、繁華街のほうへと、どんどん歩き出してしまう。

 別に一緒にご飯を食べるのが嫌というわけじゃないから、大人しく付いて行くことにする。

 

「何が食べたい?」

 

「出来れば軽めのやつで」

 

 疲れのせいで、あまり食欲がなかったからそう答えると、女の子は少し悩んだ後「じゃあラーメンにしよう!」と、目を輝かせて言った。どうやら女の子にとってラーメンは軽食に分類されるらしい。

 女の子は飲み屋やカラオケの客引きを慣れた様子であしらいながら、ラーメン屋の、のれんが目につく度、店先のメニューを眺めて、またすぐに歩きはじめる。

 そうして気づいたころには、繁華街と宅地の境目あたりまで辿り着いてしまって、境目に横たわる三車線の道路を帰宅途中と思われる車が行き交っていた。

 その道路沿い、中華料理屋の色褪せた赤いのれんを見つけた女の子は、ガラス戸の横に申し訳程度に置かれた食品サンプル見て「ここにしよう」と僕に言う。

 今にも崩れ落ちそうな店の外観を見て、冗談だろ、と思ったけれど、奢って貰う側だから何も言えない。

 見るからに立て付けの悪そうなガラス戸を開ける女の子に手を引かれて、僕も店内に足を踏み入れると、カウンター席の奥の厨房に新聞紙を広げた店主と思しき男の姿が見えた。

 新聞に目を落としたまま、こちらを一瞥すらしない店主を気にもせず、女の子はカウンター席のひとつに腰を下ろした。僕もその隣に腰掛けて、壁にかかったメニューを眺める。

 

「どれにする?」

 

「塩で・・・。少な目とかできるのかな?」

 

「それじゃ足りないでしょ?遠慮しなくていいよ」

 

「チャーシュー大盛りふたつ!」と女の子が言うと、厨房から愛想の欠片も無い返事が返って来た。

 

「ちょっと。食べきれる気がしないんだけど?」

 

「男の子だから大丈夫だよ」

 

 なにが大丈夫なんだろうと思ったけど、もう店主が麺を茹で始めるのが見えたから諦めることにした。

 無茶な注文をした女の子はというと、何が楽しいのか店内のあちこちを眺めては機嫌よく鼻歌なんか口ずさんでる。

 

「楽しそうだね?」

 

「誰かとラーメン、久しぶりだから嬉しい」

 

 本当に嬉しそうに女の子は椅子の上で前後に揺れる。

 年季の入った椅子から不穏な音が鳴って、店主が僕を睨んだ。理不尽だ。

 

「・・・ポピパのみんなで食べたラーメン、美味しかったなぁ」

 

「ポピパ?」

 

 聞き馴染みの無い単語が急に出てきたから訊き返すと、女の子はくすぐったそうな微笑を浮かべて、うん、と頷いた。

 

「香澄の声が治ったお祝いにみんなで行ったんだ。有咲のおすすめのお店で、すっごく美味しかった」

 

「へぇ・・・友達?仲良かったんだ?」

 

「うん。大切な友達だった」

 

 ポトリと言葉が油っぽい床の上に落ちる。

 女の子の横顔に、影が差したような気がした。

 友達だった?今は?

 その質問が僕の口から出る前に、タイミング悪くテーブルに丼がふたつ、鈍い音を立てて置かれた。女の子の興味が目の前の丼に移ってしまう。

 素早く「いただきます」と手を合わせて、幸せそうに麺を啜る女の子の顔に、さっき一瞬だけ見えた影のようなものは、欠片ほども見当たらない。

 気のせいだったのかもしれない。そうだきっと気のせいだ。

 ぼうっとしてても麺が伸びてしまうから、僕もさっさと食べよう。

 硝子のコップに無数に突き刺さった割り箸の中から、綺麗なものを一本選んで二つに割る。見事にアンバランスな箸が出来上がった。

 へたくそ。と女の子が笑った。

 

 

ーーーー

 

 

 お会計を終えて店の外に出ると、普段帰ってくる時間ほどではないけれど、もうすっかり遅い時間になっていた。

 先に店を出ていた女の子が、僕に気づいて深々と頭を下げて「ご馳走様でした」と、言ってくるから、僕は笑って「お粗末様でした」と返す。

 

 食後、意気揚々とレジに向かった女の子の方から間の抜けた声が聞こえた。お冷から口を離して、そちらを見ると財布を開いたまま固まった女の子の姿。

 どうしたんだろうと思って、女の子の所に行って、横から財布の中身を覗くと、数枚の硬貨があるだけで、お札が一枚も無かった。

 どうやらお金を下ろし忘れたらしい。

 

「ごめん。今度ちゃんと返すから」

 

「いいよ別に。そのかわり、今度またリクエストに応えてよ?」

 

 繁華街の方に歩き始める。

 明日も平日だというのに、飲み屋帰りだと思われるスーツ姿の男と何回かすれ違った。

 この時間に繁華街の方に来ることはほとんど無かったからなんだか新鮮。

 

「ラーメン一杯は何曲分?」

 

「・・・二曲、かな」

 

 普段おにぎり五個で一曲だから、そのくらいだろうと思って応える。

 

「たった二曲でいいの?」

 

「僕からすると二曲も、なんだけど」

 

 最初の頃こそ割高に感じていたけれど、今の僕にとって、女の子の歌には間違いなくラーメン一杯以上の価値があった。

 女の子がギターで曲を作って、歌詞を書いて。そうして生まれた曲を自由にリクエストしてすぐ隣で聴けるんだから、チャーハンと餃子を追加しても足りないかもしれない。

 そのことを伝えると、女の子はなんでか小さな笑い声を漏らした。

 

「お兄さんは不思議だね」

 

「不思議?僕が?」

 

「うん。私の音楽、人に好かれないから。CDは売れないし、ライブはいつもガラガラ。ここに来る前の路上で、ギターケースに火が付いた煙草を捨てられたこともあった」

 

 だからお兄さんは不思議。と聞いているだけで辛くなることを、女の子は他人事みたいに呑気な口調で言った。

 励ましの言葉のひとつでもかけてあげるべきなのかもしれない。けれど僕は何も言えなかった。女の子の言う通り、路上ライブはとても盛況とは言えないし、僕は音楽の良し悪しがちっともわからない。そんな僕が何を言ったってただ虚しいだけだろうから、だから僕は黙りこくることしか出来なかった。

 会話が途切れてしまって、聞きたくもない繁華街の浮かれた喧噪が、耳に入ってくる。

もっと自分が話し上手だったら、音楽に詳しかったら。そう思うと情けない気持ちになってきた。こっそり、隣を歩く女の子の横顔を盗み見る。いきなり黙ってしまって、気を悪くしていないか不安だったから。

 しかし、そこに女の子の姿はなかった。

 びっくりして振り返ると、少し離れた所で、なにやら財布の中身を漁っている女の子の姿。チャリンと硬貨が数枚、音を立てて散らばるのが見えた。

 慌てて駆け寄って、落ちた硬貨を拾い集めている間も、女の子は財布のなかを漁っていた。

 

「どうしたの?家の鍵でも落とした?」

 

 通行人に蹴り飛ばされそうになりながら、なんとか目についた硬貨を回収し終えて渡そうとするけれど、女の子は今度はデニムのポケットをゴソゴソと探り始めてしまう。

 なんなんだ、一体・・・。

 そうしてお尻の方のポケットに手を突っ込んだ瞬間「あった!」という声とともに、女の子は紙切れを取り出した。

 

「はい、これあげる」

 

「なにこれ。・・・チケット?」

 小銭と交換で手渡された二つ折りになった紙切れを開いてみると、それはライブのチケットだった。いくつかのバンドが出演するのか、少し長いレシートくらいの大きさの用紙いっぱいに、アルファベットやら漢字やらがずらずらと並んでいて非常に見辛い。

 

「私がバイトしてるライブハウス。キャンセルが出たから穴埋めで歌うことになったんだ。良かったら聴きに来て」

 

「ありがとう。けど、貰っちゃっていいの?」

 

「他に渡す人もいないし。ラーメンのお詫び」

 

 それならありがたく、受け取っておこう。

 無くさないよう鞄にしまう前に、チケットの隅に小さく日時が書かれているのが見えたから確認すると、恐ろしい事に明日の日付だった。

 

「え、ライブって明日?」

 

「うん。結構よくあるんだ、ドタキャン」

 

 それは非常識な輩がいたものだ。

 ・・・そうじゃなくて。

 

「明日って平日だよね?」

 

「そうだね。確か仏滅」

 

「それは縁起が悪いな・・・」

 

「大丈夫。頑張るから」

 

 握りこぶしを作って、歩き始める女の子は気合十分といった様子。

 これなら明日のライブは期待できそう。

 ・・・いや、だからそうじゃなくて。

 

「僕、明日も元気に仕事なんだけど・・・」

 

「そっか、頑張って。私も頑張る」

 

 僕を置いて少し前を歩く女の子が、くるりと振り返った。長い黒髪が揺れる。

 

「だから、絶対見に来てね?」

 

 あまりにも綺麗な笑顔でいうものだから、僕はただ頷くことしか出来なかった。

 僕の反応に満足したのか、先に歩いて行ってしまう女の子をぼんやりと見送る。手に持ったままだったチケットをもう一度見る。開演時間はまだ僕がせっせと働いている時間だった。

 明日は急な腹痛にでもなろう。

 そう心に決めて、人に紛れてしまった女の子の背中を追った。

 



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金髪の女。海の底。キラキラ。

「お腹が痛い」と言う人に対して、「気のせいだ」と返す人を僕は初めて見た。それが僕の上司なのだから笑えない。

 それでも入社して三年間、雨の日も風の日も休みの日も、真面目にあくせく働いてきたかいあってか、明日出来る仕事を明日に回す許しをもらう事が出来た。

 上司の慈悲に感謝しつつ、ひとつの疑問が湧いた。明日出来ることを、なぜ残業してまでやらねばならないのかと。

 上司に聞いてみたところ、呆れた顔で「明日やろうは馬鹿野郎だ馬鹿野郎」と言われた。

 馬鹿野郎はお前だ馬鹿野郎、なんて口が裂けても言えないから、僕は素直に謝った。

 

ーーーーー

 

 女の子がライブをやる場所は、一日あたりの利用客が世界一多い駅から、黄色の電車に二十分ほど揺られて着いた駅から、さらに十五分歩いた先にあるらしい。

 急いで仕事を片付けてきたものの、駅に着いたときにはもう日が随分傾いて、開演に間に合うか微妙な時間になっていた。

 小綺麗な駅舎を出て、買い物客で賑わう商店街を足早に抜ける。住宅街に入って迷わないか不安になったけれど、僕はそのライブハウスを一目で見つけることが出来た。閑静な住宅街にそぐわない、派手な身なりをした若者が数人、建物の前で溜まっていたからだ。

 腕時計に目を落とすと、すでに開演時間を少し過ぎていた。彼らはなんで入らないんだろう?もしかしたら、僕みたいな初心者が知らない、ライブハウス特有のマナーみたいなものがあるのかもしれない。

 しかし悩んでいても仕方がないから、談笑する若者たちの間をすり抜けて、建物の中、ライブハウスがある地下への階段を下りて行く。

 広くない踊り場に人の姿が見えた。パイプ椅子に浅く腰掛けて携帯を弄っている金髪の女。頭のてっぺんが黒い。粗末な机の上にはダンボールの切れ端にマジックで「受付」と書かれた札がちょこんと載っている。

 

「すみません、入って大丈夫ですか?」

 

 声をかけて、女はようやく僕の存在に気付いたのか、のろのろと顔を上げた。

 こけた頬と目の下に濃いクマ、ちょっと体調が心配になる青白い顔。

 瀕死のゾンビみたいな容貌は、失礼だけど夜中に鉢合わせたら、うっかり悲鳴を上げてしまいそうだ。

 

「あぁ、ゴメンね。チケットは?当日券なら、ドリンク込み三千円だよ」

 

 結構いい値段するんだな、ラーメン三杯分だ。

 そんなことを思いながら、財布にしまっておいたチケットを差し出すと、女は驚いた様子でチケットと僕とを見比べて、そしてニタリと口元を歪めた。

 

「へぇ、こんなおじさんだとは・・・」

 

「おじさんって・・・僕、そんなに老けて見えます?」

 

 まだそこまで老けてないつもりだったから少しショックで聞いてみると、何が面白いのか女はケタケタと笑い声をあげた。その笑顔は少女のようでもあるし、老婆のようにも見える。

 

「大丈夫。老けてないよ、そこまで。日本人ってスーツ着てるとみんなオッサンに見えるだろ?」

 

 全国のサラリーマンを敵に回すようなことを言いながら、女は僕が差し出したチケットを引っ手繰ると、半分にちぎって片方を自分のポケットに、もう片方を僕に突き返した。

 それを受取ろうとすると、ひょいと、かわされてしまう。女の顔には少し嫌な感じの笑み。

 

「おじさん、あの娘のオトコ?」

 

「・・・僕が女に見えるんですか?」

 

 ちょっと皮肉を混ぜて返す。女はポカンとした表情のあとで、声を上げて笑いだした。笑い声にヒューヒューと不安になる音が混じる。

 

「どこからどう見ても男だ!いいねアンタ気に入ったよ」

 

「それはどうも・・・」

 

「悪かったね」と、女が差し出してくる半券を今度はちゃんと受け取る。

 

「そっちのドアから中に入れるよ。早く行ってあげな、待ってるだろうから」

 

 待ってる?もう時間は過ぎてるのに?

 なんにしても、この人と話してると非常に疲れるから、言われた方に向かうことにした。

 けれど、背中に待ったがかかった。なんだろうと思って振り返ると、何かが飛んでくる。反射的に受け取ったそれは煙草の箱だった。見たことが無いデザイン。海外のものかな?

 

「お近づきの印。おじさんとは長い付き合いになりそうだからね」

 

 それは心底、勘弁願いたい。だけどとりあえず貰えるものは受け取っておこう。女にお礼を言って、煙草の箱をポケットに突っ込む。そして重たそうな鉄の扉に手をかけた。

 

 

ーーーーー

 

 

 扉の向こうに広がる世界は、想像していたものと少し、いやかなり違っていた。

 ライブハウスというとステージがあって、そこで色とりどりの照明に照らされながら演奏するミュージシャンに、客がすし詰めになって熱狂する、良く言うと熱い、悪く言うとむさ苦しいイメージがあった。

 けれど目の前の光景は、そんなイメージとは真逆のものだった。

 

 誰もいない、物音ひとつしないフロア。青い光で淡く照らされたステージ。そんな海の底みたいなステージの上で、いつも通りのTシャツにダメージデニム姿の女の子は、アコースティックギターを抱えたまま丸椅子に座って宙を眺めていた。

 扉の閉まる音に気付いたのか、女の子の視線がこちらを向いた。そして、ゆるりと、その表情が笑顔に染まる。

 

「本当に、来てくれたんだ」

 

 マイクを通して聞く女の子の声は、知らない人の声みたいで落ち着かない。

 ステージの方に歩み寄りながら、改めて周りを見回す。やっぱり客の姿が見当たらない。時間を間違えた?

 

「ごめん、遅くなっちゃって。ライブは?」

 

「今から。お客さんも集まったから」

 

「集まったって・・・。え、僕だけ?」

 

 出来れば否定して欲しかったけど、女の子は当然と言わんばかりに頷く。

 

「上にお客さんっぽい人がいたけど」

 

「多分それ、私の後やるバンドのお客さん」

 

 私のお客さんはお兄さんだけ、そう言って女の子はギターを爪弾く。なぜかその音は楽しそうだった。

 せめてもう少し人が入るまで待ったらどうかと思った。

 突然後ろの方から「客が来たならさっさと始めろー!」と言う大声が飛んできた。

 驚いて振り返ると、色んな機械に囲まれた洞穴みたいな場所で、ふっくらした男が腕時計を指差す仕草をしているのが見える。

 つられて自分の時計に目を落とす。開演の時間から十分程が経過していた。

 

「あんまり時間ないけど、せっかく来てくれたから、特別にいつもやらない曲やってあげる」

 

 女の子はギターに手を振り下ろした。そして、そっと語りかけるように、マイクに歌を吹き込む。

 その曲は、確かに僕の知らない曲だった。あの真っ白なCDに入っていない、一度も耳にしたことがない曲。眩しい。キラキラしてる。

 マイクとスピーカーの力の凄まじさを、僕は初めて知った。

 街の喧騒に飲み込まれていた、女の子の息遣いが、弦を押さえる指の摩擦音が、女の子から発せられる音の全てが、僕の身長よりも大きなスピーカーからクリアに聴こえてくる。

 その凄まじさは残酷だった。カラカラに乾いているはずの女の子のギターの音も、歌声も、晴れた日に降る雨みたいな優しい音に変わってしまっていた。

 もしかしたら・・・変わったんじゃなくて、これが女の子の本当の音なのかもしれない。

 ぺたりと、会場の床に座り込む。初めて女の子の歌を聴いた時みたいに。

 ステージの分、いつもより高い位置にいる女の子を見上げる。その目はここじゃない、どこか遠くを見ていた。観客は僕一人だけなのに。

 怖くなった。僕だけが砂漠のど真ん中に取り残されてしまったような気がして。こんなに近くで、こんなにクリアに聴こえるのに、女の子の存在がやけに遠くに感じて、怖くなった。

 何故か、女の子の笑顔が泣き顔に見えた。多分、青い照明のせいだと思う。



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缶ビール。ポピパ。ラクダ。

「お疲れ。飲む?」

 

 ライブハウスの入っているビルの、道路を挟んですぐ向かいにあるコンビニ。その駐車場の陰の暗がりでしゃがみ込んでいる女の子に、買ってきたばかりの缶ビールを渡す。

「ありがとう」と言って受け取る女の子の隣にしゃがんで、自分の分の缶を袋から取り出す。プルタブを起こす軽快な音がふたつ重なった。

 

「乾杯!」

 

「うん、乾杯」

 

 少しへこむくらいの勢いで缶をぶつけ合うと、女の子は中身がこぼれたのも気にしないで、豪快に飲み始める。あまりに気持ちの良い飲みっぷりなものだから、見ていて自然と頬が緩んだ。ライブのときの雰囲気とはまるで別人だ。

 女の子のライブは、僕が遅れてきたせいもあって、あのキラキラした曲の後に二曲だけ演奏してお開きになった。二曲とも、やっぱり僕の知らない曲で、普段の曲とは何もかもが違っていた。

 缶から口を離して、にへらと微笑む女の子顔を見ると、さっき見ていたライブが、実は夢の中の出来事だったんじゃないかと思えてくる。いや、そう思いたかった。女の子のライブ見ている最中に感じた不安は、最後の曲の演奏を聴いている恐怖に変わっていた。

 立ちふさがる困難にへこたれずに、前に進み続けることを歌った歌詞は、普通に聴いたら「誰かを応援する歌なのか」「元気が出るな」くらいの感想で済んだのだと思う。けれど、その曲を演奏する女の子が歌う姿があまりにも必死で、しかも何故か悲壮感のようなものを帯びていたものだから、そのうち女の子が取り返しのつかない所まで進んでいってしまうんじゃないか、そんな恐怖に包まれた。

 腹の奥の方から再び湧き上がってきた恐怖を、ビールの炭酸と苦みで一気に飲み下す。隣から「いい飲みっぷり」と呑気な声が聞こえた。

 

「ライブっていつもあんな感じなの?」

 

「あんな感じって?」

 

「えっと、なんていうか・・・。お客さん、いつも少ないのかなって」

 

 訊いてから、なんだか凄く失礼なことを尋ねてしまった気がして、少し後悔する。

 けれど、女の子は気にする様子もなく「いつもガラガラ」と笑って答えた。

 

「最初のころは高校の頃の友達が見にきてくれたんだけど、最近は全然。私のライブってドタキャンの穴埋めがほとんどだから、急で予定が合わせにくいんだって」

 それにみんな就活とか自分のバンドで忙しいから、と他人事みたいに言って、女の子はビールの缶に口をつける。

 絶句した。それじゃあ、この子はキャンセルが出るたび、あんな海の底みたいなところで、来るかもわからない客を待ちながら歌ってるのか?あんな静かな所で、たったひとり。

 今日、ライブハウスの重たい扉を開けたときに見た光景が、脳裏に鮮明に蘇ってゾッとする。

 

「それなら、他の場所で、ちゃんと日にちを決めてやれば、見に来て貰えるんじゃない?」

 

 その光景があまりに虚しすぎて、思わずそんな提案をすると、女の子はちょっと困ったような曖昧な表情を浮かべる。初めて見る表情だった。

 

「お兄さん、ノルマって知ってる?」

 

「ノルマ?」

 

 急に現実的な言葉が出て来て、間抜けにおうむ返し。

もちろん知ってはいる。月末になると上司が壊れたラジオみたいに繰り返す口にする言葉だ。

 

「うん、ノルマ。ノルマを払わないとライブは出来ないんだ」

 

 それは初耳だった。でも確かに考えてみると当然のことだ。場所代を徴収しなければ、ライブハウスの収入源はドリンクカウンターの商品だけになってしまう。それじゃあ、とても経営が立ち行かない。

「例えば」と女の子が、ライブハウスが入っているビルを指差す。丁度わらわらと人が出て来ているところだった。女の子の後のバンドの出番が終わったらしい。僕がライブハウスに到着した時に建物の前で溜まっていた若者の姿も見えた。その表情は皆一様に笑顔で染まっている。

 

「あのライブハウス。私は穴埋め要員だからノルマが無いけど、本当は二五〇〇円のチケットを十枚売らなきゃ赤字」

 

 確か女の子が演奏した時間は、二十分に満たないくらいだった。僕が遅れて来た時間を加味しても、持ち時間は三十分くらい。

 たったそれだけの時間、演奏するのに、そんなお金がかかるのか・・・。

 

「私、あのライブハウス以外にもバイト掛け持ちしてて、それでも毎月カツカツ。お客さん十人も呼べないし、他でライブなんて年に何回か出来ればいい方なんだ」

 

 道路の向こう側ではしゃぐ若者たちの姿が目に入る。全部で十人位。半分がバンドの人だと考えると、彼らもノルマを達成できていないということになる。それなのに彼らには、それを悔やむ様子はなくて、それどころか心の底から今を楽しんでいるような充実感に満ちた顔をしている。正直、少し羨ましかった。

 ちらと女の子の横顔を盗み見る。女の子も僕と同じく、よく見る何を考えてるのかわからない表情で、対岸のバンドとそのお客のことを眺めていた。

 もしかして羨ましかったりするのかな?今日、演奏していた曲も、なんとなくだけど、ひとりで演奏するために作られた曲じゃないような気がした。

 

「キミもバンドを組めばいいんじゃない?そうすればノルマだってーー」

 

「バンドは」

 

 珍しく、というか会ってから初めて、女の子は僕の話を遮った。

 びっくりして女の子の方を見ると、先程と変わらず、若者たちの様子を見たままで

 

「バンドは、出来ない」

 

 無感情に、そうポツリと呟いた。

 

 出来ない? やりたくないとかじゃなくて、出来ない?

 そんな疑問が湧いた。けれど、僕は訊けなかった。もしかしたら女の子にとって、あまり嬉しくない話題なのかもしれないと思ったから、訊くことが出来なかった。

 向こう側で騒ぐ若者たちの笑い声が、夜の住宅街にひと際大きく響く。

 

 僕がなんだか居たたまれなくなってしまって、女の子から視線を逸らすと、そのまま気まずさをごまかすように、空いている方の手をポケットに突っ込んだ。指先に何かが当たった。引っ張り出す。それは受付で金髪の女から貰った、変わったデザインの煙草の箱だった。

 夢に出てきそうな、女の青白い顔を思い出してしまい、ブルりと震える。だけど煙草はこの微妙な雰囲気を紛らわすには丁度いいものだった。缶を地面に置いて、早速、封を開けようとして、すでに銀色の紙が剥がされていることに気付いた。

 普通、お近づきの印に手の付いたものを渡すかな・・・。

 女の笑い声が聞こえてくるようでげんなりしたけど、中は白いフィルターがみっちり詰まっているのが見えた。とりあえず吸ってみて、マズかったら捨ててしまおう。どうせ貰い物だし。一本引き抜く。

 箱のデザインも妙だったけど、中身はもっとヘンテコだった。普通の煙草と違い、吸い口の部分と煙草の葉を薄い紙でひとまとめにしているらしく、先端の方がこより状態になっている。

 手巻きタバコって言うんだっけ?どうやって吸うんだこれ?

 初めて触れる存在に、どうしたものかと困惑していると、横から伸びてきた白い手が、僕の手を煙草ごと鷲掴みにした。

 

「欲しい?一本あげるから吸い方を教えてよ」

 

「それ、どこで買ったの?」

 

 見たことがない真剣な表情の女の子のふたつの瞳に、僕の顔が映る。深い緑色。呑み込まれそう。

 

「受付の、金髪の人に貰ったんだけど・・・」

 

「ちょうだい」

 

 女の子の左手が、僕の目の前に手のひらを上にして差し出される。箱ごと寄越せと言わんばかりに。

 

「な、なに?そんなにこれ好きなの?」

 

「好きじゃない。けど、それビックリするくらい美味しくないから。お兄さん、吸ったらショックでウサギになる」

 

「・・・ウサギ?」

 

 突然出てきた可愛らしい単語に、気が抜けた。

 でも、渡してきたのがあの女だと思うと、ありえそうだなと思えた。白雪姫を六人くらい殺してそうな見た目だったし。

 意地でも吸いたいというわけでもないから、いつの間にか鼻の先にまで迫っていた女の子の手のひらに、煙草の箱を載せた。

 女の子は、掴んだままだった手に残った一本も、抜け目なく回収して箱に戻すと、さっさとポケットの中にしまって、ひとつ息をついた。

 

「ウサギ、嫌いなの?」

 

「ううん、好きだよ。どうして?」

 

「吸ったらウサギになるって言ってたから、嫌いなのかと思って」

 

「お兄さんはウサギっぽくないから。どっちかっていうと・・・ラクダ?」

 

「ラクダ・・・」

 

 喜んでいいのか、微妙すぎるチョイスに言葉が出てこなかった。

けれど、主を背中に乗せて、砂漠をえっちらおっちら歩くラクダの姿は、朝から晩まで上司にこき使われる僕と重なる部分があるかもしれない。

 まさか、そこまで深く考えて言ったわけじゃないのだろう。自分の卑屈さが嫌になった。

 

「はい、一本しかないから半分こね」

 

 どこから出したのか、火が点いた煙草が、目の前に現れた。

 たまに女の子から漂っている、煙の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「煙草を半分こって斬新だね」

 

「いらないなら、あげないよ?」

 

 引っ込もうとする女の子の手を引き留めて、指に挟まった煙草に直接口を付けた。

 じんわりと、肺の中が満たされていく。今度は前みたいにむせなかった。

「お行儀悪い」と文句を言いながらも、女の子は一口吸っては、同じように煙草を僕の方に差し出してくれた。

 

「また、ライブ見に来てくれる?」

 

 煙草の先から半分が灰になった頃、ポツリと呟くように女の子が言った。

 重さに耐えきれなくなった灰が、アスファルトの上に落ちる。

 僕はそれを指先で弾きながら「いいよ」と答えた。

 

「けど、次は君の曲を聴かせて欲しいかな」

 

「私の曲、そんなに好き?ポピパの曲より?」

 

「うん。僕はラクダだから」

 

 女の子がポカンとした表情をするから、可笑しくて笑った。

 ポピパ。確か昨日女の子が言ってた。そうか、バンドの名前だったのか。

 そのポピパというバンドがどんなものなのか、僕は知らない。

 けれど、キラキラよりはカラカラな方がずっと良かった。その方が安心するから。

 ゆらゆらと揺れる煙草の煙が、夜風になぶられて消えた。少し冷たい風。秋の気配を感じた。

 向こう側にいた若者たちは、いつの間にかどこかに消えていた。 



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大阪。チョコレートソース。走る。

 女の子のライブの次の日のことだった。

 始業前、低血圧でまだぼんやりしている僕の所に上司がやって来た。

 

「熱は下がったのか?」

 

「はい。風邪薬を飲んで寝たらすぐでした」

 

「それは良かった。ところで腹痛はどこにいったんだ?」

 

「・・・あー」

 

 大阪の営業所への長期出張が突如として決まったのは、この上司との会話が原因だったのだと思う。

 仙台の営業所への短期出張はこれまで何回かあったけれど、大阪、それも長期となると初めてのことだ。しっかり準備をして臨もうと思ったのに、上司にいつから行けばいいのかと尋ねたら「明後日」とわけのわからない答えを返された。上司なりの小粋なジョークだと思ったけれど、目が笑ってなかったから僕は無言で頷く。

 その後、朝礼の際に、上司の口から社員のひとりが一身上の都合で退職したことを告げられた。なるほど、どうやら今回の出張は彼の穴埋めらしい。

 

 不幸中の幸いというか、滞在中に寝泊まりする場所は押さえていてくれたらしく、とりあえず生活に不便はしなさそうな、駅近くのウィークリーマンションだった。

 仕事の方は、最初の数日ネイティブの大阪弁に戸惑ったくらいで、それ以外は滞りなく進んでいった。東京に比べて残業が少ないのが心の底から羨ましい。

 そんなこんな、約一か月の滞在期間の最終日、ウィークーリーマンションの近くに、そこそこ有名なライブハウスがあることを現地の社員から聞いた僕は、折角だからと足を運んでみることにした。

 

 繁華街の雑居ビルの地下にあるライブハウスは、女の子のバイト先よりも一回り規模が大きく、重たい防音扉の向こうには、以前に想像していた通りの光景があった。一番後ろで見ているのに周囲からぐいぐいと圧迫される満員の客席。色とりどりの照明に照らされて輝くミュージシャン。熱狂の坩堝。これぞライブハウスといった光景だ。

 四つのバンドが演奏したらしいのだけど、僕は人混みと、初体験の爆音にすっかり酔ってしまって、一番最後のバンドのことしかまともに覚えていない。

 そのバンドはギターボーカルとベースボーカルと、サポートのドラムからなる三人組バンドで、凛とした歌声と、チョコレートソースみたいに甘ったるい歌声が絶妙に溶け合っているのが印象的だった。関西弁と標準語が混じったMCで、正反対な歌声のギターとベースが実は姉妹だと言っていて驚いた。人の頭の隙間から見たふたりの顔は、そう言われると確かに、少し似ていたかもしれない。

 

ーーーーー

 

