銀河英雄伝説IF~亡命者~ (周小荒)
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プロローグ

 人生で初めての小説投稿しますのでお目苦しい部分が多々ありますが生暖かい目で見てやって下さい。
 基本はハッピーエンドで原作キャラは誰も死にません。



宇宙歴862年12月某日深夜 惑星ハイネセン

 

 ハイネセンポリス郊外にある小高い丘は宇宙港を見下ろすことが出来る。

 この丘には公園があり「ハイネセンの大火」と「ルビンスキーの火祭り」の帝国軍犠牲者の慰霊碑が建立されている。

 遠い異郷の星で落命した死者が魂だけでも故郷に帰れるように生者の願いが込められてる場所である。

 

 数年ぶりの大雪で白い衣装を纏った公園で慰霊碑から離れた片隅のベンチで一人の老人が細やかな酒宴を開いている。

 ベンチの上には安物のウイスキーとパッケージに半額シールが貼られたチーズとチョコレート。

 ベンチの背凭れに掛けているラジオからはヤンファミリー最後の生き残りであるユリアン・ミンツの訃報を伝える声が流れている。

 

「儂より2歳も若いのに死ぬとは、ユリアン・ミンツも存外に情けない!」

 

 老人の言葉とは逆にラジオからは故人の業績を賞賛する声が流れだす。

 

「そりゃ、ユリアン・ミンツは立派だがね。致命的な失敗を2つしてるだろうに」

 

 老人のユリアン・ミンツ糾弾の声には怒りの成分が混入している。

 

「ヤン・ウェンリーを守れなかったのは仕方がない。だが、何故ヤン・ウェンリー暗殺の責任を皇帝ラインハルトに問わなかった!」

 

 糾弾の声は怒りと共に熱を帯びていく。

 

「犯人が地球教徒であれ、帝国軍の人間なのは間違いない。犯人が帝国軍の人間ならば皇帝ラインハルトの責任を問うのは当然だろうに!」

 

 老人の主張は正鵠を射ていた。地球教に洗脳された部下の不始末である。会見を要求した側の皇帝ラインハルトに責任がある。

 

「皇帝に抗議する名目で皇帝に交渉する場を作れて、交渉も有利に進められたのに!」

 

 確かに有り得た可能性ではあった。

 

「それに自治領を要求するにも、寄りにも寄って何故、バーラト星系を選ぶ?」

 

 老人の口調には既に怒りの成分は無くなり呆れの成分に変わっていた。

 

「バーラト星系なんか金にならん星系な上にハイネセンが2つの災害で金が掛かるのに。後々の事を考えたら他にも星系があったものを……」

 

 老人はグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。

 何か別の物を飲み込むにはウイスキーの助けが必要だった。

 

「まあ、これで楽になれるか……」

 

 老人は空となったグラスにボトルに残ったウイスキーを全てを注ぎながら、このウイスキーを手に入れた時の事を思い出した。

 四半世紀前になるが、この公園の管理人となった年に帝国本土から弔問に訪れた遺族から進呈されたウイスキーだった。

 そして、ウイスキーを手にした時に思いついたのが、ユリアン・ミンツより1日でも長生きする事だった。

 ユリアン・ミンツとの面識も無く何の意味も無い事であったが老人が自分の不遇な人生への僅かな抵抗であった。

 

 「しかし、我ながら悪い偶然が重なったもんだ」

 

 老人はグラスのウイスキーを舐める様に味わいながら自分の過去を振り返った。 

 6歳の時に徴兵された父を演習中の事故で亡くした。通常なら遺族は遺族年金や一時金を受け取られるのだが、父の過失により事故が発生したとされ、逆に軍から損害賠償請求をされたので母は父と死後離婚して損害賠償請求を回避した。

 その後はハイネセンポリスのレストランで母は自分を連れて住み込みで働き始めた。

 14歳の時に来年以降の進路を教師に聞かれて母に相談する直前に母が病気で倒れた。医者からは一刻でも早く施設の整った病院への入院を薦められたが残念ながら入院させる程の貯金もなく途方にくれていた時に教師から軍隊に入る事を薦められた。

 単位を早目に取得して半年ほど早く卒業する制度があり、この制度を利用して軍隊に入れば家族の入院費用が安くなる軍人特権がある事を教えられ軍隊に志願兵として入隊した。

 軍人になるのと引き換えに母を入院させたのだが、結局は母は助からずに訃報を受け取ったのは初陣である第6次イゼルローン攻略戦後の病院のベッドであった。

 そして、初陣で左脚を永遠に失ったのを皮切りに出征する度に負傷をしては入院して退院して出征して負傷して入院のローテーションを繰り返し入院中のベッドの中でバーラト自治領共和政府の樹立を迎えた。

 退院後のハイネセンは不況と人手不足と就職難との嵐であった。

  長い戦乱による、空の国庫に各業界各分野における熟練者不足と軍隊の解体により元軍人が溢れての就職難である。

 そこにハイネセンの大火とルビンスキーの火祭りにより破壊されたインフラ設備の復旧が加わりバーラト自治領政府は経済破綻寸前の不況からの始まりであった。

 手に職も無く学歴も無い兵卒の多くはインフラ設備復旧の建設現場で働き復旧が進むにつれて職を失っていた。

 それと平行して社会福祉の予算は徐々に減っていき、義手義足を新しく新調する時は最初は国の全額負担だったのが3割の自己負担から半額の自己負担になり、さらに7割の自己負担になり最終的には国の一部補助となっていた。

 義手義足の自己負担額が増えるのと反比例して義手義足の品質は落ちていき耐久性も落ちて、義手義足の人間は義手義足を手に入れる為に働き、働いた為に義手義足を酷使して寿命を縮める結果となり職を失っていった。

 その中で慰霊碑公園の管理人の職に就けた自分は幸運だと思えた。

 給料は安いが雨露をしのげる事務所があり苦しい生活だったが何とか犯罪に手を染める事が無いまま生きてこれた。

 

「まあ、あのまま帝国領のままだったら、こんな苦労もしてないが」

 

 長い過去からの旅から覚めるとウイスキーのボトルも空になり日付も変わる時間になっていた。

 空になったボトルに哀惜の目を向け何年も前に動かなくなった義足には手を添えて感謝した。

 そして、ベンチの背凭れに背を預けて静かに目を閉じた。

 アルコールで火照った体には冷たい冬の夜風が心地よい。

 意識が薄明かりから漆黒の闇に落ちて懐かしい人の声が老人の名を呼ぶ。

 寸前に後頭部に重く強い痛みが走り、目から火花が出て反射的に両手が後頭部を押さえる事になった。

 そして、閉じた目を開けると懐かしいが会いたくない人物が自分の名を呼んでいた。

 



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亡命への苦難

 

 会いたくもない人物とは初陣の時の上司でフランク・ダグラス兵長であった。不愉快な顔が視界全体を占領している。

 

「おい、馬鹿!何時まで座り込んでるだ!」

 

 言われて自分の状態を確認してみると後頭部を両手で抑えて壁を背に足を投げ出している。

 着ている服は同盟軍の軍服に義足ではなく自分の足がある。

 

「うわ!軍服を着てるし足がある!」

 

「おいおい、マジで大丈夫か?」

 

 さすがに嫌われ者の兵長も斜め上の反応に心配顔である。

 

「自分の名前は?」

 

「ハンス・オノ」

 

「今いる場所は?」

 

「えっと、何処?」

 

 兵長の顔が一気に青くなる。

 

「ここは戦艦イカロス、ついでに言えば今は戦闘中!」

 

「ええっ!?」

 

 自分はハイネセンのベンチにいた筈が初陣の時の搭乗艦にいて当時の上司と話している。第6次イゼルローン攻略戦の撤退中に帝国軍の砲撃を受けて足を亡くした筈が足がまだある。そして、その砲撃で兵長も戦死した筈。

 そこまで思考を進めた途端にハンスの全身に恐怖が駆け抜けた。

 やっと不遇な人生が終了したのにゴール直後に振り出しに戻るとは、もう一度、あの苦しみを味わうのか。

 

「おい、オノ。大丈夫か顔色が悪っ!?」

 

 ハンスは奇声を挙げて兵長を突き飛ばし脇目も振らずに走り出した。

 まるで走る事で不遇な人生から逃げ出せるかのように。

 

「誰か止めろ!オノが錯乱した!」

 

 兵長の叫び声の直後に爆音がして鼓膜が悲鳴をあげ体が爆風で床に叩きつけられる。

 ハンスは起き上がり後ろを振り返ると床に穴が開き、炎が噴水の様に湧き出ている。兵長や取り巻きの兵が人の形をした火柱となっている。

 ハンスの脳裏に過去に何度も戦場で全身火傷した恐怖の記憶が甦り再び走り出す。

 通路の継ぎ目まで走り隔壁のスイッチを入れるが隔壁が閉まらない。火災が発生すれば自動的に作動するスプリンクラーも作動してない事に気がつく。

 恐慌状態なまま、三度目の全力疾走を始める。心臓と肺が限界点を突破する寸前に目の前に扉が見えた。転がる様に扉の中に逃げ込む。

 

 扉の中では作業服姿の整備兵が脱出シャトルの整備をしていた。必死の形相で走り込んで来た少年兵に驚きながらも整備兵達が駆け寄る。

 

「何があった?」

 

「床に穴が、火が出て、隔壁、スプリンクラー、動かない。火が来る!」

 

 乱れた呼吸のままハンスが単語だけで伝えると整備兵達は状況を正確に理解して手に消火器を持ちハンスだけを残して消火に向かう。

 無人となった格納庫でハンスは自分の置かれた状況を考え始める。

 

 何故、過去に戻って来たか不思議だが今は生き残る事を考えよう。

 これからどうする?

 無事にハイネセンに着いても次の出征でまた怪我をするだけでは?

 ハイネセンに着いて軍を辞めるのか?辞めても親もいない自分に働き口があるのか?

 考えれば考える程に暗い未来しか見えない。軍以外の選択肢が見えない。

 まあ、軍以外の選択肢が有れば過去の世界で選んでいた筈。

 自分自身に冷笑を浴びせた時に視界に脱出用シャトルが入ってきた。

 この時、脳裏に亡命の文字が浮かんだ。

 

「そうだ!亡命すれば帝国で厚遇されると聞いた。現にローゼンリッターの前の指揮官も亡命して出世したと聞いた」

 

 幸い家族も無い天涯孤独の身で親戚もいるかも知れんが会った事もない。自分が亡命して迷惑を掛ける者もいない。このままでは同じ人生の繰り返しになる。

 

 亡命を即断するとハンスは立ち上がり整備兵達の休憩室に向かった。長年の貧困生活の癖で食べ物を物色する為である。

 休憩室の中央にある皿にはキャンディーと一口サイズのチョコがありベレー帽に全て移してスカーフでベレー帽ごと腹に巻き付けた。

 次に冷蔵庫の中のペットボトルを上着やズボンのポケットにねじ込む。

 作業に淀みない。整備兵達が消火作業を終えて戻って来る前に脱出しなくてはならない。

 

 作業を終えてシャトルに乗り込む。操縦手順は半世紀前の事だが研修で習っている。おぼろ気な記憶を頼りに発進準備を進める。隔壁が閉まりハッチが開くと滑走路の先に暗い宇宙空間が見える。新天地に向かう高揚感で胸が高鳴る。電磁カタパルトが作動してシャトルが射出される。

 

 シャトルで宇宙空間に出た瞬間に高揚感は消え地獄が現れた。

 帝国軍の追撃の砲撃と同盟軍の抵抗の砲撃の打ち合いの渦中にあった。

 

 帝国軍の主砲に対して同盟軍は後方の敵に副砲と誘導ミサイルで対抗している。誘導ミサイルは識別信号でシャトルを避けてくれるが敵の主砲と味方の副砲は避けてくれない。回避システムに助けられながら不慣れな操縦で必死に回廊内の天低方向を目指す。帝国軍の艦艇は惑星からの離着陸を想定して建造されているために艦底部分の武装が極端に少ないからである。

 

 何とか回廊の天低部分に張り付く事に成功したが救難信号を出せる状況ではなかった。帝国軍は逃げる同盟軍を追い討ちを掛けるのに忙しく味方ならまだしも敵の救難信号など無視される可能性があったからである。

 

「高見の見物ならぬ下見の見物を決めるか」

 

 砲撃戦の渦中から逃れた安心から軽口を叩きポケットのペットボトルの封を切り数時間ぶりに水を口にした。

 一気に飲み干さず半分ほど残したのは長年の貧乏性からである。

 

「さてと、まずは腹ごしらえと」

 

 同盟軍の脱出用シャトルは色々とサイズや規格があるがハンスのシャトルは10人乗りの中型サイズである。1人につき3日間分の水と食糧が装備され更に緊急用の宇宙服も人数分を装備されてある。宇宙服内にも3日間分の水と流動食が装備されカルシウム注射も装備されている少なくとも1ヶ月は食糧の心配は無い筈であった。

 

「えっ、無い!」

 

 通常は座席の下に装備されてる水と食糧が無く。足元には宇宙服が格納されてるが宇宙服も無い。

 ハンスは亡命を果す前に餓死の危機に直面した。

 

「何で無い!これだと帝国軍が何処まで追撃するかで生死が決まるのか!」

 

 過去の世界では退却戦の最中で負傷して意識を回復した時はハイネセンの病院のベッドの上だった。帝国軍が何処まで追撃したのかはハンスは知らなかった。

 回廊内までか回廊外までかで日数が大幅に変わる。

 

「あるのはベレー帽一杯分のキャンディーとチョコ、水が3本と半分か。水が少ないのが心許ないな」

 

 ハンスは口にした言葉ほど、現状を悲観してはいなかった。

 回廊付近まで帝国軍が追撃したとしても全部隊が回廊付近まで追撃する筈もなく必ず途中で引き返す部隊もあり長くても3日間の忍耐だと思っていた。3日間なら水も辛うじて足りるだろうと。

 後にハンスは自分の読みの甘さを後悔する事になるのだが、この時のハンスの心身は疲労の極であり力尽きる前にシートを倒して全身を投げ出すのが限界であった。

 

 

 

 

 ハンスが眠りの園の住人となった頃、ラインハルトは不眠不休で仕事に追われていた。ラインハルトは味方の部隊が追撃に向かうのを尻目にイゼルローン要塞に帰還していた。

 既に帝国軍の勝利を決定づけた武勲があるラインハルトには殺戮と破壊の量を競う武勲に興味も必要性も感じずに部下達に安心した休息を与える事の方が大事であった。

 そして、部下は休息を貪る事が出来るが指揮官であるラインハルトには休息を貪る贅沢は許されなかった。

 部下からの被害報告書に損傷した艦艇の修理の報告書、消耗した戦力と物資の補給と指揮官は忙しい。

 全ての仕事が終わりラインハルトがベッドに入ったのが要塞に帰還して24時間後であった。

 ラインハルトが目覚めてシャワーと食事を済ませるとミュッケンベルガーから呼び出された。

 執務室に入るとラインハルト以上に贅沢を許されぬミュッケンベルガーが憔悴した顔で書類と格闘中であった。

 

「閣下、失礼ですがお疲れの御様子。少し休まれては?」

 

 敬老精神の少ないラインハルトが心配する程にミュッケンベルガーは憔悴していた。

 

「そんな暇が無いのだ。お調子者が回廊の外まで叛徒共を追撃をしようとしていると報告が入った」

 

「それは危険です。敵に余力が有れば回廊の外で半包囲体制で待ち受けて回廊から出て来た我が軍を十字砲火で狙い打ちにする好機です」

 

「若い卿でも予想がつく事が分からん馬鹿者がいるのだ!」

 

「前線にはゼークト、メルカッツの両提督が居ますので両提督が連れ戻すでしょうから、閣下には安心して御休息されて下さい!」

 

「そのゼークトが追撃しているのだ!」

 

 ラインハルトも呆れて絶句してしまったし、さすがにミュッケンベルガーに同情の念を禁じ得なかった。

 

「…………」

 

「今朝、メルカッツから報告があったのだがメルカッツの諫言にも奴は聞く耳を持たんのだ!」

 

 ミュッケンベルガーが苦虫を噛み潰した顔をする!

 

「そこで卿にも仕事をして貰う。本来なら駐留艦隊の仕事なのだが回廊内の残骸を撤去せよ。このままでは要塞の破損箇所を修復するのに資材運搬の艦艇の航行にも支障が出る」

 

「了解しました」

 

「それから、私と入れ替りにメルカッツが帰投する。メルカッツの補給と再編が終了次第、メルカッツと共に帝都に凱旋するように」

 

「閣下、それでは残骸撤去作業が中途半端になりますが宜しいのでしょうか?」

 

「構わん!残りはゼークトにやらせておけ!本来はゼークトの仕事だ」

 

 ミュッケンベルガーは口や態度に出さないが今回の戦いでの最高殊勲者であるラインハルトが功績を鼻に掛けない事と残敵の掃討の功を他者に譲った事に評価していた。

 対照的にゼークトの評価は下がる一方である。通常は敗軍の追撃などは駆け出しの若手の指揮官の仕事である。年齢や地位から言えばラインハルトの仕事であり、深追いするなど危険なだけでメリットが無い行為を大将の階級を持つゼークトが行う事ではない。

 

「承知しました。」

 

 返答するラインハルトも心境は複雑であった。生真面目なラインハルトに取っては仕事を中途半端に終わらせる事に対する罪悪感があるがミュッケンベルガーのゼークトに対する怒りも理解が出来るからである。

 

 

 ミュッケンベルガーがゼークトへの怒りと苛立ちを漲らせている頃にハンスも怒りと苛立ちに加えて焦りで全身を震わせていた。

 帰投するメルカッツ艦隊に気付いて救難信号のスイッチを押したが機械が一向に反応しない。救難信号を諦めてシャトルを動かそうと操縦桿を握るがシャトルも動かない。

 

「動け!動け!動け!動け!」

 

 悲鳴の様な叫びを上げて操縦桿とスロットルを動かすがシャトルは動かないままメルカッツ艦隊が頭上を通り過ぎるのを手を束ねて見送るしかなかった。

 

「迂闊だった。非常食や宇宙服が無かった時点で気付くべきだった」

 

 ハンスは込み上げてくる苦い思いを噛み締めながら呟く。

 スクリーンの中で帝国艦隊は光の点となって消えていく。

 

「まだだ!まだ、終わらんよ!」

 

 ハンスは自分自身を鼓舞して救難信号が発信されなかった原因とシャトルが動かなかった原因を考える。

 半世紀以上前の古い記憶を頼りに点検口の扉を開き不具合の原因を探り始めた。

 2時間後に驚くべき原因が判明した。救難信号が発信されなかったのは本来なら廃棄処分されてる筈の古いバッテリーが使用をされていて電力不足で救難信号が発信されなかった。シャトルが動かなかった原因は単純な燃料切れだった。通常なら10日間は航行可能な燃料がタンクに入っている筈なのだがタンク内は空だった。

 

 「80年近く生きて来て、こんな脱出用シャトルは聞いた事が無い」

 

 社会の底辺で生きてきて色々な不正を見てきたハンスにしても初めての経験であった。

 後に同盟軍の黒い霧事件と呼ばれる同盟政府末期の三大疑獄事件に発展する事になるのだが、この時のハンスには知る術もなく知っても無意味な事であった。

 

「取り敢えずはバッテリーは索敵システムと通信システムだけを残して全ての電源をきり、エンジンは動かす程の燃料はないからジェネレーターを動かすのに使う。結局は緊急用マニュアルに従うしかないか」

 

 救難信号を出す電力を蓄える為にエアコンのスイッチもオフにした。本来は定員10名のシャトルである。狭い船内に10名の人が居れば互いの体温で室温が下がらない設計だが、ハンスの場合は船内の室温が下がり続けハンスの体力を奪う事になる事は容易に想像がついた。

 

「さて、寒くなる前に寝るか。また、凍死したくないからな」

 

 室温が下がる前に睡眠を取る為の準備を始める。靴下の中にスラックスの裾を入れワイシャツと上着の襟を立て、その上からスカーフを巻き着けた。

 ハンスが長年の貧困生活で身に付けた防寒の知恵である。

 準備が終わりシートに身を預け、赤い非常灯の光を避ける為にベレー帽を顔に乗せるとハンスは直ぐに眠りについた。

 歴史が大きく変わる亡命劇まで、まだ幾何かの時間を必要とした。 

 



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逆行者の苦悩

 

 何処かで機械的で耳障りな音が鳴っている。

 人に不快感を与える事を目的に作られた嫌な音である。

 そして、聞き覚えのある懐かしい音でもある。

 

(うるさいなあ。今年は大雪で朝も早くから寒さで目が覚めるのに何の音だよ?)

 

 不平を鳴らしながら、ハンスの手はソファーの下に落ちたであろう毛布を探している。

 

(しかし、今年は本当に寒い。寒いのに、この音は何だよ。まるで軍艦の警戒警報みたいな音じゃないか)

 

 ソファーの下に落ちた毛布を探すが手に毛布の感触は無く空を掴むだけである。

 

(しかし、何で軍艦の警戒警報みたいな音がするんだ。この公園の周囲には何も無いんだが)

 

 そこでハンスは奇妙な事に気づいた。

 

(あら、さっきから毛布が見つからないのに床の感触も無い。周囲に何も無い公園に軍艦の警戒警報の音がする)

 

 警報が鳴り始めて数分後に自分の居る場所に気づいた。

 

(しまった。ここは住み慣れた公園の管理人事務所じゃなく、脱出用シャトルの中だ!)

 

 慌てて飛び起きようとしたが体が思うように動かない。

 ハンス自身が低血圧だった事もあるが室温が下がり既に低体温症の症状が出ていた。ハンスは自身の若い肉体を過信していた。ハンスが思っている以上に肉体は疲れていて寒さにも弱っていた。

 

 ハンスはリクライニングにしていたシートを戻して体を起こし鉛の甲冑でも着込んだように重い腕を伸ばして警報を止めて救難信号のスイッチを入れる。

 一度は失敗しているので心の何処かで再度の失敗になるのではと不安が鎌首を持ち上げる。

 そして永遠と思える数十秒間後に。

 

 

『こちらは帝国軍ミューゼル艦隊、ミケール・ハインツ大佐である。救難信号を受信した。貴官らの人数と代表者の氏名と階級を述べよ』

 

 帝国訛りのある同盟語がスピーカーから流れてきた。

 歓喜と寒さで震える手でマイクを握る。

 

「人数は1人、小官はハンス・オノ、階級は二等兵待遇軍属、帝国への亡命を希望する!」

 

『了解した。人道を以って対処する』

 

「た、助かった」

 

 ハンスは呟くと安堵感と体力の限界が一緒に訪れ視界が一気に暗くなり心地良く静かにゆっくりと意識を手放した。

 

 

 

 遠くで帝国語での会話が聞こえてくる。体は温かいが空腹で目が覚める。

 目を開けるとアイボリーホワイトの天井が見えた。

 

「知らない天井だな」

 

 周囲をカーテンで仕切られたベッドの上に寝かされている。

 服も病人用の半袖のパジャマに着替えさせられ右腕には点滴もされていた。

 

「目が覚めたようだな」

 

 見事な金髪の若い士官がカーテンの仕切り内に入ってきた。

 

 ハンスが慌てて体を起こそうとするのを手で制しながらベッドの傍らにあるスツールに座る。

 

「卿の体は卿が思っているより弱っている。救出があと一時間も遅ければ危ないとこだった。軍医の説明では3日間は安静にする必要があるらしい」

 

「分かりました。宜しくお願いします」

 

 安全な場所で冷静に考えると、戦争に負けて敗走中の体なのだから、シャトルに乗る以前から体に負担が掛かっていたのだろう。

 

「遅くなったが、ここは私の旗艦の中だ。そして、私は帝国軍少将ラインハルト・フォン・ミューゼル」

 

「ええ!ラインハルト・フォン・ミューゼル少将!」

 

 ハンスは未来の銀河帝国皇帝との対面に驚愕して病室に響き渡る声を出してしまった。

 

「そこまで、驚く事はなかろう」

 

 自身の若さと釣り合わない階級に驚かれる事に慣れているラインハルトもハンスの驚きぶりに面食らった。

 

「えっと、失礼しました。余りにも若い少将閣下でしたので」

 

「まあ良い。これから尋問を始める。役儀上を立ち入る話も聞くが了承せよ」

 

「はい、当然の事です」

 

 ラインハルトからの尋問は1時間程度でハンスは母の訃報のタイミングだけ以外は全て正直に答えた。

 

「これで尋問は終了する。亡命を受け入れの可否は後日になるが、今は自分の体を大切にすることだ」

 

 最後の一言にラインハルトの本来の優しさが出る。

 

「はい、有難う御座います」

 

 ハンスも年の功で敏感にラインハルトの優しさに気付きながら、歴史上の人物に会えた事に喜びを感じている。

 

「良いタイミングでしたな。食事を持って来ました」

 

 軍医がラインハルトと入れ替わりに食事を持って仕切り内に入って来た。

 数日ぶりの食事にハンスの関心は皿の中身に移った。

 

「ああ、いい匂い」

 

 目の前には一皿のスープのみだが、今のハンスには温かいスープは御馳走である。

 

「胃が弱っているから、これだけで我慢するように、明日からはパンも食べられる」

 

 皿の中には浅緑色のスープが入っており温かな湯気が出ている。スプーンで掬うとトロリとスプーンに纏い付く。猫舌のハンスは何度も息をかけて冷ましてから口に入れると空豆の甘さが口に広がり出汁の旨味が後に続き胃から全身に温かさが伝わる。

 

「美味しい!出汁はコンソメじゃなくブイヨンですね」

 

「そのスープは基地の士官食堂のシェフに特別に作って貰ったのだが、よく判るなあ」

 

「はあ、レストランに住み込んで店の手伝いとかしてましたから」

 

 ハンスにしては懐かしい味である。レストランでの住み込み時代にコック達と一緒に食べていた賄いの定番メニューである。

 

 一皿のスープをゆっくりと味わいながら時間を掛けて完食するとスープだけで満腹になった。

 ハンスは自分の胃が小さくなっている事を自覚した。ラインハルトの言うとおり自分が思っている以上に自分の体は弱っているのだろう。

 ハンスは久々の満腹感と亡命を果たした達成感に酔いしれていた。自分の未来の明るさを確信して幸福感に浸りながら体力回復の大義名分のもと眠りについた。

 この時、神ならぬ身のハンスには近い未来に待っている地獄で苦しむ事など予想も出来なかった。

 

 

 

 次の日の昼には亡命の正式な受け入れが通達され、二日目の朝にはラインハルトの旗艦に同乗したままオーディンへ出発した。三日目にはハンスの体調は立って歩く程度には回復して4日目に地獄に遭遇する事になる。

 

「これは何でしょうか?」

 

 ラインハルトの執務室に呼び出されたハンスの前には段ボール箱がある。

 

「宿題だな」

 

「宿題ですか」

 

「卿は流暢な帝国語を話すが帝国語の読み書きの経験が少ないだろう。そこで帝国の小学生レベルの国語を勉強して貰う」

 

「それにしても多すぎませんか?」

 

「安心しろ。三割が国語のテキストで残りが帝国の歴史のテキストだ」

 

 同盟では『マクシミリアン晴眼帝』や『エーリッヒ止血帝』などは学校教育で習う事は無いが帝国なら小学生でも知っているレベルの知識である。帝国に亡命するなら当然の話である。

 

「確か、帝国の歴史は同盟の倍近く有りましたね」

 

「期限はオーディンに到着するまで、年内にはオーディンに到着するから、頑張る事だな」

 

「……はい……」

 

 傍らに控えていたキルヒアイスが気の毒に思ったのか助け船を出した。

 

「大丈夫ですよ。今上帝で36代目ですが覚える必要のある皇帝は10人程度です。それに専用の部屋も用意しましたから」

 

「時間は十分にある。何も慌てる必要はない」

 

「…………」

 

「…………」

 

 思わずハンスとキルヒアイスは顔を見合わした。

 テキストの量と時間を比べたら圧倒的に時間が少ないのが一目瞭然である。天才ラインハルトならではの発言である。

 

「少佐殿、昔からなんですか?」

 

「まあ、その、昔からかな」

 

「少佐殿も色々と苦労されてますね」

 

 キルヒアイスが苦笑いを浮かべる。これまで何度も凡人を自分を基準に計る事を戒めたのだが改善されないでいる。

 

「二人共、どういう意味だ?」

 

 ハンスとキルヒアイスの会話に自分は無実と言わんばかりの口調と表情にハンスは頭を抱える。

 

「本当に自覚が無いんだ。この人」

 

 キルヒアイスもハンス同様に頭を抱えたい衝動を耐えて、外に待機していた兵にハンスを案内するように命令すると最後に一言を付け加える。

 

「これから閣下と内密の話をするから誰も近付けないでくれ」

 

 一時間後、艦橋にはキルヒアイスに説教されて油を徹底的に絞られて項垂れるラインハルトの姿があった。

 

 

 

 キルヒアイスが搾油作業に勤しんでる頃、ハンスは宿題を片付けを始めていた。

 実際は同盟語も帝国語も大した違いは無く、ハンスは晩年に慰霊碑公園の管理人として遺族から帝国語の礼状や返信を何度も遣り取りしていたので帝国語の読み書きには慣れていた。

 

「懐かしいのう。管理人に成り立ての頃は返信を書く事が日課になっていたもんだが……」

 

 ハンスは届いた礼状に涙する事も多く返信は必ず書いていた。

 

「成長した子供が孫を連れて弔問に訪れた事もあったのなぁ」

 

 宇宙統一の大義名分の元に大量の血が流れ、その数倍の涙が流された。

 幸いにも肉親と呼べる身内もおらず、結婚もせずにいたハンスには無縁の悲しみであったが流れる血と涙は少なくしたいと思う。

 

「しかし、所詮は一般市民の夢だろうなあ」

 

 ハンスは自分に軍事的な才能が無い事を理解しているし取り柄と言えば料理くらいである。

 それに、これからラインハルトの台頭とともに帝国は動乱の時代に突入する。

 門閥貴族との抗争に地球教のテロに同盟にヤン・ウェンリーとの戦いに。

 出来れば巻き込まれたくないのが本音である。

 

「まあ、幸いにも何が起きるかの知識はあるから避ける事は困難ではないか」

 

 その知識を活かして流れる血の量を減らすには自分の手足が短い事も自覚していた。あのヤン・ウェンリーさえ、クーデターや帝国軍のフェザーン回廊通過を予測していたが対応が出来なかったではないか。

 

「さて、亡命したが亡命後の事はなあ」

 

 一応は軍務省の士官食堂の下働きとして働き、将来は自分の店を持ちたいという夢がもあるのだが、現にラインハルトを筆頭にキルヒアイスとも面識を持つと死なせたくないと思ってしまう。

 

 逆行者として想定外の苦悩を持つ事になった。これから帝国の人々と関わる事になれば、この苦悩も大きくなる事だろう。

 

「考えれば考える程にネガティブになるなあ。精神衛生上、考え過ぎるのは良くないか。取り敢えず宿題を片付けるか」

 

 容易に結論の出る話でもなく、今は亡命者としての立場を作る事に専念する事にした。

 世間では問題の先送りと呼ばれる行為である事を自覚しながら。

 



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苦難の前

 

 ガラ空きの士官食堂でラインハルトに宿題も提出して暇を持て余したハンスが一人で遅めの朝食を摂る姿があった。

 これはハンスが帝国軍の士官から嫌われてる訳でもなくハンスが寝坊した訳でもない。

 本日の正午前にオーディンに到着する為に前日の夜から忙しい士官達の食事の邪魔にならない様に配慮して混雑する時間を避けただけである。

 

 しかし、食欲は遠慮せずに三人前の食事を平らげた後に律儀に三杯目の食事後のコーヒーを飲んでいる。これは長年の貧困生活の習慣と食べ盛りの若い肉体の結果である。

 もしかしたらタイミングが合えばヤン・ウェンリーの被保護者にはハンスがなっていたかもしれない。

 

 ハンスが三杯目のコーヒーを飲み終わるのと同時にキルヒアイスが食堂に入って来た。

 

「部屋に居ないと思ったら、こんな所に居たんですか。ミューゼル閣下が艦橋でお呼びです」

 

「えっ!一兵卒の自分が艦橋に入っても宜しいので?」

 

「問題はありません。ハンス君は亡命者で大事な賓客ですよ。同盟時代の階級は関係ありませんよ」

 

 キルヒアイスはハンスを常に賓客として接してくれる。その態度が見本となり他の士官達もハンスを賓客として遇してくれている。

 それ以前の話でハンスは帝国軍将兵から同情を集めていた。前線で戦う者にとって脱出用シャトルは最後の生命線である。その生命線が問題だらけだったとは悪夢でしかなく、とても他人事ではないからである。

 

「分かりました。その厚かましい話なんですけど艦橋まで案内して貰えますか。医務室と自室と食堂しか知らないもので」

 

 キルヒアイスはハンスの言葉に苦笑しながらハンスの配慮に感心をした。

 ハンスは自分がスパイと疑われてると思い必要以外には自室から出る事はなく口には出さないが自室を監視されている事も承知しているのだろう。

 

「大丈夫ですよ。最初から案内するつもりですから」

 

「有り難う御座います」

 

 艦橋までの道中でキルヒアイスの背中を見ながらハンスは先日からの悩みを思い出す。

 

(キルヒアイス少佐は誠実で優しく優秀な人だ。この人には死んで欲しくない。出来れば生き延びて皇帝ラインハルトを支えて欲しい)

 

 ハンスはキルヒアイスの死後にキルヒアイスを知る人々と同じ思いを抱いていた。

 

(しかし、自分に出来るのか?キルヒアイス少佐を助ける事が)

 

 これから先の流血の量を知るハンスとしてはキルヒアイスに対する期待も大きいが困難さも理解している。そして、最大の問題はハンス自身の身の安全である。

 

(キルヒアイス少佐を、守って自分が死んだら意味がない。今度こそ人並みの幸せを掴みたい)

 

 小市民根性を丸出しの思いがハンスの本音である。キルヒアイスを救うには軍の中枢部に関わる必要があるが、それは同時に自身の命を危険に晒す事になる。

 

(戦場での流れ弾にテロとか危険だらけだからなあ)

 

 自身の活躍で富や名声を得る発想は皆無である。

 

(キルヒアイス少佐が生き延びれば、これから流れる血の量も減るはず)

 

 キルヒアイスに対する著しい過大評価かも知れないが目の前の青年には人々を期待させる何かがあった。

 

「この中が艦橋ですよ」

 

 ハンスはキルヒアイスの声で現実世界に引き戻された。

 

「道中、何か考え事をしていた様ですが大丈夫ですか?」

 

 キルヒアイスの鋭さに舌を巻く、流石に考え事の内容までは把握される筈もないがキルヒアイスの有能さには改めて驚かされるハンスであった。

 

「すいません。これからの事を考えていました」

 

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

 

 キルヒアイスも気休めと自覚しているのだろう。会話を打ち切って艦橋に入って行く。

 

「うわぁ!」

 

 キルヒアイスに続いて艦橋に入ったハンスは思わず驚嘆の声を出してしまった。

 

 艦橋内は正面から側面、そして天井とスクリーンが設置され星の海が展開されていた。

 

「凄い。プラネタリウムみたい!」

 

 ハンスの少年らしい感想とキョロキョロと艦橋内の光景を見る態度にキルヒアイスも含め艦橋内に詰めている乗組員達の顔にも笑みが浮かぶ。

 80年近く生きたハンスにしても帝国軍の戦艦に搭乗したのも艦橋から星々の大海を眺める事も初体験であるから珍しくて仕方がない。

 

「ハンス君、こちらへ」

 

 キルヒアイスが顔に笑みの成分を残したままハンスをラインハルトの傍らまで促す。

 

「キルヒアイス、随分と遅かった様だが……」

 

 ラインハルトの視線がハンスの腹部で止まる。

 

「最後の艦内食を堪能してた様だな」

 

「はい、美味しかったです」

 

 女性なら妊娠中と誤解されそうな腹をさすりハンスの屈託無い笑顔と返事にラインハルトも毒気を抜かれる。

 

「まぁ良い。卿を呼んだのは入港の予定時間が早まったのでな」

 

 キルヒアイスが怪訝な表情になった。

 

「珍しいですね。入港予定が遅れる事があっても早まるとは」

 

 ラインハルトの表情も渋くなる。

 

「それが、軍はハンスをプロバガンダに使うつもりらしい。既に軍港にテレビ局も来ていて放送時間の関係らしい」

 

 当事者のハンスは最初から覚悟はしていたのか平然としている。

 

「僕が軍上層部でも同じ事をしますよ」

 

 キルヒアイスも呆れ半分に感心する。

 

「当人が納得しているなら問題はないですけど」

 

「おかげで管制局が航路計算をしてくれたから、我々は楽が出来たがな。既に先頭の部隊は誘導波をキャッチしている」

 

 ラインハルトが話をしているとオペレーターから先頭の部隊から着陸許可を求める報告が入る。

 

「許可する。管制局の指示に従い順次に着陸せよ」

 

 そのまま艦隊指揮に専念を始めたラインハルトを横で見ているハンスはキルヒアイス同様にラインハルトにも死んで欲しくないと思う。

 

(キルヒアイス提督の死後には幾つかの失敗や無用な血を流したが、それでも歴史上の偉大な人であるが実際は弱者には優しい人だよなあ)

 

 ラインハルトとキルヒアイスは暇を見てはハンスの部屋に行きハンスと色々な話をしていた。

 幼年学校を卒業と同時に士官となった二人には兵士達の本音に触れる機会が少なくハンスとの会話は貴重であった。

 

(まあ、同盟の情報を欲しい部分もあるが本音は年下の亡命者を気遣った部分も大きいよなぁ)

 

 特にラインハルトは非凡である為に凡人の苦労には鈍感な部分がありキルヒアイスに窘められる事も度々あったがキルヒアイスも非凡な人間である。

 そんな二人にはハンスとの会話は凡人の苦労や思いを知る貴重な機会であった。

 

(将来の皇帝と上級大将のコンビと公園の管理人では差があり過ぎるだろうけど、普通に良い人達だよなあ)

 

 ハンスの晩年にはラインハルトの死因となった膠原病の研究が進みエル・ファシルで治療法も確立されていたので早期発見でラインハルトの命も救う事が出来るのだが。

 

(まさか、敵国の人間ドックに入れとは言えないよなぁ。同盟が併呑されてからでは遅過ぎるだろうし、それ以前にワーカーホリックだから長期間の入院とか無理だろうなあ)

 

 父親か兄の過労死を心配する息子か弟の様な思いを抱きながら一人で困惑するハンスであった。

 

「全艦、大気圏に突入しました。当艦も突入開始します」 

 

 艦長の声が響く中、ハンスの同盟人としての人生が終わり亡命者としての人生が始まろうとしていた。

 亡命者としても逆行者としても何も定まらないままである。

 ハンスの亡命が本来の銀河の歴史を変える事になるのか知り得る者は宇宙に存在しなかった。

 



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亡命者の苦難 前編

 

 宇宙船による大気圏突入の光景は壮観の一言に尽きた。

 僅か10分間の光景だったが漆黒の宇宙空間から熱圏、中間圏、成層圏、対流圏と降下するに従いスクリーンに写し出される光景は美しく変わり正に絶景であった。

 

 着陸した後も大気圏突入の余韻に浸るハンスにラインハルトが苦笑混じりに肩を叩く。

 

「気持ちは分かるが人を待たせているから早く降りるとしよう」

 

「それは失礼しました」

 

 ハンスはラインハルトとキルヒアイスに連れられて慌てて下船タラップに向かったが兵士達がタラップの前で立ち止まって渋滞している。

 

「何をしている。後が閊えてる。早く降りないか!」

 

 ラインハルトの叱責に兵士の中から最年長と思われる兵士が代表して答える。

 

「その提督、ちょっと見てやって下さい」

 

「何かあったのか?」

 

 ラインハルトが船内から頭だけを出し外を伺う姿は、とても帝国軍の将官の姿に見えない。下町の悪戯っ子といった風情である。

 悪戯っ子の視界に入ったのは、タラップの下にはターミナルビルまで続いている赤い絨毯。その絨毯の上で黒髪の美女が花束を持って待機していて、その後ろを絨毯を挟んで帝国軍楽曲隊が控えている。

 更に視界を上に向けるとターミナルビルの屋上に兵士を出迎えに来た筈の家族達の集団とテレビカメラ数台が見えた。

 

「何事!?」

 

「それは、ハンス君の出迎えでしょうね」

 

 ラインハルトの頭の上からキルヒアイスの声が降ってくる。

 ラインハルトとの身長差を利用して後ろからラインハルト越しに外の様子を見ている。

 

「帝国人って、真面目で堅苦しい印象があったけど、意外とミーハーなんだなぁ」

 

 足元から四つん這いになってキルヒアイス同様に外の様子を見てたハンスが感想を口にする。

 

「ハンスは何処から見てる。それにキルヒアイスまで……」

 

 ラインハルトが二人の行動に呆れた声を出すが端から見てる兵士達にすればラインハルトも同類なのだが。

 

「それで、提督どうされますか?」

 

 先程の兵士がラインハルトに指示を求めた。

 

「それはハンスの出迎えなのだからハンスが一人で行くべきだろう」

 

 慌ててハンスが反論する。

 

「待って下さい。普通は偉い人から先に行くもんでしょう。階級は閣下が一番上じゃないですか。閣下が先に行くべきでしょう」

 

「それは通常ならばの話。今回は特殊な事情で卿が主役だから卿が行くべきだ。それに卿は協力は惜しまないと言ったではないか」

 

「協力は惜しまないと言ってませんよ。僕をプロパガンダにする事には同意しましたけど」

 

「では行くがよい」

 

「これはプロパガンダというより見世物でしょう!」

 

 ハンスが悪あがきをしているとキルヒアイスがハンスの肩を叩いた。

 

「人は時には諦めが肝心です」

 

「少佐の言う通りだ。ハンス、諦めろ!」

 

「そうだ!ハンス、諦めろ!」

 

 キルヒアイスだけではなく、その場にいた兵士達もラインハルトに同調していた。

 孤立無援になったハンスは自分の敗北を悟った。

 

「無念、ここまでか!」

 

 ラインハルトはハンスの態度に苦笑まじりに呆れる。

 

「大袈裟な奴だな。キルヒアイス」

 

 ラインハルトから名を呼ばれたキルヒアイスがハンスの後ろから両脇から手を入れて持ち上げて、ハンスを運び始めた。

 

「裏切ったな!裏切ったな!父さんと同じで僕を裏切ったな!」

 

 ハンスの世迷い言を無視してキルヒアイスがハンスをタラップまで運ぶ。

 ハンスがタラップの上に姿を出した途端に拍手と喝采に軍港が満ち溢れた。

 

「えらい!よく頑張った!」

 

「帝国には美味しいものが沢山あるわよ!」

 

「もう心配する事ないぞ!帝国で幸せに暮らせ!」

 

 ターミナルビルの上からはハンスを労り励ます声が聞こえる。

 完全な善意の声だがハンスには恥ずかしさが勝る。礼儀としてベレー帽を片手に手を振って応える。

 

(これでは道化だよ)

 

 ハンスがタラップを降り始めると楽曲隊が帝国軍軍楽曲『ワルキューレは汝の勇気を愛せり』の演奏を始める。

 拍手と喝采が止まり、楽曲隊の奏でる荘厳な音色が場を支配する。

 音楽には素人のハンスにも楽曲隊の演奏の技術力の高さと楽器の素晴らしさは理解ができた。

 

(曲は別にして楽曲隊のレベルは同盟より帝国軍の方が桁違いに上だな)

 

 楽曲隊の素晴らしい演奏に群集も耳を傾けている。群集が演奏に気を取られている間にハンスは静かにタラップを降りる事に成功した。

 タラップの下には二十歳前後の黒髪の美女が花束を持って待機していた。

 

「ようこそ帝国へ」

 

 美女はハンスに花束を渡す。

 

「あ、有り難う御座います」

 

 ハンスが反射的に礼を言い花束を受け取る時に美女がハンスの頬に口づけをする。

 ハンスは両頬が熱くなるのを実感した。80年近い人生で美女とは無縁のハンスには免疫がなかった。

 美女はハンスの熱くなった反対側の頬にも口づけしてきた。

 そして、ゆっくりと顔を離す時に小声で美女が囁いた。

 

「この後は私に任せて行動して下さい」

 

 ハンスは無言で頷くしか出来なかった。ハンスは頬だけではなく耳まで赤くして花束を片手に美女に手を引かれ歩き出す。

 

(これは粋な配慮と言うより羞恥プレーでは)

 

 ハンスの真っ赤になった耳には楽曲隊の素晴らしい演奏も耳に入らずに飼い主にリードを持たれて随従する老犬状態である。

 もし同盟末期に名を馳せた色事師2名がいたら、今のハンスの状態を評して異口同音に「情けない!」と言った事だろう。

 

(美女にエスコートされるとは立場が逆だろうに)

 

 ターミナルビルまでの道程が遠く感じられた。ビルに入れば群集の視線と楽曲隊から解放されるとハンスは自分に言い聞かせていたが、ターミナルビルの入り口が見えた時に自分の考えが甘かった事を悟った。

 

(嘘だろ。ビルの中にも絨毯と人が居る!)

 

 ビルの中にも赤い絨毯が敷かれて絨毯の両端にロープが張られている。ロープの内側に警備兵が外側には報道陣が見えた。

 ビル内に入るとハンス達はカメラのフラッシュの雨を浴びる事になった。

 

(眩しい!テレビで逮捕された犯罪者が顔を隠すのはフラッシュが眩しいからか!)

 

 ハンス一人なら立ち止まり、その場で蹲っていただろう。傍らで手を繋いでいる美女が手を挙げ報道陣に応えるふりをしてフラッシュを遮る。ハンスも美女に習い花束を持つ手を挙げ報道陣に応えるふりをしてフラッシュを遮る。

 

(凄い。場慣れしているな。この人)

 

 美女に助けらながらも無事にビル内を通り抜け用意された地上車に乗り込む事が出来た時はシートの上で手と足を投げ出してしまった。

 

「はい、どうぞ」

 

 グラスに満たされ水を差し出された。自分が喉が渇いていることに気付き受け取った途端に一気に飲み干した。

 水を飲み干した後にグラスを差し出した相手を確認すると自分をエスコートしてくれた美女だった。

 

「有り難う御座います」

 

「いえいえ、どういたしまして」

 

 空になったグラスを返しながら礼を言うと笑顔で美女が受け取る。

 

「自己紹介が遅れたけど、私はヘッダ・フォン・ヘームストラ」

 

「有り難う御座います。フロイライン・ヘームストラにエスコートされて本当に助かりました。情けない事に自分一人では大変な事になっていました」

 

「情けない事はないわ。普通の人なら当然の事よ。私も一応は女優の端くれだから、大勢の人の前で行動する事には慣れてるの」

 

「女優さんでしたか。道理で美人だし場慣れしているし動きの一つ一つが美しいのも腑に落ちました」

 

「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」

 

「お世辞ではないですよ。だから、軍も貴女を僕のエスコート役に抜擢したんですよ」

 

 ハンスは自分で言葉にしてみて改めて帝国軍の意図に気付いた。

 

(そこまで予想して彼女を用意したとなれば帝国軍首脳部も侮れんな。後世の本では皇帝ラインハルトが優秀過ぎて過少評価されてるけど)

 

 そこまで思考を進めた時に一つの可能性が閃いた。

 

(待てよ。迂闊な言動で逆行者と判明しなくても未来を知る者もしくは予知能力者として疑われる可能性もあるかも)

 

 急に深刻な顔になったハンスの様子にヘッダは不安を感じた。

 

「ハンス君、気分でも悪い?」

 

 ヘッダが心配顔で顔を見ている。

 

「いえ、大丈夫です。これからの事を考えて、ちょっと不安になっただけです」

 

 咄嗟に以前にキルヒアイスにも使った返答をした。

 ヘッダもハンスの返答を聞いて安心したらしく流暢な同盟語で意外な告白してきた。

 

「安心しても大丈夫よ。ここだけの話だけど、実は私も同盟からの亡命者なのよ」

 

「ええーーっ!?」

 

「嬉しいわ。そんなに驚いてくれて秘密を話したかいがあるわ」

 

「い、何時の話です?」

 

「まだ貴方が産まれる前の話よ」

 

「15年以上前に亡命って、若く見えるけど何歳なんですか?」

 

「失礼ね。私は貴方みたいに一人で亡命したわけじゃないわ。親に連れられて亡命したのよ」

 

「あ、普通はそうか」

 

「父が麻薬捜査官だったの。そこまで言えば分かるでしょ」

 

「了解しました」

 

 ハンスは短い言葉で返答した。同盟と帝国で秘密裏に手を結びサイオキシン麻薬の摘発をした事もある程に麻薬組織は巨大化していた時期が存在していた。

 その関連で麻薬捜査官が逆に命を狙われて帝国に亡命しても不思議な話ではない。

 

「帝国は表沙汰に出来ない私達が亡命した時も大事にしてくれたわ。貴方は派手に宣伝したから私達よりも大事にしてくれるわ。安心して大丈夫よ」

 

「はい、有り難う御座います。安心しました」

 

 ハンスの言葉には嘘は無い。政治宣伝に利用され飼殺しの人生でも冬の寒さ夏の暑さに苦しみよりはマシである。

 

 ハンスの返答を聞いてヘッダが急にハンスを抱きしめた。

 

「不安になるのは無理ないか。でも、困った時や不安になった時は連絡してちょうだい。必ず力になるわ」

 

 ハンスはヘッダに抱きしめられるままになっていた。ハンスにしてみれば女性に抱きしめられるのは半世紀以上前の事である。

 ハンスの母は息子に愛情が無かったわけではない。ただ、女の細腕で子供を抱えての生活に愛情を示す余裕が無かっただけである。

 ハンスも理解はしていたが理解する事と満足する事は別である。

 

(この歳になっても女性に抱きしめられて安らぎを感じるとは)

 

 ハンスもヘッダの背中に手を回して抱きつく。

 

「もう少しだけ、このままでいいですか?」

 

「いいわよ。まだ少し時間があるから」

 

 ハンスはヘッダに抱きしめられて、人生で初めて幸福を感じていた。

  



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亡命者の苦難 後編

 

 ハンスはヘッダに抱きしめられながら口を開いた。

 

「今更ながらですけど、僕達は何処に向かっているんです?」

 

「……確かに今更の話よね」

 

「はあ……」

 

「内務省に向かっているのよ。内務省で貴方の臣民籍を作る必要があるわ」

 

「臣民籍ですか?」

 

「臣民籍が無いと健康保険や年金とか受け取れないわよ。結婚も出来ないわよ」

 

「健康保険や年金が受け取れないのは困ります!」

 

「他にも簡単な帝国の法律の勉強もあるわよ」

 

 ハンスにしたら一難去ってまた一難の気分である。

 

「大丈夫。本当に簡単だから」

 

 ハンスの気持ちを察したヘッダが軽く励ます。

 

「勉強を始める前は皆さん同じ事を言いますけど……」

 

 ヘッダはハンスの体から離れるとハンスの前髪を手でかきあげた。

 

「大神オーディンの御加護を」

 

 ハンスの額に口づけをする。

 

「あっ!」

 

 途端に顔を赤くするハンスを見てヘッダは満足そうな笑みを浮かべる。

 

「本当に可愛いわね」

 

 ハンスとしては孫の様な年齢の娘に翻弄されて忸怩たる思いだが不思議に嫌な気がしない。

 

「子供の僕をからかって楽しんですか?」

 

「うん、楽しいわ。生き甲斐!」

 

「……他の有意義な生き甲斐を見つけて下さい」

 

 他に人が居れば呆れる会話をしている間に地上車は目的地の内務省に到着した。

 

「私は舞台に戻るけど、忘れ物とか無いか確認した?」

 

(この人は本質的には世話焼きタイプの人なんだなあ)

 

 ハンスは内心の気持ちを隠してヘッダに言われるまま地上車の外でポケットの中を確認して見せる。

 

「大事な事を忘れてた!」

 

「もう、何を忘れたの?」

 

 ヘッダは言いながら既にシートの上を見回して忘れ物を探し始めている。

 

「フロイラインに花束を」

 

 軍港でヘッダから受けとった花束をヘッダに差し出す。

 

「ダ、ダンケ」

 

 ヘッダもハンスの意外な行動に驚きながら花束を受け取る。

 

「花もフロイラインの様な美しい女性に貰われる方が幸せです」

 

「も、もう」

 

 照れるヘッダにお構い無しにハンスは膝を折りヘッダの手の甲に口づけをする。

 

「もう、子供の癖に!」

 

 言葉と逆にヘッダの顔が赤くなっていく。ハンスの意趣返しは成功したようだ。

 

「いずれ、お食事でも御一緒させて頂きます」

 

 第三者が聞けば言う方と言われる方が逆じゃないかと思われる言葉を残してヘッダは去っていた。

 

「お待ちしてました。御案内します」

 

 地上車を見送り振り返ると出迎えの内務省職員が此方を見ていた。職員はハンスの顔を見て笑いの発作を抑えているのが丸分かりだった。

 

(確かに顔に似合わない気障な真似はしたけど)

 

 職員の後を歩きながらハンスは自分の行動の迂闊さを反省した。

 

(そりゃ、皇帝ラインハルトやユリアン・ミンツなら絵になったけどね。どうせ自分だと漫画だよ)

 

 僻み根性丸出しである。

 

「此方になります。中へどうぞ」

 

 案内された部屋の中には頭頂部が見事に光輝く肥満体の中年の男性が待っていた。

 

「ハンス君、疲れただ……ろ」

 

 一瞬だが男が硬直した。

 

「私は内務省社会秩序維持局、局長のハインドリッヒ・ラングです。ハンス君には帝国臣民になる為の研修を受けて貰います」

 

「はあ……」

 

(ハインドリッヒ・ラングと言えば確かロイエンタール元帥に私怨を抱きルビンスキーに利用されて死刑にされた秘密警察の親玉じゃないか)

 

「まずは手始めに顔を洗いましょう」

 

「えっ!」

 

 ラングの意外な言葉に驚きを隠せずにいるハンスを放置してラングはインターホンで女性職員を呼んだ。呼ばれた女性職員もハンスの顔を見て一瞬だけ驚いたがラングを見て首肯く。

 一連の流れでハンスだけが事態を理解してなかった。

 

(一体、何?)

 

「此方に来て下さい」

 

 ハンスは事情が飲み込めないまま女性職員に促されて後をついて行く。女性職員が女子トイレに入るのでハンスは隣の男子トイレに入ろうとしたら女性職員から女子トイレに引っ張られてしまった。

 

「ちょっと、僕、男の子ですよ!」

 

 思わず叫ぶハンスを無視して女性職員が洗面台の鏡の前にハンスを立たせる。

 

「なんじゃこりゃ~!」

 

 鏡を見てハンスの絶叫がトイレ内にこだまする。

 鏡の中のハンスの両頬と額には鮮やかなキスマークが鎮座していた。

 

「その、気の毒だけど中継で帝国中の人が観てましたよ」

 

「あ、あ、あの腐れ外道女め~!」

 

 怒りのあまりに同盟語で叫ぶハンスを女性職員が冷静に宥める。

 

「起きた事は仕方ないです。取り敢えずはキスマークを落としましょう」

 

「は、はい、お願いします」

 

 ヘッダへの怒りは別にして、ハンスがキスマークの落とし方など知る筈もなく、今は女性職員の指示には素直に従うしかない。

 

「ちょっと、冷たいけど目を閉じて我慢してね」

 

 大人しく白いクリーム状の物を顔全体に塗られる。

 

「そのままで、ちょっと待ってね。クリームが汚れを吸い取るのに時間がいるから」 

 

 ハンスは手でOKサインを出して答える。

 

「彼女の事を怒らないであげてね。彼女は三年程前に貴方と同じ歳の弟さんを亡くされてるの」

 

 ハンスは黙って聞いてるしかなかった。

 

「弟さんと貴方が重なったと思うわ。貴方のエスコート役のオファーしたらノーギャラなのに二つ返事で引き受けてくれたもの」

 

「……」

 

「私も弟がいるから彼女の気持ちが分かるの」

 

 弟と重なったのに、こんな仕打ちとは歪んだ愛情だと思ったが一人っ子の自分が知らないだけかもと思った。

 機会があれば姉のいるラインハルトに聞いてみたいと思った。参考になるか怪しいのだが。

 

「そろそろ、クリームを落としても大丈夫ですよ。普通に顔を洗って下さい」

 

 顔に塗られたクリームを水で洗い流して鏡を見ると光沢のある艶々した肌が現れた。

 

「うお、凄い!口紅の跡形も無い!」

 

「羨ましいわ。若いから口紅と一緒に毛穴の汚れも取れただけなのに、こんなに肌が美しくなるなんて」

 

「お姉さんも綺麗ですよ」

 

「ありがとうね。でも、肌のお手入れが大変なのよ」

 

「ところで弟にキスマークを付けるのも姉の愛情なんですか?」

 

 ハンスはどさくさ紛れに弟がいる女性職員に先程の疑問を聞いてみた。

 

「あら、当然じゃない。弟を可愛がるのが姉の特権なら、弟を玩具にするのも姉の特権よ」

 

「……」

 

 早速、質問する相手を間違えた様である。

 

「さて、無駄話はやめて局長の所に戻りましょう」

 

 

 ラングの所に戻るとラングが書類の束を用意して待っていた。

 帝国も同盟も一緒で役所の書類とは分かりにくい上に面倒な物である。

 ラングが意外な事に一つ一つ丁寧に説明してくれて記入する箇所も教えてくれる。

 

「それからハンス君には帝国の養子縁組制度を予備知識として覚えて欲しい」

 

「はあ、養子縁組ですか?」

 

「帝国では養子縁組が多いのだよ。貴族間の政略目的の養子縁組も多いが150年も戦争していると孤児も多くなる」

 

(同盟も似た様なもんだけどね。トラバース法とか悪法が出来る程だから)

 

「帝国の場合は地方反乱等もある。必然的に孤児も多いから養子縁組も多いのだが養子縁組は両親が揃わないと許可が出来ない。そこで兄弟姉妹の養子縁組も存在する」

 

「親子関係だけじゃなく、兄弟姉妹の養子縁組とは変わっていますね」

 

「こちらの方が一般的には多いのだよ。親子になると遺産相続でトラブルになるケースも多い。兄弟姉妹なら実子との遺産相続でのトラブルが少ない」

 

(同盟でもトラバース法でも遺産相続でトラブルに発展する事も多いからな)

 

「もしハンス君にも養子縁組の話が有れば親子関係でなく兄弟姉妹関係の養子縁組もある事を思い出して欲しい」

 

 ラングは秘密警察の責任者として世間からは嫌われてるが、実際は誠実で優秀な官僚であった。

 書類にサインする作業が終わるとラングと共に昼食となった。昼食の席の間にラングは何度も、これから先に困った事が有れば自分が相談相手になる事を約束してくれた。

 ハンスはラングが自分を政略に利用する気なのか疑ったが直ぐに考えを改めた。

 

(そう言えば、この人は下級官吏の頃から匿名で福祉事業に寄付をしてる篤志家なんだよなあ。孤児の自分に善意で言ってくれてるんだろうなあ)

 

 ラングはロイエンタールとの確執で身を滅ぼして後世に悪名を残す事になるのだが、それ以外は公人としての枠を越える事はなく、逆に私人としては善良なる人物である。

 

 食事が終わるとラングは食後のコーヒーを飲みながら、これからのハンスの処遇に対する予定を教えてくれた。

 まず明日は戦勝式典で皇帝との謁見があるので謁見の為の作法の練習。

 そして、謁見の後はハンスは三日間程は内務省で研修を受けた後に軍務省の預かりとなり年内は軍務省で研修を受ける事になる。

 予定を聞かされたハンスとしては研修とか講習とか懐かしい単語であった。

 

(講習とか食品安全責任者の取得した時が最後かな)

 

 口に出したのは平凡な一言であった。

 

「研修ばかりですね」

 

 逆行前の人生では上等兵どまりのハンスにとって縁の薄い話である。

 帝国でも同盟でも昇進する度に研修や講習を受けるのは当たり前であり、ハンスも例外ではなく、帝国軍人として苦労する事になる。

 その前に謁見の作法の練習が深夜遅くまで続く事をハンスはまだ知らなかった。



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戦勝式典……その後

 

 紫水晶の間でキルヒアイスは溜め息をつきたい発作に襲われていた。

 先程、黒真珠の間から戦勝式典を終えたラインハルトとハンスが出てきたのだが、ラインハルトがハンスの襟首を掴んで引き摺りながら出てきたからである。

 それからハンスの帝国軍准尉の軍服姿は全く似合わない。

 ハンスが疲労感を漂わせているのも大きな要因であるが服のサイズが致命的に合ってなく体が服の中で泳いでいる。

 そんなハンスを見てラインハルトが毒づく。

 

「服のサイズ違いを差し引いても卿は同盟軍の軍服の方が、まだ似合っていたなあ」

 

 キルヒアイスも口にしないがラインハルトと同感であった。

 

「まあ、オノ准尉は疲れてますから、元気になり服のサイズも合わせれば似合うと思いますよ」

 

「有り難う御座います。キルヒアイス少佐」

 

 ハンスはラインハルトにも何か言い返したいが全身の疲労感で気力が出ない。

 

「しかし、卿は随分と疲れているが朝食は食べてきたのか?」

 

 当のラインハルトから逆に追い討ちを掛けられてしまった。

 

「そりゃ、疲れますよ。昨日も夜遅くまで今日の式典の稽古で朝食はホットドッグ二本とコーヒーのみですよ。それに閣下は帝国生まれの帝国育ちで陛下とは何度も会っているでしょうけど、自分なんか写真でしか見た事のない雲の上の人と会って話まですれば疲れるのが当たり前です!」

 

 それまでの疲労感も吹き飛ばすハンスの勢いにラインハルトも面食らってしまう。

 

「その、卿も色々とストレスが溜まっているみたいで大変だな」

 

 ハンスが慌て気味に謝罪する。

 

「失礼しました。閣下」

 

 ハンスよりキルヒアイスの不用意に刺激をするなと視線だけの抗議にラインハルトも慌てる。

 

「いや、今のは私が悪かった。朝食の件は私の方からも内務省には伝えておこう」

 

 ラインハルトが取り繕って巧みに内務省に責任を押し付ける。

 

「何を人聞きの悪い事を言っている!」

 

 軍服姿の三人の前に一人の文官が急に現れハンスを怒鳴りつける。

 

「これは中将閣下の前で失礼しました」

 

「それは構わぬが卿は?」 

 

「重ねて失礼しました。私は内務省亡命者保護課のテオドール・ホイスです。この度はハンス・オノの担当を拝命しました」

 

「それで、人聞きが悪いとか言っていたが?」

 

「それですよ。昨晩も式典の作法の練習で夜も遅くなったので夜食として出したサンドウィッチ五人前を一人で食べるし、今朝も夜が遅いかったからギリギリまで寝かせて朝食も簡単に食べれる様に一人分の朝食をホットドッグ一本にして二本出したら三分で食べてしまうわ」

 

「道理で豪華なホットドッグだと思いました」

 

 ハンスが呑気な口調の感想にホイス、ラインハルト、キルヒアイスの三人が同時に頭を文字通りに抱える。

 最初に立ち直ったキルヒアイスが口を開く。

 

「准尉の食欲は通常の三倍ですので三人前を用意してやって下さい。イゼルローンからの帰りの道中も朝昼晩と各食事で三人前を食べてましたから」

 

 キルヒアイスの言葉に驚いたホイスがラインハルトに視線だけで確認する。

 ラインハルトも視線だけでキルヒアイスの言葉を肯定する。

 

「私には娘だけで息子が居ないので分かりませんが、これ位の量が14歳の男子には普通なんでしょうか?」

 

 ホイスの問いにラインハルトとキルヒアイスが見事なコンビネーションで首を横に振る。

 

「私達も若いので軍の中では食べる部類ですが、流石に准尉ほどは……」

 

「ちょっと待て、幼年学校で陸戦部隊志望のキルヒアイスが練習相手をしてやっていた奴がいたじゃないか」

 

「フランツ・マテウスの事ですか?」

 

「そうだ。奴も三人前を食べていなかったか?」

 

「彼の場合は体を作りたいから無理して食べていましたからね。准尉とはレベルが違いますね」

 

 流石にハンスも自分の食事量を話題にされて気分を害した。

 

「三人で人の食事の量で話に花を咲かせて楽しいですか?」

 

 ハンスの皮肉でホイスが本来の目的を思い出した。

 

「そうだ。卿の食事の量は問題じゃない。卿は式典で陛下に何を申し上げたんだ?」

 

「別に何も」

 

「何も無い事がなかろう。陛下から今日の3時にお茶の相手をする様にと通達があったわ。今、内務省は大騒ぎになっている。卿は茶会のテーブルマナーを知っているか?」

 

「お茶会にテーブルマナーがあるとは初耳です」

 

「……だろうと思って、講師を呼んでいる。時間がない。大急ぎでレクチャーを受けさせる為に迎えに来たんだ!」

 

「あのう、昼食は抜きですか?」

 

「安心しろ。此方に来る時に内務省の売店でサンドウィッチを六人前買ってきたから移動中の車で食べろ」

 

 そして、挨拶もそこそこに走り去る二人を見送ったキルヒアイスがラインハルトに問い掛けた。

 

「准尉は式典で何を言ったんです?」

 

 キルヒアイスの問い掛けは完全にハンスの言葉を信用していない問い掛けであった。

 

「陛下から文武百官の前で何か不自由があれば遠慮なく申し出る様に言われてケーキを腹一杯に食べたいと言った上にタイミングよく腹の虫を鳴かせやがった」

 

「それは……」

 

 キルヒアイスも庇い様がなく絶句した。

 

「絶妙のタイミングだったから、その場にいた文武百官全員が笑いを噛み殺すのに苦労させられた」

 

「それで茶会に招待する事に」

 

「挙げ句に式典が終了して退場の時は出席者用の退場口ではなく、係員用の出入り口から退場しようとする」

 

「それで……」

 

 ラインハルトがハンスの襟首を掴んで出て来た理由が分かった。

 

「あいつ、陛下の前で粗相をしなければいいのだがな」

 

「それは難しいでしょうね」

 

「内務省の職員達も色々と苦労する」

 

「しかし、何日か後には准尉は軍務省に身柄を移されて軍務省預りになりますね」

 

 ラインハルトが本気で嫌な顔をする。

 

「ハンスとは関わらない様にするのが賢明だろうな」

 

「その方が宜しいでしょうね」

 

 キルヒアイスがラインハルトの利己主義に珍しく同調した。

 明後日にはアンネローゼとの貴重な面会が控えている。余計な事に巻き込まれたくないのが二人の本音であった。

 

 

 一方、ハンスは昨晩以上の猛稽古に辟易していた。内務省から送り出される時はディナーのテーブルマナーの講習もすると宣言されてしまった。

 

(レストランに住んでいたからディナーのテーブルマナーとかは知っているのに)

 

 そう思っていても内務省職員には世話になっている為に口にする事が出来なかった。

 暗澹たる気持ちもフリードリヒと馬車に乗ると雲散霧消してしまった。

 宇宙船で数千光年も移動する時代に馬車などは珍しいのは当たり前である。

 

「うわ!速いなあ。それに揺れると思っていたけど意外と揺れないものですね」

 

 フリードリヒも苦笑するしかない。ハンスの裏表の無い態度に好感を持ってしまう。

 フリードリヒが市井に生まれていれば善良な臣民として生涯を終えていただろう。物心が付いた時から後継者争いに巻き込まれ望まぬ帝位を継いで来年で三十年になる。色々と気苦労の絶えぬ日々であったが、ハンスを相手にしていると心が和む。

 

「まだ、喜ぶのは早いぞ。卿が望んだケーキを馳走してやろう」

 

「有り難う御座います。陛下!」

 

 ハンスの喜ぶ笑顔にフリードリヒも相好を崩す。この様な気持ちを持ったのは久しぶりである。

 

(不思議なものよ。孫を相手にしても和まぬ余を和ませるとは)

 

 フリードリヒにはハンスは野心の無い無垢な存在に見えたが、これは一面の事実であった。

 ハンスの野心の大半は帝国に亡命を受け入れられた時点で成就していて、野心らしい野心は皆無に等しかった。

 但し、ハンスの唯一の悩みは逆行者として未来を知っている事、このまま帝国でプロパガンダとして安穏無事な生活を享受するか、多少のリスクを覚悟でこれから流される血を減らす為に尽力するかの選択だけであった。

 現時点では馬車に乗りケーキを食べれる事を単純に喜んでいた。要するに能天気なのである。

 

 やがて馬車は一軒の屋敷の前で止まった。馬車を降りると出迎えの列の中から一人の若い金髪の女性が進み出てきた。

 

「陛下にはご機嫌麗しゅう御座います」

 

 ハンスには女性の見事な金髪を見てラインハルトの姉のアンネローゼである事が分かった。

 アンネローゼは逆行前の同盟やバーラト自治領の両時代で有名であった。

 前者では皇帝の寵姫として、後者では人道支援として私費で義手義足や最新の医療機器を寄贈した篤志家として、ハンスも恩恵を受けた一人である。

 

(綺麗な人だな。女優のヘッダさんとは違う美しさを持つ人だな)

 

「固い挨拶はよい。それより、この者に其方のケーキを馳走してやるがよい」

 

「あのう、陛下。こちらのフロイラインは何方様でしょうか?」

 

 知っていても一応は聞くのは逆行者としての保険である。

 フリードリヒが紹介の労をとったがアンネローゼは昨日の放送を観ていたらしくハンスの事を知っていた。

 

(後宮の姫様まで知っているって、本当に帝国中の人に顔を知られているのか。ヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツの苦労が分かった気がする)

 

「准尉、そんなに心配しなくても顔までは覚えている人は少ないですよ。私も陛下から連絡が無ければ気付きませんでしてよ」

 

 ハンスの表情を読み取ったアンネローゼの言葉に胸を撫で下ろすハンスであった。ただ、この場合は分母が帝国臣民の殆どなので分子の数字も大きくなる事にハンスは気付いていない。

 

 案内された部屋には三種のホールケーキが一個ずつ用意されていた。全てアンネローゼの手製のケーキである。

 ケーキには不慣れなハンスにもアンネローゼのケーキの味は一流パティシエのケーキと比べても遜色が無い事がわかる。

 

「本当に美味しいです!」

 

 ハンスの言葉が社交辞令ではない事が食べる勢いが証明している。

 マナー通りの食べ方だがスピードが桁違いに早い。

 

「これが若さか」

 

 ハンスの食べる姿を見てフリードリヒも自分の若い頃を思い出していた。

 アンネローゼは単純に自分の作ったケーキを頬張るハンスを見て喜んでいた。

 

「こんなに喜んで食べて貰えたら作り甲斐があるわ」

 

 ラインハルトとキルヒアイスの前でしか見せない上機嫌のアンネローゼを見てフリードリヒは神妙な面持ちになる。

 

(余の前では見せた事の無い表情だな)

 

 僅か15歳で家族と引き離し後宮に閉じ込めた事に改めて罪悪感を感じてしまう。

 しかし、アンネローゼの存在に自分が救われている事も事実である。

 

「美味しかった!」

 

 ハンスが全てのケーキを平らげたて満足そうに紅茶を口にする。

 アンネローゼは相変わらず満面の笑みを浮かべている。

 

「しかし、卿の胃は大丈夫なのか?」

 

 フリードリヒの疑問も当然と言える。大きくないとは言え、ホールケーキを三個をほぼ一人で完食しているのである。

 

「はい、大丈夫です。成長期ですから」

 

 そういう問題ではないと思うがハンスの満足そうな笑顔にフリードリヒも追及する気が失せる。

 更にハンスが予想外の事を言い出した。

 

「陛下、臣がグリューネワルト伯爵婦人の弟子になる事を許可して下さい」

 

「弟子とは何の弟子になるつもりか?」

 

「はい、ケーキ作りの弟子になりとう御座います」

 

「卿は軍人になるつもりでは無いのか?」

 

「すぐに軍を離れる気はありません。しかし、将来的には軍を離れ自分の店を持つつもりです」

 

「ふむ、余は構わぬがアンネローゼは?」

 

 突然の事にアンネローゼも最初は驚いたがハンスの言葉を聞いて妙に納得していた。

 

「私より専門の職人に弟子入りしては良くなくて?」

 

「大量に作る事の技術は菓子職人の方が上でしょう。しかし、レストラン客みたいに少数の人に提供するならグリューネワルト伯爵夫人の質の高いケーキが最適です」

 

「陛下さえ良ければ私は構いませんよ」

 

「アンネローゼが構わぬと言うなら余にも異存は無い。これからは時間が空いた時に習いに来るがよい」

 

「陛下、畏れながら、それでは道理に反してしまいます」

 

「何、道理に反すると?」

 

「はい、グリューネワルト伯爵夫人の実の弟であるミューゼル中将でさえ好きな時に会えぬのに弟子とは言え臣が好きに会えるのは道理に反します。それに臣も軍籍を置く身です。上官たるミューゼル中将に睨まれたく御座いません」

 

「つまり、アンネローゼの弟にも同じ権限を与えろと卿は言いたいのか?」

 

「御意に御座います。さすれば感謝されても睨まれる事は無いと愚考します」

 

「卿の言い分も尤もじゃな。宜しいアンネローゼの弟にも卿と同じ権限を与える」

 

「有り難き幸せ」

 

 この事が後にハンス個人だけではなく銀河の歴史を大きく塗り替える事になるとはハンス自身も予想していなかった。

 



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デビュタントとの夜

 

 帝国歴485年12月31日 新無憂宮 翡翠の間

 

 議会が存在しない帝国ではパーティー等の人が集まる場所が秘密裏の議会となりパーティー等に参加する事は重大な仕事でもあった。

 しかし、この日のパーティーは別の意味でも貴族達には重大な意味を持つものであった。

 軍部では将官以上の者、文官では局長の地位以上の者、貴族では爵位を持つ者とその子女のみである。例外として特別に許可を貰えた者も参加を許される。

 そして、爵位を持つ者の子女に取っては一生に一度の晴れ舞台でもある。

 普段は深窓の姫君として屋敷から出る事のない姫君が、このパーティーに参加する事により社交界にデビューする日でもある。

 このパーティーで素敵な異性と踊る事は帝国の娘達の憧れであり、この日に社交界にデビューする少女達をデビュタントと呼ぶ。

 しかし、普段は深窓の姫君として過ごしている少女達である。積極的になれずに壁の華として声を掛けられる事を待っている者も少なくない。

 

 そんなパーティーの中で談笑する相手も無く壁の華に目も向けずに若い食欲を満たす事に専念する若者が二人いた。ハンスとラインハルトである。

 

「閣下、お久しぶりで御座います」

 

「ハンスか。息災だったようだな」

 

「年内は大変でしたが、やっと開放されました」

 

「研修は大変だった様だな」

 

「内務省の研修も大変でしたけど、軍務省の研修は桁違いでした。幼年学校で数年掛けて習う事を半月で覚えるさせるとは無茶ですよ」

 

「まあ、そういう言うな。実際に幼年学校で習う事は実技科目を除けば軍科目は意外と少ないからな」

 

「そうだったんですか!」

 

「絵画やダンスも習ったぞ」

 

「幼年学校って、軍人養成所ですよね?」

 

「軍人だけではなく医者の卵や技術者の卵も養成している」

 

「そうなんですか」

 

「それより、姉上の事、卿に会ったなら礼を言わねばならんと思っていた。改めて礼を言う」

 

「礼を言われる様な事では有りません。弟子の自分が自由に会えるのに実の弟である閣下が会えないのは道理に反するからです」

 

 この二人、パーティー開始から参加していたが料理の攻略に夢中で互いの存在に気付きながら会話を始めるまで二時間の時が必要だった。

 

「それと平行して卿には苦情も言わねばならん。あれ以来、姉上はケーキ作りの毎日らしい」

 

「それが何か?」

 

「卿と会った次の日に大量のケーキの材料を仕入れたらしく。リヒテンラーデ侯が後宮でケーキ屋でも開業するかと半ば本気で疑う程の量だったらしい」

 

「……」

 

「……」

 

「僕がケーキ作りを習いに行けるのは月に一度か二度程度と思います。流石にそれは……」

 

「まあ、姉上が大量に物を買うのは昔からの事だからなあ」

 

「はあ」

 

 ラインハルトの述懐に共感もするが自分が苦情を言われる事でもないと思った。勿論、口に出せなかったが。

 

「私も子供の頃に姉上によく買い物に付き合わされたものだ」

 

「もしかして特売の時ですか?」

 

「卿は、よく分かったな」

 

「もしかして出入りの業者から大量に買うと安くなるとか言われたかもしれませんね」

 

 ハンスの言葉に思い当たる節があるラインハルトだった。

 

「姉上も伯爵夫人なのだから、貧乏性を治して頂かないと……」

 

 自覚の無い貧乏性が偉そうに論評する。この場にキルヒアイスが居れば呆れ半分に「貴方も十分に貧乏性です!」と、言った事であろう。

 

「閣下、反対方向よりは遥かに良いと思いますよ」

 

「それはそうだがな」

 

「それより、閣下はダンスは踊れますか?」

 

「一応は幼年学校で習ったからな。しかし、男同士で踊る気はないぞ」

 

「僕も閣下と踊る気はありません。先程、仲良くなったフロイライン二人組がダンスの相手を探していましたから閣下が協力して頂くとフロイラインと僕も踊れるのですが」

 

「仕方ない。卿には借りがある」

 

「では、少しお待ち下さい。すぐに連れて来ます」

 

 五分後、ハンスが金褐色とクリーム色の髪をした二人の少女を連れて来た。

 二人とも美しい少女で濃い化粧もせずドレスも淡い色に控えめのデザインで二人の清楚さにラインハルトは関心した。

 かつてラインハルトはキルヒアイスに門閥貴族の姫君を「ケーキ」に例えて、外側は美しく中身は甘いと酷評した事がある。

 そのラインハルトさえ二人を見て好印象を抱いた。

 

「閣下、此方のフロイラインはドルニエ侯の姫君です」

 

 ハンスの言葉を引き継いで金褐色の髪をした娘が口を開いた。

 

「初めましてミューゼル閣下。マリー・フォン・ドルニエと申します」

 

「そして、此方のフロイラインはフォカ伯爵の姫君です」

 

 クリーム色の髪をした娘がマリーと同じくハンスの言葉を引き継いで口を開く。

 

「初めまして、ミューゼル閣下。ゾフィー・フォン・フォカと申します」

 

「初めまして、帝国軍中将ラインハルト・フォン・ミューゼルです」

 

「閣下、ダンスまで時間が有りますので立ち話も何ですから、彼方のテーブルにでも」

 

 ハンスが半円形のソファーの席を指して提案した。全員で席につくとハンスとマリーが飲み物を取りに席を離れる。

 

「全く、落ち着きの無い奴だ。フロイライン達に何か迷惑でも掛けませんでしたか?」

 

「そんな事は有りません。逆に面白い話や色々とためになる事を教えてくれましたわ」

 

 ラインハルトも若い女性の扱いに長けてる若者でなく通常なら話題に困るのだが、今日はハンスという共通の知人をネタに話題は困る事はなかった。

 ハンスとマリーが帰ってきたのはダンスが始まる10分前である。

 飲み物を受け取りながらラインハルトがハンスに皮肉を投げつけた。

 

「随分と遠くまで飲み物を取りに行ってたらしいな」

 

「ええ、飲み物を取りに行くついでにフロイライン・ドルニエを口説いてましたから」

 

 皮肉を投げつけてもハンスの顔面の皮はイゼルローンの装甲並みに厚いらしく効果が無い様だ。

 

「……フロイラインには迷惑を掛けてないだろうな?」

 

「閣下、そんな事は有りませんわ。准尉はとても紳士ですわ」

 

 マリーが笑顔で助け船を出すのでラインハルトも仕方なしに引き下がる。

 気を取り直して、新年の乾杯をした。その後にハンスはマリーとラインハルトはゾフィーとペアを組みダンスを踊った。

 ラインハルトはハンスが踊れるか心配したが杞憂だったようでマリーのエスコートが巧みなのかもしれないが大過なくダンスを踊りきった。

 

 パーティーも終わり珍しく帰りの遅いラインハルトを心配したキルヒアイスが公用車を借りて迎えに来てくれていた。

 キルヒアイスはラインハルトが貴族の令嬢と一緒にいる事に軽く驚いたがハンスの姿を見て妙に納得した。

 公用車にフロイラインとハンスも同乗させフロイライン達を屋敷に送り届けた後にラインハルトが口を開いた。

 

「こんなにパーティーが楽しかったのは初めてであった。ハンスには礼を言う」

 

「此方こそ、楽しかったです」

 

「ハンス、単刀直入に聞くが誰に依頼されてフロイライン達と私を引き合わせたのか?」

 

 ラインハルトの目は嘘は許さぬという光が放たれていた。

 

「まあ、閣下が勘違いされるとは思っていましたけど……」

 

「ほう、勘違いとな。ドルニエ侯とフォカ伯と言えば帝国でも指折りの軍需産業の名家だがな」

 

「閣下、今夜のパーティーは名家ばかりが集まったパーティーてすよ。軍需産業と言っても帝国の軍需産業は貴族が独占しているでしょうに」

 

「では、今夜の事は偶然と卿は主張するのか?」

 

 ラインハルトの眼光が一段と強くなる。

 

「偶然では有りませんが、閣下の想定外の理由です」

 

 ラインハルトはハンスの言葉に疑惑より好奇心が刺激された。

 

「ならば、拝聴するか」

 

「その理由は、閣下が朴念仁ですから」

 

 確かに想定外の言葉に呆気に取られるラインハルトを無視してハンスが言葉を続ける。

 

「閣下にしたら、姉君以外の貴族の令嬢は頭の中は空っぽと思っていて女性の事に関しては無知無関心で女心など無理解ですから」

 

 ハンスが遠慮なく事実を指摘する言葉に運転席でハンドルを握っていたキルヒアイスも笑いの発作を耐える苦労を強いられた。

 

「それでは私が女性蔑視者に聞こえるではないないか!」

 

「女性蔑視者に聞こえるのではなく、実際に女性蔑視者なんです。自覚が無いとは重症ですね」

 

「……」

 

 既にトゥールハンマー並の致命傷を与えてるがハンスは容赦なく攻撃を続ける。

 

「どうせ、閣下の事ですからフロイライン達の化粧やドレスの色やデザインを見て貴族らしからぬ清楚な娘とか思ったんでしょう」

 

「……確かに」

 

「閣下の女性に対する審美眼は所詮はその程度なんです!」

 

「卿は私の評価が間違えてると言いたいのか?」

 

「間違いも何も基本的な知識が皆無です」

 

「では、卿は私より年少でありながら知識があると言いたいのか?」

 

「少なくとも閣下より有りますよ。まずは化粧から、あの二人の化粧は薄いようですが、あれはナチュラルメイクと言って、普通の化粧より手間も時間も掛かってます」

 

「そうだったのか」

 

「姉君も同じメイクをしてましたよ。まあ、元が良くないと自滅する化粧ですけど」

 

「……」

 

「次にドレスも色が淡く薄い色とデザインは胸が無いのを誤魔化す為です」

 

「……その、私が女性に無理解であった事は認める。だから、彼女らを引き合わせた理由を教えてくれ」

 

 流石のラインハルトも自分の無知を的確に指摘されて素直に降参した。

 

「それは、フロイライン・フォカは今年の六月に政略結婚をするんです」

 

「そうか。それは気の毒だと思うが、それと今夜の事の関係は?」

 

「本当に朴念仁ですね。結婚する前に、せめて憧れの人と話をしたい。ダンスを踊りたいと思うのが乙女心ですよ!」

 

 運転席で話を聞いていたキルヒアイスがラインハルト本人より先に理解していた。

 ラインハルトは類い稀な美貌の持ち主で、その事に本人が無関心な為、昔から女性から好意を寄せられても気付かない。ハンスが朴念仁と呼ぶのは仕方がないとキルヒアイスも思った。

 しかし、実際はキルヒアイスも宮廷の貴族の令嬢から小間使いの少女達からも「ノッポのハンサムさん」と人気がある事に気付いてない。その意味では似た者同士の二人である。

 

「閣下は中身は朴念仁ですが見映えはいいですし十代で将官ですからね。若い娘が憧れるのは当たり前です!」

 

「そうか」

 

「だから、途中で閣下とフロイラインを二人にしたんです!」

 

「そ、それは手間を掛けさせたな」

 

「閣下、別に僕は閣下を責めてません。ただ、閣下に理解して欲しいのは門閥貴族も自分家の家人や雇っている人達の為に必死になって犠牲を払っている人もいる事を知って欲しいのです」

 

「分かった。肝に命じておこう」

 

 返事こそ短いがラインハルトの内心では新鮮な驚きと大きな葛藤があった。

 門閥貴族が政略結婚する事は知っていたが、単に権勢を求めての事だと思っていた。しかし、ゾフィーの様に家人や雇っている人々の為に従容と犠牲になっている事の驚き。

 今まで増悪の対象でしかなかった門閥貴族も九年前のミューゼル家と同じ苦しみを持ち、更に覚悟も持っている事。

 

「まあ、帝国だけじゃなく同盟も同じ様なもんですけどね」

 

 ハンスの言葉には重い何かがあった。ラインハルトもキルヒアイスもハンスが同盟で何を見て何を経験したのか色々と気になったが、それは他人が迂闊に触れていけない事に思えて二人とも口にしなかった。

 

「そうだ。大事な事を忘れていた。少佐にはお土産が有ります」

 

 ハンスがいきなりキルヒアイスに声を掛けてきた。

 

「お土産とは?」

 

 ハンスが足元に置いてあったバッグの中から白いビニール袋を取り出しラインハルトに渡した。

 

「帰ってから温めずに食べられる物ばかりですから」

 

 横のシートに座っていたラインハルトが受け取った中身を確認して呆れてしまった。

 

「何時の間に卿は!」

 

 ハンスはパーティーで出された料理を使い捨てのフードパックに入れて持ち帰ってきていた。

 

「ダンスが始まる直前ですよ」

 

「まさか、ドルニエ家のフロイラインまで巻き込んではないだろうなあ?」

 

「大丈夫ですよ。巻き込んだりしてませんよ。それに大事な食べ物を廃棄するよりは良いでしょう?」

 

 悪びれずに堂々と宣言するハンスに呆れながらも感心してしまうラインハルトであった。

 

「卿には色々と驚かせられる」

 

 ハンスを送り届けた後の車中でラインハルトはキルヒアイスに問い掛けた。

 

「キルヒアイス、お前は俺より視野が広い部分がある。ハンスの事をどう思う?」

 

「そうですね。表面上の事から言えば色んな意味で恩義が有ります。しかし、准尉がラインハルト様に恩義を売る理由が不明なのが不安です」

 

「キルヒアイスも俺と同じ考えか。俺も最初は皇帝の寵姫の弟の歓心を買うつもりかと思ったが今夜の事を考えると違うらしい」

 

「ラインハルト様、はっきりと自分でも確信も無い推論なら有るのですが……」

 

「俺とお前の仲だ。言ってみろ」

 

「もしかしたら、准尉はラインハルト様に期待を寄せているかもしれません」

 

「……」

 

「准尉も同盟では悲惨な生活を強いられていました。帝国では厚遇されてますが、それでも社会の上層部に対しての恨みや怒りは国が変わっても持っているのかもしれません」

 

「それで、若い俺に期待をして広い視野を持たせる為に門閥貴族の娘達と話をさせたのか?」

 

「あくまでも、推論ですが……」

 

「キルヒアイスは奴をどう評価する?」

 

「年齢に似合わぬ見識と視野を持っていますが、それが実際に役に立つかは疑問です。しかし、対同盟に関して准尉が知る情報は有益です」

 

「俺達に有益かは判別するには情報不足だが、帝国軍としては有益か」

 

「軍部が、その事に気付いているか疑問ですが」

 

「ふん、情報の貴重さを理解してない奴が多すぎるからな」

 

「どちらにしても、今暫くは様子を見た方が賢明でしょう」

 

「そうだな。奴はまだ若い。暫くは様子を見てもいいだろう」

 

(もし、准尉がラインハルト様の障害になるなら自分が排除する。だが、果たして自分に出来るのか?)

 

 グリンメルスハウゼンの時は力量的に不安を感じたがハンスに対しては別の意味で不安を禁じ得ないキルヒアイスであった。

 

 キルヒアイスが葛藤している時に張本人は自室でパーティーから持ち帰ってきた料理を堪能していた。

 テーブルの上にはローストビーフにフォアグラにキャビア。それに薄切りのライ麦パンにチーズ各種。ちゃっかりとサラダとワインまで並んでいる。

 

「ダンスで体を動かした後の食事は格別だね」

 

 ローストビーフと一緒にサラダとチーズを薄切りパンで挟んだ即席のサンドウィッチを食べた後にフォアグラとキャビアを薄切りパンに乗せてワインを楽しむ。

 

「ワインにはキャビアよりフォアグラが合うなあ」

 

 心地よい達成感を感じながらの食事は格別である。今夜のパーティーは思わぬ収穫があった。

 ラインハルトに門閥貴族の労苦の一端を見せる事が出来た。

 ラインハルトは自分やキルヒアイスに同盟のヤンと違い非常の際は非情になれる男である。

 キルヒアイスを亡くした直後にはリヒテンラーデ侯の一族で十歳以上の男子を皆殺しにしている。

 ラインハルトの根幹には姉を奪った門閥貴族に対する復讐心が強く無用な血を流し過ぎる。

 今夜の事でラインハルトの復讐心が無に還る事はなくても僅かでも心理的ブレーキになればと思う。

 急ぐ必要はない。ラインハルトが元帥になるまでに少しずつでよい。苛烈な性格に寛容の芽を育てればよい。

 ラインハルトやキルヒアイスの思惑など気にせずにハンスは逆行前の人生では縁がなかった料理を味わいながら能天気に充実感と料理を満喫していた。

 



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第三次ティアマト会戦 前日談

 

 帝国歴486年1月末

 

 宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥を総司令官として艦艇三万五千四百隻が出征した。

 この中には中将として従軍するラインハルトと副官としてラインハルトに付き従うキルヒアイスの姿もあった。

 そして総司令官ミュッケンベルガーを取り巻く幕僚の集団の中には司令部付き情報武官としてハンスの姿もあった。

 

 一方、フェザーン経由で帝国軍の出征を知った同盟では、アレクサンドル・ビュコック中将、ウランフ中将、ウィレム・ホーランド中将の三個艦隊を先発隊として派遣を決定した。国防委員会の承認を得られ次第、パストーレ中将とムーア中将の二個艦隊も投入される手筈である。

 この時に既に帝国軍はイゼルローン要塞に到達していて最終的な補給を行っていた。

 

「ラインハルト様、元帥閣下の旗艦での会議の時間になりました。ご用意ください」

 

「分かった」

 

 いつもは我儘を言ってキルヒアイスを手古摺らせるラインハルトが珍しく素直に会議の用意を始める。

 

(手が掛からないが覇気が無いなあ。かなりの重症だが無理もないか)

 

 覇気の無いラインハルトというのも稀有なのだが部下の目には不気味に写るらしくキルヒアイスにラインハルトの体調の安否を聞いてくる者もいた。

 ラインハルトを送り出した後に、何度目であろうか。今度は艦長がラインハルトの体調の安否を聞いてきた。

 

「副官殿、提督の体調は大丈夫でしょうか?」

 

「大丈夫ですよ。初めて一個艦隊を指揮する事に緊張しているだけですよ」

 

 同じ事を部下達に言うのは、これで何回目であろうか。

 

「そうですか?」

 

 流石に准将に昇進して以来の付き合いの長い艦長である。ラインハルトの事をキルヒアイスの次に理解しているらしい。

 

「艦長には何か異存でも?」

 

「うちの提督が緊張する様な可愛気のある人ですかね。姉君と喧嘩したとか姉君に怒られたとかなら納得が出来ますけど」

 

(そんな事になったら、この程度では済まないけどなあ)

 

「まあ、提督も若いから失恋したとかなら可愛気もありますけど……」

 

 失恋して落ち込むラインハルトを想像してみたがキルヒアイスの脳裏には映像化不可の文字が写しだされた。

 

「副官殿でも分からないなら自分達には分からないでしょうね」

 

「まあ、閣下の事ですから戦闘が始まれば、いつもの閣下に戻りますよ。安心して大丈夫だと私が保証しますよ」

 

「まあ、あの人も単純な人ですからね。戦闘が始まれば、いつも通りにカリカリするんでしょうけど……」

 

 本来なら艦長の発言は上官侮辱罪に相当する内容だったが事実なだけにキルヒアイスも苦笑するしかなかった。

 

 部下から単純と評された若者は珍しく会議も上の空であった。

 元からラインハルトに意見を求められる事もなく会議に出席しているだけだが、いつもは口に出さないだけで突っ込みを入れたり挙げ足を取ったりと熱心なのだが、それまでは漫然としていた。

 

「次に既に三個艦隊をティアマト星域に布陣している敵将については司令部独自の情報があるので、これから説明させる」

 

 情報武官としてハンスが会議室に入室した途端、ハンスに反応したか敵将の情報に反応したかは不明だがラインハルトの目に覇気が甦る。 

 

「皆さんが御存知の通りに小官は敵軍内部には、些か精通していますので敵将について説明させて頂きます」

 

 スクリーンにホーランドの顔が写しだされる。この後の議事録は五分間分はホーランドに対するハンスの罵詈雑言で埋め尽くされる事になる。

 

「以上の様にホーランドは机上の空論を玩び虚栄心が強いだけの男ですので、戦闘が始まれば必ずスタンドプレーに走りますので相手にせず、此方が後退すれば必ず追撃して来ますので友軍は後退を繰り返してホーランドを味方から引き離し孤立させた上で行動の限界点に達した時に攻撃すれば簡単に壊滅します」

 

 スクリーンに写しだされる顔がホーランドからビュコックに代わる。

 

「次の敵将ビュコックですが、現時点で敵軍内部では随一の能力の持ち主です。あの第二次ティアマト会戦の時から兵卒として戦場を往来していて経験では敵味方を合わせても一番の人物です。敵軍内では老練という言葉はビュコック以外に使うなとも言われる程の指揮官です」

 

 スクリーンに写しだされる。顔が今度はビュコックからウランフに代わる。

 

「次の敵将ですが敵軍内部では次の宇宙艦隊司令長官と評されている人物です。人望、実績、能力ではビュコックに次ぐ司令官です。特に攻撃の精悍さではビュコックを凌ぐと評されています。説明させて頂きました通り今回は敵軍の2トップとアホ一名ですので狙い目はアホになるでしょう。アホの艦隊を潰せば数で不利になる敵軍は敗走する事は自明の理です」

 

(最後は名も言わずにアホ扱いか。どんな恨みがあるんだ?)

 

 ラインハルトの内心の声は会議室に居る全員の声でもあった。

 

「オノ准尉の情報によると帝国軍の勝利は疑いないものである!」

 

 ハンスのアホ発言で場の雰囲気が変になり掛けたがミュッケンベルガーが強引に場の雰囲気を元に戻す。

 

「戦勝の前祝いとして酒を空け、皇帝陛下の栄光と帝国の隆盛を卿ら共に祈るとしょう!」

 

 ミュッケンベルガーが元帥らしく場を引き締める。

 全員が乾杯して散会となった時にラインハルトはミュッケンベルガーに呼び止められた。

 

「ミューゼル中将は私の執務室に出頭せよ。部下は先に帰す様に」

 

「了解しました」

 

 ラインハルトは参謀長のノルデン少将に入れ替りにキルヒアイスを迎えに来させる様に命じてからミュッケンベルガーの執務室に行く。

 執務室に入るとミュッケンベルガーがデスクではなくソファーで待っていてラインハルトにもソファーに座る事を指示する。

 

「卿は何歳になる?」

 

「今年で十九歳になります」

 

「そうか。食事は摂れているのか?」

 

「はい」

 

「そうか。体調は大丈夫か?」

 

「はい」

 

(ミュッケンベルガーの奴は何がしたいのだ)

 

「何か悩み事はないのか?」

 

「いえ何もありませんが?」

 

「そうか」

 

「……」

 

「まあ、若い時は色々あるからなあ。卿とて失敗はある」

 

「はい」

 

「失敗も、その時は辛いが歳を取ると懐かしい思い出になるもんだ。私も例外ではない」

 

「失礼ですが私は何か失敗したのでしょうか?」

 

「確かに失敗ではない。人を好きになる事は。失恋も人を成長させる糧になる」

 

「あの閣下、まるで私が失恋したみたいに聞こえますが?」

 

 ミュッケンベルガーがラインハルトの言葉を聞いた瞬間に顔色を変える。

 

「何、いかんぞ。卿だけの問題では無くなる。姉君の立場も悪くするし各方面の関係も悪化するぞ!」

 

「閣下、私は現時点で特定の女性と交際もしていませんが、閣下は私が駆け落ちでも考えてると勘違いをしていませんか?」 

 

「違うのか?」

 

「そんな相手はいません!」

 

「なんだ、紛らわしい!」

 

(それは、こっちの台詞だ!)

 

「卿が珍しくパーティーでフロイラインとダンスをしているから勘違いしてしまったわ!」

 

 ミュッケンベルガーの言葉にラインハルトも我慢しきれずに溜め息をつく。

 

「では、単刀直入に言うが卿が新年の休暇明けから元気が無いと卿の知り合い数人から報告があったのだ!」

 

「確かに休暇明けから頭の痛い問題を抱えていましたが、こんな事になるとは」

 

「その問題はなんなのだ?」

 

 ミュッケンベルガーに問われてラインハルトは数瞬の間に考えてミュッケンベルガーも問題に巻き込む事に決めた。

 

「上官たる閣下も知っていたほうが宜しい問題ですが他言無用でお願いします」

 

 ミュッケンベルガーもラインハルトの言葉に身構える。

 

「最初から、そのつもりだ」

 

「では、事の起こりは例のパーティーなのですが、あの夜に自分はファカ伯の令嬢とオノ准尉はドルニエ侯の令嬢とパートナーを組んでダンスをしました」

 

「うむ、私も覚えている。卿が珍しくパーティーを楽しんでいたからな」

 

「それでは話が早い。その時にドルニエ侯の令嬢がオノ准尉を見初めてしまったのです」

 

「……」

 

「……」

 

「私の聞き間違えか。見初める方と見初められる方が逆だと思うが……」

 

「閣下、お気持ちは分かりますが間違いありません。後日、私はドルニエ侯に呼ばれて令嬢の前でオノ准尉の気持ちと好みの女性のタイプを探る様に依頼されました」

 

(ドルニエ侯の人選ミスも甚だしいわ。よりにも寄って朴念仁のミューゼルを指名するとは)

 

 内心では事実とは言え失礼な事を考えているミュッケンベルガーだったが口に出したのは違う話である。

 

「卿が依頼されたのなら卿が責任を持つ様に」

 

ミュッケンベルガーの言葉にラインハルトも慌て気味に反論する。

 

「ちょっと待って下さい。オノ准尉は閣下の直属の部下であり、上官かつ年長者である経験豊富な閣下が私より確実ではありませんか!」

 

 ラインハルトに言われミュッケンベルガーも慌て気味に反論する。

 

「卿も分かっている筈だ。二人の仲を取り持っても早晩に破局する事は!」

 

「そうとは限らんでしょう!」

 

「ええい、惚けるな。どうせ令嬢も直ぐに目が覚める。オノが棄てられるのは時間の問題だろう!」

 

「閣下は先程、失恋は人間として成長する糧となる言っていたではありませんか!」

 

「卿とオノでは話が違う。奴の場合は下手したら自殺か無理心中でも起こしかねん!」

 

「……」

 

 ハンスの行動力は亡命という実績が既にあり、ミュッケンベルガーの危惧も現実味がある。

 ラインハルトもミュッケンベルガーと同じ危惧があり仲を取り持った負い目を持ちたくないのが本音である。

 

「オノが私の直属の部下と言うならば本日付けで卿の麾下に配属させよう」

 

「……了解しました」

 

 この二人、失礼な事にハンスがマリーから棄てられる事を前提条件として話を進めている。意外と似た者同士かもしれない。

 そして、失礼極まりない理由と責任の押し付け合いの結果、ハンスはラインハルトの麾下に配属された。

 この事により銀河の歴史は大きく変わってゆくのだが、この顛末をラインハルトはキルヒアイス以外の人間には生涯の秘密とした。



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第三次ティアマト会戦

 

 ハンスがラインハルトの麾下に配属された翌日に帝国軍は同盟軍とティアマト星系で対峙した。

 戦闘の開始は平凡な幕開けとなった。双方が相手側の詭計を警戒した為である。

 第三次ティアマト会戦に参加した戦力は帝国軍は艦艇三万五千四百隻、同盟軍は艦艇三万三千九百隻であり戦力的には互角と言えた。

 しかし、同盟軍では既に追加の二個艦隊の出撃が国防委員会から承認されハイネセンを進発している。

 帝国軍もイゼルローンにはゼークト大将が率いる要塞駐留艦隊が何時でも出撃が出来る準備をしているがミュッケンベルガーとしては要塞駐留艦隊を使わずに勝敗を決したいのが本音である。

 帝国軍の基本戦略は同盟軍の追加された艦隊がティアマト星系に到着する前の短期決戦であり、同盟軍はロボスが率いる追加の二個艦隊が到着するまで損害を最小限に抑える引き延ばしが基本戦略であった筈である。

 

「本当に准尉の言う通りに突出して来た部隊がいますね」

 

 ミューゼル艦隊旗艦タンホイザーの艦橋でキルヒアイスが軽い驚きを込めて呟く。

 

「理論を無視する事が奇策と勘違いしている様だな。ハンスがアホ呼ばわりするのも当然だな」

 

 ラインハルトもキルヒアイスと同様に軽い驚きもあるが、ハンスの批評通りに突出するホーランド艦隊に呆れてる。

 

「しかし、あの艦隊運動は芸術的ですね」

 

「芸術とは非生産的だな。エネルギーを無駄に浪費しているに過ぎん」

 

 ラインハルトが殊更にホーランドを貶すのは八つ当たりも兼ねている。

 ミュッケンベルガーからハンスを押し付けられた事と後方待機を命じられた事がラインハルトには不満なのである。

 

「まあ、オノ准尉を配属された事は幸運だと思いますよ。事実、オノ准尉の予測通りに敵が動いてます。それに後方待機となれば決戦時の貴重な戦力となり得ます」

 

 キルヒアイスの慰めにラインハルトは更に渋い顔になる。

 

「ふん、そのハンスの助言を活かせない連中が目の前で右往左往している。人材とは居ないものだ。俺とキルヒアイスだけでは限界があるし」

 

 このラインハルトの言葉には流石にキルヒアイスも慰め様がなかった。

 

「そう言えばハンスはどうした?」

 

「その、味方が無駄に血を流すのを見るのが辛いと食堂に居ます」

 

「あいつはキルヒアイスより優しい性格をしてるかもしれん」

 

 ラインハルトはハンスに対する評価を改めていた。最初はハンスの境遇に同情していただけでハンスの能力を考えもしなかった。

 しかし、ホーランドの突出を予測して、更に対応策も提示していた。年齢に似合わない才能と見識だと思う。ミュッケンベルガーから押し付けられた形だが、お互いにアヒルと思っていたのは実は美しい白鳥の雛だったかもしれない。

 

 ラインハルトがハンスを人材としてスカウトするか思案中に能天気にラインハルトのストレスの一因が艦橋に入って来た。

 

「敵軍にも優秀な人材がいるものですね」

 

(こいつは会議中のハンスの説明を聞いていなかったのか!)

 

 ラインハルトはホーランドを敵ながら天晴れと称賛するノルデンを無視して麾下の艦隊に後退を命じる。

 何か言い募るノルデンには口を開く労も惜しみ手だけで追い払う。

 

「ラインハルト様!」

 

 キルヒアイスが言外にノルデンに対する態度を窘める。

 

「分かっている。それよりはハンスを呼んでくれ。あいつの意見を聞きたい」

 

 キルヒアイスもラインハルトの忍耐力の限界を感じ素直に命令に従う。

 

 五分後、ハンスがノルデンを連れて艦橋に現れた。

 

「話は参謀長から聞きました。閣下も短気を起こさないで下さい。閣下と同じ物が見えたら参謀長も艦隊司令官をしてますよ。それに年長であろうが部下を育てるのは上司の役目です!」

 

 開口一番、ハンスはラインハルトに説教を始めた。流石のラインハルトもハンスの正論には及び腰になる。

 

「卿の言うとおり私が悪かった。以後は短気を起こさない様に努力する」

 

 短気を起こさないと言わないのはラインハルトが素直なのか狡猾なのか微妙である。

 

「それで、小官をお呼びになった理由はなんでしょう」

 

「そうだ。卿に、この後の展開の意見を聞きたいと思ってな」

 

「敵の行動限界点は一時間前後だと思います。そろそろ攻撃しやすい場所に移動するべきだと思います」

 

「ほう、卿は敵の行動限界が近いと思うか。その根拠は?」

 

「我が軍はティアマト星系に入る時間は調整して兵士に休養を与えてますが敵軍は休養を与える余裕が無いまま戦端を開きました。最初に二時間は平凡な撃ち合いでしたがアホが踊り始めて三時間半になります。あれだけの方向転換を繰り返したら燃料の消費も限界ですし、機関士の体力も限界でしょう」

 

「それから?」

 

「アホを撃ち取るのは簡単ですが、ビュコック提督とウランフ提督はアホを見放してもアホの下で苦労した将兵を見放さないでしょう。恐らくはアホが壊滅した後の後始末も考えてますから深追いはせずに形だけの追撃にするべきです」

 

「卿の考えは私と同じだ。卿には艦橋にて勝利の瞬間を堪能してもらおう」

 

 ハンスの意見を聞いて喜ぶラインハルトと対照的にノルデンの表情は暗い。

 ノルデンは士官学校を優秀な成績で卒業して子爵家の嫡男という部分を割り引いても出世の早い方であり、ノルデン自身も自分の才幹に自信を持ち出世の早さが自慢であったが、目の前の二人に才能の違いを見せ付けられてしまった。

 

(気の毒だが、この方はラインハルト様の役に立たぬ)

 

 キルヒアイスはノルデンの心情を正解に把握しており、ノルデンに同情もしているが冷徹に評価もしていて人材としては不可を与えている。

 

(問題は准尉の方だな。才幹の部分では問題が無い。人格的にも問題が無い。性格的には私以上に軍人に向いていないのでは)

 

 キルヒアイスも本来は才能に反比例して軍人には向いてない性格である事は自他共に認める事であったがハンスに関しては自分以上に向いていない。ラインハルトを補佐する人材としては得難いのだがハンスには軍人以外の道を歩ませるべきではとキルヒアイスは思う。

 

(私が口を出す問題ではない。准尉が自分で選択する事だな)

 

「閣下、敵の動きが鈍くなりました」

 

「そろそろだな。全艦、砲撃準備!」

 

 ホーランド艦隊の動きが鈍くなり動きが止まる瞬間をラインハルトは見逃さなかった。

 

「ファイエル!」

 

 ラインハルトの手刀が空を切る。光の線が標的に当たるまでに線から棒になり直撃を食らった艦は蒸発する。光の点の群れの中央に大きな黒い穴が現れる。

 

「第二射用意!」

 

「ファイエル!」

 

 とどめであった。最初の一撃で旗艦を失い恐慌状態になったところでの一撃である。

 この機を逃さずに帝国軍の他の艦隊が襲いかかる。

 ラインハルトが前進を命令しようとしたらキルヒアイスとハンスが無言で制止する。

 

「そうだな。熱くなり過ぎた様だ。私もハンスの言葉を忘れていた」

 

 ホーランド艦隊は壊滅したがビュコックとウランフの艦隊は健在であり、逃げるホーランド艦隊の敗残艦を襲う帝国軍に対して手痛い反撃を見舞う。

 反撃する度に怯む帝国軍ではあるが執拗に追撃を繰り返しビュコックとウランフの防御陣に阻まれ、遂には逃げきられてしまった。

 

「ハンスの言う通り、同盟にも人材は居るではないか!」

 

 ラインハルトは機嫌が良い。同じ戦うなら巨大な敵と戦いたいものである。

 それにハンスという人材も得る事が出来た。性格的に難点もあるが適材適所で性格に向いた部署と権限を与えれば宜しい。

 因みにドルニエ侯からの依頼をすっかりと失念しているラインハルトであった。

 

 ラインハルトから人材と評されたハンスの心境は複雑である。

 ラインハルトの麾下になり戦局を予測してしまった。本当は逆行前の知識でしかない。

 

(これで未来の皇帝に目を付けられたな)

 

 ラインハルトの人材収集欲は有名である。自分もラインハルトの麾下に配属されたからには帝国の動乱に巻き込まれる可能性が高い。

 

(そろそろ決断するべきか)

 

 時期を見て軍を辞めてオーディンの何処かのレストランに就職するつもりだったのだが果たして無事に辞められるか不安になってきた。

 

(こんな事なら情報提供するんではなかった)

 

 ハンスはミュッケンベルガーが引退する時に一緒に軍を辞めるつもりであった。

 その為に情報を提供してミュッケンベルガーが自分を離さない様にするつもりがラインハルトの麾下に配属されてしまった。

 

  第三次ティアマト会戦は終了したが敵味方の勝敗だけでなく多くの人の明暗を分ける戦いになった。



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功績と昇進、ケーキと和解、義姉と安寧

 

 オーディンに凱旋したハンス達には昇進が待っていた。

 ラインハルトが軍功第一とされハンスが軍功第二とされた。

 ラインハルトの軍功には異論もあったが不利な状況から逆転させた事実は変わりなく大将に昇進となりキルヒアイスも少佐から中佐に昇進となった。

 ハンスも准尉から少尉になった。一つの功績が一つの昇進になるなら、敵の行動を正確に予測した事と対応策を提示した事も合わせて中尉にという話もあったが、これはミュッケンベルガーが制止した。

 

「軍隊の階級は功績の為の賞品ではない。少尉は士官の基礎を学ぶ軍人には大事な地位である。功に対して報いる事が少ないなら一時金にすれば良い。此方の生活を始めるにも色々と物入りだろう」

 

 これには誰も反論せずに情と理の両方を納得させた。何よりハンス当人が喜んでいた。

 

「これで大型の冷蔵庫が買える!」

 

 自炊生活に慣れたハンスにとっては独身者用官舎の小型冷蔵庫では食材が入りきらずに困っていたのだ。

 キルヒアイスもハンスも昇進したが役職は副官と情報武官のままである。

 ラインハルトの役職は権限の無い名誉職のみで軍首脳部の思惑は露骨であった。ラインハルトを本当に喜ばせた礼遇もあった。

 皇帝から個人に旗艦が与えられるのである。

 ラインハルトが溺愛し生涯の旗艦とした「ブリュンヒルト」との出会いである。

 ラインハルトとキルヒアイスが旗艦の受け渡しに赴いた日にハンスはアンネローゼの元にケーキ作りを習いに来ていた。

 

「本当にハンスは筋がいいわね」

 

「お師匠様の教え方が上手なだけですよ」

 

 アンネローゼは弟子の成長を喜ぶと同時に自己鍛練も怠る事はなくケーキを作る毎日であった。

 酒飲みのフリードリヒには顔を見せる度にアンネローゼが笑顔で差し出すケーキが苦行だったらしく最近はアンネローゼを避けてベーネミュンデ侯爵夫人の元に通っているらしい。

 

(何か良い方向に向かっているのでは)

 

 ハンスとしたらベーネミュンデ侯爵夫人は気の毒に思えていた。市井の庶民の娘でさえ恋人や夫が浮気をしたら怒り狂うものである。

 ましては浮気じゃなく本気になられたら刃傷沙汰も珍しくない。

 ハンスに理解が出来ないのは裏切った男ではなく相手の女性に怒りが向かう事なのだが。

 

(この場合、怒りの矛先がラインハルトなら別に良いか。こんな優しい美人の姉がいて女に苦労はしてないみたいだし)

 

 完全に僻み根性である。

 

(このままフリードリヒとベーネミュンデ侯爵夫人との仲が持続すればベーネミュンデ侯爵夫人本人だけではなく周囲の人間も幸せなんだが)

 

「ねえ、お師匠様。作ったケーキをベーネミュンデ侯爵夫人にプレゼントしたら如何でしょうか?」

 

「あの方は私をお嫌いの筈ですよ」

 

「だからです。ケーキと一緒にアンケート用紙も送ればお世辞とか言わずに本音で駄目な部分を指摘してくれると思いますよ」

 

「そういうものかしら?」

 

「何もせずに嫌われたままよりは少しでも関係改善の努力はするべきだと思いますよ」

 

「それもそうね。何もしないよりは良いわね」

 

 翌日からベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷にアンネローゼのケーキとアンケート用紙が届けられる事になる。

 その事をアンネローゼから聞いたラインハルトとキルヒアイスは複雑な心境であった。

 ベーネミュンデ侯爵夫人には何度も命を狙われた二人としてはケーキ如きで懐柔できる相手とは思えなかったからである。

 しかし、懐柔が出来たかは謎であるが細かく駄目出しが書かれたアンケート用紙は返ってきている。

 アンケート用紙を見たキルヒアイスは呆れ半分に感心していた。

 

「これ程、細かく駄目出しをする事も実際に文章にして自筆で書く事も大変な労力だと思うんですけど」

 

 キルヒアイスの感想にラインハルトも応じる。

 

「確かに女性特有の細かい視点だが、自筆で書くとは根はかなり生真面目な性格みたいだなあ」

 

 二人はベーネミュンデ侯爵夫人の意外な一面に苦笑するしかなかった。

 因みにハンスもベーネミュンデ侯爵夫人にケーキとアンケート用紙を送っているが赤マジックで大きく点数を書かれてるだけである。

 

「ハンスは論評に値せずという事か。あいつの店を持ちたいという夢は、かなり遠いみたいだな」

 

 ラインハルトも口にはしなかったがハンスはコックより軍人を続けた方が幸せではと思った。

 

 その頃、ベーネミュンデ侯爵夫人から赤点を付けられたハンスはヘッダの千秋楽の舞台を観劇をしていた。

 ヘッダの舞台は評判以上に素晴らしく演劇などと縁がない人生を送ったハンスさえ感嘆した程である。

 演目はマクシミリアン晴眼帝の若き頃から即位して失明した後まで支え続けたジークリンデの物語である。

 最大の見せ場は失明したマクシミリアンがジークリンデの身を案じて荘園生活を勧めるが断固として拒否して終生ともに生きる事を誓うシーンである。

 ヘッダがジークリンデ役であったが素のヘッダを知るハンスさえ涙を流した。

 舞台が終わり他の観客が帰って後も係員から促されるまで立ち上がれない程であった。

 

「もう、遅い!」

 

 待ち合わせの場所で頬を膨らませるヘッダを見て、年齢相応の表情をしていて先程まで中年の女性を演じていた人物とは思えなかった。

 

「ごめんなさい。貴女の芝居を観て感動して椅子から立ち上がれなかった」

 

「女性に対しては陳腐な言い訳だけど役者には殺し文句だわね」

 

 照れ隠しにハンスの頬っぺたを指先でツンツンと突っつく。

 

「それより、千秋楽に自分なんかと食事するより、演劇の関係者の人との付き合いとか大丈夫?」

 

「大丈夫よ。子供が気にしなくてもいいの!」

 

 ヘッダは笑い飛ばしてハンスを連れてレストランに行く。

 ヘッダの行き付けの店らしく予約も取っていたようで個室に案内された。

 

「ここはオーディンでも老舗で昔からの味を守っている店なのよ」

 

「一度でいいから帝国の伝統料理を食べてみたいと思っていました」

 

 出された料理はクヌーデル(ジャガイモ団子)とソーセージがメインで健啖家のハンスも満足する味と量であった。

 

「本当に美味しかった!特にクヌーデルは美味しかった!」

 

「まあ、帝国ではジャガイモでフルコースを作れないとお嫁に行けないと言われてる程だからね」

 

「へえー」

 

 ハンスは曖昧な返事をしながら

 

(ヘッダさんは出来るのかな?)

 

 と思っても、ヘッダに直接に聞く程の勇気はない。

 

「まあ、それも昔の事みたいだけど」

 

「帝国のシチューと言えばフリカッセかと思ったけど、今日のグラーシュも美味しかった」

 

「今の帝国ではフリカッセの方が一般的みたいね」

 

「まあ、グラーシュはサワークリームが必要だからなあ。フリカッセの方が楽と言えば楽か」

 

「男の子なのに作る人の視点なのね」

 

「まあ、元はレストランの住み込み従業員の子供ですからね。しかし、今日の料理は美味しかった」

 

「満足してくれたみたいで私も嬉しいわ」

 

「今日はご馳走様でした」

 

「それから大事な話があるの」

 

 ヘッダが急に真剣な顔する。

 

「何でしょうか?」

 

 ハンスも真剣な顔を作り応じる。

 

「あのね。私の弟にならない?」

 

「えっ!?」

 

「養子縁組して私の弟にならない?」

 

「何を言い出すかと思ったら……」

 

「軍隊を辞めて私の弟になったら料理学校でも大学でも好きな道を歩けるわよ」

 

 ヘッダは帝国で一番の女優である。恐らくはフェザーンと同盟を合わせてもヘッダ以上の女優は居ないだろう。そして、ヘッダの収入もヘッダの実力に見合ったものでハンス一人を楽に養えるものであるだろう。

 悪魔の誘惑だった。幼い頃から貧困生活をして来たハンスには魅力的な誘惑である。

 

「駄目ですよ。僕は僕です。亡くなった弟さんじゃありませんよ」

 

「誤解しないで!弟と重ねた訳じゃないの」

 

「……」

 

「最初は貴方と弟が重なったけど、今は違うわ」

 

「……どちらにしても、直ぐに返事が出来る話ではありません」

 

「当然よ。私も感情的になってご免なさい」

 

「いえ、お気持ちは分かりました」

 

「ゆっくりと考えてね」

 

「はい」

 

 このままヘッダの弟となり動乱の帝国の中で自分の安寧だけを考えるのか。それとも軍に身を置き流れる血を減らす努力をするのか。

 自分が軍に身を置いても流される血の量は激流の大河の水をコップで掬う様なものだろう。そして自分も激流に呑み込まれるかもしれない。

 亡命直後から先伸ばしにしていた悩みを急に突き付けられてしまった。

 何故だか急にキルヒアイスとアンネローゼの顔が浮かんだ。あの二人はお似合いのカップルだと思う。

 

(アンネローゼ様に相談してみよう)

 

 それが問題の先伸ばしである事をハンスは自覚していた。アンネローゼに相談しても最後は自分が決める事なのだから。

  




 清眼帝がジークリンデにフェザーンに亡命を勧める描写がありましたが清眼帝が即位した頃はフェザーンは、まだ誕生していませんでした。
 フェザーンではなく荘園生活に訂正しました。


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逡巡、そして決断

 

 太陽の光が窓辺のカーテン越しに室内を照らし始め小鳥の鳴き声が朝の到来を知らせる。

 ハンスは見慣れた天井に視線を向けたまま溜息をつく。

 

(結局は結論が出ないままか。まあ、二つに一つだが本人が決断を下せないから当たり前か)

 

 ハンスは自分の優柔不断さを自嘲しながら体を起こして洗面所に向かう。

 洗面所の鏡を見た時に自分の目の下に大きな隈がある事に気付いた。

 

(昨日は一睡もせずに考え事をしてたからなあ。若い体でも限度があるか)

 

 ハンスは冷蔵庫からソーセージとパンとバターを出すとシャワーを浴びた。シャワーを浴びて目の下の隈を消すと常温に戻した食材で朝食を作り始める。

 鍋にソーセージを入れてポットのお湯を鍋に注いで火を点ける。パンにバターを塗り軽く焼いた後に鍋の中のソーセージを取り出しパンに乗せて焼きなおす。残った鍋の中の湯にスープの素を入れてスープを作る。

 かなりの手抜きの朝食だが朝食を摂り終わると身支度を済ませ新無憂宮に出掛けた。

 運が良いのか悪いのか。通された部屋ではアンネローゼだけではなく、ラインハルトとキルヒアイスの二人が先にアンネローゼに会いに来ていた。

 

「これは、昨晩は絶世の美女とデートだったハンス少尉殿ではありませんか。羨ましい事だ」

 

 開口一番にラインハルトが皮肉を言ってきた。どうやら以前に朴念仁と呼ばれた事を根に持っているらしい。

 事情を知るキルヒアイスは苦笑するしかない。

 逆に事情を知らないアンネローゼは弟の大人気ない態度に頭を抱えるが知っていても抱える事だろう。

 

「実は、その事でアンネローゼ様に相談に来たのです」

 

 ハンスの表情と口調で三人は深刻な話だと察した。

 

「姉上、私達は席を外した方が宜しい様ですね」

 

 ラインハルトが椅子から腰を浮かせ掛かったがハンスが制止する。

 

「いえ、お二人の耳に入れておくべき話なので」

 

 ラインハルトとキルヒアイスはお互いの顔を見合せたがお互いに心当たりが無い。

 

「まずは紅茶とケーキでも食べて落ち着いてから話をしましょう」

 

 アンネローゼは屋敷のメイド達の相談に乗る事も有るので場慣れしていた。

 美味しい物を食べれば少しは気分も晴れる。気分が晴れば話し易くなるものである。

 四人の無言の茶会が行われた後でアンネローゼが四人に新しい紅茶を注いでから話を始めた。

 

「ヘッダさんと喧嘩でもしたの?」

 

 どうやら自分が来る前にラインハルトから茶会の話題にされていた様である。

 

「いえ、逆なので迷っているのです」

 

「逆と言うと告白でもされたの?」

 

 笑顔で聞き返すアンネローゼの言葉にラインハルトとキルヒアイスの動きが一瞬だけ止まる。幸いにもアンネローゼもハンスも気付いていない。

 ラインハルトとキルヒアイスはドルニエ侯の娘がハンスを見初めている事を知っている。

 更に夕食に招待されてハンスの女性の好みを探る様に依頼されている。

 まさか「こんな娘がタイプで既に交際してます」とは言えるものでない。

 

 「いえ、そんな色気がある話ではなく、養子縁組して弟君にならないかと言われまして」

 

「あら、良い話ではなくて?」

 

「失礼な例えですが、アンネローゼ様なら弟君の閣下が亡くなり閣下に似た人を弟にしたいと思いますか?」

 

「私の場合は無いわね。でもヘッダさんなら同じ姉として理解が出来るわ」

 

 アンネローゼとヘッダの違いが男であるハンスには理解が出来ない。

 

「姉上、それではハンスだけでなく私も違いが理解が出来ません。説明して下さい」

 

 ハンスの様子を見てラインハルトが助け船を出した。

 

「それはね。ラインハルト。年齢の問題よ」

 

「年齢ですか」

 

「そう。私達はお互いに姉離れ弟離れしてよい歳よ。でもヘッダさんはまだ若いわ」

 

 姉離れを暗に示唆されたシスコンのラインハルトは渋い顔をする。

 ラインハルトの顔を見て内心は頭を抱えるアンネローゼであったが口に出したのは別の事であった。

 

「私もだけど弟がいると女性は強くなれるのよ。弟の存在が支えになるの」

 

「支えですか」

 

「そうよ。ヘッダさんが自分で意識して気付いているか分からないけど、自分には弟が必要だと姉の本能で分かっているのよ」

 

「姉の本能ですか」

 

「そう、それに貴方も家族が必要だと思うけど」

 

「家族ですか」

 

(家族とかに縁が無いからなあ)

 

「特に貴方は家族との縁が薄いから将来的に家庭を持った時が不安だわ」

 

 ハンスは亡命して余裕のある生活を目指していたが自分が家庭を持つ事は意識的に考えないでいた。自分は良い夫になる事が出来ても良い親になる自信がなかったからてある。ましては兄弟姉妹などは考えた事もなかった。

 

「まあ、自分も欠損家庭で育った人間ですから」

 

「どうしても駄目なら養子縁組を解消すれば済む事よ。一度、試してみたら?」

 

「分かりました。それと閣下」

 

「姉上ではなく私とは?」

 

「実は養子縁組をして軍を辞めてはと言われてもいます」

 

 ハンスの言葉を聞いた途端にラインハルトが慌てだした。

 

「それは困る!卿の知識と見識は大変に有用である。卿に辞められるのは軍としても私個人としても重大な損失だ!」

 

 ラインハルトの剣幕にハンスとアンネローゼも驚く。特にアンネローゼにはラインハルトがキルヒアイス以外の事でムキになるのを初めて見たので驚きも新鮮である。

 

「僕は別に辞めるとは言ってませんよ。でも、僕は最初からの軍人志望でもないんですよ」

 

 ハンスの言葉にラインハルトも鼻白む。ラインハルトは他人から強制される事を極端に嫌う。

 故にハンスを強制して軍に縛りつける事が出来ない。

 

「卿はどうしたいのか?」

 

「迷っています。大学で歴史を勉強したい気持ちもありますし料理学校に行きたい気持ちもあります。軍に残って現場の暴走を止めて少しでも流れる血の量を減らせればと言う思いもあります」

 

「その卿が料理人志望なのは知っていたが歴史を学びたいとは初耳だな」

 

「同盟にいた時は大学進学は夢のまた夢だったので最初から諦めてました」

 

「そうか」

 

 ラインハルトの返答は短い。ラインハルト自身は子供の頃に姉を取り戻す事が人生の目標になっていたので夢を諦める事の心情が理解が出来ない。そして、自分の意に反して状況に流されざるを得ないのは、かつてのラインハルトも同じ体験をしているので理解が出来る。

 

「閣下がアンネローゼ様の前で決して無駄な血を流さないと誓って頂けるなら、自分は微力ながら粉骨砕身して平和の為に閣下の元で働きます」

 

 それはラインハルトがキルヒアイスに立てた誓いと合致するものであった。かつてラインハルトはキルヒアイスに誓っている。

 

『自分達の目標の為には血を流す必要があるが、だが決して無駄な血は流さない』

 

 ラインハルトがキルヒアイスに視線を向けるとキルヒアイスもラインハルトの視線を受けて頷く。キルヒアイスの返答を得てラインハルトはハンスに顔を向け口を開く。

 

「卿の気持ちは分かった。私も卿と姉上に約束しよう。これから先も血を流す事になるが決して不必要な血を流さないと」

 

「平和の時代が来るまで微力ながら閣下と共に戦います」

 

 この時に銀河の歴史の流れは変わった。ハンスだけが知っている事だが確かに歴史の流れは変わったのである。

 

「まあ、平和の時代が来たら小さい店でも開きますから閣下達も来て下さい。サービスしますから」

 

 ハンスが抜け目なく将来の顧客獲得の営業を始る。その場にいたアンネローゼとキルヒアイスが思わず笑い出す。

 

「はあ……。招待しますと言わんのが卿らしい」

 

 ラインハルトが文字通りに頭を抱えて呟いた。

 

 後にハンスが、この時の茶会の事を地球時代の歴史の逸話に習い「茶会の誓い」と名付けたが後世の歴史家からは全く無視される。だが何故か巷では有名になり歴史作家が必ず取り入れる場面となる。

 こうして、ハンスは亡命以来の悩みに決別したのだが、ハンスが歴史に介入した事で、本来の歴史から、どれ程の歴史の変革を成せるのかを知る者は宇宙には存在しなかった。



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同居騒動顛末記

 

 さて、役所の手続きとは面倒なものである。ハンスが亡命した時も手続きは大変だったが養子縁組の手続きも大変だった。

 ヘッダの所属している芸能会社が協力的で会社経費で行政書士に依頼してくれたのだがハンス本人が書く必要のある書類もあり、ヘッダと共に面談もありで忙しい。

 また、ヘッダに内緒ながらリヒテンラーデ侯爵や典礼省に挨拶に行かなければならなかった。

 本来は典礼省の役人に謝礼金を払うのが慣例なのだが、相手がハンスでは典礼省の役人も謝礼金を要求する事はなかった。

 

 役所の手続きの前にもヘッダとハンスで喧嘩する事になる。

 原因は同居希望のヘッダと別居希望のハンスとの意見の相違である。

 

「姉と弟で別居する理由が無い。家族なら特別な理由が無い限り同居するのは当然」

 

「姉と弟でも年齢が年齢だから別居は当然だろ。僕も子供じゃない。不測の事態が起きるかもしれん!」

 

「そんな度胸も無い癖に」

 

「何だと、自分が美人なのを自覚して無いのか!」

 

 もはや喧嘩は喧嘩でも痴話喧嘩である。

 結局はヘッダの泣き落としにハンスが折れたのである。

 

「ひ、卑怯な。女優だけあって嘘泣きが上手い!」

 

 嘘泣きと看破していても女性の涙には弱かったハンスである。周囲もヘッダに負けてボヤくハンスに苦笑するしかない。

 

 手続きも終わり同居の為の引っ越し準備の段階で、また喧嘩になった。今回は部屋割りである。

 ハンスは自分の部屋を要求したのだが、確かにヘッダは書斎は用意したが寝室はヘッダと共用でベッドも一つしかない。

 

「あんた何を考えているんだ!」

 

 ハンスも遠慮が無い。

 

「別に何か問題でも?」

 

「若い男女が一つのベッドとか問題だらけだろ!」

 

「それが、どうした!」

 

 ヘッダが、宇宙最強の言葉を使いハンスに対抗する。

 

「好きにしろ!」

 

 ハンスは折れたと見せ掛けて冷蔵庫を買うつもりでいた金で書斎でも使える折り畳み式のベッドと軍事用のシュラフを購入した。

 

(何処かの金髪のシスコンでも一緒に寝たりしないぞ)

 

 ハンスからシスコン呼ばわりされた若者は夕食に招待という名目でドルニエ侯から呼び出しを食らっていた。

 

「閣下、どんな理由でしょうかな?」

 

 弁解と言わずに理由と言っているだけ穏便である。ドルニエ侯にしてみれば娘の婿候補をヘッダに横取りされた心境である。

 

「侯も落ち着いて下さい。これでも最大限の努力をして被害を最小限に抑えたのです」

 

 言い訳をするラインハルトというのも稀有である。

 

「ほう、弁明を聞きましょう」

 

 侯の横にいる娘のマリーの視線も怖い。この時、ラインハルトは女性を本気で怒らせるもんではないと学習した。

 

「本来ならハンスは軍を辞めて料理学校か大学に進学する予定でした。そうなれば私の管理から離れて進学した先で不測の事態が起こる可能性もありました」

 

 内心はハンスを好きになる物好きな女性は稀有な存在だと思っていたがコンマの後に0が幾つ付いても可能性として0では無いと自らに言い聞かせた。

 

「ふむ、閣下が最大限の努力をしてくれた事は分かりました」

 

「理解して頂き幸いです」

 

「それで、当初の依頼の件は、どうなりましたか?」

 

「それは、ハンスに直接に聞く事に成功しています」

 

「拝聴しましょう」

 

「まず、ハンス自体は女性との恋愛には、まだ興味は無いようです。それでも好みの女性は料理上手な女性だということです。それもプロ級の腕ではなくジャガイモでフルコースを作れる程度の腕だそうです」

 

「それは、朗報ですな」

 

「それとハンスは自称、粗忽者でして年上のしっかり者が自分に相応しいと思っているみたいです」

 

 正直、この事をドルニエ侯に伝えるか躊躇したラインハルトであった。ハンスが同居を始めた相手は義理の姉と言っても年上の女性である。ドルニエ侯の娘のマリーも美しいがヘッダも女優だけあって美人である。ドルニエ父娘が邪推するのではと懸念したのだが杞憂の様であった。

 

「それは重畳ですな。年上のしっかり者で料理の腕はジャガイモでフルコースを作る程度ならマリーだと美人の分、お釣りがくるではないですか!」

 

 侯爵とて一人の父親、どうやら親馬鹿だった様である。あまり思い出したくないが、既に故人となったがラインハルトの父親もアンネローゼ相手に親馬鹿ぶりを発揮していた様に思う。

 帰宅したラインハルトがキルヒアイスに、この事を話すとキルヒアイスは表面上は苦笑するしかなかった。

 

(貴方も十分に弟馬鹿ですよ)

 

 キルヒアイスもラインハルト同様にアンネローゼの信奉者であったがキルヒアイスの方が僅差で冷静であった。

 

(弟と言えば、オノ少尉は大丈夫だろうか?)

 

 キルヒアイスに心配されたハンスとヘッダの同居生活は完全な擦れ違いの生活であった。平常時は判で押したように規則正しいハンスの生活に比べてヘッダの生活は不規則であった。

 

 ハンスが就寝した頃にヘッダが帰宅してシャワーを浴びハンスが作り置きした食事を食べてハンスを自分のベッドに運び一緒に寝る。

 

 朝はハンスもヘッダのベッドで起床することに慣れたようで自分とヘッダの朝食を作りヘッダを起こしてから軍務省に出勤する。

 ヘッダの帰りが遅いので、どうしても擦れ違いの生活になってしまう。

 

 ヘッダは口にしないが養子縁組の為に仕事時間を割いた煽りなのはハンスにはわかる。

 その事がわかるが故にハンスはヘッダの食事に栄養面と味に細心の注意を払いヘームストラ家のコックを務める。

 同盟のヤン・ウェンリーの被保護者のユリアン・ミンツと変わらない生活と言える。

 ユリアン・ミンツと違うのはヘッダの過剰なスキンシップである。

 朝、ベッドのヘッダを起こしに行って下から抱き付かれるのは当たり前。夜も書斎のベッドから寝室のベッドに移す時も行きがけの駄賃と言わんばかりにキスされるのも当たり前。

 ハンスが閉口したのはシャワー中にヘッダが裸で乱入してくることである。

 

「普通に犯罪だろ!」

 

「ホホホ、本気で姉と弟が一緒にシャワーを浴びて罪になると思っているなら通報すれば」

 

「法律上の罪ではなく倫理上の罪だろ!」

 

「可愛い弟の裸を堪能する為なら倫理など生ゴミと一緒にポイよ」

 

「まさか、子役の子供にセクハラしてないだろうなあ?」

 

「まさか、貴方以外の子供に興味も無いし、犯罪者になる気も無いわ」

 

「こっちが理性を無くしたらどうする?」

 

「養子縁組を解消して婚姻届を出すだけよ。そっちの手続きは簡単よ」

 

 中身は80歳近い老人が孫娘と言っても差し支えない娘に翻弄されている。

 これからは帰宅したら最初にシャワーを浴びてヘッダの在宅時はシャワーを浴びないことに決めたハンスであった。

 

 それでもハンスはヘッダとの生活を楽しんでいた。自分が作った料理を喜んで食べてくれることに。朝、起きれば自分以外の温もりがあることに常人なら何でも無い様なことがハンスには幸せに感じることができた。そして、この幸せを無くすことに恐怖を感じた。軍も辞めてヘッダに甘えて料理学校に進学する事も考えたが、この幸せを無くす人も大勢いることを考えると軍を辞める訳にはいかなかった。

 無駄に流れる血を減らし、この幸せを失わない様にするのは一種の賭けである。

 その賭けの勝率の低さを考えるとヘッダに申し訳なく思う。

 

 逡巡して決断すれば決断した事を後悔するハンスであった。

 

(所詮は凡人なんだろうな)

 

 自嘲するハンスは凡人らしい考えもあった。ヘッダが心配する様な事があれば道半ばでも軍を辞めようと思っていた。

 僅かな時間でヘッダは逆行前の世界でハンスが手にすることがなかった大切な家族になっていた。



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クロプシュトック事件

 

 珍しくハンスとヘッダが夕食を共にしている。

 

「レタスも茹でて食べると意外と美味しいわね」

 

「レタスだけじゃなく人参も有るからね」

 

 二人の前には鍋が湯気を出している。

 鍋の中身はスライスした人参にキノコ。ベーコンとレタスと小さなエビが鎮座している。

 ハンスがヘッダの野菜不足を配慮して野菜が大量に取れる様に考えた料理である。

 

「エビも食べなさい。女性は鉄分が必要なんだから」

 

(あんたは、私の親か!)

 

 ヘッダは心の声を出さずに黙々と食べる事にする。地球時代の言葉で「台所を制する者は家庭を制する」があるが至言だと思う。

 目の前の少年は料理が上手である。それも普段なら捨てる野菜の皮や魚の骨も利用する。

 栄養価的にも問題が無い様で色々とヘッダの体調問題も解決した。

 

「そう言えば、あっちではレストランに住んでたわね」

 

「そうだよ。客には出せない部分も料理したからね」

 

 ハンスの言葉に納得したがヘッダも年頃の娘である。ハンスの手料理を食べる度に女性としてのプライドに優しくヤスリを掛けられる。

 

(マネージャーに言って、料理人役の仕事を貰って来させよう)

 

 ヘッダが家庭内クーデターを企んでいるとハンスが思い出した様に口を開いた。

 

「明日は夜から出掛けるからね」

 

「仕事?」

 

「半分は仕事だね。ブラウンシュヴァイク公に呼ばれてる」

 

「へえー、あの平民嫌いなスフィンクス頭がねえ」

 

「……ぶはあ」

 

 ハンスは吹き出してしまった。ブラウンシュヴァイク公の髪型を思い出したらしい。

 

「もう、お行儀が悪いわよ」

 

「あのね。あんな事を言われたら吹き出すわ!」

 

「あら、舞台役者の中では有名よ」

 

 明日の夜、ブラウンシュヴァイク公に対面した時に笑い出さないか不安になったハンスである。

 

「それより、あのスフィンクス頭が貴方を呼ぶのよ。平民の少尉とかね」

 

「そりゃ、皇帝陛下に謁見した有名人ですからね」

 

「そりゃそうでしょうけど。私が言うのも変だけど貴方の亡命受け入れって、派手過ぎない?」

 

「そりゃ、派手にするさ。だって表向きは何年ぶりの亡命者だし、姓でも分かるけど先祖が帝国人じゃないからね」

 

「それが不思議なのよ」

 

「つまり、先祖が帝国人でも無い子供が亡命したら厚遇された。じゃあ、同盟で派閥関係で冷遇されてる幹部はどう思うかな?」

 

「それが狙いね」

 

「更に派手に亡命受け入れしたら同盟にも脱出用シャトルの話は伝わる。今頃は同盟軍内部は国防委員会も巻き込んで揉めてるよ」

 

「なるほどね」

 

「もう一つおまけがある」

 

「まだ、あるの?」

 

「うん、帝国の平民の亡命防止だよ。だって、脱出用シャトルは軍人の最後の生命線だよ。その脱出用シャトルがあんな状態の国に亡命する価値があると思う?」

 

「確かにね」

 

「だから派手にしたのさ。待遇だって下っ端からみたら高官だが上から見たら幼年学校卒業生と同じだぜ」

 

「それで帝国一の美少女に声を掛けたのね」

 

「……そうだね」

 

 ハンスの返答は短い。

 

(確かに美人だけど、自分で言うかね。まあ、それぐらいじゃないと駄目なのかな。女優さんって)

 

 色々と説明して鍋の中を見ると見事に空っぽである。

 先程からヘッダが短い返事だったのは策略だったようだ。

 

「まだ、食べれる?」

 

「もう、野菜は飽きたわ」

 

「クヌーデル(じゃがいも団子)とパスタがあるけど、どっちがいい?」

 

「両方!」

 

「じゃ、半分ずつ入れるよ」

 

 クヌーデルとパスタを半分ずつ鍋に投入して蓋をする。

 

「明日は残りのクヌーデルとパスタがあるから自分の好きに料理すればいいよ」

 

「まあ、スフィンクス頭は嫌な奴だけど、ケチじゃないから遠慮なく食べて来なさい」

 

「明日は昼食抜きで行くよ」

 

 いつもの貧乏人根性を出してヘッダに内緒で料理を持ち帰る事を考えてたハンスは似たような事件に埋もれ忘れていたが、翌日には大事件に巻き込まれる事になる。

 

 

 その日は3月にしては寒い日であった。寒がりのハンスは礼服の下に防寒着を着る事も考えたが防寒着を着ると満腹するまで料理が食べれないし動きづらいのではと小市民的な事に頭を悩まされていた。

 悩んだ甲斐がありブラウンシュヴァイク公のパーティーの料理は素晴らしくダンスを前提にしていない為か料理は重い物も多く健啖家のハンスとしては嬉しい限りである。

 

「美味しい!流石にブラウンシュヴァイク公のパーティーだな。料理は一級品だな」

 

「そうだな。ブラウンシュヴァイク公の料理人は一流の腕だな」

 

 ハンスの言葉を受けるのはラインハルトである。若い二人が若さに相応しい食欲で料理を制覇していけば当然の如く遭遇する。

 

「しかし、豚の丸焼きとは豪勢ですね」

 

「私も何度かパーティーには招待されたが他のパーティーでは見た事がない」

 

 給仕に切ってもらいマスタードを付けて食べると見た目だけではなく素晴らしい味であった。

 

「閣下、あちらには、鳥の丸焼きが有りますよ」

 

 新無憂宮のパーティー以来の人生で二回目のパーティーで珍しい物ばかりである。

 ハンスの落ち着きの無い様子にラインハルトも苦笑するしかない。

 鳥の丸焼きを切り分けて貰っていた時に不意に背後から声を掛けられた。

 

「楽しんでくれている様だな」

 

 二人が振り向くと今宵のホストであるブラウンシュヴァイク公が立っていた。

 

「これは、ブラウンシュヴァイク公。今宵はお招き頂き感謝の念に堪えません」 

 

 ラインハルトが形式通りの挨拶をした後でハンスを横目で見ると鳥の足を丸ごと切り分けて貰いかぶり付いていた。

 

「これ、ブラウンシュヴァイク公の御前だぞ」

 

 ラインハルトにしたら門閥貴族の象徴である。ブラウンシュヴァイク公は嫌いだが礼儀を欠く気はなかった。

 ハンスも慌てて口の中の肉を飲み込むとラインハルトと同様に形式通りの挨拶をする。

 

「ふむ、楽しんでくれて結構な事だ。何なら余った料理は持って帰ると良い」

 

 ブラウンシュヴァイク公は機嫌が良い。今日は皇帝臨御のパーティーである。

 皇帝臨御となれば門閥貴族には大変な名誉であり自分の権勢を誇示する事になる。

 ついでにラインハルトも実は機嫌が良い。皇帝の側に居る姉など見たくもないが今日はベーネミュンデが皇帝の側に居る。

 

「有り難う御座います。公のパーティーの料理は大変に素晴らしい。流石、ブラウンシュヴァイク公です。一流の料理人を抱えておられる」

 

「料理人に伝えておこう。料理人達も喜ぶ。しかし、卿らにケーキを出すのは怖いのう」

 

「公も謙遜なさいます。これだけの料理人でケーキが美味しくない筈がありません」

 

「しかし、卿は別にしてもミューゼル大将の実家はケーキ屋ではなかったか?」

 

 流石にラインハルトも、この言葉に驚きブラウンシュヴァイク公の勘違いを訂正する。

 

「公は何か勘違いをされてる御様子。私の実家はケーキ屋ではありません」

 

「そうなのか。いや失礼した。最近、グリューネワルト伯爵夫人が宮廷内で自家製のケーキを配っているのでな。そのケーキの出来が見事なので我が家の料理人も舌を巻いている程なのだ」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「その、ケーキ作りは姉の昔からの趣味です。最近、とある人物からの影響で趣味に拍車が掛かったのです」

 

 ラインハルトの視線がハンスに向かう連れてブラウンシュヴァイク公の視線もハンスに向かう。

 ハンスも罪悪感があるのか二人の視線を受けて顔を背ける。

 ブラウンシュヴァイク公もハンスの戦勝式典の発言の話を聞いていたので何となく想像がついた様である。

 

「その、卿も色々と大変だな」

 

「はあ」

 

 何となく気不味い雰囲気が流れた時にハンスが叫んだ。

 

「皆、伏せろ!爆弾だ!」

 

 ハンスが叫ぶと同時に走り出す。ラインハルトはテーブルに飛び乗り大声て会場にいる人々に注意を促す。

 ブラウンシュヴァイク公は家臣のアンスバッハが引き摺り倒す様にして伏せさせられる。

 ラインハルトの声を聞いて会場にいる軍人の出席者は近くにいる人を床に伏せさる。

 唯一の例外が事態を把握できずに立っているのは、フリードリヒとベーネミュンデ侯爵夫人の二人だけである。

 ラインハルトはテーブルを飛び降りる。降りる時にハンスが棒状の物を持って二階に走るのを確認した。テーブルを降りたラインハルトは二人の元に走り二人を押し倒し二人を自分の体で庇う。

 

「失礼、陛下!」

 

 ラインハルトが二人を押し倒した数秒後に轟音と震動が会場を襲った。

 何処かでガラスが割れる音と会場のシャンデリアが揺れて鎖が軋む音がする。

 その音に耐えられなくなったのか女性の悲鳴が聞こえる。

 時間にして何分後だろうか。キルヒアイスの呼び声が聞こえた。

 

「ラインハルト様!返事をして下さい!ラインハルト様!」

 

 ラインハルトはキルヒアイスの声で危険が去った事を悟った。

 

「ここだ!キルヒアイス!」

 

 ラインハルトはフリードリヒとベーネミュンデの二人を取り敢えず椅子に座らせキルヒアイスに手を振って答える。

 

「ご無事でしたか。ラインハルト様」

 

「私は大丈夫だ。それよりも陛下とベーネミュンデ侯爵夫人を何処か安全な場所に」

 

「ミューゼルよ。卿には感謝するぞ」

 

「陛下、勿体のう御座います。それより、お二方には咄嗟の事とは言え御無礼致しました」

 

「そんな事は有りませんよ。妾も助かりました」

 

「シュザンナの言う通りじゃて、しかし、この様な凶行を何者が?」

 

 フリードリヒの疑問にキルヒアイスが答えた。

 

「それについては私めに心当たりが御座います」

 

 その場にいた者が皆がキルヒアイスに注目した時にブラウンシュヴァイク公が現れた。

 

「陛下は御無事で御座るか?」

 

「ブラウンシュヴァイク公か、朕はミューゼルの機転で無事じゃて」

 

「臣の不明に如何なる罰も受けましょうぞ。しかし、今は安全な場所へ」

 

 ブラウンシュヴァイク公が部下共にフリードリヒとベーネミュンデを連れて行く。

 その場に残された二人に警護担当者が事情聴取を始めるがラインハルトは事情聴取をキルヒアイスに任せてハンスを探しに二階に行く。

 

 二階に上がると部屋の一つのドアが吹き飛んでいるのが目に入る。

 ラインハルトの脳裡にヘッダの顔が浮かぶ。実弟を亡くして義弟も一ヶ月程で亡くした事を伝える事を思い気が重くなる。

 ラインハルトが部屋に入ると月明かりが部屋を照らしている。

 部屋の中は窓硝子は割れて部屋の家具は全てがドア側の壁に吹き飛んでいた。

 そして、吹き飛んだソファーの下に黒い人の形が見えた。

 ラインハルトは駆け寄り首筋に手を当てると確かな鼓動がする。

 

「悪運の強い奴め」

 

 ラインハルトの呟きは安堵の成分に溢れていた。ヘッダに訃報を伝えずに済んだ事もあるがハンスが生きていた事にも安堵していた。

 ラインハルト自身も気づいていないがラインハルトはハンスを気に入っている。

 

 ラインハルトはハンスを残し急いで一階に走った。救助隊を呼びハンスの姉に連絡を入れて場合によっては病院までヘッダを送らなければならない。

 今晩は多くの人には忙しい夜になるだろう。

 



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入院生活 前編

 

 目を覚ますとアイボリーホワイトの天井と小さなシャンデリアが見えた。

 

「知らない天井だ」

 

 ハンスが呟くとヘッダが抱き付いてきた。その瞬間、全身に痛みが走る。

 

「痛い、痛い、痛い!」

 

 ヘッダと反対方向から慌てて制止するラインハルトの声が聞こえる。

 

「お姉さん、弟さんは怪我人ですから傷に響きます」

 

 ヘッダが離れても痛みが引かずに陸に上がった魚の様に口を動かすしか出来ない。

 

「きゃーごめんなさい!」

 

 文句の一つも言いたいがヘッダの赤い目を見て文句も言えなくなる。

 

「問題ない!」

 

 ヘッダを安心させる為に虚勢を張って見せる。プロの女優の前で通じる筈もないが、姉を心配させたのだから当然の事だと思う。

 ラインハルトの方はインターホンで何やら連絡している。

 

「もう心配させないでね。と言うだけ無駄よね」

 

 ハンスとしたら返す言葉もない。全くの事実である。これから何度も心配させる事になるだろう。

 連絡が終わったラインハルトが姉弟の会話の間隙を見て口を開く。

 

「まずは卿の体の具合だが骨折も無い。肋骨に6箇所ほどヒビが入っている。それと打撲は体中にあるから、明日辺りから痛むぞ。覚悟しとけ」

 

 ラインハルトが負傷箇所を記した紙を見せてくれた。人体図に黒い線が6本と言葉通りに体中に赤く塗られた部分とオレンジ色に塗られた部分がある。

 

「閣下、この色の付いた部分は?」

 

「卿の想像している通り打撲の部分だ」

 

「まあ、素敵。白い部分の方が少ないこと」

 

「しかし、あの爆発で、その程度なのが僥倖だぞ。それから、卿は何故、礼服の下に防護服を着ていたんだ?」

 

「昨日は寒かったので防寒着だと動きにくそうなので防護服なら動き易いかなぁ。と思いまして」

 

「あの防護服は艦艇の備品で持ち出し禁止の筈だったと記憶しているが?」

 

「だって、防寒着を買っても来年には着れなくなるし防護服は来年も支給されますから」

 

 ハンスの返答は完全に本音だが本音だけにラインハルトも呆れながら頭を抱える。

 

「今回は不問にするが私用に使うなら防寒着も防護服も自費で購入する様に!」

 

「はい、了解しました」

 

 ラインハルトもハンスも互いに本気にしていない。俗に言う大人の会話である。

 

「それから、卿は今日から大尉だ」

 

「生きていますが二階級特進ですか?」

 

「当然だ。卿は多くの命を救ったのだ。それから入院中に特別に昇進講習も受けられるぞ。明日から講師陣が特別に出張してくれる」

 

「ははは、退院した途端に扱き使う思惑が見えるんですけど」

 

 これにはラインハルトも苦笑で返すしかない。

 

「それから、事情聴取になるが卿は何故爆弾と気付いた?」

 

「それはですね。会場に入った時に無駄に豪華な杖をしてる人がいたので、お洒落だなと思っていたんです。普通の杖は下の部分が広く上の部分は握り易くなっているのに上の部分が大きく握りにくい形をしていたから覚えていたんです」

 

「それにしても爆弾と見ただけでよく分かったな?」

 

「それはですね。老人にしたら杖がないと歩くのは大変です。それも無駄に豪華にする程に拘った、そんな大事な杖を忘れません。もし本当に忘れていたなら、僕が怒られたらいいだけの話だし本当に爆弾なら一秒でも早く伏せてもらわないと大惨事になりますから」

 

 ハンスの言葉にラインハルトも驚嘆した。

 本当は会場に入った時にフリードリヒが即位して以来、社交界から消えていたクロプシュトック侯爵が現れたので年配の出席者が噂をしていたのを耳にして思い出したのである。

 それから、クロプシュトック侯爵が姿を消したら余裕を持って対処するつもりが食欲に負けて食べる事に夢中になり気がついたら杖だけが残っていたのが真相なのだ。

 

「卿も豪胆だな!」

 

 真相を知らないラインハルトはハンスの言葉に驚くしかなかった。

 

「それに、杖を持った瞬間に確信しましたよ。老人が使う杖があんなに重い筈がないですから」

 

 これは本当である。普通の杖は軽く扱い易く出来ている。

 

「それで卿が覚えている杖の持ち主は、この老人か?」

 

 ラインハルトが一枚の写真を差し出す。

 

「はい、この老人に間違いありません。立派な髭をしていて頭はハゲていたので上下の毛が入れ替われば良かったのにと思って見てましたから」

 

 これには黙って聞いていたヘッダも思わず吹き出してしまった。

 

「し、失礼しました」

 

 ラインハルトも不謹慎と思いながら、よく似た義姉弟とも思ったが話を続ける。

 

「キルヒアイスの証言と一致する。昨晩の内にオーディンから消えた事も合わせてクロプシュトック侯爵が犯人で決定だな」

 

 ラインハルトが立ち上がり辞去する事にした。これから軍務省に出向きクロプシュトック侯爵が犯人である確証を得た事を報告する為である。

 ラインハルトが病室のドアを開ける寸前にドアが開く。

 そして、開いたドアからドルニエ侯の娘である。マリーが飛び込んで来てハンスに抱きつく。

 

「ハンス君、心配したんだから!」

 

 再びハンスの悲鳴が病室に響く。

 

「痛い、痛い、痛い!」

 

 慌てながらヘッダがマリーを引き離す。

 

「ちょっと、貴女は誰よ!人の弟に馴れ馴れしいわよ!」

 

 ヘッダも女性特有の勘でマリーが弟に付く悪い虫だと瞬時に確信する。

 マリーもラインハルトの報告で知っていたがヘッダがハンスを拘束して独占していると瞬時に確信する。

 ここにハンスを巡って熾烈な戦いの幕が切って落とされた。

 

「姉さん?フロイライン?」

 

 ハンスもヘッダが嫉妬する理由が分かるがマリーが何故、この場に現れたかが分からない。兎に角、最年長者のラインハルトに、この場を収めてもらおうと思いラインハルトの方を見ると既にラインハルトは撤退していた。

 

(なんだ、あの人は!上司のくせに部下を見捨てるとは!)

 

 ハンスにしてみれば敵前逃亡した者に頼る訳にも行かずに何とか場を収め様とするが所詮はハンスである。

 

「あのですね。ここは病院ですからね。静かにするべきだと思うのですが」

 

「大丈夫よ!ここは特別室だから完全防音よ!」

 

「可哀想なハンス君。怖い姉様に八つ当たりされて」

 

「何が八つ当たりよ!それにハンスと私は仲がいいのよ!」

 

「仲が良いならハンス君に優しくしてやって下さい!」

 

「あら、家ではお風呂も一緒!寝るのも一緒よ!」

 

「こら、風呂も勝手に入って来てるんじゃないか!寝るのも勝手にベッドに運んでいるんじゃないか!」

 

 完全に自爆である。ヘッダの言葉が本当である事を自ら証明してしまっている。 

 

「な、なんて羨ましい!」

 

(羨ましいって、貴女は貴族の姫様でしょうが!)

 

 この時、病室のドアが開いたが開いた途端に閉じた。

 ブラウンシュヴァイク公だったが、瞬時に修羅場と判断してラインハルト同様に逃げた。流石に帝国一の権勢家である。保身技術には長けている。だが、ハンスには別の意見がある。

 

(何が帝国一の権勢家かよ。あのスフィンクス頭め!たかが小娘の喧嘩の仲裁も出来んのか!)

 

 完全な八つ当たりである。たかが小娘の喧嘩なら自分で仲裁するべきである。

 結局は昼食を運びに来た看護婦が一喝で双方引かせたのである。

 それから、翌日からはマリーがハンスの昼食を差し入れしてヘッダが夕食の差し入れをする事まで取り決めてくれた。看護婦には逆行前も世話になったが帝国でも世話になるとは思わなかった。

 

(将来、出世する事があったら看護婦の社会的な地位の向上と労働環境の改善を援助しょう)

 

 

 夕食前にブラウンシュヴァイク公が見舞いに来た。ブラウンシュヴァイク公も昼間の事で罪悪感があるのか豪華なサンドウィッチの詰め合わせを差し入れしてくれた。

 

「その卿も本当に色々と気苦労が絶えんな」

 

 (帝国で傲慢さでは一、二を争う男から同情されてしまった)

 

 ハンスとしては入院するのも地獄なら退院して家に戻る事も地獄だった。

 小市民のハンスは生まれて一度も戦争を望んだ事が無いが、この時は心の底から出征を望んだ。

 色々とあったが、これが、まだ入院一日目の話である。

  



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入院生活 中編

 朝は遅く起きて夜は早く寝た為か夜中の十二時半に目が覚めたハンスであった。

 

(本当に危なかった。公園の管理人になった頃に獅子帝編伝記が刊行されて読んだのは何年後だったかな?)

 

 ナイトテーブルの上にあるペットボトルの封を切り、水を一口飲む。

 

(あの本の中には爆発物は荷物としか書いてなかったから荷物が何か分からんかったわ。まさか杖とは思わんかった。しかも杖に仕込んだ爆薬があれ程に強力とも思わんかった。無理も無いか。所詮は本人が死んだ後で周囲の人の記憶や記録から作った本だからなあ)

 

 ハンスは昨晩の事を思い出す度に背筋に冷たいものが走る。

 

(本当に運が良かった。防寒着じゃなく防護服を着込んで良かった。本当に良かった。貧乏性に乾杯だわ)

 

 ペットボトルを掲げて、また一口だけ飲む。

 

(しかし、この後は確か未来の双璧が麾下に入るんだよなあ。さて、原因となる事件が問題だよなあ)

 

 後に言う。ミッターマイヤー暗殺未遂事件である。

 

(スフィンクス頭の子分が民間人を虐殺してミッターマイヤーが射殺するんだよなあ。軍規には違反していない事だが、スフィンクス頭の頭の中は空っぽだからなあ)

 

 現実問題として入院中の身に何か出来る訳でもなく退院していても出来る事は少ない。

 

(もし、虐殺を防いだら双璧が他の陣営に行く可能性も考えないと)

 

 虐殺事件が引き金になり双璧がラインハルト陣営に加わるのである。

 

(でも、二人の性格を考えたら結局は他の陣営に行く事はないか。しかし、他の陣営に行かなくとも暫くは双璧無しで戦う事になるのは苦しいか)

 

 ハンスは自分の軍事的な才能を信じていない。故に双璧がラインハルト陣営に加わる時期が問題になる。

 

(アムリッツァには居て欲しい人材だよなあ。能力もだが頭数がいる)

 

 このまま本来の歴史の流れに任せるか。それとも何か手を打つか。手を打っても効果があるのか。

 

(駄目だ。八方塞がりだわ!)

 

 ハンスの優柔不断さが出てしまっていた。

 気が付けば午前二時半である。

 

(まだ時間はある。明日から講習だから寝るとするか)

 

 ハンス自身も自覚している事だが問題を先送りする癖が出てしまった。

 

 

 小川のせせらぎと小鳥の鳴き声が聞こえてきた。優しい女性の声とともに体を穏やかに揺すられる。

 

「目が覚めましたか?」

 

 どうやら特別室だけあって朝も起こし方は特別らしい。

 優しい声の主は看護婦であり、小川のせせらぎと小鳥の鳴き声はスピーカーから流れている。

 

(看護婦が起こしに来るのは別にして小川と小鳥は一般病棟でも使えるな)

 

 目が覚めているが体を起こせずにいると看護婦が指先に何かを巻き付けている。

 

(何をしてるんだ?)

 

 作業が終わったらしい看護婦が呆れた様な声で宣言した。

 

「明日からは一時間前に起こしますからね。こんなに若い男性の低血圧も珍しいわ」

 

 どうやらハンスは重度の低血圧だったらしい。

 

(低血圧だと自覚していたが看護婦が驚くレベルとは思わんかった)

 

 結局は看護婦に手を借りて朝からシャワーを浴びる事になった。

 朝食を予定時間の半分で済ませて時間調整をしてからスケジュールの帳尻を合わせる。

 

「朝も早くからお疲れ様です」

 

 昇進講習の講師陣に挨拶をしてから講習を受ける。ハンスは逆行前の世界では最終階級は上等兵だったが少尉講習までは受けていた。同盟末期になると事務処理も遅れがちであり講習を済ませても単純に事務処理の遅れで昇進が出来ない者も多かった。ハンスもその一人である。

 

(少尉までは昔に習った事だが中尉とか大尉とかの講習は受けてないぞ)

 

 結果としては何とか初日の講習はこなす事が出来た。逆行前後で士官達の仕事を見たり聞いたり手伝いをしたりで士官の仕事の内容を把握していた事が幸いしていた。

 

(今日は何とかなったけど。しかし、何日も続くのか。堪らんなあ)

 

 唯一の楽しみは食事の時間である。昼食はマリーだったがマリーが自分で作って来たのは驚いた。師が優秀なのか料理自体も初心者にしては上手である。

 夕食のヘッダは完全に自分好みの味である。流石に義理とはいえ姉である。

 

 夕食の後も面会時間ギリギリまで講習は続き面会時間が終わった後にラインハルトが面会に来た。

 

「大変そうだな」

 

「はい、後何日も続くと思うと地獄ですよ。それより面会時間が過ぎているのによく看護婦さんが入れてくれましたね?」

 

「ああ、頼んだら入れてくれたぞ。意外と融通が利くものだな」

 

(けっ!美形は得だな。コイツは自分が女性から優遇されてる事に気付かないままかよ!)

