佐為の影と (松村順)
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1:開示

佐為が消える前にヒカルが佐為の存在を公表します。
原作の第99局『私が打つ』の冒頭部分、

ヒカル:オレはまたおまえの影を背負うことになるんだぞ!
佐為:背負えばいい!
ヒカル:勝手言うなよ!おまえ ひと事だと思って!
・・・・(中略)・・・・
ヒカル:とにかく おまえに打たせて ややこしい目にあうのはもうゴメンだ。3人目のヤツに取り憑いてから打たせてもらえよ

と言ってヒカルがベッドに入るシーンから分岐します。

これまでの作品と同様
普通の会話は「 」
心の中のつぶやきは〔 〕
佐為とヒカルの会話は《 》
で示しています。

この作品は投稿サイトPixivにも投稿しています。


1-1

 

〔佐為は何を不安がってるんだろう。いくらでも時間はあるじゃないか。3人目という前に、オレだって、ふつうに考えてあと50年か60年くらい生きるんだ。その間には、いくらでも佐為に打たせてやれるさ。まあ、確かに、ばれずに打たせるには、それなりの苦労はあるけど〕

ヒカルは、ここまで考えると、佐為が抱くものとは別の不安が湧いてきた。

〔これから50年も60年も佐為を隠し続けないといけないのか、それも面倒だなあ・・・・ああ、余計なこと考えるのは、やめよう〕

面倒なことを考えるのはやめにして、ヒカルは子供らしい健康な眠りに落ちていった。

それでも翌朝、目が覚めると、昨夜の寝る前の悩みがよみがえった。

〔ああ、朝から憂うつ〕

冬休みなので学校はない。

〔こんな日は、学校があれば気がまぎれるのに〕

と、がらにもないことを思いながら、ヒカルらしくもなく悩みこんだ。

《ヒカル、どうしたんですか? 浮かない顔をしてますが》

《ん?・・・・いやあ、オレってまだ14歳だろう。ふつうに考えて、これから50年、60年くらいは生きるんだ。それまでどうやってオマエを隠し通そうかと考えたら、頭痛くなってさ》

佐為は悲しげな表情を見せる。

《わたしの存在がヒカルを悩ませている。その悩みを解決するには、わたしが消えるしかないのか・・・・》

佐為の悲しみはさらに深まる。

《オマエまでそんな悲しそうな顔するなよ》

《ヒカル、ごめんなさい》

《しようがねーだろう・・・・ああ、いっそあっさりオマエのことをみんなに打ち明けようか・・・・ああ、ダメダメ、誰も幽霊なんか信じやしないって》

ヒカルのこの言葉を聞いて、佐為はちょっと思案する。

《行洋殿は、信じてくれるかもしれません》

《えっ?》

《そして、塔矢アキラも信じてくれるかもしれません》

《えっ、なんだって? 塔矢が?》

《彼は、一番悩んでいるはずです。最初に対局したヒカルの圧倒的な強さと、中学1年生の時に対局したヒカルの力との違い。それからヒカルは格段に力を付けてきたにせよ、去年の若獅子戦で垣間見たヒカルの実力と、以前自分が身をもって感じた力の差、その理由が分らず思い悩んでいるはずです。ヒカルに別の人間が重なっていると説明されれば、それが幽霊であることを信じるかどうかは別にして、もう一人の人間の存在は受け入れるかもしれません。それに・・・・》

《それに?》

《それに、仮にわたしの存在がおおっぴらになったとしたら、わたしは緒方さんとか森下先生などとも打てます。彼らほどの碁打ちであれば、ヒカルが佐為として打つ時と、ヒカルがヒカルとして、進藤ヒカルとして打つ時の碁が別物であることは認識できるはずです。ヒカルの中に本来のヒカルと、もう一人別の人間がいることは納得するでしょう。それが幽霊だということを納得するかどうかは、分りませんが》

ヒカルと佐為はまじめな表情で見つめ合った。これまで、佐為の存在を打ち明けるなんて、考えてもみなかった。だけど、よく考えてみると、これから何十年も隠し通すより、さっさと話してしまう方が結果として楽なのではないか? これまでも何度かバレそうになって、苦しいウソをついてごまかしてきた。

《・・・・いつかオマエ『ヒカルはウソがうまくなりましたねえ』って言ったことあったよな。ひょっとしたら、ウソをつくのに苦労するよりは、本当のことを話すのに苦労する方が、ましなのかな?》

《ヒカル・・・・ありがとう》

佐為はうれし涙をこぼしそうになった。

《ちょっと待て。まだ話すと決めたわけじゃない》

《えーっ、そんな・・・・》

ヒカルに迷いは残っている。ただ、いったん、話すことのメリット、隠し続けることの苦労に目が向くと、どうしてもそちらの選択に引きずられる。

〔ああ、佐為にとってはぜったいその方がいいよなあ・・・・オレにとっては・・・・〕

結局、ヒカルは迷いを吹っ切った。

《佐為、新初段戦、オマエが打て》

佐為の顔に驚きと喜びが広がった。

《いいんですか? わたしが打っていいんですか?》

《絶好の機会じゃないか。新初段戦で新初段が名人に勝つ。逆コミ5目半あれば、ぜったいオマエが勝つだろう。互先でも、勝つかもしれない》

《わたしは、コミ5目半の互先のつもりで打ちます》

《それでも、オマエが勝つかもしれない。仮に負けてもきわどい勝負だろう。その場にいるだれもが、『なぜこんなことが?』って思うよな。佐為のデビューに最高の舞台じゃないか。その場に、誰にも見えないもう一人の人間がいるってことを話すのに、これ以上の場面はないだろう》

《ヒカル、感謝します。ほかに言葉を思いつかないのが残念です。ほんとうに、感謝します》

喜びに崩れそうになる佐為の表情を見て、ヒカルは《これで、いいんだな》と思う。

佐為は、喜びの大波が過ぎて、冷静さを取り戻した。

《当日、塔矢アキラは観戦に来るでしょうね。お父上の対局だし、ヒカルにも興味があるはずだから》

《まあ確実に来るな》

《その時、あの2回の対局、ヒカルを通してわたしと相対したあの2回の対局の棋譜を持ってきてくれるよう、頼んでおきましょう》

《あの時の棋譜?》

《そうです。あの2回の棋譜を見せて、彼自身の口から、その不思議な体験を語ってもらいましょう。説得力が増しますよ》

《あー、なるほど。佐為、うまいこと思いついたな》

 

新初段戦前日の放課後、あかりがヒカルに声をかける。

「今日、久しぶりに指導碁を打ってくれない?」

「えーっ・・・・よりによって今日かよ」

《ヒカル、いいですよ。わたしが打ちましょう》

《オマエ、大丈夫か? あした大事な一戦を控えて、あかりなんかと打ったら、気が抜けないか?》

《むしろ、あかりちゃんと打つことで適度に緊張をほぐすのですよ》

《まあ、それならいいけど》

というわけで、9子を置いて佐為が指導碁を打つ。一手ごとに戸惑い考え込むあかりの姿に、佐為は碁を学び始めた頃のヒカルの面影を重ねた。

〔ヒカルも、始めの頃はこうでしたねえ・・・・〕

1時間ほどして、あかりは帰っていった。それから、ヒカルは塔矢の家に電話をかける。

 

塔矢邸の電話が鳴った。

「はい、塔矢でございますが」

「あっ、塔矢さんですか。あの、進藤ヒカルといいます。塔矢アキラくんと話したいのですが」

「アキラさんは今研究会ですが」

「研究会ですか?・・・・それじゃ、もしちょっと席を外せるなら、出てほしいです。無理なら、また掛けなおします」

「それじゃ、ちょっと聞いてみますね。お待ちください」

明子は研究会が行われている広間の襖ごしに声を掛けた。

「アキラさん、進藤ヒカルという方からお電話ですが、出ますか?」

「進藤から電話?! 出ます」

アキラは思わず大声を出し、あわてて駆けだした。その場にいた塔矢名人も緒方も、「進藤ヒカル」という名前に反応して、アキラが駆けだして開け放しになった襖の向こうに目をやった・・・・。

「進藤、何があったんだ。うちに電話するなんて」

「ああ、塔矢。びっくりさせてゴメン。ちょっとお願いがあって」

アキラはヒカルの口から「お願い」という言葉を聞いて、緊張した。

「あした、新初段戦だよな。オマエも見に来るんだろう?」

「もちろん、そのつもりだけど」

「その時、オマエとオレが初めて会った時とその次の時の2回の対局の棋譜を持ってきてくれないか?」

「あの時の棋譜?」

「あるんだろう?」

「もちろん、あるけど」

アキラは緊張と不安、その一方での期待で、口の中が乾いていくのを感じた。

「あの棋譜を、どうするつもりだ?」

「それは、あした、新初段戦が終わってから説明するよ。今話しても、うまく説明する自信がないんだ」

「そんなこと言われても」

「持ってきてくれよ。頼む。ぜったいにな」

そう言って、ヒカルは電話を切った。

「進藤、進藤!」

アキラは相手の名前を呼んだ後、諦めて受話器を置き、研究会に戻った。皆の目がアキラに向けられる。アキラは自分の座に戻り、電話で伝えられたことを説明した。

「あす、新初段戦の会場に進藤とボクの2回の対局の棋譜を持ってきてほしいと頼まれました」

「2回の対局というと・・・・」

緒方のつぶやきにアキラが答える。

「ボクが進藤に完敗した2回の対局です」

 

1-2

 

新初段戦が行なわれる幽玄の間、塔矢名人とヒカルはすでに着座し、向かい合っている。その脇、時計係の隣に座る天野にも緊張が伝わってくる。新初段戦はそれなりに緊張を感じるものだが、今日はふだんと違っている。新初段だけでなく、名人からも緊張が伝わってくる。5冠の塔矢名人が、プロ試験に合格したばかりの進藤ヒカルに緊張を感じてるのか?

 

確かに、名人は緊張を感じている。あるいは威圧感と言うべきか。我が子と同じまだ14歳にしかならないこの少年。しかし、面と向かっていると歴戦の古豪と対峙しているような威圧感を覚える。なぜだろう?・・・・

開始時刻の直前、その少年が口を開いた。

「新初段戦は逆コミ5目半だけど、オレは互先コミ5目半のつもりで打ちます」

この言葉を聞いて、天野はあきれたようにヒカルを見つめるが、名人は、あきれた様子も見せず、深くうなずく。

「キミがそうであるなら、わたしはなおさら、逆コミ5目半をはねのけるつもりで、容赦なく積極的に攻めていこう」

このような言葉のやりとりにもかかわらず、序盤は静かに進行した。お互い、相手の動きを見ながら自分の地を固めていく。先に仕掛けたのは名人だった。

 

佐為は、ほほえんだ。

〔さあ、これから始まるのですね。よろしい。その手、受けましょう〕

佐為は、名人の手を押しとどめながら、着実に自分の地を広げ、厚みを加えていく。その熟練した手筋を天野は驚きを込めて見ていた。とても、プロになったばかりの棋士の手筋ではない。

隣室でモニター画面を見つめているアキラや緒方も同じ思いだった。

「あの時の進藤だ」

アキラはつぶやいた。緒方は、黙ってひたすらモニター画面を見つめている。天野にとっても、アキラにとっても、緒方にとっても、それは佐為の打つ手ではなく、あくまで進藤ヒカルの打つ手だった。

一手ごとに形勢は、時として名人の側に、また時として新初段の側に、微妙に揺れる。しかし、終盤にさしかかる頃、ヒカルの放った一手に誰もが驚いた。名人はその石を見て唇を引き締めた。誰もが予想していなかった、しかし打たれてみれば、まさに最善と思える一手。しばし長考して、名人はそれに応じたが、形勢をくつがえす手ではない。さらに何手かの応酬があって、小ヨセを残す場面となった。

 

佐為は盤面の石の流れを眺めている。力の拮抗する者どうしが全力を尽くしあった美しい棋譜。これからは、もう1本道。お互い、間違うことはないはず。そして終局は自分の半目差勝ち。佐為がそれを確信した時、名人が投了した。

〔ああ、心の底から湧き上がるこの歓喜。行洋殿、ありがとうございました。この美しい棋譜は、あなたのおかげです。あなたは、5冠の名にふさわしい力で挑んでこられた。それをはねのけることのできた自分が誇らしい。この歓喜は、あなたほどの相手と打ち合ったればこその歓喜です・・・・〕

佐為の歓喜を脇で感じながら、ヒカルは盤面を見つめていた。そしてはっきり理解した。これまで自分と打ち合う佐為は全力を出し切っていなかったということ。いや、今の自分はまだ佐為の全力を引き出すことができないということ。この棋譜こそが、佐為が全力を出した結果だということ。

〔これほどの戦いができるのなら、佐為に打たせてよかった。これからも、できるだけ佐為に打たせてやろう・・・・〕

盤面を見つめ合う名人とヒカル。そこに流れる空気は声を掛けるのをはばからせたが、その緊張を破って天野は声を掛けた。

「整地をしなくても、分かっておられるようですな。黒61目、白55目。逆コミ5目半を加えて、黒の11目半の勝ち」

「逆コミでなくても、ふつうのコミでも、わたしの半目負けだ」

5冠の名人が新初段に互先で負けた。この事実の衝撃が名人自身の言葉でなおさら強まる。言葉を失いそうになりながら、天野はかろうじて二人に声を掛けた。

「では、別室で検討を始めましょうか」

二人は、ともに我に返ったように立ち上がった。

 

1-3

 

検討室にはすでにアキラと緒方がいた。

張り詰めた雰囲気の中で、検討は一見淡々と進む。終着に至るまで、名人にこれといった失着は認められない。それがさらにヒカルの強さを際立たせる。1つのミスもしなかった名人に、ヒカルは勝ったのだ。

「進藤くん・・・・」

天野は問いかけようとして、言葉を見つけることができない。名人の、アキラの、緒方の視線がヒカルに注がれる。

「これは、オレが打ったんじゃないです」

この言葉は、その場をさらに深い沈黙に導いた。誰もが、それに続くヒカルの言葉を待っている。

「オレじゃなくて、佐為が打ったんです」

「sai?」

アキラと緒方が同時に聞き返した。

「ばかな。saiがどこにいるんだ?」

緒方はほとんど怒ったような口調で問い詰める。

「オレのすぐ脇にいるよ。オレにしか見えない。オレにしか聞こえない。でも確かにいるんだよ。オレにしか聞こえない佐為の声が指図するとおりにオレは石を置いたんだ・・・・でなきゃ、オレが自分でこんな打ち方をできるはずはないじゃん。オレが自分の力で塔矢先生に勝てるわけないじゃん。緒方さんだって、オレの実力は知ってるでしょう」

そう言われると、緒方は反論しようがない。

「塔矢、約束の棋譜、ほかの人たちに見せてくれない?」

ヒカルに促されて、アキラはカバンから2枚の棋譜を取り出して、広げる。

「これは?」

「2年前、正確には2年と3ヶ月くらい前に進藤とボクが対局した棋譜です。こっちが1回目、こちらが2回目」

天野は2枚の棋譜を見比べている。

「1回目はアキラくんが3目半で勝ち。2回目は大敗というか・・・・」

「1回目は定先です。ボクの2目負けです」

「定先?」

「はい。この時、ボクは相手の実力を知らないまま定先で打ちました。そうしたら、進藤は実力を抑えてボクに指導碁を打ったんです」

「アキラくんに指導碁?」

「そうです。この時、碁を覚えて間もない進藤は、おぼつかない手つきで、人差し指と親指で石をつかむ進藤は、ボクに指導碁を打ったんです。2回目は、容赦なくボクを叩きのめしました・・・・」

アキラはここで、ヒカルに向き直った。

「この時、saiが打ってたんだね?」

「そうだよ。オレは、佐為の言うとおりに石を置いただけだ。まだ、碁盤の目さえきちんと分かっていなくて、『3の十六』とか『9の八』とか言われても、すぐに分からずに、『えーと、1、2、3・・・・』というふうに目を順番に数えないと分からない、そんなずぶの素人が、佐為の言うとおりに石を置いたんだよ。でも、塔矢には佐為は見えない。だから、オレが打っているとしか見えなかった。たった今の、塔矢先生との対局と同じだよ」

「オレにはさっぱり分からん」

緒方がこらえきれずに叫んだ。

「一体どういうことなんだ? 進藤にしか見えない、進藤にしか聞こえない、一体何だそれは?」

「幽霊だよ。佐為は幽霊なんだ」

「幽霊!」

その場にいるヒカル以外の全員が声を合わせて叫んだ。

その反応がヒカルにはおもしろかったのか、ちょっと笑った。

「まあ、叫びたくなるのも無理はないけど・・・・佐為は藤原佐為という幽霊なんだ。平安時代に碁の指南をしていたけど、陰謀にはめられて都を追い出されて、入水自殺した。それから何百年もたって、江戸時代に虎次郎という子供に乗り移った。その子供は、もともと碁を勉強してたんだけど、佐為の能力を知って、それからは佐為の言うとおりに碁を打つようになった。それが本因坊秀策」

誰もが想像だにしていなかったストーリーを語るヒカルを、皆じっと見つめている。ヒカルはむしろ淡々と話を進める。

「まだまだ、これからだよ・・・・秀策は34歳の若さで死んでしまった。佐為は秀策によって神の一手を極めるつもりだったんだけど、秀策が若死にしたんで、それが叶わなかった。それで、碁盤に取り憑いてじっと待っていた。その碁盤というのが、おれのじいちゃんの蔵にある碁盤なんだ。オレが、小学6年生の時、小遣いの足しにしようと思って、蔵で売り物になりそうなものを探していて、碁盤を見つけた。その碁盤には血の跡が付いてるんだけど、それはオレにしか見えない。ほかの誰も、『そんな血の跡なんかないよ』って言うんだ。でも、オレには見える。そしたら、佐為が現われたってわけさ。おれはびっくりして気を失って救急車で運ばれたんだけど、それからずっと、佐為はおれのそばにいるんだ。最初はオレ、囲碁なんかぜんぜん興味なかったけど、佐為が『碁を打ちたい』って泣いて頼むもんだから、仕方なく、碁会所に行った。そこで塔矢に、塔矢名人じゃなくて塔矢アキラに会ったんだ。そこで打ったのが、1枚目の棋譜」

アキラは、ヒカルの語ることがどれほど奇想天外であっても、それを聞きながら、長年自分の心にわだかまっていた謎が解けていくのを感じた。その隣で、名人は腕組みしながらつぶやいた。

「対局の時に感じていた威圧感、まるで歴戦の古豪と向き合うような威圧感は、進藤くんの後ろか脇に控えていた佐為が発するものだったのか」

ヒカルと佐為は名人に視線を向けた。

「先生、分かってくれるんだ」

〔行洋殿、やはりあなたは、分かってくださいましたね〕

父のつぶやきに続いて、アキラが話を継いだ。

「その日からボクは、毎日碁会所で、お客さんとは打たず、ひたすらこの棋譜を並べていました。そして、どうしてももう1度、進藤と打ちたいと願っていました。それは、今の進藤の説明によれば、佐為と打ちたいということだったのだけど」

「それで、たまたま外で塔矢とばったり顔を合わせて、無理やり碁会所に連れて行かれたよな」

アキラは苦笑いした。塔矢名人は、初めて聞く我が子の無我夢中の行為に笑みを浮かべた。

「あの時、佐為は、本気を出してオマエを叩きのめすのはかわいそうだから、2目差くらいで勝つようにもっていくつもりだったんだ。だけど、オマエがあんまり真剣で、棋力全開で立ち向かってきたから、そんな余裕がなくて、一刀両断するしかなかったって言ってた。それが2枚目の棋譜」

「うん、あの時、ボクはほんとうに悔しくて、キミに、つまり佐為に、噛みついていった。そのあげくが、『一刀両断』か。まったく、そのとおりだった」

「でも、オレはそんなオマエを感心して見てたんだぜ。あの時のオマエの真剣な表情は今も忘れない。オレはそんなオマエを見て、自分でも碁を打てるようになりたいって思い始めたんだ。いうなれば、オマエはオレの恩人なんだよ」

「ボクがキミの恩人・・・・」

アキラは「意外」という面持ちでヒカルを見る。真剣なアキラの視線にヒカルは明るい声で応じる。

「そうさ。それに、オレはオマエにもう1つの恩があるんだ」

そう言ってヒカルは、自分で持ってきた1枚の棋譜を広げる。

「塔矢、覚えているだろう?」

「あっ、これは・・・・」

「中学囲碁大会だよ。オマエが海王中の三将として出場した」

「でも、これは・・・・」

「佐為の棋譜、というのは正しくない。途中まで佐為の棋譜、それからオレの棋譜になるんだ」

アキラはその時のことを思い出していた。

「ああ、そうか、そういうことか!」

「そういうことだよ」

「おいおい、二人だけで納得しないでくれ。ちゃんと状況を説明してくれよ」

緒方が口を挟む。

「緒方さん、そんなにカリカリしないで。ちゃんと説明するから」

ヒカルのからかうような口調に緒方はむっとしたが、特に反論はしない。

「中学囲碁大会の1回戦は、オレが打った。その頃にはオレも、1回戦で勝てるくらいの実力は身につけていたんだ。2回戦の相手が海王中で、それもオレは自分で打つ気でいた。だけど、オマエの顔を見て、やめた。オマエはオレと打ちたいんじゃない、佐為と打ちたいんだって分かったから。だから、序盤は佐為に打たせた。だけど、オマエと佐為が打ち合ってるのを見ていて、オレ、どうしても自分で打ちたくなった・・・・あっ、ちょっと碁盤、いいですか」

ヒカルはアキラと佐為が打ち合った序盤の石の流れを碁盤に再現した。

「ここで、佐為が長考したんだ。オレはじれったかった。だって、この場面、オレならためらわず11の八に打ちたかったもん。佐為が考えている間、オレはオレで考えた《まず、オレが11の八。次に、塔矢はここに打ってくるだろう。そしたらオレはここに・・・・》っていうふうに。長考を終えた佐為は『13の四』って言ったけど、オレは無視して11の八に打ち込んだ。『佐為、ワリィ、オレが打つ』ってつぶやいて。それから先はオレの手だ。結果は、知ってのとおりさ。オレがあまりへたな碁を打つんで、オマエは『ふざけんな!』って怒鳴ったよな」

アキラは目を伏せた。

「何も分かっていなかったからとはいえ・・・・」

「いいんだよ。オマエの立場になれば、怒鳴りたくもなるって、オレも分かるんだ・・・・まあ、悔しかったけど。だけど、それでなおさら、『きっと塔矢アキラに追いつくんだ』って思って、それまで以上に碁の勉強にのめりこんだ。これが、オレがオマエに負っている2つめの恩・・・・まあ、恩の話はそれとして、この棋譜、『11の八』の前と後でぜんぜん別の碁だろう? 前半は佐為の碁、後半はオレの碁。オマエは、1局で2つの碁を見てたんだ。佐為とオレが別人だって、分かるだろう? この場に佐為とオレ、2人がいたって分かるだろう?」

ヒカルはここで話を区切った。アキラは納得したようにうなずく。

しばし沈黙が流れた後、塔矢名人が言葉をかける。

「進藤くんは『へたな碁』と言うが・・・・確かに、へたと言えばへたではあるが、それでも、進藤くんが秘めていた何かが現われている碁だよ」

ヒカルと佐為は名人に視線を注ぐ。

〔行洋殿、ありがとうございます。あなたは、ちゃんと見抜いてくれましたね。この時のヒカルが秘めていた素質、才能、発想。その発想に続く腕が、この時のヒカルにはなかったのですが〕

「その何か、素質というか才能というか、その何かを碁盤の上に実現する力がこの時の進藤くんにはなかった。しかし、今、進藤くんはその力を身につけて、ここにプロ棋士として座っているわけだ」

〔行洋殿、ありがとうございます〕

「先生、ありがとう」

ヒカルは素朴に感謝の気持ちを表現する。それから、もとの口調に戻った。

「もうちょっと、話が残ってる。この頃、オレは中学の囲碁部で打ち合っていたけど、佐為は打つ機会がなかったんだ。その頃、家には碁盤がなかったし、囲碁部でオレじゃなくて佐為が打ったら、傍目にはオレが急に強くなったと見られてしまって、『天才少年』なんてことになる。それじゃあ、困るんだ。オレは、佐為のことは隠しておきたかったし、オレはオレとして碁の力を認めてもらいたかったから。『なんとか佐為にも碁を打たせてやりたい』と思っている頃、ちょうど夏休みになった頃なんだけど、碁のイベントでネット碁を知ったんだ。それを見て、『これなら佐為に好きなだけ碁を打たせてやれる』って思いついたんだ。もちろん、実際にマウスをクリックするのはオレだけど、それは相手には見えない。パソコン画面の碁盤で、佐為が言う場所にオレが石を置く、それは佐為の対局なんだ」

「それが、ネット碁のsaiなのか」

アキラと緒方がほとんど同時に言葉を発した。

「そういうこと。佐為が喜んだのなんのって・・・・ただ、ちょっと有名になりすぎた。そして、夏休みの終わり頃、ネットで塔矢と打って、ひょっとしてバレないかって心配した」

「ボクも、あの時のsaiに、出会った頃のキミを感じたよ」

「そうだろうな・・・・それで、夏休みが終わって、ネット碁はそれっきりになった。その代わり、オレの部屋でオレが佐為と打つようになった。あっ、ちょうどその頃、じいちゃんに碁盤を買ってもらったんだ・・・・ともかく、それで毎日オレは佐為に鍛えられたってわけだ。その年の暮れに院生試験を受けて、翌年初めから院生になって、プロ試験を受けて、合格。めでたし、めでたし、なんだけど、佐為がオレ以外の相手と打てないんだ。オレも、『悪いなあ』とは思ってたんだけど、オレと間違えられずに佐為に打たせる方法をどうしても思いつかなくって・・・・そうこうしてるうちに、新初段戦で塔矢先生が相手だと分かった。そうしたら佐為が『わたしに打たせてください』って自分勝手なこと言い出したんだ」

《ヒカル、その言い方はひどい!》

「オレはもちろん、『とんでもねー』ってはねつけたんだけど、それから、よーく考えたんだ。オレだって、ふつうに考えてあと50年か60年くらい生きる。その間ずっと佐為を隠し続けないといけないのか、それも面倒だなあって。これまでも、佐為のこと気づかれないためにウソつくこともあって、佐為から『ヒカルはウソがうまくなりましたねえ』なんて言われたこともあった。そんなことも考えて、ウソをつくのに苦労するよりは、本当のことを話すのに苦労する方が、ましじゃないかって思うようになったんだ」

「なるほど、それで今日、新初段戦の場でsaiのことを話そうと決心したわけだ」

天野が相づちを打つ。

「しかし、ほかの日ではなく今日、この日に話をすると決めたのは、どうして?」

「だって、一番印象的じゃないですか。プロになったばかりの新初段が名人に勝つなんて不思議なことが起きたら、みんな『何事だろう』と思って、オレに幽霊がついてるなんて話も少しは信じてもらえそうじゃん」