 翌日の昼頃、東京に戻った僕は報告に立ち寄っただけの会社で、何故か夜まで拘束されて、帰宅ラッシュを過ぎた頃にようやく解放された。帰りの電車の車内にあった、転職を勧める胡散臭い吊り広告を、真剣に眺めてしまったのは仕方のないことだと思う。

 

 一か月分の荷物が詰まったキャリーバッグを改札口に引っ掛けたりして、ようやく見慣れた駅前に着くと、じわりと緊張感が這い上がってきた。

 もし、女の子がいつも通りに、閉店したデパートのシャッターの前で歌っていたら、会うのは、あのライブの夜以来のことで約一か月ぶりだ。なにせ急な出張だったから一声かける間もなかったのだ。

 ご機嫌取りにと念のために買ってきた、おみやげの箱菓子が入った紙袋を持つ手に汗が滲む。まさかこのくらいのことで機嫌を損ねるなんてことはないだろうけれど、念のため、念のためだ。

 

 ごろごろとキャリーバッグを引きずって、デパートの近くまで歩いていくと、女の子の歌声は聞こえず、代わりに男の怒声が聞こえてきた。いつも女の子がライブをしている辺りに、珍しく足を止めている人がいる。

 まさかと思って見てみると、どこかで見た気がする警官が、ギターを肩からぶら下げたままの女の子に何やら怒鳴りつけている。肩の力が抜けた。酔っ払いか何か、変なのに絡まれてるのかと思ったから。

 会話の内容を盗み聞きしてみると、警官は女の子がここでライブをやることに腹を立てているようだった。

 唾を飛ばしながら注意する警官の話を、女の子は何を考えているのかわからない表情で聞いている。それに腹を立てたのか、警官の怒声が一段大きくなった。

 そんな警官の剣幕もどこ吹く風、ぼんやり気の無い相槌を打つ女の子を雑踏の中から遠目に眺めていると、ばったり緑色の瞳と視線がかち合った。

 女の子は、少し目を丸くして驚きの表情を浮かべたあと、口元をニッと歪めた。丁度警官の死角になるあたり、後ろに組んだ手でちょいちょいと、地面に置かれたギターケースと、いつもCDケースを入れてるトートバッグを指差す。そして目が覚めるようなウィンクをひとつ。

 

 次の瞬間、女の子は走り出した。ギターを持ったままなのに、とんでもないスピードでその背中がどんどん遠ざかっていく。たっぷり五秒間くらい、間抜け面でその後ろ姿を見送った警官は、慌てて出っ張った腹を揺らしながら女の子を追いかけ始めた。

 ポカンと、小さくなっていく二人の姿と、誰もいなくなったシャッター前に残されたギターケースを見比べる。ああそういうことか。ようやく女の子の意図が分かった。

 僕は手早くギターケースの口を閉じて背負い、傍らに置かれていたトートバッグを取り上げると、女の子の後を追いかけ走り始める。キャリーバッグの持ち手が、ギシりと不満そうな音を鳴らした。

 ほとんど歩いてるのと変わらない速度で走る警官を追い抜く。何事か叫んだ気がしたけど、気にせず走る。こっちだって、この大荷物で走っていっぱいいっぱいなんだ。他人に構ってる余裕なんてない。

 前を走る女の子がこちらを振り返った。暗くて良く見えなかったけれど、多分、笑顔だった。

 何故だか笑いが込み上げてくる、運動不足の足が悲鳴を上げるけれど、僕は込み上げてきた笑いを、惜しみなくまき散らしながら走った。前の方からも愉快そうな笑い声が聞こえてきた。

 混ざり合ったふたつの笑い声は、ガードレールの向こうの車道を走る、大型トラックの車輪に巻き込まれて、バラバラになって夜闇の中に消えていった。

 



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ピアス。濡れた髪。

 ぽたぽたと汗が地面に落ちて、真っ黒なアスファルトに、黒い染みを作った。手をついた膝が笑ってる。背中にぺったりと張り付いたシャツが気持ち悪い。疲れた、とにかく疲れた。体中が熱い。

 荒い息を吐いたり吸ったりして、呼吸を整えていると、ぴたりと首筋に何かが当てられた。冷たい感触。驚きで自分の物とは思えない素っ頓狂な声が出る。ぼとんと鈍い音を立てて、冷たい感触の正体、スポーツドリンクのペットボトルが地面に転がった。女の子がそれを拾い上げて僕に差し出してくる。

 

「お兄さん、体力無いんだね?」

 

「・・・そう言う君は体力があるね」

 

 荷物のことを考えろとか、革靴なんだけどとか、いくつかの文句が頭の中を過ったけれど、考えてみたら女の子もギターを持ったまま走ってた。煙草を吸ってるクセに、なんて体力だ。

 ペットボトルを受け取って、中身を流し込む。甘ったるいスポーツドリンクが喉を通って胃に落ちていく感覚。

 体の熱が引いてきて、ようやく一息つくと、女の子は中身が半分くらいまで減ったペットボトルを僕の手から奪って、一気に呷った。汗で光る白い喉が上下する。何故か目が離せなかった。

 女の子は空になったペットボトルを地面に置いて、左手につけたリストバンドで首筋の汗を拭うと、近くのガードレールに腰掛けた。秋も深まって気温が落ちてきたからか、女の子は白いTシャツの上にカーキ色のミリタリージャケットを羽織っていた。

 ただガードレールの上に座ってるだけなのに、ファッション誌の一ページみたいにサマになっている

 なんとなく気後れしたから、拳みっつぶんくらいの間を空けて、僕もその隣に腰を下ろした。深呼吸。埃っぽい都会の風に混じって、甘い汗の匂い。すぐ後ろを自動車が走り抜けていく。

 

「あーあ。しばらくあそこでライブできないかも」

 

「ああいうことってよくあるの?」

 

「うん。だけどあのお巡りさんは怒りんぼ。ちょっとびっくりした」

 

 ちっとも驚いているように見えなかったけど・・・。

 しかし、意地悪な話だ。誰の迷惑になるわけでもないのだし、歌くらい好きに歌わせてやればいいのに。

 

「もうちょっと大きい駅に場所、変えてみようかな。ここ、お兄さんくらいしか止まってくれる人いないし」

 

 それは・・・残念だ。心底。口には出さないけれど。僕が聴きたいから、なんて理由で、ここに引き留めるわけにもいかない。

 女の子が長い黒髪をうざったそうに耳に掛けるのを横目で盗み見る。車のヘッドライトの光が耳元で反射した。小振りな耳に無数のピアス。つけているのは知ってたけど、ちゃんと見るのは初めてだった。好奇心に負けて、耳たぶにぶら下がった一番大きなピアスを摘まんでみる。熱い。女の子の肩がぴくりと跳ねた。

 

「痛くないのこれ?」

 

「最初は痛かったけど、今は全然。お兄さんも空けてみる?」

 

「僕は会社に怒られちゃうから」

 

 ・・・会社。そういえば明日も仕事だった。腕時計に目を落とすと、いつの間にか長針と短針とがてっぺんで重なり合おうとしていた。

 女の子について走って来たから、随分と家から離れてしまった。さっさと帰ってシャワーを浴びて寝ないと。ああ、出張の荷物の片付けもあるんだ。

 

「ごめん、帰らないと。明日も朝から仕事なんだ」 

 

 ガードレールから降りようとするけど、降りられなかった。女の子の手が僕のスーツのジャケットを中のシャツごと鷲掴みにしていたから。

 さすがギタリスト、凄い握力。いや、ギタリストは関係ないか。掴んでるの右手だし。

 

「どうしたの?」

 

「私、帰る場所が無い」

 

「え?」

 

「家、近所じゃなかったの?」と訊くと、女の子はふるふる首を振って、電車でここから一時間以上はかかるであろう地名を口にした。終電はとっくに行ってしまっている。

 

「でも、僕と初めて逢ったとき、このくらいの時間までライブやってなかった?」

 

「うん。全然人集まらないから粘ってたら、あんな時間になってた」

 

「その後はどうしたの?」

 

「始発まで歩いてた」

 

 それはまた、なんというか逞しい・・・。

 適当にネット喫茶にでも入ればいいのにと思ったけれど、そういえば金欠だって言ってたっけ。

 

「私、帰る場所がない」

 

 女の子は先程と同じ言葉をそのまま言う。

 相変わらず何を考えてるのかよくわからない顔。緑色の瞳に僕の顔がゆらりと映って見えた。何を考えてるのかわからないけれど、少しだけ不安そうには見えた。

 だから、また始発まで歩けばいいなんて、とても言う気にはなれなかった。

 

「うち、来る?」

 

「行く」

 

 即答だった。女の子がガードレールから飛び降りるのに引っ張られて、僕もつんのめりながら降りる。足元に置きっ放しだったペットボトルが倒れた。そして、そのまま車道に転がっていって、行き交う車に踏まれてペチャンコになった。

 無残なペットボトルの末路を女の子とふたり笑い合った。おみやげが入った紙袋を女の子に押し付け、キャリーケースを引いて歩き始める。女の子の、僕のジャケットを掴んだ手はそのまま。家に着いて玄関の扉の鍵を閉じるまで、ずっとそのままだった。

 

 

ーーーーー

 

「部屋、広いんだね。家賃高そう」

 

「まぁぼちぼちかな・・・」

 

 駅近で1LDKの我が家は確かに家賃が割高だ。同居人が出て行ったタイミングで引っ越しても良かったんだけど、結局そのまま住み続けている。

 きょろきょろと部屋の中を見回す女の子に「シャワー先に貰っても良い?」と訊くと「いいよ」と言ってくれたから、お言葉に甘えて、キャリーバッグを玄関の横に放置して脱衣所に直行した。

 服を脱いでいる途中で気が付いた。甘えるも何も、ここは僕の家じゃないか。

 走ったせいで、いつも以上にかいた汗を洗い流して部屋に戻ると、女の子がソファに座ってギターを弾いていた。テーブルの上には、おたまじゃくしが踊るルーズリーフが数枚並んでいる。

 

「真夜中なんだけど」

 

「・・・。うん、ごめん」

 

 謝りながらもギターをつま弾く手を止めようとはしない。まぁ、ジャカジャカ掻き鳴らしてるわけじゃないしいいか。

 寝室のクローゼットからバスタオルと、部屋着、それと奥の方で眠っていた新品の女物の下着を取り出して、女の子に渡した。受け取った女の子は「変態?」と、真顔で首を傾げる。

 

「なんで?」

 

「下着、女物。着るの?」

 

「着ないよ。出てった同居人が置いてったやつ。見ての通り新品だから、安心して」

 

「・・・同居人が変態?」

 

「どうして、意地でも変態にしたがるのかな?」

 

「まともな会社員だったよ」と言い聞かせて、女の子を脱衣所に放り込む。

 ソファを我が物顔で独占するギターをケースに戻して、身を沈めるとようやく人心地ついた気がした。

 テーブルの上の楽譜を一枚手にとって眺めてみる。昔、音楽の授業で読み方を習った覚えがあるけど、どれが「ド」なのかもわからなかった。

 これが女の子の音楽になるのかと思うと、僕なんかが触ったらいけないような気がしてきた。急に神聖なものに変化した紙切れを、そっとテーブルの上に戻す。

 ひとつ息をつくと、思い出したように、強烈な疲労感と眠気が体にのし掛かってきた。考えてみると、長期出張から戻ったその日に、終電とまではいかないものの働かされ、その挙げ句が、荷物を抱えて全力疾走だ。そりゃあ、疲れてもいるだろう。

 ソファからどうにか身体を引き剥がし、寝室から毛布と枕を持ってきて置いておく。女の子には悪いけどベッドは僕が使わせてもらおう。ちゃんと寝ないと明日一日、乗り切れる気がしない。

 携帯のアラームをセットして、ベッドに倒れこむ。約一ヶ月ぶりの、自分の家の寝床は、驚くほど落ち着くもので、僕の意識を一瞬で闇の中に引き摺り込んでいった。

 

ーーーーー

 

 ベッドが軋む音で目が覚めた。

 浅い眠りから引っ張りあげられたものだから、今が夢の中なのか、現実なのかが、イマイチ曖昧だ。 けれど、ぼやけた天井が、急に緑色に染まって意識が一気に覚醒した。女の子が僕の上に馬乗りになって、こちらをじっと見下ろしてる。

 

「どうしたの?ベッドで寝たかった?」

 

 身体を起こそうとするけど、女の子の手が僕の肩に乗っていて、情けないことに身動きひとつとれない。

 

「死んじゃったのかと思った」

 

 僕の顔を見下ろしたまま、ポツリと女の子が言った。

 死んだみたいに眠るんだね

 出て行った、同居人の素っ気ない言葉が蘇る。

 自分の寝姿なんて見たことがないから、わからないけど、もしかしたら相当、酷い顔で寝ているのかもしれない。

 

「大丈夫、生きてるよ。身体は頑丈だから」

 

 体力は無いけどね、と付け加えておどけてみせたけど、女の子はクスリとも笑わずに首を振る。長い髪の毛から水滴が散って、僕の頰にいくつか落ちた。

 

「歌、急に聴きに来てくれなくなったから、いなくなっちゃったと思った」

 

「それは、ごめん。急に仕事が入っちゃって」

 

 髪の毛、ちゃんと乾かさないと風邪引くよ?

 そう続けようとした言葉は、急に近づいて来た女の子の顔に遮られた。鼻先がピッタリとくっ付きそうな近距離。かかる吐息の熱さで脳が溶けそう。

 

「お兄さん、知ってる?」

 

 なにを?と、言えたのかわからなかった。深い、底の見えない緑色に吸い込まれてしまって。

 

「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ」

 

 女の子の身体がもたれ掛かる。濡れた髪が冷たい。

 そうして今度こそ、僕の意識は闇の中に沈んでいった。



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甘い匂い。ハンバーグ。一緒に。

 聞き覚えの無いアラームの音で目が覚めた。

 いつまで経っても鳴り止まない音は僕の携帯から流れているらしく、引っ張りよせて適当に画面をタップすると、アラームの四倍くらいやかましい音が受話口から溢れだした。

 跳ね起きて時間を確認して、背筋に氷を落とされたような感覚。携帯電話の右上に表示された現在時刻は、普段なら会社で上司のありがたいお言葉を、みんなで聞き流してる時間。つまるところ、完全に遅刻だった。

 携帯電話越しに平謝りして、そこらに落ちてる衣服に足を取られながらスーツに着替えて、転がるように家を出た。太陽の光が眩しくて、涙が滲んだ。

 入社以来、初めての大遅刻をやらかした僕は、同僚が好奇と同情の視線の中で、上司からバケツいっぱいの怒声とお小言を嫌味を頂戴した。今回ばかりは全面的に僕に非があるから仕方ない。

 出張明けで目を逸らしたくなるくらいに仕事が溜まっていたけれど、駅まで全力疾走すればなんとか終電に間に合う時間には、なんとか片づけて会社を出ることが出来た。

 

 最寄りの駅前のコンビニで、弁当を念のためふたつ買い込み温めて貰って、二日連続の全力疾走でふらふらになった足で、家に到着して玄関のドアを引くと、女の子の随分と履き込まれたキャンパス地のスニーカーがちょこんと並んでいた。開いたままドアの奥からギターの囁き声に混じって調子外れな鼻歌が聞こえる。

 良かった。どうやら帰ってなかったらしい。弁当が無駄にならないで済んだ。

 スニーカーの横に自分の革靴を並べて、リビングに入ると「おかえり」と呑気な声が飛んできた。

 そこには昨日見たのと、ほとんど同じ光景。ソファに座って、ギターを爪弾く女の子。散らばった楽譜のルーズリーフ。

 違うのは、冷蔵庫に入ってたはずの黒い瓶と、その中身のピンク色のお酒が注がれたグラスが、テーブルの上に載っていること。それから女の子が口に咥えた煙草から立ち昇る白い煙。

 既に吸殻が何本か転がっている灰皿を避けて、弁当が入った袋をテーブルに置くと、女の子の瞳がキラリ輝く。僕が「待て」と言うと、女の子はギターを弾くのを急に止めて姿勢を正した。まるで犬みたい。

 

「お嬢さん。部屋の中が禁煙だって知ってたかい?」

 

「なんだってお兄さん。そいつは初耳だ」

 

 アルコールが回っているのか、トロンとした目つきの女の子に悪びれた様子はこれっぽっちもない。お酒の瓶を軽く振ってみると、中身は半分くらいに減っていた。そこそこ度数が高いのによく飲むなあ。関心半分、呆れ半分で瓶を元の場所に置く。

 不思議な匂いが鼻腔をくすぐった。やたらと甘ったるい、独特な匂い。よく見ると口に咥えた煙草がいつもの物じゃない。テーブルの上にある煙草の箱は、以前ライブハウス受付で、あの不気味な金髪の女が僕に寄越したのと同じものだった。

 そこまで悪い匂いじゃないし、なんとなく興味が湧いたから、女の子の口から煙草を引っこ抜いて、自分の口に持っていって吸い込んでみる。「あっ」と女の子が慌てて腰を浮かすのが見えた。

 身体がふわりと浮いてグルリと一回転。肺胞のひとつひとつ、細胞のひとつひとつに煙が染みこんでいく感覚。前に吸った物と全く違う味。思考がぼやける。いや冴えわたる。どっちだ。わからない。

 ぴたぴたと、頬に冷たい感触。気持ちいい。安心する。握ってみるとそれは女の子の手だった。いつの間にか目の前に女の子の顔。心配そうな表情に見下ろされてる。さっきまで立ってたはずなのに、床に座り込んでる自分がいた。

 

「大丈夫?」

 

「・・・ラクダになるかと思った。これ、本当に美味しくないんだね」

 

 煙草を女の子に返して、ギターをどけて、ふらつく身体をソファに横たえる。こちらの様子を覗きこむ女の子に「大丈夫、もう大丈夫」と手を振って見せる。煙草一本でこの有様、格好悪いったらない。

 

「弁当買ってきたから、お腹減ってたら食べていいよ」

 

 テーブルの上のコンビニ袋を指差して言って、そのまま目を瞑った。なんだか視界に入ってくるもの全てが眩しく見える。目を閉じても、瞼の裏でなにかが万華鏡のように光っていた。

 少しして、ガサゴソと袋が擦れる音の後、女の子が弁当を食べ始める音が聞こえた。部屋の中に、ハンバーグのチープな匂いが満ちて、甘ったるい煙草の匂いを消し去っていく。

 吸ったり吐いたり、深呼吸を繰り返していたら、だいぶ気分が楽になってきたから、そっと目を開けてみる。なんでか見慣れた天井が素敵なものに思えて愉快な気持ちになった。身体がふわふわする。

 天井から視線をずらすと、黙々と弁当を口に運ぶ女の子の横顔。ただ食べ物を口の中に入れて咀嚼してるだけなのに、それがやたらと画になっていて、美人というのは本当に得な生き物だなと思った。

 

「美味しい?」

 

「ふん!」

 

 口いっぱいに白米を含んだままで頷く女の子を見て、思わず笑ってしまった。

 

「食べられそうなら、ふたつとも食べちゃっていいからね」

 

 そう言うと、女の子は嬉しそうに頷いて、弁当をやっつけにかかる。割りばしの先がプラスチックの容器に当たる音が響いた。

 ぼんやり、ソファに寝転がったままで女の子の横顔を眺める。いつもどおりの横顔。昨日の夜のことが幻か何かだったかのように思えてくる。でも僕にもたれかかってくる女の子の軽すぎる体重と柔らかさは、はっきりと記憶に残っていて、とても夢の中の出来事だったとは思えない。

 僕の視線に気づいた女の子は、なにを勘違いしたのか、ハンバーグを一切れ、箸の先に突き刺して差し出してきた。

 食欲が戻ったわけじゃなかったけど、厚意を無下にするのもどうかと思ったから、首を伸ばして、箸に食らいつく。添加物まみれのハンバーグは、普段は少しくどく感じる味なのに、今日に限ってはなぜだか、やけに美味しく感じた。だから、再び差し出してきた一切れにも食いついてしまう。

 

「なんだか餌をあげてるみたい」

 

「じゃあキミが飼い主?」

 

「どっちかっていうとお兄さんが飼い主じゃない?ここ、お兄さんの家なんだし」

 

 それじゃあ、と僕は身体を起こし、女の子の手から箸を取って、もう半分程に中身が減った弁当から白米を女の子の口元に運ぶ。

 

「お肉の方がいい」

 

「好き嫌いしないで食べなさい」

 

 横暴だ、虐待だ、などと言いながらも、女の子は白米を食べた。

 それから「次はハンバーグ」「ポテト。ソースつけてね」と言われるままに、女の子の口に食べ物を放り込んでいくと、あっという間に空のプラスチック容器が出来上がった。

 

「どうする?弁当、もうひとつ食べる?」

 

「ううん。もうお腹いっぱいだからいいや。明日食べる」

 

「明日もここにいる気?」

 

「だめ?」

 

「別に。大丈夫だよ」と女の子に返して、空の容器と、手つかずの弁当をキッチンに持っていく。まだ少しふらつくけど、煙草にやられた体調は随分と良くなっていた。だけど、分別だとかを気にするのは億劫な心持ちだったから、45リットルのゴミ袋の中に油で汚れたままの容器を放り込んだ。ゴミ袋の中は、似たような容器が折り重なっている。

 次のゴミは明後日だったかな。どうにも曜日感覚が曖昧だ。

 リビングに戻ると、テーブルの上のお酒と五線譜はそのままで、女の子の姿が消えていた。寝室の扉が開かれて電気の光が漏れていたから見てみると、ベッドの上に寝転んでノートに鼻歌混じりに何かを書き込んでいる女の子があった。作詞でもしてるのかと思って近づいてノートを覗いてみる。そこには文字ではなく、カエルの頭にウサギの耳が生えた、なんだかよくわからない生き物の絵が描かれていた。

 パタパタと、女の子の剥き出しの白い脚がベッドを叩いて、シーツに皺を作る。昨日、僕が貸しのはスウェットの上下だったはずなんだけど、何故か女の子の格好は、上はスウェットのままで、下は多分クローゼットから引っ張り出したのだろう、少し前まで僕が寝巻にしていたジャージの半ズボンになっていた。寒くないのかな?

 シーツに皺が増えるのと一緒に、女の子の膝の裏の上あたりが露わになっていくのが見えて目を逸らした。ノートの上にはウサギ耳のカエルの他に、パンダらしき動物の絵が増えていた。

 

 

「キミは、いつもこういうことしてるの?」

 

「こういうことって?」

 

 ノートに注がれていた女の子の視線が持ち上がって、シャープペンの先が紙を引っ掻く音が途切れた。

 

「こんなふうに、男の人の家に転がり込んで、ご飯食べさせて貰ったり、みたいな」

 

 女の子はパチパチと瞬きをして、首を振った。

 

「ご飯食べさせてくれるって付いて行ったら、無理やりされそうになって、それからしてない」

 

「・・・それ、大丈夫だったの?」

 

「うん。思いっきり蹴ったら動かなくなったよ?」

 

 足をパタパタさせるのを止めた女の子が、僕のお腹の下あたりを見て、あっけらかんと言う。女の子の脚が突然、鋭利なナイフのように見えて、僕は思わず一歩後ずさった。

 

「じゃあ、なんで僕のとこには来たのさ?」

 

「お兄さんは、大丈夫だから」

 

「大丈夫?」

 

「うん。安全そう」

 

 そう言うと、女の子はお絵かきを再開してしまった。

 喜んでいいのか、少し微妙な気持ちだった。信頼してもらえるのは嬉しいけれど、全く男として見られないというのも複雑なものだ。

 ベッドに腰を下ろして、ノートを覗く。パンダのような生き物が次々と量産されていくのを眺める。

 

「本当に安全だと思う?」

 

 絵を描く手を止めた女の子が、首を巡らせてこちらを見る。

 

「もしかしたら狼かもしれないよ?」

 

「ラクダじゃなかったの?」

 

「ラクダの皮を被った狼かも」

 

 女の子の脇腹を突くと、びくりと身体が跳ねた。思っていた以上の大きな反応が面白くて、そのままくすぐってみると、女の子もやり返してきて、僕たちは小さな動物がじゃれ合うみたいにもつれた。ベッドがギシギシと不快そうな音を鳴らして、布団や枕や、女の子が絵を描いていたノートやシャープペンが、ベッドの下に落ちた。

 ひとしきり暴れた後、僕は仰向けになった女の子のお腹の辺りに跨っていた。負けん気の強い女の子が起き上がろうとするのを、肩を抑えて止める。不安になるくらいに細い肩とお腹周り。昨日の夜中とは真逆の光景。ふたりぶんの荒い息の音だけが部屋の中に満ちている。

 

「あのさ」

 

「なに?」

 

 呼吸を整えて、女の子の顔を見下ろして言う。

 

「一緒に、ここに住まない?」

 

 目は見れなかった。なんとなく後ろめたくて。だから、整えられた眉毛と眉毛の真ん中の辺りを見て、そう言った。

 

「家賃は?」

 

「え?」

 

「ここ、半分こでも家賃高そう」

 

 女の子はいつもの調子で言う。息が上がったままなのは僕だけだ。

 

「いいよ、そのくらい。こう見えて、それなりに稼いでるから」

 

「石油王?」

 

「・・・ほんの少しは稼いでるから」

 

 流石に石油王には敵わないけど、色々とあって仕事ばかり生きてきて、入ってきたお金も、ろくに使わないでいたから、女の子一人くらい抱え込んでも大丈夫なくらいの余裕はある。

 

「今なら三食昼寝付き。どう?」

 

「それはお得だ。でもそれじゃお兄さんに得がなくない?」

 

「いいんだよ。まるまる太らせて、そのうち食べてやるから」

 

「わあ怖い」と、ちっとも怖くなさそうに女の子が言うから、肉が殆どついていない、あばらの辺りをくすぐってやった。笑い声を上げながら身をよじらせるのを、体重をかけて押さえつける。しばらくそうしていると女の子の手が伸びてきて、僕のシャツの左胸の辺りをギュッと握ってきた。やり過ぎたかなと思ってくすぐる手を止める。

 シャツを握りしめたまま、熱っぽい息を吐く女の子を見下ろす。形の良い額に、汗で前髪がペタリと張り付いていたから、払ってやった。女の子の目が良く見える。さっきは見れなかった目には、感情が読み取れない色が浮かんでいる。

 

「お兄さんはいなくならない?」

 

 ここはなくならない?熱っぽい息が混じった声で、僕の目を見たまま、女の子が言った。どういう意味かはわからないけど、最近はいつかみたいに死にたいと思うことが無くなっていたから、僕は頷いた。

 

「そっか」

 

 僕の目から視線を外した女の子が、目を瞑って、そして開いて、天井を見上げてから呟く。僕が跨っているお腹が大きく膨らんで、萎んで、女の子は長い息を吐いた。さっき食べたハンバーグの匂いがした。

 

「うん。それなら住もうかな」

 

 その言葉に僕は、何故だか酷く救われた気持ちになったから、大きく息を吐いた。多分、女の子と同じ匂いがすると思う。

 シャツを握っていた女の子の手が解けて、ベッドの上に落ちた。そして、あばらの辺りに添えたままの僕の手をスルリと取って、自分の首に持っていく。女の子の細い首は、汗が滲んで少しヌルヌルしていて、火傷しそうなくらいに熱い。

 

「まだ、まるまる太ってないけど、食べても良いよ?」

 

 天井から僕の目に視線を戻した女の子の瞳には、さっきまで無かった色が見えた。ハンバーグの上にかかっていた、トロトロのソースみたいな色。今度の感情は読み取ることが出来た。僕は、力強く脈打つ女の子の首を包む手に、ゆっくりと、ゆっくりと力を加えた。

 



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引っ越し。オーケストラ。赤。

 あれから二週間が経った。

 外出する際に、コートを着るべきか迷うようになった、肌寒い十一月の中頃、住んでた部屋の片付けやら、引き渡しやらの手続きを済ませた女の子が、僕の部屋に引っ越してきた。友達の家に遊びに来るみたいに、唐突に。

 女の子が持ってきた荷物は、愛用のアコースティックギターが入ったケースがひとつ。三泊くらいの旅行に持っていくような大きさの、車輪がひとつ壊れた、青いキャリーバッグがひとつ。たったそれだけだった。

 引っ越しを手伝う気でいた僕が驚いて「冷蔵庫とか、洗濯機とかはどうしたの?」訊くと、女の子は「持ってないよ?」と、不思議そうな顔をして答えた。

 女の子がいままで一体どんな生活を送ってきたのかが気になったけど、僕は聞くことが出来なかった。知るのが怖かったから。

 

 

ーーーー

 

 

「ただいま」

 

 灯りの漏れるリビングに向かって声をかけるけれど、返事は返ってこなかった。女の子のスニーカーはキチンと揃えられたままで置いてあるから、コンビニに出掛けたとか、そういうわけでもないみたい。またソファで眠りこけてるのかな?

