儚い夢想、ココロに届け。 (バ烏@(°∀。)ノウェ)
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このお話は。
物語を始めるにあたって、皆様に注意していただきたい事がございます。


 ————皆さま。

 この度は当作『儚い夢想、ココロに届け』を読みに足を運んでいただいた事、感謝申し上げます。

 

 こちらの作品は、作者とそのご友人によって書き起こすになってしまった、本来暫く——或いはいつまでも日の目をみることが無いはずだった、所謂ネタだけ、の作品にございました。

 

 まあ、書き起こすと言った以上はやらなくてはならない、とは作者の言にございます。

 

 さて。こちらの作品を読んでいただくにあたっての、今回はご注意、この作品のあらすじなどを皆さまにご説明いたします。

 

 ……え? 私、でございますか?

 ……そうですね。わかりやすく申すならば、()()()、というところでしょうか。

 

 私は語り手、皆さまが読んでこられた作品の大半に倣っていうならば地の文。

 ああ、そうだ。一番しっくり来るのならば、ナレーターなんていかがでしょうか。

 

 そうですそうです、ドラマの明らかに作品から離れた神の目線、或いはバラエティ番組の天の声なんかです。

 

 ああ、もちろん、お気になさらなくても俺は一切物語に干渉致すことはありません。

 

 バラエティの天の声は出演者と話すことはあっても、私は会話はおろか少したりとも物語に影響は及ぼしません。

 

 そもそも、私めがこれから皆さまにお話する物語は既に終わったお話でございます。

 

 過去にあったお話を、リアルタイムにまで遡り、皆さまにお送りするまででございます。

 

 ……え、私の呼び方でございますか。

 そうですね、私も一個人としてある以上、もしかしたら皆さまに名を呼んでいただくことがあるやもしれませんね。

 

 そうですね……では、私のことは、バ烏、とでもお呼びください。

 

 覚えていただかなくても結構。

 今後、私は地の文になります故。

 

 僕の事など気にせず、物語を楽しんでいただければ——それは、作者としても本望。

 

 ——さて、余計なお話が過ぎましたね。

 まずはこの作品をお読みにいただくにあたって、皆さまに留意していただいて欲しい点が、幾つかございます。

 

 まず、この作品は小説としては異質な立ち位置にございます。

 地の文は登場人物の意識でもなく、或いは神の視点でもない。

 

 このお話は実際起こった事であり、あればこそ、私が彼ら彼女らの思考を説明することはございません。

 彼ら彼女らの考えは、皆さまが想い、想像することでそれが彼ら彼女らの考えとなります。

 

 ちょっとワクワクする言い方に直しましょうか?

 物語を作るのは——皆さま読者自身です。

 

 同じシーン、台詞でも、もしかしたら皆さまの捉え方、心情の想像次第では全く毛色の違うシーンになりうるかもしれません。

 

 私がご説明するのは状況まで。

 そこから先にあるのは、皆さま自身の物語であります。

 

 私どもが提供致しますのは、その物語の始まり、下地でございます。

 

 皆さまもしたことはありませんか?

 最終回を終えた物語を手に、その先その物語がどうなっていくのかなんて妄想を。

 

 作者が書き起こさなかったところに何があったか——それを決めるのは貴方自身です。

 

 願わくば、それが皆さまの望む展開であることを。

 

 次に、この作品は、報われぬ恋の行方を綴った悲恋の物語であります。

 引っ張る事など致しません、ここでハッキリ申し上げます。

 

 この作品は、この作品の主人公、ヒロインの恋は一切叶うことはありません。

 

 ……もっとも、何をもって叶うというのかによりますが。

 

 二人の心が通じ合ったというならば、それは叶ったになるでしょう。

 では、二人がともに歩むことができたかというならばそれは否であります。

 

 ……そうですね、先程言ったばかりですし、皆さまにお任せするとしましょうか。恋は、叶ったのか否か。

 

 私が申すことではありませんでした。

 

 次に、この作品は、作者の書き起こす速さによっては、長い間更新ができない可能性があります。

 

 ですので、長い間期間が空く可能性がありますが、ご了承ください。

 

 注意事項はこの程度でしょうか。

 

 ——では。

 物語の概要へと参りましょう。

 

 これより皆さまにお見せ致しますのは、決して叶わぬ恋に落ち、決して叶わぬ夢を持ち、されどその恋を、夢を、追い続けた、一人の少年。何者よりも人の喜を望み、何者よりも世界の幸福を考え、果てにはそれを成し遂げた少女。その、儚き青春の一ページ。

 

 皆さま、どうぞ物語の世界へ……。

 

 



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この物語。
彼らの出会いのお話からこの物語は始まります。


 

 

 彼らの出会い。

 それは、とある商店街で行われていた、あるガールズバンドのライブでした。

 

 その日はあまり日差しの強くない、曇りの日の事でした。

 

「みんな、こんにちは! 私たちはハローハッピーワールド! 私たちは世界を笑顔にするために活動しているの! まずは一曲聞いてちょうだい!」

 

 街角で突如として行われ始めたライブ。

 ライブは楽器の、機材の用意が必要なはずなのにも関わらず、瞬く間にステージが組まれ演奏できるようになったそれは、たまたま通りかかった人々の目を引きました。

 

 とはいえ所詮少女五人のバンドグループ。未だに根づくバンド=男性というイメージとのギャップで注目はされど、全ての人がそこに立ち止まって歌を聞いていくかと問われれば、それは否でしょう。

 

 ましてや、今は夕暮れ時。

 あたりはゆっくりと暗くなり、彼女らを見つめる集団の中には学校帰りの生徒や夕飯の買い出しに来た主婦も見えます。

 

 そんな人々がなぜつい足を止めてしまうのでしょうか。

 

 それはひとえに、彼女らの、この場にそぐわぬ()()()()さが目に止まったのです。

 

 まず彼女らを見て目に入ってくるのは、()()()()です。

 ピンク色の、クマを模したキグルミが、細々(こまごま)とした機器を弄り音を作り出しています。

 

 彼女は名前をミッシェルといいます。彼女らのバンド『ハロー、ハッピーワールド!』のDJです。

 

 バンドにキグルミ。しかも演奏をしているのです。

 少なくとも私は見たことがありません。彼女たちを除いては。

 

 ではミッシェルありきの物珍しさかといえば、そうではありません。

 

 例えばギター。

 髪を後頭部で結い上げた紫髪の彼女は、美丈夫という言葉を使ってしまいそうなほどに顔立ちが整い、かつ中性的なのです。

 

 あ、ほら今、彼女のウィンクに当てられた女子高生が黄色い歓声を上げました。

 

 例えばベース。

 ボーイッシュに橙の髪を短く切り揃えた少女です。テンションが上がったのかミッシェルに飛びついています。

 

 ライブの途中に、そのような行動。ちょっと考えが浅いようにも感じますが、そこもまた彼女の愛らしさの要因の一つなのでしょう。

 

 例えばドラム。

 水色の髪をサイドテールにし、少しおどおどとした雰囲気を醸し出しながらも的確にドラムを鳴らす彼女は、さながらこのバンドの清涼剤というところでしょうか。

 

 見てもらった通り()()()()揃いのこのバンドの中では一番普通といった印象を与えられます。

 

 例えば——ボーカル。

 金色の髪を腰まで伸ばし、ざっくりと切り揃えています。

 彼女の様子を表すならば、そう、自由奔放。この四字に尽きるでしょう。

 

 あなたは、見たことがありますか?

 ライブ中にくるりとバク宙を決めるボーカルを。少女なのにも——女性なのにも——関わらず、躊躇わずに人の波に飛び降りるボーカルの姿を。

 

 異質なバンド、その中でもとびきり異彩を放つ彼女はしかし、その中で最も輝きを放ってもいました。

 

 そして、その輝きに魅せられた少年が、また一人。

 

 その少年は、彼女らをぐるっと百八十度囲む人混みから少し離れたところで、彼女たちを見つめていました。

 

 身長は百六十センチより少し大きいくらい。

 男子としてはあまり大きくなく、線の細さも相まってどこか頼りない感じです。

 

 黒髪は特段お洒落に切り揃えられた様子はなく、どこにでもいる普通の高校生、と言った有り体でした。

 

 そんな少年は、少し、前にいる人たちとは違った雰囲気を醸し出していました。

 

 少女たちのパフォーマンスの度に歓声をあげるほど高いテンションの集団に対し、少年はじっと、ただ一点を見つめ続けています。

 

 もし、少年が集団のどこかに混じっていたとしたら、少し気分を害す人も出ていたことでしょう。

 

 なんでこいつはわざわざここにいるクセにこんな黙りこくってんだ? 楽しめないなら帰れよ。

 

 周囲の人にそんな風に思われる情景が容易に想像できます。

 もしかしたら、実際言われるかもしれません。

 

 でも、そんな人たちは、気づかないでしょうね。

 彼の髪と、メガネの奥に隠された、その瞳の輝きに。

 惚けたように開けられた、その口に。

 

 ここで、ハロー、ハッピーワールド! の演奏が一旦終了しました。

 

 曲ばかり演奏していては、客も、演奏者も疲れます。

 この合間のつなぎもまた、ライブには重要なものです。

 

 まあですから、世間一般から見て()()な子がMCをやっていて、その()()な子に目をつけられた、というのは、少し不運な事だったのでしょうね。

 

「そこのあなた! どうしてそんな遠くで見ているの? もっと近くに来ればいいじゃない!」

 

 金髪少女は少年を見つけ、あまつさえ少年に呼びかけてしまったのです。

 

 普通なら、仮に離れていてもわざわざ声をかけたりしないでしょう。

 幼子でもあるまいし、きっと何か考えがあるくらいは考えつくはずです。

 

 しかし少女は、そうしませんでした。

 

 彼女は世界を笑顔にしたい。そうしてこの『ハロー、ハッピーワールド!』、ハロハピも設立されたのです。

 

 一人残らず、と彼女はメンバーに語ったことがありました。

 例え、小さなライブだったとしても、彼女はそれを忘れなかったのでしょう。

 

 もっとも、一人指し示された少年の方は堪ったものではありません。

 そもそもが、浮かれたイベントに参加するのが苦手で離れていたのです。

 

 しかしMCが呼びかけたとあらば、特に興味がなくても視線を()ってしまうのが人情というもの。

 当然、群衆の視線の多くは後ろへ——正しく言うなら少年へ——向けられました。

 

 そうすると困るのは少年です。

 沢山の視線に晒されて、少年は居た堪れない感覚を感じていたのでしょう。

 

 今から集団の中に入っていくのは気まずい、かといってこのままここで聴くというのも、この状況では厳しいことでした。

 

 そしてすぐに。

 少年は顔を、身体を、横に向け、その場から走り去って行ってしまいました。

 

 ステージの上では、不思議そうにする金髪少女が、ミッシェルに咎められていました。

 

「こころ……。ああいう人はそっとしておかなきゃ駄目だよ」

 

「そうかしら? 楽しむなら皆でよ! きっと彼も楽しみたかったはずだもの! きっと彼は照れ屋さんなのね!」

 

「いやー、アレはライブ楽しもうってタイプじゃないと思うけどなー……」

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、ゲホゲホッ!」

 

 その少し後。

 商店街から離れ、近くの公園まで駆け込んだ少年。

 

 息が乱れ、苦しげに肩で息をしています。

 

 少年は人っ子一人見えない公園のベンチに座り込むと、ゆっくりと息を整え深く崩れ落ちました。

 

 スマホを取り出した彼は、ゲームを起動させ——ゆっくりとかぶりを振り、スマホをポケットにしまいました。

 

 少しして聞こえてきたのは寝息。

 春風に撫でられながら彼は、あろうことか公園で眠ってしまいました。

 

 身体に堆積した疲労を取るように、深く、深く——。

 

 

 

 そんな彼が目を覚ますまでにかかった時間は、そう長くはありませんでした。

 

 ゆっさゆっさ。ゆっさゆっさ。

 

 彼の身体が揺らされます。

 前に、後ろに、右に、左に。

 

 流石に上下には揺れませんがベンチの上でメトロノームのように揺れ動きます。

 

「んー困ったわね。全然起きないわ」

 

 彼の肩を掴んで揺らすのは、マーチングバンドような衣装から私服に着替えた、あのライブでボーカルを務めていた金髪少女でした。

 

 眠りが深いと何をされても起きないなんてことはままあることではありますが、硬い木製ベンチの上で、ましてや横に倒れる事もなく座ったまま寝ていたとあってはそんなにゆっくり休めるものではありません。

 

 少年は快眠とは言い難い快楽から手を放し、眉をしかめながらゆっくりとまぶたをあげました。

 

「起きとる、起きとるわ! こんなに睡眠妨害されて狸寝入りしとれっちゅー方が無理な話やろ!」

 

 少年の口から出てきたのは、この辺りで聞くのは珍しい大阪弁。

 

 突然大きな声を上げられた少女の目が丸くなりました。

 それに気づいた少年の顔がハッとなったかと思うと、少女から顔を背けモゴモゴと自身の言葉を訂正します。

 

「あー、えっとー、何か用……ですか。さっきゲリラライブやってた人だ……ですよね」

 

「あら、どうしてそんな畏まった言い方に直すの? さっきの言い方でいいじゃない!」

 

「え? ……いや、初対面の人に向かって素を出す方がおかしいのと思いますけど……」

 

「そうかしら、私はそうは思わないわ」

 

「は?」

 

「だって、自分を隠すなんて変なことじゃない! 自分が持ってるものを見せなくてどうするのかしら」

 

「……」

 

