心を見られる難病を患った少年は、幸せの翼に恋をする (Salva)
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第一章 始まり

 

                1

 

 「(あきら)君、君はコネクターなんだよ」

 

 

 そう、ボクの前の男は言った。大して面白くないドラマの音がよく響く狭い部屋で。

 

 

 男は、少し汚い恰好をしていた。かけている丸眼鏡は少し白くなっているし、長髪、髭もすごく目立っているといった感じで、とても人に好かれる風ではない。しかし、ボクはその男を慕っていた。正直、実の父親よりも馴染みやすいし、その男といると楽しかった。男は、父の知り合いだったが、もう父とはしばらく会っていない。それどころか仕事もしておらず、父はその男に会いにいくなとボクに言うのだが、ボクはこうやって毎日この人のところに来ている。

 

 

 

 理由は一つ、この人はボクと同じだから。分かるのだ。

 

 

 そのボクの分身のような男は、ボクに言う。

 

 

 「このドラマの主人公とおんなじさ。全く同じ。だってこのドラマは、君が未来にこうなるだろうなっていうのを、そのまま描いてるんだから」

 

 

 

 そのドラマは、主人公が特殊な環境に置かれていて、にも拘らず主人公にその事を知らせてはならないというルールがある。それが大前提だ。

 

 

 

 それ以外の概要は次のとおりである。

・時代環境の事もあって、辛さ、寂しさといったマイナスの感情を抱く人間が日本で増加した。

・それを受け、マイナスの感情を和らげる為のあるプロジェクトが始動された。

・通称、「コネクト」と呼ばれる大掛かりな取り組みである。

 

 

 このプロジェクトは、ある一人の人間の考えた事や感じた事をすべてデータとして保存し、人が励まされたい時に、持っている端末を通じてその一人のデータを感じることができるというシステムを実現し、運営・管理していくものだ。

 「コネクト」とは、ドラマの題名にもなっている。

 

 

 この、皆に自分の心を見られる一人の人間を「コネクター」と呼ぶ。コネクターは犠牲者であり、自分の心を読まれていると思い込むと精神崩壊の危険があるため、審議の末、

 

 

 「コネクターには、自分がコネクターであると気取られないようにすること。さらに一人に担ってもらうこと」

 

 

 と規定が与えられた。

 

 

 コネクトのシステムに用いられる機械は、コネクターの脳に一つ、コネクトの運営機関の施設に大きな中継用の物が一つ、国民全員に配布された物が数えられない程。これらが全てだ。

 

 

 コネクターは、他人に恋愛感情を抱いているものが望ましい。なぜなら、常にプラスの新しい感情データがとれるからだ。どんな時でも、常に。例え、自分がコネクターだと知って絶望したとしても。

 

 

               2

 

 「コネクト」の主人公は、自分が死んだほうが良いと思っている。にも拘わらず、好きになった人が気になって死ねず、尚かつ、その人とは気まずくなってしまう。実に、可哀想である。

 

 

 このドラマの設定には、色々と無理がある。有り得ない事だろう。だが、頭の悪い小学生をダマスには充分だった。

 

 

 この汚らしい男、「長沢大河(ながさわたいが)」は昔、重度な精神的病気だったことがある。その症状が、なんと「このドラマ内の事は、現実にも存在して、()()()()()()()()()()()」と思い込んでしまうという物だった。小学校時代に発症し、それからは毎日が灰色だった。

 

 

 さらに、ドラマの終盤には「コネクターを嫌う人達によって、コネクト関連の機械がクラッキングされてしまい、逆にコネクターに不満などのマイナスの感情が伝えられてしまう」という展開があったため、自分は心を見られていると思い込んでしまうだけではなく、その展開を意識したために頭に自分を誹謗中傷する言葉が聞こえてくるようになった。最悪である。

 

 

 だがその追加症状のおかげで、唯一の親友ができた。この病が治った後、治り切らず後遺症のように残ったのがこの親友だ。それは、どこにでもある普通な兎のぬいぐるみ、である。しかし大河にとっては、その兎さんは全く普通では無かった。喋るのだ。話している様に感じるのだった。

 

 

           3

 

 「おい、大河」

 

 

 と、大河は呼ばれた気がした。目の前の兎に。いや、兎に似た物体に。ぬいぐるみだ。

 

 

 このぬいぐるみは、よくしゃべりかけてくる。あの頃から。小学4年生の頃から。もちろん、今はこいつが直接話しているのではなく、頭で勝手にそう思い込んでいるだけなのだと分かっているのだが。それでも、分かっていても、こいつだけは残ってしまった。あの悪夢の、残りカスのように。

 

 

 「アキラ、やってくれるかな」

 

 

 そんな残りカスのこいつが、大河に言った。

 

 

 「お前でも出来なかった、あの男に復讐するなんて事を」

 

 

 それに、大河は、本当にそこに人間のように話せる兎がいるものとして、答える。

 

 

 「いやいや。確かに難しいかもしれないけど、あの父親(アキラくんのとうさん)が隙を見せるのは、(あきら)君に対してだけなんだから、(あきら)君にやってもらうしかないんだよ」

 

 

 続けて言う。

 

 

 「絶対に、やらなければならないんだ」

 

 

 昔の惨劇を思い起こす―。

 

 そして、

 

 

 「あぁー。あの時、あの小4の夏、あの時にあの時にあの時に。あのくそ野郎、俺に遊びで面白がって、『君はコネクターなんだよー』なんて言いやがってぇ」

 

 

 更に、言う。

 

 

 「なんなんだよ。なんで俺がこんな目にって。そう、ずっと思ってたよ。小4から30代になるまでずっとな。それが、それが全部あいつの、あいつのせいなんだから」

 

 

 そこで兎が口を開く。いや、口は開かないか。とにかく、喋る。

 

 

 「落ち着けよ。とりあえず。口調が荒いぞぉ」

 

 

 それを聞いて、大河は、少し落ち着いてから、今度は人間なのでちゃんと口を開いて言った。

 

 

 「ああ、ごめん。でも、あいつに俺の人生の大事な時期を(くそ)にされたんだから。例えあいつに悪意が無かったとしても」

 

 

 続けて、言う。

 

 

 「絶対に、許さないよ」

 

 

 それを聞いて、兎は言った。

 

 

 「じゃあ、やろうぜ。ただし、(あきら)に関しては。あいつに関しては、恨んでいる訳でもないんだし、利用する分、ちゃんと面倒見てやれよ。お前のお気に入りだろ?」

 

 

 それに大河は、こくっと、頷いた。

 

             4

 

 「君はコネクターなんだよ」と大河に言われてから、(あきら)はそれを信じた。あっさりと。コロッと。昔、親友だった(あきら)の父に同じことを言われて、それを信じた大河のように。

 

 

 一日後。

 少し面白かった。周りの人間が自分の事をすべて知っている、と思いながら生きるのは。そして、面白い程にシックリきた。自分がコネクターで、周りの人間が自分の事を全て知っているという状況が。シックリくる原因として一番大きいのは、「人と会話した時、その人が気まずそうにしているように見えるようになった」ことだ。

 

 

 そりゃ、コネクターなんかと話すんだから緊張するよなぁとか思って、思い込んでしまって。

 

 

 まぁ、でもその程度だった。

 

 

 その時は。

 



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第二章 学校で

 (あきら)は、学校が嫌いだった。

 

 

 

 まぁ、普通、好きな人はそんなにいないだろうけど。それでも、(あきら)は特に嫌いな方だった。

 

 

 