 靴を脱いで、適当に揃えて、リビングに向かう。ドアを開けると、暖房の生温い風に頬を撫でられた。背中がムズムズする。部屋の中に自分以外の人がいることに、どうにも慣れない。去年の今頃は同居人とのふたり暮らしで、ひとりの期間の方が短いのに不思議だ。

 暖色の電気の灯りで照らされたリビングに、女の子の姿はなかった。代わりに、ソファーの前のテーブルの上に、どこかで見たことがあるような、女物の衣服やアクセサリーが綺麗に並んでいる。女の子のCDが入ったままのはずのコンポからは、少し前に流行った、薄っぺらな歌詞のJ-POPが、控えめな音量で流れて、その音に混じって、寝室の方からゴソゴソと、何かを物色する音が聞こえた。

 寝室をそっと覗いてみると、床中に衣類が散乱して、スウェットに包まれたお尻がクローゼットから生えて、ゆらゆら揺れている。

 

「……なに、してるの?」

 

 思わずお尻に向かって、尋ねた。するとクローゼットの中に突っ込んで隠れていた女の子の上半身が姿を現した。せっかくの綺麗な黒髪がボサボサになってしまって台無しだ。

 

「あ、帰ってたんだ」

 

「うん。つい今さっき」

 

「そっか、お帰り。お仕事、お疲れ様」

 

 そう言いながら、女の子は床に散乱した衣類から、女物だけを拾い上げて横に寄せて、僕のコートなんかは丁寧にハンガーに掛け直す。

 

「ご飯は食べてきたの?」

 

「え? いや、まだ。食べてないよ」

 

「なら、冷蔵庫に野菜炒めが入ってるから、温めて食べて。炊飯器にご飯もあるから」

 

 女の子は、ボサボサの髪をそのままで、寄せていた女物の衣類を取り上げると、リビングに戻って行ってしまった。

 

「あ、ありがとう?」

 

 完全においてけぼりな僕は、間の抜けた声で女の子の背中に、お礼を言った。

 

 

ーーーー

 

 

 リビングのテーブルが占領されているから、僕はキッチンで立ったまま、女の子作の野菜炒めを温めて、ご飯と一緒に食べた。醤油だけで味付けされた野菜炒めは、味が濃かったり薄かったりして、具材の大きさもバラバラだったけど、コンビニの弁当よりもずっと美味しく感じられて、すぐになくなってしまった。

 女の子がここに住み始めてから、何回か料理を作ってくれた。女の子の料理は塩の塊が入ってたおにぎりだったり、肉とじゃがいもが別個に調理された肉じゃがだったり、少し奇抜なものが多い。だけどちゃんと温かくて、ちゃんと人間の味がして、僕は女の子の料理が結構気に入っていた。

 

 シンクで水に浸かっていた女の子の食器と、自分が使った食器を洗ってリビングに戻ると、ソファに体育座りをした女の子が無表情で歌詞カードを眺めながらコンポから流れるJ-POPに耳を傾けていた。その隣に、少し距離を置いて腰を下ろす。

 

「このアーティスト、好きなの?」

 

 ふるふると女の子は首を振った。

 畳んだ衣類の横に積まれたCDの中から、一枚選んで手に取ってみる。五人組の男性アイドルが作り物めいた笑顔を浮かべているジャケットのCDは、確か同居人が気に入っていたものだった。二二歳の夏に一緒に東京ドームにライブを見に行く約束をしていたのを、僕が急に舞い込んだ出張ですっぽかしたのを、同居人が酷く怒ったのをよく覚えている。

 いま思えばあれがきっかけだったのかもしれない。ふたりの間にあった目に見えないくらいの小さな歪みに、明確な、大きな亀裂が入ってしまったのは。

 テーブルの上に並んだ同居人が置いて行った私物と、CDのジャケットを見比べて、今更になってそう思った。

 

「好きなの? それ?」

 

「え?」

 

「そのCD。ずっと見てるから」

 

 そんなに見てたかなと思ったけど、気づいたら先程まで流れていたJ-POPが消えていて、女の子の手にあった歌詞カードは、プラスチックのケースの中に納まっていた。思っていた以上にぼんやりしていたのかもしれない。

 僕は軽く頭を振ってから、女の子に「好きじゃないよ」と答えた。同居人が好きだから合わせていたけれど、僕はこのアイドルグループの愛だったり、平和だったりを歌う歌詞があまり得意じゃなかった。

 

「好きじゃないなら、どうして持ってるの?」

 

 女の子が僕の手からCDを抜き取って、ジャケットの表面と裏面を交互に見る。

 

「前に一緒に住んでた人が置いてったんだよ」

 

「これ、全部?」

 

 CDを持っていない方の手で、女の子がテーブルの上を指差す。僕は頷いた。こうして見ると、同居人が置いて行ったものは全て、僕が何かの機会に送ったものだったり、なにかしらの思い出があるものばかりだった。

 

「必要?」

 

「何が?」

 

 女の子の指の先にある物が多すぎて、どれのことかわからないから尋ねると「全部」という答えが返ってきた。

 

「別に、必要じゃないかな。欲しいならあげるよ」

 

「全部?」

 

「うん、全部」

 

「いいよ」と僕が言うと、女の子は平たんな声で「ありがとう」と言って、ソファから立ち上がると、そのままキッチンの方に行ってしまった。どうしたんだろう?

 テーブルの上、衣類の横に並んだアクセサリーの中に、ワインの色の小箱を見つけて手に取った。そういえばこれも捨ててなかったんだっけ。

 手のひら大の小箱を開くと、真珠色の布に、小さな白金色の指輪が刺さっていた。買ったときと全く変わらない輝き。真ん中にあしらわれた透明な石が、照明の暖色を反射してピカピカ光った。

 

「結婚、してたの?」

 

 突然声をかけられて、ビックリして小箱を落としそうになる。いつの間にかキッチンから戻ってきていた女の子が、僕の手の小箱を見下ろしている。照明で陰って表情がよく見えない。

 

「してないよ。する前に逃げられたから」

 

 へぇ。と女の子は気のない返事を返して、僕のことを押しのけてソファに座る。さっきまであった、ふたりの間の距離が一気に無くなった。女の子のリストバンドに包まれた左手が、僕の右の太ももに当たる。

 

「どうして逃げられたの?」

 

 ばさりと、女の子がキッチンから持ってきたのであろう45リットルのポリ袋を足元に広げた。よく見ると右手には大ぶりなキッチンハサミが握られている。

 

「僕が仕事ばっかりで嫌になったみたい」

 

 私と仕事、どっちが大事なの?

 

 ドラマや小説の中だけで存在すると思っていた質問を、まさか現実でされると思っていなかった僕は、なにも応えることが出来なかった。

 やっぱり。そう呟いてクシャリと歪んだ同居人の顔は、今でもたまに夢に見る。

 

「お兄さんは、なんでそんなに仕事をするの?いつも帰り、遅いよね?」

 

「結婚式にいくらかかるか知ってる?」

 

 質問に質問で返す。女の子は首を振って、テーブルの上の衣類から、ベージュのトレンチコートを手に取った。女の子に似合うと思うけれど、少しサイズが小さいかもしれない。

 

「結婚式って普通に挙げると、大体三百万くらいかかるんだって」

 

「そんなにかかるんだ」

 

 CDがいっぱい作れるね、と女の子が言うから、少し笑ってしまった。

 

「新婚旅行が五十万、子供が一人が成人するまでに三千万くらい、お金が必要なんだ。だから頑張って稼がないとって思ったんだけど」

 

 逃げられちゃった。と言おうとした僕の言葉は、布を切り裂く物騒な音で遮られてしまった。

 驚いて女の子の方を見る。その手には肩口がパックリと切り裂かれたトレンチコートが。胴体から分離してしまった袖を、女の子はゴミ袋に放って、もう片方の袖も肩から切り裂きにかかる。

 

「着るんじゃなかったの?」

 

「言ったっけ? そんなこと」

 

 女の子はハサミを操る手を止めない。胴体だけになったトレンチコートを丁寧な手つきで滅茶苦茶に切り裂いて、切り口を手で直接引っ張って破く。

 ただの布の塊になったトレンチコートを袋の中に押し込んだ女の子は、今度はさっき僕が見ていた、五人組のアイドルのCDを取って、ジャケット引き抜くと、ハサミで一ページずつ、切り取って、破いてを繰り返した。ジャケットが紙くずになって、跡形も無くなる。女の子がケースに残った、アイドルグループのロゴが印刷されたCDを取って割ろうとしたところで、僕は女の子の手を掴んだ。

 

「やっぱり、惜しくなった?」

 

 女の子が首を傾げる。瞳がビー玉みたいに光る。

 僕は首を振って、CDを女の子の手から抜き取った。そして銀色の読み取り面の真ん中に、白い線が走っているCDを二つに割った。しなびた、古くなったにんじんを切ったときみたいな感触。思ってたより、気持ち良く割れないものなんだな。けれど、心の奥に知らないうちに滞留していた何かがスッと消えたような感じがして、不思議と悪くない気分だった。

 

「手、怪我したらギター弾けなくて困るでしょ? 割るのは僕がやるよ」

 

「そっか。うん、確かにそうだ。ありがとう」

 

「ハサミで手、切らないようにね?」

 

 ハサミが布を切り裂く音。CDが軋む音。布の繊維が千切れる音。プラスチックのケースが割れる音。台無しになったそれらがゴミ袋に詰め込まれる音。女の子の陽気な鼻歌。静かな部屋に色んな音が混ざり合って、オーケストラみたいに鳴り響いて楽しい。

 

「いつから付き合ってたの?」

 

「確か、高校生の一年生だったかな」

 

「長かったんだね」

 

「うん。長かった」

 

 告白したのは彼女の方からだった。一学期の終業式の後、誰もいなくなった教室で。僕にとって初めての恋人だった。高校を卒業して一緒の大学に通うようになった頃には、僕はすでに結婚を意識していた。彼女の方はどうだったのかな。わからない。

 CDケースが割れる小気味よい音と同時に、右手の薬指の先に鋭い痛みが走って、思わずケースを落としてしまった。オーケストラが途切れる。指先を見ると、肌色の上に丸い赤い点が浮いていた。

 じわじわと大きくなる赤い点を眺めていると、女の子の手が僕の手を掴んで、血のにじむ指をパクリと咥えた。傷口を吸われる。僕の中を流れる赤い液体が、女の子の中に流れ込んでいく。ザラザラした生温かい感触が指先を撫でる。背筋が粟立った。

 けれどそんな甘い刺激は、直後に訪れた痛みに吹き飛ばされた。割れたケースが指先に突き刺さったときとは比べ物にならない痛みが、頭の後ろのあたりを貫く。

 

「ちょっと。痛い、痛いって」

 

 女の子の口から指を引き抜いて、身体ごと距離を取る。恐る恐る、右手の先を見る。唾液に塗れた薬指がちゃんとくっついていて、安心した。食い千切られたかと思った。

 

「ごめん。美味しかったから、つい」

 

「つい、で指を持ってかれたんじゃたまらないよ」

 

 ゴミ袋の中に詰まった布きれを一枚取り出して、女の子の唾液を拭きとる。切り傷から流れていた血は止まっているけど、歯形が綺麗に残っていた。用済みになった布きれをゴミ袋に放って、ついでに床に転がったCDのケースを拾い上げようとすると、横から伸びてきた手に掻っ攫われた。

 女の子は、ケースの割れた尖った部分を、右手の小指の先に躊躇なく押し付けた。ぷつりと、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。女の子の指先に赤い点が現れて、大きくなっていくのが見えた。

 

「何してるの? ギター弾けなくなっちゃうよ?」

 

「大丈夫。こっちの小指はそんなに使わないから」

 

 ほら、と女の子が僕に、指を差し出す。真っ白な指先に、ぷくりと浮かんだ赤い雫が今にも零れ落ちそう。それが落ちてしまう前に、僕は吸い寄せられるように、女の子の小指を咥える。少し塩っぽい、少し鉄っぽい液体を舌で絡めとって、そのまま唾液と一緒に呑みこんだ。度数の高いお酒そっくりの熱が、喉を通り過ぎて、胃の底に落ち、血管を通して体中に行き渡る。

 ……なるほど、確かにこれは美味しいかもしれない。

 

「あ、そういえば」

 

 女の子の華奢な小指に歯を立ててしまいたい欲求に必死に堪えていると、呑気な声が聞こえてきて、次いで微かな金属音。目の前には久しぶりに見た僕の車の鍵。同居人が好きだった、犬なのか熊なのか、良く分からないキャラクターのキーホルダーがくっついている。

 

「お兄さん、車持ってるの?」

 

 僕は目だけで頷く。声を出すと指を噛んでしまいそうだから。

 

「じゃあ、ドライブに行こう!」

 

 唐突に、口から指を引っこ抜かれた。透明な液体が数滴、ソファの上に落ちて黒い染みを作った。汚い。

 

 

「どこ行きたいの?」

 

 女の子は瞳を輝かせて「海!」と言った。

 

「海って、どこの?」

 

「どこかの」

 

 女の子は、着ているスウェットのズボンをスルリと脱いだ。もうすっかり出かける気になっているらしい。明日も仕事だけど、どうせ運転するのは僕だ。キリの良い所で引き返せばいいか。スーツのままで出かけるのが嫌だったから、僕も着替えようと、ワイシャツのボタンを外す。

 今日、散々聞いた布が落ちる音が聞こえた。横を見ると、女の子の真っ白な姿。床の上にさっきまで着ていたスウェットの上下が脱ぎ散らかされている。

 鼻歌交じりに着替えを取りに行こうとする、女の子の腰のあたり。透明な白の上に、さっき指先に浮かんでた赤そっくりの痕が、いくつか見えた。

 僕は女の子の手首を掴んだ。

 その日は結局、ドライブには行かなかった。

 



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冷たい床。高速道路。ホテルカリフォルニア。

 そういえば最近、コンビニに行かなくなったな。

 いつものひとりの帰り道に、ふと思った。左手に持ったスーパーのビニール袋が音を立てる。中に入っているのは、卵のパックと、六枚切の食パンが二袋、それと半分に切られたキャベツ。ついこの間までなら、まず買わなかった物が入っている。最近は少しずつ、僕も料理をするようになった。女の子ばかりに作らせるのが申し訳なかったから。僕が作った女の子に負けず劣らず個性的な料理を、女の子が残さず食べてくれるのが嬉しかったから。

 今朝、家を出る前に冷蔵庫の中を確認したら、食べきれなかったご飯と、ハムが数枚残っていた。今日は多分チャーハンかな。女の子が何も作ってなかったら、僕が作ってふたりで食べればいい。

 

 家に着いて、ドアを開けて、無意識に「ただいま」とリビングに向けて声をかける。返事は返ってこなかった。リビングに灯りが付いていない。空気が冷え切って、人の気配がしない。視線を下に向ける。昨日までそこにあったはずの、女の子の履き込まれたスニーカーが無かった。どうしたんだろう。いつも女の子は、コンビニとか、少し外に出るくらいなら電気は点けたままで、酷いときは鍵も開けっぱなして出て行ってしまうのに。

 暗いリビングに入って手探りで電気のスイッチを点ける。蛍光灯が瞬いて、見慣れた室内を無機質に照らした。寒い。女の子の姿はやっぱりない。そして、いつもならそこにあるはずの、ギターケースも無くなっていた。

 突然、固いフローリングの床が柔らかい不安定なものに変化したような気がして、するりと手から、鞄とビニール袋が床の上に落ちた。卵が潰れる嫌な音。膝から力が抜けて、思わずその場に座りこんだ。

 フローリングの床が冷たい。なのに頭の奥がやたらと熱い。一気に低くなった視界の端に青いものが映った。女の子が引っ越してきたときに持ってきたキャリーバッグだ。数回、瞬きを繰り返して、キャリーバッグが確かにそこに存在することを確認する。

 緊張で強張っていた身体から力が抜けて、僕はそのまま仰向けに寝転がった。冷えた床が体の体温を奪っていくのを感じた。天井に向かって大きく息を吐く。大丈夫、少し、ほんの少し驚いただけ。目を閉じて深呼吸を繰り返して僕は起き上がった。大丈夫。うん。大丈夫だ。

 ギターを持って女の子はどこに行ったのか? この間、寒さで手がかじかんで路上ライブはしばらく出来そうにないと言っていたばかりだ。その答えはすぐ近く、リビングのテーブルの上にあった。

 

『帰ってなかったら迎えに来て』

 

 そう書かれたメモ用紙が置かれていた。そのすぐ横には車の鍵。この間見たときに付いていたはずのキーホルダーは根元から引き千切られて無くなっていた。

 迎えに来いってどこに? 僕が仕事に行っている間、女の子がどこで何をしているのか、僕は知らない。もう一度メモ用紙に目を落とす。言葉足らずな、少し角ばった文字。右下にはいつか女の子が書いていた、ウサギとカエルを足して二で割ったような謎の生き物が、ギターを抱えたイラストが添えられている。

 

 ……もしかして。

 

 腕時計を見ると、長針と短針がぴったりと重なっていた。もう終電はとっくに終わっている。急がないと。

 僕は車の鍵をジャケットのポケットに突っ込む。空腹だったことを思い出したから

、床に落としたままだった、卵まみれのスーパーの袋から食パンを取り出して封を開けた。二枚まとめて咥える。食パンの袋をその辺に放る。そして駐車場に向かって走った。

 

 

ーーーーー

 

 

「寒い」

 

「そんな格好してるから。コンビニに入ってれば良かったのに」

 

 ギターを後部座席に置いて、助手席に乗り込んでくるなり女の子は言う。

 女の子の格好は秋口とほとんど変わらず、Tシャツの上にミリタリージャケットを着ただけ。いつもの膝に大きな穴が空いたダメージジーンズは洗濯中で、今日はホットパンツに厚手のストッキングを穿いているから、ほんの少しはましに見えるけれど、やっぱり寒そう。車内の空調の温度を上げてやると、女の子は気の抜けた息を吐いた。

 女の子がいた場所は、以前に僕がライブを見に来たライブハウスだった。ここにいなかったら、もう思い浮かぶ場所がなかったから、ライブハウスが入っているビルの入り口に、丸まって座り込んでいる女の子の姿を見たときは心底ほっとした。

 

「もっと早く来ると思った」

 

「これでも、かなり飛ばして来たんだよ?」

 

 時間が時間だから、そこまで道は混んでいなかったけれど、それでもここまで来るのに一時間はかかった。またこの入り組んだ住宅街の道を引き返すと思うと、少し気分が重くなる。

 カーナビに自宅の住所を打ち込む。女の子がシートベルトを締めたのを確認して、ハザードを消して、車を発進させる。カーナビから無機質な、女性の声のガイドが流れた。対向車は見えない。場違いに光り輝くコンビニが後ろに遠ざかって、街灯と、信号機のヘッドライトの灯りだけになる。

 

「バイト続けてたんだ?」

 

「言ってなかったっけ?」

 

「うん。言ってなかった」

 

 そして訊いてもなかった。

 赤信号。ブレーキを踏み込む。車が止まった。カーナビの声に従って、左のウィンカーを灯す。ウィンカーの規則的な音が、会話の無い車内に響く。何かの音に似ているなと思った。そうだ、女の子が部屋でギターを弾くときに使う、メトロノームの音に似ているんだ。信号が青に変わって、ハンドルを左に切ったままアクセルを踏み込む。ようやく入り組んだ住宅街を抜けられる。大通りに出ると、いくつかのヘッドライトとテールランプの光が目に突き刺さった。

 

「ライブどうだった? お客さんは来たの?」

 

「沙綾が来た」

 

 ふわりと、柔らかい声色で女の子が、僕の知らない名前を口にする。

 前を走る大型トラックの後について、高速道路のインターを通り過ぎる。深夜だからか、走る車の数は来たときよりもさらに少なくなっていた。先を走るトラックが急に加速して間隔がどんどん開いていく。

 

「さあやって、友達?」

 

「……友達。うん、友達かな」

 

 返事に間があったのが気になって、ちらりと女の子の横顔を盗み見る。いつもどおりの横顔。多分、いつもどおり。

 視線を目の前に戻す。遠くにトラックのテールランプが見えた。しっかりと整備された黒いアスファルトの地面がどこまでも続いている。変わり映えのしない景色。一定の速度で進んでいると、真っ暗な空の中を飛んでいるようで、そのうち闇の底に呑みこまれてしまうんじゃないかと不安になった。不安を紛らわすためにオーディオの再生ボタンに手を伸ばす。ずっと入れっぱなしのCDが再生される。幻想的で、けれど怪しげな乾いたギターの音。ドラムと同時にフェードインする男のしゃがれた歌声。

 

「これ、お兄さんのCD?」

 

 珍しい、少し驚いたような女の子の声。その声に僕は首を振る。

 

「うん。人から貰ったんだ」

 

「それって、一緒に住んでた人?」

 

「違うよ。会社の先輩」

 

 ついこの間の、同居人が置いていったものを、女の子がたんたんと台無しにしていく様子を思い出して、僕は思わず即答する。

 CDをくれた先輩。妙な先輩だった。やたらと明るくて、少し馴れ馴れしくて、そしてしょっちゅう上司と喧嘩してた。これといった趣味は無いと言った僕に「音楽くらい聞け」と突然、机の引き出しからこのCDを押し付けるように渡してきた。趣味でギターを弾いていると言っていた。去年の暮れに突然会社に来なくなって、それからのことは知らない。来なくなった理由も知らない。旅に出たいとよく口にしていたから、今頃どこか遠い所にいるのかもしれない。そうだとしたら、少しだけ羨ましい。

 

「お兄さん、このバンド好き?」

 

「好きっていうほど聴いてないけど、嫌いではないかな。有名なの?」

 

「有名、凄く」

 

 そうか、有名なのか。確かに、一曲目のメロディはどこかで耳にしたことがあるかもしれない。その一曲目が重なり合ったギターの音の余韻を残してフェードアウトしていく。次の曲が再生される前に、女の子の指が巻き戻しのボタンを押した。

 

「イーグルスのホテルカリフォルニア。知らない?」

 

 そういえば、そんな名前のバンドだったかもしれない。曲名の方はちんぷんかんぷんだ。先輩が相当に聴き込んだらしいこのCDは、貰ったときにはジャケットは既にボロボロで、日本語の解説は無くなっていた。

 

「どんな曲なの?」僕が訊くと、女の子はオーディオのボタンを弄ってリピートに設定した。そして少し間を開けてから、ぽつぽつとこの曲の歌詞について語り始めた。

 

 コリタスの温い香りが立ち昇る、カリフォルニアの砂漠のハイウェイ。運転に疲れた主人公は遠くに揺れる灯りに誘われるように、夜を明かすためのホテルに向かう。ホテルの入り口にはひとりの女。礼拝の鐘の音が聞こえる。女について回廊を下りていくと、どこからともなく聞こえてくる。「ようこそホテルカリフォルニアへ」と。

 ホテルは、主人公のお気に入りのワインは置いてなかったけれど、とても快適だった。宿泊客達は陽気に、そしてどうしようもなく退廃的に踊り過ごしていた。最初は楽しかった。でも次第に主人公は不安になる。来る日も来る日も、妖艶な女に群がり、踊り狂う怠惰な毎日に不安になる。

 主人公はホテルを出ていこうとした。出口を探して必死に走り回る。外に出るために必死に。そんな主人公を見た夜警は言う。

『チェックアウトは自由だ。だが、ここからは永久に出られない』

 

「おしまい」と言って女の子が小さく息を吐いた。話し疲れたのかもしれない。

 

「色んな考え方がある曲だけど、大体こんな感じ」

 

 驚いた。怪しげなメロディではあるけれど、てっきりラブソングかなにかだと思っていた。そんな物語みたいな曲だったのか。先輩はなにを考えてこのCDを僕に渡したのだろう。あの先輩のことだから何も考えていないのかもしれないけど。

 

「どう思う?」

 

「え、なにが?」

 

「この曲のこと聞いて、どう思った?」

 

「えっと……コリタスってなんだろうって思ったかな」

 

「大麻」

 

「は?」

 

「コリタスは大麻って意味」

 

 そうなんだ……。大麻の香りってどんな匂いなんだろう。これまでの人生で見たことも無いものだし、多分間違いなく、これからの人生でも接することは無い物だと思う。

 

「私は、主人公が羨ましいと思った」

 

 曲がフェードアウトするのと同時に、女の子が言った。少しの無音。そしてまたホテルカリフォルニアが再生される。

 

「羨ましいって、出られないのに?」

 

 女の子が頷く気配を感じる。ギターのメロディが車内に満ちる。歌詞の意味を知った後に聴くと、今までとはまるで別の曲のように聞こえる。

 

「だって、出られないってことはなくならないってことでしょ?」

 

「そうなの?」

 

「そうだよ」

 

 だから、羨ましい。感情の見えない声。女の子の横顔を覗くけれど、時速百キロ流れる外の景色を眺める横顔の表情は陰になって見えない。対向車線の車のヘッドライトに照らされた耳のピアスがキラキラ光る。

 カーナビの音声が響く。沢山のギターが絡み合うソロを邪魔するように。この先のインターで高速を降りろとのことだ。ようやく家に帰れる。ウィンカーのレバーに手を伸ばす。その手を横から伸びてきた女の子の手が掴んだ。ハンドルを取られそうになる。本当なら曲がるはずだった高速の出口が後ろに消えていった。

 

「びっくりした。危ないよ?」

 

「ドライブに行こう」

 

「え?」

 

 僕の間抜けな声を掻き消すように、カーナビが新しい経路を表示して読み上げた。

 

「今何時かわかってる?」

 

「そろそろ二時だね」

 

 何でもないことのように女の子が言った。

 

「僕、明日……というか今日も仕事なんだけど」

 

「この間、どうしてドライブに行かなかったんだっけ?」

 

 それを言われると、なんというか、何も言い返せない。

 僕は、案内を無視したのにもかかわらず健気に道案内を続けるカーナビの電源を一旦落とす。ついでにそろそろ聞き飽きてきたホテルカリフォルニアのリピートを解除した。一日くらい、寝なくても何とかなるだろう。昔から身体だけは頑丈だから。

 

「どこ行きたいの? 海だったっけ?」

 

「海はいいや。沙綾に会ったから」

 

「その、さあやって人は何者なの?」

 

「人間だよ? ちょっと海っぽい」

 

 海っぽい人ってなんだろう。凄く日焼けしてるとか?想像できない。

「ちょっと会ってみたいかも」と僕が大して思ってもいないことを言うと、すぐに女の子「だめ」という声が返ってくる。

 

「沙綾、良い匂いがするから、お兄さんに食べられちゃう」

 

「僕のこと、なんだと思ってるのさ……」

 

「この間、どうしてドライブに行かなかったんだっけ?」

 

 ついさっき投げかけられて誤魔化した質問が再度飛んできた。僕は質問に答えず、カーナビに手をやる。

 

「海じゃないなら、どこに行きたいの?」

 

「山」

 

「山? どこの?」

 

「どこでもいいよ」

 

 山だったら、決して近くは無いけれど、なんとかこれから向かえそうな所に心当たりがあった。カーナビに、その心当たりのある場所の名前を打ち込む。先程、道案内を唐突に打ち切られたのにも関わらず、無機質な音声は文句ひとつ言わずに、新たな目的地への経路を表示する。間違ってもカーナビには生まれ変わりたくないと、心の底から思った。

 あ、女の子が声を上げた。そして少しの間を置いて「うんと星が見える所がいいな」と、ぼんやりと、ここじゃない何処かを見るように呟いた。

 



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ホシノコドウ。

 あれから三十分くらい高速道路を走って、周囲の景色がコンクリートの壁から、古ぼけた住宅の屋根と、禿げた田畑に変わり始めた辺りで、僕の運転する車はカーナビの声に導かれるままに高速を降りた。

 僕も女の子も腹を空かせていたから、途中で見つけたコンビニに立ち寄った。僕はカップ麺と明太子のおにぎり、女の子は肉まんをふたつと、缶のおしるこ。正直、どうかしてる組み合わせだなと思った。女の子に一口だけ試させてもらったけれど、やっぱりどうかしてる味がした。一口の代償に、女の子は僕のおにぎりの、明太子の乗った部分だけを器用に齧り取っていった。

 腹ごしらえを終えて、再び目的地に向かって車を走らせる。申し訳程度にあった街灯はすぐになくなった。ヘッドライトの光が、紅葉が散った裸ん坊の木々を照らす。CDの再生はとっくに終わっていた。今はエンジンの低い唸り声だけが響いている。

 

「あとどれくらい?」

 

「十五分くらいかな」

 

「そっか」

 

 楽しみ。と女の子は言いながら、子供みたいに小さく足をばたつかせた。厚手のストッキングに包まれた女の子の脚は、僕たちが乗る車を囲う木々の枝の先みたいに、細くて頼りない。ほんの少し力を入れて握ったら簡単に折れてしまいそう。

 

「これから行くところ、お兄さんは行ったことあるの?」

 

「あるよ。もう何年も前だけど」

 

「デート?」

 

「まぁ、そうだね」

 

 へぇ、と女の子は興味なさげに相槌を打つ。

 もう何年も前、いつだったか思い出せない。たしか暑い季節だった。僕は夜景が見たいと言う同居人の声に応えて、ここに来たことがある。そのときはまだ車を持っていなかったから、わざわざ駅前でレンタカーを借りた。ぼんやりと覚えている夜景は綺麗だったかもしれない。それよりも顔の周りを執拗に飛び回る虫のうざったさのほうが記憶に残っている。同居人の顔はもう思い出せない。

 真っ暗な道の先に、人工的な光が見えた。薄汚れた看板がある。看板には『展望台駐車場』の文字。ようやく目的地だ。カーナビがどこか満足げな音声とともにガイドを終了した。僕は駐車場の中に車を滑り込ませる。

 五台の車が停められる小さな駐車場に車は一台もいなかった。平日の真夜中なのだから当たり前なのかもしれない。僕がエンジンを止めるやいなや、女の子は車のドアを開けて外に降りた。久しぶりの運転につかれた僕は目頭を強く揉んで、大きく息を吐く。コンビニで栄養ドリンクでも買っておけば良かった。

 

「お兄さん早く!」

 

 後部座席が開く音、続いて女の子の少し興奮したような声。僕は両の掌で顔を拭ってから、車のドアを開けた。

 山の空気は湿っていて、冷たくて、むせ返りそうになりそうなくらいに、土の匂いがした。僕はその空気を思い切り吸い込んで、そして思い切り吐き出す。真っ白な息が空気に溶ける。ぼやけた意識が少しだけはっきりしたような気がした。

 後部座席が締まる音が大きく響く。こちら側に回り込んできた女の子の手にはギターケース。

 

「ギター、持っていくの?」

 

「うん。星を見ながら弾く」

 

「なんだかアーティストっぽいね」

 

 僕が言うと、女の子は誇らしげに胸を張って見せた。「ほら、行こう」と言って、木で組まれた三階建ての建物くらいの高さの展望台の方に向かおうとする女の子の腕を掴む。振り返った女の子は疑問符を顔に浮かべて首を傾げた。

 

「どうしたの? トイレ?」

 

「違うよ」

 

 女の子が傾げた首を反対の方にと倒した。長い黒髪が肩から零れ落ちる。

 

「あそこ、街の方を向いてるから、光で星が見えないんだ」

 

「どこなら見えるの?」

 

 首を傾げたまま女の子が言う。僕は掴んだままだった腕を離して、女の子が行こうとした展望台の方とは反対方向、駐車場の出口に向かって歩く。女の子がすぐに横に並んだ。

 

「どのくらい歩くの?」

 

「わからないけど、そんなに遠くないと思うよ」

 

「来たことがあるんじゃなかったの?」

 

「さっきの展望台は。これから行くところは初めて」

 

 駐車場を出ると、その先には想像以上の暗闇が続いていた。僕はポケットから携帯電話を出して、ライトを点ける。車のヘッドライトに比べると途方もなく頼りない光だけど、無いよりは良い。緩く傾斜した道。アスファルトに引かれた白線はところどころが掠れて消えてしまっている。左手には落ち葉が降り積もった土の斜面。右手には山肌。全くの無音に僕の革靴の足音と、女の子のスニーカーの足音が響いて消える。世界が終わった直後みたいな静けさと暗闇。どこまでも真っ黒な地面から視線を持ち上げて空を眺めてみると、黒い葉を茂らせた木々の枝が、僕たちを包み込んで自らの一部にしようとしているみたいに、幾重にも重なりあっている。当然だけど、星はまだ見えない。木々のせいで月の灯りすら見えない。

