名もなき魔女と灰色の犬 (oJG7)
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前編 降り積もる紙爆弾

※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

なお、この中編の原案は、pixiv掲載の『魔法使いと灰色の犬』です。
(作者:事務員様 URL:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9848029)
このメモが無ければ、この作品は生まれませんでした。
この場での掲載を御快諾頂いたことと合わせ、この場を借りて心より感謝申し上げます。



【最初に、書いておきます。

 貴女は、間違いなく、この世に在ることを望まれているのです。

 いくら誰かが貴女を呪い、消えることを願おうとも、私は貴女の生を望んでいる。

 その事を絶対に忘れないで。私が貴女に唯一遺す願いです。

 

 7月 私が舞い戻ってきた日に 狭間の屋敷にて記す】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

日下部誠に関する怪文書 ある魔女の告白文

 

 私がまことさんを「発見」したのは、5/1の夜のことでした。

 探査機はくちょう乗っ取り事件で警視庁一帯に避難指示が出たことを知った私は、現場を野次馬しに警視庁近辺に赴いたのです。

 いつものように姿を隠し、箒(名前は『ホウちゃん65号』)に跨って空を飛びつつ、衛星落下予定地の辺りを見下ろした時でした。既に周辺の人達は粗方避難していた頃合いでしたが、何故か警視庁のすぐ傍の道路で、揃いも揃って魂に変な運命を抱え込んだ幾人かの人達が、避難する素振りを全く見せず、真剣な様子で対峙しているのを発見しました。

 

 興味を抱いた私は、箒(ホウちゃん65号)に乗ったまま地上に降り立ち、そこで揉めている面子の中の1人が、私の好みどストライクの素敵な男性だと気が付いたのでした。その男性こそが、公安警察に追い詰められつつあるまことさんでした。

 姿を隠している私の目の前で、割と派手な捕り物と幾つかのやり取りがありました。まことさんは、協力者であった羽場二三一氏の復讐のためにテロを起こしたのだと自白した後、更なるやり取りの末、対峙していた公安の刑事を突き飛ばし、「羽場を早くあそこから避難させてくれ!」と叫んでから警視庁の屋上へと駆けていきました。

 この捕り物がどんな風に落着するのか気になったので、私はホウちゃん65号に跨いだまま屋上へと飛び上がり、そこで、羽場氏の動画で公安に嵌められたらしい彼が最終的に連行されていく様までを見ていたのです。

 

 次いで屋上では橘境子弁護士と、画面の向こうの羽場二三一氏の男女の別れ話が繰り広げられました。橘境子弁護士が、地上で捕り物をしていた人とは別の刑事に激怒しつつ、泣きながらヘリポートを降りていく様を見届けてから、私はそこを去りました。

 連行された彼に対峙した側の人達を追いかけるのは、そこそこ面白そうではありました。犯罪者に関わる彼等は、滅多に見ないレベルで変な宿命を魂に抱え込んでいたようでしたから。

 ただ、むしろ私は連行された彼の方に惹かれました。公安警察の中の情報を覗いて、目の前で逮捕された「くさかべ」さんがどんな風に認識されているのか調べることとしたのです。

 

 「日下部 誠」さんという表記と、身元と、爆破事件の裏事情を知り、公安が如何にして組織防衛を図る予定なのかおおよそ把握した私は、逮捕された彼を留置場から連れ出し、手元に置くことに決めました。

 放っておくと、この人は捜査資料に感化されただけの異常者にされて朽ち果ててしまう。せっかく見つけた好みの男性なのだから、好きなだけ愛でるように手元に置いておきたい、心からそう思ったのです。

 

 

「実物のあなたってとってもすてき。顔も声も好ましいし、なんといってもこころがすてき」

 

 紛れもなく本心から出た言葉でした。ちょっと気取っていたかもしれませんが。

 一通りの取り調べが終わって、留置場の独房に収容された直後というタイミングだったはずです。私は、突然何もないところに湧いて出てきた、長い竹箒を持った変な女、だったはずです。急に話しかけられて、まことさんはへたりこみました。

 

「きみは、どこから」

「ねぇ、かばんを持ってくれるおおきなわんちゃんがほしかったの。着いてきてくれないかしら。

 ……こんばんは。私は魔女。今から貴方を浚う者。名前はないからお好きに呼んでね」

 

そうして訳の分からないまま目を白黒させているまことさんの手を取って、私は己の屋敷に彼を連れ込んだのです。

 

 

 どこにもあってどこにもない場所、私が許した者にしか入れない時空の狭間に、私の屋敷はあります。「狭間の屋敷」と呼んでいます。

 生まれて初めて転移魔術に巻き込まれたまことさんは、慣れない私の力に()てられて、即、失神。ちょうど夜でしたし、精神的にも肉体的にもかなり疲れ切っていた様子でしたから、そのまま屋敷の客室のベッドに、朝まで寝かせておくことに決めました。

 

 10時間ばかりたっぷり寝た後、ようやく起き上がったまことさんは少々混乱していたようでした。前日の5/1にあったことを声に出して順番に思い出させ、最後に私が出現したところまで辿らせたら、何とか落ち着きはしましたが。

 そして現状を理解してから、私に山ほど質問をぶつけてきました。

 

 Q.貴女は誰だ?

 A.お好きに呼んで、と言ったはずね? 私は、名を持たぬ魔女よ。

 

 Q.ここはどこなんだ?

 A.時空の狭間の、私の屋敷。狭間の屋敷、と私は呼んでいる。

 

 Q.何故、私はここに居る?

 A.私が惚れたから。私が貴方を愛でていたいから。荷物持ちの下僕になってほしいの。

 

 Q.貴女の年齢は?

 A.この世界では、あなたの4倍は生きてるわね。見た目はずっと20歳にしているけれど。

 

 Q.そもそも貴女は人なのか?

 A.見た目の形はヒトだけど、中身までヒトになったつもりは無いわね。この世界で生きることとなった時から、「己がやりたい・面白いと思った方向にしか生きていけない」「その生き方を維持する限りヒトを必ず凌駕する」という法則を、魂の中に宿さざるを得なくなった者。魔女、という概念が一番近いのでしょうね。

 

 Q.貴女は、この世界の生まれではない?

 A.ええ。詳しく話すつもりはないけれど、ざっくり言えば「出身地で色々やらかして強制隠居を喰らい、かつ、緩やかな弱体化ペナルティ付きで元の世界から追放された馬鹿」、それが私。

 以来、そこそこノーテンキに、追放先のこの世界で無駄に長生きしてる。ヒト並みになるまで弱体化し続けるといっても、まだ、この世界のヒトよりは遥かに出来ることが多いわけだけど。

 

 Q.貴女には、ヒトの法律を守ろうという意思が無い? あそこから私を連れ出すのは、被拘禁者奪取という犯罪のはずだ。

 A.逆に訊くけれど、ヒトの法律が私を縛れるものなのかしら? 貴方の連行模様を見ている時も、留置場から連れ出す時も、私の存在に誰ひとり気付けなかったヒト達が?

 軍隊だろうが警察だろうが、ヒトによる組織がどんなに努力しようとも今の私を捕らえることは絶対に出来ないし、そういう組織がどんなに吠えようがわめこうが、私にとっては、……そうね、分かりやすい例えで言えば、ドッグランの中で犬の群れが吠えているくらいにしか感じられないわ。そのくらい、ヒトと私の間には力の差がある。

 

 Q.緩やかに弱体化し続けている、とおっしゃいましたね? どんなペースで、……いえ、訊き直します。貴女がホモ・サピエンスと同じくらいに弱くなるとすれば、それはどのくらい先の未来になるんですか?

 A.その訊き方であれば、「ざっと400年くらい先」というのが答えよ。完全にヒトと同じになった時に、弱体化は止まる。で、そこから老化が始まって、寿命が尽きる、はず。

 

 Q.……今の貴女の力で、出来ないことはあるのですか?

 A.時間を遡ること、飲食物を作り出すこと、生命を作ること、生命が生まれ持った体質を改変すること、死者を完全に蘇らせること。以上5点。少なくとも貴方の寿命がある内は、それ以上出来ない事は増えないはず。

 

 Q.……。魔女さん。それでは、死者を不完全に蘇生させることは出来るのですか?

 A.どこも損壊していない、五体満足の遺体があれば。ただし私の力では、本来の寿命が尽きるまで、脳死状態で眠り続けるだけの、何をやっても意識は回復しない、本当に「眠っているだけ」の人間の身体が出来るだけ。完全な蘇生とは絶対に言えないでしょうね。

 

 Q.もし、ここで「私は貴女に従えない」と言えば、留置場に帰して頂けるのでしょうか?

 A.まさか、帰すわけないでしょう。貴方がいつまでも我を張り続けるなら、人格を弄ってても私に仕えてもらうわ。忠誠心を無理やり植え付けただけの荷物持ちも悪くないもの。

 

 Q.……私の人格には触らないで頂きたい。自分の記憶も、思考も、貴女にとってどうあれ、私にとってはかけがえのないものです。……ただ、それほどの力が貴女にあるのなら、叶えてほしい願いが、貴女にしか叶えられない内容の願いがあります。「願いを叶えてくれるなら貴女に従う」と言えば、了解して頂けるでしょうか?

 A.私にはヒトの社会に対するしがらみは無いけれど、取引は出来る。やりたいとか面白いとか思った方向に限るけどね。貴方が申し出る内容も、聞くだけは聞きましょう。どんな願いを叶えたいの?

 

 Q.私がなぜ留置場に居たか、魔女さんはご存じだ。……私が一連の犯行で生み出した莫大な被害を、事件前の状態に回復しては頂けませんか? それが貴女の力で可能であるのならば、いくらでも貴女に従いましょう。……従うといっても、出来ることなら犯罪になる行為には触らずに居たいですが。

 A.まず理解してほしいことだけど、どんな条件を付けられても、貴方のせいで駄目になった飲食物と、死んじゃった人、これらは全くのノータッチになるわね。爆発に巻き込まれた遺体は損壊が酷すぎる。そもそも損壊が無い身体であっても、天寿が尽きるまで数十年間眠り続けるだけの人を生み出したいとは、私は思わない。

 それ以外の物を修復させるだけ、怪我を治すだけ、という限定付なら、問題なく出来るけれども。……ただし、それにしても、貴方ひとりの忠誠だけでは、取引の天秤のつり合いには少々足りないわ。私が追加で求めるのは、「私が見た経緯を世間にばら撒いて暴露すること」。

 

 Q.それはどういうことですか?

 A.貴方の側の、天秤の皿の上に、「犯行に至った経緯を世間に明かすこと」を追加で乗せてほしいの。きのう私は、貴方が連行される様子を見て、初めて見た貴方に惚れて、それから公安の情報を覗き回った。世間に伏せたいであろう物を含めて、何があったのかは把握しているつもり。

 私がこのタイミングで連れ去らず、刑事手続きのレールに乗り続けたら、貴方は単に「捜査資料に感化されて犯行を起こした異常者」にされていたわ。貴方の犯行動機から羽場二三一が消える、何より大事な事なのに。公安警察・検察は、そうして組織防衛を図ろうとしていた。

 荷物持ちになった人にそんなねじ曲がった世評が立つのは、私はイヤ。

 

 Q.つまり、人命以外の被害を回復させたいのなら、「一生、貴女に従う」だけでなく、「羽場の件を含めて犯行動機を暴露せよ」と?

 A.そういうこと。正確には「私が貴方に飽きるまでは私に従うこと」と、「私の目線での、貴方の連行経緯の暴露」を承知することね。貴方は結果的に一生私の傍に居る形になるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 これは貴方と私の取引よ。取引を経た上で私の荷物持ちになるか、何もせずに荷物持ちになるか、どうするかは貴方が決めなさい。羽場さんとか弁護人とか関係なく、貴方ひとりで。身内以上に大事な存在だった羽場さんは、逮捕された時、自分の人生の事をたった一人で決めたんだもの。貴方もそうするのが相応しいと思っているのでしょうし。

 

 Q.貴女に従う条件付けに、今言っている物とは別の取引を考えて提案することは可能ですか? また、今申し出ている取引であれば、貴女が回復させる被害の範囲は、どこまでになりますか?

 A.別の取引を考えるのは可能よ。でも、貴方に、他に差し出せるものはあるの? まだ書類上は免職になっていないようだけど、実質は社会的に何もかも失った身分でしょうし。

 今言った取引で進むなら、「失われた人命と、飲食物以外のあらゆる被害を元に戻してあげる」。貴方が壊した沢山のスマホも、IoT家電も、車も、エッジ・オブ・オーシャンも、被害を受ける12時間前の状態に戻してあげる。海に落ちたはくちょうも、落下する前の12時間前の位置に、日本列島から見て空のはるか上に、戻ることになるわ。

 

 Q.……貴女の力には従わざるを得ないでしょう。……この状況では、貴女を(おそ)れつつ、愛されるしか、私の進む道は無いのだと思います。今言った取引の構図のまま、連行の経緯の暴露に追えて、「この取引に至るまでのこの会話」も、一緒に暴露しては頂けませんか? 形式はお任せしますが、当局が揉み消せない形で。荒唐無稽な事柄でも、何がどうなっているのかは世間に知らせたい。

 A.分かったわ。その願いも飲みましょう。当局がどう頑張っても揉み消せない大暴露をやってあげる。

 

 Q. 更に最後にひとつ、条件を付けることが可能であれば。

 ……いつか、貴女が、私に飽きた時のことを。その時が来たら、私をあの留置場なり、弁護人の所なりに戻すのが、本筋でしょうが、…………。……その時は、私がどこに戻るのか、……私自身に決めさせて頂けませんか?

 社会に出ようとは思いません。可能なら己の生命を捨て去るかどうか、それ自体を決められる立場になりたいと、思い浮かんでしまったんです。そう思ってしまう私が、自分自身が、……その願望が止められないんです。……あんな職業だったのに、非常に情けない事ですが。

 A.泣かないで。その追加条件そのものも世間に明かしていいのであれば、その条件を飲みましょう。取引成立ね。

 

 

 かくして、この告白文の、今回の大量配布に至ります。

 私という存在そのものがまことさんにとっては荒唐無稽すぎたので、今の時点でも「独房の中で、死の恐怖に直面した自分が幻覚を見ているのではないのか」と、己の正気について半信半疑の面があるようです。

 

 名を持たぬ とあるひとりの魔女より

 

 

 追伸その1

 報道機関と、野次馬やりたい世間のミーハーさん各位

 

 本日5/2の14:00にエッジ・オブ・オーシャン内国際会議場の正面入口前においで下さい。爆破された建物を元に戻す魔術の力を見せてあげましょう。

 

 

 追伸その2

 検察関係者各位

 

 まことさんはまだ懲戒免職処分を受けていないようですね。今日中に処分が下されないなら、まことさんがこれまで仕事で関わった公判の資料を、エッジ・オブ・オーシャンの件を含めて、明日5/3の朝、ことごとく全て魔術で私の屋敷に接収することを予告致します。

 

 

 追伸その3

 裁判所&弁護士会関係者各位

 

 まことさんは、自分の弁護人がどんな方になるのか、顔も名前も把握していないそうです。手続きが進んだり、誰かと接見したりする前に、私が連れ出しましたからね。誰かが弁護人になるのかどうか決めて、一般に公表して頂けると助かります。まことさんに「弁護人にだけは会う許可が欲しい」とすがられています。ちょっと迷っているのですが、近い将来許可することもあるかもしれませんから。

 

 

 追伸その4

 米花町5丁目の喫茶「ポアロ」アルバイト店員の安室透こと、警察庁警備局警備企画課の降谷零(ふるやれい)(29)様

 

 貴方の悪辣な知謀に敬意を表します。昨夜警視庁の前で揉めていた面子の中で、私の見る限り一番悪辣だったのは貴方です。当初ガス事故と思われていたエッジ・オブ・オーシャン爆発をただ事件化したいがためだけに、「焼きついた指紋という証拠を捏造し、毛利小五郎探偵を一時的にでっち上げ逮捕する」という案を思いついたのは流石だと敬服致します。

 もっとも、貴方のアイディアを知っててなお咎めなかった階級的に一番上位の人は、裏の理事官で、警視庁の捜査一課に居られる黒田兵衛(くろだひょうえ)(50)さんですが。

 貴方の部下で、警視庁公安部の風見裕也(かざみゆうや)(30)さんも、とても演技が御上手な方ですね。指紋がでっち上げだと承知の上で、警視庁刑事部・公安部の合同会議に乱入、さも決定的証拠が見つかったように演技して、毛利探偵の検挙を強く推進したのですから。

 

 現在は5/2の11:00です。狭間の屋敷でこれを書いていますが、まことさんが、私が書き進めているこの文面を見て言いました。何の因果か爆破事件の真犯人であるまことさんは、毛利探偵が捕まった際に担当検事となったけれど、「指紋という証拠を見た時、とてもとても驚いた。公安警察が証拠を捏造した事を確信した」そうです。

 

 エッジ・オブ・オーシャン爆破事件の動機と捜査に関わった方々は、多かれ少なかれどこかしらに後ろ暗いところを抱えて、そのために最悪の事態を招いたように、私は感じます。貴方も、まさしくそう感じているのではないですか。

 この事件に関わった者で、本当に何も抱えていない人は、毛利小五郎探偵本人と身内と、あと警視庁刑事部の警部級以下末端の方々くらいにしか思えません。

 羽場二三一さんが表向き死んでいた件、岩井紗世子主任検事がその事案を内々に収めたために統括検事に出世した件、橘境子弁護士が羽場さんを思うあまりに公安への反発から毛利探偵を有罪に追い込もうとした件。よくもまぁここまで見事に歯車がズレまくるものだと感じました。】

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 12:15 都内某所

 

 怪文書である。長文の怪文書である。

 A4サイズの罫線の入ったルーズリーフを、2枚横に並べたA3サイズ。裏表両面使っているから、都合A4紙4枚分。表面の左上のタイトル欄にて『日下部誠に関する怪文書 ある魔女の告白文』と題されているのだから、紛れもなく『怪文書』である。罫線の中はみっちり綴られた手書き文字、丸っこい、若い女性のものに見える筆跡だ。ボールペンか何かで書いた紙をコピーしたらしい怪文書である。

 今から15分前の正午ちょうど、羽場二三一の目の前の何もない空間に数枚が出現し、光りながら降ってきた。出所の知れない文書なのだから、その点でも紛れもなく怪文書である。

 

 最初から変だとは思っていた。二三一が画面越しに連行される日下部さんを見届けたのは昨夜のこと、その夜の内に、あの人は留置場から忽然と消え去ったらしい。抵抗するよりは大人しく法の裁きを受ける方がずっと『らしい』人なのに。

 監視カメラにも何にも痕跡を残さない、気が付いたら姿がない、というあり得ない消え方をしたそうで、公安は今、血眼になって捜索に当たっている、らしい。官舎の自室にも、職場にも、何か行先を掴む手掛かりがないかと捜索が入っている、らしい。

 二三一も「何か行先に心当たりがないか」という聴取を受けたが、いくら訊かれたところで本当に心当たりなどなかった。昼前になってようやく落ち着いてTVを確認できたが、これも「テロ犯が留置場から消えた」実況、正午からは「警視庁記者クラブからの生中継準備中、変な紙が大量に降ってきた」実況で騒ぎになっている。二三一の場合のように、組織ぐるみの偽造自殺で実はどこかに行った、とかいう話では無さそうである。

 

 さて、手元の怪文書である。二三一の頭で、内容を把握するのに15分掛かった長文である。

 何も知らない者のイタズラ、ではなさそうである。昨夜あの場所で境子に別れを告げられたこと、境子が公安の刑事に激怒して泣きながら去っていったことを知っている者はごくわずか。日下部さんは境子と入れ違いで連行されていたから、境子があの屋上に駆けて来たことは知っていても、自分達の別れ話の詳細までは見てはいないはずだ。

 

「羽場さん。ちょっと良いかな、緊急事態が」

 

 紙が降ってきてからの数分間、慌ただしそうに、おそらく職場との通話を終えて話しかけてきた男性は、二三一と近い年頃の、今日が初対面の公安の刑事である。今日の聴取を終えてからも、二三一にぴったりとくっついている。二三一にとってはあり得ない想像なのだが、そもそも日下部さんがこの二三一の居場所を知るはずがないのだが、それでも日下部さんと自分が接触するのではないかと想定し、ひとり貼り付いているのである。護衛と、監視。両方兼ねている立場に違いない。

 

「何か、ありました?」

「ここに降ってきた怪文書とどうも同じ文書が、正午に、警視庁と周辺1km圏内に派手にぶちまけられた。室内・路上問わず、『何もない空間から、訳の分からない紙が突然降ってきた』と大騒ぎになっているそうだ。

 まず警視庁はTVの中継通り、ひどい。廊下も部屋もトイレもエレベーターも、全ての階の、とにかく床という床に、少ない場所でも足首まで埋まるレベルでこの怪文書が大量にばら撒かれた。公安部に限らず警視庁全体が騒動になっている」

「えぇぇ……」

 

 現在のヒトの技術で、そのようなぶちまけ方は出来ないだろう。荒唐無稽な考え方だが、ヒトならざる力の介入でなければそのようなことは出来まい。

 だとしたら、誰が、何のためにこの文書を配ったのか。あぁ、単純に考えれば、書かれたことがすべて真実だという前提に立つならば、……魔女が、日下部さんとの取引の一環で暴露文書をぶちまけたという、その構図に違いない。あの怪文書の言い回しを借りれば、……確かに当局が揉み消せない大暴露だ。それほどまでばら撒いたならば、もう、揉み消すことなんて出来ない。

 

 ならば。

 二三一は、これから公安検察の協力者だったことの生き証人、かつ、公安警察がやった偽装自殺という行為の生き証人という立場で、表舞台に立たねばならないということか。

 公安検察・警察を貶めるのを承知で、それでも魔女は、世間への大暴露を望んでいる。日下部さんの犯行動機が世間に明かされること、それが当面は荷物持ちとして愛されつつ生きるしかないらしい、あの人の安寧に繋がることなのだ。

 

「羽場さん、どう思った?」

「……魔女とか、そういう凄い存在に惚れられるくらい、あの人は魅力的だったのだなぁ、と、感じました」

 

 公安の人達は激怒しているだろう。特に日下部さんの犯行動機を曲げて、何とか事態を収拾しようとしていた人達は。

 ただ、二三一の心の中には、日下部さんを責める感情は湧いてこなかった。何が何でも仕えさせるつもりの得体のしれない相手だ、どうせ仕えるなら『自分が生み出した損害を癒すこと』を申し出るのはもっともではあったし、二三一が同じ状況に直面した時は、同じような決断に転ぶだろうという想像もつく。

 正義の名の下に道を踏み外した行いは、出来る限り補償されるべきだと、そう思ったのか。外道な行いに至った経緯も明かすことと引き換えに。……日下部さんらしい、と、二三一はそう思う。

 何より、羽場二三一は、今に至っても、本心から日下部誠という男性を尊敬しているのだ。

 

「……そうか」

 

 何とも描写し難い表情をした刑事さんは、一言、それだけ言った。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 12:25 警視庁 捜査1課

 

 バサバサドサドサと瀑布のように突如天井から降ってきた『それ』は、あらゆる箇所に散乱して落ち、歩行に支障をきたすくらいに、ひどいところでは目暮の腰と同じ高さまで積もっている。そのままだと業務上非常に不都合なので、とりあえず部屋の状況を一通り写真に撮って業務妨害の記録とした後で、ついで歩行ルートで邪魔になる部分の紙を優先して取り払う作業に進めること、……というのが、全庁的な指示だった。

 文書を独断で捨てるのは止めるように、ともと言われており、取り合えず目暮を含めた刑事総出で、空いているスペースの一角に紙を寄せていく作業。その最中に鳴った電話を、佐藤が取る。

 

「あ、毛利さん、……あ、はい。伝言ですか。……、……分かりました。警部には伝えます、はい」 

 

 ガシャン、と、周囲の注目を浴びつつ受話器を置いてから、目暮に報告が来た。

 

「目暮警部。毛利さん達は、妃先生の事務所に一家全員移動されたそうです。こちらから連絡したい場合は、そちらにするように、とのことでした。あと、公安部への伝言を頼まれたのですが、……毛利さん曰く、『私に何か言いたいことがあるなら、警視庁として話をまとめてから来い』と」

 

 本当に伝言するんでしょうか、と、言わんばかりの言い方だ。気持ちは分らんでもない。どう考えてもそっくりそのまま公安部に伝えるしかないし、そうするべき状況だと佐藤も分かっているはずなのだが。

 

「その伝言は、お前達がするしかないな」「く、黒田管理官」

 

 目暮の真後ろから出てきた声。目の前で高木が驚きの声を上げて、慌てて目暮は振り返る。怪文書が降ってくる前から部屋の中に居て、怪文書が降ってきてからもずっと声を落としてどこかと電話していたらしい上司が、己の部屋からようやく出てきて、後ろに居た。

 

「目暮、それと白鳥。上から、私に、『お前達2人の目につくところで、何もせず待機せよ』と指示が来た。

 監察からここに人を寄こしたいらしい。怪文書が局地的に酷い積もり方をしていて手間取っているそうだが。……もしかしたら逆にお前達の側に、『私と一緒に監察官室に来い』と指示が来るかもしれん」

 

 ――合同の捜査会議中に風見という刑事が乱入し、かつての部下の逮捕を強く強く進言した姿を目暮は己の目で見ている。怪文書の記述、その点だけは事実に沿っていると、目暮は自信を持って言える。文書が全て正しいのなら、この人は……。

 

「おっと、今ここで誰から何を訊かれようと、一切答えられんぞ」「……分かりました」

 

 通常は無いような指示の事、そもそもの爆破事件の事。問い詰めたい思いは山ほどあるが、その思いを胸の奥に飲み込んで、目暮は答える。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 12:30 警視庁前 路上

 

 地検と警視庁の距離はわずかなものだが、そのわずかな距離の車道は、かなり混乱していた。無論のべつまくなしに降ってきた『怪文書』のせいである。

 一応降らせる側に車道を邪魔しないという意識はあった、らしい。が、歩道と建物内限定でも、本来の地面が見えなくなるぐらいにぶちまけられた文書は、完全な無風状態でもない限り車道にも飛ばされる。自動車は否が応でも慎重な運転に徹せざるを得ず、結果的にかなりの渋滞を招く。

 

 風見裕也は、正午のその時、日下部の件で地検の公安部に出向いていた。単に、主任検事室を舞台とした徹底的な捜索要員、その内の1人であったというだけだ。

 そんな時にあの『怪文書』が降ってきて、その場の一同が凍り付いたえげつない内容を、警視庁に報告。直後の指示は何故か『全員その場で待機せよ』だった。ようやく10分ほど前に至急警視庁まで戻るように指示が来たが、地検の有様は、連絡で聞いた警視庁内部と負けず劣らず酷かった。風見の周囲では誰も押しつぶされたりはしなかったが、高くても胸の高さ辺りまでいびつに積もった物が雪崩になれば脅威そのもの。建物のエレベーターも何故か止まり、廊下と階段は、やはり人か、そうでなければ積みあがった怪文書であふれていた。これで地検から出るのにも一苦労。出た瞬間、同僚と一緒に疾走、と相成る。

 

「……ハ」

 

 浅く短い呼吸を1つ吐く。思考は、頭の中で全力で巡っていた。

 これからどうなるのか、怪文書を読み終えた瞬間に悟った、確定的な未来が一つあった。黒田・降谷・そして風見、少なくとも怪文書に名前を出された3名は、公安という職場から排除されるということ。

 指紋を捏造して被疑者をでっち上げる行為はどう考えても明らかに違法、これまでは毛利探偵の心ひとつで何とかなった話だが(部署は違ってもOBだ。その辺りの機微は通じると降谷さんは踏んでいた)、こうして世間に(つまび)らかにされた以上、全くの不処分という結論で済むわけがなかった。

 秘すべき違法捜査は、世間に出てしまえば、つまるところ『不祥事』という単語にしか帰結しない。3人の中では風見はまだ末端という部類だから、切り捨てられる『だけ』で終わるという目が、今のところはまだあるが、……この3名で言えば、降谷さんが一番危ういか。かなり高確率で実刑沙汰だ。

 

 隣の同僚と目を合わせ、頷き、ピッチを落として、警視庁の敷地へ飛び込む。更に短い呼吸を一呼吸、外から見える1階の様相は、地検と同様に怪文書にまみれている。

 

「ハ……」

 

 短い呼吸を更に1つ。ここまで降ってきたものを隠し通すなんて誰も思ってはいないが、それにしたって物理的に『やりすぎ』だ。紙の量は一体何億枚使ったものなのか。

 

「せめて常識の範囲内で暴露しておけば良いものを……」

 

 思わず口に出た声は、多分、同僚にすら聞こえていない。

 橘境子が口を割るとか、日下部誠が法廷で暴露するとか、あるいは毛利小五郎が真相究明を求めるとか。どちらにせよ公安が言い含めるとか言い含めないとか、その辺りの処理が問題になると思っていた。ヒトですらないらしい自称『魔女』が日下部に惚れた挙句に略取事件を起こし、1対1の取引の末に真相暴露を決めるとか、誰が予想出来るというのだ?

 

 なんと評するべきか、どう考えても公安の統制外で起きた、こんな形の暴露は、――結構、心に来る。

 

    ◇     ◇

 

【5月2日に大量配布した文書には、まことさんを連れ去った直後の出来事はおおよそ網羅していました。

 強いて書いていない事を挙げるなら、狭間の屋敷の水回りを調整した事くらいでしょうか。屋敷の下水道を、時空を捻じ曲げて都内某所の下水施設に繋いだこと。上水道も、同じ方法でこの日オープンした国内某施設の水道から取るようにしたこと。まことさんを屋敷に住まわせることが確定し、私が魔術で飲料水を創ることができない以上、水回りは余所のインフラから持ってくるしかありませんでしたから。

 

 そして告白文を配布した後、あのエッジ・オブ・オーシャンに出没する2時間の間にやった事ですが、まず国家公務員用の官舎にあったまことさんのお部屋に入ったことが挙げられます。

 お部屋の中の家電や細々した雑品類を、魔術で回収し、屋敷に持ち込んだのです。これもまことさんを住まわせるのにあたり、あったら便利だと考えて行った事でした。

 元々は、私が持っていた現金で買うか(約30年前に掘り当てた1億円少々が、まだ大半手元にありました)、どこかから奪うか、無から創るかのどれかでした。それを聞いたまことさんが「そんな事をするなら私の部屋の物をそのまま使って下さい」と申し出たのです。現金を見つけた経緯をかなり詳細に話したらまことさんにドン引きされたので、そのお金を使ってほしくない思いが強かったのだと思います。

 

 お部屋の中で警察の人達に遭遇することはありませんでした。その日の午前中は警視庁公安部から大勢が家宅捜索で踏み込んでいましたが、正午以降は、告白文の大量配布に遭った警視庁本庁舎に引き揚げ、混乱の収拾に当たるよう指示が出ていたそうです。そのため、私がまことさんと一緒に姿を隠してお部屋の中に戻った際、誰一人その部屋の中には居なかったのです。

 家電の回収といってもヒトの引っ越しめいた作業は一切なく、私がまことさんを連れて部屋に出現、必要そうな物を私の力で小型化、そのまま私のポケットに突っ込んで撤収するというだけの作業でした。杖の一振りで物の大きさが瞬時に変わっていく情景に、まことさんは目を丸くしていました。ただ、本人の要望で本当に最小限の持ち出しに留まり、更に捜査当局を案じたために室内に手書きの文を残すことになりました。

 

『・TV

 ・TV台

 ・洗濯機

 ・風呂場の小物類

 ・歯磨き道具(未開封)

 ・室内用物干し竿

 ・衣類用キャビネット(透明、中身カラ)

 ・玄関用小型ホウキ、ちりとり

 

 以上の私物8点、この部屋から持ち出しました。

 狭間の屋敷にて使用します。

 

 5/2 13:15 日下部誠 と魔女より』

 

 ほとんどがらんどうの部屋で、私が提供したルーズリーフを冷蔵庫に押し付けてマジックを走らせるまことさんに、逐一律儀な人だと感心したものでした。ちなみに最後の『と魔女より』だけはメモの記述に触発された私の文字です。ルーズリーフはマグネットで冷蔵庫の表面に堂々と貼り付け、私達はお部屋から去ったのです。

 

 翌5月3日に警視庁刑事部が仕切り直しで再び捜索に入った際、すぐにこの紙の存在に気付かれ、当然「魔女がこの部屋に来たはずだ! 痕跡を探せー!」と大々的に鑑識が入る騒ぎになったそうです。

 警察側でそんな騒ぎを生み出したものの、最終的に、このお部屋からの持ち出し行為自体について何か罪に問われることはありませんでした。持ち出した物に官舎備品は無く、全部まことさんの私物。家宅捜索で押収となった物は部屋になく、つまり部屋に残されていた物は押収されていない物。お部屋に出現することも居住者の許可付き(この時点で、まことさんと国の間の入居契約は、書類上まだ解消されていませんでした)、ということなのです。

 

 屋敷に戻ってからは持ち出した物をそれぞれ必要な場所に据え、TVはリビングで台に据え、すべて東京基準でTV電波が入ってくるよう屋敷を調整しました。そこでTVの電源を点けて、まことさんはその日の正午に、私の告白文がどれだけ配布されたのか、初めて知ることになります。

 映し出された臨時ニュースの、東京地検のロビーの情景で顔面蒼白になり、「魔女さん、まさかこれだけばら撒いたんですか!? 紙に潰されて死者が出てもおかしくはないですよ?」「圧死者なんて出るわけないわよ。ヒトの頭にはそこまで落ちないように調整したもの。私、自分の力でも取返しが付かないことはしない主義だし」「……そうですか。それなら良いですが」というやり取りがありました。

 

 それからしばらく、集中してTVを見つめていたまことさんは、朝方に取引を結んだ時や、私が告白文を記していた時以上に、じっと考えこむようになりました。私が話し掛けても、返事をする前に思考する時間が明らかに増えていました。

 エッジ・オブ・オーシャンに行った時くらいに、様子は元に戻りました。その辺りくらいから、まことさんが私を呼ぶときの呼び方が変わったのです】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 13:59 エッジ・オブ・オーシャン 国際会議場前

 

 爆破された国際会議場の前には、建物自体からはだいぶ離れた形で規制線が張られていた。マスコミや野次馬は線から溢れかえるくらいに勢揃いしていて、その有様を眺めながら魔女はニヤニヤと笑っている。

 見た目20歳の美人である。結い上げた茶髪、白い肌、品のある黒いワンピース、黙っていれば深窓の令嬢くらいには見えるであろう。『ホウちゃん65号』と呼ぶらしい箒に横座りして、浮いている。トランクを抱えた日下部誠の横で。

 

 規制線の『中』に立っているのだから、本来、自分達は咎められるはずである。が、魔術で秘されているから、マスコミ等のヒト達は存在に気付かずに無反応でいるらしい。ブルーにうっすらと光る膜、という日下部にも分かりやすく可視化された『姿を隠す魔術』は、魔女が愛用するものであるらしい。杖の一振りで魔術を纏ったり解除したり出来るもので、互いに認識できない状態にもやろうと思えば出来るらしい。が、今はそのような設定は行っていないそうで、だから日下部は、魔女の姿を認識出来ている。

 

「まことさん、流れ次第では、途中で貴方の姿をこの人前に晒すかもしれない。マスコミがここまで殺到したらその前に転移で逃げるから、晒さないけど。……承知しておいてね。この場所での作業が終わったら、貴方のスーツを買いに行きましょう」「……はい」

 

 囁きの声に囁きの返事を返す。すると魔女は微笑んで頷き、そのまま日下部を置いてゆるゆると飛んで行った。

 

 マスコミ達の手前まで飛んでから杖を一振り、姿を露わにし、ざわめきとフラッシュの目の前で、両手を広げてからの丁寧な礼を見せる。

 雑多な呼びかけが彼女に飛ぶ。報道機関各位も野次馬も、色々と訊きたいことがあるらしい。それらの声を無視して彼女は回れ右、残骸の如き国際会議場に相対し、杖を一振り。

 

 ヒュン!

