そらのなでしこ (鉄槻緋色/竜胆藍)
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第1話 逢・魔・何・時

 当作品は、映画『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズMOVIE大戦MEGA MAX』に登場した美咲 撫子を主題に扱う二次創作です。
 原作の登場人物はほとんど登場せず、世界観に若干のズレがあり、かつ作品の九割九分が鉄槻の妄想するセミオリジナルとなっていますのでくれぐれも御注意下さい。



 教室で机を囲んで談笑するクラスメイト。

 廊下で大笑いする生徒たち。

 仲良さそうに連れ立って街を歩く女の子の集団。

 カフェのテーブルで談笑しているカップル。

 はしゃいで路上を駆け回るラフな格好の少年たち。

 そんな学校や街角で当たり前に展開されるそれら全ての光景が、撫子にとってはどこか遠い世界の出来事にしか見えなかった。

 

「……消えちゃえよ……」

 

 忌々しい。

 見ていると、まるで出来の悪い鉤爪を研ぐ擦過音を聴かされたような底冷えのする不快感が湧き上がりイライラする。

 舌の根に滲むような苦味を感じ、嘔吐くように吐き棄てた。

 

「……みんな、消えちゃえよ……」

 

 そこに本当に友情があると思っているの? 親交が通っているというの?

 友達? 仲良し? そんなの、どうやってそれを証明できるの?

 

 人の心なんて、目に見えないものなんか本当に知ることなんてできないのに!

 

「……バカみたい! みんないなくなっちゃえよ!」

 

 曇天の下の灰色の荒れ地にひとり、撫子は虚空に絶叫した。

 

 

◆◆

 

(ねえ知ってる? あの美咲 撫子って、普通の人には見えないモノが見えるんだって)

(うわなにそれきもーい)

(こないだ、なんもないところで何か避けるみたいにしてたぜ。なんかマジでヤバいっぽい!? )

(キャラ作り!? うわやり過ぎて逆に引くわー)

 

 

 美咲 撫子(みさき・なでしこ)。

 この昴星学園の二年三組に所属する学籍番号2401323の学生。

 成績は上の中下をさ迷う程度、咎められるような失点もないが注目される程の順位でもない。素行にも特に問題もなく、今時の女子高校生にしては化粧っ気が薄いにも関わらずどこか人を惹き付ける容姿ではあるのだが、クラスでは完全に孤立していた。

 終業のチャイムが鳴ると同時に生徒たちは各々それぞれの放課後の用事に動き回り、あるいはそれぞれで集まった。

 だが、撫子はひとり。

「……」

 黙々と、淡々と鞄に中身を詰め込んでゆく。

「……」

 突如現れた、ふと頭をかすめかけたぼんやりした光を撫子はろくにそちらも見ずに首をほんの少し傾けて躱した。

 その撫子の僅かな挙動を目撃した離れた席に集まっていた女子が、撫子を指さして何事か仲間内に嘲る調子で囁いた。

 だが誰も、室内を漂い窓をすり抜け外へと出ていってしまった光の球のことを気に留める者はいなかった。

「…………」

 繰り返し聞こえてくる心無い中傷にも今さら思う所もない。

 撫子がこの教室に来る目的は、誰とも知れぬ他人との親交などではなく、高校卒業資格の為の単位取得だけなのだから。

 だから撫子は鞄の中を詰め終わるとさっさと席を立ち、誰とも目を合わせることなく教室をあとにした。

 

「わっ!? 」

「ひゃ!? 」

 高い喫驚の声が二重に響くのと同時に、くぐもった衝撃音が床を叩いた。

 虫の居所が悪かった撫子では、廊下の曲がり角から急に現れた対向者を避けられる道理もなく。

 撫子は大きな段ボール箱を抱えた女子生徒と正面衝突して、相手と同時に転倒してしまった。

「あっちゃ~」

「あ、ごめん……」

 反射的に謝罪を口にしながら顔を上げると、目の前には横倒しになった段ボール箱から中身が盛大に散らばっており、その向こうにこちらと同じポーズで尻餅を突いている女子生徒がしかめっ面で眼鏡の位置を直していた。

「……あの、大丈夫、ですか……?」

 己の不注意を呪いつつ、手早くこの場から退散する為に儀礼的に問いかけるが、対面の少女は苦笑顔でぱたぱたと手を振って見せた。

「あっは~ゴメンゴメン! ちょいと欲張り過ぎただわ! そっちはケガない?」

「あ。 はい」

 あっけらかんと笑った女子生徒に多少毒気を抜かれたが、撫子は素早く立ち上がった。

 双方共に同じ不注意なのだからそこまで気を遣うことでもないのだろうが、目の前で散乱している大荷物を見てさすがに無碍に立ち去ることに抵抗を覚え、一応問いかけておくことにした。

「あの、これ、大丈夫ですか?」

「うい~♪ これはべつに」

 散乱した何かの機械部品のような物を指さした撫子にその女子生徒はなんでもなさそうな笑顔でひょいひょいと掻き集めながら返してきたが、やおら見上げた撫子の顔をまじまじと見つめると、にへらっと別種の笑みを覗かせた。

「あ。じゃあさあ悪いんだけどこれ運ぶのちょっとだけ手伝ってくんないかなあ? いやほらぶつかったのは悪かったんだけどなんて言うか袖擦り合うも一生の不覚と言うか」

 たちまち勢い良く回り出した女子生徒の口車に撫子は己の人の良さを心底後悔した。

 

 やがて段ボール箱をそれぞれひとつずつ抱えてやって来たのは、校舎の端の、普段なら誰も立ち寄らない物置のような教室だった。

 壊れた机や椅子、ロッカーなどが積み上げられ雑然と押し込まれた部屋の真ん中を、女子生徒は構わずすり抜けてさらに奥へ行こうとしている。

「ねえ。ここ、なんなの?」

「うふふっ♪ いいからいいから」

 不安げに問うも、前を行く少女は気にも留めずに教室の奥でドアが外れて口を開けた枠をくぐって行ってしまう。

「大丈夫だよー! おいでよー」

「……?」

 向こうからの声に、仕方なく撫子は箱を抱え直して歪んだドア枠を屈んでくぐり抜けた。

「…………!? 」

 すると、そこはこれまでの雑然とした粗大ゴミ置き場のようだった場所とは一変して、まるで科学研究室のような整然とした部屋になっていた。

 ……あくまでも隣の粗大ゴミ置き場よりは配置に意図が感じられる程度の違いでしかないが。

「なに……これ……」

 撫子は呆然と辺りを見回した。

 恐らく隣の部屋は元は何かの特別教室で、室内同士が扉で繋がったこの部屋は本来は教材等の準備室か何かだったのだろう。

 そこには机が整然と並べられ、撫子が「科学研究室のよう」と直感した用途不明の什器や器具が所狭しと置かれていたのだ。

 と言っても、やたら目盛りが付いていたり電子部品からレバーが生えたりしているのが見えるぐらいで、どれも具体的に何の為の器具なのかは分からない。

 唯一それだと分かるものは、いくつもの平らなリングを多軸回転するように組み合わせ球のように組み上げられた「天球儀」だけ。

「はいっ!ありがとねっ!」

 元気の良い声と共に抱えていた箱を引ったくられて撫子は驚いて振り返った。

 女子生徒は受け取った箱をそこの机にポイと置くと、こちらを振り返って大仰に両腕を広げて見せた。

「ようこそっ! ミステリー研究会の部室へっ!」

「「ミステリー研究会」……?」

 底抜けに明るい笑顔で告げられた脈絡のない宣言に、撫子としては怪訝に聞き返すより他にない。

「そうっ! 世の中の不思議なあらゆる事を、抉り出してはつぶさに観察して徹底的に研究して解明するちょいと手前で寸止めしてああ不思議だなあってうっとりするのがこの「ミステリー研究会」!」

 べらべらと長広舌をまくし立てている途中で撫子はさっさと踵を返して出入り口に突進した。

 ところが撫子がドア枠をくぐるより速く女子生徒の手が撫子の手首をがっちり掴み取った。

「うふふ察しが良くて結構だよ! そんな知能指数の高い所もわたしの理想に叶ってるし!」

「うるさいやめて手を離して」

 振り向くこともせずに撫子は押し殺した声で言い返した。

「私のはそんな見せ物にして面白がるようなものじゃない」

「分かってるじゃんさすが二年三組美咲 撫子♪」

「……ッ!? 」

 名乗っていない身元を言い当てられ、背筋に悪寒が這い上がるのと同時に噴き上がる熱い怒りが瞼の裏で激しい火花となって弾けた。

「ふざけないでッ!」

 今度こそ振り返った撫子は、力一杯女子生徒の手を振り払った。

「あなた、知っててここまで連れてきたの!? 」

「ういー♪ あそこでぶつかったのは偶然だけどねー」

 撫子の剣幕に、だが女子生徒は悪びれもせずにおどけて見せる。

「前からずっと、お話してみたいな~って思ってたんだあ♪ ナデシコの見てる世界ってどんなのかなあって、ずうっと興味あったの!」

「……それで笑い話の肴にするつもり?」

 了承もしていない初対面の相手にいきなり下の名で呼ばれ、撫子の不機嫌のゲージはまた急角度に傾いた。

「慣れなれしくしないで。 ミステリーなんて言葉で懐柔できたつもり?」

「あ。わたし初瀬蟹 美夏子(はせがに・みかこ)。ミカとかガニミカとか呼ばれてたよ!」

「知らないよそんなの!」

 けろっとした顔で自己紹介されても、今さら応じられる訳もない。

「悪いけど、そういうの気分悪いの。もう近寄らないで」

 言い捨て、撫子は今度こそ手を取られないように素早く身を翻して駆け出した。

 追いかけてくる気配がないことに何を思うこともなく。

 

 

 夕暮れの雑踏を歩きながら撫子は、不意に飛来したぼんやりとした光の帯を、首を少し傾けて躱した。

 側頭部をかすめた光条は、風にでも煽られているかのようにのたうって漂い虚空に流されてゆく。

 だがその光条のことを気に留める者は撫子の他は誰もいない。

 石畳を往来するサラリーマンも、子連れの主婦も、テールランプの赤い尾を引いて通り過ぎるバイクも、自転車もなにもかも、そのぼんやりした光を吹き散らしながら通過してゆくのだ。

 この街のあらゆる所を、上空を同じような光が無数に飛び回っているというのに。

(信じてもらえる訳がない)

 今さら期待もしていない。

 幼い頃から撫子にだけ見えるこの謎の光が、撫子から年頃の女の子になら当たり前に享受されるはずの幸せを奪い去った。

(なぜ、私にだけに視えるの?)

 幼かった頃は、乳幼児によくある「見えないお友だちとでも遊んでいるのだ」として扱われていたのだということが今なら分かる。

(なぜ、私なの?)

 それから年を経て分別がつくにつれ、撫子の主張は奇異の目にさらされ気味悪がられてあしらわれるようになった。

(あなたは、いったいなんなの!? )

 今では孤立無援だ。理解者は誰もいない。

 撫子にもこの光がなんなのか、未だに分からないのだ。

(教えてよ! あなたは、なに!? )

 唇を引き結んで空を振り仰いだ撫子を、すれ違ううちの何人かが奇異の目線で振り向いた。

 彼らの側にも漂っている光の帯を気にも留めずに。

 

 

 蛍とは明らかに違う。

 何かが発光して飛び回っているのではないことは、考えるまでもなく分かっていた。

 光の粒としか言いようがないそれが、上から、それもとても高いところから来たのだということをも、撫子はなんとなく直感していた。

 空よりも高い、きっと、宇宙。

 それに、言葉は通じないのだが、その光にはなんらかの意志のようなものがあると撫子は感じていた。

 だがお化けや幽霊とも違う。その光は不気味でもないし、怖れも抱かない。

 具体的な根拠は何もない。すべてが撫子の直感であり、証明すべき手だてなど望むべくもない。

 けれど、他の人間に見えずとも、確固として存在しているのだ。

 

 

(ああ、ホントに気分悪い)

 先刻の少女・初瀬蟹 美夏子のことを思い出し、撫子は疼く頭痛にこめかみを押さえた。

 ああいう手合いは初めて遭遇するタイプだ。

 それ以外にも色々と奇抜で度肝を抜かれたが、いずれにせよ論外だ。

 この自分を勧誘しようなど。

(部員? 仲間? 友達?)

 あり得ない。

 人とわかり合おうなどというのは白々しい猿芝居だ。

 わかり合えるわけないではないか。

(同じものが視えない人の、何を信じられるというの!? )

 これまでも、撫子の特異性を知りながら好意的に近付いて来る者が何人かいた。

 けどどいつもこいつも「可哀想な撫子に理解を示している高尚な自分」という演出として撫子を利用したいだけの下衆でしかなかった。

 なんだかんだ言っても、結局撫子の言う「光」の存在を、誰も信じてはくれなかったのだ。

 全ては撫子の妄言と切り捨てるばかり。

 そんな他人など、撫子も信じることはできない。

 通り過ぎる街角で、コンビニで、公園でたむろして楽しそうにおしゃべりしている集団など滑稽としか思わない。

(隣で笑っているやつの、何が分かるというの!? )

 分かりはしない。

 例え空を舞う光のことがなかったとしても、人の心なんて、本当は何考えているかなんて誰にも分かりはしない。

 それなのに、あいつらはいったい何を根拠に「友達」と「そうでないやつ」を分けているのか?

(ばかみたい)

 胸中で吐き捨て、撫子は帰途を急いだ。

 

 ギャアアッ! ギャアッ!

 

「?」

 ふと、そこの路地から甲高い喚き声が聞こえて撫子はビルの隙間を覗き込んだ。

 見ると、路地の奥のポリバケツが並べられた一角に、カラスが数羽翼をはためかせて跳ね回り、何かを取り囲んで喚いていた。

(なにあれ。 ケンカ?)

 野良猫と威嚇し合うカラスという構図を前に見たことがある。

 人通りはない。辺りを見回し、ここに自分しかいないことを念入りに確認すると、撫子はそっと路地に入り様子を伺った。

 やがて角度が変わるにつれ、カラスたちが取り囲んでいるものが見えてきた。

 それは、小さな光──

(えっ!? )

 一瞬我が目を疑った撫子が見返したそこにいたのは、鮮やかな銀の毛並みの、小さな仔猫だった。

「…………。」

 思わず息を飲むほど美しい毛並み。

 周囲で跳ね回ってぎゃあぎゃあ喚いているカラスなど一顧だにせず、全く怖れのない様子でちんまりと座っている。

「こらーー!」

 気が付いたら、撫子は鞄を振り回して駆け出していた。

 仔猫の前に立ちはだかり、両手で闇雲に鞄を振り回す。

「行って! あっち行って!」

 闖入者に泡を食ってくれたのか、カラスどもはぎゃあぎゃあ喚きながらどこかへと散りぢりに飛び去っていった。

「…………、はあっ、」

 荒くなった息を吐き、撫子は足下を振り向いた。

 銀色の仔猫は、体格差にして数倍はある撫子が飛び込んできても驚いた様子もなく同じ位置にちょこんと座り撫子を見上げていた。

「…………」

 思わず、その瞳に見惚れてしまう。

 美しい瞳だ。まるで月明かりのような淡いイエローの輝き。

 それに、カラスにも人間にも大した反応を見せないこの仔猫に、撫子はなぜか既視感めいたものを感じていた。

(……え? あれ、どこかで……?)

 銀色の猫と対面したことなど一度もないのに、どこか、なにかが通じる奇妙な感覚を覚える。

 初めて見るのに、なんの抵抗感もない眼差し。

 やっと出会えた。そんな安心感。

(これ……なに……?)

「あれえ? ナデシコじゃん?」

 そこに突如、酷く聞き覚えのある声が、別方面の路地の出入り口から聞こえてきた。

 喫驚と共に振り向けば、ビルの陰からこちらを覗き込む少女、ミステリ研某の初瀬蟹 美夏子と目が合った。

 元気な笑顔で眼鏡の向こうの瞳にいっぱいの好奇心を輝かせて、なぜか両手に奇妙な棒を持ってこちらを覗き込んでいたのだ。

「……あ、あなた!? 」

「あれ? じゃあこれビンゴかしら。イヒヒ」

 言いながらその手の棒──L字に曲がった針金のような棒をこちらに向けながら美夏子はひょこひょこと近寄ってきた。

 人に突き刺せるほど強靱には見えない、凶器とは思えない棒を持って撫子の横まできた美夏子は、なぜか撫子の目の前でその二本の針金を左右外側に傾けた。

「あ。当たり」

「……なにそれ」

 奇妙さでは空を舞う光にも負けない奇行をする美夏子に、撫子は半眼で尋ねた。

「ん? これ、ダウジングロッドっちゅうやつでね。知らない?超能力で捜し物を探知するの」

 言われてようやく思い出した。

 空の光の謎にも及ばない稚拙さゆえに眼中にもなかったオカルトの玩具だ。

「そんで、その猫ちゃんが撫子のお友達?」

「え?」

 美夏子がそこに屈み込んだところで撫子はようやく我に返った。

「どんなミステリーなのかな? 猫にもなんか不思議で謎の能力とかあるよね」

 ところが、美夏子が無遠慮に手を延ばすや否や、銀色の仔猫は素早く身を翻して撫子の身体を螺旋状に駆け上がり、肩の上に飛び乗ってしまった。

「おおー!? 懐かれてんねー? お名前は?なんての名前」

「い、いや、いま会ったばっかり……」

 立て続く急展開に撫子は目を白黒させるばかりだ。

 

 ぐるるるるる……

 

 ところが、屈んだ姿勢から立ち上がった美夏子の向こうから聞こえた獣じみたのど鳴り声に、向かい合う撫子と美夏子はそろってそちらを振り向いた。

「ひっ!? 」

 酷く醜悪でおぞましいモノが、そこにいた。

 形容のしようがない。それは撫子の持つ知識のどれにも当てはまらない。

 身を竦め息を吸い込む過程でようやくその物体の全体像を脳が把握した時には、その青銅色の肉塊は垂直に立ち上がり、足下の末端を排水溝から引きずり出した。

 大きい。大きな男ひとり包み込めそうな量の青い溶岩が、縦に伸び上がるにつれ下半分を二股に分裂させ、上の方の両端から一本ずつ蛇のように触手を伸ばし。

 

『ーーーーーーーーッッ!!』

 

 そいつの上端に盛り上がった部位に開いた孔から高音の絶叫が迸るのと撫子たちが悲鳴を上げるのがまったく同時だった。

 今やムンクの「叫び」の絵画の人物を醜悪にアレンジしたかのような泥人形となったそいつが緩慢な動作で二人に迫るが、あまりの異常に撫子も美夏子も身動きどころか、対応の術を見失ってただ呆然と立ち竦んでいた。

(  逃げなきゃ……!?  )

 ようやく意識が僅かに危機を認識したが、足はまるで接続を断たれたかのように反応せず地面に貼り付いたまま。

 泥人形は、縦に長く引き裂かれたかのような口腔からまるで女性の悲鳴のような甲高い音を発しながら、青い泥を滴らせた腕を伸ばして今にも手前にいた美夏子に掴み掛かろうとしている。

(  あ……ダメ……  )

 逃がさなければ。

 いかに心象の悪い相手であれ、こんなおぞましいモノに捕らわれることを良しとはしない程度の人道的な気持ちは残っていた。

 けれど、身体は動こうとしない。

(  なんとか、しなくちゃ……!)

 他人なんてどうでもいいと思っていた。

 でも、こういうのは、違う!

 撫子は強く思った。

 その途端、肩に乗っていた荷重がまるで溶けるように消失して身体を流れ落ちたかと思うと、撫子の身体はたちまち銀色の液体とでも言うような皮膜に包まれてしまった。

「なっ!? ちょ、これ……!? 」

 反射的にもがこうとして腕脚を振り回すが、銀色の膜は瞬く間に撫子の顔を、頭を覆い尽くし目に首に、肩に手首に足首に次々と突起を隆起させて何事か形を成すと、撫子の姿を銀色の人型の異形へと変化させてしまった。

 仰け反って後退するという初めて反応らしい反応を見せた泥人形に、訝しんで背後を振り向いた美夏子が、その撫子だったモノを見て傾いた眼鏡の下の目をさらに見開いた。

 

『うーー! なーーーーーー!』

 

 突如撫子だった銀色の異形が、まるで己の登場を宣言するかのように丸めた身体を全開に伸ばして元気よく叫んだ。

「……はい?」

 口の端だけ釣り上げて聞き返した美夏子の頭上をひょいと飛び越えた銀色の異形は、割って入るかのように泥人形の目の前に着地すると、頭上で組んだ両手を思い切り振り下ろしてそいつを殴りつけた。

『なーー!』

『ーーーーーーッッ!? 』

 見た目よりも固体化していたらしき泥人形は、銀色の殴打を受けて甲高い悲鳴と共に大きく仰け反り後退した。

『なーーー!』

 さらに畳みかけるように右に左にと滅茶苦茶に振り回される銀色の両拳に泥人形は鈍重なナリに違わず呆気なく吹き飛ばされて崩折れた。

『なーーー!』

 銀色の異形は泥人形がダウンしたのを見届けると、くるりっと振り返って呆然としている美夏子へと踊り掛かった。

「え? わ、ひゃ!? 」

『なーーー!』

 混乱する美夏子に構わず軽々と少女を担ぎ上げた銀色の異形は、一声あげるともの凄い勢いで跳躍し、左右を挟むビルの壁をジグザグに蹴り飛ばしながら あっと言う間もなくビルの向こうへと消えていった。

 

 女声の悲鳴を聞きつけて駆け込んできた何人かの野次馬が覗き込んだ路地には、何者の姿もなかった。

 

 

 無人のビルの屋上に着地した銀色の異形は、抱えていた美夏子をなんともぞんざいな仕草でコンクリートの上に放り出した。

「痛い!? 」

 ところが、美夏子が転がった体勢を立て直すよりも先に銀色の異形の姿はまるで流水のように縦に流れ落ち、先刻の撫子の姿をそこに残して足下に集まり仔猫の姿となって現れた。

「……なに……いまの……」

 支えを失ったように力無くヘたり込んだ撫子が、呆然と呟いた。

「いやいやいやいや!? ナデシコさん!? それわたしのセリフだから!? 」

「いや私の台詞で合ってるよ!? なにこれなにこれ!? なんなの!? 」

 這い寄ってきた美夏子の両手を掴み返して必死に押し合いを繰り広げる撫子だが、ようやくはたと気付いて膝元を見下ろした。

「…………」

 続いて、美夏子もゆっくりと銀色の仔猫を見下ろす。

「……こりゃあ……ガチだわ……」

「……この子の、仕業、なの?」

 手を掴み合う二人に挟まれて覗き込まれている仔猫は、ただ黙って撫子を見上げていた。

 紫紺と朱のせめぎ合う空の下で、長い影を伸ばす二人と一匹はしばらくの間動かなかった。

 

 




 サブタイトル「逢・魔・何・時」は一応「おうまがとき」と読みます。
 こんな単語は実際には存在せず、原作のサブタイトルと共通に四文字にしようと「逢魔時」に無理矢理「が」とも読める「何」をねじ込んだものです。
 「何」を組み込むことで、疑問のニュアンスになるらしく、アクロバティックに意訳して「よく分からないモノに出会う時?」ということにでもしておいてください。
 鉄槻は基本的に本編以外のところで物語について解説しない主義なので、この撫子が誰で時系列はいつなのかについては、今後の展開で読み取って頂きたく存じます。
 銀色の異形の造形描写を詳しくしていない所にも注目です。皆さんの知っているアレの姿ではありません。


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第2話 闇・中・模・索

 ふと覚醒した撫子は、かすむ目を瞬かせて眉をしかめた。

 やがて視界を覆うそこが青い暗闇に沈む自室の天井であることに気付いた撫子は、どうやら自分が真夜中に目を覚ましてしまったらしい事に思い至った。

 目の端をくすぐる明かりに気付き、撫子は目元をこすりながらそっと布団から上体を起き上がらせた。

 見れば、きっちり閉じたはずのカーテンが僅かに隙間を開けて月明かりの射線を室内に導いている。

 そのカーテンに、紡錘形の影が浮かび上がっているのを見つけた撫子はベッドから抜け出て丸いぬいぐるみのようなスリッパに足首を突っ込み立ち上がった。

「……もう」

 ぼやいて撫子はそっとカーテンをめくり上げた。

 そこには、出窓のスペースにちょこんと座って外を眺める銀毛の仔猫の後ろ姿があった。

 夕方のあの怪物から逃げおおせてから撫子と美夏子は、徹底的に辺りを警戒しまくって恐るおそる家路を辿り帰宅した。

 結局仔猫は撫子から離れようとしなかった為、家族に見つからないよう苦労して部屋まで連れてきたのだった。

「どうしたの?」

 言葉が通じるはずもないが、なんとなく問いかける。

 問われた仔猫は全く反応を見せず、じっと一方を見上げていた。

「……」

 仔猫と同じ方を見上げると、その先には夜空に一際大きく輝いて見える月があった。

 端が僅かに欠けた月。月齢のことまでは詳しくは知らないけれど。

「……綺麗だね。 私も月が好きなんだ」

 思わず呟いた。言葉が通じているかどうかなど気にしなかった。

 ただ、きっとこの仔猫は月を見たくて見ている。そう直感が告げている。

「なんでかな。 よく分かんないけど」

 夜空に瞬く星に紛れて漂ういつもの「光の粒」も見えたけど、今この時だけはそんなに気にならなかった。

「!? 」

 ところが、寄りによって美しい情景に浸っているこの時に、出窓の外のすぐ側にも例の光球が横からひょっこりと現れた。

 それは現れたベクトルのままふらふらと前を通過してゆく。

「……もう。邪魔しないで」

 その光を目で追いながら八つ当たりぎみに溜め息を吐いた撫子は、視界の端に映った異常に気付き慌てて目線を戻した。

 仔猫が、その漂い去ってゆく光球を見つめていたのだ。

 間違いない。月を見上げていた首を下ろして、瞳がきっちりとその光球の方角を追っている。

 あまり本物の猫らしい生物的な反応を見せなかった仔猫が初めて見せた、意志を感じさせる動作だった。

 そして、なによりも。

「……あなた、あれが視えるの!? 」

 自分以外に現れた初めての同類の発見に興奮しながら屈み込んで問いかけるも、仔猫はやはり問いを無視して佇んでいた。

 

 

◆◆

 

「緊急きんきゅー! ナデシコちょっと来て!」

 昼休みになるなり教室に飛び込んできた美夏子が、興奮混じりの笑顔で撫子の机に飛びつくと入ってきた時と同じ勢いで掴み上げた撫子の袖を引っ張り出した。

 撫子は反射的に抵抗しようとしたが、周囲のクラスメイトの奇異の視線に気付いて咄嗟に考えを変える。

 撫子と美夏子は、異常な出来事に遭遇した同じ被害者だ。無関係の者に詮索されてはまた撫子の噂にバリエーションを加えられかねない。

 瞬時にそこまで考えて、引っ張られるなか辛うじて自分の鞄を掴み取った撫子は美夏子に引きずられるように駆け出していった。

 そのまま撫子はミステリー研究会の部室まで連行された。

「緊急ナデシコ緊急なのあのね」

「言いたいことは私もいっぱいあるけどとりあえずちょっと待ってくれる!? 」

 部室に飛び込むなりまくし立て始めた美夏子を遮って撫子も声を張り上げた。

「あれ? ナデシコ昨日の猫ちゃんは?」

「そのこととかあと色々と順を追って説明しないといけないでしょう!? 」

 ころりと態度を変えた美夏子に、掴まれていた手首をさすりながら撫子はげんなりと言い返す。

「まず、名前で呼ぶのやめてくれる?いきなり机の前まで飛び込んでくるのも。 これ以上クラスのみんなに余計な詮索をされたくないの」

「えーいーじゃんべつに」

「私がイヤなの!」

 とうとう激発して怒鳴りつけるが、美夏子はまるで聞こえなかったかのように手元の鞄を漁り始めた。

「まーまー。話せば長くなるからさ、一緒にお昼食べながら相談しようよ」

「…………!? 」

 まったく悪びれもせずにコンビニ袋をかざしてにこにこと宣う美夏子に、撫子は八つ当たりぎみに傍らの天球儀を叩いて乱暴に回転させた。

 からからと、大小の円環がバラバラに多軸回転した。

 

「んで? あの仔猫ちゃんは?」

「……」

 向かいの椅子に座ってサンドイッチを頬張る美夏子に溜め息を吐いた撫子は、テーブルの上の謎の機材を横に退けて、置いた鞄から結局小さな布の包みを取り出した。

「うん、その事なんだけど……いいよ、出ておいで」

 撫子が鞄の中に呼びかけると、どう見ても他に何も収まりそうにない鞄の中身の隙間から、にゅるりと銀毛の仔猫の頭が生えてきた。

「うわひゃあ!? 」

 そのままするりと残りの身体を抜き出して着地した仔猫に美夏子は大げさな仕草で仰け反った。

「いや、学校までついてきて、走っても何しても離れてくれないからどうしようかなって困ってたら、この子が自分から鞄の中に潜り込んで」

 仔猫はテーブルの真ん中にとことこと歩み出ると行儀よく座り込んだ。

 その手前に弁当を広げながら撫子が言った。

「自分から?」

「自分から。」

 目を丸くした美夏子に首肯する。

「ナデシコの言うことが分かるの?」

「ううん。違う。私、何も言ってないもの」

 奇異の目線に囲まれながら仔猫連れで校門をくぐったのだが、げた箱を通過したところで仔猫が自らするりと撫子の鞄に潜り込んだのだ。

「多分、私が困ってるのが分かったんだと思う」

「え? もう気持ちが通じちゃってるとか!? 」

「そうなのかな……」

 身を乗り出した美香子に撫子は箸をくわえたまま曖昧に首を傾げた。

 その辺は撫子のいつもの直感のことで、撫子自身にもよく分からない。

「ちなみに鞄の中にいる時のその子は、どんな状態になってんの?」

「最初おどろいて覗いてみたら、銀色の板みたいになってた」

「ほほぉう」

 それを聞くなり美夏子はサンドイッチをくわえて、事務椅子に座ったまま床を蹴りつけて隣のパソコンの前に回り込んだ。

「あのねその子のことで関係ありそうなネタを見つけたんよ。 これが緊急の用事その1ね」

 言いながらせかせかとキーボードを操作した美夏子が、椅子ごと身体を回してモニターに表示された内容を示して見せる。

「『SOLU』……?」

 パソコンに近寄った撫子は、訝しげにモニターの表題を読み上げた。

 曰く。「Seeds Of the Life from Universe(宇宙から来た生命の種)」の頭文字。

 ざっと記事を斜め読みすると、液体金属状の身体を持つ宇宙生命体であるというようなことがそこには記されていた。

「特徴がこの子の体質と合致するなあって思って」

「この子は、このなんとか言う宇宙生物だって言うの?」

「多分ね。それとこないだ、隕石が降ってきたってニュースがあったじゃん?」

 その話には撫子にも心当たりがある。

 数日前に日本の山中に小規模の隕石が落下したとテレビで話題になっていた。クラスでも誰かがそんな話で盛り上がっていたのも覚えている。

 『隕石があれば、あの「光」のことも信じてもらえるのか』と若干の嫉妬を感じながら聞いていたから。

「きっと、あの隕石にくっついて来たんだよこの子。 あと実はアレ、日本以外にも世界のあちこちでほぼ同時に何個も落っこちてきたらしいよ」

「本当?」

 それは初耳だ。テレビでは外国のことまでは報じていなかった。

「ぐふふ。さる筋が情報を隠蔽するほどの重要な価値を認めたってことさね」

 美夏子が眼鏡に不穏な光を反射させて不気味な含み笑いを漏らす。

「テレビには出ない情報でも、ネットの世界じゃあびゅんびゅん飛び回っているのよ。宇宙からの来訪者に、裏社会と都市伝説が入り乱れてもう、もうミステリーの血が騒いで騒いで……!」

「……」

 まるで異常犯罪者のように鼻息荒く興奮し始めた美夏子から撫子は僅かに後退りした。

「……って、都市伝説? なにそれ」

「よくぞ聞いてくれました!」

 いきなり床を蹴って事務椅子ごと突進してきた美夏子から飛び退いてパソコンデスクから離れる。

 美夏子はそのままパソコンに飛びつくと、けたたましくキーを乱打して画面に別のものを表示させた。

「これだよっ!」

 ッターン!とエンターキーをひっぱたいて振り返った美香子の背後で、モニターに数点の隠し撮りらしき不自然な構図の写真とその解説が表示された。

「「仮面ライダー」?」

「そう! 人知れず悪の秘密結社と戦いを繰り広げる孤高の戦士たちが、世界各地の隕石落下地点周辺で目撃されたという情報が、けっこうな数出てんのよ!」

 ぼやけていてよく分からないが、ヒトと昆虫をかけ合わせたかのような異形の生き物の腕やら身体の一部が写された画像は、雪男やらのUMA目撃情報等のオカルト写真などと似た雰囲気を感じさせる。

 「仮面ライダー」の都市伝説は撫子も知ってはいるが、それ以外の都市伝説と同様に果てしなく胡散臭い。

「……はあ」

「うふふ、これだけ情報が出揃ったら確定だね! 隕石に導かれて地球にやって来た宇宙生命体を巡る陰謀! かの「仮面ライダー」が守るほどの脅威がそこには隠されているの! 悪の秘密結社はきっと血眼になってその宇宙生命体を探してるに違いないの!」

「……この子を?」

 ひとり盛り上がっている美夏子から離れて元の椅子に着席した撫子は、銀毛の仔猫を指さした。

「そう! きっと昨日の怪物も、この子の眠れる力の秘密を狙ってやって来たに違いないよ!」

「え? じゃあ、また来るかもしれないの?」

「多分っ!」

 くるりっと身を翻して人差し指を突きつける美夏子。

「えー!? 危ないじゃない!? 警察行こうよ!? 」

「何言ってんの!? ナデシコが昨日みたいに変身してやっつければいいじゃん!」

「私をなんだと思ってんの!? 」

 瞬時に飛びつかれて両手を掴み上げられた撫子は、椅子を蹴って手を振り払った。

「昨日のあれだって、私には何がなんだか分かんないし!? 」

「ああそれなんだけどね」

 どたばたとパソコンに駆け戻った美夏子が再び画面を操作した。

「昨日のみたいな、泥のお化けみたいな化け物の目撃情報もいくつか上がってたよ」

「えぇ?」

 言って示されたモニターを、撫子は不承不承に覗き込んだ。

 どこのインターネットサイトだろう。そこには、目撃者が書き込んだのだろう、確かに撫子たちが遭遇した異形に酷似した特徴が箇条書きで列記されていた。

 突然の不気味な物体の出現に仰天した目撃者が悲鳴を上げると、その怪物も甲高い絶叫を放って側溝の中に潜り込んで消えていったという。

「ね? きっとアレのことだよ」

「そんな……」

 落胆に思わず腰を落とした撫子はそのまま盛大に床にひっくり返った。

 さっきまで腰掛けていた椅子は、先ほど自分で蹴飛ばしたままだ。

「……だいじょぶ?」

「……っ!? 」

 羞恥と尻の痛みに顔を赤らめながら起きあがる。

 だが、忘れるのが難しいほどの衝撃的なあの異形は、確かに存在していて、この街の付近を徘徊しているのだと思い知り背筋に寒気が走った。

 

「でも、実際のところ、警察に行くのが現実的じゃない?」

 昼食を終えて弁当箱を包む布を結びながら撫子は言った。

「そのネットの情報も併せて説明してさ」

「ナデシコさあ」

 美夏子の声色に、撫子は思わず口をつぐんだ。

「信じてもらえると思う?」

「……!? 」

 その美夏子の瞳が、真摯な、それでいてどこか悲しげな光を浮かべていたから。

(信じてもらえる訳がない)

 言われた言葉の心当たりがあり過ぎて、鉛のように重たい蓋を載せられたように心がずしりと沈み込んだ。

「こんなネットの情報なんて、実際のとこ信憑性に関しちゃそこらのオカルト雑誌と大差ないよ。 もしかしたら、ここの書き込みとわたしらが見たあの怪物の特徴がたまたま似てただけかもしんない」

「そんな……自分で見せておいて……」

 出会って二日しか経っていないが、美夏子のらしからぬ発言に撫子は困惑に揺れた。

「まあ楽しまなきゃ損だから勝手にはしゃいでるけどさ。でも、現実から目ぇ逸らしててどうにかなるとはさすがに思っちゃいないよ」

「…………」

 眼鏡の向こうの瞳が、真っ直ぐに撫子を射抜く。

 言外に「撫子はどうなのか」と問われた気がして身動きが取れない。まさに撫子は、あの「光」から目を逸らし続けているのだから。

「夢物語もミステリーも、語るべき現実にいてこそだしねっ!」

 突如ころりといつもの笑顔に変わってあっさりと気配を収束させた美夏子に撫子は肩をコケさせた。

「なんなのよ……」

 悟られないように胸中でこっそりと溜め息を吐く。

「だから、たぶん結構な確率でアテにならない警察とかよりも、ナデシコが偶然手懐けたこの仔猫ちゃんに状況打開の要素を期待したいところなんだけどねえ?」

 昨日の夕方の時は、仔猫に取り込まれた撫子が怪物を跳ね除けて見せた。

 もしかしたらこの仔猫には、他の宇宙生物を追い払う理由なり性質なりがあるのではないか。事実、撫子を取り込むという形ではあるが、一度打ち倒すことに成功している。

 ミーハーな挙動によらず冷静で的確な美夏子の指摘に、撫子は目からうろこを落としながら拝聴していた。

「だから、なるべくナデシコは仔猫ちゃんと一緒にいるべきだと思うの……あれ? 猫ちゃんは?」

「え?」

 ふとテーブルの上を見ると、いつの間にか銀毛の仔猫の姿がない。

 だが小さな物音が聞こえ、程なく部屋のすみにその矮躯の姿を発見した。

「あ。あんなところに」

 積み上げられたガラクタの山の上に乗った仔猫が、何かの機械を前足でこすっていた。

「ありゃりゃ。猫ちゃんのオモチャにゃあちと物騒じゃないかね」

「あ。」

 その状況の意味に気付いた撫子が声をあげた。

「ねえ、その機械は、なに?」

「え?これ?」

 仔猫に伸ばしかけた手を止めて美夏子が振り返った。

 それは、アイロン台ほどの大きさの木の板に、粗大ゴミ置き場で見たことのあるパソコンの中身のような複雑な電子機械の部品のようなものやメーター等をデタラメに組み付けたようなものだった。