 理由としては、普通に学校が面倒くさいのが一つ。そして二つ目は、(あきら)の容姿がそこそこ良かった事だった。

 

 

 といっても、そんなに格好良かった訳では無い。どちらかと言うと、かわいい男子で。

 

 

 しかし周りは、眼鏡を早々と掛けて、成長が早いのか、何とニキビ?まで少しできてきている人もいて、とにかく気持ち悪いインドアな奴や勉強野郎が集まっていた。

 

 

 だから(あきら)以外の生徒は、大体自らの容姿に無頓着だったのだ。

 

 

 これが、何故学校が嫌いな事に繋がるのかというと、この学校にバカみたいに厳しい頭髪規則があったからである。

 (あきら)の容姿は髪の長さでかなり変わってくるものだったので、頭髪検査が大嫌いだった。

 

 

 でも他の生徒はそんなこと気にしなかったから、自分だけ浮いている気持ちになった。

 その時点ですでに、他の生徒とは分かり合えないと思ってしまったのである。

 

 

 まぁ、そうはいっても、良の容姿だって平均的なボーダーラインより少し上、程度だったのだ。

 だからこの悩みは、(あきら)が熱心な進学校に行かなければ抱かなくて済んだ悩みである。普通の学校ならば、(あきら)より容姿が良い生徒など幾らでも居ただろうし、そもそも小学校でここまで厳格な頭髪検査は珍しい。

 

 

 かといって今さら、良い学校に来れたのを蹴って他の学校に転校するなど、両親は許してくれないだろう。もうどうしようもないのだ。

 だが、諦めるべき悩みだとしても、それでも、(あきら)は本当に嫌だった。

 

 

 三つ目の、嫌いな理由。

 

 

 これは、二つ目とは違って、どこの学校、職場でも同じかもしれないけれど、それでもやはり(あきら)は嫌なのだ。

 

 

 ヒソヒソ話、にやにや笑い。これが、とにかく多い。周りに迷惑をかけないようにしようという配慮かもしれないが、正直、大きな声で話して、大声で笑ってもらう方がましだ。いやらしくて、気持ち悪い。

 

 

 以上の事から、(あきら)は学校が嫌いだ。

 

        5

 

 一週間後。

 

 

 (あきら)は屋上にいた。端っこに。柵の向こうに。一歩踏み出せば死ぬ場所に。

 

 

 目的は一つ。自殺するために、だ。

 

 

 (あきら)は、ネットや物語の世界には、あまり触れていない。だから別に、自殺志願者のオレカッケーとか、死ぬと脅して周りに構ってもらう事が生きがいとか、そういうファッション自殺志願者とは違う。

 

 

 つまり、本気で、死のうと思っているのだ。

 

 

 辛い。辛い。辛い。

 

 

 その一言だった。考えていた物の2倍、3倍辛かった。

 

 

 何が辛いって、心の中も、自分がやっている事も、欲しい物も、全部、全部日本人全員に知られているなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて、それが本当に辛い。

 

 

 あんまり恥ずかしいから、自然と、知られても極力恥ずかしくは無いようにと生活をして、恥ずかしく無いように思考するようになった。

 

 

 それは酷く、酷く緊迫した日々だ。

 

 

 死にたくなる程、気が狂いそうになる程に。

 

 

 だって、食事をしていても、入浴していても、トイレにいても、授業を受けていても、映画やテレビを観ていても、本を読んでいても、いつもいつも、喜べない、楽しめない、悲しむ事すら出来ない。感動する事も無い。

 

 

 だから、もう嫌だった。

 

 

 これが永遠に続くと思うと、気が遠くなりそうだった。

 

 

 そして、そしてそれだけでは無いのだ。

 

 

 人と話をする時。

 

 人と擦れ違った時。

 

 人と目が合った時。

 

 人と関わる時に、その人を頭の中で侮辱してしまうのだった。

 

 

 例えば、頭の中でその人の顔をぐちゃぐちゃにする想像をしてしまったり、頭の中で罵声を発してしまったり。とにかく、その様に今してはならない思考、想像、をしてしまうようになっちゃったのである。

 

 

 当然、そんな事を相手に知られる訳にはいかないので、その思考、想像を思いっきり止めようとする。すると今度は頭の中での葛藤に夢中になりすぎて、相手とのコミュニケーションに集中できず、()()()()なやりとりになってしまう。だから、人と関わる度に一々、汗だくになるのだった。

 

 

 それで友達だろうが家族だろうが、関わるのは嫌になった。

 

 

 そんな感じで。

 

 

 もう、何もかもが辛かったから、耐えきれなかったから、この場所に来た。

 

 

 そして今―。

 

 

 足を一歩、前へ…

 

 出そうとした時、(あきら)の、目が狂った。

 

 

 見えない筈の物が、いや者が、見えたのだ。

 

 

 そこには、自分と同じ位の、小さな女の子が立っていて。

 

 

 そして、その()が言う。

 

 

 「死ぬのだけはやめなさい」

 

 「私がいるじゃないの」

 

 「あと、あと少しだけ、耐えて」

 

 

 と。そして最後に

 

 

 「お願い」

 

 

 と言った。

 

 

 そこで、その女の子は、すぅーっと消えた。

 

          6

 

 一ヵ月後。

 

 

 生きていた。

 

 

 辛かったけど、苦しかったけど、何故か生きていた。時間が経つごとに、余計に苦しくなっていったけど、それでも生きていた。

 

 

 そして今日、公園のベンチに座って。

 

 

 絶望に浸って。

 

 

 笑えなくなるのが怖いから無理に笑って。

 

 

 それから、あのドラマ、「コネクト」の事を思い出して。

 

 

 そんな事をしていたら、不意にある事も思い出してしまった。

 

 

 そういえばあのドラマ、「コネクターの頭に直接、非難の声が伝えられる」っていう展開があったなぁ。なんて。

 

 

 そんな思い出さなくても良い事まで思い出してしまった。

 

 

 しばらくすると、「コネクターの頭に直接、非難の声が伝えられる」という展開を意識したために、(あきら)の頭の中では、常に自分を非難する言葉が響くようになった。

 

 

 つまり、

 

 「死ねよ、クソガキ」

 

 「キモいったらないな」

 

 「吐き気がする」

 

 「寝てんなよ」

 

 「謝れ。謝罪しろ」

 

 「生きてて、ゴメンナサイって土下座して謝れ」

 

 

 (など)と食事、風呂、トイレ、学校、趣味、全ての時間に聞こえて来るのだ。

 

 

 中には、

 「ウチの子に悪影響なのよ。ボクもコネクターと同じ位遊ぶ、とか言ってるんだから。もっと勉強させろ」

 

 

 等の具体的な非難もあり、それが余計に、本当に非難する人がいるんだと(あきら)に思わせた。

 

 

 そして、それに従って、(あきら)が勉強したり家の手伝いをするようになると、今度は癖などの今までと異なる部分を叩かれるようになった。

 

 

 だから家にいても、外で人に接しても、心を傷つけるハメになった。

 

 

 という事で、(あきら)の逃げ道は眠る事だけになった。

 

 

 三ヵ月後。

 言い返すようになった。頭で響く主のいない声に。虚しい事に、そんな事になってしまった。

 

 

 「バカが」

 

 『バカじゃない!』

 

 「恥ずかしっ、笑いが止まらんわ」

 

 「これだから、ゆとり世代はなぁ」

 

 『なんだよ、ゆとりって。ふざけんな、ボクのせいじゃない』

 

 「いや、その世代でもお前個人が頑張れば良いんじゃねぇの。世代のせいにすんなよ」

 