 

 音は無かった。光っただけだった、建物全体が瞬間的に光った、無残にも爆破された廃墟が、一瞬の光の後で、……気が付けば新築の在りし姿に戻っているという、そんな奇蹟の御業。

 

 規制線の向こうがこれまで以上に騒がしくなる。彼女は箒に座したまま再度旋回し、マスコミ達のカメラに目線を戻した。この日下部の位置からはもう彼女の背中しか見えないが、テンション高そうな雰囲気で目一杯両手を広げ、何か言いたげなのは分かる。

 

「ごしゅじん、さま」

 

 日下部は小さく声に出してみる。呼び掛けるのではなく、口の中で単語を転がすように。己の立ち位置で一番ふさわしい呼び方は、これ、だと思う。この呼び方に慣れるべきだ。

 ペットショップのケージ越しで買う犬を選ぶように、気まぐれに近い形であの留置場から連れ出されたのだ。ここで見せた力もきっと気まぐれ程度で結んだ取引のため。ただ、そんな気まぐれであっても、ヒトには絶対に出来ず、彼女だけには出来る類の偉業には違いない。

 この取引を申し出たのは日下部自身だ。今までもこれからも決して対等になることはなく、日下部が仰ぎ見る構図が続くだろうが、それでも取引は公然と成立している。この女性は、……見た目がヒトでも実質はヒトではなく、当然倫理観が日本人のそれとは明らかにズレている。そんな女性が、犬を愛するように自分を愛そうとしている。……ならば自分は忠誠として返すしかない。犬らしく。

 

 日下部ひとりの視線を背中に受け、正面からは大勢に注目されて、彼女は嬉々として叫ぶ。

 

「……関係者各位、見てるー!?」

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 14:00 エッジ・オブ・オーシャン 国際会議場前

 

「関係者各位、見てるー!? 警察、検察、その他諸々、関わったヒト達にー! 私は、ここで宣言するわ!」

 

 野次馬、マスコミ、警察、大勢が居た。数えきれないほどのフラッシュと視線を受け止めながら、ホウちゃん65号に腰掛けて宙に浮いた私は、満面の笑みを浮かべて絶叫してやった。

 

「取引は成った! まことさんはもう、私のものよ!」

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 14:01 東京地方検察庁

 

 ベシッ

 

 TV画面を凝視していた視界が、突然何かに覆われた。岩井紗世子は反射的に顔面に張り付いたそれを払い除け、そして右手で掴んだ『それ』が、覚えのある物である事に気づく。

 

「岩井くん、それは」「……私のジャケットですね。きのう着ていましたが、燃えました。日下部がスマホを発火させた際に引火して」

 

 最高検から派遣されてきた男に、そう答える。

 紛れもなく、あのIoTテロ行為で被害を受けた物品の一つであった。机の上に広げてみる。間違いなく盛大に焼けたはずであったのに、今このジャケットには焦げ跡一つない。

 胸ポケットには何かが入っているようで、確認してみるとやはり昨日燃えたはずのスマホがあった。取り出してみる、……これも燃える前の正常な状態だ、ボタンも何も触らず、ジャケットの横に置く。

 

 信じ難い事象を目の前にしても、岩井の心に動揺はなかった。予想通りの事では、あったから。

 あの怪文書が降ってきた騒動から2時間、上の命令で一応机周りだけは片付けたというこの部屋に隔離されてから、1時間と少々。この間、延々と動揺し続けるような性根はしておらず、今は一応、冷静だ、と、……思う。

 

 怪文書中の記述、特に魔女自身に関する記載がどこまで真実か分かりはしないが、ヒトが持ち得ない技術を持っていることは、正午の騒動の時点で悟っていた。

 TV画面の向こうで笑顔になっている『彼女』の姿。それと、『食べ物と人命以外の被害を回復させる』という取引には誠実であるらしい、という情報。どちらも心の中のメモに書き留めておく。

 もっとも、その考察が生かされるかどうかはかなり怪しいところだ。あの怪文書の記載のせいで岩井はここに隔離されている。ああいう風に暴露された以上は、とりあえず自分が職を追われること自体は既定路線。最高検の幹部が誰であろうが、絶対にそうする。

 

「ぁのー、非常に言いづらいのだけど、岩井さん。貴女の、あたまの上……」「?」

 

 最高検が派遣してきて今ここで岩井と対面している男女各1名、女性の方が本当に言い辛そうに告げ、岩井は言われたまま己の頭に手を伸ばす。何かが頭の上に乗っており、これも覚えのある感覚で、ハッとして右手で掴んだまま、思わず机に叩きつけた。

 ブラジャー。紛れもなく己の物である。確かにあの事件のせいで被害を受けた物品だった、確かに!

 

「これも、私のです。昨日火の粉が飛んで紐が少々焦げましたが、今は何も痕が無いようです。……透明ではない袋か何か、お持ちでしょうか?」

 

 湧きあがったムカつきを押し殺して報告する。流石にそのまま机の上に晒すのは憚られ、広げたジャケットの下に押し込む。

 他人のブラジャーをこう返すのは、魔女か日下部のどちらかが、岩井に喧嘩を売っているということなのか。あるいはただの偶然か。あるいは配慮が無いだけか。ひょっとしたら、明らかに度を越した怪文書の暴露と言い、魔女は本気で底意地が悪いのかもしれない。

 

「分かった。ちょっと待っててくれ、岩井くん。……ところで、私達の目には、服が降ってきた時に、君の髪が一瞬光って突然伸びたように見えたんだが、……君の火傷はどうなっているのかな?」「……え?」

 

 言われて初めて気付く。

 胸や肩周辺、火傷のヒリヒリした感覚を、そういえば一切感じない。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 14:02 警察庁 監察官室

 

 己の左肩があの建物のように一瞬だけ光り、直後に痛みが消えた。思わず撫でる。……怪我がすべて消えている。昨日、あの坊やと国際会議場のガラスに突っ込んだ時に負った傷が。

 

 ――この傷も、日下部の犯行による被害だと見做されたのか。

 椅子に座る降谷零は心の中でだけ呟き、しかし口には出さない。魔術がどれだけ他者の身体を癒せるものなのか、徹底的に調べるべきだろう。変な副作用が出たら困るな、と、思考が浮かぶ。

 

 自分の真横のTV画面では、魔女が大写しになっていた。

 『Houchan No.65』とデカデカと銘を入れた2mほどの長さの箒。物理法則に逆らって地上1mほどの高さに浮いたそれに、彼女は腰掛けている。右手に細い杖を持ったまま両手を広げて、箒に座ったまま、いかにも優雅でしかし大仰な一礼を見せる。

 

 カメラの注目を浴びる中で恐る恐る制服警官達が取り押さえようと走りかかる、その前に顔を上げた魔女の杖の一振りの方が早かった。走りかかった彼らの足元も、また、一瞬だけ光った挙句に酷い泥濘と化した。局地的に水田のようになった地面に足首まで嵌まり込み、皆、先に進めなくなる。

 その彼等をからかうように嘲笑を浮かべながら飛行(?)を続けて、カメラから少し遠ざかった場所で、更に杖を一振り。彼女の真横、これまで何も居なかったはずの場所に誰かが出現した。がっしりした体格の中年男、古びたトランクを抱えた、……日下部誠!

 野次馬の歓声が沸き起こった。恐怖よりも驚きを遥かに多く含んだ声をBGMとして、ズームであの男が映される。留置場に居た時のままの恰好の彼は、突然浴びせかけられた注目に少し戸惑っているように見えた。腕の中のトランクをそのままに、カメラに向けてやるせなさそうに視線を下げ、しかし魔女が彼の手を強く引いて笑いかける、更に杖を一振り。

 

 本当に跡形もなく、彼女達は瞬時に姿を消した。

 

「……何でもありだな、この、魔女」

 

 降谷は監察官と対面する形で椅子に座らされていた。デスクの向こう側、同じくTVを見ている監察官の顔からは、乾いた笑いしか出てこない様子がうかがえる。降谷だってそうだ、乾いた笑みを浮かべて空を仰ぐしかない。

 

「本当に、単に『惚れたから連れ出した』んでしょうね……」

 

 あんな風に力を使える者が、公安・検察・裁判所、etc、ヒトの組織を意に介するはずがない。本当に『やりたいことをやる』のに、陰謀や工作の類に手を染める必要性は一切無く、単に魔力を振るえばそれで良い。怪文書にあった日下部との取引も、申し出を受けて『やりたいと思ったからやった』、……そして公安が全力を挙げて行おうとした営みを暴露しやがって、結果、違法工作を暴かれる、訳だ。

 

 唯一の救いは、毛利探偵の所に居候しているあの坊やが、一時は間違いなく協力者であったのに、怪文書中で全く触れられていないことくらいだ。おそらく、魔女は日下部の世評にしか関心がなく、故に完全に無視された、のだ。日下部を単純な異常者にしたくないだけで(したた)めた文書だったので、羽場の件を含む公安の違法捜査だけを暴露して良しとした。あの子に触れる必要性が全くなかったのだろう。

 橘弁護士辺りから、あの時警視庁屋上に居たことが毛利家の面々にバレる恐れはあるが、……あの子は、工藤新一君に悪役の疑いを押し付けて対処するカバーストーリーを、昨晩の時点で自力で作り上げていた。魔女が何か再暴露しない限りは、あの坊やは上手く切り抜けるはずだ。

 

 さて、元に戻って魔女の事を考える。

 ヒトの組織が間違いなく繰り出すであろう声明も、あの女は記載通り『ドッグランで犬の群れが吠えてやがる』程度の感覚で捉えるだろう。何を言っても、世間には白けた雰囲気しか生まれまい。

 上司、同僚、部下。この職に就いてから関わってきたあらゆる顔が思い浮かび、これからどうしようもなく苦労するのだろうなと同情じみた感慨が沸く。その苦労するであろう環境に、己が身を置くことはない。もう確定的だ。

 ただひたすらこの味気ない部屋で天井を仰ぐ。……どうあれ、こんな滅茶苦茶な横槍のせいで、社会的な生命ごと諸々の隠蔽工作が破綻するとは、全く思ってもいなかった。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 14:04 妃法律事務所

 

 壊れたまま放置されていた壁面のTVが、エッジ・オブ・オーシャンの建物のように一瞬で正常な状態に戻ったのを認めた時、しばらくして妃英理の頭に浮かんだのは、――そういえば『これ』も、あのIoTテロの被害に遭った物品だったわね、という、間の抜けた思考だった。ノートパソコンの画面越しに見た光景が衝撃的過ぎて、一時的に思考がマヒしたらしい。

 

「……ねぇ。僕さ、分からないことがあるんだけど、弁護士としての妃先生の考えを、質問しても良いかな?」「ん?」

 

 英理と同じソファーに座しているコナン君が、顔を上げずに唐突に言った。正午以降、家族の中では一番ショックを受け、更に昨夜のことで全員から説教を受ける羽目になり、ずっとしょげていた子だ。今日、この子がここに来て初めて出た質問に、英理は向き直る。

 

「留置場に居た人がこんな風になっちゃった時、弁護人って付くの? 怪文書の内容が正しければ、弁護人には会いに来るかもしれないんだよね。日下部誠さん」

「んー。……ちょっと、『分からない』としか言いようがないわね、それは。起こったことが前代未聞だし、それを決めるのは私ではないし。

 ただ、『仮に弁護人を付ける流れになっても、弁護士としての私が関与する事は一切ない』とだけは言えるわね。私は『事件に巻き込まれた人の、妻』だから」

 

 小五郎を見やりながらの回答に、注目を受けた側が無言で頷く。蘭は納得した顔をして、コナン君も同様に頷きを見せて顔を上げた。

 

「そっかぁ。……おじさん。警察や検察の人達って、心情的には『弁護人を付けた方が良い』ってたぶん思うよね? 会いに来た時に身柄を確保できるかもしれないし、それでなくても何か手掛かりが掴めるかもしれないから」

「心情としては、そうだろう。捜査する側は、ダメ元でも弁護人とつるんでおびき出して確保、くらいは一度考えるんじゃねぇか? そんな話に弁護人が乗るかどうか知らねぇけどよ。

 あと、警察が思いつきそうなこととして、……俺は今思いついたが、魔女には作れない物や欲しがる物で、釣る、くらいだな。降ってきた文書が正しいなら、あの(アマ)は飲み物食い物を作れねえ。そんなのが要る生き物なのかどうか分からねぇが、日下部の方は、普通に人間だ。普通に飲み食いしねぇと死んじまう」

 

 この言葉に、蘭がおずおずといった様子で指摘した。

 

「お父さんの言うことは分かるけれど、それで箒で浮いてたあの人、捕まえられるのかな? 身柄を確保しようとする前に逃げそうに見えたけど……」

「分からん。そもそもあんな力を持つ犯人、誰も相手にした事ねぇんだぞ。根本的に相手の力をどうこう出来ねぇと、解決なんざ無理だろうさ。ただ俺は、相手の裏をかく手掛かりをどうにかして掴むチャンスはねぇか、って意味で言ったんだ」

 

 言っている事は誰でも即座に思いつく程度のことでしかないが、内容はもっともだ。ただし、英理は別の視点で指摘を入れることにした。もっと重要なことが他にある。

 

「ただ、今の私達にとって一番大切なのは、『これからの警察がどう動くか予想する事』ではなくて、『これからの私達がどうするか決める事』でしょうね。

 ねぇ、……橘先生も含めて、みんな、私の考えを聞いてほしいのだけど」

 

 橘境子弁護士をチラリと見やる。この若い弁護士は、自分達のソファーと別の椅子に座り、今は顔面蒼白で茫然自失になっている。

 ……彼女の話によると、この人の下にも自分達同様に怪文書が降ってきて、直後から公安や報道機関より携帯電話宛に鬼のような着信があったものの、一切取り合う気力が湧かず、しばらくの間街を放浪し、我に返ってこの事務所に来た、らしい。

 ここに来た時は30分くらい前で、その時はもっと取り乱していた。水を勧めてちょっと落ち着いてからはベラベラベラベラ、小五郎と英理の追及に半泣きになりながら、諸々の情報を、聞いていない部分まで、――コナン君が昨夜警視庁の一番危ない時間帯にウロチョロしていた事まで、白状したのだった。

(ちなみにコナン君によると、工藤新一君の真似をして勝手に燃え上がり、捜査員まがいの事をしている最中に警察の人に保護され、その時は警察の人手も足りない状況で「危ないからとりあえず目の届くところに居なさい」と言われて現場に留め置かれたらしい。

 ……コナン君はそう言っているが、犯人の正体を見抜いた新一君が、現地に行くように指示したのではないか、と、蘭を含めて全員が疑っている。何しろ「有希子おばさん達には内緒にしてて。ひとりで夢中になってた僕が悪いから!」と懇願してきたのだ。英理と小五郎にはその懇願を聞き入れるつもりは無論ない、言っている事が本当だとしても、そんな風に燃え上がる子を推理の手足として使うのは危ない。あとで有希子に連絡を入れる予定だ)

 

 名指しされた橘弁護士が、ボウっと顔を上げる。こちらの言葉を聞く気はあるらしく、その様子を認めた英理は、机の上に置いていたノートパソコンと、その横の怪文書を指差す。パソコンの画面は、今もなおエッジ・オブ・オーシャンの国際会議場の模様を映し出して実況を続けている。

 

「私達が行う行動としては、『私達の目線で、実際に起きた事をすべて世間に明らかにする事』が最善だと思うの。

 毛利小五郎が一時逮捕されていて不起訴になった事、申請された証拠に心当たりのない指紋があった事、探偵事務所に安室という助手が居て、ポアロのアルバイトだった事。さらに、怪文書が降ってきてからのあの助手の行動、どれも覆せない事実よ。

 私達の目線で事実であると分かっている事項、判断がつかない事項、……それぞれを分けた上で並べ立てるしかない、と、私は思っているのだけど。出来れば会見形式で」

 

 小五郎は目を閉じて腕を組み、考え込んだ。

 長く、長く、どれほど葛藤と逡巡を抱えたのか想像できないほどの間をおいて、目を閉じたまま答えが来る。

 

「そうするしかねぇんだろうな。警察にしても、これだけ派手にバラされたものを隠蔽するなんて考えねぇだろう」

 

 ヒュッ、ヒッともつかない、場違いな呼吸音がした。橘弁護士からだ。どうも、……過呼吸交じりでしゃくり上げつつある。彼女の精神が大丈夫なのか、ちょっと不安だ。自身の恥すべき部分を大々的にばら撒かれたのだから、こうなるのは分かる。

 だが、英理は同情はしない。公安の協力者になった事は、とやかく言うつもりはない。しかし、弁護人が弁護対象をあえて有罪に追い込もうとするという行動は、巻き込まれた者が夫でなくても、職業倫理上、擁護できない。

 

「橘境子弁護士。同業者として、別に代理人を立てることをお勧めします。もう私達は、貴女とは直に話すべきではないのでしょう。公安でも、それ以外の伝手でも良いから、とにかく代理人を立て、代理人経由でやりとりする事。それがお互いにとっても良いのだと、私は思います」

 

 今後弁護士業界で生きていけるのか分からないくらい未熟で、若い同業者への、一応の義理として。英理はそれだけ言い切った。

 

    ◇     ◇

 

【関係各所は、この日、表向きの情報だけでも目まぐるしく動きました。

 

・15時頃、検察がまことさんを懲戒免職処分にしたことが報道される。

 

・同時刻頃、探査機はくちょうがカプセル切り離し前の状態で空に戻ったらしい旨、NAZUより公表される。地球への帰還作業を元の通りにやり直す、とも。

 

・18時より、妃英理弁護士と毛利小五郎探偵が、代理人と共に記者会見に臨む@妃弁護士事務所

 

・同時刻より、橘境子弁護士が代理人と共に記者会見に臨む@弁護士会館の会議室

 

・19時頃、警視庁・警察庁が、正午に降ってきた告白文で名指しされた者達3名(黒田・降谷・風見)の実在を認め、本人達から事情を聴いている旨が報道される。証拠の捏造と、羽場さんの偽造死亡の件で、両庁の公安部を大々的に捜査しているとも。

 

・同時刻頃、最高検察庁が、同じく名指しされた地検公安部の統括検事(岩井)をはじめ、公安部の検事達から事情を聴いている旨が報道される。

 

・20時頃、生きた羽場二三一氏が、代理人と共に記者会見に臨む@弁護士会館の会議室

 

 多少思慮が出来る人は正午の騒ぎの時点で見抜いていたし、この段階にまで至れば誰でも分かった話です。検察と警察は、私と世間に対して完落ちバンザイせざるを得なかったのです。

 得体のしれない力を持つ私を、とてもとても刺激できないと判断したのです。壊れた建物を一瞬で直せるなら、頑丈な建物を一瞬で壊すことができる。怪文書をばら撒けるなら、溶鉱炉の中身でさえもばら撒くことができる。そんな推測があったようです。この国の国土の中に限っても、壊れたら困る建物・死なれたら困る人、大勢在りますし、居ますから。

 

 短期間の内に、あれだけ誰にとっても全方位的にスットコドッコイな、残念としか言えない結果になるなんて、この時は誰一人として思っていなかったのです。

 私も、まことさんを心ゆくまで荷物持ちとして愛でられると思っていました。まことさんを(うしな)うなんて、それも、目の前であんな(うしな)い方をするなんて、想像だにしていませんでした。

 

 

 関係各所が目まぐるしく動いていたこの時、私は、まことさんのスーツを買って、それからデートをしていました。そこで、表向きの動き以外にも色々あったことを書いておこうと思います】

――あの『彼女』の手記より

 




※12/1 一部のフォント設定を変更しました。※

次回予告:

デート先のお店で、ご主人様は喋りかけた。

「ちょっと思考実験というか相談良いかしら?」
「何でしょう?」
「私、屋敷で言った通り、出来ないこと以外は何だって出来るわけよ。ヒトの魂の在り方とか身体の在り方とか、見ようと思えば見えてしまう訳ね。例えば妊娠の有無とか。
 私のスタンスとしてね、本人が気づいていない妊娠に普段口を出すことは無いの。放っておいてもいつかは気付くものでしょうし」
「そうですか。スタンスとしてはありだと思います」
「で、ここからが問題。放っておくと母子ともに死んでしまうような場合って、本人に知らせてあげるべきなのかしら」

 次の瞬間、杖を振るっていないのに、光る文字が机に湧いた。

【この文字、私と貴方しか読めないから顔を上げずに読んでほしいの。顔を上げずに。
 私の後ろに座っている、私達狙いのショートカットの女刑事さん。同じ席で張り込んでいる後輩さんと独身同士でお付き合い中らしいのだけど、子宮外妊娠継続中なのに無自覚なのよね。
 長く放っておくと母子ともにあっけなく死にそうなんだけど、知らせるべきかしら?】

「……えー」

次回タイトル:生き方と魂に関するエトセトラ(仮)、――鋭意執筆中!


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中編 生き方と魂に関するエトセトラ

※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

※未成年に対する暴力描写(小五郎のおっちゃんの平手打ち)、性的関係の描写(魔女関係)があります。


 5月2日 18:12 警視庁 捜査1課

 

 TVのニュース枠は、きのうからずっと日下部誠関係の事件で占拠されている。

 単に、リアルタイムで報じなければいけない事が多すぎるのだ。はくちょうの落下未遂事件から、日下部誠の逮捕、逃走(=正確には留置場からの略取)、そして本日正午の怪文書事件、14時に被害の一斉回復、と、刑事ですら時々振り返らないと何が何だか分からなくなるほど、事件は現在進行形で動き続けているからだ。

 

 最低限一通りの片付けが終わった捜査一課の片隅で、目暮達はTVの中継に見入っていた。注目を向ける先もまた、現在進行形の事件の一端だ。

 ――毛利小五郎探偵と妃英理弁護士の会見中継。

 

 怪文書事件で、警視庁公安部自体が疑いを掛けられている立場となったために、魔女の日下部略取事件を含めた一連の事件の対応は、刑事部の方にお鉢が回る事態となっていた。

 当の公安部からも、目暮達に内々に情報提供がなされている。曰く、『安室(降谷)は、怪文書の記載の通り潜入捜査中の身だった』、『怪文所の記載は全くもって正しい。降谷達はいずれ処分されるだろう』、かつ、『毛利探偵事務所には正午よりも早く怪文書が降ってきていたらしい』。

 公安部の行動には、目暮にも思うところはある。が、それは監察がどうにかする話だ。刑事部の捜査一課の者として、魔女が引き起こした事件の捜査に集中しなければならない。何か少しでも手掛かりがあれば、という願望込みで毛利夫婦の会見に注目する事態となっているのである。

 

 TVに映し出されている妃英理弁護士の事務所は、簡易な会見場に仕立て上げられている。代理人と妃英理弁護士を左右に並べて、中央に座る毛利小五郎が原稿を読み上げていた。

 原稿は時系列順らしい。既に、一時逮捕された後で不起訴で釈放された件には(心当たりがないらしい証拠の件を含めて)触れられている。毛利君のダミ声の朗読は、本日昼頃に起きた騒動に進んでいた。

 

「……続いて、今日の昼に起きた事を御説明させていただきます。

 関係者はご存知だと思いますが、うちの探偵事務所は私の持ちビルの2階で、自宅が3階にあります。1階はポアロに貸しております。

 今日の昼前、その3階の自宅に妻を含めて家族が勢揃いしている時、安室君が、ポアロのアルバイトの恰好で訪ねてきました。『釈放祝いです』と言って、家族の人数分のポアロのサンドイッチとスープを持って来たんです。普通にお礼を言い、みんなで食べようとした時でした。

 私達一家と安室君が居るリビングに、あの怪文書が突然降ってきました。

 ……その時降ってきた怪文書の枚数は、トータルでも十数枚ほどでした。TVで言っていた警視庁の状況のように、ドサドサと降ってきて積み上がるという物ではありませんでした」

 

 ――嫌なタイミングの暴露だな。

 目暮は正直にそう思う。毛利夫婦が事実に著しく反する脚色をするはずがない。ここで喋っていることが事実なのだろう。

 話を聞く限り、魔女は、単純に冤罪被害者と加害者が鉢合わせるタイミングに合わせて、言い逃れをさせないように情報を与えたように思える。毛利君達か、安室君(正しくは『降谷君』らしいが)のどちらかを監視、全員揃った時に、あの魔女は修羅場か何かを期待して暴露文書を降らせた、……というだけなのか。

 

「怪文書が降ってきた具体的な時間は覚えていませんが、11時50分台だったと思います。正午よりも前なのは間違いありません。

 訳が分からないなりにあの文書を読み通して、『おい、どういうことだ安室透。これは本当なのか。お前は俺をハメたのか?』と、私が思わず呼び捨てにして詰め寄った時に、ちょうどTVの正午の時報が被りました。……この私の台詞の後半あたりから、妻がとっさに録音をしていました。

 詰め寄られた安室君はしばらく無言でした。多少手が震える状態で怪文書を目の前に大きく広げて、視線が文面に釘付けになっていました。点けっ放しにしていたTVが『警視庁記者クラブで変な文書が降ってきた』と言い出してから、安室君はハッとした顔になって、急に土下座をしました」

 

 毛利君は極力感情を抑えて読み上げているようだが、抑えきれていないことが声の端々から感じられて、それが余計に生々しい。

 目暮の横、高木が「うわぁ」と小声で呟く。浮かんでいる感情は、同情か、憐憫か、驚愕か。毛利君とも安室君とも面識があるのだから、読み上げられている情景は鮮やかに頭に浮かんでいることだろう。

 

「安室君は頭を下げたまま、声を張り上げて、『お願いします。今この状態の僕の立場では、言い訳も説明も何も出来ません。察して下さい。皆さん、何も言わずにこの事務所から離れて下さい。すぐ、ここにマスコミの取材が殺到するはずです。その前にお願いします』と、そう言いました。その時の安室君は、土下座の姿勢で頭を下げたままそれだけ言い切りました」

 

 正体を暴かれた直後の潜入捜査官の咄嗟の台詞としては及第点、なのだろうか。

 一番避けたいのは、己自身が逃げ場のない状況で何の備えもなくマスコミに晒されること。毛利家の皆を気遣っている風に振る舞い、それを隠れ蓑にして職場に戻ろうとする、そういう喋り方だ。……どんな空気だったのだろう、その時の毛利家のリビングは。少なくとも英理君は(多分コナン君も)、そういう言い回しの意図を即座に見抜ける頭がある。

 

 見計らったように英理君がマイクを口に寄せる。そうして原稿を読み上げた。

 

「次に口を開いたのは私でした。『何を言っているの。それで通用すると思っているの? 毛利小五郎は、訳が分からないまま冤罪に巻き込まれた被害者よ。正しくは、貴方がマスコミから逃げたいだけではないの?』と言いました。そこで夫が私を止めました」

 

「安室君に一言だけ尋ねました。『お前の言う通りにする前に、一つだけ訊かせてくれ。後でお前の職場から、正式な説明が俺にあるんだな?』、と。安室君の返事は『はい、それは必ず』でした。私は『分かった、それなら良い』とだけ答えました。

 妻は更に安室君に詰め寄ろうとしましたが、私が制して、家族全員に急いで家から出るよう指示しました。

 私達は探偵事務所を出て、この弁護士事務所に移動しました。安室君は、うちの家を出たところまでは見届けましたが、それからどうなったのかは知りません」

 

 目暮は知っている。あの青年は警察庁にすぐ引き揚げた。身柄は警察庁の監察が抑えている。

 

「最後に、私、毛利小五郎の、私自身の考えについて、一言述べさせて下さい。

 安室君は、公安に属している事を事実上認めた、と、私も妻も解釈しています。TVも入っている会見でこうして述べているのです、違うのならば公式にお知らせを頂きたい。

 辞めてだいぶ経つとはいえ私は警察OBです。この怪文書事件が無ければ、身に覚えのなかった証拠の件も含めて、警察を何も追及せずに黙っていた未来があり得たでしょう。

 しかし現実として、隠されていた情報は、あの魔女にああいう形で明かされました。それも、少なくとも私が知り得る範囲に関しては事実らしい情報です。あの魔女に無意味な反論をしてまで事実を捻じ曲げる意義は、私には感じ取れません。ですから、会見を開くことに決めました。……上手く言えるか分かりませんが、私は、そういう考えです。妻は少々違うようですが」

 

「私は弁護士です。正義と法と、何より人権を重んじるからこそ、この職に就いています。証拠をでっち上げ犯人を仕立て上げるという行動が本当であったのならば、絶対に許せません。

 暴露された時に違法性を問われて慌てるような事態になるくらいなら、そもそも最初からそんなことをするべきではなかった。私は強くそう思います」

 

 元刑事である探偵の夫、若い頃から弁護士であった妻、両方の考えを対比するように披露し、中継は終わる。会見が続くかどうかは分からないが、TVの中継はここまでだ。

 ……当初から期待薄だったが、魔女の捜査という面で新たに手掛かりになりそうな情報は無い。強いて言うならば『毛利家には正午前に怪文書が降ってきたらしい』という公安部の情報は、『安室君/降谷君』の報告がベースだったのだろう、という確信が取れただけ。

 

 毛利家の皆への同情と、公安部への感情をひとまとめに、妙な疲労感が湧く。色々と面倒な煮詰まり方をしそうな思考を意図的に逸らすべく、今後の警察上層部の反応を想像してみる。

 毛利家へのバッシングは無いだろう、明らかに被害者だ。あるならば公安部と日下部誠に対するバッシング、これは違法行為が本当ならばどちらも止む無し。魔女に対して敵愾心を煽るプロパガンダ、……多分、無い。恐ろしくて敵には回せまい。

 何しろ目暮達への指示が『警察として体面を損なわない捜査を一通りやれ。全力を挙げた結果、ヒトでは及ばない相手だと分かったとしても、それはそれで良しとする』だったのだ。

 

 目暮は元の席に戻り、溜息一つついて自席の椅子を引く。……直後、やって来る情報に、急速に頭を切り替える羽目になるとも知らないまま。

 

 ――魔女と日下部誠を発見したとの通報あり。杯戸町の路上を仲良く歩行中。

 2人とも、『意識しないと姿を見落とす』状態になっている。

 

    ◇     ◇

 

【まことさんのスーツを買った後、別の洋服屋さんで私の分の服も買い、スーパーで翌日の朝ご飯を買った。更に私が花を欲しくなったので花屋さんで一本だけ買った。

 それから夕飯を食べに杯戸町の洋食屋さんに行き、私がメロンパフェを食べ、まことさんがスパゲッティセットを食べた。洋食屋で私達を尾行していた刑事さん達と揉めて、洋食屋の店主さんに迷惑料込で3万円払った。

 払ったお金の流れだけを一言で言えばそれだけなのですが、もっと具体的な情報をこの手記に書いておこうと思います。

 

 国際会議場をああいう形で去った後、無防備に街中を歩き続ければ、通行人に通報されまくり、たちどころに警察官が殺到して騒ぎになると分かっていました。ですから、私達2人とも魔術で対策していました。

 単に姿を隠していた訳ではなく、見る人が『魔女&日下部誠を探そうと意識し続ければ、ふたりの姿を認識できる』・『意識しなければ、ただの赤の他人として見落とす羽目になる』、そんな認識阻害の魔術です。

 

 入店したスーツ屋さんは、朝から仕事でニュースを見ていなかったのでしょう。私もまことさんもただデート中の2人組だという認識のようで、警察に通報することはありませんでした。その後の洋服屋さんも同様です。

 最初に私達に気づいたのは、洋服屋さんから出てきた後にすれ違った通行人です。当日14時にあんな中継が流れた直後でしたから、路上を歩きながら強く意識して私達を探す人が居ても不思議ではありません。その人はギョッとした顔をしてから、小声で110番通報していました。

 黙ってついてくる他人に害は無いので放置していました。しばらくしたら、私服刑事達が私達を尾行し始める、という流れに至ったのです。その時既に18時は過ぎていました。

 

 意識して私達を尾行し続けていた刑事達は、全員が警視庁本庁の刑事部に所属する方々。総数は10名を超えていました。尾行当初から見抜いていました。

 その内、一番近くを歩き続けたのは、女性1名+男性3名という集団でした。私が女であるために、万一に備えて女性を含めたのであろうと思います。刑事達は4名であるけれど、実はもっと生命が在ること、その有様も私は見抜きました。

 

 ちょっとお節介をしたい気分でした。私が力を顕示したい気分だった、そう言い換えても良いと思います。予定通りにスーパーに寄ってまことさんの朝ご飯を買った後、少し考えて花屋さんに行きました。

 流れ次第では刑事さん達に渡すこともあるのだろうかと思いつつ、その時の売り物の中では一番向いていると思った、ブルースターの花を、一本だけ買ったのです。花屋さんも、私達が当時TVでリフレインされまくってた者達だとは気づきませんでした。

 

 それから向かった先は、杯戸町のとある洋食屋さんでした。その洋食屋さんは食券式で、売り上げ不振でゴールデンウィーク直後に閉めることが決まっていた、こじんまりとしたお店でした。

 夕飯のかき入れ時なのに私達が入店した時には誰も客が居ない状態で、私は食べたいと思っていたメロンパフェを、まことさんは少し迷って(安そうでお腹に溜まりそうなメニューを選んだらしいのです)スパゲッティセットを、それぞれ食券機で選び、席を選んで座りました。

 

 刑事達も、もちろん私達を追いかけてお店の中に入ってきました。入店したタイミングには時差があり、4名全員が揃ったのは、私達にそれぞれ選んだメニューが提供されたタイミングでした。

 「取り押さえるタイミングをずっと見計らっていたけれど、その前に魔女が日下部に向けて大事な話を始めやがったので、取り押さえる前にひたすら話させて情報を引き出すことにした」、刑事達は、その時はそう捉えていたはずです。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 18:55 杯戸町 とある洋食屋

 

 入口のガラス戸に、近日中に閉店するという告知が貼ってある店だった。白鳥の目から見た第一印象は、……口には出せないが、『あまり儲かっていなさそうな洋食屋』。

 うらぶれた小規模な店内、カウンターはともかくテーブル席は全部で3つしかない。うち1つを魔女達が使っており、その彼等を追う自分達の入店で、テーブル席は全て埋まる形となる。入口から見て、『白鳥□千葉』・『日下部□魔女』・『佐藤□高木』の席順だ。他に客は無い。

 

「まことさん、今から割と大事な話をしましょう。私ですら危なっかしくて手が出せなかった、因縁の話。守秘義務を守り切れるかどうか確証が持てない相手には、たとえ弁護人であっても話してはいけない話よ? 一応、ここの店主には聞き取れないようにはしているけれども」

 

 店主にアイスコーヒーの食券を差し出して、白鳥が席に着いた瞬間、隣のテーブルから聞こえてきた言葉がこれである。千葉君と目を見合わせ、頷いた。

 千葉君は無表情で、集音機とか諸々の機器入りのカバンを椅子の下に置いた。これで日下部側からの音声はリアルタイムで本庁に流せるはずだ。別テーブルの佐藤さんもまた魔女側の音声を狙い、最初から同様の対処を済ませている。