 少年は眉根を寄せ、おかしなものを見るような目で少女を見つめました。

 

 世の中に、ありのままの自分をさらけ出して生きている人がどれほどいるでしょうか。

 

 立派なことを言う政治家、子供達に道を示す教師、人々を守る警察、社会を廻す会社員。

 

 そのいずれでも、思うことを隠して生きています。

 

 ()()()そうしているのではなく、そう()()()()()()()のです。

 

 そうでなくては生きていけないから。

 人間というコミュニティで生活する以上、表面を均一化させなければなりません。

 

 他人(ひと)に同調を求め、自分(ひと)への肯定を求める。

 それは、人の有り様としては至極自然な事です。

 

 老若男女、古今東西と問わず。

 それが人間の習性です。

 

 それを出来ないなら人が離れて行くから。

 人が離れていけば、個で人は生き延びていけないから。

 

 無論、私も、私の周囲の人も、疑問を抱く事も無く、その流れに甘んじていました。

 

 ——だというのにこの少女は、それを見せてみろと。

 なぜそんな事が出来ないのかと。

 

 ごく一般的な感性の少年には、それは酷く異常な物に写ったのでした。

 

「……そうかい。じゃ、俺はこれで」

 

 おかしな物からは離れたい。

 これもまた、人の心理。

 

 少しなら好奇心が疼きますが、度を過ぎればそれはただの恐怖の対象になります。

 

 彼女から離れていこうとする少年の腕を、少女はひしと掴みました。

 

「待って頂戴! 話しに来たのはその事じゃなかったわ!」

 

「っ! ……いや、俺もう帰んないといけないんですけど……」

 

「今日あなた私達の演奏を見ていたじゃない? その時に気になったのだけど……」

 

 少年の話など聞かず、自分の要件を話し始めた少女に、少年は深くため息をつきました。

 

 この短時間の会話、それだけで、誰の目にも彼女の人格は見えてくる事でしょう。

 少年は諦めたように彼女を見据えました。

 

 顎に指を当て上を向いていた彼女は、思い出したように手を鳴らし。

 

「そうね! まずは自己紹介からしましょう! 私は弦巻こころ。あなたは?」

 

「……はぁ」

 

 ニコニコ笑う少女と、どんよりとする少年の様子は、くっきり対称に分かれておりました。

 

 

 



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彼女の疑問は彼には受け入れられない物でした。

 

 

「んで、何の用ですか」

 

 ベンチでこっくりこっくり船を漕いでいたところを少女——弦巻こころに叩き起こされた少年。

 

 こころをベンチに座らせた少年は自身も彼女の隣に腰掛けると、こころにそう問いかけました。

 

 ちなみに彼我の距離はちょうど身体二つ分。

 ベンチの端と端です。

 

 ベンチに際限が無ければきっと、お互いが霞むくらいには離れていたでしょう。

 もっとも、こころがそんな距離を空けさせるかは別として。

 

 ずずいと、こころが少年に寄りました。

 隙間が無くなりました。

 ため息。

 

「あなた、どうしてあの時帰っちゃったのかしら! 見るならみんなと一緒に見ればいいのに!」

 

「あー……お、僕、ああいう雰囲気混ざるの苦手なんですよ。今まで外出てこなかったもんで」

 

「どうして? みんな一緒に楽しまなきゃ損じゃない?」

 

「まぁそう言うと思ったけどな……」

 

 この少女には彼の自論など通じないのです。

 どんなに夜空が漆黒でも、彼女が白といえば白。

 

 それは、ここまでお話しを追ってきた——とは言ってもたった一話ではありますが——皆さんも重々理解の事と思います。

 

「あんた……君たちのバンドさ、いっつもあんな事やってるの……ですか?」

 

 クスクスと、こころが笑います。

 

「あなた、全然その喋り方似合ってないわね! まるでお猿さんが服を着て街を歩いてるみたい!」

 

 ……彼女はきっと、違和感がある、くらいの意味でそんなことを言ったのでしょう。

 

 彼女に悪意は一切なかったのかもしれません。

 私も、彼女の顔色から嘲笑、侮蔑といった色は読み取れませんでした。

 

 しかしそれにしては些か言葉のチョイスが悪かった。

 

 前後の文脈から彼女の言葉の真意は、少年も読み取れたはずです。

 だからといって、心中穏やかにいくという物でもないでしょう。

 

 猿みたいと言われて不快感を覚えないのは一部の人だけだと思います。

 

 事実、彼の眉はひそめられ、眼光鋭くなりました。

 

「今日会ったばかりの他人を猿呼ばわりたぁ随分な物言いやないの?」

 

 大阪弁が出ていますが、彼は特に気にした様子もありません。

 語気の強い大阪弁は、威圧感を覚える事もあります。

 彼はそれを知っているのです。

 

「お猿さん可愛いわよね! んー、でもあなたはあんまりお猿さんって顔じゃないわね。どっちかって言うと、そう、蝙蝠みたいね!」

 

 もっとも彼女にとってそんなものは、糠に釘、豆腐に鎹、石に灸。

 

 生憎人の怒りを機敏に察知する感性も感覚も持ち合わせてはおりませんでした。

 

 そんな彼女を見た少年はしおしおとしたため息をつきました。

 今日何度目でしょうか。

 彼の疲労は手に取るようにわかります。

 

「あんた、よく人に変人言われるやろ」

 

「あら、自然になったわね! そっちの方がいいわよ!」

 

「はぁ……」

 

「それで? 私はなんであなたがみんなとライブを見ていかなかったのか聞いていないわ!」

 

 忘れてなかったんか。

 ボソっと少年が零したのが聞こえました。

 

 苛立ちに便乗して話を逸らしなあなあにする気だったようですが、そうは問屋がおろさないようですね。

 

「大概しつこいなぁ、あんたも」

 

「あら、何度だって聞くわよ? だって私、不思議なんだもの! 楽しいことはみんなで共有した方がもっと楽しくなると思わない?」

 

「……」

 

 少年は黙ってしまいました。

 

 楽しいことは人が多い方が盛り上がる。

 それはまあ大体の場合で違いないことでしょう。

 

 しかし、誰しもがそうとは限りません。

 独りが好きな人はその盛り上がりが煩わしく感じることもあるでしょう。

 盛り上がりが苦手な人は居心地の悪さを感じることもあるでしょう。

 

 こころのそれは、一方的で独善的な、ともすれば()()()()とも取れる物でした。

 

 そしてそれは、少年にとっても。

 

「あんなぁ、弦巻さん。あんたの考え、そら立派な事や。でもな? それを誰もが受け入れてくれるっちゅー考えは甘いやろ。そういうのが苦手な人ってのもおるんやで?」

 

 若干含まれるは怒気。

 苛立たしい、鬱陶しい、憎々しい——妬ましい。

 

 会ってたった数分の彼女にそんな思いを孕んだ言葉を投げかけるのは少しばかりおかしくも感じますが——そんな内心は、ありありと読み取れるものでした。

 

「どうして? みんなつまらないより楽しい方がいいに決まってるでしょう?」

 

 先程の問答の繰り返しを見せられているようです。

 

 こころは確固たるものを持ち、少年もまた、彼女の意見を受け入れることは出来なかった。

 

 相容れない、二人です。

 

「んなのっ……! げほっ! げほげほっ!」

 

「あら、大丈夫? どうしたの?」

 

 言葉を強くした途端、少年が激しく咳き込み始めました。

 咳というには強く、そう、喘息の発作のような咳。

 

 喉には太い血管が浮かび、誰が見ても苦しそうと——そう思うような咳でした。

 

 そんな少年の様子を見て、不思議そうにしながらも背中をさすってあげるこころ。

 ()()でも、()()()()ても、根は優しい少女なのでしょう。

 

 だから、惜しいのですけどね。

 

「……ふぅ。……あーいや、すまんな、俺も取り乱したわ。——はっきり言って、俺はあんたの考えは賛同できん。あんたがなんと言おうが、俺は誰も彼もがニッコニコなんて世界は有り得へんと思うし、気に入らん」

 

 そう言って少年は立ち上がりました。

 彼の肩には彼のショルダーバッグがかけられていました。

 

 そんな彼の背中を見ながら、こころは肩越しに少年に問いかけました。

 

「どうして、あなたはそんな暗い顔をするの? どうしてそんなことを言い切れるの?」

 

「さあ、なんでやろな。もしかしたら俺が可哀想な可哀想な笑えん人間やからかもしれんな」

 

「だったら、私があなたを笑顔にしに行くわ!」

 

「……ふん」

 

 

 

「こころ……」

 

「あら、美咲じゃない! どうしたのこんなところに!」

 

 こころに話しかけたのは、黒髪を肩まで伸ばしキャップを被った少女でした。

 ゆっくりこころに近づいた彼女は、呆れるようなため息とともにこころに語りかけます。

 

「さっきの人、ライブの時後ろから見てた人だよね? 急に消えてどこに行ったかと思えば……。ダメでしょ、襲われたらどうするの」

 

「おそ……? よく分からないけど大丈夫よ! それより美咲、あなたライブに来てたのね!」

 

「だから、私は……はぁ。いや、なんでもないよ。それより早く帰るよ。もうやる事もないでしょ」

 

「それもそうね! 美咲もミッシェルによろしく言っておいて頂戴!」

 

「ああうんわかったわかった。じゃあね」

 

「さようなら美咲!」

 

それだけ言うと、こころは公園から駆けながら出ていきました。

その後ろ姿を、夕陽に眩しそうにしながら美咲は見送りました。

 

 

 



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ある日平日、少女は少年の元を訪れました。

 

 

 ベッドで、少年が身体を起こしました。

 枕元の時計が指し示すは8時少し前。

 眼を覚ますにはいささか遅く感じる時間帯です。

 

「……散歩行こかな」

 

 胸を押さえ、何度か浅く深呼吸した後にポツリとそうこぼします。

 

 今日の天気は曇り。

 空は白い絨毯に覆われ、春先暖かくなってきたこの頃からしても少し肌寒く感じる日でした。

 

 パジャマから億劫そうにジャージに着替えた少年は、洗濯物を干す彼の母を尻目に小さな一軒家から足を踏み出しました。

 

「おはよう! 今日もいい天気ね!」

 

 ポカンと。

 そんな顔で少年が固まりました。

 

 彼の家の前で待っていたのは、ベージュ色の制服に身を包み、金糸を煌めかせる少女、弦巻こころ。

 今日も今日とて雲を打ち払うような眩しい笑顔を浮かべ、少年を見据えていました。

 

 さて。さてさてさてさて。

 少年は、こころに家を教えた覚えはありません。

 また、こころに会うのすらあの日以来で、あの日こころが少年についてきた、という事もありませんでした。

 

 つまるところ、こころが彼の家を知ってる事はあり得ないのです。

 

 だというのにこころは、たまたま、偶然会ったなんて戯ける雰囲気も出していません。

 さも、彼の家の前で待っていたかのように佇んでいるのです。

 

 少年の、心中察してなお余りある、といったところでしょうか。

 

「おま、なんで俺の家……」

 

「もう一度あなたに会えないかしらって考えていたら、黒服の人達が教えてくれたの! あなた、もう8時になるけど学校には行かないの?」

 

「はぁ……? 黒、服……?」

 

 少年が周りを見渡すと、家の向かいの電柱の陰になにやら不自然に動く人影が。

 

 ちらと見えたその風体は、そう、言うならば……。

 

「SP……?」

 

 要人を守るガードマンのようでした。

 

 なぜそんな人たちがこころに付き添っているのか。

 なぜそんな人たちが少年の家の特定などしたのか。

 なぜこころは少年の家までわざわざ足を運んだのか。

 

 疑問は尽きませんが——はてさて。

 

「もう! 私の方を見てちょうだい!」

 

 そんな黒服の人達に意識を奪われた少年がお気に召さなかったのはこころでした。

 

 ぷくぅと頬を可愛らしく膨らませ、少年の顔に両手を添えました。

 

 それに慌てたのは少年です。

 周りには民家があり、人目があります。

 少し遅くとも通勤、登校時間という事も相まって多くの人の目に留まります。

 

「おま、離せや! なにしとんねん!」

 

「私はあなたに学校には行かないのって聞いたわ! 答えてもらってないわよ?」

 

「わーった! わーったから離せて!」

 

 女子相手に振り払うのも忍びなく手を出せない少年に対し、こころはグイグイと詰め寄ります。

 

 傍目から見るとそれはカップルの痴話喧嘩。

 実情はともかく周りから見てはそうとしか捉えられない光景だったのでした。

 

「ええい、離せゆーとるやろが!」

 

 耳まで真っ赤にし堪忍袋の尾が焼き切れた少年は、体格差に任せてこころの脇に手を差し入れ持ち上げようとしました。

 

 しかし、こころはビクともしません。

 彼女の名誉のために断っておきますが、けしてこころが重いなんて事はありません。

 彼女の華奢な肉体に見合ったように、肉も筋肉もそれほどついていないのです。

 

「あら……。あなた、とっても弱いのね。ミッシェルでも私を持ち上げれるのに!」

 

「うっさい、んなの百も承知やねん……」

 

 とはいえこれで気の向けどころが変わったこころはやっと少年から手を離し一歩距離を取りました。

 

 図らずも少年のしようとした事は成功する形になったのでした。

 多大な羞恥と引き換えに。

 

「んで、俺が学校通わん理由、やったか?」

 

「ええそう! どうしてなの?」

 

「せやなぁ……通えん理由があんのよ」

 

「理由?」

 

「それを教える義理はあらへんなぁ」

 

 ぷくりとまた頰を膨らませたこころが少年を見上げますが、少年としてもこれ以上話す気は無いようで。

 