 『ぐっあぁぁーんが!』

 

 

 壁に拳をぶつける。すると、

 

 

 「物に当たるか。おー、もっとやれー」

なんて言われて。

 

 

 もうやめて欲しくて、黙って欲しくて。(あきら)は、小5の小さなプライドをボロボロにしながら、両の手を地面に突いて、背中を曲げて、土下座した。

 

 

 いないはずの相手に。心を読まれているだろうから、しっかり謝意を籠めさせられて。そして、言った。

 

 

 「ごめんなさい。ボクが悪かったです。許してください。黙ってください」

 

 

 それでも、頭の中には声が響き続けた。だから、(あきら)は必然的に、独り言が多くなった。

 

           7

 

 最近、(あきら)の様子がおかしい。母として心配だ。今日の朝の事。

 

 

 (あきら)が、大好きな車のアニメを見ている。実は私も、のれる曲が多いのでそのアニメが好きだった。小説を読みながらBGM代わりにするためにテレビの近くに座った。ページをめくる。

 

 

 一ページ。二ページ。三ぺー…。

 

 

 その時、心地よく耳に刻まれていたビートの調子が崩れる。不似合いな爆音が響いたからだ。

 

 

 泣いている。(あきら)が。私は吃驚した。間抜けだが、そうとしか表しようが無い。だって、あまり泣かないアキラが、

 

 

 「うががぁぁぁぐうえぇぇあぁぁ、ぐすん。ゲホッ。うあぁぁぁあぁぁぁ」

 なんて。そうやって泣いていたから。

 

 

 気を取り直して、なんとか話しかける。

 

 

 「そんなに、感動したの? イニ…」

 

 

 すると、(あきら)は、嗚咽しながら言った。

 

 

 「違うぅよ。頭にっねっ、ひびいぃて来るの。声がっ。くるっま()にぃ、ちぃしき(知識)どころか、きょーみ(興味)も、無いくせぇに、かっこぉいいぃとかぁっだけで、みぃるぅなぁって。ケェガァレルって。ゲンサク(原作)もぉ、知ぃらないくせにって。とかっね、あと、キャァラクゥトアー(キャラクター)の真似するの。わっざとヘンにまねっすっるっ。あっと、あんんなにカッコッイイのにッ、ダサイって、マンガァならではのっふしぜんな展開っだって。ずっとっ、ずっと、ずうっとぉ、むかっし()からっずっと好きだったのにぃっ、つまんなくさっれた。ぼくのたからものっ、くそにされちゃっったぁああ!」

 

 

 途中から抱きついていた(あきら)を撫でながら、頭を混乱させている私を放って、(あきら)がまた言う。

 

 

 「まぇ()までと、ちがってねっ、さぁいきん(最近)いきてても、つらいっだけっな、の」

 

 何だか分からないけど、とにかく何か言わなくては。

 

 

 「(あきら)は、まだ子供でしょ。そんな、原作がどうとか、車への興味がどうたらとか、気にしなくて良いのよ。ていうか、誰がそんな事言ってるのよ。お母さん、文句言ってあげるよ。えっと、え?」

 

 

 そういえば、(あきら)は頭の中に声が~、とか言っていた。

 

 

 この子、大丈夫なの?

 

 

 それに、最近、(あきら)は独り言が多い。精神科などに診せに行った方が良いのだろうか。



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第三章 絶望的

 五ヵ月後。

 眠るとよく夢を見るようになった。それも悪夢を。原因は、眠りすぎだと思う。(あきら)は昔から、もう充分に眠ったのに、そこから無理にまた寝ると夢を見る体質だった。

 

 

 

 どこかの文章に「眠りに集中出来ていない時に夢は見るものだ」という旨が記されていた気がするが、この場合、よく眠るとそこまで睡眠に集中していなくても、脳の情報整理等が完了するからだろうか。だから、必要な睡眠時間を超えて眠る事が多くなった今、よく夢を見るのだろうか。理屈なんてものは分からなかったが、そんな事はどうでも良かった。

 

 

 とにかく、悪夢を、それもとびきり恐ろしい悪夢を見るようになったのだ。

 

 

 だから、唯一の逃げ道も断たれてしまった。眠るのは、恐ろしくなった。

 

            8

 

 ある日の事、自分の将来を考える様になった。

 

 

 自分は、このままなのだろうか。一生ずっと。きっと、そうなのだろう。そう思ったら気が遠くなって、アキラは、ベッドにペタッと座り込んでしまった。

 

 

 すると、その時―。

 

 

 声がした。声が。

 

 

 いつものような頭に響いてくるようなものとは違う、明らかに耳に届いた声だった。

 

 

 その声の主は、拓海(たくみ)だった。自分の横に置いてあるDVDの箱にプリントされた、某漫画のキャラクター。その拓海が、再び口を開く。いや、声がするだけで口は開かない。

 

 

 「あのさ、俺、てめぇみてぇなカスには、絶対、観て欲しく無いんだけど。このアニメ」

 

 

 それが始まりの合図だったかのように、周りの形を持った絵、人形、写真が、一斉に喋り出した。

 

 

 その様子は、夕立ちのようで、すぐに、その部屋は動物園状態になった。

 

 

 「たく、ありえんぜ」

 

 「本当ね、私達をホコリまみれにして」

 

 「かといって、こんな気持ち悪いガキに構われるのも嫌だが」

 

 「いっそ、こいつ死ねばいいのよ」

 

 「そうやね」

 

 「死ね」

 

 「死ね」

 

 「死ね」 …

 

  

 死への誘いの合唱を聴きながら、アキラは呆然とした。

 

 

 こんなの、あのドラマにも無かったのに。

 

            9

 

 学校は嫌い。特に読書の時間と授業中は大嫌い。

 

 

 なんて自分の机に落書きする程、(あきら)は追いつめられていた。

 

 

 だから―。

 

 

 精神科に連れて行かされた。

 

 

 アキラは、自分の今の状態を全て精神科の先生に伝えた。

 

 

 すると、先生は思いの外、丁寧な対応をしてくれた。まず、薬をもらい、それから、子供のアキラにも解りやすく、尚かつ詳しく論理的に、コネクトというドラマ内の事は現実では起こり得ないとアキラに説明してくれた。そして、家はあまり出ないようにと言われ、学校には、アキラの厄介な悩みの存在を伝え、生徒や先生に気を付けてもらうようにと相談に行ってくれた。

 

 

 有り得ない程に、丁寧な対応だが、それをさせるほどアキラの症状は特異な物らしい。

 

 

 おかげで、アキラ自身、これで自分は救われると思っていた。

 

           10

 

 治らなかった。

 

 

 ダメなのだ。ドラマの設定が現実にもあると思っている訳ではない。先生のおかげで、そこは信じなくなった。

 

 

 だが、ダメだった。治らなかった。

 

 

 理由は分かっている、一つだ。

 

 

 ()()()()()()()()()のだ。悪癖に。

 

 

 声が聞こえてくる。有り得ないと解っているのに、自分の全てを相手に知られていると思ってしまう。どうしても。どうしても。

 

 

 そして何より酷かったのが、学校の人間である。ボクは、あいつらを過大評価していた様だ。

 

 

 ひそひそ話やくすくす笑いは、控えろと伝えられた筈なのに、なんと余計に酷くなった。

 

 

  「あいつ、自分の事、ほらあのドラマ、コネクトのコネクターだと思ってんだってー」

 

 「えーっ、何それ。頭おかしいやん」

 

 

 など、(あきら)自信がネタにされるようになった。

 

 

