ネコ拾ったら、自称未来人から電話が来た (菓子子)
しおりを挟む

プロローグ
一話『ネコ拾った』


独自設定が多分に含まれています。
認知世界の他に、新たなSF要素があります。
拙作『もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会ったら』とは何の関係もありません。
一部の原作キャラが、不幸な目に遭う可能性があります。
『それでもいいよ!』という方は、どうぞお付き合いくださいませ。


 道端で猫が倒れていた。

 それも雨が降る中。立ち上がることもしないで、その猫は濡れるアスファルトの上に身体をさらけ出している。体中に傷があるようだから、このまま放っておけば、それが息を止めるのも時間の問題だろう。

 

「……うげー」

 

 やってしまった。

 いつもと違う道のりで帰って来たのが裏目にでた。

 少なくともいつも通りに帰って来てさえいれば、あまりにも胸糞悪いこの光景を見ずに済んだのに。

 今まで歩いてきことで生まれた慣性に従って、猫の前を通り過ぎる。

 猫は助けを求めようと、鳴いては来なかった。

 ただ黙って私の目を見続けている。

 

「……」

 

 そのまま見捨ててしまえばいい。

 私の人格の一つがそう言った。

 でも、きっと後悔する。

 と私は思った。

 目もくれずに帰ってしまえば、いつか私はその光景を思い出してしまう。

 例えば降りしきる雨の中。

 例えば猫カフェで奴らの肉球を愛でている時。

 例えば魔女宅で黒猫のジジが雨に濡れている時。

 私は路傍の石ころみたいに横たわっている黒猫を思い出して、ウンザリしたり、激しく後悔したりするのだ。

 だから。

 

「……チッ」

 

 私は身を翻して、黒猫の傍まで寄る。

 何の反応も見せない黒猫にちょっと苛立って、乱暴に背中の皮を掴んで持ち上げた。

 

「今からお前を私の家に持ち帰る」

「……」

「別に、お前の為じゃないからな。あくまで私のためだ」

「……」

 

 そう。

 この黒猫の為じゃない。

 精神衛生的な意味で明るい未来を生きたいと願う私の将来のためだ。

 

「以上。文句はあるか。あるなら『にゃあ』ではなく、ちゃんと『ある』と言え」

「……ある」

「うわぁ!?」

 

 猫が喋った!?

 私はほぼ無意識に黒猫を放り投げた。

 黒猫は一度壁に張り付き、重力に従って落ちて「ぐぇ」と奇妙な声を出した。

 雨脚が強くなる。私は派手な尻もちをついている。

 それが私と、喋る奇妙な黒猫との出会いだった。

 

 

 

 

「いてぇ! おい、もうちょっと優しーくっ……い、いてぇ……」

 

 早速連れ帰り、私は黒猫の身体を洗う。素手で毛をこする度に真っ白な泡が茶色に変わっていく。これは時間が掛かりそうだな……。

 猫の洗い方、これで合っているかも分からないし。まあいいや。誰かに見られている訳じゃない。

 

「泣き言言うな。傷口からばい菌が入ってたら面倒だからな。男なんだからちょっとは我慢……ん? お前、男なのか?」

「し、染みる……。え? あ、ああ、正真正銘の男だが……」

「ほぅ。どれ、確かめさせろ」

「確かめるったって、何を、」

 

 黒猫の股間をまさぐってみる。

 

「ギニャー!」

「……あ、ついてる」

 

 ちゃんとしかるべき部位は備わっていた。

 

「な、なんでワガハイがこんな目に……。うぅ、拾われるなら可愛い女の子が良かったぜ……」

「下心丸出しだな」

「具体的には、金髪でツインテールの、モデル体型かつハーフの美女」

「ダダ洩れじゃないか……」

 

 具体的に過ぎる。そんな奴、蒼山一丁目を捜し歩いても早々見つからないだろう。

 というか知り合いにいた。名前は……忘れてしまったけれど。

 

「悪かったな、私で」

「うむ。苦しゅうない」

「……」

「いてぇ! 無言で傷口にシャワーを掛けるのはやめろ!?」

 

 コイツとはいい友人になれそうだ。

 一通り黒猫の身体を洗った後、シャワーを被せてタオルで覆う。

 乾いたタオルで黒猫の身体を拭いて廊下へとやった。私は冷蔵庫へと向かう。

 キャットフードは勿論ない。アイツが食べられそうなのは……一つ寂しく横たわっている魚肉ソーセージ。

 牛乳は……結局猫にはダメなんだっけ? まあ、ちょっとくらいならいいだろう。

 洗面所向かいの台所で、魚肉ソーセージを輪切りにしながら、居間を遠目で覗いてみる。

 ミニマリストに目覚めてしまったようにほとんど何もない部屋に、かろうじて自分の場所を見つけたのか黒猫はソファーで丸くなっていた。ちなみにコタツはない。

 

「おい。寝るな」

「……んぁ?」

「寝るな。食え。さもなくば俺、お前、まるかじり」

「分かったよ……」

 

 捨て猫の分際なのに、しぶしぶといった様子で魚肉ソーセージを食べているのが気に食わない。

 猫か。

 まさか、私以外の異物を部屋に入らせているなんて、数か月前の私に言えば卒倒するに違いない。そう思えば、私も随分丸くなったものだ。

 狭い長屋のマンションの一室にあるなけなしのスペースの一部を、ベッドやらテレビやらゲームやらが占拠して更に狭くなった所に黒猫一匹。

 光源のないほの暗い空間にマッチしているような気がしたし、生活感のある部屋に野良猫一匹はチグハグな気もする。

 

「……」

 

 ずっと猫の食事風景を眺めていても腹は膨れそうにない。

 私は立ち上がって、冷蔵庫で冷やしてあるスプライトを取り出し、コップに注いだ。

 一気に飲み干す前に、一度私もシャワーを浴びておこうか悩む。

 ……やめておこう。黒猫に聞きたいことが山ほどある。

 

「なぁ」

 

 と思っていたら機先を制された。黒猫が食べる手(口?)を止めている。

 

「なんて呼べばいい」

「何を?」

「お前を」

 

 相手に名前を聞くときはまず自分から名乗り出るというルールは、猫界では適応されていないらしい。

 

「サトナカ、シノブ。里芋のサトに、真ん中のナカ、名前は忍者のニンの字。里中忍」

「職業は?」

「学生。秀尽学園二年」

「ここは?」

「下宿先」

「……高校生で下宿か。いいご身分だな」と猫は言った、「それとも、前科で飛ばされたのか?」

「放っとけ」と私は言った。「んで、さっさと本題を話せ」

「……どうして今までのが前置きだって分かったんだ?」

「私の個人情報を得た所で、何の足しにもならないだろ」

「確かに……そうだな」

 

 納得されてしまった。いや、まあ、そうなんだけど。

 

「何故ワガハイの声が聞けるんだ?」

「は……」

 

 またしても機先を制された。

 というか、え?

 知らないの?

 

「丸っきり、こっちの台詞、なんだが」

「……そうか」

 

 しかし、黒猫は私の返答をある程度予想していたらしい。

一丁前に目を細めて、じっと考え込むようにしている。

 

「異世界」

「え?」

「異世界、に行ったことはあるか?」

「はぁ?」

 

 多少わざと、小馬鹿にするつもりで黒猫を煽る。でも、黒猫はじっと私の目を見つめていた。

 ということはつまり、異世界が本当にあるのか、異世界が本当にあることを黒猫が信じているかの二択になる。

 異世界。……異世界か。

 

「何故か日本語が通じて、日本人がやって来た瞬間にチート能力を手に入れて、名声ガッポガポで、ヒロインがウハウハのあれか」

「違ぇよ」

「じゃあ、女性の顔が皆整っていて、髪が不可思議な色に染まってて、ダンジョンが沢山あって、ヒロインがウハウハのあれか」

「それも違ぇ! ……てか、それどっちも本質的に一緒じゃねーか」

 

 そうだった。

 それに、ヒロインがウハウハなのは避けられない運命。運命と書いてサダメと読む人は、きっと私と友達になれる。

 

「あるのか?」

「なんだ?」

「異世界」

「あるに決まってる」黒猫は言い切った。「……あ、もしやシノブ、信じてないな?」

 

 ま、説明しても無駄だろうから諦める。と、何一つ信用されていないのに、黒猫は上から目線で何か言ってる。

 異世界がどうのこうのよりも、何気にファーストネームで呼ばれていることに疑問を呈したかった。

 まあ、コイツともたかが多くて二、三日ほどの付き合いなるはずだから、必死こいて訂正する気力も沸かないな。

 

「え、二、三日!?」

「なんだよ」

「シノブ、まさか、ワガハイをまた外に放り出すつもりなのか?」

 

 その弱弱しい声と共に、自信満々な黒猫の表情は鳴りを潜めた。

 そんなかわいそうな子猫の振りをされようが……くぅ、意外と可愛いな。

 しかし。ここは心を鬼にしなければならない。

 いや、()()()()()にしないと。

 

「むしろ、今すぐにでも出て行って欲しいところだ。でも、傷だらけのお前を出しても良心が痛むから。だから、傷がある程度癒えるまで……その為の、三日の執行猶予だ」

「……だが、」

「だが、じゃない。でも、じゃない。言ったろ、これは私のためだって。お前を助けたのは、私の自己満で、お前を満足させる為じゃない」

「……。分かったよ」

 

 猫を飼うということは、自分に依存されるということだ。

 そんな一方的すぎる関係を、私は望まない。

 

「お前に、ビビッとくるものがあったんだがな。……ワガハイの勘違いだったようだ。メメントスも知らないようなら、ここに居る意味がない」

「え、ん、いや、待って?」

「なんだ?」

「今なんて言った? メントス?」

「メメントスだ」

 

 その言葉に変な引っかかりを覚えた。

 私が引っかかったものは何なのかを思い出す。

 ……。

 

「……あれ、」

「?」

「あれ、夢じゃなかったのか」

 

 私が、ひょっとしたら喋る猫に会った時より驚いた、あの怪奇現象。

 あまりにも現実味がなさすぎて、その時は夢だということで処理してしまっていたんだけど……。

 

「もしかして、行ったことがあるのか?」

「行った、といえば行ったことになるの、かな」

 

 厳密に言うなら、気付いたらそこに居た。という感じだ。

 

 鴨志田の熱血すぎる授業にウンザリして、体育の授業を抜け出した私は、何をする訳でもないけど渋谷の雑踏の中にいた。

 多分、気を紛らわせていたんだろう。鴨志田のねめつけるような視線と、次第に付いていくことが難しくなっている数学の宇佐美の授業から、私は逃げていた。

 TSUTAYAで借りたCDのループが終わってしまったので、別の曲を聞こうとスマホを開いた。

 すると、見たことのないアプリのアイコンが、ホーム画面に映し出さていた。

 

『なんだ、これ……』

 

 暗い赤色の背景の他にはなにも書かれていない、いかにも気味が悪いアプリ。

 もちろん能動的に入れた記憶はない。

 新手のスパイアプリかもしれないな。と、少し軽率にそのアプリのアイコンを押した後に、

 

『新商品ですよー! 無料配布中でーす如何ですかー!』

 

 威勢の良い声が、溢れんばかりの人が鳴らす足音の中でもよく響いた。

 声のする方向に目を向けると、前方にまとまった人だかりが見えた。

 もしや、あれは。

 

『モンスター……』

 

 風の噂で、あのエナジードリンク会社は、ゲリラ的に道中で新作の無料配布を行っていると聞いたことがある。

 ついに私にもツキが回ってきたか。

 確信した私は、意気揚々と足を踏み出す。

 しかし。

 

『ありがとうございあしたー!』

 

 人ごみに揉むに揉まれて手に入れたのは、魔剤ではなく錠剤を膨らませた形をしたお菓子だった。

 そう。

 コーラに投入したらアレするアレだ。

 半ば引き気味に、手にしたそれの名前をボソボソ呟いていると。

 気づいた時には、私は禍々しい気配を漂わせている空間に佇んでいた。

 冗談のような話だが、いや、冗談のような話だったので、私は死に狂いで走り回った。

気付いたら街の中に戻っていて、気付いたら私の住むマンションに住んでいて、気付いたらベッドで突っ伏していた。

 

 あの体験が決して夢ではなくて、あそこが黒猫の言う異世界だったとするならば。

きっと話は変わって来る。

 

「そこだ! そこがメメントスだ」

 

 あらかた話をすると黒猫は言った。

 

「きっと、そこで喋っているワガハイを認知したのかもしれないな」

 

 日常会話では聞きなれない単語が飛び出した。

 認知した?

 それに……いや、記憶は朧気だけど、喋る猫と出くわした記憶は流石にない。

 喋る二頭身の変なバケモノは見たような気もするが……。

 

「異世界に入れるアプリか。……そのアプリの正体も気になるが、シノブ、パレスは知ってるか?」

「いや、知らないけど」

 

 メメントス? パレス?

 ……やばい、頭が混乱してきた。

 色々と詰め込みすぎじゃないか?

 まあいい、難しいことは明日考えよう。

 今日はもう寝ようぜ。

 

「分かった。まあ、何日掛かるか分からないが、シノブに異世界のこと、みっちり教えてやる」

「いや、お前は傷が癒えたらさっさと出て行け……」

 

 長いこと居座るつもりか?

 その手には乗らない。

 

「あ、」

 

 私が質問したかったことを訊いてくれたおかげで、忘れるところだった。

 もう一つの質問。

 

「名前」

「なんだ?」

「お前の名前。まだ、聞いてない」

 

 たかが三日。されど、三日間『お前』で突き通すには、ちょっと不便だろう。

 辺りももう暗くなり始めている。黒猫の黒い瞳が大きくなっていた。

 

「モルガナだ」

 




よろしくお願いします!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話『アマミヤ君』

「……ん………」

 

 スマホのアラーム音で目が覚める。

 眠い。休みたい。二度寝したい。

 でも、遅刻や欠席を繰り返していると高校を卒業することはできない。

 あんな所にもう一年過ごすのはかなり地獄だ。だから私は起きないといけない。

 仰向けのまま、両手を上に突き上げて伸びをする。段々と全身の感覚が脳内に伝わってくる。

 

「ん……?」

 

 下腹部に違和感があった。突き上げた手を前方に降ろして、その違和感の正体を突き止める。

 この感触……モルガナだ。

 昨日からここで居候をしている喋る猫。

 喋る猫なら、押し入れに布団をしいて寝させてやりたかったが、残念ながらこの部屋には押し入れも予備の布団もない。

 

「んあ……?」

 

 ひとしきり猫の柔らかい肉球を堪能していると、起きたのかモルガナは呆けた声をあげた。

 

「あ……ああ、シノブか。今日はよく眠れたぜ」

「ネコの睡眠事情は……ああ、別に聞いてない」

 

 寝起きの癖によく舌が回るな。かなり朝に強い体質のようだ。

 腹で丸まっていたことについては言及しないで、モルガナは私の身体から降りる。

 私もようやく頭が冴えてくる。立ち上がり、歯磨きを開始する。

 

「朝飯、食べないのか?」

「ああ」私は頷いた。「飯代が……ああ、もったいないからな」

 

 こちらの舌はまだ回っていない。しかし舌を噛んでいないので、疲れはキチンと取れていることが分かる。

 口の中をすすいだ後、鏡台に立ってそばに掛けてあるハンガーを手に取る。もちろん秀尽学園の制服だ。

 私はこの制服を割と気に入っている。ブレザーのボタンが赤色のところとかは、かなり芸術点が高い……と思っているんだけど。

 それでも物足りないと思っている人は割と多いらしい。

 例えば……例えば、そう。

 

「金髪ツインテールで、モデル体型かつハーフの美女のあいつ、とか」

「金髪ツインテールで、モデル体型かつハーフの美女がどうしたって?」

 

 おおう、無意識に声に出していたようだ。

 そしてモルガナのレスポンスも異常に早い。本当に寝起きか?

 

「制服の服装にアレンジメントを加えて登校してるんだよ、彼女」

「制服なのにか?」

「ああ、うん」

「なぜだ?」

「ああ、うん、どうだろ」と私は言って、ちょっと考える。「周りに合わせるのが嫌なんだろ。無個性だ個性だって、ほら、よくあることだし」

 

 考えてもあまり分からなかったので、適当な一般論を言ってみる。

 

「ふうん」曖昧な返答だった。「シノブもそういうの、苦手そうだけどな」

「何が」

「周りに合わせることだ」

「……かもな」

「でも制服はちゃんと着るつもりなのか」

「え、普通嫌だろ。目立つし」

 

 詳細は覚えていないけれど、彼女の赤いタイツがやけに目に焼き付いている。

 赤だけに。

 ……まだちゃんと目が覚めていないのかもしれない。

 

「……シノブのその一貫してないとこ、ワガハイは嫌いじゃないぜ」

「何だよそれ。きも。……って、」

 

 目を離していると、モルガナがどこかに消えていた。

 ……。

 いた。

 いやー、モルガナはかくれんぼが上手いな。自身の体毛を利用して、保護色で隠れるとは。恐れ入った。

 じゃなくて。

 

「どうして私の学校鞄に入ってる」

「ワガハイもシュージンに行きたい」

「ネコはネコらしく家にいとけよ……」

 

 どうしてそうなる。面倒だなぁ……それに、言っても聞かないんだろうなぁ。

 今更のことながら、あの日モルガナと会ってしまったことに対する後悔を更に深めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 昨日の寝るまでの間、そして学校で鴨志田の嫌味を吐かれる前に、モルガナから『認知世界』についての大体の説明を受けた。

 欲望が歪んでいたり、よくないことを企んでいる人は、認知世界に自身の住処である『パレス』を持っている。

 パレスの最奥地には『オタカラ』が眠っていて、それに引き寄せられるように、多くのモンスター『シャドウ』が住み着いている。

 そのシャドウに対して、自身の奥深くに眠っている人格である『ペルソナ』を覚醒させることで、対抗する手段を得ることができる。

 パレスに住む主をとっちめると、現実世界の悪者は改心されて善良な人になる。逆にその主を殺してしまえば、その悪者は廃人になる。

 『メメントス』は人々の意識の集合体であり、少し汚れた欲望を持っている人や小悪党のシャドウがうろついている、とのことらしい。

 

「……」

 

 またいらぬ知識を増やしてしまった。

 悪者? 改心?

 『悪い人がいると許しておけない』と考える高校生が、今時いるとでも、本当にモルガナは思っているのだろうか。

 悪いことを企む輩はこの世にごまんといる。

 それは、SNS等で色々と可視化されてしまった世の中では、分かり切っていることだ。

 性悪説とか、性善説についてはよく知らないけれど。

 東京に人が溢れかえっている限り、しょうもないことを考える阿呆がこの世に生み出されてしまう現状は変えられない。

 変えられないから、無視を決め込むしかない。

 せめて私の精神衛生が悪くならないように、見ざる言わざる聞かざる、だ。

 人と関わるのが嫌いな私の性のルーツは、ここにあるのかもしれない、と一人脳内で思った。

 

「……どうだ? 後から見た教室の景色は」

 

 私は小声でモルガナに話しかける。クラスメイトは私に関心を抱いていないと思うから、一人言を呟いていても誰にも気づかれない、と思う。

 それに……最近の話題は、専ら噂の転校生だ。

 

「ああ、いい眺めだな」

 

 本当かよ。

 

「それにしても……なんだ? 随分教室の中が騒がしいぜ。いつもこうなのか、シノブ?」

「いや」と私は言った。「最近転入してきた転校生のことだろう。それで持ち切りだ」

「名前は?」

「知らん」

「だろうな」

「……」

 

 そろそろ私の性格が見破られてきたか。

 気を取り直して、目の前にいる転校生をチラと見る。

 なんでも、著名な政治家に暴力を働いたとかなんとか。

 そして在学していた高校に見放され、泣く泣くこの秀尽学園にやって来たんだとか。

 どうして暴力を振るったのか。今は何も動きを見せていないが、どれほどヤバい奴なのか。根も葉もない噂が更に噂を呼んで、最終的には人殺しだという噂がまことしやかに囁かれている。

 というのは半分本当で、半分嘘だ。

 

「……」

 

 彼の話題があがるのは、ほとんど女子達だけの間だ。

 転校生。キッチリセットした髪と大きな眼鏡にガードされて、彼の表情を窺うことができない。

 牛丸や宇佐美の、無理難題な質問にも難なく答えて見せる頭の良さ。

 人を寄せ付けないアウトローな雰囲気。陳腐な表現だけど、孤高の狼のような気高さがある。

 そして何より、彼はぐうの音も出ないほどのイケメンだった。

 

「ね、ねぇ。私話しかけてみよっかな」

「やめときなって。そしたら、色んな女子全員から目の敵にされるよ」

「私、廊下歩いてた時……目、合っちゃったかも」

「マジ!? ヤダ、本当?」

 

 教室の隅っこの方で、女子生徒が盛り上がっている。

 男子生徒の方も、彼との距離を計りかねているのか、どことなく緊張感が漂っている。

 見ていてイライラする光景だった。

 

「すげぇな……」

「そうだな。少女漫画に出てくるヒーローみたいだからな。いかにもアウトロー気取ってて、頭も良くて、寡黙で、イケメンで、一匹狼で」

「……はぁ」

「なんだよ、猫」

「猫じゃねぇ、モルガナだ。……別に、嫌ってやる理由はないと思うけどな」

「嫌う、だ? 誰が、誰をだよ」

「シノブが、転校生に」

「別に嫌ってねぇよ」と私は言った。「いつ私が嫌いだなんて言った」

「イケメンなのは彼の責任じゃないし、彼の親にある。頭がいいのは単純に彼の努力の結果だ。僻むのは結構なことだが、それじゃいつまでたっても前に進めないぜ」

「ああ、そうかよ」と私は言った。「私はどうせブサいし、頭も悪いし、ついでに強キャラを僻み続けるただのモブだよ」

「あ、ああ、いや、別にそこまでは言ってないだろ」

「じゃあ、どこまで言ったんだ?」

「……スマン。ワガハイが悪かった」

「うん」

 

 猫相手にいじけてしまった。

 軽率にまた自分が嫌いになる。

 

「……あ、えっと、肉球、また揉んでいいから」

「……ん」

 

 更には気を遣われてしまった。

 ……というか朝のこと、覚えていたのか。

 

「はーい、静かにー」

 

 教室の扉が開かれる音と共に、川上の間延びした声が耳に届く。

 

「アイツは?」

「私の担任」

 

 そして、一時間目の『国語』の授業を担当している人。今日も化粧で誤魔化しきれていない眠そうな目を擦りながら、つつがなくホームルームを進めている。

 眠そうだということは、夜遅くまで起きて何かをしているということだ。

 教師の残業か……あ、いや、そういえばこの前、定時に帰りすぎていると、川上が蝶野に窘められているのを見たことがある。

 じゃあ……何してるんだ?

 まあいいや。関わると余計なことになりそうだ。

 私は自分の腕を持ち上げて、机の上に置いた。

 そして、ちょうど骨が当たらない腕の部分に顔をうずめる。

 

「寝るのか?」

「見ての通り」

「起こされないのか?」

「起こされないよ」

 

 教師は大雑把に言えば二つの種類に分けられる。寝ている生徒を起こす教師と、寝ている生徒を起こさない教師だ。

 ……いや、それはあまりにも直接的すぎるか。

 それっぽく言うならば、やる気のない生徒を正す教師と、放置する教師、だな。

 川上は完全に後者の方に属している。あとは歴史の乾と、ウサミンこと数学の宇佐美。

 一方で前者は英語の蝶野と、チョーク投げ担当の牛丸。

 中二病の蛭田は、なんか『あぁ……なんということだ』とか言って嘆きだすので論外。

 

 今日も今日とて退屈な学校生活が始まる。

 寝てようが起きていようが退屈であるのなら、せめてその時間を短くしたいと考えるのは当然だ。

 だから私は寝る。

 と、頼まれてもいないのに私は勝手に理屈をつけて、机に突っ伏す。

 目を閉じると、自然と聴覚が研ぎ澄まされる、ような感覚になる。

 川上が喋っているけど、まだ女子生徒の熱は収まっていないようだ。

 時折耳に入って来る、『アマミヤクン』という単語。

 どうやら彼は、雨宮という苗字を持っているらしい。

 ……それにしても。

 

「本当に」

 

 切り替えの早い連中だ。

 

 ――先週、屋上から人が飛び降りたばかりだと言うのに。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話『着信アリ』

「……ぇ」

 

 声がした。

 それ以上の何かを考えられるほど、まだ私の頭は覚醒していない。

 

「ねぇ」

 

 今度はより多くの情報を得ることができた。

 誰かが私を起こしている。

 女の声。

 若い。つまり先生ではなく、女子生徒の声。

 寝ぼけている私の気を窺うような繊細さは感じられない。

 気の強そうな女だ。

 私は顔を上げた。

 

「ねぇ、起きなよ」

「……ん?」

「もう皆、着替えて体育館のとこ行ったんだけど。……また鴨志田に、余計なこと、言われるよ」

「ああ」

 

 思い出した。

 名前。

 金髪ツインテールで、モデル体型かつハーフの美女、の名前。

 

「……高巻、杏」

「はぁ、ようやく私の名前、憶えてくれたんだ」

 

 高巻は力なく肩を落とした。愛想を振るような笑みはない。

 

「何か用」

「何か用……って、だから、起こしてあげてんの」

「なんで」

「体育が……ってかヤバッ! もう始まるじゃん……」

 

 高巻がスマホを見てゲンナリしている。十分休憩も終わる時間なのだろう。

 しかしまだ、私の質問に高巻は答えてくれていない。

 

「だから、なんで」

「……はい?」

「なんでわざわざ、ほとんど面識のない私を起こそうとする?」

 

 それも毎回、だ。

 高巻杏は、体育の授業の度に寝ている私に声を掛ける。

 一年の時もクラスが一緒だったのに、一度だって話し掛けられたことのなかった彼女が。

 『あの事件』を境にして。

 クラスで孤立している私に声を掛けるようになった。

 

「そっ、それ……は……」

「……」

 

 明らかに高巻杏の目が泳いでいる。水色の瞳がぐるりと弧を描く。

 

「部活の先輩! ……に、気になる人がいてさ」

「私、帰宅部だけど」

「……っ。べっ、別に、アンタのお金が目当てとかじゃないし!」

「お金が目当てだったんだ!?」

 

 ええ!?

 下宿暮らしで、それこそ貧窮に喘いでいる私から。

 更にお金を巻き上げようって言うのか。

 お、恐ろしい女だ……。

 

「いや、申し訳ないけど私、一文無しだよ。……なんなら、ジャンプしてみようか?」

「ジャ……ジャンプ? 待って、何の話?」

「……いや、なんでもない」

 

 冗談が通じなかった。

 カツアゲをする時に、相手にジャンプさせる文化はやはり廃れ気味にあるらしい。

 ともかく。

 お金目当てじゃないのなら(当たり前だけど)、どうして彼女が私に話し掛けるのか。

 別に仲良しこよしになろうってつもりでもないだろう。

 高巻杏も、どちらかと言えば人を遠ざけるタイプの人だから。

 それでも私にほぼ毎日、人のいない時を狙って話し掛けてくる理由。

 答えは一つしかない、と思う。

 

 

「私は、彼女の代わりにはなれないよ」

 

 

 高巻杏の顔が一瞬、表情をなくした。

 カマを掛けてみたら大正解だった。

 あと、高巻杏は演技をすることが下手な人種であるらしい。

 顔に出ている。

 でも、そうか。……合っているのか。

 なら私は、とてもひどいことを高巻杏に言っていることになる。

 

「先週の……金曜日だっけ? バレー部で、屋上から」

 

 ええと……4/15か。飛び降りた人の名前は、案の定憶えていない。

 ともかく、先週の金曜日に、飛び降り自殺を図った生徒がいた。

 原因は分かっていない。少なくとも、校長の言い分は『我が校にイジメはない』だそうだ。

 実際のところ、イジメというより、部活関係の線が濃厚らしい。

 なんでも、バレーのレギュラーになれなくて、精神的に不安定になった……んだとか。

 

「彼女が、高巻の友達だったことは最近知った」

 

 高巻杏にとって、この高校唯一の友達がいなくなった。

 当然、彼女は正真正銘に秀尽学園から孤立することになる。

 彼女はそれを良しとはしなかった。

 だから、誰でもいいから話相手を求めた。

 そういうシナリオじゃないのか?

 

「彼女が秀尽にいないから寂しい、というのは分かる。でも、わざわざ私に話し掛けなくたっていいだろ」

 

 この学園にも、他の学校の例に漏れず『カースト制度』なるものが絶対的なルールとして敷かれている。

 そのカーストの中にも、まとまったグループが形成されているから。

 別のグループに属している生徒が、あるグループにいる生徒に話しかけることは普通ない。

 だから、どのグループにも入っていない私に話し掛けることが、一番ダメージの被害が少ない。

 それは分かる。

 でも。

 

「落っこちた彼女。……確か、打ち所が意外と悪くなくて、今はもうリハビリ療養中だそうじゃないか。もうお見舞いにはいったんだろう? その内戻って来るさ。だから、無理に寂しさを埋めようと努力するのは焦りすぎだと思うん、だけど」

 

「……そんなんじゃ、ない」

 

 高巻杏は小さく呟いた。心なしか、肩が震えている気がする。

 

「……なんだっていいけどさ。まあ、私には近寄らない方が――」

「そんなんじゃない、って言ってるでしょ! 又聞きの情報だけで、勝手に私を判断しないで!」

「……っ」

 

 驚いた。

 高巻杏が怒っている。

 いつも不機嫌そうな面を下げている印象はあったが、その端正な顔で睨まれるとなかなかどうして、迫力がある。

 ひょっとすると、隣の教室にも聞こえて……いや。今はそんなこと、気にするべきじゃないか。

 相手を怒らせてしまった。じゃあ私は、どうすればいい?