 

 完全な僻み根性だが事実でもあった。美男美女は異性から優遇されるものである。

 

「で、何の用で」

 

「ふむ、まずは少し心苦しい話だが、私は成人すると同時にローエングラム家の名跡を継ぐ。そこでミューゼル家の名跡は卿が継ぐ事になった」

 

「閣下、同盟で生まれ育った人間には分かりにくいのですが?」

 

「まあ、分かり易く言えば私は成人後にラインハルト・フォン・ローエングラムになり、卿はハンス・フォン・ミューゼルになる」

 

「え、宜しいので」

 

「陛下の勅命である!」

 

「それは本当にありがたい話ですね。私は今の姓が嫌いですからね。ハンス・フォン・ミューゼルとは良い響きです」

 

「卿が喜んでくれたら私も助かる。私もミューゼルの姓は嫌いだからな。自分が嫌いな物を他人に押し付けるみたいで心苦しかったのだが」

 

「いえ、私は嬉しいですよ」

 

「卿のお陰で私も二重に助かった。私がローエングラムの名跡を継ぐのを批判的な人間も今回の事で文句を言えなくなった」

 

「まあ、何処にも僻み根性を持つ者は存在しますから」

 

 他人事の様にぬけぬけとハンスは言う。

 

「それと、預り物があったのだ。まずは姉上からケーキとベーネミュンデ侯爵夫人からブランデーの逸品の差し入れだ」

 

「閣下、ケーキは閣下が帰りに看護婦達に渡して下さい。看護婦は社会的地位も高く無く仕事もハードで収入も仕事の割には低いですが良くしてくれます」

 

「分かった。卿の名前で看護婦達に渡しておこう。ブランデーはどうする?」

 

「ブランデーは冷蔵庫に入れて貰えますか。明日、姉に渡します」

 

「なんだ。卿が飲むのかと思っていたが意外と真面目なんだな」

 

「閣下、自分は未成年ですよ」

 

「隠す必要はないぞ。卿が酒を嗜む事は知っている」

 

 ラインハルトの顔には悪戯っ子の笑みが浮かんでる。

 

「閣下も人が悪い」

 

「まあ、個人の趣味嗜好には口を出さん。飲み過ぎるなよ」

 

「分かりました」

 

 ラインハルトがブランデーを冷蔵庫に入れるとハンスが口を開いた。

 

「それと、閣下。真面目な話なんですが宜しいでしょうか」

 

 ラインハルトも表情を改めてハンスに向き直る。

 

「何の話だ?」

 

「はい、帝国では地方叛乱が起きて鎮圧の度に無辜の領民が略奪暴行されると聞きました。今回も起きるかもしれないので閣下から陛下に略奪暴行厳禁の勅命をお願いして欲しいのです」

 

 ラインハルトは最初はハンスの顔を凝視してから柔らかい表情になった。

 

「卿の危惧も当然であり私も同感である。明日にも陛下にお願いしてこよう」

 

「有り難う御座います!」

 

「卿は同盟で苦労したから優しいのか。生まれた時から優しいのか。分からんが卿の優しさは貴重だな」

 

「……有り難う御座います」

 

「では、お大事に」

 

 ハンスはラインハルトが帰った後に後悔をした。

 

(これで双璧の陣営加入が遅くなってしまった。双璧が加入するまでは大変だな)

 

 結果としてハンスの不安は杞憂になった。後で事情を聞いた時にハンスは憮然とするしかなかった。 

 

 



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入院生活 後編

 

 ハンスと講師陣は嵐が過ぎ去るのを耐え忍びながら待っている。

 嵐の名前はヘッダである。

 ラインハルトが届けてくれたブランデーの逸品を講習の最終日にヘッダが帰った後に全員で飲もうと講師陣とハンスで画策していたが当日に不自然な態度に演技のプロであるヘッダに看破されてしまった。

 更に不味い事に講師陣が小娘と侮って下手な嘘の言い訳をするが、ヘッダにことごとく看破されてしまい怒りに油を注ぐ結果になってしまった。

 

「貴方達は何を考えているんです!帝国軍の士官たる者が入院中の未成年と病院内で勤務時間中に酒盛りを計画するとは!」

 

 講師陣もハンスも反論すら出来ない。出来ても火に油ではなくロケット燃料を注ぐ事になるだけである。

 ヘッダの倍以上の年齢の士官達が自分の娘と変わらぬ年齢の娘に説教されている光景は見物である。

 結局は騒ぎを聞きつけた看護婦が間に入りヘッダを説得して解放されたのであった。そして、当然の如くブランデーはヘッダに没収されてしまった。

 

(夢も希望も無くなってしまった)

 

 義理の姉とは言え、本来は娘ではなく孫と言える年齢のヘッダに頭が上がらないハンスは凡人以下なのかもしれない。

 

「しかし、あんたも誰に似て酒好きなのかしらね?」

 

 ハンスは無言でヘッダを指差す。

 

「そうか!軍隊だと周囲が酒好きばかりだからね!」

 

 逆行前の世界でハンスは酒を飲む時は冬にワインのお湯割りを寒さ対策で朝と就寝前に一杯しか飲まなかった。それで満足もしていたのでヘッダの影響も嘘ではない。

 

「まあ、別にいいけど、それよりも入院も長くない?」

 

「そ、そうかしら?」

 

(舞台を降りたら大根だな)

 

 ヘッダの不自然な態度にハンスも気が付いた。

 

「何か知っているだろ!」

 

「し、知らないわよ!」

 

 ヘッダの余りにも下手な演技に呆れながらハンスは伝家宝刀を抜いた。

 

「後でバレたら官舎で暮らすよ」

 

「ごめんなさい!」

 

 ヘッダはあっさりと全面降伏をした。

 

「何をした?」

 

「その、初日に私とマリーで抱きついたのが影響してヒビから骨折にレベルアップしました」

 

「……仕方ない」

 

「あら、怒らないの?」

 

「だから、仕方ないと言っているだろう。二人とも僕の事を心配しての事だから」

 

 ヘッダは感心した様子である。

 

「あなた、本当に優しい子よね」

 

「でも、二度目は無いからね」

 

「はい」

 

(まあ、入院が長くなったお陰でフロイライン・ドルニエと仲良くなれたし考え事も落ち着いて出来たわ)

 

「しかし、早く帰って姉さんと一緒にのんびりしたいね」

 

 半分はリップサービスで半分は本音である。ハンス自身も驚いているが、ヘッダとの暮らしが懐かしい。逆行前では気軽な独り暮らしが気に入っていた自分がヘッダとの暮らしを懐かしむとは、ヘッダが結婚する時が怖いくらいである。

 

「そうね。私も寂しいわ」

 

「お互い一生独身で二人で死ぬまで暮らす?」

 

 ハンスが本気半分と冗談半分で言ってみる。

 

「それもいいかもね」

 

 ヘッダの返答にハンスは驚いた。

 

「結婚する気は無いの?」

 

「そうね。貴方が一生側に居てくれるなら結婚しなくていいわ」

 

「赤ちゃんは欲しくないの?」

 

「既に大きい赤ちゃんが、ここにいるから」

 

「……あっ、そう」

 

(今は恋愛や結婚より仕事に関心があるのか。ラインハルトと同じだな)

 

 ハンスからヘッダと同類扱いされたラインハルトの腹心が見舞いに来訪して来た。

 

「大尉、元気そうで何よりです。遅くなりましたが」

 

 キルヒアイスが入院してから初めて見舞いにやって来た。

 

「中佐も忙しいでしょうに有り難う御座います」

 

「いえ、こちらこそ、来るのが遅くなりました」

 

「そうだ、姉さん。キルヒアイス中佐はホットチョコレートが好きなんだが、ちょっと買ってきて」

 

 ハンスはヘッダに言外に席を外す事を要求する。ヘッダもハンスの意図を読み取る。

 

「ホットチョコレートね。ついでに菓子も買ってきましょう」

 

 ヘッダが病室を出たのを確認するとハンスが口を開く。

 

「何があったのです?」

 

 キルヒアイスが沈痛な表情で返答する。

 

「閣下が大尉に顔向けが出来ないと言って私を寄越しました。大尉が危惧していた事が起こりました」

 

 ハンスは大きく深呼吸を二度してキルヒアイスに詳細を尋ねる。

 

「規模は?」

 

「犠牲者は二人です。15歳と10歳の姉弟です」

 

 ハンスの表情も固まる。

 

「それは閣下も心痛でしょうに」

 

「事前に大尉から指摘されていたのに申し訳が無いと言っています」

 

「犯人達は?」

 

「騒ぎを知って駆け付けた将官に、即時、射殺されました」

 

「将官の名前は?」

 

「ミッターマイヤー少将です」

 

「……そうですか。閣下は成すべき事をしました。閣下が責任を感じる必要は無いとお伝え下さい」

 

「分かりました。そう伝えましょう」

 

「それから、ミッターマイヤー少将に圧力が掛からない様に閣下に配慮をお願いします」

 

「それは安心して下さい。既に事は済みました」

 

「そうですか」

 

 キルヒアイスはヘッダの帰りを待つ事なく辞去した。ラインハルトにハンスが怒っていない事を一刻も早く伝えたいらしい。

 ハンスも引き止めなかった。一人で考える時間が欲しかった為である。

 

(まあ、歴史通りに事が運んだようだ。双璧の二人が陣営に入った事は心強い)

 

 ここまで思考を進めてもハンスの心は晴れない。

 

(犠牲者が出てしまった。犠牲者を無くす事は無理なんだろうけど)

 

 本来の歴史より犠牲者を少なくして双璧を得られたと言えるのだが、それでは帝国のドライアイスの剣と呼ばれたオーベルシュタインと同じ道を歩む事になる。

 ハンスはオーベルシュタインを尊敬もして評価もしているがハンスには民間人を犠牲にする事が出来ない。

 オーベルシュタインは目的の為なら兵も民間人も自分自身も平等に犠牲に出来る。

 

(真似は出来んな。真似もしたくないが)

 

 ヘッダが病室に入った時にハンスの憮然とした表情に驚く事になる。

 ハンスから直接に事情を聞いて納得したヘッダであったがハンスの優しさに安心すると同時にラインハルトに責任が無い事を理解していてもラインハルトを恨めしく思えるのだった。

 

 ヘッダから恨まれてしまったラインハルトも気分は晴れてなかった。

 ロイエンタールとミッターマイヤーの二人の有能な提督を手に入れたが代償が大き過ぎた。

 犠牲になった二人がアンネローゼと自分に重なってしまったからである。

 

「ラインハルト様、お気にするなとは言いません。むしろ忘れないで下さい。しかし、同じ悲劇を繰り返さない為に前をお向き下さい!」

 

 ラインハルトもキルヒアイスに言われて気を取り直す。

 

「そうだな。俺もハンスも皇帝も成すべき事は成したのだからな。同じ悲劇が繰り返さない様にしよう」

 

「ご立派です。ラインハルト様」

 

「しかし、ハンスは不思議な奴だな。変にセコいと思えば自分の損得にならない事で落ち込み、危険な事でも平気な顔で行う」

 

 キルヒアイスもラインハルトと同意見であった。

 ハンスは自他共に認める凡人である。おそらくは本当に善良な凡人であるのだろうが、善良さが桁違いなのではないのかと思える。善良さ故に権力者が見落とす人々を見落とさないのではと思える。

 

「ハンスも色々な意味で得難い人材だな」

 

「しかし、本人は平和になれば軍を辞めるつもりです」

 

「あいつの才幹は平和な時にも役に立つ。辞めさせない様にするしかないな」

 

「その為には姉君という難敵が存在しますが」

 

 ラインハルトが本気で嫌な顔をする。

 

「キルヒアイスに任せても大丈夫か?」

 

「それはお断りします。私が太刀打ち出来る相手ではありません。姉という存在ならラインハルト様の方が慣れていらっしゃいます」

 

 途端にラインハルトが帝国軍大将とは言えない情けない声を出す。

 

「キルヒアイス」

 

 ラインハルトもキルヒアイスもヘッダが本心ではハンスに軍を辞めて欲しいと思っている事を看破している。

 ヤン・ウェンリーが数ある事象を予測していながら権限が伴わずに対処が出来なかった事と別次元でラインハルトとキルヒアイスもヘッダという存在に対処が出来ないでいた。

 同盟末期の鉄灰色の髪をした三人の姉がいる提督に言わせれば「姉に逆らう事など考えるだけ無駄!」と言った事であろう。

 

 将来的に軍を辞めてレストランの店主を夢みるハンスは知らぬ所で姉ヘッダに守られていた。

 

 



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挨拶回り

 

 長い入院生活も終わりハンスが退院したのは五月の半ばであった。

 退院した翌日からフリードリヒをスタートに挨拶行脚に回る。

 

 フリードリヒには形式通りに挨拶をするとベーネミュンデ侯爵夫人が礼を言いたいと言われてベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷に行く。

 ハンスはベーネミュンデ侯爵夫人には苦手意識がある。ケーキを贈っては赤点をつけられているからである。

 

「本当に無事で良かった。妾も心配しましたよ」

 

「いえ、侯爵夫人には過剰な褒美を頂き恐悦至極で御座います」

 

「いえ、其方に報いるには足りませぬ。妾とアンネローゼの仲も取り持ってくれました」

 

 ハンスが知らぬ間に和解したらしい。和解と言ってもベーネミュンデ侯爵夫人が一方的にアンネローゼに敵意を持っていたのだが。

 

(瓢箪から駒だな)

 

 ベーネミュンデ侯爵夫人の説明によるとクロプシュトック事件の後にフリードリヒから、これからは二人で出掛ける事を止めて代わりにアンネローゼを連れて行く事にすると言われた。

 当然、ベーネミュンデ侯爵夫人は納得が出来ない。そこで、初めてフリードリヒが本音を語ってくれた。

 フリードリヒはベーネミュンデ侯爵夫人の流産を宮廷陰謀であると思っていて、ベーネミュンデ侯爵夫人を近くに置くと侯爵夫人自身が陰謀の的になる事を心配をして距離を置いた事を告白した。

 また、アンネローゼは実家の後楯もなく後見人も居ない為に陰謀の的になり難い上に弟がエリート軍人であり誰も陰謀の的にしないからアンネローゼを側に置いたと言われた。

 ましてやクロプシュトック事件の時はラインハルトが身を挺して守ってくれたのである。

 アンネローゼとラインハルトには、いくら感謝しても足りないと言う。

 

 それにアンネローゼを連れ出す事はベーネミュンデ侯爵夫人も賛成だと言う。

 

「失礼ですが、侯爵夫人は宜しいので?」

 

「妾も賛成です。陛下にアンネローゼを屋敷の外に連れ出して頂かないと色々と困る人々もいます」

 

「困るとは?」

 

 ベーネミュンデ侯爵夫人の説明にハンスも驚き呆れた。

 今年に入りアンネローゼのケーキ作りは拍車が掛りアンネローゼのケーキは宮廷の上は貴族の茶会から下は警備兵や小間使いの少女のオヤツになっていた。

 

(知らんかった。新年休暇の後はティアマト会戦の準備で忙しかったからなあ)

 

 2月に入り評判を聞いた宮廷の内でケーキ作りの好きなメイド達がアンネローゼの屋敷で働く事になっていた。

 するとケーキの質が上がり出入りの業者がアンネローゼのケーキの一部をケーキ屋に卸さないかと話を持ち掛けた。

 

「伯爵夫人。宮廷内は所詮は身内です。身内の評価など信用が出来ますまい。それよりは外で一般人に評価してもらえばケーキの質も上がると思いますよ」

 

 この言葉にアンネローゼも納得した。質を落とさずに出来る分だけを卸す事を条件に業者と契約した。

 そして、卸したケーキは評判となりアンネローゼの屋敷にはオーディンのケーキ屋の娘がケーキ作りの修行を兼ねて働きにきた。

 これが3月の始めの話である。

 ケーキ屋の娘が働き始めるとケーキの質と量も上がり評判を聞きアンネローゼの屋敷のメイドの全員がケーキ屋の娘となり巷では「グリューネワルトケーキ道場」と呼ばれる様になった。

 そうなるとアンネローゼの屋敷はケーキ工場と化していく。

 ここまでが4月の話である。

 

(道理で病院の看護婦達がアンネローゼ様のケーキを喜ぶわけだ。まさかと思うがケーキが食べたくて入院を長引かせたとかは無いよなあ)

 

 そして5月になると業者からアンネローゼのケーキの専門店を出さないかと話を持ち掛けられたらしいのだが、流石に宮廷内の管理人であるリヒテンラーデ侯が黙っていなかった。

 アンネローゼと業者に、それとラインハルトまでがリヒテンラーデ侯からお説教をされたのである。

 

(そりゃ、リヒテンラーデ侯も怒るわ。ラインハルトは気の毒だけど)

 

 ハンスは頭の中でグリューネワルトの文字が光る看板と店の奥でアンネローゼがケーキを持って微笑むポスター貼られたケーキ屋を浮かんでしまった。

 

(簡単に想像が出来たわ)

 

 説明したベーネミュンデ侯爵夫人も神妙な顔になっている。恐らく表情の選択に困っているのだろう。

 

「その様な理由で陛下にアンネローゼを外へ連れ出して頂かないと困るのじゃ」

 

「……」

 

 ハンスの思い過ごしだと思いたいがベーネミュンデ侯爵夫人の視線が冷たい気がする。確かにアンネローゼの暴走の元はハンスなのだ。

 ハンスは逃げる様にベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷から辞去した。

 

 ベーネミュンデ侯爵夫人の次にアンネローゼの屋敷ではなくブラウンシュヴァイク公の屋敷に挨拶に行く。

 ベーネミュンデ侯爵夫人の話を聞いた後でアンネローゼの元に行く事は憚れたからである。

 

 ブラウンシュヴァイク公の顔を見たハンスは驚きの声が出そうになった。

 げっそりと痩せた顔が髪型を引き立て、スフィンクス頭に磨きが掛かっている。

 

「失礼ですがお体の具合が悪い様ですが?」

 

「その、討伐から帰ってから色々とあったのだ」

 

 話を聞けばブラウンシュヴァイク公が気の毒になってきた。

 討伐から帰ってきたらラインハルトが凄い剣幕で怒鳴り込んで来たらしい。部下のアンスバッハやシュトライトが間に入り何事かと聞くと一門の馬鹿が出征前にだされた勅命のクロプシュトック領民に対する略奪暴行の禁止令を破り未成年の姉弟を虐殺した上、軍規によってその場で射殺した士官を逆恨みして一門の者が監禁して謀殺を企んでいるという。

 慌てて調査するとラインハルトの言は事実であり監禁されていた士官を解放して監禁した一門を叱りつけ射殺された者の家とは絶縁した。

 怒り狂うラインハルトを宮廷の要人に間に入ってもらい宥めてもらった。宥めてくれた要人には謝礼を払い監禁された士官に謝罪に行き殺害された遺族には賠償金を払いとオーディンに帰ってきてから後処理で忙殺されていたのだ。

 

 ブラウンシュヴァイク公にしてみれば皇帝臨御の時に自宅で爆弾を仕掛けられ面子を潰された上に一門の馬鹿が勅命を破り、面子を潰されてしまった。更に被害者が未成年となれば宮廷内外での評判が悪くなり娘の帝位継承にも影響するかもしれない。

 ブラウンシュヴァイク公の心労は大変なものである。

 流石にハンスも気の毒に思い気休め程度だが励ましの言葉を掛けて早々に辞去した。

 

 最後に上司である。ラインハルトに挨拶に行く。幸いラインハルトは軍務省の自分の執務室にいた。

 

「丁度良い所に来た。卿を紹介したい」

 

 ハンスが執務室に入るとキルヒアイスは当然としてロイエンタールとミッターマイヤーが居た。

 

「既に知っていると思うが紹介しよう。情報参謀補佐のハンス・オノ大尉だ」

 

「情報参謀補佐を拝命しております。ハンス・オノ大尉であります」

 

「オスカー・フォン・ロイエンタールだ。卿の噂は色々と聞いている」

 

(どんな噂を聞いているんだ?)

 

「俺はウォルフガング・ミッターマイヤーだ。俺も卿の噂は色々と聞いている。卿には一度、会ってみたいと思っていた」

 

(だから、どんな噂だよ?)

 

「あのう、お二人とも噂を聞いていると言われますが、どんな噂なんでしょうか?」

 

 ラインハルトが意外な表情をして口を挟んできた。

 

「意外だな。卿が噂を気にするタイプとは思わなんだ」

 

「そりゃ、ご高名な両提督に言われたら気にもなります。それに噂を気にしない人間を情報参謀補佐にしたら駄目でしょう」

 

 ラインハルトがからかったつもりがハンスが素で返したのでラインハルトが苦虫を噛んだ顔になる。

 黙って聞いていたキルヒアイスが顔を下に向けて声を殺して笑っている。

 場を取り繕う為にロイエンタールがハンスの疑問に答える。

 

「卿は年齢に似合わぬ見識と知識に行動力のある優秀な士官と聞いている」

 

「誤解も甚だしいですね」

 

「しかし、第三次ティアマト会戦では敵の行動を正解に予測して対抗策も提案したと聞いたぞ」

 

「あれは、敵に大馬鹿者がいたからです。敵軍内部では有名人でしたからね」

 

「俺は別の噂を聞いたぞ。軍人の枠に入りきらぬ。才能の持ち主と聞いたぞ」

 

「完全な間違いです。私は完全な凡人です」

 

 それまで黙っていたキルヒアイスが初めて口を開いた。

 

「まあ、悪い噂ならともかく、良い噂ならいいじゃないですか」

 

「単なる過大評価だと思いますけどね」

 

「それより、早く帰って姉君の側にいてやりなさい。明後日からは卿にも頑張って貰う事になる」

 

「出征が決まったのですか?」

 

「うむ、七月に出征が決まった」

 

「敵も懲りませんなあ」

 

 ロイエンタールがハンスの言葉を聞いて質問する。

 

「ほう、何故、卿は敵が仕掛けると思った」

 

「もうすぐ選挙ですからね。取り敢えず出兵して実際の勝敗と関係なく勝ったと自慢して票集めをしたいだけですよ。向こうの人間なら子供でも知っていますよ」

 

 これは嘘ではなく帝国では選挙と出兵の関係が研究の対象にもなっている。

 

(また、無駄な血が流れるな)

 

 ラインハルトとヤンが初めて互いを意識した歴史的な戦いであり戦略上は全く意味の無い第四次ティアマト会戦である。

 



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雌伏

 

 ハンスは職場復帰後にラインハルトに特別に火薬式拳銃の所持の許可を得た。

 火薬式拳銃だと銃声で非常事態を周囲に知らせる事が出来るというのが表向きの理由である。

 ラインハルトも何かハンスに考えがあると気付きながら詮索せずに許可を出してくれた。

 小口径の銃をリボルバー式とオートマチック式を一丁ずつと大口径のリボルバー式を一丁の三丁の銃の練習を日課にしている。

 

「ラインハルト様、大尉の事ですが退院してからは以前と変わった気がしませんか?」

 

 毎日のハンスの練習の様子を観察していたキルヒアイスがラインハルトに意見を求める。

 

「ああ、確かに退院後は変わったな。しかし、奴の事だ何か考えがあるのだろう」

 

 それまで講習嫌いの研修嫌いだったハンスが積極的に若手の講習会や研修会に参加を始めた。本来の仕事には支障は出ていない。職場内で適材適所の仕事の割振りをしているらしい。

 上司の面子を立てながら同僚や部下を引き立て仕事の割振りをしている。

 それでも、何やら職場の人間にも公開せずに情報を収集しながら分析をしている。

 

「大尉が佐官になったら何か独立した立場の職場を用意した方がいいのでは?」

 

「キルヒアイスも同じ意見だったか!」

 

 上司であるラインハルトとキルヒアイスが気付く程であるから、姉であるヘッダが気付かない筈がないと言うよりは家でも変わった。

 まずはヘッダと一緒に入浴も寝る事も断る様になった。

 当たり前とは言えば当たり前の事である。

 しかし、ヘッダも負けてはいない。

 派手な姉弟喧嘩のすえにハンスが休日の前夜だけ一緒に寝る権利を勝ち取った。

 休日は家庭の主夫として働きヘッダの面倒をみる。

 ハンス本人はデートと理解してなかったがマリーとデートも時折していた。

 私生活では然程の変化はなかったが何かハンスの内面に変化を感じ取ったヘッダから軍を辞める事を勧められた。

 

「却下」

 

「却下って何よ。少しは考えなさいよ!」

 

「だって、考慮の余地は無いもん」

 

「あのね。今年で15歳になるのよ。普通なら進路を考える時期なのよ!」

 

「姉さんは役者の世界に何歳で入ったんだよ?」

 

「……13歳よ」

 

「姉さんは13歳で進路を決めて弟の僕が14歳で進路を決めても問題が無いでしょ」

 

「軍隊以外なら何も言わないわよ。軍隊とか危険な仕事を喜ぶ姉がいると思う?」

 

「普通は居ないね。姉さんが反対する理由も当然だと思うよ」

 

「そこまで理解しても辞める気は無いの?」

 

「無い!」

 

「……」

 

 ハンスが意外に頑固だと理解していたヘッダだが、これ程とは思っていなかった。

 入院前までは軍隊に属していても最後の部分では軍隊も辞める覚悟を感じられたが退院以降は逆に軍隊を辞めない覚悟を感じるのである。

 

「姉さん、多少は心配を掛けるけど必ず帰って来るから安心していいよ」

 

「何よ。それ矛盾しているじゃない!」

 

「まあ、危険な事はするけど自分が生き残る道は確保してから危険な事をするからね」

 

 ヘッダは呆れながらも納得するが、そこはハンスの姉である。返す言葉も普通ではない。

 

「私は私で貴方が軍隊から足を洗える様に努力するからね」

 

 お互いの主張を尊重しながら自分の主張を通そうとする。その意味では似た者同士の姉弟である。

 

さらには、もう一組の似た者姉弟の姉は生まれて初めての説教に落ち込んではいなかった。流石、ラインハルトの姉である。

 出店が出来ないなら偽名を使い帝国のケーキコンクールに出場の是非をリヒテンラーデ侯に打診してきた。

 帝室の名前を出さない約束で出場を許可したリヒテンラーデ侯であった。ついでにアンネローゼケーキ道場の娘達も出場を許可した。

 そして、これが五月の半ばの話である。リヒテンラーデ侯が五月の末に後宮の決済をして事態は変わる。

 

「おや、余剰金の桁を間違えておる」

 

 リヒテンラーデ侯はすぐさま担当者を呼び出し余剰金の間違いを指摘した。

 

「宰相閣下、間違いでは有りません。実際の余剰金であります」

 

「何故じゃ。この金額だと月の予算の三倍はあるぞ」

 

「それは、グリューネワルト伯爵夫人のケーキの売り上げの配当金です」

 

「なんと!」

 

 流石のリヒテンラーデ侯も驚き、担当者に詳しい資料を持って来させた。

 

「うむ。資料を見る限りだと利益が大きいのう」

 

「基本的な人件費が少ないですから、それにケーキ等の原価も安いもんですから」

 

「馬鹿にはならん金額じゃのう」

 

 150年に渡る長い戦争で帝国の国家予算も厳しいものである。

 リヒテンラーデ侯の立場では倹約が出来る部分は倹約したいのが本音である。

 

「この間の業者を呼べ」

 

 リヒテンラーデ侯にして見れば帝室の権威と月々の後宮の予算を天秤に掛ける様な事はしたくなかったが悲しい事に天秤は予算に傾いた。

 

 一度は却下された出店が利益に目が眩んだリヒテンラーデ侯が再考をしている事を知らないアンネローゼはコンクールに向けケーキ作りに余念が無い。

 六月に入りアンネローゼのケーキ作りも大詰めを迎えた頃、不肖の弟子も仕事に余念がなかった。

 ロイエンタールやミッターマイヤーの元に二人の過去の戦いのデータを持ち込み質問責めにしていた。

 

 ハンスが帰った後にロイエンタールとミッターマイヤーは互いの顔を見て苦笑した。

 

「しかし、何を聞きにくるかと思えば艦隊行動の基礎知識とは」

 

 流石のロイエンタールもハンス相手に冷笑ではなく苦笑するしかない。

 

「そして、俺には艦隊の速度の上げ方を聞きにくるとはな」

 

 この頃から既に艦隊の速さには定評のあるミッターマイヤーであった。

 

「ミューゼル閣下やキルヒアイスの話の印象とは違うな」

 

 ロイエンタールが率直な感想を述べる。

 

「卿も思ったか。キルヒアイスの話だと例の事件の後で何か思う事があったらしい」

 

「まあ、ハンスも同盟では苦労したらしいからな。正直、俺としたら頭が下がる思いだ」

 

 ロイエンタールの述懐にミッターマイヤーが反応する。

 

「卿とは長い付き合いだが卿にも謙虚になる時があると知らなかった」

 

 ミッターマイヤーの揶揄にロイエンタールも揶揄で返す。

 

「卿の目は節穴か。俺は謙虚が服を着て歩いている様な男だぞ!」 

 

 ロイエンタールの図々しい言葉をミッターマイヤーは相手にしなかった。

 

「それより、ハンスが授業料として置いていったワインと肴があるが卿は大丈夫か?」

 

「ワインは別にしてもミューゼル閣下の話では料理は期待が出来るらしいからな」

 

 その後、ロイエンタールが自身がスポンサーとなりハンスに店を持たせようかと本気で考え込む姿にミッターマイヤーは笑いの発作を抑えるのに苦労した。

 

  ロイエンタールに料理の腕を評価されたハンスは自宅の書斎で当面の目標について考えていた。

 

(少なくとも帝国の内乱までは軍に居る必要があるな)

 

 そこまでの間の戦役を数えていく。

 第四次ティアマト会戦、アスターテ会戦、カストロプ動乱、第七次イゼルローン攻略戦、アムリッツァ会戦、リップシュタット戦役

 

(リップシュタット戦役までに分艦隊の指揮官にならないとヴェスターラントの虐殺の回避が難しくなるな。その為の情報収集も無駄になってしまう)

 

 ハンスはキルヒアイスの死の一因にヴェスターラントの虐殺が関係しているとする説を思い出していた。

 

(帝国側は認めてないが歴史学の定説らしい。そして、二人に接して見て確信出来た。多分、当たりだな)

 

 ラインハルトが逆行前の歴史をなぞるか確証はないがオーベルシュタインが一枚噛んでるのではと疑っている。

 

(まあ、疑われても仕方がない人みたいだからなあ。しかし、オーベルシュタインがラインハルトに何を吹き込んだか分からないが、こっちが勝手に阻止してしまえば問題は無いだろう)

 

 それとは別にアンスバッハの事も対策が必要だとハンスは考える。

 

(当日に会場に入る直前に問答無用で射殺するしかないか)

 

 ハンスは無意識に腰の銃を撫でる。ブラスターより火薬式拳銃の方が殺傷能力が高い。貫通力が無いのも最悪の場合はキルヒアイスと揉み合いになり密着しても撃てる。

 

(その為に練習を毎日しているが間に合うかな?)

 

 その後はキルヒアイスに全てを任せても大丈夫だと思う。軍を辞めて念願の小さな店を持ってもいい。

 そしたらヘッダを安心させる事が出来る。自分を弟にして無償の愛を注いでくれたヘッダに自分が報いるには、この程度しかない。

 ハンスが、そこまで思考を進めた時にドアの外からヘッダの声がした。

 

「ただいま!」

 

 書斎を出てヘッダを出迎える。

 

「姉さん、お帰りなさい」

 

「もう、お腹ペコペコよ!」

 

「はいはい。シャワーを浴びている間に出来るよ」

 

 バスルームに行くヘッダの後ろ姿を見てハンスはラインハルトの気持ちが少しだけ理解が出来た気がした。

 

 



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情報と分析と予測と

 

 六月の半ば帝国にフェザーンを経由して同盟軍の大規模攻勢の報が入る。

 ハンスは帝国三長官に出頭命令を受けて三長官会議に出頭する。

 

 最初に軍務尚書であるエーレンベルクが口を開く。

 

「そう身構えんでよい。卿も既に承知しているだろう。叛徒共の大規模攻勢の報を」

 

「はい、聞いております」

 

「その事で情報の信憑性について意見を卿に聞きたい」

 

「確かな情報だと思います」

 

「しかし、叛徒共は昨年も大規模攻勢を掛けて敗退している。今年も初頭に敗退しているのに、とても兵力に余裕があると思えん」

 

「単純な兵力なら余裕が有ります。12艦隊が有りましたが、昨年のイゼルローンの戦いで1個艦隊分の兵力を失っています。今年の初頭の戦いで1個艦隊を失っています。残りは10個艦隊ですが、その内の1個艦隊は首都星の警護役なので使えません。ですから9個艦隊分の兵力は有ります」

 

(今更、こんな初歩の説明させるなよ)

 

「兵力に余裕があるのは分かった。問題は出兵が多過ぎではないか?」

 

「それは仕方が有りません。選挙が近いですから選挙前には出兵するのが同盟の常識です」

 

「叛徒共は政治的儀式の為に出兵するのか!」

 

(何年も戦っていて今更、何を驚く)

 

「非常に馬鹿らしい事ですが、それに敵の総司令官のロボスも立場的に微妙ですから」

 

「どう言う事か?」

 

「ロボスは昨年は自ら指揮を取りながら敗退してます。今年も自分が抜擢した馬鹿が原因で敗退してますから責任を取らされて引退させられても不思議では有りません」

 

 ミュッケンベルガーは、またハンスのホーランドへの罵詈雑言が始まるのではと心配したが杞憂に終わった。

 

「つまり、敵将は自分の保身の為に出兵すると言うのか?」

 

「はい、ロボスは地位に執着する男で権威主義で大雑把な男ですから」

 

「ご苦労であった。退って宜しい」

 

「失礼します」

 

 ハンスが退室した後でエーレンベルクがミュッケンベルガーとシュタインホフに意見を求める。

 

「卿らはどう思う?」

 

 ミュッケンベルガーが返答する。

 

「あの者の知識と洞察力はティアマトの戦いで実証されている」

 

 シュタインホフがミュッケンベルガーの意見に補足する。

 

「確か敵の行動の正解な予測と対策も提示していたな」

 

 エーレンベルクが二人の意見を聞いて結論を出す。

 

「では、この度のフェザーンからの情報は信用に足ると言う事か」 

 

「では、これからは対応策の協議に移るとするか」

 

 ミュッケンベルガーは同僚の二人の前では言えなかったが本音は対応策もハンスの意見を聞きたかった。

 

 その頃、ハンスは喫茶室でアプフェルショーレ(アップルサイダー)を前に自分が今回の戦いに何処まで介入が出来るのか介入したとして何をどれだけ改変させる事が出来るかを考えていた。

 

(まあ、イゼルローン要塞での戦闘は無理か。前回の大穴も完全に修理が出来てないからな)

 

 ストローでアプフェルショーレを一気に飲み干す。

 

(前回と同じティアマトでの迎撃となるか。まあ、問題は同盟の陣容だな。ロボスが出てくるのは間違いないが、その下の司令官だな)

 

 グラスの中の氷をストローで掬い上げようとして失敗してしまった。

 

(ボロディンと腰巾着のパエッタは間違いない。問題はウランフが歴史通りに出て来るかだな)

 

 ストローでの氷の掬い取りを断念して氷が溶けるのを待つ事にする。

 

(まあ、最初に作ったAプランで行くか。運が良ければロボスを戦死させたらアムリッツァ会戦が無くなるかもしれん)

 

 ハンス自身はアスターテ会戦で負傷して入院治療中の為に帝国領進攻作戦には不参加だったが参加した仲間の殆どが戦死している。

 ロボスはアムリッツァ会戦の後に戦死した将兵達の遺族からの報復を恐れて行方を晦まして逃亡した。

 ハンスは無駄な血を流したく無いと思うがロボスに関しては自業自得だと思っている。

(まあ、チャンスは今回だけでは無いし、帝国領に進攻するか分からん。それにトリューニヒトが国防委員長を失脚するかもしれん。まあ、それは望み薄かな。第六次イゼルローン攻略の失敗から続けて負けてばかりなのに国防委員長やっていたからなあ)

 

 この時にハンスは重大な事を忘れていた事に気付いた。

 

「地球教の事を忘れていた!」

 

 思わず口から内心の声が出てしまった。

 

(トリューニヒトが政治家を続けられたのは地球教の支持があったからだ。地球教は早めに対処して置かないと引っ掻き回される!)

 

 ハンスは一瞬、自分が雪の降る冬の海に全裸で飛び込んだ様な錯覚を自覚した。

 

(この戦いの後に急いで何か手を打たないと色んな意味で命取りになる)

 

 逆行前の世界でも地球教の事は詳しくは解明されていなかった。

 ルビンスキーとトリューニヒトと地球教の捻れた三協定と地球教の歴史は解明されたが組織の全容は解明されていない。

 

(関係者が全滅した事も問題なんだよなあ。ユリアン・ミンツが地球から持ち帰ったデータが唯一のデータだからなあ)

 

 そして、ハンスに取って最重要な事を思い出した。

 

(ちょっと待て、ユリアン・ミンツの回顧録には地球に居た信者は善良な人も多かったらしい。けど、ワーレン元帥評伝には信者を救出した話は無かったが……)

 

 それから先の考える事をハンスは止めた。精神衛生上に支障をきたすし、今は目前の戦いに集中するべきである。

 

 不意にハンスの肩を誰かが叩いた。ハンスが反射的に振り返ろうとしたら肩を叩いた手の指が突き出され頬を止める。

 

「……」

 

「卿は迂闊過ぎるぞ」

 

「ラインハルト様……」

 

 ラインハルトと頭を抱えて呆れるキルヒアイスが居た。

 後年、当時を知る者からはラインハルトが子供じみた行動を取る相手はハンスだけであると証言が一致している。 

 二人はハンスの前に座りコーヒーを三つ注文する。

 

「朝から三長官に呼び出されそうだな?」

 

 ラインハルトが好奇心が溢れている瞳でハンスに問い掛けてきた。

 

「その事が気になって二人して仕事を投げ出して小官を探していたんですか?」

 

 ハンスの声に呆れの成分が混じっている。仕事をサボる口実に自分を探しに来たのだろう。

 

「そ、そんな事は無いぞ。部下が上官に呼び出されたら心配するもんだ」

 

 ラインハルトの声と表情が言葉を裏切っている。横に座っているキルヒアイスの呆れた表情が証明している。

 

「まあ、それは別にして閣下の想像通りですよ」

 

 二人の顔が真剣になる。

 

「まあ、詳しい事は分からんみたいですよ」

 

 真剣な顔も束の間にラインハルトはハンスをからかう表情で聞いてきた。

 

「ほう、三長官には分からんでも卿なら分かるのでは?」

 

 ハンスがラインハルトの問い掛けに答えようとした時にコーヒーが運ばれて来た。

 ラインハルトとハンスがクリームを大量投入してから話を再開する。

 

「私が分かる事などは高が知れていますよ」

 

 今度は真剣な顔でラインハルトは聞いてきた。

 

「卿は無駄に謙遜するな。兵力の規模程度は予測しているのでは?」

 

「総司令官の直属部隊を入れて四個艦隊だと思いますよ。それ以上になると予算処理が大変になる。選挙には間に合いません」

 

 帝国人のラインハルトとキルヒアイスには選挙と言われても実感が持ってない。

 

「まあ、一番の問題はロボスが誰を連れて来るかが問題なんですけどね」

 

「流石に卿でも予測は無理か?」

 

 ラインハルトの問いにハンスも苦笑しながら返す。

 

「そりゃそうでしょう。三人全員とかは無理でしょう」

 

 ハンスの返答にラインハルトとキルヒアイスは驚く。

 

「卿は三人は無理だが一人か二人なら分かるのか?」

 

「はい」

 

 ラインハルトとキルヒアイスが顔を見合わせる。

 

「別に驚く程でもないですけどね。パエッタとボロディンは確実ですね。問題はウランフかホーウッドのどちらなのか難しいんですよね」

 

「その根拠も知りたい」

 

「本当に単純な話ですよ。パエッタは能力的には可もなく不可もない指揮官ですが頑固で上に媚びる性格なんですよ。国防委員長の犬をしてますからね。国防委員長も犬には餌をやらないと」

 

「要は派閥人事なのだな」

 

 ラインハルトが一言に要約する。

 

「身もふたもない話ですが、次にボロディンは能力、人格、人望ともに完璧です。順番から言えばボロディンの出番ですよ」

 

「そうか」

 

「問題の二人ですけどね。ホーウッドは体調が悪いみたいでしたからね。去年のイゼルローンの戦いも不参加でしたからね。体調が回復しているならボロディン同様に使いたい人材ですけどね。体調が回復してないならウランフが代打でしょうよ」

 

「ウランフとは第三次ティアマト会戦の前に卿が褒めていた指揮官だな」

 

「はい、閣下もウランフの勇戦ぶりを褒めてましたよね」

 

「ああ、敵ながら見事な戦いぶりをしていた」

 

「ラインハルト様、今回の戦いは油断が出来ませんね」

 

「ああ、しかし、今回は私の麾下にはロイエンタールとミッターマイヤーがいる」

 

「こうなると心強い二人ですね」

 

 仕事をサボる口実でハンスを探しに来た二人であったが意外な事に真剣な話になってしまった。

 その二日後にハンスの予測通りの情報がフェザーン経由で軍務省に報告された。

 そして、翌日にはラインハルト達にも出動命令が下された。

 それに伴い、一つの意外な辞令書がラインハルトの元に届く事になる。

 

 



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第四次ティアマト会戦 前編

 

 自分の執務室で一枚の辞令書を見て怒り心頭のラインハルトをキルヒアイスが必死に宥めている。

 

「ラインハルト様、落ち着いて下さい。お気持ちは分かりますが、理不尽な辞令では有りません」

 

 ハンスを少佐に昇進させて司令部付きの情報武官に命じる人事異動の辞令書がラインハルトの手元にある。

 キルヒアイスの言う通りで客観的に見れば昇進して司令部に栄転の辞令である。

 

「ラインハルト様、確かに最初は少佐を押し付けられた格好でしたが、前回の戦いで少佐の知識と見識は帝国軍全体としても貴重であると分かりました」

 

「分かっているが、それでも頭に来る話ではないか!」

 

「それはそうですが、私とラインハルト様が幼年学校卒業以来、常に一緒にいる事も既に特別な事なのですよ」

 

 これにはラインハルトも黙るしかなかった。

 それでもラインハルトにして見れば、最初にハンスの知識と見識に気が付いたのはラインハルトでありドルニエ侯の兼ね合いでハンスを押し付けたのはミュッケンベルガーである。後から使えるからと言って自分の麾下に異動させるのは人材の横取りに思える。

 

「キルヒアイス。取り敢えずハンスを呼んできてくれ」

 

「分かりました。閣下」

 

 数分後にキルヒアイスに連れられてハンスが入室して来た。

 

「何のご用でしょうか?」

 

 ラインハルトは無言で辞令書を指先で詰まんでハンスに渡す。

 それを見たハンスは落ち着いて口を開いた。

 

「これは危ないですね」

 

「ミュッケンベルガー元帥は優秀な方です。だから戦死の危険は少ないですよ」

 

「いえ、自分ではなく閣下の事がですよ」

 

 ラインハルト本人よりキルヒアイスが先に反応した。

 

「どういう事でしょうか?」

 

「何で今更、僕を司令部に移す必要があるんですか?」

 

「それは、少佐の才幹が認められたからでしょう」

 

「それなら、前回の戦いの後に自分を異動させれば良いだけの話でしょう」

 

 確かにハンスの才幹は既に第三次ティアマト会戦で証明されている。このタイミングでハンスを司令部に異動させるのは不自然な話でしかない。

 

「閣下は門閥貴族に嫌われてますからね。ミュッケンベルガー元帥も年齢的に数年後には引退しますから天下りするには門閥貴族の歓心を買う必要があるかもしれません」

 

 ここでラインハルトがハンスの入室以来、初めて口を開いた。

 

「戦場で無茶な命令でも出して私を謀殺するつもりか」

 

「だと、僕は思います。それには僕が邪魔ですし僕の利用価値を発見したんでしょう」

 

 ハンスの意見には説得力がある。何せ逆行前の世界ではラインハルトの大胆な転進は有名であり、命令を出したミュッケンベルガーの動機も研究対象になっていて、数ある説の中で定説となっている説をハンスは自分の意見として言っているのだから。

 

「門閥貴族には閣下を謀殺して歓心を買いドルニエ侯には少佐を昇進させて栄転として麾下に置いて命を救い恩を売る訳ですか。老獪な手段ですね」

 

 キルヒアイスの言葉のドルニエ侯に反応してハンスは情けない声を出してしまった。

 

「その、キルヒアイス中佐、ドルニエ侯の話は何とかなりません?」

 

「何だ。卿はフロイラインの想いに、まだ応えてなかったのか?」

 

 ハンスが弱気になった途端にラインハルトはハンスをからかう。

 

「思い出した!閣下!入院中に可愛い部下の僕を見捨てて逃げたでしょう!」

 

 ラインハルトの言葉で入院初日の事をハンスは思い出してラインハルトに抗議を始めた。

 

「ち、違うぞ。私は軍務省に一刻も早く事の事実を告げる必要があったからで」

 

「まあ、呆れた!大将閣下とあろう人が見苦しい言い訳を!」

 

 キルヒアイスは二人の子供の面倒を見る事を放棄して、二人を残してハンスが抜けた後の穴埋め人事の為に退室した。

 キルヒアイスは色々と忙しい。

 

 八月の下旬にイゼルローン要塞に到着した翌日にハンスは自室のベッドで軍服を着たまま二日酔いで苦しんでいた。

 オーディンからイゼルローン要塞に向かう道中で少佐講習を受けた後に、ついでに中佐講習も受けさせられ講習漬けの道中であった。

 昨日、イゼルローン要塞に到着して講習から解放されたと思ったら新しい職場の同僚や上司に歓迎会として酒場を連れ回されたのである。

 

「帝国軍の人って、もっと真面目な人ばかりと思っていたけどね」

 

 取り敢えずシャワーを浴びるつもりで服を脱ぐと下着の中から紙幣が大量に出てきた。

 

「なんじゃ、こりゃ!」

 

 昨晩の事は途中から全く記憶に無いのだが、この時にハンスはイゼルローン要塞が軍事基地で一般人が居ない事に心から感謝した。

 

(姉さんに見られたら怒られるなあ。しかし、どんな芸を披露して、こんなにチップを貰ったんだ?)

 

 困惑しながらも下着に入れられた紙幣を集めて封筒に入れて大事に取っておく。

 

(これで帰りに土産でも買って帰ろう)

 

 取り敢えずシャワーを浴び体内から汗と共にアルコールを出して体調を整えてから新しい軍服を着て外に出る。

 ハンスにとっては初めてイゼルローン要塞の中の散歩は目に入る全てが珍しい。

 結局は要塞内を散歩して回り一日が過ぎた。

 翌日からは司令部付きの情報武官として書類の作成に集められた情報の分析にと多忙を極めた。

 9月に入り同盟軍の艦艇がティアマト星系に集結中との報告が偵察部隊から報告された後に惑星レグニッツァにて同盟軍の艦艇が発見の報告もされた。

 

「叛徒共は決戦前に兵力分散をするとは何を考えている」

 

 ミュッケンベルガーの疑問は当然である。実は同盟軍にはトラブルが生じていた。

 前回の時と同様に一部の物資が不足して軍では迅速な対応が出来ずに民間船に委託を打診したが「グランド・カナル事件」の記憶も新しく全ての民間船から断られた。

 仕方なく各星系の警備部隊を使い物資を運ぶ事になったが時間が掛かるので帝国軍の目を補給部隊から逸らす為に惑星レグニッツァに囮部隊を派遣したのであった。

 

「少佐、卿の意見を聞こう」

 

「まあ、何かのトラブルを隠蔽する為の囮なんでしょうけど、決戦前に少しでも敵の兵力を削ぐ事は大事です。それに、元気が有り余っている人もいるみたいです」

 

 ミュッケンベルガーにはハンスが言外にラインハルトに出撃させろと言っている事が分かった。

 つい先程、ラインハルトがフレーゲルと口論をしていたからである。二人の仲の悪さはフリードリヒも知っている程に有名なのである。

 決戦前に軍内の喧嘩騒ぎで大将を営倉入りさせる訳にもいかない。

 

「元帥閣下も色々と大変ですね」

 

 ハンスもミュッケンベルガーに同情してしまった。ラインハルトとフレーゲル。ゼークトとシュトックハウゼンと帝国軍には犬猿の仲が多い。

 ハンスにはミュッケンベルガーがラインハルトを謀殺したくなるのも理解が出来る様に思える。

 

「そう思うなら卿も酒は控える事だ」

 

「……自分は記憶が無いのですが何をしたのでしょうか?」

 

「聞きたいか?」

 

「……いえ、これからは酒は控えます」

 

「宜しい」

 

 この様な事情でラインハルトの出撃が決まった。

 

 旗艦ブリュンヒルトの艦内ではキルヒアイスがラインハルトの愚痴を聞いていた。

 

「それで、ラインハルト様が要塞を追い出された訳ですか」

 

「追い出されたとは人聞きの悪い」

 

「言葉を飾っても意味はありません。フレーゲルなどの小物相手に本気になられますな」

 

 キルヒアイスが珍しく本気で怒っているのがラインハルトに分かった。

 

「すまん。キルヒアイス。もうフレーゲルなどを相手にしない」

 

「分かって下されば宜しいのです。ラインハルト様」

 

 キルヒアイスも本気でラインハルトがフレーゲルと喧嘩しないとは思っていないのだが。

 

(オノ少佐とフレーゲルとは正反対の意味でラインハルト様を子供にしてしまう。ある意味で貴重な存在かもしれない)

 

 キルヒアイスに貴重な存在と評されたフレーゲルはミュッケンベルガーから説教をされていた。

 

「男爵にも考えて頂かないと困りますなあ!」

 

 流石のフレーゲルもミュッケンベルガーが完全に正しいので反論も出来ないでいる。

 ミュッケンベルガーもストレスが溜まっていたのだろうか。ラインハルトのレグニッツァでの勝報が届くまで延々と説教を続けたのである。

 これが第四次ティアマト会戦、一週間前の帝国軍の内情であった。

 この状況を見てハンスを含む若手士官達は口に出さないが同じ事を思った。

 

「大丈夫なのか。我が帝国軍は?」

 

   

 



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第四次ティアマト会戦 後編

 

 イゼルローン要塞での最終会議の席でラインハルトはミュッケンベルガーから左翼の配置を命じられる。

 

(左翼、つまり一番切り捨て易い場所に行けと言うわけか)

 

 口では形式通りの応対をする。

 

「元帥閣下のご配慮に感謝します」

 

 ラインハルトはブリュンヒルトに乗り込むと早速、キルヒアイスに会議での事を相談した。

 

「それは、元帥の考えが丸分かりの配置ですね」

 

「キルヒアイスも同じ考えか。なら、一度だけだが使わざるを得ないか」

 

「確かに危険ですが上手くいけば一番良い場所に布陣が出来ますね」

 

 ハンスはカンニングしているからミュッケンベルガーの考えを知っているがラインハルトとキルヒアイスは何も無い所から正解というゴールに簡単にたどり着いていた。

 ハンスが居れば二人の優秀さに恐怖を感じていただろう。

 

 そして、ティアマト星域に両軍が集結した。

 

「左翼部隊前進」

 

 ミュッケンベルガーの命令でラインハルトは整然と前進を進める。

 ハンスは総旗艦ヴィルヘルミナの艦橋で緊張しながら事態を観察していた。

 両軍が注目するなか左翼部隊は前進して行く、

 

(まだか。何時に転進するんだ)

 

 そして、その時が遂にきた。

 ラインハルトの部隊が右に大きく転進を始めた。先頭部隊が中央まで来た時にハンスが叫ぶ。

 

「元帥閣下、主砲を長距離から短距離に切り替えて、後方部隊はワルキューレの発進準備を!」

 

 敵味方の全員がラインハルトの意表を突いた転進に驚いていた時に行動を起こしたのはハンスだけだった。

 ハンスの叫びで我を取り戻したミュッケンベルガーも瞬時にハンスの叫びの意味を理解して命令を下す。

 

「全艦主砲を短距離に切り替えて発射準備!後方部隊はワルキューレの発進準備をしろ!」

 

 ラインハルトの部隊が戦場を通過すると両軍の距離は至近であった。

 

「ファイエル」

 

 帝国軍の砲撃がワンテンポ早く短距離砲に対して同盟軍の砲撃はワンテンポ遅く更に長距離砲だった為に効果は少なかった。

 慌てる同盟軍に対してミュッケンベルガーは余裕を持って次の命令を下す。

 

「ワルキューレ発進!」

 

 同盟軍の最前列が壊滅して第二陣が短距離砲に切り替えた時にはワルキューレが駆逐艦やミサイル艦に襲い掛かって行く。

 戦艦や巡航艦は帝国軍の艦砲射撃に狙い撃ちにされて次々に火球に変わっていく。

 しかし、同盟軍の提督達も先手こそ帝国軍に取られたが直ぐに反撃を開始する。

 同盟軍の左翼側面に布陣したラインハルトは艦橋で味方の戦いぶりを眺めながら感心する。

 

「ほう、ミュッケンベルガーも意外とやるではないか。それともハンスの指示か?」

 

 傍らに居たキルヒアイスが艦隊の再編成が完了した事を告げる。

 

「ふん、奴等は俺の助けなど欲しくはないだろう」

 

「ラインハルト様には理解している筈です。十人の提督の反感よりも数十万人の兵士の感謝が上だと」

 

「そうだな。キルヒアイス」

 

 ラインハルトは全艦隊に攻撃命令を出した。

 ラインハルトの攻撃を側面に受けた同盟軍の左翼部隊のボロディンはハンスの評価通りの優秀な提督であった。

 通常なら既に戦線崩壊しているが正面の敵と戦いながら側面からの攻撃に対処している。

 

「ハンスの言う通りに優秀な指揮官だな。しかし、残念な事に相手が悪かったな」

 

 ボロディンが優秀な手腕で戦線を維持しても疲労していくのは当然で疲労しきった瞬間にラインハルトは同盟軍左翼部隊の側面を削り取る様に突撃して同盟軍の後背に移動する。

 戦闘中にラインハルトの動きを常に監視してたハンスはラインハルトが同盟軍の後背に出た事を知るとミュッケンベルガーに進言して同盟軍の前に縦深陣を作る。縦深陣が完成した直後にラインハルトが同盟軍の後背から猛烈な攻撃を掛ける。

 ラインハルトの後背攻撃を受けたのはウランフの部隊であったがウランフは「水は低きに流れる」と言って、そのまま前に躍り出る。ラインハルトは自らの攻撃で敵の攻撃に勢いをつけて味方に嗾けたのであった。

 前に猛然と躍り出たウランフだったがカンニングで事態を予め知っていたハンスが進言してミュッケンベルガーが作った縦深陣の中に飛び込む形になった。

 ラインハルトはウランフが前進して出来た穴に入り同盟軍の右翼方向に転進して中央突破を行う。

 同盟軍は背後から槍で胸の中央を貫かれ、更に槍を捻られた状態になった。

 ボロディンは前面の敵と戦っている事が驚愕するに値する程でありウランフは縦深陣に居て戦線崩壊をせずに一点突破を逆に仕掛けて脱出している最中であり同盟軍右翼はパエッタとロボスの指揮で中央突破されながら戦線崩壊から辛うじて免れていた。

 この時に流れ弾ならぬ流れミサイルがブリュンヒルトに当たりそうになり、ブリュンヒルトを溺愛するラインハルトが咄嗟に操艦を指示してしまうのだが、初代艦長であるシュタインメッツから操艦に口出す事は艦長である自分の権限を犯す行為であると諫言される。

 一部始終を横で見ていたメックリンガーが肝を冷やしたが素直に諫言を受け入れるラインハルトに将器を認める事になる。

 

 ラインハルトは同盟軍右翼の側面に布陣して艦隊の再編をしながら攻撃を仕掛ける。

 ウランフは縦深陣から脱出する事に成功して縦深陣の外側から攻撃しながら中央に戻り空いた穴を埋めて尚も戦線を維持している。

 ラインハルトも同盟軍の手腕を見て感心していた。

 

「敵将もハンスが褒めるだけあって確かに良い人材である」

 

 全体として同盟軍はラインハルト一人に翻弄されて、カンニングで事態の推移を知るハンスの便乗で被害を拡大させていた。

 同盟軍参謀長グリーンヒル大将が帝国軍の後背に囮部隊を派遣して帝国軍を陽動して帝国軍が後退した隙に撤退する作戦をロボスに進言する。

 囮役にはヤン・ウェンリー准将が立候補した。既に予備兵力もない同盟軍は囮部隊を編成するのに前線から艦艇を抜くのだがロボスが名人芸と言える手腕で艦艇を抜くのはヤンに「お見事」と言わしめた。

 ラインハルトも前線でのロボスの動きを察知して同盟軍の作戦を看破する。

 第四次ティアマト会戦の特色として各々の指揮官の手腕が発揮された会戦であった。

 ヤン・ウェンリー准将が指揮する囮部隊が帝国軍の後方で陽動を開始するとラインハルト以外の帝国軍本隊は後退を始める。

 この時、ハンスは敵の陽動である事を進言して攻撃の続行を主張したが受け入れて貰えずにいた。

 

(陽動作戦を行うと言う事はロボスは健在で歴史通りに流れたか。被害は圧倒的に同盟軍が大きい点だけが違うが後はラインハルトがロボスを仕留める事を期待するしかないか)

 

 帝国軍本隊が後退した隙に同盟軍も後退して行くがラインハルトが執拗に攻撃を仕掛けて行く。ロボスの旗艦アイアースの周囲でも火球となる艦が続出していたがヤンがラインハルトの旗艦ブリュンヒルトの真下に戦艦ユリシーズを密着させて人質に取るという離れ技を行う。

 旗艦を人質に取られた帝国軍は同盟軍が撤退するのを黙って見ているしかなかった。

 ラインハルトも自分を人質にしたユリシーズが離れて行くのを黙って許した。

 ラインハルトにしては大胆不敵な行動で味方を援護した勇気を賞賛したい程である。

 大胆不敵な行動をしたヤンも名前も知らない白い戦艦の指揮官が帝国軍首脳部から忌避され前線の将兵から人望を得ている事に興味を惹かれた。

 後世、好敵手として注目される二人が名前すら知らずに初めて互いに意識した戦いであった。

 この事がハンスが嫌う本来の歴史通りに無駄な血を流す事になるのか。ハンスも含めて宇宙には誰も知り得る者はいなかった。

 そして、戦略上意義も無い第四次ティアマト会戦が終了した。

 




指摘を受け一部の文章を修正しました。


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初めての旅行

 

 ラインハルトは第四次ティアマト会戦の功績により上級大将に昇進が確定した。そして、キルヒアイスも大佐に昇進が確定している。ハンスも中佐に昇進が確定したが本人が「既にイゼルローンに行く前に功績もなく少佐に昇進していますから」という事で固辞したのだが意外な事にラインハルトとミュッケンベルガーの二人に説得されたのである。

 ミュッケンベルガーはハンスの短距離砲への切り替えとウランフを縦深陣に誘い込んだ功績を評価していた。

 ラインハルト本人はハンスに対して、本音はキルヒアイスに匹敵する才幹の持ち主であり市井の暮らしにも詳しく、不思議な事に軍隊の外からの視線の持ち主である貴重な人材と評価している。出来るだけ権限を与え才幹を発揮させるべきだと思っている。見事な過大評価の見本である。

 しかし、ハンス個人の関係となると途端に、お互いに子供となってしまう。原因はハンスの僻みである。

 ハンスにしてみれば美人で優しい姉がおり、本人も絶世の美形で頭脳は学年首席であり運動神経も良い。本人は貧乏貴族と言っているが庭付きの一軒家に住んでいて、レストランに住み込んでいたハンスからしたら十分に裕福なのである。

 ラインハルトにしても全てラインハルトの責任で無い事に嫉妬されても迷惑な話なのであり、羨ましいと言うならハンスは義理とは言え優しい姉と一緒に暮らしているのである。

 お互いに相手に嫉妬しているのだから自然と角を突き合わせる事になる。

 キルヒアイスは二人が角を突き合わせる度にラインハルトに対して大人気ないと思うのだがラインハルトが自分以外に素の自分を見せるのは良い兆候だとも思っている。

 

 来年にはラインハルトはローエングラム家を継ぎ伯爵となる。それに追従して出征も決定していた。「伯爵家を継ぐなら手柄を立ててみろ」というわけである。

 キルヒアイスが悪意を感じるのはラインハルトからロイエンタールとミッターマイヤーを引き離しラインハルトに反感を持つ人材ばかりを配属させた人事である。唯一の救いは対同盟に対しては専門家扱いになったハンスが麾下に加わる。これまでと違い初めての総指揮官としては不安が多いとキルヒアイスは思う。

 ラインハルトは危惧するキルヒアイスに向かって鷹揚に言う。

 

「お前が居れば負ける事はない。心配性も度が過ぎると折角の赤毛が白くなるぞ」

 

 自覚の無い心配性の原因が言っているのだからキルヒアイスにしてみれば始末に悪い。

 

「それに、次も勝てば元帥になる。そうすればハンスも取り返す事が出来る。その後は……」

 

 ラインハルトが言わんとしている事がキルヒアイスには分かる。

 キルヒアイスも無言で頷き返す。しかし、口にした事は別の事である。

 

「そう言えば、今度の旅行に折角なら、少佐も誘っては如何ですか?」

 

「ハンスなら既に声を掛けたが珍しい事に礼儀正しく断られた。姉君と一緒に旅行に行くそうだ」

 

「そうですか。お互いに忙しい二人ですからね。休暇が合うのは珍しいのでしょう」

 

 キルヒアイスから忙しい二人と言われた二人は既に機上の人となっていたが、ハンスの自宅前で怒り心頭の人物がいた。

 

「何が今月は忙しいよ。ちゃっかりと二人で旅行に行っているじゃない!」

 

 貴族の姫君と思えぬ口調でヘッダに出し抜かれたマリー・フォン・ドルニエが吠えていた。

 

(姉君が忙しいからチャンスだと思って貴族の姫様が朝から殿方の家に押し掛けるとは……)

 

 朝からマリーに車を出させられた運転手は、この後で何と言ってマリーを宥めるか思案にくれる事になる。

 

 マリーを出し抜いたヘッダは隣の席で居眠りする弟の寝顔を見て小さな幸せに浸っていた。

 

 (弟は昇進する度に考え事をする事が多くなって来ている。夜も寝る事なく考え事をしているのか朝も顔色が悪い。自分と同じベッドだと寝ている様なので休日の前夜だけでも一緒に寝ているけど心配になる)

 

 今回の戦いは激戦だったとヘッダも聞いている。身長に比して体重が軽い事も心配の種である。旅行に連れて行き軍務との繋がりを断つ事で少しは心身共に健康になるのではと思い強引に旅行に連れて来たが気持ち良さそうに寝ている。

 

(やっぱり、旅行に連れて来て正解だったわね)

 

 弟と二人でゆっくりと過ごすのは久しぶりである。弟に付く悪い虫の貴族の姫様はオーディンで悔しがる事だろう。

 

(嘘は言ってないから、本当に旅行の準備と旅行を楽しむ事に忙しいですからね)

 

 何処かの役人の言い訳みたいな事を思いながらマリーの事を考える。

 

(所詮は貴族の姫様ね。この子の表面しか見てないわ。相手にも寄るけど必要なら残酷な事も出来る子なのに)

 

 ヘッダはハンスが根本が優しい人間である事を知っている。故に必要に迫られて残酷な事をした時に支える事が出来る女性がハンスには相応しいと思っている。そして、マリーに支える事が出来るのかと問われると否である。

 

(悪い娘じゃないけどね)

 

 相手の女性の心変わりで弟が傷つく事はヘッダは許容が出来ない。

 

(過保護かもしれないけど)

 

 自分が望んで弟にしたのだから、ハンスには幸せになって欲しいと思うヘッダであった。

 

「御乗船の皆様にお知らせします。本船は間もなく、惑星ヴィーンゴールヴに到着します。ヴィーンゴールヴではレジャーとリゾートを目的とした数々の施設が皆様に有意義な休暇を過ごせる様、お待ちしてます。お降りの方は下船の準備をお願いします」

 

 船内放送が目的地への到着を知らせる。ヘッダはハンスを起こして下船の準備を促す。

 

(ハンスとの初めての旅行なんだから楽しまないとね) 

 

 ヘッダの期待と別に到着して早々にトラブルに巻き込まれる事になる。

 

 惑星ヴィーンゴールヴはオーディンから時間的距離で6時間程の惑星で惑星の大きさもオーディンの半分程である。

 海の多い風光明媚な星で引退した門閥貴族や富豪などが多く住む事で帝国でも有名な惑星である。

 

 宇宙港を出ると冬のオーディンと違い。ヴィーンゴールヴは夏であった。

 日射しは優しく肌を刺す様な真夏日ではなく空気も暖かい。

 ヘッダとハンスは顔の半分が隠れる程のサングラスをしてタクシーを使わずにホテルまでの道程を散歩を兼ねて歩く事にする。

 車道と反対側に白い砂浜で海水浴を楽しむ人々が見えた。南国の鳥の様なカラフルな水着の若い女性も多くいる。

 

「うわ!帝国って、お堅いイメージが有るから、水着とかもシンプルなのかと思えば、意外と過激だな」

 

「興味が有るの?」

 

 問い掛けるヘッダの顔は笑っているが目が笑っていない、幸か不幸かサングラスで目が隠れている。

 

「そりゃ、無いと言えば嘘になるけど海には行かないよ」

 

「あら、どうして?」

 

「僕が行くなら姉さんも行くだろ。そしたら他の男に姉さんの水着姿を見せる事になる」

 

 弟が見せる嫉妬にヘッダは頬が緩みそうになるのを女優のスキルで制止して姉馬鹿な思いとは別の事を口にする。

 

「意外と独占欲が強いわね」

 

「いや、普通でしょ」

 

 更に歩いて行くと長さが10メートルも無いトンネルがありトンネルの中にヘッダとハンスの間くらいの年齢の少年三人が待ち構えていた。

 地元の不良なのだろう。三人共に片手にナイフを持っている。

 ヘッダが目当てか金銭が目当てかは分からないがハンスの血が沸騰していく。

 ヘッダは不幸な少年達に頭を抱えた。ハンスは、この種の人間を嫌悪しており容赦しない事を知っていたからだ。

 

「ガキの癖にいい女を連れているじゃないか」

 

「そうそう、俺達が女の可愛がり方を教えてやるぜ」

 

「訴えたけりゃ訴えてもいいぜ。どうせ無駄になるからな」

 

 ヘッダは少年達の台詞の陳腐さに呆れながら少年達が自分達の死刑執行書にサインをしたので耳を両手で塞いだ。

 ヘッダが耳を塞いだのを見て少年達はヘッダが自分達の台詞で怯えたと思い有頂天になった。他人が自分に怯える事に快感を覚える病んだ精神の持ち主達である。

 しかし、少年達の快感も数秒間だけであった。

 金属板同士を叩きつける音がトンネル内に響いた。

 ハンスが火薬式拳銃で少年達の両方の足の甲を撃ち抜いたのである。

 倒れた少年達の鎖骨をハンスが無慈悲なまでの正確さで踏み折る。

 トンネル内に少年達の言葉にならない悲鳴が充満する。

 その後、ハンスはヘッダを連れてトンネルの外に出ると何処かに連絡した後で警察に通報する。

 

「夕食前までにはホテルに行くから昼食は一人で食べてね」

 

 発砲した直後に日常会話を始める弟にヘッダは呆れてた。

 

(軍人って、ここまで切り替えが出来るのかしら?)

 

 ヘッダも少年達が絡んで来た時点で事の結末の予想はついたが、実際に予想通りになる事に自称常識人の姉としては色々と思う所がある。

 

「分かったわ。夕食は何がいい?」

 

「海の近くに来たから魚料理がいいなあ」

 

「魚料理ね。メニューは任せてね」

 

(折角の貴重なランチのチャンスが無くなったわ)

 

 日常会話を返しながら弟とのランチを惜しむヘッダも十分にハンスに毒されているがヘッダ本人は常識人だと信じている。

 こうして、ヘッダとハンスの休暇は一日目からトラブルが発生した。

 

 



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楽しい旅行?

 

 パトカーで駆けつけた主任警官は色々な意味で青くなっていた。

 まずは撃たれた三人は地元の有力者の馬鹿息子達である。

 負傷の具合も神経が集中している足の甲を撃ち抜かれて丁寧に鎖骨まで折られている。

 加害者が見せた身分証明書は帝国本土の情報武官である。それも、宇宙艦隊司令長官直属のエリートである。

 更にエリート情報武官の主張は三人は共和主義者のスパイでありナイフで襲って来たと言う。

  

(それは誤解です。こいつらは誰でも襲い警察には親から圧力を加えて貰い何度も揉み消しをしている屑です)

 

 とは言えないが、話が宇宙艦隊司令長官の所に行くのは確実であり、いつもの様に自分達で事件を揉み消すのは不可能である。

 更に身分証明書の確認をしていた部下からの耳打ちでの報告が事態を深刻化させる。

 

「主任、この人、ティアマトの英雄と呼ばれてるオノ少佐ですよ。例の亡命して来た」

 

 主任警官は運命を呪った。

 

(俺が当番の日に何で面倒な事が起きるんだ!)

 

 そして、主任警官が保身の為に瞬時に計算とも言えない計算をした結論は、何も気付かないふりをしてハンスに従う事である。要は事勿れ主義である。

 

「確認が取れました。身分証明書をお返しします」

 

 ハンスは身分証明書を受け取ると警官達に指示を出す。

 

「コイツらを本国へ送還するまで警察の留置場を借りますから手伝ってくれ!」

 

「はい、了解しましたが、此方のフロイラインは?」

 

 ハンスが主任警官の肘を掴み少し離れた所に連れて行き仔細が有りげに囁く。

 

「元帥閣下の直の部下である私から言える事はフロイラインなどはいない。分かるか?」

 

 主任警官は女性の方を見るとサングラスで顔が隠しているが美人で有る事が分かる。

 主任警官の頭の中で宇宙艦隊司令長官の顔が浮かびあがる。

 

(ええ、あの真面目そうな人が愛人を!)

 

 主任警官は勝手に全てを納得して更に顔色を青くした。

 

(だから、この人も発砲したのか!確かに上司の愛人に万が一の事が有ればクビが飛ぶからなあ)

 

「理解したかね。ではフロイラインをホテルまで卿が丁重に送り、フロイラインの事は卿も部下も忘れる事が、この場にいる全員が幸せになる事だよ」

 

「了解しました」

 

 ミュッケンベルガーが聞けば怒り狂いそうな話である。幼い頃に父を亡くし女手一つで育てられたミュッケンベルガーは帝国軍では有名なフェミニストで結婚してから、愛人どころか浮気も無い。

 

 ハンスは主任警官の役人根性を正確に理解して保身に走る方向に走らせた。

 主任警官がヘッダを送っている間に三人を拘束して自殺防止としてパトカーにあった雑巾を三人の口に入れて猿轡をする。

 主任警官が帰ってきたら三人をパトカーのトランクに放り込み署まで連行する。

 

 署では署長が事態の解決策を模索していた。

 現場からは加害者が本国のエリート士官で情報畑の人間であるという。

 被害者は土地の有力者の馬鹿息子三人組だそうだ。土地の有力を優先するか本国のエリート士官を優先するか二者択一である。

 結論が出ないままパトカーは署に到着する。結局は署長室から出ないまま部下に全てを押し付ける事にした。 これが致命的なミスだった。

 

 ハンスは署の警官達に命じて署長を拘束して署長も留置場に放り込む。

 連絡を受けて駆け付けた少年達の親と弁護士達も一緒に留置場に放り込む。

 取り調べと称して署長以外の全員を留置場内で拷問に掛ける。

 他人の痛みには鈍感な人種だが自分の痛みには敏感な連中である。

 弁護士が何か文句を言っていたが無視をする。

 

「お前さん、生きて帰るつもりなの?お前さんに残された選択は苦しんで死ぬか。楽に死ぬかしか残ってないよ」

 

 この後、弁護士が発狂した様に騒ぎ始めたがハンスは相手にせず無慈悲な宣告をする。

 

「その年齢なら子供の一人や二人はいるだろうね。男か女で違いがあるが大人しくした方が子供のためだよ。特別に時間をあげよう」

 

 そう言い残してハンスは留置場を出て署の食堂で三人前の食事を食べて昼寝までした。副署長の来客を告げる声で目を覚ます。

 

「よく連絡をくださいました。オノ少佐」

 

「ご無沙汰をした上に手数を掛けてしまいます。ラング局長」

 

 来客は社会秩序維持局のハイドリッヒ・ラングであった。

 

「しかし、お早い到着でしたね」

 

「それは、オノ少佐の頼みなら急ぎます」

 

「で、部下の方は何名程?」

 

「12名程になります。既に隣の警察署から人を借りて弁護士事務所と自宅は押さえました」

 

「流石です。弁護士連中の事務所まで到着と同時に押さえるとは仕事が早い!」

 

「まあ、慣れですよ。それに宰相閣下からも徹底的に調べろと厳命されてます」

 

「それは、心強い!」

 

「では、後は私達に任せてホテルに戻りなさい。姉君が待ってますよ」

 

「これは御配慮、痛み入ります」

 

 ハンスは少年達を見て、そのバックボーンを看破すると同時にバックボーンも潰す事を瞬時に決めてラングを嗾けたのである。

 ラングの事だから、悪党共は全財産を帝国に没収されて良くて獄死、最悪は死刑になる。

 ましてリヒテンラーデ侯までが支持しているとなれば悪党達は帝国から見捨てられたのと同様である。

 ハンスにはリヒテンラーデ侯の本音が手に取る様に分かる。

 三人の貴族から利権と財産を奪う事は帝国の財政が厳しい時に助けになる。

 それに場所は引退したとは言え門閥貴族が多い土地柄であり厳しく対処する事で貴族の横暴を牽制する意味があり、平民達の帝国への信頼を得る為でもある。

 リヒテンラーデ侯もラインハルトとの権力闘争に敗れたとは言え統治者としての仕事は真面目に行っていた。

 或いはゴールデンバウム王朝の真の忠臣であるかもしれない。

 

 ハンスがヘッダの元に戻ったのは予定より早く午後のティータイムであった。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいまかな?」

 

 ヘッダにはラングが既に取り調べを始めて後顧の憂いが無い事を伝える。

 

「まあ、あの三人も襲った相手が悪かったわねえ。ましてはラング局長さんが出てくるとは」

 

 ヘッダもラングとは旧知の仲である。ヘッダが両親と亡命した時は色々と気遣かってくれたものである。

 

 その後は、ホテルの周辺を散歩して明日からの行動の下調べをする。

 散歩から帰ると夕食はホテルのレストランの個室で海を眺めながらの食事をする。

 

「沖の方で白い光が見えるけど何かしら?」

 

「ああ、あれはイカ漁をしているんだよ。イカは光に集まる習性があるからね」

 

 ハンスは料理だけでなく釣りや園芸なども詳しい。釣りをして魚を干物にしたり僅かな土地にキュウリを栽培したりミントを植えたりと色々と自給自足の生活して来た名残りである。

 

「オーディンは海が少ない星だからね」

 

「ハイネセンは海が多かったかしら?」

 

「海が多い星だったよ。河川も多かったからね。」

 

 会話をしながらも二人は料理も楽しむ。

 帝国では魚料理は少なく肉料理がメインである。魚の養殖はコストと時間が掛かる為に流通が少ないのが原因らしい。

 

「魚のステーキも美味しいけど、魚のカルパッチョも美味しいわね」

 

「オーディンでは屋台の川魚のホイル焼きとフィッシュアンドチップスとか売っているけど、あれもレベルが高い」

 

「売っているわね。オーディンの冬の風物詩よ」

 

 健啖家の二人はコースだけでは足りずに他にも料理を注文して旅行初日のディナーを堪能した。

 

 ディナーを楽しんだ後は部屋のベランダで海を観賞しながらルームサービスで注文したワインを楽しむ。

 レストランでは角度的に見えてなかったがベランダからだと漁り火を反射した海面が白く輝いて見える。

 

「本当に綺麗ね」

 

 ハンスには珍しくない光景なので漁り火の揺れを見てる(沖の方は波が高いみたいだなあ)程度の認識なのだがヘッダには珍しい光景らしく感動している。

 

「夜風は体に悪いから中に入ろう。海は逃げないから」

 

「うん。そうする」

 

 ハンスの言葉に素直に従うヘッダに安心したハンスだったがヘッダの次の言葉に愕然とする。

 

「じゃ、一緒にお風呂に入ろう」

 

「ちょっと待て、なにゆえに一緒に入る必要がある?」

 

「だって、お酒を飲んで酔っているもん。一人で入ったら危ないもん」

 

「しまった。これが狙いでレストランじゃなくルームサービスでワインを注文したのか!」

 

 ヘッダはしてやったりと満面の笑顔である。

 

「降参だよ。旅行中は一緒に入るから酒は控えなさい」

 

「はーい」

 

「これ立場が逆なら犯罪なんだが、男って損だよなあ」

 

 文句を言いながらも姉の希望を叶える事にする。風呂の後は抱き枕にされる事も覚悟している。

 

(まあ、どうせ、明日はラング局長が事後処理の報告に来るから、それが終われば姉孝行に集中が出来るかな)

 

 この時のハンスはラングの報告内容が帝国の司法当局を震撼させる騒ぎになるとは予想も出来ずにいた。

 



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播種

 

 ハンスは喉の痛みと息苦しさで目が覚めた。

 

「く、苦しい!」

 

 背中から抱き付いているヘッダの腕がハンスの喉に巻き付いて喉を圧迫している。

 

「チョーク!チョーク!」

 

 朝は低血圧で動かない体に鞭打って、ヘッダの足に渾身の蹴りを入れてヘッダを起こす。

 

(痴情の縺れで女に刺されて死ぬなら本望だが、寝相の悪さで殺されるのは嫌だぞ!)

 

 世の中、戦場だけでなく日常にも危険はあるものである。

 

 

「もう、何時までも膨れっ面をしないの」

 

「二度目は無いからね。次に同じ事したら、もう一緒に寝ないから!」

 

「はい、反省してます」

 

 二人ともお互いの言葉を全く信用していない。これも一種の社交辞令である。

 二人は思わぬ早起きをしたので港まで散歩を兼ねて朝食を摂りに行く事にした。

 

「港で観光客相手に新鮮な魚の屋台が出ているらしいけど、楽しみだなぁ」

 

「そうね。オーディンの屋台とは違うでしょうから面白そうね」

 

 逆行前の世界では海で釣りをして糊口を凌いだ事もあるが、新鮮な魚は簡単な調理でも極上の味なのである。ハンスとしたら嬉しくて仕方がない。

 

「早く行こう!直ぐに行こう!」

 

「もう、慌てなくても屋台は逃げません!」

 

 ヘッダも内心は朝から港まで行くのは面倒だと思っていたが弟が珍しく喜んでるので呆れながらも行く事にした。

 結果として、屋台の食事は素晴らしく美味であった。

 

「この小魚のアイントプフ(ドイツ風スープ)はオーディンのレストランでも食べれない味だわ」

 

「ホイル焼きの魚はオーディンにはあるけど魚の串焼きはオーディンでは無いよね」

 

「この魚のハンバーガーも美味しいわ」

 

 欠食児童と化した二人は屋台の人達も驚く程に手当たり次第に食べ歩く。

 

「明日から朝食はホテルではなく港で食べましょう」

 

「そうだね」

 

 ヘッダも気に入った様である。ホテルでの朝食より料金も安く、魚が主体の食事は女性として色々とありがたい。

 二人して満腹になった腹を擦りながらホテルに帰るとロビーでラングと出会った。

 

「お久しぶりです。局長さん!」

 

「これは、フロイラインも美しくなって、お元気そうで何よりです」

 

 ヘッダもラングとは旧知の仲である。

 

「局長、今回は手間を掛けさせて申し訳ありません」

 

「そんな事はありません。それに二人が姉弟の養子縁組をして幸せそうな姿を見る事も出来ました」

 

 ラングの言葉に嘘は無く目に涙を浮かべて二人を祝福していた。

 

 現在も後世でもラングは秘密警察の長官として嫌われているが、ラング自身は帝国の官僚としては珍しく清廉潔白であり、無辜の一般人には寛容な人物でもある。下級官吏時代から匿名で育英事業や福祉施設に送金していた篤志家の顔を持つ善良な人間でもある。

 

「こんな場所で立ち話ではなく部屋でコーヒーでも飲みながらゆっくりと話をしましょう」

 

 ヘッダの提案にハンスも賛同した。ラングの報告内容は衆人環視の中で聞けるものでないからである。

 部屋までの道中でのヘッダとラングの二人の会話は日常的な平和のものである。二人の会話を聞いて、ハンスはラングにも死んで欲しくなかった。秘密警察の長官としては嫌われているが役職で汚れ役を行っているだけでロイエンタールやラインハルトよりも善良な人間なのだから。 

 

「フロイラインには過分なご配慮を頂き部下一同を代表し御礼申し上げます」

 

 部屋に入り席に着くなりラングが礼を言い始めた。

 ヘッダが昨日のうちに警察署に朝食のケータリングサービスを頼んでいた。裏方の人間に対する配慮を欠かさないのは流石に一流女優である。

 

「遠い所まで来て、頑張って頂いて貰っているんですもの。当然ですわ」

 

「その言葉だけでも部下は喜びます」

 

「それで、連中を叩いたら何が出ましたか?」

 

 ハンスが本来の話に軌道修正する。

 

「今までに数十件の犯罪の揉み消しがありました。宰相閣下からは連中の資産から適正な賠償金を被害者に払う様にとの指示もうけています」

 

「残りの資産は?」

 

「当然、全て没収して国庫に入ります。そして、連中が経営していた会社も国営になります」

 

「連中は?」

 

「オーディンで詳しく調べた後は死罪でしょう。望み薄ですが良くて自裁ですな」

 

「妥当な処置でしょうね」

 

「宰相閣下も最近の門閥貴族の横暴さには頭を痛めてる御様子ですから、今回の件が一罰百戒になるのではと期待をしてます」

 

「宰相閣下も苦労されてますね」

 

 いつの間に部屋から姿を消していたヘッダが部屋に戻ってきた。

 

「局長さん、お風呂の準備が出来ましたわ。昨日からシャワーを浴びる時間もなかったのでしょう。ハンスは局長さんの背中を流して差し上げて」

 

「これは有難い。では遠慮なく」

 

 ラングが了承したのでハンスも黙って従い風呂に入る準備をする。

 

 

「しかし、フロイラインは聡明ですなあ」

 

「はい。自分には勿体ない姉です」

 

 二人はキングサイズのベッド並みの広さのバスタブに浸かりながら会話をしている。

 

「それに、このバスルームは立派ですなあ。一面がガラス張りで海を眺められる」

 

「それに、新婚夫婦用の部屋ですから防音設備も完璧です。姉の前で出来ない話も出来ますよ」

 

 ヘッダが風呂を用意したのは自分抜きでハンスとラングに話をさせる為である。

 一般人である自分には聞かせられない話がある事をヘッダは理解していた。

 

「それでは詳しい話をしましょう。この星で連中はサイオキシン麻薬を製造していました」

 

「な、サイオキシン麻薬!」

 

 ラングがヘッダの前で話さない筈である。ヘッダの父はサイオキシン麻薬の捜査をしていて、逆に麻薬組織に国を追われて帝国に亡命したのである。

 

「そうです。連中の会社は魚の養殖をしていますが稚魚に与える餌の開発と製造もしていました」

 

「では、その施設でサイオキシン麻薬の製造もしていたのですか?」

 

「はい。連中はそれぞれの施設でサイオキシン麻薬の原料を製造して出荷直前にそれぞれの施設で製造した原料を合成して出荷してましたから従業員も一部の者だけしか知らないそうです」

 

「局長、実は前から気になっていたのですが、同盟もサイオキシン麻薬は流通していましたが帝国の方が流通量は多い様に思えます。帝国には他にも貴族絡みの工場があるのでは?」

 

「その事は、以前から司法関係者の間で言われている事です。しかし、貴族相手では踏み込めないのが現状なのです」

 

「それと、軍部も縄張り意識があり手が出せないと」

 

 ハンスの言葉にラングの表情が一瞬だけ固まる。

 

「局長、そんな表情をしなくても大丈夫です。私は亡命者で軍とのしがらみも少ないですし、姉はサイオキシン麻薬を憎んでいますから人選としては正解だと思います」

 

 ラングの狙いは軍部に自分の味方を増やす事であった。そして、白羽の矢が立ったのがハンスである。

 ハンスは全てを承知して言外にラングに協力すると言っているのである。

 

「恐ろしい程の見識ですな。しかし、少佐が味方になってくれるのは心強い!」

 

「まあ、自分程度では微力ですけどね」

 

「謙遜する必要はありません。現に少佐の活躍で麻薬組織の工場を一つ潰せました」

 

「まあ、今回のは偶然ですがサイオキシン麻薬は軍内部でも深刻なので捜査をしてますけど、成果は出てないみたいです」

 

「ええ、我々の見解では、一つの組織ではなく複数の組織が軍内部に入り込んでいると見ています」

 

「麻薬組織同士の繋がりは無いのでしょうか?」

 

「恐らくは無いと思われますな」

 

「軍内部の流通もですがオーディンに持ち込まれる麻薬の流通経路は軍だけとは思えないのですが?」

 

「流通経路ですか?」

 

「はい。自分が同盟に居た時に地球教という宗教が在りましたが帝国にも在りましたので驚いたのですが考えてみれば宗教なら銀河系中に流通経路を持っていても不思議ではありません」

 

「なるほど、宗教ですか」

 

「歴史的に見て宗教と麻薬は密接な関係がありますからね。流石に上から下まで全員が麻薬を扱っているとは思いませんが知らないうちに運び屋にされてる場合もあるでしょう」

 

 ハンスの言葉は嘘ではなく、古代より宗教儀式に薬物が使われる事は多く特にアヘンは医薬品としても使われていた。

 

「地球教でしたな。調べてみる価値はありそうですな」

 

「まあ、かなり内部に入り込まないと難しいでしょうけど」

 

「その辺は我々はプロですから任せて下さい」

 

「では、自分は軍内部の麻薬組織に注意を払いましょう」

 

「あまり無理をする必要はありませんから、まずは自分の身の安全に念頭に置いて下さい。決してフロイラインを悲しませないで下さい」

 

「はい。自分も戦場で後ろから撃たれたくありませんから」

 

 ハンスは以前から対処に困っていた地球教に帝国司法の目を向けさせる事に、まんまと成功させた。

 

(まあ、結果が出る迄に数年は掛かるだろうけど、疑惑の種は蒔いた。今は治安維持局の目を向けさせる事に成功した事に満足するべきだろうな)

 

 ハンスとラングは密談も終わり大急ぎで風呂を出る事にした。話が長引き流石に湯に浸かるのは限界を迎えていたからである。

 

「駄目だ。こりゃ!」

 

 ラングが帰った後にソファーで全裸で酒に酔った猫の様に寝そべる弟をレターセットの便箋で扇ぎながらの姉の一言である。

 

「湯に浸かりながら長話をするからよ。バスタブから出ても話は出来るでしょうに!」

 

「面目ありません。もう厄介事は有りませんから明日からは姉上様の命令に服従しますから」

 

「明日からじゃなく今日からよ!」

 

「はい」

 

 こうしてハンスは残りの休暇を姉孝行に使う事になる。

 

 



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料理人ハンス

 

 一般に家庭の数だけ家族の形があると言われている。

 しかし、来年には16歳になる弟と一緒に入浴してベッドも共にするのは倫理的に問題があるのではないか。

 そう思いながらもヘッダには言えないハンスであった。

 

「あのね。弟とは言え羞恥心は無いの?」

 

「無い!」

 

「……」

 

 朝から一緒に入浴しながら、きっぱりと断言されてしまい絶句するしかないハンスである。

 

「貴方が成人するまでは全て一緒のつもりよ」

 

「はあ……」

 

「途中で結婚して夫婦になっても良いと思っているわよ」

 

「……結婚ね」

 

 逆行前の人生では結婚もせずに人生を終わらせたハンスであったが結婚して不幸になった人を多く見てきたので結婚には憧れより恐怖が先立つ。

 

(まあ、連中は先の事を考えない無責任な連中だったからなあ)

 

 結婚して不幸になった人達の顔を思い出した。

 本人は無能なのに妻の実家の縁故で出世して法令違反を犯して逮捕され会社を倒産させた上司。

 

(あの人も周囲が違法行為だからと止めたけどね。結婚せずにいたら出世もせずに法令違反を犯さずに逮捕されなかったのに確か逮捕後に離婚されて出所後はどうなったんだろ?)

 

 離婚した後に財産の半分以上を慰謝料と養育費に取られて実家から勘当された嘗ての同僚も思い出した。

 

(あの人も実家の威光で出世したが勘当されてからは悲惨だったよなあ。他社に転職したが実家から勘当された事を密告されてクビになって結局は詐欺で逮捕されたんだよなあ)

 

 唯一、幸せになった人もいたが妻の実家が資産家で妻の実家の会社で働き従業員からは腫れ物扱いされ家では妻に頭が上がらずに家庭内では一切の決定権が無い人もいた。

 

(まあ、一応は役員扱いで妻の実家に家も建ててもらい子宝に恵まれたけどなあ。妻の姑からは金持ちと結婚して往生際が悪いとか言われてたからなあ。何か不満を言っていたんだろうなあ)

 

「私と結婚するのは嫌?」

 

 ヘッダの言葉に現実の世界に引き戻されたハンスであった。

 

「嫌と言うよりは自信が無いなあ。姉さんを支える事が出来るとは思えんよ。弟として甘えてばかりだもん」

 

 これはハンスの本音である。相手は「帝国一の若手女優」で年数が過ぎれば「若手」が取れて「帝国一の女優」になるのは間違いない。もしかしたら「帝国」から「宇宙」に変わる可能性のある女性である。

 

「本当に男って、下らない事に拘るのね。貴方は自分の価値を判ってないわ!」

 

「まあ、男性と女性では価値観とか美的感覚が違いますからね。同盟にいた時に可愛い女の子を紹介してあげると同僚の女の子に言われたけど可愛いかった試しがなかったけどね」

 

 これにはヘッダも苦笑するしかなかった。

 

「まあ、貴方は色んな意味で有望株なんだけどね」

 

「いつ戦死するか分からん軍人とか有望株とは思えんけどね」

 

「もう、直ぐに職業とかを考えるんだから!」

 

「取り敢えずは有望株の価値としては朝食は期待して貰ってもいいけどね」

 

「貴方、本当に軍人に向いてないわね。コックが天職よ」

 

「最初は軍務省の士官食堂の下働きを狙っていたんだけどなあ。何処をどうを間違えたのか」

 

「まあ、十代で少佐さんだからね。軍人さんの才能があったんでしょうけど……」

 

(それはカンニングの結果なんだけどね)

 

 実際に口に出したのは別の事だった。

 

「まあ、平和になれば最初にリストラされるけどね」

 

「そうなれば、私専属のボディーガード兼付き人として雇ってあげるわ」

 

「その時は頼みます」

 

 結局、二人は前日と同じく朝風呂を堪能した後に港に朝食を摂りに出掛ける。

 

「今日は準備してきたから期待してね」

 

「何を準備してきたかは知らないけど楽しみね。私も今日は準備してきたからね」

 

 ハンスは港に着くなり生きた魚を買うと持参してきたナイフで魚を捌き始めた。

 器用に魚を捌き、一口サイズに切り塩とレモン汁を掛けてヘッダに勧める。

 

「新鮮な白身魚なら生でも塩とレモン汁だけで十分に美味しいけど、帝国人は生魚を食べる習慣が無いからなあ」

 

「まあ、帝国では生魚はあまり食べないけど……」

 

 ヘッダも幼少の頃に帝国に亡命しているので生魚には抵抗があるのだが、取り敢えずハンスに勧められて一切れだけ食べてみる。

 

「あら、美味しい!ビールが欲しくなるわね」

 

 ハンスは残った魚の皮や鱗に内臓も調理してきた。

 皮はお湯を掛けて前日の魚の串焼きの串に刺して炙る。内臓は水道で丁寧に洗い屋台のサラダの具にする。鱗は屋台のフライヤーを借りて揚げて塩を降る。頭の部分は真ん中から半分に切りお湯を掛けて洗った後に串焼きにする。

 

「貴方、本当に軍人を辞めてコックになった方が社会に貢献が出来るわよ」

 

「平和になったら、コックになる予定だけどね」

 

 ヘッダが呆れたのは今日の調理で使った器具は前日の魚の串焼きの串にホテルの使い捨ての歯ブラシに来る時に利用した宇宙船の機内食の使い捨てのフォークである。

 

「貴方の同盟での生活が簡単に想像が出来たわ」

 

「そんな事より、まずは食べてみてよ」

 

 ハンスにフライヤーやコンロを貸した屋台の店主達も味見をしている。

 

「この商売を長年しているが、こんな魚の食べ方もあったんだな!」

 

「坊や。今日の分の代金はサービスするからレシピを教えてくれないか?」

 

「いいですよ。簡単ですから」

 

 ハンスは屋台の店主達を相手に即席の料理教室を始めだした。

 

(美味しいわね。軍人を辞めてコックになるなら店くらいは持たしてあげるのに)

 

 別にヘッダだけの話ではないが家族が戦乱の時代の軍人など歓迎する人はいないだろう。

 

(ドルニエ侯の娘も頭痛の種だけど、軍隊にいる事も頭痛の種よね)

 

 気が付けば料理は完食してビールは飲み干していた。新しいビールを買いに行こうとしたらハンスが声を掛けてきた。

 

「朝からビールのお代わりしたら駄目だよ。代わりに新しい料理だよ」

 

 ハンスが目の前にスープパスタを差し出してきた。

 

「あれ、さっきとは違う料理じゃない」

 

「同じ作るなら違う料理じゃないと芸が無いだろ」

 

 弟の器用さに感心しながらもフォークを手にする。

 

「パスタだけどパスタじゃない!」

 

「魚をミンチにして練り上げて作ったパスタだよ。スープは魚の中骨と骨の間の肉で作っているよ」

 

「これも、美味しいわ!」

 

「先に言っておくけど、オーディンじゃ作れないからね。新鮮な魚が前提の料理だから」

 

「それは残念ね」

 

 パスタを食べた後は二人は授業料の代わりに昨日と同様に屋台の食べ物を食べ歩いた。

 

「明日が楽しみね。屋台のおじさん達の新しい料理が食べれるかも」

 

 ヘッダの言葉にハンスが笑いながら返答する。

 

「流石に今日、明日では無理だよ」

 

「それなら、帰る日の朝の楽しみにしましょう」

 

 二人は朝食を食べた後は食後の運動を兼ねて海岸を散歩する。

 

「ヴィーンゴールヴの海岸、散歩するハンス、ヘッダの二人連れ」

 

 いきなりハンスが歌を唄い出す。完全な呆れ顔のヘッダにハンスも弁明する。

 

「分かる人には分かるギャグだよ」

 

「……何それ?」

 

 多分、読者にも分かる人が少ないギャグにヘッダも困惑する。

 

「それより、磯がある。何かいるかも」

 

 二人は磯に上がり小さな蟹を見つけては捕まえて遊ぶ。

 

「われ、泣きぬれて蟹とたわむる」

 

「今度は何?」

 

「昔の高名な詩人の詩の一節だよ」

 

(変な知識や学があったりするわ。この子、本当に15歳かしら?)

 

 内心とは別にヘッダも両手の鋏を上げて威嚇する蟹を指先で突っついて遊んでいる。

 

「逃げずに向かってくるとは勇ましいわね」

 

 ヘッダが蟹に夢中になっているとハンスが磯の岩を見てナイフで何か始めている。

 

「何をしてるの?」

 

「ペレセベス(亀の手)がいたから取っている。帝国人はペレセベスを食べないのかな?」

 

「それ、食べれるの?」

 

「珍味だよ。美味しいよ!」

 

 ハンスがナイフで取っている間にヘッダが探し回り、小一時間程でレジ袋二枚分を集めた。

 

「仕方ないけど、ホテルのレストランに持ち込むか」

 

「レストランで料理してくれるかしら?」

 

「駄目なら、鍋だけを借りても自分で調理するさ。それが駄目なら方法は他にもあるよ」

 

 ヘッダは他の方法が気になったが精神衛生のために聞かない事にした。

 

「善は急げと言うからホテルに帰ろ」

 

 ハンスの心配は杞憂であった。シェフはペレセベスの事を知っていた。

 

「帝国でも海の多い星では食べますがオーディンや貴族の方は食べませんね。見た目が見た目ですから」

 

「勿体ない。美味しいのに」

 

「で、全部、塩茹にしますか?」

 

「一袋分は塩茹にして残りの半分はシェフにお任せします。残りの半分はお弟子さん達の教材にして下さい」

 

「ご配慮有り難うございます。この星では滅多にない機会ですので良い経験を積ませる事が出来ます」

 

 ハンスの傍らでシェフとハンスの会話を聞いていたヘッダが初めて口を開いた。

 

「本当に食べれるんだ!」

 

「オーディン育ちのフロイラインが知らないのは無理もありません」

 

 ヘッダは口には出さないが内心は本当に美味しいのか疑っていた。

 

(本当に美味しいなら貴族も食べると思うけど、大丈夫かしら)

 

 ヘッダの懸念は見事に外れた。結果としてペレセベスは美味であった。

 

「あら、本当に美味しいわね。蟹や海老などの甲殻類とも違う味で貝とも違うわ」

 

「食べた殻の中の汁が美味しいスープなんだよ」

 

 ハンスに言われてヘッダも殻の中の汁を飲むと凝縮した旨味が口内に拡がる。

 

「ほんの少しの量なのに凄く美味しいわ!」

 

 塩茹でしたペレセベスを食べた後は塩茹でした汁で作ったシチューが出された。

 

「塩茹でした汁に野菜を入れただけなのに、こんなに素晴らしい味のシチューが出来るなんて!」

 

 最後は焼いたペレセベスが出された。

 

「塩茹でより、味が凝縮されて美味しいわ!」

 

「まあ、焼くとシチューが楽しめなくなるけどね」

 

「ねえ、ハンス」

 

「何、姉さん?」

 

「結婚して!」

 

「えっ!」

 

「私と結婚して毎日料理だけして頂戴!」

 

「あんたは、弟を専用のコックにして飼い殺すつもりか!」

 

「なら、私と結婚しなくてもいいから私の専属シェフになって!」

 

 ハンスも怒るより呆れている。

 

「同じ事でしょ」

 

 しかし、その夜には蟹を取りに港まで出掛けるハンスであった。ヴィーンゴールヴの豊かな食材に料理人志望の血が騒ぎ料理を楽しんでいた。

 翌日からハンスはホテルから一歩も出ずに食事もルームサービスですませる事にした。四六時中、ヘッダから抱きつかれたり隙を見てはキスされたりと姉馬鹿ぶりを発揮される事になるが、これも姉孝行だと思い姉の好きにさせる事にした。

 

(まあ、この程度なら良いか。確か、今日あたりキルヒアイス中佐は麻薬組織の襲撃を受けてるもんな)

 

 後世、クロイツナハⅢでキルヒアイスが麻薬捜査に協力した事実は有名であったが詳細は不詳のままであった。

 

(今回の件と合わせてキルヒアイス中佐に詳しい話が聞けるな)

 

 塩茹でされた蟹と格闘中の姉を眺めながらハンスは初めての旅行を楽しんでいた。

 



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覆土

 

 旅行から帰ってきたハンスは多忙であった。年明けの出征の準備とヴィーンゴールヴでの後処理とキルヒアイスにクロイツナⅢでの事件の聞き取りにラングとの打ち合わせである。

 

「卿は私の情報武官なのだから、麻薬捜査まで協力する必要はないのだぞ」

 

 見かねたラインハルトが言ってくれたが、地球教摘発の為にはハンスの協力は必要であるのだ。ハンスは本当の理由を言うわけにはいかず口では別の事を言う。

 

「しかし、帝国の麻薬汚染は同盟より深刻です。特に死の恐怖から麻薬に走る兵士も少なくありません。軍の秩序維持の為にも、今が千載一遇のチャンスですから」

 

「そうか、だが無理はするなよ」

 

 ラインハルトは心配しながらもハンスの行動を許可してくれた。

 ハンスにしたら少しでも早い段階で地球教を叩きたいのが本音である。

 

(連中を放置したら犠牲者の数が半端ないからな)

 

 軍務省も軍の麻薬組織摘発には力を入れているが軍高官も関わっていて捜査は難航している。先日もバーゼル退役中将が逮捕されている。現役時代から麻薬密売を行いアルレスハイムの惨敗を引き起こしているのだ。軍務省としても看過が出来ない事態なのだ。

 

(困ったもんだ。サイオキシン麻薬と言えば地球教の代名詞だったが調べれば地球教以外の組織も暗躍しているな)

 

 調査の結果、バーゼル退役中将の麻薬組織とヴィーンゴールヴの麻薬組織とは違う麻薬組織である事は判明している。

 

(これだけ麻薬組織が乱立していれば嘗て帝国と同盟が摘発の為に秘密裏に手を結んだのも理解が出来る。残念なのは当時の資料が無い事だな)

 

 この時のハンスの思考は完全に麻薬組織撲滅に傾いていて、来年の出征の事は念頭になかった。

 軍高官と門閥貴族が逮捕されて、軍務省、内務省、司法省と各省が帝国の麻薬汚染に深刻さを意識している現時点で省庁の垣根を越えた対策が取れるチャンスだと思っているからである。

 

(やっぱり、役人らしく上申書でも出すべきかね)

 

 ハンスは机に向かい手書きで書類を書き始めた。

 

 翌日、ハンスは書き上げた書類を持ってキルヒアイスの元に訪れた。

 

「それで、これを私に添削しろと……」

 

 キルヒアイスは書類を一読して書類を手にハンスに問い掛けた。

 

「はい。誠に申し訳ありませんが宰相閣下に提出する上申書としては自分の文章力には限界がありまして」

 

「分かりました。引き受けましょう。但し条件があります」

 

「条件とは?」

 

「私も連名させてもらう事が条件です」

 

 キルヒアイスもハンスに賛同してくれると言外に言っているのである。

 

「これは、絶対条件です。それとミューゼル閣下にも連名してもらいます」

 

 この言葉にはハンスも驚いた。キルヒアイスが厄介事にラインハルトを巻き込むとは思わなかったからである。

 

「宜しいので?」

 

「逆に二人の連名だけで提出したら後でミューゼル閣下に怒られます」

 

「はあ」

 

「それと提案があります。軍部だけではなく内務省のラング局長にも連名して頂くと宜しいでしょう」

 

「はい。ラング局長も麻薬組織撲滅には意欲的ですから添削して貰った書類を一読して貰うつもりでした」

 

「そうですか。では、明日の朝一番に書類をお渡しします」

 

「有難う御座います!」

 

 この時、ハンスもキルヒアイスも、この上申書が帝国三長官や司法尚書や内務尚書まで巻き込んだ大事になるとは思っていなかった。

 

 翌日、書類を持って内務省を訪れたハンスはラングに会う事が出来なかった。ラングは朝から司法省の会議に出席中であり内務省に戻るのは夕方になると顔見知りの職員から告げられた。

 

「宜しければ此方で書類をお預かりしますが、どうされますか?」

 

「では、お願いします」

 

 ハンスも顔見知りの職員という事で安心して預けたのだが、翌日にはラインハルト、キルヒアイス、ハンスと三長官に呼びつけられる事になる。

 

(ハンスは今度は何をやらかした?)

 

 ラインハルトとキルヒアイスの二人の脳裡には同じ疑問が浮かんだ。

 しかし、今回の被告はラインハルトであった。

 

「ミューゼル大将に聞くが、この上申書の連名の署名は卿で間違いないな?」

 

 軍務尚書のエーレンベルグが前日にハンスが内務省職員に渡した上申書の連名の署名を指して詰問する。

 

「はい。小官の署名に間違いありませんが何か間違いが有りましたか?」

 

 ラインハルトにしては上申書の件で呼び出された事は理解したが言葉通りに何が問題かは分からなかった。

 ラインハルトの様子を見て、ミュッケンベルガーが呆れた口調で理由を説明する。

 

「この上申書の発起人はオノ少佐となっていて卿とキルヒアイス中佐が連名しているが、内容が内容だけに卿らと内務省の局長だけで上申して良い内容ではないのだ」

 

 ミュッケンベルガーの言葉にハンスの顔が一瞬だが硬直する。

 

「これ、ミュッケンベルガー元帥。そんな言い方だと若い者が怯えるではないか!」

 

 統帥本部総長のシュタインホフがミュッケンベルガーを窘めて詳細に説明を始める。

 

「今回のオノ少佐の上申は素晴らしいのだが素晴らし過ぎるのが問題になったのだ」

 

 シュタインホフの言葉で三人の顔に理解の色が加わる。

 

(要は、たかが少佐の手柄を元帥や尚書が横取りするつもりか)

 

 ラインハルトとキルヒアイスは怒りより呆れながら三長官を眺めていた。

 ハンスは三長官に問い掛けた。

 

「では、三長官方も賛同して頂けるのでしょうか?」

 

 ハンスの問い掛けに三長官を代表してエーレンベルグが返事する。 

 

「勿論だとも、我らだけでなく内務尚書に司法尚書も賛同している」

 

「では、発起人の名を小官ではなく軍務尚書閣下に変えて頂けるでしょうか」

 

 ハンスの申し出に流石のエーレンベルグも慌てる。

 

「待て、それでは卿の功績を私が横取りするのと同様ではないか!」

 

「いいえ。これには理由が有ります。一つには、たかが、少佐の上申で騒ぎになると銀河帝国の鼎の軽重を問われるでしょう」

 

 ハンスに冷静に言われると皮肉なのか判別が難しいらしく三長官も激昂する事なく

渋い表情をするだけである。

 

「それと二つ目は私的な深刻な理由です。私には姉がいますが姉は帝国では有名人ですので麻薬組織からの報復の標的にされる可能性が有ります」

 

 ハンスに言われて全員が思い出したがハンスの姉は義理とは言え帝国一の女優である。

 

「あっ!」

 

 その場にいたハンス以外の口から異口同音の声が出る。

 

「そうか。卿の姉は女優だったなあ」

 

「それも、あのヘッダ・フォン・ヘームストラだぞ」

 

「確かに卿の姉なら報復の心配があるな」

 

「これは困りましたね」

 

「ああ、確かに私も迂闊だった」

 

 ミュッケンベルガー、シュタインホフ、エーレンベルグ、キルヒアイス、ラインハルトの順にヘッダを心配する声をだす。

 

(流石に全員が心配するとは全員が姉の隠れファンか?)

 

 ハンス以外の全員が一気に深刻な表情になるので発言したハンスの方が戸惑う。

 

「なんだ?その顔だと卿は自分の姉の事を知らんのか?」

 

 ハンスの正面の位置にいたエーレンベルグがハンスの表情を見て問い掛けてきた。

 

(えっ!確かに父親が同盟で麻薬捜査官だったが一般的には秘密の筈なんだが)

 

 返事をしないハンスを見てエーレンベルグだけではなく、その場の全員が納得した顔になる。

 

「え!全員で何ですか?」

 

 ハンスの表情と態度にハンス以外の人間達の間で目だけの会話が行われた結果、エーレンベルグが事情を説明する。

 

「その卿の姉には実弟がいた事は卿も知っているな」

 

「はい。小官と同い年の弟を亡くしている事は承知してます」

 

「その弟御の死因は卿は知っているか?」

 

「いいえ、知りません。姉は実弟の話は私の前では一切しません。姉の知人友人も実弟の話は私の前では一切しません」

 

「然もあらん。実弟の死因はなサイオキシン麻薬なのだ」

 

 ハンスの顔が一瞬で険しくなるが、エーレンベルグは更に話を続ける。

 

「サイオキシン麻薬の禁断症状が出た中毒患者の暴走車が歩道に乗り上げて通学中の生徒数人が……」

 

 流石にエーレンベルグもハンスの顔色が青くなるのを見て話を止める。

 

「当時、帝国全土を震撼させた事件なので記憶している人も多い筈」

 

 シュタインホフが取り成す様に付け加える。事実、未成年者が犠牲になり、その中に有名人の家族もいたので帝国全土に報道されてラインハルトやキルヒアイスも知っていた。

 

「事情は了解しました」

 

 ハンスの声も生気が無い。

 

「取り敢えず卿の主張は理解した。発起人の名義は私に差し替えておこう」

 

 エーレンベルグが了承して、そのまま散会となった。

 

 ハンス達が退出した後で残った三長官が上申書を前に困惑してた。

 エーレンベルグが上申書の内容に感心しながらも沈痛な声で口を開く。

 

「しかし、実現すれば麻薬組織撲滅に成果を出す事は間違いなく、複数の意味で被害者の救済になる案だが、発起人が不幸になるとは皮肉な事だな」

 

 シュタインホフが受けて答える。

 

「しかし、この様な発想は我らには無かった」

 

 シュタインホフの言葉を今度はミュッケンベルガーが受ける。

 

「省庁や官民等のあらゆる垣根を取り外して超法規的組織とは常人なら考えつくが構成員がサイオキシン麻薬の被害者遺族のみとは帝国人には思いつく筈がない」

 

 シュタインホフがミュッケンベルガーの言葉尻を捉えて疑問を口にする。

 

「我ら帝国人には思いつかないとは?」

 

「うむ。恐らくは叛徒どもの陸戦部隊の薔薇の騎士の真似であろう」

 

 エーレンベルグとシュタインホフの耳にも薔薇の騎士の噂は届いている。

 

「なるほど、確かに我ら帝国人には思いつかぬ事だな」

 

 シュタインホフが納得する。

 

「しかし、オノ少佐の才幹は恐ろしいものがあるな」

 

 エーレンベルグの言葉にシュタインホフとミュッケンベルガーも同意せざるを得なかった。

 ハンスは知らぬ間に帝国の上層部に評価をされる事になる。

 皮肉な事にハンス自身には迷惑な話であった。

 

 

 



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永遠の夜の中で

 

 年明けと同時にラインハルトはローエングラム家を継ぎ階級も上級大将に昇進した。ハンスもラインハルトのお零れでミューゼル家を継ぎ中佐に昇進をした。

 

 ハンスは新年の休暇中、姉のヘッダが新年興行の為に劇場へ泊まり込んでいる隙にマリーと連日の様にデートしている。

 今までなら出征前は夜も眠らずに考え事をしていた弟が昇進とミューゼル家の家名を継いだ事に浮かれている様にヘッダには見えた。

 ハンスとマリーがヘッダの舞台を観劇に来た時に二人を楽屋に呼びつけて叱ったのだがハンスは一向に堪えた様子も無い。

 流石にマリーもハンスを嗜めたが「大丈夫。今度の出征は楽勝だから!」と笑うばかりである。

 ハンスにして見れば同盟軍が兵力分散の愚を犯してラインハルトの好餌となる未来を知っているのだから新年休暇を余裕を持って楽しむのは当然の話である。

 

 帝国歴796年一月初頭、新年休暇が終わるのと同時にハンスはラインハルトの情報武官として出征の途に就く事になる。

 

「あんな調子で無事に帰って来れるのかしら」

 

 ヘッダとマリーの心配を他所に笑顔でブリュンヒルトに乗り込むハンスであった。

 

「卿の姉君達が随分と心配していた様だが、卿は余裕の様子だな」

 

 ラインハルトが呆れ気味にハンスに問い掛けた。

 

「そりゃ、新年早々の勝ち戦ですから」

 

「ほう、卿は私の事を買い被っている様だな」

 

「買い被るもなにも事実ですから、閣下が勝てぬ相手など叛徒の提督ではビュコック提督くらいですから」

 

「卿は私ではビュコックとやらに勝てないと思うのか?」

 

「はい。ビュコック提督は閣下と戦って勝てないと思えば負ける前に逃げますから」

 

「確かに勝負がつく前に逃げられては私でも勝てぬな」

 

「それに、今度の相手は順番で言えばパエッタ、ムーア、パストーレあたりの派閥人事で艦隊司令官になった連中が出て来るでしょう」

 

 ラインハルトの表情と声は変わらぬまま目の光だけが変わる。

 

「ほう。卿は既に敵の司令官も予測しているのか?」

 

「まあ、国防委員長としたら前回のレグニッツァでの名誉挽回の為に子分のパエッタの起用は確実だと思います。パエッタを総司令にするにはお友達の司令官のパストーレと後輩のムーアくらいが妥当でしょう」

 

 ハンスの説明を聞いて同盟の人事に呆れながらも納得するラインハルトであった。

 

「所詮、同盟も帝国も神経が麻痺しているんですよ。戦争を個人の出世や保身の道具にしてやがる。実際に死地に立つ兵士の命の重さも考えてない」

 

 吐き捨てるハンスの言葉にはラインハルトも応える。

 

「私も卿の言葉を忘れずに肝に銘じておこう」

 

「閣下なら、この馬鹿らしい戦いを終わらしてくれますね」

 

「ああ、終わらせるさ」

 

 この瞬間、ラインハルトはハンスの真の目的を知ったと確信した。

 だから、ハンスの言葉に応えたが、これはラインハルトの完全な過大評価である。

 ハンスの真の目的は人並みの暮らしと余裕のある年金生活である。

 天体望遠鏡が顕微鏡のミクロの世界を見れない様に天才のラインハルトにはハンスの小市民的な感覚は理解出来ない。

 

「取り敢えず、今回はイゼルローン要塞まで行かぬと話にならん」 

 

「はい。しかし、まだ敵の情報は入って来ていません」

 

 ハンスが無為の日々を送っていたのも戦略目標も無いまま敵と戦う事が目的の出征では敵の情報が無いと作戦も立て様が無いからである。

 

「前回もイゼルローン要塞に到着してから敵は動き出したな」

 

「まあ、オーディンよりハイネセンの方がイゼルローンに近いですから」

 

「情報武官殿は敵が動くまで仕事も無く優雅で羨ましい御身分ですな」

 

「はい。有難い事に給料泥棒が出来ます!」

 

 ハンスの返事にラインハルトも失笑してしまった。

 

「卿の面の皮がイゼルローン要塞の防壁並みに厚い事を失念していた。叛徒共の苦労が分かった気がする」

 

 ラインハルトから同情された同盟軍では既に帝国軍の侵攻と戦力の情報をフェザーン経由で知るところとなっていた。

 急遽、国防委員長トリューニヒトの指示で第二艦隊、第四艦隊、第六艦隊の三個艦隊投入が決定した。

 帝国軍に対して二倍の戦力であるが、本来は三倍の戦力を出す様にヤンから助言をされていたのだが第三次、第四次のティアマト会戦にて戦力を消耗した為に二倍の戦力を出すのが限界であった。

 投入する艦隊については、第三次ティアマト会戦にて戦場に到着する前に勝敗が決してしまったパストーレとムーアの両提督にも戦場に出る機会を与えなければならない事情もあった。

 こうして同盟側には同盟側の事情があり投入する戦力はトリューニヒトの裁量で決定したのだが、呆れる事に戦力分散になる作戦案を誰が提出して誰が採用したのか経緯が全くの不明のままで三方向からの分進合撃が決定したのだ。

 こうして同盟軍が投入戦力と作戦が決定した時に帝国軍はイゼルローン要塞に到着して最終的な補給を受けていた。

 

「閣下、フェザーン経由からの情報ですが敵は総司令にパエッタ、副将にパストーレ、ムーアの三個艦隊となり総数四万隻で既にハイネセンを出発したそうです。ミューゼル中佐の予測通りです」

 

「キルヒアイス。そのハンスを呼ぶ時にミューゼル姓で呼ぶのは、少なくとも俺の前では止めてくれ」

 

 艦橋でキルヒアイスと二人だけという事もありラインハルトはキルヒアイスの報告に的外れな苦情をつける。

 

「了解しました」

 

 返事するキルヒアイスの声には笑いの成分が混入している。ラインハルトは忌々しく思いながらも本題を口にする。

 

「今回もハンスの予測通りだな。決戦場所は?」

 

「それも、ハンス中佐の予測通りにアスターテとなると思われます」

 

「ハンスの情報だと三人に共通するのは部下の進言を受け入れない狭量な人物らしい」

 

「それは、当方では願ったり叶ったりですね」

 

「だからと言って、ハンスの緊張感の無さも問題だと思うのだが……」

 

 ラインハルトが珍しい事に頭を抱えている。ハンスは帰国後に麻薬摘発の上申書の件で軍務尚書から直々に休暇と特別賞与を貰う約束をしていた。

 どうやら、帰国後に姉と旅行に行く計画しているらしくハンスのデスクには旅行のガイドブックが数冊に兵士や士官に色々とアンケートを取っている。

 

「まあ、お陰様で兵士達も敵が倍の戦力でも怯えずに士気も下がる心配はありません」

 

 キルヒアイスも苦笑混じりにラインハルトを慰める。

 

「だから、ハンスの緊張感の無さを叱れずにいるんだ!」

 

「そこまで、計算しての行動かもしれませんね」

 

 キルヒアイス自身も疑わしいと思いながらハンスを擁護する。

 

「ハンスの真意は別にして兵士の士気が下がらないのは助かるが敵の司令官連中も俺と同じ苦労をしているのか?」

 

 ラインハルトが部下の教育に頭を痛めている頃、同盟軍の司令官達も部下に手を焼いていた。

 

「閣下、敵が積極的な姿勢なら自軍が包囲されたと考えずに各個撃破の好機と捉えるでしょう。その時に最初に狙われるのは正面の我が艦隊です。進軍の速度を落とし様子をみるべきです。」

 

 第四艦隊の司令官パストーレは参謀のアナン准将の諫言に「自分には権限が無い。貴官は統合作戦本部に掛け合うべきだ!」と相手にしなかった。

 第六艦隊ではラップが諫言していたが階級が低い事とムーア自身もパエッタに対して含む所があった。レグニッツァで大敗したパエッタが総司令なのが不満なのだ。ここでラップの進言を容れればパエッタに含む所がある為と思われるので相手にしなかった。

 第二艦隊ではヤンがパエッタに諫言していたがパエッタは日頃のヤンの怠惰ぶりを知っていた為にヤンの諫言を退けていた。

 後世、生き残った人々の証言を分析した歴史家達の見解では、当時の同盟軍には有能な人材が多数いたのだが派閥人事の結果、彼らが必要な地位に居なかった事が悲劇の引き金になったと結論している。

 そして、司令官と部下の見解の違いは帝国軍内部にも起きていた。

 

 集まった提督を代表してシュターデンが説明する。

 

「先程、フェザーンからの情報では敵は三方向から我が軍の倍の戦力で我が軍を包囲殲滅を企図してます。我が軍は圧倒的に不利な体制に置かれています。ここは名誉ある撤退を為さるべきだと愚考する次第です」

 

 集まった提督達もシュターデンの意見に無言で賛意を示している。

 

「撤退など思いもよらぬ。敵の総数が我が軍の倍であれ一方向の敵は我が軍より少数である。更に我が軍は敵の中央の位置にあり敵が合流する前に敵を捉える事が出来る。即ち、我が軍は敵より戦力の集中と起動性に圧倒的に優位であり各個撃破の好機である」

 

「そんな、閣下。机上の空論ですぞ!」

 

「もう良い。議論は無用だ。卿らは指揮官である私に服従する義務がある。それを拒否するなら軍規に照らして処分するだけの話だ!」

 

 完全な正論である。シュターデンらがラインハルトの作戦案に不満でも服従するしかない。

 ラインハルトに対して不満だらけのシュターデン一行を見送った後にラインハルトはハンスを呼んだ。

 

「お呼びだそうですが、敵の動向は変わらず三方向から我が軍を包囲殲滅せんとしてます」

 

 艦橋に呼ばれたハンスは情報武官として報告をする。

 

「うむ。そこで、卿の見解を聞きたい?」

 

「まあ、同盟軍の連携が取れていたら各個撃破も出来ずに袋叩きにされますが、パエッタとパストーレは仲が良いですがパエッタとムーアは仲が良くありません」

 

「ほう。それは初耳だな」

 

「お互いに大人ですから公務に支障が出ない様にしてますが、総司令のパエッタが中央ではなくムーアと反対方向にいるのも不仲の証拠です」

 

「布陣に影響しているなら公務に支障が出ているぞ」

 

 ラインハルトの尤もな指摘もハンスは無視して話を進める。

 

「各個撃破をするなら接着剤役のパストーレを撃破してムーア、パエッタの順が良いでしょう」

 

「中央の敵を撃破するのは理解が出来るが残りの敵を撃破する順序の意味は?」

 

「パエッタを先に撃破すればムーアは幸いと思いパエッタを見捨てて逃げるでしょう。逆の場合はパエッタは総司令としての立場から逃げる事が出来ずにムーアを助けに来ます。基本的にパエッタは真面目ですから」

 

 ラインハルトはハンスには撤退の有無を聞くつもりでいたが、ハンスは自分と同じ考えを持ち、更に新しい情報も提供してくれた。

 

「では、卿の進言を容れるとするか」

 

「閣下も人が悪い。最初から小官の意見と関係なく各個撃破するつもりだったでしょう。先程、シュターデン提督が顔を真っ赤にしていましたよ」

 

「卿も敵の司令官の不仲を黙っていたではないか」

 

「まあ、お互いに無用な血が流れなければ良いと思っただけです」

 

「卿は優しいな」

 

 ハンスの言葉にラインハルトの表情と声も緩くなる。パストーレとパエッタを叩けばムーアは戦わずに逃げる。そうなれば第六艦隊の兵士は無傷で生きてハイネセンに帰れる。帝国軍も三回の戦いが二回になり一回分の犠牲者が減るのである。

 

「しかし、卿の思いとは別に叩ける時に敵は叩く」

 

 こうして、アスターテ会戦の基本戦略は定まった。戦史上に残るラインハルトの各個撃破が始まるまで、残す時間は二十四時間を切っていた。

 




ハンスの役職については「情報参謀」ではと、ご指摘が有りましたがは「参謀」ではありません。
ハンスの仕事は情報を収拾と分析だけの「情報武官」です。
ラインハルトがハンスに作戦案に質問する場面がありますが、ラインハルトが個人的に意見を聞いているだけです。


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アスターテ会戦

 

 パストーレは艦橋でパニックになっていた。

 

 (何故、敵は此方に向かって来る?)

 

 パストーレは本音では戦う気がなかったのだ。二倍の戦力で三方向から包囲すれば敵は戦わずに撤退していく。

 友人のパエッタの名誉も回復して味方の血が流れない安全な出征の筈だった。

 

(何故、敵は撤退しない?)

 

 パストーレは無能な人間では無いが油断が混乱を招き、混乱が指示の遅れに繋がり致命傷となった。

 

「正面、エネルギー波、多数!」

 

「迎撃しろ。総力戦だ!スパルタニアンを出撃させろ!」

 

「駄目です。敵、戦闘艇が味方の空母を急襲!」

 

 パストーレの指示の遅さが第四艦隊の傷口を拡大させていくのを見て、怒りに体を震わせていたのは同盟軍だけではなかった。

 

「遅い!後背から攻撃された訳でもないのに、対処が遅すぎる。油断するにも程がある!」

 

 ハンスはブリュンヒルトの艦橋で第四艦隊の醜態を観戦していた。

 

「敵の兵士達には気の毒だが、これも戦いだ」

 

 ラインハルトがハンスの肩に手を置き諭す。

 

「悲しい事ですが、これも戦争です」

 

 キルヒアイスもハンスを諭す。

 

「理解はしてますが、司令官の戦死は自業自得です。でも、巻き添えになる兵士が哀れです」

 

 逆行前の人生では無能な上官の指揮で片手片足を失ったハンスには第四艦隊の兵士達に同情してしまう。

 それと同時に無能な上官には怒りを覚えてしまう。

 

「敵、旗艦の撃沈を確認!」

 

 オペレーターからの報告が艦橋だけではなく敵と味方の全部隊に駆け抜ける。

 司令部が壊滅した第四艦隊は正に醜態であった。その場に踏み止まり反撃する部隊もあれば敵前回頭して逃亡する部隊もある。

 開戦から二時間後には第四艦隊は組織的抵抗は無くなり壊滅した。

 

「掃討戦をする暇は無い。次の戦場に移動する」

 

 メルカッツの報告を受け掃討戦の有無を聞かれたラインハルトは手短に告げる。

 横でキルヒアイスが移動時間を使い兵士達の休憩を無言で提案する。

 

「そうだな。兵士達には休憩が必要だな」

 

「敵の第六艦隊まで四時間の時間がありますので一時間半ずつ二交代で」

 

 二人の間では打ち合わせもせずに既に目標が決まっていた。

 

 上司と部下の連携が取れている軍隊が存在すれば、逆に連携が取れてない軍隊も存在する。

 

「何度も申し上げましたが、既に第四艦隊は壊滅したと推測されます。今は至急に第六艦隊と合流して戦力の統合をするべきです」

 

 第四艦隊と通信が途絶してから三度目の諫言する。

 

「第四艦隊も簡単に、やられるとは思えん。パストーレは百戦錬磨の提督だ。それにパストーレは私の友人でもある」

 

「私も第六艦隊に友人がいます。ですが……」

 

 ヤンは最後まで言い切れなかった。パエッタにはパエッタなりの葛藤がある事が分かったからだ。

 ヤンもパエッタの立場でラップを見捨てる自信がない。それに上司に諫言するのは三度までとヤンは父に教えられていた。

 

(ラップなら上司の説得に成功するかもしれない)

 

 ヤンの淡い期待は最悪の形で裏切られる事になる。

 

「四時半の方向から敵襲!」

 

 第六艦隊艦橋でオペレーターの報告と表現するより叫びが艦橋内に充満する。

 

「応戦せよ!」

 

 ムーアの指示にラップが異議を唱える。

 

「駄目です。今は前進して少しでも戦力を残して第二艦隊と合流するべきです」

 

「俺は卑怯者になれん!」

 

 ラップが更に何か言い募ろうとした時に艦橋内が爆発した。主砲が直撃したのだ。

 燃え盛る艦橋内で血達磨になりながらラップは最後の力を振り絞りポケットからポートレイトを取り出す。

 ポートレイトを開くと婚約者のジェシカの笑顔が映し出される。

 

「ジェシカ、ここで消える俺を許してくれ」

 

 ラップが息を引き取った三十秒後に旗艦は爆発四散した。

 

「敵、旗艦の撃沈を確認!」

 

 ブリュンヒルトの艦橋内にオペレーターの声が響きわたる。

 

「脆いな」

 

 ラインハルトは特に感情を込める事もなく呟く。

 既に第六艦隊は背後から心臓を槍で貫かれて、その槍を捻り回されてる状態であった。

 

(あの艦隊の旗艦にはジェシカ・エドワーズ議員の婚約者が乗り込んでいたが、歴史は変えられないか)

 

 ハンスは遺されたジェシカの事を思う。この後、ジェシカは反戦運動に身を投じてクーデター騒動の時に同じ同盟人から撲殺されるのである。

 

(救いがないな。せめて不必要な流血は避けないと)

 

 ハンスはジェシカの身の上を考えながら戦術コンピューターに何かを打ち込み始めた。

 

 抵抗らしい抵抗も無く第六艦隊は第四艦隊の半分の時間で壊滅した。

 二個艦隊を壊滅した帝国軍の士気は最高潮に達していた。

 

「まだ敵は残っている。最後まで油断をするな。油断した軍隊の末路は卿達は見知ったばかりであろう」

 

 ラインハルトの訓戒に全将兵が納得した。倍の戦力を持ちながら油断により壊滅させられた軍隊を見たばかりである。

 

 しかし、既に油断を捨てた第二艦隊には悲壮感が漂っていた。

 友軍とは通信途絶したまま孤立しているのである。まして自軍の戦力は敵より少ないのである。

 第二艦隊旗艦の艦橋内では上司がいない場所で兵士が会話する。

 

「司令官はどうするつもりだ?」

 

「そんな事は司令官に面と向かって聞けよ!」

 

「聞けたら聞いてる。エル・ファシルの英雄の助言を散々に無視した後だからなあ。本人も罰が悪いだろう」

 

「まあな。面子を捨てて敵が来る前に撤退を決断してくれんもんかね」

 

 艦橋にいた乗組員はヤンとパエッタの会話を聞いていたのでヤンが撤退を具申するのを期待していたが既に遅かった。

 

「二時方向に敵襲!数、およそ二万隻!」

 

 オペレーターの声と警報が鳴り響く艦橋内で全乗組員が負けを確信した。

 ほぼ無傷の艦隊に数の不利と先手を取られた。勝利の要素がない。後は生き残りをかけての戦いになった。

 

「右舷回頭、スパルタニアンを出せ!」

 

 パエッタも無能ではない。最低限の指示は出した。

 

「少しはやるが反応が遅い。所詮は……」

 

 ラインハルトもパエッタの対処を認めるが戦う前に既に決着はついていた。

 最初の一撃で第二艦隊の先頭部隊は壊滅していた。

 これから態勢を立て直しても数の差を覆せない。

 第二艦隊が回頭して帝国軍に向き直った瞬間に第二の主砲三連斉射が待ち構えていた。

 

「流石に味方の二個艦隊が壊滅した後ですから油断はしていませんね」

 

 キルヒアイスが第二艦隊の抵抗に関心した。

 

「三度目の正直と言う言葉もあるが、それも時間の問題だな」

 

 ラインハルトも油断した訳ではないが自分達の勝利を確信した。

 

「私は次席幕僚のヤン・ウェンリー准将だ。司令官が負傷の為、私が指揮を引き継ぐ。大丈夫だ。負けない算段はしてある。新たな指示があるまで、其々、各個撃破に専念してくれ」

 

 ヤンが敵味方全軍に聞こえる様に見栄を切る。

 

「大言壮語する奴だな。この期に及んで負けないとは」

 

 ラインハルトは第四次ティアマト会戦以来、ヤンを警戒していたが、流石にヤンの言葉は虚勢に思えた。

 

「味方の士気を上げる為か、それとも何か策があるのか?」

 

 キルヒアイスがヤンの大言壮語の裏を考える。

 

「策が有っても実行する暇を与えなければ良いだけだな」

 

「ラインハルト様、あの手を使いますか?」

 

「どう思う。キルヒアイスは?」

 

「おやりなさい。私もラインハルト様と同意見です」

 

 それまで艦橋で通信オペレーターと話をしていたハンスが二人の様子を見て指揮座まで走って来た。

 

「駄目です。中央突破をする気でしょうが敵の罠です」

 

 ハンスの勢いに驚きながらもラインハルトは諭す様にハンスを説得する。

 

「大丈夫だ。敵に罠を仕掛ける暇を与えない為の中央突破するのだ」

 

「しかし、閣下!」

 

 ハンスがラインハルトと話をしている間にキルヒアイスが紡錘陣形を全軍に指示する。見事なコンビネーションである。

 

「分かりました。でも、敵の罠と分かった時は戦術コンピューターのRXー78回路を開いて下さい」

 

 二人のコンビネーションにやられた事を理解したハンスは予め用意していた策を使う。

 

「分かった。分かった」

 

 ラインハルトはハンスを片手で制して紡錘陣形を形成した全艦に突撃を命令を下す。

 

「敵、微速ながら後退」

 

 オペレーターの報告にラインハルトは満足の笑みを浮かべる。

 

「ハンスの懸念も杞憂だったな」

 

 ラインハルトがハンスを見るとハンスの顔は緊張したままスクリーンを凝視している。

 ハンスに釣られてラインハルトもスクリーンを凝視するうちに疑惑が起こり疑惑が確信となった時には同盟軍が分断されようとしていた。

 

「キルヒアイス。してやられた!」

 

「閣下!」

 

 ハンスの声に応えて全艦に戦術コンピューターのRXー78回路を開く様に命令する。

 

「敵、我が軍の側面を高速で移動しています!」

 

 ラインハルトが命令した直後にオペレーターが驚きを含んだ報告する。

 

「中央突破戦法を逆手に取られた!」

 

 ヤンは中央突破されたと見せ掛けて帝国軍の後背を取る事に成功した。

 しかし、毎回の様にカンニングで先の展開を知るハンスは対応策を用意していた。

 

(上手く行けよ。この日この時の艦隊運動だけの為にロイエンタールとミッターマイヤーから酒の肴を授業料に艦隊運用を勉強したんだ)

 

 ハンスの渾身の艦隊運動は同盟のフィッシャーが見ても及第点を貰えるレベルであった。

 中央突破した帝国軍の前半分の艦隊が左右の二時と十時の方向に別れて前進して後半分の艦隊も前半分の艦隊が居なくなった空間を高速で前進しながら左右の一時と十一時の方向に移動する。

 ヤンが帝国軍の後背で艦隊を再集結した時には帝国軍は不完全ながら縦深陣を完成させていた。

 

「なんてこったい。折角、帝国軍の尻尾に火を着けてやろうと思ったのに」

 

 ヤンは艦隊を集結したまま高速で後退を始めた。縦深陣のまま帝国軍が追撃が出来ない事を見越して逃げたと思わせる為である。

 

「追撃なさいますか?」

 

 キルヒアイスの質問にラインハルトは首を横にふる。

 

「止めておこう。既に勝利を手にしたのだ無用の流血は避けよう」

 

「ご立派です。ラインハルト様」

 

「それより、キルヒアイス。ヤン・ウェンリーに俺の名で電文を送ってくれ」

 

「どの様な文章ですか?」

 

「そうだな。貴官の勇戦に敬意を表す。再戦の日まで壮健なれ」

 

「分かりました」

 

「それと、キルヒアイス」

 

 電文を送る為に、その場を離れ掛けたキルヒアイスにラインハルトが声を掛ける。

 

「他にも何か?」

 

「悪いがアレを自室まで運んでやってくれ」

 

 ラインハルトの横に居た時は見えなかったが、ラインハルトの視線の先には艦橋の柱を背に両足を投げ出して眠るハンスがいた。

 

「了解しました」

 

 キルヒアイスは苦笑を隠しきれないでいた。

 

 勝利した帝国軍の幕僚は居眠りする事が許されたが、敗軍の幕僚であるヤンには居眠りする贅沢はなかった。

 帝国軍が戦場から去るのと同時に戦場に戻り負傷した味方を回収して後方に送らなければならない。

 第四艦隊と第六艦隊の生き残りも回収しなければならない。

 

(しかし、私が考えた千日手より帝国軍の策の方が互いの犠牲者が遥に少なかった。もしかしたら、私は歴史的名将の誕生に立ち会ったのかもしれない)

 

 ヤンの予測は外れていた。ラインハルトはヤンの罠に嵌まり、互いの犠牲者を減らす事に成功したのはハンスである。

 ヤンがハンスの存在を知るには、まだ幾何かの時間が必要であった。

 



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酒宴にて

 

 ハンスの旅行計画は簡単に水泡に帰した。凱旋と同時に大佐に昇進となり、大佐研修の為に研修所に合宿する事になったからである。

 

「大佐研修は将官になる事を前提としているので、今までになくハードな研修になるのだが、ハンスには是非とも頑張って欲しいものだ!」

 

 ラインハルトがハンスの研修嫌いを知っていて楽しげに言う。

 

「ラインハルト様も、お人が悪い」

 

 キルヒアイスも大人気ない親友に呆れながらラインハルトの心情を理解していた。

 ラインハルトは自分が元帥府開設に忙しいので自分だけが忙しいのは不公平だと思っているらしい。

 

(完全な八つ当たりだな)

 

 しかし、ラインハルトが八つ当たりしたくなる気持ちもキルヒアイスには理解は出来た。

 ラインハルトは元帥昇進と同時に元帥府を開設しただけではなく、私生活も忙しかったのである。

 幼年学校を卒業してからリンベルク・シュトラーゼの未亡人姉妹の家で下宿生活をしていたが、流石にミュッケンベルガーから説教されたのである。

 

「卿は元帥になっても下宿生活をするつもりとは、何を考えている!」

 

「その、私が下宿生活をしていて、何か不都合があるのでしょうか?」

 

 ラインハルトは自分が説教される理由が理解不能な様子にミュッケンベルガーも呆れた。

 

「元帥になるとテロの危険があり、周囲を巻き込む事もある。部下も卿に遠慮して余裕のある生活がおくれまい。それに体裁もある」

 

「成る程、そういうものですか」

 

 素直に納得するラインハルトの反応に本気で頭を抱えたくなるミュッケンベルガーであった。

 ミュッケンベルガーはラインハルトの才幹を高く評価していたがラインハルトの浮世離れした感覚には唖然とするしかなかった。

 

 この会話の事を後でラインハルトに聞いたキルヒアイスは、ミュッケンベルガーに対して感謝と同情の念を禁じ得なかった。

 

「しかし、良い屋敷ではありませんか」

 

 ラインハルトが購入した屋敷は、以前は引退貴族が住んでいたシュワルツェンの館と呼ばれる屋敷であり帝国元帥が住むには体裁も悪くなく防犯上の立地も良く購入したのだがロイエンタールなどは値段を聞いて掘り出し物だと驚いていた。 

 

「当然だ。姉上をお迎えする事とテロ等の事も考えて苦労して探したんだ。誰かさんが将官研修で忙しかったからな」

 

 アスターテ会戦の功績で准将に昇進した自分の所まで火の粉が飛びそうになり、キルヒアイスも露骨に話題を変えた。

 

「研修と言えば、ハンス大佐は、前にも話をした通りに独自のチームを持たせますか?」

 

 ラインハルトもキルヒアイスの意図を察したが真面目な話なのでキルヒアイスの質問に応える。

 

「うむ。ハンスは部下も上司も持ちたがらないが部下だけでも持たせる必要があると思うんだが、キルヒアイスはどう思う?」

 

「そうですね。私もハンス大佐の才幹には上司は邪魔になると思います。お目付け役で一人は年輩の部下が必要でしょう」

 

「キルヒアイスも俺と同意見か。後はハンスの要望に応える形にしてやろうと思っている」

 

「その形が宜しいかと思います」

 

 ラインハルトとキルヒアイスの過大評価でハンスの役職が決まった頃、ハンスは研修から解放されて研修仲間と街の居酒屋で研修終了の慰労会に参加していた。

 

「しかし、卿も若いのに大変な出世だな」

 

 一番の年長者が最年少のハンスを見て声を掛けてきた。

 

「まあ、自分の場合は運が良いだけです」

 

「運も実力の内さ。現に俺の士官学校時代の首席だった友人は初陣で戦死したからな」 

 

「そりゃ、運が無い。そうなる前に私も軍を辞めたいですね」

 

「卿に辞められると軍も困るだろ?」

 

「そんな事は無いですよ」

 

 ハンスの言葉に対してハンスの頭の上から聞き覚えのある声が降ってきた。

 

「そんな事はあるぞ!」

 

 ハンス達が反射的に声の主に視線を向けるとロイエンタールが立っていた。

 

「ロイエンタール提督!?」

 

「俺も居るぞ」

 

 ロイエンタールの背後からミッターマイヤーも顔を出す。

 

 その場に居た大佐全員で慌てて起立して敬礼する。

 

「すまぬがミューゼル大佐を借りて行くぞ」

 

 ロイエンタールとミッターマイヤーはハンスを連れて店を出る。ついでに慰労会の払いもロイエンタールが済ませる。

 

「有り難う御座います!」

 

 取り敢えずロイエンタールに礼を言うハンスにミッターマイヤーが声を掛ける。

 

「ロイエンタールに礼を言う必要は無いぞ。ハンス。卿達の酒宴の邪魔をしたのだから当然だ」

 

 そのまま、三人はタクシーでロイエンタールの屋敷まで行き。改めて酒宴を始める。

 

「その固い事を言うわけではないが一応は卿は未成年なのだから軍服を来ての飲酒は外では控えるように」

 

 ミッターマイヤーがハンスのグラスにワインを注ぎながら注意する。

 

「はい。分かりました」

 

「おい、ミッターマイヤー。人の目が無いからと言って、あまり飲ませ過ぎるなよ」

 

 ロイエンタールが意外に真面目な事を言う。

 

「卿の本音は分かっているぞ。俺が止めるのも聞かずにハンスを連れ出した癖に」

 

 ミッターマイヤーにしたら親友がハンスを自宅に呼び込めば料理の一つでも作るのではと期待していて自宅に招いた事もハンスが料理を作れば後で家人に作らせようと目論んでいる事も丸分かりなのだ。

 ハンスにしたらロイエンタールがハンスを連れ出した事も不思議だがロイエンタールがミッターマイヤー以上に固い事を言うのも不思議なのである。

 

「真面目な話だが、卿は本当に軍を辞めたいのか?」

 

 ロイエンタールは形勢が不利と思ったらしく真面目な話をハンスにする。

 

「はい。軍人になったのも元は親を格安で入院させる為でしたので、本当は歴史学を学んで学者とは言いませんが教師にでもと思っていましたから」

 

 ハンスの話を聞いてロイエンタールが慌て気味に問う。

 

「卿は料理人志望で夢は自分の店を持つ事ではなかったか?」

 

「私は貧乏人の子なので大学進学などは学費の問題で夢のまた夢でしたから。料理人なら只でなれますし、自分の店を持つのは簡単ですから」

 

 ミッターマイヤーが初歩的な質問をする。

 

「俺は料理の世界は素人だが、店を持つ事が簡単とは思えんのだが?」

 

「そりゃ簡単ですよ。屋台でも自分の店には違い有りませんから。大きな店とか他人を雇うのは面倒で嫌です」

 

 ハンスの話を聞いていてミッターマイヤーは納得していたが、目の端に親友が落ち込んでいくのが見えた。

 ミッターマイヤーはロイエンタールがハンスの料理に惚れ込んでいて将来的には自分が出資してハンスに店を持たせる事を計画していた事を知っていた。

 

「おや、ロイエンタールどうした?」

 

 確かにハンスの料理は珍しく旨いのだが自分と違い裕福な家庭のロイエンタールがハンスの料理に惚れ込んでいるのが面白くて仕方ない。ましては親友が珍しく打算とも言えない打算で動いて失敗したのだからから面白さは倍増する。

 

「卿が、そこまで意地が悪いとは知らなかったぞ。ミッターマイヤー!」

 

 ハンスには二人の会話の意味が分からずに頭に「?」マークが浮かんでいる。

 

「ミッターマイヤー提督、ロイエンタール提督は如何なさったんですか?」

 

「卿が気にする必要はない。勝手に転けて拗ねてるだけだ」

 

「それなら良いのですが」

 

 ハンスにしたらロイエンタールもラインハルトと同じ部類の人間で容姿端麗の金持ちが不幸になるのは「一向に構わん」のである。

 

「まあ。どちらにしても今日、明日の話では無いです。同盟の幹部が入れ替われば私もお役御免になるでしょう」

 

 ミッターマイヤーがハンスの意見に同意しながら軍隊の人事の入れ替りのサイクルを話しだす。

 

「それなら、早くて五年、遅くとも十年で人が入れ替われるからな。十年後なら卿も、まだ若いから料理人として生きて行ける」

 

 それまでに戦死する可能性については三人とも触れないでいた。

 

「それまではハンスには頑張ってもらわんとな。卿の知識は用兵家には貴重だ。敵将の為人が分かれば敵の策を読みやすい」

 

「しかし、今の同盟でビュコック、ウランフ、ボロディン、ホーウッド、クブルスリー程度しか警戒するべき提督は居ませんよ」

 

 ロイエンタールとミッターマイヤーの目の色が変わる。

 

「ましてや、クブルスリー提督の第一艦隊は帝国で言えば親衛艦隊ですから戦場に出る事は無いですからね」

 

「その下の提督候補もヤン、ルグランジュ、アッテンボロー、モートン、カールセン程度でしょう」

 

「ヤンという名前には聞き覚えがある。確か第四次ティアマト会戦の時に当時のミューゼル大将を人質にした男だな」

 

 ロイエンタールがハンスに確認する。

 

「そうです。付け加えるなら八年前か九年前のエル・ファシルの英雄です」

 

「あの時の奴か!士官学校を卒業したばかりの頃で良く覚えている」

 

 ミッターマイヤーが感嘆の声を出した。

 

「多分、帝国の最大の敵となるでしょうね。ローエングラム閣下も警戒している怪物です。出来るだけ戦いたくない相手です」

 

 ハンスの言葉にロイエンタールとミッターマイヤーは同時に同じ事を思った。

 

(先の会戦で、その男を手玉に取ったお前が言う台詞か!)

 

 ハンスはロイエンタールとミッターマイヤーにヤンを警戒させる目的で話をしたのだが、結果として二人から過大評価される事になった。

 ハンス自身の平穏無事な生活を望む気持ちと反比例して軍を辞められぬ障害を増やしている。それも自身の迂闊さが原因の自業自得である。

 

(まあ、カストロプ動乱やイゼルローン要塞陥落など起きるが自分には関係ない。同盟の帝国領侵攻作戦までは安穏とした生活が送れるな。久しぶりにアンネローゼ様を訪ねるか)

 

 ハンスは給料泥棒と謗られる事を考えていたが運命はハンスに天罰とも言える事件を用意していた。

 

 



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誘拐 前編

 

 ハンスはラインハルトと久しぶりに大喧嘩をした。

 今回の原因はハンスに部下を持たせる事の是非である。

 ハンスにして見れば自分の様な若僧に親より祖父と言える年代の部下を持たせる事に不快感があった。

 まして、部下を持ち一部署を任せられては軍を辞められなくなる。この件に関しては断固として拒絶した。

 一方、ラインハルトにしてみればハンスの才幹を最大限発揮させられる環境を用意した自負があり、それを拒絶された不快感がある。

 結局はキルヒアイスにロイエンタールにミッターマイヤー、更にメックリンガーまでが間に入り、二人を宥める事になった。

 

「正直な話。あれほど、ミューゼル大佐が嫌がると思いませんでした」

 

 疲れきった声でキルヒアイスが述懐する。

 

「別に卿だけの責任ではない」

 

「そうだ。卿が気に病む必要はない」

 

 ロイエンタールとミッターマイヤーも疲れきった声でキルヒアイスを慰める。

 結局は最年長のメックリンガーの提案で形式上はハンスが責任者となり実際はラインハルトが推挙した人物が取り仕切る形になった。

 

「しかし、年の功とは言えメックリンガーには感謝するべきだな」

 

 ロイエンタールの意見にキルヒアイスとミッターマイヤーも同意する。

 メックリンガーはラインハルトが推挙した人物をハンスが高く評価しており一つの部署を任せるなら自分より相応しいと言った事を形にしてみせ、ラインハルトに対してはハンスが行動をする時に件の部署が全面的にバックアップする事でハンスの才幹を発揮させられると説得した。

 

「しかし、ハンスがそんなに高く評価する程の優秀な人材なのか?」

 

 ロイエンタールが尤もな疑問をキルヒアイスにする。

 

「はい。数年後には退役する人物で大尉になったばかりの人です。今回はミューゼル大佐の部下という事で中佐に昇進させての抜擢でしたが、まさかの事態でした」

 

「俗に言う老大尉と言うが、確かに本来は将官になっていても不思議ではない人材もいるからな」

 

 ミッターマイヤーの言葉にロイエンタールが無言で頷いた時にメックリンガーが戻って来た。

 

「流石に疲れた。あの二人は頑固な所が良く似てる」

 

 常々、キルヒアイスも思っているが口にしない事を遠慮なくメックリンガーが口にする。

 

「メックリンガー提督にも迷惑を掛けてしまいました」

 

 キルヒアイスの謝罪にメックリンガーは手を振り無言で謝罪は無用と伝え口では別の事を伝える。

 

「伯と大佐が卿を呼んでる。大佐は明日から休暇なので今日中に全てを決めたいと言っている」

 

「分かりました」

 

 キルヒアイスがメックリンガーと入れ替りに出て行く。

 

「しかし、あの二人と付き合うキルヒアイス准将も苦労が絶えぬ」

 

 メックリンガーの言葉にロイエンタールとミッターマイヤーも同意して他人事と思い苦笑するが、さほど遠くない未来に他人事ではなくなるのである。

 

 翌朝、ミッターマイヤーが出勤すると憔悴した顔のラインハルトとキルヒアイスがいた。

 二人の顔色を見てミッターマイヤーが片手を掲げて包みを見せる。

 

「どうやら、無駄にならなかったみたいですな」

 

「卿の配慮に感謝する」

 

「有難う御座います。ミッターマイヤー提督」

 

 ミッターマイヤーはラインハルトとキルヒアイスが徹夜していると思い通勤中に独身者相手の屋台で朝食を買ってきていた。

 三人で朝食を済ませて食後のコーヒーを飲んでいたら、ラインハルトのデスクの抽斗の非常用回線電話が鳴る。

 ラインハルトが素早く電話に出るのと同時にキルヒアイスがデスクの上の内線電話で逆探知を依頼する。

 

「元帥執務室非常回線!」

 

「ハンスか!何事か?」

 

 ミッターマイヤーとキルヒアイスの顔に緊張が走る。

 

「一度、使ってみたかった。卿は何を考えてる?」

 

 ミッターマイヤーとキルヒアイスが精神的によろめいてしまった。

 

「金額は?」

 

 ミッターマイヤーとキルヒアイスの顔に困惑が浮かぶ。

 

「警察には?」

 

 ミッターマイヤーとキルヒアイスの顔に再び緊張が走る。

 

「分かった。場所は?」

 

 ラインハルトがデスクのメモ用紙にメモを始める。

 

「うむ。宜しい。丸腰なら仕方ない」

 

 ラインハルトが電話を切るとキルヒアイスが逆探知の結果を書いたメモ用紙をラインハルトに見せる。

 

「ご苦労だったが場所は分かっている。ハンスが朝食を摂りに街を歩いていたら、ひったくりの現場に遭遇したらしく犯人は逃がしたが荷物は取り返して被害者に返そうと現場に戻ったら、被害者の姿はなく、何時の間にか怪しい男がハンスを尾行しているそうだ。荷物はスポーツバッグで正確には分からんが五十万帝国マルク程度の現金が入っているそうだ」

 

 金額を聞いてミッターマイヤーとキルヒアイスも驚いた。士官学校を卒業した少尉の年俸の約二倍の金額である。

 

「そして、ハンスは現在は丸腰でファーストフード店に居て待機しているそうだ」

 

「それなら、小官がハンスの所に行きましょう。ハンスの居る店は、元帥府から小官の自宅の延長線になります。軍服ではなく私服で行った方が良いでしょう」

 

 ミッターマイヤーがキルヒアイスが書いたメモ用紙を片手に買って出る。

 

「ここは、ミッターマイヤーに任せた方が良いな。どうやらハンスは犯罪に巻き込まれた様だ。現場でミッターマイヤーの判断で警察に任せても構わん」

 

「了解しました。しかし、ハンスも運が良いのか悪いのか?」

 

 ミッターマイヤーの言葉にラインハルトも皮肉な笑みを浮かべて応える。

 

「日頃の行いが悪いのだろう」

 

 二人の会話を聞いていたキルヒアイスは溜め息ををつきたい衝動を抑えるのに苦労していた。

 

 ラインハルトから日頃の行いが悪いと評されたハンスはファーストフードの二階の全面ガラス張りの席で尾行者を逆に監視しながら朝食を摂っていた。

 

(しかし、失敗したなあ。銃も着替える時に家に置いて来てしまった)

 

 ハンスは朝食を済ませると家に帰りシャワーを浴びて夕方まで寝るつもりでいたのでスウェットスーツに財布と緊急の呼び出しの為に携帯端末しか持って居なかった。

 

(銃は別にしてもスウェットスーツは駄目だな。せめてベルトは必要だよな)

 

 ハンスの軍服のベルトはバックルに小型ナイフ、ベルト自体も武器に出来る様に特殊繊維を使っている。

 ハンスは地球教のテロだけでなく同盟人から裏切り者として復讐の対象になるのではと警戒していた。

 

(考え過ぎと言えば考え過ぎなんだが、ヤン・ウェンリーさえテロに倒れてるからな。私服の武装も考えないとな)

 

 ハンスは考え事をしながらも朝食を食べながら尾行者の監視も続けている。

 そして、ハンスが五杯目のコーヒーを飲み始めた時に私服姿のミッターマイヤーが現れた。

 

「卿も楽しそうな人生を送っているな」

 

 ミッターマイヤーはハンスの後ろ席に座り背中合わせで皮肉を言ってきた。

 

「楽しいかは別にして退屈だけしませんね」

 

 ハンスの返事はハンスの心情を過不足なく表現していた。

 

「それで、尾行している男とは、あの灰色の作業服の男か?」

 

「はい。自分が電話を掛ける前から彼処で見張っていますね」

 

「どうやら素人の様だな。もしくはハンスを民間人と思って油断しているのか?」

 

「訓練を受けた人間とも思えませんけどね。それで、これが例の物です」

 

 ハンスがミッターマイヤーの足元にスポーツバッグを足で押しやる。

 

「バッグは普通の市販のバッグだな」

 

ミッターマイヤーも片手でバッグの中を確認する。

 

「確かに五十万帝国マルク以上は有りそうだな」

 

「あまり、ここも長居が出来ませんからね。どうします?」

 

「近くにスーパーマーケットがあったから、そこに逃げ込め。スーパーマーケットは万引き防止に防犯カメラもあるし人の目もある。そこで同じ様なスポーツバッグを用意するから、取り敢えずスーパーマーケットでバッグをすり替えよう」

 

「では、自分が先に出ましょうか?」

 

「そうだな。それが良い。上から作業服以外の人間が卿を尾行してないか確認してから俺も出る」

 

「了解しました」

 

 ハンスが店を出た後でミッターマイヤーは他に怪しい人間が居ないか確認してから店を出た。

 

 ハンスはスーパーマーケットに入ったが作業服の男は入って来なかった。

 

(ヤバいなあ。顔を監視カメラに記録されたくない様な事をするつもりかよ)

 

 店内の品を物色するふりをしながらハンスは店の出入り口を確認していた。

 作業服の男は店の外からハンスを監視しているようだ。

 

(店内に居る間は安心かな)

 

 十分後にミッターマイヤーが大きな紙袋を提げて店内に入ってきた。

 ハンスは店の外からは死角になる場所まで移動するとミッターマイヤーが紙袋からハンスのスポーツバッグと同じバッグを取り出してハンスのスポーツバッグと取り替える。ハンスも気付かないふりをしながら周囲に注意を払う。

 作業が終わった後でミッターマイヤーがスポーツバッグ入りの紙袋を提げて店を出た時に騒ぎが起こった。

 ミッターマイヤーが女性二人から取り押さえられた。

 

「警察よ!窃盗の現行犯で逮捕します!」

 

「ちょっと待て、違うんだ」

 

「言い訳とか見苦しい!」

 

 店内に居たハンスも店の前で騒ぎが起こり何事かと店の出入り口に行く。

 店の外では人垣の出来ていて人垣の中央ではミッターマイヤーが手錠をされてパトカーに乗せられるところだった。

 未来の元帥閣下で現職の中将が逮捕される光景にハンスも呆然となった。

 この瞬間、周囲の人間の意識がミッターマイヤーに向いていてハンスも例外ではなかった。

 ハンスの背後から女性が近付いてハンスの口をハンカチで塞ぎスタンガンでハンスが気絶させられた事に誰も気付かないままであった。

 



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誘拐 中編

 

 キルヒアイスがミッターマイヤーの身元引受人として警察署に赴き、事情を説明してミッターマイヤーは無事に釈放された。問題はハンスである。

 ミッターマイヤーをパトカーに乗せた後で私服警官が被害者であるハンスを探したが見つからないのである。

 取り敢えずミッターマイヤーを署に連行してからバックの中身を確認したら大量の現金が発見された。同時にミッターマイヤーの供述から事情を知りラインハルトの元帥府に確認の連絡を入れてキルヒアイスに身元引受人として警察署に来てもらい互いの情報交換となったのである。

 

「元帥閣下からは誘拐事件となれば警察の領分であり元帥府としては警察主導で全面協力を惜しまないとの事です」

 

「ご協力を感謝します」

 

 この様な経緯でラインハルトの執務室は清掃員姿の刑事と軍人の合同捜査本部となった。

 

「私が捜査責任者のクラウス警部です。今回、元帥閣下には署の者がご迷惑を掛けました」

 

「いや、本来なら最初に卿らに通報するべきだった案件を素人が手を出して複雑にしてしまった。此方こそ謝罪するべき事だ」

 

 ラインハルトが頭を下げた事に警官達は驚いた。まさか、帝国の若き英雄である元帥が警部等の小役人に頭を下げるとは思っていなかったからだ。

 そのまま謝罪合戦に突入する前にキルヒアイスが本筋に話を戻す。

 

「それで、警部。私達は誘拐事件等は専門外の素人です。捜査について説明を願います」

 

「大佐が御自分の携帯端末で此方の非常回線電話に連絡したなら、犯人側も連絡には此方の非常回線電話を使うと思われます。それと、大佐が誘拐された事は出来るだけ限られた人間のみに知らせて下さい」

 

 クラウスの説明と要望にラインハルト達も首肯するしかなかった。

 

「それと、大佐の御家族もお呼び下さい」

 

「了解した」

 

 急遽、姉であるヘッダが呼ばれた。ヘッダが到着すると同時にミッターマイヤーがヘッダに謝罪する場面もあったがヘッダは誘拐される弟がドジと一刀両断にした。

 

(流石はミューゼル大佐の姉だ)

 

 ハンスを知る軍人達は口にしなかったが妙に納得したものである。

 この時点で既にハンスが誘拐されてから4時間が経過していた。

 

「しかし、あの大金は何の金だったのだろうか?」

 

 ミッターマイヤーが事件の元になった現金に対する疑問を呈する。

 

「ミューゼル大佐は麻薬捜査の関係の仕事もしてました。その関係の線は?」

 

 キルヒアイスがミッターマイヤーの疑問に答える形でクラウスに情報を提供する。

 

「いいえ。その線は無いと思われます。現金には銀行の帯封がされてました。麻薬組織が扱う現金なら帯封は無い筈です。既に部下が帯封をしていた銀行に聞き込みに行っています」

 

 クラウスがキルヒアイスの疑問に答え終えた時に非常回線電話が鳴った。

 

「まず、最初は大佐の知り合いの方が出て下さい」

 

 クラウスの指示でロイエンタールが最初に電話を取る。

 

「はい。もしもし」

 

「あっ、マスター。悪いけど姉貴は戻っているかな?」

 

「ハンスか?ちょっと待ってくれ。今、確認してくる」

 

 ロイエンタールが目だけで捜査課長の指示を乞う。捜査課長も目だけでヘッダに指示を出す。

 

「いたぞ。今、代わる」

 

「あっ、姉貴。赤ちゃんは三階に預けたから安心して。それから、今朝、姉貴に渡したバックの中身の半分だけを持って来て欲し」

 

 ハンスが喋りきる前に電話の向こうから打撃音が聴こえた。

 

「てめえ、何、勝手な事を言っているんだ」

 

「何だと、誘拐した泡銭じゃないか!こっちはお前らの顔を見てんだ。口止め料だよ!」

 

 受話器から聴こえるハンスと犯人の会話に一同の顔に緊張が走る。

 ハンスが手にした大金は誘拐事件の身代金であり、ハンスは誘拐犯達に拉致されているのだ。

 

「いいか。よく聞けよ。弟の命が大事ならバックの中身には手をつけずに持って来い!」

 

「わ、分かったわ。何処に持って行けばいいの?」

 

「場所は後で連絡する」

 

「ちょっと、待って!」

 

 ヘッダの呼び掛けを無視して電話が切られる。

 

「逆探知に成功しました。ノイケルン区のMSZ-006です!」

 

 逆探知をしていた若い刑事が興奮気味に報告する。

 

「軍部の方とハインツは、この場で待機して下さい。残りは現場に急行する」

 

 清掃員姿のままの刑事達が執務室を出て行く。最後にクラウスがヘッダに声を掛ける。

 

「大丈夫です。フロイライン・ヘームストラ。弟さんは利口な方です。自分が殺されない様に保険も掛けてました」

 

 捜査課長の言葉にヘッダは安心した様にソファーに座り込んだのを見て部屋を出ようとした時にクラウスの携帯端末が点滅した。

 

「私だ。何、大金の持ち主が判明した」

 

 クラウスに全員が注目する。

 

「昨日、歯科医師が自分の預金から全額を引き出した。名前はホルスト・シューマン、住所はルードウ区SCVー70」

 

 ハインツが素早くメモを取る。

 

「そのままにして様子を見ろ。子供が誘拐されている。そして、犯人の一味が監視している可能性もある。取り敢えず、さりげなく近所の聞き込みをしろ。それと私は逆探知場所に急行する。以後の連絡はハインツにしろ」 

 

 クラウスの矢継ぎ早の適切な指示にラインハルトも目を見張る。

 

(ほう。軍部以外にも人材とは居るものだ。優秀な人間が警部程度に留まるとは勿体ない事だ)

 

 ラインハルトは自分が至尊の座についた時は軍部だけでなく全ての省庁の人事について刷新する事を決めた。

 

 クラウスが電話の応答をしてる間にキルヒアイスが逆探知場所と地図を照合している。

 

「発信場所は工場地帯ですね。それも廃工場の様です」

 

「あの辺りは以前は大手企業の下請けの小さな工場が沢山あった場所だからな。今は廃工場も少なくない」

 

 ロイエンタールが場所について説明をする。

 

「卿は詳しいな」

 

 ミッターマイヤーが親友の意外な知識に驚く。

 

「そうでもない。父親が以前にあの辺りに工場を持っていたんだ。父親が死んだ時に管理が面倒だから売ったのだが、その後で大手企業の粉飾決算が明るみになって倒産した時に下請け企業も連鎖倒産したらしい。未だに役所も管理が行き届かないらしい」

 

「犯罪者がアジトにするには絶好の場所という事か」

 

 ミッターマイヤーとロイエンタールの会話を聞いていたハインツがロイエンタールの話をクラウスに慌てて伝える。

 

「提督、知っている事は、どんな些細な事でも提供して下さい」

 

「いや、すまん。この様な知識も必要とは思わなかった。以後は気を付ける」

 

 ロイエンタールが謝罪した直後に今度はハインツの携帯端末が光る。

 

「はい。ハインツです。えっ、三日前から奥方が子供を公園に連れて来ていない。赤ん坊に日光浴させる事が日課になっていたので赤ん坊が風邪でも引いたかと近所の人も心配している。分かりました。警部に伝えておきます」

 

 ハインツの応答を聞いていた。ハンスを知る軍人に一つの事が確信に変わった。

 一同を代表してキルヒアイスがハインツに話す。

 

「ハインツ刑事、先程のミューゼル大佐の赤ん坊は預けた安心しろと言うのは、あの時点で人質の赤ん坊は無事との意味だと思われます。それと、三階と言う言葉も犯人は三人組との意味だと思われます」

 

 キルヒアイスの意見にハインツも驚嘆するしかなかった。

 

「ミューゼル大佐は私よりも遥かに年下なのに、何処まで機転が利く人なんです。流石は十代で大佐になる人だ」

 

 ハインツがクラウスに報告する前にクラウスからの連絡がラインハルトにきた。

 

「私だが、そうか、既に移動した後だったか。ミューゼル大佐のDNAデータと指紋のデータは直ぐに用意が出来る。分かった。其方にデータを送ろう」

 

 ラインハルトがキルヒアイスに命じてハンスのDNAデータと指紋のデータをクラウスに送らせる。

 その間に先程、ハインツに話した事をクラウスに直接に話をする。

 

 ラインハルトがクラウスとの通信を切った後に全員に報告内容を説明する。

 

「犯人達は既に現場を移動した模様である。現場にあった足跡から犯人は女性を入れての三人組。現場には血痕と牛乳瓶の蓋が落ちていたそうだ」

 

「牛乳瓶の蓋と言うとあの紙で出来ている蓋ですか?」

 

 ロイエンタールがラインハルトに確認を取る。

 

「そうだ。蓋には指紋が一つだけ残っていたらしい。既にクラウス警部が牛乳瓶の蓋について製造元に問い合わせをしている」

 

 ミッターマイヤーが何かを思いついた様でハインツに近寄る。

 

「その、誘拐された歯科医師の近所に牛乳屋は無いか現場の刑事に聞いてみてくれないか?」

 

 ミッターマイヤーの話にラインハルト以外が反応した。

 

「どう言う事だ?ミッターマイヤー」

 

「はい。閣下。私の実家では母がカルシウムを取る為に牛乳屋から牛乳を配達して貰っていたのですが、最近の牛乳は乳児用から老人用まで数種類があるのです。もしかしたら歯科医師も赤ん坊用の牛乳を牛乳屋に配達して貰っていたのかもしれません」

 

 ミッターマイヤーの説明でラインハルトもミッターマイヤーの言わんとする事が分かった。

 

「卿は牛乳の蓋にミューゼル大佐の指紋が出る様なら牛乳屋が犯人とミューゼル大佐が示唆していると言いたいのだな」

 

「はい。閣下。ミューゼル大佐は此方が逆探知している事も承知で血痕を残しているのに指紋付きの蓋も残すのは牛乳屋を疑えとのメッセージだと思われます」

 

 ミッターマイヤーの説明を聞いたラインハルトがクラウスに連絡するがクラウスからの返答は芳しくなかった。

 

「確かに牛乳屋が怪しいですが、それだけでは令状を取る事は出来ません。帝国の何処かで誘拐事件が発生しているのは事実ですが、それがシューマン夫妻の子供との確証も、まだ、ありません。閣下、我々と犯人達の戦いは始まったばかりなのです」

 

 クラウスが言う通り犯人達との戦いは始まったばかりなのである。

 




 今回は長くなりましたので次回はエピローグになります。


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誘拐 後編

 

 ハンスが目覚めた時、目隠しをされて手を後ろ手に結束バンドで拘束された状態で狭い場所に居た。

 水素エンジンの特有の音と体全体に感じる振動で自分が居る場所の見当はついた。

 

(車の荷台の中か!)

 

 体の冷え具合からハンスが廃工場でスタンガンで再び気絶させられてから、さほどの時間は流れてないようだ。

 

(しかし、困ったもんだ。自分一人なら策はあるけど。赤ん坊が人質になっているのは不味いな)

 

 元は民間人を守る事が建前の民主国家の軍人なので自分だけ逃げるという発想が無いハンスであった。

 

(オムツの交換はしていたがミルクは与えているのか?)

 

 逆行前に水商売をしていた時に店の女性従業員の赤ん坊の面倒をみた事があるハンスだったが、その時に得た知識を必死に思い出す。

 

(三ヶ月後からは確か一日に五回のミルクだったけ?)

 

 廃工場では犯人一味の女が飲んでいた牛乳を赤ん坊に与える様に頼んだが断られた。結局は何回も殴られても要求するハンスに犯人側が根負けした。

 

(アジトに着いたら飲ませる約束をしたが本当に与えてくれるのか不安が残る。それに今はラインハルト達を信じるしか手は無い)

 

 ハンスはラインハルト達が全力を尽くす事は信じていた。

 廃工場では犯人一味の車が牛乳配達車なので牛乳瓶の蓋に自分の指紋を残して置いてきた。故意に殴られ血痕も残してきた。逆探知の時間も稼いだ。やれる事は全てやったのだ。

 

(それに、ラインハルト達は気付いてくれるだろう。電話の中で犯人一味の人数と誘拐されたのが赤ん坊の事を暗に示した事を)

 

 ハンスが考え事をしていると車が停車した。

 荷台を開けられて外に出されたが目隠しをされても分かる筈の頬に当たる太陽光の温もりや風を感じない。

 

(屋内か!)