こう言ってのけるヒカルの口調の軽さに、緒方は固まり、アキラは苦笑し、塔矢名人は愉快そうにほほえんだ。

「ともかく、佐為のお話はこれでおしまい」

ヒカルの話に続けて口を開く者はおらず、しばし沈黙が流れた。それから天野がヒカルに尋ねた。

「進藤くん、今してくれた話は、ここだけの秘密なのかね、それとも、たとえば『週刊碁』などの記事にして公表してもいいのかね?」

「もちろん、公表してかまわないよ。佐為のことを知ってもらうために話したんだから」

「ほんとうに、いいのだね?」

「ほんとうに、いいよ」

ヒカルの屈託ない返事に、天野の方が覚悟を決めるようにうなずく。それを見て、アキラが口を開く。

「天野さん、今の話を記事にするなら、一言一句省略せず、ぜんぶ記事にしてください。はしょらないでください」

「えっ?!」

「今の進藤の話、ちょっとやそっとでは信じてもらえない摩訶不思議な話です。それを少しでも信じてもらうには、細かな部分もはしょらずにきちんと伝える必要があると思うんです。粗筋を伝えるだけでは、ほんとうにただのホラ話になってしまう」

「しかし、今の話をぜんぶ記事にするなんて・・・・紙面がたりないよ」

「連載にすればいいでしょう」

と塔矢名人から援護射撃。

「連載、ですか?」

「そうです。紙面が足りないなら、連載記事にすればいい。5回か10回か、もっと長くなるか、それは分かりませんが、『謎の棋士saiの正体』なんてタイトルで連載したら、きっと評判になりますよ。『週刊碁』の売上も倍増どころか、3倍、4倍になるかも」

と言いながら名人は笑ったが、

「いや、決して冗談で言ってるのではないですよ」

と釘を刺した。名人にここまで言われて、天野も覚悟を決めた。

「あらためて聞くけど、進藤くん、ほんとうにいいのだね?」

「いいですよ」

「よろしい。この話はこれで決着」

と名人は言い切る。そしてヒカルに向かって問う。

「ところで、進藤くん、4月から公式戦が始まるが、佐為として打つのかね?」

「いや、オレはオレとして打ちます。オレの碁を打ちたいんです」

「もちろん、碁打ちとして、誰しもそう思うだろう」

「ただ、せっかく佐為のことを打ち明けたんだから、佐為にも打たせてあげたいです。それに、佐為と打ちたがってる人もたくさんいると思うんです・・・・緒方さんも、佐為と打ちたいでしょう?」

「・・・・そりゃあ、もちろん」

突然話を振られて、緒方はあわてて返事をする。

「もちろん、緒方くんは打ちたいだろう。ほかにも、一柳先生、座間先生、森下先生、倉田くんなども打ちたがるはずだ。およそ棋士として、佐為ほどの相手との対局を望まない者はいないだろう・・・・ただし、公式戦は進藤くんが進藤ヒカルとして打つのなら、佐為が打つのは非公式戦ということになるな・・・・どこで打とうか?」

「あっ、それはまだ考えてなかった。オレんちってわけにもいかないしなあ・・・・」

「お父さん、ボクたちの碁会所はどうでしょう?」

「ああ、それもいい・・・・いや、碁会所でなく、わたしの家にしよう」

「先生のおうちで、打たせてもらえるんですか?」

ヒカルがびっくりして聞き返す。

「ああ、その方がいいだろう。碁会所のお客に見せるのも、もちろん有益ではあるが、日本を代表する錚々たる棋士たちと佐為の対局は、プロの棋士たち、若いプロの棋士たちにこそ見せたい。そのためには、わたしの家の方がいいと思う。もちろん、そうすればわたしも暇さえあれば観戦できるのだし」

「トップバッターはぜひわたしに」

と緒方が急き込むように話に割って入る。ヒカルはびっくりして緒方の顔を見、それから横を見る。佐為は笑みを浮かべてうなずいている。

「緒方さん、OKだって」

緒方は、してやったり、という得意げな表情を浮かべたが、

「緒方さん、その代わり、お願いがあるんだ」

というヒカルの言葉を聞いて、顔を引き締めた。

「何だ?」

「佐為と打った後、オレと打って」

緒方は一瞬、苦い顔をしかけたが、

「まあ、それくらいのことは当然だな」

という名人の鶴の一声で決着した。

 




っぽい様のご指摘(定先とコミ5目半の互先の違いに関するご指摘)を受け,1-3のアキラと天野の会話を一部訂正しました。


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2:始動

2-1

 

新初段戦の次の土曜日、ヒカルは塔矢邸を訪れた。佐為と緒方の対局となれば、それ相当の時間を見込んでおかないといけない。平日の放課後では遅すぎるので、どうしても土曜日か日曜日になる。この日、塔矢名人は在宅して観戦する。アキラはイベントの仕事で出かけているが、翌日に佐為との対局を予約している。

塔矢門下の研究会で使っている広間にヒカルが入ると、緒方はすでに待っていた。その脇に塔矢名人、そして10人あまりの門弟たち。

「佐為と緒方くんの対局とあって、ふだんより盛況だよ」

と名人が軽い口調で語るが、緒方の緊張は解けない。ヒカルが座り、その脇に佐為が座る。

「お願いします」

対局が始まった。

序盤はお互い様子を見あう展開だが、中盤から激しい打ち合いになった。

《9の十四・・・・ヒカル、9の十四です》

《佐為、ちょっと考えさせてくれ。オレは、ここで9の十四という佐為の発想について行けないんだ。ちょっと考えさせてくれ》

《えっ?・・・・》

《あっ、佐為。オレも一緒に考えてんだよ。言われるままに石を置くなんて、つまんないだろう。オレも考えてんだ。これまで、佐為の考えは読めていた。オレも佐為と同じ場所に打ったと思う。でも、ここでの9の十四は・・・・》

《ああ、そういうことですか。いいですよ。しっかり考えてください。待ちましょう》

ヒカルは真剣に考える。そんなヒカルの表情を見ながら、緒方は思う。

〔ここで長考か・・・・それにしても、まるで進藤自身が考えてるように見えるな。自分についた幽霊が長考する時は自分も一緒に長考するような態度になるものなのか・・・・〕

10分ほどして、ヒカルは納得したようにうなずいて9の十四に打ち込んだ。

〔ああ、そんな手があったか・・・・〕

それから3度ほどヒカルが長考する場面があった。やがて終盤も煮詰まってきた。

「オレの負けは見えてるんだが、最後まで打たせてくれないか?」

「いいよ。オレも最後まで見届けたい」

〔いいでしょう。ヒカルの勉強にもなりますし〕

結局、緒方の4目半負け。検討を終えてから、ヒカルと緒方が対局したが、やはり実力の差は明らかだ。

「オレの負けは分っているけど、最後まで打たせてくれる?」

「まあ、いいだろう」

緒方は苦笑した。結果はヒカルの5目半負け。

「まあ、妥当な結果だな。それにしても、序盤でミスがないのは立派だ。去年の若獅子戦のような、悪手を好手に変える華麗な打ち回しはなかったが、全体としての腕は間違いなく上がっている」

「緒方さん、ありがとう」

 

翌日の日曜日は、アキラが佐為と対局した。結果は中押し負け。

「ああ、まだボクにとって佐為は高い壁だな。と言うか、佐為はますます強くなってるんじゃないか?」

ヒカルの脇で佐為がうれしそうに笑みを浮かべる。

「塔矢が最後に佐為と打ったのはおととしの夏のネット碁だから、1年半前。そりゃあ、1年半もあれば強くなるさ」

「いったい、どこまで強くなるんだろう・・・・」

「佐為が強くなるのはオレだってうれしいんだけど、そうなるとますますオレが佐為に勝つ日が遠くなるんだよなあ」

《ふふふ、お二人にはまだまだ負けはしませんよ》

《ちぇっ・・・・》

「進藤、どうした?」

「あっ、いや。佐為が『お二人にはまだまだ負けません』だってさ・・・・さあ、今度はオレと打ってくれ。佐為じゃなくてオレと最初から打つのはこれが初めてだよな」

アキラは一瞬とまどった。それから、ヒカルの言ったことの意味を理解した。

「そうか。これまでの対局は佐為と打ってたのか・・・・」

ヒカルとアキラの対局は、最初から乱戦になった。中盤までは、あちこちで取ったり取られたりが続いたが、終盤になってアキラが優位に立った。結局、2目半でアキラの勝ち。

「ああ、まだオマエに勝てないんだ。くやしいな」

そんなヒカルの言葉が耳に入らないかのように、アキラは真剣に盤面を見つめている。

「塔矢、どうしたんだ?」

「・・・・あっ、いや。キミはもうここまでやって来たのか、と思ってたんだ・・・・キミは確かに、僕のライバルだ。生涯のライバルかもしれない」

「ついに認めたな。ありがとう」

 

翌週の土曜日は倉田6段がやってきた。

「なあ、進藤くん、折り入ってお願いがあるんだが」

「なんですか?」

「キミ、目かくしして打ってくれないか?」

「目かくし? なんで?」

「うん。キミの背後か脇か知らないけど佐為という幽霊がいるって話、まだ納得できないんだ。それで、オレが考えたのは、キミが目かくししても佐為は碁盤が見えてるな。そして佐為がキミに、ほかの誰にも聞こえない声で打つ場所を指示するわけだ。それなら、キミは目かくししていても、『3の六』とか『8の十一』とか、石を置く場所を言えるはずじゃないか。そして、キミが目かくししてちゃんと打てるなら、オレだって佐為の幽霊の存在を信じられる」

ヒカルは、予想もしていなかったことを言われてちょっと考えたが、きっぱり

「やだ」

と拒否した。

「だって、それじゃあオレが碁盤を見て次の手を考えることができないじゃん。オレ、ただ佐為の言うとおりに石を置いてるんじゃないんだよ。自分でも次はどこに打つか考えてるんだ。どこに打つか、決めるのは佐為だけど、おれも一緒に考えてるんだよ。そうじゃないと、おもしろくないじゃない」

倉田はその返事を聞いて腕組みして思案した。

「そうか・・・・まあ、確かに、人に言われたとおり石を置くってのも、つまんないよな・・・・幽霊問題を解決する名案と思ったんだがな、しかたないか。じゃあ、お願いします」

と元気の良いあいさつで佐為との対局が始まった。倉田は、勝ち負けよりも、無敵の佐為を相手にいろんな攻め方、守り方を試すような碁を打ってきた。

〔この者、おもしろい〕

佐為も倉田に応えるように、新たな手筋を探すように打ってくる。それでも結果は佐為の勝ち。

「いやあ、おもしろかった。佐為は秀策だったって聞いたけど、古い定石だけじゃなく、新しい手もどんどん打ってくるんだな。そして、どんどん強くなってるんだ。すごい」

と明るい口調でしゃべりながら、検討を進めた。それから、ヒカルとの対局。

「倉田さん。お疲れかもしれないけど、真剣に打ってね」

「何言ってんだ。1局打ったくらいで疲れやしないよ。まだ20歳過ぎたばかりだよ。キミと10歳も離れていないんだ。徹夜したって打てるさ」

この調子で対局を始めたが、しだいに笑い顔が引き締まってきた。格下ではあっても、決して油断できない相手であることが分ってきたから。とはいえ、負けはしない。3目半で勝利を収めた。

「怖い奴は下から来るってのは、ほんとうだな。キミと塔矢アキラ、要チェックだな」

と倉田はヒカルの健闘を称えた。

 

翌日の日曜日。塔矢邸の玄関でヒカルはばったり和谷と出くわした。

「今日は、和谷が佐為と打つのか?」

「そうであってほしかったんだが・・・・森下先生に『弟子が師匠を差し置いて先に対局するとは何事だ』とどやされた。今日は師匠が佐為と打つよ。オレはお供だ」

〔おやおや、森下先生も大人げない。まあ、わたしも一度あの者とも対局したかったのではありますが〕

こんな話をしながら、二人と一人(?)は塔矢邸の広間に入り、碁盤を囲んで雑談していた。しばらくして、玄関から

「塔矢、久しぶりだな」

と元気な声が聞こえてきた。出迎えたアキラとのあいさつもそこそこに、森下は広間に入り、碁盤の前に着座した。

「おう、進藤が来てるってことは、佐為も準備万端ということだな」

〔はい、そうですよ〕

「うん、佐為も先生との対局を楽しみに待ってたよ」

「じゃあ、さっそく始めよう。お願いします」

「お願いします」

森下の碁は、佐為も研究会の場で何度も見ていた。今日も、これまでと特に変わった打ち方ではない。

〔力としては、行洋殿には及ばない。緒方さんと同じくらいか。ただ、勝負強さというか、勘所の鋭さというか、そういう熟練においては、やはり年の功はある・・・・〕

「ふー、ここまでか・・・・塔矢も緒方も倉田も負かしただけのことはある。オレが勝ち星一番乗りと思ったんだが、甘かったな。負けました」

と森下は頭を下げた。検討も終わってから、今では恒例になったヒカルとの対局。森下は力を抜くことなく、ヒカルをつぶしにかかる。ヒカルも善戦するが、力の差は否定しようがない。徐々に森下の優位が明らかになる。

「進藤、強くなったな。まだまだ負ける気はしないが、一瞬たりとも気を抜けない」

結局、ヒカルの中押し負け。この対局の検討が終わって、和谷がヒカルに話しかけた。

「次はオレでいいかな。来週の土曜日だな。オレも佐為と打ちたいよ」

《いいですよ。一昨年の夏、ネットで対戦して以来ですね》

「うん、いいよ。でも、和谷が相手なら1時間か2時間くらいで終わるから、土曜日まで待たなくても、火曜日の夕方の研究会でもいいぜ」

「1時間か2時間だと! バカにすんな! オレだって強くなってるんだ。佐為相手に粘ってみせるさ。今度の土曜日だぞ。いいな」

「ああ、分かった、分かった、そんなに怒鳴んなくても聞こえてるよ」

こんな二人の子供っぽいやりとりを、佐為は扇で口元を隠して笑いながら見ている。

 

次の土曜日、和谷は佐為に一刀両断された。

「ひーっ、佐為はあれからますます強くなってるんだ。たまんねーな・・・・」

《佐為、もうちょっと手加減してやればよかったのに。和谷を相手に全力出すことはないだろう》

《「1時間か2時間くらいで終わる」っていうヒカルの言葉がウソにならないよう頑張ったんですよ》

佐為はおかしさをこらえて涼しい顔で返事する。

《そんなところで気を遣わなくても・・・・》

「進藤、さあ今度はオマエが相手だ。リベンジしてやる」

《和谷さん、そういうのを「江戸の仇を長崎で」と言うんですよ》

「和谷、佐為が、そういうのを「江戸の仇を長崎で」と言うんだって言ってるよ」

「長崎だろうが鹿児島だろうが構わねえよ。さあ、握れ」

その対局も、残念ながら和谷の負けに終わった。

「クソッ、まだ時間はあるんだろう。もう1局!」

結局、この日、和谷とヒカルは4回対局して、和谷の1勝3敗で終わった。

 

それから、毎週土曜日と日曜日、現在と過去のタイトルホルダーや、次期のタイトルホルダーと期待される実力を備えた棋士たちが次々に塔矢邸を訪れて佐為と対局したが、いずれも佐為に敗れ去った。不敗神話は続く。そして、佐為の後にヒカルと対局することも慣例というか暗黙のルールになった。

《佐為、すごいメンバーだな。こんだけの人たちと、オレ、まだ正式にプロになっていないのに、対局してるんだ。これも佐為のおかげだな。礼を言うぜ》

《ヒカル、礼なんか言わなくていいんですよ。わたしも、選りすぐりの棋士たちと碁を打つことができて、うれしいんです》

《そして、相手も喜んでる。こんなふうになるんなら、もっと早くオマエのことをみんなに話しておけばよかったな》

《まあ、案ずるよりも産むが易し、ということですね》

《タイトルホルダーでまだ来ていないのは・・・・桑原本因坊だけだな》

 

2-2

 

『週刊碁』の連載記事は1月中旬から始まった。新初段進藤ヒカルに影のように寄り添う佐為という謎の最強棋士の物語は、まずその雑誌の読者の間で話題になったが、それが狭い囲碁愛好者の世界を越えて広がるのに時間はかからなかった。2月になると一般の新聞や雑誌、テレビ局からも日本棋院に取材の申し込みが入った。初めのうちは、本人が未成年で、あまつさえまだ中学2年生であることから、棋院の判断ですべて断ることにしていたが、そうとばかりも言っておられず、3月の新入段免状授与式の終了後に合同記者会見が設定されることになった。

このことはヒカルにも伝えられたが、ふだんから新聞も読まずニュースも聞かない世間に疎いヒカルには、実感が湧かないままだった。学校で同級生から話題を振られることもたまにあるが、当のヒカルが気のない返事をするものだから、それ以上話題は広がらない。そんな奇妙な雰囲気の中、あかりがヒカルに声を掛けた。

「今日、学校が終わってからヒカルのうちに行ってもいい? このところ土曜、日曜はいつもいないから・・・・」

「何の用なんだ?」

「久しぶりにヒカルに碁を打ってもらいたいの」

「えーっ、かったるいなあ・・・・」

《ヒカル、そんなつれないこと言わないで。あかりちゃんも碁が好きなんです。打ってあげなさい。わたしが打ってもいいですよ》

《じゃあ、オマエ打ってやれよ》

というわけで、その日の夕方、あかりがヒカルの家を訪れた。

9子を置いての指導碁。佐為はあかりの力量にあわせて無理をせず的確に打ってくるので、あかりも気分良くついてくる。つい時が過ぎるのを忘れていた。

「あっ、いけない、もうこんな時間。じゃあ、今日はこれで終わるね」

「うん。じゃあな」

あかりは帰りかけて、小声でヒカルに尋ねる。

「ねえ、今打ってくれたのはヒカルなの、佐為なの?」

「今日は佐為が打った」

「ふーん、わたしとはいつも佐為が打ってるの?」

「そんなこともないけどな。オレが打つこともあるよ」

「そうなんだ・・・・わたしには、ヒカルも佐為も区別がつかないけど」

《そんなことありません。わたしの方がヒカルよりずっとていねいに指導碁を打ってあげてるんですよ・・・・ヒカル、ちゃんとあかりちゃんに伝えてください》

《うるっせーな、もう!》

「佐為が、自分の方がオレよりずっとていねいに指導碁打ってるってさ」

「そうなんだ・・・・わたしも佐為と直接話ができるといいのにね」

「おれも、その方が面倒がなくていいんだけど・・・・それにしても、あかり、オマエ不思議じゃないのか? オレのそばに幽霊がいるって?」

「まあ、不思議と言えば不思議だけど、でも、逆にそれで納得できたこともあるの。ちょっと変だったもん。小学校6年生の秋くらいから、ヒカルが急に碁に熱中しだして、時々独り言をぶつぶつ言ってたし。あの時からそばに佐為がいたんだと分ると、納得できる」

《あかりちゃん、ありがとうございます。そんなふうに自然に素直にわたしの存在を受け入れてもらうと、うれしいです。ほんとうに、あかりちゃんとも直接話ができるといいのですけどねえ》

「佐為が、自分の存在を受け入れてくれてありがとうって。佐為もオマエと直接話ができるといいのにって言ってるよ。やっぱり、かわいい女の子は好きなんだな」

「あっ、ヒカル、わたしのこと『かわいい女の子』って言ったね」

「いや、それは、ちょっと口が滑っただけだ」

「もう、何よ、せっかく喜んだのに!」

あかりは、ふくれっ面して帰って行った。

《ほんとうに、ヒカルは一言多いんだから・・・・》

 

2-3

 

こんな、あかりとのエピソードもまじえ、週末に佐為とヒカルがトッププロたちと対局を重ねていくうちに3月になり、新入段免状授与式が近づいた。その2日前、佐為は久しぶりに塔矢名人と対局した。この日は、名人の1目半負け。

「それなりに佐為の手筋を研究したつもりだったが、差が開いてしまったな。まあ、これを励みに研鑽を重ねよう」

「先生、いったいどこまで強くなる気なんですか?」

ヒカルは真顔で尋ねた。

「まだまだ強くなるよ。まだ神の一手にはほど遠いのだから・・・・まあ、緒方くんなどは『先生がこれ以上強くなられたら、わたしたち若手がタイトルを奪えなくなるので困ります』などと言っているがね」

そう言いながら脇で観戦する緒方に視線を向けた。

「あっ、いえ、先生が強くなられるのは弟子としてうれしいと思ってはおりますが・・・・」

「緒方さん、無理して・・・・」

「なにぃ!」

ヒカルと緒方の掛け合いに名人は笑った。

「緒方くん、子供相手に本気になるんじゃないよ。進藤くんも、年上をそんなにからかうものじゃない」

楽しげな口調で二人をたしなめた。それからまじめな表情に戻って、

「それはそれとして、佐為に伝えてほしいことがあるのだが」

「佐為はここにいるから、オレが伝えなくても聞こえますよ。佐為は、自分では周りのことをぜんぶ見えるし、聞こえるんです」

「そういうことか。今、佐為はどこにいるのかな。キミの後ろか、それとも横か」

「オレの右にいます」

「では」

と、名人はヒカルの右の空間に向かってまじめな声で語りかける。

「佐為、わたしはキミに心から感謝する。キミとの対局を経験して、そしてキミとほかの棋士との対局を間近に観戦することで、わたしの碁は若返ったのだよ。これまでも決して精進を怠らなかったと自負してはいたが、キミはさらに強い力でわたしを後押ししてくれる。キミの存在がわたしを引き上げてくれる。今日も負けてしまったが、いつかキミを打ち倒す、その思いがわたしに今まで以上の探求を促すのだ。わたしだけでなく、キミと対局したすべての棋士が同じ思いだろう。彼らの分も含めて、感謝の気持ちを伝えるよ」

名人は、頭を下げる。

《行洋殿。頭を上げてください。あなたに頭を下げられるなど、身に余る光栄です。わたしもまた、あなたのような人に出会えて、感激しているのです。あなたとの対局はわたしの喜びなのです。わたしこそ、あなたに感謝したい・・・・》

佐為は涙ぐんだ。

「先生、佐為、泣いてるよ。うれし泣きなんだ。佐為こそ、先生に出会えてうれしいって。先生と対局するのがなによりうれしいって」

「そうか。そう言ってくれるのか・・・・」

名人はヒカルが伝える佐為の言葉を静かに受け止めた。目を閉じて自分の考えに沈んでいるような名人にヒカルが恐る恐るという様子で声を掛けた。

「・・・・先生、あのー、オレとの対局・・・・」

名人は目を開き、いつもの碁打ちの表情に戻った。

「もちろんだ。さあ、次は進藤くんとだな・・・・これが初めてかな。しょっちゅう会っているから、もう何度も対局しているような気になっていたが」

「初めてです。新初段戦は佐為が打ったから」

「そうだったな」

ヒカルは名人に正面からぶつかり、名人はそれを真っ向から受け止める。序盤はほとんど互角だった。中盤もやや進んだところで、ヒカルが長考した。そして打った石を見て、名人は腕組みした。

〔そこか・・・・予想していなかった。一見、失着のように見えるが、先を深く読んだ上での一手だろう・・・・いや、相手は佐為ではなくて進藤くんなのだ、あまり深く考えすぎなくていいのかもしれないが・・・・〕

名人は、自分の想定に従って対応し、戦いが進むにつれて徐々に名人が優位に立った。局面がここに至って、さきほどのヒカルの石の意味が見えてきた。

〔なるほど、この場面を想定していたのか。おもしろい。ただ、それくらいでは、わたしの優位は揺るがない〕

結局、ヒカルの中押し負け。

「やっぱり、先生にはかなわないなあ」

「進藤が先生に勝ってしまったら、オレたちの立場がないって」

横から緒方が口を挟む。名人は笑った。

「まあ、まだまだキミに負けはしないが・・・・強くなった。緒方くんとの対局と比べても、2ヶ月足らずのうちに強くなっている・・・・そうだ、まだ時間は大丈夫かな?」

「はい、オレは大丈夫です」

「それなら・・・・」

と言って名人は碁盤に石を並べ始めた。

「覚えているかい?」

「これは・・・・」

ヒカルは驚いて盤面を見ている。

「そう。キミが中学1年の時、アキラと対局した時の棋譜だ・・・・さて、ここでキミは佐為の意見を無視して11の八に打ち込んだ。ここから続けて、打ち切ってみないか? 今のキミの力なら、あのときのような『へたな碁』にはならないはずだ」

《打ちましょう!ヒカル、ぜひ打ちましょう!きっと、おもしろいことになりますよ》

《なにもオマエがはしゃぐこたあ、ないだろう》

「進藤くん、どうしたのだね?」

「あっ、佐為がはしゃいでるんです。『ぜひ打ちましょうよ』って、喜んでます」

名人はにこやかに笑った。

「佐為も喜んでくれるなら、なおさらだ・・・・いいかな。わたしが打つ番だね」

名人の表情が真剣になる。

「はい」

ヒカルは表情を引き締めて答える。名人が打ち込む。それにヒカルが応戦する・・・・。

「ああ、やっぱり勝てねえ」

ヒカルが投了した。

「わたしが相手だからね。進藤くんもよく打ったよ。キミの奥に秘めた何かを支える力を身につけつつあるようだ。アキラが相手ならどうなったか分からない」

「ほんとうですか? 緒方さんの翌日、アキラと打って2目半で負けたんだ。アキラはそれでもオレをライバルと認めてくれたけど・・・・先生から見ても、互角になったんだ。毎日アキラを見ている先生が言うんだから、間違いないです」

名人は、ヒカルの無邪気な喜びように笑みを見せながら、沈思する。

〔進藤くんは、公式戦では佐為の力を借りず、自分の力だけで打つという。それは信じていい。碁打ちであれば、当然のことだ。自分の力で打ち抜くこと、それは勝敗よりも大切なこと。人の力を借りて勝つよりも、自分の力で打ち抜いて負ける方がましだ。碁打ちであれば、そう思う。進藤くんは、すぐそばに佐為がいても、決して佐為に頼るようなことはしない。それは間違いない。だが、それを疑う人もいるだろう。昇段やタイトルがかかった公式戦であればこそ、疑う人がいるだろう。そのどす黒い疑いが進藤くんを押しつぶさなければいいが・・・・いや、余計なことを考えてもしかたない。佐為の存在を明かすこと、進藤くんはそれを選んだのだ。そのおかげで、わたしを始め多くの棋士が佐為と対局できるようになったのだ。進藤くんの選択を信じよう・・・・〕

 

2-4

 