 今回、どちらかというと身柄の確保よりは情報収集を念頭に置いた尾行である。黙っていても重要な話を聞き出せるのならば、それに越したことはない。

 

 千葉君の真後ろ、白鳥から見れば目の前の方向にあるテーブルで、魔女はメロンパフェに挑み始めつつ日下部に話を振っている。彼女は昼に国際会議場に湧いた時と同じ服で、髪型だけはポニーテールに変わっていた。大きな箒は持っていないが、前髪を箒の形の髪留めで留めている。

 日下部の表情は全く分らない。白鳥は、魔女はともかく日下部の顔まで見える位置ではない。

 

「……私がこの世界に初めて降り立った時、降り立った場所は、孟宗竹ばっかり群生している竹林の中だった。今の茨城県でね、現在は完全な住宅地になってるわ。

 当時は色々やらかして元の世界から追放喰らった直後で、名前を奪われたことも、自分の魂がああいう風に変わったことも、どっちも悔しくて、とにかく泣き叫んだものだったわね。裸にローブ一枚着た状態で、竹林の中でとにかく喚き散らしたの。季節はちょうど今頃で、……竹しか見えない青空の光景だけは、未だに忘れられないの。明治時代よりもっと前、元号が嘉永の頃の話よ」

 

 『嘉永』、――確か、江戸時代末期、孝明天皇の頃の年号だったか、と、昔何かで読んだ日本史の知識を思い出す。日下部が40歳で、魔女は(この世界だけで)その4倍は生きている、そう怪文書に書いていたはずだ。160年前の日本は、まだ江戸時代だった。ざっと考えると年齢計算に矛盾は無さそうだ。

 店主がコーヒーを2杯持ってきた。黙って受け取って、千葉君と一緒にひたすら聞き耳を立てる。この場で唯一口を開いている女は、パフェのてっぺんのメロンをスプーンで攻略しながら、いかにも懐かし気だ。

 

「たまたま周りに人は居なかったけれども、もし誰かに目撃されていたらとにかく化け物だとは思われたでしょうね。当時は、今ほどヒトに近い見た目ではなかったから。まぁ、それから私は、この日本列島でヒトが生きていく様をずっと見てきたの。何だかんだ言ってここのヒトの在り方には愛着があるから、だから、ここのヒトの営みが根こそぎ滅ぶようなことは私は望まない。そのことを前提にして聞いてね」

 

 魔女は、パフェに向けていた目線を日下部の方へ上げた。

 

「もう一度念を押しておくわ、……今から話す話は、守秘義務を守れるか確証が持てない相手には話しません。復唱して頂戴」

「え? ……『今から話す話は、守秘義務を守れるか確証が持てない相手には話しません』」

「よくできました」

 

 戸惑いながら指示に従う日下部に、子どもを褒めるように笑いかける。メロンからこそぎ取った果肉をとても美味そうに齧って、飲み込んで、……こちらが全く知らない情報を言ってのけた。

 

「まことさん。きのう警視庁で確保された時のことを思い出してほしいの。私はあの捕り物を見ていた訳だけど、貴方が警視庁を駆け上がっていく『前』に対峙していた相手は、公安の人だけではなかったわよね? 大人ではない、子どもが居た。その子どもはどこの誰なのか知ってる?」

「毛利小五郎探偵の所に居候している坊やですね。信じられない位に鋭い追い詰め方をしてきた子どもでした。公安の刑事とは、かなり息が合っていましたね」

 

 ――待て。それは初耳だぞ。

 白鳥は内心でだけ突っ込みを入れる。コナン君がきのう警視庁で日下部を追い詰めていた、そんな話を自分達は一切聞いていない。日下部を追い詰めたのは公安部の者のはずだ。

 だが魔女が、……何より、現場に居た日下部本人がそう言うのならば、本当はそれが正しいのか。

 

「そうね。……私が話したいのは、その坊やのお話。あの坊やは、とんでもなく厄介な性質の犯罪絡みの因縁を魂に抱え込んでいるから。たまに私がこっそり覗き見したくなる、本当にややこしい因縁をね」

 

 魔女は水を一口あおり、皮だけになったメロンの切れ端を皿の上に除けた。スプーンを握り直して話に戻る。

 

「あの坊やが居候している経緯を毛利探偵の取り調べの現場で訊ねたことはあった? 預かっている側は、どんな風に話していた?」

「職務で聞いた事なので話したくはないのですが、」

「実の両親が海外に出かけている。知り合いの阿笠博士経由で預かるように頼まれた。養育費として1,000万円貰っている」

「……ご存じなんですね、ご主人様」

 

 少しは元検事らしい面があったのか律儀に言い淀む言葉は、食い気味に言われた情報であっさりと翻される。教えるも何も、言い当てられたら否定しようがないのだろう。

 ちなみにこの経緯は白鳥の記憶とも合致する。以前に毛利探偵や目暮警部から聞いたことがあった。不気味にも個人情報を言い当てた魔女は、ホイップクリームの山を崩し始めながら、にこやかだ。

 

「表向きの事情はその通りだけど、実はもっと深い事情があるのよ。取り調べで聞き取っただけでは絶対に分からない、ロクでもない事情でね。何しろ、預かった側が全く把握してない事柄なの。どんなものなのか想像出来る?」

「……ある種のギフテッド教育か、何か、でしょうか? あの子に探偵としての才能が有って、それを見抜いた親御さんが、黙っていても才能を伸ばしてくれるだろうと思って毛利探偵に託した、とか。……ロクでもないということは、……あの子が、才能に溢れすぎているせいで実は身内に捨てられた、とか」

「残念ながら大外れ。実のところ、言い当てられる訳がないもっとヘビーな話だけど」

 

 日下部の推理はまだ常識の範疇だ。確かに内容は重いが、もっとヘビーな話とは、果たして。

 ――答えは、バニラアイスにスプーンを差し込みながら返ってきた。

 

「あの坊やはね、……名前を呼びたくないから今は『坊や』で通すけれども、魂の芯から探偵として生きようとしている男の子なの。

 坊やが因縁を抱え込んだのはね、トロピカルランドで、ジェットコースターで遊んでいた人の生首が飛ぶ殺人事件が起きた日。その日、園内で坊やは殺されるはずだったけれど、因縁を抱えるのと引き換えに生き延びた」

 

 そう言えば少し前に聞いた覚えがある。『ジェットコースターで生首が飛んだ事件』、目暮警部が何かの拍子に愚痴っていた気がする。どういう話だったか、白鳥は古い記憶を掘り起こす。

 魔女は小さなアイスを何口かで一気に食べつくす。それだけの時間を会話の溜めにしてから、とんでもない情報を言ってのけた。

 

「警察の記録に残っているはずよ。『ブカブカの服を着た子どもがトロピカルランドの園内で倒れていた。警察官が保護したけれど、変なことを言っていた。目を離した隙に居なくなった』って。

 坊やが保護された時に警察官に言ったのはね、『トロピカルランドの園内で、怪しげな男が企業を強請(ゆす)っている現場を目撃した。取引を見るのに夢中になっていたら、別の男に後ろから殴られた。意識が朦朧としている状態で毒薬を飲まされ、目が覚めたら身体が若返っていた』、……って話。荒唐無稽すぎたから、話を聞いた警察官が笑い飛ばしたの。実は本当の事を話していたのに。

 そうして元の年齢から小学1年生にまで戻ってしまったその坊やは、自分を殺そうとした男達との因縁を抱え込んだ。

 殺そうとした側は全く無自覚だったけれど、抱え込んだ因縁自体が、放っておいても次から次から刑事事件を引き寄せてしまう、っていう性質を持っていた。かつ、それで引き寄せられる事件の半数以上が殺人事件というオマケ付き。坊やは、自分の魂に纏わりついた因縁を自力で解消するつもりで、警察を頼らず、唯一信頼できる大人の、お隣さんの阿笠博士の所に身を寄せた。で、そのお隣さん経由で居候先を決めた」

 

 ――待ってくれ。

 すんでのところで叫び出しそうになる。『魂の芯から探偵として生きようとしている男の子』、『お隣さんの阿笠博士』、その条件に当てはまる『坊や』を、白鳥はひとりだけ知っている。

 千葉君もグラスを握ったまま呆然としている。同じ『坊や』に思い至っているのだろうか。

 その『坊や』は、トロピカルランドである殺人事件を解決した後、急に居場所が分からなくなったらしい。思い出した、目暮警部が前に言っていた情報だ。では、『コナン君』は幼児化した姿で、そうなる前は、つまり、……。

 

「……中々に信じられない話ですね」

 

 日下部は、声を聞く限りは半信半疑らしい。『工藤君』とも『コナン君』とも長く付き合いがある身分ではないから、話を聞いた時の感じ取り方は自分達とは違うはずだ。

 そういう自分自身だって、情報を完全には受け止めきれない心情だ。己の状態を自覚しつつ、警察の者として白鳥は考える。話に引き込まれすぎないために、真に受ける前に警察がするべき事を。

 

「でも、事実なのよ、まことさん。そういう流れだから、あの坊やの今の名前は本人が決めた偽名だし、あの坊やの表向きの家族も架空の存在よ。本当の両親は別に居て、ある時、毛利家に居候している坊やを止めようとしたけれど、結局は坊やが反発して両親の方が引き下がった。毛利探偵には何も言わず、養育費名目で、実は迷惑料のつもりの1,000万円を引き換えにしてね。

 坊やも両親も非常識な決断をしたけれど、それでも、殺そうとした側との因縁の解消に向けて、周辺の被害が一番少なくなるという意味でのベストルートを無意識に選んでた。……逆に常識に従って動いたら、どこかのタイミングで盛大に巻き添えを生みながら破綻していたでしょうね。

 当時でも、今でも、どのタイミングでも、頼られたとしても警察中心では解消出来ない因縁には違いないの。むしろ、坊やが主体的に解消する以外にはどうしようもない因縁であるのよ。

 今も、あの坊やはベストルートを突き進んではいるわ。少し前までは見ていた私が誰かに話すことさえ、どう転ぶか分からない位に危なくてややこしい状況だった。今はここで話しても問題ないくらいには因縁は解けかけてる。坊やが諦めた瞬間に破綻一直線だけどもね」

 

 ――警察として看過できる話では無い。『コナン君』の両親の実在を調べて、いや、一番手っ取り早いのは『工藤新一』の指紋やDNAとの照合か。照合結果が魔女の言うことと合致するのなら、工藤家の小説家と元女優の夫婦、それから事情を知っているはずの阿笠博士、彼等から事情を聴かねばなるまい。聴いたところで協力してくれるかは未知数だが。

 因縁を解消できるとか解消できないとか、そういうオカルトチックで見えない事象について、警察では一切分からない。見える範囲で魔女の言うことを検証して、その検証を踏まえて、見えない範囲の情報をどれだけ信じるのか、……それは白鳥には決めきれない。上層部の判断だ。

 

「……もし、その因縁が解けないまま破綻した場合、どのくらいの巻き添えを生むのです?」

 

 日下部の質問を少しだけ褒めたくなった。この答えは判断の一助にはなるだろう。

 ベラベラ喋っているあの女は、ガラスの器の中にスプーンを突っ込んだ。サイコロ状のメロンの果肉を掬い取って口に入れてから、世間話をするような口調で更にとんでもない情報が来る。

 

「少なくともこの国の統治機関を本気で駄目にするレベルの被害は生み出すでしょうね、今でも。坊や本人は無自覚だろうけど、半端に解消出来ない状態で放置された因縁が、あの子どころか周辺を大いに巻き込みながら暴発してしまうから。

 これまで私が見ただけでもそういう危機は何度かあったわ、坊やが協力者を従えて全部切り抜けてきたけれど。何より、坊や自身が努めて有能な探偵であろうとしたのだから。その協力者だってナチュラルにこの国の主権を無視して、ナチュラルに坊やの目の前で発砲する他所の国の捜査員とか、非常識な面々が多い訳だけど、……結果として今に至るまで破綻を回避してベストルートを突き進んできたのだから、坊やの事は、私、結構評価しているのよ?」

 

 そこで一呼吸置いた。メロン風味らしい色のスポンジ生地を器から掬い取って、咀嚼。

 

「あの坊やの状況は過酷すぎて、敵意を持ちようがないくらい哀れだと思ってるわ。本質として、坊や自身が何とか探偵としての熱意を持ち続けて、中心的な立場で因縁を解消する、それ以外の結末だとバッドエンドになってしまうから。そんな厄介な因縁を魂に抱え込んでしまったのだから。

 バッドエンドの中で一番被害が大きくなるのは、坊やを無視して他のヒトの手で因縁を解消しようとすること。次いで、あの坊や自身が死んだり、探偵として無力化されたりすること。

 どっちもかなりの被害を生むわ。坊やを狙った組織がどこであれ、それこそ国だろうが、最初に坊やを殺そうとした組織だろうが、間違いなく再起不能なレベルで組織ごと悲惨な目に遭うし、その周囲にも飛び火する。……本当に過酷でしょう?」

「……。過酷すぎますね」

 

 説明を聞いた日下部の一言は、『コナン君』だけでなく彼を取り巻く状況全てを踏まえた感想で、とても正直で的確だ。

 『バッドエンドの回避のために、未成年者を事件の渦中に置き続けろ。非常識で居続けろ』、捜査当局が取るべき態度としては確かに、酷に過ぎる。話を丸ごと信じるならば、……まずあり得ない決断だと思うが『コナン君』を世の中から排除する決断も出来ない。

 魔女は頷いた。クリームまみれのフレークを笑顔で口に入れる。

 

「ええ、過酷よ。あの坊やは根っからの探偵で、時々は警察を激怒させるような非常識な振る舞いがある子で、それでも、あの子が探偵の熱意のままに動くことが一番ハッピーエンドに近づくことなんだから。

 ハッピーエンドを志向するのなら、あの坊やはこれまで通り探偵で居続けるしかないの。かつ、出来れば毛利探偵の所に居候し続ける形で、それが出来ないのだとしても米花町には住み続けるのも条件ね。そうでないとハッピーエンドには至らない。

 周りの人は、ハッピーエンドを願う限り、あの坊やが探偵として主体的に動くのを黙認し続けなければいけない。周囲の人も、坊やが魂に纏わりついた因縁を自力で解消する時まで、引き寄せられる刑事事件に巻き込まれ続けるしかない。

 おまけに若返ったことそのものが身体に負担がかかる出来事だから、あの坊やは根本的に長生きできない事が確定している。あの坊やの本当の母親は、まことさんより何歳かは若い人なのけれど、今現在のその母親の年齢を越えて生きることは、まず、ないでしょう」

 

 ガラスの器を彼女は掴んだ。底の方に掬い取りたいものがあるようで、スプーンを細かく突っ込みながら締めくくる。

 

「取り合えず、守秘義務厳守の危うい話はここまで、……変な顔してるけど、何か他に訊きたいことがあるのかしら?」

「いえ、とても美味しそうにメロンパフェを食べながら話されるので、……少し驚いただけです」

「だって本当に美味しいんもの。これ。そういう貴方はスパゲッティセットほとんど手を付けてないじゃないの? しっかり食べておいた方が良いわよぉ。今夜、夜も夜でやりたいことあるから」

「……えー、いったい何をやるのかお伺いしても?」

 

 明らかに恐る恐る訊いているらしい質問に、これまでの話とは別の意味で爆弾のような発言が投下された。白鳥を含め刑事達全員がコーヒーを吹きたくなるような。

 

「ベッドの上で、惚れている女が男相手にやること」

「え……?」

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:07 杯戸町 とある洋食屋

 

 ――待て! 誘拐犯とその被害者が交わすような会話じゃないだろう!?

 高木の背中にぞわりと寒気が走った。佐藤さんも、驚愕で目を見開いている。彼女達をこのまま放置するわけにはいかない。2人は、どちらも『そんな事』をさせて良い身分ではない。どこかで止めなければいけない、……だが、止められるだろうか。日下部はともかく魔女の方はヒトの身で何とか出来る存在なのかも分からない、それでも、警察として、……放置は駄目だ!

 

「まさか、まことさん。私の想いがプラトニック限定だとても思ってたわけ!?」

「え!? へ!? ……えっ? え……!?」

「ま、まことさん。水飲みましょうか。落ち着いて。別の話をしましょう。えーっと、そうね。ちょっと、……思考実験というか相談良いかしら?」

「な、何でしょう?」

 

 高木の前方で日下部はあからさまに狼狽え、魔女も何故かつられるように狼狽えた声を出している。この女の声が演技なのかどうか、高木の位置では分からない。演技なら大した女優だ。

 魔女はまた水を一口あおったようだった。一息吐いて、話をガラリと変えた。

 

「私、屋敷で言った通り、出来ないこと以外は何だって出来るわけよ。ヒトの魂の在り方とか身体の在り方とか、見ようと思えば見えてしまう訳ね。例えば妊娠の有無とか。私のスタンスとしてね、本人が気づいていない妊娠に普段口を出すことは無いの。放っておいてもいつかは気付くものでしょうし」

「そうですか。スタンスとしてはありだと思います」

「で、ここからが問題。放っておくと母子ともに死んでしまうような場合って、本人に知らせてあげるべきなのかしら?」

 

 これまでの話よりはとっつきやすい話題だろう。

 誰の事を訊いているのか分からず、日下部の話をしていない事も明らか(何しろ日下部は男だ。妊娠できない)だから。求められているのは一般論としての答え。回答しやすいはず。

 

「それは、……その妊娠が、正常な形で進んでいないケースなんですか?」

「ええ、そうね。具体的に言えば、子宮外妊娠が継続中なのに無自覚なの。子どもの生命は今の医学では確実に救命不可能で、母親の生命は、放っておけば明日の朝にはたぶん死ぬ。しかも、母親は堅めの仕事に就いてる独身さん」

「……私の意見を訊きたいのですよね? ご主人様」

「ええ」

 

 少しばかり日下部は考え込んだ。少し間をおいて、いかにも優等生らしい答えを告げる。

 

「その話を聞いた上で放置するのは、少しどころではなく気まずいですね。本人に教えた方が良い、と私は思います。魔女としての貴女の顔は今日とてつもなく売れていて、ご主人様がヒトを超える力を持っていることも誰もが知っている状況です。例えば箒で浮きながら話すとか、貴女の正体が何者であるのか一目瞭然の状態で、その女性本人に教えてしまえば、……言われた側は、半信半疑でも医者に掛かろうとするのではないでしょうか?」

 

 魔女は、スプーンをパフェの器に放り込んだ、らしかった。

 

「なるほど、説得力あるわ。それも一つの解でしょうね。では、そうしましょう」

 

 彼女はスッと立ち上がり、こちら側、高木達の居る席の方に向いた。椅子から完全に離れて1歩歩いて、こちらのテーブルへと腕を伸ばす。

 不意に、嫌な予感を感じた。店長は男性、店員は他に無く、張り込みの人員は佐藤さん以外は全員男性だ。ここにいる女性は、魔女と、高木の目の前に座している『この人』しかいない。

 

「警視庁本庁の捜査一課強行犯三係の佐藤美和子警部補。ずっと私達を尾行していてこの会話を聞いている佐藤美和子警部補。今まことさんに相談したのは貴女のことよ。

 貴女が尾行し始めた時から気付いていたの。妊娠9週の子宮外妊娠中なのに無自覚なのね、貴女。放っておいたら明日の朝には死んでるわよ?」

 

 ――後から振り返ると。この時はあまりの意外性に動けなくなっていたのか、あるいは魔女が自分達を動けなくしたのか、高木は自分自身でも分からなくなる。

 ただ、店主も聞いていたらしい朗々とした魔女の声を、誰も止めなかった。それが外形的な事実だ。誰もが動かない中、右手に杖を、左手に花屋で買った青い花を持っている魔女は、花の方を佐藤さんの目の前に差し出したのだ。

 

「この花は差し上げましょう。貴女と、心当たりが有るはずの高木渉巡査部長と、どう頑張っても育ちようがない男の子に」

 

 この時、高木は、……たぶん唖然とした顔をしていたのだと思う。間抜けな顔を晒して、目の前のあの魔女を見上げていたのだ。

 佐藤さんにとっては、右斜め前方から得体の知れない言葉と花が差し出された構図だった。

 

「ブルースターの花、あの花屋の売り物の中では一番貴女達にふさわしいと思った花よ。5月のこの時期に売り物になっているのがちょっとビックリだったけれど」

 

 まるで善行をしたかのように薄く笑う魔女は、右手に杖、左手に花。右手の杖は、高木が腕を伸ばせば届く位置に無造作に、こちらのテーブルの傍に――。……!

 

 気が付けば、立ち上がった高木は、魔女の右腕を引っ張ってひねり上げていた。

 杖は掴み取ってへし折る、掌で感じる感触は割り箸よりも細くて軽い。あっさりと折れた感触に、本当にこれほど脆いのかと感じてしまうくらいに。

 「動くな! 千葉君は日下部を! 佐藤さん大丈夫ですかっ!?」、白鳥さんの声だ。佐藤さんを見下ろす。テーブルに伏していた、お腹を抑えているようだ。肌が蒼白で脂汗が浮いている……!

 

「大丈夫、です」「大丈夫には見えないわよ、貴女」

 

 何とか出せたような小声の報告に、見たままのツッコミが魔女から入る。腕を掴まれているというのに声色はどこまでも呑気だ。

 ともあれ今やるべきは魔女の身柄の確保、日下部の片腕を持ち上げて立たせようとしている千葉と、手錠を持って近づいて来る白鳥さんを横目に、掴む力が、……手に、力が、入らない。魔女の右腕が難なくすっぽ抜けていく。

 

「杖を折って安心しているの? 私にとってはただのお飾りなのに。無くても力は振るえるのよ、……さて」

 

 イタズラっ子のような笑みだった。その笑みのままに魔女は1歩後ろに遠ざかる。

 高木の身体は、動かない。……動きたくとも動けない! 何より彼女の身柄を抑えるべき時なのに……!

 

 目の前で完全に自由な身となった女は、左手に花を持ったまま、右手で肩に掛かったポニーテールを軽く後ろに払う。表情を一変させ、自分達を冷たく睨み回した。

 彼女の左横、宙に光が生まれ、何かが生えてきた。

 ――ファンタジーでよく見るような斧槍(ハルバード)だ。全長2mはありそうな厳つい西洋武器は宙に浮き、誰も触っていないのに回転を始める。バトントワリングのバトンのような、素早い縦回転。

 

「私のものに許可無く触るな。不快だ」

 

 ドスの効いた声だった。言い切った瞬間にピタリと回転が止まる。『Halchan No.1』と大きく刻まれた柄と、大きな刃、魔女の険しい横顔、どれも高木は間抜けな姿勢で身動きできないまま眺めるしかない。

 中空の斧の刃も、強い怒りも、魔女が伸ばした右手の人差し指も、隣のテーブルの傍に立つ後輩に明確に向いていた。日下部の右腕を掴み上げている、千葉に。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:10 杯戸町 とある洋食屋

 

 自分の背丈よりもずっと長い柄と、顔よりもデカくて黒光りする刃が、自分の方に向いている。

 「……うわ」という小声が日下部から漏れた。この男は自分に抵抗する気は無いようだが、千葉に上げさせられた形の右腕が強張っているのはスーツの布地越しでも分かる。当たり前のことだ。

 

 ――刃物を突き付けられたくらいで退くようなメンタルじゃないはずだ、頑張れ、俺。

 千葉は、日下部の右腕を握りしめたまま自分自身に言い聞かせる。ゴツいだけのただの刃物だ。そう思わなければ刑事としてあまりにも格好が悪すぎる。

 

「今の話を聞いて、アンタらをわざわざ見逃す捜査員が居るわけがない。どんな取引をしようが、日下部本人をどれだけ納得させようが、アンタがやっていることはれっきとした犯罪だ。この人は身体をアンタに差し出すために留置場に居たんじゃない、被疑者として刑事裁判の手続きを受けるはずだったんだ。……、この浮いた斧を仕舞え……!」

 

 刑事として正しい言葉を吐く己の声は、結局、最後は震えていた。魔女はその場で邪悪そうな笑みを浮かべ、千葉を指差したまま動かない。斧だけがまた縦に1回転しながら近づいて来る。

 真横の白鳥さんが息を呑むのが分かった。この人も動かないのか、動けないのか。唯一分かるのは、斧であれ魔女であれ、拳銃を使って止めることは出来ないという事だ。止める止めない以前の問題として、この女の背後、射線と重なる店の奥に、呆然として立つこの店の店主が居る。この人は巻き込めない。

 

「正論ね。私がヒトの力が及ぶ存在であったのならば、これ以上ない正論ね。私が強くある限りは無駄な遠吠えでしょうけど。結局あなた方はヒトでしかない。あなた方の力の及ぶ範囲でしか法律も実力も振りかざせないし、今の私を縛ることは無いわ」

 

 それが事実なのだろうか。あれだけの怪文書をぶちまけ、沢山の物やヒトを一瞬で癒し、無から武器を生み出す女。ヒトを越える存在なのは最初から分かっている。――それでも、引き下がるわけにはいかない。

 魔女はそのまま笑みを更に邪悪なものとする、しれっととんでもない事を言いやがった。

 

「一度やってみたかったのよ。ヒトの手首ぶった斬ってからまた生やす、っていうの。私の力なら問題なく出来るでしょうから。ねぇ? 千葉和伸巡査部長」

「! ご主人様! 貴女の実力なら、あえてこの人を傷つける理由は無いのではないですか!?」

「でも、傷つけない理由も無い訳よ。まことさん」

 

 血相を変えた日下部の叫びを、魔女は一言でぶった切る。日下部は絶句して言葉に詰まり、そうこうしている内に斧は更に1回転。あと1回転少々で千葉の手首に届きそうだ。

 彼女を止める言葉を考える、考える。……駄目だ、思い浮かばない。思い浮かぶ言葉が全てヒト向きのそれだ。何も話せない内に、魔女は言葉で追い打ちを掛けてきた。

 

「そもそも貴方の言い方を借りれば、上の指示に反する捜査員も有り得ないはずなのだけどね? 貴方よりも偉い人が尾行の前に言ったはずでしょう? 『出来るだけ魔女と揉めるな。何をしでかすか分からんのだ。どれほどの事を出来るのか分からん状態でつつくことは出来ん』って。

 最後の警告よ、まことさんから手を離して。出来ないのなら、今から貴方を痛めつけます。手首を斬り落としてでも引き剥がして、まことさんと一緒に狭間の屋敷に撤収するわ」

「……何で、貴女、本庁での目暮警部の言葉を知ってるの……?」 

 

 椅子に座ったままの佐藤さんがツッコミを入れた。青白い顔を魔女に向け、声を絞り出している。

 

「今更そんな事を訊くの? 佐藤美和子警部補。あの告白文で『出来ない』と書いたこと以外は、私は何でも出来る。例えば、外に出ない情報の覗き見とか、ね。それが答えよ」

「では、……ここで守秘義務厳守の大事な話をわざわざ話した時、私達が聞き耳を立てていたのも、本庁に音声が流れていたのも、貴女は気付いていた……?」

 

 この状況の千葉が思いつきもしなかった事だ。時間稼ぎなのか情報を引き出したいのか、佐藤さんが精一杯の力で出したかすれ声に、魔女は目線を変えずに硬い声で答える。浮いた斧もそのままだ。

 

「ええ。むしろそれ狙いで話していたと言って良いでしょうね。話題に出した人は、この世界で10本の指の中に入る位ややこしい因縁を抱えて、延々と戦い続けてきたの。これからも熱意と能力を持ち続ければ、ハッピーエンドになる目は維持できるくらいにはなっていた。ここらで背中を押さないと、流石に本人も周りも気の毒だと思ったから。

 私のこの場での情報公開は、バッドエンドにもハッピーエンドにも転がりやすくなるブーストよ。ひとまずバッドエンド一択にはならない。……実は、今日のここの会話を私も録音しているから、録音データを話題を出した張本人に今日中に贈呈するつもりなの。警察に伝えて本人に伝えないのは非礼だものね。

 ところで、貴女はこれ以上喋ると本気で生命が危ないから黙っていた方が良いと思うわ。今だって相当無理してるでしょうに」

 

 佐藤さんへの口調は柔らかいが、こちらをまっすぐ向いて指差す姿勢はそのままだ。

 高木さんも、白鳥警部も動けない。佐藤さんは戦力として使えない。……そして自分は、日下部の腕を掴む手を離さない。膠着した構図だ。大きな斧も、目の前で浮いたまま引きはしない。

 ――魔女の言う通り、両腕を切断して、生やされて、この被疑者を連れ出されて、それで終わるのだろうか。魔力に屈服した記憶が長く残る気がする。自分の手首から先を見るたびに、この女の力の強さを反芻する羽目になる気がする。

 

「千葉君、手を離しましょう。魔女さんも、この斧は引っ込めて頂けますか? 今は佐藤さんを病院に連れていくことを優先しましょう」

 

 長いような短いような膠着を打破したのは、白鳥警部の声だった。

 

 表面上は穏やかでも悔しさを隠せない指示だ。千葉は、従うしかない。日下部の右腕からゆっくりと両手を離す。

 呼応するように目の前の斧が動く。ジャンプするように大きく後ろに飛び退き、長い柄が魔女の右手に収まった。みるみる小型化して彼女の掌の中へ。そのままワンピースのポケットに収まる。……流石、魔女、か。

 日下部は即座に腕を下ろしてあからさまな安堵の溜息を吐き、今まで掴まれていた辺りをさすり始めた。かなり強くしがみ付くような形だったから、服の下には掌の形の痣でも残っているかもしれない。――悪いことをしたな、と、心の中でだけ呟く。

 

 魔女は元々の席に座る、そのまま無言で佐藤さんの方へ顎をしゃくった。

 『死にそうだ』という評価をそのまま表すように血の気が引いた先輩は、口からうめいているのか喋っているのか分からない声をわずかに出しながら、フラフラと椅子から立ち上がろうとしていた。高木さんが目の前に出て制止、……意識が飛びかけているのか、ぐったりともたれかかる。

 

「佐藤さん、大丈夫ですか!?」

 

 高木さんが叫ぶように言った。身体を受け止められた佐藤さんからは、全く応答がない。

 

「……! 魔女さん、店の外でここを見ていた捜査員にも、貴女は何か力を振るっているのではないですか!? こんな状況でも誰も入って来ない、外とのやり取りも一切できない! 流石におかし過ぎる!」

 

 白鳥警部が大声で訊いた。確かに、おかしい。

 

「勘が良いのねぇ。……この店から通信を飛ばしたり、外に出たりする分は、妨害は無いわよ?」

 

 首をすくめながらの、その答えは、つまり、――外からの通信とか、入店とか、妨害しているのかよ。この女。

 

「……千葉くん、佐藤さんを抱えて外へ出て下さい! 高木くんもです! 佐藤さんをここに居させるべきではないでしょうから! 外の人達の状況次第ではその分も救急車が必要かもしれません、片方が抱えて片方が救急車要請、出来るでしょう!? 私はここに残ります!」「は、はい!」

 

 怒鳴り声そのものの指示が横から降ってきて、我に返った千葉は動く。高木さんとの間に身体を滑り込ませ、補助してもらいつつ佐藤さんの身体を丸ごと両腕で抱え上げた。両腕の中の先輩は、息をしているのがやっとという様子で意識が無い。――本気で危ないのか……!

 

「……店主! 私、この騒動の迷惑料込みで、今まことさんが使ってる食器ごとスパゲッティセットを買い取りたいのだけど、いくら払えば良いかしら!?」

「へ!? ここの売り上げ、良い時でも一日トータルで1万くらいなので、とりあえず3倍で3万円頂ければ!」

 

 魔女と店主のやりとりを背中で聞きつつ、腕の中に先輩を抱えた千葉は、高木さんと共に洋食屋の外へと飛び出した。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:14 杯戸町 とある洋食屋

 

 財布を空中に出し、万札3枚を取り出して浮かせたまま店主へ。店主はあわあわと、手の中に飛び込んできた3万円を受け取った。

 根拠は自分で言った額だ。後で「もっと吹っ掛ければ良かった」とこっそり後悔するかもしれないけれども、足りないとかいうふざけた文句は無いはず。もしも言われたら返す言葉はオブラートに包んだ「ふざけんな」で良い。この店主のうだつの上がらなさから考えて、表立った文句は多分無いだろうけれど。

 

 隣のテーブルに放置された杖を手元に呼び戻す。あの巡査部長に真っ二つにされた部分に修復を掛けてから、小さな一振り。まことさんがほぼ手を付けていなかったスパゲッティセットを食器ごと屋敷に転送した。

 唯一ここに残ったもじゃもじゃ頭の警部は、私の真横に突っ立ってテーブルを凝視している。堂々と買い取った物について、窃盗だの何だのの文句は流石に付けてこない。

 この人、手錠は内ポケットに戻して両手を自由にしていて、私が立ち上がった時に妨害出来るつもりの立ち位置で、……あー、『店主が離れた場所にいる。万一を考えるとここを離れる訳にはいけない』っていう思考だ、これ。まるで無意味だと分かっているはずだけども。

 

「まことさん、荷物全部持って。狭間の屋敷に撤収しましょ。夕飯の続きはそこで」

「は、はい……」

 

 私の洋服とかスーパーの袋とか、これまではまことさんに持たせていた。内訳は洋服屋の紙袋2つとスーパーのビニール1つ、ハッとして慌ただしく荷物を確認する下僕も、まぁ愛おしい。

 私の荷物はというと、……うん、結局は渡せなかった花、くらいか。

 

「このブルースター、どうしましょう?」

「ご主人様、今の貴女の立場では、……言い辛いですが、何を渡してもワイロ扱いにしかなりません。諦めて持って帰った方が良いのではないですか?」

「それもそうね」

 

 刑事さん達の病室に無理やり押し込んでも良いのだけど、流石にそうして気味悪がられる趣味は無いから止めておこう。屋敷のリビングに花瓶を置いて愛でるのもまた一興だ。愛の象徴のような花だし。

 

「魔女さん、日下部さん。……私達の立場では、あんな巨大な斧を生み出して突き付けてきた方に、留置中だった方を委ねたくはないのですけども。日下部さんだけでもここに置いて帰ることは、」

「そんなこと、するわけないでしょう。私の力がヒト並みに弱体化するか、貴方達がもう少し力を強く持つようになってから出直しなさい。私には、貴方達ヒトの世界に縛られる義理も理由もないのだから」

 

 現時点では力の強さを示すだけで押し通せる。ヒトは引き下がるしかない。それが私の力だ。

 それでも、警部は言葉で食い下がろうとした。またハルちゃん1号が出てくる騒ぎは避けたいのか、まことさんにも私にも全く触れようとせず、屋敷に戻ることももはや止めようとはしないけれど。

 

「……。それでも、日下部さんは人間ですよ。せめてこの人を囲っている内は、ヒトの司法の在り方に少しだけでも合わせて頂けませんか?

 今日降らせた文章に、『弁護人には会わせることを検討している』と書かれていましたね。留置場から居なくなった後で無事かどうか分からない状態が続けば、私達に限らず関係者みんなが心配するんです。警察でなくても、せめて弁護人には定期的に会わせるようにして頂けませんか?」

 

 うーん、説得の言い回しは、……合格点、かしら?