 

「目隠しを取ってくれ!車に酔って気持ちが悪い」

 

「駄目だ」

 

 三人組のリーダー格の男が言う。

 

「本当に赤ん坊にミルクを与えるか信用が出来ない!」

 

「ちゃんと赤ん坊にはミルクは飲ませているよ」

 

 女が応えるが目隠しされている身では分かる筈もない。仕方ないので声が聞こえた方に行くと手の拘束を解いて、女が赤ん坊と哺乳瓶を持たせてくれた。

 

「哺乳瓶にしては感触が柔らかいな」

 

「紙パックの液体ミルクだよ。あんたの姉さんも赤ん坊がいるのに知らないのかい」

 

「そんな高級品は買えんよ。うちは粉ミルクと母乳だよ」

 

(まあ、ひとまず安心した)

 

 ミルクを飲ませた後にゲップもさせて新しいオムツに替えたら再び後ろ手に拘束されて歩かさせられた。

 途中で厚手のビニールのカーテンを潜った。

 

(まさか、この先は……)

 

 ハンスは最悪の予測をしてしまった。

 

「そこで止まれ、そして座れ」

 

 座ったハンスの横に赤ん坊を置く気配がする。

 そして、ハンスの背後で扉が閉まる音がする。それも普通の扉ではなく冷蔵室の扉が閉まる音である。

 

「おい、何だ今の音は!」

 

 分かっていたが返事はなくハンスは顔を床に擦りつけて目隠しを外したが目隠しを外しても真っ暗な闇のままだった。

 その時に冷蔵室のスイッチが入り冷気が流れ始める。

 

(連中め口封じに赤ん坊と一緒に凍死させる気か!)

 

 ハンスは後ろ手に拘束している結束バンドを簡単に引き千切る。研修で得た知識である。そして、手探りで扉まで行く。

 

(押込み棒が無い!)

 

 通常、冷蔵室の扉は中からも開けられる様に扉のロックを外す為の押込み棒があるが、この扉は押込み棒が外されている。

 ハンスは逆行前の世界で食品会社で働いた事があったので冷気漏れ防止のビニールカーテンが顔に当たった時点で予測はしたが逃亡防止の監禁場所だと信じたかった。

 

(俺は別にして赤ん坊まで殺すとは)

 

 ハンスは扉を自力で開けることを断念した。その後、ビニールカーテンを毟り取る。そして、着ていた服をパンツだけ残して脱いで赤ん坊を包むのに使う。

 履いていたスニーカーも脱ぎスニーカーの上に胡座をかいて赤ん坊を抱えた後にビニールカーテンを赤ん坊ごと自分の体に巻き付けて冷気が出来るだけ当たらない様にする。

 

(こりゃ、救出か先か体力が尽きるのが先か。競争になったな。間に合ってくれよ)

 

 ハンスが孤独な持久戦を始めた頃、ラインハルト達も手詰まり状態であった。

 状況証拠は牛乳屋を指しているが令状を取れるだけの証拠が無い。

 牛乳屋には監視を付ける一方で牛乳屋についても調べている。

 

「誘拐事件では殆どの場合が身代金の受け取りの時が逮捕するチャンスです。しかし、犯人達も、その事は承知してますが、今回の犯人達は幸いな事に我々が動いている事に気付いてません。気付いていても身代金を受け取る前に身代金を要求した時に逮捕するチャンスが今回はあるのです」

 

 クラウスがラインハルト達に説明し終わった後にハインツが牛乳屋の身辺調査の結果を発表する。

 

「牛乳屋を営んでいるのはカール・テスマンと妻、ビビアナ・テスマンの夫婦です。去年の暮れに母親が事故死、その二年前に父親が病死しています。三人目の犯人は恐らくビビアナの弟のテオドールだと思われます」

 

「それで店の経営状況は?」

 

 クラウスが部下に質問する。

 

「はい。経営状況は五年前程から悪化していますね。五年前に妻のビビアナが流産してから夫婦仲にヒビが入り夫婦仲は冷え切っていますね。カールが家に帰らなくなり、父親とビビアナが二人で店を回していましたが二年前に父親が病気で急逝するとビビアナが一人で店を回していたそうです」

 

「一人で店を回す状態なら経営状況も悪化するわけか」

 

 女性不信のロイエンタールも流石に声に同情の成分が混入している。

 

「動機は十分ですね。それでテスマン夫婦の監視はどうなっていますか?」

 

 キルヒアイスがテスマン家の家庭事情に話が終始しそうなので話を本題に戻す。

 

「はい。私以外の全員がテスマン夫婦を監視してます」

 

 ハインツがキルヒアイスに応えるとクラウスがラインハルトに要望を出す。

 

「私達はテスマン夫婦と弟に張り付きますから閣下達はテスマン夫婦が身代金の要求をしたのと同時に牛乳屋に踏み込んで頂たい。恐らく牛乳屋に大佐と赤ん坊が監禁されてると思われます」

 

 クラウスの要望は犯人逮捕は自分達が担当して、ラインハルト達の仲間を救いたい気持ちに配慮したものであった。

 

「配慮して貰い痛み入る」

 

 ラインハルトらしく簡潔にクラウスに感謝を表す。

 

「それでフロイライン・ヘームストラは次に電話があった時には出来るだけ引き延ばして下さい」

 

「分かりました」

 

 ヘッダの返事は短い。逆に短い返事がヘッダの胸中を表している。

 

 「それでは全員移動して下さい。既に指揮車をご用意しています」

 

 ラインハルト達が犯人一味の目星を付けて行動を始めた頃、ハンスは赤ん坊を腕に抱えてスクワットをしていた。

 

(いつもは四百回もすれば汗だくになるが寒いと汗も出ないのか!)

 

 それでも体は温まり体温を引き上げる事に成功した。

 

(この手は何度も使えんな。体は温まるが疲労感が大きく眠気が凄い。早く救出に来てくれ。せめて赤ん坊だけでも助けてくれ)

 

 ハンスが声にださずに悲痛な叫びを上げている頃にラインハルト達も時間の経過に苛立ちを覚えていた。

 

「此方が監視を始めて何時間が経つと思っているんだ。連中、その間に赤ん坊の面倒をみるそぶりも見せてない」

 

 クラウスが苛立ちを隠せないでいた。クラウスも子供を育てた経験がある親である。人質の赤ん坊の事が心配なのであろう。

 流石に独身の集団であるラインハルト達には掛ける言葉も無い。

 

「警部さん。素人考えなんですけど。此方から連絡しては駄目でしょうか?」

 

 思わぬ発言をするヘッダに全員の視線が集中する。

 

「しかし、相手が乗ってくれば良いですが惚けられたら人質の命が危険です」

 

「しかし、このままなら弟は別にしても赤ちゃんの命が危険ですよね」

 

 ヘッダの言葉にクラウスも考え込む。

 

「賭けになりますが赤ん坊の健康が心配です。やりましょう」

 

 クラウスは決断すると部下に突入の準備をさせる。

 

「では、フロイライン」

 

 ヘッダが非常回線からリダイヤルする。

リダイヤルして4コールで相手が出た。

 

「あのう。明日は午後から子供の検診があるので荷物を渡すのは午前中で良いですか?」

 

 ヘッダは友達との待ち合わせ時間を変更する様な口調で伝える。

 

「ちょっと待て、一時頃は駄目か?」

 

「一時頃でも場所次第です。病院の近くなら大丈夫です」

 

 ヘッダが犯人の気を引いている間にクラウスが部下に突入の指示を出す。

 

「私達も行きますよ!」

 

 指揮車にヘッダとハインツだけを残してラインハルト達も突入する。ラインハルト達がワンテンポ遅れて突入した時には既に

刑事達が犯人達を取り押さえている。

 

「人質は何処だ!」

 

「何の事だ?」

 

 惚けるカールに向かいラインハルトがブラスターを突き付ける。

 

「貴様が人質にしたハンスは私の大事な弟分だ。素直に喋れば痛い思いをしなくてすむぞ!」

 

 カールはラインハルトの顔を見て、あっさりと降伏した。帝国の若き英雄である元帥に凄まれて逆らえる者は少ない。

 

「冷蔵室だ。赤ん坊と一緒に冷蔵室に入れている」

 

 ミッターマイヤーがカールの言葉を聞くと同時に冷蔵室の扉に飛び付く。

 ロイエンタールとキルヒアイスが赤ん坊を抱えて髪も霜で白く染めたハンスを冷蔵室から引っ張り出す。

 ラインハルトが赤ん坊を抱えてパトカーに走り出す。

 

「キルヒアイス運転を頼む」

 

 ラインハルトが運転の上手いキルヒアイスを指名して呼ぶ。

 

「ハンス!」

 

 キルヒアイスと入れ替りにヘッダが店の中に飛び込んでくる。

 ロイエンタールとミッターマイヤーが凍ったハンスの体を擦っている。

 ヘッダが何処からか持ってきたブランデーを口移しでハンスに飲ませる。

 

「バスタブにお湯が張ってあります」

 

 遅れて来たハインツがバスルームを発見して報告する。

 報告を受けてロイエンタールとミッターマイヤーがバスタブにハンスを放り込む。

 ハインツがシャワーをハンスに浴びせてる間もハンスに口移しでブランデーを飲ませ続ける。

 五分後、ハンスの頬が赤くなり目には光が宿る。

 

「ブランデー無しで、もう一回!」

 

 唇をヘッダに突き出すハンスは二度目の凍死だけは免れたようである。

 後日、命の代償を払う事になるとはハンスは知らない。

 

 



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誘拐  エピローグ


多少、鬱になる内容ですので苦手な方は注意して下さい。


 

 誘拐事件の翌日、ハンスは病院のベッドで唸っていた。

 

(頭がガンガンする。吐き気も酷い)

 

 ベッドの横ではヘッダとマリーが角を突き合わせている。

 

(俺、何か悪い事をしたかな?)

 

 周囲の人間が聞けば「自覚が無いのか?」と言いたくなる事を思っているとラインハルトとキルヒアイスが見舞いに訪れた。

 

「美人に囲まれて羨ましいぞ。ハンス」

 

 病室に入るなり嫌味を言うラインハルトであった。

 

(前は逃げた癖に!)

 

「喜べハンス。警察と軍務省から感謝状と金一封を預かって来ているぞ」

 

 言い終えたラインハルトの肩が震えている。

 

「まあ、名誉の負傷には違いがないが……」

 

 ラインハルトは我慢が出来ずに俯いて笑い出す。

 

「ラインハルト様、笑っては失礼ですよ」

 

 窘めるキルヒアイスの肩も震えている。

 

「そう言うキルヒアイスも笑っているじゃないか」

 

 ハンスはベッドに俯せになり上半身はパジャマだが下半身は下着も着けずに臀部を丸出しである。その丸出しの臀部の上に段ボール箱を被せてから布団を被せているから布団が臀部の部分だけ盛り上がっている。

 原因は冷蔵室で赤ん坊を抱えて床に長時間スニーカーの上とはいえ座っていたので臀部だけが凍傷になってしまったのである。

 ハンスにしたら薬を塗る為とはいえ臀部を若い看護婦に見られた上に触られるのは羞恥心を刺激されるのである。

 更に二日酔いである。体を温める為にヘッダからブランデーを飲まされ風呂に入れられたのだから当然の結果である。

 頭痛と吐き気の波状攻撃でラインハルトに何か言い返す余裕もない。

 そこにマリーとの戦いを一時中断してヘッダが弟の為の援軍となる。

 

「お忙しいのに見舞いに来てもらい感謝に堪えませんわ。お兄様!」

 

 ヘッダのお兄様発言でラインハルトの笑顔も凍りつく。

 

「フロイラインは何を言われるのかな?」

 

「あら、ハンスが弟なら私より年長の閣下にしたら、私は妹になるじゃありませんか!」

 

「そう言えばミューゼル大佐の事を大事な弟分と言ってましたね」

 

 キルヒアイスもヘッダの味方として参戦する。

 

「キ、キルヒアイス!」

 

 ヘッダとキルヒアイス連合にラインハルト。それに好奇心を刺激されたマリーと病室は大騒ぎになる。

 

(こいつら、病室だぞ!)

 

 声に出して文句を言う気力も体力も無いハンスであった。

 この日の騒ぎは婦長から怒られるまで続きハンスが退院する日まで繰り返される事になる。

 そして、退院後、一日だけ自宅療養した後に出仕したハンスを悲報が待っていた。

 出仕したハンスはラインハルトに呼び出されて執務室に入るとラインハルトとクラウスが待っていた。

 お互いに挨拶をした後でラインハルトと共にソファーに座りクラウスから事件の報告を受けた。

 

「昨日、誘拐に関しての取り調べが終わりました。そして、誘拐事件が新しい事件を引き起こしました」

 

「他に余罪があったのか?」

 

 ラインハルトの質問にクラウスは苦い顔をして応える。

 

「余罪と言えば余罪になるかもしれません。カールは自分の子供を誘拐して殺そうとしたのです」

 

「えっ!」

 

 ハンスが思わず声を出してしまった。

 

「つまり、誘拐した赤ん坊は歯科医師の子供ではなく歯科医師の妻と牛乳屋の夫との間の子供だったのか?」

 

「はい。しかし、カールは妻のビビアナの事を愛していたのでしょう。母親が死んだ事を契機にフェザーンで二人でやり直すつもりで狂言誘拐を考えついたのです」

 

「では、歯科医師の妻もグルなのか?」

 

「はい。歯科医師の妻も夫から手切れ金を引き出す為に狂言誘拐に協力しました。歯科医師のシューマンも牛乳屋のビビアナも互いの伴侶の不貞の事を知りませんでした」

 

 

「では、あの日の引っ手繰りは?」

 

「事情を知らないビビアナと弟のテオドールの犯行です」

 

「カールは妻を裏切り愛人も裏切ったのか」

 

「そういう事になります。閣下。これにはビビアナも怒り心頭で拘留中ですが既に離婚手続きを始めています」

 

「妻の立場からすれば当然の事だ」

 

 流石のラインハルトもビビアナには同情していた。

 ハンスはテオドールからバッグを取り返した事を後悔する気持ちが生まれていた。

 ハンスの行動で二組の夫婦が破滅したのだ。

 クラウスの胸ポケットから携帯端末の音が鳴った。

 

「緊急回線の音ですので失礼します」

 

 ラインハルト達の前で携帯端末で話を始めるクラウスの顔は段々と深刻になっていくのを見て、ラインハルトとハンスも心配顔になりだす。

 

「シューマンが妻を殺害して自分も自殺しました。赤ん坊は無事だそうです」

 

 ラインハルトが咄嗟に心配したのはハンスの事である。敵兵にも同情するハンスが二組の夫婦の破滅と二人の死と一人の赤ん坊を不幸にする引き金を結果として引いたのだ。

 

「卿は軍人として人として賞賛される事をしたのだ。卿に罪は無い!」

 

「大丈夫です。閣下。私は閣下が思っている程の善人ではありません。それでは仕事がありますので私は失礼します」

 

 ハンスの言葉はハンス自身の顔が裏切っていた。血の気が引いた顔で言われて誰が信用するであろう。

 

「しかし、卿は……」

 

 心配するラインハルトをクラウスが目で止める。

 ハンスが出て行った扉を見ながらクラウスが止めた理由をラインハルトに説明する。

 

「警官なら多かれ少なかれ経験がありますが一人になるのが一番の薬です」

 

「分かった」

 

 ラインハルトは自分が若僧である事を自覚していた。

 

(帝国元帥と言われても傷心の少年も癒す事が出来ないとは笑止な事だな)

 

「しかし、閣下は良い部下を持たれましたな」

 

「うむ。私の自慢の部下だ!」

 

 ラインハルトがハンスの前では絶対に言わない事であった。

 しかし、ラインハルトは知っていた。ハンスの心は年齢に似合わない程に満身創痍である事に。

 そして、それがハンスの優しさの源泉である事に。

 



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イゼルローン失陥

  

 ハンスは誘拐事件後、ラインハルト達の心配が杞憂の如く、定時出勤の定時帰宅をして、休日が姉と一緒ならば休日を姉と過ごし、姉が仕事ならマリーとデートをする日々を過ごしていた。

 ほぼ惰眠を貪っている様に見えたハンスだが最低限の仕事はしていた様である。

 名目上の責任者であるハンスの元に実質の責任者であるフーバー中佐から重大な報告があると連絡がきた。

 

「中佐、どの様な内容でしょうか?」

 

 ハンスはフーバー中佐に対しては自分の部下ながら常に敬語である。

 フーバー中佐はハンスを補佐する為に抜擢した老齢の士官である。ハンスがラインハルトと大喧嘩してハンスが名目上の責任者になり全権をフーバー中佐に任せる事に落着した経緯がある。

 

「はい。大佐には此方の資料を先に見て頂きます」

 

 差し出された資料には「第十三艦隊訓練計画書」と題されてある。

 

「まさか、本当に入手するとは」

 

「そうです。通常なら入手困難な資料です。意外と簡単に入手が出来ました」

 

「やはり」

 

「大佐の予測通りですな。確かに稀に簡単に入手する事はありますが今回は……」

 

「中佐も同意見ですか?」

 

「私も同意見ですが、しかし、敵も血迷ったとしか思えません」

 

「歴史上、実は珍しい事ではないです。それに、大昔と違い今はコンピューター制御の時代だから中央制御室を取られたら終わりです」

 

 フーバー中佐は勘違いしているがハンスは逆行前の知識でカンニングしているだけである。

 

(しかし、この人は優秀だと思っていたが、ここまで優秀とは思わんかったわ。計画書の補給計画と現地の補給物資の備蓄量から同盟の意図に気付くとは)

 

 逆行前、同盟に居たハンスも第十三艦隊が結成されたのは知っていたが、まさか半個艦隊でイゼルローンを攻略に向かうとは思っていなかった。更に本当に攻略が出来るとも思っていなかった。

 それを目の前の人物は攻略が出来るとは思っていないが攻略に行く事は見抜いたのである。

 

「すぐに元帥閣下に報告します。それと重大時には中佐ご自身で元帥閣下に報告しても構いませんから」

 

「そういう訳にいきません。組織として上司である大佐に判断して貰う必要があります」

 

 この堅苦しい部分がフーバー中佐がラインハルトに見出だされるまで出世しなかった理由であるらしい。

 

「分かりました」

 

「それから、この部屋も本来は大佐の執務室ですので大佐がお使い下さい」

 

 言外に大佐の階級の人間がフラフラ出歩くなと言いたいのだなと解釈したハンスである。

 

「分かりました」

 

 素直に了承する言葉をお互いに信用していない二人であった。この二人、似た者同士である。

 

 ラインハルトはフーバー中佐の報告書を一読してハンスに質問する。

 

「これは卿が指示をして調査した事か?」

 

「はい。今回は腕試しを兼ねて私が指示していますが、実務はフーバー中佐が独自で調査した成果です」

 

 ハンスは自分の手柄で無いのに堂々と自分の手柄の様に自慢気に断言する。

 言外に「ほら、フーバー中佐を責任者にした方が良かっただろ!」と言っている。

 

「ふむ。フーバー中佐の様な優秀な人物を大尉のままとは人材を無駄にしてたな」

 

 言外に「何を言うか。フーバー中佐を発掘したのは自分だぞ!」と返すラインハルトであった。

 

 二人の陰険漫才を傍らで聞いていたキルヒアイスは頭を抱えたくなるのを必死に我慢した。ハンスと知り合ってから何百回目の事であろう。

 

(ミューゼル大佐は別にして、ラインハルト様も大人気ない!)

 

 ハンスは今回は部下からの依頼なので陰険漫才を切り上げて真面目に仕事の話を始めた。

 

「フーバー中佐の意見では計画書と現地の補給物資の備蓄量に矛盾があり、イゼルローン方面の補給物資の備蓄量が多く艦隊運用の専門知識が必要なので、閣下の判断と指示を必要との事です」

 

「このレベルになると私では無理だな。私から長官に報告する。調査員は調査の足跡を消して引き上げさせろ」

 

「了承しました」

 

 フーバー中佐にラインハルトの指示を伝える為に扉に向かうハンスに言葉を掛けた。

 

「その、卿が落ち込んでいると心配していたが大丈夫の様だな」

 

 ハンスはラインハルトに向き直り真剣な表情で口を開いた。

 

「私も故国を裏切り戦場で殺人を生業とする軍人です。元から罪を背負っています。今更の事です。その分、これから先、無駄な血が流れない様にすれば少しは贖罪になると思っています」

 

 ハンスの言葉を聞いてラインハルトとキルヒアイスは自分達と心を同じくする人物であると再確認した。

 

「卿は強いな。自分の罪を自覚して驕る事が無い」

 

「いえ、私も所詮は人間です。結婚して子供でも出来れば変わる事もあるでしょう」

 

 キルヒアイスはハンスを仲間にして良かったと改めて思う。友達の居ないラインハルトの友人であり年齢に似合わない広い見識を持つハンスは貴重な存在だと再確認した。

 

(大佐には悪いが軍を辞めずにラインハルト様の側に居てくれたら私も安心なのだが、軍人ではなく他の形でも良い。大佐にはラインハルト様を支えて欲しいものだ)

 

 キルヒアイスの思いはラインハルトを知る周囲の思いでもある。ハンス退役阻止の包囲網が完成されようとしていた。

 

 三日後に執務室で不機嫌の色に全身を染められたラインハルトがいた。

 

「もう少し機嫌が悪いのを隠す努力をして下さい。若い連中が怯えてます」

 

「卿がキルヒアイスと同じ事を言うとは思わなかったぞ」

 

(キルヒアイス准将も苦労が尽きぬ)

 

「それで何があったのですか?」

 

「相手が半個艦隊と聞いて本気にしていないし放置する気でいるのだ」

 

「まあ、三長官にしたら六回も大技で来たから七回目に小技で来るとは思わんのでしょう」

 

「簡単に計画書の入手が出来た事と計画書と現地の補給物資の備蓄量の矛盾も指摘しているのだ!」

 

「まあ、事が起これば高見の見物を決めてやれば良いじゃないですか。どうせ泣き付いて来ますから、遠慮なく高値を付けておやりなさい」

 

 ラインハルトとキルヒアイスが珍しい物を見る様にハンスの顔を凝視している。

 

「な、何ですか?」

 

「卿も存外に人が悪いな」

 

 キルヒアイスもラインハルトの横で大きく首肯く。

 

「人の悪い部下を持った閣下の意見を聞きたいものです」

 

「決まっているだろ。卿の言う通りにするさ。私も卿と同意見だからな」

 

 後ろでキルヒアイスが習慣化した頭を抱えたくなる衝動を我慢している。

 

(それでは自分も人が悪いと言っているのと同じではないですか。ラインハルト様)

 

 これ以降は自分には関係無いと定時出勤の定時帰宅を続けていたハンスである。

 

(まあ、同盟軍相手なら自分の出番だが、イゼルローン要塞の失陥までは知らんよ。一応は警告はしているから義理は果たしているしな。その後のカストロプ動乱は自分の領分では無いから知らんわ)

 

 ハンスも役人根性が身に付いたものである。

 ハンスは帝国内部の監視に重点を置いて調査をする様にフーバー中佐には指示を出している。次に起きる争いはカストロプ動乱である事を見越しての処置である。

 フーバー中佐達が帝国内部を調査を始めた頃にイゼルローン失陥の報が帝国を震撼させる。

 特に慌てたのはヘッダの様な亡命者達であった。

 

「ハンス、フェザーンに逃げましょう」

 

 ハンスが帰宅すると姉から抱き締められて開口一番に掛けられた言葉である。

 その日は怯える姉に丁寧にハンスの予測を教えて安心させた。

 翌日、内務省では数少ない同盟からの亡命者から問い合わせや亡命者と分かる資料等の破棄を要求する人で溢れていた。

 軍務省でも帝国三長官が責任を取って辞職を申し出る騒ぎがあり、イゼルローン要塞に勤めている将兵の家族やイゼルローン要塞の商業地区で働いていた民間人の家族が軍務省に押し寄せパニック状態であった。

 更に翌日、イゼルローン要塞から帝国軍に一本の通信が入る。ヤン・ウェンリーの名でイゼルローン要塞の民間人を解放するので引き取りに来る様に要求と言うより指示があった。

 

「まあ、半個艦隊の人数でイゼルローンの捕虜や民間人の管理は大変だろうよ」

 

 ハンスの感想というより事実の指摘に聞いた者は納得した。

 回廊出入り口周辺の警備艦隊等が掻き集められて民間人の受け取りに向けられた。私有財産の持ち出しも許可したのはヤン・ウェンリーの為人であろう。 

 

 軍港では捕虜になった家族と生き別れになった事を嘆く人や無事に再会した事に喜ぶ人で溢れている。

 玉砕したゼークトは別にして要塞司令官のシュトックハウゼンの屋敷は昼夜を問わず投石等の嫌がらせがあり使用人達は辞め息子夫婦は妻の実家に避難するがシュトックハウゼン夫人は一人だけ屋敷に残り嫌がらせに耐えて夫の帰りを待っている。

 

「まあ、家族を捕虜にされたら司令官の屋敷に石くらいは投げたくなるわな。しかし、旦那より奥さんの方が立派だな」

 

 ハンスは口ではシュトックハウゼン夫人を賞賛しながら部下を持つ責任の重さに恐怖を覚えていた。

 帝国中がイゼルローン失陥で官民ともに右往左往している時にフーバー中佐からの報告にハンスは驚く事になる。

 

「カストロプ公に叛意の兆し有り」

 

(そう言えばイゼルローン失陥の騒動で忘れてたわ)

 



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カストロプ動乱

  

 帝国がイゼルローン要塞失陥で揺れ動く中でカストロプ公に叛意の兆しの報を受けたハンスは改めてフーバー中佐の優秀さを再確認した。

 フーバー中佐がハンスに出した報告書と資料には「アルテミスの首飾り」の見積書と仕様書がある。

 

「見積書の入手も凄いが仕様書の入手も凄いじゃないか!」

 

「まあ、フェザーンとしては商品に絶対の自信があるのでしょう」

 

 資料を読んでいたハンスがフーバー中佐の言葉に納得した。

 

「みたいですね。保証書もある。家電製品かよ!」

 

 ハンスの突っ込みに苦笑するフーバー中佐であった。

 

「物が物だけに当代のカストロプ公の為人と一緒に考えると自然と結果は見えますな」

 

「確かに政治判断も必要な事柄ですから元帥閣下に報告して判断を仰ぐ必要がありますね」

 

 ハンスは報告書と資料を持ってラインハルトに報告する。

 報告書と資料を一読したラインハルトの口からはハンスと同じであった。

 

「軍事衛星に保証書付きとはな」

 

(そりゃ、誰でも呆れるよな)

 

 ハンスもラインハルトに同意した。

 

「裏を返せばフェザーンも自信があるのでしょう」

 

 少将に昇進したキルヒアイスも苦笑しながら言う。

 

「玩具の事は置いても確かにカストロプ公の為人を考えれば卿達の危惧は当然だな。これから三長官達との会議になる。丁度良い。その場で三長官にも話してみよう」

 

 ラインハルトが報告書と資料を持って会議に出掛けた後でハンスがキルヒアイスに話し掛ける。

 

「キルヒアイス少将、この間と同じ結果になるか賭けませんか?」

 

 ハンスが不謹慎な事を言うがキルヒアイスは更に不謹慎な返答をする。

 

「まず、賭けが成立しないでしょう」

 

「キルヒアイス少将も同意見ですか」

 

 二人の予測は見事に的中した。会議が終わりラインハルトの執務室に呼ばれたハンスはラインハルトの無表情な顔を見て全てを悟った。

 

(まあ、不機嫌なのを隠してはいるが無表情なのも不気味だな)

 

「はあ。会議は不調だったようですね」

 

「卿が慧眼とは言えんか。私の表情を見れば誰でも分かる」

 

 ハンスもキルヒアイス同様に頭を抱えたい衝動に襲われたが耐えた。

 

「今回は何と?」

 

「今回もカストロプの叛意を認めながら軍部としては動かないらしい。既に遠縁のマリーンドルフ家が帝国とカストロプの仲裁に入っているそうだ」

 

「マリーンドルフ家の仲裁の結果次第ですか?」

 

「仲裁するだけ無駄であろう。先代が不正に蓄えた分だけを帝国に返還を要求しているだけだが、それを拒否して役人を追い返している」

 

「すぐに討伐軍が出されますな。討伐軍も例の玩具がある事を事前に知るだけでも私達の仕事に価値がありましたな」

 

「卿が、そう言ってくれたら私も救われる」

 

 ラインハルトの予測通りカストロプは仲裁に入ったマリーンドルフ伯を人質に帝国に宣戦布告をしてきた。

 ラインハルト達の元に討伐の話が来たがラインハルトは元帥府を開いたばかりで元帥府の内の整備が忙しく余裕が無いと断った。

 

「本当に宜しいのですか?」

 

 心配気なキルヒアイスの言葉をラインハルトは一刀両断にした。

 

「構わん。俺達の価値を認めさせる為にも、少しは痛い思いをすれば良い。それに暫くは忙しく余裕の無いのは本当だ」

 

 現実はラインハルトの予測を上回った。帝国軍が二度の討伐で二度とも敗退したのである。

 

「あらあら、討伐軍の兵士も気の毒だがマリーンドルフ伯も気の毒だな」

 

 ハンスの言葉を聞いてキルヒアイスも同意した。

 

 二人の会話を聞いたラインハルトが麾下の提督を集めて発表する。

 

「皆、カストロプの話は知っていると思うが三千隻の兵力で二度とも敗退している。そこでキルヒアイス!」

 

 呼ばれたキルヒアイスが諸提督より一歩前に進み出る。

 

「艦艇二千隻を率いて討伐せよ。これは勅命である」

 

「勅命、慎んでお受けします」

 

 キルヒアイスに勅命が下った事を知ったハンスは他人事と決めていたがフーバー中佐の報告でカストロプが私兵の艦隊を動かしマリーンドルフ領に攻撃を掛けている事を報告した。

 

「討伐軍が来る度に本拠地の応援に帰る為、マリーンドルフ艦隊は善戦が出来てますが本来は領域内の治安維持や事故対処の為の艦隊ですので人員の質も数も違います」

 

 ハンスからの報告を聞いたキルヒアイスはマリーンドルフ艦隊の救援に向かう事にした。と、周囲の人間にも思わせた。

 

「それより、ミューゼル大佐」

 

「はい。何でしょう?」

 

 ハンスも他に何か聞きたい事があるのかと思っていたがキルヒアイスの口から出た言葉はハンスの想定外であった。

 

「卿には私の旗艦に同乗してカストロプ討伐に協力してもらいます。尚、これは正式な命令ですから拒否権はありません」

 

「ち、ちょっと待て下さい。帝国の内乱に自分は同乗しても意味が無いでしょう」

 

「そんな事はありません。私や元帥閣下が忙しい時に定時出勤の定時帰宅していましたからね」

 

「それは、単なる僻みでは?」

 

「僻みではありません。単なる妬みです」

 

 断言するキルヒアイスの笑顔にハンスは反発する気もなくした。これがラインハルト相手なら反発もしたがキルヒアイス相手では無理と言うものである。日頃の言動の差である。

 

「カストロプは温暖な気候で果物が美味しいらしいですよ」

 

「少将、果物で懐柔が出来ると本気で思ってます?」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスは笑いの発作を抑えながら首肯する。

 結果、ハンスは果物で懐柔が出来た。

 

「へえ、カストロプは本当に果物が名産なんだ。ドライフルーツもある!」

 

 オーディンを出発してからガイドブック片手に珍しい果物や土産物の物色しているハンスを見て将兵は前回より少ない戦力であるが不安を持たずにいた。

 特にベルゲングリューンはファーストネームが同じ事からハンスと意気投合した様で二人でガイドブックを読み漁る光景が目撃されている。

 キルヒアイス艦隊は士気が高いままマリーンドルフ領に急行して救援に向かうと敵と味方に思われていた。

 カストロプ艦隊はマリーンドルフ艦隊との戦闘を一時中断して急行するキルヒアイス艦隊に備えたがキルヒアイスは戦闘が一時中断するのを知るとカストロプ領に急行したのである。

 慌てたカストロプ艦隊が本拠地のカストロプの救援に行こうとするとマリーンドルフ艦隊が後背から襲いかかる。反転するとマリーンドルフ艦隊も後退する。

 カストロプ艦隊がマリーンドルフ艦隊と戦っている間にキルヒアイスは惑星カストロプに無傷で到着する事に成功した。

 カストロプに到着したキルヒアイスが一応の降伏勧告をするが無視された為にキルヒアイスは計画通りに「アルテミスの首飾り」を破壊する。

 指向性ゼッフル粒子を放出して衛星に纏わせると一発の主砲を発射した次の瞬間、全ての衛星は爆発四散した。

 

「綺麗なもんですね。地上からも見えるでしょうね」

 

 ハンスが、場違いな感想を漏らすが正に地上では衛星が爆発四散するのと同時にカストロプ達の士気も四散した。

 結果、カストロプは側近達に殺されて側近達は全面降伏をした。本拠地を失った事でカストロプ艦隊も全面降伏をした。

 

「ベルゲングリューン大佐、上陸作戦の指揮を任せます。略奪、暴行は一切禁止します。違反した者は軍規に照らし処罰する事を全軍に私の名前で徹底して下さい」

 

 キルヒアイスは前回より少ない戦力で自軍の血を一滴も流さずに討伐に成功したのである。

 また、キルヒアイスの通達は徹底されていて略奪、暴行は無く帝国軍の威光を高めたのであった。

 凱旋したハンスは土産物のドライフルーツを入れた鞄を両手にマリーンドルフ父娘の再会に貰い泣きをしていた。

 そして、キルヒアイスは中将に昇進して勲章を授与された。帝国の新たな若き英雄の誕生に帝国中が沸き立つ中で、これによりキルヒアイスがローエングラム陣営のナンバー2だと周囲に認知される事になる。

 その頃、同盟では帝国領逆進攻案がアンドリュー・フォークにより私的に最高評議会議長のロイヤル・サンフォードに提出されていた。

 その為にフーバー中佐の監視網に掛からずに帝国中を再び震撼させる事になる。 

 



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帝国領進攻計画

 

 ラインハルトの元帥府が本格的に整備されるとハンスがラインハルトの執務室に資料を持って日参する事になり自然とハンスの残業も多くなる。ローエングラム陣営の提督達も波乱の予感を感じ始めていた。

 

「卿の説明では今年中に同盟軍の大規模な進攻があると言うのだな」

 

「はい、閣下。昨日も申し上げましたが同盟には選挙という政治的儀式があり、儀式の為に出兵して来ます。近年はイゼルローン要塞失陥以前は負け続けていますので派手な作戦で派手に勝ちたいと思っている筈です」

 

「しかし、戦略目的も無いままでは無いか?」

 

「その点は同盟も帝国も同じではないですか。今年の初頭のアスターテ会戦も戦略的な意義の無い戦いではありませんか」

 

「分かった。卿の進言が間違えていた事は無いからな。実際に軍を動かす事は出来ないが提督達にシミュレーションをさせて不測の事態に備えさせよう。それと事務方にも必要物資の試算と対策も検討させる。卿は引き続き同盟内部の監視を頼む」

 

「了解しました。それに伴い予算もお願いします。まさか、情報提供者に領収書を切れとは言えませんので」

 

「分かった。その事は参謀長と話をしてくれ。私より参謀長の方が明るい」

 

「ご配慮、有り難う御座います」

 

 ハンスが退出すると傍らにいたキルヒアイスが口を開く。

 

「妙な感じですね。ハンス大佐が勤勉なのは」

 

「確かにハンスが勤勉なのは違和感があるが、ハンスの進言通りに同盟が大規模な進攻を考えても不思議ではない」

 

 ラインハルトの言葉通りに、同盟ではイゼルローン要塞の無血攻略に酔いしれた国民の間には主戦論が沸き起こっていた。

 非公式にアンドリュー・フォークによる帝国領進攻案が最高評議会議長ロイヤル・サンフォードに提出されると主戦論が蔓延する風潮に乗り最高評議会は出兵案を可決したのであった。

 途中経過は別にして結果はラインハルトの予測通りであった。

 ラインハルトが予測しきれなかったのは投入される兵力である。八個艦隊からなる兵員三千万人、二十万隻体制の同盟史上最大の戦力が投入される事になる。

 この当時の国力では先のアスターテ会戦の戦後処理の経費の捻出も苦しい所にヤンが50万人の捕虜を捕らえ、捕虜を収容の為の予算も苦しいのである。

 ヤンが独断で民間人を解放したのは賞賛される行為であったが独断で解放をした事が問題視されなかったのは経済的な理由もあった。

 イゼルローン要塞を攻略すれば同盟は防衛拠点を得て内政に専念して国力の回復が出来るというヤンの思惑を裏切り帝国領進攻が決定してしまった。

 同盟と帝国との戦いは専制政治からの防衛戦であった筈の戦争が何時の間にか専制政治打倒の戦いに変化した事に気づく国民は少なかった。

 

 フェザーン経由で帝国に大規模出兵の報が伝わるとラインハルトに迎撃の勅命が下る事になる。

 若いラインハルトより経験豊富なミュッケンベルガーを推す声もあったが、意外な事に日頃からラインハルトを嫌う勢力がラインハルトを推したのである。

 

「今までにない大規模な戦いに金髪の孺子とて無傷ですむまい。叛徒共を追い払い金髪の孺子の勢力を削る事が出来れば一石二鳥ではないか」

 

 本音が透けて見えたがラインハルトは気にする事もなく迎撃の任を受けたのである。

 

 ハンスの進言により、速やかに迎撃の準備が進むなかでラインハルトとキルヒアイスに参謀長のオーベルシュタインと特別にハンスも参加しての対策会議が開かれる。

 

「既に卿らも知っている事であるが敵の大規模攻勢に対する迎撃作戦についてであるが既に私に腹案がある」

 

「焦土戦術を使うのは仕方がありません。しかし、出来るだけ自国民に犠牲が出ない様にして頂きたい!」

 

 ラインハルトの腹案を聞く前からハンスが釘を刺した。

 

「卿の意見は尤もな意見である。その事もあるから卿も会議に参加させたのだ」

 

 ラインハルトの口調には優しさがあったが厳しいのはオーベルシュタインであった。

 

「確かに卿の危惧する事が分かる。しかし、卿も軍人である以上は無血で目的が達する事が出来ぬ事も心得よ」

 

 オーベルシュタインの言はハンスには裏付けがあるだけにハンスには重かった。

 ハンスはある意味でオーベルシュタインは平等な人間であると思っている。敵味方の区別もなく官民の区別もなく流される血に区別をしない人であると。

 

「心得てます。しかし、私の場合は軍人は兎も角、民間人の血は軍人より重いと思っています」

 

 ハンスは民主国家で育った人間である。民主国家の軍人の建前は民間人を守る事である。更にハンスの個人的な考えでは軍人が血を流すのは給料を貰うのと引き換えだと思っているので自然と官民では民に重きを置くのである。

 

「卿ら、いい加減にせぬか!」

 

 ラインハルトがハンスとオーベルシュタインの仲裁に入る。

 二人は異口同音に謝罪して話を本題に戻した。

 

「分かれば良い」

 

 その後は同盟軍の具体的な進撃ルートと撤退後の事について話し合いがなされた。

 ほぼ逆行前と変わらないが大きく変わったのは撤退後の民間人救援の救援部隊が出来た事である。

 ハンスは救援部隊に参加したかったが同盟軍を知る者としてラインハルトの傍らに居る事を命じられた。

 

「しかし、各個撃破する際に自分をヤン・ウェンリーに対抗する提督の側に配置する事が望ましいと思います」

 

「ほう。卿ならヤン・ウェンリーと戦えると言うか」

 

 ラインハルトの口調には僅かながらに苛立ちが混じっていた。

 

「自分などでは無理ですよ。五分の条件で勝てるとしたらキルヒアイス提督ぐらいしか居ないでしょう」

 

「ほう。私でも勝てぬか?」

 

 ラインハルトが意地の悪い笑みを浮かべてハンスに質問する。

 

「閣下でも無理ですね。ヤン・ウェンリーに勝つには勝つ事よりも負けない事を考える人間じゃないと無理です」

 

 ラインハルトも怒る以前に元帥である自分に勝てないと言い切ったハンスに驚いた。

 

「卿の率直さは認めるが、少しは言葉を選ぶ事を学ぶべきだ」

 

「言葉を選ぶも何も閣下とヤン・ウェンリーの相性は最悪ですからね。絶対に五分の条件で戦ったら駄目です。互いに数百隻になる死闘になるでしょう」

 

 ハンスの執拗さと強い口調に流石のラインハルトも折れる。

 

「卿は、よほど私とヤン・ウェンリーを戦わせたくないらしいな」

 

「それでも戦わないと言わない閣下の頑固さも……」

 

 キルヒアイスは二人の頑固さに呆れて言葉も出ないでいたがオーベルシュタインは違った。

 

「閣下。ミューゼル大佐は元は同盟人でヤン・ウェンリーの為人も承知して根拠のある発言でしょう。ヤン・ウェンリーは単なる軍人ですが閣下は違います。万が一の事を考えてミューゼル大佐の諫言に従って下さい」

 

 オーベルシュタインがハンスに同調した事にラインハルトも驚きながらも自分の不利を悟った。

 

「分かった。今回はヤン・ウェンリーとは五分の条件では戦わぬ」

 

「今回だけですか。宜しいでしょう。次もその次も何度でもお諌めしますから」

 

「卿も本当に頑固だな」

 

「お互い様だと思います」

 

 この後は本題に戻り話を詰めていく。

 

「以前にも申しましたが、敵の総司令官のロボスは出世欲の強い男です。各艦隊が各個撃破されても戦力を糾合して決戦を挑んで来るでしょう」

 

「なるほど。卿には策がありそうだな」

 

「策とは言いません。数の差で袋叩きにするだけです」

 

「敵も数の差に配慮して挑んでくるのでは?」

 

「はい。恐らく敵は数の差を活かせないアムリッツァで機雷を後背に撒いて挑んで来るでしょう。彼処なら最悪の場合はイゼルローン回廊に逃げ込む事も出来ますから」

 

 ハンスの予測は例の如くカンニングであるが知らない者には脅威の洞察力と構想力に見えるだろう。

 しかし、事実を知る人間にも実は脅威的な事がある。

 ハンスが逆行前に面識のある提督は数える程であるが軍隊時代の知人からの噂や晩末に読んだ歴史書等から面識のない提督の性格や判断基準などを正解に割り出していたのである。

 故にハンスはローエングラム陣営に参加して日の浅いオーベルシュタインの事も正確に理解していたから、オーベルシュタインに過度の警戒もしていなかった。

 だから、オーベルシュタインにも大胆な発言も出来た。

 

「問題は今回の焦土戦術で元帥閣下が民衆から恨まれないか心配なのですが、人心操作に関して参謀長に何か案があるのではないでしょうか?」

 

「それに関しては焦土戦術を使わなかった場合の経費の試算と焦土戦術を使った場合の差額を民衆の補償金として使う。戦死者が減れば一時金や後の遺族年金の事を考えたら安いものだ」

 

 オーベルシュタインの考えは政治の基本であり王道でもあった。戦死者が減れば出費も減り、生きて税金を納めてくれるし平和になれば軍から各分野に人材を供給が出来るのだから。

 

(このオーベルシュタインという人物もラインハルトの影に隠れているが数世紀に一人の傑物だな)

 

「参謀長のご配慮に感謝します!」

 

 この後、予てからのシミュレーション通りに補給物資の生産に備蓄が急ピッチで進められた。

 帝国では万全の体制で同盟軍を迎え討つ準備が整い始めていた。

 



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撒き餌

 

 宇宙歴796年 帝国歴487年 8月

 

 同盟軍がイゼルローン回廊に入るのと同時に帝国ではイゼルローン回廊周辺の有人惑星から食糧の強制徴発が始まった。

 牛や豚に鶏等の家畜から麦や米の穀物類に畑にある収穫前の野菜等を全てを徴発した。

 僅かに残された食糧も尽きかけた時に同盟軍のシャトルが地上に降りて来たのである。

 最初は帝国の民衆に同情した同盟軍であったが食糧の配給を始めると民衆の多さに各艦隊の補給士官の顔は真っ青になった。

 各艦隊の司令官がイゼルローン要塞に食糧の補給を要求したのだが、イゼルローン要塞にある食糧倉庫を全て空にしても追いつく量ではなかった。

 後方主任参謀だったキャゼルヌはイゼルローンの食糧を前線に運ぶ手筈を整えるのと同時にハイネセンに食糧補給の要請を行う。更に総司令官のロボスに事態の深刻さを説明するが全く相手にされないでいた。

 

「敵の狙いが我が軍の補給線に過大な負担を掛ける事が狙いなのは明白です。すぐに前線の部隊を引き上げさせるべきです」

 

 キャゼルヌに詰め寄られたロボスとしては、キャゼルヌの言う事の正しさを理解してはいるが、このまま引き上げれば大軍を率いた責任を取る事になりかねない。それなりの戦果を出す必要がある。

 この時点でロボスもラインハルトの作戦が焦土戦術である事を看破していたが逆に看破している為に帝国軍が攻勢を掛けて来る事も理解していた。

 ロボスにしたら一戦して戦果を出した後に撤兵すれば良いと考えた。

 

「取り敢えず様子を見る」

 

 古来より行動を起こさない言い訳として使われた言葉である。

 ロボスはラインハルトの意図を読んでいたが読めていなかったのは前線の兵士達の事であった。ロボスはエリート軍人の家庭に育ち士官学校を卒業して元帥に地位に就くまで前線の兵士の様に補給が途切れて餓えた事もなく陸戦隊の様に寒さに耐えた事もなく兵士達の士気を考えた事がなかった。

 

「では、ロボス閣下の許可済みという事で追加の補給要請をハイネセンに出させて頂きます」

 

 キャゼルヌからの補給要請を受けたハイネセンでは要請された数字に目を疑い書類の上の0を数え直した。

 この時点でハイネセンの政治家達もラインハルトの作戦を理解した。

 

「帝国軍の狙いは焦土戦術による我が国の財政破綻である。我が国が帝国の民衆の解放を謳う以上は有効な手段と言わざるを得ない。論議の必要も無い。早急に撤退するべきである」

 

 

反戦派議員のレベロが強い口調で撤退を主張するが、出兵案に可決した議員達は自分達の政治生命の危機という事で何かしらの戦果を出すまではと撤退案を否決した。

 

 前線の指揮官達は自分の部下が餓える前に撤退を考えたがイゼルローンから要請した一割程度の補給の後に本国からの本格的な補給があると言われてその場に留まった。

 しかし、敵の領土内での補給に不安を覚えた指揮官もいる。

 

「ウランフ提督。占領地を放棄して撤退を考えているのですが」

 

「ヤン提督もそうか。自分も同じ事を考えていたが、だが敵は我々を監視している筈だ。撤退するにしても後背を襲われる心配をしている」

 

「確かに私も同じ事を考えましたが、兵が餓えてからでは遅いです」

 

「確かにな。しかし、問題は司令部が許可するかだ」

 

「私も同意見です。しかし、勝手に撤退する前にビュコック提督に上申して頂くのは如何でしょうか?」

 

「確かに勝手に撤退する前に掛け合ってみるのが良いだろうな」

 

 こうして、ヤンやウランフの様に最深部にいる部隊の指揮官達は撤退を考え総司令部に上申を最年長のビュコックに依頼した。

 その頃には既にハイネセンからの補給部隊はキルヒアイスの部隊に全滅させられていた。

 前線の指揮官から補給物資の届かない事の問い合わせにロボスは対応せずにフォークに対応させた。

 結果は最悪の形となった。何人目かの相手がビュコックであったが、二人は激しい口論となりフォークは入院する事となった。

 結局、ヤンとウランフとビュコックは独断で撤退する事にした。

 他の提督達も三人に習って撤退準備を始めたタイミングでラインハルト麾下の提督達の攻撃を受ける事になった。

 ラインハルト麾下の提督達は、若いがラインハルトが初陣した時から探していた人材達である。

 第三艦隊のルフェーブルはワーレン艦隊の奇襲攻撃を受け戦死。艦隊は全滅する。

 第五艦隊のビュコックは撤退準備終了間際だった為にロイエンタールの追撃に対して逃げの一手であった。

 第七艦隊のホーウッドは不幸にも四倍の兵力のキルヒアイスに奇襲を受けて抵抗らしい抵抗も出来ずに艦隊は全滅してホーウッドは戦死した。

 第八艦隊のアップルトンはメックリンガーの奇襲を受け四割の被害を出しながらも撤退に成功する。

 第九艦隊のアル・サレムは撤退中に不幸にも神速を誇るミッターマイヤーの追撃を受け重体。指揮を引き継いだモートンの活躍で半数が撤退に成功する。

 第十艦隊のウランフはビッテンフェルトに奇襲されるが三割の味方を脱出させる事に成功した後に戦死。

 第十二艦隊のボロディンは旗艦以下数隻なるまで戦い自決。

 第十三艦隊のヤンはケンプに奇襲を受けるが戦闘らしい戦闘はなく、撤退する第十三艦隊の後背から追撃される程度であったが隣の星系に移動した時にキルヒアイス艦隊に遭遇して被害を出しながらも撤退する。

 

 無防備な有人惑星に目が眩みラインハルトが用意した撒き餌に飛びついた結果が戦力分散と兵糧攻めであった。

 一部の惑星では食糧の現地調達という名の略奪行為を行なって恨みを買う事になる。

 見え透いた偽善行為であるが同盟軍が撤退するのと入れ代わりに帝国軍がラインハルトの名で徴発した食糧の弁済と慰謝料に一時金を支給。地元産業への助成金とインフラ整備を約束した。

 元々は帝国の辺境地区である。公的資金もなく第一次産業しか職の無かった民衆はラインハルトの熱烈な支持者になった。

 この大盤振る舞いはハンスの進言をオーベルシュタインが現実化したものである。

 この事でラインハルトは平民の味方という肩書きを手に入れる事になる。

 この事についてラインハルトとオーベルシュタインの見解は一致している。

 十歳で幼年学校に入学して軍隊しか知らないラインハルトに先天性の障害を抱えてたが裕福な家庭で育ったオーベルシュタインでは縁が無かった社会の底辺で生きたハンスの視線は貴重なものだと認識されていた。

 後にハンスは「貧乏自慢ならファーレンハイト提督にも勝てる」と自慢にならない自慢をしている。

 

 そして、自慢にならない自慢をしていたハンスはラインハルトの下で提督達からの勝利の報告を整理しながら同盟軍の残存兵力と自軍の残存兵力を計算していた。

 

(思ったより自軍の残存兵力は多いなあ。同盟軍の残存兵力は本来の歴史と変わらんか)

 

 ハンスは提督達が出撃する前に担当の敵艦隊の司令官の為人や用兵の特徴を記した書類を渡していた。

 

(勝つ為なら子供の意見も真剣に耳を貸すのか。流石はラインハルトが見い出だした人材だな)

 

 ハンスは逆行前の世界で何度も上司に諫言や忠告した事があったが兵卒上がりのハンスの言に耳を貸す上司は居なかった。

 

(危ない危ない。自分が他人より優秀と思った時に真摯に他人の言葉が聞けなくなる。自分も提督達に対して一瞬だが自分の進言で被害を抑えた提督達より優秀だと錯覚しそうになった)

 

 ハンスは自分が優秀と示そうとした人間や自分が優秀と思い込んだ人間が失敗して破滅した場面を数多く見て来た。

 自分も同じ轍を踏まない様に自制をしないとバーミリオンでのラインハルトの様になってしまう。

 

 ハンスが自制を己に喚起した時にラインハルトから呼び出された。

 

「閣下。何の御用でしょうか?」

 

「敵は卿の予想通りにアムリッツァに集結している。今の所は予定通りだが卿に意見を聞きたくてな」

 

「これだけの兵力差が有れば問題があるとすると油断でしょう。特に勝っている時は劇的な演出をしたくなりますけど相手は手負いの獣と同じですから」

 

「確かに卿の言う通りだな。私の名で全将兵に喚起して行う」

 

「ならば閣下。ヤン・ウェンリーには気をつける様に特に喚起して下さい」

 

 自分以上にハンスがヤン・ウェンリーを意識する事にラインハルトは疑問を持った。

 

(まあ、確かにハンスが警戒するだけの男だからな)

 

 ラインハルトはアムリッツァでハンスがヤンを警戒する意味を再確認させられる事になる。

 



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アムリッツァ会戦

 

 ロボスの指令で恒星アムリッツァ周辺宙域に集結した同盟軍は惨憺たる姿であった。

 第三艦隊、第七艦隊、第十二艦隊は全滅。

 第九艦隊、第十艦隊は司令部が壊滅して生き残りは半数以下。

 第五艦隊、第八艦隊、第十三艦隊も少なからずの被害を出している。

 集結直後、ヤンが総司令部にタンクベッド睡眠による休息を将兵に与える事を上申したが却下された。

 同盟軍は満身創痍の状態で決戦に臨む事になる。

 ハンスは逆行前の知識を思い出していた。ハンス自身はアムリッツァ星域会戦に参加してなかったが参加して生き残った人々からアムリッツァ星域会戦の事は聞いていたので現在の同盟軍の状態も正確に把握していた。

 そのハンスにしてもヤンの詭計までは把握する事が出来ないでいた。

 戦場で臨機応変に出るヤンのマジックの数々は未来を知るハンスのアドバンテージを無効にしてしまう。

 

(ヤン提督には死んで欲しくはないが、自分が生き残る為には死んで欲しい存在だな。一番の良策はヤン提督を味方にする事なんだが)

 

 ハンスの思いとは別に帝国軍はアムリッツァ宙域に到着する前に交代で休息を取り将兵共に士気も高い状態であった。

 

(怖いもの知らずとは、本当に怖いものだな。宇宙で最強の用兵家と戦うのに)

 

 そして、アムリッツァ星域会戦が始まるのであった。

 

「ファイヤー」

 

「ファイエル」

 

 ほぼ同時に両軍の主砲発射の号令が掛かる。

 ミッターマイヤーが自慢の神速を活かして第十三艦隊に急接近を試みるもヤンは核融合ミサイルを恒星表面に撃ち込みミサイルの爆風に乗りミッターマイヤー艦隊の機先を制する。

 

「後退しろ。艦隊を再編成しながら後退!」

 

 ヤンはミッターマイヤーの反撃を読み、深追いを避けた。

 これを見ていたビッテンフェルトが第十三艦隊の側面を突くがヤンは装甲の厚い艦を盾にして小型艦で盾にした艦の隙間からビッテンフェルト艦隊を狙撃する。

 

「怯むな!突撃しろ!」

 

 ビッテンフェルトは通常なら退く場面でありながら逆に突撃を敢行する。

 この攻撃は第十三艦隊が前進する事で躱されたがアップルトンが指揮する第八艦隊の側面を突く事に成功したかに思えた。

 側面を突く寸前にビッテンフェルト艦隊は艦列を乱す事になる。

 ヤンが核融合ミサイルをビッテンフェルト艦隊の真下に撃ち込み爆風で艦隊にダメージを与えないが攻撃する余裕を奪う事に成功する。

 アップルトンはビッテンフェルトの隙を見てビッテンフェルト艦隊に砲身を向け攻撃する。

 しかし、流石はビッテンフェルトである第八艦隊の攻撃を受けながらも反撃をする。

 双方で熾烈な砲火の応酬が行われる。

 第十三艦隊はミッターマイヤー艦隊とメックリンガー艦隊を相手にして第八艦隊の救援に行く暇が無い。

 苛烈な砲火の応酬の末、第八艦隊を壊滅させたビッテンフェルトはその余勢を駆って背後にいる第十三艦隊に突撃する為にワルキューレを発進させながら反転を行おうとした時、ヤンはメックリンガーとミッターマイヤー艦隊の直下に核融合ミサイルを撃ち込み爆風で牽制しながら反転するビッテンフェルト艦隊より早く反転してビッテンフェルト艦隊にビームの雨を降らせる。

 ワルキューレ発進中で満足に身動きが取れないビッテンフェルト艦隊は第十三艦隊の的となり漆黒の艦が次々と火球と化す。

 ビッテンフェルトの旗艦の周辺にまで砲火が迫り、それでも反撃を叫ぶ司令官をオイゲンか体を張って止める。

 ヤンはビッテンフェルト艦隊が組織的な攻撃が出来ないと見ると再び反転してメックリンガー艦隊とミッターマイヤー艦隊を相手にする。

 ヤンが狡猾なのは退却するビッテンフェルト艦隊を背後にする事でメックリンガー艦隊とミッターマイヤー艦隊の攻撃の手を鈍らせ、その隙にメックリンガー艦隊とミッターマイヤー艦隊に攻撃をする。

 

 総旗艦ブリュンヒルトの艦橋で一部始終を見ていたハンスは頭から氷水を掛けられた様な錯覚を覚えた。

 

(二個艦隊を相手にしながら背後の艦隊より早く反転して瞬時に壊滅させて背後の敵を人質に正面の敵を叩くだと!)

 

 ヤンが味方の時は頼もしかったが敵となった瞬間に恐怖しか感じない。

 ビッテンフェルトからの救援要請があったがラインハルトから通信も切られている。

 

(キルヒアイス艦隊はまだか!それにしてもビッテンフェルトの猪め!)

 

 キルヒアイス艦隊が同盟軍の背後に出る為に戦場を大きく迂回しているが待ち遠しい。

 そして、恒星表面が荒れた為に遅れたがキルヒアイス艦隊が機雷原を突破して戦場に現れた。

 こうしてアムリッツァ星域会戦の決着はついた。

 

 キルヒアイスはワーレンとルッツを従え同盟軍本隊を背後から襲う。

 キルヒアイス艦隊に背後を取られた同盟軍は壊滅の危機に瀕した。

 

「敵は総崩れだ!撃ちまくれ!」

 

 退却する同盟軍に追撃を掛ける帝国軍に殿の第十三艦隊が反撃する。

 

「流石だな。実に良いタイミングで良いポイントを突く」

 

 総旗艦ブリュンヒルトの艦橋にてラインハルトが感嘆する傍らでハンスは胸を撫で下ろしている。

 

「両翼を伸ばし包囲しろ!」

 

「閣下。ビッテンフェルト艦隊の抜けた穴が有ります。誰か別の提督を!」

 

 ハンスの指摘をラインハルトも認めてキルヒアイスに命令を出した時は遅かった。

 第十三艦隊は包囲網の最も薄い部分に砲火を集中させて一点突破で脱出した。

 

「またしても、してやられたか!」

 

 ヤンに逃げられて悔しがるラインハルトの横でハンスは複雑な心境であった。

 

(今からでもミッターマイヤー提督に追撃させるべきでは?)

 

 ヤン自身は駄目でもフィッシャーだけでも戦死させれたらヤンの戦力は半減するのである。

 

(待て待て、別にラインハルトに宇宙を統一させる訳じゃない。キルヒアイス提督が生きていればラインハルトも宇宙統一とか欲を出さずに帝国で平和な生活を楽しむかもしれない)

 

 ラインハルトに宇宙統一をさせるなら、ヤンの戦力を半減させる事は意義があるがそれより問題は自軍のビッテンフェルトであった。

 

(確かに有能で裏表の無い良い人だが血を流し過ぎる)

 

 戦闘終了後、提督達が次々とブリュンヒルトの艦橋に入って来る度にラインハルトは提督達の手を取り握手をして一人一人に感謝の言葉を掛ける。

 キルヒアイスに対しては握手をして肩を叩くだけである。この二人には既に言葉も要らない。

 最後にビッテンフェルトが入ってくるとラインハルトはビッテンフェルトと目も合わせずに司令席に座る。

 提督達が左右に二列に並ぶ中でビッテンフェルトは片膝を付き謝罪する。

 ラインハルトは無表情でビッテンフェルトを見ながら口を開く。

 

「ビッテンフェルト提督、卿も善戦したが卿は功を焦り猪突し、味方に無用の犠牲を出した。本国に凱旋してから、卿の罪を問わねばならぬ。何か弁明はあるか?」

 

「御座いません」

 

「宜しい。解散」

 

 ラインハルトが艦橋を出て行くと提督達はビッテンフェルトを慰める為に集まる中でキルヒアイスはラインハルトの後を追う。

 ハンスはキルヒアイスの後ろ姿を一瞥してビッテンフェルトの前に立つ。

 

「おい、ハンス」

 

 言葉通りに怒りに震えるハンスが激発するのではと心配したミッターマイヤーがハンスに声を掛ける。

 ミッターマイヤーもハンスが兵士の無用な流血を嫌っている事を知っている為に内心は冷や汗を掻いていた。

 しかし、ミッターマイヤーの心配は杞憂に終わった。

 ハンスはビッテンフェルトを一瞥するとキルヒアイスの後を追った。

 ハンスの後ろ姿を見る提督達の心境は複雑である。キルヒアイスがラインハルトに執り成しに行った事もハンスが、それに抗議に行った事も分かっていたからだ。

 しかし、この場合はハンスが正しいと思う。何度もハンスはヤンの危険性について喚起していた上にビッテンフェルトの被害はあまりにも大きい。

 ビッテンフェルトを見るケンプは他人事ではなかった。ケンプは第十三艦隊に奇襲を掛けたが一撃してすぐに後退した。

 ハンスから何度も追い払うだけに止める様に進言されていた。アムリッツァでのヤンの戦いぶりを見てハンスの進言に納得したものである。

 オーベルシュタインは提督達の輪の外でキルヒアイスとハンスの後ろ姿を見ていた。

 

(あの二人、ローエングラム伯との仲を特権と考えられても困る)

 

 オーベルシュタインが危惧した二人はラインハルトの前で対立していた。

 

「一度の失敗で切り捨てるようでしたら人が居なくなります」

 

「犠牲を考えずに指揮をされたら兵士が集まりません」

 

 二人の対立を前にラインハルトは逆に冷静になっていた。

 二人の言い分には、それぞれ一理があるからである。

「取り敢えずオーディンに帰ってから処分を決める」

 ラインハルトの言葉に二人は、その場を収めるしかなかった。

 ラインハルトは二人が仲違いする事を危惧したが杞憂に終わった。

 帰国の途上で皇帝崩御の報が入ったからである。

 



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衣替え

 

 フリードリヒ四世には三人の孫がおり、新しい皇帝には既に亡くなった皇太子の子のエルウィン・ヨーゼフ二世が帝位についた。

 ハンスの進言でエルウィン・ヨーゼフ二世の後見人にはベーネミュンデ侯爵夫人がなった。

 ハンスは侯爵に階位を進めたラインハルトに釘を刺した。

 

「孫には罪は有りませんよ。ましてや五歳児には母親が必要でしょう。権力闘争の戦場である宮廷ではなく普通の平穏な人生を送らせたいのがベーネミュンデ侯爵夫人と私の願いです」

 

 リヒテンラーデ侯と違い。ベーネミュンデ侯爵夫人は野心もなくエルウィン・ヨーゼフ二世を我が子の様に愛情を持って面倒を見ている。

 

(逆行前の関係者の回顧録では躾の出来てないクソ餓鬼だったらしいからな。恐らくは幼児期の大人の愛情不足だろう。親戚がブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯だからなあ。無理もないが)

 

 相手がベーネミュンデ侯爵夫人となればラインハルトにしたら言いたい事もあるらしいがハンスに釘を刺されたので我慢しているらしい。

 ハンスにしたらラインハルトに対して「いい気味だ!」と思っている。

 

 ラインハルトの場合、普段から女性から親切にされ過ぎている。逆行前の世界でアンネローゼの死後に出された獅子帝ラインハルトの同級生という人物の回顧録にラインハルトは子供時代にクラスのガキ大将との喧嘩で石を使い出血させた事があったらしい。息子が出血する程の怪我をさせられて黙っている親がいる筈もなく、ミューゼル家に怒鳴り込む準備をしていたら同級生の女子の団体から抗議を受けたらしい。「ミューゼル君は悪く無い!」「ミューゼル君をこれ以上いじめるなら私達が黙ってないわよ!」と言われた上に日頃の行いに尾ヒレに胸ビレに背ビレまで付けて親に告げ口された上にラインハルトの写真を見せられた途端に母親もラインハルトの味方になった。同級生は齢十歳で世の不条理を学んだそうだ。

 

 それに今の段階ではエルウィン・ヨーゼフより当面の敵は野心だらけのブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯の二人である。

 二人とも皇帝の娘と結婚して娘がいる。その娘を女帝に据えて権力を握るつもりでいる。

 その後にリヒテンラーデ侯が控えているのである。

 この老人、前者の二人に比べて比較的に道徳的なのだが先の無い年齢で権力を手にして何を為す気なのかラインハルトには理解不能である。

 正直な話、エルウィン・ヨーゼフに関わっている余裕は無いのだ。

 

 軍内ではミュッケンベルガーがラインハルトに地位を譲る形で勇退となり、ラインハルトが宇宙艦隊司令長官となる。

 キルヒアイスは昇進して中将から上級大将となり宇宙艦隊副司令長官になった。

 ハンスも昇進して准将となった。

 ロイエンタールとミッターマイヤーも昇進して大将となった。

 ビッテンフェルトは新帝即位の恩赦で中将に留まる事が出来たがオーベルシュタインとハンスの進言で戒告と一年間の減俸となった。

 

 そして、最大に変わった事はアンネローゼが後宮から解放された事である。

 ラインハルトはミュッケンベルガーに初めて感謝をした。

 ミュッケンベルガーから下宿生活について説教をされなければアンネローゼを屋敷に迎える事が出来なかったからである。

 毎日、仕事が終わり家に帰るとアンネローゼが夕食を作って待っている。

 

 この当時のラインハルトはアンネローゼを屋敷に迎えて感慨に浸りたいのだが色々と忙しい。

 表向きの仕事では宇宙艦隊司令長官として人事を刷新しなければならない。

 エルウィン・ヨーゼフの即位の恩赦として大規模の捕虜交換の準備。

 そして、非公式な仕事では同盟に内乱を起こさせる為の下準備。

 ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯の動向の監視である。

 

 そして、ハンスも色々と忙しい。

 フーバー中佐に命じて六人家族が身を隠せる潜伏場所を探させる。

 それと、ファーレンハイトの監視と家族調査である。

 更に、辺境各地に連絡網を作りハンスに即時に報告が来る体制を作る。

 それと、ベーネミュンデ侯爵夫人の元を訪れエルウィン・ヨーゼフの様子も見なければならない。逆行前の世界では子供の身で大人達に利用され行方不明になったのだ。 

 他にはリヒテンラーデ侯の一族の身辺調査も行う。

 

 本来なら逆行前の知識で早い時期から準備や調査を始めてれば忙しい思いをせずにすむのだが、それはそれで周囲に疑念を抱かせる事になる。

 

(未来を知っていても、株で儲けるにしても元手がない。宝くじは当選番号を記憶している筈がない。未来の記憶も存外に役に立たん)

 

 忙しいのはハンスやラインハルトだけでなくキルヒアイスもオーベルシュタインもロイエンタールもミッターマイヤーも誰もが忙しいのである。

 当然と言えば当然の話なのだが、ラインハルトが宇宙艦隊司令長官になるのに合わせて宇宙艦隊はラインハルト派一色にしなければならない。

 同時にアムリッツァ星域会戦の事後処理も大変である。そこに内戦に向けての準備がある。内乱中の同盟対策もある。

 忙しいのは当たり前である。

 

 その忙しい中で元帥府で新人士官のリュッケが元帥府の玄関先で揉めている。

 

「何か有りましたか?」

 

 ハンスが好奇心でリュッケに聞いてみた。

 

「それが、こちらのフロイラインが元帥にアポ無しで面会したいと言われてまして」

 

「フロイライン、役所とか会社とかはアポイントを先に取ってからですね。訪問され……」

 

 ハンスはラインハルトのファンが押し掛けて来たと思って規則を盾に追い返そうと思ったが女性の顔を見て止まってしまった。相手は未来のラインハルトの伴侶である。

 

「貴女は確か、マリーンドルフ家のフロイラインですね」

 

「閣下は確か…………」

 

「無理しなくても良いですよ」

 

(そりゃ、父親が無事解放されて感動の再会中に横で貰い泣きした人間なんか記憶に残らんよな)

 

「し、失礼しました」

 

「貴女なら別に問題は無い。時間が掛かりますが宜しいですか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

 ハンスはヒルダを適当な部屋に待たせてラインハルトには味方が来たと言って面会の時間を作らさせた。

 

(彼女みたいな物好きじゃないと、あんなシスコンは結婚とか無理だからな)

 

 逆行前は独身のままの生涯だった自分の事は百万光年の先の棚に上げて失礼な事を考えるハンスであった。

 

 上司に対して失礼な事を考えた罰なのか。ハンスはラインハルトからイゼルローン要塞に捕虜交換の申し込みの使者として赴く様に命令された。

 

「卿が将官の中で最も暇そうだからな」

 

 ハンスとしては抗議をしたいがラインハルトに内緒で動いている仕事も多く文句も言えない。

 尤も、ラインハルトもハンスが自分に内緒で動いている事は承知しているし、ハンスもラインハルトが承知している事を知っている。

 お互いに表向きは知らないふりをしている。

 

(狸と狐の化かし合いだな。どちらが狸か狐なのか?)

 

「閣下。この間、マリーンドルフ家のフロイラインが来訪しましたが如何でした?」

 

「そう言えば、卿が取り次いだのだな。あのフロイラインは傑物だぞ。貴族の中で稀な存在だ」

 

(ほう。話の内容ではなく本人に興味を持ったか)

 

 ラインハルトはハンスの表情を見てヒルダ本人の事でなく話の内容を説明しだす。

 

(何で俺の表情を敏感に読み取れるのに女性には鈍感なんだ?)

 

「その、確かにフロイライン・マリーンドルフは美しい女性だったが卿にはドルニエ家のフロイラインがいるだろ!」

 

 また、ハンスの表情を読み取ったラインハルトは盛大な勘違いをした。

 

「まあ、個人の私生活に立ち入るつもりは無いがロイエンタールの様に女性を泣かすのは如何なものかと思うぞ」

 

「閣下、勘違いをしないで下さい!」

 

 ハンスが慌てながらラインハルトの勘違いを訂正する。

 

「私は別にフロイライン・マリーンドルフに恋愛感情を持っていません。更にフロイライン・ドルニエにも恋愛感情を持っていません。フロイライン・ドルニエとは友人です!」

 

 ラインハルトが手に持っていたペンを離して、ハンスにソファーを勧める。

 ハンスがソファーに座ると従卒に自分とハンスの分のコーヒーを持って来させると従卒に人払いを言いつける。

 

 ハンスは何事かと思うとラインハルトから恋愛について説教される。

 

「まあ、卿は若いから女性の気持ちが分からんのは仕方がない」

 

(あれ。立場が逆じゃない?)

 

「良いか。卿は姉君と仲が良いから歳上の女性には姉君と同じ様に接してしまうかもしれんが、女性というものはだな」

 

 結局、ハンスが解放されたのは一時間後の事であった。

 その間、元帥府に居た者はラインハルトとハンスが仕事の話をしていると思い疑問に思う事はなかった。

 

(何で俺がラインハルトから説教されるのだ?)

 

 この勘違いはラインハルトがヒルダと正式に婚約発表する直前にラインハルトからハンスが謝罪されるまで続く事になる。 

 更に呆れた事にヒルダもラインハルトからの説明で勘違いをしていたらしく。ヒルダはヘッダに謝罪をしたので大騒ぎになるのである。

 全ての事情を後で聞いたアンネローゼは自分のラインハルトの教育に問題があったのではと悩む事になる。

 

 こうして色々な意味で帝国は古い衣装を脱ぎ去り、新しい衣装に衣替えする季節であった。

 

 



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イゼルローン要塞訪問始末記 前編

 

 ハンスがイゼルローン要塞に使者として赴くとヘッダに告げるとヘッダは急に心配顔になる。

 ヘッダはイゼルローン要塞陥落以来、軍事については過敏になっている。

 その都度、ハンスは丁寧にヘッダを安心させるのだがアムリッツァ星域会戦では帝国の一個艦隊だけが大打撃を受けたと報道された為にヘッダは大打撃を受けた艦隊にハンスが居たのではと心配してハンスが帰国した時は泣きながらハンスを抱きしめたのである。

 今回も不安がるヘッダを安心させる為にヤンの為人を説明して軽口を叩く。

 

「イゼルローン要塞に行けば帝国に無い物もあるし、亡命者には懐かしい物もあるから土産は何がいい?」

 

 不安がりながら紙に書いたリストを渡すヘッダは義理とはいえハンスの姉である。

 

 出発直前にラインハルトからはヤンの為人を観察する様に言われた。

 艦に乗り込みオーディンを出た後に艦橋で艦長から言われた事にハンスは驚く。

 

「閣下もローエングラム侯から信頼されてますな」

 

「信頼されてたら、あんな遠い所までお使いに行かせんと思う」

 

 艦長は頭を抱えて呆れる。

 

「閣下は亡命者でしょうに、言わば古巣に使者として出すのは閣下が裏切らないで帰って来ると信頼されてるからでしょう」

 

「あっ!」

 

「今回の任務はローエングラム侯が閣下の事を信頼してる証ですぞ」

 

 艦長に指摘されて初めてハンスも気が付いた。周囲では自分達と違う受け取り方をしているのかと。

 

(そうか。今回は逆だったがオーベルシュタインが心配しているのは周囲が勘違いをして不満なり不安なりを抱える事なのか)

 

 だが、別の意味でハンスはラインハルトを裏切る。

 

「艦長、例の用意は大丈夫?」

 

「大丈夫です。閣下」

 

「艦長、お主も悪よのう」

 

「これは、閣下程では御座いません」

 

 二人して笑い合う姿を見て艦橋に居た乗組員は呆れていた。

 

 イゼルローン要塞では哨戒に出ていたユリシーズが帝国の巡航艦一隻を発見する。

 

「停船せよ。停船せよ。しからざれば攻撃する」

 

「我に交戦の意志なし。我に交戦の意志なし」

 

 ユリシーズの艦橋ではニルソン艦長が帝国軍巡航艦を眺めながら部下のエダ中尉に漏らす。

 

「久々に亡命者か?」

 

「流石に巡航艦の手土産付きは無いでしょう」

 

 この二人、アムリッツァ星域会戦でユリシーズが「トイレを壊された艦」と笑い話にされてから、すっかり捻くれてしまったのである。しかし、二人は知らなかったが近い未来に哨戒に出すと敵を連れて来る艦とレッテルを貼られる事になる。 

 

 捻くれた二人はイゼルローン要塞に連絡を入れて巡航艦を伴いイゼルローン要塞に帰投する。

 巡航艦は主砲の射程外ギリギリに留まり通信でヤンに来訪の目的を告げる。

 

「帝国軍准将ハンス・フォン・ミューゼルです。今回はエルウィン・ヨーゼフ二世陛下即位記念の恩赦の為に捕虜交換交渉の使者として推参しました。ヤン・ウェンリー大将閣下にはラインハルト・フォン・ローエングラムより書簡も預かって来ております。要塞の入港許可をお願いします」

 

「了解しました」

 

 ハンスに比べてヤンの返答は短い。ムライが顔をしかめる。

 

「閣下、いくら何でも軽率では無いですか?」

 

「大丈夫だよ。ムライ少将。今の時期に帝国軍にイゼルローン要塞を手に入れる意味は無いからね」

 

 実はヤン自身が以前からラインハルト程ではないがハンスには興味があったのである。簡潔に言えば公私混同である。

 

 ヤンは中央指令室のスクリーンで乗艦から降りるハンスを見ている。港にはキャゼルヌとシェーンコップが出迎えに行っている。

 

「しかし、帝国に亡命すると厚遇されるとはいえ、十代で将官とは異例でしょうな」

 

 パトリチェフがスクリーンの中のハンスを眺めながら評する。

 

「そうだね。皇族でも無いのに異例の出世だね」

 

 ヤンがパトリチェフの評に同意する横でフレデリカがスクリーンの映したハンスの顔を凝視する。

 

「しかし、異例の出世した理由とは考えにくいですが、我が軍の軍事機密でも持ち出したとしか思えませんな」

 

 ムライがハンスの出世の理由を推理する。

 

「確かに考えにくい話ですな。軍属の身で機密を持ち出せる程、我が軍の防諜システムがザルでは無いでしょうから」

 

 ムライの意見にグエンも半分だけ賛成する。

 

「どちらにしても奴さんが亡命した理由と状況を考えたら裏切り者とは呼べないな」

 

 アッテンボローの意見には全員が首肯する。

 

「それに彼の亡命状況が政治宣伝の為とは言え同盟に伝えられて、感謝している兵士も多いでしょうな」

 

 フィッシャーがハンスが亡命して一番の影響を話す。

 

 ハンスの亡命の理由と状況を帝国が政治宣伝に使った結果、同盟軍内部での物資横流し組織の存在が発覚して捜査の結果、大量の処分者が出たのである。

 この事件は「黒い霧事件」と呼ばれている。

 

「確かに脱出用シャトルの非常食やバッテリーを横流しとか史上空前の不祥事だからね」

 

 ヤンもフィッシャーの意見に賛成するしかなかった。歴史家志望のヤンの記憶にも無い不祥事である。

 

 会見はイゼルローン要塞の会議室で行われた。

 ヤン達が会議室に入室すると帝国軍一同は席から腰を上げてヤンに敬礼する。

 双方の挨拶を済ますとハンスが単刀直入に本題の話をする。

 

「通信でも話しましたがエルウィン・ヨーゼフ二世陛下の御即位記念の恩赦として捕虜交換を行いたく推参しました。此方は計画書です」

 

 ハンスがラインハルトから渡された書類をヤンに手渡すとヤンは一読してキャゼルヌに回す。

 

「内容は問題無いと思います。しかし、私には権限が無いので上申してからの返答になりますが宜しいでしょうか?」

 

「私も元は同盟の人間ですから事情は分かります。国防委員会からの返答があるまでイゼルローンに滞在する許可を頂きたい」

 

「それは構いません」

 

「それと、図々しい願いが有りまして、帝国では同盟の製品は人気が有るのですがフェザーン経由ですと私達の様な一般庶民の手の届く価格では無いので商業施設内で土産を買う許可を頂きたいのです」

 

「それは、構いませんがトラブルだけは起こさないで下さい」

 

「有難う御座います!」

 

 帝国軍一同からは歓声が上がる。

 

「しかし、帝国マルクは今のイゼルローンでは使えませんよ」

 

「大丈夫です。本国を出る時に両替して来てます!」

 

 既に用意してた事に同盟側の出席者は唖然とするばかりであった。

 

 会見も終わり同盟側から晩餐会の招待されたハンスは喜んで出席を承諾して会議室を出ようとするとフレデリカが近付いて話し掛けて来た。

 

「失礼ですが閣下が同盟に居た時は統合作戦本部の横にあった三角公園のレストランで働いていませんでしたか?」

 

「はい、そうです。そこで母親と住み込みで店を手伝ってました」

 

 ハンスが答えた途端にフレデリカから抱きしめられた。

 

「ち、ちょっと!」

 

「良かった。生きていてくれたのね」

 

 ハンスを抱きしめてフレデリカが泣き出す。

 ハンスは突然の事態に驚きながら顔を真っ赤にしている。

 予想外の展開に慌てる帝国軍一同に比べて面白そうに見守る同盟軍一同。

 

「ほら、大尉。准将が困っているじゃないか」

 

 妙齢の女性に抱きつかれ顔を真っ赤にしてるハンスを見てシェーンコップ等は内心(まだまだ未熟だな)と思っていた。

 

 一頻り泣いたフレデリカは恥ずかしそうに恐縮しながら理由を説明した。

 

「准将閣下が働いていたレストランには母が健在の頃に両親に連れられて行ってまして、よく店の手伝いをしていた准将を見掛けてましたので、私が士官学校を卒業して第十三艦隊に配属が決まった頃にレストランが火事で全焼したと聞いたので気にしていたんです」

 

 フレデリカの説明を聞いてシェーンコップも思い出していた。

 

「あのレストランなら俺も良く使っていた。帝国風の料理を出す店だった」

 

 シェーンコップの言葉にハンスも驚くしかなかった。

 

「しかし、宇宙は広い様で狭いものだ。常連さん二人にイゼルローンで出会うとは」

 

 元々、同盟にさほどの未練はなかったハンスだったが自分の最古の思い出の場所が無くなった事で完全に未練は無くなった。

 これ以降は帝国人として生きていくと決意するハンスであった。

 

 その日の晩餐会は和やかな雰囲気で始まった。

 帝国軍は勤続十年で退職金と恩給が出るのでハンスも勤続十年で退役する考えを言うと帝国人と同盟人の両方が驚いていた。

 

「それ程に驚く事かな。十代で閣下と呼ばれる身分になったし、正直な話、自分は上司を持つのも部下を持つのもストレスになる人間ですから屋台の店主等が性にあっています。それに、今回の捕虜交換が和平の切っ掛けになってくれればとも思っています」

 

 ハンスの発言にムライが驚きながら反論する。

 

「同盟軍の私が言うのも何ですが、十代で将官になる貴官の才能を考えたら退役なさるのは帝国軍にしたら損失なのでは」

 

 ムライの発言は、その場にいた帝国人の心情を代弁するものであった。

 

「ネタばらしすると、私の価値はアムリッツァ星域会戦で無くなりました。私は同盟の提督達の為人を把握してましたから」

 

 ムライが少しでも情報を得ようとハンスに更に問い掛ける。

 

「差し支えなけなれば説明してい頂きたい」

 

「私達の様な少年兵の間で最大の重要な情報は従卒として付く提督の為人なんです」

 

「それは、どういう理由で?」

 

「その意味では同盟も帝国も変わらないと思いますが、質の悪い提督には従卒等に八つ当たりする人や八つ当たりしなくても不機嫌を表に出すだけの提督もいますからね。従卒には提督が不機嫌なだけでも、かなりのプレッシャーになりますから、自然と少年兵の間では提督の為人の情報交換が活発になります」

 

 ハンス以外に兵卒上がりが居なかった為に全員が驚きと共に納得もした。

 

「まあ、酷い提督は執務室で女性士官と不倫していた人もいましたけどね。そこに奥さんが乗り込んで来て戦場でないのに修羅場を経験した同期もいましたから」

 

 この話に応えたのは意外な事にキャゼルヌであった。

 

「その提督は多分、自分の同期だな。仲間内では有名な話だ」

 

 キャゼルヌが面白くなさそうに言う。

 

「本当に宇宙は広い様で狭いなあ。しかし、独身なら別にして、結婚していて何で浮気するかなあ?」

 

 逆行前の人生で独身だったハンスには浮気する夫の心理が理解が出来ずに不思議でならない。

 しかし、端から見れば、ぼやく様子は年相応の誠実な若者に見えた。そして、この若者が軍隊を辞めたがるのは全員が納得した。

 こうして、晩餐会は和やかな雰囲気で終わったのである。

 



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イゼルローン要塞訪問始末記 中編






 

 晩餐会の翌日、早朝からシャワーを浴びるハンスであった。

 今日はヘッダに頼まれた土産を買う為にフレデリカに買い物に付き合ってもらう事になっていた。

 晩餐会の終わった後に断られる事を覚悟でフレデリカに頼んだら、意外な事に承諾してくれた。

 フレデリカにしたら抱きついた事の罪滅ぼしと思っているかもしれない。

 待ち合わせ場所に現れたフレデリカはダークレッドのワンピース姿であった。

 帝国では華やかなドレス姿の女性を見慣れたハンスであったがフレデリカの私服姿に赤面してしまった。

 

「おはよう御座います。閣下」

 

「おはよう御座います。フロイライン・グリーンヒル」

 

「おはよう御座います。准将閣下」

 

 フレデリカに気を取られて気付かなかったが、ハンスと勝るとも劣らない程に赤面している少年がいた。

 

「君は?」

 

「はい、ユリアン・ミンツと言います。今日は閣下の買い物のお手伝いをさせて頂きます」

 

 成る程、二人だけだと下衆な噂が流れるかも知れないから、ユリアン・ミンツも巻き込んだとハンスは判断した。

 正直、ユリアンが居てくれたらハンスも気が楽である。

 

「ほう。大尉に、こんな大きな息子さんがいたとは」

 

 気が楽になった途端にフレデリカとユリアンをからかうハンスであった。

 

「「違います!」」

 

 二人の口から異口同音で否定の言葉が飛び出る。

 

 先に立ち直ったのは年長者のフレデリカであった。

 

「もう、閣下もお人が悪い」

 

「これは、失礼。まあ、母子というよりは姉弟かな」

 

 取り敢えず、三人で買い物に出掛ける事にした。先にハンスが自分の買い物のリストをフレデリカに見せるとフレデリカがユリアンに丸投げする。

 

「このワインならスーパーよりリカーショップが安いです。それに此方のパスタと米はスーパーより専門店が安いです」

 

 ユリアンが的確なアドバイスを始める横でフレデリカが赤面している。

 

「その、私は一人暮らしですので、三食とも士官食堂を利用してますから」

 

 ユリアンを連れて来たのは純粋に買い物の戦力の様であった。

 

「恥じる事では有りませよ。私の姉も一人暮らしの間は自炊はしてませんでしたから」

 

「あ、有難う御座います」

 

 三人で買い物に出掛けるとユリアンとハンスの間には簡単に友情が成立してしまった。二人とも軍服を脱ぐと生活戦争の戦士になるのである。

 店の中で自分には理解が出来ない専門用語が飛び交う二人の会話にフレデリカは自分の家事能力向上を真剣に考えるのであった。

 

「イゼルローンの店はサービスがいいんだな。買い物した商品を港まで届けてくれるのか」

 

 フレデリカの説明では嗜好品などは民間船がハイネセンから運んで来るのだが帰りには乗組員用の生鮮食品を積んで帰る為に港まで届けるサービスがあるらしい。

 

 午前中にハンスの買い物を終えた後にユリアンは「ヤン提督に昼食を作って差し上げねば」と言って敵前逃亡をした。

 何故、敵前逃亡なのかはフレデリカが持っていた買い物リストに女性用下着販売店の名前を見つけたからだ。

 ハンスとユリアンの友情は脆かった。

 

(まあ、思春期の少年に女性用の下着屋の前で待つ勇気は無いよなあ)

 

 ハンス自身にあるのかと言えば無いのである。中身は八十歳過ぎの老人でも男である限り苦手はあるのである。

 下着屋の前にはベンチとカップコーヒーの自販機が用意されベンチにはユリアンと同じ位の少年、二十代半ばの青年、四十代の中年と全員が死んだ魚の様な目でコーヒーを片手に座っている。

 

「お待たせ。じゃあ次の店に行こうか!」

 

 十代後半の少年の姉らしき女性が店から出て来た。

 

「お父さん、次の店に行こう」

 

 その数分後に母子と思われる二人組が出て来てた。中年男性が二人を連れて足早に去って行く。

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 青年に勧められてベンチに腰を下ろすと青年と目が合った。

 お互いの境遇に同情するが、ハンスにしたら青年は恐らく恋人を待っているのだろう。姉の土産の為に無駄な苦行を積んでいる自分よりマシだと思う。

 

「お兄ちゃん、お待たせ!」

 

 ハンスは反省した青年は自分と同じ身の上だったのだ。

 気が付けばハンスが一人、下着屋の前で佇んでいた。

 

(はあ。帰ったら覚えていろよ)

 

 ハンスは姉に対して復讐を誓うが誓うだけである。実行する程の度胸は無い。

 

(大尉、早くしてくれ!)

 

 ハンスが願いが通じたのは一時間程してからであった。

 店から出たフレデリカは疲れた様に見えたのでカフェで休憩を取る事にする。

 

 カフェで紅茶を飲みながらフレデリカは女性として打ちのめされていた。

 

(准将の義理のお姉さんは帝国でも有名な女優らしいけど、あのプロポーションは反則でしょう!)

 

「閣下。参考までに閣下のお姉さんの写真でも拝見させて貰えますか」

 

「うちの姉は演技派女優だから美人じゃないですよ」

 

 ハンスが見せててくれた立体映像はハンスと並んで立っている。フレデリカよりも年下と分かる女性の立体映像だった。

 

 ヘッダの立体映像を見た事をフレデリカは後悔した。

 

「役作りで少々、痩せているけどね」

 

 ハンスの一言がフレデリカに止めをさす。

 

(これで痩せているとか、何を食べたら育つのよ!)

 

「自分と暮らし始めて自炊する様になったから痩せるのは簡単になったと言っていたけどね」

 

 フレデリカは自炊生活をする事を誓うのであった。

 

(ユリアンから何か簡単なレシピを教えてもらうしかないわね)

 

 二人は休憩の後に化粧品屋を数件梯子した。ハンスには乳液と化粧水の違いが分からない。洗顔料と普通の石鹸の区別も出来ない。クリームなど存在自体が不思議である。

 買い物が終わった頃には夕方であった。ハンスが本日の労いの為にフレデリカを食事に誘う。

 

「有難う御座います。閣下。図々しい様ですが私の友人も誘っても宜しいでしょうか?友人達も閣下が生きていたと知れば喜びます」

 

 フレデリカの申し出にハンスも納得した。それこそ二人だけで食事でもしたら結婚前の娘に悪い噂でも流れたら申し訳ないとハンスは考えた。

 

「構いませんよ。大尉のお友達ならよろこんで」

 

 フレデリカの友人と会った瞬間にハンスは後悔した。

 フレデリカが呼んだ友人は三人だが三人共にハンスを見た瞬間に抱き締めてきた。

 更にハンスを困らせたのは帝国の女性なら絶対に着ない様な過激な服であった。

 流石にレストランでは無理なので同盟軍御用達の店に行く事になった。

 店内にはチラホラと軍服姿が見えるが、フレデリカの話だと客の九割が軍人という事らしい。

 帝国軍の軍服姿の自分が入っても大丈夫なのか疑問に思ったが流れて来る料理の匂いに負けて入ってしまう。

 店内は帝国時代の内装のまま営業していて、古臭い感じがするが出された料理はハンスも驚くほどのボリュームと味であった。

 

「ここの料理は軍人向けの味とボリュームだから一般人には多いボリュームだけど軍人の私達には丁度良いわ」

 

 男女平等の同盟らしくウェイトレスとウェイターの比率が半分で男性客にはウェイトレス、女性客にはウェイターである。

 ハンスも男である。美しいウェイトレスが料理を運んで来る度に鼻の下を伸ばすのだが、フレデリカを始め女性陣から耳を引っ張られるのである。

 

「閣下。私達がいるのに失礼ですよ!」

 

「あんなに可愛いかったのに!」

 

「少しはユリアンを見習って下さい!」

 

「あんな美人のお姉さんがいるくせに!」

 

 完全に酔っ払いである。ウェイトレスも怯えて来なくなりウェイターが来る様になってしまった。

 

「もう少し若い子を入れてくれたらいいのに!」

 

「フレデリカは良いわよ。ユリアン・ミンツとか可愛い男の子が側にいて!」

 

「本当よ。私なんか中年のキャゼレヌよ!」

 

「ユリアン・ミンツとは言わないけど、薔薇の騎士のブルームハルトみたいにウブな子もいいわね!」

 

 逆行前の世界で場末のキャバレーに勤めてた事もあったハンスだが、流石に閉口してしまった。

 

(あのお姉さん達も閉店後に酒や飯を奢ってくれたが、あのお姉さん達の方が遥かに淑女だったぞ)

 

 それからのハンスの記憶は無い。

 朝、起きると下着姿で宛がわれた部屋のベッドで寝ていた。

 体を起こすと下半身に違和感があり、視線を向けると既視感に襲われた。

 

(また、下着の中にお札が?)

 

 今度は前回より金額も紙幣の数も多い。

 

(どんなショーを披露したんだろ?)

 

 二度とイゼルローン要塞では飲酒をしない事を誓ったハンスであった。

 ハンスがイゼルローン要塞での禁酒を誓った頃、フレデリカも青い顔をしていた。

 

(帝国軍の将官に化粧をした上に服を無理矢理に脱がせてウェイトレスの衣装を着させてストリップをさせてしまった)

 

 フレデリカは慌てて友人達に連絡を取るが友人達は昨夜の乱行の事を全く覚えていなかった。

 

(自分も友人達みたいに記憶が無ければ幸せなのに!)

 

 フレデリカは自慢の記憶力を生まれて始めて恨んだ。

 

(幸いな事に店にいた客達は本物の踊り子さんと勘違いをしていたみたいだったけど)

 

 もし、ハンスが覚えてなかったら永遠に記憶を封印して墓場に持って行こうと固く誓ったのであった。



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イゼルローン要塞訪問始末記 後編

 

 昨夜の記憶が無いハンスは悩んでも仕方がないとシャワーを浴びて心の整理をする。

 良くも悪くも二回目なので立ち直りは早い。

 

 シャワーを浴び終わり身支度を終わらせた時に訪問者が来た。

 

「ミンツ君じゃないか。昨日は裏切りおって!」

 

「昨日は失礼しました。ところでヤン提督がお呼びです。執務室までご足労を願います」

 

「了解した。じゃあ、行こうか」

 

 ヤンの執務室には当然ながらフレデリカもいる。

 執務室の扉が開いて、お互いを認識した途端にハンスは顔を緊張させるし、フレデリカは顔を明後日の方向に向けるが耳まで赤くなっている。

 

(大尉も准将も純情だな。一昨日の事を気にしているとは)

 

 戦争以外は鈍感なヤンは見当違いも甚だしい事を内心で思ったが口に出したのは真面目な話である。

 

「先程、非公式ながら国防委員会から通達がありまして、帝国の提案を受諾するそうです。細かい部分はフェザーンの互いの弁務官事務所で行うそうです」

 

「了解しました。小官もヤン大将閣下も軍人なので交渉事が本職の弁務官事務所に任せた方が賢明でしょう」

 

「それで、正式な受諾の文書は夕方になるそうです。准将が来られたのが土曜日の午後でしたので関係各部署が今朝まで閉まっていた為に遅くなってしまいました」

 

「気にしないで下さい。此方がアポも取らずに押し掛けて来たのですから」

 

「そう言って貰えれば助かります。此方が文書の草稿です。不都合な部分があれば指摘して下さい。すぐに修正します」

 

「ちょっと待って下さい。私は書類仕事に明るくないので、部下に明るい人間がいますので部下に確認してきます。書式の問題が有りますので大尉をお借りしたいのですがよろしいでしょうか?」

 

「分かりました。では、頼んだよ。大尉」

 

「了解しました」

 

 こうしてハンスはヤンの前からフレデリカを連れ去る事に成功した。

 一応は本当に部下に確認してもらい問題無しと太鼓判を押されたハンスは部下を下がらせた後にフレデリカに昨夜の事を質問する。

 

「大尉、小官は昨夜は大尉達に失礼な事をしませんでしたか?」

 

 ハンスは顔を赤くしているがフレデリカも顔を赤くして答える。

 

「いえ、閣下は泥酔しても紳士でしたわ。しかし、昨夜の事は忘れた方が宜しいです。宇宙には知らない事が幸せな事も有ります」

 

 フレデリカの言葉にハンスは素直に従った。一方、フレデリカも昨夜の事を誤魔化す事が出来たので内心は安堵していた。

 これ以降、この件は二人が触れる事は生涯なかった。

 

 自室に帰って来たハンスは昨夜のチップを銀行に持って行き新品の紙幣と硬貨に両替してもらい帰りに文房具店で額縁を買うと薔薇の騎士の詰所に寄った。

 

「閣下。この様な所に如何なさいました」

 

 リンツが慌てて応対する。

 

「すいませんが工具を貸して欲しいのですが」

 

「別に構いませんが、何か修繕するなら私達がしますよ」

 

「そんな事ではなく、ちょっと土産物を作るつもりなんです」

 

「はあ……」

 

 ハンスは銀行から両替した新品の紙幣と硬貨を二枚ずつ表と裏を額縁に入れていく。

 

「何をしているんですか?」

 

「帝国の金持ち連中の土産でね。連中は金があるからイゼルローンで売っている物はフェザーン経由で持っているけど、同盟の通貨は珍しいだろうと思ってね。フェザーンはマルクが使えるからディナールは見る事が無いからね」

 

 リンツもハンスのセコさに呆れながらも感心していた。

 

「そして、イゼルローンのデパートの包装紙に包んだら立派な土産の出来上がり!」

 

「ほぼ詐欺ですかな」

 

「詐欺は酷いなあ。せめてペテンと言ってよ」

 

「それじゃ、うちの司令官ですよ」

 

 ペテンの片棒を担いだリンツが自覚もなく上司を扱き下ろす。

 

「ヤン提督も大変だな。上司を平気で扱き下ろす部下を持って」

 

 ラインハルトが知れば呆れる様な事を自覚の無い部下が言う。

 

「それでは工具と場所を借りた代金の代わりに食べて下さい」

 

 ハンスが包装紙を土産物に取ったクッキーを置いた。

 

「こりゃ、有難い。私達は甘い物に目が無いんですよ。おい、ブルームハルトとお前も此方に来て頂け!」

 

 リンツに呼ばれた青年は力なく頷いた。

 

「彼、具合でも悪いんじゃないの?」

 

 リンツがハンスの耳元で囁いた。

 

「体の不調なら、まだマシです。医者にも治せない病気でしてね」

 

「もしかして、アレかい?」

 

「そうなんですよ。昨夜、酒場で流しの踊り子に一目惚れしましてね」

 

「そりゃ、大変だ。あの種の仕事の女性は偽名を使って、目標の額を稼いだら、すぐに足を洗うからね。それも大抵は出稼ぎだから、イゼルローンならハイネセンとかに帰ってしまうだろ」

 

「ええ、 だから、本人も自分が見つける前に彼女が帰るかもと思って、あの通りなんですよ」

 

「見つかるといいね。私も祈っておくよ」

 

 ハンスの祈りも虚しくブルームハルトの相手は見つかる事がなかった。

 

 自室にお手製の土産を置いた後に話は再びヤンから呼び出された。

 

「早いですね。もう送られて来たのですか?」

 

「准将には大変申し訳ありませんが、事務方の手違いで明日になるそうです」

 

「それは仕方が有りません。ヤン提督の責任では無いので頭を上げて下さい」

 

 もう一日、イゼルローンに滞在が出来る事を喜びながらもハンスは頭を下げるヤンに寛容に接する。

 

(さてと、お土産は確保したし小遣いも手に入ったし、今日は女性連れでもないから大人の店に冒険でもするか)

 

 実は最初から、これが目当てで使者の役目を引き受けたハンスであった。

 

「それから、無許可の軍事施設の立ち入りは禁止ですが、未成年が立ち入り禁止の場所も閣下は立ち入り禁止です」

 

「えっ!何で?」

 

「私の伝達ミスですが一昨日、准将達がイゼルローンに入港と同時にローエングラム元帥の名で准将を未成年立ち入り禁止の場所に入れない様に通告がありました」

 

 ハンスの考える事などラインハルトはお見通しであった。フレデリカが同じ場に居なかったらヤンの前でもラインハルトを罵倒していたハンスである。

 

「元帥閣下も冗談がきつい。私が如何わしい場所に行く筈がないのに!」

 

 しかし、ラインハルトとハンスでは俗世間の知識はハンスが上であった。

 自分が行けないなら自分の所に呼べばいい。ハンスには昨夜のチップの残りもある。

 だが、ハンスは自分の知名度とヤン艦隊の誠実さと物分りの良さを知らなかった。

 フレデリカがハンスと同年代の婦人兵との合コンを企画したのである。

 

(そりゃ、若い娘かもしれんが自分の孫と変わらんぞ。未成年相手に酒抜きの合コンとかロリコンじゃあるまいし)

 

 ハンスは中身は八十歳近い老人である。

十代の少女などは孫の世代である。

 まして、フレデリカもいるがフレデリカは未来のヤン婦人と知っているから口説く気にもなれない。

 それでも、少女達に愛想を振り撒き場を盛り上げる為にサービスするハンスであった。

 

 翌朝、ハイネセンから正式な文書が届き昼前には出発する帝国軍であった。

 艦橋では艦長以下の乗組員が鬼の居ぬ間の心の洗濯をした様で朗らかな雰囲気である。

 ましてやラインハルトがヤンに通達した内容も皆が知っているのである。

 他人の不幸は密の味と笑う乗組員なのが憎らしい。

 

「まあ、数年後には閣下も堂々と遊べるじゃないですか!」

 

 艦長が本気で慰めてるのか皮肉なのか判断が難しい発言をする。

 

「皆さん。楽しまれたみたいで宜しかったですね!」

 

「閣下のお蔭で私達は楽しめましたよ!」

 

「家族にも珍しい土産も買えました!」

 

 艦橋の乗組員からも本気とも皮肉とも判断し難い言葉が掛けられる。

 

「ふん!」

 

 ハンスは不貞腐れたふりをして艦橋を出て行く。

 

「お前ら酷い奴らだな。閣下は全然、楽しめてなかったのに」

 

「まあ、いいんじゃないですか。閣下はあの、ヘッダ・フォン・ヘームストラと同居しているんだぜ」

 

「本当だよな。あんな美人の姉がいるとか羨ましいぜ」

 

 因果応報の見本市になっていた。日頃からラインハルトに対する僻みが反射してハンスに返って来ている。

 

 ハンスは物陰で隠れて乗組員の本音を聞いていた。

 

(ラインハルトも連中も甘いね。イゼルローンに行って手ぶらで帰る筈がないのに!)

 

 ハンスは合コンの日の昼間に帝国軍の若い兵士に小遣いを与え、自分の代わりにポルノショップで買い物をして中身を自分の端末にコピーしていたのであった。

 

(帝国はポルノも厳しい国だが、同盟はポルノが緩い国だからなあ)

 

 ハンスは家で一人の時に楽しむつもりでいたが、すぐにヘッダにバレて三日間程、家に帰れなくなり元帥府で寝泊まりする未来を知らない。

 

 緩い国と言われた同盟の人々は去り行く帝国軍巡航艦を見送っていた。

 

「しかし、ミューゼル准将一人を麾下に置いた事だけでもローエングラム侯の器量が分かるね」

 

「そうですね。もし弟を持つならミューゼル准将の様な弟を持ちたいですわ」

 

「僕と二歳しか違わないのに立派な人でしたね」

 

「戦争は尊敬できる立派な人と殺し合う事だ。如何に罪悪な事か分かる」

 

 帝国側の事情を知らないヤン艦隊の面々はハンスの事を誠実で品行方正な若き将官と思っていた。願わくば戦場以外の場所で再会する事を期待して巡航艦の姿が消えるまで見送り続けた。

 



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リップシュタットの密約

 

 ハンスが帰還するとラインハルトにヤンの事を聞かれた。

 

「私とは年齢も階級も離れていて、元同盟人という事を差し引いても自然体の人ですね。恐らくは此方の計略をも読んでいますし、自分に出来るだけの手は打っていると思われます。そして、成功も失敗も受け入れる度量があると思います」

 

 ハンスがヤンの為人の印象を話すとラインハルトは思うところがあるのか静かに目を閉じた。

 

「卿の印象では私とヤンの相性は、まだ最悪と思うか?」

 

「思うも何も事実です。それは別にしても同盟を征服は出来るでしょう」

 

「なんだ。卿は結局はヤンは私には勝てないと思っているのか」

 

「ヤンは怠け者ですが閣下は働き者ですからね。その差です。それにヤンを麾下に加えるなら武官ではなく文官として迎えるべきでしょう」

 

「一度、私自身がヤンに会ってみたいものだ」

 

 ハンスはラインハルトの元を辞するとフーバー中佐の報告を執務室で受ける。

 潜伏場所は既に確保が出来たので計画は何時でも実行が出来る。

 ファーレンハイトは実家が老朽化しているので新しい家を提供が出来る用意をしている。

 辺境地区の情報網とハンスへの連絡手段も完成した。

 リヒテンラーデ侯の一族の素行調査は帝国貴族にしては善良であった。一門の当主であるリヒテンラーデ侯が自分の立場上、一族に理不尽な行いや横暴な行いを厳に戒めていた。

 

(リヒテンラーデ侯も私欲で権力を欲してない。ラインハルトと同じく帝国の将来を考えての事である。しかし、進むコースとゴールが違うのだろう)

 

 ハンスはリヒテンラーデが宮廷内のトラブル処理や門閥貴族の横暴な行いを牽制していたのを知っている。

 

(しかし、所詮は殺るか殺られるかである。せめて、リヒテンラーデ侯の血が流れるだけになるように努力しょう)

 

 逆行前の歴史では十歳以上の男子は死刑にされてしまった。あまりにも冷酷過ぎる。

 

(それと、艦隊戦のシミュレーションだな。実際に自分で指揮をした経験がないからなあ)

 

 今までは逆行前の歴史をカンニングする事で流血の量を減らしてきた。

 それも、他者に助言という形が多かった。実際に自分が行動したのは一度か二度である。

 しかし、今回は艦隊を自ら動かす必要がある。動かしたら後はカンニングする事も出来ないのである。演習も出来ない。完全にハンスの実力勝負となった。

 

(はあ、姉さんと養子縁組をした時に軍を辞めるべきだったかな)

 

 そうすればハンスの人生は単純で安全でいて、幼少の時に諦めた歴史家の道を歩けただろう。

 

(いや、駄目だ。イゼルローンではフレデリカさんだけではなく他に三人の女性が自分の心配をしてくれてたじゃないか)

 

 ハンスの脳裏にフレデリカの泣き顔が浮かんで来る。

 

(裏切れんよなあ)

 

 自分の為に泣いてくれた人がいる。そんな人の為にもラインハルトが宇宙を統一するまでは流血の量を減らせる努力はするべきだと思う。

 

(そうだ。ここが一番の難所だ。この戦いが終わったら自分が望んだ人生を歩める)

 

「閣下!」

 

 フーバー中佐の声に現実に返ってきたハンスである。

 

「すまない。考え事をしてました。それと、腕時計型の発信器を都合して下さい」

 

「発信器と言っても色々と有りますが、どの様なタイプが必要ですか?」

 

「カタログあります?」

 

 ハンスが小細工を始めた頃、キルヒアイスが捕虜交換に出掛けて行く。

 ハンスはキルヒアイスが出掛けている最中を狙ってラインハルトに上申をした。

 

「では、卿は連中と本格的に戦う前にメルカッツとファーレンハイトを拉致すると言うのか」

 

「表現は別にして貴族連中は巨大な蟹です。蟹も両手の鋏を取ってしまえば横にしか歩けません。蟹が怖いのは両手の鋏ですから」

 

「メルカッツとファーレンハイトが鋏と言うが他にも提督がいるぞ」

 

「鋏になれる提督は居ませんけどね。それにメルカッツ提督を内戦に巻き込むのは酷い話です。数年後には退役を迎えるのに苦楽を共にした部下と戦えというのは」

 

「分かった。あの二人が敵にならなければ損害は少なくなるだろう」

 

「では、連中がオーディンを脱出する寸前に鋏を取ります」

 

 捕虜交換からキルヒアイスが帰還すると捕虜達は一時帰宅をして再び軍に戻って来るのを両陣営は待っていた。

 

(さて、お互いがリングインしてゴングが鳴るのを待つだけになったな)

 

「准将、准将」

 

 キルヒアイスが物陰からハンスを手招きする。

 ハンスは周囲を見てキルヒアイスに忍び寄る。

 

「これは、イゼルローンの人達から准将に渡してくれと頼まれた物です。内密にとの事ですから誰にも見られない様にして下さい」

 

「これは、有難う御座います」

 

 ハンスは礼を言うとキルヒアイスから受け取った小包を持って自分の執務室に入る。鍵を掛けて中身を確認すると光ディスクが入っていた。再生機に掛けてみると同盟でも御法度のポルノだった。

 

(薔薇の騎士の連中だな!国の代表で来た人間に渡すなよ)

 

 流石のハンスも呆れていたが、それでも光ディスクを自分の部屋の金庫に入れなおす。

 更に光ディスクの下から一枚の写真が出て来た。

 それを見た時にハンスの目から涙が零れていた。

 

「何を考えてんだよ。馬鹿!」

 

 写真にはフレデリカと友人達がハンスを囲んで笑顔で写っていた。

 

「戦争している相手だぞ」

 

 戦争している相手の無事を祈る。全く矛盾した事が起きている。そして戦争を終わらせる為に戦争をする。馬鹿馬鹿しい事である。それでも、少しでも流れる血が減らせるなら減らす努力をしよう。ハンスは静かに決意した。

 

 数日後、フーバー中佐から門閥貴族達に動き有りと報告があった。

 

「スフィンクス頭が主催して園遊会を開催しました。フライパン頭等、不平貴族がリップシュタットの森に集結しました。参加貴族の数三千七百六十名になります。当時者達はリップシュタット連合と称しています」

 

「……その報告の途中に聞き慣れない単語が二つあったのですが……」

 

「スフィンクス頭は閣下もご存知の筈ですが、もしかしてフライパン頭の方ですか?」

 

「確かにスフィンクス頭は知っているが、そんな呼び名を卿が何処で知ったかを問題にしているのだが……」

 

「件の人物の実名を出すのは問題だから、この呼び名を使う様に元帥閣下から内々で通達が有りましたが閣下は知りませんでしたか?」

 

 フーバーから事情を聞いたハンスは5秒後には執務室を出ていた。

 

「閣下!貴方は何を考えているんですか?というより、何故、あの呼び名を知っているんですか?」

 

 ハンスの勢いにラインハルトも驚いたが次第に冷静になり説明する。

 

「卿の姉君が我が家に来た時に、劇団関係者の間では昔から使われてると教えてくれたのだ」

 

 ハンスは頭を抱えてしまった。

 

「私の姉が閣下の家に行くのですか?」

 

「卿の姉君と私の姉が友達なのだ」

 

「えっ!」

 

「正直に言うと私の姉が卿の姉君のファンなのだ。一度、劇場に花とケーキを送った礼を言いに訪問して来た時に聞いたのだ」

 

「了解しました」

 

 ハンスは脱力しながらラインハルトの執務室を出て行く。

 

(姉さん、アンネローゼ様の前で変な事を喋らんでくれよ)

 

 これ以降、ブラウンシュヴァイクはスフィンクス頭、リッテンハイムはフライパン頭とラインハルト陣営から呼称される事になる。これは、完全な挑発である。

 そして、ラインハルト陣営の挑発に乗った一部の若い貴族がリップシュタット盟約に参加しなかったドルニエ侯の娘を標的にした。

 その日、マリーは友人の見舞いに行き、病院を出た所を拉致された。

 ハンスがマリーに腕時計型の発信器を渡していた事が幸いしてマリーのSOS信号と居場所を特定されて犯人一味がアジトに着くのと同時に逮捕された。

 

 この事により家族の身を案じた貴族がリップシュタット連合に参加する者が続出した。

 

(マリーには可哀想な事をした。思春期の少女が誘拐されたのだ。ましてや運転手が犠牲になっている。責任を感じているだろうな)

 

 ハンスは静かに怒りを燃やしていた。マリーは事件以降、怯えて屋敷から出られないらしい。

 

(まあ、リップシュタットに参加する貴族が増えれば後で没収する資産が増えるのだが拉致事件以降に参加した連中には温情措置が必要だな)

 

 ラインハルトにしても門閥貴族がリップシュタット連合に加わるのは戦力増大になるので好ましくない。更に身内の身を案じて参加した貴族から財産を没収するのは気が引ける。

 

「閣下は甘いですな」

 

 オーベルシュタインは一刀両断にしてしまうがハンスはいう「連中を宇宙に追い出せば安心して此方の陣営に来ると思いますよ」

 

 既にメルカッツとファーレンハイトの両名はマリー拉致の報復として、ハンスの手で匿われている。

 

「相手に少し知恵が有れば閣下を暗殺かアンネローゼ様を誘拐に来ますね」

 

「卿の言は正しい。問題はスフィンクス頭に実行する意志があるかだが」

 

「スフィンクス頭に意志がなくとも部下がやるかもですね」

 

「あり得る話だな」

 

 この時にラインハルトは既に自分の屋敷に伏兵を待機させていた。

 余談だが、ラインハルト達がガイエスブルクから帰還すると屋敷を警備していた三千人の兵士は皆、太っていたそうである。

 ラインハルトは原因究明せずに黙って警備していた兵士全員に有給休暇を与えダイエットさせる事にしたが他の将兵やオーベルシュタインからの苦情は一切なかった。

 

 

 



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開戦

 

 ラインハルト達の予測した通りに暗殺という手段に出た者がいた。

 フェルナーが二百人程度の部隊でラインハルト暗殺かアンネローゼ誘拐を目論んでラインハルトの屋敷に突入を企てた。

 しかし、ラインハルトは既に屋敷の周囲に三千人の兵を待機させていた。

 屋敷の警護の指揮はキルヒアイスが取りラインハルトは屋敷の二階の窓から外を見ている。

 

「始まったな」

 

「閣下。アンネローゼ様は今晩は起きないと思います」

 

 ハンスがラインハルトに報告する。

 

「そうか。卿の姉君にも迷惑を掛けたな」

 

「此方こそ、姉も日頃は私の姉をしていますから、たまには誰かに甘えたくなる時も有ります」

 

 アンネローゼが不安にならない様にラインハルトがヘッダとハンスを使ってアンネローゼに酒を飲ませ寝かせたのである。

 珍しい酒が手に入ったと言ってヘッダとハンスが訪問してアンネローゼに酒を勧めたのである。

 そして、ハンスが酒のつまみを作りヘッダがアンネローゼに酒を勧めていたが途中から女同士での愚痴の言い合いになり二人で騒いでいたのだ。

 ハンスが二人の世話をしていたのだが、先にアンネローゼが酔い潰れヘッダがアンネローゼをベッドに寝かせて自分もアンネローゼと一緒に寝てしまった。

 

「しかし、卿の料理の腕も侮れぬな。あの姉上に酔い潰れさせる程の酒を飲ませるとは」

 

 ハンスがラインハルトの問い掛けに応えないので横を見るとハンスも酔い潰れていた。

 

「仕方がない奴だ」

 

 ラインハルトはハンスを抱き上げて客間のベッドに寝かせると、元帥府に向かった。

 

 予てからの予定通りにブラウンシュヴァイク邸とリッテンハイム邸に踏み込んだが屋敷には使用人も居らず、ブラウンシュヴァイク邸の地下で資料整理をしていたシュトライトを拘禁したのみである。

 同時に軍務省と統帥本部では軍務尚書のエーレンベルグと統帥本部総長シュタインホフを拘禁して組織の掌握に成功する。

 宇宙港ではリップシュタット盟約に参加した三千七百六十名の内、六百二十五名を拘禁する事に成功する。

 マリー誘拐事件以後に身の安全の為に参加した貴族の中でマリーンドルフ家に庇護を求めた者も多い。

 

 翌日、早朝からハンスはメルカッツの家族を訪問する。

 

「そうですか。事は始まりましたか」

 

「それで、事が終わった後に閣下には士官学校の校長に就任して欲しいのです」

 

 メルカッツは事が終われば退役する気でいたので意外な申し出に驚いた。

 

「実は、この事を元帥閣下に上申しましたら、何故か周囲の士官学校卒業生から熱烈な支持が有りまして」

 

 ハンスがメルカッツに名誉職として士官学校校長就任の話をラインハルトにした時に側にいたオーベルシュタインも珍しくハンスを支持したのである。

 不思議な事にロイエンタールやミッターマイヤー等の諸提督達も支持したのである。

 

(なんか、士官学校に問題があるのかな?)

 

 士官学校も幼年学校も縁の無いハンスには想像も出来ない。

 

「分かりました。お引き受け致します。一つお願いが御座います。私の部下の事ですが先の無い私に付き合わせるには忍びないのです」

 

「シュナイダー少佐なら、逆に此方からスカウトしたいぐらいです」

 

「では、宜しくお願いします」

 

 話が終わった後に次はファーレンハイトの新しい実家に向かう。

 以前のファーレンハイトの実家の家は老朽化が進み、ファーレンハイトの弟が手を加えて修繕していたのだが、ハンスが今の家と引き換えに新しい家を提供する事でファーレンハイトを引き抜いたのである。

 新しい実家ではファーレンハイトが弟や妹達と一緒に庭で畑作業をしていた。

 

「何を植えられるのですか?」

 

「うむ。今の時期だと人参かカブだろうな」

 

 ファーレンハイトが「食う為に軍人になった」と公言する理由は父親の長年の入院の為に腹違いの弟や妹をファーレンハイトが養っている為である。

 

「しかし、歳の離れた弟さんに妹さんですな」

 

「親父の奴め、婿養子で死んだお袋に頭が上がらなかったものだから後妻に若い娘を貰いやがった!」

 

 ファーレンハイト家の家庭事情の話になりそうなのでハンスは本題の話を始める。

 

「事が始まりました。閣下の部下の方々も事が終わり次第に復帰される手筈です」

 

「部下には悪い事をした」

 

「そんな事は有りません。皆さん、同じ帝国人と戦う事がなかったと安心しているみたいでした」

 

「そうか。それで安心した」

 

「まあ、事が終わるまで家族サービスをしてやって下さい」

 

 ハンスはファーレンハイトの次にマリーを訪ねた。

 誘拐事件以後、屋敷から出られないマリーの事を心配していたのである。

 

「この通りだ。准将には謝罪しきれないが父親として謝罪する!」

 

 ハンスが訪問するとドルニエ侯はハンスに謝罪して来たのである。

 マリーは誘拐された時の恐怖もだが自分の軽はずみな行動で運転手が犠牲になった事が堪えた様である。

 

「あの者は娘が幼い頃より我が家に仕えていて娘も懐いていました。今回の事で娘はあの者の家族に申し訳がないと言っているのです」

 

「いえ、私がフロイラインの誘拐を予測しながら未然に防げなかったのです。全ては私の責任です」

 

 事実、ハンスはマリーに護衛を考えたが公私混同になるのではと思い発信器を渡すだけにした自分の判断の甘さに責任があると思っていた。

 

「准将には少ないですが、これを納めて頂きたい」

 

 ドルニエ侯が差し出したのは小切手である。つまり、手切れ金である。

 ハンスは額面の0を目で反射的に数えたが六つまで数えたあたりで止めた。

 

「これは、亡くなられた運転手の家族に渡して下さい。軍人でありながら私のミスで民間人の方に犠牲を出してしまったので」

 

「分かりました」

 

「では、私は仕事が有りますので失礼します」

 

 ハンスは元帥府に赴くとメルカッツが士官学校校長就任を承諾した事とファーレンハイトが内戦が終わった後にラインハルトの麾下に加わる事を承諾した事を報告する。

 

「ご苦労だった。卿は今日は帰って良いぞ。帰りに私の屋敷に寄り姉君を連れて帰るが良い。また、しばらくは出征する事になる。家族サービスをするが良い」

 

 ラインハルトが珍しくヘッダの事を口にするのでハンスも怪しく思った。

 

「姉が何か失礼な事をしましたか?」

 

 ハンスが単刀直入に質問するとラインハルトも観念した様子で白状した。

 

「先程、キルヒアイスから定時連絡があったのだが、姉上と卿の姉君は意気投合しているそうだが、意気投合した勢いで姉上が私の幼少の頃のアルバムを見せているそうだ!」

 

 どうやら、幼少時の恥ずかしい話などをヘッダに話された様である。

 

「それは大変ですね。すぐに姉を連れ帰って事情聴取する必要があるみたいですね」

 

「明日は特別に有給をくれてやる!」

 

「ご配慮、有難う御座います」

 

 ハンスはラインハルトの執務室を出ると自分の執務室に戻りフーバー中佐に装備について打ち合わせをした後でヘッダを迎えに帰宅した。

 

 ラインハルトの屋敷では姉とアンネローゼがアルバムを見ては笑い合っていた。

 

(情報通りだな。こりゃ、ラインハルトじゃなくとも嫌がるわ)

 

 ハンスもアルバムの観賞を勧められたが誘惑に耐えて姉を引き摺る様にして屋敷を出た。

 屋敷を出る時に後ろからキルヒアイスの声が聞こえた気がしたが気にせずに帰宅する。

 

 玄関のドアを閉めた途端にヘッダから抱き締められた。

 

「また、出征するの?」

 

「うん」

 

「それから何があったの?」

 

 流石に義理とは言えハンスの姉である。ハンスの様子を見て弟に何かあった事を察していた。

 ハンスは正直にマリーと破局した事を姉に告白する。

 ヘッダにすれば二人が破局する事は既定の事実だった。ただ破局の際に弟が傷付く事を心配したが予想より小さい様であった。

 それから、二人は食事をしてシャワーを浴びて早めにベッドに入った。

 

「ねえ、正直な話。彼女の事は、どう思っていたの?」

 

「貴族の娘には珍しい良い娘だと思っていたよ。ドルニエ家は門閥貴族だが造船がメインの家柄だからね。ドルニエ侯も貴族というより企業の社長みたいな人だから貴族特有の嫌な部分が無い」

 

「そう。それで原因は?」

 

「見当がついていると思うけど、例の誘拐事件だよ。誘拐された事もショックだが子供の頃から仕えてくれた運転手が殺された。責任を感じているそうだよ」

 

 ヘッダはマリーを責める気持ちがあったが運転手が殺害された事に責任を感じているマリーに同情もしていた。

 

「本当は自分の責任だよ。予測しながら防げなかった。彼女の責任では無いよ。自分のヘマで彼女を傷付けて彼女を失った。悲しいけど自業自得だよ」

 

 ヘッダはハンスを抱き締めて口付けをする。

 

「もう!脈絡も無い事を」

 

「脈絡はあるわよ。油断してたら貴方を取られるから唾を付けておくの」

 

「あのね。人を食べ物か何か……」

 

 ハンスの抗議を遮って、ヘッダが再び唇を奪う。唇を離すとヘッダが宣言する。

 

「明日は休みなら遠慮しないから覚悟しなさい!」

 

「えっ!それは、どういう意味な」

 

 ヘッダは再びハンスの言葉を遮って、今度はハンスの全てを奪った。

 



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墓場への招待状

 

 朝日と小鳥の鳴き声が目覚ましとなりハンスが目を覚ました。

 ヘッダの笑みを浮かべた顔が視界を占領していた。

 

「おはよう。起きれる?」

 

 ハンスが低血圧なのを知っているヘッダが体調を尋ねて来る。

 

「おはよう。今朝は無理」

 

 ハンスの返事を聞くとヘッダはハンスを抱き上げてバスルームまで連れて行く。

 普段ならヘッダに抱き上げられるのは嫌がるハンスも今朝は大人しい。

 しかし、バスルームに入ると大人しかったハンスが大声を出す事になる。

 

「なんじゃこりゃ ~!」

 

 バスルームの鏡を見てハンスが絶叫する!

 ヘッダが付けた赤い斑点がハンスの身体中にある。

 

「あっ、思い出した。オーディンに初めて来た時も同じ様な事があったな!」

 

「ほ、ほら、熱いお風呂に入れば消えるからね」

 

 ヘッダが過去の悪戯も思い出されて慌てて取り繕う。

 ハンスも過去の事は別にして、今は身体中の斑点を消す事を優先した。

 二人で互いの背中を流しヘッダの髪を洗うのを手伝い二人して湯に浸かる。

 

「風呂はいいねぇ。人類が生み出した究極の文化だよ」

 

 ヘッダから背中から抱き抱えられる形で風呂に浸かるハンスが斑点をマッサージしながら温かい湯を堪能する。

 

「昨日の事、怒ってないの?」

 

 ヘッダが不安気な声でハンスに問い掛けた。

 

「普通に怒るに決まっているだろ!」

 

 ヘッダの顔が入浴中なのに一気に青ざめる。

 

「ごめんなさい。でも、貴方の事を愛してるの。もう、誰にも渡したくないの!」

 

 咄嗟に出たヘッダの嘘偽りのない本心であるが口にした途端に後悔してしまった。

 振り返ったハンスの顔は決定的な証拠を発見して裁判での勝利を確信した刑事の様な表情であった。

 

「ふ~ん。子供が出来た時に「パパとママ、どっちが先に好きになったの?」と聞かれたら「ママだよ」と答える事が出来るね」

 

 ハンスの言葉からハンスが自分を受け入れてくれた事が分かるが恋愛のイニシアチブを取られた。

 地球時代の特権を忘れられなかった地球教の如く、姉として特権の座に居たヘッダに取ってハンスにイニシアチブを取られるのは耐え難い事であった。

 

「弟の分際で生意気よ!」

 

「えっ!」

 

「ちょっと、昨夜の教育が足りなかったみたいね」

 

 ヘッダの目の光が昨夜と同じ事に気付いたハンスは情けない一言しか言えなかった。

 

「こ、今度は優しくして下さい!」

 

「じゃ、朝御飯はパスするわよ」

 

「は、はい」

 

 結果、朝食だけじゃなく昼食もパスする事になった。

 沈みかけの太陽が部屋をオレンジ色に染める。

 ヘッダとハンスは二人でベッドの中で愛を語り合ってなかった。

 

「今から外に食べに行くの!」

 

「仕方ないだろ。本当は今日の昼間に買い物に行く予定だったのに何が朝御飯はパスだよ。昼御飯もパスしたじゃないか!」

 

「何それ!私だけの責任じゃないでしょ!」

 

「責任対比で言えば九対一だろ!」

 

「そんな事を言うとは、まだ教育が足りなかったみたいね!」

 

 今回はハンスも負けてなかった。

 

「ほう、夕御飯も抜く気かね」

 

 ハンスの一言でヘッダの勢いも止まる。

 ヘッダも健康な若者である。三食抜きは流石に辛いものがある。

 そこにハンスが追い打ちを掛ける。

 

「それに、今日は二人の記念の日になるんだよ。事前に用意した料理じゃなく有り合わせの料理とかは嫌だよ」

 

 これにはヘッダもハンスの意見に納得するしかなかった。

 二人の人生の大きな分岐点となった日である。この日を大事にしたい思いはヘッダも同じである。

 

「そうね。二人の大事な日だもんね。まずはお風呂の中で行く店を決めましょうか」

 

 ちゃっかりとハンスとの混浴を決定しているヘッダであった。

 その後、二人で入浴を済ませ、ヘッダが出掛ける準備をしている間にハンスがベッドのシーツを洗濯する。シーツが洗い上がる前に冷蔵庫の中を整理する。

 シーツが洗い終わる頃にヘッダも出掛ける準備が終わる。

 何時の時代も女性の出掛ける準備には時間が掛かるものである。

 

「急な予約だったから個室は取れなかったよ」

 

「それは仕方がないわよ」

 

 二人が選んだ店は海鮮料理が売りの店である。ハンスが出征すると新鮮な魚料理等は口に出来ないからである。

 

「それに、今は牡蠣が旬だからね」

 

 帝国人は一般的に生の魚貝類を避ける傾向がある。例外と言えば牡蠣くらいであるが、それでも好んで食する人は少ない。どちらかと言えば健康の為に食べる人が多いのである。

 ハンスもヘッダも同盟で生まれ育った為か牡蠣を好んで食べる少数派の人間である。

 店に着いた二人は牡蠣のフルコースを注文する。

 牡蠣のピクルスから始まり締めに牡蠣のスープパスタ。更に追加で生牡蠣を注文する。

 

「蒸牡蠣の油かけって何?」

 

 メニューを見ていたヘッダが見慣れない料理を発見してハンスに質問する。

 ヘッダも売れっ子の女優でレストラン等で食事をする機会が多く色々と珍しい料理を知っているが帝国の伝統料理が殆どなので異文化の料理の知識ではハンスに及ばない。

 

「珍しいな。普通は魚に使う技法なんだけどね。蒸した素材に仕上げで熱した油を掛けるんだよ」

 

「珍しいわね。これも注文しましょう」

 

「蒸し方も違うから時間が掛かると思うよ」

 

「せっかくの記念だから多少の時間は関係ないわ」

 

 それならと二人分を更に追加注文する。店員がハンスの言う通り時間が掛かる事を教えてくれたが待ち時間に更に生牡蠣を注文する。

 

「なんだ、卿も来ていたのか」

 

 店員に注文が終わるとミッターマイヤーが妻のエヴァンゼリンを連れて声を駆けてきた。

 

「これは、ミッターマイヤー提督!」

 

 ハンスが立って敬礼をする前にミッターマイヤーが手で制止する。

 

「お互いに考える事は同じだな。宇宙に上がると新鮮な魚貝類は食えんからな」

 

「そうですね。しかし、愛妻家の提督が出征前にレストランに来るとは思いませんでしたね」

 

「実は俺もエヴァの手料理が良かったのだが、誰かさんがエヴァに入れ知恵したらしくてな」

 

「ま、まあ、入れ知恵した人も提督の健康を考えたから何でしょう」

 

 入れ知恵をした本人が言っているのだから間違いは無い。

 二人の会話を聞いていた女性陣は笑いを我慢するのに苦労している。

 

「提督。弟の事を許してやって下さい。家でも食事については五月蠅い子なんですよ」

 

 普段から食事に関してはハンスに無条件降伏しているヘッダが取りなす。

 

「貴方。そうですよ。ロイエンタール提督といい貴方といい。お酒を召し上がり過ぎですよ」

 

 ミッターマイヤーも妻から言われては何も言えなくなってしまう。

 以前にハンスを家に招いた時にハンスがエヴァンゼリンに色々と食事についてアドバイスをしたらしくミッターマイヤー家の食卓は健康志向になってしまった。

 

「しかし、エヴァといい、姉君といい。卿は年上の女性からは不思議と好かれるなあ」

 

「そうですか?」

 

「事務局の女性事務員連中が弟にしたいと言っていたぞ」

 

「弟ですか。恋人や旦那じゃないのが悲しいですね。ロイエンタール提督みたいになるのが理想なんですけど。痛っ!」

 

 どうやらヘッダに足を踏まれた様である。

 

「では、また明日」

 

 ミッターマイヤーは気づかないふりをしてくれた様である。

 

「ヘッダさん、ハンス君。おめでとう御座います!」

 

 エヴァンゼリンも一言を残して去って行く。

 後には、エヴァンゼリンの一言で顔を真っ赤にした二人が残された。

 

 

「フラウ・ミッターマイヤーには驚かされたなあ」

 

「でも、おめでとうって、言ってくれたわ」

 

 レストランからの帰り道でエヴァンゼリンの事が話題になっていた。

 ヘッダとしたら同性が自分達の事を認めてくれた事が嬉しくて仕方ない。

 ヘッダに僅かに残っていた罪悪感をエヴァンゼリンは消してくれたのだ。

 ハンスの方は気恥ずかしさが先に来てしまう。

 

「まあ、結婚するのも数年先になるけど、その時までは秘密にしとかないとね」

 

 これには幾つもの理由がある。第一にハンスは未成年であり結婚が出来る年齢では無い事。

 ヘッダの職業的に世間に二人の関係が露見すれば好奇心に晒される事。

 お互いに著名人なので司法当局も二人の関係が世間に露見すれば動かざるを得なくなる。この場合は成人であるヘッダが法的責任を負う事になる。

 そして、ハンス個人としては自分が戦死する可能性が有る事。

 二人の関係が露見した後にハンスが戦死した場合はヘッダは未婚のまま未亡人となってしまう。そうなればヘッダが新しい人生を歩む事が困難になる。

 そして、もう一つの理由はラインハルトとロイエンタールをからかえなくなってしまう事である。

 特にラインハルトの場合は今までの仕返しとばかりにからかって来るだろう。

 それでも、ハンスは大切な事をヘッダに伝える事を忘れてなかった。

 二人が家に帰り着くとヘッダが早速、ハンスを抱きしめて唇を塞いできた。

 ハンスも流されそうになるのを必死に耐えてヘッダを引き離すと大切な事を伝える。

 

「愛してます。すぐには駄目ですけど結婚して下さい!」

 

 ヘッダの顔は赤くすると再びハンスを抱きしめた。

 

「はい、喜んで!」

 

 ハンスがヘッダを抱き締める。

 

「でも、私の目が届かないと思って浮気とかしたら許さないからね!」

 

「はい!」

 

「宜しい!先程は不穏当な発言があったけど?」

 

 ヘッダがハンスを抱き締め返す力が尋常ではない。

 

「ちょっと、姉さん?」

 

「プロポーズしたからには貴方の体は私のものよ。私の体は私のものだけど!」

 

「それは、理不尽では」

 

「今から再教育して欲しい?」

 

「いえ、結構です!」

 

 こうしてハンスは人生の墓場への招待状を押し付けられたのである。

 後悔先に立たずの生きた見本となった。

 

 結婚は成功すれば幸せになれる。失敗しても哲学者になれる。

ソクラテス

 



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辺境航路

 

 最初にハンスがブリュンヒルトに同乗を拒否した時にラインハルトは不機嫌さを隠そうとしなかったがハンスの意見を聞いて納得したものである。

 

「私の価値は同盟軍に対してのみです。門閥貴族に組する敵将については私より諸提督が詳しいと思います。それに私は帝国の惑星ではオーディンしか知らないので、後学の為にキルヒアイス提督に随伴して帝国の辺境という場所を見ておきたいと思います」

 

 確かに聞く者を納得させる意見であった。意外な事にオーベルシュタインがハンスの意見を支持してくれた。

 

「閣下、ミューゼル准将は将来的には閣下を支える身です。門閥貴族等は戦いが終われば知る価値が無いですが辺境の様子を見る事はミューゼル准将だけではなく閣下の為にもなります。ここはミューゼル准将の希望を叶えるべきだと言えます」

 

 提督達もオーベルシュタインの意見に同意した。

 メルカッツとファーレンハイトが抜けた後には「理屈倒れのシュターデン」が唯一の艦隊戦の専門家なのである。

 提督達の殆どが士官学校卒業生であり、シュターデンの評判は知っているのである。

 

「分かった。悪いが面倒を掛けるキルヒアイス」

 

「了解しました」

 

(何とかラインハルトから離れる事が出来た。オーベルシュタインが居たらヴェスターラント救助の邪魔をされかねんからな)

 

 帝国歴488年 宇宙歴797年  4月6日

 

 帝国最高司令官のラインハルトにリップシュタット軍討伐の勅命が下る。

 即日、討伐に向かうラインハルト軍の誰もがメルカッツ、ファーレンハイトの両将を欠くリップシュタット軍の敗北を疑わないでいた。

 そして、勝利とは別に孤独な戦いをしていたハンスの予測より事態は早く動くのである。

 メルカッツが居ないリップシュタット軍はガイエスブルクに至る航路上の九つの要塞の全てに艦隊を派遣したのである。

 

「シュターデンが居て、兵力分散の愚を犯すとは!」

 

 ラインハルトを始め教え子のミッターマイヤーでさえシュターデンの正気を疑った暴挙であった。

 

「それぞれの航路を断ち、連携と補給を撹乱して孤立させてやれ」

 

 ラインハルトの命令は即時に実行された。

 その事を定時連絡で話を聞いたハンスは呆れていた。

 

「准将も呆れているみたいですね」

 

 問い掛けるキルヒアイスも何処か呆れてる様子である。

 

「はあ、シュターデン提督も気の毒だと思いまして」

 

「准将はシュターデン提督が気の毒だと?」

 

「あのスフィンクス頭がシュターデン提督が止めるのを聞かずに行動した結果だと思いますけどね」

 

「既にガイエスブルク要塞からは孤立化した要塞を救うべく、シュターデンが率いる艦隊が出撃したそうですよ」

 

「それを黙って見ている元帥閣下じゃないですよね」

 

「既にミッターマイヤー提督が迎撃に出撃したそうです」

 

(歴史も中途半端な変わりかたをしたなあ)

 

 確かに歴史は表面上は中途半端な変わりかたをしていたが中身はハンスが知る歴史とは違っていた。

 シュターデンの戦略ではラインハルト軍との直接戦闘は避け、ラインハルト軍を大きく迂回してオーディンから近い要塞から解放して自軍に加え、ラインハルト軍をガイエスブルクの本隊と前後から挟撃するというものであった。

 メルカッツへの対抗意識から出撃した本来の歴史とは違って戦理に叶った行動であったが周囲が本来の歴史と同じくラインハルト軍との交戦を望んでいた。

 

「ミッターマイヤー、卿は士官学校時代のシュターデンの教え子だそうだな」

 

「はい。シュターデン教官は理論と現実が解離した時に理論を優先させていました。我ら学生は理屈倒れのシュターデンと言っていました」

 

「では、卿に命ずる。実戦にて恩師に報いよ!」

 

「全力を尽くします!」

 

 教え子が恩師に報いる為に出撃した頃、恩師の命は既に風前の灯であった。

 

(メルカッツならブラウンシュヴァイク公を諫めれたかもしれない!)

 

 シュターデンの諫言も聞かずに兵力分散の愚を犯したブラウンシュヴァイク公の尻拭いをさせられ、命令も聞かずに先走る若い貴族に悩まされ、食事も摂れずに血を吐く有り様である。

 味方を救出した所で兵糧攻めされた兵が役に立つかシュターデンには疑問であったが、味方を見捨てる訳にもいかず出撃したシュターデンであった。

 この時、既にシュターデンはリップシュタット軍に参加した事を後悔していた。

 そして、シュターデンの部下達は上司が戦う前に倒れるのではと心配していた。

 アルテナ星域まで艦隊を進めた時にミッターマイヤー艦隊が既に待ち構えていた。

 

「前方に約六百万個の機雷が有ります。その向こう側にミッターマイヤー艦隊が布陣しています」

 

 三日後にハンスはシュターデン敗退の報を聞く事になる。

 

「こんな死に方する程、悪い人じゃないと思ったけどなあ」

 

「シュターデンは生きてはいますよ。戦闘が始まった途端に血を大量に吐き倒れたそうです。その場で部下が降伏したそうです」

 

「……それは、大変でしたね」

 

「心因性の胃潰瘍だそうです。流石のミッターマイヤー提督も同情していたそうです」

 

「……それは、大変でしたね」

 

 ハンスとしては同じ事しか言えない。そのメルカッツとファーレンハイトと共にシュターデンを拉致しなかった事を少し後悔をしていた。

 

「元帥閣下が頑張っている分、私達も頑張りましょう」

 

 キルヒアイスの言葉にハンスも首肯するしかなかった。

 キルヒアイスは四万隻の艦隊で辺境星域の戦いに既に六十回の戦いを繰り返し勝利していた。占領した地は民衆の自治に任せてラインハルトとの本隊と合流する為に辺境星域の航路を移動しながら戦っている。

 

「しかし、帝国の辺境星域って、広いんですね」

 

「銀河帝国は同盟の倍の歴史ですからね。その間も開発事業をしてましたから」

 

「しかし、素人が数千隻の艦隊でプロが指揮する四万隻の艦隊に喧嘩を売るとは、辺境星域の門閥貴族って馬鹿か何ですか?」

 

 キルヒアイスもハンスの言葉に苦笑するしかなかった。

 勿論、戦いだけではなく歓迎された惑星や星系もあった。乞われて宇宙海賊退治をした事もあった。実戦慣れしてる分、門閥貴族より手強かったのも印象的である。

 門閥貴族同士が惑星の所有権の争いをしていて仲裁に入ったりとか色々と大変であった。

 ハンスも辺境の問題点や辺境星域の民衆の生の声が聞けたので満足していた。

 また、キルヒアイスもハンスが民衆の本音を聞き出した事によりハンスを随員としてくれた事をラインハルトに感謝した。

 

(私達では民衆も遠慮があり信用もされにくいが、准将なら民衆も遠慮なく本音を言ってくる)

 

 ちなみにワーレンとルッツには別の意見もあった。

 

「あんな聞き方はあいつ以外の人間がやったら問題になる」

 

「どうせ、素人の貴族がプロの軍人に勝てる筈がないから、今のうちに勝ち馬に乗った方が得だよ」

 

 この辺りは、まだ良い。

 

「勝った直後は人気取りに走るから、今の内に困っている事を言っといた方が得だよ。気前の良い時に要求が出来るもん要求しとかないと」

 

 かなり雲行が怪しい。

 

「後から役人が来ても、どうせ給料泥棒しか考えてない連中だから上には問題ありませんとしか言わんから、任期が来たら後は野となれ山となれの連中なんだから」

 

 自分も役人という自覚が無い事を平気で言う。

 これは、ハンスが逆行前の同盟の役人に対する印象で本音だから説得力は確かにあるが、後の役人は苦労しそうである。

 

 翌日の定時連絡で九つの要塞の内で八つの要塞が降伏したと連絡があった。

 残りはレンテンベルク要塞のみであり、レンテンベルク要塞はガイエスブルク要塞にも近く逆に、こちらの補給線を絶たれる危険を考慮して攻略を決定した。

 レンテンベルク要塞を守るのはラインハルト嫌いの筆頭である装甲擲弾兵総監のオフレッサー上級大将である。

 レンテンベルク要塞はオフレッサーが陣頭指揮を取って士気も高く、ラインハルト陣営としたら犠牲者の数を考えると頭が痛いのである。

 

 そこで駄目で元々だと言って、ハンスがオフレッサーの説得を買って出た。

 

「あの男が説得に応じると卿は本気で思っているのか?」

 

 ラインハルトもハンスの申し出に呆れる気味である。

 

「だから、駄目で元々ですし成功すれば儲けものです。それに連中の事ですから薬物を使っているでしょうけど薬物にはタイムリミットが有りますから時間稼ぎになります」

 

 ハンスの意見にオーベルシュタインだけではなくロイエンタールとミッターマイヤーが賛成した。ロイエンタールとミッターマイヤーにしたら少しでも部下の犠牲が減るなら賛成である。

 

「分かった。卿ならオフレッサーを挑発するには丁度よいだろう」

 

 言外に失礼な事を言われた気がしたハンスだが、ここは大人しくするしかない。

 ラインハルトが不許可にしても不思議ではないのである。

 それに、ハンスはオフレッサーの事を気に入っているのである。

 下級貴族から本当に己の腕だけで上級大将に登り詰めたオフレッサーにハンスは一種の憧れを感じていた。

 

(まあ、どちらかと言えば死なせたくない人だからなあ)

 

 シュターデンの時とは真反対のハンスであった。

 しかし、ラインハルトはハンスにオフレッサーの説得をさせた事を後悔する事になる。

 後に帝国の正史から無視され民間では長らく笑い話として伝説になるハンスの説得が始まったのである。

 そして、この事がリップシュタット戦役全体に影響する事になるとは、この時点では誰も予測していなかったのである。

 



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説得? 舌戦? 僻みと妬み?

 

 オフレッサーは珍しい光景に呆気に取られていた。

 長年、戦場を往来したが武器を手にした兵士ではなく工兵がモニターとカメラにマイクを敵である自分達の前で設置しているのは初めての経験である。

 

「お前ら、一体、何をしている!」

 

「いえ、ミューゼル准将が閣下と話がしたいそうなんです」

 

「金髪の孺子の腰巾着か!」

 

「えっ、もう使えるの?」

 

 モニターのスピーカーから場の雰囲気を無視したハンスの声が流れてくる。

 

「おい、孺子!」

 

 その場にいた全員が震え上がる程の声でオフレッサーが威嚇する。

 

「すいません。ちょっとマイクのスイッチが入ってないみたいですけど、此方の声は聞こえてますか?」

 

 オフレッサーも折角の威嚇が空振りに終わり気まずいが一応は手で丸を作り聞こえてる事を示す。

 

「准将、准将、ボリュームを絞っていますよ。それボリュームのツマミですよ」

 

「これが、そうなの?」

 

 オフレッサーも呆れて物が言えない状態である。

 この会話はラインハルトもブリュンヒルトの艦橋で頭を抱えながら眺めている。

 

(ハンスは何をやっているんだ!)

 

「失礼しました。私がハンス・フォン・ミューゼルです」

 

「金髪の孺子の腰巾着が何の用か?」

 

「まずは、オフレッサー閣下の説得と少し質問がありまして、閣下が何故、其方の陣営にいるかが不思議に思いまして」

 

「不思議な事であるか!姉の色香で出世した金髪の孺子が気に入らんだけだ!」

 

「では、エルウィン・ヨーゼフ二世陛下が即位された事に不満が無いのですか?」

 

「不満など無いわ!」

 

「それなら何故、スフィンクス頭とフライパン頭みたいな輩と徒党を組むのですか?」

 

 流石のオフレッサーもハンスが堂々と自然な口調で言うので咎める事を忘れていた。

 

「自分の娘を即位させる気で反乱を起こした馬鹿と組むとは何を考えてるんですか!」

 

「それは……」

 

「両名共に何を旗標に兵を挙げたのですか?」

 

「それは、君側の奸を取り除く為で、」

 

 ハンスがオフレッサーの言葉を遮り、怒鳴りつける。

 

「嘘をつくな!エルウィン・ヨーゼフ二世陛下の即位を認める事は一言も言って無いじゃないですか!」

 

 ハンスの怒りは続く。

 

「だいたい、他家に嫁に出した娘の子供が後を継ぐなど、あり得ない話でしょうが!」

 

「確かに、そうだが……」

 

 ハンスの言は正論である。息子が亡くなり孫が後継者になるのは皇室でなくとも当たり前の話であり、血縁でも姓が違う人間が後継者になるのは特殊な場合のみである。

 

「それに、先帝陛下には皇太子がおられて、皇太子が亡くなられた後に皇太子の息子である陛下が後を継ぐのは当然の話でしょう!」

 

「しかし、だな」

 

「何が、しかしなんですか?だから、閣下が元帥を嫌うのは個人の感情でしょうが!」

 

 ハンスにあっさりと切られてしまった。

 

「そもそも、閣下は何故に元帥を嫌うのです?」

 

「陛下の姉に対するご寵愛を笠にきてだな。僅かな功績で元帥などと」

 

 オフレッサーの詭弁をハンスが再び遮り怒鳴りつける。

 

「アスターテでもアムリッツァでも見事に完勝してます!」

 

 オフレッサーもラインハルトの功績を認めざるを得ない。

 

「もしかして、元帥が美男子だから僻んでるんですか?」

 

「そんな事で僻むか!」

 

(それは、お前だろ!)

 

 ハンスの横で聞いていたキルヒアイスと周囲の人間は口にはしないが同じ事を思った。

 

「なら、反乱を起こさずに直接、元帥を殴れば良いでしょう!」

 

「はっ?」

 

 ハンスの言にオフレッサーだけでなく聞いていた人間が完全に虚をつかれた。

 

「だから、元帥を殴れば閣下の気が治まり、帰順してくれるなら一発ぐらい元帥も黙って殴られますよ」

 

 ブリュンヒルトの艦橋で会話を聞いていたラインハルトがハンス達に聞こえるわけでもないが思わず叫んだ。

 

「勝手な事を言うな!」

 

 ラインハルトの声が聞こえないハンスは更に斜め上の発言をする。

 

「閣下が妬む気持ちは分かりますが、元帥は美男子ですがモテませんよ」

 

「だから、勝手に決めつけるな!」

 

 オフレッサーの抗議を無視してハンスは話を進める。

 

「見栄えはしますが恋人にするには欠陥人間ですよ」

 

「……」

 

 オフレッサーもハンスが何を言い出すのか分からずに黙って聞くしかなかった。

 

「そりゃ、あんな美人で優しい姉なら、男なら誰だってシスコンになるのは分かるけど、あれは度を超しているでしょう。恋人になっても、何事も姉優先で何か有れば姉とは違うとか姉に習えとしか言えない男ですよ」

 

「その、卿は本当に孺子の部下で間違いないよな?」

 

 オフレッサーもハンスが遠慮なくラインハルトを扱き下ろすので、ラインハルトを裏切って自分の麾下に参加した部下と面接している錯覚にとらわれた。

 

「はい、そうです」

 

「……」

 

 何度目になるだろう。ハンスを相手にしていて絶句するのは、そう言えば、退役したミュッケンベルガーがハンスの事を常人では理解が出来ない人間と評していたが納得するオフレッサーであった。

 

「それに、同性愛者では無いですが女性に興味が全然無いですから、一応は女性には礼儀正しく接していますが当人には道端の石と同様ですから」

 

 ブリュンヒルトの艦橋ではラインハルトが怒り心頭と言った表情をしていた。

 

「まるで、私が女性差別者に聞こえるではないか!」

 

 ラインハルトの部下である。ロイエンタールとミッターマイヤーもトリスタンの艦橋で青くなっていた。

 

「ハンスの怖い物知らずも凄いなあ」

 

 ミッターマイヤーの感想にロイエンタールも青い顔で同意するしかなかった。

 

「ですから、閣下が元帥を僻む必要もありません」

 

「たがら、違うと言っているだろが!」

 

 ハンスはオフレッサーの抗議を無視してオフレッサーがラインハルトに対して容姿で嫉妬しているという前提で話を進める。

 

「同じ美男子で女泣かせな人間は別にいるので殴るなら、其方を殴る事を絶賛推奨しますよ」

 

「……」

 

 オフレッサーも抗議をする事に疲れたのか諦めたのか何度目かの絶句をする。

 その様子を見ていたロイエンタールが嫌な予感を感じていた。

 隣に居るミッターマイヤーも同じ予想をしていた。

 

「美男子で実家が金持ちで貴族で女泣かせなら、ロイエンタール提督が居ますから殴るならロイエンタール提督が宜しいと思います」

 

 トリスタンの艦橋ではミッターマイヤーがロイエンタールに遠慮なく吹き出していた。

 

「卿は他人事だと思って!」

 

 ミッターマイヤーに抗議をするロイエンタールだったが、部下達の視線に気がつくと途端に居心地が悪くなった。

 

(閣下が一発、殴られたら兵士を死なせずに済むんですよ)

 

 ロイエンタールには無言ながら部下の言いたい事が理解できた。

 笑いを抑えながらミッターマイヤーがロイエンタールを説得に掛かる。

 

「いくら奴でも、一発で人は殺せまいよ。卿さえ我慢すれば丸く治まる」

 

 ミッターマイヤーが他人事だと思い何処かの時代の何処かの国の腐れ教師みたいな事を言う。

 

「おい、卿は他人事だと思って気軽に言うが相手はオフレッサーだぞ。一発でヴァルハラに行く事になりかねんぞ」

 

「大丈夫だ。卿はヴァルハラには行かんよ。俺が保証する」

 

「ヴァルハラじゃなく地獄とでも言うつもりだろ!」

 

「なんだ。卿は自分の事を知っているじゃないか!」

 

 ロイエンタールがミッターマイヤー何か言い返そうと思っていた時に部下達が、まだ痛い視線をロイエンタールに向けている事に気づいた。

 

「卿ら、それは上官に向ける視線ではないだろう」

 

 部下に八つ当たりしたロイエンタールだったが、部下達の視線に陥落したのは五分後の事であった。

 ロイエンタールが生贄になる事を覚悟した頃、ハンスの標的がラインハルトからロイエンタールに変わったみたいでロイエンタールを扱き下ろし始めた。

 

「一度に何人もの女に手を出さないですが女を次々と変えて捨てるから、余計に質が悪い!」

 

「そういうものか?」

 

 オフレッサーの素朴な質問にハンスは一刀両断に答える。

 

「そんなもんです。一度に何人も手を出していたら女性も、そんな男だと思い納得して諦められますが、ロイエンタール提督みたいに一人だけだと女性も真剣になります。それを簡単に捨てるから質が悪い!」

 

 ブリュンヒルトとトリスタンの艦橋で何人かの士官がハンスの意見に同意する。

 

「まあ、ロイエンタール提督なら世の人も良くやったと閣下を褒めますよ。それにロイエンタール提督に捨てられた女性も喜びます。私達も無駄な血を流さなくても良い」

 

 オフレッサーにして見ればラインハルトは確かに気に入らないが、自分が逆賊と言われるのは不本意である。

 それに軍事オンチのブラウンシュヴァイク公が九つの要塞に兵力分散した事で勝ち目がなくなった事を理解していたオフレッサーは、ロイエンタールに興味はないがハンスの提案を受け入れた。

 

「ご苦労様です。准将」

 

 複雑な表情で労うキルヒアイスに応じながら内心はハンスも驚いていた。

 

(まさか、本当に帰順するとは?)

 

 こうして、レンテンベルク要塞攻略戦は意外な形で無血開城した。

 オフレッサーがロイエンタールを殴るのは戦いが終わりオーディンに凱旋してからとなった。

 

 オフレッサーが裏切りレンテンベルク要塞が無血開城した報はガイエスブルク要塞にも届いた。

 オフレッサーはラインハルト嫌いの急先鋒で有名だった為に門閥貴族達の動揺も大きかった。

 次は誰が裏切るか、お互いに疑心暗鬼になりリッテンハイム侯は暗殺を恐れガイエスブルク要塞を出てガルミッシュ要塞に独自に本拠地を置くことになったのはレンテンベルク要塞開城から三日後の事であった。

 

 



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キフォイザー星域会戦

 

 ハンスは旗艦バルバロッサの与えられた一室で思考の海にいた。

 メルカッツが抜けた影響でリップシュタット軍の戦力を削る事は出来た。

 ブラウンシュヴァイク公が九つの要塞に三割近い艦隊を派遣してくれたお陰である。

 残りは十万隻を切っている筈である。

 逆行前の歴史ではレンテンベルク要塞攻略戦の後でも十五万隻の戦力を保有していたからである。

 

(問題はフライパン頭がガイエスブルク要塞から何万隻を引き抜いて来るかだが、本来の歴史なら十五万隻から五万隻を引き抜いて来たが、今は全体の半数近くの艦艇を引き抜いて来れるか?) 

 

 ハンスの本音はリッテンハイム侯が引き抜く戦力が多ければ被害が小さくなると思っている。

 

(ガルミッシュ要塞はガイエスブルク要塞と違い陥落させるのも簡単だし、それ以前にフライパン頭は烏合の衆なのに数の力を頼りに艦隊戦を挑んで来る筈、その時に捕まえればガルミッシュ要塞は労せずに陥落させる事が出来る。それに味方殺しの蛮行を阻止する事が出来る)

 

 帝国の補給部隊は同盟軍の部隊に比べて軍人意識が薄い。

 何故なら帝国軍が同盟軍と戦う時はイゼルローン要塞で最終的な補給をしてから同盟領に入る為に敵から攻撃される事が無いからである。

 

(役人という意識だけは有るんだが、フライパン頭に攻撃されたら被害甚大だろうなあ)

 

 同盟軍の補給部隊なら本隊が何時でも退却が出来る陣形と距離を考えているのだが、実戦慣れして無い悲しさで本隊が退却する事を考えて無かった為に味方であるリッテンハイム侯に攻撃される事になる。

 

(次はフライパン頭が、此方より少ない艦艇数なら艦隊戦を挑まないでガルミッシュ要塞に籠城するだろうから艦隊戦よりは犠牲者が減るだろうなあ)

 

 ハンスは艦隊戦のみしか対処策の用意が出来なかった。

 

(カンニングが出来ないと所詮、この程度が自分の限界かな)

 

 ハンスが自嘲していたらベルゲングリューンがドアの外から声を掛けて来た。

 

「ミューゼル。提督がお呼びだぞ!」

 

「はい。了解しました」

 

 ハンスは返事をしてベルゲングリューンとともにキルヒアイスの居る艦橋に向かった。

 

 艦橋にはキルヒアイスが書類を手にビューローと話をしていた。

 

「元帥閣下の事ですから何か考えがあるのでは?」

 

「多分、准将の思い過ごしだと思いますけど」

 

 そこにワーレンとルッツも艦橋に入って来た。

 

「揃った様ですね。元帥閣下からの新たな命令を伝えます。敵の副盟主のフライパン頭がスフィンクス頭と確執の挙げ句、五万隻の戦力でガルミッシュ要塞を占拠して此方に向かっているそうです。これと戦い撃破せよ。との事です」

 

 キルヒアイスがラインハルトからの命令を伝えると全員の視線がハンスに集中する。

 ラインハルトは生真面目な人間で間違えても公文書にフライパン頭とかスフィンクス頭とか書く人間ではなかった筈であり、ラインハルトに悪影響を及ぼした人間としてハンスが疑われたのである。

 

「フライパン頭もスフィンクス頭も自分じゃあ有りませんよ。うちの姉が元帥閣下に吹き込んだ犯人ですからね」

 

「その姉上にスフィンクス頭とかフライパン頭とか吹き込んだ人間がいる筈だが」

 

 ワーレンが容赦なくハンスを追及して来る。

 

「両方共に古くから演劇関係者の間で言われている事で、この件に関しては自分は潔白ですよ!」

 

 ハンスの弁明を全員が信用したが、その場にいた全員が口には出さないまま、同じ結論に至った。

 

(流石、ハンスを弟にするだけの女性であるな。帝国軍元帥相手に何を教えるやら)

 

「それより、作戦の方は如何なさいますか?」

 

 ハンスが露骨に話を反らしにきたが、真面目な話なので全員が気持ちを切り替えた。

 

「それについては、既に決まっています。敵は五万隻の大軍でも所詮は烏合の衆です。斜形陣を用いて対決します。その時、本隊として私が八百隻で突入します」

 

「たったの八百隻!」

 

 キルヒアイスの発言に、その場に居た全員が驚く。

 唯一、驚かなかったのはハンスのみである。

 

(えーと、八百を五万で割って、0.16で、それに百を掛けて……)

 

 暗算するのに忙しい様である。

 

「ええっー1.6パーセント!」

 

 ワンテンポ遅れてハンスも驚く。

 キルヒアイスもハンスの様子に苦笑しながらも細かい部分を話し出した。

 

 一方、公式文書でフライパン頭と書かれたリッテンハイム侯はキルヒアイスを相手に勝利した後の事を考えていた。

 

「ブラウンシュヴァイクめ、シュターデンが制止するのを聞かずに兵力分散をして金髪の孺子と戦う前に兵を損なうとは、愚か者め。此処で勝利した後でブラウンシュヴァイクの奴が敵と通じていて故意にしたと言って死刑にしてくれるわ!」

 

 その為にガイエスブルク要塞から半数の戦力を引き抜いて来たのだが、ブラウンシュヴァイクを蹴落とす計算は綿密にしていたがキルヒアイスに勝利する為の計算はしていなかった。

 

「前方に敵、四万!斜形陣で待ち構えています」

 

 部下からの報告にリッテンハイム侯は素早く砲撃を命令した。

 

「数は此方が多い!小細工は不要。正面から撃て!」

 

 だが、五万隻の艦艇から撃たれた主砲は全てルッツ艦隊のエネルギー中和システムに弾かれた。

 当然の結果である。両軍共に主砲の有効射程距離に入っていないのである。

 ルッツは艦橋で半ば呆れていた。

 

「素人め。間合いも分からんとは!」

 

「敵、有効射程に入りました!」

 

「よし、撃て!」

 

 ルッツ艦隊からの砲撃はリッテンハイム軍の艦艇を次々に火球に変えていく。

 リッテンハイム軍も怯まずに撃ち返すがルッツ艦隊には届かない。

 戦艦と駆逐艦では主砲の射程距離も違うので当然である。

 キルヒアイスが烏合の衆と評したのは現実であった。駆逐艦の横にミサイル艦が配置され、隣には母艦機能に特化した戦艦がいる。

 艦隊編成自体が無秩序なのである。

 

「我々も行きますか」

 

 キルヒアイスが戦端が開かれて無いワーレン艦隊の背後を横切り移動して行く。

 リッテンハイム軍の下級指揮官達はルッツ艦隊の激しい砲火の中で艦隊の再編成を試みるが至難の業としか言えなかった。

 そこにキルヒアイスの本隊が横から突入して来た。

 慌ててキルヒアイスに対処するべく部隊を回頭させると正面からはワーレン艦隊の主砲の雨が降り注ぐ。

 

 リッテンハイム軍は外からはルッツとワーレンから攻撃され、内部からはキルヒアイスから蹂躙され瀕死の状態であった。

 

 バルバロッサの艦橋でハンスがキルヒアイスに上申する。

 

「卑怯者のフライパン頭の事です。部下を見捨ててガルミッシュ要塞に逃亡するかもしれません。百隻程度で構わんと思いますがルッツ提督かワーレン提督に連絡して配置した方がいいでしょう」

 

 キルヒアイスはハンスの上申の正しさを認め、ワーレンとルッツの両提督に連絡してリッテンハイム軍の後方に五百隻の部隊の配置を命じた。

 

 連絡を受けたワーレンはキルヒアイスの能力に感嘆していた。

 

「キルヒアイス提督の慧眼には驚かせられるわ。敵の艦隊編成の不備を見抜き大胆な策を取り成功させるとは尉官時代から知っていて優秀だと思っていたが、これ程とは」

 

 ワーレンとルッツが各五百隻の部隊をリッテンハイム軍の後背に配置をすませた直後にリッテンハイム侯の金色に塗装された旗艦オストマルクが発見されたのである。

 

「戦乱の元凶を捕らえよ!」

 

 キルヒアイスの命令にリッテンハイム侯の旗艦周辺に砲火が集中する。

 護衛部隊を置き去りにして、更に二隻の盾艦を犠牲にして、目立つ金色の船体が敵と味方の双方が注目する衆人環視の状況で逃げ出した。

 それを見たリッテンハイム軍の艦艇が次々に動力を停止して降伏信号を発信する。

 部下を見捨てて自分だけ逃げ出した指揮官の為に命を捨てる理由が彼らには無かったからである。

 キルヒアイスの旗艦バルバロッサから追い回されたリッテンハイム侯にはバルバロッサが赤い悪魔に見えた。

 恥も外聞も捨て必死に逃げるオストマルクを意外な事にリッテンハイム侯を見限ったリッテンハイム軍の降伏した艦艇が助ける結果になった。

 バルバロッサは降伏した艦艇に阻まれ逃げるオストマルクを追跡が出来ないでいた。

 だが、リッテンハイム侯の安心も束の間であった。ハンスが予測してキルヒアイスが用意させた千隻の部隊に包囲されて拿捕された。

 こうしてキフォイザー星域会戦は一日で終了した。

 ガルミッシュ要塞も縄で縛られたリッテンハイム侯の姿を見せたら、呆気なく無血開城したのである。

 

(まあ、案ずるより産むが易しと言うが本当だな。補給部隊も攻撃されずにリッテンハイムも生きたまま捕らえる事が出来た)

 

 ハンスは久しぶりに計算通りに事が運び満足をしていた。この様子だと予定より早く内乱も終わりヘッダにも早く会える。

 しかし、予定が早く終われば次の予定が繰り上げになる様である。

 ガルミッシュ要塞からオーディンのフーバー中佐にリヒテンラーデ陣営の様子を聞くつもりで連絡を取ったハンスに驚くべき報告がされた。

 

「ヴェスターラントで民衆が蜂起しました。領主であるシャイド男爵は民衆により殺害されました!」

 

 報告を受けたハンスの顔から血の気が引いていた。ハンスは壁に設置された星域図に目を向けるガルミッシュ要塞とガイエスブルク要塞とではヴェスターラントまでの距離が違う。

 遥かにガルミッシュ要塞がヴェスターラントに遠いのである。

 ハンスの計画ではガルミッシュ要塞からガイエスブルク要塞で戦うラインハルト達に合流する寸前にヴェスターラントの蜂起が起こり、民衆蜂起の連絡を受けると同時にヴェスターラントに駆けつける算段であった。

 本来の歴史より優位に戦いを展開した為にヴェスターラントの民衆も早く蜂起してしまった。

 

(まさか、こんなに早くヴェスターラントで民衆蜂起が起きるとは)

 



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笑い

 

 本来の歴史より早くヴェスターラントの民衆蜂起が始まり絶望的な状況でハンスが取った行動は安直にも上司のキルヒアイスに相談する事であった。

 

「状況は分かりました。元帥閣下には私から報告しましょう」

 

「それだけでは不安です。元帥の側にはオーベルシュタインがいるんですよ。政治宣伝の為にヴェスターラントを平気で見殺しにする男です」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスも考えざるを得ない。ラインハルトは信用しているがオーベルシュタインが何か策を弄する可能性を否定は出来ない。

 

「閣下は元帥に働きかけて下さい。自分は足の早い艦を十隻程、お借りしてヴェスターラントに急行します」

 

「しかし、ここからでは間に合わないでしょう」

 

「かなり希望的な話ですが敵に何かトラブルが起きて遅れるかもしれません」

 

 キルヒアイスもハンスの気持ちが分かったのでハンスに軽巡航艦十隻を任せる事にした。

 

「それと、もう一つお借りしたい物があります」

 

「何でしょう?」

 

「フライパン頭の乗艦のオストマルクです。貴族が金に物を言わせた特注品ですからエンジンも桁違いの出力の筈です」

 

 確かにキルヒアイスのバルバロッサも最新鋭艦であるがオストマルクの様な特注品は別格である。戦場でキルヒアイスが見ても分かる大出力のエンジンであった。

 

「しかし、間に合っても一隻では撃破されてしまいます」

 

「まあ、多少の時間稼ぎは出来るでしょう。それで二百万人の犠牲が百万人になれば本望です」

 

 キルヒアイスは思い出した。ハンスはクロプシュトック事件の時には門閥貴族であれ民間人であれ救う為に爆弾を抱えて大怪我をした男でもあった。民間人の流血を極端に嫌う男なのである。

 

「卿が民主国家の軍人でいた事を忘れてました」

 

「大丈夫ですよ。閣下が考えている程、自分は聖人君子じゃありません。他にも保険を掛けますから」

 

 ハンスの保険とは上司のキルヒアイスに相談する以上に安直であった。

 銀河帝国でも疾風と謳われるミッターマイヤーに依頼する事であった。

 

「卿の言いたい事は分かる。何隻かヴェスターラントに行かせよう」

 

「有り難う御座います」

 

「礼には及ばん。卿も俺も当然の事をしてるだけだ」

 

 ミッターマイヤーはハンスから事情を聞くと快諾してくれた。

 ミッターマイヤーもオーベルシュタインに対して危機感を抱いていた。

 

(ハンスがオーベルシュタインを警戒する気持ちも分かる。確かに民間人も兵士も同じ命。後は数の論理なのだが……)

 

 ハンスはミッターマイヤーに事情を説明する時に顔も知らない民間人より自分の部下が可愛いと思うのは当然だと言って、オーベルシュタインの策に乗せられるラインハルトを擁護していた。

 

(ハンスは軍人としての才能はあるが性格はキルヒアイス以上に反比例して向いて無いな)

 

 キルヒアイス以上に向いて無いと評されたハンスはオストマルクのトイレで戻していた。

 盾艦こそ失ったオストマルクだが盾艦が無い為か確かに速かったが振動が激しい。

 他の乗組員は平気なのは慣れなのか、それともハンスが振動に弱いのか。

 

「生きて帰ったら検証してみるか」

 

 既に胃の中のものを全て戻したハンスは既に黄色胃液しか戻せない。

 

「閣下、艦橋にお戻り下さい。もうすぐ着きますよ」

 

「了解した。それとバケツを用意してね」

 

「すぐに用意しますが、閣下、大丈夫ですか?」

 

 喋る元気も無いのか手で大丈夫と伝えるハンスであった。

 

 艦橋に入ったハンスの顔色は青を通り越して白くなっていた。

 

「で、状況は?」

 

「惑星の地表に熱反応は有りません。間に合いました」

 

「そうか。便器と友達になった甲斐がある」

 

 ハンスの言葉に艦橋が笑いに包まれる。

 

「それから、ワルキューレを出して惑星の周辺を捜索させて下さい。味方の偵察艦が居る筈です。見つけたら敵の偵察をさせます」

 

 逆行前に同盟にもヴェスターラントの映像が流れていたのをハンスは覚えていた。

 

(あの映像自体がラインハルトの罪の証拠なんだが)

 

 そこまで、思考を進めた時に発進したワルキューレがハンスの視界に入った。

 それは見事に金色に塗装された八機のワルキューレがオストマルク周辺を一度、旋回してから散開して行く。

 

「ワルキューレって、白くないと戦場で不利じゃないのか?」

 

 同盟のスパルタニアンもワンポイントだけ塗装が許されていたが全体を塗装する者はいなかった。これにはハンスも呆れるばかりである。

 しかし、機体の塗装は別にしてパイロットの腕は確かな様で、すぐに偵察艦を発見してきた。

 

(強行偵察艦かよ。簡単に発見できる艦艇じゃないぞ)

 

「偵察艦と話がしたい。回線を開いて下さい」

 

 強行偵察艦の艦長は驚いていた。自分達は極秘で派遣されていたのをハンスは既に看破していたのだから。

 

「任務ご苦労。新しい任務だがガイエスブルク要塞から来る敵の戦力を知りたい。卿らの仕事は重大だぞ」

 

 ハンスは当然の様な顔で強行偵察艦の艦長に命令を下す。

 同じ情報畑とは言え所属の違うハンスが強行偵察艦の艦長に命令する権利は無いのだが艦長も本音は核の炎で焼かれた民間人を撮影する事に嫌気がさしていたので、何も言わずにハンスの指示に従ってくれた。

 

「今の内に二交代でタンクベッド睡眠を取って下さい。ワルキューレは帰還して下さい。パイロットと打ち合わせが有ります」

 

 ハンスは矢継ぎ早に指示を出して行く。周囲の士官達もハンスが十代で将官になった事を納得していた。

 とんでもない勘違いであった。ハンスが逆行して来てからヴェスターラントの惨劇を回避する為に色々なシチュエーションを想定して何千回も脳内でシミュレーションをした結果である。

 ハンスにしたらキルヒアイスさえ生き残れば、以後は無駄な流血は無くなり、ハンスも生活苦とは無縁の平穏無事な暮らしが手に入れられるのである。

 その為にはヴェスターラントの惨劇とキルヒアイスの死は回避しなければならなかった。

 

 パイロット達が艦橋に入って来ると、すぐに打ち合わせを始める。

 

「敵は一隻ではないでしょう。そこで空戦隊には敵艦の動力部を奇襲攻撃で狙撃してもらいます。完全破壊する必要は有りません。いざとなれば人質に出来ます」

 

 これは第一次ランテマリオ会戦で数に劣る同盟軍が使った策である。

 第一次ランテマリオ会戦はヤン艦隊が到着するまでの時間稼ぎの戦いという側面があったが、今回の戦いもキルヒアイスの部隊からとミッターマイヤーからの援軍が来るまでの時間稼ぎの戦いと言えた。

 

「問題は奇襲が成功しても残りの艦や動力を狙撃した艦からワルキューレが出ますから袋叩きにされる可能性が有ります」

 

 意外な事にパイロット達は平然としていた。

 

「安心して下さい。私達も三倍の敵なら互角に戦えます!」

 

 空戦隊長が代表して豪語してきた。

 

「それは頼もしいですね。それでも保険は掛けましょう。敵のワルキューレをオストマルクの副砲の射程に押し込んで下さい。敵はオストマルクの副砲の場所は把握してないと思います。幸いにも金色のワルキューレですから砲手も敵味方の判別が簡単です」

 

「了解しました。我々も艦砲射撃を味方に出来るなら楽です」

 

「それと大事な仕事が残っています。もし、核ミサイルが発射された場合はワルキューレで撃ち落として下さい」

 

 発射されたミサイルを撃ち落とすとは常識では考えられない事をハンスはパイロット達に要求した。

 

「分かりました。そこまで、私達の腕を信用して頂けるなら期待に応えましょう」

 

 ハンスは空戦隊全員と握手すると休憩を取る様に命じた。

 その後に砲術士官を呼び打ち合わせをすると砲術士達には休憩を取らせる。次は機関士達を呼び打ち合わせする。打ち合わせが終わると機関士達に休憩を取らせる。

 この様に各部署の人達を呼び打ち合わせをしていく。

 

(この日の為に凡人が練りに練った策だが、何処まで実戦で通用するのやら)

 

 今回はカンニング無しの実力勝負であり、ハンスにしたら五里霧中の戦いである。そして、ハンスの敗北はヴェスターラントの民衆二百万人の死に繋がるのである。

 

「偵察艦から連絡が有りました。戦艦三隻がガイエスブルク要塞方面から接近して来ます。会敵予想時間、およそ三時間!」

 

「宜しい。偵察艦は、そのまま待機。オストマルク全乗組員は宇宙服か装甲服を着用せよ。準備が出来たら出撃するぞ。敵が目的地に着く前の気が緩んでる時間帯を狙う!」

 

(最悪の場合は戦艦の一ダースは覚悟していたんだがな。それとも途中でミッターマイヤーの部隊に捕捉された数が減ったか?)