 唯一それだと分かる部品は、中心に据え付けられた電球のみ。

 少なくとも撫子の知識では、恐らく電気を通して使う道具なのだろうということ以上のことは分からない代物だ。

「ちょっと待ってね。 これはね~」

 仔猫に構わず美夏子が機械を持ち上げると、仔猫は床に飛び降りて機械を運ぶ美夏子に付いて歩いていった。

 目線は機械を追っている。

(やっぱり)

 撫子は確信した。

 昨夜と同じ、生物的な反応の薄い仔猫が興味を示すということは、例の「光」と同じくらいの不思議な何かが関係しているに違いない。

「どっこいしょ」

 やがて美夏子はたどり着いたテーブルに機械を置くと、機械から伸びたコードを持って壁際へ行きしゃがみ込んだ。

「ナデシコー。わたしが合図したら、そこのスイッチを入れてみてー」

「スイッチ?」

 言われて機械を覗き込むが、スイッチらしきものは見当たらない。

「ないよ?」

「それー。一本突っ立ってるナイフみたいなのー」

 改めて機械を見渡すと、確かにグリップを取り付けた薄い金属の細長い板が、先端を機械にネジ止めされて立っている。

 だが、これは「スイッチ」ではなくむしろ「レバー」と言うのではないだろうか。

「これ?」

「そうー。それ「ナイフスイッチ」って言うの」

 テーブルに飛び乗ってきた仔猫と一緒にしげしげとナイフスイッチを覗き込む。

「せーの、って言ったら、そのスイッチを倒すのー」

「これ、何の機械なの?」

「永久機関」

 がちゃりと音を立てて、美夏子が持っていたプラグをコンセントに差し込んだ。

 すると、機械の中心に生えた電球が灯り、メーターの針が振れた。

「永久機関?」

 それも名前だけは知っていた。

 文字通り永久に動き続ける動力装置で、確か実現は不可能だったはずだ。

 「作用と反作用」の図式を思い浮かべながら、そう言えばここは「ミステリー研究会」だったなと撫子のまぶたが半分下がった。

「いい? せーの、って言ったらスイッチ入れて」

「あ、うん」

 先ほどのコンセントの場所にしゃがみ込んだままの美夏子の声に応え、撫子はナイフスイッチを握った。

「せー、の!」

「っ!」

 その合図で美夏子がしたことは、コンセントプラグを引き抜くことだった。

 当たり前だが、電球は電力の供給を失って明かりを落とした。

「どーかなー? ってやっぱダメか」

「……どうなる予定だったの?」

 一応、といった調子で訊ねてみる。

「ここのこれが電力を送信する装置で、こっちが受信する装置なのね」

 撫子にはガラクタにしか見えない部位を指さして解説する。

「で、電力の経路はこうぐるっと一周していて、このナイフスイッチを入れると同時に経路がこっちに切り替わるの。すると受信機が電力を送信機に送って、送信機が受けた電力を受信機に送って、でぐるぐると」

 言いながら美夏子の指先が機械の経路をくるくると辿るが、撫子は冷淡な顔で頭を振るしかない。

 いかな機械の素人の撫子でもこれが成立しない仕組みなのは分かる。

 美夏子がやった事は、ドーナツ型のプールに水を注ぎ入れただけのことだ。そこに水車を付けたとして、別に動力がなければ水の流れはやがて止まるし、水車も回らない。

「いや、分かってるよ? でもさ、やっぱ実際にやってみないと気が済まないしー」

 頭の後ろで両手を組んで苦笑いする美夏子に、撫子は嘆息しかけて、やめた。

 常識だとされている現象を、わざわざ実験してまで確認した美夏子の行動に、心がざわめく感じがしたから。

(見えないからって、一方的に「光」のことを無いことにされなければ……)

 ふと、黙り込んでいたところを美夏子に見つめられていたことに気付いて、撫子は慌ててそっぽを向いた。

 あさっての方角を振り向いた途上で、それに気付いて撫子は慌てて目線を戻した。

「!? 」

 仔猫が、未だ明かりの落ちた「永久機関」の上に座り、前足で撫でているのだ。

「……これ……」

「えーなにー? この子、そんなにこの機械が気に入ったのー?」

 不意に仔猫は手を止めて、あらぬ方を見上げた。

 撫子もその気配に気付いて同じ方を振り向いた。

 見れば、例の「光」の球がひとつ、カーテンの隙間から室内に漂ってきたところだった。

 仔猫を振り返ると、確かに仔猫は「光」を見つめ、目で動きを追っている。

 やはり、視えているのだ。

 やがて「光」がテーブルに近付くと、仔猫は「光」を捕まえようというのか立ち上がって前足を振り回し始めた。

 それはまさしく何かにじゃれ付く猫の所行だったが、「光」はふわふわと仔猫の手を掻い潜りなかなか上手く捕まらない。

「お? なになに? どーしたの?」

 美夏子が身を乗り出すのも無視し、撫子は確信にうなずいた。

 そっと手を差し出した。

 「光」で遊んでいた小さい頃以来、やらなかった事だ。

 漂う「光」にかぶせるように上から掌を乗せると、撫子はそっと「光」を押し下げた。

 仔猫は身動きをやめ、撫子の手をじっと見つめている。

 やがて下げた掌で機械に押し付けられた「光」は、すり抜けるように装置の中に押し込まれて見えなくなった。

 撫子は機械を回り込むと、先ほど倒したナイフスイッチを引き起こし、美夏子に振り向いた。

「コンセント、入れて。 合図したら、コンセントを抜いて」

「ん、あいよっ」

 撫子のした事が見えていないはずなのに、なぜか一寸も疑うことなく簡潔に返事した美夏子は、言われた通り壁に駆け戻ってプラグをコンセントに差し込んだ。

 メーターの針が振れ、電球に明かりが灯る。

「いいよ」

「せっ」

 撫子の合図と共に、美夏子がコンセントプラグを引き抜く。

 同時に撫子は、確信を込めてナイフスイッチを押し倒した。

「……え?」

 美夏子の、きょとんとした声が聞こえた。

 そこに灯り続ける電球を見て。

 

「なになになに!? いま何をどーやったの!? 」

 どたばたと駆け寄って肩に組み付く美夏子に驚きながら撫子はなんとか体勢を押し戻した。

「私の噂のことは知ってるでしょ?」

 謎の「光」が初めて用を成した高揚感に浮かれた撫子は、これまで誰にも語らなかったことを口にしていた。

「私にしか視えなかった「光の球」が、この子も視えるみたいなの。 だから、もしかしたらこの子に関係あるのかな、って」

 そしてそれは、その通りだった。

 電源も繋いでいないのに作動し電球を灯し続ける装置を見下ろして撫子は大きく息を吐いた。

 が、高揚感はたちまち鎮まり冷静な思考を取り戻した撫子は顔を青くした。

「…………」

 また、バカにされる。 また、変な奴だと蔑まれる。

 底冷えのする恐怖が蘇り、撫子は身を強ばらせた。

「そっか。撫子には「光の玉」に見えているんだね!」

 ところが隣の美夏子はあっけらかんと反芻すると、撫子の上腕を軽く叩いてパソコンに駆け戻っていった。

「やっぱね! そうじゃないかとは思ってたけどズバリだったか!」

「……え?」

 美夏子の言う言葉の意味が分からずに、呆然と後ろ姿を振り返る。

 訳が分からない。美夏子の反応は、撫子が生まれて初めて見る対応だったから。

 否定も拒絶も嘲りもせずに、既定のものと認識して肯定するなど。

「「宇宙物質」って言葉、聞いたことあるかな?」

 撫子の様子に構わずに美夏子はキーボードを叩き続ける。

「「エーテル」、「ダークマター」、まあなんか色々呼び方があるんだけど、要は「宇宙は真空なんかじゃなくて、なにかの物質で満たされている」って考え方があるの」

 操作を終えた美夏子が椅子を回して振り返り、手招きする。

「さすがに宇宙空間に真空に代わって何かがびっちり、とまではいかないけど、まあとにかく宇宙には何か、太陽光線とも違う謎のエネルギーがあるんじゃないかって噂があってね」

 パソコンに近寄った撫子がおずおずと覗き込んだモニターには、どこかの宇宙科学研究某らしきホームページに紹介された解説図が表示されていた。

「『コズミックエナジー』……?」

「そう!」

 表題を確認すると、美夏子がマウスを操作して画面をスクロールさせた。

「まだまだ理論上の存在でしかないらしいんだけど、幽霊とか雪男よりはまだしも実在の可能性がある代物みたいなんだよ!」

「私が見てたものは、この、『コズミックエナジー』なの……?」

「だと思うよ! 宇宙に存在し、しばしば地球上のものに影響を及ぼしたりしてて、でも目には見えないし観測できる手段もないとか特徴が合致してる」

 食い入るように画面を見つめる撫子の上腕に、美夏子がそっと手を触れた。

「目に見えなくても、観測できなくても、それが無いことの証明にはならない! 存在を確かめる手段は、絶対にあるの!」

 美夏子の眼鏡の向こうできらきらと力強く輝く瞳を呆然と見返した撫子の頬に、我知らず涙がひとすじ流れ落ちていた。

 

 

 ずっと、ひとりぼっちだと思っていた。

 生まれた時から別の世界にでも放り込まれたかのような疎外感を、ずっと感じていた。

 たまたま、他の人間に見えないものが視えたというだけで。

 自分がおかしいのか。あの「光」がおかしいのか。

 それともこの世界がおかしいのか。

 自分の足場すら定かでない不安感にいつもいつも苛まれてきたのだ。

 そんな、撫子の視界を閉ざす深くて暗い澱みのような霧は、会って間もない一人と一匹の奇妙な来訪者によってあっけなく吹き散らされてしまった。

 

 

「いやー。無駄と分かってる永久機関でも、作ってみるもんだねえ」

 テーブルを振り返る美香子に合わせて撫子も、例の装置を振り向いた。

 仔猫は未だ電球を灯し続ける装置を前足で撫でている。

 そのガラクタを複雑に寄せ集めたかのような装置が、仔猫の前足に吸い込まれて消えていった。

「!? 」

「はィ!? 」

 二人の喫驚がぴったりと重なった。

 見間違いかと疑った。だが確かにまるで掃除機に吸い込まれる液体のように、あれほどゴツゴツとした機械の塊が仔猫の前足を消失点に音もなく形状を集束させて消えていったように見えたのだ。

「うわわわわ!? そんなモン食べたらお腹こわすって!? 」

「だっ!? だだだ大丈夫なの!? 」

 大慌てで二人同時に仔猫に飛びかかるが、美夏子の手をするりと躱した仔猫は、同様につんのめった撫子の肩にひょいと飛び乗ってしまった。

「ちょ、ちょっと」

 慌てて肩から仔猫を下ろして抱き直した撫子が仔猫の腹を撫で回すが、あれほどサイズ差がある機械の塊が中に収まっている様子はまるでなく、見かけ通りの柔らかい感触を手のひらに伝えてきている。

「ど、どう?」

「……ない。中に入ってる感じがしない」

 そもそも口でなく手から吸い込まれたように見えたのだ。本来の「摂取」とは意味合いが異なるように見受けられるが、じゃあ今の現象が何なのかは撫子にも説明しようがない。

 しばらく美夏子と二人して仔猫をためつ眇めつしていたが、あまりにも理解を超える現象であると認めざるを得ないことに思い至った。

「……まあ、身体に悪いと思ったら、吐くでしょ」

「そうだね」

 若干諦観に染まった声音で美夏子は請け合ったが、撫子としても同意するより他にない。

 そこで、昼休みの終了五分前を告げる予鈴が鳴り響いてきた。

「ありゃ。時間だわ。 じゃあまた放課後にここに来てよ。まだ昨日のことで話があるからさ」

「あ、うん」

 そうだ。まだ解決していない問題や、相談しなければならないことがある。

 散らばったパンの袋を掻き集める美夏子が、ふと撫子を見返した。

「ねえ、そう言えばその仔猫、名前はなんていうの?」

「え? ああ」

 この仔猫と出会ったのは撫子も美夏子とほぼ同時のようなものだが、まだその辺を詳しく説明していなかったからか美夏子は仔猫を撫子と前からの友達だと思っているようだった。

 だが、あれから一晩を経て、仔猫にふさわしい呼び名が撫子の頭の中に既に現れていた。

「かぐや。」

「かぐや? 「かぐや姫」の?」

「うん。そう」

 仔猫──かぐやを抱き直して撫子ははにかんで応えた。

「この子、月の光と同じ目をして、月をじーっと見上げていたから。 なんか、その後ろ姿が綺麗だったから」

 あの時、出窓に腰掛けていた仔猫のその眼差しに憧憬の感情を感じたのは、いつもの撫子の直感だろうか。それとも勘違いなのだろうか。

「ふうん、いい名前だね! よろしくねかぐや!」

 ところが、伸ばした美夏子の手を避けて顔を背けたかぐやの仕草と美夏子の泣きそうな顔に、撫子は思わず吹き出してしまった。

 

 

 このミステリー研究会の部室のテーブルの上からもう一つ、撫子が触れていた天球儀が姿を消していることに、それぞれ自分の鞄を持って退出する撫子も美夏子も気付かなかった。

 

 




 今回のサブタイトルの「闇・中・模・索」。こういう慣用句は存在しません。本当は「暗中模索」ですね。
 なんとなく、「暗」よりなお暗い感じの「闇」がいいかなと無理矢理当てたものです。
 さてこの「そらのなでしこ」、「仮面ライダー」の二次創作のわりにバトルにあまり重きを置きません。
 だいたいこんな調子で展開してゆきますので御了承下さい。


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第3話 鵜・目・猫・目

 その日の午後の授業にはいまいち身が入らなかった。

「……」

 撫子は、頬杖を突いてぼんやりとしていた。

 教師の解説などは耳から耳へと通過していってしまう。

「……」

 いま撫子は、かつて感じたことのない胸を満たす多幸感にどっぷりと浸っていた。

 思い出すのは、昼休みの美夏子の言葉。

 

 『目に見えなくても、観測できなくても、それが無いことの証明にはならない! 存在を確かめる手段は、絶対にあるの!』

 

「……」

 初めて撫子だけにしか視えないものの存在を肯定してくれた。

 疑いも嘲りもしないで真摯に向き合ってくれた美夏子。

 先刻は時間切れで慌てていたために思い至らなかったが、これは撫子にとってはいくら感謝してもし足りない大切なことである。

 そうだ。久しくこの感覚を忘れていたが、きっと美夏子は撫子のともだ

「美咲! ここ答えてみろ」

「……ぇは、はいっ!? 」

 突如教師に名を呼ばれて我に返った撫子は、慌ててどたばたと立ち上がった。

 だが、ぼんやりしていたせいで授業の内容などなにひとつ理解していない。

 それどころか撫子はなぜ呼ばれたのかが分からないほど前後不覚に陥っていた。

「えー……っと、ああの、その……」

 昨日までの撫子にはなかった失態だ。

 教室の中は、むしろ嘲笑よりも唖然といった空気に包まれていた。

「なんだ。珍しいな。 もういい、次のやつ」

 教師は別段咎めることもせずに別の生徒を指名したが、撫子は羞恥に顔を伏せて周囲の空気から逃げるように座り込んだ。

 

 

◆◆

 

「で、昼は時間切れで話せなかったんだけど」

「宇目木先生のこと?」

 美夏子の問いに撫子は答えた。

 二人は放課後、再び校舎の最奥のミステリー研究会の部室に集まっていた。

 ここに向かう時の撫子の足取りは、自分でも驚くくらい軽やかだった。

 だが、あの時感じていた多幸感はどこへやら、美夏子を目の前にした撫子は気恥ずかしさからそんな足取りも消え失せ、言おうと思っていた感謝の言葉もなかなか切り出せず、美夏子が話を始めたのに合わせて普通に話題に乗ってしまった。

(あああなにやってんの私!? )

 胸中では目を回して頭を抱えているのに、撫子の外面は自動的に平静な顔を形成して返答している。

 一度挫けた意気は、立ち直るのに時間がかかるもの。こうなってはもう後戻りできない。

「うんそう。ナデシコんトコの担任だったよね? 代理の先生はなんか言ってた?」

 宇目木 純(うめき・じゅん)。撫子のクラスの担任の教師である。

 整った容姿とスタイル、寡黙な性格が女子に人気らしいが、撫子の中では無口で無愛想で冷たい大人、という認識でしかない。

 その宇目木先生が昨日の夕方に事故に遭い入院したと、今朝のホームルームで伝えられたのだ。

「うん。命には別状なくって、検査次第で何日かで戻ってこれるって」

「ほほおおう」

 あごにL字の指先を当てた美夏子のチェシャ猫めいた笑みを見るまでもなく、撫子も自分たちが遭遇した化け物と宇目木先生との関連を思い付かずにはいられなかった。

 もしかして先生は、本当は化け物に襲われたのではないだろうか──と。

 なんとなくかぐやを見るが、かぐやはテーブルの真ん中でおとなしく座ってあらぬ方を見上げている。

「ふっふっふ。これは早急に事の次第を問い詰めなくてはなるまいて……」

「正直に教えてくれるかな」

 完全に悪役のような顔で含み笑いする美夏子に、撫子は至極真っ当な心配事を呟いた。

「もしかしたら、同じ秘密を共有する者同士ってことで、ここの顧問になってくれるかもしんないし!」

「でも、もし先生が化け物に襲われてたんだとしても、非常識なことは他の人には言いたがらないかもしれないよ? ……なに顧問て」

 美夏子の台詞の最後を聞き咎めて撫子は振り向いた。

「ん? このミステリー研究会の顧問にね」

「え!? ちょっと待って!? 」

 同時に恐ろしい可能性に思い至り、撫子は慌てて立ち上がった。

「顧問の先生、いないの!? そう言えばこの部活って、他の部員は!? っていうか、もしかして申請登録とかは……!? 」

「ういー♪ ナデシコご明察!」

 左右の指先を振って美夏子が歌うように肯定した。

「この「ミステリー研究会」は、ついこないだわたしが思い付いたばかり! でも「部」よりも扱いが落ちる「同好会」を名乗るわたしの謙虚さが素晴らしいでしょ? ちなみに部員はわたしとナデシコしかいないよ!」

「え!? 私も!? 」

 自分を指さして撫子は喫驚した。

 美夏子のことはもう好意的に受け容れてはいるが、それとこれとは話が違う。

「いや、でも、まだ私はやるともなんとも」

「えーいーじゃーん! 少ない協力者なんだし一緒にいられる口実作っといたほうが都合がいいってええ!」

 テーブルの上に身を乗り出してこちらの手にすがりついてくる美夏子を、もう今は無碍に振り払うことなどできそうにない。

 撫子は結局ため息を吐いて座り直した。

「……はあ。 いいよ。私もここに入ってあげる」

「あ り が と おうううう!」

 わざわざテーブルを回り込んで飛びついてきた美夏子にも、もはや苦笑するしかない。

「ぃようし! そしたらさっそくこれから病院に行って宇目木先生を尋問しよう!」

「いや、だから病院だから穏便にね!? 」

「俺がどうかしたか?」

 いきなり入り口からかけられた声に、撫子は抱きつく美夏子と共に飛び上がって仰天した。

 組み合った体勢のまま部屋の出入り口を振り向けば、いつもの怜悧な双眸に若干の呆れを混ぜた顔でこちらを眺める白衣を纏った男性教師が、ドア枠に手を掛けて立っていた。

「……宇目木先生!? 」

「お前たちはこんなところで何をやっているんだ?」

「センセ大丈夫なんですかあ!? 昨日事故に遭って入院したって……」

「車に軽くぶつけられただけだ」

 素っ気なく告げられた言葉に、撫子と美夏子は互いに目を見合わせた。

 いったいどんな連絡の不備があったのだろう。要検査・数日入院と噂されたはずなのに、傷ひとつなさそうな宇目木は確かに危なげなくそこに立っている。

「……あ~、はは……先生は、どうしてここに?」

 やがて気を取り直した美夏子が、困惑の色を残した愛想笑いで世間話のように問い返した。

「珍しく美咲が校内を奥へ歩いていくのを見かけてな」

 撫子は、人間不信から部活動には一切参加していない。

 それを知っている担任からすれば、昨日と今日の撫子の行動は確かに奇妙に映るだろう。

「それで。お前たちは、こんな物置でなにをしている? 用が済んだのなら下校しろ」

 室内を見回して言う宇目木の言葉に撫子は思わず小さく吹き出した。

 美夏子が言うところの「ミステリー研究会の部室」は、やはり知らない人間からは隣と同様の物置部屋にしか見えないらしい。

 ところが、その撫子の様子を横目で見ていた美夏子が珍しく頬を膨らませると、挑みかかるような目つきで宇目木を見返した。

「先生! 実は昨日、車じゃなくて化け物に襲われちゃったんじゃないですか!? 」

「ちょっ!? 」

 美夏子の脈絡を無視した唐突な問いに、撫子は泡を食って美夏子の袖を掴んだ。

 顧問獲得と事情を知る理解者の増援を望む美夏子は、どうやらその目的を諦めていないらしい。

「……まあ確かに無神経な運転手を化け物扱いしたくもあるが、車にかすられて転倒しただけだ。 おかげで自転車がおしゃかになったが」

 ところが、宇目木は淀みなく平淡に答えてみせた。

 見上げた美夏子の横顔は、さすがに落胆に沈んでいた。先ほどまで共に検討していた期待は、呆気なく打ち砕かれたことになる。

「バカなことを言っていないで、用がないのなら早く帰れ」

 重ねて言った宇目木が、僅かに首を傾けて二人の肩の向こう、部屋の奥を覗き込んだ。

「……猫を連れ込んだのか? 校内に居着かれると邪魔だぞ」

「あ……」

 言って宇目木がテーブルの上のかぐやに向かって歩き出した。野良猫をつまみ出そうというのだろう。

 撫子は慌ててかぐやを庇おうと宇目木のあとを追ったが、かぐやは伸ばされた宇目木の手を掻い潜って逃れると飛び降りた床を駆け抜け、窓の隙間に滑り込むと外へ飛び出していってしまった。

「あっ!? 」

「かぐや!? 」

 美夏子とそろって窓に駆け寄るが、かぐやは裏庭の砂利を駆け抜けて植え込みに飛び込みどこかへと走り去っていってしまった。

「ちょっと、ナデシコ、追っかけよう!」

「うん! 先生、失礼します!」

「さいならっ!」

 慌てて身を翻した撫子は鞄を取り上げると宇目木の脇をすり抜け、美夏子と一緒に部室を飛び出していった。

 

 

「かぐやー! かーぐーやー!」

「かぐやー、出ておいでー」

 学校の裏手を、撫子と美夏子がめいめい呼びかけながら歩く。

 河原を遮る土手と、高いブロック塀に挟まれた路地の、草むらや塀の隙間を丹念に覗き込みながら二人はかぐやを探し続けていた。

「どうしちゃったんだろうねえかぐやは」

「うん……」

 美夏子のぼやくような呟きに、撫子は気もそぞろにうなずいた。

 撫子には非常な懐き具合を見せるかぐやが、美夏子といい宇目木といい他の人間からの接触を極端に避けるのはなぜなのか。

 共通項と言えば例の「光の球」──曰く言うところの「コズミックエナジー」が視えるか視えないかの違いだが、かぐやが撫子以外の人間を避ける理由にはならない気がする。

「う~ん。この辺、野良猫とか多いから心配だねえ?」

「うん……」

 美夏子の言葉に、力無い細い声で応える。

 こっそりと横目で様子を伺う美夏子の、撫子を見る優しげな色の瞳には気付かずに。

「……え? なに?」

「ううん。なんでもない」

 二人は行き止まりに差し掛かって足を止めた。

 上は、この土手と川をまたぐ線路が通る橋。

 前と横を高いブロック塀が覆い、片側は急角度に盛り上がった土手になっている。

「……だめだ。いないよ……」

「別方面を探そうよ。戻ろう」

 美夏子の提案に従って来た道を振り返る。

 ところが、その先の側溝から道を遮るように鈍色の液体が滲み出てきたのを見て身動きを止めた。

 おぞましい恐怖がよみがえり足が竦む。

 側溝から這い出した液体が垂直に噴き上がり、見覚えのある歪んだ人型を成したところで二人同時に悲鳴をあげた。

「ひやああああ!? まままたでたあ!? 」

「に、逃げなきゃ」

 ところが振り返ったそこは行き止まり。

「うえええええ!? どどどどどうしよう!? 」

「ど、土手! 土手に登って!」

 三方を阻む壁を前におろおろと狼狽える美夏子の腕を引いて、撫子は土の急斜面へと後退した。

 だが、土手とはいえそこはおよそ五十度を越える、むしろ壁と呼ぶべき傾斜。手掛かりはまばらに生えた雑草しかなく、泥人形が迫るまでに必要な高さまで登ることは非常に困難だろう。

 けど、諦めるわけにはいかない。

「登って! 早く!」

「ああもうなんでこんなに土盛りあげてんのよここ!? 」

 ぼやく美夏子を押し遣りながら振り返ると、泥人形はもたもたした動作ながら着実にこちらへと迫ってきている。

『ーーーーッ!』

 泥人形のその面相に幾重にも刻まれた深い皺が、甲高い、耳障りな絶叫をあげた。

(……?)

 ふと、撫子はその泥人形の声と動作になにか、心のどこかに引っかかる違和感を感じた。

(……え? 私、どうして……?)

「あっ!? かぐや!」

「えっ!? 」

 美夏子の喫驚の声に思考を中断して振り返ると、美夏子が見上げた先、土手の上から銀色の仔猫、かぐやが土の斜面を駆け降りてきたところだった。

「かぐやっ! 」

 思わず喜色をあげる。

 ところがかぐやは再会の感慨もないように斜面の途中の美夏子の脇を通過して着地すると、地面を疾く走り抜けて撫子の身体を螺旋状に駆け上がった。

「え!? えっ!? 」

 そして撫子の腰の周りを迅速にぐるりと駆け回ると、その姿は瞬く間に銀の帯となり、やがて閃光と共に仔猫に代わって別のものが撫子の腹を取り巻いていた。

 それは、複雑な機械を正面に据え付けた、幅広のベルトだった。

「えっ!? えええ!? 」

 銀色の球を中心に据え、金属色の円環が半球状に幾重にも重なって配置されたそれは、ミステリー研究会の部室にあった天球儀に酷似していた。

 それらを納めた紡錘形のフレームの右側の上端から、見覚えのあるナイフスイッチが垂直に生えていた。

 それが猫のしっぽのように、くいくいと手招きするように動く。

「……ちょ、ちょっとかぐや!? どうしたの? なんの真似なの?」

 昨日、初めてかぐやに全身を取り込まれたのとは異なる変化のシークエンスに、撫子はただ困惑するだけだ。

 見れば、なぜか足を止めていた泥人形が再び足を蠢かせてこちらへと迫り始めた。

 背後には無手の美夏子。分かっている。選択肢はひとつしかない。

「んもおうっ!」

 撫子は自棄ぎみに声を張り上げると、ベルトから伸びるナイフスイッチを両手で握りしめた。

「……っ!? 」

 そして、スイッチを左へと押し倒す。

 その途端、撫子を幾重もの半透明の円環のヴィジョンが取り囲み、間近に迫っていた泥人形を弾き飛ばした。

 同時に閃光に包まれた撫子の身体を、ベルトの縁から溢れ出た銀の幕が上下に流れるように広がり覆ってゆく。

 やがて全身を覆い隠した銀の幕は中身にぴっちりと密着するように収縮して女性らしいボディラインを描いた。

 ただし変化はそこで止まらず、肩が、前腕が、臑の部分が隆起すると、頑丈そうな紡錘形のプロテクターを形成して固着した。

 胸と背中も部分的に盛り上がり、滑らかな曲線で構成された胸郭へと変化する。襟元に二重の線がアーチを描くセーラー服のような鎧だ。

 そして頭の両側頭部からも突起が生まれ、迅速に中を窪ませて鋭角に形を変えたそれは、まるで猫の耳のようだった。

 やがて変化が完了した撫子だったものは、まるで猫耳を生やした銀の装甲服とでも呼ぶべきものへとその姿を変えていた。

 両目にあたる位置にある巨大なイエローのセンサーアイがきらりと閃いた。

『うーーー!』

 やおら撫子だったものは両腕を眼前にそろえて身を丸めると、続いてその両腕を左右に大きく広げて仰け反った。

『なーーーーーーー!』

 まるで己の登場を世界に宣言するかのように元気な声を張り上げた撫子だったものは、ぴょんと小さく跳ねると前に飛び出した。

『なーーー!』

『ーーーーーッ!? 』

 そして昨日と同様に、組んだ両手を真上から振り下ろして泥人形を殴りつける。

 だがその威力は格段に上昇していたようで、泥人形は派手に転げながら大きく吹き飛んでいった。

『なーー! なーーーー!』

 それを追って駆け出した撫子だったものが再び組んだ両拳を振り下ろすが、泥人形は一回転余計に転がってそれを避け、狙いを見失った両拳はアスファルトを粉々に打ち砕いて埋め込まれた。

『なーーーー!』

 ところが、撫子だったものは拳を振り下ろした勢いのまま身を投げ出して前転すると体勢を立て直してあっさりと泥人形に迫る。

『なーーーー!』

『ーーーーーーッ!? 』

 再び、立ち上がった泥人形に振り下ろした両拳がヒットした。

 

「…………」

 昨日に続いて、かぐやを伴った謎の変身を遂げた撫子を、美夏子はようやく這い上がった土手の中腹で雑草にしがみつきながら見つめていた。

 細部の形状を変えた撫子が変身したものは、見た目だけでなく腕力も強くなっているようで、泥人形を圧倒する勢いは昨日よりも凄まじい。

「……うーん……」

 それにしても、撫子はなぜ両手を組んだハンマーパンチしかしないのだろうと美夏子は訝しんだ。

 元々、格闘の心得のない撫子だから仕方がないのかもしれないが、だとしても両手を交互に振り回した方が簡単な動作のような気がするのだ。

 例えば、癇癪を起こした子供が暴れる時は、まさに両腕をぐるぐると交互に振り回すものだ。

 両手を組んで殴りつける、という動作は、そうしようと思ってやらない限りはしない動作だろう。

 なのに変身した撫子は、どんな体勢であろうと、彼我の位置がどうあろうと、必ず両手を組んで殴りつけようとする。

 ……あと、あの「なーなー」言っているアレは、なんなのだろう。撫子って、あんなキャラじゃないような……?

「……」

 まあどうでもいいか。

 ともあれ、対抗手段を持たない美夏子は撫子の足手まといにならないように、とっとと安全圏に退避しなくてはならない。

 土まみれになりながらようやく土手の上に這い上がると、制服の前をはたきながら声を張り上げた。

「ナデシコー! もう大丈夫だから!早く逃げよう!」

 変身した撫子の脚力ならば、土手の上などひとっ飛びで跳んでこれるだろう。そう思って呼びかけたのだが、撫子には聞こえた様子がない。

 あれほど恐れていた相手を、今なお絶好調に滅多打ちにしている。

「ナデシコー!」

 再び呼びかけてみるが、無反応。

「……?」

 美夏子が怪訝に首をひねったその時、撫子がやおら怪物を殴る手を止めて辺りを見回した。

「ん? わたしなら、ここだよー!」

 自分の姿を見失っているのかと思って三度呼びかけてみるが、美夏子の声には反応しない。

 きょろきょろと、忙しなく周囲を探りおろおろし始めたのだ。

 その間に泥人形は後退すると、再び鈍色の液体に身を変じて傍らの側溝へと流れ込んで消えてゆく。

 撫子は、脅威がいなくなってもまだ何かを求めておろおろと見回していた。

「……なにしてんのナデシコは」

 恐らく、変身した撫子のパワーアップを脅威と見て逃げたのだろう、泥人形がしばらく経っても戻ってこないのを確認した美夏子は、土手をずるずると降り始めた。

 せっかく苦労して登った土手から降り立つと、まだおろおろと周囲を見回している撫子に駆け寄ってその肩を叩いた。

「ちょいと、ナデシコさん?」

『う?』

 くるりと振り向いた撫子だったものは、口元に拳を当てて小首を傾げて見せた。

(……かわいいじゃねえですか)

 「萌えキャラ」という概念にあまりピンと来ない美夏子だが、なぜか一瞬浮かんだ感想に自ら口の端をひきつらせた。

 だがすぐに気を取り直す。

「いやいや、う?じゃなくてさ。あいついなくなったから、とりあえずさっさと逃げようよ」

 ぱたぱたと手を振って見せるが、なぜか撫子は一泊置いてからはっと気付いたかのようなリアクションをすると、慌てた様子でベルトのナイフスイッチを引き起こした。

 たちまち閃光に包まれて元の制服姿の撫子に戻る。

 その足下に、銀毛の仔猫・かぐやが降り立った。

「いやいやいやいや!? 違うの違うの!? なんでもないのなんでもないよ!? だだだだ大丈夫だから!? 」

 そして変身を解除するなり真っ赤な顔でまくし立て始めた撫子に、美夏子はきょとんと見返すよりほかになかった。

 

 




 今回のサブタイトルは「うのめ ねこのめ」。 本来のことわざ「鵜目鷹目」の一部を当作の登場動物の猫と取り替えました。
 言葉の意味は「餌を探す野生動物のように、熱心に求めるものを探し回るさま」といった感じでしょうか。
 ところが、今回のサブタイトルの真の意味は、もう少しあとに明かされることになるのですが。


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第4話 愛・縁・奇・縁

 撫子は、自分の顔立ちが同年代の少女の中では水準以上であるらしいということを一応自覚している。

 もっとも、これは自己評価ではなく(生まれてからずっと鏡で見ている自分の顔である。身だしなみ以上の意味で良いとか悪いとか気にしたこともない)、余所から漏れ聞こえてくる陰口や噂などの相対評価による判断と、もう一つ。

「わ、ワシと付き合うてくりゃあせ!」

「……………………」

 時々、こうして見知らぬ男が交際を申し込んでくるからだった。

「なあアンタ。黒穴工業高校略してクロコーで総番張ってる蛮殻サンがこうしてアタマ下げてんだナ。その顔にドロ塗る真似だけはしないほうが身のた」

「じゃかあしゃい!」

「げふう!? 」

 しかし、今日の相手は撫子にとっては少々風変わりな男だった。

 前にテレビで見たことがある。あれは「昭和時代の懐かし番組」とやらに登場した、昔の不良少年グループのボスにあたる学生。

 そこで手下の少年の脇腹に拳を突き刺して「く」の字にへし折っている男は、ちょうどそういう格好をしていた。

 昔の学校では制式採用されていたらしき学帽に、丈の長い黒の改造詰め襟と不自然に膨らんだオーバーサイズのスラックス。扱いが荒いのか、その全てがぼろぼろにほつれていた。

 しかも、はだけた上着の下はなぜか裸だった。セクシーなどという概念とは真反対のベクトルを描く分厚い胸筋が暑苦しい。

 帽子の下もまるで岩塊のような顔をしているから、暑苦しさもひとしおだった。

 その上、小柄な自分の見上げる首が痛くなるほど上背のある大男だからなおさらだ。

 あまりの飛び抜けたキャラに、自分たちの周囲を遠巻きに通過してゆく通行人の奇異の目線も忘れるほど。

 むしろ、猥褻物ということで警察に引き取ってもらえるだろうかと撫子は真剣に考えていた。

「ねえねえお嬢さん。アニキは見ての通り気がとても短いッシュ。返事は迅速かつ適切にしたほうがいいッシュよ?」

「余計にゃこと言うなや!」

 もう一人の手下の少年が、男に真上から叩き潰されて視界から消えても撫子の半眼は毛ほども動かなかった。

 それにしても大男の訛りがきつい。どこの方言だろうか。

「まあこいつらの言うちょることは気にすんなも。わしゃあどえりゃあ気ぃが長く、どんな事情でも受け容りゃれる度量の大きさを売りにしちょる。 んで、返答はどないに!? 」