 

「どうして急に星なんか見たくなったの?」

 

 真横で軽快な足音を鳴らす女の子に話しかけてみる。女の子はさっき僕がしたように、星の見えない空を見上げた。

 

「沙綾に会ったからかな」

 

「さあやって人は海じゃなかったっけ?」

 

「ポピパは星だから」

 

「そうなんだ?」

 

「うん。そうなんだ」

 

 女の子はどこか上機嫌に言うと、ギターケースを持ったまま、くるくると踊るように回って道路の真ん中を歩き始める。少し先に行っただけなのに、女の子の華奢な後ろ姿が暗闇の中に呑みこまれてしまうような気がして、僕は慌てて追いかけた。

 

「転ぶよ? 暗いんだから」

 

「じゃあ、はい」と、女の子がギターケースを持っていない方の手を差し出してきたから、僕は反射的にその手を掴んだ。女の子の手は痛いくらいに冷たくて、少し乾燥していた。

 

「沙綾、ちょっと痩せてた」

 

「女の子は痩せてる方が嬉しいんじゃない?」

 

「おっぱいも痩せちゃったかも」

 

「それは一大事だ」

 

 女の子に引っ張られるようにして、傾斜した道を進む。人気が全くない道路の真ん中を歩くのは、なかなかに爽快な気分だった。携帯電話のライトはいつの間にか消えていた。充電が無くなったらしい。

 駐車場を出てからどのくらいの時間が経っただろうか。終わりが見えない暗闇と疲労感で頭がぼやけてきた丁度その時、左手の山の中にようやくそれを見つけた。気付かないで先に行ってしまおうとする女の子の手を引く。

 いつからそこにあるのか分からない、最近の物のようにも思えるし、随分と年季が入っているようにも見える。それは鳥居だった。奥の方には石造りの階段が続いているのが見える。

 今度は僕が女の子の手を引いて、一歩一歩、うっかり落っこちないよう慎重に石段を上った。幸いなことに、石段の数は少なくてすぐに上り切ることができた。

 登り切った先にあったのは、小さな寂れた神社だった。今にも崩れて闇の中に溶けて消えてしまいそうな寂れた神社。

 

「お参りするの?」

 

「したい?」

 

「別に。お兄さんは?」

 

「全然」

 

 信仰心なんてこれっぽっちも持ち合わせていないし、それに少なくともこんなおんぼろの中に神様がいるとは思えなかった。

 僕は誰が中身を回収しているのかもわからない賽銭箱を横目に、女の子の手を引いて神社の裏手へと向かう。湿った落ち葉の地面が足音を消してしまって、自分がちゃんと歩けているのか感覚が曖昧だ。

 神社の裏手に出ると唐突に視界が開けた。地面に打ち込んだ木の杭にロープを渡しただけの、申し訳程度の柵の向こうに夜空が広がっている。空を覆っていた木々の枝にくっついた葉っぱが、僕たちの足元に堆積している落ち葉が、赤や黄色に彩られてることに今更になって気が付いた。

 女の子が僕の手をするりと離して、柵の方に向かって歩いて行く。

 僕の腰くらいまでの高さしかない柵の、ギリギリの所に立った 女の子の四歩くらい後ろで夜空を見上げてみる。雲一つない透き通った黒。強い輝きの星が見える。けれど空の端の方は都会の光で薄く白くボヤけていて、か弱い星々を呑み込んでしまっていた。

 

「……ごめん。歩いた割にあんまり星見えないね」

 

 徒労感に苛まれた僕は、そのまま湿った地面にへたり込んだ。お尻が冷たいけれど、いざ座ってしまうと足が萎えてしまって立ち上がる気になれない。このまま地面に溶けて、星空を覆う木々の一部になってしまいそう。

 

「歌ってもいい?」

 

 黙って星を眺めていた女の子が振り返って言う。いつになく真剣な声色。半分に欠けた月の灯りが、女の子の黒く長い髪に反射して光った。

 

「いいよ。そのために来たんでしょ」

 

「ポピパの曲でも?」

 

 僕は少しためらってから頷いた。知りたいと思ったから。以前にライブハウスでポピパの曲を歌う女の子から感じた疎外感のようなもの。僕だけが砂漠の真ん中に取り残されてしまったような、絶望的な疎外感。あれがライブハウスという空間が生み出したものなのか、それともポピパの曲を歌う女の子自身が生み出したものなのか、僕は知りたいと思った。

 女の子はギターをケースから取り出すと、音叉を使ってギターのチューニングを始めた。この間やり方を教えてもらったけど、出来る気が全くしなかった。手早くチューニングを終えた女の子は、調子を確認するためにコードをいくつか鳴らした。家でギターを弾く時と全く同じ手順。それなのに、真夜中の神社という異質な場所にいるせいか、見慣れた行為が神聖な儀式のように見えてしまう。

 青白い月の光が、目を閉じた女の子の顔を浮かび上がらせた。息を吸い込む音と一緒に、ゆっくりと瞼が開いて緑色が現れる。ギターの音が聞こえた。バラバラの和音。確かアルペジオという奏法。その音の上に女の子の声が重なる。以前にライブハウスで女の子が演奏した曲のひとつだ。

 マイクとアンプで増幅されていない生の音はあまりにも頼りなかった。都会の光に呑みこまれてしまった星と同じくらいに頼りない音。カラカラに乾いた音。

 足りていないような気がした。何もかもが足りていない。この曲はもっと多くの音が、もっと多くの歌声が折り重なって出来た曲なんじゃないだろうか。

 女の子は懸命に歌っていた。ここじゃない何処かに向かって必死にギターを掻き鳴らして、喉を枯らさんばかりに叫んでいる。それでも隙間は埋まらない。月の光が女の子の必死に歪んだ表情を青く照らす。キラキラした雫が頬を伝って地面に落ちるのが見えた。同じだ、ライブハウスのときと。あのときは青い照明のせいで女の子が泣いているように錯覚した。けれど、あれは錯覚じゃなかった。

 不意に、女の子の存在が遠くに感じた。木の杭にロープを渡しただけの柵の向こう側、暗い森の底よりもずっと遠くに。

 僕は疲れて萎えた足に力を込めて立ち上がる。そのままの勢いで女の子に駆けよって、ギターごと思い切り華奢な身体を抱きしめた。どこかに行ってしまわないように力いっぱい。歌声とギターの音が途切れて、再び静寂がやってくる。

 

「どうしたの? したくなった?」

 

「……違うよ。どうして泣いてるのさ?」

 

「お兄さんだって泣いてるよ?」

 

「え?」

 

 驚いて自分の頬を触ってみると、手に生温かい感触。確かに泣いていたみたいだ。なんで? 女の子が僕の頬に自分の頬を擦り付けてくる。ふたり分の涙が混ざり合う。温かい。

 

「お兄さんは泣き虫だね」

 

 そう言って女の子は僕の背中に手を回して、僕の方に体重を預けて来た。疲れ切った僕の脚は、情けないことに女の子の軽い体重すら支え切ることが出来ず、ふたり揃って落ち葉の溜まった地面に崩れた。間に挟まったままだったギターが肋骨にめりこんで鈍い痛みが走る。木の板が軋んで割れる、致命的な音が聞こえた。

 女の子が僕の頭の横に両手を付いて、体を起こした。肋骨の鈍痛が和らぐ。涙の粒が、僕の顔の上に落ちる。女の子は、多分壊れてしまったギターを、落ち葉の上に優しく寝かせると、そのまま僕の上に倒れ込んできた。僕が背中に手を回して抱きしめると、女の子はさっきみたいに、涙に濡れた頬を僕の頬に擦り付ける。こんなにも涙を流しているのに、女の子の身体は全く震えていなかった。嗚咽すら聞こえない。自分が泣いていることに未だ気付いていないのかもしれない。ただ、涙だけが止めどなく流れている。

 

「やっぱり聞こえないや」

 

「聞こえないって、何が?」

 

 多分、独り言だったのだろうけれど僕は訊いてみた。女の子は少しだけ身体を起こす。至近距離で視線が合う。

 

「星の鼓動」

 

「……なにそれ?」

 

「さぁ?」

 

 なんだろうね。そう言って女の子は曖昧に表情を歪めた。緑色の瞳の端から新しい涙が一粒、また一粒と生まれては青白い頬を伝って、僕の上に雨のように落ちてくる。晴れた日の雨のように温かい。

 その光景は美しかった。女の子の後ろに広がるちっぽけな星空よりもずっと、どうしようもないくらいに美しくて、そしてどうしようもなく哀しかった。



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思い出。壊した。悲しいこと。

 体中の水分が枯れるまで流れ続けるんじゃないかと思った女の子の涙は、僕の背中が地面にくっついてしまう前にピタリと止まった。僕の方の涙もいつの間にか止まっていた。濡れた頬を撫でる夜の空気が冷たい。

 

「帰ろうか」

 

 僕が言うと、女の子は涙や鼻水を僕のコートで拭って、確かに頷いた。

 帰りは来た道を戻るだけで、それに下り坂だったから思っていたよりも早く、展望台がある駐車場に戻ることが出来た。

 しかし、以前にどこかで聞いた、山道は登りよりも下りの方が辛いというのは本当だったらしく、車に乗り込んでようやく一息ついた瞬間、左右のふくらはぎの軋む音が聞こえた。シートに体を沈めると、そのまま溶けて染みにでもなってしまいそう。それくらい疲弊していた。

 女の子が、多分どこかが壊れてしまったギターが入ったケースを後部座席に積み込んでいる。キーを差し込んでエンジンを掛ける。フロントパネルの時計に表示された時刻は午前四時。思っていたよりもあの寂れた神社に長居していたらしい。

 エアコンの温度と風量を最大にするのと同時に、後部座席のスライドドアの閉まる音がした。それからすぐに助手席のドアが開いて女の子が乗り込んできた。

 

「吸っても良い?」

 

 女の子はポケットから煙草の箱を取り出して言った。きっと冷え切っている手の中に収まってるのは、ここのところ見かけなかった、例の変わったデザインの煙草の箱。

 シートに匂いがつくかなと思ったけれど、他に誰かを乗せるわけでもないから、僕は女の子に「いいよ」と言って、窓を少しだけ開けた。

 女の子は煙草を一本、口に咥えてライターを擦った。甘い匂いのする煙が車内に漂う。運転席側の窓をほんの少しだけ開けた。窓の隙間から、湿った森の空気が入り込んで、煙草の煙に混ざり合う。疲れ切った体に不思議と心地よい。エアコンが吐き出す空気が温かく、頭がぼうっとしてくる。

 

「りみがいなくなっちゃったんだ」

 

 車を走らせる気になれずに、気ままに漂う紫煙の軌跡を目で追っていると、今まで無言だった女の子が唐突に言った。女の子は短くなった煙草をドリンクホルダーのおしるこの空き缶の中に落とした。

 

「大阪の、ゆりさんと同じ大学に進学して、家族でそっちに住むって」

 

「その、りみさんっていう人は、ポピパのメンバー?」

 

「出発する前の日、他のバンドの人も集まって、ありさの家の蔵でライブをやって、人が多すぎてぎゅうぎゅうだったけど、凄く楽しかった。ハコフェスって知ってる? ライブハウスじゃなくてスタジオでライブをやるフェスがあるんだ。お客さんとの距離がこんなに近いの」

 

 女の子は僕の顔のすぐ近くまで顔を近づけてきて、軽く額をぶつけると元通りシートに収まる。新しい煙草を咥えて火を点けた。女の子は笑っていた。本当に楽しそうな笑顔。路上で歌っているときとは違う笑顔。初めて見る笑顔だった。僕は何故だかその笑顔が見てられなくて、フロントガラスのまだ夜明けの気配を感じさせない、真っ黒の空に視線を逸らした。

 

「ライブが終わった後は、そのまま蔵でポピパのメンバーだけでたくさん話をしたんだ。たくさん、朝までずっと」

 

 初めての蔵でのライブ。ポピパがポピパになった文化祭のライブ。スペースというライブハウスでのオーディション。皆で海に行って遊んで、そこでもライブをしたこと。ちょっと喧嘩をしたこと。そして仲直りしたこと。

 女の子の語る思い出話には、ポピパのメンバーの他にも、聞いたことが無い名前が沢山出てきた。僕とは大違いだ。僕には彼女、出ていった同居人しかいなかった。

 そうして女の子が次々と語る話に耳を傾けているうちに、今まで僕の中で、不確かで薄もやに包まれたような、ぼんやりとしていた女の子の存在が、明確な輪郭と質量を伴ったものに変化するのを感じた。同時に深い恐怖を感じた。全身が粟立つような恐怖。背骨を直接、ナイフの腹で撫でられるような、どうしようもなく深い恐怖。相手の存在を深く認識するということは、その存在が失われたときの喪失感も、大きくなるということに他ならない。その喪失感がどれほどの空虚を生み出すのか、僕は知っている。

 

「その、ポピパはどうしたの? どうして君は今、ひとりで音楽をやってるの?」

 

 だから、これ以上、女の子のことを知りたくなかった。なのに訊いてしまった。

 

「ポピパは、私が壊しちゃった」

 

 先程までの思い出を語るのと同じ調子で言うものだから、女の子が何と言ったのか理解が追い付かなかった。呆けた僕の顔を見て女の子は変な顔、と笑った。短くなった二本目の煙草を空き缶の中に放って、すぐに三本目に火を点けた。いつになく吸うペースが速い。

 

「……壊したって、どういうこと?」

 

「りみが出発した後、残ったメンバーで集まってどうするか話し合ったんだ。ポピパをお休みにするか、おしまいにするか、それとも続けるか。どれに決まってもりみが辛いだろうから、だからみんな話せなかった」

 

 女の子はまだ長い煙草を缶に落として、今度は新しい煙草を取り出さずに、空いた手を体の前で組んで、自分の親指の爪をじっと見つめた。僕も吸い込まれるように女の子の、少し深爪気味の、しなやかな親指に視線を落とす。

 

「話し合って、香澄と有咲はお休みにしようって言って、私と沙綾は続けたいって言って、意見がふたつ別れちゃった」

 

「どうして続けたいと思ったの?プロを目指してたとか?」

 

 僕の質問を、女の子は首を振って否定する。滞留した煙が女の子の髪の毛にかき混ぜられて複雑な模様を描いて、そして消えた。

 

「沙綾はその方がりみが安心するからって」

 

「安心?」

 

「うん。沙綾、お家の都合でポピパの前に組んでたバンド抜けたことがあるんだけど、そのバンドが新しいメンバーを見つけてちゃんと続いてるのを見たとき、凄くホッとしたんだって。だからりみも、ポピパが続いてる方が安心するんじゃないかって」

 

 沙綾らしいよね?と言って、くすぐったそうに、はにかむ女の子に、僕は曖昧に頷いた。

 

「私はね、続けないとバンドが無くなっちゃうと思ったから、だから続けたいって言った。お兄さん、活動休止したバンドがどうなるか知ってる?」

 

「休止なんだから、そのうち再開するんじゃないの?」

 

「ううん、ほとんどのバンドはそのまま無くなっちゃうんだ。私、高校の頃ライブハウスでアルバイトしてたから、そういうのを沢山見た。今のバイトでもしょっちゅう見てる。再開してもメンバーが入れ替わってたりして、そのままの形で戻ってきたバンドなんてほとんどなかった」

 

 そういうものなのか。たまにネットで見かける、バンドの活動再開のニュースは、女の子の話を聞く限りだと、奇跡のようなことなのかもしれない。

 僕は何故だか寂しい気持ちになって、シートの上に垂らしていた掌を握ったり開いたりした。その掌の上に女の子が手を重ねてきた。どちらともなく、ゆっくりと握りしめる。車内はもう少し暑いくらいに暖房が効いてるのに、女の子の手は冷たい。

 

「それで、どうしてその……君がポピパを壊すことになるの?話を聞いた感じだと、そのまま続いてそうなものだけど」

 

「私、自分の気持ちを言葉にするのが下手くそ。そのせいで有咲のこと怒らせちゃった。『私たちの絆はそんな脆くねーっ!』て。有咲はね、普段はつんつんしてるけど、本当は誰よりもポピパのことが好きなんだ」

 

 自慢げに言って、女の子は僕の手を強く握った。けれど僕が「仲直りはしたの?」と訊くと、その力はすっと弱まった。そして女の子は視線を足元に落として、小さく首を振った。「どうして?」と僕は訊いた。女の子の、ポピパの思い出話を聞いた後だと、有咲さんじゃないけれど、彼女たちの絆が、こんな些細なことで壊れるとは、僕にはとても思えなかった。

 車内を沈黙が覆った。動き続けるエアコンの駆動音が煩わしく思えたから、風量を絞ると、今度はエンジンの低い唸りが耳についた。

 

「話し合いをした夜、沙綾のお家で悲しいことがあったの」

 

 女の子は言った。

 

「悲しいこと?」

 

「うん。とっても悲しいこと」

 

 悲しいこと、と聞いていくつかのことを思い浮かんだ。けれど、その全てが口に出すのは憚られて、僕は開きかけた口を閉じることしか出来なかった。

 

「沙綾がバンドを続けられなくなっちゃって、仲直りできないまま、みんなも自分の生活で忙しくなって……」

 

 唐突に、女の子が窓を開けた。甘い匂いで満たされた車内に、山の空気が流れ込む。朝の香りがした。黒で満たされていた空が濃い青に変化している。夜明けが近い。濃紺の空を眺める女の子の横顔がやけにはっきりとして見えた。

 

「もう朝だね」

 

 僕は女の子の横顔から目を離せないまま「そうだね」と答えた。「帰ろう。今日もお仕事行くんでしょう?」僕を振り返って言う女の子の瞳は、いつもと変わらない吸い込まれるような緑色。今は赤や黄で彩られている山の木々も、夏になればこんな緑色になるのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はもう一度「そうだね」と女の子に返事をした。

 

 

ーーーーー

 

 

 薄明るい山道の風景はどこか滑稽で退屈なものだった。僕はいまさらになってやって来た眠気に抗いながら、なんとか山を下り終えた。女の子はというと、車を走らせ始めてすぐに眠ってしまった。なんとなく、柔らかな頬を突いてみたけれど目を覚ます気配は無かった。 数時間前に立ち寄ったコンビニの駐車場を通り過ぎる。横目に見た駐車場は半分程埋まっていて、作業着を着た男が軽トラックに乗り込んでいた。

 

「んぅ……」

 

 女の子の眠りはそこまで深くなかったようで、高速に入った際にETCが鳴らした音に不満げな声を漏らしながら、のそりとシートから身体を起こした。寝ぼけているのか、まるで開き切っていない目で辺りを見回している。

 

「まだ高速に乗ったばかりだから、もう少し寝てなよ」

 

「ん……」と、きっと僕の言葉を理解していないであろう女の子は、目を擦りながらポケットを漁り始めた。ピックや小銭がシートの隙間に転がり落ちた。そうして煙草とライターを探り当てると、箱から直接一本咥えてライターを擦った。車内に残っていた山の匂いの気配を、紫煙の匂いがベタベタと上塗りする。胸を大きく膨らませて煙を身体に取り込んだ女の子は、半分眠った目でもう随分と明るくなった外を見て、そして小さな声を漏らした。

 

「……だ」

 

「え? なに?」

 

 僕が訊き返すと、女の子は前を向いたまま、緩みきった表情で「お兄さん。ホテルカリフォルニアだよ」と舌足らずに言った。

 僕は女の子の視線を追う。遠くの景色にポツンと見えたそれは、ホテルカリフォルニアなどではなく、寂れたラブホテルだった。お城のような建物を照らす毒々しい色の照明が、夜と朝のちょうど中間位の青に侵食されて、ひたすらに虚しいものに成り下がっている。

 だけど僕は「本当だ」と努めて明るい調子で言った。女の子が小さく肩を震わせて笑った。僕もつられるように笑った。ふたり分の笑い声が、呑気に浮かぶ白い煙を揺らした。

 



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誕生日。イチゴジャム。変態。

 女の子が「あっ」という、現在の状況にはそぐわない、間の抜けた声を上げて動きを止めた。ベッドのスプリングの、きしむ音が止まった。

 急に静まり返った寝室に、僕と女の子の荒い吐息の音だけが聞こえる。女の子が跨がっている以外の場所の熱が、緩やかに引いていくのを感じた。

 僕の顔を見下ろしたままの女の子に「どうしたの?」と訊いた。上下する真っ白な肩を、蛍光灯の灯りが更に白く照らしている。

 

「今日、何日だっけ?」

 

 僕は、唐突な問いに疑問を抱きつつ、サイドテーブルに置かれたデジタル時計の日付を見た。

 

「十二月三日……いや、明けて四日だね」

 

 一拍置いて「もしかして、駄目な日だった?」と僕が訊くと、女の子は首を振った。流れる黒髪が綺麗だからひと房手に取ってみる。艶やかな黒が何の抵抗もなく手から零れ落ちる。

 

「誕生日」

 

「え?」

 

「今日、私の誕生日だ」

 

 女の子は他人のことのように言った。

 

「えっと、おめでとう?」

 

「ありがとう?」

 

 お互いに首をかしげながら言って、そして小さく笑い合った。

「何歳になったの?」と、僕が何気なく訊いてみると、女の子は両手でピースをして見せて「二十二歳」と答えた。

 思っていたよりも若いんだなという感想を抱くのと同時に、迂闊に年齢を聞いてしまったことに後悔を覚えた。また女の子の存在が明確な物になった。腰の辺りに感じる女の子の体重が、少し増したような気がした。

 

「へくしっ!」

 

 女の子が小さくくしゃみをした。そして自分の素肌の身体を抱いて身震いした。「寒い」と呟くと、女の子は僕の上から降りて、そのまま横で丸くなった。

 女の子はアルバイトから帰ってくるなり、僕を引き摺って行ったものだから、寝室のエアコンは動いていない。

 僕はサイドテーブルに置いてあるエアコンのリモコンを取って、設定温度を限界まで上げて起動した。用の無くなったリモコンを、床に脱ぎ散らかされた服の床の上に放った。

 横で丸まったままの女の子の背中は、新雪で拵えた雪うさぎみたいに真っ白で、染みのひとつも見当たらない。脂肪の薄い背中に浮き上がった背骨の形を指先でなぞると、女の子はくすぐったそうに身をよじらせて、シーツに新しい波を作った。

 僕は女の子の腰の辺りに手をやって、仰向けに転がした。シーツの海の上に、女の子の痩せた身体が浮かんでいる。あばら骨の輪郭に触れると、吐息のような声が鳴った。白くて細い手が伸びてきて、僕の腕を掴む。そしていつものように自分の首元に添えさせるから、僕は反対の方の手も、女の子の首に添えた。

 どうしようもなく無防備な首筋を、親指の腹で上からゆっくりと撫で下ろすと、女の子は裸の爪先でシーツを引っ掻いた。僕のことを見上げる緑色の澄んだ瞳がドロリとした熱に染まる。エアコンが温風を吐き出す音が聞こえた。

 僕はいつも通りに、女の子の首筋に添えた親指に力を加える。そうすると女の子の方も、いつもどおりに緩く口の端を弧の形に吊り上げた。ゆっくり、ゆっくり力を込める。女の子の身体が震えて、背中が弓なりに持ち上がる。力を込めた親指を少しだけ上にずらす。女の子の口の端から透明な唾液が糸を引いて垂れ落ちて、シーツに黒い点を落とす。開いた口の中に真っ赤な舌が見えて、そのさらに奥の暗闇から音が漏れる。垂れた瞳の端から雫が零れた。いつもどおり、いつもどおり。

 

 

ーーーーー

 

 

 疲れ果てて眠ったというのに、目覚めは早かった。時計を見ると午前四時を少し過ぎた所で、最後に見たときから一時間しか経っていない。温度を限界まで上げたエアコンを点けっ放しにしていたせいだ。酷い喉の渇きを感じた。女の子が身体を起こして、長い髪の毛を煩わし気に掻き上げる。飛び散った汗の雫が数滴、僕の身体に落ちた。

 目が冴えてしまった僕たちは寝るのを諦めて、少し早い朝食をとることにした。僕はとりあえず下着だけ身に着けてキッチンに向かった。寝室の外は空調が動いていないのだから当然寒かった。何かを作る気にもなれず食パンの袋と冷蔵庫にあったイチゴジャムだけを持って、リビングのエアコンの電源を入れると、速足で暖房の効いた寝室に戻った。

 寝室に戻ると、女の子は素肌の上にTシャツだけを着て、ベッドの上に座っていた。まだ目が開き切っていない女の子の横に持ってきた食べ物を置いて、僕はクローゼットからパジャマを取って身に付けた。

「はい」と女の子がイチゴジャムに塗れた食パンを差し出してくれたから、僕は「ありがとう」と言って受け取り口に運んだ。強烈な甘味が味覚を刺激して、冷気で中途半端に目覚めていた脳が一気に覚醒するのを感じた。

 女の子が自分の分の食パンにジャムを塗りたくっている。ジャムのスプーンを持つ左手とは反対の、食パンを持つ女の子の左手に僕の視線は吸い寄せられた。普段、家の中でも付けたままのリストバンドが無い。ただでさえ白い肌なのに、日に全く触れていなかったその部分は、より白く見える。

 一緒に暮らしているのだから当たり前なのだけれど、女の子の左の手首を見たのはこれが初めてではない。だけどこうしてまじまじと見るのは初めてのことで、何か彼女の隠している部分を見ているような気がして、僕はお腹の奥が熱くなる錯覚を覚えた。

 

「それ、痛くないの?」

 

 女の子の右手に無数に描かれた横長の傷跡を指差して僕は言った。

 寝ぼけ眼の女の子は、ゆるゆると視線を自分の左手首に落として、しばらく動きを止めると「あぁ」と何か納得したような声を漏らして「ごめん。いま隠すから」と言った。

 

「なんで隠すの?」左手に食パンを持ったまま、脱ぎ散らかした服を漁り始める女の子に僕が訊ねると「だって気持ち悪いでしょ?」と女の子は答えた。

 

「気持ち悪い?」

 

「うん。ライブハウスの音響さんに、引かれるから客には見せるなって言われた」

 

「僕はお客さんじゃないでしょ?」

 

「お兄さんはお客さんでしょ?」振り返らずに言った女の子は言う。

 僕は食べかけの食パンをそっとベッドの上に置いてから、女の子の方に這って行って、ジャムが並々と塗りたくられた食パンを持つ、女の子の左手を掴んだ。傷に触れてしまったのか、女の子の身体がびくりと跳ねて、手からこぼれた食パンが僕のワイシャツの上に、グロテスクな音を立てて落下した。

 

「別に気持ち悪くないよ、むしろ綺麗だと思う」

 

 僕は本心からそう言った。色の薄い肌の上に並んだ傷は、表面が引き攣っただけの治りかけの物もあれば、まだ真新しい不完全なかさぶたが覆っただけの物もある。そのいくつかの傷跡は、あまりにも均整がとれた、ヨーロッパの何処かの国の高名な人形職人が拵えたビスクドールのような、女の子の身体の中で唯一の不完全な物で、彼女が僕と同じ生きた人間であるということを教えてくれる物だった。

 女の子は自分の手と僕の顔を見比べて「お兄さんは変態だね」と言って笑った。

 

「変態はそっちの方じゃない?」

 

「私? どこが?」

 

「この傷もそうだけど、僕に首を絞めさせるでしょ? 結構なマゾヒストだよね?」

 

 女の子は眼を瞬いて「マゾヒスト?」と首を傾げた。僕が少し考えて「痛いのや苦しいのが嬉しい人のこと」と言うと、女の子は「ああ」と納得したように頷いて「沙綾のことか」と言った。まだ見ぬ沙綾さんのイメージが大きくゆがんだような気がして、僕は聞こえなかったふりをした。

 

「私、痛いのも苦しいのも好きじゃないよ?」

 

「嘘だ」

 

「ほんと」

 

「ならどうして、僕にああさせるのさ?」

 

 僕は空いている方の手で女の子の髪の毛を持ち上げた。露わになった華奢な首にはくっきりと僕の手の形が赤く残っている。女の子は自分の首をそっと撫でて「安心するから?」と疑問形で言った。

 

「安心?」

 

「うん。なんていうか、大丈夫になる」

 

「……そうなんだ?」

 

「うん」

 

 他人に首を絞められること、大切な血管が通る真上の皮膚を傷つけることが安心につながるとは僕には到底思えなかった。むしろ恐怖しか感じないと思う。

 急に女の子の手が伸びてきて、僕の首を触った。声が漏れそうになるのを堪える。左の太い血管を上から下になぞって、女の子の首にはない喉仏を何度か撫でた。

 

「今度、私もしてあげようか?」

 

 なにを。と返すのは無粋に思われたから、僕は「お手柔らかに」と答えた。女の子は目元だけで微笑んで、僕の喉仏を深爪気味の指先で軽く引っ掻いた。

 

 

ーーーーー

 

 

 五枚あった食パンは、一枚を僕が食べて、もう一枚は僕のシャツの上に落ちた。そして残りの三枚はというと女の子の胃袋の中に収まった。新品のイチゴジャムは、半分程減っていた。

 早い朝食を終えた僕は、残ったジャムを冷蔵庫に戻して、散らかった衣類をひとまとめに抱えて洗濯機に詰め込んだ。真っ赤な染みが付いたシャツは早々に諦めて、へばりついた食パンごとゴミ袋に丸めて放った。

 適当に後片付けを済ませて寝室に戻ると、女の子はこちらに背を向けてベッドで丸くなっていた。Tシャツに背中のラインが隠されていることが残念に思った。

 

「二度寝するの?」僕はベッドサイドに腰掛けながら言った。

 

「うん。食べたら眠くなった」

 

「バイトは夜から?」

 

「今日はお休み」

 

 さっきみたいに暑さで起きる羽目にならないように、エアコンの設定温度を23℃温度を落とすと、駆動音が急に落ち着いて、外から車の行き交う音が聞こえてきた。時計に目をやると時刻は六時近くになっていた。ついでに日付をもう一度確認する。十二月四日。水曜日。週のど真ん中だ。

 衣擦れの音がして、女の子が僕の背中を突いた。振り返ると、丸まったままの女の子と視線が合った。

 

「お兄さんはお仕事?」

 

 少し考えてから「いや」と首を振って「そういえば休みだった」と答えた。「じゃあ一緒に二度寝しよう」と女の子は眠たげに言うと、身体をずらして一人分のスペースを開けてくれたから、僕は蛍光灯の灯りを消した。