新入段免状授与式の前日、ヒカルは棋院に呼ばれた。

呼び出されるような悪いことをした覚えはないのになあという浮かない顔でやってきたヒカルを、受付で天野が呼び止め、事務室の奥の応接室に通し、初老の紳士に紹介した。

「こちらは、日本棋院の顧問弁護士を引き受けていただいている田島先生」

「弁護士?」

ヒカルは佐為と顔を見あわせた。

「オレ、何も悪いことしてないけど・・・・」

「いや、そういうことではないのだよ。心配しなくていい。明日、免状授与式の後で記者会見が予定されているね。その時、記者からいろいろ意地悪な質問をされてキミが困らないよう、手助けしてくれることになっている。そして、今日はあらかじめいくつかアドバイスしておきたいとのことなんだ」

「はあ・・・・」

ヒカルはまた佐為と顔を見あわせた。

《なんだか、知らないうちに大ごとになってますね》

《そうだな・・・・》

「まあ、そう緊張しないで、ここに座ってくれたまえ」

田島はヒカルに声をかけた。ヒカルは田島と向かい合う席に腰掛けた。

「進藤くんのような有望な新人をメディアの荒波にもみくちゃにされたくないというのが、天野さんのご希望だ。それで、わたしの力の及ぶ限り手助けしたいと思っている。

お互い、忙しいだろうから、さっそく本題に入るよ。たぶん、記者たちは佐為という幽霊がほんとうに存在するのかという点を集中的に質問するだろう。それで、くれぐれも気をつけてほしいのは、記者の挑発や誘導に乗って『佐為の存在を証明してみせます』みたいなことを言わないことだ」

「どうして?」

「そんなこと、証明しようがないからだよ。幽霊の存在を証明することなど、不可能だろう」

「じゃあ、オレはなんと答えればいいの?」

「証明しなくていいんだ。ただ『だって、事実だから』とか『存在するものは存在するんだから仕方ないでしょう』みたいな答えでかわすんだよ」

「そんなんで、相手は納得しないでしょう」

田島はほほえんだ。

「そこがミソなんだ。無理に相手を納得させなくてもいいんだよ」

「えっ?」

「もちろん、相手は納得しないからいろいろ食い下がるだろう。その時は『ボクがウソをついていると言うのなら、その証拠を見せてください』とか『ボクの言うことが事実でないというのなら、事実でないことを証明してください』というふうに、相手に質問を投げ返すんだ。そうすれば、相手は何も言えなくなる。そりゃあ、そうだろう。なにせ幽霊が問題なんだ。その存在を証明することはできないけど、それが存在しないことを証明することもできないんだ」

「・・・・」

「ピンと来ないようだね」

「うん、よく分んない」

「挙証責任という法律用語がある」

「キョショウセキニン?」

「うん。読んで字のごとく、証拠を挙げる責任、証拠を示す責任、証明する責任という意味だ。たとえば、さっき話したような場面で、進藤くんと記者と、どっちが挙証責任があるのか?」

「・・・・」

「それは、自分の正しさを主張する側なんだよ。進藤くんが『佐為はいるんです』と主張するなら、進藤くんが『佐為はいる』ことの証拠を示す責任がある。記者が『佐為なんかいるはずない』と主張するのなら、記者がその証拠を示す責任がある。そして、ちょっと考えれば分るけど、挙証責任を負う側が不利だね」

「そうですね」

「だとしたら、自分から積極的に自分の正しさを主張しない方がいい。相手に主張させて、証拠を示すよう迫って、証拠を示せない状況に追い込む方が有利だ」

〔すげー、タヌキ・・・・〕

と思ったが、さすがにヒカルもこれを口にはしない。

「専門家でない人は意外に思うだろうけど、法律の世界は守る方が有利なんだよ。相手側に攻めさせて、攻め手がなくなって自滅するのを待っている方が有利なんだ。ただ、人間というのはどうも勝ちに行きたがる生き物らしい。自分から自分の主張の正しさを証明したがる生き物のようだ。この本能を封じ込めて、あくまで相手に挙証責任を負わせ続けるのが難しいんだね」

ここまでの話を聞いて、佐為の表情が明るくなった。

《ヒカルにはできますよ》

《えっ?》

《碁も同じじゃないですか。むやみに攻めればいいってものではありません。守るべき時は守り、引くべき時は引き、耐えるべき時は耐える。ヒカルは今でも、碁ではこれができます。そのコツをヒカルは身につけているはずです》

《でも、それは碁の話だろう》

《記者会見にも応用できますよ》

佐為は楽天的に語る。

「まあ、いろいろ難しいことを話したかもしれないが、要は何を聞かれても、相手をやり込めようとか、相手を納得させてやろうと思わないことだよ」

「それが難しいんだなあ」

田島は、そんな子供っぽい反応をするヒカルがほほえましかった。

「まあ、明日はわたしもキミの隣に控えている。危なそうになったらブレーキをかけてあげるよ」

「お願いします」

田島との話はこれで終わった。

帰り道、うなだれて歩くヒカルの脇で佐為が語りかける。

《うちに着いたら、「耐えるが勝ち」みたいな棋譜を集めて復習しておきましょう》

《そんなんで役に立つのか?》

《役に立ちますよ。ヒカル、元気を出して!》

 

翌日の新入段免状授与式。ふだんはごく内輪の行事だが、この年は取材陣が溢れかえった。お目当てはもちろん、無敵の棋士sai=佐為を影のように背負う進藤ヒカル新初段。通常の式次第が終わり、ふつうならそのまま閉会するところだが、今年はそれから記者会見が始まった。まず、日本棋院を代表して天野があいさつする。

「例年にないことでありますが、今年は進藤ヒカル新初段への取材の申し込みを多数受けております。個別に取材に応じるとそれだけで膨大な時間を取られることになりますので、この場に記者会見を設定いたしました。記者の方々は事情をご理解の上、なるべく重複を避けて質問してください。それと、本人はまだ未成年。14歳の中学2年生であります。この点も十分にご配慮ください。棋院としましても、本人の補佐のため顧問弁護士である田島先生をアドバイザーとして同席させます。では、順番に質問をお願いします」

実際に記者会見が始まると、棋院が心配していたような意地悪な質問は出されず、ヒカルも落ち着いて応答した。

「saiは幽霊だとのことですが、具体的にどのようなものでしょうか?」

「幽霊は幽霊としか言いようがありません」

「それでは説明になっていないと思いますが」

「説明のしようがないんです。実際にオレのような体験をしたことのない人には、分ってもらえないと思ってます」

ヒカルがこのように突き放すと、それ以上の追及は難しい。

4月から始まる公式戦では佐為ではなく進藤ヒカルとして戦うというヒカルの言明に対して、

「でも、佐為は進藤初段以外の誰にも見えないし聞こえないのだから、こっそり佐為の助言をもらっても、分かりませんよね?」

という当然の疑問が提出された。

「それは、オレを信じてもらうしかありません」

とだけヒカルは答える。それを天野が補足した。

「進藤くんが佐為のことを打ち明けてから、今日に至るまで、塔矢名人をはじめとして、一柳棋聖や座間元王座など、錚々たる人たちが佐為と進藤くんの両者と対局しています。その方々は口を揃えて、佐為の手筋と進藤くんの手筋は明らかに別物であり、実際に打ち合ってみれば、どちらが打っているか分かるとおっしゃっています」

これで疑念が払拭された雰囲気ではなかったが、この点をそれ以上追及する記者はおらず、記者会見は一見平穏に終了した。

 



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3:変転

3-1

 

新入段免状授与式の後も、ヒカルは毎週末、塔矢邸を訪れる多くの棋士を相手に、佐為とヒカルの二役を演じて対局をこなしていた。桑原は結局3月末になるまで塔矢邸を訪れることはなかったが、『週刊碁』に桑原本因坊のインタビュー記事が掲載された。現在と過去のタイトルホルダーでたった一人、佐為と対局していないのはどうしてかと質問されて、

「ワシは、佐為にはあまり興味がない。進藤の小僧の方に興味があるんじゃ。奴がまだ院生だった頃、棋院の廊下ですれ違った。ただ者でない雰囲気を感じたもんじゃ。それ以来、奴に注目しておる。今あわてて対局せんでも、いずれ本因坊戦に出てくるじゃろう。それをゆっくり待っておるわ」

と答えていた。

 

4月からいよいよ正式にプロとして公式手合が始まる。第1戦は4月4日、対局相手は生涯のライバルと認め合う塔矢アキラ。しかしその日、対局開始時間になってもアキラは姿を見せなかった。一体、何があったんだろうと気を揉むヒカルは、棋院の事務員から呼ばれた。

「進藤くん、ちょっと・・・・」

ヒカルが対局室を出たところでそっと耳打ちされた。

「塔矢くんは来れない。塔矢先生が倒れられて、救急搬送されたと知らせがあった。アキラくんもお母様と一緒に病院に向かったらしい」

「えっ!・・・・」

「棋院も、対局室以外は上を下への大騒ぎだよ」

 

帰宅したヒカルは塔矢邸に電話したが、誰も出ない。二人とも病院にいるらしい。

翌日、まだ春休みなので朝から電話したが、やはり誰も出ない。夕方になると、ずっと話し中だった。晩ご飯を終えて電話して、やっとつながった。

「ああ、進藤。昨日はすまなかった。公式戦初対局だったのに」

「そんなことはどうでもいい。それより、先生の具合は?」

「命に別状はない。心臓の発作だったそうだけど、今はもうICUから出て一般病室にいるよ。医者からはしばらく安静と言われているけど、傍目にはふだんと変わらない」

「ああ、それはよかった」

それだけ聞いて安心したヒカルに佐為が耳打ちする。

《ヒカル、お見舞いのことを尋ねてください。お見舞いに行ってもいいのかどうか》

「あっそうだ、お見舞いには行っていいのか?」

「今日いっぱいは一応、近親者以外は面会謝絶になっていた。明日からは大丈夫だけど・・・・」

「だけど?」

「たぶん、明日、あさっては囲碁関係者の見舞客が殺到すると思う。さっきも話したように、病状はもう心配要らないから、少し日を置いてから見舞いに来てくれる方が、父ともゆっくり話せるんじゃないかな」

「うん、分かった」

《塔矢って、こういうところ、ほんとうに気が利くというか、ものがよく見えているというか・・・・》

《ヒカルとは段違いですねえ》

《オマエも一言多い!》

 

結局、ヒカルと佐為が名人の見舞いに出かけたのは、救急搬送から4日後の日曜日の午後だった。

名人は個室に入院している。それは、ぜいたくと言うより、立場上見舞客が絶えないであろうことを見越して、一般病室では同室者に迷惑をかけるとの配慮もあってのことだった。病室には、アキラと明子、それにもう1人、ヒカルの知らないかなり年配の人がいる。

「ああ、進藤くん、よく来てくれた・・・・こちらは、わたしの後援会の会長を引き受けていただいている住田さん・・・・住田さん、こちらが今噂していた進藤くんですよ」

「先生、オレの噂してたんですか?」

「いや、まあ今日あたりキミが見舞いに来るかもしれないというくらいの他愛ない話だよ」

《ほんとうかな・・・・》

《ヒカル、この場で問い詰めなくてもいいですよ》

《それくらい、オレだって分かってる》

表情が固まったようなヒカルに住田が話しかける。

「進藤初段、お話はかねがねお聞きしております。住田ともうします。よろしくお願いします」

ヒカルは、自分の祖父ほどの年の人から深々と頭を下げられて、どう対応してよいのか戸惑った。そんなヒカルにアキラが助け船を出す。

「進藤、まあ座るといいよ」

「あっ、ありがとう」

それからしばらく他愛もない雑談が続いたが、きりのいいところで名人が切り上げ、真面目な口調になった。

「よい機会だから、進藤くんにもあらかじめ伝えておきたい。すでに明子、アキラ、住田さん、そして昨日見舞いに来られた囲碁関係者の何人かには内々に伝えてあるんだが、近々、名人位以外の4冠ないし3冠を返上しようと思っている」

ヒカルはびっくりして名人を見つめる。何か言いたいが、言葉にならない。

「表向きは健康上の理由だ。実際、医者は過労が原因だと言うしね。ただ、それだけが理由ではない」

名人は、ここでちょっと間を入れる。

「5つのタイトルを保持するのは、それなりにたいへんなのだ。碁を打つことそのものは、少しも負担とは思わないが、それにまつわる雑事が面倒だ。防衛戦は基本的に地方での対局で、1局ごとに移動に丸2日がつぶれてしまう。前日のレセプションにも顔を出さないわけにはいかない。それは、今のわたしにとって、碁を極めるための足かせと思えてしかたない。それと、碁は日本だけのものではない。中国や韓国でも盛んだ。むしろ日本より盛んなくらいだ。それらの国の棋士たちとも碁を打ちたいと思っている。そのための時間がほしい。最初はすべてのタイトルを返上して、公式戦からいっさい身を退くことも考えたが、さすがに周りから引き留められた。アキラが急先鋒だったな」

名人は笑みを浮かべる。

「ボクは、ほかの人たちの気持ちを代弁しただけです。ボクだけじゃなく、みんなも父を倒しタイトルを奪うことを励みにしてるんです」

「それは確かに、お前に道理がある。若い人たちに叩かれ、乗り越えられるのが、年寄りの役目だからね」

「先生、『年寄り』なんて、そんな言い方しないでください!」

と言うヒカルに名人は、住田に目配せしながら

「進藤くん、お年寄りを前にそんな言い方は失礼だよ」

と冗談めかして言う。ヒカルは、「しまった!」という表情であわてて口を手で塞いだので、一座がどっと笑った。

名人は、笑みを浮かべながらもまじめな表情に戻って、

「それに、この1月から佐為の対局を見ていて思ったのだ『公式戦でなくてもこれほどすばらしい対局が生まれるのだ』とね」

ここで名人はまたちょっと間を入れる。

「ところで、さっき『4冠ないし3冠を返上しよう』と言ったね。実は今、十段位防衛戦の真っ最中なのだ。相手は緒方だ。最初の2局はわたしが勝ったのだが、3局目は倒れた翌日で、不戦敗になった。4局目はこんどの木曜日。この防衛戦の結果次第で、返上するタイトルが3つになるか4つになるかが決まる。弟子に負けてタイトルを奪われるより、勝ってタイトルを保持した上で返上したいと思っているよ」

明子がふっと笑いをこぼした。名人もつられて笑った。

「そこで、折り入って進藤くんに、というか佐為に頼みがある」

「えっ、何ですか?」

「第4局の前にもう1度佐為と対局したい」

《もちろん、よろこんでお相手します》

「それは、もちろんかまわないです」

「だが、もう学校が始まっているだろう」

「あっ・・・・いや、大丈夫です。まだ学期が始まったばかりで授業は午前中で終わりだから、午後すぐにここに来ます」

「ああ、そういうことなら、ありがたい。それで、いつにしようか」

「いつでも、先生の都合の良い日で」

「では、第4局の2日前の火曜日でどうだろう? つまり、あさってだが」

「分かりました。火曜日、学校が終わったらすぐにここに来ます」

「待ってるよ。それと、これは緒方には秘密だ」

名人は、ふだんに似合わないいたずらっぽい表情で語った。

 

火曜日の対局は最後まで勝敗がもつれ込んだが、最終的に佐為の半目勝ちとなった。

「いやあ、佐為の壁は分厚く高いな」

《しかし、行洋殿も一段と強くなっておられます。新初段戦の時に比べれば、戦い方に幅が広がった》

《オレ、そんなこと先生に向かって言えないよ》

《伝えてくださいよ。ヒカルが言うんじゃなくて、わたしのせりふとして》

「先生、オレが言うんじゃなくて、佐為が言ってるんですけど、先生は新初段戦の時に比べて一段と強くなっているって」

「ありがとう・・・・それにしても、佐為に稽古を付けてもらって負けるわけにはいかないな」

 

2日後、名人は挑戦者緒方を下して十段位を守った。その翌日、5冠の棋士塔矢行洋が名人位以外の4つのタイトルを返上するというニュースが棋界のみならず日本中を駆け巡った。

 

3-2

 

塔矢名人の4タイトル返上騒動の余韻がまだ残っている頃、ヒカルはゴールデンウィークのイベントへの参加を依頼された。この時期、各地でいろんなイベントが開催されるが、ヒカルに頼まれたのは、囲碁のことを何も知らないかごく初心者である10歳以下の子供向けイベントへの参加。

「子供の相手ですか? オレ、苦手だなあ」

「当日は、桜野さんという子供の扱いに慣れた女流棋士が一緒にいてくれます。実質的な仕事は桜野先生にお任せして、進藤くんはその場にいて雰囲気を盛り上げてくれればいい。何と言っても、キミは有名人だから」

「それって、要するに『人寄せパンダ』ってこと?」

「まあ、そう言われると反論しにくいのだが・・・・囲碁人気が低迷する中、キミの知名度を活用させて欲しいんだよ」

そう頼まれると、断り切れなかった。

翌日、ヒカルは学校であかりにこのことをぼやいた。

「あら、子供の相手って、楽しそうじゃない」

「そんなこと言うなら、あかりが代わってくれよ」

「そんなわけにもいかないでしょう」

確かに、あかりに代わってもらうわけにはいかはない。

いよいよイベントの前夜、ヒカルが翌日のことを考えていささか憂うつな気分でいると、あかりが尋ねてきた。犀と太陽の絵を描いたパネルを持っている。

「この大きさならバッグに入るでしょう」

「何だよ、犀と太陽なんて」

「サイとヒカルよ」

「やめてくれよ。冗談にもほどがあるってもんだ」

「冗談じゃないわよ。10歳以下の子供なんでしょう。これを見せると、きっと喜ぶよ」

《ヒカル、おもしろそうじゃないですか。持っていきましょうよ》

《佐為、オマエまで・・・・恥かくのはオレなんだぜ》

《どうせ「人寄せパンダ」なんでしょう》

《このヤロー!》

 

イベント当日の朝、ヒカルは佐為に言われて仕方なくパネルをバッグに入れた。

会場で桜野2段に紹介され、子供向け囲碁教室が開かれる部屋に入った。もう子供たちとその父母とおぼしき大人たちが100人くらい席について待っている。ふだんのこの種のイベントの倍くらいの人数だとのこと。主催者が桜野2段と進藤初段を紹介すると、会場のあちこちから「シンドーヒカル」、「シンドーヒカル」、「サイ」、「サイ」という声があがった。有名だからというだけでなく、中学3年生のヒカルにお兄さんのような親しみを感じてもいるようだ。熱心に自分と佐為の名前を呼ぶ子供たちを見て、ヒカルは覚悟を決め、バッグからパネルを取り出した。

「みんな、これ何だか分かる?」

「犀の絵」、「犀だ」、「太陽もあるよ」・・・・子供たちは口々に答える。

「これは、サイとヒカルの絵だよ」

それを聞いて子供たちは「サイとヒカル!」と口々に叫んだ。

「みんな、元気だねえ。じゃあ、これからちょっとだけ、元気に桜野先生の話を聞こうね」

ヒカルのこのパフォーマンスを見て、桜野はとっさに機転を利かせ、パネルをヒカルの手から取り、講師用テーブルの上に置いた。

「じゃあ、これからサイとヒカルの囲碁教室を始めます」

「ワーッ」という歓声の後、子供たちは静かになった。

桜野は、子供が注意を保てる限界をわきまえて、手短に話を終えた。次は、囲碁の基本的なルールに親しませるために、二人が大型の9路のマグネット碁盤を使って囲碁を簡略化した石取りゲームをして見せる。基本的に、桜野が攻めの形を作り、ヒカルに受け方を答えさせ、それを桜野が解説するという進行なのだが、途中で佐為がささやく

《ヒカルが答えるだけでは、子供たちがおもしろくないでしょう。子供たちに意見を求めては、どうですか?》

《あっ、それ、おもしれー》

ヒカルは桜野から受け手を求められて、わざと考え込むふりをする。そして、

「オレ、分んねえや。誰か助けてくれ。うまい受け方を思いついた人、手を上げて!」

と会場の子供たちに語りかけると、一斉に手が上がった。

「じゃあ、キミ」

とヒカルが一人の子供を指名すると、その子は元気な声で答える。

「なるほど、そういう手があったか・・・・ほかの手を考えついた人はいない?」

すると、またあちこちから手が挙がる。この展開に桜野はびっくりした。

〔進藤初段、子供の相手がうまいじゃないの・・・・それにしても、わたしも以前、同じようなことをやってみたことがあるけど、その時はどこからも手が挙がらなくて白けてしまったのに・・・・やっぱり、人気者なんだわ・・・・〕

やがて石取りゲームのプレゼンテーションも終わり、会場に机と碁盤を用意して子供たちどうしで石取りゲームをする。二人はその間を歩くのだが、ヒカルの周りに子供たちが集まる。

「進藤初段、人気者ですねえ」

と桜野は冷やし半分、本気半分で話しかける。ヒカルは照れ笑いする。

《ヒカル、ごらんなさい、この子たちのキラキラ輝く眼差し。この素直な気持ちに答えてあげましょう。わたしも手伝いますよ》

《答えるって、どうすればいいんだ?》

《ヒカルが子供相手に石取りゲームをするんです。ヒカルなら、5面打ちくらいできるでしょう》

《よし!》

ヒカルは担当者に声を掛けた。

「すみません、予備の碁盤と長机、ありませんか?」

「はい、今すぐ用意します」

ヒカルは石取りゲーム用の9路の碁盤を長机に5つ並べる。

「さあ、2人1組、10人ずつまとめて相手するぞ。我と思わん者はかかってこい」

という声に子供たちが殺到する。

「ああ、それじゃあ、ジャンケン、ジャンケンして決めろ」

あちこちでジャンケンが始まり、勝ち抜いた10人がヒカルに向き合って座った。その子たちが終わったら、次の10人に交替する。佐為が適切にアドバイスし、ヒカルの天成の明るさも手伝って、子供たちは思っていたより以上に楽しんでくれた。子供たちは無邪気に「サイ」、「ヒカル」と声を掛ける。子供たちにとってサイとヒカルは一心同体のヒーローのようだった。

「進藤初段、子供の相手がうまいんですね」

と桜野が、今度は100パーセント本気で語りかける。

「いやー、そんな・・・・」

と照れながら、ヒカルもまんざらではない様子。

こうやって、イベントは無事終了した。

《みんな、喜んでくれたな。意外に楽しいもんだな、子供の相手も》

《子供たちの笑顔は千金、万金に値します。これからも、機会があれば子供たちの相手をしたいですね》

佐為もうれしそうに答える。

 

3-3

 

ゴールデンウィークが明けて、5月の大手合。ヒカルにとっては初戦になる。相手は3段だが、負ける気はしなかった。実際、序盤からヒカルに優位に進み、午後の早い時点で相手が投了した。

「検討しますか?」

「いいよ」

相手は、さっさと立ち去った。

〔フン、どうせsaiの力を借りてるんだろう。でなきゃ、新初段のくせに、あんなに強いわけがない。自分の力で打つなんて、よくも白々しいことを言うぜ・・・・〕

こんな陰口を叩かれているとは、ヒカルには思いも及ばないことだった。

 

そして若獅子戦。本命はアキラだが、ヒカルの活躍もめざましかった。1回戦、2回戦、3回戦を難なく勝ち上がり、準決勝で二人が対局した。

「公式戦でキミと対局するのはこれが初めてだね。4月の大手合はボクが休んでしまったから」

「ああ。楽しみにしてたぜ」

「ボクもだよ」

その対局は、塔矢名人と佐為の対局をスケールダウンしたような接戦になった。進行は早く、打ち掛けの時点で中盤から終盤にさしかかっていたが、勝敗の帰趨はまったく読めない。

「キミはまさに佐為の弟子だね。キミの打つ碁のあちこちに佐為の手筋が見え隠れするよ。でも、もちろん、キミの碁はまぎれもなくキミの碁だ」

「塔矢、ありがとう。一番うれしい言葉だぜ」

午後からの盤面も一進一退が続き、半目が微妙に二人の間で揺れた。しかし、最後に勝ちを手にしたのはアキラだった。半目差の勝ち。

「くそおー、今日は勝てると思ったのに!」

「ボクだって、前に進んでいるんだよ。キミも前に進んでいるけど。そう簡単に追い越されやしない」

「それは分ってるさ。分ってるけど、悔しいものは悔しいんだ」

そんなふうに素直に悔しさを表すヒカルに、アキラは同年配の人間として親しみを感じる。

「・・・・進藤、ちょっと話したいことがあるんだ。付き合ってくれないか」

アキラはヒカルに席を立って外に出るよう促した。

手合室を出て階段を降りながら、ヒカルは話しかけた。

「ちょっと話って、なんだ?」

「キミの耳にも届いているかもしれないが、キミの悪口、陰口をたたく人たちがいる。『自分の力で打つと言ってるけど、どうせ佐為に手伝ってもらってるんだ』というような陰口だよ。根も葉もない話だってことは、ボクには分かる。ボクだけじゃない。父も、緒方さんも、倉田さんも、森下先生も、座間先生も、一柳先生も、およそ佐為と対局し、キミと対局した人なら誰でも、佐為の碁とキミの碁が別物だということは分かる。キミがキミの力で打っていることはよく分かる。だから、そんなくだらない陰口なんかに心を乱されないでいてくれ」

「なんだ、そんな話か。もちろんさ。そんなくだらない噂なんか気にしねえよ・・・・オレのこと心配してくれてんのか。ありがとう」

「キミはボクのライバルだから。こんなつまらないことで、つまずいてほしくないんだ」

 

6月の大手合。対局相手が現れず、ヒカルは不戦勝した。7月の大手合でも、8月の大手合でも同様だった。さすがに3ヶ月連続だと偶然でかたづけるわけにもいかず、棋院としても内々に事情を調査した。対局相手の口からは「幽霊に手助けされて打つ相手との対局など、やってられない」という不満が語られた。困ったことに、この不満はかなり多くの棋士たち、とりわけ低段者の間に広まっているようだった。天野らは、恐れていた事態が現実のものになったと、頭を抱えた。

一方、当事者でありながらそのような問題が生じていることなどつゆほども知らないヒカルにとって、この夏は楽しく充実したものだった。

 

3-4

 

まず、夏休みに入って早々、子供たちを対象にした囲碁イベントに呼ばれた。ゴールデンウィークのイベントが好評で、ヒカルは子供キラーとの評価を得ていたから。ヒカルにとっても、無邪気な子供たちを相手にするのは楽しかった。ヒカルのトレードマークになった犀と太陽のパネルを掲げて登場すると、会場から「サイ」、「ヒカル」という歓声があがった。

 

それから1週間ほどして、国際アマチュア囲碁カップ。

2年前の囲碁カップでは謎のネット棋士saiが噂になっていた。その正体が進藤ヒカルという少年の分身であることは、ネット碁の世界ですでに知れ渡っていた。今年の囲碁カップには「ぜひsaiと対局したい」という要望が各国から寄せられていた。本来、アマチュアの大会にプロは参加しないのだが、公式の対局ではなく指導碁であるということで、囲碁カップ期間中、午前と午後に1局ずつ、4日で8局の対局が予定された。対局相手は、申し込みが多数になったので抽選となった。囲碁カップ運営事務局から、7月初め頃に打診された時

「外人と打つの? オレ英語ぜんぜんだぜ」

とヒカルはゴネたが、

「何もしゃべらなくていい。碁を打てばいいんだよ」

と言いくるめられて、引き受けた。引き受けはしたものの、やはり不安は残っている。

《誰か、英語のできるやつ、手助けしてくれないかな?・・・・塔矢は名門の海王中だからきっと英語もできるだろうけど、塔矢も忙しいだろうからなあ・・・・》

《あかりちゃんはどうでしょう? ヒカルよりは成績がいいんでしょう?》

《その言い方、気にさわるなあ。まあ、オレよりはましだろうけど・・・・》

1学期の期末試験が終わって、ヒカルはあかりに話しかけた。

「あかり、英語はできるの?」

「うん。こう見えても英語はけっこう得意なんだよ」

「それなら、手伝ってほしいことがあるんだ」

「もう、英語の宿題は自分でやんなさいよ!」

「そんなんじゃないよ」

とふくれっ面して、ヒカルは事情を説明した。

「・・・・というわけで、話さなくてもいい、碁を打つだけでいいって言われてんだけど、やっぱり不安なんだ。誰か、英語のできる人にそばにいてもらいたいんだ」

「えーっ、外人と話すの?」

「いや、話さなくてもいいんだって。そばにいてくれればいい」

「そうは言っても、話しかけられることだってあるでしょう」

という話の流れで、ヒカルは諦めかけていたが、2日後、あかりからうれしい返事が来た。

「おとといの話ね、やってみる」

「ほんとうか!ありがとう。恩に着るぜ」

「もう、ほんとうに調子いいんだから」

《あかりちゃん、ありがとうございます。わたしからもお礼を言いますよ》

「佐為も礼を言ってるよ」

「あら、それはうれしいな・・・・あの後、英語の先生に相談したの。そしたら、『めったにない機会だからチャレンジしたら』って言われて。ついでに、魔法の言葉も教えてもらった」

「魔法の言葉?」

「うん。“Please more slowly and clearly”っていうの」

「どういう意味だ?」

「『もっとゆっくり、分かりやすく、お願いします』っていう意味。話しかけられて、相手の言うことを聞き取れなかった時に、こう言えば、相手はもっとゆっくり、分かりやすく話してくれるって」

 

囲碁カップで、ヒカルはまずオランダ代表と佐為との対局を依頼された。レベルとしては院生の中位くらいで、佐為は本気の勝負ではなく指導碁を打った。それでも最終的にはもちろん佐為の勝ち。対局が終わって、オランダ代表が盤上の1つの石を指さしながら何か話しかけた。

「あかり、何て言ってんだ?」

あかりは突然話しかけられて聞き取れなかった。

「ちょっと待ってて」

〔あわてちゃだめ、落ち着いて、落ち着いて!・・・・そうだ、魔法の言葉・・・・〕

“Please more slowly and clearly”

というあかりの言葉に、オランダ代表は笑顔でゆっくり自分の言葉を繰り返す。

〔キャナイ トラーィアゲン?・・・・“Can I try again?”って言ってるのかしら・・・・“try again”『再び試す』・・・・あっ、そうか!〕

「やり直していいかって聞いてるの。彼が指さしてる所から」

「いいよ。まだ時間はあるから」

“Yes・・・・Yes, you can”

オランダ代表は喜んだ。あかりも喜んだ。

〔わー、通じた。わたしの英語が通じた!〕

と喜びながらも、オランダ代表の言ったことは聞き取れた。

“Oh,thank you. Thank you. You are very kind !”