「ごめんなさいタイプじゃないんです」

「ぐはッ!? 」

 不機嫌に即答した撫子の前で、蛮殻(ばんから)とか呼ばれた男が口ほどにもなく吐血したような断末魔を上げて呆気なく崩折れた。

「蛮殻サーン!? 」

「あ、アニキーっ!? 」

 慌てて男の両側に組み付く手下二人の脇を抜け、撫子はこの場を離れるべくさっさと歩き出した。

 ところが、その手下の少年二人が素早く回り込んできて撫子の前に立ちふさがってしまった。

「ま、待つんだナ!」

「アニキに恥かかせた落とし前をつけさせてもらうッシュ!」

「…………」

 もう言っていることの訳が分からない。

 とっとと離れたいのだが、さすがにあの大男に殴られてもピンピンしている少年ふたりの腕力には抗いきれる自信がない。

 さて、どうしたものか。

「あの。すみません」

 悲壮な危機感に冷や汗をかいていたそこへ、横から涼やかな声が割り込んできた。

「彼女は嫌がっているみたいですから、今日のところはこれでお開きにしてもらえませんか?」

 気負った様子も緊張感もない様子ですたすたと歩いてきたのは、撫子と同じベージュのセーラー服、昴星高校の制服を纏った少女だった。

 こちらも、女子としては非常に背が高い。すっと立った背筋が凛とした印象をもたらしている。

 ところが、その女子生徒も一部普通ではなかった。

 髪型が、まるでおとぎ話のお姫様もかくやと言うほどに派手で巨大なくるくるカールヘアだったのだ。

 あの豪華なカチューシャが着いていないこの髪型がこれほど不自然なものだということに撫子はとても驚いた。なぜその髪型なのかを一瞬忘れたほどだ。

「なんだナお前は!? 」

「邪魔すんなッシュ! ヘンなアタマしやがって!」

「それは、兄さんへの侮辱と受け取ります」

 手下の少年たちの罵声に少女は涼やかな顔を引き締めると、身体を横向きに構えた次の瞬間にはその姿がかき消えて手下の少年の一人が派手に吹き飛んでいた。

「……え?」

 撫子がその妙技に気付いた時には、もう一人の少年も少女が振り回す腕にぐるぐると翻弄された挙げ句ぼこぼこに殴られて倒れ伏していた。

「さあ。三十六計逃げるに如かずですよ」

「へ?」

「走りましょう」

 言われ、路上で灰化したままの蛮殻某と痙攣している手下たちを置いて、撫子は手を引かれるまま少女と共にこの場から走り去っていった。

 

 夕暮れ時の商店街のアーケードを、謎の少女に手を引かれながら走り抜ける。

「いやあ。大変でしたね」

 商店街の反対端まで来たところでようやく少女は掴んでいた手を離した。

「……あ、ありがとう……」

「どういたしまして」

 長らくの経験からつい他人を警戒してしまう撫子のおずおずとした礼にも、少女はにこりと精悍な微笑みを返してきた。

 それにしても、先ほどの蛮殻某もとても奇抜だったが、この少女もどうにもアンバランスな格好だった。

 この髪型の見かけからして、少女はきっとお金持ちの家系で「おほほ」と笑いながら上から目線の気に障るイントネーションでしゃべる生き物にしか見えないのだが、さっきから淡々としつつ朗らかに慇懃な調子でしゃべっているのだ。

 同じ学校にいながらこれほど特徴的な生徒を見逃すだろうかと不思議に思ったが、撫子は普段から廊下や外を歩く時に、人の顔など特に注視していない。見覚えもなにも、ろくに誰のことも見えてはいないのだから、彼女のことを覚えていないのも当然だ。

 撫子が自分の悪癖に煩悶としているうちに、少女は近くの自動販売機の下端の取り出し口から缶ジュースを取り出していた。

「はい、どうぞ。奢らせてください。一緒に落ち着きましょう」

「あ、はあ」

 なにやら巧妙に遠慮を封じ込める勢いに押されて、撫子は缶ジュースを受け取った。

 少女は自分の分の缶ジュースのプルタブを開けてさっさとあおり始める。

 その際、缶をあおって真上を向いた少女の前髪が、重力に従ってずり下がったように見えた。

「んん!? 」

「あ。おっと」

 撫子の怪訝の声よりも先に感触で悟ったのか、少女は自ら頭髪のずれに気付き片手を頭に遣った。

「ええ!? 」

 その続く仕草に撫子は今度こそ盛大に喫驚の声を上げた。

「よいしょ」

 少女が、いきなりその豪奢な頭髪を丸ごと毟り取ったのだ。

 いや、これは。

「……か、カツラ……?」

「ああ。ウィッグって言うんですけど」

 呆然とする撫子の前で少女は、巨大なウィッグを振りながらあっけらかんと応えた。

 その、ウィッグの下から現れた少女の本当の頭髪は、なぜか男の子のようなベリーショートだったのだ。

「……あ……あ……」

 一瞬、丸刈りかとも見違うほどに短い髪が、むしろ精悍な顔にとても良く似合ってはいるのだが、驚愕の連続に撫子はもう言葉もなかった。

「ボクは短い方が好みなんですけど、兄さんの方針で「女の子は女の子らしくしなくちゃ」ってことで、学校ではこれをかぶるように言われてるんです。 ……あんまり意味ないですけどね。ボクはボクなんですから」

 屈託なく微笑む少女だが、撫子にはやっぱり意味が分からなかった。

 少女は気にした様子もないようによいしょとウィッグをかぶり直すと、前髪の位置を微調整しながら撫子に微笑みかけてきた。

「たいしたことじゃないです。 見えないものが見えると噂されるあなたと、ボクとじゃあそんなに違いはないはずなのにね」

「!? 」

 苦笑顔の少女に突然自分にまつわる噂を出され、どきりとした撫子は身を固くした。

「誰に迷惑をかけてる訳でもないのに、付け足さなきゃいけなかったり、文句言われなくちゃいけなかったり、変な世界ですよね。 あ、ボク、鼓獅子 郁(こじし・いく)っていいます」

「あ、あの、わたし、美咲 撫子……」

「はい、知ってます。それじゃあ」

 撫子の慌てた自己紹介ににこりと微笑むと、その少女・郁は挨拶の代わりのように缶ジュースを目の高さに掲げて見せ、颯爽と身を翻して夕焼けに染まる街中へ立ち去っていった。

 いつの間にか肩に乗り上がっていたかぐやと共に、撫子はその後ろ姿を呆然と見送っていた。

 

 懐から突然鳴り出したメロディに、撫子は慌ててポケットからケータイを取り出して耳にあてがった。

「もしも」

『ナデシコ!? 今どこにいるの!? 』

「あ!? 」

 こちらを遮って飛び出した美夏子の声に、撫子は思わず声を上げた。

 放課後の化け物との遭遇のあと、帰り道の途中にあるバラエティショップに買い物の用事がある美夏子を店の前で待っていたところで、あの蛮殻とかいう男が話しかけてきたのである。

 そして騒動が起きて鼓獅子 郁に連れられて離れた場所に来てしまったのだ。

「ゴメン! ちょっとトラブルに遭って、逃げてて」

『ええ!? お店の前に化け物が出たの!? 』

「ううん、たぶん人間だけど」

『たぶんて』

「ううん、冗談。でももしかしたらまだその辺にいるかもしれないから、別の所で合流しよう?」

『しょーがないなー』

 合流場所を相談して電話を切った撫子は、ケータイを懐にしまいながら小走りに駆け出した。

(不思議な人だったな……)

 逃走劇で大きく外れた場所から帰途を辿りながら、撫子は先刻の少女・鼓獅子 郁のことを思い返した。

 あの少年たちを叩きのめした動き方は、素人目には良く分からなかったが、恐らく何かの武道とか格闘技を学んでいるのではないだろうか。

(でも、あんなに強いのに、何かに縛られているの……?)

 むしろ颯爽とした言動なのに、垣間見える煩わしさと理不尽への不平。

(あれほどの強さを持ちながらも振り払えない何かに囚われるなんて)

 

──あなたと、ボクとじゃあそんなに違いはないはずなのにね──

 

 幼い頃から偏見の不条理に翻弄されてきた自分の境遇と、鼓獅子 郁が語った言葉が胸の内で重なり合った。

(……あれ?)

 そこで撫子は、他人の事を気にかけるなどという自分らしくない思考にようやく気が付いた。

(……やめよやめ。ばかばかしい)

 助けてもらったことはありがたいが、彼女は自力で障害を打ち破る力を持っているのだ。

 なんの力も持たない自分とは、違う。

(…………)

 それでも胸にくすぶる雑念を振り払いきれず、撫子は煩悶としながら早足で道を急いだ。

 

 

◆◆

 

 翌朝。

 教室内の居心地が悪い撫子は、いつもギリギリの時間に教室に入るようにしている。

 そうしていつものように誰とも目を合わせないように自分の席に着くと、鞄の中から筆記用具などを取り出している内に再び教室のドアが開かれた。

(……え!? )

 撫子は、怪訝と喫驚に目を見張った。

 ドアをくぐって現れたのは、宇目木ではなく、昨日と同じ代理の教師だったのだ。

 それどころか、教室の他の生徒もそれほど大きなリアクションをしていないことにも違和感を感じた。

「よーし席につけー。出席確認するぞー」

 そして当たり前のように点呼を始めようとする代理の教師の行程に、思わず撫子は立ち上がっていた。

「あ、あの、宇目木先生は!? 」

「んあ?」

 撫子の剣幕に、代理の教師はきょとんとした顔で見返してきた。

「しばらく入院だって、昨日言っただろう。 いつ退院できるかは、まだ分からん。座ってろ。 えー」

「…………!? 」

 撫子は、愕然として力無く腰を落とした。

 周りから聞こえてくる嘲笑のささやき声が、撫子の違和感をより色濃く上塗りしてゆく。

(……じゃあ、昨日私たちが会った宇目木先生は、何……!? )

 

「……っていうことがあって……」

「なんスかそれ」

 昼休み。

 ミステリー研究会部室(仮)に集まった撫子は、美夏子に今朝のことを説明した。

 困惑に揺れる撫子の向かいで美夏子は曰く味のある引きつった顔で固まっていた。

「いや~、ミステリーは好きだけど、ホラーはちょっとなー」

「え? どういうこと?」

「だから、昨日の夕方の宇目木先生は生き霊だったとか、実は病院では今際のきわで魂がさまよっているとかそんな」

「え~~!? やめてよやめてよ!? 」

 青い顔で美夏子が語った解説に撫子が身を捩って話を遮る。

「……ま、まあホラ、本当に入院しているんだったら、病院に確認しに行けば済むハナシだし、それで昨日ここに来た理由も聞けばいいし」

「そうだよねそうだよね!? 」

 脂汗まで浮かべて「生き霊説」を否定する根拠を列挙する美夏子に、撫子も縋るように必死にうなずいた。

「は、ははは。い、いやー隕石の影響って、すすすすごいなーあはははは」

「そそそうだねー」

 最後はどうにか誤魔化し笑いで無理矢理トピックを終わらせる空気にすることに二人して執心するが、どうにも不快な冷たさを払拭するにはなかなか至らない。

 かぐやは、そんな二人に挟まれたテーブルの上で、空気なんて読めませんみたいな澄まし顔であらぬ方を見上げていた。

「……」

 ふと誤魔化し笑いの途中でちらと見たかぐやを二度見した美夏子が、撫子に手招きした。

「ね、ちょっと」

「なに?」

 美夏子はなぜか、かぐやをしげしげと見つめている。上から下まで舐めるようにして。

「……なんかこの子、大きくなってない?」

「え?」

 言われて撫子もかぐやを観察するが、大して変化があるようには見えない。

「そう?」

「んー、ナデシコはいつも一緒にいるから、少しの変化には気付きにくいのかな」

 言いながら美夏子はかぐやに近付けた親指と人差し指で交互に辿ってその全高を計っている。

「う~ん。昨日飲み込んだ機械の分かしら、ってほど容積に変化はないみたいだけど……」

「……ああ。ほんとに食べちゃったんだっけ」

 計り知れないかぐやの異常について、これ以上なにが追加されても文字通りその原因を推し量ることなど自分たちにはできようもない。

 撫子は諦観に染まった薄笑いで適当に相槌を打った。

「……あ。 そうだナデシコさん、かぐやで思い出したけど昨日のことでちょいと聞きたいことがあったんだわ」

「ナンパしてきた人のこと?うんうん変な人だったよねー」

「ナデシコが変身した時なんだけどさ」

 撫子の白々しい話題逸らしは呆気なく無視された。

 ひとすじ汗を垂らしてそっぽを向いた撫子の前に、美夏子がニコニコ顔でのそりと回り込んでくる。

「みゃーみゃー言ってる変わった方言みたいだったけどどこの人なんだろーねー」

「変身したナデシコがなーなー言ってるのって、なに?」

「いーーやーーーー!? 」

 執拗な美夏子の追求にとうとう撫子は悲鳴をあげた。両手で耳を塞いで身を捩る。

「やめてお願い訊かないでいやいやいやーーー!? 」

「そうは言ってもさ、ナデシコが変身した姿は、アスファルトを砕いちゃうようなすごいパワーを発揮してるんだよ? もしも変身することで脳になんらかの影響が出てるんだとしたら今後の化け物対策を考え直さないといけないし」

「嘘だよおー!? 目が、目がすっごい笑ってるものー!? 」

「やだなーわたしってば超絶真剣極まりないクールでクレバーな頭脳で心配してるのよおー?」

「いやー!? いやったらいやむぐ!? 」

 駄々をこねる撫子の両頬に添えられた美夏子の両手が、撫子の頬を思いっきり挟んだ。

「さああてあの辺りのことを詳しく教えてくれないと、こんなふうにアヒルみたいな口に変身させちゃうからね?」

「むー!? むー!? 」

 唇をむりやり尖らせられたままもがくが、不利な体勢に追い込まれていてどうにも抜け出せない。

 不意に、美夏子の顔が真剣味を帯びた。

 手の力は緩めぬまま。

「……ねえナデシコ。心配なの。変身して戦えるのがナデシコだけだからって、最悪の場合、最終最後はナデシコとかぐやに頑張ってもらわなくちゃいけないかもしれないけど、でもあんなに怖がってたナデシコが、変身した途端に喜々として戦い始めたように見えたんよ? ……少し、怖くなったよ……ナデシコが壊れちゃうんじゃないか、って……」

「…………」

 その真摯な言葉に、思わず聞き入ってしまう。

「ねえ。だから教えてよ。一緒に考えるからさ」

「……!」

 撫子は美夏子の手に挟まれたまま必死に首を縦に振った。

 そろそろ顎にかかる圧力に耐えきれなくなってきたからだ。

 

「ううう……結局力技だし……」

 頬と顎をなでながら撫子は涙目でぼやいた。

「え? もっと愛情表現しなきゃダメ?」

「説明する説明しますから!? 」

 目をキラキラさせて両手をかざす美夏子に撫子は慌てて大きく後退った。

「……って言っても、私もよく分からないのよ」

「んじゃあ、まずかぐやと変身した時って、どんな感じなの?」

 パソコンの前に回った美夏子が話を促した。

 テキストデータを立ち上げてキーボードをせかせかと叩き出す。

「ナデシコが変身した時って、顔が仮面にすっぽり包まれて、大きな目がついてたけど、あれって前は見えてんの?」

「え? 私どんな顔になってたの?」

「あー。自分じゃ見えないか。今度変身したら写メでも撮ろうよ。 で、あの「うー、なー」って、なに?」

「うっ……!? 」

 やはり撫子は躊躇ってしまう。

 だが、満面の笑顔の美夏子が両手を広げたのを見ると、苦渋の末に口を開いた。

「……わ、私にも本当に良く分からないの。なんか、かぐやにすっぽり包まれた直後は、なんかこう、ぶわーって感じで感覚が広がるっていうか……」

 両手を宙で曖昧に振って説明する中、美夏子はふむふむとキーボードを打ち込んでいる。

「あ、周りはちゃんと見えてたよ? 仮面かぶってたなんて自分じゃ分かんなかったくらい。それどころか、視力が凄く上がったような気がした。なんか木の葉とかアスファルトのつぶつぶとか細かいところまで綺麗に見えたの。 新しいイヤホンで音楽聴いたくらいの違いがあったと思う。」

「ふんふん。それで?」

「……わ、笑わないでよ?」

 撫子の発言を記録しているのか、キーボードを操作しながら、その後ろ姿がかくかくと首肯して見せた。

「感覚が広がって、もの凄い爽快感で気分良くなっちゃって、……ほら、山に行ったりしたときに叫びたくなる衝動ってあるでしょ!? あんな感じで、つい、その……」

「開放感に衝き動かされた魂の発露、デスカ?」

「……う……」

 チェシャ猫めいたニヤケ面が振り返ってきて撫子は声を詰まらせた。

「なるほどなるほど。とまあそれはそれとして。 あとナデシコさあ、この技に何か思い入れとかあったりする?」

「え?」

 急に元の顔に戻った美夏子が、両手を組んで作った握り拳を上下に振るのを見て撫子はきょとんとした。

「……なにそれ?」

「へ? ナデシコ変身した時、コレであの化け物ぼっこぼこにしてたじゃん?」

 二人同時に首を傾げる。

「あれ? もしかして戦ってる時のこと覚えてない?」

「……う~ん……よく分かんない」

 撫子は傾げた額に指先を押し当てて記憶を探るが、なぜか部分的に曖昧な印象しか残っていなかった。

「……戦うとか、怖いっていうのは、なかった気がする。なんだか、そこら辺がぼんやりしてて」

「ふーん」

「化け物と向かい合っていたのは覚えてるの。 でも、戦うとか、怖いとかはなくて、なんか、なんとかするぞ!っていう感じはあったような気がする……」

「やっつけてやろう、っていう気持ちじゃないの?」

「……なんか、違かった、気が、する」

 椅子を回してパソコンに向き直った美夏子は再び何事か打ち込み始めた。

 そのまま、背中で問いかけてくる。

「あとさあ、昨日、あの化け物をいい勢いで圧してたのに途中でやめちゃって、何か探すみたいにきょろきょろしてたよね? あれはどうしたの?」

「んん~……」

 撫子も、反対側に首を傾けて再びうなり声を上げた。

「……なんか、何かが足りなく感じて、それが欲しくて探してた、ような……気が、する」

「やっぱり、ぼんやりした感じ?」

「……ごめん」

「いや大丈夫、謝るこっちゃないよ~」

 さらに二~三の質問を繰り返した末、トドメのようにエンターキーをひっぱたいた美夏子がモニターの前を開けて振り返った。

「まだ推測の段階なんだけど、見て」

 言われ、撫子はモニターの前に近寄った。

「とりあえず撫子の主観ではっきりしてるものと、ぼんやりしているものを分けてみたのね」

 そこには、美夏子の言う通り一連の撫子の返答が区分けされて箇条書きにされていた。

 変身した撫子が僅かでも自覚しているのは、開放感を感じていることと、拡張された精細な視聴覚と、単純な行動の指針について。

 記憶が曖昧な点は、主に具体的な行動内容についてだった。

「で、こっちが、わたしから見た変身したナデシコのあの時の行動」

 言った美夏子がキーを押すと、新たなウインドウが隣に現れた。

 そこには、一手、二手といった区切りで変身した撫子と化け物の行動が細かく書き込まれていた。

「結構、いい感じに圧倒してたんだよ?」

「……へえ」

 変身した自分がアスファルトを砕いたことは、昨日あの時に美夏子に見せられて初めて驚いたものだ。

 ほか、美夏子が列挙した変身した撫子の行動には、やはり部分的に覚えのない点がちらほらと見受けられた。

「で、わたしの推測だけど、変身したナデシコの行動には、たぶん結構な割合でかぐやの意志が反映されてるんじゃないかな」

「かぐやの?」

 言われ、撫子はテーブルに座っているかぐやを見返した。

「ナデシコは、取っ組み合いのケンカとか、武道の経験とかないでしょ?」

「うん」

「となると戦いの技術はかぐやの領分、としか考えられないんだけど。「ナデシコじゃなければ、かぐやしかいない」っていう消去法でしかないんだけどね。 でも、猫が怪物との戦い方を知っている、っていうのも考えにくいし……」

「え? でも、かぐやって、「SOLU」っていう宇宙生命体なんでしょ?」

「だとしても、だよ。 なんで人間の形をしていない宇宙生物が、執拗にハンマーパンチしかしないのかが、不思議でねえ」

 こんな、と言いながら美夏子が組んだ両手を大きく振り回して見せる。

「ナデシコも普通、こういう動作しないでしょ」

「うん……」

「でもね、ひとつはっきりしたことがあるんだ!」

「え? なに?」

 人差し指を立てた美夏子が、覗き込むように寄せた顔にいたずらめいた笑みを浮かべた。

「……変身したナデシコは、めっちゃくちゃハイテンションになっちゃってるってこと!」

「あああ!? 」

 指先を突きつけてずばりと看破され、撫子は顔色を目まぐるしく変化させながらあたふたと後退した。

「い、いや、あわ、あわわ……!? 」

 青くなった顔を真っ赤に染めて、結局撫子はテーブルに突っ伏して頭を抱えた。

 

 バレた。恥ずかしい。

 美夏子の言う通りだ。そして実態は実はそれ以上だ。

 かぐやを伴って変身した撫子は、変身した瞬間に爆発的な開放感に包まれるのだ。

 それは撫子の抱えるあらゆるネガティブな思考を消し去ってしまい、結果、撫子の「本性」を全開にする。

 思いのままに振る舞いたい。可愛らしいファッションにも興味がある、可愛らしくありたい。みんなと同じように元気良くはしゃぎたい。

 そしてネガティブな思考を消し去る効果は、副次的に「理性的に振る舞うべき」という思考をも弱らせてしまうのだ。

 なにしろ本性が開放されているのだ。理性を働かせようなどとは発想からして及ばない。

 故に、変身直後の撫子は、全身で喜びを表現しようとして意味ある言語を使わなくなる。

 まさかそれが「うー」とか「なー」とかいう形で発声されていたなどと、美夏子に指摘されるまで自覚すらしていなかったのに。

 

「あうううう……!? 」

「いやいやー? ナデシコさん、別に恥ずかしいことじゃないよ? むしろ、はっきりさせとかないと対処の仕方も分かんないままの方が危ないんよ?」

「……それは、そうかもしれないけど……」

 宥めるように手を振ってすり寄ってきた美夏子に、腕の隙間からちらりと半泣きの顔を覗かせて弱々しく応える。

「ていうかさあ、ナデシコはずっと堅い顔ばっかしてたからさあ、わたしとしては、そういう素の部分を見せてもらえるのはとっても嬉しいんだけどなあ?」

「え?」

 意外な言葉に、撫子は思わず抱えていた顔を上げた。

「でも、しょうがないね。ナデシコは、からかわれるのってあまり慣れてないでしょ? 気ぃ悪くしたら、ゴメン」

「…………」

 美夏子の珍しい殊勝な態度に、撫子はついその眼鏡の向こうの苦笑いを見つめてしまう。

「……いや、私も、その……」

 もにょもにょと撫子が返事しようとしたところで、まるで遮るようにしてチャイムが響いてきた。昼休み終了の予鈴だ。

「おっと時間切れだわ。 行こう?ナデシコ。 続きはまた放課後に話そ」

「あ……」

 

 ずっと、人を警戒して生きてきた。

 誰かと笑い合うだなんて、久しくしていなかった。

 本当のことを話せば、誰もが撫子を否定し、拒絶し、蔑んだから。

 だから、他人の前で素の自分をさらけ出すなんてあり得なかった。

 かつて撫子に近付いてきた者にも、慣れるにつれ笑い合えることはあったが、相手の笑顔は嘘だったのだと、その後に思い知らされることになった。

 だからもう、誰も信じないと決めていた。

 信じられるわけがないと思っていた。

 だけど美夏子は。

 秘密の壁は、とっくに破壊された。

 それなのに一緒にいてくれる美夏子は。

(私は……)

 分かっている。美夏子はもう手を尽くしきっている。

 後は撫子自身から行動しなくては、状況は発展しない。

 はっきりと言えない申し訳なさが、さらに申し訳なくなっていたたまれないスパイラルに陥ってしまう。そんなのはもう、イヤだ。

 本性をさらけきってしまうかぐやとの変身を、美夏子に見られることを恐れて躊躇っていたのだが、むしろこれは好機なのかもしれない。

 凝り固まった今の撫子の心では、美夏子と打ち解けようとしても非常に困難だろう。

 けれど、かぐやの力を借りれば、自身の心をも解きほぐせるのではないだろうか。

(その為には、あの化け物をやっつけて、それで……)

 目的と、為すべきことの筋道が、撫子の中で確かに繋がった。

 

 

 放課後。

 昨日よりもなお軽い足取りでやって来たミステリー研究会部室で、テーブルに置いた鞄から這い出てきたかぐやと一緒に、椅子に腰掛けて美夏子を待つ。

「…………」

 なんとなく手持ち無沙汰で膝の上の手のひらをぱたぱたと交互に動かすが、どうも美夏子の到着が遅い。

 ここに放課後に来るのは三回──自主的に訪れたのはまだ二回目だが、昨日は美夏子が先に来ていた。

 ホームルーム終了後すぐにここに直行するものと思っていたから、今日の遅れは意外だった。

「……?」

 十分ほど待って、さすがに怪訝に感じてきたところで、隣の物置の部屋からなにやらどやどやと複数の足音が聞こえてきて思わず腰を浮かせた。

 校内でも忘れられたこの部屋に用事があるのは美夏子と撫子だけのはず。

 そこを訪れる複数の足音の見当が付かず混乱しているうちに、入り口のドア枠から大きな段ボール箱を抱えた美夏子が入ってきた。

「はーいこっちだよー入っておいでー!」

「え……?」

 そして美夏子が連れてきたらしき来訪者が二人、それぞれ段ボール箱を抱えて続いて入ってきたのだ。

「ようこそっ! ミステリー研究会へっ!」

「ちょっ!? 丸ごと同じ手っ!?」

 連れてきた二人に振り返って両腕を広げて宣言した美夏子の背中に撫子は思いっきり突っ込んだ。

 目の前で繰り広げられたやり取りは、撫子がここに連れて来られた時と全く同じだった。

「お。ナデシコおっす!」

 ところが全く悪びれもせずに振り向いた美夏子はにっかりと笑って敬礼のポーズをした。

「さ、紹介するよ! 新たなミステリー研究会の仲間!」

 行って美夏子が片手を振って身を翻したそこにいたのは。

 巨大なプリンセスヘアをかぶった長身の少女・鼓獅子 郁と、この昴星高校の制服であるベージュの詰め襟を窮屈そうに着込んでいる筋骨隆々の巨漢・帽子がないせいで一瞬分からなかったが蛮殻某であった。

「おや?」

「むう?」

「……………………はイ?」

「さあ! みんなまとめて、よろしくねっ!」

 三人の怪訝な空気の中で、美夏子の底抜けに明るい声が白々と響いた。

 

 




 今回のサブタイトルは「あいえん きえん」。本来のことわざでは「合縁奇縁」ですが、内容に合わせて「愛」の字をあてがいました。
 ちなみに方言については、資料にした漫画などからの又借りででっち上げていますので、詳しい方からすれば失笑モノな点や至らない点があると思いますが、どうかフィクションの悪ノリとしてひとつ大目に見て頂けたらと思います。


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第5話 為・猫・添・翼

「では改めまして。 ボクは、鼓獅子 郁と言います。よろしくお願い致します」

「ワシゃあ、蛮殻 慎一郎(ばんから・しんいちろう)ちゅうんや。よろしゅうに」

 放課後のミステリー研究会部室にて。

 美夏子が連れてきた見覚えのある二人が、めいめい自己紹介した。

「ちょっ……!? 」

 撫子は美夏子の袖をひっ掴むと部室の片隅へと引きずってゆく。

「ちょっと、なに考えてるの!? 」

 声をひそめたまま怒鳴る勢いでまくし立てた。

「私たちは化け物に狙われてるんだよ!? それなのに、なにもこんなタイミングで勧誘することないじゃない!? 」

「いやー。そうは言っても良い人材は早くに捕まえておかないと余所に取られちゃうしぃ、宇目木センセに話聞きに行くついでに顧問の件をお願いするにも、最低人数は確保しとかないといけないし」

 部活動要項に曰く。所属する生徒が三名以上であること。

「だから危ないっていうのに!? 」

「それにねナデシコ。全くの無関係ってワケでもないんよコレが」

 隠す気が全くないらしい美夏子は頭の後ろで両手を組んだまま朗らかに嘯くと、撫子の肩越しに新参の二人を見遣った。

「ね? 説明してくれる?」

「ええ。 実は昨日、美咲さんと別れた後、銀色の泥のような化け物と遭遇しまして」

「ええっ!? 」

 さらっととんでもないことを口にした鼓獅子 郁に驚いて撫子は振り向いた。

「いきなり人間の形になって殴りかかられたんですけども、まあ、たいした相手ではありませんでした」

「……は?」

 郁の言っている意味が分からずに間抜けに問い返すが、郁はからっとした笑顔でさらりと続けた。

「ええ。返り討ちにしましたから、ボクには別状はありませんよ」

「郁ちゃんチはね、古流武術の道場やってるんよ。代々続く古いお家なんだって!」

「……………………」

 にっこりと付け足した美夏子を見返すが、撫子は二の句が継げない。

「ワシも会うたぞ」

 郁の隣に座る大男・蛮殻 慎一郎が続いた。

「何日か前や。いきなり目ぇの前に沸いて出てきよったんで、思いっきりドツいてやったら、呆気のう退散しよったきに」

「……ねえ。私とかぐや、いらなくない?」

「落ち着いてナデシコ。追い払っただけ。やっつけてない」

 顔に暗い影を落としてジト目で言う撫子の肩を美夏子が掴んで宥めた。

「それと、昨日は悪かったなも」

「え?」

 やおら蛮殻が巨大な体躯を丸めて頭を下げた。

「昨日おみゃあさんに声かけたんは、実は色恋とは全然別のハナシやったんて」

「ナデシコに聞きたいことがあったんだよね?」

 付け足した美夏子が、撫子の手を引いてテーブルに戻る。

 どうやら、美夏子と新参の二人との間では既にある程度話を済ましているらしい。

「……でも、昨日は黒穴高校がどうとか……」

「んにゃ。全部説明する」

 美夏子の陰に隠れて問う撫子に、蛮殻はキャッチャーミットのような大きな手のひらをかざして続けた。

「なにしろこんなナリやから、よおケンカとか絡まれるんや。ワシゃあ別にケンカが好きちゅうワケとちゃうが、まあ適当に相手しとったら、いつの間にかクロコーの総番に担ぎ上げられとった」

 蛮殻は腕を組んで厳かに語る。

「昨日ワシの横にいたんは、ただの腐れ縁や。どうか気にせんでやっといてなも。 まあそれはともかく、血の気の多い野郎共はともかくバケモンちゅうのは初めての相手やったさかいに、追い返したんはええがどうしたもんか困っとった。 そこで、おみゃあさんの事を思い出した」

 蛮殻の鋭い目に睨まれて撫子は美夏子の背中に引っ込んだ。

「いやいやナデシコさん。蛮殻くん優しい人だから大丈夫だよ?」

「で、でも……」

 そうは言われても、まるで世紀末覇者のような顔つきなのである。人間不信の撫子には荷が勝ち過ぎる。

「ははは。まあ、時間をかけて慣れていくしかありませんよね。蛮殻さんも」

「え?」

 朗らかな郁の言葉に美夏子の背からそうっと覗き込んでみると、あろうことか蛮殻が椅子に腰掛けた姿勢のまま白目を剥いて灰化していた。

「蛮殻くんねえ、こう見えてメンタルがもの凄く弱くてね。 まあほら、見かけによらないのは誰しも一緒だし?」

 そう言えば、昨日も撫子のお断りのひとことで蛮殻はノックダウンしていた。

 先の蛮殻の眼差しも、本人にとってはただ撫子を見ただけのことである。それなのに萎縮されて心外に感じたのだ。

「あ、あの、ごめんなさい!? 」

「……い、いや、気にせんでええ。ワシが悪いんや」

 巨大な片手でこめかみを掴んで頭を振る蛮殻が空いた手を振って応えた。

「色々と謎を抱えちょるおみゃあさんに、腹にモノ抱えとる者の心の持ちようを相談しようとしたんけど、ウチの阿呆どもが勝手に盛り上がりよって告白ゆう流れになりよった。まあこっちにも色々あって昨日はああせざるを得なかったんや」

「……ええと、ボク、謝ったほうがいいですか?」

 話の途中で郁が青い顔で問いかけた。

 撫子が絡まれていると見て蛮殻の手下を叩きのめしたのは、郁だ。

 つまり、結果的に勘違いであったわけだが。

「んにゃ、気にすんなも。あいつらの自業自得だで。 とにかく、そんなワケでおみゃあさんに接触したかったんや」

「で、昨日のナデシコのハナシ聞いて、ピンと来たわたしが二人を連れてきたのさ。 なにしろ二人とも、ナデシコと同じくらい目立つ有名人だからねー」

「……なにそれ」

 美夏子の「有名人」という言い種に少しだけむっとしたが、新参の二人を見てすぐに得心した。

「ふふ。美咲さん、分かりますよ? それは何か失礼なこと考えてる目ですね?」

「ごごごめんなさい!? 」

 郁の朗らかな指摘に図星を突かれた撫子は血相を変えて謝った。

「あはは。冗談ですよ」

「へ?」

思わぬ郁の言葉に、撫子はきょとんと顔を上げた。

「うん。やっぱりおもしろい人ですね、美咲さんは」

「ごめんねえ。ナデシコは、あんまりからかわれるのに慣れてないから」

 思いがけない感想を述べる郁の前で呆然とする撫子の肩に、美夏子が後ろから両手を置いた。

「ええ、大丈夫です。心得てますよ」

 からっとした笑みで首肯する郁と、置物のように腕組みして座る蛮殻を、撫子は不思議そうに見回した。

 

 なんだろう。この空気は。

 明らかに教室にいる時とは違う初めての感覚に撫子は戸惑った。

 複数の人間と同じ部屋にいて、疎外感が全くないことに気がついたのだ。

 今の郁の評価も、他の人間が言ったなら、ただの嘲笑の言葉と取っただろう。

 だが、郁からは一切悪意を感じ取れないのだ。

 美夏子と二人きりの時は全く気にしていなかったが、人数が増えたことで美夏子との不思議な関係性にも改めて気付いた。

 一緒にいてくれるという、ただそれだけの、でもとても大切な関係。

(……こんなの、初めて……)

 四人と一匹のこの奇妙な集会に、撫子は不思議な心地良さを感じていた。

 

「……ところで、さっきから気になってたんですけど、そちらの猫は、ここで飼ってるんですか?」

 言って、郁がテーブルの上にちんまりと座るかぐやを指さした。

「うん! この子は「かぐや」! ナデシコのお友達だよ!」

 美夏子がテーブルを回り込んで、かぐやの背後で手を振って紹介する。

「ふっふっふ。なにを隠そう、この子こそが我がミステリー研究会最高の謎なのよさ! ねっ!」

 ハイテンションでまるで我が事のように宣った美夏子が、かぐやの頭にぽんと手を乗せて撫で回した。

「……んん!? 」

「おっ!? 」

 その異常に気付いた撫子と同時に、美夏子もそれに気付いて目を丸くした。

 あれほど撫子以外の人間の接触を嫌がっていたかぐやが、美夏子の手を避けなかったのだ。

「おおー!? ようやくわたしのことも受け入れてくれたんだね嬉しい~!」

 たちまちかぐやを抱き上げて頬ずりし始める。

「……え……どうして……」

 撫子は呆然としていた。

 郁と蛮殻はきょとんとするばかりだ。

「あのー。 じゃあ今まであんまり懐かれてなかったんですか?」

「まあねー。でもわたしもこの子と会って2~3日だし」

 嬉しそうにかぐやを抱く美夏子に問いかけた郁の顔が、瞳を輝かせて頬を上気させ、ところどころをひくひくさせていた。

「……ああ。やっぱり我慢できません。ボクにも抱かせてください」

「いいよー。今ならイケルかも」

 郁が、今までの精悍なイメージとは真逆の緩んだ笑顔で美夏子が差し出すかぐやに手を伸ばすが、手が触れる寸前で身を捩ったかぐやはその手から逃れ、飛び降りた床を駆け抜けて撫子の肩まで駆け上がってしまった。

「ありゃー。やっぱ慣れなのかなー」

「ああ……」

 なんとも切なそうな落胆の表情でかぐやを見つめる郁のあまりのギャップに、撫子はつい軽く吹いてしまった。

「あ。美咲さん、笑いましたね?」

「あ、ご、ごめんなさい!? 」

 反射的に謝るが、郁の顔は先刻と同様の穏やかな微笑みのままだった。

「美咲さん。冗談ですよ?」

「あ……」

 郁の方から歩み寄ろうとしてくれているのに、自分がこのままでは駄目ではないか。

 撫子は思わず頭を抱えた。

「あわ、あわわ……!? 」

「あはは。 すぐにとは言いませんけど、できればこういう時は、笑ってくれると嬉しいです」

 元の椅子に戻って腰掛けた郁が、そう言って撫子に微笑みかけた。

「あ、その、 ……うん」

「んじゃ、そろそろ出掛けようか!」

 そんな撫子を優しげな瞳で見つめていた美夏子が、やおら腕時計を見下ろして宣告した。

「え? どこに?」

「宇目木センセの、お見舞いに!」

 びしりと立てた指先の向こうで、美夏子がにやりと笑みを浮かべた。

 

 

 昴星高校から昴星(ぼうせい)中央総合病院までは、バスに乗るよりも徒歩で行ったほうが、実は早い。

 駅から出る路線バスでは、学校と病院とは別方面の経路になっており、学校前のバス停からバスに乗ろうものなら駅とも病院とも反対側の方面に流されて非常に遠回りになるからだ。