 

「ごめん」

 

 だからもう、放っておいてくれ。と。

 私は私なりの意志を、高巻杏に伝えたはずだった。

 しかし。

 

「別に、いい。……私、先行ってるから」

 

 だから、アンタもその内来てよね。と。

 高巻杏の意志が聞こえた気がした。

 バタン、と乱暴に扉が閉められる。その後、バタバタと乱暴な足音が聞こえてくる。

 私一人、教室に取り残される。

 誰もいなくなった教室に、机に寄りかかり、ひっそりと佇む私。

 ふ……。

 

「何だあの美女!?」

「うわぁ!?」

 

 私は大きくのけ反った。その拍子に手が滑り、私の身体は崩れ落ち、尻もちをついた。

 いやもう一人……一匹いたわ。

 無意味に格好つけていたところに思いっきり水を差されてしまった。

 野郎。

 私は思いっきりモルガナを睨みつける。

 

「なぁ、なあなあ、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよー、このこの!」

 

 イケメン男性との熱愛が発覚し、それに気づいたOL仲間が頬を染めて絡んできた時並みのウザさを発揮しながら、モルガナは肉球で私の足を突いてくる。ウザい。

 

「な、名前は? 名前はなんて言うんだ?」

「あ? さっき言っただろ、私が。高巻杏だよ、高巻杏」

「杏……杏、かー。いい名前だなー。杏……杏殿。そうだ、杏殿と呼ぼう、そうしよう」

 

 構ってられない。

 飼い主を差し置いて何故高巻がそう呼ばれるのか、とか疑問に思わない。

 私は一匹浮かれ気分のモルガナを無視して、倒れた机を立て直す。

 

「今度はいつ杏殿と話すんだ?」

「おい猫、さっきの話ちゃんと聞いてたか。未来永劫、私は高巻と話すつもりはない」

「そ……そんな……シノブ……」

 

 愕然とした表情を浮かべるモルガナ。

 私は椅子に座りなおして、今はどんな行動に出るべきかを考える。

 潔く高巻の言うことに従って、体育館に顔を出すか。

 またこのまま寝たふりを決め込むか。

 それとも体調が悪いと川上に告げて、そのまま帰ってやるか。

 悩ましい。

 

「にしても、あれだよな」

「どれだよな?」

「物好きな人もいるものだなって、思った」

「全くだ」と私は言った。「次に飼うなら、家で静かに過ごしてくれて、余計なことは言わない、血統書付きの、一日の疲れを癒してくれる猫を飼おう」

「……ああ、そうかよ」とモルガナは言った、「ワガハイはどうせ飼い主に付いて来る面倒な奴で、減らず口を叩くし、ついでに出処不明で疲れを溜まらせる猫だよな」

「あ、えっと、いや、別にそこまでは言ってない」

「じゃあ、シノブはどこまで言ったつもりだったんだ?」

「……私が悪かった。ごめん」

「うん」

 

 ずん、と。

 信じられないくらい、空気が重くなる。

 

「……ワガハイもさっきの、本当に悪かったって、思ってる」

「うん」

 

 ちょっと軽くなった。

 そして何故か、猫と仲直りをしていた。

 雨降って地固まる。

 それはまるで、熱血系の漫画によくある、主人公とライバルの展開さながらだ。

 ……なんだこれ。

 

「……やっぱり帰ろう。なんか、今日はどっと疲れた」

「え? まだ放課後じゃないぞ?」

「早退扱いで帰れる。……なに、私のような常習犯は変に怪しまれる心配がない。顔パスだ、顔パス」

「いやなVIP待遇だな、それ……」

 

 私はテキパキと片づけて鞄を持つ。

そのまましゃがみ込むと、モルガナが鞄に入ってくる。

 スマホはポケットに……ない。あれ?

 あ。

 机の上にあった。私はそれを取ろうと手を伸ばすと、

 

 スマホが小さく震えた。

 何の通知だ?

 いや、ずっと鳴り続けているから、ジャンカラの割引情報じゃないことは確かだ。

 

「……着信?」

 

 私のスマホに着信が入っている。

 とんでもないことだ。

 電話帳に、母親父親と、そして親戚のお姉さんしか登録されていない私のスマホに着信が入っている。

 可能性としては、その親戚の人の場合が考えられるけど。

 あの人は、マメに電話をくれるような人じゃないし。

 ……おそるおそる、振動し続けるスマホを手に取った。

 

「非通知、か」

 

 無視すればいいだけ……だよな?

 でも。

 何故か。

 この電話には出ないといけない。

 そんな気がした。

 教室には私とモルガナだけ。

 誰かに咎められることはないだろう。

 非通知だから、折り返し電話を掛けることはできない、と思う。

 じゃあ、私は。

 

「……もしもし」

 

 通話ボタンを押した。

 

「私だ」

 

 ……。

 …………。

 誰だ。

 




音楽流しながら書いてみたいけど、誤字がえらいことになるから書けない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一章
四話『自称未来人』


「一色双葉、さん?」

『いかにも』

 

 聞いたこともない名前だったし、聞いたことがない声だった。

 

「ええと」

 

 それでも何か言わないと。

 私はサトナカシノブです?

 聞いたことがない名前だな?

 お掛けになった電話は、現在電波の届かない……いや、それは違うか。

 久しぶりの電話だから変に緊張している自分がいた。

 ええと、ええと……。

 

「多分、間違い電話だと思います」

『この私が、間違える訳ない。里中忍、君のスマホに電話を掛けている』

「……」

 

 ……やっぱり誰だ。

 しかしどれだけ頭を回しても、この尊大な喋り方に聞き覚えはない。

 

「なんだ?」

 

 私が電話に出ていることを不思議がったのか、モルガナは私の鞄から顔を出した。

 ええい、今はお呼びでない。

 私は爪を尖らせて抵抗するモルガナを鞄に押し込んで、右耳から聞こえてくる音に集中する。

 

 彼女は先に自分の名前を名乗っている。

 彼女は私の名前を知っている。

 以上のことから、そこまで警戒する必要はない……と思う。知らない間に、私の個人情報がネットに出回っていたのなら、話は別だけど。

 

「ええと、はい、私が里中ですが、一色さん……は、何の用で、ええっと、しょうか」

 

 堅苦しい敬語なんてろくに使ったことがないから、どうしても詰まる。

 

『ん? 別に面倒なら敬語じゃなくてもいいぞ? 私の事も、気兼ねなく双葉さんと呼んでくれていい』

「わかった。そうする。双葉」

『……あれ? もしかして私、今呼び捨てされた?』

「嘘です。敬体くらいなら使えますよ、双葉さん」

 

 それでも取ってつけたような感は否めないけど。

 まあ、そこはご容赦願いたい。

 

『……まあいい』

 

 はぁ、と一つ双葉さんはあからさまに溜息をついた。

 どうやら、もう本題を切り出すようだ。

 

『助けて欲しい人がいる。君の手を貸して欲しい』

「……は? いや、いきなり何の――」

 

『保護者から虐待を受けている。年は君の一つ下。今すぐ死んでしまいたいと思っているし、誰かの助けを求めてもいる。今日の夕ご飯もきっと、ない。伯父の振るう暴力に、毎日毎日、怯えている』

 

 ……。

 穏やかじゃない。

 でも。

 

「いきなり訳の分からん話を、するな」

 

 と私は言った。

 今彼女が言っていることは、本当の話か。

 それとも、私と電話する前に考えた、練りに練られた設定か。

 圧倒的に、後者の可能性の方が大きいだろう。

 

「虐待? 暴力? 怖い言葉並べてさえいれば、直ぐに金を振り込んでくれると思ったら大間違いだ。他を当たってくれ」

 

 今どき変な振り込め詐欺もあったもんだ。

 いや、詐欺がかなり世間に認知され始めた今だから、だろうか?

 振り込め詐欺の手口は、今やとても複雑になって、私のような年齢の人でも騙されることがあると聞く。

 これは、その手口の一つなのだろうか。

 分からない。

 だから私は、『逃げる』を選択しなければならない。

 じゃな。

 と言って、私が強引に電話を切ろうとすると、

 

『……頼む』

 

 悲壮な懇願が、耳にこびりついた。

 それは先の不遜な語り口からは似ても似つかない、か弱い声だった。

 そのギャップが、私に『彼女は嘘を吐いていないんじゃないか』というあり得ない疑問を与えた。

 

「……でも、」

「人助けか?」

 

 いつしかモルガナはまた鞄から顔を覗かせている。

 間の悪い猫だ。

 

「お前には関係ない」

「関係あるだろ。ワガハイは忍に仕方なーく飼われてる身だ。だから飼い主のスケジュールくらい、把握しておく必要がある」

 

 飼い猫のくせに上から目線すぎる言い分だった。

 でも、モルガナが伝えたいことは、なんとなく分かる。

 モルガナは、人よりかは精度の良い耳で、この会話を聞いていたのかもしれない。

 

 勘だった。

 『彼女が本当のことを言っている』という勘。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 だから信憑性はない。

 でも、モルガナの第六感と一致しているのだとしたら、それなりに信じてみたくもなる。

 後は、自分がどれほどやる気があるかという話だ。

 

「……」

 

 面倒くさい。ダルい。さっさと家に帰ってゲームしたい。

 モルガナの事。高巻杏の事。電話の向こうの彼女の事。

 その全てを投げ出してしまいたい。

 私の人格の一つが、そう叫んでいる。

 

「分かった」

 

 でも。

 ……でも。

 そう、例えばこの電話を今すぐ切ってしまえば。

 電話の主が私の名前を知っている理由を聞きそびれることになる。

 私の個人情報が流出しているルートを聞き出すことができなくなる。

 それはよくない。情報化社会を生きる中で、ネットの海に揺蕩っている自分のプライバシーの位置くらいは知っておかないといけない。

 自分のため。

 あくまで自分のためだ。

 

「付き合ってやる」

 

 もう一度モルガナを押し込む代わりに、ありったけの負の感情を自分の中に押しとどめて。

 私は言い切った。

 

 

 

 

『いやー、やっぱ信じてくれるって思ってた。マジで。これはあれだな、もしかして私の人徳ってやつか!?』

「そうですね」

 

 キレそう。

 指定された場所へと着くまでに、私は延々と謎の女の話相手に付き合わされている。

 私がお願いを承諾した途端、ずっとこのテンションが続いていた。

 嬉しがりすぎだろ。

 

『まさか、本当ーに受けてくれるとは思わなかったぞ、サトナカくん。今回は特別例外だが、知らない人と相手する時は、もっと警戒した方がいいと思うぞ?』

「あは、ははは」

 

 乾いた笑いが出た。

 その笑いを聞いて、何故かモルガナが「ヒッ」と、怯えた声を出している。

 やっぱりキレそう。

 でも大声は出さない。それも大勢の人がいる電車の中で。

 それくらいの分別は私にだってある。

 更に相手は年上だ。

 いずれ進出する社会に馴染む為、ここは一つ忍耐力というものを付けようじゃないか。

 しかし話がずっとアレなのも少々疲れてくる。

 私が何か、話題を振ってみようか……。

 

「あの」

『なんだ?』

「双葉さんって、未来人なんですよね?」

『そうだが』

「じゃあ何か、証拠みたいなものってありますか。自分の声が未来から発信してるものだって、証明できるような」

『なるほど』と双葉さんは言った。『今日は、20XX年、4月19日で合っているか』

「……? はい、そうですけど」

『……ああ、』少しの間で、私が戸惑ったのを察したのか、一色双葉は言った。『五年後のネタバレしても、確かめようがないだろう』

「なるほど」

 

 だから、直近の未来のネタバレをしてくれるのか。

 ということは、私に質問をされてから日付を聞くまでの間に、それなりの長い論理的思考がなされていたことになる。

 しかし、私はそこまで考えが至らなかった。というか、至るまでに与えられた時間がめちゃくちゃに少なかった。

 ……つまり。

 一色双葉は、私より遥かに思考速度が大きい。

 

『時に、サトナカくん』

「はぁ……あ、はい。なんです?」

『君はアニメを観るか』

「はぁ」と私は言った。「それなりに、見てますけど」

『「おさてん」は?』

「あ、それ。今やってるやつですよね」

 

 正式名称は、『最強の幼馴染と行く、異世界転生物語』。

 幼馴染と主人公が転生をして、様々な魔法を使いこなす最強の使い魔となった幼馴染。

 そんな彼女を使役して悪者達を一掃していくという、なんとも痛快なお話だ。

 幼馴染、最強、転生。この三つのジャンルを軸に物語にしていることから、皆から『おさてん』と呼ばれ、親しまれている。

 が、その一方で主人公が色んな女に手を出していたり、プロットが甘かったり、何かとご都合主義的な展開が多かったりで、一般的な人からは敬遠されてしまうことが多い。

 それでもラノベが原作である『おさてん』が無事アニメ化に至った理由として。

どんな時でも主人公に対して献身的な幼馴染、兼ヒロインが高く評価されているからだ。

 

『ラノベがアニメ化される絶対条件は、凝ったシナリオや個性的な主人公ではない。可愛いヒロインがいるかどうかだ』

 

 と、『おさてん』の作者はTwitterでそう述べていた。

 プチ炎上していた。

 

『お、おお。おさてんリアタイ勢か、強いな……』

「強い?」

『なんでもない。……4月19日だから、今日が二話の配信日だな』

「だと思います」

『次話で、幼馴染が死ぬ』

「……え?」

『アニメオリジナル展開だ』

「ええ!?」

 

 私は大声を出していた。

 近くに座っていた乗客の何人かが、奇妙な目で私を見ている。

 

「え、いや、そっ、な、えぇ!?」

『幼馴染、最強、転生。三つの重要なピースの内、二つを序盤で失ってしまった『おさてん』は、それから逆に世間の注目を浴び続けることになる。円盤は勿論売れず。そして製作費を賄えなくなった会社による作画崩壊は、回を追うごとにひどくなっていく。そして最終回が遂に、『アニメ史に残る愚行』として――』

「やめろ。分かった。もうやめてください」

『分かった。やめよう』

「……それ、作り話じゃない……ですよね?」

『残念ながら、本当にあった話だ』

 

 本当にあった、未来の話。

 ああ。

 マジかよ、ちょっと期待していたのに。

 ……。

 ……あれ?

 

 

「待てよ?」

『ダメだ。無闇に過去を変えてはならない』

「……」

 

 『なんとかすれば、今から二話の放送を食い止められるんじゃ?』という私の言葉は遮られた。

 完全に読まれている。

 絶対に頭いいな、この人……。

 さっきからあまりにも先回りされているので、何か言い返したくなる。

 

「でも双葉さんも、私を使って過去を改変しようとしてますけど」

『ああ』

「それはいいんですか」

『いい。全く問題ない』

「……そうですか」

 

 そこまで言い切られると、なぜだか全く問題がなさそうな気がしてくる。

 

『……変えないと、いけないんだ』

「え?」

「おい、着いたぞ、シノブ」

「え……あ、」

 

 一色双葉の呟きを聞き返そうとしたが、モルガナに呼び止められる。

 扉が開いていた。電光掲示板には『四軒茶屋』の文字。

 降りないと。

 その意味深な発言を問いただすことはできないまま、私は電車を出た。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話『罪と罰と裸』

 一色双葉の言う通りに進んで行くと、とあるマンションの一室に着いた。

 『一色』

 表札にはそう書かれている。

 中で人が動いているような気配はない。

 とりあえず、インターフォンを押してみる。

 ……誰も出なかった。

 

『この時間帯は、いつも伯父は仕事に出かけている。中には彼女しかいない』

「でも、誰も出ませんけど」

『なら、入ればいい』

「……え?」私は耳を疑った。「鍵、掛かってないんですか」

『そうだ』

 

 と一色双葉は自信ありげに言った。

 

「……伯父さん、随分と不用心な人なんですね」

『いや』と一色双葉は言った。『今日だけだ』

「今日だけ?」

『ああ。20XX年のこの日だけ、彼は部屋に鍵を掛け忘れていく。だから今日だけ、中に入ることができる』

「どうしてそれを、」

 

 知っているんですか。と私が聞く前に、一つの可能性に思い当たった。

 一色双葉が私に電話を掛けた動機。

 そして、一色双葉が事情を知りすぎている理由。

 それは。

 ……まあ、それはこの扉を開けてみれば分かる話か。

 ドアノブを捻る。簡単に開けられた。

 中に入る。

 私の住んでいる所と殆ど変わらない構造のようだ。右手にシャワールームへ繋がる扉。左手にはキッチン。そして奥の扉を開けた先には、恐らくリビングがある。

 ニオイ。

 その人の家には、その人の家ごとのニオイがある。友達の家に行ったときに覚える違和感が、その最たる例だ。その部屋の持ち主からは感じることのできない、部屋全体に染み付いたニオイ。

 この家は。

 

「う……」

 

 ゴミ。

 生ゴミのニオイがする。腐乱臭。

 追って、アンモニアが鼻にきた。しかしここはもちろんトイレではない。れっきとした家だ。

 れっきとした家……の、はずなんだけど。

 

「鼻つまんどけ、モルガナ」

「忠告が遅ぇ。おえぇ……」

「やめ、ちょ、おい、絶対に鞄の中では戻すなよ。なんとか飲み込め」

「無茶言うなって」

 

 しかし、本当にここは人が住んでいる所なのか? というより、人が住んでいい場所なのか?

 キッチンには食器すら置かれていない。

代わりに、タレなんかでべた付いたプラスチック容器がそこら中に散乱している。

この部屋の住人が、スーパーの総菜売り場で手にしたものだろう。

 

「こんなところに、本当に」と私は言った。「人がいるのか?」

「いる。奥の部屋で、小さな息遣いが聞こえるぜ」

「……。さすが猫耳」

「猫じゃねえ」

 

 私はリビングと廊下を隔てる扉の前に立った。

 今更罪悪感が押し寄せてくる。不法侵入。

 でも、もう腹は決まった。

 助ける。そして連れ出す。それだけだ。

 ドアノブに手を掛けて、一気に押した。

 

「……」

「う…………ぁ?」

 

 いた。

 黒髪。

 薄汚れた衣服。骨が透けて見えそうな、細くて青白い手。

 大きな眼鏡を掛けた少女。

 その眼鏡の奥にある呆けた目で、私を見つめている。

 

「お前か」

「お、おま……っ、だ……?」

 

 呂律が回っていない。

 私の登場に驚いている。

 ということは、電話の主じゃない。

 

「一色双葉じゃない……?」

 

 一色双葉があまりにも事情に詳しかったから。

 この部屋にいる人本人が一色双葉だと思っていた。

 じゃあ、目の前にいる少女は、誰だ。

 

「ど、どうし、て……」

 

 少女はようやく、言葉らしい言葉を発した。

 

「私の名前を、知ってる」

「え?」私は驚いた。「一色、双葉?」

「……」

 

 一色双葉(?)は、無言で頷いた。

 どういうことだ?

 彼女が一色双葉で?

 自称未来人が一色双葉じゃない?

 ……頭が混乱してきた。

 

「お、おいシノブ。ちょっと落ち着け」

「じゃあ今、何が起こってるか説明できんのか」

「ちょっと考えたら分かることだぜ」とモルガナは言った。「猫でも分かる」

「やっぱお前猫じゃないか!」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」

「……はい」

 

 窘められた。

 現実逃避の時間、終了。

 モルガナに言われた通り、ちょっと考える。

 私に怯えている少女は、様子からして紛れもなく一色双葉であり。

 一色双葉と名乗る自称未来人は、彼女を助けて欲しいと言っている。

 この前提条件は変わらない。

 ということは、つまり。

 つまり。

 

「……ああ」

 

 誰も嘘吐いていない可能性が一つだけあった。

 自称未来人が、本当に未来人だったら。

 全ての辻褄が合う。

 つまり、未来人も紛れもなく、未来から電話を掛けている一色双葉であり。

 過去で苦しんでいる自分を助けたくなった。

 だから私に電話をした。

 この日に鍵が開いていることを知っているのは、単純に一色双葉が覚えていたから。

 少女の気持ちに詳しいのは、自分自身だから。

 そういうことか。

 

「なるほど」

 

 一つだけスッキリしない部分はあったが、とりあえずそれで納得することにした。

 では、今考えなければならない事柄は。

 依頼主の要求通り、今の一色双葉をここから連れ出すこと。

 

「来い」

「え……?」

「来い。こんななんにもない所で座ってるのもなんか暇だろ」

 

 不法侵入。拉致。

 罪が実感となって押し寄せてくる前に、私は双葉をさらいたかった。

 

「い……いや……。し、知らない人には付いて行くなって、ネットで書いてた」

「ネット情報」

 

 ネットを触れる状況にはあるんだな。

 ……いや、そういうことではなくて。

 まあ、当たり前の反応だろう。今すぐ強引に手を引っ張りたくなってくるが、泣き叫ぶ少女を肩に担ぎながら、マンションの階段を降りていく様子を誰かに見られでもしたら、とても言い逃れはできない。

 どうする。

 とりあえず、優しい言葉を投げかけてみようか。

 

「大丈夫だから」

「……いや」

「怖くないって」

「怖い」

「オジサンと、イイコトしよう」

「絶対嫌だ!」

 

 あれ。

 更に拒否反応を示されてしまった。

 

「全く、頼りにならねぇな。……それにお前、オジサンはねぇだろ」

「モルガナ」

 

 モルガナは、いつのまにか鞄からその姿を現していた。

 四足歩行で、器用にゴミを避けながら歩いて、双葉の目の前に座る。

 

「保護者に、虐待されてんだろ。んなとこに、いつまでもいる理由はねえじゃねぇか。シノブの見てくれはこんなだけど、信用はできる奴だ。だから、安心してシノブに頼ればいい」

「おお……」

 

 なんかジンとくる。

 それに、掛けてあげるべき言葉も的確な、ような気がした。

 なかなかどうして頼りになる男だ。

 

「……」

 

 双葉もその言葉に何か思うことがあるのか、猫をじっと見つめている。

 そして。

 

「……この猫、にゃあにゃあうるさい」

「あっ」

「ガーン!」

 

 忘れてた!

 モルガナの声、普通の人には聞こえないんだっけ。

 モルガナと喋る時は、いつも二人きりだったから。完全に。

 

「「忘れてたー……」」

「なに?」

「あ、いや」と私が言った。「お前、保護者に……ひどいこと、されてんだろ? 服も汚いし、多分、君の年代の子なら、もっといい物食べてる」

「……」

 

 双葉は何も喋らない。

 沈黙を嫌った私は、苦し紛れに言葉を紡いだ。

 

「ここの暮らしが快適って訳でもないだろう。なんか暗いし……ちょっと臭うし。ま、こんな所がどうしてもいいってんなら、話は別、」

「いい。ここで、いい」

「……いや、今のは冗談で、」

「いい。ここで私は暮らすの。助けなんて、いらない。ここで生きて」

 

 双葉は言った。

 瞳には、生気が宿っていなかった。

 

「そして死ぬ」

「え……」

 

 一つ。

 一つ、スッキリしない部分があった。

 未来を生きる一色双葉は、20XX年の今日、鍵が開いていることを知っていた。

 しかし、ここにいる一色双葉は、家から一歩たりとも出ていない。

 その理由を、私は考えあぐねていた。

 

「知ってる。今、鍵が開いてないこと。……伯父さんが出てった時、鍵の音、しなかったから。だからお前らは入って来れた」

「じゃあ、君はどうして、」

「それが罰だから」

 

 と。

 双葉は、その冷え切った目を私に向けた。

 

「私は罪を犯した。それは、誰にも許されないことだった。でも、皆私をなじるだけで、直接的な罪は与えなかった。だから私は、私に罰を与えた」

 

 機械音声のような、抑揚のない声で双葉は語り掛ける。

 双葉は相変わらず私を見ていた。

けど、誰も見ていないような気もした。

 

「罰って、」

「こんな自分、さっさと死んでしまいたい。でも、死ぬ勇気はない。だから、ここで

何もしないまま、死――」

「人の、話を、聞け!」

 

 私は意図的に大きな声を出した。

 ほんの少しだけ、双葉の表情が動いた。

 

「……怒んないでよ」

「怒ってねぇよ」と私は言った。「でもさ、なんというか、そういうのって苦しくないか? 昔のことうじうじ考えるより、明日どこ行こうとか、何食べようとか、未来のことを考えた方が、よっぽど楽しい人生を送れる気がしないか?」

「何が、言いたいの」

「何が言いたいって」

 

 私は考えた。

 考えている地点でそれは、双葉を説得するための虚像なのかもしれない。

 そのことを分かっていながらも、私の頭は思考を止めなかった。

 

「もっといい人生観が、あると思う。昔がどうだったかって、そんなの今となったらどうでもいいことだってある。過去に縛られて生きるのは、なんていうか、色々と辛いだろ」

 

 私はこんがらがる頭の中で、思いついたことをひたすら言葉に変換した。

 それはちゃんと意味をなしていたのか。分からない。

 それは双葉の心に響いたのか。分からない。

 私はただ、双葉を待つしかなかった。

 

 

「私のことを何にも知らないくせに、よくそんなことが言える」

 

 

 ああ。

 またか。

 またその言葉か。

 『又聞きの情報だけで、勝手に私を判断しないで!』

 でも、その通りだった。

 私は何にも知らない。

 どうして双葉は鍵の掛かっていない部屋から出ないのか。昔、どんな罪を背負ったのか。どうして彼女は産みの親にちゃんと育てられていないのか。どうして双葉は死のうとしているのか。どうして未来の双葉から私に電話が掛かって来たのか。引いてはモルガナのことだって。高巻杏のことだって。

 だから分からない。他人と分かり合えるはずがない。

 ずっとそう思って生きてきた。

 それなのに。

 それなのにどうして、私はまだ彼女を助けたいと思っているのかにさえ。

 理由を見つけることができなかった。

 でも、一つだけ分かったことがある。

 それは、今のモルガナと私では、今の双葉をどうすることもできないということだ。

 だから私は、切り札を出すしかない。

 

『……ぃ』

 

 ちょうど、スマホから小さな声が聞こえたような気がした。

 スマホを耳に当てる。

 

『……おい、何をやってる。そろそろ伯父が帰って来る時間だぞ』

「あ……すみません。だから、その」

『なんだ?』

「代わってください」

『……分かった』

 

 言われることを予想していたのか。

 それとも今の会話を聞いていたのだろうか。

 一色双葉はそう言った。

 

『ナビを起動させたまま、渡せ。あと……』

「……? なんですか?」

『別に、タメ口で喋ってくれても構わない』

「……はぁ」私は曖昧に頷いた。「分か……った」

 

 スマホを双葉に渡した。

 初めは抵抗する素振りを見せてはいたが、しぶしぶ、それを手に取ってくれる。

 

『もしもし』

「……もしもし」

 

「なあ、モルガナ」

「なんだ?」

 

 私は双葉が持っているスマホを指で指した。

 

「あれって、なんか、タイム理論的にありなのかな」

「知らん」

 

 胸にちょっとした心配と不安を残したまま。

 

『一色双葉』『一色葉司宅』『墓』

 

 謎の単語が、スマホから聞こえて来た後に。

 双葉はスマホと共に消えた。

 

「「……え?」」

 

 消えた?