 これだけならまだ良い。だが、それだけでは終わらなかった。

 

 

 聞いてくるのだ。「心の中知られるって、どんな感じ」「大変だねー(棒)。精神科ってどんなトコだったー?」

 

 

 等々。先生も。

 

 

 「大変でしたねー(棒)。でも、そんなのねぇ~、無いですよ。心配しなくても」

 

 

 その全てが、あまりに鬱陶しくて、授業中も、今度はあきらかに自分を指してヒソヒソ言っていて、()()()()()()()()()()()()()()()()言っていて、とにかく本当に鬱陶しかったから、(あきら)は言ってしまった。

 

 

 「やめろ。ぅるせぇんだよ!」

 

 その時の、先生、生徒の顔。目。

 

 

 「せっかくお前みたいな陰キャラに構ってやったのに」みたいな、鋭い目。

 

            11

 

 (あきら)は家に帰ってから、ずっとこれからの学校生活について考えていた。

 

 

 

 そしたら、すごく不安になって、独り言が増えた。というか、頭に響く声が多く、大きくなった。

 

 

 だから、いつもよりも、一人でたくさん喋ってしまった。

 

 

 (あきら)には姉がいた。姉は、最近の弟を物凄く気持ち悪いと思っていた。

 

 

 もともと、差別意識がガンガンに強かったので、インドアな弟を気持ち悪がっていたが、口には出さなかった。だが、今回の弟は、姉にとってはゴキブリよりも気持ち悪かった。可哀想だとは、微塵も思わなかった。

 

 

 だから、母に、

「最近、アキラ、まじっで気持ち悪いんだけど。独り言多すぎやろ。死んでくれれば、ありがたいんだけど」

 

 

 なんて、軽い冗談のつもりで、愚痴ってしまった。

 

 

 (あきら)が、最近寝るのが嫌で、起きていて、きっちり聞いているとも知らず。

 

 

 (あきら)は、少し泣いた。

 

          12

 

 (あきら)は、吐いた。

 

 

 トイレで。

 

 

 胃の中身を全部。

 

 

 その後は何も食べる気がしなくなった。

 

 

 でも、体は全然ダルくなくて、原因も分からなかった。

 

 

 病院に診てもらいに行くと、()()()()が原因の「自律神経失調症」なんだと。

 

 

 ギリギリ生きていけるだけ食べて、あとは吐かない為に食べない。という食生活をするようになった。

 

 

 残す事が出来ない給食は、本当に吐くか吐かないかギリギリの辛い物で、皆が一番好きな学校の時間帯である給食の時間が、良には一番嫌いな時間帯になった。

 

 

 神さま、ボクから食べる事すら奪うんですか。

 

            13

 

 一年後。

 

 

 (あきら)は、すごい事に気付いた。

 

 

 自分の事をコネクターだと思いながら生活した方が、普通の人間だと思って生きるよりまだ楽なのだ。

 

 

 当然だろう。コネクトのせいで発生した悪癖を抱えて生きていくのなら、自分がそういった特別な状態にいるという事で優越感を持つ事以外、生きがいの見つけようがないのだから。

 

 

 だから、精神科の先生に教えられた事を出来るだけ意識しないようにして、その分コネクトの設定を意識した。その結果、また自分の事をコネクターだと思うようになった。

 

 

 

 

 

 『田中 明良(あきら)

 

 

 

 (あきら)が最近俺を遠ざけている。

 

 

 

 名前も同じで、気が合う良い奴だと思っていたのに。

 

 

 

 まるで、面接の時間に緊張しているかのような様子で俺と話して、毎回嫌そうだ。

 

 

 

 授業中。

 

 

 ドンッ。という音を立てておもいきりイスが蹴られた。

 

 

 それを合図に、嘲笑や罵声を伴いながら、物が投げつけられる。例えば、鉛筆とか消しゴムとか、…はさみとか。

 

 

 「せっかく構ってやったのによ」

 

 「うるせぇんだよぉ、だってさ」

 

 「くそ思い込み精神病障害者の(あきら)く~ん、調子乗ったらこうなるんだよ~? あ、田中、お前には言ってないぞ」

 

 「キモいんよ、障害者」

 

 「さっさ死ねや、カス」

 

 

 俺には、言ってないらしい。

 

 

 先生は黙々と授業を進める。

 

 

 共犯者だから、見て見ぬフリをする。

 

 

 (あきら)君はノートに板書を写している。だが、邪魔が入るせいで思うようにいかないようだ。

 

 

 (あきら)君は、焦ってしまっているだろう。

 

 

 こんな状態に陥ってしまっているのだから、ノートをとるなんてこと、考えなくても良い筈なのに、まだ応用を効かせた思考が出来ないのか、「ノートをとらねば怒られる」という教訓を強く意識してしまっているようだ。

 

 

 ノートに字を書こうとすると、横から「おい、コネクター」なんて言われながら体当たりをされた。

 

 

 こうやって、黒板の字を写そうとした時に余計に攻められるから、写そうとする程、辛くなってしまう。しかし、ノートをとらねばならない。

 

 

 という、この状況のせいだろうか、足をもじもじさせている。

 

 

 焦って、焦りすぎて、もじもじしている。

 

 

 そして-。

 

 

 シュ、シュー。

 

 

 少しの静寂。そして。

 

 

 「うわぁ、やりやがった。クッセェ。アキラ・コネクター君が小便漏らしやがったぞー!」

 

 

 教室は、動物園状態になった。

 

 

 ワー。キャー。グハァハハハハ。

 

 

 そして先生が。

 

 

 「ぶぷっ。アキラ君、さっさとシマツしなさい」

 

 

 と、冷たい目をして、少しだけ口を綻ばせて言った。

 

 

 このイジメは、どんどんエスカレートしていった。

 

 

 途中から先生も、すごく積極的だった。

 

 

 そして、俺は傍観者だった。

 

           14

 

 ある、とっっても寒くて雪が降った日。

 

 

 (あきら)君は、靴を壊された。隠されたのではなく、壊された。

 

 

 この靴壊しのイジメは温存されていた。別に、躊躇されていた訳ではない。こんな日を待っていたのだ。素足で歩くと足が冷たい日を。

 

 

 雪の中に佇んでいる(あきら)君に声を掛けようとして、やめる。何か小さな声で喋っていたのだ。(あきら)君が。

 

 

 「こんなもんか。いじめられっ子」

 

 「日本で一番辛い思いをしてる小学生、こんなもんか」

 

 「コネクターだと思って生きる事の方が、よっっぽど辛いよ」

 

 

 さらに、言う。

 

 

 「あぁ、寒いな。冷たいな」

 

 

 俺は、(あきら)君が遠くにいる気がして、話し掛けられなかった。

 

   

 

           15 

 

 誰もいない公園に一人きりで座って、(あきら)は、何故自分が誰にも救ってもらえないのかを真剣に考えていた。

 

 

 自分は、コネクターなのだ。

 

 

 つまり、自分の思考は全て、日本中の人々に知られているのだ。にも拘わらず、その全員に見て見ぬフリをされている。こんなに辛いのも、悲しいのも、全部。

 

 

 一人も、同情してくれない。

 

 

 でも、それは仕方が無い事なのかもしれない。

 

 

 だって。だって。

 

 

 ボク達は、他人なんだから―。

 

 

 あきらめるべきかも、しれない。

 

 

 しょうがないのかも、しれない。

 

 

 なんて思える程、他人に期待しなくなっていた(あきら)だったが、そんな(あきら)にも、許せない人達がいた。自分を救う義務があると思う人達がいた。

 

 

 それは、

 

 長沢大河?