「わざわざご足労いただいて悪いがあんたに言えるんはここまでや。満足はしとらんて感じやけど諦めてな。——そもそも、俺とあんたは他人やしな」

 

 何色も宿さない無機質な瞳でこころを見据えた少年は、ひらひらと手を振りながらその場を後にし——もともと散歩に行こうと家を出たのですし——

 

「なぁんでお前はついてきとんねん!?」

 

 ——とてとてと後をついてくるこころに怒鳴り声をあげました。

 

 彼女の通う花咲川女子学園高校は彼の向かう方向とは逆。

 登校時間としてもギリギリだったのに余計なことをしては、いよいよ遅刻は免れません。

 

 しかしこころはそんな彼の叱りなどどこ吹く風。

 

「私、今日はあなたについて行く事にしたわ! なにか楽しくなるような気がするんだもの!」

 

 そう、なんらおかしい事はしていないかのように彼に告げました。

 

 

 

「ほんまに来る奴があるか……?」

 

「あら、私はいつだって本気よ?」

 

 終始少年の散歩について回ったこころは本当に彼の家に上がりこむと、とうとう観念した彼に部屋に押し込められました。

 

 その際、遅めの朝食を母さんに準備してもらっていた彼が『あらあら女の子をお家に連れ込むなんて、案外隅に置けないわねぇ』なんて揶揄われるなんて事もありましたが、まあそんな事は瑣末でしょう。

 

 ベッドに腰かける彼の隣に無遠慮にも座り込んできたこころは、何が楽しいのか足をプラプラさせながら彼の部屋を見回しています。

 

 その部屋は、いやに無機質な部屋でした。

 あるのはベッドとキーボードに本、あとは細々とした小物がいくつも。

 

 勉強机だとか、アニメのグッズだとか、或いは部活の道具だとか。

 そんな若さを感じさせるような物が、その部屋にはありませんでした。

 

 生命の滾りとでも言いましょうか、これからの未来への輝きと言いましょうか。

 そういった物がこの箱の中には見当たらないのです。

 

「あなたの部屋って、なーんにもないのね」

 

「あん? ……まあそうやな。大して眺めて面白いモンもないやろ」

 

「あれだけ……」

 

「キーボードか? 俺がやってたら変か?」

 

「いいえ! とっても素敵だと思うわ!」

 

「……なんやこう、素直に言われると照れるな」

 

「あら? どうしたの? 顔赤いわよ?」

 

「なんでもないわ、アホ!」

 

 不思議そうに少年を見つめるこころ。

 そのこころから顔を背け——とどのつまり部屋の隅っこに顔を向け——パタパタと扇ぐ少年。

 

 勿論そんなもので熱が冷めるわけもなく、しばらく少年は顔の熱さに苛まれたのでした。

 

「ねえ?」

 

「……なんや」

 

「あなた、キーボードは弾けるのでしょう?」

 

「まあ、人並みにはな」

 

「なら、私たちの曲、弾いてくれないかしら!」

 

「……なんでまた、急に」

 

「歌いたくなったの!」

 

 そう言ってベッドを立ったこころは、ポロンとキーボードを鳴らすと、少年の方に向かい直りました。

 

 楽しげで、少年に断られるなんて微塵も思ってないこころの様子を見た少年は、ため息一つ。

 しかし、満更でもないような表情で腰を上げました。

 

「……曲は?」

 

「私たちの曲!」

 

「……あー、ちょっと待っててな」

 

 枕元で充電していたスマートフォンを手に取り、検索サイトで検索をかける少年。

 

 彼女たちのライブ映像から耳コピの楽譜まで、多種多様な結果が出てきます。

 便利な世の中になったものです。

 

 その中からピアノアレンジを見つけた少年は動画を何度か再生し耳に入れました。

 

「——よし、と。もうええぞ」

 

「じゃあ行くわよ! 初めは——」

 

 キーボードとボーカル、二人だけの、二人だけへ向けた静かなライブが幕を開けました。

 

 

 

 たっぷり小一時間ほど開演されたライブも終わり、少年とこころは少しだけ流れた汗を拭きながらまたベッドに戻っていました。

 

「はぁ、つっかれたわ……こんなんやるもんやないなぁ」

 

「あら、そう? 私は楽しかったわよ? あなたはそうじゃなかったのかしら」

 

 ふると、こころの瞳が揺れます。

 言い方の軽さとは対照的に不安げに見上げるこころを見て、少年はおや、と口の中に溢しました。

 

「弦巻さん、あんたもそんな顔するんやな」

 

「? どういう事?」

 

「はは、気づいとらんのか」

 

 ぺたぺたと自分の顔を触っては首を傾げるこころの表情はとても剽軽で、少年は呵々と、無表情にくぐもった声で笑いました。

 

「それより!」

 

「なんや急にデカい声出して。驚くやろ」

 

「あなたは、楽しかった? それとも、迷惑だったかしら……」

 

 今度こそ、少年の口からおやと溢れ落ちました。

 彼女が人の心配をしたというのは案外意外に感じるものです。

 

 俯き、ベッドのシーツを握るこころの表情は少年からは見えません。

 でも、その雰囲気を感じることは容易な事でした。

 

「迷惑……そらそうや」

 

 ビクリと大きく跳ねるこころの肩。

 

「急にほぼ他人から家に押しかけられてな? おかげで母さんにも揶揄われたわ。赤っ恥や」

 

 シーツの皺が大きくなります。

 今、こころはどんな顔をしているのでしょうか。

 

 光があれば影もある。

 陽光のように明るい彼女が何かしらの闇を抱えて、今それを抉られているのは、案外普通の事なのかもしれません。

 

「でもな?」

 

 え、と。

 それは掠れた、普段の声とはかけ離れた苦しげな声でした。

 

 少年の転換に、顔を上げたこころ。

 

「俺は、久しぶりに誰かと演奏できて楽しかった。家族以外と話せて楽しかった。少なくとも、あんたと今朝会えたのは良かったと、今は思うで」

 

 相変わらず少年は笑みを浮かべる事はありませんけども。

 でも、その声色が、こころを拒絶しようという——彼と彼女が出会った時のような——色を薄くしたのを伝えてくれました。

 

「あんたといればもしかしたら、また俺も笑える事があるかもしれんなぁ」

 

「なら——なら、もう一回言うわね! 私があなたを笑顔にしに行くわ!」

 

「はっ。こないだも聞いたわ、それ」

 

 おや、光芒。

 

 

 



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例えばそれは、ガマズミのようで。

 先日の、こころの少年の家への訪問以来、度々二人は会うようになりました。

 

 もっぱら会いにいくのはこころで、少年はそれに合わせる感じです。

 

 例えば、公園で。

 例えば、家で。

 例えば、商店街で。

 

 二人は、何度か行動をともにしました。

 

 基本的にこころが彼の家を訪れるのは休日ですが、稀に平日に彼の家を訪れても、彼は家にいることの方が多いのが不思議な事でした。

 

 しかし二人は、少年の家の付近から離れる事はありませんでした。

 

 二人が住むこの町にはデパートがあり、その中には映画館があります。

 少し電車に揺られれば遊園地にも水族館にも着きます。

 

 それをしなかったのは、こころが提案しなかった事もありますが、少年もまた、話題に出そうともしなかったのです。

 

 

 

 

 

 彼の惚けた顔を見るのは、この物語でも何度目になるでしょうか。

 

 こころに出会ってからというものやけに表情の変化が増えた少年ですが、今日も今日とて目を見開き、口をぽかんとそのアホ面を世間様にさらしておりました。

 

 彼の目の前にあるのは整然とした広大な庭。

 バロック様式の白亜の建物。

 噴き出る噴水広がる薔薇園水に煌めく空の光。

 

 ああ、それは正しく人の夢見る楽園のようで——。

 

「どうしたの? さあ、行きましょう?」

 

 事もなげに自身に振り向くこころを見て、少年はまた一つこころに対する認識を改めたのでした。

 

 庭園をこころに手を引かれ——少年は嫌がっているのですがこころが離さないのです——抜けていく少年。

 黒塗りの扉を開けると廊下に敷き詰められた赤いカーペットと、廊下の脇に置かれた、少年にはよくわからない壺やら絵画。

 

 そんな、価値観も世界観も違った、まさしく別世界に招かれたような空間に少年がクラクラし始めた頃、こころは一室の扉に手をかけました。

 

「ここは?」

 

「私のお部屋よ? おかしな事を聞くのね」

 

「いや、言われてないからな?」

 

 彼女の自室だという部屋に足を踏み入れた少年は——半ば予想できていたことはありますが——ほう、と嘆息しました。

 

 その一室は、明らかに一人の少女には不相応な部屋。

 一般家庭のリビング程もある広さに、天幕つきのベッド、たくさん放り出された人形たちで、一部は床が見えなくなっているところもあります。

 

 ベッドに身を投げ出しポフポフと自身の隣を叩くこころを見て、少年は苦笑いしながら遠慮がちにベッドに腰掛けました。

 

「そういえばよ、なんで俺は呼ばれたん? わざわざこんなところまでよ」

 

「んー? 私があなたともっとお話ししたいと思ったから、かしら?」

 

「いや、ほならうちでよかったやろ」

 

「ここなら、静かでしょう?」

 

 言われて、ああ、と少年は声をこぼしました。

 その広い広い敷地より聞こえるのは、小鳥のさえずる音、噴水の流れる音、そして時々の車の駆動音。

 

「その、 弦巻さん、あんた、家族は?」

 

「わからないわ」

 

「わからない?」

 

「お父様には、もう随分会っていないの。家にいないことの方が多いから」

 

「じゃあ、母さんは?」

 

「どこにいるんでしょうね。わかんないわ。いつからだったでしょう。随分経ったわ」

 

 しん、と静寂が落ちました。

 少年は、やれやれと言ったように顔に手を当て、天井を仰ぎました。

 

「お前……普通やない普通やないとはずっと思ってたけどまさかなあ……」

 

「ねえ」

 

 それは、思わず口をついた言葉だったのでしょう。

 この広い家に、少女がただ一人——いえ、世話人はいるのでしょうが——そんな境遇を聞けば、誰しもそう思ってしまっても不思議ではありません。

 普段の言動も相まって、ね。

 

 ああしかし、それは、彼女に埋まっていた地雷だったのではと、後に思いました。

 少年の呟きを聞き届けたこころは、むくりと体を起こし少年に向かい合います。

 

「普通? って、なあに?」

 

 そう、こころは少年に問いました。

 

「は?」

 

 心底疑問そうに問うこころに、逆にポカンとなったのは少年です。

 

 普通は普通。

 それ以上でも、それ以下でもなく、ただ世の人々の共通認識として漠然とあるものです。

 

 あなたは、答えられますか?

 普通って、なんですか?

 

 少年の答えは、こうでした。

 

「そらお前……周りの人と違わんて事やないんか? 周りから飛び抜けとらんて事とか」

 

「……だったら私は、普通なんじゃなくていいと思うわ」

 

「は?」

 

 ああほら、少年、こころの眼に気づいて。

 そんなに顔を見つめているのだから。

 今なら、彼女の心は見透かせるでしょう?

 

「みーんな誰とも違わないなんて、そんなのつまらないと思わない? それじゃあだーれも楽しめないじゃない。見慣れたものなのだから……」

 

 ぞわと、背筋が怖気立つのを感じました。

 ヒュッと、息を吸う音が聞こえました。

 

 こころの瞳は暗い曇天。

 煌めき失い、壊れたブリキ人形のように首を傾げるこころ。

 

 心底彼女は普通でないということが身に沁みました。

 

 気狂い。

 側から見れば狂気的とすら思えるその執着。

 あえて言い換えてみるならば、渇望とでも言いましょうか。

 

 ドロドロとした汚泥のような感情がこころの内を這いずり、絡み合い、貪っているのでしょう。

 

「楽しくなくちゃダメなのよ。みんな笑顔にならなきゃ。泣いてるなんて寂しいもの。泣いてる人なんて出ちゃダメなの」

 

「つ、弦巻さん……?」

 

「笑顔じゃなきゃハッピーじゃないわ。そうよ。お父様も、美咲も、はぐみも、薫も、花音も、貴方も、みんな、みんなよ。だって、そうじゃなきゃ。みんな笑顔にしなきゃ、笑ってもらえない、愛してもらえない、いやよ、怖い。お願い笑ってよ。なんで、どうして、いや、いや、だって、だって、お母様、私、ちゃんと、一つでも、見つけたわ、見てよ、触れてよ、遊んでよ、もうやだ、一人、だって、私、離れないで、私は、あたし、違う、いえ、あたし、私は——」

 

「落ち着けて! こころ!」

 

 

「——っ!?」

 

「……なにがお前を駆り立とるんかは俺にはわからん。けどな、少なくとも、俺はお前を見とるぞ。落ち着けな? な。だーれも見てないなんてありえへん。なんなら俺がずっと見といてやる。だから一回深呼吸しぃ?」

 

 そっと、少年はこころを抱きしめて耳元で囁きました。

 少年のゆったりとした服の肩に、シミができていきます。

 

「……ごめんなさい、少し眠っても、いいかしら」

 

「……ああ。ゆっくり寝てな」

 

 少年の体から離れたこころは身を横たえ、目を瞑りました。

 指は、少年の服の袖を掴んだまま。

 

「ねえ?」

 

「なんや」

 

「お願いだから、あなたはどこにも行かないでね」

 

「……ああ」

 

 それは、どんな思いで、口にされたのでしょうね。



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その少年の言葉は、少女に如何に響いたのでしょう。

「ねえ、お外に遊びに行かない?」

 