 

「それはこれから決めることね。今後のアナウンス次第。

 ところで、そちらの目暮班は人員異動が必須でしょうねぇ。……さっき抱え出されたあの人、まともに治療を受ければ死ぬ確率は低いけれど、職務復帰は当面は無理でしょうし。そもそも付き合ってそんな関係になった人同士が同じ班の中に居る事自体、お付き合いを職場に報告していれば有り得ないはずだし」

「……」

 

 遠回しにあのカップルの報告漏れを指摘してあげる。この会話を聞いている職場の関係者一同、よりによって私から煽り口調で指摘された事自体にムカっとくるかもしれないけれど、内容は事実だ。

 この発言で、少なくとも高木巡査部長の方に今日か明日には雷が落ちる事は絶対確定。更にカップル両方とも懲罰的な異動を喰らう確率はそこそこ高いはず。私の力とか関係なしに、警察という組織の性格を踏まえれば自明の事。

 ……興が乗った。一個、また爆弾みたいな事実を落としてから帰ろう。誰も気づいていないけれど、調べれば分かる事を。

 

「それに、班長やってる目暮警部。膵臓(すいぞう)を病んでいるのに無自覚だもの」

「え!?」

 

 訊き返してくる前に、杖を一振り。まことさんと一緒に狭間の屋敷に消えてやった。

 

    ◇     ◇

 

【江戸川 コナン様

 毛利 小五郎様 ご家族様

 

 これは本日18:50頃から約25分間、私の周りで起きた出来事を録音したCDです。

 杯戸町内のとある洋食店で、私達が入店してから店を去るまでの一部始終が入っています。

 詳しく言うと、日下部誠さんと共に食事をした時の会話、更に尾行していた刑事達と揉めた時の会話です。同じデータを2枚分複製しました。中身について、言うまでもなく秘密厳守でお願いします。

 

 刑事達は尾行時に聞き取った音声を、そのまま警視庁内の捜査本部に流していました。

 警察側が知っていて貴方達が知らないのは流石に順序が違うと思ったので、事後になりますが私の側で記録していた音声を贈呈します。これは私の判断です。

 

 音声の中には、あまり信じたくない箇所も、信じたい箇所も、どちらもあると思います。どこまで信じるかは貴方達の判断です。

 私は、この世界にそこそこの愛着を持っているし、唯一惚れた男性を手元で愛でていたいと思っているけれど、一方ではこの世界が壊滅しようとも利害は一切被らない立場に居られる、そんな立場の人外です。

 そんな者として、貴方達の幸運を願っています。

 

 名を持たぬ とあるひとりの魔女より】

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 20:28 杯戸シティホテル 1205室

 

 紙が1枚と、透明ケースに入ったCDが2枚。贈り主が誰であるのかは自明であった。

 『突如光りながらホテルの部屋に降って来る』、『ルーズリーフのコピー』、『見覚えがある字体』。決定的なのは『名を持たぬ とあるひとりの魔女』という署名。あの魔女でなければ誰が贈ったのか、そういう代物だ。

 もっとも降ってきた規模は、昼の騒動と違って大分おとなしい物だったが。……ホテルの部屋の中で紙に埋もれる趣味は無いから、それでいいのだが。

 

 ただ、CD2枚が突然出現しても、手元にはこういう時に使える再生機器が無い。普段使いの端末を使うという判断は、物騒で出来ない。近くの家電量販店に走り、USB接続式のDVDプレイヤーと、激安のタブレットを調達するという一手間を経た。

 コナン君はルーズリーフの名宛人で、録音音声を聞く資格があった。自分の夫も、自分も。蘭も当然聞きたいと渋ったが、「内容次第で聞かせるべきか判断するから」と言って押し通した。夫婦揃って。

 無理やり蘭をホテルのレストランに向かわせ、夕飯を摂るように言い含め、コナン君と自分達夫婦で音声を聞いた。信じられない情報を次から次から叩きつけられながら聞き終わった、それが、今の状況だ。

 

 ――蘭に聞かせなかったのは正解だったと思いたいわね。この内容は。

 

 知っている刑事が魔女に子宮外妊娠を指摘される。魔女に明るく花を渡されて、しまいには意識がおかしくなる。知っている刑事が、留置場から居なくなった男を確保しようとして、魔女が(生み出したらしい)大きな斧で脅され、引き下がる。知っている警部が、魔女に膵臓を病んでいると指摘される。

 プライバシーを含め諸々良いところが無かった彼等・彼女等は、英理が顔を知っている面々。小五郎を通した繋がりだから、小五郎もコナン君も、全員と英理以上に親しい。2人にとってそこそこ衝撃的だろう。

 

 そして警察関係者を襲ったこれらの気の毒な出来事よりも、何よりも、重大なのが、……音声の前半部分。魔女が語った『坊や』の話。

 魔女が気の毒だと評するほどに厄介な因縁を抱えているという、居候の『坊や』。今、英理の横に座っている。

 

 心の内で荒れ狂う感情を、英理は少しだけ抑え込む。大事な話をしたい時に取り乱してはならない。弁護士として絶対に必要なスキルだ。

 

「江戸川コナン君、いえ、工藤新一君。私の目を見て答えて。

 端的に訊くわ。この、魔女の話。貴方の目から見て、明らかに事実関係が間違っている箇所は有るの?」

 

 答えは予想出来ていた。音声を再生中、この子を真横で見ていたのだから。真っ青になって、心の底からの驚愕に染まった態度で、顔に答えが書いてあるようなものだった。

 だから厳しい質問を投げている自覚はもちろんある。ただし絶対に必要な質問だ。刑事の公判で被疑者に対する時のように。

 単純な問いが結局は断罪になってしまうという構造は、問う側にとっても苦くて重い。

 

「……。

 全く、ありません。ずっと隠していて申し訳ありませんでした」

 

 果たして、小学生の態度ではなく、工藤新一のそれでその言葉は来る。

 

 夫が爆発した。英理が反応を示すよりも前に。この子を、後方へ、座っていた椅子の背もたれに張り倒したのだ。

 

「こんの、クソ餓鬼が! お前が変な因縁を抱えたせいかよ!」

 

 英理でさえ久しく聞いたことが無いほどの剣幕だった。

 椅子に投げ出された小さな身体を、襟首を乱暴に掴んで持ち上げる。無理やり立たせて向き合って、そうして小五郎は吠えた。

 

「『ベストルートだった』とあの魔女は言うがな、巻き添えに遭ったのは、身近に居た俺達だ! 納得出来ねぇ!」

 

 左手はそのまま、右手で、頬に平手打ちを2発。小学1年生の身体は、ただ、されるがままだ。手で顔を庇うことも、目を閉じることさえない。ただ耐えている。

 ――流石にやり過ぎよ……!!

 

「あなた、やめて!」

「俺はともかく、問題は蘭なんだよ!! お前が居候してから何度危ない目に遭い続けたか! その度に娘を心配する父親の気持ちが分かるか!? お前みたいな青二才の探偵坊主に!」

 

 怒鳴りながらの派手なビンタは6発目を数え、見るに見かねた英理はふたりの間に割って入った。このままでは本当の悲劇になる。

 

「それ以上はやめて。このままでは貴方、本当にこの子を殺してしまう……」

 

 意識して低い声を出して、小五郎が上げていた手首を掴む。

 目を見る。怒りに染まった瞳が揺らいでいる。英理の脳は更なる決定打になりそうな一言を作り出す。

 

「留置場に戻ってほしくないの。それも、冤罪ではない事件で」

 

 これで、夫は完全に我に返った。

 

「! すまん、英理。……坊主も」

 

 こうして掴まれ続けていた襟首から手が離される、……坊やは、長い息を吐きながら椅子の上に崩れ落ちた。

 

「いえ、完全に僕のせいですから。本当にすいませんでした」

 

 殊勝にそう返してきた子どもの頬は、無残なほど痛々しく真っ赤だ。

 馬鹿をやらかした夫は、感情のまま振舞った目の前の結果に、自分で打ちのめされている。

 

 ――さて、身内が未成年者に暴力を振るった場合、身内の弁護士はどう振舞うべきか。

 

「工藤君。

 ……今日のこの経緯を含めて、早急に、有希子達と時間を作ってじっくり話し合いましょう。これまでの事も、今日の事も、未成年者の貴方が解決できる範疇を間違いなく超えている。

 実のところ私だって、何が何だか分からない部分はあるの。ゆっくり考えてから頭を冷やさせてほしいから、だから……」

 

 喋りながら思考する。とりあえず『この子』と『毛利小五郎』は引き離すべきだと思った。将来はともかく、今は。

 

「貴方は、今日からしばらく、阿笠博士の所に泊まってくれないかしら。今から博士と有希子に連絡を取るから。CDは、1枚は貴方が持って行ってね。博士達と一緒に色々考えた方が良いでしょう。

 ……コナンとしても新一としても、蘭との連絡は控えてちょうだいね。あの子に何をどこまで話すかは、蘭の保護者である私達が決める」

 

 最期の釘差しの言葉は、親としてのエゴを正論に包んだだけだ。英理の自覚を、坊やは感じ取ったろうか。

 坊やは長い時間をかけてこの言葉を消化し、「はい」という短い言葉を返した。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 22:05 狭間の屋敷 客室

 

 

「お待たせしました」

 

 ジャージ姿の日下部誠がそう言って客室のドアを開けた時、ネグリジェを着て髪を下ろしたご主人様は、予想通りにマグカップを持って自分のベッドに腰掛けていた。何も言わない緩やかな微笑みが、こちらに向けられた。

 

 

 この屋敷に戻ってきたのは、19:20になる少し前だった。

 リビングで、食器ごと持ち帰ってきたスパゲッティセットに向き合おうとした時、あのご主人様は、「私、お風呂に入った後しばらくしたら、貴方の客室で、飲むタイプの媚薬を持って待っているわね」と、そう言った。「急かしはしないけれども、今夜、待っているわ」と。

 何も言えない自分への追い打ちの言葉は、「私はまだヒトの子を産めないの。あと300年近く生きて、人化が進まないとそれは無理。誰かの身体を求める時は快楽としての目的だけね」。

 

 かくして、この部屋に入る覚悟を決めるまで、2時間半を要することとなる。

 持って帰ったスパゲッティセットを完食して、風呂に入って(官舎の自室よりやや広いだけの浴室だった。豪華でもみすぼらしくもなく、十分に『一般住宅の風呂』の範疇だろう)、パジャマ代わりのジャージを着て、それから、リビングでTVのニュース番組(ほぼ自分達の事件の特集だった)を見続けて。

 それだけに要した2時間半と少々。日下部誠が一人で覚悟を決めるために掛かった時間だ。

 風呂の浴槽の中で声を殺して泣いたこと、涙の痕を隠すためにTVを見続ける(てい)で時間を潰したこと。どちらも、ひょっとしたらご主人様は見抜いているのかもしれない。この40男の情けない葛藤の有様も。

 

 ご主人様を徹底的に憎悪できたら、きっと楽だった。例え屈服されると分かっていても、抗うことで、己の小さなプライドだけは満たすことが出来たはずだ。

 誰よりも強い力と好意を、己に向けてきた女性だ。嫌うことはできなかった。そもそもの日下部が生み出した被害の回復は、間違いなく彼女にしかできなかったもの。金額に直せば人ひとり殺した時の慰謝料よりも遥かに高額な賠償を、己の願いに応えて一瞬で現物補償してくれた。

 恩に報いてご主人様の忠実な下僕であるべきだと、過去を悔やむ犯罪者の理性が叫んだ。

 

 逆に、徹底的に好きになれたら、それもきっと楽だった。現状に心から酔って、喜んで身体を差し出すことが出来たはずだ。

 彼女はある意味で日下部以上に、この国の司法制度そのものに過激な喧嘩を振っている。あの洋食屋で、若く太めの捜査員が勇気を出した正論が、このご主人様に力づくでねじ伏せられて結局は退けられていった光景を思い出す。ご主人様は強いが、法律を守るという意味での正しさは無い。

 そんな者の情夫にまで成り下がってはいけないのだと、過去を悔やむ元検事の理性が叫んだ。

 

 結局、一番楽であるのは、取引に基づいてこの方に従うべき、そう考える事なのだ。

 自分の手で生み出した被害を回復させることを願い、彼女はその願いを叶えた。代償としての自分の忠誠、それが分かりやすい。

 自分は、とてつもない女性に可愛がられ、庇護を与えられてここに居るというだけの犬だ。『社会的に詰んだ男』から『犬』に、……成り上がったのか、成り下がったのか。どうあれ『貴女を畏れながら愛されるしか進む道は無い』、今朝、自分で言った言葉ではないか。

 

 

 ベッドに並ぶ形で腰掛けて、渡されたマグカップの中身を一気にあおる。喉を通った液体は無味無臭の水としか感じられない。どれほど時間が経てば効果が現れるものか知れないが、少なくとも数秒で表れるものではないらしい。

 何も言わず抱き寄せてきた彼女に、笑みを作り上げて己の意思でもたれかかった。

 抵抗しようとは思わない。苦しみや痛み、そういうものには触らずにいたいという望みがあるけれども、その願望を吐き出す勇気すら、己には無い。この身体は、頭の髪から足の爪まで、もうご主人様のものでしかない。

 

 目を閉じる。今はこの状況に酔うのがあらゆる意味で良い。

 ただ、将来、この方に飽いて捨てられて『犬』から『社会的に詰んだ男』に戻る時が来れば、――その時は留置場に戻るよりは自ら生命を絶つことを選ぼう。そう強く思う。

 ヒトを裁くための正規の司法ルートに復帰した時の『日下部誠』の処遇、手続き、向けられるであろう眼差しと言葉。ありとあらゆる物事が、耐えられないほどにみじめ過ぎるだろうから。

 

    ◇     ◇

 

【私はまことさんに間違いなく惚れていますし、留置場からの連れ去り当時から今に至るまで愛していたと間違いなく胸を張って言えるのですが、一方でまことさんが私に向ける感情が恋愛一色だったかというと、それは正直に言って厳しいところがありました。

 まことさんは、私の一方的な思慕を受容しているように、そう見せようと努めていたらしいのは感じ取っていました。強大な力にひれ伏すという判断をして、心の底でどこか私にドン引きしながら、なんとか取引の義務を果たそうとしていたのが実際だったと思います。

 

 私に対する敬意と畏怖はありました。心酔しきれてはいなかった。そういう段階でした。

 そもそも、たった1日で犯罪者に心まで許すような性格ではないのです。そんな堅めの心を持つ人だと分かっていて、それでも留置場から連れ出したのです。

 

 これからずっと愛でていけば、いつか心も振り向かせることが出来るだろうと思っていました。私は、頭の中で長期前提でプランを組んでいました。

 あのタイミングであんな(うしな)い方をするなんて思ってもいませんでした。私があんな目に遭って300年分の人化が一気に進んだこと、そのために私の胎内に、まことさんの子である貴女が宿ったこと。全て、想定外でした。

 

 5月2日の夜、ベッドの中の睦み言で、将来的にはどうしても弁護人に会いたいのだとまことさんにねだられました。

 TVの夜のニュースでは、まことさんの司法修習時代の同期さん方等、複数の弁護士が弁護人に名乗りを上げていたそうで、『報償とか諸々の調整付き次第明日にでも何かしらのアナウンスが出来る予定』と言っていたようなのです。

 私はその場での判断に迷いました。翌朝のニュースを見て判断ということにしたのでした。

 

 結果どういう風になったかは、この手記を読んでいるであろう貴女には自明のことです。

 今となってはどうしようもない事ですが、弁護人に会わせる判断自体が失敗ではなかったかと思います】

――あの『彼女』の手記より




※12/1 一部のフォント設定を変更しました※

※前編と中編の情報を組み合わせれば、魔女周りに関しては、どんなことが起きたのかが推測できるようになっています。

次回予告:

 拳銃自殺したばっかりの出来立てほやほやの亡霊さん。亡骸の横に立つ魂だけの存在は、亡骸そっくりで青白くて血だらけだ。そんな亡霊さんに、私は語った。

「これまで出会った亡霊さん達は、揃いも揃って何か世の中に未練を抱えてる。未練は一つであったり複数であったりするけれど、その未練が魂だけをこの世界に繋ぎとめる根拠になっていて、その未練が全部どうでも良くなった瞬間、亡霊はこの世の中から消失するの。消えた後にどうなるのかは私にも分からない」
「未練……」

 判断ミスで潜入中に実質無駄死にした捜査員さんにとって、『未練が何か』なんて訊かなくても分かることだ。同僚を物騒な組織の中に残してしまったのだからなおさら。
 それでも、私は訊いてみたかった。

「お兄さん、貴方は何でこの世界に居るんでしょうね? 己の魂に問えば答えは分かるはずよ」

次回タイトル:(番外編)前日譚 歪んだ世界の分水嶺


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(番外編)前日譚 歪んだ世界の分水嶺

※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

※前編→中編と来て、後編ではなく番外編を入れました。全て原作死亡キャラ目線の三人称、降谷零関係の裏話です。

 なお、前~中編の時系列上の問題でどうしても使えなかった、原案メモの、降谷零の留置場のシーンを使用させていただきました。この番外編で、メモの全シーンのネタを拾ったことになります。この場を借りて心より感謝申し上げます。
(pixiv掲載『魔法使いと灰色の犬』 作者:事務員様 URL:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9848029)


 5月1日深夜、警視庁内、とある廊下。

 あえて人が居ない所を求めて見つけ出した場所に、当然、人影はない。

 寒々しく薄暗いこの空間で、諸伏景光は、迫ってくる女に対峙していた。

 

「お兄さん、亡霊のお兄さん。貴方の考えを教えて。

 これは分水嶺よ。貴方が決めてほしい。降谷さんの将来は、貴方の答えで決まる」

 

 答えを求める女は、半袖の黒いワンピース姿で、すらりとした手足と、整った顔と、結い上げた髪と、……つまり何も知らなければ淑やかな美人にしか見えない、その実、『魔女』を自称する人外の女。

 景光は、たったひとりで向き合わざるを得ない。究極の選択肢を突き付け、決断を迫るこの女に。

 

 ふと、過去を思った。

 この魔女は、初めて出会った時もこんなに顔を寄せてきたのではなかったか。

 亡霊となったばかりの、あの日の景光に。

 

    ◇     ◇

 

 女の顔の、どアップがあった。思わず腰を抜かしたくらいの。

 前髪左側に箒の形の髪留めを付けて、こちらを凝視している美女。茶髪で、ポニーテールの。

 

「……っ!」

「お兄さん。案の定、亡霊さんになってしまったのねぇ」

 

 目の前にはライが居る。亡骸の胸ポケットをまさぐり、壊れたスマホを取り出している。そのライの真横でうずくまっている、――『君』は誰だ!?

 

「誰だっ、……、 一般人か!? 何でこんな所に」

「落ち着きなさいな。お兄さん。あなた、死んだ自覚がおありでしょう? 自分が亡霊になってしまったのも分かるわね? ほら」

 

 彼女は苦笑いの笑顔で立ち上がりながら、景光の手首を掴んで引っ張り上げる。促されるまま持ち上げた手は、そのまま透けてライの膝を貫通した。

 

 鮮烈に思い出す。

 自称FBI捜査官だというライの隙をつき、自らに向けてリボルバーの引き金を引いた。胸に感じた強い衝撃。直後の猛烈な嫌悪感、己の身体が己の魂を拒絶して、弾き出され、弾き出した側の己の身体は、――この『亡骸』だ!

 引き金を引いたのはとっさの判断だった。この現場に駆け上がってくる大きな足音の、その正体が『敵』だと思っていたから……。

 

 果たして、足音の正体は目の前に飛び込んでくる。実際に駆け上がってきたのは、決して敵などではなく。

 

「あ、ああ。あああああああ……、ゼロ……!!」

 

 我を忘れて取り乱す景光の絶叫は、ライにも、ゼロにも聞こえない。

 「しっかりしろ!」と呼びかけるゼロに、亡骸が答えることももちろん無い。

 亡霊の声が届くこと、死んだ身体が口をきくこと、どちらも絶対にありえないことなのだ。

 

    ◇     ◇

 

「お兄さん、落ち着いた?」

「あ、あぁ。見苦しい格好を見せたね……。ところでお嬢さん、君は何者なんだ? 君の腕も、ライの身体を透けて貫通していたね。ずいぶんと若いようだけど、俺と同じで、若くして亡くなった子なのかな?」

「んー? ヒトじゃない生き物っていう意味では同類ではあるけれど、お兄さんみたいな亡霊では無いわねぇ。別の種類よ」

「へぇ……」

「えー、私の正体って、話せば長くなるのだけども」

「教えてくれないかな? とても気になるから」

 

「では。

 江戸時代終わりの昔々、この世界ではないどこかの世界で、色々やらかして強制隠居を喰らった馬鹿な女が居りました。魂に弱体化ペナルティを付けられた上で、次元レベルの追放刑を受けました。追放されて降り立った世界が、今の日本の、茨城県のとある竹林の中でした。以来その女は、追放先のこの世界で今に至るまでそこそこノンキに遊び歩いているのです、……というお話よ。

 一応見た目はずっと20歳にしているけれど、そういう存在だから、あなたよりはずっと長生きよ? 私」

 

「……信じられないなー。……お嬢さん、お名前は?」

「無いわ。追放喰らった時に魂レベルで名前を剥奪されててね、これといった『自分の名前』を持てないの。日本語で呼ぶのなら、『魔女』と呼ばれるのが一番合ってるとは思うけど。弱体化してるとはいえ、この世界のヒトよりは色々出来る存在には違いないし」

「そうなのか、じゃあ、魔女さんで」

「ちなみに、弱体化していけば、いずれ名前を名乗れるようになったりするんですって。やがてはヒトと完全に同じ身体になって、そこから老化が始まって寿命が来るらしいわ。ざっと400年は先らしいけど」

「……へぇ」

 

「お兄さんは、諸伏景光さん、よね? 公安勤務の」

「……ああ、そうだけど。魔女さんは何でそれを」

「魔女だから。ヒトの情報を見抜く力くらい今だってあるのよ」

 

「ちなみに、俺を死ぬ現場を何時から見てたのかな?」

「えっと、お兄さんが自分に向けて銃を撃つ、……30秒くらい前ね。元々、ヒトから見えない状態で空を飛んでたのよ、私。そしたら、いかにも亡霊化しそうな珍しい体質の男の人が、ビルの屋上で拳銃握ってああだこうだやってるのをたまたま目撃して。日本にしては珍しそうな光景だったんで、降り立って。そしたら予想通り亡霊化したので声を掛けた、っていう流れだったわ」

「…………。そうか。30秒くらい前なら止めようがないか」

 

「自殺、止めて欲しかった?」

「まさか。警察でもない相手に、『拳銃がある現場に割って入れ。潜入捜査員の自殺を止めろ』なんて絶対に言えない。警察官相手でもなかなか言える命令ではないからね」

「そう」

「ただ、正直に言って、あの時に引き金を引いた事は、……凄く後悔してる。ゼロの足音を聞き分けるスキルさえ俺にあれば良かったんだよ、ゼロとライが協力しあって俺を逃がす話がまとまったはずだから」

「まー、仮に30秒よりもっと前に見つけていたとしても、私が実際にお兄さんを助けた確率は限りなく低いでしょうけども」

「え?」

 

「ヒトはみんな私よりもずっと弱いの。私が何か手を貸せば、ヒトの社会そのものが私に頼るようになってやがて全体的に弱くなっていく、そうなるのが分かっているからこそ、よ。ヒトの表社会に私が出ることはないし、個人個人の生き死にに私が介入したこともないの」

「……そうなのかい」

「そもそも、ヒトはみんな弱すぎて、私から見たら微笑ましいお人形さんみたいだもの。遠くから愛でるのは良いし、長く見てきた分の愛着はあるけれど、みみっちい感情だの力だのドロドロしてる中に飛び込んで、ああだこうだしたいなんて思った事は無いわ」

「……。凄い事をぶっちゃけるね、魔女さん」

「でも、本心よ」

 

「そんな生き方なら、魔女さんはヒトの社会に干渉することは無いんだね? 警察にとっては敵にも味方にもならない存在なのかな?」

「私、たまに映画を見たり食べ物買って食べたり、姿を隠して空飛んでたりしてきたわ。全く社会に干渉しないわけじゃないのよ? 私は、『己がやりたいと思った方向にしか生きていけない』特質を持った存在だから、将来、本心から干渉したいと思った時が来たら、もっと干渉するかもしれないわね。……逆に訊くけど、これから貴方はどうするの? 私は、貴方がどう振舞おうか関係なくこれまで通りノホホンと過ごしていくでしょうけども」

 

「魔女さん、俺みたいな亡霊は、もう何をしても死なないのか? 俺は、同じような亡霊に出会うことはあるのかな?」

「まずね、ヒトの中で亡霊化する体質持ちは極めて稀だとは言えるわね。私は関東近辺うろうろして過ごしているけれど、記憶の限り、同時に複数の亡霊さんが世の中に存在しているところを見たことはないわ。大抵は身体が死んだ瞬間に魂も死んでて、亡霊化はしないの。貴方の身内とか親しい人も、故人であるなら魂ごと死んでるはずよ」

「……そうなのか」

「でね、これまで出会った亡霊さん達は、揃いも揃って何か世の中に未練を抱えてる。未練は一つであったり複数であったりするけれど、その未練が魂だけをこの世界に繋ぎとめる根拠になっていて、その未練が全部どうでも良くなった瞬間、亡霊はこの世の中から消失するの。消えた後にどうなるのかは私にも分からない」

「未練……」

 

「お兄さん、貴方は何でこの世界に居るんでしょうね? 己の魂に問えば答えは分かるはずよ」

「……俺は、潜入した組織がどうなっていくのか見たいんだ。それから、組織に残した形になってしまった、アイツの行く末も」

「では、そのためのベストな方法は?」

「アイツの、……降谷零の背後霊になって、ずっと見守っていればいい。アイツが潜入を続ける限りどちらも分かる!」

 

 

「亡霊のお兄さん。ご名答だとは思うけれど、でも、必ずしも己の望むままに世の中が動くとは限らないという事だけは頭に入れておいた方が良いわ。

 明治の頃に私が見た話だけど、亡霊になった母親が、生きている息子のそばに居続けて、息子さんがどう見ても冤罪で独房に入った姿を延々と見続ける羽目になった事があったの。気の毒過ぎて見てられなかったわ。

 ましてや民間人よりもずっとリスクが高い仕事をされてるんだもの。独房に入れられるよりずっと悲惨な目に遭ってしまったとしても、その時どんなに泣いても叫んでも、お兄さんの声は絶対に届かない。……それは理解しておいて」

 

「……ご忠告、有り難く受け取っておくよ。魔女さん」

 

 ライもゼロも組織の呼び出しを受けて去った、己の亡骸が組織の構成員達と共に取り残された屋上。彼等はこのビルに放火する準備を始めてやがる。

 高リスクに晒された結果の『現物』を眺めつつの言葉は、縁起の悪さはともかく気の利いた内容ではあるだろう。

 

    ◇     ◇

 

 それから景光は、有言実行で同僚のそばに居た。魔女は、たまに自分達の傍にやって来て、景光に適当に絡んで去ってくのだった。

 亡霊になった己にとって、会話のキャッチボールが交わせる相手は実質この女しか居ないような状態。魔女とのやり取りは、精神衛生上そこそこ貴重な機会ではあった。

 

    ◇     ◇

 

 魔女が己について語ったことは半分眉唾だと思っていたが、ノホホンと過ごしていて、亡霊ではない人外だ、ということは間違いなかったらしい。

 ゼロに憑いて2ヶ月ほど経った頃、箒に跨って空を飛ぶあの女が、姿を隠して公園に着地した後、箒を小型化させて髪留めにし、更に実体化して園内の自販機でジュースを買う姿を目撃したからだ。

 その時のゼロは同じ園内でランニングしていたが、目の前に突然現れてきた女を気に留めることは一切なかった。実体化したこの女が、何かしら視線除けの特殊な術を使っているらしいことを、背後霊状態の景光だけが見抜いていた。

 

「魔女さん、お久しぶり。……空を飛ぶのはともかく、ジュースを買うそのお金、どこから稼いでるんだい?」

「あらまぁお久しぶり。警察官の亡霊ってそんなところを気にするのね。自動で死亡退職扱いでしょうに」

「はぐらかさずに教えてくれませんかね? 魔女さん」

 

「取り調べみたいな言い回しだこと。……でも良いわ、時効だから教えてあげる。

 実はちょうど30年前、現金1億円少々を山の中で掘り出したの。今回みたいに空飛んでた時たまたま埋めてる現場を見つけてね。何でか血まみれになった服を着た男ふたりが、協力して頑張って穴掘って、現金を埋めてる現場だったの。

 埋めてた人達がそこから居なくなってから、面白いと思った私が降り立って、埋めたお金を掘り出したのね。一応、手書きのメモに『埋めた現場を目撃しました。お金は有り難く頂きます。通りすがりの女より!』って書いて、埋めてる模様を盗撮したスナップ写真と一緒に、その場の木の幹に貼り付けておいたわ。

 半日経って男の人達は別の人達を連れてきたんだけど、現場の写真を見て、お金が消えてることにすぐに気づいて、……結果的に怒鳴り合いと殴り合いになってたわ。殺し合いにはなってなかったみたい」

 

「どう聞いても、犯罪絡みの怪しいカネの横領じゃないか」

「そうね。でも時効よ。今でも、私の食事代と映画代に有難く化けてる」

「……」

「お兄さんは魂だけの亡霊さんだから、何を見ても、何を話しても、生きているヒトには一切届かないわよ。犯罪の情報を掴もうが、潜入先の秘密を知ろうが、実際の捜査に反映させる術は無いわ。お兄さんはそういう存在になってしまってるんだから」

「ああもう、……クソ!!」

 

    ◇     ◇

 

 魔女と景光が交わす会話は、おおよそ魔女が映画や食べ物の話、景光が同僚の守護霊として過ごす日々の愚痴、だった。

 どちらかと言えば景光が話し手になることが多いという自覚はあった。会話に飢えていたのだ。

 

    ◇     ◇

 

「信じられねぇんだよ! ライの野郎、ハニトラに使った女を置いて組織からトンズラしやがった!」

「あらまぁ」

「組織に潜り込むのは良いがな、ちゃんと巻き込んだ人間の保護位していけよあの野郎。お陰で使われた女が組織の中で散々な目に遭ってんだぞ」

「お兄さん、あの人嫌いなのねー」

「日本の当局に無断で潜入捜査してるFBIなんだぞ。好きになる訳がない」

 

    ◇     ◇

 

「魔女さん、ちょっと相談良いか? 生きている相手への言付けって頼まれてくれるかい?」

「? どんな事を言付けしたいのよ?」

「ゼロや俺と仲が良かった同期が、トラックに撥ねられて亡くなったんだ。俺はゼロが寝ている時に本庁の総務にデータを覗きに行って気付いたけれど、肝心のゼロはまだ気が付いてない。職場の訃報が一切回ってこない仕事だから仕方はないんだが、……どんな形でも良いから、ゼロに気が付いてもらいたいんだよ。実は俺の遺品も巻き込まれてるから」

 

「遺品?」

「俺が自殺した時に壊したスマホが有っただろ? ゼロは、そのスマホを長野県警勤めの俺の実の兄に、形見として送ろうとしていたんだ。

 『長野県警の諸伏高明警部に送ってくれ』ってメモを付けて同期に送って、同期はスマホを受け取ったんだ。で、俺の兄貴に送ろうとする前に事故に遭ったらしい。確認してみたら、スマホは同期の職場のロッカーに眠りっぱなしになってる。ゼロが送った封筒とメモはそのままの状態で」

「……、それで、あの同僚さんに、同期の死を把握してほしくて、なおかつ、スマホが送られたかチェックしてほしい、と」

「そう!」

 

「……お兄さん、自分が割ととんでもない事を頼もうとした自覚は持った方が良いわ。例えるなら、『刑事が独断で、留置場の中のヒトを外に逃がす』レベルのことよ? 実力的に出来るかどうかは別として、やった瞬間に色んなものが変質してしまう、その覚悟が要る。

 亡霊が生きているヒトの社会に干渉したら、生きているヒトの社会の中のいろんな因縁が捻じ曲げられてしまう。私の能力としてあの同僚さんに気付かせることは出来るけれど、捻じ曲げられた因縁がその人にどういう方向で作用するか分からない以上は、手を出すのは気が進まないわね」

 

「…………」

「そもそも、警視庁のロッカーって、使っている人が亡くなった後、いつまでも放置されているものなのかしら。メモも封筒もそのままなら、ロッカーを片付けようとする人が気づいてお兄さんに送るのではないの? 明らかに物騒な銃弾痕が残っている物を捨てるのは、警察の人だったらちょっと躊躇でしょう。誰かが自然に気付くのを待ってた方が良いでしょうね」

 

    ◇     ◇

 

「お兄さん。貴方が潜入していた組織、結構すごい事やってるのね。きのう、トロピカルランドで高校生探偵を襲って、変な毒薬飲ませて、無理やり小学生に若返らせたわよ」

「……へ!?」

 

「その小学生になっちゃった坊やね、生命は助かったけど、組織に対して本当にロクでもないレベルの因縁を魂に抱え込んでしまってるの。

 お兄さん、同僚さんが寝ている時とか、暇なときに見に来たら? 小学生の身体で、ちゃっかり同級生の家に転がり込んでいるから。

 ……お兄さんでも分かるレベルで凄い魂を持ってるわよ、あの子。多分あの坊やが組織を壊滅させないと、解けなかった因縁が暴発して世界がおかしくなっちゃうんでしょうね」

 

「はぁ!?」

 

    ◇     ◇

 

「確かに凄いな、あの子。魂に変なものが一杯絡みついているのは俺でも分かる」

「予言したっていいわ、あの子の因縁は色んな刑事事件を引き寄せてくるでしょうね。そして引き寄せられてきた事件は、あの子が探偵として解き続けるしかない。因縁の解消に一番良い方法が、それよ」

「探偵が、事件を解く? それをするのは警察のはずだろう?」

「でも警察だけでは、犯人は捕まえられないまま事件だけが起こり続けるの。そうして事件が事件を呼び続けて、いつか国家レベルのテロとかが起きた時も、犯人を止められなくなって、やがてこの国自体が滅ぶ」

「……いびつな世界だな。嫌になる」

 

    ◇     ◇

 

「この間、ゼロと一緒に野次馬をしていたんだけど、刑事が事件現場に探偵を入れているのを初めて見たんだ。ゼロは違和感を持っていないようだった。……分かっているけどツッコミを入れたくなるな」

「因縁がどうこうとかは分からないにせよ、……魂レベルの刷り込みで、無意識に、探偵のあの坊や達に従うべきと判断しているんでしょうね。あの子達は組織の壊滅のためにベストルートを突き進んでいて、周りの人はその歩みを止められない。世界にとってそれが一番良い形だと皆が刷り込まれているんだわ」

「……そして、ヒトではない俺と魔女さんだけが、その構図をはっきり自覚出来ている、と」

 

「あーら、貴方だけ気付いていないこともあるわよ?」

「え?」

「あの坊やが小学生になった季節は何時だった? あれからどれくらい季節が巡った? 当時の年と今の年、どれくらい違うの?」

「あ、……あああああああああ、言われるまで気付かなかった! 同じ年を繰り返してやがるんだ、この世界! あの子が、工藤新一がコナンになってから!」

 

「――因縁を解くために、因縁の暴発だけは何とか防ぐために、この世界は自ら時を捻じ曲げたのね。あの坊やが因縁を解消するまで、それまではこの季節のループは続くわ」

「世界がそんな風に歪んでいるなんて、……自覚したくはなかったなぁ」

 

    ◇     ◇

 

「ゼロが、あの坊やの住処の1階でバイトを始めたよ。毛利小五郎探偵にも弟子入りした。……坊やの因縁に引き寄せられたんだな、やっぱり。組織に潜入している以上いつか接点は出来るとは思ってたけど」

「そうねぇ。これからいろんな事件に巻き込まれるのでしょうね、貴方の同僚さん」

 

    ◇     ◇

 

「この世界を見ていたらね、いつまでも歪んだままの現状が気の毒になるの。因縁のど真ん中で葛藤している坊や達もね。今はまだ無理だけど、……いつか、私が介入しても問題ないと判断できたその時は、坊や達が因縁を解消しやすくなるように私が介入するかもしれない。坊や達の背中を押す方向でね」

「……そうか。その時は当然ゼロも巻き込まれるのかな?」

「間違いなくそうなるでしょう。私が介入するときは、事前にお兄さんには声は掛けるわよ? 私が忘れなければね」

「忘れないでくれよ、魔女さん」

 

    ◇     ◇

 

 果たして、ゼロが遭遇した何度目の事件だったろうか。

 いくら繰り返したのか分からない5月1日の夜、警視庁の前。被疑者となった公安検事をゼロが追い詰めていて、景光はその後ろに居た。その時、箒に乗った魔女が地上に降り立ち、真横から声を掛けてきたのだ。

 

「やぁ、こんにちは。お久しぶりね。面白い捕り物やってるじゃないの」

「魔女さん、事件見物か? 久しぶりだね」

「テロの犯人は、あのおじさま?」

「ああ。公安警察に恨みを抱えてやらかしたらしい」

 

 目の前、とにかくゼロ達は揉めていた。やがで被疑者はゼロを突き飛ばして警視庁を駆け上がり、その身を確保するべくゼロ達も駆けていく。

 魔女と景光も屋上へと上がり、……そこで人に秘すべき事柄を含めた一切を見た。

 

 諸々の愛憎劇の末に、被疑者は確保されて、それから。

 

「私、こっち見てた方が面白そうだから、しばらく警視庁に居るわ。お兄さんは同僚さんに憑いて行くのでしょう?」

「うん」

「今夜この同僚さんがこの建物に戻ってくることがあれば、お兄さんと私とでの間でお話しさせてほしいの。私ね、この世界に介入することにしたから。巻き込まれる同僚さんの事でお話ししたいから」

「分かったよ、魔女さん」

 

 ――以前約束した、『その時』が来たのか。

 

    ◇     ◇

 

「人が居ない場所を探しましょう」というのが、この夜再会した時の魔女の第一声だった。ヒトの会話に邪魔されない場所、そんな場所を探して見つけた先が、薄暗い廊下で。

 誰にも見えないはずの魔女は、壁に背中を預けて、薄く笑った。

 

「さっき話したことだけども、私ね、今ならタイミングが良さそうだから、この世界に介入しようと思っているの。あの組織関係の坊やの因縁も、解ける方向にブースト掛ける方向でね。

 ……実は私、さっき、とある、生きているヒトの男性に惚れてしまってね。世界が壊れるとその人も壊れてしまうのだろうなと思ったから、それが一番大きなきっかけなんだけども。まだ男性の方には何もアプローチをしていないの。誰に惚れたのかは秘密ね」

 

 世界の在り方よりも恋が大きな理由付けになるのか、――いや、世界をしっちゃかめっちゃかにされないなら良い事か。

 

「そうやってヒトを気遣えるのなら、……うん、この世界を気遣ってくれるなら俺は有り難いかな」

「それはどうも。……それでね、降谷零さんの事について考えてほしくて。因縁がどう繋がるか見てみると、このまま私が介入してブーストを掛ければ、あの人、組織の壊滅に直に関われはするけれど、誰かに殺されるのがほぼ確定してしまう感じだから」

「え!?」

 

「で、殺害のパターンだけは回避しようとすれば、採れる手段としては、降谷さんから『警察官』という身分そのものを剥奪するしかないの。あの人が、この事件で毛利小五郎探偵相手にやった事、全部を世間に暴露してしまえば、自動で免職になるしかないでしょう?