「あかり、『サンキュー』の後、何て言ってんだ?」

「『あなたはとても親切です』って言ってるの」

ヒカルは佐為と顔を見合わせ、にっこりほほえんだ。佐為もうれしそうな表情をしている。

やり直しても結局は佐為の勝ちになるのだが、オランダ代表は満足した様子だった。

 

その後、7人のアマチュア代表との碁も、無事に終わった。たまに質問されると、あかりが魔法の言葉の助けを借りてなんとか切り抜けた。もちろん、囲碁のことは言葉が通じなくても石を打てば分かるという事情もあってのことだが。

《あかりちゃん、すごいですねえ》

「佐為が褒めてるよ」

「まあ、ごく初歩的な英語なんだけどね」

「でも、この場でちゃんと使えるのは、すげーと思うよ」

「わー、ヒカルが褒めてくれた。ひょっとして初めてじゃない、わたしを褒めてくれるの」

「いや、まあ・・・・そんなに大げさに喜ぶなよ・・・・」

こんな二人のやりとりを、佐為はうれしそうに見守っている。

 

4日間の日程もつつがなく終了し、閉会式も終わった後、囲碁カップの運営委員がヒカルに声を掛けた。

「進藤くん、今回はほんとうにありがとう。みんな『ていねいに指導してもらえた』と喜んでいたよ」

「いやあ、打ったのはオレじゃなくて佐為だから・・・・」

「実はそのsaiに絡んでのことなんだけど、各国の代表が口を揃えて『saiはネットに復活しないのか? ぜひ、復活してほしい』と言うんだ。ネット碁なら、世界中の人たちがsaiと打てる。特に、それぞれの国でトップレベルにいる人は、身の周りに自分より強い相手がいないから、saiと打つのは実力を磨くよいチャンスなんだ。トップレベルと言っても、ヨーロッパやアメリカはまだまだレベルが低いけど、だからこそ、強い人に鍛えてもらいたいという欲求は強い。わたしたちとしても、世界への碁の普及につながることだから、そうしてくれればいいと思うんだが、進藤くんもいろいろ忙しいだろう。無理にとは言わない。できる範囲でいいから、ネット碁もやってくれないか? そして、できるだけ欧米のトップアマたちと対局してほしい」

《ヒカル、すばらしいお話じゃありませんか。わたしたちが世界の人たちのお役に立てるなんて》

《そうだけど、オレも忙しいんだよ》

《もちろん、分かっていますよ。だから、「できる範囲」でいいんです。できる範囲で協力しましょうよ》

《ああ、分かった、分かった》

「うん、佐為もできる範囲で協力しますって言ってます」

「ありがとう」

 

その頃から、子供たちから棋院にヒカル宛のファンレターが届くようになった。「サイとヒカル」のパネルを模写した絵が同封されていたり、その絵を描いた絵日記のカラーコピーが同封されているものもある。

「進藤初段、ほんとうに子供に人気がありますね」

「オレも意外なんだ・・・・それより、この絵やコピー、ちょっと借りていいですか?」

「借りるも何も、進藤初段へのファンレターですから、まとめて進藤初段に差し上げますよ」

「そうなんですか。それはよかった」

ヒカルはそれらの絵をあかりに見せた。あかりもとても喜んだ。

 

そして夏の終わり頃、親善と交流のため韓国の棋士たちが来日した。長老格として塔矢名人とも親しい徐彰元(ソ・チャンウォン)、中堅クラスの代表として安大善(アン・テソン)、若手の代表として高永夏(コ・ヨンハ)。それぞれ3人とも、公式日程の合間を縫ってsaiと対局したが、いずれもsaiの勝利に終わった。とりわけ韓国で最強と目される徐彰元もsaiに敗れ去ったことは、安大善と高永夏を驚かせた。

永夏は、saiとの対局を終えて、秀英(スヨン)からことづかった疑問をヒカルに伝えた。

「saiの噂を聞いて秀英が気にしてるんだ。あの時は、ヒカルが打ったのか、saiが打ったのか」

「もちろん、オレが打ったよ。あの頃、佐為の存在を隠していたから、人と打つ時はいつもオレが打っていた」

「分った。秀英に伝えるよ。安心するだろう・・・・秀英もプロになって活躍している。決して弱くはない。日本に来る機会はある。その時はまた進藤ヒカルとして対局するのか?」

「オレはそのつもりだよ」

「きっと秀英もそれを望むだろう・・・・オレも秀英に勝った進藤ヒカルの実力を知りたいんだが、オレとも打ってくれるか? 進藤ヒカルとして」

「もちろん。望むところだぜ」

二人は公式戦でもめったに見られないほど緊迫した対局を繰り広げたが、結果は4目半で永夏の勝ち。

「オマエ、強いなあ・・・・」

ヒカルの心からの褒め言葉に永夏はほほえんだが、すぐに表情を引き締めた。

「わたしには負けたけど、進藤ヒカルは十分に強い。秀英を負かしたのも納得だ。だけど、saiの方がもっと強い。なぜ、saiとして戦わないのか? プロであれば一番強い自分を見せるべきだろう。最高のパフォーマンスを見せるべきなのだ。自分の碁を打ちたいという願望は・・・・」

永夏はここでちょっと間を置いて、言葉を続けた。

「それはアマチュアの言うことだ」

ヒカルは唇を噛みしめたが、敢えて反論は口にしなかった。

「もし、わたしがいつかキミと公式戦で対局する機会があれば、saiとして打ってほしい。たとえ、わたしがまた負けるかもしれないとしても」

〔オレはオマエと進藤ヒカルとして打ちたいよ〕

という思いを、ヒカルは口にしなかった。

ヒカルと永夏の対局が終わると、3人はそのまま帰国のため空港に向かった。

《永夏の言うことも分るんだけどなあ・・・・》

《永夏には、ヒカルとわたしがまったく別の人間だということが納得できないというか理解できないのでしょう。ヒカルの中にsaiと本来のヒカルがいるというふうに感じてるんでしょうね。だから、なぜsaiを表に出さないんだ、saiだってヒカルの一部だろう、という疑問をもってしまうのでしょう》

《まあ、オレと佐為が別々の人間だってことを、そのまますんなり受け入れる方が無理かもな。永夏の反応の方があたりまえなのかもな・・・・》

 

3-5

 

このように楽しく充実した夏も終わった9月初旬、ヒカルは棋院に呼び出された。

「進藤くん、キミの大手合、6月、7月、8月、3回続けて不戦勝だね。偶然だと思うかい?」

「偶然じゃないだろうね」

ヒカルは苦い顔をして答える。

「そう、偶然じゃないんだ。理由は・・・・」

「オレも、だいたい予想できますけど」

「たぶん、キミの予想は当たっている」

その答えを聞いて、ヒカルは一瞬黙り込んだが、どうしても怒りを抑えきれなかった。

「じゃあ、どうしろって言うんですか?! オレはまじめに進藤ヒカルとして打ってるんです。佐為の手助けなんか、してもらってません。対局相手が勝手に疑ってるだけじゃないですか!」

「もちろん、そうなのだが。わたしたちもキミを信じているのだが・・・・」

棋院の担当者も苦しそうな表情だった。

この時の話は、これだけで終わった。やりきれない気持ちで棋院から帰るヒカル。

《「好事、魔多し」といいますね》

《どういう意味だ?》

《よいことの裏でトラブルも増えるというような意味ですよ》

《まったくなあ。せっかく楽しかった夏なのに・・・・》

 

9月の大手合も、やはりヒカルの不戦勝となった。この頃、名人戦と本因坊戦の予選が始まる。さすがにタイトル戦の予選を欠席する対局相手はいない。ヒカルは1回戦を楽勝で勝ち上がるが、それはそれで、

「手抜きして対局されるなんて、むかつくぜ」

とか

「自分が打っていると言いながら、こっそりsaiに教えてもらってるんだろ」

という噂、陰口が広まることになる。

 

噂や陰口など無視していればいいと思いながら、気分が滅入る。「こんなことでつまずくんじゃない」とアキラの言葉を思い出して気持ちを引き立てようとするが、やはり苦い思いが心に残ってしまう。自分で考えても埒があかないし、佐為もこの手の問題については頼りにならない。結局、顧問弁護士に相談することにした。

 

 



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4:破竹

4-1

 

棋院の応接室にはすでに田島が待っている。3月の記者会見の時に比べても、ヒカルは気が重い。状況は田島も把握していた。

「噂というのは、対応がやっかいです。裁判なら、相手方に『わたしが佐為の手助けを得て公式戦を戦っているという証拠を見せてくれ』というふうに、挙証責任を押しつけることができます。ですが、裁判沙汰にしようのない噂や陰口に関しては、相手に挙証責任を負わせるのはとても難しい」

「なんで?」

「噂をするだけなら当人の自由だからです。それが事実と違っていても、当人がそれを信じ込むのは当人の自由です。その信念をくつがえすには、それが事実に反するという有無を言わせぬ証拠を示して当人を納得させないといけない。つまり、噂を積極的に否定しようとすれば、進藤くんの側が挙証責任を負うことになってしまうのだよ。あるいは、相手を名誉毀損で訴えるとしても、訴える側つまり進藤くんが挙証責任を負う。だけど、今回の進藤くんのケースで、『佐為の手助けを受けていない』という証拠を見せることはできないでしょう」

田島のまさに法律家的な議論に、ヒカルは反論のしようもないのだが、だからなおさら憤懣を抑えきれない。

「じゃあ、オレは何も打つ手がないんですか? そんな嘘っぱちの噂を広められているのに、なにもできないんですか?」

いささか激した口調で語るヒカルをなだめるように、田島は静かなそしてヒカルへの共感を含めた話し方で説得する。

「進藤くんのケースに限らず、悪意ある噂に対抗するのは、なかなか難しいんだ。わたしのような専門家も、専門家こそ『法による正義』の限界を感じるよ・・・・」

田島はここでちょっと間を置き

「わたしとしては・・・・」

と言って、もう一度、今度はちょっとためらうように間を置いた。

「先生としては?」

「わたしとしては・・・・これはキミの本意に反するかもしれないが、わたしとしては、むしろこの際、進藤くんが佐為として戦うことを宣言する方がいいと思う。それが一番簡単で確実な対処法だと思うよ」

「先生も、そういう考えですか?」

「わたし『も』というのは・・・・ほかにもそう勧める人がいるのかね?」

「うん、まあ・・・・」

「今回の問題の根本原因は、進藤くんの中に本来の進藤ヒカルと佐為という2つの存在があって、碁の実力の点では佐為の方が強い。それなのに進藤くんは弱い方の進藤ヒカルとして碁を打つと主張していることなんだ。だから、『弱い方で打つと言っているけど、強い方から助けてもらっているんだろう』とあらぬ疑いをかけられる。これが逆なら、つまり強い方の佐為として碁を打つと主張するのなら、だれもケチの付けようがない。そうだろう? 佐為として打つと言いながら進藤ヒカルとして打っても、それは進藤くん自身が損するだけのことなんだ。誰の害にもならないし、誰の損にもならない」

「でも、オレは進藤ヒカルとして打ちたいんです」

ヒカルの口調からは怒りが消え、寂しさが感じられる。

「その気持ちも分かるのだが・・・・今と逆に、非公式の対局で進藤ヒカルとして打つのでは、だめなのかい? 昇段とかタイトルとかが絡まない非公式のプライベートな対局なら、まだしも悪口は言われないし、そもそも悪口を言うような相手とは対局しなければいいわけだ。非公式の対局なんだから、するしないは進藤くんの自由だ」

「でも・・・・」

ヒカルはちょっと悲しげに下を向く。

「それに、棋界にはキミを信じてくれる人もいる。キミが『この対局は進藤ヒカルとして打つよ』と言えば、その言葉を信じてくれる人もいるだろう」

「もちろん、います。塔矢先生とか塔矢アキラとか、和谷もきっと信じてくれる。緒方さんや倉田さんだって・・・・」

「そういう人とは、公式戦でも進藤ヒカルとして打ってかまわない。まあ、キミが負けてしまうかもしれないけどね」

「そんなこと、覚悟の上です」

ヒカルは顔を上げて、きっぱり言い切る。

「その覚悟があるのなら、問題ない。さっきも言ったとおり、『佐為として打つ』と宣言した上で進藤ヒカルとして打つのは、キミが損するだけなのだから、誰もケチの付けようがない」

《でも、そうしたら、「わたしとも進藤ヒカルとして打ってください」と頼み込んでくる輩が続出しませんか?》

と佐為がささやく。ヒカルは佐為の疑問を田島に伝えた。

「進藤くんが、誰に対して佐為として打ち、誰に対して進藤ヒカルとして打つか、それを決めるのは進藤くんの自由だ。誰も口を差し挟む権利はない。もし誰かが『キミはオレと進藤ヒカルとして打つべきだ』と主張するなら、そう主張する者がその主張の根拠を示さないといけない。その者が挙証責任を負うんだよ」

ヒカルはしばらく考え込む。

「・・・・やっぱり、そうことなら、佐為として打つ方がいいのか・・・・」

《ちょっと待ってください》

佐為が再び疑問を差し挟む。

《ヒカルが佐為として打つことは問題ないのですか? それはまさに、ヒカルが自分より強い者の手助けを得て公式戦を戦うことになりませんか?》

「先生、オレが佐為として打っても問題ないんですか?」

「それは、まったく問題ない。法律は幽霊なる者の存在を想定していないのだよ。法的には佐為はキミの一部であり、佐為の能力はキミの能力だ。キミがキミ自身の能力で戦うのに、法的にはなんの問題もない」

 

その翌週の『週刊碁』に

「わたしが新初段としてこの4月から公式戦に出場するに当たり、『進藤ヒカルとして打つ』と宣言したために、一部に混乱と不信を引き起こしていると伝えられています。そのような混乱や不信はわたしの望むところではありません。それを解消するためにわたしとして実行できる対応を検討しておりましたが、日本棋院顧問弁護士の助言も受け、以後の日本棋院の公式戦においては、原則としてわたしが佐為として打つことを表明するのが最善の解決策であるとの結論に達しました。この旨、この場を借りて表明いたします」

という進藤ヒカルの名前による声明文が掲載された。『佐為宣言』と呼ばれるようになるこの文章は、棋界に、とりわけ近いうちにヒカルの対局相手となる低段者の間に、静かな衝撃を走らせた。

「それじゃあ、向かうところ敵無しじゃないか・・・・」

 

公式戦を佐為として戦うことを選択し、「佐為疑惑」に一応のけりを付け、ヒカルはやっと囲碁カップでの約束を果たす気持ちの余裕ができた。ネット碁でのsaiの復活。ただし、公式戦を佐為として戦うことに決め、進藤ヒカルとして碁を打つ機会が減ってしまったヒカルは、ネット碁こそ自分で打ちたかった。欧米のアマチュアが相手なら、それでも「強い人に鍛えてもらいたいという欲求」に答えることはできるはず。

sai no deshi(佐為の弟子)というハンドルネームで登録し、囲碁カップ事務局でもらった各国アマチュア代表のハンドルネームを探して対局を申込んだ。チャットはできないので特に説明はしなかったが、相手は“sai”という名前に反応して対局申込みを受け、実際に対局してその強さを納得した。

この頃、棋聖戦の予選が始まり、年が明けると天元戦、碁聖戦、十段戦、王座戦の予選も始まった。

これらの公式戦をヒカルが佐為として打つようになっても、当面、大手合は低段者が相手であり、タイトル戦も一次予選、二次予選ではさほど強い相手とは当たらない。タイトルホルダーたちはヒカル=佐為が挑戦手合に上がってくるのを待ちきれず、相変わらず週末に塔矢邸を訪れて佐為と打ち、その後、ヒカルとも打つ。彼らは、公式戦で打つ機会を奪われた進藤ヒカルが、それでも着実に実力を伸ばしていることを実感させられた。

 

公式戦や塔矢邸での対局ほかに、プロとしてイベントの仕事が入ることもある。ヒカルは、子供相手のイベントにはよろこんで参加した。棋院もそれを心得ていて、ヒカルには子供相手のイベントを優先して割り振った。イベントにやって来る子供たちは、自分の相手をしてくれるのが佐為なのか進藤ヒカルなのかを気にしない。子供たちにとって「サイとヒカル」で1人のキャラクター、楽しく遊んでくれるお兄さんなのだ。そして、こんな子供たちを相手にしている時は、ヒカルも自分の碁へのこだわりが消え、「サイとヒカル」というキャラクターを受け入れることができる。

《でも、プロの手合の場になると、やっぱりオレの碁を打てないのが悔しいんだよな》

《ヒカルの気持ちは分かります。初めからヒカルとわたしの違いを気にせずに素直にヒカルになついている子供たちと、違いを分かった上で碁に対するヒカルの真摯な気持ちを疑う者たちでは、雲泥の差がありますから。疑われれば悔しいのは当たり前ですよ。わたしだって、ヒカルが何の落ち度もないのに疑われているのを見て、悔しくなります・・・・ヒカル、ひょっとして、わたしのことを公にしたのを後悔していますか?》

ヒカルは佐為の心配を和らげようと笑顔で答える。

《心配すんな。後悔なんか、してねえよ。オマエのことをみんなに話したおかげで、おれはオマエのほんとうの力を知れたんだ。オマエが全力で打つ碁をそばで見ることができるんだ。そして、そんな対局のさなかに、オマエと一緒に考えることができるし、オマエの対局の後にはタイトルホルダーたちと対局できるんだ。塔矢とかほかの何人かとは進藤ヒカルとして打てるし、ネット碁ではsai no deshiとしてオレの碁を打てる。後悔なんかしてねえ》

 

4-2

 

棋界の出来事とは無縁に、葉瀬中ではごくありふれた中学生の時間が過ぎていく。ヒカルはタイトル戦の手合も重なって学校を休むことが多くなった。前年の今頃は「ああ、学校なんてさっさと卒業して、碁だけやってればいい身分になりてー」などと思っていたけど、卒業が1~2ヶ月後に迫るとさすがに多少の寂しさは感じる。これまで空気のようにあって当たり前だったものがなくなってしまう・・・・。ヒカルの実感としては、うれしさ半分、寂しさ半分、あるいはうれしさ3分の2、寂しさ3分の1くらいか。

そんなある日、あかりがヒカルに話しかけた。

「ヒカルは高校に行かないの?」

「うん。オレ、勉強嫌いだから。碁の世界で生きていくのに学歴は関係ないし。あかりは、受験たいへんだな」

「ふふふ・・・・実は、推薦入学の内定がもらえそうなの」

「えっ、あかりって、そんなに頭良かったっけ」

「失礼ね! まあ、去年の夏休みのボランティアが評価されたんだけどね」

「夏休みのボランティア?」

「国際アマチュア囲碁カップよ」

「あっ、あれか・・・・あかり、うまいことしたなあ」

「うん、自分でもラッキーと思う・・・・まだ正式決定じゃないけど、たぶん大丈夫らしいわ。志望校は英語に力を入れてる高校だから、そういう活動は評価されるみたい・・・・でも、わたしもまじめに英語勉強する気なのよ。あの時、片言でも英語で外国の人とコミュニケーションできて、うれしかったもん。もっとしっかり勉強して、もっとちゃんとしたコミュニケーションができるようになるだ・・・・あっ、でもね、囲碁もやめないよ。高校でも囲碁部に入るんだ。囲碁部がなければ作るんだ。筒井さんがやったみたいに・・・・」

《あかりちゃん、夢があっていいですね》

「オマエも打ち込むものが見つかってよかったな」

「うん。応援してね。わたしだって、ヒカルを応援してんだから」

「分かった、分かった」

《いつか、あかりちゃんの囲碁部に指導碁に行ってあげましょう・・・・》

「あかり、佐為が、いつかオマエが行く高校の囲碁部に指導碁に行ってあげるってさ」

「わあ、ありがとう。約束よ!」

《佐為、約束だぞ》

《もちろん、約束はちゃんと守ります。武士に二言はありません》

《・・・・ん? 佐為、オマエ、武士だっけ?》

《あっ、いえ・・・・ヒカル、変なところで突っ込まないでください》

 

3月、中学の卒業式。ヒカルは卒業式が名人戦の予選と重なるので欠席した。そして、過ぎ去る中学時代への思いをふっ切るように、先を見つめる。ほんの2ヶ月後のビッグイベント。さるIT企業がスポンサーとなってこの年から開催されることになった「北斗杯」。日中韓3カ国の18歳以下の棋士が参加資格を有する国別対抗戦。各国3人チームを編成する。日本チームは、ヒカルとアキラはそれまでの実績を考慮して確定。残る1人を18歳以下のプロ棋士による予選で決めることになっていた。韓国チームに永夏(ヨンハ)は間違いなく入る。秀英(スヨン)も来るのか? そして中国チームはどんな者たちがやって来るのか? ヒカルは楽しみだった。できることなら、韓国や中国の若手棋士と進藤ヒカルとして打ってみたいと思った。叶わぬ願いであるとは思いながら。

4月には、日本チームの3人目のメンバーが和谷に決まった。大将がヒカル=佐為、副将がアキラ、三将が和谷。ヒカルが佐為として打つのであれば順当な割り振りだが、アキラの碁会所では不満の声がくすぶっていた。碁会所の客たちにとっては、佐為でなく進藤ヒカルとアキラの対局の方が印象的だったし、その対局では二人は五分五分、お客のひいき目ではアキラの方が上と思われていたから。もちろん、日本チームとしては優勝を目指してヒカルが佐為として打つことを求めたし、対戦チームからもsaiとの対局を望む声も伝えられた。

 

いよいよ5月、北斗杯の前日。会場となったホテルでレセプションが行なわれている。立食パーティーの途中、各チームの選手がステージにならび、各チームの団長のあいさつがあった。選手たちはひな壇に並ぶだけなのだが、永夏が司会者に発言の機会を求めた。

永夏の発言は通訳を介して日本語で会場に流れた。

「碁に多少ともなじんだ人であればご存知のとおり、日本チームの大将、進藤ヒカルは不敗の棋士saiです。わたしは昨年の夏、非公式な手合ですが、saiと対局し、完敗しました。それ以来、雪辱の機会を待っていましたが、1年もしないで北斗杯という機会を与えていただきました。大会スポンサー様に心からお礼申し上げます」

《オレに「佐為で打て」と言ってるんだな》

《そうですね。わたしにとしても、相手にとって不足はありません。行洋殿ほどではありませんが、緒方さんや森下先生に匹敵する力量の持ち主でした》

永夏との対局に闘志を燃やす佐為をヒカルは複雑な気持ちで眺める。

秀英も、自分がヒカル=saiと打つことを決めてかかるような永夏の発言を複雑な思いで聞いている。

〔実力からして永夏が大将なのに不満はないけど、この場で進藤ヒカルと打ちたかった・・・・〕

レセプションのあいまに、秀英はヒカルに声を掛けた。

「進藤ヒカル、久しぶりだね」

「ああ、秀英・・・・ん? オマエ、日本語話してる・・・・」

「キミと戦うために、日本語を勉強した」

「そうなのか・・・・」

ヒカルは秀英の熱意がうれしかった。およそ2年ぶりの再開だが、ゆっくり話している暇はない。二人はとりあえず、北斗戦の翌日にあの碁会所で対局することを約束した。

 

北斗杯は2日がかりで行なわれる。対戦順はくじ引きで、1日目の午前が日中戦、1日目の午後が韓中戦、2日目の午前が日韓戦となった。

日中戦は、ヒカルとアキラが勝ち、和谷は負けたが、2:1で日本チームの勝ち。

韓中戦は、韓国が副将戦を落としたが2:1で勝利。

そして2日目の日韓戦。永夏は最初から激しく攻め立てる。途中、予想外の手もあり、佐為も考え込んだが、じょうずにかわした。中盤からは佐為の優位が目立ち始め、永夏が投了した。アキラは終始一貫して優位に戦いを進め、中押し勝ち。一方、和谷は秀英との力の差を見せつけられた。碁会所でヒカルとの対局を見たのは2年近く前。その時も強いと思ったが、さらに格段と強くなっている。あえなく中押し負け。