 ぞろぞろ歩く四人の人間の足下を、小さい銀毛の仔猫がちまちまと小さい足を動かしてついてゆく。

「……っていうことがあってね」

「はあ」

「むう」

 病院へと歩く道すがら、美夏子が語った昨日の怪異、「入院しているはずの宇目木先生が部室に現れた」という怪奇現象に、郁と蛮殻は、撫子らとは異なる反応を示した。

「ね!怖くない!? 怖いでしょ?」

「……怪我の程度が分かりませんからね。 検査結果によっては数日の入院で済むくらいなら、普通に歩いて来れそうですし……」

「にしても、嘘吐く意味が分からんの。いい大人が、職員室にも顔出さんと生徒の溜まり場にわざわざ来るんも意味わからんし」

 と、二人そろって至って現実的な見地からの疑問を提示して首を傾げてみせた。

「ああ。そっか。 そうだよね」

「ええー!? そんなのつまんなーい!」

 心底納得した撫子の横で、美夏子が全身を振り回して喚いた。

「幽体離脱のほうがロマンがいっぱーい」

「あのー。それだと、宇目木先生が今際のきわってことになっちゃいますし、もし生き霊を飛ばすくらいの重態になったら、各方面に連絡が行くはずですから」

「そうだよ。それに、容態を誤魔化してまで一人で動き回っていた宇目木先生が、何かを企んでるかもしれないってのも、ミステリー向きじゃない?」

「それだッ!」

 郁に継いで適当にでっち上げた撫子の妄想話に、美夏子が燃える瞳で喰らいついた。

「あのむっつり、澄ました顔して裏稼業に手を染めているのねきっと!」

「……宇目木先生に何か恨みでもあるの……?」

 ひとり燃え上がる美夏子から身を退いて撫子は青い顔で呟いた。

「まあ本人のいにゃあところでいい大人にいらん冤罪塗ったくっとってもしゃあないやろ。聞きゃあ済むんやし」

「ええいロマンもへったくれもない! ミステリー研究会としての誇りはないの!? 」

「さっき引っ張ってこられたばっかやっちゅうに」

 口をへの字にして呻く蛮殻に伸び上がって噛みつく美夏子の遣り取りに、撫子は見合った郁と共に思わず吹き出した。

 

 楽しい。

 こうして誰かとおしゃべりしながら歩くなど、撫子は初めての体験だ。

 胸の内で猜疑心がたびたび首をもたげるが、その都度美夏子に、郁に頑なな心を解されるのだ。

(……ああ。 いいなあ。こういうの)

 しみじみと、暖かな時間に感動する。

 だがそれは突如現れた銀色の異形によって呆気なく吹き散らされてしまった。

 

 道路脇の側溝から壁に沿って勢い良く噴き上がった鈍色の泥が、大きな弧を描いて撫子たちの進路上に撒き散らされた。

 それは、一カ所に寄り集まって縦に伸び上がると、迅速に人型を成して身構えた。

「いひゃあああああ!? やっぱ出たあああああ!? 」

「で、でも、私たちが見たのと違う!? 」

 赤銅色をしたその異形は、撫子が初めて遭ったものと違い、膨れ上がった上半身など全体的にマッシブでより人間に近い形をしており、その挙動はあの青銅色の泥人形と比べるべくもなく流暢で非常に人間臭い。

 恐怖に竦み上がる撫子と美夏子の前に、郁と蛮殻が回り込んで立ちはだかった。

「下がってください。 多分、ボクが昨日見たやつです」

「ふん。ワシが見たんも似たようなやっちゃぞ」

「ええっ!? 」

 庇うように手をかざして言う郁と蛮殻に、撫子は喫驚の声をあげた。

 やはり、化け物は一匹だけではなかったのだ。

「ど、どどどどうしよう!? 」

「ななななに言ってるのナデシコ! いいい今こそ」

「おみゃーらは早う逃げとけ! ワシに任しゃあせ! 変身!」

 言って前に進み出た蛮殻が続いて叫びながら襟を掴んだ上着を引きはがすと、いったいどこをどうしたのか、上着が翻った後に現れた蛮殻の姿はなぜか昨日撫子が見た黒い昭和の番長スタイルに変わっていた。

「は?」

「ぬおおおりゃあああああ!」

 気合いの咆哮と共に怒濤の突進を見せた蛮殻は、迅速に化け物の目前に飛び込むとその岩塊のような拳を振り上げた。

「せいやああああああ!」

 まるで隕石のような凄まじい拳が圧倒的な勢いで化け物に殺到する。

 触れる何もかもを巻き込んで爆砕せんとするその拳はだが空を切り、迅速に身を翻した化け物の手によって腕を取られバランスを崩された蛮殻の黒い巨体が飛び出した時と同じ勢いでこちらに吹き飛んできた。

「どおおおおお!? 」

「わあああああ!? 」

 迫る巨体に撫子と美夏子がそろって悲鳴をあげるが、手前にいた郁が滑るように前進すると、素早く半身に構え、飛んできた背中に手を添えるとくるりと回転し、どこをどうしたのか、手首を捕まれた状態で蛮殻が郁の横に着地した。

「大丈夫ですか!? 」

「おう! あんがとさん!」

 体勢を立て直した蛮殻と郁が、改めて化け物に対峙する。

 撫子は、改めて見せられた郁の武道の動きに唖然としていた。

 確かにこれなら、化け物にも充分に対抗できるのだろう。

「それにしても妙ですね。 なんで化け物が鼓獅子流を身につけているんでしょう?」

「え? ちょっと郁ちゃん? それどういう意味?」

 聞き咎めた美夏子が郁に問いかける。

 撫子には、話の意味がさっぱり分からず首を傾げた。

「ええ。あの化け物の今の動き。間違いなくウチの鼓獅子流の動きなんです」

「はあああ!? 」

「とりあえず、お手並み拝見といきましょうか」

 言って滑るように駆け出した郁が、化け物に肉迫した。

 互いに左半身を前にしたそっくりな構えで化け物と郁が交錯する。

 郁が突き出した拳が化け物の片手に絡め取られるや否や関節を極められる寸前に自ら腕を曲げて逃れた郁が化け物の横に回り込む。

 逆方向に回転した化け物の身体の陰から飛んできた肘打ちをブロックした郁がその肘を捕らえるより早く化け物の上体が回転して逆方向からまた肘が襲う。

 身を屈めて肘打ちをいなした郁が化け物に身体を密着させ、化け物の足裏に己の足を当て、上体を起きあがらせる動作で化け物の体勢を崩しにかかる。

 ところが化け物は流れに逆らわずに自ら仰け反るとバク転の要領で郁の拘束から逃れた。

 撫子の目からすれば、複雑に絡まり合ったと見るやすぐさま弾かれたように互いに後退した両者の動きはまったく理解を越えるものだった。

「あ、あの、今の話って、どういうこと?」

「……あの化け物、郁ちゃんチで習わないとできないはずの武術を身につけてんのよ。なんでかは知んないけど」

 青い顔で語る美夏子の言葉も、今の一瞬の交錯を説明するには足らない内容だった。

「後ろや!」

「えっ!? 」

 突如撫子らの背後に回り込んだ蛮殻の怒声に振り返ると、あろうことか鈍色の泥が後方の側溝からも這い出しており、撫子らが来た道を塞いでしまった。

 その泥が迅速に立ち上がり、見覚えのある苦悩するような縦皺を顔に深く刻んだあの最初の化け物となった。

『ーーーーーッ!』

「ぬううっ!? 」

「わあああああ!? 」

 青銅色の泥人形が突如放った絶叫に、三人は思わず耳を塞いだ。

 鼓膜が破れるかと思うほどの轟音だった。これまでと違い激痛を伴うほどの大音量の絶叫を放った青銅色の泥人形が、もたもたとした挙動ながらこちらに迫ってきた。

「ぬううなんぼのもんじゃあい!」

 絶叫が途切れた所で耳から手を離した蛮殻が駆け出すのと同時に、美夏子が撫子の肩を揺さぶった。

「ナデシコ! お願い! 今のうちに!? 」

「……っ!? 」

 一瞬だけ躊躇する。

 だが状況の悪さは言われなくても分かっている。

 赤銅色の、なぜか武術を使う化け物は郁と拮抗しており、蛮殻に呆気なく殴り倒された青い泥人形も、あの絶叫を目の前で放たれては蛮殻の身も危険だ。

「……かぐや!」

 撫子の決然とした呼びかけに、かぐやがふいと撫子の顔を見上げた。

「お願い!」

 その言葉と同時にかぐやは撫子の身体を駆け上がり、腰のところで一周すると閃光を放って昨日と同じ、天球儀めいたベルトとなって撫子の腹を取り巻いた。

 昨日までとは違う、撫子自らの意思にかぐやが的確に応えた初めての変移シークエンスである。

 けれど、撫子ももう不思議にも思わなかった。かぐやは応えてくれるだろうという確かな直感があったから。

「……!」

 ふと先刻の蛮殻の奇矯な所業を思い出した撫子は、一瞬だけ美夏子を振り返ると前を向いて身構えた。

「へ?」

 美夏子の頓狂な声に頬が熱くなるが極力無視するよう努め、右の拳を腰にあて、同様に拳を握った左腕を曲げて胸の前に、身を捻って気取った仕草でポーズを取った撫子は気合いと共にそれを告げた。

 

「変身!」

 

 叫び、両手を左右に振り切った。

 振り払ったその途上で左手がベルトの上から突き出したナイフスイッチを押し倒す。

 月の灯りを思わせる、神秘的で荘厳な協和音が鳴り響き、撫子の身体を天球儀めいた幾重もの円環のヴィジョンが取り巻いた。

 その変化に赤銅色の化け物が狼狽えるように身じろぎし、異変に気付いた郁と蛮殻がそれぞれ撫子を振り向いた。

「え?」

「なんじゃあ!? 」

 複雑に多軸回転する円環のヴィジョンの中、撫子の身体を、ベルトの縁から上下に流れるように広がった白銀のヴェールが包んでゆく。

 やがて全身を覆い隠した銀の幕は中身にぴっちりと密着するように収縮して女性らしいボディラインを描いた。

 変化はそこで止まらず、肩が、前腕が、臑の部分が隆起すると、頑丈そうな紡錘形のプロテクターを形成して固着した。

 上体も部分的に盛り上がり、滑らかな曲線で構成された胸郭へと変化する。襟元に二重の線がアーチを描くセーラー服のような鎧だ。

 そして頭の両側頭部からも突起が生まれ、迅速に中を窪ませて鋭角に形を変えたそれは、まるで猫の耳のようだった。

 やがて変化が完了した撫子だったものは、まるで猫耳を生やした銀の装甲服とでも呼ぶべきものへとその姿を変えていた。

 両目にあたる位置にある巨大なイエローのセンサーアイがきらりと閃いた。

『うーーー!』

 やおら撫子だったものは両腕を眼前にそろえて身を丸めると、続いてその両腕を左右に大きく広げて仰け反った。

『なーーーーーーー!』

 まるで己の登場を世界に宣言するかのように元気な声を張り上げた撫子だったものは、ぴょんと小さく跳ねると前に飛び出した。

『なーーー!』

「うお!? 」

 蛮殻の脇をかすめた撫子が、大上段から思いっきり振りおろした両手を組んだハンマーパンチで青銅色の泥人形を殴り飛ばした。

『なーーー!』

『ーーーーーッ!』

 派手に転がって起きあがった泥人形が再び絶叫を放つも、美夏子と蛮殻は苦悶の顔で耳を塞いだが、撫子は丸っきり無視して泥人形を殴り倒した。

「な、なんやありゃあ!? 」

「あれが、我がミステリー研究会の最大の謎にして秘密兵器!」

 入れ違いで後退してきた蛮殻の腕を引きずって、美夏子が強気の笑顔で宣言した。

「その名も、「仮面ライダー かぐや」だよ!」

「か、かめんらいだあ!? 」

 蛮殻が、口をあんぐりと開けた。

『うっ?』

 軽快に泥人形を殴り倒していた撫子が、それを聞くなりくるりっ、と上体だけ振り返って指先を突きつけた。

『なーーーー!』

 そして両腕で大きな丸を作ると片足を後ろに跳ね上げて踊り回る。

 どうやら美夏子が即興ででっち上げたネーミングを気に入ったらしい。

『なーーーー!』

 そして再び両手を組んだ拳で泥人形を殴打する作業に戻る。

「初瀬蟹! こっちや!」

 変身した撫子──「仮面ライダー かぐや」が化け物を押し遣った隙を突いて、蛮殻が美夏子の手首を掴んで引っ張った。

 僅かに拓かれた道に美夏子の肩を押し遣る。

「行け! 今のうちや!」

「蛮殻くんは!? 」

 問い返す美夏子に背を向けて蛮殻は駆け出していった。

「美咲はなんやなんとかなりそうやけど、鼓獅子はそうは行かんやろ!? 」

 見れば、赤銅色の化け物と郁の流れるような動きの武術の技の応酬は、拮抗しているようだった。

 ただ、それが故に郁は化け物を倒すこともできず、離脱することもできないでいる。

「なんや同じ技使うても、二対一ならなんとかなるやろ!」

「蛮殻くん!」

 行って突撃してゆく蛮殻を呼ぶも、美夏子も自分が足手まといであることは承知している。

 自分の立場に煩悶としながらも、美夏子は戦場から離れる方向に駆け出した。

「うおおおおお!」

 罵声を上げて蛮殻が突進してゆく。

「!」

 一瞬だけ目を向けた郁が、蛮殻の接近に気付いて逸らしかけた化け物の腕を反対側に流して足場を踏み換え、化け物の背中が蛮殻に向くよう誘導した。

 ところがそれは化け物に体勢を立て直す隙を与えてしまい、逸らしたはずの化け物の腕が拳を握って引き絞られた。

「っ!? 」

 そこから予想される自らの流派の動きを脳裏で列挙し、刹那の中で自らが取るべき動きの全てを思い描いて態勢を整える。

 だが、続いて化け物が取った動作は郁の予想のどれとも異なるものだった。

『ーーーーーーッ!』

 赤銅色の奇声と共に、真っ向の正拳突きが郁を襲った。

「っっ!? 」

 辛うじてブロックが間に合った腕ごと吹き飛ばされた郁は、予想外の出来事に混乱していた。

 鼓獅子流に、そんな動きは存在しない。捨て身の一撃のような化け物のそれは、まるで空手かなにかのような動きだった。

 それを見て目を剥いたのは、蛮殻も同様だった。

「なにっ!? 」

 蛮殻には古流武術など難しいことは分からない。

 ただその単純明快な一撃には見覚えがあった。

 他ならぬ蛮殻自身の自慢の一撃にそっくりだったから。

「おおおおおお!? 」

 それは一瞬の交錯。駆ける蛮殻の足は急には止まれない。

 既に蛮殻と化け物は肉迫している。あとは引き絞った拳を打ち込むだけ。

 だが相対する化け物はもう蛮殻の懐に入り込んでおり、打点をずらされた蛮殻の拳は効果的な威力を発揮しない。

「っどおおおお!? 」

 伸びきった腕を弾かれ化け物がぐるりと腕を振ったかに見えた時には蛮殻の巨体は呆気なく投げ飛ばされていた。

「おうわっ!? 」

「ひゃあっ!? 」

 たたらを踏んでいた郁に黒の巨体が激突し、二人もろとも絡み合うようにして激しく転倒した。

「うそ……!? 」

 その様子は、離れた位置で見ていたことで美夏子にも辛うじて把握することができた。

 今のはさすがに理解できた。あの赤銅色の化け物は、どういう訳か郁の武術と蛮殻のケンカ殺法の両方を完璧に真似ている。

「郁ちゃん!? 蛮殻くん!? 」

 思わず叫んだ。

 だがアスファルトの上で派手に転倒した二人はなかなか起きあがらない。

 そうこうしているうちに、赤銅色の化け物はだが、転がっている人間二人からあっさりと顔を逸らして青銅色の泥人形を滅多打ちにしている「かぐや」へと駆け出した。

「ナデシコっ!? 」

 先手を打たれて郁の相手をしていたが、どうやら赤銅色の化け物の目的はかぐやらしい。

 状況は悪化の一途だ。これでは「かぐや」は一対二になってしまう。

 逃げなければならない。郁と蛮殻を助けなければならない。撫子を放ってはおけない。

 でも、なにもできない。

 成すべき事項に対して圧倒的に自分の能力が足りてない現状に美夏子が悲嘆しているうちに、とうとう赤銅色の化け物が「かぐや」の背後に肉迫した。

「ナデシコ! 後ろ!」

『なーー!』

 「かぐや」は迅速に反応した。

 美夏子の声に応えるや否や、まるで背中に目がついているかのようにろくに背後も見ずに宙返りすると赤銅色の化け物の拳を躱した。

 そして伸びきった赤銅色の化け物の腕に絡みつくかのように抱き竦めて着地すると、するすると化け物の背中に回り込んで化け物の重心を崩し、脇をすり抜ける動作で化け物をアスファルトに叩きつけた。

『なーーーー!』

「え……!? 」

 それを見た美夏子は呆然とした。

 今そこで喝采をあげる「かぐや」が見せた動作は、これまで両手を組んだハンマーパンチしかしなかった「かぐや」が初めて見せた、全く異なる動作だったから。

 それが、郁と同じ武術の動きだったから。

「……なん、で……?」

 

 

(楽しい……!)

 撫子の意識は、膨大に渦巻く歓喜の感情の中で爆発的な幸福感に満たされていた。

 楽しくて仕方がない。

 なにかがどうかはさて置いて、楽しくて楽しくてたまらない。

(ああ。こんなに楽しいのに)

 なぜここにみんなはいないのだろう。

 みんなはどこにいるのだろう。

(私はここにいる! ここにいるよ!)

 どんなに探しても見つからない。

 こんな時どうするか。

 それは、今日、美夏子が教えてくれた。

 見つからないなら、呼べばいい。呼んで、連れてくればいい。

 だから撫子は、そうした。

 

 

『うーーー!』

 赤銅色の化け物を投げ倒した「かぐや」が突如両腕を眼前にそろえて身を丸めた。

『なーーーーーーー!』

 続いてその両腕を左右に大きく広げて仰け反って、これまでのなによりも力いっぱい高く大きく叫んだ。

 脈絡のない「かぐや」の絶叫に美夏子が何かを思うよりも早くその変化は現れた。

 

 ざうっ。

 

 どこからともなく、まるで周囲の景色が爆発するかのように膨大な光の粒が噴き出した。

 さながら蛍の群れか、輝く吹雪だ。

 それどころではない程の光の粒の洪水にこの路地一帯が一瞬にして満たされたのだ。

「……なに……これ……」

 美夏子が呆然と呟いた。こんな現象は今まで見たことがない。

『なーーーー!』

 大喜びするようにぴょんと跳ねた「かぐや」が、すぐそばの最も光の粒が密集している場所にお辞儀するように頭を突っ込んだ。

 周囲を埋め尽くすこれらは、コズミックエナジー。 それも、「かぐや」のテンションの高ぶりに呼応して連鎖的に波動が増幅されたことでただの人間にも視認できるようになった状態だ。

 「かぐや」はそれを、両側頭部から生やしたネコミミのような形状の部位・エナジーインテークで掻き採るようにして取り込んでゆく。

 身を翻して伸び上がり、再び顔を振り下ろす。

 まるで踊るように頭を振る途上で次々とコズミックエナジーがエナジーインテークに流入していった。

 やがて「かぐや」のベルトに変化が現れた。

 天球儀のようなバックルの中央に設置された白銀の球体「セレスティアルドライブ」が黄金の輝きを放ち始める。

 「かぐや」の右手が天球儀のフレームを僅かに回転させると、球を取り巻く幾重もの円環のフレームが複雑に連動して回転し、中央の「セレスティアルドライブ」の輝きが球面の上で左に引き絞られてやがてそれは三日月の形となった。

 そこで「かぐや」の右手がベルトバックルの下端に張り出したアーチ状のエンターレバーを下に弾いた。

《く・れっせん・と♪》

 突如バックルから奇妙なイントネーションの声がすると「かぐや」の横に輝きが吸い寄せられるように凝縮して何事かの形を成した。

 そこに現れたのは、「かぐや」自身の身長を越えようかというほどに大きな三日月。

 その「かぐや」のセレーネモジュール「クレッセントサイズ」に片手をかざして大きく腕を振ると、クレッセントサイズは触れられてもいないのに「かぐや」の手振りに沿って宙を舞い「かぐや」の周囲を迅速に旋回した。

『なーーーー!』

 一声上げての手振りの一閃に従って飛翔した鋭利な三日月が、体勢を立て直した赤銅色の化け物を横に撫で斬り、背後にいた青銅色の泥人形をも打ち倒した。

『なーーーー!』

 さらに踊るように振り回した「かぐや」の腕に、足の動きにすら追従して縦横無尽に飛び回るクレッセントサイズが、前後に立つ化け物どもを滅多打ちにしてゆく。

「す、すごいですね美咲さんは」

「……いや、わたしも初めて見たよこんなの」

 蛮殻に肩を貸して傍らまでやって来た郁に、美夏子が呆然としたまま応えた。

「それにこの光。さっきの声で美咲さんが呼んだんですか?」

「……たぶん」

 そうとしか考えられない。

 そしてつまりこれは。

「これが、ナデシコが見てた光……コズミックエナジー?」

 美夏子は、ようやくそれを理解した。

『うなーーーー!』

 前後を挟まれながらも、謎の能力で圧倒的有利に化け物へ攻撃していた「かぐや」がひときわ高く声を上げた。

 今も周囲を浮遊している光の洪水の一方に頭から突っ込みエナジーインテークにコズミックエナジーを取り込むと、「かぐや」はベルトバックル上端のナイフスイッチを引き起こして再び倒し込んだ。

『りみっと、ぶれいくっ!』

 今度は、撫子の声で叫んだ。

 ベルトバックルの中央から爆発的な輝きが噴き出し、同期してクレッセントサイズも輝きを増してその全長を大きく伸ばした。

 膨大なエネルギーの流動の影響を受け、周囲を浮遊するコズミックエナジーが、風に煽られたかのようにその流れを変える。

 まるで台風のように激しく渦を巻くコズミックエナジーの中心で身構えた「かぐや」が両腕を振り上げ上空に旋回したクレッセントサイズと共に跳躍すると、流星の勢いで振り下ろされた三日月が凄まじい斬撃となって周囲を迅速に一周し、全方位に白さで何も見えなくなる程の閃光を解き放った。

「うわひゃー!? 」

 とっさに両腕で顔を覆う美夏子たち。

 その中で辛うじて耳に聞こえてきた断末魔と爆発音は、ひとつだけだった。

 

 脱力したように膝を落とした青銅色の泥人形が、前に突っ伏すよりも早く液状に崩れ落ち、たちまち揮発するようにして消えてしまった。

『うーーなっ!』

 たたっ、と着地した両足をステップを踏むように踏み変えて「かぐや」が拳を突き上げた。

 途端に閃光に包まれて元の制服姿の撫子に戻り、足下に銀毛の仔猫が着地する。

 同時に、辺り一帯を満たしていたコズミックエナジーの洪水も、呆気なく光を薄れさせて見えなくなってしまった。

「いーよっしゃー! やったーやったったー!」

 そして今までの学校での澄まし顔など見る影もない満面の笑顔で喝采を上げた撫子は、たちまち沈没するように崩折れてうずくまり頭を抱えて丸くなるとそのまま動かなくなった。

「……」

「…………」

 事の異常に、あるいは派手な活躍に呆然とする美夏子、郁と、蛮殻。

 先ほどまでの怪奇現象の数々がまるでなかったかのような静寂に、しばし辺りが支配される。

 遠くでバイクの音がする。

 うずくまった撫子は、そのままぴくりとも動かない。

 何かいたたまれない空気の中、やがて唯一事情を知る美夏子が恐るおそる撫子に近付いていった。

「……あのー。なでしこさーん……」

「……」

 道路の真ん中でうずくまる撫子からの返事は、ない。

 いや、よく耳を澄ますと、撫子の辺りからなにやらぼそぼそとした音が聞こえてきた。

「……いやよ違うのこんなの私じゃなくてかぐやのせいなんだから別に私はあんなの全然楽しくないしそりゃみんなは守りたかったけどこうもうちょっとせめて格好よくいやそうじゃなくて私なんだけど私じゃないっていうかもう恥ずかしくて死にそういっそ私も泥みたいに溶けて消えてなくなりたいしああ恥ずかしいううあうあうああああ」

「…………」

 耳に掌を添えて聞いていた美夏子はそっと後ろを振り返り、二人に痛ましげな顔で胸元で十字を切るジェスチャーをして見せると、事態を察してうなずいた蛮殻、郁とともに、もう危険のなくなった道路の脇に寄ってさめざめと泣き暮れる撫子の様子を離れた場所からしばらくそっと見守ることにした。

 

 




 今回のサブタイトルは「いびょうてんよく」と読みます。
 本来は「為虎添翼」という言葉で、「虎に翼を授けるがごとく、強者にさらに勢いをつけること」の意。
 なんだかんだで敵の新たな脅威に対してパワーアップ(プラマイゼロ・若干マイナス?)を果たした撫子とかぐやを示すものでした。


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第6話 雲・心・月・性

「あ。戻ってきた」

 手首に包帯を巻いて頬に絆創膏を貼り付けた蛮殻が郁に付き添われて戻ってきたのに気付いて、美夏子が覗き込んでいたスマートフォンから顔を上げた。

「どうだった?」

「どうもこうもあらせん」

 昴星中央総合病院のロビーの最も奥の片隅のベンチに腰掛けてている美夏子の元へやって来るなり蛮殻は憮然とした顔で呻いた。

「こんなんカスリ傷や。いちいち医者に診せる程のモンでもにゃあて」

「そうは言っても、どこか内部に深刻な怪我を負っていたら、事ですから」

 包帯を巻かれた片手をためつすがめつする蛮殻に、郁が生真面目に言い諭す。

 化け物相手に大立ち回りを演じ、アスファルトの上に投げ飛ばされたのだ。受け身の心得のある郁はともかく、派手に転がされていた蛮殻はあちこちに軽傷を負っていた。

 せっかく目的地が病院なのだから、大事をとってと郁に無理矢理受診させられたのだった。

 ちなみに蛮殻の今の服装は、いつの間に着替えたのかベージュの詰め襟、昴星高校の制服姿に戻っている。

「……んで。 美咲はまだ沈没しちょるんきゃも?」

「あはは。うんまだ」

 言って蛮殻が見下ろした美夏子の隣では、ベンチに腰掛けたままの撫子が頭を抱えてうずくまり、なにやらぶつぶつと繰り返していた。

 自ら進んでやった事とはいえ、皆の前で自己の本性をさらけ出すかぐやとの変身を実行し、かつこれまでにないハイテンションの体を晒したことで深刻な羞恥の念に苛まれることになったのだ。

 先の化け物と遭遇した現場からここまで連れてくるのも一苦労な有様だった。

 おかげで、蛮殻の診察待ちもあり、当初の目的である宇目木先生の見舞いにも行けていない。

「ナデシコー? ほら、元気出して? 誰も、変に思ってたりしないよ?」

 隣の撫子の肩を叩いて励ますが、撫子からの反応はない。

「そんなに何かまずかったですか? 変身した美咲さんは格好良かったと思いますけど」

「郁ちゃん!? 」

 しいー、と慌てて美夏子が口元に指先を立て、郁もはっとした顔で口を覆った。

「変身ちゅうのはな」

 突如、蛮殻が厳かに語り出した。

「強い自分に変わる為の、言うんなら”儀式”っちゅうか、気合みたいなもんや」

 うつむいた撫子は相変わらず反応しないが、蛮殻は構わず続けた。

「女も、気分で化粧したり、出で立ち変えたりするやろ。まあきっかけは何だってええ。要は、「そうしよう」っちゅう心意気や」

 ぴくり、と。撫子の肩が震えた。

「あん銀色のは、確かに強かった。おみゃあさんは、わしらを守ろうとしてアレやってくれたんやろ? 後で落ち込むんが分かっててあん謎の力使うたんやろ? 後がきつうなるんが分かってて、それを実行できるんは、どえらげにゃあ凄い勇気だで」

「…………」

 おずおずと、撫子が頭を抱えていた手を離して顔を上げた。

「わしらは、おみゃあさんのその勇気を知っとるから、おみゃあさんの変身を笑うたりなんか絶対にさらせん。のう?」

「そうですよ」

 蛮殻の隣で、促された郁がうなずいた。

「…………」

 隣を見ると、美夏子も優しい笑顔でうなずいていた。

「……………………うん」

 ようやく、全身の緊張を解いた撫子がおずおずとうなずいた。

「ふふ。 そしたらさ。センセのお見舞いに行く前に、さっきの戦いでちょっと気になった点があるから、みんな聞いてくれる?」

 撫子の復調に笑顔になった美夏子がそう言って、スマートフォンとは別にタブレットPCを取り出した。

「さっきの、って、化け物のことですか?」

「まあね。 あ、それと、これからあの化け物のことは「ペルソル」って呼ぶから」

「「ぺるそる」?」

 三人が、めいめいのアクセントで繰り返し、首を傾げる。

 疑問符を浮かべる顔に囲まれながら美夏子はタブレットPCの画面に指先を滑らせて何事かを表示させ、くるりと皆に向けた。

「「ペルソナ」っていう言葉があってね。心理学の言葉で、簡単に言えばその人の外的側面、要は「上っ面の仮面」みたいな意味で」

 画面の、どこかの百科事典サイトの説明文を貼り付けたような部分を指先で示し、そのまま滑らせて表示内容をスクロールさせる。

「んで、かぐやとかあの化け物……多分あいつらもかぐやと同じ「SOLU」だと思うんだけど、その「SOLU」と「ペルソナ」を掛け合わせて「ペルソル」ね」

 言って現れた次の画面にも、美夏子が自分で作成したものか、いま言った言葉の組み合わせが大きな文字で解説されている。

「なんでかは、これから説明するね。かぐやと、あいつらの性質とか行動原理にも関わる話だから」

「……なにか分かったの?」

 再びタブレットPCを自分に向けてせかせかと操作し始めた美夏子に撫子がおずおずと問う。

「うん。まああくまでもわたしの推測なんだけど。 郁ちゃん」

「はい?」

 タブレットから顔も上げないまま問いかけた美夏子の声に郁が応える。

「あの赤っぽい化け物は、前に出くわした時、郁ちゃんちの武術で追っ払ったんだよね?」

「はい」

「蛮殻くんも、殴って追い払ってた」

「んにゃ」

 郁と蛮殻がめいめいうなずく。

「そして再び現れたあの赤っぽいあいつは、郁ちゃんと蛮殻くんの技を覚えて使ってきた。 多分あいつは、って言うかあの化け物たちは、自分たちが出会った相手の行動を真似る性質があるんじゃないかと思うの」

「そうなの?」

 撫子が、きょとんと問い返す。

「でも、私たちが初めて遭ったあの化け物は……?」

「前に、ネットで見つけた宇宙人遭遇の噂をナデシコに見せたことがあったでしょ。「いきなり目の前に現れて、出会い頭に悲鳴をあげたら逃げてった」って書き込み」

 覚えている。部室で美夏子に見せられた掲示板の内容だ。

「その人かどうかは分からないけど、多分あいつは、一番最初に会った人にいきなり悲鳴をあげられたんだと思うの。それでしょっちゅう悲鳴みたいな声を出したり、大声で攻撃してきた」

「……かぐやは?」

「きっと、最初に会ったのが仔猫だったんじゃないかな? 行動が反映されてるのかは、猫だと分かりづらいけど」

 そこで美夏子は操作を終えたのかタブレットから顔を上げた。

「で、そういった相手の動作をなぞる特性から、「仮面(ペルソナ)を被る「SOLU」」ってことで「ペルソル」ね。 見て」

 美夏子はタブレットをくるりと皆に向けた。

 そこには、非常にブレてはいるが、先刻遭遇した青銅色の泥人形と、赤銅色の化け物の画像が並んでいた。

 見覚えのある背景の色合いから、先の戦闘中に美夏子がスマートフォンで撮影したものだろう。

「僭越ながら、わたしが命名させてもらうね。 悲鳴を上げてた青いほうが「スクリームペルソル」。武術を使ってた赤いのが「ブドーペルソル」」

 写真の下に、美夏子の命名による名前が書き込まれていた。

「さっきの戦いで、ナデシコが変身した「かぐや」がやっつけたのは、こっちのスクリームペルソルだけだった。まぶしくてよく見えなかったけど、こっちの赤いブドーペルソルはうまいこと躱して逃げちゃったんだと思う」

「え……?」

 その時に理性を失っていた撫子には知る由もないことだった。

「……あの、私……」

「ナデシコのせいじゃないよ。ただ、またこいつが出てくるかもしれないから、みんな気を付けてね」

「はい」

「おう」

 郁が、蛮殻がめいめい返事した。

「……」

 慰められながらも自責を振り払いきれない撫子も、おずおずとうなずいた。

 ふと、目線を上げた撫子はそれに気付いて喫驚した。

「あ!?」

 声をあげた撫子に驚いた美夏子が、郁が、蛮殻が撫子が見上げた先を追って振り向いた。

「宇目木先生!?」

 続く言葉の意味を悟る。

 見ればこの広いロビーの向こう、上階に続くエスカレーターの先、二階を見通せる手摺りの向こうに、こちらを冷徹な双眸で見下ろす無表情が、宇目木の姿が見えた。

 それも、病院にいるにも関わらず、その姿は入院患者のそれではなく、いつも学校で見かけるスーツ姿の、上着の代わりに白衣を羽織った格好だった。

 その宇目木が、こちらが姿を認めたと分かったのか、身を翻して通路の奥へと消えていった。

「追うよっ!」

 美夏子の声に撫子も立ち上がり、一同はエスカレーターへ急いだ。

 

「うわ!? こっち下りだった!?」

 ところが、そこのステップが次々と下がってくるのを見て美夏子は慌てて方向転換する。

「こっちです!」

 行き先を見失った美夏子の袖を掴み、郁が登りエスカレーターの方角へと一同を導く。

「あれ? そう言えば、あの仔猫さんはどうしたんですか?」

 自動で登る速度も惜しみ、せかせかとステップを駆け登る途中で郁が問いかけた。

 病院に入る辺りで、負傷した蛮殻と落ち込む撫子の手助けをしている内に意識から抜け落ちていたのだが。

「大丈夫。かぐやなら、私の鞄の中にいるから」

「へ?」

「詳しい説明はあとでね! ちょっぴりドッキリな謎だから!」

 郁と撫子の遣り取りに、美夏子がステップを駆け上がりながら声をかけた。

「こっち!」

 今度は迷わずに、上がった二階の通路を回り込んで先ほど宇目木を見かけた場所へ駆け込む。

 ところが、そこには既にあの白衣の後ろ姿はなかった。

「探そう!」

「こっちに行ったように見えましたよ」

 他に宛はない。郁が指し示した通路へぞくぞくと駆け込んでゆく。

 この先は長い一本道だったが、突進してくる学生に驚いて仰け反る入院患者ばかりであの白衣の後ろ姿は見えない。

「走らないでー!」

「すみませーん」

 女性看護士の注意の声に、律儀に立ち止まりかけた撫子の背を押しながら美夏子が適当に返事する。

 やがて真っ直ぐ続く通路の途中に右への曲がり角が現れた。

「げ。どっちかな!?」

 前と右。どちらもまだ通路が長く延びている。

「あれ!」

 郁が指さした方向、右の通路を振り向くと、遠い先の曲がり角に吸い込まれるように消えてゆく白衣の裾らしきものが見えた。

「行こう!」

 美夏子の宣言に一同はその曲がり角へ駆け込む。

 患者や見舞い客を躱しながら通路を駆け抜けるたび、通路が分岐するたびにその白衣の裾は次々と先の通路へと消えてゆく。

 追いつきつつあるのか。

 それとも。

「あのう! なんか、誘われてません!?」

「ふん! もったいぶったやり口やな! ナマで見るんは初めてや!」

 郁と蛮殻の言葉に、撫子もその白衣の裾の動きに疑念を抱いた。

 曲がり角までの距離は一定ではないのに、撫子らがその通路に辿り着いたのを見計らったかのように、その裾は同じ消え方をしているのだ。

「うふふふふ、なんだかオラわくわくしてきたぞ!」

「ええといやもうあの気を付けてよ!?」

 目をぎらぎらさせて隣を走る美夏子に、事態の不気味さを楽観視できない撫子は一応つっこみを入れた。

 やがて人気のない一角に辿り着いた一同は、また白衣が消えた場所を見て怪訝に足を止めた。

「……ええと」

 さすがに美夏子が戸惑いの色を見せる。

 そこは上階へ向かう階段。

 そこには、黄色いロープが一本、横に遮るように張られ「関係者以外立ち入り禁止」の札が提げられていたのだ。

「……こっちに、行ったよね?」

「こっちに行ったように見えました」

 指さして問う美夏子に、郁が淀みなく応える。

 同時に、がしゃあんと遠くで重い鉄扉の閉まるくぐもった音が響いてきた。

「……ふん。まるでドラマか映画やな」

 蛮殻が階段の手摺りが描く螺旋を覗き込み上を見上げて呟いた。

 皆まで言うまでもない。体験するのは初めてだが、「屋上へ来い」と誘われているのだ。

「おっしゃ! じゃあいっちょ行ってやろうじゃないの!」

「待って!」

 意気揚々と黄色いロープを跨ごうとする美夏子の袖を取って止める。

「なんか、変じゃない? って言うか、危なくない?」

「えー? なに言ってんのナデシコ。 あれただの先生だよ?」

「……え~、っと……」

 サスペンスチックな雰囲気に飲まれていた所に至極常識的な指摘を、最もノリノリになっていたはずの美夏子からされて撫子は袖口を摘んだまま戸惑った。

「そう言えば、警察を呼ぶにしても、先生は特になにも悪いことしてませんしね」

「強いて言やあ、立ち入り禁止んトコに入りよったくらいかなも」

 続く郁と蛮殻の意見にも、これまでの追走劇はいったい何だったのかと思わず天を仰ぎたくなる。

「……えっ、と…… じゃあ、行こっか」

「おっしゃ!」

 僅かな逡巡の末に結局うなずいた撫子の前で気勢を上げた美夏子がロープを跨ぎ、郁と蛮殻が続々と階段を登って行った。

「……はぁ」

 溜め息を吐いた撫子は、のろのろとロープをまたいで皆の後を追った。

 

 撫子が階段を登りきるのを待って、突き当たりの鉄扉に手をかけた美夏子が一同を見回した。

「じゃ、開けるよ」

 言って、ぐっと手に力をこめる。

 ところがその非常に重たい鉄扉は美夏子の腕力には余る重量だったようで、顔を赤くして全身を扉に押しつける美夏子を見かねて伸ばした蛮殻の片手によって鉄扉はようやく開かれた。

「……わあ」

 外の夕焼けと、吹き抜ける涼風に思わず声を上げる。

 ところが屋上の真ん中に立っていた異形の影に気付きその息を飲み込んだ。

「!? 」

 思わず四人は身を固くする。

 そこに立っていた異形は、逃げたと思われた赤銅色の異形・ブドーペルソルではなく、まるで黒い鋼を練り上げて作り上げた、だが酷似する特徴的な体躯を持つ初めて見るペルソルだった。

「なんやあれ!?」

「まだいた!?」

 悲鳴をあげる美夏子の目線の先で、その黒の異形は片腕を持ち上げてこちらに突きつけた。

 その機械を寄せ集めたかのようなごつごつとした太い腕の先端には、深い、昏い孔が穿たれている。

「!? 」

 それを見て閃いた撫子と蛮殻が、美夏子と郁の袖をそれぞれ引っ張って身を翻した。

「下がって!?」

「中ぁ入れ!」

 叫んで四人が屋内に転がり込むや否や、蛮殻が力任せに鉄扉を閉めた。

 それと同時にまるで巨大な雷鳴のごとき爆音と凄まじい衝撃が扉を殴りつけ、中央付近がぼこりと盛り上がった。

「がっ!?」

 鉄扉の間近にいた為に蛮殻はその、鉄扉をへこませる程の衝撃波をまともに喰らい、大きく仰け反って階段を転げ落ちていった。

 残る三人も両耳を塞ぐ掌をも貫く轟音に朦朧とし、蛮殻を助ける手を伸ばすこともできない。

 そんな中、撫子の鞄の中からにゅるりと這い出してきた銀毛の仔猫、かぐやが衝撃で目を白黒させている撫子の足を駆け上がり腰で一周するとベルトの姿となった。

「……!?」

 その途端、目を回していた撫子がたちまち目の焦点を合わせて仰け反っていた体勢からバネでも仕込まれたかのような勢いで起き上がると、右の拳を腰に当て、曲げた左腕を胸の前に構えた。

「変身!」

 決然と叫び、両手を左右に振り切ったその途上で左手がベルトの上から突き出したナイフスイッチを押し倒す。

 たちまち月光を思わせる神秘的な協和音が鳴り響き、いくつもの円環のヴィジョンに取り囲まれた撫子の姿が銀色のヴェールに包まれて「かぐや」へと変身した。

『うーー!』

 それまで朦朧としていた衝撃など微塵も感じさせない動きで身を丸め。

『なーーーー!』

 全身を伸ばして反り返り、高々と叫んだ。

『なーーーー!』

 そしてへこんだ扉を蹴り開けて屋上に飛び出してゆく。

 その際、ひしゃげたせいで金具が歪んだドアが丸ごとちぎれて吹き飛んでいった。

 

──zapi!