 そうすれば取り合えず他人に殺される確率はほぼ皆無になる。降谷さん以外の誰かが、組織を壊滅させることになる。たぶん降谷さんは少なくとも一時的には腑抜けになるんでしょうね。精神的に立ち直れるかどうか、私には分からない。他人に殺されないというだけで、自らを害する確率もゼロとは言えない」

 

 魔女はまっすぐに景光に迫る。初めて出会った日、あのビルで見つめてきた時のように。

 

「だから、お兄さん、亡霊のお兄さん。貴方の考えを教えてほしいの。これは分水嶺よ。貴方が決めてほしい。降谷さんの将来は、貴方の答えで決まる」

 

 随分と酷い二択だ。数年越しの潜入捜査を叶える代わりに誰かに殺されるのか、あるいは、それ以前に職場から追われてしまうのか、……いや、自分でやってしまった事を咎められた結果なら、生命を奪われるよりもずっとマシな結果なのかもしれない。

 

「……俺みたいな亡霊の想いが、現実の世界に反映される時が来るなんて思ってもみなかったよ。良いのかな、そんな大事な事を俺が決めて」

「この会話は誰も見ていないでしょう? 私が何も言わなければ、諸伏景光は、あの場所で殉職しただけのただの潜入捜査員というだけよ。亡霊化したことは、誰も何も知らない。生きているヒトは何も知るべきではない」

「この会話どうこう以前に、俺の存在自体が秘密ということかい?」

「ええ。……要は、私が沈黙していればいいのよ。何もかも私が考えて、あの坊やの因縁を気の毒がって、ブーストを掛けたことになる。貴方の意見を反映させて行動を決めたという事実は、誰も知らない。存在しなかったことになるわ」

 

    ◇     ◇

 

「では、……魔女さんの話を聞いて、心から思った事を言うよ。

 公安刑事として失格な言い様だと思うけれど、俺は、ゼロには生きてほしい。同期がみんな死んでしまって、更に『お前も死ね』と背中を押すことは、俺には無理だ。たとえ腑抜けになってしまったとしても、いつか調子を取り戻して生きる道を掴む男だと、俺は信じてる」

 

    ◇     ◇

 

「……では、降谷さんは失職するけど殺されないパターンでいきましょう。絶対無いなんて事は言えないけれど、あなたの友達は、殺されることはまず無いとは言える。あの人が自分から死にたいと思わない限りはね。

 介入の仕込みは今夜から始めるわ。派手に動き始めるのは、予定通りなら明日の正午になるでしょう。貴方に訊くべき事はもう訊いたし、降谷さんがどうなるかももう話した。非常識な出来事が起ころうとも、降谷さん以外のあらゆる物事がどんな風に転ぼうとも、私が惚れた相手にも、私にも、文句は言わないで」

 

 何をどうしたいのかは、今はこの魔女に訊いても答えることは無いだろう。そう悟る。

 諸伏景光は、だから頭だけを下げた。

 

「分かりました。……お願いします」

 

    ◇     ◇

 

 約1時間後。

 降谷零の背後霊に戻っていた景光は、留置場で、同僚が荒れ狂う姿を見た。

 

「……日下部誠が留置場から消えた。忽然と」

 

 先ほど捕らえたはずの男は、手品のように行方をくらませた。手掛かりはいまだ掴めていない。

 見張りを行っていた担当者も物音どころかおかしな点は無かったと報告し、監視カメラにさえ何も捉えてはいなかった。鍵もそのままで、窓も床も壁もおかしな点は無し。

 あり得ない。あり得ない事が起こった事だけは理解できるはずだ。

 

 ――魔女という存在を知らなければ、きっと謎のまま解決はしない事件だ。これも、あの女が言った仕込みの一種なのか。

 

「クソッ!」

 

 留置場の壁に当たり散らすゼロは、もう自分の失職がほぼ確定しているということを知りようがない。

 

    ◇     ◇

 

 ――そして、5月2日、正午。

 

 確かに非常識極まりない紙爆弾と共に、魔女の介入は始まった。

 魔女が一体『誰』に惚れていたのか、諸伏景光は、この時、初めて把握したのである。




※前編と中編の情報を組み合わせれば、魔女周りに関しては、どんなことが起きたのかが推測できるようになっています。


次回予告:
「……あの、このマークは何かの印ですか? 『竹』ということは、ご主人様の……?」

 私が創り上げたノートの表紙、大きく書かれたマークを指しながら、まことさんは質問をしてきた。私は笑顔を見せながら答える。 

「ええ。予想通りよ、私の紋章。さっき決めたの。
 背景は孟宗竹。これはこれまで話した通り、私が降り立った時の場所から。手前の白い花2輪は、空木(ウツギ)の花ね。別名『()の花』。旧暦の『卯月(ウヅキ)』っていう、暦の月の名前は、この花が咲く季節というのが由来だから、っていう説があるの。私を表す紋章としてはこれが一番ピッタリだと思うのよ。ホウちゃんもハルちゃんもここ数十年の間に創り出した物であるのだし。
 で、周りの文字は私の故郷の言葉。貴方どころかこの世界の誰にも読めないはずよ」

「綴りの意味、教えて頂けますか?」
「意味はね、『己の魂が望むところこそ、己自身の進路である』。私の在り方として一番良い言葉でしょうから」

 他にふさわしい言葉が有るだろうか。心の望むままにしか生きていけない、私という女に。

次回タイトル:後編① 悲劇が潜む行路/あなたの在り方


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後編① 悲劇が潜む行路/あなたの在り方

※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

後編が思いの外長くなったため、後編①と後編②に分割しています。分割しても、この後編①は3万字超となりました。
後編①はこの通り『悲劇が潜む行路/あなたの在り方』、後編②は『そして悲劇は来たる/魂が望むところ』となる予定です。どちらも、魔女、日下部、羽場、この3名の目線または手記形式で話が進みます。

当作品には夢主以外にオリキャラが出ます(日下部誠が司法修習生だった頃の恩師など、弁護士複数)。話の都合上、原作や劇場版のキャラクターが使えなかったため、当作独自の登場人物として創作を行いました。
現実の司法研修所の検察教官の実年齢については不明でありましたが、調査する中で『40代が適齢期とされる』という記載を発見出来たため、『日下部誠が大学を出たての頃に、40歳前後で教官をしていたキャラクター』として設定しています。設定として不自然になっていないことを願います。


【当時の私は、いくら寝なくても食べなくても生きてはいける身であったわけで、ただ寝たいと思った時に眠り、ただ食べたいと思った時に食べるという生活でした。

 その時の私にとっては、睡眠も、食事も、必需品ではなく気まぐれに摂るだけの嗜好品であったわけです。

 

 まことさんは失神してからそのまま睡眠へと移行してしまいました。

 私は、その寝顔を思う存分堪能してから起き上がり、シャワーを浴びて、別のネグリジェに着替えてから客室に戻ったのです。

 

 私がシャワーを浴びた30分の内に、まことさんはとてつもなく重い内容の悪夢を見始めていたようです。毛布が随分とはだけた状態で、思い切りうなされていました。

 どんな夢を見ているのか、おぼろげに見抜きました。夢の中でのまことさんは、国際会議場爆破事件の被害者達に雁字搦めにされて、暗闇の方向へと連行されていました。連行する側の被害者達は、爆発で損傷した亡骸そのままの姿だったようです。

 

 こんな苦しみにさいなまれる性分だと、最初から理解していました。逆にテロを起こした後も何もなかったかのように日々を過ごす性格であったなら、そんな性格の人に惚れることも無かったでしょう。

 まことさんがそういう苦しみに襲われたそんな時にどうするのか、事前に心に決めていました。突き放すのでも責め立てるでも無く、温かな安寧こそ、この人に差し向けたいと思っていたのです。愛でる日々の中でそういうこともあるだろうと想定はしていました。

 

 私ははだけた毛布を被せ直してからベッドで横になり、その毛布を被ったまことさんの背中に抱き着いたのでした。夢の中にも介入しました。被害者達を止めたのです。「止めなさい。まことさんは私のモノよ」、と、彼等にはそう囁きました。

 

 深い夢の中でも、現実の毛布の中でも、私の腕の中のまことさんは号泣していました。

 罪悪感に打ち砕かれ、自身が涙を流す資格すらないのにと自己嫌悪し、更には私が提供した安寧に寄り掛っている情けなさにも、素直に寄り掛かれない申し訳なさも、ひっくるめた感情全てが涙になって止められなくなったのです。

 しゃくり上げるまことさんを、私はずっと抱きしめていました。どこか恐縮しためらいながら私に寄り掛からざるを得ない、そんな心の堅さと弱さ、私はひっくるめて愛でていました。

 

 

 あのまま日々を積み重ねれば、いつか、魂の芯から頼られ、愛情を向けられるという日が来ていたのでしょうか、想像は尽きません。

 ああいう風に悪夢に苦悩する夜、まことさんを黙って抱きしめてくる存在は、どう考えても私しか有り得ない状況です。私以外に出来る人が居るわけがないのです。その構図は固定化したまま続かざるを得ないわけで、少なくとも私への精神的な依存はより進んだろうと思います。

 もっとも当人亡き今、もう無意味な想像なのですけれども】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 9:19 狭間の屋敷 リビング

 

 上の段を左から順に、『日下部誠容疑者(40)』、『羽場二三一氏(32)』、『降谷零警視(29)』、『岩井紗世子検事(40)』、下の段では、『橘境子弁護士(29)』、『毛利小五郎探偵(38)』、『魔女?(?)』である。

 TVを付けたまさに今この瞬間に映っていた、ワイドショーのパネルの話である。

 日下部は、逮捕時に撮った正面写真。下部に『(5月1日撮影 警視庁提供)』の文字がある。羽場と橘弁護士と毛利探偵の三者は、昨日会見を行っている時の姿だ。岩井は、(過去の何かの事件報道の流用らしい)公判直前の法廷の画像、検事席の横顔だ。

 降谷警視は、……いつ撮られたのか知らないが、『(視聴者提供)』とある、潜入先の喫茶店店員をしている時の顔。潜入捜査中の公安刑事をこっそり隠し撮りした客が居た、という事らしい。

 全員がほぼ真面目な表情をしている中、ひとり『魔女?』だけが、きのう国際会議場でカメラを前にノリノリで叫んだ時の姿。つまるところ満面の笑みを浮かべている。明らかに浮いていた。

 

「……名前の書き方、これで良いんですか? ご主人様」

 

 昨日、スーパーで自ら選んだ見切り品のサンドイッチのビニールを解いて、これまた見切り品だった200ml紙パックの牛乳にストローを刺しつつ、日下部は一応訊いてみる。

 リビングのテーブルの、自分から見て右側の椅子。ワンピース姿にポニーテールで、前髪左側に髪留めモードのホウちゃん65号を付けているご主人様は、紙パックの牛乳を片手にTVを見ている。基本的には何日も飲まず食わずでも生きていける存在らしく、気が向いた時に気が向いたものを飲み食いする生活らしい。ひとまず今日の朝は牛乳『だけ』にしておきたいそうな。

 

「良いんじゃないかしら。名前自体、私は持っていないから。昔、追放喰らった時に魂から剥奪されているもの」

「名前が無いことで不自由することは、……無いんでしょうね。もし厳密に書かないといけない書類があったとしたら、『本名 不詳』で、『自称 魔女』と書くのが正しいんでしょうか?」

 

 最初訊き掛けた質問は途中で愚問だと気づいて、別の問いを向ける。ヒトを凌駕する力があるのだから、あらゆる事が力押しで行けるはず。名無しでも不自由を感じる機会があるわけがない。

 

「まあ、そうなるわね。そんな書類を作る機会があるのかどうか分からないけれど」

「決まった偽名を使うということも無いんですか?」

「んーと、私ね、魂に制約があるから、今はまだ特定の名前を名乗ることが出来ないのよ。遠い将来、弱体化が進んでヒトになっていけば、問題なく何かしらの名前を名乗れるようになるんでしょうけど。……その時に使いたい名前は決めているけれど、今まで使ったことは無いわね」

 

 初めて聞く情報だった。今は名乗れないというのも、将来使う名前を決めているというのも。

 

「それは、どんな名前を使うつもりなんです?」

「他のヒトには話さないでね。……タケノハラ ウヅキ。名字はね、植物の『竹』にカタカナの『ノ』、原っぱの『原』。名前は、ひらがなの『うづき』。それで『竹ノ原 うづき』。私がこの世界に来た時は今の5月の下旬でね、当時は旧暦で(うるう)の4月上旬だから。だから、4月の別名で卯月(うづき)

「名字は、この国に降り立った時の場所からですか? 竹林の中だったから」「ええ」

 

 江戸時代の終わり、嘉永の頃の、茨城県の竹林。季節はちょうど今頃。きのうの夕食中にあの洋食屋で自ら話していた事だ。……『竹しか見えない青空の光景が今でも忘れられない』、のだと。

 

「繰り返すけど、今の名前は他のヒトには話さないでね。私を呼ぶのに使うのもNG。魂レベルで使えないし名乗れもしない名前を連呼される趣味は無いから」

「分かりました。……今の時代のヒトが生きている内に、名乗られることはあるんでしょうか?」

「無いでしょうね。きのう話したのと同じ、私が子供を生めるようになる時と同じくらいには時間が掛かる。遠い未来だと思うわ」

「つまり300年近く先、と」「そうね」

 

 明言が来た。自分が生きている内は、なるほど絶対に無かろう。『好きなように呼ぶように』と出会った時から言われていたが、これまで通り『ご主人様』一辺倒で良さそうだ、と、思う。

 

 サンドイッチを咀嚼しながら、TVに視線を向ける。画面に映るパネルが別のものに切り替わったのだ。こんなややこしい経緯の自分に対して、弁護を名乗り出たという弁護人達の特集に。

 刑事事件が起きた時、本来はTVがいちいち弁護人特集なんてしない。こんなパネルが出たのは、明らかにきのう昼間にぶちまけられたあの怪文書の影響だろう。『誰が弁護人になるのか決めて一般に公表して頂けると助かる』と書かれていたからだ。

 

 ずらずらと、フルネームと年齢付きで横一列で並んでいる弁護士の写真は、全員が男性で、トータルで6名。

 うち3名は、日下部が修習生だった頃の同期。日下部にとっては、己が決別した世界に今も居るというだけの古い親友達であるが、彼らにとってはそうではなかった、という事なのだろう。有り難い話だ。

 TVによると、彼等弁護士有志はちらほらと自発的に自分の両親に申し出て、両親が諸々を負担した私選弁護人、という形になった、らしい。現在は6名全員で弁護士会館にて会見中。弁護士会の決まりで生中継禁止となっているため、動画が流せないらしい。

 

「……このパネルの一番右の弁護士さん、私が司法修習生だった頃に研修所で検察教官をされてた方で、私のクラスを担当されてた方ですね。この件でTVで見るのは初めてです。他の5名の弁護士さん方は、昨夜の段階で名前と顔がTVに出てましたが」

「56歳って書いてるけど、その割に老けて見える写真ねー、その人。……検事の定年って基本は63でしょ? いつ検察辞めたの?」

「私達の任検と入れ替わるタイミングでした。はっきり覚えてます」

 

 かなり久しぶりに見る顔だった。パネルに掲載された写真は、確かにご主人様の言う通り、記憶の中の姿よりも、大分老け込んで痩せている。退職されてから今に至るまで、一瞬のように感じられるが、実は長い長い年月が過ぎている、そういう事なのだろう。

 

    ◇     ◇

 

 ――日下部誠容疑者の弁護人グループの会見が、先ほど終わりました。

 

 ――日下部容疑者と魔女に対して、『東都弁護士会館に本日面会に来てほしい』と呼びかけています。面会用に、東都弁護士会館5階の会議室を2部屋、今日の9時から18時まで押さえたそうです。

 

 ――羽場二三一氏と日下部容疑者の両親がお金を半分ずつ出し合い、非常食500セットと水500本を購入したそうです。『弁護人グループを通して魔女と日下部容疑者に差し入れたい』と表明しています。

 

 ――この非常食と水は、現時点で全て弁護士会館の会議室に搬入済とのことです。『本日面会に来るなら、即時に全て魔女と日下部容疑者に渡すことになる』と弁護人グループは表明しています……。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 9:30 狭間の屋敷 リビング

 

 TVを見つめるまことさんの横顔に、……ああ、一瞬見とれた。面会に行きたいのだろうな、と、丸分かりの横顔。花瓶に挿したブルースターと合わせて、本当に絵になる光景ね、と、心の内にメモして苦笑1つ。ひとまず思いついた感想を言っておく。

 

「中々に考えるのね、私達が会いに来たくなる方向に。現職の公務員さんが自腹を切って差し入れをするのは問題があり過ぎて出来ないけれど、特にまことさんの『元』職場周りの人は余計に無理でしょうけど、……そうじゃない人がお金を出す分には摩擦は少ないでしょうし」

 

 『元』を強調しておく。きのう15時の段階で懲戒免職処分済、今は無職男性(40)だから。

 最高検は、『現職検事が逮捕された』という一報のみを受け取って困惑しきりの状況で、直後に『その検事が留置場から消えた』という訳の分からない連絡を受けた、という立場だった。処分前にまず警察に事情を聴くという判断で、免職の手続きは一旦は停止。が、きのうの昼以降に急転直下で手続きを行った、という流れになっている。

 そうなったのは、きのう私が警視庁周りに降らせた告白文が原因。追伸その2の内容が最高検にクリーンヒットした。まことさんを早急に処分しなければ、私に変なメッセージを送った意味に取られてしまうから。

 

 飲み干した牛乳の紙パックをテーブルに置く。ハッとしたまことさんがピッチを上げて手の中のサンドイッチに喰らい付き始め、「……まことさん、私に合わせる必要ないわよ? 食べる量が根本的に違うのだし」の一言で、一気にペースダウンする。うん、可愛らしい姿だこと。

 

 さてさて、TVに向き直る。分析の眼差しを、弁護士会館での会見場に座る彼らに向けた。

 

「この差し入れのお話、必ずしも完全には、弁護士と羽場さん限りでまとまったわけじゃないわね。間に警察が噛んでる。羽場さんについてる弁護人は警察から紹介されている方で、公安警察の協力者みたい。この事件、今は警視庁は刑事部中心で当たっているけれど、部署が違っても、弁護人との連携自体はきちんと出来ているみたいね。

 というか、差し入れの言い出しっぺは警察よ。弁護人と羽場さんに提案して、両方ともが話に乗った。弁護人も警察も、私達に面会に来てほしいっていう点は、意見は一致しているでしょう? 羽場さんの方は『日下部さんのために自腹を切ってくれないか』って言われれば、喜んで出費する性格だし。

 ただ羽場さんは、『弁護士会館で自分も待機させてくれ』って交換条件を、貴方の弁護人に突き付けているわね。貴方の親と完全に折半だから非常食と水を250食分、本当に自腹を切ってるもの。そういう条件を出しても責められはしないでしょう。……でね、私が弁護士会館に来たら、私に打診するつもりでいるみたいね。『日下部さんに会っても良いですか?』って」

 

 お金を出したのだから引き換えにこっちの意見を飲んでくれ、という提案。言う側としては、単に想いだけで主張するよりもずっと主張しやすい意見だと思う。言われた側も断りにくい。

 まことさんの瞳が揺らぐ。会いたい方向にも会いたくない方向にも感情が揺らぎ、結局どちらとも言葉は出せない。揺らぎを押し殺して紡ぎ上げるのは、素直で実感のこもった感想だ。

 

「……羽場らしい」

「私が『ノー』と言った時は大人しく引き下がるように弁護人が釘を刺して、羽場さんはそれで同意した。弁護人とまことさんの面会は問題ないとして、それ以外の人は私の判断を通さないと色々と危ういから。

 ……ま、私としては許可は出しましょうか。羽場さんと私でサシで話し合った後に。羽場さんには私からも訊きたいことがあるものね。……今後どうするかは何とも言えないけれど、今回は許可しましょうかね。まことさんも会ってあげなさいな、出費に対する敬意として。会ってあげないと気の毒でしょう」

 

 数千円ならまだしも、本当に、一気に10万円越えの出費という決断をしているのだ。突っぱねることはもちろん出来るけれど、訊きたいこともあるし、弁護人に会わせて、かつ、彼に会わせない、という決断は『無いわ』とは思う。

 

「! ご主人様、弁護士会館に連れて行って頂けるのですか!?」

「本日11時から13時までの2時間。それだけよ? で、次に弁護人と面会させるのは1週間後で、その時の場所は弁護人と私の間で要協議。捜査機関とか第三者が乱入したなら、どんなタイミングでも面会自体を中止する。録音録画は良いけど、外部との通信は禁止。……以上、全部飲みなさい。まことさんが飲めば、この条件で、弁護士会館に今から御手紙を降らせるから」

「……、分かりました」

 

 短い思考の末に、簡潔な答えが来た。条件を飲めないのなら弁護士会館に連れて行ってあげる義理は無い。そんな風に私の意思を感じ取ったのだろうし、実際、そのつもりでの言葉だった。

 

「ちなみに、まことさんが言った6人目のヤメ検の弁護人さん、昨夜の段階で急遽弁護人に立候補した人みたいね。これは完全に自分の意思で。この人ね、『修習生時代、日下部くんを最初に検事に推したのが私だった』って、今朝、貴方の親と弁護人達の話し合いで言ってる」

 

 分析対象を広げて、見えた結果をそのまま話す。するとまことさんはとっても慌てた顔をして、食べかけのサンドイッチから手を放した。両手を膝に置いて身体の向きを私の方に変え、お願いをしてくる。

 

「! あ、……あの、ご主人様。……出来れば、弁護士さん方への覗き見は、……避けては頂けませんか? 話し合いの内容も、おそらくあの人達は何か資料をお持ちだと思うのですが、その資料の、覗き見も」

「どうしてそう望むの? 要望する前に理由を言いなさいな。まことさん、あなたの希望で弁護人に会わせることを飲んで、また、今になって要望が出るのは何故?」

 

 あえて険を含んでいることを隠さずに、訊いた。返ってくる答えはおおよそ分かっている。まことさんの元の居場所における作法(というか権利)の問題だ。予想は付くけれどその予想は予想で置いておいて、まことさん自身の言葉での答えが欲しい。

 充分に充分に言葉を選び、私の心を害さず、かつ己の魂の筋に沿う回答を生み出そうとする、その、思考する顔。――うん、凄く良い!

 

「……留置場に居る者に与えられる以上の物は、私は望みません。望むべきでないと考えています。だから、……どうしても、希望として、留置場に居る時の環境に準拠したくなる面はあると思います。この状況では、どうあってもご主人様の一存でしか決められないのだと分かっています。それでも、……駄目ですか?」

「なるほどねぇ。留置場に面会に来る弁護士に向けて、荷物を漁る人も、会話に聞き耳を立てる人も、現実の法制度では存在しない、と。公権力がそれをやると接見交通権の侵害になるし、公権力以外が入り込める場所でも無いものね」

「はい」

 

 ここは私の屋敷、まことさんは私のモノ、何をどこまで許すかは完全に私の裁量だ、まことさんの言葉はその現実自体は肯定している。

 きのう洋食屋で向かい合った警部は、『ヒトを囲っている内はヒトの司法の在り方に少しでも合わせてくれ』と懇願してきたけれども。きのうのあの言葉は、まことさんへの心配だけでなく、警察にとって少しでも情報を得る機会が欲しいのだという一面が見え見えで透けていたけれども。

 まことさんの目を見る。私はフッと短く息を吐いて決断した。

 

「……いつか法廷に立つかどうかも分からない以上、その貴方の態度はたぶん正解でしょうね、まことさん。欲求の範囲がその中に収まるならば、検察がツッコミを入れることも無いでしょうから。良いわ、その要望も飲みましょう」

「ありがとうございます……!」

 

 心からの感謝を込めて、深く深く頭を下げる。私は柔らかく指示した。

 

「そのサンドイッチを食べてから、貴方の部屋の掃除と、ベッドシーツときのう着た服の洗濯、やってもらいましょうか。私が魔術で何もかもやっても良いけれど、貴方、自分の身の回りのそういうことは自分の手でした方が精神衛生上は良さそうだもの。作業中、弁護人と羽場さんに向ける言葉を考えておきなさい」

「! はい……!」

 

 自分で考えて迷いがあるのなら、私が指示して心の方向を向けてしまえば良い。更には思考を整える時間を与えてしまえば良い。

 再会の時は1時間半後。それだけの時間を与えられて、頭の中で何も言葉を組み立てられないほどに愚かな人ではないはずだ。身体を動かしながらなら、思い詰めすぎることも多分ない。

 

    ◇     ◇

 

【まことさんの弁護人の皆様へ

 

 会見内容はTVで把握しました。非常食も水もどちらも有り難く頂くつもりです。まことさんと一緒にそちらに伺います。

 

・まことさんとの面会は本日11時から13時までの2時間。

・次の弁護人との面会は1週間後、その時の場所は弁護人と私の間で要協議。

・面会中の録音録画は可。外部との通信・生中継は不可。

・面会の場への、(羽場二三一さんは除く)第三者の乱入があれば、どんなタイミングでも面会自体を中止する。

 

 上記4点、全て飲んで頂きたいのです。まことさんは承諾しています。

 

 

 羽場二三一様

 

 貴方が弁護士会館で待機されていることは承知しています。本日11時、非常食を置いている部屋に待機して頂けないでしょうか?

 私から貴方にお尋ねしたいことがあるのです。まことさんの面会同様、録音・録画は両方ともして頂いて構いませんが、外部への通信は禁止します。あくまで、私と貴方の、1対1のお話ということでお願いします。

 そのお話の後で、貴方が、まことさんと弁護人さんとの面会の場に加わって会話する分には、私は制限は致しません。更に面会の場での喋りを制限するかどうかは、まことさんの弁護人の判断に任せます。

 

  名を持たぬ とあるひとりの魔女より

 

 追伸

 

 私は、日下部誠さんという人を「本当の犯行動機が裏に葬られかけた、(あえて書きますが)テロ行為の実行犯」と認識しています。

 5月1日の夜、降谷警視に取り押さえられる様子も、泣きながらはくちょうのパスコードを自白する様子も、私は現地で見ていました。逮捕されたこと自体は濡れ衣ではなく、「犯行動機が捻じ曲げられて報道されかかった人」ではあっても、「冤罪被害者ではない」という認識です。その認識の上でなお、彼に惚れて留置場から連れ出したのです。

 日下部誠さん本人が自身をどう認識しているのかは、本人から聞いて下さい。】

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 9:40 東都弁護士会館 502号会議室

 

 二三一の頭上に降ってきたのは、きのう正午に警視庁や検察庁に降った量よりはずっとずっと少ない規模だった。比較するならば、自宅に降った時と同じような降り方で、きのうよりは遥かに短く簡潔な怪文書が出現した。

 心に焼き付くほど何度も何度も読み返したきのう正午の文書と、形式は全く同じ。光を生み出しつつ何も無い場所にバラバラと降ってくる、今回はA4サイズ1枚だけのルーズリーフのコピー。

 

「11時まで、あと1時間20分。魔女さんと話して、それから、……日下部さんに会える」

 

 非常食や水が入った段ボールが、うず高く積み上がったこの部屋。

 段ボールの無いスペースに置いてもらったパイプ椅子の上に、スーツ姿の羽場二三一は座っていたのだった。拾い上げた怪文書を一気に読み切って、口から自然と呟きが漏れた。

 羽場二三一の、この頭で予想できる範囲の中では、最良に近い回答だ。弁護士さん達の会見自体が無視されてここに来ないとか、弁護士さん達だけに会うとか、……そういう事態になるよりはきっと良い。

 

「羽場さん、魔女さんとのお話も、日下部さんとのお話も、どちらも希望されますか?」

「希望します。話さないという選択は、私の中にはちょっと無いですね」

 

 この部屋には他に弁護士さんが2名、それぞれ二三一の目の前と横に同じようにパイプ椅子に座っている。目の前に居るのは日下部さん弁護人チームの内の1人だが、横に座っているもう1人は自分の方の弁護人だ。

 後者の弁護士さんが同じ怪文書を片手に質問してきて、二三一は迷いなく答えた。この状況で相手の方から明確に話したがっているのに、自分が逃げるのはおかしい。

 

 更に、日下部さんの方の弁護人が質問してきた。

 

「……羽場さん。もしも、冷静でいられないような言葉が魔女さんから来ても、それでも冷静に振舞うということ、そういう態度を取り続ける自信は有りますか? 日下部君の安全のために」

「え?」

 

 この人は、昔、日下部さんが修習生だった頃に検察教官だった人、だという。羽場と同じくらいの背丈だが、触れば折れるのではないかと思う位の細身で、髪は白く禿げており、見た目は70代くらいに見える。ただ声は厳しくも落ち着いていて、こちらの目を見て滔々と問うてきた。どちらかというと会わせたくはないという雰囲気をにじませて。

 

「この状況で、ヒトではない相手から向けられる言葉なんて、誰にも予想が出来ません。

 法廷用の想定問答なら相手の狙いはパターン化できますが、今回の相手は、法律で縛られる相手ではありません。向けられる問いがポジティブなのかネガティブなのか、全くもって分かりません。最悪の場合、頭に血が昇ってしまう位に、下品で屈辱的な質問が来るかもしれません。

 そんな言葉が来た時、羽場さんは冷静に振舞える自信はありますか? やり取りが制御不能になれば、それ自体が大変な大変なリスクになります。貴方だけではない、日下部君も危うくしてしまう事柄なのです」

 

 もっともな内容だ。相手の力が最悪の方向に向いた場合のリスクを恐れている。

 司法研修所の修了式での自分のやらかしも、日下部さんの下で2年間にやってきたことも、昨夜の会見で二三一が明言して以来、散々TVで流されている。『ヒートアップしやすく正義の下に驀進(ばくしん)しやすい馬鹿』だと世間からは思われているようで、実際、その世評は間違ってはいない。

 まぁ、4年前に比べれば、まだ成長はしているとは、……思いたい。司法研修所で引き起こしたあの騒動は、やらかした二三一ひとりが進路を絶たれただけで終わった。今回、あの時のように制御不能になって暴走したら、二三一だけではない、日下部さんも確かに危なくなるのだ。

 

「……私が恐れて会わなければ、かえって魔女さんの気分を害してしまいそうですし。相手の力が強いことだけをとにかく意識して、自分を律するしかないんでしょう」

 

 魔女が自分に向けてくる質問は、果たして、身構えているところにやって来る柔らかなド直球なのか、予想外の方向からやって来る猛烈なカーブなのか、本当に全く持って予想がつかない。

 一つだけ言えるのは、録音・録画がはっきりと許可されているのだから、それを最大限利用するくらいしかしかない、ということくらいだ。自分の性分を自覚しながら、二三一は言葉を続ける。

 

「録画機材、出来る限り沢山置いて頂けますか? どこを見ても目に入るくらいに。他人が記録していると常時突き付けられていれば、まだ冷静で居られると思います」

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 10:25 狭間の屋敷 内庭

 

 目の前の物干し竿で、衣類やらシーツやらが何とも平和そうにはためいていた。

 きのう官舎の自室から持ち出したこの物干し竿は、一人暮らしにしてはそこそこ大きめの、室内用のスタンド型。小さめに折り曲げたシーツと、きのう着ていた男一人分の下着やらシャツやらジャージ上下やらを吊るす分には、何とか間に合ったのだった。まぁ、シーツに関しては結構無理がある折り曲げ方にならざるを得なかったが。