チームとしては日本が2勝し、優勝を手にした。

 

翌日の朝、ヒカルは秀英のおじが経営する碁会所を訪れた。すでに秀英が待っている。ほかに何人か、2年前の対局を知っている客も待っていた。

「進藤ヒカル、この日を待っていたよ」

「オレもだよ」

ヒカルが座ると、すぐに対局が始まった。二人とも、北斗戦と変わらぬ真剣さで打ち合う。途中、お客の一人が韓国語で何か言った。秀英はそちらの方を振り向き、激しい口調で言い返し、すぐに盤面に向き直った。ヒカルは何を言い合ったのか気になったが、そのまま碁に集中することにした。秀英も、何事もなかったように、碁に集中している。結果はヒカルの1目半勝ち。

秀英は、涙こそ流さないが、2年前と同じように悔しがった。

「次は、もっと強くなる・・・・」

というつぶやきがヒカルの耳にも入った。ヒカルは悔しがる秀英に共感を覚える。

〔うん、オマエはもっと強くなるよ〕

対局が終わっても碁盤を囲んで座ったままの二人に秀英のおじが声を掛けた。

「もう、お昼もずいぶん過ぎてしまった。お腹が空いただろう。ヒカルくん、この近くにおいしい焼肉料理屋がある。ごちそうするよ。2年前のお礼だ」

「2年前のお礼?」

「そう。あの時のキミとの対局で秀英は立ち直った。そのお礼をしないままになっている。今日、遅ればせだが、お礼をさせてくれ」

ヒカルは一瞬、佐為を見る。佐為はにこやかにうなずく。

《行きましょう。おじさんのお気持ち、ありがたく受けましょう》

焼肉料理を前にすると、秀英は年相応の子供に戻り、楽しそうに食べている。ヒカルももちろん好きなものを注文して食べている。この楽しい雰囲気をこわすのは気が引けるが、ヒカルはどうしても気になるので秀英に尋ねた。

「なあ、対局中に韓国語で何か言われて、秀英が言い返してただろう。あれ、何だったんだ?」

秀英の表情が一転して厳しくなった。

〔ああ、やっぱり聞かない方がよかったかな・・・・〕

「お客の一人が『どうせsaiに手伝ってもらってるんだろう』って言ったから、『ヒカルはそんな卑怯者じゃない』って言い返したんだ」

「ありがとう、秀英。オレを信じてくれて」

「ボクは、進藤ヒカルを信じているよ。当たり前じゃないか」

ヒカルはうれしさを表情に表す。

〔やっぱり、聞いてよかった〕

 

4-3

 

北斗杯から2週間ほどで若獅子戦。ヒカルは出場すべきかどうか悩んだ。この時点でヒカルの段位はまだ3段。出場資格は満たしている。これまで若獅子戦の出場資格を満たしていながら出場を見送った棋士はいない。だがヒカルは佐為として打つ自分が若獅子戦に出場することにためらいを感じる。それは、院生たちの夢を打ち砕くことにならないか? ほんの2年前、希望に燃えて若獅子戦に参加した自分の姿を思い浮かべるとなおさら、そんな院生を佐為の力で粉砕するのがためらわれる。迷った末、若獅子戦では進藤ヒカルとして打つことに決めた。

若獅子戦の1回戦、ヒカルは院生を相手に進藤ヒカルとして打っている。それでも院生にとっては高い壁には違いないが、思い切りぶつかることはできるはずだとヒカルは思っていた。しかし、碁盤の向かいに座る院生は、相手をsaiと信じて、初めから勝負を諦めているのが見て取れる。そのやる気のない姿勢にヒカルは思わず

「まじめに打て。なぜ本気でかかってこないんだ」

としかりつけた。すると、相手は早々に投了した。その後も似たような対局が続いた。5段となったアキラが出場しない若獅子戦、ヒカルは佐為を封印して進藤ヒカルとして打ちながら、易々と優勝した。だけど、悲しみと苦い思いは消えない。

〔たった2年前、若獅子戦に出場することを目標に1組16位以内に入ることを目指していたオレ。遠い昔のようだな。もうこの世界にオレの居場所はないんだ・・・・早く予選を突破しよう。リーグ戦や本戦には、緒方さんも倉田さんもいる。一柳先生や森下先生もいる。そこがこれからのオレの居場所なんだ〕

若獅子戦最終日の翌日、アキラと会ったヒカルは若獅子戦での院生のふがいなさをぼやいた。

「塔矢は震えながらも佐為に立ち向かったじゃないか?」

「佐為はあの頃よりもっと強くなっている。今の院生には魔神のように思えるだろう」

「おれは、佐為じゃなくて進藤ヒカルとして打ったんだ」

「でも、外からはそれが見えないんだ。誰もが、キミを見ると佐為だと思ってしまう」

ヒカルはふっとため息をついた。アキラは、慰めようもないから、そのまま話を続ける。

「それに、進藤と対局した院生が院生の代表とは限らないだろう。当たった相手が悪かったのかもしれない」

「そうであってほしいよ・・・・まあ、来年は5段か6段になっていて、若獅子戦に出たくても出れなくなるんだけどな。さっさと昇段してしまえば、大手合でも高段者と打ち合えるし、タイトル戦も予選を突破すれば高段者とのリーグ戦だし、挑戦者になればタイトルホルダーと5番勝負、7番勝負ができるんだ」

ヒカルは気持ちを切り替えるように、明るい口調で語る。

「進藤、ひょっとして、リーグ戦や挑戦手合なら、進藤ヒカルとして打ってみようと思っているのか?」

「えっ?・・・・」

ヒカルは、そんなこと思っていなかった。だが、アキラからそう言われると、《それも「あり」だな》と思えてくる。アキラや倉田さんや緒方さんといった人たちが相手なら、自分が進藤ヒカルとして打つと言っても、変に疑われたり、嫌みを言われることもないだろう・・・・。

そんなヒカルの気持ちを見透かすように、アキラが

「ボクは、本音を言えば、進藤だけじゃなく佐為とも戦いたいよ、うちでの対局だけじゃなく、公式手合で」

と語る。

「オマエもそうか」

「進藤の気持ちは分かるけど、強い者と打ちたいというのは、碁打ちの本能だよ」

「まあ、そうだよな。オレだって、そうだもんな」

気落ちしたヒカルに佐為が声を掛ける。

《ヒカル、それなら、ヒカルが強くなればいいんです。ヒカルがわたしくらい強くなれば、進藤ヒカルとして打っても「碁打ちの本能」を満たしてあげられます》

《いつのことだよ、オマエくらい強くなるって》

《まあ、今日、明日というわけにはいきませんが、そんな遠い先のことだとは思っていませんよ、わたしは》

《そうかなあ・・・・》

《そうですよ。ヒカルは日に日に強くなっている。自分では分からないかもしれませんが、わたしはよく分かります》

《だけど、公式戦を佐為として打つようになって、オレ自身の対局はずいぶん減ったぜ》

《ヒカルは、わたしの対局でも学んでいるではありませんか。いつも自分で考えている。わたしの指示が理解できないなら、時間を取って考えている。それはすばらしい勉強になっているんです。そして、自分で気づいていないかもしれませんが、わたしの考えについて行けなくて長考することがずいぶん少なくなりました》

《そうか?》

《そうですよ》

「・・・・進藤、なにボーッとしてるんだ?」

「あっ、今ちょっと、佐為と話してた」

アキラは一瞬、話が読めなかった。そして、事情を理解して、笑い出した。

「そうだったね。ここには、ボクとキミのほかに、もう1人いるんだった」

 

4-4

 

あかりは高校に通い始めている。小さいながらも囲碁部があるので、すぐに入部した。部員はあかりを入れて5人。なんと、あかりは部長の次に強いようだった。葉瀬中囲碁部より弱小な部活。でも、それもまた楽しい。

〔指導碁に来てくれるって約束、覚えているかなあ・・・・ヒカルは忘れても佐為は覚えていてくれそう・・・・〕

ただ、中学生の時と違い、同じ学校に通っているわけではないから、休み時間や放課後に気軽に話しかける機会もなくなった。プロの仕事も忙しそうだし・・・・。

それにもう1つ。あかりは高校合格を機に携帯電話を買ってもらったけど、ヒカルはまだ携帯電話を持っていない。「どうして?」と聞いたら、「だって、要らねえもん」とあっさり答えられた。だから、ヒカルに連絡するには家の固定電話にかけるしかない。それもまた面倒。以前は当たり前だったのに、携帯電話を使い慣れたら家の固定電話というのは面倒くさくてしかたない。でも、そんなことも言ってられないので、5月末頃あかりはヒカルのうちに電話した。ヒカルは快く日程を調整してくれ、6月中頃にあかりの高校に行くことが決まった。

翌日、あかりはさっそく囲碁部のメンバーに進藤ヒカルが指導碁に来てくれることを話した。

「進藤ヒカルって、あのsaiと一心同体の進藤ヒカル?」

「そうよ」

「どうしてそんな超有名人を呼べたの? 特別なコネがあるの?」

「コネというか、幼なじみだから」

「えーっ!」

部員よりも顧問の教師が一番大きな声で驚いた。

「藤崎さん、なんで今まで隠していたの?」

「別に隠していたわけじゃないけど、わざわざ話すきっかけもなかったから・・・・あっ、でも囲碁部以外には話さないでください。大げさなことになるのはいやだから」

「うん、分った」

と気安く請け負ってくれた約束は、意外にきちんと守られた。義理堅いというだけでなく、アイドル(?)を独占したいという欲求もあったのかもしれない。それでも当日、高校の校門から囲碁部の部室まであかりに案内されて行くまでの間、何人かの生徒に気づかれてしまうのは仕方のないことだった。

部室では顧問の教師も含め5人が緊張した面持ちで待っていた。堅苦しいあいさつが苦手なヒカルはすぐに指導碁を打つことにする。さすがに6人同時にというのは無理なので、3人ずつ。最初は「謎の不敗棋士saiの影を背負う少年棋士」に緊張していた部員たちも、しだいにうちとけてくる。この日は、佐為に任せっきりにせず、ヒカルも指導碁を打った。それまで何回もイベントで子供相手に指導碁を打っていたので、かなり慣れていた。

2時間くらい過ぎ、きりの良いところでこの日の指導碁は終わりにしてヒカルが部室を出ると、外から中の様子をうかがっていた5~6人の生徒と顔を合わせた。

翌日、「謎の不敗棋士saiの影を背負う少年棋士」の囲碁部訪問のニュースは学校じゅうに知れ渡り、入部希望者が続々と押し寄せた。そんな状況を知らないヒカルは、のんきにあかりに電話した。

「昨日はほかの部員がいたんで話せなかったんだけど、あかり、今年も国際アマチュア囲碁カップでボランティアしてくれる?」

「いいよ。わたしもこの1年で英語もうまくなっているから。それよりもね、こっちはたんへんだったのよ・・・・」

 

7月下旬の国際アマチュア囲碁カップ。ヒカルは前年と違ってタイトル戦予選すべてに参加しており、どうしても日程が重なって参加できない日が1日あるので、3日だけ参加する。あかりもそのつもりだが、担当者から

「藤崎さんだけでも毎日来てくれないかな?」

と頼まれてしまった。

「えーっ、それは・・・・」

と困った様子のあかりを見て、担当者もなんとなく察したようだ。

「あっ、いや、無理にとは言わないよ」

saiを演じるヒカルが相手した6人のうちの最初の人が“deshi”とは日本語の単語なのかと尋ねた。あかりは、「デシ」という音からとっさに言葉を思いつかない。そんなあかりにその人は“sai no deshi”とメモを書いて示す。

〔サイノデシ・・・・あっ、「佐為の弟子」、デシは弟子なんだ。弟子って英語でなんていうのかな・・・・pupilでいいのかな・・・・〕

あかりが思い切って

“It means pupil”

と答えたら、相手は納得したように

“Oh, I see. I see.”

と言い、向かいに座っているヒカルに

“Are you sai no deshi ?”

と問う。この質問はヒカルも分ったようで、

「イエス」

と胸を張って答えた。

ネット碁のsai no deshiがヒカルであることはその日のうちに大会参加者の間に広まった。

 

こうしているうちにも、ヒカルは順調にタイトル戦予選を勝ち上がり、10月にはいよいよ本因坊の挑戦者決定リーグ戦が始まる。それに続いて、棋聖の挑戦者決定トーナメント、名人位の挑戦者決定リーグ戦、天元と碁聖の挑戦者決定本戦も始まる。本因坊リーグ戦の最初の対局相手は緒方だった。対局開始前、緒方は碁盤をはさんで向き合うヒカルに話しかけた。

「これまで塔矢先生のところで、佐為と、そして進藤ヒカルと、何度も打ってきた。佐為だけでなく、それ以上に、進藤ヒカルが強くなっているのはよく分っている・・・・進藤、オマエはひょっとしたら、この場でオレを相手に進藤ヒカルとして打ちたいのかもしれない。その気持ちは、同じ碁打ちとして、分からなくはない。だが、オレは佐為と打ちたい。確かにオマエは強くなった。だがそれでもまだ、佐為の方が強い。そしてオレは、強い奴と打ちたい。公式戦であればなおさらだ。だいたい、予選で低段者を佐為の力でなで切りにしてきておいて、オレを相手に進藤ヒカルとして戦うなんて、筋が通らないだろう」

ここまで言われると、ヒカルは「分りました」と答えるほかはない。

結果は、緒方の佐為に対する連敗記録が更新されることになる。

〔弱い連中、オレが進藤ヒカルとして打っても負かせる連中は、オレが佐為に手伝ってもらっていると疑うし、緒方さんみたいな強い人は、自分より強い佐為と打ちたがる。オレはいつ打てるんだ?〕

考えても仕方のないこと、悩んでも詮ないこと、ヒカルは頭を振って自分に言い聞かせる。

《ああ、こんなこと考えてもしょうがねえ・・・・そうだ、久しぶりに佐為と打とうか。このところいろいろと忙しくて、オレ、佐為と打っていないな》

《ヒカル・・・・》

佐為はヒカルと打つのはうれしいが、ヒカルの気持ちを考えると素直にうれしいと言えない。そんな佐為の思いを敢えて無視するように、ヒカルは気軽な口調で語りかける。

《何だか、昔と逆だな。昔はオレがいろんな人と打ってて、佐為がオレとしか打てなかった》

ヒカルの敢えて気軽な口調に、佐為も自分の気持ちを切り替え、明るい口調で答える。

《ヒカル・・・・そうですね、昔のようにヒカルを鍛えましょう。昔と違って、わたしが全力を出しても簡単に一刀両断できなくなりましたが、であればなおさら、わたしは全力を出してヒカルと相対します。一日も早くヒカルがわたしほどに強くなるように。「強い奴と打ちたい」と希望する相手に「だったら、佐為じゃなくて進藤ヒカルが相手になる」と言ってやれるように》

こうして、また以前のようにヒカルは佐為と打つようになった。そんなある日、佐為と打ちながらヒカルがふとつぶやく。

《オレって、強くなったんだな・・・・》

《もちろんですよ。ヒカルは強くなりました》

《うん・・・・佐為、新初段戦、覚えてるか?》

《もちろん、覚えてますよ》

佐為は、急にヒカルが何を言い出すのだろうといぶかる。

《あの時、オマエと先生が打ち合うのを見て、分ったんだ。オマエはオレに全力を出していなかったって。オレはオマエの全力を引き出せていなかったって。でも、今、オマエは間違いなく全力で打ってる。オレはまだオマエに勝てないけど、少なくともオマエに全力を出させるくらいには強くなった》

佐為は晴れやかな表情になった。

 




タイトル戦について簡単に説明しておきます。現在、日本の囲碁には
本因坊、名人、棋聖、十段、王座、碁聖、天元
という7つのタイトルがあります。
棋士たちは何段階かの予選を勝ち抜いてタイトル挑戦権を得てタイトルホルダーに挑戦します。その仕組みはタイトルごとにさまざまです。
分りやすいのは本因坊と名人で、どちらも4段階の予選を経て最終的に8人(本因坊)ないし9人(名人)でリーグ戦を行ない、その最優秀者が挑戦者となります。どちらも、リーグの上位者数名は、翌年の予選を免除されてリーグに参加できます。
ほかのタイトルでは、最終戦(本戦)はリーグ戦ではなく敗者復活戦などを組み入れた変則的なトーナメント方式で挑戦者を決めます。
挑戦者がタイトルホルダーに挑む挑戦手合は、本因坊、名人、棋聖では7番勝負。つまり先に4勝した方が勝ち。十段、王座、碁聖、天元では5番勝負、先に3勝した方が勝ちです。
一次予選の開始時期、挑戦手合の実施時期はそれぞれのタイトルごとに違っていて、1年を通してどれかのタイトル挑戦手合が行なわれており、それに平行して予選が行なわれています。


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5:再生

5-1

 

プロ3年目の年が明けると棋聖戦の挑戦手合。ヒカルにとって最初のタイトル挑戦。相手は3年前から棋聖の座を守る一柳。7番勝負の1局目、ヒカルは自分で打つことにした。自分なりに納得できる碁を打てたが、結果は1目半たりなかった。対局を終えて、一柳が話しかける。

「進藤くん、キミ、自分で打ったね」

「分ってくれましたか?」

「そりゃあ、佐為の碁とキミの碁の違いは分るよ。確かに師弟で似ているけど、明らかに違う。これまで何度も打ってるんだから」

「ありがとうございます」

「次回は、師匠の登場かな?」

「・・・・先生がオレを信じてくれるなら、オレが自分の力で打つこと、佐為に手助けしてもらわず、オレだけの力で打ってることを信じてくれるなら、次もオレが打ちたい」

「信じるよ。碁打ちであれば誰だって、自分の力で打ちたいと思うものじゃないか」

「ありがとうございます」

「おいおい、そんなに気安くオレを信じるのか?」

「えっ?」

「オレの立場になって考えてみろ。たとえ心の底では進藤くんを信じていなくても『信じる』と言えば、佐為ではなくキミが相手になる。佐為相手に勝つのは至難の業だが、キミが相手なら勝てる。いや、勝てると断言しては失礼だが、勝つ可能性が高い。だったら、ウソでも『信じる』と言う方がオレは得だろう。そんなオレの言葉をそんなに気安く信じていいのか?」

「先生はそんな卑怯なことする人じゃないです」

《一柳殿、あなたは決してそんなことはなさらない。これまで何度も対局して、あなたのことはよく存じています。あなたは、そんな卑怯者ではない》

「先生、佐為も言ってます『あなたは、そんな卑怯者ではない』って」

「お二人に礼を言うよ。そこまでオレを見込んでくれて」

2局目は半目差で一柳の勝ち。3局目は2目半の差を付けてヒカルが勝ったが、4局目、5局目とも一柳が1目半差で勝って棋聖を防衛。その後のインタビューで一柳はこう語っている。

「1局目に勝った後から、『一柳が佐為を破った』などと一部で報じられていたけど、オレは佐為に勝ったんじゃないよ。進藤ヒカルに勝ったんだ。彼は公式戦、それもタイトルを賭けた挑戦手合で、自分の碁を打ちたいと願ったんだ。碁打ちとして、その気持ちはよく分かる。だからオレも進藤ヒカルとして受けた。いやあ、進藤くんは強くなった。結果だけ見れば4勝1敗だけど、オレがちょっとでも気を抜いたら、タイトルを奪われていた。薄氷の勝利だよ。そのうち、佐為でなく進藤ヒカルに棋聖の座を奪われるかもしれんな。まあ、そうならないよう、これからも佐為に稽古を付けてもらうようにするけどね」

ヒカルの願いを受け入れた一柳の豪気を褒める声がある一方、「要するに、弱い方を打たせてタイトルを守りたかったんだろう」という陰口も聞かれた。それを知って、ヒカルも怒ったが、佐為の怒りはもっとすさまじかった。

《・・・・一柳殿の好意をおとしめるとは、なんという厚顔無恥、「ゲスの勘ぐり」とはまさにこのこと・・・・》

《むかつくよなあ・・・・進藤ヒカルとして打って、勝ってしまうとオレが佐為に助けてもらったって疑われるけど、負けると、今度は相手の方が、わざと佐為じゃなくて進藤ヒカルとして打たせたって疑われるのか・・・・》

《何か、一柳殿のために、わたしたちとしてできることはありませんかねえ・・・・》

《・・・・なあ、オレがヒカルとして打ちたいって言った時の一柳先生の言葉「気安くオレを信じていいのか」って言葉を記事にしてもらおうか? そうすれば、オレたちは一柳先生を信じている、一柳先生が勝ちたいから進藤ヒカルに打たせようと手を回したんじゃないって、分かってもらえないかな?》

《そうですね・・・・どれほどの力になれるかは分かりませんが、多少なりとも疑念を払拭できるなら・・・・》

 

翌週の『週刊碁』にヒカルのインタビュー記事が掲載された。

「棋聖戦の1局目。オレは一柳先生に黙って、進藤ヒカルとして打ったんです。先生はちゃんと見破りました。次回は佐為が打つのかって聞かれたから、オレは、佐為に手助けしてもらわずオレだけの力で打ってるって先生が信じてくれるなら、次もオレが打ちたいって言ったんです。そしたら『信じるよ』と言ってくれました。オレはとても喜んだんだけど、先生から『そんなにオレを気安く信じていいのか?』と逆に聞かれたんです。そんなことを聞かれる理由を理解できないオレに先生は、『心の底では進藤くんを信じていなくても『信じる』と言えば、佐為ではなくキミが相手になる。だったら、ウソでも『信じる』と言う方がオレは得だろう。そんなオレの言葉をそんなに気安く信じていいのか?』って説明してくれた。オレは『先生はそんな卑怯なことする人じゃないです』って答えた。それで、2局目以後もオレが進藤ヒカルとして打つことになったんです。オレのことを信じてくれた、オレが佐為の助けを借りずに自分の力で打ってることを信じてくれた一柳先生が疑われているなんて辛いです」

 

そんな棋聖戦後の騒動も冷めた5月初旬、第2回北斗杯。

日本チームは、大将ヒカル、副将アキラは前年のままだが三将は関西棋院の若手が予選を勝ち抜いて参加する。韓国チームは、大将は前年と同じく永夏(ヨンハ)だが副将に秀英(スヨン)が抜擢されている。

前夜のレセプションの途中、前年と同様、3チームの選手と団長がステージに並んだ。その場でヒカルが発言を求める。

「去年、この場で韓国チームの大将、高永夏(コ・ヨンハ)がその前の夏に佐為に完敗し、雪辱の機会を求めていたと話しました。同じ時、オレは佐為としてだけでなく進藤ヒカルとしても永夏と対局し、進藤ヒカルは完敗しました。オレもまた、雪辱の機会を求めています。この第2回北斗杯をその機会にするつもりです。彼は今年で18歳。彼が北斗杯に参加するのはこれが最後だから、この機会を逃したくない」

イヤホンを通して韓国語に通訳されたヒカルの発言を聞いて永夏は鋭いまなざしでヒカルを見つめる。

レセプション会場の日本人招待者からヒカルの心意気を称える声があがるが、その片隅で不安や不満の声もささやかれる。

「おいおい、進藤ヒカルとして打つという心意気は立派だけど、心意気だけで高永夏に勝てるのか? 進藤が負けて、日本チームも韓国チームに負けるなんてことになったら、どうするつもりだ」

「進藤ヒカルとして打つのなら、大将は塔矢アキラだろう・・・・」

この年は、大会1日目の午前に日韓戦。大将戦は白熱した。副将戦の方が先に終わり、アキラが勝利した。アキラも秀英も、まだ続いている大将戦を見に来る。

秀英は目を見張った。

〔確かに、これはボクの知ってる進藤ヒカルの碁だ。だけど、1年でずっと強くなった〕

結果は、ヒカルの半目勝ち。永夏は唇をかみしめて悔しがったが、それからヒカルに手を差し出した。

〔・・・・ん?・・・・あっ、握手か〕

ヒカルも碁盤越しに手を伸ばし、握手する。永夏が何か語りかける。通訳が

「北斗戦はこれで終わりだが、キミと対局する機会はこれからもあるはずだ」

と語る。永夏は、ヒカルが自分の言葉を理解したのを見て取って、ヒカルの手を強く握りしめた。

 

5-2

 

北斗杯が終わるとすぐに碁聖戦の挑戦手合5番勝負。タイトルホルダーは緒方。

「一柳先生とは進藤ヒカルで打ったそうだな。北斗杯でもそうだった。今日もそのつもりか?」

「そのつもりです」

「同じ碁打ちとして、キミの気持ちはよく分かるのだが・・・・だが、本因坊リーグ戦の時も言ったが、オレは佐為と打ちたい」

「緒方さん、いいんですか?」

ヒカルはごく自然な口調で尋ねる。緒方はメガネの奥から鋭い視線でヒカルを見ながら答える。

「『いいんですか』とはどういう意味だ?」

「あっ、いや・・・・」

「まあ、分かっているよ。佐為と打てば、たぶんオレが負ける。タイトルを失うことになる。それでもいいのか?って意味だな?」

「・・・・」

ヒカルは、何も言えない。

「それでもいいさ。強い奴と打ちたい、それは碁打ちの本望だろう。そのためにタイトルを失うのなら、それでもいい」

《緒方さん、あなたは・・・・》

佐為は、緒方に聞こえるはずのない声でつぶやく。

結果はヒカル=佐為がストレート勝ちして、碁聖タイトルを奪取した。ヒカルが最初に手にしたタイトル。

翌週の『週刊碁』には緒方のコメントが載った。

「わたしの方から佐為との対局を望んだんですよ。進藤がだまし討ちしたわけじゃありません。わたしが『佐為と打ちたい』と言ったら、彼は『それでいいんですか?』と念を押してきた。『それでいい』とわたしが答えた。その結果がタイトル喪失であるなら、それでかまいません。後悔はしていませんよ。碁打ちであれば誰しも、自分より強い者に挑戦したいと思うものです」

《緒方さん、オレをかばってくれてる。ふだんは、オレをからかったり、きついこと言ったりするけど、ほんとうはオレのこと気に掛けてくれてるんだ》

《一柳殿は一柳殿なりに、緒方さんは緒方さんなりに、ヒカルのことを考えてくれてます。良き先達に恵まれましたね、ヒカル》

《うん・・・・》

ヒカルは神妙な顔つきでうなずくが、やがていつもの冗談っぽい口調に戻る。

《でもさ、なんだか変だね。緒方さんが自分のことを『わたし』って言うなんて。記者の前ではえらく大人っぽいというか、紳士的というか。緒方さんじゃないみたい》

そんなヒカルの言葉に佐為も思わず笑ってしまうが、表情を引き締めてヒカルに注意する。

《せっかく、緒方さんがまじめにヒカルのことを考えてくれているのに・・・・本人の前でそんなこと言っちゃいけませんよ》

《それくらい、分ってるよ》

気安く返事をするヒカルを佐為は〔だいじょうぶかなあ?〕という表情で見る。

 