「あん?」

 

 ある日の昼前のお話です。

 今日も今日とて飽くこともなく――むしろその頻度が高まっているまであります――少年の家を訪れていたこころは、少年にそう切り出していました。

 

「なんでまた急にンな事……いままで一回も言ったことなかったやろ」

 

「だって! お外はこんなに晴れているのよ? それなら行きたくなるでしょう?」

 

「いや、俺はならん。却下や却下」

 

「もう!」

 

 こころの演説を聞いた少年は興味なさげにベッドに寝転がると、スマホをいじり始めました。

 すると、おざなりにされたこころにも不満は沸きます。

 

 いつものように頬を可愛らしく膨らませると、立って少年を見下ろしました。

 今回は、腰に手を当てて精いっぱいの怒っているアピールもするおまけつきです。

 

「だってあなたと会うときはいっつもお家の中じゃない! 私たちが外にいたのって、初めて会った時だけでしょう?」

 

「俺は出たい思わんからええの。んなに出たいなら一人で散歩の一つでもしてきいや」

 

「むぅ〜!」

 

「腕引かれたって嫌なもんは嫌や。俺はここから一歩たりとも動かんぞ」

 

 ぐいぐいとスマホを握る腕を引かれようとも少年はどこ吹く風。

 少年に力が無いからといってこころが動かせるほど軽い身体でもなく、結局腕がぐわんぐわん動くだけ。

 

「ねえ!」

 

「嫌や、言うとるやろ。聞き分けない女は嫌われるぞ」

 

「もういいわ、ばかっ!」

 

 少年の腕をぺちっとはたき落したこころは少年の部屋の扉を開け、外に飛び出ていきました。

 

 残されたのは天井を眺める少年一人だけ。

 

「たぁっく。勝手にしいや、アホ」

 

 ふん、と不満気に鼻を鳴らした少年は、ゴロンと壁に向かい直るのでした。

 

 

 不意にインターホンが鳴ったのは、その日の夕方のことでした。

 少年の母親は買い出しに行っていて、少年は一人で留守番をしていました。

 

「はいはいはいなっ、と——えっと……どちら様で?」

 

 扉を開けた少年の前に立っていたのは、黒髪の少女でした。

 配達員のような何処かの業者のような人には見えず——というか、普通の高校生にしか見えない少女です。

 

「あ、突然すみません。あたし、奥沢美咲っていいます。えっと、こころ——弦巻こころの友達です」

 

「はあ。んで、そのこころのご友人が何のご用で。てかなんでうち知っとるんですか」

 

「それはそのー、こころがいっつも事細かに話してくれるので……」

 

 美咲と名乗った少女は、気まずげに苦笑いしながら尻すぼみに言いました。

 

「あの女……まあええか。それで? ご用はなんですか?」

 

「ああそうだった。用なんですけどね。不躾で失礼なんですけど、こころ、どこに行ったか分かりませんか」

 

「俺が? なんで? こころなら昼も食っとかんと帰った——んですが」

 

 少年は、あくまで自分が追い払った、とは口に出すことなく。

 こころが家に戻っていないことに驚いた様子でした。

 

「私たちのライブ、見に来てくれた事ありましたよね。私たち、あの曲自分たちで作ってるんです」

 

「自分たちで? あの曲。そりゃ凄いな。あのメンバーの中にあんたいなかったし、あんたが主体ってところか。凄いな——ですね、あんた」

 

「あはは、ありがとうございます——それで今日みんなで集まるって話だったんですけど、こころ居なくて。今までこんな事なかったので、黒服の人たちに聞いてみたんです。そしたら、あなたの家に行ってるって聞いて」

 

「黒服……ああ、あのSPか。まあ、うちには来てましたね。でもさっきも言ったけど帰りましたよ。あとは知らんです」

 

「そうですか……ありがとうございました。急にごめんなさい、じゃあ失礼します」

 

 美咲はぺこりと頭を下げるとその場を後にしました。

 それを見送った少年は部屋に戻るとベッドに身を投げ出します。

 

「こころが約束すっぽかすだ……? どこほっつき歩いとるんやあいつ……」

 

 スマホも弄らず何もせず、天井を見つめてブツブツと少年は呟きます。

 少年の頭をよぎっているのは、おそらく、昼間の出来事。

 

 負の感情を見せたこころというのは、私から見ても珍しいものでした。

 

「ああ、くそっ」

 

 ガシガシと長い髪の頭を掻いた少年は、グレーのパーカーを羽織ると家から飛び出しました。

 

 走るのが得意でもない少年が、焦燥に顔を染め街を駆けます。

 ()()()高校生ほど長続きもせず、少し走ればすぐに肩で息をして止まるような歩みで、しかしやめる事はせずに。

 

「……はぁっはぁっ。見つけたぞ、こころ」

 

「あら……どうして?」

 

 少年がこころを見つけたのは、街を見下ろす事ができる高台でした。

 夕日を背に、こころは振り返りました。

 

「お前が……っはぁっ、帰らんからやろうがっ。美咲って子が探しに来たんや……っ」

 

「そういえば今日だったのね……忘れてたわ」

 

「……なんやお前、気持ち悪いな」

 

 少年の言い方は悪いですが、そうですね。

 天真爛漫な彼女としては、いやに落ち着いていて、不気味には感じます。

 

「あのね……私、あなたに謝らなきゃいけないわ」

 

「は?」

 

「さっきはあんなに怒ってごめんなさい」

 

 そう言ってこころは少年に寂しげな笑みを向けました。

 少年は呆気に取られたように——実際取られているのでしょうが——黙りこくります。

 

 どれくらい時間が経ったでしょうか。

 一分か、二分か。あるいはもしかしたら五秒くらいかもしれません。

 少年が、頭を掻きながらのっそり口を開きました。

 

「あんなぁこころ。ありゃ悪いのは俺やろ」

 

「え」

 

「いや、あの誘いは至極真っ当なもんやし、俺には俺の事情があったとはいえあんな切り方したら怒られるのも当たり前や。それでなにお前が謝っとるん?」

 

「だって私、あなたに怒って……」

 

「お前が負の感情に嫌悪感を持ってるのはまあちょくちょく感じとったけどよ。それを他人に向けることのなにが悪い。真っ当に生きてきとらん俺が言うのもあれやけどな? それをせえへんのは機械だけやろが」

 

 気恥ずかしのか目線がキョロキョロと定まらないながら、こころを諭すように話す少年。

 今度は、惚けるのはこころの方でした。

 

 少年でなくこころが呆然とするのは、二人の間では初めてのことでした。

 

「周りにそんな人がおらんかったんやと思うが。女一人で何でもかんでも抱え込んどるんとちゃうぞ? 俺でもええからなんか辛くなったら話に来いよ」

 

 その一言だけは、少年はこころを見据えていて。

 普段は髪に隠れて見えづらいその目も、今ははっきりと見えていて。

 

 こころはどうしてか、ハッと息を呑みました。

 そして、背後の夕陽にも負けないような笑顔を見せて。

 

「……うふふ! そうね! 私、これからあなたにもーっとお話ししにいくわ! だからお話し聞いてちょうだい!」

 

「……まあ、暇ならな——あークソ、ガラにもない事したわ! おら、さっさと帰れやお前! 友達心配しとるんやっつの!」

 

 顔を真っ赤にした少年は、しっしとこころを追い払うように手を振ります。

 しかし、ニコニコと大輪のひまわりを咲かせるこころはその場を離れず。

 

「本当に、ありがとう」

 

 そう、少年の耳元で囁きました。

 

「あ、こころいた!」

 

 その叫びを聞いた二人が見たのは、黒髪の少女——美咲が上ってきたところでした。

 

「あら美咲じゃない! こんなところまでどうしたの?」

 

「こころを探しにきたんでしょ……て、あれ。さっきの。というかなんでそんな顔赤く……?」

 

「……奥沢さんよ、こんなじゃじゃ馬しっかり手綱握っとけって話やぞ」

 

「いやー……私にはそれは荷が重いかなーって……」

 

 少年と美咲が話していると、こころが間に割って入ります。

 

「ねえ、二人は知り合いなの?」

 

 どことなくムッとした雰囲気を感じたのは、私の気のせいなのでしょうかね。

 

「お前を探しに来たのがこの奥沢さんなんや。迷惑かけんなっつの」

 

「さ、そろそろ帰るよこころ。あたしはこころの保護者じゃないんだからさ……」

 

「はぁい——あら? 一緒に行かないの?」

 

 美咲に手を握られたこころは、ベンチに座った少年を見て首を傾げました。

 それに対し少年は少しだけ顔を上げた後手をひらひら振って、

 

「俺は疲れた。少しここで休んでいく」

 

「あら、そう。それじゃまたね!」

 

「本当にご迷惑おかけして……」

 

「ああ、気をつけて帰れな」

 

 美咲に手を引かれ、少年にひとしきり手を振ったこころが前に向き直り。

 

 ドサッ。

 

 その音を聞いて振り返った二人が見たのは、倒れた少年の姿でした。



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少年の抱えるもの。

 白い部屋でした。

 白、白、白、白、淡色系統をいくつか挟んでまた白……。

 

 ピッ、ピッ、と無機質な電子音だけが部屋に響き、蛍光灯が点滅する以外、何も変化がありません。

 窓から見える外はすでに日が落ち、病室の様子を映し出していました。

 

 不意に、ガラッ、と部屋の扉が勢いよく開けられました。

 そして部屋に飛び込んできたのは、ベットに横たわる少年とよく似たと女性。

 女性は、ベット脇の椅子に腰を下ろす二人の少女を見とめると、少し息を整え。

 

「あなたたちが、この子の世話をしてくれたのね。確か、そちらはこころさん、っていったわよね」

 

「あ、はい。あたし、奥沢美咲っていいます。こころの友人です」

 

 少女らの片割れ——美咲が立ち上がり、入ってきた女性にぺこりと頭を下げました。

 

「……」

 

 それに対し、もう一人の少女——こころは俯いたまま、微動だにしません。

 

 その様子を見た美咲は、少し慌てたようにしてこころの肩に手を当てました。

 

「ちょっとこころ」

 

「いえ、いいのよ——私は、この子の母親です。今回はご迷惑をおかけしたみたいで……」

 

「いえ、迷惑なんてそんな……」

 

 それっきり。

 

 部屋には沈黙が落ち、少年の母親が部屋に来る前となんら変わらない状況が出来上がりました。

 

 少年から伸びた()が少年の胸の伸縮に合わせて、少しゆらゆらと揺れているのが見て取れました。

 それはまるで、少年が()()()()()()を行き来しているようにも——。

 

「あの……」

 

 嫌な雰囲気の沈黙を破ったのは、美咲でした。

 

 おずおずと、いたく気まずそうに。

 ポツリと、しかし確かに。

 

 少年の母親へと、意を決したように切り出しました。

 

「彼は、どうしてこんな……?」

 

「…………」

 

「あ、いえ、いいんです、ごめんなさい! 踏み込んだこと聞いてしまって!」

 

 ベッドに向けられていた母親の瞳が少し揺れたのを目敏く見てしまった美咲は、慌てながら手を振ります。

 

 家族のデリケートなことで傷つけてしまった。

 

 そんな風にオドオドする美咲を見ながら、少年の母親は薄く笑いながら——まるで自虐するかのように——美咲の手をそっと握りました。

 

「……いいえ、ごめんなさい。そうよね、あなた達には迷惑かけたものね」

 

 母親は、哀しげに目を伏せると、ポツリ、ポツリと少しずつ話し始めました。

 

「この子、昔から身体が弱くてね——」

 

 

 

 初めて気づいたのは、確か……幼稚園のころだったかしら。

 

 この子、よく仲のよかったお友達と遊んでいたのだけど、すぐにバテてしまうような子だったの。

 

 私たちも最初は笑っていたのだけどね。

 

 この子、ちょっと走ったり動いたりするとケホケホって、苦しそうに咳をするのよ。

 

 そこで、おかしさ……違和感ていうのかしらね?

 それは、感じてたのだけど……。

 

 確か、秋と冬の間くらいの時期だったかしら。

 

 その日もお友達と遊びまわってたこの子がね、これまでにないくらい激しく咳き込み始めたの。

 

 そして、血を吐いた。

 

 私もそんなこと初めてだったから、慌てて病院に電話して。

 

 それで、お医者様に診てもらったの。

 

 詳しい病名は私じゃ覚えきれなかったんだけどね……。

 

()()()()()()()()()()()()()()()』って……。

 

 

 

「この子のお父さんね、同じ症状で亡くなったの。でもまさか、こんな早くからなるなんて……」

 

 そう、彼女は締めくくり、それっきり話さなくなってしまいました。

 

 なんとなく予想はしていたのでしょう。

 美咲は、驚きといった表情は浮かべていませんでした。

 

「あの……彼は入院は何度か……?」

 

「そうね。今回が初めてではないわ」

 

「じゃあ今後も……」

 

「でも、最近はなかったから、少し安心していたのだけど……無理な運動でもしなきゃ大丈夫のはずなのに……」

 

 こころがバッと立ち上がり、振り向きます。

 その瞳はなみなみと水を湛え、目元は赤く腫れていました。

 

 母はもちろん、病院に来てから始めてこころの顔を見た美咲も、目を見開きました。

 

 美咲の前でも快活な笑顔しか見せていなかったこころは、美咲にはさぞ珍しく感じたことでしょう。

 

「ごめんなさい! 私が、私が彼にあんなことを言うから!」

 

「こ、こころ……?」

 

 堰を切ったようにこころの口から、ポロポロと暗い言葉がこぼれ落ちます。

 

「彼が、彼が死んじゃったら私……」

 

 それは、さぞ悪夢でしょう。

 こころが彼の家に遊びに行く頻度は、常軌を逸している。

 それこそ、『ハロー、ハッピーワールド!』よりも、もはや多かった。

 

 こころは、彼の前でしか見せない顔を、彼に見せる。

 窮屈な仮面を、彼の前では取り外すようにありとあらゆる感情を彼にだけは——それこそ、家族にも見せないものを——見せる。

 

 有り体に言って——()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女の暗い部分を受け止めてくれた彼に、こころは猫のように懐いた。

 

 足りない明るさを補うように、欠けたピースを彼で無理矢理埋めるように。

 

 そんな依存相手がいなくなってしまえば?