 

 いや違う。

 

 精神科の先生?

 

 違う。

 

 学校の教師?

 

 違う。

 

 友達?

 

 違う。

 

 

 この人達はみんな他人だったから、そんな義務はない。

 

 

 だが()()()()は、ボクという存在を生み出した()()()()には、その義務がある。

 

 

 (あきら)は、許せなかった。自分を救おうとしない、()()を。

 

 

 

 

           16

 

 「おー、さっぱりしたね~。大河」

 

 

 と、この兎のぬいぐるみは言った。そして大河は

 

 「うん。髪もヒゲもなんとかしたし、かなり爽やかになったよ」

 

 

 と返した。

 

 

 「いやぁ~、しかし、(あきら)がそろそろ親にブチ切れる筈だって事だけど、実際どう思う? 大河」

 

 

 それに大河は、答える。長々と。

 

 

 「うん。ボクの読みが正しければ、そろそろだと思うけど。まぁ、ここでコネクター思い込み症候群の経験がない人は、(あきら)君の怒りが爆発したらボクに矛先が向けられるんじゃないかとか、思うんだろうなぁ。実際に経験した者から言わせてもらえば、(あきら)君の状況なら、コネクターだと思い込まされた原因のボクよりも、助けてくれない両親の方を恨む筈なんだよね。それに……」

 

 

 その時、大河の住むアパートの部屋の前を、窓越しに(あきら)が走っていくのが見えた。

 

 

 泣き叫びながら。

 

 

 それは、間違いなく(あきら)だ。

 

 

 良の学校から、良の家までの道のりの中で、最も見晴らしが良い場所にあるこのアパートに入居したのも、この瞬間に立ち会う為だった。

 

 

 ようやく(あきら)の父、良助(りょうすけ)を殺せる。いや、(あきら)に殺してもらえる。自分は、後始末をするだけだ。

 

 

 大河は、実は殺し屋だった。

 

 

 というか、(あきら)の父を殺すために、殺し屋になって金稼ぎ兼、殺人技術の向上を目的に活動していた。

 

 

 だから、ニートでは無かった。

 

 

 この前、経験も技術も浅はかな自分には荷が重すぎるぐらい大変な殺しの依頼を達した時に、金はたんまりもらっていたので、それ以来殺しはしていない。

 

 

 だが、そのせいで腕が鈍っている事を差し引いても、一般人なら簡単に殺せる大河が、良助だけは殺せなかった。

 

 

 それは、良助の用心深さに原因がある。あいつは、不意をついても、毒を飲ませようとしても、どうしても、どうしても、殺す事が出来なかった。

 

 

 とにかく、良助(あいつ)を殺せるのは、(あきら)だけだと思っていた。

 

 

 だから、今、大河は最高に満ち足りた気分だった。

 

 

 「いける。絶対に殺してくれる」

 

 

 そして、願うように、言った。

 

 

 「(あきら)君。()ってくれよ。そしたら、後はボクが君の事も治してあげるから。()()に連れて行ってあげるから。がんばれよ」

 

 

 そして良は、両親を殺した。



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第四章 新たな門出

明日創(あそう) (あきら)」それが、ボクの名前だ。

 ボクは、少し前、世界で一番辛い病気にかかってしまった。それからは、毎日が灰色で、辛くて悲しくて仕方がなかった。

 

 

 そして。

 そして最後には、今まで育ててくれた両親まで殺してしまった。

 

 

 そんな色々な辛い事が、一度に起こったからだろうか。

 

 

 ボクは、心に雪が積もってしまったみたいに、何にも面白さを感じられなくなった。

 

 

 そして、今-。

 

 車の中にいた。

 

 

 自分が慕う「長沢大河」にどういう訳か助けてもらった。

 

 

 あの時。あの両親を殺した時に、血だらけだった(あきら)の体や服を洗ってくれて、それから部屋を色々いじってから、警察を呼んで、それから……。

 

 

 そこで、(あきら)の耳に大河の声が響く。

 

 

 「(あきら)君。君はもう心配する必要は無いよ」

 

 続けて言う。

 

 「色々と片付いたし、後は君の『コネクター症候群』を治すだけだ。まぁ、その為にこんな何もない田舎に君を連れて来たんだから、ボクはもう君の()()は治ったものとして、考えているけどね」

 

 

 

 そうなのだ。今、(あきら)はこの上なく田舎っぽい所にいた。

 

 

 なんでも、聖地とかいって、コネクター症候群を治すのに絶好の土地らしい。

 

 

 まぁ、大河に育ててもらえる事になったのは、すごくラッキーだったので、田舎でも何でも良いのだけれど。

 

 

 いや、育ててもらえるようになったという訳でもないか。

 

 

 自分は、何だかよく分からない施設に預けられる事になったのだ。

 

 

 大河には、その準備と、たまに施設を出るときに帰れる場所をつくってもらう。

 

 

 他人の(あきら)をここまで面倒見てくれるだけでも、良い人だと言えると思う。

 

 

 「(あきら)君。明日から施設生活だからね。今日は、とりあえず散歩でもして、この辺の事を知っておくと良いと思うよ」

 

 

 (あきら)は、分かったと言って、車から降りた。

 

           17

 

 少し見上げてみると、青い絵の具をぶちまけた空に綿をくっつけた図画工作の作品みたいな光景が一面に広がる。ボク達小学生がイメージするような、きれいな青空だ。

 

 

 大河さんに降ろしてもらって、それから少し歩いたところにボクはいた。

 

 

 水平線には森林があるが、そこまでは、ずっと草だらけの平原が敷き詰められていて見通しがよい。朽ち、折れた木が点在していて、腰を下ろすこともできそうだ。

 

 

 都会にいると意外に出逢うことのできない類の場所だ。空気が綺麗で、風が心地良い。

 

 

 横たわって、永久に寝ていたい……。と思って豊かな緑をした草たちを見れば、何だか虫がついていそうに思えてしまって。

 

 

 それで、自分の最寄りの倒木に、腰を下ろしても汚いものがつかないのを確認してから、座った。

 

 

 そして、ぼーっと。

 

 考える。

 

 

 氷溶園(ひょうようえん)、だっけ。

 ボクが入るのは。カッコイイ名前だったなぁ~。最初に聞いたときは、笑っちゃった。大河さんによると、林とかいう年配の女が設立した私立の施設らしい。だから、名前もこんななのか? 

 

 

 個人が考えたって感じの、くそみたいなネーミング。

 

 

 ま、名前なんてどうでも良いけど。

 

 

 肝心なのは、この施設が、コネクター症候群の人間に最適である、らしいこと。それだけだ……。

 

 

 おとなしく、自分からは人に関わっていけない雰囲気があり、寮制の高校までの繋ぎ場所。夢のような施設だと、大河さんは言う。

 

 

 氷溶園の生徒に関わり難い雰囲気があるのは、孤児院を兼ねた学校のような施設で、身寄りがない場合が多いから。彼らは不幸な事件や事故で孤児になった場合が殆どで、お互いが相手は少し狂った人間だと思っているから。そのせいで、友達関係を築いている者が少ないからだそうだ。そして、今は中学以上の生徒がいない。

 

 

 ちなみに林さんとやらはご存命で、そういうガキばかり集めている酔狂な人らしい。彼女のせいでそこに入った子たちは、人と交わることなく、自分の心にある闇を、氷を、人に温めてもらえずに過ごすのだ。

 

 

 なにが、氷溶園だ。

 

 