 朝の光がカーテンの隙間から漏れて、女の子のTシャツの裾から、しなやかに伸びた脚を照らしている。僕がそれを綺麗だと褒めると、女の子は「やっぱり変態だ」と楽しそうに言って、穏やかに寝息を立て始めた。

 



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インスタントコーヒー。ふるふる。初めて。

 目を覚ましたのは僕の方が先で、時刻は正午を過ぎていた。

 隣であおむけに眠る女の子の、赤黒い痕が残る首に指の先で触れた。太い血管が通る辺り。温かな脈動を感じる。澄んだ寝顔は人形のように無機質なのに不思議。瞼にかかった前髪を除けて頭をひと撫ですると口元がだらしなく緩んだ。何か、良い夢でも見ているのかもしれない。僕は女の子を起こしてしまわないように、そっとベッドを出た。

 

 

 纏わりつく多少の眠気と、ベタつく身体を熱いシャワーで洗い流して浴室を出ると、リビングのソファの上にうつ伏せに眠る女の子の姿があった。長い脚がソファからはみ出してしまって窮屈そう。風邪をひくよ。僕は女の子を揺り起こして、シャワーを浴びてくるよう促した。女の子は緩慢な動作で起き上がると、危うい足取りで浴室の方に消えていった。

 洗濯だとか、色々とやらなければならないことはあったけれど、とりあえず女の子がシャワーから上がってくる前に朝食、というか昼食を作ることにした。

 本当なら卵焼きになるはずだったスクランブルエッグと、戸棚にあったレトルトの白米と味噌汁とをテーブルに並べていると、華奢な身体にタオルを巻いただけの女の子が。赤みの差した白い肩と、乾ききっていない髪の毛の艶やかな黒のコントラストが目に毒。

 

「……ごめん、着替え出しておけばよかったね」

 

「ううん、大丈夫。美味しそうだね」

 

 そのまま食卓につこうとする女の子を押しとどめて、髪の毛は妥協して、服を着て貰ってから、ふたり、少しだけ冷めたご飯を食べた。

 

 

 食後、僅かな洗い物を女の子に任せて、僕は洗濯にとりかかった。ふたりぶんの汗やら何やらを吸い込んだベッドのシーツは精神に良くない匂いがしたから、手早く洗濯機に押し込んだ。

 衣類とシーツとが洗濯機の中で回転するのを確認してリビングに戻ると、焦げた煙草の煙と、コーヒーの香りが僕を迎えた。食器が片付いたテーブルの上にマグカップがふたつ。硝子製の小さな灰皿、それと煙草の箱と100円ライター。

 ソファに凭れた女の子は、咥え煙草の先から煙を漂わせたまま、じっと電源の点いていないテレビの黒い画面を眺めている。

 僕は女の子の隣に腰掛けて、コーヒーありがとう、ウサギの絵がプリントされていない方のマグカップを手に取って、一口啜った。インスタントコーヒーの当たり障りのない安っぽい風味。女の子に習ってテレビの黒い画面を眺める。無音。白い煙がふわふわ漂うのを目で追いかけると、部屋の隅に置かれたギターケースが視界に入った。その表面に薄っすらと埃が堆積し始めている。

 あの日、真っ黒な木々に囲まれた、頼りない星灯りの下でのライブから、女の子がギターを弾くところを見ていない。僕と女の子の間に挟まれたときにギターが上げた、致命的な悲鳴を思い出す。本当に壊れてしまったのかもしれない。僕は死んでしまった貝みたいに固く口を閉ざしたギターケースから目を逸らした。

 

「静かだね」

 

「うん」

 扉越しに洗濯機の駆動音が薄く鳴るだけのリビングに女の子の声が落ちる。歌声もギターの音色も存在しないリビングは確かに静かで、少し物悲しい。

 僕はテーブルの上の煙草の箱から一本拝借して、ライターを擦った。女の子のものと混ざり合った煙が、エアコンの風に掻きまわされて不規則な模様を描く。

 

「どこか、出かけようか」

 

 煙が溶けた空間を眺めながら僕は言った。

 

「どこかって?」

 

「行きたいところある? 出来れば山と海以外で」

 

 この間の山登りの翌日、酷い筋肉痛に見舞われた僕は予防線を張る。こちらは歩くのもやっとの状態なのに、女の子の方はというとケロリとしていて、情けない気持ちになった。

 女の子は思案気な表情で、ミルク入りのコーヒーのマグカップを持ち上げて一口啜った。真っ赤なしたが唇を舐める。そうしてマグカップのウサギのイラストを指の先でなぞって「ウサギが見たい」

 

「ウサギ? ……じゃあ、動物園かな」

 

「ううん、ウサギだけ見れればいい」

 

「そんな都合がいい場所なんて」

 

 ないでしょ。僕が言うと、女の子はマグカップから視線をこちらに移して「あるよ?」

 

 

「本当に?」

 

「うん。ある」

 

「……もの凄く遠かったりしない?」

 

「近いよ」

 

 女の子が挙げた地名は、ここから電車で30分くらい。都内でも特に栄えている場所で、山や海に比べると確かに、ずっと近かった。

 平日でも、常に人がごった返しているその場所に出向くのは、内心でほんの少し億劫だったけれど、自分から出かけようと言い出した手前、反対するのもどうかと思ったし、なにより先程までの気だるげな雰囲気は何処へやら、すっかり出かける気になったのか残りのコーヒーを、一気に飲み干した女の子に行きたくないなんて言えるわけもなくて「そこに行こうか」

 女の子の口元がほころぶのと同時に、扉の向こうから洗濯が終わったらしいくぐもった電子音が聞こえた。

 洗濯物を干してからね、僕は半分程が灰になった煙草を灰皿に押し付けて、急ぎ足で脱衣所の方に向かった。

 

 

ーーーー

 

 

 空は曇り模様だった。薄絹のような雲の切れ間から差した白い陽光が、乾いたアスファルトの上を舐める、そこはかとない温かさを感じさせる曇り空。

 駅までの道すがら、僕の数歩先を歩く女の子の髪の毛は珍しく、高い位置で一本にまとめられていて、女の子が歩みを進める度、上機嫌に毛先が揺れている。

 服装の方も珍しい。厚手のパーカーの上に着た、青地に袖が白のスタジアムジャンパー。ベージュ色の膝上丈のスカート。普段はくたびれたコンバースの足元は、黒のドクターマーチン8ホールで飾られている。全体的にカジュアルな印象の服装は新鮮で、なんとなく、目が離せなかった。

 

「お兄さん、歩くの遅い」

 

 ブーツの踵が地面を蹴って、女の子がこちらを振り向く。ふわり、スカートが膨らむ。伸びた華奢な白い脚はこの季節には少し寒々しい。

 

「そんなに急がなくても、ウサギは逃げないでしょ?」

 

 逃げるよ、ウサギは。歩く速度を緩めて僕の隣に並んだ女の子が言った。

 

「そうなの?」

 

「うん。逃げ足も凄く速い」

 

「速いって、どのくらい?」

 

「40㎞くらい」

 

「……それは速いね」

 

 並んで歩く僕たちを自転車が追い越す。ハンドルがカマキリみたいな、スピードが出るタイプの自転車。

 

「一番早いのは、ジャックラビットで70㎞くらいかな」

 

「へぇ……。 君はウサギに詳しいんだね。ウサギ博士だ」

 

「うん。ウサギのことなら、なんでも知ってる」

 

「なんでも?」

 

 なんでも。女の子が自信ありげに言うものだから、なんとなく悪戯心が湧いた僕は、それじゃあウサギの性欲が凄いっていうのは本当なの? と訊いてみた。女の子はゆっくり神妙に頷いて。凄い、気づいたら20羽になってた。

 

「ちょっと待って、気づいたらって本当に20羽も飼ってるの?」

 

「実家でだけど。今はもっと増えてるかも」

 

 唖然とした。一般の家庭でそんな数のウサギを飼っているのはいまいち現実的じゃない。

 

「女の子のなかに、男の子を入れると大変。すぐに上に乗っかってふるふるして……。お兄さんみたいだね」

 

「え、僕?」

 

「うん、そっくり」

 

「僕はラクダなんじゃなかったっけ?」

 

「ラクダの皮を被ったウサギ?」

 

 結局ゆっくりと歩きながら、そんなどうしようもない、他愛のない話をしているうちに、僕らは住宅街を抜けて、駅に近づくにつれてすれ違う人がぐっと増えて、そうして女の子がよく路上ライブをやっていたデパートの前に差し掛かった。

 女の子が歩みを止めた。人が出入りするデパートの自動ドアの方をぼんやり見ている。つられるように僕もそちらに視線を移す。寄り添ったおじいさんと、おばあさん。ベビーカーを押した、恐らく僕と同じ年の頃の主婦。スーツ姿の男性。その光景は新鮮だった。朝、仕事に行くときも、夜に帰ってくるときもシャッターは閉じていたから。

 

「そういえば初めてだね」

 

 雑踏に掻き消されそうな大きさの声で、女の子が言った。明るい時間に、お兄さんと出かけるの。

 

「そうだっけ?」

 

「そうだよ」

 

「……そっか」

 

 うん。女の子は頷いて、駅の方に歩き始める。僕はもう一度だけデパートの自動ドアの方を見てから女の子の後を追って、隣に並ぶ。

 

「これから行くところに、さっき言ってたウサギ、えっと……」

 

「ジャックラビット?」

 

「そう。そのウサギっているのかな?」

 

 いないと思う。即答。少し興味があったから残念。

 

「多分、日本にはいないんじゃないかな」

 

「外国のウサギなんだ。どのあたり?」

 

「カリフォルニアとか」

 

 ホテルカリフォルニアに住んでるかもね。

 改札口にウサギ型のパスケースを押し当てながら、女の子は面白そうに言った。

 



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うさぎのあな。

 二十分程電車に揺られて、山手線に乗り換えてさらに十分。久しぶりに訪れた大きな駅は、相変わらず人が多くて騒がしい。甘ったるい匂いのする洋菓子を売る店や、流行りの洋服を扱うブティックが軒を連ねる、煌びやかな駅ビルの中を通り抜けて、駅を出てすぐの大通りの信号を渡る。飲食店が立ち並ぶ狭い通りを、五分ほど真っすぐ。途中で右に折れて踏切を渡る。そこから女の子は、古い建物と極端に新しい建物とが混在する、個性のない東京の道を慣れた様子で突き進んで、迷うことなく目的地にたどり着いた。

 真新しいオフィスビルの一階。良く磨かれた硝子のドアに白のゴシック体で『うさぎのあな』の文字。その外観は新しく開業した病院のような洗練された清潔感を放っていて、硝子の奥に見えるウサギのケージに気付かなければ、何の店かもわからないまま、素通りしてしまいそう。

 女の子に続いて店内に足を踏み入れる。いらっしゃいませ、と奥の方から声。他に客はいないらしく閑散としている。程よく暖房された店内は決して広くはないものの清潔そのもの。白いタイルの床が光沢を放っている。ずっと以前に同居人に連れられて行ったペットショップの雑然とした様子をイメージしていたから意外。

 左手に整然と並んだ統一規格のケージの中には様々な種類のウサギ。タブレット端末がレジ代わりの小さなカウンターの横には、品のある木製の丸テーブルと、ウサギの耳を模った背もたれの椅子が三脚。カウンターの奥は硝子張りになっていて、ウサギにブラシを当てる従業員の姿が覗ける。右手には、ウサギのエサや遊び道具らしいものが棚にずらり。

 花の蜜に誘われる蝶々みたいに、女の子がウサギのケージの方にフラフラと歩み寄る。ウィンドウに鼻の先がくっつきそうなくらい顔を近づけて、眺めているウサギはぬいぐるみのように小さくて、全身の毛の色は真っ白なのに目の周りだけが、化粧でもしているみたいに黒い。ケージの隅のプライスカードに『ドワーフホト』と書かれていて、どうやらこのウサギの品種らしい。

 他のケージに視線を移すと、このドワーフホトとは全く違った毛並みや大きさのウサギがいて、その種類の豊富さに純粋な驚きを覚えた。

 

「ウサギって、こんなに種類があるんだね」

 

「みんなかわいいでしょ?」

 

 僕が素直に頷くと、女の子は満足げに鼻を鳴らして、あっちのウサギはネザーランドドワーフ。その隣の耳が垂れてるのはホーランドロップ。ここにはいないけれど、アンゴラウサギっていうのが有咲に似ていて。

 ウサギの品種から性格まで、すらすらと説明してくれる。こんなに饒舌な女の子は初めて見た。その横顔はギターを弾いているときと同じか、もしかしたらそれ以上に生き生きとしている。

 女の子の話に耳を傾けていると、凄くウサギにお詳しいんですね、背後から控えめな声。振り返るとお店のエプロンを身に着けた、少しふっくらとした体型の、多分三十代くらいの女性の従業員。私の出る幕が無いです、と苦笑を浮かべた。

 

「お家にウサギがいらっしゃるんですか?」

 

「いえ、彼女が実家で飼っているらしくて……」

 

「あら、そうなんですか?」

 

「はい。20羽……もしかしたらもっと増えてるかも」

 

「20羽!?」

 

 従業員がやや大きい驚きの声を上げた。ウサギのプロから見ても、20羽という数は常軌を逸しているらしい。従業員の声に反応したケージの中のウサギの視線がこちらを向いた。

 ご飯はどうしてるんですか? お家の中で飼ってるんですか?

 興奮した従業員の質問に女の子は淡々と、けれど満更でも無い様子で答える。その内容はだんだんと専門的なものに変化して、初心者にはとてもついて行けそうにない。所在無い僕はケージのひとつに歩み寄る。

 ケージの中のウサギは耳が垂れていて、白と黒の毛並みが定規で線を引いたみたいに綺麗に分かれている。なんとなく女の子の髪の毛と、裸身の肌を想起させた。ウサギは今朝の女の子みたいにぼんやり、何もない中空を黒い瞳に写している。僕はじっと、その艶のある一対の黒を覗きこむ。このウサギに限らず店内の、ケージに収められたウサギたちは一体、何を考えて生きているのだろう?

 お腹が空いた? 眠たい? 交尾したい? ……それとも、この檻から出て行きたい? 誰かに逢いたい?

 

「その子、気になりますか?」

 

 急に声をかけられて肩が跳ねる。背後で女の子と話し込んでいたはずの従業員が、いつの間にか横にいた。

 

「お連れ様を取っちゃってごめんなさい。随分と熱心に見てましたね?」

 

「そうですか?」

 

「お兄さん、私が声かけても気付かなかった」

 

「本当に?」

 

「うん、ほんと」

 

「それは、ごめん」

 

「うん」

 

 僕と女の子のやりとりに、従業員は小さく笑い声を漏らす。仲が良いんですね。

 

「もしよかったら、その子のこと抱っこしてみませんか?」

 

「え、でもいいんですか?」

 

「はい。デートの邪魔をしちゃったお詫びに。それに丁度、運動の時間でしたから」

 

 別にデートじゃ。言おうとして、説明が面倒臭そうだから止めた。

 どうする? 女の子に訊く。喜々として頷くと思ったのに意外、女の子は「お兄さんに任せる」

 その反応に内心で戸惑いつつ僕は従業員の女性に、それじゃあお言葉に甘えて。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 カウンター奥の硝子張りの部屋の中は、床一面が柔らかい人工芝で覆われていた。従業員に言われた通りに靴を脱いで入ると、芝の感触が靴下越しにくすぐったい。

 室内には、直径が150㎝くらいの八角形の背の高い柵と、中央に設えられたトリミングの際にウサギを乗せる台があって、奥には給湯器付きの二層シンク。コンセントに伸びるケーブル類が全てカバーで覆われているのは、誤ってウサギが齧ってしまったときに感電しないためだと、女の子が教えてくれた。

 

「あのウサギのことずっと見てたね」

 

「そんなに見てた?」

 

「見てた。気に入ったの?」

 

「どうだろう。毛並みが綺麗だなとは思ったけど」

 

「そっか」

 

 数分待って、従業員の女性が戻ってきた。お待たせしました。

 両の手で大事に抱いたウサギを、壊れ物でも扱うみたいにそっと、人工芝の床の上に降ろす。白と黒の毛並みのウサギは、口元を忙しなく動かして周囲を見回すけれど、意外にも逃げようとしない。女の子がウサギのすぐ傍にしゃがんで、大人しい子なんですね。

 

「そうなんです。凄くのんびりさんで、ご飯も近くに持って行かないと食べようとしないんですよ」

 

 困った風に言いながらも、背中からお尻にかけてを撫でる手つきは慈しみに溢れている。早速、抱っこしてみますか? 従業員は立ったままの僕を見上げて言った。

 立ったままだと危ないので、こちらに座って下さい。従業員に言われるがまま、女の子の隣に腰を下ろす。正座の方が良いよ、安定するから。今度は女の子に言われるがまま正座。何故だか背筋が伸びる。

 

「それじゃあ、まず私がお手本をお見せしますね。最初は頭を優しく撫でて、安心させてから……」

 

 額の辺りを重点的に撫でられたウサギは目がトロンとして気持ちよさそう。不規則にグゥ、グゥという鼻息ともつかない独特な鳴き声。ウサギには声帯がないから、喉の奥を狭めて音をだすんだよ、と教えてくれたのは女の子。

 

「落ち着いたら……まぁこの子はいつも落ち着いてるんですけど、こんな風にそっと胸の下に手を入れて、反対の手でお尻を支えてあげます」

 

 従業員はゆっくりと、けれど無駄のない動きでウサギをヒョイと持ち上げて見せる。ウサギの方も抱かれ慣れているのか、そこにいることが当然とばかりに従業員の腕の中に収まっている。「凄いですね」僕がため息交じりに言うと、従業員は「これでもプロですから」と、笑ってウサギを膝の上に降ろした。

 

「抱っこが苦手な子も中にはいるんですけど、そういう子は抱っこのあとにご褒美におやつをあげたりすると、ウサギの方もだんだん慣れてくれるんです」

 

「苦手でも、やらなきゃいけないんですか?」

 

「爪を切るときや、獣医さんに診てもらうときにどうしても必要なんですよ」

 

 ちょっと申し訳なさそうに言いながら、従業員はエプロンのポケットから一口大(ウサギにとって)のビスケットのような物を取り出してウサギの口元に運んだ。ウサギはビスケットを鼻先で数回つついてから齧りつく。従業員の指ごと齧ってしまいそうでひやひやした。

 

「では、次はおふたりの番ですね」

 

 ウサギがビスケットを咀嚼し終わるのを待って、従業員はウサギを膝から床に降ろしながら言った。

 お手本を見たところで正直出来る気がしない僕は、縋るような心持で女の子に視線をやるけれど「私はいいから、お兄さんやらせてもらいなよ」と。

 

「え、けど……」

 

「大丈夫。その子、凄く大人しいから噛んだりしないよ」

 

「ウサギって噛むの?」

 

「びっくりして噛みついちゃう子はいますね」と、従業員は小さな噛み痕がついた手を見せる。

 

「でも、彼女さんが言う通り、この子はちょっと鈍臭いくらいに大人しいですから大丈夫ですよ」

 

 それじゃあ、まずはさっき私がやったみたいに頭を撫でてあげてください。従業員に言われて、僕はおっかなびっくり、大人しく床に座るウサギの頭に手を伸ばす。耳から目、頬にかけてが黒、額から口元にかけては白の毛並みに指先が触れる。すべすべした感触が心地よい。ウサギが気持ち良さげに目を細めるのがわかったから、思い切って指先だけで撫でていたのを、従業員がやっていたように、垂れた耳ごと、手のひら全体で撫でてみる、ぐぅ。

 手のひらに伝う鳴き声の振動。おぉ、と思わず声が漏れた。

 

「お上手ですね。ウサギに触ったことあるんですか?」

 

「いえ、これが初めてです」

 

「本当に? ウサギの才能ありますよ」

 

「なんですか、ウサギの才能って」

 

「さぁ? なんでしょう?」

 

 従業員は小さく笑って、そのまま撫でてたら寝ちゃいそうですから、そろそろ抱っこしてみてあげてください。

 僕は、従業員が見せてくれたお手本を思い出しながら、ウサギの胸の下に左腕を差し込む。全くの初対面の僕に対してウサギは暴れるどころか、自分から腕に体重をかけてきたように思えた。それに安心を覚えて、僕はウサギの身体を軽く持ち上げて、すぐに反対の手でお尻を支えてやった。毛皮の下のしなやかな筋肉の感触と、意外と熱い体温が、右の手のひらを通して伝わる。ウサギの顔がこちらを向く。おやつを期待しているのかも。

 抱き上げたままでウサギと見合っていると、ぬっと視界に黒い影。ウサギを見るために身を乗り出した女の子だ。女の子の、髪の毛が高い位置で結われて露わになっている首筋には、今朝に比べると随分と薄く見える赤い掴み痕。女の子に請われて、僕が自分の意思で付けた痕。滑らかな手触り。確かにそこに存在する、生命のグロテスクな温かさ。ぐぅ、とウサギがまたひと鳴き。先程よりも直接的に感じた振動は、無意識に酸素を求めて喘ぐ女の子のそれによく似ている。

 

「この子、飼うの?」

 

 ウサギから僕の方を向いた女の子が言った。翠色と黒色の二対の瞳に見つめられた僕は戸惑って「え、そういう話だったっけ?」

 

「お兄さんが凄く懐いてる」

 

「……それ、逆じゃない?」

 

 ウサギに懐く人間とはいったい。僕は従業員がそうしていたように、ウサギを自分の正座の膝の上に乗せて、背中の曲線を撫でた。「食べさせてあげてください」と従業員が先程と同じビスケットを差し出してきたから受け取って「わかりました」恐る恐るウサギの口元に近づける。鼻先に当たるくらいまで近づけると、ウサギはようやく齧りついてくれて、指先に咀嚼の振動が伝わる。その様子を隣の女の子はじっと見つめている。

 

「……本当に良く懐いてますね」

 

「……僕がですか?」と訊くと、従業員は目を丸くしてから少し笑って「ウサギがですよ」

 

「今のお家では、ウサギは飼っていないんですよね?」

 

「はい」

 

「もし良かったら、その子を飼ってみませんか?」

 

 商売っ気をこれっぽっちも感じさせない、穏やかな調子で従業員は言った。ウサギと一緒の生活は大変なこともありますけど、とっても素敵なんですよ。

 

「そうなんですか?」

 

「ええ、それはもう」

 

 従業員が女の子に「ですよね?」と同意を求めると、女の子は無言でコックリ頷いた。視線はウサギに注がれたまま。

 膝の上のウサギは、ビスケットを食べ終えていよいよ眠たくなったのか、瞼がつぶらな瞳のほとんどを覆いつつある。ここまで懐いてくれるのなら飼うのも吝かではないと思えた。僕一人なら無理だけど、今なら女の子もいるわけで、ウサギも遊び相手に不自由しないだろう。ウサギは寂しいと死んでしまう。いつだったか女の子が言っていた。

「飼おうか?」僕は女の子に訊いた。飼おう。即答を期待して。けれどその期待は裏切られて、女の子は僅かな沈黙の後で「お兄さんが決めて良いよ」と答えた。

 

「僕が?」

 

「うん、お兄さんが」

 

 ウサギに注がれていた女の子の視線はいつの間にか持ち上がって、僕の目をじっと覗きこんでいる。感情を上手く読み取れない、いつも通りの瞳。……いや、いつもと少し違う?

 女の子から視線を逸らせないまま、僕は「少し考えさせて下さい」と妙に乾いた喉を震わせて言った。



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子供。線路。死体。

 これだけ長い時間接客してもらって、肝心のウサギを飼うことについては保留。

 僕が店員だったなら、徒労感が間違いなく顔に出たと思う。けれど、目の前の従業員はむしろほっとした様な笑顔で「安心しました」

 

「安心ですか?」

 

「はい。この子のこと、しっかり考えてくれるんだなって。自分で勧めておいてなんですけど、勢いで飼って持て余してしまう人が多いんです」

 

 従業員は、僕の膝の上ですっかり夢の世界に旅立ったウサギに視線を注ぎながら言って、ポケットから名刺入れを取り出して中から二枚、それぞれ僕と女の子に渡して寄越した。

 

「この子のこと、決まったらいつでも連絡してください。そうですね……三日間だけ、他のお客さんに貰われないようにしておきますから」

 

「いいんですか?」

 

「本当はダメなんですけど、特別です」内緒ですよ? と、少し悪戯めいた表情。

 

「お二人でしっかり話し合って決めてくださいね。子供みたいなものですから」

 

「子供、ですか……」

 

 念を押すように言う従業員の言葉を僕は反芻する。

 このウサギが子供だとして、僕は父親になるわけで、そしたら母親は……。

 ふと隣に視線をやると、女の子は従業員の話を聞いていないのか、ひたすらウサギに視線を注ぎ続けている。

 その様子に肩の力が抜けた僕は「よく考えてみます」と従業員に言った。

「ぜひ、そうしてください」従業員は、ほんの少し苦笑。そして僕の膝から慎重な手つきでウサギを抱き上げる。夢の中のウサギはピクリともしない。家のソファで眠りこける女の子そっくり。

 ウサギをケージに戻しに行く従業員の背中を僕は未練がましく見送った。

 

 

ーーーーー

 

 

 

 女の子が多分、家のウサギ用の小物を購入するのを待って、それから従業員にお礼を伝えて、僕らは店を出た。

 随分と長居していたらしい。短い冬の日は暮れて、空は濃い藍色に染まりつつある。等間隔に並んだ街灯の灯りが寒々しい。

 腕時計を見ると夕食にはまだ少し早い時間。もう一件くらいどこかに行ってもいいかも。

 これからどうする?

 訊こうとしたけれど隣にいるはずの女の子は、さっさと駅の方に歩き始めていて、僕は慌ててその後を追った。

 

「先に行かないでよ。この辺り、詳しくないんだから」

 

「良かったの?」

「え、何が?」

 

 脈絡の無い問いに僕は首を傾げる。なんのことだかさっぱり。

 点滅する信号を速足で渡り切る。女の子は歩調を緩めずに歩き続ける。

 

「あの子、飼わなくて良かったの」

 

「あぁ、そのこと……」

 

 女の子の隣に並んで横顔を窺う。車道に並ぶ信号待ちの車のテールランプが、女の子の白い頬を赤く照らす。するりと女の子が右に折れた。多分来たときと同じ道なんだろうけれど、暗くなった今、不慣れな道は迷路みたい。

 

「お兄さん、あんなに懐いてたんだから飼えばよかったのに」

 

「だから逆だよねそれ」

 

 速いペースで歩きながら話すことに辟易した僕は、女の子の手を掴んだ。肩が小さく跳ねて歩みを止める。細い指先が氷柱みたいに冷たい。

 

「どうしたの?」女の子は首を傾げる。

 

「歩くのが早すぎて、ちょっと疲れた」

 

 僕が溜め息交じりに言うと、女の子は少し呆れた様子。

 

「ウサギに逃げられたら捕まえられないよ?」

 

「大丈夫。檻にしっかり鍵をかけておくから」

 

「虐待だ。ウサギ愛護法違反だよ」

 

「動物愛護法じゃなくて?」

 

 どんなものか訊いてみると、女の子の言うウサギ愛護法は思っていたよりも物騒で、犯すとウサギのエサになるらしい。

 掴んでいた手がするりと絡んで、女の子は歩き始める。今度はゆっくりとしたスピードで。乾燥したアスファルトを踏みしめる音がふたつ重なったり離れたり。氷柱の指先が温かく溶ける。

 そうして歩いていくと踏切に辿り着いた。来るときはすんなり渡れた踏切は、今は頼りない遮断桿が水平に下りて、帰途に就く人の行く手を阻んでいる。

 交互に点滅する警報灯の光を目で追う。

「これからどうする?」光に同調して鳴る警報音の音に掻き消されないよう、少し大きな声で僕は言った。

 

「どうするって?」

 

「どこか行くの?」

 

 僕が言うと女の子は少し黙考。そして「もう帰ろうかな」

 

「いいの?」

 

「うん。 たくさんウサギ見れたから満足」

 

 満足、と言うけれどその声音はなんだか淡泊。

 

「……じゃあ何処かでご飯食べて帰ろうか。家の冷蔵庫、なんにもなかったし」

 

 何か食べたいものがあるかと訊けば、今度は熟考。さすが、食い意地が張っている。

 会話が途切れても聞こえてくるのは鳴り止まぬ警報音。随分長い踏切だなと思い向こう側を見てみると、車がささやかな列を形成し始めている。もしかしたら近くで事故でもあったのかもしれない。

 

「……すき焼き」

 

 女の子の呟きみたいな小さな声は、なんでか鮮明に聞き取ることが出来た。

 

「すき焼き? 食べたいの?」

 

「うん。誕生日だから」

 

「……どういうこと?」

 

 誕生日は特別だからすき焼きなんだよ。と妙に誇らしげに言う女の子に、よくわかっていない僕は曖昧な頷きを返した。

 そして内心で、誕生日なんだっけ。そういえば今朝方言っていたような。

 すき焼きを出すお店を頭の中で探す傍ら考える。なにかプレゼントのひとつでもした方がいいのかな?