 

 僕は生憎とそんな気持ちを抱いたことなどないですし、それを推し量ることも或いは烏滸(おこ)がましいのかもしれません。

 

 ですが、自分には届きようのない光を見上げていたことなら、少々。

 

 それを失うというなら——ああ、悍ましい。

 

 惨いなどではあまりに足りない。

 

 笑い話にもなりません。

 

 そんなことがあってはいけない。

 

 ありえてはいけない。

 

 私が目指したソレが堕つるというなら、それこそその時が私の終わり。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは、彼女がいたからだというのに!

 

 それを失っては、どう正気を保てばいいのでしょう!

 

 ————いや、失礼しました。

 

 今は、私の事など必要ない、些末でありました。

 

 ええ、と……。

 

 さて、そんな風に髪を振り乱していたこころの手首がガッと掴まれ、こころがビクリと身体を縮こませます。

 

「だぁれが、死ぬって? こころ」

 

 少年がうっすらと目を開け、こころを抑えていました。

 

「あ……ぁ……」

 

「なに幽霊でも見たような顔しとんねん。こんなんいくらでも起こる事やろが。一回や二回起きたくらいで勝手に殺すな」

 

 確かにこころの手首に伝わる熱は、彼が生きていることを示していて。

 

 別の意味で堰を切ったように、ボロボロと涙がベッドに染みを作りました。

 

「う……」

 

「う?」

 

「うわぁぁぁん!」

 

 大声を上げながらこころは少年の胸に飛び込み。

 

 軟弱な少年はその勢いを殺せずベッドに倒れ込みます。

 

「お、おいなんやどうした!? ちょ、点滴の針痛いから身体動かすな!?」

 

「ばか、ばかぁ! あたし、貴方が死んじゃうと思って……!」

 

「……」

 

 少年がそんなこころを見下ろし、フ、と優しい笑みを浮かべます。

 

「悪かったな、こころ」

 

 そんな二人を見つめ、美咲と少年の母親はほう、とため息をつきました。

 

「よかった……ですね。彼がちゃんと戻ってきてくれて」

 

「ええ……あの子も幸せ者ね。あんなに心配してくれる娘ができたのだもの」

 

「あはは、あたしも初めて見ました、あんなこころ——あんな顔も、するんですね」

 

「うふふ。あら、嫉妬?」

 

「やっ、そういうことじゃ……!」

 

「はいはい、そういうことにしておきましょうか」

 

 少年の胸に顔を埋め、今なお泣き続けるこころに、困ったように美咲と母親に助けを求める少年。

 

 顔を朱に染める美咲に、ニコニコと笑う母親。

 

 あんな事があった後だというのに、部屋には暖かい空気が満ちていたのでした。

 

 ……この一件以来、少年とこころの関係が少し変わることになるのですが、それはまた、別の機会にということで。



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約束、或いは契り。

 

 その日以来、少年はしばしば体調を崩すようになりました。

 入院こそせねど自室で眠っていることが多くなり、必然こころと会うことも少なくなっていきました。

 

 少年はぼう、と天井を見つめています。

 幾度となくした経験、何回かも忘れるくらい味わった状態。

 

 だというのに。

 初めて感じる、ポッカリとなにか抜け落ちたような感覚——とか、少年は思っているのかもしれませんね。

 

 ガチャンなんて、扉が開けられるような音がしました。

 

 続いて、どたどたどたと騒がしい足音。

 

 そして、少年の部屋の扉が勢いよく開け放たれました。

 

「遊びに来たわっ!」

 

 その金糸をはためかせ、こころは目を輝かせて言いました。

 

 

「悪いな、ろくにもてなしも出来んで」

 

 ベッドの上で申し訳なさそうに身体を起こす少年を、クッションに腰を下ろしたこころは見上げます。

 

「あら、どうしてそんなことを言うの? 私は貴方に会えただだけで十分なのに!」

 

「ははっ、こっぱずかしい事を言うなお前は」

 

 自覚がないのか、はたまたわざとなのか。

 こころはきょとんと首を傾げます。

 

「あー……でもどうした。お前、俺が寝込んどる時は上がってこんかったやろ?」

 

「あたしね! 思ったの! あなたが体調が良くないなら、あたしが笑わせてあげれば良くなるんじゃないかって!」

 

 手を大仰に広げ大きな声で少年にスピーチをするこころ。

 

 それに対し少年はなにを考えているか読み取れない無表情で返します。

 

「そらそら。結構なこって」

 

「だからあたし、貴方が起きれるような時は毎日くるわ!」

 

 その言葉に少年は嬉しそうに微笑み——しかし。

 何かに気づいたようにピタと停止し、こころの目をゆっくりと見ます。

 

「いや待てこころ。お前、俺が寝てるとかどうやって分かるん?」

 

「え? 貴方のお母様が教えてくれるわよ?」

 

 さも当然のように——なにを言っているの? なんて、少年の方をおかしいと言うように——問い返すこころ。

 

 おいおいおい、と、少年は天を——というか天井を? ——仰ぎました。

 

 個人情報はガバガバ、何事もなく他人が侵入してきて、さらに母親が手引きしているとくれば——まあそうなろうともいうものです。

 

「まあお前やし問題ないか」

 

 ここで初めて、少年が破顔しました。

 その顔のまま、少年はくしゃくしゃとこころの頭を鷲掴みにして乱暴に撫でます。

 

 手が離された後、こころは惚けたままにおもむろに自身の手を頭に——撫でられたところに持っていきました。

 

「どうした。痛かったか? すまんな」

 

「いえ……あなたの手、おっきいのね」

 

「そうかぁ? 同い年の奴らと比べればそんな事ないと思うがなぁ」

 

「そうね……おっきくないけど……でも、おっきいのよ」

 

「なんやそれ」

 

 的を射ないこころの返答に、少年はまた表情を崩しこころの頭を撫でました。

 

「もうっ! あたしは子供じゃないのよ!」

 

「はっはっはっ。すまんすまん」

 

 この空間だけ忙しない世界から取り残されたかのような、のんびりとした時が過ぎていきます。

 

 とても暖かい——物理的にもですがそれ以上に——空気が満ち満ちます。

 

「……ねえ?」

 

「なんや」

 

「あたし、貴方にあたしたちのライブを見てほしいの」

 

「それは……」

 

 少年が言い澱みます。

 

 あんなことがあった後では、外に出る気持ちに躊躇いが出る気持ちもわかります。

 もっとも、それにしたっていささか急な気もしますが。

 これまではひょいひょい散歩に行っていたのですしね。

 

 それを聞いたこころは、悲しげに表情を曇らせはしませんでした。

 今までのように、少年の境遇を悲しむようではありませんでした。

 

「ええ知ってるわ! だからあたしね! いつかここでライブをするの! あなたに見てもらいたいから!」

 

「ここでってお前なぁ……こんな狭い一軒家にゃ荷物も運び込めんぞ」

 

「うーん……じゃあこのお家の前は!? とーっても広いもの!」

 

「やかましくなるからダメや」

 

 むむむ、と眉をひそめるこころに、少年は呆れたようにため息をつき、

 

「ええよ、ライブの映像見せてくれりゃ。それだけで——十分やから」

 

 そんな少年を見上げ、こころはムッとした表情を作ります。

 

「ダメよ。貴方にはぜーったいに生で見てもらうの!」

 

「お前なぁ……いや。せやな。なら俺も、さっさと治さんといけんなぁ」

 

「ええ! そうじゃないとあたしが困っちゃうわ」

 

 とても嬉しそうにぷくりと頬を膨らませるこころ。

 そんなこころは、少年に小指を差し出しました。

 

「?」

 

「指切りよ指切り! 約束しましょう? あたしは貴方を笑顔にするようなライブをする、貴方は見にくる!」

 

「……ああ。ええなそれ。指切り」

 

 少年と少女の指が絡まり。

 

「ゆーびきーりげーんまんうーそつーいたーらはーりせんぼんのーます!」

 

 ゆーびきーった。



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蠑ヲ蟾サ縺薙%繧阪�迢ャ逋ス

『夢を、見た。

 あの人がどんどん遠くへ行ってしまう夢だった。

 暗い暗い、なにも見えない空間であの人だけがはっきり見えて。

 でもどんど。ん離れて、姿も霞んでいって。

 呼びかけてもこっちを向いてもくれなくて。

 最後に、あの人が倒れたような気がした。

 

 起きた後、パジャマは冷たい汗でぐっしょりしていた。

 冷たさのせいなのか身体の震えが止まらず、ベッドの上で膝を抱えてしばらく動けなかった。

 彼は私の大事な人。

 彼はあたしが失っちゃだめな人。

 

 最近、こんな夢ばかり見る。

 あの人といて楽しくて楽しくて仕方ないはずなのに。

 こんな暗い感情になんてならないはずなのに。

 きっと、あの時から。

 あの人が倒れたあの時。

 

 あの時、あの人は私のせいで無茶なことをして、そのせいであの人は倒れてしまった。

 私が、いい子にしてないせいで。

 あの人まで、失ってしまうところだった。

 

 ……いいえ、違う。

 あの人()()とは、どういう事だ?

 

 待って、それを考えないで。

 誰かがそう言う。

 

 違う、アレは、私の、あたしのせいじゃない。

 違う。違うと言ったら違う。

 私は悪くない。

 仕方ない事だった、お父様もそう言ってくれた。

 

 そう、貴女はなにも悪くない。

 誰かがそう諭してくれる。

 

 息が苦しい。

 胸が大音量で脳を掻き回す。

 ハロハピで演奏してるときと違ってとても静かなのに。

 あの人といるときと同じように、音なんて無いのに。

 なのにこの煩い音はなんだ。

 

 気にしない、気にしちゃいけない。

 だから、誰かに従う。

 ガチャリと音がした気がする。

 

 でも……そうね。

 私がみんなをハッピーにしなきゃ。

 みんなを笑顔にしなきゃいけないわ。

 

 あの人をもうあんな目に遭わせたくない。

 このオモイがなんなのか、私にはよくわからないけれど。

 あの人は、大事にしなきゃいけないわ。

 お人形さんみたいに、可愛く、可愛くしなくちゃ。

 だって、死んじゃったらもう逢えないのだもの。

 

 生かして、生かして、ずっと私と一緒にいてもらうの。

 少なくとも、あの人は私にはとても大事な人だから。

 だから、今日もあの人に会いに行かなくちゃ。

 いつ行こうかしら? 学校に行く前? 帰ってくる時? あの人は、彼はどんな顔をするかしら。

 いっつもみたいに、めんどくさそうな顔をするわ、きっと。

 彼のお母様はきっと、笑いながら彼の部屋に通してくれるわ。

 

 彼のお母様を笑顔にできる。

 きっと、彼も笑顔になってくれる。

 だったら、行かなくちゃ。

 世界中のみんなを笑顔にするのですもの。

 彼のお家くらい、毎日笑顔にしましょう?