 

「消えたな」

「うん。……あ、もしかして、あれか」

「多分違うと思うけど、飼い主の気持ちを尊重して聞いてやる」

「スマホ持って、その、転生的な……」

「アホ」

 

 そんな馬鹿な会話をしてしまうくらいには暇だった。

 

「あと、気になったことがある」

「なんだ?」

「今さっき、一色双葉に『タメ口でいい』って言われたんだが」

「言われてたな。それが?」

「なんかちょっと、急すぎる気がしてな」

「……あー。それは、あれだろ」とモルガナは言った。「さっきの会話が聞こえてたんだろ。それで、ちょっと、一色双葉の胸がジーンってきたんだと思うぜ」

「……どうだか」

 

 にわかには信じがたい話だ。

 待つ。

 ……帰ってこない。

 

「……まずいな。もう、本格的に伯父が帰って来るんじゃないのか?」

「ああ。残念だけど、スマホは諦めて、」

 

「その必要は、ない」

 

 腰をあげて、リビングに背を向けようとした私を、誰かが呼び止めた。

 

「世話んなった。これ、返す」

 

 双葉だった。

 ああ、とか、おう、とか、言葉にならない言葉で返して、私はスマホを受け取る。

 双葉の瞳には生気が戻っていた。

 今までのが、周りが暗かったことによる錯覚だったと思わせるような、晴れやかな表情をしていた。

 

「何してたんだ?」

「ちょっと覚醒してた」

「はい?」

「……なんでもない」

 

 双葉は恥ずかし気に首を振った。

 まあいい。

 

「ついてくるか」

「うん」双葉は勢いよく頷いた。「逃げる。逃げてやる。今よりましな人生を、探してやる」

「そうか」

 

 やはり、何が起こったのか、私には分からない。

 でも、今回はそれでもいいようだ。

 私達はどちらからともなく、手を出した。そして、しっかりと握手をした。

 

「どこ行く?」双葉は言った。

「そうだな」実はもう決めてある。「銭湯だ」

「……どこの、戦場?」

「はぁ?」

 

 私は言った。

 しかしモルガナは何か思うところがあるらしく、プッと噴き出した。

 

「まずは風呂行く。お前、臭いし」

「えぇ……」

 

 ジト目をしながら、口を変な形に曲げる双葉。

 なるほど、そんな表情もできるのか。

 

「忍、デリカシー皆無!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話『大罪人』

女主人公が嫌いな人もいるからちったぁ気を遣えと、最近双葉からそのような注意を受けました。


 私は双葉を連れて、近くにある銭湯「富士の湯」へ向かった。

 双葉の服はすでにコインランドリーの中だ。見張りはモルガナに任せてある。

 時間が時間だから、私と双葉の貸し切り状態になっていた。これなら安心して、双葉から事情を聞くことができる。

 

「ひ、広いな……」

 

 伯父の家のそれと見比べているのか、双葉は銭湯の浴槽を見て目を輝かせている。

 今にもダイブしてしまいそうな勢いだ。

 

「もう浸かっていい?」

「まだだ。まずは先に体を洗え」

「えー、なんで?」

「なんでって……マナーだから?」

 

 嫌がる双葉の手を引っ張って、隣に座らせる。流石に体の洗い方は心得ているのか、渋々シャンプーボトルを手に取った。

 にしても、洗いにくそうだな。

 色んな意味で凹凸のない体は、私より一回り小さい。よく言えばスレンダー、悪く言えば幼児体系に毛が生えた程度だ。

 しかし問題はその長い黒髪。ろくにお手入れなどされていないはずだから、どうしたって髪に手が引っかかってしまう。

 

「全然、泡立たねー!」

 

 私と双葉、隣に並んで身体を洗う。

 短髪の私は、髪を洗うのはそこまで苦じゃない。

 しかし、腰の辺りまである長い髪を持った双葉の髪は、随分と洗いづらそうだった。

 髪が全然泡立たないことに業を煮やしたのか、双葉はシャンプーを怒涛の4プッシュ。

 いくら銭湯だからとはいえ、ちょっともったいないな。

 

「双葉、ちょっとこっち来い」

「何!?」

「なんで怒ってんだよ」

「怒ってない!」と双葉は言った。「……それで? 何」

「私が洗ってやる」

 

 こう見えても、中学生の頃は長髪だった口だ。それなりに心得はある。

 双葉は椅子ごとこっちにスライドしてきた。そのままぶつかってしまいそうになったが、後ろにのけぞってそれを回避する。

 私は両手を回して、シャンプーの入ったボトルに手をかけた。

 半プッシュ。

 

「少なくね?」

「まあ見とけって」

 

 シャンプーを手のひらに伸ばした後、額の周りにある髪を優しく掴んだ。

 そして、そこだけを部分的に揉みながら、余った泡を後ろに流していく。

 

「なるほど……まずは局所的に泡立てるのか」

「そういうこと」

 

 手にシャンプーの感覚がなくなったら、もう一度ワンプッシュ。

 お次は頭頂部当たりを攻める。

 例によって手のひらを擦りあわせて、全体的に撫でまわしていく。

 後ろに流していた泡で既に馴染んだ状態にあるから、ワンプッシュだけでちゃんと泡立つという寸法だ。

 そして最後に、適量シャンプーを手に付けて後ろ髪を洗えばフィニッシュ。

 シャワーを掛ける。

 

「うおぉ……すげぇ……」

 

 いくらかツヤツヤになった自分の髪を撫でながら、双葉は感嘆の声を上げている。

 ただ洗っただけなのに。

 でも、悪い気はしない。

 

「だろ」

「忍、お前美容師になれるな」

「そこまでか」

 

私は笑った。

 ちゃんとリンスも付けろよ、と私は言い残して先にお湯に浸かる。

 双葉より髪が短かったからな。

 時短テクニックだ。

 

「あー……」

 

 なんとなく声を出してみる。

 その声はすぐしゃがれたものになった。

 どうやら、かなり疲れがきているらしい。

 なんかもう色々あったからな。

 モルガナを拾って。

 高巻杏と口論になって。

 自称未来人から電話が来て。

 一色双葉と出会って。

 

「ふぅ……」

 

 当面の問題は、一色双葉の処遇をどうするかだが。

 保護者に黙って持ってきてしまった訳だし。

 まあ、そこは双葉さんに全部お任せすることにしよう。

 今は、この数分間だけは何も考えないで湯に癒されよう。

 私はそう心に決めた。

 ……。

 …………。

 ………………ぐぅ。

 

「忍?」

「……」

「……返事がない。ただの屍のようだ」

「……ぁ、生きてるよ」

 

 ちょっと危なかったけど。

 

「ちゃんとリンス付けたか」

「うん」

「身体もキチンと洗ったか」

「バッチリ」

「なら、よし」

「うん」

 

 しばらくの間、私たちは何も言わずに浴槽の中で体を温めた。

 双葉が私とモルガナの視界から消えた時、きっと双葉は一色から何かを聞かされているはずだ。まさか、あれだけ『覚醒した』とか言っておいて、何もないことはないだろう。

 だから待つ。言わないならそれでもいいし、ここで双葉と別れたところで、自称未来人とやらも私たちを責めはしないだろう。

 

「ねぇ……忍」

「なんだ?」

「ちょっと、話がある」

「ああ」

 

 双葉の声が思ったより低くて、私は身構える。

 茶化す空気でもなさそうだ。

 

「その前に、もう一つ聞きたいことがあるんだけ、ど」

「言ってみろ」

「あの電話……未来の私、なんだけど。忍、あれ、信じてる?」

「あれって、どういうことだよ」

「あれが、本当に、未来からの電話なのか」

「……」

 

 正直に言えば、まだ確信は持てていない。

 でも、状況証拠が流石に多すぎる。『本当にそうなのかもしれない』と、信じてしまっている自分もいた。

 だから迷っている。

 ……と、言っていられる場合じゃ、ないのだろう。

 

「ああ、信じてるよ」

 

 私は言い切った。

 

「……ホントに?」

 

 あまりにも私の返答が軽すぎたのか、双葉は困惑しているようだ。

 質問したのは自分のくせに。

 でも、一応、理由はある。

 

「ホントだ。信じることにした。ちゃんと一色双葉が嘘を吐いている可能性も考えてみたんだけど。でもそれじゃあ、あまりにも分からないことが多すぎる。でも、もし一色双葉が嘘を吐いていなかったとしたら、ほとんど全て説明が付くんだ。それはとても良いことだ。だから私は、信じることにした」

「ふぅん……」

 

 私が喋っている間、双葉はずっと私の目を見ていた。まさか、目を見ただけで嘘を見抜ける特技を持っているはずはないだろう。しかし双葉は、うん、と大きく頷いた。

 

「ん、わかった」

「そうか」

「あと、忍って意外と面倒くさがりだってことも」

「な、なぜそれを」

 

 私がおどけると双葉は、んへへ、とぎこちなく笑った。

 

「ん、よし……じゃあ、話す。聞いてくれるか?」

「ああ」

 

 湯もそこまで熱い方じゃないし。

 

「今から話すのは、私が経験した過去と、これから経験することになる未来のことだ。まず、過去から話したいって、思う」

 

 双葉は語る。

 

「私は小さい頃、お母さんを亡くした。お母さんは未亡人だったから、伯父さんの家に預けられることになった。で、色々あって、私はお母さんが死んだのを、全部自分のせいにしたの。だから、ずっとあの部屋に籠ってた。伯父さんからどんなひどいことをされても、それが当然だと思うようになった。助けも呼んじゃいけないって、ずっと思ってた」

 

 双葉は語る。

 

「でも、頼んでないのに助けが来た。それが里中忍……君、だった。私は未来にいる私に、過去のことを教えてもらった。お母さんが死んだのは、私のせいじゃないのを知ったんだ。私は周りの大人と、自分に腹が立った。気づいたら、体に力がミナギッてた。未来の私に聞いたら、それは、ペルソナ……って能力だって言ってた。あ、いや、これは今関係ないんだった……」

 

 双葉は語る。

 

「それでね、こっからは未来の私の記憶の話な! えと……忍と一緒に銭湯に行った私は、そこで忍に()()()()を説得するの。でも、ダメだった。忍は全然、私の話に取り合ってくれなかった。私たちは結局、富士の湯で別れてそれっきり。その後何年も一人で頑張ったけど、やっぱり、『終焉』は訪れてしまった」

「ちょっと待て」私は双葉の口を止めた。

「なに?」

「説得って、それ、何の話だ?」

「それは……今から、する」双葉は意味深に言った。「説得、する」

「私を?」

「う、うん」

「それで、双葉が説得をして、私が双葉のお願いを断ることも、未来の一色は知っていたのか?」

「うん、そうだけど」

「……おかしくないか? だって、私に電話を掛けてきたのは、まだ私の声すら知らなかった『一色双葉』だぞ? なのにどうして、彼女にとってはありえなかったはずの過去を、一色双葉が知っていたんだ」

「あ、それ、気づいちゃう?」

 

 双葉はバツが悪そうな顔をした。

 

「一から十まで話したら……多分、湯が冷める。だから、簡単に説明するな? 電話で繋がってる未来の自分は、あくまで今の自分が成長した、私、なの」

「どういうこと?」

「私は今、忍の声も覚えてるし、忍が鞄の中で飼ってる猫の名前がモルガナってことも知ってる。だから、異世界の中で私に過去と未来を教えてくれた自分も、里中忍って名前を憶えてたし、モルガナの名前も忘れてなかった」

「じゃ、じゃあ」私は言った。「初めに、私に電話を掛けてきた『一色双葉』はどこに行ったんだ?」

「まるっきり、別人だ」

「別人って……え、」

「あ、こう言ったら、分かりやすいかも」私の疑問を遮って、双葉は言った。「忍が部屋に入ってきた時、世界が分岐した。『忍に助けられなかった双葉のいる世界』と、『忍に助けられた双葉のいる世界』の、二つの平行世界ができた。初めに忍が話した未来人は、前者の世界の未来の私。異世界で色んなことを教えてくれた一色双葉は、後者の世界で暮らしてた私」

「え、ええっと……」

 

 別人?

 私が一色葉司宅を訪れた時、一色双葉は入れ替わっていた?

 でも、そんな素振りはなかったような――、

 

「あ」

 

『あと、気になったことがある』

『なんだ?』

『今さっき、一色双葉に「タメ口でいい」って言われたんだが』

『言われてたな。それが?』

『なんかちょっと、急すぎる気がしてな』

『……あー。それは、あれだろ』とモルガナは言った。『さっきの会話が聞こえてたんだろ。それで、ちょっと、一色双葉の胸がジーンってきたんだと思うぜ』

『……どうだか』

 

 確かに、あのマンションで一色双葉と話した時、あまりよそよそしさを感じることはなかった。

 あの時、既に彼女は『忍に助けられた双葉のいる世界』に生きる、一色双葉だった。

 そういうことなのだろうか。

 

「んで、次に私はまた世界を分岐させないと、いけない。『里中忍を説得できなかった私のいる世界』と、『里中忍を説得できた私のいる世界』に、だ」

 

 ま、主観の上でしかないんだけどなー。と、双葉はよく分からないことを言った。

 

「あ、別にそんなに深く考える必要は全くない。こっちの話だ。忍がどんな未来を選んだとしても、忍は忍だ。世界が変わっても、忍が変わることはない。それは未来を変える人だけに与えられてる特権だからなー」

 

 深く考える必要はないから、深く考えるな。

 双葉も難しいことを言う。白い熊を思い浮かべるなと言われても、頭の中で白い熊を想像してしまうようなものだ。

 まあいい。凡人が考えても分からないものはしょうがない。

 でも一つ、確認したいことがあった。

 『忍に助けられなかった双葉のいる世界』の一色双葉は、ただ一色葉司宅にいる過去の双葉を助けてほしいと私に電話を掛けてきた。

 過去で苦しんでいる自分をただ助けたい。それだけのことだと思っていた。

 でも、双葉はまた何か動きを見せようとしている。『忍に助けられた双葉のいる世界』の一色双葉が、新たな命令を双葉に科している。

 『一色双葉』の本当の目的は……一体、何なんだ?

 

「じゃあ、お前……達の目的は、虐待されてた双葉を助けることじゃなかったってことか」

「そゆこと! 最終目的は、そっちじゃない。あくまでも通過点だ」双葉は満足そうに頷いた。

「じゃあ、その、最終目的ってのは何なんだよ」

「『終焉』を食い止める」

 

 と。

 双葉はキッパリと言った。

 そうだ。未来のことを話しているときに、双葉はそんなことを言っていた。

 終焉。

 あまり、響きのいい言葉じゃない。

 

「忍」

 

 双葉は私を見た。

 

「私と一緒に、パレスを攻略して欲す、い」

 

 ……。

 噛んだ。

 

「パレス?」

 

 悪人が認知世界に持っている自身の住処、だっけ?

 パレスを攻略することは、つまり、悪人が善人になることだとモルガナは言っていたけど……。

 その悪人を成敗して、そして、『終焉』とやらを食い止める。

 

「名前は?」

 

 私は聞いた。

 

「雨宮、蓮」

 

 双葉は答えた。

 

「この世界をめちゃくちゃにする、大罪人だ」

 




時間軸や世界線等の解釈は、『Steins;Gate』や『物語シリーズ』を参考にしています。
未来の電話云々はオリジナルです。多分。
それなりに考えた方なんですが、何か辻褄の合わない部分などがあれば申し訳ないです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話『ルブラン』

「雨宮、蓮?」

 

 なんだ?

 そんな名前を、つい最近どこかで聞いたような気がする。

 思い出そうとしたけど、双葉に聞いた方が恐らく早いことに気づいた。

 

「なぁ、その雨宮ってのは、一体どんな奴なんだよ」

「……んー、えっと、ねぇ……」

「おい、じらすなって」

 

 私は双葉を見る。

 双葉は呆然と、壁に描かれた富士山の絵を見つめていた。

 私の質問に答える気配はない。

 

 

「……もしかして、お前、」

 

 あれだけ説明すると言ったのに。

 あれほど張り切っていたのに。

 『里中忍を説得できた私のいる世界』だとか、大層なことを抜かしていたのに。

 

「のぼせてる……?」

 

 双葉の頬は、青森県産の林檎くらい赤く染まっていた。

 

 

 

 

「やっぱり、風呂上がりにはコーヒー牛乳だよなー! カフェインも摂取できるし、一石二鳥だし!」

 

カンカンに火照った双葉を、扇風機やら団扇やらで冷やすこと、およそ十分。

 私が一人でやった努力も露知らず、双葉は瓶に入ったコーヒー牛乳に舌鼓を打っている。

 服装はそのままだ。ちっこい体だとは言っても、それなりにくびれはあるらしい。多少結び目が緩くなっていても、なんとかタオルは持ちこたえている。

 そうだな、と私は適当に返して牛乳を煽る。瓶で飲む牛乳と、コップで飲む牛乳はどうしてこれほどまでに味が違うのだろう。

 ただの気のせいか。それとも風呂上りだからか。

 分からない。

 

「ちなみに……なんだけど」

「うん?」私は双葉を見た。

「忍はどんなペルソナ、持ってる?」

 

 ペルソナ?

 私が?

 

「持ってないけど?」

「えっ?」

「え?」

 

 一体何に衝撃を受けたのか、双葉の手から牛乳瓶が滑り落ちる。幸い、中身は全て双葉の腹の中に収まっていたようで、ガツ、という固い音が鳴っただけで済んだ。

 

「忍、ペルソナ、持ってないの?」

「ああ」

「何で?」

「何で、って言われてもな」私は頭を掻いた。「皆ペルソナ持ってて当然みたいな言い方をするな」

 

 ペルソナは、現状に抗う意思を持つ人にのみ与えられる力だと、モルガナは言った。

 しかし、私は今を受け入れてしまっている。双葉のような生き方は、まるで流れの変わらない川を、逆に泳いでいくようなものだ。それはとても疲れることだし、面倒くさい。

 テストで悪い点を取れば「頭が悪いから仕方がない」と諦めたり。

 仕事で失敗をすれば、お酒を飲んでごまかしたり。

 誰もがペルソナを持っているとは限らないのだ。

 

「じゃ、じゃあ、なんで……私を助けたの?」

「……」

 

 それは。

 双葉を助けたことと、双葉に協力をすることは別件だから、なんて。

 悲しそうな目を向ける双葉に、突き放すようなことを言う気にはなれなかった。

 だから私は、手駒を取り出して、その場を誤魔化すことにした。

 

「私はペルソナを持ってない。……が、モルガナは持ってるようだぞ」

「もるがな……? モルガナって、あのにゃんこのことか?」

「ああ」

「あのニャアニャアうるさい?」

「あのニャアニャアうるさい奴だ」

「にゃんこなのに?」

「しかも、喋れるというオマケ付きだ」

「まじか! おトクすぎる……」

 

 愛玩動物の代表である猫が、口悪く喋り掛けてくることは、果たしてお得なのかどうかは一考の余地がありそうだが。

 とにかく、双葉は私の事を信じて……、

 

「……って! そんなの信じる訳ないじゃん!」

 

 ……くれてはいなかった。

 まあ、そうなるよな。

 でも、ここで引き下がれない。

 

「じゃあ、逆に聞くが、どうして未来の双葉は、私に連絡を入れたと思う? ペルソナを持っていない、私に」

 

 そして、ペルソナを持つ気のない私に、だ。

 仮に私が双葉に協力したとする。でも、限度がある。少なくとも、私がパレスに行っても足手まといになることは目に見えている。

 とすると、一色双葉は私に興味がなかったのではないのだろうか? あくまで一色双葉は、私が一時的に飼っている『モルガナ』というカードが欲しかったのではないだろうか。

 だから強引に私と接点を持とうとした。

 私という戦力が欲しかったんじゃない。

 モルガナというペルソナ使いを必要としていた。

 だから異世界ナビを私のスマホに寄越し、モルガナと引き合わせた。

 私がメメントスに行けたのはまぐれだし、モルガナを道端で拾ったのも気の迷いだ。

 でもそれらは全部、『一色双葉』にとっては過去の事象でしかない。

 全てが収束しているのだ。

 『一色双葉』からの電話は、まだ掛かってこない。

 それでも全部、繋がっているような気がした。

 

 

「でも……でもさ、モルガナって忍の飼い猫なんでしょ?」

「あいつは所詮居候の身だ。元々、数日経ったら追い出すつもりだった」

「う……んん」

 

 双葉は顔をしかめる。

 視線は、モルガナが待っているはずの方に向けられていた。あいつはちゃんと力になってくれるのか。私にも分からない。

 疑うような目で遠くを見る双葉が、私に向き直る。

 

「……ん。とりあえず、この件は保留な」

 

 といった次の瞬間。

 双葉の腹の虫が鳴った。

 のぼせたり飲んだり食べたり、忙しい奴だな。

 私は、近くにある飲食店を思い出す。

 ここじゃ……やっぱりあそこか。

 あのマスター、まだちゃんと店を崩さすにやっているのだろうか。

 

「あ……えへっへ」

 

 双葉は不器用な笑顔を顔に張り付けている。

 感情の起伏はあるけど、感情表現と表情筋がそれについていけていないといった感じだな。

 まあいい。私も言えたものじゃないことは自覚している。

 

「私も腹が減ってきた。奢るよ。別にどこでもいいだろ?」

「あー……えっと、実は一個、寄りたいところがある」

「なんだよ」

「ルブラン」

「……え?」

「ルブラン。そこに行けば、なんとかなるって、私が言ってた。あ、未来の」

 

 ルブラン。

 懐かしい響きに、色んなことを思い起こされた。

 

「さいですか」

「……私も、そう思うし」

「?」

 

 一段階声を低くした双葉が気になって、双葉を見ようとする。

 でも、大きく垂れた前髪が邪魔になって、表情をよく見ることはできなかった。

 まあいいか。いずれ分かるだろう。

 私は瓶に残った牛乳を一気に飲み干して席を立った。

 

 

 

 

「入るぞ」

「あぁ?」

 

 ルブランは相変わらず閑古鳥が鳴いていた。

 カウンター手前の黒電話を目にすると、一瞬遅れてコーヒーのいい匂いがやってくる。ああ、こんな感じだった、気がする。訳もなく、昔のことが思い出された気持ちになる。

 左手のテーブル席か、右手のカウンター席のどちらに座ろうか悩む。まあ、あまり声を大にして言えるようなことじゃなから、テーブル席にしておこう。そう私は決めて、真ん中の椅子に双葉を誘導した。

 

「……ってなんだよ、里中か。全然面見せねぇなと思ったら、こうやってふらっとやって来る」

「この辺りに腰を落ち着けて話せる場所がなくてな。ここ、借りさせてもらうよ。どうぞ、お構いなく」

「お構いなくってお前、ここは俺の家じゃねぇ。店だ。何か注文するくらいの気概を、」

 

 見せろ、と言おうとした(と思う)マスターの口が止まる。視線は、私の背後で縮こまっている双葉に向けられている。

 

「連れか?」

「見りゃ分かるだろ」

「へぇ……お前さんが、連れ、ねぇ」マスターは目を細めて私を見た。「珍しいじゃねえか」

「ああ、うん、まあな」

 

 私は言葉を濁した。ここに誰かを連れて来た記憶は、私の中にも、そしてマスターの中にも恐らくない。

 小さい頃、四茶に住んでいたことがあった。だから、時々ここに来ることがあった。

 といった、短い二言で括れる話ではない。

 積もる話もある。けれど双葉を前にして、思い出話に花を咲かせることはやっぱり違うとも思う。マスターもきっと私に聞いてこないのも分かっている。

 だから私は、対面に座った双葉に言った。

 

「ここ、他もそこそこだけど、カレーだけはやけに旨いんだ。前も普通に美味しかったんだが、ある日人が変わったみたいに味が激変してな。あれ以来、何かヤバい物をカレーに入れたって私は思ってる」

「……! じゃ、じゃあ……私も、それ、で」

「……あ、ああ」

 

 私は曖昧に頷いた。

 やっぱり、銭湯を出る前から双葉の様子がおかしい。

 まだ、のぼせた時の後遺症みたいなものが残っていたりするのだろうか?

 まさか、マスターに人見知りしているはずはないと思うけど。……いや、それなりにありそうだな。

 

「おい、大丈夫かよ」

 

 私は小声で聞いた。

 

「う、うん」

「ポカリ、まだ鞄に残ってるけど、」

「いや、いい」双葉はピンと張りつめた声で言った。「私も、カレーで」

「ワガハイも食べたい」

「おお」

 

 モルガナ。

 いや、忘れてなかった。本当に。

 

「じゃあ、ええと」私はカウンターの向こうで立っているマスターに言った。「ルブランカレー二つ。あと、小皿も一つくれ」

「あいよ。コーヒーはいらねぇのか」

「……あー。じゃあ、いつもの」

「いつもの? お前が余りにも来ねぇから、忘れちまったよ」

「……そうか。まあ、その年になったら、物忘れもひどくなるのかもしれないな」

「嘘に決まってるだろ。いつものブレンドな」

 

 マスターは適当に手を振って、奥のキッチンへと消えていった。

 私は多分、マスターに口で勝てる機会はない。

 それでも、つい生意気な口をきいてしまうのはどうしてなんだろう。

 分からない。

 それより双葉が心配だ。さっきよりか表情はマシになっている。でも、まだ少しだけ緊張の色が浮かんでいた。

 

「なんなんだよ、さっきから」

「なんでも、ない。それより『終焉』のこと、話す。銭湯で話しそびれた、から」

「ああ」と私は言った。「そうだったな」

 

 私は頭を切り替える。

 双葉のアホ毛がふわりと一回なびいた。

 

「パレスの主を倒すと、現実世界にいるソイツが改心することは知ってるか?」

「ああ、うん」

「じゃあ、パレスの主を殺すとどうなる?」

「ええと」私はモルガナが言っていたことを思い出した。「廃人化するん、だっけ」

「そう、そうだ」双葉は頷いた。「彼は、それを利用するの」

 

 双葉は言った。

 

「利用、って?」

「そのままの意味。皆、認知世界のことなんて知らない。だから、認知世界でどんな行動に出ても、足がつかない」

「え、それって」私は聞いた。「じゃあ、誰かが認知世界を利用して、現実世界にいる誰かを廃人化させるってことか?」

「そゆこと、そゆこと」

 

 双葉はあっさりと頷いた。

 アシがつかない。

 つまり、認知世界を使えば、完全犯罪を成し遂げられるということだ。

 少なくとも、現実世界においては。

 

「一週間もしない内に、一人目の被害者が現れる。一か月後にはもう一人。どちらも、あり得ないような死に方だった、らしい」

「……そりゃ、ひどいな」

「その時は、どっちも自殺で処理されるの。……証拠がないからな。でも、その事件には、二つの共通点があった」

「共通点?」

「死んだ傍にはどっちも、『予告状』が置かれてるらしい。オタカラは頂戴した。そう書かれてるんだ……って、私は言ってた」

 

 双葉は言った。

 

「オタカラって、あれか。パレスを攻略したら手に入るっていう、」

「どうだろ。オタカラを盗むのだとしたら、パレスの主を殺す必要はない。だって、無力化させるだけでいいから」

 

 オタカラって、多分、その人の命だと思う。

 双葉は、苦々しい顔で呟いた。

 

「……マジかよ。それは、何ていうか、ひどい話だな」

「でも、世間はそうは思ってない、みたいなの」

「え?」

「もう一つの共通点がそれ。一人目と二人目、どっちも、文句の付けようがない悪人だった。皆は怯えるどこか、逆にソイツを応援し出すんだ」

「……」

「『悪い奴らを退治してくれる、人の命を盗む怪盗』がいるって。『悪を打ち倒す正義が現れる』って。そんな噂が一気に浸透し始める」

「……なるほどな」

 

 悪は倒されるべきだし、いくら叩こうが構わない。

 何故なら彼らは悪で、少なくとも私の方が善人だから。

 勧善懲悪の風潮は、今に始まったことじゃない。

 でも、だからこそ、双葉の言っている『未来予知』は、あながち信じられないものじゃないとは思った。

 

「で、次にやっつけられるべき悪人が、『怪盗お願いチャンネル』っていう非公式サイトのランキングに載り始める。そしてランクの高い人から片っ端に、黒い噂のある有名人が断罪されてく。しまいには恨みを持ってる人、クラスで気に食わない人、電車の中で肩がぶつかった人……次々に、廃人化されてくんだ」

「それが、『終焉』か」

「うん」

「で、その怪盗の名前が、雨宮蓮で?」

「うん」

「雨宮蓮は、パレスを持っていると」

「うん」

 

 謎の怪盗によって、悪人が消され、善人がはびこるようになった世界。

 そんな世界を、一色双葉は『終焉』と呼んだ。

 皮肉が効きすぎている、おとぎ話のように思えた。

 そして、双葉はそんな世界をおとぎ話で終わらせるために動いている。

 なんて遠大で果てしない計画だろう。

 モルガナはこの話を聞いて何を思っているのだろうか。

 分からない。

 

「分かったよ。分かった」私は目を瞑り、両手をあげた。「ご説明ありがとう。でも、私が切れるカードは一つだけだ」

 

 私は鞄の中からモルガナを取り出した。

 

「コイツをお前に預ける。預けて、モルガナがお前の力になる。それでいいだろ? モルガナ。お前、別に行く当てはないんだろ」

「そ、そうだけどよ……。でも、少し放ってはおけないな。双葉のことも、怪盗のことも」

「よし。決まりだな、じゃあ、」

「放ってはおけないな、って、ワガハイは言ったんだ」

 

 モルガナは、強い口調で私に言った。

 『お前もそうなんじゃないのか?』

 モルガナは目で、私に語っていた。

 

「……任せたよ。お前に」

「……分かった」

 

 逸らした私の視線で、ある程度は察してくれたようだ。視界の端で、モルガナが小さく首を縦に振ったのが見えた。

 私は双葉の力になれないから。

 そしてもう一つ。私は双葉が予言する世界の在り方を、全否定できないでいた。

 悪人が、死をもって断罪されることは、悪いことなのだろうか?

 完璧に間違っていることなのか?

 分からない。分からないから、行動に移せない。

 

「……今、ネコ、何て言ったの?」

「双葉に一生ついていくって言ったぞ」

「そこまでは言ってねえよ」

「え……。いや、一生はちょっと……キツイ……かな」

「何か勝手にフラれてるし!」

 

 そのやり取りに私は噴き出してしまう。続いて双葉は例によって変な笑顔を浮かべ、仕方がなさそうにモルガナも笑った。朗らかだとはとても言えない、ぎこちない感情の伝播だった。

 

「……お、」

 

 にわかにカレーの匂いが濃くなったな、と思うや否や、マスターが両手に重そうなお皿を持ちながらこちらにやって来る。

 マスターが目の前に来たあたりで、双葉はまた顔を伏せた。人見知りにもほどがあるだろう。

 と、私は思っていた。

 

「はいよ。取り皿は後でな」

「ああ、うん」

「……」

「……で、嬢ちゃんは何か、飲み物でもいるかい?」

 

 そうマスターが言い終えたのと、ほぼ同時に。

 双葉は顔をあげた。

 その時の表情は、ひどく大人びているように私には思えた。

 

 

「久しぶりだな。……そうじろう」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話『メロンパンと屋上』

日刊ランキングに載せていただいたようです。嬉しい。
また、お気に入り登録&ご感想ありがとうございます。励みになります。


スマホのアラームの音で目が覚めた。

あと五分。

私のスマホは、ボタンを押してもきっかり五分後、再びアラームが鳴るように設定してある。

痒いところに手が届く設計だ。

二度寝。

それを後二回ほど繰り返して、ようやく起きる気になってくる。

うっすらと目を開けて、ロック画面からホーム画面に移ろうか、顔認証で。

失敗した。

寝起きの私の顔は、どうやらかなりひどいことになっているらしい。

仕方なく六桁の暗証番号を入力する。無地の青い背景に、色んな装いのアイコンが等間隔に並べられている。それらを無感情で見つめた後、体を起こした。

 

「……うぅ……」

 

 長い夢を見ていた気がする。

 じんわりと、実体験なのか夢なのか分からない記憶が、頭の中に広がってくる。

 あれも。

 あれも夢だったのだろうか。

 全部?