 

 逆行前の人生では最悪の予測がハズレた事が無いハンスとしては、戦艦三隻という幸運は信じ難い事であった。しかし、口に出しては楽天的な事を言う。

 

「全乗組員に告ぐ。生き残ったら、パーティーをするぞ。この艦にはフライパン頭が沢山の高いワインやブランデーやら積んでいるからなあ。おつまみも豪華だぞ!」

 

「美女が居ないのが残念ですね」

 

 艦橋の誰かが軽口を叩くが、ハンスも軽口で応じる。

 

「美女は居ないけど、美少年なら、ここに居るぞ!」

 

 艦橋が笑いに包まれる。その会話を聞いていた各部署にも笑いが起こる。

 ハンスも表面だけは笑う。三対一の不利な戦いである。同盟人ならグランド・カナル事件を覚えている人も多いだろう。二対一でさえ勝つ事は困難である。

 大佐時代のビッテンフェルトが一隻で二隻の戦艦を撃破した事でラインハルトに見出だされた。

 逆に言えば一隻で二隻を撃破する事が如何に困難な事なのか。

 そして、これから三隻の戦艦と戦うのである。

 

(まあ、この期に及んで笑うしかないか)

 

 表面も笑うが内心も苦笑していた。結局は裏表なく笑うハンスであった。



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死闘?

 

 金色の宇宙船が無数のネオンを点滅させている光景は異様であった。

 

「なんだ、ありゃ?」

 

「あれは、リッテンハイム侯のオストマルクじゃないのか?」

 

 通信回線からは、やたら景気の良い曲が流れて同盟語で歌を歌っている。

 

「猫のエリザベスが言いました。私の彼は黒猫です。夜のデートでキスをするにも一苦労。どちらが頭で尻尾やら、闇夜に鳴かぬ烏の声きけば有り難や、有り難や」

 

「何なんだ?」

 

 艦橋に居る全員が歌詞も意味不明な上に音痴である歌声に首を捻る。

 衝撃は突然きた。艦が揺れたと思った途端に艦橋の照明が非常灯に切り替わる。

 

「やられました!奇襲です。機関部に被弾!」

 

 敵襲なのは理解したが目の前のオストマルクは動いていない。何処に敵艦が居るのかと思ったら金色のワルキューレが飛び回っている。

 

「しまった!」

 

 オストマルクは囮であったのだ。そして、囮のオストマルクから牙を剥いてきた。隣の僚艦がオストマルクの主砲で火球に変わる。

 

「ガイエスブルクに緊急連絡しろ!」

 

「駄目です。通信アンテナも被弾してます!」

 

 まだ、健在だった僚艦も金色のワルキューレの攻撃を受けた様で救援の発光信号を出していた。 

 

「何と言う事か!たった、一隻の戦艦に三隻の戦艦が負けるとは」

 

 勝った艦を指揮していたハンスは指揮官席で脱力しながらも指示を出し続けていた。

 

「発光信号にて降伏を勧告して下さい。三分して降伏受諾しないなら撃沈すると、三分後に降伏を受諾しないなら望み通りに撃沈して下さい」

 

(はあ、終わった。何千回もシミュレーションした成果が出た)

 

 ハンス自身も驚く程の短期決戦で戦いは終了した。

 ハンスも気づいてなかったが逆行前はラインハルトの軍と戦い、逆行後はヤンやウランフにボロディン等の一流の用兵家と戦っていたのである。

 自然と用兵家としての経験を積んでいたのである。更に言えばハンスはラインハルトやヤンの様なエリートではなく末端の兵士としての経験もあり、自ずと戦場での視野は広くなっていた。

 それ以前に、リップシュタット軍が弱かったのが最大の勝因であった。

 軍人としては地位のみで素人ばかりが指揮官なのであるから当たり前の話である。

 

「敵艦から降伏を受諾の信号です」

 

「了解した」

 

(とは言え、ベルゲングリューンが来るまで、何も出来ないけどね)

 

 ハンスが思案に暮れた時にオペレーターの悲鳴に近い声が艦橋に響く。

 

「偵察艦入電。三隻の敵戦艦が三時の方向から接近中。会敵予測時間は二時間!」

 

 真相はハンスの予測通りにブラウンシュヴァイク公は十二隻の戦艦を出撃させた。

 しかし、前面にはラインハルトの軍が布陣している為に六隻づつのグループに分けて出撃させたのである。

 その内の六隻をバイエルラインの部隊が捕捉して撃破したのだが撃破した後にガイエスブルク要塞に動きがありバイエルラインはミッターマイヤーの本隊に帰還したのである。

 集結宙域に現れない味方の六隻を三隻が捜しに行き、残りの三隻が任務遂行の為にヴェスターラントに赴く途中であった。

 

(ヤバいなあ。最悪の予測が的中したな!)

 

 ハンスが逆行して来てからの二年近い時間で予測した事態の上から何番目からの不利な状況である。

 

「空戦隊は帰還しているかな?」

 

「はい、既にワルキューレは回収しています」

 

「それじゃ、逃げるぞ!」

 

「えっ!」

 

「先は不意討ちだから勝てたけど、今度は無理!」

 

「逃げたら、ヴェスターラントはどうなるんですか?」

 

「逃げながら相手を挑発して味方の所まで行くぞ。味方と合流したら袋叩きにしてやれ!」

 

「了解しました!」

 

(ベルゲングリューン部隊が何処まで来ているかが勝負の鍵だな)

 

 ハンスは逃げる時も敵に発見されるコースを取りながら逃げた。

 

(二隻と一隻に分かれてくれんかな。それなら、片方を相手にする間にワルキューレで片方の機関部を狙撃させるのに)

 

 ハンスの願いも虚しく敵は三隻が仲良く追って来た。

 

「取り敢えず、時限式機雷を一発だけ投下」

 

 機雷で敵を撃破できるとは思っていないが挑発にはなるかなと思ったが薬が効きすぎた様である。三隻が追跡のスピードを上げて来た。

 

「まあ、この船に追い付けんだろ。エンジンも特注品だからなあ」

 

 ハンス達の鬼ごっこは十二時間にも及んだ。途中で機雷で挑発して有効射程ギリギリのラインで休憩したりと挑発を繰り返した。

 ハンスの挑発に怒り心頭の三隻だが、有効射程までは追い付かない。

 

「ふん、普通の艦とは違うのだよ。普通の艦とは」

 

 ご丁寧に通信回線を使ってまで、挑発を繰り返した。

 

「閣下。挑発するのが好きですね」

 

「別に好きで挑発している訳じゃない。時間稼ぎに気付かせない為だよ」

 

 しかし、ハンスの鬼ごっこも限界が来ていた。エネルギーに余裕が無くなったのである。

 ガルミッシュ要塞から補給無しでヴェスターラントに出力全開で赴いた為に大量のエネルギーを消費した。

 

「元が貴族の遊覧船だからなあ。娯楽設備や内装は立派だけど」

 

 ハンスもエネルギーの事は念頭にあったが足の遅い補給艦がオストマルクの快速について来れる筈もなく分かっているけど、対策が無い状態であった。

 

「仕方がない。あの手を使うしかないか」

 

 ハンスは自室から数枚の光ディスクを持って来て、艦橋の通信士官に渡す。

 

「これから、最後の機雷を爆発させて敵の足を止めるから、この光ディスクの音と映像を敵に流してくれ。此方には内容が分からない様には出来るかな?」

 

「敵に音と映像を流す事は出来ますが当艦にも流れるのは仕方がないですよ」

 

「そうか。なら味方にも流してやっておくれ」

 

「了解しました」

 

「これより、この作戦は星三個作戦と呼称します!」

 

(ベルゲングリューンが近くに来ている筈だ。間に合ってくれたら良いけど)

 

 実際にベルゲングリューンは近くまで来ていた。

 艦橋内で、ベルゲングリューンは焦れていた。

 

(もしヴェスターラントの核攻撃に間に合わなかったら、オストマルクは引き上げている筈。引き上げるオストマルクと会わないのは核攻撃に間に合った証拠だ。撃破したかされたか。もしくは撃破したが艦も被害を受けて救助を待っているかもしれん)

 

 内心の焦燥を隠してベルゲングリューンは部下に質問する。

 

「まだ、着かんのか?」

 

「あと、一時間ほどでオストマルクと連絡が取れる宙域に入ります」

 

「そうか」

 

 先程から何度も繰り返された会話である。ベルゲングリューンの内心は部下達に丸分かりだったが部下達もベルゲングリューンと同じ気持ちであった。

 ベルゲングリューンの部隊の将兵の全員がオストマルクの乗組員を心配していた。

 艦橋が重苦しい空気に支配されている時に一人の通信士が素っ頓狂な声を出した。

 

「うわ!」

 

「どうした?」

 

 救難信号でも受信したのかと思いベルゲングリューンの誰何する声にも緊急の成分が含まれる。

 

「それが、妙な映像と音を拾いました」

 

「スクリーンに出してみろ!」

 

「えっ!」

 

「聞こえなかったのか!スクリーンに出してみろ!」

 

「えっ、は、はい。了解しました」

 

 通信士も一瞬の躊躇いの後で上司の命令に従う。

 そして、艦橋のスクリーンに出た映像では全裸の男女がベッドで絡み合っていた。

 照明やカメラアングルやピントから物好きな人間がプライベート情事を撮った品ではなく、プロの仕事の作品である事が分かる。

 

「映像を消せ!」

 

 ベルゲングリューンには、この様な事をする人間に心当たりがあった。

 ポルノ規制に厳しい帝国でなら抜群の威力を持つだろう。

 しかし、無修正のポルノを戦場で流すなど帝国軍の長い歴史でも前例の無い珍事である。

 

「発信元は分かるな?」

 

「は、はい」

 

「では、発信元に向かうぞ」

 

 どうやらハンス達は無事の様である。自分達の来援までの時間稼ぎの為の苦肉の策なのだろうが他に策は無かったのかと思うベルゲングリューンであった。

 

 艦橋の誰かが堪えきれずに失笑をすると次々と失笑が感染していき、艦橋内が笑いの渦に包まれる。

 ベルゲングリューンも耐えきれずに笑い出したのである。

 

「未成年のミューゼルが何処で入手したか追及と説教をする必要があるな」

 

 ベルゲングリューンの傍らにいた副官が複雑そうな顔で同情の成分が含まれる声で呟く。

 

「しかし、こんな策で時間稼ぎされて我らに撃破される敵も哀れですなあ」

 

 副官の呟きが耳に入ったのはベルゲングリューンだけであったが副官の意見に苦笑しながらも同意するベルゲングリューンであった。

 

 ベルゲングリューンの副官に同情されたリップシュタット軍の将兵達も自分達の置かれた状況や任務を忘れていなかったがオストマルクが流す映像に気を取られていたのは事実だった。

 ハンスが流したポルノ映像は同盟でも警察が発見すれば押収する様な部類の作品であり、その中でも入手が困難な逸品であった。

 規制が同盟よりも厳しい帝国なら通常の作品でも免疫の無い帝国人には効果があるのに、同盟でも入手困難な逸品となれば効果は抜群であった。

 リップシュタット軍はベルゲングリューンの部隊の接近にも気づかずに主砲の餌食になったのである。

 

「無事息災の様で喜ばしい事だな」

 

 敵戦艦を部隊の一斉射撃で撃破した後でベルゲングリューンは通信で皮肉のスパイス混じりにハンスの無事を祝う。

 

「本当に危ないところでした。ベルゲングリューン准将には感謝の念が絶えません」

 

 ベルゲングリューンの皮肉を額面通りに受け取りハンスが本心からベルゲングリューンに感謝する。

 

「そ、そうか。卿らが無事なのは良かった」

 

「有り難う御座います。実は主砲に回すエネルギーも移動に使ったので、一歩も動けない状態でして、補給艦の到着は何時になりますか?」

 

 ベルゲングリューンが驚いたのはオストマルクは全てのエネルギーを使い果たしていたのである。

 

(本当に苦肉の策だったのか)

 

「十時間後には補給艦も到着する」

 

「そうですか。助けて貰いながら厚かましいですが後の処置をお願いします。敵との鬼ごっこに全員が不眠不休でしたので」

 

「了解した。卿らはゆっくり休憩してくれ」

 

 ベルゲングリューンは一度通信を切った後で、件のポルノの事を追及する為に再度通信を開くが、スクリーンには指揮席で泥の様に眠るハンスがいた。

 

「すいません。先程の通信が終わった途端に寝てしまいまして」

 

 部下の一人が代理で謝罪する。指揮席で眠るハンスを見てベルゲングリューンも追及する気が失せてしまっていた。

 結局、ベルゲングリューンはポルノの事は追及しないままで終わる事になる。

 こうして、ハンスは味方に一人の犠牲者も出さずにヴェスターラントを救う事に成功したのである。

 

 尚、件のポルノの事がヘッダに露見してお仕置きをされるのは別の話である。



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不幸の階段

 

 ハンスは約束通りにガルミッシュ要塞に帰還する道中でリッテンハイム侯の秘蔵の酒蔵を解放してパーティーを開いた。

 

「ガルミッシュ要塞に着くまでには酒が抜ける程度にする様に」

 

 ベルゲングリューンも苦笑しながらも黙認してくれていた。

 

「しかし、最初の戦いでは一隻で三隻もの相手に勝つ事が出来たな」

 

 ベルゲングリューンも405年物の赤ワインを飲みながらハンスに聞いてくる。

 

「まあ、考える暇は有りましたからね。それに、時間稼ぎをすれば、提督が必ず来てくれると分かっていましたから」

 

「俺が参謀長に媚びを売ると思わなかったのか?」

 

「まさか、そんな人物なら例のアレを黙認する筈がないでしょう」

 

 ハンスに言われてベルゲングリューンは例のアレについては追及が出来なくなった。

 

「それに、参謀長は媚びを売っても買う人ではありませんよ」

 

 このハンスの評にはベルゲングリューンも同意するしかなかった。

 

「まあ、悪い人じゃあないですし、真面目で平等な人なんですけど」

 

 オーベルシュタインが上官のキルヒアイスの処遇の事でラインハルトに色々と言っている事はベルゲングリューンの耳にも入っている。

 

「確かに、参謀長の言う事は正論なんだが……」

 

 ベルゲングリューンにしたら年下ながら敬愛する上官の事を言われると面白くはないが正論なので文句も言えないのが現状である。

 

(まあ、オーベルシュタインはラインハルトの軍事ロマンに毒されてない数少ない人だからなあ。生粋の軍人には煙たがられるだろう)

 

「まあ、この戦いが終わり同盟と和平条約でも締結すれば平和になる。そうなれば軍で参謀長が危惧する事もなくなるでしょう」

 

「おい、卿は同盟と和平条約が成ると本気で思っているのか?」

 

「別に不思議じゃないでしょう。同盟も内部抗争で攻める力は無いでしょう。帝国も内政に力を入れる時期に入ります。戦争をしてる暇は無いでしょう」

 

「しかし、どちらかが先に力を回復したら、また戦争になるぞ」

 

「その時までに数十年は掛かるでしょう。数十年の間だけの平和でも戦争するよりはマシでしょう」

 

「そうなれば、卿も安心して軍を辞められるか」

 

「はい、元帥府の前で屋台でも引きましょうかね。その時は贔屓にして下さいよ」

 

「卿も男なら高級レストランの一軒でも持つとは言えぬのか?」

 

「そんなの人を雇って気を使うじゃないですか!」

 

(人に気を使う性格か?)

 

 思った事を口に出さないのは大人の嗜みである。口に出したのは別の事であった。

 

「しかし、旨いワインだな」

 

「そうですか?それ渋くないですか?」

 

(こいつ、ワインの味も分からんとは、こいつは別の意味で高級レストランを経営するのは無理だな)

 

「それでは、俺も部下を待たせているからな。卿らも、パーティーは早めにお開きにしないと仕事に差し支えるぞ」

 

 口では真面目な事を言いながら、ちゃっかりとワイン数本を部下達の土産に持って帰ったベルゲングリューンであった。

 

「はい、皆さん!お開きですよ!」

 

 パーティーの終了を宣言するとハンスは自分も残りのビールを飲み干して艦橋に戻る為に食堂を出る。

 

(しかし、長かったなあ。後はアンスバッハを始末するだけだな)

 

 無駄な流血を嫌うハンスもアンスバッハの様な忠臣は殺すには惜しいとも思うが、仕方がないと割り切っているハンスであった。

 割り切る事が出来るのは、本人に自覚が無いがハンスも戦乱の時代の人間であったから。

 

 

 

「今回は不問にしますが、この様な品は個人で楽しんで下さい」

 

 ガルミッシュ要塞に到着したハンスはキルヒアイスの執務室に呼ばれ少将に昇進の辞令と一緒に説教もされた。

 お調子者がハンスが流したアレをコピーしていてキルヒアイスに渡したらしく、ベルゲングリューン部隊の全艦とオストマルクのコンピューターから記録を消去した上に、どさくさ紛れに兵士達がコピーした光ディスクの回収も行われた。

 

(堅物だと思っていたが、ここまでだと思わんかった)

 

 これが、温厚なキルヒアイスだったから良かったがラインハルトなら更に悲惨な結果になっていた事だろう。

 

「それから、ミューゼル少将が出撃した後からですが、ガイエスブルク要塞からは投降者が続出しているそうです」

 

「ヴェスターラントへの熱核兵器攻撃が原因ですか?」

 

「ヴェスターラントが原因と言えば原因なんですが、ミューゼル少将は学校では歴史は、どの辺りから習いましたか?」

 

 キルヒアイスが場違いな質問をして来たが、取り敢えず答える。

 

「銀河連邦の設立前後からですね。地球時代は簡略化した授業でした」

 

「十三日戦争は?」

 

「それは、必修でした」

 

「それを聞いて安心しました。これは、帝国の士官学校で使用されている教材ですが、まずは観て下さい」

 

 壁のモニターに熱核兵器を使用された地上の地獄が映し出される。

 

「これは?」

 

 映像の悪さからヴェスターラントの風景では無い事は理解出来る。

 

「十三日戦争の時の映像です。余りにも悲惨な映像の為に一般では閲覧禁止指定にされている資料です」

 

「まさか、これを流したのですか?」

 

「はい、参謀長が帝国中に流しました」

 

「そりゃ、これを見れば将兵だけじゃなく貴族も見限るでしょう」

 

 ハンスも八十年近く生きて来たが初めて観る映像である。

 考えてみれば、ラインハルトもキルヒアイスも幼年学校までしか進学をしていない。士官学校出身のオーベルシュタインならではの策である。

 

「自分達の盟主が人類史上の禁忌を犯したのです。投降者が続出して投降者の話では貴族の中には絶望して自殺する者も出ています」

 

「ガイエスブルク要塞も中から崩壊ですか?」

 

「いえ、まだ頑迷に抵抗する者達も少なくありません」

 

「無益な事を……」

 

 既に戦いの帰趨は決していた。頑迷な貴族達が現実逃避して足掻いているだけである。

 

「少将には帰還して落ち着く暇もありませんが、分艦隊を率いて、すぐにガイエスブルク要塞に向ってもらいます」

 

「数で圧倒して抵抗の意思を挫くのは分かりますが、自分に分艦隊を率いるのは無理です。自分は参謀教育も艦隊運用教育も受けてませんよ」

 

「安心して下さい。分艦隊の司令部はベテランの人材を配属します。リッテンハイム侯の率いた軍を吸収して提督が足りないのです。だからと言ってガルミッシュ要塞に残す訳にはいかないのです」

 

「閣下の麾下にはビューロー提督やベルゲングリューン提督が居るでしょうに、自分に無理をさせなくても大丈夫でしょう」

 

「既に二人には規定限界の兵を率いてもらってます。諦めて下さい」

 

「仕方ないですね。諦めます」

 

 ハンスはすぐに諦めた事を後悔する事になった。ガイエスブルク要塞に向かう道中で司令部のベテラン達から参謀教育と艦隊運用についてスパルタ教育をされる事になった。

 

「閣下は仮にも提督なんですから、分艦隊程度はご自身で運用が出来てもらわねば困ります!」

 

(しまった。昇進すると研修があるのを忘れていた)

 

 研修の教室と化した艦橋でベテラン達からスパルタで艦隊運用と参謀教育をされてるハンスを見て艦橋の乗組員達はハンスに同情したが助け舟を出す気は無いらしい。

 

(早く、ガイエスブルク要塞に到着して!)

 

「ガイエスブルク要塞に到着する迄に、全てを終わらせますよ!」

 

 ハンスの胸中を見透かしたベテラン勢はハンスの怠け心に釘を刺す。

 

(鬼!)

 

 この様にハンスは鬼教官と化したベテラン達の研修でガイエスブルク要塞に到着した時はフラフラであった。

 

(ガイエスブルク要塞が既に陥落したと思って遠慮なく扱きやがって!)

 

 ハンス達が到着する前にガイエスブルク要塞は陥落しており到着するとラインハルトが出迎えてくれた。

 

「ハンス、元気が無いな。どうした?」

 

 全ての事情を知っていてラインハルトが笑顔で聞いてくる。

 

「そりゃ、少将研修で扱かれましたからね」

 

「ふむ。まだ、元気があるみたいだな」

 

「はい、研修は終わりましたから!」

 

「そうか。なら卿は今から中将に昇進だ。引き続き中将研修を受ける様に!」

 

「えっ!」

 

 ラインハルトが満面の笑みで言う。その後ろではロイエンタールが冷笑を浮かべている。

 

「もしかしたら、レンテンベルク要塞の事を根に持ってますね!」

 

 ラインハルトは涼しい顔で否定する。

 

「卿は何を言っているのだ。レンテンベルク要塞を無血開城した功績で中将に昇進させるのだ。信賞必罰は当然の事ではないか」

 

「オーディンに凱旋してからで良いじゃないですか!」

 

「今回の戦いの戦後処理が忙しくなるからな。卿にも早めに昇進してもらい戦後処理を手伝ってもらわないと困る」

 

 ラインハルトの後ろで笑いを噛み殺しているロイエンタールの更に後ろでミッターマイヤーやビッテンフェルトが器用な事に声を出さずに笑っているのがハンスには見える。

 どうやら、ハンスには味方は居ない様である。

 

「つ、慎んでお受けします」

 

「では、頑張ってくれたまえ。ミューゼル中将」

 

 ラインハルトが立ち去った後にロイエンタールが目の前で立ち厳かな口調で宣言する。

 

「私が卿の研修の教官を務める事になった」

 

 ロイエンタールの色違いの左右の瞳には報復という色の光が宿っていた。

 

「もう、好きにして!」

 

 その後、言葉通りにロイエンタールに好きにされてしまったハンスであった。

 ガルミッシュ要塞からガイエスブルク要塞までの間に不幸の階段を上っている心境のハンスであった。

 階段を上る度に不幸がパワーアップしているのは気のせいだろうか。

 

「不幸の階段のぼる。僕は、まだ未成年さ」

 

 中身は八十過ぎているのに図々しい事を歌にして唄うハンスであった。



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ガイエスブルク要塞にて

 

 ロイエンタールも驚いたがハンスは意外な事に中将研修を一日で終わらせた。

 少将も中将も研修内容は殆ど同じなのだから当然と言えば当然でもある。

 ハンスは仕返しが出来なかったロイエンタールの機嫌取りと自分の昇進祝いとヴェスターラント攻撃阻止を手伝ってくれたミッターマイヤーに礼を兼ねて酒宴を開いた。

 ロイエンタールはハンスの作った手料理を肴に赤ワインの逸品を楽しんでいる。

 

「うむ、実に旨い。この肉の歯応えとソースが絶妙だな」

 

「同感!」

 

 ミッターマイヤーもハンスが持ち込んだ赤ワインを飲みながら同意を示す。

 

「しかし、平民の出のミッターマイヤー提督なら分かりますがロイエンタール提督は金持ちの出でしょう。自分みたいな素人じゃなく、プロの料理を食べ慣れているでしょうに」

 

 ハンスも自分の料理を誉められて悪い気はしないがロイエンタールの反応が不思議でもある。

 

「卿の料理は変に気取ってなく実に酒に合う」

 

 ロイエンタールの発言は意外にも正鵠を射ていた。ハンスがロイエンタールに出す料理は逆行前の世界で安酒場で働いていたハンスが、客に酒を注文させる為に考案した料理なのだから、気取る必要も余裕もなく酒を飲む為の料理なのである。

 

「俺は卿が軍を辞めて店を開く事を心から応援するぞ!」

 

「おい、ロイエンタール。迂闊な発言は止めておけ」

 

 ミッターマイヤーもハンスが軍を辞めて店を開く事を個人的には応援したいが公人としてハンスが野に下る事は反対である。

 ラインハルトに遠慮なく諫言できるのはハンスの他にオーベルシュタインとキルヒアイスだけである。

 ハンスは諫臣として貴重な存在と言えた。ハンスはラインハルトに対して情理を尽くして説得が出来る貴重な存在ある。オーベルシュタインは理論による説得に傾倒している。そして、キルヒアイスはと思考を進めた時に嫌な噂を思い出してしまった。

 

「そう言えば、ロイエンタール。元帥とキルヒアイスがやり合った噂を知っているか?」

 

「それは本当の話か?」

 

「あくまで噂だが……」

 

「危険な噂だな。どうせ、参謀長のNo.2不要論が火種だろう」

 

「確かに頭が切れる男だが理屈に合わぬからと言って、現状で上手くいっているものを無理に変える事もあるまい」

 

「確かに論として一理あるが平地に乱を起こす様なものだな」

 

「それは、問題が無いと思いますけどね。No.2不要論も実際は机上の空論ですよ」

 

 一刀両断でオーベルシュタインの論を切り捨てたハンスに二人が驚いて注目する。

 

「卿は参謀長殿と反対意見の様だが、後学の為に是非とも拝聴したいもんだな」

 

 ロイエンタールが意地の悪い笑みを浮かべてハンスに話を促す。

 ミッターマイヤーは親友の悪い癖が出たと思ったが純粋にハンスの意見を聞きたいと思い黙っている。

 

「そりゃ、普通に考えて上司と部下の間を取り持つ人間が必要でしょうよ。所謂、中間管理職ですけどね」

 

 あまりにも一般的な意見に二人の提督は肩透かしを食らった気分だが、確かにラインハルトと諸提督の間を取り持つ人物がいる。

 まずはオーベルシュタインは論外である。オーベルシュタインと話をする度胸が有ればラインハルトに直接に話が出来るだろう。

 そうなれば当然の事にハンスとキルヒアイスしか居ない。

 

「先に言っておきますが、自分は艦隊に関しては素人ですからね。それ以前に未成年を頼りにしないで下さい」

 

 二人の提督は釘を刺されて互いの顔を見た。

 確かに提督とか閣下と呼ばれる大人の男が未成年に頼るのは情けないと言える。

 

「そうなれば、キルヒアイス提督しか人は居ないでしょう」

 

 ハンスは現状維持が望ましいと言っている。

 

「それに、件のやり合った話もキルヒアイス提督が毎度の事で、元帥閣下に説教しただけでしょう」

 

 事も無げに言い切るハンスに噂を聞いたミッターマイヤーが疑問をぶつける。

 

「卿は何故、そう言い切れるのだ?」

 

「ガルミッシュ要塞を出る時にキルヒアイス提督に釘を刺しておきましたから」

 

「何だと!」

 

 二人の提督が異口同音に声を出す。

 

「ヴェスターラントの件でミッターマイヤー提督に言いましたが元帥閣下は参謀長に見事に乗せられましたからね。キルヒアイス提督の性格からしたら腹を立てると思いまして釘を刺しておきました」

 

 ミッターマイヤーの顔が青くなる。この少年は自分にヴェスターラントの件を依頼をしてきた時に確かに、それらしい事は言っていたが正確に事態を読み既に対策を取っていたのだ。

 ラインハルトやキルヒアイスがハンスを軍に留めたがる理由をミッターマイヤーは理解した。

 

 ヤン・ウェンリーが戦場の心理学者と呼ばれ正確に事態を予測したのは、ヤンの桁違いの洞察力に寄るものであるが、ハンスのそれは単にカンニングの結果である。

 しかし、ラインハルトに遠慮なく諫言が出来るのはハンスとラインハルトの相性でハンス個人の資質である。

 

「元帥閣下にしたら顔を見た事もない民間人より自分の命令で死地に行く部下が可愛いのは当然ですからね」

 

 ハンスの述懐にミッターマイヤーとロイエンタールも互いの顔を見る。二人とも士官学校に入学した時から覚悟を決めていた事で部下を死地に行かせる事は軍人としては当然の事だが目の前の少年は自分達と違うのである。

 少年は病身の母親を設備の整った病院に入院させる為に軍に身を投じたのである。

 

「卿が元帥閣下に対して遠慮が無い理由が分かった気がする」

 

 ロイエンタールの言葉には珍しく皮肉や冷笑の成分が混入していなかった。

 ハンスと自分達とでは出発点が違うのだ。だから、ハンスが流血を嫌う理由も理解が出来た。

 

「この戦いを最後の戦いにして欲しいもんですけどね」

 

 ロイエンタールもミッターマイヤーもハンスの言葉を一般論として捉えていたが、ハンスの言葉には帝国を掌握してフェザーンの小細工を逆手に取って同盟に侵攻するラインハルトに対しての危惧があった。

 

(キルヒアイス提督さえ生きていてくれたら、ラインハルトは無駄な流血を避けて帝国の内政に専念するだろう。同盟は無駄な出兵をせずに国力の回復に傾注するだろう。そして、同盟が国力を回復した頃には自分は寿命だろう)

 

「取り敢えずは、卿も姉の元に帰れるか」

 

 ロイエンタールが冷やかし半分で掛けた言葉にハンスも答える。

 

「はい、上手くいけば、年末興行の準備で忙しくなる前に帰れると思います!」

 

 ロイエンタールの冷やかしに気付かずに嬉しいそうに答えるハンス。

 それに肩透かしを食らったロイエンタールの表情を見てミッターマイヤーが笑いを噛み殺す。

 

「ふん、からかい甲斐の無い奴だ!」

 

「えっ、自分は今、からかわれたんですか?」

 

 ハンスの反応にロイエンタールは天を仰ぎ、

ミッターマイヤーは我慢が出来なくなった様で声を出して笑い始める。

 笑われたロイエンタールは小さく舌打ちして自室に引き上げる事にした。

 

「流石に名将は引き際を心得ているとみえる」

 

 ミッターマイヤーもロイエンタールに追い打ちを掛けた後に自室に引き上げる事にした。

 二人が帰った後にハンスは後片付けをしたテーブルの上に鞄を置いた。

 

「まあ、危険だが仕方がないか」

 

 ハンスが鞄から小型の火薬式の拳銃を二丁取り出す。

 装弾数は二発で口径も小さいが弾丸を炸裂弾にしてある。

 

「二発しか撃てないがブラスターは貫通するからなあ」

 

 弾丸が装填されている事を確認するとハンスはシャワーを浴びてベッドに潜り込む。

 

(全ては明日で決まるから早めに寝よ!)

 

 翌日、いつもの様に銃を身に付けると昨夜、確認した銃を両方の足首に装着する。

 

「ふむ、見た目も問題は無いな」

 

 そのまま自室を出て戦勝式典の会場に向かう。会場の入り口の前で警備兵から武器の提出を求められる。

 

「これは失礼、戦勝式典とか初めて何で知りませんでした」

 

 警備兵に言われるままに、いつも身に付けてる銃を渡す。

 

「ご協力、有り難う御座います」

 

「いえ、キルヒアイス提督も銃を提出したのですか?」

 

「はい、キルヒアイス上級大将閣下にも提出して頂きました」

 

「有り難う」

 

 キルヒアイスが丸腰なのを確認するとハンスは会場に入場する。

 会場には諸提督達が既に中央の道を挟み二列縦隊で並んでいる。

 ハンスは最年少提督のミュラーの横に並ぶ。

 緊張で額に流れる汗をハンカチで拭う。

 

「そんなに緊張する必要ないから」

 

 ミュラーが声を掛けてくれたが、何処か遠くからの声に聞こえる。

 一向に緊張が解けないハンスを見てミュラーが苦笑するのが分かったがハンスの関心はアンスバッハに集中していた。

 アンスバッハが死せる主君とともに会場に入って来るとハンスはハンカチを握り締めた。

 汗で手が滑らない様にする為である。

 

「主君の遺体を手土産にとは結構な事だ」

 

 誰かがアンスバッハに対して嘲笑するがアンスバッハは無視する。ラインハルトも窘める気は無い。

 アンスバッハは無言でラインハルトの前まで来ると一礼してから主君の亡骸に手を延ばす。

 会場に居る人間でハンス以外はアンスバッハの行動が理解が出来ていない。

 アンスバッハは亡骸から小型ランチャーを取り出した。スパルタニアン程度なら破壊する威力を有する兵器である。

 あまりにも意外な物の登場に誰も動く事が出来ない。

 狙われているラインハルトさえ動けないでいる。

 アンスバッハはラインハルトに狙いを定めると引き金を引いた。

 



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流血と止血と

 

 アンスバッハが引き金を引くと室内には轟音と閃光と爆風が誕生した。

 提督達は反射的に腕を上げて閃光と爆風から身を守る。

 そして、閃光と爆風が消えた室内で提督達の視野に飛び込んで来たのは上半身を血で染めて立っているキルヒアイスであった。

 キルヒアイスの足元にはアンスバッハが倒れている。

 そこにハンスの怒鳴り声とも言える声が響く。

 

「キルヒアイス提督、離れて!」

 

 キルヒアイスはハンスの声に反射的に横に飛び退いて従う。

 倒れているアンスバッハがキルヒアイスを追い掛ける様に左腕を上げかけた瞬間に左腕の肘が銃声と共に弾けて千切れ飛ぶ。

 提督達が銃声の発生した方向を見るとハンスが銃を構えたまま提督達の列を走り抜け、アンスバッハの千切れた落ちた腕を踏みつながら銃口をアンスバッハに向けたまま話掛ける。

 

「最期に言い残す事はないか?」

 

 アンスバッハの口から出たのは呪詛に近い言葉であった。

 

「そうか、貴様か。貴様がメルカッツやファーレンハイト、レンテンベルクにヴェスターラントを!」

 

 アンスバッハはラインハルトを討ち損じても半身であるキルヒアイスを道連れにと考えていたがハンスという存在を見落としていた事に最期に気付いた。

 

「ヴェスターラントは参謀長の仕業だ」

 

 それ以外は自分の仕業であると言外に認める。

 

「貴様さえ居なければ!」

 

 短い言葉にアンスバッハの怨念が込められていた。ハンスが居なくともアンスバッハの主君もアンスバッハ自身の運命も変わらないのだが、それをアンスバッハに説明する事も出来ないし説明する気もハンスには無かった。

 そして、口にしたのは別の事であった。

 

「それ以前に貴方は致命的な間違いをしている」

 

 ハンスとキルヒアイス以外にもラインハルトに取って重要な人物と言えばアンネローゼだが、流石にアンネローゼを暗殺する事はアンスバッハの武人としての誇りが許さなかった。

 

「なんか勘違いをしている様だが、貴方の間違いは主君の命令に従うだけで主君を諫めなかった事だ。娘とローエングラム侯を結婚させて数年すればリヒテンラーデ侯は寿命で死にリッテンハイム侯も簡単に倒して帝国の実権を握れたのに」

 

 ハンスの説明を聞いてアンスバッハの表情が一変する。

 

「そうか。そんな手もあったのか!」

 

 アンスバッハにもラインハルトと手を結ぶ発想はあったが結婚まではなかった。ブラウンシュヴァイクの気性からして諾と言わない事が分かっていた、ゆえにアンスバッハはブラウンシュヴァイクを説得する事を最初から放棄していたが、根気よく説得するべきだったと気が付いた。

 

「己の不明をヴァルハラで公に詫びねば……」

 

 アンスバッハが歯に仕込んだ自決用のカプセルを嚥下するのを誰も止めなかった。アンスバッハが助からないのは分かっていたからである。

 アンスバッハの目が光を失うのを確認するとハンスは銃を下げて自身も、その場で座り込む。

 

「キルヒアイス提督、怪我は無いですか?」

 

 ハンスに気を取られていた提督達もキルヒアイスの事を思い出して視線を向ける。

 

「私は大丈夫です。この血も返り血です」

 

 キルヒアイスが顔に浴びた血をハンカチで拭い取ると上着を脱いで見せた。

 上着の下には白いワイシャツが姿を見せた。

 

「閣下。やはり親衛隊を組織して下さい」

 

 オーベルシュタインがラインハルトに親衛隊を付ける事を要求している。

 どうやら以前に進言して却下された様子である。

 

「参謀長、親衛隊より先に大事な事を忘れてますよ」

 

「何の事だ?」

 

「実行犯は死にましたけど、アンスバッハに命令した主犯が残ってます」

 

「ふむ。確かに卿の言う通りだな。命令した主犯を逮捕せねばならぬな」

 

 二人の会話にキルヒアイスを筆頭に提督達は理解不能である。

 

「聞いての通り、アンスバッハに命令した主犯を卿らに逮捕して欲しい」

 

「主犯なら、そこに居るではないか!」

 

 ミッターマイヤーが吠える様に応えた。

 

「ブラウンシュヴァイクではない。主犯はオーディンに居る」

 

「誰の事だ!」

 

 今度はロイエンタールが応える。

 

「帝国宰相、リヒテンラーデ侯」

 

 その場に居た全員が絶句した。ハンスとオーベルシュタインは暗殺者の凶弾を躱した直後に潜在的な敵を倒す手段に利用してきた。

 

「あの老人が誠実で潔白な人間なら問題ないが、あちらも色々と陰謀を巡らせているだろう」

 

 ハンスも腕組みして頷く事でオーベルシュタインの意見に賛意を表している。

 

「要は互角の権力闘争という事か」

 

 ロイエンタールが事態を簡略化して言外に正当防衛だと全員に納得させる。

 

「どうやら、卿達も納得した様だな。ここの事後処理にメックリンガーとルッツが残留して、他の者は私に続け!」

 

 ここで初めて口を開いたラインハルトからの命令に提督達が部屋を出て行く。

 その場にはラインハルトとオーベルシュタインが残る。

 

「始まりましたな」

 

「ああ、新しい時代の始まりがな」

 

 そして、ラインハルトは謝罪と礼を言う為にキルヒアイスに会いに行くのであった。

 

 

 ハンスはキルヒアイスの旗艦ではなくミッターマイヤーの旗艦に乗り込んでいる。

 

「卿は何故、ここに居るんだ?」

 

 ミッターマイヤーの当然過ぎる疑問にハンスが答える。

 

「ミッターマイヤー提督はノイエサンスーシの内部をご存知で?」

 

 ハンスに言われてミッターマイヤーも気付いたがノイエサンスーシの何処に玉璽が保管されているのかミッターマイヤーは知らなかった。

 

「そうか、俺とした事が迂闊だったな」

 

「それから、玉璽を奪取した後に自分は少し消えますから」

 

「分かった」

 

 ミッターマイヤーは何をする気かと聞かなかった。

 基本的にハンスは人畜無害な存在であり、ハンス自身についてミッターマイヤーは信用していた。

 

「しかし、卿がオーベルシュタインと同じ発想の持ち主とは思わなんだよ」

 

「それ、褒めているんですか?」

 

「褒めるも何も事実だからなあ」

 

 ミッターマイヤーはハンスは人畜無害だと判断をしていたが、それとは別にオーベルシュタインと同じ発想をする事に戦慄していた。

 味方にすれば頼もしいが敵にすればオーベルシュタイン以上に厄介だと判断を下すしかない。

 ハンスには政治的な野心が無い。オーベルシュタインと同じ発想力を持ち、用兵家としても油断が出来ぬ相手である。

 まともに戦えばハンスに負ける事は無いと思っているミッターマイヤーだが、まともに戦わずにあの手この手と絡め手で来るだろう。

 

(俺も味方に居ながらアンスバッハに指摘されるまで気付かないとは迂闊な話だ)

 

 ミッターマイヤーは思考の海に浸かりながらも艦隊運用には手を抜かなかった。

 ガイエスブルク要塞からオーディンまで二十日間の行程を半分の十日間で移動したのである。

 

「ミュラーは衛星軌道上に展開、制宙権を確保しろ。その他は湖でも森でも降りられる所なら降りろ!」

 

 強行着陸の態勢から空挺部隊も市街地に降下させる。

 

「無茶させるなあ。命令する方もだが命令を受ける方も方だよ」

 

 モニターの中で器用に建物の屋根を避けて道や公園等に着地する空挺団に感心するハンスであった。

 

 ミッターマイヤーはノイエサンスーシに近い森に旗艦を強行着陸させると軍用車でノイエサンスーシに乗り込む。

 ハンスが案内役をして玉璽が保管されている地下金庫室まで一気に突入する。

 

「金を出せ!」

 

 ミッターマイヤーの拳骨がハンスの頭に炸裂する。

 

「誤解を招く様な発言をするな!」

 

「申し訳ない。つい、言ってしまいました」

 

 実際には現金か玉璽かの違いでやっている事は変わらないのだ。

 

「貴方達は帝国の権威を何と心得ますか!」

 

 定年間近の老職員がミッターマイヤーに抗議する。銃を構えた兵士も恐れない行動にミッターマイヤーも感心しながらも反論する。

 

「権威とは実力があっての物だ」

 

 ハンスはミッターマイヤーと老職員の会話を耳にしながら、その場から抜け出して後宮に向かう。

 後宮では市街の騒ぎに何事かと騒ぎになっていた。

 

「これは、ミューゼル准将ではなく中将閣下!」

 

「お久しぶりです。ベーネミュンデ侯爵夫人」

 

「この騒ぎは何事か?」

 

「はい、古狐と金色の狼が権力闘争の末に古狐が金色の狼に敗れました」

 

 ハンスが名を出さずに簡略化して事態を伝える。

 

「何と!」

 

「この事で、夫人には被害が及びませんが将来的には陛下や夫人にも被害が有り得ます」

 

「そちは、その事を伝える為だけに妾を訪ねて来た訳ではないであろう」

 

「はい。夫人は別にしても先帝陛下には恩が有りますから」

 

「それで、妾は何をすれば良いのじゃ」

 

「はい。金色の狼の姉に頭を下げて懇願するしかありません。それも、早い方が宜しい!」

 

「そうか、アンネローゼに頭を下げれば良いのじゃな」

 

 ベーネミュンデ侯爵夫人の物分りの良さにハンスも拍子抜けしたが、一刻を争う現状ではありがたい。

 

「夜が開ければ行動の自由も無くなります。夜が開ける前に陛下をお連れして行くべきです」

 

 ハンスが部屋を出て数分後には着替えを終わらせたベーネミュンデ侯爵夫人がいた。

 

「女性の着替えは時間が掛かるものだと思っていました」

 

「それは、時と場合によるものじゃ」

 

「それは結構な事で。陛下をお連れして抜け出しますぞ」

 

 本来の歴史ではエルウィン・ヨーゼフ二世は大人達の都合で翻弄された挙げ句に無責任極まり無い事に行方不明となる。

 今は母親として愛情を注いでくれるベーネミュンデ侯爵夫人がいる。

 願わくば平凡な貴族として平凡な人生を送って欲しいものだと思うハンスであった。

 それが、先帝フリードリヒ四世に報いる事だと思っていた。



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騒乱の夜明け

  

 帝都の市街は意外な事に静かだった。民衆も帝国の上層部で権力闘争が行われている事を知っているので流れ弾でも飛んで来るのではと警戒して家から出て来ない。窓から外を伺うだけである。

 騒ぎはノイエサンスーシとリヒテンラーデ侯の屋敷周辺だけであった。

 アンネローゼが居るラインハルトの屋敷には既にケンプ麾下の部隊が警護していた。

 

「お務めご苦労様。ケンプ提督は?」

 

「提督はリヒテンラーデ侯の一族の屋敷の方に行かれてます」

 

「そうか。それは残念」

 

 ハンスはケンプにも事情を話して協力してもらう気でいた。ケンプも二人の子供を持つ親なのだ。

 

「仕方ない。アンネローゼ様にハンスが来たと取り次いで下さい」

 

「了解しました」

 

 すぐにアンネローゼに面会が出来たのである。アンネローゼは既に着替えていて屋敷の奥の方が騒がしい。

 

「ごめんなさい。騒々しくて」

 

「いえ、私達も夜分に押し掛けまして」

 

「それで、私は何をすれば宜しいのでしょう?」

 

 流石にラインハルトの姉である。既にハンスの訪問の意図を悟っている様である。

 

「アンネローゼ様には、此方のベーネミュンデ侯爵夫人と皇帝陛下の庇護をお願いしたいのです」

 

 ここで初めてベーネミュンデ侯爵夫人が口を開いた。

 

「グリューネワルト伯爵夫人には頼める義理では無い事も、妾は重々承知しておるから妾はどうなっても構わぬ。しかし、陛下だけは!」

 

 そこには、侯爵夫人でも無く先帝の寵姫でも無く子を思う母親の姿があった。

 

(この人も歳の離れた夫の子を宮廷闘争の為に何度も殺された哀れな女なんだよなあ)

 

 ハンスは同じ男としてフリードリヒの気持ちを理解していた。恐らくベーネミュンデ侯爵夫人と距離を作る事で宮廷闘争から彼女を守ったのだろう。

 それを伝えなかったのがフリードリヒの罪なのだろう。

 

「私にも陛下は大事な方です。私は弟を育てるのに失敗しました。侯爵夫人は陛下を立派に育てて下さい。私も微力ながら、お手伝いさせて頂きます」

 

「有り難う御座います。アンネローゼ様!」

 

「有り難う御座います。グリューネワルト伯爵夫人!」

 

 二人から頭を下げられて困惑するアンネローゼである。

 

(しかし、この子の半分でよいからラインハルトも他人の事を思いやる事が出来ればいいのだけど)

 

 アンネローゼもハンスには出来れば弟の傍に居て弟が道を踏み外さない様に見ていて欲しいと思うのだが本人も友人でもあるヘッダもハンスが軍を辞める事を望んでいるので何も言えないのである。

 そして、アンネローゼが口にした事は別の事である。

 

「陛下もベーネミュンデ侯爵夫人も今夜は此方に御逗留された方が宜しいと思います」

 

 アンネローゼの提案にハンスも賛成をしたのでベーネミュンデ侯爵夫人もアンネローゼを信用する意思表示で後宮に帰らずに屋敷に宿泊した。

 ハンスも誘われたがハンスは忙しく他にも仕事があるのだ。

 キルヒアイスが無事だったから安心はしているが万が一の事を考えてリヒテンラーデ侯の一族の安全も確保しなければならない。

 

(オーベルシュタインがラインハルトの傍にいるからなあ)

 

 本来の歴史の様に十歳以上は死刑などという蛮行を許す訳にはいかない。

 キルヒアイスは途中でレンテンベルク要塞に行かされている。

 玉璽を手にしたキルヒアイスが帝位の誘惑に負けて自立する事を危惧したオーベルシュタインの仕業である。

 元同盟人のハンスからしたら判子の一つで権力が握れるとは馬鹿らしい事であるが専制政治においては玉璽は重大な意味を持つ。

 キルヒアイスが不在の現状でゴールデンバウム王朝を憎むラインハルトとオーベルシュタインの二人組の暴走が恐ろしい。

 取り敢えずケンプの元に行きリヒテンラーデ侯の一族の無事を確認するとケンプに幼帝の事を報告してリヒテンラーデ侯の一族の安全について協力を依頼した。

 

「確かに安全は保証するが元帥閣下の命令には逆らえんぞ」

 

「分かっています」

 

「元帥閣下に子供を殺す様な命令は私が出させません。出たとしても撤回させます!」

 

「すまんな。本来は俺達の仕事なんだが」

 

 やはり、ケンプも子を持つ親である。自分の息子達と変わらぬ子供達を殺すのは気が進まない様子である。

 本来の歴史では独身のロイエンタールが指揮を取るのはケンプの事を思っての事だったのだろう。

 ケンプの次にハンスが向かったのはロイエンタールの元である。

 まずはロイエンタールに幼帝の事を報告してリヒテンラーデ侯の一族について話をした。

 

「卿の気持ちは理解が出来るが俺にも元帥閣下の命令を覆す事は出来んぞ」

 

「まあ、その時はロイエンタール提督が元帥閣下の命令を一番に受ける立場ですからね」

 

 ハンスの嫌味にロイエンタールも流石に慌てる事になる。

 

「ちょっと待て、何故に俺が貧乏くじを引かねばならん!」

 

「そりゃ、当たり前でしょう。キルヒアイス提督が不在の現状で大将は二人のみでロイエンタール提督の方がミッターマイヤー提督より年長なんですから」

 

「おい、こんな時に階級を持ち出すのはズルくないか?」

 

「別に軍隊じゃなくとも普通はそうでしょう」

 

 ハンスの主張は正論なのでロイエンタールも何も言えない。

 

「それが嫌なら自分に協力して下さい」

 

 ロイエンタールとて子供を殺すのは嫌な事である。しかし、ハンスの言う通り命令を一番に受けて実行の指揮を取るとなれば自分しかいないのである。

 

「分かった。卿に協力する」

 

 ロイエンタールとの打ち合わせが終わる頃には夜も明けていた。

 ロイエンタールの元にミッターマイヤーを筆頭に提督達が集まって来る。

 

「リヒテンラーデ侯を逮捕拘禁した。玉璽も確保した。リヒテンラーデ侯の一族の身柄も確保した。閣下の姉君と幼帝の安全も確保した。後は誰が閣下に連絡をするかだが……」

 

 全員の視線がロイエンタールに集中する。

 

「その他の連中は理解が出来るがミッターマイヤーまで俺を見るな。卿も大将だろ!」

 

「卿は俺より年長ではないか!」

 

「こんな時に年齢を持ち出すのは卑怯だぞ」

 

「まあ、元帥閣下の報告は自分がしますよ。最初に話を出した人間ですから」

 

 ハンスが報告役を買って出るとケンプも賛成した。

 

「ロイエンタール提督も気が進まぬ様子だし、やりたい人間が他にいるなら、やりたい人間にやらすのが良いと思うぞ」

 

 ケンプの意見に他の提督達も賛成する。ロイエンタールが言えば真面目なミッターマイヤーが「卿は未成年に嫌な事を押し付けて恥ずかしくないのか!」などと言って反対した事だろう。

 根回しとは大切である。

 

「では、早速元帥閣下に報告をしてきます」

 

 ハンスが報告の為に席を立つと提督達も自然解散した。

 部屋に残ったのはロイエンタールとミッターマイヤーだけである。

 

「何か言いたい事があるのか?」

 

 ロイエンタールがミッターマイヤーの表情を見て水を向ける。

 

「卿には呆れたぞ。未成年に仕事を肩代わりして貰うとは!」

 

 ミッターマイヤーは小賢しい芝居を看破していた。

 

「そう責めんでくれ。奴から言い出した事だ」

 

「ケンプまで巻き込んでか」

 

「ああ、全部、奴のシナリオだ」

 

「そうか、奴の事だから流血を避ける為なんだろうが、情けない事だ」

 

「確かに、戦場で血を流させる事は出来ても戦場の外では流血を回避させる事が出来んとは大将とか提督とか呼ばれるのが恥ずかしい事だ」

 

 自分達の地位を自嘲するローエングラム陣営の出世頭の二人である。

 

「ああ、それで今回は誰を助けるつもりなんだ?」

 

 ミッターマイヤーの発言にはロイエンタールも驚いた。

 

「卿は知らないで俺達の猿芝居に付き合ったのか!」

 

「奴の事だからな」

 

「今回はリヒテンラーデ侯の一族らしい。あの二人はゴールデンバウム王朝には恨みがあるからな」

 

「まさか、一族を皆殺しとかは無いと思いたいが……」

 

 ミッターマイヤーの危惧を思い過ごしとは言い切れないロイエンタールであった。

 

 ミッターマイヤーとロイエンタールから「奴」呼ばわりされたハンスは通信室でラインハルトに報告をしていた。

 

「よくやってくれた。卿達の働きには厚く報いるであろう」

 

「有り難う御座います」

 

「帝国宰相であった方を銃殺とはいくまい。リヒテンラーデ侯には服毒をお勧めしろ」

 

「御意」

 

「それから、リヒテンラーデ侯の一族は女子と十歳未満の男子は辺境送りにしろ」

 

(ちょっと待て、十歳以上の男子は……)

 

「十歳以上の男子は死刑」

 

「ほう、十歳以上の男子は死刑ですか。後学の為に理由を教えて頂けますか?」

 

「私がゴールデンバウム王朝の打倒を誓ったのは十歳の時だ。それまでは子供と言えるだろう」

 

「失礼ながら理屈には合いませんな。閣下がゴールデンバウム王朝の打倒を誓っても幼年学校の学生だった訳ですから、一人前とは言えませんな」

 

 ハンスの目に強い意思の光が宿り始めた。

 

「ほう、では幾つから一人前と言えるのか?」

 

「閣下が初陣した年齢でしょうか。私の様な兵卒からは幼年学校や士官学校の学生など半人前ですな」

 

 ラインハルトは数瞬の間、考え込みハンスの意見を受け入れた。

 

「意見を聞き入れて貰い有り難う御座います。それから、リヒテンラーデ侯とリヒテンラーデ侯の一族については取り調べをさせて頂きたい」

 

「何の取り調べだ?」

 

「あの手の連中は、権力を使って冤罪やら濡れ衣を着せる事が常套手段ですからね。そんな人達の名誉を回復してやりたいし、同じ死刑にするなら遺族の前で行いたいと思います」

 

 ラインハルトもハンスの意見に賛成をして一族の取り調べを許可した。

 

「有り難う御座います。恨みを呑んで死んだ被害者や遺族に代わりお礼を言わさせて頂きます」

 

 通信を切った後でハンスは、その場に座り込んだ。

 

(これで、自分に出来る事は全て終わった)

 

 リヒテンラーデ侯の一族が貴族としては品行方正なのを既に調査済みである。

 取り調べに時間を掛けて一年後のエルウィン・ヨーゼフ二世の即位一周年の恩赦で全員を辺境送りにする計画である。

 

(まあ、一年間は軍を辞めれんな)

 

 この事が後に帝国を震撼させる事件の発覚に繋がるとはハンスも予想していなかった。



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膿と闇と改革と

 

 ラインハルトは凱旋すると約束を守り、提督達を全員昇進させた。

 ハンスもアンスバッハの暗殺行為の阻止とリヒテンラーデ侯打倒の功績で大将に昇進の話もあったが中将として経験も無いままに昇進するのは問題があると言って辞退した。代わりの勲章授与も断り有給とボーナスを貰った。

 逆に戦勝式典に銃を持ち込んだ事を咎められるのではと心配したがオーベルシュタインも銃の事は不問にした。

 キルヒアイスは元帥に昇進して帝国三長官を兼ねて帝国最高司令官となり、ラインハルトは公爵に階位を進め帝国宰相となり首席秘書官としてヒルダが就任した。

 キルヒアイスの下でオーベルシュタインは軍務副尚書、ミッターマイヤーは宇宙艦隊副司令長官、ロイエンタールは統帥本部副総長となった。

 ラインハルトが至尊の座につけば三人の肩書きから副が取れ、キルヒアイスが帝国宰相になる事は明白であった。

 オフレッサーは上級大将から大将に降格して自ら退役した。

 本人曰く「ヴェスターラントの様な蛮行を行う人間と組んだケジメだ」と言う事である。

 退役後には私財を投じて孤児院を作り院長として多くの子供達がら親しみを込めて「親父さん」と呼ばれ平穏な余生を送る事になる。

 オフレッサーの死後、オフレッサーの墓に花束が絶える事がなく、後世、潔く退役した事や孤児院を作り多くの子供達の保護者となった事でゴールデンバウム王朝末期の武人の鑑と評される事になる。

 尚、ロイエンタールは孤児院建設に協力する事でぶん殴られる難を逃れた。

 退役したオフレッサーを羨ましく思っていたハンスの元に凶報が届く。

 

 事件の発覚は軍務省に届いた問い合わせであった。

 オーディンの田舎町からリヒテンラーデ侯の一族の屋敷に出稼ぎに出た娘の母親が娘と連絡が取れないが未成年の使用人も逮捕されたのかと問い合わせが軍務省にあった。

 担当職員が件の屋敷に残っている使用人に聞いてみると、そもそも、ここ数年は人を雇っていないとの事であった。

 不審に思った職員が娘の母親に折り返し詳しく事情を聞くと確かに帝都までの交通費と仕度金を受け取っていた。

 道中で何か事件に巻き込まれたのかと思い警察に通報するのと同時に件の屋敷の当主に事情を聞くと自分は知らないと言っていたが交通費と仕度金を渡している事を指摘すると明らかに狼狽したので不審に思い、一族の管理をしているロイエンタールに許可を得て自白剤を使用してみると驚愕すべき情報を得る事となる。

 

 屋敷には数代前の当主が作った地下の秘密部屋があり、そこに被害者を監禁しているという。

 驚いた担当職員は上司であるロイエンタールに報告する。

 報告の内容に驚いたロイエンタールが屋敷に部下を急行させると当主の自白の通りに秘密部屋があり行方不明の被害者を発見したのである。

 被害者は衰弱しており病院に搬送した結果、一命は取り留めたが事情聴取が出来ない状態であった。

 ロイエンタールは軍部の仕事では無いと判断して警察に当主の身柄を渡して捜査を任せ報告だけは受ける事にした。

 

 そして、警察からの報告書は帝国を震撼させるものであった。

 当主の名はカール・フォン・ハールマンで二十数年前に伯爵家を継いで以来の犯行であった。

 ハールマンは伯爵家を継いだ直後から犯行を繰り返していた。

 最初の被害者は数人は使用人であったが何度も使用人が行方不明になると怪しまれるので、以降は使用人募集をして面接に来た中から好みの女性を誘拐していた。それも続くと怪しまれるので繁華街で家出娘や好みの少年を言葉巧みに誘い犯行に及んでいた。

 今回は内乱の為に繁華街も人が少なく閑散としていた為に使用人を募集して犯行に及んだのである。

 ハールマンの犠牲になった人数は百四十五人であり、全ての犠牲者の氏名と年齢を記録に残していた。

 押収された証拠物件の中にはハールマンが犠牲者を殺害する前に楽しんだ記録映像も残っており犠牲者ごとに感想を記してあった。

 帝国史上、類を見ない大量猟奇殺人事件であった。

 

 ロイエンタールから連絡を受けたハンスは本来の歴史では闇に消えていた事件に自失していたが事の深刻さに気づきラインハルトに上申してリヒテンラーデ侯の一族のDNA検査をして過去の未解決の刑事事件の証拠と照合した結果、一族の二割にあたる人間が何らかの事件に関わっている事が判明した。

 

 更に悲劇は続いた。一族の女性達の中で自殺を図るものが続出したのである。

 自分の父や夫に息子等が如何なる時代でも恥ずべき犯罪を犯していたとなれば、誇り高い貴族の女性が絶望しても無理からぬ事であった。

 

 そして、ハンス以上に衝撃を受けた人物はリヒテンラーデ侯であった。

 リヒテンラーデ侯の自裁は決定していたが一族の者達が死刑にならずに辺境で平穏な生活を送れる事を見せて安心させてからとハンスの親切心が裏目に出てしまった。

 事態を知ったリヒテンラーデ侯は水も食事も一切を拒否しての衰弱死を選んだ。

 本人に自覚があったのか不明だがリヒテンラーデ侯の死は紛れもなく憤死であった。

 

 そして、逆行前のハンスも知り得ぬ事実があった、闇に葬られた歴史上の発見があった。

 一族の内でも、特にリヒテンラーデ侯に近い人達に形見として渡すつもりで、リヒテンラーデ侯の私物を調べて判明した事だがリヒテンラーデ侯はラインハルトを陰謀の末に始末した後に同盟と和平交渉をする気でいた事が分かった。

 リヒテンラーデ侯は同盟と和平条約を結び幼い皇帝を名君に育てる気でいたのだ。

 ハンスはゴールデンバウム王朝の闇に続きローエングラム王朝の闇を見てしまった。

 ローエングラム王朝の開祖ラインハルトは銀河帝国のみならず、フェザーンと同盟を滅ぼした後にヤン・ウェンリー一党と自身の感情に任せて戦い大量の血を流す事になる。

 同時代人であるオーベルシュタインが批判しているが確かに交渉をすれば良いだけの話である。

 その為にリヒテンラーデ侯が同盟との和平を考えた事はローエングラム王朝によって闇に葬られたのである。

 

 クラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵、フリードリヒが政治に対して一切の興味を示さなかった為に帝国の政治を取り仕切り、外戚であるブラウンシュヴァイクやリッテンハイムを牽制して時には諌め、後宮内ではベーネミュンデがアンネローゼを中傷するのを窘め、フリードリヒに対しても諫言して皇帝としての自覚を促し大過なく帝国を運営した人物であった。ゴールデンバウム王朝末期の忠臣であると言えた。

 

(この様な死に方をする程に罪深い人ではなかったのに)

 

 こうしてハンスはゴールデンバウム王朝の膿とローエングラム王朝の闇を知る事になる。

 

 ハンスとしてはリヒテンラーデ侯の一族と言えども血を流す事なく辺境で平穏に暮らしてもらいたいと願った事が裏目にでて大量の自殺者を出す結果になってしまった。

 唯一の救いはハールマン伯爵に監禁されていた少女が順調に回復している事である。

 遺されたリヒテンラーデ侯の一族に同情したキルヒアイスの働きで全員が辺境送りとなった。

 リヒテンラーデ侯の一族の問題でハンスが暗澹たる気分で日々を過ごしている間にラインハルトとキルヒアイスは帝国の改革を行っていく。

 

 その一環として新しくレンネンカンプ提督とアイゼナッハ提督が取り立てられた。

 更にハンスによってリップシュタット軍から引き抜かれたメルカッツとファーレンハイトが現場復帰をした。

 メルカッツは士官学校の校長として一線を退く形であったが提督達からは絶賛されていた。

 

「俺達の時代に校長に就任して欲しかったぜ」

 

 オレンジ色の髪の提督と食うために軍人になったと公言する提督が異口同音に言ったものである。

 これには、ラインハルトとキルヒアイスも苦笑するしかなかった。 

 新しく地位を得る者もいれば失う者もいる。

 憲兵総監のオッペンハイマー上級大将が贈賄罪で現行犯逮捕され、後任にはケスラー大将が就任した。

 

 更に年が明けるとブラウンシュヴァイク公の腹心であった。シュトライトがラインハルトの副官となった。

 

「何で宰相閣下に副官が必要なんだ?」

 

 ハンスの疑問は文武の両方の幹部の疑問でもあったが言外にオーベルシュタインが支持した事から一種の政治宣伝であると思われた。

 

(まさか、同盟進攻の為の布石じゃないよな)

 

 ハンスとしてはラインハルトには帝国だけで満足して欲しいと思っている。同盟は衆愚政治のまま腐り果てて財政赤字である。征服しても新たに予算を回す事になる。

 

(問題はフェザーンのハゲ親父だよなあ。本来の歴史では移動要塞で帝国を嗾けるけど)

 

 ハンスの心配は杞憂に終わった。移動要塞の話はキルヒアイスの一存で許可をされたが予算を大幅に削られた為に完成まで数年は掛かる事になる。

 

「今は軍部の組織改革で人手が欲しい時期です。それでも、軍部から民間に人を返さないといけません。不要不急の案件に予算も人手も出せません」

 

 この時期、ラインハルトもキルヒアイスも改革に忙殺されていた。

 リップシュタット戦役で滅んだ貴族の領地に新しく帝都から人を派遣する必要があり地方行政のプロが必要であった。

 そして、軍部でも帰順した者や投降した者が本来の歴史より多く再編するのに忙しかった。

 更に貴族の私兵が居なくなった為に宇宙海賊が跋扈する様になり討伐の必要もあった。

 オレンジ色の髪の提督が宇宙海賊討伐に立候補したが却下された。

 代わりに現職復帰したファーレンハイトが討伐の任を受ける事になる。

 この様に帝国では改革が急ピッチで進められたのである。



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有給休暇と未来

 

 連日の様に各省庁から報告や上申に申請と会議とラインハルトを筆頭に文武の幹部達が改革の為に忙しく働いている時にハンスは有給休暇の申請をしている。

 

「中将殿は姉君とバカンスとは優雅な事だな!」

 

 上司であるロイエンタールに嫌味を言われてしまった。

 

(そう思うなら軍を辞めたらいいでしょうに。軍を辞めても食うに困る家でもないでしょう)

 

 流石にハンスも口に出して言える事と言えない事がある。

 

「今は情報部も暇ですから、今のうちだけですよ」

 

 口では当たり障りの無い事を言う。この程度の社交辞令はハンスでも言えるのである。

 

「まあ、良い。自分も卿の年頃は如何に授業をさぼるかを考えていたからな」

 

 ロイエンタールは一応の理解を示しながらも釘を刺してきた。

 

「いつ不測の事態が起こるか分からん。卿の力が必要になる場合もあるから心してくれ」

 

「まあ、今の時期は大丈夫だと思いますよ」

 

「先の見える卿が言うなら、俺も安心が出来る」

 

 この時期、帝国も改革で忙しいが同盟も去年のクーデター騒ぎのダメージから立ち直れないでいた。

 フェザーンは同盟政府に対してヤンをイゼルローンから引き離す工作をしたがガイエスブルクの工事が終了しておらず、折角の工作も空振りである。

 

(まあ、金が無いのではなく単純に人手不足だからなあ)

 

 フェザーンにしたら予算の問題なら融資すればすむ話だが人手となるとフェザーンも右から左とはならない。

 

(フェザーンのハゲ頭が苦虫を噛み潰しているだろなあ)

 

 ハンスからハゲ頭と呼ばれたルビンスキーは苦虫を噛み潰している暇もなかった。

 リップシュタット戦役でフェザーンに亡命して来た貴族の相手で忙しいのである。

 彼らは帝都に少なからぬ不動産を所有しており、それをルビンスキーに売り付けにくるのだ。

 ルビンスキーにして見れば既に不動産も帝国政府に接収されているので買い取るつもりは無かったのだが自暴自棄の挙げ句に犯罪に走られると困るので最低限の資金を与え同盟に亡命させるのである。

 更に地球教の資金源であるサイオキシン麻薬の売買が不調であり、地球教から資金の提供を催促されているのである。これもハンスが打った布石の一つである。

 

「老人達にも困ったものだ。大金を動かすのに、それなりの手間が必要なのを理解しておらん!」

 

 ルビンスキーが愚痴を言うのは、極めて稀な事で酒の相手をしていたドミニクが面白そうにルビンスキーの顔を見ている。

 

「私の顔に何かついているのか?」

 

「貴方が愚痴を言うのが珍しくてね」

 

「まあ、資金提供は急がせる。帝国が動かぬなら動かざるを得ない状況を作れば良い」

 

「また、何か悪さをするつもりね」

 

 まるで子供の悪戯を見つけた様な言い種のドミニクにルビンスキーは笑うだけであった。

 

 そして、子供の悪戯並みの事をする女がいた。風呂上がりの着替えの下着を男性用から女性用にすり替えている。

 しかし、ハンスが予想より早く風呂から上がって来てしまった。

 

「あ、あら、もう上がるの?」

 

 ハンスの目には哀しみの光が宿っていた。

 

「……ごめんね。健康な女性だからね。でも、本人がいるから遠慮しなくてもいいんだよ」

 

 何か女性として以前に人間として盛大な誤解を受けている事は理解したヘッダであった。

 

「ち、ちょっと違うのよ!」

 

「大丈夫だよ。下着に悪戯するのは若い頃はする人も少なくないから女性は珍しいけど」

 

 完全に誤解されてしまっている。誤解を解こうと慌てるヘッダである。

 

「違うのよ。誤解よ。誤解!」

 

「でもね。他人のは駄目だよ」

 

「違う!話を聞いて、下着に悪戯するつもりは無いわよ!」

 

「嘘つけ!下着をすり替える悪戯するつもりだった癖に!」

 

 ヘッダの音速の拳骨がハンスの脳天に炸裂する。

 

「分かっていて、からかったんかい!」

 

「アホかい。タオルを腰に巻いて新しい下着を出すだけだよ。埒もない悪戯をしたくせに!」

 

 理不尽だと思いながら痛む頭をさするハンスである。

 

「湯冷めするわよ。早く体を拭いて着替えなさい」

 

「下着は?」

 

「目の前に有るでしょう」

 

「これ、女性用だけど」

 

「私の言う事が聞けないの!」

 

「了解しました!」

 

 無言の圧力に簡単に屈したハンスが女性用の下着を着るとドレスまで用意されていた。

 

「ご丁寧に、そんな物まで用意してたのかよ」

 

「可愛いでしょう」

 

 ヘッダも久しぶりの旅行で羽目を外すつもりらしい。結局、ハンスはドレスを着せられメイクにウィッグまでされてしまった。

 

「可愛いわよ!」

 

 鏡の中には美少女がいた。

 

「流石、役者だけあってメイクの技術は凄いね」

 

 ハンスも関心する程のメイク技術である。

 

「駄目よ。ハンナちゃん。女の子なんだから、お淑やかに」

 

 どうやら、生きた人形遊びをするつもりらしい。ハンスも呆れながらヘッダに付き合う。

 

「では、お姉様、何時まで続けたら宜しいのでしょう?」

 

「取り敢えず、レストランから帰るまではね」

 

 時計を見るとレストランの予約時間である。メイクを落とす時間は無い。

 

「謀りましたね。お姉様。謀りましたね」

 

「恨むなら自分の生まれの不幸を呪うがいいわ」

 

 ハンスには別の意見があった。生まれの不幸よりヘッダのメイク技術を呪いたい。

 

「もう、お姉様たら!」

 

 文句を言いながらも演じ続けるハンスである。

 

「もう、帝都ではないけど、ここもオーディンなんですからね。知人に会ったら大変ですわ」

 

「大丈夫よ。知人に会っても分からないわよ。女優の私が保証してあげる」

 

(アホか!手を見れば女の手じゃない事は、すぐにバレるわ)

 

 顔や体型は誤魔化せても手だけは誤魔化せないが、今のハンスを見て手に注目する人は稀であろう。それほどにハンスは美少女に化けていた。

 

 レストランでは男性だけではなく女性達の視線も集めてしまった。

 ヘッダは帝国では知らない人がいない有名女優である。ヘッダに視線が集まれば自然とハンスも視線を浴びるのである。

 

「お姉様が選んだレストランだけあって、とても美味しいですわ」

 

「そうなのよ。ここは隠れた名店なのよ」

 

 二人は別の意味でも注目を集めていた。何せ女性二人で五人分の料理を注文して全ての料理を食べ尽くしたのだ。

 

「女優は体力を使うから食べる量も凄いなあ」

 

「もう一人のフロイラインも新人か後輩の女優なのか?」

 

「羨ましいわ。あれだけの料理を食べて、あのプロポーションなんて」

 

 誤解を拡大生産している事に二人は気付きながらも頓着する事なく食事を進める。

 

「お姉様。ホテルに戻ったらバーに行ってみたいですわ」

 

「駄目よ。まだ、未成年でしょう。それに夜は短いわ」

 

 ヘッダの言葉に顔を赤くするハンスだったが幸いにもファンデーションを塗っていた為に周囲に気付かれる事もなくレストランを出る事ができた。

 

「もう、お姉様たら」

 

 頬を膨らますハンスの表情は女性のヘッダが見ても愛らしくホテルの部屋に戻っても演技を続ける。

 

「お姉様、もうメイクを落として下さい」

 

「駄目よ。ハンナちゃん。今から可愛がって上げますからね」

 

「えっ!」

 

 

 翌朝、ヘッダに抱き枕にされたハンスは窓硝子に映った自分の顔を見て驚く事になる。

 

「ちょっと、化粧が少しも落ちてないじゃん」

 

「もう、何を騒いでいるのよ?」

 

 ハンスの声で目覚めたヘッダが寝惚け声で聞いてくる。

 

「ねえ、化粧を落としてよ。朝食も食べに行けないよ」

 

「それ、舞台用のメイクだから落とすのに時間が掛かるから朝食はルームサービスでいいでしょ」

 

「舞台用のメイクって、職業技術を悪用するんじゃない!」

 

「あら、ハンナちゃんは乱暴な口を聞くわね。お仕置きね」

 

「ちょっと、嫌だ!」

 

「駄目!」

 

 結局、ハンスが食事を摂れたのは昼食であった。

 

「もう、強引なんだから!」

 

 昼食が終わり部屋に帰ってきたハンスがヘッダに苦情を言う。

 

「貴方が可愛いのがいけないのよ」

 

 ヘッダは苦情を言われも艦砲射撃を受けたイゼルローン要塞の様に平然としている。

 

「はあ、二度と女装なんぞせん!」

 

 知らぬが仏で二度目の女装である。

 

「もう、退役して結婚した時が怖いよ」

 

「子供は最低でも二人は欲しいわね」

 

「二人で十分だよ」

 

(迂闊に同意したら体力が持たん事態になるな)

 

「まあ、いいわ。二人作る事は同意してくれた訳だし」

 

 満足そうに笑うヘッダを見て、将来の結婚生活を夢みてしまったハンスである。

 逆行前には家庭を持つ以前に自分が生きる事だけで精一杯だった。

 ヘッダの仕事が仕事だけに一般的な家庭は無理だが、温かい家庭を作りたいと思うハンスだったが、ある事に思い至った。

 

(そう言えば、キルヒアイス提督に期待ばかりしていたが、ラインハルトは子供が生まれるのと前後して病死するんだった!)

 

「どうしたの?」

 

 ヘッダがハンスの顔色が変わった事に気付いて声を掛けて来た。

 

「ねえ、もしだよ。僕が一人の人間を見捨てても結婚してくれる?」

 

 ハンスの目に真剣な光が宿った事を認めてヘッダも真剣な顔になり応える。

 

「貴方が誰を見捨てて誰を救うかは私は関知しないわ。でも、貴方が後悔する事はして欲しくないし、そんな貴方と結婚はしたくないわ」

 

 ハンスは言外にハンスの気持ちを尊重してくれたヘッダに感謝した。

 

「また、失敗しても安心しなさい。私が癒してあげるわ」

 

「あ、ありがとう」

 

「でも、今は全てを忘れなさい。今の貴方は心が疲れてるから」

 

 ヘッダはリヒテンラーデ侯の一族の事で傷付いたハンスの事を気にしていたのだ。

 ヘッダはハンスを抱きしめるとハンスの唇を自分の唇で塞いだ。

 自分にはハンスの手助けは出来ないし完全に癒す事も出来ない。

 しかし、自分が大海を渡る鳥が数刻の間、羽を休める為の止り木にはなれる事は知っていた。

 



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ヘッドハンティング

 

 ハンスはバカンスから帰るとフーバーと打ち合わせをしてフェザーンへの出張をラインハルトに申請した。

 

「閣下、休み明けにしては忙しいですね」

 

 フーバーとしては事前に出張と言って欲しいものである。

 

「事情が変わりましたから、留守の間を頼みます。准将」

 

「私は大佐ですよ」

 

「既にキルヒアイス元帥には言ってますから、正式な辞令は明日になりますが准将です」

 

「えっ!?」

 

「当然でしょう。メルカッツ、ファーレンハイトの両提督を引き抜き、ヴェスターラントの異変の報を敵より先に掴んでるんですから」

 

 驚くフーバー准将に構わずにハンスが説明する。

 

「それに准将になれば自分のサインじゃなく准将のサインで大丈夫な案件もありますから」

 

「閣下……」

 

 フーバー准将にしてみれば佐官になれた事も僥倖なのに将官にまで昇進するとは思ってなかったのだ。

 

「では、留守の間に例の事を頼みます!」

 

「はい、了解しました」

 

 バカンスから帰って来てからのハンスは忙しい。ラインハルトにフェザーンの行政官の引き抜きを進言したのである。

 フェザーンは辺境惑星の開発事業にも出資しており、開発事業の行政官も多いので引き抜く相手には困らないのである。

 引き抜きが表向きの理由だが本当の目的はフェザーンを通じて遺伝子治療の視察である。

 帝国の遺伝子治療は同盟に比べて二、三十年程度の遅れがある。

 これは、劣悪遺伝子排除法による影響なのだがラインハルトが死去した後に遺伝子治療による治療法が旧同盟領で発見されている。

 

(今の段階で完治は無理でも対処療法で生き延びる事は可能かもしれん)

 

 逆行前の世界で治療法は発見されたが、流石に何時ものカンニングでもハンスには治療する事が出来ない。

 

(まあ、本人の医者嫌いが原因で末期になって病気に気付いたからなあ)

 

 素人のハンスとしては早期発見、早期治療しか手段は無い。

 フェザーンの医療技術も把握していないので膠原病と遺伝子治療の権威を探す事から始める事になる。

 

 表向きには行政業務の専門家を引き抜きながら医師を探す事になる。

 昼間はフェザーンの高等弁務官事務所で職員から情報を集めて、夜は酒場等で情報集めをする。

 目ぼしい人物を見つけると交渉を開始する。

 

「ルビンスキー閣下も所詮は人の親で、今の秘書官はルビンスキー閣下の隠し子らしいじゃないですか。しかも、フェザーンでは貴方の様な行政業務のプロが活躍する場も少ない。逆に帝国は行政業務のプロが足りない状況でローエングラム公は縁故等が嫌いな方です。実力さえ有れば出世は思いのままです。帝国に来ませんか?」

 

 隠し子とはルパート・ケッセルリンクの事で、本当は親と子で殺し合いをする荒んだ関係なのだが、知らない人間から見れば、若いルパートの出世は縁故によるものに見えただろう。

 

(まさか、危険人物を監視する為に側に置いているとは、普通は思わんよなあ)

 

「分かりました。詳しい条件を聞かせて下さい!」

 

 ハンス自身が驚く程に簡単に引き抜けた。自身の才能に自信を持ち不遇な状況にいる者が新天地を求めるのは当然の話である。

 ハンスはコツコツと引き抜きをしながら膠原病の勉強と医師を探しをするのであった。

 そして、八人目のジャン・ジャックを引き抜きに成功した時にハンスが求めていた情報を得られた。

 

「遺伝子療法の専門家なら私の兄が同盟では専門家です。閣下の家族に病人がいるなら私が口を聞きましょう」

 

「有り難う御座います。自分の身内ではありませんけど、重病人がいるのです!」

 

「分かりました。一度、フェザーンの病院に入院してから転院の形になります」

 

「分かりました。すぐに本国に連絡します」

 

(取り敢えずは、ヒルダさんの親戚のキュンメル男爵で試してみるか。座して死を迎えるよりはマシだろ)

 

 何気に酷い事を考えているハンスであったが、ハンスにはハンスの言い分がある。貧困の為に従軍して片腕と片足を無くしたハンスには生活の心配も無くヒルダに愛情を受けていたハインリッヒは羨ましい身分なのである。

 ハインリッヒが聞けば怒って反論したであろう。

 

「一応はカルテのコピーもお願いします。先に兄にみせてからの方が糠喜びをさせる事が無いでしょう」

 

「分かりました!」

 

 ハンスはヒルダに直ぐに連絡を取り、カルテのコピーとマリーンドルフ伯の許可を得た。

 ハインリッヒの入院の手筈を整えると引き抜いたジャン・ジャック達をフェザーンから送り出して自分はフェザーンに残留する。

 周囲には引き抜き工作を続行する為と説明したが、それは事実でもあったが他にも目的があった。

 ハンスはジャン・ジャック達を送り出した翌日にシューマッハ達が経営しているアッシニボイヤ渓谷の農場に行き亡命したシューマッハの部下と面会した。

 

「そうか。シューマッハ大佐は居ないのか。ところで卿達はどうする?」

 

「どうするとは?」

 

「このまま農場で暮らすのも良いがオーディンに家族が居る者も居るだろう。一緒に帰るか?」

 

「自分達は帰れる事が出来るのですか?」

 

「そりゃ。帰れるさ。卿達は帝国人だろ」

 

「しかし、自分達はローエングラム公を敵に回していたんですよ」

 

「そんな事を言っていたら帝国軍の半分は処分する事になるよ。それに、私なんか帝国を敵に回していた人間だぞ!」

 

「それでは、帰れるのですか?」

 

「問題無い。帰って軍隊を続けるも辞めるのも卿らの自由だ。約束してもいいよ」

 

 ハンスが約束した途端に歓喜の叫びが沸き起こった。

 

「家族と会える!」

 

「生きてオーディンの土が踏める!」

 

 皆がオーディンに帰れる事を喜び叫び泣いている者までいた。

 ハンスには頭で理解が出来ても心情としては理解が出来ない反応であった。

 ハンスにはハイネセンに未練は全くなかった。ハイネセンには嫌な思い出ばかりしかない。彼らにはオーディンに帰りたくなる程の良い思い出があるのだろう。

 

(羨ましい話だ)  

 

「喜んでるけど、すぐには無理だからな。オーディン行きの便は出たばかりだからな。民間船で卿らを帰す予算は無いからな」

 

「大丈夫です。私達も帝国軍人の端くれです。軍の都合も理解してます」

 

 ハンスは次の便で全員が帰れる様に帝国本土と交渉する事を約束した。

 

(シューマッハが居ないとなると計画は既に始まっているな。シューマッハが居なくなった日から逆算するとオーディンに向かう道中だな)

 

 ハンスは弁務官事務所に帰るとキルヒアイスに連絡を取り、シューマッハと部下達の事を報告した。

 

「連中がオーディンに職業軍人を送り込む目的はアンネローゼ様の誘拐か陛下の誘拐でしょうね」

 

 モニター越しとはいえキルヒアイスが怒気を発している事が分かる。

 

「ま、まあ、現実的にはアンネローゼ様の誘拐は不可能ですから安心して下さい」

 

「では、中将の予測では皇帝陛下が狙われると」

 

 ハンスの言葉で安心したのかキルヒアイスが怒気を消してハンスに確認をした。

 

「はい。フェザーンは対立する勢力が無いと商売になりませんからね。それなら帝国に宇宙を征服させて新帝国の下で経済面の権益を任せて貰う方が利口と判断したと思います。その呼び水が皇帝誘拐でしょう」

 

「分かりました。此方で対処しますから安心して下さい。それと、中将も身辺に注意して下さい」

 

「了解しました」

 

 ハンスは通信を切るとソファーに座り込む。

 

(アンネローゼ様の事になると目の色を変えるんだから、シューマッハ達も間違えてもアンネローゼ様に手を出さんでくれよ)

 

 幼帝誘拐計画が何処まで進んでいるか分からないが対策は既にオーディンを出発する前にしている。それでも念には念を入れる必要がある。

 

(子供を大人の玩具にさせられんし、モルト中将を死なせる事も許さんよ)

 

 モルトもメルカッツ同様に生真面目な人柄である。自身の孫と変わらぬ幼帝にハンスの意見もあり厳しい躾をしている人物でもある。

 幼帝は本来の歴史より遥かに改善された環境である。将来はラインハルトに禅譲して平穏な人生を送る事が出来そうである。

 それに、もし誘拐された時のベーネミュンデ侯爵夫人の反応を想像すると哀れである。

 

(普通に幼児誘拐は許せんよな)

 

 幼児の誘拐を目論むランズベルクとシューマッハ組にモルトを犠牲にして黙認するラインハルトとオーベルシュタイン組とハンスとキルヒアイス組の三つ巴の戦いの様相を呈してきた。

 

(まあ、ラインハルトにはラインハルトストッパーの1号と2号のダブルキックを味わってもらうか)

 

 ハンスからラインハルトストッパー2号と呼ばれたキルヒアイスは赤い髪が逆立つのではと思われる勢いで執務室でラインハルトに説教をしていた。

 ハンスの報告を受けてキルヒアイスが調査してみると既にシューマッハとランズベルク伯がオーディンに侵入した後であった。

 

 

「分かった。勘弁してくれ。キルヒアイス」

 

「何が分かったですか!ヴェスターラントの時はミューゼル中将が釘を刺すから黙ってましたが今回は言わせてもらいます!」

 

(あの時も、思い切り説教した癖に)

 

 流石のラインハルトも口には出せずにいる。

 

「以前に私の前で誓った事は嘘なんですか!」

 

「いや、嘘じゃないぞ。キルヒアイスは誤解しているが、今は様子を見ているだけだ。黙認するつもりは無いぞ!」

 

 キルヒアイスとは長い付き合いである。誤魔化し方は心得ているつもりであったがキルヒアイスも長い付き合いでラインハルトの誤魔化しは熟知していた。

 

「ほう、ならば何故に私には一言も無いんですか?」

 

「えっ!」

 

「事は後宮の警備に関わる事なのに私に一言も無いとは不思議な話ですね」

 

 キルヒアイスの瞳には危険な光が宿っている。

 結局は二時間ほどキルヒアイスから説教をされたラインハルトであった。

 避難していたヒルダが執務室に戻った時には灰の様に真っ白になったラインハルトが椅子に佇んでいた。

 

(キルヒアイス元帥にも困ったわね。これじゃ、今日は仕事にならないわ)

 

「閣下、お疲れの様なので今日はお帰りになられた方が宜しいのではないでしょうか」

 

「そうだな。フロイラインの言葉に甘えさせて貰うか」

 

 ゆっくりと立ち上がるラインハルトを見送ったヒルダであったが自宅にはラインハルトストッパー1号が待ち構えている事をヒルダもラインハルトも知らなかった。



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招待状

 

 ハンスはフェザーンでコツコツと引き抜き工作をしていたが流石に一度に八人も引き抜きをすればルビンスキーの耳に入るのは当然である。

 形式的には立派な招待状がルビンスキーからハンス宛に届いたのである。

 弁務官事務所の古株職員に聞いてみたが前代未聞の事であるらしい。

 

「亡命したレムシャイド伯の時は直接に連絡があった様ですが、こんな形式的な招待状とかは初めてですね」

 

「そうですか。こりゃ、引き抜きの件で苦情でも言われるのかな?」

 

 口では心配するふりをしているが、ハンスにしてみれば部下を引き抜かれる方が間抜けだと思っている。

 

(そんな事で文句を言う程、小さい男じゃないだろう。何か目的があるんだろうなあ)

 

「断る理由も無ければ断る事も出来んからなあ。それに、ルビンスキーと言えば有名人だから、会ってみたいもんだ」

 

 これはハンスの本音である。ルビンスキーが自分に危害を加える理由も無い。

 ハンスの楽天さに古株職員も呆れていた。

 

「閣下が若いのに出世した理由が理解できましたよ。私達と神経の太さが根本的に違います」

 

 古株職員の事実だが失礼な感想にハンスも気を悪くする事もなく応える。

 

「うん。普通の人より繊細な神経だからね」

 

「……」

 

 古株職員を絶句させたハンスは招待に応じる事にする。

 

(招待状という事は御馳走が出るんだろうなあ)

 

 ハンスの期待は裏切られなかった。死刑囚の最後の夜には御馳走を出すという話が、一瞬、脳裏に浮かんだがハンスは遠慮なく頂く事にした。

 

「流石に自治領主閣下ですね。良いシェフを抱えておられる!」

 

 既に5枚のステーキと3杯のシチューにサラダを5皿にバターロール8個を食べている。

 食後のデザートにケーキを6個食べてコーヒーを飲んでいる。

 

 この二人の様子を見ていたドミニクが必死で笑いの発作を耐えている。

 ハンスの食欲に驚嘆したのかルビンスキーが呆気に取られた表情は長い付き合いのドミニクでも初めて見る。

 

「ち、中将閣下は健啖家でいらっしゃる」

 

「本当に美味しかったので少々、食が進み過ぎました。特にステーキの焼き加減は絶妙ですね。ミディアムでも中まで火が通り温かく柔らかい!」

 

 「少々」では無いだろうとルビンスキーは思ったが口に出したのは当たり障りの無い言葉である。

 

「作った者も喜ぶでしょう」

 

「それで、小官を招いて下さったのは何用で?」

 

 腹を満たした事で満足したハンスは余裕を持ってルビンスキーに質問をする。

 

「閣下の行っているヘッドハンティングに関してのお礼です」

 

「嫌味ですか?」

 

「いえ、これは嫌味でも皮肉でもなく、閣下が簡単にヘッドハンティングされるので不審に思い調べた結果、幹部の中に地位を悪用している者を発見する事が出来ました」

 

「要は素人が簡単に引き抜くから、調べたらパワハラをしていた人間がいたからで、そいつらを処分したから、もう引き抜きは出来んぞ。という事ですか」

 

「語弊のある表現ですが、その通りです」

 

 ハンスの悪意ある翻訳をルビンスキーは意外にも認めるとハンスが予想もしない手を打ってきた。

 

「それで、閣下も手ぶらでオーディンに帰る訳には行かないでしょう。其処で閣下に進呈する物がございます」

 

 ルビンスキーが渡してきたのは一冊の名簿であった。

 ルビンスキーに許可を貰って中身を確認すると地方行政の専門家の名簿であった。

 

「これは?」

 

「その名簿は帝国への移住を希望する者達です」

 

 驚くハンスにルビンスキーは更に言葉を重ねる。

 

「今回の件で私に見切りをつけた者達です。全員が帝国で働きたいと言っています」

 

「……どういう事でしょか?」

 

「恥ずかしながら、被害にあった者と、その周囲の人間達との人間関係が壊れたのです。それに中将閣下がヘッドハンティングされるまで調査をしなかった私に対して不信もあるのです」

 

 これは、全くの事実であった。それなら帝国に行かせて帝国の地方行政に将来の人脈を作った方が良いと判断したのである。

 ルビンスキーと言えども組織内を管理する事は難しいのである。

 

「分かりました。一応は一人ずつ事実関係を調査してから帝国で働いて貰いましょう」

 

「有り難う御座います」

 

「いえ、此方こそ仕事が減って助かります」

 

「しかし、自治領主閣下は良い別荘をお持ちですなあ」

 

「いえ、これは私の別荘ではなくアレの別荘で今日の料理もです」

 

 ルビンスキーの示す視線の先にはドミニクがいた。

 

「あんなに美しい女性を羨ましいですなあ。それに今日の料理も素晴らしいかった。特にステーキの焼き加減はプロでも難しいのに完璧でした!」

 

 手放しでドミニクを褒めるハンスであった。その口調からは社交辞令でない事が分かる。

 

「しかし、中将閣下は食通で有られますな」

 

「食通という程では無いですが、そんな私でも分かる程に今日の料理が素晴らしかった!」

 

「もし、宜しければ私に遠慮なく気軽に来てやって下さい」

 

「本気にしますよ」

 

「アレも自分の腕を振るえて歓びます」

 

「それは望外の喜びです!」

 

 ルビンスキーはハンスをドミニクを使い懐柔するつもりであった。

 ハンスもルビンスキーの思惑は分かっていたがハンスにはハンスの計画もあったので、これも策略の一環であると自分に言い聞かせたのである。

 実際にはドミニクの美貌と料理に魅せられていたのだが、所詮は凡人のハンスである。

 

「ついでに大変に厚かましい話ですが、自治領主閣下に医者を紹介して欲しいのです」

 

「何処か体調でも崩されましたか?」

 

「いえ、私では有りません。知り合いの弟さんが生まれつきの病気でして」

 

 ハンスは一応は家名を伏せてハインリッヒの病気の事を伝えて遺伝子疾患病の専門医を探している事を伝えた。

 

「なるほど、確か一人だけ心当たりがあります」

 

「流石、自治領主閣下!」

 

「私自身が知っている訳ではないのですが、おい、ドミニク。確か三年前に友人の娘さんを診てくれた医者が専門医だったな」

 

 裏で話を聞いていたドミニクが顔を出したが表情は沈痛な色であった。

 

「あの先生は去年の冬に亡くなったわ。随分と高齢の先生だったから」

 

 ハンスはそれを聞いてドミニクの前まで行きドミニクの手を取る。

 

「構いません。逆に、そんな高齢の先生なら弟子も沢山いるでしょう。教えて頂けますか?」

 

「それで良ければ、今夜は遅いですから明日にも友人に聞いてみて、直ぐに連絡しますわ」

 

 ドミニクは本来の歴史ではエルフリーデが子供を取り上げられそうになるのを助けてロイエンタールとの最期の別れをさせる等の事をした優しい女性である。ハインリッヒの事も顔には出さないが同情していた。

 

「本当に有り難う御座います!」

 

 頭を下げるハンスの率直さに流石のドミニクも頬を染めていた。

 その事を遠目で眺めてるルビンスキーのニヤニヤするのが癪に触るドミニクでもあった。

 

 

 翌日には名簿に載っている人物達の素行調査とスパイが居ないか調査を始めると同時にラインハルトに報告をする。

 

「卿はどう思う?」

 

「正直、ルビンスキーの本当の思惑は分かりませんが人が足りない帝国としたら有り難い話です。一応は監視をつけた方が宜しいでしょう」

 

「卿にも読めぬか」

 

「実は裏もなく陰謀家の評判に怯えている可能性も有りますが相手が相手だけに用心した方が宜しいでしょう」

 

 ラインハルトにしてもルビンスキーの思惑を読む事は難しい。傍らに控えていたオーベルシュタインにも視線だけで意見を求めるがオーベルシュタインも首を横に振る。

 

「閣下、私にもルビンスキーの思惑は読めません。私もミューゼル中将と同意見です」

 

「卿もハンスと同意見なら仕方がない。ハンスはオーディンに戻れ」

 

「閣下。その事なんですが、小官はこのままフェザーンに残留しては駄目でしょうか?」

 

 ハンスの意外な申し出にラインハルトは興味を持った。

 

「理由を聞こう」

 

「はい、万が一の時の為にフェザーンに行動出来る人間が必要でしょう」

 

 ラインハルトは数瞬だけ考えてハンスをフェザーンに残留させた。

 フェザーンの高等弁務官事務所には武官も居るが限りなく文官に近い人間かボディーガード専門の人間ばかりである。

 不測の事態で行動が出来る人間が一人は必要である。

 

「残留を認めるが油断しない様に、それから口煩い人間が居ないからと怠惰な生活をしない様に」

 

「夏休み中の小学生じゃあるまいし」

 

「ふん、卿の場合は似たようなもんだ」

 

「了解しました。毎日、絵日記でも書きますよ」

 

「それは、楽しみだな」

 

 ハンスの皮肉を軽く返してラインハルトが通信を切る。黒くなった画面を見てハンスは溜め息をついた。

 実はフェザーン進攻までに仕事が色々と残っているのである。

 

(キュンメル男爵の事と膠原病の権威も一人では心細いからなあ。それと地球教対策にルビンスキーの逃亡阻止の作戦も考えないと、それにルビンスキーからの人材のチェックをシューマッハの部下達に話をしたら手伝ってくれるかな?)

 

 課題の多さに意気消沈する。ヴェスターラントとキルヒアイス殺害の二大課題を乗り越えたハンスにしたらゴール直前にゴールが遠くに移動した様な気分である。

 

(ルビンスキーも大人しくラインハルトの下で働いてくれんかな?)

 

 ハンスはルビンスキーの統治能力を高く評価している。ラインハルトが宇宙を統一した後の事を考えたら経済面では欲しい人材である。

 問題は能力よりルビンスキーの為人である。

 

(帝国宰相くらいで満足してくれんかな)

 

 数人の非凡な野心家を満足させるのに宇宙は狭い様である。

 野心の無い凡人のハンスは仕方なく面接のマニュアル作りを始めるのであった。



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絵に描いたハニートラップ

 

 ハンスが面接マニュアル作成に悪戦苦闘しているとドミニクから連絡があり件の医師の情報が入って来た。

 

「宇宙は広い様で狭い。結局は同じ人物かよ!」

 

 ドミニクが教えてくれた医師はアンリ・ジャックという人物で帝国に移籍したジャン・ジャックの兄であった。

 

(これで、アンリ・ジャック医師の腕が分かった。キュンメル男爵を安心して任せる事が出来る)

 

 ハンスがドミニクに丁寧に礼を言うと意外な事にドミニクから食事の誘いがあった。

 ハンスとしては儀礼上から断る事も出来なかったが、ドミニクの様な美女から誘われて断る事が出来ても断る気もなかった。

 

(浮気じゃないからね。仕事だもんね!)

 

 実際はハニートラップか探りを入れるつもりだろうと予測しながらも美女に誘われるのは嬉しいのである。

 

 ハンスが来るというので料理の仕込みに専念しているドミニクを見てルビンスキーも呆れ気味であった。

 

「気合いが入っているじゃないか。ドミニク」

 

「あら、嫉妬?」

 

「嫉妬もするさ。長い付き合いだが手料理など振る舞われた事は無いからな」

 

「あら、覚えて無いのね。昔、人が作った料理に味見もしないでソースを掛けたのは誰でしたかね」

 

 ルビンスキーはドミニクの嫌味に表面上は平然としながらも脳裏では慌てて過去の記憶を検索するが該当する記憶は出てこない。

 

「ふん、どうせ記憶にも残して無いんでしょう」

 

「……」

 

 図星なのでルビンスキーも何も言えないし言わないのが正解であった。

 

「で、あの坊やから何を聞き出せばいいの?」

 

「ローエングラム公の同盟侵攻の時期」

 

 渋い顔をしていたドミニクの顔が更に渋くなる。

 

「あの坊やが知っているとは思えないけど……」

 

「奴が知らなくても良い。奴がローエングラム公のお気に入りで接する機会も多い。奴自身が気付かないだけで何か漏らしてる可能性がある。それに直前に奴に連絡があるかもしれん」

 

「要は坊やを色仕掛けで垂らし込めと言いたい訳ね」

 

「手段はお前に任す」

 

「坊やも気の毒な事」

 

「お前は見掛けに騙されているが、奴は切れ者だぞ。私の目を盗み不満を抱く人間を探し出して引き抜いた手腕は見事なものだ」

 

「そんな切れ者に私が勝てると思っているの?」

 

「奴は切れるが根本的に俗物だからな。鮫とメダカでは釣る餌が違う」

 

「あの坊やも気の毒な事ね」

 

 ドミニクから気の毒と言われたハンスは弁務官事務所でシャワーを浴びて新品のワイシャツにクリーニングから帰ってきたばかりの軍服を着て完全武装状態であった。

 

「ハンカチもティッシュも持った。髪も洗ってリンスもした」

 

 初デート前の中学生状態である。

 ドミニクがルビンスキーからハンスを抱き込む事を指示されている事を承知しながらもデート気分が抜けないのである。

 

「閣下……」

 

 高等弁務官事務所の職員一同は呆れるより憐れみの視線を向けている。

 ドミニクはフェザーンでも一部の人々では有名人である。類稀な美貌の持ち主でありルビンスキーの愛人でもある。

 フェザーンの経済界では一目を置かれる女傑でもある。

 一般男性なら遠くで観賞するべき女性であって決して近づくべき女性ではないのである。

 

「人間、生まれてから女にモテた事が無いと何も見えなくなるんだなあ」

 

 若手の職員の一人が感想を洩らすと全員が相づちを打つ。

 

(俺みたいな小者を本気で相手にする程、暇じゃないだろうよ。ラインハルトの様子を探るか抱き込んで非常ベルにするつもりだろ)

 

 正確にルビンスキーの思惑を洞察しているハンスとしては身の安全は確保されているので弁務官事務所の職員達の心配は余計なお世話であった。

 

「ミューゼル閣下。若い女性から連絡が来てます」

 

「フロイラインからかな?まさか、デートが中止とかじゃないだろうな!」

 

 三分後、通信室から出たハンスは宇宙の終わりの様な表情になっていた。

 

「閣下、どうされました?」

 

 先程、何か失礼な事を言っていた若手職員が心配して聞いて来た。

 注目する周囲の職員達の予測は「デートの中止」だと思ったが事態は更に深刻だった。

 

「デートが中止になっても後日が有るじゃないですか。楽しみは先に取っておいた方が仕事にも張りが出ますよ」

 

 若手職員の懸命な慰めは空振りに終わった。若手職員はハンスの心配より自身の心配が必要になった。

 

「卿は何を言っているのかね。デートとは何の事だ?」

 

「え、だって先程……」

 

「人材移籍に対する懇親会に行くだけだ!」

 

 若手職員はハンスの目を見て絶句してしまった。危険な光が宿っている。

 

「それより、卿は先程、上官侮辱罪になりそうな事を言っていたな!」

 

「え、閣下。すみませんでした」

 

「私は、そんな小さな男じゃないから安心しろ!」

 

「はい、有り難う御座います!」

 

 完全な八つ当たりであった。若手職員は自業自得とも言えるがサービス残業をする事になる。

 

「弁務官閣下、公用車と運転手をお借りしますよ」

 

「ああ、構わんよ」

 

 不注意な部下は弁務官に生贄とされてハンスを乗せて宇宙港に公用車を走らす事になった。

 

「あれ、デーじゃない。山荘に行かれないのですか?」

 

「行くよ。その前に美人に会わせてやる!」

 

 不審に思う若手職員が宇宙港に到着して、十分後には納得した。ハンスの姉であるヘッダが現れたからである。

 

「では、山荘に行こうか。帰りはホテルに寄ってくれ」

 

「了解しました。しかし、閣下の姉君が何故、フェザーンに?」

 

「CMの撮影らしい。我が儘な女優さんは自分だけ自腹で先にフェザーンに来たそうだ!」

 

「刺のある言葉ね。姉が弟に会いに来て悪いの?」

 

「悪くは無いけど、職場に不必要な連絡をするな!」

 

「まあ、良いじゃないの。フェザーンと帝国の友好に貢献してあげてるのよ」

 

「相手は女性だぞ。有名とはいえ女優に会って嬉しいか?」

 

 ハンスの心配は外れドミニクは大歓喜であった。

 

「閣下には感謝しないと、私はヘッダさんのファンですけど、フェザーンから離れる事が出来ないので舞台を観れませんから映画で我慢していましたの」

 

「有り難う御座います、来年末にはフェザーンでの公演が決まってますから、その時は招待状を贈らせて下さい」

 

「まあ、それは有り難う御座います。必ず観させて貰いますわ」

 

 ドミニクがヘッダのファンなのは本当の様である。

 二人の会話はヘッダのデビュー当時の話から始まりドミニクが若い頃に女優を目指していた話にまで及んだ。

 

「私はダンスの才能が無くて稽古の時に苦労してますわ」

 

 ヘッダの話では女優にはダンスは必修科目である様である。

 二人はお互いの分野の話からヘッダがドミニクにダンスの稽古を受けるまでに盛り上がっている。

 ハンスはゲストなのに食事の後片付けから稽古後のお茶の用意までしている。

 

(おいおい、女同士仲良くなるのは良いが話が逸れてないか)

 

 ハンスは茶の用意をしながら自分の不運について考えざるを得ない。

 

(昔からだよなあ。何か楽しい事が有れば俺だけ不参加になるのは、若い頃に女の子達とのパーティーも俺だけ不参加だったよなあ。あれは確か機械の故障で休日出勤したんだっけ)

 

 他にも過去の不幸な出来事を思い出してしまった。政治や経済とは別の次元で己の不運を呪ってしまった。

 ハンスが茶の用意をしている間にもドミニクのダンスレッスンは続いていた。

 ドミニクもダンスで社会の上層を目指していただけあり、コーチとしては優秀の様である。

 

「はい。二人ともお茶が用意できましたから一度、休憩にしましょう」

 

「あら、失礼しました。お客様に茶の用意をさせるなんて」

 

 ルビンスキーが居れば頭を抱える事になっただろう。本気でハンスの存在を忘れていたドミニクであった。

 

「大丈夫です。家でも同じですから」

 

 (後で覚えてなさいよ!)

 

 姉弟の家庭内抗争を無視してドミニクはハンスが淹れた紅茶を頂く事にする。

 

「あら、美味しいわ!」

 

 亡命したばかりの頃にフリードリヒ四世の茶会に呼ばれた時に茶会のマナーと紅茶の淹れ方を徹底的に叩き込まれた賜物である。

 全員が紅茶を飲んでリラックスした時にハンスが本来の目的の話をする。

 

「肝心な話をしますが帝国の同盟進攻は今年中にあると思いますよ」

 

 ドミニクが手練手管で聞き出すつもりでいた情報をハンスが自ら提示してきた。

 

「出来れば自治領主閣下も帝国に帰順して頂きたい。閣下の才能は宇宙統一後には貴重な才能です」

 

 ドミニクも駆け引き無しで正面から話す事に最初は面食らったが冷静さを取り戻すのは早かった。

 

「そんな、情報を簡単に漏らして宜しいの?」

 

「地下に潜られてテロに走り出されるよりはマシですよ。それに閣下の健康面も心配です」

 

「健康面?」

 

「本人に自覚があるか分かりませんが恐らく脳腫瘍だと思います。脳腫瘍なら今の時代なら早期発見すれば治ります」

 

「何故、脳腫瘍だと?」

 

「同盟に居た頃に脳腫瘍だった人とナイフやフォークの使い方が同じなんですよ。何人も見て来たから間違いありません」

 

「そう、それはルビンスキーに伝えておきましょう」

 

「伝えるだけじゃなく、首に縄をして医者の所まで連行して欲しいですね」

 

 ハンスの過激さにドミニクも失笑してしまった。

 

「女の私に可能だと?」

 

「その事なら大丈夫です。私も手伝いますよ」

 

 ドミニクはメルカッツとファーレンハイトの件を思いだした。この男なら簡単に事を運ぶだろう。

 

「生きていればローエングラム公と喧嘩も出来ますが死んだら喧嘩も出来ませんよ。それに、ローエングラム公みたいに真面目な生活が出来る人じゃないでしょう。面倒な事はローエングラム公に任せてローエングラム公の下で才能を発揮して欲しいですな」

 

 喋り終わると冷めた紅茶で喉を潤すハンスを横目にドミニクも真剣に考え込む。

 

「まだ時間が有りますから、ゆっくりと考えて下さい」

 

 そう言い残すとハンスはヘッダを連れて辞去した。

 二人を見送りに玄関まで出たドミニクは既に決断をしていた。

 

「明日、病院に連れて行きますので閣下にも同行をお願いします」

 

 ドミニクの決断が本来の歴史を修正する事になるのかはハンスも分からなかった。

 しかし、本来の歴史よりは血が流れる量を減らせればと願うだけであった。



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白い監獄と残された人々

 

 ハンスはドミニクの決断を聞いたが夜も遅くなるので、その日は解散として、翌日に打ち合わせをする事になった。

 ヘッダをホテルに送り届けると明日の準備があると言ってヘッダから逃げた。

 

「姉君が寂しそうでしたよ。閣下」

 

「そりゃ、気持ちは分かるけどね。実際に明日の準備があるからなあ。それに予定がズレたのも誰かさんの責任だから自業自得だよ」

 

「本当に仕事だったんですか!」

 

「そりゃ、ハニートラップを仕掛けて来てくれたら駆け引きが楽だからね」

 

「すいません。小官達が誤解してました」

 

「そりゃ、敵を騙すには味方からと言うからね」

 

 他人の過大評価を最大限に活用するハンスであった。

 

 翌朝、朝からドミニクとルビンスキーの強制入院の打ち合わせをする。

 自治領主府にドミニクが説得に行き拒絶ないし引き延ばしに出たらハンスが実力行使で入院させる事にする。

 そして、二人で早めの昼食を摂るとハンスはドミニクと一緒に自治領主府に行く。

 

「では、手筈通りに」

 

「任せて頂戴!」

 

 ドミニクが自治領主府のルビンスキーの執務室に入るのを見届けるとハンスは通信端末を手に取る。

 

「各班は配置に着いたか?」

 

「既に各班は配置に着いております」

 

「宜しい。では合図を待て!」

 

 今朝、ドミニクから連絡を受けた後にハンスは不測の事態に備えてシューマッハの部下達に連絡して呼び寄せていたのである。

 

(しかし、ルビンスキーも本当に親父だな。病院に行くのを嫌がるとは、自分の健康管理も出来んのに宇宙の支配者になるつもりかね)

 

 ハンスも本来の歴史で病に倒れて後世から竜頭蛇尾の見本と失笑される事を知っているのでルビンスキーには同情的である。

 

(野心を捨てラインハルトの下で宰相として才能を発揮させれば歴史に残る名宰相になれるのに)

 

 ハンスが思惑の海を泳ぎ回っていると携帯端末にドミニクからの合図があった。

 

「全班、作戦決行せよ!」

 

 ハンスの指示で白衣を着た男達が担架を持って自治領主府に入って来た。

 自治領主府の職員達が何事かと驚いていると一人の若者が手招きしている。

 

「待ってました。こっちです!こっちです!」

 

 白衣の男達が若者に誘導されてエレベーターに乗り込む。

 

「誰か急病人でも出たのか?」

 

 職員達が白衣の男達を見送ると新たに白衣の男達が自治領主府に入って来た。

 

「先に来た人達は何処に?」

 

「あ、エレベーターで上に行きましたよ」

 

「そうですか。なら、担架が通りますので道を空けて下さい!」

 

 一階に居た人達が緊急事態と思い担架の通り道を作る。

 

「何かあったのですか?」

 

「詳しくは分かりませんが人が急に倒れたらしいですよ」

 

「そりゃ、大変ですね」

 

 急に倒れた人にされたルビンスキーは実際に急に倒れる事になる。

 白衣の男達と一緒にルビンスキーの執務室に押し入ったハンスは問題無用でルビンスキーに暴徒鎮圧用のスタンガンを発射する。

 ハンスが引き金を引くと先端から電極が飛び出してルビンスキーに命中すると高圧の電流が流れてルビンスキーが気絶する。

 気絶したルビンスキーを担架に乗せると来た道を戻る。途中で騒ぎを聞きつけたルパートが来たがドミニクに相手をさせてルビンスキーを病院まで運んだのである。

 こうしてハンスはルビンスキー誘拐に成功したのである。

 

 ルビンスキーが目覚めると視界には白い天井が入ってきた。

 

「知らない天井だな」

 

 横で男女の声が聞こえる。ルビンスキーが声の方向を見るとドミニクと作業服姿のハンスが立っていた。

 

「これは、どういう事か説明を願いましょうか?」

 

「説明の必要があるとは思えませんが、強制入院ですな」

 

「強制入院と言うよりは誘拐だと思いますが!」

 

「誘拐より軟禁だと思う」

 

 ハンスの応えにルビンスキーが改めて室内を観察すると窓には鉄格子が嵌まって、ドアも金属製で監視カメラまで取り付けられている。

 

「この様な部屋が病院に有るとは知りませんでしたな」

 

「有る筈が無いでしょう。無いから急造したんですよ」

 

 ハンスが作業服姿なので予想はしていたが堂々と言ってのけられるとはルビンスキーも予想していなかった。

 

「閣下は本当に軍人ですか?」

 

 ルビンスキーの質問に笑って応えないハンスであった。逆行前の世界では義手が壊れる度に仕事を辞める事になったが溶接の仕事も飲食店の仕事も経験したハンスである。

 

「しかし、私も自治領主としての仕事があります」

 

「そこは大丈夫です。モニターも準備してますから部屋に居ても報告も指示も問題が有りません。サインの必要な書類は此方まで持って来させます」

 

「分かりました。完全に私の負けの様です。それで私は何時まで軟禁されていたら宜しいので?」

 

「その事については、私より医師に尋ねるべきでしょう」

 

 ハンスが枕元のナースコールを押すと医師が説明の為に入室して来た。

 医師が入室する時にドアの外が見えたが銃を持った兵士が見えたのでハンスが軟禁と言った意味が理解できた。

 

「それで、病状の説明をしてもらいましょうか?」

 

「まず、此方の写真を見て下さい。この脳の中心部分の影が腫瘍です。場所が場所だけに外科手術は難しいので放射線治療と音波治療を併用します。最終的には外科手術で腫瘍を取り除きますが、まずは安心して貰っても大丈夫です」

 

「病状は分かりました。何時頃に退院が出来ますか?」

 

「どんなに遅くとも年末には退院が出来ますから安心して下さい。但し退院後も定期的に検査に来て下さい」

 

(年末までなら金髪の孺子が事を起こすまでには間に合うだろう)

 

「結構な事です。では、宜しく頼みます」

 

 ルビンスキーにすれば自分が退院してラインハルトが事を起こすまでには十分な時間があると読んだが、後日、ルビンスキーはラインハルトを過小評価していた事に舌打ちする事になる。

 そして、ルビンスキーがラインハルト以上に舌打ちをさせたのは毎日の食事である。

 

「しかし、酒は分かるがパンが駄目で毎日が脂肪の多い内臓系の肉料理と野菜ばかりなのは、どうにかならんのか?」

 

 傍らに居るドミニクに言ってみるがドミニクは冷たく突き放す。

 

「私に言っても意味が無いでしょう。コーヒーを認めて貰っただけ良しとしなさい!」

 

 毎日が牛の内臓やら脳ミソばかりなのはルビンスキーに取っては苦行であった。

 ルビンスキーはラインハルトの同盟進攻と無関係に退院の日を待ちわびるのであった。

 

 そして、もう一人の男がルビンスキーの退院を待ちわびていた。

 ルビンスキーの首席補佐官のルパート・ケッセルリンクであった。

 

「何で俺の所に仕事が来るのか!」

 

 ルビンスキーの不在の間に自治領主代行の命を受けたルパートであったが毎日の様に押し寄せる仕事の山に辟易していた。

 ルビンスキーが決裁していた仕事と自分の本来の仕事の両方をこなす事になったのである。

 更にルパートの悩ませたのが地球教であった。毎日の様に資金提供の催促が来るのだが、必要な予算ならルパートの権限で決裁が出来るのだが不要不急な予算となるとルパートの権限では決裁が出来ないのである。

 

「老人共め、少しは自分達で稼げ!」

 

 宗教団体である地球教もメインの資金源であるサイオキシン麻薬の密売が暗礁に乗り上げているのだ。

 これは、ハンス作曲、故リヒテンラーデ侯編曲の帝国麻薬撲滅局の仕事である。局長を筆頭に末端の局員までもがサイオキシン麻薬の被害者遺族であり取り締まりには容赦がなかった。

 販売網の中枢は無事であったが末端の販売網を摘発されては製造した麻薬を捌けずに在庫を抱える状況である。

 帝国で駄目ならフェザーンでの販売となればルビンスキーが許す筈が無く、頼みの綱であるルビンスキーは入院中で連絡が取れずにいる。

 自然とフェザーンに残されたルパートへの催促も高圧的になっていく。

 

「ですから、何度も御説明した通り、私の権限では予算を動かす事は出来ないのです。ルビンスキーが退院するまでの辛抱です」

 

「しかし、ルビンスキーが今年中に退院するという保証があるのか?」

 

「医師が保証しています」

 

 何十回目の会話であろうか。ルパートの忍耐力も限界に来ていた。

 

(老人共め、何回も同じ事を言わすな!)

 

 正直、ルパートは地球教に割く時間も惜しいのである。彼には仕事が山の様に残っているのである。早晩、倒産するであろう同盟の企業から資金を引き上げないといけないのである。

 その為にも担当者と打ち合わせをする必要があるのだ。

 その後にもリップシュタット戦役で没落した貴族の売りに出されている鉱山の入札の打ち合わせもあるのだ。実利の無い事に付き合う暇は無いのである。

 

 ルパートから突き放された格好の地球教も資金難に苦慮していた。帝国側の販売網は活動停止状態でありフェザーンでは当然の如くルビンスキーが許さない。同盟は市場としては未開発であるが販売網が無いのである。アムリッツァ会戦で地球教の息の掛かった者は殆どが戦死した為である。更に言えば不況の同盟でサイオキシン麻薬に手を出す者がいるかも怪しい。

 人間は貧しくなると麻薬よりパンに手が伸びるものである。

 こうして、一人の男の入院が少なからず影響を周囲に与えているのである。

 そして、ルパートも地球教も忘れているが帝国に侵入させたランズベルク伯とシューマッハがひっそりと逮捕されたのである。

 帝国駐在の高等弁務官のボルテックが交渉する前であった。

 



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幼帝誘拐計画

 

 キルヒアイスはランズベルク伯とシューマッハを二十四時間体制で監視させていた。

 フェザーンの高等弁務官であるボルテックとシューマッハが接触していたのは既に確認されていた。

 所詮はシューマッハも戦艦乗りである。フーバー指揮の下で盗聴されているとも知らずに全ての情報は筒抜けであった。

 

「しかし、屋外の盗聴は集音マイクを使うとして、よく屋内の盗聴が出来たものですね。一応は一流ホテルに宿泊している筈ですが?」

 

 キルヒアイスもフーバーの手腕に感心するしかなかった。

 

「簡単です。室内にボイスレコーダーを置いておけば良いだけの話です。掃除の時に回収すれば良いだけです」

 

「成る程」

 

 意外と単純な方法にキルヒアイスも苦笑するしかなかった。

 

「しかし、事が事だけに閣下の指示を受けないといけません。一応は実行犯と高等弁務官の身柄を拘束する準備は出来ています」

 

「では、直ぐに実行犯と高等弁務官の身柄を拘束して下さい。未遂とは言え後宮に賊の侵入を許す訳には行きません」

 

「了解しました」

 

 一時間後、ランズベルク伯とシューマッハは宿泊していたホテルで身柄を拘束された。

 その事を知らずにラインハルトとの交渉に来たボルテックは宰相府でラインハルトに会う前に 身柄を拘束されたのである。

 ボルテックがラインハルトに会う事が出来た時には手錠を嵌められて罪人として交渉ではなく尋問という形であった。

 

「卿も迂闊だな。帝国に侵入させる!前に交渉するべきであったな」

 

「生憎と私が計画した訳では有りませんので」

 

「卿は単なる使い走りか?」

 

「私には何も権限は有りません」

 

「そう、拗ねるな。卿の立場も分かっているつもりだ。安心しろ」

 

「ご配慮、有り難う御座います」

 

「ルビンスキーの関与は当然だが同盟側は知っているのか?」

 

「誘拐が成功したら同盟まで亡命させる手筈でした。後はランズベルク伯の手腕次第です」

 

「随分と杜撰な計画だな」

 

「私達の方針としては閣下に宇宙を統一して頂き、その統治下で経済を任せて貰う算段でした。ですから、ランズベルク伯が同盟に亡命した後は関知しません」

 

「最初から、その話を持ってくれば良いものを」

 

「で、私はどうなるのですか?」

 

「普通なら死刑は流石だな」

 

 ボルテックの顔が一気に白くなる。

 

「とは言え、卿の立場も分かっていると言っているだろう」

 

「それでは?」

 

「一応は釈放するが妙な動きをすれば分かっているな?」

 

「命が助かるだけでも有りがたいです」

 

「ふむ、宜しい」

 

 不幸なボルテックがラインハルトに玩具にされている時にランズベルク伯とシューマッハはキルヒアイスに尋問されていた。

 

「大佐には先に伝える事が有ります。フェザーンに居た大佐の部下達は既に帝国に帰順しておりオーディンに向かっています」

 

「それでは部下達は?」

 

「安心して下さい。全員無事です。リップシュタット軍に与した事も問題になりません」

 

「そうですか。有り難う御座います」

 

「それでは、全て話してくれますね」

 

「はい。しかし、私が知り得ている事は僅かです」

 

「構いません。他の証言の裏付けになります」

 

 シューマッハの自供はボルテックの証言を裏付けるものであった。

 

「大佐も部下を人質に取られての事ですから被害者の一人です。直ぐに身柄は解放されますから安心して下さい」

 

「有り難う御座います。しかし、私より部下達の事をお願いします。彼らは私の命の恩人です」

 

「安心して下さい。大佐の部下の方々はフェザーンで手柄を立てての凱旋ですから」

 

 シューマッハに告げたキルヒアイスは苦笑していた。ハンスがシューマッハの部下をルビンスキー誘拐に巻き込んだのは彼らがオーディンに帰る時に肩身が狭い思いをしない為の配慮であった。

 

(しかし、手柄を立てさせるにも誘拐以外にも有りそうなものだが)

 

 シューマッハがキルヒアイスの苦笑の意味を知るのは、シュトライトの推薦で帝国軍に准将として復帰してからであった。

 次にキルヒアイスはランズベルク伯を尋問したのだがランズベルク伯にはキルヒアイスも手を焼いた。

 全く話にならずに途中から自分の世界に入り込んで帰って来ないのである。

 

(悪い人では無いが自分達の行動の意味が分かっていないのだろう。この人と組んだシューマッハ大佐も大変だっただろう)

 

 キルヒアイスは尋問を諦めて身柄を拘束するだけにした。本人の希望で紙とペンを渡している。どうやら牢獄内で自伝を執筆する気でいるらしい。

 

「完成したら、是非とも一読させて下さい」

 

「キルヒアイス元帥に文学の趣味があったとは!平和な時代に私のサロンにお呼びするべきでしたな」

 

 ランズベルク伯が本気なのでキルヒアイスも僅かながらに良心が痛んだが話を合わせた。

 

(完成した作品を読めば自白調書の代わりになるだろう)

 

 キルヒアイスの本音を知らずにランズベルク伯は自伝の執筆に情熱を燃やすのであった。

 

 ランズベルク伯と反対に無聊を託つ者がフェザーンにいた。

 

(ドミニクもルビンスキーの看病で忙しいし、シューマッハの部下達もオーディンに帰したし、引き抜きもルビンスキーがくれた名簿で足りたし、キュンメル男爵も無事に同盟で入院しているし、暇だな)

 

 帝国の門閥貴族を同盟に入院させるのも大変な作業であった。

 先ずは本人を帝国からフェザーンに入院させてからフェザーンの国籍を取るのも大変だった。

 帝国国籍を失うと帝国貴族の特権も喪失するので帝国籍は維持したままフェザーン国籍を取得するには書類の山であった。

 それを弁務官事務所の職員に手伝ってもらいながら完成させる。

 フェザーン国籍が取れると同盟側と交渉して入院の手続きを取るのに2時間毎に連絡を入れて同盟の役人に催促をする。

 その一方で使えるならとイゼルローン要塞のヤンを通じてキャゼルヌに連絡をして事情を説明して同盟の事務職員の攻略の仕方を教わる。

 

「貴官も奇特な人間だな」

 

 事情を聞いたキャゼルヌは苦笑をすると同時に快諾してくれた。

 キャゼルヌがドーソンに連絡を取りドーソンからトリューニヒトに話が行きトリューニヒトが自己の政治宣伝の為に役人に圧力を掛けて実現したのである。

 ハイネセンに旅立つ病院船の見送りが終わると流石に疲れたのかハンスは宇宙港のロビーのソファーで燃え尽きた灰の様に座り込んでいた。

 

 その後は仕事も無いので弁務官事務所の掃除と花壇の手入れをするハンスであったが完全に給料泥棒である。

 オーディンに帰ればルビンスキーが何をするか不安なのでオーディンに帰る事も出来ないでいる。

 暇を持て余した挙げ句に暇潰しに同盟の高等弁務官事務所を見物に行くのが日課である。

 

(ユリアンでも居るかなと思ったが居ないのか。ガイエスブルク要塞を移動させなかったので軍属のままなのかな?)

 

 ユリアンが居なければフェザーン侵攻の際に高等弁務官の身柄とコンピューターの機密データが帝国側の手に落ちるかもしれないので気にしない事にした。

 

(早くフェザーン侵攻作戦を始めてくれないかなあ)

 

 ハンスが日頃の平和主義を遠くに放り投げた頃、ハンスの期待に応える訳ではないがラインハルトが諸提督を集めて会議を開いた。

 

「フェザーンからの提案であるが同盟の進攻に対して自由に意見を出してくれ」

 

 最初にオーベルシュタインが発言をした。

 

「同盟が帝国と和平の意思が無いのは自明の理です。同盟の国力が回復していない段階で攻撃するべきだと考えます」

 

 日頃は嫌われているオーベルシュタインだが、この時は提督達の支持を得た。

 

「しかし、瀕死の状態の同盟を征服して門閥貴族から没収した財で安定した国庫の負担にならないか?」

 

 メックリンガーが慎重論を提示して見せた。

 

「その事だが、既に試算を出している。同盟も帝国ほどではないが一部の富裕層が富を独占している状態である。征服した後に富裕層からの富を市民に還元する事で解消する。それに伴なって、軍を解体して人を社会に還元する事で社会システムの運用の問題も激減する」

 

 渡された資料には大手企業が書類上の赤字を作り税金を逃れている証拠が記されている。

 

「帝国も同盟も同じか!」

 

 ビッテンフェルトが吐き捨てたが、同盟も門閥貴族という看板を出していないだけで市民から一部の人間達が富を搾取している社会構造は同じであった。

 

「昨年、クーデターを起こした連中の気持ちも分かる気がする」

 

 ファーレンハイトが応じる。

 

「では、同盟に対する攻勢には問題が無いとする。次に具体的な作戦案については私に腹案が既にある」

 

 フェザーンの独断で始まった誘拐計画が呼び水となり帝国では着々と同盟進攻の準備が進められ始めていた。

 この時に帝国軍のフェザーン武力侵略を知っている人間は宇宙に僅かな人数であった。

 宇宙の多くの人は束の間の仮りそめの平和を享受していた。

 



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第八次イゼルローン攻防戦

 

 宇宙歴798年 帝国歴489年 10月20日

 

 オスカー・フォン・ロイエンタール上級大将を総司令官に三万六千隻の大軍がイゼルローン要塞に来襲した。

 その報は遠くフェザーンで無聊を託っていたハンスも耳にする事になる。

 

(本来の歴史より一ヶ月も早いな。誘拐事件が未遂になった事とガイエスブルク要塞を使った作戦が発動してないからか!)

 

 ハンスは自分が歴史を変えた事を実感していたが長い休暇が終わった事も自覚した。

 

(ルビンスキーは入院中で動く事は出来ない。問題は息子の方か)

 

 物心が付いた時には父親が他界していたハンスにはルパートの考えが理解が出来ない。

 ハンスは学費や生活費を面倒みてくれたら父親が不在でも構わないと思っている。

 ルビンスキー親子の争い等は理解が出来ないが実際に争われると計画が狂うので対策は取っていたが更に保険の必要性を感じた。

 ハンスはオーディンに居るフーバー准将に連絡をした。

 

「お久しぶりです。准将!」

 

「本当にお久しぶりですね。大将閣下!」

 

「えっ?」

 

 ハンスの間の抜けた反応にフーバー准将は苦笑を隠そうともしない。

 

「あの方から「合流するまでは暇だろうから勉強してろ」との伝言を預かっています」

 

 あの方が誰かも確認する必要も無い。ハンスの顔が不機嫌になる。

 

「仕返しに戦艦一隻を要求してやる!」

 

 地位が上がれば責任も増えて辞められなくなる。あの方と周囲のハンス包囲網は完成されつつある。

 

「それで、急な連絡で何か急務でしょうか?」

 

 ハンスの不機嫌を無視してフーバー准将が話を進める。

 

「そうでした。何人か陸上戦の専門家を回して貰えませんか?」

 

「分かりました。手配します」

 

「それと、ロイエンタール提督の戦いに関連してフェザーンの仕事攻めを続けて下さい」

 

「了解しました。しかし、フェザーンに儲けさせて宜しいのですか?」

 

「構いません。最終的には帝国に帰ってくる利益ですし、奴さんは本職の仕事が忙しくて悪さをする暇が無い様です」

 

「しかし、斬新な手段でしたな」

 

 ハンスはNo.1が不在のNo.2の心理を正解に理解していた。

 No.1が不在の間に成果を落とせばNo.2の力量を疑われる事になり、逆に成果を上げれば力量を過大に評価されると思い込む心理を利用してルパートが多忙になるように仕事を用意させたのである。

 

「今頃は過労でフラフラだろうね」

 

 民間企業勤めが長いハンスならではの発想であった。

 

 ハンスの罠に嵌まっているルパートはロイエンタール襲来の報を聞くと指示を次々と出したが、そこで限界だった様である。

 一応の指示を出した後に過労で倒れてしまった。

 

「て、帝国軍の動きが早すぎる」

 

 フェザーンの計画では幼帝誘拐の後にランズベルク伯達を同盟に亡命させてからの帝国の攻勢の手筈が誘拐をする前に帝国が攻勢に出たのである。

 それでも、一応の対策と指示を出せたのはルパートの優秀さを示していた。

 ルパートを過労で倒れさせたロイエンタールはイゼルローン要塞の攻略に手を焼いていた。

 

「しかし、予測はしていたが、此方が仕掛ける策の全ての先手を取られてしまう」

 

 ロイエンタールの感想には畏怖が混入している。

 回廊内に入りイゼルローン要塞まで目前の距離の所でヤン艦隊が忽然と後方に現れて後方から集中砲火を浴びせて来たのである。

 イゼルローン要塞との挟撃の形になり、トゥールハンマーの餌食になる寸前に艦隊を小集団に散開させて離脱に成功した。

 この段階で少なからずの犠牲を出したが態勢を整え直す事に成功したのはロイエンタールの指揮能力の優秀さを示すものであった。

 

「あれを凌いだか!」

 

 ヤンとしては必勝とは言えないが大打撃を与える自信がある策であった。

 

「流石に帝国の双璧と言われるだけの人材だ。彼を麾下に持っただけでもローエングラム公の名は歴史に残るよ」

 

 ヤンの言葉を証明する様にロイエンタールは即座に態勢を整えると五百隻前後の小集団を作り、一撃離脱戦法を試みる。

 ヤンは空中砲台で第一陣を撃退すると第二陣の集結予定宙域をトゥールハンマーで牽制させる。

 ロイエンタールは慌てて第二陣を散開させるがヤンは駐留艦隊で直接攻めて来る。

 ヤンの直接攻撃にロイエンタールも予備兵力を投入して乱戦状態を作り出す。

 三万隻を有するロイエンタールと二万隻に届かないヤン艦隊では乱戦に持ち込めば数の有利を生かせる。ヤン艦隊が退却するなら平行追撃すればトゥールハンマーを使用させずに要塞に肉薄する事が出来る。

 しかし、ロイエンタールは知らなかった。「敵を罠に嵌めるには金貨を置く事が必要だよ」ヤンがユリアンに言ったヤン流の用兵術である。

 相手の願望が叶うと見せ掛けて敵を罠に嵌めるのである。

 衝撃は突然であった。総旗艦トリスタンだけではなく中級指揮官の旗艦に強襲揚陸艦が強行接舷して白兵戦を仕掛けたのである。

 

「チッ、俺とした事が見え透いた手に引っ掛かるとは」

 

「ロイエンタールの様な一流の用兵家の足元を掬うには、意外と稚拙の罠が有効なものさ」

 

 策は稚拙かもしれなかったが規模は大きかった。旗艦を人質に取られた形になった帝国の分艦隊はヤン艦隊の餌食であった。

 

 二割の旗艦が占拠される被害を出しながらも侵入して来た薔薇の騎士を何とか迎撃してロイエンタールは一時的に退却する事に成功する。

 

「敵の被害より此方の被害が大きいです」

 

 副官の報告を聞きながらロイエンタールは苦虫を噛み潰した表情になる。

 

「ハンスがヤンと正面から戦うなと言う意味が分かった」

 

「閣下でも恐れる敵がいるとは宇宙は広いものですな」

 

「ああ、自分の慢心が消し飛ぶよ。これ以上の無駄な犠牲を出す必要も有るまい。作戦を第二段階に移すぞ」

 

「大芝居の始まりですね。流石のヤン・ウェンリーも見抜けないでしょう」

 

「奴の事だ。既に見抜いているだろうよ。しかし、奴には手も足も出せん。尤も出させる気も無いがな!」

 

 ロイエンタールは一時的に撤退をして、イゼルローン要塞から距離を取りオーディンに援軍要請をする。

 ロイエンタールからの援軍要請を受けてキルヒアイスはミッターマイヤーを援軍の総司令官としてシュタインメッツ、ワーレン、ミュラーに出動命令を出した。

 

 11月9日、四個艦隊からなる援軍がオーディンから旅立つ。ラグナロック作戦の第二段階の始まりである。

 フェザーン経由で知った同盟政府はヤンに警戒態勢の強化を命じたのみである。

 援軍を派遣したくとも派遣する兵力が無かった事もあるがイゼルローン要塞とヤンを過信していた側面もあった。

 これに対してヤンは帝国軍がフェザーン回廊を通過して同盟領に侵攻する事を指摘したが指摘されても対策が取れる余裕も無かったのである。

 ヤンは同盟政府に指摘する一方で自身はイゼルローン要塞の放棄の準備に取り掛かり始めた。

 そして、それを黙って見過ごすロイエンタールではなかった。

 ルッツに言わせると「嫌がらせの為の攻撃」を始めるのであった。

 

 ロイエンタールは百隻単位の小集団を広く薄く配置をしてトゥールハンマーで直撃されても被害が最小限に抑えられる形で二十四時間体制でイゼルローン要塞に攻撃を仕掛ける。

 

 要塞自体には損傷を与えられないが要塞内の人々には心理的なダメージを与えた。

 特に脱出計画と各部署に補給と補充を行う事務方には過労と心労で倒れる者が続出していた。

 

「おいヤン。この攻撃を何とかしろ!」

 

 キャゼルヌに言われなくともヤンも対応を考えていたが最初にロイエンタールが回廊に侵入した時は無人の監視衛星からの情報で事前に察知が出来たが今回は既に監視衛星は破壊されていてロイエンタールに先手を取られてしまった。

 

「トゥールハンマーを連続で発射する、エネルギーの充填率は最低限でよい。敵を牽制して艦隊が出る隙を作る」

 

 驚いたのはロイエンタールだけではなく帝国軍の全員が完全に虚をつかれたのである。

 彼らは末端の兵士までトゥールハンマーの威力とエネルギー充填時間を熟知していた為に半分の時間で連続して発射されるとは思ってもいなかった。

 

「全艦、トゥールハンマーの有効射程外まで緊急離脱せよ!」

 

 ロイエンタールの命令に全艦が真摯に従い後退を始めるとアッテンボローを筆頭にヤン艦隊が追い討ちを掛けるように帝国軍をトゥールハンマーの射程外まで追い払う。

 

「流石に嫌がらせも度が過ぎたな」

 

 ロイエンタールはトゥールハンマーの有効射程外で艦隊の再編を行うとヤンがイゼルローンを放棄するまで待つ事にした。

 そこに、ロイエンタールのもとにハンスからの通信が入った。

 

「ロイエンタール提督、忙しい時に失礼します」

 

「構わんよ。卿の事だ。何か忠告があるのだろう?」

 

「忠告とか大袈裟な物では無いですが、ヤン・ウェンリーに民間人に攻撃を加える気が無いと宣言してやり、攻撃を中止してやればイゼルローン要塞の放棄も早まるし同盟を征服した後の統治もやり易くなります」

 

「卿も大胆だな。しかし、確かに互いに無駄な犠牲が出ないな」

 

「ヤン・ウェンリーはイゼルローン要塞を攻略した時にゼークト提督に逃げろと宣言してますよ。追撃もしないとオマケ付きです」

 

「分かった。卿とヤン・ウェンリーは同じ発想の持ち主だな。卿の進言に従う事にする」

 

 すぐにハンスの進言に従いロイエンタールがイゼルローン要塞に宣言をすると、民間人が置いて行く私有財産も後で返還して欲しいとヤンの名前で返信があった。

 ロイエンタールは苦笑しつつも私有財産のリストを残す様に返信をした。

 

「リストに記載されている物には最大限の努力を約束する」

 

 ロイエンタールは宣言した二日後には堂々とイゼルローン要塞に入る事が出来たのである。

 

(ヤン・ウェンリーが素直に要塞を放棄したとも思えん。置き土産があるかもしれんが、今は譲られた勝利を悪怯れずに受け取れば良い)

 

 中央指令室に足を踏み入れたロイエンタールが最初の命令を出した。

 

「オーディンに連絡を入れろ。我、要塞の奪還に成功せりと」

 

 イゼルローン要塞は、ほぼ二年半ぶりに帝国軍の手に返ってきたのである。

 



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フェザーン占領

 

 イゼルローン要塞攻略中のロイエンタール上級大将からの援軍要請を請けてイゼルローン方面に出撃した筈のミッターマイヤー艦隊二万隻がフェザーン回廊にワープアウトしたのは11月27日の未明であった。

 ワープアウトしたミッターマイヤー艦隊に気付いたフェザーン宙港管制局は混乱の極みであった。

必死に何度も停船命令を出すオペレーターの声を無視して進軍するミッターマイヤー艦隊に対して有効な対策も取れずに自治領主府に連絡を入れる。

 

「オーディンの弁務官事務所の連中は何をしていたのか!」

 

 管制局の至る所で同様の罵倒をする者が続出していたが事態の解決に何ら貢献しない。

 昼過ぎにフェザーン上空に帝国軍の艦艇が視認が出来る様になるとフェザーン全土がパニックになった。

 

「じゃあ、仕事を始めますか」

 

 ハンスはフーバー准将が派遣した陸上戦の専門家達を召集して同盟弁務官事務所に突入を開始した。

 完全に虚を突かれた弁務官事務所は無血でハンス達の手に落ちた。

 

「拘禁するのはヘンスロー弁務官とヴィオラ大佐の二人で十分です。残りの人達は帰宅して貰っても構いません。但し明日には此方に出頭して下さい。私物と残りの給与の精算をします」

 

 ハンスの宣言に弁務官事務所の職員も面食らう。

 職員の一人が恐る恐るハンスに質問する。

 

「あのう、帝国軍が給料を払ってくれるのですか?」

 

「まさか、弁務官事務所の金庫の中の現金と備品を売り飛ばした金で払いますよ。何でうちが敵国の役人の給与を払う必要があるんですか」

 

「それは、ごもっとも」

 

「それから、突然に仕事が無くなって困るでしょうから、転職先の無い人は履歴書も持参して下さい」

 

 逆行前の世界で雇い主が給与未払いのまま夜逃げをされたりしたハンスの経験が弁務官事務所の職員達に親切な対応をさせてしまう。

 一緒に突入した兵士達もハンスの対応に苦笑している。

 ハンスはミッターマイヤーが差し向けた部隊に事情を話してルビンスキーが入院している病院とルパートが入院している病院に兵士を差し向けて貰う。

 別に二人の身を案じての警護の為ではなく監視の為である。ルビンスキーとルパートの親子に関しては1グラムも信用して無いハンスであった。

 

「皆さん、ご苦労様でした。本日の仕事は終了しました。解散!」

 

 突入部隊を解散させた後でハンスはミッターマイヤーにルビンスキーとルパートの事を報告に行く。

 

「お久しぶりです。ミッターマイヤー提督。提督に無断で部下の人達をお借りしました」

 

「謝罪の必要は無い。卿の働きで同盟の弁務官とルビンスキーの身柄を押さえる事が出来た。逆に此方が礼を言いたいくらいだ」

 

 ミッターマイヤーの占領作戦は完璧だった。フェザーンの主要施設は全て無血で手に入れている。翌日には、フェザーン占領に伴い各業界に便乗値上げを禁止の布告を出して市民生活に支障が無い様に対処している。

 唯一の失敗と言えば女性に暴行した兵士が出た事である。

 掠奪や暴行を嫌悪するミッターマイヤーは怒り心頭であり、暴行事件を犯した兵士の部隊の上司から助命嘆願されたが、ミッターマイヤーが聞き届ける筈もなく「俺に二言は無い!」と一刀両断にされ、穏健派と言われるハンスも取り成しを依頼されたが、ハンスも「却下!」と一言で断った。

 

 ハンスは銃殺ではなく自らの手で軍刀による斬首を提案した程の怒りを覚えていた。

 

「ミュラーが来る前に少しでも清潔にする必要があるな」

 

 暴行犯は公衆の面前にて銃殺刑にされたのである。処刑の模様はテレビ中継をされてフェザーン全土に放送された。残虐な様だがフェザーンを統治する上で市民からの信用を得る為には必要な処置であった。

 

「ミッターマイヤー提督に警察から連絡が来ています。首席補佐官の自宅からサイオキシン麻薬が発見されたそうで、フェザーンの警察から補佐官の身柄の引き渡しを要求してます」

 

 ハンスからの報告にミッターマイヤーも数瞬だけ考えた後にハンスに意見を求めた。

 

「卿の意見は?」

 

「それなら餅は餅屋に任せるべきでしょう。ただ、サイオキシン麻薬は国単位で解決する訳では無いので本国の麻薬撲滅局にも協力する事を条件にするべきでしょう」

 

「卿の意見は正論だろうな。その様に取り計らってくれ」

 

「了解しました。それとミュラー提督の司令部に麻薬関連に詳しい士官が居るそうなのでミッターマイヤー提督から部下を貸して貰える様にお願い出来ませんか?」

 

 ハンスにしたらルパートの自宅からサイオキシン麻薬が押収されるとは思っていなかった。

 

(思わぬ事で地球教の尻尾を捕まえられるかもしれない。ルパート自身が使っている筈も無いが、ユリアンの回顧録では地球教の司教が被害者らしい。ルパートにペテンを掛けて喋らせるか)

 

 翌日からルパートの取り調べにハンスも同席させて貰う事にした。

 そして、その翌日には遠征軍の総司令官のキルヒアイスが到着した。

 

「既に報告は受けてます。明日にもミッターマイヤー提督には同盟領に進攻して貰います。イゼルローン要塞のヤン・ウェンリーはロイエンタール提督と対峙中との事です。ヤン・ウェンリーが要塞を放棄して同盟軍本隊と合流する前に本隊を叩きます」

 

「了解しました。既に艦隊の方は準備が出来ています」

 

 キルヒアイスはフェザーンの留守番部隊としてベルゲングリューンとビューローの両中将にボルテックの補佐という名目で監視を付けさせる。

 

「閣下。しかし、大丈夫ですか?」

 

 ベルゲングリューンが自分達二人がキルヒアイスの傍らで補佐をしない事に危惧の念を表す。

 

「卿は過保護な親か!」

 

 ビューローの感想は過不足なくベルゲングリューンの心情を表現していた。

 年長の部下の心配にキルヒアイスも苦笑しながらも応える。

 

「大丈夫です。ミッターマイヤー提督を始め他の提督達も居ますから」

 

 赤面する僚友を横目にビューローがキルヒアイスに来客を告げる。

 

「ベルゲングリューンの戯言は別にしてミッターマイヤー上級大将とオーベルシュタイン総参謀長とミューゼル大将が面会を求めています」

 

「お三人を会議室に通して下さい」

 

(ミューゼル大将だけなら昇進の事で苦情と見当はつくがミッターマイヤー提督とオーベルシュタイン総参謀長と一緒とは)

 

 日頃から単独行動を好むハンスが誰かと行動を共にする事は稀有な事なのでキルヒアイスも不思議に思いながらも会議室に向かった。

 

「ラインハルト様、ローエングラム公が病気!」

 

 ハンスの告げた内容に驚いたキルヒアイスの声が会議室に響いた。

 

「だから、病気の疑いがあると言っているだけです」

 

 キルヒアイスの狼狽ぶりにハンスも驚きながらも宥める。

 

「宰相閣下の母上も若くして病気で無くなっているでしょう。帝国の人は遺伝に対して関心が無いですが病気で早死する家系の場合は殆どが遺伝なんです。だから、宰相閣下をハイネセンの病院で精密検査を受けさせたいのです」

 

 ハンスの意見を聞いて考え込むキルヒアイスにミッターマイヤーが質問の形で追い討ちをかける。

 

「宰相閣下が素直にハイネセンまで行く性格か?」

 

 キルヒアイスの次にラインハルトと付き合いの長いミッターマイヤーである。ラインハルトの性格を正確に把握している。

 

「それに、医者では無いので不確かだがグリューネワルト伯爵夫人が先に発症しますな」

 

 ハンスも言えない爆弾をオーベルシュタインが平気で投げ込んで来た。

 アンネローゼの事に話が及ぶとキルヒアイスの顔色が一気に変わる。

 

「分かりました。私からローエングラム公に話をしましょう」

 

「それで、あの頑固者が素直に動くか?」

 

 ハンスの遠慮の無い発言にキルヒアイスも何とも言えないのである。

 

「動かないなら、動かすだけの口実が必要になるでしょう」

 

 キルヒアイスの冷静な分析に全員の視線がオーベルシュタインに集中する。

 

「何故、私を見る。まるで私が陰謀家みたいではないか!」

 

(自覚が無かったのか!)

 

 全員が口に出さなかったが驚愕する発言であった。

 

「手段を選ぶ余裕が無いので方法が限られて来るが仕方ないだろう」

 

 自分の発言を裏切りオーベルシュタインが策を発表した。

 

「流石は総参謀長ですな」

 

 ハンスがオーベルシュタインの策を賞賛した程にオーベルシュタインの策は全員が感心する内容であった。

 

「確かにローエングラム公も動くでしょう」

 

 ラインハルトを知り尽くしたキルヒアイスも太鼓判を押す策であった。

 

「実行は問題提起をしたミューゼル大将に一任するべきでしょう」

 

 オーベルシュタインの意見に全員が納得した。

 

「宰相閣下を騙す様で心苦しいが仕方が無いですな」

 

 ハンスの表情は言葉を完全に裏切っていた。どうやら大将昇進の仕返しが出来る口実を得て喜んでいるのが丸分かりである。

 

 ハンスにしたら、この為に膠原病の権威を苦労して探したのだ。

 それに、安心して軍を辞める為にもラインハルトの存在は重要なのである。

 

 帝国歴489年、宇宙歴798年、11月30日、キルヒアイスがフェザーンに到着して2日目の事であった。

 この時点ではイゼルローン要塞ではヤンとロイエンタールの戦いは続いていた。

 そして、帝都オーディンではラインハルトが帝国宰相として内政改革に勤しんでいる。

 ハンスの暗躍の為に本来の歴史より遥かに帝国が有利の状況であるが、それを望まない人間が宇宙には存在していた。 

 



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ハゲ頭の復活!

 

 12月に入りミッターマイヤー艦隊は同盟領に侵入を果たしていた。

 フェザーン航路局と同盟の弁務官事務所のデータに依るとランテマリオ星域までの星域には有人惑星は無く航路の安全保守の為の小規模の軍事基地が有るのみである。

 

「何とかエントランスまでは辿り着いたな」

 

 航路局と弁務官事務所からデータを手に入れているが未経験の星域にしてミッターマイヤーも緊張が解けないでいた。

 同盟に第二のヤンやラインハルトが現れるかもしれないのである。

 更にフェザーンでの会議の内容を思い出すミッターマイヤーであった。

 

「宰相閣下の事は総参謀長の策に従うとして、同盟攻略ですがヤン・ウェンリーは既に要塞の放棄の算段をしているでしょう」

 

 その場に居た人間でハンスの発言の理解が出来ない人間は居なかった。

 

「問題はヤンの行動速度です。イゼルローン要塞に一番近いエル・ファシルに民間人を避難させたとして同盟本隊との決戦に参戦されると危険でしょう。もしくは我々が同盟本隊と戦っている最中に補給路を絶たれる危険もある」

 

 フェザーン回廊を封鎖されてもイゼルローン回廊からの補給路が有るのだが時間が掛り過ぎる。

 

「所詮、我々の優勢などは、その程度なのだ」

 

 12月20日にフェザーン経由でロイエンタールがイゼルローン要塞攻略に成功した報がフェザーンに進駐するキルヒアイスに届いた。

 

「予想より被害は大きいですがヤン・ウェンリーの要塞の放棄も早かったですね」

 

 この報告に前後してハンスがルパートの自供によりサイオキシン麻薬患者にされた地球教の司祭であるデグスビイとの接触に成功していた。

 デグスビイは既に教えに対する背信行為から自暴自棄になり酒に逃げる様になっていた。

 ハンスはデグスビイに酒を与える対価として情報を得ていた。

 ルパートの裏切り行為からルビンスキーと地球教との繋がりまでの証言を得た。

 ハンスは全ての事情をキルヒアイス経由でラインハルトに報告をした。

 

「まあ、宗教団体が麻薬を扱うのは珍しくないですが大半は真面目な信徒ですので御配慮をお願いします」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスも賛同してラインハルトに報告した。報告を受けたラインハルトは社会秩序維持局局長のラングに地球教の内偵を命じた。

 

「分かっていると思うがラング。一般教徒には犠牲を出さぬ様にするのだぞ」

 

「承知しております。ご安心して下さい」

 

「分かっているなら宜しい」

 

 ラインハルトも深く念を押さなかった。ラングは一般的に秘密警察の長官として嫌われているが、職務で知った情報を悪用する事が無かった事とハンスの推薦もあった為に社会秩序維持局を解体せずに人員と予算を削り、ラング自身も処分せずに残していたのである。

 実際にラングは麻薬撲滅や貴族階級の犯罪には功績を出しているのであった。

 

「しかし、最終的には軍の力も必要となります」

 

「分かった。だが、軍部も同盟との戦いで暫くは余裕がないぞ」

 

 ラインハルトの言葉に嘘は無く事実であった。リップシュタット戦役の犠牲も少なくガイエスブルク要塞を使用した戦いも無く本来の歴史よりは犠牲は少なかったが本来の歴史と違い幼帝誘拐が起きずに「百万隻一億人体制」は確立していなかった。

 

「はい。此方も内偵には暫しの時間が必要となります。それと、人員と予算についても、お願いします」

 

「分かっている」

 

 こうして、ラングと社会秩序維持局は復活を果たした。

 そして、地球教に帝国当局の目が向けられるのは本来の歴史より半年近く早くなったのである。

 

 ラインハルトがラングに地球教の内偵を命じた頃、ハンスとキルヒアイスはルビンスキーと面談をしていた。

 

「自治領主閣下、過去は問いませんから帝国の為ではなく新しい宇宙の為に手腕を振るう気になりませんか?」

 

 ハンスの言葉にルビンスキーも珍しく逡巡している。

 傍らに居るドミニクも緊張の為に顔が強張る。

 

「大将閣下に元帥閣下まで、来て頂いて大変に恐縮ですが私も男です。直ぐに諦められる事では有りません。少し考えさせて頂けませんか?」

 

 ルビンスキーにしては珍しく誠実な返答だとドミニクも驚いた。

 

「分かりました。黙って引退して頂けるなら過去の事は問いません。静かに余生を過ごされて下さい。しかし、地球教の摘発に関してだけは協力をして貰います。治安上、見逃す事は出来ません」

 

「分かりました。私も地球教とは手を切るつもりでしたから、地球教に関しては協力させて頂きます」

 

 ルビンスキーにしても地球教に命を狙われる危険があるのだから、帝国に協力せざるを得ない事情もある。更に言えばルビンスキーは権力志向であるが統治者の義務を心得ている。狂信者に統治権を渡す気は無いのである。

 それに、ルビンスキーは酒に女に賭博にと人生を楽しみたいタイプの人間である。酒も飲めない政治体制は悪い冗談だと思っている。

 

「元帥閣下がフェザーンを出発する前に返答させて頂きます」

 

 ハンスとキルヒアイスが帰りドミニクと二人だけになるとルビンスキーはドミニク自身の去就について問うてきた。

 

「私はフェザーンが気に入っているから離れる気は無いわよ」

 

「そうか。これからも長い付き合いになるな」

 

 予想外の返答にドミニクもルビンスキーの顔を見直す。

 ルビンスキーが引退して静かな余生を送るとは思っていなかったのだ。

 

「なんだ。意外そうな顔をしているが私は引退する気は無いぞ」

 

 ルビンスキーは楽しそうな笑みを浮かべてドミニクを見ている。

 

「あら、貴方も意外と往生際が悪いのね」

 

「お前は何か勘違いをしているみたいだが、私は帝国に帰順するつもりだぞ」

 

 帝国に帰順するつもりならオーディンに居を移す必要があるのに何を言っているのかとドミニクはルビンスキーの正気を疑った。

 

「ローエングラム公は遠からずフェザーンに遷都する。銀河系を統治するには位置的にオーディンよりフェザーンのほうが都合が良いからな」

 

 ドミニクも聡明な女性である。瞬時にルビンスキーの言葉に納得した。

 入院してから日を重ねる毎に覇気が無くなっていくルビンスキーを心配したドミニクだったがルビンスキーの鋭敏さは健在の様であった。

 フェザーン遷都の事はラインハルトに相談されたキルヒアイスとカンニングで知っているハンスだけであったがルビンスキーは自身の能力のみでラインハルトのフェザーン遷都の構想を察知したのである。

 本来の歴史では病の為に竜頭蛇尾の見本とされたルビンスキーであったが病を克服したルビンスキーは脳腫瘍と一緒に蛇尾も切り捨てた様である。

 

「最初からローエングラム公に帰順するつもりじゃないの」

 

「折角、ボルテックが面倒な事を引き受けてくれてるのだ。元上司として部下の成長を見守りたいのだ」

 

 長い付き合いのドミニクにはルビンスキーの本音が見え透いていた。

 

「あら、私は帝国が地球教を始末するまで、此処でサボりながら避難するつもりに見えるけど」

 

 どうやら図星だったらしくルビンスキーは声を出さずに笑うだけである。

 ドミニクは口に出さなかったがルビンスキーの体調も回復していない事も理由の一つだと知っていた。

 

(しかし、私ぐらいには素直に言えば良いものを男という生き物は……)

 

 内心はルビンスキーというよりは、男の見栄に呆れながらも、ドミニクは久々に食事の準備を始めるのである。

 手術も終わり食事制限も緩和されたので数年ぶりのリベンジをする好機である。

 

(今回は、あの時みたいに味見もせずにソースを掛けるなんて出来ないからね)

 

 そして、ルビンスキーに仕事を押し付けられたボルテックは意外な事に自治領政府職員から歓迎されていたのである。

 

「過労で倒れた人の悪口は言いたく有りませんが、忙しいのは理解しますが、八つ当たりが酷く大変でしたよ」

 

 職員の声にボルテックもルパートと部下達の両方に同情した。

 ルパートは自治領主代行の仕事に本来の補佐官としての仕事に地球教の相手もしていたのだ。若いルパートが癇癪を起こすのも当然であり八つ当たりされた職員も災難であったと思う。

 裏でハンスがオーバーワークになる様に燃料を投下していた事を知ったとしてもボルテックの感想は変わらないであろう。

 そして、ボルテックは当面の間は自治領主代行として代行の二文字が取れる様に頑張るのである。

 ラインハルトのフェザーン遷都により代行の二文字が取れる日は永遠に来ないのである。

 尤も、この時の働きに感心したラインハルトからマリーンドルフ伯の引退後に第二代国務尚書に任命されるのである。

 

 こうしてフェザーン占領の後処理が終わりキルヒアイスは年明けを待たずに同盟と雌雄を決する為にフェザーンを出発する事になる。

 



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双頭の蛇 ランテマリオ会戦 前編

 

 宇宙歴799年 帝国歴490年 1月4日

 

 キルヒアイスはポレヴィト星域にて先行したミッターマイヤーの部隊と合流をしたのである。

 公式発表では艦艇数は十五万隻とあるが大抵の場合は多少の誇張があるので正確な艦艇数は不詳である。

 一方、同盟軍側は解体寸前の老朽艦からテスト航行も済んでいない新造艦まで掻き集めて数だけは三万五千隻である。

 同盟軍将兵の唯一の望みはイゼルローン方面に居るヤン艦隊の到着であった。

 帝国軍もヤン艦隊を警戒しており既にロイエンタールにはヤン艦隊が非戦闘員を避難させた後に追撃を掛ける様にラインハルトからの命令も出ていた。

 

「ロイエンタール達だけに高見の見物をさせる法は無いからな」

 

 総旗艦バルバロッサでのミッターマイヤーの意見はフェザーン方面軍の将兵の本音でもあった。

 キルヒアイスも苦笑してミッターマイヤーの意見を咎めない。

 

「ポレヴィト星系からランテマリオ星系までは有人惑星も無く同盟軍が決戦を挑むとしたらランテマリオ星系になるでしょう」

 

 キルヒアイスの言葉に異論を挟む余地も無く諸提督達の共通の認識の確認であった。

 

「敵の総司令官の元帥は老練な宿将中の宿将です。私達が産まれる前から戦場を往来していた人物です。油断は出来ません」

 

 帝国では宿将としてメルカッツが有名だがメルカッツ以上の戦歴を持つビュコックとなると全員が緊張する。

 

「敵は勝つ必要はなく負けない戦いをして、ヤン・ウェンリーの到着を待つだけです。我々はヤン・ウェンリーが到着する前に敵を撃破しなければなりません。そこで双頭の蛇で戦います」

 

 提督達もキルヒアイスの大胆さに驚きの声を上げる。兵力差と緻密な連携が取れれば必勝の陣形であるが、一度、敵に中央突破させると各個撃破される陣形である。

 キルヒアイスはビュコックの手腕を高く評価しながら「中央突破をさせない」と言外で宣言しているのである。

 

「蛇の頭である第一陣は私が率います。第二陣にシュタインメッツ提督、第三陣、事実上の先陣部分はミッターマイヤー提督、第四陣にはミュラー提督、第五陣、もう一つの頭はワーレン提督、ビッテンフェルト提督とファーレンハイト提督は予備兵力として戦況により参戦して貰います」

 

 キルヒアイスが配置を発表する度に提督達は高揚していく。

 

「ヤン艦隊が駆けつける前に敵本隊を撃破して駆けつけたヤン艦隊を迎撃します。上手くいけば後背から追撃して来たロイエンタール提督と挟撃が出来ます」

 

 ハンスもキルヒアイスも実際にロイエンタールが本気で追撃しない事は分かっていた。

 ロイエンタールにしてみれば、ヤンの様な油断をしてなくてもペテンに掛けられる危険な存在に近づきたくないのが本音である。

 更に言及すればヤン艦隊を追撃するより、無防備状態のハイネセンを攻略した方が軍事上の正解である。

 

(まあ、ハイネセンを攻略したら帝国のナンバー2になってしまう。ロイエンタール提督も自ら危険なナンバー2には成りたくないよな)

 

 専制政体でのナンバー2とは危険な立場である。古来には少年時代の恩人である主君に絶対の忠誠を誓っていたが主君から猜疑されて暗殺されたナンバー2も数多くいる。そして、猜疑心の塊の様な人物がラインハルトの近くにいるのである。

 

(ロイエンタール提督じゃなくとも、普通の人間なら政争に巻き込まれたくないよなあ。数年前の同盟軍と同じだわ)

 

 ハンスから酷評された同盟軍では総旗艦リオ・グランデでの最終会議が開かれていた。

 会議の結論は帝国軍に看破されているがランテマリオ星域に帝国軍を釘付けにしてヤン艦隊との挟撃である。

 ヤン艦隊と本隊を挟撃している間にロイエンタール艦隊がハイネセンを占領する事も考えられたが、そこまで責任を持てないのが本音である。三年前の帝国領進攻の愚行さえ無ければと思わざるを得ない。

 軍の一部の人間が功を焦って正式な手続きを踏まずに決定した作戦であった。ハンスが酷評するのも当然である。

 

 こうして両軍の暗黙の了解の下で戦場はランテマリオと決定した。

 1月10日午後1時に両軍は恒星ランテマリオの衛星軌道上で対峙した。同盟軍は恒星ランテマリオを背後に背水の陣で待ち構えていた。数で劣る同盟軍としては後背に回り込まれる事は避けたいのである。

 帝国軍にして見れば同盟軍が背水の陣を敷く事で後背に回り込めないが同盟軍の機動力を殺す事が出来るのである。

 

 ハンスは逆行前の世界でランテマリオ会戦に参加した事を思い出していた。

 

(あの時は、ガイエスブルク要塞戦の援軍でアラルコンの下で左脚を失って義足が出来て退院直後だったよな)

 

 そのアラルコンが加わった事で同盟軍は本来の歴史では暴発する筈だったが命令通りに動いている。

 

(それでも左右に回り込まずに中央突破を試みるか!)