 

 まるで無線機のスイッチのような音を吐いて、その黒い異形は改めて右腕の砲口を突き出した。

 角張った体つきと言い、きびきびとした動作と言い、まるでロボットか何かのような動きだった。

 そして突き出した腕から爆音が轟き、孔から弾丸が射出された。

 それはジグザグに駆ける「かぐや」には当たらずに虚空へと消えてゆく。

『なーーー!』

 

──zapi!

 

 肉迫して飛びかかろうとした所で、黒の異形が第三射を放ち、「かぐや」は空中にあって身を捩ってどうにかこれを躱した。

 ところが、着地したところをさらに狙い撃ちされ、跳び退いたところを弾丸が抉り、また後方へ跳躍してゆくたびに「かぐや」の足元を弾丸が次々と襲った。

 せっかく間近まで迫った間合いを広げられた「かぐや」が遠巻きに駆け出してゆくのを、黒の異形がその右腕の砲口と共にぴたりと見据えて狙い追従する。

 

「……「ガンペルソル」、と……」

「ここでメモっちょる場合か!?」

 屋上入り口の陰で、スマートフォンを片手にタブレットをいじる美夏子に、また打ち身の箇所を増やした蛮殻が突っ込んだ。

「ところであれ、初瀬蟹さんの推測が正しかったとして、誰の何を真似ているんでしょう?」

「ミカコって呼んでいいって」

 物陰から戦闘を見つめる郁に美夏子が応える。

「やっかいだねー。鉄砲まで出てきちゃうなんて」

「おい、「ガンペルソル」ちゅうて、まさか」

「そ。たぶん、お巡りさんに鉄砲で撃たれたことがあるんじゃないかなあ、あのペルソル」

 美夏子の推測に、蛮殻の青い顔に一筋の汗が流れた。

 良く見れば、警察官の制服と言うには黒みがちだが、その角張った体躯はなんらかの制服に見えないこともない。

「やばいなあ。いざって時にはお巡りさんのことアテにしてたのに……」

 表情を深刻に曇らせて美夏子は郁の下からどかんどかんと断続的に爆音が轟く戦闘の現場を覗き込む。

「ちょ、おい」

 それを聞いて蛮殻が呻いた。

「そりゃ美咲のやつもマズいんとちゃうんか!?」

「マズいよ!?」

 ちらと蛮殻を見上げて言い返す。

「でも、変身したナデシコはいまいちハナシが通じないし、もうどうしたらいいんだか……」

「さっきの、あの三日月みたいな技は、また使えるんでしょうか?」

「わかんない」

 郁の言葉にも沈鬱に首を振る。

「手ぇこまねいててもしゃあないやろ。 ワシが行って注意を引いて来たる」

「無茶だって!? 鉄板もコンクリートもへこましちゃうんだよ!?」

 のそりを踏み出しかけた蛮殻を、郁と美夏子が左右から袖を掴んで止めた。

「当たらにゃあどってことないわい!」

「もし当たっちゃったら終わりでしょー!?」

 喚き合うそこに、どこからかひとひらの雪が舞い込んできた。

「……え?」

 いや。それは光の粒。

 それと見て取った瞬間、三人のいる所が光の吹雪に巻き込まれた。

 

『うーーーー!』

 跳ね回り、転げ回ってガンペルソルの砲撃を避け続ける「かぐや」が、その一瞬の隙に身を丸めて伸ばし、高らかに叫んだ。

『なーーーーーーーー!』

 声が大空に高くこだまするや否や、この病院屋上があっと言う間にコズミックエナジーの嵐が舞い降りた。

 

──zapi!

 

 突然の変化に狼狽えるガンペルソルをよそに、「かぐや」は身を翻すと近くに密集していたコズミックエナジーの群に頭を突っ込んだ。

 続いて二度、三度と身を翻し、踊るような動作で両側頭部のエナジーインテークにコズミックエナジーを取り込んでゆく。

『なーーーー!』

 やがてバックル中央の球体「セレスティアルドライブ」が黄金の輝きを放ち始める。

 「かぐや」の右手が天球儀のフレームを回転させると球を取り巻く幾重もの円環のフレームが複雑に連動して回転し、中央の「セレスティアルドライブ」の輝きが球面の上で左に引き絞られて三日月の形となる。

 そこで「かぐや」の右手がベルトバックルの下端に張り出したアーチ状のエンターレバーを下に弾いた。

《く・れっせん・と♪》

 ベルトが奇妙なアクセントで認証を告げ、「かぐや」の傍らに長大な光の弧、「クレッセントサイズ」が現れた。

『なーーーー!』

 それに手をかざして操作し、二度、三度と振り回してから「かぐや」はガンペルソルめがけて駆け出した。

 

──zapi!

 

 ところがガンペルソルの立ち直りは早かった。

 即座に右腕の砲口を向けると続けざまに弾丸を発射してくる。

『なーーーー!』

 「かぐや」はそれらを右に、左にと跳ねて躱しながら接近し、クレッセントサイズの射程に入ったところで両腕を振り下ろした。

『なーーーー!』

 ここで初めてガンペルソルは最初の立ち位置から動いた。

 くるくると迅速に身を翻して「かぐや」のクレッセントサイズを躱すと、振り下ろした体勢で着地した「かぐや」の無防備な横姿めがけて発砲した。

『っ!?』

 脇腹に弾丸が突き刺さり、「かぐや」の矮躯が派手に吹き飛び転がっていった。

 その途上で投げ出されたクレッセントサイズが霧散して消えてしまう。

「ナデシコっ!?」

 思わず美夏子が叫ぶ。

『うなっ!』

 ところが、うつ伏せで倒れていた「かぐや」が仰向けに転がりヘッドスプリングで元気良く飛び起きると再び同じ勢いでガンペルソルへ駆け出してゆく。

 あれほどの威力の直撃を脇腹に受けたというのにまるで何の痛痒もないような「かぐや」の様子にはほっとした。

 けれど無茶だと美夏子は思った。

 端で見ていても劣勢なのが分かるし、素人目でも飛び道具が圧倒的有利なのも分かる。

 それに、「かぐや」の防護は本当に頑丈なのか。中の撫子は本当に無事なのかが分からないことが一層不安を掻き立てた。

「ナデシコっ!? 逃げて!」

 蛮殻の無茶も忘れたように飛び出そうとする腕を郁に掴み止められながら美夏子は叫んだ。

「聞こえてるでしょ!? しっかりして! 逃げていいんだよ! 危ないよ!」

 いくらかぐやとの変身がハイテンションをもたらしているとしても、痛かったり危なければ逃げるくらいは考えるはずだ。そう思っていた。

 なのに変身した撫子はそういう発想すらも失っているように見えた。

 かぐやとの変身による高揚感は、まさか撫子の危機意識すら消してしまっているのではないか──?

「やめて!? ナデシコ! 逃げて!」

「美夏子さん! 落ち着いてください!」

「おみゃあはそんまま押さえとけ」

 飛び出そうともがく美夏子の腕を掴み止める郁の横を、いつの間にか真っ黒な番長スタイルに変身した蛮殻が駆け抜けていった。

「ちょ、蛮殻さん!?」

 呆気に取られるも、美夏子を押さえている郁はそれを見送るしかない。

「うおおおおおおお!」

 気勢を上げて蛮殻が突進してゆく。

 その軌道は、ガンペルソルからは僅かに逸れた方向だった。

 ペルソルの目標を増やし、狙いを迷わせ砲撃を逸らさせるつもりなのだろう。

 ペルソルを遠巻きに走るコースも、蛮殻自身が弾丸から躱しやすくするため。

 素人なりに考えた行動なのだろうが、生身の蛮殻では、当たれば一撃で致命傷に繋がるその危険度は「かぐや」とは大違いだ。

「蛮殻さん!」

 郁が叫んだ。

「おおおおおお!」

 迫る二者に対し、だが結局ガンペルソルは「かぐや」めがけて発砲した。

「なんでやああああああ!?」

 涙の尾を引きながらペルソルの脇を駆け抜けてゆく蛮殻。

 「かぐや」は、弾丸を横に跳んで躱しながら、なおも疾く走る。

 

 

(まだだよ! ぜんぜん足りないよ!)

 光輝く高揚感の奔流に包まれた撫子の心は、歓喜しながらその奔流を遡るように飛翔していた。

(もっと! もっとだよ!)

 その先にある"何か"を求めて、飽くことなく突き進み泳ぐように手を伸ばした。

(そうそう! まだなんだから! もっと、これからなんだから!)

 指先をかすめた"それ"を再び伸ばした手に掴み取り、愛おしそうに抱き込んだ撫子は満面の笑みを浮かべて──

 

 

『うーーなっ!』

 跳躍して砲弾を躱した「かぐや」は宙返りしながらコズミックエナジーが最も密集している地点に着地すると、踊るように頭を振り上げ、振り下ろし、エナジーインテークに掻き集めてゆく。

 

──zapi!

 

 ガンペルソルは迅速に振り向いてさらに発砲するも、「かぐや」は禄に見もせずにそれらを躱しながら、まるで仔猫がじゃれつくようにコズミックエナジーを掻き集める。

 背後の遠くで流れ弾がフェンスを、非常階段の鉄扉を貫いてゆく。

 やがてベルト中央の球体が再び目映い光を放ち、ころりと起きあがった「かぐや」がベルトの天球儀の円環のフレームを操作すると、その球体の輝きを絞る動作が今度はちょうど半分で止まった。

『うなっ!』

 そして下端に張り出したエンターレバーが弾かれた。

《は・ぁ・ふ・むーん♪》

 再びバックルから奇妙なイントネーションが告げると、今度は「かぐや」の左右にひとつずつ、輝きが吸い寄せられるように密集して何事かの形を成した。

 それは、縦長のアーモンド型の円盤に見えた。

 全長は、「かぐや」自身の身長にわずかに足りない程度だが、先の「クレッセントサイズ」に比べ幅がある。

 それが、ふたつ。

『なーーーー!』

 両手を左右にかざしたまま「かぐや」が走る。

 新たに現れた光の円盤も、「かぐや」の動きにつれてぴったりと左右に追従する。

 

──zapi!

 

 ガンペルソルは、構わず発砲した。

「ナデシコっ!?」

 それを見た美夏子の悲鳴があがる。

 真っ向から迫る砲弾に対し、「かぐや」は今度は真っ直ぐに突進していったからだ。

『なーーーー!』

 「かぐや」は一声あげるとその場で両手を交差させた。

 同時に雷鳴のごとき爆音が響き渡った。

 ところが、砕け散ったのは弾丸の方で、その爆煙の中から輝く球体が飛び出してきたのだ。

「え……?」

『なーーーー!』

 呆然と見つめる美夏子たちの目線の先で、その光の球が二つに割れ、その中から両腕を広げた「かぐや」が走り出てきた。

 ガンペルソルはなおも次々と砲弾を撃ち出すが、その度に左右の光の円盤を閉じ合わせると、それで砲弾を弾き飛ばしてしまう。

 見れば、その光の円盤は四等分に切ったスイカの皮のような形状をしていた。

 それを目前で閉じ合わせることで半球と成していたのだ。

 そしてそれはクレッセントサイズとは役割が異なるセレーネモジュール「ヘミソフィアンシェル」。

 よりコズミックエナジーを密集させて作り上げられたそれは、表面に触れたあらゆるものを弾き飛ばす強固な障壁だった。

 かぐやと任意の変身を果たした撫子が生み出した、「かぐや」の二つ目の新しい力。

『うなーーーー!』

 声をあげた「かぐや」は、狼狽えたように砲撃を繰り返すガンペルソルに対しヘミソフィアンシェルを前にかざしたまま突進していった。

 そして直進する中でベルトバックル上端のナイフスイッチを引き起こして再び倒し込む。

『りみっと、ぶれいくっ!』

 再び撫子の声が叫び。

 ベルトバックルの中央から爆発的な輝きが噴き出し、同期してヘミソフィアンシェルが輝きを増した。

 膨大なエネルギーの流動の影響を受けた周囲のコズミックエナジーがまとわりつき、水面の轍のように光の尾となって続くそれはもはや月と言うより流星の様相を成し。

 弾丸を弾きながら突撃した巨大な光芒は、ガンペルソルを光の爆発に巻き込み貫いていった。

『うーなっ!』

 ざしゃー、とコンクリートの床を擦り立てて急停止し、光の半球をまるでカーテンのように左右に振り開いた「かぐや」の背後で、黒き鋼の身体は縦に溶け崩れ、ガンペルソルは蒸発するように黒の霞となって消えてしまった。

 

 




 今回のサブタイトルは「うんしんげっせい」と読みます。
 無心・無欲の例えで、名誉や利益とは離れた心というかそんな。
 今回のことで、一歩、心が解きほぐされた撫子を示すには高尚過ぎたでしょうか。


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第7話 愛・及・屋・猫

『うなーーー!』

 黒の霞と消えたガンペルソルを背後に、たたっとステップを踏んで「かぐや」が拳を突き上げた。

「……よかった……」

 ドア枠にしがみついて大きく溜め息を吐いた美夏子は、郁に支えられながら屋上に歩み出ていった。

 遠くへ駆け抜けていた蛮殻も、のしのしと戻ってくる。

「ナデシコ! 身体は、大丈夫なの?」

 今だ跳ね回っている「かぐや」に美夏子が気遣いの声をかける。

 その時、「かぐや」の向こうからこちらに向かって歩いていた蛮殻が突如斜め上を見上げて喫驚に固まった。

 その蛮殻の反応を見て美夏子と郁は瞬時に直感した。ガンペルソルの出現で失念していた、ここに来た本来の目的を思い出したのだ。

「だいぶ、完成しているようだな」

「「っ!? 」」

 同時に上からかかった声に、美夏子と郁が慌てて振り向いた。

 その、今まで美夏子らが潜んでいた屋上出入り口の屋根の上に、いつの間にか白衣を纏う長身の男、怜悧な双眸で一同を見下ろす宇目木の姿があったのだ。

「せ、先生!? 」

 思わず美夏子が声をあげた時には、その姿は黒いノイズのような影を閃かせて消えてしまった。

「おもしろい。そんな形で原住生物を取り込むとはな」

 次の瞬間には、その声は「かぐや」の眼前に現れていた。

『う?』

 小首を傾げる「かぐや」の目の前には、逆さまに覗き込む宇目木の顔があった。

 驚いて振り向いた美夏子と郁が見たものは、「かぐや」の頭上の空中になんの支えもなく立ち、お辞儀するかのように身体を深く曲げて「かぐや」の顔を覗き込む宇目木の姿だった。

「……な、せっ、う、浮いて……?」

 生身で化け物のごとき異常を事も無げに成す宇目木に、美夏子も郁も口をぱくぱくさせることしかできない。

「俺と同じ境地に達しつつあるようだが、そんな半端な方法では我らの使命の達成には及ぶまい。 取り込むなら」

 昏い声音で平坦にぼそぼそと分からないことを呟き続ける宇目木のその逆さまの顔が、身体が突如、どこからともなく噴き出した銀色の泥に包まれた。

「いっ!?」

 美夏子がひきつった悲鳴をあげる。

『こんなふうに、完全に取り込まなくては』

 身体の半身を、顔の左半分を銀の幕で覆った宇目木がくぐもった声で告げた。

 ところが。

『……うなっ』

 がし。と「かぐや」がその逆さまの宇目木の襟首を両手で掴んだ。

『うなーーーー!』

 そしてそのままぐいぐいと引っ張り始める。

 けれど、どういう訳か不安定な立ち位置と姿勢であるにも関わらず宇目木は小揺るぎもしない。

『うーなー!』

『……愚かな。 人の知性までは得られなかったのか?』

 なおもぐいぐいと襟を引っ張る「かぐや」に、宇目木が冷たく吐き捨てた。

「せ、先生!」

 美夏子の声に、銀の幕に覆われていない片目が向く。

「せ、先生のそれは……? 先生は、ペルソルだったんですか?」

『「ペルソル」、か。 話は聞かせてもらったが、なかなか面白いネーミングだ。 我ら自身を何と言うのか、こればかりはオレにも分からないが、それも悪くない』

『うなっ?』

 あれほど力一杯掴んでいたはずの襟首があっさりと「かぐや」の手からすり抜け、虚空に立つ宇目木が上体を起こした。

『お前の命名に沿うならば。 オレは「ノーレッジペルソル」か』

 ふっ、と「かぐや」の背後に降り立った宇目木が、機敏に振り向いた「かぐや」が裏拳を放つよりも速く身を沈めてその腕を捌き脇腹に肘を叩きつけた。

『っ!?』

 為すすべなく床に激突する「かぐや」。

 だが美夏子と郁が目を剥いたのにはもうひとつ理由があった。

「また、郁ちゃんと同じ技……!?」

「どうして……」

『オレは知っている。 この技術を持った同族から学んだからな』

 肘を打ち込んだ体勢をゆっくりと戻しながら宇目木が言う。

『それから……』

 何事か言いかけた宇目木が口を大きく開くと、轟! と凄まじい爆音が放たれ、宇目木の足下のコンクリートにヒビを入れるほどの衝撃が、起き上がりかけた「かぐや」を吹き飛ばした。

『なぅっ!?』

「ナデシコっ!?」

 美夏子が悲鳴を上げる。

『そしてこの技も学んだ』

 構わずに宇目木は片手を上げると、突きつけた銀の指先から爆音を上げて何かを撃ち出し、彼方に転がる「かぐや」をなおも打ち据えた。

「ちょっと!? 先生、どうして!?」

 問わずとも確信する。

 宇目木は、どういう訳かブドーペルソルがコピーした武術のみならず、スクリームペルソル、ガンペルソルの能力まで備えていたのだ。

 だが、だとしてなぜ変身した撫子を攻撃するのか。

「やめてください先生! それは、ナデシコなんですよ!?」

『知っている。 我らの同族に選ばれた原住生物にして、素体』

 素っ気なく告げた、半身を銀の泥に包まれた宇目木の顔が美夏子を眺め遣り、やおらこちらに足先を向けて歩き出した。

『我らはこの星に、自らの成長を促す"何か"を求めてやってきた。"何か"が何かは分からん』

 すたすたと、学校の廊下と同じ調子で歩いてくる宇目木に対し、圧倒されて後退った美夏子の前に、郁と蛮殻が立ち塞がる。

『出会った原住生物の、行動を反射的に模することしかできぬ我らの、それはその本能に基づく動作だった。そのほとんどは、大した収穫がなかったようだが、このオレは違う』

 己の胸に手を遣り、宇目木はなおも淡々と迫る。

『知りたかった。俺は"オレ"を知りたかった。初めて見た"オレ"にひどく興味を覚えた。同時に利害の一致を学んだオレは"俺"を取り込み、他の同族を遙かに凌ぐ知性を手に入れた』

 半分覆われた宇目木の顔は、授業の時と同じ感情の読めない冷淡な無表情だったが、語る言葉の主観がなぜかころころ入れ替わり、聞く者に不安を覚えさせた。

『そうだ。お前の言う通り、我らは原住生物のあらゆる動作を模倣する。模倣して取り込み、自らのものとする。そして取り入れた知識を発展、応用させる知性を手に入れたオレは他の同族の知識を取り込み今や同族の中では最大の情報所持者となった!』

「やあああ!」

 とうとう、間近まで迫った宇目木の威容と圧力に耐えられなくなった郁が気勢を上げて飛びかかった。

 ところが郁の凄まじい速度の攻撃は宇目木の腕脚によってことごとく防がれ、逆に腕を絡められ逸らされた郁のがら空きの胴に宇目木の掌底が叩き込まれた。

「っっ!?」

『あとは美咲と同化した同族を取り込めば、より完全に近づき使命の完遂に足るだろう。あれほどの情報量ならば、さぞやオレの大きな成長が期待できる。 だか、まだ足りない。今は』

「おおおおお!」

 岩塊のごとき巨大な拳を引き絞り蛮殻が襲いかかる。

 真っ向から激突した拳はだが、宇目木の胸を覆う銀色の泥の表面で事も無げに受け止められた。

 宇目木は小揺るぎもしない。

「ぬ!?」

『邪魔だ』

 冷たく呟いた宇目木の振るった片腕に殴られ蛮殻の巨体が派手に吹き飛び転がった。

「蛮殻くん!?」

『美咲と同化した同族の成長には、あともう一押しの余地がある。それを引き出してから取り込む必要がある。その為には』

「ひゃ!?」

 心得のある二人を排除した宇目木はなおも迫り、怯えて後退る美夏子に飛びかかるとその身を乱暴に抱え上げた。

「ひゃあああ!?」

『こいつを預かる』

『なーーーー!』

 ようやく起きあがった「かぐや」がそれを見てどたばたと突進してきた。

 ところが、突き出した宇目木の銀の指先から放たれたされたいくつもの弾丸が「かぐや」の全身を打ち据え、体勢を崩し転倒してしまう。

「ナデシコっ!?」

『明日、すばる埠頭の奥の倉庫に来い。貴様の成長を促進する』

『うなーーー!』

 めげずに迅速に「かぐや」が跳ね起きるよりも早く美夏子を抱えた宇目木は後方に飛び退った。

『慌てるな。殺しはしない。 だが、必ず来ることだ』

『うーー、なーーーー!』

 「かぐや」はなおも追って駆けるが、美夏子を抱えた宇目木はそれよりも速く後方へ跳ねてゆく。

『なー! あー!  みー!』

 喚きながら追いすがる「かぐや」の稚拙な呻き声の中にその時、明らかにこれまでとは違った言葉が混ざった。

『みーー! あーー! みあーー!』

 その叫びが、意味のなかった声が、だんだんと形をとり始める。

『あーーー! みー、みかこーーー!』

 とうとう、「かぐや」が初めて意味ある単語を叫んだ。

『みかこーー! かえして! みかこーー!』

「ナデシコっ!?」

 異形の腕の中でもがく美夏子の目が驚きに見開かれた。

「ナデシコー!」

 美夏子が銀色の腕の中から必死に片腕を抜き出し「かぐや」に向かって手を伸ばした。

 それを掴もうと、追いすがる「かぐや」もその手を伸ばす。

『あーー! みかこーー! かえしてっ! 返して! 美夏子ーっ!」

 やがて狂乱のまま叫ぶ「かぐや」の姿が絶叫の途中で突如、溶け崩れるようにして仔猫の姿になって足下に降り立ち、撫子の姿に戻ってしまった。

 ところが撫子は自身の変身解除に気付いていないかのようにそのまま走り続ける。

「ナデシコっ!?」

 美夏子が喫驚に叫んだ。

 「かぐや」の変身解除の意志の主導がどちらにあるのか未だに謎だったが、なにもいま変身を解くことはないではないか。

『ふん。融合が不完全だから、そうなる』

 吐き捨てた宇目木がもがく美夏子を抱えたまま後方に跳躍し、屋上外縁を囲むフェンスの上に飛び乗った。

 その宇目木の目は、必死に走ってくる撫子ではなく、その向こうで座り込んであらぬ方を見回している仔猫に向いていた。

『慌てなくとも、お膳立てはしてある。必ず、来い』

「待って!」

 宇目木が屋上の外、虚空に跳躍するのと、撫子がフェンスに激突するのはほぼ同時だった。

 そこでようやく撫子は、フェンスを掴む己の手が「かぐや」のそれではない生身の自身の手であることに気付いた。

 「かぐや」の身体能力であれば、フェンスを越えて宇目木を追いかけることもできる。

 撫子はかぐやを振り向いた。

「かぐや! お願い!」

 ところが、かぐやは先ほど着地した地点で座り込み、撫子の声に反応しない。

「かぐや!? どうして!?」

 言っている間にも美夏子を抱えた宇目木は向かいのビルの屋上に降り立ち、なおも跳び退ってゆく。

「待って!? 美夏子!? 美夏子ーー!」

 遠く離れてゆく美夏子の顔も、撫子の名を叫んだように見えた。

 だがその距離は無情に遠ざかり、美夏子を抱える異形の宇目木の姿は向かいのビルの屋上を越えてその向こうへと消えていった。

 

「美夏子ぉ……ぅっ……みかこぉ……」

「美咲さん!」

 フェンスの根本に泣き崩れた撫子の元に、脇腹を押さえた郁が小走りに駆け寄ってきた。

「あかん! 下から誰か来よるで!」

 こちらは大した痛痒もなく駆け寄ってきた蛮殻が、屋上出入り口を指した。

 これだけの大騒ぎをしたのだ。衝撃の展開に失念していたが、これでも遅すぎる反応だったろう。

「とりあえず退散や! あそこから降りるぞ」

 言って蛮殻が指さしたのは、外壁沿いに設置された非常階段の入り口だった。

 そのドアが、ひしゃげて大きく開いている。ガンペルソルとの戦闘中に、流れ弾で引き裂かれた痕だ。

「行きましょう、美咲さん。ここで泣いていても始まりません」

「……」

 聞こえてはいるのだろうが、嗚咽しうなだれた撫子には今、立ち上がる力がないようだった。

「……失礼」

 見かねた郁が撫子の片腕を取り、自分の肩にまわすと無理矢理撫子を立ち上がらせた。

 だが、郁が補助をしても撫子の足元はおぼつかない。

 しかも、ダメージを負った今の郁ではいつものように上手く身体を動かすことが困難だった。

「貸せ。のたくらしてしょっぴかれとるヒマぁないやろ」

 横に回り込んだ蛮殻が軽々と撫子を横抱きに抱え上げた。

 そのまま郁と共に非常階段に飛び込み駆け降りていった。

 

 

 そこはまるで、旅館の一室のようだった。

 広大な畳敷きの部屋は一方を襖、一方が障子に覆われており、反対の壁の窓には見事な装飾の簾がかけられている。

 障子の向こうは縁側になっており、障子の下段の窓枠からは綺麗に均された砂利と大小の岩が配置された石庭が見えた。

 もっとも、悲嘆に暮れている今の撫子にとっては、目に映る以上の意味はない。

「…………」

 宇目木の変貌、美夏子の拉致、そして突如変身の意志を受け付けなくなったかぐや。

 宇目木が何を考えているのかはさっぱり分からない。

 一番の衝撃は、美夏子が攫われた事。攫われたことで初めて自覚した撫子の中での美夏子の大きさ。そして、かぐやとの力を持ちながら大事な人を守れなかった事。

「…………」

 かぐやは、部屋のすみでちんまりと座っている。

 相変わらず、その意図は読めない。

「……どうして……」

 うずめていた両腕から僅かに顔を上げ、その仔猫を見遣った。

 あの時、変身が解けなければ、宇目木を追うことができた。

 それがどうして、あの土壇場で解除してしまったのか。

 当然、自身は変身の続行・解除などという思考からして及ばない状態だったし、変身中の曖昧な記憶の中にも異常に繋がる心当たりはない。

「どうして、美夏子を見捨てたの……?」

 八つ当たりだとは思う。

 けれど、自身に心当たりがなければ、あとはかぐやしかいない。

 美夏子に抱かれることを拒まなかったかぐやの中の、警戒の基準とはいったい何だったのか。

「……かぐや。 変身しよ」

 問いかけてみるも、かぐやはなぜか無視したままだった。

「……どうして……」

 三度、同じ言葉を繰り返す。

 こんな時、美夏子がいてくれれば、適切な考察をしてくれただろう。

 真偽の確証はともかく、それでこれまでは何の問題もなく切り抜けてこれた。

 その美夏子がいなくては、これからこの不思議な仔猫とどう戦っていけばいいのか。

 どうやって美夏子を助けに行けばいいのか。

「入りますよ」

 格子に張られた白紙に映る影がそう告げ、すらっとその障子を開いて郁が入ってきた。

 その郁は淡いブルーのジャージに着替えており、ウィッグを着けずにベリーショートの頭を晒していた。

 障子を閉めてうずくまる撫子の元まで歩いてくると、隣に座り抱えていた衣類の一式──色からして同じジャージを撫子の前に差し出した。

「とりあえず、これに着替えてください。ボクのなんで、ちょっとおっきいと思いますけど」

「…………」

 答えるべき言葉も思い付かない。

 撫子は、弱々しく頭を振った。

 

 あの後、病院から脱出した三人は、郁の導きで郁の家にやって来た。

 ショックを受けた撫子を保護すると言って、郁が自宅に招き入れたのだ。

 ここは、その郁の自宅の客室のひとつだった。

 自失した撫子は連れられる中もまるで知覚していなかったが、郁の自宅、鼓獅子家は広大な日本家屋のお屋敷だった。

 内部に広い道場を擁し、池のある庭園を望む縁側があり、敷地の周囲を瓦敷きの塀で囲っている。

 その趣は完全に和のものであり、美夏子がいれば侍か忍者の出現を期待したであろう。

 ──美夏子が、いれば──

「ボクの家族には、泊まり込みで勉強会をすると言ってあります。明日は休日ですしね。 美咲さんも、ご家族に連絡してください」

 言って郁が差し出してくる、携帯電話が入っている撫子の鞄にも、撫子は顔を上げることができなかった。

 やがて、そっと退出した郁が、別の何かを抱えて部屋に戻ってきた。

 うずくまる撫子の横に座った郁が置いたのは、木製の救急箱だった。

「とりあえず、服、脱いじゃってくれますか。 屋上でのあの戦闘で、無傷で済んでいるはずがないですから、手当しときましょう」

 救急箱の蓋を開き、消毒液やら湿布やらをてきぱきと取り出しながら郁が言うが、撫子は反応しなかった。

「……」

 郁も手を止め、しばし無音の時間が過ぎる。

「すみませんが、場合によって命にも関わるので勝手にやらせてもらいますね」

「……っ!?」

 突然掴みかかってきた郁に、撫子は反射的に抵抗する。

 だが、武道の達人である郁に対し撫子の振り回す手はことごとく払い除けられ、てきぱきと制服の上着のボタンが外されてゆく。

「っっ!?」

 上着の前を肩口まで開かれ、腕から袖を抜こうと引き下げる動作でバランスを崩した撫子は仰向けに転倒した。

 それでも郁の追求の手は止まらない。

「……ゃ、ぁっ!?」

 とうとう撫子は癇癪を起こして抗議の呻きをあげた。

 

「いつまで聞き分けのないことをやっているんですかっ!?」

 

 撫子の抵抗に突如、郁が激発した。

「そうやって明日の晩まで丸まっているつもりですか! そうしたら、美夏子さんはどうなるんですっ!」

 馬乗りになる姿勢で覆い被さっている郁の、厳しい目つきが撫子を見下ろしていた。

「助けに行くんです! ボクの技では歯が立たない、蛮殻さんの腕力でも太刀打ちできない! あなたが助けに行くしか方法がないんです!」

 いつも穏やかにニコニコしていた郁が初めて見せる怒りの表情に、喫驚した撫子は圧倒されていた。

「その為に、できる事をするんです! 拗ねている暇なんかないのを分かっているでしょう?」

「…………だ」

 驚いた所に勢いで抑えられまくし立てられていたが、撫子の中から怖気に代わって熱い怒りが湧き出してきた。

「だからって! もう変身もできない、かぐやも応えてくれない、なんか宇目木先生はいっぱい能力を持ってて、まだ仲間がいるみたいなことを言ってて、もうどうしようもないもの!」

 仰向けのまま怒鳴り返す。

「美夏子がいてくれなきゃ、私、なにもできない! どうすればいいのか、わからないよぉ」

 視界が滲む。いつの間にか溢れた涙で郁の厳しい顔が歪む。

「きっと私が弱いからいけないんだ! ずっと一人だったから、どうすればいいのかぜんぜん分かんなくて! そのせいで心も弱いから、かぐやにも愛想を尽かされて、きっと美夏子にも嫌われる!」

 きつく閉じたまぶたの端から涙がこぼれ落ちる。

 それでもなお外界を閉ざしたくて、両腕で顔を覆った。

「ぅぁ……ゃだ……嫌だぁ! もう嫌だよぉ! やだあああああ」

 目が熱い。

 堰を切った気持ちの奔流は止めようもなく支離滅裂な言葉になって溢れ続ける。

 どうしようもない絶望感。だが、心のどこかで驚きもあった。

 これまで「誰も分かってくれない」と捨て鉢になっていた日々の寂寥感など、この絶望に比べたらまるでゴミのようだった。

 それほどに、このたった数日の美夏子との日々は撫子の中で大きなものになっていたのだ。

 失った跡の心の穴の、なんと冷たいことだろう。それほどに美夏子がいてくれることが暖かかった。

 それが、奪われたのだ。

「……やだぁ……いやだよぉ……」

 どれほど泣いただろう。

 これまでの人生で、こんなに泣いたことなどなかった。

 だが、感情の奔流はやがてその勢いを弱め、横隔膜の僅かな痙攣を残してやがて部屋は静寂に包まれた。

「…………」

 気持ちが落ち着いてくると、さすがに別の問題が浮上してくる。

 出会って二日も経たない郁の前で、郁の自宅で、正体もなく泣き叫んでしまった事実にまた別種の寒気が這い上がってくる。

 なんということだ。美夏子の前ですら打ち解けるが難しいのに、郁の前でこんな無様な姿を晒すなんて有り得ない。

「…………」

 その上、他人の家で、いつまでもこうして寝転がっているわけにもいかない。

 撫子は、恐るおそる顔を覆っていた腕をずらしてみた。

「…………」

 ところが、そこには、撫子の上で馬乗りになっている郁の、優しい笑顔があった。

「…………?」

「少しは落ち着きましたか?」

 しれっとした調子で郁が問うた。

「まあ、美夏子さんほど頼りにはならないかもしれませんけど、ボクとしても美夏子さんを助けたい気持ちは同じです。 その為に、できることをやりましょう? 僭越ながら、ボクも、ボクにできることをやらせてもらいます。 なのでまず傷の手当をしましょう。 起きてください」

 言うと、撫子の手を取ってひょいとひっぱり起こし、向かい合わせに座り直す。

 驚いた事に、あれほど心を締め付けていた焦燥感がきれいさっぱり無くなっていた。

 撫子が呆気に取られている内に、郁はてきぱきと手当の支度を進めた。

「とりあえず上着は脱いでもらって……はい」

 もう手首まで脱げかけていた上着から腕を抜くと、郁がさっさとたたんでしまう。

「ちょっと、腕を上げておいてください」

 言って、郁は撫子の脇腹を覗き込んだ。

「……思った程じゃないですね……」

 怪訝な顔をした郁が、手鏡を差し出して撫子の脇腹を指し示した。

 郁が湿布を取り出している間に撫子も手鏡を利用して脇腹を見ると、そこには小さな丸いアザがあった。

「あれ? ……これ、なんで……」

「あの時、ガンペルソルに至近距離で撃たれた所なんですけど」

 湿布の裏紙をはがしながら郁が言う。

「コンクリートを砕くほどの衝撃でしたから、そもそもアバラが折れてもいない時点で驚きですけれど、せめてもっと大きいアザになってると思ってました。 ちょっと手をどけてください」

 郁が撫子の脇腹に湿布を貼り付ける。

「冷たっ」

「我慢してください。 かぐやが変身したあの銀色のスーツの性能は桁外れだ、って美夏子さんが言ってましたけど、すごい防御力だったんですね」

「……?」

 そう言われても、戦闘中のことなど曖昧にしか覚えていない撫子には、戦闘の激しさなどよく分からない。

「ビルから落とした生卵を割らずに受け止める衝撃吸収素材が実在するんだ、って美夏子さんが話してました。 よく分からないけど、それのもっと凄いやつなんじゃないか、って」

 ほか、背中や肩などに小さなアザを見つけては、その都度切り取った湿布を貼っていった。

「二日くらいしたら温湿布に変えてください。 まあこれくらいなら、跡は残らないで綺麗さっぱり治りますよ」

「詳しいんだね。お医者さんみたい」

「まあ、武道なんかやってると、怪我とかアザとかしょっちゅうですし。身体のメンテナンスの為に整体方面もかじるんですよ。 これ着て、横になってください」

 郁が救急箱を片付けている間に、借り物のジャージに着替える。

 確かに郁との体格差そのままに腕脚の裾が大きく余る。袖を何度も折り返してようやく手首が出る有様だ。

 そして用意された布団にうつ伏せになった撫子の背中を、郁の手が所々を確認するように触れていった。

 やがて、その手の動きは圧力を加え、マッサージのそれに変わる。

 郁のマッサージ技術は非常に上手く、今までマッサージにかかった事がない撫子をしてあまりの気持ち良さに眠気を覚えるほどだった。

「痛いところがあったら、言ってください」

「ううん。 すごく、気持ちいい」

 運動にも縁のない生活をしていたからマッサージなどとも無縁だったが、今日のことで凝り固まっていたらしき身体のあちこちが徐々にほぐされていくのが撫子にも分かった。

「なんか、すごいね。 こういうのできるって」

「いやあ。家業で覚えたものですから、すごいとかそういうんじゃないです」

 郁の手が、丁寧に筋を圧してゆく。

「すごいと言ったら、美咲さんのほうがすごいですよ。 変身して、あんな化け物と戦って」

「でも、私は……」

 もう、変身できない。

 再び暗い思念が鉛のように重くのしかかる。

「ボクも、たまに思った通りの動きができなくなる時がありますよ」

「え?」

 郁の言葉は、撫子には実に意外なものだった。

 なぜなら、思った通り動く練習を道場で繰り返すのが武道というものではないのかと思っていたから。

「ヒトのやる事ですから、完全はありませんし、気持ちの浮き沈みひとつであっさり見失うものです」

 気負いのない、けれど経験に裏打ちされた芯のしっかりした、だけど優しい言葉が、掌の暖かさと同じように染み込んでくる。

「でも、まったく同じく気持ちひとつで取り戻せるものでもあります」

「……かぐやとの変身も?」

「それは分かりません」

 あっさりとした口調も、決して冷たいものではない。

「ですけど、美咲さんがかぐやの事を「なんとなく」で理解するのと同じように、「なんとなく」分からなくなることも、あるのではないでしょうか」

 だったら、「なんとなく」また変身できるようになるかもしれない?