 そういえば、私の腹の上にはモルガナが乗っていない。

 いない。

 もう行ってしまったのだろうか。それとも、アイツも私が想像で作り出した夢の中の登場人(猫?)物だったのだろうか。

 分からない。

 まあ。

でも、これで、せいせいしたか。

 いつもの日常が戻ってきた。

 誰にも干渉されなくて、誰の干渉もしない、平和でのどかな生活が。

 それは間違いなく、私が望んでいたものだ。

 ……。

 別に寂しい訳じゃない。寂しい訳じゃないが、何気なく、私は周りを見渡してみる。

 確かにモルガナは私の腹の上には乗っていなかった。

 代わりに、腹を出した双葉が、モルガナを抱きながら私の隣で寝ていた。

 

「う、……わ、あ」

「グーーオォ。グ――オォ」

 

 寝起きの影響で、まともにそれらしいリアクションを取ることができず、私は微妙な叫び声を上げながら後ろに下がる。

 いた……。しかも二つセットで。

 非現実はまだ、私の真横で横たわる腹積もりのようだ。

 

 

 

 あの後。

 双葉の声を聞いたマスターは、並みならぬ動揺を私たちに見せた。

 具体的には、手を滑らせた。私の腹に収まるはずだったルブランカレーは、お皿から受けていた垂直抗力から解き放たれ、宙を舞った。

 あまりにももったいない。

 直感的に悟った私はすかさず、先にテーブルに落ちてきたお皿を両手で持って、ルーと飯の落下予想地点に据えた。

 結果、およそ八割程度のカレーを救うことができた。

 胸をなでおろす私。

 なおも驚いた表情で双葉を見ているマスターと、じっと目でマスターを捉えて離さない双葉。

 

『助けて、欲しい』

 

 双葉は言った。

そして、ためらいもなく自身の上着を脱ぎ、マスターに背中を見せた。

痣。

 それは、事故や偶発的な怪我だけでは説明のつかない量の痣が、背中に張り付いていた。

 

『お前……それ、』

 

 その痣の理由を聞こうとしたようだったが、すぐに目と口を閉じた。

 全てを理解したように頷いたマスターは、携帯を取り出しながらカウンターの奥へと消えていった。

 テーブルには私と、双葉と、そして救われたカレーだけが取り残された。

 

『そうじろう。伯父さんと知り合い。だから、なんとかしてくれるって思った』

 

 大人びた表情のまま、私とモルガナにそう呟いた双葉。

 

『ああ』私は頷いた。『けど、まあ、とりあえず、服は着れ』

 

 上着の着衣を手伝っていると、向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。

 マスターの声だ。そして、ちょっとした口論になっているらしい。

 電話か。

 多分、相手は一色葉司だろう。

 また、怒号がルブランに響いた。

 その間、私は考えていた。どうしてマスターは、双葉に対してそこまで怒ってやれるのか。

 マスターは安易に手を差し伸べる人じゃない。手を貸す程度のことはしてくれるが、そこには絶妙な距離感があった。

 現に私がそうだったからだ。

 年を取った間に、段々と優しくなっていったのか。

 それとも、双葉とマスターの関係に何か、後ろめたいことがあったのか。

 それは今でも分かっていない。

 

『……ケリは、ついたよ』

 

 しばらくすると、遂にマスターが姿を現した。

 久しぶりに大きな声を出したからだろうか。声が少し掠れていた。

 

『もう、あんなとこには行かなくていいよ、嬢ちゃん。……いや、双葉』

『うん。……あんがと』

 

 どうやら全てが終わったらしい。

 ということはつまり、不法侵入及び拉致という十字架を背負っていた私の罪が、うやむやになったことになる。

 ふう、と大きなため息をついた。

 

『お、終わった……のか』

『ああ。……終わったな』

 

 恐らく、微妙にニュアンスの違う『終わった』を、私とモルガナが呟いたところで。

 私の着ていたブレザーに、かなりの量のルーが付着していることに気づいた。

 

 

 

 私はキャンメイクのリトルプラムキャンディーを塗る。

 双葉は私が大事に取っておいた菓子パンにかぶりつく。

 モルガナは小皿に並々と注がれた低脂肪牛乳を舐める。

 のどかな朝の支度の時間だ。

 

「な、なに、これ。うますぎる……」

 

 中にクリームが入った、至れり尽くせりのチョコメロンパンを美味しそうに頬張る双葉。

 私の、週に一度の楽しみが、双葉の喉を通っていく。

 そりゃ、良かったな。と私は心の中で言った。

 

「この牛乳、味が薄くないか?」

「気のせいだろ」

「ワガハイも、あのメロンパンの方が良かったぜ……」

「ぶうぶう文句を垂れるな、モルガナ」

 

 そんな私たちのやり取りを、双葉は興味深そうに見ている。

 ああ、聞こえてないんだっけ。

 やっぱり、時々忘れてしまうな。

 

「ん? もしかして、ニャンコ、このメロンパン欲しい?」

「え?」私は言った。「モルガナの言ってること、分かるのか?」

「分からん」双葉は首を振った。「でも、さっきからその猫、ずっとこのメロンパンを見てたから、その、分かった」

「なるほど」

「ふっふーん。私、すごい?」

「ああ。すごいな」

 

 私が頷いたのに満足したのか、双葉は満面の笑みでメロンパンを頬張った。

 人は往々にして自己顕示欲を持っていて、悪いことじゃない。悪いことじゃないが、双葉はそういった欲が人一倍ある子なのかもしれない。

 それは双葉が元来持っているものなのか、それともまだ精神的に幼いからなのか。

 多分、後者の可能性が高いと思う。

 私は双葉の性格について分析していると、今の状況が全く変化していないことに気づく。

 

「「え?」」モルガナと私の声が被った。

「え?」遅れて双葉の山びこがやって来る。

「あげないのか?」

「なにを?」

「なにを、って……今、双葉がモルガナにメロンパンを仕方なくやる流れだったろ」

「そうでもなかったぞ?」

「そうでもなかったか」

 

 そうでもなかったそうだ。

 双葉、結構食い意地悪いんだな……。

 昨日、あんなにルブランカレー食ってたはずなのに。

 マスターから「代はいらねぇよ」と言われるまで、ずっと財布の残金を気にしていたのは内緒だ。

 モルガナは相変わらず低脂肪牛乳をまずそうに舐めている。

 ちょっと可哀そうに思えてきたから、帰りに買ってきてやろうか……。

 対照的な一匹と一人を眺めていると、一番に考えるべき疑問が、ようやく私の中で湧き上がってきた。

 

「なぁ」

「なんだ?」

「モルガナじゃない、双葉」

「ふぁにー?」

「パンを食いながら話すな」私は言った。「なんでここにいんだよ、お前」

「……んく。え、なんでって、」双葉はメロンパンを飲み込んだ。「私、家ないし。ほら、私、家なき子だから」

「なんで言い直した?」

「とにかく。そうじろうが、部屋の準備まだ出来てないって。だから、今日だけここに泊めさせてもらう約束だった。忘れてないとは、言わせないぞ忍」

「ああ」私は眉毛を剃りながら言った。「そうだっけ」

「別に、ずっとここに居ても、いいんだけどな?」

「用が済み次第、さっさと帰れ」

 

 言いながら、丁度眉毛を書き終える。

 ……学校に行こう。

 追及するような目を向けるモルガナから目を逸らし、誰に聞かせるわけでもない『行ってくる』を言って。

 ネコ一匹分軽くなった鞄を提げて、家を出た。

 

 私がコンビニで、帰りに持って帰るべきメロンパンを見繕っていると、急に鞄に重みを感じた。

 見てみると、不機嫌そうに目を細めた黒猫が、ちょうど鞄の中に入ったところだった。

 え?

 

「なんでここにいんだよ」

「ワガハイがここにいちゃ悪いのか?」

「いや、悪くはねぇ……いや、悪い、悪いわ。全面的にお前が悪い」

「双葉のことならもう安心していいぜ。ひとしきりワガハイの肉球をモミモミやった後、マスターの所に帰っていった」

「別に、双葉の動向を聞きたかった訳じゃない」と私は言った。「なんで双葉のところに付いていかないで、こっちに来たんだって聞いてるんだ」

「……いや、ワガハイまだ、傷直ってないからな」

「嘘つけ」

「あと、シノブは言ってたはずだぜ。『三日の執行猶予だ』なんだって。つまりまだワガハイは、あと二日間はこの鞄に入っていいことになる」

 

 ……。

 言質を取られている。

 

「……それで、約束を破るつもりはないだろうな?」

「当たり前だ。ちゃんと、一色双葉の助力になる。それは変わらない」

「……そうか」

 

 ならいいか。

 少し甘すぎるだろうか? でも、三日間だと言ってしまったのは私だし……。

 ああ。

 身から出た錆だ。それなら、自分で責任を取らなければならないだろう。

 

「じゃあ、選べよ」

「何をだ?」

「メロンパン。この中から。買ってやる」

「えぇ!?」モルガナは驚いた。「買ってくれるのか?」

「なんだよ」

「いや……正直、シノブが優しいことをすると、何か裏があるように思えてならないぜ」

「失礼な奴だな……」

 

 一気に買う気が失せた。

 別に、優しさで買ってやるつもりじゃないのに。

 

「気が変わらない内に、早く選べ」

「お、おう。分かった」

 

 結局このコンビニで一番高いメロンパンを買わされた。

 私はネコ一匹分と、メロンパン一つ分重くなった鞄を提げて店を出る。

 空はどんより曇っていた。時折吹く風が生温い。今日は鞄の中の折り畳み傘のお世話になる可能性が高そうだ。

 しばらく真っ白な景色を見上げながら歩いていると、ふいに鞄の中が動いた。

 

「ワガハイな、」ワガハイは言った。「やっぱり、シノブに拾われたのは偶然じゃないって思うんだ」

「え?」

「シノブが、気まぐれでワガハイの背中を掴んだのは分かる。でもそこから今まで、沢山のことがあっただろ? そんな偶然の連続が、ただの偶然の訳がない。少なくとも、シノブがワガハイを拾ったのは、何ていうか……その、運命だったのかもしれないな、って」

「運命、って」

「ワガハイがシノブに付いて行って杏殿と出会ったことも。そして、双葉を手伝うことになったこともな」

 

 モルガナから放たれた恥ずかしい言葉に、なぜか私が恥ずかしくなった。

 何を言っているんだこの猫は。

 

「いや、だから言っただろ。モルガナを拾ったのは、今日の夕飯の献立を決めるくらいの軽い気持ちだったんだよ。モルガナが言ってるのは、結果論でしかない」

「いや。シノブはあの瞬間が何回来ても、多分ワガハイを拾うんだと思うぜ」

「永劫回帰の話か? 悪いが、私は哲学に興味はねぇよ」

 

 そうこうしていると、もう目の前に秀尽学園の正門が迫っていた。

 今日は鴨志田が門の前で立っていなかった。

 珍しい。

 この時間帯なら、いつも私のことをやいのやいの言ってくる癖に。

 一年の頃は、突っかかってこなかったはずなのにな。

 私に嫌味を言うようになってきたのは、いつ頃からだっただろう。

 確か、高巻が私に話しかけてきた時からのようだった気がする。

 

 

 

『おはよう。今日もしみったれた顔してんな』

『ああ。はい。おはようございます』

 

 私は足早に鴨志田の横を通り過ぎた。

 鴨志田は、そんな私の反応を見て気が立ったのか、私に聞こえるくらいの音量で舌打ちをした。

 

『気をつけろよな』

『はい?』

『顔。そんな不機嫌そうな顔をしていたら、皆に移るぞ』

『はぁ』

『ああ……いや。お前に友達と呼べるような奴がいればの話だが』

『……はぁ』私は真面目を取り繕って言った。『気を付けます』

 

 逆上はしない。

 争いは、同じレベルの者同士で行われるものだから。

 その言葉を思い出して、何も気にしていない風を装えるのが、私の強いところだ。

 じゃあ、弱い部分は。

 ……それは、鴨志田の言葉に、それなりに傷ついたりしている私だ。

 

 

 

 

「……ぃ、おい。忍」

「……あ、うん、何?」

 

 私は嫌な記憶を思い出していた。

 やめよう、こんな、無駄なこと。

 

「何か、辛そうな顔してたぜ。大丈夫か?」

「気のせいだ」

 

 私はモルガナに言った。

 校内へと入り、階段を上る。

 教室前の廊下は、それなりの人で賑わっていた。

 適当に話をしている生徒を避けるように、私は窓側を歩く。

 

 ふいに、窓の外の景色を見やった。

 

「…………え」

 

 屋上。

 人影。

 筋肉質な体。

 そして、肩に提げたホイッスル。

 あれは。

 

「……鴨志田?」

 

 あんなところで何をしているんだ?

 立ち止まったその瞬間に、妙な既視感を覚えた。

 そうだ。

 あそこは。

 鈴井志帆が、飛び降りた場所だ。

 

「なんだよ忍。いきなり立ち止まって、」

「見るな」

 

 鞄から出てきたモルガナの顔を手で覆う。

 他の生徒も気づき始めたのか、周りが一層騒がしくなる。

 鴨志田を見ようと窓に張り付こうとする生徒に押されて、私は廊下の隅に追いやられた。

 

『一人目の被害者が現れる』

 

 ルブランで双葉が言った言葉を思い出す。

 数秒後。

 わぁっ、と、生徒の驚く声が重なって。

 聞いたこともない音が、窓から聞こえてきた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話『honeyOTU さんがログインしました。』

更新が遅くなるかもしれませんと書くと、本当に更新が遅くなるのなんとかしたい。


 ひどい音だった。

 とても、足から着地したとは思えない。

 腹か。それとも頭からか。

 夥しい数のシャッター音が、そこかしこから聞こえてくる。

 中庭に投げ出されている鴨志田を想像して、吐き気がした。

 

「う……ぷ」

「……お、おい、忍、大丈夫かよ?」

「……るさいな」私は頭を抑えた。「ちょっと、黙ってろ」

 

 誰もがスマホを手に取りながら立ち尽くしている。

 私は気持ち悪さに参って、背中から壁に寄りかかっていた。

 先生も、生徒も誰も、何も言葉を発さない中。

 誰かが、私の目の前を通り過ぎた。

 色が抜けた髪をまとめた、ツインテール女。

 

「高巻……」

 

 間違えようがない。高巻杏だろう。

 表情を見ることはできなかった。それでも乱暴な足音から、彼女がとても動揺していることは手に取るように分かる。

 どうして高巻は、鴨志田が飛び降りているのを見て、焦っているのか。

 分からない。

 ふいに、鞄が軽くなった。

 足元を見ると、鞄から脱出したらしいモルガナは、私をじっと見つめていた。

 

「今の、杏殿だったよな?」

「ああ」私は言った。「そうみたいだな」

「何が起こっているのかは分からないが、大分逼迫している状況のようだぜ。双葉が言ってた『終焉』のことと何か関係があるのかもしれない」

「ああ」私は適当に頷いた。「そうかもしれない」

 

 鴨志田がなぜ飛び降りて、高巻がどうして階段を降りて行ったのかは分からない。

 しかし、モルガナがどうして鞄から出ているのかくらいなら分かる。

 そして、モルガナが私を誘っていることも。

 

「行こう、忍」

「なんで」私は即答した。

「なんで……って、そりゃあ」モルガナは少し面食らったようだったが、すぐに向き直った。「放っておけないだろ。それに……きっと、雨宮蓮のことと繋がってるはずだぜ。それくらい猫にだって分かる」

「ああ、そうかよ」と私は言った。「悪いが、好きな女の尻を追いかけるのは一人でしてくれないか」

「……忍、お前、冗談はほどほどに、」

「私は、本気だ」

 

 声帯を閉め、自分が出せる一番低い声で私は言った。

 モルガナは口を止める。

 一丁前に、私の言葉の続きを待っているらしかった。

 それなら、それに従うまでだ。

 

「何度も言わせるな。モルガナを双葉に預けたら、私は一色双葉の持つ一件から手を引く。……面倒な迷惑ごとに、私を巻き込まないでくれ」

「面倒ごと、って……で、でも、杏殿があんなに、取り乱して……」

「それがどうしたんだよ。教室で一言二言しか話したことのないアイツを、どうして私が気にしなくちゃならないんだ? アイツが渋谷駅で泣きながら走っているのを見かけても、私は追いかけない自信があるね」

 

 でも、モルガナはきっと追いかける。

 正義感が強くて、誰のことも見捨てられない人は追いかけるのだろう。

 だからモルガナは、私とは分かり合えるはずがない。

 

「……おい、忍。自分が選んだことにはちゃんと責任持とうぜ。言ったら悪いが、ワガハイを拾おうと決めたのも、双葉を助けようと決めたのもお前自身だろ」

「……分かってるよ、そんなこと」

 

 違う。

 言いたいことは、そんなことじゃない。

 モルガナや双葉を見ていると、嫌気が差す自分がいるんだ。

 他でもない、自分自身に。

 すぐに自分の目的を見つけられて、変わっていくお前たちを見て。

 ただ一人、何もしないまま、変われないまま、一日をつぶしている自分が嫌いになっていく。

 だから、もうこれ以上。

 お前たちと、関わりあいたくない。

 それなのに。

 

「なぁ、今の、私の気持ちが分かるか? 分からないよな。分かるはずない。ただ一日が無味に終わればいいって思ってた私が、気の迷いでネコ拾ったら、望んでたこととは真逆の方向に行きだしてる、今の気持ちが」

 

 どうしてモルガナは不愛想な私に話しかけて。

 学校に鞄に入ってまで付いてきて。

 運命だとかなんとか言って。

 私を見捨ててくれないのだろう。

 分からない。

 分かりたく、ない。

 

「後悔だよ。お前なんか、拾わなきゃよかった」

「……っ」

「高巻とか双葉のところへ行けばいい。そして、もう戻って来るな。二度と私の前に、現れるんじゃない」

 

 モルガナは何も言わなかった。

 何も言わずに、私に背を向ける。

 モルガナの姿が見えなくなると、私は廊下にへたり込みそうになった。

 

「これでいい」私は自分に言い聞かせるように言った。「これで、いいんだ」

 

 これで、一色双葉の願いが叶う。

 モルガナも、価値のない人と付き合う必要もなくなる。

 双葉は戦力が手に入る。

 私の日常が戻って来る。

 誰も不満のない終わりだ。

 でも私は一つ、後悔していることがあった。

 それは、モルガナを不用意に傷つけてしまったこと。

 例えば降りしきる雨の中。

 例えば猫カフェで奴らの肉球を愛でている時。

 例えば魔女宅で黒猫のジジが雨に濡れている時。

 私は路傍の石ころみたいに横たわっている黒猫を思い出して、ウンザリしたり、激しく後悔したりするのだろう。

 それともう一つ、私の中で蠢いている感情があった。

 私はちっとも変われないのに。

 あの頃から、何一つ変わっていないのに。

 私の傍で、いともたやすく変わっていくモルガナと双葉に。

 私は嫉妬していた。

 

「何……してるんだろう」

 

 何もしてねぇよ。

 私の人格の一つが、そう言った。

 じゃあ、私は。

 一体、何がしたいのだろう。

 

 

 

 

 

 交通手段の一つに、電車を入れていたのがダメだった。

 駅に着いた途端、あまりにもの人の多さにパニクった。ドキがムネムネして、世界がグルグル回って、一生キョドッてる私を不審に思った駅員から命からがら逃げてきた。

 つまり、門前払いを食らった訳だ。まさか、電車の車両にすらたどり着けないとは思ってなかった。外の世界、恐るべし。

 でも忍はいない。ニャンコもいない。独りぼっち感を味わった私は、涙が出てきたけど、そこはぐっと堪えて次の策を考えた。

 入力:一人のコミュ障。

 出力:ここから喫茶店『ルブラン』へのルート。

 実行結果:徒歩。

 とほほ。

 ……なんつって!

 とりあえず私は、なんとか頑張って四茶まで行くことができた。具体的には、線路沿いの道を歩いた。昨日あったことは全部覚えてたから、方向を間違えていない自信はあった。

 四軒茶屋駅に着いてから、また昨日の道に沿って歩いた。因みに、四軒茶屋の名前の由来は、昔ここに四軒の茶屋があったから。これ、豆知識な。

 歩いてる間、皆が私を見ているような気がして、冷や汗タラタラだったけど、なんとかルブランまで来れた。

 中に入る。うん、適温。

 見慣れた景色にホッとして、胸をなでおろしていると、そうじろうが気づいたのかこっちを向いた。

 

「……? お、おぉ、双葉か。なんだ、一人で来れたのか?」

「あ、う……うん。どう、偉い?」

「ああ、偉いぞ」

「んふふ」

 

 そうじろうに褒められたことに、ちょっとだけ胸を張りながら、私はカウンターの席に着く。

 ピリッとしたカレーの匂い。なんとなく『深い』気がするコーヒーの匂い。んで、そうじろうの顔。

 ルブランには、落ち着くが溢れてるな。

 

「飯はもう食ったか」

「うん。忍が激ウマなメロンパン、食べさせてくれた」

 

 言って、激ウマメロンパン略して激メロの味を思い出そうとしていると、そうじろうが私に聞いたことの意図を察して、私は慌てて付け足した。

 

「……あー。あー。で、でもまだハラは減ってるかなー。久しぶりに! ……カレー食べたい感じ、かも」

「カレーは昨日食ったろ」

「……でも、うまいし」

「そうかよ」そうじろうはガジガジ自分の頭を掻いた。「まぁ、待ってろ、ちょっとキッチンの方、行ってくるわ」

「う、うん。……あ、大盛り、で」

「はいよ」

 

 そうじろうは、よっこらせと腰を上げて私に背を向けた。ちゃかちゃかと手を動かしているそうじろうを見ていると、何も言わずに私を先導してくれた忍の背が、なんだか被って見えた。

 突然、扉が開いた音がした。客。……人?

 やばい。

 脳内アラームがうるさい。

 咄嗟に身を隠せる場所を探したけどない。私の顔を隠せるかぶりものもない。

 イコール、死。略してイゴる。

 わたわたと私が慌てていると、人の気配がないことに気づく。恐る恐る振り返ってみると、肩を落としたモルガナがルブランに入ってきていた。

 や、肩を落としているかどうかは分かんないけど。でもなんだか、元気なさげだ。

 

「どうした、にゃんこ」

「……にゃあ」

「……なる、ほど……」

 

 わからん。

 私は神妙に頷いておく。

 私の隙のない演技に気づいたのか、一瞬私にジト目を向けてから、隣ににゃんこが座った。

 

「……忍は?」

「……」モルガナは何も言わない。

「喧嘩か?」

「……」モルガナは何も言わない。

 

 でも、少し遅れて、コク、と一つ頷いた。

 ……そうかー。

 喧嘩かー。

 

「ネコにも、色々あるんだなー」

 

 と、私は分かってやったつもりで言って、モルガナの頭を撫でた。

 ちょっと強めに。すると、モルガナはにゃあと言ってプイッと顔を逸らした。

 可愛くないヤツめ。

 

「……ん? 誰か、来たのか?」

 

 私の声に気づいたらしいそうじろうは、キッチンからぬっと顔を出した。出すなり、私の顔をモルガナの顔をひとしきりキョロキョロやったあと、目を点にした。

 

「えぇ、ネコ? ……双葉のか?」

「いんや、忍の」

「えぇ?」そうじろうは大きな声をあげた。「アイツ、ネコ飼ってやがったのか」

 

 そうじろうのそんな言い方が気になって、私は変に思った。

 

「忍がネコ飼うの、そんな不思議か?」

「い……や。まあ、アイツがわざわざペットショップに行くとは考えづれぇな」

「あ、えと」私は忍が言ってたことを思い出す。「拾ったって。道端で、モルガナ……この猫が行き倒れてるのを見かけて、仕方なく……仕方なくだぞ? マジで仕方なく、拾ったって、忍が言ってた」

「あぁ……」そうじろうは、ようやく納得がいったように頷いた。「なるほどな」

「なるほど?」

「ああ。アイツらしい、ってことだ」

 

 言ったっきり、そうじろうは下を向いて、何かを考え始めた。「カレーまだー?」とはとても言えないくらいに、そうじろうの顔は痛々しかった。

 横を向く。モルガナも、そうじろうの話を聞いて何か思うことがあったのか、カウンターの木目をジッと見ている。流石に分かってきたけど、モルガナにはちゃんとした知性がソナわっているようだ。

 次に、忍の顔が頭に浮かんできた。笑ってない。でも、苦しんでもない。どこか遠くを見つめて、時折肩に提げたモナバックを背負いながら歩いている。何かを、考えてる。

 何考えてんだろ。

 でも、分からん。

 でもでも、知りたいと思う。

 忍の胸に頭に足に手に肩に腹に抱え込んでいる全てを見てみたい。

 私……気になります!

 

「なぁ」

「……んぇ、な、なに?」

 

 いきなりそうじろうに話しかけられて、ビビる。

 

「双葉から、忍はどう見える?」

「ヒーローだ」

 

 そうじろうの何とも言い難い質問に即答できる自分、マジカッケー。

 

「ヒーロー。それは多分、私がおばあちゃんになっても変わらない。優しくて、頼りたくなって、強い。……もし私にお姉ちゃんがいたら、忍みたいな人がいいなって、お、思う」

 

 言ってる内に恥ずかしくなってきて、ついつい口をモゴモゴやってしまう。

 でも、待てよ。私はお母さんに引き取られた人だから、もしも忍が父方で育てられた人だったら……忍が私のお姉ちゃん説が微レ存!?

 いや……それはないか。だって、顔、全然似てないし。

 

「そうか」

「う、うん」

「そうだよな」

「うん?」

「でもな、双葉」

「……うん」

 

 そうじろうが、改めて私に言った。やっぱりカレーの催促なんて、言えるはずがなかった。

 

「確かに、忍は優しいな。頼りたくなる気持ちも分かる。頼りたくなったら頼ってもいい。最初は適当な理屈を付けて断られるかもしれないが、根気よく言い続けると、きっと忍は答えてくれるよ」

「うん……分かる」

「だが、最後のは違うと、俺は思ってる。アイツは強情だが、強くはない。弱い。弱くて、脆い。自分の悪口を聞いても平気でいられるほど、図太くはねぇ。信じられないくらいに繊細なんだ。そのくせに、人には頼られようとするくせに、自分からは頼ろうとしない」

「……」

「だからな、双葉」そうじろうは言った。「アイツが困っていたら、手を差し伸べてやってくれないか」

「そんなの」私は言った。「当たり前だ」

「……ありがとな」

 

 と、流れでそうなった手前。

 やっぱり、忍が困っている顔なんて、想像できるはずがなかった。

 ……ん?

 

「ね、そうじろう」

「なんだよ?」

「何か、焦げ臭いニオイしない……?」

「……」

「……」

 

 ……。

 終わった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十話『exit(0);』

「で、えと……部屋、は?」

「あぁ、もう用意してある……が、埃がな。部屋一面に、埃という埃がかぶさってる始末だよ」

「そかー」

「言っておくが、あんまり部屋は期待すんじゃねぇぞ?」

「お、おう」

 

 別に、パソコン使えればなんでもいいし。……あ、あと、お菓子とか本が置けるスペースがあればなおよし。うん。

 そうじろうが作ってくれたオムライスを完食して、一息つく。うまかった。でも、正直にうまかったって言うのはなんか恥ずかしくて、やめておいた。

 えっと……。

 

「ねー、そうじろう」

「なんだ?」

「部屋って、その……屋根裏?」

 

 私は人差し指を天井に突き上げる。

 ああ、いや。と言って、そうじろうは首を横に振った。

 

「屋根裏はな……実はもう、先客がいる」

「……へ? 先客? ってことはそこに、誰か人が住んでる? ってことか?」

「ああ。今は、出かけてるけどな」

 

 出掛けてる。この時間帯に。

 ってことは、無職じゃない。働いてるか、忍みたいに学校に行ってるか。

 お勤めご苦労。

 ……じゃなくて。

 

「何で?」

「何でって……そりゃぁ、色々さ」

 

 そうじろうはニヒルな笑みを浮かべた。

 どうやら私をはぐらかすつもりらしい。私もナメられたものだな。

 フ。と一つため息をついて、私は言った。

 

「教えたくないなら、別にいい。でも、それは、私の手間が増えるだけ。パソコンで調べたら、それらしい人なんていっぱい出てくる。んでそのうち、特定できる」

「……分かったよ」そうじろうは目を瞑った。「まあ、観察兼、保護者っていう立ち位置だよ、俺。……血のつながりは、ねぇ」

「ふうん……」

 

 観察かー。ってことは、前科持ち?

 でも、そんなことはどうだっていい。

 私は、そうじろうが言いづらそうにしていた言葉が気になった。

 『血のつながりはない』。他は私の目を見て話していたのに、その時だけ、そうじろうはそうじろうの目を逸らした。

 逸らしたってことは、多分、その事実を私に打ち明けることが、そうじろうにとって後ろめたいってことだ。

 その理由を考える。

 分かった。

 分かった瞬間、怒りが込み上げてきた。

 どうして。

 どうして私は助けてくれなかったの?

 どうして名前も知らなかった人をルブランに住まわせたのに、私を引き取ってくれなかったの?

 私はカッとなって、そうじろうに言いたくなる。

 でも、申し訳なさそうに俯くそうじろうを見て、八つ当たりで怒りをぶちまける気力がしゅんとなった。

 私はそうじろうを見る。すると、あの頃と全く変わっていないなと思っていたそうじろうの顔が、途端に老けて見えた。あの時には無かったはずの皺が沢山増えていることに気付く。

 それはただの老化か。でも、その中の一つが、私について悩んだ結果生まれた皺なのだとしたら。

 私は許せる気がした。

 

「にしても、ふけたなー、そうじろう。皺くちゃだ。肌にもツヤがないし。まだ、がんもどきの方がハリ、あると思います」

「な、なんだよ……藪から棒に」

「考えすぎってこと」私は言った。「……伯父さんの家に住んだのは、私が望んだことだから。そうじろうが変に思う必要はない、と私は考える。……あ、あと、そいつを屋根裏に住まわせた理由が、私に対する罪滅ぼしなんだったら、それはそれで的外れだけどな!」

「ふ、双葉、お前、」

「や、まあ、ちょっとはムカつくけど? ……でも、こうやって、私の居場所、見つけてくれてる。だから、問題なし」

「……そうか」

「うん」

「ちょっと、部屋、掃除してくるわ」

「うん……うん!? え、あ、そう?」

 

 そっちこそ藪から棒すぎる。なぜか目元を手で隠したそうじろうは、そのままルブランを出てしまった。

 まあ、そっちの方が都合、いいんだけど。部屋には私と、そして今まで空気と化していたモルガナが取り残される。

 

「さて」

 

 本題に入るとしよう。もちろん、ルブランに来たのはタダ飯にありつくことが目的じゃない。ちゃんとした理由がある。

 

『雨宮蓮のパレスの場所。お前なら、ルブランに行って、適当に佐倉惣治郎から話を聞けば分かるだろう』

 

 私のシャドウが住むパレスの中で、未来の私はそんなことを言ってた。答えを直接言わないで、もったいぶったことを言った未来の私の動機は手に取るように分かる。

 答えが提示されている問題ほど、ナンセンスなものはない。ぶっちゃけ、面白くない。

 あ、でも、ゲームの攻略サイトはめっちゃ見るな……隠しアイテムの場所とか。秘密のルートとか。うーん……まあ、いいや。

 ふん、と私は鼻から息を吐いて、そうじろうから聞いた話を整理する。惣治郎が屋根裏部屋に住まわせている人がいる。そして今はどこかに出かけてしまっている。前科持ちの可能性。未来の私から聞いた、雨宮蓮の経歴と照らし合わせても合点がいく。

 雨宮蓮は、この屋根裏部屋に住んでいる。

 流石にご都合主義的展開に過ぎるか……?