 

 本来の歴史ではビッテンフェルトとファーレンハイト艦隊はミッターマイヤーの後方で予備兵力として待機していたが今回はハンスの進言でビッテンフェルトはキルヒアイスの後方にファーレンハイトはワーレンの後方で予備兵力として待機していた。

 同盟軍にして見れば中央部分のミッターマイヤーが一番薄く見えた事であろう。

 事実、同盟軍の攻撃でミッターマイヤーの艦隊は緩やかに後退を始めていた。

 

「お見事!」

 

 キルヒアイスの傍らにいたハンスが思わず感嘆の声を出した。

 ミッターマイヤーは同盟軍に押されている様に見せかけて同盟軍の前衛部隊を自軍の奥深くに誘い込もうとしていた。

 

「敵が怯んだぞ!突撃!」

 

 前衛部隊の司令官のアラルコンが部下を嗾ける。

 アラルコン麾下の部隊がミッターマイヤーが用意した罠に掛かる寸前にビュコックが全通信回路を開き呼び戻す。

 

「敵の罠だ!帝国の双璧が簡単に崩れる筈が無いだろう。直ぐに後退をしろ!」

 

 ビュコックの声が届いた時には既に遅かった。アラルコンは前衛部隊の最前列の先頭に居て士気を鼓舞していたが反撃を開始したミッターマイヤー艦隊の集中砲火を受けて戦死してしまった。

 

「何処の軍にも猪は居る見たいですね」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスも苦笑しながらも麾下の部隊を前進させて半包囲体制を完成させている。

 同盟軍も司令官が猪でも優秀な部下は育つものでパエッタの援護射撃を受けながらも前衛部隊は手痛い損害を出しながらも罠から脱出する事が出来た。

 

「流石はビュコック提督。普通なら前衛部隊は全滅していたのに」

 

 ハンスの感想にキルヒアイスも感嘆しながらも応じた。

 

「本当に歴戦の宿将ですね。此方が開いた傷口を塞ぐのが異常に早い」

 

 ミッターマイヤーの部隊が前進すると同盟軍はスパルタニアンを出撃させてスパルタニアンによるゲリラ戦を仕掛けて来た。

 

「艦を完全破壊するのではなく動力部を狙え!」

 

 破壊された艦艇に隠れたスパルタニアンが一撃離脱戦法で帝国軍艦艇の機関部を狙い撃ちにして艦艇を浮遊させる。

 帝国軍も浮遊する味方艦との同士打ちを避ける為に攻撃を緩める。駆逐艦やミサイル艦等の小型の艦艇はスパルタニアンを発見する度に追い掛け回すが巧妙に同盟軍の十字砲火の宙域に誘い込まれて行く。

 

「老人め、誘い込みの手口といい、狙い撃ちする箇所といい、狡猾な!」

 

 ミッターマイヤーもビュコックの手腕に感心しながらも工作艦で浮遊する味方艦を後方に送りながら、破壊された同盟軍の艦艇の残骸を完全破壊してスパルタニアンの隠れ場所を無くしてゆく。

 

「隠れ場所が無くなればゲリラ戦は出来ないよなあ」

 

 ハンスが地味だが確実に同盟軍を追い詰めるミッターマイヤーに関心する傍らでキルヒアイスは部隊を二つに分けて交代で同盟軍に攻撃を加え続ける。これも地味だが交代要員の無い同盟軍には効果がある戦法である。

 少しずつだが同盟軍艦艇の動きが鈍くなり始めている。いずれは艦内で過労で倒れる兵士達が続出して操艦も出来なくなるだろう。

 

「それにしても同盟軍もしぶといですな。敵将のビュコックは一兵卒から元帥まで昇り詰めた人物です。兵士達の現場も知り尽くしているだけに粘り方も熟知していますな」

 

 キルヒアイスもオーベルシュタインの評に賛成であったが同時に焦りも感じていた。

 ビュコックの策に乗り時間稼ぎをされるとヤン艦隊が到着してしまうからである。

 

「包囲網を縮めて攻撃を強化する。全部隊は六時間の二交代制で間断なく敵を攻撃する」

 

 キルヒアイスの策は地味であり独創性が無いが同盟軍にしたら付け入る隙も無い策であった。

 この時、既に同盟軍では司令部直属の戦艦も空母も前線に投入した後であり援軍も交代の為の予備兵力も無い状態であった。

 

「密集しろ。防御システムを最大にしろ!」

 

 同盟軍は既に万策が尽きて不毛な消耗戦に陥っていたが、それでも士気も高く統制も乱れていなかった。

 

「ビュコック提督め、艦内の兵士を小マメに交代で休憩を与えながら戦っているな」

 

 ハンスの言葉に反応したのはキルヒアイスだけではなくオーベルシュタインも驚いていた。

 

「その様な事が可能なのか?」

 

「可能ですよ。出来る所と出来ない所がありますけどね」

 

 兵士として働いていたハンスも何度か経験している。後部砲塔の人員を主砲の交代要員にしたり、整備兵を機関部の交代要員にしたりと色々と方法はある。

 

「しかし、それも限界がある筈です」

 

「その限界を待つ程、我々には余裕はありません」

 

 キルヒアイスがハンスの言葉に応えると通信士官にビッテンフェルトとの通信回路を開かせる。

 モニターに出たビッテンフェルトはキルヒアイスからの命令に期待をした表情を隠そうともしていない。

 

「ビッテンフェルト提督。黒色槍騎兵艦隊の出番です」

 

 キルヒアイスはビッテンフェルトの期待を裏切らなかった。



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双頭の蛇 ランテマリオ会戦 後編

 

 ビッテンフェルトがキルヒアイスの命令を復唱していた時に制止の声が掛かった。

 

「待った!」

 

 モニターの中のキルヒアイスも驚いている。カメラの外からの声をマイクが拾ったらしい。

 

「誰だ?」

 

 ビッテンフェルトの誰何の声にハンスがモニターに現れる。

 

「ハンス。何故だ?」

 

  ビッテンフェルトの声には苛立ちの成分が多く含まれていた。

 

「何事です?」

 

 キルヒアイスも驚いてハンスに説明を求める。

 

「詳しい話は後でしますから、全軍を一時後退させて下さい」

 

「分かりました」

 

 キルヒアイスとビッテンフェルトもハンスの表情を見て即座にハンスの言葉に従う。

 

「全軍に一時後退!」

 

 キルヒアイスが命令を下すとハンスが説明を始める。

 

「両軍の砲火で解放されたエネルギーが恒星ランテマリオの表面で恒星風となり俗に言う宇宙潮流の発生が始まります!」

 

「何と!」

 

 通信モニター越しで自分の出番を潰されたビッテンフェルトもハンスの説明を聞いていたがハンスの言葉に驚きの声を出す。

 

「開戦時から恒星ランテマリオの表面を観察してましたが表面温度が急上昇してます」

 

 帝国軍が後退をして同盟軍との距離を取り終わったのと同時にランテマリオから強烈な恒星風が吹き同盟軍と帝国軍の間に恒星風の流れが出来た。

 

「危なかった。もう少し後退が遅れたら恒星風の直撃を受けていた!」

 

 もし、密集した帝国軍が恒星風の直撃を受ければ艦艇同士が衝突して大損害を出していた。

 

「あの爺め。これを最初から狙っていたな!」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスも納得していた。ミッターマイヤーの罠に落ちた前衛部隊を救出する時に簡単に半包囲体制が取れた筈であった。

 

「あの時から、狙っていたのでしょう。本当に老獪な老人です」

 

(本来の歴史でも帝国軍の足を止めたらしいけど、宇宙空間で地の利を最大限に使うとは、ヤン・ウェンリー並だな)

 

 もし、ビュコックがアムリッツア会戦前に能力に相応しい地位に就任していればラインハルトの覇道も帝国内で終始していたかもしれない。

 ハンスの背中を冷たい汗が流れた。

 

(危ない危ない。カンニングしていても油断すると手痛い一撃が来る。これがヤン・ウェンリー相手となると更に恐ろしいわ)

 

 ハンスの進言で寸前に致命傷を回避した帝国軍は後退して陣形の再編の間に将兵に食事と休息を与える。

 

「折角、同盟の兵士の疲労を蓄積したのに」

 

 ハンスの嘆きにキルヒアイスも苦笑する。

 

「まあ、今回は自軍の被害を回避した事だけで満足するべきです。それ以上は欲が深いですよ」

 

 キルヒアイスはハンスを慰めるが実際は同盟軍の敗北は決定しているのだ。

 

「全軍、前進!」

 

 キルヒアイスが命令を下すと帝国軍は再び同盟軍に宇宙潮流の外側から同盟軍に集中砲火を浴びせる。

 

「思ったより、潮流の影響で攻撃の効果が有りませんね」

 

 この事はビュコックも計算していたのだろう。潮流で弱まる砲火が届いても同盟軍は味方の艦艇の残骸に隠れてしまう。

 休息を取り動きも敏捷になった同盟軍にキルヒアイスは再びビッテンフェルトに突撃命令を出す。

 

 

「敵の策に乗り時間を稼がれました。これ以上の時間を与えるのは危険です。一気に勝負をつけて貰います」

 

「安心して下さい。その為の黒色槍騎兵艦隊です」

 

 通信が切れるとビッテンフェルトは麾下の全部隊に命令を下す。

 

「総員、第一種戦闘配置!」

 

 ビッテンフェルトの命令で黒色騎槍兵艦隊は同盟軍に突撃するべく宇宙潮流の上流から流れに乗り勢い付けて同盟軍を目掛けて突進して行く。

 

「休息している間に突撃方法を改善したのか!」

 

 ハンスはラインハルト麾下の提督の優秀さに舌を巻いた。

 ビッテンフェルトは一般に猪武者と言われているが同盟のアラルコンやグエン達と一線を画すべき存在である。

 先程もハンスの言葉に理由も聞かずに従い無駄な時間を浪費もせずに虎口を避けている。

 今も僅かな時間に部隊の再編と同時に潮流の力を利用して自軍の被害を抑えて同盟に打撃を与える渡河方法を考案している。

 

「何処が猪武者なんだよ。まあ、日頃の言動が言動だからか」

 

 ハンスやキルヒアイスも唸る程に整然と宇宙潮流に突入して行く黒色槍騎兵隊を見るとビッテンフェルトを発掘したラインハルトと何度もペテンに掛けたヤンの偉大さが際立つ。

 

 ハンスが突入する黒色槍騎兵隊艦隊の姿に畏怖を感じた頃、同盟軍は畏怖よりも恐怖に襲われていた。

 相手は正面攻撃の破壊力なら宇宙一と呼ばれた艦隊である。同盟軍は窮鼠と化して黒色槍騎兵隊艦隊の渡河ポイントを計算して迎撃の準備をする。

 そして、迎撃する側と迎撃される側では迎撃される側が圧倒的に強かった。

 

「怯むな!撃ち返せ!」

 

 ビッテンフェルトの命令は命令ではなく部下を嗾けてるだけである。同盟軍の一斉射撃に怯む事なく黒色槍騎兵隊艦隊の反撃は同盟軍より質と量を桁違いに凌駕していた。

 黒色槍騎兵隊の一撃目で同盟軍の前衛部隊は壊滅した。二撃目で中央部が壊滅して後方部隊に罅が入り三撃目で後方部隊をビームの槍が貫通した。

 同盟軍総旗艦リオ・グランデの艦橋では報告でなく悲鳴で溢れていた。

 

「戦線崩壊、退却の許可をされたし!退却を許可されたし!」

 

「艦が航行不能、救援を乞う!救援を乞う!」

 

「被害甚大。来援を乞う!来援を乞う!」

 

 リオ・グランデの通信回路の全てが悲鳴に溢れていた。来援を出したくとも司令部には既に一隻の戦艦も無いのである。

 モニターの中では、それでも果敢だが無力な反撃をする艦が点在していた。

 黒色槍騎兵隊艦隊が零距離射撃で次々と同盟軍の艦艇を火球に変えて行く。

 既に戦闘ではなく一方的な殺戮の様相をであった。それでも同盟軍の艦艇は統制が乱れる事がなく。総旗艦リオ・グランデの周囲に集結して行く。

 

「ええい、しぶとい!」

 

「閣下!」

 

 副参謀長のオイゲンが言外にビッテンフェルトの短気を窘める。

 

「分かっている。こいつら、最後の一隻になっても崩れぬ。これ以上は無駄な犠牲を出すだけだ」

 

 ビッテンフェルトは麾下の部隊に後退を命じて艦隊を再編する。

 黒色槍騎兵隊艦隊の後退に伴いワーレンは同盟軍の為に退路を開き同盟軍の瓦解を誘った。

 ファーレンハイトはワーレン艦隊の後方で退却する同盟軍の後背を討つ準備をしている。

 

「降伏を呼び掛けても無駄でしょうね」

 

 キルヒアイスだけではなく帝国軍の提督達全員の心情であった。

 それでも、降伏勧告を自身ではなくハンスに出させたのはキルヒアイスの立場からすれば当然である。

 

「テス、テス!」

 

 敵味方に解放した通信回線でハンスがマイクテストの声が両軍に届く。

 

「もしもし、ビュコック提督。一応は聞きますが降伏しますか?」

 

 帝国軍の提督達も頭を抱える者から苦笑する者までいたがハンスの軽い口調を咎める者は居なかった。

 

「逃げるなら逃げて下さい。追撃はしませんから」

 

 ハンスの降伏勧告とも言えない降伏勧告に返事があると誰もが思わなかった。

 

「敵が当艦との交信を求めています」

 

 通信士官からの報告は意外であったがキルヒアイスは即座に回線を開かせた。

 スクリーンの中のビュコックの顔色は疲労の為に悪いが両眼は力強い光を放っている。

 

「キルヒアイス提督には人道的な配慮に感謝します。それと、ハンス・フォン・ミューゼル大将は同乗されてるかな」

 

 名を出されたハンスがカメラの視界に顔をだす。

 

「居ますよ。何か用事でも?」

 

「貴官の父上の事と帝国に亡命した経緯について同盟軍の将官の一人として貴官には謝罪せねばならんのだ」

 

「えっ?」

 

「儂が宇宙艦隊司令長官になった後で貴官の父上の事を調べさせたら、貴官の父上の冤罪が判明した。儂は兵士の苦労を知っているつもりで何も見えていなかった。脱出シャトルの事も貴官が亡命して帝国から言われるまで全く気付く事がなかった」

 

 ビュコックは言い終わると深々と白髪頭を下げた。

 これにはハンスだけで無く敵味方の将兵全員が驚いた。宇宙艦隊司令長官が将官とは言え、十代の孺子に頭を下げたのである。

 

「どうか頭を上げて下さい。閣下の全く預かり知らぬ事です」

 

 ハンスが慌てビュコックに頭を上げさせる。

 

「確かに儂が預かり知らぬ事であったが、将官たる者が知らぬでは話にならん。死者に濡れ衣を着せるなど、決して許してはならんのだ」

 

 ビュコックの言葉にハンスが折れる。

 

「分かりました。閣下の謝罪を受けましょう」

 

「そう言って貰えると救われる」

 

 ビュコックが最後に笑って見せると通信を終わらせた。

 そして、同盟軍は帝国軍から監視されながらも整然と退却して行く。

 それと平行して帝国軍は救助活動も行う。

 

 ヤンが戦場に駆けつけた時は既に帝国軍も救助活動を終了して移動した後であった。

 

「イゼルローン要塞を放棄するのが少し遅かったか」

 

 ヤンの胸中に苦い後悔が広がる。

 

(待てよ。あの時に自分が動いていたら事態は変える事が出来たと考えるのは自己過信というものだ)

 

「危ない、危ない」

 

(今回は民間人に犠牲を出す事も無く無事に逃げ出せた事だけでも良しとしなければ)

 

 ヤンは物語のヒーローでは無いのだ。全ての事にヤンが対処する事は出来る筈も無く、そして、するべきでもないのである。

 

(とかく、自己過信とは自己の神格化に繋がりやすいものだ。別にルドルフに限った事じゃない)

 

「閣下。急ぎハイネセンに帰還しませんとイゼルローン方面からの敵に追撃される可能性があります」

 

 ヤンの思考はムライの声で中断される事になった。

 

「そうだね。全艦、急いでハイネセンに向かう」

 

 ヤンの追撃を断念したロイエンタールがハイネセンに向かう可能性もあるのだ。

 一方、目論見み通りにヤンの到着前に同盟軍本隊を叩いて戦場を離脱した帝国軍はガンダルヴァ星系の第二惑星ウルヴァシーを占領して活動拠点となる基地を建設を開始した。

 



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 ハイネセンでビュコックと合流したヤンはビュコックに続き元帥へと昇進した。

 それに伴いヤン艦隊の幕僚達も昇進したのだが当人達は周囲の人間が祝う程に喜んではいなかった。

 

「二階級特進の前渡しかな?」

 

「戦死したら一階級しか昇進させないつもりなのかよ」

 

 統合作戦本部の幹部達が聞けば皮肉か嫌味にしか聞こえない会話をヤン艦隊の撃墜王コンビがしている。珍しい事にコーネフの言葉にまで毒が込もっている。

 

 (そのまま辞表を出して軍と縁を切る発想は無いのかな)

 

 そう思うユリアンも軍を辞めようとは思っていないのである。

 フレデリカなどはユリアンに軍を辞める様に勧めるつもりだったのだがマスコミからはヤンの被保護者として知られてるユリアンが報道陣に囲まれて啖呵を切っているのを見て諦めた。

 

「ヤン提督は勝算の無い戦いはしません!」

 

 フレデリカは頭を抱えたい衝動を抑えるのに苦労する事になる。本音は説得してもユリアンが納得しない場合は恨まれても実力行使でハイネセンに残らせる算段をしていたが徒労に終わってしまった。

 ユリアンが取材陣を引き付けている間にヤンとフレデリカと護衛役のシェーンコップは地上車に乗り込み宇宙港を出たのである。

 

「しかし、提督。ユリアンにスポークスマンとしての才能があるとは思いませんでしたな」

 

 シェーンコップが楽しそうにヤンに話をふる。

 

「まあ、確かに今回は僅かながらに勝算が無い事も無いんだがね」

 

「ほう。この状況になっても勝算があるのですか?」

 

 シェーンコップの口調は軽いが目は真剣な光が宿っている。

 

「まぁね」

 

「それは、是非とも拝聴したいもんですな」

 

 シェーンコップの希望は数十分後には叶う事になった。

 突然に勤労精神に目覚めた国防委員長のアイランズの勢いに閉口しながらも真摯な態度のアイランズを見るとヤンでも喜ばせたくなるのである。

 ヤンは目の前のアイスティーを飲み干すと説明を始めた。

 

「まずは戦場でキルヒアイス元帥を倒す事です。キルヒアイス元帥はローエングラム公の腹心の部下というより分身です。その分身を倒されたらローエングラム公自身が敵討ちに戦場に出てくるでしょう。そして、敵討ちに来たローエングラム公を返り討ちにするのです。ローエングラム公は独身でローエングラム公亡き後の後継者が決まっていません。ローエングラム公が戦死すれば部下達は後継者争いで対立する事になるでしょう。そうなれば数年の間は同盟は安全です。その間に国力を回復させるか帝国と和平条約を結ぶかは政治家の領分になります」

 

 ヤンの話を聞いてアイランズの顔には希望の色が現れている。長い説明をした甲斐があったものである。

 

「まあ、これは戦略とか以前の心理学の問題ですが、効果は保証しますよ」

 

 フレデリカから差し出されたアイスティーで喉を潤しながらヤンは自分でも大言壮語だと思っていた。

 ヤンにしたら言うだけなら簡単な事だが帝国軍の提督達の事を考えると気が重くなるのである。

 実際にエレベーター内でシェーンコップから勝てる見込みを聞かれた時は両手を挙げて答えたものである。

 

「ローエングラム公自身とも部下の提督とも戦ったが勝てる自信なんか無いよ」

 

「それは困りますね。私は貴方がローエングラム公より上だと思っているですがね」

 

「そりゃ、過大評価だよ。現にイゼルローンでも部下のロイエンタール相手に逃げるのが精一杯だったからね」

 

 エレベーターから降りると同時に待ち構えていた取材陣がヤンに殺到したがシェーンコップとフレデリカに阻まれる。

 既に取材でもなくヤンに大言壮語して勝利を保証しろとヤンに要求してくる。

 彼らも追い詰められているのはヤンも理解が出来るのだがヤンも誰かに保証して欲しい心境なのだ。

 シェーンコップとフレデリカが追い払うのが、あと数秒遅ければ温厚な紳士というヤンの評判も変わっていただろう。

 結局、ヤンはマスコミ等の煩わしさから逃げる様にハイネセンを出発したのである。

 

 

 ヤンがハイネセンから出撃ならぬ逃げたした頃、惑星ウルヴァシーでは帝国首脳部による会議が連日の様に行われていた。

 

「このまま、ハイネセンを攻略すれば良いではないか!」

 

「しかし、ヤン・ウェンリーという最大戦力が残っている。仮にハイネセンを攻略して我々の大半が本国に引き上げた後にヤン・ウェンリーにハイネセンを奪回されてしまう」

 

「逆に言えばヤン・ウェンリーさえ倒してしまえば同盟の首脳部の連中を心理的に追い込む事が出来る」

 

「しかし、肝心のヤン・ウェンリーは既にハイネセンを出たという」

 

「フェザーンで得た情報だと同盟軍は国内に八十四箇所の補給基地を持っている。何処の基地に奴が居る事も分からんままだぞ」

 

「居場所が分からんと戦う事も出来んぞ」

 

「我々は大軍で敵の領土深くまで来たが補給の問題もある。早めに奴を捕捉しないと補給線に過大の負荷が掛かってしまう」

 

 圧倒的に優勢に思われる帝国軍にも色々と悩みが存在していたのである。

 結局、結論が出ないままイゼルローン要塞をルッツに任せたロイエンタールとレンネンカンプが合流した。

 

「やはり、ヤン・ウェンリーが最大の難関となっていたか」

 

「うむ、ヤンさえ叩く事が出来れば同盟を有名無実化する事が出来るがヤンが健在な限り征服は完成しない」

 

「そして、肝心のヤンの居所も分からんままか」

 

「ヤンにして見ればウルヴァシーを監視していれば我等の動きは把握が出来る」

 

「故に迂闊に動けば各個撃破の対象になるか」

 

「何かヤン・ウェンリーを誘い出す餌が必要だな」

 

「ああ、問題は何を餌にするかだな」

 

 双璧と呼ばれる二人でさえ結論を出せないままである。

 それとは別にウルヴァシーを恒久基地化する為と二千万人の将兵を養う為に本国からフェザーン経由で大量の物資を輸送する必要があった。

 

「軍では補給を軽視する傾向がありますが敵にしたら補給を絶つことは当然な事です。ミッターマイヤー提督に補給の警備をお願いします」

 

 キルヒアイスもミッターマイヤーを動かす事を大袈裟かと思ったがハンスの熱心な勧めでミッターマイヤーを指名した。

 

「御意。しかし、帰りは大量の物資を抱えて不測の事態が起きた時が不安です。帰りは近くまで誰かに迎えに来て頂きたい」

 

「当然の話ですね。では、ミュラー提督に迎えに行ってもらいましょう」

 

(さて、これで補給は安心だがヤン提督が、どう出るか?)

 

 ハンスは補給線の防御を強化してヤンの行動を封じたがヤンの次の行動は見当もつかないのであった。

 ハンスから先手を打たれたヤンは感嘆していた。

 

「流石だな。此方の目論見を看破してミッターマイヤーに補給の警護をさせるとは!」

 

「感心ばかりしてられませんぞ。補給線を絶つ事が出来なければウルヴァシーに基地を作られてしまいます」

 

 ヒューベリオンの艦橋で紅茶を片手に敵を称賛するヤンを相手にムライの反応は常識的であった。

 

「別に無人の惑星に基地を作られても構わないよ。負けたら基地を作られる事になるし勝てば無料で基地を貰える」

 

 帝国が人手と費用を掛けて作ったイゼルローン要塞を奪った前科のあるヤンらしい言葉であった。

 

「確かに困るね。基地に籠城されると此方は各個撃破しか策が無いのにね」

 

「何か帝国軍が出てくる餌が必要ですな」

 

 餌と言えば最大の餌が目の前で紅茶を呑気に飲んでいるのだが、目の前の餌を出した場合は帝国軍が全力で出撃してくるので各個撃破が出来なくなるのである。

 

「仕方ない。あの手を使うか」

 

 ヤンが新たに作戦を決めた頃、ウルヴァシーの帝国軍は驚愕していた。

 ラインハルトがミッターマイヤーとは別の航路でウルヴァシーに到着したのである。

 

「何故、ローエングラム公が此方に?」

 

 一同を代表してロイエンタールが質問する。

 

「ウルヴァシーに進駐した時にキルヒアイスがヤンの餌として私を呼んだのだ」

 

「しかし、ヤンを誘き寄せる餌としては有効なのは認めますが危険が過ぎます!」

 

 今度はミッターマイヤーが一同を代表してラインハルトに諫言する。

 

「ヤン・ウェンリーを誘き寄せる餌の役をするが戦う気は無い!」

 

 ラインハルトらしくない発言に一同は驚いていたがハンスだけは頷いていた。

 

「二人が戦ったら被害甚大だからなあ。上の無駄なプライドで死にたくないからな。閣下、ご立派です!」

 

 ハンスだけではなく全員がラインハルトがヤンとの戦いを渇望している事を知っていたが、どちらが勝利してもハンスの言葉通りに犠牲者の数が大きくなるのは事実である。

 それが分かるだけにラインハルトもハンスの反応に腹が立つのだが文句も言えないのである。

 ラインハルトはハンスの頭に拳骨を食らわせたい衝動を抑えて作戦の説明を始めた。

 

「全艦隊が分散して八十四箇所の補給基地を制圧に向かう。当然の事だが、これは擬態だ」

 

 提督達の顔に緊張が走る。

 

「私とヤンが遭遇した時点で全艦隊が反転してヤンを包囲殲滅する。キルヒアイスとロイエンタールとミッターマイヤーの三人は反転せずにハイネセン攻略に向かう。同盟を攻略して同盟政府からヤンに降伏をさせる」

 

「二段構えの作戦ですか」

 

 オーベルシュタインの声には珍しく感嘆の成分が混入している。

 

「うむ。相手がヤン・ウェンリーなら反転しての包囲網などは計算済みで何か奇策を用いるかもしれんからな」

 

 ラインハルトも自身のヤンとの戦いに対する情熱と別にヤンの才能を評価しているのである。

 ハンスもヤンを過小評価してはいなかった。むしろ過大評価をしていてヤンに対しては最大限の警戒をしていたが、ハンスは所詮は凡人で歴史に名を残すヤンから出し抜かれる事になる。

 



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イゼルローン陥落

 

 本来の歴史ならバーミリオン会戦が行われる作戦の発動であったが出撃直前に天才のラインハルトもカンニングの常習犯のハンスも想定外の報告が飛び込んできた。

 帝国軍二千万人の足を止めた報告とは「イゼルローン陥落」の報である。

 

「ルッツは何をしていたのだ!」

 

 報告を受けたラインハルトは一瞬だけ激昂したが次の瞬間には冷静さを取り戻していた。

 

「どうせ、あのペテン師が策を弄してルッツをペテンに掛けたのであろう」

 

 詳しい経緯をルッツから聞いたラインハルトはヤンの作戦の発想に呆れるしかなかった。

 

「あのペテン師め、その様な小細工を要塞のコンピューターにしていたのか。殆ど犯罪者の手口ではないか!」

 

「まあ、その前の情報戦も十分に詐欺師の手口ですけどね」

 

 ハンスも呆れながらラインハルトの感想を補足する。

 

「それを見抜けなかった小官にも責任が有ります」

 

 ラインハルトの傍らでルッツの報告を聞いていたロイエンタールの言葉にも悔しさが滲み出ている。

 

「しかし、イゼルローン要塞が敵の手に渡るとなれば戦略上の条件が変わって来ますな」

 

 皆がイゼルローン陥落のショックで呆然としている中でオーベルシュタインが冷静に状況を分析していた。

 

「確かに、イゼルローン要塞がヤンの手に渡ったとなるとヤンの戦略の幅も広がります」

 

 キルヒアイスも冷静さを取り戻した様である。

 

「キルヒアイス、オーベルシュタイン、ロイエンタール、ミッターマイヤー、それにハンスは会議室に集合せよ。他の者は出撃準備とルッツの受け入れの準備をせよ」

 

 会議室までの短い道中でハンスは現状の分析を始める。

 

(本来より早い段階でイゼルローン要塞を使うのは、ヤン提督も追い詰められているんだな)

 

 本来の歴史を知るハンスとしてはヤンの考えが読めない。

 本来の歴史より同盟側というよりヤンは劣勢である事も関係しているとも思える。

 

(グエン提督は生きているがメルカッツ提督は居ない。同盟本隊の戦力は本来の歴史より少ない。ランテマリオでの黒色槍騎兵隊艦隊の突撃は本来の歴史より苛烈だったからなあ)

 

 ハンスは頭を振り深呼吸をする。

 

(ラインハルトを同盟領内にまで呼んだ事でヤン提督を誘い出す餌を用意した筈だったのに)

 

 会議室で一番の懸念はヤンがフェザーン回廊への航路を封鎖する事であった。

 

「実際にヤンが航路封鎖を試みても不可能だと思うが将兵の動揺は抑えられんな」

 

 オーベルシュタインの予想は予想とも言えない現実である。

 

「ヤンが航路封鎖を試みるとは限らん。イゼルローン要塞に籠城されても負けないが犠牲は甚大になる。それを見越して和平交渉を有利にする目論見かもしれない」

 

 ハンスは参加しなかったが有名な「回廊の戦い」は帝国軍に大きな損害を出させている。

 

「ヤンを無視してハイネセンを占領した後で、同盟の統治者に降伏命令を出させては如何でしょう」

 

 キルヒアイスらしい穏便な提案だったがミッターマイヤーが疑問を出す。

 

「確かに良策だと思うが、ヤンが無視したら終わりだぞ」

 

 ミッターマイヤーの見解も間違いではない。帝国軍に勝てないと思えばヤン自身とヤンの部下達の安寧を図る為と共和制度の残す事に繋がるのである。

 

「私が知る限りヤン・ウェンリーが無視する事は無いと思いますが、例えばイゼルローン要塞に一番近いエル・ファシル辺りが同盟からの独立宣言をしたらヤン・ウェンリーは新しい共和政府に降るでしょう。そして、エル・ファシルが無防備宣言でもしたら、我々は狭い回廊内の戦いを強いられます」

 

 ハンスの意見に全員が大軍の利を活かせない回廊内の戦いを想像すると暗澹たる気分になる。

 

「そうなれば回廊の両端を封鎖してイゼルローン回廊内に連中を閉じ込めておけば良い。俺達が退役する頃には未開の地になっている」

 

 ミッターマイヤーの意見は真っ当な一般論である。あらゆる情報を遮断されて回廊内に封じ込められたら数十年後には、全ての文化や技術から取り残されるだろう。

 

「しかし、実際にはヤンの次の行動は当然、フェザーン回廊の封鎖でしょうな。機雷でもバラ撒けば完全な封鎖は無理でも暫くは補給線が絶たれる」

 

 オーベルシュタインの意見も真っ当な一般論である。指向性ゼッフル粒子で機雷を除去するのは容易だが、それなりの時間が掛かる。

 

「そうなれば、兵士達の士気が下がるぞ。今度はアムリッツァの時の同盟軍の惨劇を我らが演じる事になるぞ」

 

 ロイエンタールの指摘に一同は暗澹たる気持ちになった。

 

「それこそ、そこのドアからリュッケ副官が今にでも報告に来そうですね」

 

 ハンスの予言は外れた。報告に来たのはシュトライトであった。

 

「ヤン・ウェンリーがフェザーン回廊に機雷原を敷設して回廊を封鎖しました」

 

 ヤンの行動の早さに一同は驚いたがラインハルトの決断も早かった。

 

「ロイエンタールは麾下の艦隊を率いて回廊内の機雷を除去せよ!」

 

「了解しました」

 

「ミッターマイヤーはハイネセン攻略の先陣を務めよ。キルヒアイスは中陣を務めよ。その他の提督達は同盟国内の補給基地の攻略せよ。私はハイネセン攻略の後陣を務めてヤン・ウェンリーとの雌雄を決する」

 

「そうか!ヤンの本当の狙いは閣下の周りからキルヒアイス提督とロイエンタール提督にミッターマイヤー提督を離す事が狙いだったのか!」

 

 ハンスの言葉にラインハルトが一瞬だけ笑みを浮かべる。

 その表情を見てハンスは一つの正解に辿り着く。

 

「さては、閣下はイゼルローン要塞の失陥から次のフェザーン回廊の封鎖もヤンの狙いも看破していましたね」

 

「ら、埒も無い事を言うな」

 

 どうやら図星だったらしくラインハルトの声と表情がハンスの指摘を肯定している。

 

「何度も言いますが閣下とヤンの用兵家としての相性は最悪です。ヤンと戦うのは諦めて下さい」

 

 ハンスの諫言を認めながらもラインハルトは意思を変える気はない。

 

「まあ、閣下もヤンと対峙しても本気で戦うつもりは無いと明言されてる。安心しろ」

 

 ミッターマイヤーがハンスを宥める様に肩を叩く。

 

「しかし、閣下が大人しくお茶を濁す戦いが出来る人だと思いますか?」

 

「大丈夫だ。閣下とヤンがぶつかる前に俺がハイネセン攻略してしまえば良いだけの話だ」

 

 ミッターマイヤーに言われてハンスも引き下がるしかない。

 

「分かりました。では、私はブリュンヒルトに同乗して閣下のブレーキ役を務めます」

 

 ラインハルトはハンスの申し出を受け入れざるを得なかった。拒否でもしたらキルヒアイスを筆頭に他の三人から反対意見に名を借りた説教が待ち構えている事を知っていたからである。

 

 翌日には傷付いたルッツ艦隊だけを残して全艦隊が、それぞれの目標に向かって出撃した。

 ブリュンヒルトの自室でコーヒーを片手にハンスはヤンの作り出した状況を分析していた。

 

「さて、ヤン・ウェンリーがブリュンヒルトを仕止めるのが先かハイネセンが陥落するのが先か勝負だな」

 

 ハンスは自身がラインハルトのブレーキ役を務められるとは思っていなかった。更にブレーキ役を務める事が出来てもヤンが自分達の思惑を超えた策を弄してくる事も有り得ると思っていた。

 

(しかし、流石はヤン・ウェンリーだな。ラインハルトの分身であるキルヒアイス提督が居てはラインハルトを討ち取れないと踏んでイゼルローン要塞を攻略するとは)

 

 本来の歴史にキルヒアイスが加わればミュラーより早く戦場に駆けつける事は容易に想像がつく。

 イゼルローン要塞を攻略する事でハイネセンを餌としての価値を作り、キルヒアイスをラインハルトから引き離す事に成功している。

 ハイネセン攻略は人事のバランスを考えればキルヒアイスを指名しなければならない。

 

(そして、時間制限は本来の歴史よりタイトだが互角の艦隊戦に持ち込んだか)

 

 本来の歴史よりヤンが苛烈な戦術で攻めて来る事が容易に想像が出来る。

 

(しかし、ヤン提督の知謀というよりペテンだけは常人には想像も出来んからなあ)

 

 ラインハルトが負けない戦いで戦場を逃げ回ってもヤンなら罠を用意してラインハルトを嵌めるかもしれない不安がある。

 

(食事の時にもラインハルトに言ったほうが良いな。ペテン師と同じリングで戦うなと)

 

「しかし、あの人、嫌々ながら軍人になったけど、軍人にならなかったら詐欺師として同盟の犯罪史に名を残していたんじゃないのか?」

 

 ハンスの失礼な感想は帝国軍の提督達は当たり前の如く肯定して、ヤン艦隊の幹部達も肯定はしないが否定もしない事であった。

 その事を食事の時にラインハルトに話すとラインハルトも妙に納得していた。

 

「確かにイゼルローン要塞を陥落させた手口から言えば詐欺師だな」

 

 部下の敵とは言え失礼な感想に同意する上司を見て失礼な部下は上司に対しても失礼な感想を持っていた。 

 

(まあ、この人も性格と才能だけで言えば暗黒街のマフィアのボスにでもなっていたかもな。それもバリバリの武闘派!)

 

 部下の失礼な感想を知らない上司は機嫌が良く、デザートのラムレーズンアイスも譲ってくれたのである。

 ハンスはラインハルトの性格を全部とは言わないが把握していたが同時にラインハルトもハンスの性格を全部とは言わないが把握していた。

 後日になって、ハンスは悔しがる事になるとは知らずにラムレーズンアイスを堪能するのであった。



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死闘の前夜

 

 ハンスは暗闇の中で頭痛に悩まされていた。

 

(痛い!二度と酒は飲まんぞ!)

 

 暗闇の中で二人の男女が揉めている声がするが色っぽい話では無い様だ。

 

「こういうのは殿方の仕事と思います」

 

「閣下は宰相で文官ですから、秘書官殿の仕事でしょう。それにハンスもフロイライン相手だと大人しいですから」

 

(何か、人の事を女好きみたいに言ってくれてるなあ。誰だ?)

 

 文句の一つでも言ってやろうと思うが喉から声が出ない。

 

「ううん……」

 

 その間も頭の中でハンマー小突かれる様な痛みが続く。

 ハンスは自分がベッドの上で寝ている事と声の主がルッツとヒルダである事に気付いた。

 

(ありゃ、飲み過ぎてルッツ提督とヒルダさんの屋敷に泊めてもらったのか)

 

 ハンスは逆行してから二日酔いする程、酒を呑んだ事はなかった。記憶を無くしたのはイゼルローン要塞の時が最後である。

 

(何で二日酔いするまで呑んだんだろう?)

 

 改めて考えると昨日の事が思い出せない。

 

(あれ、昨日の記憶が無い。待て、昨日は酒を呑んで無いぞ。昨日は確かブリュンヒルトに乗ってラインハルトと一緒に食事をして、それからの記憶が無い!)

 

 そこまで考えて全ての記憶のピースが埋まり、頭痛の原因にも見当がついた。

 

「あの野郎め!」

 

 ハンスは叫んだつもりだったが幸か不幸か低血圧のハンスには呟き程度の音量しか出なかった。

 

「お、起きた様だな」

 

 ルッツが大人しいハンスを見て安心した様に話し掛けて来た。

 

「グートンモルケン」

 

 朝の挨拶も低血圧の為に発音も怪しい。

 

「もう、昼過ぎだがな。睡眠薬は既に切れてる筈なんだが……」

 

 ルッツがハンスから視線を移すと壁際に居た軍医に無言で問いかける。

 

「睡眠薬は既に切れてます。閣下の場合は単に体質的な低血圧なだけです」

 

「閣下、大丈夫ですか?」

 

 ヒルダが安心した様に声を掛けてきた。

 

「フロイライン、水とホットチョコレートを一杯を貰えますか」

 

「分かりました。直ぐにお持ちしますわ」

 

 ハンスはヒルダが部屋を出るのを確認してからルッツに質問責めにした。

 ルッツの話で昨日の夕方にウルヴァシーに到着して今まで寝ていたらしい。

 ハンスがウルヴァシーを出て三日目の事であったらしい。

 

「その、卿の気持ちは分かるがローエングラム公も若い卿の事を考えてだな……」

 

 ルッツもハンスの表情を見てラインハルトの弁護を諦めたらしい。

 

「若いと言うなら他にも居るでしょうよ。何がヤンとは戦う気が無いだ!」

 

 ラインハルトがハンスを眠らせてウルヴァシーに送り返したのはヤンとの正面決戦を邪魔されたく無いからである。

 

「まあ、雄敵との戦いは武人の本懐だからな」

 

 ルッツも武人であるだけにラインハルトの心情も理解が出来るが無駄な流血を嫌うハンスの気持ちも理解が出来るだけに両者の板挟みで苦しいのである。

 

「その武人が部下に一服盛るかね!」

 

 ルッツの弁護をハンスは一刀両断にするとルッツも想定外の要求をしてきた。

 

「ルッツ提督には麾下の艦隊の指揮権をお貸し下さい」

 

「待て、卿の気持ちは分かるが卿は情報士官で艦隊指揮は畑違いだろ」

 

「なら、ルッツ提督も込みで艦隊を出動させて下さい」

 

「しかし、俺はウルヴァシーの警備の任務が……」

 

 ルッツは最後まで言えなかった。ハンスの顔には最悪の事態を予見した焦慮の表情を見てしまったからである。

 

「ルッツ提督の立場も分かりますが、ローエングラム公がヤンに討たれたら新しく生まれ変わる最中の銀河帝国は内乱に突入しますぞ」

 ルッツにもハンスが言う事などは百も承知なのだが、専制政治での権力者の怒りは死に等しいのである。

 ハンスも長い人生で小規模ながら権力者の怒りを買い地獄を見た経験があるから、ルッツが躊躇う事も理解していた。

 

(まあ、いざとなればヒルダさんを人質にしてルッツ提督を脅迫するしかないか)

 

 ハンスが危険な事を考えていると、ルッツが両手を挙げてハンスに従う事を示した。

 

「卿の行動力を忘れていたわ。俺も十歳も若い者に脅迫されたくないからな」

 

 ルッツはハンスの危険な決意を看破した様である。

 

「帝国の人は品行方正で善良な私の事を誤解しているみたいですね」

 

 ほぼ犯罪行為を行う算段をした癖にハンスは図々しくも被害者面をする。

 

「誤解じゃない。理解だ!」

 

 ハンスがルッツから見事に一刀両断されて渋い表情になった時にヒルダがトレーを持って戻って来た。

 

「あら、閣下。やはり痛みが酷いのですか?」

 

 ハンスの渋い表情を見て勘違いをしたヒルダが優しく気遣い手をハンスの額に当てる。

 

(風邪でも、あるまいし)

 

 ルッツがヒルダの優しさに感心しながらも心の中で呆れているとハンスはチャンスとばかりに甘える様にヒルダに抱き付こうとする。

 

「痛たたた!」

 

 ハンスがヒルダに抱き付く寸前にルッツがハンスの耳を抓んで引っ張り上げた。

 

「本当に油断も隙もあったもんじゃない。フロイラインもミューゼルに優しくする必要は有りませんぞ!」

 

 ルッツから抓み上げられた耳を擦りながらハンスは思った。

 

(恩知らずめ!今からラインハルトを助ける武勲を立てさせてやるのに)

 

 ヤンがイゼルローン要塞に罠を仕掛けた事を知っていながら、黙っていた事を棚に上げて恩着せがましい事を考えるハンスであった。

 

「それより、出動するにしても艦隊の再編は大丈夫ですか?」

 

 ヒルダから差し出された水を一気に飲み干してハンスはルッツに尋ねる。

 

 

「明日の朝には出動が出来るが動かせる数は最大で八千隻程度しか動かせん」

 

「それだけ有れば十分です」

 

 ハンスは空になったグラスをヒルダに返してホットチョコレートのカップを受け取るとヒルダに声を掛ける。

 

「では、フロイラインも明日の朝に例の事を頼みます」

 

「分かりました」

 

 二人の会話を聞いてルッツが怪訝な表情になる。

 

「ルッツ提督は関わらない方が幸せですよ」

 

 ルッツもハンスが情報士官である事を考慮して二人の会話は聞かなかった事にした。

 ハンスはホットチョコレートを飲むと軍医の指示で点滴をしたまま医務室で寝る事になった。

 

(二日酔いみたいな頭痛は睡眠薬の副作用か。明日には解消するだろうけど、問題はバーミリオンだな。ラインハルトは恐らくヤンには勝てないだろう)

 

 軍医が食事を持ってきた。トレーの上にはミルク粥と豆のスープとパンが二個だけである。

 

「これだけですか?」

 

「三日間も点滴だけで寝ていたら、胃が縮小してます。明日になれば普通に食事をしても大丈夫ですから」

 

「はあ、仕方ないですね。無事に全てが終わったらレストランでステーキを奢らせてやる」

 

 軍医も名を出さなくても誰か分かるので苦笑するしかなかった。

 

(しかし、ラインハルトも口煩い部下に一服盛る程に内心はヤン提督に執着していたんだなあ。キルヒアイス提督もアンネローゼ様も居るのに)

 

 ハンスはミルク粥をゆっくりと食べながら思考に耽る。考え事をしないと病人用のミルク粥は喉を通らない味なのである。

 

(それに、ヤン提督も相変わらずに恐ろしい人だわ。ラインハルトの心情を正解に把握してイゼルローン要塞を使うとは)

 

 ミルク粥を完食して豆のスープを一口だけ啜ってみる。予想通りの味に再びハンスは思考の海にダイブした。

 

(今回の出征で戦いは最後だと思っていたからイゼルローン要塞の事を黙っていたら、こんなに早く使うとは思ってなかったわ)

 

 ハンスが歴史のカンニングで先手を打ってもヤンやラインハルトは簡単に自分の予想を超えてしまう。

 特にヤンの為人をラインハルト程に把握しているわけではない。ユリアンやアッテンボロー等の著作を読んでるだけである。

 

(確か、最初の十二日間の戦いの内で、最初の三日間は互いに策を用いずに殴り合いだったよなあ。何とか殴り合いをしている間に到着すれば良いが……)

 

 豆のスープも完食した様である。皿に付いたスープを二つに割ったパンで拭き取る様にして食事を終わる。

 食後の薄いコーヒーを飲むと三日間も眠り込んでいたのに睡魔がハンスの全身を包み込む。

 ハンスが天然の眠りに着いた頃、ラインハルトはブリュンヒルトの艦橋でオーベルシュタインからヤン艦隊捕捉の報告を受けていた。

 

「先行した偵察部隊から閣下の予測通りにルドミラの補給基地周辺で一個艦隊相当の航跡を発見したと報告が有りました」

 

「やはり、バーミリオンか!」

 

 各艦隊が引き返すにのに一番の遠距離となる場所がバーミリオン星系である。ヤンが戦う場所として選ぶならバーミリオン星系しかないのである。

 

「シュトライト。敵の居場所が分かったのだ。直ぐに戦闘が始まる心配もない。全軍に半日だけだが休息を取らす。飲酒も許可する」

 

(お前の望み通りに用意された舞台に立ってやったぞ。ヤン・ウェンリー)

 

「閣下。どうしてもヤン・ウェンリーと戦いますか?」

 

 オーベルシュタインが珍しく疑問を投げ掛けていた。

 オーベルシュタインにはラインハルトが短時間でヤン・ウェンリーに討たれるとは思えなかったのである。

 そして、帝国軍の提督達に一目置かれたヤンをラインハルトが倒す事でラインハルトと提督達の実力差を帝国内外に見せつける事で同盟征服後の同盟市民の抵抗を諦めさせる事が出来ると考えていたがハンスの反対とラインハルトの対処の方法を見てヤンの実力を自分は過小評価しているのではと疑念を持ったのである

 

「オーベルシュタイン。私は聖者の徳を持って将兵からの支持を受けている訳ではない。常勝の名将だから支持を受けているのだ」

 

(そうだ。俺は戦いに勝つ事で前進したのだ。キルヒアイスが到着するまで守りに徹するだけだ)

 

 



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バーミリオンの死闘 前編

 

 宇宙歴799年 帝国歴490年 3月24日

 

 バーミリオン会戦の開始は平凡な形であった。ラインハルトもヤンも互いに相手が奇策で攻めて来ると疑い対処が出来る様にした為である。

 しかし、開始された戦闘は苛烈であった。両軍の将兵にしたら味方の指揮官が認める不世出の用兵家が相手である。

 

「怯むな。反撃しろ!一気に崩されるぞ!」

 

「臆せず攻めろ!」

 

 双方の牙が折れんばかりの激しい攻撃応酬であった。

 特にラインハルト麾下の古参の者はヤンに対しては過大評価していたので必要以上の攻撃をした。

 

「艦載機を出せ。戦力を出し惜しみをするな!」

 

「此方も空戦隊を出せ!」

 

 艦載機同士の戦いも異例な程に苛烈を極めていた。艦砲射撃の密度が高い為に両軍とも味方の艦砲射撃を避けながらの戦いであった。

 

「同盟軍め、何度も同じ手が通用すると思うなよ!」

 

 ホルスト・シューラー中佐の率いるワルキューレ部隊は三位一体の攻撃で味方の艦砲射撃の射程にスパルタニアンを追い込む戦術でスパルタニアンを撃破していく。

 

「隊長!此方はモランビル。敵は駆逐艦の艦砲射撃を使い味方を撃破してい、うわぁ!」

 

「モランビル大尉、どうした?応答しろ!」

 

 ポプランの呼び掛けも虚しくモランビルの副官からの通信が入る。

 

「此方はサイモン中尉。モランビル大尉は敵の艦砲射撃により戦死なさいました」

 

 無言のまま、ポプランの操縦桿を握る手に力が入る。

 

「全機、一時帰投せよ!」

 

 ポプランの指示で同盟軍空戦隊は味方艦への撤退を余儀なくされた。

 同盟軍の空戦部隊が退却した後を勢いに乗ったワルキューレが追跡をする。

 

「提督。味方の空戦隊が形成不利の為に退却して来ました」

 

 ヤンはムライの報告に頷くとパトリチェフに指示を出す。

 

「副参謀長。例の物を試してみてくれ」

 

「了解しました」

 

 ヒューベリオンの艦橋でヤンが指示を出している事も知らずにワルキューレ部隊は同盟軍艦艇に肉薄して行く。

 

「全機、編隊を崩さずに艦砲射撃に気を付けろ。焦らずに確実に一隻ずつ仕止めよ!」

 

 ホルスト中佐が部下に命令を出した直後に同盟軍艦艇から等身大のミサイルが発射される。

 通常のミサイルではワルキューレの運動能力と速度に追い付く事は出来ないのだが等身大のミサイルだとワルキューレに肉薄する事が出来た。

 

「全機、対宙ミサイルに注意しろ!」

 

 ホルスト中佐の指示は正しかった。だが、それ以上の性能を持ったミサイルであった。

 ヤンはイゼルローン要塞に赴任してクーデター以降はシェーンコップから「良く言って給料泥棒」と言われていたが仕事はしていたのである。

 

「避けたミサイルが追い掛けて来ます!」

 

 ヤンはワルキューレを完全破壊する事を捨てワルキューレが航行不可になればよいと命中率を上げる事を優先して兵器廠に開発させた対宙ミサイルであった。

 ワルキューレのエンジンの熱の温度に反応してワルキューレを追跡するのである。

 このミサイルを回避するにはワルキューレの速度を落としてエンジンの熱を下げるしかないのだがワルキューレの速度を落とせば艦砲射撃の的になるのだ。

 

「全機、撤退!」

 

 ホルスト中佐が部下に出した命令は最後の命令となった。

 対宙ミサイルに肉薄された部下を救う為に対宙ミサイルに体当たりをしたのである。

 

「閣下。味方のワルキューレ部隊が敵の新兵器により総崩れで退却して来ました」

 

「ペテン師め、セコい真似を!」

 

 ラインハルトとヤンは互いの空戦部隊を回収すると期せずして後退して艦隊を再編したのである。

 これが3月26日の事である。

 

「不味い戦いをしたもんだ。あと少し戦力が有れば……」

 

 ヤン自身が非建設的だと自覚して途中で愚痴を止めて当初の予定通りの指示を出す。

 

「全艦、紡錘陣形を取れ!」

 

 ヤンの命令の下で実際はフィッシャーの指示でヤン艦隊が紡錘陣形を取る。

 

「突進!」

 

 簡潔で間違えようの無い命令をヤンが出す。

 

「敵は紡錘陣形を取り、此方に向かって来ます」

 

 オーベルシュタインがスクリーンに映るままをラインハルトに報告する。

 

「迎撃せよ」

 

 ラインハルトの命令も簡潔であり、帝国軍は当初の予定通りの行動をとる。

 そして、ラインハルトの思惑を知らないヤン艦隊はラインハルトが用意した薄い防御陣を突破して行くのである。

 当初は防御陣を突破する度に歓声を挙げていた同盟の将兵も五枚目からは事の異常さに気付き始て八枚目には苛立ちを覚えていた。

 

「大昔のペチコートじゃ有るまいし!」

 

 先鋒を指揮していたマリノ准将が吐き捨てる。

 ヤンも既にラインハルトの策を看破していたが対抗策が浮かばないまま九枚目の防御陣に突撃していた。

 本来の歴史より同盟軍の損失率は低かったが、それ以上に帝国軍の損失率も低かった。

 これは、空戦隊の戦いを契機に本来の歴史より一日早く双方が艦隊の再編に動いた為にトゥルナイゼンが失策しなかった為である。

 元々が本来の歴史より戦力差が大きく、トゥルナイゼンの失策が未発の為に更に戦力差が大きいのである。

 ヤンとして真綿でゆっくりと首を締められる気分であった。

 九枚目の防御陣を突破した時にヤンは全艦に後退命令を出す。

 

「皆も気づいていると思うが、ローエングラム公の狙いは薄い防御陣を幾重にも重ねて我々の物心の両面の消耗させる事が狙いである」

 

 ヤンがベレー帽を取り髪を掻き回すとベレー帽を被りなおす。

 

「ローエングラム公らしく無い消極的戦法だが、今の我々には有効な策である。其処で我々は一旦、後退して仕切り直す」

 

「仕切り直してローエングラム公の戦法を打破する事が出来るのですか?」

 

 遠慮の無い質問をシェーンコップがする。

 

「普通に仕切り直すだけでは駄目だろうね」

 

 ヤンの表情を読んでシェーンコップが再び遠慮の無い言葉を口にする。

 

「また、ペテンに掛けるのですか?」

 

 シェーンコップがイゼルローン要塞の攻略の度にペテンの片棒を担いだ自覚も無い発言をする。

 

「犬は噛みつく猫は引っ掻くと身の丈に合った戦い方をするだけだよ」

 

 言外にペテンに掛けるとヤンが明言するとシェーンコップが人食い虎の微笑みを見せる。

 シェーンコップの微笑みに釣られてヤンも微笑みを見せる。

 ユリアンは二人の会話と微笑みを見て「ヤン提督もペテン師ならシェーンコップ中将もペテン師の片割れでしょうに」とペテン師の弟子の自覚が無いまま心の中で論評していた。

 

 黒髪のペテン師が後退した事を報告されたラインハルトは逡巡していた。

 

「あのペテン師が意味も無く後退する筈が無い」

 

「敵は後退して小惑星群に紛れ込みました。一時的な休息でしょうか?」

 

 シュトライトが一般論を口にする。ヤン艦隊は全艦で行動している。兵士が疲労するのも当然であり、兵士に休息を取らせるのも当然である。

 

「ふむ、あのペテン師の事だ。何か策を弄するつもりなのだろう。その様な暇を与えるものか!」

 

 ラインハルトは即断した。部下の手前、自信に満ちた声と態度だったが、内心は傍らにキルヒアイスかハンスが居れば有効な助言を貰えたと悔やんでいた。

 

「全艦、集結せよ。敵に策を弄する暇を与えずに攻撃する!」

 

 ラインハルトの命令は速やかに実行された。麾下の将兵達もヤンに時間を与える事に危険を感じていた。

 

「敵が小惑星群から出て来ました。我が軍の左翼方向に移動中。数は、およそ一万!」

 

「ふむ、全艦にしては少ない。ヤン・ウェンリーが悪戯に兵力分散すると思えん」

 

「どちらかが囮である事は明白ですが……」

 

 傍らのオーベルシュタインも歯切れが悪い。ラインハルトも艦隊戦に関しては畑違いのオーベルシュタインに期待していない。

 

「いずれにしても、此方が兵力を分けるのは愚策です」

 

「うむ、問題はどちらが本隊だが……」

 

 この時、ラインハルトはハンスをウルヴァシーに送り返した事を本気で後悔していた。

 

「敵の本隊は左翼の部隊だと思われる。移動中の敵の横腹を食い破れ!」

 

 ラインハルトの命令は迅速に実行されたヤンが不敗の名将ならラインハルトは常勝の名将なのだ。

 しかし、先頭を行くアルトリンゲンが移動中の同盟軍に違和感を感じた。

 

「最大限に拡大してみろ」

 

 最大限に拡大したスクリーンには同盟軍の艦艇が小惑星の隕石を牽引している姿が写し出された。

 

「しまった。此方が囮か!」

 

 アルトリンゲンが舌打ちした時にオペレーターからの叫びが聞こえた。

 

「後方から別の敵影が急進しています!」

 

 グエン・バン・ヒューを先頭にヤン艦隊の本隊がブリュンヒルトに突撃していた。

 帝国軍がラインハルトに敵を近づけるものかと急速回頭するが、囮部隊を率いたマリノ准将が後方から攻撃してくる。

 

「行かせるか!」

 

 特に牽引していた隕石郡を勢いに任せて後方から帝国軍の群れに飛び混んで来ると帝国軍の被害も大きくなった。

 

「後方の敵に構うな。前方の敵を止めろ!」

 

「足を止めるな。この機を逃すな!」

 

 両軍の指揮官の命令が交錯して通信回路を満たす。

 しかし、マリノ准将の攻撃で兵力的には互角になったとはいえ直進する帝国軍に勢いがあった。

 

「敵の足が止まったぞ!」

 

「艦列が乱れたぞ!」

 

「このまま、分断せよ!」

 

 帝国軍がヤン艦隊の本隊の中央から分断が出来ると喜んだ。

 

「全艦、右翼方向の敵に回頭せよ!」

 

 ヤンの艦隊の特長である芸術的な艦隊運用が帝国軍が気づいた時は完全包囲していた。

 帝国軍は前後左右から攻撃をされて次々と火球へと変化してゆく。兵力差も既に逆転している。

 

「密集しろ。直ぐにローエングラム公が救援に駆け付けてくれるぞ!」

 

 帝国軍の提督達もラインハルトに救援に出せる程の兵力が無い事は知っていたが部下の心を折るわけにもいかずに分散した兵力が戻る事に一縷の望みを賭けるしかなかった。

 そして、ブリュンヒルトの通信回線は救援を呼ぶ悲鳴に満ち溢れていた。

 

(してやられたか。ここまでの男だったのか俺は、ハンスの警告を無視した報いか!)

 

 本来の歴史より一日早く窮地に陥るラインハルトであった。ハンスの逆行してからの小さな工作が積み重なり、今、ラインハルトに襲い掛かっていた。

 



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バーミリオンの死闘 後編

 

 ブリュンヒルトの内部ではオーベルシュタインが義眼でシュトライトとキスリングに無言の合図を送っていた。

 

「閣下。脱出用シャトルの準備が出来ました」

 

「出過ぎた事をするな。私は逃げも隠れもしないぞ。そんな事をすれば死んだ兵士に会わせる顔が無い」

 

 ラインハルトの反応を予期していたシュトライトがキスリングとオーベルシュタインに無言の合図を送る。

 三人掛りでラインハルトを実力行使で脱出させる心算である。

 三人に詰め寄られラインハルトが身構えた時にブリュンヒルトのスクリーンにはタイガーストライプ柄の同盟軍の戦艦が迫っていた。

 艦橋にオーベルシュタインを始めシュトライトやキスリングも行動を起こすのが遅かったと後悔したものである。

 そして、同盟軍の戦艦の主砲が発射される寸前にスクリーンが白い光で満たされた。

 次の瞬間にはスクリーンの中で後続の同盟軍の艦艇がビームの流星雨を浴びて次々と火球に変化する。

 

「ミューゼル大将です。ミューゼル大将が救援に駆け付けてくれました!」

 

 スクリーンの中は次々と帝国軍の艦艇で埋め尽くされていく。

 ラインハルトは当番兵から温かい濡れタオルを受け取り顔の汗を拭い取る。

 

「ハンスはよくやる」

 

 ウルヴァシーに送り返した事と方法が後ろめたいが、今は素直に感謝していた。

 

「しかし、何時の間にミューゼル大将が?」

 

 リュッケが不思議そうにハンスが率いる部隊を眺めている。

 

「確かにウルヴァシーを出る時に、この艦にいましたよね?」

 

 リュッケがシュトライトに確認する。確認されたシュトライトもハンスを見掛けないので不思議に思っていたのだ。

 

「卿らの疑問も当然だな」

 

 オーベルシュタインが副官二人の疑問に応える。

 

「閣下の指示でミューゼル大将は途中で予備兵力を連れにウルヴァシーに帰還したのだ」

 

 ラインハルトもオーベルシュタインの咄嗟の判断に呆れながらもオーベルシュタインの誤魔化しに乗る事にした。

 

「そうか。卿ら二人には言っておくべきだったな。許せ」

 

 ラインハルトがセコい保身をブリュンヒルトの艦橋で行っている時にハンスが率いていた兵力は二百隻程度であった。

 ルッツの本隊から二千隻を借りて先遣隊として戦場に急行したのだが戦場に入る直前に先遣隊を待機させ二百隻で戦場の様子を自ら偵察に出たのだが予想より早くラインハルトが窮地にいたので待機している先遣隊に連絡しつつ戦場になだれこんだのであった。

 

「ルッツ艦隊が既に近くまで来ている。あと少しの辛抱だ!」

 

 ハンスは全通信回路を解放して包囲されている味方の士気を鼓舞する。

 その一方で壊滅させたグエン・バン・ヒューの部隊に続く後続部隊であるモートンの部隊と対峙する。

 この時、モートンは千五百隻を率いているのに対してハンスは二百隻である。

 ハンスの逆行前と後の戦歴を合わせてもモートンの戦歴の半分でありハンスに勝ち目は皆無である生き残る事さえ難しかった。

 

「総力戦だ。ワルキューレを出して敵艦の動力部を狙わせろ!」

 

 ハンスはヤン艦隊の新兵器の存在を知らない。モートンの部隊に向かったワルキューレは新兵器により大打撃を受ける事になる。

 

「敵軍の新兵器のミサイルにより敵艦にワルキューレが近づけません」

 

「ワルキューレ部隊は味方艦艇の防御に専念しろ」

 

(ガイエスブルグ要塞戦が無かった分、余計な事をする余裕が出来たか)

 

 ハンスはガイエスブルグ要塞戦を中断させた事を後悔した。

 ハンスが乗り込んだ旗艦の周囲の味方艦が火球に変わる。モートンの部隊が目前まで迫った時に待機させた先遣隊が戦場に現れた。

 

「まだだ!まだ、終わらんよ!」

 

 ハンスは艦橋で声に出して自らを鼓舞する。ルッツが到着の後にミュラー艦隊も到着する筈である。

 そうなればラインハルトを守り抜く事が出来るのである。

 到着した先遣隊が横からモートンの部隊に攻撃を掛ける。

 ブリュンヒルトとハンスが率いた二百隻しか見ていなかったモートンの部隊は完全に不意打ちを喰らった形になった。

 

「今だ。敵が怯んだぞ。敵の中央部に一点集中砲火を浴びせろ!」

 

 ハンスの命令でモートンの旗艦に複数のビームの槍が突き刺さる。

 旗艦を失ったモートン部隊はハンスの先遣隊の餌食になりブリュンヒルトとの間に先遣隊の盾を作らさせてしまった。

 

 ヒューベリオンの艦橋でフレデリカからグエンとモートンの戦死を知らされヤンも一瞬だけ沈痛な表情になる。

 

「しかし、情報士官と聞いていたがミューゼル大将は良く判断して良く守る。艦隊指揮官としても優秀だな」

 

 ヤンに称賛されたハンスは最後まで抵抗するモートンの部隊を殲滅が終わった直後にアッテンボローの部隊と対峙する事になっていた。

 

「厄介な奴が出て来たなあ」

 

 アッテンボローはヤンよりも若いうちに将官に昇進した人物である。その有能さは折り紙つきの人物であり。

 

「陰険な奴だわ!」

 

 ハンスが艦橋で罵った。アッテンボローはハンスと直接に戦う気が無い様で五百隻単位の小集団を疑似突出させては対応に追われるハンスの部隊の疲労を蓄積させていく。

 

「此方がウルヴァシーからの強行軍なのを知って過労死させる気か!」

 

 ハンスがアッテンボローと対峙して不眠不休で指揮を取り続けているなかでルッツの本隊が戦場に到着した。

 ルッツは帝国軍を包囲している同盟軍の一ヶ所に集中砲火を浴びせる。

 包囲されている帝国軍もルッツと呼応して防御を捨て一ヶ所に集中砲火を浴びせる。

 前後から挟撃された形の同盟軍は醜態と言える形でルッツ艦隊の突破を許したかの様にルッツには見えた。

 彼は知らない。本来の歴史でムライが「うちの艦隊は逃げる演技ばかりが上手くなって」と皮肉った事を。

 包囲網に突入する帝国軍と脱出する帝国軍が交錯した瞬間にヤン艦隊の特長でもある一点集中砲火が炸裂した。

 救援に来た帝国軍と包囲された帝国軍の両方が混乱した隙を狙ってヤンの本隊がブリュンヒルトに目掛けて突進する。

 

「ラインハルト逃げろ!」

 

 ハンスが艦橋で絶叫する。ハンスの前にはアッテンボローが虎視眈々とハンスが動く隙を狙ってハンスは動くに動けない。

 ヤンの本隊がブリュンヒルトを射程に捉える寸前にヤンの本隊にビームの雨が降り注ぐ。

 

「ローエングラム公をお守りしろ!」

 

 ミュラー艦隊八千隻が戦場に到着したのである。

 これで何度目かの形勢逆転かと両軍の将兵が思ったのも無理からぬ事であった。

 しかし、ヤンの指揮は両軍の予想を凌駕していた。

 ヤンの本隊の後方半分がミュラー艦隊に艦首を向けてビームとミサイルの火力の壁を作りミュラー艦隊を足止めしている間に、残りの前方半分がブリュンヒルトを射程に捉える。

 第一射でブリュンヒルトの護衛艦が盾となり火球となる。

 そして、第二射目が発射されないままであった。

 

「……」

 

「……」

 

 ハンスもラインハルトもルッツもミュラーも第二射目が発射されないままの状態に疑問が持つ。

 

「敵の総旗艦からヤン・ウェンリーの名で通信が入りました。敵は無条件降伏を申し込んで来ました!」

 

 敵味方の旗艦にヒューベリオンからの通信が入って来た。

 

「もしかして、我々は勝ったのですか?」

 

 リュッケが戸惑いながらシュトライトに質問した。

 

「敵が無条件降伏を申し込んで来たのだから、世間一般では我々が勝った事になるのだろう」

 

 帝国軍の通信回線が歓喜の声で満たされる事になる。帝国軍の艦艇のあらゆる場所で泣き出す者が続出した。

 彼らの涙の理由は生きて故郷に帰る事が出来るからか帝国軍の勝利の為かラインハルトが生き残った事か不明ではあるが歓喜の涙に間違いはなかった。

 一方、同盟軍側は複雑である。

 ヤンは不利な状況から不敗の名将の名に相応しい戦いで勝利する寸前であったのだ。

 

「今からでも遅くない。ヤン提督に攻撃許可を貰うんだ!」

 

「そうだ。まだ遅くない!」

 

「しかし、ハイネセンには既に帝国軍が居るんだろ。ここでローエングラム公を殺したら報復でハイネセンの一般市民が虐殺されないか?」

 

「だから、ヤン提督も我慢しているんだろう」

 

 実際にヤンが停戦命令を無視したら確かに報復の為に一般市民が虐殺された可能性があるだろう。

 後世に数十年後のミッターマイヤーの証言が残っている。

 

「あの時は部下の手前、平然としていたがヤン・ウェンリーが停戦する事を祈っていたよ。もし、命令を無視されたら暴走する部下を止める自信は無いからな」

 

 後世の歴史家の賛否が別れる行動であったがヤンが停戦命令に従った事で多くの人命が救われた事は事実だった。

 そして、二人の男がそれぞれの艦橋で脱力していた。

 

「終わった。これで平和な時代が来る。無駄な血を流さない時代になる」

 

 ハンスは誰も居ない艦橋で呟いていた。

 

「そうか。無駄な血を流した挙げ句に私は本来は自分の物ではない勝利を譲られたのか。乞食の様に……」

 

 オーベルシュタインに事の経緯を報告されたラインハルトに自嘲の笑みが浮かんでいた。

 ラインハルトには自分の我が儘で多くの将兵の血を流した事を承知していた。

 そして、血を流して得られた物が皆無だった事も承知していた。

 

 両軍の生還率が二割を切ったバーミリオン会戦は終了した。大都市の人口の四倍に匹敵する人命を永遠に喪う事を代償にして。

 だが、ハンスを始め多くの人が望む平和な時代が来るのかは未だに不明なままである。



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会見

 

 足掛け十日間に及んだバーミリオン会戦は終了した。

 そして、会戦終了と同時に両軍で行われた事は休息を取る事であった。

 ヤン艦隊はシェーンコップ以外の将官は会戦終了後に最低限の指示を残して眠りの園の住人となった。

 一方、帝国軍はラインハルト麾下の将官達も最低限の指示を残して眠りの園の住人となり救援に駆けつけたハンス、ルッツ、ミュラーも最低限の指示を残して眠りの園の住人となった。

 彼らが目覚めた時には各方面に分散していた帝国軍がバーミリオン星系に集結していた。

 

「ほう。八万隻の艦隊に囲まれて飲む紅茶は絶品だね」

 

 ヒューベリオンでモニターに写し出された帝国軍の艦艇の群れを眺めながらもズレた感想をヤンが口にする。

 その場に居たフレデリカやユリアンさえも呆れていた。

 

「フィッシャー提督に早めに脱出して貰い正解だったな」

 

 キャゼルヌが何時もの事だと言わんばかりにヤンを無視する。

 

「それで、ローエングラム公の会見の申し込みには応じるのですか?」

 

 シェーンコップは上司のズレた発言を聞かなかった事にして質問した。

 

「受けるよ。歴史上の人物に会える機会など稀だからね」

 

「ならば、私が護衛役で同行しましょう」

 

「駄目だよ。私は敗軍の将だからね。私一人で行くよ」

 

 ヤンとしたらラインハルトが謀殺などをする人間でない事は理解していたが末端の兵士達は分からない。そんな危険な場所に部下を連れて行く事など出来なかった。

 

 ヤンから謀殺などしない人物と信じられていたラインハルトはハンスから小細工をした事について説教を受けていた。

 

「当初の予定ではヤン・ウェンリーとは正面決戦をしない筈でしたね」

 

 ハンスが本気で怒っているのでラインハルトも何も言えない。

 

「ましてや、ブレーキ役の人間に一服盛るとは嘆かわしいですな」

 

「本当に悪かったと思っている。以後は絶対に兵士達に無駄な流血をさせない」

 

 これはラインハルトの本音である。ヤンとの正面決戦でヤンに敗れた事でヤンへの執着も消えたのである。

 

「ふん、アンネローゼ様の前で誓っていながら、今更に何を言っているんですか!」

 

 ハンスが少尉に昇進した頃にアンネローゼの前で「不必要な流血はさせない」と誓って事があった。

 ラインハルトとしたらアンネローゼの名を出されると何も言えない。

 

「それと別に一服盛ってくれましたね」

 

「それは、ヤン・ウェンリーとの戦いは激戦になる事が予想が出来たからな。卿は若い上に姉君も居られるからな」

 

 実際にラインハルトの本音の一部である。ヘッダはアンネローゼの数少ない友人でもある。その友人の弟を自分の我が儘で死地に立たせられない。それにハンスは知らないがヘッダは実弟を亡くした時の落ち込み方は帝国人なら誰でも知っている事なのである。

 しかし、ラインハルトが当初の予定通りにヤンとの正面決戦をしなければ必要の無い事なのだから言い訳にはならない。

 

「自分より若い兵士は他にも居ますよ!」

 

 ハンスにして見ればラインハルトはバーミリオン会戦でヤンに敗れた後も「回廊の戦い」を引き起こしているので信用が出来ない。

 

「分かりました。これが最後の戦いですから何も言いません」

 

「そうか」

 

「但し、ヤン・ウェンリーとの会見に自分も参加させて貰います。閣下とヤンで本音で話をして今回の戦いを最後にして貰います!」

 

 ラインハルトにしてもヤンとの戦いの直後で満足していた事も手伝ってハンスの要求を受け入れた。

 

「分かった。卿が無用の流血を嫌っている事は私も知っている。卿ならば良い案も出せるだろう」

 

 こうしてハンスはヤンとの会見に参加する機会を得たのである。

 

 ブリュンヒルトを訪れたヤンは出迎えの多さに驚いていた。シャトルの扉が開くと帝国の将官の列がヤンを出迎えていた。

 その将官達も帝国でも有名人のヤンを好奇の目で見ている。

 

(想像と違ってガッカリしていないかな)

 

「小官はコルネリアス・ルッツと申します。小官が案内役を務めさせて頂きます」

 

「これは、此方こそ宜しく頼みます」

 

 ルッツがヤンの案内役になるには一悶着があった。帝国の提督達の間でヤンの案内役の争奪戦が起きたのである。

 結局はラインハルトの危機に最初に駆けつけたルッツが権利を手中にしたのである。

 

「同盟軍最高の智将の閣下が銀河の此方側に生まれて居ましたら私達も楽が出来た事でしょう」

 

「いえ、逆に提督が此方側に居ましたら私も楽が出来た事でしょう」

 

 ヤンとルッツの言葉は社交辞令ではなく完全な事実であった。帝国側にヤンが生まれていればラインハルトの麾下に進んで加わったであろう。

 ルッツが同盟側に生まれていればヤンの負担も軽減したであろう。

 

「世の中、上手く行かないものですな」

 

「本当にそうですね」

 

 ルッツの案内でヤンはラインハルトの居る執務室に案内された。

 ラインハルトの執務室はヤンの執務室とは違い豪華の一言に尽きた。

 

(フカフカの絨毯に高級そうな応接セットだなあ)

 

 ラインハルトが敬礼してヤンを迎えるとヤンも敬礼を返す。

 ラインハルトが自然な動作でヤンにソファーへと促す。

 ソファーに座ると従卒がラインハルトにはコーヒーをヤンには紅茶を差し出した。

 

「卿には以前から話をしてみたいと思っていた」

 

「私こそ閣下にお会い出来て光栄です」

 

 二人の会話を隣接した給湯室でスツールに座り聞いているハンスが居た。

 

(しかし、ヤン提督も迂闊な人だなあ。紅茶を出した時に気付くかと思えば全く気付かないからなあ)

 

 ハンスは自身の淹れた紅茶を飲みながらヤンだけではなく薔薇の騎士達もスカウトする事を考えていた。

 

(戦争が無くなれば次はテロの時代となる陸戦部隊と対テロとは畑が違うが他の畑から持って来るよりはマシだろう)

 

 ハンスは本来の歴史で薔薇の騎士達が同盟政府に拘束されたヤンを救出したのは同盟に居場所が無かった為だと思っている。

 

(まあ、同盟に居場所が無かったのは自分と同じか)

 

 色々と考え事をしている間に会見が終了したらしいのでハンスは二人の前にワゴンを押しながら出て行く。

 

「お久しぶりです。ヤン提督!」

 

「貴官は確か……」

 

「……」

 

「……」

 

「ハンス・フォン・ミューゼルです」

 

「……久しぶりです。身長が伸びたので分かりませんでしたよ」

 

 ヤンが真偽の怪しい言い訳をする。

 

「まあ、ヤン提督には失礼しますが、腹を割って話をしていただきたい。無駄な流血をしない為にも」

 

 ハンスの言葉でヤンの顔つきも変わる。

 

「まず、フィッシャー提督を呼び戻して下さい。要らぬ火種です」

 

 ヤンは惚ける事もせずに両手を挙げる。

 

「ミューゼル大将が情報士官だった事を忘れていましたよ」

 

「それから、同盟については諦めて下さい。同盟の命脈は尽きました」

 

 ハンスの言葉にヤンも一抹の寂寥を顔に浮かせるがヤン自身も同盟の命運について理解していた。

 

「代わりとは言っては何ですがフェザーンの様な共和制の自治領を認めますよ」

 

「おい、ハンス。勝手な事を言うな!」

 

 ラインハルトがハンスの発言に慌てるがハンスは平然としている。

 

「閣下。閣下が存命の間は帝国も大丈夫ですが、閣下が亡くなった後に閣下の子孫が第二のゴールデンバウムになるかも知れません。しかし、共和政府という他者の目が有れば腐敗の進行も少しは遅くなるでしょう」

 

 ハンスの言にはラインハルトも思うところがあった。

 

「もし、閣下の子孫がフリードリヒの様な事をしたら逃げる場所が必要ですよ」

 

 更にハンスは言葉を重ねた。再びアンネローゼの様な犠牲者が出るとも限らないのだ。

 

「閣下。私からも自治領政府については一考をお願いします。一度、民主共和制が無くなると再び芽を出すのに時間が掛かります。ルドルフが銀河帝国を作り民主共和制を根絶してからハイネセンの誕生まで百五十年の年月が必要でした」

 

 ラインハルトはゴールデンバウム王朝を打倒して自由惑星同盟も征服したが別に専制政治を信奉している訳でなく共和政治を卑下している訳でない。

 自由惑星同盟は戦争の相手であったが共和政治に興味も持った事も考えた事も無い。

 

「卿らの主張に応えるには私には知識不足である。他の者の意見を聞きたい」

 

「それは当然だと思います。ハイネセンの占領に関して行政官も同行してますので彼らからも意見も聞くべきでしょう」

 

 ハンスもヤンもラインハルトに即答を求めなかった。即答が出来る事でも無いが、ラインハルト以外の人間にもラインハルト亡き後の事を真剣に考えて欲しかったである。

 それに、ハンスにはラインハルトが考える時間がある事を知っていたからでもある。

 

「それとは別に、ヤン提督にはハイネセンから移住して貰いますよ。ヤン提督の身の安全と不必要な争いを避ける為です」

 

 これには流石のヤンも抗議したがハンスに一刀両断で却下された。

 

「ヤン提督を利用して反帝国活動する人間や帝国に媚びを売る為にヤン提督を犠牲にする人間が出て来ますよ。敗戦国の有力武将が粛清されるのはヤン提督ならご存知でしょう」

 

「だからと言って、私が退役すればハイネセンから出て行く必要も無いでしょう」

 

「提督は甘いですよ。逆に同盟の政治家は提督を抹殺に出ますよ。提督が選挙に出れば当選が確実です。自分のライバルは早めに消したいでしょうよ」

 

 元同盟人のハンスの未来予想図は現実味が有りすぎてヤンも納得せざる得なかった。

 

「それに、提督が喜ぶ話も用意しました。ゴールデンバウム王朝が国家機密としていた秘匿歴史資料の調査をする事になりますが出来れば同盟人のスタッフも募集したいと思いますけど、ヤン提督は確か歴史学志望でしたよね」

 

 ハンス自身は幼い時に諦めていた事だが歴史学に未練のあるヤンには致命的な誘惑であった。

 

「貴方の情熱に負けました。お引き受けします!」

 

 ハンスが最後まで言い切る前に承諾するヤンを見てラインハルトも呆気にとられる。

 

(先程、俺が元帥の地位で勧誘した時は断った癖に)

 

 ハンスがヤンとラインハルトの会見に参加した事により、未来は本来の歴史から大きく離れ始めていた。



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勝者のお仕事

 

 宇宙歴799年 帝国歴490年 4月25日

 

 自由惑星同盟と銀河帝国の間には和睦が成立する。

 星系の名を取り一般には「バーラトの和約」と呼ばれる条約なのだが条約成立までが両陣営ともに苦労したのである。

 ハンスなどは「戦争で生き残り、和睦で過労死」と皮肉を口にしたが誰も咎めなかった。

 

 最初に苦労したのはヤンであった。会見後にヒューベリオンに帰還したヤンを幹部一同が待ち構えていた。

 

「おい、ヤン。折角、脱出させたフィッシャー提督を呼び戻すとは何故なんだ?」

 

 一同を代表してキャゼルヌがヤンに問い質す。

 

「帝国のミューゼル大将に看破されてましてね。呼び戻さないと追い討ちを掛けられそうだったんですよ」

 

 ヤンの返答に全員が諦めの表情になる。

 

「奴さんを帝国に亡命させたのは同盟の痛恨のミスですな」

 

 シェーンコップの感想にアッテンボローとポプランは同意を示し、ムライですらシェーンコップの感想を否定しない。

 

「まあ、悪い事だけじゃないよ。ミューゼル大将はローエングラム公に完全併呑された後に民主共和制の自治領を提案してくれた」

 

 ヤンの発言に一同が驚くのも無理からぬ事である。

 

「しかし、提案だけでは却下されたら意味が無いのでは?」

 

 ムライが疑問形で当然過ぎる一般論を口にする。

 

「私も確約は出来ないが期待しても大丈夫だと思うよ。ミューゼル大将はローエングラム公に対して強い影響力がある様に見えた」

 

 流石に全員が十代の一個人に期待する事に不安を覚えた。

 

「それから、ミューゼル大将だけに苦労させる訳じゃない。私も援護射撃が出来る立場になった」

 

 ヤンが帝国の学芸省に学芸員として引き抜かれた事と経緯を話すと全員が納得したものである。

 

「先輩を引き抜くのなら、これ以上の手は無いよなあ」

 

「見事としか言えない手腕だな」

 

「ポプランに美女ですな」

 

「シェーンコップ中将に美女だな」

 

「おめでとう御座います。閣下!」

 

 アッテンボロー、キャゼルヌ、シェーンコップ、ポプラン、フレデリカの順で感想を述べる。

 

 全員の反応にムライが無言で頭を抱えパトリチェフが「やれやれ」と場を締め括った。

 

 ヤンが部下と会見の結果を報告している間にラインハルトも部下の相手をしていた。

 

「ほう。まさか、ヤン・ウェンリーが閣下に臣従すると思いませんでしたな」

 

 オーベルシュタインが器用な事に無表情なまま驚いて見せた。

 

「それなら、我らにもヤン・ウェンリーと話す機会が得られますな」

 

「俺は奴と話す事なんか無いけどな!」

 

 用兵家として純粋にヤンに興味を持つファーレンハイトの隣で再戦の機会が無くなった事が面白くないビッテンフェルトが毒つく。

 

「しかし、ヤン・ウェンリーという男も変わっていますな。元帥の地位より学芸員としての地位を選ぶとは」

 

 生真面目な軍人のレンネンカンプには軍人以外の道を選ぶヤンは変わり者に見える。

 

「しかし、ヤン・ウェンリーの件は別にしてフェザーンの様な共和政治の自治領とは斬新な発想ですな」

 

 生粋の軍人であるルッツにはハンスやヤンの様な歴史家志望の人間の危惧する理屈は理解が出来ても実感が伴わない。

 

「確かに同盟も建国当初は健全な国家だった事を考えたらミューゼル大将やヤン・ウェンリーの言い分にも一理はありますが、気が遠くなる話ですな」

 

 シュタインメッツの感想は提督達の本音の代弁と言えるだろう。

 

「どちらにしても、一度、ハイネセンに赴き随行している行政官の意見を参考にした方が宜しいのでは?」

 

 ミュラーが一般論でまとめる。置き去りにして来た艦艇達の再編作業も残っていて畑違いの会議に出席するのも時間が惜しいくらいなのである。出来れば軍人の自分達に相談をしないで欲しい。

 

「ふむ、やはり卿らも同じ意見か。この件はハイネセンで随行して来た行政官に検討させる」

 

 ラインハルトはオーベルシュタインを指名して行政官の意見を取り仕切りの責任者に任命させるとレンネンカンプをウルヴァシーに駐屯させて全軍にハイネセンへの進発を命じた。

 

 途中でフェザーン回廊の機雷撤去作業を終えたロイエンタールと合流すると惑星ハイネセンに降り立つ。

 ラインハルトがブリュンヒルトの昇降口から姿を見せると帝国軍将兵からの歓声が挙がる。

 

「カイザー、ラインハルト!」

 

「ジーク・カイザー!」

 

「ジーク。カイザー、ラインハルト!」

 

 出迎えに来たミッターマイヤーとキルヒアイスが将兵達の歓声に応える様にラインハルトに促す。

 ラインハルトが片手を挙げて将兵達の歓声に応えた瞬間に爆発的な大歓声が沸き起こる。

 将兵の中には感極まり泣き出す者達もいた。

 ハンスはブリュンヒルトの昇降口が開く前から耳栓をしていたが余りにも歓声の大きさに耳を塞いだほどである。

 一同は将兵の歓声の中を縫うように地上車で移動した。

 キルヒアイスが接収したホテル「ニューハイネセン」に着くと意外な人物が出迎えていた。

 

「ハインリッヒ!」

 

「ヒルダ姉さん!」

 

 キュンメル男爵が背後に車椅子を控えさせているとは言え、自らの足で立っていた。

 

 ヒルダが思わず泣きながら従弟に抱きつく。それを見ていたハンスも釣られて貰い泣きを始める。

 

「フロイライン。積る話があるだろう。落ち着いたら職務に復帰するが良い」

 

 ラインハルトの本来の優しい顔が発露する。

 そして、ホテルに入ると優しい青年の顔に冷徹な独裁者の仮面を被り、キルヒアイスとミッターマイヤーからの報告を受ける。

 

「亡命貴族共はどうした?」

 

「亡命貴族の長であったレムシャイド伯は自裁しました。その他の亡命貴族は全て逮捕拘禁しました」

 

 ミッターマイヤーの報告にラインハルトの返事も短い。

 

「そうか」

 

 実はミッターマイヤーはリップシュタット軍に参加せずにラインハルトに反旗を翻したレムシャイド伯爵に敬意を抱いて自裁する時間を与えていたのだ。

 

「連中の家族の事も含めて参謀長が中心となって随行して来た行政官の意見を取り纏めよ」

 

「了解しました」

 

「それと平行して和約に関する条項の作成もせよ」

 

「それは構いませんが、二百万人の将兵を養えませんので数個艦隊は帝都に帰すべきです」

 

「確かに既に征服して目的が達成したからには将兵も望郷の念が強まろう。ミッターマイヤーとワーレンとウルヴァシーのレンネンカンプは先に凱旋せよ。レンネンカンプに代わりシュタインメッツをウルヴァシーの司令官に任命する」

 

 矢継ぎ早にラインハルトは次々と指示を出しているとヒルダが帰って来た。

 

「閣下には特別の配慮を有り難う御座います」

 

「別に構わぬ。肉親とは大事なものだ」

 

「それでは、閣下にはご足労を願います」

 

「何の用だ?」

 

 何故かミッターマイヤーとロイエンタールにオーベルシュタインにキルヒアイスまでが集まっている。

 

「閣下には同盟の最新医療での精密検査をお受け頂きます」

 

「私には不要だ。精密検査をするならレンネンカンプかオーベルシュタインが受けるべきだ」

 

 ラインハルトは基本的に医者嫌いである。更に言えば健康に対して若さ故の自信もあった。

 

「駄目ですよ。ラインハルト」

 

 ラインハルトの表情が硬直する。ハイネセンで聞ける声でなく、ましてはラインハルトを呼び捨てに出来るのは宇宙で一人だけである。

 

「あ、姉上!」

 

「皆さんがラインハルトの健康を心配して用意してくれたのですよ」

 

 アンネローゼが部屋の入り口に立っていた。傍らにハンスが居る事から黒幕の正体も察しがついた。

 

「ハンス!謀ったな、ハンス!」

 

「自分の生まれの不幸を呪うといい!」

 

 ラインハルトとハンスの大袈裟な会話に呆れながらもアンネローゼがラインハルトを病院まで連行して行く。

 

「その、卿も意外と手段を選ばんな」

 

 ロイエンタールが呆れと感心のカクテルを言葉にして出す。

 

「まあ、お互い様ですけどね」

 

 ルッツとヒルダしか知らないがラインハルトがハンスに一服盛った事をハンスは根に持っていた。

 ロイエンタールも事情は分からないままラインハルトとハンスの間に何かあった事を察したが何も言わなかった。

 

 一週間後に検査入院から解放されたラインハルトとアンネローゼはハンスに感謝する事になる。

 ラインハルトとアンネローゼに遺伝子疾患による膠原病の因子が発見されたのである。

 幸いに早期発見の為に完治は無理だが定期的な投薬で発症を封じる事が可能であった。

 引き続き研究が必要であるが帝国と違い同盟の遺伝子治療なら早晩に治療法も発見される事であろう。

 帝国に恩を売った形の同盟の医療界には帝国から人道支援として多額の資金援助がされる事になる。

 逆行前のハンスが苦労した義手義足も帝国から援助される事になり義手義足を手に入れる為に働き、その為に義手義足の寿命を縮める悪循環を絶ち切る事にハンスは成功したのである。

 それと同時に帝国に対する信頼を植え付けたのである。

 帝国軍は征服したが一方的に搾取して恨まれるつもりは無い。「協力」の名の元に同盟の政府高官や一部の特権階級の不祥事も摘発を始めた。

 民衆を味方に付ける方法として貪官汚吏の駆除が一番早い方法なのである。

 更にハンスから「都市伝説」としてハイネセンポリスの地下の各所には大昔に貯蔵された大量のゼッフル粒子があり管理する者も居らずに爆発の危険があるという噂を聞きビッテンフェルトが中心となり調べると「都市伝説」が事実であり回収騒ぎとなった。

 同盟の役人の仕事の杜撰さが浮き彫りになり親帝国の民衆が増えるのであった。

 



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哲学者の肖像

 

 帝国軍が征服者としての仕事に励んでいる頃に敗軍の将は退職までの間の有給を消化しながら結婚式の段取りをしていた。

 

「ここなら、それほど広くもなく立地も目立つ場所ではありませんから帝国軍の目を引く事もありませんわ」

 

「うん。そうだね」

 

「パーティー会場ですけど、やはり帝国軍の目を引く屋外は止めた方がいいでしょうね」

 

「うん。そうだね」

 

「ここのレストランなら広さも式場からの距離も遠くありませんわ」

 

「うん。そうだね」

 

「では、直ぐに申込みますわね」

 

「うん。そうだね」

 

 段取りをしていたのはフレデリカだけでヤンは首肯するだけであった。

 申込みをしているとディスプレイが切り替わりキャゼルヌが画面に表れた。

 

「よお、お二人さん、式場探しかい?」

 

「そうですね。時期が時期なので派手には出来ませんから」

 

「色々と忙しいそうだな。ところで二人の辞表は受理されたが俺やムライにパトリチェフの辞表は却下された。受理されたのはシェーンコップとアッテンボローくらいだ」

 

「事務仕事が増えるから先輩達に辞められると困るんでしょう」

 

「まあ、和約の条項作りに人が足りないのもあるんだがな」

 

「それと、帝国軍が接収したホテルのオーナーが逮捕されたとか」

 

「ああ、あれね。何でもミューゼル大将が逮捕したらしい。同盟の治安維持に協力するという大義名分だがね」

 

「しかし、オーナーもホテルを接収された上に逮捕とは……」

 

「そうか。お前さんは子供の頃は宇宙船暮らしだったんだな。あそこのオーナーは昔は有名な乗っ取り屋だったんだが、それ以上に奴さんを有名にしたのは、昔、奴さんの欠陥だらけのホテルで大規模な火事があったんだが色々と手を回して執行猶予だけ済ませんだ」

 

 キャゼルヌの話にヤンも記憶の引き出しを探すが見当たらない。

 記憶力に定評のあるフレデリカが当時の記録を引き出しから出してきた。

 

「キャゼルヌ中将。もしかして「ホテルニュージパング」の事でしょうか?」

 

「そうだ。そんな名だった」

 

「それなら、私も覚えています。確か数年後に社長が襲われたんですよ。犯人は捕まらないままですけどね」

 

「ミューゼル大将の事だから、人気取りで逮捕したかもしれん」

 

「確かに効果的な方法ですが、ミューゼル大将の場合は単に個人的な感情かもしれません」

 

「まあ、同盟では散々に苦労した人だからなあ」

 

 キャゼルヌから苦労人と評されたハンスは完全な別件逮捕で自宅から会社、愛人宅も礼状無しで強行捜査をして脱税や闇カルテルに贈収賄の証拠を捜し出してマスコミに公表して同盟の検察に渡していた。

 帝国軍部内でも眉を顰める人間も居たがハンスは堂々と「卿らには互角の敵かも知れんが私には復讐の対象だ!」と公言するので誰も何も言えないままだった。

 検査入院中のラインハルトも「同盟市民が清潔に暮らせるなら私が言う事は無い」と公認する始末である。

 そして、検査入院が終わったラインハルトが退院した翌日にバーラトの和約の調印式が行われる予定であったがハンスが騒ぎを起こした。

 後世、有名な「ゼッフル粒子遺棄事件」である。

 ハンスがビッテンフェルトを誘い「都市伝説」にあるゼッフル粒子を探したら偶然に発見したのである。

 当然の事ながらハンスは歴史のカンニングにより遺棄されたゼッフル粒子発生装置の存在を知っていたが当時の帝国と同盟の人々を震撼させる出来事であった。

 至急に大規模な捜索に代わり次々と発見される事になった。

 数の多さに同盟政府も恥も外聞もなく帝国軍に協力を要請したのである。

 この騒ぎによりヤンとフレデリカの結婚式が1日だが延期されたのである。

 

「ヤン提督には申し訳ありませんがハイネセンポリスの彼方此方で発見されまして、今、我が軍も同盟政府に協力して撤去作業をしています」

 

 市民からの苦情や相談が帝国軍と同盟政府には寄せられたのである。

 その中にヤンとフレデリカが式を挙げる結婚式場の名を見つけたハンスがヤンに連絡したのである。

 

「いえ、逆にハイネセン市民の一人として此方が礼を言うべき事ですよ」

 

「今回の件で我々も帝都に凱旋する予定が延びましたのでヤン提督にはハイネセンでの新婚旅行になってしまいますが……」

 

「構いませんよ。向こうに行けば時間は沢山ありますからね」

 

 ヤンが鷹揚な人物だからだけではなかった。前日に同盟政府の予想被害図が発表されるとハイネセン市民も驚くべき規模であったのである。

 剛胆で知られるキャゼルヌも家族を妻の実家に帰郷させるか考えた程である。

 

「ところでヤン提督。私は結婚式の招待状を貰ってはいませんけど」

 

「こりゃ、失礼」

 

「招待してくれないと押し掛けて式の間中、ずうっと泣きますよ!」

 

「どういう脅迫なんですか?」

 

 結局、ハンスを招待したヤンであったが招待しても式の間中、泣き放しのハンスであった。

 ハンスが普通のスーツで参加していた為に知らない人はハンスをフレデリカの弟と勘違いしていた。

 

「貴官も何も泣く事はないだろう」

 

 レストランで隣の席になったシェーンコップがハンスのグラスにワインを注ぎながら呆れた口調で言う。

 

「そりゃ、子供時代に可愛がってくれた女性が結婚したら泣きたくもなるさ」

 

 実際は中身は八十過ぎの老人である。単純に涙脆くなっているだけである。

 

「それより、卿はヤン提督のボディーガードとして帝国の司法当局で採用となったが帝国に移住に際して必要な物は言ってくれ」

 

 この発言に驚いたのはアッテンボローとキャゼルヌであった。

 

「「そんな事は聞いて無いぞ!」」

 

 キャゼルヌとアッテンボローがタイミングまで合わせて異口同音に声を出した。

 

「なんだ。二人には言って無かったのか?」

 

「まあ、二人を驚かせてやろうと思いましてね」

 

 シェーンコップにしたら帝国軍の全員がハンスではない。中には肉親の仇としてヤンを狙う可能性を考えての志願だった。

 その事を瞬時に悟ったキャゼルヌとアッテンボローは驚きはしたが責めはしなかった。

 ヤンは過激なシェーンコップが同盟政府と衝突する可能性を考えて自分の目の届く範囲に置くべきと考えた結果である。

 そして、ヤンの考えは正鵠を射ていて彼はヤンが同盟政府に暗殺されかけた時には市街戦を起こしているのである。

 ハンスは両者の考えを理解していたから帝国の司法当局に特別に依頼してシェーンコップを職員として採用させたのである。

 

 ヤンは結婚式の後にハイネセンの別荘地に新婚旅行に出掛けたがシェーンコップやアッテンボローなどは政府の要請で一時的に軍に復帰して撤去作業の指揮を取る事になった。

 

「しかし、世の中は不公平なもんだ。ヤン先輩は美女と新婚旅行なのに……」

 

「まあ、卿らの気持ちが分かるが頑張ってくれ」

 

 アッテンボローの愚痴に苦笑しながらもビッテンフェルトが声を掛ける。

 この二人は本来の歴史なら回廊の戦いでマイクを使い、互いの上司の罵り合いをした仲であるが今は協力して撤去作業に従事している。

 

「しかし、この事を考えたら帝国に征服されて良かったかもな。今回の事がなかったら多くの市民が犠牲になっていた」

 

「そんな風に征服を肯定されても嬉しくないぞ」

 

「まあ、事実だからなあ」

 

 この二人、意外と良いコンビかも知れないと横で会話を聞いていた、副官のラオなどは思うのだが口にはしなかった。

 

 後輩から羨ましがられたヤンは新婚旅行中にも関わらずに監視している同盟軍の情報部に呆れていた。

 朝、散歩がてらにフレデリカと一緒に山荘の近くにある売店に牛乳を買いに行った時に朝の別荘地帯に不似合いな地上車が視界に入った。

 

「退役したアッテンボローやシェーンコップまで駆り出して撤去作業をさせてるのに私なんぞを監視する暇と人手が勿体ないと思うけどねえ」

 

「昨日も湖で釣りをしていた時も夕食のバーベキューの時も監視してましたわ」

 

「どちらの情報部なんだろうね」

 

「使用している車の偽造ナンバーが同盟の情報部が使用するパターンと同じですわ」

 

「君の記憶力が健在なのは喜ばしい事だがね。余り感激の出来る事じゃないね」

 

「でも、考え方を変えれば無料で身辺警護をしてくれると思えば有難い事ですわ」

 

 

 ヤンはフレデリカの発言に軽く驚いた。自分は妻のメンタリティーの強さを過小評価していたのか。それとも結婚して強くなったのか判断に苦しんだ。恐らくは両方なのだろう。

 ヤンは監視されている事に被害者意識があるが監視している方も被害者意識があった。

 

「何が悲しくて新婚夫婦の新婚旅行を監視せねばならんのだ!」

 

 二人を監視していた同盟軍情報部情報部員のウィリアム・クラーク大尉(28)独身は愚痴が口から出ていた。

 士官学校に進学した時に先輩から無事に卒業が出来れば専科学校出身の女性士官等から士官学校卒業生は人気があり、デート相手程度なら贅沢を言わなければ不自由はしないと言われたが彼は一度もデート等した事がなかった。

 先輩が嘘を言ったわけではない。事実、彼の同期はデート程度の相手に不自由していない。

 彼は職務上、士官学校卒業した士官である事を公表する事を職務規定で禁止されているのである。

 彼からしたら参謀部や後方勤務に配属されたヤンやキャゼルヌは恵まれた存在なのである。

 その恵まれた存在の幸せな新婚旅行を監視させられるのは苦痛としか表現が出来ないのである。

 

「はあ、こんな仕事を何で寄りにも寄って独身の俺に回すかなあ」

 

 不幸なクラーク大尉の不幸な仕事はヤン夫妻が帝国に旅立つ日まで続く。

 



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二人目の哲学者

 

 ハンスはハイネセンの地を再び踏んでから忙しい。

 まずはラインハルトを入院させると以前から気に食わなかった接収したホテルのオーナーを強引な別件逮捕による令状無しの捜査で塀の中に送り込んだ後にハイネセンの病院の入院患者を調べさせる。

 その間に、ハイネセンの大火になるゼッフル粒子発生装置の探索を始めるが、無聊を託っているビッテンフェルトを「都市伝説」を理由に冗談半分で誘ったら乗って来たので二人で噂の場所に探検してゼッフル粒子発生装置を発見する。

 何時、誤作動しても不思議では無い状態だった為に慌てながらも同盟政府に通報するが既に五十年の年月を経過しており持ち主の会社は倒産して当事者は無く何処にどれだけの数量が有るかも分からずに帝国軍も協力して撤去作業をする事になった。

 

「お手柄ですね。ミューゼル大将」

 

 ラインハルトなら皮肉かと思うが相手はキルヒアイスなので純粋な称賛であろう。

 キルヒアイスもハンスの持ち込んだ問題とは別に忙しいのである。

 ラインハルトが検査入院中にラインハルトの代行をしながら帝国の本土からの書類に目を通して決済しなければならない。

 幸いにもヒルダが鬼気迫る勢いで書類を処理してくれるのでキルヒアイスも助かっている。

 ラインハルトは退院後も暫くは通院する事を医師から指示されているのでキルヒアイスも忙しいままである。

 そして、ヤン夫妻が新婚旅行から帰ってきた時にラインハルトはヤン夫妻との晩餐会を開いた。

 出席者は帝国側はラインハルト、キルヒアイス、アンネローゼ、ヒルダ、ハンス。ヤン夫妻側はユリアンとシェーンコップである。

 最初、ラインハルトは自身とキルヒアイスとハンスにヤン夫妻だけの少人数での晩餐会を考えていたのだが、ハンスが女性がフレデリカ一人だとフレデリカが困ると言ってアンネローゼとヒルダも追加したのだが帝国側が多くなり過ぎたのでユリアンとシェーンコップを追加したのである。

 

 晩餐会はハンスの僻みから始まり一同を呆れさせていたが意外な事にヒルダがハンスに応戦をした。

 

「あら、大将閣下も今は姉君を大事にしてますけど、恋人が出来たら姉の事など無関心になるのでは?」

 

「我が家の場合は姉に弟離れして欲しいと思っていますけどね」

 

「ハンスは偉いわ。私も弟に姉離れして欲しいですけどね」

 

「あら、そんなもの何ですか。私はユリアンには何時までも姉離れして欲しく有りませんけど」

 

(ユリアンは私の息子だからフレデリカだと母親じゃないのか)

 

 思っていても口には出さない程度の思慮はヤンにも有るのである。

 ヤン同様に男性陣は思う事があっても口に出さないで専ら軍事や酒を話題にしていた。

 

「バーミリオンの時の新型のミサイルには驚いた。まさか、卿がハードウェアに頼るとは予想もしてなかった」

 

「イゼルローン要塞に赴任していた時に口の悪い部下が私の事を良く言って給料泥棒とか言いますからね。給料分の仕事をしないと思いまして」

 

 横では口の悪い部下とやらがワインの味をキルヒアイスと論評している。

 ユリアンは吹き出しそうになるのを耐えて料理を口に運んでいる。

 

「しかし、フロイラインは珍しく男性不信の様子ですね」

 

 ハンスがヒルダを面白半分で突っつくと意外な応えが返ってきた。

 

「大将閣下にお世話になったハインリッヒですが入院中に看護婦と恋仲になった様なんです!」

 

「それは……」

 

「あの子ったら、私の事なんか忘れているんですから!」

 

 ヒルダは罪も無い皿のステーキに八つ当たりする。これには一同も苦笑するしかない。

 

「まあまあ、キュンメル男爵が姉離れした事を喜ばないとフロイライン」

 

 ハンスが弟代表としてヒルダを宥める事になる。宥められるヒルダにしてはハンスの言う事は理性は理解しているが感情が追いつかない。

 

「理解はしてますけど、いきなりは酷いと思います!」

 

 ヒルダの反応を見てフレデリカもユリアンを横目で見る。一人っ子のフレデリカにしてはみればユリアンは弟の様な存在でユリアンに恋人が出来た時の自分の反応に自信がない。

 実際に実弟の立場のラインハルトは姉から姉離れが出来ないと言われて、こちらも理性では理解しても感情が追いつかない状態である。

 ラインハルトとヒルダ、意外と似た者同士の二人であった。

 

「まあ、真面目な話をするとキルヒアイス元帥に弁務官をして貰う事になりますが何か留意する点はありますか?」

 

 ハンスが真面目な話をヤンにふる。ヤンも突如としての真面目な話に表情を変えて話をする。

 

「同盟の場合は大企業が政治家に政治献金して自分達に都合が良い法を作らせています。そこが一番の問題点ですね」

 

 ヤンの返答にキルヒアイスが要点を確認する。

 

「つまり、ミューゼル大将の様な強引さも必要なのですね」

 

「まあ、私が口を出す事では無いが権力者の下で無辜の民衆が犠牲になるのは許せんな」

 

 不正を嫌うラインハルトにしては大人しい意見であるのは自身の立場を考慮しての事である。

 

「最初に企業の傀儡となる政治家に投票した国民が悪いのですが……」

 

 ヤンにしたら帝国軍の手を借りる事に忸怩たる思いがあるが国の財政が逼迫している時に一部の者に富を独占させるわけにはいかない。

 

 ラインハルトの脳裏ではロイエンタールとキルヒアイスの二人が弁務官の候補としているがハンスもオーベルシュタインもロイエンタールの弁務官を却下している。

 ハンスは裕福な貴族出身のロイエンタールでは行政問題に対して最下層の人間まで目が届かないと言っている。最下層出身のハンスが言うのだから間違いは無いと思える。

 オーベルシュタインはロイエンタールには帝都にて軍部を掌握して貰わないと困るとも言っていた。

 

「ふむ。ヤン元帥。ハンスの言う通りにキルヒアイスにはハイネセンで弁務官職をして貰うべきか?」

 

「それは同盟市民として人望のあるキルヒアイス元帥に弁務官を務めて貰うと安心でしょう」

 

 ヤンもキルヒアイスの為人を高く評価しているので正直に応える。

 

「では、キルヒアイスは悪いがハイネセンに残り弁務官職を務めてくれ」

 

「了解しました。宰相閣下」

 

「それなら、キルヒアイス元帥には忘れものが有りますよ」

 

 ハンスの言葉に何か帝都本土に仕事を残していると一同が思うのは当然の成り行きであった。

 

「ミューゼル大将。私は何か忘れてましたか?」

 

「はい。元帥閣下としてでは無く、男としてアンネローゼ様を忘れてますよ。女性を待たせるのは感心しませんな」

 

 ハンスの言葉にキルヒアイスとアンネローゼとラインハルトが硬直する。

 

「女性は若く美しい時に好きな男性と一緒になりたいものです!」

 

 ハンスの目は珍しく真剣である。それが分かるから誰もハンスを咎める事が出来ない。

 

「キルヒアイス元帥。私もミューゼル大将の言う通りだと思います」

 

 フレデリカがハンスの援護射撃をした。フレデリカにはキルヒアイスとアンネローゼの関係は分からないがハンスの言葉は女性の本音である。

 

「私もヤン夫人と同意見です!」

 

 ヒルダもハンスの援護射撃を始める。ヒルダの場合は後でラインハルトに恨まれるかもしれないリスクがあるにも関わらずには勇気がいる発言であった。

 当のアンネローゼは顔だけでは無く耳まで真っ赤にして俯いている。

 キルヒアイスはアンネローゼの様子を見て一つだけ深呼吸をする。

 

「分かりました。私も男です!」

 

 キルヒアイスが席を立ち、アンネローゼの前に行き片膝をつきアンネローゼの手を取る。

 

「アンネローゼ様。愛してます。私と結婚して下さい」

 

 キルヒアイスが万感の想いを込めてプロポーズをするとアンネローゼが小さく頷いて返事をする。

 

「ヤー」

 

 簡素な返事だがアンネローゼがキルヒアイスのプロポーズを受け入れたのである。

 キルヒアイスはアンネローゼの手を持ったまま立つとアンネローゼも一緒に立つ。

 二人は無言で見つめ会うと二人は全員が注目する中で口づけをする。

 

 ユリアンとヒルダは二人から目が離せなく顔を真っ赤にしている。

 ヤンは明後日の方向を見ている。フレデリカは嬉しそうな顔をして二人を見ている。

 シェーンコップは生温かい目で見ている。ハンスは二人を見て感動して泣いている。

 ラインハルトは完全な無表情で二人を見ている。

 二人の唇が離れるとラインハルト以外の全員が拍手をする。

 

「おめでとう!」

 

「おめでとうございます!」

 

「おめでとう!」

 

「このまま、ハイネセンで結婚式を挙げる方向で

……」

 

 皆が祝福していた時にハンスが結婚式の事をラインハルトに相談する為に顔を向けると絶句してしまった。

 ラインハルトは背筋を伸ばして席に座った状態で放心していた。

 

「あのう。ローエングラム公……」

 

 ラインハルトの眼前で手を振って見せるが反応が無い。

 

「どうしよう」

 

 十数分後に再起動を始めたラインハルトは二人を祝福するとヒルダを二人の結婚式の責任者に指名する。

 

「ハンスもハイネセンに残留してキルヒアイス元帥を補佐する様に」

 

(仕返しだな)

 

 その場に居た全員の感想である。元同盟人のハンスに補佐をさせる事は適材適所であるが大義名分を借りたラインハルトの意趣返しなのは明白であった。

 キルヒアイスを焚き付けてアンネローゼと結婚させた事をラインハルトが面白く思う筈がない。

 

「了解しました」

 

 ハンスが抗議もせずに命令を受け入れた事は最初から覚悟があっての事と全員が思ったのだが、まさかの展開が待っていたのである。

 



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花嫁衣装と喪服

 

 キルヒアイスがプロポーズした翌日にはキルヒアイスの高等弁務官の就任と二人の婚約発表がされた。

 帝国軍の発表は意外な事に同盟市民からは好意的に受け入れられた。

 温厚で人望のあるキルヒアイスの高等弁務官就任は同盟市民を安心させた。アンネローゼとの婚約は一種のシンデレラストーリーとして特に若い女性達から支持された。

 そして、婚約発表から式まで一週間というスピード婚である。

 帝国側としては発表と同時にウエディングドレスの一般募集から式場の予約に披露宴会場の予約に警備計画と慌ただしい。

 警備計画等はヒルダの管轄外の領分なのでミュラーが担当している。

 同盟側としてはゼッフル粒子騒ぎの直後の消費低迷の時期に結婚特需と便乗する企業で活気付いた。

 当のアンネローゼはキルヒアイスの両親が不在での結婚式を躊躇したがキルヒアイスの両親はウルヴァシー基地に滞在していて既にハイネセンに向かっているとハンスから告げられて呆気に取られる事になる。

 

「そう、最初から私達はハンスの手の平にいたのですね」

 

「はい。アンネローゼ様がハイネセン行きを同意した時から計画してました」

 

 ハンスもアンネローゼに対しては正直に応える。

 アンネローゼとしてはハンスが自分の事を真剣に考えてくれた事に感謝するしかなかった。

 もう一人の当事者のキルヒアイスは高等弁務官としての責務に忙しい。

 結婚式の後に一週間の新婚旅行まで予定されていて、その間はロイエンタールが高等弁務官代行として留守番する事になっている。

 

 世間がキルヒアイスとアンネローゼの結婚で沸き立つ頃、路頭に迷う者達がいた。同盟軍の下士官や兵卒達である。

 宇宙艦隊は解体されて艦艇など廃棄される中で多くの人員がリストラされている。

 士官は経歴を買われて再就職もスムーズだったが下士官や兵卒は再就職に困る事になる。

 工兵や陸戦要員は比較的に再就職が決まるがスパルタニアンのパイロットは再就職先が皆無である。

 古来より軍隊とは衣住食が保証されてる為に困窮者が入隊する事が多いのだが同盟の場合はスパルタニアンのパイロットには若い女性が多いのである。操縦には男女の差は無く軍隊でも技術職なので給料も待遇も良く人気の職なのだが潰しが効かない職でもあった。

 民間で単座の宇宙船など無く民間企業からの募集など皆無である。

 

 カリンは途方に暮れていた。母の葬儀を済ませて養成所に帰ると同時にミッターマイヤー艦隊がハイネセンポリスの空を埋め尽くす事になる。

 カリキュラムの関係でカリン達はハイネセンに残る事になったのだが、一期上の先輩達の大半がバーミリオンで戦死したのである。

 

「命があるだけ儲け物よね。帝国軍が攻めて来るのが、もう少し遅ければ私達も参戦していたのだから」

 

 命はあるが仕事や住み処が無くなるまで数ヵ月である。軍部も一生懸命に自分達の受け入れ先を探してくれているが単座式の宇宙船など軍隊以外で使われて無いのが現状である。

 食堂で予算不足な為か少しずつ貧相になる食事を見て自分の未来を暗示している気分になってくる。

 

「クロイツェル伍長は居るか?」

 

「はい。ここに居ます!」

 

 珍しく教官が食堂までカリンを探しに来たのである。

 

「食事を済ませたら私の執務室に来る様に」

 

「了解しました」

 

 同じ様にテーブルに居た仲間達が心配そうにしている。

 仲間達もカリンが喪中である事を知っているので心配なのである。

 

「私は大丈夫よ。母の事もかなり前から覚悟はしていたから。何か書類の記入ミスでもあったのかもね」

 

 仲間達に心配を掛けまいと笑顔を見せるカリンであったが執務室の前に行くと自然と表情が強張るのである。

 

「失礼します。カーテローゼ・フォン・クロイツェル伍長です」

 

「来たか」

 

 執務室のソファーには帝国軍の将官が座っていた。

 

「ほう。美人だな」

 

 自然な口調で将官が口にするのでカリンも思わず赤面する。

 その様子を見て教官が珍しい物を見たと言わんばかりの表情が癪に触る。

 

「兎に角、まずは座りなさい」

 

 将官が手で自分の隣を示す。

 

「はい。失礼します」

 

(普通は正面に座らせると思うけど)

 

 カリンがソファーに座るのと同時に教官が部屋を出る。

 教官が部屋を出ると将官は自分のポケットから缶コーヒーを出しカリンと自分の前に置く。

 

「私はハンス・フォン・ミューゼルと言う。昔、君の母上に世話になった者だ」

 

 カリンの目と口がOの字を作る。

 

「そんなに驚く事かね?」

 

「普通に驚きます!」

 

 カリンは服の上から心臓を押さえてハンスに応える。

 

「しかし、母からは何も聞いていませんけど」

 

「世話になったと言っても、飯を食わせて貰ったり食べ物をくれたり食事をご馳走してくれたりだったからなあ」

 

(そう言えば母さん、野良猫に餌をあげるのが好きだったわね)

 

「そんな事でハイネセンに着いたら最初に君の母上に挨拶に行くつもりだったが色々と忙しくてね」

 

「はあ」

 

(確かに占領していて忙しいでしょうよ)

 

「それで、時間が出来たので母上を訪ねたら……」

 

 ハンスの沈痛な表情にカリンもハンスに対して帝国軍の高官という意識を捨て娘として遠い所から来た母の知り合いとして応える。

 

「いえ、母も大将閣下に来て頂いて喜んでいると思います。大将閣下は私達の様な軍の末端には憧れの存在ですから」

 

「そ、そうか。そこで、ここからは半分は仕事なんだが貴官は再就職先は決まっているのか?」

 

 カリンは声に出さずに首を横に振る。

 

「やはりな。君以外のパイロット連中も同じか?」

 

 今度は首を縦に振るカリンであった。

 

「そうか。そこで帝国に来る気はないか?」

 

「えっ、帝国にですか?」

 

「そうだ。これから同盟は大不況になる。君がハイネセンで堅気の仕事をして生きるのは無理だ」

 

 ハンスの言葉にカリンも顔を青くする。

 

「お、脅さないで下さい!」

 

「別に脅しではない。客観的な事実だ。私達が不況になる様にするからね」

 

「そんな!」

 

「私達は戦争の勝者だよ。勝者としては当然の事だよ。遅かれ早かれ同盟は滅びて帝国の一部になる。なら、少しでも早く帝国人になったほうがいい」

 

 ハンスの言葉には真実味があった。彼自身が同盟を捨て帝国に亡命したのだから。

 

「でも、帝国に行っても暮らして行けるのでしょうか?」

 

「それは大丈夫だよ。私が保証するよ」

 

 カリンも数瞬だけ考えたが自分が同盟に拘る理由も無い。母も既に埋葬しており心残りも無い。

 

「では、お願いします」

 

「では、二週間後に迎えに来るよ。支度をして待っていてくれ」

 

「はい、了解しました」

 

 カリンが退室するのを見てハンスは缶コーヒーを一気飲みする。

 カリンの母親とは面識も無い。カリンを安心させる為の方便である。隣に座らせたのもカリンに反発させない為である。人は正対すると反発しやすくなるのである。

 

(しかし、あんな娘まで戦争に駆り出すとは…同盟にも呆れるな)

 

 自身もカリンより年少ながら志願して戦場に出た事を忘れている訳では無い。

 逆に自身の経験から未成年が戦場に出る事を忌避していた。ハンスはラインハルトに進言して幼年学校の生徒が戦場に立つ事を禁止にさせている。

 

 養成所の帰りにハンスは改めてカリンの母親の墓に来ていた。

 

(貴女の娘さんは父親に立派に育てさせますので安心して下さい。因みに娘さんの結婚相手は父親と違い立派な男です)

 

 この男、他人の母親の墓参りをしているが自分の親の墓参りを完全に忘れているのである。

 それ程、ハンスにしたら同盟には未練が無いのである。

 ハンスには同盟に対しては嫌な思い出しか無い。キルヒアイスの弁務官業務が軌道に乗れば帝国に帰るつもりである。

 帝国には彼の仕事が残っている。残った仕事が片付いてもハイネセンに帰る事は無いだろう。

 

 翌日にはハンスはキルヒアイスとアンネローゼの結婚式の準備をヒルダに押し付けた弟相手に喧嘩していた。

 喧嘩の理由は寮付きの職業訓練校の設置の是非である。

 

「若いから仕事は幾らでもあるだろう」

 

「有りますが堅気の仕事は無いですな。女性は手っ取り早く売春婦ですな!」

 

「……」

 

「誰も只でとは言って無いでしょう。月々の給料から天引きすれば問題無い。箱も今ある養成所や寮を使えば問題無い」

 

「しかし、帝国に完全併呑する為には同盟を不況にする必要がある」

 

「併呑して不況の新領土に税金を投入する位なら最初から税金を投入して若者に恩を売った方がマシです!」

 

 それでも渋るラインハルトに業を煮やしたハンスは奥の手を使う事にした。

 

「ふん。中には幼い弟や妹の為に体を売る少女とかも出るでしょうなあ。闇の売春婦等は性病を移されたり特殊性癖の連中に殺害されたりと危険が伴うものですけどね」

 

「分かった。卿が責任者となる事を条件に許可する」

 

「有り難き幸せ」

 

 喜んで執務室を出て行くハンスの後ろ姿を眺めながらラインハルトは自分とは違い平和な時代には平和な仕事を行えるハンスを羨ましく思っていた。

 

 これが、キルヒアイスとアンネローゼの結婚式の四日前の事である。

 尚、職業訓練校を卒業した若者が次々と帝国の企業に就職して同盟を出て行く為に同盟の過疎化が進み帝国に併呑されるのが早まる事になるとはラインハルトもハンスも、この時は予想もしていなかった。

 



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華燭の典

 

 キルヒアイスとアンネローゼの結婚式が占領下とは言え、二人の地位から言えば質素と言える規模で行われた。

 それでも、招待客の顔ぶれは豪華と言える。前最高評議会議長と現最高評議会議長に前宇宙艦隊司令長官、統合作戦本部長代行等、肩書きに長の文字が付く人達ばかりである。

 在野からはヤン夫妻にシェーンコップにユリアン等も参列している。

 帝国側は軍服姿の参加者が多いのは仕方がないだろう。

 その軍服姿の参加者の中で異彩を放っていたのはハンスであった。

 キルヒアイスの姿を見ては泣きアンネローゼの姿を見ては泣き二人が揃って歩けば泣きで式の間中、泣いていた。

 更にヒルダとフレデリカも貰い泣きしておりキルヒアイスの母親まで泣き出す始末である。

 ラインハルトにして見れば違う意味で泣きたくなったものである。

 ヒルダにはラインハルトがキルヒアイスの母親には父親がフレデリカにはヤンがハンスにはユリアンが世話をしていた。

 因みに、この光景は全宇宙に中継されている。

 

「しかし、意外とハンスも涙脆いなあ」

 

 ミッターマイヤーが横に居たロイエンタールに囁いた。

 

「独身主義の俺からは理解し難い事だがな」

 

 ミッターマイヤーは自分が囁いた相手を間違えた事を悟った。

 ハンスにしては泣けて当然の事である。本来の歴史ではキルヒアイスは非業の死を遂げて、アンネローゼはラインハルトが結婚するまで完全な世捨人となる。

 弟の結婚の時に世に復帰して夫を亡くした義妹を支えて本人は生涯を独身のまま終える事になる。

 その事を知るハンスは幸せそうな二人を見れば涙が出るのも仕方ない事である。

 逆行以来の苦労が二人の晴れ姿を見て報われた気がする。

 二人の式が終わると披露宴となるが新郎と新婦の地位にしては異例な立食形式の披露宴となる。警備態勢と準備期間の問題であるが単にアンネローゼが堅苦しい形式を避けた為だと言える。アンネローゼとしたら夫となるキルヒアイスの為に多くの人と誼を結ぶ必要があり、立食形式の方が都合が良いのである。

 以前は壁の華としてパーティーでは人と話す事が無かったアンネローゼが積極的に人と話をしているのを見るとハンス等は胸が締めつけられる思いである。 

 

(アンネローゼ様。暫くの間は大変ですけど頑張って下さい!)

 

 ハンスがワインを飲みながらアンネローゼを応援するのであった。

 

「珍しいな。卿が食より酒を優先するとは」

 

 翌日には高等弁務官代行を務めるロイエンタールが羨ましそうな口調である。

 

「煩く言わんが程々にしておけよ」

 

 ハンスの酒量を知らないミッターマイヤーが生真面目に釘を刺す。

 

「安心して下さい。明日は休みですから」

 

「そういう問題では無いのだが……」

 

 ハンスのズレた返答に苦笑するミッターマイヤーであった。

 双璧の二人が会話している間にも各所で会話の花が咲き乱れていた。

 

「卿の様な柔軟な艦隊運用が出来るからの用兵だな」

 

「私の部下に艦隊運用の名人が居たからですよ」

 

 ビッテンフェルトは以前に宣言した言葉を裏切りヤンと用兵術談義をしている。

 

 ファーレンハイトはビュコックを見つけては何やらビュコックの言葉をメモしている。どうやらファーレンハイトは老人に弱い様である。

 

「えっ、最初は私も同じ様にしてましたわ」

 

「そうなんですか。でも、時折、とんでもないのが上がってくるので止めましたわ」

 

「そうなんですよね。私も同じでしたわ」

 

 ヒルダはフレデリカと書類整理の仕方で意見交換をしている。

 

「帝国に来るなら私の娘と結婚しないかい」

 

「あら、娘さんの方が年上でしょう。私の妹は同い年よ」

 

 参列者の中でも比較的若いユリアンは数少ない女性参列者から声を掛けられている。

 

「妹さんより、君の方が魅力的だね」

 

 その横でシェーンコップが妙齢の女性を口説いている。

 

「やはり、ダイヤが良いのか。それに立食の方が費用も安いのか」

 

 シュタインメッツは取り仕切る係員に何やら相談をしている。内縁の妻との結婚式の相談らしい。

 シュトライトはハンス同様に泣き出している。どうやら、アンネローゼと自分の娘が重なった様である。

 

「自分達の学校だと水泳が必修科目でしたよ」

 

「そうか。私達の学校ではプール自体が無かったからなあ」

 

 リュッケは珍しくラインハルトと会話をしている。どうやら同い年の二人は少年時代の事で話が弾んでいる様である。

 

「だから、左に移動しながらだと脇が締まった状態になるから右方向に逃げてだな」

 

 その横ではキスリングとルッツがブラスターについて話をしている。銃の名手であるルッツが銃撃戦についてレクチャーしていた。

 オーベルシュタインは警備担当者のミュラーと打ち合わせをしている。

 

 同盟側の人間ではトリューニヒトとレベロが陰険漫才をしている。

 その間でロックウェルがオロオロしている。

 

 その、一方ではアンネローゼのウェディングドレスが若い女性の間で既に話題となっている。

 ドレスを一般公募してアンネローゼに似合うドレスを数少ない女性行政官達が選んだ一品である。デザイナーにして見れば名を売る千載一遇のチャンスである。

 そして、採用されたデザイナーが名刺を片手に営業を掛けている。数年後、彼は売れっ子デザイナーとして自身のブランドを立ち上げる事になる。

 

 披露宴会場ではアンネローゼ監修のウェディングケーキも話題になっており、遠く離れたオーディンではアンネローゼの弟子達にウェディングケーキの注文が殺到する現象まで起きていた。

 高等弁務官事務所にもウェディングケーキやドレスについての問い合わせが殺到していた。

 この事態を予期していたハンスがハイネセンのテレビ局に既に資料を渡していて、テロップで申し込み先を表示して回線がパンクする事を避ける対応をしていた。

 

 披露宴が終わるとキルヒアイスとアンネローゼの二人はハイネセンでも風光明媚な事で有名な別荘地に新婚旅行として訪れる予定である。

 キルヒアイスとしてはアンネローゼの手料理を味わえるチャンスである。

 二人の新居は高等弁務官事務所として接収されたホテルの最上階のスウィートルームである。

 一応は防犯の為に改装もされている。誰も指摘しなかったが一つ階下のレストランも何故か改装されている。

 オーディンに続き同盟でもケーキ中毒になる将兵が出る事になりそうである。

 

 披露宴が終わるとキルヒアイスとアンネローゼは新婚旅行先に旅立った。

 新婚旅行先では親衛隊が二十四時間態勢で二人を護衛する事になる。

 

 ハンスは残った料理を例により使い捨てのタッパーに入れて会場の内外で警備する兵士達のお土産にする様に係員に指示を出している。

 その為に冷めても味が落ちたり食中毒の心配の無いメニューを指定していた。

 

 帝国軍は留守番役のロイエンタールを残して翌日には帝国本土に凱旋する事になっている。

 例外はシュタインメッツで彼は任地であるウルヴァシーに帰投する事になっている。

  

 翌日、ラインハルト達がハイネセンを離れる日にキュンメル男爵がヒルダに別れの挨拶をする為に訪ねて来た。相変わらず恋仲の看護婦も一緒である。

 ヒルダは顔色も変えずに微笑みを浮かべてキュンメル男爵を迎える。

 

「閣下。女性って怖いですよね」

 

「内心は別にして微笑みが出せる事が凄いな」

 

 ハンスとラインハルトが小声で会話する。ラインハルトは嫌いな人間には態度に出る為に完璧な礼節で誤魔化すのが常であった。

 それでもフレーゲル男爵と陰険漫才をしてイゼルローン要塞から追い出され事もある。

 ヒルダが何やら会話をすると笑顔でキュンメル男爵を帰す。

 二人の漏れ聞こえる会話からリハビリ中に病院を抜け出して来た様である。

 キュンメル男爵が別れの挨拶を済まして地上車が見えなくなった途端にヒルダが泣き始める。

 

「おい、ハンス!」

 

 ラインハルトがハンスを呼ぶがハンスの姿は既に消えている。仕方なくラインハルトはヒルダを慰めに行く。

 ラインハルトは不器用にも泣いてるヒルダに悪戦苦闘している。

 その姿を遠くから見ていたキルヒアイスの両親が呆れていた。

 

「ラインハルト君は勉強の出来る子だったけどなあ。アンネローゼさんが居て女を慰める事も出来んとは」

 

「だから、ジークフリードも心配で一緒に居たんでしょう」

 

 宇宙で最高の権力者もキルヒアイスの両親に掛かれば実年齢以下の子供扱いである。

 ハンスが苦笑しながらも読唇術で読んだキュンメル男爵の言葉を口にする。

 

「ヒルダ姉さん。もう僕は大丈夫だから、これからは姉さんは自分だけの幸せを考えてね。長い間、僕とキュンメル家を支えてくれて本当にありがとう」

 

「ほう。キュンメル男爵も大人になった訳か」

 

 ハンスが読んだキュンメル男爵の言葉を聞いてシェーンコップが偉そうに論評する。

 

「しかし、キュンメル男爵はともかく我らの上司殿は情けない!」

 

「何故、情けないか分かるのかね?」

 

 シェーンコップが偉そうにハンスに問う。

 

「そりゃ、馬鹿でも分かる」

 

「では、お答えを聞きたいですな」

 

「坊やだからさ」

 

 実年齢は八十過ぎのハンスにしたらラインハルトはもとよりシェーンコップも若造に過ぎないのだが、そんな事を知る筈も無いシェーンコップはハンスの返答に声を殺して笑うだけであった。

 



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ロイエンタールの災難

 

 キルヒアイス夫妻が新婚旅行から帰って来るとロイエンタールは引き継ぎ業務を済ませて麾下の艦隊を率いて帝国本土に凱旋する準備をしていた。

 

 出発を明日に控えた夜、ハンスが未成年の女性を官舎に引き込んだと報告が部下からされたのである。

 色事師として有名なロイエンタールでも相手が未成年となると黙認するわけに行かずにハンスの官舎まで自ら乗り込んで行った。

 ハンスの官舎には報告通りの未成年の少女が居たのである。

 確かに美少女であるが未成年である事は一目で分かる。

 

「確かに卿も若いから気持ちは分かるが真面目に交際するにも相手の事を考えるべきだぞ」

 

 ハンスと少女はロイエンタールが何を言っているか理解が出来ない表情である。

 ロイエンタールは頭を抱えたくなるのを抑えて引き続きハンスにロイエンタールらしからぬ説教をする。

 

「フロイラインも自分の事を大切にする事だ。確かにハンスは立派な男だが年齢相応の交際の仕方というものがある!」

 

 ハンスと少女の顔に少しずつ理解の色が加わり始める。

 ハンスは呆れながら何を何処から説明するべきか考える。

 

「取り敢えずフロイラインは部下に家まで送らせよう」

 

「最初から、そのつもり何ですけどね」

 

 ハンスの言葉にロイエンタールもハンスの顔を見直す。

 

「ロイエンタール提督。何か勘違いをされている様子ですね」

 

 ハンスの声は北風の様に冷たく、目は氷の様に冷ややかな視線でロイエンタールを見ている。

 

「いや、その何だ。卿も若いから……」

 

 ハンスの反応にロイエンタールは自身が盛大に誤解していた事に気づいた。

 

「いや、すまん。部下からの報告を真に受けた俺が悪かった!」

 

「まあ、食事をしたら提督に話をするつもりでしたから手間が省けましたよ」

 

 ハンスの声は相変わらず北風の様に冷たいままだったが少女が吹き出してしまった。

 

「こら、笑ったら駄目じゃないか!」

 

「無理ですよ。閣下」

 

「でも、言った通りの反応するだろ」

 

「本当に閣下が言った通りに反応するとは」

 

 ハンスと少女にからかわれた事を理解したロイエンタールは怒鳴りつけたいが怒鳴りつければ自分を信用していたら問題が無いと反論されるので耐えるしかない。

 

「それで、上官を玩具にした理由は何だ?」

 

「まあ。その前に紹介をしましょう。カリン」

 

「はい。私はカーテローゼ・フォン・クロイツェルと申します」

 

 カリンが起立して敬礼までするので軍籍者だと分かってしまう。

 

「ほう。この様に美しいフロイラインがな」

 

 ロイエンタールの言葉に頬を赤くするカリンは年齢相応の女性らしく愛らしい。

 

「それで、彼女は最近、母上を亡くされまして帝国に居る父親を頼る事にしたんですよ」

 

「それは、気の毒な話だな」

 

「それで、幸いにも自分達が父親と顔見知りでしたので、提督が凱旋するのに便乗させて頂くつもりだったのです」

 

「それは構わぬが俺達と顔見知りとは?」

 

 ハンスが一通の封筒をロイエンタールに手渡すと、ロイエンタールは、その場で中身を確認する。

 

「なっ、あの男の娘か!」

 

 ロイエンタールはカリンの顔を見直す。

 

「美しいフロイラインだが、確かに父親の面影が無い事も無い」

 

 再度、ロイエンタールから美しいと言われて、カリンは再び顔を赤くする。

 

「まあ。彼女の父親も提督と同類ですから道中で父親の心理という者を教えて下さい」

 

「おい、フロイラインを帝国まで送り届ける事は構わんが、独身の俺に父親の心理を教えろとか無茶を言うな!」

 

 帝国の双璧と呼ばれても若いロイエンタールに年頃の娘を持つ父親の心理などは色々な意味で理解が出来ない。

 

「では、訂正します。色事師の心理を教えてやって下さい」

 

 ハンスは仕事に私情を挟む事は無いので忘れていたがロイエンタールは敵とモテない男の僻み根性を丸出しで公言している男なのだ。

 

「私も真剣に父の心理を知りたいのです」

 

 カリンの目も表情も真剣である。それを見るとロイエンタールはヤンが守るイゼルローン要塞を攻める事の方が遥かに楽な気がしてきた。

 ロイエンタールはフェザーンで補給のついでに兵士達に休暇を取らせる算段をしていたが補給だけしたら休暇は無しで少しでも早くオーディンに凱旋する事を決めた。

 

「取り敢えず、提督も一緒に食事をどうぞ!」

 

 ロイエンタールの不機嫌な表情を見て料理で懐柔を試みるハンスであった。

 

「気に食わぬな。俺を料理で釣れると思っている卿の根性が!」

 

「そうですか。残念ですね。提督の分も作ったのに」

 

 ロイエンタールの前には野菜の色も鮮やかなシチューが湯気を出して鎮座している。

 香りもロイエンタールが初めて嗅ぐに香りである。同盟には帝国に無い食材も多いらしい。

 

「忌ま忌ましいが卿の策に乗るしかないか」

 

 カリンがロイエンタールから顔を背けている。肩が小刻みに震えているのは笑いの発作に耐えきれてない為であろう。

 

「フロイライン。ハンスは色々と問題があるが料理の腕は確かだ。俺が保証する」

 

 カリンも帝国の高官であるロイエンタールが保証するハンスの料理に期待をした。そして、期待以上の味であった。ロイエンタールがハンスの料理で懐柔される事に納得をした。

 食事も終わりカリンを部下にホテルまで送り届けさせた後にロイエンタールはハンスに詰問した。

 

「卿は何故、あの小娘の家庭事情を俺に話した?」

 

 ロイエンタールはハンスが頼めば何も聞かずにカリンの事を引き受ける事を分かっていてカリンの家庭事情をロイエンタールにあえて暴露したハンスの思惑が知りたかった。

 

「それは、自分やヤン提督では説得力が無いからです」

 

「卿は俺に何を説得させる気なのだ?」

 

「カリンは母親が亡くなった時に父親に母親の訃報と自分の存在を知らせてます。しかし、シェーンコップはカリンを探さずに帝国に行きます」

 

「それが何か?」

 

「敵の考えは読めても思春期の少女の考えは読めないとは……」

 

「それとこれとは次元が違う」

 

 ハンスは溜め息をつきながらロイエンタールに説明を始めた。

 

「だから、普通なら父親が自分を探しに来るとカリンは思っていたんですよ。でも、シェーンコップは探しに来なかった。自分はシェーンコップに捨てられたと思っているんですよ」

 

「そうなのか?」

 

「まあ、世の中には平気で子供を捨てる親も居ますからね」

 

 これにはロイエンタールも首肯せざる得ない。自分の母親の例もある。

 

「まあ。シェーンコップにして見れば自分が必要なら娘の方から来るだろうし、来ないのは娘が自分を必要としていないと考えたんでしょうね」

 

「俺があの男の立場なら同じ考えだがな」

 

「まあ、私も若いですから心情的にはカリンの気持ちが分かるんですけどね」

 

「つまり、卿は俺に父親の考えを代弁させたいのか」

 

「流石、ロイエンタール提督ですな。ご明察です」

 

「卿に頼まれたら嫌とは言えんからな」

 

 翌日からはロイエンタールはカリンから質問攻めにされた。

 部下達もロイエンタールの漁色家ぶりを快く思っていなかったので苦笑しながらカリンに協力するのであった。

 

「俺の場合は単に幼少期のトラウマが原因なのだが、フロイラインの父親の心理も多少は理解が出来る」

 

 ロイエンタールも乗り掛かった船である。カリンに真剣に自分なりの父親の心理を解説する。

 カリンもロイエンタールの解説を真剣に聞くのであった。

 

「フロイラインの父親は陸戦の専門家で俺達以上に戦死する可能性が高い。指揮官の作戦が見事でも戦闘となれば絶対に戦死する者は出てくる」

 

「はい。私も軍人の端くれでしたから、それは承知しています」

 

「陸戦隊や空戦隊は指揮官の指揮とは関係なく戦死の可能性が高い」

 

「私もスパルタニアンのパイロットでした。私達の一期上の先輩達はバーミリオンで殆どが戦死しました」

 

「そうだ。あのヤン・ウェンリーの指揮でさえ空戦隊だと戦死する可能性が高いのだ。そんな自分が家庭を持つ事に拒否反応があるのだろう」

 

「それで、父が結婚しない理由は分かりますが、見境い無しに女性を口説く事の関係は理解しかねます」

 

 女性として、カリンの疑問は当然である。

 

「ふん。多分、寂しがり屋なんだろ」

 

「えっ、寂しがり屋なんですか?」

 

 カリンにしたらヤンの策があったと言え、二度もイゼルローン要塞を奪取した猛者である。寂しがり屋とは縁遠い印象なのである。

 

「納得が出来ん様だが、勇気や豪胆さと別次元の話だからな。寂しがり屋だが自分が戦死した後に泣かれたくは無いんだろうよ」

 

「それで、見境なく口説くのですか?」

 

「表現に刺があるが、その通りだな」

 

 

「言っておくが、フロイラインの父親は知らんが俺は二股を掛けた事は無いぞ!」

 

 ロイエンタールの言葉に、流石にカリンの視線と表情が緩む。

 

「失礼しました。しかし、浮気をしない程の誠実な方が結婚が出来ないのも不思議な事ですよね」

 

「まあ、俺の場合は俺に問題があるからな。別れた女達が幸せになってくれる事を祈るばかりだ」

 

「本当に立派です。立派ですけど本当に残念ですね」

 

 カリンの感想は本音でもあり、一般論でもあった。

 

「俺も以前はフロイラインと同じ気持ちだったが、最近は家庭持ちの部下を見て俺の方が幸せかなと思うぞ」

 

 幸いな事に本来の歴史とは違いロイエンタールには野心の種は発芽する事もなく深層意識の深い場所で眠り続けたままである。

 自身のトラウマとラインハルトの言葉が化学反応を起こして本来の歴史の様に野心の種を発芽させる事はなかった。

 

「私の周囲では両親が居る幸せな家庭の子の方が少ないですから」

 

 百五十年間も戦争をしていた結果である。同盟ではトラバース法という悪法が施行され、帝国では親子関係の養子縁組だけではなく兄弟姉妹の養子縁組も行われていた。

 

「そうか。しかし、もう不幸な時代は終わった。俺は駄目だったがフロイラインが成人する頃は子供が不幸になる時代ではなくなる」

 

 ロイエンタールは本気で現状に満足していた。良き友人を得て良き主君を得ていた。カリンの言う通りに幸せな家庭に生まれる人間の方が少ないのである。ハンスやファーレンハイトの様に生きる為に軍人を選ばざる得なかった人達に比べて幸せであると思う。

 

「しかし、あの男がフロイラインを見て、どんな反応するか見物だな」

 

「それは私も楽しみです。ミューゼル閣下から策も授かりましたから!」

 

(ハンスの奴め。子供に何を吹き込んだ?)

 



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色事師達の受難

 

 フェザーンに補給の為に一時寄港したラインハルトとヤン夫妻に極秘でハンスからカリンについて連絡があった。

 

「それは、分かったがヤン夫妻に事情を話すのは理解が出来るが何故、私にも話す」

 

 ラインハルトにしたら個人のプライバシーを吹聴するなとハンスに言外に注意したつもりである。

 

「それは、閣下にもカリンの相談相手になって欲しいからですよ。閣下も父親とは不仲だったでしょう」

 

「卿も言いにくい事を平気で言うなあ」

 

 ラインハルトもハンスの遠慮の無さに呆れ気味だがハンスがカリンの事を考えての事なので諦めるしかなかった。

 

「父親と不仲な先輩として、年齢も近いでしょうからね」

 

 二人の会話を聞いていたヤン夫妻はハンスの不器用な優しさに苦笑していた。

 

「それから、ヤン夫人には同じ同盟の女性同士という事でお願いします。ヤン提督には将来のユリアンの嫁候補を宜しくお願いします」

 

 ハンスの言葉にヤンも苦笑しながら反論する。

 

「あれには、キャゼルヌの娘が居ますよ。しかし、キャゼルヌの娘とシェーンコップの娘がユリアンの取り合いになったら不肖の父親同士がどうするか見物だな」

 

 横で聞いていたフレデリカも夫の発言に呆れながら夫に釘を刺した。

 

「どちらにしても、ヤン家には素敵な親戚が出来ますわね」

 

 フレデリカの言葉に急に深刻に考え始まるヤンの姿を見てラインハルトは笑いの発作を抑える苦労をする事になる。

 そして、当事者のシェーンコップはヤンからカリンの事を伝えられる事になる。

 

「美人でしたか?」

 

「いや、名前と年齢しか聞いてないけど、ミューゼル大将の話では美人らしいよ」

 

「なら、私の娘に違いは有りませんな!」

 

 ヤンもシェーンコップの態度には呆れたのだがヤンも黙ってはいない。

 

「父親似になる事を考慮してないだろう」

 

「提督は御存知ないでしょうが、私も若い頃は美少年で芸能事務所からスカウトされたものです」

 

「それなら、何故、軍人なんかになったのかね?」

 

「それは、あの頃から愛国心に溢れてましたからな。当然の結果ですな」

 

 横で聞いていたフレデリカも我慢が出来ずに吹き出してしまった。

 

「バーミリオン会戦が終了してハイネセンに帰還した時に手紙が来ていました。母親の死と自分の名前と年齢だけを記してました」

 

 それまで笑いの発作を止めるのに悪戦苦闘していたフレデリカが途端に顔色が変わる。

 

「もしかして、中将は存在を知っていて、今まで放置していたのですか?」

 

 フレデリカの表情と声から危機を感じ取ったのは色事師として見事であったが危機を感じても対処法が分からない。シェーンコップには何がフレデリカの地雷だったか見当がつかないのである。

 

「まあ、放置していた訳ではない。先方が住所を書いて無かったのだ」

 

 豪胆不敵なシェーンコップが慌てるのは稀有な事であるが、それ以上にフレデリカの怒りが凄まじいかった。

 

「中将。言い訳は見苦しいですよ。名前と年齢さえ分かっていたら探すのは簡単です」

 

 別にシェーンコップ自身が探す必要も無い。ヤン艦隊には腕利きの情報部員であるバグダッシュもいる。バグダッシュに依頼すれば良い話である。

 焦るシェーンコップに救いの神かユリアンが部屋に入って来た。

 

「ただいま戻りました」

 

「あら、早かったわね。ユリアン」

 

 何時ものフレデリカになり優しくユリアンに声を掛ける。横にいたヤンも驚く程の変り身である。

 

「はい。アパートも意外と簡単に見つかりました」

 

 ユリアンはヤンの結婚に伴い独立を宣言して、フェザーンの大学に進学する事にした。

 幸いにフェザーンの大学は入学が容易だが卒業が難しい事で有名だがユリアンなら問題が無いと思えた。

 そして、アパートを探しに不動産屋に出向いて帰宅したのだが部屋の空気の異常さを敏感に感じ取った様である。

 

「貴方、今日はユリアンと男同士で語り合って下さい。明日の出港までに帰って来てくれたら構いませんから」

 

 シェーンコップにはフレデリカが死刑執行書を読み上げている様に思えた。

 

「それじゃ、フレデリカの言葉に甘える事にしょう。ユリアン、行くぞ!」

 

「はい。提督!」

 

 ある意味、名コンビである。上司と弟子はシェーンコップを見殺しにする事を瞬時に決定した様である。

 シェーンコップは顔は何時もの大胆不敵の表情だったが、内心は覚悟を決めていた。

 結局、フレデリカの説教は朝まで続いたのである。

 

 シェーンコップがフレデリカに説教されている頃、ハイネセンではシェーンコップの新たな説教の種をアッテンボローがハンスの前に連れて来ていた。

 

「今日、恩給の手続きに統合作戦本部に行ったら、この子、エドワード・マスが受付で職員と揉めていたので仲裁に入ったら、自分はシェーンコップの息子かもしれないので調べて欲しいと言うんだ」

 

 ハンスは本来の歴史に登場しなかった少年の顔を思わず直視した。

 十歳前後の少年にはシェーンコップの面影は無い。髪も瞳も黒く、ヤンの息子と言われた方が納得が出来る。

 

(自分が歴史に介入した事で色んな所で迷惑を掛けてるみたいだな)

 

「どうやら、幸いな事に母親似らしい」

 

「了解した。シェーンコップのDNAデータは我が軍にもある。坊やは医務室に行ってDNAの検査を受けて貰おう」

 

 ハンスは部下にエドワードを医務室まで連れて行かせるとアッテンボローに詳細を聞く事にした。

 

「俺も詳しくは知らんのだが、母親は随分と前に亡くしていて祖母と二人で暮らしていたらしい。祖母は帝国軍が統合作戦本部のビルをミサイルで吹き飛ばした音に驚いて階段から落ちて入院したのだが病院から老人ホームに転院となって、あの子も施設に行く事になったので慌ててシェーンコップを頼ろうとしたらしい」

 

 ハンスはアッテンボローの話を聞いて想像がついた。

 

「恐らく祖母を一人に出来ないから、シェーンコップに連絡もせずに祖母と一緒に暮らしていたんだろうなあ」

 

 ハンスの推察にアッテンボローも同意をした。

 

「恐らくな。まあ、本当にシェーンコップの子供なのかが、あの子も半信半疑だから分からんけどな」

 

「もし、シェーンコップの息子なら帝国に行く事になるが、あの子は承知するだろうか?」

 

「多分、承知すると思う。祖母は階段から落ちた時に腰と頭を打っていて、あの子の事も分からん状態らしい」

 

「それは、辛かっただろうなあ」

 

「正直、俺には何もしてやれんからなあ」

 

「ふん。普通は元軍人が帝国軍の大将の所まで押し掛けて来たりはせんよ」

 

 ハンスは言外にアッテンボローの優しさを皮肉るが、あっさりと反撃されてしまう。

 

「まあ、ミューゼル大将相手だからな。あんたも子供相手には随分と優しいからな。なにせ、幼年学校の生徒の実地研修を禁止にする程だからな」

 

「俺みたいに現場に行かないと食えない連中じゃないからな。帝国も同盟も戦災孤児のケアが課題だからなあ」

 

「ヤン先輩も言っていたが軍隊に入れば衣住食が得られるからな」

 

「その軍隊も縮小される。お互いに大変な事になるぞ」

 

 特に同盟はラインハルトが台頭してから負け続けて戦災孤児の人数は帝国を遥かに凌駕する。

 ラインハルトが台頭する前からトラバース法という悪法を施行する程の悪状況だったのだから現状については押して知るべし。

 ハンスとアッテンボローは戦災孤児を増やした原因の責任があるので他人事とは言えない。

 

「まあ、一人でも救える子は救いたい」

 

「手始めにエドワードだな」

 

(まあ、エドワード君も本来の歴史では父親を亡くす事になっていたから自分のした事に意味は有ったかもな)

 

 ハンスとアッテンボローの会話がエドワードに戻った時にエドワード本人も戻って来た。

 

「はい。お疲れ様。ところで二人とも結果が出るまで食事でも如何かな?」

 

「「ありがとうございます!」」

 

 二人が異口同音に礼を言うのに苦笑したハンスであった。

 

 ハンスが苦笑していた頃に苦笑どころでは無く批難の集中砲火を受けていたのは、帝国の色事師のロイエンタールである。

 

「信じられない。初めての女の子を相手にして捨てるなんて!」

 

 大尉時代に大尉から降格させられた話をしたら、カリンから批難されてしまった。

 

「別に騙した訳では無いし、その後に三人から決闘を申し込まれたぞ」

 

「それで大尉から中尉に降格するのも道理に外れているでしょう。三回も決闘したなら准尉まで降格しないと」

 

 若い士官などはカリンの後ろで何度も頷いている。

 

「おい。卿はフロイラインじゃなく上官である俺の味方をするべきじゃないのか?」

 

「私は閣下の事を軍人として尊敬してますが、閣下みたいな人がいるから私の所まで幸せが回ってきませんので」

 

「それは俺のせいでは無いと思うぞ!」

 

 周囲に居た部下達は笑いの発作を必死に抑えてるのがロイエンタールには分かる。

 カリンは聡明な娘だが、父親が父親だけに男性に偏見を持っているとロイエンタールは思っている。

 

「まあ、フロイライン。世の中には若い男を騙すタチの悪い女もいるし提督の様な男もいる。互いに気をつけるべきだよ」

 

 今度は古株の士官までがカリンの味方についた事にロイエンタールも焦った。

 

「ブルータス。お前もか!」

 

「年齢を無視して勝手に息子にしないで下さい。私も年頃の娘がいますから、心情的にはフロイラインの味方です!」

 

 ロイエンタールが何か反論してやろうと考えた時に通信士官からの報告があった。

 

「ハイネセンのキルヒアイス元帥から極秘通信が入っています」

 

「うむ。では、私の執務室で受ける。回線を繋いでくれ」

 

 十五分後、ロイエンタールは部下達にフェザーンでの補給と三日間の休暇の発表をした。

 喜び声が出る艦橋で一人だけ自身の不幸を呪うロイエンタールであった。

 

(弟が居た事をフロイラインに何と言って伝えればいいんだ?)

 

 ロイエンタール氏の受難は続くのである。



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親子と姉弟

 

 ロイエンタール艦隊がフェザーンを出港する日に一人の少年がトリスタンに乗り込んだのである。

 少年の名はエドワード・マス。十歳である。

 DNA鑑定でシェーンコップとの親子関係が確定した、その日の夕方には船上の人となっていた。

 フェザーン行きの商船の便があったのでハンスが手配して乗せたのである。因みに船賃はハンスのポケットマネーである。

 ハンスの早く姉であるカリンに会わせてやりたいとの思いからである。

 エドワードはフェザーンに到着すると宙港で迎えに来た帝国軍の士官に案内されるままトリスタンに乗り込みロイエンタールの執務室に連れて行かれた。

 執務室に入ると腰の長さまである紅茶色の髪をした少女が待っていた。

 

「貴方がエドワード・マスね。私は貴方の姉のカーテローゼ・フォン・クロイツェルよ」

 

 カリンが自己紹介をした瞬間にエドワードの両眼から涙が溢れ出した。

 事前に姉の名を聞いた時には帝国貴族の血筋である事が分かった。貴族の血筋の人間が同盟庶民の出自の自分を弟として認めてくれないのではと不安があった。しかし、少女は自分を弟として認めてくれたのである。

 

「姉さん!」

 

 エドワードは思わずカリンに抱きつくとカリンも応えて無言でエドワードを抱き締める。

 エドワードを案内して来た士官は貰い泣きしてしまう。

 存在を忘れられたロイエンタールが士官を促して執務室を出る。

 この時、ロイエンタールの内に野心とは違うものが芽吹き始めていた。

 

 ロイエンタールが執務室を姉弟に明け渡していた頃、オーディンではシェーンコップが買い物に奔走していた。

 住居は帝国側がヤン夫妻の隣を用意してくれたが家具は一から用意しなければならない。

 ヤン夫妻は備え付けの家具で事足りるが突然に子持ちとなったシェーンコップは何が必要かも分からないままフレデリカに連れられて買い物の荷物持ちをヤンと務めていた。

 

「服は本人達が来てからじゃないとサイズが分かりませんわ。取り敢えずベッドと布団に食器が必要ですわ」

 

 デパートでフレデリカが必要な物を買って行く。洗面用具までカゴに入れて行くのは女性特有の気遣いなのか、それとも副官としての配慮なのか、もしくは両方なのか分からないがヤンやシェーンコップでは気が回らない部分も気配りを忘れない。

 

(料理が苦手なだけで、家事能力は優秀じゃないか)

 

 ヤンが典型的な身内の身贔屓をしている間にもフレデリカはヤンやシェーンコップの服も選んでいる。

 シェーンコップもヤンも軍服で出歩く癖が付いている為に私服が極端に少なかった。

 これが、オーディンに到着して一日目の出来事である。

 

 

 父親がフレデリカの買い出し部隊の要員となっている頃に子供達はロイエンタール達を呆れさせていた。

 

「その何だ。俺は兄弟姉妹が居ないから断言が出来んがアレが普通なのか?」

 

 ロイエンタールが姉が居る若い部下に問い掛けた。

 ロイエンタールの視線の先には展望室のベンチで恋人同士の様に抱き合うカリンとエドワードの姿がある。

 問われた部下も苦笑しながらも上官の問いに応える。

 

「まあ、仲の良い姉弟なら有りますけど、普通は一応、人の目を気にしますけど……」

 

「艦内の風紀が乱れんか?」

 

「えっ!」

 

「何故、驚く?」

 

「提督の口から風紀等の言葉が出るとは思いませんでしたので、驚くのも当然だと思います」

 

 ロイエンタールは知らない間に部下からの人望を失った様である。

 幸いにもカリンの興味は弟であるエドワードに移ったみたいでロイエンタールがカリンの質問攻めに応えて人望を失う事は無くなった。

 代わりにカリンが弟を猫可愛がりする場面が艦内各所で目撃される事になる。

 

「平和になった事だし、家庭を持つのもいいかな」

 

 ロイエンタールの発言に周囲の者は驚くばかりである。

 

「あの二人、提督を洗脳するとは凄いもんだ」

 

「随分と荒んだ意見だな」

 

「提督も家庭を持てば分かりますよ。子供達には父親より母親で母親より兄弟姉妹が居れば大丈夫なんですよ」

 

 兄弟姉妹の居ないロイエンタールには心情的にも客観的にも理解が難しい事だが、家庭持ちの者が言うからには根拠があるのだろう。

 

「ミッターマイヤー提督も子供が居ないから新婚気分でいられますけどね。女は結婚して子供が出来ると変わるもんですよ」

 

「そ、そうか?」

 

「新婚時代は脱出用のシャトルですが時間が経つにつれワルキューレになり子供が出来ると一気に巡航艦ですよ。二人目が出来ると大型戦艦になり最終的にはイゼルローン要塞並に強くなるんですよ」

 

 部下のある意味での真理は独身者のロイエンタールとしては俄に信じ難い話である。帰国したらケンプかレンネンカンプ辺りに聞く事にした。

 

 ロイエンタールが独身主義の返上に水を差された翌日にはオーディンへの凱旋となる。

 宙港には無事に凱旋した将兵を迎えに来た家族で溢れている。その中に同盟語で会話する三人連れが居た。

 

「此処で良いのかな?」

 

「此処で間違い無い筈ですわ」

 

「贅沢を言えば自宅まで送り届けて欲しかったですな」

 

 最後の台詞はシェーンコップである。フレデリカから刺だらけの視線を受けて流石のシェーンコップも黙り込む。

 黒い軍服の集団の中で私服姿は目立つものである。搭乗口から降りた姉弟の姿を三人はすぐに発見した。

 フレデリカが大きく手を振るが二人は気付かない。二人にしたら帝国軍の家族と判別がつかないのは当然である。

 

「ほら、中将も手を振って下さい」

 

 珍しく事にシェーンコップが照れているのかフレデリカが催促してシェーンコップに手を降らす。

 良くも悪くも同盟人には顔が売れているシェーンコップに姉弟は気付き走って向かって来る。

 二人はシェーンコップに走り寄り左右から抱き付いた。

 

「お父さん!」

 

「父さん!」

 

 親子対面の感動の場面であるが、シェーンコップが二人の肩に手を回した瞬間に、それは起きた。

 

「「くたばれ!馬鹿親父!」」

 

 姉弟は見事なコンビネーションでバックドロップをシェーンコップ相手に炸裂させたのである。

 流石に同盟軍の歴史に名を残したシェーンコップである。咄嗟に両腕で頭部を守ったの見事であった。

 父親にバックドロップを見舞った二人は今度はフレデリカに駆け寄った。

 

「悪い事は言いません。貴女は不良中年に騙されてます!」

 

「貴女みたいな綺麗なお姉さんが相手にする様な男じゃありません!」

 

 どうやら姉弟はフレデリカをシェーンコップの新しい愛人と勘違いしている様であった。これにはフレデリカも困惑するばかりである。その困惑した反応に姉弟も気付いたらしく。

 

「姉さん。同盟語じゃなく帝国語じゃないと駄目じゃないの?」

 

「そうか。帝国の人は同盟語とか習わないわよね」

 

 カリンが流暢な帝国語でフレデリカにシェーンコップが女性の敵である事を伝え始める。

 流石に想定外の誤解と姉弟の対応にフレデリカも苦笑するしかなかった。そこで存在を忘れられたヤンがカリンに話し掛けた

 

「フレデリカは私の妻で、君達の父親は今回は無実なんだがね」

 

「「えっ!」」

 

 フレデリカを説得していたカリンとシェーンコップに胴締めスリーパーホールドを掛けていたエドワードの二人は異口同音に驚く。

 同盟人なら知らない人はいないヤンである。姉弟は慌てながらもフレデリカとヤンに平謝りを始めるのであった。

 

「本当に失礼しました。ヤン元帥閣下の奥様に向かって誤解とは言えとんでもない事!」

 

「すいませんでした。こんな若くて綺麗なお姉さんだったので、まさか結婚してる人とは思いませんでした!」

 

 一連の騒動は帝国軍と、その家族が見守る衆人環視の中の騒動である。

 ロイエンタールは遠くから騒動に気付いたが巻き込まれるのを避けて無視する事にした。

 そして、騒動の中に一人の帝国人の中年男性が入って来たのである。

 

「少々、来るのが遅かった様ですな」

 

 ヤン夫妻とシェーンコップ親子が一斉に注目する。謎の中年男性にヤンが一同を代表して男性に声を掛けた。

 

「どちら様でしょうか?」

 

「はい。私は帝国内務省社会秩序維持局の局長のハイドリッヒ・ラングと申します。ミューゼル大将閣下の依頼で推参しました」

 

 本来の歴史では交わる事の無かった面々が顔を会わせる事になった。

 そして、シェーンコップだけはラングに向けて警戒の目を向けていた。

 帝国からの亡命者達の間には社会秩序維持局の悪名は有名であり、幼い頃に帝国から亡命したシェーンコップの耳にも社会秩序維持局の名は届いていたのである。

 

「貴官が高名な社会秩序維持局の局長か。貴官の名は同盟にも届いている」

 

 シェーンコップが言外に危険信号を出してヤン夫妻に伝える。

 若夫妻もシェーンコップの信号を受信して警戒をするが意外な事に姉弟の二人がラングに駆け寄る。

 

「ミューゼル大将閣下からお話は聞いています。帝国に到着したらお渡しする様に言われてました」

 

 カリンが懐から一通の手紙をラングに差し出すとエドワードも姉に倣って一通の手紙をラングに差し出す。

 

「我々には貴官の事はミューゼル大将から何も聞かされていないのだが?」

 

 事情を飲み込めない大人三人はラングに説明を求める。

 

「はい。ヤン夫妻達の事は内密にとミューゼル大将閣下からの依頼でしたが、途中で事情が変わりましたから説明をさせて頂きますが、それより、取り敢えず場所を移す方が先決だと思いませんか?」

 

 ラングの申し出は、この日、最初の正論であった。既にヤン達は周囲の注目を集めていた。特にヤンは同盟とは別の意味で顔と名が売れたのであった。

 

 



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ジーク・カイザー

 

宇宙歴799年 新帝国歴001年 6月22日

 

 ラインハルトは銀河帝国皇帝に即位した。

 残念な事にラインハルトが最も欲する二人が居ない事に頬を膨らませながらの戴冠式であった。

 先帝となるエルウィン・ヨーゼフ二世の親権者であるベーネミュンデ侯爵夫人は退位宣言書と帝位をラインハルトに譲渡する宣言書にサインした。

 代償としてエルウィン・ヨーゼフ二世には公爵の地位と生涯年金として毎年150万帝国マルクの年金が支払われる。

 これ以降、エルウィン・ヨーゼフ二世が政治の表舞台に立つ事はなく平穏な生涯を送る事になる。

 そして、オーディンから全宇宙に向けて戴冠式の模様は中継放送されたのである。

 

「折角の戴冠式で軍服を着る事はないだろう」

 

 ハイネセンでキルヒアイス夫妻と一緒に中継を観ていたハンスの言にアンネローゼも苦笑するしかなかった。

 

「陛下には軍服が最も似合います」

 

 キルヒアイスが苦しいフォローをする。

 

「まさか、似合うからって、結婚式も軍服で済ますつもりじゃないよなあ」

 

 このハンスの言葉にアンネローゼとキルヒアイスの二人が真剣に考え込み出したのには、今度はハンスが苦笑するしかなかった。

 

 ハンスが苦笑していた頃にラインハルトの即位と合わせて考え込むヤン夫妻とシェーンコップ親子が居た。

 原因は昨日の事である。ラングが空港に現れたのはヤンに注意を喚起する為であった。

 ラングは一行を空港の談話室に連れて行き、自分がハンスの依頼で動いている事を伝えた。

 

「ミューゼル大将の懸念は三つありました。一つ目はヤン提督を家族の仇と狙われる可能性。二つ目がヤン提督の家族を人質に取る等してヤン提督に反帝国軍の指揮官をさせる可能性。三つ目は帝国内部の権力闘争の道具にされる可能性です」

 

 ラングが示した可能性も一つ目は誰もが思い当たる可能性であった。二つ目の場合はヤンも考えていた可能性ではあった。

 しかし、三つ目の可能性となると軍事の戦略では無いのでヤンとしたら何とも言えない。

 

「しかしですなあ。その為に小官が同盟から護衛役を買って出ているのですよ」

 

 シェーンコップにしたら社会秩序維持局の肩書きに嫌がらせをしているだけの発言である。

 

「その事についてはミューゼル大将も指摘してますが、シェーンコップ閣下だけなら問題が有りませんが、シェーンコップ閣下にはお子様が二人も居ます。ミューゼル大将も自分なら子供達を人質にすると言ってます」

 

 これには、シェーンコップも黙るしかなかった。

 

「それに、先程のフロイラインがミューゼル大将に預かった手紙には、もし、シェーンコップ閣下の親子の仲が不調の場合は速やかにフロイラインを保護する様にと書いてました。それから、自分が妹として引き取るからとも書いてました」

 

 全員がカリンの顔を反射的に見た。

 

「更に言わせて貰えば、軍を辞めても直ぐに引き取りに行くとも書いてました」

 

 ハンスの決意もだが、それ以上にシェーンコップの父親として責任感の低評価も並大抵ではない。

 思わずヤンもシェーンコップを弁護したくなった。

 

「シェーンコップは不肖の父だがね。そこまでミューゼル大将が心配する事はないよ」

 

「だったみたいですな。因みに坊やの手紙には姉と仲が良い場合は必ず二人を引き裂かない様にとも書いてますな」

 

「その心配も無いみたいだよ。先程は見事なコンビネーションだったからね」

 

 ヤンの応えにはシェーンコップ以外の全員が笑ってしまった。

 その場は笑って済ませたが問題はハンスの危惧の可能性である。

 

「しかし、昨日のミューゼル大将閣下の危惧した二つ目と三つ目は、私には杞憂に思えますが、私より貴方の方が事が見えているでしょう?」

 

 シェーンコップはヤンに見解は聞いてみた。

 

「まあ、一つ目は当然だろうし、二つ目も十分に有り得る話だね」

 

 フレデリカの前で口に出来ないが自分が指揮官を引き受け無い場合は無差別テロを行うと脅迫されたら引き受けざる得ない。

 現にフレデリカの父が改革派の若い者に担ぎ上げられてクーデターの首謀者になった事もある。

 

「三つ目は、流石に貴方にも予測が不可能ですか?」

 

「私は軍人だったからね。戦略なら分かる事もあるけど、専制国家の内部の権力闘争となるとね。それに、ミューゼル大将は情報畑の人だから私達が知らない情報も掴んでいるかもしれない。彼の指示に従うのが賢明だと思うよ。何より彼は信用が出来る人物だと思う」

 

 結論としては、ヤンは真実の一部を突いていた。ハンスが情報を掴んでいたのは事実である。しかし、情報源が未来から来た未来人の知識だとは思いつかない。

 

「それより、私達より後に出た二人にハイネセンの様子を聞きたい」

 

 カリンにしたら元とは言え、雲の上の地位にいた人物から質問に驚きと緊張を混ぜ合わせながらも応える。

 

「そうですね。ミューゼル大将が企業の社長や役人を逮捕令状も無しに逮捕してましたね」

 

「令状も無しに逮捕とは戦勝国だからと言って無茶をするなあ」

 

「でも、逮捕した後から証拠を探して出て来てますから、ハイネセンの一般の人は喜んでましたよ」

 

 更にエドワードが情報の追加をする。

 

「僕がハイネセンを出る時は軍人さんも逮捕されてましたよ」

 

「名前は分かるかしら?」

 

「ロックウェルさんとベイさんです」

 

 エドワードの返答に大人三人は何となく納得してしまった。

 

「まあ、露骨な人気取りですが、確かに効果的でしょうな」

 

 シェーンコップの評にヤンも賛成だが自分もハイネセンに居たらミューゼル大将を応援しただろうと思った。

 

「既に私達は皇帝ラインハルトを信用して全権を委ねてしまったのだから、彼を信用するしかない」

 

 ヤンの本音としたらバーミリオンの会見でハンスにシャーウッドの森を看破されてからは俎板の鯉の気分であった。

 そして、その俎板の居心地の良さは危険と思いつつも抗え切れないのであった。

 

 ヤンが俎板の鯉になる事を受容していた頃、それに必死に抗う暗い存在達が居た。

 

「総大主教猊下に報告を致します。ラインハルト・フォン・ローエングラムが銀河帝国を簒奪して自由惑星同盟を征服しました」

 

 暗い地下で松明型の照明を使っている事に馬鹿らしく思いながらも、ド・ヴィリエは報告する。

 

「ふむ、それで腐った林檎は潜り込んだのか?」

 

「はい。ヨブ・トリューニヒトは既に帝国に潜り込みました」

 

「それで、ルビンスキーは如何した?」

 

「昨年末には退院して自宅療養をしてましたが新帝国発足と同時に財務尚書として帝国に潜り込みました」

 

「奴とは連絡は取れているのか?」

 

「一応は。しかし、ルビンスキーの心底が掴めません。場合により新体制に懐柔される可能性も」

 

「それは、別に宜しい。既に奴の役目は終わっている。ルビンスキーに付けていた鈴のデグスビイの不信者は如何した?」

 

「既に死亡した事が確認されました。ルビンスキー不在時の代行役に俗物としての快楽を教え込まれた挙げ句に溺死しています」

 

「愚かな背信者め!」

 

 報告をしていたド・ヴィリエは笑止と思わざる得なかった。

 

(デグスビイも愚かなら狂信者である自分達も愚かだろうに)

 

 ド・ヴィリエは内心は暗い歓喜を抱いていた。

 ルビンスキーから皇帝ラインハルトの下で経済を抑える事で宇宙を裏面から支配する提案をされた時には自身の野心が終わったと絶望した。

 しかし、地球教による全面支配を望みルビンスキーの案が却下された時は総大主教と周囲の取り巻きの愚かさに感謝したのである。

 

(ルビンスキーが地球教を裏切る事は分かっている。問題はタイミングだな)

 

 ド・ヴィリエはトリューニヒトと協力して宇宙の表と裏を分割支配する計画をしていた。

 ルビンスキーに比べればトリューニヒトの方が組み易いのである。

 

(しかし、トリューニヒトに表面を支配させるには金髪の孺子の周囲が邪魔だな。金髪の孺子も所詮は戦争が上手いだけの青二才よ)

 

 人は生まれる環境を選ぶ事が出来ない。自分の夢や野心を満足させるには生まれた環境を利用するしかないのである。

 ヤンが歴史を学ぶ為に士官学校の戦史研究科を利用した様にラインハルトがアンネローゼを取り戻す為に軍隊を利用した様にド・ヴィリエには地球教しかなかった。

 ド・ヴィリエは本心から地球の過去の栄華を取り戻す熱意などは皆無であった。地球教は自分の野望を満足させる為の道具に過ぎなかった。

 必要な間だけ使い不必要になれば処分するだけであった。

 しかし、ド・ヴィリエは自身が道具であり処分される可能性には全く気づいていなかったのである。

 

(ド・ヴィリエの小才子めが、大人しくして居れば我の地位を継がせたものを痴れ者が!)