 もう少し、皆がふれ合えるような措置をとれば良いのに。例えば、そこまで大して重い闇を抱えていない者も、集める範疇内にするとか。半強制的にでも会話させる時間をつくるとか。聞くと林さんは騒がしいのが苦手らしいし、そういったことをする気はさらさら無いのかもしれない。

 

 

 じゃあ何で作ったんだよ、そんな施設。

 

 

 と言いたくなってくるが、ボクにとっては有難いので、素直に感謝でもしよう。

 

 …。

 

 それにしても、素晴らしい自然だ。空気が気持ち良くて…いつまでもここにいたくなる。

 

 

 明日から施設内に入りっぱなしになるのは勿体ないな。

 

 せめてそれまででも。そう思って、自然を堪能していると、やっぱり少しずつ時は経って…。

 

 

 陽は落ちて、またいつか必ず昇るのと同じように。

 

 

 ボクは、氷溶園に転入する日を迎えた。

 

          19

 

 新しいボクの居場所。明日創 良(あそう あきら)の…。

 

 新たな環境。

 

 新たなる宿。

 

 氷溶園(ひょうようえん)

 

 

 この大きな施設は、設立から6年しか経っていない、おニューの建造物だ。

 

 

 頭のおかしい、訳ありの変なガキが集う楽園。

 

 

 変人のガキ共が共に夜を過ごし、共に勉学に励み、共に遊ぶ、という気色の悪い奴等の楽園。

 

 

 ―今、ボクは。

 

 そんな施設の中の一部屋、これから共に気色悪い奴等と授業を受ける部屋にいた。

 

 

 そして、その中で。

 

 

 自己紹介をしていた。

 

 

 「明日創(あそう)………といいます。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 

 そう言って。

 

 

 そう、自らを紹介して。

 

 

 それから、ボクは周囲を見回す。

 

 

 すると、そこにあるのは、顔、顔、顔。

 

 

 暗い顔、しずんだ顔、絶望した顔、退屈そうな顔。

 

 

 当然だろう。ここに集まっているのは、色々と辛い過去を背負っている奴等だ。だから、そんなクソみたいな顔しか出来ないのだろう。

 

 

 でも、そんな顔の中に。

 

 

 気持ち悪いクソ面がそろっている中に…。

 

 

 とてつもなく、場違いな。

 

 

 それでいて、目を疑いたくなる程、綺麗な-。顔が、そこにはあった。

 

 その瞬間に、その顔を見つけた瞬間に。

 

 

 ボクは、目を疑いはしなかったけれど、その代わり、目をとても大きく大きく見開いた。

 

 

 それは、女の子だった。

 

 可愛らしい。

 

 可愛らしい。

 

 それでいて、夕陽の黄色がかったオレンジに照らされて、何だか幻想的な。

 

 

 女の子だった。黒色の長い髪。

 

 

 白い肌と真っ黒な瞳は夕陽に照らされていて、窓際に座っている彼女は何だろう、聖いというか。

 

 

 いや、聖い、というよりは、もっと一般的な風景。何とも形容できないけど、そんな感じの雰囲気。

 

 

 そして、そしてその子は、どうやらボクの視線に気づいたようで。

 

 こちらを向いて

 

 

 

 笑った。

 

 

 心臓が止まったかと思った。

 

 それほどの、ショック。

 

 それから、止まったと思った心臓が激しく脈打ちだす。

 

 

 ドクン。

 

 ドクン。

 

 ドクン。

 

 

 体が火照ってくる。

 

 

 そして、何だか急に緊張でムズムスしてくる。いや、尿意ではないけど。

 

 

 それから、なんと、彼女の隣の席が空いているのに気が付いてしまった。

 

 

 だから

 「(あきら)君の席は、そうですねぇ…」

 

 なんて言ってきたら当然。

 

 

 ドクンドクン。

 

 ……。

 

 ドクン、ドクン、ドクン。

 

 ………。

 

 ってなって。

 

 

 そんな頭が変になりそうな程に緊迫した状況で、先生は。

 

 

 「あぁ、紅坂(こうさか)さんの隣が空いていますね」

 

 と、その子の隣の席を指差して言った。

 

 

 その瞬間、ボクはひさしぶりに、神様に感謝したのだった……。

 

 

 そして、ボクはその、先生に指示された席をめざして歩き出す。

 

 

 トントン。ドクドク。

 

 トントントン。ドクドクドク。

 

 

 歩みを進めるたびに、席が近づいてきて。

 

 さらに、それに伴って、心臓もビートを激しく刻んでいく。

 

 

 そして-。

 

 

 ボクは、ついに、彼女の隣の席に触れる程近い位置に着いた。

 

 

 周囲の視線を感じながら(もちろん隣の女の子の視線も含まれる)ボクはイスを、ガガッと音を立てながら、ひく…。

 

 だがその時、その瞬間、そのセツナに。

 

 

 「がっはぁぁ、遅れたぁ。すいません先生。ん?なんやお前。そこワイの席やで」

 という。

 

 という、その大声は響き渡った。



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第五章 空中相撲

 その少年。

 自らをワイと呼ぶその少年は、「安部系太(あべけいた)」という名前だ。

 後から知った情報によると、こいつは以前、関西に住んでいたらしく、通っていた学校では「お粗末な命」とかいう意味解らないあだ名で呼ばれていたらしい。

 

 

 一年前に両親が不慮の事故で死亡してから、この施設に預けられている。

 にも拘らず、他の連中と違い、ここに預けられるまでと何ら変わらず明るく生きているそうだ。

 

 

 まぁ、こんな所にいる奴らの中では、ずいぶん明るく元気で活発な奴、ということだろう。

 

 

 そして、こいつの得意競技。

 これがボクを少しだけ驚かせた。

 

 

 その競技は、落ちたらケガをする位の高地での相撲…だという。

 

 

 あまりにヘンテコで、そして恐ろしい。

 

 そして、そして今。どういう成り行きか、この系太とボクは、その「空中相撲」で対決する事になっていた。

 

 

 「()()()をかけて」

 

 

 系太は、あそこは窓際だし色々と見えやすいから、という理由で「あの席」を欲している。いや、ボクに言わせれば、あんな最後尾の席、黒板やら前に立つ先生やらは見えにくい筈なのだが。クラス全体を見渡せるからだろうか。

 

 

 とにかく、ボクも引く気は無かった。

 

 

 だから今、どこから引っ張り出して来たのか分からないほど、高い高~い「物見櫓(ものみやぐら)」みたいな物の上層部に設置された土俵の上に、ボクたちは立っていた。正面に低い体勢で構えた系太とにらみ合っている。

 

 

 そして、開始は唐突だった。

 系太が思い切り体をぶちかましてきたのだ。

 いきなりの事で、ボクは体勢をくずす。

 

 

 おいおい。こんな急に、何の宣言も無しに開始は、反則だろ。

 なんて、思ったけど。

 どうやら、そんな事なんとも思って無いらしく、系太は体勢をくずしたボクに無遠慮な追撃をしたのだった。

 

 

 それは、両肩を両腕で掴んで力任せに押しつけるという実にオーソドックスなもので、ボクは後方に一メートル程追いやられ、いきなりピンチになってしまった。

 

 

 と、そこで。

 「おっと、ごめん。焦りすぎた」

 と声を発して、系太が力を抜く。

 その反動で、ボクは前のめりに倒れてしまう。

 

 

 軽い痛みと共に転がったボクに、系太は

 「ルール説明がまだだったね。えーっと、まぁ基本相撲と同じルールだよ。ただ一つ違うのは、倒れても、投げられても…う~ん、何て言うか、……そう、下の地面に落とされなければ、負けじゃないって事。じゃ、始め」