 でも、そんな直感はある。

 まあいいや。ブラフである可能性も高い。だから、答え合わせをしよう。

 テレビは……まあ、別に点けたままでいいや。ニュース番組のテロップには、『蒼山一丁目の高校体育教師、屋上から飛び降り重症』と書かれていた。

 私は席を立って、のそのそと二階に上がる。私のものに比べて、二倍の数の足音が聞こえてくるから、モルガナが私に付いてきていることを知る。

 二階に出た。周りを見渡してみる。

 

「……殺風景だなー」

 

 素直な感想が口に出た。ベッドのシーツに少し皺が出来ていることくらいにしか、生活感を見出すことができない殺風景な部屋。

 小物もない。勉強机には教科書も、小説すらも置かれてない。オラこんな部屋いやだ。

でもこれじゃあ、この部屋に住んでいる人がどんな頭をしているのか、知りたくても知ることができない。

 

「潔癖症? 不要な物を置かない完璧主義者? それとも、こうやって人に侵入されることを予測して、あえて物を置かないようにしている、用心深い人? ……分からん」

 

 ヒントがない。

 じゃあ、チート武器を出せばいいじゃん?

 私は部屋から唯一持ってきたノーパソを一階から持って来て、起動し、画面を開いて、当然のようにそこに鎮座していた『異世界ナビ』のアイコンをパッドでクリックする。すると、キーワードを打つ欄が表示された。

『雨宮蓮』『佐倉そうじろうが経営している喫茶店』『ルブラン』

 

 あ。

 反応があった。

 ……ヌルゲーだな!

 それにしても物事がトントン拍子に進むな。あまりにも上手く行き過ぎている……とかなんとか思ってると、後々フラグになったりするからやめとく。

 後は、雨宮蓮が、このルブランを何だと思っているか、だな……。

 もう一度、周りを見渡してみる。相変わらず何もない。

 では、見ないといけないのは、彼の行動かな。

 未来の私によると、この一週間で、雨宮蓮は『誰か』を屋上から突き落とすらしい。それも、鈴井志帆が飛び降りた場所で。また、他の犠牲者も目立った死に方をしているようだった。雨宮蓮は、こそこそ誰にも見つからないように、誰にも分からない場所で人を殺めることはあまり趣味ではないらしい。

 人を殺すのなら、やっぱり、異世界に人を持ち込んで撲殺するなりするのが、一番足が付きにくいからな。多分。

 では、雨宮蓮が派手なことをする行動原理は何か。目立ちたがり屋? 人に自分である『怪盗』を認知してもらうため? 人々に、悪い人を殺害するショーを見てほしい?

 ショー、か……。さながら雨宮は、サーカスに出てくるピエロみたいだな。道化を演じて、人を操って、殺して、見世物にして、人を喜ばせる。

 いや……ピエロは違うか。ピエロはその人そのものが演じるものだ。雨宮蓮はあくまで裏方。姿を現したことは一度だってない。むしろ演者は吊るされる悪人の方で、雨宮は、そう、

 

「脚本家……か」

 

 世界の『終焉』まで導く、最高のシナリオを描くシナリオライター。そのシナリオを、見せる場所。原点。皆が集まって、見にくる場所。テレビ。ショータイム。スクリーン。画面で踊る演者達。それを他人事のように観ている人。人。観客。皆、最高の結末を期待している。ハッピーエンド。ドラマが終わった時、普通の心を持っている人はいない。寂しいスタッフロールには、雨宮蓮の名前しか出てこない。

 イメージが、光景が、頼んでもいないのに浮かび上がってくる。それはもう、言葉じゃなかった。研ぎ澄まされた集中力の中で生み出された『モノ』を、なんとか後付けの言葉で表しただけだ。頭の中で巡っている言葉も、日本語じゃない。私の中でしか通用しない、私だけ使うことのできる高速言語。

 ……調子に乗ってたら脱線してた。もう答えは出ている。あとはそれを、言葉に直すだけだ。

 

『映画館』

『候補が見つかりません』

 

 あ。

 違った。

 ちょっと恥ずかしくなる。

 では、気を取り直して。

 代替案を考える。

 分かった。

 

『劇場』

 

 候補が見つかりました。だってさ。

 私はドヤ顔で、聞こえているはずのモルガナに言った。

 一瞬の眩暈。ちょっとした吐き気で反射的に、口元を抑える。

閉じた目を瞼越しにグリグリ押してから、私は目を開ける。

 

「……お、おぉ」

 

 劇場……か?

 私が想像していた、コンクリで固めたみたいな劇場とはちょっと違う。

 レンガ……うす茶色9、オレンジ1くらいの割合で配分されたレンガが積み上げられた、横に平べったい円柱状の建物。それを支えている数本の細い柱は、なんだかちょっと頼りない。

 中世……異世界? を彷彿させるようなご立派な劇場は、ここから徒歩数十秒のところで鎮座していた。

 でも、問題はそこじゃない。おかしいのは、あたりの薄暗さだ。不気味。柱と柱の間の空間を確認することができなくて、私の目が悪いのもあるかもしれないけど、暗闇。でも、そんな空洞のどこかに入り口があるのかな。

 

「ほ、ほ……ぅ」

 

 結構ビックリした。この驚きは、向こう一週間経験することのないビックリ度合いだろう。私はそんなどうでもいいことを確認して、立ち上がろうとすると……、

 

「ここが、雨宮パレスか……」

「うひゃぁ!?」

 

 私は尻もちをついた。

 んで、早速驚き度が更新された。

 ビビったわー……ってか、誰?

 私は声がした方を振り向く。

 そこには変な化け猫がいた。

 

「だ……誰!?」

「え? ……ああ、この姿じゃ初めてか。ワガハイはモルガナだ」

「モルガナ……って、え、さっきまで一緒にいた、忍の飼い猫?」

「ネコじゃねぇ……けど、話がややこしくなるから、取りあえずそれでいい……か」

 

 モルガナは悔しそうに顔をしかめた。よっぽど、ネコって呼ばれるのが嫌っぽいな。

 でも、モルガナ。本当に喋ってる。ワンチャン、忍の妄想かもしれないことを覚悟してたけど、話せるんだ。

 

「当たり前だ。話せるし、双葉と話しておきたいことは山ほどある。でも今は後だ。今はパレスを攻略することに集中しろ」

「う……うぃ!」

 

 先導して走ってく(なんか足がグルグルしている)モルガナになすがまま、走らされる私。

 劇場とモルガナとの距離が目と鼻の先になったところで、一つ、気になることができた。

 

「え、えと……モルガナ」

「なんだ?」

「忍は?」

「……忍は、来ない」

「え? ……な、なんで」

「ペルソナが使えないからな。あとは……まあ、色々あるが、実際忍は今、全く戦力にならない。足手まといもいいところだ。だから、ここ当分は……ワガハイと双葉で攻略しなくちゃならないな」

 

 淡々と告げられた衝撃の事実に、私は言葉を失った。

 え……そんな、だって。

 忍は、私を助けてくれるって、言ったのに。

 

「ああ、もう。だから、説明は後だって言ってるだろ? まずは……そうだな、セーフルームに到着してから、ゆっくり話そうぜ」

「で、でも……」

 

 と。

 その時、モルガナは私と話すために後ろを向きながら走っていた。

 だから、目の前に奇怪な姿をした物体が、モルガナの前で待ち構えていることは。

 前を向いている私にしか、分からなかった。

 

「あ、あぶな……モルガナ!」

 

 私が言い終わる前に、モルガナの体は真横に吹っ飛んだ。

 一回地面に打ち付けられながらバウンドした小さな体は柱に突き刺さる。

 柱は崩れていない。でも、柱の上下に走った亀裂は、モルガナへのダメージが大きいことを如実に表していた。

 

「あ……ぐ……」

 

 動けないでいるモルガナ。でも意識は飛んでいないようだ。

 あの時。

 あの時私には、ただ人型の物体が、モルガナの体を軽く払っただけのようにしか見えなかった。

 強い。勝てない。明らかなレベチ。

 それを理解した瞬間、私の足は震えて止まらなくなった。

 柱で項垂れているモルガナを無感情に見やった人型の目は、すぐに私に向けられる。

 次はお前だ。

 そう言っているような気がした。

 

「あ……ぅ……」

 

 あれほど。

 あれほど画面の中だと興奮できた修羅場が。

 私のすぐ目の前で横たわっているのに。

 私は情けない声をあげて、本能的にちょっとずつ、後ずさることしかできなかった。

 

「に、逃げろ……双葉」

 

 私は揺れ動く瞳でモルガナを捉える。

 

「コイツは……ダメだ。今まで会ったどんなシャドウよりも強い。今のワガハイ達じゃ……太刀打ちできねぇ」

「そ、そんなこと……分かってる。けど、」

「だから、逃げろ双葉。今すぐ後ろ向きに走りながら、持ってるノートパソコンを開いて、このパレスから帰還しろ」

「で、でも……それじゃあ、モルガナが……!」

「早く! 追いつかれて……間に合わなく、なるぞ……!」

 

 シャドウが私に近づいてくる。

 その存在感に圧倒されて、私はまた、ひぃ、と口から声が漏れた。

 でも私の足は一向に動く気配はない。

 あまりにも怖くて、動けなかったから?

 多分、違う。

 私の頭はまだ、モルガナと一緒に助かる方法を探していた。だから足はそのままで。

 他の感覚器官を全無視して、私は考えまくる。

 一秒で十分だ。

 モルガナまで走って行くと途中で捕まるから無理。『戦う』を選択すると秒で倒されるから無理。相手の弱点が分からないから無理。一旦ここから出てもモルガナを助けられる保証がないから無理。攻撃を躱そうとしても私の頭よりまず体がついてこないから無理。

 相手の動きはワンパターン。モルガナは軽く手で払われただけで吹っ飛んでいった。現実世界への帰還は恐らく周りの人を巻き込んで帰ることができる。

 考える。考える。考えて、分かる。

 ……よし。

 私は覚悟を決めて、『シャドウのふところめがけて』、走った!

 

「ちょ、双葉!?」

 

 モルガナの声なんて気にしない。

 シャドウは突っ込んでくる私に対処するために、何か構える仕草を取った。

 その行動を見て、私は確信する。

 

「……この勝負、多分もらったぁ!」

 

 私はノートパソコンを展開。適当な文字を打つと、ほどなくして『帰還する』というメッセージが表示される。その表示を確認してから、そのノーパソを閉じて胸に抱えた。

 その時がくる。

 シャドウはモルガナの時と同じように、私を横に払った。当然重さも胸もない私は、いとも簡単に真横へ吹っ飛ばされる。

 

 モルガナと同じ方向に。

 

 衝撃と痛覚に飛びそうになった意識を取り戻す。取り戻して、名いっぱい手を伸ばして、

 

「私の手を、掴めえええええ!!!!」

 

 私は思いっきり叫んだ。

 ノーバウンドで体がX軸方向に平行移動する中。

 私の中指が、モルガナのぷにぷにとした肉球に触れた。

 




明日も投稿したいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一話『三人目の』

急ピッチで書いたのでちょっと雑いです。ごめんなさい。
また次回からは投稿ペースが遅くなります(多分)。よろしくお願いします(_ _)


「どあぁあ!?」

 

 肉球の柔らかさを感じて、異世界に来た時と同じ眩暈がして、気づいたらルブランの古い内壁が見えて、そしてそれが迫ってきて、思わず目を瞑って、モルガナもろとも終わった。

 いや、終わってなかった。途切れてない意識の中で私は思う。なにより、壁にぶち当たった時の衝撃があんまりない。

 ホッとして目を開けると、

 

「ぐ……ぐぇ……」

 

 私と壁に挟まれて、ペラッペラの紙切れのような姿になり果てたモルガナがいた。

 

 

 

 

 アキバ。

 そうじろうが与えてくれた部屋で髪を染めた後、そうじろうから貰った多めの小遣いを握りしめて、私はアキバに立ち尽くしていた。

 フ……来てやったぜ、秋葉原。

 地獄の電車の中を耐えて、ようやく来れた秋葉原。胸が踊らないはずがない!

 と、大通りでここAKBに浸っていると、誰かにぶつかった。

 

「あの、邪魔なんですけど」

「ひ、ひ……あ、あぅ」

 

 ごめんなさい。と私が言う前に、その人は雑踏の中に姿を消した。

 途端に、周りの音と目線が気になって来る。情報量の多さに耐えられなくなって、その場でうずくまりたくなる。

 そんな衝動と共に、帰りたい欲がぐんぐんと湧いてきた。さっきまで持っていたはずの勇ましさが、途端にしゅんとなる。

 ……ホントに帰ろうかな。

 私が踵を返そうとすると、おい、とほぼ真下の方から声がした。

 

「おい、双葉。お前、今帰ろうとしただろ」

「べ、べべ、別に? してないし?」

「動揺しすぎだ……。とにかく、わざわざここに来た理由を思い出せ。それから帰るかどうか決めた方が、ワガハイはいいと思うぜ」

「う、うん」

 

 そうだ。ここに来た理由。おさてんの円盤を買うために……いやいや、あれはまた別の話か。

 シャドウと、ちゃんと戦えるようなスキルやパラメータを上げること。やっぱり異世界だから、全パラMAXとかでもいいと思ったんだけど……現実はそう甘くはないらしい。

 圧倒的な力不足。たるみにたるんだ二の腕をプルプルさせて、私はため息をつく。しかし、筋トレで地道にATKを増強するのは、あまり得策だとはいえない。

 

「ねー、モルガナ」

「なんだ?」

「持ってるだけでムキムキになれる伝説の剣とか、ない?」

「ないな」

「そうか……」

 

 それじゃあ剣とか槍とか、筋肉が必要そうな武器を手にするのもダメか。その上で、異世界でシャドウとやり合っていくためには、『あの武器』に特化するしかない、と私は思う。

 と、その前に。

 私は目的地をやり過ごして、サブクエストのために歩き続ける。

 

「お、おい。どこに行くんだ?」

「ヘッドンホホ」と私は言った。「ヘッドンホホを買いに行く」

「ヘッドン……ヘッドホン? 何でだ?」

「首回りが、なんとなく寂しい」

「なんだそりゃ」

「あとお口も寂しいから、ガムも欲しいところだな」

「はぁ?」

「む」

 

 うまいこと言ったって思ったのに。

 モルガナはかなりその辺キビしいらしい。

 

「まあ、ちょっと、付き合って。……モルガナに聞きたいこと、いっぱいあるし」

「あぁ……そうだな」

「一つ」私は前を向きながら、言った。「忍がこないの、なんで」

「さっき雨宮のパレスで言った通りだ。アイツはこちらに協力するつもりはない。ペルソナも使えねえし、ワガハイをお前の所に居候させるだけで、一色に協力したって言い張ってる」

「……なにそれ」

 

 ずるくない?

 まあ、私の他に、ペルソナが使える人(ネコだ)を仲間に出来たのは嬉しいけど……。でも、今までの流れ的に、忍も私たちの仲間になる感じだと、思ってたんだけどな。

 やっぱりちょっと、裏切られた気持ちが残ってる。

 プンプン頬を膨らませていると、モルガナ自身の動機が気になってくる。モルガナは忍の分身じゃないから、忍がしたいこととモルガナのしたいことは違うはず。でも、忍の言うとおりに、モルガナが私に付いてきてくれているのはなんでなんだろ。

 

「モルガナは……忍に言われたことを破ろうって思わないの?」

「いや……そのつもりはねえよ」

「なんで?」

「前にお前にも言った通り、ワガハイは一度忍に助けられてる口だからな。これが忍に対する恩返しだとしたら、喜んで……かどうかはワガハイにも分からないが、ちゃんとしようって、思ってる」

「義理堅い猫なんだな、モルガナ」

「ネコじゃねぇ」

 

 ちゃんと突っ込んでくれるモルガナに、私の口からフッと笑みが零れた。

 でも……恩返しか。猫の恩返し。恩を返すためだけに、世界を救う慈善事業に協力するモルガナ。パッと聞いたところ、ご主人の命令に従う従順なネコのようだけど、私からしてみれば、()()気がする。

 動機が薄いと、すぐどこかにいなくなってしまいそうで。私は不安になる。世界を救うなら、誰かと一緒がいい。一人は、寂しい。あんな思いはもう二度としたくない。

 忍の優しさを知ってしまったから。そうじろうに頼ることを覚えてしまったから。私はここ一日で何かを手に入れて、何かを捨てた。そんな曖昧モコモコな実感があった。

 

「……でも、確かに、双葉に協力する理由としては薄いかもな」

「う」

 

 モルガナは私の心を見透かしたようなことを言った。

 なぜ分かったし。

 

「でも、なんて言うか。上手く伝えられないんだが」

「う、うん?」

「双葉に協力こと……引いては世界を救う手助けをすることが、ワガハイが存在する理由のような、気がするんだ」

「おおう」

 

 モルガナがすごいこと言ってる。

 世界を救うことが、自分のレゾンデートルって。

ラノベの主人公のような、恥ずかしい台詞をのうのうと言ってのけたモルガナは、自分が恥ずかしい台詞を言ったことに気づいたのか、尻尾を器用にクネクネ動かしている。

 

「そ、そっちこそ、どうなんだよ。まさか未来の自分に言われただけで、世界を救う気になっただとか言い出さないだろうな?」

「え。そうだけど」

「えぇ?」

「アリテイに言ったら、だけど。だって今、することないし。高校に行ってお勤めご苦労したくないし。世界を救うために有給取るのは、許される気がする」

「誰にだよ」

「世界に……かな!」

 

 なんつって。

 でも……そっか。

 世界を救うために雨宮パレスを攻略したい。

 と、思っているのは未来の私であって、今の私じゃない。

 から私は別に『未来の私』の言うことを全部聞く必要はない……と割り切るのはちょっと違うと思う。曲がりなりにも、世界を救いたいと思ったのが私自身であるなら、その願望に寄り添ってあげたい。

 それに、無視してテキトーに『うろつく』を選択してゲームオーバーになったりするのも嫌だしな。やっぱり序盤で出会ったゲームマスターの言うことには従うべし。行動の幅を広げるのは、もっとこのゲームに慣れてからでもいいと思う。セーブデータとかないから、リスキーな選択が命取りになったりするから。

 よし。

 私は手ごろなお値段のヘッドホンをしげしげとレジに出して、そうじろうの金で代金を支払った後、立ち寄った電気屋を後にする。採取目的地に着くまで、あともう一話題モルガナと話せるかな。うーん……。

 

「あ」

「なんだ?」

「モルガナって、もう忍のところには行かないの?」

「なんで……そんなこと、聞くんだよ」

「だって、なんか忍と喧嘩してたっぽいから……」

 

 オブラートに包んだ言葉が見当たらず、私は思ったことをそのまま口に出してしまう。

 モルガナは虚を突かれたように一瞬、立ち止まった。何かを考えている。

 でも、モルガナが低い声を出すまで、そんなに時間は掛からなかった。

 

「行かねぇよ。行くもんか、あんなひどいこと言われてのこのこ帰るヤツがどこにいるって話だ」

「ひどいこと……言われたの?」

「ああ。そりゃもう……めちゃくちゃに傷ついた。だから、一生忍のところには行かねぇ」

「……そっか」

「だが」

「え?」

「惣治郎に言われちまったからな。アイツが困ってたら、手を差し伸べてやってくれって。いやー、もう、ホントにしょうがねぇよな。ワガハイは全然行きたくないんだが、でも、ワガハイがいなくて忍が寂しがるだろうし」

「んふふ」

「なんだよ?」

「い、いや、別に」と私は言った。「しょうがねぇ、かな」

 

 言っていると、目的地に着いた。

 店に入って、ギュウギュウに詰められている色んな形の機械を縫うように歩いて、そして、お目当ての『ゲーム機』にたどり着く。

 『ガンナバウト』

 でかでかと立てかけられた看板にはそう書かれてあった。

 私に剣や槍のような前衛武器は扱えない。

 じゃあ、後衛武器を極めることしか、私に残された道はない。

 

「私は、ガンナバウト界の、神になる」

 

 誰も聞いていないのに、私は高らかに宣言した。

 

 

 

 

 

 

 

 鴨志田が飛び降り、モルガナが私の元から離れて一日が経った。

 例によって体育の授業で、教室から生徒が掃けてしまっている。鴨志田が飛び降りたから、体育の授業は座学になるのではと予想されていたらしいが、そんなことはなかった。どうやら学校側が、非常勤の講師を雇ったらしい。

 そして私は例によって、机の上に頭を乗せている。起こしてくれる人はいなかった。ついに高巻杏も、私に愛想を尽かしたようだ。

 いや。

 高巻は今日、高校に来ていなかったんだっけ。どころか、救急車で運ばれていく鴨志田がいなくなった後、とりあえず通常通り行われた授業にさえ、高巻は参加していなかった。

 ……というか、どうして授業が普通にあったのだろう。この高校に勤めていた教師が屋上から飛び降りて死んだというのに。

 ドライだ。いや、それが普通なのだろうか?

 分からない。

 突っ伏した体勢のまま周りを見渡してみると、教卓の近くに、ピンク色の紙が落ちていることに気づく。

 なに、あれ。

 気になった私は、身を起こしてその紙を拾う。

『メイド派遣 ビクトリア』

無駄に光沢のある字で、その紙に書かれている。

なに、これ。

わざわざ椅子から立って見に来たのに、以前疑問は解消されない。むしろ、気になることが増えてしまった。

……というか、この紙に写っている人、よく見たら――、

 ――ヴー、ヴー。

 もう少しで名前が出てきそうな気がしたのに、ポケットから伝わるバイブレーションで強制的に集中が削がれてしまう。

 不機嫌になりながらスマホを手に取ると、非通知の電話。

 一色か。

 もう私は手を引いたはずだ。出る必要はない。

 私は無視を決め込んでしばらくすると、スマホは鳴りやんだ。

 ――ヴー、ヴー。

 ……またきた。

 しつこいな。

 そうだ、この際、全てを言ってしまおう。双葉は惣治郎のところに預けられたこと。モルガナを双葉に預けたこと。そしてもう、私に電話をする必要がないこと。

 

「もしもし」

「私だ」

「お前だったのか……」

 

 てか、まだその流れやるのかよ。

 あまりにも自然すぎて、ついつい乗ってしまった。

 

「今何時だ」

 

 機先を制されて、更には私の台詞にも無視して、一色は現在時刻を聞いてきた。

 ……しぶしぶ、私はスマホを確認して、言った。

 

「そうか。じゃあ、そろそろか」

「……? 何の話だ?」

「五分後。初めの犠牲者が出る。屋上から飛び降りて、即死だ」

「え」

 

 ……は?

 

「いや、一色。日にち、間違えてないか? 屋上から飛び降りたのは……昨日の話だぞ?」

「今は一色じゃないけど……まあ、いい。で……えっと……うん、私が記憶し間違えるはずがない」

「……」

 

 待って。

 頭が混乱してきた。

 ……ああ。

 

「あれか。私が一色の話を聞いて行動を変えたから、アイツが飛び降りた日にちも変わった……的な。あの……なんだ、バタフライエフェクト的な、あれだろ」

「違う。前に説明したはずだが、『今の私』は、惣治郎に預けられて、一色姓から佐倉姓になった、お前の冷蔵庫から美味いメロンパンを食べた佐倉双葉のなれ果てだ。だから、バタフライエフェクトを気にする必要は、現時点ではない」

「……いや……だって……」

「……お前、勘違いしてないか?」

 

 勘違い。

 私は、何を、勘違いしているんだ?

 

「鴨志田は死んでいない。鴨志田が飛び降りた原因を作ったのは間違いなく雨宮だが、残念ながら、今も、私が住んでいるこの世界でも、鴨志田はご存命だ。だから、」

 

 初めの犠牲者は、鴨志田じゃない。

 と。

 未来の双葉は言った。

 

「ああ、一応言っておくが、私の電話が遅れたのは、お前に電話した日より前の時間軸に電話する可能性を避けたかったからだ。そうすると、もう一つ平行世界が出来てしまうし、今のお前に電話することが極端に難しくなる。あとは……一人目の犠牲者を救うことは、私や忍の存在が雨宮に知られてしまう可能性がある。だから……彼女が死ぬのを見過ごすことは、目を瞑ってほしい。私達の目的は世界を救うことであって、一介の女子高生を救うことじゃ、」

「あの」

 

 私は一色の言葉を遮って、言った。

 一色の言い訳が聞きたい訳じゃなかった。

 私は。

 

「誰なんだ?」

「行けば、分かるさ」

 

 また、追って連絡する。

 と言って、電話が切れた。

 彼女? 女子高生?

 漏れ出る暗い妄想を抑えて、鞄を持つこともしないで、スマホを握りしめたまま、教室を出る。

 廊下を横切る。夕陽が斜めに差し込んでいる。

 私は隣の棟の屋上を見上げた。

 逆光で前がよく見えない。でも、人影があることは認められた。

 

「う……ぁ」

 

 嘘だ。

 

 何かの間違いに決まっている。

 

 私がそう思ったところで、夕焼けの景色に切り取られたシルエットはその姿を変えようとはしなかった。

 

 では、どこで間違えたのだろう。

 

 そんなことを考えるのも、もう遅い。

 

 高巻杏は。

 

 鈴井志帆が立ち、

 

 鴨志田が立っていたところで、

 

 呆然と立ち尽くしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二話『実感』

 どうして。

 高巻杏があんなところにいるんだ。

 考える前に、私の足は動き出していた。

 屋上へ。二つ階段をのぼった先。私は二段飛ばしで駆け上がる。

 一度踏み外して、脛に階段の先を殴打した。痛みはない。再び歩き出した五歩目くらいで、じんわりと痛みが広がってくる。

 まだ『その音』は、私の耳には入っていない。間に合え。間に合ってくれ。必死の思いで息せき切りながら、私はノアノブに手を掛けた。

 ……でも。

 

「……っ、なん、で!」

 

 開かない。

 鍵が掛かっているのか。

 

『もう屋上には近づかないこと。一応言っとくけど、先生の間で話し合って、当分の間は屋上の鍵を閉めておくことに決まったから』

 

 朝の会で言っていた、川上の言葉を思い出して私は舌打ちする。

 

「開いてよ……くっ、なぁ、聞いてるか? 高巻、頼むから、開けてくれよ、なぁ」

 

 返事はない。

 私は強引に開けようと、ドアノブを力任せに引いては押して、扉の破壊を試みる。

 しかしビクともしなかった。

 

「私だ、里中だよ、あの不愛想で、人の気も知らないで分かった気になってる、面倒くさい女」

 

 いつしか私は無意味な言葉を紡いでいた。

 もう届くことがないことは分かっているのに。

 タイミングを逸してしまっていることは、分かりきっているのに。

 それでもまだ間に合うんだと信じ込んだ。そうでもしないと、迫ってくる恐怖と焦りに、どうにかなってしまいそうだったから。悔恨と諦めの悪さが混ざった言葉は、溢れ出して止まらなかった。

 

「あのな高巻、私、最近上手いカレー屋を見つけたんだ。良かったら、高巻も一緒にどうかなって。そこなら、高巻が最近悩んでることも聞いてあげれる気がしてな。ああ、そう、最近お前、なんか変に思い詰めてるだろ。聞いてやるからさ、お前、そんなとこで突っ立ってないで、こっちに来なよ」

 

 返事はない。

 

「なぁ、高巻、お前なんでそんなところにいるんだよ。いくら私が反応しないからって、そんな興味の惹き方はないだろう? ぶっちゃけあり得ないから。でも、私の降参だ。負けたよ。仕方がないけど、話を聞いてあげる。だからさ、なんか言ってよ。返事してよ、そうじゃないと、わた、」

 

 返事はない。

 

「―――――――――――ぁ、」

 

 代わりに『その音』が聞こえてきて。

 私は。

 目の前が、真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 私は逃げるように家に帰って、そのまま何もしないでベッドに突っ伏した。雑念が頭の中を占拠して離れてくれない。無為な時間を過ごしていると、いつしか夜が明けていた。

 着た服のまま、寝癖を少しだけ直して、私はまた家を出る。着いた教室の騒ぎようと、ある一つの勉強机に置かれた花瓶を目の当たりにして、私はようやく事の顛末を知った。

 休みたかったのに、学校まで来てしまったのは、一つ目的があったから。

 昨日の熱が冷めない教室を後にする。廊下の空気もどこか浮ついている気がする。他の人にとっては、舞い込んできた非日常として消化されていくのだろう。話の種は言わずもがなで、重傷を負った愛人の後を追ったのだと憶測している人もいた。

 失礼します、と誰にも聞かれない声で呟きながら、私は職員室の扉を開ける。いた。私は彼女の元へ行って、そっと声を掛けた。

 

「あの、川上先生」

「え……里中、さん?」

「少し訊きたいことがあるんですけど」

「……あなた、敬語使えたのね」

「はぁ、まあ」私は頷いた。「首筋が結構かゆくなります」

「……」

 

 あと、舌を噛みそうになる。

 川上は咎めるように私を見た。

 私は目を逸らす。

 

「まぁ、いいけど。でも残念。私、これからちょっと忙しいの」

 

 川上は自分の腕時計をチラっと見た。

 時間を気にしているらしい。

 

「ああ、いえ」舌を甘噛みしながら、私は言った。「すぐに済むことなんで」

「あー……そう? 何?」

「単刀直入に言うと」私は言った。「鈴井志帆がいる病室を教えてください」

 

 聞くなり、川上は気だるげに息を吐いた。

 

「……はぁ。わざわざ放課後に職員室に来て一体何の用だって思ったら。どうしてそんなことを私に聞くわけ?」

「近々、高巻と鈴井のお見舞い一緒に行くって約束してたんですけど。でも、もう、無理じゃないですか?」

「え……いや、まあ」

 

 ここで高巻の名前が出たことが予想外だったのだろう。川上は少し、面食らった表情を浮かべていた。

 

「……里中さんって、高巻と仲良かったの?」

「ええ、はい」私は頷いた。「それなりに」

「ふうん……、そ」

「じゃあ、」

「でも、ダメ。いくら友達の友達だからっていっても、そう簡単に他人の個人情報は渡せられないのよね。ほら、最近、そういうの色々と面倒くさいからさ」

「はぁ」

「ごめんね。あ、やば……そろそろ時間。じゃ、そういうことだから」

 

 何か予定があるのか、まだ皆はせせこら机に向かって何かをしているのにも関わらず、川上は机の上をがさつに鞄に詰め込み始める。

 やっぱり、駄目だったか。

 じゃあ、多少強引な手段を使わないといけないようだ。

 

「別に、慰めの言葉を掛けてもらうためにここに来た訳じゃありません」

「……はい?」

「あの、これ」私は、一昨日拾った広告のチラシを見せた。「これ、教室に落ちてましたよ」

「え……あ、あぁ! そ、そう……なんだ。ありがと、じゃ、これは先生が、」

 

 先生がそのチラシを取ってしまう前に、私は手を引っ込めた。

 川上の手が虚空を掴む。

 

「ここ、先生の職場ですよね」

「は、はぁ? 何の話よ」

「チラシに書いてある店です」

「ちょっと、やめてよ、そんな冗談」

「昨日、たまたま先生と同じ電車に乗って、たまたま同じ道を歩いていたら、このチラシと同じ看板の店に、川上先生が入っていくところをたまたま見かけたんです」

 

 鎌をかける。

 昨日行っていたとしたら、まず間違いなく白を切ることはできない、と思う。

 行っていないとしても、何らかのアクションはあるはずだ。

 私の言葉に、川上はまだ余裕のあったその表情を変えた。敵意が感じられる目だった。

 どうやらビンゴらしい。

 

「……私のこと、つけてたの」

「たまたまって言ってるじゃないですか」私は淡々と言った。「あと、そういう店、結構興味があって」

「……はぁ、冗談はもういいわ。東京――病院。204号室」

「ありがとうございます」

 

 折れてくれた川上に一応礼をして、私は職員室から出ていこうとした。

 

「どうして分かったの?」

 

 振り向くと、目に隈を拵えた川上が、忌々しげに私を見つめていた。

 その曖昧な質問を多少自己解釈して、私は言った。

 

「秀尽学園七不思議の一つなんです」

「はい?」

「川上先生は放課後帰るのがとても早い。でもいつも眠たそうで、顔色が悪いから、帰ってすぐ寝ている訳でもないらしい。じゃあ男と遊んでるのかと言われても、男っ気があるようにはとても見えない」

「余計なお世話ね……」

 

 全くだった。

 

「でも。……さっきの。私のセリフだから」

「……? 男っ気がですか?」

 

 私に?