 

 総大主教も彼の野心を見抜いていたのである。互いに互いを利用していたが彼らの共通点は他者も情報を集めて分析をして対応する事に気付いていなかった。

 常に自分達が計画を立て実行して狩る側と信じていた。

 ハンスとラングの共作による地球教殲滅作戦の序曲は既に始まっていたのである。

 ローエングラム王朝が興り表面上は平和が訪れたかに見えが、全宇宙を震撼させる出来事が起きるまで、幾何の時間しか残っていなかった。

 



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ハンスの帰宅

 

 後世、皇帝ラインハルトは質素倹約を美徳としたと評されているが、これは間違いである。

 ラインハルトは意識して質素倹約をしていたのではなく、少年時代の貧しさ故の質素倹約が身に染みているだけである。

 その他の要因としては奢侈に流された為に末期には常に予算不足であったゴールデンバウム王朝を直視した事も関係するだろう。

 しかし、この日の祝宴は少々、趣きが変わっていた。

 ラインハルトが祝宴会場に入ると大広間には屋台が並んでいた。

 そして、礼服を着た武官達と武官の家族が屋台見物していて、大広間の壇上では婦人警官が腹話術を披露している。

 

「信号が黄色になったら、テディ君はどうするのかな?」

 

「信号が黄色になったら渡らない!」

 

「テディ君は偉いねえ。そうだよ。信号が黄色になったら危険だから横断歩道は渡っては駄目なんだよ」

 

 暫くは呆然としたラインハルトであったが視界にマリーンドルフ伯を見つけると当然の如く説明を求めた。

 

「マリーンドルフ伯。これは何の真似だ。説明をして貰おう」

 

「実はミューゼル大将の提案でして、武官は家を空ける事が多いですから、家族と触れ合う機会を作りたいと言われましてミューゼル大将が計画書を送って来たのです」

 

 説明しているマリーンドルフ伯の後ろでワーレンが息子を肩車しているのが見えた。

 ワーレンは妻を亡くして幼い息子を両親に預けての遠征であった。

 

「私の不明であった。武官達の家族の事を失念していた。ハンスは私が至らない所まで気を回してくれる」

 

 ラインハルトも嘗ては遠征から帰る度にアンネローゼとの面会を楽しみにしていた。

 今回の遠征は過去に無い程の長旅になったのだ。武官達には家族と過ごす時間は貴重である。

 

「しかし、お祭り騒ぎは、これで最初で最後にして欲しいものだ」

 

 だからと言って派手な祝宴を認めないのがラインハルトである。

 

「そうですな。これが最初で最後にしたいものです」

 

 マリーンドルフ伯の言葉は帝国人の本音であった。年頃の娘を戦場に出したがる親など貴重な存在であろう。

 

「忘れていました。陛下、これをどうぞ」

 

 マリーンドルフ伯がラインハルトに一冊の紙の束を渡した。

 

「何だ。これは?」

 

「これは屋台で使える引き換え券です。これが無いと屋台の品は買えません」

 

「配給の券か?」

 

 ラインハルトが本当に二十代なのか疑わしい事を言う。

 

「子供を甘やかさない様にとミューゼル大将の指示です。このチケットと一枚で商品と交換が出来ます。チケットは一人十枚ですから食べ過ぎる事は無いでしょう」

 

「一人十枚は多くないか?」

 

「発案者がミューゼル大将ですから」

 

「奴が基準なのか」

 

 発案者の意見を聞いて納得したラインハルトであったが、突然に笑い出した。

 

「陛下。いくら何でもミューゼル大将に失礼です」

 

 ラインハルトは片手を挙げてマリーンドルフ伯を制してた。

 

「いや、ハンスの事では無い。別件だ」

 

 マリーンドルフ伯はラインハルトが思い出し笑いをしたと思っていたが、ラインハルトの笑いの原因は自分の娘だった。

 両手に屋台の料理を持ったヒルダが父を発見した途端に踵を返して逃走したのを目撃したからである。

 どうやら、ヒルダは貴族の姫君らしく屋台の食べ物等は禁止されているらしい。

 

「せっかくだ。私も楽しんで来よう」

 

 ラインハルトも交換チケットを片手に屋台を見て回った。

 ラインハルト自身も幼い頃は貧しく屋台で買い食い等は出来なかった。ヒルダとは違う意味で祭りの屋台とは無縁だった為に、目の前の屋台に気分は高揚する。

 

「たったの十枚とはケチくさい」

 

 ラインハルトは数分前の自分の発言を遠くの棚に投げ上げて勝手な事を言う。

 

「ふむ、普段の屋台と違う物も多いな」

 

 幼年学校時代は成長期の食欲を屋台で満たしていた。特に冬になると川魚のホイル焼きが生徒達に人気でキルヒアイスと一緒に教師の目を盗んで買いに行ったものである。

 少年時代を思い出してホイル焼きを買うと少年時代には別の意味で縁の無かったグリューワインを買う。

 

「ワインよりビールの方が良かったかな」

 

 屋台の料理で食欲を満たして後にラインハルトは会場を見物した。

 ケンプにアイゼナッハやレンネンカンプが家族サービスをしているのを見掛けた。

 

「ハンスは気が回る奴だ。キルヒアイスに悪いが返してもらうか」

 

 ハンスの庶民感覚は貴重である。ヒルダと違った意味でラインハルトに助言してくれるだろう。

 ラインハルトがキルヒアイス以外に他言していないフェザーンへの遷都にも貴重な助言をしてくれるに違いない。

 

 翌日、ラインハルトはキルヒアイスにハンスについて相談をした。

 

「私は構いませんが本人が何と言うか」

 

「ハイネセンで恋人でも出来たのか?」

 

「まさか。毎日の様に同盟の役人やら企業の不正を暴いていますよ」

 

「そう言えば奴は国を捨てた男だったな」

 

「同盟時代に不正や不法行為をして司法当局に圧力や買収で逃げた連中を捕まえてます」

 

「復讐に酔っているのか」

 

 ラインハルト自身も身に覚えがあった。リヒテンラーデ侯の一族の十歳以上の男子に死刑を宣告した事があった。

 

「同盟市民からの人気は凄いですけどね」

 

 ハンスが摘発した結果、警察から裁判官までが買収されていた事が発覚したのはキルヒアイスも驚きを隠せなかった。

 当然の如く市民の怒りは最高潮に達していた。それに反比例してハンスの人気と帝国の信用は増すばかりである。

 ある政治家の贈収賄事件の裁判では渡された現金に対して領収書が無い事で賄賂とは認められ無かった。

 ある集団レイプ事件の裁判では意識不明の被害者が拒絶しなかった事で合意とされた。

 ある暴力事件では被害者の被害届けを警察が再三に渡り受理をせずに絶望した被害者が自殺をした。

 ある役所では病気の為に働けない人の生活保護を打ち切り、病人を餓死させた役人は法的な処罰をされないままであった。

 

 報告を受けたラインハルトも呆れながらも怒り心頭であった。

 逮捕した犯罪者が抵抗した為に仕方なく射殺したとハンスは公表した。

 誰も信じる者はいなかったが批判する者もいなかったのである。

 

「もう既に同盟の役人は怯えきっています。役人を辞めても疚しい事があるから逃げたと言われて迫害されてます」

 

 ラインハルトもキルヒアイスもハンスが同盟政府に何やら恨みがある事は察していたが、これ程とは予想していなかった。

 

「分かった。明日にも辞令を出そう」

 

「はい、お願いします」

 

 こうして、ハンスの帰宅が決まったのである。

 

「了解しました。それと、戦災孤児育成の制度も出来たばかりなので実際に運用すると不都合が出ると思いますので、私が始めた仕事を押し付ける様で心苦しいのですが宜しくお願いします」

 

「後は任せて安心して下さい」

 

 意外と素直にハンスが了承した事に拍子抜けしたキルヒアイスであったがハンスにも事情があった。

 

(帝国に居る地球教の始末があるからな)

 

 同盟を征服したハンスは地球教の資金源である麻薬の取り締まりも徹底的に行ったのである。

 結果、同盟内の麻薬組織は壊滅したと言って良い状況になった。

 帝国に比べて建国からの歴史も短く国力が落ちた同盟では麻薬密売がビジネスにならなかった事も壊滅が容易だった一因であった。

 ハンスが敵と戦う手法は一貫している。相手の資金源や人材を削り取った後に攻撃するのである。

 そして、数年の年月を掛けて帝国の麻薬販売網は壊滅状態にした。

 地球教の唯一の資金源と言えた同盟の麻薬販売網も壊滅させたのである。

 地球教という蟹の両手の鋏は切り落としたのである。

 鋏を無くした蟹は左右にしか移動が出来ないのである。

 

(地球の亡霊を始末してやる。そして、心置き無く退役が出来る!)

 

 キルヒアイスとアンネローゼを見ていると早く結婚がしたいと思うハンスであった。

 辞令を受けた三日後には既にハイネセンを発ったハンスである。

 

 フェザーンに補給の為に寄港した時にハンスはユリアンに連絡をしてみた。

 ユリアンは数ヶ月前まで軍人だったハンデも無くフェザーンの大学で歴史を勉強している。

 どうやら、友人も出来た様で待ち合わせ場所には友人達も来ていた。

 

「煩い連中まで来てしまって、すいません。閣下!」

 

 ユリアンの友人達はハンスを珍獣の様な目で見ている。

 

「うわ、本当に本物じゃないか!」

 

「大将閣下なのに、一人で出歩けるんだ!」

 

 ハンスも苦笑するしか無い。自分も亡命した頃は歴史上の人物達に会う度に内心は同じ反応をしていた。

 

「お前達、大将閣下に対して失礼だろ!」

 

 ユリアンが同世代の友人と戯れるのを見ていると如何にユリアンが特殊な状況にいたかが分かる気がする。

 

「ユリアン。友達も出来て結構な事だが浮気はするなよ!」

 

 慌てるユリアンを見て友人達もユリアンをからかう。

 

「やっぱり、ミンツは彼女がいるじゃんか!」

 

「違うって、大将閣下の冗談だよ」

 

「ほれ、証拠写真!」

 

 ハンスが准将時代の記念写真を見せると全員が爆笑したのであった。

 

「この子が大人になった時はミンツはおじさんじゃないか!」

 

「シャルロットは妹みたいなもんだよ」

 

「なら、シャルロットに恋人が出来た時のユリアンが見物だな」

 

「僕は兄馬鹿になりませんよ!」

 

 この世界でユリアンとカリンが結ばれるかは分からないが、各々が幸せな生活をしている様である。

 この幸せな世界を守りたいとハンスは思った。

その為に亡命以降も軍人を続けて良かったと思えた。

 軍人生活も残り僅かである。この時のハンスは本気で思っていたのだが、後に大きな見当違いだと思いしる事になる。

 



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攻防

 

 ハンスがフェザーンに人材引き抜きの為にオーディンを離れてから帰還するまで一年近くなる。

 ハンスは着陸前に艦長に席を譲ってもらい艦長席でヘッダのブロマイドを片手に惑星オーディンを眺めていた。

 

「オーディンか。何もかも皆、懐かしい」

 

 ハンスは呟く様に言うと静かに目を閉じてシートにゆっくりと体を預けた。

 

「閣下。着陸準備を始めますから、そろそろ席を返して頂けますか」

 

 艦長から催促されて席を返しながら、ハンスは艦長の頭部を見る。年齢の割には豊かな髪が目に入る。

 

「うーん、軍医殿もあったからなあ。それにあの人は下戸だからなあ」

 

 ハンスは艦長には意味不明な事を言っていた。

 

「まあ、閣下にしたら懐かしいでしょうな」

 

「うん。出張手当てが凄い事になっていたよ」

 

「それは、そうでしょう。普通は長くても半年ですから」

 

「最初はフェザーンに出張の筈だったけどね」

 

 独身とは言え、姉と同居している身に一年近い長旅は堪えた。

 

(まさかね。オーディンに帰る事が、こんなに嬉しいとは!)

 

 亡命してからオーディンが自分の居場所になっていた。海も川も少ないオーディンに懐かしさを覚えると同時に姉に会いたい自分がいるのに驚きもあった。

 

「ハイネセンに居る時は釣りをして糊口を凌いだもんだったから、最初はオーディンに海が少ない事に落胆したもんだがね」

 

 場所だけの問題ではなく、義姉のヘッダの影響も大きいだろう。成人後に正式に結婚するつもりだが、周囲の説得も大変な労苦になると覚悟をしている。

 

(いかんなあ。オーディンを見て郷愁に浸っている場合じゃない)

 

 ハンスはオーディンに帰還しても忙しいのである。

 宙港に着くと、そのまま新無憂宮に行きラインハルトに帰還の報告する。

 

「残る敵は地球教となりました。予定通りに明日に会議をして頂けますか?」

 

「問題無い。内務省と財務省からも報告を受けている」

 

「それから、会議の後は暇になりますので、休暇をお願いします」

 

「分かっている。但し休暇から帰って来たら卿は上級大将に昇進だ。例により、研修を受けて貰うぞ」

 

 ハンスの表情は一転して嫌な顔になる。

 

「普通は昇進すると喜ぶものだがな」

 

 ラインハルトの皮肉ならない皮肉にハンスも黙っていない。

 

「研修無しで昇進だけなら喜びますよ」

 

「昇進無しで研修だけ受けても構わんぞ」

 

「陛下。私に何か恨みでも有るんですか?」

 

 この言葉にラインハルトも呆れながら驚いた。

 

「その何だ。卿は自覚が無かったのか!」

 

 二人の会話を横で聞いていたヒルダは腹筋を酷使する事になる。

 

(この二人、本当に仲が良いわね)

 

 ハンスはその場でヒルダに翌日の会議の確認してから軍務省に行き軍務尚書のオーベルシュタインに帰還の報告と翌日の会議の事前説明をする。

 その後にロイエンタールの所に赴きオーベルシュタインと同様に会議の事前説明をする。

 

「ふむ。卿が以前からコソコソと何かをしていたのは、この件だったのか」

 

「まあ、これだけでは有りませんけど」

 

 その後、ミッターマイヤーにケスラー、司法尚書のブルックドルフに内務尚書オスマイヤーの順序に事前説明に回る。

 最後に内務省の次官にまで出世したラングと一緒に財務尚書に就任したルビンスキーの所に赴き、翌日の会議の打ち合わせをする。

 

「しかし、財務尚書閣下が味方になった事は大きいですな」

 

 ラングも地球教の捜査に忙しく以前よりは痩せた体で言う。

 

「私も酒も飲めない宗教国家は嫌ですからな」

 

 応えるルビンスキーは手術後の経過も順調だったらしく体重も戻り健康そうである。

 そして、自治領領主時代と変わった事は黒髪の鬘をしている事である。

 

(何があったのだ?)

 

 流石にハンスも口には出せずに打ち合わせを進めて行く。

 打ち合わせが終わると既に夕刻になっていた。

 

「食事でも一緒に如何ですか?」

 

 ルビンスキーの申し出にラングは家族を優先して断り、ハンスも仕事があるので断った。

 ハンスは財務省を出ると学芸省に向かいヤンとシェーンコップに翌日の会議の事前説明をする。

 

「しかし、学芸員の私や護衛役のシェーンコップが参加しても宜しいのですか?」

 

 ヤンの疑問は当然の疑問である。シェーンコップも自分達にも話がくるのか不思議そうにしている。

 

「ヤン提督には歴史家として地球の説明して頂きたい。それに宗教結社の行動パターンを一同に説明をお願いしたい。シェーンコップ中将には陸戦の専門家として地球攻略に関して意見を出して欲しいのです」

 

 ハンスの説明で二人は納得したのだが、シェーンコップは迷惑そうな表情を隠そうともしていない。ヤンは歴史書にも乗らない歴史が知れると頬が緩むのを止められないでいた。

 シェーンコップにしたら断りたいのだが、ハンスは子供達の恩人なので断れないのである。

 

「まあ、私の子供達も世話になりましたから協力はしますが、現場復帰はお断りします」

 

「大丈夫です。帝国軍にも陸戦隊は有りますから」

 

「なら、何故、私に?」

 

「地球教の信者は帝国軍内部にも居ますからね。貴方なら能力共に信用が出来る」

 

「ふん!」

 

 ハンスに面と向かって言われて照れるシェーンコップであった。

 その後、軍務省に戻り自分の執務室にて明日の会議の準備をする。

 普通の会議なら部下に任せても問題が無いのであるが地球教は将官にも洗脳の触手を伸ばしていたので部下に任せる訳にはいかない。

 

(もう、こんな時間か)

 

 準備が終わると既に日付が変わっていた。

 

(明日の会議次第だが、休暇を取るか)

 

 ヘッダは今年の年末からフェザーン公演が控えている。その準備でヘッダが忙しくなる前に二人で旅行に行きたいと思った。

 

「まあ、今は明日の会議だな」

 

 ハンスは会議資料を執務室の金庫に入れてから軍務省の外に夜食を食べに行く事にした。

 軍務省も当直の士官や夜勤者の為に深夜まで食堂が開いているが将官の自分が行くと迷惑になる事を知っていた。

 資料を金庫に入れる時にスキットルが目に入った。

 

「どうせ、食って寝るだけだからなあ」

 

 テイクアウトした食べ物を肴に飲めば良い。眠くなれば執務室で寝れば、次の日には誰かが起こしてくれるだろう。

 スキットルを懐に入れるとハンスは軍務省を抜け出した。流石に軍務省内部での飲酒は罪悪感があったが、酔って軍務省に戻る訳に行かない。

 軍務省の敷地を出た所で後ろから声を掛けられた。

 

「閣下!落とし物ですよ」

 

 ハンスは慌てて振り向いた瞬間、胸をハンマーで殴られた様な衝撃があった。

 次の瞬間、満天の夜空が視界を占領して後頭部と背中への衝撃が続いた。

 地面に倒れたハンスの額に銃口が突き付けられる。

 

「悪く思うなよ。孺子」

 

 襲撃者が引き金を引くよりも早く光の矢が襲撃者の側頭部を貫いた。

 

(悪く思わないでね)

 

 アンスバッハが使用した指輪を護身用にと指に嵌めていた事が幸いした。

 襲撃者が倒れる事にも気付かずにハンスは心の中で一言だけ呟くと意識をゆっくりと手離した。

 

 

 翌朝、ラインハルトは早朝からケスラーから謁見を求められた。

 

「前置きは良い。卿が早朝から来るなら急ぎの事なのだろう。早く本題を話せ」

 

「はい。昨晩、ミューゼル大将が襲撃されました。襲撃者はミューゼル大将に射殺されましたがミューゼル大将も負傷して治療中です」

 

「なんと!それで襲撃者の背後関係は?」

 

「それですが、襲撃者は現役の衛兵でした。襲撃者の家宅捜索と身辺調査をしてますが襲撃したタイミングと襲撃者の立場が立場だけに陛下の政治判断を仰ぐべきだと判断しました」

 

「うむ。恐らくは背後の黒幕は地球教で間違いないだろう。他の衛兵達は?」

 

「全員を一ヶ所に集めて監視と身辺調査をしています。業務の方は私の部下が代行しています」

 

「それで、ハンスの負傷具合は?」

 

 ラインハルトの質問にケスラーも重い口調で応える。

 

「はい。使用された銃はブラスターではなく小口径の火薬式の銃でした。撃たれた傷は偶然にも懐に入れていた水筒に当たり軽症でしたが、撃たれた時に転倒して頭を強打して昏睡状態です」

 

「危険なのか?」

 

「医師の話だと、まだ何とも言えないそうです」

 

「そうか」

 

 ラインハルトの言葉は短いが口調にはハンスを心配する気配が溢れていた。

 

「今日の会議は予定通りに行う」

 

 ラインハルトはハンス一人を暗殺しても事態が変わらぬ事で地球教の焦りを誘うつもりである。

 

「それから、ケスラー。卿は余の朝食に付き合え」

 

 流石にケスラーもラインハルトの想定外の言葉に驚いた。

 

「そんな、畏れ多い事です」

 

 ラインハルトはケスラーの反応を楽しむ様な様子である。

 

「卿は無理矢理にでも食事を摂らさせないと平気で食事を抜くからな」

 

 ラインハルトの言葉は図星であった。ケスラーは忙しいと平気で食事を摂る時間も勿体ないと考える男なのだ。

 

「もしかしたら、部下が陛下のお耳に何か入れましたか?」

 

「卿は良い部下を持ったな」

 

 ラインハルトは言外にケスラーの予想を肯定した。実はケスラーの部下だけではなくハンスからも言われていたのだ。

 

「はい。自慢の部下達です」

 

 この日の会議はハンスが欠席なまま予定通りに行われる事になった。

 後日、ハンスは残業までして作った資料が無駄になったと残念がるのであった。 

 こうして銀河帝国と地球教の間の攻防戦にて地球教の宣戦布告とも言える一撃がハンスに当たる事になった。

 それは、銀河帝国の反撃の呼び水となるのであった。

 



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夢の中へ

 

 広い病室にはハンスだけしか居なかった。

 再びテロの標的になった場合に周囲の人間を巻き込まない為の対策であった。

 病室の外では入院患者の朝食の準備に戦場さながらの喧騒である。

 その喧騒と無縁にハンスは眠り続けていた。

 

 

 ハンスは空豆のスープを堪能していた。店の従業員達の賄いである。

 

「本当に美味しいなあ。店で出せばいいのに」

 

 ハンスの感想にコック長が応える。

 

「気持ちは分かるが、うちの店に出すには格が不足しているからな」

 

「格?」

 

 少年のハンスには格という代物が理解が出来ない。

 

「ハンスには、まだ早いが料理の世界にも格が有るんだよ」

 

「格のせいで、お客さんが美味しい物を食べれないのは可哀想だよね」

 

「ハンスは優しいな」

 

 コック長は大きく厚い掌でハンスの頭を撫でるのであった。

 

 

「全員整列!」

 

 教官の号令に全員が慌てて整列をする。

 

「これから、お前達は研修を受ける事になる。甘えた事を言う奴は戦場に置き去りするからな!」

 

「イエッサー!」

 

「何か質問は?」

 

 ハンスは教官の剣幕に怯えながらも勇気を出して質問する。

 

「あのう、いつが外出日になるんでしょうか?」

 

「何だ、入隊して一日目から外出日を気にするのか!」

 

「すいません。母が転院してから一度も病院に行ってませんから、何が必要な物とか分からないので一度は先生と看護師さんと話をしたいので……」

 

 教官もハンスの事情を聞き、幾分か声の勢いをなくして応える。

 

「そうか。今月は二十日になる」

 

「了解しました」

 

「他には無いか?無いなら解散!」

 

 教官の宣言の後に少年達が自分達の部屋に戻って行く。

 

「国も何を考えているんだ。こんなガキどもを僅かな研修だけで戦場に出せとは!」

 

「スパルタニアンのパイロットには金が掛かるからなあ」

 

「今の子も母親がいるだけマシだろう。孤児も随分といるからな」

 

「親を戦死させて子まで戦死させるつもりか!」

 

 教官達の会話が聞こえて来たが病人の母親を持つ自分がマシな部類になるのかハンスには疑問であった。

 

 

「駄目だ。逃げろ!」

 

 何処からか声だけが聞こえる。目の前は炎の海である。ハンスは手にした消火器を捨て迫り来る炎から逃げ出す。

 

「何処に逃げればいいんですか?」

 

 ハンスが怒鳴る様に煙と炎で見えない上官に質問する。返事は無く代わりに床が爆発して炎の柱が現れた。

 

「うわっ!」

 

 ハンスは床に叩きつけられる。慌てて立ち上がるが立ち上がれない。

 不思議に思い上半身をだけを起こして足元を見ると左脚が膝の上から無くなっていた。

 

 

「主任が伝えて下さいよ」

 

「ちょっと、貴女。上司の命令に逆らうの!」

 

 病室の外から女性の声が聞こえてくる。ハンスの視界には白い病院の天井が見える。

 体を動かしたくとも体が動かないので、そのままベッドに横になる事にする。

 

「母親の為に戦場に行って左脚を無くした子供に母親が死んだ事を伝えるとか私は嫌ですよ!」

 

 どうやら、自分に母親の死を伝える役目を押し付け合っている様である。

 

 

「第四艦隊との通信が途絶したらしいぞ」

 

「まだ、第二艦隊と挟撃が出来る!」

 

「しかし、敵は此方の二倍の戦力だぞ」

 

「ラップ少佐が諫言してくれてるらしいが……」

 

「部下の意見を聞き入れる程の器が無いだろう」

 

 下士官達の会話が聞こえて来る。

 少年兵の間ではムーアは人望の無い提督と言われていたが事実の様である。

 

「空気圧の点検は終了しました。全て異常無しです!」

 

 ハンスが上官である下士官に報告して持ち場に戻ろうとした瞬間に警報が鳴り響く。

 

「何だ?」

 

「馬鹿、敵襲だ!」

 

 下士官達が部下達に命令を出す前に天井が爆発して瓦礫の雨が降り注いで来た。

 

 

「この臆病者の非国民め!」

 

 同僚や上官達が腕に黄色の腕章をする中でハンスは後ろ手に縛られて営倉に放り込まれていた。

 水も無く、日に一度だけの食事を犬の様に口だけで食べる。

 

「帝国を倒す為にルドルフと同じ事をする連中と一緒に居られるか!」

 

 ハンスが解放されたのはヤン艦隊が到着した後である。

 

 

「看護婦さん」

 

「傷口が痛むの?」

 

 看護婦の目には沈痛な光が零れていた。臨時の病院船になった駆逐艦には鎮痛剤も既に不足している事はハンスも知っていた。

 

「手を握って。最期の時は誰かに側に居て欲しい」

 

 看護婦は無言でハンスの片腕になった手を握ってくれた。

 ランテマリオ会戦に参加した駆逐艦で最古の老朽艦である。船体には病院船を示す赤十字も無い。

 帝国軍も病院船を標的にする事は無いだろうが船体に赤十字も無い駆逐艦が臨時の病院船になっているとは思わないだろう。

 既に戦況は最終段階である。黒槍騎兵艦隊の突撃で同盟軍は瀕死の状態である。

 この駆逐艦の周囲の艦艇も火球と化している。

 

「ごめんね。看護婦なのに最期に何もしてあげられなくて」

 

「ううん。最期に美人のお姉さんに手を握って貰えたから本望だよ」

 

 看護婦もハンスの言葉に思わず笑顔になった。次の瞬間に艦内放送が掛かる。

 

「ヤン艦隊だ!ヤン提督が来てくれたぞ!」

 

 艦内に歓声が沸き上がる。

 

 

 ハンスが退院して官舎に戻ると知らない若夫婦が住んでいた。驚いて事情を聞くとイゼルローン要塞からの脱出者で軍に一時的な仮宿舎として紹介されたと言う。

 驚いて統合戦本部に行くと、民間人が優先と言われて自身の寝床として本部の仮眠室を提供された。

 その日の深夜にミッターマイヤーが統合作戦本部にミサイルを撃ち込む。

 

 

「そっちに行くな!」

 

 ハンスは濁流の如く迫る炎から逃げる帝国軍兵士と市民をビルの上から誘導する。

 

「ハイネセン像の方へ行け!」

 

 既にビルの出入り口は炎に包まれている。誘導に夢中になり自分が脱出するタイミングを逃してしまった。

 どうせ、助からないなら一人でも多く逃がすつもりである。

 

 

 ルビンスキーの火祭りで全身火傷してから長い入院生活から解放されたが、既に帝国軍も無くバーラト共和自治政府に変わっていた。

 

「今夜は雨が降らなければいいけど」

 

 野宿する覚悟をしていても、雨が降れば野宿が出来る場所も限られて来るのである。

 ボランティア団体の炊き出しの列に並びながら天気を気にするハンスであった。

 

 

「ちょっと待って下さいよ。申し込みした時は三割負担だったじゃないですか。順番が来た途端に五割負担になるとか悪辣じゃないですか!」

 

 役所の窓口で怒鳴るハンスであった。予想外の出費である。

 

「今、新しい義手義足にしないと次は負担額が更に上がりますよ」

 

 窓口の役人は他人事と言わんばかりの態度である。実際に他人事なのだろう。

 

 

「警察に行ったら労基署に行けと言われて来たんですよ。なのに労基署は警察に行けとか典型的な、たらい回しじゃないですか!」

 

「これは民事じゃないですから、刑事事件として警察に相談して下さい」

 

 社長が会社の全ての現金と本来なら会社が負担する筈の社員寮の光熱費を社員名義に勝手に変更していた為に社員に電気会社から請求が来ている。ましては社長が給料日の前日に会社の現金を全て持って夜逃げをしていた。

 

「ふざけるな!」

 

 一緒に来ていた同僚が役人に殴り掛かるのをハンスと他の同僚が必死に止めにはいる。

 

 

「ちょっと待てくれ!」

 

 ハンス達が河川敷に作ったバラックをブルドーザーが破壊していく。

 

「待ってくれ!中には娘との写真があるんだ!」

 

 仲間の一人の叫びに応えてブルドーザーが止まる。

 

「構いません。今日中に撤去して下さい」

 

 役人が無慈悲な指示を作業員に出し再びブルドーザーが動き出す。

 

 

「嘘じゃないのか?」

 

「本当らしい。帝国の大公妃殿下が人道支援として義手義足を無償でくれるらしい。オノさんも義足が壊れて何年もなるだろう」

 

「もう三年になる。何処が受付場所かを教えてくれ」

 

「ハイネセン広場で帝国軍が受付をしていたぜ」

 

「ありがとう。すぐに行くわ!」

 

 

「そんな!」

 

 ハンスは退院する時に看護師からグリューネワルト記念病院がアンネローゼの死去に伴い閉鎖する事を告げられた。

 アンネローゼの人望により帝国の篤志家とアンネローゼの私財に寄って運営されていたがアンネローゼの死後には財政難であった。

 

「これからは病気になったら死ぬぞ」

 

 看護師もハイネセンの状況を知るだけにハンスの顔を見る事が出来ない。 

 

 

「多分、その量だと足りん。もう二人分を用意せよ」

 

 ラインハルトの声がする。随分と失礼な事だと思いつつも事実なので反論も出来ない。

 

(しかし、長い悪夢から解放されたのだから感謝の言葉でも述べるか)

 

 ハンスは自分の提案を直ぐに却下した。

 

(下らん事に感謝して見せる等、小役人の媚売りだな。何と文句を言ってやろうか)

 

 銀河帝国の皇帝相手に不遜な事を考えながら目を開くと姉の顔が見えた。

 

「よく、眠っていたわね」

 

 ハンスは無言で姉の首に手を回して姉を引き寄せる。

 

「えっ!」

 

 驚く姉を無視してハンスは至近距離から帰宅の挨拶をする。

 

「ただいま!」

 

 ハンスから肩すかしを喰わされた形になったヘッダはハンスの腕を振りほどき出迎えの挨拶を拳骨つきでする。

 

「おかえりなさい!」

 

 ハンスは頬を朱に染めた姉に痛む頭を撫でながら呟いた。

 

「シビアー!」

 

 口にした言葉と別にハンスは悪夢から覚めて現実を見ると逆行前の人生とは違い、姉であるヘッダが居る事に、高級士官としての今の境遇に、そして、弱者を守る事が出来る立場に居る事に感謝をした。

 

 姉を前に軍人として決意を改めたハンスが完全に存在を忘れられたラインハルトに気付くまで幾分かの時間が必要だった。

 



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議事録

 

 ラインハルトはハンスの見舞いを終えると議事録と副官のシュトライトを残して戻って行った。

 ヘッダもハンスの顔を見て落ち着いたらしく仕事に戻って行った。

 

「昨日の事は既に憲兵が処理をしていますので安心して下さい」

 

 シュトライトが昨晩の事後を説明する。

 

「憲兵隊には迷惑を掛けたなあ」

 

 ハンスの感想にシュトライトも苦笑しながら諫言をした。

 

「閣下は帝国の大事な要人ですぞ」

 

「まあ、それも地球教を殲滅するまでの話だけどね」

 

 シュトライトは軽い眩暈がした。ハンスは自分の立場を理解していない様である。

 

「閣下は御自身の立場を何だと思っていらしゃるのですか?」

 

「給料泥棒!」

 

 間髪入れずに即答するハンスに呆れるシュトライトであった。

 

「私の取り柄は同盟軍内部に詳しい事だけだよ。同盟が有名無実化したら無用の存在だよ」

 

「無用の存在なら命を狙われたりしません。閣下は国家の重要な人物です」

 

 シュトライトはハンスの存在が帝国にもラインハルトにも貴重な存在である事を主張するがハンスは半信半疑である。

 

「命を狙われたのは麻薬組織の腹いせさ。そこまでの実力のある麻薬組織と言えば宇宙に一つしか無いだろう」

 

 ハンスは話を本筋に戻した。

 

「その件につきましては憲兵隊が捜査中ですが、本日の会議にも議題にもなりました」

 

 ハンスはシュトライトから渡された議事録に目を通す。

 

「流石に全員が同じ考えか!」

 

「タイミング的には地球教以外の組織の犯行は無いでしょう」

 

 シュトライトに議事録を音読して貰い分からない単語はシュトライトに解説してもらう。

 軍事用語は問題ないが官庁用語になるとハンスには分からない単語が出てくるのでラインハルトもシュトライトを残したのである。

 

 会議の流れとしてはハンス襲撃事件から始まり元フェザーン自治領領主のルビンスキーからの地球教の歴史の説明が第一段階である。

 

「そうか。地球教が温存していたシリウス戦役の時の隠し財産は既に無いのか」

 

「宗教組織等は出費が多く表面上は収入は無いですからね」

 

 帝国では宗教法人にも課税をしている。数少ないルドルフの英断と後世の歴史家も賞賛をしている事である。

 銀河帝国の樹立以前の人類の歴史では宗教が大きく力を持ち一国を支配する事も珍しくなかった。

 その力の背景には豊富な資金力があった。清貧を旨とする宗教が蓄財に走り本来の教えに反して社会を混乱させた過去をルドルフも知っていたのである。

 ルドルフは宗教を弾圧する事はなかったが決して宗教を甘やかす事はなかったのである。

 

「まあ、真面目に孤児院や災害時の炊き出し等の善行を積んでる司祭さんとか居るからなあ」

 

「だから、ルドルフも宗教を弾圧する事は無かったのでしょう」

 

 シュトライトもルドルフの宗教に対する政策は否定しないでいる。

 

「額面上の教えを信じている敬虔な信者や司祭さんは助けたいからなあ」

 

 地球教との戦いで一番の問題は一般信者の存在である。

 ハンスは逆行前の世界で地球教摘発に従事した憲兵の回顧録を読んだ事があった。

 キュンメル事件の際には幼子を道連れに自決した母子を見た時は涙が止まらなかったそうである。

 

『その時、私は不敬ながら皇帝弑逆の罪より無力な母子を自決させた教えに怒りを覚えた』

 

 ハンスも全くの同感である。議事録でも地球教の表面上の活動を知っている者も多く一概に摘発する事を危惧する声も多い。

 

「財政尚書も司祭レベルで裏面の事情を知る人間は数が少ないと証言しています」

 

「それじゃ、地球を制圧した後に、宇宙の彼方此方にある地球教の教会を虱潰しに調べないと駄目じゃないか」

 

 ハンスの感想にシュトライトも表情も苦い。

 

「議事録に書いて有りますが会議でも同じ結論です。調べた結果、無罪となった司祭達の話し合いで地球教を再興させる事を約束する提案がヤン元元帥から出ています」

 

「確かに彼らの宗教家としての努力を無にするのは惜しい。それに人望のある司祭さんも処罰すれば帝国に対して恨みを持つ者が出るかもしれない」

 

 15世紀に初頭にヤン・フスという人望のある宗教改革者が死罪にされた事からフス戦争と呼ばれる戦争が二十年近く続いた事もある。

 

「戦争とは別にテロとなると我ら軍人だけでなく一般市民にも犠牲者が出るでしょうな」

 

 シュトライトの意見も尤もである。ハンスと同様にシュトライトも一般市民の犠牲を嫌う人物である。犠牲を出す事を嫌うあまりにラインハルトの暗殺を提案した過去を持つ人でもある。

 

 会議の第二段階は地球教の摘発と摘発する範囲に議論が集中していた。

 第三段階になると地球教摘発の方法論に議論が集中するのである。

 

「やはり、地球に対して艦隊を派遣する事になるか」

 

「閣下も最初から考えていたのでしょう?」

 

「うん。だから、ラグナロック作戦が始まった時に地球行きの航路を宇宙海賊が出没しているからと封鎖させた」

 

 ハンスは地球行きの航路を封鎖すると同時に地球から外に出る船には護衛を口実に監視もさせていた。

 

「地球に行かない事で生活に支障は出ないが、地球から帰れないと生活に支障が出るからな」

 

 シュトライトはハンスの先見の目に驚嘆するが例によりカンニングの結果である。

 

「実際には陸戦部隊を突入させる事になるんだろうけど」

 

「その件につきましては、ヤン元元帥からの意見で会議が紛糾しました」

 

「何処、何処?」

 

 ハンスは慌て気味に議事録に視線を移した。

 

「この部分です」

 

 シュトライトが紛糾の原因となったヤンの意見を記した部分を示した。

 

『人命が掛かった事ですので判断が難しいですが、シリウス戦役の時の隠し財産の中で貴重な美術品等が地球にあるかもしれません。その事も念頭に入れて頂きたい』

 

 ヤンの意見を読んでハンスにも理解が出来た。

 

「確かにね。有名な美術品なら出所が問題になるから金に換えられないまま死蔵している可能性もあるな」

 

「そうなると陸戦部隊の行動にも制限が掛りますな」

 

「しかし、地球時代の美術品となると貴重だよなあ。金銭的な価値にすると幾らになるんだろう?」

 

 金銭的な価値となるとルビンスキーが何か知っていると思い議事録に再び目を通すハンスであった。

 

「なんだ。ルビンスキーも地球教の隠し財産の事を知らないのか。逆に資金を無心されているのか」

 

 ハンスには地球教が隠匿している美術品とか聞くと宝探しを連想してしまう。

 宝探しとなると、中身は八十近い老人のハンスでも子供の様に目を光らせるのである。

 

「会議に参加した人達も閣下と同じ様な目をしてました」

 

 因みに会議をラインハルトの側で傍聴していた唯一の女性であるヒルダが頭を抱えたくなる衝動を抑えるのに苦労したものである。

 

「宝探しは別にして地球教の本部には聖地巡礼の一般信者もいるから陸戦部隊を突入させるしか策は無いだろう」

 

 ハンスも流石に恥ずかしいと思ったらしく、真面目に話を軌道修正する。

 

「そうなる事を想定して既にスパイを社会秩序維持局が潜らせてはいますが、一般信者を巻き込まない様に戦闘となると難しいでしょう」

 

 ハンスにしてもシュトライトにしても一般信者を巻き込みたくないが、流石に無理な注文だと理解している。

 

「まあ、地球教の本部を制圧しても散発的なテロが起きるだろうなあ」

 

「それこそ、社会秩序維持局の働きに期待するしか無いですな」

 

「連中はヤン提督と違い餌に食いついて来ないだろうからね」

 

 ハンスが言外にラインハルトを囮にする策を示唆する。

 

「閣下!言葉に気を付けて下さい!」

 

「大丈夫だよ。釣れるなら餌役を喜んでする人だからね」

 

 シュトライトもハンスが退役を希望している事を知っているが流石に大胆過ぎる発言である。

 

「閣下。閣下が退役になる程度なら宜しいですが罰の可能性として書類仕事を押し付けられるかもしれませんよ」

 

 シュトライトの言葉に流石のハンスも慌てる。

 

「分かった。私も言葉を慎もう!」

 

「分かって頂いたら結構です」

 

 ハンスもシュトライトも互いにハンスが言葉を慎むとは一ミリグラムも思ってはいない。もはや社交辞令である。

 話題を逸らす為にハンスは議事録に目を落とす。

 

「結局はメックリンガーとケンプの両提督が実行部隊を率いるのか」

 

「美術品に詳しいメックリンガー提督なら美術品の扱いに間違いは無いだろう。それと元ワルキューレのパイロットのケンプ提督は地球から脱出するシャトルとかも見逃さないだろう」

 

 ラグナロック作戦に不参加であった二人を起用して更に人事のバランスを取るラインハルトの英断にハンスも感心するばかりである。

 

「アイゼナッハ提督も既にイゼルローン要塞に司令官として着任しています」

 

 ハンスの考えを読んで同じくラグナロック作戦では戦闘に不参加なままだったアイゼナッハにも司令官職を用意している。

 

「あれ、アイゼナッハ提督は家庭持ちだった筈だが……」

 

 独身の自分でも姉と離れるのは耐え難いものであった。まだ、子供も幼いアイゼナッハに単身赴任は可哀想だと思うハンスであった。

 

「アイゼナッハ提督は妻子も連れられて赴任する様です。イゼルローン要塞に赴任すれば赴任手当ても付きますからな。子供が居ると色々と物入りですから」

 

(ラインハルトも下の人間に気を使える様になったじゃないか)

 

 内心の偉そうな声は口に出さずに実際に声に出したのは模範的な言葉である。

 

「温情人事で理に叶っている。地味な仕事をする人間の功績も評価するとは流石、我らの陛下だ!」

 

 数分後にはラインハルトの評価を180度転換する事になるハンスであった。

 



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頭痛

 

 シュトライトの解説付で議事録の内容を把握したハンスにシュトライトから驚きの発言をされる。

 

「続きましては上級大将研修を始めます」

 

「ちょっと待て、もう夕方だよ!」

 

 以前にも入院中に研修を受けた事があったが昼間の研修であった。

 シュトライトはハンスの抗議を無視して教官達を病室に招き入れる。

 

「卿達、ここは病院だぞ。他の病人に迷惑だろ!」

 

「安心して下さい。ここは対テロの為に他の病室とは離れた場所です」

 

 そう言い残すとシュトライトは病室を去って行った。

 

「閣下。男は諦めが肝心です」

 

 注意して見ると教官達は全員が初老の者達ばかりである。研修後にハンスに睨まれない様に退官間近の士官を教官にしたのではと、ハンスは勘繰り教官達に探りをいれる。

 

「陛下は卿達に何を吹き込んだ?」

 

「別に何も。閣下は、これからの帝国を支える大事な人材なので研修には手を抜く事が無い様にとしか言われてません」

 

「あのシスコン野郎め!」

 

 ハンスも不敬罪に為らない様に個人名は出さない。しかし、その場に居た者は誰の事は分かった。

 誰の事か分かったが口にすれば不敬罪になるので教官達は無視する事にした。

 結局、ハンスの研修は朝方まで続くのであった。

 

 翌日、ラインハルトは朝礼も終わり執務室で首席秘書官のヒルダから今日の予定を聞いていた。

 

「この後は工部尚書からのフェザーン遷都の試算の報告と説明が有ります。その後はメックリンガー大将とケンプ大将と地球教討伐の準備と計画の報告です。その後は昼食を挟んで各省庁からの報告が有ります。今晩は夕食を摂って頂いた後は学芸省主宰のコンクールに出席となっています」

 

「フロイライン、夕食の後のコンクールには余が出席せねばならぬのか?」

 

 芸術には無関心のラインハルトらしい確認であるが帝国の芸術家の卵達には皇帝臨御のコンクールに出る事は一生の誉れなのである。

 

「門閥貴族が居なくなり芸術家達は庇護を失った事を不安に思っています。彼等の不安を取り除く為にも陛下には出席をして頂きとう御座います」

 

「そうか」

 

 ラインハルトの遠回しの欠席の要望はヒルダの正論の前に玉砕した。その時、執務室の扉の向こうから声がした。

 

「ええい。皇帝陛下の直訴は邪魔してはならん決まりだろ!」

 

「それはそうですが!」

 

 ラインハルトとヒルダには声の主に聞き覚えがあった。

 ヒルダが目でハンスに何かしたのかと無言の詰問してくるのをラインハルトは気付かない事にする。

 ラインハルトとヒルダの無言の攻防も一瞬で終わった。ハンスが執務室に入って来たからである。

 

「ハンス。何事か?」

 

「はい。皇帝陛下に直訴で御座います。明日より私は二週間の有給休暇を取得させて頂きとう御座います」

 

「それは、軍務尚書の管轄だろ!」

 

「入院初日に勅命により、徹夜で上級大将研修を受けさせられましたので、陛下から有給取得の許可を頂かないと安心して療養も出来ません!」

 

 ハンスの言葉を聞いてヒルダの目が刺を超えて針だらけの視線をラインハルトに送る。

 

「うっ!」

 

 流石にラインハルトもヒルダからの針だらけの視線は堪えたようである。

 

「陛下は私に恨みでもあるのですか?」

 

 ハンスが自覚の無い言葉にラインハルトも思わず反論する。

 

「人には無理矢理に姉離れさせおいて、自分は姉君とイチャつきおって、どの口が言っているのだ!」

 

「何ですと、私は姉とは陛下の半分以下の年月しか暮らしてません。それに姉とは一年ぶりの再会でした!」

 

「それが、どうした!」

 

「呆れた。陛下は皇帝の癖に、そんな事を言うのですか!」

 

「何だ!不敬だろうが!」

 

「不敬と言うなら、尊敬される事をしろ!」

 

「何だと!」

 

 ラインハルトがハンスの口に両手の指を引っ掛けて反対方向に引っ張る。

 

「悪い事を言う口は、この口か!」

 

「ひたい!ひたい!」

 

 ハンスも負けじとラインハルトの口に指を引っ掛けて応戦する。

 

「ふりゃ!ふへいであふほう!」

 

 銀河帝国の皇帝と上級大将の会話とは思えない低レベルの争いにヒルダは頭を抱えたい衝動を我慢した。

 

「二人とも止めなさい!」

 

 流石にヒルダも語気を荒くラインハルトとハンスの幼稚園児並みの争いを止める。

 

「フロイライン。この不忠者を成敗するのを何故、止める!」

 

 ラインハルトは両手で頬を擦りながら、逆にヒルダに詰問する。ラインハルトには今の事態が第三者の目に、どの様に写っているか分からない様である。

 

「今回は陛下に非が有ります!」

 

「何だ、フロイラインは不忠者のハンスの肩を持つのか!」

 

「入院初日に徹夜を強制されたら、誰でも怒って当然です!」

 

 当たり前の事だがヒルダの言は正論である。正論だけにラインハルトも反論が出来ない。

 

「では、有給休暇は頂けますね?」

 

 ハンスが勝ち誇った様にラインハルトに有給休暇を無心する。

 

「卿は余が忙しい時に休暇を要求するのか!」

 

「だから、休暇と言っても療養するだけです!」

 

「別に骨折している訳では無いだろうが!」

 

「骨折はしてませんが肋骨に罅が入っています!」

 

 一触即発の状態で再び睨み合う二人にヒルダも今度は我慢が出来ずに頭を抱えた。

 ヒルダの従弟のキュンメル男爵はヒルダを実の姉の様に慕っていたがハイネセンでの入院生活で看護婦と恋仲になり姉離れをした。ヒルダには従弟を取られた様な心情だったが姉離れが出来ない眼前の二人を見て従弟が姉離れをした事を祝福する気分である。

 

(ハインリッヒが、この二人みたいに成らなくて本当に良かったわ)

 

 内心の思いとは別にヒルダは二人の仲裁に入るのである。

 結局はハンスの味方をした形になるのだがハンスには三週間の有給休暇が与えられたのである。

 

「陛下。姉君が結婚して寂しいなら、ご自身も結婚されたら如何ですか?」

 

 ハンスとしては将来の結婚相手が目の前にいるのである。早く結婚しろと思うのである。

 

「卿も軍務尚書や国務尚書と同じ事を言うのだな」

 

「そりゃ、陛下は女性に関心が有りませんから、皆が心配するでしょう」

 

 オーベルシュタインでも言わない事を言うのがハンスである。

 

「人を朴念仁みたいに」

 

 ラインハルトも怒りより呆れが先に来ている様子であった。

 

「まあ。今すぐとは言いませんが事は跡目相続に関わる事ですから真剣に考えて下さい」

 

 流石に真剣にハンスが進言するのでラインハルトも大人しく聞いている。

 

(どうやら、フロイラインの事は、まだ意識して居ない様だな)

 

 ハンスはヒルダの表情も観察したが、ヒルダも表面上は意識をしていない様である。

 

(この二人、大丈夫かね。本当に結婚するのか?)

 

 余計なお節介な事を考えてるがハンスは知らない事だがラインハルトとヒルダが結ばれたのは偶然の産物である。

 

「真面目な陛下ですから杞憂だと思いますが、市井な若者みたいに出来ちゃった結婚とかしないで下さい」

 

「安心しろ。その様な、ふしだらな事はせぬ!」

 

 ハンスが逆行前の世界では婚前交渉の上に次の日の朝には花束を持ってプロポーズにマリーンドルフ邸に訪問したのだが知らない事は幸せな事である。

 

「卿も唐突に何を言い出すのか?」

 

「私も年頃の姉を持つ身ですので陛下と結婚する方に同情してましてね」

 

 ラインハルトもハンスが言いたい事が理解が出来る。政治の道具にされてしまう事を懸念しているのだ。

 

「ハンスよ。卿は優しいな」

 

 唐突にラインハルトの口から出た言葉に常人なら慌てるなり照れるなりするが生憎とハンスは常人ではなかった。

 

「えっ!今頃、気付いたのですか!」

 

 これには、二人の会話を聞いていたヒルダも吹き出してしまった。

 ヒルダに釣られてラインハルトも吹き出してしまう。更にラインハルトに釣られてハンスも吹き出してしまった。

 

「卿まで笑っては駄目だろ」

 

「まあ。啀み合うよりは良いでしょう」

 

 ハンスは笑いを終わるとヒルダに向き直り改めて礼を言う。

 

「陛下は癇癪持ちだからな。フロイラインは臣下との間に入り大変でしょうが頑張って下さい。それで、これは感謝の印です」

 

 ハンスは懐からスキットルを出してヒルダに手渡した。

 

「これは?」

 

 ヒルダもハンスが酒飲みの道具を渡すとは思ってはいない。

 

「これは、縁起物ですよ。これに暗殺者の銃弾が当たり、こちら側には穴が空いてるけど反対側は膨らんでるだけでしょう」

 

 ハンスに言われてスキットルを改めて見ると片方にはボールペンの直径程の穴が空いている。軽く振ると小さな音がする。

 

「中で銃弾が変形しているんですよ」

 

 ヒルダも物珍しく感心している。

 

「これは縁起の良い珍品ですね」

 

 ヒルダが感心しているとラインハルトが口を挟んできた。

 

「水筒と言えば水筒だが、そんな物を何故、卿は持っていたのか?」

 

「あっ!」

 

「えっ!」

 

 気不味い空気が執務室に流れた。

 

「まさか、軍務省内部で飲酒する気でいたのか?」

 

「いえ、あのう、携帯に便利なので水筒代わりに使っていたのです」

 

 ハンスも罪悪感が有る為か言い訳も怪しさ満載である。

 

「ほう。もう少し気の利いた言い訳をするかと思っていたぞ」

 

「べ、別に勤務時間外ですから問題無いでしょう」

 

「そういう問題では無い!」

 

 また、幼稚園児なみの口喧嘩を始める二人にヒルダは頭を抱える事になる。

 

(確かに陛下がキルヒアイス元帥以外で素になれる貴重な存在かもしれないけど、これからも口喧嘩の仲裁を私がするの?)

 

 大人気無い二人を見て頭痛がするヒルダであった。

 



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地球教討伐 前編

 

 ハンスがラインハルトと揉めた成果として姉とオーディン郊外の温泉地で静養という名目で姉に甘えていた頃、ケンプとメックリンガーは地球教本部攻略に苦慮していた。

 

「ラングが潜らせたスパイの報告では、地球本部に有る脱出用通路は四十三本までは把握しているそうだ」

 

 ケンプの声には苦みの成分が混入している。

 

「ふむ。他にも秘密の脱出用通路が有るのは明白だな」

 

 応じるメックリンガーの声にも苦みの成分が混入している。

 

「仮に我らが地球教本部を攻略しても幹部達が脱出しては意味が無い」

 

「だからと言って、熱核兵器を使用する事も出来ぬ」

 

 ラインハルトとの会議でも議題となったのは脱出用通路である。

 幹部が逃亡した後で報復のテロ行為に走る可能性があるので一網打尽にするのが理想的である。

 しかし、地球教も九百年の歴史が有り、その間に作られた脱出用通路やシェルター等の数を考えるだけ馬鹿らしくなる。

 

「やはり、当初の予定通りに地球教本部周辺に極低周波ミサイルを打ち込み脱出用通路を潰して兵を突入させるしかないか」

 

 ケンプも自身がワルキューレのパイロットであっただけに現場の苦労が分かるので自身の発言ながら苦しさが滲み出る。

 ケンプもメックリンガーも共にラインハルト麾下の優秀な将帥であるが通常の宇宙空間での戦いと違い地上戦は不慣れである。加えて帝国軍の通常の地上戦は地方叛乱の討伐であり今回とは事情が違うのである。

 

「その前に、ミューゼル上級大将の策が有るのだが殆ど詐欺かペテンだな」

 

 メックリンガーの口調も呆れていた。

 

「ハンスの奴か。以前にヤン・ウェンリーの策を看破した事があったが同類だったか」

 

 ケンプの口調も呆れ気味である。

 

「しかし、確かに流血は少なくなる」

 

「そうか。ならば、詳しく聞こう」

 

 ケンプの様な武人でも流血が少なくなるならペテンでも詐欺でも用いるのである。

 

 

 数十分後にメックリンガーの説明を聞いたケンプは完全に呆れていた。

 

「完全に詐欺だな」

 

 ケンプの感想にメックリンガーも苦笑する。

 

「しかし、上手くいけば、流血は皆無だし失敗しても最初の策を取るだけの話だ」

 

 メックリンガーの言葉にケンプも苦笑しながらも首肯するしかない。

 

 ケンプとメックリンガーを苦笑させたヤン・ウェンリーの同類のハンスは地球教討伐について以前から頭を痛めていた。

 首謀者である総大主教が地球本部と運命を共にした事は確定的だが、問題は枝葉である。

 地球教本部から脱出したのか偶然にも地球に居なかったのかは分からないが地球教本部壊滅後もヤン・ウェンリー暗殺を手始めにテロ行為を続けたのである。

 今回も枝葉が残っていればテロが起きる度に対処するしか無いのである。

 そして、残念ながらハンスは枝葉である地球教残党の頭目であるド・ヴィリエの名は記憶していなかった。

 これはハンスの認識の問題というよりはド・ヴィリエは歴史上で単なる狂信者と認識された為である。

 後世の歴史から狂信者としか認識を持たれていないド・ヴィリエはハイネセンの地球教の分支部の一室で憔悴していた。

 

「何故、こんな事になった?」

 

 ド・ヴィリエはキュンメル男爵の暗殺者化の失敗の責任を問われて大司教から司祭に降格されてハイネセンの支部の更に分支部の寒村に居た。

 ド・ヴィリエは教団の同年代の内でも一番の出世頭だった為に妬まれて些細な失敗を口実に左遷されたのである。

 ド・ヴィリエは地球で生まれ地球教団の内に育ち地球教内での出世に野心を燃やしてきた為に遠い異国の医療等には関心がなかった。

 帝国で十数年間も治療が出来ない病がハイネセンで治療が出来るとは想像もしてなかったのである。

 

「司祭様。大変です!」

 

 ド・ヴィリエが自身の不運を嘆いていると助祭が部屋に駆け込んで来た。

 

「騒々しい。どうした?」

 

「それが、総大司教様以下の地球に居られた方々が逮捕されました」

 

「なんだと!」

 

「詳しい事は分かりませんが、既に帝国軍が表に来ています」

 

 助祭の言葉にド・ヴィリエが慌て気味に窓の外を確認すると帝国軍の車両が数台と数十人の軍服が包囲していた。

 

「それで、帝国軍の要求は何だね」

 

「それが、司祭様に任意同行を求めています」

 

「分かった。すぐに行くと伝えてくれ」

 

 ド・ヴィリエは自身の野望が潰えた事を悟ったのである。

 この後、ド・ヴィリエは事情聴取の後で解放されて地球教を健全な宗教に生まれ変わらせて純粋に宗教家としての人生を歩む事になるのだが、彼が大司教時代に計画した謀略を実行する者が現れる事を彼は知らないままであった。

 

「司祭殿の評判は私達も耳にしています。この辺りの不良共を何人も更正させたり、貧しき人に色々と援助されている」

 

「宗教家としては当然の事です」

 

「小官も心苦しいのですが役儀上司祭殿には御足労を願います」

 

「分かりました。直ぐに支度します」

 

 こうして、ド・ヴィリエは帝国軍の取り調べを受けたのである。

 

「しかし、総大司教猊下以下の地球におられる方々が何の容疑で逮捕されたのでしょう」

 

 取り調べ室でド・ヴィリエは迫真の演技で逆に取り調べをしている士官に質問する。

 

「確かに寝耳に水の話でしょうな。実は麻薬取り締まり法違反の容疑です」

 

「何か証拠があったのですか?」

 

「それが地球教本部の水道からサイオキシン麻薬が検出されました」

 

「馬鹿な!」

 

 これにはド・ヴィリエも演技力も必要なく本音で驚いた。

 

「地球には幼い子供の信者も居るのに水道水にサイオキシン麻薬等を混入したら危ないでしょう」

 

「司祭殿が懸念される通りに一般信者から教団職員まで全員の体からサイオキシン麻薬の反応が出ました。今、オーディンの軍病院と警察病院に民間の病院と戦場になっています」

 

 流石のド・ヴィリエも絶句してしまった。自分が大司教として地球に居た当時は有用と思われた人物には食事にサイオキシン麻薬を混入させる事はあったが水道水にサイオキシン麻薬を混入させる等の暴挙は許さなかった。

 

「そ、その何かの事故で混入したのでないですか?」

 

 事故としても有り得ない話だが故意に行うよりは幾分はマシだと思えた。

 

「それが、水槽タンクの横にサイオキシン麻薬の袋専用のゴミ箱が発見されてます」

 

 ド・ヴィリエは地球教に身を置く立場でありながら教団の首脳部を侮蔑していたが想定外の暴挙である。

 

「信じられん!」

 

 両手で頭を抱え込むド・ヴィリエを見て士官も同情をした。士官自身もゴールデンバウム王朝時代には上官連中の暴挙に何度も頭を抱え込まされたものである。

 

「司祭殿には気の毒ですが、帝国内部の麻薬組織の最大組織として当局も以前から地球教には目を付けていたのです」

 

 ド・ヴィリエも末端の売人が検挙されていた事が既に自分達をマークしているとは思わなかった。

 

「今回もリップシュタット戦役からの作戦の一部だったそうです」

 

 この事にはド・ヴィリエも驚愕した。自分が大司教として権限を行使していた時からである。

 

「そんな前からですか」

 

「はい。今回も一般信者や末端の何も知らない教団職員に害が及ばない配慮をされた結果です」

 

 ド・ヴィリエは敗北感に打ちのめされた。自分は教団内の出世競争に敗北して帝国当局にも敗北していたのである。

 

「司祭殿も気を落とさずにいて下さい。皇帝陛下も地球教自体を否定はしていません。犯罪に走った地球教幹部の処分は仕方が有りませんが残された者達で健全な宗教活動をする事は許可されています」

 

「しかし、総大司教猊下が不在では信徒達を導く事が出来かねます」

 

 ド・ヴィリエにしたら総大司教は低能であったが、信徒達から崇拝されていた事は事実であり、求心力を失った教団が分裂する事は自明の理であった。

 

「そこで、司祭殿の様に真面目な方を探して総大司教に就任させる旨を皇帝陛下が明言されています」

 

 これは、ハンスがラインハルトに進言した結果である。ハンスが子供の頃、地球教の教会が年末年始に子供達に菓子を配っていたりしていたのである。

 帝国軍がハイネセン占領後に司祭を逮捕して教会も文字通りに潰してしまった。

 当時の司祭は人格者でハンスの様な貧家の子供達にも色々と親切に世話をした人物であった。

 ハンスにしたら額面通りに信仰している敬虔な者は救いたいと思っているのである。帝国軍内部にも地球教教徒と懇意にする者も多くハンスの進言は支持を集めていた。

 しかし、当事者であるド・ヴィリエは止めを刺された気分であった。

 自分に気取られる事なく内偵していた帝国当局の優秀さと教団首脳部が犯罪者として逮捕した後にも教団の存続を許す器量の大きさに自分では太刀打ちが出来ない事を思い知らされたのである。

 

「他にも立派な方々はおられます。司祭殿には頑張って教団を建て直し頂きたい」

 

 士官の慰めはド・ヴィリエに何の感銘を与えなかったがド・ヴィリエの野心の炎は完全に鎮火してしまった。

 

(ここまでの男だったのか。所詮は辺境の田舎者か)

 

 以後、野心を捨てたド・ヴィリエは宗教家として生涯を終える事になる。

 彼の死後、皮肉な事に地球教の中興の祖として教徒だけではなく全宇宙から敬愛されて歴史に名を残す事になるのだが、それは別の話である。

 こうして、地球教討伐が思わぬ余波を呼び。多くの人生が変えるのと同時に幾つかの事件を起こす事になる。



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地球教討伐 後編

 

 後世の歴史家も呆れさせる地球教討伐であったが、実は当時の人々も呆れたものである。

 当事者であるメックリンガーとケンプも呆れていたのだから当然である。

 メックリンガーとケンプの間で詐欺の実行犯役を押し付け合い、戦いに敗れたメックリンガーが地球教本部上空に旗艦で現れたのは早朝であった。

 

「私は帝国軍上級大将のエルネスト・メックリンガーである。緊急事態発生の為、地球教信徒の諸君に避難勧告する。代表者は至急、出頭せよ」

 

 地球教首脳部も突然の事に困惑しながも緊急事態と避難勧告の単語に動かされてド・ヴィリエの後任の大主教を代表者として出頭させた。

 

「緊急事態とは何事ですか?」

 

 初老の大主教は顔には不安の色が隠せないでいた。

 

「大主教殿。今から告げる事にパニックにならずに落ち着いて聞かれよ」

 

 大主教は深呼吸をして覚悟を決めると目でメックリンガーに先を促した。

 

「五日後に直径六十キロメートル、質量70兆トンの巨大彗星が地球に衝突するのだ」

 

「な、何ですと!」

 

「人類史上で類の無い事に、衝突した時の被害は軍の戦術コンピューターでも予測不能。衝突時の影響を考えて今日より三日以内に地球を離れるべきであろう」

 

 気の毒に大主教の顔は既に青から白へと変わっていた。

 

「既に麓の湖には巡航艦を着水させて受け入れ体制に入っている。人手が足りないなら軍からも人を出す。一刻も早く地球を離れるのだ」

 

「わ、分かりました」

 

 大主教は慌てながらも地球教の本部に戻ると事の一部始終を総大主教に報告した。

 報告を受けた本部では想定外の事に右往左往していたが、メックリンガーが大主教と一緒に派遣した対策チームが陣頭指揮を取り信徒達を誘導する。

 

「取り敢えず、男女別に艦に乗艦する。病人は先に衛星軌道上に待機中の病院船に避難させる」

 

「落ち着いて行動する様に。地上に上がれば輸送ヘリが待機しているので一時間もせずに麓まで移動が出来る。慌てずに係員の誘導に従う様に!」

 

「教団職員は食料の運び出しをする様に」

 

「何故に食料まで?」

 

「それが、我々も本来は宇宙海賊討伐の為に派遣された軍なのだ。想定外の大人数なので燃料は問題が無いが食料が心細い。オーディンにも連絡をしているが急に五百万人分の食料を用意が出来ん!」

 

 教団職員も説明されて慌てながらも食料の運び出しの手筈に取り掛かる。

 

「取り敢えず食料庫から食料を地上に上げよ」

 

 教団職員も士官達に指示をされて色々と動き回る事になる。

 大人数を移動させる事の専門家である艦隊士官達と教団職員の働きで一般人教徒達の移動が二日後には終了した。

 

 メックリンガーの旗艦では最終的な打ち合わせの為にケンプが来訪していた。

 

「一般教徒三百万人を全員収容した。残りは教団職員だけだ」

 

「では、ケンプ艦隊は一足先にオーディンに出立しても問題は無いだろう」

 

「了解した。しかし、残りの二百万人の教団職員と本部の調査を卿の艦隊だけに任せるのは気が引けるのだが」

 

「そこなんだが、教団職員の逮捕はオーディンで卿に任せたい。私は本部の調査に専念するつもりだ」

 

「地球教が隠匿した美術品の発掘か?」

 

 どうやら図星だったらしくメックリンガーも笑って誤魔化すしかない。

 

「まあ、良い。帝国軍内で卿ほどに美術品の取り扱いに詳しい者は居ないからな」

 

 メックリンガー宅を訪問した際に応接室に飾られた小さい壺の値段を聞いて驚いた経験のあるケンプには出来れば遠慮したい仕事である。

 

「そう言えば、卿が自宅に飾ってある壺の破片も価値が有りそうだな」

 

 ケンプは完全な冗談のつもりで口にしたがメックリンガーは予想の斜め上の返事をした。

 

「完品より価値は下がるが、それなりに価値はある。特に地球時代の陶器は高額だな」

 

「なんと!」

 

「地球時代の陶器は数が少ないからな。贋作との区別をつける為の見本として滅多にないが市場に出れば高額で取引されている」

 

 ケンプは思わず相場を聞こうと思ったが止めた。口にするのは俗物の様な気がしたし、相場の値段次第では働く意欲も無くす気がしたのだ。

 

「そうか。なら、やはり卿が適任者だな」

 

 翌日にはケンプとメックリンガーの打ち合わせ通りに地球教職員を収容したメックリンガー艦隊は艦隊参謀長のシュトラウス大将が司令官代行としてオーディンに出立した。

 メックリンガーは地球に残り地球教本部の捜索する事になる。

 

「ふむ。軍人となり最大の幸福かもしれんな」

 

 出立する艦隊を見送りながらメックリンガーは部下にも美術品の扱いに慣れた者を選び捜索を開始した。

 

「よいか。第一班は美術品の捜索を行え。第二班はサイオキシン麻薬の製造から販売までの流通ルートの証拠の捜索。第三班は地球教の暗部の歴史の捜索である」

 

 後世、「メックリンガーの宝探し」と呼ばれた捜索である。千年前の地球時代の名画や陶器等、市場に出せない貴重な美術品が発見される事になる。

 この再発見により、メックリンガーは人類の美術史の歴史を塗り替える事になる。

 

 メックリンガーが地球教本部で宝探しに興じていた頃に先発したケンプ艦隊は戦場にいた。

 艦隊内で体調を崩して医務室に運ばれた一般信徒からサイオキシン麻薬の反応が出た為である。

 

「全ての一般信徒の健康診断を行え。そして、オーディンに緊急事態が発生したと報告しろ」

 

 ケンプは艦隊の医務室での対応は困難と判断して本格的な対応は設備の整ったオーディンの病院に任せる事にした。

 

「恐らく、サイオキシン麻薬の禁断症状に苦しむ者が続発する。病院船の医者の指示を仰げ!」

 

 ケンプの判断は正しく禁断症状を出す一般信徒は少数であったが続発した。専門的治療を必要とする患者も続発する事になる。

 病院船の医師がシャトルで艦隊内を文字通り飛び回り応急措置する。 

 ケンプは優秀な用兵家であるが相手がサイオキシン麻薬となると話が違う。

 

「兎に角、医師の指示に従え。それと状況をオーディンに逐一報告しろ」

 

 ケンプ艦隊がオーディンに到着すると報告を受けていたロイエンタールが自身で既に作成していた疫病対策マニュアルを使い患者達を混乱も無く全て病院に搬送した。

 搬送する側は搬送が終了すれば仕事から解放されたが搬送された側の病院は野戦病院さながらの騒ぎであった。

 三百万人を収容するのに軍病院だけでは対応が追い付かずに警察病院から民間の病院までもが動員された。

 

「陛下に慎んで御報告します。サイオキシン麻薬患者を収容した各病院が人員と機材と薬品の不足を訴えています」

 

 ヒルダがラインハルトに病院からの悲鳴とも言える訴えを報告する。

 

「然もあらん。三百万人もの患者など戦争でも出る事は無いからな」

 

「機材と薬品は各メーカーに既に発注しておりますが。人員に関しては陛下の御裁下が必要となります」

 

「フロイラインには何か良案があるのでは?」

 

「駆逐艦以上の艦艇には必ず医務室があり医師が居る筈です。その医師達を投入するしか方法は無いと存じます」

 

 ラインハルトはヒルダの助言に満足をしながら彼女の案を採用した。

 

「相変わらずフロイラインの助言は的確だな。直ぐに通達を出そう」

 

 ラインハルトが全艦隊に通達を出した翌日に教団職員を護送してきたシュトラウス大将が率いるメックリンガー艦隊がオーディンに到着した。

 オーディンに到着すると同時に教団職員はケスラーが率いる憲兵隊と警察の混成部隊に逮捕されたのである。

 人々が驚いたのは治安維持局のラングが逮捕劇に参加しなかった事である。

 実はラングはメックリンガー艦隊が地球を出立するのと同時に地球に向かっていたのである。

 ラインハルトはメックリンガーを信用していたが地球教が犯罪の証拠を簡単に発見される場所に隠さぬと判断して犯罪捜索の専門家であるラングに地球教本部捜索の協力を命じていたのである。

 

「卿達が来てくれた事に感謝する。所詮、我々は軍人。犯罪捜査は素人だと思い知った」

 

 メックリンガーがラング達に感謝の言葉を口にしても、彼らには感銘の感情は無かった。

 ちゃっかりと美術品は発見して搬送を始めていた。

 

「局長。もしかして、我々は単に仕事を押し付けられたのでは?」

 

 ラングに部下が小声で囁くが、実はラングも同感なのだが立場上、口にしないだけである。

 メックリンガーが嬉々として美術品の発見と搬送を行っているのを横目に、ラング達は隠し戸棚から麻薬の製造工場の製造予定表と搬送計画書を発見した。

 更に地下の水槽タンクのゴミ箱からはサイオキシン麻薬を入れていたと思われる袋を発見した。

 ラング達は到着してから一日で逮捕に十分な証拠を発見していく。

 

「局長。プロテクト、解除が出来ました」

 

「取り敢えず、全データをコピーしろ。中身の検証はオーディンですればよい。他にも裏帳簿や二重帳簿がある筈だ」

 

 地球教の手足となり、非合法活動をしていた組織を摘発するには金銭の流れを追うのが最短である。ラングが地球教本部の捜索に来たのも金銭の流れを把握する為である。

 二重帳簿や裏帳簿と呼ばれる存在は紙に記した物が大半である。電子機器の場合は消却するのも簡単だが復元する事も容易なのである。

 

「取り敢えず紙に記された物は全て押収しろ。帰りの道中でも検証は出来る!」

 

 ラングが全ての証拠品を押収してメックリンガーと共に帰路についた頃、帝国軍の予測通りに新しい陰謀の芽がフェザーンで発芽していた。

 

 



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狂信者の苦悩

 

 地球教首脳部が帝国軍に逮捕と同時に各惑星の地球教支部にも官憲の立ち入り調査が行われた。

 ド・ヴィリエの様に従順で協力的な支部も有れば武力抵抗して血が流れる支部もあった。更に官憲との戦いを避けて地下へと逃れる者達も少なくなかった。

 そして、地下へと逃れた者達を糾合する者が居たのである。

 

「司教様。総大主教猊下が帝国に捕らわれました」

 

「ルビンスキーの裏切り者め!」

 

「司教様。我らは如何するべきでしょう?」

 

「知れた事。金髪の孺子を倒せば良いだけの話であろう」

 

 言うだけなら簡単であるが相手は宇宙で最大最強の権力者である。質問した者も司教と呼ばれた者の発言には戸惑ってしまう。

 

「それ程に困難な事ではない。我らはカーレ・パルムグレンさえ倒しておる。ラグラン・グループの二の舞を踏ませれば良いだけだろう」

 

 シリウス戦役の勝者であり病死したカーレ・パルムグレンも自分達による暗殺と主張する。

 

「おおっ!」

 

「確かに!」

 

 複数の感嘆の声した。第三者が居れば失笑した事であろう。カーレ・パルムグレンの死因は病死である事は歴史上の事実である。地球教も存在していたかも怪しい時期に敵対者の病死を自分達の仕業と功を誇るとは厚顔の極みである。

 人は自分が信じたい事を信じる生き物である。特に狂信者になると顕著である。

 その場しのぎの詭弁で信徒を安心させて帰して一人となると、司教と呼ばれた男は傍らに用意された水を一気に飲み干した。

 

「総大主教猊下よ。この不肖者のデグスビイに力を与えたまえ」

 

 司教と呼ばれていた男はルパート・ケッセルリンクにサイオキシン麻薬患者にされたデグスビイ司教であった。

 彼はハンスに酒と交換で地球教の秘密を漏らして見逃してもらい。本部から派遣された同僚に自分は既に殉教したと嘘の報告してもらっていたのである。

 ハンスも同僚もデグスビイの境遇に同情的であったがデグスビイが生き延びるとは思わなかったのである。両者とも余命幾何も無いデグスビイを見逃しても大過ないと判断したのである。 

 しかし、サイオキシン麻薬の禁断症状とアルコール中毒の魔の手から髪を全て白髪にする代償を払ってデグスビイは生還したのである。

 そして、デグスビイは背信者となってしまったが信仰を捨てはしなかった。

 地球教による銀河統一を夢見て地下に潜り、教団内部の派閥闘争で敗れた者や上役に濡れ衣を着せられ教団を追われた者など教団のはみ出し物を地道に集めて一大勢力を築き教団への復帰を目論んでいた。

 

「たとえ総大主教猊下が居られなくとも地球がある限りは望みはある」

 

 デグスビイは己に言い聞かせるとルパートが残した計画書を取り出した。

 デグスビイには組織を作り維持する能力はあったが策を弄して行動を起こす能力には恵まれてはいなかった。

 嘗て、ルパートが自身がルビンスキーに取って代わりデグスビイが総大主教に取って代わるシナリオを提供して唆したが、今になりルパートが残したシナリオの出番になるとは皮肉な事であった。

 

 デグスビイがフェザーンの地下で暗い情念を燃やしていた頃、オーディンの保養地から生気に満ち溢れてハンスが職場復帰をしていた。

 

「しかし、五百万人のサイオキシン麻薬患者の世話となると大変だな」

 

 ハンスの愚痴を咎める者は居なかった。オーディンの全てのベッドは満員御礼状態で病院からは非常時に空ベッドがないと困るとの訴えがあり、臨時に宇宙港に駐留している病院船も使用する事になった。

 

「これって、長官のミッターマイヤー元帥か軍務尚書の仕事じゃないのか?」

 

 病院船と人員の手配をラインハルトから命ぜられたハンスが資料をフェルナーから受け取りながら疑問の形で遠回りに抗議をする。

 

「ミッターマイヤー元帥は退院した一般教徒を帰郷させる為の計画で忙しく、軍務尚書は各惑星の憲兵隊の人員補充の計画で忙しいのです」

 

 真面目な口調で正論で反論するフェルナーにハンスも何も言えずに黙って病院船の手配を始める。

 

(上司に似てきたなあ。以前は自分と同類だったのに)

 

 フェルナーが知れば気を悪くする様な失礼な事を考えたハンスである。

 ラインハルトがハンスに命じた理由は他の提督達は多忙を極めていたからである。

 ラインハルトはフェザーンへの遷都を考えていて、手始めに大本営をフェザーンに移動させる為の準備を諸提督達に伝達していたのである。

 オーディンに残るのはメックリンガー上級大将にケスラー上級大将とワーレン上級大将のみである。

 その為に諸提督達はオーディンを離れられない事情のある将兵をワーレンやメックリンガーの艦隊に配属する為に忙しいのである。

 

 8月8日、正式にフェザーン遷都の意向が公布されたのである。そして、8月30日にミッターマイヤー艦隊が先遣隊として軍務尚書と工部尚書と共に出立する。

 ラインハルト自身は9月17日に諸提督を率いてオーディンを出立する。大本営の完全移行は年内を目標として遷都自体は一年後を目処に完遂予定である。

 

 フェザーン遷都の報に狂喜したのはデグスビイであった。

 忌々しい憲兵隊や社会秩序維持局はオーディンに留まったまま皇帝がフェザーンに来るのである。

 

「金髪の孺子め。地球教本部を壊滅させた事で油断したか!」

 

「司教様。この際です。信徒を安心させる為にも司教様が総大主教に就任されるべきです」

 

 部下から思いがけない提案をされた。部下にしたらデグスビイの歓心を買うのと同時に一面の事実でもあった。

 

「ならぬ!」

 

 しかし、デグスビイは一言で却下したのである。

 

「何故にですか?」

 

「私が総大主教を継げば地位欲しさにと勘ぐる者も出る。先ずは総大主教代行で大願成就した暁には相応しい者が継ぐべきである」

 

 一応は謙虚に遠慮をした体裁を取っているが、どの様な基準で誰が判断するのか肝心な部分は語らないままである。

 迂闊に総大主教の地位に就けば事が露見した時に帝国軍からの逃亡が困難になる。

 信仰心はあるが自身の保身も大事である。

 

「全ては金髪の孺子を倒した後の事である。それに事を起こすには資金調達が肝心である」

 

 既に地球教本部は壊滅してサイオキシン麻薬は資金源となり得ない。新しい資金源が必要なのである。

 

「例の事業は順調であるか?」

 

「既に量産体制に入っています。しかし、フェザーンに遷都されてしまうと当初の売り上げ予想を下回る可能性が高くなります」

 

「稼げるうちに稼ぐしかない。全てを加工したら商品は分割して保存しろ。工場は整理して処分しろ」

 

「はい。すぐに手配します」

 

 デグスビイが新規の資金源として目をつけたのはポルノ映像ソフトであった。

 同盟なら合法なソフトも帝国では御法度である。

 同盟から合法非合法のソフトを手に入れてフェザーンで大量コピーをして帝国で密売するのである。

 今までは小規模の事業であったが需要も多く設備投資をする事で大量生産が可能になりコストダウンに成功したのである。

 幸いにもサイオキシン麻薬の密売ルートの多くは休眠状態でありサイオキシン麻薬に代わる新しい商品の密売を約束してくれた。

 サイオキシン麻薬と違い司法当局の取り締まりも甘くサイオキシン麻薬に代わる資金源として期待が出来る事。

 聖職者がポルノソフトを売る事に躊躇いがあったがサイオキシン麻薬とアルコール中毒の後遺症により、デグスビイも自身の健康に不安があり、体裁を気にする余裕が無いのであった。

 デグスビイが率いる信徒達も元は教団からの弾き出された者達の集団である。

 今はデグスビイという存在が接着剤となり統率が取れているがデグスビイ亡き後は空中分解するであろう。

 金髪の孺子に正義の鉄槌を与えるにも失敗して再び地下に潜るにも制限時間があった。

 

「早めに資金調達をしなくては」

 

 デグスビイは焦っていた。自身が成功するにも失敗するにも後継者が必要である。自分の命が尽きる前に後継者も探さないといけない。

 金髪の孺子を嵌める罠を作る為に新たな資金源の開発と勢力拡大が急務であった。

 幸いの事に宇宙の全ての勢力が自分達の存在を知る筈がなかった。

 そして、それは金髪の孺子を倒す最大の武器を所有している事なのだ。

 油断した人間ほど脆い存在はない。自身も青二才と油断したルパートの奸計に嵌まったではないか。

 デグスビイの存在を知らないが地球教の残党が蠢動する事を予測していた人物が宇宙に一人だけいた。

 サイオキシン麻薬を撲滅して資金源を枯渇させ地球教本部討伐の策を巡らせたハンスはド・ヴィリエの名もデグスビイの名も記憶から削除していたが故に、ド・ヴィリエがハイネセンで改心して額面通りの宗教家になってもデグスビイが密かに生き延びていても油断する事なく地球教の残党に対して警戒をしていた。

 デグスビイに同情して見逃したハンスだけが油断せずに地球教を警戒するのは両者にとって皮肉としか言えないだろう。

 

 この年の地球教討伐とフェザーン遷都が、良くも悪くも多くの人の人生を変える結果となっていた。

 その全てを把握するのは神ならぬ身のハンスには不可能であった。

 



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エゴイストの最期

 

 9月に入り大本営移転の為に各艦隊が準備に多忙を極めていた。

 その様な時期に社会秩序維持局からの報告が全宇宙を震撼させる事になる。

 地球教本部から持ち帰った資料を検証していた局員がヨブ・トリューニヒトが国防委員長時代に地球教団から金銭授受を受ける見返りにサイオキシン麻薬の密売に便宜を約束する盗撮映像を発見したのである。

 国防委員長となれば政府の高官中の高官である。発見した局員は事の重要さに驚きながらラングへと報告をした。

 

「他にもあるかもしれん。急いで他の資料も検証せよ」

 

 自身も事の重大さに驚きながらラインハルトに報告したのである。

 報告を受けたラインハルトも事の大きさに驚きを隠せないでいた。

 

「にわかに信じ難い話であるが証拠を見せられたからには信じざるを得まい。念の為に問うが捏造の可能性は無いのか?」

 

「私も長年の間、捏造した映像などは見て来ましたが捏造の可能性は無いと思われます。念の為に専門家にも解析を依頼している最中で御座います」

 

 ラングの顔にも緊張が走っている。帝国でも門閥貴族がサイオキシン麻薬の密売に手を染めた事はあるが現役の閣僚がサイオキシン麻薬の密売に手を染めた事はない。

 ラインハルトの反応もラングの緊張も当然の事であった。

 

「ふむ。至急、憲兵総監と司法尚書と国務尚書に連絡しろ。それとハンスも呼び会議を開く。卿も同席せよ」

 

 急遽、開かれた御前会議には軍務尚書であるオーベルシュタインもハンスの要請で出席をした。

 

「相手が陰謀の専門家ですから軍務尚書の意見も必要だと思います」

 

 考え様によってはオーベルシュタインに失礼とも思える発言であるが出席者全員が納得したのであった。

 

「まずはお手元の資料をお読み下さい。会議を開く間にも新しい証拠が発見されました」

 

 ラングが会議の最初の発言をして全員が手元にある資料に目を通す。

 

「なるほど。地球教がトリューニヒトの政治資金を提供していた訳か」

 

 ハンスも驚くしかなかった。地球教がトリューニヒトに政治資金を提供して見返りに地球教のサイオキシン麻薬の密売に便宜を図っていた。

 

「地球は帝国領に有るから地球を取り戻す事と主戦派のトリューニヒトだと誰も疑わん」

 

 ハンスの感想に司法尚書のブルックドルフが疑問を投げた。

 

「しかし、この様な証拠を残すとは考えにくいですな」

 

「恐らくはトリューニヒトが裏切った時の報復手段として地球教が残したと思います」

 

 ラングの意見にブルックドルフを始め全員が納得する。

 

「では、トリューニヒトは地球教が証拠を手にしている事を知らないのですかな?」

 

 マリーンドルフ伯の質問にケスラーが代わりに答える。

 

「知らないだろう。知っていれば地球教が逮捕された時に逃亡していただろう」

 

「問題は逮捕するにしても同盟時代の犯罪を帝国の法で追及する事が出来るのかですな」

 

 マリーンドルフ伯が会議の要点に言及する意見を述べる。

 マリーンドルフ伯の意見を聞いて、会議の出席者全員が司法尚書であるブルックドルフに視線を向ける。

 

「前王朝から同盟からの亡命者の例は少なく。刑事犯が亡命した例は有りません。稀に刑事犯として指名手配された者も調査したら冤罪もしくは濡れ衣を着せられた者ばかりでした」

 

 ブルックドルフも会議に出席する前に事前調査をしていた様である。

 

「過去は兎も角、このままトリューニヒトを不問にしたら悪しき前例を作る事になる」

 

 オーベルシュタインが誰も反論が出来ない正論を述べる。

 

「この際、トリューニヒトは死刑で構わんでしょう。同盟を裏切り保身に走った人間です。死刑にしても問題は無く、同盟人も帝国人も納得するでしょう」

 

 ハンスの意見にケスラーとブルックドルフ以外は納得していたがケスラーがハンスの意見に反論した。

 

「どの様な法的根拠で死刑にするのだ。同盟で犯罪を犯しても帝国では無辜である」

 

 ケスラーの意見にハンスは鼻で笑った。

 

「軍人であるケスラー総監の意見とは思えませんな。我々、軍人は戦争の名を借りて殺人を生業にしているのに、犯罪者を死刑にするのに法的根拠を必要とするのですか?」

 

 ハンスの意見は露骨な軍人批判である。そのハンス自身が軍人であり軍人として若くして高位高官に登り詰めたのは大量殺人の結果である。

 

「卿は酔っているな」

 

 ケスラーの意見は的を射ていた。ハンスは酔っていた。酒ではなく復讐に。

 

「まあ。死ぬまで醒めないでしょうよ。それに私を酔わせたのはトリューニヒト自身ですけどね」

 

 ハンスの開き直りとも取れる反論にケスラーも頭を抱え込んでしまった。

 

「ハンス、その辺で止めよ!」

 

 それまで臣下の議論を黙って聞いていたラインハルトがハンスを制止した。

 

「陛下。ミューゼル上級大将の意見の動機は別にしても結果としては正しいと思えます」

 

 オーベルシュタインがハンスの意見に支持を表明した。

 

「私も軍務尚書とミューゼル上級大将の意見に賛成です」

 

 ラングも賛成の意を表明した。

 

「陛下。私もトリューニヒトの死刑はやむを得ないと思います」

 

 温厚で誠実なマリーンドルフ伯もトリューニヒトの死刑に賛成をする。

 残ったブルックドルフとケスラーは法律家として複雑な表情をしていたが刑事犯を野放しに出来ないとの意見に反論も出来ずにいた。

 

「では、トリューニヒトの死刑に反対は無い様だな」

 

 ラインハルトも内心はトリューニヒトの死刑に賛成であったが皇帝である身では軽々しく意見を述べる訳にもいかなかったのである。

 

「では、明日にもトリューニヒトの死刑を執行する。執行の実務はハンスが行う様に」

 

「御意」

 

 本来なら司法尚書であるブルックドルフの仕事であるが迷いのある人間にやらすよりは迷い無い人間にやらすべきと考えて出した指示であったが、ラインハルトは翌日には後悔する事になる。

 

 翌日、早朝からトリューニヒトは機嫌が良かった。

 前日の夜にミューゼル上級大将から翌日の正午にジークリンデ・エンヴィーゼ公園に来る様に連絡があったからだ。

 ジークリンデ・エンヴィーゼ公園は晴眼帝マクシミリアンの皇后ジークリンデが私財を投じて作った公園である。

 ジークリンデの緑地という意味の公園で緑が豊な公園でありオーディン市民の憩いの場で季節が変わる度に広場では何かの催事が行われていた。

 

 古来から政治家とは関係も無いのに催事には顔を出したがる生物である。

 西暦が使われていた時代に子供向けのフィクションのキャラクターの葬儀が執り行われた時に「作品を読んだ事は有りませんが」と言って葬儀に参加した政治家が作品のファンである子供から追い返された事もある。

 トリューニヒトも例外でなく、顔を売るチャンスとばかりに出掛けたのである。

 トリューニヒトが公園に到着すると既に壇上でハンスがスピーチなのか漫談なのか判断が難しいを話していて見物客を笑わしている。

 

「ヘル・トリューニヒト。マイクを付けさせて頂きます」

 

 スタッフにワイヤレスマイクを付けてもらいながらトリューニヒトが何の催事かと尋ねる。

 

「フェザーン遷都記念らしいですよ。急に決まった催事らしく、自分達も詳しくは聞いてないのです」

 

「そうですか」

 

「ヘル・トリューニヒトの準備は終わりました」

 

 スタッフが無線で報告すると壇上のハンスから声が掛かった。

 

「本日の主賓をお呼びします。ヨブ・トリューニヒト氏です」

 

 打ち合わせも無しにトリューニヒトは笑顔で手を振りながら悠然と壇上に上がる。

 ヘッダが居ればトリューニヒトの舞台度胸に舌を巻いた事だろう。

 

「遷都でお忙しい時に来て頂いて有り難う御座います」

 

「ミューゼル上級大将閣下に呼んで頂ければ何処にでも馳せ参じます」

 

「そうですか」

 

 次の瞬間にはハンスが余所行きの声から残忍な声に変わる。

 

「では、先ずは跪け!」

 

 ハンスが拳銃を抜き、トリューニヒトの両方の太腿を撃ち抜く。

 トリューニヒトが血と悲鳴を撒き散らしながら倒れる。

 

「何をする!」

 

「何をするも、本日は貴方の死刑執行のイベントですよ」

 

「何だと?」

 

「国防委員長時代に地球教からサイオキシン麻薬の密売に便宜を図る見返りに政治資金を受け取った罪ですよ」

 

 ハンスは説明しながらも今度はトリューニヒトの両手を撃ち抜く。

 

「地球教本部から押収した資料に証拠が有りました」

 

 ハンスは痛みに苦しみ転げ回るトリューニヒトを壇上から蹴り落とす。

 

「その出血では一時間も持たん。ゆっくりと見物させて貰うよ」

 

「だ、誰か助けて」

 

「無駄だ。ここに居るのは同盟からの亡命者とサイオキシン麻薬の被害者ばかりだよ」

 

 トリューニヒトの顔が絶望に染まる。

 

「それから、家族の心配は要らないよ。既に自裁された」

 

「き、貴様!」

 

「遺体はハイネセンで同じ墓に入れてやる」

 

 三十分後、トリューニヒトは絶望と怨嗟の血の池に浸かりながら、ゆっくりと絶命した。

 

「残念だな。今、報告があったよ。家族の要望は同じ墓は嫌だとよ」

 

 稀代の保身の天才だったエゴイストはハンスの奸計に嵌まりオーディンでの死を余儀なくされた。

 一国の国家元首であった男の死としては余りにも惨く悲惨な死に方であった。

 しかし、トリューニヒトが作り出した死は自身の死の数百万倍に及ぶのであった。

 

「ふん。引っ越しの前にはゴミなど残さずに綺麗に掃除をして出るもんさ」

 



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鬱とワインと藁と

 

 トリューニヒトの死刑執行した翌日にハンスは出勤と同時にラインハルトから執務室に呼び出された。

 

「卿は何を考えているのだ!」

 

 常人なら震えあがるラインハルトの怒鳴り声にハンスは平然としている。

 

「陛下が何に対して激怒されてるのか。臣には理解が出来ませんな」

 

 この様な時に限り形式的な返答をするハンスが腹立しい。

 

「トリューニヒトの件だ。死刑は認めたが虐殺しろとは言ってない!」

 

「ほう。陛下はトリューニヒトの死刑執行の方法が気に食わないのですか?」

 

「当然であろう。それにトリューニヒトの家族も自殺に追い込んだな!」

 

「狡いですよ。陛下」

 

「余の何処が狡いと言うのか?」

 

 ラインハルトにしたらハンスに批判される理由は無いと思い込んでいた。

 

「スフィンクス頭にフライパン頭の家族も大逆罪で死刑にしましたね」

 

 ハンスがリップシュタット戦役の話を持ち出したがラインハルトも、その程度では怯まない。

 

「あれは、旧王朝の法に従ったまでのだ!」

 

「そうですか。なら、リヒテンラーデ侯の一族の時は?」

 

 ラインハルトの怒りも一気に沈静化する。

 

「あの時、陛下は難癖を付けてリヒテンラーデ侯を殺しましたね」

 

「あれは、互角の権力闘争だった。半歩遅れていれば卿も余も殺されていた!」

 

「話を誤魔化さないで下さい。私が問題にしているのはリヒテンラーデ侯の一族の話です!」

 

 流石にハンスには誤魔化しは通用しなかった。

 

「十歳以上の男子全員を死刑にしましたね」

 

「命令を出したが実行されては無い!」

 

「ええっ、私が邪魔をしましたからね。私が邪魔をしなければ歴史上で珍しくない大量虐殺でしたけど」

 

 流石のラインハルトも黙るしかなかった。ハンスは事実を述べているだけである。

 

「陛下は門閥貴族の復讐者として、復讐の美酒を飲み。私には復讐の美酒を飲ませないのは狡くないですか?」

 

 この時のハンスの声はオーベルシュタインも凌駕する冷たい声であった。

 ハンスの質問はラインハルトを完全に叩き伏せた。

 ラインハルトも門閥貴族に対しての復讐者であり、ハンスも同盟の支配層に対する復讐者であった。

 

「余が間違えていた。卿の主張は正しい。下がって宜しい」

 

 ハンスは一礼すると執務室を退出する。そして、退出する寸前にラインハルトに爆弾を投げた。

 

「因みにですが、うちの姉も当日は仕事の都合で見物に来れない事を残念だと悔しがっていましたよ」

 

 ハンスの姉のヘッダも幼少時代に麻薬組織に国を追われて帝国に亡命したのである。帝国で成功した人間でさえトリューニヒトに対しては憎しみが残していたのである。

 一般の亡命者やサイオキシン麻薬の被害者達の心情は押して知るべきであった。

 もし、国防委員長としてトリューニヒトが和平路線を進めていたらラインハルトが簒奪した銀河帝国との共存が成し得たかも知れないのだ。

 そうであれば、ハンスだけではなく多くの人の人生が変わったかも知れない。

 ヤン・ウェンリーは奨学金を受けて大学に進学して歴史家の道を歩んだかも知れない。

 アッテンボローはジャーナリストの道を進んだかも知れない。

 ハンスも料理人か歴史家の道を進んだかも知れない。

 そして、ハンスだけが知る事実であるが逆行の世界ではトリューニヒトの遺族はバーラト政府時代にハイネセンで何者かに虐殺されている。

 結局は事件は迷宮入りしたのである。容疑者はハイネセン市民全員であり、捜査員達自身も積極的に捜査を進めなかったのである。

 ハンスがトリューニヒトの家族を自殺に追い込んだのはハンスの慈悲だったかも知れない。

 逆行前と後で変わらない事実はハイネセンの墓に葬られたトリューニヒトの遺体は盗み出されて数年後に山の中でバラバラの骨として発見される。

 検証の結果では何者かが盗み出した後で遺体に鋭利な刃物で複数の人間が刺したりバール状のもでメッタ打ちにした痕跡が認められた事である。此方も迷宮入り事件となっている。

 

 そして、その日ののラインハルトは珍しく覇気が無かったが仕事に影響する事もなく一日を終了したのである。

 

「フロイライン!」

 

 閉庁して帰宅の徒につこうとしたヒルダをハンスが呼び止めた。

 

「ミューゼル上級大将。何か用事でしょうか?」

 

「実は今朝の事で陛下の御様子が心配でしてね」

 

「大丈夫だと思います。何時もよりは元気が無い御様子でしたけど」

 

「不味いなあ。フロイラインに見抜かれる様だと」

 

 ハンスには恩義もあるヒルダにしたら張本人が何を言うのかと言いたい気分である。

 

「私では駄目だからなあ。心苦しいがフロイラインには陛下の御様子を見て来て頂きたい」

 

 ラインハルトを心配するハンスにヒルダは笑いが込み上げでくる。

 

(この二人、本当に仲が良いわね)

 

 内心の感想は口にせずにヒルダは快くハンスの依頼を受けたのであった。

 

 ヒルダがラインハルトの私室に行くのを確認してからハンスは自分の執務室に戻りヒルダの帰りを待つ事にする。

 ハンスが心配して自分の執務室に待機しているとは知らないヒルダはラインハルトの私室を訪れて驚愕した。

 ラインハルトは月明かりだけが照らす部屋でグラスに注がれた赤ワインを椅子に座り見つめていた。

 既にテーブルには空のワインボトルが二本がある。酒を嗜む程度にしか飲まないラインハルトにしては有り得ない酒量である。

 

「あの。陛下」

 

「ああ、フロイラインか」

 

「これ以上のワインは玉体に触ります」

 

 ラインハルトがハンスの言葉に想像以上の衝撃を受けていた事にヒルダも在り来りの言葉しか出て来ない。

 

「余は本当に未熟だな。ハンスには自分の偽善を指摘され、今は酒に逃げる事をフロイラインに窘められる」

 

「陛下。完璧な人間など宇宙には存在しません。陛下が足りない部分が有るのも当然です。そして、足りない部分を臣下が補補うのも当然です」

 

「しかし、余は足りない部分が多くフロイライン達に過度の負担を掛けて居るのではないか?」

 

「その様な事は有りません」

 

「しかし、余は何時も、キルヒアイスやハンスにフロイラインに甘えている気がする。だから、ハンスも日頃の不満が溜まっていたのではないか?」

 

 ラインハルトはハンスに対してキルヒアイス程では無いが大きく依存している事は理解していたが想像以上に依存していた様である。

 

「おめでとう御座います。陛下」

 

 ヒルダの言にラインハルトも虚を突かれて唖然とした顔でヒルダの顔を見る。

 

「フロイライン。何故に?」

 

「はい。ミューゼル上級大将が陛下に遠慮が無く直言が出来るのも陛下に臣下の言葉に耳を貸す器が有ればこそです。陛下が臣下の言葉に耳を貸す器がある事を祝い申し上げたのです」

 

 ヒルダの言葉は事実でもあった。ラインハルト自身も士官時代に無能な上官に進言しても耳を貸さない上官が多く進言を止めた事が何度もある。

 

「しかし、本来なら臣下が進言しなくても行動するのが余の立場であろう」

 

「先程も申しましたが完璧な人間などは宇宙に存在しません。主君の足りない部分を補うのが臣下の務めで御座います」

 

 ヒルダの言葉にラインハルトも少しだけ笑顔を出した。

 

「フロイラインは優しいな。余は狭量だからな。昔、キルヒアイスに言った事がある。優しくするのは俺と姉上だけで良いとな」

 

 ラインハルトはキルヒアイスの前だけにしか使わなかった一人称を無意識でヒルダの前で使っていた。

 

「それとは別の話です。陛下」

 

「いや、根本的な部分は同じであろうよ。優しい人間は帝位を簒奪したりせん」

 

「では、厳しさも人には必要なのでしょう。ミューゼル上級大将が陛下に遠慮無く諫言するのも正解かも知れません」

 

「そう言えば、ハンスが帝国に亡命したばかりの頃にハンスから扱き下ろされた事があったな」

 

「まあ。ミューゼル上級大将も勇気のある事ですわ」

 

「今にして思えば、もっと真剣に耳を傾けるべきであった」

 

「大丈夫ですよ。ミューゼル上級大将は決して陛下を見放したりしません」

 

「見放す事は無いが退役したがっている」

 

 これにはヒルダも苦笑で返すしかなかった。

 

「ミューゼル上級大将の事ですから、陛下が間違えたら怒鳴り込んで来そうですわ」

 

 白衣にエプロン姿のハンスが怒鳴り込んで来る映像を二人は簡単に想像が出来た。

 思わず笑ってしてしまうヒルダに嫌な顔をしていたラインハルトも釣られて笑ってしまう。

 

「夜も遅い。マリーンドルフ伯も心配するだろう」

 

 ラインハルトが椅子から立ち上りヒルダを部屋の外まで送り出そうとした時、ラインハルトが慣れない酒に足を取られて倒れそうになる。

 ヒルダは思わず、ラインハルトを支えようとした反動でヒルダが反対に倒れそうになるのをラインハルトが支える。

 

「有り難う御座います。陛下」

 

 ヒルダが礼を言うがラインハルトからの返事が無い。

 ヒルダが不審に思っているとラインハルトがヒルダを抱き締めた。

 

「今夜は一人でいる事に耐えられそうにない」

 

 決して愛の告白では無いとヒルダは女の直感で理解したが健気に頷く事しかしなかった。

 ラインハルトが藁をも掴む思いなのは理性で理解していたが、理性とは別の感情で良い藁になろうと決心した。

 

 ラインハルトとヒルダがベッドを共にする頃、ヒルダの帰りを待ちくたびれたハンスは自分の執務室の椅子で幸せそうに眠っていた。

 

 



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プロポーズラビリンス (求婚迷宮)

 

 ラインハルトと一夜を共にしたヒルダは習慣で何時もの時間に目を覚ました。

 目の前にはラインハルトの寝顔がある事に昨夜の事が夢では無いと確信する。

 ラインハルトの寝顔に思わず笑みを浮かべて、このままラインハルトが起きるまで眺めたい衝動を抑えると、手早く衣服を着て部屋を後にする。

 部屋の外にはキスリングが直立不動の体制で見張りをしていたが顔を合わせる事が出来ずに俯いたまま挨拶をすると一目散に早足で、その場を離れるのであった。

 屋敷に帰りつくと先ずはシャワーを浴びて新しい衣服に着替える。時刻は既に朝食の時間である。

 父と顔を合わせたくないが食堂に顔を出さぬ訳にもいかずに重い足取りで食卓に向かうヒルダであった。

 

 ヒルダがラインハルトの部屋を出た直後にラインハルトも目を覚ましたのである。

 目を覚ました直後にラインハルトは昨夜の事を思い出して数分の間は茫然自失していたが我に帰ると表面上は皇帝の威厳を保つ為に平然としながらキスリングに指示を出した。

 

「キスリング。花束を用意しろ」

 

「陛下。どの様な花束を用意すれば宜しいでしょうか?」

 

「何でも良い。いや、その女性が喜びそうな花束を用意せよ!」

 

 皇帝の威厳を保つ為に平然とした態度を取る筈が、すぐに綻び始めていた。

 

「御意。では、花屋が開店したら届ける様に手配して来ます」

 

「ま、待て!」

 

「はい。陛下、何でしょうか?」

 

「そうか。花屋は開いて無いのか。では、庭に薔薇が咲いていたな。あの薔薇で花束を作れ!」

 

「御意」

 

 キスリングも表面上は真面目な表情をしていたが内心は呆れていた。

 

(はあ。以前にミッターマイヤー元帥から黄色の薔薇の花言葉の話を聞いていた筈なんだが)

 

 庭の薔薇から黄色の薔薇だけを残して花束を作る様に部下に命じるキスリングであった。

 もし、この場にアンネローゼが居たなら、「光年以下の事に興味が無いにも程がある」と弟に対して小言の一つも言ったかも知れない。

 そして、幸か不幸かキスリングの部下達が薔薇を摘む為に庭に大挙して来る物音で目覚めたハンスは執務室の窓からキスリングの部下達に声を掛ける。

 

「グーテンモルゲン。親衛隊が朝から何をしてるの?」

 

「グーテンモルゲン。はい。庭の薔薇で花束を作れと陛下の勅命でして」

 

「そりゃ、朝から大変だね」

 

 逆行者であるハンスもラインハルトとヒルダの結ばれた経緯は知らなかった。

 皇帝のプライベートな部分まで公表する王朝も無いから当然である。

 事情を知らぬ為にハンスも慣れぬ作業をする親衛隊に同情して窓から庭に出ると親衛隊を手伝い始めた。

 

「花束用の薔薇を摘む時は刺も切っておかないと危ないからね。切った薔薇は水揚げしないと長持ちしないから」

 

 知識だけは豊富なハンスであった。無駄に八十過ぎまで生きていた訳では無い。

 

「詳しいですね。閣下」

 

「同盟に居た頃に生活の足しになればと家庭菜園に手を出した時の知識だよ」

 

 作業も終わりハンスも着替えの為に帰宅する気でいたが、ラインハルトに発見されて捕まってしまった。

 

「良い時に居た。卿も同行せよ」

 

 キスリングに運転手役を命じてハンスだけを伴いラインハルトはマリーンドルフ邸に向かうのである。

 

「陛下。朝から花束を持って何処に行くんですか?」

 

「煩い。卿は黙って付いて来れば良い」

 

 行き先も告げずに訳も分からずにラインハルトに地上車に同乗させられたハンスとしたら当然の質問であった。

 

「陛下。到着しました」

 

 到着した先はマリーンドルフ邸である。鈍いハンスでも事態を把握したのである。

 

(はあ。プロポーズくらい一人でしろよ)

 

 内心は呆れていたハンスであったが、事態はさらに悪化していくのであった。

 ラインハルトの来訪を受けた執事は気の毒な程に動転しながら主であるマリーンドルフ伯を呼びに行く。

 

(そりゃ、朝も早くから皇帝が玄関に居ればねえ)

 

 執事の報告を受けてマリーンドルフ伯が玄関に現れるとキスリングとハンスの試練の幕開けであった。

 

「これは、陛下。今日はどの様なご用件でお運びに?」

 

「マリーンドルフ伯。早朝から騒がせて申し訳ない。これをフロイラインに差し上げたくて」

 

 ラインハルトは薔薇の花束をマリーンドルフ伯に手渡した。

 

「フロイラインは花が好きであろうか?」

 

「嫌いでは無いと重います」

 

(二人共、花が好きかも知らんのかい!)

 

「その、ミッターマイヤー元帥は求婚の時に見事な花束を渡したというので」

 

「左様で」

 

(何もミッターマイヤーを手本にする事はないだろう)

 

「その、伯の令嬢を妃に迎えたくて、その結婚の許可は頂けないだろうか?」

 

(おい、先に父親に言うな!)

 

「フロイラインに、もし、その、あの様な事をして責任を取らないと余は淫蕩なゴールデンバウムの皇帝達と同類になってしまう。余は奴らと同類になりたくないのだ」

 

(おい、フロイラインへの気持ちは無いのかよ。それに父親に何を報告しているんだ!)

 

 ハンスは呆れていたが確かにラインハルトは自身の気持ちだけでありヒルダの気持ちを考えていないが誠実で有ろうとする若者の潔癖さの発露であった。

 

「陛下が責任を感じる必要はありません。娘も自分の意志で陛下の相手をしたのでしょう。一夜の事で陛下の一生を縛る様な娘ではありません」

 

「だが、」

 

 「それに娘も気持ちの整理がついていないので陛下に失礼な言動があるやもしれません。娘には後日、大本営に行かせますので今日はお引き取り願えましょうか」

 

「その、マリーンドルフ伯にお任せする。早朝からさわがせて、すぐに返答が出来ない事を申し出た非礼を許して欲しい」

 

(見事な門前払いだな。伊達に国務尚書を務めてないわ)

 

 帰りの地上車でハンスに意見を求めるラインハルトにハンスの返答は冷たかった。

 

「臣は独身ですから御下問されても困ります!」

 

 遠回しで友人として聞けと言っている事を理解したラインハルトは再度、友人として意見を求めた。

 ラインハルトにしたら藁をも掴む心境であった。

 

「では、友人として言わせて貰うなら!」

 

 ハンスはいきなりラインハルトの胸元を掴み頭の位置を下げさせると拳骨を二発、ラインハルトの頭に見舞うのであった。

 

「な、何をする!」

 

「今のはフロイラインとマリーンドルフ伯の怒りじゃ!」

 

「えっ!」

 

「何処の宇宙に婚前交渉をした事を娘の父親に報告する馬鹿がいる!」

 

「あっ!」

 

「それに、フロイラインの気持ちも確かめずに事に及んだのか!」

 

 ラインハルトは同じ年代の独身者としてハンスに意見を求めたが、ハンスには年頃の姉がいて心情的にはマリーンドルフ伯に近い事を失念していた。

 普段のラインハルトなら考えられないミスであったが、ラインハルトも人である。想定外の事態に動揺していたのだ。

 

「それに、まさかとは思うが避妊はしたんだろうな?」

 

 ラインハルトの口での返答は無かったがラインハルトの表情が代わりに返答していた。

 

「お前は高校生か!」

 

 ラインハルトの私室に避妊具等が最初から有る筈もないのだが、ハンスの怒りは正当とも言えた。

 

「フロイラインが妊娠でもしてみろ。フェザーン遷都に先立ち秘書官抜きで準備をしてフロイライン抜きで大本営を運営しないとならんぞ!」

 

 ハンスの懸念する事も当然であった。妊娠中のワープが胎児に対しての悪影響は常識であったからである。

 ラインハルトはハンスに指摘されて顔色は青を通り越して白色になっている。

 その後、ハンスの説教は地上車がハンスの自宅に到着するまで続いたのであった。

 

 ラインハルトが自分の執務室に戻ると副官のシュトライトとリュッケがラインハルトを探し回っていた。

 

「陛下、出勤するとキスリングと共に行方が分からずに心配しましたぞ」

 

 ラインハルトは過度の護衛等を嫌い一人で外出する事もあったのでキスリングを連れているだけ安心していたのだが、シュトライト達にすれば心配な事には変わりない。

 

「すまぬ。フロイラインの見舞いに行っていたのだ」

 

「そう言えばフロイラインの姿も見ませんでしたな」

 

「昨夜、急に体調不良になってな」

 

「最近、大本営と遷都の準備で忙しい様でしたからね」

 

 リュッケも声を出して納得していた。

 

「うむ。フロイラインに万が一の事が有ればマリーンドルフ伯に会わせる顔が無いのでな。余もフロイラインに頼り過ぎだと反省している」

 

 こうして、ヒルダ不在の理由も臣下達の間に浸透していったのである。

 臣下達、特に事務局の若い女性事務員達を中心にヒルダとラインハルトの仲を好意的な噂が流れるのに時間は掛からなかった。

 後日、無駄に勇気のある女性事務員がハンスに噂の真偽を確認したものである。

 

「何だ。そんな噂が流れているのか。本当だったら陛下の胸ぐらを掴んで拳骨の二、三発はお見舞いしているわ」

 

 ハンスの返答に女性事務員は落胆したものである。

 

(若い女性が、この手の噂好きなのは帝国も同盟も変わらん。今回の噂は邪推ではなく真実だからなあ)

 

 女性事務員から茶に誘われたので内心は期待していたハンスにしたら落胆したいのは自分だと思いながらも嘘は言っていない。

 

「しかし、秘書官殿が不在でフェザーン遷都は大丈夫なのかな?」

 

 ハンスの懸念はヒルダを知る者の全員の懸念でもあった。

 

 



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父娘と姉弟

 

 ヒルダ不在の大本営は深刻なトラブルは起きないが色々と齟齬は発生していた。

 臨時に秘書官を任命したのだが、露骨にラインハルトに媚を売る者にラインハルトに萎縮して空回りをする者ばかりであった。

 大本営に連なる者がヒルダの存在の貴重さを思い知った頃には大本営のフェザーンへの移動日まで数日前となる。

 ラインハルト麾下の提督達もヒルダ不在を嘆くのであった。

 

「ふむ。今回の移動にも参加が出来ぬとはフロイラインの病も重いみたいだな」

 

「仕方がない。ワープは女性の身体に負担が大きいからなあ」

 

「しかし、これは困った事だぞ。フェザーンに移動してからも秘書官殿が不在となると」

 

 提督達から心配されたヒルダは自宅のベッドで生理痛と戦っていた。

 

「まさか、こんなに生理痛が重いとは知らなかったわ」

 

「生理痛は人それぞれですからね。私の家内も若い頃は大変でしたよ」

 

 往診に来た医師は苦笑しながら言う。人格者と知られているマリーンドルフ伯も娘の事になると親馬鹿になるもんだと思うと自然と口元が緩むのであった。

 

「しかし、先生。今まで、これ程の生理痛はなかったのですけど」

 

「女性の身体はメンタルに左右されやすいですからね。最近はフェザーン遷都で忙しかったのでは?」

 

 医師のメンタルに左右されやすいと言われて心当たりがあるヒルダは納得するしかなかった。

 

「暫くは、仕事の事は忘れて静養に専念する事が一番の薬です」

 

 医師は一般論を述べた後に一言を付け加えた。

 

「それに、」

 

「何でしょうか?」

 

「フロイラインが早く回復しないと、お父上が心労で倒れてしまいますよ」

 

 医師が指差す方向を見ると、父親のマリーンドルフ伯がドアの隙間から部屋の様子を伺っていた。

 

「お父様!」

 

 マリーンドルフ伯は娘が心配で診察現場を監視していたようである。

 ヒルダは自分が父に愛されている事は自覚していたが人格者の父が覗きをするとは思っていなかった。

 

「安心して下さい。年頃の娘さんを持つ父親は大抵の場合は同じ事をするもんです」

 

 ヒルダにして見れば自分の父親は世間の評判通りの人格者であると思っていたが、娘のヒルダも知らぬ一面があった様である。

 

「まさか、うちの父に限って……」

 

 人類が地球時代から使っていた言葉は現役で活躍していた。

 医師が帰るとマリーンドルフ伯は自分でも親馬鹿だったと自覚があるのか照れながらもヒルダの様子を伺いに来た。

 

「その、ヒルダ。お前が後悔しているなら陛下には私から断っても良いのだぞ」

 

 マリーンドルフ伯の顔に内務尚書としての表情はなく、一人の父親の表情があった。

 

「後悔をしている訳では無いのです。ただ、陛下は義務感だけで求婚されている気がするのです」

 

 マリーンドルフ伯はラインハルトの心情より娘の気持ちを問題にしていたのだが、ヒルダはラインハルトの気持ちを考えて悩んでいた。

 

(ヒルダ自身は陛下との結婚は抵抗が無いのか)

 

「ふむ。正式に結婚が決まったら陛下に一発だけ殴らさせて頂こうか」

 

「お父様。冗談でも不敬ですよ!」

 

「おや、私は冗談を言ったつもりは無いのだがね」

 

 ヒルダは頭を抱えてしまった。自分の父は分別のついた人格者だと思っていたが娘の事になると凡百の父親になってしまうようである。

 

「お父様の気持ちは嬉しいですけど、決して実行しないで下さい」

 

「まあ。お前が言うなら実行はしないさ。それに、今日明日に返事をする必要も無い。まずは自分の身体を労る事を考えなさい」

 

「はい。お父様」

 

「本当ならマリーンドルフ家もリップシュタット戦役の時に滅んでいた。ここで滅んでも惜しくも無い」

 

 ヒルダは父の娘として生まれた事を感謝しながらもラインハルトへの返事も考えていた。

 

(体調が回復したら、陛下の姉君の大公妃殿下に相談してみましょう)

 

 ヒルダがアンネローゼに相談する事を考えていた頃、ラインハルトは職務に専念していた。

 ヒルダが不在の為に仕事量が増えた事も事実だが、仕事に専念する事でヒルダに求婚をした事を一時的に忘れ様としていた。

 そんな、逃避もオーディンにいる間だけであり、オーディンの地表を離れるとブリュンヒルト内で暇を持て余してしまうラインハルトであった。

 そうなると、事情を知るハンスがラインハルトの執務室に呼び出される事になり、あれこれとハンスに相談するのである。ハンスにしては迷惑な事である。

 

(はあ。こんな事なら大将になった時に旗艦を貰っておけば良かった)

 

 大将に昇進した時にオストマルクを旗艦にと話があったのだが情報部の自分には不要と断ったのだ。

 

「だから、卿にはフロイラインと同じ歳の姉君が居るではないか!」

 

「私の姉は陛下も御存知の様に結婚より芝居の方に夢中ですから参考になりませんよ」

 

「しかし、卿の姉君は女優であろう。女優なら職業柄、普通の女性の心理も理解している筈ではないか?」

 

「仮にですよ。理解していても何と言って聞けば宜しいのですか?」

 

 これには、ラインハルトも黙るしか無いのである。ラインハルトもヘッダの勘の良さと聡明さは知っている。

 

「下手に質問をすれば、全てが露見しますよ。それでも宜しいのですか?」

 

「ならば、下手に聞かずに上手に聞けば良かろう」

 

 世の姉という存在は不思議な事に弟の思惑等は簡単に見破るものである。

 ラインハルトも幼少の頃からアンネローゼに隠し事が成功した例が無いのである。

 

「そんな事が出来れば苦労はしませんよ」

 

 ハンスの本音である。中身が八十過ぎの老人ながらハンスは姉のヘッダに勝てる気がしないのである。

 ハンスの最大で唯一の隠し事である逆行者である事までは把握していないがハンスが何か隠し事をしている事は把握されているのである。

 

「陛下も姉君が居られるのですから、御自身の姉君に聞かれたら宜しいでしょう」

 

「ハンス。お前は友達甲斐が無い奴だな!」

 

 ハンスも気付いてないがラインハルトがキルヒアイス以外の人間に弱味を見せる事など前代未聞の事である。

 その事に気付いてもハンスとしては嬉しいとは言えないのである。

 

「卿の姉上も一足先にフェザーンに行かれているのだろう。ならば、フェザーンに着いたら特別に休暇をやるので姉君に相談してみてくれ」

 

「姉はフェザーンでの年末公演の練習で忙しいです。自分と会う暇なんか有りません」

 

 ラインハルトの執拗さにハンスも辟易していたがラインハルトも必死なのである。

 結局は、オーベルシュタインが来訪する事でハンスは解放されたのだがフェザーンに到着するまでは狭い艦内に逃げ場もなく毎日の様にラインハルトの相手をする事になると思うと暗鬱な気分である。

 

「勘弁してくれんかな」

 

 自室のベッドに潜り込みながらハンスは声に出して嘆いていると、ナイトテーブルに置いてある写真立てが視界に入る。ヘッダと姉弟の養子縁組をした時の記念写真である。

 ハンスはオーディンを出立する前のヘッダとの会話を思い出す。

 

「大本営が移転したら暫くは官舎で暮らすつもりだよ」

 

「官舎も無料じゃないでしょう。一緒に暮らせば家賃の節約になるわよ」

 

「それなんだがね。本当に女優としての活躍拠点をフェザーンに移すつもりなの?」

 

「そうよ。オーディンも門閥貴族が減って演劇を楽しむ人が少ないのよ。演劇なんかは本来は大衆娯楽だったのに長い間に貴族が楽しむ高尚な物になっているのよ」

 

「それで、フェザーンに?」

 

「そういう事よ。フェザーンでは大衆娯楽の一つになっているしハイネセンは経済破綻しているから娯楽に、お金は使わないでしょう?」

 

「まあ。演劇なんか生活に無くても困らんものだしね」

 

「それに、オーディンだと変な伝統意識があって、演目も限られてるから演者としてはフェザーンの方がやりがいが有るわ」

 

「なるほどね。しかし、暫くは忙しくなるから官舎で暮らすよ」

 

「分かったわ。でも、マンション選びは付き合ってね。二人の家なんだからね」

 

「その事なんだけど、実は来年の今頃には軍を辞めようと思っているんだ。来年には二十歳になるからね」

 

「はい。そこまでよ。そこから先は楽しみに待ってます!」

 

「うん。一応は軍を辞めてからにするね。軍に居ると色々と面倒だからね」

 

 軍を辞めるのはラインハルトには悪いと思うが地球教さえ始末すれば自分は不要な人間である。

 ヘッダと姉弟の養子縁組を解消して正式にヘッダと結婚するつもりである。

 ヘッダは不世出の女優である。ヘッダには女優として活躍して欲しい。自分は裏方としてヘッダを支えながら屋台でも引いた方が良い。

 誰かに使われるのも使うのも嫌なのだ。

 幸運にもハンスは年齢の割には高給を貰い屋台程度なら開店する資金もあり、市場調査も軍に居ても出来る。技術に関しては自信もある。

 別に屋台から始めてレストランをまでランクアップさせる気も無い。ヘッダとの時間の方が大事である。

 ラインハルトとヒルダと違いハンスは結婚に関しては堅実な道を歩んでいると本人は思っているが、後日、大きな勘違いであった事を思い知らされる事になる。

 

 

 



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芸術の秋、陰謀の秋

 

 フェザーンに到着してからは忙しいのは初日だけであった。

 意外な事にボルテックの手腕は素晴らしく到着した翌日には通常営業が出来ていた。

 

「卿らは楽だったかも知れんが、俺達はボルテックに扱かれたぞ」

 

 ぼやくのはミッターマイヤーである。ボルテックは陰謀を巡らすよりは計画を立て必要な人や物を揃える事に長けているらしく、ミッターマイヤー等の軍人の書類や計画書を読んでは不備を指摘して何度でも書き直させたりしたらしい。

 

「伊達にルビンスキーの下で働いていた訳では無い事を思い知らされたよ」

 

 この評判を聞きラインハルトが大本営を移動後はボルテックを臨時秘書官に任命してヒルダの代行をさせる事になった。

 

 ラインハルトとも三長官との会議の中でボルテックの手腕を褒める程であった。

 

「陛下が手放しで褒めるとは珍しいですな」

 

 オーベルシュタインも意外に思ったのか珍しく感想を口にした。

 

「ふむ。卿がフロイラインが不在の間、フェルナーを貸してくれぬのが原因だがな」

 

「当然ですな。フェルナーは得難い男です。あの者が居ないと軍務省としても困ります」

 

 オーベルシュタインの発言に他の三人も驚いた。

 

「卿でも部下を褒める事があるのだな」

 

 ロイエンタールの感想にオーベルシュタインも真面目に返答した。

 

「褒めるも何も事実を言ったまでだ」

 

 オーベルシュタインの意外な一面を見た三人であった。

 

 オーベルシュタインはロイエンタールやミッターマイヤーと比して派手な武勲に恵まれていないが軍政家として非凡な人である。

 彼とボルテックの働きとで大本営は一ミリの狂いもなく運営されており、フェザーン遷都は工部尚書シルヴァーベルヒが中心となり着実に大過なく進んでいる。

 この様にラインハルトの下には有能な人材が集まり業務を遂行されていくとラインハルトの負担も減り余暇が発生する事になる。

 余暇が発生して一人になるとラインハルトはヒルダの件を思い出すので部下の提督を伴い芸術観賞にと出掛ける様になる。

 

「余もだが、平和な時代に広い視野を持つには芸術も嗜む必要があるだろう」

 

 完全な言い訳である。随伴する提督達もだが皇帝と常に行動を共にする親衛隊と副官の両名は毎晩の如くラインハルトに付き合わされて迷惑な話であった。

 武骨な軍人には縁の無い美術館や古典バレエの観劇は拷問に近いのであった。

 

「しかし、陛下も存外に人が悪い。ビッテンフェルトに古典バレエとは」

 

 ルッツが他人事と笑い話のネタにしていたが自分が詩の朗読会に出席を命じられて頭を抱える事になる。

 

「本来ならメックリンガーが一手に引き受ける事だろう」

 

 ファーレンハイトは自分の当番が回って来ないうちにオーディンのメックリンガーと任務が交代が出来ないか真剣に考え込む。

 

「陛下の下にいるグリルパルツァーなら、この手の事は得意ではないのか?」

 

 ルッツが悪足掻きで他人の名前を出すが、元上司のレンネンカンプが否定する。

 

「グリルパルツァーとクナップシュタインは監視役の名目で毎晩、ボルテックに行政処理の修行をさせられている」

 

「それは気の毒だな」

 

 ボルテックに扱かれたミッターマイヤーが同情して、傍らにいるバイエルラインも大きく首肯く。

 

「しかし、本来なら陛下の遊び相手はハンスがいるでしょう」

 

 ミュラーの問いに答えたのはシュタインメッツである。

 

「あれは駄目だ。フェザーンに到着した途端にフェザーン中を飛び回っている」

 

 シュタインメッツの返答に疑問を持ったのはロイエンタールであった。

 

「ハンスの奴、何かを嗅ぎ取ったのか?」

 

 ロイエンタールの疑問には誰も答えられない。その場に居た全員がロイエンタールと同じ疑問を持っていたが情報部員のハンスの行動を知る者が居る筈もなかった。

 

 提督達が芸術の秋に困惑している頃、ハンスは地球教の残党を探し回っていた。

 山間部を中心に人が少ない場所を重点的に捜査していた。

 

「やはり、都市部にアジトがあるのではないですか?」

 

 フーバー少将の意見にハンスも賛成なのだが念の為に山間部等も捜査対象にしていた。

 

「都市部だと資金難の残党がアジトを作れないのではと思ったのだが」

 

「都市部の方が不特定多数の人間が出入りしても分かり難いものです」

 

「しかし、連中はサイオキシン麻薬が資金源だから都市部ではサイオキシン麻薬は作れんだろ」

 

「もし、本当に残党が居るなら優秀と言えますな」

 

 フーバー少将から優秀と呼ばれた地球教の残党の頭目であるデグスビイは、ハンス達が想像している程の余裕はなかったのである。

 地球教本部が無傷で帝国軍の手に渡り帝国や同盟にいたシンパが次々と逮捕されていたのである。

 社会秩序維持局のラングは世間的には評判の悪い人物であったが無能な人物ではなかった。

 帝国や同盟に隠していた行動資金は、全体の半分しか回収が出来なかった。

 回収に成功した資金も地球教本部の資金難の煽りを受けて僅かな金額であった。

 

「軍資金が無ければ無いなりの策を使うしか無いであろう」

 

「はい。例の準備は出来ています」

 

「宜しい。人は誰もが権力を握ると猜疑心が強くなるものだ。金髪の孺子も例外では無い」

 

「しかし、赤毛の孺子が本当に反乱を起こすのでしょうか?」

 

「必ず起こす。本人ではなく互いの部下を煽るだけで罅が入る。成功しても失敗しても帝国の支配力は大きく傾く」

 

「確かに」

 

「それに、赤毛の孺子は宿将中の宿将であり帝国の重鎮。赤毛の孺子さえ叛いたとなれば金髪の孺子の猜疑心も強くなる一方よ。臣下にして見れば赤毛の孺子でさえ粛清されたのだ。金髪の孺子に対する忠誠心が揺らぐ事だろうよ」

 

 デグスビイの策は別に珍しい策でもなかった。歴史上、敵の部下を煽り反乱を起こさせるのは劣勢勢力の常套手段でもある。

ラインハルト自身も同盟の不満分子を煽りクーデターを起こさせていた。

 

「金髪の孺子も、まさか、自分が弄した策を仕掛けられるとは思うまい」

 

 デグスビイはラインハルトとキルヒアイスを噛み合わせる為に布石を確実に置いて行くのであった。

 その為には帝国内部に駒を紛れ込ませる必要がある。

 

「金髪の孺子め。今に見ておれよ!」

 

 デグスビイが暗く陰湿な炎を燃やしている頃、ハンスは地球教捜査の潜伏先を探していた。

 地球教の残党の陰謀をカンニングで既に把握していたハンスも半信半疑であった。

 

(本来の歴史と違い地球教本部の首脳陣は逮捕されている。もしかして残党は居ないかもしれん)

 

 本来の歴史よりは残党の数も少なく宇宙の各所に隠された資金の半分は押収する事に成功している。

 押収が出来なかった資金も僅かな金額であり、資金を管理していた者が持ち逃げしたとしても不思議ではなかった。

 

(まあ。一応は軍務尚書とラング局長に相談してみるか)

 

 10月に入りヒルダが現場復帰をした。公式には体調不良による病欠と説明されて疑う者もいなかった。

 ヒルダの復帰によりボルテックは秘書官から内務省事務次官に栄転をした。

 この人事は帝国内部でも好評であった。それほど、ボルテックの仕事ぶりは周囲から評価されていたのだ。

 ラインハルトはヒルダに求婚の返事を求める事はしなかった。

 ハンスから返事を催促する様な事は厳しく禁止されていたからだ。

 

「陛下。ミューゼル上級大将が面会を求めています」

 

「うむ。時間の方は問題ないか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

 執務室に入ったハンスは二人の様子を見て、二人の仲に進展が無い事に気付いたが口にする事もなくラインハルトに地球教の残党について相談をしたのである。

 

「現時点では地球教の残党の組織が有るのか不明です。しかし、これを御覧下さい」

 

 ハンスが二枚の資料をラインハルトに提出する。

 

「一枚目が地球教本部で押収された時の資料ですが隠し資金の場所と金額です。二枚目は実際に押収に成功した隠し資金の場所と金額です」

 

「全体の半分の隠し資金は既に何者かに持ち出された後だな」

 

「はい。金額が些少なので管理していた者が持ち逃げした可能性も有りますが全体の半分となると個人の仕業ではなく組織的な犯行かもしれません」

 

「卿も迷っているのか」

 

「はい。そこで陛下に軍務尚書とラング局長を交えて会議を開いて欲しいのです」

 

「確かに、あの二人の知恵と経験が必要だな。しかし、ルビンスキーを抜きにするのか?」

 

「財務尚書がフェザーンに来るのは来年の筈では?」

 

「構わん。超光速通信で会議に参加させる」

 

「御意」 

 

 実はハンスはオーディンまでの超光速通信となると高額になるので遠慮していたのだ。

 

「そう言えばハンス。今晩は何か仕事が有るのか?」

 

「いえ、今晩は何も有りません」

 

「なら、卿には古典楽器の演奏会に余と共に出席せよ。勅命である」

 

「ぎ、御意」

 

(しまった!)

 

 ハンスは仕事があると言わなかった事を後悔したが、後の祭りであった。

 

 



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三人の陰謀家

 

 ハンスの要請で開かれた会議に出席者は頭を悩ます事になった。

 意外な事にルビンスキーも地球教の内部には精通してなかったのだ。

 

「この資金の隠し方と資金の紛失の仕方から典型的な組織的な犯行ですな」

 

 経済の専門家としてのルビンスキーの意見には説得力があった。

 

「私も財務尚書閣下の意見に賛成です」

 

 ルビンスキーに続きラングも組織的な犯行だと断定した。

 

「陛下。この両名は経済犯罪の専門家です。その両名が組織的犯行と断定するからには地球教の残党は存在すると臣は判断します」

 

 オーベルシュタインがルビンスキーとラングの判断を信用したのである。

 

「卿らの意見に余も賛成である。問題は地球教の残党の規模である」

 

「臣が地球教と誼を結んでいた頃も資金難でしたからな。僅かな金額の隠し資金を回収する程に困窮しているという事は残党の規模も少ないと思えます」

 

 ルビンスキーが片手で何かを計算している様である。

 

「簡単に計算して規模は百人程度になります」

 

 流石はルビンスキーと言える。地球教残党の隠し資金から人数を割り出した。

 

「しかし、これは資金源がサイオキシン麻薬だけと仮定した場合です。他に何かの資金源があった場合と官庁や一般企業に潜入した地球教徒の人数は除外するべきです」

 

「つまり、最低でも百人規模の地球教の残党が存在すると卿は言いたいのだな」

 

「御意」

 

「恐れながら陛下。地球教徒の資金源はサイオキシン麻薬だけとは限らないと思えます。地球教の資金の収支を調べるとサイオキシン麻薬以外の資金源があると思われます。恐らくは一般企業の不法行為の証拠を押さえて脅迫していたのかもしれません」

 

「では、一般企業にも地球教のシンパが存在すると卿は言うのか」

 

「御意」

 

「陛下。しかし、地球教本部が壊滅した後では本体が潰れては一般企業に潜入したシンパも孤立したままだと言えます」

 

 オーベルシュタインが地球教の残党の現状を分析してみせる。

 

「元帥閣下。現状は孤立していても残党がシンパと連絡や連携を取る可能性が将来的に有るのでしょうか?」

 

 会議が始まってハンスが初めて口を開いた。

 

「その可能性が無いとは言えまい。残党の頭目の器量次第だと言える」

 

 オーベルシュタインも正体不明の敵の実力を計れないでいる。

 

「つまりは残党共に時間を与えれば勢力が増すばかりか」

 

 ラインハルトの意見に全員が賛成をする。

 

「では、社会秩序維持局は逮捕した地球教の取り調べを司法省に任せて地球教残党の捜査に専念せよ。ハンスは地球教の次なる行動の予測を立てよ。軍務省は両名のバックアップに協力せよ」

 

 ラインハルトの断が下された。これより帝国政府と地球教残党の水面下の戦いが始まる事になる。

 

「陛下。地球教の行動は既に予想されています」

 

「ほう。流石だな。では、拝聴するか」

 

 ハンスはカンニングした知識を分析して地球教の次の陰謀を予測していた。

 

「御意。奴らが打つ手は陛下自身が過去に使った策で有ります。恐らくは流言を使いキルヒアイス大公に反乱を起こさせる事でしょう」

 

 それまで冷静沈着だったラインハルトの様子が一変する。

 

「ハンスは卿はキルヒアイスが余に叛くと言うのか!」

 

「まさか、陛下が信じる様にキルヒアイス元帥が叛く事は有りませんよ。しかし、臣下達に信じ込ませる事は可能ですし連中にしたら臣下を騙した時点で成功でしょうよ」

 

 ラインハルトの怒気を予想していたハンスは恐れる事なくラインハルトに進言する。

 

「歴史上、当人同士は何とも思っていなくとも部下同士が啀み合い戦争になった事は腐る程ありますよ」

 

 ラインハルトもハンスの軽い口調に逆に冷静さを取り戻した。

 

「では、連中は余とキルヒアイスを、どの様に噛み合わせるつもりか?」

 

 冷静になったとは言え、ラインハルトの言葉には怒りの微粒子が紛れている。

 

「そりゃ、来年になると思いますが噂が流れるでしょうね。キルヒアイス元帥が反乱を企んでいると」

 

 ラインハルトの表情が無表情になる。怒りを隠している証拠である。

 

「その噂を否定する為にキルヒアイス元帥は陛下にハイネセン行幸を要請するでしょう。陛下も要請に応じて行動で噂を否定してみせます。恐らくはフェザーンからハイネセンに行く道中で陛下の暗殺を行います。この暗殺は成功すれば良し、失敗しても両方の陣営に不信の種を植え付ける事になります。そうすれば連中が種に水や肥料を与えるだけで戦争になりますよ」

 

 ハンスは喋り疲れたのか目の前の水を一気に飲み干す。

 ラインハルトは先程の怒りを忘れてハンスの予測した未来像を分析する。

 

「陛下。ミューゼル上級大将の予測は恐らくは正鵠を射ていると臣は判断します」

 

 オーベルシュタインがハンスの意見を支持を表明するとルビンスキーも同様にハンスの意見を支持する。

 

「卿ら二人の意見が合うのなら間違いがないであろう」

 

 ラインハルトも稀代の陰謀家二人の意見を無視する訳にはいかない。

 

「では、具体的な対策は?」

 

 ラインハルトの問いに応えたのはハンスであった。

 

「基本は敵が仕掛ける前に先制攻撃を加える事ですが、敵が地下に潜っているので地道な捜査は当然として、陛下に囮になって頂くしか無いでしょう」

 

 ハンスが囮という言葉を使ったのは、ハンスの警告を無視してヤンとの直接対決をして無駄に犠牲者を出した事の皮肉であった。

 

「敵の暗殺部隊を叩き伏せてキルヒアイス元帥と堂々と友誼を見せつけてやれば宜しい。次に敵は陛下の暗殺を残った全戦力を出して企てるでしょう。これを叩けば地球教の復活は無いでしょう」

 

「軍務尚書と財務尚書の意見は?」

 

「ミューゼル上級大将の策しか無いと思われます」

 

「私も軍務尚書の意見と同じです」

 

 オーベルシュタインとルビンスキーの意見が一致したのでラインハルトはハンスの策を採用した。

 

「では、ラングは地味な仕事になるが敵の所在を探れ。判明したら監視をして奴らを一網打尽にする」

 

「御意」

 

「軍務尚書は軍務省内部の地球教シンパの調査を内密に行え判明しても監視するだけで良い」

 

「御意」

 

「では、本日の会議は閉会する。尚、ハンスは地球教撲滅の褒美として、今晩、余に同伴して卿の姉君の演劇を観賞に随行せよ」

 

「ぎ、御意」

 

(こいつは!)

 

 どさくさ紛れにハンスにサービス残業を言い渡すラインハルトであった。

 

 ラインハルトはハンスの要望で二階の特等席を用意した。

 

「自分の姉の芝居を観劇する姿を他人に見られたくないので陛下と二人きりになれる席を用意して下さい」

 

 ラインハルトにしたら、そんなものなのかと思いハンスの要望に応えたがラインハルトはハンスの性格を完全に把握していなかった。

 劇場に到着するとハンスは姉に挨拶をして来ると言って姿を消したのである。

 ラインハルトも一緒にと思ったがシュトライトを筆頭に開演前に陛下が行かれたら役者に余計なプレッシャーを与えると言われてラインハルトは先に特等席に入って開演を待っていた。

 

 開演五分前に特等席のドアが開いたのでハンスかなと思い振り向くと一人の美女がいた。

 

「遅くなって申し訳ありません」

 

 一瞬、誰かと判別がつかないラインハルトであったが謝罪する声でヒルダだと分かった。

 

「その、フロイラインは実に美しい」

 

「もう、陛下。冷やかさないで下さい」

 

 ヒルダは頬を朱に染めて抗議する。

 

「いや、冷やかしではない。本当に美しい」

 

 ラインハルトの言葉は社交辞令ではなく真実の声であった。

 今日のヒルダは淡い青色のドレスに控えめなイヤリングに艶があるが上品な化粧をしていた。

 

「使いに来たミューゼル上級大将が特等席で観劇するなら普段の格好だとマナー違反だと言って用意して下さったのです」

 

(ハンスの奴め!)

 

 ヒルダの言葉でラインハルトはハンスの陰謀だと看破したが後の祭りである。

 ヒルダをエスコートして席に座らせると開演のブザーが鳴り開幕した。

 

(ハンスめ覚えていろ!)

 

 そして、芝居が始まるとハンスへの怒りも消えて芝居に集中するラインハルトであった。

 ヒルダも最初は慣れぬ格好とラインハルトを意識していたが芝居が始まるとラインハルト同様に芝居に集中してしまった。

 芝居が佳境に入るとラインハルトとヒルダは互いの存在を忘れて芝居に夢中になっていた。

 感動のラストシーンが終わり閉幕した後にカーテンコールが始まり役者が一礼していく途中でヒルダが小さな悲鳴を上げた。

 

「何事だ。フロイライン?」

 

「陛下。舞台の上段の左から二番目の役者はミューゼル上級大将ですわ!」

 

「何!」

 

 ヒルダに言われてラインハルトが改めて注意して見ると確かにハンスが衛兵の姿で舞台に立っている。

 

「完全にハンスにして遣られた!」

 

「ミューゼル上級大将も悪戯好きですわね」

 

 この時、ラインハルトとヒルダは互いに意識していた緊張感をハンスの悪戯に驚かされた者同士の共感が消していた。

 

「奴には上級大将である自覚があるのか。困ったもんだ!」

 

 ラインハルトの言葉には怒りも無く呆れと笑いのカクテルであった。

 

「でも、ミューゼル上級大将らしいですわ」

 

 ヒルダの感想にラインハルトも笑ってしまう。

 二人が笑い合うのは数ヵ月ぶりの事である。ラインハルトは笑いながらハンスの悪戯の意味を悟っていた。

 ラインハルトは笑い終わると勇気を出してヒルダに向き直る。

 

「フロイライン。この数ヵ月、貴女が私に必要な女性であると思い知った。改めて余と結婚して頂けないだろうか?」

 

「はい。不束者ですが謹んでお受け致します」

 

 その場でラインハルトはヒルダの手を取り立たせると優しく抱き締めた。

 抱き合う二人を舞台衣装を着たままのハンスとシュトライト、リュッケ、キスリング、ドミニクの五人がモニター越しに見ていた。

 

「何でキスしないかね?」

 

「情けない」

 

「この場合は正解では?」

 

「結果オーライでは」

 

「そんな事はないわ。立派なプロポーズよ」

 

 ハンス、シュトライト、リュッケ、キスリング、ドミニクの順での感想である。

 

「劇場に招待されたと思ったらフロイラインのドレスアップにメイクをさせられたと思ったら覗きとは呆れるわ。この人達は本当に軍人なの?」

 

 ドミニクの疑問は当然すぎる疑問であった。

 

 



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結婚する前にすべき事

 

 ラインハルトは改めてヒルダにプロポーズした翌日にはマリーンドルフ伯に二人の結婚の許可を貰いにマリーンドルフ邸を訪れていた。

 通常の門閥貴族なら娘が皇妃になれば有頂天になるのだが、マリーンドルフ伯は通常の門閥貴族ではなかった。

 父親としてラインハルトに何か皮肉の一つも言いたいが相手が悪すぎる。

 更に娘の幸せそうな顔を見ると皮肉を言う気力もなく出た言葉は凡庸な父親以下の言葉であった。

 

「陛下。私の娘で後悔しませんな?」

 

(お父様。どういう意味ですか!)

 

 ヒルダもラインハルトの前なので色々と追及したいが我慢をする。

 

「後悔などしない。逆にフロイラインに後悔されない様にしたい!」

 

 真面目なラインハルトはマリーンドルフ伯の発言に、真面目に応えるのであった。

 ラインハルトがマリーンドルフ伯に挨拶をするという試練を乗り越えた後はヒルダがアンネローゼに挨拶をするという試練に挑まないとならない。

 アンネローゼには最初のプロポーズの時に既にヒルダは相談という形で報告と挨拶を済ませていたので幾分かは気楽であった。

 超光速通信での挨拶となるのは仕方がなかった。

 

「ヒルダさん。ラインハルトを好きになって下さって有り難う御座います」

 

「此方こそ、私の様な不束者と結婚して頂き望外ですわ」

 

「ラインハルトもヒルダさんを困らせない様にね」

 

「はい。姉上」

 

「それから、二人に大事な報告があります。ジーク」

 

 アンネローゼがキルヒアイスに呼び掛けるとカメラがズームアウトしてアンネローゼの胸像から全体像へとモニターに写し出されるのだが上半身が写し出された途端にラインハルトとヒルダは絶句した。

 

「今月で8ヶ月目になります。予定日は2月の終わりか3月の頭になります」

 

 アンネローゼの腹部には新しい生命が宿っていた。

 

「キルヒアイス。ちょっと、待って!」

 

「はい。陛下、何でしょうか?」

 

 モニター内にキルヒアイスが笑顔で現れる。

 

「二人は、今年の五月の結婚で計算が合わんではないか!」

 

 傍らに控えていたシュトライトが素早くラインハルトの耳元で何かを囁く。

 

「それは事実なのか?」

 

 ラインハルトが何かしらシュトライトに確認する。

 

「事実です。私も上の子供が出来た時は驚きました」

 

「帝国の保健体育には問題があるな!」

 

「私が若い頃から問題にはなっていました」

 

「分かった。明日にも学芸省に通達を出しておく」

 

 ラインハルトはシュトライトとの会話が終わるとモニターに向き直る。

 

「取り乱してしまった。失礼した。それなら、早く報告してくれたら良かったのに」

 

 アンネローゼが珍しく悪戯な笑顔を見せていた。

 

「此方にも事情が色々と有りましたから、事のついでに二人の婚約した時にと思いましたの」

 

「姉上!」

 

 ラインハルトが珍しく情けない声を出す。世の姉という生き物は弟という存在をからかう者である。アンネローゼも例外ではなかった。

 

「長年の間、色々と心配を掛けさせられましたから」

 

 アンネローゼに言われたら何も反論が出来なくなるラインハルトであった。

 

 翌日にはアンネローゼの懐妊が発表されハイネセンは新年に向けて祝賀ムードである。

 帝国なら不敬罪で逮捕される事だが、生まれてくる赤ん坊の性別を対象に賭けも行われている。大穴で双子が300倍の配当である。

 一方でフェザーンではラインハルトとヒルダの婚約は一部の者のみ知る秘密であり、発表は新年休暇が終わり開庁してからである。

 年末の忙しい時期に発表すると関係各省庁の負担が過大になる事を懸念しての措置である。

 

 そして、世間ではアンネローゼの懐妊を祝う中で、地球教もアンネローゼの懐妊を祝っていた。

 

「金髪の孺子の姉が出産すれば産まれた子供にも帝位継承権が発生する。赤毛の孺子が我が子の為に帝位を簒奪しても不思議ではない」

 

 デグスビイの理論は民間レベルでも珍しい事でも無い。

 アンネローゼにしても実弟より我が子の方が可愛いのは確かである。

 

「それに、赤毛の孺子の部下達も栄達も出来ぬまま異郷の星に暮らす事になる。同盟が完全併呑されたらハイネセンなどは帝国の片田舎になる」

 

 デグスビイは信徒を納得させる為に策略の成功要因を挙げなければならない。

 デグスビイも自身の説明を本気で信じている訳ではない。

 しかし、信徒に信じ込ませて希望を持たせないと糾合した組織も解体してしまう危険を孕んでいた。

 

「金髪の孺子は独身である。奴が死ねばローエングラム王朝などは泡沫の夢よ」

 

 デグスビイはラインハルトがヒルダという伴侶を得た事を知らないでいる。

 

「我らが決起する日の為に打てる布石は打つのだ」

 

 デグスビイは勢力拡大の為に地道な作業をしている。帝国政府関係者や軍関係者に一般企業とシンパを増やし決起する為の軍資金を集めるのに必死である。

 デグスビイが宗教家らしく清貧に耐え質素な生活を送っている事で信徒の人望を得ている。

 デグスビイが壊滅した地球教本部の幹部達の様に自分だけ贅沢な生活をしていたら組織は既に空中分解をしていただろう。

 

(さて、私の寿命が尽きるのが先か。決起するのが先か。面白いレースじゃて)

 

 デグスビイが潜伏生活をしながらも爪を研ぎ毒を塗り込んでいる頃、ハンスとラングも地球教の潜伏先を探していた。

 

「やはり、連中の資金源はサイオキシン麻薬では有りませんね。既に内定されている麻薬組織と市場に出回っているサイオキシン麻薬の量が完全に一致していますね」

 

 ラングが部下の報告書をハンスに渡すとハンスも確認してみる。

 

「連中がサイオキシン麻薬を諦めたとして何かの資金源がある筈なんだがね」

 

 逆行前の知識でも地球教の資金源はサイオキシン麻薬とされていた。

 地球教本部が自爆により詳細な資金源は永遠の謎となってしまった。

 最後の地球教幹部をユリアン・ミンツの手で射殺された事はハンスとしては残念な事である。

 

「不定期に入金された収入の資料は?」

 

「まだ、検証も途中ですが振り込み人が架空の人物ですがオーディンやフェザーンの銀行から振り込まれています」

 

「日時も金額も振り込み人の名前もバラバラだな」

 

「恐喝した相手もバラバラなんでしょうね」

 

「地球教本部から押収した資料には恐喝の相手やネタは無いのでしょうか?」

 

「全ての資料を調べていませんが、この手の犯罪は秘密厳守で情報の二度売りをしない事が鉄則ですからね」

 

「まあ。犯罪組織として律儀な事で」

 

 ハンスも呆れ半分に感心している。

 

「連中が一般企業から金を巻き上げてるなら司法当局の捜査も難航しますな」

 

 ラングの意見は正鵠を射ていた。被害者が名乗り出れないのなら犯罪も立証が出来る筈がないのである。

 

「しかし、それも地球教本部が健在で組織力があっての話ですからね」

 

「恐らくは連中も資金調達に苦労しているでしょう」

 

「資金に余裕が出来たら、爆弾テロでもやりかねんからな」

 

 ハンスの未来予測は可能性があるだけ質が悪い。

 

「閣下。恐ろしい事は言わんで下さい」

 

(爆弾テロは地球教ではなくルビンスキーだったかな?)