 と、何故か標準語でまくし立てて、試合を再開した。

 

 

 先程と違い、今度はボクから体当たりを仕掛けにいった。

 それに、それに系太は全く焦ること無く、しっかりとボクの体当たりを両手で受け止めた。

 

 

 やはり、この競技は慣れている分、相手の方が有利な様だ-。落ち着いた対応が、彼の経験を物語っている。

 力士を連想させるようなデブでも無いし、筋肉もそんなには無い。ボクと同じような体格だ。それでも、彼がこの競技の事を得意だと言っているのだから、何か彼なりの策というか、ボクには考えもつかない得意技などがあるのだろう。その上、経験まで持っているというのだから、何も考えずにこの競技に参加したボクはまさに、()()()()()で相撲をとっているところなのだ。

 

 

 なんて、無駄な事をバカみたいにあれこれと考えていたからだろう。

 ボクは気付けなかった。

 彼が、押し返そうとはしていなかった事に。

 受けているだけなのだ。

 

 

 なぜそんな事をしているのか―。

 それは、ボクの力を()()する為だ。

 なんて、そう気付いた時には、もう遅かった。

 

 

 系太は、体を、バッと横にずらしたのだった。

 支えを失ったボクの体は、勢い余って土俵の外へ一直線である。

 だが、ボクもバカでは無かった。

 そのまま、されるがままなら、土俵の外へ落ちていただろうボクの体を、ボクは思い切り下に傾けた。

 

 

 それは、野球選手がするような、スライディングだった。

 ザザザザッ。

 と、土俵とボクの体が摩擦する。痛い。

 その結果、ボクは、上半身を土俵外にさらすだけで動きを止めた。

 

 

 これが普通の相撲ならこれで決着だっただろうが、これは「空中相撲」だ。まだ、敗れてはいない。

 

 

 ボクは立ち上がって、系太と正対した。

 そしてこの時、先程の失態を反省し、雑念を…消した。

 

 

 ボクと系太は再び、ぶつかり合った。

 今度は土俵の中央で。

 ボクは思い切り力を入れて、系太を押す。

 すると、系太も同じだけの力を返してくる。どうやら予想通り、力はボクと大して変わらない程度らしい。

 

 

 ここなら、力の受け流しも出来まい。

 つまり、力不足を補うための策を、少なくとも一つ潰した事になるのだ。

 ボクは、安心して全体重をかける。

 するとまた、系太も同じようにして押してくる。

 既に全身に疲労を感じ、息も上がっていたが、諦めるわけにはいかない!

 

 

 ……。

 フーッ。

 ……。

 フーッ。

 ……。

 フーッ。

 

 

 体をぶつけ合わせたまま、数十秒くらい、押し合った。

 その後突然に、系太は再度体を引っ込めて。

 ボクはまた前に倒れ込むけれど、さっきのように落ちそうになる事は無い。

 だが系太の狙いはそんな相手任せのものでは無かったらしく、なんと今度は間髪入れずに()()()をしてきた。

 

 

 ペチッ。

 といい音が、すさまじい痛みを伴って耳に響いた。

 ボクは、ひるんで、涙も少しにじんできて。

 その隙を、系太は見逃さなかった。

 

 

 今度こそとばかりに押してくる系太の手の圧力で、ボクはまた、土俵際まで追い詰められてしまった。

 そんなボクは、けれども、諦めなかった。

 歯をくいしばり、耐える。

 

 

 すると次は、持ち方を変えてボクを投げようとしてくる系太。

 しかしこれにも、しっかり地面に足をついて踏み止まる。

 防戦一方の様だが、これは何も、無意味に耐えている訳ではない。

 ボクの唯一の武器。コネクター症候群によって培われた精神力、忍耐力―。それを駆使して、系太の体力を奪おうという策略なのだ。

 

 

 何となく、おぼろ気に、そういうことを意識しての耐えだった。

 そして。

 歯をくいしばって耐え抜いたおかげで。

 だんだんと押しが弱まってきたのを感じる。

 

 

 ―さぁ、反撃だ。

 

 

 と、ボクは思って。

 足、腕、手、はもちろん、頭、胴体の全てを集中させて、押す。

 ぐぃ、ずずーっ、と。

 系太の体が後退する。

 

 

 30センチ。

 50センチ。

 100センチ。

 

 

 ついに、土俵際まで追い詰めた。

 勝てる。勝てる勝てる、勝てるんだ。

 それが、嬉しくて嬉しくて。

 だから、ボクは油断した。

 勝てると思って油断した。

 

 

 系太は、先刻と同じように体を横にずらして、ボクの押しを受け流した。

 ―ダメだ。

 直感的に、そう悟った。

 スライディングしようにも、外までの距離が明らかに短すぎる。

 ダメだ。負けた。

 

 

 そう思ってボクは、自身に吹いてくるすごい勢いの風を、抗わずに受け入れた。

 だが、その諦めかけたボクの目が、妙な異物をとらえたのだった。

 

 

 ―「うお、しゃぁああ!」

 と、系太は叫び声を上げながら、喜んだ。

 喜んでいて。

 その後ろから、ボクは、系太をドンッと押した。系太は唖然とした顔になって、そのまま落ちて行く。

 

 

 …ボクは、確かに負けそうだった。でも、系太が初めに言ったように地面に着かねば負けではない。

 ―だからボクは、この試合を行うために、系太とこの土俵まで登ってきた時に階段代わりにした()()を掴んで、何とか落下を食い止めたのだった。

 

 

 「痛ったああ」

 と系太が下でうめいている。

 ボクは、系太と同じ様に横たわって。

 「よしゃ、勝った!」

 と言った。

 

 

 という。なんていう。そんな感じで、ボクの氷溶園での一日目は終わった。



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第六章 冷たい彼女

 朝、ボクは、普通よりかなり早い時刻から、教室の自分の席に着席していた。

 そして。

 そして、コネクター症候群と戦っていた。

 ……はぁ。……。

 

 

 ふと見れば昨日、空中相撲でボクに勝てなかった「安部系太」が、ボクのすぐ斜め後ろの席に着いていた。

 こうさかさんが居るので死角になって気が付かなかったけど、実は、こうさかさんの後ろのその席も空席だったようだ。

 だからその席に、系太は座っていた。

 

 

 系太にとっては、この程度の違い何でも無いだろう。だからはっきり言って系太は、昨日の試合の結果による席替えを何とも思っていないに違いない。

 だがまぁ、ボクにはそこそこ意味があった。

 隣と後ろでは、全然違うのだ。

 この教室では、お隣同士で机をくっつけて、仲良く授業を受けるスタンスがとられている。だから、隣の方が、ボクは良かったのだった。

 

 

 ところで、彼女はまだ来ないのだろうか。

 

 ……。

 ………。

 おい、そろそろHRが始まるぞ。という時刻になって、ボクは少し疑った。

 彼女は来ないのではないか。

 

 

 風邪か何かで、自室から出られないのではないか、と。だが……

 その時、心配していたボクの背後から、足音がしてきた。

 トントン。

 トントン。

 

 

 

 ボクは、ちょっとだけ緊張して、はーふー、と深呼吸を行った。すると落ち着き、気が静まっていって…素に戻る。

 そして、振り向く。

 

 

 

 すると、そこには。

 セミロングの金髪。

 海のような青の瞳。

 雪のように白い肌。

 

 