 ふと、撫子は枕元に座るかぐやを見た。

「ヒトは、生きてきた道筋に置いてあるものを得て進むもの、道筋はひとそれぞれだから、拾えるものもまたひとそれぞれなんだ、って、兄さんが言ってました。 ボクが武道家の家に生まれて、こうして武道家の技術を得たことも、美咲さんが不思議なものを視えるようになったのも、きっと同じくすごいことなんでしょう」

 郁の声は、あくまでも真摯に語る。

「そして美咲さんのもっとすごいところは、不思議なものをボク達よりも柔軟に受け止められるところでしょう。 だから、かぐやと仲良くなって、あの怪物にも対応できる」

 突如、郁の手が離れた。

 怪訝に振り返って見上げたところに、郁が何かを持って戻ってきた。

 起き上がって座り直した撫子の前に差し出されたのは、見覚えのある機械。

 美夏子が持っていた、スマートフォンとタブレットPCだった。

「これ……!?」

「あのドタバタで、美夏子さんが落としていったものです」

 郁も撫子の向かいに座り直した。

「ちなみに、蛮殻さんは、クロコーの手下だか仲間だかに協力してもらって、すばる埠頭の周辺を捜索してくれています」

「え?」

 突然の話の方向転換に戸惑い問い返す。

「でも、クロコーって、不良の学校で……」

「まあ、なんか自信満々に言っていたので、蛮殻さんにお任せしましょう。 そして、これは、美咲さんが戦っている間にも美夏子さんがひっきりなしにいじっていたものです。きっと、ペルソルとかの情報や、なんらかのヒントが書いてあるかもしれません。なにしろ、一番長く変身した美咲さんを見ていたでしょうから」

 思わず手元の大小の端末を見下ろす。

「みんな、できる事をやっています。 ボクのはまあ、怪我の手当とかたいした事じゃないですけど」

「……うぅん、そんな事ない!」

 撫子は勢い良く頭を振った。

「ここに連れてきてくれなかったら、一緒にいてもらえなかったらきっと、ずっと動けないままだった。 ああいうふうに言ってくれて、泣いちゃったけど、なんか元気になった!」

 スマートフォンとタブレットをそれぞれの手に抱えて撫子は立ち上がった。

「そしたら、急いですばる埠頭に行って、それで」

「えい」

 膝に抱きついた郁が、あっさりと撫子を布団に寝転がした。

「ひゃ!?」

「落ち着いてください。 まだ変身の可否の条件がはっきりしていませんし、なにより今日いちばん身体を張った美咲さんはまず休養が必要です。今日はもう寝てください」

「で、でも、急がないと美夏子が……」

 慌てて起き上がった撫子の眉間に、郁の人差し指が当てられた。

 それだけなのに、なぜか起き上がる方向に身体を動かせない。

「落ち着いてください。 いいですか? 宇目木先生の企みは未だ不明ですし激しく胡散臭いですが、当人が「明日来い」と言いました。「かぐや」の成長を促進するとも。 ということは、少なくとも美咲さんが変身できないと、宇目木先生も困るわけです」

 微妙なバランス体勢にある撫子は、うなずくこともできないが。

「美夏子さんは無事です。そもそも美咲さんが必ず来てくれないと困るから攫ったわけで、恐らく、明日美咲さんが到着したら、そのままほったらかしにするでしょう。どうも、ペルソルの目的に人を殺すことは入ってないようです。ボクも蛮殻さんも、ブドーペルソルに反撃されたあと放置されましたし」

 確かにその通りだ。

 ペルソルの行動の目的は、宇目木が語ったことが真実だったとしてもいまいち不明な点が多い。

 が、少なくとも今のところ人死にはない。

「以上のことから、美夏子さんは無事に扱われていて、明日までは確実に猶予があります。だから、美咲さんはもう寝るべきです。 変身できない理由に、もしかしたら体力の消耗もあるかもしれませんから。それを検証するのも美咲さんの仕事です。 分かりましたか?」

「……あ、う、うん」

 相変わらずうなずけないので、口頭で同意を示す。

「結構です」

 にこりといつもの精悍な笑みを浮かべて、郁はようやく指先を撫子の額から離した。

「まあでも寝る前に、少しその"すまほ"だか言う機械の中を調べてみましょう」

「あれ? ……、こういうの、使ったことないの?」

「こういう、携帯電話なら持ってるんですけど、美夏子さんの持っているようなのはさっぱり使い方分からなくて」

 こういう、と言いながら郁が両手をぱたぱたさせて「折りたたみ式携帯電話」を示す。

「あとそれと、ボクのことはできれば名前で呼んで欲しいです。ボクも撫子さんって呼びますから」

「えぇ!?」

 郁への呼びかけに一瞬躊躇したのを見抜かれて撫子は顔を赤らめた。

 が、確かにそろそろ名前で呼べないと今後の会話もおぼつかない。

「あ、えーと、……郁?」

 言われ、撫子は改めて郁の名を口にしてみた。

 が、長いこと友達がおらず、人の下の名前を呼ぶのは美夏子に続き二人目だ。

 いまいち口の座りが良くない事に撫子の首が微妙に傾いた。

「あはは。 よく言われるんですけど、自分で言うのもなんですけど、行くんだか来るんだか分からない、呼び捨てにするには不便な名前なので、"ちゃん"付けでお願いします」

「えええっ!?」

 これまた撫子には少々ハードルの高い試練だったが。

「ええと、その、……郁ちゃん……」

「はい。 改めてよろしくお願いしますね。撫子さん」

「うん!」

 うなずき、笑い合った撫子は、郁と共に美夏子の携帯端末の調査を始めた。

 

 その夜中。

 目を開いた郁はそっと布団から起き上がった。

「……」

 隣の布団の、ようやく寝付けたらしき撫子の寝顔を見下ろす。

「……」

 そして、その枕元でちんまりと座っているかぐやを振り向いた。

 話でしか知らなかったが、かぐやは本当に睡眠を必要としないらしい。

 それはともかく。

「……」

 ごくりと唾を飲み、頬を少し緩ませて、四つん這いで撫子の枕元、かぐやに忍び寄り。

「…………」

 そぉっと手を伸ばしてかぐやを抱き上げると、胸元に優しく抱きしめた。

 かぐやは抵抗しなかった。

 

 




 今回のサブタイトルは「あいきゅうおくびょう」と読みます。
 本来の言葉は「愛及屋烏(あいきゅうおくう)」と言いまして、「愛憎の情は、その人だけでなくその人の関係者にも及ぶ」という意味だそうで。
 「烏」の字を「猫」に変えたのは、作品の登場動物に寄るものですが。
 大事にしたい友情や気持ちが、一段階広がりを見せたことを示すものでした。


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第8話 応・猫・与・薬

 翌朝。

 薄雲もまばらな快晴の下、鼓獅子家を出立した撫子と郁はすばる埠頭に向かう為にバスに乗っていた。

 乗り込んだ際、空いた座席に向かう道すがら車内の客層の違和感に気付いた撫子は、今日が休日であることを思い出すのと同時に、着の身着のままだった自分はともかく休日であるにも関わらず郁が学校の制服を着ていることに気が付いた。

「……ねえ郁ちゃん。そう言えばなんで制服なの? 今日は休日で……」

「まあ、ほら。ボクたちは学生ですから」

 校則に曰く、「外出の際は、学校指定制服を私服として着用すること」。

 からっとした笑みで応えてはいるが、その郁の笑みに苦笑が混じっている辺り、別に生真面目な性分だけでそうしている訳でもなさそうだ。

「兄さんの言いつけで、「学生は、学生らしくしなくちゃ」と」

 郁が兄の言を引き合いに出すのを聞いたのは、これで二度目だ。

 初めて郁と会ったあの時感じた違和感を、撫子は思い出した。

「ねえ郁ちゃん。お兄さんって、厳しいの?」

 郁にとっての兄というものがどういうものか分からないから、撫子はそう表現した。

 短髪が好きな郁に、わざわざ長髪のウィッグを被ることを強要する兄に対し、けれど郁自身の態度は兄に対する敬愛すら感じられる。

 この矛盾は、いったいどうしたことだろうか。

「自分らしくしちゃいけないって、なんか変だと思う」

 ところが、それを聞いた郁は一瞬きょとんとした。

 が、すぐにいつもの微笑に戻る。

「ああ。ごめんなさい。勘違いさせちゃいましたね」

「?」

 ぱたぱたと手を振る郁に、撫子は疑問符を浮かべ小首を傾げた。

「まあ、撫子さんだから話しますけど」

 郁は、車窓の向こう、流れる風景を眺め遣って続けた。

「昔から、小学校の頃から身体も大きかったし、髪も短いし、ズボンやらパンツスタイルでいるのが多かったから、よく「女なのに男みたいだ」ってからかわれてたんです」

 確かに、郁の身長は高く、背の順で並べば後ろの方に行くだろう。

 郁より身長の低い男子は少なくない。

「挙げ句、古流武術なんてやってて腕も立ちますからなおさらですね。 で、高校に上がってからなんか気になりだしたんです。「女の子らしさ」とかそういうの。 一応、可愛いものは大好きなんですよ。 でも、それを言うと、だいたいの人は意外そうな反応をするんです」

 初めてかぐやを見た郁が、抱きたくてうずうずしていたのを思い出す。

「それで、迷ったり悩んだりしていると、武道の練習にもムラが出るんです。昨夜、話しましたよね。 それで、兄さんに悩んでいることを悟られまして。あの時は、他に相談できる人の宛がなくて」

 苦笑いしながら郁がウィッグの上から頭を掻いた。

 その手でぺし、と頭を叩き。

「そこで兄さんに相談した結果がこのウィッグだったり、必然的にスカートを履ける制服姿だったりするわけなんですよ」

 なるほど。

 撫子は得心した。

 初めて出会った時、自身の事を語った時に見せた郁の周囲への理不尽に対する怒りと煩わしさ。

 それはウィッグを勧めた兄に対してではなく、それ以外の周囲の人々に対してのものだったのだ。

 撫子と、まったく同じく。

 「言いつけ」という言葉で誤解していたが、郁のカムフラージュは、兄妹達だけで編み出した苦心の解決策だったのだ。

(……私と、同じだったんだ……)

 撫子の中で、郁に対する親近感が増した。

「……でも、お兄さんの発想は、ちょっとズレてると思う」

「ああ。やっぱり。そうですよねー」

 あははと苦笑いする郁の顔を見上げていた撫子は、ふとある事に気が付いて、郁の頬に手を伸ばした。

 興味深そうに撫子の指先を眺めている郁の目線に気付き、撫子は無意識に伸ばしていた手を慌てて引っ込めた。

「あごごご、ごめん」

「いえ? どうかしましたか?」

 真っ赤な顔で恐縮する撫子に対し郁は笑顔のまま己の頬を撫でる。

「あの、その、郁ちゃんて、お化粧とかどうしてる?」

「…………!」

 郁が絶句するのを見て、撫子は顔を青くした。

 先ほど「女の子らしさ」という話題で気になったのだが、郁の顔には化粧っ気というものがまるで感じられなかった。

 にも関わらず非常に綺麗な頬だったので、つい手が伸びてしまったのだ。

 「女の子らしさ」で悩んでいた郁が、化粧の存在を気にしていないはずがない。郁の逆鱗を突いてしまったのではと撫子は這い上がる怖気に見舞われていた。

「……いや~。 あんまり興味ないので、すっかり失念していました」

 ところが郁は、口元を手で覆い呆然と呻いただけだった。

「……え?」

「あはは。 まあこれが兄さんとボクの二人だけの限界でしょうか」

 朗らかに笑う郁に、緊張していた撫子はすっかり力が抜けてしまった。

「あれ? じゃあ撫子さんは今お化粧しているんですか?」

「少しだけ」

 他人に注釈しつつも、実は撫子も化粧に対する興味は薄かった。

 地肌を保護する為のものしか使っておらず、それ以上の「顔を際立たせる」タイプの化粧には撫子も興味がなかった。

 無論、校則で禁じられていることではあるが、ぱっと見には分からない程度の小細工は年頃の女の子なら誰もがやっている事くらいは知っている。

「でも、「女の子らしさ」を追求するんだったら、お化粧のこと調べてみるのもありかな~って考えたんだけど、郁ちゃんの肌すっごい綺麗だから」

「ああ。そうなんですかね」

 郁はどうも、自身の肌のコンディションには無頓着らしい。

「お母さんに相談はしてみたの?」

「ああ。うち、母親がいないものですから」

 あっさりと。

 あまりにもあっさりと告げられた事に、撫子はその意味を理解するのに数瞬かかった。

「……え……?」

「ああ、これまた誤解される前に言っておきますけど、母が亡くなったのはボクが物心つく前の事ですから、傷心とかそういうのはありませんから、謝らなくていいですよ」

 まさしくいま平謝りを繰り返そうとしていた撫子は、郁の突き出した掌の前で泡を食っていた。

「……あ、あわわ……」

「まあでも、お化粧の事を調べてみるのも、いいかもしれませんね。 美夏子さんも、お化粧しているんですかね?」

 撫子は未だ混乱していたが、郁が変わらぬペースで話を進行しているのを見て、郁が本当に気にしていないのだと示しているように感じてどうにか意識を切り替えた。

「ごめん。よく分からないの。 見た目は特に何かしているように見えないんだけど……」

「ふーむ」

 郁は口元に手を遣ってしばし車窓を眺めた。

「そしたら、この件が片付いたら、美夏子さんと三人で調べてみましょうか。ボクたち三人の、女子力とやらを研鑽する為にも」

「あはは。それいいかも」

 その郁の言葉は、撫子の心に思わぬ力を与えた。

 美夏子と一緒のその先の事を夢想する。

 それはすなわち、これから美夏子を絶対に助けるのだという確固たる意志に他ならない。

「うん。 絶対に、そうしよう!」

「はい!」

 撫子の言葉に、郁がにこりと精悍な笑みで首肯した。

「そうしたら、アレですね。撫子さんと美夏子さんには、なにか他にも「女の子らしい事」を教えていただきましょうか。兄さんとボクだけではもう絶対に思い付きそうにないので」

「あはは。うん、いいよ。教えてあげる。 でも、私も美夏子も、そんなに女の子らしくないかも」

 自分の冗談に自分で苦笑した撫子は、そこでふと直感が何か囁くのに気が付いた。

(……あれ……?)

 なんだろう。

 撫子は半笑いの顔のまま小首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「……いや……今、何か……」

 よく分からないが、きっと大事なことだ。

 撫子はその直感の示す根拠を記憶の中から探り出そうと必死に心当たりを思い出していた。

「…………!」

 "それ"に気付いた撫子は、慌てて床に置いた鞄をひざの上に載せて開いた。

 すると、ぎっしり詰め込まれた中身の隙間からにゅるりとかぐやの頭が生えてきた。

「わっ!?」

「ごめんねかぐや違うの! 中にいて」

 郁の喫驚も無視してかぐやの頭を押し戻すと、改めて中を探り目的の物を取り出した。

「本当に、中に入ってるんですね……」

「うん、驚かせてごめんね」

 言いながら鞄を床に戻した撫子が膝に並べたのは、美夏子のスマートフォンとタブレットPCだった。

「どうかしたんですか?」

「うん、ちょっと、思い付いたの」

 応え、撫子はタブレットを起動させた。

 

 昨夜の事だ。

 美夏子の携帯端末からペルソル対策のヒントを探そうとした撫子と郁は、それ以前に慣れない機械の操作に苦労していた。

「……電源のボタンはどこ?」

「動かないですね」

 布団の上に座り込んだ撫子は端末をためつ眇めつし、郁は真っ黒の画面を何度も何度も突っついていた。

 なんとか起動させて最初に現れた画面の「ロック」と書かれたマークに指先を滑らせた撫子は、ようやく見覚えのある画面に到達した。

 確か、美夏子はここから各機能を呼び出していたはずだ。

 やがてメモ機能を発見した撫子は、そこに保存されていたファイルの中に「ペルソル・疑問」と題されたデータを見つけた。

 他にはスクリームペルソルを始めとする、これまで出会ったペルソルに関する記述や、撫子が変身した「かぐや」の行動にまつわる事が書いてあったが、このファイルだけはその趣が違った。

 そのテキストの冒頭にはまず、注釈が書かれていたのだ。

 

 『「SOLU」とかペルソルの謎で、まだ思い付き段階のもの』

 

 これまで美夏子が解説してきたペルソルに関する考察も、結局は証明のしようのない話ではあったが、このテキストに書き込まれた内容は、美夏子自身が思い付きつつ、まだ口に出すべきではない、美夏子にとって確度の低い事柄が納められているようだった。

 だが、美夏子本人がいない今、例え思い付きだとしてもこの情報にすがる他ない。

 そこには、確かに撫子でも聞いたことのない、美夏子の考えるペルソルの謎と考察が書かれていた。

 

 『ペルソルの目的・・・人間の動作の真似をして、どうするの?』

 『人類を滅ぼすのは無理。武道や絶叫は危険だけど、そこまでじゃない』

 『世界征服? 同じ理由で無理。 そんな知性があるように見えない』

 

 撫子は、目から鱗を落とした。

 つくづく、ミーハーに見えて実は現実的な思考を忘れない、実に美夏子らしい。

 

 『ペルソルは、出会った生物の真似しかしない。独自の行動が、真似する以外にない。なぜ?』

 『原住生物と入れ替わるためではない。人間に紛れるには再現度が低過ぎ。というか論外な外見。ミミックオクトパスにも遠く及ばない』

 『ただし、かぐやを除く』

 

「ミミックオクトパス、って、なんでしょう?」

「私もよく分かんない」

 美夏子の持つ知識のことだ。きっと何か不思議な生物に違いないと読み流した。

 そして、最後の文章を見て、画面を繰る撫子の指の動きが止まった。

 

 『ペルソルの行動には、どこか矛盾というか、不整合な点が多い』

 『もしも、ペルソルの行動が、攻撃が、「攻撃」じゃなかったら?』

 

 ──「攻撃が攻撃じゃなかったら」?

 

「これ」

 揺れるバスの座席で、撫子は再び呼び出したテキストデータを指さした。

 それは、とても奇妙な言葉だった。

 昨夜も二人して頭を捻ってもその意味が分からず、結局読解を断念して寝てしまったのだが。

「ええ。 でも、攻撃が文字通り攻撃のつもりでなかったとしても、実害に変わりはありませんし」

 細いあごに拳を当てた郁が、昨夜と同じ見解を述べる。

「うん。そうなんだけど、そうじゃなくて」

 両の拳で頭を挟み、直感の根拠に自ら悩みながら、でもどこか確信を持って呻く。

「でも、そうなんだよきっと。 ペルソルの攻撃は、攻撃じゃなかったんだ!」

 

 

 「すばる埠頭入り口」と書かれたバス停で降りた撫子と郁は、郁と蛮殻が打ち合わせしたという待ち合わせ場所に向かって歩き出した。

 港の存在は知っていても、撫子がここに来るのは初めてのことだ。

 幅の広い道路の反対側には巨大な物流倉庫が立ち並び、コンビニや商店の類が一切見えない景色は、見慣れない撫子にとってはかなり異色な光景だった。

 海の方へ巡らせば、水平線を遮るように桟橋に着く大きな船や設置されたクレーン、重機がいくつも並んでいる。

 その横に、そろいの外観の巨大倉庫がいくつも果てまで連なっていた。

 宇目木の言った「奥」とは、文字通りあの中の最奥の倉庫のことだろう。

 そこへ直接行く前に、昨夜この辺りを調査したという蛮殻と合流するのだ。

 港の入り口から離れた建物の陰で立ち止まった郁が、携帯電話を取り出して操作し耳に当てる。

「ちょっと、蛮殻さんに連絡してみますね……もしもし」

 電話が繋がった途端、携帯電話の受話口からけたたましい割れた騒音が飛び出し、郁は反射的に顔を背けた。

「ちょっ、どうしたんですか!」

 郁が再び携帯電話を近付けて怒鳴りつける。

 ところがその通話相手の声は泡を食った様子のまままくし立てた。

『あかん! 来んな! 逃げやぁ!』

 蛮殻の焦りにまみれた絶叫が、隣にいる撫子にまで聴こえてくる。

 それどころか、無数に連なる港倉庫の彼方からバイクの立てるような轟音が幾重にも響いてきた。

 明らかに車道とは音の源の方角が異なる。

 乱れた調子で響く轟音は、まるで倉庫のどこかの通路で暴走族が走り回っているのかと思わせる音だ。

「もしもし? あの! もしもし?」

 片耳を押さえながら郁が再三問いかけるが、返答は芳しくないらしい。

「ねえ郁ちゃん、あの騒音かな」

 撫子としても、電話の蛮殻の様子と倉庫の向こうの轟音を結びつけずにはいられない。

「そうみたいですね。 電話からもバイクの音が聞こえましたから」

「行こう! 蛮殻君たちが危ないかも」

「ええ!」

 うなずき合い、撫子と郁はその場から駆け出していった。

 

 郁は、撫子に変身の可否について訊ねることをしなかった。

 撫子が、己の行動に躊躇していなかったからだ。

 

 倉庫の並びに挟まれた広い通路を駆け抜けてゆく。

 全く同じ外観の巨大な建物がずらりと並んでいるのだ。奥へ進めば進むほど、まるで合わせ鏡の世界にでも迷い込んでしまったかのような奇妙な錯覚に陥る。

 けれども、バイクのような轟音は次第に近付いてきているようだった。

「クロコーの仲間って、暴走族なのかな」

「さあ。 広い場所を捜索するのに、バイクを持ち出すことは普通にしそうですが」

 だとして、バイクに乗っているらしき蛮殻とその仲間たちが泡を食うような、いったい何が起きたというのか。

 次の十字路に差し掛かったところで、立ち止まった郁が片手を横に出して撫子を制止した。

 見ると、ひとつ向こうの倉庫の角から、珍妙な形状のバイクの集団が飛び出してきたところだった。

 その先頭の、実物を見るのは珍しい、サイドカー付きバイクの側車に蛮殻が乗っていた。

 不釣り合いに小さくみえる側車に揺られながらしきりに後方を気にしている。

「蛮殻さん!」

 バイクのエンジン音でこちらの声は届かなかったろうが、進行方向にいる郁と撫子のことには気付いたようだ。

 蛮殻は、周りを走る仲間のバイクに手を振って何事か合図をすると、自身の乗るサイドカーの運転手に指示し、こちらに寄ってきた。

 郁と撫子の脇を、数台のバイクが通り過ぎてゆく。またがっているのは、そろいもそろって黒の改造学ランを着た時代錯誤な不良たちだった。

 こちらに近付いてきたサイドカー付きバイクも、蛮殻が飛び降りると、再び速度を上げて走り去っていってしまう。

「なにしとんや! はよ逃げい!」

「蛮殻さん、なにがあったんですか?」

 目の前に来るなり血相を変えて手を振ってきた蛮殻に、郁が問いを重ねる。

「かなりヤバいペルソルが出てきよったんや! 見たことのないやっちゃ! ありゃかなりマズいで!」

 終始厳めしい顔つきをしていた蛮殻がこれほど取り乱すのを見るのは初めてだ。

 ブドーペルソルやガンペルソルを上回る脅威とはいったいどんなものなのか。こうなってはまるで見当がつかない。

 やがて、走り去っていったはずのバイクの轟音が、再び近付いてくるのに撫子は気付いた。

 郁も感じたのか、あらぬ方を見上げ、その音の方角を探っている。

 だが苦渋の表情で蛮殻が振り向いた、先ほどの曲がり角からその爆音と共にその音の主である異形の影が飛び出してきた。

「え?」

 一瞬、何かの猫科肉食獣かと思った。

 蛮殻の言うペルソルとの情報から、無意識に人型を想定していた撫子の意識はわずかに空転する。

 前後の足にそれぞれ車輪を挟んだそれはむしろバイクと呼ぶべきであろうが、普通のバイクと違い肩で、腰で、後ろ足で身体を曲げながら自由自在に蛇行してくるそれはもう四足で駆ける獣の動作だ。

 黄金とは明らかに違う、黄味がかった銀色の甲殻に覆われたバイクに見えたその獣の特徴は、確かにペルソルのそれだった。

『ーーーーッ!』

 まるでクラクションのような甲高い咆哮を上げ、そのペルソルは撫子たち三人を無視して倉庫の壁を駆け登り、屋根の向こうへと飛んでいってしまった。

 その動作もまさしく、木を駆け登る猫科肉食獣の所行だった。

「……バイクペルソル!」

「名付けんのはええけど、マズいで!」

 びしりとペルソルが消えた屋根を指さして告げた撫子の背後を回り込んだ蛮殻が、二人に手招きしながら仲間のバイクが走り去っていった通路に駆け込んでゆく。

 後を追って通路に飛び出した撫子と郁が見たものは、屋根伝いに先回りしたバイクペルソルがクロコーの不良たちのバイクの前に飛び降り、その周囲を跳ね回って翻弄しながら次々と彼らのバイクを蹴散らしているところだった。

「あいつ、あン調子でこの倉庫街ん中でワシらを追い回して遊んどるんや! こっちからバイクで体当たりしてもさっぱり効きゃせん!」

「任せて!」

 悔しげに呻く蛮殻の前に、撫子が飛び出した。

「かぐや、おいで!」

 壁際に置いた鞄からにゅるりと這い出てきたかぐやと共に、広い通路の真ん中に並び立つ。

「美咲……お前、大丈夫なんか?」

「大丈夫! 見てて!」

 どこか自信に満ちた笑顔ではっきりと断言する撫子の姿に、その変わり様を初めて見た蛮殻はきょとんとし絶句した。

「かぐや、お願い!」

 撫子の呼びかけに、かぐやは応え、撫子の身体を駆け上がり迅速に腰で一周すると銀の帯と化し、中央に天球儀を納めた機械のベルトとなる。

 再び前を向いた撫子は、右の拳を腰に当て、曲げた左腕を胸の前に、上体をひねり気取ったポーズで決然と告げた。

「変身!」

 交差させた両手を左右に振り開く動作の途上で左手がベルト上端から生えたナイフスイッチを押し倒す。

 月光を思わせる神秘的な協和音と共に、幾重もの円環のヴィジョンが撫子を取り囲み、ベルトの上下の縁からにじみ出た銀のヴェールが撫子の身体を迅速に包み込み、一瞬の閃光の後に、猫耳を生やした銀の装甲服姿、仮面ライダー「かぐや」が現れた。

『うーーー!』

 眼前に両腕をそろえて身体を丸め、続いてその両腕を左右に大きく広げて仰け反った。

『なーーーーーーー!』

 まるで己の登場を世界に宣言するかのような絶叫は、これまでよりも一層力強い声だった。

「よかった……本当に変身できた……」

 郁が、心底ほっとしたように溜め息を吐き胸を押さえる。

「おぉ……ちゃんと自分を取り戻したようやな」

 撫子の復調を目の当たりにし、蛮殻も鷹揚にうなずいた。

 ところが。

『うん! もう平気だから! まっかせて!』

 あろうことか、これまで変身後はまともに意志の疎通ができなかった「かぐや」が振り返り、撫子の声で自信満々に請け負ったのだ。

 親指まで立てて。

『行っくよおー! なーーーー!』

 そしてぴょんと僅かに跳ねた「かぐや」が、唖然とする二人に背を向けると真っ直ぐに駆け出した。

 銀の矮躯はあっと言う間にバイク同士の混戦の中に飛び込んでいくと、そこにいたバイクの運転手の肩に手をついて器用に倒立し、その勢いで宙を舞うバイクペルソルを蹴り落とした。

『ーーーーッ!』

 抗議のようにクラクションのような苦鳴をあげバイクペルソルは横腹からアスファルトに激突するが、すぐさま跳ね起きて倉庫の壁に飛び上がった。

『みんな、逃げて!』

「早う行け!」

 初めて目にする「かぐや」の異様に戸惑うクロコーの不良たちは、蛮殻の怒声を受けるとすぐさまバイクを反転させて走り出していった。

 倉庫の壁を駆け登ったバイクペルソルは、今度は不良たちのバイクを追おうとせずに、地上の「かぐや」めがけて飛び降りてきた。

 「かぐや」はそれをあっさり躱すが、避けられたバイクペルソルはその勢いのまま反対側の壁を駆け上がるとその途中から虚空へと飛び上がり、宙で一回転してから「かぐや」の真上から襲いかかる。

 これまたくるりと身を翻した「かぐや」に避けられるが、バイクペルソルも一瞬の遅滞なく次の攻撃動作に移っている。

『うーーー!』

 「かぐや」は再び身を丸め、さらに襲いかかってきたバイクペルソルの突撃を躱しながら両腕を広げて声を張り上げた。

『なーーーーーーー!』

 ざうっ。と光の嵐が倉庫街の通路を埋め尽くした。

 呼びかけに応えたコズミックエナジーの奔流に、「かぐや」は頭を突っ込み頭部のエナジーインテークにコズミックエナジーを掻き取り。

 光輝くベルトを操作してエンターレバーを弾いた。

《く・れっせん・と♪》

 バックルが奇妙なイントネーションで認証を告げ、同時に横に現れた長大な光の三日月「クレッセントサイズ」を「かぐや」が手も触れずに振り回す。

『なーーー!』

 気勢をあげて、ペルソルめがけ一閃させる。

 だがクレッセントサイズはかすりもしない。

 黄色い獣は地を駆け壁を蹴り宙を跳び。

 倉庫街の中、巨大な壁に囲まれた三次元的空間を、バイクペルソルは巧みに使いこなしていた。

 縦横無尽に駆け回るバイクペルソルを、直線的に薙ぐクレッセントサイズでは捉えきれない。

 それどころか、クレッセントサイズを振り抜いた隙を突き、無防備な横腹をバイクペルソルがはね飛ばしていった。

『なうっ!』

 派手に吹き飛んでゆく「かぐや」。その途上でクレッセントサイズが霧散して消えてしまった。

 その間もバイクペルソルは決して立ち止まることなく地を壁を駆け回り「かぐや」の周囲を伺っている。

『うなーーーー!』

 叫んだ「かぐや」は再び光の洪水に頭を突っ込みコズミックエナジーを取り込むと、光を増したセレスティアルドライブの輝きを半分に絞り、エンターレバーを弾いた。

《は・ぁ・ふ・むーん♪》

 バックルが歌うように認証を告げ、「かぐや」の左右に輝く四分の一球の曲面体「ヘミソフィアンシェル」が出現する。

『なーーー!』

 壁を蹴って背後に回り込んだバイクペルソルに対し、「かぐや」は両腕を広げて胸を張るようにすると、左右に浮かぶヘミソフィアンシェルが背中で合体し半球の盾となった。

 死角を突いたと思い込んだバイクペルソルがヘミソフィアンシェルに跳ね返されたと同時にヘミソフィアンシェルを割り開きながら「かぐや」が飛び出し、バイクペルソルに踊りかかる。

 が、一瞬早くバイクペルソルが飛び退き、「かぐや」はそこに前転して立ち直った。

 なおも壁を蹴って周囲を伺うバイクペルソルに対し、「かぐや」は左右にヘミソフィアンシェルをかざしながら対峙する。

 やがて「かぐや」めがけて壁を蹴ったペルソルに向け、「かぐや」は即座に左右のヘミソフィアンシェルを閉じ合わせた。

 ところが、バイクペルソルが着地したのは「かぐや」のすぐ横だった。

 それと気付いた時には振り上げた黄銀の車輪が「かぐや」を殴り飛ばしていた。

 直線的に飛びかかると見せかけ、視界をふさぐヘミソフィアンシェルを逆に利用して死角に飛び込む。

 バイクペルソルは思いのほか狡猾だった。

 路上を派手に転がり、その途上でヘミソフィアンシェルが霧散して消えてしまった。

「撫子さん!?」

「美咲!」

 郁の、蛮殻の悲鳴があがる。

『……ちがう……』

 だが、倒れ伏す「かぐや」が三度、撫子の声で語り出した。

『……ちがうよ……そんなんじゃ、ない』

 背中から叩き潰そうと真上から襲いかかってきたペルソルの車輪を転がって躱した「かぐや」が、やがてしっかりと立ち上がった。

『違うよ! あなたのそれは、そんなんじゃない!』

 周囲を駆け回るバイクペルソルに向かって叫んだ「かぐや」は、辺りを埋め尽くす光の洪水、コズミックエナジーの奔流に三度、頭を突っ込んだ。

 頭を振り下ろし、伸び上がるように振り上げ。

 舞うように身を翻してエナジーインテークにコズミックエナジーを取り込んでゆく。

 これまでの時よりも、多く。

 やがて輝きを増したベルトのセレスティアルドライブを、その周りの円環のフレームを操作し半月に、三日月に絞ってゆく。

 やがて輝きは完全に閉ざされてしまったが、「かぐや」の手はなおも円環のフレームをスライドさせてゆく。

 バックルの中央に設置されたセレスティアルドライブが、反対側から輝きを漏らし、一回転したそれは完全な満月となって強い光を放った。

 そして、バックル下端に張り出したエンターレバーを弾く。

《ふ・る・むーん♪》

 ベルトが初めて聞く認証を告げたと同時。

 「かぐや」の背後に、巨大な輝きが生まれた。

 周囲を埋め尽くすコズミックエナジーの洪水の中にあって、その光の球はひときわ強く輝いていた。

 球の表面にはいくつものリング状の影が薄ぼんやりと浮かび、まるで走査線のように不規則に瞬きながら這い回っている。

 表面に残像のシミを浮かべる光の球は、さながら真昼の月のレプリカのように見えた。

 だがその輝きは静謐な力強さを湛えており、モジュールとして生成されてなお付近に漂うコズミックエナジーに影響を及ぼしている。

 無為に漂うコズミックエナジーの流れが、「かぐや」を中心にゆったりと渦を描き始めたのだ。

 その光の流れはまるで、銀河のよう。

 この一抱えもある大きな光の球体が、「かぐや」の三つ目のセレーネモジュール「ルナティックオービット」。

『あなたのそれは、そういうんじゃないの。本当はどうするのか、教えてあげる』

 撫子の声で静かにそう告げた「かぐや」が、輝く球体を背後に従えたまま足を踏み出した。

『ーーーーッ!』

 クラクションのような咆哮を上げて、バイクペルソルが地を壁を駆け回り、凄まじい速度で「かぐや」の横に回り込んだ。

 「かぐや」は横からの突撃を冷静に躱すと、僅かに膝を沈めてから右腕を下から上に弧を描くように振り上げた。

 まるで、サーブトスのように振り上げられた手の動きに従うように、ルナティックオービットが「かぐや」の脇下を回り込んでから真上に浮上してゆく。

 そして、「かぐや」の頭上数メートルの位置で静止した。

『ーーーーッ!?』

 戸惑うようにペルソルが呻く。

 だが結局バイクペルソルはさらに突撃をしかけてきた。

『ーーーーッ!』

 気勢を上げ突進するペルソル。

 だが、その車輪が突然空転した。

『ッ?』

 慌ててもがくバイクペルソルはだが、その身体は虚空にあった。

 まるで見えない糸に釣り上げられるかのように浮き上がってゆくのだ。

 それはやがて、地上の「かぐや」と上空のルナティックオービットとの中間で止まった。

 こうなってはバイクペルソルの高機動もまるで意味がない。

 すると今度は、「かぐや」までもが宙に浮き上がり始めた。

 セレーネモジュール「ルナティックオービット」は、重力を操る。

 月が、地上の重力に影響を及ぼすがごとく。

 浮上した「かぐや」が真っ直ぐにペルソルに近付くと、もがくバイクペルソルの背にひょいと飛び乗りまたがった。

『いくよ』

 囁くと、「かぐや」はバイクペルソルの両肩の突起をハンドルのように握りしめた。

 撫子にはバイクの操縦経験などないが、ついさっき、蛮殻の仲間たちの運転を見させてもらった。

 それに、これからする事は、ポーズだけで構わない。

『あなたのそれは、こうするの』

 「かぐや」が囁くと、「かぐや」を乗せたバイクペルソルはゆっくりと地上に降りてきた。

 上空にあったルナティックオービットも輝きを僅かに抑えて重力操作を中断し、「かぐや」の背後に舞い降りた。

『行くよ。 それっ!』

 「かぐや」の号令に従い急発進したバイクペルソルが「かぐや」を乗せたまま倉庫街の通路をもの凄い速度で駆け抜けていった。

 「かぐや」の背にはルナティックオービットがぴったりと追従している。

 端までたどり着くとその場で鋭くターンし、再び戦闘の現場だった地点まで戻ってくる。

『そうだよ! あなたが覚えたそれは、本当はこうするの! 楽しいでしょ?』

『ーーーー!』

 クラクションの咆哮は、どこか嬉しそうな響きだった。

「……何事やこれ」

「ペルソルの攻撃は、攻撃じゃなかったんです」

 呆気に取られている蛮殻の呻きに、郁が微笑みながら答えた。

『この事を、みんなにも教えてあげたいの。きっと楽しい。 ねえ、連れてってくれる?』

『ーーーー!』

 自らにまたがる「かぐや」の申し出に対し、バイクペルソルのクラクションの声は、喜色満面の肯定の意にまみれていた。

 そのまま速度を上げたバイクペルソルは、郁と蛮殻の脇を通り抜けてゆく。

『ちょっと行ってくる! みんなにも教えてあげなくちゃ!』

「なななにい!?」

「行きましょう蛮殻さん」

 笑んだ郁も、蛮殻の上腕を軽く叩いて促した。

 「かぐや」を乗せたバイクペルソルは、バイクらしい速度でこの倉庫街の通路を奥へと爆走してゆく。

 それを見送りながら、慌てる必要もないと判断した郁は蛮殻と共に小走りでそれを追いかけていった。

 