 掃除と洗濯の指示を受けてから、日下部誠は、効率重視で今までひたすら動き続けていた。手早い作業の結果、出発まで30分くらいの時間が残ったのだから、時間の使い方は多分成功だろう。

 「ん、ん゛……」、と声を上げながら、肩を回しつつ小さく伸びをする。着ているジャージの生地の下で、関節がボキボキ鳴った。

 

 この屋敷の内庭から見上げた空は、東京準拠で設定しているという。東京の霞が関準拠で、日差しが差し、曇り、雨が降り、風が吹き、日が沈む。『そういう風に設定している』のだと、ご主人様は言っていた。

 『どこにもあってどこにもない場所、私が許した者にしか入れない時空の狭間』の屋敷だ、と、ご主人様はきのう書いていた。その記載が正しいのならば、こうして日差しを向けるのにどれほどの技術が必要であるのだろうか。

 ――結局は『魔力があるから』の一言で言い捨てられることなのだろうな、と、ぼんやりと日下部は思った。

 

 

 冷静になって振り返ってみると、物質的な境遇面ではかなり不相応なレベルで恵まれているな、と、我ながら思う。

 宛がわれている客室は、ベッド込みで15畳くらいの広々とした部屋だし。それと、ご主人様は身体年齢20歳で、美人で、(他人に言い触らせるような話では無いが)昨夜までは生娘だった床上手だし。そういう女性に望まれてそういう関係になるという事は、ご都合主義の青年漫画でも中々無いような話だと思う。

 自分でも信じられなくなるのだ。留置場から連れ出されたのが、顔が良い若者とか、冤罪被害者とか、そういう男であるならばまだ、肌感覚としては理解の範疇に収まる。しかし、自分のように完全なる自業自得で留置場に居た中年男が、どうしてあんな女性に惚れられて、こういう風に恵まれた環境に置かれるのだろう。

 一般人の中年男でも中々望めないことだ。ましてや留置場なり拘置所なり刑務所なりに居る男共にとって、この状況は、大抵の野郎が喉から手が出るほど欲しいと思う環境に違いないのだ。

 

 ――『こんな男に惚れた、貴女の感性が分からない』、と、言う勇気も無いな。今更。そんな言葉を向けたら、それこそご主人様の感性を侮辱する意味に取られそうだ。

 

 そっと、心の中でだけ苦笑しつつ呟いた。

 倫理観がどうにもズレている人外の方を、上から目線の正義感で(ただ)せるとも、導けるとも、思えない。そんなことが出来るほど思い上がってはいけない。ヒトの社会の道理から外れた自分には、その資格は無い。

 物的被害の回復は望みどおりに成された。その代償の忠誠、それだけで良いのだ。いつか自分に向けられる愛が尽きて、捨てられる時こそが、己の生命を投げ捨てる時だ。その覚悟さえ決めておけば、それで良い。それまで正気を維持するためだけに、たまに弁護人に会えれば良い。

 本来、拘置所の中で管理されていつか終わる人生が、この屋敷で飼われていつか終わるという人生になった、それだけのこと。単純に、この愛が永遠に続くとも無邪気に信じる事は出来ない。その程度には達観した人生の経験と自虐意識を、己の魂の中に抱え込んでしまっている。

 

 

 突然、ガラスサッシをガラガラと開ける音がした。

 

「まことさーん、ちょっと良いかしらー?」

 

 今の日下部と同じくサンダルを突っ掛けて、ご主人様がこちらの方へ駆け下りて来る。そうして目の前に立って、胸に抱えていた物をこちらに差し出して見せた。

 見るからに新品らしいA4サイズのノートである。薄青い無地の表紙に、丸い何かの、緑と白の何かのマークが大きく載っている。

 

「この大学ノート、さっき創り上げたの。貴方にあげるから、日記帳にでもして頂戴? 弁護士会館に行くまでにまだ30分くらい残っているから、その間に色々書いておくのも良いでしょう」

「!、ありがとうございますっ! ……弁護士会館にこれを持って行っても良いですか? 弁護人にコピーを取ってもらって、その上で読んでもらいたいのですけれど……!」

 

 頭を下げて有り難く受け取ってから、質問した。

 もし許可が出れば、書いた分については弁護人に対して喋る必要が無くなる。それだけ面会の時間が有効活用出来ることになるのだ。

 

「大丈夫よ、まことさん。……でも、制限は付けさせてもらうわよ。

 きのう洋食屋さんで話した坊やの話と、さっき話した私の仮名のことは書かないでね。私に口止めされた事自体は書いても良いけど、具体的な中身は書いちゃダメ。それ以外に知られると困る事は無いから制限はしないけれど。面会でしゃべることも含めてね。

 ……洋食屋でのお話は、内容が内容だから『守秘義務が守れる』と絶対的に確証を持てる相手にしか話せないもの。『坊や』の『ボ』の字ですら書かないで。

 私の仮名の方は、今は弁護人にすら絶対に知られたくはない、今呼ばれるべき名前ではないのだから。使う予定の名前を教えてもらったことは書いても良いけど、どんな名前なのかは書かないこと。守れる?」

 

 どちらも納得出来る制限だ。

 毛利探偵のところの坊やの話は、バッドエンドに転べば最悪国が危ういというのだから、保秘を徹底するべき話に違いない。ご主人様の仮名については、最初から『他人に話すな』と釘を刺されている。

 

「分かりました。……あの、このマークは何かの印ですか? 『竹』ということは、ご主人様の……?」

 

 受け取ったノートの表紙。指して訊いてみる。

 緑色の線による円の中、背景になっている緑色の竹は、真っ直ぐに立つ3本。その手前には茶の枝が伸び、2輪の白い花が、同じ枝の先から下方と横を向いて慎ましく咲いている。花びらは真っ白で、数はどちらも5枚ずつ、だ。

 円の外側には、ぐるりと囲う形で小さな文字らしい綴りがある。一見筆記体に見えるが、どうも読む限りはアルファベットとも違う。

 少なくとも、法曹関係で見るマークではない。文具のメーカーとも違う。ヒントになるのは背景の『竹』の絵。先ほど教えてもらった話ではないか、……この方が使う予定の仮名は『竹ノ原』。

 

「ええ。予想通りよ、私の紋章。さっき決めたの。

 背景は孟宗竹。これはこれまで話した通り、私が降り立った時の場所から。手前の白い花2輪は、空木(ウツギ)の花ね。別名『()の花』。旧暦の『卯月(ウヅキ)』っていう、暦の月の名前は、この花が咲く季節というのが由来だから、っていう説があるの。私を表す紋章としてはこれが一番ピッタリだと思うのよ。ホウちゃんもハルちゃんもここ数十年の間に創り出した物であるのだし。

 で、周りの文字は私の故郷の言葉。貴方どころかこの世界の誰にも読めないはずよ」

 

 通りで、全く読めないはずである。これまでのご主人様の言葉が正しいのであれば、異世界の出身だ。

 

「綴りの意味、教えて頂けますか?」

「意味はね、『己の魂が望むところこそ、己自身の進路である』。私の在り方として一番良い言葉でしょうから」

「……そうですか。教えて頂きありがとうございます。このノート、これから使わせて頂きますね」

 

 丁寧に一礼し、ノートを抱えて、建物の方へ身体を向けた。面会の11時までもう30分もない。ノートに文字を連ねる時間は、1分1秒でも貴重だ。

 

「まことさん。ここを出る時は、きのうのデートの時みたいなスーツの上に、私が用意した灰色のローブを羽織ってもらうわ。胸にそのノートと同じ紋章を縫い付けてね。服は私が魔術で着替えさせるから」

「分かりました。あの、……ちなみに、ご主人様は、そのワンピースがお好きなんでしょうか? それを着られて行かれる予定ですか? ……ぃえ、決して問題ある格好とは思わないのですけれど。単純に訊きたくなったので」

 

 不意に思い浮かんだ質問が、口を突いて出た。夜に寝る時はネグリジェを着用されていたけれども、それ以外はずっと同じ黒い半袖のワンピースなのだ。一昨日の夜に留置場の独居房に湧かれた時も、国際会議場に出て更にデートする流れになった時も、そして今も、同じワンピースを着用されている。

 

「ええ。この格好が好きだし、あと、上着を羽織らないのは私の故郷の慣習もあるわね」

「慣習ですか?」

「前開きの上着はね、改まった場所に出るか、目上の相手の前に出る時の格好だったから。

 ヒトがヒトの社会で着ている分には何も思わないけれど、私がヒトを相手にするときに着るのは、気分的にちょっと嫌。今のところ、私の故郷ぐらいにしか私より目上の存在は居ないものね。……まぁ、人化が進めばそういうこだわりも減っていくんでしょうけど」

 

 この方らしい言葉である。どんなヒトよりも、どんな組織よりも、強大な力を気ままに振るえるという事。それはすなわち、おしなべて人間は目下の存在でしかない、という事なのだ。

 文句の言いようがない事実であろう。

 

    ◇     ◇

 

【洋食屋で口止めした坊やのこと、それから私が名乗るつもりの仮名のこと。それらを除けばまことさんの喋りに制限は掛けていません。

 私の生き方に関してまことさんに明かした事柄は、当日11時以降の面会で、ほぼ弁護人に話されていたのではないでしょうか。

 

 まことさんを襲ったあの悲劇の後、この時に弁護人達が知った情報は、(どういう手続きと判断があったのか知りたくもないのですが)全て警察に渡ります。

 6月下旬以降の私は、羽織る形のカーディガンやら上着『ばっかり』渡される、という事実から当局の性根を薄っすらと悟り、心から呆れる羽目となるのです。

 

 

 さて、その日の話に戻ります。面会5分前になった頃、私は杖を振ってローブを創り上げて、まことさんに宣言通りの格好をさせてから、一緒に、弁護士会館近くの河川敷に転移しました。

 浮かせたホウちゃん65号にまたがってから、更にまことさんを後ろに座らせました。私に強くしがみ付くように指示してから、まことさんと一緒に、仲良く空を飛んだのです。

 

 寄り道なく東都弁護士会館の5階に向けただけの飛行は、そこそこの速さで突き進みました。オートバイ並みの速度を意識していました。後ろのまことさんは大きな悲鳴を上げたりはしませんでしたが、声を出せないくらいの恐怖だったようです。相当強くしがみ付かれました。

 この時のホウちゃん65号は割とミシミシ言っていました。飛んでいる最中にポッキリいくではないかという想像は、常にぬぐえなかったのではないでしょうか。

 実際に、折れる可能性はありました。ハルちゃんとは違って、ホウちゃん「65号」という名前は、1号から64号まで、飛行中に突然折れて廃棄した歴代のホウちゃんシリーズが存在していた証です。

 飛行中に折れても何とかなるように対処はしているから、だからまことさんを後ろに乗せたのですけれど、その『折れても何とかなる』という説明を私は一言も言っていませんでした。まことさんは本気で恐怖を感じて私に密着していたはずです。

 

 地上の人々から大いに注目されつつ、私達は東都弁護士会館5階の窓に突進する事となります。

 衝突直前、ガラスを魔術で消し去り、窓から会議室内に突っ込んでから、即座にガラスを元に戻したのでした。部屋に突っ込んだ時もそれなりのスピードで、それこそオートバイのように徐々に勢いを殺しつつ、部屋の床に足を付けたのです。

 羽場さんが思わず上げた「うわぁっ!」という声と、げんなりしつつホッとした顔のまことさんの安堵の息が、とても印象的でした。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 10:57 東都弁護士会館 502号会議室

 

 とっさに立ち上がりパイプ椅子を引きつつ、積み上げた段ボールの方に飛び退いた、羽場二三一の瞬時のその判断はたぶん正解だった。

 バイクや自転車の二人乗りのように箒にまたがり、猛スピードでダイナミックに入室してきた彼等は、数秒前まで自分が座っていた辺りで急停止。もう少し自分の位置がズレてれば、面会以前に大胆に衝突事故で病院沙汰になってそうな予感が、とてつもなく濃厚に感じられたのである。

 ――イヤ、魔女さんなら治療以前にチャチャッと怪我を癒してくれるのかもしれないけれども!

 

「お、お二方とも、ようこそおいでいただきました。……えー、日下部君、大丈夫かな? 話す前にお水は飲むかな? これ全部、君らへの差し入れだが。君の親と、そちらの羽場さんから」

 

 弁護士さんはこの部屋に3名居る。全員が日下部さんの弁護人で、3名ずつこの部屋と隣の部屋で分かれて待機していたのだ。うち1人、ヤメ検の日下部さんの元恩師の方がドン引きしながら何とか出した声は、途中で案ずる内容に変わった。

 魔女さんは、TVで目に焼き付くほど見た姿と同じだった。黒いワンピースに、凝った結い上げ方をした茶髪。ケロリとした顔だ。

 後ろの日下部さんは、見慣れない、フード付きの上着を羽織っている。胸に緑色っぽいロゴだけが付いた、灰色の無地の上着で、フードの下の顔は、いかにもしんどい経験に耐えたらしい表情だ。無言で箒から降りられ、床に足が付いた途端に心からホッとしたような息を出した。ジェットコースターから降りた直後の体験に限りなく近い、いや、未知の乗り物だから恐怖はそれ以上に有ったのかもしれない。一応、足元はふらつかずにしっかりしているけれども。

 その灰色の上着を脱ぎながら、日下部さんはこちらの方を見た。黒い上等そうなスーツが露わになる。かつての恩師を含む弁護人3名と、それから積み上げた段ボールの目の前に立つ二三一と、両方を見て、

 ――ああ、こみ上げる感情に表情が一瞬だけ崩れる。ほんの少ししだけ俯き、数秒で真顔に戻って頷いた。

 

「……お久しぶりです。お水、頂けますか?」

 

 その返答で、弁護人さんが二三一を見る。自分が段ボールから出せと言いたいのか。なるほど、水の入った段ボールは自分の真後ろだ。

 

「! っぁ、はい! えっと、みずですね、み、み、みず、……!」「落ち着きましょうか、羽場さん。貴方が渡すのは水でしょう、ミミズではなくて」「「「水です」」」」

 

 慌てて段ボールのガムテープを剥がしている己に向けられた、落ち着きの中に揶揄が混ざった女声のツッコミ。反射的に答えを返す、その回答は二三一だけではなく何人かの声で同時に被った。

 それで一気に頭が冷えて、水のペットボトルを1本取り出しつつ振り返る。ツッコミの主は魔女さんで、立てかけた箒を手に持ってクスクスと笑っている。

 

「貴方達、綺麗に声が被るのねー」「そう言いたくなる言葉でしたから。ご主人様」「!?」

 

 ――『ご主人様』、って……!?

 その呼び方に驚く、しかし、すんでのところで喉まで出かかった声を無理やり押さえつけた。弁護人が同席する場で何か訊きたくなる時は、二三一ではなく弁護人から訊くと、そう打ち合わせていた。この後の弁護人さんとの面会で、この呼び方について弁護人さんから質問することもあるだろう。

 

「えっと、はい! 日下部さん、『お水』ですっ! 本当にお久しぶりです。……貴方が御無事でよかった」

「羽場。……私は、どう詫びようとも取り返しがつかない位の傷つけ方をしてしまった、……本当にすまなかった!」

 

 ペットボトルを受け取った日下部さんは、こちらを向いて深々と頭を下げた。

 本当にこの人らしい。

 エッジ・オブ・オーシャンの国際会議場をはじめとして複数の人を殺めたこと、更に物的被害の回復のために世間に伏せられていることを独断で明かしたこと。どちらも確かに、実は生きていた二三一の心を大いに傷つけることだった。おまけに今後の二三一が正常な社会生活を送れるのかどうか、結構、怪しいところがある。この人が気に病むのも、客観的に考えれば当然のことだった。

 

「頭を上げて下さい、日下部さん。貴方を責めるつもりは全くありませんから。『私達は一心同体だ』って、一昨日の夜、貴方が連行される時に言いましたよね? あの言葉は本心でしたし、今も私はそう思っています」

 

 ずっとずっとこの人に言いたかったこと、心からの本心だった。

 この人と一緒だった2年間は絶対に忘れない。二三一がどん底だと感じていた日々の中、自分を救い上げてくれたのはこの人だ。

 最初の怪文書が降ってきた時もそうだったが、今でも責める気は全く浮かんではこない。正義の名の下に暴走して道を踏み外したこの人を責める立ち位置には、自分は、羽場二三一は、絶対に立てない。その位置に立つのは、別の公的機関か誰かだろう。少なくとも二三一ではない。

 

「ッ、はばっ……!!」

 

 日下部さんの目尻に涙が浮かぶ。『感極まって何も言えない』という言い回しをそのまま体現したような顔で立ち尽くす、……その背中に、魔女さんが優しく手を当てた。

 

「まことさん。感極まるのも良いけれど、その分、弁護士さんと話し合う時間が減っちゃうわよ。面会は今日の13時まで。私、これは誰が何と言おうと曲げるつもりは無いわよ?」

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 11:00 東都弁護士会館 502号会議室

 

 控えめに言っても感傷をぶっ壊す一言に、羽場の表情が一変した。日下部誠は硬い声で「はい」という即答を返し、羽場に軽く会釈して弁護人の方へと歩を進める。

 

「弁護人さん方。これからの事なのだけど」

 

 そう切り出したご主人様は笑顔のまま、弁護人達に向けて言葉を続ける。

 

「私は羽場さんとお話して、それからこの水と非常食を屋敷に転送して、屋敷に引き上げて、13時ちょうどにまことさんを迎えに来る。その流れで行くわ。

 貴方達弁護人さん方とまことさんの会話内容は覗くつもりは無いけれど、隣の会議室への人の出入りは私は常時マークしてる。羽場さんはともかくそれ以外の誰かが乱入してきたら、その時点で容赦なくまことさんを引き揚げさせるわ。そのつもりでいてね?

 それと、一週間後の面会について。同じ時間帯で、場所は、ここではなく貴方達弁護人さん方の中の、誰かの事務所、ってことで、お願いできるかしら? 弁護人が6人付いてるのなら、誰かしら11時から13時まで事務所で面会場所を確保できる人が居るでしょう? 誰の事務所を使うのか今から2時間で詰めておいて、まことさんを迎えに来る時に私に教えてほしいのだけど」

 

 弁護人3名が、無言で顔を見合わせた。全員が軽く頷き、これまで喋っていた恩師が口を開く。

 

「では、これから6名で協議しますので、2時間後に協議結果をお伝えしますね。出来る事なら週に一度と言わず、もう少し面会の頻度を上げて頂きたいのですけど、」「それはダメ」

 

 ごく当たり前の懇願を、ご主人様は真顔でぶった斬った。

 

「っ、ですが、拘留中での接見に比べても時間の制限がはるかに、」

「この人は私の管理下よ。貴方達にどう会わせるかは私が決める、私が圧倒的な実力を持つ内はね。私が弱くなるか、貴方達ヒトが私並みに強くなるか、どっちかになってから出直しなさい。今の段階で同じ事をしつこく言ってくるなら、もう二度と連れてこないけど?」

 

 洋食屋で斧を突き付けた時のように冷たい声で言い切る、その顔に、一切の笑みはない。

 もう、これ以上の懇願は危ういだろう。この方がどれほどの力を持っているのか、皆、嫌というほどに承知している。恩師は表情を硬くしつつ諦めざるを得ない。

 

「……分かりました。別にもう一件、日下部君と魔女さん両方が居る時にお伝えしたいと思っていた事が有るのですが」

「ん、何?」

「今日の9時40分頃にこの建物のこの階に降ってきたお手紙なのですが、降ってきた箇所が何分この階全体だったので、我々弁護人と羽場さん以外にも拾った方が居る構図となりました。そこから警察に情報が伝わったようです。

 ここの弁護士会の理事者と、それから我々弁護人と、警察の間で、かなり突っ込んだやり取りが行われています。警察は『指揮系統が真っ当に生きている限りは、これから2時間の間は会議室への乱入は無い』とは、言っています」

 

 ご主人様は、「……そう」と一言返した。箒を抱えたまま腕を組み、揺らがずに恩師を見つめてただ無言で話の続きを求める。

 日下部を真横に置いて、恩師は引き続き喋る。

 

「2時間後、この会館の1階正面入口から警察が堂々と入って来るとか来ないとか、警察と理事者との間で結構なやり取りがありました。

 警察という組織にとって一番の理想は、日下部君が連れ去られる前の状態に戻る事です。組織の性質上、日下部君を奪還しようという試みは、貴女が手元に置いている間は絶対に続くことでしょう。今日の面会の後にも、そんな事が起こらないとは言えない。

 一方でこの弁護士会の理事者が懸念していたのは、この会館で流血沙汰の大惨事が起こるのではないかという事でした。我々弁護人としても、今日のこの場に限らず、日下部君が絡む問題で、警察と魔女さんの間で果てしなく揉め続け、やがて惨事が起こるのではないかと懸念しています」

 

 ここで少しだけ逡巡した間を経て、これまた懇願の籠った言葉が来る。

 

「警察がどう動くのかは、我々には分かりません。魔女さんがどう動くのかも当然分かりません。

 私としては、後遺症が残ったり、遺族が生まれたりするような事は流石に避けて頂きたいというのが願いです。……貴女ほどの実力であれば、それは避けられるのではないですか。揉める時に実際に動き回るのは、命令を受けた末端の方々です。あまり酷い目に遭われるのは気の毒ですから」

 

 ご主人様は視線はそのまま、少し妖しい微笑みを向けた。落ち着いたトーンで、やれやれと言わんばかりの声で答えを返す。

 

「貴方、『警察と揉めてくれるな』とは言わないのね。まぁ言われても守れはしないけれど。そのお願いを言うに至るまで、どれだけの水面下のやり取りが有ったのかも追及せずにおきましょうか、今は。

 ……まぁ、善処はするわ」

 

 不意に直感めいた推測が頭の中を走り、日下部はハッとする。この恩師の願いは、この状況下ではなるほど真っ当な台詞だ。だが、本当に、この願いはこの人の独断で向けられたものだろうか。

 理事者とこの人達だけのやり取りの末、この願いが来た、その可能性はもちろんある。でも、実は警察の意向が絡んでいるというのなら。警察とご主人様が、……この会話を通じて間接的にニギったことになるまいか。

 ――『面会後に末端の警官がやって来るが、殺したり後遺症が残ることは避けてくれ』と。

 

 本日、面会後に身柄を確保されようとして、その不意打ちにブチ切れたこの方が警察を殺すリスク、そのリスク自体はこのやり取りで小さくなったろう。反面、それで身柄の確保は絶対に出来ないという大きなデメリットがあるが。

 もしそんな構図なら、2時間後、身柄確保劇の茶番が起こる。そうであれば警察が得るのは、『頑張って身柄の確保に動いたが、強大な魔女に一掃された』という、組織の体面を何とか保持できる物語だ。

 

 ご主人様は微笑みのままに静かに続ける。

 

「今日、私達がここから帰る時は、……この階から転移で消える、あるいはまことさんと一緒にこの建物の1階ロビーで転移して消える、どちらかになるでしょう。どちらになるのかはその時に私が決める。行きと同じような箒はもう使わないわ、まことさんが大変そうだもの」

「……。そうして頂けると非常にありがたいです、ええ」

 

 日下部はとっさにそう返す。あの飛行はもう体験したくない。

 

 この部屋での会話はこれで終わりらしい。時間が一秒でも惜しいのだろう、弁護人達が日下部に異動するよう無言で促す。再度羽場に会釈してから、彼等に従った。

 ご主人様と羽場は、ふたりだけこの部屋に残さざるを得ない。沢山のカメラ類がセッティングされ、段ボールが積んであるこの部屋に。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 11:04 東都弁護士会館 502号会議室

 

「これ、お使いください」「どうも」

 

 羽場さんは、私にパイプ椅子を渡してそう言った。素直に受け取って、座っておく。彼は別のパイプ椅子を広げて、私に対面する形で腰掛けた。

 この会議室のドアに近い方に羽場さん、会議室の奥の方に私が座る構図だ。何かあった時には私に遮られずに羽場さんが即座に室外に出られるよう、たぶん弁護人あたりが入れ知恵している。私が本気を出せば無意味だと分かっていても、やらないよりはマシな気休めとして。

 

 ホウちゃん65号は小型化して髪留めモードに変えて、前髪を留める形で挿した。ついでに髪型もポニーテールに変更。何もしていないのにシュルシュルと編み込んで結った髪が勝手に解かれていく光景に、羽場さんの目が釘付けになる。

 もっとも、何か言いたげな表情をしつつも、髪型について言葉としては沈黙を通した。スーツ姿の彼は気を取り直したように姿勢を正して、緊張した面持ちで発言する。

 

「えっと、……『魔女さん』とお呼びすればよろしいのでしょうか? 改めて自己紹介させてください、羽場二三一です。私にお尋ねしたいことがあるとのことでしたが」

 

 事前に用意していたらしい口上には、事前に用意していた口上を返そう。この対話で最初に言うことにしていた、率直な彼等への敬意を。

 

「ええ。そうね、でも、まず本題に入る前に。羽場さん、貴方がたの強い絆に敬意を。

 歪んだこの世間の中で、ある意味真っすぐで、ある意味(いびつ)な貴方がたの絆があったからこそ、まことさんの魂は()えていた。だから私は誘拐したいと思ったの」

 

 緊張した心に、その言葉はそこそこネガティブに刺さったらしい。一瞬だけムッとした表情を見せて、それでも口調には自制を何とか効かせて、羽場さんは尋ねてきた。

 

(いびつ)、……歪に、見えましたか。私達の絆は……」

「公安の検事だった人をあんな風な犯行に走らせたのだから、それはやはりヒトの社会の中では(いびつ)なものなのでしょうよ、ヒトの、世間的には。違うかしら?」

「……いえ、それは、……。その通りだと思います」

 

 反論は出来ない言葉、そのはずだ。

 羽場さんを『殺した』相手に報いるために、まことさんは、ヒトの社会の倫理に思い切り背を向けた。まことさんの犯行は、紛れもなくまことさん自身の意思と決断に基づく。決して、他人に強制された行為などではなく。

 意識してゆっくりと言葉を連ねる。羽場さんの心に、練り込むように。

 

「この場が録音録画している場所だからこそ、訊きたい事を訊く前に、ここで明言しておくわ。

 きのうの告白文に書いた事の繰り返しになるけど、私は、まことさんが確保される時の姿に惚れた女。まことさんが起こした事件自体には、私は一切関わっていない。

 また、留置場からの連れ去りは、完全に私の独断よ。まことさん本人を含めた関係者一同、誰にとっても全く想定外の連れ去りだったはず。何しろ、私が留置場に湧いた時こそが、人外としては、初めて明確にヒトの前に姿を晒した瞬間なのだから。

 私の介入が無かったら、まことさんは普通に司法手続きを辿ったはずだった。その時にどんな末路に至るのか、あの人は十分承知の上であの犯行に手を染めた。そのはずよ。……ここまでは良いかしら?」

 

「はい」

 

 重苦しく羽場さんは頷く。

 ――『末路』、その言葉の意味を、補足する。噛んで含めるように。

 

「短期的に取調べ中に他者からどう見られるか、法廷でどう見られるか、それだけでは無く。……拘置所の中で朽ちるとして、最終的に、己の身体が、どんな風に見られるのか。まことさんは全部ひっくるめて承知の上で、犯行に及んでいたはず。爆発物絡みの事件は、この国では死者がひとりでも出た時点で、一番厳しい判決が出るという想定が要る。職業上、その辺りの判例は認識してないとおかしいものね。

 ……仮に、今の段階では有り得ないけれど、私がまことさんを留置場に戻したとしても、法廷での結論は変わらないでしょう。関係者全員、『判決は一択しかないんだな』って薄々考えながら、手続が進むのでしょうね。爆発ではない単純な殺人事件であったとしても、犠牲者の人数から考えて量刑相場上は迷いようがないもの。私が癒したヒトなり物なりを検察が起訴の範囲から除外しても、亡くなってしまった人の数自体は、どうあっても覆しようがない」

 

 口をギュッと噛み締めて、拳を強く握りしめて、……しっかりと、羽場さんは頷く。曲がりなりにも判事を目指していた身だ。私の推測は妥当だと、分かり過ぎるくらいに分かるはず。国際会議場の爆破での死者、それからIoTテロに巻き込まれた死者。トータルでは『辛うじて、一桁には収まった』という、それだけの犠牲者が出たという事実、それが意味する判決を。

 だから私は頷きを返して、言葉を続ける。静かに、落ち着いて、真っ直ぐに。ナイーブでもあり(したた)かでもある、この心の内に、嘘の吐きようがない私の本心を練り込むのだ。

 

一昨日(おととい)の夜、まことさんを初めて見た時。降谷警視と取っ組み合ってるのも、泣き崩れるのも、警視庁を駆け上がっていくのも、画面越しの貴方との会話も、私は、まことさんの行動を全部見ていた。見た目や声だけじゃない、何より魂の在り方が惚れ惚れするくらい美しいと思ったのよ。

 そしてその魂が辿る未来が、私には見えた。あの人には、独居房の中で自分の精神を責める事、それくらいしかやる事がないんだ、って。

 ……あの人、熱意とスペックは凄いものね。徹底的に自分を責めて責めて、どこかのタイミングで自分自身の魂を壊す未来が見えた、それこそ裁判が続けられなくなるくらいに。それでも、関係者一同その精神状態を見なかった事にして、裁判を無理やり続行させる未来も、私には見えた。

 それだと絶対に私は後悔する、って、悟ったのよ。『この魂が壊れるのは余りにも惜しい』って、あの時の警視庁の屋上で」

 

 降谷警視(+亡霊のお兄さん)、因縁を抱えた坊や、まことさん。それだけの存在があの場に居た。坊やのことは、録音録画がされているこの場では触れるべきでない。亡霊のお兄さんは、存在自体が私のみの心の内に秘匿されるべき。どちらも不用意に明かせばヒトの社会が歪む。故に、彼等には一切言及してはいけない。

 

「絶対に忘れない記憶に、なるんでしょうね。……みんな屋上で夜空を見上げて、落ちて来るはくちょうを見守っていた時。姿を隠した私だけが真っ直ぐにまことさんを見つめてたわ。

 暗い空から、爆発の光が思いっきり届いた、あの瞬間。私は、自分の魂の中でグルグル渦巻いてるこころの意味に気が付いたの。立てかけたホウちゃん65号を両手で握りしめて、ひとり立ち尽くすしかなかった。嘉永2年の春からずっとこの列島で生きてきて、初めて感じる感情だった。

 『ああ、これが誰かに惚れるっていう事なんだ』、って、あの夜のあの場所で気付いたの」

 

 羽場さんはただ私の言葉を傾聴している。一言すらも聞き漏らすまいとする態度で私の態度を分析しようとしてはいる。実際のところ、あの夜の追憶、その前のまことさんの思い出、そしてこの私の言葉。それらに飲み込まれ、私を分析するということも、己を客観視するということも出来ていない。

 ――なるほど、裁判官には向いていないと判断されるはずね。感情と理性を切り離しながら相手の態度を分析するという、法曹には必須の技能が、貴方は未熟だ。そのくせ正義感だけは強いらしいと来た。司法修習生を罷免されてから4年が経った、今でも。

 

 強引さと未熟さ、このように併せ持つからこそ、まことさんはきっと惹かれたのだろう。私は心の中でだけ『微笑ましい』と呟く。

 

「私は、自分がやりたいと思った方向にしか生きていけない生き物よ。だから私は己の望むとおりに動いた、やりたいように動くことにした。それが、この連れ去り事件の方の発端。

 で、前置きが長くなったわね。ここからが本題、の前に。……ちょっと頭を回転させてもらいましょうか。貴方、私の言葉に飲まれてしまっているから。すごく集中はしているけれど、冷静にこれからの言葉を聞ける顔じゃなさそうだもの」

 

 羽場さんはハッとした顔して、「はい」とだけ答えた。

 

     ◇     ◇

 

【この時の質疑の模様を、あの告白文と同じ形で、一言一句違わず書き残しておこうと思います。

 

 Q.きのう、昼に警視庁を中心にぶちまけたA3サイズの告白文を、思い返してほしいの。私の生まれについて、まことさんとのQ&Aの冒頭で書いていたでしょう?もし「〇〇人」の単語の枠の中で表現するとしたら、――元々(ヒト)ではないから厳密には相応しくはない言葉だけど……、もしその単語の枠で表すとしたら、私は「何人」になるでしょうか?

 

 A.えっと、「この世界の生まれではない」と書かれていました、よね。だから、その単語であれば「異世界人」でしょうか?

 

 Q.正解。それで、故郷(ふるさと)の元の世界で、私は、誰かを従える立場であったか、逆に、誰かに従う立場であったか。この二択で選ぶとしたら、どちらに見えた?

 

 A.……その二択ならば、……私の目からは、どちらかと言うと、誰かを従える事の方が遥かに多い立場に見えました。私という、何も力の無いホモ・サピエンスから見た印象でしかありませんが、……「何かしかをやらかして強制隠居を喰らった」と書かれていましたね。その追放先がこの世界であったというのなら、楽隠居生活先のこの世界でこれほど強大な力をお持ちだと言うのなら、追放されて弱体化される前は、もっと強い力をお持ちだった。そういう生き方をされていたように思えます。

 

 Q.正解。更に質問、論理的に考えればすぐ分かる内容よ。その私の故郷において、追放される前の私並みに力の強い存在は、果たして居たでしょうか?

 

 A.論理的に考えれば、……「居た」と考える方が自然です。少なくとも、貴女を捕らえて、弱体化ペナルティを掛けるだけの力を持った何者か、そういう存在が居たのだと、……そう考えないと、あの告白文に書かれた貴女のお話が成立しません。その何者かが単体で貴女よりも強かったのか、集団で力を合わせて貴女よりも強く振る舞ったのか、それは分かりませんけれど。

 

 Q.今、現代を生きるヒトに、私の故郷に足を踏み入れるだけの技術があると思う?

 

 A.いえ、そんな技術が有るとは思えません。異世界に行く技術ということになりますよね? 私は技術分野のことには詳しくありませんが、今の世の中にそんな技術があるなんて、私は聞いたことがありません。

 

 Q.追放された時の処分の絡みで、私は故郷に足を踏み入れることは出来ない。でも、「故郷の一族と連絡を取ることだけは今のところ出来る」。そう言うと、貴方は驚くかしら?

 

 A.そもそも貴女の力の詳細も、故郷のことも、誰も何も知りませんから。……そう言われても、そういう物なのかと納得するだけです。

 

 

 Q.私の実の姪っ子がね、――私にとっては兄と兄嫁の子なんだけど、……その子が、故郷の一族のまたややこしそうな相続争いに巻き込まれてしまってね。兄達が、「娘をどこかに一時的に避難させてくれ」って、伝手がある場所にほうぼう打診して回わってるらしいのよ。追放を喰らって狭間の屋敷に住まう私のところにも、打診が来たの。こちらの暦で4~5年預かってくれればそれで良いんですって。打診が来たのが10日くらい前でね、今は返事を保留していて、イエスかノーか、だいたい8日後くらいには返事しないといけないことになってる。

 当たり前だけど、ホモ・サピエンスではない子よ。見た目4歳か5歳くらいの、ここの童話で言えばケットシーみたいな女の子。種族としての寿命が長い分、成長は、ヒトよりはだいぶ遅いわ。

 この打診があった時は私は誰にも惚れていなかったし、まことさんを誘拐するなんて思ってもみなかったわけだけど、……今、まことさんを手元に置いた状態で、私がもしも「その子を預かる」「私と協力してその子の面倒を見てほしい」と言えば、まことさんは従ってくれるかしら?