 男っ気がない?

 ……まぁ、そうだけど。

 

「顔色」川上は言った。「今の貴方のほうが、よっぽど悪い」

「……」虚を突かれて、私は慌てて取り繕う。「別に。いつも通りだと……思います」

「毎日、貴方の顔見てたら分かる」

「え」

 

 見て、たんだ。

 私を。

 そして多分。他の皆も。

 意外と川上はいい先生なのかもしれない。

 

「……こわ」

「……私、一応貴方の担任なんですけど」

 

 川上の突っ込みを無視して。

 私は職員室を出た。

 

 

 

 

 病院には面会時間というものが決められているようで、ここに来てから随分と待たされてしまった。

 リノリウムの床の上を歩きながら、私は鈴井志帆のいる病室を目指す。造花だか本物の花か見分けがつかない花瓶が、廊下の隅に置かれてある。

 204号室の扉に手を掛けた瞬間、私がここに来た動機が脳裏をよぎった。その自己中さと気持ち悪さに、自然と表情が歪む。

 でも、こういう生き方を選んでしまった以上、後には引き返せない。

 精神衛生的に明るい未来を生きることが、私の行動原理だから。

 秀尽学園と同じ、スライド式の扉を開ける。斜陽が目に入って思わず目を閉じた。

 果たしてそこには、暮れなずむ夕日をぼうっと眺めている鈴井志帆が、ベッドの上に足を伸ばして座っていた。

 

「杏?」

 

 言って、鈴井志帆は私を見た。見てから、バツが悪そうに目を伏せている。

 私はその自然な動作に、ちょっとした違和感を覚えた。

 

「あ……ごめんなさい」

「い、いや、いい」私は言った。「杏って……高巻のことか?」

「そうだけど……」

 

 どうして知っているの? と、鈴井は目で私に問いかけた。

 私はブレザーの赤いボタンを鈴井に見せる。

 

「ああ、私、高巻のクラスメイトで」

「そう、なんだ」

 

 鈴井の芳しくない反応を見て、まだ私に対する疑念が解かれていないことを悟る。

 もうあと一押しが欲しい。私は手近な嘘を重ねた。

 

「最近まで、高巻とよく話していてな。だから、その……高巻とよく話していたのが鈴井さんだって、高巻から聞いていたんだ」

 

 いきなり杏の話を持ち出すなんて、無神経だったかもしれない。でも今は、鈴井の触れて欲しくない部分を気にするほどの余裕はない。

 嫌な顔をされるとさえ思った。でも、鈴井の反応は真逆だった。

 

「あ...もしかして、里中さん?」

「え?」

 

 どうして鈴井が私の名前を知っているんだ?

 

「そう、だけど」

「やっぱり!」

「やっぱり?」

 

 私は首を傾げた。

 

「ブスッとした顔つきと、圧倒的に似合ってない制服がトレードマークだって、杏が前に言ってたから」

「……」

 

あの野郎。野郎じゃないけど。

ブスッとしているらしいそれを更にブスッとさせて、私は頭をかいた。

 

「あ……ごめん。初対面の人に、いきなり失礼だよね」

「いや、別にいい」

「そっか……。ここ、座る?」

 

 言って、鈴井は近くの椅子に視線を向けた。

 願ってもない話だった。願ってもない話、だけど。

 また感じる違和感。私はようやく、その正体を掴めつつあった。

 どうして……どうして鈴井は、悲しんでいないのだろう。

 大切な友人を失っているのに。

 空元気だろうか。それとも私を気遣って、涙を隠しているのか。

 疑問を残しながら、私はありがとうと言って、椅子に座った。

 

「今日、杏来ていないんだよね」

「そうなん……だ?」

 

 え?

 

「LINEにも出なくて。ちょっと心配だったけど、里中さんが来てくれたから、ちょっと、安心した……かな」

「あ……」

 

 そうか。

 ようやく分かった。

 鈴井はまだ、知らされていないのか。

 気づいた瞬間に、いたたまれなくなってきた。

 でもむしろ、これは好機なのかもしれない。もし知っていたら、杏のことを聞きづらかっただろう。しかし鈴井に情報が回ってくるのも時間の問題だとも思う。

 早く、『あれ』を聞きださないと。

 でも。

 なぜか言葉が出てこない。

 

「里中さんからも、LINEお願いしようかな。杏って、結構マメな方なんだけど」

 

 意味がない。

 杏へと送ったメールは、二度と返ってくることはない。

 

「でも、いつ来てくれるんだろうね。モデルのバイト終わりかな」

 

 来るはずがない。

 高巻杏が、この病室を訪れる未来はやってこない。

 

「そういえば、どういった成り行きで、二人は話すようになったのかな? やっぱり……杏から?」

 

 話せない。

 ぶっきらぼうに話しかけてきた杏へ、何かまともな会話を続けられるチャンスは、もうない。

 ルブランに誘うことも。

 高巻がどうして私に話しかけてきたのかを知ることも。

 三人でどこかへ出かけることも。

 教室から出て走っていく高巻を追いかけることも。

 ない。

 ない。

 ない。

 だって。

 高巻はもう、死んでしまっているのだから。

 

「あ……」

 

 実感だった。

 ようやく私は、高巻が死んだことを理解した。

 高巻に関する全ての可能性が絶たれてしまっていることに、納得してしまった。

 もう引き返せない。

 昨日に高巻を一人残して、私は時間に呑み込まれていくんだ。

 頬に熱い何かが伝った。

 私は鈴井にそれを見られないように隠した。

 どうして私は泣いているんだろう。

 

「ちょっと、ごめん」

 

 ぐちゃぐちゃになった頭で、なんとか私は鈴井に言って。

 病室を出た。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三話『ケツイをちからにかえる』

ご感想&高評価ありがとうございます。励みになっています。
投稿が遅くなってしまい申し訳ありません。
そしてまた、次話の投稿が一か月後になると思われます。気長にお待ちいただければ幸いです。
また、今までの話の大まかな筋道を、下記にまとめました。ちょっとした展開や伏線などは省いていますので、その辺りはご了承ください。



『忍視点』


小さい頃に惣治郎と出会う


偶然メメントスに入る

モルガナを拾う
高巻との会話を拒否
未来の双葉と電話→現在の双葉を一色家から連れ出す

銭湯で双葉から
『忍が双葉を助けたことで世界が分岐したこと』
『このままだと世界が終焉を迎えてしまうこと』
『雨宮蓮がその張本人であること』
以上3つの説明を受ける
ペルソナを持っていないので、モルガナを双葉に受け渡すことを約束する
双葉を佐倉家に預ける
屋上から鴨志田が飛び降りる所を見る

教室から高巻が飛び出す所を見る
翌日、未来の双葉から電話が掛かってくる
屋上から高巻が飛び降りる。
翌日、川上から鈴井のいる病室を聞き出す
鈴井と話す。鈴井に高巻の死が伝えられていないことを知る
トイレに向かう←イマココ

『双葉視点』


親戚の家で杜撰な扱いを受ける
惣治郎が助けに来ない

忍に助けられる。自身のパレスで、未来の双葉から説明を受ける。ペルソナに覚醒する。

ルブランに向かう。
鴨志田が大怪我で済んでいることを知る
ルブランが雨宮パレスの場所であることに気づく
パレスに入るも、命からがら抜け出す
ガンナバウトの神になることを決意する←イマココ



 もし。

 もし高巻に話しかけていたらなんて。

 そんなifの話は、もうこの世には存在しない。

 舞台はもう壊れてしまっている。

 この世界線は。

 失敗なのかもしれない。

 私は変われないまま。

 高巻を救うことができないまま。

 時間だけが忖度もしないで、非情に流れていく。

 

「私の……せいじゃ、」

 

 ない。

 高巻が死んでしまったのは。

 自分の心に言い聞かせる。

 未来の双葉は、第一被害者が鴨志田ではなく、高巻だと語っていた。それは変えられない歴史なのだと。私が手を出そうが出さまいが、決められていたことなのだと。

 頭では分かっていた。

 でも心は、目にいつまでも悲しみを訴えてきて。

 何年振りかの涙が頬を伝った。

 

「………うぅ」

 

 ただトイレの個室で、感情の波が過ぎ去るのを待つだけ。

 声が出せない状況なのが、ただただ辛い。

 それでもなんとか気持ちが収まってきて、スマホを開いて、カメラ機能で自分の顔を確認する。

 

「……こりゃ、ひでぇな」

 

 一々手で目元を拭ったせいで目が腫れ、ギンギンに目が充血している。

 到底出られるような顔じゃない。

 しばらくここで待とうか……。

 

「よぉ」

 

 座っているのにも関わらず、やけに下の方から声が届いた。

 加えて、やけに聞き覚えのある声。生意気さが滲んでいる声。

 

「相当参ってるようだったから、来てやったぞ」

「……ぉ」

 

 オスが女子トイレに入ってくんな。と言おうとした声が掠れる。

 もし言えたとしても、一発でバレていただろう。

 

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ」

「……よく分かったな」

 

 ため息が漏れる。

 サイレントツッコミが通じてしまった。

 嫌な以心伝心だ。

 

「これからどうするつもりだ?」

「……これから」

 

 何を?

 そもそも私はどうしてこの病院に来たんだっけ。

 思い出す。

 ……そうだ、高巻の思惑を探るために、鈴井に話を聞きに来たんだった。

 しかし、まだ鈴井は高巻の死すら知らされていなかった。

 これから何をすればいいんだろう。

 今更引き返して、『高巻は死んだ』と鈴井に告げて、その上で生前高巻が思っていたことに心当たりがあるかどうかを聞くか?

 ありえない。

 

「なにを、したら、いいんだろうな」

 

 途切れ途切れの言葉で、モルガナに聞こえるかどうかギリギリのボリュームで呟く。

 独り言。

 

「分からねぇよ、そんなこと」

 

 昨日の今日で、何か具体的な案が思い浮かぶ訳がない。

 ある種の本音だった。

 

「そうか」モルガナは一つ区切って、「今までの忍だったら、何をしていたと思う?」と言ってきた。

「今まで?」

「ああ」

「……何もしなかっただろうな。時間が忘れさせてくれるのをじっと待っていたと思うぜ」

「それで?」

「なんだよ」

「今の忍は、どうしたいんだ?」

 

 モルガナは言った。

 まるでカウンセリングを受けているようだった。

 不思議と癪には触らなかった。でも、聞いてばっかのモルガナに、何か言い返したくなってくる。

 

「逆にお前はどう思うんだよ。今の話を聞いて、腹は立たなかったのか?」

「今、ワガハイのことは気にするな」

「気にするなって……都合のいい奴だな」

「だって関係ないだろ。忍の話じゃねぇか」

「……ぐぅ」

 

 ぐぅの音が出てしまった。

 

「それじゃ、飼い猫に手を噛まれる、ならぬ飼い猫に顎で使われる、だ」

「なにそれ」

「と、とにかく、だ」

 

 モルガナは言った。

 

「忍のことは、やはり忍が決めればいいと思うぜ。今まで通り過ごしてもいいし、ワガハイはそれでいいと思う。最終的に双葉に協力しなくたって、一度助けられた身だからワガハイは何も言えねぇ。だから、」

「分かったよ」私は言った。「自分で考えればいいんだろ」

 

 自分のことは自分でする。

 他者に責任を仮託しない。

 今までやってきたことじゃないか。

 だから、それを今まで通りやればいい。

 

「……私は、」

 

 何がしたい。

 何をしなければならない。

 考える。

 信条を盾にして、問題事を避け続けて大人になった自分を。

想像する。

 苦しいこと、辛いこと、面倒くさいことから逃げ続けて。

 でも、その都度生まれた罪悪感は、ずっと胸の中から消えてはくれなくて。

 その現状を打破する勇気もなくて。

 いつしか私は、ダメになってしまうだろう。

 

「そんなの、嫌だ」

 

 時期は遅い。

 でも、遅いなりに何かするべきことがあるはずなんだ。

 今はそう思い込むことしかできないけれど。

 そうでもしないと、自分が許せない。

 

「高巻の真意を知りたい」

 

 どうして高巻は私に話しかけてきたのか。

 どうして高巻は、鴨志田が飛び降りた直後、飛び出すように教室を出て行ったのか。

 知りたい。

 高巻自身と、向き合いたい。

 そして。

 

「私は、変わりたいんだ」

 

 今までの保守的で幼い自分から、新しい自分へ。

 その時。

確かに、自分の奥深くに眠っていた人格が産声を上げた瞬間だった。

 その人格はまだ曖昧で、正体を突き止めることは、今はできないけど。

 おいおい、それと向き合う予感があった。

 個室の扉を開ける。挑発的なモルガナの笑みが見える。

 どうしようもないほどに涙目だっただろう。でも今は、自分のプライドを気にする余裕はない。震える声で私は言った。

 

「だから手伝ってくれ、モルガナ」

「いいぜ」

 

 モルガナは言った。

 

「困った時は、お互い様だ」

 

 

 

 

「ビッグバン・バーガー理論」

 

 机の引き出しに隠れて、モルガナは言った。

 

「なんだそれ」

「どんなに高級で珍しい物を食べても、結局は久しぶりに食べるファストフードの味には勝てないという理論だ」

「嘘つけ」

「バレたか」モルガナは言った。「今日の夕飯、ビッグバン・バーガーを食べたいとワガハイが言えばどうする?」

「嫌だな。他に自炊とかファミレスとかあるだろって思う」

「そういうことだ」モルガナは頷いた。「議論が滞った時、まず一番あり得そうにない案を出す。するとより優れた案が次々に出てくるだろ。それがビッグバン・バーガー理論だ」

「ふむ」

 

 オクムラフーズとしては風評被害以外の何者でもないが、確かに言い得て妙ではある。

 病院から帰ってきた翌日。

 話がまとまらなかった私たちは、学校を休むことはできず、昼休憩の時間を使って話し合うことになった。流石に机に向かってゴニョゴニョ喋ることはできないから、なるたけ小声で話している。幸い教室はまだ鴨志田や高巻や雨宮のことで盛り上がっているようで、私を不審に見てくるクラスメイトはいない。

 

「一番あり得そうにない案、か」私は呟く。

「何かあるか?」

「高巻は鴨志田の後を追った」私は言った。「高巻は鴨志田と付き合いがあった……と、風の噂で聞いたことがある。実際、鴨志田の車に乗って通学している高巻の姿は結構目撃されているらしいからな」

「ほう」

「だから鴨志田が飛び降りた時、気が動転した……これは、私たちが最後に見た高巻の姿と一致してる。そして、そのショックの勢いのまま……高巻は飛び降りた」

「でも、待てよ忍」モルガナは話を止めた。「未来の双葉は杏殿が雨宮の第一被害者って言っていたんだろ? それじゃ、杏殿と雨宮が全然関わってないことになるぜ」

「それは……まぁ、そうなんだけど」頭を掻いた。「双葉が誤認していた可能性がある。それに……あ、」

「なんだ?」

「本当は鴨志田が狙われていて……でも、先に命を落としてしまった高巻が、次第に未来で第一被害者として扱われるようになった……とか。何故なら、鴨志田は死んで……って、鴨志田が死んでないなら後追いしなくていいじゃねぇか」

 

 はい論破。Q.E.D.

 自分で自分の案の粗を見抜いてしまった。

 

「だな」モルガナは言った。「それに……杏殿が鴨志田のことを好いていたとは思えねぇ」

「なんで」

「釣り合ってねーよ。何か鴨志田に、弱みみてぇなものでも握られていたんじゃないのか」

「はぁ」

 

 それは。

 邪推に過ぎると思うけど。

 でも、気持ちは分かる。朝から校門で嫌味を垂れるような奴が、どうして杏を振り向かせることができたのか。

 そっちを考える方が難しい気がする。

 

「だが、これで考える点は整理できたんじゃないか?」

「まぁ……確かに」

 

 私は頷く。

 一つは雨宮とこの事件を関連付けること。

 もう一つは、鴨志田と高巻との関係を考え直すこと。

 

「なら、鴨志田の飛び降りは雨宮が手を下したっていう線は、結構いいんじゃないか?」

「ふむ」

 

 頷く。

 

「モルガナの考えを採用すれば、の話だが」私は前置いた。「高巻は何か鴨志田に弱みを握られていて、付き合いを強要されていた、と」

「ああ」

「その事を、内心高巻は嫌がっていた。だから……ああ、私に相談をしたかったのかも……しれないな」

 

 少し前から。

 高巻はほとんど喋ったことのない私によく話しかけていた。

 それは高巻なりのS.O.Sのサインだった。

 

「なるほど。……だが……、」

 

 モルガナが言いづらそうにしている。

 だから私が引き継ぐことにした。

 

「ああ。私は応じなかった。怪我で苦しんでいる鈴井にも相談することはできなかった。だから……なんだろう」

 

 思考が止まる。

 次の展開が出てこない。

 

「雨宮蓮に頼った」

 

 と。

 私の話を引き継ぐように、モルガナは言った。

 

「そうだ……! そうに違いねぇ。偶然渋谷駅かどこかで高巻と出会った雨宮は、困っている高巻から事情を聞いた。それで……雨宮が手を下したんだ」

 

 そうに違いないかどうかは分からないけど、確かに筋は通っている……気がする。

 でも。

 

「それならハッピーエンドじゃねぇか。高巻が死ぬ理由はないはずだろ」

「ギクッ!」

「……」

 

 ギクッなんて台詞、本当に言う奴なんているんだ。

 

「そ、そそ、それは……ほら、鴨志田は生きてただろ。だから……鴨志田との関係を断ち切れないと思った杏殿はショックだったん、だろ」

「うーん」

 

 まあ。

 悪くはないと、思うけど。

 何かが足りない気がする。

 具体的には、それが自ら命を絶つ動機にはなり得ない、思った。

 もちろん私は高巻じゃないし、気持ちも分からないのかもしれない。

 でも、不愛想を決め込む私に、何度も話しかけてくるほどに神経が図太い高巻の姿を、私は知っている。

 だから、足りない気がしたのだ。

 それに、あくまで高巻が本当に自殺したのかどうかは分かっていないし。

 

「次は?」モルガナは言った。

「うーん……」

 

 煮詰まってしまった。

 結局挙がった案は二つだけ。

 やっぱり今ある知識だけでは限界があるのかもしれない。

 

「聞き込んで情報を増やすか」

「そうだな」モルガナは頷いた。「誰に聞く?」

「うちのクラスの、コンゴ民主共和国出身の留学生の知り合いにでも聞くか」

「忍にクラスメイトの知り合いなんていたのか?」

「まずわざわざ秀尽にはるばるコンゴ民主共和国から来た留学生が本当にいるのかどうかを先に聞け」

「でも実際、広く生徒を受け入れる校風だって誰かが言ってたぜ」

「……まぁ、そうなんだけどさ」

「ワガハイも生徒として認められてぇなぁ~」

「マスコットとしては認められるかもしれないが……」

 

 それはモルガナの本望ではないだろう。

 とにかく。

 全然関係ない生徒に聞き込んでもしょうがない。もちろんコンゴ民主共和国の留学生なんて論外だ。そもそもいない。

 となれば高巻の知り合いか……もしくは、鴨志田が顧問を務めていたバレー部の生徒か。

 周りを見渡す。確かバレー部の……なんだっけ? 二島? みたいな名前の生徒がいた気がしないでもない。

 いた。総菜パンをかじりながら、スマホを見て何やらニヤニヤしている。

 とても話しかけづらい。というか、話しかけたくない。

 しかし背に腹は代えられない。仕方なく席からソロリと立ち上がって、二島のいる席へと向かう。

 

「なぁ」

「え……ええっ、里中さんっ!?」

 

 ボリュームが大きい。

 クラスの注目を集めてしまう。

 

「うるさい。静かにしろ、二島」

「は、はぃ……」

 

 

 「……俺、三島なんだけど……」という消え入るような声は、残念ながら私の耳には届いてはこなかった(メタ視点)。

 周りの注目が散らばったタイミングを見計らって、私は言った。

 

「聞きたいことがある」

「な、なに?」

「単刀直入に言う」

「……どう、ぞ」

「鴨志田の、『あの事件』について何か知ってることはあるか?」

「……え……」

 

 二島の表情が、一瞬色を失った。

 いきなりビンゴか。

 幸先がいい。

 

「べ……べつに……何にも……」

 

 取り繕ってももう遅い。

 あとは、責め立てるような目で二島を見ればいい。

 心当たりのある奴らなら、好きなように解釈してくれる。

 

「……鴨志田が飛び降りた前日」

 

 そして。

 諦めたように肩を落として、滔々と二島は喋り始める。

 

「俺は、彼女を体育準備室に呼びつけるように、鴨志田から頼まれたんだ」

「二島が?」

「いや……はい、二島です」

「なんで」

「なんで……って、俺なんかおかしなこと言った?」

「いや……高巻と二島って、喋ってるとこ見たことなかったから」

「た……高巻さん?」二島は目を開いた?「どうして今、高巻さんの話がでてきたの?」

「え?」

 

 違うの?

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四話『それぞれの思惑』

お待たせしております。
遅くなりましたが、今日からまた更新を再開していきたいと思います。一章のプロットは、数カ月を経て煮詰まりに煮詰まっているので、詰まることはないと思います。多分。


「鈴井さん……のことなんだけど」

 

 二島は、勘違いしているらしい私の認識を正す為に強調して言った。

 

「鈴井?」

 

 鈴井って、鈴井志帆のことか?

 高巻が絡んだ、鴨志田が引き起こした事件を聞いていたはずなのに、どうしてここで鈴井の話が出てくるんだろう。

 思い切って、高巻についての話を聞きたいと打ち明けてみるか……いやしかし、直接的ではないかもしれないけど、何か有益な情報が得られるかもしれない。ここは一つ、受け流しておこうか……。

 

「鈴井……ああ、志帆の苗字な」同学年の苗字をド忘れした風を装って、私は言う。「それで?」

「俺、鴨志田に体育教官室に呼ばれてさ。部屋の前でノックしたら、怒号が飛んできて。『来られないのか、高巻』、とか、『だったら俺にも考えがあるぞ』とか、言ってて……い、いや、別に盗み聞きしたかった訳じゃないよ!? でもさ、入りづらい雰囲気で……」

「ふむ」私は頷いた。「じゃあ、体育教官室に呼び出されて、怒鳴られていたのが、高巻だったんだな?」

「いや、違くて」

「はい?」

「入ったら、誰も体育教官室にいなかったんだ……鴨志田先生を除いて」

「はぁ? ……ああ、電話か」私は納得した。「紛らわしい事をいうな」

「あ、ごめん」すんなり二島は謝る。「……その後に、鈴井をここに呼んでくるよう、鴨志田先生に命令されたんだ」

「……」

「……それで……その……翌日に、鈴井は」

「なるほど、分かった」

 

 飛び降りた。

 とすると、二島からしたら、鈴井の飛び降りが、その前日に鴨志田に呼び出されていたことと、何か関係があると疑わずにはいられなかっただろう。そのことを私が問うまで口外しなかったのは、二島がただ臆病だっただけか。それとも、鴨志田の持つカリスマ性がそうさせたのか。

 とにかく。

 鈴井が先日屋上から飛び降りた理由は分かった。この情報が使えるかどうかは……今のところ分からない。

 それと。

 

「その時、鴨志田は高巻に電話していたのは確かか?」

「うん……そうだね。高巻って、名指しだったから」

「ふむ」

 

 では、生前の高巻も、鈴井の投身事件の裏側を知っていることになる。

 それを知っていた上で、包帯に巻かれた痛々しい鈴井を見れば、高巻はどう思うだろう。怒るに違いない。怒って……そうだな、復讐くらい考えてもオカしくはない。

 その復讐を、雨宮に代行してもらった。そちらの方が動機としてはあり得るか。

 でも、高巻が飛び降りた動機は、モルガナが『鴨志田に手を下すことに失敗し、彼との関係を断ち切れないことにショックを抱いたから』と推論していたが、そちらの方はまだハッキリとしていない。

 私は真相に近づけているか。それともただ足踏みしているだけか。分からない。でも、手札が増えたことは確かだ。

 

「サンキュー、ありがと二島。助かった」

「そ、そう……それは、良かったね」

「ああ」私は頷いた。「じゃあ」

「う、うん……あ、ええっと」

「何だ?」私は振り向いた。「……ああ、別に鴨志田にはチクったりしねぇよ」

「分かった……い、いやいや、そうじゃなくて! それもあるけど!」

「なんだよ」

「俺……二島じゃなくて、三島なんだけど」

 

 ……え?

 そうなの?