 そうして考えてみると、思い当たる店がひとつあった。

 

「ごめん、ご飯の前に寄りたい所あるんだけど」

 

「山? 海?」

 

「……違うよ、君じゃないんだから」

 

「なら何処?」

「ここの隣駅」僕は開かずの踏切を顎で指した。

 

「それなら歩いて行こう。開きそうにないし」

 

 女の子が僕の手を引く。いつの間にか後ろに出来ていた列を抜けて、線路沿いの道をふたり歩き始める。道路を隔てた柵の向こう側に線路が続くのが見える。

 

「スタンドバイミーみたいだね」と女の子。

 

「映画だっけ?」

 

「そう。見たことある?」

 

「だいぶ昔に、一度だけ」

 

 内容は曖昧だけど、あらすじくらいはなんとなく覚えている。

 歩くリズムに合わせて女の子が小さく、スタンドバイミーの歌詞を低く口ずさむ。ギターが壊れてからしばらく聴かなかった女の子の歌声。伴奏は女の子のジャックパーセルが地面を擦る音と、背後に聞こえる警報音。

 

「お兄さんはあると思う?」

 

 唐突に歌が途切れて、次いで聞こえてきたのは主語の無い質問。

 僕は目を開いて「何が?」と問い返す。

 

「死体」

 

「……映画じゃないんだから」

 

「だよね」と、女の子は言って、再び歌を口ずさむ。

 

 空を見上げる。藍色だった空はもう真っ黒。月明かりは見えない。辺りを照らすのは街灯の無味乾燥な白い光。

 目を閉じると、瞼にこびり付いた警報灯の赤がじわり。

 女の子の問いには否定を返したけれど、この先には死体が本当に転がっているかもしれない。もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない、とびきり新鮮な死体が。

 背後から轟音。目を開くのと同時に電車が通り過ぎる。女の子の高く結わえた黒髪が風に弄ばれる。

 僕は女の子の手を引いて身体を寄せると、風で乱れた髪の毛にそっと唇で触れた。



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人工の森。先輩。

 当たり前だけど死体は見つからなかった。

 十分ほど歩いて着いた駅前。大通りの向こう側に見えるバスロータリーに赤色灯を回したパトカーが数台、停車していたから何事かはあったのかもしれない。

 これといって野次馬根性を持ち合わせていない僕たちは、物々しい雰囲気の駅前を横目に大通りを道なりに進む。先を歩くのは僕。

 

「どこに行くの?」と女の子。

 

 その手を引く僕は「着いてからのお楽しみ」少し勿体ぶってみる。

 

「変な所じゃないよね?」

 

「どうだろう? でも、きっと気に入ると思うよ」

 

 古びたアーケードがかかった通り。ほとんどの商店は既に営業を終えて、所々が錆びたシャッターを下ろしている。冷えた空気が相まってどこか物悲しさを感じさせる。古びた煙草屋の看板に隣に、二十四時間営業の飲食店の無遠慮な光がアンバランス。ガードレールの向こうで車が絶え間なく行き交う。

 数年前に一度、連れてこられただけなのに不思議とそこに至る道のりは忘れていなかった。

 五分くらい歩いた。アーケードが途切れる寸前、一階にチェーンの居酒屋のが入っている雑居ビルの前で僕は足を止める。確か、ここだった。

 

「着いたよ」

 

「ご飯?」

 

「それはまだ」

 

 僕は女の子の手を引いて、居酒屋の横をすり抜けてエレベーターホールに向かう。エレベーターを待つ間、すぐ横に備え付けられた共同ポストを、ちらり盗み見る。確か三階がスナックで……。良かった。ここで間違っていない。

 僕たちはさっさとエレベーターに乗り込んで、目的の四階のボタンを押した。

 

 

ーーーー

 

 

 四階で降りた僕たちを迎えたのは、コンクリート打ちっぱなしの壁にはいささか不似合な、温もりを感じさせる木製の扉だった。目線の位置に掛けられたプレートには『OPEN』の文字。幸いまだ閉店していなかったらしい。良く磨かれた真鍮のドアノブを引いて、僕たちは店内に足を踏み入れる。

 

 わぁ……。背後の女の子が声を漏らすのが聞こえた。

 都心の小さなコンビニと大して変わらない手狭な店内。少し暑いくらいに暖房されていて、ぱっと見ただけで加湿器が三台ほど稼働している。床は一面グレーのカーペットで覆われて、その上にはスタンドに立て掛けられたアコースティックギターが、樹木のように立ち並ぶ。壁にもギターが所狭しと飾られる。落ち着いた曲調のインストゥルメンタルが、風が葉を揺らす音の代わりに流れて、まるで人工の森だ。

 

「いらっしゃいませ」と奥にある、猫の額ほどの小さなカウンターから声。僕らは声の主に小さく会釈する。

 幾重に深い皺の刻まれた顔に、柔和な笑みを浮かべる白髪頭の店主は、以前に訪れたときと全く変わっていないように見える。「ごゆっくり」店主は言うとノートPCに視線を落とす。

 カウンターの横には、狭いスペースに硝子張りのショーケースがどうにか収まっていて、中には三本のギターが飾られている。

 するり。女の子は僕の横を夢遊病患者みたいな足取りですり抜けて、無数にあるギターに視線を巡らせる。その瞳に星が躍っているように見えた。

 女の子に習って、僕も手近のギターに視線をやるけれどなるほど、何がどう違うのか全く分からない。同じ形、同じ色なのに値段が数万円も違うのは何故なのだろう?木材と僅かばかりの金属の塊がどうして数十万もするのだろう?これなら、ウサギの方がわかりやすいように思える。

 

「……ここ、凄い」女の子がため息交じりに呟く。

 

「気に入った?」

 

 視線はギターに固定したまま、女の子は頷いた。

 

「お兄さん、ギタリストだったの?」

 

「……今まで僕がギターを弾いたことなんてあった?」

 

「でも、ここのこと知ってた」

 

 女の子の視線がこちらを向く。なんとなく期待が篭っているような気がして居たたまれない。僕はギターなんて少しも弾けない。女の子が家に住み着く様にようになってから、たまに触らせてもらったくらい。

 

「星を見に行ったときのこと覚えてる?」

 

「うん」

 

「車でホテルカリフォルニアを聴いたでしょ。そのCDをくれた先輩に連れてこられたんだ」

 

 入社一年目。確か冬のボーナスが支給されたその日に連れてこられた。僕にしきりにギターを勧めて来たけれど結局、購入したのは先輩だけ。

 雀の涙と嘆いていたボーナスを豪快に吹き飛ばして少年のような笑顔を浮かべる先輩に、呆れながらも内心に羨望の念を抱いたことを、なんとなく覚えている。

 

「お兄さんの先輩はギター上手かった?」

 

 僕は少し考えるふりをして「どうだろう。ちゃんと聴いたことが無かったから」

 

「そっか」女の子はギターに視線を戻す。

 

 先輩のギターをちゃんと聴いたことが無いというのは本当のことで、だけどほんの少し聴いたことがある。この店でギターを購入する際の試し弾きで。素人目にも、その腕前はなかなかに酷かったと思う。女の子のギターを知った今は尚更。

 確か、先輩があの時弾いたのもイーグルスだったはず。帰り道に教えて貰った曲名を、今はもう思い出せそうにない。

 



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マーチン。青いギター。

 美術館に飾られた絵を鑑賞するみたいに、女の子は時折足を止めてギターを眺める。その熱を帯びた視線はウサギに注がれていたものに勝るとも劣らない。

 ギターの価値をはかることを早々に放棄した僕は、代わりに女の子の横顔を盗み見た。ギターを見比べて、微妙に変化する女の子の表情を眺めている方が面白い。

 多少、蒸し暑く感じるほどに暖房された店内。マフラーを取り去った女の子首筋にうっ血の痕が薄く見える。過剰とも思える加湿器の台数は、ギターを乾燥から保護するためだと先程、女の子が得意気に教えてくれた。

 耳朶に痛々しく空いたピアスを数える。自分で空けたのかな。……それとも誰かに?

 そういえば学生の時分、同居人に揃いのピアスを着けたいとねだられて空けたことがあった。自分の耳たぶに触れる。その時にあけた穴はもうすっかり塞がっているのに、中に何かが埋まっているような違和感。

 

「……あ」

 

 違和感を嫌って、自分の耳に爪を立てようとしたとき、すぐ隣から吐息のような声。どうしたのだろうと思って見てみると、女の子が壁に掛かった一本のギターを見上げている。弦に挟まれたプライスカードには『Martin HD-28』と手書きで書かれている。

 

「それ、珍しいの?」

 

「ううん全然。昔、欲しいなって思ってたギターなんだ」

 

 プライスカードに書かれた値段は税抜き25万。中古。桁をひとつ見間違えたんじゃないかと思った。

 女の子はギターに手を伸ばそうとして、はたと止める。そしてカウンターの店主に「これ、触っても良いですか?」

 店主はノートPCから顔を上げると、ずり下がった眼鏡を直して「もちろん」

 

「触るだけじゃなくて、どうせなら弾いていくと良い」

 

「良いんですか?」

 

「触っただけじゃ、音がわからないだろう」

 

 よっこいせ。店主は立ち上がって、一旦カウンター裏に引っ込むと、木製の丸椅子を引っ張り出してきて、ショーケース前の空いた場所に置いた。そして、のんびりした歩みで僕たちの方にやってくる。

 

「チューニングは自分で出来るね?」

 

「はい」

 

 女の子が頷くと店主は満足げに頷いて「音叉はカウンターに置いてあるから」僕たちの横をすり抜けて出入り口へ。扉を開けると『OPEN』の札を『CLOSE』に裏返した。

 

「少し外に出てくるから、店番を頼むよ。他にも弾きたいのがあれば自由に弾いていいからね」

 

 店主は言うと、僕たちの返事も聞かずに出て行ってしまった。

 防犯意識の低さに唖然とする僕をよそに、女の子はお目当てのギターを丁寧に取り上げて、意気揚々と丸椅子に腰かけた。

 女の子は脱いだスタジャンを床に置こうとしたから、僕はそれを受け取る。「ありがとう」女の子は言うと、組んだ足にギターのボディを載せて、パーカーのポケットから自前の音叉とピックを取り出した。音叉を剥き出しの膝小僧にぶつけて、そっと耳に近づける。少し前まで毎日のように見ていた光景が、何故だか酷く懐かしく感じる。

 店内に流れていたインストゥルメンタルはいつの間にか止まっていた。試し弾きの邪魔にならないよう、店主が気を利かせたのかもしれない。 

 五弦を合わせて、六弦、四弦。

 ギターが圧迫した店内に、チューニングの音が響くのは、いつだったかの夜の森の光景を思い出させた。加湿器の低い駆動音は、木々を揺らす風の音。

 チューニングを終えた女の子は、指先を指板の上で彷徨わせて、そしてピックを一思いに振り下ろす。

 音の良し悪しなんてわからない僕だけれど、このギターと女の子が持っているギターとが、全く違うものだということはハッキリとわかった。ワイングラスを大理石の床に叩きつけたら、こんな音が鳴るのかもしれない。

 

「……星が爆発したみたい」

 

 目を丸くした女の子が呟く。

 星とは大きく出たなと思ったけれど、否定をする気にはならない。それくらい煌びやかな音。女の子は弦を探るように押さえながら、いくつかのコードを鳴らした。そしてなぜか首を捻る。

 

「こんなに難しいギターだったかな」

 

 ギターを弾く手を止めた女の子は、ボディの括れを指先でなぞった。

 

「難しい?」

 

「うん。昔に弾いたときはもっとこう……」

 

 女の子は天井を見上げて、蛍光灯の光に目を細める。

 

「そう。もっとキラキラしてた」

 

「……きっと久しぶりに弾いたから、まだ調子が出てないんだよ」

 

「そうかな?」

 

「うん」

 

「そっか」

 

 もう少し弾いてみようかな。

 女の子はギターを抱え直して、弦を爪弾く。星が散る。グラスの中のシャンパンの泡が弾けるみたいに。

 

「昔、これと同じくらい、凄いギター弾いてたんだ。エレキギター。青くて。ピカピカしてて。すっごくカッコいいの」

 

「へぇ……」

 

「子供の頃に一目ぼれして、お母さんに『どうしても欲しい』っておねだりして」

 

「買って貰えたんだ?」

 

「うん。半分だけ」

 

「半分?」

 

「お父さんが、残り半分は自分で払いなさいって。お小遣いが半分になって、お年玉は全部没収。高校に入ってバイトして、やっとちゃんと買えたんだ」

 

「なんていうか、厳しいお父さんなんだね」

 

「少しだけ。お母さんが天然だから、丁度いいバランス」

 

 女の子に天然の評されるお母さんの事が、少し気になったけれどそれ以上に気になったことがあったから僕は訊ねる。

 

「そのギターはどうしたの?」

 

「売っちゃった」

 

 何でもないことのように言う女の子に僕は唖然。

 

「どうして?」間抜けな声が出る。

 

「凄く迷ったけど、どうしてもお金が必要だったから。それに……」

 

 よく考えたら、もう使わないなって。

 

 女の子はギターを弾く手を止める。空いているスタンドに一旦、ギター立て掛けてカウンターから布きれを見つけて持って来た。丸椅子に座り直して、腿の上にギターを寝かせると、弦を一本ずつ緩めた。白く汚れた箇所に息を吐きかけて、愛おし気にボディを磨き始める。

 

「買ったときは何十万もしたのに、五万円にしかならなかった」

 

 可笑しいね。ギターを磨く手を止めずに、女の子は笑った。

 そうだね。釣られて僕も笑う。ちっとも可笑しいとは思えなかった。

 



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いらない。すき焼き。ワイン。

 それから程なくして、コンビニ袋を片手に店主は戻ってきた。

 試し弾きのお礼を言う女の子に、購入を勧めるでもなく「またいつでも遊びにおいで」と穏やかに笑って、エレベーターの所まで見送ってくれた。

 一階に着いてエレベーターの扉が開く。流れ込んできた外気にぶるり。店内が温かかったから外の空気が随分と冷たく感じる。チェーン居酒屋の橙色の灯りが酷く魅力的だったけれど、女の子の希望はすき焼きだから我慢。通り過ぎる。

 

「あのギター欲しかった?」

 

 歩きながらマフラーを巻き直す女の子に僕は訊ねる。 

 

「ううん」女の子は首を振って「いらない」

 

「そっか」

 

 そう言うと思った。なんとなく。

 

「すき焼きだったよね?」僕はポケットからスマートフォンを取り出しながら言う。マフラーに顔を半分埋めた女の子が頷く。何処かいい店が無いか調べていると「お兄さんの家で食べたいな」と、突然の注文。

 

「……家、すき焼きの鍋? とか無いよ?」

 

「駅前のデパートで売ってるんじゃない?」

 

 多分、女の子の言う『駅前』は僕の家の最寄りの方を指している。僕は腕時計を見て「着くころには閉まってるんじゃない?」

 

「急げば間に合うよ」

 

 手を掴まれる。ゾッとするほど冷たい手に引かれて速足。徐々に駆け足。風が頬を撫でる。女の子の揺れる黒髪を目で追っていたら転びそうになった。

 

 

ーーーーー

 

 

 人身事故があったらしい。電車は遅延していた。帰宅の途につく客で混雑した車内はアルコールと煙草の臭いがして、忘年会の時期だということを思い出させた。

 電光掲示よりも十分程遅れて、電車が最寄り駅に着いた頃には、僕は少しぐったり。女の子の方はまだまだ元気らしく「デパート閉まっちゃうよ」と、僕を急かす。

 なんとか間に合って、無事にすき焼き鍋を購入。黒い鉄製のズシリと重いやつ。地下の食品売り場で野菜ほどほどに、肉は奮発して一番上等なやつを買い込んだ。お酒は普段だったらまず買わない、とびきり高価なワイン。折角の誕生日だから。ふたり、重たい買い物袋手にぶら下げてデパートを出ると、背後で蛍の光が流れ始めるのが聞こえた。

 帰宅してすぐに夕飯の準備に取り掛かる。一息入れたら、そのまま寝てしまいそうだから。調理を始めて直ぐに深刻な問題に直面した。僕も女の子も、すき焼きの作り方を知らなかった。

 僕のスマートフォンを見ながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、どうにか完成したすき焼きは、具材の大きさがバラバラで、やたらと味が濃かった。あまりの脂の多さに、僕が数枚でギブアップした霜降りが派手な牛肉は、女の子がぺろりと平らげた。

 鍋の中身が無くなるころには、ワインのボトルが1本空いて、2本目も半分くらいまで減っていた。女の子のグラスが空いていたから、お代わりを注いであげると、両手で景気よくグラスを傾ける。なんだか今日はペースが速い。一気に半分ほど飲み干して、女の子は緩く笑った。頬に差した紅が色っぽい。

 

「大丈夫?」

 

「なにが?」

 

「結構酔ってるみたいだから」

 

「大丈夫。楽しいから」

 

 それは大丈夫なのだろうか。こんな風に、わかりやすく酔っぱらう女の子は珍しくて、少し面白い。じっと見ていると、女の子はグラスを持ったまま床を這って、ソファに座る僕の隣に腰を降ろす。体温が妙に熱く感じるのはきっと酒のせい。

 女の子が「はい」と差し出すのは自分のグラス。「見てたから。飲みたいんでしょ?」

 グラスを見てたわけじゃないんだけど……。説明するのが面倒だったから、大人しく「ありがとう」中身が半分だけのグラスを受け取って、グイと飲み干す。アルコールが喉を焼く感覚。鼻を抜ける葡萄の風味。少し頭がぼんやりする。

 

「お兄さんも酔ってる?」

 

「そうみたい」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫。楽しいから」

 

「お揃いだ」女の子は上機嫌に言うと、空いたグラスにワインを注ぐ。並々と注がれた赤い液体は少し零れてカーペットの床に染みを作った。



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玩具。似合ってる。だってここは。

 億劫だったけれど、すき焼き鍋はその日のうちに片づけることにした。鍋の底で白く凝固し始めた脂は、放っておくと面倒なことになりそうだった。きっとまた来年に使うだろうから丁寧に洗った鍋を、他の食器と一緒に水きりかごに立て掛ける。こんな量の食器を洗ったのは久しぶり。冷たい水に触れて酔いが少し醒めた様な気がする。

 洗い物を終えてリビングに戻ると、ソファに座った女の子がなにやら紙袋をガサゴソやっている。テーブルの上には、少し前に女の子が買ってきたジャックダニエルの角瓶と、氷と琥珀色で満たされたロックグラスがひとつ。よくこんなに飲めるなと呆れ半分、感心半分。ふたりで空にしたワインボトルは、捨てるのはもったいなく思えたからテレビ台の隅に飾った。

 僕は「それ、なに買ってきたの?」ソファに腰掛けながら訊ねる。紙袋にはウサギのロゴが印刷されていて『うさぎのあな』のものだと分かった。酔いで手元が覚束ないらしく、テープ留めされていた袋の口が無残に破けている。

 

「おもちゃ」

 

 ふわふわした声音で女の子は、袋からボールを取り出して寄越した。手のひら大のボールは布製で柔らかそう。他にも玩具がふたつ。木片のような物は何に使うのかと訊ねれば「ウサギに噛ませる」と言う。ウサギの世界は奥が深い。

 最後に、紙袋から出てきたのは玩具じゃなかった。首輪。深い青色の首輪だった。

 

「ウサギに首輪なんてつけるの?」

 

「あんまり。嫌がる子が多いから」

 

 女の子は空になった紙袋を辺りに放って、首輪に付いた値札のタグを歯で噛んで切った。そして「はい」と、僕に渡して寄越した。首輪は革製で思いの外、造りがしっかりしている。濃い青に銀の留め具が映える。

「綺麗だね」僕が言うと女の子は「そうでしょ?」と得意気。

 

「つけて」

 

「え?」

 

「それ、つけて」

 

 僕は手元の首輪と女の子の顔を何度か見比べる。冗談かと思ったけれど、酔いで据わった女の子の目は本気のように見える。特に抵抗もないから、僕は首輪の留め具を外して自分の首に宛がう。当たり前だけどウサギ用の首輪は小さくて、僕の首には留まりそうもない。困って女の子の方を見ると何故か呆れた表情。

 

「どうしてお兄さんが着けるの?」

 

「君が着けろって言ったんでしょ……」

 

 抗議の意を込めて僕が首輪を振って見せると、女の子は「こっち」と、自分の首を指差す。「私に着けて」と髪の毛を持ち上げていった。

 

「別にいいけど、これ小さいよ?」

 

「大丈夫。私、首細いから」

 

 知ってる。もう何度もこの手で触れているから。絞めあげているから。

 正面から手を回して女の子の首に首輪を宛がう。アルコールと暖房の熱で上気した首筋は薄っすら汗ばんで酷く熱い。留め具の金属が肌に触れると女の子は身を捩った。

 女の子の首は確かに細いけれど、ウサギ用の首輪はさすがに留まりそうになかった。力ずくでやれば出来ないこともなさそうだけど、間違いなく苦しいと思う。

 僕は少し考えて、台所からアイスピックを探して持ってきて、ベルト部分の穴を増やすことにした。肉厚な革に苦戦する僕の手元を女の子は興味深そうに眺めている。そうしてようやく空いた穴は、もともと空いていた穴から随分とずれた不格好な仕上がり。

 

「髪の毛、上げて」

 

 僕が言うと、女の子は何故だか嬉しそうに髪の毛を持ち上げた。首輪はなんとか、女の子の首に留まった。

 

「苦しくない?」

 

「大丈夫。ぴったり」

 女の子は髪の毛を耳にかけて、首輪を撫でて「似合ってる?」

 露わになった、ピアスが無数に空いた耳は薄く朱が差している。縛める首輪の青は女の子の肌の白に溶けたように浮いていて、僕は頰から首輪まで、指先で撫でて「凄く、似合ってる」

 満足げに微笑んだ女の子は僕の肩に手を置いて、そのままぐっと体重を掛けてきた。僕は抗うことなくソファに仰向けに倒される。女の子は僕の腰の辺り跨ると、テーブルからウィスキーの瓶を取って呷った。唇がつけられる。熱い液体が舌を溶かして、嚥下した喉を甘く灼いた。肉の脂の味がした。女の子の背中を掻き抱く。女の子の身体は痩せて骨張っているけれど、女性のしなやかさと柔らかさが確かにあって、その感触は昼に抱いた、白と黒の毛並みが綺麗なウサギのことを思い出させた。

 唇が離れて「そういえばさ」女の子の髪の毛に指をくぐらせながら「あのウサギどうしようか?」僕は言った。

 女の子は身体を起こして、髪の毛をうざったそうに搔き上げると僕を見下ろして「いらない」少し笑って言った。白い手がシャツ越しに腹を撫でるのがくすぐったい。

 

「いいの?」

 

「うん。いらない」

 

 腹を撫でていた手は鳩尾に、胸に、鎖骨に。頭に移って髪の毛をグシャグシャにしたり、頬を引っ張られたり、好き放題されるがまま。そして最後に、細くて長い指が僕の首に絡まった。

 

「昨日、今朝だっけ? お兄さんにもしてあげるって言ったよね?」

 

「言ってたね」

 

 喉仏の上を親指の腹で撫でながら女の子は「いい?」首を傾げる。サラリと流れた黒髪を指で梳いて僕は「いいよ」

 じわり。絡んだ指に力が入るのがわかった。恐怖や不安のようなものは感じられず、不思議と穏やかな心持。そのことが可笑しくて笑うと、女の子も笑った。

 頭蓋に血液が集中する感覚。鼻の奥と目の裏側が圧迫される。視界の端が深緑色に滲む。女の子の顔がぼやける。

 朦朧としてきた意識で、僕は手を伸ばしてなんとか女の子の頭を見つけて、自分の方に無理やり引き寄せた。滲んだ視界が夏を凝縮した様な緑色に満たされる。無意識に酸素を求めて半開きになっていた口が塞がれる。水音が反響する。どちらのものかわからない唾液が、だらしなく頬と顎とを流れるのが冷たい。

 視界が完全に黒く染まって、意識を手放す刹那、確かに聞こえた。いらない。

 

「だって、ここは私のウサギ小屋だから」

 

 確かに聞こえた。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 何故、僕に首を絞めさせるのか。そう問うた僕に女の子は『大丈夫になる』と答えた。その意味が多分、少しわかった。

 女の子に首を絞められて意識が闇の底に落ちる瞬間に僕は何かに赦されたような、そんな気持ちになった。



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日々。

 日々が続いた。

 

 クリスマス。

 テーブルにはピンク色のシャンパンと、コンビニの安っぽいチキン。そしてホールケーキが二つ並んだ。片方は僕がデパートの地下で買ってきたもので、もう片方は女の子が沙綾さんから貰ってきたもの。沙綾さんの家の仕事を手伝った、そのお礼に貰ってきたらしい。

 沙綾さんが作ったケーキは少し不格好だったけれど、不思議と温かい味がして、僕がデパートの地下で買って来た綺麗なケーキよりもずっと美味しかった。

 僕がそのことを褒めると、女の子は自分が褒められたかのように、誇らしげに胸を張って「そうでしょ?」

 食後、僕は女の子の目を盗んで、ケーキの上に載っていた砂糖菓子のサンタを、こっそり冷凍庫にしまった。

 

 初詣に行った。

 取引先がどこも正月休みに入る年末年始は、さすがに僕の会社も休みで、女の子の方のアルバイトも休みだったから、僕らはふたり心置きなく深夜の神社に向かった。

 神社に着いた僕らを待ち受けていたのは、賽銭箱までの行列だった。行列を目の当たりにした僕らは、顔を見合わて頷き合う。

 神様にお願いしたいことも特になかった僕たちは、配られている甘酒を飲んで、屋台でたこ焼きを買って、神社の隅の方で食べた。そして最後におみくじを引くことにした。

 おみくじの結果は僕が吉で、女の子は大吉。『待ち人来る』を指差して女の子は小さく笑った。

 女の子に頼まれて、僕はふたりぶんのおみくじを、手が届く一番高い枝にきつく結んだ。

 

 二月。

 雪が降った。

 深夜から降り積もった雪は靴が埋まるほどで、ニュースを見ると交通網は軒並み麻痺していた。通勤をそうそうに諦めた僕は、女の子に連れられて近所の公園に行った。そこで僕らは、小さな雪だるまを作ったり、雪玉を投げ合ったり。

 夕方になると、雪は溶けてほとんどが水になった。溶け残った小さな、ふたつの雪だるまを、女の子は家に持ち帰って、宝物を隠すみたいに、大切に冷凍庫にしまった。

 

 翌日。

 ふたりで冷凍庫を覗くと、ふたつの雪だるまはカチカチに凍って、くっついてひとつになっていた。昨日は気が付かなかったけれど、よく見るとサンタの砂糖菓子の、帽子の部分が小さな歯型に齧り取られていた。僕は笑って、サンタを齧った犯人を緩く抱き寄せた。

 

 日々が続いた。

 これからも続くと思った。日常に疲れて。失敗した美味しい料理を食べて。お酒を飲んで。たまに慰め合うように重なって。そんな日々がこれからも続くのだと思った。

 そう、思った。

 

 



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3月。大切な。

 今年は桜が見たいと思った。少し遠出をして、なるたけコンクリートの灰色が少ない所で、缶ビールでも飲みながら女の子と一緒に見たいと思った。ここのところご無沙汰な女の子の歌でも聴きながら見れたなら素敵。

 抜けるような青い空。空の端の色が透明。柔らかな陽光。緑の匂いのする風。宙を舞う花弁は、酒気に色付いた女の子の頬と同じ薄桃色。歌声。アコースティックギターの音色。

 夜は相変わらず寒くて、昼もまだ温かいとは言えない最近だけど、その光景を想像すると、不思議と胸の辺りが温かくなったような気がした。

 

***

 

 三月になった。

 何の変哲もない、普段通りの朝。窓の曇った満員電車に揺られて始業の三十分前に出勤。手早くその日の予定を組み立てて、上司の話が長い朝礼も普段通り。

 普段と違ったのは朝礼が終わって、同僚がめいめい外回りに出掛けたり、ノートパソコンに向き合う中、電話を掛けようとする僕の肩を上司が叩いたこと。少しいいか? 上司が言った。こっちが終わってからでしたら。僕が受話器を掲げて見せると上司は頷いて、会議室にいる。僕は背を向ける上司に返事をする。なんとなく嫌な予感を感じながら、僕は数字が擦り切れた電話のダイヤルを押した。

 

 電話を終えた僕は上司の機嫌を損ねるのが嫌だったから、会議室に足早に向かった。会議室はオフィスと同じ階にあるからすぐに着く。ノックを三回。立て付けの悪いドアを開ける。十畳程の広さの会議室には長机が向かい合わせに二台。その周囲を囲うようにクッションのくたびれた椅子が数脚。奥には薄汚れたホワイトボード。窓のブラインドが下ろされた室は蛍光灯の光に照らされてなお薄暗く陰気な印象が拭えない。一番奥の椅子に腕組をした上司が腰掛けて、じっと瞑目している。

 

 お待たせしました。僕が恐る恐る言うと、上司は目を閉じたまま自分の向かいの椅子を顎で指して座れと言った。僕は言われるがまま椅子に腰掛ける。

 少しの沈黙の後、上司は重々しく息を吐いてから、最近はどうだ? 帰省した時の実家の父みたいに言った。そういえば、しばらく実家に帰っていない。僕はぼんやり、特に何もありません。

 

 

「何もないか」

 

「ええ」

 

 僕が頷くと上司はまた重たい息を吐いた。

 

「時期が時期だから、なんとなく察しているとは思うが」上司は言いながら茶封筒を取り出して、僕の方に渡して寄越した。促されて中を見てみると、三つ折りのB5の用紙が一枚。用紙の一番上にはやや大きな文字で辞令と記されている。

 

「異動だ。四月一日から、去年の夏に出向した大阪の営業所での勤務になる」

 

「誰がですか?」

 

「お前以外に、誰がいる?」

 

 呆れた様に上司が言った。確かに用紙に書かれているのは、何処からどう見ても僕の名前。上から下まで並んだ文字列を何度か目でなぞった。自分のことなのに他人事のように思えた。現実感がない。幽体離脱をして自分の姿を見下ろすのはこういう気分なのかもしれない。けれどそれは一瞬のことで、直ぐに胃の底に黒くて冷たいものが落ちた。腹の奥で広がった黒い靄が不快な焦燥に似た感情を生み出し満たした。

 この会社で急な転勤は珍しいことではない。入社一年目で北海道の旭川にある支社に飛ばされた同期がいる。所帯持ちでもない限り、この会社は人を容赦なく異動させる。僕が今まで東京の本社にいられたのは、辞めて行った例の音楽好きの先輩が恐ろしいことに僕以外に仕事の引継ぎを一切していなかったことと、先輩が去った後に後を追うように退職する人が続いたから。

 もう一度、紙面に目を通して内容の割に薄くて軽い紙を机に置いた。対面の上司に向き直る。上司の顔には細かな皺がいくつも見て取れた。苦労が多いのかもしれない。僕が乾いた喉で「それは拒否できませんか?」と言うと、上司の眉間に刻まれた皺がぐっと深くなった。

 

「何故だ?」

 

「嫌だからです」

 

「嫌だから……」

 

 子供のわがままか。上司は嘆くように言って眼鏡を乱暴に外して眉間を強く揉んだ。子供のわがまま。実際その通りだと思う。だけどそれ以外に言いようが無かった。嫌だった。今のこの生活を、日常を奪われることがどうしようもなく嫌だった。

 眼鏡を掛け直した上司は、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。黒い革の年季の入った手帳だ。指先を舐めて頁を捲る。目当ての頁を見つけると上司は手帳を机に置いて僕の方に向けて見せた。

 白紙の頁は半分が文字で埋まっていた。神経質に細かく直線的な形の文字は上司らしいなと思えた。頁の一番上に僕の名前が書いてある。その下には日付が並ぶ。日付の横には『体調不良』や『遅刻』と書かれている。この頁には去年の僕の勤怠がまとめてあるらしい。一二月四日、女の子の誕生日の日には『無断欠勤』と赤い字で書かれている。

 

「これを見てどう思う?」上司が低い声で言った。

 

「酷いなと思います」

 

「これで拒否なんて出来ると思っているのか?」

 

「……どうにかなりませんか?」

 

「どうにもならん。そもそも正当な理由の無い異動の拒否は契約に反する」

 

 従わないのなら解雇だ。上司は言った。

 それきり沈黙が降りた。壁掛け時計の針の音が嫌に大きく聞こえる。横目に時計を見ると時間は上司と話し始めてから一五分程しか経過していない。背中が冷たい。汗でシャツが背中に貼りついている。手のひらに鈍い痛みを感じた。いつの間にかきつく握っていた手を開くと爪の痕が赤く残っていた。蛍光灯に反射する手汗が気持ち悪くてズボンで拭った。

 時計の分針が五回鳴った頃、どうしてなんだ。上司が言った。空気に浮いて溶けて消えてしまいそうな、弱々しい疲れた声音だった。

 入社から今まで、良く働いてきたじゃないか。あの馬鹿。お前の指導役だった、あの馬鹿が辞めて、他の連中がずるずる抜けていく中、お前はよく働いてきたじゃないか。俺はお前に期待していたんだ。たまに厳しいことを言ったかもしれないし、少しは無茶をさせたかもしれない。でもそれはお前に期待していたからなんだ。あのまましっかり働いていたらもっと大きな仕事を任せられて、もしかしたら周りより早く昇進だって出来たかもしれない。どうしてなんだ?どうして期待を裏切ったんだ?

