るろ剣×姿三四郎 明治剣柔道交差譚 (使途のモノ)
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第一話 上京

 明治14年。

 

 欧化と江戸が雑居し、新と旧が平然と肩を並べた時代。

 

 その日はからりとした晴天であった。

 

 神谷活心流の道場の前に一人の男の姿があった。

 

 小兵、である。

 

 すり減り切った下駄によれよれの白縞の袴はその男の懐具合を表すかのようであった。

 

 背中に背負った風呂敷包みの様子と所在無げな素振りから上京したての田舎者、そう目星をつけるのはそう難しいことではないであろう。

 

「おう、ウチに何の用だい? 棒切れ一つも無しに道場破りでもねぇだろう?」

 

 赤べこ帰りの道場師範代である明神弥彦がその男に誰何の声を挙げたのは門人として当然の事であった。

 

「貴方は……」

 

「神谷活心流道場師範代、明神弥彦」

 

「会津の者で上京の折りということで、高荷先生からお手紙を預かってまいりました」

 

 この時代、上京する若者に手紙を託す、というのはそう珍しい話ではない。

 

 手紙代もばかにならない、というのは手紙を託す時の常套句ではあるが、実際の所は上京する者を東京の縁者に引き合わせ何かしらの便宜を図ってもらう理由付けである。

 

 手紙を開けてみれば自身が息災であることと、手紙を持たせた人間を上京にあたって一段落するまで少し面倒を見てほしい……というようなことはままある。

 

 また、組織的な会津出身者の郷友会である会津会が正式に創立されるのは30年後の明治45年の4月を待たねばならない。

 

 故に、会津者にとってこの時期はまだまだ個々人の伝手による上京支援というものが主流であった。

 

 す、と軽く頭を下げる男の一揖の所作は様になっていた。

 

 武術をそれなり以上の者に師事した証でもある。

 

 それなり、というのは腕前ではなく人品が、である。

 

 柔か、と弥彦はその身の運びから当たりを付けた。

 

 この時代の武術家というものは荒くれ者とほぼほぼ同義ですらあり、文明開化だ、欧化だという世の流れでただただ野蛮扱いされており、悲しいかなその認識はおおむね間違いではなかった。

 

 故に、それなりに折り目正しく振る舞えるということは、それを仕込んだ人間の下にそれなりの期間居たということを示す。

 

「恵から?」

 

 懐かしい名に弥彦は眉を上げた。

 

 医師である高荷恵が会津へ戻りそれなりの月日が経っていた。

 

 会津戦争の爪痕が残る故郷で忙しい日々を過ごしていることはそれなりに伝え聞くところではあった。

 

 じろり、と男の様子を頭の先からつま先まで見て、とりあえず嘘をついている様子もないように見えた。

 

 不逞の輩を道場主に会わせぬのも仕事の内であるからだ。

 

 ただでさえ、道場主の旦那は来歴が来歴である。

 

 故に弥彦にとって客人の善悪を見定めるのはこれまでの月日で慣れたものであった。

 

「そうか、わざわざすまねぇな、あがりな」

 

 そう簡潔に招き、そこで弥彦はまだ男の名を聞いていないことを思い出した。

 

 ふと振り返り、男に顔を向け問う。

 

「お前さん、名前は?」

 

「姿、三四郎」

 

 からりとした風の様な、どこかあどけない声であった。

 

 

 

 5尺ほどの小柄な、ともすれば女性にも見間違えられるような細面に左頬の十字傷だけが荒事に身を置いた証の様に浮かんでいる。

 

 緋村剣心。

 

 長州派維新志士で、幕末最強とまで謳われた伝説の人斬り・緋村抜刀斎その人である。

 

 明治以降後は流浪人として人助けのために逆刃刀を奮っていたが、妻であり神谷活心流師範の神谷薫と出会い様々な過去の因縁と戦い、今では剣路という子宝を授かり平穏な戦後を過ごしている。

 

 その身は人のために振るい続けられた飛天御剣流により疲弊し、今では碌に技を振るう事も出来なくなったと言え、身の回りの事は自分で出来るし、これまで培ってきた人徳もあってさしたる不便なくいる。

 

 横には剣路がおり、少し離れて薫。

 

 門人は別に気にもしないが、客人相手にむやみやたらに男女の垣根のない振る舞いをするものでもない。

 

「ふむ、恵殿は日々溌溂と過ごされているそうで何より、拙者らも息災の報を聞けてほっとしているところでござるよ」

 

 にこり、と春の木漏れ日のような笑顔をかしこまった様子で正座して受ける三四郎は膝先に出された茶を川の水面でも眺めるかのようにじぃっと覗き込んでいる。

 

 剣心は手紙を読み終え、更にもう一通の手紙があることに気付いた。

 

 先の手紙では息災であること、目の前の青年が会津では天神真楊流の大曽根俊平の下で柔術を学び、また縁あって恵の元で荷物持ちやら佳人の手の回らぬ力仕事を請け負っていた事が記されていた。

 

 その文面には別段青年のさしあたりの仕事について触れていなかったので、なるほど二通立てか、と特に不思議にも思わずその手紙を開けた。

 

 緋村剣心は今でこそ半ばのほほんとした世捨て人のような風采であるが、その凄惨苛烈な奮戦は人々の心に根強く残っており、本気で彼が動こうというのであれば東洋の新たなる列強国の産声をあげさせた明治政府の中枢でもある元勲の歴々にすら話を通すことが出来る。

 

 別段恵も剣心の為人と本人が望む新政府との距離感をわきまえているので無体な協力などを記すこともない。

 