タイトを取れば栄誉だけでなく賞金も授与される。だけど、ヒカルとしては、なんとなく落ち着かない。

《佐為が打って勝ったんだから、これは佐為のものだよな。オレが使うのは気が引けるというか、筋違いというか・・・・》

それを聞いて佐為はうれしそうに笑う。

《ヒカルも成長しましたね。わたしと出会った頃は、わたしに碁を打たせてタイトル取って、大儲けしようなどと、良からぬことを企んでいましたが》

《そりゃあ、佐為に稼がせてオレが贅沢するなんて、そんな格好悪いことできねえよ》

そんなヒカルの言葉はうれしいけれど、佐為としても使い道に困るというか、幽霊の身でお金の使いようがない。

《でも、わたしは使いようがありません》

《自分で使えないにしても、「こんなことに使いたい」と思うようなものはないのか?》

《それなら・・・・子供たちに碁の楽しさを教えるために使ってもらいましょう》

《ああ、それはいいな》

ヒカルはイベントで接する子供たちの笑顔を思い浮かべる。

《・・・・それと・・・・》

《それと?》

《今、ふと思いついたのですが、医学の進歩のためにも使ってほしい》

《医学の進歩のため?・・・・何でまた、そんなこと思いついたんだ?》

《虎次郎は34歳の若さで、はやりやまいで亡くなりました。天寿を全うできず、若くして死ぬ不幸を少しでも減らしたいのです》

《そうか・・・・オマエ、たまには立派なこと考えるな》

《たまには? それはどういう意味ですか?》

佐為とケンカになりかけたが、そこはうまく収めた。ヒカルも佐為の相手は慣れている。ただ、ヒカルにしても佐為にしても、子供のために、医学のために、タイトル賞金を使うといっても、具体的にどうすればよいのか分らない。それで、棋院の天野に相談に行った。

「それは、すばらしいことだね。子供たちに囲碁の楽しさを教えるのは棋院の事業としてやっているから、それへの補助としてもらおう。医学に関しては、わたしたちで調べて、キミの気持ちに添うような研究活動をしている機関に寄付するということでいいかね?」

「はい、お願いします」

「棋院の予算とまぎれないよう、進藤基金とでもいうものを作って、別途に管理するよ」

「進藤基金ですか?・・・・あの、佐為基金って名前にしてくれませんか?」

《ヒカル!》

《だって、オマエのお金じゃないか。使い道もオマエの希望なんだし》

ヒカルの提案を聞いて天野は感激した。

「キミにとって、佐為はそれほどまでに大切な人なのか・・・・」

 

5-3

 

碁聖戦にきびすを接して本因坊の挑戦手合も始まっていた。タイトルホルダーは言うまでもなく桑原。

「桑原先生は以前『ワシは佐為には興味がない。進藤の小僧の方に興味がある』って言ってたけど、今も変わらない?」

「今も変わらんよ」

「じゃあ、進藤ヒカルとして打っていい?」

「もちろん、構わん。お主が損するだけじゃが」

第1局、第2局は順当に桑原が勝ったが、この頃から、「桑原は佐為を封じて本因坊を死守しようとしている。2年前のインタビューの『佐為にはあまり興味がない。進藤の小僧の方に興味があるんじゃ』というせりふは、今を見通した深謀遠慮だったのか」という噂が流れるようになった。

3局目の中盤で、桑原がおもしろい手を打つ。

〔これは・・・・〕

ヒカルが心の中でつぶやく。佐為も同じ思いだ。一見、失着のように思えるが、よく考えると深い意味が見えてくる。しかし桑原にとっても危険をはらむ手。

「小僧、悩んでおるのか? まさかワシがこんな手を打つとは思わんかったか?」

「うん。ひょっとして、危ない手じゃない?」

「たまには、新しい手も試してみたいからのう」

「でも、こんなことしていると先生が負けるかも」

「勝つためだけの碁など、おもしろうないわ」

そう言いながらも、結局この勝負は桑原が勝った。しかし4局目は、桑原のわずかな隙をついてヒカルが勝利した。

《桑原先生相手に1勝できた》

5局目、桑原が勝ち、タイトルを防衛。

挑戦手合を終えて、ヒカルは桑原に尋ねた。

「先生、噂は気にならないの?」

「ばかばかしい。『汝(なんじ)の道を歩め、人をして語るにまかせよ』じゃ」

ヒカルは昔風の言い回しの意味をしばし考える。

「・・・・つまり、『言いたい者には、言いたいように、言わせておけ』って意味?」

「そうじゃ」

《桑原殿、その胆力は尊敬いたします》

「桑原先生、かっこいいなあ」

「この年になって、かっこいいと言われるとは、思ってもおらんかった」

といいながら桑原もうれしそうな表情になったが、すぐにいつもの相手をからかうような表情に戻った。

「ダンテのせりふじゃ」

「ダンテ?」

「ダンテも知らんのか・・・・まあ、碁バカという生き方も悪いとは言わんが、それでも最低限の教養は身につけておくものじゃ」

「はあ・・・・」

《佐為、オマエ、知ってるか?》

《わたしも、外国のことには疎いので》

《そうだよな・・・・》

 

本因坊戦と碁聖戦の挑戦手合が終わり、秋になると名人戦の挑戦手合が始まる。相手はもちろん塔矢行洋。

対局開始時刻前、碁盤をはさんで向かい合う名人にヒカルは声を掛ける。

「先生と公式戦で打つのは、初めてだね」

「そうだね」

「今日、オレ、進藤ヒカルで打ってもいい?」

「もちろん、それはキミの自由だよ」

名人は目を閉じて何か考えているようだった。それから、

「進藤くんは強くなった。2年半前、佐為の存在を明らかにして、佐為のご相伴のように対局していた頃から比べると長足の進歩だ。まだ、佐為には及ばないし、わたしもまだキミに負けたことはないが、最近では何度もヒヤリとさせられている。キミにタイトルを奪われるとは思っていないが、7番勝負のうち1局くらいは負けるかもしれない。実際、一柳先生からも桑原先生からも1勝をもぎ取っているからね」

という名人の言葉にもかかわらず、ヒカルは3連敗した。どれも1目半か2目半の差だが、負けは負けだった。4局目、中盤を終わる頃まで形勢はまったく五分。そこでヒカルが放った1手に、名人は腕組みして考え込む。そんな名人を見て、ヒカルは思わず笑みを漏らした。その笑みを名人は見逃さない。

「これは、進藤くんの会心の一手なのかな」

名人は射るような鋭いまなざしでヒカルを見る。ヒカルの笑みが凍り付いた。

〔こえー・・・・これが、勝負の時の先生の顔なのか。そういえば、新初段戦の時も、こんなだった〕

それでも、名人の応手はヒカルの想定内だった。ヒカルは、いったん自分に傾いた形勢を、押し返されながらもなんとか守り抜いた。半目差の勝ち。

《ヒカル、ついに・・・・》

《うん・・・・》

それ以上、何も言えずにヒカルは盤面を見つめる。

「進藤くん、みごとだった」

という名人の声でヒカルは我に返った。

翌日の観戦記に

「新しい時代が始まりかけているのだろうか?」

という文章が載った。ただし、5局目は名人が制し、タイトルはしっかり防衛した。

 

名人戦の挑戦手合に続いて王座戦と天元戦の挑戦手合が始まる。

王座は倉田が現タイトルホルダー。

1局目は進藤ヒカルとして打って、倉田が勝った。対局後、倉田が語りかける。

「次は佐為が打ってくれ。オレは佐為と打ちたいし、このままキミが打ち続けて、結果としてオレがタイトルを守っても、一柳先生や桑原先生みたいなことを言われるのは、いやだから」

「はい」

ヒカルはほろ苦い思いを飲み込むように返事した。

結果はヒカル=佐為がそれから3連勝してタイトルを奪った。

 

天元戦は緒方が相手。碁聖戦をプレイバックしているようで、ヒカル=佐為が3連勝しタイトルを得たのだが、2局目の後にヒカルと佐為にとって記念すべきことが起きた。

対局後、中盤の場面を再現してヒカルが佐為に問う。

《佐為、ここは3の八の方が良くないか?》

佐為はちょっと考え、

《そうです・・・・》

と答えた佐為の顔に驚きが広がり、やがて喜びの表情になり、そのまま固まった。

《どうしたんだ、佐為》

《ヒカルがわたしを乗り越えようとしているんですね》

《この一手だけじゃないか》

《これから、もっと増えていきますよ》

 

この年の暮れ、塔矢名人が棋界とヒカルの状況について文章を『週刊碁』に公開した。棋界への批判も含む文章だが、天野は敢えて掲載した。

「進藤くんが佐為の存在を開示して、3年近い月日が過ぎた。彼の決断によって、多くの棋士が最強の棋士佐為と対局する機会を得た。それは日本の棋界の力量を底上げするものであるが、進藤くん個人の利害を考えれば、自分のライバルを強くすることであり、自己犠牲的な貴い行為である。

その年にプロデビューした進藤くんは、自分が佐為の影に隠れてしまうのをいさぎよしとせず、自分の力で碁を打ちたいと希望した。それは碁打ちとして自然で当然な欲求である。しかるに、世間の心ない言動によって進藤くんは自分の力で公式戦を戦うことがほぼ不可能な状態に追い込まれた。一部の棋士(わたしは「ごく一部の棋士」と信じたいが)もこの動きに荷担しているのは、嘆かわしい。佐為の存在を広く知らしめることで棋界に多大の貢献を為した人間に対して、なんとも忘恩の行為としか言いようがない。

それだけでなく、これは棋界にとって大きな損失でもある。進藤くんは佐為のコピーではない。確かに佐為を師として碁を学んだから佐為の棋風を受け継いではいるが、佐為とは別の才能であり、進藤くん自身として棋界に多大の貢献をなし得るはずだ。佐為と進藤ヒカル、この2つの才能はどちらも棋界にとって貴重なものであるはずなのに、その一方を追放し抹殺するとは、愚かしい限りである」

 

《塔矢先生、ありがとう。オレのために・・・・》

佐為は何も語らず、涙を流してよろこんだ。

こうしてプロ3年目が終わる。ヒカルは弱冠17歳で碁聖、王座、天元の3冠となったが、それよりも、敗れたとはいえ、棋聖戦、本因坊戦、名人戦を進藤ヒカルとして碁を打てたこと、タイトルホルダーが挑戦者=進藤ヒカルを受け入れてくれたことの方がうれしかった。そして、北斗杯で永夏に進藤ヒカルとして勝ったことが。

とはいえ、佐為が打ったタイトル戦に関してもうれしいことはある。この年のタイトル戦の棋譜が『週刊碁』の別冊として来年春頃に刊行される。

《佐為、ついにオマエの棋譜が本になるんだぞ。早く見たいな》

《そうですね。そして、ヒカルの棋譜も載るんですよね》

 




*:梔子様のご指摘(対局中に佐為がヒカルに,ヒカルが佐為に,助言をしているのではないかというご指摘)を受け,本因坊戦と天元戦の描写を一部訂正しました。


それぞれの挑戦手合を年表ふうにまとめました

3年目  1月 棋聖戦(対一柳)
  2月 棋聖戦(対一柳)
2003年 3月
  4月
  5月 北斗杯
  6月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)
  7月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)
  8月
  9月 名人戦(対塔矢行洋)
  10月 名人戦(対塔矢行洋)
  11月 王座戦(対倉田) 天元戦(対緒方)
  12月 王座戦(対倉田) 天元戦(対緒方)

* 挑戦手合は7番勝負ないし5番勝負なので、終わるまでに2~3ヶ月かかります。
* 十段位の挑戦手合はまだこの年のうちには始まりません。


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6:飛翔

6-1

 

プロ4年目の年が明けるとすぐに、2度目の棋聖戦挑戦手合。前年と同じ一柳対ヒカル。

1局目はヒカルが半目差で勝った。その後、1目半か半目ぎりぎりの勝負が続き、6局目を終えて互いに3勝3敗。7局目は囲碁界を越えて一般メディアの注目を集めた。一柳との戦いでヒカルが佐為でなく進藤ヒカルとして打っていることは、前年の例から広く信じられていた。ヒカルが進藤ヒカルとしてタイトルを手にするのか?

世間に疎いヒカルも、さすがに最終戦が世間の注目を集めていることは分った。ただ、不思議に自分のこととしての現実感がなかった。どこかの誰かが噂されているのをはたで聞いているような感覚。もちろん、碁は勝ちたいと思う。だけど、ただそれだけ。

7局目もこれまでの6局と同じように微妙な形勢が続いた。そして、終盤に入ってヒカルが打った一手。

ヒカルの脇で盤面を見ていた佐為が思わず、

《ヒカル、うまい》

と口にした。一柳は長考した。20分あまり長考の末、投了。

名人戦の観戦記に

「新しい時代が始まりかけているのだろうか?」

と書いた記者は、この棋聖戦の観戦記に

「新しい時代が始まった」

と書いた。

 

《佐為、このタイトル賞金はオレが使っていいんだよな》

《もちろんですよ。ヒカルの力で勝ち得たものなんですから》

《昔さあ、オマエの出会ったばかりの頃、碁のタイトルを取ると何百万とか何千万というお金が手に入ると聞いて、うきうきしたけど・・・・》

《ああ、そんなこともありましたねえ・・・・》

佐為は懐かしそうにその頃を振り返る。

《実際手に入れてみると、何に使うか思いつかないもんだな》

《まあ、そういうものですよ》

《オレって、結局のところ、碁が打てればそれで幸せなんだな。ほかに特にこれが欲しいとかあれが欲しいとか、ないもんなあ・・・・まあ、いつものラーメン屋で一番豪勢なトッピングを乗せてラーメン食べるくらいかな》

《それくらいでは、1年、毎日食べても使い切れませんよ》

佐為は、ヒカルのいかにも子供っぽいお金の使い道を聞いて、扇で口元を隠して笑った。

 

棋聖戦が白熱している頃、十段戦の挑戦手合が始まる。相手は森下。

第1局目は勢いに乗ったヒカルの勝ち。森下の目には、それが佐為の碁でなく、進藤ヒカルの碁であることは明らかだった。

〔コイツが和谷につれられてオレの研究会にやってきたのは、ほんの4年前なんだよなあ。それが今、いくら佐為という最高の師匠から鍛えられたとはいえ、実力でオレに勝ち、オレからタイトルを奪おうとしている・・・・いや、たった1敗したくらいで、何を弱気になっている。オレはコイツの倍以上の人生を生きてきたんだ。修羅場も数え切れないくらいくぐってきた・・・・〕

「進藤、棋聖戦で一柳相手に調子よく勝ってるようだな。その勢いでこのまま自分の力で十段位も取ってやろうと思っているかもしれないが、そうはさせないぞ。それとも、次は佐為のお出ましか?」

「次も、オレが打ちたい」

「よし、かかってこい」

この言葉どおり、2局目、3局目は森下が意地を見せてヒカルをねじ伏せた。4局目はヒカルが勝ったが、5局目は森下が底力を見せつけ、十段位を防衛した。悔しがるヒカルに森下は、

「どこぞの記者は『新しい時代が始まった』と書きやがったが、古い時代もまだ終わってないぜ」

と言ってのけた。ヒカルは

「いつかは終わるよ。終わらせてみせる!」

と応じた。そんなヒカルを森下は睨みつけたが、それからふと笑みを漏らした。

「ああ、その意気だ」

《森下先生、さすがです。その勝負強さは、まさに年の功。ヒカルはもちろん、緒方さんや倉田さんも及ばないでしょう。でもヒカルはいつかきっと追いつきますよ》

 

6-2

 

第3回北斗杯。この年に18歳になるヒカルとアキラにとって最後の北斗杯。永夏(ヨンハ)は年齢を超えたので出場しない。秀英(スヨン)が韓国チーム大将の重責を担い、3年目で初めて、大将戦としてヒカルと対局することになる。今度こそはと意気込んだが、やはり2目半及ばなかった。以前のように全身で悔しさを表すようなことはなくなったが、悔しいことに変わりはない。韓国棋界での成績からして自分も強くなっているはずだが、ヒカルがそれ以上に強くなっている。差を広げられないのが精一杯で、抜くことはできない。対局が終わった盤面を見ながら秀英がヒカルに語りかける。

「北斗杯に進藤ヒカルが参加するのは今年で最後だね」

「そうだよ」

「残念だ・・・・」

そんな秀英にヒカルは語りかける。

「北斗戦はこれで終わりだけど、秀英と対局する機会はこれからもあるよ」

 

北斗杯が終わるとすぐに碁聖防衛戦。ヒカルは初めてタイトルホルダーの立場で挑戦を受ける。挑戦者はアキラ。この1~2年、佐為=ヒカルの影に隠れがちとはいえ、数年前まで若手のホープと期待されていたアキラも歩みを止めているわけではない。この年は「好調」と噂されている。その噂を裏付けるように、碁聖位の挑戦者としてヒカルの前に現れた。第1局の前日、ヒカルはアキラに電話した。

「タイトルホルダーの特権で、オレ、進藤ヒカルとして打つと決めたから」

そんな特権があるのかとアキラは疑問に思ったが、ヒカルの気持ちはよく分るので、敢えて反論はしなかった。

翌日から始まった5番勝負。いずれも半目差、1目半差の接戦が続いたが、結局3勝2敗でヒカルが制した。最終戦の負けが決まった時、アキラは悔しがった。ふだんは周囲の状況への配慮を忘れないアキラが、気持ちを露わにして激しく悔しがった。

「負けてこれほど悔しい思いをするのは、生まれて初めてだよ・・・・もちろん、これまでも負けたことはある。父にも、緒方さんにも、倉田さんにも、負けたことはある。でも、その時はこれほど悔しい思いはしなかった。負けても仕方ない相手だという思いがあったんだろう。今日、キミに負けたのは、ほんとうに悔しい。心の底から悔しいよ」

アキラはかつての秀英のように涙を流しはしない。涙を必死でこらえている。それがかえって、アキラの悔しさを際立たせる。

「中学囲碁大会で、キミはボクに負けた悔しさの中で『塔矢を追い越してやる』って心に誓ったそうだね。今日、ついにキミはボクを追い越した。でも、ボクだって追い越されっぱなしじゃない。また抜き返してみせる。必ず・・・・」

ヒカルは、そんなアキラの姿、アキラの言葉に共感を覚えた。5年前の自分の姿が重なる。

「オレ、やっとオマエに恩返しできたな」

佐為はその言葉にうなずきながらも、ヒカルに語りかける。

《追い越されたといっても、2勝3敗。いずれも半目差、1目半差。実力は互角と言うべきでしょう》

《オレもそう思う。だけど、今この場でそれは言わない方がいい》

《・・・・ヒカル、あなたもそんな配慮ができるようになったんですね》

《オレだって、ちったー成長してるんだ》

ヒカルはちょっとふくれっ面して見せたが、もちろん本気で怒っているわけではない。

この時、対局に立ち会っていた関係者の一人がアキラに慰めるつもりで

「塔矢さん。ひょっとしたら進藤碁聖はsaiの助言を得ていたのかもしれません」

とささやいた。この言葉にヒカルが反応する前に、アキラが激しく反応した。ふだん、礼儀正しく取り乱すことのないアキラが、思わず相手の胸ぐらをつかんだ。

「何を言ってる!進藤はそんな卑怯者じゃない!」

言ってから、我に返り、自分の行為に気づき、手を離した。それから、ふだんの冷静さを取り戻そうとしながら、激しさの残る声で、

「ボクはこれまで、佐為とも進藤とも数え切れないくらい対局している。二人の碁の違いは誰よりもボクが一番よく知っている。今日の碁は進藤ヒカルの碁だ。間違いない。今日の碁は、まごうかたないヒカルの碁だったんだ」

〔塔矢、オマエって、ほんとうにいい奴だな・・・・〕

佐為は、言葉を発するのを忘れ、ただじっとアキラを見つめている。

 

2度目の本因坊挑戦手合。前回と同じく桑原対ヒカル。

碁盤を前に座る桑原は、脇に控えている記者に話しかける。

「去年と同じ顔ぶれでは、記事のネタに困るのう」

「いえ、決してそのようなことは・・・・」

「これでワシが小僧に負ければ、おもしろい記事も書けるだろうが、そうは問屋が卸さんぞ」

「じゃあ、オレは記者さんのために頑張らないと」

と横から口を挟んだヒカルを桑原は睨みつける。ヒカルも負けじと睨み返す。しばらくして、お互いフッと笑顔になった。「老獪」と評される桑原だが、なぜかこの「小僧」には憎めない親しみを感じる。

「始めようか」

「はい。お願いします」

本因坊は秀策ゆかりのタイトルだけに、ヒカルは他のタイトルより思い入れが深く、それなりに準備を怠らず、作戦も練っておいたのだが、結果は2勝4敗でヒカルはタイトルを奪えなかった。ただ、最終戦の後、桑原はつぶやいた。

「お主、この1年で強くなった」

「来年は、いただきます」

桑原は「フン」と鼻先で笑ったが、内心おだやかでなかった。

〔去年の1敗はワシのミスを突かれた1敗じゃった。今年の2敗、ワシはこれといったミスをしておらん。なのに小僧はワシから2つの勝ち星を奪いおった。ワシの4勝もかなりきわどかった。来年はよほど気を引き締めてかからんと・・・・〕

同じ手応えは佐為も感じていた。

 

6-3

 

国際アマチュア囲碁カップ。恒例となったsaiの指導碁。いや、この頃になると、「saiの弟子の指導碁」と呼ばれ、さらに「ヒカルの指導碁」“Hikaru’s Lesson”とも呼ばれるようになってきた。そしてまた、すっかりなじみになったあかりの通訳ボランティア。この年、あかりは事務局から佐為=ヒカルの指導碁以外の仕事も引き受けてくれないかと打診された。

「もちろん、進藤先生の指導碁の通訳の仕事を優先してくれてかまいません。空き時間に余裕があるなら、手伝ってもらえればいいんです」

あかりが手伝うのは今年で4回目。英語もそれなりに上達し、碁のことも分かり、囲碁カップの事情も知っている、事務局としては頼りがいのある戦力に思える。

「はい、いいですよ」

とあかりは引き受けた。それを聞いて

「オマエ、気前がいいというか、お人好しというか・・・・」

と感心するヒカルに、あかりはイタズラっぽくちょっと舌を出して説明した。

「実は、不純な動機もあるの。この種のボランティアは大学入試の推薦でプラスになるの」

「大学入試?!」

ヒカルは思わず声が大きくなった。

「もう、そんなになるんだ・・・・そうか、高校3年だもんな。早いなあ」

「わたしも、早いなあと思う。中学の3年に比べると高校の3年はあっという間だった気がする」

《年を取るにつれて、月日の経つのが早く感じられるんです》

《こら、佐為! 女の子の前で年の話はするんじゃない》

佐為はイタズラっぽく笑った。

「ヒカル、どうしたの?」

「あっ、いや、何でもない」

あかりは、きっと佐為と何か話をしているのだと思ったが、追及はしない。

「・・・・それにしても、ヒカル、進藤『先生』って呼ばれるようになったのね」

「それ、言うな! オレもまだ呼ばれ慣れないんだ・・・・」

 

アキラがヒカルを抜き返す機会は意外に早く訪れた。囲碁カップが終わって間もない名人位挑戦者決定リーグの最終戦。倉田に1敗しただけのヒカルと全勝のアキラが対局することになった。ヒカルが勝てばプレーオフ。アキラが勝てばそのまま挑戦者に決定。

名人位へのアキラの執着はよく知られている。親しい人たちの間では「父を倒すのはボクだ」と公言するほど、アキラはほかのどの公式戦よりも名人位戦に力と情熱を傾けていた。そのためには、まず挑戦者にならないといけない。前年は佐為=ヒカルに挑戦権を奪われた。この年はリーグ戦で緒方も倉田も破って全勝を保ち、最終戦に臨む。

ヒカルはこのリーグを進藤ヒカルとして戦ってきた。一柳から棋聖位を奪って以後、可能な限り進藤ヒカルとして打つことにしているし、他の棋士も、自力でタイトルを取ったヒカルに「佐為として打て」とは言いづらい。そのため倉田に1敗したが、それは仕方のないこととヒカルは受け入れている。

このヒカル・アキラ対局ではアキラがヒカルを制し、「抜き返す」という言葉を実践した。

アキラは、プレーオフなしで挑戦者となり、父に挑む。囲碁史上初の名人位親子対決に棋界は湧いたが、結果は行洋がアキラを寄せ付けず、4連勝で挑戦者を叩き落として名人位を防衛した。

「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」

と形容された。

《去年はオレに1敗したのに、今年は4連勝か・・・・塔矢先生、また強くなってる》

《行洋殿も歩みを止めませんね》

《いったいどこまで強くなる気なんだ・・・・ああ、ますます先生を倒すのが遅くなるじゃないか》

《ヒカル、気を落とさないで。その日はきっと来ますから》

 

王座防衛戦は倉田が挑戦者となり、リターンマッチとなった。

「倉田さん。オレ、タイトルホルダーの特権として、ヒカルとして打つことに決めてるからね。名人位リーグ戦で負けたからって、この決心は変わらないから」

「なんだ、オレにタイトル返してくれるってわけ? せっかくの好意、無駄にしちゃあ申し訳ないな」

この言葉どおり、倉田は3勝2敗で王座を取り戻した。5局いずれも接戦だったが、とりわけ最終戦はヒカルにとって悔いの残るものだった。中盤から終盤に移る頃の一手。失着のように見えるが、じょうずに打ち回して優位に立てる手だと信じて打ったが、倉田に見破られ、失着が失着で終わってしまった。そのまま形勢を立て直せず、ヒカルが投了。

《ヒカル、あの時の・・・・》

《分ってるよ。自分でもよく分ってるんだ。オレ、ちょっと調子に乗りすぎてた》

 

王座防衛戦とほぼ平行して行なわれる天元防衛戦も、座間の挑戦に接戦の末2勝3敗で敗れ、タイトルを奪われた。

《・・・・ああ、せっかく一柳先生から自力で棋聖位を奪ったのに、オマエが取った王座と天元を取られてしまったなあ》

《ヒカル、気を落とさなくてもいいんです。一柳殿との対局も、塔矢アキラとの対局も、桑原殿や倉田さんや座間先生との対局も、いずれもきわどい接戦。その時のちょっとした状況判断や時の流れで勝ち負けが別れました。ヒカルが力を落としているわけではないのです。気を落とさないで・・・・それよりも、年が明ければ棋聖の防衛戦です。ヒカルが自分の力で取ったタイトル、守り抜きましょう》

《そうだな》

《じゃあ、わたしと打ちましょう》

 