 

 言っている間に、黒服の人たちが部屋に入ってくる。

 そして、黒服の人たちに準備をしてもらったら、家を出る。

 そうね、今日は帰りに寄っていきましょう。

 少しくらい、彼にも私を大事にしてもらわなきゃ、ね?』



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彼が彼女らに残すもの。

 ……あー、あー、マイクテストマイクテスト。

 ……大丈夫のようですね。

 失礼しました、拡声器の調子がおかしかったようで一時音声が聞こえなくなってしまっていたようです。

 

 ええ、と。どこまでお語りしましたっけ。

 ああ、そうそう。こころが少年の部屋で目標を語ったところでしたね。

 

 ——では。その続きからお話を再開しましょうか。

 

 季節は進み、温度と湿度が世の人々を苦しめる時季がやってまいりました。

 いわゆる、梅雨、というやつです。

 おそらくこの季節を楽しめるのは幼子と、あとは彼女くらいでしょうか。

 

「うーん素敵な音ね! そうだ、次はこんな曲はどうかしら美咲!」

 

「えっと……うーん、ちょっと待ってね?」

 

 ここは花咲川女子学園。こころや美咲が通う学校です。

 当たり前ですがこころといえど高校生。そもそも少年といる時間の方が圧倒的に少ないのです。

 今は放課後。人が少なくなった教室で、こころと美咲は新しい曲作りをしていました。

 

 楽しそうに鼻歌を口ずさみ紙になにやら描き連ねていくこころとそれを文字に、譜面に書き起こしていく美咲。

 これが彼女たち『ハロー、ハッピーワールド!』の日常、その一部。

 そんな最中に美咲は、チラリとこころを一瞥しました。

 

「こころさ、なんか変わったよね」

 

 目線をまた紙に落とし美咲はそう言います。

 

「そうかしら?」

 

「うん。なんていうかな……前より人を気にするようになったと思う」

 

「人を?」

 

「そう。前は……もちろん今もそうなんだけど良くも悪くも天真爛漫って感じだったんだけど……今は……なんだろ」

 

「うーん……よくわからないわ!」

 

「だよねぇ……でも多分、あの人のせいなんでしょ?」

 

 まあ、美咲がここでいうあの人、というのは、私の語ってきた物語を聞いてきた皆様なら容易に想像つくことでしょう。

 私は彼女でない故に、彼が彼女にどんな影響を及ぼしてきたかは知る由もありません。

 

 しかし、彼女の日頃の行動……私が語る事もない何気ない日常に変化を起こしたことは違いありません。

 正史とは違う行動、語り、その他エトセトラ。

 それがいいか悪いかといえば……私には分かりかねますがね。

 私は物語の案内人ですが、それ以前に物語の登場人物の一人ですから。

 自分の世界を否定したくはないものてす。

 

 さて、話は戻しますが、その美咲の言葉を聞いてこころはどこか遠くを見つめるような表情をします。

 

「そうね、あの人は私の大事な人だもの」

 

「ん……ほら、今も。あの人、だけで通じなかったもん、前のこころ」

 

「そう?」

 

「そう」

 

 それっきり。

 その会話はそれでおしまい。

 たった数回言葉を交わしただけで教室は彼女らの曲作りの時間に戻ります。

 ただ、少しだけ、教室には静けさが増えたような気がしました。

 

「ねえ美咲?」

 

「はいはい、なに?」

 

「私、あの人にどうしたいのかしら」

 

「え?」

 

 こころの鼻歌がピタリと止み、違和感を感じた美咲が顔を上げると、こころが美咲を見つめていました。

 

「私、あの人のことがとっても大切なの」

 

「うん、聞いた」

 

「あの人を笑顔にしてあげたい。でもあの人は笑わない。じゃあそのままでって思っちゃうの」

 

 こころが顔に陰を落としながら美咲にそう説明すると、美咲は目を見開きました。

 

「びっくりした」

 

「びっくり?」

 

「うん。正直、こころの話してることが普通に理解できたのは初めてだったから」

 

 気まずそうに美咲は頬を掻き、目線をこころから逸らしながらこころにそう言います。

 

「でも、そうだね……。だったらそれでいいんじゃないかな。今の関係が心地いいって事なんだろうし、無理に変えなくても」

 

「変えなくても……」

 

「そうそう。別にあの人が死ぬとかそんな話じゃないんだしさ。気負わずゆっくり考えていけばいいんじゃないの? こころはあの人から離れる気ないんでしょ?」

 

「ええ、もちろんよ!」

 

 美咲の言葉で元気が出たのか、また陽気に鼻歌を歌いながら曲作りに戻るこころ。

 美咲のその言葉のどれくらいをこころが理解したのかはわかりませんが、少なくともテンションを戻すくらいには美咲の言葉はこころに響いたようでした。

 

 その様子を見て美咲はちょっと。

 ほんのちょっとだけ、目を細めます。

 

 少しだけ妬けちゃうな、と彼女が小声で口に含ませたのは私と、そして皆様だけの秘密としておきましょうか。

 

 そうして美咲はまた紙面に目を落とし、こころの奏でる歌を曲にしていくのでした。

 それは、正しき歴史となんら変わりない時の過ぎ方でした。



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価値観の差とは、げに恐ろしき物かと解しました。

 

 いやぁ、さすがに今回ばかりは肝を冷やしましたね、ははは。

 ついに書き手が飽きたかと冷や汗が頬を伝いました。

 この作者随分とまあ飽き性なところがありまして、早い話が()()()作品製造機といった具合にございます。

 いかに私が語らおうとも、皆様には文章として目に入る以上書き手が飽きればそれにて終い。

 なにがトリガーかは存じませんが発破をかけてくれていや、よかったよかった。

 とまあ、そんな話はどうでも良いのです、物語にはなんの関係もありません。

 

 さて、物語はまた少し時間を進めて行きましょうか。

 物語としては起承転結の転、序破急の破を見ていくこととなります。

 人生というものは起承転結、激動なんてものが必ずしも起こるものではありませんが、彼女の、こころの周りではそういった事がよく起こります。

 少年の、ではなくこころの周りで。

 彼女を中心として起きる悲喜交交(ひきこもごも)の物語。

 少年がこころに巡り合ったのも或いは、その中のたった一欠片のピースにすぎないのかもしれません。

 

 ……なんか今日は話がよう脱線しますね。

 よくないよくない。

 これでは皆さまに無為な時間を過ごさせてしまいます。

 火急に物語に移っていきましょう。

 

「あん? ライブ?」

 

「そう! それを貴方に見に来てほしいの!」

 

「CIRCLEってライブハウスでやるんだよね」

 

 いつもの通り、言わずもがな、こころは少年の部屋で目をキラキラ輝かせながら少年にそう語っていました。

 今日は美咲も一緒です。

 

 CIRCLEは、少年の家から少し離れた、川沿いに建つライブハウスです。

 なんでもそこで、時々何組かのガールズバンド——女子高生たちのバンドグループがライブを開催しているそうで。

 こころの『ハロー、ハッピーワールド!』もその中の一つなんだそうです。

 今度ワンマンライブを開くそうなので、ぜひ少年に見に来て欲しいと。

 まとめるとそういう話を、今日彼女らは少年の元に持ってきていました。

 

「んー、でもなー……」

 

 美咲に渡されたフライヤーに目を落としながら渋い顔をする少年。

 あいかわらず、少年が外出する頻度は以前と比べて少なくなっていました。

 この町に少年が越してきてもう一年になります。

 その間、少年は体調不良は訴えど倒れたことというのは一度もありませんでした。

 一年と、さらに以前の住処でのもうちょっと。

 それほどの期間を開けてまた少年を蝕んだそれはなるほど、確かに恐怖感を植えつけても仕方ないのかもしれないと、そう思いませんか? 

 

「来て……くれないの?」

 

 ああ、ああ、そんな捨てられる仔犬のような瞳をして。

 人を惹きつける魔性の魅力を持ったそれ。

 こころに見上げられた少年は「うぐぅ」と、漫画でしか見ないような音を鳴らしました。

 美咲の呆れた顔。

 私でもそう思います。

 

「……や、悪いがやっぱり無理や。できれば今は、外に出たくない」

 

 おお、なんとかそれを振り切ったようですね。

 ……いや、振り切ったというか振り落としたというか。

 そんな、青春ラブコメみたいな単純な話でもないですからね、今のこの状況は。

 とりあえず安静にしていれば、病状の悪化はおそらくしないのですから。

 

「こころ、あんまり無理に行ったらダメだよ」

「でも、美咲……」

「私にそんな顔してもどうにもなんないでしょ……気楽に出歩ける人じゃないんだからね?」

 

 これを聞いて、少年は渋い顔を浮かべます。

 美咲が少年を気遣う気持ちはよく分かります。

 もし今のこころが少年を失ったら……容易に想像はつくことと思います。

 少なくとも今、少年はこころの願いを叶えて安全という保証は無いのですから。

 

「ねえ」

「ん?」

「あなたのその病気、治すことはできないの?」

 

 それは、今までで一番踏み入った問いかけでした。

 根本的な悪は、少年に巣食う病巣。

 それさえなくなれば——と。

 少年に焦がれる彼女が思い至るのも、当然の話だったのかもしれません。

 

「さあな」

 

 それに対して少年は、諦めを多分に含んだ、自虐的な笑みを浮かべます。

 

「それに、治せたとしてもそんだけの金を払う余裕はうちにはない」

 

 これまで治ってこなかった病。それは、単純に難病ということに限った話でもなく、少年の家庭に余裕がないということの証左でもあります。

 だからこそ、比較的環境の安定したこの町に越してきたうえで最低限悪化しないような治療をしているのですから。

 それを聞いて難しい顔をしていたこころは、急にバッと顔を上げ美咲の方を向きます。

 

「ねえ美咲! 黒服の人たちなら!」

「え? ——そりゃー、あの人たちならできるかもしれないけど……」

「いや、必要ない」

 

 美咲に治す可能性を語るこころ。

 その言葉の意味を理解する美咲。

 その言葉を遮ったのは、ほかでもない少年その人でした。

 

「お前の家はずいぶんデカいし、もしかしたら治す手段もあるのかもしれん。だが、俺は、というかうちはそれに報いることができん。返せるものも何もない以上、それを受けとんのはできん」

 

 ああ、そう。

 それは、あまりに冷徹な観点でした。

 幼い頃から生と死の境界に立ってきた少年の死生観。

 それは、言い方こそ悪いですが、生に不自由なく生きてきたこころと美咲とは決定的に違っていて、そして互いに理解ができないものでした。

 

「死にたくはないけどそれ以上に親に迷惑をかけては敵わん。俺みたいのをここまで育ててもろた恩もある。莫大な金がかかるんなら、俺は治療は受けんで死ぬ」

 

 少年のあまりに重いその言葉に、部屋の空気が固まります。

 美咲はいたたまれず視線を彷徨わせ、こころは俯き肩を震わせ——。

 

「なんでそんなこと言うのよ!」

 

 部屋に少女の叫び声が響きます。

 こころが立ち上がり、少年を見下ろしながら激情を顕にします。

 目になみなみと涙を湛えて。

 こころの怒声を聞くのは、美咲はもちろん、少年ですら——以前も怒気というよりは子供の癇癪のようなものだったのですから——初めてのことでした。

 彼女が他人のために怒るのは、彼女が成長した証でもあり。

 だからこそ、驚きました。

 

「なんで、貴方が一番最初に諦めるの? 貴方の命じゃない! どうしてもっと大事にしないのよ!」

 

「お、おいこころ?」

 

「死ぬのは怖いのよ。もう逢えなくなるのよ。私は貴方の事をこんなに大事に思っているのに! 貴方のお母様も、貴方の事をとってもとっても大切に思ってるわ! それなのに、なんで貴方だけそんな事を言うのよ……」

 

 そして、力尽きたのかへたへたと座り込み。

 部屋のカーペットに、染みを作っていきます。

 その言葉にもまた、大きな重みがありました。

 少なくとも、その言葉は理想論でなく。

 現実的(リアル)な重みを有していたのでした。

 

「こころ、あんな……?」

「そんな人の言葉なんて聞きたくないわ」

「ちょっとこころ!?」

 

 鎧袖一触、取りつく島もなくこころは立ち上がると、部屋を出て行ってしまいました、

 取り残された美咲と少年。

 少年は、ベッドに体を投げ出し頭を掻き毟りました。

 

「まぁーたこんなんしとる。アホか、俺は」

「まあ、こころの言いたいことも分かるんだけどね。もう少し生きるのにしがみついても、いいんじゃない?」

「そうは言ってもなぁ」

 

 美咲の諭すような話ぶりに、少年は苦い顔をします。

 培ってきた価値観がぶつかりあったとて、少年に非はあったのでしょうか。

 二人の主張は、見方によってはどちらも正しいとも見れるでしょう。

 大事な人に迷惑をかけたくない、大事な人に生きて欲しい。

 ともすれば、結局はどちらも自身のエゴのぶつかり合いで。

 だからこそ、どちらも曲げられない主張なのです。

 

「私もこころのあんなところ見たことないからどうなるか分かんないけど……なんとなく、こころはしばらくここには来ない気がするんだ」

 

 美咲も自身の荷物を手に取りクッションから腰を上げます。

 

「無理にとは言わないけど——今度のライブ、見に来てくれないかな。こころ、多分理想だけを言ってるんじゃないと思うんだ」

 

 言うだけ言って、美咲は「お邪魔しました」の一言とともに少年の元を去っていきました。

 あとに残されたのは寝転がる少年ただ一人。

 

「あー、クソ!」

 

 腹立たしげに少年は髪を掻き毟り。

 そして、スマホに保存していたあるライブ映像を再生します。

 そのライブは楽しげで、魅力的で。

 生で見れたならどれだけ楽しいだろうと、そう夢想せざるを得ないライブの映像でした。

 



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整理整頓。肝要なのは気の持ちよう。

 

 

 

 少年が部屋に取り残され、独りとあるライブの映像を眺めていると。

 キィ、と部屋の扉が開かれました。

 

「ここっ……!」

 

「こころちゃんなら飛び出していったわよ」

 

「……母さん」

 

 部屋に入ってきたのは、彼の母親でした。

 物悲しそうな表情を浮かべながら。なにが起こったのか、分かっているようでした。

 

「泣きそうな顔。また喧嘩したのね?」

 

 少年のうるんだ瞳を見て、母さんはそう言います。

 

「そうじゃなくて……いや、そうなんやけど……」

 

 そう返す少年はしどろもどろ。

 事実を否定できないような、しかし事実とは多少差異があるような違和感を、うまく形容できないでいました。

 ベッドに母さんが腰かけ、彼の頭をなでながら話しかけます。

 

「若いうちは喧嘩もしろなんて言うけど。あなた達のはちょっと違うんでしょ? 下まで聞こえてたもの」

 

 そう言われて言うに事欠いたのか、少年は壁の方を向いてなにも喋らなくなりました。

 部屋を一時の静寂が支配します。

 

 どれくらい経ったでしょうか。

 少年の背を見つめながら、母さんがぽつりと零しました。

 

「……そんな身体に産んじゃってごめんね」

 

「ッちゃう! それは違うよ母さん!」

 

 心の底から懺悔するような声に、少年は身を撥ね起こして否定します。

 

「俺はこんな身体でも感謝してる! 俺を産んで、ここまで育ててくれて! こんな俺なのに見捨てないでくれて! だから、だから!」

 