 上司の問いへの答えは直ぐに出てきた。考えるよりも先に声が出ていた。

 

「ウサギと一緒に住み始めたんです」

 

「……ウサギ?」

 

「はい。大切な、ウサギです」

 

 とても大切な。

 目を丸くした上司は、すぐに俯いて重たい息を吐いた。解雇の予定だった。溜息と一緒に言った。

 無断欠勤はまずかった。近頃は遅刻も多かった。本当なら解雇になるはずだったんだ。それを俺が上に掛け合って止めたんだ。向こうの営業所の所長は俺と同期で、夏に出向したときのお前の働きぶりを痛く気に入っていた。懲罰のような異動になるが、あいつなら俺の代わりにお前をしっかり育ててくれるはずだ。これまでどおり真面目に働けば数年でこっちに戻ってこられるかもしれない。

 上司は手帳を閉じてジャケットの内ポケットに丁寧に仕舞った。椅子から立ち上がって「今日はもう帰れ」と言った。ドアの方へ歩いて行ってノブに手を掛けて、一週間有給扱いにしてやるからよく考えろ。これ以上、期待を裏切るな。背中を向けたまま言って上司は出て行った。不快な音を鳴らして閉じるドアを僕は無言で見つめた。

 



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子供たち。冊子。

 正午前。駅前の公園には子供たちの遊ぶ姿があった。遊具の類がないから三人の子供は柔らかそうな素材の青いボールを投げ合って遊んでいる。端の方にあるベンチで母親らしい女がふたり談笑している。公園の中央に設えられた噴水は冬季は稼働していないためコンクリートのオブジェと化していて、空の水槽には枯葉や砂埃が吹き溜まっている。

 母親たちのところから最も離れたベンチに僕は腰掛けた。木製のベンチは冷たかった。曇り空の切れ間から日光が差して春の訪れを感じさせるけれど、時たま吹く風は未だ冷たい。途中のコンビニで買ってきたコーヒーを啜る。苦くて熱い液体が食道から胃に落ちると多少、気持ちが落ち着いたように思えた。一緒に買ってきたサンドイッチを口に運びながら、僕はコンビニの入口のマガジンラックにあった無料の求人情報誌を広げた。

 飲食業。接客・サービス業。運送業。営業職。介護職。一ページ一ページ、特に給与の項目に注目して頁を捲っていく。薄っぺらい冊子は直ぐに読み終わった。サンドイッチの残りのひとかけらを口に放ってコーヒーで流し込んだ。溜息を吐く。変声期前の子供の甲高い声が響く。ボールを投げ合っていた子供たちはいつの間にか鬼ごっこを始めていた。海外のスポーツブランドのロゴが入った赤いトレーナーを着た身体の大きい女児が、小柄なふたりの男児を追いまわしている。

 僕は通帳の預金残高を思い出しながら頭の中で算盤を弾く。月々の生活費や奨学金の返済。各種税金。車のローン。……貯金がもつのは良くて半年くらいだろうか。求人情報誌に少なくとも現在の生活を維持できそうな職は掲載されていなかった。酷い労働環境だったけれど賃金だけはそれなりに出ていたらしい。そうでなければ人を繋ぎ止められないか。

 追いかけられていた男児のひとりが転んだ。少しの間を置いて泣き声が大きく響く。女児がすぐに駆け寄って転んだ男児を助け起こした。だいじょうぶ? と言っているように見える。今にも泣きだしそうな顔だ。泣き声を聞きつけた母親たちは慌てて駆け寄って、泣きわめく男児を抱き上げた。泣き声は次第に小さくなっていった。吹いた風に揺れた木の枝の音が啜り泣く声のように聞こえた。風でいつの間にかこちらに転がってきていた青いボールを、僕は母親たちの方にそっと転がした。それに気付いた母親のひとりが会釈を寄越した。ボールを拾い上げた女児がありがとう、と手を振ったから僕は小さく手を振り返した。

 僕はベンチに座り直して、ジャケットのポケットの封筒を取り出して中身の紙切れに目を落とす。当たり前だけど内容は会議室で見たときから何も変わっていない。転んだ男児を抱きかかえたまま、公園から去っていく母親たちの背中を見ながら僕は大きく息を吐いた。

 

 大阪か……。

 

 よりにもよって。女の子が聞いたらなんて言うだろう。女の子のバンドのポピパが壊れた要因のひとつにメンバーとの別離があった。たしか、そう。りみさん。その人の行先も大阪だったはず。

 ……少なくとも一週間は考える時間がある。とてもじゃないけれど今すぐに女の子にこのことを話す勇気は僕にはなかった。

 

 

***

 

 

 翌朝、僕はいつもと変わらない会社に向かう時と同じ時間に家を出た。昨日遅い時間までアルバイトだったらしい女の子はよく眠っていた。交わした言葉は疲れた「おやすみ」と、寝ぼけた「いってらっしゃい」だけ。会話の最中にうっかり異動の話をしてしまう心配があったから、僕は内心で安堵した。

 家を出た僕は駅を通り過ぎてシャッターの降りた繁華街を歩いた。良く晴れた朝だ。麗らかな朝の日が、全国チェーンの居酒屋の電源の切れた看板や、店の前に出された所々が割れて色の褪せた青いポリバケツや、路肩の半乾きの吐瀉物を、柔らかく照らしている。繁華街の中ほどにある喫茶店に入ってモーニングを食べて時間を潰してから、僕は駅前に戻ってバスに乗り込んだ。

 



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どうして。無くなっちゃう。

 市役所に来るのは久しぶりだった。前に訪れたのはいつ頃だっただろう。不意に以前の同居人と一緒に転居届を出しに来たときのことを思い出した。次に来るときは婚姻届けかな? 冗談めかして言う同居人は多分笑顔を浮かべていたと思う。その笑顔を思い出すことは出来そうにない。

 そういえば女の子は転居の届け出だとか、住民票の書き換えだとか、そういうことはきちんとやっているのだろうか。なにそれ? と首を傾げる女の子のとぼけた顔は簡単に想像できた。

 開庁から間もないというのに、市役所にはすでに多くの人の姿があった。老人や作業着姿の

 若い男や肌色から一目で外国人とわかる女や。多種多様な人々がそれぞれの窓口に並ぶ光景は少し異様だ。僕は保険の窓口の整理券を取って待合席に腰を下ろした。

 十分程待って、僕の番号が呼ばれた。窓口に行くと柔らかい雰囲気の中年の女性職員が「どうぞ」と椅子を勧めた。

 

「今日はどうされましたか?」

 

「えっと、失業保険? の相談に来たんですけど」と僕が言うと女性職員はあらあらと困ったような声を出した。

 

「ごめんなさいね。失業保険のことはね、ここじゃなくてハローワークさんじゃないとね、できないんですよ」

 

「あぁ、そうだったんですか……」

 

 お時間を取らせてすみません。席を立とうとすると、女性職員は待って待ってと呼び止めた。

 

「もうお仕事の方はお辞めになったの?」

 

「……いえ、まだ悩んでいる所で」

 

「あら、そうなの?」

 

 女性職員は、なら少しね、待っててくださいね、と言うと席を立って奥の方に引っ込んだ。

 窓口の向こう側は事務机が規則正しく並んで、多くの職員がノートPCのキーを叩いたり、電話を掛けたり、難しい顔をして分厚いファイルと睨めっこしたりしていて慌ただしい。他の窓口の方に目をやると、日本語が話せないらしい来庁者に困り顔の男性職員の姿があった。聞き耳を立ててみるけれど少なくとも英語ではないようだ。来庁者の容姿からして中国語か韓国語だろうか。時々、奇妙なイントネーションの日本語が聞こえてくる。

 

「お待たせしました」女性職員が何枚かの用紙を手に戻ってきた。女性職員は僕が見ていた方の窓口の方をちらと見て、大変そうねぇ、と呑気に呟いた。お兄さんは何か外国語ができるの? これからはね、英語だけじゃなく色々話せなきゃ駄目だなと思うのよ。この間いらっしゃった方なんてベトナムの言葉しか分からない方でわたし困っちゃってね。

 つらつらと話し続ける女性職員に内心で参りながら、はぁなるほどそうですねと相槌を打っていると、近くを通りかかった年配の職員が女性職員の肩を小突いて、ようやく一方的な雑談は終わった。女性職員はごめんなさいねぇと人の良い笑みを浮かべた。

 

「これね、近くのハローワークの地図ですから良かったら行ってみてください。もし転職の相談とかしたいなら、事前に連絡した方が良いですよ。病院みたいにね、待たされちゃうかもしれませんから」

 

 女性職員は地図の他にも数枚の用紙を机の上に置いて、それからね、もし今のお仕事を辞められて、すぐに次が決まらないようでしたら市役所の方にももう一度いらして下さいね。健康保険だとか、年金だとか、色々と手続きがありますからね。と慣れた手つきで用紙の項目に赤いペンで丸を付けたり線を引いたりして、一通り説明が終わるとそれらの用紙を三つ折りにして封筒に仕舞って、僕の方に渡して寄越した。

 

「色々と大変でしょうけど、頑張ってくださいね」

 

「はい。ご丁寧にありがとうございました」僕は封筒を受け取ってジャケットのポケットに仕舞った。

 そういえば転職と言えば私の主人もね、そう、ちょうどあなたくらいの歳の時に出会ったんですけどね……。

 

「色々とありがとうございました」また長くなりそうだったから僕は慌てて言って席を立った。帰り際、横目に見た窓口では外国人とのコミュニケーションに四苦八苦する職員の姿があった。

 

 

***

 

 

 その日も女の子の帰りは遅かった。

 怪しまれないよう終電間際まで時間を潰して帰ったのに部屋は真っ暗で冷たかった。これといった収穫が無い一日だったこともあって、徒労感に苛まれる。

 何かを食べる気にもなれず、シャワーを済ませソファにもたれて、市役所で紹介してもらったハローワークの場所や利用の仕方をスマートフォンで調べていると、玄関のドアの開く音がした。時計を見るとすでに一時を回っている。

 リビングに姿を現した女の子に「おかえり」と声をかけると、女の子は目をしばたかせて、ただいま。

 

「遅かったね。バイト?」

 

「うん。お兄さん、いつ帰ってきたの?」

 

「つい今しがた」嘘は思っていたよりもすんなりと出てきた。

 

 そっか。と女の子は興味なさげに言うと、辺りにトートバッグを放って、そのままふらふら寝室の方に行ってベッドに倒れ込んだ。

 大丈夫? スマートフォンの電源を落として訊いてみるけれど返事はなくて、女の子は芋虫みたいにベッドを這って寝転がると、半分空いたスペースを此方に来いとでも言うように手で叩いた。

 僕は歩み寄ってもう一度「大丈夫?」声をかけるけれど、女の子はまたベッドの空いたスペースをぼすぼす叩くから、大人しく隣に身体を横たえると、伸びてきた女の子の手が背中に回って、首元に顔を埋められる。

 

「……いい匂いがする」

 

「シャワー浴びたから」

 

 忙しかったの? 僕が訊ねると、女の子は無言で頷いた。長い髪の毛がくすぐったくて身を捩ると、背中に回った手の力が強くなった。

 

「今の時期は、学生の送別会とかで大変」酷く眠たげな声で女の子が言うから、僕は「お疲れ様」そっと痩せた背中を撫でた。

 しばらくそうしていると「バンド、みんな解散なんだって」僕の首元に顔を埋めたまま、くぐもった声で女の子は言った。どうしてみんな、バンドをやるんだろう?

 

「楽しいからじゃない?」

 

「楽しくても、最後は寂しいよ?」顔を上げて女の子は言った。至近距離の女の子からアルコールの匂いを感じた。

 ギターの人、泣きながら弾いてた。うん。就職が地方なんだって。そうなんだ。ボーカルの娘も、ずっと声が震えてた。……そっか。……どうして、みんなバンドをやるんだろうね? ……。終わっちゃうのにね。無くなっちゃうのにね。

 無くなっちゃうのは寂しいのにね。女の子は呟くように言ってそのまま寝息を立て始めた。

 

 

***

 

 翌朝、目を覚ますと隣に女の子の姿はなかった。玄関の方を見ると女の子のスニーカーがなくなっていた。恐ろしいことに女の子は深酒をした翌日でも平気な顔でランニングに出掛けることがある。

 少し、長く眠っていたらしい。普段なら駅に向かって歩いている時刻、帰ってきた女の子と鉢合わせたら怪しまれるかもしれない。僕は慌てて身支度を整えて、家を出る。晴れた空。市役所の職員に勧められたハローワークへと向かう足取りは重い。

 

 

***

 

 

 ハローワークでもあまり大きな収穫は得られなかった。

 コンビニの無料の冊子に比較すると、随分と多い求人情報を目にすることが出来たけれど、あったのは現在の生活を維持するに心もとない職ばかり。

 運良く、翌日に取り付けることができたカウンセラーとの予約面談では、現状の維持は難しいとやんわり伝えられる始末。

 あまり大きな声では言えませんが、貴方の在籍している会社は比較的まともなんです。労働時間に関しては間違いなくブラックと呼ばれるものですが、残業分の賃金は支給されているんですよね? 残業代ありきの今の収入を求めるのは正直、かなり難しいです。

 

「今日日、残業代すら支払わない企業も珍しくありません」男性のカウンセラーは声をひそめて言う。

 

「こちらで紹介して頂けるところでもですか?」

 

「……その質問に対しては立場上、否定することしか出来ません」

 

 ……それはつまり、肯定ということか。僕は暗い心持ちになる。

 失業手当に関しても、貴方の辞め方ですと良くて自己都合、最悪だと懲戒にあたるので、給付額や期間にも影響が出てくると思います。

 

「……このまま今の職を続けるのが正解なのでしょうか?」僕が訊ねると、カウンセラーは、私の知る限りいま貴方が在籍している会社はまともな部類です。曖昧な表情で最初と同じことを繰り返した。

 

 



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壊した。また。

 ほとんど縋るような気持ちで、僕はハローワークに通い続けた。何かの偶然で良い求人に巡り合えるんじゃないか。カウンセラーが転勤を体よく断るアイデアを出してくれるんじゃないか。

 当たり前だけれど、そんな他人任せの願望は叶うわけもなく、上司から与えられた一週間の期限は瞬く間に過ぎていって最後の日。

 その日も帰ると部屋は真っ暗なままで、僕は玄関に腰を降ろすと、そのまま崩れ落ちるように廊下に仰向けに寝そべった。冷たいフローリングが背中に心地良い。ポケットからスマートフォンを取り出して見ると、上司からの着信があったらしい。ここ数日、全く同じ時間にかかってくる電話に僕は一度も出ていない。

 ……どうしたものかなぁ。身体を起こして暗闇に独り呟くけれど返事は返ってこない。

 大きく溜息を吐くのと同時に玄関の鍵が音を立てて開いた。あまりに突然だったものだから、溜息と悲鳴とが混じった情けない声を上げてしまう。

 ドアがゆっくりと開いて、共用廊下の蛍光灯の光に照らし出されたのは、女の子の見慣れた華奢なシルエット。暗がりで座り込んでいる僕の姿に、女の子は特に驚いた素振りも見せず、初めからいることが分かっていたみたいに、じっと僕のことを見下ろしている。

 おかえり、と言おうとしたけれど、口から漏れたのは言葉にならなかった空気の塊だけ。女の子が大股で僕の方に近づいてきたと思ったら、そのまま身体を強く押されて、僕はあっさり床に転がされてしまった。手からすっぽ抜けたスマートフォンが、廊下を滑って壁に衝突した。

 なにするのさ。文句のひとつでも言ってやろうと身体を起こそうとするけれど、痛いくらいの力で肩を押さえつけられてしまって、情けないことに身動きが取れない。

 僕に覆いかぶさった女の子の後ろの玄関の扉が閉じて、再び暗闇が訪れる。闇は先程よりも濃い。女の子の長い髪の毛がはらはらと落ちてきて僕の視界の周りを覆ったから。

 

「どこ、いってたの?」

 

「え?」

 

「今日、どこいってたの?」

 

 無感情な声音。内蔵の表面を爪の先で触れられるような怖気を感じながら、僕は努めて平静に「平日なんだから仕事にきまってるでしょ?」と返す。

 

「なら昨日は?」

 

「仕事だけど」

 

「一昨日は?」

 

 仕事。言い終わる前に女の子の手が首元に伸びてきたから、僕は慌ててゾッとするほど冷たい手を掴んで「なに? どうしたの?」

 女の子の顔が近づいてきて、額と額が音を立ててぶつかった。至近距離の輪郭のぼやけた瞳に温度は無い。

 うそつき。女の子が言った。

 

「お兄さん、嘘ついてる」

 

「嘘なんか……」

 

「お仕事、今日も昨日もそれに一昨日も行ってないよね?」

 

 女の子の目がスッと細くなるのがわかった。覆いかぶさる身体を押し返そうとして、やっぱりやめた。急に身体から力が抜けた感じがした。女の子は僕が嘘を吐いていることを確信している。

 諦めた僕が「どうして知ってるの?」と訊くと、女の子は「最近バイトで帰る時間が遅くなったから、駅で待ってればお兄さんと帰れると思ったんだけど全然会えなかったから」と身体を起こして言った。

 

「だからおかしいなと思って、朝。お兄さんが家を出たあと後ろを付いて行ったんだ。どこに行ってるのかなと思って」

 

「探偵みたいだ」

 

「うん。ちょっと楽しかった。途中で見失っちゃったけど」僕の腹の辺りに跨ったままで女の子が小さく笑う。薄く張った氷みたいな微笑み。

 

「新しいうさぎを見つけた?」女の子は言った。

 

「違う。そんなんじゃないよ」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「それは……」

 

「やっぱり」

 

「だから違うって」

 

「でも、言えないんでしょ?」僕を見下ろした女の子が無感情に言う。胃の奥に氷を放り込まれたような心地。いっそ口汚く罵られた方が楽だった。以前の同居人がそうしたように、ヒステリーでも起こされた方が気楽だった。ただ、こちらを見下ろす女の子の視線が辛くて、僕は手で顔を覆った。

 どうして? 女の子がまた言った。

 僕は女の子のことを見るのが怖くて手のひらで視界を遮ったまま一度、深い息を吐いた。どうして? 声が降ってくる。手をどかすとより暗闇に慣れた視界に女の子の姿が鮮明に見えた。

 女の子の瞳を見て言った最初の言葉は「ごめん」

 それから僕は話し始めた。ここ数日していたこと。それから、この棲み処がなくなってしまうかもしれないことを。

 

 

*****

 

 

 私のせいだ。

 僕の大して長くもない話を聞き終えた女の子がポツリと言った。

 違う。僕が否定しても、女の子は首を振ってまた「私のせいだ」と言って、緩慢な動作で僕の腹の上から降りると、膝を抱えて壁に凭れた。

 

「ごめんなさい」

 

「だから、君のせいじゃないって」僕は身体を起こして言う。冷たい廊下に張りついていた背中の筋肉が強張って鈍く痛んだ。

 

「私がいなかったら、こんなことにはならなかったでしょ?」

 

 抱えた膝に顔を突っ込んで言う女の子の表情はほとんど伺えないけれど、酷く落ち込んでいることだけは良く分かった。

 

「また、私が壊した」

 

「なにも壊れてないよ」

 

「でも、これから壊れる」

 

 また、無くなっちゃう。か細い声で女の子が呟く。心なしか細い肩が震えているように見える。女の子に手を伸ばそうとして止める。かける言葉が見つからない。伸ばしかけた手がぱたりと床に落ちた音が嫌に大きく聞こえた。

 それっきり重苦しい沈黙が落ちる。膝を抱えて蹲る女の子の身体は、いつもよりもずっと小さく見えて、頼りなくて、そのまま闇に溶けてしまいそう。きっと僕の方も。いっそこのまま溶けてしまえば良いと思った。女の子とふたり。このまま。これから先のことを思うと、それが何よりの幸いだと思えた。

 

「……お兄さん、どうするの?」

 

 永遠に続くと思えた沈黙を破ったのは女の子だった。膝に埋めていた顔を上げた女の子は真っ直ぐに僕の方を見て「これから、どうするの?」

 

「どうするって?」

 

「大阪に行くの? 行かないの? それとも新しいお仕事を探すの?」

 

「……わからないよ。どうしたらいいか、わからないんだ」

 

 それはこの一週間、ずっと考え続けていたことだった。市役所であったりハローワークであったり、自分でもいろいろと調べても、解決策は出てこなかった。

 この生活を続けたかった。この夕方と夜との間みたいな薄ぼんやりとした現実感の無い、どうしようもなく心地良い日常をずっと、ただ続けていたかった。それなのに突然に夜が訪れてしまった。暗くて寒くて、なにも見えない夜が。わからないんだ。僕は呟いて、さっきみたいに床に寝転んだ。仰いだ天井は星の見えない夜の空みたい。

 衣擦れの音が聞こえて目をやると女の子が立ち上がっていて、そのまま僕の方を振り返らず、足音はリビングの方に消えた。このまま自分の荷物をまとめて出て行ってしまうのかもしれない。本当にそうなったらどうしよう? どうもしない。あのときと、以前の同居人が出てったときと同じで、独りの日常が戻って来るだけだ。

 足音が近づいてきた。そちらを見るのが何故だか恐ろしくて、知らんぷりして、だけれど目を閉じることも出来ず、無心に天井を眺めていると、唐突に視界が黒く覆われた。驚いて手をやると布の感触。僕のコートだ。

 

「夜はまだ冷えるから」

 

「今日は廊下で寝ろってこと?」

 

「違う」

 

 着て、と女の子に促され、のろのろ身体をコートに袖を通すと、手を握られた。

 

「行こう」女の子が言った。「どこに?」という僕の問いには答えず、繋いだ手を強い力で引いて、僕はなんとか靴をつっかけて付いて行く。玄関の鍵も閉めずにずんずん歩く女の子の繋いでいない方の手には、ケースにも入っていない壊れたアコースティックギターが握られている。

 



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嬉しかった。

 終電からしばらく経った駅前は閑散としていた。駅を挟んで飲み屋が軒を連ねる繁華街の反対にあるこちら側は、平日の夜ということもあってか酔客の姿は見当たらない。タクシー乗り場に客待ちの車両は一台も無い。等間隔に連なった電灯の白い光がアスファルトを冷たく照らしている。

 女の子は百貨店の降りたシャッターの前までやってくるとようやく歩みを止めて、そして繋いでいた手をあっけなく離した。

 ここまで随分と速足で引っ張って来られたものだから、僕はすっかり疲れ果てて、そのまま地面に座り込んだ。春の夜の空気は冷たいけれど、火照った身体に地面の冷えた固さが心地良かった。

 

「どうしたのさ、いきなり」

 

 乱れた呼吸を整えながら僕が言うと、シャッターの方をぼんやり眺めていた女の子は振り返って「なんだか懐かしいね」

 なんのことだろうと思ったけれど、降りたシャッターを背にアコースティックギターを持つ姿を見て腑に落ちる。

 

「初めて、お兄さんと会ったのがここだった」

 

「……そうだったね」

 

「どうしてお兄さん、あのとき私のライブ観ようと思ったの? 音楽、興味なさそうなのに」

 

「君が聴いていけって引っ張ったから」

 

「え、そうだっけ?」

 

「そうだよ」

 

 ――お兄さん一曲聴いていかない?

 

 鮮明に覚えている。笑顔でギターを掻き鳴らす姿。リズムに合わせて揺れる長い黒髪。どうしようもなく乾ききった歌声の心地良さ。

 確か去年の夏くらいのことだった。酷く懐かしく感じるのにまだ一年も経っていない。

 

「あのときのお兄さん、今にも死にそうな顔してた」

 

「……そんな酷かった?」

 

「うん。演奏してる途中で寝ちゃったとき、本当に死んだのかと思った」

 

 女の子が真剣に言うものだから僕は苦笑い。

 

「ライブが終わって起こしたらゾンビみたいにふらふらしてて、それなのにCDを売ってくれって」

 

「え、あのCDって君が鞄に入れたんじゃなかったの?」

 

「違うよ。お兄さんがちゃんとお金を払って買ったんだよ」

 

 覚えてないの? と言われるけれど、全く記憶になかった。

 

「嬉しかった。途中から寝てたけど、私の曲のライブを最後まで観てくれたのは沙綾以外だとお兄さんが初めてだったから。CDを欲しいって言ってくれたのもお兄さんが初めてだったから」

 

 凄く、嬉しかった。そう言って女の子は本当に嬉しそうに小さく微笑んだ。

 女の子はずっと手に持っていたアコースティックギターのストラップを肩にかけると「今度は寝ないでね?」と言って、ポケットから音叉を出してチューニングを始めた。

 

「壊れてるんじゃなかったの?」

 

 素人目に見てもギターは明らかに壊れている。弦をまとめているブリッジ(女の子に教えて貰った)の部分が割れてしまって、チューニングのためペグを絞めると弦の張力に耐えきれないブリッジは不安定に動いた。

 女の子はチューニングをする手を止めて、今度はペグをくるくると回して弦を緩めると、器用にブリッジの弦を留めるピンを引き抜いて、太い弦を二本外してしまった。

 ブリッジにかかる負担が大きく減ったおかげで、チューニングを終えたギターは、どうにか弾けるようにはなったらしく、女の子は音程の怪しいコードをいくつか鳴らした。

 

「なにを聴きたい?」女の子が首を傾げて言ったから、僕は「君の曲が聴きたい」と答えた。

 

「私の曲でいいの?有名な曲だったら大体弾けるよ?」

 

「君の曲がいい」

 

 女の子はピックを使わず指でギターを弾き始めた。親指と人差し指と中指と。骨ばった長い指が滑らかに動いて弦を弾いた。女の子の歌声が流れ込む。久しぶりの歌声。弦が四本しか張られていないギターは大昔のラジオみたいな陳腐な音を鳴らした。夜の街の微かな音にさえ掻き消されてしまいそうな、どこまでも乾いた音色。歌声。

 罅割れたアスファルトが。傾いた電柱が。泥で汚れた割れた硝子が。茶色い錆に覆われた廃車が。何もかもを覆い隠す砂漠の砂が。崩れかけの音楽を女の子は酷く優しい表情で奏でる。

 頬に温かいものが伝うのがわかった。拭うと手が濡れた。女の子の輪郭が緩く崩れた。全部崩れてしまえば良いと思った。目の前の百貨店や、すぐそこの駅や、繁華街の毒々しい明るさや。日常の何もかもが崩れて壊れたその後に、女の子の歌とギターだけが存在していたなら、それはとても素敵なことのように思えた。



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帰る場所。

 どのくらいの時間が経ったのか分からない。空の黒がさらに深くなって、地面に直接座った尻の感覚が曖昧になり始めた頃、四本の弦が鳴らした不安定なコードが冷たい空気に散り散りになって、長い長い歌声の余韻を残して、女の子の音楽は終わった。

 弦を抑えていた手をだらりと垂らした女の子は、駅のある自身の右側のほうを数秒、ぼんやり眺めて、空を仰いでゆっくり深い息を吐いた。釣られるように僕も空を見上げる。滲んだ黒色の空に星はひとつも見えない。

 女の子の方に視線を戻すとばったり目が合った。長い時間、ギター弾いて、歌って、血色が良くなった頬に女の子は微かな笑みを浮かべた。寂し気な微笑みは散りかけの桜の花のようで、どうしようもなく美しくて、僕は白痴みたいに、ただただ女の子のことを見上げた。

 偶に背後を走り去る車のタイヤがアスファルトを踏む音も。体温を奪う冷たい夜風の吹く音も。自らの呼吸すらも、遠くの世界で鳴る音に聞こえるくらいに、ただただ陶然とその表情に魅せられていた。

 だから「なにやってんの、あんたら」と無遠慮に横合いから投げかけられた言葉に肩が跳ねるくらいに驚いた。声の方に視線をやると、スーツ姿の男がふたり、ほとんど凭れ合うように覚束ない足取りで此方に近づいてくる。

 なにやってんの? お姉ちゃんそれギター? ストリートミュージシャンってやつ? カッコイイじゃん。すっかり酔いが回っているらしい赤ら顔。呂律の回らない大声で喋っているのはふたりのうちのひとりだけで、もう片方はぐったり項垂れている。

 

「お姉ちゃんさ、なんか弾いて頂戴よ、景気のいいやつ」男が僕のすぐ隣にどっかり腰を降ろして言った。濃い酒気がつんと鼻についた。連れ合いの男は座ってられないらしく、地面に寝転がってしまった。

 

「景気のいいやつってどんなの?」女の子が首を傾げる。

 

 そりゃあぱーっとしたやつよ。明るいやつよ。こいつさ、来月から北海道に飛ばされるの。入社してからずっと俺が面倒見てきたやつなんだ。要領は悪いけど真面目でいいやつなんだ。いいやつなもんだから、他人の失敗引っ被って飛ばされるんだ。ぱーっとしたやつで慰めてやってくれよ。あ、お姉ちゃんよくみたら美人さんだな。おいほら、寝てないで起きろ起きろ。美人のストリートミュージシャンが歌ってくれるぞ。お前のために歌ってくれるんだぞ。