この年の終わり頃、棋界では進藤ヒカルの活躍を振り返り、1年前の塔矢名人の文章が思い起こされていた。年初に棋聖タイトルを手にして以降、ヒカルは自分の碁を打つ機会を増やしていた。それまで佐為の影に隠れながらも着実に成長していたヒカルの実力が、公式戦で多くの人たちの目に留まり、棋譜も公開されるようになった。伸び盛りの若い才能を称える声がある一方で、ヒカルの未熟さを指摘し洗練された佐為の手筋をもっと見たいという意見もある。

《世間って、勝手なもんだな・・・・まっ、言いたい者には、言いたいように、言わせておけばいいんだね》

《ヒカル、そうですよ。ヒカルは、周りの雑音なんか気にしないで、自分の道を歩めばいいんです》

《うん・・・・》

ヒカルは、自分を励ましてくれる佐為の心遣いをうれしいく感じながら、ふと思う。

《佐為、オマエもまたタイトル戦のピリピリした雰囲気の中で打ちたいと思うか?》

佐為は、本心ではそう思う。だが、今はヒカルがタイトル戦の中で成長していくのを見守る方を選ぼうと思う。

《今は、ヒカルがタイトル戦で打つといいです。ヒカルの成長が楽しみです。これまで何度か、わたしが打っている対局で、わたしが思いつかない手を思いつくことがありましたね。いずれ、わたしに勝ちはしないまでも、互角に並ぶ時は近いでしょう。ヒカルにはヒカルの碁があり、わたしにはわたしの碁がある。二人がお互いの足りないところを補い合い、力を合わせれば、一人だけでは手の届かない神の一手に到達できるかもしれない。そんなことを夢見てるんですよ。この何年かのヒカルの成長を思えば、この夢、決して夢だけで終わりはしません》

《オマエにそう言われると、素直にうれしいぜ》

《今でも、たまに、タイトル戦などでのヒカルの打ち手を見て、わたしにないものを見つけてハッとすることがあるんですよ。ごくたまにですけど》

《それ、褒めてるのか、けなしてるのか?》

《褒めてるんですよ》

《そうか、じゃあ素直に喜ぼう》

こんな他愛もなく明るい会話の後、佐為はふと、あることに気づく。

〔わたしが、ヒカルとわたしが、神の一手を極める時、それは、わたしがこの地上に別れを告げる時ではないのか? ヒカルから離れるべき時ではないのか? 神からいただいた千年のワガママの時が尽きる時ではないのか?〕

《佐為、急に何を考え込んでんだ?》

《・・・・いえ、何でもありません・・・・さあ、もう1局、打ちましょうか》

《ああ、そうしよう》

 

佐為の大きな夢のかたわらで、あかりの小さな夢も育っている。この年の暮れ、ヒカルはあかりのうちの祝賀会に招かれた。あかりの大学推薦入学が決まったお祝い。大学の名前を聞いてもヒカルには分らないけど、外国語教育ではそれなりに名の知られた大学らしい。

「きっかけは、3年前の国際アマチュア囲碁カップなのよ。あそこで、おっかなびっくりで英語で話をして、『わたしの英語が通じた!』って感激したのが始まりなの・・・・わたしの夢。小さな夢だけどね」

《あかりちゃん、小さくてもいいんです。夢を追える、追いかける夢がある、それだけでも人は幸せなんです》

「あかり、佐為が『小さくても追いかける夢があるんなら、人は幸せだ』って言ってる」

「ありがとう」

あかりは明るい笑顔をヒカルに、そしてそのそばにいるはずの佐為に向ける。

 

6-4

 

プロ5年目は棋聖の防衛戦で明ける。挑戦者は緒方。ヒカルにとって棋聖は自分の力で勝ち取った最初のタイトル。ぜひとも守りたい。

「今度こそ、緒方さん相手に進藤ヒカルで戦うからね。ヒカルの力で守り抜くからね」

そう言われると、さすがの緒方も「佐為で打て」とは言えない。そしてヒカルは、いずれも接戦ではあったが、自分の言葉どおり4勝3敗でタイトルを守った。戦いを終えて、緒方はヒカルに語りかけた。

「進藤、オマエはもう『進藤ヒカルとして打つ』と言わなくてもいい。佐為なみに強くなりやがった。進藤ヒカルとして打つのを当たり前にしてしまった」

「緒方さん、そう言ってくれてありがとう。でも、オレまだ佐為に1勝もしてないんだ」

〔そうですね。わたしはまだヒカルに負けませんよ・・・・いつか、ヒカルに負けた時、わたしはどんな気持ちになるのでしょう。悔しがるのか、それともヒカルの成長を喜ぶのか?・・・・〕

 

ヒカルもアキラも出場しない北斗杯。日本チームは精彩を欠き、秀英を大将とする韓国チームが優勝。二人とも手合に重なって会場に行くことはできなかったが、結果を見て落胆は隠せない。

「ボクたちに続く世代が育っていないね。進藤は子供に人気があるから、才能ある子供を見つけて英才教育しないか?」

「オレは、どっちかというと、初めから勝ち負けにこだわることはしたくない。まず、碁の楽しさを教えたいんだ。そんな子供たちの中から、『強くなりたい』、『プロになりたい』と思う子供が出てくれば、それなりの指導をするけど、はじめから全員にそれをさせようとは思わない。だって、碁を習い始める子供がみんなプロを目指す必要もないだろう」

「まあ、そうだけど」

「オレは、佐為に碁を教えてもらってすぐ、オマエのこともあって、強くなりたい、プロになりたいって思ったけど、碁を覚える子供のうち、実際にプロになれるのは何百人に1人、何千人に1人だろう。じゃあ、その他大勢の子供たちは碁を覚える意味がなかったのか? そんなことないだろう。強くならなくても、プロになれなくても、碁を楽しいと思ってくれれば、それはそれでいいんじゃないか・・・・イベントで楽しそうに碁で遊んでる子供たちを見ると、そう思うんだ」

《あかりちゃんの囲碁部を見てても、そう思うでしょう?》

《うん、あそこもいい雰囲気だな》

「まあ、そんな子供たちの中から自然にプロを目指す子が現れれば、それでいい。碁を始める子供たちには、まず碁を打って幸せだなあと感じてほしいんだ」

「碁を打つのが幸せ?」

「オマエ、感じたことないのか?」

「幸せと感じたことは・・・・もちろん、不幸だと思ったことはないけど。生まれた時から身の周りにあったものだから、あって当たり前のことで、それを幸せと感じることはなかった」

 

北斗杯が終わると、碁聖戦の防衛戦と本因坊戦の挑戦がほぼ同時に始まる。碁聖戦の挑戦者は棋聖戦と同じく緒方。碁聖位は2年前、佐為が緒方から奪ったタイトル。緒方にとって2年越しのリターンマッチになるが、今回は佐為でなくヒカルが打つ。棋聖戦の後にあんなことを言った手前、緒方も佐為が打てとは言えないが、ヒカルが本因坊戦に力を集中していることを知っている緒方にとって、碁聖位を奪い返すだけでなく、先日の棋聖戦の雪辱をするチャンスでもある。そして狙いどおり、挑戦者は3勝2敗でヒカルからタイトルを奪い返した。

「なんだ、『佐為なみに強くなった』という前言を取り消さないといけないじゃないか。オレに2勝3敗で負けてタイトルを献上するようでは、確かにまだまだ佐為には勝てないな」

ヒカルにとって悔しいけれど、それは事実だ。

「うん。負けたから、何言われてもしょうがないや。でも、いつか佐為に勝てるようになる。その時は、緒方さんなんか一ひねりしてやる」

「なにぃ、生意気言いやがって、そんなことは実際に佐為に勝ってから言え」

こんな二人のやりとりを見て佐為は

〔おやおや、ここに行洋殿がおられたら、何とおっしゃるか・・・・緒方さんには『子供相手に本気になるな』、ヒカルには『年上をからかうものじゃない』でしょうか・・・・〕

と思い、おかしさがこみ上げてきた。

 

6-5

 

本因坊戦。ヒカルは桑原に3度目の挑戦をする。今年こそぜひ桑原を倒して本因坊のタイトルを手に入れたいとの思いで、桑原の棋譜を研究するなど、昨年以上に念入りに準備して臨んだ。

戦いは3勝3敗になり、第7局にもつれ込んだ。勝敗の経過だけでなく碁の内容からも、ヒカルは手応えを感じていた。佐為も同感だった。桑原も同じ事を感じていたのかもしれない。6局目の後

「小僧め、去年よりさらに強くなりおった」

とつぶやいた。

棋聖戦より以上の注目を集めた本因坊戦第7局。戦いはヒカルの優位に進んだが、中盤から終盤にさしかかる頃、桑原が長考の末に打った一手は異彩を放っていた。一瞬、戸惑ったが、ヒカルはその意図を時間をかけて読み切った。対応を間違うとこれまでの優位がくつがえる。

〔最善の応手はここ〕

と信じて打ち込んだ石。桑原はその石を見据えてしばらく考え、打ち返したが、それはヒカルの想定内だった。それから20手あまりの応酬が続いた後、ヒカルが慎重に考えて打ち込んだ石。桑原は腕を組んで考え始めた。ヒカルはこの手に自信があった。ひょっとしたら、相手の投了も見込める。桑原は腕を組んで考え込みながら、ふとつぶやいた。

「ワシの耳が赤くなるほどではないが・・・・」

ヒカルも佐為も、このつぶやきを聞き逃さなかった。

それからさらに5分ほど考えた後、桑原は投了した。進藤ヒカル本因坊の誕生。しかしヒカルは、うれしさを感じる前に疲れをどっと感じて、緊張がほぐれ、力が抜けたようになった。

対局からの帰り道、佐為はヒカルに尋ねる。

《桑原殿の言葉の意味、分かりましたか?》

《もちろん、それはオレにも分かるぜ。秀策の棋譜は徹底的に研究したからな。耳赤の一手のことだろう?》

《そうです。桑原殿はヒカルが秀策の域に近づいたと褒めてくださったのです》

《うん》

こんな話をしているうちに、本因坊の座を得たという実感がヒカルに湧いてきた。

その1週間後、桑原は現役引退を表明した。

 

ヒカルが子供に囲碁の楽しさを教えるための教室を作ることを思いついたのは、本因坊のタイトルを手にして間もない頃。土曜日と日曜日、週2日くらい、子供たちに囲碁に親しんでもらう。囲碁教室という堅苦しいものではなく、囲碁を楽しむ場所、囲碁で遊ぶ場所、そんなふうにしたいと思う。子供たちのためだけでなくヒカル自身のためにも、そういう場所があるといいと思う。いくら碁を打つのが楽しいと言っても、タイトル戦は疲れる。体も疲れるが、精神がなおさら疲れる。週末、子供たちと無心に碁を楽しむのは、ヒカルにとって仕事と言うよりむしろ息抜きになりそうに思える。

〔どこがいいかなあ? うちは、そのための部屋がないよなあ・・・・そうだ、じいちゃんちはどうだろう。あそこなら、子供が少々騒いでも大丈夫そうだし〕

さっそく聞いてみたら、

「囲碁を教えるのに使うのなら、構わないぞ」

という返事だったので、ふだん使っていない居間を使わせてもらうことになった。土曜日の夜はここに布団を敷いて泊まってもいい。

 

自分の息抜きのためとはいえ週2日子供の相手をするとなると、スケジュール調整にそれなりに気を配る必要がある。

今年初防衛した棋聖と今年獲得した本因坊はこれからも何としてでも守りたい。棋聖は自分の力で手に入れた最初のタイトルだし、本因坊は言うまでもなく秀策ゆかりのタイトルだから。

十段、王座、天元、碁聖の4タイトルは挑戦者決定リーグや本戦から落ちないようにして、勝ち抜いて挑戦者になれれば挑戦するくらいの構えでいることにした。

名人位は狙ってみたい。塔矢名人を倒すのはヒカルにとって見果てぬ夢なのだから。だが、ここにはアキラという強敵が立ちはだかっている。挑戦者になるだけでもたいへんだ。そしてその先には、非公式の対局でもめったに勝てない難攻不落のタイトルホルダーが待っている。

実際にその立場になってみると、2つのタイトルを守り、ほかのタイトル戦にも常に挑戦者決定リーグや本戦で戦い続けるというのは、かなりたいへんなことだった。それだけで、毎週1つは手合をこなすことになる。ほかに、今もまだ佐為との対局を望んで塔矢邸を訪れる棋士の相手もする。そして、タイトル戦にまつわる雑事、イベント出演、他の棋士の対局の解説など。

《塔矢先生は5冠だったんだよな。すげーな。過労で倒れるのも無理ないぜ》

《確かに、虎次郎の時代に比べると、身も心も安まる暇がないですね。ヒカル、くれぐれも体には気をつけて、万が一にも、虎次郎のように若死にしないでくださいね》

《まあ、それはないよ》

ともあれ、こんなふうに、棋界を支えるタイトルホルダーの一人として、ヒカルの生活パターンができあがっていった。

 




今話のタイトル戦を年表にまとめました

4年目 1月 棋聖戦(対一柳)
2月 棋聖戦(対一柳) 十段戦(対森下)
2004年 3月 十段戦(対森下)
  4月
  5月 北斗杯
  6月 碁聖戦(対塔矢アキラ) 本因坊戦(対桑原)
  7月 碁聖戦(対塔矢アキラ) 本因坊戦(対桑原)
  8月
  9月 名人戦リーグ最終戦
  10月
  11月 王座戦(対倉田) 天元戦(対座間)
  12月 王座戦(対倉田) 天元戦(対座間)

5年目 1月 棋聖戦(対緒方)
2月 棋聖戦(対緒方)
2005年 3月
  4月
  5月
  6月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)
  7月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)


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7:臨界

7-1

 

2008年。進藤本因坊の誕生から3年近い月日が流れた。

 

プロ8年目のヒカルは棋聖と本因坊の2冠のタイトルホルダー。棋聖は一柳から奪って以来ずっと守り続けている。本因坊も3年前、3回目の挑戦で桑原から奪って以来守り続けている。この間、ほかのタイトルを手にすることもあったが、守り続けることはできないでいる。複数のタイトルを保持するのは難しい。かつて塔矢行洋が語ったように、碁を打つことそのものは苦ではないが、タイトル戦にまつわる雑事が負担になる。ほかのタイトルは、チャンスがあれば挑戦するというスタンスでいる。

それに、ヒカルにとってほかのタイトルと同じくらい大事なことがある。子供たちの相手。じいちゃんの家の週末囲碁教室はもちろん今も続けている。おばあちゃんが意外に世話好きで、蒸かしたイモや、きな粉をまぶしただんごなど、いかにもおばあちゃんらしいおやつを差し入れてくれる。それが、コンビニのお菓子になじんだ子供たちにはかえって珍しいらしく、好評なようだ。

郊外にあるじいちゃんの家にバスで行くのだが、ちょっとした遠足気分でやってくる子供たちもいる。それも悪くはないとヒカルは思う。そこはまた、ヒカルにとっては、神経をすり減らすタイトル戦の疲れを癒やす隠れ家のようでもある。

そんな子供たちの中からも、これまでに2人「プロになりたい」という子が現れた。そういう子は、ほかの子とは別に指導してあげるべきなのだが、ヒカルもなかなかそこまでの時間が取れない。それで、アキラの碁会所を紹介した。そこで大人たちに揉まれ、たまにはアキラの指導碁も受けているらしい。それを聞いた時ヒカルは、〔アキラの奴、まさか自分がオヤジから受けたような厳しい指導をしてるんじゃないだろうな? そんな指導についていける子供はめったにいないのに〕と心配した。それを伝え聞いたアキラは笑って答えた。

「心配しなくていい。子供の性格や適性をちゃんとわきまえて指導してるよ。こう見えてもボクは、子供のころから大人相手に指導碁を打っているんだよ」

「・・・・そういやあ、そうだな。オレが初めてお前の碁会所に行った時、お前はもうお客に指導碁を打ってたんだよな」

とヒカルは納得した。

子供相手のイベントにも都合が付く限り参加している。「人寄せパンダ」扱いされた頃と違い、タイトルホルダーになったヒカルをその種のイベントにかり出すのを恐縮する関係者もいるが、ヒカルが自ら望んで参加している。「囲碁の将来は子供たちにかかっている」という大きな議論はそれとして、なによりヒカルは子供が好きだった。そんな子供たちに、自分が心から好きな碁の楽しさを教えるのは、うれしい。そして、子供たちにある種の恩義を感じている。プロ1年目、2年目の頃、いわれない噂に気が滅入っていた頃、イベントで子供たちから「サイ」、「ヒカル」と声援を受けるのは救いだった。あかりが作ったプレートは、傷まないようラミネートカバーして今も大事に使っている。

意外なことに、佐為も子供が好きなようだ。

《まあ、あいつは自分が子供みたいだからな》

《ヒカル、聞こえましたよ。何を言ってるんですか。ヒカルこそ、子供そのものじゃないですか》

 

この頃、ヒカルはついに佐為から念願の1勝をもぎとった。ヒカルは、文字通り「飛んだり跳ねたりして」喜んだ。

《やったー、とうとう佐為に勝ったぞ! ついに佐為を越えたぞ!》

《1回勝っただけで乗り越えたなどと大きな口を叩くんじゃありません。さあ、もう1局!》

2局目は、佐為が勝ちを収めた。その後もヒカルは負け続けたが、なんとか5回に1回くらいは勝てるくらいになった。初めてヒカルに負けた時の悔しさは別として、佐為もヒカルの成長はうれしい。

《ついにヒカルもわたしに追いつきそうですね。ヒカルの碁とわたしの碁が足りないところを補いあえば、より良い碁が生まれそうです。神の一手に近づけるかも》

《うん、まあ、神の一手はともかくとして、オレが佐為と互角になれれば、佐為として打つかヒカルとして打つかなんて、どうでもよくなるかもなあ》

ヒカルは伸びをした。

《・・・・10年かな。佐為と出会って10年くらいだな。オレ10年でとうとう佐為に追いついた》

《そう10年くらいですね》

明るい口調で答えた佐為は、ふと、あることに思い当たり、沈んだ表情になった。

《ヒカルは今年で何歳?》

《今まだ21。誕生日が来れば22歳だ》

《そうですね・・・・》

佐為は考え込んだ。

《佐為、どうしたんだ?》

《虎次郎のことを思い出したんです。わたしは、まだ幼かった虎次郎に取り憑き、虎次郎にわたしの碁を打たせてきました。でも、ヒカルの成長を見てきた今にして思えば、虎次郎にわたしの碁を打たせるのではなく、虎次郎自身の碁を打たせるよう虎次郎を導いていれば、ヒカルの年頃には虎次郎も自分の力で本因坊家の世嗣に迎えられたかもしれません。そして、わたしと肩を並べる力量を身につけ、わたしと互いに足りないところを補いあって神の一手を探求できたかもしれません。ヒカルの成長ぶりを見ていて、こんなことに気がついたんです。虎次郎には申し訳ないことをした。そして、惜しいことをした・・・・》

思いがけないことを言われて、ヒカルは戸惑った。言われてみればそうかもしれないけれど・・・・

《でも、佐為と虎次郎で神の一手を極めてしまっていたら、佐為はあの碁盤に取り憑くことはなかったし、オレは佐為に出会えなかったんだ。こんなことを言うのは虎次郎に申し訳ないけど、佐為と虎次郎が神の一手を極めないままだったから、オレは佐為に出会えたんだ》

ヒカルにそう言われて、佐為は考え込む。確かに、ヒカルに出会えたことはうれしい。だけどそれが、虎次郎の碁を犠牲にしたものであるのなら・・・・。

《ヒカル、本因坊家のお墓が巣鴨にあるのを知ってますか?》

《本因坊家のお墓? 知らねえ》

《巣鴨の本妙寺というお寺にあるんです。今度、行きましょう。虎次郎の墓参りをしたいです》

 

1週間ほどして、ヒカルと佐為は本妙寺にある本因坊家のお墓に詣でた。墓を前で頭を垂れ、佐為は虎次郎に語りかけるように祈っている。かすかに涙がにじんでいる。ヒカルはそんな佐為に言葉を掛ける。

《虎次郎に話しかけてたんだろう? 何て言ってたんだ?》

《ほんとうは、今すぐ虎次郎のもとに行って詫びをのべるべきなのですが、今少し時をくださいと頼んだんですよ。ヒカルと一緒に神の一手を探求するための時を》

ヒカルはそれを聞いて目を伏せた。

《オマエ、神の一手を極めたら、去って行くのか? 虎次郎のところに行くのか?》

佐為はヒカルを見ながらうなずく。

《そのために、神様はわたしの千年のワガママを聞いてくださったのですから》

ヒカルはまなざしを上げて佐為を見つめる。佐為も見つめ返す。

《ヒカル、だからといって、神の一手への歩みを止めないでください》

 

7-2

 

この年の夏、ヒカルにとって8回目の国際アマチュア囲碁カップ。

ヒカルは恒例となった指導碁を打つ。saiの指導碁として始まり、sai no deshiの指導碁と呼ばれ、やがてヒカルの指導碁“Hikaru’s Lesson”という名前で定着していた。佐為は、ヒカルが自分の添え物のように見られる状態から進藤ヒカルとして認識されるようになったプロセスを象徴しているようで、うれしかった。

そして、あかりにとっても8回目。英語が堪能で碁についてもそれなりの知識を持ち、国際アマチュア囲碁カップについての経験も豊富で人当たりもいいあかりは、スタッフの一員として溶け込んでいたが・・・・一連の日程が終わった4日目の夕方、運営委員があかりを呼び止めた。

「藤崎さん、今年大学4年生ですよね。就職なさると、来年からはもうお願いできなくなりますね」

「うーん、4日くらいなら、夏休みをとってお手伝いしてもいいんですけど」

「いやあ、せっかくの夏休みを・・・・」

「わたしも楽しいんです。この仕事」

「そう言っていただけると、たいへんありがたいのですが、決してご無理はなさらないように。これまで、ほんとうにありがとうございました。」

とあいさつして立ち去った。それを脇で聞いていたヒカルが話しかける。

「そうか、あかりも来年就職なんだ。就職先、決まった?」

「うん。ゲーム会社」

「ゲーム会社? なんだよ、英語とぜんぜん関係ないじゃん」

「ところが、そうでもないの。この会社は売上の半分以上が海外なの。外国の取引先とのやりとりに英語は必須なのよ。ゲームのキャプションを英語に訳す仕事もあるし。それにね、なんと囲碁ゲームを手がけている」

「それなら、あかりにぴったし」

「フフーン、実はもっとすごいこともある」

「何だ?」

「囲碁ゲームだけじゃなくて、AI碁のプログラム開発も手がけているの」

「エーアイゴ? なんだそりゃあ?」

「AIというのは“Artificial Intelligence”人工知能のこと。まあ、コンピューターの進化型というか、未来型のコンピューターというか、決められたプログラムに従って作業するだけじゃなく、自分で考えることのできるコンピューター。それに囲碁を打たせようっていうプロジェクトよ」

「そんなの、できるのか?」

「今でも、一応はあるのよ。まだ弱いけどね」

「初段くらいか?」

「残念ながら、もっとずっと弱い。まあ、わたしには勝つけど」

「あかりに勝っても、しょうがねーだろう」

《ヒカル、そんな言い方するものじゃありません》

案の定、あかりはふくれっ面するけど、話はやめない。

「そんなこと、分ってるわ! でも、これからどんどん強くなるよ。チェスでは、もうずいぶん前にコンピューターが人間のチャンピオンを破ってて、今では人間がどんなにがんばってもコンピューターに勝てなくなってるんだから」

「ほんとうか?」

「ほんとうよ。碁はチェスに比べて何百倍も何千倍も難しいから、まだまだ人間に勝てないけど、プログラム開発してる人たちは、『10年後には』って息巻いてる」

《・・・・》

ヒカルと佐為は顔を見あわせた。

「で、そういうコンピューター関係のことはアメリカが一番進んでいるから、こっちの方面でも英語は欠かせないの」

と、あかりは自分の就職先の自慢話とそこでいかに英語が必要とされているかという話を勢いよくまくし立てた。

 

7-3

 

翌2009年4月、就職したあかりはAI碁研究開発チームに配属された。まだディープラーニング以前の時代、AI碁と言いながら、プロの棋士がAIを教え込まないといけない段階にあった。実力ある棋士をチームに取り込みたい、これはAI碁の開発にしのぎを削っている会社、研究チームの共通の関心事だった。あかりは就職に際してヒカルとの友だちづきあいを話してはいなかったが、中学から大学まで囲碁部に所属していたことと、国際アマチュア囲碁カップにボランティアとして参加していたことは話していたので、その関係でプロ棋士あるいはトップレベルのアマチュアに知り合いがいないかと尋ねられた。

〔そりゃあ、ものすごく強い棋士を2人も知ってるけど・・・・〕

あかりは佐為とヒカルを紹介するのをためらった。声を掛ければ、多少は無理してでも参加してくれるかもしれない。だからこそ、そんな無理をさせたくなかった。

7月下旬、あかりは勤務扱いで囲碁カップのボランティアへの参加を認められた。もちろん、会社としてはそこで有力な棋士とのコネができるのを期待してのことだが、あかりは、就職してから何かと忙しく、ほとんど会う機会のなくなったヒカルと佐為に会えるのが楽しみだった。

 

「やあ、あかり、今年も来れたんだ。助かるよ」

ヒカルは気楽に声を掛ける。

「うん、会社が認めてくれたんだ」

勤務扱いということは伏せておいた。

「いつか話してた例のあれ、何てったっけ・・・・」

「あれ、じゃ分かんないわ」

「うん、あの、コンピューターに碁を打たせるって、あの話」

「ああ、AI碁ね。わたし、その開発チームにいるの」

「そうなんだ」

「ヒカル、興味ある?」

「うん、何だか、おもしろそうじゃん」

「佐為は?」

《わたしは・・・・一体どんなものだか見当もつかないので、興味があるとも、ないとも・・・・》

《打ってみればいい。実際に、コンピューター相手に》

《そんなこと、できるんですか?》

《そりゃあ、できるだろう》

《それじゃあ、ぜひ打ちたい!》

佐為はそれまでの煮えきれない態度を一変させて喜んだ。

《まったく、オマエは、碁が打てるとなると、すぐそれだ》

あかりは、たぶんヒカルは佐為と話しているのだろうと思って、ヒカルの返事を待っている。

「とりあえず、コンピューター相手に碁を打ちたいって言ってるよ、佐為は。オレもだけど」

「じゃあ、チームのボスに聞いてみる」

と答えて、あかりはあわてて付け加えた。

「あっ、そうだ。ヒカルと幼馴染だってこと、会社の人たちには伏せておいて。ここで知り合ったということにしておいて」

「まあ、いいけど。なんで?」

「わたし、今年の4月に就職してAI碁開発チームに配属された時、『プロの棋士とかに知り合いはいないか』って聞かれたの。だけど、ヒカルも忙しそうだし、うちの仕事に引き入れるのも悪いなあと思って、ヒカルのことは話していないの。だから、幼馴染では困るの」