 

「んだよ、早く言えよな」

「あ、あはは……ごめん」

「ああ」私は頷いた「じゃあな、四島」

「飛ばさないでよ!?」

 

 三島が律義に突っ込んでくれたことを確認してから、私は教室を出た。

 

 

 教室棟を真っ二つに分断する通路まで来た私は階段を上る。

 一歩一歩足をあげる度に、靴が重くなっていくようだった。屋上。今の私にとっては、そこそこのトラウマになっている……かもしれない。

 でも、勇気が出なくて、いつまでも地団駄を踏む訳にもいかない。私は気休めにメロンパンのことを考えながら、思い切り足を動かした。

 そして最後の踊り場に到着する。もちろん屋上の扉は、教師の手によって堅く閉ざされている。今のところ屋上に用はない。現場検証のような真似事は、私には向いていないと思うから。今回の目的地は、その扉にもたれ掛かりながら、昼休憩が終わるまでたむろしている、金髪の男子高校生。

 

「なぁ」私は言った。「聞きたいことがあるんだけど」

「……出し抜けになんだよ、てめぇ」

 

 敵対心丸出しの目で睨まれる。怖くはない。怖くはないが、中々に迫力があった。

 まるで、本当に私を心から憎んでいるような。

 どこかバックグラウンドを感じさせる、刃物のような鋭い目つきだった。

 

「名前を先に名乗る必要があるか?」

「……里中忍、だろ」

「知ってるか」それは僥倖だ。「なら話は早い。お前……坂本竜司に、聞きたいことがある」

「てめぇに話すことなんてねぇよ」

 

 まだ何も聞いていないのに、拒否られてしまった。

 まずいな。

 に……三島の件で今回も余裕だと高を括っていたので、拒絶されてしまうのは予想外だった。

 だから、早いこと核心に触れることにした。

 

「高巻の件なんだが」

「……っ!?」

 

 名前を告げると、明らかに坂本の表情が変わった。

 まず驚き。そして、疑念と怒りがない交ぜになったような、眉間に皺を寄せた表情。

 

「な、なんでお前が……その名前を知ってん、だよ」

「まあ、色々あってな」私は言った。「私は今、高巻を殺した犯人を捜してるんだ」

「自殺……だろ。何言ってんだよ」坂本は言った。「あいつは、自分で死んだんだよ」

「そうかもしれない。でも、私は違うと思ってる」

「証拠があるってのか?」

「ないからお前に聞いてんだろうが。お前は私と喋る気があるのか。ないのか。ズケズケと詮索してないで、サッサと決めろ」

 

 しまった。

 ジレったくて、急かすようなことを言ってしまった。

 案の定、坂本は眉を更に上げて、私から目を逸らした。

 また出直そうか。休憩時間もあまりないことから、サッサとここからトンズラする算段を立てていたところ、先に口を開いたのは坂本だった。

 

「……何にも知らねぇんだよ、俺は。確かに中学の時は一緒だったけどよぉ……高校で男作って……しかもあの鴨志田だぜ? 距離離れちまって。いつかあいつも目ぇ覚めるだろって、タイミングをずっと待ってたら……まさか、死んじまうなんて思わねぇだろ? 俺に……何ができたって、言うんだよ、クソが」

 

 言ったのは有益な情報でも何でもなく、ただの自慰行為から生まれたアレだった。

 でも……その姿が、前の自分と重なって見えて。

 

「……」

 

 何も言えなかった。思い浮かんだとしても、私に言う資格なんてあるはずもなかった。

 坂本が立ち直れる日は来るのか。

 益体もなく、そんなことを考えた。

 昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴る。坂本はおでこを扉に当てて、右手の握り拳を一度、軽く扉にぶつけた。

 私は黙ってその場を去った。

 

 

 

 何だろう。

 私は高巻が飛び降りた理由について考えていた。

 それ以前のあらましは大体想像することができた。

 鈴井は鴨志田の行動が原因となって、屋上から飛び降りた。

 高巻はその事件をきっかけに、心の中に復讐の炎を宿した。

 そして高巻は雨宮に復讐の代行を頼んだ。

 しかし、鴨志田は命拾いをした。結果的に雨宮を介した高巻の復讐劇は失敗に終わった。

 それからの話が見えない。

 

「なぁ、シノブ」

「なんだ?」

「狭い」

「ちょっとくらい我慢しろ」

 

 下から放たれる小言をやり過ごしてから。

 

「なぁ、モルガナ」

「なんだ?」

 

 放課後の道中で、私は鞄の中で丸くなっているモルガナに声を掛けた。

 

「自殺って、どんな時にするもんなんだ?」

「したことないから分からん」

「まあ」私は頷いた。「そうだな」

「でも。喜んだり、楽しい気分で飛び降りる人は、いないと思うぜ」

「うん」

「何かに絶望したり、行き詰ってたんじゃねぇか……? 知らんけど」

「急に関西人になるなよ」私は言った。「アンドノの話なんだぞ?」

 

 では、高巻は何に絶望していたのか。

 考える。

 しかし、歩きながら突然ポンッとアイデアが沸いて出てくるはずもなく、気づいた時には目的地に到着していた。

 病院。詳細に言えば、高巻とアイツが入院している総合病院。

 エントランスにいる人に一言二言事務的な言葉を交わしてから、エレベーターで目的の階まで上がる。一瞬の浮遊感をやり過ごして、点滴を吊り下げた杖(?)を持った人と入れ違いになりながら、私は廊下に出た。

 302号室に掛かれた名札の中に、『鈴井』の文字があることを確認してから、中に入る。窓際に設置されたベッドの上で座りながら、鈴井志帆は窓から見える無機質な景色を眺めていた。

 

「鈴井」

 

 と声を掛け、反射的にこちらを向いた鈴井を見て、私は『しまった』と思った。

 ある種の直感めいたものが私の脳を駆け巡った。

 先日訪れた時の鈴井の表情との差異は、言葉では表せないくらいの微々たるものなはずなのに。

 私は『知ってしまったのか』と思った。

 跳ねた感情を表に出さないよう心掛けながら、私は鈴井の前方斜めに置かれていた丸椅子に座る。

 先に話を切り出したのは鈴井だった。

 

「ありがとう。……また、来てくれて」

「ああ、いや。別にこれくらい……あ、これ」

 

私は、モルガナと一緒に、鞄に入れていた紙袋を取り出した。

 

「よかったら、取っておいてくれ」

「……? 何、かな」

「メロンパン」私は言った。「銀坐線の。行ったらたまたま置いてあったから、買ってきた」

「ありがとう……これ、限定の、だよね」

「ああ、まあな」

 

 鈴井は微かにはにかんだ。無理やり作ったことを隠しきれていない、痛々しい微笑は、数秒後に元に戻る。

 このまま、なあなあで終わらせることは難しそうか。仕方なく、私は口を開く。

 

「……知ったのか」

 

 要領を得ない私の質問に対して、しかし鈴井はゆっくり頷いた。

 

「……うん、たまたま。スマホでね。ニュースが目に入って、それで」

「ああ」

 

 私は頷いた。何が『ああ』なのか、自分でもわからなかった。

 

「それまで……全然知らなくて」

「うん」

「昨日……教えてくれたって、よかったのに」

「……それは」私は頭を下げた。「悪かった」

 

 いじわるだとは思うが、言われてしまうと、私は謝ることしかできない。

 

「ううん。嘘、嘘、ごめん」鈴井は破顔した。「八つ当たりだよね、今の。ごめんね」

「いや……」

「里中さんのせいじゃないんだから」

「……」

 

 幸い、私の表情の変化に気づかなかった鈴井は、目のやり場に困ったのか、取り立てるほどのものが映っていないはずの窓を見ていた。

 

「悲しいのか、悲しくないのか、よくわからなくて。……本当は悲しいに決まってるはずなのにね。でも、体が……心が、頭の中に追い付いてなくて……分からないの」

「……」

「それよりも、もっと……どうして私に相談してくれなかったんだろう、とか、お見舞いに来てくれなかったのは、嫌われた訳じゃなかったんだ、とか、怒りとか、安堵とか、それ以外の気持ちで」

「分かる」

「分かる?」

「分からないよな。そういうの」

「……うん」鈴井は頷いてくれた。

「急に言われても、何だよって思うし、残された方は、何をしていいか分からない」

 

 初めは。

 モルガナはそんな私に、女子トイレで手を差し伸べてくれた。

 だから今の私はこうやって、一つの目的に向かって、走り続けている。

 

「……本当に、そうだよね」鈴井は言った。「だからね……今は、今まで通り過ごそうかなって、考えてるの」

「そうか」

 

 それも、一つの手だろう。

 何もしないことに比べたら、幾分かはマシだ。

 だと思っていたのに。

 鈴井は、信じられないことを口にした。

 

「怪我を治して、治ったら秀尽に通って、また、バレー部に戻って、それで」

「ちょっと待て」たまらず私は話の腰を折った。「バレー部、だって?」

「え……うん。そうだけど……どうしたの?」

「あ、いや……だって、え?」

 

 鈴井は、部活動をきっかけにして飛び降りたんじゃないのか?

 なのにどうして、戻ろうと考えているのだろう。

 鴨志田はまだ生きている。鈴井よりかは入院の期間が長くなりそうだが、数か月もしない内に戻って来るはずだ。そしてまた、バレー部の顧問になることは目に見えている。

 

「鈴井は、いいのかよ、それで」

 

 でも、明け透けにそのことに触れることは、今の鈴井の状態を考えれば悪手だと思える。

 だから、微妙な言い回しになってしまった。

 

「私……バレーボールしか、取り柄ないから」

 

 私はその言葉に、肯定も否定もできない。

 

「杏も、それを望んでるんだと思うんだ……私が早くバレー部に復帰して、それで……レギュラーになることを」

「そんなこと」

 

 ない。

 少なくとも、私が知り得る限りの杏が、そんなことを考えるはずはない。

 むしろ、辞めて欲しいと思っていたはずだ。

 でも、私は高巻じゃないから、断定することはできない。

 

「……分からないだろ」

「そうだね」鈴井は頷いた。「でも、それを知る手立てはない……でしょ?」

 

 杏のイ志を。

 その通りだった。だから、想像するしかない。

 鈴井は杏の気持ちを想像して、そう結論付けた。ならば私は、鈴井が選んだ手に『待った』をかける資格はない。

 雲行きはどんどんと悪くなるばかりだった。窓の外では灰色の雲がゴロゴロ鳴いている。

 戦局は途方もなく悪い。もしかしたら、今の私は既に詰んでいるのかもしれない。首に鋭利な鎌が当てられていることが分かっている中で、地道にあがいてもがくことはとても辛くて苦しい。それが、その行為が、杏への贖罪となっているのだとしたら、行動の意味を見つけられた気がして、いくらか気分が晴れた気になる。それでも私の進んでいる道は正解であって欲しい、と願うのは単純な我が儘である。けれど、願わずにはいられない。私は機械ではないから。

 私が鈴井から聞ける質問はなかった。そもそも、鈴井が杏の死を知っていることが分かっていたら来ていなかった。もう私が情報を得ることができる村人はいない。

 だから、強引な答え合わせといこうか。

 また来る、と言って、私は席を立った。アイツの部屋は一つ上だと聞いている。珍しい苗字だから間違えることはないだろう。

 

『里中さんのせいじゃないんだから』

 

 刺さった棘が実態化したような錯覚に囚われて、胸の辺りを抑えてみる。案の定、そこには何もない。

 

「結構、着痩せするタイプだよな、シノブ」

「うるせえよ」

 

 胸に視線を感じながら、私は鞄を、麺をザルで湯切りする要領でストンと落とした。

 




シリアスな展開が続くので、モルガナでバランスを取るしかない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五話『dele』

 鴨志田の病室は、鈴井とは違って個室だった。

 こちらとしては都合がいい。都合はいいが、どうして鴨志田は個室で、鈴井は四人部屋なのか。怪我の具合や持っているお金の程度も関係しているのかもしれないが、なんとなく、気に入らない。

 スライド式の扉をゆっくりと開ける。キツイ消臭剤の香りと、アンモニアが肝臓で化学反応を起こした後の物質のニオイがした。まあ、初めて出会った時の双葉のそれよりかは断然マシだ。

 

「まあ、その身体じゃ便所にも行けねぇよな」

 

 モルガナにギリギリ聞こえるくらいの声量で独り言を零しながら、中に入る。ベッドを隠すような狭い通路を抜けると、包帯でグルグルに巻かれながらも、顔と右手だけを出したミイラがこちらを覗いている。

 

「……なんだ、よりによってお前か」

「鴨志田、先生」

「幽霊が出たのかと思った」

「生憎、私は金髪に染めたり、赤のタイツを履く趣味はありません」

 

 というか。

 

「知ってたんですね」

「ああ」鴨志田は目で頷いた。「ニュースで見たよ。アイツも馬鹿なことをしたもんだ」

 

 鴨志田は笑った。

 私は笑わなかった。

 

「高巻は」私は言った。「何を思って死んだんだと思います?」

「何だよ、藪から棒に。里中は私の見舞いをしに来たんじゃないのか?」

「見舞いはもう終わりました。……それより、」

「まぁ焦るなよ。突っ立って喋らないといけないことなのか?」

「それは……」

「相変わらず気の短い奴だな。分かったから、早く、座れ」

「……」

 

 しぶしぶと私は、鴨志田のベッドの脇に置かれた、簡易的な腰かけ付きの椅子に座る。質問し直す前に、鴨志田が口を開いた。

 

「別に、よくあることだろう」

 

 何気ない日常の出来事として処理するような鴨志田の言い分に、私はムッとした。

 

「生徒が、屋上から飛び降りることが、よくあることですか?」

「この前も鈴井だって飛び降りていたじゃないか。人は誰しも多感な時期がある。大体は中学の内に済ませるはずだが……まぁ、それはいい。ほら、むしろ、鈴井に感化されたんじゃないか? 鈴井と高巻は友達だったようだから、何か感じるものがあったんだろ」

 

 ぬけぬけと、よくそんなことが言えるものだ。

 私に、その余裕の笑みを崩すことができるだろうか。

 いや、違う。私は鴨志田を言い負かすためにここに来た訳じゃない。答えを確かめに来たんだ。鴨志田が本当のことを言うか、嘯かれるかは私の知る範疇にない。でも、その時の表情、声を聞いて、私が独断と偏見で判断する。そう決めたんだ。

 

「ちょっと、聞いて欲しい話があって」

「今の話の流れからすれば……高巻のことか?」

「ええ、まあ、はい」私は言った。「高巻と、鈴井のことです」

 

 私の口から鈴井という言葉がでたことが意外に思ったのか、鴨志田は右目をやや開いた。

 

「鈴井、だと?」

「ああ……いや、はい」私は頷いた。

 

 数刻押し黙ってから、鴨志田は言った。

 

「お前と話すような話はないな」

「私があるんです」私は言った。「鴨志田先生は、この話を聞いて本当のことを言ってもいいし、嘘を吐いてくれても構いません。私があなたの表情と声色を見聞きして真偽を判断するので、どう答えてくれてもいいので。あとは……そう、私はここで言った貴方の言葉を、言われてはマズイ人に口外するつもりはありません。なので、別に、」

「どうかな」鴨志田は鼻で笑う。

「本当です」私は真摯に頷く。「だから、可能なら、ボロを出さないように立ち回ってくれても構いません」

「まるで、俺にボロがあるような言い方じゃないか」

「ええ、そんな感じです」あえて不快にさせるような口調で、私は言った。「そんな感じで、お願いします」

 

 ふん、と鴨志田は鼻を鳴らした。人を不機嫌にさせることは、他人から何も頼まれてもいないのに、よく勝手に不機嫌になっている私にとって、赤子の手をひねるようなものだ。

 ともかく。答え合わせだ。

 持っているカードは多いとは言えない。だから、早い内に畳み込む必要がある。

 

「高巻は、屋上から飛び降りた時、未練はなかったんですかね」

「ああ、そうだろ」鴨志田は言った。「一世一代の決断なんだ。あるはずがない」

「でもさっき、鴨志田先生は『幽霊が出たのかと思った』って、言ってましたよね」

 

 幽霊は、この世に未練があるから化けて出るものだ。と私は何となく認識している。

 その認識と、鴨志田の幽霊に対する認識に明らかな齟齬がなければ、鴨志田の言い分はおかしい。

 

「ほう」と、私の言葉を聞いて、鴨志田は声を漏らした。「それは失礼。ただの言葉の綾だ。忘れてくれ。……どうして俺は、揚げてもない揚げ足を取られないといけないんだ?」

 

 鴨志田の質問を無視して、私は話を続けた。

 

「もし化けて現れるのなら、確かに鴨志田先生の前なのかもしれません。だって、高巻は死ぬ直前、あなたに対して強い恨みを持っていたから。心当たり、ありますよね?」

「いきなり、なんだよ」

 

 驚く、というより、いきなり訳の分からないことを吹っかけてきた人に困惑するような声色を装って、鴨志田は言う。

 私は話を続ける。

 

「当たり前でしょう。好きでもない男と付き合わされて、肉体関係を持たされた人が、その男に対して憎い気持ちを抱かないはずがない」

「誰のことを言ってるんだよ」鴨志田は言った。「まさか、俺だって言いたいのか? なにか、証拠があるって言うのかよ、里中」

「それは……」

 

 私は言い詰まる。あの『単語』を言ってしまっていいのか、タイミングを計っていたから。

 まだ早い。殆どカードを切っていないのに、核心を突くのは早計な気がした。

 その間を好機と捉えたのか、鴨志田は矢次早やに言う。

 

「そもそも、好きでもない男と付き合う道理が、どこにあるんだ」

「その子には、友達がいたんです」

 

 相手にペースを取られては不味いから、強引に話を切り替える。

 

「友人はある部活でレギュラー争いをしていました。私にはそのスポーツしかないと固く信じていた友人は、レギュラーを取ることに強い執着があった」

「それが一体どうした」

「その執着心を、顧問は利用したんです」私は言う。「顧問は生徒の友人に目を付けていた。そしてその彼女にこう持ち掛けた。『あいつはレギュラーにさせてやる。だから、分かるな?』」

「それで?」鴨志田は言う。

「それで、ええと」鴨志田の表情を伺いながら、考える。「彼女は顧問に対して強い恨みを持っていた。肉体関係を結ぶ度に、その憎悪はより濃くなっていった。そして遂に、約束を反故にして、彼女の友達であった部員にまで手を出した時、彼女の怒りが爆ぜた」

 

 それから、高巻は雨宮と偶然接触する。

 そして雨宮による復讐代行は失敗に終わり、被害を受けた鴨志田は今、こうして私と話している。

 

「ほぉ。よくできてるな。左手が自由だったら、拍手を送ってやりたいくらいだ」

「恐縮です」

「ちなみに、証拠はあるのか?」

「ありません」私は言った。「でも、探したらあるんじゃないですかね」

「例えば?」

 

 そして、私は。

 その『単語』を、口にする。

 

「雨宮と会うとか?」

 

 瞬間、鴨志田から笑みが消えた。

 やっぱり。

 私は確信する。

 

「まあ、会いませんけど。余計なことに、あえて首は突っ込みたくないので」

「そうした方が、いい、だろう」途切れ途切れに、鴨志田は言う。

「はい。そうします」

 

 私は頷いた。

 そろそろ、使い慣れない敬語で喋り過ぎて、どうにかなってしまいそうな頃合いだから。

 知りたいことも知ることができたから、帰ってしまおうか。

 適当な別れの挨拶を済ませて、私は席を立つ。鴨志田は眉間に皺を寄せたまま、何も見えるはずのない掛け布団に視線を落としている。

 

「仮に、だ」

 

 音を聞いて、私は振り向いた。

 

「仮に、そうだとして」私を見ないまま、鴨志田は言う。「高巻がどうして死んだのか、分かるか」

 

 私を試すような口調。

 まるで自分は答えを知っているかのような、喋り方だった。

 間髪入れずに、私は言う。

 

「貴方が死ななかったからじゃないですか?」

「なんだ」鴨志田は言った。「知らないのか、里中」

「……え?」

「鈴井は、バレーボールを続けるんだ」

 

 出し抜けに呟かれた鴨志田の言葉に、私は困惑した。

 どうして知っているんだろう。まさか、鈴井から直接聞いた訳でもあるまい。

 鴨志田の思惑を探る前に、気持ちの悪い笑みを、私に向ける。

 

「絶対にな」

「……らしいですね」とりあえず、私は頷いた。「でも、私が説得して、辞めさせます。それが、高巻のイシだと思うので」

「随分とアイツに肩入れしてるみたいだな」

「ええ、はい、まあ」私は頷く。「色々あったので」

「ふん。……お前にできるかな?」

「できます」

「……クックッ……アハハ!」

 

 鴨志田はとうとう堪え切れなくなったように、噴き出した。

 鴨志田は何を笑ったのか。冷静に考えるには、鴨志田のその下卑た笑い声は非常に邪魔だった。

 だから私は、敵意を含んだ目で、鴨志田を見ることしかできない。

 

「あぁ、笑うと傷口が開くんだ。笑わせるのは止めてくれ」

「何を……」

「高巻も、お前と同じことを言っていたんだ。私が説得して、辞めさせる……ってな」

「……」

 

 本当か?

 いや、本当だろう。そうしない訳がない。

 でも。

 鈴井はそれでも、辞めようとしていない。

 

「どれだけ説得しても、どれだけ傷ついても、鈴井は辞めない。アイツにはバレーボールしかない。俺は一年間、事ある毎にアイツに言い続けていたんだ。アイツにはバレーボールしかない。バレーボールを失ったお前に、生きる価値はない。何回も、何回も、何回も……な」

 

 マジックの種明かしを嬉々として教えている時のような、少年のように無垢な声色で。

 そして、完全犯罪を成し遂げた時のような、極悪人の表情で。

 鴨志田は語る。

 

「……てめぇ」

「窮地に立たされたら、自分に近しい信念に縋りたくなるものだ。だから仏教は日本中に伝来しただろう? それと同じさ。俺はそれを利用して、俺が、特別に、徹底的に、シゴいてやった……アイツが音を上げるまでな。そうすれば、アイツは俺以外のことに耳を貸さなくなる。高巻にも……そして、お前にも。まぁ正直、あんなに上手くいくとは思ってなかったがな」

「それ以上言うとな、鴨志田」

「でもなぁ、里中」吹き出しそうになる笑いを堪えるように、鴨志田は言う。「考えてみろ。説得をすることさえできず、世界で一番嫌いな相手に言いなりになってる、たった一人の親友を見て、アイツはどう思っただろうなぁ? そんなたった一人の親友のために、差し出してる自分の身を見て、何を感じただろうなぁ?」

 

 それは。

 何もできない自分に対する、とてつもない無力感で。

 そして、どうしようもないくらいの、深い絶望だろう。

 だから、高巻は。

 

「お前はよくやったよ。偏差値は低いくせに、よくやった。だが詰めが甘い」

「……」

「その甘さ、俺が見てやらなくもないぞ?」

「……」

「ちょうど、空きが出ていたところなんだ。なんなら、今、ここで抜いてくれてもいいんだぞ?」

「……クズが」

 

 そんな、短絡的な言葉しか出てこないくらいに、私は。

 私は、高巻に同調して、動揺していた。

 それは皮肉にも、当初の目的が果たされたことを意味していて。

 高巻が屋上から見下ろせる景色を見ながら持っていたであろう感情と、ちょっとした安堵感が、胸の中で混沌と渦巻いていた。

 この場にいることが、たまらなく不快だった。

 私は鞄をギュッと持って、駆け足で病室を去る。

 病院を出ても、鴨志田の下品な笑みと、嘲るような哄笑が、頭にこびり付いて離れなかった。

 

 

「……あー」

「久々の敬語で疲れたか?」

「あー」私は鞄に向かって言う。「それもある」

 

 まぁ、とにかく、今日は疲れた。

 色々あったし。目的も果たせたし。

 

「気分は?」

「最悪だぜ」私は言った。「まるで肥溜めに頭から突っ込んだ気分だ」

 

 そんな雑なアメリカン風の返しでやり過ごしていると、アパートまであともう少しなことに気づく。

 どのような道で帰ったのか、どこの信号機で止まったのかは覚えていない。よくあることだ。

 

「なぁ、シノブ」

「なんだ?」

「これからどうするんだ?」

「何もしねぇよ」私は言った。「大体の事情を知ることはできたし、あらかた整理することができた。……私の気持ちとか、高巻の気持ちもな」

「そうか。ワガハイはそれでもいいと思うぜ」

「変に含みのある言い訳だな」

 

 

 突っ込んでみても、モルガナからの応答はなかった。私は気にせずに、前へ進むことにした。

 数分歩くと、また鞄の中から声が聞こえてきた。

 

「……一つ、提案があるんだが」

「何だよ」

「昨日今日で聞いた話、フタバに聞かせてやるのはどうだ?」

「おお……おお?」

 

 フタバ。一色改め、佐倉双葉。

 なんだか懐かしい響きだ。

 

「正直、ワガハイもシノブの推理で間違ってないと思うが……確証はない。一応、聞いておく価値はある」

「ああ……まぁ、そうかな」

「里中の理論に、穴がない訳じゃないからな」

 

 え?

 

「マジで?」

「ああ」鞄の中からゴソゴソと音が鳴る。「それを含めての、相談だ」

「ふうん。結構、双葉を買ってるんだな」

「シノブよりかは信頼できるぜ」

「言うじゃねぇか」

「フタバは結構、ヤバいんだよ」モルガナは言う。「ほぼノーヒントで、雨宮の住んでる場所を突き止めたぐらいだからな」

「へぇ……ぇえ? マジで?」

「マジだ」

「聞いてないぞ」

「言ってないからな」

 

 なんだよそれ。

 私が一歩一歩、地道に歩いている傍らで、超速くて超便利なリニアモーターカーを使われいた気分だった。

 言っている間に、アパートに着く。鍵を開けると、鍵が開いていた。……何を言っているかわからねーと思うが、私にも分からない。

 眉間に皺を寄せながら扉を開いて、耳をすますと、奥の方からカタカタと断続的なタイピング音が聞こえてくる。どう考えても双葉だった。

 

「双葉?」

「おー、忍。おかー」

「お風呂にする? それともご飯にする? 今なら特別私がやってやるぞ」

「勝手に他人の冷蔵庫の中身を使うか、水道代を使うな」私はリビングに入りながら言った。「てか双葉、なんでいんだよ」

「オンボロアパートの鍵穴なら、私でもピッキングでなんとかなるし」

「犯罪に手を染めるな……」

「注文の多い忍だなー」

「私はお前の将来のために言ってやってんだよ」

 

 今なら我が子を想ってガミガミ怒る母親の気持ちも分かる気がした。

 結局双葉に合いカギを渡していたことを思い出してから、手を洗いうがいをして、双葉がパソコンと睨めっこをしながら寝そべっているベッドに腰かける。モルガナは鞄から出て、ベッドの端っちょで丸くなった。

 

「なぁ、双葉」

「なんだー?」

 

 言いながらも、某閃光の指圧師を彷彿とさせる双葉のタイピングは止まらない。

 

「私の友達の友達の話なんだが」

「忍って友達いたんだ」

「せめて、『友達の友達ということは、忍自身の話ってことか!?』 と突っ込め」

 

 だから、なんで私に友達がいない前提なんだよ。

 モルガナ共々、失礼な奴らだ。

 出鼻を挫かれながらも、私は高巻に関する情報を詳らかに話した。

 全然相槌を打ってくれなくて、加えて目は画面に釘付けになったままだったから、非常に話しづらかったけれど。

 なんとか話終えることができた。

 

「……だと思ったんだけど、双葉はどう思う?」

「ふむ」

 

 初めて、双葉が相槌を打って。

 それから一瞬だけ、手を止めて。

 そして私の目を見て、言った。

 

「全然違う」

「え?」

 

 違うの?

 




ちょっと早足ですが、区切りがよかったので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六話『答えは10階』

「多分だけど……高巻杏は、死ぬつもりなかった……んだと、思う」

 

 私とモルガナが、その言葉で顔を見合わせた数分後。

 

「ちょっと、行きたいとこ、ある」という双葉の一声で、私たちは改めて影を伸ばすような夕暮れの街へと繰り出すことになった。

 この時間帯の、電車の混み具合はそこそこで、学生服が一定の割合を占めている。まだ慌てるような時間じゃない。日が顔を隠し始めてくると、スーツ姿の会社員が増えてくる。私は財布をポケットに、双葉はやや大きなリュックサックを背中に携えて、ゴトゴト電車に揺られている。

 

「双葉……お前、電車大丈夫か?」

「う……うぃ」

 

 全然大丈夫じゃなさそうだった。両手をせわしなく動かしながら、震える目で車窓を眺めている。帰りの時は、徒歩で帰ることも視野に入れた方がいいかもしれない。

 

「それでさ、双葉。勿体つけてないで、教えろよ」

「今言っても意味ないし」

「なんで?」

「だって今はシーンが切り替わる途中な訳じゃん。ミステリーの種明かしは、現場か、もしくは犯人の前でするのが鉄板だし!」

「それまで生殺しかよ、おい」

 

 鞄の中からモルガナが茶々を入れてくる。

 確かにもどかしかった。『高巻は死ぬつもりじゃなかった』。双葉の言い分が本当なのだとしたら、あの事件は、他殺か、偶然による事故かの二通りに絞られてしまう。

 その線の可能性は、ゼロじゃないにしろ、極めて低い。私たちはそう踏んで、これまで高巻が飛び降りた動機を探していた。それがもしも全くの骨折り損なのだとしたら、まあ、落ち込みはしないが、中々にヘビーな話だとは思う。

 それと、あと……。

 

「う……ぁ、うぅ……」

 

 さっきからビクビクしている双葉が心配だった。窓の景色しか見ていないはずなのに、一体何に怯える必要があるのだろう。

 

「本当に大丈夫か?」

「う……く、うん」

「何がダメなんだ?」

「お、おと」

「おと?」

 

 音?

 コクリ、と大げさに双葉は呟く。

 

「人の、話し声、とか。自分の噂されてないかなんか、心配になる」

「気にしすぎだろ」

「それでも心配なのは仕方ないし!」

「ふむ」

 

 いわゆる自意識過剰という奴だ。

 陰口に対して過剰に敏感になったり、ありもしない視線を感じたり。十年そこら生きていると、周りの皆なんて、案外自分に興味を持っていないことに気づいたりするものだが、人とあまり触れる機会を持っていなかった双葉は、まだ自意識を萎める儀礼を通過していないのだろう。

 

「繊細なんだな」

「悪いか!」

「言ってない」私は首を横に振る。「それに。繊細な方が、いい時もあるぞ」

「ほ……ホントに?」

「ああ。繊細な人の気持ちが分かる。残念ながら、私はそうじゃないからな。双葉の気持ちを理解することはできるが、共感することはできない」

「そんなこと、ない。忍も結構繊細」

「え?」

 

 私は双葉を見る。

 双葉は挑戦的な目で私を見ていた。

 

「ま、そうじろうの受け売りなんだけどねー」

「……」

 

 あいつ。

 あることないこと、余計なことを双葉に言ってないか?