 




 今回のサブタイトルは「おうびょうよやく」と読みます。
 本来の諺は「応病与薬」と言って、病気に応じて適切な薬を与えるように、人に応じて法を説く例えだそうです。
 暴虐のペルソルに対し、撫子が発見した適切な薬とはなんなのか。


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第9話 猫・巣・幕・上

「食っておけ」

 がさり、と目の前の床にビニール袋が置かれた。

 見覚えのあるパンやおにぎりのパッケージが透けて見える。

 膝を抱えてうずくまる美夏子が顔を上げた時には宇目木は背を向けて離れるところだった。

 白衣の後ろ姿が振り返り、対面の壁の窓枠に背中からもたれかかって外を眺め遣る。

 窓の向こうに見える空は既に早朝の青。

 だがその横顔からは、なんの感情も伺えない。まるで青空の背景に穿たれた孔のような虚ろ。

 周りを取り囲むこの無機質なコンクリートの壁の延長のようにすら思える。

「…………」

 この一晩、宇目木がここからどこかへと出ていくことはしばしばあったが、その間に逃げることはできなかった。

 今も美夏子のすぐ横で棒立ちしている赤銅色の異形・ブドーペルソルが、眠りもせずにずっと見張っていたからだ。

「…………」

 ずれた眼鏡を直した美夏子は特に警戒もせずにビニール袋を取り上げ、中身を漁り出した。

「……センセ。わたし、たらこ食べらんないです」

「我慢しろ」

 宇目木は外を眺めたまま素っ気なく応えた。

「この一食を我慢すればいい。どうせ昼までには全て終わる」

 美夏子は、手にとったコンビニおにぎりを不機嫌に見下ろした。

 

 あれから一晩。

 底冷えのする高所を跳ねて長距離を運ばれたことと、このコンクリートが剥き出しの部屋に毛布一枚で転がされたこと以外は特に手荒い扱いは受けなかった。

「こんな事しなくたって、ペルソルだって分かったらわたしたちは普通にセンセのとこ行きますよ」

『どうかな。お前たちが同族を手懐けて何を企んでいるのかをオレは知らないからな。 お前たちは手懐けた同族の力で何をしようとしていた?』

「部活動です!」

『部活動?』

 得意げに胸を張る美夏子の言に、半分を銀で覆われた宇目木の顔が怪訝に傾いた。

 この鉄面皮の教師の表情が、ほんの僅かでも歪むのを見るのはそれなりに快感ではあったが。

「わたしたち「ミステリー研究会」なんですよ!」

『……そんな部活など、聞いたこともないが』

「こないだ作ったばっかですから。 まだ届け出も出してませんけど」

『ふん。そんな子供の遊びに同族の力を使うと言うのか』

「け ん きゅ う です遊びじゃありません!」

 銀に半ば覆われた宇目木の異様にも全く頓着せず美夏子は突き出した指先で嘲笑を遮った。

「だから、知ってればセンセのところに行ったって言ってるんです。 センセこそ、何が目的なんですか? て言うか、センセはセンセですか? それともペルソルが化けてる偽物なんですか?」

『俺はオレだ』

 宇目木が、銀の胸郭を指先でとんとんと叩きながら応えた。

『俺はオレに興味を抱いた。オレを知りたいと思った俺のその精神活動に同調したオレは俺と同化することで「知ること」を完遂し、そしていま利害が一致した俺はオレの使命を遂行中だ』

 相変わらず語る主観のニュアンスがころころ入れ替わる宇目木の言にゲシュタルト崩壊を起こした美夏子は、痛めた頭を休める為にふてぶてしくも昨夜はそのまま眠ることにしたのだが。

 

「……って言うかセンセ。 へんへ自身の意識も……あるみたいれふけど、」

 しかめっ面で具のたらこを避けながらおにぎりをかじる美夏子が、半眼で宇目木に問いかけた。

「ぺるほるとひての使命はろもかく、……へんへに宇宙人に協力ふる理由がないやないれふか」

「食うかしゃべるかどっちかにしろ」

「えふから」

 もぐもぐと咀嚼しごっくんと咽下してから、さらにペットボトルを煽りお茶をひと飲みして息をついてから美夏子は繰り返した。

「センセの方には、ペルソルに協力する理由がないじゃないですか。 センセのペルソルが模倣した人間の動作って「知ること」なんでしょ? それがどうして、わざわざセンセと合体してるんですか? ほかのペルソルは人間を取り込んだりしてないのに」

 傍らに棒立ちしているブドーペルソルを指さしながら言う美夏子を、宇目木の横目が煩わしげに見返した。

「美咲を取り込んでいるやつがいるだろう」

「それは、そうですけど」

 かぐやの行動原理については、既に美夏子の中である程度の推論が成り立っていた。

 だが、宇目木を取り込んでいるであろうノーレッジペルソルには、それは当てはまらないのだ。

「でもセンセは言ってましたよね? センセとペルソルの利害が一致したって。 てことはセンセ自身にもペルソルの力を利用する何か目的があるってことですよね? 「センセ」の目的は、なんなんですか?」

「黙れ」

 美夏子を見る宇目木の僅かに細められた目に怒気がこもった。

「お前が知る必要はない」

「生憎と知的欲求についちゃあ一家言あるミステリー研究会なもんで」

 無表情だった教師が初めて見せる眼光にも頓着せずに美夏子は強気な顔でそれを睨み返した。

「ってゆうか、宇目木センセって普段無口で無表情だから、なに考えてんのかよく分かんないんですよね。そのくせイケメンで良く似合ってるってのがまた癪に障りますよねそれで許されてるカンジで。 どうですか? この縁を機にセンセの考えてること教えてくださいよ。あとついでにミステリ研の顧問に」

『黙れと言ってる』

 瞬時に懐から噴き出した銀で半身を覆い、ぺらぺらとまくし立てる美夏子に向かって大股で迫った宇目木が片腕を振り上げ。

 どがっ。

「……!? 」

 宇目木の銀に覆われた拳が美夏子の耳のそばを掠め背後の壁に突き刺さった。

 肩にぱらぱらと散らばるコンクリートの破片で己の背後で何が起きたのかを悟り、横目で腕の行方を辿る美夏子の顔がさっと青くなった。

 その美夏子の顔を、宇目木の異貌がじわりと圧力の気配をかけて覗き込む。

『……知ったふうな口を利くな。お前に何が分かる』

 押し殺した声音は、数少ない宇目木との会話の中でもひときわ昏く。

 逆光に陰るその顔は、苦々しげに歪んでいた。

『今さら俺を知ろうだと? 貴様よくも……』

 宇目木の顔の、半分を覆う銀の異形のマスクに穿たれた孔から赤い光が浮かび上がる。

 その赤い瞳が美夏子を睨み据えた。

「…………!? 」

『よくも…… ……っ!? 』

 ところが、なおも言い募ろうとした宇目木が突如、壁から引き抜いた掌で自らの半面の異貌を押さえるとふらふらと後退った。

 頭痛でも堪えるかのような苦しげな宇目木の様子に、美夏子としても怪訝に見守るしかない。

「…………センセ?」

 その時、バイクのエンジンとも獣のうなり声ともつかない轟音が遠くから響いてくるのが、開きっぱなしの窓から聞こえてきた。

『…………?』

 同様に気付いたらしき宇目木が、半面を押さえたまま窓に寄り、外の様子を見下ろしてこちらを振り向いた。

 いや、美夏子の後ろに控えているブドーペルソルを。

『行ってこい』

 宇目木の命令に黙ってうなずいたブドーペルソルが、素早く身を翻してこの部屋から駆け出していった。

「……センセ?」

『美咲が来たようだ。こちらの手勢を手懐けてな』

 確かに聞こえてくる轟音は、あの黄色いバイク型のペルソルのものだ。

 しかも、あろう事か撫子がそのペルソルを手懐けたと言う。

(ナデシコも気付いたんだ……!)

 それの示す所に思い至り、美夏子の顔に喜色が浮かんだ。

『俺も行く。 お前の役目は終わりだ。もう用はない。あとは好きにしろ』

 平静に戻ったらしき宇目木がいつもの淡々とした口調で言いながら、そんな美夏子を置き去りにブドーペルソルが出ていった出入り口から立ち去っていった。

 

 

 「かぐや」を乗せた黄色い異形の四足獣・バイクペルソルは、やがてこの倉庫街の最奥のひとつの倉庫の前で停止した。

『ほかのみんなは、ここにいるの?』

 撫子の問いに、バイクペルソルがクラクションのような咆哮で応える。

 ところがその倉庫は、壁前面を覆う巨大なシャッターで閉ざされていた。

 だが、いかな堅牢なシャッターと言えど、「かぐや」の腕力でこじ開けることは造作もない。かぐやと変身した自身の能力を、撫子は今やすべて完全に把握していた。

 実際の所はそこまで深く考えることをせずに、当たり前にシャッターをこじ開けてやろうとバイクペルソルから降りるために片足を振り上げかけたところで突如、バイクペルソルが急発進した。

『わっ!? わわっ!? 』

『ーーーーーッ!』

 慌ててハンドルにしがみついた「かぐや」にバイクペルソルがクラクションの咆哮で警告を発する。

 そして急ターンしたバイクペルソルの前には、つい一瞬前まで「かぐや」がいた場所には、いつの間にか人影が屈み込む姿勢でそこにいた。

 赤銅色の捻くれた巨体。

 郁の武術を模倣したブドーペルソルだった。

 倉庫の上から飛び降りてきたのだろう、屈めた屈強な体躯を起こし立ち上がったブドーペルソルは、やはり郁にそっくりな動作で「かぐや」に対し身構えた。

『ーーーーッ!』

 ブドーペルソルに対してバイクペルソルが威嚇するように吼える。

『いいの。大丈夫だよ』

 宥めるようにガソリンタンクのようなバイクペルソルの丸い背を撫でながら「かぐや」は足を振り上げて地に降り立った。

『大丈夫だから。 だから、あなたは下がってて』

 言い置いて「かぐや」は前に進み出ると、ブドーペルソルと対峙した。

『あなたは、郁ちゃんの武術と、蛮殻君のケンカを覚えたんだよね』

 「かぐや」の静かな問いかけに、ブドーペルソルは反応を見せず、いきなり滑るように突進してきた。

 間髪入れずに繰り出された拳を、こちらを掴もうとする手を「かぐや」はすいすいと流水のような滑らかな動きで躱してゆく。

 それはかつての撫子の意識が薄かった頃のはしゃぐような動作とは違う、冷静な、撫子の意志のこもった動き。

『!? 』

『違う。違うよ。 あなたの覚えたそれは、本当はそんなんじゃない』

 なおも繰り出された腕をするりと小脇に絡め取り、顔面を間近に突き合わせた「かぐや」の黄色いセンサーがブドーペルソルの赤い瞳を覗き込む。

『ごめんね。 あなたが突然現れたから、きっと郁ちゃんもびっくりしちゃったんだと思う。 びっくりしてあなたにそんなことしちゃったんだと思う。だからね』

 湖面を撫でる風のように静かに、優しく穏やかにそう語った「かぐや」が赤銅色の腕を跳ね飛ばし、くるくると身を翻すと改めてブドーペルソルに対して身構えた。

 郁のそれと全く同じ動作で。

『教えてあげる。あなたのそれが、本当はどんなものなのか』

 真っ直ぐ伸ばされた腕の先で、ピンと反らした掌がくるりと翻り、四指がくいくいと招くように動いた。

『教えてあげる。 おいで』

『ッッ!』

 赤銅色の巨躯が、赤い稲妻と化して「かぐや」に襲いかかった。

 

「あっ!」

 倉庫の陰から飛び出した郁が、その光景を目撃して声をあげた。

 全力疾走してきた蛮殻ともども、激しく息をつき肩を上下させながら、そこで繰り広げられている戦いに目を奪われる。

 いや、「戦い」とは違うかもしれない。

 確かにそこで展開されているのは、郁の家で行われているのと同じ、鼓獅子流の組み手のようだ。

 だが、そこにあるのは、技を磨き高みを目指す研ぎ澄まされた空気ではなかった。

 かと言って、得体の知れない異形の暴虐とも違う。

『えいっ!』

 突き出されたブドーペルソルの腕の上で倒立した「かぐや」が足で綺麗な弧を描いて背後に着地すると、続くペルソルの後ろ回し蹴りをさらに前転の要領で躱し、背を向けたままペルソルの猛攻をひょいひょいと踊るような動作で捌き、足を取ろうとする蹴りを、踏み込みの反作用をこめた体当たりを、ちょこちょことまさしく猫のように四つん這いで潜り抜ける。

 それは、武道の技の応酬ではない。暴虐の戦闘ではない。「かぐや」がブドーペルソルをパートナーに踊り回っているかのようだった。

 「かぐや」の動きは、確かに鼓獅子流を基礎にしつつも、もはや全く別種の体系に改変されていた。

 ペルソルに人間の動きを模倣する習性があったとして、覚えた動きを応用して昇華させたのは、果たして進化したかぐやによるものなのか、それとも撫子によるものなのか。

(きっと、これが撫子さんとかぐやの、二人が力を合わせた結果……!)

 呆然と見つめる郁の目線の先で、二体の銀色の異形の奇妙なダンスは勢いを増してゆく。

 赤銅色の裏拳を新体操のような前後開脚で屈んで躱し、同時に前に出した足でブドーペルソルの足を弾く。

 体勢を崩したペルソルを、倒立した「かぐや」の開脚した両足が回転して連続して蹴り付ける。

 全体重を乗せた反撃の踏み込みは、土下座の姿勢で地面をにょろにょろと這い下がっていった「かぐや」に躱されてアスファルトに足形の穴を穿った。

『えーい!』

 ぴょこんと跳ねた「かぐや」のつま先がブドーペルソルの顎を蹴り上げ、着地後瞬時に身を翻した「かぐや」が仰け反るペルソルに背を向けたまま上体を屈めた。

 いや、これは。

『ライダーヒップ!』

 あろう事か、中身があの撫子とは思えない可愛らしくも大胆な仕草で突き出された「かぐや」の尻が、ブドーペルソルを突き飛ばしシャッターに激しく激突させたのだ。

「……なにしちょるんや美咲は」

「あはは。 あんな動き、鼓獅子流にはないですよ」

『うなー!』

 呆然とする郁と蛮殻の前で、「かぐや」が片腕を突き上げ元気な喝采をあげていた。

『ッッッ!!』

 シャッターにめり込んだ体を引きずり出したブドーペルソルが、癇癪を起こしたように呻き、地面を殴り付けた。

『ダメダメ。だめだよそんなんじゃ』

 くるりっ、と振り返った「かぐや」が立てた人差し指をちっちと左右に振る。

『それじゃ、上達しないよ。怒ったらダメ。頭にきて暴れるだけなら、技なんていらないよ』

 聞こえていないかのように踊りかかってきたブドーペルソルの突進を、「かぐや」は屈んだ猫が伸び上がるような動作で易々と潜り抜けてしまう。

『上手に動けるように、本当は何度も何度も繰り返して練習するものなんだよ? ちゃんと動けるように、冷静になれるように自分を律するものなんだよ? 上手くできなかったら、何が悪かったのか反省して、直しながら上達させるものなんだよ?』

 はっとした郁の瞳が大きく見開かれた。

『ただ相手をやっつけるためだけじゃない。 相手をやっつけて、みんなやっつけて、誰もいなくなって、それでどうするの?』

 郁は、撫子に武道のなんたるかを詳しく説明した事はない。

 それなのに撫子は、武道において教え諭される事を知っている。

 変身したかぐやと撫子は、その答えまでも自らだけで導き出したのだろうか。

『これだけ言ってもわからないなら……仕方ないね』

 まるでじゃれ合う猫のように攻撃を躱していた「かぐや」が、ブドーペルソルの脇をするりとかい潜り背後に回り込んだ。

『ごめんね。代わりにかぐやが、ちゃんと伝えてあげるから』

 ブドーペルソルが体勢を立て直すより早く跳び退いて間合いを広げた「かぐや」が、身を丸めてから大きく両腕を開いて仰け反り大声をあげた。

『うなーーーーーー!』

 ざうっ。

 たちまち辺り一帯が吹雪のようにコズミックエナジーの奔流に満たされた。

 「かぐや」はすぐさま身を翻し、辺りのコズミックエナジーの群に頭を突っ込み、両側頭部のエナジーインテークで光の粒子を掻き取ってゆく。

 それを数度繰り返してから「かぐや」はベルトの円環のフレームを操作し、中央のセレスティアルドライブの輝きを一旦しぼりきってから、再び反対側より輝きを解き放ち、完全な満月を成した。

 そしてバックル下端のエンターレバーを弾く。

《ふ・る・むーん♪》

 認証の声と共に輝きが「かぐや」の背後に集中し、やがてそこに巨大な光の球体が形成された。

 完成したセレーネモジュール「ルナティックオービット」をアンダースローの手振りで操作し、高く上空に浮かび上がらせた。

『覚えてくれて、ありがとう。 ちゃんと教えてあげられなくて、ごめんね』

 真摯に告げる「かぐや」の前で、さらに襲いかかろうとしたブドーペルソルの巨体が突如宙に浮かび上がった。

 地を駆けようとするその太い足が虚しく空転する。

 ルナティックオービットの局所重力操作により、地上からの重力を遮断されて引き寄せられているのだ。

 空中で激しくもがくが、手掛かりもない宙にあってはいかなる動作ももはや意味はない。

『うーなっ!』

 かけ声とともに跳躍した「かぐや」の身体が、身を翻して片足を突き出した跳び蹴りの姿勢になると、空中でぴたりと静止した。

 その足先は、上空のルナティックオービットと「かぐや」を結ぶ中間の位置に浮かんでいるブドーペルソルを指している。

 その姿勢のまま、「かぐや」の片手がベルトのレバーを引き起こし、すぐにまた引き倒した。

『リミットブレイク』

 撫子の声で静かに呟いた「かぐや」の身体が、やがて浮上し始めた。ルナティックオービットの方向に。

 ルナティックオービットに、自らの身体を引き寄せさせているのだ。

 その速度は迅速に増加し、そして跳び蹴りの姿勢の「かぐや」は砲弾の勢いで上空のブドーペルソルを貫いた。

『ッッ!』

 「かぐや」の背後で苦悶に身を捩ったブドーペルソルは、次の瞬間には幾重ものスパークを迸らせ、爆発した。

 「ムーンサルトライダーキック」と叫びたくなる衝動を敢えて抑えて「かぐや」は爆煙を背後に地上に着地した。

 

 

『うーなっ』

 「かぐや」のかけ声と同時に倉庫のシャッターがメリメリと異音を立てて押し上げられてゆく。

 想定外の加圧に、シャッターの縁が「かぐや」の手がかかる位置を頂点に「へ」の字にひしゃげてしまっている。

 「かぐや」が万歳の姿勢になる所まで押し上げられたシャッターの向こう、倉庫の暗闇の中からシャッターの異音が幾重にも反響してきた。

 やがて異音が鎮まったところでヘッドライトを灯したバイクペルソルが微速前進で進入してゆく。前後の脚に挟んだ二輪だけで、しかも誰も跨っていないというのに器用にバランスを保ったままだ。

 続いて「かぐや」が、郁が、遅れて身を屈めた蛮殻がシャッターをくぐって倉庫の中に入る。

『ひろーい!』

 ぴょこんと両手と片足を跳ね上げて「かぐや」が叫ぶ。その声もまた反響してきた。

 倉庫の中は真っ暗闇であった。

 バイクペルソルのライトが照らす範囲から見ると内部は非常に広く、見上げると、はるか高所に等間隔に穿たれた通気孔から差し込む光を受けて天井の所在が見て取れる。

 闇に沈む奥行きはバイクペルソルのハイビームを以てしても判然としないが、学校の体育館の倍は優に越える広さだろうと思えた。

『しかも、なんにもなーい!』

 なーい、とさらに声が響く。

「……いや待てまて美咲。 おみゃあさん、こない暗あて、あるモンも見えやせんやろ?」

 はた、とその異常に気付いた蛮殻が手を振ってツッコんだ。

「もしかして美咲さん、見えてます? 反対側の壁とか」

『え? 郁ちゃん見えない?』

 くるりっと踊るように振り返ってきた「かぐや」の台詞に、郁と蛮殻が顔を見合わせた。

「……美咲はホンマ大丈夫なんか?」

「いえ、たぶん、かぐやと変身したあのスーツのおかげでしょう」

 身体能力と反射速度の増強については、美夏子の解説に加え実際の戦闘を見ることで実感していたが、どうやら変身した撫子の視覚、もしかしたら五感の全ても増強されているのかもしれない。

「暗いのも見通すかぐやの「猫の目」の能力も授かっているのかもしれません」

「ほお、そりゃあてえもねえのう」

 蛮殻の表情は曖昧に傾いたままだったが、とりあえず納得することにしたらしい。

「そいで美咲。ここにセンセエがおるんきゃなも?」

「……!? 」

 蛮殻の言葉にはっとした郁が、険しい顔で身構えた。

 そうだ。ここは撫子がバイクペルソルに「仲間のところに連れていって」と頼んで辿り着いた場所なのだ。

 このバイクペルソルと先ほどのブドーペルソルが宇目木が用意した「お膳立て」なのだとしたら、その終着点には宇目木と美夏子がいるはずだ。

「それとも、実はそのバイクのペルソルに担がれたかなも?」

「っ!? 」

 続く蛮殻の言葉に郁は再び息を飲んだ。底冷えのする恐怖に震えが走る。

 これは生活環境の違いだろう。喧嘩に明け暮れていたらしき蛮殻とは違い、郁にはつくづくそういう発想に縁がない。

 もし、まだペルソルの仲間が他にもいるのだとしたら──!?

『心配はいらん』

「っ!? 」

 突如かけられた声に蛮殻と郁が同時に背後を振り返った。

 遅れて「かぐや」がくるりとそちらを向いた。

『そいつは別に担いではいないが、ここで合ってる。 ここで、終わりだ』

 そこに。こじ開けられてひしゃげたシャッターの隙間から差し込む光を背に、半身を銀の泥で覆った白衣の異装の男が。

 宇目木が立っていた。

 

 ふと気付くと、目の前の宇目木の姿が消失していた。

 その異常に気付いた郁が己の目の不調を疑うより早く、金属が激突する鈍い音が聞こえそちらを振り向いた。

 いつの間にか背後に移動していた宇目木の、その銀に覆われた片腕がバイクペルソルの丸いガソリンタンクのような背中に突き刺さっていたのだ。

『バイクちゃん!? 』

 「かぐや」が、撫子が悲鳴をあげる。

『俺は知っている。ペルソルの弱点を。こいつの弱点をオレは知っている』

 平淡な口調で言って宇目木が銀の腕を引き抜き、バイクペルソルを蹴り倒した。

 それはただの前蹴りにしか見えないというのに、頑丈そうな黄色の体躯が「く」の字に折れ曲がり床のコンクリートを抉り散らしながら倉庫の奥へ吹き飛んでゆく。

「……っ!? 」

 郁は、つい先日宇目木が人ひとりを抱えてビルからビルへ跳躍したことを思い出した。撫子が変身した「かぐや」といい、ペルソルがもたらす力には改めて戦慄を感じざるを得ない。

 ライトの光条をあちこちに振り撒きながら数度転がっていったバイクペルソルはそのまま力なく崩折れ、ライトの灯りを消失するとそれきり動かなくなった。

『知識は力だ。急所さえ突ければ、仰々しい技術体系も過剰なパワーもいらない。そして他者の視覚を、認識を欺くすべを知っていれば、いかなる防御も意味はない』

 その手の捻くれた鉤爪をかざして宇目木が語るうちに、倒れたバイクペルソルの身体がその輪郭を歪め、溶けるようにして崩れ落ち銀色の泥と化して床上の闇に広がり消えてしまう。

『バイクちゃんっ!? 』

 「かぐや」が悲痛に叫んだ。

『その気遣い。かつての美咲からは考えられない態度だな』

 その声は、また異なる位置から聞こえてきた。

 事の異常に戦慄し、再び宇目木の姿が消失した事に気付いた郁が警戒態勢で周囲を見回そうとしたその時には、そちらからくぐもった音が聞こえてきた。

『だが今は無用だ』

 振り向いた郁の目に、宇目木が「かぐや」の腹に銀の爪を突き立ている光景が飛び込んできた。

「あぁ!? 」

『あ……』

『ご苦労だった。 その情報、もらい受ける』

 目を剥き息をのむ郁の目の前で。

 捻くれた銀色の五指が引き抜かれ、ベルトバックルのセレスティアルドライブに穴を穿たれた「かぐや」が、脱力したようにがくりと膝を落とした。

 

 




 サブタイトルは「びょうそうばくじょう」と読みます。
 本来の言葉は「燕巣幕上(えんそうばくじょう)」と言い、「燕が幕の上に巣を作るがごとく不安定で危ういさま」を示す諺で、囚われの美夏子は言わずもがな、一同の未だ危うい現状を示すものでした。

 次回、最終回です。


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最終話 笑・顔・満・面 (前編)

『ご苦労だった。 その情報、もらい受ける』

 衝撃の光景に目を剥き息をのむ郁の目の前で。

 輝きを失って黒い石塊となり果てたセレスティアルドライブから捻くれた銀の鉤爪が引き抜かれ、「かぐや」が、がくりと膝を落とした。

『あ……』

 座り込む「かぐや」を、多軸回転する幾重もの円環のヴィジョンが取り巻いた。

 歯車のようなその回転が突如軋んで止まると、まるでガラスのように微細に砕け散って消えてしまった。

 その衝撃に、元の制服姿に戻った撫子が、銀毛の仔猫がそれぞれの方向へ吹き飛ばされる。

「撫子さん!? 」

「美咲い!」

『お前たちのその不完全な合体がもたらす、通常のペルソルでは考えられない高出力のエネルギーの出所も分かっている。独自に疑似永久機関を作り上げたのは驚くべき事だが、それを破壊されては、その不完全な合体など維持してはいられまい』

 宇目木の顔は、血相を変えた郁と蛮殻が駆け寄って助け起こした撫子ではなく、離れた床に横たわるかぐやを見下ろしていた。

『安心しろ。お前が集めた情報は、オレが全て統合する』

 言うと、宇目木はかぐやに向かって歩き出した。

 撫子たちに無造作に背を向けて。

 その素っ気ない動作はもはや完全に撫子らへの興味を失っているように見えた。

「……か……ぐ、や」

 朦朧とした撫子が、郁の腕の中で身じろぎし、かぐやの方へ手を伸ばした。

「……っ!」

 突如、蛮殻が立ち上がり、歩む宇目木めがけて駆け出した。

「蛮殻さん!? 」

「おみゃあはかぐやを!」

 宇目木の腰にしがみついた蛮殻の絶叫に、郁も撫子を丁寧に寝かせてから飛び出した。

 かぐやを目指して蛮殻が組み付いた宇目木の脇を走り抜ける。

『……邪魔をするな』

 ぽつりと告げると、蛮殻の背に宇目木の強烈な肘が叩き込まれ、踏ん張っていた足を蹴り払われるとそのまま上着の背中を掴まれて投げ払われた。

 コンクリートの上を派手に転がっていく蛮殻を一顧だにせずに宇目木は前進し、かぐやを抱え上げて振り向いた郁の眼前まで滑るように接近する。

 振り上げた銀の手刀を屈んで躱した郁の死角から、宇目木のかかとが襲いかかった。

「ッ!? 」

 不意を打たれた郁はかぐやを抱いていない腕の肘で辛うじてブロックするが、その強烈な一撃で完全にバランスを崩してしまった。

 その上、続いて宇目木が振り上げた拳が腕の中のかぐやを狙っている事を察知し、その冷酷さに震えながらもとっさにかぐやを放り投げた。

 宇目木の向こうでようやく立ち上がった蛮殻めがけて。

 かぐやは意識がないのか、目を閉じたまま、体も脱力したままだ。

『あれを狙われては、投げるしかないだろうな』

 平淡に呟いた宇目木は、填められたと知って顔を青くした郁にあっさり背を向けると、こちらに駆け寄ろうとしていた蛮殻の胸板を突き飛ばして落ちてきた仔猫を片手で掴み取った。

『無駄な事はやめろ。邪魔をするな』

 床に転がった蛮殻の背を踏みつけ、銀の捻くれた五指で握り込んだかぐやを突き出して郁を牽制し身動きを封じる。

『それに、もう終わりだ』

 そして倒れる撫子と、苦渋の顔の郁と、苦悶に呻く蛮殻の見ている目の前で。

 宇目木の手の中で眠るかぐやのその身体が、輪郭を揺らめかせ溶け崩れるように形を、色を失い、宇目木の手の中へ吸い込まれて消えていった。

 

 

 その光景を目の当たりにしても、撫子の眼差しは微塵も揺らぐことはなかった。

 

 

『ッぐッ!? 』

 突如、宇目木が身を折りくぐもった呻き声を漏らして後退った。

 圧迫から解放された蛮殻は素早く起き上がり、駆け寄ってきた郁の手を借りて立ち上がると撫子の側へと退がった。

「……何事やこりゃあ」

『ぐっ……これは……何故……!? 』

 苦悶の表情の宇目木が胸を、銀で覆われた反面を押さえて後退る。

『ぅあッ、ああああああ』

 身を捩り、まるで別個体の蛇のように暴れ出した自らの銀の腕を片手で押さえてなおも悶え続ける。

「先生には、「あなた」には、かぐやを取り込むだなんて、できないよ」

 静謐な声が語り出した。

「撫子さん!? 」

 喫驚した郁が振り返り、身を起こした撫子の手を引き助け起こす。

『っぐうう!? な、にを、バカなことを!』

「美咲、どういうことや!? 」

 蛮殻の手も借りて立ち上がった撫子は、身悶えする宇目木の眼光をも真っ直ぐに見つめ返した。

「「ペルソルは出会った人の行動を模倣する」んだよね。スクリームペルソルも、ブドーペルソルも、ガンペルソルもバイクペルソルもみんなみんなそうだった。でも」

 未だ悶え苦しむ宇目木を、撫子の瞳がしっかりと見据えた。

「でも先生は、「あなた」は違うよね。「あなた」は「ノーレッジペルソル」じゃない。「あなた」が模倣したのは、先生の「知ること」じゃないよね」

『ッ、ちが、う』

「違わない! 今だって、かぐやを取り込もうとして、それができなくて苦しんでる!」

 撫子が手を横に振って否定する。

「「知ること」を模倣した「あなた」がそれをできないのはどうして!?「知りたい」んじゃなかったの!? それができないなら! それじゃあ「あなた」が本当に模倣したものって、なに?」

「「怒り」、だよね」

 その時、全員の背後から声が差し込まれた。

 撫子がこのたった数日間で最も聞き慣れた声。

 このたった数時間を経ただけで、すごく懐かしく感じる声。

「お前は、「アンガーペルソル」だー!」

「あ……」

 振り返ったそこにいたのは。

 ひしゃげたシャッターをくぐって倉庫に入ってきたのは、昨日の夕方ぶりに見る懐かしい顔。

「美夏子!」

「撫子おっす! みんなも!」

 美夏子が、拉致されて一晩監禁されていたとは思えない、いつもの底抜けに明るい笑顔で一同に敬礼して見せた。

「……で、センセエのペルソルが、わざわざ嘘を吐いたっちゅうのはどういうこっちゃ?」

 未だに倉庫の奥で悶え苦しみ続ける宇目木を見返し、蛮殻が美夏子に尋ねた。

「ペルソルっちゅうのは、マネしたこと以外はせんのやろ?」

「美夏子っ!」

 ところが、撫子が蛮殻の問いを遮って飛び出し、美夏子に抱きつくと大泣きを始めた。

「ごめんね美夏子!? ごめんね!? 」

「おおっとっと!? よーしよしよし、いーんだよー」

 撫子の突撃を抱き止めた美夏子が、優しく頭を撫で返す。

 受け止めた勢いでその場で一回転した美夏子は、足を踏み変えて体勢を立て直すとわんわん泣き続ける撫子を抱きしめたまま蛮殻の方を向いた。

「ういー♪ 人間て誰でも、知られたくない事とか恥ずかしい秘密ってのがあるさね」

 見た目に反して心が脆い蛮殻は言わずもがな。

 美夏子は知らないはずだが、郁のウイッグを始めとする女子としての憧れ。

 そして撫子の人間不信の原因となった出来事。

「そういうのって、隠しておきたいもんでしょ」

「センセが? なんや隠しよぉてペルソルと手ぇ組んだんかなも? そしたら「隠し事ペルソル」ゆうんじゃにゃあが?」

「ううん。隠したいと思ってるのは先生自身。隠したい事っていうのは、自分の事を誰にも理解されない先生の怒り」

 今朝、美夏子の煽りを受けて垣間見せた宇目木の本性。

 普段の態度とのギャップから見出した、美夏子の推測である。

「ペルソルが模倣したのは、その怒りなんよ」

 指先を振りながら美夏子がすらすらとそれを解説する。

「宇目木先生の、その怒りって、どういうことですか?」

「んー。詳しいハナシは後にしよっか。見て」

 指先をさし示して皆に促す。

 全員が振り向いた先で、倉庫の奥で、とうとう膝を折りうずくまった宇目木が掴んだ片腕を突き上げて仰け反った。

『ーーーーーッッ!!』

 多重にぶれた獣のものとも機械ともつかない異音の絶叫が倉庫の中に反響する。

 すると突如、一瞬の閃光を放った異形の影が三方に分かれてそれぞれの方向に弾け飛んだ。

 ひとつは、昏い紫がかった銀の人型の異形。ひとつは完全に生身の姿となった宇目木。

 そしてもうひとつは、こちらに向かって元気に駆けてくる銀毛の仔猫、かぐやだった。

「かぐや!」

 走ってきたかぐやは、まず蛮殻の巨体を螺旋状に駆け上がると肩から肩に郁へと飛び移り、さらに隣へ駆け抜けて美夏子の頭を踏み台にして跳ねると撫子の腕に着地し、肩に駆け登って撫子の頬にほおずりした。

「かぐや! かぐや!」

「おほー、元気だねー」

「ああ……無事で良かった」

「……なんで、かぐやは出てこれたんや?」

 初めてかぐやに触れられた蛮殻が呆然と問う。

「そりゃかぐやがこれまでナデシコを通して学んできたものは「相互理解」だもの。それを拒絶してきた宇目木センセには、センセを真似したペルソルには受け入れられないよ。拒絶しかできないんだもん」

 やがて、衝撃に朦朧とした様子ではあるが、宇目木から完全に分離したらしき紫の異形がゆっくりと身を起こした。

「じゃあ、やっぱりペルソルの目的って……」

「うん。ナデシコもよく気付いてくれたね」

 呆然と呟く撫子に、美夏子がウインクで応えた。

「ペルソルはきっと、「挨拶の仕方」を学ぶ為に地球に来たんだと思うよ! だから驚かれたり殴られたりしたのを勘違いしちゃった子もいたけど、かぐやがきちんと理解してくれた」