「分かった。大人の事情ってやつだな」

ヒカルは気安く答えるが、あかりは〔大丈夫かなあ〕とちょっと心配ではある。

 

チームのボスは跳び上がらんばかりに喜んだ。あかりは念には念を入れて「チームを手伝うとは言ってない。興味があるからコンピューターと対局したいだけなのだ」と話すが、ボスはヒカルがチームに参加すると期待している。決めてかかっているのかも。何と言っても現役の棋聖で本因坊、しかも佐為と一心同体であるのなら2人分の知恵を借りれることになる。

ヒカルと開発チームのスケジュールをすりあわせて、対局は8月も半ば過ぎになった。

実際に対局すると、あかりが言ってたように初段にも届かないレベルで、ヒカルとは勝負にならなかった。ただ、時おり突拍子もない手を打つ。その多くはただの失着なのだが、たまにあっと驚くような妙手がある。

《コイツ、強いんだか弱いんだか分んねえな。というか、弱いに違いないけど、たまにびっくりするようなみごとな手を打つ》

佐為は笑いをこらえる。

《まるで、碁を習いたての頃のヒカルみたいじゃないですか。加賀さんに『石の筋はオモシロイんだが、あまりにも未熟というか稚拙というか』って言われましたし、わたしも『ドキッとする瞬間があると思うと、ガクッとくる一手を放つし』と思ってました》

ヒカルは苦笑いしながらも、懐かしそうにその頃を思い出す。

《そんなこともあったよなあ・・・・》

《もし、この機械がヒカルに似ているなら、きっとあっという間に強くなりますよ》

《えっ?・・・・うーん、そう言われると・・・・オマエ、興味あるのか?》

《はい。なんというか、ヒカルに出会った時のような「きざし」を感じるのです》

《きざし?》

《はい、前兆というか予兆というか、前触れというか・・・・》

《ふーん・・・・》

《ヒカルは、興味ないんですか?》

《オレも、興味はあるけど、時間が・・・・》

結局、ボスと話し合い、ヒカルが前月中旬までに翌月の対局スケジュールをチームの担当者に渡し、空いてる時間を指定してヒカルに来てもらう。チームの誰かがその時間ヒカルに対応するよう手配しておく。ということで何とかヒカルが開発チームに協力するお膳立てが整ったが、ここでヒカルは致命的なミスをした。いつのも習慣であかりに「あかり」と呼びかけてしまった。

ボスに

「藤崎さん、1か月もしないで、進藤本因坊と名前で呼び合うような間柄になったのか?」

と問い詰められて、あかりは結局、ヒカルとは幼馴染であることを白状した。ヒカルの協力を得られることになっていたから、結果オーライであまり厳しく叱責はされなかったが、ヒカルのうっかりには腹が立つ。

あとでヒカルがあかりからこってり油を絞られたのは仕方ないことだった。さらに、帰り道、佐為からも小言を言われそうになった。

《ヒカル、不注意も度が過ぎますよ》

《もう言うな。その話はもうおしまい、おしまい!》

 



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8:夢幻

8-1

 

囲碁を習い始めて2年でプロになったヒカルほどではないが、AI碁も順調に力を上げていく。4年後には、4子のハンディを付けてではあるが、ついにヒカルを破った。

「オレに4子ってことは、院生くらいかな・・・・」

ヒカルにとっては、さほどのことはないレベルだが、開発チームにとっては快挙と言えた。そんなチームのエンジニアに、ヒカルは率直に自分の感じていることを話す。

「確かに、4年前に比べて強くなったけど、癖は変わんねえな」

「癖、ですか?」

「うん、昔からこいつは、時おり突拍子もない手を打つんだ。昔は、たいていがただの失着で、ごくたまにあっと驚く妙手だった。昔と比べて失着の割合が減ったのは確かだけど、この癖は変わんねえな」

「わたしたちもその点は気づいているのですが、それはAIの欠点ではなくて個性だと思ってます。ただ、その個性がまだ確実な読みを伴っていないので『強いのか弱いのか、よく分らない』と言われるわけです」

「それと、もう1つのAIの個性は・・・・」

と別のエンジニアが説明を付け加える。

「AIは人間と違って、不安や恐怖を持たないんです。だから、自分にとって60%の確率で有利な手なら、ためらわず打ってきます」

「60%なら、人間だってためらわず打つだろう」

とヒカルが反論するが、そうではないらしい。

「まあ、これは心理学者の話の受け売りですが、人間は得よりも損に敏感らしいんです。60%の確率で得するけど40%の確率で損をする選択を前にすると、ほとんどの人間は40%の損の方に注意を引きつけられて、その選択を避けるらしいです。死んだらおしまいという生物の根本条件の中で、利益を求めるより危険を避ける心理が強く働くためらしいんですけどね。極端な例を言えば、60%の確率で1億円もらえるけど、40%の確率で命を取られるようなクジは、誰も引かないでしょう」

「まあ、それはそうだな」

「AIはそんな恐怖心を持ちあわせていないから、60%の確率で得だと計算したら、ためらわず打ち込みます。それが人間から見ると『意外』という印象になるんです。でも、囲碁は361も目がありますから、10回のうち6回うまくいく手を積み重ねれば、勝てますよ」

「それじゃあ、なんでAIはオレに4子置かないと勝てないんだ?」

「えっ、それは・・・・」

相手は痛いところを突かれたという顔をした。最初にヒカルの相手をしていたエンジニアが助太刀をする。

「それは、正直言って、基礎棋力が低いからです。読みが甘いのです。ほんとうは自分に不利な手を、自分にとって60%の確率で有利だと読み間違えてしまう。あるいは、相手の打ってくる手を読み切れない。そんなミスがまだ多いんです」

「なんだ、そんなことか」

「ですから、進藤本因坊にこれからもご協力いただきたいのです」

とヒカルはうまく丸め込まれた。

こんなヒカルとエンジニアのやりとりを聞きながら佐為は、自分自身が碁を打つ時の気持ちを振り返り、エンジニアの言い分にも一理あると思った。

〔もし、このAIとやら申すこの者が、人間と異なり、いっさいの不安も恐怖を持たずに完璧に冷静に次の手を打てるものなら、今少し棋力を上げ読みが深くなれば、とてつもない強さを現わすかもしれぬ・・・・〕

佐為の中に

〔どれほど強くなるものなのか、いったいどのような強さを手に入れるのか、見届けてみたい〕

という興味と

〔そのような強さを手にしたAIが人間を追い越し、わたしやヒカルより先に神の一手に達するようなことがあったら〕

という不安が湧き起こるが、この時は興味の方が強かった。

 

この頃、棋界でも時代の変化を告げるようなことが生じていた。アキラがついに父を倒して名人位を得た。アキラが最初に父の名人位に挑んで4連敗を喫してから8年目。ヒカルが本因坊を手にしてから7年目。アキラもそれまでいくつかのタイトルを手にしてはいたが、名人位は格別だった。ヒカルは生涯のライバルが念願を達成したことを祝いたかったが、翌日、塔矢行洋が引退を表明したのを知って、祝って良いものかどうなのか、迷った。そんな時、アキラから電話があった。

「明日の夜、うちでささやかな祝賀会をやる。ボクの名人位獲得祝いと、父の引退祝いだ。キミも来てくれるね」

「えっ? オマエのタイトル獲得祝いはいいけど、先生の引退祝い?」

「ああ、ボクより父の方が喜んでるよ。『これで重荷から解放される』って」

翌日の夕方、ヒカルが塔矢邸に出向くと、すでにかなりのお客が来ていた。アキラは「ささやかな」と言っていたけど、どうして、なかなかの盛会。祝賀会が始まる頃には、緒方をはじめとする塔矢門下はもちろん、森下、一柳、座間などの同世代、そして珍しいことに、引退してからほとんど世間に現れることのない桑原も顔を出していた。宴がたけなわとなる頃、森下がぽつりとつぶやいた。

「とうとう、古い時代が終わるのかなあ」

同じ年にプロとなり互いに張り合うこともあった森下の言葉を、行洋が受ける。

「時代はいつかは終わるものです。それに、後続に乗り越えられるのは先達の本望でしょう」

その脇から桑原が口を挟む。

「『老兵は死なず、ただ消えゆくのみ』じゃな・・・・そうは言っても、いつまでも『死なず』と言ってもおられんな」

この言葉に、場の空気が固まりかけたところ、桑原がさらにとどめを刺す。

「そんなにたじろぐこともなかろう。人生の、人間の永遠の真理を語ったまでじゃ」

冷え切ってしまった雰囲気の中で、なぜか桑原には遠慮ない口をたたけるヒカルが

「桑原先生、いくら永遠の真理でも、それを言う時と場合があるでしょう。少しは状況を考えものを言ってくださいよ」

と文句をつける。すかさず桑原が

「よりによって、お主からそれを言われたくはないぞ」

と答えた。この問答に、座のあちこちにクスクス笑いが広がり、場の雰囲気が元に戻った。

 

8-2

 

2016年1月、ヒカルが開発チームを訪れると、興奮と意気消沈が入り交じったような雰囲気だった。

「どうしたの?」

と尋ねるヒカルにエンジニアの一人が

「これですよ」

と、雑誌のページを開いて見せた。『ネイチャー』という雑誌にAI碁の戦績が発表されたのだが、それがこれまでの常識を覆すものだった。前年の10月、AI碁が欧州チャンピオンを破ったのだ。しかも、そのプログラムの開発にはグーグルという巨大企業が係わっており、ディープラーニングという新しい手法を取り入れた成果だとのこと。そんな話をされてよく分からないヒカルに

「要するに、AI碁の能力を一気に高めたんだけど、これまでのボクたちのやり方が一気に時代遅れになるような出来事なんです」

と一人のメンバーが説明した。

 

それから2ヶ月しかたたない3月、アルファ碁と名付けられたこのAI碁は当時世界最強の棋士の一人とされていた韓国のイ・セドル9段を破った。5番勝負で4勝1敗、人間はAI相手にやっと1勝できただけだった。

 

ヒカルは、イ・セドル9段を破ったアルファ碁と対局したいと願う。それは佐為の願いでもある。

〔この者は、ひょっとして神の一手に届く者かもしれない〕

そんな思いを抱いている。開発チームのエンジニアは引き留めた。

「アルファ碁は去年の10月から今年の3月までの間に段違いに強くなった。欧州チャンピオンと言っても日本なら2段くらいです。それが、半年足らずで世界最強と言われるイ9段を破るまでになったんです。アルファ碁は1ヶ月でたぶん人間の1年分どころか、2年分、3年分の進歩をしてるんです。あれから1~2ヶ月すれば、さらにとてつもなく強くなっているはずです。とても太刀打ちできないでしょう」

「あんたたち、コンピューターのことは詳しくても、碁打ちの気持ちを知らないね。碁打ちは、『相手は強い』と言われたら、なおさら打ちたくなるんだよ」

「それだけじゃないんですよ」

ともう1人のエンジニアが口を挟んだ。

「アルファ碁はパソコンで動かせるようなちゃちなプログラムじゃないんです。それを動かすのに、パソコンを100台以上もつないだような巨大なコンピューターが必要なんです。1回の対局に必要な電気代がわたしたちの月給と同じくらいなんです。ほかにもいろんなコストがかかります」

「どれくらいかかるの?」

ヒカルは素朴に質問する。

「いや、それはわたしでは分かりませんが、100万円は下らないでしょう。何百万かも・・・・」

ヒカルは考えた。

〔それくらいなら1回のタイトル賞金よりは少ないな。使わないでそのまま口座に残ってるのが、それくらいはある〕

「それくらいなら、出すよ」

「進藤先生、本気ですか?」

「本気だよ。お金って、こういう時のために使うもんだろう」

《ヒカル、大丈夫なんですか?》

《大丈夫だよ。タイトル賞金がそれくらいは残ってるはずだよ》

開発チームのメンバーはみなあきれたような顔でヒカルを見つめる。ヒカルは、《何をあきれてるんだ》というような顔で見返す。

 

対局に当たってグーグルから、費用負担など経済的な条件のほかに、「進藤ヒカルは棋譜を含め対局に関する情報をグーグルの許可なく第三者に開示しない。棋譜の著作権はグーグルのみが保有し、宣伝広告などに自由に使える」という条件が提示された。ヒカルと佐為の関係については、佐為の能力はヒカルに附属するものと見なすという条項がある。あかりの会社の法務に確認したら、対局中にヒカルと佐為が協力するのを認めていると解釈されるとのこと。その法務担当者は、

「むしろ協力するのを期待していると思いますよ。その方が、勝利の宣伝効果が高いから」

と付け加えた。

《アルファ碁が勝つと信じてるんだな。オレと佐為、二人力を合わせてもアルファ碁に勝てないと確信してるんだ》

《なんとも、すさまじい自信ですね》

 

対局は5月3日。開発チームの大型コンピューターをアルファ碁の巨大コンピューターにつないで使わせてもらえることになった。このためにインターネット専用回線を特別に契約したとのこと。コンピューター関係のトラブルに備えてエンジニアが1人付き添い、グーグル側とのコミュニケーションが必要となる場合に備えて通訳としてあかりも立ち会う。

序盤は意外なほど平穏に進んだが、中盤でアルファ碁が放った一手にヒカルも佐為も息をのむ。二人とも思いつかなかった。打たれた瞬間、〔まさか、そこに〕と思った。よく考えてその手の意味が分ると、アルファ碁の読みの深さと人間には思いも及ばない大胆さに衝撃を受けた。一見、アルファ碁側の守りに隙ができると思われたが、これもよく検討してみると、隙を突き崩すことはできない。これで形勢が一気に傾くわけではない。しかし、手数を重ねるごとに形勢は少しずつ悪くなる。やがて右上辺で激しい打ち合いになったが、その最中にアルファ碁はその局面とはまったく関係のない中央部からやや左上にずれたところに打ち込んだ。ヒカルと佐為は意表を突かれた。その手を無視して右上辺に打ち込み続ければかなりの地を取れるが、その手数の間にアルファ碁が新たな局面でどの程度の地歩を築けるか、計算してみると右上辺を捨ててもアルファ碁に有利。かと言って、右上辺の攻防を捨てて新たな局面に応じても、自分たちに良い結果は得られないと見通せた。ヒカルと佐為が右上辺の攻防に注意を集中している時、相手は盤面全体を読んで、自分にもっとも有利な手を探し出したらしい。

《・・・・佐為、オレ、勝てる気がしない》

《わたしもです》

《勝てる気がしないけど、オレ、打ち切ってみたい。これからアルファ碁がどんな手を打ってきて、結果としてどんな棋譜ができあがるのか、見てみたい・・・・久しぶりだぜ、この感じ。負けが分っていても、自分を上回る相手の力を確かめてみたい、そして自分がどこまで戦えるか確かめたいという感じ。昔、碁を習いたての頃、オマエと対局して感じていた・・・・》

佐為も自分の幼い頃、碁を習い始めた頃のことを思い起こしていた。もう千年も前のこと。負けると分っていても師匠を相手に打ち続けた・・・・

《では、形勢をくつがえすことはできなくても、それでも、この場で一番良い手を考えましょう。この棋譜は、いずれ世界中の人の目に留まることになるのです》

ヒカルと佐為は打ち続けた。以後、アルファ碁は意表を突く手を打つことはなかったが、打てば打つほど、ヒカルと佐為の劣勢が少しずつ明らかになっていく。真綿で首を絞められるとは、このような状況なのか? やがて気がつくと、形勢はほとんど絶望的だった。ヒカルと佐為の完敗、アルファ碁の圧勝。

《ここまでだな。いくらなんでも、これ以上打ち続けるのは、無駄な抵抗だ》

《そうですね・・・・今日、この者が繰り出した手がほんとうに神の一手かどうか、それは神ならぬ身に判断しかねますが、わたしたちが遠く及ばない域に達していることは確かです。神の一手に届くのは、わたしたちではなく、この者でしょう》

ヒカルは投了をクリックした。全力を尽くしたという完全燃焼感と、どうしても乗り越えられない壁を目の前にして呆然と立ちすくむような無力感。佐為はさらにそれに加えて、脱力感、虚脱感、さらには虚無感さえ覚えた。いつか自分が達すると念じていた神の一手、その一手に届く者が自分ではない、人間でさえない異形の者であることを目の当たりにした何とも言えない空しさ。

《まさか、わたしが千年も追い求めていた神の一手が、このようにして達成されるとは・・・・それを求め続けたわたしの努力は、はかない幻だったのか・・・・。わたしは何のために千年のワガママを聞いてもらったのか・・・・何のために、かつて虎次郎の身を借り、今ヒカルの意識に住み着いたのか?・・・・それはすべて無駄なことだったのか?・・・・》

佐為のつぶやきにヒカルは何も答えることができず、ただ頭を垂れるだけ。そんなヒカルを見て心配そうにあかりが尋ねる。

「ヒカル、どうしたの?」

「佐為が落ち込んでんだ。自分が千年も追い求めていた神の一手が、AIで達成されることに落ち込んでるんだ。自分のしてきたことは幻だったのか、すべて無駄なことだったのかって」

あかりは考え込む。佐為の気持ちは分かる。ヒカルも同じような気持ちなんだろう。でも、そうじゃないと思う。千年もかけて夢を追い続けたこと、そのものに意味がある。そう話してくれたのは佐為じゃない・・・・。

「そんなことないよ。夢を追うこと、そのものに意味があるんだよ・・・・佐為がわたしに話してくれたじゃない。大学の推薦入学が決まった時に、人は夢を追うだけでも幸せなんだって・・・・」

1つの文章があかりの心に浮かんだ。大学で習い、印象深くあかりの心に刻み込まれている文章。

「“We are such stuff as dreams are made on”

『わたしたちは夢と同じ素材でできている』」

「何だよ、急に英語なんか」

「今、ふと思い出したの。大学の英語の授業で習ったの。シェークスピアの『テンペスト』の中のせりふの一節。印象深くて覚えてる。

“We are such stuff as dreams are made on”

『わたしたちは夢と同じ素材でできている』

わたしたちは夢でしかないの。でも、だからこそ、夢がわたしたちなのよ。夢見ることが人生なのよ。結果がどうであれ、夢を追い続けることができたのなら、それでいいじゃない。それで幸せじゃないの。千年も自分の夢を追い続けたって、すばらしいことだと思うわ」

《あかりちゃん、ありがとうございます。そう言われると、わたしも少しは浮かばれます》

「ヒカルも何か励ましてあげなさいよ。一番大切な人なんでしょう!」

「そんなこと言ったって、何をどう話していいのか・・・・」

「佐為と出会えてうれしかったんでしょう、楽しかったんでしょう、幸せだったんでしょう!」

「そうだよ。もちろんそうだよ・・・・そうだよ・・・・佐為が神の一手を夢見て碁盤に取り憑いてくれたから、オレは佐為に出会えたんだよ。オマエが夢を見続けてくれたから、オレはオマエに出会えたんだよ。それを、幻とか、無駄だったとか、言うんじゃないよ」

ヒカルは、初めはあかりに答えていたのに、いつの間にか佐為に語りかけていた。

《ヒカル、ありがとう。あかりちゃん、ありがとう・・・・そうですね。わたしが夢を見続けたから、ヒカルにも出会えたし、あかりちゃんにも出会えたんですね。それは、はかない幻でも、無駄なことでもなかったですよね。ごめんなさい。そんな言い方をしてしまって。あなたたちに出会えただけでも、わたしの夢は意味があるのですよね・・・・ありがとう。おかげで、わたしは心穏やかに成仏できそうですよ》

「成仏?」

ヒカルは佐為を見つめるけど、自分自身、アルファ碁の強さを身をもって実感した衝撃で、「成仏」という言葉について考えるゆとりがない。

 

8-3

 

帰宅してヒカルは、圧倒的な敗北の衝撃も徐々に鎮まり、今日の対局を碁盤に並べ、佐為と語り合っている。佐為もまた、衝撃から立ち直ったように見える。

《おもしれえ棋譜だな》

《はい、見慣れぬ石の流れです。美しいと言うのとは違う・・・・とても興味深いというか、謎めいているというか・・・・》

《そうだな・・・・しかし、強かったな。ほんとうに、碁を覚えたての頃、オマエと対局した時の感覚を思い出したぜ》

《わたしも、幼い頃、師匠に叩きのめされていた頃の感覚がよみがえりました》

《オマエにも、そんな時代があったんだな》

《それはそうです。生まれた時から碁の強い人などいません》

《アルファ碁って、開発されてから今の強さになるまで、何年だったんだろう》

《さあ、そいうことはさっぱり・・・・》

《まあ、オマエが分かるはずはないな・・・・エンジニアが『1ヶ月で人の2年分も3年分も進歩する』って言ってたけど、そしたら1年後にはどんなになってんだろう・・・・》

《この世の誰も勝てなくなってますね》

《それから先はどうするんだろう。この世の誰よりずば抜けて強くなって、それからさらに強くなろうとするんだろうか? なんのために? 競い合う者がいるんなら、もっと強くなろうと思うだろうけど、競い合う者がいないのに、なんのためにさらに強くなろうとするんだろう?》

《さあ、それは分りません》

《まあ、機械には心がないから「なんのために」なんて疑問も持たないんだろうなあ》

《あの者には心がないのですか?》

《そりゃあ、ないだろう。機械なんだから》

《それなら、会心の一手を打った時の喜びとか、相手に最善の一手を打たれた時の悔しさとか、自分と同じくらいの力量の持ち主と打ち合う時の楽しさとか、そんなことも感じないのですか?》

《たぶん、感じないだろう》

《それでは、いったいなんのために碁を打つんでしょう?》

《そんなこと、分んねえよ》

《そうですね。ヒカルに問うても仕方ないことですね・・・・ヒカルはいつだったか、子供たちに碁を打つ楽しさを教えたい、碁を打つのは幸せだと教えたいというようなことを語っていましたね・・・・そうそう、アキラに語っていたんです。4回目の北斗杯の後に》

《ああ、思い出した》

《たとえ、AIとやらが人間よりはるかに強くなったとしても、碁を打つのが楽しい限り、碁を打つのが幸せである限り、人が碁を打つのをやめることはないですね》

《そうだな》

《ヒカル、おじいさまの家の囲碁教室、これからもずっと続けてくださいね》

《もちろん、そのつもりだぜ》

そこでいったん話が途切れ、しばしの沈黙が流れる。佐為は思う。

〔ああ、できることなら、こんなふうにただ語り合っていたい。でも、それではいけない。わたしはもうじき消えてしまう。ヒカルにきちんと別れを告げないといけない。これまで止まっていた砂時計の砂が勢いよく落ち始めたのが分る。わたしに残された時間は少ない。ヒカルにきちんと別れを告げないと・・・・〕

それでも、佐為は決心がつかない。

《・・・・こどもの日のイベントは、あすではなくて、あさってですよね》

《そうだよ。今日はまだ5月3日だから》

《じゃあ、今夜は語り明かしませんか? 打ち明かすんでもいいですけど》

《打ち合いながら、語り明かそうか》

《ああ、それが一番楽しそう》

二人は碁盤をはさんで座り、碁を打ち始める。もう十何年もやってきたように、ヒカルは自分で石を打ち、佐為は扇で石を打つ目を示す。

《佐為、今夜はどうしたんだ? 寝ないでずっとこうやっているつもりか?》

《ヒカルが大丈夫なら、そうしていたいです》

こう語って、佐為は思い切って言葉を継いだ。

《残り少ない時間を、こうやって過ごしたいです》

《残り少ない?・・・・ひょっとして、今日の対局の後に「成仏」なんて言ってたけど・・・・》

ヒカルは視線を碁盤から上げ、佐為を見る。

《そうです。わたしの中で何か大きな力が動き始めたのを感じています。止まっていた時計が動き始めたような。どうやら、神様からいただいた千年の猶予期間が尽きるようです》

〔ああ、ついに、言ってしまった〕

《なにぃ!》

顔を引きつらせたヒカルを、佐為はできる限りのほほえみで見つめる。

《わたしは永遠にここに留まれる身ではないのです。わたしは、神の一手の行く末を見届けました。千年のワガママの目的が遂げられたのです。そして、この地上を離れてあの世で為すべきこともあります》

《為すべきことって?》

《虎次郎に詫びることです》

ヒカルは何も言葉が出ず、ただ佐為を見つめる。

《悲しまないで、と言ってもヒカルは悲しむでしょう。でも、やはり悲しまないでほしい。わたしは運命を静かに受け入れることにしたんです。それに、すばらしい運命でしたよ。あかりちゃんが語ってくれたように、千年も自分の夢を追い続けることができたんですから。そして、ヒカルと出会えたんだから。あかりちゃんとも。これまで十何年、とても楽しかったですよ。幸せでした。そして今日、うちひしがれたわたしを救ってくれました。あの言葉。おかげでわたしは心穏やかに消えていけるんです。ほんとうにありがとう》

ヒカルは、ただ佐為を見つめる。

《ヒカル、あなたが打つ番ですよ。これがきっと最後の夜です。「碁を打てれば幸せ」というヒカル、碁を打ち明かしましょう。涙がにじんで、打ち間違えないようにね》

《涙なんか、流してねえよ》

ヒカルは碁盤に石を置く。それを受けて、佐為が打つべき場所を扇で示す。またヒカルが打つ。静かに更けていく夜、石の音がパチリ、パチリと響く。佐為がしばし手を止めて碁盤を眺める。

《こうして見ると、ほんとうにヒカルの碁の中にわたしがいるんですねえ・・・・ヒカルの手筋にわたしの手筋が流れている・・・・》

そして、佐為が打つ手を扇で示す。時おり言葉を交わすけど、言葉を交わさなくても、碁を打ち合うだけで、心が通じ合う。

〔そうです。ヒカルと過ごせる残り少ない時間。こうやって碁を打つより以上の過ごし方はないはず。ヒカルもきっと分ってくれる・・・・〕

やがて初夏の短い夜が明け、部屋の中も明るくなり始める。

《ああ、夜が明けましたよ・・・・ヒカル、あすのイベントにもあのパネルは持っていくんですよね》

《もちろんさ》

《今、出してくれませんか。一緒に見たいです》

ヒカルは引き出しからプレートを取り出す。佐為はそれを見ながら優しくほほえむ。

《子供たちにとってはこれからもずっと、ヒカルは『サイとヒカル』のヒーローであり続けるでしょう》

《もちろんだよ》

二人はプレートの犀と太陽の絵を眺める。そうしているうちに、佐為の姿が徐々に薄くなる。

《佐為!》

《ヒカル、どうか悲しまないで。わたしは心穏やかに消えていくのです》

ヒカルが言葉もなく見つめる中で、佐為の姿が消えていき、しばらくその優しいほほえみの雰囲気がただよっていた。そして、それもしだいに薄くなっていく。

 

翌日、ヒカルはイベント会場にいつものようにサイとヒカルのプレートを掲げて入る。待ち受けた子供たちが

「サイとヒカル!」

と歓声を上げた。

 



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