 

 捜査は進展が無いまま年を越す事になった。

 ヘッダが年末年始の公演の為に劇場に泊まり込んでいるのでハンスは新年休暇を官舎で一人で過ごしていた。

 

「暇だな」

 

 自分一人では料理をする気にもならない。以前は自分の為の料理も楽しんで出来たのだが、ヘッダとの暮らしで自分が変わった事に新鮮な驚きがあった。

 

「ふむ。人間が弱くなったのかな?」

 

 自問自答していると玄関のチャイムが鳴った。

 

「誰だろう?」

 

 モニターを見るとラインハルトが立っていた。

 

「なんで?」

 

 急なラインハルトの来訪を不思議に思い応対に出るとキスリングもシュトライトも居ないのである。

 

「もしかして、一人ですか?」

 

「一人に見えないなら、卿は眼科に行くべきだな」

 

 ラインハルトが時折、警備担当者の迷惑も考えずに一人で外出する事を知っているハンスでさえ内心は呆れている。

 

「取り敢えず、むさ苦しい所ですが中にどうぞ」

 

「すまぬな」

 

 部屋に通してインスタントの甘いコーヒーを出しながらラインハルトに来訪の理由を聞く。

 

「うむ。今日は卿に謝罪に来たのだ」

 

「謝罪とは何か有りましたか?」

 

 ハンスにしたらラインハルトに謝罪される事は最近は心当たりが無いのである。

 

「フロイラインの事は、卿に悪かったと思っている」

 

「えっ?」

 

「卿の気持ちを知っていて、フロイラインと結婚する事になった」

 

 ハンスが記憶の棚を探し回ると埃まみれの該当する案件が出てきた。

 

「思い出した。フロイラインが初めて宰相府に来た時に何か勘違いで説教されたけど、あれからも勘違いしたままかよ!」

 

「勘違い?」

 

「あの時も言いましたけど、ドルニエ侯の娘とは友人です。フロイラインにも恋愛感情を持っていませんよ。あの時から勘違いしたままですか?」

 

「そう、なのか。当時から俺はフロイラインに懸想していると思っていた」

 

「そんな勘違いをしていて、プロポーズの現場に人を連れて行くとか、あんた鬼か!」

 

 流石のラインハルトもハンスの抗議には自分の不利を自覚していた様である。

 

「フロイラインが受け入れるか振るかは分からんが卿の前で、はっきりとさせておくのが卿のためになると思ったのだ」

 

「そりゃ、有り難う御座います!」

 

(こいつは獅子帝と呼ばれるとは言え、人を千尋の谷に落とすとは)

 

 ハンスもラインハルトが人並みの恋愛感情が無いとは知っていたが想定外の恋愛オンチには驚くしか出来なかった。

 

 この時にラインハルトは肝心な事を忘れていた。実はヒルダにもハンスの事を勘違いして話していたのである。

 ヒルダもラインハルトよりは幾分かはマシであるが立派な恋愛オンチである。

 ハンスがキュンメル男爵の事で医師を探した事が勘違いを加速させていた。

 ハンスとラインハルトが官舎で騒いでいた頃、ヒルダが昼の公演が終わったヘッダに楽屋で謝罪してる事をハンスは知らない。

 

 



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ベビーブーム

 

 新年休暇開けにラインハルトとヒルダの婚約発表がされた。

 帝国中が二人の婚約を祝う中で帝国の司法関係者を悩ませる事になる。

 皇妃の立場の法的な扱いについてである。

 皇帝の配偶者とするのか。それとも皇帝共に帝国の統治者とするのか。ヒルダ個人なら後者でも問題が無いのだが将来的な事を視野に入れると、皇帝の皇妃の全てがヒルダの様に聡明な女性とは限らないからである。

 学者達が悩む以上に大変だったのは大本営である。

 結婚式場から披露宴に皇帝夫妻の新居等の手配に追われる事になる。

 特に問題になったのは新居の問題である。本来なら皇宮で暮らす事になるのだが新皇宮の「獅子の泉」は建設途上であり完成までの間、ラインハルトと一緒にホテル暮らしをさせるわけにもいかず、マリーンドルフ邸に皇帝を居候させる事も出来ない。

 関係者が頭を抱えていた時に朗報が入る。ミッターマイヤー夫妻がフェザーンに引っ越した時に不動産屋に最初に紹介された屋敷である。元はフェザーンの豪商の引退後の屋敷で豪商にしては質素な屋敷であったが庶民感覚の抜けないミッターマイヤーの好みに合わずに断った屋敷である。

 皇帝夫妻の住まいとしては質素であるがラインハルトの好みに合い大本営からも近く立地条件も良いので仮皇宮として買い上げた。

 買い上げた後にハンスが関係者に命令してテロの可能性を考慮しての防犯設備の工事をさせた。ついでに屋敷の玄関に彫られた柊の紋章も黄金獅子に取り替えさせた。

 

 マリーンドルフ伯は娘を嫁に出す感慨に浸る暇もなく国務尚書として式場と披露宴会場の視察から招待客のリスト作りに招待状の準備に新婚旅行先の選定と忙しいのである。

 ヒルダも婚約した後もラインハルトの秘書官として勤務している。

 ハンスに言わせたら「一般市民の若いのと変わらん。夢が無いなあ」である。

 現実問題として、フェザーン遷都の為に人手不足という問題もあった。

 

「まさかと思うが子供が出来るまで秘書官をさせる気ではないでしょうね」

 

「……まさか、そんな事は考えては無い」

 

 ハンスの問いに明確に否定したラインハルトであったが、返答に僅かな間が存在した。

 

(おいおい、大丈夫かよ)

 

 式場の予約や警備の問題で結婚式は六月に決定した。

 随分と間があると多くの人が思ったが一人娘を嫁に出すマリーンドルフ伯の心情を考えると口にする事はなかった。

 婚約発表で関係各省庁の準備が終わった二月に入り、ハンスが特別休暇をラインハルトに申請した。

 ラインハルトも渋い表情であったが何も言わずに申請書に許可のサインをする。

 新年休暇中に、ヒルダがラインハルトの勘違いを真に受けてヘッダに謝罪をした為にヘッダから色々と邪推をされて機嫌取りをせざる得なくなったのである。

 これに関してはヒルダからも謝罪されたのだが元凶はラインハルトなのでハンスもヒルダの謝罪の必要は認めなかった。

 ヒルダも謝罪の代わりに旅行先の情報を集めて休暇申請に口添えをしてくれた。

 

「まあ、私の不在に合わせて連中が軽挙する期待が出来ます」

 

 ラインハルトはハンスの意見に懐疑的であった。地球教がハンスの不在に合わせて軽挙する程にハンスを評価しているとは思えなかった。

 

 ラインハルトの見解は見事に正解であった。婚約発表を聞いたデグスビイは焦りの表情を隠せずにいた。ラインハルトとヒルダの婚約の前ではハンス等は路傍の石に過ぎなかった。

 

「金髪の孺子が結婚するだと!」

 

 ラインハルトが独身ならラインハルトさえ殺害すればローエングラム王朝などは砂上の楼閣になり銀河は再び戦乱の時代に突入して地球教が暗躍する機会を得る事が出来る。

 しかし、ラインハルトが結婚して子を得れば話は違ってくる。

 例えラインハルトを殺害しても子供を皇帝に担ぎ上げローエングラム王朝を継続する事が出来るのである。

 ラインハルトと違い皇宮の奥深い場所にいる幼児の暗殺などは不可能に近いのである。

 デグスビイはサイオキシン麻薬やアルコール中毒の後遺症とは別に胃の痛みに耐える事になる。

 

 デグスビイが胃の痛みに耐えていた頃にハンスはヘッダのご機嫌取りに苦労していた。

 旅行先ではヘッダが望むままに料理を作り挨拶代りに愛の言葉を囁き部屋の移動もハンスが抱き上げて移動をさせていた。

 流石にハンスから部屋の移動は老人介護みたいだと言われて自分の足で移動する様になった。

 

「陛下が結婚した後にハイネセンに出掛ける事になるから、その後にね」

 

「ハイネセンね。今年中に帰って来れるの?」

 

「多分、大丈夫だと思うよ。だから、今年の年末は仕事を入れないで欲しい」

 

「分かったわ。帰ったら会社に言っておくわ」

 

 役者馬鹿のヘッダもラインハルトとヒルダの婚約に刺激されたのか浮わついていた。

 

 二週間の旅行から帰って来ると大本営ではミッターマイヤーが事務局の女性事務員相手に色々と話を聞いて回っていた。

 旅行先の土産を手に事務局を訪れたハンスは稀有な光景に驚きながらも皮肉を言う。

 

「ミッターマイヤー元帥。御友人の真似をして不倫相手でも物色しているのですか?」

 

「馬鹿を言うな。家内が妊娠してな。色々とアドバイスをして貰っているのだ」

 

「それは、おめでとうございます!」

 

「ありがとう。両親もフェザーンに向かっているのだがな」

 

「そりゃ、親御さんが来てくれたら奥方も安心ですな」

 

「その間は俺が気を配らないとな」

 

 帝国元帥でもなく、単なる愛妻家となったミッターマイヤーは事務局の女性事務員のアドバイスをメモに取り終わると急いで事務局を出て行く。

 次はレンネンカンプに話を聞きに行く予定らしい。

 

「元帥とは言え。奥さん相手だと名将も形なしだね」

 

 ハンスも自分の将来を見ている様で笑うに笑え無い状態であった。

 その頃、オーディンではヤン・ウェンリーもフレデリカの懐妊にパニックになっていた。

 残念ながらヤンは妊婦について知識も無く。部下のシェーンコップも頼りならない状態で学芸省の女性事務員にメモを片手にアドバイスを受けていた。

 何故か、その傍らにカリンも真剣な表情でアドバイスを受けていた。

 

「この件については、うちの父親も頼りになりませんから」

 

 妊婦、出産には芸術と呼ばれる戦術も疾風と呼ばれる艦隊運用も驍勇と呼ばれた武勇も役に立たない様である。

 オーディンとフェザーンにハイネセンと名将達の妊娠ブームである。

 遠くから帝国の主要人物を監視させていたデグスビイも妊娠ブームに不安が隠せないでいる。

 まだ、婚約しかしてないヒルダも結婚直後に妊娠するのではと恐怖に駆られる。

 ヒルダの懐妊は地球教に取っては致命的である。

 デグスビイは資金不足ながら計画を実施する断を下した。

 フェザーンとオーディンを中心に噂を流し始めたのである。

 

「キルヒアイス元帥に叛意有り」

 

 最初はローエングラム体制とキルヒアイスに反感を抱く者達の間に流れ始めた。

 

「キルヒアイス元帥に叛意が有り、その証拠にオーディンに居た両親をハイネセンに呼び寄せた」

 

 キルヒアイスが両親をハイネセンに呼び寄せたのは事実だが母親に妊娠中のアンネローゼの世話をしてもらう為に呼び寄せたのである。アンネローゼにして見れば子供の頃に母親代わりに色々と相談に乗ってくれた旧知の人物であり安心が出来る存在である。父親も下級とは言え司法省の官吏であり信頼が出来る文官が一人でも欲しかった為である。

 しかし、噂とは真実と関係なく流れ、特に悪意が有る人間が悪意を持って流せば広まる物である。

 噂がラインハルトの耳に入るまで、僅かな時間しか必要としなかった。

 

「しかし、ハンスの言った通りの噂が流れるとは!」

 

 ラインハルトの口調には不快感が溢れていた。

 

「しかし、ミューゼル上級大将の予想では敵は準備不足のままの軽挙となります」

 

 オーベルシュタインがハンスが予測した地球教の裏事情まで言及する。

 

「敵の罠と知りながら罠に飛び込み噛み破れとは、思考がビッテンフェルトではないか」

 

 ハンスの対応策に不満があるが、それ以外の策が無いのも事実である。

 地球教の罠の悪辣なのは単純なだけに策に乗らなければキルヒアイスをラインハルトが警戒していると新しい噂を流される事である。

 

「まあ。良い。提案者のハンスも連れて行く」

 

 三月に入りアンネローゼが無事に女児を出産したのに合わせてラインハルトはアンネローゼの見舞いの為にハイネセンへの行幸が決定した。

 

「今回はフェザーンで留守を頼む。余が帰って来るまでお父上に親孝行をする様に」

 

「はい。陛下」

 

 ヒルダも今回は地球教を誘き出す旅だと理解している。自分が居れば足手まといになる事も自覚している。

 随行するのはハンスの他にも若いミュラーと射撃の名手のルッツである。テロに対しては完璧な人選と言える。

 

「陛下。どうか、ご無事で」

 

 一抹の不安を覚えたヒルダは自分が婚約した事により弱くなったのではと思う。

 

「余は地球教程度の敵に余を倒す許可を与えた覚えは無い。安心して待っていて欲しい」

 

 本人達には自覚が無いが周囲から見れば婚約者同士でイチャついている様にしか見えない。

 

「はあ。私も結婚したくなりました」

 

「卿は俺よりはマシだろ。俺はハイネセンに到着しても同じ目に合う事になる」

 

 ミュラーの愚痴にルッツが応じる。ルッツには既に結婚した妹がハイネセンに居るのである。

 地球教の残党を誘い出す為の旅であるが緊張感が皆無の一行であった。

 

 

 

 



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ウルヴァシー事件 前編

 

 ラインハルト一行がフェザーンを旅立つのと同時にブリュンヒルトの索敵システムの範囲外ギリギリのラインに帝国巡航艦六隻の部隊がブリュンヒルトを追尾している。

 これは、オーベルシュタインとハンスが話し合い、ラインハルトに内緒での隠密警護部隊である。

 部隊の存在を知っているのはオーベルシュタインとハンスに副官のシュトライトとブリュンヒルト艦長のザイドリッツ准将だけである。

 後方の索敵システムと前方の索敵システムの範囲の差を利用した策であったが、後に六隻にした事をハンスは悔やむ事になる。

 ラインハルト一行が惑星ハイネセンに向かう途中で大親征の戦没者の慰霊碑に礼拝する為に惑星ウルヴァシーに立ち寄ったのは、予め予定されていた事であった。

 惑星ウルヴァシーに到着したのは正午過ぎであり、慰霊碑に礼拝をすませて、迎賓館に到着したのは18時過ぎであった。

 基地司令官と基地幹部達を交えての晩餐会の後にラインハルトはルッツとミュラー

を交えて自室で打ち合わせをしていた。

 

「仕掛けて来るなら、この星であろうと思うが、卿達の意見を聞きたい」

 

「小官も陛下と同じ考えであります。これ以降はハイネセンに近過ぎて連中も動けないでしょう」

 

 ルッツがラインハルトの質問に応える。

 

「小官もルッツ提督と同じ考えであります。問題は基地の何割が敵となるかです」

 

 ミュラーもルッツの意見を支持をする。ラインハルトは二人の意見に満足しながらも既に敵の具体的な攻撃手段の予測に思考を移していた。

 

「陛下!」

 

 ラインハルトが考えを纏める前にリュッケが慌て気味に部屋に入って来た。

 

「リュッケ、何事か?」

 

「基地の内外で兵に不穏な動きがあります。司令部に確認の連絡を試みましたが連絡が取れません。シュトライト閣下とミューゼル閣下の姿も見えません」

 

「では、陛下。一旦、ブリュンヒルトに戻るべきと思われます」

 

 ルッツの意見にラインハルトも立ち上がる。

 部屋の外ではキスリングが既に待機していた。

 

「キスリング。状況は?」

 

「今の所、何も分かりません」

 

「危険である事だけが分かっているのだな」

 

「御意」

 

 ラインハルト一行が三台の地上車に分乗して迎賓館を脱出したのは22時の事である。

 迎賓館を脱出して10分後には一個連隊程の追手が現れた。

 

「銀河帝国の皇帝と上級大将二名を殺害するのに一個連隊とは安く見られましたな」

 

 地上車を追跡する為か装甲車が存在しない事は救いであった。

 

「陛下。御安心下さい」

 

 キスリングの声にラインハルトが振り返り前を見ると運転手をしていたキスリングが珍しく微笑みを浮かべていた。

 

「こんな事もあろうかと用意してました」

 

 後方で爆発音が聞こえてきた。

 

「後続車のトランクには小型ロケット弾を1ダース積んでいます」

 

 ラインハルトと二名の上級大将と次席副官は唖然とするしかない。

 

「そ、それはハンスの考えか?」

 

 ラインハルトの予想は当たっていた。キスリングの肯定の返事に頭を抱えるラインハルトであった。

 

「新年休暇の時に奴の官舎でスパイ映画のソフトがあったからな」

 

 この言葉に驚いたのはキスリングであった。

 

「陛下は一人でミューゼル上級大将の官舎まで行かれたのですか?」

 

「す、すんだ事だ」

 

 キスリングは、それ以上は何も言わなかった。正解には何かを言う余裕も無かったのである。前方に装甲車を中央に三台の地上車で道路を封鎖していたのである。

 ラインハルト達の地上車が急停止をするが、突如、装甲車が爆発をした。

 

「前の車にもロケット弾を積んでいます」

 

 装甲車と三台の地上車は吹き飛び残った残った兵士達には機関銃が掃射される。

 炎と機関銃の掃射で兵士達を掃討されると次は消火弾が打ち込まれ炎が鎮火する。

 

「こ、これもハンスか?」

 

「いえ、ロケット弾だけの筈でした!」

 

 キスリングも予想外の展開に呆然としてると地上車の外から窓をノックする者がいた。

 ミュラーが窓を開けるとハンスと電動バイクの小隊がいた。

 

「陛下。お迎えに上がりました。ブリュンヒルトは宇宙港で襲撃されました。只今、人造湖に向かっています」

 

「シュトライト達は?」

 

「副官達も既に人造湖にて陛下をお待ちしています」

 

「分かった。キスリング!」

 

「御意!」

 

 キスリングは部下に命じて地上車を人造湖に向かわせた。

 

「しかし、ハンスの奴め。抜け目の無い奴め」

 

 ラインハルト一行はハンスが率いる電動バイクの小隊に護衛されて人造湖まで無事にたどり着いた。

 

「ここからは地上車を降りて徒歩になります」

 

 人造湖を囲む森の入り口で地上車と電動バイクを捨て徒歩で人造湖を目指す。

 

「敵が先回りしている可能性がある。先行しろ!」

 

 電動バイクに乗っていた小隊が先行して偵察に出る。親衛隊はラインハルトを囲みながら前に進む。

 

「ハンス。あの一団は?」

 

「はい。人造湖を作った時に淡水魚の養殖計画も始めました。その時に人造湖の近くに研究所を作り、彼らは、そこのスタッフです」

 

「卿は、あの時から用意していたのか?」

 

 ラインハルトは驚きハンスに問う。

 

「いえ。今年に入り休暇を頂いた時に本来のスタッフの交代要員として潜入させました」

 

 ハンスが説明を終わるのと同時に前方から銃撃戦の音が鳴り響いた。

 

「連中も早い。先回りをしていたのか!」

 

 五分程で銃撃戦の音が止み。前方からシュトライトが小隊に伴われて現れた。

 

「陛下。よく御無事で!」

 

「卿も無事で良かった」

 

 主従が再会して互いの無事を喜んでいると後方から爆発音が聞こえてきた。

 ラインハルトが思わず爆発音がした方向に意識が向いた瞬間にハンスがラインハルトを隠し持った注射器で眠らせた。

 その場でラインハルトが崩れ落ちる。

 

「ハンス、血迷ったか!」

 

 ルッツがハンスを問い詰め様とした時にキスリングもルッツを隠し持った注射器で眠らせる。

 シュトライトは驚いた顔してミュラーが居る方に逃げる。

 ミュラーはブラスターを抜きシュトライトを庇う様にしてハンスとキスリングの前に立ったが、ミュラーも崩れ落ちた。

 倒れたミュラーの後に居たシュトライトの手には注射器が握られていた。

 

「貴方まで!」

 

 リュッケがブラスターを抜くが、誰にブラスターを向けるべきか迷う。

 

「リュッケ、落ち着け」

 

 ハンスがリュッケに声を掛けたが、リュッケにしたら落ち着ける筈も無くブラスターをハンスに向ける。

 

「さっきの爆発音は地上車に仕掛けた爆弾だ。敵が来たらブザーの役目をする」

 

 ハンスがリュッケの相手をしてる間に親衛隊が三人を自身の背中に括り付けて進みだす。

 

「ここで誰かが敵を食い止める役目をする事になるが、陛下も残ると言い出しかねんからな。眠ってもらうのが一番だよ」

 

 リュッケもハンスの説明を理解した。

 

「分かりました。私が残ります」

 

「卿は陛下の副官だろ。陛下の側に居なければなるまい」

 

「分かりました」

 

「宜しい。卿と親衛隊は最後まで陛下に随行せよ。研究所に潜り込んでいた部隊は親衛隊を守りながらブリュンヒルトまで行け!」

 

 ハンスの説得に納得したリュッケに色々とシュトライトが指示を与えてる。

 そのシュトライトもリュッケに指示を与えてる途中で崩れ落ちた。

 倒れたシュトライトの背後には注射器を手にしたハンスがいた。

 

「アホかい。自分の歳を考えろよ。年寄りの冷や水だよ」

 

 シュトライトの言葉に自身が殿を務めて、この場に残る事をシュトライトが決意した事を直感したハンスであった。

 シュトライトをリュッケに運ばせると自身が残る準備を始める。

 

「では、閣下。後は頼みます」

 

「陛下には宜しく。では、ハイネセンで再会しょう」

 

 キスリングが一行を率いてブリュンヒルトに向かうのを確認するとハンスは背中から火薬式の散弾銃を取り出した。

 

 背後から火薬式銃の銃声を耳にしたキスリングはハンスの無事と敵の存在を知るとブリュンヒルトへと急ぐのであった。

 

「隊長!」

 

 部下の一人が腰のブラスターを握りしめながらキスリングを呼ぶ。

 

「気持ちは分かるが、閣下には閣下の計算がある。閣下を信じろ!」

 

 無口なキスリングにしては多弁である。キスリング自身も残留したい気持ちを抑えているのだ。

 銃声の音が変わる。散弾銃から大型拳銃へと変わったのであろう。

 銃声がハンスの健在を一行に教えてくれていた。

 途中でブリュンヒルトから迎えの部隊と合流した時は部下を率いてハンスの援軍に走りたい気持ちを抑えてブリュンヒルトに乗り込んだ。

 衛星軌道上には既に敵戦艦が待ち受けていたが、ブリュンヒルトを追尾していた護衛部隊の奇襲を受けて僅かな時間だが脱出する隙を作り虎口から逃れた。。

 衛星軌道上まで脱出したブリュンヒルトはハイネセンを目指して全速力で惑星ウルヴァシーから離れるのであった。

 

 そして、ブリュンヒルトが惑星ウルヴァシーから脱出した頃、ハンスは用意していた武器や銃弾も底をつき敵兵のブラスターを手に必死の逃亡劇を演じていた。

 ハンスが想定していた規模を凌駕する反乱軍に焦りながらも敵の追撃を受けながら森を縦横無尽に逃げ回っていた。

 ハンスは最初から自身が残留する事も想定していて対策も準備をしていたが、敵の規模の大きさを過小評価していた為に敵を振り切れないでいた。

 惑星ウルヴァシーでのハンスと反乱軍との追い掛けごっこは夜を撤して行われるのであった。

 

 



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ウルヴァシー事件 後編

 

 ブリュンヒルトの艦内で目覚めたラインハルトは自分の状況を把握するとハンスの考えを瞬時に理解した。

 皇帝に対して薬物を使用した事を謝罪するキスリングには謝罪の必要無しと器量の大きさを見せた。

 ラインハルトにしてみれば、基地全体が反乱軍となる状況が読めずにいた事を悔やんでいた。

 

「陛下。陛下だけの責任では有りません。我らも敵の襲撃を予測しながら敵の規模を見誤ったのです。どうか、御自身を責める事の無き様に」

 

 ルッツの言葉にラインハルトは納得したがハンスを心配する気持ちは変わらないでいた。

 

 惑星ウルヴァシーを脱出して三日目に衝撃的な情報を傍受する。

 ミューゼル上級大将自爆の報をである。詳細は分からないがハンスが自爆したという複数の情報を傍受したのである。

 ラインハルトは報告を受けた日は私室から一歩も外に出ず誰とも会わなかった。私室に入る前にハンスの元帥昇進をシュトライトに指示した。

 更に翌日には出迎えに来ていたビューロー大将の部隊と合流する。

 

「卿に罪は無い。卿は至急、惑星ウルヴァシーに赴き、現地の秩序を回復して事情を明らかにせよ」

 

 謝罪から始まったビューローの挨拶にもラインハルトは不用と言って新たな命令を出す。

 ラインハルトとしても他に命令の出し様がなかった。

 命令を受けたビューローが惑星ウルヴァシーに上空に到着したのは三日後の事である。

 ビューローが部下からの報告に困惑する事になる。

 

「提督。地上では帝国軍同士が戦っています」

 

「どちらかが味方で敵なのか分からんのか?」

 

「それが、通信を傍受しているのですが互いに敵を反乱軍と呼んでいます」

 

「取り敢えず地上に降下するぞ!」

 

 ビューローが降下して戦闘の中止を呼び掛けると両軍共に即座に呼び掛けに応じた。

 この時点で既に双方の陣営から千人近い犠牲者を出していた。

 末端の兵士は武装解除した後に官舎にて謹慎させた。事情は生き残りの幹部から聞き取り調査をする事にしたのだが困惑が深まるばかりであった。

 

「ルッツ、ミュラーの両提督が地球教に洗脳され、皇帝陛下に害を加え様としたので我々は陛下を御守り奉る為に出動したのです」

 

 生き残った幹部達は個人名は変わるが内容は同じ事を主張したのである。

 司令官と副司令官に参事官の基地幹部三役は官舎にて遺体となって発見された。

 

「三役を解剖した結果、胃の中の内容物から三人共に陛下との晩餐会直後に殺害されています」

 

「では、誰がデマを流して兵士を先導したのか?」

 

 調査を進めると中堅幹部達の半分が行方不明になっていた。

 行方不明と言っても戦闘中の戦死で死体が発見されないのではない。皇帝一行がウルヴァシーを脱出した後に生存が確認されていたが同士討ちが始まる直前に姿が消えたのである。この事が同士討ちの一因となっている。

 更に調査を進めると戦死者の中で地球教の教典等は身に付けた者も多く発見されたのである。その大半が人造湖でハンス達に返り討ちされた者達であった。

 そして、ビューローは個人的な理由でハンスの爆死の状況も調査した。

 ビューローとハンスはリップシュタット戦役の時にキルヒアイスの麾下で従軍した旧知の間柄であった。

 

「せめて、遺品の一つでも姉君に届けてやりたい」

 

 ビューローの本音である。自分より遥かに若いハンスの死を残念に思っていた。

 ハンスを追撃して最期を目撃した兵士に直接に話を聞く事が出来た。

 

「我々はミューゼル閣下がルッツ、ミュラー両提督と一緒に皇帝陛下を誘拐したと聞き出動しました。私達が現場に到着した時は、既に皇帝陛下はブリュンヒルトでウルヴァシーを脱出した後でした」

 

 若い兵士も訳が分からないと言った状況だった様である。

 

「私達は抵抗を続けるミューゼル上級大将との戦闘になりましたが、既にミューゼル上級大将は先行した部隊と戦いながら逃亡中でした。自分達は仲間の死体を目印にミューゼル上級大将を追跡しました。そして、人造湖で魚の養殖の研究をしていた建物にミューゼル上級大将を追い詰めました」

 

「其処でミューゼル上級大将は自爆されたのか?」

 

「はい。その時にはミューゼル上級大将は弾薬が尽きた事は分かっていたので、犠牲を出した先行の部隊が突入したと同時に建物が爆発して先行した部隊もろともに自決なさいました」

 

「そうか。ご苦労。卿は官舎に帰り謹慎している様に。陛下には卿らに罪が無い事を報告して寛大なる御裁可を賜る様に努力する」

 

「あ、有り難う御座います」

 

 ビューローはハンスが自爆した研究所跡地に花束を持って赴く事にした。

 

(ハンスよ。卿は私より若いのに姉君を残して先に逝くとは)

 

「提督。この事も陛下に報告するので?」

 

 副官が心配そうにビューローの顔色を伺ってくる。副官もリップシュタット戦役の時にハンスと共にキルヒアイスの下で戦った旧知の仲なので他人事では無いのであろう。

 

「仕方がない。陛下には私の口から直接に御報告する」

 

 ビューローと副官は無駄と承知しながらも瓦礫の山と化した研究所跡地でハンスの遺品を探して回った。

 

「せめて、階級章でも有れば遺族に届ける事が出来るのだがな」

 

 ビューローが探していると副官が手招きをする。

 

「何か見つけたか?」

 

「いえ。それより、静かにして耳を澄まして下さい」

 

 突然の副官の指示にビューローも訳が分からずに従うと石同士を小さく叩き合わせた様な音が聞こえてきた。

 

「これは!」

 

「モールス信号です。それもSOSと打っています」

 

「誰か瓦礫の下にいるのか?」

 

「至急、人手を集めて救助を行います」

 

 三時間後、瓦礫を撤去すると床にマンホールサイズの金属製の扉を発見した。

 

「この扉から音がしてます!」

 

 救助隊が扉を開くと中から痩せこけて憔悴したハンスが出て来た。

 

「必ずビューロー大将かベルゲングリューン大将が来てくれると信じていたよ」

 

 ハンスの無事な姿を見た瞬間に歓声が沸き起こる。

 

「軍医と担架を持って来い!」

 

 副官が傍らで指示を出している時にビューローはハンスを抱き締め様としたが、弾かれた様にハンスから身を遠ざけた。

 

「く、臭い!」

 

「仕方がないだろう。火事場で追っかけこした後に風呂も入らずに地下の倉庫に籠城していたんだから!」

 

 憔悴しながらも反論する元気はあるようで周囲から笑い声が漏れる。不謹慎ながらもビューローも笑い出し釣られてハンスも笑い出だした。

 ウルヴァシー事件が発生してから二週間後の事である。

 ミューゼル上級大将生還の報は直ぐ様、ブリュンヒルトに届けられたのである。

 

「そうか。ハンスの奴も悪運の強い」

 

 ハンスの生還の報告を受けてラインハルトが最初に出したのは平凡な一言であったがラインハルトの表情は喜びに溢れていた。

 

「ハンスにはハイネセンに到着と共に元帥研修をしっかりと受けて立派な元帥になってもらわんとな」

 

 ラインハルトとの声も表情も意地の悪いものになっている。

 

「臣も陛下の意見に全面的に賛成です」

 

 ルッツがラインハルトの意見に応じる横でミュラーが頭を抱えたい衝動を必死に抑えていた。

 

(陛下もルッツ提督も大人気ない)

 

 以前はキルヒアイスが担当していた役目をミュラーが引き継ぐ様である。

 

 翌日、ラインハルトはウルヴァシーからの定時連絡を受ける為に艦橋で呆れる事になる。モニターの中でハンスが手錠されていたのである。

 

「ビューロー。ハンスは何をやらかしたのだ?」

 

「はい。昨日から胃が弱っているのでミルク粥だけの食事を軍医から指示されてましたが、本日、朝食の後に迎賓館の食堂の厨房から食料を強奪して先ほど、やっと取り押さえました」

 

 ビューローの声には疲労の色が濃い。

 

「しかし、体調の方は大丈夫なのか?」

 

「軍医殿が学会に発表したいと言ってました」

 

 どうやら大丈夫の様である。ハンスの食欲については理解していた筈のラインハルトであったが自分の認識が甘かった様である。

 

「明日も騒動を起こされると面倒だ。食事は好きな様にしてやれ」

 

 ラインハルトの妥協とも言える言葉にビューローも納得する。

 更に言えば、背中に食料を背負いながら追手を振り切り基地の屋上で強奪した食料を食べ尽くして満足したハンスを捕獲したのだが、ハムやソーセージにベーコン。果物やレタス等の生で食せる野菜など尋常でない量を食べ尽くした事も驚きだが自分の自慢の部下を振り切った事も驚愕する。

 

(そりゃ、武器を持たせたら烏合の衆の反乱軍では捕獲するのは無理だな。才能の浪費だな)

 

 絶食状態のハンスが翌日に大量の食事をした事にリフィーディング症候群を心配した軍医に病室に軟禁されてしまった。

 それと平行して元帥研修を受ける羽目になった。

 

「俺、何か悪い事をしたかな?」

 

「はい。悪い事しました。自覚して下さい!」

 

 教官から冷たく返答が堪えたらしく大人しく研修を受けるハンスであった。

 結局、ハンスがハイネセンの地を踏む事はなく、行幸を済ませたラインハルトが帰路につくまで惑星ウルヴァシーで研修という名目で軟禁される事になる。

 

 そして、ハンスが惑星ウルヴァシーで軟禁された頃、フェザーンの地では計画の失敗の報を聞き、デグスビイが心労の為に吐血して病院に担ぎ込まれる事態となっていた。

 今回の計画の為に残り少ない活動資金と人員を割き、ラインハルトの暗殺、もしくはキルヒアイスとの離反を目論んだが両方とも失敗してしまった。

 苦労して帝国軍内に作ったシンパも失い信徒からの信頼と人望を失ったのである。

 デグスビイが心労の為に倒れたの無理からぬ事であった。

 

 

 



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リュッケのハイネセン観光

 

 ミューゼル閣下生還の報告を受けて以来、陛下は大変に機嫌が良い。

 ミューゼル閣下が上級大将から元帥に昇進した恩恵でルッツ提督以下、ウルヴァシーから脱出した全員が勲章を授与される事になった。

 ミューゼル閣下みたいに勲章など食べれないと言う人もいるが、正直、私は嬉しいのである。軍人となったからには勲章は武人としての誉れである。

 更に私だけ特別に昇進である。他の方々が勲章だけなのに私だけ昇進するのは心苦しかったが陛下の言葉を聞いて納得する事にした。

 

「卿と余だけが仲間外れにされたのだから昇進も当然である」

 

 陛下に曰く、隠密の護衛艦隊の事も知らされず陛下と両提督を眠らせる計画からも排除され、ルッツ、ミュラーの両提督とシュトライト閣下は陛下に続き眠らされて私だけが不覚を取らなかったのだから当然であると言う。

 

「それに、卿が基地の不穏な動きを最初に察知した功もある」

 

 ここまで陛下に言われて固辞する事も出来ずに有り難く昇進させて頂いた。

 

「それから、ハイネセンに着いたら特別に休暇を与える。日頃、口煩い年寄りの相手をして気苦労も多いだろう」

 

 これは、完全にシュトライト閣下に対する皮肉なのだろう。ミュラー提督が吹き出しそうになっていた。

 その様な事情で私はハイネセンにて思わぬ余暇を手にしたのである。

 

「さて、ハイネセンで休暇と言われてもハイネセンの墓所や記念館は前回のバーラトの和約の時に陛下と共に見学したからな」

 

 私は観光の基本であるガイドブックを購入して一日だけの観光を楽しむ事にした。

 

「ふむ。ハイネセンは海産物が名物なのか」

 

 ガイドブックを読んで私は納得した。ミューゼル閣下は肉料理も好きだが魚料理も好きでオーディンやフェザーンは海産物が少ないと言っていた理由に得心した。

 

「まあ。これだけ、海産物が売りの店が有れば当然か」

 

 海産物が売りの店の数ならオーディンやフェザーンの店を足した数より多いだろう。

 私はガイドブックに書かれてる初心者向きと書かれた店に行く事に決めた。

 昼食にしては少々、値が張るが観光に来たと思えば値段も手頃で距離も歩いて行ける距離である。

 目的の店に到着したが、私は驚いてしまった。店の入り口には水族館の様に巨大な水槽が置かれておりイカが泳いでいる。

 

「ここはレストランだよな」

 

 思わずガイドブックを取り出して確認してしまった。

 

「あら、何処か店をお探しですか?」

 

 店の前でガイドブックを開いていたので店員から勘違いされた様である。私は正直に話した。

 

「いや、立派な水槽があるので本当にレストランかなと思い確認しただけですよ」

 

「帝国から来られた方は皆さん驚かれますよ」

 

「そうでしょう。私は帝国のオーディンの出身ですが、この様な巨大な水槽があるレストランは初めてです」

 

 声を掛けた店員は若い女性の店員で嫌味な部分が無く好感が持てた。

 決して若く美しいフロイラインだからではなく接客態度に好感を持ったのだ。

 店員に案内されて驚いたのは店内にも巨大な水槽があり、水槽の中にはサザエやアワビが水槽の壁面に張り付き底にはカニが鎮座している。

 

「レストランというよりは水族館みたいだ」

 

「水槽を目当ての小さなお子様を連れたお客様も多いんですよ」

 

「さもあらん。小さい子供だけじゃなくとも楽しめる」

 

 オーディンでは観賞用にカラフルな魚が泳ぐ水槽を設置している店は少なくないが食材が入っている水槽を設置しているレストランは皆無だろう。

 

「此方がメニューになります」

 

「初めてなので良く分からない。お薦めは?」

 

「初めての方なら、此方のアラカルトコースがお薦めです。色々な味が楽しめますので御自分の好みの味を発見する事が出来ます」

 

「では、そのアラカルトコースで」

 

 店員がお薦めするだけのコースである。実に美味であった。

 魚の骨から作ったスープに海藻のサラダ。生魚の切り身のマリネ。魚の塩焼きに塩漬けのサーモン。魚の身で作ったパスタ。

 オーディンやフェザーンでは味わえない料理であった。

 

「確かにミューゼル閣下が好きだと言うのも理解が出来る。特に生の魚が、これほど美味しいとは知らなかった」

 

 帝国には魚の生食の食文化は少ないが同盟ではポピュラーな食文化らしい。 

 栄養的にも優れていて若い女性からも人気があるらしい。

 

「帝国も同盟も若い女性が健康に気を使うのは同じか」

 

 食事を済ませた後に水族館に行く事にした。

 魚料理を食した後に水族館に行くとは我ながら単純である。

 そして、驚いた事に水族館では入館料を必要だと言うのだ。

 

「オーディンやフェザーンでは美術館や博物館等は無料なのに」

 

 入館料とは別にオーディオガイドもレンタルされていたので五ディナールを払いレンタルする。嫌がらせなのか親切なのか分からないがイヤホンは別料金で二ディナールである。

 

「お客様。この次は来館されるなら、ご自分でイヤホンを用意される事をお薦めしますよ」

 

 どうやら、顔に出ていたらしい。係員の話では恋人同士で持参したステレオイヤホンを使って見学する者達もいるとの事。

 

「私には当分は縁が無い事だし、第一にそんな破廉恥な真似が出来るか!」

 

 声に出したら切なくなってきた。注意して見れば係員が言った通りで恋人同士なのであろう。男女ペアでステレオイヤホンを使っている者達も少なく無い。

 

「ふん。あんな連中からはイヤホンの持ち込み料金を取れば良いのだ!」

 

 別に私は妬んでる訳では無い。風紀を問題としているのだ。

 

「まあ、良い。人は人。自分は自分だ!」

 

 私はオーディオガイドに従い水族館を見て回る事にする。

 なるほど、価格設定が高いだけあってガイド自体は素晴らしい。

 

「しかし、魚の生態だけではなく、料理法までガイドするのは如何なものだろうか?」

 

 それでも、折角のガイドなのだからメモも取る事は忘れない様にする。

 

「ふむ。料理法もガイドされると目の前の魚も見方が変わって来るのが不思議だ」

 

 夢中になってメモを取りながら水族館を見て回っていると気が付けば既に閉館時間になっている。

 

「また、機会が有れば来よう」

 

 水族館の外に出ると日は既に落ちていたが水族館の前の広場では屋台が出ていた。

 呆れた事にオーディオガイドが説明していた料理法で料理した魚が売っているではないか。

 

「これが目当てで料理法のガイドもしていたのか!」

 

 口惜しいが見事な戦略である。魚の焼ける匂いが食欲を刺激する。

 

「その魚の串焼きを二本とビールを」

 

「串焼きは腸有りと無しが有りますが、どちらにしますか?」

 

「ほう。腸有りと無しがあるのか!」

 

 私が驚くと屋台の店主は親切に教えてくれた。

 

「お客さんは帝国の人だね。魚の腸は苦味があるんですけどね。栄養価も高いんですよ。だから、腸有りの魚も売っているんですよ」

 

「そうなのか。では、それぞれ一本ずつ貰おう」

 

 店主に言わせると魚の腸の苦味も慣れると癖になるらしい。

 

「この苦味とビールが合うんですよ」

 

「そいつは楽しみだ」

 

 店主の言う通りに先に腸無しの串を食べたが十分に美味であった。

 腸有りの串は口の中に苦味が広がり思わずビールを口にしたらビールの苦味が腸の苦味を消しさりビールが進むのである。

 

「これは危険だな。ビールを飲み過ぎてしまう」

 

 何故かケンプ提督とレンネンカンプ提督の姿が頭に浮かんだが深く考え無い様にした。

 魚の串焼き以外にも魚の身をペースト状にした物を揚げた物や焼いた物もあったが、どれも美味であった。

 

「ふむ。これでカロリーが少ないとは同盟人が好んで食べる筈だ」

 

 何故か再び、ケンプ提督とレンネンカンプ提督の姿が頭に浮かんだが、やはり深く考え無い様にした。

 屋台を食べ歩き一周すると、流石に満腹になり寄宿舎までの道のりを歩いて帰る事にする。

 

「昼は魚料理に夜は屋台巡りとは」

 

 思わず苦笑してしまった。同年代の人間なら他に年齢相応の休日を過ごしたであろう。

 

「まあ。人は人。自分は自分だ」

 

 恋人も居らずに些か寂しい生活かもしれない。役目柄、同年代は陛下のみであり、周囲は将官や自分よりも年上ばかりである。

 ミューゼル閣下が何かと私の事を気に掛けてくれる理由が分かった気がした。

 同時に陛下がミューゼル閣下を特別扱いする気も理解が出来る。

 

「それを考えると陛下のお側近くに仕えて色々と気に掛けて頂けるとは、私は果報者なのだろう」

 

 翌日、出勤すると陛下に休暇の過ごし方を聞かれたので、正直に答えたら横に居たシュトライト閣下から呆れられた。

 

「臣は何か粗相をしたのでしょうか?」

 

「いや、良い。卿の真面目で誠実な人柄が貴重なのだ」

 

「はあ、有り難う御座います。しかし、陛下が評価される程に私は真面目でも誠実でも有りません」

 

「その、卿は折角、ハイネセンでの休暇で何か土産でも買う事は無いのか?」

 

 シュトライト閣下が何故か呆れ顔で聞いてきた。

 

「いえ、両親もオーディンに住んでいますから、ハイネセンで土産を買っても無駄になります」

 

「両親以外に渡す者は居ないのか?」

 

「あっ!やっぱり、お世話になる事の多い事務局に何か土産を持って行く方が宜しいのでしょうか?」

 

 陛下の副官業務は他の提督と違い帝国の全ての官庁に指示を出す事となる為に事務局を通じて帝国全体に通達して貰う事が多々ある。

 ミューゼル閣下等は役目柄、常に事務局への付け届けを忘れないでいる。私とした事が迂闊であった。

 

「いや。そう言う意味では無いんだが」

 

 シュトライト閣下は何故か完全に諦めた表情になっていた。

 陛下は陛下で何かを考え込まれた。

 

「リュッケ。フェザーンに帰ったら長期の休暇を与えるので休暇の使い方を考える様に」

 

 私の休暇の過ごし方に問題があったのであろうか? 

 

 



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独身者達の最後の宴

 

 ラインハルトはハイネセンからフェザーンに寄り道をせずに帰還した。

 ハンスもラインハルトの帰還に合わせてウルヴァシーからフェザーンへと帰還する。

 二人がフェザーンで再会をすると互いの無事を祝い、改めてハンスの元帥叙任式を盛大に執り行った。

 叙任式の後は珍しくパーティーが開かれて身分に関係なく若い女性が集められ華やかなパーティーとなった。

 

「陛下。ミューゼル元帥の労に報いるのにしては盛大過ぎませんか?」

 

 オーベルシュタインも日頃は質素な式典を望むラインハルトにして派手な式典に疑問に思い諫言の歯切れも悪い。

 

「卿の主張は正論である。しかし、これには理由がある」

 

 ラインハルトはハイネセンでのリュッケの休日について話をした。

 

「リュッケ少佐の休日の過ごし方と何の関係があるのでしょうか?」

 

「この数年間、動乱の時代で男子が戦死して女子の人数が多い筈が、卿を含めて余に近い者ほど婚期を逃す傾向がある。故に出会いの場を作ろうと思ったのだ」

 

「それで、妙齢の女性を集めての宴ですか?」

 

「うむ。卿も余より年長なのだから結婚したらどうだ?」

 

「結婚ですか?」

 

 稀有な事にオーベルシュタインが結婚の言葉に動揺している。

 

(この男が動揺する姿を見れただけでも価値がある宴だな)

 

「私は警備の者と打ち合わせがあるので失礼します」

 

 ラインハルトの物珍し気な視線にオーベルシュタインも逃げる様にラインハルトの前から辞去した。

 オーベルシュタインが辞去した後にシュタインメッツが妙齢の女性を連れて来た。

 

「今日は陛下に御報告があって参りました。この度、この者と婚約しました」

 

 紹介された女性の頬が朱色に染まる。

 

「こんな、お美しい婚約者が居たとはシュタインメッツも隅に置けぬ」

 

「グレーチェン・フォン・エアフルトです。陛下にはお見知り置きを」

 

「フロイライン。貴女の婚約者を麾下に持てた事は私の最大の幸福です。これからは平和な時代になり戦場に出る事が無いので安心して下さい」

 

「あ、有り難う御座います。陛下」

 

 グレーチェンが感激の余りに泣き出してしまったのでシュタインメッツも不尊にならない内に辞去をする。

 

「しかし、シュタインメッツには驚かされた!」

 

 ラインハルトの驚きも醒めぬ内に、次はハンスがヘッダを連れて挨拶に来た。

 

「陛下。私を出汁にしましたね」

 

「赦せ。その代わりに料理は美味であっただろう」

 

 ラインハルトの視線の先には食欲を満足させた事が一目瞭然のハンスの腹があった。

 

「ウルヴァシーでは久々に減量しましたから」

 

 この言葉にラインハルトも呆れながら反論した。

 

「何を言っている。学芸省の研究員は二週間分の非常食を用意していたらしいではないか。卿が健啖家なのは軍務省と一部の人間には有名だが学芸省の人間は知らんからな」

 

「学芸省の人間は少食なんですね。それにトイレットペーパーを箱に入れて置くから非常食だと思って安心していたらトイレットペーパーだったので焦りましたよ」

 

 ハンスの誤魔化しにヘッダも呆れた視線を送る。

 

「そ、そこで、陛下に献上したい物が有ります」

 

 ヘッダの視線が辛いのかハンスが話題を変える。

 

「献上?」

 

「はい。これです」

 

 ハンスがラインハルトに手渡したのは掌サイズのアルミの袋である。

 

「マルチサプリメント?」

 

 ラインハルトが袋に印刷されてる文字を声に出して読む。

 

「私が救出された翌日には普通に食事が出来たのも、これを服用していたからです」

 

「ほう。十日間近くも絶食していて卿がリフィーディング症候群にならなかったのは、これの功績か?」

 

「はい。私達は仕事柄、食事が不規則ですので、これを服用しています。軍が大量発注すれば将兵に安く提供が出来ます」

 

「しかし、これを服用したからと言ってもリフィーディング症候群とは関係無しに胃が縮小して食事が出来ぬ筈だが?」

 

「まあ。必要な栄養素が入っていますので普通の生活でも健康に寄与します」

 

 ハンスは自分の特異体質の事は無視して会話を進める。

 

「ふむ。卿の場合は常人と違うからなあ。常人には救出された翌日に迎賓館の厨房に強盗に入って大量の食事を平らげる事など叶わぬ」

 

 どうやら、ヘッダは初耳の様でハンスに無言で刺だらけの視線を送る。

 

「と、取り敢えず御一考されて下さい」

 

「わ、分かった。保険局に検討させてみよう」

 

 ヘッダの視線に耐え兼ねたのか、ハンスが更にラインハルトに声を掛ける。

 

「それと、大事な事を陛下に御報告します。私達、二人は姉弟の養子縁組を解消して結婚します」

 

 ハンスとヘッダが同時に頬を朱に染める。照れながらもハンスはラインハルトが驚く反応を期待して待っていた。

 

「そうか。意外と早かったな」

 

 ラインハルトの予想外の反応にハンスが肩すかしを食らう。

 

「あれ?」

 

 逆にハンスの反応がラインハルトには意外だった様である。

 

「なんだ。卿は知らなかったみたいだな」

 

「何をでしょう?」

 

「兄妹姉弟の養子縁組をした者の大半が将来的には結婚するのは帝国人には常識だぞ」

 

「常識ですと!」

 

「だから、卿達も将来的には結婚すると思っていたのだ」

 

「そ、そう何ですか。どおりで事務局のお姉さん連中が口説いても靡かんはずだ」

 

「あっ!」

 

「しまった!」

 

 ヘッダが居る事を忘れて自爆したハンスであった。

 

「陛下。私達は他にも用事があるので、これで失礼させて頂きます」

 

 初めてヘッダが喋ると、同時にハンスの耳をつまみ上げて連行して行く。

 

「痛い。陛下、助けて!」

 

「うるさい!キリキリ歩け!」 

 

 ラインハルトも他人事だと連行されるハンスを黙って見送るのであった。

 

「陛下!」

 

 哀れなハンスが自業自得を演じている姿を見送っていたラインハルトにロイエンタールが妙齢の女性を連れて挨拶に来た。

 

(ロイエンタールも相変わらずだな) 

 

「珍しいな。卿が女性を連れて余の前に来るとは」

 

「恐れ入ります。陛下には御報告したい儀が有りまして」

 

「何だ?」

 

 何時になく神妙なロイエンタールの表情と声にラインハルトの声も僅かに緊張する。

 

「実は臣は結婚する事になりました」

 

「な、な、何と!」

 

 ロイエンタール自身は嬉しくも無いが、ハンスが失敗したラインハルトを驚愕させる事にロイエンタールは成功した。

 

「こ、これは、お美しいフロイラインだな。ロイエンタールが陥落したのも頷ける」

 

 ラインハルトの発言は社交辞令なのだが同時に事実でもあった。

 

「有り難う御座います。私はローザライン・リーと申します。陛下にはお見知り置きを」

 

 ラインハルトの美しいと褒められて顔を真っ赤にして自己紹介をする姿は健気であった。

 

「しかし、ロイエンタールよ。卿が結婚するとは意外だったぞ」

 

「御意」

 

「フロイラインもロイエンタールを攻略するのに苦労した事であろう」

 

「いえ、苦労も何も男として責任を取って貰わないと困ります!」

 

「責任とは?」

 

「ローザ、要らぬ事を!」

 

「ロイエンタール。構わん。責任とは?」

 

 ロイエンタールを制してローザに話を促す。そして、話を聞いてラインハルトは再び驚愕する事になる。

 ローザが仕事仲間との食事を終えて酒に酔い公園のベンチで休んでいる所をロイエンタールに銃で脅されて屋敷まで連れ込まれて襲われたとの事であった。

 

「ロ、ロイエンタールよ。フロイラインの話は真実なのか?」

 

 ラインハルトの声は罅割れていた。

 

「陛下。事実ですが私の話を聞いて下さい」

 

「良かろう」

 

 ラインハルトは婦女子に対する暴行に対しては嫌悪感を持っている。一歩間違えればロイエンタールは死罪となる。

 それを知るロイエンタールは戦場で敵に包囲された時よりも緊張して話をした。

 

 ロイエンタールの話では、ロイエンタールが夜に帰宅した時にブラスターで狙撃されたのである。

 幸いな事に狙いが外れて、ロイエンタールは武器を持った人影を追って行くと公園のベンチにローザが隠れていたので銃を突き付けて調べるとブラスターを所持してたので、屋敷まで連行して尋問をしたが、白を切るので素直に白状させる為に事に及んだのである。

 事に及んだ後でローザのブラスターを調べるとロイエンタールを狙撃したブラスターとは違う物であった。

 

「軍人の癖にブラスターの種類も分からないとか信じられないわ!」

 

「仕方があるまい。指揮官がブラスターを使う事など、滅多にあるか!」

 

 ラインハルトもロイエンタールのドジに呆れながらもローザに質問した。

 

「しかし、フロイラインは何故、ブラスターを所持していたのか?」

 

「はい。私の仕事は商船の用心棒です。商船は武装が出来ないので宇宙海賊に襲われた時に艦内で私達が処理します」

 

「ほう。女性の用心棒とは珍しい」

 

「こう見えても業界では名が売れた用心棒ですの!」

 

 ローザが胸を張り自慢をする。その横でロイエンタールが頭を抱えている。

 

「それは頼もしいものだ」

 

「機会が有れば私の腕を陛下に見て頂きたいですわ!」

 

「おい。不敬であるぞ!」

 

 ロイエンタールの呼び掛けも無視してローザとラインハルトの会話が続く。

 ラインハルトにしたら始めて見るタイプの女性で好奇心が刺激される。

 

「キスリング。銃をフロイラインに貸して差し上げろ」

 

 キスリングもローザの腕に興味を持った様で素直に自分の銃を差し出した。

 

「フロイラインには少々、重いかもしれません」

 

「流石に陛下の親衛隊だけあって、銃も大出力ですね」

 

「フロイラインもお目が高い!」

 

 流石にラインハルトの前なのでキスリングを怒鳴りたい衝動を抑え込むロイエンタールであった。

 そして、腕試しが始まるとローザの腕前に全員が舌を巻く事になる。

 キスリングが放り投げた林檎に引き金を三回引き全て空中の林檎に命中させたのである。

 

「お見事!ルッツとキルヒアイスとフロイラインで競い合わせたいものだな」

 

 無邪気に喜ぶラインハルトに対してロイエンタールは静かに落ち込んでいた。

 ロイエンタールは貴族の出自である。そのロイエンタールにしたら型破りなローザの言動と能力は眉を顰めるものである。

 しかし、真面目な帝国人からしたら漁色家のロイエンタールが言えた義理では無いのである。

 この二人、意外と似合いの夫婦なるかもしれない。

 



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結婚式狂想曲

 

 既に役職持ちの元帥である帝国三長官が多忙の中でハンスは給料泥棒を決め込んでいたが、世の中が甘くもある筈もなく大本営幕僚総監に任命された。

 

「ふむ。陛下も粋な人事をなさる!」

 

 ハンスが大本営幕僚総監としてロイエンタールを補佐する形になるのでロイエンタールとしては歓迎していた。

 

「はあ。折角、給料泥棒が出来ると思っていたのに」

 

 ハンスの愚痴に周囲の者も苦笑するしかなかった。

  ハンスは所詮は兵卒上がりの若造なのでデスクワーク等は苦手で部下にグリルパルツァーやクナップシュタインにトゥルナイゼン等の若手のエリートを集めて自分の補佐をさせた。

 

「まあ。艦隊を動かす程の敵も無く宇宙海賊や事故の処理が軍の仕事になる。卿達には新しい軍を作って貰う事になる」

 

「閣下は我らより、お若いではありませんか」

 

 一番若いトゥルナイゼンが思わず声を出す。

 

「いや。私は地球教の残党を始末して遷都が完了したら軍を辞めるよ」

 

「そんな、勿体ない!」

 

 上昇志向の強いグリルパルツァーが本音を出してしまう。

 

「誠実なクナップシュタインに博識のグリルパルツァー、士官学校を中退して軍に飛び込んだトゥルナイゼンの視野の広さが有れば帝国三長官の後継者も問題無い。私みたいに同盟が健在な時にしか役に立たない人間は辞めるべきだよ」

 

 グリルパルツァーを三長官の後継者と呼ぶ事で道を踏み外す事無いだろうとハンスのセコい考えも存在したが本音でもある。

 この時の会話が効いたのか謎だが、この三人は後に帝国三長官に就任する事になる。

 ハンスにして見ればラインハルトが自分を軍に繋ぎ止める為の人事なのは分かっていたので後進を育成して対抗する気でいた。

 ラインハルトとハンスの水面下の戦いが始まった頃にラインハルトとヒルダの結婚式となった。

 マリーンドルフ伯としては一人娘を嫁に出す感慨に浸りたいが国務尚書として式を取り仕切るのに多忙なのである。

 その多忙の一つにヒルダの懐妊も含まれていた。

 同盟に比べて何事にもお堅い帝国である。結婚前に娘が妊娠したとなると平民でさえ眉を顰めるものである。ましては伯爵令嬢であり相手はラインハルトである。マリーンドルフ伯の心情は察するに余りある。

 因みにヒルダを妊娠させた張本人は実姉と義兄に説教をされる事になる。

 弟の結婚式に参加する為に親子三人でハイネセンからフェザーンまで来て最初に聞かされたのがヒルダの妊娠である。

 アンネローゼはマリーンドルフ伯に姉として謝罪をしてラインハルトに説教をするのである。

 ラインハルトはキルヒアイスに助けを求めたが既に娘の父親となったキルヒアイスもマリーンドルフ伯の味方であった。

 結局、アンネローゼは姉としてヒルダが出産して落ち着くまで面倒を見る為にフェザーンに滞在する事にした。

 結婚式前から色々と問題が発生してマリーンドルフ伯が父親として感慨に浸る余地はなかった理由である。

 結婚式の当日もラインハルトの我儘が始まったのである。

 本人は着慣れた軍服の礼服を着用するつもりであったが軍部からはオーベルシュタインとハンス、文官からはマリーンドルフ伯を始め宮内尚書のベルンハイム男爵からも制止された。

 

「これを着ないと駄目なのか?」

 

 タキシードを前に往生際の悪いラインハルトであった。

 

「それでなくとも軍部偏重と文官達が囁いているのに結婚式まで軍服を着たら文官達の不安を煽ります!」

 

 ハンスの説得で嫌々ながらもタキシードを着るラインハルトであった。

 

(本来はアンネローゼ様の仕事だろ!)

 

 その頃、アンネローゼはヒルダの世話をしていたのである。

 ヒルダにしてみればラインハルトや父のマリーンドルフ伯より、アンネローゼが側に居てくれた方が安心が出来るのである。

 

「ヒルダさん。本当に綺麗だわ」

 

「本当に綺麗だ。ヴァルハラの母さんも喜んでいるよ」

 

「お父様」

 

 妊娠中であったが体形に変化が無い為にヒルダの母親が残した形見のウェディングドレスを着る事が出来たのは幸いであった。

 結婚式が始まると新婦の美しさに会場から感嘆の声があがる。

 出席していた者でシュトライトやハンスは泣き出していた。

 

「同じ年頃の娘が居るシュトライトは分かるが、卿はキルヒアイスの時も泣いていただろ」

 

 ミッターマイヤーもハンスには呆れた様子である。隣に居る親友の方は青い顔をしている。

 

(ロイエンタール。お前の場合は自業自得だ)

 

 ミッターマイヤーもロイエンタールの結婚の経緯を聞いて親友ではなく結婚相手の味方であった。

 シュタインメッツは婚約者共に自分達の式の参考にしていた。

 途中で緊張のあまり宣誓書を読む宮内尚書のベルンハイム男爵の声が裏返り、ラインハルトから「落ち着け、ベルンハイム。卿が結婚する訳ではなかろう」と声を掛ける程度の小さなトラブルで深刻なトラブルもなかった。

 トラブルでは無いが二人が退場する時にビッテンフェルトの歓声を通りこして怒号と言える声量で叫んだ。

 

「ジーク・カイザー!ホーフ・カイザーリン!」

 

 ビッテンフェルトが引き金となり他の出席者も後に続く。

 

「ジーク・カイザー!」

 

「ホーフ・カイザーリン!」

 

 元同盟人のハンスにヘッダ、フェザーン生まれのフェザーン育ちのローザ等は会場の歓声に完全に呆れていた。

 

(自分達の式の時にはビッテンフェルト提督には釘を刺しておこう)

 

 三人が同じ事を考えてる間にも式は進行してキスリングが待機する地上車に新郎新婦は乗り込んだ。

 本来なら新婚旅行は星間旅行なのだが妊娠中のヒルダの体調を考慮してフェザーン有数の静養地であるフェルライテン渓谷に新婚旅行となっている。

 

「まあ。フェザーンだと回廊から出ないと有人惑星も無いからなあ」

 

 ハンスが指摘したがフェザーンも歴史が浅い為に新婚旅行等の観光地が少ないのである。

 

「退役してから結婚した方がいいかも」

 

「あら、どちらにしても私達の結婚式は派手になるわよ」

 

 ハンスは失念していたがヘッダは帝国一の女優なのである。

 

「まさか、テレビ中継とか入るの?」

 

「当たり前じゃない。放送料の一部は私の報酬になるのよ」

 

 亡命して初めてオーディンの地を踏んだ時の悪夢を思い出したハンスである。

 

「諦めるしかないのか」

 

 ハンスとヘッダが話している横でロイエンタールとローザも自分達の式について相談をしていた。

 

「私は二人だけの式でも構わないわよ!」

 

「気持ちは嬉しいが俺の立場だと、そうもいかんのだ」

 

 ロイエンタールも二人だけの式を挙げたいが人間、地位が挙がれば思う様に動けないものである。

 

(ハンスの奴が部下を持ちたがらない気持ちも理解が出来る)

 

 ロイエンタールが式の規模に頭を悩ませている横ではシュタインメッツも自分達の式に頭を悩ませていた。

 

「幕僚の方達だけを招待する?」

 

「そうだな。それで問題が無いと思う」

 

「私の方は身内だけでいいわ」

 

「遷都が完了すれば軍部も暇になるから新婚旅行は遠くても構わんよ」

 

「貴方が居れば何処でも構わないわ」

 

 どうやらミッターマイヤーと同類の様である。

 二人を乗せた地上車を見送りながらハンスがシュタインメッツに声を掛ける。

 

「シュタインメッツ提督、この際ですから三組合同で式を挙げませんか?」

 

「えっ!」

 

「断言は出来ませんが、私達の式はテレビ中継が入ります。ならば、スポンサーも付く筈です。上手くやれば結婚式の費用も安くなりますよ」

 

「なるほど。しかし、自分の一存では決められません」

 

「まだ、時間が有りますから婚約者と相談して下さい」

 

 ハンスはシュタインメッツとロイエンタールも巻き添えにする気の様である。

 

「ロイエンタール提督。実はシュタインメッツ提督にも相談しているのですが、三組合同で式を挙げませんか?」

 

「合同で?」

 

「はい。誰を呼ぶ呼ばないで頭を悩ませる事も無いですし、呼ばれる側も三回も出席しなくとも良いのですから」

 

「ふむ。名案かもしれんな。しかし、俺一人の判断で返事が出来ん。返事は後日になるぞ」

 

 ロイエンタールとシュタインメッツからはハンスが自宅に帰り着くのと同時に賛成の返事があった。

 

「ふむ。では、フェザーンのテレビ局を交えての打ち合わせが必要となりますな」

 

 ハンスはヘッダに合同の結婚式の話するとヘッダから拳骨を貰う事になった。

 

「もう。お二方が賛成しているのに私が反対なんか出来ないでしょう。それを狙って私より先に、お二方に相談したんでしょう!」

 

「鋭い!」

 

「誰でも分かるわ!」

 

「それより、何時になったら、俺を御両親に紹介してくれるの?」

 

「あっ!」

 

「おい!まさか、忘れていたのか!」

 

 どうやら図星だったらしく。笑って誤魔化すヘッダであった。

 

「随分と親不孝な娘だな」

 

「すぐに段取りをするから!」

 

 慌て気味に言うヘッダに呆れるハンスであった。

 次の日にはヘッダの御両親に挨拶を済ませて結婚式も軍の関係で合同になると伝えた。

 

(何が軍の関係よ。本当に詐欺師の才能が有るわ。結婚しても浮気とか気を付けないと)

 

 知らぬ間にヘッダからの信用を失うハンスである。人は自分が気付かぬ間に信用を失う見本である。

 

 ハンスは結婚式の日取りが決まると招待者のリストを作りテレビ局に結婚式の準備を押し付けた。

 

「イベント事はテレビ局が専門だろ。第一に結婚式の費用の半分はテレビ局が出すからな。テレビ局の都合もあるだろう」

 

「自分で準備をするのが面倒なだけでしょ!」

 

「まあ。他にも理由があるけどね」

 

 ハンスの言葉に深い事情がある事を察知したヘッダである。

 事実、一時は帝国軍だけでは無くフェザーンの行政関係者も顔を青くする事態が起こるのである。

 



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テロへの誘い

 

 本来の歴史では皇帝夫妻が新婚旅行中にフェザーン航路局の航路データが消去される事件があった。

 当時の軍務尚書のオーベルシュタインが事前に軍務省の緊急用コンピューターにデータをバックアップしていた為に致命的な損失を免れた。

 後世の歴史家がオーベルシュタインの功績で最大の功績と評価している。

 ハンスが晩年に読んだオーベルシュタイン元帥評伝にもオーベルシュタインの最大の功績と記されていた。

 

 ハンスの記憶に強く残っている事件だったのでハンスは大本営移転時にオーベルシュタインに航路局のデータのバックアップを取る事を進言していた。

 オーベルシュタインもハンスの進言を認めて本来の歴史通りにバックアップを軍務省の緊急用コンピューターにバックアップを取った。

 更にハンスは保険を掛けてガイエスブルグ要塞のコンピューターにもバックアップを取った。

 

(あれは、ルビンスキーが黒幕だったがルビンスキーが此方の陣営にいるなら杞憂かな)

 

 ハンスの認識は甘かった。ラインハルトが新婚旅行中にフェザーン航路局の航路データが何者かに消去されたのである。

 一時的に軍務省とフェザーン航路局がパニックになった。

 フェザーンから出立する商船や巡回任務の軍艦等からの問い合わせが航路局に殺到したのである。

 

「航路データが無ければフェザーンに釘付けでは無いか!」

 

「回廊を出たが、行く事も戻る事も出来んではないか!」

 

 幸いにも回廊内に戻っていた軍艦から軍務省に報告があった為にオーベルシュタインの耳にはいり、オーベルシュタインの迅速な対応で大過なく事なきを得た。

 

 ラインハルトが新婚旅行先のフェルライテン渓谷の山荘でシュトライトに報告を受けた時には既に事態は沈静化した後であった。

 

「航路局は何をしていたのか!航路データの重要性を理解していなかったのか!」

 

 ラインハルトの怒りはシュトライトが副官となってから経験した中でも群を抜いての激怒であった。

 

「恐れながら陛下。航路データの消失は重大な事ですが、致命的損失になっておりません。軍務尚書閣下が既に軍務省の緊急用コンピューターにバックアップを取っておりました」

 

「だが、軍務省の緊急用コンピューターでは容量が足りまい?」

 

「はい。陛下の御指摘の通りに容量が足りませんが軍務尚書閣下が他のデータを消去してでもと命じられましてバックアップを取っておりました」

 

「オーベルシュタインが」

 

 ラインハルトは暫しの間だけ考えると指示を出した。

 

「宜しい。オーベルシュタインの功績を大とする。そして、ケスラーに事件の全貌を明らかにさせよ」

 

「御意」

 

 ラインハルトは通信を切ると傍らで静かに会話を聞いていたヒルダに意見を求めた。

 

「フロイライン、ヒルダは何か言いたいのでは?」

 

「恐れながら陛下。私が口を出すべきでは無いと思います」

 

「ヒルダ、ラインハルト」

 

 結婚を機に互いに名前で呼ぶ事を提案したラインハルトであるが双方ともに慣れないままである。

 

「ラインハルト!」

 

 ヒルダは夫の名前を呼ぶだけで頬を朱に染めている。

 

「名前で呼ぶのは二人だけの時にしましょう」

 

「そうだな。余もヒルダの可愛い姿を他の者に見せたくない」

 

 ラインハルトのからかいに頬だけではなく耳まで真っ赤にしたヒルダがそっぽを向く。

 確かに二人だけの時にするべきであろう。間違えてもリュッケに見せるのは酷である。

 

「兎に角、今回の黒幕は地球教だと思います。そして、彼らが最終的に頼みにしているのは同盟の軍事力でしょう」

 

「ふむ。やはり貴女も同じ考えか」

 

「この銀河に新王朝に対抗するのは地球教のみです。そして彼らの狙いはテロで新王朝の力を削ぎ取り最終的に同盟の軍事力で帝国に対抗する事でしょう」

 

「狂信者の奴らは同盟を操り人形にする気か」

 

「既に地球教はヨブ・トリューニヒトを操った気でいました。恐らくは同じ手を使う気でしょう」

 

 ヒルダの洞察は正鵠を射ていた。デグスビイの基本戦略を完全に読んでいたのだ。

 

「では、対策は?」

 

「これは、地道な司法捜査により首謀者と幹部達を逮捕するしかありません」

 

「余が囮になってもか?」

 

 ラインハルトの大胆な意見にもヒルダは首を縦には振らなかった。

 

「陛下御1人を暗殺しても既に遅いですから」

 

 ヒルダは自らの腹部を擦りながら否定する。

 

「それに、地球教に囮に手を出す程の余力があるとも思えません」

 

 ラインハルトはヒルダの見解の正しさを認めた。

 

「しかし、狂信者も色々と陰険な策を考えるものだ。次は、どんな手でくる事か?」

 

 ラインハルトの言葉にヒルダは思わず吹き出してしまった。

 

「何か余は笑いを誘う事を言ったか?」

 

「失礼しました。でも、帝国には地球教に対抗が出来る頭脳の持ち主がいますけど」

 

 数瞬の間だけ、ラインハルトはヒルダが誰を指しているか理解が出来なかった。

 

「なるほど。確かに奴ならセコい相手の考えも読むだろう」

 

「あら、そんな言い方だとミューゼル元帥に失礼ですわよ」

 

「余は名前を出して無いが、何故にハンスの名前が出てきたのかな?」

 

「陛下もお人が悪い!」

 

 頬を膨らますヒルダは実年齢よりも幼い少女の様に見えてラインハルトを楽しませるのであった。

 

 その頃、皇帝夫妻から話のネタにされたハンスは航路データ消去の捜査をしているケスラーを除いた上級大将以上の将官を参集して会議を開いていた。

 

「皆さんも同じ考えだと思いますが航路データ消去の黒幕についてですが地球教で間違いないと思います」

 

「確かにハンスの言う通りだと俺も思うが他に候補者となるものが居るのか?」

 

 ミッターマイヤーがハンスの言葉に応じて疑問と言えない疑問を提示する。

 

「強いて言えば共和主義者でしょうか?」

 

 ミュラーも形式的に候補を出す。

 

「ミュラー提督も承知しているだろうが共和主義者でも航路データの消去の様な暴挙はしないであろう。成功すれば同盟の民衆を餓えさせる事になる」

 

 ミュラーに応じたのはロイエンタールである。

 

「しかし、連中は事の重大さを分かっているのか。航路データを消去したら自分達も困るだろうに」

 

 ファーレンハイトの疑問は常人なら当然の疑問である。

 

「ふん。故に狂信者なんだろう」

 

 ビッテンフェルトが吐き捨てる様な一言は核心を突いていた。

 

「私もビッテンフェルト提督と同感だ。連中には信徒以外の人間は考慮するに値しないのであろう」

 

 意外な事にオーベルシュタインがビッテンフェルトを支持する。

 

「連中もテロを重ねて新王朝に対抗する気なら気の長い話だ」

 

「成功したとしても、その時には、ここに居る者で生きている人間が居るかも怪しいもんだ」

 

 レンネンカンプの感想にシュタインメッツも呆れながらも未来を予測をしてみせる。

 

「しかし、連中も本気で数十年先の事を考えていないと言いたいが、九百年前の亡霊だったな」

 

 ルッツの言葉に全員の気が重くなった。

 

「それだけ長いと逆に感心してしまう」

 

 ハンスの言葉は出席者全員の思いでもあった。

 

「それで、肝心な対抗策は?」

 

 ミュラーが話を本題に戻す。

 

「しかし、対抗策と言っても地道な捜査で連中を追い詰めるしか策は無いだろう」

 

 ロイエンタールがミュラーの意見に代表して応える。

 

「まあ。食い付いて来るか分からんが囮で誘ってみるか」

 

 ハンスの言葉に全員がハンスに注目する。

 

「卿は意外と囮が得意だな。バーミリオンの時もウルヴァシーの時も」

 

 ミッターマイヤーが感心しながらハンスに作戦の内容を目だけで促す。

 

「今度の我々の結婚式は連中にしたら最大のチャンスですからね」

 

「結婚式なら先日の陛下の結婚式も千載一遇のチャンスだったではないか」

 

 ハンスの言葉にロイエンタールが反論する。

 

「あの時はキルヒアイス元帥がいた。キルヒアイス元帥が亡くなれば帝国は内乱となり同盟が勢力を回復してしまう。トリューニヒトが健在なら同盟を操る事が出来たが、トリューニヒトが亡き今では同盟も操れない」

 

「キルヒアイス元帥が健在なのが狂信者には都合が良いのか?」

 

「キルヒアイス元帥が居れば帝国の内乱もキルヒアイス元帥と反対派の二派になり、同盟も加われば三竦みになる。旧王朝時代と同じになり、どの陣営も地球教を相手にする暇が無くなる。勢力を回復するには絶好の環境でしょう。それ以前にウルヴァシーでの後始末で間に合わなかっただけかもしれない」

 

「では、囮に食い付くかも分からんではないか!」

 

「それはそれで、相手の力が分かるでしょう。準備不足で軽挙してくれるのが理想的なんですけど」

 

「確かに駄目で元々、何らかのリアクションが有れば儲けと考えれば悪くはないなあ」

 

 ビッテンフェルトがハンスの提案に乗り始めた。

 他の提督達も代案が無く、兵制改革で忙しい身の提督達にすれば、三回も結婚式に出るよりも一回ですませたいのが本音であった。

 

「では、今日の会議は終わりで宜しいでしょうか?」

 

 ハンスが会議の終了を宣言する寸前にケスラーが会議室に入って来た。

 

「間に合ったみたいだな。卿らの予想通りに黒幕は地球教だった。航路局の職員を買収して航路データを消去させていた」

 

 ハンスが挨拶も省略して質問する。

 

「買収金額は?」

 

「買収金額は二十万フェザーンマルクだった。空手形だったがな」

 

「空手形にしては安いなあ」

 

「借金も二十万フェザーンマルクあったらしい」

 

「哀れだな」

 

 ハンスが心から買収された職員に同情した。金が無いのは首が無いのと同じとは誰の言葉だっただろう。

 

「まあ。連中が二十万フェザーンマルクを払えん程に困窮している事が分かって安心した」

 

 ハンスの中の不安要素の一つが消え去った。ハンスは結婚式場にロケット弾を遠距離から打ち込まれる事を心配したが、地球教が資金難とすると高価な陸戦用兵器などは買えないと判断したのだ。

 

(まあ。適当に何かしてくれたらテレビの視聴率も上がりギャラも増えるのだがなあ)

 

 この男、ちゃっかりとテレビ局を最大限に利用していたのである。

 

 



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漁色家の最期

 

 ハンスは無表情のまま、目の前の書類に目を通してサインをする。

 二枚目の書類に目を通すと不可の判子を押して「再検討」と付け加えてサインをする。

 三枚目の書類に目を通してサインをする。

 既に出勤してから八時間も同じ作業をしている。

 

「ふむ。こんな時間か」

 

 ハンスの横で作業していたオーベルシュタインが正面の時計を見て呟く。

 

「ミッターマイヤー元帥、ミューゼル元帥。今日は定時で終わりにせぬか?」

 

 ハンスの正面に居たミッターマイヤーが時計を確認する。

 

「そうか。こんな時間か。俺に異存は無い」

 

 ハンスも時計を確認するとミッターマイヤーと同じくオーベルシュタインの案に同意した。

 

「私も今日は流石に疲れました」

 

 三人が同意したので三人は自分の部下達にも仕事の終わりを告げた。

 そこにリュッケが入室して来た。

 

「元帥方、陛下が至急にお召しです」

 

 三人は互いに顔を見合わせて無言のままラインハルトの執務室に向かうのであった。

 執務室にはラインハルトだけではなく、ケスラーも待機していた。

 

「お三方に御足労を願いましたのは昨日の件です」

 

 ケスラーが前置きもなく話を始めたのだが、ケスラーの表情にも疲労の影を認めた全員が無理からぬ事だと思った。

 

「昨日、ロイエンタール元帥が過去に交際された女性達から詰め寄られた件ですが、その後の捜査で新事実が発覚した事と手落ちがあった事の報告です」

 

 ハンスは「詰め寄られた」のではなく「袋叩きにあった」の間違いではと思ったが黙る事にした。

 昨日はハンス達の合同結婚式であった。帝国でも有名な女優のヘッダの結婚式と帝国の高官の結婚式でもあったから見物客も多かった。

 地球教を誘い出す為の合同結婚式である。保安上の警備は一見して緩やかな様であったが実は裏では厳重を極めた。

 結婚式は順調にトラブルも無く進行していった。

 シュタインメッツ夫妻が教会から出て来ると見物客達からの祝福の声に包まれた。

 その次にハンスとヘッダが教会から出て来た時はハンスが思わず指で耳を塞ぐ程の祝福の大歓声であった。

 

(ビッテンフェルト提督に釘を刺しても意味が無い!)

 

 観衆の目がヘッダに集中している間に幸いとばかりにロイエンタール夫妻が教会から出て来た。

 ロイエンタールにしてもローザにしても自身が見世物になる気が無く。ヘッダに観衆の目が向いているのは都合が良かった。

 警備兵達も観衆の目がヘッダに向いていたので自然とヘッダを中心に警備兵としての意識が集中していた。

 そして、警備兵と観衆の意識がヘッダに集中していた時に急に変化が起こった。

 最前列にいた見物客の女性達が一斉に警備兵の股間に蹴りを入れたのである。

 その場で警備兵達が股間を押さえて蹲る。警備兵が消えた穴から女性達がロイエンタールを目掛けて殺到した。

 

「オスカー説明しなさい!」

 

「裏切り者!」

 

 女性達が口々にロイエンタールに呼び掛けながら突進して行くので帝国軍の将兵達は一瞬に事態を悟った。

 ロイエンタールは咄嗟の事で対応が出来ないローザをハンスに向けて突き飛ばして避難させたのは賞賛される事であろう。

 ハンスはローザを受け止めると両脇にローザとヘッダを抱えて一目散に教会に逃げ出した。

 

「逃げなきゃ駄目だ。逃げなきゃ駄目だ!」

 

 呪文の様に呟きながら成人女性を二人を脇に抱えて走るのは火事場の馬鹿力である。

 教会に逃げ込んだ後にもロイエンタールと女性達の声が聞こえて来る。

 

「俺は結婚を出来ない男だから別れろと言ったじゃないの!」

 

「俺なんかと一緒に居るには勿体ない女だと言った癖に!」

 

「俺は生涯、結婚が出来ない男だと言ったのは嘘なの!」

 

「私には貴方が初めてだったのに!」

 

 ローザの顔は怒りの為に赤くなる一方である。反対にハンスとヘッダの顔色は青くなる。

 ローザが教会を再び出て行く事を止める事が出来る人間は誰も居なかった。

 教会の外では警備兵達が遠巻きにロイエンタールと女性達を眺めていた。

 彼らが臆病なのではない無い。彼らは民衆を守る為なら己の身体を盾にして命を賭ける事も出来る勇敢な者達だったが、それでも怖い物は怖いのである。

 それに、ロイエンタールが漁色家なのは帝国では有名だったので積極的に危険地帯に飛び込む気も無かった事も事実であった。

 更に恐怖の存在が一人。教会から歩いて来ているのが見えたので警備兵達も金縛り状態になったのは誰も責められないであろう。

 ロイエンタールを取り囲む女性達にローザが加わるとローザの怒声も教会内に聞こえてきた。

 

「初めてを奪ったのは私だけじゃないのか!」

 

「違う!」

 

「嘘!私は初めてでした。オスカー様!」

 

「てめえ!」

 

 修羅場である。ハンスは最高責任者に視線で止めに入る様に懇願した。

 懇願された最高責任者は視線だけで無理だと断言してロイエンタールの親友に視線だけで命令を出す。

 命令を出された親友も無理だと視線だけでラインハルトに断りハンスに視線を向けた。

 ハンスはミッターマイヤーの視線に視線で抗議しながらも視線を最高責任者の姉に向けた。

 その場に居た全員の気持ちが一つになった。

 

(おい、無理だろ!)

 

 しかし、アンネローゼは全員の予想外の行動に出た。

 アンネローゼはハンスの視線を受けると頷いたのである。

 

(う、嘘!)

 

 頷いたアンネローゼはハンスに背中を向けると見事な長い金髪を持ち上げたのである。

 そして、持ち上げられた金髪の下からハンスが愛用している火薬式のリボルバー拳銃の姿があった。

 ハンスはリボルバーを素早くアンネローゼの背中から受け取ると慣れた手つきで銃から弾を抜き弾丸と薬莢とに分けて薬莢だけを再び銃に込める。

 空砲を手にハンスは教会を出ると空に向けて引き金を二回引く。

 この当時の人間では火薬式拳銃の銃声を知る人間は少なく、全員がハンスに注目した。

 

「はい。終了!」

 

 ハンスは叫ぶとロイエンタールの襟首を掴む。

 

「はい。まだ、この男を殴って無い方は手を挙げて!」

 

 ハンスの声に二人の女性が手を挙げた。

 

「では、一発、どうぞ!」

 

 二人が一発ずつロイエンタールを殴る。

 

「今のは腰が入ってない。遠慮せずに、もう一度!」

 

 二回目は見事なフルスイングがロイエンタールの頬を鳴らした。

 

「警備兵!フロイライン達を詰所まで丁重に御案内しろ!」

 

 ハンスは警備兵に指示を出した後に片手でロイエンタールの襟首を掴んだまま反対の手でローザの手を握り、二人を待機していた車に放り込んだのである。

 

 これが、ケスラーの言う「ロイエンタール元帥が過去に交際した女性達から詰め寄られた件」なのである。

 帝国の歴史上、空前の事であり恐らくは絶後の事であろう。

 

「ふん。昨日の事で何があっても俺は驚かないぞ!」

 

「手落ちがあったと言われるが既に昨日の件で帝国軍の面目は丸潰れになった」

 

「昨日の件では誰も悪くはないよ。悪いのはロイエンタール元帥だけ!」

 

 ミッターマイヤー、オーベルシュタイン、ハンスの順でケスラーを一応は慰めているつもりである。

 

「実は昨日の事は地球教の陰謀でした。昨日のフロイライン達からは住所と氏名を聞き取りした後に全員を解放しましたが一人だけ架空の名前と住所の人間が居た事に後で気付いてしまいました」

 

「まあ。別に事が事だけに正直に言わないでも不思議ではないだろう」

 

 ミッターマイヤーの意見に残り二人の元帥も同意する。

 

「それが、件の女性が今回の騒ぎの首謀者である様です。一人一人の女性の所に行きフロイライン達を焚き付けた様です」

 

「で、焚き付けられたフロイラインの話を総合したら矛盾が出て来たという訳ですね」

 

「その通りでした。恐らくはフロイライン達を焚き付けて詰め寄った時にロイエンタール元帥を暗殺する気だったかもしれません」

 

「奥方の迫力に怯えて何も出来なかったという事か。無理もない」

 

 流石のオーベルシュタインも地球教に同情している。

 

「今回に限り、地球教の陰謀ではなく義挙だと思えますな」

 

 ハンスは同情を越えて応援している様である。

 これまで沈黙していたラインハルトが初めて口を開いた。

 

「そこで、卿達を呼んだのは他でもない。卿達に事実を伝えたが、この事実は帝国軍の歴史から抹消する。帝国軍が狂信者に恥を掻かされた事になる」

 

「陛下。事実を抹消したら、どうなるんでしょう?」

 

「ロイエンタールの恥になるだけだ!」

 

「はい。納得しました」

 

 その後、ラインハルトの前から辞去した三人は真っ直ぐに帰宅する気が起きずに三人で安酒場に行くのであった。

 ミッターマイヤーはオーベルシュタインを嫌っていたが昨日の騒動で急遽、ロイエンタール夫妻を新婚旅行の名目で世間から隔離した手腕には感謝していた。

 ハンスが案内をして、以前に引き抜き工作で使用した個室付きの店である。

 

「しかし、件の女性が地球教だとしても本当にロイエンタールの女だったかもしれんな」

 

 ウイスキーを片手のミッターマイヤーの感想にオーベルシュタインが応える。

 

「どちらにしろ。ロイエンタール元帥の身から出た錆びには違いない」

 

 オーベルシュタインが酒の席でも正論を話す。

 

「しかし、奥方は怖かったなあ」

 

 ハンスの述懐には実感が溢れていた。

 

「まあ。ロイエンタール元帥には丁度よい奥方かもしれん」

 

 モテる男は敵と公言するハンスさえロイエンタールには同情した。

 

「これで、ロイエンタール元帥も漁色家として最期だな」

 

 ロイエンタールは浮気をする様な男では無いが、仮に浮気心を起こしても相手にする女性は居ないであろう。

 

「確かに、あの奥方を敵に回す程の勇気のある女性が宇宙に居るとは思えん」

 

 ミッターマイヤーの感想にオーベルシュタインとハンスも納得する。

 

「では、漁色家のロイエンタール元帥の最期に乾杯!」

 

 



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リトルエンジェル事件

 

 ロイエンタール夫妻が新婚旅行から帰って来るのと入れ替りにハンスとヘッダが新婚旅行に出掛けた。

 本来はロイエンタール夫妻の新婚旅行はフェザーン遷都完了後の予定であったが諸事情により、ロイエンタール夫妻が最初に行く事になった。

 その煽りでハンスとハンスの部下やロイエンタールの部下達は連日の残業を余儀なくされた。

 ロイエンタールでも手に余る仕事量なのでハンスを幕僚総監に任命して補佐をさせていたのにロイエンタールが不在となればハンスの能力では対処が出来る筈がなかった。

 

「無茶な話だ。士官学校も出て無い人間にデスクワークなんて!」

 

「ロイエンタールが帰って来たら仕事を押し付けてやれ。奴も喜んで残業するだろうよ!」

 

 ミッターマイヤーも機嫌が悪い。ロイエンタールが抜けた為に深夜まで残業の毎日なのである。

 護衛の名目でロイエンタール夫妻を監視している警備部からの情報ではローザの怒りは凄まじいそうだ。当然と言えば当然である。結婚式の当日に新郎の過去の交際相手が押し掛けて来て寛容になれる女性などは存在しないであろう。ましてや一人、二人では無いのだから。

 

「卿がガイエスブルグ要塞をフェザーン回廊の帝国側出入口に移動させる案を出してくれたお陰で仕事と経費が減っているがな」

 

 オーベルシュタインの述懐の裏には本来なら残業時間も大きく削減される予定だった事を悔やむ気持ちが表れていた。

 

「卿でも毎日の残業は堪えるのか?」

 

 ミッターマイヤーの失礼な発言にもオーベルシュタインは冷静に対応する。

 

「正直、自分でも体力がある方とは思っていなかったが、三十代半ばを過ぎる途端に体力が落ちる」

 

 オーベルシュタインも世間的には若いとされる三十代だが四十の足音が聞こえる年齢でもある。

 

 オーベルシュタインの述懐をハンスも内心は納得して聞いていた。

 

(四十代になると更に体力が落ちるんだけどね)

 

「そ、そうか」

 

 ミッターマイヤーはオーベルシュタインの話を聞きくと自分も既に兆候が出ている事に気付き不安になる。

 

(これからは酒を控えるか)

 

「それも、全てがロイエンタール元帥が悪い!」

 

 ハンスの発言に無言で同意するオーベルシュタインとミッターマイヤーであった。

 

 ハンスから悪者にされたロイエンタールは針の筵の様な新婚旅行を送っていた。

 ローザから最初の女性から最後の女性までの交際相手を自白させられていた。

 そのつど、ローザから男性として批難されるのである。

 

「信じられない。そこまで言ってくれた女性を捨てるなんて!」

 

「だから、最初に言っているじゃないか」

 

「お黙りなさい。普通は少しは努力するもんです。それを貴方は!」

 

 ロイエンタールも反論したくとも反論が出来ないでいた。ローザの批難は正論だったからである。

 ロイエンタールは幼少期のトラウマが原因で女性不信であったが、それを克服する努力を最初から放棄していたのだから当然である。

 

「結婚したからには私がキッチリと再教育をします!」

 

 ロイエンタールは古代の偉そうな人物が言った「結婚は人生の墓場である」という言葉を思い出していた。

 

(実際に結婚してみると至言だな)

 

 フェザーンで帝国元帥達が平和的だが苦境にいた頃、ハイネセンでは同盟政府に深刻な大打撃を与える刑事事件が発覚していた。

 

 旗艦バルバロッサの砲撃兵のトニオ上等兵は、その日は急病で入院した同僚の代わりに休日出勤をした帰りに同僚を見舞いに行き医師に同僚の入院期間の説明を受けて帰宅の徒についていた。

 

「思ったより入院が長引きそうだな。明日にもシフトを考えて貰わないと」

 

 既に戦争が終結している為に人員も少ないのである。

 

「一度、オーディンに帰りたいなあ」

 

 トニオ上等兵がオーディンに残してきた家族の事を思い出して夜空を見上げていると下半身に衝撃があった。

 反射的に足元に視線を落とすと十歳程の少女がいた。

 

「危ないなあ。怪我は無かったかい?」

 

 トニオ上等兵が声を掛けると少女がトニオ上等兵の手を取ると予想外の返事をした。

 

「助けて下さい。友達が捕まっているんです!」

 

 トニオ上等兵の手を取ると走り出す。トニオ上等兵も少女の声に真剣さを感じ取り少女に案内されながら走る。

 走りながら少女から事情を聞くと公園で友達と遊んでいたら若い男に「清掃会社を知らないかい?」と尋ねられた。

 少女が清掃会社などを知る訳もなく「知らない」と応えると男は家の掃除を手伝ってくれないかと持ち掛けてきた。

 少女が断ろうと思ったがバイト料金も出すと言うので友達と相談して引き受けたのである。

 不況のハイネセンである。少女達も両親が生活費の工面に苦労をしている事を知っていたのである。

 男のマンションに行くと男から監禁されたのである。

 少女は男が仲間に呼び出された隙に幸運にもマンションから逃げ出す事に成功したのである。逃げ出した先に帝国の兵隊さんが居たのである。

 

 ハイネセンを不況に導いている側のトニオ上等兵は少女に掛ける言葉も無く少女と少女の友達が監禁されているマンションに向かった。

 少女が逃げたしたマンションには少女の友達が鎖でベッドに繋がれていた。

 トニオ上等兵が鎖をブラスターで切断した後に警察に通報するのを少女の友達が止めた。

 

「何故、お巡りさんを呼んだら駄目なのかい?」

 

 トニオ上等兵としては当然の疑問であったが少女の返答は衝撃的な内容であった。

 少女達を監禁した男の仲間が警察官だったそうである。

 以前に少女が落とし物を警察署に届けた時に御褒美のクッキーをくれた警察官だったので覚えていたそうである。

 少女の話を聞いたトニオ上等兵は自分では対応が出来ないと判断して安直に当然の選択をした。

 要は上司に報告して対処を押し付ける事である。

 トニオ上等兵は少女達を保護してタクシーで弁務官事務所に向かったのである。

 そして、トニオ上等兵から報告を受けた上司は事の重大性にトニオ上等兵と同じ対応をしたのである。

 トニオ上等兵が上司に報告してキルヒアイスまで報告が上がるまで一時間と掛からなかった。

 そして、この種の犯罪を嫌悪するキルヒアイスの行動は早かった。

 同盟政府には連絡をせずに監禁場所のマンションに憲兵隊を急行させてマンションの借り主の名前からハイネセンポリス内に男名義で借りたマンションの全てに憲兵隊を向かわせた。

 その一つで男が自殺をしているのが発見されるが憲兵の一人が偽装自殺である事に気付き少女の証言から仲間と思われる警察官を別件逮捕した。

 逮捕した警察官に対してキルヒアイスは容赦しなかった。口を割らない警察官に対して拷問もせずに自白剤の使用を指示した。

 警察官を逮捕するのと同時に警察官の自宅を家宅捜索をして顧客名簿と従業員名簿の押収に成功する。

 顧客名簿の中に記されている顧客の名前を見たキルヒアイスは箝口令を出してラインハルトに守秘回線にて報告をする。

 報告を受けたラインハルトも顧客名簿の中身に対して嫌悪感を隠そうともしなかった。

 

「ラインハルト様。如何なさいますか?」

 

「お前と同じ考えだ。キルヒアイス」

 

「分かりました。では、事の真相を明日にも発表しましょう」

 

「いや、発表は二日後にしてくれ」

 

「何故です?」

 

 時間を無駄にしないラインハルトらしかぬ言葉にキルヒアイスも不審に思う。

 

「二日後にハンスが新婚旅行に出掛ける。旅行に行けばハンスの耳に入れない様にする事が容易になる」

 

 キルヒアイスもラインハルトの危惧する事は理解が出来る。

 顧客名簿には政治家、役人、警察官、裁判官、弁護士、芸能人やスポーツ選手まで名のある人物ばかりであった。

 これが公表された時のハンスの反応は想像もしたく無い。

 

「また、トリューニヒトの惨劇を繰り返す事になりかねん」

 

 キルヒアイスも実質的なハイネセンの統治者として大量虐殺を認める訳にはいかないである。

 

「しかし、国も人も古くなれば腐敗するものですが、同盟と帝国のどちらがマシなんでしょうね」

 

 キルヒアイスの質問にラインハルトは応え様がなかった。

 戦乱の時代とは言え、自分が最高権力者となり得たのは専制政治であったからである。

 

「どちらがマシかは俺には判別が出来ないがアーレ・ハイネセンがヴァルハラで泣いているだろうよ」

 

 キルヒアイスもラインハルトの返事には同感であった。アーレ・ハイネセンと共に同盟政府を作った人々は言葉を尽くして称賛されても足りないと思うが偉大な創設者の遺産を食い潰した同盟には哀れさも感じる。

 

「そうですね。ローエングラム王朝も何時かは腐敗して他者から滅ぼされるでしょうが、それが出来るだけ遠い日でありたいですね」

 

 キルヒアイスがラインハルトにだけ言える内容である。他者が居れば問題になる発言をする。

 

「そうだな。そうなら無い為にも俺達が帝国を固める必要があるな」

 

「御立派です。ラインハルト様」

 

「俺達と言ったからな。俺一人ではなく、キルヒアイスにも頑張って貰うぞ!」

 

 ラインハルトの照れ隠しに思わず笑みがこぼれるキルヒアイスであった。

 

 憲兵隊の捜査が進む内に顧客達からは子供達を「リトルエンジェル」と呼んでいた事が分かり後世の歴史家が同盟末期の腐敗を記す時に必ず例として挙げる「リトルエンジェル事件」の全容解明の始りであり、同盟崩壊の引き金となる事件であった。

 

 



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新婚旅行

 

 ロイエンタールが新婚旅行から帰り職務復帰すると入れ替りにハンスは新婚旅行に出掛けるのであった。

 新婚旅行先であるフェルライテン渓谷は渓流が有り川魚の養殖場や放流もしている。

 

「これで、温泉でも有れば完璧!」

 

 ヘッダは自分の夫の趣味が年寄臭いのに呆れていた。

 

「貴方、本当に私より年下?」

 

 思わず真実の一端に触れる事になるヘッダであった。

 

「バレた。実は九十近い歳なんだけど」

 

「年上過ぎるわ!」

 

 事実は時として常識に駆逐されるものである。

 新婚旅行一日目は他愛無い会話をして二人は早目に就寝したのである。

 ハンスはロイエンタール不在の為に連日の残業で疲れていたし、ヘッダも結婚式の騒動で色々とテレビの出演が多かった為である。

 ロイエンタールが女性達に詰め寄られる場面はカメラマンの機転で撮されなかったが音声は帝国中に流れていたので帝国中のゴシップ好きの好奇心を刺激する結果になった。

 

「舞台より疲れるわ」

 

 普段はテレビのトーク番組等は出演しないヘッダであったが、今回は結婚の報告という形でオファーを受けていた為に出演をしたが、当初はハンスの事を聞かれると想定していたが聞かれるのはロイエンタールの事のみだった。

 

「まあ。ロイエンタール元帥には感謝だな」

 

 流石にハンスもヘッダとの事を他人に聞かれるのは照れ臭いのである。

 そうした事情から二人は新婚旅行一日目は甘い会話等はなく食事と入浴を済ませると就寝となった。

 翌日は二人して起きたのは昼近くになってである。

 

「養殖場で新鮮な川魚料理が食べれるわよ」

 

 風呂上がりにヘッダが山荘に入れられた広告をハンスに見せる。

 

「渓流を利用した養殖場か。川魚は食べた事が無いからなあ」

 

「じゃあ。決まりね」

 

 二人は急いで着替えると養殖場に行くのであった。

 

「想定外の大きさ!」

 

「川魚って、こんなに大きくなるのね」

 

 二人の目の前にはヘッダの腕と変わらない大きさマスが皿に乗っていた。

 

「これ、一匹で満腹になるサイズだな」

 

「そうね」

 

 二人は巨大なマスを完食した後に別の種類の小型のマスも枝に刺して焼いていたので注文して完食した。

 

「昔からテレビや映画で見るだけで食べた事が無かったからなあ」

 

「私も舞台が中心だから無かったわ」

 

「オーディンの屋台でホイル焼きは売っているけどね」

 

 二人で仲良く四匹ずつ完食して従業員を驚かせた。

 満腹になった二人は山荘に帰り仲良く昼寝をする。

 二人が起きると既に日が落ちて辺りは暗くなっていた。

 

「夜は何が食べたい?」

 

 新婚旅行中も食事はハンスが作る様である。

 

「そうね。昼は魚だったから夜は肉料理かしら」

 

「了解!」

 

 山荘の冷蔵庫には食材が満杯である。事前に発注していて食材に困らない。

 一時間後、サラダとシチューとステーキとクヌーデルが食卓に並ぶ事になる。

 

「ワインは何がいい?」

 

「ビールがいいわ」

 

「了解!」

 

 二人は食事をしながら明日の予定を相談する。

 

「明日は晴れみたいよ」

 

「それなら、養殖場で釣りでもするか」

 

「そうね。それがいいわ」

 

 同居を始めて五年の年月が経つと会話もベテラン夫婦状態である。

 

「明日はパスタでいい?」

 

「何でもいいわよ。結婚式から残業ばかりで疲れているでしょう」

 

 ラインハルトとヒルダの様な初々しい会話は無いが互いを気遣う気持ちが言葉から溢れている。

 食事が終わると二人はバルコニーでグリューワインを片手に星を眺めていた。

 

「ほれ、渓谷だけあって、夜風は冷たいよ」

 

 言葉と同時に後ろからヘッダを抱き包む。ヘッダも黙って背中をハンスに預ける。

 

「昔は立場が逆だったのにね」

 

「そりゃ、少しは成長するわ」

 

 ヘッダと一緒に暮らし始めた頃はハンスが後ろからヘッダに抱き付かれるのが常であった。

 ヘッダが手をハンスの顔面まで伸ばすとハンスの鼻を掴んだ。

 

「痛い!痛い!」

 

「弟の分際で生意気よ!」

 

「もう、弟じゃない。旦那だ!」

 

「煩い!屁理屈を捏ねるな!貴方は私の永遠の弟よ!」

 

 ヘッダが理不尽極まりない事を言う。

 

「心も体も全て私の物だからね!」

 

「分かった!分かった!」

 

 ハンスは情けない事にヘッダに無条件降伏をした。

 

「分かれば宜しい」

 

 恐ろしきは女性の独占欲である。そして、ヘッダから独占される事に心地よさを感じるハンスであった。

 

「星が綺麗ね!」

 

「ケチなフェザーン人が軌道エレベーターを作った甲斐がある」

 

 本来は離着陸にコストが掛かる為に作った軌道エレベーターであったが大気汚染を防ぐ役目も果たしていた。

 

「もう、ここは私の方が綺麗と褒める場面でしょう!」

 

「そんな、当たり前の事を言うだけ時間の浪費だよ」

 

「それでも言うものよ!」

 

 女性とは我儘な生き物である。ハンスが苦笑していると通信が入った事を知らせる着信音が流れてきた。

 

「はいはい」

 

 ハンスがヘッダを置いて部屋に戻った。

 

「ミューゼル閣下には新婚旅行中に申し訳御座いません」

 

 画面の中で恐縮するシュトライトが居た。

 

「別に構わないけど、何か緊急事態でも?」

 

 ハンスもシュトライトが連絡してきたので深刻な事態かと、一瞬で軍人の顔に切り替える。

 

「緊急事態と言えば緊急事態なのですが、本日、フェザーン回廊の帝国側付近で船団の多重事故が起こりました。幸いにも死傷者は出ませんが回廊を封鎖している状態でシュタインメッツ艦隊が処理に出ました」

 

「何もシュタインメッツ艦隊を使わなくとも他の艦隊が居るだろうに」

 

 シュタインメッツはハンスと入れ替りに新婚旅行に出掛ける予定なのである。

 

「それが、直ぐに出動が出来る艦隊がシュタインメッツ艦隊と黒色槍騎兵隊艦隊だったのです」

 

「それは、賢明な判断ですね」

 

 ハンスもビッテンフェルトに事故処理の能力が無いとは思ってないが救出される側の人の心情を思えば納得するのである。

 ビッテンフェルトは口も悪く短気だが気が優しく寛容な人物でもある。

 だが、日頃の言動が一般人には乱暴者だとの印象を与えてるのである。

 

「まあ。救出される人達に余計な負担を掛ける訳にはいかんからなあ」

 

 シュトライトはハンスの感想を礼儀正しく無視をしている。

 

「それで、シュタインメッツ提督がフェザーンに帰還されるのが五日後になりますので、陛下が結婚式の時の褒美も兼ねて元帥の休暇も五日間の延長をお認めになりました」

 

「そうですか。それで陛下は?」

 

「各尚書と対策会議をされてます」

 

「では、陛下にはミューゼルが感謝していたと伝えて下さい」

 

「了解しました」

 

 通信を切るとハンスはテレビのスイッチを入れた。

 テレビではフェザーンで人気のクイズ番組が放送されていて画面の上部にはニュース速報のテロップが流れていた。

 

「何か緊急事態だったの?」

 

 ヘッダが心配そうな声を掛けながら部屋に入って来た。

 

「いや、貨物船団の事故が起きたみたいだけど、今回は提督達だけの出番みたいだよ」

 

「そう。大きい事故なの?」

 

「いや、死傷者は出て無いよ」

 

「それは、良かったわね」

 

 ハンスはヘッダにシュトライトが連絡してきた内容を話す。

 

「事務所の方は大丈夫かしら?」

 

「心配でも連絡するなら、明日にしなよ。陛下が対策会議をしている段階だと民間までは情報は入ってないかもよ」

 

「それも、そうね」

 

 二人が話をしていたらヘッダの事務所から通信が入った。

 通信の内容はハンスと同じで休暇の延長であった。次の公演の機材が事故の為に届かないのである。

 

「色々な所に影響が出ているなあ。陛下が会議を開く筈だ」

 

 その日は、そのまま就寝する二人であった。

 翌日、二人はサラダとトーストとコーヒーの簡単な朝食を摂ると養殖場に向かいマス釣りを楽しむのである。

 釣り具も養殖場でレンタルをしていた。

 

「なるほど、養殖場で孵化させた魚を放流しているのか」

 

「重さじゃなく数で料金が変わるから大きい魚を狙うわよ!」

 

(金持ちの癖にセコいなあ)

 

 何故か異常に気合いが入っているヘッダに内心は呆れているハンスである。

 

「欲深い事を言っているけど、釣り糸が細いから大物は糸が切れるぞ!」

 

(しかし、考えたもんだ。重さではなく数で料金を取るから小さい魚はリリースするし、大物は釣り糸が細いから釣り上げられん)

 

 ハンスも養殖場側も大物は釣れる筈がないと思っていたが両者の予想は大きく外れた。

 ヘッダが川の主とも言える大物を釣り上げたのである。

 

「確かに重さに関係なく数で料金を頂いてますけど、本当に釣り上げる人がいるとは完全な想定外です」

 

 養殖場の係員の声には驚きと悔しさと称賛と呆れの成分がブレンドされていた。

 

「だろうね。途中で諦めると思ったけど、まさかね」

 

 ハンスの声にも係員と同様の成分がブレンドされていた。

 

「まさか、三時間半も格闘するとは、それも女性で!」

 

 ハンスも苦笑するしかなかった。ヘッダは魚が弱るまで竿を持ったまま渓流を縦横無尽に走り回ったのである。

 

(そういえば、子供の頃に読んだ釣り雑誌に二十三時間も魚と格闘した記録があったなあ)

 

 ヘッダが釣り上げた魚と記念写真と認定証を両手に眩しい笑顔で戻って来た。

 

「今日の夕食は魚のフルコースね!」

 

 ヘッダが能天気な事を言っている。

 

「俺が捌くのか」

 

「当然でしょう!」

 

 ヘッダも料理は出来るが日頃はハンスに任せている。

 ハンスとしては自分で捌けと言いたいが魚のサイズから考えても女性には無理なのは分かる。

 養殖場の調理人に任せる事も考えたが別料金を請求される事は分かっている。

 既に記念写真と認定証の発行に別料金を取られているのである。

 ハンスも高給取りの癖にセコい事を考えていた。

 

「仕方ない。ムニエルとフライとパイ包みにするか。後はシャンパン蒸しと塩焼きかな」

 

 結局、二人は旅行中、毎日の様に釣りを楽しみ旅行中の食卓は魚料理の大軍に占領される事になる。

 こうして、ハンスとヘッダの新婚旅行は平和に過ぎて行くのであった。

 

 

 



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瓦解

 

 ハンスが新婚旅行から帰り職場復帰すると「リトルエンジェル事件」が耳に入ってきた。

 ハンスは耳に入ると同時にラインハルトに謁見を申し込む。

 休暇明けの報告と休暇延長の礼をする為であるからラインハルトも断れない。

 執務室に通されたハンスは形式通りの挨拶をしただけで「リトルエンジェル事件」には言及しないので、逆にラインハルトから話を振る事になった。

 

「卿の事だから、逆上して苦情の一つでも言うと思ったのだがな」

 

「逆上してますよ。しかし、逆上してますけど、陛下が休暇を延長して新婚旅行先で情報封鎖した判断の正しさも理解しています」

 

 ラインハルトもハンスの反応には拍子抜けした様である。

 

「詳細を知りたいですが、誰に聞けば宜しいのでしょうか?」

 

「後でリュッケに報告書を届けさせる」

 

「御意」

 

 リュッケがハンスの執務室に報告書を届けに行くとハンスは留守であった。

 代わりにクナップシュタインが報告書を受け取る。

 

「閣下から卿が届ける報告書を受け取る様に指示されている」

 

「はあ。それは分かりましたが閣下は何方に?」

 

「射撃場に行っている。例の事件を知ると鬼の形相をしていたからな。ガス抜きをして貰わんと周囲の人間が迷惑する」

 

 クナップシュタインはハンスの鬼の形相の被害者らしい。

 

「確かにミューゼル元帥なら逆上するのも当然でしょう。シュトライト閣下も似た様な状態です」

 

「そうか。シュトライトには確か娘さんがいたな」

 

「はい」

 

 ラインハルトがリュッケに報告書を届けさせたのもシュトライトが原因らしい。

 帝国軍の内部でも今回の事件には怒り心頭の様である。特に娘を持つ者の怒りは尋常ではなかった。

 クナップシュタインとリュッケが互いの身の上に共感していた頃、娘も居ないのに尋常ならぬ怒りを抱えたハンスは無辜な的に八つ当たりをしていた。

 

「閣下もですか」

 

 ハンスが規定弾数を撃ち尽くして床に散らばった空薬莢の回収を始めた時にビッテンフェルトが声を掛けて来た。

 

「ビッテンフェルト提督もかい?」

 

 ハンスの応答は質問でもなく確認であった。

 

「はい。小官も例の事件以来、ここに日参してます」

 

「ビッテンフェルト提督の方が年齢も上だし閲歴も上。私みたいなインスタントの元帥じゃなく本物の元帥なんだから二人きりの時は気を使わなくてもいいですよ」

 

 ハンスは気さくな事を言うが根から軍人のビッテンフェルトにしたら「では、遠慮なく」とは言えない。

 

「そう言って頂くのは光栄ですが、それでは組織として示しが付きません」

 

「帝国軍の軍人は本当に真面目だね」

 

 実はビッテンフェルトはハンスが苦手なのである。アムリッツァ会戦でハンスの警告を忘れて大損害を出した時にブリュンヒルトでのハンスの反応がトラウマになっている。

 それに、ビッテンフェルトはハンスの自己評価の「インスタント元帥」は過小評価だと思っている。

 

「閣下を基準にしないで下さい!」

 

「えっ!」

 

 思わず頭を抱えたビッテンフェルトであった。

 

(本人に自覚が無いのか。陛下も苦労しておられる)

 

 問題児の部下に苦労する上司に同情するビッテンフェルトであったが問題児の上司に苦労する部下が近付いた事には気付かなかった。

 

「提督。こんな所に逃げていたのですか!」

 

 ビッテンフェルトの副参謀長のオイゲンが上司の襟首をガッチリ掴む。

 

「こら、逃げているとは人聞きの悪い!」

 

「気晴らしなら仕事を終わらせてからして下さい!」

 

「まさかとは思うが部下に仕事を押し付けてたのか!」

 

 ハンスが瞬時に事態を把握した。

 

「元帥閣下の御明察通りです。提督のサインじゃないと通らない書類もあるんですから」

 

「卿を信頼しているから、卿に一任している」

 

「御信頼して頂いて光栄ですが、小官が提督の名前でサインするのは違法です!」

 

 ハンスも呆れて何も言えないのであった。ハンス自身も書類仕事は苦手だが部下に自分の名前でサインさせる事は無いのである。

 ビッテンフェルトがオイゲンに連行されて行くのを見てハンスも急いで自分の執務室に戻るのであった。

 

「思ったより、早かったですね」

 

 執務室に戻るとクナップシュタインが報告書を手に待っていた。

 

「早速ですが、先程、リュッケが持って来た例の報告書になります」

 

「ありがとう。余計な手間を掛けさせたな」

 

 クナップシュタインは報告書をハンスに渡すと執務室を出て行った。

 

(そんなに慌てなくとも報告書を読んで逆上はせんよ)

 

 一時間後にはハンスは自分の言葉を裏切る事になった。

 ハンスが予想していたより同盟の腐敗は進んでいた。

 警察官個人の関与ではなく、警察が組織的に関与していた。

 

「政府高官や著名人が顧客をするだけじゃなく運営にも関与していたのか」

 

 逆行前の世界で一種の都市伝説として聞いていたが規模がまるで違う。

 

「帝国の旧王朝の方がマシではないか!」

 

 ゴールデンバウム王朝時代は門閥貴族同士が牽制して組織的な犯罪は少なかった。

 もう一つの理由としてリヒテンラーデ侯が睨みを効かせていた事も大きい。

 帝国も未成年の売春が皆無では無いが同盟に比べれば極少数であった。

 

(この歳まで、汚い物も随分と見て来たが、ここまで汚いとは)

 

 歴史的に未成年の強制売春は貧しい国や戦乱の時代では珍しくは無かった。

 しかし、警察や政府高官までが組織的に絡んでいたのは珍しい。

 西暦が使用されていた時代に東洋の島国では宗教施設の本部で娼館を経営していた事もあった。当時の出入り商人が驚き記した日記が発見されている。

 

「人間は何処までも醜くなれるもんだ」

 

 キルヒアイスは同盟政府に対して協力という名目で組織に関与していた者を逮捕して全貌を解明した上で身柄を同盟政府に引き渡している。

 

「キルヒアイス元帥も強烈な揺さぶりを掛けたな」

 

 キルヒアイスは同盟市民に対して「こんな政府を信用して支持するのか」と暗に問い掛けているのである。

 

「まあ。権力者が誰だろうと関係がない。安寧な生活をさせてくれる者が大事なんだから」

 

 ハンスは同盟に未練は1グラムも無いがアーレ・ハイネセンと共に建国した人々の考えると寂寥感に捕らわれてしまう。

 

「敗戦により国が滅ぶのではなく自滅するとは、悲しい事だな」

 

 ハンスに哀れまれた同盟政府は政府として物理的にも機能が出来なくなっていた。

 行政の各分野で幹部級の人間が逮捕された事により齟齬が起きていた。

 特に物流システムに問題が発生して食糧難になる星系も有れば収穫した食糧を出荷する事が出来ずに腐らせてしまう星系も出てしまった。

 

 ハンスが職場復帰をして二週間後には同盟から四星系が独立を宣言して帝国に帰順を求めたのである。

 シャンプール、カッファー、パルメレンド、ネプティスである。

 この四星系は救国軍事会議のクーデターの際に本国からではなくイゼルローン要塞の駐留艦隊により解放されたのだが、この事により本国に対して不信感を持つ様になっていた。 

 

「連中にしたら我々は辺境でありバーラト星系以外は眼中に無いのでは無いのか?」

 

「何故、本国から救援の艦隊を出さなかったのか?」

 

「これでは、ユリウス戦役以前と同じではないか!」

 

 そして、彼らは決意させたのは物流システムに狂いが生じた時にバーラト星系に優先した様に見えた為であった。

 本来、バーラト星系は消費系の星系で自然と物資が集まりやすいのだが、他の星系からはバーラト星系を優遇している様に見えたのである。

 そして、自由惑星同盟の名から分かる様に同盟の各惑星は本来は独立した星系でありハイネセンと対等の関係であった。

 地球政府と同じくハイネセンが暴走しない為の建国者達の知恵であった。

 しかし、今回は完全な裏目となったのである。

 四星系は帝国に帰順をするのと同時にインフラの整備と各種の助成金を人道支援として要求してきたのである。

 帰順を表明した四星系に対して帝国政府は来る者を拒まずの態度で受け入れたのである。

 この事が呼び水となり他の星系も帝国への帰順を考え始めたのである。

 

「四星系の帰順を無条件でお認めになられたのですか?」

 

 ラインハルトから食事に招待されたハンスはラインハルトと食後のコーヒーを飲みながら質問した。

 

「無条件に帰順を認める筈は無い。帰順に対して帝国の行政システムに従う事と星系政府が経営した企業を帝国の直営企業にする程度だがな」

 

「具体的には財務尚書が担当している」

 

「賢明な判断ですな」

 

「余よりルビンスキーの方が向いている」

 

「しかし、これからは帰順を申し込む星系が増えるでしょうな」

 

「既に財務省と内務省にマニュアルを作らせている」

 

「しかし、同盟から独立しても帝国に帰順をしないで自立する星系も出てくるのでは?」

 

「それは、相手の出方次第だな。ヤン・ウェンリーとの約束もある」

 

「因みに自立を認める基準は如何なさいます?」

 

「一つは独立を宣言するには災害等の例外を別にして経済的にも自立をしている星系である事」

 

「まあ。当然ですな」

 

「二つ目は同盟政府と争う事になっても助力を求めない事」

 

「それは心配無いでしょう。今の同盟に軍を動かす余裕は無いでしょう」

 

「既に経済破綻をしている同盟に軍を動かす余裕は無いが人材は残っている。彼らの何方かが引退したヤン・ウェンリーを担ぎ出す暴挙に出ない様に警戒が必要になる」

 

 それはハンスが危惧していた事でもある。ヤン・ウェンリーは妻が妊娠中であり、歴史学者として人生の本道に戻ったのである。

 

「陛下も父親になり良い意味で人が変わられましたな」

 

「卿も数年後には余と同じになる。いや、なって貰わねば困る」

 

 照れ隠しなのか。何時もの癖なのか。ハンスの褒め言葉には素直になれないラインハルトであった。

 

「いずれにしても、今月末で遷都も完了する。余だけではなく行政の専門家達にも相談する必要がある」

 

 新帝国歴002年 宇宙歴800年 9月1日

 

 新銀河帝国はフェザーンを新たな首都星と定めた。

 それと、同時に四星系を新たな領土として発表したのである。

 自由惑星同盟の瓦解の序曲は始まったばかりである。

 

 

 

 

 

 

 



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 九月に入り遷都が完了すると帰順した四星系の法的手続きと行政整備で各省庁が忙しくなる。

 軍務省も例外では無く治安維持の為の駐留艦隊の派遣の準備で忙しい。

 この当時、最も忙しい軍高官はミッターマイヤーであった。

 妻であるエヴァンゼリンが臨月なのである。

 愛妻家のミッターマイヤーとしては妻の事が心配で勤務時間の合間に家に連絡を入れながら、子持ちの人間を見れば誰かれ構わずに色々と質問する始末である。

 周囲の人達も苦笑するしか無いのである。

 

「まあ。無理も無い。待望の子供だからなあ」

 

 ハンスも苦笑しながらもガイエスブルグ要塞の移動計画の準備で忙しい。

 

「そう言えば、オーディンに居る、ヤン・ウェンリーも娘が誕生したと聞く」

 

 ロイエンタールも駐留艦隊の人事に忙殺されながらもオーディンで幸せそうなヤンの話をする。

 根底には「学者の真似事を辞めて帝国元帥となって仕事を分担しろ!」との思いがあるのだが、ロイエンタールはヤンのデスクワーク能力を知らない。

 

「ヤン・ウェンリーなら、今月末にフェザーンに到着しますよ」

 

「何!」

 

 驚くロイエンタールに対してハンスは涼しい顔である。

 

「自分とヤン夫人とは旧知の仲でしてね。先日、女の子が誕生したそうです」

 

 学芸省がフェザーンの移転と同時に学芸省の職員であるヤンもフェザーンに移住するのは当然である。

 実は、ハンスは地球教の残党とエル・ファシルが裏で手を結びフレデリカなり娘なりを人質に軍服を着させる事を危惧しているのである。

 オーディンに残留しているのは、メックリンガーとケンプにワーレンである。彼らは優秀な軍人だがテロリスト相手では分が悪い。

 警備上の都合を考えたら自身の目の届く場所に居て貰う方が良い。

 

「意外の様で当然と言えば当然だな。卿はハイネセン出身だったな」

 

 そこまで言って、ロイエンタールの表情が途端に曇る。

 

「ロイエンタール元帥。どうしました?」

 

 ハンスもロイエンタールの表情を見て、何か深刻な事に気付いたのかと不安になった。

 ハンス自身は地球教のテロを警戒していたが何か見落とした事があったかもしれない。

 

「いや、ヤン・ウェンリーがフェザーンに来るなら、護衛役の男の娘も来るのだな」

 

 二瞬程の間、ハンスは考えたが、ロイエンタールが何を危惧したが分かり吹き出してしまった。

 

「そりゃ、カリンも来るでしょう。まだ、十六歳ですよ」

 

 ロイエンタールの顔が一気に青くなる。

 

「カリンに女性関係でも責められましたか?」

 

「煩い!元は卿の頼みだろうが!」

 

 図星だったらしく、ハンスは笑いを噛み殺すのに苦労する事になった。

 

 九月末になると予定通りにヤンがフェザーンに到着する。

 

「お久しぶりです。ヤン提督」

 

 ハンスは宇宙港までヤンの出迎えに来ていた。

 

「此方こそ、オーディンでは色々と配慮して頂きました」

 

「対した事はしてませんよ。しかし、可愛い娘さんですなあ」

 

 ハンスは逆行前の世界では子供をどころか結婚もせずに生涯を閉じた。

 家庭を持てなかった事に後悔は無いが未練はあった。その反動か子供好きになっていた。

 

「閣下。抱いてあげて下さい」

 

 フレデリカが娘をハンスに手渡すとハンスは慣れた動作で娘を受けとる。

 逆行前の世界で歓楽街で働いていた時にホステス達の赤ん坊の世話もした事があったハンスである。

 

「本当に可愛いですなあ。夜泣きとかは大丈夫ですか?」

 

「ええ。父親に似た様で、よく寝る子です」

 

 フレデリカの後ろに居たシェーンコップ一家が笑いを噛み殺していた。

 フレデリカに赤ん坊を返すとハンスはカリンとエドワードに声を掛けた。

 

「二人とも大きくなったな!」

 

 ハンスが親戚のおじさんの様な事を言う。

 

「お久しぶりです。閣下!」

 

 二人一緒に仲良く異口同音に挨拶する姉弟であった。

 

「元気があって宜しい!」

 

「お久しぶりです。閣下」

 

 最後にシェーンコップが挨拶をする。

 

「卿も父親稼業が板に付いたらしいなあ」

 

「閣下も登り詰めましたね」

 

「うん。残念ながら」

 

 ハンスの返答にヤンだけが同情している様子である。

 

「貴官には用事があったのだ」

 

「ほう。何用ですかな?」

 

「卿の保護者の責務についてだ。卿の子供達は姓が二人とも違うから、此方の役所が事務手続きで混乱しているのだ」

 

「いや、そうでしたか」

 

「手続きの為に卿からサインを貰わねばならんのだ。という事で提督。シェーンコップを少し借りますよ」

 

「分かりました。私達はラウンジで待っています」

 

 ハンスはシェーンコップを連れて宇宙港の事務所の一室に入った。

 

「で、元帥閣下。何用ですかな?」

 

 シェーンコップが先程の会話はハンスがシェーンコップと二人きりで話す為の方便であると既に見破っていた。

 ハンスもシェーンコップが見破っている事を承知していた。

 

「実は地球教の残党の事だよ」

 

 ハンスはシェーンコップにソファーを勧めながら本題に入る。

 

「地球教の残党と同盟から自立した共和星系が共謀してヤン提督を誘拐する可能性がある」

 

 豪胆なシェーンコップの眉も僅かに動く。

 

「ヤン提督なら宇宙中の共和主義者の糾合も可能だからね」

 

「それを何故、本人ではなく私に?」

 

 シェーンコップにしたら当然の疑問である。

 

「言っても効果のある人かい?」

 

 ハンスの意見にシェーンコップも反論が出来ない。

 

「それに、娘も生れたばかりだからなあ」

 

 この意見にもシェーンコップは反論が出来ない。シェーンコップ自身も二人の子持ちになると以前の様に捨て身になれない。

 ヤンも同様に娘を人質に取られたら、完全にお手上げである。

 

「そんな事で護衛役の貴官の働きに期待する訳だよ」

 

 シェーンコップは一つ溜め息をついてから返事をする。

 

「情報提供に感謝します」

 

 シェーンコップもハンスについては複雑な心境である。シェーンコップとは逆に同盟から帝国に亡命して同盟を嫌いながら同盟の民政には尽力する。

 更に軍隊を嫌いながら軍隊で栄達した人である。

 

(ヤン提督と似ているな。ヤン提督は元は社長のボンボンで育ちの良さが出ているが、この人は逆に育ちの悪さが出ている)

 

 シェーンコップも稀有な存在である。軍人としても優秀であるがシェーンコップの最大の特徴は人物鑑定が正解な事であろう。

 こうしてハンスはシェーンコップにヤンの護衛の強化を促す事に成功した。

 その一方でハンスはロイエンタールの新妻であるローザをヒルダの護衛役に抜擢しているのである。

 当初、ロイエンタールはローザをヒルダやアンネローゼの側に近寄らせる事に拒否をしていた。

 

「ハンス。あれは、皇妃陛下や大公妃殿下の前に出せる女ではないぞ」

 

 ロイエンタールの危惧も当然である。ローザは市井の出身である。それも下賎と呼ばれる側なのである。

 

「逆に良いでしょう。お二方には庶民の事を理解して頂ける好機でしょう」

 

 庶民という言葉を使われると裕福な貴族の出身のロイエンタールには何も言え無くなるのである。

 元帥夫人として屋敷で無聊を託つローザがハンスの話に乗る気なのである。

 

「やる。やる!」

 

「意欲的なのは助かるが、せめて労働条件を聞いてからにしなさい」

 

 どうやらハンスと同様に畏まった生活は苦手の様であるらしい。

 そして、労働条件についてハンスとローザの熾烈な戦いが開始されたのであった。

 

「奥様が倹約家なのは承知してましたが同じ倹約家であるミューゼル元帥と互角に交渉される程とは思いませんでした」

 

 ロイエンタールとして汗顔の至りである。皇妃と大公妃の二人の側で働ける事だけで栄誉な事である。それを労働条件で吝嗇で有名なハンスと互角に争ったのである。

 

「ロイエンタール家は良い女主人を手に入れた。普通は働く事もせずに散財するのにな」

 

 ハンスが皮肉を言っている訳でなく純粋にローザを褒めている事が分かるからロイエンタールは文句も言えない。

 ロイエンタール家は帝国騎士の家柄だが母方の実家は伯爵家である。故に帝国貴族の価値観を自然と持っていて、女性が外で働く事に違和感を感じるのである。

 逆にハンスは社会の最下層の人間であるので女性が働く事は普通であり、女性ながら護衛役等は高度な技術職と思える。

 

「陛下がハンスを側に置き重用される理由が今更ながらに理解が出来た気がする」

 

 実際にローザが働き始めるとヒルダとアンネローゼからは好評を得る事になる。

 ヒルダもアンネローゼも銃を握り男性同様に働くローザに対しては羨望の眼差しであった。

 

「ローザさんは本当に凛々しいわ」

 

「本当にローザさんに早く会っていたらローザさんと結婚していたかも」

 

「あら、残念。私も皇妃様なら喜んで結婚しましたわ」

 

 ローザは仮皇宮中の女性達から好意を寄せられていた。

 一因としてはローザの格好にあったかもしれない。

 護衛役という役目柄、ローザはスーツスタイルであった。ヒルダのスーツ姿は美少年という趣きがあったのに対してローザのスーツ姿は美青年の趣きがある。

 丈の短いスーツの上下に足はスニーカーを履き両手にはグローブを嵌めて黒いセミロングの髪は後ろで纏めている。

 因みにジャケットの下には二丁の銃が姿を隠している。

 最初は敵を油断させる為に私服のスカートとトレーナー姿だったが、どう見ても高校生にしか見えずに警備兵から間違われるので護衛役らしいスーツ姿にしたのだ。

 

 こうして、ハンスはヒルダとヤンの盾を用意して迎撃の準備を整えて地球教を待ち構えたのである。

 

 

 

 

 

 

 



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柊館の死闘 前編

 

 ローザの朝は早い。ラインハルトが仮皇宮である柊館を出る前に柊館に詰めるのである。

 柊館ではヒルダとアンネローゼの話相手する。ヒルダもアンネローゼも世事に疎い部分があるのでローザの話す世間話に時には笑い声を上げ、時には真剣に考えながら興味深く聞くのである。

 そして、時には家人にもローザの武勇談を乞われるのである。

 逆に家人は医療の心得が有る者達ばかりなのでローザも色々と応急手当について家人から教わるのである。

 そうして、一日が過ぎると、やがてラインハルトが帰宅する。

 皇帝一家の護衛を親衛隊に任せてローザは帰宅するのである。

 

「お帰りなさいませ。陛下」

 

「お帰りなさい。ラインハルト」

 

「姉上も皇妃も何事も無かっただろうか?」

 

(何処で育て方を間違えたのかしら)

 

 もうすぐ子供も生まれるのに名前で呼び合う事をしない弟夫婦にアンネローゼも苦笑しながらもアンネローゼは黙って部屋を出て行く。

 

「皇妃。余は明日から暫く宇宙に行く事になる。身重の貴女を残す事を許して欲しい」

 

 ラインハルトが不器用ながらもヒルダを気遣う言葉にヒルダは自然と笑みがこぼれる。

 ヒルダの本音は夫のラインハルトや父親のマリーンドルフ伯よりも、アンネローゼが側に居てくれる事が心強い。

 

「陛下。無用の心配ですわ。大公妃殿下も居られます。陛下は安心して政務に励んで下さい」

 

「すまぬ。姉上には余からも頼んでおこう。フェザーン回廊を出る事もない。三日程で帰って来る」

 

「ガイエスブルグ要塞の到着ですね」

 

「うむ。ハンスが新しく作るよりは移動させた方が手間と費用の節約になると提案してな」

 

「ミューゼル元帥らしいですわ」

 

「その提案したハンス自身はフェザーンに残る事になる。視察に行くのに元帥全員がフェザーンを離れる訳にはいかぬ」

 

「はい」

 

「それと、エミールも残して行く。あれは余と違い軍医志望で何かと役立つ」

 

「エミールは本当に素直で良い子ですわ」

 

「ハンスの奴もエミールの半分程で良いから素直さが欲しいものだが」

 

 二十歳の男を幼年学校の生徒と同列に評する事が間違いだと思うヒルダであったが口にした事は別であった。

 

「ミューゼル元帥も十分に良い子だと思いますよ」

 

「皇妃もハンスの術中に嵌まるとは」

 

 ラインハルトはハンスが相手になると自身が皇帝という立場を忘れる様である。

 キルヒアイスとは別の形の友人なのである。

 

 翌朝、ラインハルトが出掛けるのと入れ替りにハンスが訪問すると家人を集めて緊急事態に対する訓練を行う。

 

「陛下が不在の隙を狙いテロがあるかもしれません。皆さんには不測の事態が起きても慌てずに落ち着いて行動して下さい」

 

 ハンスの口調は帝国元帥というよりは消防署の職員の様な口調である。

 それでも、ハンスの地位と口調で家人達も真剣に話を聞いていた。

 

「何か質問はありますか?」

 

(この人は本当に元帥なんだろうか?)

 

 付き合いの短いローザが不審に思うのも当然である。

 ハンスにしてみれば長年の間、色々と職を変えて来た内の一つでしかないので、自身が軍人らしくないのは当然だと思っている。

 それでも、半日を使い家人達に緊急時の対応を覚えさせる事に成功する。

 

(来るとしたら明日だな)

 

 この日の為にラインハルトと三長官をフェザーンの地表から追い出したのである。

 そして、明日はケスラーとマリーンドルフ伯の両者が帝都を離れる予定である。

 

(最大の餌までの道に水を打ち、掃き清めて用意しているんだ。喰い付いて来てくれよ)

 

 ハンスの誘いに地球教も罠とは思っていても千載一遇の好機の誘惑に抗えなかった。

 一つには首謀者であるデグスビイの不在が大きかったのである。

 デグスビイも元から健康な体ではなかった。サイオキシン麻薬と酒毒の後遺症に蝕まれていた。万全を期して臨んだウルヴァシーでの襲撃が失敗した心労から入院したままである。

 本来なら医師も匙を投げる病状でありながら僅かながら快方に向かっているのはデグスビイの精神の強さであろう。

 しかし、残念ながらデグスビイは入院中であり残された部下達は暴走する事になる。

 地球教本部壊滅によりデグスビイ以外の幹部が全滅した為に暴走する信徒を抑える事の出来る人間が居なかったのである。

 それでも、残された部下達の計画と実行の手際は見事であった。

 

 柊館は仮の皇宮である。名の由来は門の両側に柊の木が植えられている。玄関の扉にも柊の彫刻がなされていた。過去形になるのは仮皇宮にされた時に防犯上の理由でハンスが交換してしまったのである。

 

「ハンスはラインハルトの性格を良く理解していますわ。交換前に言えば「無駄な事をするな」と言うでしょうけど、交換した後に言えば「そうか」の一言で終わりますわ。ラインハルトは光年単位以下の事には興味がありませんから」

 

「大公妃殿下も陛下の事を良く御存知ではないですか」

 

 ローザがアンネローゼの淹れたコーヒーを片手に感想を述べる。

 

「それは、姉なら当然ですよ」

 

「確かに陛下は光年単位以下の事に興味が無いですから、ミューゼル元帥やローザさんみたいな方は貴重ですわ」

 

 ヒルダの感想にハンスは別にしても自身に対しては過大評価だとローザは思う。

 

 三人の女性がコーヒーを片手に平和を満喫していた頃、憲兵隊本部では修羅場になっていた。

 11時30分に匿名の通報があり地球教が皇帝の留守を狙い大規模なテロを計画しているという内容であった。

 

「狡猾な!総監が不在の時を狙っての犯行か!」

 

「すぐに総監に報告します!」

 

「大本営も忘れるな!」

 

 素早い指示であったが地球教の行動は憲兵隊を凌駕していた。

 

「駄目です!帝都周辺の通信施設が既に破壊された模様です。総監に連絡が取れません!」

 

「大本営は?」

 

「大本営には既に伝令を出しました!」

 

「消防局から災害用無線を借りろ。災害用無線なら帝都内だけなら使用が出来る!」

 

 災害用無線は通信施設が機能しない事を前提にして設計されている。

 憲兵隊の的確な判断であったが事態は深刻であった。帝都内の重要施設14箇所で爆破テロが行われたのである。

 爆破されたのは通信施設、交通管制局、浄水場、エネルギー集積所といったライフラインを構成する重要施設である。

 特にエネルギー集積所は場所が場所だけに消火と避難誘導と負傷者の救出に人員と装備と時間を取られる事になる。

 憲兵隊は情報網も不十分なまま消防局と警察との連携で対処していく。

 帝都内の重要施設の破壊と市民の避難と救助活動に爆破された重要施設の消火を彼らは懸命な努力で被害を最小限に抑えていく。

 日が傾き始めて、空が紅く染められた時間になり、漸くケスラーと連絡を取る事に成功した。

 

「騙されるな。それは陽動だ。至急、仮皇宮に急行しろ!」

 

 ケスラーは帰還中のヘリの機内で報告を聞くと同時に地球教の真の目的を看破したのである。

 地球教が今の時期に狙うのは場所ではなく人である。

 ケスラーとしたら14箇所の重要施設の破壊工作を行った地球教の組織力と狡猾さに驚愕するのである。

 

(奴らにも、策士が存在するという事か)

 

 地球教の策略に憲兵隊は嵌まった形だが14箇所の重要施設の爆破に周辺地域の市民の安全を考えると策略を看破しても罠に嵌まるしかないのである。

 

(全く狡猾な。しかし、大本営にはミューゼル元帥がいる。仮皇宮への襲撃を阻止してくれてる筈)

 

 ケスラーとしたらハンスに期待するしかないのである。

 ケスラーは憲兵隊本部には戻らずに仮皇宮にヘリを向けさせたのである。

 

 ケスラーと同じく地域教の策略を知っていたハンスは憲兵隊からの伝令が来るのと同時にフェザーンに残っていたミュラー、ルッツ、シュタインメッツ、レンネンカンプの四人の提督に憲兵隊の指揮下に入り負傷者の救出と避難に協力する様に指示を出した。

 

「同時多発テロの対処には人海戦術しか手は無い。市民の安全を第一に行動して下さい。私は仮皇宮に急行する」

 

「閣下だけ行かれるのは危ないです。私達の兵を何人かお連れ下さい」

 

 ルッツがハンスに自分の部下を渡すのも道理である。

 ハンスは幕僚総監という立場上、自身の麾下に兵が居ないのである。

 そして、ルッツはハンスの行動原理を知っている。ハンスが市民の安全を一番に考えているので単身で仮皇宮に向かう事は目に見えているので説得する。

 

「分かった。では、私は先に行くから後から余った兵を向けて下さい」

 

 ハンスは素直にルッツの進言を受け入れる事を言うのと同時に窓から外に飛び出す。

 

「閣下!」

 

 ミュラーが慌てながら窓に駆け寄り外を見るとハンスがバイクで走りさる後ろ姿が見えた。

 

「あの人、元帥なのに何を考えているんだ?」

 

 ミュラーの叫びに年長者三人は何も応える事は出来なかった。

 ミュラーを呆れさせたハンスにしたら、この日の為に柊館を対テロ用に色々と改装したのである。

 そして、柊館には射撃戦の専門家のローザも配置しているのである。

 出来るだけ最小限の人数で良いと思っていた。柊館に人数を割くよりは市民の救出に使うべきだと思っていた。

 しかし、柊館に到着したハンスは自分が地球教を過小評価していた事を思い知るのであった。

 地球教はハンスの予想以上の人員を投入していたのである。

 

 



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柊館の死闘 後編

 

 遠くで何かの爆発する音がした。この時代の戦争の主力である艦隊戦は無音である。軍人でも爆発音を聞いて連想するのは戦闘ではなく事故であろう。

 そして、軍人でもなく戦闘行為に慣れた者が柊館に一人だけいた。

 

「皇妃様、大公妃様、暫くお待ち下さい」

 

 ローザがヒルダとアンネローゼの二人を残して部屋を出て行く。

 十五分後に部屋に戻って来たローザは戦士の顔をしていた。

 

「大本営と連絡が取れません。表の門番も連絡が取れないと言っています」

 

「では、先程の音は事故でしょうか?」

 

 アンネローゼが帝国人女性としては当然の疑問を口にする。

 

「いえ、この屋敷の通信回線は、正、副、予備の三回線です。その全ての回線が切れる事故は無いと思います」

 

「それでは、人為的に通信回線を切られたのですか?」

 

 ヒルダがラインハルトの妻らしくテロの可能性を指摘する。

 

「はい。その可能性が有りますので、事態が判明するまで屋敷の全ての人間を、この部屋に避難させる許可を頂きたい」

 

「許可します。専門家のローザさんの指示に従うべきでしょう」

 

 妊娠中でもヒルダの聡明さは健在である。

 

「流石に話が早い!」

 

 非常事態を前にローザの地金の一言を残して部屋を飛び出る。

 十分後には家人全員がヒルダの部屋に集合した。

 

「しかし、確かにミューゼル元帥は安心しろと言ったけど。昨日の今日だからと言って落ち着き過ぎだろ!」

 

 ローザが呆れたのは避難した家人達がお茶や菓子を持参した事である。

 ヒルダの部屋は避難場所というよりは、お茶会の会場の様に見える。

 

 ローザが呆れている頃、帝国兵の一団が柊館に訪れていた。門番の警備兵に敬礼しながら走り寄る。

 警備兵も慌てて敬礼した瞬間に数条のブラスターの光線が警備兵に突き刺さる。

 倒れた警備兵を詰所に移動させて警備兵のライフルを取り上げて肩に担いだ瞬間に柊館から、大音量の警報が鳴り響いた。

 

「な、何!」

 

 帝国兵を装った地球教徒達は自分達が油断していた事に気付いた。

 ライフルの台尻と警備兵のベルトの端末は一本の細い糸で繋がれていて、他者にライフルを奪われる事態が起きれば端末側の糸が抜けて警報が鳴る仕掛けになっていた。

 実は同盟の警察が採用しているシステムなのである。

 帝国の警備兵に導入したのは当然の如くハンスである。

 地球教徒達が警報に驚く間にも柊館の全ての窓にシャッターが降りる。しかし、正面玄関だけはシャッターが降りない。

 実は玄関の構造上、シャッターを取り付けが出来なかったのである。

 しかし、襲撃者にすれば罠を仕掛けられてる様にしか見えない。

 

「構わん。この好機を逃すと後が無い!」

 

 罠の存在を予期して、罠を食い破るつもりで罠に飛び込む彼らはビッテンフェルトの部下になる素養があるかもしれない。

 

「行くぞ!」

 

 地球教徒は玄関前に殺到して屋敷内に侵入を試みたが玄関の扉は開かない。

 

「鍵が掛かっているな!」

 

 一人がドアのノブにブラスターを放つがノブは健在である。

 

「なんて頑丈なんだ!」

 

「全員離れろ!」

 

 短気な者が対戦車ランチャーを持ち出して来た。

 

「通信アンテナを破壊した余りだが、重い思いして持って来た甲斐があったぜ!」

 

 この教徒の労苦は報われた。ランチャーの残弾を全て使って扉を破壊する事に成功した。

 一人が破壊された扉から屋敷内を伺う。伏兵が居ない事を確認して慎重に屋敷内に侵入をすると手招きをして仲間を呼び込む。

 仲間が屋敷内に入った瞬間に銃弾の雨が教徒達を襲った。

 

「散れ!」

 

 咄嗟に分散しても遮蔽物も無く教徒達は一方的な殺戮の被害者となっていく。

 

「二階だ!」

 

 二階の廊下からローザが火薬式拳銃を両手に教徒達に銃弾の雨を浴びせていた。

 

「こりゃ、鴨打ちだぜ!」

 

 遮蔽物も無い一階の玄関ホールで侵入者達はローザの的となっていた。

 

「援護しろ!」

 

 幾人かが玄関の外から腕だけ出して二階のローザに発砲して仲間の援護をする。

 仲間の援護を受け二階に続く階段に辿り着いた侵入者も階段を上がる寸前にローザの正確無比な射撃を額に受けて絶命する。

 侵入者達は多大な犠牲を払いながらも少しずつ屋敷内に侵入を果たしていく。

 階段まで辿り着いた侵入者は仲間の死体を盾にして階段を登り始める。

 階段の中腹まで来た時にローザが大声で叫ぶ。

 

「エミール!」

 

 ローザが叫んだ途端に階段が消えた。正確には段差が無くなり急勾配の坂道になったのである。

 仲間の死体を盾に中腹まで来たのに一瞬で階段下まで転げ落ちる。

 仲間の死体の下敷きになり身動きが取れない侵入者にローザが情け容赦無く銃弾の雨を浴びせる。

 

「しかし、こんなセコい小細工を考えるとは、軍人とはえげつないぜ!」

 

 軍人は確かにえげつない存在であるがセコい小細工を考えたのはハンス個人である。

 地球教徒達も時間が限られているので犠牲を覚悟で人海戦術に出た。

 二階の敵は一人だけである。体力も弾薬も限られている筈である。

 ウルヴァシーでは戦力を出し惜しみして大魚を逃した教訓から、今回は全戦力を今回の策に投入しているのである。

 皇妃と大公妃の暗殺に成功すれば安い投資である。

 

「敵は一人だ。反撃が出来ない程に撃ちまくれ!」

 

 ローザも侵入者達の意図を敏感に感じ取り銃だけを出して目眩撃ちで対処する。

 

「元帥も早く来てくれないとヤバいぞ!」

 

 ローザの願いが神に通じたかは謎だがハンスが応援に文字通りにバイクで駆けつけた。

 二階のローザに発砲していた侵入者を数人バイクで撥ね飛ばすと玄関ホールをバイクで縦横無尽に走り回る。

 階段周辺にいた侵入者達にバイクで突撃を始める。逃げ遅れた不幸な者はバイクで撥ねられる。バイクは人を撥ねてもスピードを落とさずに急勾配の坂を一気に駆け登る。

 

「待たせたな。ヒョッコ!」

 

「待たされたよ。爺さん!」

 

 因みに世間的な年齢はローザが四歳年長である。

 ハンスはバイクから降りるとサイドトランクからアタッシュケースを取り出すとローザに渡した。

 

「遅れた詫びに土産だよ」

 

 ローザがアタッシュケースの中を確認すると弾丸入りの弾倉が入っていた。

 ローザは軽く口笛を吹くと腰のベルトに弾倉を差し始める。

 その間にもハンスが階下に銃を乱射している。

 

「元帥。ここを任せますよ!」

 

「トイレか?」

 

 ハンスが本気でデリカシーの無い事を言う。

 

「ここで大人しくするのも飽きたのでね」

 

 ハンスのアホな発言を無視してローザは言うのと同時に行動を開始する。

 ローザは玄関ホールのシャンデリアを手始めに玄関ホール内の照明を狙い撃ちにする。

 全ての窓にシャッターが降りているので玄関ホール内は短時間で暗闇に支配されてしまった。

 

「じゃ、後は任せたぜ!」

 

 ローザは一言だけ残すと二階から一階に飛び降りた。

 ローザは一階に着地した瞬間に冷徹な殺戮者へと変貌していた。

 ローザにしたら一階の存在は全て敵である。気配がすれば銃弾を撃ち込み素早く移動する。

 地球教徒が人の気配を感じても敵か味方か判別が出来ないので一瞬の躊躇の差が生死を分ける。

 一階でローザがハンティングを行っている時に二階のハンスはバイクのヘッドライトを階段下に向けて登って来る敵に持参した短機関銃で撃退するのである。

 

「このまま何時間でも、戦いたいけど」

 

 ハンスが下手くそな歌を唄いながら短機関銃を連射して階段下の敵を一掃する。

 

「快感!」

 

 全弾を撃ち尽くすとハンスは短機関銃の撃ち心地の感想を口にする。

 侵入者達は完全に罠に嵌まっていた。唯一の出入りに逃げればハンスから短機関銃を掃射されて蜂の巣になる。

 玄関ホール内に留まればローザからの不意討ちを食らう事になる。

 全員が銃を乱射したい誘惑に駆られるが実行すれば同士討ちになり、二階にいるハンスの餌食になるだけである。

 彼らはハンスの用意した罠の中で全身を傷だらけにして出血死を待つだけであった。

 

 大本営からの派遣された武装兵が仮皇宮で見た光景は死屍累々といった有り様の玄関ホールであった。

 シャンデリアは落ちて粉々になり非常灯がオレンジ色に室内と死体を染めていた。

 

「ナイスタイミングだな。救急車は来ているか?」

 

 ハンスが二階から武装兵達に問い掛けてきた。

 

「はい。一台だけ外に待機させてます!」

 

 武装兵の中から士官がハンスの質問に応える。

 

「宜しい。皇妃陛下の陣痛が始まった。急いで病院に!」

 

 武装兵が待機している救急隊員を呼び込む。

 

「アンネローゼ様とロイエンタール夫人と後、エミールとマリーカなら乗れるだろ!」

 

 ハンスが素早く指示を出して救急車に乗る人間を指名する。

 

「家人の人達は一先ず大本営で待機してもらえ。それと、狂信者達の中で生きている者の治療を頼む」

 

 地球教徒に対しての対応はハンスが殊更に人道主義に目覚めた結果ではない。

 地球教の内部事情を探る為である。首謀者とは言わないが幹部の情報でも得られたらと思っての事である。

 結局、ハンスはケスラーが到着する迄の間、事後処理の指揮を取る事になる。

 日が完全に落ちた頃にケスラーが到着すると指揮を交代して自身も病院に急行するのである。

 病院に到着するとマリーカとエミールが待合室のベンチで二人仲良く寄り添う様に寝ていた。

 

「元帥。遅かったなあ」

 

 身体中から湿布薬の匂いをさせながらローザが声を掛けてきた。

 

「ローザさんには感謝しか有りません。貴女がローエングラム王朝を救ったのです」

 

「ふん。ローザ姐さんに掛かれば朝飯前だぜ!」

 

 どうやら、ローザはハンスに対しては自分を飾らずに地金のままで対応するつもりらしい。

 

「敵の戦力を過小評価していたが味方の戦力も過小評価していましたよ」

 

「分かれば宜しい」

 

 その後、ハンスはローザを自宅まで送り届けると大本営に戻りシャワーを浴びて着替えると事後処理の指揮を取るのであった。

 気が付けば夜明けとなり、日の出と共に皇子誕生の報告を受ける事になる。

 

 

 



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誕生

 

 大本営も朝から皇子誕生の報で祭り気分が支配をしていた。

 前日からのテロの対応で徹夜をしたハンスにしても報われた気分である。

 そして、ハンスと同じく徹夜明けのケスラーから口頭による報告があった。

 

「昨日の破壊活動現場で逮捕した地球教徒は百四十名、仮皇宮襲撃者は全員死亡しました」

 

「すまない。手加減する余裕が無かった」

 

「それは構いません。逮捕者に自白剤を投与した結果、地球教のフェザーン本部が判明しました」

 

「規模は?」

 

「全神信徒は女子供を合わせて二百六十名になります」

 

「そうか。女子供も居るのか」

 

「はい。それで突入するのは容易いですが元帥閣下の判断を仰ぐべきだと思いまして報告に参りました」

 

「ペテンに掛けるしか無いだろうなあ」

 

「閣下には何か策がございますか?」

 

「無い事も無い」

 

 事が大逆罪であるから、地球教の本部が判明した時点で突入しても問題が無いのだが、女子供の事を考えて自分達に相談してくれたケスラーの配慮に感謝するハンスであった。

 

「前から試したい策があったのだ。ここに計画書がある。卿に一任する」

 

 ハンスはデスクの引き出しから計画書を出してケスラーに手渡す。

 

「出来れば子供は助けたいが憲兵隊の兵の命の方が大事だ。無理はしなくても良い」

 

「有り難う御座います」

 

 ケスラーも地球教徒の子供の命を尊重しながらも自分の部下達を大事にしてくれるハンスに感謝をした。

 ケスラーが突入の指揮を取るために退室した直後に宮内省から連絡があった。

 

「先程、皇妃陛下がお目覚めになりまして、元帥閣下との面談を御要望で御座います」

 

「わかった。すぐに参上しますとお伝え下さい」

 

「それでは、此方から送迎車を御用意させて頂きます」

 

「御配慮、有り難う御座います」

 

 十五分後に宮内省が用意した送迎車に乗り込むと先客がいた。

 

「元帥。顔色が悪いぞ。寝不足なんじゃないか?」

 

 先客のローザは血色の良い顔で声を掛けてきた。

 

「ローザの姐御じゃないか。姐御も呼ばれたのか。因みに俺は徹夜だよ」

 

「そうか。元帥様になると色々と大変だな」

 

「ロイエンタール元帥も昼過ぎにはフェザーンに帰還するが暫くは家に帰れないぞ」

 

「そりゃ、構わない。長年の罪滅ぼしになるだろうよ!」

 

 どうやら、ローザは結婚式の事を根に持っている様である。

 

(姐御も所詮は女か。明日は我が身かな)

 

 ヘッダの顔が頭に浮かんだハンスだが自分はロイエンタールよりはマシだと思う事にした。

 

「しかし、連中も派手に暴れたみたいだな」

 

 自身も柊館で大暴れした事を、遠くの棚に放り投げた発言をするローザであった。

 

「帝都内の主要施設を十四箇所を同時破壊だからなあ。後始末が大変だよ」

 

 そこまで話をした時に送迎車が病院に到着した。

 二人が病院に入るとマリーンドルフ伯が出迎えに現れた。

 

「娘の父親として、お二方には感謝の念が絶えない」

 

 マリーンドルフ伯が二人の手を取り感謝の表す。

 

「いえ、当然の事をしただけです」

 

 ハンスとローザが異口同音で形式通りに返す。

 

 その後、二人はヒルダの病室に通されてヒルダと皇子に面会する事になる。

 ベビーベッドに眠る赤ん坊を見て、ローザとハンスの二人は色々と感慨に耽る事になる。

 ハンスは逆行前の人生で、遂に子を成す事なく生涯を終えた事に後悔な無いが未練はあった。

 

(子を作るにも軍人を辞めた後にするべきだろうなあ)

 

 生まれてくる子供の為にも軍人を辞める決意を固めるハンスであった。

 

「銀河帝国の皇妃としてではなく、一人の母親として元帥とローザさんには感謝します」

 

 ヒルダがベッドの上から感謝の言葉を述べる。

 

「いえ、逆に狂信者の襲撃を予測しながらも襲撃を許してしまった事を謝罪しなければなりません」

 

「それこそ、謝罪は無用です。テロリストを逮捕する為に囮になる程度の覚悟は出来てます」

 

 ハンスとヒルダの会話を聞いていたローザは驚愕する事になる。ハンスがヒルダを囮にした事も、それをヒルダが承知していた事もローザにしてみれば異次元の話である。

 

「ふ、二人共、何を考えているんだ!」

 

「あら、そんなに驚く事では無いですよ。ミューゼル元帥は前には自分自身だけではなく陛下も囮にした実績が有りますから」

 

 ヒルダが当たり前の如く言う事にハンスも反論をせずに事実と表情だけで認めている事にローザも驚きを隠せない。

 

「そりゃ、陛下は陣頭に立つ人なのは分かってましたけど、陛下を囮にするって……」

 

(オスカーが色々と元帥の事を言っていたけど、今になって意味が分かったわ)

 

 ローザの心の声はハンスにしたら心外な事である。

 ハンスとしたら根拠は公表が出来ないが十分に勝算のある作戦なのである。

 二人がヒルダの病室を辞すると昼近くになっていたので病院の食堂で昼食を摂る事にした。

 食堂は時間が早い為か人は少なく、ハンスは食堂の入口に設置された食券の自販機の前で何を注文するか迷っていると、不意にローザから服の袖を掴まれた。

 ハンスは緊急事態かと思いローザの方に向き直るとローザが人差し指を口の前に立て声を出すなと伝えてきた。

 ハンスもローザの指示に従いローザが指差す方向に視線を向けると意外な光景が見えた。

 ハンスとローザの視線の先にはテーブルを挟んでエミールが顔を赤くしてマリーカに何か語り掛けている。

 マリーカは俯き加減でエミールと同様に顔を赤くしている。

 エミールが喋り終わるとマリーカがエミールに向けて何か返答を始める。

 マリーカが返答を終えると同時にエミールがマリーカの手を取り口づけをした。

 そこまで確認したハンスとローザは若い二人に気付かれない様に食堂を離れた。

 

「意外だなあ。エミールもやるじゃないか!」

 

「私もエミールが告白するとは思ってなかったわ」

 

 二人は送迎車の中でエミールの大胆な行動に驚くばかりである。

 

「まあ。陛下の近くに居れば何時、テロの巻添えを食うかもしれんから当たり前か」

 

「マリーカも年の近い人間はエミールだけだったし、それにエミールは良い子だからな」

 

 二人は表現は違うがエミールとマリーカの若いカップルを祝福していた。

 本来の歴史ならマリーカはケスラー夫人となるのだが、ハンスはケスラーの結婚相手の事は全く覚えてなかった。

 覚えていてもケスラーよりはエミールとマリーカのカップルを応援するだろう。

 

 送迎車が大本営に到着すると将来の結婚相手を失った男が出迎えに現れた。

 

「地球教のフェザーン本部の制圧準備が整いました。如何なさいますか?」

 

「陛下達が帰る前に帝都を清潔にするか」

 

 既にハンスから策を授かり準備はしていたケスラーもハンスの真意を理解していても呆れる策であった。

 

(この方は、流血を少なくする事を主眼に置いて策を練るのは立派だが、どうしてもペテンになるな)

 

 ケスラーもハンスの策の有効性を認めつつも釈然としないのであった。

 ケスラーの内心は別にしてフェザーンの地球教本部に幼い子供連れの母子も殉教した事実を知るハンスは体裁等は気にしないのであった。

 

「では、行きましょうか」

 

 ハンスがケスラーと共に現場に向かう頃、地球教本部では、ちょっとしたパニックになっていた。

 

「水道から水が出ないだと!」

 

「今朝、午前中は計画断水だと水道局から通達が有りましたが、まだ、水が出ないのです」

 

「水道局には連絡したのか?」

 

「はい。連絡して直ぐに点検に来るそうです」

 

 十五分後に若い水道局員が現れた。

 

「水道局の方から来ました」

 

「早速だが、断水が終わっても、二時間になるのだが、水がまだ出ないのだ」

 

「それでは、最初に屋上のタンクを拝見させて下さい」

 

 水道局員は屋上のタンク内を点検すると神妙な顔で告げたのである。

 

「タンク内の水が少ないのでビル全体まで水が届いて無いみたいですね」

 

「では、水が貯まるまで待たないと駄目なのか?」

 

「はい。地味ですが、その通りです。それより、最後にタンク内の清掃は何時されましたか?」

 

「最近、借りたので分からん」

 

「そうですか。それならサービスで人体に無害なオゾン消毒剤を入れときますね。三十分後にビル内の全ての蛇口を五分程、全開にして消毒剤を全ての水道管に回る様にして下さい」

 

「分かった。後、三十分で水道が使えるのだな」

 

 若い水道局員は太鼓判を押して確認書にサインを貰うと引き上げて行った。

 そして、四十分後には水道管から流れた催眠ガスでビル内の地球教徒全員が眠りの園の住人となったのである。

 

「しかし、呆気ない程に簡単に策に乗ってくれましたな」

 

「水に薬物を入れるのは西暦の時代からの常套手段なんだがね」

 

 ケスラーの感想に水道局員姿のハンスが応える。

 

「しかし、マイクで聞いてましたが、スラスラと嘘を並べるのが上手いですな」

 

 ケスラーの言葉には呆れの成分がブレンドされていた。

 

「まあ。昔、同盟で流行った水道詐欺のセリフなんだけどね」

 

「はあ」

 

 真面目なケスラーも流石に歯切れが悪い返答になる。

 手段は別にしてフェザーンの地球教本部は無血で制圧されたのである。

 

(逆行前の歴史では、本部の教徒は全員が殉死したからな)

 

 担架で運ばれる幼い子供と一緒に母子を眺めながら作戦の成功に胸を撫で下ろすハンスであった。

 

「後は姿を見せぬ首謀者だけか」

 

(首謀者を逮捕すれば、安心して軍人を辞めて年金生活に入れる)

 

 帝国元帥になると毎年、150万帝国マルクの生涯恩給が貰えるのである。

 今までの貯金で店を開き老後はヘッダと共に海辺の別荘地に生活費の心配をせずに平穏無事に暮らせのである。

 

 しかし、翌日にはハンスの思いを裏切る様に頭痛の種が発芽するのである。

 自由惑星同盟から脱退をして銀河帝国に臣従ぜずに自立を宣言した星系が出現したのである。エル・ファシル共和政府の誕生である。

 

 



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混迷政府

 

 新帝国歴002年 宇宙歴800年 10月25日

 

 エル・ファシルは共和政府の樹立を宣言して自由惑星同盟からの脱退を表明した。

 主席を置かずにフランチェシク・ロムスキーが代表として名乗りを挙げた。

 

(本来の歴史では呼応する星系は無かったが、どうなる事か)

 

 ラインハルトには同盟の内部分裂にしか見えなかったので、エル・ファシルの独立を黙殺していた。

 それよりもラインハルトは生まれた我が息子の命名に頭を悩ましていた。

 

「アレクサンデル・フォン・ローエングラム」

 

 流石に存命中の親友の名前を足す事はなかった。

 帝国では皇子の名前が発表されると祝賀ムードが高まり皇子関連の商品が販売されるのであった。

 

「アレククッキーにアレクテリーヌ!」

 

 部下が珍しがり買ってきた物である。流石、商業の星フェザーンである。

 

「しかし、値段が割高だが味は良いな。帰りに買って行くか」

 

 ハンスも暫くはラインハルト同様にエル・ファシルに関しては傍観を決めていた。

 これは、ハンスやラインハルトだけではなく、自由惑星同盟の内部分裂に口を出す義理も義務も無いと殆どの帝国人の共通認識である。

 ハンスとしてはエル・ファシルより行方不明の地球教の首謀者を探す事の方が優先順位が高いのである。

 

 11月に入り、同盟から離脱して帝国に帰順する星系が増えてきた。

 帝国政府も来る者は拒まずの対応で行政官や司法関係者を送り込むのであった。

 司法尚書のブルックドルフや財務尚書のルビンスキーを代表する閣僚達も帰順する星系の対応で忙殺されていた。

 多くの星系では極端な物資不足や人手不足等の問題を抱えていて、帝国は人道支援として物資や人員を支援するのであった。

 更に惑星ハイネセンでは弁務官事務所に帝国への移住希望者が詰め寄せていた。

 既に自由惑星同盟は有名無実化していた。

 

「しかし、国でも人でも滅びる時に滅びぬと無惨なものだな」

 

 ロイエンタールがウイスキーのロックを片手に冷笑をした。

 

「まあ。惨めでも生き残れたら救いがあるけどなあ」

 

 ハンスがワインを片手にロイエンタールの冷笑に応じる。

 

「しかし、本当に美味しい!」

 

 ローザがハンスが持参したベーコンを片手にラム酒を呷る。

 

「おい、ローザ。少しペースが早すぎではないか?」

 

「仕方ないだろ。元帥の手製のベーコンがラム酒に合うんだから!」

 

(あんたの旦那も元帥だろうに)

 

 三人はロイエンタール家でハンスが持参した酒肴で飲み会を開いている。

 親友であるミッターマイヤーが子持ちになった途端に付き合いが悪くなり、ロイエンタールが拗ねている事が切っ掛けである。

 それと、ロイエンタールがハンスの料理についてローザに力説していた事とヘッダが年末年始の公演の為に劇場に泊まり込みなのも一因でもあった。

 

 「しかし、卿も器用だな。ベーコンだけではなくドライフルーツまで自作するとは」

 

「ドライフルーツなんか切って干すだけですけどね」

 

 元帥の二人は考えは一致している。同盟が名実共に滅んだ時にエル・ファシルと対等の交渉が成立するだろう。

 交渉の結果が対立か共存かは神ならぬ身には分からぬが、こちらが礼儀正しく交渉した結果の対立なら戦うのみである。

 その後に適当な星系を見繕い自治政府を認めれば良いだけの話である。

 

「問題は地球教の首謀者だな」

 

 ロイエンタールも元帥の地位を持つ者だが狂信者一人を探すとなるとお手上げである。

 

「卿には心当たりは無いのか?」

 

「スポンサーは無理難題をおっしゃる」

 

「卿でも分からんか」

 

「残党を糾合して、あれだけの組織を作った人物ですよ。俺より遥かに優秀ですよ」

 

「まあ。期待するならオーベルシュタインとラングだな」

 

「まあ。あの二人もウルヴァシー以降、必死に探してますけどね」

 

(しかし、ラングやルビンスキーにオーベルシュタインの追跡を逃れるとは、どうして地球教にも人材がいたもんだ)

 

 ハンスは逆行前の地球教残党の首謀者の名を忘れている。

 だが、逆行前と後の残党の首謀者が同一人物で無い事は見当はついていた。

 

「惜しいなあ。帝国軍か同盟軍に入隊していれば私の上司になっていたかもしれん」

 

 これは、ハンスの本音である。何時の時代でもチャンスに恵まれずに才能を埋もれさせる人はいる者である。

 

 ハンスから才能を評価されたデグスビイは仮皇宮襲撃の顛末を知り病状が悪化させてしまった。

 

「死ねん。勝利せずとも一矢だけでも報いなければ!」

 

 デグスビイの身体は既に限界を超えていたが気力のみがデグスビイの生命を支えていた。

 再び不死鳥のように復活するにも幾分かの時が必要であった。

 そして、帝国当局も無能ではない事を承知していたデグスビイは自身の体力の回復が先か帝国当局の捜査の手が先かハイリスクのギャンブルを楽しんでいた。

 そして、帝国当局が捜査を緩める事態が発生したのである。

 自由惑星同盟からアレクサンドル・ビュコック退役元帥を筆頭にヤンファミリーと呼ばれた軍人達のエル・ファシル大量亡命事件が発生するのである。

 事の発端はエル・ファシルの自立に最高評議会議長のジョアン・レベロが同盟に帰順を呼び掛けた事による。

 一度は帝国軍に占領された惑星であるエル・ファシルはハイネセンに対して長年の不信感を持っていた為にエル・ファシルが自立を宣言しても同盟人なら驚きよりも納得が先行するのである。

 故にエル・ファシルが自立を宣言しても他の星系は呼応しなかった一因である。

 更に言えば長年のエル・ファシルを同盟が放棄しなかった理由としてレアメタルの採掘量がカプチュランカと同等であった。

 但し、採掘量がカプチュランカと同等で

あったが採掘されるレアメタルの種類が多い為に加工施設や輸送手段に難があったので一度は占領した帝国軍も死守する気にはならなかったのである。

 逆に言えばエル・ファシルは自給自足が出来る惑星でもあった。

 エル・ファシルの独立の一因には他の星系と連携が取れなくとも自立経営が出来る自信があった為である。

 しかし、ハイネセン側にして見ればエル・ファシルのレアメタルは貴重な収入源であり他の赤字星系が同盟を脱退して帝国に帰順するのは問題無いがエル・ファシルの脱退は認められないのであった。

 ハイネセンとエル・ファシルの交渉は喧嘩別れになり、レベロは数ある選択から一番最悪の選択をしてしまったのである。武力制裁である。

 

「パエッタ中将。では君は議長である私の命令が聞けないと言うのかね?」

 

「同盟憲章では公務員は自己の良心に基づき不当な命令は拒否する義務が有ります」

 

「それでは、君は私の命令が不当だと言うのか!」

 

「エル・ファシルの自立を認めないならエル・ファシルは自国民になります。民主国家の軍隊が自国民に向けて銃を向ける事はあってならないのです」

 

 パエッタの主張は民主国家の軍人としては当然の正論であった。

 そして、正論を曲げてまで命令を下す事は出来ないのである。

 

「私以外の他の提督連中も私と同じでしょう」

 

 パエッタの予測通りに同盟軍に数少ない提督達の全員がエル・ファシルへの武力制裁に反対して拒絶したのである。当然の結果であった。

 そこで現役の提督が駄目ならばと退役した提督に声を掛ける事にしたのだが、アッテンボローはジャーナリストに転職しており取材の為にエル・ファシルに居て断念した。

 次に老齢の為に引退したビュコックに打診したがビュコックの逆鱗に触れてビュコックと喧嘩になったのである。

 その事で憂国騎士団の一部が暴発してビュコックを襲撃した。

 幸いにも偶然にも居合わせた薔薇の騎士のメンバーに返り討ちにされたのだが、レベロは憂国騎士団は民間人であり返り討ちにした薔薇の騎士を処罰した事にヤンファミリーの怒りを買い大量亡命事件に発展したのである。

 

「貴方。話は聞きましたわ」

 

 話を聞いたキャゼルヌがレベロに辞表を叩きつけて帰ると既にオルタンスが荷造りを終わらせていた。

 

「おい。誰も辞めるとは言ってないだろ」

 

「あら、貴方の考える事なんかは簡単に分かりますわ!」

 

「そうか」

 

 オルタンスの段取りの良さに呆気に取られたキャゼルヌだが離職寸前に手を回して可能な限りの艦艇を確保していた。

 

「まあ。エル・ファシルまでの足は確保した。後は向こうに到着次第だな」

 

 軍民を合わせて一万人を確保した軍艦八十隻でエル・ファシルへの亡命劇である。

 

「まさか、自分が長征一万光年の真似事をするとはね」

 

 キャゼルヌも思わず苦笑してしまう。キャゼルヌは苦笑で済ませる事が出来たがレベロは怒り心頭であった。

 怒りに任せて逮捕したくとも相手は薔薇の騎士である。死人の山を作るだけである。

 宇宙空間で艦艇ごと拿捕するにも提督と呼ばれる人間は亡命側である。

 追い詰められた挙げ句にキルヒアイスに泣きつくのだがキルヒアイスからも内政不干渉と断られる。

 

「ベルゲングリューン大将にはイゼルローン移住希望者の引率をお願いします」

 

 レベロとの面談終了後にベルゲングリューンを呼び出して命令を出すキルヒアイスであった。

 

 キルヒアイスとしては追い詰められたレベロを気の毒に思いつつも万が一にも暴走した者が亡命船団に危害を加えるのを防止する為にベルゲングリューンを護衛役に任命した。

 

 ベルゲングリューンもイゼルローン移住者の引率名目でキャゼルヌ達の護衛役である事は理解した。

 内政不干渉と宣言した手前、公式にキャゼルヌ達を護衛する事は出来ないのである。

 

「分かりました。ついでにイゼルローンの物価は輸送費の為に割高と聞きますので生活用品を土産として一緒に持って行きたいのですが許可をお願いします」

 

 キルヒアイスも軍艦に一般市民を乗せるのに生活物資が不足する危惧を部下がしている事を理解した。

 途中でキャゼルヌ達が物資不足を打診したら人道支援として供出すれば良い。

 

「許可します。アイゼナッハ提督に宜しく言っておいて下さい」

 

 こうして、キャゼルヌ達は帝国軍の護衛付きで堂々とエル・ファシルに亡命したのである。

 



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ハイネセンとエル・ファシル

 

 十二月に入り帝国政府関係者は多忙を極めていた。

 同盟から帝国への帰順が後を絶たないのである。

 エル・ファシルへの大量亡命が成功した事について同盟の各星系が最高評議会に統治能力無しと判断した為であり、順番待ち状態になった。

 一応、事態が切迫している星系に関しては人道措置として支援を行う為に軍が出動する事が多くなった。

 

「イゼルローンからも救援部隊を出させろ!」

 

「ハイネセンのキルヒアイス元帥を通してウルヴァシーからも救援物資を届けさせろ!」

 

「朝貢の問い合わせだと、手ぶらで来るなら断れ!」

 

「軍だけだと間に合わん。民間企業に下請けを出せ!」

 

「宇宙海賊が出没する。黒色槍騎兵艦隊に任せろ!」

 

 ハンスの執務室は既に戦場と化していた。

 帰順希望の星系も窓口としてハンスを頼るので断るのも手間が掛かるのである。

 

「当職に権限無し、交渉するなら皇帝陛下もしくは国務尚書に直訴するべし」

 

 帰順希望の星系政府の役人してみればハンスなら民意に通じているのではと思いハンスを窓口にするのだが、ハンスとしたら迷惑な話である。

 意外な事にラングも多忙を極めていた。毎日の様に来訪する帰順希望の使節団に混じり刑事犯も入国するので取り締まりに右往左往していた。

 なんとか新年休暇前日には嵐の様な帰順ラッシュも終わったのである。

 

「エミールにも苦労を掛けたな。帰省の為の休暇を与えても良いぞ」

 

 業務終了後の執務室でコーヒーを運んで来たエミールにラインハルトが声を掛けた。

 

「陛下、有り難う御座います。しかし、オーディンに帰省するより、将来の為にフェザーンの街を見学したいと思います」

 

 エミールの返答にラインハルトは優しい微笑みを浮かべる、

 

「エミールは余と違い真面目だな。宜しい新年休暇中にフェザーンの街を見学すれば良い。ついでに、マリーカと一緒に見学に行くが良い。あれは生まれも育ちもフェザーンだからな」

 

 いきなりマリーカの名前が出て来てエミールの頬が紅色に染まる。

 

「おや、エミール。顔が赤いぞ」

 

「陛下!」

 

 これが、ラインハルト以外の人間ならエミールも自分が誂われたと思うのだが相手は朴念仁の代表であるラインハルトでは真意が分からない。

 

「風邪かもしれん。今日は休んで良いぞ」

 

「はい。有り難う御座います」

 

 エミールが一礼した時にリュッケが執務室に走り込んで来た。

 

「大変です。陛下!」

 

「リュッケ、落ち着け。何事だ!」

 

 ラインハルトの一言でリュッケも冷静さを取り戻す。

 

「し、失礼しました。今朝、同盟の元首が暗殺されました!」

 

「それは確かな情報か?」

 

「はい。キルヒアイス元帥に確認を取りました」

 

「宜しい。至急、元帥と尚書全員を集めて会議を開く」

 

 ラインハルトの命令で三十分後には会議が開かれた。

 

「皆も既に知っている通りに今朝、同盟元首が暗殺された。今後の指針について自由に討議して欲しい」

 

「しかし、何者が何の目的でレベロを暗殺したのかが問題だな」

 

 珍しくハンスが会議の口火を切った。

 

「うむ。確かに迂闊に動けば暗殺した連中に踊らさせる結果になる」

 

 ミッターマイヤーもハンスの意見を是とした。

 

「しかし、暗殺者の背後関係より順調に併呑していた事に対する影響が心配だ」

 

 オーベルシュタインの意見も当然の意見であった。

 

「その件に関して心配は無いと思われます。既に同盟に統治能力はなく、各星系ではライフラインに支障が出る程の財政難です。今回の事で逆に日和見をしていた星系も帰順すると思われます」

 

 フェザーンを動かしていた実績のある行政のプロのルビンスキーらしい見解であった。

 

「こうなると問題になるのはエル・ファシルですな。共和主義者がエル・ファシルを頼り第二の同盟となる可能性がありますな」

 

 マリーンドルフ伯が国務尚書としての意見を出して来た。

 

「軍事的にはエル・ファシルの戦力では負ける事は無いだろう。問題は犠牲の数だが……」

 

 帝国の天敵とも言えるヤンは既に帝国の手の内にある。問題はビュコックである。

 

「ビュコック提督は人望と能力を兼ね備えた経験豊な人だからな。負けない戦いをされたら、無視が出来ない犠牲の数になるな。まあ、向こうはそれが目的だろうけど」

 

 ハンスにしたら完済したと思っていた借金が残っていた心境である。

 ランテマリオでビュコックの恐ろしさは身に染みている。

 

「確かに、あの老人の狡猾さと巧妙さには手を焼かされたからな」

 

 ミッターマイヤーもランテマリオではビュコックに翻弄された犠牲者である。

 

「宇宙潮流を使った策とか余人には出てこんわ!」

 

 ハンスもカンニングの知識で避ける事が出来たが、それでも老将の経験に裏付けされた策には背筋が凍る思いがした。

 

「しかし、犠牲が大きくなるのは奴らも同じであろう。奴らが講和より戦いを選択すると思えん」

 

 オーベルシュタインが冷静な分析をする。

 

「確かに、オーベルシュタインの言う通りだと余も思う。奴らが講和を求めるなら交渉の余地はある」

 

 ラインハルトにしたらヤンとの約束もある。内心はエル・ファシルに自治を認めていた。

 

「そうなれば、問題はハイネセンの動向ですな。工部省としては同盟の存続の有無で計画に大幅な修正が必要となります」

 

 工部尚書のシルヴァーベルヒは立場上、当然の意見である。

 同盟が存続の有無で流通システムから税制までを新たに整備する必要になる。

 全員が同盟に対する対応に頭を悩ませる事になる。

 

「最初の予定では少しずつ真綿で首を締めて両手を挙げさせるつもりだったのになあ。まさか、自滅するとは思わんかった」

 

 ハンスの言葉は会議に参加している人間達の気持ちを過不足なく表現している。

 

「どちらにしても、新しい元首が必要だな」

 

 ラインハルトにしても、戦うにしても降伏して帝国に帰順しても代表者が居なければ話にならない。

 

「陛下。ハイネセンのキルヒアイス元帥からは詳細な情報は、まだ無いのですか?」

 

「うむ。キルヒアイスからは詳細な情報は、まだ無い。キルヒアイスの報告では当事者の同盟も混乱しているらしい」

 

 ハンスの質問に応えるラインハルトも困惑している。

 キルヒアイスの報告では暴動等を恐れて警察署の署長レベルから治安維持の為に出動を懇願されているらしい。

 

「同盟だと議長が死ねば選挙で新しい議長を擁立する必要が有るからなあ。時間が掛かるだろう」

 

 結局、その日の会議は新しい元首が擁立されるまでの様子を見る事に決定した。

 ハンスの予想では新しい元首が擁立されるのも早くて年内で遅くとも新年休暇明けには選出されると断言した。

 

「残された役人連中にしては同盟が少なくとも冬の賞与を払うまでは存続して貰う必要が有りますからな」

 

 ハンスの言葉に思わず失笑してしまう者もいた。

 

「更に言えば一月の末に交渉を求めて来るでしょう。同盟は一月に一年の会計をしますから、退職者の退職金を一月の二十日に払う事になっていますから」

 

「船が沈む前にネズミは逃げ出すと言うが役人も同じ事か」

 

 ハンスの説明に皮肉な気持ちになるラインハルトであった。

 困ったのは周囲の者達である。ラインハルトの感想が皮肉なのか冗談なのか判断がつかないのであった。

 

 翌日、キルヒアイスから詳細な情報がラインハルトに通信で報告された。

 

「まずは暗殺者の背後関係は有りません。暗殺者は定年退役した薔薇の騎士のOBです」

 

「動機は?」

 

「それが、退役軍人の年金支給額を引き下げた事と支給年齢を七十歳に引き上げてた事に対する恨みだそうです」

 