 そして撫子の上腕をぽんと叩いて促す。

「でも、そんな純粋な知的生命体たちに、あんな悪い感情を、情報を渡しちゃいけない! ナデシコ! アレをやっつけて! ペルソルの使命は、かぐやが遂行するんだから!」

「うん!」

 美夏子の言葉を受け、撫子が一歩前に出た。

「かぐや! お願い!」

 肩に乗っていたかぐやが、その声に応え体を駆け降りると腰をぐるりと一周し、閃光を放つと銀の円環へと変わった。

 だが、そのベルトのバックル部に据えられた天球儀めいたフレームの中央には、壊れて輝きを失ったセレスティアルドライブがあるままだった。

 だけど、撫子は、そんな事など一切気にしてはいなかった。

 

 撫子の後ろ姿を見ながら、美夏子はこれまで考えてきたことを反芻していた。

 言うまでもなく、稚拙な仮説に次ぐ仮説の上塗りの繰り返しでしかなかったが、それらは撫子の直感のおかげで形を成してきた。

 かぐやと撫子が作り上げた疑似永久機関という原動力にして弱点でもあるそれを狙われる心配もしていた。

 けれど、ペルソルと人間の関係なんていうものは、人と人とのそれと実は大差ないのかもしれない。

 友情が生み出す感動と喜びを分かりあえた時に湧き出すエネルギーというのは、けっこう凄いものだろうと思う。

 今や数日前とは見違えるほど明るい顔になった撫子と、学習を積み重ねたかぐやなら、もしかしたら、きっと。

 

 壊れたベルトを装着した撫子が、大きく深呼吸してから上を見上げた。

 そこは暗い倉庫の天井しかないが、撫子はその先の、遠く空に浮かぶものの存在を感じ取っていた。

 小さい頃からいつもそばにあったもの。

 いつも自分だけに視えていたもの。

 自身の不幸の象徴でしかなかったもの。

 それらがなぜか、今はとても近くに感じる。

 ちょっと前までは、それは人生に降りかかった厄介事でしかなかったけれど。

 でももう今は違う。

 だから撫子はもう一度大きく息を吸い込み、いきなり大声で叫んだ。

「うなーーーーー!」

 素の撫子の姿での初めての奇行に郁と蛮殻が目を白黒させたと同時に、倉庫の中に突如光の嵐が吹き荒れた。

 これまでにない大量のコズミックエナジーの奔流。

 考えるまでもなく、撫子が自分自身の声で召還したものだ。

「いくよかぐや! みんな!」

 輝きの渦に囲まれて、片手を腰に、曲げた片腕を胸の前に、腰をひねって気取ったポーズを取ると、撫子は笑顔でそれを告げた。

「変身!」

 そして両腕を左右に振り払う動作でバックル上端のレバーを押し倒した。

 壊れたバックルは今だ暗い孔を穿たれたまま。

 だがいつもの円環のヴィジョンの代わりに、コズミックエナジーの渦が撫子の周りを幾重にも幾重にも取り巻いた。

 

 まるで繭を作るようにコズミックエナジーに包まれる撫子を見つめ、美夏子は胸中でひとりごちた。

 誰だって、なりたい自分や、理想の姿への憧れがあるはすだ。

 一番の自分らしさ。もしそういうものに巡り会えたら、それはきっと、とてもとても嬉しい事のはずだ。

 出会いは本当に偶然だったけど。動機もまあ不純だったかもしれないけど。

 学年で一、二を争う問題児である美咲 撫子の、仏頂面の裏にある本当の撫子は、いったいどんな笑顔で笑うんだろうという興味があった。

 自分だって、実は似たようなものだった。

 オカルト趣味のせいで孤立していた。

 撫子だったら、一緒に笑ってくれるんじゃないかって思った。

 強引なやり方だったけど、なし崩し的に一緒にいてくれて。そしたら不思議な事まで次々と起きて。

 不思議な事と一緒に本当の撫子をもっともっと知りたくなった。

 今やコズミックエナジーとも友達になってしまった撫子の、これから見せる姿はきっと、その撫子の心の本来のカタチ。

 撫子のstate(ステイツ/ありさま)なのだ。

 

 渦巻くコズミックエナジーの一部が吸い込まれるようにバックルのセレスティアルドライブに流入してゆく。

 やがて、穿たれていた孔が光ににじむように塞がり、綺麗な表面を取り戻すとかつてと同じ、いやそれ以上の輝きを放ち始めた。

 周囲を飛び回るコズミックエナジーが、足に、腕に、胴に頭に顔に次々と付着し撫子を完全に包み込んでしまった。

 さながら大雪に立ち尽くすかのごとく堆積した光の粒子の山が、やがてひときわ強い閃光と同時に弾け飛んだ。

 そのあとに現れたのは。

 大きなセンサーアイといい猫耳状のエナジーインテークといい、基本は「かぐや」と全く同じ形状だが、その全身が黄金の輝きを放っていた。

 それだけではない。肩アーマーや前腕、脚や背中のあちこちに、頭部の猫耳状のものと同じ、三角形のエナジーインテークがいくつもついていた。

 全体的に鋭角が増え、腕脚にエナジーインテークがずらりと並ぶさまはさながら鮫のエラのようだが、ステップを踏んで元気よくガッツポーズしたそのしなやかな動きはやはり猫だ。

 これが。これこそが、撫子自身が導き出したかぐやとの新たな姿。

「仮面ライダーかぐや・なでしこステイツだー!」

『うーーー!』

 びしりと指さして宣言した美夏子の前でかぐや・なでしこステイツは身を丸めると、続いて大きく両腕を広げて仰け反った。

『なーーーーーーー!』

 まさに自らの誕生を宣言するかのような高らかな叫び。

 沸き上がった元気が天まで行って戻ってくるかのようだった。

 

『ーーーーッ!』

 ようやく、宇目木と分離させられた衝撃から立ち直ったらしき紫の異形──アンガーペルソルが獣のような怒号をあげて突進してきた。

『いっくよぉー!』

 同時にぴょこんと跳ねたかぐや・なでしこステイツも駆け出してゆく。

 だがそれは、対決のための疾走というよりもまるでお出かけするかのような走り方だった。

「いまのうちに、蛮殻くん、センセのことお願い!」

「よっしゃ!」

 言われ、蛮殻が倒れる宇目木の元へ駆け出した。

 コズミックエナジーの嵐は倉庫中に吹き荒れているが、それは蛮殻の視界を邪魔するものではない。

 宇目木の腕を肩に回して担ぎ上げ、美夏子と、郁とともに戦闘の現場から離れる方に移動する。

 しかし、そこで展開されているそれを、果たして「戦闘」と呼んでいいものかどうか。

『ーーーーッ!』

 歯を食いしばった鬼の形相のアンガーペルソルが腕を、脚を振り回す度に凄まじい風がうなりをあげる。

 のだが。

『んんー、いやっほーい!』

 かぐや・なでしこステイツは、そんな嬌声をあげながら、アンガーペルソルの攻撃をかいくぐり、周囲を踊るように飛び回っているのだ。

 飛び回っているのだ。

 この空間一帯に密集したコズミックエナジーの奔流の中にあって、かぐや・なでしこステイツはまるで水中を泳ぐように上下左右自由自在に動き回っていた。

 それは、全身のエナジーインテークから取り込んだコズミックエナジーを任意の方向に噴射することで可能とする立体機動。

 その上、この領域に限って、かぐや・なでしこステイツはコズミックエナジーの流れや抵抗を完全に理解し把握している。

『ーーーーッ!』

『ふふーん♪』

 今も、たまたま背を向けたところにもの凄い勢いで振り回されてきたペルソルの拳を、かぐや・なでしこステイツはそちらを見もせずにふわりと宙返りして躱したのだ。

 それは小魚の群に棒を突っ込むがごとく、アンガーペルソルの怒り狂った攻撃はかぐや・なでしこステイツにかすりもしない。

『うりゃー!』

 そしてかぐや・なでしこステイツが反撃に転じた。

 それは、宙に浮いたまま、離れたところを蹴り付ける見当違いの動作に見えたが、脚の軌跡にそって流れたコズミックエナジーが、あろう事か鋭い弧を形成してアンガーペルソルに殺到したのだ。

『ーーーーッ!? 』

 胸板に輝く三日月の激突を受けて転倒するペルソルを、宙でバタ足をするかぐや・なでしこステイツの足下から次々と飛来した三日月──今や任意で無限生成できるセレーネモジュール「クレッセントサイズ」が滅多打ちにする。

『ーーーーッ!』

 立て続けの攻撃の中から起き上がり、癇癪を起こしたように床を殴りつけて立ち上がったアンガーペルソルが飛び出し、ちょうどかぐや・なでしこステイツが舞い降りた地点に拳を叩き込んだ。

「ああっ」

 その模様を見ていた郁が悲鳴をあげる。

 だが、その拳は、かぐや・なでしこステイツの手前の空中で止まっていた。

 両者の間にあるコズミックエナジーが部分的により密集し、密度を上げて圧力の盾と化したのだ。

『ーーーーッ!』

 アンガーペルソルが怒りの咆哮を上げて何度も何度も拳を繰り出すが、それらのことごとくが不思議そうに小首を傾げるかぐや・なでしこステイツの手前で次々と密集を繰り返すコズミックエナジーの盾──セレーネモジュール「ヘミソフィアンシェル」に阻まれる。

『ッガーーーーーッ!』

 紫の鬼の形相に赤みが差すほど猛り狂ったアンガーペルソルが、より凄まじい怒号を放つ。

 体がきしむ音が聞こえそうなほど力強く身構えたアンガーペルソルの周囲に、紫色に揺らめく火の玉が浮かび上がった。

 その数は十を越え、次々と撃ち出されてはまた火の玉が空中に現れる。

「うわわわわ!? 」

「ちょ!? こらあかん!? 」

 それらは狙いを定めて発射されたものではない。

 ペルソルの、無軌道な怒りの向くまま、盲滅法にバラ撒いた攻撃らしい。

 たまたま近くに炸裂した火球に泡を食った蛮殻と郁が、慌てて宇目木を、美夏子を庇って離れる方へ逃げる。

 だが、こんな見境のない攻撃では、いつ、どこに着弾するか分かったものではない。

 かぐや・なでしこステイツには相変わらずかすりもしないが、火球のひとつがとうとう美夏子らめがけて飛来した。

「ひゃ……!? 」

 その恐怖に身を竦める美夏子だが、その火球はなぜか途中でその軌道を変え、ふわりと浮き上がると逆戻りしてゆく。

 ほかの方角にバラ撒かれた火球も同様だ。

 無軌道に撃ち出されていた紫の火球が、なぜかふわふわと上空を舞い踊っているのだ。

「あ……」

 美夏子は、その火球の群の向こう、倉庫の天井付近に浮かぶ、さらなる輝きを見つけた。

 それは、セレーネモジュールのひとつ、「ルナティックオービット」だった。

 それも一つだけではなく、三つ、四つも浮かんでいる。

 それらルナティックオービットが重力を、このコズミックエナジーの奔流の中にあってはエネルギーの流れをも操り、アンガーペルソルの紫の火球を操作しているのだった。

 暴虐に荒れ狂う獰猛で危険なアンガーペルソルに対し、かぐや・なでしこステイツの能力はまさしく無敵だった。

 やがて、宙を虚しく漂う紫の火球はその火勢を弱め、やがて消えてしまった。

 アンガーペルソルは、両腕をだらりと下げ、うつむいている。まるで脱力したかのように。

 先ほどの、紫の火球の乱れ撃ちが、アンガーペルソルの最後の渾身の大技だったのだろうか。

 そこに、かぐや・なでしこステイツが舞い降りた。

『ごめんね。そんな、大変な感情を持たせちゃって』

 脱力のまま立ち尽くすアンガーペルソルに、そっと片手を差し出した。

『きっと、かぐやがきちんと伝えるから、心配しないで。 本当に、ごめんね』

 重ねて謝罪を告げ、伸ばした片手を差し上げると、天井付近に滞空していた四基のルナティックオービットが高度を下げて配置を変える。

 それにつれ、アンガーペルソルと、そしてかぐや・なでしこステイツの体が浮かび上がった。

 やがてそれらは、地上から斜め上へと一直線に配置される。

 そこでかぐや・なでしこステイツの片手が、ベルトバックル下端のエンターレバーを弾いた。

『リミット、ブレイク!』

 撫子の声で叫んだと同時、周囲を吹き荒れるコズミックエナジーがその流れを変え、一直線に並ぶ四基のルナティックオービットと、かぐや・なでしこステイツの身体に流入してゆく。

 その流れが描く渦は、まるでこの倉庫の暗闇の中に生まれた銀河のようだった。

 跳び蹴りの体勢に姿勢を変えたかぐや・なでしこステイツの身体が上昇を始め、やがてその勢いは流星のように加速した。

 いや、その足先に輝く弧月を顕したそれは銛と呼ぶのがふさわしい。

『トータルイクリプス・ライダーキック!』

 その輝く銛がアンガーペルソルを捉え、そのまま上昇を続け、その先に並ぶルナティック・オービットをペルソルごと次々と貫いていった。

 次々と炸裂する四つの輝きに続いてドス黒い爆発が巻き起こり、その爆煙と獣のごとき断末魔を背に飛翔してきたかぐや・なでしこステイツが優雅に地上に着地した。

 

 

 

 

──続く──

 



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最終話 笑・顔・満・面 (後編)

「ぃやったっ!」

「おおー」

「おっしゃあ!」

 怒りのペルソルと撫子の戦いの決着に、三人が喝采をあげる。

 ところが、かぐや・なでしこステイツの向こうに、床に散らばったくすぶる煙の中に、蠢く影があった。

「え? あれ」

「げ。しぶとい」

 それは、燃え残ったアンガーペルソルだった。

 紫がかった銀の身体は所々がぼろぼろに欠け落ちており、突っ伏したまま身動きできないようだったが、アンガーペルソルはうつ伏せのまま伸ばした片腕を、片手を握り、拳に紫の炎を浮かび上がらせた。

「あいつ!? まだやる気きゃも!? 」

 蛮殻が警戒し、美夏子と郁の前に出る。

 振り返ったかぐや・なでしこステイツも、そのペルソルの有様を見ると、さらに蛮殻をも遮る位置に立ち塞がった。

「美咲! なにしとるんきゃ!? 」

『……みんな、すぐにここから逃げて!』

 撫子の声が叫ぶ。

 かぐやの目には、それが視えるのだ。

 アンガーペルソルが、残った力を全て一点に集中させてその内圧を高めているのが、撫子の目にもサーモグラフィのように二重写しで見えた。

 つまり、それは自爆の前兆。

 それがどのくらいの規模の爆発なのかは分からない。

 けれど、紫の火球のそれよりもエネルギーの内圧が高いのが分かる。今も上昇を続けている。

 今からもう一度、こちらの大技を叩きつけようとしても、きっと爆発には間に合わない。

『みんな早く! 私とかぐやは大丈夫! だから、早く逃げて!』

「そないなことゆうたかて!? 」

「……行こう。みんな」

 言い募る蛮殻の袖を掴んで押し止めたのは、美夏子だった。

 眼鏡の向こうの、いつになく真剣な眼差しが、かぐや・なでしこステイツのセンサーを見つめる。

「大丈夫、なんだよね?」

『うん』

 撫子はうなずいた。

「よし、行こう!」

 郁も蛮殻も躊躇したが、結局、宇目木の肩を担ぎ上げて、ひしゃげたシャッターをくぐって倉庫から出ていった。

 その向こうから、走り去る足音をかぐやの聴覚で確認し、かぐや・なでしこステイツは振り返った。

 

 撫子は、初めてかぐやと出会った時のことを思い出していた。

 かぐやもペルソルだとして、仔猫の外見以外にいったい何を模倣したのか。美夏子と話し合っても結局答えが出なかったが、今なら分かる。

 かぐやは、初めて会った時に撫子がカラスの群から自分を守ろうとしたことを模倣しているのだ。

 美夏子が説明した、かつて「かぐや」が繰り返していた、両手を組んだハンマーパンチも、実は撫子の鞄を振り回す動作の真似だった。

 そしてかぐやは撫子を「守る」為に、撫子をすっぽりと覆うことにした。

 それが、かぐやと撫子の変身の正体だった。

『……いつも守ってくれて、ありがとうね。かぐや』

 撫子はぽつりと呟いた。

 なんで今そんな事を言おうと思ったのかは自分でも分からない。

 でも、お礼の言葉はいつ言ってもいいものだし。

 さて、自爆する気のアンガーペルソルをどうするか。

 撫子は、すぐそこが海なのだから、海に投げ込めばいいかと考えていた。

 そう思って倒れ伏すアンガーペルソルの元へ歩き出したその時。

 不意に視野が不鮮明になり、身体が重くなった。

 突如変身が解除され、超感覚とパワーアシストを失ったのだと気付いた時には、生身の制服姿に戻った撫子は暗い倉庫の床にへたり込んでいた。

「……あれ……?」

 身体に力が入らない。今の戦闘での疲労のせいだろうか。

 そもそもなぜ突然変身を解除したのか、かぐやを振り向こうと顔をあげた時、そこに誰かが立っているのに気付いた。

 ベージュのスカートから伸びる、黒のタイツに包まれた足。ベージュの上着に白いセーラーの襟。そして肩ほどの長さの髪。

「……え?」

 それは、先ほどここを立ち去った美夏子でも郁でもあり得ない。

 くるりとこちらを振り返ったその女子生徒は。

 見覚えのある、だが、いつも見ているものとは違和感のある顔。

 撫子と、全く同じ顔の人間だった。

「え?」

 だが、すぐに直感する。

 これは、かぐやが撫子を模倣した姿だと。

「どうし、て……?」

 けど、なぜ今そんな事をするのか分からない。

 目を白黒させる撫子の前で、無表情で撫子を見下ろしていたその撫子に変身したかぐやが、後ろを向いてアンガーペルソルを指さし、そしてこちらを向いて自分の胸を指さすと、その指先を上に向けた。

 しゃべることはできないらしいが、そのジェスチャーで撫子はかぐやの言いたい事を直感した。

(自分が、あのペルソルを連れて、空へ、行く)

「そんな!? ひとりだけで!? 」

 まさか、かぐやは自分を犠牲に撫子を助けようとしているのか。

「だめだよ、そんなの!? これまでみたいに、一緒に……」

 そこでまたかぐやが撫子を指さし、その指先を自分の喉元に向けた。そして手のひら胸に押し当てる。

(この姿を、持っていく。大切)

「え……?」

 かぐやは、自分を犠牲にしようとしているのではない。

 アンガーペルソルも一緒に連れて帰ろうとしているのだ。

 空へ。宇宙へ。

「……だ、だめだよ。あんな、恐い怒りの感情なんて、ないほうがいいよ」

 撫子の言葉が分かるのか、今度はかぐやは首を横に振った。

 顔は無表情だが、その眼差しが語っていた。

(気持ちは、大事)

 それが、善意でも、悪意でも。

 かぐやは、この世界の人間の感情を、全部お土産にするつもりなのだ。

 やがてかぐやは撫子に背を向けると、すたすたと倒れるアンガーペルソルに歩み寄った。

 そして手のひらをかざす。

 すると、周囲に残留していたコズミックエナジーが集まり、輝きがアンガーペルソルを包み込んだ。

 輝きに包まれたアンガーペルソルの、圧力を高めていた危険な気配が鎮まってゆく。一体どうやってか、かぐやはアンガーペルソルの自爆エネルギーを押さえ込んだらしい。

 続いて、かぐやの、撫子を真似た姿が揺らめいて全身を銀色に変え、装甲服形態の「かぐや」に変身した。

 再び手振りで残留していたコズミックエナジーを操り背後に球形に寄せ集めると、ルナティックオービットを作り出す。

 そのルナティックオービットが、突如四つに割れて花のように広がった。

 屈み込み、アンガーペルソルを抱き上げて立ち上がったかぐやの背後で、展開したルナティックオービットが回転を始め、その速度を増していくごとに輝きを放ち出した。

 そしてふわりと浮かび上がったかぐやが、胸を反らすようにして上を向き、回転するルナティックオービットを真下に向ける。

 やがて膨大な輝きを真下に噴射し、アンガーペルソルを抱えたかぐやが上昇してゆく。

 真上に飛び上がった輝きはそのまま倉庫の天井を突き破り、上昇する速度を上げていった。

「何事や!? 」

「撫子さん、まさか!? 」

 その時、血相を変えた蛮殻と郁が駆け込んできた。

「あんにゃろ自分を犠牲に……って、あれ? 撫子? あれ?」

 穴の空いた天井から差し込む光の下で座り込む撫子を発見した美夏子が、怪訝な顔で空を、撫子を交互に見返す。

 あまりにも唐突で、呆気ないかぐやとの別れに、撫子は呆然としていた。

 出会ってから、たったの四日だ。トータルで実質三日間にも満たない時間だ。

 たったそれだけの短時間しか一緒にいなかったのに、撫子のこれまでの悪想念を払拭し、世界を塗り変えてくれたのだ。

 今はあの仔猫の姿をした友達が、とても大事で、こんなにも胸の中で大きな存在になっていた事に自分でとても驚いた。

 かぐやには冗長なお別れの挨拶といった概念がないのだと理屈では分かっても、せめてもっとお話ししておけば良かったと後悔が押し寄せる。

 何より初めての出来事だ。

 そんな、大事な友達が、突然いなくなるなんて。

 もう、会えなくなるなんて。

 昨日美夏子が浚われた時とはまた意味が違った。

 初めて体験する、底冷えのする強烈な喪失感に、身体をがたがたを震わせた撫子は、自らの肩を両手で抱きしめて身を折った。

 寒い。なんて寒いんだろう。

 いつしか、撫子は激しく泣きじゃくっていた。

 ちょっと前まで「友達なんてまやかしだ」と激しく嫌悪していたのに。

 この喪失感は、その時の寂寥感よりも苦しい。

 こんな辛い思いをするなら、最初から友達なんて──

「いない方がいいなんて、そんな事ないよ」

 ふわりと、暖かさが身を包んだ。

 いつの間にか隣に来ていた美夏子が、撫子を抱きしめていた。

「かぐやは使命があってここに来て、結局帰らなくちゃいけなかった。短い間だったけど、一緒にいられた事は、良かったじゃない」

 思わず縋るようにその腕を掴み返した。

 ゆっくりと染みてくる暖かさに、震えが少しずつ収まってくる。

「かぐやにとっても、ナデシコは使命の為の駒なんかじゃなかった。そうでしょ?」

 そうだ。最後に自分の姿を写し取っていったのは、かぐやなりの親愛の証だった。

「離ればなれになるのは辛いけど、きっと元気でやってくよ。ナデシコなら、感じ取れるんじゃないかな」

 そうだろうか。

 いや、そうでなければ、何の為のこのコズミックエナジーが視える体質なのか。

「何を言っても、お別れは辛いもんだからさ。今は泣いていいよ。でも、後で必ず元気になって」

「……うん……」

 今になって、ようやく美夏子が慰めてくれている事のありがたさに気付く自分がほとほと嫌になる。

 でも、我慢なんてできそうにないから、撫子は思いっ切り泣くことにした。

 

 

 回復した宇目木を加えた五人は、消防と警察が殺到し大騒ぎに包まれたすばる埠頭の倉庫街から離れ、昴星高校の校舎の奥の物置き部屋──もとい、「ミステリー研究会の部室」に集まっていた。

 今日は休日なのだが、宇目木が鍵を開けて一同を誘った。

「俺は、口下手なものでな」

 各々椅子に腰掛けた一同を前に、宇目木はそう語り出した。

「女子生徒にきゃあきゃあ言われるのには辟易していた。俺としては、何がどうでこうしているわけではないし、正直、もてはやされる意味が分からない」

 言って、宇目木は頭を掻いた。

「どこに行っても似たような感じでな。誰も本当の俺の事など良く知りもしないで勝手なイメージを押しつけてくる事に憤っていた」

「そういう理不尽が、怒りの基だったんですねー」

 美夏子がしたり顔でうなずいた。

「そこをペルソルにつけ込まれた……いや、俺が利用した、だな。 ペルソルの思惑は知らないが、俺の声で語った事、ペルソルと合体していた間の事は、感情を暴走させていたとはいえ、俺のした事だ」

 そこで宇目木は深く頭を下げた。

「お前たちを傷つけて、すまなかった」

 美夏子は、郁と、蛮殻を振り向いた。

「んー。まあ、わたしはミステリ心がワクワクするような体験ばっかで、むしろありがたかったくらいだけど」

「ボクも別に。自分の修行不足を痛感しました」

「ワシもや。あんなん、ただのケンカやきに。 ……なんや負けっぱなしなんがシャクやけど」

 美夏子はあっけらかんとした顔で、郁と蛮殻は苦笑顔で答えた。

 そして一同は、撫子を振り向いた。

「美咲は……」

「……友達のした事ですから」

 撫子は、どこか透き通るような笑顔で答えた。

「先生が助かって、本当に良かった」

「……そうか」

 言って、深く溜め息を吐く。

「すまない。そう言ってもらえるのはありがたいが、どうすればいいのか、正直考えあぐねていてな。警察に自首しようにも、凶器もないしアリバイやら移動経路がメチャクチャで」

「セーンセセンセ」

 眉をしかめて呻く宇目木に、美夏子がぱたぱたと手を振った。

「警察に言うような悪いことなんか、センセはなにもしてませんよ?」

「しかしだな……」

「どうしても、って言うなら、センセ、この「ミステリー研究会」の顧問になってください! それで手打ちにしましょう!」

 その言葉にきょとんとした宇目木は、やがて怪訝に問い返した。

「……いいのか? それで」

「ええ! なにしろあの宇目木先生が、実はムッツリの残念系イケメンだって分かってこちらも気が楽だし、舞台裏が知れたセンセも気兼ねしない居場所ができるしイイコトずくめ!」

「……好きに言ってろ」

 たちまち憮然とした顔になるが、やがて当の宇目木が笑みを吹き漏らした。

「分かった。 お前にはかなわないな」

「おっしゃーー!」

 美夏子ひとりの喝采が上がり、遅れて全員の笑い声が巻き起こった。

 

「隣のアマコー、今日学園祭らしいねえ?」

 「隣のアマコー」とは、隣町にある天ノ川学園高等学校のことである。

「とは言っても、もうこの時間では、ほとんど終わりではないでしょうか」

 腕時計を覗き込んだ郁が言う。

 時刻は昼を大きく回っている。

 そんな、学校からの帰り道の途上で、少し前を歩く撫子が一同を振り返った。

「でも、そういうとことか、行ってみたいよね。みんなで」

 言って、にっこり笑うその笑顔を、美夏子が、郁が、蛮殻が眺め。

「いー笑顔見せてくれんじゃんナデシコ。ちょっとクラっときたわ」

「えええええ!? そそそそそんな」

 たちまち顔を真っ赤にした撫子が頬を両手で挟んでおろおろと回る。

「あはは。ボクは出会って三日ですけど、見違えましたよ。本当に」

「あ……うん」

 郁のカラっとした笑みに、撫子は神妙にうなずいた。

 会って間もないのに、郁には本当に深く世話になった。

「ワシも、美咲に感謝せにゃあいかんの」

 後ろに続く蛮殻が厳かにうなずいた。

「そもそもの用事の、初めて会うたペルソルちゅう怪事件が、解明と同時に解決してもうたしな」

「それは、どっちかっていうと美夏子のおかげだし。蛮殻君も大変だったし」

 そして撫子は一同を見回し。

「それに、私の方も、ありがと。 かぐやのおかげでもあるけど、みんなと友達になれた!」

 満面の笑顔に、美夏子が、郁が、蛮殻がそれぞれ笑顔で応えた。

「やれやれ。ボクも見習わなきゃいけませんね。よいしょ」

「わっ!? 」

「ぬわあ!? 」

 神妙にうなずいた郁が、いきなりプリンセスヘアの巨大なウイッグを引き抜いたのを見て美夏子と蛮殻が同時に仰け反った。

「ちょ、ちょっと、郁ちゃん、いいの!? 」

「ええ。 もう、こういうのはヤメにします。女子力は別方面でなんとかするって、約束しましたしね」

 からっとした笑みでウイッグを振り回す郁を、美夏子が青い顔でしげしげと見上げた。

「……いや、郁ちゃん、悪いけど、そっちのすごい髪より普通に似合ってるよそれ。なんでそんなもんかぶってたの?」

 美夏子の様子に、見合った郁と撫子が笑い合った。

 そこで、美夏子の怪訝な目線が途中で郁の向こうを見上げているのに気が付いた。

 その視線の先を追って見れば、蛮殻がなぜか真っ赤な形相で郁を凝視して固まっていた。

「どしたの? 蛮殻くん」

「あー。驚かせちゃいました?」

 美夏子と郁に言われても、蛮殻は赤い顔で凝視したままだ。

 だがそこで美夏子の顔が悪魔のようなニヤケ面に変わった。

「どーおー? 蛮殻くん、郁ちゃんの新たな姿は」

 郁の両肩を掴んで蛮殻を向かい合わせ、意地悪な声でそういうと、蛮殻は赤い顔を火でも出るのかと言うほどさらに赤く染めて、己の鳩尾の辺りを握りしめて後退った。

「……っ、かっ、かわいい……」

「おっ?」

「わあ!」

「……っ!!」

 美夏子と撫子の喝采に、郁までもが顔を真っ赤に染めた。

「あ、いや、これはそん、ちぎゃあ、んみゃ」

 とうとう羞恥が最高潮に達したらしき蛮殻が両腕を振り回して訳のわからない奇声を喚くとあたふたと後退りしてゆく。

「ん、んじゃ、ワシゃあこれでなも! またの!」

 言って振り返って駆け出した蛮殻は、すぐそこにあったコンクリート製の縁石を蹴り砕いてつまづくと、痛む足を抱えて跳ね回り、それでもなお逃げるように走り去っていった。

「ぐふふ。これはまた今後が楽しみなネタだねい?」

「美夏子さん!」

 眼鏡を光らせて含み笑いする美夏子に郁が珍しく大声をあげるが、その声は力無い。

 やがて駅を内包した複合商業施設の入り口にさしかかったところで、撫子は二人から若干道を逸れた。

 そこで撫子は気が付いた。「これ」をするのは、これで二回目。しかも新たに郁も加わっている。

 少しだけ、緊張する。

 でも、もう大丈夫。

 コズミックエナジーは今だ視えるままだけど、もう、だからどうとは思わなくなったから。

「じゃあ私、こっちだから」

「ええ。撫子さん。また明日」

「おーう! また明日ね! バイバーイ」

 手を振り合って帰途を別れる。

 こんな些細な事も、撫子にとっては初めての事で、それができることがとても嬉しくて幸せなことだと、撫子は改めて思いを噛みしめた。

 

 そして、駅へ続く商業施設の通路を歩いていると、視界の端に特徴的な一団が映るのに気が付いた。

 誰かと目を合わせるのが苦手な悪癖のため凝視はしないが、彼らは鮮やかなブルーのブレザーを着用している。

 あれは、隣町の天ノ川学園高校の制服だ。

 その一団の端に、黒ずくめの少年がいるのにも気付いた。

 向かい合って手を振っているようで、恐らくその一同は友達なのだろう。

 ──もう、他の友達の集団を見ても、心がざわついたりはしない──

 近づくほどに、その黒ずくめの少年の服装が、蛮殻と似たような改造学ランぽいものであるように見えてきた。

 しかも、髪型が、真ん中だけを盛り上げた、確かリーゼントとかいうヘアスタイルだった。

(……意外と、近いところに似た人がいるんだなあ)

 それとも、自分の知らないところでは流行っているのだろうかと胸中で首を傾げながらそのまま歩を進めた。

 確かに奇矯奇抜な格好で、蛮殻と先に会っていなかったら、以前の撫子だったらきっと、目撃したらぎょっとしてしまっただろう。

 だから、失礼にならないよう、極力平静を保って、気付かないふうを装ってその少年の脇を通り過ぎた。

「…………」

 なぜか、黒ずくめの少年から、こちらを伺う気配がした。

 自分はそんなに「蛮殻みたいなタイプの人々」に好まれる質なのだろうかと訝しみながらも撫子は黙殺して歩き続けた。

 ところが。

「……え?」

 目の端を、見覚えのある光の粒が通り過ぎた。

 驚いて振り返ると、既に光の粒はなく、代わってひどく感覚を引き付ける気配があることに気付いた。

 立ち去る天ノ川学園高校の一団の、黒ずくめの少年の懐あたりから、なぜか馴染みのある気配が漂っていたのだ。

(……まさか、ね)

 友達のかぐやは、空に帰ったのだ。

 ふと、先刻のミステリー研究会の部室での宇目木の話を思い出す。

 ──ペルソルと合体していた時に感じたものだが、美咲はコズミックエナジーに対する高い親和性を持つ体質らしいな。

 ──だから、あの猫との変身で、高い能力を発揮できていたのだろう。

 それが本当なら、もしかしたら、コズミックエナジーの謎の力で、なんらかの便りが届くかもしれない。

 それまで、かぐやがもたらしてくれた「友達」の輪を大切に、過去の悪想念を振り払い、こちらも元気でやっているのだと報告できるようになっておこう。

 そして空の彼方の友達の未来を祈りながら、撫子は再び帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

 

 

 時を少々さかのぼる。

 

 地上から空へ、宇宙目指して一直線に上昇を続ける流星があった。

 アンガーペルソルを抱えたかぐやだ。

 腕の中のアンガーペルソルは身体を部分的に欠損させ、ぐったりしている。

 コズミックエナジーの作用によりエネルギーの操作や凝縮を不可能にされているアンガーペルソルだが、その時、かぐやの腕の中で再びもがき始めた。

(離せ! 理不尽だ! 憤慨する!)

(だめ、だよ)

 かぐやは静かに抑える力を込めた。

(あなたは、私と一緒に、帰るんだよ。一緒に、情報を持って帰ろう。使命を果たすんだ)

(使命なんか知るか! 理不尽だ! 憤慨する! なにもかも破壊してやる!)

 だが、アンガーペルソルのもがく力がいちだんと増してきた。

(コズミックエナジーを寄越せ! これさえあれば、腹立たしい何もかもを木っ端微塵にしてやれる!)

(だめ、だよ)

 だが、アンガーペルソルが欠けた腕脚を振り回して暴れ始めたことで、凄まじい速度で上昇しているかぐやの身体に激しい振動が襲いかかった。

 全てを推力に変換して稼働している今のルナティックオービットとかぐやとは直接的に接続されているわけではないので、このまま重心がずれてしまうと、振り落とされる恐れがある。

(やめよう。使命を果たすんだ。もうこの星での用は済んだよ)

(うるさい! 何かを破壊しなければ、この焼けるような熱さは収まらない!)

 アンガーペルソルはさらに暴れ、ルナティックオービットの制御も危うくなってきた。

(やめよう。このままでは、どちらも危険だ)

(うるさい!)

(あっ)

 闇雲に身体を振り回すアンガーペルソルの腕に振り飛ばされ、かぐやの身体がルナティックオービットから弾き飛ばされてしまった。

(これだ! このコズミックエナジーさえあれば、オレは!)

 ひとり残ったアンガーペルソルがルナティックオービットにしがみつくが、エネルギーの制御を禁じられたアンガーペルソルにはルナティックオービットに込められたコズミックエナジーを操作することができない。

(この! 戻れ! オレに従え! オレは! おれは)

 空中に投げ出され落下するかぐやが見上げる先で、アンガーペルソルだけを載せたルナティックオービットが宇宙へと飛び去っていってしまった。

(…………)

 さて。どうしたものか。

 ひとりごちたかぐやは、とりあえずエネルギー消費の多いこの銀の装甲服姿をやめ、省エネルギー構造の姿に戻った。

 とは言っても、猫の姿は情報を上書きした際に消失したので、「美咲 撫子」の姿になった。

 さて。どうしたものか。

 自由落下の中、下から上へ吹き荒ぶもの凄い風になぶられながら考えた。

 いずれにしても、地上に戻ったならば、再び「空」へ上がる手段を探さなくてはならない。

 この星の重力圏さえ抜けることができれば、そこからは自力で帰還することができる──

「ッ大丈夫か!」

 ふと気が付けば、既にどこかの地上に着いており、かぐやの身体は何者かに抱きかかえられていた。

 その腕の中で仰け反っていた姿勢を起こすと、かぐやを受け止めた人間の顔が目に入った。

(……「バンカラ」?)

 大勢のそろいの青い服を纏った人間の中で唯一異なる、見覚えのある黒い服を着た人間。

 それは、大事な美咲 撫子と共に行動していた「バンカラ」と呼ばれる個体に良く似ていた。

(「バンカラ」みたいな人間なら、大丈夫かな)

 こちらを覗き込んでいるその顔を凝視しながらそう考えたかぐやは。

 この人間はきっと、自分のことを助けてくれるだろうと安心した。

 

 ここからのかぐやの身に起こる出来事は、また別の物語である。

 

 




 最後のサブタイトルは、もう読んだまんま、語ったまんまなので、特に付け足すことはありません。

 と、言う訳で、この物語は原作の第三章と第四章の間に起きた、四日間の出来事でした。
 原作では作中の日数の経過が表現されていないので、かと言ってもあんまり長くても財団Xの調査が無能ってことになるので、当初は作中期間を一週間以内に纏めなきゃなーと思ってはいたのですが、思いの外コンパクトになってしまいました。
 まあ弦太郎も半日足らずでSOLUを恋する女の子に仕立て上げているので、似たような友情パワーのおかげって事でどうか劇中のことは多目に見てください。


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