 

「でもさ、だったらさ」双葉は言った。「高巻杏の気持ちも分かるんじゃね?」

「え?」

「高巻杏も、根は図太かったんでしょ? 不愛想な忍に、一生話しかけてたって、聞いたし」

「図太い人は、図太い人の気持ちが分かるっていいたいのか」

「ん」双葉は頷いた。「そんな簡単におっ死ぬと思う?」

「……それは……」

 

 でも。

 状況が状況だった。

 どんな人間でも、状況によっては人殺しになり得る。

 その言い分が正しいとするならば、どんな人間でも、自身を殺める可能性があるはずで。

 

「……」

「ま、まぁ、そんな難しい顔しなくても、いいじゃん」

「そんなに難しい顔、してたか」

「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないことの証明するくらい、難しそうだった」

「フェルマーの最終定理じゃねぇか……」

 

 数学の超難問と同じレベルの難しさだったのかよ、私。

 ともかく。

 双葉ももうすぐ、私が何日も頭を悩まさせていた難問を解くのだろう。

 その時まで、その難問を考えておくことにしようか。

 

 

 

 私が予想していた目的地とは、ずいぶん離れた場所の駅で双葉は降りた。

 一体どこに向かうというのか。聞いたとしても、『シーンの切り替えだから云々』と煙に巻かれることは目に見えていた。だから私は観念して、双葉の後に続くことにした。

 階段を降りたり上ったり、大通りを逸れて小道に入ったりしていると、段々と双葉のしたいことが見えてきた。どうやら双葉は、すっかりマスターが作るカレーの虜になってしまっているらしい。

 という訳で、喫茶店『ルブラン』の前に至る。カレーとコーヒーが程よく混ざったあの香りは、まだこちらから感じることはできない。

 扉を開けてやや入ると、丸椅子に座って、ボンヤリとテレビのワイドショーを眺めているマスターが目に入った。彼はこちらに気づくと、ああ、とか、おお、とか、曖昧な挨拶を飛ばしてくる。

 

「なんだよ、客じゃねぇな」

「悪かったな」

「そうじろー、来てやったぞー」

 

 それぞれ言葉を交わして、私と双葉はカウンターの席につく。

 温かい中を歩いて、やや喉も乾いていた。何を頼もうか。

 

「ええと……そうだな、いつものコーヒー」

「じゃ、私はキューバリブレ!」

「ここに、んなお洒落なカクテルはねぇよ。……てか、双葉はまだ未成年じゃねぇか」

「はー、そうじろうは分かってないなー」やれやれとばかりに、双葉は両手を上げる。「モンエナの味だ。カクテルみたいな、脳の処理速度が遅くなる飲み物は飲まないからなー」

「モンエナ……って、双葉が前に飲んでた、すげぇ色のドリンクか」

「そそ。ある?」

「そんなもん、ねぇよ」

「じゃ、買ってきてー」

「はぁ……」すっかり癒着されてしまっている惣治郎は深いため息をついた。「分かったよ。忍、店番頼むな」

「誰か来るのか?」

「来るだろ。喫茶店なんだから」

「そりゃそうだった」

 

 とぼけてみた私にも、惣治郎は大きなため息をついた。幸せが沢山逃げていく……。

 結局惣治郎は、本当に買い出しに出て行ってしまった。私と双葉(とモルガナ)が二人(と一匹)、ルブランに取り残される。

 

「ぃよし、これで邪魔者はいなくなったな、忍」

「……言っていいことと、悪いことがあるぞ」

 

 私の影響だろうか。そこまで責任は持てない。

 

「じゃない。すまん、今のは言葉の綾だ」双葉は訂正した。「これで、種が明かせる」

「ああ……え、ここで? するのか?」

「ん」双葉は頷いた。「ま、色々理由はある、から。ダイジョブ」

 

 言ってから、双葉が少し前のめりになる。どこから手に入れてきたのか、探偵帽子を目深に被りながら、唾の部分を親指と人差し指で挟んで、カッコつけて佇んでいる。

 いよいよ、満を持しての謎解きだった。

 

「あ……その前に、一つ確認したいことがある。認識のソゴがあったら、後々めんどいし」

「認識の齟齬?」

「そそ。一つ、高巻は雨宮に復讐の代行を頼んでいないこと。二つ、高巻は自らの意志で飛び降りていないこと」

「二つ目はさっき言ってたことだが……二つ目は、そうなのか?」

「ん」双葉は頷いた。「そもそも、高巻が雨宮とコンタクトを取ってたこと自体、モルガナと忍の妄想だ。つまり、鴨志田が飛び降りたのを見た高巻が、慌てて屋上に駆けだした時より以前は、雨宮と高巻は一度も話したことがない……と考えるのが、正当だと思われ」

 

 なんだか引っかかる言い方だった。

 その引っかかりの正体を突き止める前に、モルガナが口を開いた。

 

「てことは……高巻が屋上に上がってから、雨宮と会ったってことか?」

「お、モルガナ、鋭い。やるなー、ま、そゆこと」

「??」

 

 頭の上にクエスチョンマークばかり浮かぶ私。

 双葉がうんうんと頷いている。

 

「順を追って説明するぞ」

「あ、ああ」私は頷いた。

「鴨志田は鈴井に対して洗脳に近い行為を働いていた。これは事実だ。で、それに対して高巻が強い恨みを持っていたことは想像に難くない。鈴井と高巻の仲はよかったっぽいから」

「ああ」

「でも……復讐をしようと考えた線は、ちょっと微妙かなーって思う。状況証拠があんまりない。んで、雨宮にその復讐の代行を頼んだってのも論外だ」

「だとしたら、鴨志田の飛び降りはどうなる?」

「あれは雨宮の単独犯って考えたたらいんじゃね?」双葉は言う。「ある日、雨宮は異世界に入る不思議な力を手に入れましたー。で、試しに近場にある異世界に入ってみることにしました、的な?」

「その異世界が、ええと……何?」

「鴨志田パレス」

「え……、あいつ、パレスなんて持ってたのかよ」

「ん」双葉は頷いた。「証拠に……ほれ」

 

 双葉はスマホを操作して、「鴨志田卓」と、スマホに向かって喋ると。

 

『候補が見つかりました』

 

 無機質な声が聞こえてきた。

 

「これ、異世界ナビってアプリな。音声で検索をかけると、該当するパレスを見つけることができる。これ、この前そうじろうに買ってもらったら、何か入ってた。忍も持ってるでしょ?」

「あ、ああ」

「蛇足だけど、未来の私はそれ使って、私をペルソナに覚醒させたの。で……雨宮も、多分だけど百パー、それ持ってる」

「じゃあ、このアプリを使って、雨宮は鴨志田を殺したのか」

「ううん。廃人化はあくまで保険。証拠に、鴨志田はちゃんと話せてた、んでしょ」

「え?」

「鴨志田に個人的な恨みがあったか、もしくは、ただ単に標的として『ちょうど』よかったのか。雨宮は、屋上に鴨志田を呼び出すなりして、直接手を掛けようとした」

「ちょっと待てよ」私は双葉の言葉を遮った。「直接? 廃人化させられるのに、どうしてわざわざ、そんなリスクを背負ったんだ?」

「こればっかりは、分からん」双葉は首を振った。「私は真人間だからな。サイコパスの心情なんてこれっぽっちも知らん。分かったら怖いじゃん、逆に。だから、こればっかりは、直接聞くしか方法はないと思われ」

「……あのなぁ、双葉、」

 

 直接聞くなんて、無茶言うな。と言おうとした私は、双葉に制された。

 

「だからルブランに来たの」

「はぁ?」

「おいおい分かる。で……次な」

「待てって」

「高巻が死ぬ前日にとった行動だけど、」

「聞いちゃいねぇ」

「忍はさ、」

「なんだよ」

「自分の知り合いの中で、一番自殺願望がなさそうな奴が、いきなり屋上の柵登って突っ立ってたら、どう思う?」

 

 藪から棒に質問が舞い込んでくる。

 一番自ら命を絶たなさそうな人。生命力の強い人。

やっぱり、姉さんだろうか。

 

「まあ」私は言った。「びっくりするな。何かがオカしいと思う」

「それだ!」双葉は言った。「高巻もおんなじこと、思ったんだと思う。不思議に思って、だから、屋上に向かった」

 

 そして。ああ。

 なんだか、読めてきた気がする

 

「その先に、屋上にいた雨宮と出会った」

「だなー。高巻に見つかって、ヤベーってなった雨宮は、保険……つまり、パレスに逃げようとした。幸い鴨志田は生きてたから、きっちり、入れた」

「ふむ」

「でも、それが雨宮の誤算だったんだ」双葉は続けた。「多分だけど、異世界にワープする時、このアプリは他の人も巻き込む性質があるっぽい。だから、高巻は不運にも鴨志田パレスに連れ込まれた。結果、雨宮は、よく知らない高巻という奴に、自分の素性も、異世界の存在も知られてしまった」

「だから……ああ、そうか」私は言った。「一日置いてから、高巻を屋上から突き落とし、殺害したのか」

「いや、それも違う」

「え?」

 

 それも違うの?

 私、流石に推理が不得手すぎないか。

 一方で、モルガナは何か思いついたようで、表情豊かな目が見開かれている。

 

「そうか……思い出したぞ、忍」

「何をだ?」

「人が死亡するためには、何階必要だと思う?」

「……まあ、三階から飛び降りたら一溜りもないだろ」

「それは、地上がアスファルトだった時の場合なんだ」

 

 え?

 でも。秀尽学園の中庭は。

 

「植え込み……だ」

「そうだ」モルガナは頷いた。「もちろんアスファルトより何倍も柔らかい。だから衝撃が分散して、致命傷は負いにくい。だから鈴井や鴨志田が生還したのは、何もオカしくない」

「でも、高巻は、」

「うむ」腕組みをしていた双葉は、アホ毛を揺らしながら頷いた。「死んだ」

「それは、」

「予め殺されていたか、初めから二択を背負わされていたか、当たりどころがめちゃめちゃ悪かったかの三択になる」

「どっちか分かるか? 双葉」

「分からん。でも、聞く方法はある」

「またそれか」私はため息をついた。「雨宮とコンタクトを取ることが危険すぎるのは、私にも分かる」

「だなー」と双葉はあっさり言った。「だから、面白い方法を使う」

 

 面白い?

 そういえば、さっきも双葉は直接聞くだのなんだの言っていた。あれは冗談ではなく、本気だったのか。だとしたら、どんな方法だろう。

 双葉は、ポケットの中にしまっていたスマホをまた取り出した。ニシシ、と口元を吊り上げながら、何やら操作している。

 そして。

 

「アクセスコード、雨宮蓮!」

 

 合体する訳でもないのに、双葉は言う。

 視界はボンヤリと霞んでいった。

 




めっちゃ書いてるはずなのに全然進まないの、反省材料でしかない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七話『分からない』

 目を開けると、目を閉じていた時と大差ない情報量が入ってくる。

 いや……段々とその暗さにも慣れてきて、辺りの様子が見えてきた。ビビッド寄りの紫が景色を支配していて、不気味というより、違和感が残る映像を見ているよう。背後には、ここに来るまでに目にしていた四軒茶屋にある路地の建物があった。目の前にはマスターが経営しているルブランがある……はずなんだけど。

 

「なんだ、これ……」

 

 記憶に近いものを探せば、ローマにあるコロッセオ。でもあまりピンとこない。全体的に暗いこともあって、正確な判別はできないけれど、恐らくオレンジ色のレンガで固められた、四軒茶屋の路地に似合わない、縦に長い大きな建物といったところか。幾本かのふっとい柱に支えられたそれは、辺りとのミスマッチ具合も相まって、異質な雰囲気を醸し出している。

 

「これ、雨宮パレスな」

「パレス?」

 

 そういやモルガナが、双葉が雨宮パレスの場所を見つけたとかなんとか言っていたっけ。

 なるほど、ここが……はぁ?

 

「いや、なんでルブランに雨宮のパレスがあんだよ」

「ルブランの二階で、雨宮が下宿してるって私が言ったら、信じる?」

「いーや、信じないね」

「そうか」双葉は下を向いて、悲しそうにシュンとしている。

「……え、マジ?」

「マジだ」

 

 マジかよ。なんだよそれ。どういう偶然だ。

 ご都合主義的展開すぎないか?

 

「とにかく、ここのパレスの主……つまりシャドウ雨宮だな。そいつに今から会って、事情を根掘り葉掘り聞きまくる。これが私の作戦だ」

「なるほど……ちょっと待て」私は言う。「シャドウ雨宮に会うってことは、このパレスを攻略するってことか?」

「まー、そうなる」

「ってことはシャドウが出るってことだよな。……私、ペルソナ持ってないんだが」

「くっくっく……そんなあなたの為に、こちらの商品!」

 

 と、通販番組のセールスマンみたいなことを言い出した双葉は、リュックサックの中から大量の、大量の……なんだ? 何かでできた球を、包帯か何かでくるみ、導火線を垂らしたそれを取り出す。

 なんだろう。記憶を引っ張り出しながら考える。

 

「……煙幕?」

「いかにも」

 

 双葉はない胸を張った。

 

 

 

 ダンジョンのモンスターが強すぎて、エンカウント後、即座に逃げることもままならない。

 それなら、そもそもエンカウントしない方法を考えればいい。と、双葉は建設的なコメントを残して、リュックサックに積んであった煙幕をこちらにちらつかせたのが十分前。

 

「うおおおおおおお!?」

『にに逃げろーーーーー!!!』

「うおぉい!? こっちの姿じゃ足の速さに限界があるんだって!! 待てって!!」

 

 三者三様、それぞれの阿鼻叫喚を雨宮パレス中に響き渡らせながら、無我夢中で走り続ける。

 「人間逃げる時は左に曲がりがちになる習性がある」という双葉の謎知識を信じて、あえて右に曲がることを心掛けながら、途中にあるなんだか割れやすそうな置物や、あからさまに置いてあるような宝箱なんかには目もくれずに先陣を切る。次鋒にUFO(!)に乗った双葉。シンガリは鈍足のモルガナが務めている布陣だ。

 謎解き要素があれば、双葉に丸投げして解いてもらい。袋小路に立たされれば、気配消臭剤を撒いて誤魔化し。潜入推奨レベルが段違いの雨宮パレスを、悲鳴を上げはじめた足を叱咤激励しながら、ブラックバイトの従業員のようにこき使う。

 

「まだ、なのか、双葉!?」

 

 モルガナがまだちゃんといるのを確認してから、私に追従してくるUFOを見ながら。

 息も切れ切れ、私は言った。

 

『んー……あともうちょい、って感じ?』

「マ……本当か、それ……きゃっ!」

 

 やべぇ。

 今まで出したことのないような声が口から出た後、慣性に押されて前へすっころぶ。何かに躓いてしまったようだ。擦れた右腕を気にしながら、咄嗟に辺りを見回す。多分、今のところ追っ手はいないか。

 しかし、一体何に躓いてしまったのだろう。

 崩れた体勢のまま振り返り、暗い中目を凝らすと。

 

「……ん?」

 

先の尖った二足のブーツと、そこからそれぞれ生えた二本の足を確認する。……誰のだ?双葉はネクロなんとかというUFOに乗っていて、モルガナに立派な足はない。

ある一つの可能性が思い浮かぶのとほぼ同時に視界が開けた。高い天井にはいくつもの照明が等間隔に並んでいる。傾斜がついた観客席には誰もいない。そしてようやく、私たちは、横に広い檀上にいることが分かった。

劇場。先程のモノローグを反芻しながら。

私を含めた三人衆は、私たちのいる場所とは正反対の壇上に、赤い手袋以外真っ黒に染まった服を着た男が、マスクで素顔を隠しながら、私たちに不敵な笑みを見せつけていた。

 

「……お前が」

 

 雨宮蓮、の、シャドウ。察しが悪くても、流石に分かる。

 

『……だなー』双葉は言った。『随分と、サプライズなお出ましだ』

 

 その用法は合っているのか、と突っ込む暇もない。私は私自身がひどく緊張しているのを直で感じながら、シャドウ雨宮と相対する。

 雨宮が口を開いた。

 

「こんにちは」

「え……あ、こんにちは」

 

 素朴な挨拶に、思わず私も挨拶を返してしまう。

 さっきの怪しい笑みと、容姿とは全くちぐはぐな所作だった。

 

「里中忍さん……だよね?」

「ああ、そう、だけど。よく知ってるな」

「クラスメイトの名前は、一応憶えてるから」

「そ、そうか」

「何しに来たんだ?」

「あー……えっと?」

 

 なんだっけ。世間話? それとも、シャドウ雨宮討伐?

 私が想像していた雨宮像に対して、かなりブレた性格をしていた彼に困惑して、上手く頭が回らない。

 てんやわんやしていた私に代わって、双葉が口を開いた。

 

『聞きたいことが、三つほどある』

「何?」

『高巻と鴨志田を、屋上から突き落としたのは、お前か?』

「ああ」雨宮はあっさり頷いた。「そうだ」

『じゃあ、どうしてわざわざ鴨志田を屋上から突き落としたんだ? 鴨志田パレスにいる、シャドウ鴨志田を殺って廃人化させた方が、足も付きにくいし確実なはずだ』

「ただ廃人化させても、意味がないから」

 

 シャドウ雨宮は罪を認めた上で、

 口を挟んだのはモルガナだった。

 

「意味がない、だって?」

「ああ」雨宮は頷いた。「ただ廃人化させたら、自身が犯した罪を振り返ることさえしないで死ぬ。それでは全く意味がないし、ただの俺の自己満足だろう? だから、しでかした罪を後悔させる時間が必要だった」

「後悔させる時間……って、何なんだよ」私は言う。

「鴨志田を屋上に立たせて、俺は言った。『お前が過去に犯した全ての罪を告白しろ。告白して、危害を加えたすべての人に謝ると俺に誓えば、この手を放してあげないこともない。万が一俺がお前を突き落として、万が一命拾いをしても、俺の名前は警察に告げるな。告げたら、今度こそお前の息の根を止める』」

 

 結果、雨宮は鴨志田を突き落とした。ということは、そういうことなのだろう。

 でも。

 

「鴨志田が、そうやすやすとお前の命令に従うと思ったのか?」

「鴨志田を突き落とす直前、扉からバタバタと階段を上がる音が聞こえてきた。その扉が開かれる前に、俺は鴨志田パレスの中へ入った。だから鴨志田が『雨宮がやったんだ』と言ったとしても、俺が追及されることはない。なぜなら俺は、屋上にはいなかったから」

「その裏技が使えるから、鴨志田を標的にしたのか」

「ああ、そう。そうだ」

 

ただ単に標的としてちょうどよかった。

 これは、双葉が挙げた二つ目の、雨宮の動いた理由と一致している。

 でも、動機とはならない。

 ただちょうどやりやすかったから、鴨志田に手を掛けたなんて、そんな薄い動機はまかり通ってはいないだろう。

 だから、私の考え得る限りでは、雨宮自身の動機は、たった一つしかない訳で。

 

「悪を成敗する気分はどうだった?」

「最高だった」

「身勝手な正義を押し付けて、私刑に処したことがか」

「ああ」

 

 悪びれない雨宮に、私は少々イラっとした。

 まるで自分のしたことを微塵も疑っていないような。

 盲目的な自信を感じた。

 

「俺たちの知らないところで、悪は沢山蔓延っている。俺は、そういう奴らが憎い。許せない……性格に、なった」

 

 気をよくしたのか、雨宮は言う。

 

「だから俺は正義の鉄槌を振るう。私刑だリンチだと言われても構わない。俺の憎しみの炎が胸の中で燃え続ける限り、俺はペルソナを使って、この世を正す」

 

 どうして雨宮は悪に対して異常な憎しみを抱いているのか、抱くような性格になってしまったのか。分からない。雨宮の過去をほじくり返すつもりはないし、雨宮に対して、個人的に強烈な興味を抱いている訳でもない。

 

「見ないで、知らないふりを決め込む奴らも同罪だ」

 

 その時、確かに雨宮は、私の目を見て言った。

 自分を見透かされた気持ちになって、無意識に一歩、後ずさる。

 

「一度手を伸ばせば分かるはずなのに、見ようとしない。自分には関係ないことを言い訳にして、自分に危害を被ることを恐れて、絶対的な悪に怯んで、自分の内にあるはずの正義を押し込めて、悪を黙認している。俺は、そんな奴らが、なにより、一番嫌いなんだ」

「……」

「どうせ、お前もそうなんだろう?」

「…っ、」

 

 違う。

 なんて、ハッタリは口が裂けても言えなかった。

 私は確かに見なかった。面倒だから、見ようとしなかった。

 そして私は、高巻を……。

 

「シノブ」

 

 後ろから声が掛った。モルガナだ。

 

「シャドウ雨宮の言うことなんて気にするな。シノブはシノブなりに、ちゃんと高巻と向き合おうとしてる。ワガハイは知ってるぞ」

「でも、今までの私は……」

「『今』のお前は、違う」

 

 モルガナは、私の目を見て言った。

 不思議と、さざ波立った私の心が穏やかになっていく。

 そうだ、私は。

 私は変わろうとしたんだ。

 今は、満足に首を縦には振れないけれど、いつかは。

 

「全く」私は言った。「飼い猫は、手を噛むんじゃなかったのかよ」

「まったく、手の掛かる飼い主だぜ」やれやれと手を広げるモルガナ。

「余計なお世話だ」

 

 ぶっきらぼうに私は返す。この借りもいつか返さないとな。

 しかし、困った。

 何か言い返してやりたいところだけど、雨宮の施した理論武装の隙が、私からは見当たらない。理解することはできるが、面と向かって言われるのも初めてで、かつ私にはない考えだったから、どこを突けばいいのか、そもそも論破するべきものなのかが分からない。

知識が足りない。雨宮の人となりがまだ、ハッキリと掴めない。私からは手の出しようがない。

 だから、自然と。

 双葉の方に視線が飛んだ。

 

「まあ、いい」

 

シャドウ雨宮はつまらなさそうに視線を逸らした。

 

「不法侵入のことも含めて、今回は見逃そう。警察に言ったりもしない」

 

 その言葉がジョークかどうかについての審議は待たれるところだが、私含めて四人とも笑っていないので、きっと私の思い違いだろう。

 

「じゃあ」

 

 雨宮は右手を上げて、私たちに背を向けた。マントがはためいた時に、鋭利なナイフがちらついた。雨宮が一歩目を踏み出そうとしたときだ。双葉が口を開いた。

 

『まだ質問は終わってない』

 

 雨宮はやや眉を顰めながら、UFOを見た。

 

「お前、異世界に迷い込んだ高巻を、どうしたんだ?」双葉は言った。「普通の人間は、三階の高さから芝生に落ちても死なない。でも、高巻は死んだ」

 

 ああ、そんなことか、と雨宮は言って、爽やかな笑みを浮かべた。

 

「あれは、すまないと思っている。俺は高巻を傷つける必要があったんだ」

「はい?」

「暴れられても困るから。それに、高巻のような人は、基本的に命令に従わなさそうだろう。だから、確実に殺す必要があった」

「随分と鴨志田とは待遇が違うじゃないか」

「……何が言いたい?」

 

 雨宮は笑みを収めた。そして、敵意を潜めた目で私たちを見た。一触即発……とまではいかないが、雨宮が腹を立てていることは分かった。

 双葉が雨宮の質問に答える。

 

「高巻は、偶然そこに居合わせただけのパンピーじゃん。お前のくだらん主義主張を加味しても、高巻を殺す必要はなかったんじゃね?」

「……でも、俺の顔を見られたんだから、」

「そうだ」双葉は頷いた。「だから、殺した」

 

 主義主張関係なく。

 ただ自身の損得勘定で。

 人を、殺めた。

 

「それが、何?」

 

 雨宮は。

 まるで双葉の言葉に続きがあると思っているのか、促す。

 答えられない二人(と一匹)にしびれを切らしたのか、雨宮は言う。

 

「高巻は俺の価値観を取るに足りないと断じたんだ。それに、俺に自首して欲しいと惚けたことまで言い出した。許せなかった。俺の信条を、俺自身を否定するような奴らは、()の世界に必要じゃないだろう? 俺は高巻に手を掛けていた。あとはほぼ、自動的だった」

 

 言って、雨宮は悲しそうに首を振った。どうして悲しそうにしているのかは分からないし、分かりたくないとも思った。

 

「高巻は?」私は言った。

「え?」

「高巻は、どうだった?」

「頑固な人だったよ」雨宮は言った。「どれだけ殴りつけても、高巻は主張を曲げなかった。どれだけ泣かせても、気持ちの悪い悲鳴を上げさせても、俺の言う通りにはしてくれないみたいだった。結局は何も喋らなくなるまで続いたかな……とにかく、中々に胸糞悪かったよ」

 

 そうか。あいつは……あいつのままだったのか。

 驚くほどに冷静な声が、静かな劇場の中だけに響いた。

 いまの言葉を口走ったのは、モルガナでも、双葉でも、ましてや雨宮でもなかった。

 

「本当に」

 

 高巻が、最後に遺した置き土産。

 どれほど捻じ曲げられても変えなかった、頑固とも言うべき意志。

 ようやく。

 ようやく私は、高巻のことを、高巻の魅力を理解したような気がしたのだ。

 

「本当に、よかった」

「?」

「お前が、嫌なやつで……本当によかった」

 

 だから私は、怒ることができる。

 雨宮に。そして……どれほど絶好の機会を与えられても、みすみす逃している……いや。

 みすみす逃そうとしていた、私に。

 

『……ホント、まだなの?』

 

 誰かが私に囁いた気がした。

 私の性格とはかけ離れた、浮薄そうで、常にスマホを片手に持っていそうな誰かの声。

 いや、誰かじゃない。これは……紛れもなく、自分自身の声だ。

 

『いつまでそうやってチンタラしてる訳?』

「悪い」私は言った。「でも、もう目は覚めた」

『しっかりしてよね』

「まだ間に合うか?」

『間に合う訳ないじゃない』ため息の音が聞こえてくる。

「そうか」

『でも。間に合わせようと努力しないよりかは、百倍マシよ』

「それっぽいことを言うじゃねぇか」

『だって、私だし』

「……なるほど」

 

 これは一本取られた。

 ともかく、私は。

 

「来い……セオリツヒメ」

 

 その名を呼んだ。

 

 

 

 

 自信が満ち溢れてくる。

 自分を変えたい。変わらない自分を捨てたい。

 溢れ出る意志が今、最高潮に達している感覚。

 体が熱い。でも、頭は冴え冴えとしていた。

 今なら。

 集中力が研ぎ澄まされている今なら、アレを放てるかもしれない。

 それは小さい頃に教えてもらった奥義で、必殺技だった。

 ただ、雨宮に通用するかどうか。

 些事な躊躇いが一瞬頭に浮かんで、すぐに消えた。

 私はふわふわ浮かんでいる双葉に声を掛ける。

 

「なあ、双葉」

『お……おう? なんだ!?』

「……え?」過剰な双葉の反応に、私は首をかしげる。「そっちこそ、なんだよ」

『いや……キャラデザ凝ってんなーって』

「はい?」

『い、いやいや、なな、なんでもない。ややこしくなる。……それで、なに?』

「シャドウ雨宮のサイズはどれくらいだ?」

『……ふむ』要領を得ない私の質問に、しかし双葉は頷いたようだった。『中ボスくらい……だな』

「よし」私は頷いた。「了解」

 

 言って、私は雨宮に向かって駆けだす。

 咄嗟に雨宮は防御の姿勢を取った。それでも、関係ない。これは助走に過ぎないのだから。

 左足を一歩前に踏み出して、体を右にしならせてから、肩を水平に動かして、腰を捻る。やや遅れて、全体重が乗った右足がやってくる。

 高巻の失意と、私の殺意を、ありったけ右足に乗せて。

 

「俺に、楯突くつもりか」

「ああ」

 

私は頷いた。

 

「私を変えるためには、お前が、すこぶる、邪魔なんだ!」

 

 ――それは、小さい頃に教えてもらった奥義だった。

 

 千枝義姉さんに教えてもらった、最強で最高の必殺技。相手は死ぬ。

 

 その名も。

 

「ドーーーーーンン!!!!!」

 

 全身全霊の声と蹴りを、相手に放つ。

 雨宮は45度で投げ上げられて、ちょうどそこにあった壁に張られたガラスを突き破り、私たちの視界から消えた。

 舞台に残ったのは、惚けた顔を浮かべたモルガナと、恥ずかしさで頬を染めた私と、相変わらずふよふよ浮かんでいるUFO。

 

「……もっとマシな名前はなかったのか?」

「うるせぇよ」

 

 ドーンはドーンなのだ。それ以上もそれ以下もない。

 

『これで……終わったのか?』

「知らん」

 

 分からない。

 雨宮がどうなったのかも。自称未来人から掛かってきた電話の正体も。モルガナがどうして傷だらけの姿で雨の中倒れていたのかも。あとは……あれ、意外とあんまりないな。

 ともあれ、これからも分からないこと尽くしなのであろうことは分かる。

 その中でもちゃんと逃げ出さないで、向き合いたい……という気持ちを、曲げたくない。

 それが、今ある私の意志であり、彼女に対する贖罪だ。

 私はモルガナを見る。UFOから降りてきた双葉を見る。今持ちうるありったけの笑顔を顔に浮かべて、私は頷いた。

 

「でもなんか、スカッとした」

 

 

 

 

 

 

 あれ以来……といっても、まだ数日ちょいだけど、一色双葉からの電話が掛かってこない。

 雨宮のパレスが消えたのかどうかも分からない。でも一応、雨宮はちゃんと授業は受けている。またその内、確かめてみるか……。

 昨日は高巻の葬儀があった。それは私にとって、高巻に別れを告げるにはあまりに短い時間だったけど、心の整理をする時間にはなった。彼女が棺に入るまで、鈴井は何度も何度も高巻の顔をさすりながら泣いていた。それは大切な友を永遠に失った痛恨の泣き顔だった。だから、鈴井はもう、大丈夫なのだろう。私はそう思った。

 ダルい授業を終えて、アパートへ帰ってくると、随分と酒臭にニオイが部屋中に漂っていた。……いや、違うぞ? 私は千枝義姉さんから猛烈なアタックを受けない限り、カシオレやオペレーターなんてそんな、こじゃれたカクテルを飲むことはない。

 ということは、導き出される結論は一つ。

 ……また双葉を紹介しようかな。でも、今の時間帯はガンナバウトにご執心だから、まず来ていないだろう。夕飯でも作っておくか。それとも、マスターの所へ顔を出そうか。それとも、アパートにいるはずの義姉さんと、夜の新宿へ繰り出すか。

 なんて、適当な思案を巡らせていると、最近は終ぞ見かけなかった一つの感情が、頭を出していることに気づいた。大発見である。それこそ、フェルマーの最終定理を解いた時並みの。

 私は今、そこそこ幸せです。

 誰かに向けて、言ってみる。

 

 




あとがきは活動報告にあります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。