 

 A.私に訊くよりも日下部さんに訊いた方が良い気がしますが、……日下部さんは「物やヒトを治してもらう代わりに貴女に従う」と言われているのでしたら、心の中でどう思おうとも貴女に従うと思います。

 話を聞く限りでは、そのお子さんを預かることが、この国の法律上での犯罪になる、という訳ではなさそうですし。恐縮しながら従うのではないでしょうか。

 

 

 Q.そうね、羽場さん、ここから大事な話をするわ。私が訊きたかったこと。

 兄に対してね、「4~5年の間、姪を預かる代わりに、その後は、私が守りたい相手を故郷に一生置いてくれ」って交渉すれば、おそらく兄は要求を飲んでくれるのよ。

 追放者が、そういう風に死なせたくない相手を追放先の世界で見つけて、交渉の末に自分の故郷に置いた例、いくらでも私の故郷に転がっているから。私達一族の遠い遠い先祖も、同じように処刑逃れで救われて、救われた先で財を成して、それから相続争いが起きるくらいに大きく成り上がった。そんな一族だから。

 もしも私がそんな交渉を兄と交わし、4~5年の間、姪の面倒を見た後、私の故郷にまことさんを逃がした場合。この国の警察はまことさんを捕まえられるかしら?

 

 A.いいえ。……ヒトの技術で行ける場所ではないですから、そうなると、無理でしょうね。

 

 

 Q.ねぇ、正義の名の下に強い絆を結んだ貴方に問うわ。一度渡るともう戻れない場所で、異世界という私の故郷で、まことさんと一緒に生きていく覚悟はある?

 

 羽場さん。今から一週間後、貴方にこそ答えを出してほしいの。日下部誠の今後について。

 まことさんは一人で放置させると勝手に病んで、壊れていってしまう状況よ。異世界に逃がすのであれば、貴方が一緒じゃないと厳しいと思う。

 まことさんはね、まだ、何も知らないの。『私が飽いたらこの国のどこかに捨てられて、それで最終的には人生が終わる』流れなのだと、そのつもりでいるみたい。まだ、まことさんには何も、一言も言っていないものね、この姪っ子の打診の件は。私が故郷と連絡が取れる事、それ自体も何も知らないから。

 

 貴方がこの話を望まないのであれば、私が兄に断りを入れて、姪っ子を預かる話を断って、それで終わりになるでしょう。その時はまことさんの想定通り、私が心ゆくまでまことさんを愛して、そして飽きたら捨てる流れになるだけ。

 そこから、まことさんがまた拘留されて収監されることになれば、……貴方にはまことさんと一緒に生きていく覚悟が無いということなのだから、私、貴方にはまことさんとは二度と会ってほしくないし、やり取りも、してほしくない。

 

 もし逆に、姪っ子を預かると決めた時は、4~5年後にはまことさんは私の故郷へ行く。貴方も、同時にどこで何してようと異世界に行くことになるでしょう。

 運が良ければ私の実家周りの家事使用人、最悪スラムで身を寄せる羽目になるけれど、どちらにせよ貴方達は殺されはしないはず。文化上は、さっきまことさんが着ていたような灰色のローブを揃って着て、髪を今の貴方と同じ位に伸ばして、誰かにヘイコラしながら生きていく日々になるでしょうね。ホモ・サピエンスが他に誰ひとり居ない、倫理観も正義感も全く違う形をした世界で。

 

 姪を預かっている4~5年の間、まことさんには故郷の言葉も文化も教えましょう。貴方には何も教えない。異世界に渡る日が来るまでの貴方の生活については、私は一切関知しない。

 そうすれば、どう頑張っても、私の故郷でふたりで支え合って、生きていかねばいけない構図になるでしょう? 事件のことを思い出して思い詰めて病む暇も無くなるでしょう?

 何も知らない羽場さんを遺して、ひとり勝手に生命を投げ出す性格ではないものね、あの人は】

――あの『彼女』の手記より

 

     ◇     ◇

 

【羽場さんからの問いは2つだけでした。

 

 

 Q.もし姪っ子さんを預かって、代わりに異世界に行く話がまとまったとして、もしもその4~5年の間に、私と日下部さんのどちらかが死んだり殺されたりしたら、……話がどう転ぶんですか?

 

 A.貴方が突発的に死んだ場合はやむを得ないわよ、まことさんひとりでは病んでしまうのだろうと承知の上で、それでもあの人だけを兄に託すしかなくなる。死んだ人を蘇生させることは私には出来ないもの。

 まことさんが突発的に死んだ場合は、……私が傍についている限り確率は極めて低いけれど、もしそうなった場合は、この話は最初から無かったことにならざるを得ないのではないかしら? 

 

 まことさんが殺されることは、私が囲っている限りは無いでしょう。

 もしも、……もしも貴方が誰かに殺された場合に関しては、殺した側がただじゃいられないでしょう。私と兄の、取引の面子を潰したのだから。故郷から次元のレベルを超えて、わんさか呪いとか降ってくると思うわ。周辺数百人単位で巻き込もうとも気にしないレベルの、容赦が無い呪いが。

 

 この場所では録音録画がされているのだから、だからこそ予言しておくわ。もし貴方とまことさんが異世界に行く道を選べば、この国の捜査当局は、何が何でも貴方の身柄を確保しにかかることでしょう。極刑にしか至らないはずの本来のまことさんの道筋を、よりによって貴方が思いっきり潰した事、その事への制裁もある。でも、何より、今後4年間ないし5年間の、その間の貴方の安全の確保のために。

 今、私が話しているこの話を、偉い人ほど無視できないはずよ。貴方を、誰にも殺されない安全な環境に置かざるを得なくなる。この、ヒトの社会の安全を守るという観点から。幸か不幸か、毛利探偵とは違って、身柄確保の理由をでっち上げる必要は無いわけでしょう? 貴方、きのう夜の会見で違法行為をいくつも自分から自白してるもの。

 

 貴方が決めなさいな。私が姪っ子を預って、それと引き換えにまことさんと貴方を異世界に逃がす話、この話を進めるべきか、否かを。

 

 私は1週間後の面会の時、貴方の答えを聞きに来ます。貴方が面会に来ないのなら、私が無理やり貴方の答えを聞きに来ます。

 それまで、他人に意見を求める事、他人の意見に耳を傾ける事、どちらも禁止させてもらうわ。貴方ひとりの決断とするのが一番良いのだと、私は思う。まことさんに、私からのこの姪っ子の話を打ち明けることも禁止します。……さもなければ貴方への説得攻勢がロクでもないことになりそうだから。特に公権力に属する人が一言でも貴方に意見をぶつけるのであれば、その時点で、その人の属する組織が丸ごと私に攻撃したものと判断させてもらうわ。

 

 あくまで貴方ひとりで決めなさい。どちらの答えであっても私は受け入れる。

 あくまでこの世界であの人の生命を終わらせるのも、ここでない場所で2人支え合って生きるのも、どちらも正解なのでしょうから。

 

 

 Q.……失礼ですが、魔女さん。

 貴女は4年か5年だけ日下部さんを愛でるという、……変な訊き方になりますが、その期間だけで満足できるのですか? その流れであれば、そのタイミングで、貴女ですら行けない場所に日下部さんを手放すことになりますよね? 『もっと長い年月手元に置いていたい』とか、そういう不満は無いのですか?

 

 A.逆よ。私は私の在り方を充分に把握しているつもり、逆に、約4年ないし約5年、それだけのスパンで区切ったからこそ精一杯に愛し抜くことが出来るのだろうと私は感じてる。私がまことさんに向けた愛情はそう何十年もは続かない。

 

 私はね、今、「まことさんに惚れている」というこの感情には誠実で居たいと思ったの。

 貴方の一週間後の結論がどう転ぶか分からないけれど、……いつか飽きてこの世界の中であの人を捨てる時が来たら、その時は絆を結んだ貴方ですら、まことさんとは共に生きる道を選びはしなかったのだと、私は納得して、あの人を手放すことが出来る。

 逆に、貴方がまことさんと共に異世界へと行く道を選べば、……私は、一度は心の底から愛し抜いたヒトの生命を、どう頑張っても殺されない場所に逃がしたのだと、私はまた納得して、兄達に貴方達の身柄を渡すことが出来る。

 どちらであっても、私は、納得は出来るのよ】

――あの『彼女』の手記より

 

     ◇     ◇

 

 5月3日 11:20 東都弁護士会館 502号会議室

 

 間違いなく脳裏に浮かんだ光景だった。

 この時、羽場二三一は、間違いなく一瞬の夢幻を脳裏に見た。

 

 

 ――拘置所の建物を見上げる二三一は、ただひとり日下部さんを想って立ち尽くすのだ。

 ――心の内でただ反芻するのは過去の思い出。路上に立ち尽くす二三一はひとりで静かに呟く、「あの時魔女さんの手を取ればよかった」「日下部さんを死に追いやったのは私だ」と。

 ――ふたりの間の隔たりは遠いまま終わった、『二度と会わせない』『やり取りさせない』という魔女の言を、忠実に守ろうとする関係者ばかりだから。ただのヒトとして、ヒトが創った社会の中で、ただ法の名の下に『正義』が振りかざされた結果、あの人は拘置所の中で朽ちていった。

 ――孤独なだけのその日々は、どんなにか昏いことだろうか。

 

 

 ――灰色のローブを纏いフードを目深に被った日下部さんが、同じ格好をした二三一の腕を握ってしがみ付くのだ。

 ――フードから漏れる髪は白いものが交じった二三一と同じくらいの長髪で、この人は顔を歪ませて泣く、「なんで私なんかについてきたんだ」「私なんかにお前の人生を費やさなくても良かったのに」と。

 ――ふたりを遮る物は何もない、存分に触れ合うことを邪魔立てする者は、どこにも居ない。自分達の周囲にヒトは無く、ただ、人外が構築した人外のための社会がある。全うするべき『ヒト』の正義はここに無い、『ヒト』の正義から逃れて身を寄せて、そうして生きていくしかない。

 ――ふたりで支え合うその日々は、どんなにか甘美なことだろうか。

 

 

「……魔女さん。今は一言だけ言わせてください」

 

 震える己の身を、自らの腕で抱き留めて、声を絞り出す。その声にも震えが混ざり、制御が出来ない。1対1の対話を望まれた時からずっとずっと思考し、温めていた言葉。今こそ相応しい時は無い正直な感想だというのに、それをみみっちく震えながらでしか言えないのは、己の心の、それこそ脆弱さだ。自覚しながらそれでも、ありのままを吐き出すしかない。

 

「……私は、貴女を心から好きになることも、心から嫌いになることも、両方とも、出来ないのだと思います……」

 

 ――『貴方がたの強い絆に敬意を。歪んだこの世間の中で、ある意味真っすぐで、ある意味(いびつ)な貴方がたの絆があったからこそ、まことさんの魂は()えていた』、……さっき言われた言葉が、不意に頭の中でリフレインした。

 なるほど、この決断のかたちは、この重要で悩ましい選択肢の与え方は、敬意の表し方としては羽場二三一にとっては最上の物だ。この介入が無ければ、何も知らない無神経な世評に傷つけられつつ、まことさんが本来進むべき手続きを黙って見ているしか道は無かったろう。『一心同体』だと言い切った相手が、拘置所の中で償いを果たしたのをただ報道でのみ知る日が来る、そんな日が来るはずだったのだ。

 しかし。自分達のこの絆はこんな敬意を払われるに値するのだと、そう判断されるほどには惚れこまれている。この女性に――!

 

「建前として言い切るべき回答は分かっているんです。一時は法の番人を目指していました。……でも、貴女がこんな介入をしている現状を、心のどこかで喜んでしまっている私も居る。……1週間後、私が出した結論がどんなものでも、……貴女は納得して頂けるのですね?」

 

 魔女さんは、強い口調で言い切った。

 

「もちろんよ」

 

    ◇     ◇

【この時の羽場さんの心の有様は、私がまことさんに惚れた時と同じくらいに印象深いものでした。私が忘れることは無いでしょう。

 

 例えるならばプリズムでした。プリズムに光を当てた時、一色ではない幅広い様々な色を、美しく反射して見せてくれます。羽場さんの心が見せた感情も同様でした。

 決して単一色の物ではなく、散らばった多彩な感情と思考は、その心を抱える自身でも充分に把握しきれないくらいに、複雑で美しい有様を見せていたのです。プリズム状の魂の一面に、私が言葉という光を当てたのだと感じました。

 

 

 羽場さんは、今後猛烈に葛藤するだろうという確信を抱えたまま隣の会議室に行き、そこでまことさんと久方ぶりに触れ合うこととなります。

 

 最初から羽場さんは涙を流していたらしいのです。その顔のまま、開口一番、「私がどんな答えを出しても、日下部さんは受け入れて頂けますか?」と訊いたらしいのです。それから、泣きながら「さっき魔女さんに、日下部さんの生き方に関する大事な質問をされた」「質問内容は、日下部さんには教えられない」「魔女さんに口止めされた」「1週間後に質問の答えを話すことになる」と話した、と。

 「たぶん迷いながら私は貴方の生き方を決めるんだと思います。どんな答えを出しても、日下部さんは受け入れて頂けますか?」と、泣きながら腕に取りすがる羽場さんを、まことさんは抱き寄せ、「良いんだ、羽場。お前の決断なら私はどんな物でも受け入れられる」と答えたそうです。

 羽場さんは更に「例えば、……貴方を、本来の刑事手続きの場に、……逆戻りさせるような答えでも、ですか?」と尋ねました(私の口止めを踏まえるとかなり際どい言葉だと思います)。

 まことさんは目を閉じてから「それならば、なおさら、……受け入れなければいけない事だろう。お前の決断なら、なおのこと」と、羽場さんの頭を撫でつつ、自分自身に言い聞かせるように言い切った、と。

 

 私はその時の様子をリアルタイムでは見てはいませんでした。弁護人との面会の場と同様、覗き見るのを控え、非常食と水を屋敷に置いてくるという名目で屋敷に引きこもっていたのです(実作業として回収したこれらを全て屋敷に置いたので、嘘は吐いていません)。約束通り13時ちょうどに弁護士会館5階にまことさんを迎えに来るまで、面会の方は意図的に見なかったのです。

 この時のこの場の様子を私が知ったのは、何もかもがとうに破綻した後でした。捜査機関が入手した当時の情報を諸々覗き見た際、そこから把握することとなります。

 

 

 1週間後の羽場さんは、どんな答えを返していたのでしょうか、それを想像すると、この手記に文字を連ねている今時点での現実が却って突き付けられてしまいます。切なく、悲しい現実です。

 結果的に、羽場さんへの私の問いは無意味なものになってしまったのですから。あの日、まことさんを襲ったあの悲劇のために】

――あの『彼女』の手記より




※12/1 一部のフォント設定を変更しました。※

※日下部誠が起こした事件でどれだけの死者が出たのか、劇場版・ノベライズ版共に明記されておりません。このため、この小説でも人数の明言は敢えて避けました。作者の感覚としては、爆破事件、及びIoTテロ(諸々の事故の巻き添え)の合計で、死者数おおよそ7~9名としてざっくり設定しています。


次回予告:
「羽場、」「まことさん、ストップ!」

 まことさんが口火を開く前に、私は止めた。

「……この件については誰であれ口出しを禁じたの。これからどうするかは羽場さんが一人で決める。羽場さん『だけ』で」

 譲れない線だった。この歪んだ絆を含めて丸ごと惚れ込んだこの人に対して、そして絆を結んだ対象である羽場さんに対して、一番良いと思うのが、この決断のかたちだと、思っていたから。

次回タイトル:後編② そして悲劇は来たる/思惑とチカラ


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後編② そして悲劇は来たる/思惑とチカラ

※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

後編が思いの外長くなったため、後編②と後編③に再度分割致しました。それでも後編②は2万字超となっております。
後編②はこの通り『そして悲劇は来たる/思惑とチカラ』、後編③は『魂が望むところ/名乗れる魔女と想い出の犬』となる予定です。どちらも、魔女、日下部、羽場、この3名の目線または手記形式で話が進みます。

当作品には夢主以外にオリキャラが出ます(日下部誠が司法修習生だった頃の恩師など、弁護士複数)。話の都合上、原作や劇場版のキャラクターが使えなかったため、当作独自の登場人物として創作を行いました。
現実の司法研修所の検察教官の実年齢については不明でありましたが、調査する中で『40代が適齢期とされる』という記載を発見出来たため、『日下部誠が大学を出たての頃に、40歳前後で教官をしていたキャラクター』として設定しています。設定として不自然になっていないことを願います。


【自分の感性が、ヒトとは違う方向に向かって生えている自覚はありました。そもそもホモ・サピエンスではない生き物ですから。

 しかし感性が常識から外れていても、力と想いを向ける先が公的機関にとって想定外であったとしても、己の言動自体はおおよそ誠実であった、少なくとも現代日本の政治家さんよりは誠実であったと私は思います。

 言えないことはあっても嘘偽りを吐く必要は無い。自分の心の流儀や故郷の慣習により守るべき作法は有っても、ヒトのしがらみに縛られることは無い。そんな人外にとって、本心から惚れ込んだ相手とその関係者に対し、不誠実に振舞う必要性がどこに有ったというのでしょう。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:00 東都弁護士会館 501号会議室

 

 ワンピースの黒と、露出した肌の色が、突如、視界に湧いた。

 

「迎えに来たわよぉー」

 

 予告通りの13時ちょうど、魔女さんは、日下部さんの椅子の真後ろにフッと湧いて出た。エッジオブオーシャンから消え去った時と同じく、音や光は無い。本当に前触れのない出現。

 前髪を箒型の髪留めで留めて、ポニーテールを揺らしながらの笑顔。まるで子どもを迎えに来た母親のように、細い杖1本だけを握った右手を、こちらへ、……羽場二三一達に向けて大きくブンブンと振ってみせるのだ。

 予告通りの時間だ。弁護士さん方にも日下部さんにも、魔女さんの現われ方にさほど驚いた表情はない。転移する魔術を初めて知るという訳ではないし。

 

 日下部さんは、ひとりパイプ椅子に腰掛けていた。ローブと背広は脱いで傍の机に置いてあり、本人は白いワイシャツと黒いズボンという姿。

 二三一と弁護士さん達は同じ型の椅子に座し、日下部さんをぐるりと囲んでいる構図だった。乱入した二三一がしがみ付いた先ほどの僅かな時を除けば、ずっとこの形で1時間半と少々の間話し合っていた。そんな位置関係の視線を浴びながら、日下部さんは座ったまま素早く振り向く。

 

「……ご主人様、羽場に何を語られたのか伺っても良いですか? 派手に泣きながらここに入ってきましたよ。本人が言うには、『日下部さんの人生に関わることを言われた。口止めされているから詳しくは話せない』と」

 

 落ち着いた、なおかつ随分と気にしている様子を隠せない声。あえてこう訊いたのは、魔女さんの見解をこの弁護士さんらにも聞かせたいからか。あと、二三一が、魔女さんが口止めした事柄を即刻バラしたのではないか、と、危惧もしてるのか。秘密だと言っていた姪っ子さん周りの事は伏せているから、――その辺りは責められないはずだけども。

 

 魔女さんはまず苦笑で返した。

 杖を振って部屋の隅に立て掛けてあったパイプ椅子を引き寄せ、日下部さんの斜め後ろで座面を広げる。自分達と同じ様に腰を下ろし、杖を持つ腕を組んで、苦笑のまま視線を二三一に向けた。

 

「あらまぁ、結構きわどいことを言ったのねー。羽場さん。

 まことさん、推理してみなさいな、ヒントを上げるから。……1つ目、『あなた達ふたりのさいわいは、この世界には無い』。2つ目、『羽場さんは、二択の前で立ち(すく)んでる』。この2つがヒントよ」

 

 二三一がややドキリとさせられた話は、この程度の言葉で取り合えずは流された。

 柔らかさと真面目さと、それからほんの少しの揶揄が混ざった喋りで、魔女さんは、日下部さんに更なる思考を促してみせる。隣の会議室で二三一に問いを投げてきた時のように。

 日下部さんの顔の変化は分かりやすかった。

 頭に閃くものが有った、のは、……一瞬だけ。険しさしかない表情で浮かんだ事を言おうとして、しかし直前に逡巡が先立った、らしい。代わりに出たのは、膝の上の両手を握り締めながらの、感情を無理やり抑えつけた低い声。

 

「……今、推理した事を言ってみてもよろしいでしょうか? 突拍子も無くズレた内容になるかもしれませんが」

「言ってみなさい、まことさん。外れても責めはしないから」

 

 ――きっと良い線を行っているのだろうな、と、二三一は察した。

 ここで日下部さんが見当違いの解答を述べる姿なんて想像出来ない。自分が泣いて告げた言葉と、魔女さんの2つのヒント。合わせて思考すれば、この人の頭なら妥当な推論が出来るだろう。

 

「ご主人様は、『この世界の生まれではない』と仰っていましたね。貴女は、……この世界ではない場所に、私と羽場の居場所を創り上げようとしているのではないですか!? それも、羽場が号泣してしまうほどの選択肢を付けて……!」

 

 斜め後ろの(あるじ)に詰め寄る顔は、大分抑えているけれど、……怒り、憤り、悲嘆、それから、苦しみ。ポジティブな要素は一切無い。

 しかし元検事の気迫を目前にしてなお、やはり魔女さんは平然としていた。むしろ面白そうな笑顔でパチパチと軽い拍手をしてみせる。魔女さんらしく。

 

「勘が良いのねぇ。正解よ。全てを言い当てているわけではないけれど、貴方が今持っている情報の限りではほぼ満点の推理でしょうね。まことさん。……決断は羽場さんだけに委ねたの、答えは1週間後。そうでしょう、羽場さん?」

 

 突然話を振られて虚を突かれ、我に返って大きく頷いた。

 

「は、はいっ! そういうお話でした! 『予定通りに日下部さんを心ゆくまで愛でて捨てる流れになる』のか、もしくは、『ここではない世界に日下部さんと私だけが逃がされて、手を取り合って生きることになる』のか、この二択だ、と……!

 『日下部さんと一緒に生きていく覚悟が無いのなら、二度と日下部さんと会ってほしくないし、やり取りしてほしくない』、って、魔女さんは仰ったんです!」

 

 姪っ子さんとか、異世界の伝手とか、その辺りのことは伏せた。明確に口止めされている範疇に入る。

 魔女さん以外は流石に皆さん多かれ少なかれ驚愕の表情。弁護士さん達の中には、腰が浮いて絶句している方も居た。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:03 東都弁護士会館 501号会議室

 

「羽場、」「まことさん、ストップ!」

 

 日下部が具体的に喋り出す前に、――もちろん自分を見捨てるよう本人に告げるというか説得するつもりだったが、右斜め後ろからご主人様の制止が来た。声だけでなく、ワイシャツの右肩にも掌が置かれる。

 

「……この件については誰であれ口出しを禁じたの。これからどうするかは羽場さんが一人で決める。羽場さん『だけ』で」

 

 腕を振り払ってみたくなる、『ふざけないで下さい』と一喝して、撤回を求めて(なじ)ってみたくなる。……『強大な人外で、気分を害するべきではない方だ』、という理性の囁きが、すんでのところで衝動を押しとどめた。

 二択を提示されるのが羽場ではなく己ならば、迷うことなく即時に答えていただろう。

 逮捕時に見せられた動画越しのあの対面が、結果的に今生の別れになっても構わなかったのだ。今日ここでこうして直に詫びることが出来た、それだけでも過分に幸せな事。

 自己の生命など、幾らでも投げ捨てられるのだ。元々は拘置所の中で吊るされて終わりだと想像していて、昨夜からは飽きて捨てられて自ら生命を絶つことになるのだと想像している。どんな場所でも、平穏に生きる資格などもはや無い。無残で、孤独で、打ちのめされた死こそが、罪にまみれたこの身には相応しい。人命という被害は永遠に癒せぬままなのだ。

 ――何よりも、こんな自分が羽場の人生を拘束するなんて、……そんな道を選べるわけがない!

 

 短く息を吸う。

 責めたてない言葉を語彙から探して、ご主人様の目を見返しながら、質問する。端的に。

 

「…………。

 では、ご主人様にお伺いしますが、……貴女を、そんな風な行動に駆り立てるものは何なのですか? 私は、いつか飽きて捨てられるのならそれで良かったのですよ」

 

 この社会の公的機関ならば、もしもテロリストを留置場から連れ出すような行為があれば、その連れ出しは、何かの打算の末の決断でしかない。

 だが、この方は人外だ。ヒトの倫理観を知ってはいても、振る舞いは捻じ曲がっている。おそらくは善意からこういう事を為したのだとは思うが、その動機を明確な言葉として聞いておきたい。

 日下部の視線を受けたご主人様は、ゆるやかに微笑んだ。

 

「そうねぇ。私の魂のかたちはホモ・サピエンスにどんどん似ていくものだけど、でも、今のかたちは違うものだから、……という言い回しだと、理解し辛いかしら?

 ねぇ、まことさん。私が狭間の屋敷で最初にしたお話、覚えてる? 私はね、『己がやりたい・面白いと思った方向にしか生きていけない』、更に『その生き方を維持する限りヒトを必ず凌駕する』という法則を、魂に宿してるの」

 

 右肩に載せられたこの(あるじ)の左の手が離れ、まるで心臓に重ねるように、右の掌と合わせて黒いワンピースの胸の前に重なる。

 目を見つめ返しながらの真摯でどこまでも落ち着いた言葉が、日下部を包むように連ねられた。眼差しも、声も、至極柔らかい。

 

「疲れたヒトが眠らなければいけないように、お腹が空いたヒトが何か食べないといけないように、……私は、私が貴方に惚れたあの夜から、『日下部誠に惚れた』という感情に、誠実に在りたいと思った。そう在るしかなかったの。

 だからね、まことさん。私を駆り立てるものがもし有るとすれば、そうね、一言で言えば、そういう意味での『魂の望み』でしょうね。

 タイミングが良かったのもあるけれど、でも、大事だったのは、……はくちょうが光りながら落ちてくる夜空の下、あの場所で見上げる貴方を見て、私が『この魂がこのまま失われるのは惜しい』、って、そう思ったこと、そう思ってしまったこと。本当に、いっちばん重要な点よ」

 

 一昨日の夜、あの屋上を思い出す。傍で『はくちょう』に対処していた坊やと降谷警視。それから日下部。実はこの方も、魔術で姿を隠して現地に居られたという。きのう昼の怪文書に書かれていた事だ。

 あの強烈な爆音、光、爆風、どれも紛れもなく己の過ちが打ち砕かれた証だった。自分の身勝手さにうちのめされながら、目を逸らすのは許されないと痛感して見届けた光景。

 ――そんな私に、こんな大罪人に、貴女は惚れ込まれたのか。

 

 弁護人の方々も、羽場も、傾聴していた。誰もこの告白を遮ったりはしていない。

 反論出来ない。望みのままに行動すること『しか』出来ない生き物であるという、その答えに無理に反論しようとするのなら、それは魂そのもの侮辱、あるいは、存在意義の否定。そんな内容で反論してのける度胸なんて、この場の誰にもあるはずがない。

 警察の者なら、機会があれば『こんな男に何で惚れたんだ』『貴女の趣味が分からない』くらい言うかもしれない、が、……リスクを鑑みるとそんな言葉でさえ避ける確率も、同等に高い、か。

 

「私の力でも時を遡れない以上、起きた事件は取り消せない。死んだ人を生き返らせることも、産み直すことも、同様に不可能よ。

 それでも、惚れ込んだ貴方と貴方達の在り方に、納得出来るように振る舞いたくて、……そうして考えた結果が、羽場さんへのさっきの提案になったの。1週間後の答えを待ってる」

 

 ――貴女を憎むことが出来れば、まだ楽だったでしょうか。

 心の呟きもやはり声には出せなくて、ただ膝の上で拳を握り締める。自分が望まない形であっても、この方は、惚れ込んだという思慕から突っ走ってきた。そんな方を嫌悪することは出来ない。……何より、(物的な被害や他人の負傷だけとはいえ)望んだ一切を癒してもらったという恩がある。

 

 そしてご主人様は、姿勢を正して羽場に向き直る。

 

「羽場さん、今日のしめくくりとして言わせて。

 迷い抜いて決定してほしいの。今ここで打ち明けた事柄も、今は私と貴方しか知らない事柄も、全部ひっくるめてから考え抜いてほしい。

 貴方達の絆を終わらせるのも、続けるのも、結局はどっちも方向性が違うだけの茨の道でしょう。それでも、自分だけの意思で選べるというのは、……今の貴方が一番欲しかったものじゃないかしら。どちらであっても私は責めないし制裁も無い。私が魂にかけて誓ってもいい。少なくとも、私からは。……私以外がどう行動するかなんて知ったこっちゃないけれど。

 ……まことさんでも弁護士さん達でも口出し禁止。貴方がひとりで決めた、答えを待ってるわ」

 

 彼は、迷うだろう。言葉通りに迷うだろう。すぐ目の前で頷く顔を見れば分かる。

 こんな自分との別離も、過ちに下されるはずの厳刑あるいはその前の自死も、羽場は心の底からは受け入れきれてはいないのだ。表面上はともかく、納得しきれている訳ではないのだろう、――日下部自身の思いとは違って。そうでなければこうも迷った風は見せまい。

 

 己の魂の軸、歪んでいても確かに確固として持っていたものが、またひどく曲げられていく気がする。羽場が決めた事であるのならば納得してしまってもいいのではないか、という言葉が、悪魔の姿で脳裏に囁く。『断絶という道ならば自分は納得出来るだろう』、同様に、……『世界を跨いだ移住という選択でも、従うべきでないのか』と。

 その思考の後ろめたさに、無言で唇を噛み締める。取調室で受けるような物とは方向性が違う、心への負荷。

 

 厚意には違いないのだ。己の罪を追及されることなく、惚れ込んだという理由のみで望外な選択肢を提示する、それは間違いなく厚意だ。

 ただ、単純にこの厚意を受け取って羽場との生を期待するにしては、身に着けてしまった正義感は強すぎた。逆にこの厚意を振り払って犯罪者たる魔女を嫌悪するにしても、受けてしまった恩恵が巨大に過ぎた。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:07 東都弁護士会館 501号会議室

 

「で、弁護士さん達にも。ここでのお話は当然のこと、お隣りの部屋での羽場さんとの会話の記録も、羽場さんと貴方がた限りという条件付きでならデータに自由に触れて良いわ。それに基づいた討議も、弁護人限りであれば制限はしない。ただし守秘義務は厳守してほしいし、羽場さんに口出しを禁じた領域には、口を出さないで。分かってるでしょうけど。

 当局への任意提出も止めてね。令状が根拠の差し押さえにまで『抵抗しろ』とは言わないけれど。……わざわざ自分達からデータを提出するなんて、そんなこと、刑事事件の弁護人の立場では、まずやらないでしょう?」

 

 私の言葉を受けて、私選弁護人6人が互いに目配せを交わした。引っ掛かる事は有っても弁護士として致命的な行為の指示は無さそうだという思考のようで、しぶしぶながら全員が頷き合う。

 そういう視線のやり取りの末に、まことさんの司法修習生時代の同期の一人が、答えた。

 

「……。分かりました」

「ところで、一週間後の面会はどこでやるのか決めてるのよね?」

 

 これに答えたのは、まことさんの元恩師。弁護団6人全員がぐるっと並んで座っている姿を改めて見ると、やはりこの人だけ突出して老けてるし痩せていて、すっごく目立つ。残り5人が、まことさん並みにガタイが良いか、あるいは太っているか、どっちかだから、余計に。

 

「私の事務所です。弁護団の代表を私がやる事になりまして、『次の面会は取り合えずそこで良いだろう』という話がまとまりました。更に次どうなるか分かりませんが、まず来週はその場所で確定です。

 日時は予定通り5月10日の同じ時間で、11時からでお願いします。ホームページに載せた案内図の印字資料を日下部君に渡しています、……さっき日記帳に挟んでましたね。魔女さんにもお渡しした方がよろしいでしょうか?」

 

 その老け顔の視線が、傍の机の上に向いた。丁寧に畳んだ状態の上着類の、真横。今朝まことさんに創ってあげた薄青いA4紋章付きのノートも置いてある。

 

「いえ、まことさんに渡したのなら大丈夫よ。……さて! 行きましょーか、まことさん。

 公僕の皆さんは、この建物の出入り口に観測用の機械をわんさか向けて、私達を外で出待ちしているみたいだから。ギリギリ犯罪にならないレベルでからかって、転移でトンズラしましょ。私にも貴方にも指一本触れさせるつもりは無いけれど」

 

 立ち上がりながら杖を一振り、机上のローブと上着を畳まれたままで無音で飛ばし、まことさんの膝に置いた。『着なさい』という意味を汲んだ本人が、広げて羽織る。

 着終わって椅子から腰を上げる姿を見て、更に日記帳を飛ばした。これは会釈して、……両手で抱えておくつもりらしい。可愛らしい仕草だ。

 

「具体的に、警察相手に何されるつもりか、伺ってもいいですか?」

 

 弁護人のひとりが、本当にこわごわと訊いた。私の『からかう』がどんな物になるのか想像するのも恐ろしいのだと、そんな事を言いたげな顔で。

 別に凶悪な犯行に手を染めるわけではない。まこさんの腕にしがみ付きつつ、あっさりと笑って答えてあげることにする。

 

「例えば、例えば、だけど、警察無線を故意に全体的にぶっ壊したら、それは犯罪でしょう? 