 少年にうまく今の気持ちを表現するだけの言葉は持ち合わせていませんでした。

 言葉を覚えてたての幼子のように、つっかえつっかえ必死に母さんに語り掛けます・

 

「ええ、わかってるわよ」

 

 全てを慈しむ声で、母さんは少年を抱き寄せます。

 その声には、一分だけ呆れの感情も含まれていました。

 

 母さんは目を閉じ、苦笑いを浮かべています。

 

「私になら本音を言えるのにね。なんでこころちゃんの前だと取り繕っちゃうのかしら」

 

「だって、それは……」

 

「いいのよ。男の子だもの。好きな子の前ではカッコつけたくなるわよね」

 

「なっ、いやっ、ちがっ……!」

 

 突然少年が顔を真っ赤にし、母さんを突き放しました。

 それを見る母さんの顔は満面の笑み。

 というか、子供をからかう時に親が見せるソレ。

 少年は慌てたようにまくし立てます。

 

「いや、こころのことは少なからず大切には思っとるけど! それはそれとして色恋とは別の話やし! こころと俺の関係はそんなんやないっちゅーか!」

 

「あらあらそうだったの? お母さんてっきりお気に入りの子だったから大事に大事にしてるのかと思ってたわぁ」

 

「そういう事じゃ……いや、そういう事なんか……?」

 

「お母さんね。嬉しかったの」

 

 楽しそうにからかっていた母さんが、急に静かなトーンで話し始めます。

 

「あなた、前のところでは友達作らなかったじゃない?」

 

「それは、まあ……」

 

「だからこころちゃんが家に来た時、凄い喜んだのよ? あなたが他人を家に上げるなんてって」

 

 少年の家に彼と同年代の人が遊びに来るのは、初めてのことでした。

 彼は執拗なまでに、以前の住処では友人を作ろうとはしませんでした。

 病に対するコンプレックスではなく、必ず遺すであろう人たちのために。

 意図的に少年は彼らを避けました。突き放しました。

 だから、彼には友人と呼べるものが存在しなかったのです。

 

 ある時でした。

 どうしようもないほどの、孤独という名の暗闇の中に一条の陽光がさしたのは。

 それは新しい町を散策してみようと商店街を歩いていた時に出会いました。

 

 その音は少年の耳を突き抜けて脳を揺さぶり、その光景は少年に太陽を夢想させました。

 

 それが、『ハロー、ハッピーワールド!』、弦巻こころだったのです。

 

 『恋焦がれる』なんて言葉があります。

 先の見えない暗闇の中、彼が焦がれたそれに、あろうことか少年は恋をしてしまいました。

 

 遺すであろう彼女への想いと、自分が抱く彼女への思い。

 それはそれは、苦しいものでした。

 

「こころちゃんがあなたを変えてくれたんだなって思ってね。だから、なんていうかな……」

 

 一瞬、母さんは視線を彷徨わせ。

 

「仲良くしててほしいのよ、あなた達には」

 

「仲良く……」

 

 陳腐な言葉ではありますが。

 それ故に、人には届きやすい言葉であるというのもまた事実です。

 

「あとこれは年長者からの余計なお世話ってやつなんだけどね? 一回自分の気持ちを整理してみて。こころちゃんとどうしたくて、どうなりたいのか」

 

「それだけ。一人の時間邪魔しちゃってごめんね?」と母さんは一方的に言い残すと、少年の部屋を出ていきました。

 少年からも静止の言葉はありません。

 

「こころとどうしたいか、どうなりたいか……」

 

 ゴロリと寝転がり、少年は天井を見つめながらそう呟くのでした。

 彼は今なにに思いを馳せ、なにを考えているのでしょうか。

 

 彼の選択は、また次の話、という事で。

 

 

 



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ただの少年の独白

 

 

『弦巻こころに会ったのはただの偶然だった。

 たまたまあの日俺はあそこを歩いていて、その時にたまたま彼女らがあそこでライブを行っていた。ただ、それだけ。

 

 だけど、今でも思う。俺が彼女に逢ったのは、本当に偶然だったのだろうかと。

 運命だとかそんなものを信じるようなガラじゃないのは分かってる。それでも、そんなものの存在を錯覚してしまうほど彼女との出逢いは鮮烈で。

 

 どうしようもなく、憧れてしまった。

 

 始めは、憧れ。それと少しの嫌悪感。

 

 その嫌悪感が彼女に対してのものだったのか、或いは彼女越しに見た俺への嫌悪感だったのかというのは未だに自分でもわかっていない。ただ一つ言えることは、そんな氷のような俺の心をあいつは絆しつくしてしまったということ。

 

 彼女と出会った頃は随分邪険に扱っていたと思う。それはさっきの嫌悪感だとか、自分とあまりに違う生き方を歩める彼女への嫉妬だとか……まあ、いろんな負の感情が一緒くたになっていたからなんだろう。

 

 事実、理想論を掲げる彼女が始めは苦手──いや、有り体に言って嫌いだった。

 自身がリアリストであるとは思っていない。それでも、彼女の語る大言壮語は妙に癪に障った。

 

 普通なら一度強く言われればもう近づかないだろう。こんな語調だ。きっと、普通に言われるよりきつく聞こえる。しかも完全に初対面の相手なのだから。どう考えてもあれっきりの関係。そう思っていた。

 

『普通やない普通やないとはずっと思ってたけどまさかなあ……』

 

 いつか俺は彼女にそう言った。その考えは今でも揺るいでいないし、彼女はまさしく奇人変人の類いだろう。

 俺は普通が好きで、そうじゃないのは嫌いだ。それは、こんな身体に産まれてしまったせいもあるし、そんな身体で育ってきたせいでもある。

 

 人間というコミュニティで生きていく以上、その表面を均一化させる必要がある。

 出る杭は打たれるなんてことわざが残っているように、この社会は異質なものに対してとことん狭量だ。

 

 どうしてなかなか俺もこれまでの生活では苦労してきたし、きっと彼女も異様な目で見られているんだろう。

 それでも彼女は、燻らず、曇らず今でも燦々と輝いている。

 何かしら陰は持っているようだがそれをおくびにも出さずにあれだけ煌めいている。

 

 そんな生き方をしている彼女に、いつしか心惹かれていたのだ。

 たった数か月。しかも過ごした時間だって大したこともない少女にそんな感情を抱いてしまったのは自分でもどうかとは思う。

 それでも俺は、あの輝きに焦がれてしまったから。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ギリシア神話において、イーカロスは太陽に並び立たんとしたその傲慢さ故に命を落としたという。

  イーカロス()太陽(こころ)とともに歩もうなどと、思い上がりも甚だしい。

 

 必ず。近い将来俺は彼女のもとを去ることになる。

 正直言ってこころが俺に対して並々ならぬ感情を抱いていることは理解できる。

 それでも敢えて彼女に対する態度は変えないでやってきた。

 

 俺を喪ったときに彼女が心に負う傷を少しでも小さくするために。

 少しでも早く、前を向いてもらうために。

 

 ……まあ、これが俺の思い上がりだとしたらとんでもなく恥ずかしいことを考えているわけだけど。

 

 そうするのが、きっと。彼女にとって一番いい選択肢だから。

 どうしようもなく手の届きようのない光を、俺のために堕としてしまっては、あまりにも。

 それはあまりにも傲慢(エゴ)が過ぎる。

 

 その思いを抱えたまま往け。この想いを抱えたまま逝こう。

 

 儚い夢想、ココロに届け。

 

 希望も何も抱けなかった俺に光を射してくれた貴女に。

 なにも遺せない俺が残せる精いっぱいを。

 

『あたし、貴方にあたしたちのライブを見てほしいの』

 

『貴方にはぜーったいに生で見てもらうの!』

 

 幾度となくみたあの映像が頭をよぎる。

 いつか見たあの光景が脳裏にちらつく。

 

『今度のライブ、見に来てくれないかな。こころ、多分理想だけを言ってるんじゃないと思うんだ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に、もう一度くらい。

 あいつのライブを見に行って、そこで告げようと思った』





 あちらを立てればこちらが立たぬ。エゴを嫌って彼女を想う彼のその考えは果たして、エゴではないと言い切れるのでしょうかね。


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暗雲は天地を染め、斯くしてその時を迎えます。

 

『足元を見れば雲が広がっている。

 触れてみれば、しっとりと湿っている。

 

 

 ——あの日も、そうだった』

 

 

 

 

 柔らかに降り注いでいた月光は静かになりを潜め、いつしか空は雲に覆われます。

 パラパラという音が町を満たすのに、さほど時間はかかりませんでした。

 七月九日、『ハロー、ハッピーワールド!』のCIRCLEライブ前夜のことでした。

 

 

 

 

「生憎の天気だなぁ」

 

 雨音に目を覚ました彼女──奥沢美咲は独り言ちます。

 その日は小さな雨粒がぽつぽつと降り注ぐ、雨の日でした。

 

 七月九日水曜日。

 今日は彼女が所属するガールズバンド『ハロー、ハッピーワールド!』のライブ当日。

 

 開演時間は夕方とはいえ今日が平日である以上、健全な女子高生である彼女らは学校に通わなくてはなりません。

 結局いつも通りの時間に起き、いつも通りのモーニングルーティーンを行い、いつも通りの時間に家を出る他なく。

 

 彼女はのらりくらりと家を出ていきました。

 

 すれ違う人の足もこころなしか早く、ぱしゃぱしゃという水飛沫がそこかしこで上がる中で美咲は学校に到着します。

 

「おはようこころ……大丈夫?」

 

 荷物を自分の席に置いた美咲が向かったのはこころのもと。

 

 その声に彼女は振り返り────ああ、()()()()をしていたのか。

 ……しかしそれを──無理やりにも思えるほど──隠すようにこころは笑顔を貼り付けました。

 

「あらおはよう美咲! 今日のライブ楽しみね!」

 

「……うん、そうだね」

 

 そんな顔をして「誰も彼もを笑顔に」なんて、とても言えたものじゃないでしょうに。

 

「……本当に、生憎の天気だよ」

 

 

 

 

 その日の昼過ぎに、少年は目を覚ましました。

 少年の生活においてその時間に目を覚ますというのは割と珍しい事です。

 

 いつも朝早く起きて散歩などに向かう少年でしたがしかし昨晩、妙に悶々とした気持ちを抱えてベッドの上で眠れない夜を過ごしていました。

 それはやはり、床に無造作に投げ捨てられたフライヤーが関係しているのでしょう。

 

 臓腑がひっくり返るような不安感と、後悔と、漠然とした焦燥。

 それは療養生活を送ってきた少年からしても経験したことのない、つらいつらい一晩だったのです。

 

 どうにも相手に依存していたのは、少女だけではないようでした。

 

 

 

 

 

「母さん、ちょっと出かけてくるわ。帰んの遅なるかもしれん」

 

「そう。いってらっしゃい、気を付けてね」

 

「……うん」

 

 母は何も言わずに少年を送り出しました。

 おそらく彼が何しに行くかは察していたのでしょうに、何も彼に問いかけずに。

 

 以前CIRCLEを『少年の家から少し離れたところにある』とは言いましたが、とはいえ道程はそこまで長いものでもありません。

 しかしそんな道を少年は普通以上に時間をかけて歩きました。

 

 それが身体によるものなのか、こころによるものなのかはともかくとして。

 

 CIRCLEには雨だというのに存外人が集まっていました。

 

「……やっぱ、人気なんやなあ、こころ」

 

 何度もライブ映像で見てわかってはいたものの、やはり生で見るとハロハピというグループの人気をかみしめざるを得ず。

 

「あ」

 

 上の空だった少年は、ついその声に振り向きました。

 

「……来てくれたんだ」

 

「……まあ」

 

 少年の視線の先にいたのは美咲。

 ペットボトルを片手に、軒下で休憩を取っているようでした。

 

「……こころは」

 

「元気っては言えないかな。だいぶやつれてるよ」

 

「……そうか」

 

 特段二人は仲互いをしたというわけでもないのに、間に妙な気まずい空気が流れています。

 人の流れの中で動かない二人の周囲はぽっかりと空間が開き、そこだけ時間が止まっているようでした。

 

 しばしの空白の後、美咲が気まずげに頬を掻きながら徐に口を開きます。

 

「えっとね……お願いがあるんだ」

 

「お願い?」

 

「出来れば、ライブが終わるまでこころに見つからないようにしてほしいんだよね」

 

 突然の彼女の言葉に、少年は首を傾げます。

 

「呼んでおいてムシのいい話だっていうのは分かるんだけどさ。でも……今のこころが君に会ったら多分、ライブが総崩れになっちゃう気がするんだ。だから——」

 

 少年が、それは吝かではない、そう口に出そうとして。

 

「美咲?」

 

 その太陽のような声は、人混みの喧騒の中にいてしかし、しっかりと響いていました。

 今度は明確に、その空間の時が停止し。

 

「ここ、ろ……」

 

 弦巻こころその人がCIRCLEから顔を出していました。

 少年の姿を認め、瞳を大きく見開き、震わせながら。

 

 私は未だに運命なるものを信じきれてはいませんが。

 どうにも彼女は運命に導かれる星の元に生まれてきたような気がします。

 運命の悪戯などとはよくもまあ言ったものです。

 さてさて。

 

 絞り出すように少女の名前を呼んだ少年を、こころはどこか人形のような表情で見ていました。

 

「こころ、あのな……」

 

「私に何か用? とりあえず外は寒いし中で話さない、こころ?」

 

 伸ばしかけた手を美咲の背が遮ります。

 少年を拒絶するように、いない者として扱うかのように美咲はこころに話しかけました。

 

「こころ、いくよ」

 