 男が連れ合いの肩を乱暴に揺さぶる。勝手に歌わされることになってるけれど大丈夫なのだろうか。女の子のほうをちらと見ると、意外に乗り気なのかギターのチューニングを直している。連れ合いの男が緩慢な動きで身体を起こして、膝を抱えて座った。ぐずぐずの吐瀉物が服にかかっていて、独特の刺激臭が鼻についた。どろり濁った瞳が女の子を見上げた。

 ぱーっとしたやつ。明るいやつ。酷く抽象的なリクエストに応えて女の子が弾き始めた曲は、僕でも知っているくらいに有名な曲だった。

 底抜けに陽気なメロディ。弦の足りない壊れたギターの曖昧な音色がむしろ良く合っている。

 坂本九の『上を向いて歩こう』

 明るい、だけれど、どこか憂いを帯びた歌詞を、女の子は朗々と歌い上げる。男がリズムの外れた手拍子を打った。女の子に合わせて音程の狂った歌を歌った。嗚咽交じりの歌だ。連れ合いの男も肩を震わせて嗚咽を漏らした。

『川の流れのように』や『ハナミズキ』や。誰もが聴いたことがあるような有名な曲を女の子は次々と歌った。

 そうしていると、繁華街の方から流れてきた酔客が、誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫みたいに、僕らの方にフラフラやってきて、それは先のふたりのようなスーツのサラリーマンであったり、派手な身なりの水商売の女であったり、薄汚れた作業着の老人であったり。多種多様な十人位の人たちがギターを手に歌う女の子を中心に囲って、手を叩いて歌った。

 作業着の老人が持っていたビニール袋に、ポケットから引っ張り出した小銭を放り込んで、歌う女の子の前に置いた。すると女の子を囲んでいたひとりひとりが、置かれたビニール袋にお金を入れていった。小銭だけいれる人もいれば、躊躇なく万券を放り込む人もいた。一番最初にやってきたふたりの特に泥酔した方は、這うようにビニール袋の方まで行って、財布をひっくり返して中身を全て袋の中にぶちまけて、周囲からは歓声が上がった。

 相変わらず座ったままの僕を客のひとりが引っ張り上げて、ほらお前も歌え。無理やりに肩を組んできて、ギョッとする。女の子は愉快そうに笑った。『三六五歩のマーチ』を歌い始めた。ギターのチューニングはすっかり狂ってしまっている。女の子は構わずに弾き続ける。みんなが歌う。僕も歌った。夜闇を吹き飛ばしてしまいそうな大合唱になった。誰かが差し出してきた酒瓶を煽った。強い酒だった。灼けそうに熱い喉で僕は周りに負けないくらいに大きな声で歌った。

 

 

*****

 

 

 黒い空にそろそろ藍の気配が滲み始めた頃、笛の音が聞こえた。興奮した誰かが吹いた指笛かと思ったら、どうやらそうでは無いようで、けたたましく吹かれ続ける笛の音の方に目をやると、夜闇と同じくらいに黒い影がひとつ、此方に駆け足で向かってきた。警察官だ。

 なにをしているんだ。解散しなさい。女の子の歌声よりもずっと大きな声で怒鳴って、女の子はギターを弾く手を止めてしまった。つられるように周囲の喧騒がぴたり止んで、水を打ったように辺りが静まり返る。

 年配の警察官は僕たちのことを訝し気に見回して、ずけずけと輪の中に入ってきて、騒ぎの中心の女の子に「困るんだよ、こういうの。今何時だと思ってるの?」

 非常識だとは思わないのか? ……なんだか見た顔だな。前にも注意受けたことあるんじゃない? 身分証は? ほら早く出して。まったく非常識だ。

 

「非常識なのはてめぇだろが」

 

 地鳴りみたいな、ドスの効いた声音。全員の視線が声の主である作業着の老人の方を向いた。

 

「俺らがよ、楽しんでるのを邪魔するお前のがよっぽど非常識だろが」

 

 老人は女の子と警察官の間に割って入って、皺だらけの顔の細い目で警察官を睨み上げた。

 じゃ、邪魔をすると公務執行妨害……。老人の迫力に気圧された警察官が後退りながら、しどろもどろに言うと、泥酔してふらふらだったはずの男が警察官の肩を突いて、何を言っているのかまるで聞き取れない大声を上げた。

 尻もちをついた警察官は無線機に応援を寄越すよう唾を飛ばしながら言って、作業着の老人が無線を取り上げようとしてもみ合いになって、さっきまで叫んでいた泥酔した男が唐突に地面に吐瀉物をぶちまけて、胃液や麺類の残骸が警察官の黒い革靴にもろにかかった。

 鈍い音が三度、連続して鳴った。見ると老人が乾いた固まった泥みたいな握り拳を大きく振り上げていて、それからもう一度鈍い音が鳴った。警察官の鼻がひしゃげて赤黒い鼻血がアスファルトを濡らす。水商売の女の黒板を思い切り引っ掻いたみたいな悲鳴がつんざいた。やれやれ。やっちまえ。囃し立てる声に混ざって鈍い音が連続して、酒瓶が割れて破片が散った。

 

 ……これはまずいことになった。

 

 喧騒に浮かれていた気分はすっかり冷めてしまって、僕はどうしたものかと女の子の方に視線をやると、なんとなくそんな気がしていた、緑色の瞳と視線がかちあった。そしてお互いに笑みを浮かべた。

 女の子が走り出す。僕はお金が入ったビニール袋を拾い上げて、その後を追う。誰かが何事か叫ぶのが聞こえたけれど気にしない。ギターを抱えて走る女の子にはすぐに追いつくことが出来た。遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。ビニール袋から小銭がいくらか零れてアスファルトを打った。

 女の子と並んで走り続ける。いつかと同じように、ふたりそろって笑い声を上げながら走り続ける。体力の無い僕が少し遅れ始めると女の子の手が僕の手を取って走り続けた。同じ場所を目指して走り続けた。あのときと違って僕らには帰る場所があるから。ふたりだけの家が。

 

 もう、なくなってしまうウサギ小屋が。

 



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花園ランド。

 家に戻る途中の道、僕の手を引く女の子は急に右の路地に折れた。どこに行くのかと思ったけれど、僕はすっかり息が上がっていたから大人しく付いて行くしかなかった。

 女の子が僕を引き摺って行った先は公園だった。ブランコと、隅の方に木製のベンチがあるだけの小さな公園だ。中央に立つ電灯が、背の低い柵で宅地から切り取られた、猫の額ほどの大きさの公園を白々しく照らしている。家からそう遠くないと思うけれど、初めて訪れる場所だった。

 僕はようやく足を止めると、お金が入ったビニール袋をその辺に置いて、土の地面にへなへな座り込んで、そのまま横になった。耳の奥がどくどく鳴って、身体中が熱くて、生きているのだなと思った。墨の様に暗かった空は深い藍色に染まっている。夜明けが近い。

 女の子はビニール袋の中から小銭を何枚か取って、公園のすぐ外の自動販売機からペットボトルのスポーツドリンクを一本だけ買ってきて、寝転がったままの僕の額に置いた。見下ろす女の子の輪郭が電灯の白に滲んで眩しい。ピアスと、首輪の金具が銀色に鈍く光る。

 

「お兄さん、相変わらず体力無いね」

 

「……君は相変わらず元気だね」

 

 僕は身体を起して地面に胡坐をかいて、スポーツドリンクを呷った。中身が半分ほどになってしまったペットボトルを女の子が取って、薄い唇で飲み干して、丁寧にキャップを締めて傍らに置いた。

 

「大繁盛だったね」僕がビニール袋を指して言うと、女の子は頷いて「うん。こんなの初めて」

 ビックリした、と言うわりにはあまり関心が無さそうに、ビニール袋を引き寄せて、中身を覗きこんだ。僕も一緒になって覗きこむと、小銭に紛れて一万円札が数枚ある。

 

「けど、残念だね。あれだけ騒ぎになったら、しばらくあそこでライブ出来ないんじゃない?」

 

「ううん、大丈夫。もうあそこでは歌わないから」

 

「え?」

 

 女の子はビニール袋の口を固く結んで中身がこぼれないようにすると、それを僕の胸に押し付けた。

 

「足りないと思うけど、今までの家賃とご飯代」

 

 今までありがとうございました。深々と頭を下げる女の子の、言葉の意味が理解できなくて、僕は女の子の手を離れたビニール袋が自分の腿に落ちるのを見つめた。

 女の子は顔を上げると立ち上がって、ブランコの方に歩いて行った。僕は呆然とその姿を視線で追う。ふたつあるブランコの片方を女の子が指差したから、疲労で萎えた脚で立ち上がって、腿から転がり落ちたビニール袋をそのままに、女の子の隣のブランコの台に腰を降ろした。

 塗装がすっかり剥がれて木部が露わになった台は氷の板みたいに冷たい。

 緩やかに女の子はブランコをこぎはじめる。古びた鎖のきぃきぃ鳴る音が、他に音のない夜と朝との中間の公園に響く。

 

「私は、大丈夫だよ」女の子が真っ直ぐ前を向いたままで言った。

 

「私は、お兄さんがいなくても大丈夫」

 

 女の子の穏やかな笑みを湛えた横顔が左右にゆらゆら揺れる。きぃきぃ揺れる。すぐ隣にいるのに、ずっと遠くに行ってしまったように感じた。自分の身体の中の、何か重要な臓器が唐突に消失したような、そういう致命的な喪失感が足先から這い上がってくるのを感じた。

 ……大丈夫って。絞り出した声はついさっき喉を潤したばかりなのにカラカラに乾いていた。

 

「住むところとか、どうするのさ」

 

「大丈夫。今日みたいにライブをやって、バイトの稼ぎもあるから、もしかしたらお兄さんよりもお金持ち」

 

「そんな毎回、今日みたいにいくわけじゃないでしょ」

 

「そしたらまた、沙綾の所でお世話になろうかな。本当にどうしようもなくなったら実家に戻ればいいし」

 

 だから大丈夫。私は大丈夫。女の子は相変わらず前を見たままで言った。きぃきぃ揺れる。女の子の身体が揺れるのは、痩せた木に一枚だけ残った枯葉を見るみたいで不安な気持ちになる。

 

「……一緒に付いてきなよ。大阪にさ」

 ずっと言うまいとしていたことがぽろりと零れた。女の子がブランコを揺らすのを止めて、首だけで此方を向いた。

 

「去年、出張で行ったとき向こうの社員に教えて貰ってライブハウスに行ったんだけど、凄く盛り上がってて。そういえば駅前に君みたいにギターを弾いてる人もいた。きっと音楽が盛んなんだ。だからさ、向こうに行ったとしても、きっと今とそう変わらない生活が出来ると思う。だから……」

 

 一方的に言い募る僕を止めたのは隣から伸びてきた女の子の指先で、皮膚の固くなった指先を僕の唇にそっと押し当てた女の子は「それはダメ」微かに首を振って言った。

 

「……どうして?」

 

「だって私が一緒だと、また壊れちゃうから」

 

 よいしょ。立ち上がった女の子がブランコの台の上に足を掛けて乗って、ぐっと勢いをつけて漕ぎ始めた。古くなった鎖が悲鳴を上げて、女の子の身体を大きく揺らした。

 

「私は大丈夫。お兄さんもきっと大丈夫。だってほんの少し前に戻るだけだもん。私はどこかでギターを弾いて、お兄さんはお仕事を頑張って。ただ、元通りになるだけだよ」

 

 女の子はさらに勢いをつけてブランコを揺らした。地面と身体とがほとんど平行になるくらいの勢いで一心にブランコを漕いで、ついには一回転してしまうんじゃないかと思ったとき、女の子は片足を思い切り振り抜いてスニーカーを宙に舞わせた。

 履き込まれてボロボロのスニーカーは高く高く飛んだ。そのまま飛び続けて空に吸い込まれてしまうのではないかと思われたスニーカーは、あっけなく降下して、遠くの地面に跳ねて、電灯の明かりの届かない暗がりに転がっていった。

 ブランコを漕ぐのを止めた女の子は「おぉ飛んだ」と満足げに言って、靴を履いた方の足だけで台から降り、片足飛びでスニーカーの方に行こうとする。

 そのまま電灯の光の届かない暗がりにそのまま溶けて、消えてしまいそうだったから、僕は思わず立ち上がって「壊れたっていい」ウサギみたいに跳ねる背中に言った。女の子が片足だけで器用に振り返る。

 

「別に壊れたっていい。だから着いて来て欲しい」

 

「ダメだよ」

 

「どうして」

 

「だってお兄さん、お仕事凄く頑張ってた。いつも遅くまで頑張って、死にそうな顔で帰ってきて。私、お兄さんの頑張ってることを壊したくない」

 

「大丈夫だって」

 

「ダメ。私がいると壊れちゃう」

 

 もう何も壊したくない。もう壊れるところを見たくない。

 女の子は首を振って言って、片足だけで立っていた身体がぐらり傾いた。

 僕は慌てて駆け寄って頼りない肩を支えようとすると、女の子が僕の胸に手を突っ張って拒絶して、虚を突かれた僕の方が今度は体勢を崩して、女の子諸共、地面に転がった。

 土の地面は、アスファルトに比較するとマシなんだろうけれど十分に固くて、打ち付けた肩が痛んだ。

 地面に倒れるときに反射的に抱え込んだ女の子が逃れようともがいたから、僕は力ずくで折れそうな身体を抱き寄せる。女の子の抵抗は次第に弱まっていって、最後に胸に頭突きをひとつ見舞ったきり、すっかり静かになった。「お兄さん、苦しい」くぐもった声で言ったから、僕は背中に回していた手をそっと解いてやった。自由を取り戻した女の子は、ごろり転がって仰向けになった。

 

「穴、空いちゃった」

 

 女の子が靴を履いていない方の足をついと持ち上げた。靴下の爪先に穴が空いて親指の先の白が露わになっている。すぐ傍にある横顔に土埃がついていたから拭ってやると、手のひらに頬を押し付けてきて、ぶぅ、と鳴いた。

 

「ウサギの真似?」

 

「うん。よくわかったね」

 

 ウサギには声帯がないけど、嬉しいときや怒ったとき、ぶぅぶぅ鳴くんだよ。

 女の子が教えてくれたこと。

 ふたりして仰向けになったままで、しばらくの間、夜明けの空を眺めた。ほんの数時間前の真っ暗が幻だったみたいに空の藍が鮮やかになって、端の方に太陽が白く滲んできている。 

 近くを走り抜けるバイクのエンジン音が聞こえた。自転車の走っていく音が聞こえた。

 昨夜の喧騒が幻の様に思えた。朝になってしまう。幻の時間が終わって現実がやってくる。現実が。日常のお終いがやってくる。それはどうしようもなく哀しいことのように思えた。

 

「……どこか、遠くに行こう」

 

 空を見上げたままで僕は言った。女の子の視線がこちらを向くのがわかった。

 

「お仕事はどうするの?」

 

 僕は身体を起こして、立ち上がって「どうでもいい」砂埃を払いながら答えた。

 女の子の方も身体を起こして「よくない」首を振った

 

「いいんだよ。どうでもいいんだ」

 

 僕はこちらを見上げる女の子に手を差し出す。「遠くに行こう。ずっと遠く何処か。車、運転するからさ、行こうよ」

 

 遠くに。遠くに。ふたりだけで。そうすればもうなにも、壊れるものなんてなくなるから。

 女の子が視線を地面に落として、短くない沈黙が続いた。僕はただ手を差し出し続ける。いくらかの時間が経って、ぽつりと女の子が言った「遠くって?」

 

「どこでもいいよ。君はどこに行きたい?」

 

 女の子は一度地面に視線を落としてから「カリフォルニア」と答えた。

 

「……車でいけるかなぁ。どうしてカリフォルニア?」

 

「ジャックラビットと遊んでみたい」

 

「凄く足の速いウサギだっけ?」

 

「それとホテルカリフォルニアを見つけて、隣に花園ランドを建設するの」

 

 ……なにそれ? 聞き馴染みのない言葉に僕は首を傾げと、女の子が差し出したままだった手を唐突にぐいと掴んで立ち上がって、素早く背後に回ったかと思うと、僕の背中に跳び乗ってきた。危うくまた地面に転がりそうになるのをどうにか踏ん張ってこらえた。

 危ないよ。僕の文句を無視して女の子は「花園ランドはね、ウサギが沢山いてもふもふで、美味しいものが沢山あって、音楽がずっと流れてる、悲しいことがひとつもない、素敵なところ」と楽し気に言った。熱っぽい吐息が耳にくすぐったい。

 

「楽しそうなところだね」

 

「楽しいよとっても。お兄さんは副園長ね」

 

「僕で務まるかなぁ」言いながら、お金が入ったビニール袋と、アコースティックギターを拾い上げて、女の子に渡してやった。

 このまま背中に乗ったままでいるらしい女の子を抱え直そうと、尻に手をやると「えっち」女の子が言って僕は「不可抗力だよ」端の方に転がっていたスニーカーを指先に引っ掛けて、すっかり明るくなった公園を後にする。

 

 ほんとうにいいの? 耳元で女の子がとても小さな声で言った。

 ほんとうにいいよ。僕は答えた。

 

 

*****

 

 

 家に着いて、交代でシャワーを済ませると、濃い疲労感と眠気が身体にずしり圧し掛かった。昨日から一睡もしていないのだから当たり前といったら当たり前だ。

 だけれど、この一週間、ひたすらに精神を苛み続けた見えない影に追われる焦燥から解放されたのだと思うと、気怠い疲労感ですら快い物の様に感じられた。

 疲れているのは女の子の方も同じなようで、シャワーから戻って寝巻になった女の子の瞳は半分くらい閉じていて、うつらうつらとしていた。

 僕らは一度だけ唇を軽く触れ合わせて、一緒のベットに入った。カーテンの隙間からやわい陽光が差し込む、薄暗い寝室で、指と指を繋いで、微睡む意識で、これからについて話した。そうしてどうしようもなく心地良い眠りに落ちていった。

 




いつもありがとうございます。次回で最終話です。


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Wasted Time

 峠の途中の休憩所は寂れていた。寂れているというよりは荒れ果てていた。駐車場の白線は殆どが消えかけて、ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が生い茂っている。

 かつては茶屋があったらしい簡素な建物は、シャッターが降りていて窓がある箇所は全てベニヤ板で塞がれている。建物全体を蔦が覆っている。錆びの浮いたシャッターに乱雑に描かれたスプレー缶の落書きは随分と以前の物らしく、すっかり色褪せている。

 建物の片隅に申し訳程度に設えられた自動販売機は、手酷く壊されていて、ひとつは地面に転がされ緑が群生しており、もうひとつは辛うじて立ってはいるものの、表面のプラスチック板が割れて中身の半分以上が露わになって、煌びやかに飾り立てられているはずのサンプルはひとつも残っていない。

 世界が滅んで一年位経ったらこんな風景が出来上がるのかもしれない。

 

 今年は残暑が酷い。十月、まだ昼前だというのに高く昇った太陽は容赦なく黒い古ぼけた地面を熱して、足元からじりじりと灼かれているような心地になる。次から次へと汗が顎をつたって落ちて、乾いた地面に染みを作る。

 僕は駐車場のブロックの上に腰掛けて、壊れた自販機の前で歌う女の子を眺める。

 たいして広くない駐車場に停まった車は僕たちが乗って来た薄汚れたのが一台きり。女の子の歌を聴くのも僕ひとりきり。

 暑いのは女の子の方も同じらしく、タンクトップとホットパンツとビーチサンダル。人前に晒すのが憚られる姿格好。伸ばしっぱなしの髪の毛は高い位置で結われていて、歌声を鳴らすたび、くたびれた青の首輪越しに、汗に濡れた首の筋や血管が浮き出るのがよく見えた。

 肩から下げたアコースティックギターには弦が一本も張られていない。錆びて切れてしまってから張り替えていないから。だから女の子は曲の合間合間にボディを叩いてリズムを取ってみたり、なんとなくネックを握ってみたりする以外は、ただ肩からぶら下げて、歌だけを歌っている。

 

 女の子の歌声は変わった。車で移動している最中、煙草を吸う本数が増えたせいか。車中泊が増えて生活が以前にも増して不規則になったせいか。割れたワイングラスみたいなしゃがれた歌声に変化した。

 咳き込む女の子に大丈夫? 尋ねると女の子はロバート・ジョンソンみたいでしょ? と笑った。僕はロバート・ジョンソンを知らないから、曖昧に頷いて「素敵だと思う」

 

 ささくれだった歌声の不安定なロングトーンが真っ青な空に浮かんで、ぼとりと地面に落ちた。女の子は壊れたギターのネックを高く掲げて振り下ろして掻き鳴らす真似をする。そうして自身の右側の方の木々が生い茂る方を数秒ぼんやり眺めてから、僕の方に視線を移して「おしまい」

 僕は座ったままで拍手を打った。ひとりだけの拍手が僕ら以外誰もいない駐車場に響いた。

 

 

*****

 

 

 女の子と旅に出て沢山の景色を見た。

 例えば星空。いつだったか見た都会の光に照らされた曖昧な星空とは比べ物にならない星空。宇宙が目の前に振ってきたような星空。柔らかい土の地面に寝転がってふたり、夜が明けるまで星空を見た。

 例えば夕焼け。海の遠くに落ちていく太陽。橙色に燃え上がった海の稜線が、濃紺の夜闇に塗りつぶされて消えていく様を、ふたり砂浜に座って眺めた。

 暗闇を見た。雨の車中泊。車の天面を雨粒が止めどなく叩く。全ての色が失われてしまったかのような真っ暗な夜。そういう夜、女の子は眠ったまま泣いた。涙を流さずに泣いた。寝言で人の名前を、何人かの女性の名前を呼んで泣いた。

 目覚めてそのことを言うと、女の子は「それ、お兄さんもだよ」と言うから少し驚いて、お揃いだね、笑い合った。

 

 

*****

 

 

 茹だる様な暑さで目を覚ました。窓を開けただけの車内はサウナさながらの蒸し暑さ。寝台代わりの後部座席の倒したシートはすっかり熱をもっていて、座っているだけでも暑い。

 堪らずにドアを開け放つと、生温い風が通って、まとわりつく汗を申し訳程度に冷ました。太陽は頂点を通り越して傾き始めている。駐車場には相変わらず僕らの車が一台あるきり。

 僕は手探りでシートの間に挟まった飲みかけのペットボトルを見つけて、生温い水で喉を潤す。

 じっとり汗に濡れた素肌の感触を背中に感じた。見ると目を覚ましたらしい女の子が長い前髪から汗の雫を落としながら、僕の背中に凭れかかって「あつい」

 持っていたペットボトルを差し出すと手に取らず、そのまま飲み口に齧りついた。飲みやすいよう傾けてやると、女の子は喉を鳴らして飲んで、女の子が飲み下すたびに汗に濡れた喉に巻き付いた、すっかりくたびれた首輪が上下した。口元から零れた水が細い顎を伝って、首に落ちて、胸元に落ちて、汗と混ざって女の子の青白い肌がきらきら光った。

 

「おなかすいた」女の子が言って、シートを這って行って奥の方をがそごそやり始める。

 

「なにかあった?」

 

「うん」

 

 女の子が掲げて見せたのは、スナック菓子の袋と、水のペットボトルが一本きり。

 

「それだけ?」

 

「これだけ」

 

「そろそろ、コンビニがあるところにいかないとだね」

 

「ハンバーグが食べたいな」

 

 お兄さんも食べる? スナック菓子の袋を開けながら女の子が言って、僕は生返事を返して、運転席の方に転がしていた煙草を取って火を点けようとすると、女の子がスナック菓子を口に指ごと突っ込んできて、煙草は地面に落ちて、口の中にはスナック菓子の塩気なのか汗の味なのかよくわからない風味が広がった。

 

 

****

 

 

 休憩所を出てからはひたすらに登坂を走っていた。さすがに食べ物がなくなるのはマズい。それに飲み物も。助手席に座る女の子はスナック菓子を食べ終えて、煙草を燻らせている。甘ったるい匂いのする紫煙が、ゆらゆらたなびいて窓のほうに吸い込まれていく。

 対向車とは一向にすれ違わず、追ってくる車もない。切れ目の無い登坂がただただ続いている。

 カーナビは随分と前から使っていない。目的地に『カリフォルニア』と打ち込んだら、レストランやホテルや、商業施設の場所ばかりを映し出して役に立たないと思ったから。

 だから車内で聞こえる音は、エンジンの低く唸る音と、タイヤが地面を踏みしめる音。それから女の子の鼻歌。

 ふわふわ揺れる陽気な音は、聞いたことの無いメロディだったから「それ、なんて曲?」僕が訊くと「お兄さんの歌」

 

「僕?」

 

「そう」

 

「歌詞はあるの?」

 

「これから考える」

 

「そっか」

 

「出来あがったら聴いてくれる?」

 

「もちろん」

 

「嬉しい」女の子は緩く笑ったかと思うと、急に顔を真っ青にして「ごめん、とめて」と言うものだから、僕は慌ててハザードを焚いて車を路肩に停めた。

 車が停まるや否や、女の子は窓から顔を突き出して嘔吐した。

 吐瀉物が地面を打つ独特の音。女の子の指から落ちた煙草が溜まった吐瀉物の上に落ちて、ジュッと音を鳴らした。僕は細かく痙攣する女の子の背中を擦ってやる。痩せた背中は背骨の感触が鮮明に分かる。

 最近になって、女の子は体調を崩すことが多くなった。最初は車酔いかと思ったけれどそういうわけではないらしく、夜中にこっそり、げぇげぇやっているところを何度か見ていた。

 次に大きな街に着いたら、女の子は嫌がるだろうけれど病院に連れて行こう。不規則な生活が続いているから、どこか悪くしたのかもしれない。

 調子が悪いというと、車の方もここのところエンジンのかかりが良くない。こっちもみてもらわないと。冬の車中泊に備えて防寒具や寝具も買い込まなければならない。口座にはあとどのくらい蓄えがあっただろうか。前に立ち寄ったコンビニで見たときは少し心許なく感じた記憶がある。

 しばらくの間、背中を無言で擦っていると、細かな痙攣は徐々に収まっていって、女の子は長い呼吸を繰り返した。

 

「大丈夫?」窓から顔を出したままの女の子に僕が訊ねると、返ってきたのは「ウサギだ」という脈絡のない答え。

 

「ウサギ?」

 

「うん、後ろの道にいた」

 

 僕は女の子の言う方を見てみる。シートを倒した後部座席には脱ぎ散らかした衣類や弁当や菓子の空き殻や、飲みかけのペットボトルが転がっている。奥のリアウィンドウから見える狭い景色にウサギの姿なんてなくて、ただ走ってきた峠道が続いているだけ。

 

「本当にいたの?」と訝しんだ僕が訊くと女の子は振り返って「いたよ」

 

「すぐに跳ねていっちゃった。凄く速かった」

 

「そっか。ジャックラビットかもしれないね」

 

「うん、きっとそうだよ」

 

 緩く笑う女の子の唇は吐瀉物で濡れて光っていて、僕は頬に手を添えてそれに唇を合わせた。何度か角度を変えて薄い唇の感触を確かめていると、生温いものが口の中に入って来て、強い酸味が味覚を刺激した。

 

 この旅はもう長くは続かない。唾液と吐瀉物の混ざり合ったものを嚥下しながら僕は思う。

 このまま所持金が減っていくと、僕らはきっと取り返しがつかなくなる寸前で、どこか都合の良い街で身を落ち着けて、生活を始めると思う。最初はその日の暮らしも危ういような日々が続くかもしれない。けれど、そういう極限の日々だって、毎日を過ごせばそれが日常になって、やがては安定していく。

 そうして、安定を取り戻したころにまた、僕らは以前のように過去の素敵だった日々の事を思い出して、それを壊したことを思い出して、辛くなって、哀しくなって、またどこかに逃げ出そうとする。

 

 唇を合わせたままで、僕は女の子の身体を強く抱いた。女の子の方の手が僕の背中に回るのがわかった。痩せていた身体は以前にも増して細くなって、だけれど筋肉のしなやかさはそのままで、僕はずっと前に女の子に連れられて行ったペットショップの、白と黒の毛並みが美しいウサギの事を思い出した。

 

 あのウサギも僕らとおんなじだ。

 ペットショップの狭いケージの中に入れられて、ときおり運動のためだとか言って出されて、ようやく誰かに買われたとしても、自由の身になるわけではなく、新しい家の新しいウサギ小屋が待っている。

 

 僕らとあのウサギはおんなじだ。

 

 逃げても逃げても、過去は追いかけてくる。傷の舐め合いの様な緩い幸せな日常の隙間を縫って、過去は僕らを苛む。逃げても逃げても追いかけてくる。

 僕らもウサギも逃げることは出来ない。ずっと囚われ続ける。逃げても逃げても捕まえられる。僕らは逃げられない。ウサギ小屋からは出られない。

 

 ひとつだけ、延々と僕らを囲い続けるウサギ小屋から出る方法があるかもしれない。それは……。

 

 

 僕は最後に一度だけ強く強く押し付けて唇を離した。女の子の唇は吐瀉物の残滓とどちらのかもわからない唾液で濡れている。僕を正面から見つめる翠色の瞳がきらきら濡れている。

 女の子の頬をそっと撫でて、僕は気持ちを伝えた。何度かつっかえて、しどろもどろになりながら伝えた。女の子は大きな瞳をさらに大きく見開いたかと思うと、次の瞬間には、どうしようもなく美しい笑顔で、くすぐったそうな微笑みで、私も。

 

 

****

 

 

 車を走らせ始めて少しして、ようやく長い登坂の終わりが、坂の切れ目が見えた。

 肩に温かな重量を感じた。助手席の女の子が凭れかかってきた。運転中に危ないとか、そういうことを言う気にはならなかった。凭れた頭に頬を寄せると、何日か風呂に入れていないからか、女の子の降ろした髪の毛からは、少し脂の匂いがして、それが酷く愛おしかった。

 車が坂の切れ目に到達する。すると炎の様な橙色が僕らの網膜を灼いた。

 夕焼けだ。

 坂が終わって木々の切れ目から見えたのは、どこまでも続く海。

 終わりが見えない海の稜線を沈む太陽が真っ赤に燃やしている。

 

「綺麗だね」

 

「うん。綺麗だ」

 

 僕はハンドルを操る手を片方、離して女の子の手を取った。指と指を柔く繋いで、もう一度「綺麗だね」言い合った。もう一度、気持ちを伝え合った。

 燃える海の手前、ずっと手前のガードレールは所々が凹んで、ひしゃげて、錆びて、ゴールテープのように見えた。

 僕はアクセルを踏み込む。

 燃える海は砂漠の様に見えた。どこまでも続く砂漠だ。きっとそこにはホテルカリフォルニアがある。




お付き合い頂き、ありがとうございました。


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