 序文は、目星の通り当座の仕事の工面を請うものであったが、これは先ず小国診療所へお願いして、もしも三四郎を雇う余裕が無さそうであれば何か他の職をあたって欲しい、ということであった。

 

 小国玄齋は神谷道場かかりつけの老医で、かつて恵が身を寄せていた小国診療所を開いている。

 

 会津で恵の診療所の手伝いをしていたと言うことであれば診療所の下働きというものはわきまえたものであろう。

 

 薬品の持ち運びであったり、医師独自の言い回しであったり、何も知らない者よりはそれなりに合点がいく人間の方が雇う側も何かと楽だ。

 

 人手ということであれば孫娘であるあやめとすずめが居るが、それはそれ、力仕事には男手が便利というのは古今変わらない話である。

 

 十中八九玄齋も受けてくれる話ではあるのだろうが念のため……といったことであろうと得心しながら手紙を読み進め、その筆致が惑うようにゆらめくのに気付いた。

 

 何か、筆舌に気後れするようなものを感じ、ふと気をとがらせて文面を追う。

 

「!!」

 

 飛び込んできた単語によって生じた精神的動揺は、しかし挙動に出ることはない。

 

 妻である薫や長い付き合いの弥彦は何か察したであろうがわざわざ口を挟む様子もない。

 

「……この文で恵殿からの頼みでかつて恵殿が身を寄せていた診療所に三四郎殿を、とあってな」

 

「なんと」

 

 その言葉は純然に恵の厚意に感じ入っている様子であった。

 

「ただ、聞いた話ではおぬしは柔術を志して上京するとか、どなたか師事する宛というのはあるでござるか?」

 

「いえ、まだ、何せ東京は日に日に規模を増していく大都会、日銭を稼ぎながらどなたか名高いこれは、という方がいれば、と」

 

 すがすがしい向上心の光のある瞳である。

 

 この瞳が見定めたのであれば、間違いはそうそうあるまい。

 

「なれば何にせよ身を寄せるところがあるに超したことはあるまい。さて、薫殿、拙者三四郎殿を連れて小国殿の所に顔を出してくる故ちょっと出て参る」

 

「わかったわ」

 

 ――説明してよね

 

 剣路を抱きながらも雄弁にその瞳はそう語っていた。

 

 閉じた文の末には“姿三四郎は朱雀隊遺児”という文字があった。

 

 

 

 

「「朱雀隊?」」

 

「ふむ、どこから話したものか……」

 

 とんと聞いたことのない、といった薫と弥彦の様子に幕末の遠のきを感じながら話すことを頭の中で整理する。

 既に剣路は寝室で寝息を立て行灯の光が部屋を照らしている。

 

「会津戦争、という新政府軍と幕府軍との戦争があり、恵殿がその戦争で家族を亡く……ちりじりなった大変な戦であった、というのは二人も知っていると思う」

 

 その言葉に二人とも頷く。

 

 恵が会津に赴いたのも、その戦災の爪痕深く医者が少ないためでもある。

 

「朱雀隊、というのはその会津藩という領国を新政府軍の侵攻から守るべく組織された四つの部隊の一つでござる」

 

 朱雀隊、青龍隊、玄武隊、白虎隊。

 

 風水の東西南北を守る聖獣からあやかって名付けられた部隊名だ。

 

 現代でこそ、若武者の白虎隊士中二番隊の19名による集団自刃の悲劇が最も後世に名を残しているが、幕末の剣林弾雨を駆けた者にとっては朱雀隊の名前こそが最も色濃く刻まれた名前である。

 

 明治史というものを作り上げ、明治を生きる日本国民へこれぞ国史、明治という時代の軌跡である、と示した歴史書の中に“明治新刻 国史略”というものがある。

 

 この第七巻がいわゆる幕末明治を扱ったものであり、著者である山口県の歴史学者である石村貞一は会津藩の軍についてこう遺している。

 

 曰朱雀最鋭、曰青龍次之、老者爲玄武、幼者爲白虎(最精鋭部隊は朱雀隊、次に青龍隊、玄武隊は老兵で組織され、白虎隊は若者で組織されている)

 

 賊軍(新政府に敵対する者としてこの史書で用いられる)に対して明らかに長州派の学者である石村が斯様に精強であることを評するのは珍しい。なお補足として、これらとは別にさらに幼い者達によって組織された幼少隊というものもあった。

 

 それだけの、男達だったのである。

 

「古伝の軍学に更にはナポレオンの流れを組む西洋仏式軍学を修練し、その身に会津の武芸を刻んだ精鋭中の精鋭、それが朱雀隊でござった」

 

 会津お抱えの剣客集団としての最強が新撰組であったとすれば、朱雀隊は鳥羽伏見の雪辱を誓う祖国防衛のための会津侍の最強部隊、勇猛と忠義と、古今東西の戦争技術が人の形をとったモノである。

 

 姿三四郎は、その遺児であるという。

 

 緋村剣心の剣が陸軍一個大隊に評される様に、時に突き詰めた武術を修めた人間の戦闘能力は個として評す域から脱しうる。

 

 朱雀隊の男達はまさにその側の男達であった。

 

 雪辱を果たす、故郷を守らんと多くの者が散っていけど、その武威は幕末を駆けた新政府軍の面々の脳裏には色濃く残っている。

 

 書状には義父が会津藩重臣の西郷頼母であることも触れられており、御典医の家系である高荷恵と縁があったのもその関係なのであろう。

 

 姿という姓には新しい時代でなお武を志そう、そういった青年のさしさわりとならぬように、という義父の思慮があったのかもしれない。

 

「ともあれ、新しい時代を若者が瑞々しい志を持って生きる。それは拙者達からすればただただ眩しく嬉しいことでござるよ」

 

 そう剣心は話を締めた。



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