 こころの背を押し、二人はCIRCLEへと吸い込まれていきます。

 どうにも美咲は、非夢想家(リアリスト)だったようです。

 

()

 

「美咲……?」

 

「どうしたのこころ? 私用事あるしそろそろ行かないといけないけど」

 

 楽屋に戻ってきたこころと美咲は席に着くとお茶を片手に向かい合っていました。

 

 偶然にも他のメンバーはまだ楽屋に戻ってきてはいないようで、室内は外の喧騒に満たされていました。

 

 それはつまり、ライブ前だというのに楽屋内に浮かれた空気が無いという事に他ならなく。

 

「あの人がね、あの人が来てたの」

 

 その言葉に美咲が一瞬顔をしかめたのにこころは気づかなかったでしょう。

 美咲の紙コップに小さく皺がよります。

 

「へ、へぇー。そうなんだ」

 

「私があんな酷いことを言ってしまったのに、来てくれたの」

 

 …………。

 

「私ね、あの人が大好きなの。こんな気持ちになったの初めてなの。あれだけ言ってしまったのに、あの人はそれでも私の願いを叶えてくれたの。私、今日のライブを絶対成功させるわ。あの人のために」

 

「——そ、そっか。あ、ごめんね。ちょっと本当に時間マズいから帰らせてもらうね。じゃあ」

 

 飲みかけのお茶もそのままに、美咲は足早に部屋から出て行きました。

 

「……だから会わせたくなかったんだよ、君たちはさ」

 

 楽屋の扉にもたれかかってそう溢します。

 

 ——その暗い感情には気付いてたからさ。

 

 そんな呟きは、ライブ前により一層の盛り上がりを見せる喧騒とともにどこかに流されていきました。

 

 




 彼女の生涯において、彼女が彼女の感情のためにライブを行うと発言したのは、ただの一度きりです。


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儚い夢想、こころに届け。

 

 

「今日は来てくれてありがとう! 私たちはハロー、ハッピーワールド! まずは一曲聞いてちょうだい!」

 

 ステージに現れた『ハロー、ハッピーワールド!』のメンバーたちが演奏を始め、会場は一層の盛り上がりを見せ始めます。

 その光景を、少年は最後列から見ていました。

 

 

 あの人がいる。一番後ろのあそこに。あの時みたいに。あの人が来てくれている。私の位置からよく見える。

 

 それがどうしようもなく嬉しくて、ココロが満ち満ちて、途方もないくらいに活力がみなぎってくる。

 

 彼にとてもひどいことをしてしまってから、少しも眠れなかった。

 毎晩毎夜あのときのことが頭を過って、吐きそうなくらいの嫌悪と後悔が胸を満たした。

 

 あの人に合わせる顔なんてなくて、でもあの人から離れるなんて考えたら目の前が真っ暗になって、でも。

 それでもあの人は今日、ここにきてくれた。

 だから、私は彼のためにこのライブを成功させよう。

 ああ、大好きな貴方。

 この演奏が、どうか貴方に届きますように。

 

 

 ——そのときのライブは、『ハロー、ハッピーワールド!』というバンドにとって最低の出来といっても過言ではないものでした。

 それは『ハロー、ハッピーワールド!』というバンドが形を成す以前、たった二人のストリートライブの時と比べてすらも。

 

 逸るボーカルの歌声に自然と他のメンバーも調子を崩され、それでもなお止まらないボーカルの歌声はいつしか壊れたブリキの玩具のようなチグハグさをもって、ライブの失敗を告げました。

 

 ライブの成功失敗など、明確な基準があろうはずもありません。

 しかし、それでも、このライブは失敗だったのだろうと。

 

 それはきっと、会場に満ちた空気から察せざるを得ないものでした。

 

 雨音は一層の強まりをみせていました。

 

 

「こころ、あのさ」

 

 誰もが口を噤む中、それを破ったのは美咲でした。

 演奏が終わり、楽屋へと戻って来た『ハロー、ハッピーワールド!』の面々に喜色などといったものは露も見えず。

 部屋もまた、ホールと同じような鬱蒼とした空気に支配されています。

 

「……悪いんだけど、今日みたいなことが繰り返されるようであれば私もミッシェルもついていけない」

 

 言い淀むように、それでいて心底言いづらそうにしながらも、それでも美咲はそうこころに言い放ちました。

 その言いようを部屋の面々が咎めることはなく。

 誰も彼もが俯いて言葉を発しません。

 そしてそれは、美咲の言い分を否定できないということに相違なく。

 

「こんなことになってるしこの場で言うけど、今日はこころにとって大事な人が来てた。けど、それでライブを蔑ろにされちゃ堪んない。あの人が来るたびにこんなことをされてたら、それこそこのバンドは分解するよ」

 

 こころに大事な人がいる、というのは他の面々は知らなかったことです。

 もっとも、彼女の行動の変化を見ていれば気づくことはあるでしょうが、少なくともこころも美咲も公に彼女らに周知したことはありません。

 しかし、それのせいでこのライブが総崩れになったというのはつまり……ああいえ、そんなことを言ってはいけませんね。

 

 こころに詰め寄る美咲と、それになんのアクションも起こさないこころ。

 いつしか美咲の語りようはヒートアップしていきます。

 

「……もっとも、こんなものを見たあの人が今後見に来てくれるかは知らないけどね。あの人にあんな言い方しておいて、こんなんじゃ」

 

 そして、それを。

 嗚呼、そう。

 こころにだけは言ってはいけない、その言葉を。

 美咲は勢いのままに、こころに言ってしまったのです。

 

「っ!」

 

 パチン、と。

 そんな音はしっかりと控え室の隅々まで響き渡ります。

 荒々しく部屋から出ていくこころを、美咲は見送る他ありませんでした。

 

「……はは、あたしなに熱くなってんだろ。こんなのあたしの役割じゃないのにな」

 

 腫らした頬に手を当てだ美咲は一つ深く息を吐くと、他の面々に振り返り。

 

「空気悪くしてごめん、ちょっと外出てくる」

 

 部屋には、ただの三人だけが取り残されました。

 

 

 それは、ええそう、ある種の直感めいたものであったのでしょう。

 あの時に少年が、不意に流されるままだった人混みから離れてふらふらと裏口に向けて歩いていったのは。

 或いは、たったの数ヶ月の付き合いにも関わらず彼女をとてもよく知ってしまったが故の行動だったのかも。

 

 ただなんとなく、弦巻こころがいまどうしているかを手にとるように理解していました。

 

「たとえば、なんかあって外で雨に打たれとるとかな——こころ」

 

「あ……」

 

 傘も刺さずに雨に曝される彼女——弦巻こころは、少年を見とめると視線を彷徨わせました。

 辺りに人影はなく、正しく二人は二人きりの空間で向かい合います。

 

「あ、あの、私……」

 

「今日のライブについては、俺はとやかく言わんよ。別に専門家でもなんでもないしな」

 

 こころの言葉を待たずに少年はそう言いました。

 こころはそれに対して何かレスポンスを返すことはありません。

 ただ、何かを言いかけた口のまま固まったように、彼の言葉が続くのを待っています。

 

「ただまあ、あれやな。普段の……つっても映像しか見たことないけど、それでも今日のお前が随分先走ってたのは分かる。メンバーに迷惑をかけるのだけはやっちゃいけん事やないんか?」

 

 少年とこころの間では珍しい、少年の諭すような口調。

 こころは、なにも返しません。

 

「大方誰かに叱られて不貞腐れて出てきたってとこやろ。大事なバンドメンバーやし、しっかり謝らんと」

 

 こころは、なにも返しません。

 

「なあこころ。お前、()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 こころは——

 

「だって、貴方がきてくれたから!」

 

「あ?」

 

「貴方が来てくれたから、貴方に捧げなきゃ駄目だったの! 貴方のためにこのライブをしたの!  私は貴方に酷いことをして、なのに貴方は来てくれて、だったら私も貴方に最高のものを届けなきゃって、だって、そうじゃなきゃ、貴方に——」

 

「ここ、ろ……」

 

 決壊したダムのように捲し立てるこころに、その時ようやく理解しました。

()()()()()()()()()()()()()()()こころ(太陽)()()()()()()()()()()()

 

「だって、私は、貴方が——!」

 

「今日来たのはな、こころ。お前に言いたいことがあったからや」

 

 結局いつまでもその関係にしがみついて、決心もつかず、流されるままにこんなところにまで足を運び、そして。

 そして、あの日見たあの光を、どうしようもなく焦がれたあの輝きを、己などに手が届くなんて勘違いして、こんなところにまで墜つしてしまった。

 

 なんと言えばいいのでしょうか、太陽は太陽であるから太陽足り得る、なんて表現いたしましょうか。

 

 少年はけして鈍いわけではありません。

 彼女が、こころが少年に向ける感情もなんとなく理解しています。

 もしかしたら彼女はもう取り返しのつかないところまで来てしまっているのかもしれない、という事も。

 

 でも、それでも少年は。

 

「もう俺のところには来ないでくれ」

 

 それでもいつか、必ず彼女を救ってくれる者が現れると確信して、そう。

 そう、彼女に言い放ちました。

 

 

 その後彼女らがどうなったかは語るに及びません。

 ただ言えるのは、少年は彼女の物語からドロップアウトし、彼女はいつしかまた『ハロー、ハッピーワールド!』のボーカルとして燦々と歩み始めたということ。

 

 此れは少年の物語ではなく、彼女の物語に尽き。

 

 弦巻こころがなにを考えなにを想ったかというのは私には分かりかねますが、まあ。

 少なくとも、彼女はあのあと。

 奥沢美咲に、そして『ハロー、ハッピーワールド!』に、救われたのでしょう。

 

 少年の、希望的で、エゴに満ち、独善的で、独りよがりで、無責任な行動は、結果としては『ハロー、ハッピーワールド!』を()()()()に戻し、斯くしてこの物語もまた正史へと合流していくのです。

 

 これからも煌々と輝く弦巻こころという人間の物語の、その片隅を黒く汚したままに。

 

 

 



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終演。
この物語を聴き遂げて頂いた皆様へ。


 

 ——是を持ちまして、この物語は終演と相成ります。

 長い間に渡りこの物語を聞き遂げていただいた皆様には尽きぬ感謝と敬愛の念を。

 

 なにぶんこういった、語り手というものを演るのは初めての事でしたので、聞き苦しいところも多分にあったかと思います。

 それでもやはり終えることができたのは皆さまがいたからこそ。

 重ねて感謝申し上げます。

 

 さて、この物語は終わりましたが彼女らの物語というものは勿論、ここで途切れる事なく続いていきます。

 弦巻こころは、奥沢美咲は、『ハロー、ハッピーワールド!』は、そして、少年は。

 それを一から十まで語るのもまた一興かとも思えますがやはり無粋なもの。

 この物語を始める前に話したように、それが如何様な話になったかというものは、皆さまが作り上げる物語に任せるとしましょう。

 

 ……ああ、ただ、蛇足にはなりますが、一つだけ。

 

 少年の住んでいた家は、それからしばらくして空き家になったそうです。

 

 ……もう話すこともありませんかね。

 名残惜しくはありますが、これにてこの物語もお終いといたしましょう。

 

 くどいようですが、改めましてここまで私の語りをお聞きいただきありがとうございました。

 これからの皆様の旅路に数多くの幸があらんことをお祈りしています。

 では。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手に持っていた本を閉じ、息をつく。

 目の前にあった拡声器のスイッチが落ちたのを入念に確認し椅子に崩れ落ちた。

 

 ()()に来てから大して時間も経っておらず状況も飲み込めないままに、人型のモノに呼ばれて告げられた「とりあえずその口調を元の通りに直すように」という指示。

 状況説明の一つくらいはと思ったものの結局、流されるままにその本を朗読する練習を始めた。

 

 有難いことに、()()身体は空腹やら睡眠やらとは無縁なようで、没頭というには辺りに娯楽用のあれやこれやが転がっていたためにダラダラと練習して、幾日かが経つ。

 

 口調を直すのに、大した手間はかからなかった。

 もとから母は標準語で、父は関西弁だったものの父が死ぬまでは標準語で喋っていたから、少しおかしな口調が混じったものの一般的な言葉遣いに直せた……と思う。

 

 そんなこんなしていたある日、あの人型がまた前に現れた。

 なんでも「この物語の朗読劇を開こうと思っていて、君にはその語り部になってほしい」そうだ。

 

 そうして渡された本に目を通して、引き攣った笑いを浮かべる他なかった。

 きっとこの目の前の人型は酷く性格が歪んでいるのだろうと察する。

 

 それからは有難いことに、この性格が歪んだ人型の指導のもといっぱしの語り部になるように指導を押し付けられた。

 最後の練習では満足げに頷いていたから、どうやらお眼鏡に叶ったらしい。

 ……ただ、あの人型の指導中に性格がうつったのか少々胡散臭い語りようになってしまった気はするが。

 

 朗読劇も無事乗り切れた。

 このあとなにをしようか。

 あちらが干渉してこないから何か次の仕事があるわけでもないらしい。

 この仕事を任されたのも気紛れだったのだろう。

 

 と、そこで足音を聞き届けた。

 あの人型は音も無く現れる。

 これまでの何日かで誰かが通った事もない。

 

 じゃあ、誰が……と振り向いて、そこには目を見開く()()がいた。

 きっと己の顔も同じようなものだろう。

 

 ああ————ほんとうに、あの人型は性格が歪みきっているようだ。

 

 まずは何を話そうか。

 気まずくて仕方ない。

 

 取り急いでは…………謝罪、かな。

 傍からあれの酷さも眺められた事だし、まあ。

 

 



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