 ラインハルトも絶句するしかない暴挙であった。

 

「更に言えば、閣議決定で支給年齢を将来的には八十歳まで引き上げると発表した事です」

 

「それは、暗殺されても文句は言えんだろうな」

 

「それから、レベロ議長の後任ですが、ホワン・ルイが選出される事が確実と言われています」

 

「聞いた事が無い名前だな。どんな人物なのか?」

 

「良心的な政治家だそうです。イゼルローン奪取後の帝国領進攻に反対した事で有名な人物でもあります」

 

「同盟にも慧眼の者が居たのか」

 

「はい。この様な状況で議長に立候補する人間も居ない様です」

 

「それで、正式に元首に就任するのは何時になる?」

 

「手続き上の問題で年明けには就任するそうです」

 

「では、就任後にキルヒアイスから今後の事を話してみてくれ。出来るだけ民衆に犠牲を強いる事はしたくない」

 

「分かりました。ラインハルト様」

 

 通信が終わりラインハルトは今後の同盟に対して方針を考える。

 

(老人から金を奪う程に同盟の財政が逼迫しているのなら、出来るだけ早く併呑するべきだな)

 

 ラインハルトの頭にハンスの顔が浮かんだ。ハンスも父親を軍隊の事故で亡くして遺族年金や一時金を貰えずに苦労したと聞く。

 

(ハンスが、どの様な政治体制でも国民を養うのが国の務めだと言っていた意味を本当に理解が出来たな)

 

 ラインハルトが凡百の支配者と一線を画すに、常に戦場で陣頭に居た事を挙げられるが、もう一つは自身の未熟さを認めて他者の意見を尊重した事も挙げられる。

 

 ラインハルトは同盟の完全併呑を決意した。

 

「併呑に際して大量の血が流れるのか。それとも無血開城となるのかは奴ら次第だな」

 

 ホワン・ルイは就任早々に大きな選択を迫られる事になる。

 そして、ホワン・ルイの選択次第で銀河に大量の血が流れる事になる。

 

 



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それぞれの新年休暇

 

 新帝国歴003年 宇宙歴801年 1月1日

 

 ローエングラム家

 

「アンネローゼ様は本当に料理が上手ですわ」

 

「あら、それ程でも有りませんよ」

 

「出来れば色々と料理を教えて頂きたいですわ」

 

 姉と妻の会話を聞きながらラインハルトは休暇明けには姉をハイネセンに帰す事を決心した。

 料理だけならラインハルトも歓迎なのだが間違えて、ヒルダまでケーキ道に目覚められたら事なのだ。

 オーディンに居た時の様に、部下をケーキ中毒患者にされたり、肥満体にされたりしては困るのである。

 政治や軍事とは別に気苦労が絶えないラインハルトであった。

 

 ミッターマイヤー家

 

「ウォルフたら、子供が可愛いからと言って抱っこをやり過ぎですよ。抱き癖が付きます」

 

 妻の抗議に仕方なく我が子をベビーベッドに戻したミッターマイヤーは赤ん坊の代わりに妻を抱き上げる。

 

「なら、可愛いエヴァを抱っこするか」

 

「もう、ウォルフたら」

 

 抱き上げた妻の唇を唇で塞ぐミッターマイヤーであった。

 

「あの子、本当に帝国の元帥様かしら?」

 

 息子の目の前の行動に呆れる母であったがとなりに座っていた夫が息子の真似をして自分を抱き上げるとは思わなかった。

 

「ちょっと、貴方。息子達の前ですよ!」

 

 妻の抗議を唇で塞ぐ父であった。この親にして、この子ありである。

 

 ロイエンタール家

 

 ロイエンタールがショットグラスのウイスキーを飲み干す。

 

「十五杯目いった!」

 

 周囲のロイエンタール家の家人達が歓声と悲鳴を挙げる。

 

「よし、後は奥様が飲めば俺の総取りだぜ!」

 

 ロイエンタール家のコック長が両手を握り締める。

 新年から夫婦で飲み比べをしている。家人達もロイエンタール達が飲む杯数に賭けをしている。

 夫婦で合わせて三十杯に賭けたのは家令だけである。

 三十杯を越えて飲めばコック長の一人勝ちである。

 

「悪いなあ。オスカー。明日は芝居見物に付き合って貰うぞ」

 

 どうやら夫婦間でも賭けをしていたらしい。

 ローザがショットグラスの中のラム酒を一気に飲み干す。

 

「負けたよ。お前は古代神話のバッカスの化身だな」

 

 ローザが飲み干す光景を確認してからロイエンタールは静かにテーブルに酔い潰れたのである。

 

 エミールとマリーカ

 

 フェザーンの街を散歩する若いカップルである。端から見れば仲の良い姉弟に見えたかもしれない。

 

「へえ。フェザーンは新年の祝いに観覧車が出るのか!」

 

 新年は家族で家で過ごすのが習慣のオーディンと違い街には人々が多い。

 

「そういう家庭も多いわよ。フェザーンは帝国と同盟の人も多いから」

 

 マリーカが親切に説明する。

 

「せっかく、フェザーンに来たのだから観覧車に乗ってみたい」

 

 エミールが子供らしい好奇心を発揮して観覧車に乗りたがる。

 

「うわ、凄い眺めだ」

 

 オーディンはノイエサンスーシーより高い建物が無い為、エミールには観覧車からの眺めが珍しくて仕方ない。

 

「あそこに仮皇宮が見えるわよ」

 

 マリーカに言われてマリーカの隣に行くエミール。

 

「本当だ。建設中の皇宮も見える!」

 

 窓の外の景色に夢中になるエミー ルに期待を裏切られたマリーカは苦笑する。

 余人が居ない密室である。某撃墜王が居たら小一時間は男女交際について講義をしていただろう。

 

(私達は若いのだから、ゆっくりと進みましょう)

 

 ヤン家

 

 日頃は下宿生活をしていたユリアンも新年休暇の間はヤンの家に家事手伝いに戻っていた。

 

「ユリアンのシチューも久しぶりだな」

 

「悪いわね。ユリアンに家事をして貰って」

 

 呑気な夫に代わりフレデリカが謝罪する。

 

「気にしないで下さい。フレデリカさんも子守りで大変でしょう」

 

 ユリアンが応えた時にインターホンが鳴る。

 

「誰かな?」

 

 今日は護衛役のシェーンコップも居ないのでユリアンが玄関まで応対にでる。

 

「よお。久しぶりだな。ユリアン!」

 

「中佐!」

 

 ヤン夫妻には誰だか声だけで分かった。

 

「提督。お久しぶりです!」

 

 当然と言うべきか。ポプランの横には妙齢の女性がいる。

 

「初めまして、その節はオリビエがご迷惑をお掛けしました」

 

「おい、ラム。普通はお世話になりましただろ」

 

「何を言っているちゃ。事実だちゃ!」

 

 どうやら、ラムと呼ばれた女性は同盟の地方出身者らしい。

 

「実はですね。自分も軍隊を辞めまして、コーネフの紹介でフェザーンの運送会社に就職したんですよ」

 

「そう言えば、コーネフはどうしたんだい?」

 

「コーネフの奴はハイネセンで小学校の教師になりました」

 

「それは、良かった」

 

「コーネフ中佐らしいですわ」

 

「アッテンボロー提督はどうしました?」

 

「アッテンボロー提督は新米ジャーナリストだよ」

 

「アッテンボローも本道に戻ったのか」

 

「それから、提督。キャゼルヌ中将達からは連絡は無いのですか?」

 

 これが、本日のポプランの真の目的だろう。

 

「残念ながら、連絡は全く無いんだよ。先輩達も遠慮しているのかもしれない」

 

「そうですか。今更、提督に連絡しても籠の鳥ですからね」

 

「私が軍服を着る必要も無いと思うよ」

 

「皇帝は例の約束を守るでしょうからね」

 

 ポプランはシェーンコップが娘と息子を持つ二児の父親になった事を聞いてヤン家を辞去した。

 

「ユリアンもシェーンコップの不良中年に会うのは久しぶりだろ。一緒に来いよ!」

 

 辞去する際にユリアンも連れて行ったのはポプランなりの配慮なのだろう。

 

 シェーンコップ家

 

 シェーンコップは珍しくキッチンに立っていた。

 この男にしては殊勝な事に新年休暇の間は子供達を家事から解放させる気でいる。

 実際は既に子供達が鍋に作った大量のシチューを温め直すだけである。

 

「カリン、シチューの皿は何処だ?」

 

 驍勇で鳴らしたシェーンコップも家庭では凡百の父親と変わらない。食器の置き場も分からない。

 

「言ってくれたら、ご飯の用意くらいするのに」

 

 娘と息子からキッチンの主導権を奪還されて、テーブルへと追いやられたシェーンコップであった。

 

「姉さん、パスタはどうする?」

 

 エドワードが冷蔵庫から水漬けのパスタを取り出して聞いてきた。

 

「今日はパンがあるから明日にしましょう」

 

「じゃ、パンを焼くね」

 

 カリンとエドワードの仲は良く。姉弟での料理の手際も良い。

 何となく疎外感を持ってしまうのはシェーンコップの僻み根性だけでは無いだろう。

 キッチンで姉弟が見事な連携プレーを披露していると来客を告げるインターホンが鳴った。

 

「お父さん。お願い!」

 

 防犯上、来客の応対に出るのはシェーンコップ家では父親の役目と決まっていた。

 

「久しぶりだな。ユリアン!」

 

「ご無沙汰してました。中将!」

 

 ユリアンと言う名前に聞き覚えがあった。確かヤン提督の義理の息子の名前である。

 どうやら、父の軍隊時代の仲間らしい。父が久しぶりに楽しそうに笑うのを見たカリンである。

 元軍人の三人が昔話に花を咲かせている間に連れの女性はカリンとエドワードに料理談義をしていた。

 本来の歴史通りにユリアンとカリンが結ばれるのかは神のみが知る事であった。

 

 ミューゼル家

 

 朝からハンスは干し野菜を作っていた。冬の乾燥した空気が干し野菜を作るのには適している。

 

「しかし、海が無いと不便だよなあ。ハイネセンだと今の時季は魚の干物を作っていたのに」

 

 庶民から見れば元帥は高給取りであるが貧乏性が抜けないハンスであった。

 マンションのベランダで干し野菜を作る元帥というのは珍しい光景だろう。

 

 オーベルシュタイン家

 

 オーベルシュタインはリビングで雑誌を読んでいた。

 二匹の仔犬が欠伸をしている表紙に「ワンちゃん倶楽部」と印字されていた。

 

「ふむ。犬には野菜も必要なのか」

 

 オーベルシュタインは子供の頃から部屋で勉強ばかりしていた。

 友人が欲しいとも思わなかった。同年代の少年達からは義眼の事を揶揄されるからである。

 オーベルシュタインが揶揄されると母が悲しむのである。

 

「パウル。ごめんね。ごめんね」

 

 泣きながら謝罪する母を子供心に不憫に思ったものである。

 オーベルシュタインは自然と屋敷から出る事なく部屋で勉強して一日を過ごす様になる。

 心配した両親がオーベルシュタインに小型犬の仔犬を与えたのである。

 オーベルシュタインが人生で初めて心を許した友達であった。

 オーベルシュタインが士官学校入学直前に病気で死んで以来、オーベルシュタインは犬を飼う事はなかった。

 

「しかし、小型犬と大型犬では随分と飼育方が違うものだな」

 

 オーベルシュタイン家の一員となった犬は老齢のためか、一日中、寝てばかりでいる。

 それでも、オーベルシュタインが帰宅すると顔を上げて挨拶するのは律儀である。

 

「やはり、屋内で飼う方が良いのか」

 

 執事夫婦も老齢の為、屋内で犬を飼うと掃除も大変だろうと屋外で飼う事も検討したが断念せざる得ない様である。

 

「残り少ない余生なのだ。好きにさせるか」

 

 足元が温かい感触に包まれたので視線を雑誌から下に落とすと犬が寄り添う様に寝ていた。

 

「好きにすれば良い」

 

 犬に呟く様に声を掛けると再び雑誌に読み始めるオーベルシュタインであった。

 

 サン・ピーエル家

 

「私が言えた義理では無いけど、新年休暇くらい家に帰ったら?」

 

 ドミニクがソファーを占領してポトフを肴に缶ビールを飲んでいるルビンスキーに声を掛ける。

 元自治領主であり、現役の財務尚書には見えない。

 

(良く言って、安酒場にいる小役人ね)

 

「ふん。自分の愛人の家に来て問題があるのか?」

 

 今日のルビンスキーはやさぐれていた。

 

「まあ。今日はいいけど、明日は私は朝から出掛けるわよ」

 

「好きにすれば良い!」

 

「言っておくけど。ビールは貴方が飲んでいるのが最後のビールよ」

 

「なんだと!」

 

「まだ、ビールを飲むなら教育入院は覚悟しなさい」

 

 ドミニクは一枚の紙をルビンスキーに見せた。

 

「ドミニク。何故、それを持っている?」

 

 驚くルビンスキーにドミニクが呆れ声で応える。

 

「だって、最初に私の処に送られて来たのよ。それをコピーして貴方の家に転送しただけよ」

 

 ドミニクがルビンスキーに見せたのは健康診断書である。

 所見欄は痛風の可能性と専門医に受診を示唆している。

 

「明日、朝から特別に軍病院を予約しているから逃げたらミューゼル元帥に報告するわよ」

 

 家族から受診を口煩く言われるのでドミニクの家に避難したが、逃げ込んだ先が黒幕とは迂闊な話である。

 

「私も老いたものだな。その程度も読めないとは」

 

「当たり前でしょう。もう四十四歳よ」

 

 何か言い返そうと思ったルビンスキーであったが、ドミニクの目が年齢の事に触れるなと言っているのに気付き黙る事にした。

 

 

 



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冬バラ園の勅令

 

 新年休暇も終わり全宇宙の関心がハイネセンに集中をしていた。

 前評判の通りに最高評議会議長には、周囲から肘でつつかれたホワン・ルイが就任したのである。

 

「そりゃ、同盟に引導を渡す役は誰でも嫌だよなあ」

 

 ハンスにはホワンに対して良い印象が無い。

 逆行前の世界では私心が無く、教育行政に予算を掛けて各分野の技術者を育成に成功したが、結果は育成した人達は帝国に渡りバーラト政府は帝国の為に少ない国家予算を使い貢献した事になる。

 そして、その皺寄せが福祉に掛ける予算を削られたハンス達にきたのである。

 ハンスは同盟を完全併呑した暁には政府高官の財産を没収する様にラインハルトに進言するつもりである。

 

「帝国の門閥貴族と同じで、名前を変えて国民から搾取していただけだろ」

 

 後日、ハンスがハイネセンのジャーナリストに公言している。

 

 ホワンにも言い分があるが、政府高官の地位に居て、トリューニヒトの専横を止められなかった事は罪悪と呼ばれたら反論は出来なかったであろう。

 

 ラインハルトはホワン・ルイの議長就任直後にハイネセンに再び行幸を決定した。

 今回は直属の艦隊を率いての行幸である。各艦艇には行政や財政に司法の専門家も随行している。

 誰が目にも完全併呑の為の行幸である事は明らかであった。

 

 宇宙歴801年 新帝国歴003年 2月1日

 

 自由惑星同盟の解散と併せて帝国への帰順が閣議決定した。

 同日、キルヒアイス高等弁務官に宣言書が提出される事になる。

 ラインハルトはハイネセン到着すると宣言書を受諾して自由惑星同盟は三百年近い歴史に終止符を打ったのである。

 

 翌日、ラインハルトは人心の安定の為に布告を出す。

 

「例え帝国と戦った者であろうと戦死者や遺族、傷病兵は厚く遇するであろう。及び帝国人の無法は厳しく咎める。最早、憎悪で歴史を動かす時代ではない。困窮する者は遠慮なく申し出るように」

 

 この布告は同盟政府高官に深刻な打撃を与えた。単純に軍事力で負けたのではなく民主共和制度が個人の器量に負けたのではと疑念を持ったのである。

 事実、同盟市民にも帝国の支配を受け入れる風潮があった。

 まさに、ハンスが常日頃から公言していた「どの様な政治体制でも国民を喰わせるのが良い政治」を体現していた。

 

 同年 2月20日

 

 後に「冬バラ園の勅令」と呼ばれる勅令をラインハルトは発布する。

 その中でラインハルトは正式に自由惑星同盟の解散と帝国領である事を明言する。

 併せて、自由惑星同盟を対等の国家として正式に認めたのである。

 これは、皮肉でも嫌味でもなくラインハルトには同盟は対等な敵であり、ゴールデンバウム王朝を憎む同士との思いからの発露であった。

 

 そして、遠くフェザーンの地で中継を見ていたヤンは深刻な溜め息をつく。

 

「だから。カイザーラインハルトは民主共和制の最大で深刻な敵なんだ。彼が名君で在るほどにね」

 

 ヤン家とシェーンコップ家で昼食を摂りながら見ていた為にフレデリカ、ユリアン、シェーンコップはヤンの言葉に無言で首肯く。

 

「しかし、提督。これで戦争の心配は無くなったんですよね?」

 

 カリンが確認する様にヤンに質問する。

 

「そうだね。全宇宙から反ローエングラム派の戦力を糾合しても一個艦隊分の戦力になるかならないかだと思うよ」

 

「それなら安心です。私は軍隊に入った時は戦死するのも、それほど怖くわなかったですけど」

 

 カリンは一端、言葉を区切り横に座っているエドワードを抱き締める。

 

「弟が出来てから死ぬのも死なれるのも怖くなりました」

 

「姉さん」

 

 カリンの告白は全宇宙の大半の人々の本音であろう。

 そして、主義主張で戦争を始めるよりは正しい事なのである。

 

「こうなると、ミューゼル元帥の慧眼には驚嘆するしかないよ。ここまで読んで私と皇帝に密約を結ばせたかもしれない」

 

 現時点で全宇宙で民主共和制の旗を掲げているのはエル・ファシルだけである。

 未来の布石ではなく、情熱の赴くままの暴挙に近い。

 

「こうなると例の話が重要になってきますな」

 

 シェーンコップもヤンと同じ結論に辿り着いた様である。

 

「しかし、皇帝が本当に約束を守るでしょうか?」

 

 ユリアンの疑問は当然の疑問である。エル・ファシルに大軍を送る片手間でヤンを謀殺してしまえばローエングラム王朝は名実ともに全宇宙を統一する事が出来るのである。

 

「それは無いと思うよ。バーミリオンの直後も言ったけど、個人的な見解だが信頼が出来る人だと思うよ」

 

 歴史上、ヤンの軍事的才能が注目されるが、実はヤンの才能の中には人物鑑定眼も特筆するべきなのである。

 シェーンコップを代表に癖のある人材達を発掘して才能を発揮させたのである。余人なら出来ない手腕である。

 

「問題は皇帝より、エル・ファシルの連中ですな。素直にキャゼルヌ中将の意見に従うかが問題ですな」

 

 シェーンコップが最大の問題を提示したのである。

 エル・ファシルの代表のロムスキーは有名な人物ではなく、どの様な人物なのかは全くの不明のままの未知の人物なのである。

 

 そして、シェーンコップの懸念は杞憂であった。

 

「ロムスキー代表、我が軍が帝国と事を構える程の戦力も財力も有りません」

 

 後方勤務のエキスパートのキャゼルヌが全てのデータを数値化して帝国と比較してロムスキー代表と閣僚達に説明して見せる。

 

(ここまで、する必要も無かったか)

 

 ロムスキー達はヤンの考察通りに一時期の情熱とハイネセンへの反発心から自立を宣言しただけであった。

 それでも、エル・ファシル自体は開発途上の星系であり、鉱物資源や入植可能な無人惑星を抱えている。

 自立しても経済的には展望がある星系である。

 また、位置的にもイゼルローン回廊にも近く第二のフェザーンとなり得る。

 ここまでを、エル・ファシルの政府高官に大学生の講義の様に連日に渡って説明したのである。

 

「では、帝国との共存も可能性も期待が出来るのですか?」

 

「それは貴方達、政治家の手腕次第です。下手に帝国の神経を逆撫でしない限りは大丈夫です」

 

「では、キャゼルヌ中将には和平交渉での場に同席して頂きたい」

 

「私は構いませんが軍人が同席しても宜しいので?」

 

「皇帝ラインハルトはヤン提督を高く評価していると聞きます。私達以上に提督の幕僚だったキャゼルヌ中将が居れば交渉もスムーズに行くでしょう」

 

 ロムスキーは本業が医師であり、本来は政治家では無いので悪い意味での政治家としての拘りが無い様である。また、人格的にも誠実な人物の様である。

 

「では、帝国に交渉に行く人員を必要最低限に決めて下さい」

 

「分かりました」

 

 ここからは笑劇の始まりであった。文官武官共に単純に数世紀に一人の天才であるラインハルトに会ってみたいと参加を表明するのであった。

 

「まずは、代表に指名されたキャゼルヌ中将は当然として実戦部隊の長である儂も行くべきだろう」

 

「確かにビュコック提督が行かねば皇帝に対して礼を欠く事になりますな」

 

 ビュコックの参加は当然の如くに決まった。

 

「それなら、護衛役として私も行くべきでしょう」

 

 リンツが名乗りを挙げたがキャゼルヌに却下された。

 

「連隊長が留守をして良い訳が無いだろう」

 

「では、小官なら問題無いですね」

 

 代わりにブルームハルトが護衛役を射止めた。

 

「ビュコック提督が行かれるなら、副官の小官も当然ですな」

 

 確かにビュコックが行くなら副官も同行するのは当然である。

 

「では、参謀長である、私も同行する必要が有りますな」

 

「ムライ中将には留守番組の目付け役をして貰う必要が有りますので却下」

 

「では、私が同行しましょう。キャゼルヌ中将を手伝いをする人間が必要でしょう」

 

「確かに貴官が来てくれたら俺も助かる」

 

 意外な事にパトリチェフの同行をキャゼルヌも認めたのである。

 こうして、武官からは五名が選ばれたのである。

 文官側は八名が選ばれたのである。彼らは敵地であるフェザーンに赴く事に躊躇いがあった様である。当然と言えば当然である。

 艦艇も帝国軍を刺激せぬ様に一隻にして、軍艦に慣れてない文官の為と万が一の不測の事態に備えて最新艦のヒューベリオンが選ばれた。

 

「同じ新型艦ならトリグラフの方が新しいでしょうに」

 

 ブルームハルトの疑問は当然である。

 

「あれは、ハイネセンに置いてきた。同じ持って来るなら最新鋭の艦と思ったが維持費が高いから断念した」

 

「ヒューベリオンの方が安いんですか?」

 

「ヒューベリオンが安いというよりはトリグラフが異常に高いだけさ」

 

 実はビュコックのリオ・グランデも一緒に持って来るつもりでいたが、此方は色々と老朽化が進んでおり諦めたのは内緒である。

 

 搭乗艦も決まったので後は帝国に連絡を取るだけでる。

 

「しかし、キャゼルヌ中将。連絡をして断られる事は無いだろうか?」

 

 ロムスキーは意外と心配性であった。

 

「その事は大丈夫です。帝国では皇帝への直訴を邪魔する事は禁止となっています。それに帝国にコネも有りますから小官がアポを取ります」

 

 ロムスキーが帝国にコネと聞いて胡散臭いと言いたげな顔をしたが、キャゼルヌは知らん顔をした。

 

(まあ。普通は帝国にコネが有るとは思わんだろうな)

 

 この当時、銀河系の人々の関心はラインハルトとエル・ファシルの動向に集中していた。

 エル・ファシルが和平交渉に乗り出す事は自明の理であり、交渉の結果は共存か対立かで少なからず自身に影響があるからである。

 その為に、ハイネセン郊外の病院で火事が起きた事も患者の遺体が行方不明な事も人々が記憶する事はなかった。

 

 



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暗殺

 

 ハンスは冬バラ園の勅令の直後に帝国から随行して来た行政官達からハイネセンの統治について質問責めにされていた。

 

「昔から何だが、企業の天下りを大学の教員として就職させる見返りに卒業生を企業に就職させる事が習慣化しているのだ」

 

「その様な風習が同盟には存在していたのですか!」

 

「帝国の大学には無い風習なのか?」

 

「はい。帝国では明文化してませんが教育者の家庭に生まれた者が教育者になります」

 

 大学等と縁の無い人生を送ったハンスには新鮮な驚きである。

 

 この様に同盟の社会的風習や明文化されない社会常識をレクチャーするハンスである。

 その一方で、ロイエンタールの下で幕僚総監としてロイエンタールを補佐もするのである。

 

「給料に色を付けてくれ!」と言いたいが新領土総督がキルヒアイスなので言えないハンスである。

 

 三月に入りフェザーンに帰国する準備を始めた時に、エル・ファシルからハンス宛に通信が入るのであった。

 

「誰かと思えばキャゼルヌ中将ですか」

 

「ご無沙汰してます。元帥閣下」

 

「あの件ですね」

 

 キャゼルヌからの要件と言えば一つしかない。

 

「何時かの借りを利息を付けて返して貰うつもりですよ」

 

「キャゼルヌ中将の事ですから、条件等は安心していますけど、一応は使節団の人員を教えて貰えますか?」

 

 キャゼルヌから提示された使節団の人員名簿を見てハンスの顔が曇る。

 

「キャゼルヌ中将。護衛役が一人なのは問題ですね」

 

「何か情報でも入りましたか?」

 

「地球教ですよ。奴らには当方も手を焼いていまして」

 

「そう言えば、ウルヴァシーに仮皇宮と連中も執拗ですな」

 

 ハンスにしたら地球がヤンを暗殺した記憶が脳裏で警告音を鳴らしている。

 

「此方が出向けば安全ですが、世の中には体面という存在もありますから」

 

「分かりました。可能な限り護衛を増やしましょう」

 

「私が途中まで出迎えに行きますから、途中で他の帝国軍を相手にしないで下さい」

 

「しかし、此方は閣下の名前をだされたら、私達に選択肢は有りません」

 

「なら、合言葉を決めましょう」

 

「合言葉ですか」

 

 確かに古臭い手であるが、有効な手段だとキャゼルヌは感心したが、ハンスのセンスには呆れたのである。

 

「まあ。二回のテロで構成員も残り少ないと思いますが、連中は死兵となりますので、用心して下さい」

 

 通信が終わるとハンスは事の次第をラインハルトに報告した。

 

「分かった。フェザーンに居る行政官に用意させておこう」

 

「陛下には腹案が有るのではないですか?」

 

「余も卿と同じ考えである。余の子孫が皇帝の責に耐える事の出来る者ばかりではないからな」

 

「御意」

 

「それから、エル・ファシルの連中を出迎えに行くならば、艦は良いのがある」

 

「ご配慮、有り難う御座います」

 

 ハンスは、手持ちの仕事を終わらすと翌週には土産を買いに街に出た。

 

「フェザーンで買うと高いからねえ」

 

 長年の貧困生活でラインハルト以上に倹約が身に付いている。

 後世の歴史家がハンス、ヤン、ラインハルトを語る時に三人の共通した特徴として挙げるのは倹約が身に付いている事である。

 実は、この時代の人々は少なからず倹約が身に付いているのである。

 長年の戦争で帝国と同盟共に国力が落ちていた為である。

 逆に高位高官に登り詰めても贅沢に走らないのがローエングラム王朝初期の特徴でもあった。

 とは言え、ハンスの倹約家ぶりは、この時代でも珍しい部類に入ってはいた。

 

「しかし、ハイネセンも変わったな」

 

 ハンスが知る。この頃のハイネセンは二度の大火により荒れていた。

 ハンスは義手義足が健在で瓦礫撤去の日払いの仕事をしていた時期である。

 

「確か、この角を曲がった所に炊き出しのテントがあったんだよなあ」

 

 あの頃の荒れた面影も殆ど無く不況とは言え財政破綻まではしてはいない現状では、それなりに活気があった。

 

 ハンスはオープンカフェで買い物リストをチェックしながらケーキセットを注文する。

 

「頼まれた化粧水は買った。パスタも買った。クッキーも買った。他に必要な物があったかな?」

 

 ハンスにしたらハイネセンの地を踏む事は滅多に無い事なのでチャンスは最大限に活かしたい。

 ケーキセットを持って来たウェイトレスから見れば妻にお使いを命ぜられた恐妻家に見える。

 

「あれ、可愛いフォークだな」

 

 ケーキセットのフォークの持ち手の先端がデフォルメされたクマの顔になっている。

 

「有り難う御座います。お土産用に販売もしてますよ」

 

「へえ。アイディアだな」

 

 ケーキセットのフォークを帰りに買う事を決めてハンスはケーキを食べる。

 

「フォークが可愛いとケーキも美味しく感じる」

 

 能天気にオープンカフェの経営戦略に乗りながらケーキを堪能した。

 帰りにレジの横に並べられたフォークを物色する。

 

「クマにネコ、ウサギにキツネとイヌとパンダもある!」

 

「六本セットも有りますよ。ケースも付いてますよ」

 

「それじゃ、4セット下さい」

 

 1セットは我が家で使い、残りはシェーンコップ家とヤン家とキャゼルヌ家の土産にするつもりである。帝国でも飾りの付いたフォークはあるが、ハンスにしたら気取った物が多く、動物をデフォルメしたフォークは斬新に見えた。

 

「良い土産が出来た!」

 

 フォーク如きで喜ぶ事が出来る幸せな男である。しかし、その幸せも軍港に着いた途端に消えたのである。

 

「此方が陛下から指定された艦になります」

 

 係員がハンスの乗艦を紹介する。軍港には黄金色に輝くオストマルクが鎮座していた。

 

「何で?」

 

「陛下が立派な武勲を立てた時の縁起の良い艦だからと言っておられたと聞きました」

 

 帝国ではヴェスターラントの英雄として有名だが、ハイネセンでは殆どの人が知らない。成金趣味と思われて恥ずかしいだけである。

 

「これ、売りに出した筈だよな」

 

「買い手が居なかったのでしょう」

 

「帝国の貴族はフォークにしても趣味が悪いからなあ」

 

 嘆いた自分の言葉が自分の中で腑に落ちない。

 

(何だ?この感覚は?)

 

「フォークにしても趣味が悪い?」

 

 ハンスは自分の言葉に自問自答してみると不吉な名前が出てきた。

 

「アンドリュー・フォーク!」

 

 ハンスの突然の反応に係員も驚く。

 

「忘れていた!」

 

(そうだ。ヤン・ウェンリー暗殺の時に奴を捨て駒にして信用を得ていたんだ)

 

「大至急、発進させる!」

 

 ハンスはオストマルクに乗り込むとアンドリュー・フォークの現状を報告させた。

 

「閣下が探している人物ですが、現在は生死不明となっています。先月の病院火災にて遺体が発見されてません」

 

 ハンスは報告を受けて事の事情をラインハルトに報告する。

 

「地球教がエル・ファシルの連中の暗殺に成功したら帝国の信用が無くなります。それだけじゃない。場合によればエル・ファシルと戦争になります。戦争にならなくとも、その後の交渉も此方の手落ちですから大きく譲歩する事になります」

 

「卿の危惧は当然だな。卿の後にミッターマイヤーの部隊を行かせる。卿はヒューベリオンと合流する様に」

 

 ハンスはラインハルトに報告が終わるとエル・ファシルに連絡を入れる。

 

「ミューゼル元帥。どうされました?」

 

 画面の内でムライが困惑した表情を見せている。

 やはり、エル・ファシルには、フォークの話は届いて無い様子である。

 

「アンドリュー・フォークが何者かの手引きで病院を脱走してロムスキー医師達を暗殺に動いているんですよ」

 

「何と!」

 

「数隻で良い。すぐに護衛をつけるか、呼び戻せ!」

 

「分かりました!」

 

「パエッタ提督にはエル・ファシルで待機をお願いします。ここを空にする訳にはいきません」

 

「了解しました」

 

「リンツ大佐も部隊を連れてフィッシャー提督と同行してくれ」

 

「了解しました。私も何人か連れてフィッシャー提督と同行します」

 

 エル・ファシルのムライ達もヒューベリオンに連絡だけでもと通信を試みるが回線が繋がらない。

 

「何時から繋がらないのか?」

 

「昨日からです。磁気嵐帯に入った模様です」

 

 通信士官によれば、磁気嵐が発生しやすく珍しい事ではないらしい。

 しかし、ムライにはタイミング的にも不安が積もるのである。

 そして、エル・ファシルと通信が繋がらない事にビュコックも不安を感じていた。

 

「閣下。何か御用でしょうか?」

 

 キャゼルヌはビュコックに執務室に呼び出されていた。

 

「昨日からエル・ファシルと通信が繋がらない件なんだが」

 

「通信士官からは磁気嵐と報告を受けています」

 

「そうなんじゃ。昔から磁気嵐が発生しやすい宙域なんだが、この様に長い磁気嵐は初めてじゃ」

 

「閣下。これが人為的に起こされた磁気嵐と言いたいのですか?」

 

「その可能性もあるやもしれん!」

 

「しかし、対応策が無いでしょう」

 

「うむ。その通りじゃ。儂らには磁気嵐に対する策が無い。しかし、用心は出来る」

 

「つまり、不測の事態にロムスキー医師達に邪魔になる様な事をさせるなと言うわけですね」

 

「そういう事じゃ。儂は明日から艦橋に詰める事にする」

 

「分かりました。明日からロムスキー医師達を一ヵ所に集めて置きましょう」

 

「うむ。ミューゼル元帥の迎えが来るまでは用心をした方が良い」

 

 老練なビュコックは経験から自分達の危機を察知していた。

 しかし、ビュコックも既に過去の人となったアンドリュー・フォークの存在までは察知する事は出来なかった。

 

 



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老虎

 

 ハンスとフィッシャーがヒューベリオンを懸命に追跡していたが、アンドリュー・フォークが指揮する武装商船は既にヒューベリオンを捕捉していた。

 そして、フォークはヤンと同等にビュコックに対して敵愾心を持っていた。

 フォークはアムリッツァの前哨戦の時にビュコックと口論となり失神した事を逆恨みしていたのである。

 フォークにしたら士官学校も卒業していないビュコックが提督や元帥の地位に就いた事が許せないのである。

 ましては役目も果たせずに敵艦隊相手に尻尾を巻いて逃げた卑怯者であり、本当なら自分が同盟の救世主になり人々の賞賛を受ける立場であるべきだったのだ。

 完全な責任転嫁の産物であるがフォークには正当な主張なのである。

 

「ビュコックといい、ヤンといい、私の完璧な策を蔑ろにして、今の地位を得た卑怯者ではないか!」

 

 地球教としてはフォーク程、簡単に操れる人間も珍しいのであった。

 そして、エル・ファシルの使節団を暗殺する功績をフォークに譲る筈もなかったのである。

 地球教にしたら異教徒のフォークではなく高潔な地球教が手にするべき功績である。

 更に言えば、地球教が用意した暗殺部隊全員が本物の帝国軍であり、彼らが暗殺に成功する事で帝国とエル・ファシルの関係を悪化させて戦争を起こす事が目的であった。

 戦争になれば提督達を後ろから撃ち帝国の勢力を弱めてエル・ファシルに宇宙を統一させた後に自分達が簒奪する計画なのである。

 第三者が聞けば穴だらけの計画なのだが地球教としては完璧な作戦であった。

 アンドリュー・フォークと地球教の両者は目的地点は別だがコースは同じという奇妙にも似た者同士であった。

 そして、地球教を警戒していたキャゼルヌやビュコックもアンドリュー・フォークという名前は入院した事と同時に忘却可の印を押して脳裏の引き出しに封印していた。

 

 その頃、ヒューベリオンを追跡しているフィッシャーは途中で帝国軍製のジャマーを発見していた。

 

「やはり、ヒューベリオンとの通信途絶は人為的なものか!」

 

 現時点で帝国軍がジャマー等を撒く必要も無い。明らかにヒューベリオンを狙っている事が分かる。

 

「急げ。敵は既にヒューベリオンを捕捉しているぞ!」

 

 この事をフィッシャーはエル・ファシルを経由してハンスにも報告する。

 

「間に合ってくれると良いのだが」

 

 フィッシャーからの情報を知ったハンスは焦るのと同時に胸を撫で下ろした。

 

「まだ、ヒューベリオンは無事なのだろう。しかし、敵が近くに居る事も分かった。急げ!」

 

 ハンスが焦りを感じてオストマルクの速度を上げた頃、既にフォークはヒューベリオンに牙を剥いていた。

 

 いきなりの衝撃であった。船体自体が大きく揺れた。

 ビュコックは時間を確認すると日付けも変わる直前の時間である。

 枕元のインターホンで艦橋に状況を報告させる。

 

「敵襲です。敵戦力は武装した商船が一隻。五分前に後方に突然に現れました」

 

「分かった。儂も今から艦橋に行く。それまでは艦長に一任する」

 

 ビュコックが艦橋に行くと武装商船が後方から必死に追跡をしていた。

 

「閣下。如何されますか?」

 

 艦長の問にビュコックも呆れながらも応える。

 

「商船に取って付けた武装等では戦艦には効かぬだろうに、時差を付けた機雷を三個ばかり落とすか」

 

 ビュコックの指示を艦長が部下に伝えた直後に武装商船が爆発した。

 

「後方と前方に帝国駆逐艦一隻を確認。帝国駆逐艦が交信を求めてます」

 

「うむ。助けてくれた恩人には違いないからのう」

 

「では、回線を繋ぎます」

 

 スクリーンに顔色の悪い帝国士官が表れる。

 

「我々はミューゼル元帥閣下の命令により、エル・ファシル政府の使節団の皆さんの護衛の為に派遣されました!」

 

「それは、ご苦労!」

 

「つきましては、直接に会って、ご挨拶をしたいのですが」

 

「ふむ。その前にミューゼル元帥が派遣した部隊なら合言葉を知っている筈だが?」

 

 ビュコックが背中に回した手で指示を艦長に出すと艦長もスクリーンに写らない位置で部下達に命令を伝える。

 

「貴官達はミューゼル元帥の命令により我々を護衛に来たのではないのか?」

 

 ビュコックの問に帝国軍士官が返答に窮する。その事が事実を雄弁に語っていた。

 

「儂らを暗殺するにも小賢しい策を弄せずに、三隻で掛かってくれば良いものを」

 

 ビュコックがスクリーン内の帝国軍士官に手を振り通信を切るとヒューベリオンの後方で爆発が起こった。

 帝国の駆逐艦のスクリーンからは白い光が溢れでる。艦橋に居た者達は反射的に目を庇う。

 光が収まった瞬間に再びスクリーンから前回より強い白い光が溢れ出した。

 

「何事か!」

 

 更に三回目の光の奔流に帝国士官も身の危険を感じて主砲発射を命じる。

 

「ファイエル!」

 

「ファイエル!」

 

 駆逐艦から発射された光の槍は数十秒前までヒューベリオンが居た空間を通り過ぎ味方の駆逐艦に突き刺さる。

 後方に居た駆逐艦の乗組員は何が起きたかも分からずに殉教する事になった。

 機雷を爆発させて目眩ましをした隙に垂直上昇したヒューベリオンから前方の駆逐艦に副砲が斉射される。前方の駆逐艦の乗組員も事態の把握が出来ないまま殉教を強いられた。

 

「有能な指揮官が居ないと艦長レベルでは、こんな物なのか!」

 

 戦場経験の長いビュコックも驚きを禁じ得ない。

 

「おそらく正規の艦長研修も受けてないのでしょう。挟撃するなら互いの火線を避ける配置にする事は基本です」

 

 ビュコックの驚きに艦長に返答する。

 

「しかし、駆逐艦を二隻も動員する勢力があるとは、ミューゼル元帥が地球教に手を焼く筈じゃ」

 

「戦場で敵と戦うのとは違いますからね」

 

 ビュコックと艦長が殲滅した敵の論評をしていると通信士官から報告が入る。

 

「また、帝国軍です。今度はミューゼル元帥自身が交信を求めています!」

 

「今の爆発で我々の場所が判明したみたいですな」

 

「折角、こんな所まで出迎えに来て貰ったからには挨拶ぐらいはするのは礼儀じゃろう」

 

 通信士官が回線を繋ぐと心労で少し痩せたハンスがスクリーンに現れる。

 

「提督には害虫を退治して貰ったみたいですね」

 

「まだまだ、若い者には負けんぞ!」

 

 スクリーンの死角ではヒューベリオンの艦橋スタッフが必死で笑いの発作を噛み殺している。

 

「元気ですねえ!」

 

 ハンスは感心するばかりである。ハンスの脳裏には「老虎」というワードが浮かんだ。

 自分がビュコックの歳の頃に比べてもビュコックは活力に富んでいる。

 

「まだ、他にもテロリストが居るかもしれません。双方の応援が来るまで、ここで待機して下さい」

 

「了解した。エル・ファシルからも応援が来ているのか」

 

「心配してフィッシャー提督達が向かっていますよ」

 

「そうか!ついでにフィッシャー達もフェザーン見物をすれば良い」

 

 これにはハンスも呆れるだけである。

 

「物見遊山にフェザーンに行く訳じゃないでしょう」

 

 苦笑しながら通信を切った途端にハンスは指揮席に座り込んだのである。

 

「元気な老人ですなあ」

 

 オストマルクの艦長がしみじみと呟くとハンスも苦笑しながらも応じる。

 

「元気過ぎて周囲の人間も大変だと思うよ。それより、補給の方は?」

 

「出力全開で来ましたから応援部隊から燃料を分けて貰わないとフェザーンまで帰れませんな」

 

「バイエルラインがフィッシャー提督より先に来ないと恥を掻く事になるなあ」

 

 ハンスは急ぐ余りにオストマルクの燃料タンクが空になるまで急いで駆けつけたのである。

 

「取り敢えず、バイエルラインが来るまで寝かせて貰うよ」

 

 ハイネセンを出立して以来、不眠不休だったハンスは指揮席で泥の様に眠るのであった。

 ハンスが眠りから覚めた時には既に六時間が過ぎていた。

 

「流石に貴族が金に物を言わせて作っただけあって、下手なソファーより良く眠れる」

 

(この人、日頃は何処で寝ているんだ?)

 

 艦長も呆れ顔でバイエルラインの部隊が到着した事を報告する。

 

「では、補給の方を頼む。自分はヒューベリオンに行ってくるよ」

 

 ハンスはヒューベリオンとの回線を開かせるとビュコックに提案した。

 

「まだ、出発するまで時間が有りますから、その間に使節団の方に陛下の逆鱗のポイントをレクチャーしたいのですが」

 

 ビュコックもハンスの提案に賛成してロムスキーに伝えた。

 ロムスキー達もハンスの申し出を喜んで受け入れた。

 

「陛下は潔癖症でして損得勘定で話をすると逆鱗に触れる事になります」

 

「具体的には?」

 

「そうですね。陛下個人の利益になる様な話は駄目ですね。それと、プライベートな話も駄目ですね」

 

 結局、フィッシャー達が到着するまでにラインハルトの取り扱い説明会は続くのであった。

 フィッシャーが到着するとハンスは航路計算をフィッシャーに任せてフェザーンへと進発するのである。

 

(これで、地球教の戦力も底をついた筈だ。後は首謀者の潜伏場所の特定だけだな)

 

 地球教の陰謀は老いたりとは言え虎のビュコックに正面から叩き潰された。

 地表の花も葉も切り落とされ地下の根の枝も相次ぐテロで使い潰した。既に根元だけが残る状態である。

 

(これで、地球教を壊滅させたら、心置きなく退役が出来るな)

 

 ハンスが世の中、そう甘くはない事を思い知る事になるまで、まだ、幾分かの時が必要であった。

 



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使節団顛末記

 

 エル・ファシル政府使節団がフェザーンに到着するのと前後して、ラインハルトもフェザーンに帰国した。

 

「明日の午後からの会談となります。それまではホテルの敷地内なら御自由にお過ごし下さい。必要な物が有りましたら遠慮なく係員に申し出て下さい」

 

 ハンスも肩の荷が降りた様子である。フェザーンに到着すると護衛の担当はケスラーに代わるのである。

 ハイネセンで買った土産を両手に帰宅するハンスであった。

 

 一方、任されたケスラーは大変である。ヒューベリオンだけでも乗組員は千人近くいるのである。更にフェザーンまで護衛の為に同行したフィッシャーの部隊も居るので、乗組員の宿泊は艦内でして貰ったのである。

 外出は昼間のみ許可を出して各自でフェザーン見物をして貰ったのである。

 

「まあ。フェザーンを観光させたら、旧王朝の悪いイメージも払拭するだろう」

 

 ハンスの鶴の一声があったらしい。

 実際問題として旧同盟人には帝国については暗い陰惨なイメージが有り嫌悪感を持っていた。

 しかし、ラインハルトが目指した新しい帝国は旧同盟人が持つ負のイメージを吹き飛ばしていた。

 

「それでも、ポルノに関して厳しいけどね」とは某元帥の言である。

 

 そこで、警備役の若い憲兵に手持ちのポルノを売りつける不心得者も出てくる。

 建前上は親善の印であると言い訳も用意している。

 因みに不心得者は婦人兵からお仕置きされたそうである。

 

 そして、会談一日目は共和政府の存続と自治に関しては拍子抜けする程に簡単に合意した。

 難航したのは二日目からである。帝国とは対等の国としてエル・ファシル政府を承認したい帝国と帝国の一部としての自治領と承認を得たいエル・ファシル政府と意見の相違が出た。

 帝国としては国として認めた上で関税を課したいのが本音である。

 エル・ファシルとしては自給自足が出来る程度の資源しか無いので他の星系から輸入した原料を星系内で加工して輸出する加工貿易しか経済的に自立するしか術がない。

 そこで関税を掛けられると他の星系との競争に大きなハンディキャップになる懸念がある。

 帝国にしたら加工貿易は輸出側が一方的に利益を上げる事を承知しているので第二フェザーン自治領になる事を防ぎたいのである。

 

「閣下。自治を認めるのに国にする必要があるのですか?」

 

 エミールがハンスに質問してきた。

 

「そうだな。エル・ファシルは物を売りたくとも物が無い。例えば卵を帝国から10マルクで買って売るとしたら帝国から仕入れた10マルクに儲けの分を乗せて15マルクにして売る。誰だって、同じ物を買うなら10マルクの方を買う」

 

「そうですね。同じ品なら安い方を選びますね」

 

「そこで、卵をオムレツにして売る。値段は20マルクにしてもオムレツが作れない人は買う。結局は帝国が物を売ってもエル・ファシルは他の物にして売るからエル・ファシルだけが儲かる」

 

「それは、エル・ファシルだけが狡いですね」

 

「そこで、エル・ファシルを国にしたらエル・ファシルが売るオムレツに関税を10マルク掛けられる。そうすれば帝国でオムレツが25マルクで売っていてもエル・ファシルは30マルクになる。そうなればエル・ファシルのオムレツは売れないし売れても帝国に税金が入る」

 

「それで、揉めているのですか?」

 

「そうだよ」

 

 そして、三日目は帝国側は財務尚書のルビンスキー投入する。エル・ファシル側はキャゼルヌを投入した。

 

「帝国とイゼルローンの金庫番対決か!」

 

 ハンスとしたらヤンやシェーンコップから見物料を取って見物させたい気分である。

 両者の戦いはバーミリオン会戦並みの激闘となった。

 

「この時、私はヤン提督がキャゼルヌ中将に頭が上がらなかった理由を初めて理解した」

 

 後年、フィッシャーが記した回顧録の一文である。

 

「ハンスはルビンスキーをよく帰順させる事が出来たもんだ」

 

 ラインハルトもルビンスキーとキャゼルヌの舌戦を聞いて関心したものである。

 両者の激闘は三日間に及び、結果として国ではなく自治領となり、エル・ファシル政府は前年のGNPの3パーセントを帝国に献上税として納める事で決着した。

 キャゼルヌが勝利した理由は刑事犯が逃げ込んだ場合、逮捕が困難になる事である。

 事実、フェザーン自治領時代には帝国と同盟の刑事犯がフェザーンに逃げ込んだものである。

 更にフェザーンで偽の身分証を偽造して帝国に再入国したものである。

 ルビンスキーは当時者なので反論も出来なかった。

 ルビンスキーとキャゼルヌが戦っていた時に政治家達は司法制度や民法に商法やエル・ファシル軍の政治的立場について帝国側と調整をしていた。

 特に重要視されたのが商法である。同盟には独占禁止法があり、一部の者が商品を買い占めて値段を釣り上げる行為は禁止している。

 帝国では一攫千金の古典的方法として認められているが逆に同盟では五十年程前に社会問題となった事がある。

 同盟では建国記念日に子供の居る家庭ではケーキを食べる習慣があった。

 この時期にケーキに必要な苺は「赤いダイヤモンド」と呼ばれて値段が高騰するのだが、この高騰する事に目を付けた企業が苺を買い占めた。

 確かに建国記念日に食べるケーキは一般的に苺のケーキが多かったのだが普通に高騰する苺が買い占めにより、更に高騰して各ケーキ業者は苦肉の作として他のフルーツを使ったのである。

 苺を買い占めた企業は巨額の赤字を抱え倒産したのだが、倒産寸前に会社の機材などを売り払い全ての現金を持って夜逃げをしたのである。

 この事件は社会問題となり最高評議会でも議題にされた程である。

 実は帝国では溢れた話で有るのだが、流石に買い占める物は無用の贅沢品か軍事物資に限られていた。食品等を買い占めて利益を得る事は帝国貴族の名折れと言われていたからである。

 フェザーンでも日常茶飯事で有るが従業員等に給料を払わないで逃げる行為について厳しい罰則がある。

 この様にルビンスキーとキャゼルヌだけが苦労していた訳ではなかったのである。 

 この間、制服組のビュコックやフィッシャーも日替わりで帝国軍の提督達からの訪問を受ける毎日であった。

 実はヤンもオーディンに来たばかりの頃は同じ様な現象があったのだが、提督達が一巡した頃にハンスが朝礼で遠回しに新婚家庭の邪魔をしない様にと訓令を出したのである。

 今回は滞在期間も短いのでハンスも黙認している。

 ハンスは最終日にはエル・ファシル使節団にフェザーン主要施設を見学させて合間に土産を買う時間を設ける予定である。

 夜のパーティーにはヤン家とシェーンコップ家も招待している。フィッシャーやビュコックに対する配慮である。

 

「しかし、卿も大変だな。本来は幕僚総監の仕事では無いだろう」

 

 ロイエンタールも流石にハンスに同情した様である。

 ラインハルトにしたら共和主義者の事を知る人間に任せたつもりなのだ。

 

「まあ。自分はエル・ファシル軍の面々には色々と世話になっていますからね」

 

「それは別にして、俺も最終日のパーティーには参加するからな」

 

「はあ。ヤン・ウェンリー目当てですか」

 

 ロイエンタールにしても稀代の用兵家と色々と語り合ってみたいのが本音である。

 

「さっきはミッターマイヤー元帥もパーティーに参加させろと催促に来ましたけどね」

 

 ミッターマイヤーの目当てはビュコックの様である。ランテマリオ会戦でのビュコックの老練な用兵に惹かれた様である。

 

 そして、最終日の夜は同窓会の様になっていた。

 キャゼルヌはユリアンに恋人の有無を聞いていた。どうやら、ユリアンと娘の結婚を諦めてない様である。

 ビュコックはヤンの娘を抱いて好々爺といった風情である。

 フィッシャーはヤンと久し振りの対面で昔話に花を咲かせている。

 シェーンコップは使節団の政治家の女性秘書を口説いている。

 

「父ちゃん。ひもじいよ。なんか食べさせて!」

 

 エドワードがヘッダが見れば関心する程の演技力を発揮して父の足に縋りつく。

 それを見た女性秘書も逃げ出すのである。

 

「エドワード。何の真似だ!」

 

「それは、こっちの台詞だと思う」

 

 全くの正論である。

 因みに姉のカリンは生まれて初めてのドレスが嬉しいみたいで他の女性参加者にドレスの着こなし方をレクチャーして貰っている。

 ルビンスキーとパトリチェフはロムスキーから食生活について色々と説教されている。完全に患者と医師の関係である。

 ドミニクはフレデリカと女同士で生活無能者の食生活の管理について話をしている。

 残念な事にミッターマイヤーとロイエンタールは仕事の都合で不参加となっている。

 実はハンスがオーベルシュタインに依頼してパーティーの夜に仕事が入る様に仕組んだ事なのである。

 ハンスにしたらヤンとビュコックやフィッシャーの再会を邪魔させたくなかったのが本音である。

 翌日、使節団が帰国する事になる。バイエルラインの部隊に護衛されての帰国である。

 若いバイエルラインにビュコックやフィッシャー等の老練な軍人の仕事を学ばさせる為でもある。

 使節団が帰国した後で軍務省から全宇宙を驚愕させる発表がされる。

 地球教残党の首謀者デグスビイの逮捕である。

 



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帝国年金問題

 

 軍務省からの発表は全宇宙を驚愕させるに十分であった。

 前触れもなくテロリストの首謀者と幹部が一網打尽にされたのだから無理もない。

 一部の人々は人心安定の為に捏造された情報ではないかと勘繰りもした。

 彼らの勘繰りの根拠は、逮捕したのが憲兵隊でもなく社会秩序維持局でもなく、軍務尚書オーベルシュタインの直属の部隊であったからである。

 オーベルシュタイン自体に信用が無い事も有るが、帝国軍の内情を知る人程、畑違いの様な印象を持っていた。

 オーベルシュタインはフェルナーの進言を入れて記者会見を開く事にする。但し、自身は多忙を理由に出席せずに逮捕現場を指揮したフェルナーを出席させたのである。

 

「先に明言しておくが、今回の逮捕劇で軍部は逮捕現場を担当しただけで、テロリストの首謀者と幹部、及び潜伏先を特定したのは司法省の専従班である」

 

「何故、軍部が逮捕現場を担当されたのですか?」

 

「テロリスト達は武装していた為に銃撃戦になる事が予想が出来たからだ」

 

「では、司法省の専従班がテロリスト達を特定出来た経緯も差し支えなければ公表して貰えますか?」

 

 フェルナーは即答せずに部下に何かを確認をする。

 

「司法省からの許可が出たので捜査の経緯を公表する。最初にフェザーン占領時から話が始まる」

 

 フェルナーの話によれば、司法省はフェザーン占領時から帝国から逃亡した刑事犯がフェザーンに潜伏していると判断してフェザーンの全ての病院から実在しない名前の患者を探しては一人ずつ捜査したそうである。

 その中には地球教の幹部と思われる人物も入院していたので見舞い客も含めて監視していたのである。

 退院後も監視を続けて幹部達が集合する時期を待っていたのである。

 

「エル・ファシル政府使節団の暗殺失敗と新たなテロ活動の相談に集まったと判断して我々が逮捕に赴いたのだ」

 

「では、地球教の原理主義集団は壊滅したと思って大丈夫なのですか?」

 

「取り調べの途中なので、無責任な事は言えないが我々の見解では壊滅したと思っている」

 

 フェルナーの最後の一言で会見会場に歓声が上がる。

 一般市民も地球教のテロ活動に恐怖していたのである。

 ラインハルトは、この捜査に関わった全員に報奨金を出したのである。

 この事については帝国政府の内外から好評を得た。

 

「地味に働いている人間を賞しないと、皆がスタンドプレーに走り組織が破綻するからな」

 

 ハンスだけではなく、オーベルシュタインも珍しくラインハルトを支持したのである。

 この一ヶ月後に司法省は地球教の原理主義集団の壊滅と残存している各地の地球教が無関係である事を宣言する。

 

「狂信者共が壊滅して、宇宙は平和になり結構な事だ!」

 

 ガイエスブルク要塞の駐留艦隊司令官に就任したビッテンフェルトが吠えている。

 どうやら、巡回と称しては宇宙海賊の討伐に出掛けているが、宇宙海賊側も相手がビッテンフェルトと分かると戦闘になる前に白旗を振るのでストレスが溜まっているらしい。

 要塞司令官に就任しているファーレンハイトも苦笑するしかないのである。

 ビッテンフェルトの期待を裏切り、宇宙は平穏無事に七月に入ると大本営で小さな出来事があった。

 ハンスがラインハルトに辞表を出したのである。

 

「卿は余より若いのに隠棲するつもりか?」

 

「陛下は、私は本来は料理人志望なのは御存じの筈です」

 

「しかし、幕僚総監の職は、どうするのだ?」

 

「私じゃなくとも、人材は他にもいるでしょう」

 

 この時、フェザーンの地表にはレンネンカンプ、ルッツ、ミュラー、シュタインメッツの五人の上級大将が存在する。

 五人共に幕僚総監の任を完璧に遂行が出来るのである。

 

「それに、ケスラー上級大将の首都防衛司令官の任を他の者に割り振ってやるべきでは?」

 

 憲兵総監も首都防衛司令官も激務である。平和になり人材も余っているなら一人の人間に兼任させるべきではない。

 ハンスの主張は正論であるが皇帝の人事に異を唱えるのはオーベルシュタインとハンスぐらいである。

 

(こいつ、俺に対して遠慮なく物を言えるのは他に居ない事を理解してないな)

 

 自分が慰留される理由を自覚もないに発揮するハンスである。

 

「そうか。本人の意志を無視して強制するのは余は好まぬ。だが、」

 

「だか、とは何ですか?」

 

「今、辞めると年金が貰えないが良いのか?」

 

 ラインハルトの静かな指摘はハンスには大きな反応を起こさせた。

 

「何故!」

 

「卿は軍に入る時に渡された契約書に書いてある筈だが、恩給の支給は最低十年の軍属期間を必要とすると」

 

 ラインハルトは涼しい顔をして説明する。

 

「何ですと!」

 

 ハンスにしてはゴール直前にゴールが逃げ出した気分である。

 

「因みに幼年学校は入学しても軍属扱いにはならんが士官学校は軍属扱いになるがな」

 

 全く関係ない話をしてハンスの反応を心地よく楽しむラインハルトであった。

 

「元帥の年金は一律で150万帝国マルクと決まっているからな。それと退職金も出ないぞ」

 

「帝国軍は鬼ですか!」

 

「人聞きの悪い。戦没者や傷病兵には別に一時金や恩給を出しているぞ」

 

「卿も一時金を貰う資格が有るが正規の退職金よりは遥かに額が違うけどな」

 

「最初から陛下は知っていて黙ってましたね」

 

「そんな事は無いぞ。卿は既に承知だと思っていた」

 

 この時、傍らで二人の会話を聞いていたシュトライトは笑いの発作に耐える為に腹筋を酷使していた。

 

「三年、後、三年の我慢をすれば良いのですか?」

 

 ハンスが血を吐く様な声を出してラインハルトに確認を取る。

 

「そうだな。卿は三年後に年金と退職金の受給資格が得られるな」

 

 三年後にハンスが辞表を持って来たのと同時に内務尚書にでも任命する算段をしているラインハルトであった。

 ラインハルトにしては直言する数少ない部下であり、庶民感覚を持ち、他の部下とは違う視点を持つのは唯一、ハンスだけなのである。簡単に手放す気は最初から無いのである。

 

 ハンスは自分の執務室に帰る前に事務局に行き自分が辞めた時の一時金の額と退職金の額を教えて貰い、教えて貰った額を片手に執務室で電卓を叩き何やら計算をしている。

 

「全然、話にならんなあ」

 

 脳裏でロイエンタールの顔が浮かんだがロイエンタールにスポンサーになって貰うのは遠慮したい気分であった。

 それに、年間150万マルクの年金も魅力的である。逆行前の世界では財政破綻寸前のバーラト政府では年金も貰えなかったのだ。

 150万マルクの年金が有れば最悪、事業に失敗したり、ヘッダに離婚されたりしても十分に余裕のある生活が出来るのである。

 

「夏に野菜を育て冬のビタミン不足を避ける為に塩漬けにしたり、冬にゴミを燃やした火で石を焼きボロ布に包んで寝たりしなくてもいいんだよなあ」 

 

 結局、三年の月日をハンスは忸怩たる思いで過ごす事になる。

 三年後、年金と退職金の受給資格を得たハンスはラインハルトに辞表を出す。

 ラインハルトは呆気無い程にハンスの辞表を受け取ったのである。

 

「何だ。意外そうな顔するじゃないか」

 

「実際に意外ですからね」

 

「この、三年で帝国の軍事情勢も変わったからな」

 

 ラインハルトとは帝国に亡命して以来の付き合いである。互いの性格も把握は出来ているからラインハルトが素直に辞表を受け取るのを怪しむのは当然である。

 

「まさか、文官になれとか言うつもりではないでしょうね」

 

「卿は慧眼だな。実は内務省の事務次官にと思っている」

 

「陛下、私が何の為に軍を辞めると思っているのですか?」

 

 そこまで、話を進めた時にラインハルトが人を招き入れた。

 

「元帥。私からも頼みます。陛下を助けて差し上げて下さい」

 

「皇妃様!」

 

 ラインハルトはヒルダを援軍として控えさせてたのである。

 本来ならアンネローゼを控えさせたいのだがアンネローゼを呼び寄せるには、それなりの口実が必要となる。

 

「一晩、考えさせて下さい」

 

 ハンスもラインハルト相手なら瞬時に拒絶が出来るのだがヒルダ相手では話が違う。

 その場で陥落させられなかっただけマシであろう。

 

 翌日、逆にハンスに機先を制されてしまったのはラインハルトであった。

 ハンスは最強の札を切る事にした。妻のヘッダを投入したのである。

 

「陛下は私の家庭を破壊するつもりですか!」

 

 ヘッダは安定期に入った大きな腹を突き出してラインハルトに迫る。

 

「夫が退職する事を念頭に入れて色々と家族計画を組んでいるのですよ!」

 

 ヘッダの迫力にラインハルトも手も足も出ない状態である。ラインハルトは目線だけで妻のヒルダに来援を求めるが、ヒルダも目線で拒絶する。

 人であれ動物であれ妊娠中の母親は強いのである。

 

「夫人が懐妊中とは知らなかったのだ。許して欲しい」

 

 結局、ラインハルトはハンスの退職を素直に認めざる得なかった。

 

「まあ、陛下。困った事が有れば相談に乗りますから」

 

 流石に気の毒に思った様でハンスが助け船を出す。

 

「分かった。遠慮なく相談に乗って貰うぞ」

 

 後日、宣言通りにハンスの言葉を最大限に使うラインハルトであった。

 

 こうして、ハンスは念願の退役を果たす事になる。そして、宣言した通りに軍務省前では、背中に赤ん坊を背負って屋台を引くハンスの姿を見る事が出来たのである。

 

 



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エピローグ 前編

 

 軍務省前に屋台が現れる様になり、四年の時が流れていた。

 

「元帥。今日はクロプセ(肉団子)二個とクヌーデル(じゃが芋団子)を三個ね」

 

 若い警備兵がシチューのトッピングを頼む。

 

「はいよ。パンはサービスだよ」

 

「有り難う」

 

「ほな、寒いけど、頑張りな!」

 

 警備兵がシチューとパンを入れた紙袋を手に持ち場へと急いで帰って行く。

 警備兵が去った後で屋台の裏から金髪の青年が出て来る。

 

「確かに卿の言う通りだな。クヌーデルを三個でサワークリーム入りで」

 

 青年もオーダーして屋台に設置された椅子に腰を掛ける。

 

「若い兵士の客が最近は異常に多いんだよ。それで、探りを入れてみたら兵舎の食事が滅茶苦茶なんだよ。はい、お待ち!」

 

 シチューを出した後で二枚の書類を差し出す。

 

「これは、一ヶ月のメニュー表と同じ月の材料の購入リストだよ。帰ってたらシェフに見せて協力して貰う方が早い」

 

「恩に着る。しかし、こんな物が手に入れるとは、卿の人脈が気になるな」

、卿の人脈が気になるな」

 

「蛇の道は蛇だよ。それより、飲み物はグリューワインで良いか?」

 

「寒い日にはグリューワインに限るな。それと、おかわりと追加で鱒の串焼きを焼いてくれ」

 

「はいよ。何本?」

 

「三本」

 

「食い過ぎだろ!」

 

「卿が言えた義理か。二本はヒルダとアレクに土産にする」

 

「じゃあ。二本は帰りに焼こう」

 

「しかし、俺が帝国の実権を握る前の軍の食糧事情も不祥事が多かったが俺の時代にも不祥事が起こるとは」

 

 シチューとグリューワインを受け取りながら金髪の青年が嘆く。

 

「まあ、仕方ない。人は集団になると悪さする人間は必ず居るもんさ」

 

「確かに。それより、二人目が出来たらしいな。おめでとう」

 

「ああ、有り難う。それより、自分は二人目は作らんのかい?」

 

「実は、二人目が出来た。今日も本当は一緒に来たがっていたが、大事を取って皇宮に残して来た」

 

「そちらこそ、おめでとう。今度は顔を見せに行くよ」

 

 返事を返しながら鱒の串焼きを渡す。

 

「レモン汁とビネガーとどっち?」

 

「レモン汁」

 

 小皿に乗せた櫛切りのレモン一個を渡され、早速、鱒にかけると口にする。

 

「旨い!」

 

 瞬く間にシチューと鱒を完食してしまう。

 

「卿の退役を認めずにシェフとして召し抱えるべきだったな」

 

「皇宮で魚の串焼きとか食うつもりかい」

 

 流石に呆れるしかない。

 

「何か問題でも?」

 

 真顔で返されて呆れを通り越して脱力感に襲われる。

 

(オイゲンも大変だが、シュトライトも苦労していそうだな)

 

 内心の思いと別に口にした事は別である。

 

「土産用の鱒が焼けたよ。レモンの串焼きとビネガーも付けているからね」

 

「うむ、有難い。最近のヒルダは酸味を欲しがっているからな」

 

 代金を払い金髪の青年は帰宅した。

 

「おい、今の客は?」

 

 金髪の青年が帰った後で金銀妖瞳の男が声を掛けた。

 

「久しぶり。それから、今の客の事は忘れましょう。それが幸せです!」

 

 金銀妖瞳の男は、現役時代と同じく、何か裏工作をしていると勘繰り、忠告通りに見なかった事にする。

 

「分かった。何時ものを頼む。それとグリューワインを先に」

 

「了解しました」

 

 差し出されたグリューワインを一気に飲み干す。

 

「おかわり」

 

「はいよ。今度は熱いよ」

 

 二杯目は一気に飲めない様に舌が火傷しそうな程、熱いグリューワインである。

 

「安心しろ。もう若くない無茶な飲み方はせん」

 

「最近、日参しているけど、家は大丈夫なの?」

 

 売り上げを無視しての遠回りとも言えない注意喚起に金銀妖瞳が苦笑しながら事情を話す。

 

「子供が出来てから、夜遅くに食事をすると子供が泣き出すのだ」

 

「夜泣きとは別に?」

 

「ああ、夜泣きとは別だな。だから、帰りが遅い時は食事は外で摂るようにしている」

 

「はいよ。臓物の煮込みシチューとクヌーデルとほうれん草のソテー」

 

 一応は健康に気を使っている様である。

 

「しかし、最近は帰りが遅いみたいだな。軍制改革は終わっている筈だろうに?」

 

 自分が退役する頃には軍制改革は殆ど終了していた。

 

「今は二度目の軍制改革を行っている」

 

「またかよ!」

 

 流石に四年後に再度の改革とは間隔が短い様に思える。

 

「仕方ない。最初の改革では外征から領土内の治安維持に変えた。しかし、既に宇宙海賊も殆どが壊滅していて、軍の仕事が事故や災害の対応に切り替わったのだ」

 

「本当に平和になったなあ」

 

「陸戦部隊は特に替わった。急病人の応急手当てから災害時の対応を専門的に学ぶ事になった」

 

 これには軽い驚きを覚えた。

 

「レスキュー部隊化しているのか」

 

「ああ、数年後には艦隊の花形は戦艦や提督とか参謀ではなくなるな」

 

「代わりに強襲揚陸艦と陸戦隊が子供達の憧れの職業になるな」

 

「ふん。別に人気だから軍に入った訳じゃない」

 

 珍しい事に常に冷静沈着な部分しか人に見せない男が拗ねている。

 

(この男も見栄っ張りだな)

 

 考えてみれば見栄っ張りが高じて反乱を興した男である。

 

「しかし、これ程、臓物が美味だとは知らんかったな」

 

 実は帝国でも臓物料理は庶民の食べ物として人気のある料理である。

 その為に飲食店での競争も激しく色々な臓物料理が考案されて提供されているのだが、目の前の男は下級貴族とは言え、金持ちの出身だけあって知らないらしい。

 

「今年は良い材料が手に入ったから出せるけど来年は分からんよ」

 

「ならば、今の内に味わっておこう」

 

 臓物のシチューを堪能して満足したらしく、地位に似合わずに徒歩で帰宅したのである。

 

 客も途絶えて、朝の営業の準備の為に店を閉めようとした時に客が来た。

 

「まだ、営業しているのか?」

 

「はい。大丈夫ですよ!」

 

 反射的に返事をしてたが、相手を確認して驚いた。声を掛けた主は義眼の白髪男である。

 更に奇妙な事に二十代後半の若い女性と、その娘らしき七歳前後の女児を連れている事である。

 

「これは、お久しぶりです。あの、もしかして娘さんとお孫さんですか?」

 

「卿は私を何歳だと思っている。家内と娘だ!」

 

 爆弾発言であった。

 

「な、なんですって!」

 

 白髪頭の正論家は頭髪の色とデスクワークばかりで青白い顔をしている為に実年齢より老けて見える事が常である。

 それが、若く美しい娘と結婚して子供までいるとは驚愕するべき事実である。

 

(待てよ。娘さんの年齢から言えば俺が結婚した時くらいの時の子供だよなあ)

 

 数瞬の思考の結果、脳裏で「連れ子」という単語が浮かんだのである。

 

(そうか。旦那さんを亡くして路頭に迷っている母子を保護の目的で結婚したんだな)

 

 全てが腑に落ちた。この男は意外な事に慈愛精神の持ち主である。老いた野良犬を家族にする様な男であった。

 

(この男の場合は、犬も人も変わらんか)

 

 失礼な事を考えていたが、全てを見通す義眼は看破していた。

 

「何やら、勘違いしている様子だか、娘は実子だ」

 

 本日、二回目の爆弾発言であった。

 

「な、な、なんと!」

 

 反射的に両親と娘の顔を見比べてしまう。父親の遺伝子が娘からは見当たらない。

 

(そう言えば、我が家も娘は母親のクローンみたいだもんなあ)

 

 実体験が一瞬で冷静さを取り戻させた。

 

「しかし、八年以上前に結婚していたのか!」

 

「卿が結婚した直後だな」

 

 相変わらず冷静沈着に返答する。

 

「何故、黙っていた?」

 

 対照的に慌てながら詰問する。

 

「あの結婚式を見た直後で、常人なら派手な結婚式を挙げる気にはならん」

 

 相変わらずの正論家ぶりも健在の様である。

 

「確かに!」

 

 自業自得とは言え悪質な邪魔が入りテレビ中継され大騒ぎが全宇宙に流れたのである。常人なら遠慮したくなるであろう。

 

「式は別にして、結婚した事を何故、言わん?」

 

「私事を報告する必要があると思えん」

 

 もし、この場でラインハルトが居たら三人が結婚報告した日に結婚の話題に狼狽した男の様子から実際は照れていた事に気付いた事であろう。

 その事を知らない人間は額面通りに受け取ってしまった。

 

(そうだった。この人は徹底した秘密主義者だった)

 

 この男の性格を思い出して納得した。更にテロに巻き込まれる危険も危惧したのであろう。

 

「まあ。取り敢えずメニューをどうぞ」

 

 オーダーを取る前から疲労感を覚えてしまった。三人のオーダーを取り手際良くオーダー品を出してゆく。

 

「卿が現役の頃から料理の腕の評判は聞いていたが、正直、これ程とは思っていなかった」

 

 三人は政府高官の一家だけあり行儀良く食事をしてゆく。

 

(流石だな。俺とは大違いだ)

 

 第三者が居れば比較対象が悪いと言った事であろう。

 

「この子は臓物料理が苦手な筈なのに、二杯も食べるなんて!」

 

 子供の好き嫌いに手を焼くのは、どの家庭も同じ様である。

 

「臓物は特有のクセが有りますから、ちょっと下処理をすれば大丈夫ですよ。簡単な下処理の方法を後日、旦那様にお渡ししときますよ」

 

「あら、それは有難う御座います」

 

 三人は満足した様子である。絶対零度のカミソリと呼ばれた男が娘を背中に乗せて帰る姿は平凡な父親と変わらぬ。

 

「皆、良い方向に変わった様だな」

 

 自身が逆行した意義を実感した男は第二の人生を充足感に包まれていた。

 

「今度の休みは久々に家内の実家に行くとするか」

 

 妻も仕事が持つ身である。義両親も娘と孫と会える機会は少ないのである。

 

「お土産は何がいいかな?」

 

 冬の夜空だけが男の呟きを聞いていた。



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エピローグ 後編

 

 レストラン「柊館」の厨房は朝から戦場と化していた。

 

「ビールサーバーの設置は終わりました。予備タンク二本は此方で宜しいですか?」

 

「OKです。ありがとう。それと、シャンパンは?」

 

「はい。ご注文通りにホールのクーラーボックスの中に入れました」

 

「これで、年間のノルマは達成したけど、報償金の入金は何時になる?」

 

 質問をしながら、素早く伝票を確認してサインをする。

 

「来月の末になります」

 

「そう、来年も頼むよ」

 

 酒屋の従業員と話をしながらも、レンジで中に火を通した骨付き鶏肉を次々とフライヤーで揚げてゆく。

 揚げ終わるとオーブンに入れて、残った油を飛ばす作業に入る。

 オーブンで焼いている間に大皿にキャベツを敷き詰める。

 

「マリーカ、ホールの準備は終わった?」

 

「はい。残りはフライとフルーツ盛りだけです」

 

「じゃあ。フライの方を頼むよ」

 

 アルバイトのマリーカがオーブンからフライを用意した大皿に盛り付けていく。

 

「やっぱり、女性の方が盛り付けのセンスがあるなあ」

 

 ハンスはマリーカの盛り付けのセンスを賞賛しながらもフルーツをカットしていく。

 林檎でタワーを作り、バナナを斜めにカットする。キウイを星型の型抜きをしてスライスする。

苺はヘタを取って洗い、軸の部分をカットする。

スイカはスティック状にカットする。

 次々にフルーツをカットした後をマリーカが皿に盛り付けていく。

 フルーツのカットが終わるとマリーカに盛り付け任せて、自分はウェディングケーキの組み立てを始める。

 全ての作業が終わると同時に玄関前が騒がしくなった。

 

「間に合ったな」

 

 マリーカに休憩を取らすと自分は玄関まで客の出迎えに行く。

 ハンスが扉を開くとウェディングドレス姿のカリンが立っていた。

 

「な、なんちゅう格好で!」

 

 驚くハンスを無視してカリンはハンスに語りかけてきた。

 

「元帥には本当に感謝しています。母に死なれて路頭に迷っていた私に父と弟に引き合わせて下さいました。だから、元帥には私の晴れ姿を見て欲しかったんです」

 

 カリンの言葉でハンスの涙腺が緩み始めた時にカリンがハンスの頬に口づけをする。

 

「こら、ユリアンの前で何を!」

 

 緩んだ涙腺が決壊する前に顔を真っ赤にして狼狽する姿は三十路過ぎの元元帥には見えない。

 

「だって、元帥が泣き出しそうになるんだもん。折角、元帥が泣かない用にパーティーを柊館にした意味が無いじゃないですか!」

 

 先程の殊勝さは何処へやら、完全にハンスを玩具にしている。

 

「そりゃ、あんな事を言われたら誰だって泣くわ!」

 

 ハンスが吠えた途端にギャラリーが笑い出す。

 

「貴方も情けないわね。いい加減に女性の扱い方を覚えたら?」

 

 妻のヘッダが呆れた口調で声を掛ける。

 

「ふん。一人の女の扱い方を知っていれば十分だよ」

 

 ハンスは反論すると同時にヘッダを抱き寄せて唇を奪う。

 ハンスの意外な行動にギャラリーから響動めきが起こる。新婚のユリアンやカリンも顔を赤くしてしまう。

 

「もう、強引なんだから!」

 

 ハンスから解放されてヘッダが抗議するが頬を紅潮させていては説得力が無い。

 

「家でも、あんな調子なの?」

 

 ユリアンが娘のオードリーに質問する。

 

「今日は、お客様の前だから控えめな方よ」

 

 娘のオードリーが苦笑しながらも両親の夫婦仲について応えた。

 それでも、店の店主らしく全員に飲み物を配るとユリアンとカリンをステージに連れて行き乾杯の音頭をとる。

 

「若い二人の前途を祝して乾杯!」

 

 結婚式のパーティーの筈だが、旧ヤン艦隊の同窓会と言った風情である。

 

「主人も来れない事を残念がっていたわ」

 

「仕方ないですよ。キャゼルヌ中将も今はエル・ファシルの財務大臣なんですから」 

 

 ユリアンとオルタンスが話をしている横でカリンがキャゼルヌ家の姉妹に色々と質問責めにあっている。

 キャゼルヌ家の姉妹も年頃である。身近なユリアンのラブストーリーに興味津々の様子である。

 カリンが照れて話さない部分は弟のエドワードが暴露している。

 

「今度、帝国の船員学校の講師にと話を頂きましてね」

 

「そりゃ、良かった。フィッシャー提督が船員教育をすれば事故も減少するだろう」

 

「芸は身を助けるとは事実ですな」

 

 新郎新婦の父親は軍を引退したフィッシャーと近況を話している。

 新郎のユリアンは保育園の経営を始めたポプラン夫婦にカリンの事を冷やかされている。

 

「しかし、お前さんも目が高い。あんな美人を射止めるとは!」

 

「この間もカリンちゃんと仲良くデートしていて羨ましいわ!」

 

 通信社に再就職したアッテンボローは良いチャンスとばかりにハンスに取材をしている。

 

「巷ではミューゼル元帥の官職復帰を期待してますが、元帥自身は官職に復帰する予定は無いのですか?」

 

「期待されても困るよ。妻との時間が減ってしまう」

 

「ちょっと、お父さん。子供達との時間は?」

 

 薄情な父親の発言に娘のオードリーも呆れ口調で詰問する。

 

 フレデリカはヤンの副官としてイゼルローンでの始めての新年パーティーの夜の事を思い出していた。

 あの時もムライとパトリチェフは指令室で留守番で姿が見えなかった。

 フィッシャーは軍港に詰めてパーティーに不参加だった。

 そして、キャゼルヌ一家は家族だけでパーティーをして不在だった。

 カリンもハイネセンで母と一緒に過ごした筈である。

 あの時にパーティーに参加した人間で不在なのは、今はハイネセンで教員をしているコーネフだけである。

 しかし、あの動乱の時代を全員が、よく生き残れたと感心するばかりである。

 ヤンが帝国に移住を決めた時は色々と不安もあったが、ハイネセンはレベロの暗殺を筆頭に不祥事が多発して治安が悪くなった。それを思えば帝国に移住した事に胸を撫で下ろしたものである。

 このまま平和な時代が続く事をフレデリカは祈るのである。

 そして、フレデリカの祈りは叶う事になる。フレデリカが天寿を全うした後、三賢帝と呼ばれる時代が到来するのである。

 そして、フレデリカが逝去した十五年後にヤンファミリーの最後の一人のユリアンも天寿を全うする事になる。

 

 そして、その二年後。

 

 ハンスは寒さで目を覚ますと粉雪が降る夜の空を見上げていた。

 傍らには帝国製の安ウィスキーの空瓶が転がっている。

 背中から伝わる冷たさと体の上に積もった雪の量で自分が数分間程、意識を無くしていた事を悟った。

 

「最期に夢を見たのか」

 

 口にしてから苦笑してしまった。地球時代の故事の「邯鄲の夢」を思い出してしまった。

 

(そうか。全ては夢だったのか)

 

 神か悪魔か知らんが最期に幸せな夢をプレゼントしてくれたものだ。

 ハンスは再び目を閉じて永遠の眠りに就こうした。

 

「もう、そんな所で寝てるんじゃないの!」

 

 死んだ筈の妻のヘッダの声に思わず上半身を起こし声の方向に首を向ける。

 首を向けた方向には初めて会った時のヘッダが鬼の形相で立っていた。

 

「ちょっと待て、何で若い姿で出て来るんだ!」

 

「また、お婆ちゃんと間違える」

 

「えっ!」

 

「お母さん。また、お爺ちゃんが寝惚けて庭で寝ているわよ!」

 

「えっと?」

 

「もう、自分の孫と奥さんの見分けがつかないの?」

 

 ハンスは笑って誤魔化すしかなかった。

 

「ミューゼル食品の会長が安酒を飲んで自宅の庭で凍死とか情けないでしょ!」

 

 ハンスの脳裏には逆行後の長い人生の記憶が残っていた。

 その記憶によれば、目の前の少女は娘のオードリーの子供でアンである。どうやら夢では無く現実の様であった。

 

「氏より育ちとは本当ね。ほら、手を出して!」

 

 ハンスは孫が差し出した手を握ると孫を自分の膝の上に引摺り倒した。

 

「孫の分際で祖父に意見をするとは生意気な!」

 

 大人気なく孫の顔に雪を擦りつける。しかし、アンもハンスの孫である。

 ハンスの膝上から転がる様に脱出して膝立ちになった時には雪玉を片手に反撃の体制を整えていた。

 

「甘い!」

 

 アンが反撃の態勢を取った時には既にハンスは孫の顔面に雪玉を投げつけていた。

 アンも雪玉を顔面に食らいながらも祖父に向けて雪玉を投げつける。

 

「そんな、めくら撃ちが当たるか!」

 

 ハンスは雪の地面を転がりながら雪玉を避ける。

 ここに祖父と孫の雪合戦の火蓋が切って落とされた。

 

「ふん。実戦を知らん若造には負けんぞ!」

 

「お婆ちゃんから聞いたわよ。実戦と言っても、先帝陛下の旗艦にいただけの癖に!」

 

「ふん。その程度で元帥にはなれんよ」

 

「何よ。勲章なんか一個も無いじゃない!」

 

「あんな食えもしないもん欲しくも無いわ!」

 

「普通は軍人なら欲しがるでしょ!」

 

 互いに憎まれ口を叩きながら遮蔽物に隠れて移動して雪玉を投げ合う。

 

「いい加減にしなさい。夜に雪合戦なんて子供もしませんよ!」

 

 祖父と孫の無駄にスキルの高い雪合戦はオードリーの登場で強制終了したのである。

 

 オードリーに雷を落とされた二人は速やかに和解をして家の中に入る。

 

「本当に二人共。子供ね」

 

 オードリーも自分の父と娘に呆れながら入浴を促す。

 

「じゃ、一緒に入ろ。お爺ちゃん!」

 

「ちょっと待て!それこそ子供じゃ在るまいし!」

 

「問題ないわ。老人介護よ」

 

 オードリーが再び雷を落とそうとした時にハンスが腹を抱えて笑い出した。

 

「オードリーもアンも外見だけじゃなく中身もアレにそっくりだ!」

 

 ハンスに言われてオードリーも苦笑する。オードリーも若い頃に恥ずかしがる弟と無理矢理に一緒に入浴したものである。アンも自分と同じく弟と一緒に入浴したがるのである。嫌がる家族と一緒に入浴したがるのは母の遺伝子の成せる業かもしれない。父が笑い出すのも無理はない。

 

「なら、私も一緒に入ろうかしら」

 

 オードリーの発言に自分は先に逝ったヘッダに死後も勝てない事をハンスは自覚した。

 

(もうすぐ、其方に逝くけど、沢山の土産話があるから待っていろ)

 

 ハンスはヘッダと再会する日を楽しみにした。

 



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エピソード 蛇足

 

 ハンスは庭のベンチに座りペレセベス(亀の手)を茹でている。先程、孫娘のアンの新婚旅行の土産である。

 

「もう、良いじゃろう。アンも遠慮せずに食べなさい!」

 

 アンも横に座りベンチの上に置かれたペレセベスを口に運ぶ。

 

「向こうでも食べたけど、美味しいわね」

 

「オードリー達は自分で取って食べた事があるがな」

 

「母さんから聞いたわよ。私達の新婚旅行先はお婆ちゃんと初めて行った旅行先なんでしょう」

 

「ああ、まだ結婚前だったけどな」

 

「これも、お婆ちゃんとの思い出の品なんでしょう?」

 

「まあね。アレも最初は半信半疑で食べていたけどね」

 

 二人は食べ終わるとベンチに隣同士で座り暗くなった空を眺めている。

 

「アレと二人で夜空をゆっくりと眺める事が夢だった」

 

「お婆ちゃんは夜空が嫌いだったの?」

 

「夜空を嫌いというよりは儂をベッドに引きずり込む方が好きだった」

 

 祖父の暴露にアンも流石に呆れて祖父に同情した。

 

(お婆ちゃん、何を考えてるのよ!)

 

「たがら、孫のお前とゆっくり星を眺める事が出来て思い残す事は無い」

 

「曾孫を抱きたくない?」

 

「オードリーにお前にアレの遺伝子が勝つ事が分かっているからな」

 

 自分と母は若い頃の祖母に瓜二つの容姿である。母と祖母の写真を並べると祖父と父の二人以外は判別に苦労する事になる。

 

「アンよ。もういいかな?」

 

「うん。長い間、御苦労様でした」

 

「そうか。同盟の連中も帝国の連中も皆、儂を残して逝ってしまった」

 

「うん」

 

「アレには沢山の土産話も出来たからな」

 

「うん」

 

 ハンスは孫娘を抱き寄せた。

 

「昔、ここで儂と雪合戦した事を覚えているか?」

 

「うん。覚えている」

 

「あの時に閃いたのだ。最期は夜空を眺めながら最愛の人間に看取られて逝く事を」

 

 ハンスは最後まで話せないまま意識は夢と現実の境界線を行き来を始めていた。

 

(ラインハルト。キルヒアイス。アンネローゼ様。誰も居ないのか?)

 

 白い霧の世界で故人となった人を呼ぶが返事が無いままである。

 

(薄情な連中だな)

 

 毒突いていると不意に後ろから誰かが抱き締めてきた。振り返ると若い頃のヘッダが居た。

 

(そんな所に居たのか!)

 

 何時の間にか最初に出会った頃の体になっていた。

 

(もう離さないから)

 

 二人は互いを抱き締め合う。

 

(来世も、その更に来世も一緒だからね)

 

(うん)

 

 アンは祖父の体が冷たくなり、祖母と再会した事を理解した。

 ベンチに祖父を残して両親に祖父が祖母と再会した事を伝えると夫が優しく抱き締めてくれた。

 

 伝説が残り、新たな歴史が始まっていた。

 

               完

 




 長い間の応援、有り難う御座いました。
 蛇足ながらハンスの最期も書く事が物語の完結になると思いからのエピソードとなりました。
 尚、もしかしたら将来的に外伝を書く事もあるかもしれませんが今の所は予定はありません。



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銀河英雄伝説IF~亡命者~外伝 ラング 前編

 

 ハンスが「柊館」を開業して一年の月日が流れた頃、宇宙は平和であった。

 エル・ファシル自治領ではキャゼルヌが自治領選挙で当選して第三代自治領主となり、帝国では社会秩序維持局がフェザーン秩序維持局から帝都秩序維持部に組織縮小されていた。

 それに伴い、統括責任者として降格されたハイドリッヒ・ラングは珍しく風邪を拗らせて自宅で療養していた。

 

「我ながら情けない。雨を1時間ほど浴びただけで風邪とは」

 

 ラングは自身が若い頃を思い出す。冬に遺棄された証拠を確保する為に川の飛び込んだりしたが風邪などを引く事もなかった。

 最近は若い頃を懐かしむ様になったのは年齢の為だろうかと年寄り臭い事を考えてしまう。

 

「いかん。風邪など引くと弱気になってしまう。早く治すに限る」

 

 ラングはナイトテーブルに置かれたハーブティーが入ったポットに手を伸ばしたが中身は空であった。

 

「知らぬ間に飲み干してしまったか」

 

 妻を呼ぼうと思ったが、昨夜も遅くまで看病してくれた妻を使いだてする事に気が引けたラングはポットを持ったままキッチンへと向かったのである。

 そして、ポットを持って廊下に出た所で応接室から人の話し声が聞こえたので、思わず聞き耳を立ててしまった。

 

「帝都秩序維持部のお仕事も大変でしょう」

 

「はい。夜も昼も無い仕事ですから」

 

「以前はフェザーンの他にオーディンとハイネセンと経済と政治の拠点が分かれてましたが、宇宙統一でフェザーンに集中した為に犯罪も多くなりましたから」

 

「警察や憲兵隊の方々も懸命に励まれてますが、人手が足りない様ですわ」

 

 どうやら、妻と出入りの商人が話をしている様である。

 そして、商人の言葉は紛れもない事実であった。遷都以来、フェザーンでは組織犯罪が増えている。フェザーンの警察も増加する犯罪に手を焼いているのである。

 憲兵隊は本来は軍隊内の犯罪取り締まりが任務であり民間の組織犯罪に対してノウハウが無いのが現状である。自然と帝都治安維持部の負担が大きくなるのである。

 

「以前に伺いましたが、犯罪捜査には表に出来ぬ金銭も必要との事、我々の市民にも苦労の程が漏れ伝わっています」

 

 ラングは部屋の外で音がせぬ様に溜息をついた。

 商人の言う通りである。組織犯罪に対して内通者や密告者の存在は欠かせぬが、彼らに相応の報酬を渡す必要がある。

 そして、支払う金銭に対して領収書を要求する事も出来ずにいる。結局はラングが自腹を切る事になるのである。

 

「此方の品?」

 

 ラングが溜息をついている間に会話を聞き逃した様である。

 

「はい。私が結婚した時に母から譲り受けたものです」

 

「見事な髪飾りですな。細工と良い銀の質と良い。逸品でありますな」

 

「はい。何でも前王朝の流血帝の頃の品と聞いています」

 

「なるほど、あの頃は銀細工の最盛期でしたからな。しかし、まさかと思いますが、これを処分されるのですか?」

 

 ドアの向こうにいる妻の表情は見えないがラングには妻の表情が想像が出来たのである。

 

「しかし、勿体ないですなあ」

 

 そこまで聞くとラングはポットを持って寝室へと戻るのであった。

 

 一時間後、妻が新しいハーブティーを入れたポットを持って寝室に入って来た。

 

「すまん。苦労を掛ける」

 

 ラングは妻に背を向けて呟く様に一言だけ声を掛けた。

 

「たかが、風邪くらいで大袈裟な」

 

 妻も夫の台詞に苦笑を浮かべるのである。

 

「それより、早く風邪を治さないと部下の方々がお困りですよ」

 

「そんな事は無いかもしれんぞ。奴らも口煩いのが居ないと思って喜んでるかもしれんぞ」

 

 妻も夫の軽口に安心した様に笑顔を浮かべる。

 

「今、司法尚書殿が新しい司法組織を作っている最中だ。それが出来れば私も楽隠居が出来る」

 

「そんな、隠居を考える歳では御座いませんでしょう」

 

「まあ、隠居は別にして、オーディンに転任するつもりだ」

 

「あら、オーディンに何かあるのですか?」

 

「ふむ。陛下にお願いして、お前の故郷の警察署長にして戴くつもりだ」

 

 ラングの妻はオーディンの田舎町の出身である。以前から帝都の暮らしが合わないと言っていた事をきに掛けてくれたのだ。夫の不器用な気遣いに、思わず抱きついてしまった。

 

「これ、互いの歳を考えぬか!」

 

「あら、何歳になろうとも、私は貴方の妻ですもの。誰に憚る必要は無いでしょう」

 

 ラングが妻と仲睦まじくしていた時に来客を告げるチャイムが鳴った。

 

「あら、こんな時間に誰かしら?」

 

 五分後、顔を青くした補佐官のハインツが寝室に現れた。

 ラングは目線だけで妻に席を外させながら、ハインツを観察した。

 

(私の部下の中でも比較的に古株だが、この様な表情を初めてだな)

 

「このハインツ、部長の部下となり最初で最後の公私混同させて下さい!」

 

 ラングは官僚として公私の区別に厳しい人間なのだが、敢えて古株のハインツが申し出るには、それ相応の理由がある事を理解しているラングにも緊張が走る。

 

「兎に角、何が起きたのか説明しないと分からんではないか?」

 

 ラングは出来るだけ古株の部下が緊張しない様に、陽気に声を掛ける。

 

「実は今朝、嫁いだ妹から連絡がありまして、妹の子供が誘拐されました!」

 

「ふむ。詳しく聞こうか」

 

 ハインツの妹はリスナー公爵家に嫁いでおり、夫リスナー公爵は貴族というよりは学者肌の人でフェザーン大学の農学部で教鞭も取っている。

 二人の間には五歳になる息子もおり、子宝にも恵まれていたが、その息子が誘拐されたのである。

 

「しかし、誘拐なら我々ではなく警察の領分であろう」

 

「それが、警察には届けられぬ事情があります」

 

「事情とは?」

 

 リスナー家は前王朝のカスパー帝の時代に奸臣エックハルトを誅殺した功で子爵から公爵まで階位を進めた家系である。

 前例の無い大出世であるが異論は出なかった。それだけエックハルトが宮廷内では憎まれていたのである。

 そして、階位だけではなく未然にエックハルトの暴挙を察知した功に報いるのに皇帝から純銀製の名器のフルートを下賜されたのである。

 リスナー家は下賜されたフルートを家宝として、毎年、新年のパーティーで披露されるのである。

 フルート奏者の間では有名な話であり、フルート奏者なら、リスナー家のフルートの奏者として選ばれるのは大変な栄誉とされている。

 

「その、家宝のフルートも屋敷の宝物庫から盗まれてました」

 

 ラングはハインツが青くなり警察ではなく、自分を頼った事を理解した。

 前王朝とは言え、皇帝から下賜された家宝を盗まれるのは帝国貴族としては不名誉の極みである。

 リスナー家の不沈に関わる一大事である。

 

「しかし、何故、家宝が盗まれた事に気づいたのか?」

 

「その事なんですが、妹も混乱しておりまして、話の要領が掴めないのです」

 

「無理もない。子が誘拐されて取り乱さぬ母親は居るまい」

 

「リスナー家のフルートは有名ですので換金する事は出来ませぬ。金銭目的ならフルートで事足りる筈なのですが」

 

「先ずは、御子息が誘拐された時の状況を詳細に調べよ。それと、私がリスナー邸に赴く事は憚られるので、卿が連絡役を務めよ」

 

「了解しました」

 

「それと、耳を貸せ」

 

 本来は二人だけの部屋で耳打ちする必要も無いが、ラングが秘密を守る事の意思表示と極秘の話である事をハインツに理解させる為の行動である。

 

「分かりました。妹は知らないと思いますので公自身に私が直接に話を聞きます」

 

「それが、良かろう」

 

 部下の明敏さに満足の笑みを浮かべたラングであった。

 

 ハインツがラングから指示を得て、リスナー公爵自身から、誘拐の経過を詳細に聞く為にリスナー邸を訪れた。

 実兄が嫁いだ妹の家に訪問しても不思議ではない。更にハインツも司法省の役人である事は秘密ではないが、ラングの部下で秘密警察の人間である事は、ごく一部の人間しか知らない事である。

 

「公、妹とは?」

 

 応接室に通されたハインツの前には義弟のリスナー公爵しか居ないのである。

 

「昨日からの心労で今は臥せっておる。義兄殿には申し訳ない」

 

 謝罪する公爵も顔色は冴えないが、口調に乱れはなく背筋も伸ばしている。流石は公爵家の当主である。

 

「いえ、仕方がない事です。母親は妊娠期間を含めると父親より子供と過ごす時間は長いですから、それに公には妹を大事にしていただいています。それより、事を知っているのは何人いますか?」

 

「私と妻と、使用人では家令と教育係兼身辺警護の者が一人だけで、他の家人は知らぬ」

 

「では、実際の現場の詳細を知る教育係兼身辺警護の者は?」

 

「うむ。肩を撃たれて自室に養生を兼ねて謹慎させている。その者が脅迫状を渡されたのだ」

 

「では、その者に詳細を聞く前に公にだけ、尋ねたい事があります。もし、私に言いにくい事や妹に知られたくない事があれば遠慮なく言って下さい。信頼が出来る者に代わります」

 

「義兄殿に言えぬ事など無い」

 

 ハインツの前置きに公爵も信頼で返しながらも、僅かに緊張しながら口を開いた。

 ハインツは公爵の人格に信頼を寄せていたが、それと別次元で門閥貴族の社会に妹を嫁がせた事を後悔した。

 

 



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銀河英雄伝説IF~亡命者~外伝 ラング 中編

 

 リスナー公爵の告白は貴族社会では珍しくもない事であるが、耳にすれば不快感を覚える類の話であった。

 

「二十数年前になる。先代である父が屋敷のメイドを孕ませた事がある。その時の母の怒りは凄まじく。メイドと産まれたばかりの男子を僅かな金銭を持たせて追い出したのだ。当時、子供だった私の目にも本当に酷い仕打ちであった」

 

 ハンスが居れば何か嫌味の一つも言った事であろうが、皮肉な事にハインツは義弟の善良さを知っていたので何も言えなかった。

 

「代替わりをして、私が当主となった時に腹違いの弟と母親を探したが行方は掴めなかった」

 

「それで、その母子の身内が屋敷内に居るのではないですか?」

 

「そ、それは……」

 

 公爵の態度が口で語らずとも全てを語っていた。

 

「家令と教育係のどちらが身内なのですか?」

 

 公爵も観念した様子で呻く様に応えた。

 

「エマの兄が教育係のヘルマンだが、二人とも私とも私にとっては兄と姉の様な存在だった」

 

 公爵は長年の間、罪悪感を抱いていたのだろう。ヘルマンを側に置いて息子の教育係にしたのは贖罪の意味があったのかもしれない。

 

 公爵とハインツが今後の対応を話していた頃、ヘルマンは屋敷を抜け出していた。

 

「伯父貴殿、首尾は?」

 

 安酒場で安い酒を片手に持った男が新しく入って来た男に声を掛けた。

 声を掛けられた男は慌て気味に隣の席に座る。

 

「うむ。公は既に指定された金額を用意している」

 

 伯父貴殿と呼ばれた男はヘルマンである。ヘルマンを伯父貴殿と呼ぶ人間は宇宙に一人しか存在しない。

 

「ヨハン。その前に、事が終わるまでは連絡は控える様に言っていただろう!」

 

「それより、警察の心配は無いのか」

 

「ふん。警察などに話せるか。家宝のフルートが宝物庫から消えた時の公の顔を見て長年の恨みが消える思いがしたわ!」

 

 ヘルマンが徴兵をされて屋敷から離れ時に先代のリスナー公爵が妹のエマに手をつけて孕ませたのだ。

 ヘルマンが戦場から戻った時には妹は僅かな金銭を与えられ、今は隠居している先代公爵の妻から屋敷を追い出されていた。

 ヘルマンは必死になって妹の行方を探したが妹の行方は掴めなかった。

 ヘルマンが妹の行方を知ったのは妹が死ぬ直前だった。

 先代公爵の妻はエマを屋敷から追い出した後に将来の後継者争いの種を摘み取る為に追手を差し向けていた。エマは赤ん坊のヨハンを抱えてフェザーンの親戚を頼りオーディンから逃げ出していた。

 

「エマは死ぬ前に、お前の事を頼むと何度も何度も繰り返し俺に頼んだのだ」

 

「そして、母はフェザーンで追手に怯えながら死んでいった。俺にはリスナー家は母の仇でしかない!」

 

「ヨハン。俺もお前と気持ちは同じだが、若様だけは助けてやれ。お前と公は腹違いとは言え兄弟だぞ。そして、若様はお前の甥だぞ!」

 

「ふん。その腹違いの兄弟で、一方は公爵様で、一方は人生の裏街道を歩いているわ。そして、甥は公爵家の御嫡男様だわ!」

 

「ヨハン!」

 

「先代の公爵は間に合わなかったが、母を追い出した隠居婆はまだ生きている。死ぬ前に地獄を見せないと死んでも死にきれん!」

 

 ヘルマンは甥の説得を諦めた。ヘルマンは甥の事を色々と気に掛けたがオーディンとフェザーンとの距離はあまりにも遠すぎた。ヘルマンは自分の無力を噛み締めた。

 

(エマ。すまぬ。お前を守れなかったばかりか、ヨハンも守れなかった。せめて、隠居殿に一泡吹かせてやるからな)

 

 ヘルマンは悔恨と怨嗟の思い囚われていた為に警戒心が揺るんでいたのであろう。ヘルマンとヨハンの会話を集音マイクで盗聴されていた事に気付いていなかった。

 

(なるほどね。公爵家の浮沈に関わる大問題だわ。局長が部下ではなく、俺を使う筈だわ)

 

 ヘルマンが屋敷から抜け出した時から尾行していたハンスが二人の会話を聞いて、ラングの判断に納得をしていた。

 ラングは主だった門閥貴族の家族や主だった使用人についてのデータを持っていたのである。

 長年、社会秩序維持局を運営していたラングなら当然の事である。

 それでも、先代の公爵の醜聞までは知り得なかった。ハインツから家宝の盗難の話を聞いて内通者がいると判断して、ハインツが自分の前から辞去するのと同時にハンスにリスナー公爵邸から抜け出しす人間の尾行と調査を依頼していたのである。

 

(しかし、誰も幸福にならん事件だな)

 

 ヘルマンとヨハンにも同情するハンスであったが両親の仕打ちが原因で息子を誘拐されたリスナー公爵にも同情するハンスであった。そして、全く関係の無いリスナー公爵夫人にも同情していた。

 

(先代の公爵に、ほんの少しでも情があれば、ヨハンの人生も違ったのに)

 

 ヘルマンとヨハンが店を出た後にハンスはヨハンを尾行した。

 ヨハンが郊外の山荘に入るのを確認すると近くの木に登り窓に向けて集音マイクを向けた。

 ハンスが外から盗聴している事を知らないヨハンは上機嫌で仲間達にヘルマンからの情報を報告していた。

 

「流石は公爵家だな。ヨハンが言う通りに、本当に指定された金額を2日間で用意しやがった」

 

「だから、言っただろうが、その程度の金なんか連中には安いもんだ」

 

「しかし、ヨハンよ。これで、お前の溜飲も下がっただろ」

 

「この程度で、長年の恨みが晴れるかよ!」

 

 ヨハンの剣幕に仲間達も面食らった。ヨハンの恨みの深さを仲間達は見誤っていた。

 

「オーディンを逃げ出した後も、俺達母子の命を狙って刺客を差し向けやがった!」

 

 仲間達も流石にヨハンの話に驚くしかなかった。

 

「頼った親戚の家も追われて、刺客に怯えながら逃げ隠れする生活したんだ!」

 

 ヨハンの両眼には暗く強い怨嗟の光が宿っている。

 仲間達も人生の裏道を歩いて来た者だが、リスナー家の所業には嫌悪感を抱いた。

 

「そこまで、するのか」

 

 仲間の一人が呻く様に呟いた。

 

「だから、この程度では気が治まらんわ!」

 

「おい。お前の気持ちは分かるが、ガキは大事な人質だぞ」

 

「金を貰った後なら構わんだろ。コイツは俺が八つ裂きにしてリスナー家に送ってやるわ!」

 

「なら、好きにしろ!」

 

 仲間達もヨハンを制止する事を諦めた。事を出来るだけ穏便に運ぶつもりだったが彼らは身代金を手にした後にヨハンを口封じを兼ねて始末する事にした。嫡男を殺されたリスナー家の報復が恐ろしい。

 今はリスナー家との窓口であるヨハンを殺すわけにはいかないのである。

 

 ここまでの会話を聞いたハンスは胸を撫で下ろした。

 

(身代金の受け渡しまでは人質は無事だな。しかし、早目に捕まえないと人質よりヨハンの命も危ないな)

 

 ハンスは一旦、山荘から離れるとラングに事情を報告するのであった。

 

 ハンスがラングに報告していた頃、リスナー邸ではヘルマンが既に拘束されていた。

 

「ヘルマン。あの時の事を忘れてくれなかったのか」

 

 リスナー公爵が話し掛けても、後ろ手に手錠をされて床に胡座をかいたヘルマンは憮然として無言のままである。

 

「いや、忘れられないのは当然だな。忘れろというのは虫が良すぎるな」

 

「旦那様、フルートはヘルマンの部屋のクローゼットに有りました」

 

 リスナー公爵が自嘲していると家令がフルートを抱える様にして持って来た。

 

「かせ!」

 

 リスナー公爵は家令の手から乱暴にフルートを奪うと家令が止める間もなくフルートを真っ二つにへし折った。

 

「旦那様!」

 

「ヘルマンよ。これで贖罪が済んだとは言わんが、私のせめての謝罪の気持ちだ」

 

 顔を青くする家令に、リスナー公爵の意外な行動にヘルマンも驚きを隠せない。

 

「それから、母上には養老院に入って頂く。母上には私も息子も母上の葬儀まで会わぬ」

 

 周囲に居た者には、リスナー公爵の真意が伝わった。

ヘルマンにも伝わった筈だが、それでも二人の関係が戻る事が無いであろう。

 重苦しい空気が支配する場にハインツがリスナー公爵に耳打ちをする。

 

「そうか。息子は無事に保護されたか」

 

「はい。一味も既に全員が捕らえられました」

 

 この時になり初めてヘルマンが口を開いた。

 

「ヨハンは?」

 

「卿の甥御もだが、全員が余罪がある身で既に警察が身柄の引き渡しを要求してきている」

 

「そうか。やはり、余罪があったか!」

 

 ヘルマンの気持ちをハインツも理解が出来た。ハインツは妹と同じフェザーンにいたから、妹の危急に駆けつける事が出来たが、自分もヘルマンと同じ境遇になったかもしれないのだ。

 そして、妹の忘れ形見の事を思うとヘルマンに同情するハインツであった。

 

 一時間後、我が子を抱きしめる妹を見てハインツは胸を撫で下ろすのであった。

 

「義兄殿には何と礼を言えば分からぬ。ラング殿にもリスナーが礼をすると伝えて欲しい」

 

「部長は別にして、私は身内です。尽力するのは当然の事。礼には及びません」

 

 これは社交辞令ではなくハインツの本音である。僅か数日で、心労の為に痩せた妹が満面の笑みを浮かべているのを見れば報われた気分になる。

 

 被害者側は人質が戻れば一件落着だが加害者側と逮捕した側は事後が大変なのである。

 

「この種の取り調べは、何時になっても慣れんもんだな」

 

 ラングはヘルマンはリスナー公爵の意向もあり、直ぐに釈放した。

 ヨハンと仲間達に関しては余罪の追及の為に釈放せずに取り調べをする事にした。

 取り調べの過程で先代のリスナー公爵夫人の執拗さと陰湿さをラング達は知る事になった。

 

 

 



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銀河英雄伝説IF~亡命者~外伝 ラング 後編

 

 ヨハンの取り調べは対外的な理由として、リスナー公爵の名誉に配慮してラングが直接に行う事にした。

 ラング個人の理由としては若い部下に精神的負担を負わせたく無いのが本音であった。

 ラングの経験上、門閥貴族の女性の執念深さと陰湿さは男性には耐え難いものであった。

 

「誘拐事件では被害届けは出ていない。よって、卿の余罪について取り調べを行う。まずは卿の経歴の確認から始める。間違いがあれば、その都度申し出るように」

 

 ヨハンの経歴確認はオーディンから始まった。

 ヨハンの母のエマはオーディンの地方に住んでいる友人を頼りヨハンを出産するが、エマが退院と同時に友人の家にリスナー家からの圧力が掛かったのである。

 エマは友人の助言もあり、フェザーンの親戚を頼り身を寄せる。

 その後、兄であるヘルマンの援助もあり、母子で慎ましいが平和な生活を送っていまが、数年後、先代リスナー公爵が事故に遭い危篤となった途端に事態は急変する。

 リスナー公爵夫人が遺産相続権のあるヨハンの命を狙い刺客を差し向けて来たのである。

 この時、リスナー家を追い出された時の金銭はフェザーンまでの渡航費用で消えていてフェザーンから脱出する金銭も無く、母子でフェザーンの惑星中を逃亡する日々を送るのである。

 その日々のなかで母、エマは心労の為に若くして病死して、ヨハンは十代で天涯孤独の身となった。

 

「卿も色々と苦労したのだな」

 

 時計を見ると既に午後となっていた。ラングは取り調べを一時中断して休憩にした。休憩の間に昼食を摂り記録官を交代させた。

 午後からは母を亡くしたヨハンが刺客から命を守る為に犯罪組織に身を投じた事から話が始まった。

 

「あの種の組織には、常に命を狙われてる連中がいるので、その意味ではセキュリティが万全だった。何度も仲間に命を救われたぜ」

 

「ふむ。義理堅い連中だな」

 

 その後、ヨハンは企業相手の恐喝やライバル組織との抗争に明け暮れながら、執拗に差し向けてられる刺客を返り討ちにする日々を送る。

 事態が変わったのはリップシュタット戦役が起きた事でリスナー公爵夫人も刺客を送る余裕が無くなったのである。

 それと、ヨハンも天涯孤独の老人の養子となる事で財産の相続権を放棄する意思を示した事も一因であった。

 

「最初から、その方法を使うべきだったな」

 

「それには、仲介屋に、それなりの金銭を払う必要がある」

 

「リスナー公爵夫人も益も無い事をしたな」

 

「同感だな。俺は母と二人だけの生活でも満足していたのにな」

 

「伯父であるヘルマンと連絡を取ったのは何時だ?」

 

「フェザーン遷都が終わり地球教が壊滅した後さ。それまで、地球教摘発の為に官憲の目が厳しく、組織も一時休眠状態だったからな」

 

 地球教のテロ行為撲滅の為に司法省に軍務省と皇帝子飼のハンスと連携を取りながら捜査した当事者のラングとしたら苦笑するしかなかった。

 

「実際に伯父貴に連絡を取ると伯父貴も随分と俺達を探したみたいだった。伯父貴に探し当てられる様だと、とっくにヴァルハラに行っていただろうがな」

 

 ラングは誘拐事件を持ち掛けたのは、どちらかと問いたい衝動に駆られたが、今さら無意味な事だと思い口にはしなかった。

 代わりに当代のリスナー公爵が謝罪の表れとして家宝のフルートをヘルマンの目の前で、へし折った事と自身の母親を養老院に入所させた事と母親の葬儀までリスナー公爵と息子は母親と顔を会わせない事を誓った事を伝えた。

 

「兄貴も馬鹿な母親の為に苦労するな」

 

 ヨハンがリスナー公爵の事を兄と呼んだ事に気付いた。ヨハンはリスナー公爵の謝罪を受け入れた様子である。

 その後、ヨハンは自身が犯した余罪には素直に自白したが所属していた組織に関しては口を割らなかった。

 

「刺客から何度も命を救ってくれた義理がある。そこまで堕ちてないわ!」

 

 ラングもヨハンの言に納得して組織に関しては追及を諦めた。

 

 数日後、ヨハンの死刑執行が行われた。リスナー公爵の意向により、ヨハンはリスナー公爵の弟と認知され、貴族として栄誉ある自裁となった。

 自裁の判決を受けたヨハンは苦笑しながらも、自裁の時に使う毒酒にはビールを指定した。

 

「俺はワインは嫌いだ。赤ワインは渋く、白ワインは酸味が苦手だ。贅沢を言うならばビールには揚げ物のつまみを付けてくれ」

 

 ヨハンの要望にラングも苦笑しながらも受け入れた。ヨハンの遺体はリスナー公爵が引き取り、リスナー公爵の弟として葬儀を出した。

 葬儀にはヘルマンの姿は無く、ヘルマンがフェザーンを離れた事は確認が出来たが何処に行ったかは不明のままである。

 

 そして、葬儀が終わった数日内、ラングとハインツはリスナー邸に招かれていた。

 

「この度はリスナー家の浮沈に関わる一大事であった。それをラング殿の計らいにより、息子も無事に戻り穏便に解決なされた。なんと礼を述べれば良いか言葉も見つからぬ」

 

 リスナー公爵は謝辞を述べるとテーブルのは上にアタッシュケースを取り出し中身をラングに見せた。

 

「これは?」

 

「今回、息子の身代金として用意した一部ですが、快く御笑納して頂きたい」

 

 ハインツもアタッシュケース内に隙間なく入った金の延べ棒に驚いた。ハインツの知識では現金に換算するにも、見当のつかない額になる。

 ハインツは思わず上司の顔を見てしまった。ラングは前王朝時代から贈収賄を拒絶した男であり、任務で知り得た情報を私的に利用した事が無い清廉潔白な官吏である。

 ハインツはラングが怒り出すのではと心配したのは当然であったが、それは杞憂となった。

 

「これは、お心遣い有り難く頂戴します」

 

「おお、受けてくれるか!」

 

「はい」

 

 まさか、前王朝時代から貴族からの付け届け等を全て拒絶したラングが受け取るとは思ってなかった。

 帰りの車内でラングがアタッシュケースの中身を確認している姿はハインツの目には奇異に写った。

 

「ふむ。全て帝国財務省の刻印入りの純金とは有り難い」

 

 ラングはアタッシュケースから一枚の金の延べ棒を取り出すと貴金属店の前で車を停車させた。

 

「直ぐに戻るから、ちょっと待ていてくれ」

 

 運転手に声を掛けるとラングは店に入って行った。10分後、ラングは店から封筒を片手に戻ると封筒の中から札束を取り出して数え出した。

 

「もう、ちょっと待ってくれ。動くと数え間違いをするからな」

 

 ラングが札束を数え終わった時に貴金属店の店員が車の窓をノックするのでラングが窓を下ろした。

 

「お客様。商品の方をお忘れになられてました」

 

「これは、お釣に気を取られて、私とした事がうっかりしてました」

 

「一応、中身を確認されて下さい」

 

 店が木箱を手渡すとラングが中身を確認する為に木箱を開けた時、ハインツは思わず声が出そうになった。

 木箱の中に入っていた髪飾りにハインツは見覚えがあった。

 

(あの髪飾りは、以前のパーティーで部長の奥様が身に付けられていた逸品ではないか!)

 

 確か、あまりにも見事な髪飾りだったので髪飾り等に興味の無いハインツも記憶していた。

 

(確か、奥様の母上の形見の品だと聞いていた筈だ)

 

 ハインツは全てを理解したのである。ラングが捜査費用の為に自腹を切っていた事は知っていたが、ラング夫人は自身の母親の形見まで処分する程にラング家の家計を逼迫していたのだ。

 ラングが店員との会話も終わり車を出させた時にハインツの両眼から涙が溢れていた。

 

「どうした。ハインツ。私がリスナー公爵から金を受け取った事が涙を流すほど、気に入らぬのか?」

 

 ラングも部下の涙に慌て気味である。

 

「違います!」

 

 ハインツは力強く否定する。

 

「部長は前王朝時代から正義を貫いてきました。証拠捏造も尻尾を出さぬ悪を葬る為の方便です。一度も無辜の人間を陥れた事はありません。なのに、前王朝時代から報われるどころか、降格されてる事が悔しいのです!」

 

 ラングは部下に涙を見せない為にハインツの言葉に背を向けて窓の外に視線を向けた。

 ラングの涙は自身の不遇な状況を哀れんでの涙では無い。自分のために涙を流してくれる部下がいる事の感謝の涙であった。

 

「そうだ。忘れていた」

 

 ラングは気を取り直す様に声を出して、髪飾りの釣り銭から数枚の紙幣を取り出すとハインツに渡したのである。

 

「これで、明日にも家族を連れて、ミューゼル元帥の店に行くがよい。今回の事で口の固いミューゼル元帥にも手伝ってもらったからな」

 

 ラングはハインツの立場を考慮してハインツの同僚や部下を使わずにハンスに調査を依頼したのである。

 ハインツもラングの配慮と自身の家族の事も気に掛けてくる上司に感謝をした。

 

 翌日、ハンスの前で口を滑らせてラングの待遇に対する不満の言葉をハインツがすると、その日の内に白衣のままハンスが直訴と称してラインハルトの執務室に怒鳴り込むのは余談になる。

 

 三年後、皇帝直属の捜査組織が出来るとラングは以前から懇願していた妻の故郷の警察署長として定年まで過ごすのである。

 定年後は夫人と晴耕雨読の生活を送り天寿を全うする。

 ラインハルトはラングの死後に爵位を送り故人の功に報いた。残された夫人には銀の鏡台を下賜して夫人の内助の功に称えた。

 夫人は下賜された銀の鏡台を国立博物館に有料で貸し出して博物館からの報酬を全額、匿名で福祉施設に寄付をした。

 夫人の死後に寄付の手続きをした学芸員が事情を明かす事でラング自身が下級官吏時代から匿名で福祉施設に寄付をしていた事が判明する。

 後世、歴史家達からゴールデンバウム王朝末期からローエングラム王朝黎明期の名官吏と称えらる事になるが、故人が喜んだのは墓所がオーディンの観光スポットとなり、多くの観光客から花を添えられる事ではなかっただろうか。

 



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亡命者~外伝~ ケスラー Ⅰ

 

 その日、ケスラーは地球教に破壊されたローフテン地区の復興の視察を終えた後、昼食を兼ねて復興後の状況を市民目線で知る為にハンスの店に向かう地上車の中にいた。

 ケスラーが車内から復興後の地区の様子を観察していると1人の女性が交差点の中央で行き交うトラックに怯えながら立ちすくんでいた。

 服装から帝国の地方出身者と判断が出来たがローフテン地区は工業区であり観光客が訪れる場所ではない。

 

「閣下。危ないですぞ」

 

 同乗していた副官のヴェルナーも気が付いた様である。艦隊司令官時代からの副官だが優しい為人は変わらない男である。

 

「ふむ、確かに危ない。あの、女性を同乗させてやってやれ」

 

 ヴェルナーが運転手に命じて女性の前に地上車を停車させて女性を同乗させた。

 この当時、帝国軍は軍律が厳しく民間人に害を加える事は無かったので女性も安心して地上車に同乗した。

 

「フラウ、この地区は工業地区で復興して間がなく交通量も多い気をつけた方が良い。近くに用事があるなら送り届けましょう」

 

「私は子供の頃にローフテンに住んでいました。その時の家を探してます」

 

「差し支えが無ければ詳しい住所を教えて頂けますか?」

 

 帝国の地方出身者特有の発音で、帝国標準語を話す女性の背後に事情がある事を悟ったケスラーが女性に詳しい住所を聞いた。

 

「ローフテン地区しか覚えてないのです。私の記憶には、あんな大きいタンクは無かったのです」

 

「ローフテン地区は三十年前から工業地区として再開発された地区です。あのタンクも地球教団のテロで破壊されたタンクを再建したものです」

 

「そうですか」

 

 ヴェルナーが気の毒そうに女性に説明する。女性の記憶が正しければ三十年前以上の話になる。恐らくは工業地区として再開発以前の記憶なのだろう。

 明らかに落胆する女性を見てケスラーも気の毒に思った。

 

「フラウ。宜しければ、これからランチも如何ですか。これから行くレストランの主人なら力になれなくとも、知恵は貸してくれるかもしれません」

 

 ケスラーの言葉に内心は呆れるヴェルナーであった。ハンスは色々と機転の効く人物である事は副官も承知していたが流石に無理というものである。

 ケスラーの狙いは気落ちした女性にハンスの料理を食べさせたら、幾分は気分が晴れるのではと考えもあった。

 

(ミューゼル元帥の料理が素晴らしいと言われても限界があるでしょうに)

 

 ヴェルナーの予想は二重に外れる事になるのであった。

 

 

「本当に美味しいですわ。フェザーンの料理なのに懐かしい味がします」

 

「喜んで頂いて誘った甲斐がありました」

 

 副官はケスラーと女性の会話を聞いて内心は驚いていた。車内では落胆していた女性が愁眉を開いたのである。

 

「お久しぶりです。ケスラー総監」

 

「此方こそ、ご無沙汰でした」

 

「フラウも如何でしたでしょうか」

 

「とても懐かしい味でしたわ」

 

 ハンスも女性の感想を聞くと懐かしそうな顔で旧同盟標準語で語り掛けた。

 

「帝国の方と思い込んでいましたが、同盟出身の方でしたか」

 

「いえ、私は母が同盟出身でフェザーン出身の帝国育ちです」

 

 たどたどしい旧同盟標準語での返答にハンスの顔色が一瞬に変わる。

 ハンスは帝国語に変えて女性に語り掛けた。

 

「フラウ。立ち入る事を聞きますが、フラウはカプチェランカ残留孤児の方ですか?」

 

「はい。私は同盟名はナターシャといいます。今回は生き別れになった父を探しに来ました。父はカプチェランカの鉱山労働者でした」

 

「そうでしたか。これは失礼しました。滞在期間中は遠慮なく来店されて下さい」

 

 ナターシャも旧同盟標準語よりは少し流暢な帝国標準語で自身の生い立ちを話した。

 二人の会話にケスラーとヴェルナーは困惑した顔になる。

 

「その、無学なのでカプチェランカ残留孤児とは何でしょうか?」

 

 ケスラーとヴェルナーで無言の会話の末にヴェルナーが代表してハンスに質問する。

 

「少し長くなるが時間は良いか?」

 

「構いません。憲兵総監として知らない業務に差し支えがあります」

 

 ハンスの話は第二次ティアマト会戦の直後から始まった。第二次ティアマト会戦で多くの士官や将官を失った帝国軍はイゼルローン要塞の建設に着手する。

 イゼルローン要塞建設の間は帝国軍も小規模の小競合いのみで大規模な軍事行動は行えなかった。

 

「第二次ティアマト会戦での人材の損失の回復に10年の歳月を必要としたが、宿敵のブルース・アッシュビーは戦死させて人材回復もしたが、730年マフィアは健在であったからな。そりゃ、復讐心はあるが手を出せんよ」

 

 730年マフィアで最後まで軍に留まったフレデリック・ジャスパーが退役するのと同時に帝国軍は積極的に同盟に侵攻を始める。

 そして、最初に標的にされたのがカプチェランカであった。

 当時、イゼルローン要塞は外壁や軍事施設は完成していたが、その他の施設は完成していなかったのである。帝国軍としては本国より必要な資材を輸送するよりはカプチェランカを奪取して予算と時間の節約を目論むの当然の選択であった。

 一方で同盟側は第二次ティアマト会戦以降は帝国軍の大規模な進攻もなく油断があったと言えた。

 しかし、長年争奪戦が行われた最前線の地に誰も行きたがらないのは当然であった。

 それでも、軍人なら命令として派遣する事が出来たが問題は民間人であった。採掘作業の全てを軍人が行う事は人員的にも技術的にも不可能であった。

 当時の同盟政府は民間から厚待遇と安全を条件に採掘作業者を募集したのである。

 遠くフェザーンから応募した人達も少なくはなかった。

 そして、帝国軍の襲来は完全に油断していた軍上層部の醜態を晒す事になった。

 同盟軍が近隣の警備艦隊を救援艦隊としてカプチェランカに派遣した時には衛星軌道上に帝国軍の一個艦隊が準備万端に展開していたのである。

 満を持して進攻して来た帝国艦隊と治安維持を任務にしていた警備艦隊とでは数と質に大差があった。

 

「結局はカプチェランカの駐在軍と民間人の大半が犠牲になったそうだ」

 

「その後、軍人は別にしても民間人はどうなりました?」

 

 副官の質問にハンスの返答は歯切れが悪かった。

 

「それが、よく分からんのだ。帝国軍にしたら軍だけが相手なら恥ずべき事は無いのだが、民間人、特に採掘作業者の家族も巻き込んだ事で現場では隠蔽が行われたらしい」

 

 当時の帝国軍にしたら無理も無い話である。第二ティアマト会戦で身内を亡くした者も多く復讐心に動かされた結果が学齢前の子供まで犠牲にしたのである。

 

「同盟政府も時の評議会議長と国防委員長に統合作戦本部長と宇宙艦隊司令長官が引責辞任したが、次の評議会議長と国防委員長も一年程で別件の汚職事件で辞める事になった」

 

 その後は細々とフェザーン経由で交渉と公開捜索が行われたが、結果として家族を置き去りにした罪悪感からか同盟側の人の数は多くなかった。

 

「自分が同盟に居た頃は、年に一度のペースで公開捜索がされていた筈だが」

 

(アスターテ会戦以降は同盟政府も公開捜索をする余力も無くなっていたけどな)

 

 この様な所にも自身が変えた歴史の影響があったが、それが良い事か悪い事かは、ハンスには分からなかった。

 

「私の滞在期間は二週間しかありません。その間に父を見つけたいのです」

 

 残留孤児達も既に家庭を持つ年齢になっている。生き別れになった家族の高齢化が進み、時間が無いのは滞在期間だけでない。

 

「ふむ。それで、四十年前の事を知っている人の心当たりがないか、自分の聞きに来たわけですか」

 

 ハンスは前王朝時代にフェザーンで行政官の引抜きをしていた事がある。その中にカプチェランカへの応募を担当した人間がいる可能性を考えてケスラーはナターシャををハンスに引合せたのだ。

 

(総監閣下も計算高い)

 

 ヴェルナーは自分の上司の良く言えば深慮望遠、悪く言えば狡猾さに内心は苦笑した。

 

「軍務尚書の所に行けば当時のリストはあると思う。軍務尚書の事だから素直にリストを渡すとも限らん。陛下に私が手紙を書くので総監は、ちょっと待ていて欲しい。副官殿は先にフラウを宿舎まで送ってくれ」

 

 ヴェルナーがナターシャと店を出ると、その場にはケスラーとハンスが残った。

 

「総監。覚悟はあるんですか?」

 

 ハンスはケスラーの思惑を看破していながらケスラーの策に乗っていたのだ。

 

「覚悟とは?」

 

「惚けたら駄目ですよ。この種の人探しで相手を見つけても、生き別れた子供の事は忘れて新しい家族を持っている場合もあるんですよ」

 

「……」

 

 この辺りまで考えが及ぶのはケスラーとハンスの人生経験の違いである。

 

(そういえば、この男もアムリツッア会戦の前哨戦の時に親類と生き別れになっていたんだよなあ)

 

 内心ではケスラーがナターシャに肩入れする理由に思い当たりながら別の事を口にする。

 

「まあ。取り敢えず彼女には見張りを付けろ。名乗りをあげなくとも、一目だけでもと思い父親が宿舎に見に来るかもしれん」

 

「分かりました。今夜にも部下に指示を出します」

 

 ケスラーにすると犯罪捜査と別で、不慣れな尋ね人探しとなるとハンスは心強い味方になる。

 

「それと、陛下には後で自分から話を通しておくから、明日から卿はフラウと父親探しをすれば良い」

 

 この時、ハンスもケスラーも尋ね人とは違う葛藤を経験するとは予想もしていなかった。

 



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亡命者~外伝~ ケスラーⅡ

 

 ハンスはケスラーの副官が戻る間にラインハルトに事の次第を連絡した。

 

「陛下。忙しいところを失礼します」

 

「構わん。丁度、休憩中だ」

 

 どうやら本当に休憩中だったようで茶器の音がモニターから漏れていた。

 

「久しぶりだな。たまには顔を見せろ」

 

「私の顔を見たかったら、陛下が来店されたら宜しいでしょう」

 

「ふん。商売上手だな。それより、卿が連絡するとは、また何かあったのか?」

 

「いえ、今回は人助けです」

 

 ハンスはカプチェランカ残留孤児の話からナターシャの話までを四捨五入して話した。

 

「ふむ。それで軍務尚書が個人情報として協力しない場合の保険として、余に連絡をしたのか」

 

「御意」

 

「確かに軍務尚書が言いそうな事で、一理はあるな」

 

 ラインハルトは一瞬だけ考えるとハンス達に協力を約束してくれた。

 

「宜しい。余に関わりがある事なので、今回は卿を支持する」

 

「そういえば、陛下はカプチェランカで初陣されたのですな」

 

(よく考えたら、陛下は生き別れにされた姉君を取り戻す為に宇宙を手に入れた人だったな)

 

 ハンスと会話をしている。ラインハルトが協力を約束した理由をケスラーは理解した。

 

「では、国務尚書にも連絡して他の者の家族を探させよう」

 

「陛下の御配慮に感謝します」

 

「吉報を祈っているぞ」

 

 ハンスとラインハルトの通信が終わった頃にヴェルナーが戻って来た。

 

「遅くなって申し訳ございません」

 

「構わん。首尾は?」

 

「はい。当時の事をフラウから聞き出す事は出来ました」

 

 ケスラーはヴェルナーがナターシャと二人きりになった時に当時の事を聞き取りする事を見越していた。

 ケスラーではナターシャも緊張して聞き取りも上手くいかない事をケスラーもヴェルナーも承知していた。

 

「まず、フラウは生き別れになった状況ですが、家に母君と居たときに帝国軍からミサイル攻撃があったそうです」

 

「なんと、民間人の宿舎に攻撃したのか!」

 

「はい。当時の帝国軍も最前線の基地に民間人が居るとは思ってなかったそうです。そして、母君と一緒に家の中に生き埋めにされたそうです」

 

「気の毒な話だな」

 

 ハンスの感想にケスラーも溜め息をついと同意を示す。

 

「3日程して帝国軍から救出されたそうです。そして、ミサイルを発射した艦の艦長がフラウを引き取り自分の娘として育てたそうです」

 

「念の為に聞くが母君は?」

 

「救出された後に、治療の甲斐も無く病院船で亡くなったそうです」

 

「そうか。では父君の方は?」

 

「それは、分かりません。フラウの話では採掘作業員であった事は間違いが有りませんが採掘現場には攻撃がなかったらしいです」

 

「ふむ。それで父君の情報は?」

 

「はい。父君の名前はアレクサンドル・スミノルフと名前まで分かっています」

 

 父親の名前を聞いた途端にハンスが渋い顔した。

 

「名前まで分かっていたら、探すのは容易ではないか」

 

 ケスラーの楽観的な言葉にヴェルナーも途端に渋い顔になる。

 

「それが、閣下。確認されているだけでも、同性同名が百人以上いるのです」

 

「な、なんと!」

 

 ケスラーとヴェルナーが反射的にハンスに顔を向けた。二人の視線にハンスも説明の必要を感じた。

 

「その、アレクサンドルもスミノルフも同盟でも多い名前なんだ。帝国で言えば、ハンスやハインツにミュラーと同じなんだ」

 

 ハンスの説明を聞き天を仰ぐケスラーであった。

 

「アレクサンドルと言えば亡くなった同盟の元帥もアレクサンドルだったな」

 

 二週間で百人以上の人間を調査する事にケスラーとヴェルナーは暗澹たる気持ちになるのであった。

 

「仕方ない。ヴェルナー。誰か目端の聞く者にフラウを見張らせろ。父親が名乗り出なくとも遠くから一目だけでもと来るかもしれない」

 

「はい。既に二人程、フラウに了承を取り見張らせてます」

 

「ほう。優秀な部下をお持ちだな。総監」

 

 ヴェルナーの手際の良さにハンスも感心する。

 

「いえ、実はフラウを宿舎に送り届けた時にフラウの母親を名乗る女性が待っていたのです」

 

「フラウの母君は既に故人の筈では?」

 

 上司の問いに言い淀むヴェルナーにケスラーが目線だけで先を促す。

 ヴェルナーの話では宿舎に着いた途端にナターシャの母親を名乗る初老の女性がナターシャに抱きつき泣き叫びながら謝るのであった。

 

「ごめんね。ごめんね。貴女を迎えに行く前に兵隊さんが私達を船に乗せたの。子供達も既に仲間が迎えに行っていると言われたの」

 

 ヴェルナーは当時の状況を知らないが女性を船に乗せた軍人の行動が理解できた。

 恐らくは本当に迎えに行っていたが攻撃を受けたか女性達を船に乗せる為の方便だったのだろう。

 ナターシャに抱きつく女性は長い年月を罪悪感に責められて生きて来たのだろう。

 ヴェルナーが女性を宥めてタクシーを呼び女性を自宅まで送らせた。

 走り去るタクシーを眺めてヴェルナーはナターシャに声を掛けた。

 

「あの方は、貴女を通して自分の娘さんに謝りたかったのでしょうね」

 

「あの母親も娘を犠牲にして生き残った。私も母を犠牲にして生き残った。土砂で家の中で閉じ込められた時に、母は僅かに残った水と食べ物を全て私に与えて衰弱死した。でも、誰も悪くない」

 

 ナターシャの返答に掛ける言葉の無いヴェルナーであった。

 そこまでの事を報告されたケスラーもナターシャの言葉に何も言えなかった。悪いとしたら、攻撃をした帝国軍か最前線の基地に民間人を派遣した同盟軍か、もしくは両軍だろうとヴェルナーは思った。

 そして、ハンスが二十代で元帥となり退役した気持ちが理解が出来た。

 

(ミューゼル元帥は常に民間人の血が流れない様に陛下に仕えた。だから、陛下もミューゼル元帥を若いのに元帥まで昇進させたのであろう)

 

 そして、ケスラーは本来は憲兵隊の職務ではないがナターシャの父親の捜索に本気で取り組む事を誓った。

 

「卿は明日からフラウの父君の情報を収集してくれ。私は明日から有給を取る。通常の業務は副総監のブレンターノに任せる」

 

 ヴェルナーは今まで公私混同をした事の無い上司の行動に驚きながらも命令を受諾した。

 

 翌日からケスラーはナターシャと一緒にローフテン地区の民家や老舗の店を聞き込みして回った。

 四十年前の地図と最新の地図を重ねて現在も残っている民家や老舗の店をリストアップして回ったが、四十年の歳月は既に代替わりをさせていた。当時の事を知る人は多くはなかったのである。

 

「地球教のテロの際に引っ越した人も多いみたいですが残った人も少なくないです。諦めずに回りましょう」

 

 ケスラーはランチを摂りながらナターシャを慰める。

 

「有難う御座います。でも、総監さんはお仕事は大丈夫なのですか?」

 

「ははは、大丈夫です。今は休暇中ですので!」

 

「えっ、そんな貴重な休暇を私の為じゃなく、御家族の為に使われないと奥様に私が恨まれますわ」

 

「いえ、その、私は独身です」

 

「こ、これは、失礼しました」

 

「いえいえ、私が有給を消化しないと部下も気を遣い有給を取る事も出来ません。良い機会です」

 

 ケスラーの言葉はナターシャに対する気遣いだけではなく本音でもある。

 ケスラーは知らないが、ケスラーが独身なのはハンスにも責任があった。

 因みに本来、ケスラーの妻となる筈であったマリーカはエミールと先日、結婚したばかりである。

 

「まあ。総監さんも色々と大変なんですね」

 

 ナターシャも疲れた様子が無いようでケスラーの上手とも言えない冗談に半分感心しながら笑っていた時にケスラーの通信端末の呼び出し音が鳴り響いた。

 

「何事か?」

 

 ケスラーが通信端末を開くと画面にはハンスが出た。

 

「期待はしないでくれ。家内の芝居の協賛企業の社長がカプチェランカの引き上げ者らしい。苗字は違うが婿養子らしい」

 

「ファーストネームは同じなのですか?」

 

「ああ、ファーストネームは同じだから同盟の元帥と同じだったから家内も覚えていたらしい。詳しい住所は送信するから急げ。今日か明日にはオーディンに行くそうだ」

 

「分かりました。直ぐに行きます」

 

 ケスラーは通信を切るとナターシャに手短に事情を説明して送信された住所に急行した。

 送信した住所の前に着くとケスラーは人違いもある事をナターシャに念押しする。

 

「フラウ。同姓同名だった事だけで他の事は分かりません。人違いの可能性も大ですから、覚悟をしていて下さい」

 

「分かりました」

 

 二人は緊張しながら車を降りると初老の男性がスーツケースを持って出て来た。

 

「つかぬことを伺うが。アレクサンドル・スミノルフ氏ですかな」

 

 フェザーンでは顔が売れたケスラーは自己紹介を省き件な社長に声を掛けた。

 

「は、はい。私の結婚前の旧姓ですが何事ですか?」

 

 憲兵総監に旧姓を呼ばれて平然とする者は少ない。多少は慌てるのは常人である。

 

「卿はカプチェランカの引き上げ者という事だが……」

 

 ケスラーは最後まで言い切る事が出来なかった。社長はカプチェランカという単語を聞いた途端にケスラーから顔を背けたからである。

 

「私の子供は男の子でした」

 

 ケスラーの後ろに居たナターシャと視線を合わせずに社長はスーツケースを持ったまま、タクシーに乗り込み走り去った。

 

「あの社長さんにも悪い事をしてしまった。社長さんも罪悪感を持ったまま生きて来たのでしょう」

 

 走り去るタクシーを眺めながらのナターシャの感想にケスラーは内心では否定していた。

 本当に生き別れになった息子に罪悪感があるなら、残留孤児がフェザーンに滞在中にオーディンに出掛けたりしない筈である。

 

「そうですね」

 

 ケスラーの返事は短い。ナターシャの父も社長の様に生き別れた子供の事を忘れて新しい家庭を持っているのかもしれないのである。

 その可能性をナターシャに告げる必要もなければ告げる事も出来ないケスラーであった。

 



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~亡命者~外伝 ケスラーⅢ

 

 ケスラーとナターシャがローフテン地区の聞き込み調査を終えたのは、日が沈んだ後であった。

 

「内務省に問い合わせたら、ローフテン地区から引っ越した人の現住所も分かります。まだ1日目です。根気良く探しましょう」

 

 実りの無い1日が過ぎようとしていた。ケスラーは宿舎に向かう車内で沈むナターシャの為に慰めの言葉を掛けた。

 ローフテン地区の住民も協力的だったが、四十年の歳月は長かった。

 

「帝都は暗い所ですね」

 

 ナターシャの呟きは市街の明るさを指していない事は、ケスラーに分かっていた。

 ナターシャは、今日の聞き込みで四十年間の長さを実感したのであろう。

 ケスラーはナターシャの掛ける言葉もなく無言で地上車を運転する。

 宿舎の玄関ホール前に地上車を停めて、ナターシャが玄関ホールに入ったのを確認すると、物陰から私服の憲兵が地上車に駆け寄って来た。

 

「首尾は?」

 

「はい。既に副官殿にも報告していますが、人員の増員を」

 

 私服の部下が報告している途中に、ナターシャの悲鳴が玄関ホールから聞こえて来た。

 

「待て!」

 

 

 悲鳴を聞いて駆け出そうてする部下を制止して、ケスラーが玄関ホールに自ら走り出す。

 

「フラウ。何事ですか?」

 

 ナターシャが自分に宛がわれた部屋の玄関前で、人形を抱えていた。

 

「フラウ。これは?」

 

「総監さん。父は生きていました。これは、私が子供の頃に欲しがっていた人形です!」

 

 ケスラーは人形を包んでいた。包装紙と人形が入っていた箱を確認した。

 包装紙は古く経年劣化していたが箱は新しいままである。恐らくは包装してから年単位で保管されていたのだろう。

 

「フラウ。お父さんは生きてますよ!」

 

 人形を抱えて子供の様に嬉し涙を流すナターシャを部屋に入らせると、ケスラーは管理人室に向かった。

 

「失礼だが、玄関ホールにある防犯カメラのデータをコピーで良いから渡してもらうぞ」

 

「はい。それでは椅子に座って待って下さい。直ぐにコピーしますから」

 

 管理人はケスラーに椅子を勧めると、データのコピー作業を始める。

 

「その、何だ。手慣れているな」

 

「そりゃ、毎年の事ですよ。残留孤児の人も、親が生きて自分の事を忘れてなかった事に満足される方もいますが、映像でも良いから親を見たい方もいますから」

 

「そ、そうなのか」

 

「でもね。母親を探していた筈が、土産を置いていた人が男性だったりとか、互いに思い違いもあるんですよ。だから、私達も孤児の方達が要求されない限りは防犯カメラのデータの事は口にしません」

 

 ケスラーは管理人の話に天を仰いだ。ナターシャの部屋の前に人形を置いた人物が男性である事を心から祈った。

 

「はい。出来ました」

 

「ご協力、感謝する」

 

「思い違いでなければ良いですね」

 

 ケスラーが地上車に戻ると部下が二人になっていた。部下に運転を任せて残った部下から報告を受ける。

 

「朝から宿舎を見張ってましたが、宿舎に入らずに外から宿舎を伺っていた初老の男性は、小官達が確認しただけで八人いました。その八人を尾行して、住居を確認した後に事情を聞いてみました」

 

「そうか。事情を聞いてみたのか」

 

「はい。出過ぎた真似と叱責されるかもしれませんが、黙ってられませんでした」

 

「構わん」

 

「有り難う御座います。それで、結果から言えば八人全員がフラウの父親で無い事が確認しました」

 

「そうか」

 

 ケスラーが小さく溜め息をつくと、運転していた若い部下がケスラーに恐る恐る声を掛けた。

 

「あのう、閣下。小官達は明日も同じ任務なのでしょうか?」

 

「なんだ、嫌なのか?」

 

 ケスラーとしては冗談のつもりだったのか口調が軽かったが、部下は冗談と捉えなかった。

 

「はい。出来れば違う任務をお願いします」

 

「おい!」

 

 ケスラーよりケスラーに報告していた年長の部下が慌てた。

 

「自分は軍人を志望したからには命を賭ける覚悟もありますが、自分の祖父と変わらない老人に泣かれるのは辛いです」

 

 運転していた若い部下はケスラーを始め、残留孤児の問題に関わった者達の気持ちを過不足なく表現していた。

 

「そうか。私自身がフラウ一人だけでも気が滅入るのだから、何人もの涙を見る事になった卿達が耐えられんのは当然だな」

 

 ケスラーは自分の迂闊さを反省した。彼らは憲兵であり軍隊内の犯罪捜査が仕事なのだ。ましては若い者に前王朝の尻拭いをさせてしまったのだ。

 

「分かった。卿達に明日は有給を与える。明日中に気分転換をして、明後日から通常の任務に就いてくれ」

 

「あ、有り難う御座います!」

 

 耐え難い任務から解放されて喜ぶ部下を見て、願わくば彼らの労苦が無駄にならない事を祈った。

 

 憲兵本部に帰ったケスラーはヴェルナーと情報交換すると、防犯カメラのデータを再生する。

 

「これですね。この包みで間違いないですか」

 

「うむ。間違いない。フラウの部屋の前に包みを置いている」

 

「顔も映っていますから、拡大します」

 

 ヴェルナーが拡大した顔のコピーを取り憲兵隊に尋ね人として配布させた。

 

「しかし、閣下。これ以上は憲兵隊としての任務に外れてしまいます」

 

「……」

 

 ヴェルナーとしてはケスラーの気持ちも理解していたが、憲兵隊が1人の人間に肩入れする事に軍務尚書の反応が怖いのである。

 この件が原因でケスラーが何かしらの処分を受ける事を恐れていた。

 ケスラーも、ヴェルナーの危惧も、憲兵隊が1人の人間に肩入れする不公平も理解が出来るので、黙るしかなかった。

 

「それなら、任務に外れない理由があるぞ」

 

 憲兵副総監のブレンターノが執務室に入ると同時にケスラーに助け船を出した。

 

「外からも卿の声は丸聞こえだったぞ」

 

「それは、失礼しました」

 

 恐縮するヴェルナーを尻目にケスラーはブレンターノの発言の意味を目線だけで促した。

 

「先ほど、ミューゼル退役元帥が来られまして、これを置いて行かれました」

 

 ブレンターノのがケスラーに書類の束を手渡す。

 

「件のフラウの父親が名乗り出ないのは、時効間近とは言え、殺人を犯しているからです」

 

 ケスラーとヴェルナーが顔を見合せた。

 

「被害者はトニーオオタ。残留孤児の親達に裏ルートで子供に会わせると言って金を巻き上げていたそうです」

 

「その詐欺の被害者欄に父君の名前もあるな」

 

 ケスラーは手にした書類のアンダーラインが引かれ部分に視線を向ける。

 

「一応は刑事犯の逮捕に協力する名目が出来ます」

 

 ブレンターノの言葉に、反応したのはヴェルナーであった。

 

「ブレンターノ大将。貴方は手錠した父親に娘を引き合わせるつもりですか!」

 

「それしか、我々が動く口実は無いのだぞ」

 

「だからと言って、閣下からも言って下さい!」

 

 ヴェルナーがケスラーに援軍を求めたがヴェルナーの期待は完全に裏切られた。

 

「ヴェルナー。それでも、肉親には生きている間に会いたいものなのだ」

 

「そんな。閣下!」

 

「ヴェルナー。今は会わす会わせないではなく、探す事だけを考えるんだ」

 

「納得は出来ませんが命令には従います」

 

 ブレンターノが年長者らしくヴェルナーを諭すと、ケスラーが指示を出す。

 

「ヴェルナー。人形を包んでいた包装紙のロゴと人形の製造会社を洗い出せ。販売ルートを辿れば父君の生活圏が割り出せる」

 

「了解しました」

 

「それから、ミューゼル元帥は帰られたのか?」

 

「はい。翌日の仕込みが残っていると言って帰られました」

 

「そうか」

 

 ハンスは、この殺人事件の事を覚えていたのだろう。だから、レストランでケスラーに念押しをしたのだとケスラーは悟ったのである。

 

(確かな確信があった訳では無いのであろう。それでも、万が一の事を考えてはいたのか)

 

 ケスラーは皮肉な笑みを浮かべた。自分より年少ながら元帥杖を手にした理由が判ったのだ。

 

(なんという。読みの深さと気配りか。私なぞが到底及ぶモノではないな)

 

 ケスラーから感心されたハンスはラインハルトと久しぶりに茶を飲んでいた。

 

「そうか。アムリッツアの時に。ケスラーには気の毒な事をしたな」

 

 話題は残留孤児問題からケスラーが肩入れする理由に及んでいた。

 

「運が悪い事に、同盟のクーデター騒ぎの時に母子して亡くなられている」

 

「あの時、あそこまで同盟が暴走するとは思わなかった。まさか、民間人まで巻き込むとは思わなかった」

 

 リップシュタット戦役を控え、敵国の民間人の事まで考える余裕がなかった。

 今更ながら無慈悲な事をしたと罪悪感を覚えるラインハルトであった。

 

「陛下。あまり気にする事はありません。陛下は弾倉に弾を込めましたが、引き金を引いたのは同盟です。責任は同盟に有ります」

 

 ハンスは内心は救国軍事会議の連中の近視眼には呆れていた。

 

(難攻不落の要塞があるのだから、内政に力を入れて国力の回復に力を注ぐべきだったものを)

 

 とは言え。戦争になれば犠牲になるのは、何時の時代も市井の民なのである。

 ケスラーの従妹母子もナターシャも、為政者の安易な戦争の犠牲者なのである。

 

「陛下にはカプチェランカ残留孤児に対して寛大な措置をお願いします」

 

「うむ。明日にも内務尚書に訓令を出しておこう」

 

 ラインハルトは野に下ったハンスが時折、顔を出して行く事に安堵した。

 軍隊育ちのラインハルトには、ハンスが持って来る市井の情報は宝石より貴重であり、ハイネセンに居る分身であるキルヒアイスとは違い、数少ない大事な友人なのである。

 

「それにしても、卿に聞くまで、カプチェランカの残留孤児の事は知らなかった」

 

「無理もありません。彼らを引き取った養父母も、今更ながら子を返す事は出来ぬでしょうから、帝国軍も出来れば秘密にしたかったのでしょう」

 

 政略や戦略と違い、駆け引きや武力では解決しない問題ではラインハルト自身が己の未熟さを理解していた。

 

「前王朝の負債を精算するには、まだ時間が必要な様だな」

 

 ケスラーとナターシャには、その時間が無かったのである。 

 

 



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~亡命者~ ケスラーⅣ

 

 憲兵総監であるケスラーが何日も休暇を取れるはずもなく、ケスラーと変わりヴェルナーがナターシャの父親探しに付き合う事になっていた。

 ヴェルナーにするとナターシャを父親に会わせる事には色々と葛藤があったのだが、ブレンターノに言われた通りに、父親を探してからナターシャと再会させるかを考えれば良いと自分に言い聞かせていた。

 

「フラウ。その父君がフラウの前に現れないのは、それなりの理由があると思うのですが、本当に大丈夫ですか?」

 

 ヴェルナーは宿舎前まで地上車でナターシャを送り届けると、地上車を降りて宿舎に戻るナターシャに、この数日間の疑問を直接聞く事にした。

 

「私にも新しい両親が出来ました。父にも新しい家族が居ても不思議ではありません。それに父は私の事を忘れないで居てくれたのです」

 

「そうですか」

 

 ヴェルナーの胸中は返答とは反対に複雑である。二人を再会させる事は父親を逮捕させたとナターシャに負い目を抱かせる危惧と同時にナターシャを裏切っている罪悪感がある。

 暗澹たる気分でケスラーに報告の為に憲兵本部に戻ると事態は進展していたのである。

 

「副官殿はタイミングが良いな」

 

 ケスラーの執務室前でハンスと鉢合わせした。

 

「これは、元帥閣下!」

 

「もう辞めた人間だよ。敬礼する必要も無いよ」

 

 ヴェルナーが慌てながら敬礼するのを止めさせたハンスは、ヴェルナーを伴いケスラーの執務室に入った。

 

「ブレンターノ副総監も来ていたのか」

 

「お久しぶりです。閣下」

 

「こちらこそ、たまに店に来て下さいよ。サービスしますから」

 

 ハンスが営業を兼ねての挨拶で全員を苦笑させると、本題に入る。

 

「件の父親か名乗り出ない理由が分かったよ」

 

「殺人罪以外にも余罪があったのですか?」

 

「余罪じゃなく、反対方向だな」

 

 ハンスがブレンターノの質問に返答するのと同時に懐から数枚の紙を取り出す。

 

「被害者が死んでから15年の間、毎月、遺族に高額とは言えないが少なからずの送金がされている」

 

 ハンスが取り出した紙は預金通帳のコピーであった。

 

「これは?」

 

 ケスラーが預金通帳のコピーの入手先に疑念を持ったのは当然の事である。

 

「今日、遺族に会って話を聞いてきた。今年の夏に息子さんが学校を卒業するそうだ」

 

 ケスラーも遺族に会って預金通帳のコピーを貰ってくるとは予想外であった。

 

「それで、肝心な部分だが、途中からフェザーンから振り込まれている。調べたら残留孤児の公開捜査が始まった翌年なんだよ」

 

「では、犯人は……」

 

「名乗り出なかったのは、被害者の家族に送金する為なんだよ。フェザーンに来たのは娘がフェザーンに来た時に遠くから成長した娘を見るためなんだろうね」

 

 ハンスの言葉に軍人三人は溜め息をつくしか出来なかった。

 

「ケスラー総監。民間人の私に出来るのは、ここまでだ。これから先は貴方が判断して決断するしかない」

 

 ナターシャの父親探しを決めたのはケスラーなのである。ハンスも部下達もケスラーに協力しただけなのである。

 

「はい。何とか父君を説得してフラウと再会させるつもりです。そして、フラウがオーディンに帰った後でも遅くはないでしょう!」

 

 この場には、ケスラーが敢えて口にしなかった単語が分からない人間は居なかった。

 

「其処までの覚悟があるなら、私も覚悟を決めて言いましょう。フラウの父親は多分、清掃員としてフェザーンのオフィス街で働いていますよ」

 

「根拠は?」

 

 ケスラーが反射的にハンスの推理に疑問を口にした。

 

「振り込んだ場所は、全てフェザーンのオフィス街のATMから振り込んでいる。恐らくは清掃会社から派遣された仕事先のATM何だろう」

 

「分かりました。其処まで判れば居場所を見つけるのは簡単です」

 

 ケスラーの言葉通りに、翌日にはATMの防犯カメラから振り込みをした人物を探しだし、ハンスの予想通りに清掃員だった事から、着用している制服から清掃会社を割り出して、昼過ぎには振り込みした人物の名前と住所を調べ上げた。

 

「名前はセルゲイ・ヤグルチです。住所はクロイツ地区に住んでいます」

 

「なんだ。ローフテン地区の隣の地区じゃないか!」

 

「もしかしたら、フラウはクロイツ地区と勘違いしたかもしれませんね」

 

 ヴェルナーの報告とブレンターノの指摘に、自身の迂闊さを無言で悔やむケスラーであった。

 

「それで、本人には?」

 

「いえ、まだ接触はしてません。まだ、フラウの父親なのかも分かりません」

 

「今の清掃会社に勤め始めたのは同盟が滅びた年か!」

 

「はい。あの頃は不況のハイネセンからフェザーンに人が流れてましたから、刑事犯とかも警戒をしてましたが完璧とは言えませんでしたから」

 

「無理も無い。あの頃は地球教の摘発に人員を割かれたからな」

 

「いずれにしても、閣下の判断を仰ぐべきだと思い、監視だけ付けてます」

 

「そうか。フラウの帰郷まで数日ある。暫く様子を見よう」

 

 ケスラーにしては歯切れの悪い口調であった。上司が珍しく逡巡する姿に部下二人は顔を見合せるだけであった。

 

 翌日もケスラーが判断を出さないまま1日が過ぎた。ヴェルナーは定時退勤すると帰宅して私服に着替えると、クロイツ地区にあるヤグルチのアパートに向かった。

 

「任務、苦労。様子はどうだ?」

 

 ヴェルナーは見張り役の部下に差し入れを渡しながらヤグルチの様子を問う。

 

「いえ。判で押した様に変わり有りません」

 

「そうか」

 

「で、あの人物は何者ですか?」

 

 部下には見張っている人物の事を教えて無い事を失念していたヴェルナーであった。

 

「旧同盟と前王朝の亡霊だな」

 

「……」

 

 部下は自分が知るべきでない事と勝手に解釈した様子の部下を残して、ヴェルナーはヤグルチの部屋に行きノックをした。

 

「ヤグルチさん。娘さんが、ナターシャさんが事故で怪我をしました!」

 

 ヴェルナーがドアの前で叫ぶと慌ただしくドアが開かれて、中から血相を変えた初老の男性が出て来た。

 

「あの娘は大丈夫なんですか!」

 

「はい。安全して下さい。大丈夫です」

 

 ヤグルチが安心した隙を狙いヴェルナーが本題を切り出す。

 

「ヤグルチさん。いえ、スミノルフさん」

 

 ヤグルチの驚きの表情が事実を語っていた。

 

「娘さんを心配するなら、娘さんに会ってあげて下さい」

 

「私には娘は居ません」

 

 一言だけ残して室内に戻ろうとするヤグルチに、ヴェルナーが再び説得する。

 

「娘さんは既に家庭を持っているのです。それなのにオーディンからフェザーンまで来ているんですよ。今、会わなければ二度と会う事が出来ないかもしれませんよ!」

 

 ヴェルナーの声に一瞬だけ動きを止めたが、ドアは閉められてしまった。

 ヴェルナーはドアに貼り付く様に耳を付けて内の様子を伺う。

 男性の嗚咽が微かにドア越しに確認が出来た。

 

(本当は会いたいだろうに)

 

 ヴェルナーが見張りの所に戻ると、上司であるケスラーが、待っていた。

 

「閣下!」

 

「ご苦労だったな。戻るぞ」

 

 ヴェルナーはケスラーと共に地上車に乗り込むと、ヤグルチの様子を報告した。

 

「然もあらん。肉親に会いたくない筈がない」

 

 ケスラーの口調と表情には苦味が混じっていた。

 

「すまんな。俺が始めた事で卿に負担を掛ける」

 

「いえ。私こそ、閣下から叱責を受けるものと覚悟をしてました」

 

「いや、卿は人として正しい事をしたのだ。むしろ、俺が優柔不断なのだ!」

 

 ケスラーは従妹親子を失った過去を思い出していた。

 

(あの時、子爵との約束を守り、力ずくでもフィーアを連れて帰るべきだった。あの頃から進歩がない)

 

 ケスラーの自嘲と別に、明日からナターシャとの見付からない父親探しに気を重くするヴェルナーであった。

 それから見付かる筈のない父親探しはナターシャの帰郷日の前日まで続いた。

 

「また、来て下さい。次に来た時には父君は必ず見つかりますよ」

 

 昼過ぎに少し遅めの昼食をハンスの店で摂っている時に、ヴェルナーは気休めとも言えぬ気休めを口にした。

 

「次は他の残留者の番です。私は父から人形を贈られただけで満足です」

 

 ヴェルナーは、その言葉を聞いた途端、ナターシャの手を掴んだ。

 

「今から、父君に会いにいきましょう!」

 

「えっ?」

 

 ナターシャがヴェルナーの勢いに圧倒されて、訳も分からずにヴェルナーに手を引かれて店を出て行く光景を見たハンスは、慌てて店の奥に駆け込んだ。

 

「ケスラーの部下にしては直情的だな」

 

 ハンスから直情的と評されたヴェルナーは、車内でナターシャに全ての事情を打ち明けていた。

 

「それでは、私が父と認めたら父は逮捕されるのですか?」

 

「今は父君と会う事だけを考えればいい!」

 

 ヴェルナーはヤグルチを見張っている部下に連絡を取ると、ヤグルチの居場所を確認する。

 

「父君は近くのビルに居ます。直ぐに会えますよ」

 

 ヴェルナーはナターシャを連れて、ヤグルチが働いている現場ビルまで急行した。

 



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~亡命者~ ケスラーⅤ

 

 ヴェルナーがビルに到着すると見張り役の部下が待っていた。

 

「例の人物は、今は一階の食堂を清掃中です」

 

「了解した。卿は引き続きビルの外から見張っていてくれ」

 

 ヴェルナーは部下に指示を出すとナターシャを連れて食堂へと行く。

 

「本当に父がいるのですか?」

 

「そうです。貴女に人形を贈ったのは、あの人です!」

 

 広い食堂には一人の初老の男性だけが床にモップを掛けていた。

 男性もヴェルナーの声で床から視線を上げるとナターシャに視線を固定させる。

 娘が父の視線を受けながら、一歩ずつ静かに近寄って行く。

 互いに凝視しながら二人の距離が数歩分まで近づいた時にナターシャが口を開いた。

 

「この人は、私の父ではありません。血の繋がった親子なら分かります」

 

 娘が父親を逮捕させまいと否定の言葉を口にして父に背を向けた。

 

「名乗らなくともいい。何か娘さんに声を掛けて下さい!」

 

 ヴェルナーの説得の声に何時の間にケスラーが食堂に現れて父親に声に最後の説得をした。

 

「被害者の奥方も息子さんも貴方の贖罪の気持ちは、既に受け入れてます。それに進学する息子さんも奨学金を受けられますから、貴方が仕送りをする必要は、もうありません」

 

 二人の説得の声も届かないのか。父親は無言のまま背を向けた娘から視線を外した。

 

「ベッドの端で寝ては駄目よ。怖い狼がやって来る。狼の牙はベッドの上まで届かない。ベッドの端で寝ては駄目よ。怖い狼がやって来る」

 

 同盟語は不慣れな筈のナターシャが流暢な同盟語で歌を口ずさむ。

 母親が幼い娘の為に唄った子守唄菜あろう事は、ケスラーとヴェルナーにも分かった。

 

「違う!」

 

 父親が娘の歌を聞いて、大きくないが力強く否定をした。

 

「違う。お前はナターシャじゃない。お前の本当の名前はアナスタシアだ!」

 

 思わぬ言葉に振り返った娘と二人の軍人の視線が父親に集中した。

 

「本当の名前はアナスタシアだ。愛称がナースチャだ。その子守唄も、元の歌の歌詞が気に入らずに、あれが作った歌詞だ!」

 

 娘が最後の最後で名乗りをあげた父親に思わず抱きつく。

 

「お父さん!」

 

「ナースチャ!」

 

 そこには、抱きついてきた娘を抱き締め返す父親が居た。

 三十数年の年月を経て、漸く再会した父娘に涙を流すケスラーとヴェルナーの姿があった。

 

 

 冷たいビールと串焼きにされた鱒を手にラインハルトは上機嫌であった。

 

「卿が呼び出すからアレクを連れて来たが、この様な趣向だったとは」

 

 ラインハルトの横では息子が串焼きの鱒が珍しいらしく、4匹目を手にしている。

 

「まあ。後宮に居れば、串焼き等の大衆食は口に出来んでしょう」

 

 アレクの皿に五匹目の鱒を乗せながらハンスが苦笑する。

 

「それで、今日、俺を呼び出した理由は?」

 

「例の残留孤児の関する事です」

 

「ふむ。ケスラーから報告は受けている。オーディンの医療刑務所に服役したと聞いている。退院する頃には刑期も終了しているだろう」

 

「帝国の裁判所め粋な事をしますな」

 

「ふん。役人嫌いの人間が何を!」

 

 ハンスの役人嫌いは帝国だけじゃなく旧同盟でも有名である。

 

「人聞きの悪い。これでも、元役人ですよ」

 

「なら、何故、役人を辞めたのか?」

 

「今回、陛下を呼び出した理由はですね」

 

 形勢不利となったハンスが露骨に話題を本筋に戻す。

 

「例の被害者遺族がケスラー憲兵総監が自宅を訪問するまで、生活保護や奨学金の事は全く知らなかった事です」

 

「ふむ。その事についてもケスラーから報告は受けている。制度の周知を徹底させるように指示は出している」

 

「やっぱり」

 

 ハンスの反応を見逃す筈の無いラインハルト出来んある。視線だけで理由を述べさせた!

 

「旧同盟でもですが、現場の中堅役人の考えは違うんですよ」

 

「どういう意味だ?」

 

 流石にラインハルトも黙っていられなくなったりしい。

 

「現場の中堅役人達は、生活保護に回す予算で別の事業を民間会社に発注したいんですよ。そうすれば見返りがある」

 

「しかし、そんな事をすれば司法当局が黙ってないぞ」

 

「はい。だから、金銭の授受ではなく身内の就職や進学に便宜を図らせるのです」

 

「なんと!」

 

「その為にもコネの無い人間が進学したり、見返りが無い人間に保護費を出したりするのは都合が悪いのです」

 

「しかし、それでは取り締まり様がないではないか!」

 

「それで、同盟政府も苦労してましたよ」

 

 明敏なラインハルトは、この問題が一筋縄ではいかない事を悟った。

 

「まあ。陛下はコネとかは大嫌いな性分ですが、簡単に解決する問題ではありませんよ」

 

 ラインハルトは数瞬だけ考えると安直だが堅実な方法を口にした。

 

「ふむ。帰ってから尚書達と検討する必要があるな」

 

「それが、宜しいでしょう」

 

「危うく、ケスラーの報告を無にするところだった」

 

 ラインハルトの言葉にハンスは満足の笑みを浮かべた。

 ハンスはヤン・ウェンリー程に歴史に造詣深くなかったが、名君と呼ばれた権力者が晩年には暴君となるのを知っていた。

 

(俺が生きてる間は名君で居てくれよ)

 

「ケスラー憲兵総監には何か恩賞を、お与え下さい」

 

「ふむ。ケスラーに与える恩賞は結婚相手が一番だがな」

 

「それは、難題ですなあ」

 

 ケスラーが独身の原因を作った張本人が自覚も無いままに苦笑する。

 ラインハルトとハンスの既婚者二人組がケスラーの独身を話のネタにした十年後。オーディンの医療刑務所を出所をした老人が娘や孫に囲まれて天寿を全うした事をケスラーは知る事になる。

 

「そうか。間に合ったか」

 

「何が間に合ったの?」

 

 膝の上の娘が父の呟き理由を聞いて来た。

 

「フィーアが生まれる前の、お父さんの知り合いの話だよ」

 

 不思議そうな顔を娘を見てケスラーは言った。

 

「フィーアが生まれる前に、宇宙では一部の愚かな人間の為に多くの人が不幸になった。それを必死に阻止しようと戦った人達が居た事を居たんだよ」

 

 娘の目が子供特有の好奇心の光に満たされた。

 

「そうだね。フィーアがもう少し大きくなったら教えよう」

 

 ケスラー元帥評伝には、ケスラーの妻子について記

述が殆んどない。

 同時代人であるミッターマイヤー元帥評伝と正反対であるが、一説にはテロを警戒した為とも言われている。

 しかし、当時の関係者達の証言では子煩悩な父親だったと証言は一致している。

 ウルリッヒ・ケスラーが元帥杖を手にしたのは退役に際してである。

 退役後はオーディンに帰り晴耕雨読の生活を送り静かな余生を送ったと言われるが正確な記述は見当たらない。最期までテロを警戒した為と言われており、ラインハルト麾下の元帥で最も謎の多い人物である。

 

 

 



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