 では、もしも通信指令室の機械が、単純な経年劣化と整備不良で内部に埃が溜まってたせいで火花を吹いて、そのせいで警察無線が一時的にダウンしたのなら、どうかしら? 整備してる会社や担当者の責任は問われこそすれ、誰かがわざと破壊したのではないから、そういう意味では犯罪にはならない。そうよね?」

 

 『もしも』がついた一般論だが、法律の専門家としては即座に同意できる質問のはず。

 ……現に、私以外の全員が(羽場さんもまことさんも)直ぐに頷きを見せてくる。

 

「じゃあ、遠隔透視(リモートビューイング)と未来予知が出来る魔女が、……そうね、例えば、暇潰しついでに警察の建物の中を覗いた時に、通信指令室の機械が、誰も気付かずに何時の何分頃にショートしてダウンするような状況になってるのをたまたま発見しちゃった。……そういう場合、その魔女がわざわざ通報する法的な義務、有ると思う?」

 

 ちょっとだけ空気が固まる。固まるだけだ。「それ、本当に経年劣化と整備不良なんですか?」とは、誰も訊き返してこない。

 気を取り直していち早く答えたのは、まことさんの恩師たる弁護団代表。

 

「……。えー、法的には、警察無線の関連法規には詳しくないし、専門書も手元に無いので一概には言えません。道義的には、……通報、した方が良いとは思いますけれど」

 

 みんな悟れてはいるはずだろう。『正真正銘の内部不良』なのか、あるいは『内部の不良を装った、魔術による故意の破損』か、捜査する側も区別が付かない形で、おそらく無線は実際に駄目になってしまうのだ、とそう感じてはいるはずだ。

 事実だった。数分後に起きるであろう異常、正確な時刻を世界で唯一私だけが見抜いている。

 

「あらぁ。そういう答えで逃げちゃうのね。まぁ、想像してみて。公僕の皆さんが、取り押さえたい者達に対面して、上司の指示を仰ぐその時。その瞬間に、無線から、ロクでもないレベルの悲鳴みたいな雑音しか聞こえてこなかった、としたら。……動く前にギョッとしちゃうでしょうね。

 ……ねぇ。実にタイミングよくロビーに出てきた相手は、この構図の中では、犯罪は何もしてないでしょ? 更に指一本でも触れずに対象が揃って消え去れば、本当に、どんな罪にもならない。通信指令室を整備してる会社が修羅場になるかもしれないけどね」

 

 ニヤついているのは私だけだった。肯定したくないという肯定が、部屋に満ち満ちる。

 

    ◇     ◇

 

【「1階まで降りられるのですよね? お見送りさせて下さい」

 「好きにしなさい。ただ、前触れなく揃って転移魔術で消えるから、それは承知しておいて」

 「分かりました」

 

 結果的にはこのやり取りが、私と羽場さんの間では、最後の会話になりました。

 

 「! 魔女さん。羽場さんだけでなく私達もお見送りさせて下さい。……ここのエレベーターは案外窮屈ですから、全員とは言えませんが」

 「それも、好きにしなさい」

 「では、自分が残りましょう。ここのカメラ片付けておきますね」「僕も残ります。隣室のカメラを回収しておきましょう。部屋の鍵、お持ちですよね?」「……あ、はい、どうぞ。お2人ともお願いします」

 

 この時弁護団代表に申し出て部屋に居残ったのは、いずれも体格が特に太めの弁護人2名。彼等にとっても、結果としてまことさんの生きた姿を見たのはこの時が最後になったのでした。

 

 かくして、私、まことさん、羽場さん、弁護団のうち4名。総計7名でエレベーターに乗ってロビーに降り、あの現場に居合わせるのです。

 痛恨の極みです。振り返ると、直後に発生する悲劇を全く察知出来ないまま、私はどれだけ偉そうな口を叩いたことでしょうか。

 隠れた殺意から、私はまことさんを守り切ることは出来なかったのです。

 何度も何度も思い返すのです。まことさんも当然ですが、羽場さんにも酷な形になってしまいました。一週間迷い抜く覚悟を固めていたのに、固めたそばから肝心の人が喪われてしまった。とてつもなく残酷な事でした。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:12 東都弁護士会館 1階ロビー

 

 会館の正面玄関から見て、エレベーターはロビーの右奥の端に位置する。つまりエレベーターから見て、会館玄関のガラス戸は右斜め前方。――うん、警察の人達が踏み込む様子はない。

 エレベーターのドアが開くなり、弁護士さん達の内1名と共にロビーに出た羽場二三一は、数歩で足を止めて後に続く人達を振り返った。弁護士さん2名の後に、魔女さんと日下部さんが出てきて、最後に弁護団の代表が続く。

 

 消え去る瞬間そのまで見届けたい、と、羽場二三一は思っていた。見送ると申し出たのも、もちろんそれだけが動機だった。

 振り返ったまま身長差のある主従を凝視する。魔女さんの背は成人女性の平均よりはやや高いくらいで、つまり日下部さんの方が明らかにデカい。ローブを着た日下部さんは日記帳を大事そうに左手で抱えている、右腕には魔女さんがくっ付いていた。魔女さんは、素肌の左腕を絡ませ、……右手はフリーだ。下げた腕は杖を握っている。

 にこやかに、演奏を始める指揮者のように、魔女さんは玄関の方を見据えて杖を持ち上げる。

 ……「え?」、の呟きだけ声に出して、魔女さんだけでなく皆さんが表情を一変させて、それから一瞬あって。

 

 ――――!!

 

 揺れる。

 形状し難い音と衝撃、全身まるごと呑まれた気がして二三一は反射的に身を(すく)める。

 

 ここから直線距離で20mくらい先、右斜め前の会館正面玄関、大型トラック、ガラスを割りながら突っ込んで、バックして、また突っ込む。

 怒号、青い制服姿が何人も巻き込まれている、目と鼻の先、血と悲鳴と、大型トラックは玄関ドアのフレームに引っ掛かり、またバック、トラックの前面に視線が引き寄せられた。人が、ヒトの形をしていないニンゲンが、意識が無いようで、血だらけで――!

 

 このロビーには、自分達の集団の他にもスーツ姿で立っていた人達がちらほら。みんな、目の前の状況に腰を抜かしているか凍り付いている。

 

「……まことさんっ、この建物から出ずに待機! 人助けして来るわ、想定外だけどっ!」「、はいっ!」

 

 魔女さんの額、箒型の髪留めがひとりでに外れて本物の箒になった。駆けながら飛び乗られ、……ああ、髪型が、ポニーテールから、凝った三つ編みの結い上げに自動で変わっていく。

 ガラスが衝撃で完全に外れきったドア上部を通り抜けながら、トラックを見下ろす形で、大振りに杖は振るわれる。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:13 東都弁護士会館前

 

 被害者は制服警官がメインだった。私達を表向きは取り押さえるために(実はパフォーマンスのために)やって来た、所轄の杯戸署の人達。1名だけ違う中年男性が軽傷を負っているけれど、逃げるはずみで転んで膝を擦りむいたというもの。『日売新聞』の腕章を着けている、たぶん仕事中の記者さんだ。

 報道関係者は複数居て、お巡りさん達から見て一番の至近距離に居たひとりだけが特に巻き添えを喰らったというだけだ。TVの撮影クルーとか、他の新聞社さんとか、遠巻きに撮りまくって私を見上げている。面会や警察出動の情報がどこかから漏れていたのだろう。もしくは情報漏れに関係なく弁護士会館前にスタンバっていたのか。

 

 ともあれ、箒の上で杖を振るった。重症そうな怪我人だけを見抜いて癒し、ふわふわと移動させて歩道に並べてそっと置く。唐突な浮遊移動に目を白黒させている人は居ても、文句は無い。

 会館の出入口に半端に嵌り込んだトラックも、ギアをニュートラルに入れて車道に置いた。運転席には触れずにおく。暴走犯の脱力した足は、ブレーキからもアクセルからも外れている。手を出す必要など感じない。

 

「魔女さんっ! あの、」「負傷者が9、死亡者が2! 私が、魔術で視た結果だけどもね! 亡くなった人のうち1人は運転手よ! 轢かれて亡くなったもう1人は、そこの歩道で倒れてる!」

 

 こちらを見上げて呼びかけてきたのは、さっきすっ転んだ記者さんだった。何か言ってくる前に叫び返して、ついでに魔術で拡声して教えてあげる。

 それにしても嫌な話だ。毒を(あお)り口に含みながらトラックを爆走させ、何人も巻き込みながら建物に突撃、という所業。この会館はT字路の突き当りに建っている。その『|』部分を下から上に真っ直ぐに進み、アクセル踏んだりバックしたりというのを朦朧とした頭でやってのけ、最終的にはアクセル全開のまま口の中の物を飲み干して絶命しやがった。……それも、現職の警官が。

 

「怪我人は後遺症がギリギリ残らないレベルで癒しておいたわ! 細かい外傷とかは自力で医者に掛かって何とかしなさい! 死んじゃった人は、どうしようもないから手を付けていないけども!

 それと、……この暴走運転手、服毒自殺してるっぽいけど、身柄確保、やらなくて良いのー!? 私が魔術で視たところ、警察手帳を助手席の鞄に入れてるみたいよ? 貴方達と同じ、杯戸署勤務のお巡りさんっぽいんだけども!」

 

 血だの傷だので制服がボロボロになった警官と、……それと、別口で遠巻きに待機していて難を逃れてたらしい私服刑事の皆さん方が、慌ててトラックに取り付いていく。同時に、装備していた無線が絶叫のような雑音を立ててからプツンと使い物にならなくなって、ほんのちょっとだけお巡りさんと刑事さん達に焦りの要素が追加。こちらの方は予想通りだ、どうせ無線は5分もしない内に復旧するし、何より電話は通じてる。実務面では問題ないはずだ。

 制服警官が1名、助手席側の窓は空いていたので、そこを手掛かりにドアを開けて入って行き、運転席の顔を見て一瞬動きが止まった。そりゃそうだ、同僚だもの。

 

「まさか、毒を飲みながら同僚やら先輩やらに突っ込むのが職務のはずないでしょうにー、ねぇ?」

 

 半ば煽り、半ば疑問のような口調を作って、思い浮かんだことをそのまま口に出した。職務で有り得ないのは分かってる。この暴走犯が急遽仕事を休んだ経緯は、遠隔透視で知ってはいた。

 

 嘔吐下痢症に掛かり、きのうまで3日連続で病休だったお巡りさん。職務復帰が今日だった。で、復帰早々に上から降ってきた特別な仕事が、ここ弁護士会館での私達を狙った取り押さえ任務。細かい指令を知ってすぐに顔色を変えてトイレに10分近く籠り、個室から出てきた直後の第一声が『すいません、身体が治り切っていないようですので帰らせて下さい』。……上司も周囲もメッチャクチャ嫌な顔を見せつつ、渋々ながら受け入れた。

 正真正銘、昨夜まで嘔吐下痢の症状があったのは間違いない。ただ、本日追加で休んだのは(私の目では)演技のように視えた。病み上がりには違いないので確かにフラフラで、仮病を疑う者は署には居なかったけれども。『相変わらず使えない奴だな』という視線が酷い状況で早退した、署内の対人関係がそういうポジションの男性であった、というだけ。

 私が視てたのはそこまでだった。怖気づいて帰宅した所轄のお巡りさん、それ以上の何者かではなく、家で寝て過ごすのだろうと思っていた。それだけの人、だったはずなのだけど……。

 

「……ねぇ! 貴方達、どんな風に人間関係(こじ)らせたのよ!? レンタカーのトラックで、遺書持参で突っ込む、って、計画的犯行そのものじゃないのよ!? どう見てもー」

 

 杯戸署の皆さんの、精神の傷に塩を塗るどころか釘をぶっ挿すような一言。自覚はしてる。同じ職場の者に轢かれかけて紙一重で生還し、マスコミに囲まれ、おまけに警察無線が何故か駄目になっているという環境。箒に乗った『犯罪者』に高い所からこんな風には言われたく無いだろう。

 後で監察だの報道だのネットだのから突っ込まれまくるはずだし、生命を救われた代償だとでも思って欲しい。完全に善意で公僕を助けるような甘い性格をしているつもりはないし、なってはいけない。緩いメンタルでの魔力大判振る舞いは世界そのものを歪ませる、というのが理由の半分。残り半分は、単なる私の気質だ。

 

 箒に浮いたまま、魔術で触れなかったもうひとり、歩道に横たわる死亡者に目を向けた。

 跳ね飛ばされ、更にトラックの下敷きになり執拗に狙われた制服着用の警官の身体。TVだと間違いなくモザイクが被される位には痛めつけられた、明らかな即死体。犯人に取り付いて救命処置中の面子とはまた別の警官が、2名掛かりで向かってる。メンタルをボロボロにしながら。

 署内はきっとこれから大変なことになるだろう。暴走犯の遺書には名指しで恨み辛みが書かれているようだし、……まぁ、私の知ったこっちゃないか。

 

 公安警察に対して殺意を向けた現職の検事が居たのだ。人間関係から同じ職場の先輩を轢く警察官が居ても不思議ではない、そういうことに尽きるのだろう。

 

 どっちにしろ、殺された側はたまったもんじゃないだろうけれども、――っ!

 

 怖気が走って顔を上げる。

 有り得ない光景を透視で掴んだ。

 ロビーに置いてきた大事な生命の、有るはずの息(づか)いが消えている……!

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:13 東都弁護士会館 1階ロビー

 

 ――羽場二三一と、弁護団の面々の計4人は、後にここでの出来事を何度も思い返すのだ。

 この時の自分達の見落としを、重い後悔の念と共に、ずっと振り返り続けることとなる。

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:14 東都弁護士会館 1階ロビー

 

 日下部は、エレベーターの前に立って、割れたガラスの向こうの有様を見ていた。弁護人達に囲まれた、その真ん中で。

 

 倒れ伏したりへたり込んだりしていた幾人かが発光しながら空中を移動し、更に突っ込んでいたトラックも同様に空中移動の末に車道に置かれていく。誰がどう見てもご主人様の御業だ。あの悲惨な事件現場を見下ろして、箒に座って浮いておられる。

 ただこの会館の前の歩道で血だらけで伏している警官は、光りもせず動きもしなかった。一応こちらに伸ばした左肩から先の腕の部分はダランとしてヒトの原形をとどめてはいるのだが、それ以外ははっきりと分かる社会死状態。死者はご主人様の手でもどうしようも出来ない、という現実に思い至り、ただ、立ち尽くすしかない。

 損傷具合を見れば、ご主人さまの魔力でもってもしても脳死状態にさえ出来るものなのかどうか怪しいところだが、……仮に可能であったとしてもそんな力を振るう事は無いのだろう。そういう考え方だと、昨日教わっているではないか。

 

 遠慮なくズケズケと並べ立てられたご主人様の言葉が、混乱の極みにある警察官とマスコミに降ってくる。出入口のガラスは完全に無になっており、張り上げた声は不自然なほどこちらにも丸聞こえだ。何か魔術で声を届けているのかもしれない。

 どうやら、この事件は『現職警官による同僚殺し』ということ、らしい。いわば身内狙いのテロ行為か。

 

 喧騒が喧騒を呼び、多くの人が集い始めていた。

 しかし道路上の面々が弁護士会館に踏み込んでくる素振りは無く、会館ロビー側で目撃していた人達も外に出る事は無い。何しろ、証拠を踏みにじらず怪我もせずに出入口を通るのが不可能なほどにガラスの損傷が激しい。しばらくは現場検証のために通行不可能になるのだろうと確信が持てるほどの『事件現場』だ。

 運転席の暴走犯が複数人掛かりで地面に下ろされ、心臓マッサージが施されていく。こちらからは投げ出された足しか見えないが、暴れるような様子は見受けられない。ご主人様は先ほど「犯人は服毒自殺した」だ叫んでいた。とすると、この心臓マッサージもダメ元でやるしかない行為なのだろう。

 

 ――犯人が生きていたらどれほどの長期刑が妥当だろうか、……いや、そういう事を考える必要も無い、な。もう検事ではないのだから、

 他人の事件をどうこう言える身分では最早ない。元の職に在った時のように一瞬でも考えようとしたこの頭を哂いたくなり、同時にこみ上げてきた気分の悪さに少しだけふらつく。

 この暴走犯を、日下部が論評できるわけが無い。彼が受ける刑がどんな物であっても、己が受ける筈の刑よりも重くなることはあるまい。公安刑事を幾人も殺めた者が、何故(なにゆえ)にこの同僚殺しの警官を評することが出来ようか。

 ふらつきも、気味の悪さも、ただ息を呑むことでねじ伏せる。結局は、体格の良い被疑者が弁護人に囲まれながら顔面蒼白で立ち尽くす、それだけだ。

 

 その時、弁護団の代表になって頂いた先生が、そっと背後から話し掛けてきた。

 

「日下部くん、念のため下がろうか。ちょっとフードを被せても良いかな?」

 

 表から見えるこの場所で顔を隠さずにずっと突っ立っておくのは色々な面で危うい、そんな判断、だろう。納得した日下部は、視線は事件現場に向けたまま頷いた。「はい」の答えを小声で返す。

 ――「ねぇ! 貴方達、どんな風に人間関係(こじ)らせたのよ!?」、……ご主人様のはっきりした声が変わらず聞こえる。羽織っている灰色のローブの、フードを引っ張られる感覚。背後からやや丁寧に遠慮がちに布地をめくる元恩師の片手の動きに、もちろん抗うことなんてせず――、

 

 

 ――ザクッ……

 

 唐突だった。

 首の後ろ側、熱を感じた。

 熱いほどに痛い、猛烈な違和感。

 

 視界が歪む、声が出ない、上げられない。

 音も色も触覚も、あらゆる感覚が木霊してひっくり返りながら、認識できるのは、首筋の温さ、視界に入った天井、いつの間にか膝をついていた床、慌てて差し出された誰かの腕に、引き寄せられて、

 

 声が出ない、何もかも早急にグレーアウトしつつ消えていく。

 唯一分かる色彩、まるで血のように温い、赤、

 

    ◇     ◇

 

【甘かった。その一言に尽きます。まことさんをああしておいたのは重大な判断ミスでした。

 

 まことさんだけを狭間の屋敷に転送しておけばよかった。あるいは何か魔道具を創り出し身を守れるようにしておけばよかった。警官達に意識を向けきらず、もっとまことさんの周辺を見ていれば、あの悲劇は殺人の未遂で避けられた。そう思うのです。

 一番の失敗は、警察官達の方に意識を集中させていて、まことさんの方に向いていなかったこと。弁護人に囲まれている、それだけで安心していました。前の晩、洋食屋で刑事に腕を引っ張られた時は絶対に許さなかったのに。

 

 今更振り返って何よりも滑稽だと思うのは、弁護人は、バックグラウンドに諸々の打算を負っていたとしても、「取り合えずまことさんのために動くのだろう」と無邪気に信じていたことです。 

 司法研修所で大暴れして夢を絶たれた、裁判官志望者が居た。協力者を喪った恨みから公安刑事相手に爆破テロを起こした、現職検事が居た。人間関係をこじらせて職場の先輩を轢き殺した、現職警官が居た。

 これら実例を全て目の前で見ておきながら、私は、弁護士の中に同種の者が存在しうることにどうして想像が及んでいなかったのでしょうか。裁判官志望者や現職検事でありながら道を誤ったヒトが居たのです。現職弁護士の中に、同じく職務倫理に反するヒトが居ても全くもって不思議ではなかったでしょうに。

 

 「弁護団の代表が、弁護対象を刺した」。

 結果だけ述べれば、発生したのはそういう事実です。凶器は隠し持っていた包丁、前日夜から砥石で懸命に研いでいたという鋭い物でした。場所は東都弁護士会館1階ロビー。目撃者多数の悲劇だったのです。

 まことさんを含めその場の全員が、暴走事件の現場に釘付けになっていました。あの場で唯一まことさんよりも後方に立っていた元恩師は、元教え子たるまことさん自身の身体を目隠しにして、凶器をカバンから抜き出し、後ろから刺したのでした。

 

 刺し傷は深くそのまま横に薙ぎ、首を半分裂いたのです。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 13:16 東都弁護士会館 1階ロビー

 

 うめき声にならない声を聞いたのと、噴き出ずる血潮を浴びたのと、どちらが早かったろうか。

 羽場二三一が振り返った時、あの人は猛烈に出血しながらフラフラと前方に倒れつつあった。とっさに横から受け止めて重さにへたり込み、いや、むしろ頭を地面に強打される前に己の身体を滑り込ませた、……という言い方の方が現実に合ってたと思う。なんにせよ良く考えずに直感で動いていた、この時点では。

 

 重い身体を抱き寄せて座り込んだ視界を、一筋の光が駆け抜けた。

 日下部さんの後ろに立っていた弁護士さんの腕に重く直撃、光弾は手枷(てかせ)となって標的の左手首を乱暴にロビーの壁に張り付け、引き摺られた身の、赤黒くぬめった右手から何かが床に落ちる。血だらけの、大きな包丁が。

 

 包丁、血、日下部さん、首からの血、傷、包丁、刺されて、この人が、……、

 

 ――脳裏で、カチリと繋がった音がした。

 瞬間、二三一は床の上で魂の底から絶叫していた。起こったことが把握できても精神は付いて行かず、叫びだけが喉から出続けた。

 腕の中で抱き寄せた日下部さんは、生温く血を流しながら、何があったのかよく判っていないような表情で虚ろな眼を中空に向けている。脈は取れず呼吸もせず身じろぎ一つせず、――まるで死者のようで。

 

 巨大な斧、……日下部さんの背丈よりもずっと長そうな柄の、大きな斧が、縦回転しながら現れた。壁に左手を戒められた弁護団の代表に向けて、振りかざす前の溜めのような角度で『それ』は浮いている。

 狙われている当人はゲッソリとこけた頬を蒼褪めさせて、それでも厳しい無表情で、黒く光る刃を見据えたのだった。無言で自由が利く血塗れの右手を動かし、己のワイシャツの首元を乱暴に緩めて、一番上のボタンを弾き飛ばしながら顔だけは少し上を向く。さながら『狙うべき首がここにある』のだと示すように。――その態度の、意味。

 

 頭がパンクしそうだった。

 どう見ても受け止めきれない事が現実に次から次から起こっていて、深く考察するよりも前に混乱で何が何だか分からなくなる。それでも咄嗟に思い付きで吐いた言葉は、言語の形をして二三一の口から出るのだ。感情丸出しの叫びという形態で。

 

「魔女さんっ! こんなのの対処の前に日下部さんを癒して下さい! このままじゃ死んでしまいますよっ、貴女が愛する『まことさん』がっ!」

 

 そうだ。TVの画面で幾度も流れて映し出されたように、さっき暴走事件の現場で負傷者相手にやってのけたように、魔術という奇蹟はヒトの怪我を癒せるはずなのだ。

 この人を死者にしてはいけない。もちろん、この人に惚れている魔女さんもそう考えているはずだ。一瞬の光がこの人の全身を覆って、そうして意識を取り戻させてくれるはずなのだ。

 でも、鮮血に塗れた日下部さんの身体は全くもって光らない。首の深い切り傷はいつまでも傷のままそこに在り、目に光は無く、一言も喋らないままだ。

 

 

「……いいえ。もう、無理なのよ。『このままじゃ死んじゃう』んじゃなくて、『私が気づいた時にはもう手遅れだった』の」

 

 会議室で対面した時と同じくらいに真摯で、しかし比べ物にならないほど活力が皆無の声だった。

 いつの間にか自分達の横に魔女さんは立っていた。斧の真横に立ちながらの視線は壁に繋がれた下手人の方に向けていた。……この言葉だけはこちらに向いていたが。血を多く浴びた羽場二三一と、日下部誠に。

 

「ねぇ、あと数秒早ければ、この殺人は阻止できたのでしょうね。ねぇ、そもそも、こんな遺体でも蘇生させる力が私にあるのだったら、どれほどに良いのでしょうねぇ!? ねぇ?」

 

 黒いワンピース姿で下手人を(なじ)りながらの一歩はどこか覚束ないように見えた。激情で涙声を震わせながら、その真横で浮いた斧は殺人の現行犯へと振り上げられ、――誰だろう、「止めて下さい!」の太い男声の絶叫が後ろから響く。

 言葉の意味がじわじわと羽場二三一の心に染みていく。『手遅れ』、『遺体』、つまり、腕の中のこの人は。

 

「貴女の、」壁にべったりと背を付けて、弱弱しい声でも狙われた男ははっきりと言った。首元をはだけさせた体勢はそのままだ。痩せて老け込んだ顔はどこまでも青白く、それでも凪いだ眼差しをしていた。疲れ切ったのか、諦め切ったのか分からないそんな擦り切れた声を出して。

「……望むように、魔女さん」

 

 彼女の、ヒトではどう考えても及ばない力を持つ女性の、怒りのボルテージが急激に増す気配を確かに二三一は感じた。斧がまた縦に回転する。周辺の人達は息を呑みあるいは叫ぶ、数秒後に起こる殺人を想像して。

 

 

 硬い音が響いた。

 振り降ろされた斧の刃先は、セメントの床に思い切りめり込んでいた。流血の事態では無かった。

 『人体』をかち割るよりもまだ手前ではあった。たまたま刃先が反れたのではなく、狙って床に刺したのか。誰かがハッと息を吐き、だが、その安堵を無視して魔女さんは口をまた開く。声だけでなく、身体の軸もゆらりと不安定にしつつ。

 

「今まで生きてて、こんなにも誰かを想ったのはこれが初めてだったのよ、わたし……」

 

 灯火(ともしび)が消える時のように言葉の中の生気は消えた。

 ふらりと後ろに倒れ込み、その黒いワンピースの身体を、日下部さんの私選弁護人のひとりが腕を出して慌てて支える。「魔女さんっ!?」、叫ばれ呼ばれる声の下、だらんと伸ばされた手足に動く気配は無い。

 

 

「ぁ、」

 

 ようやく現状を飲み込めた二三一の口から、間抜けな声が漏れる。

 己の膝の上、どうしようもない『死者』の虚ろな眼差しと目が合って、

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーー!」

 

 今度こそ腕の中の『死』を抱き寄せ、羽場二三一は絶叫した。

 あらゆる喧噪も声掛けも耳に入らず、ただ慟哭するよりほかに出来る事など無かった。

 

 この身体を血塗れになりつつも抱えたという事実を、鉄錆のようなぬめりの下に確かに在った体温を、そんな日下部誠の亡骸の感覚を、羽場二三一は、一生忘れない。

 

    ◇     ◇

 

【日下部誠(40)、無職の元検事。

 5月3日13:16頃、東都弁護士会館1階ロビーにて元恩師に首を刺され、ほぼ即死。

 それが、私が見落とした殺意の結果でありました。

 

 独断の犯行であったことは明言しておこうと思います。他の弁護人も、この恩師を信頼しきっていた。自分から弁護人として手を挙げ、手を挙げる理由ももっともらしく述べて弁護団に参加した人が、実は殺意塗れだったことを、誰も気づいていなかった。私が魔術で分析した心情です。

 胃ガン闘病中で、先が長くないと自覚していた56歳ヤメ検弁護士。鞄の中に包丁を持ち込んでまことさんとの面会に及び、素知らぬ顔でまことさんの生命を絶つ機会をずっと待っていた。

 表社会に戻ってくるつもりは無かったはずです。誰から見ても心証がとてつもなく悪くなる犯行です。私に殺されるかも分からず、仮に殺されなかったとしてもどんな手続きが進むのか、明確に承知していたはずでしょう。刑を全うするどころか、地裁の判決が下される前に自身の寿命が来るとはっきり認識していたはずです。

 

 まことさんの犯行は、裏切りに見えたそうです。

 検事から弁護士に転身する前、司法研修所の検察教官としての最後の仕事が、「誰がどう見ても優秀、かつ適性のある、検事志望の修習生を検事に推す事」だったそうです。そうして推されたのがまことさんでした。検事時代最後の仕事であった故に「日下部誠」への思い入れは強かった。

 まことさんは誘拐事件の被害者ではありますが、それ以前に、検事としては絶対に許され得ないことを行っています。それら事件の一報を聞いた時から『元教え子に裏切られた』と感じていたそうです。最初から、研いだ包丁をカバンに忍ばせて面会に臨んでいた。まことさん本人の口から明確に犯行を認める言葉を聞いた時、殺意は明確に形になり、包丁を向ける時をずっと伺っていた、らしいのです。

 大人しく司法の手続きに乗ったならまだしも、私という明らかにヒトでは御せない存在に付き従った事もなお許せなかった、らしいのです。自分の生命と引き換えにしてでもまことさんの生命に引導を渡すことを密かに決意し、その企みがそのまま完遂されてしまった。そうして弁護士会館ロビーでの殺害という悲劇は起きたのです。

 

 奥底にある殺意を押し殺して平穏に振舞うスキル、動揺を一切見せずに平然と在るスキル、法曹の方々にとって絶対必須のものです。まことさんが検察に居た頃そうであったように、まことさんの先輩も後輩も、あの職場で『優秀』という評価を得た方々ならば、全員が身に着けていたスキルなのではないでしょうか。無論、司法研修所でかつて検察教官を務めていたあの弁護団代表も。

 あの場に居た他の弁護人や羽場さんを責めること自体は簡単ですが、そうした心情は私には湧いてきません。魔力持ちの私ですら見落とした単独犯の犯行を、本質的に魔力面では無力でしかないホモ・サピエンスの方々に、どうして責任を負わせることが出来ましょうか。

 

 私は気付けなかった。弁護人が胃ガン闘病中というのも、刃物を持っているという事も、気付くことが出来なかった。気付いていたなら、あの悲劇は避けられていたのです。

 洋食屋で警部さんに「ヒトの流儀に合わせること」という要望を受けた事。それから、朝、まことさんより「弁護人や、弁護人の荷物への透視は止めて頂けますか」という要望を受けた事。それらの要望に無意識に引きずられてしまった。自らの力で覗くことを避けて、見落としてしまった。

 弁護士会館での私選弁護人との面会は、(法律上の扱いはともあれ)まことさんの心情的には、留置場や拘置所での接見に等しいものでした。

 魔術での分析は、結局は盗み視でしかありません。『弁護士に対してはそういう覗き見を止めて欲しい』という願いは、まことさんにとって『接見交通権の保証』という思想から出じた、ごく自然なものでした。ああいう形で殺されるために私に願った訳では、決してないはずです。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月3日 18:26 杯戸警察署 取調室

 

 

 ――羽場二三一が、心から落ち着いて弁護士会館での出来事を振り返られるようになるのは、ずっと時が経ってからだった。

 

 日下部さんは、鏡写しの殺意に生命を絶たれたのだ。

 『司法修習生』と『検察教官』、『忘れざる司法研修所の記憶』、『ひとりよがりの正義』、『思い出に殉じるという動機』、……魔女さんの言い回しを借りれば、日下部さんの在り方をそのまま歪んだ鏡で反射させたような、そんな因縁にあの人自身が飲み込まれていったのだ、と。

 当局の人達にとって、あの人が本来進むべき行路(こうろ)は『拘置所の中で、生命でもって責任を取ること』であったろう。そんな風に考える人達にとっては、魔女さんのあの干渉は『本来の道筋を歪ませる行為』でしかなかったはずだ。

 ただしその本来の進路から逸れて生命を刈り取られた終端点は、あの人のこれまでの歩みからそうは離れていない、地続きの場所だった。

 

 弁護士会館でのあの殺人は弁護士業界をはじめとして法曹界隈に酷く波紋を生じさせるものだった。弁護団代表のあの男の行為を全面的に擁護する人など、羽場に直に接する者の中では誰も居なかった。

 テロリストである日下部さんの罪、留置場からの誘拐行為をやってのけた魔女さんの罪、そして、あの場所での殺人という弁護団代表の罪、それらを責めるのと同じように、不法侵入犯である羽場二三一を責める者は居た、けれども。恐る恐るでも言葉を選びながらでも不法侵入の事実自体を確認されるのは至極当然の流れではあったし、素直に従うべきことではあったのだけども。

 でも、あの日下部さんの『死』自体を侮辱する者は居なかった。

 

 当局の人達にとってみれば、日下部さんの本来の終わり方は『拘置所の中での刑死』、有り得るとしても『医療刑務所での病死』か『独房で急病死』。いずれにせよ、厳格に法令に則って枠の中で管理された人生のみが許容範囲であったのだ。

 魔女さんの提案に乗って異世界に移住するということが許され得ないものであるように、日下部さんのあの死に方も、イレギュラーで許されるはずがないものだった。

 法曹の中で公式に立場を有する人達が、事件関係者である羽場二三一の目の前で、あの『死』を侮辱し、あるいはあの『殺人』を許容するはずがなかったのである。

 

 

 しかし、落ち着いてあの時の出来事を振り返られるようになった頃。

 二三一は、インターネットの片隅にある愚痴染みた意見、日下部さんの死を悼み羽場に同情するもの以外の見方を初めて知ったのであった。

 

 例えば、テロリストである日下部さんの死を喜び、魔女さんを見下し、弁護団代表を揶揄する下卑た意見。

 それだけでなく、二三一の体験を悲劇として捉えつつも、それでも、羨ましがる意見。本来、日下部さんとの対話は、防護板越しでしか交わせないはずであったから。生きているあの人自身には一切触られず、もしも本当に触れ合う時があったとすればそれは『首に縄の痕を残した冷たい亡骸』であったはず、……そのはずであったから。

 あの日、何にも邪魔されない環境で会話し、抱き締めることが出来た、そのこと自体に対するやっかみ。更に、死の現場を目撃したこと、温かな死亡直後の身体を抱擁したこと。それらの出来事を本来は有り得ない『贅沢』ないし『幸運』だと評した者は、表社会には決して出ないインターネットの中だけのボヤキであれ、確かに居たのである。

 

 

 ――ただ、そんな野次馬めいた第三者の意見に落ち着いて触れられるようになるのは、本当に大分時間が過ぎてからだった。

 

 5月3日当日、あの殺人事件の後の羽場二三一は、衝撃に打ちのめされて泣きじゃくりそれからは茫然自失の境地に至るという、つまるところとてもではないが安定しているとは決して言えない精神状態であったのだ。

 気が付けば杯戸警察署の取調室の中。衣類は血がべったりついたスーツではなく、別のポロシャツ着用で椅子に座らされていた。面識のない刑事に逮捕状を提示されているという現状で、やっとこさ我に返ることになるのだ。

 

「逮捕状、確認しなくても良いんですかね? 羽場二三一さん」「え、ぁ……」

 

 『大丈夫かコイツ』と言わんばかりの目線で刑事達が凝視してくる。大丈夫じゃないかもしれない、と、己のこの有様を自覚しながら二三一は目の前に広げられた逮捕状を見やった。

 通常逮捕用の逮捕状。記されている羽場二三一の氏名と、罪名は、

 

「……住居侵入罪」「そう。『被疑者死亡』で1年前に終わった事件の、捜査のやり直しだ」

 

 舐めるように逮捕状を上から下まで眺めてみる。流石に不備は無さそうだ。二三一は折れ切った心のまま「……そうですか」とだけ答えた。

 『死亡』というのが実は公安警察による偽装死で、逮捕されるべき者が生きていたというのだから、なるほど捜査はやり直されるのが筋なのだろう。

 1年前に作った資料を流用すればいいのだからある面では楽であるはずだ。人の生死を歪めた公安の判断に対してはツッコミが山ほど来るだろうから、トータルでは有り得ないほど手間が掛かる形にしかなるまいが。

 

 諸々動き始める刑事達に何か言う気にもなれず、溜息一つ吐いて、なされるがままただ従う。

 一年前の焼き直しのような手続きが、これから続くのだろう。――無論、何もかもがそのまま焼き直されるのではないけれど。

 自分の生命を掛けてでも守りたかった人、あの2年間密かに支え合い正義のために共闘していたあの人は、もうこの世には居ない。心の中で想いを向ける相手ではある。亡骸の扱いが非常に気に掛かかる相手でもある。でも、今後の身の振り方を案じるだけの生は、何も無い。

 唯一、意識不明のまま病院に搬送された魔女さんの動静だけは気に掛かっているけれど、この人達に質問しても何も答えてはくれまい。その程度のことは朧げにでも思考できた。

 

 

 5月3日18:30、羽場二三一はこうして住居侵入で逮捕された。

 日下部誠の協力者として為した違法行為を洗いざらい自白したのち、地裁での執行猶予判決が確定したのは、年末のこと。

 上記半年以上の期間は、ずっと、留置場ないし拘置所の独居房で過ごす日々であった。

 

 だから羽場二三一は、この間、公安警察に降り掛かった記録的な惨事の、主体的な登場人物にはなり得なかった。

 弁護士との接見で何が起きたのか見聞きする立場でしかなく、つまるところ『魔女』VS『公安警察』の戦いの、脇役でしかなかった。

 

 




次回予告:
【貴女は、関係者にとっては許されない子でありました。本来拘置所で朽ちるはずだった男が、無理やり魔女に誘拐されたために生じた、有り得ない生命でした。
 でも貴女は、私にとっては望まれていた生命でした。愛する男性を喪い、代わりに子を宿したのです。心の底から産みたいと願ったのでした。

 警察は、私を完全にヒトとして扱っていました。完全にヒト化したから子を宿したのだと誤認していました。私はその誤認を突きました。
 私は、留置場で魔術を使い、屋敷に戻ってきました。中絶するようにしつこく圧迫してくる存在が一切居ない、そんな、心休まる場所に】
――あの『彼女』の手記より

次回タイトル:魂が望むところ/名乗れる魔女と想い出の犬(仮)、――鋭意執筆中!


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