 という、背丈はこうさかさんと同じ程だが、小学生ぐらいの年頃とは、ちょっと思えないような美人が立っていた。

 なんじゃこいつは。こんな奴、昨日はいなかったぞ。

 と、そうボクが唖然としている内に、その子はボクの後ろの席(系太の隣の席)に座った。

 開いた口を塞いで、ふと考える。

 

 

 何故、こんな美人がこのような施設にいるのか。恐らく、何か訳有りなのだろうが、ボクには分からない。

 ハーフだろうか。すごい美人だが、どこの出身なのか。

 等々。

 まぁ、分かりはしないから、考えても時間の無駄だけど…。

 

 

 トントントン。

 トントン。

 トン。

 と。

 その時、そんな足音が聞こえてきた。

 

 

 そして。

 バシンッという音を立てて、扉が開かれる。

 そのとき入って来たのは、そう、あの少女。

 栗色の髪。可愛らしく、整った顔だち。

 

 

 あの子だった。

 あの子だった。 

 昨日と違って、腰までかかる髪を、どうやって結んだのか細長い一本の三つ編みにして、先端に赤いリボンも結んだりして。暗い顔をしていたりするけれど、間違いなくあの子だ。

 

 

 髪型は、すごく似合っていると思った。

 一本にされた髪が、歩く度に尻尾のようにピョンピョン跳ねて、もともと可愛かったこの子に、さらに愛嬌がプラスされている。

 だから、髪が跳ねる度に、ボクの心臓も跳ね上がるかのように脈打って。

 ドクン、ドクンってなる。

 

 

 残念なのは、彼女の表情が曇っている事だ。

 何があったのだろう。

 やはり、体調が優れないのだろうか。

 …。

 そんな事をしている間に、彼女は、自身の椅子に手をかけて。

 ボクは、しどろもどろになりながら、声を掛けた。

 

 

 「ボク、やっぱっり、このぉ席っ席になったんだ。よ、よろしくね」

 すると。

 なんと、ものすごく迷惑そうな、冷たい、冷たい、それでいてどこか悲しそうな目に、表情になって

 「話しかけないで…」

 

 

 と言った。

 なんなんだ、この態度は。

 昨日の笑顔とは、対照的な冷たい態度。

 それにボクは、ただただ困惑した。

 ボクは、何かしたのだろうか。

 

 

 それから普通の学校と大して変わらない授業があったが、そのときもずっと、その少女は無機質って感じだった。

 その後、休み時間になって。

 こうさかさんは、バッと立ち上がって、教室から出て行く。

 

 

 ボクはそれに。それについて行こうと立ち上がり、続いて教室を出る。

 だが、ボクが出た時には、もうこうさかさんは居なくなっていて、キョロキョロ辺りを見回すけれどやっぱりもういなかった。

 トイレに行っておこうか迷い、結局行かないという結論に至ると、教室に戻って、それから席に着いた。

 

 

 そして、次の授業の準備をしながら、考える。

 昨日から今日までの間、ボクはあの子に対して何かしただろうか。

 ―いや、特に思い当たる事はない。

 あの後、浴場に行って男子生徒達と共に体の垢をおとし、浴槽に浸かってさっぱりして、それから自室に戻ったのだ。

 

 

 その前に食事と空中相撲を済ませたが、これらの活動を行っている際、彼女とは殆ど関わっていない。

 だから、恐らくボクが原因ではないのだと思われる。

 …。

 ……。

 

 

 いや、どうだろう。

 例えば、考えたくはないが、こうさかさんが系太の事を好きだったら?

 それは、有り得ない事ではないだろう。

 だって、こんな施設内で、暗い奴ばっかりの中で、系太はすごく明るい奴だったのだ。

 

 

 ひょっとしたら、そんな系太に気があるのかもしれない。

 まぁ、ボクは、恋愛感情なんて知らないんだけど、こうさかさんはそういう感情を持っていたのかもしれない。

 それで、二人の仲を引き裂いて後ろと前の席という関係に追いやったボクを、咎めているとか。うん、確認してみるだけの価値は有りそうだ。

 

 

 と、ボクはそう思って。

 後ろの席に座る金髪美人を無視して、後ろ斜めに座っている系太に話し掛ける。

 「あの、昨日は席を譲ってくれてありがとう。それで、ちょっと聞きたい事があるんだけど」

 

 

 すると、系太は、こっちを睨みながら

 「ちっ、昨日は負けたから席を譲ったんや。別に親切心やないで…。まぁ、ええけど。そんで、何や」

 と言った。

 そんな系太に、ボクは質問をぶつける。

 

 

 「こうさかさん?がさぁ、何か怒ってるみたいなんだけど、何故怒ってるのか、知らない?」

 とボクが問うと、系太は、表情を曇らせた。

 …。

 ……。

 

 

 そして沈黙。

 何だろう、この気まずい空気は。

 まるで、ボクが、禁句に触れちゃったみたいな雰囲気。

 ひょっとして、系太自身に原因があるのだろうか。

 と、そんな事をボクが考えていると。

 

 

 「あぁ、知っとるで。理由(ワケ)。まぁ、ワイは関係無いんやがな。そして、お前のせいでも無い。せやけど、そいつを、ワイの口から言うんは、ちと嫌やなぁ」

 なんて、言った。

 ―。

 どういう事だ。

 とりあえず、系太は原因を知っている様だが、それを言いたくは無いんだと。

 

 

 …。

 にしても、この重苦しい表情。とても、あの「お粗末な命」の系太とは思えない。何かすごい理由(ワケ)が隠れているのか。

 

 

 まず、ボクは、この表情の系太が嘘をついているようには見えないので、「ボクと系太はこうさかさんの不機嫌には関係無い」というのを信じようと思う。

 そして、では何が原因なのか、ということ。

 ―。

 …。

 

 

 体調不良、なんてどうだろう。

 これなら有り得る話ではないか。

 『こうさかさんは、朝から体の調子が優れなかった。だから、気分の悪そうな顔をして、人には冷めた態度をとっている』

 

 

 なんて、有りそうな話ではないだろうか。

 …。

 ……。

 いや、多分、違う。 

 こうさかさんは朝方、変わった髪型をしていた。あんな、手間の掛かりそうなことを、体調の悪い時にやろうとは思わないだろう。

 

 

 まぁ、手間が掛かるかどうかは、男のボクにはよく分からないけれど。

 とりあえず、この体調が悪かったという案もミスリードということにしよう。

 じゃあ、一体何が原因なのか。

 ……。

 ………。

 

 

 

 ボクと系太以外の、人とのトラブル。なんていうのも有り得る。どうだろう。

 ……。

 いや、それを言い出したら、ボクには推理が出来ない次元に話がいってしまう。

 そこでふと周りを見てみると、教室から何人かの生徒が消えていた。

 どこへ行ったのだろう。こうさかさんも戻って来ないし。

 

 

 何かおもしろい見せ物などがあるのか。

 そう思って、系太にその旨を訊くと

 「いや、そうやないよ。…もう話すん止めよ」

 と、焦ったように答えを返してきた。

 ?

 まぁ、もうすぐ授業も始まるし、皆も戻って来たから良いけど。

 

 何だ。

 何だ。

 何なんだ。

 全く、分からない。

 ―。

 



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第七章 こうさかさん

 そして、それからも授業と休み時間のサンドウィッチは続いていった。

 普通の学校と同じように。

 いや、特別な事を望んでいた訳では無いのだけど、それにしても、変わらないなぁ、と思わされた。

 その無変化っぷりは、何と体育の授業なんていうのまであるくらいで。

 

 

 それで、次の授業がその体育だったから、ボクはグラウンドに向かって急いでいた。

 そして、走りながら考える。

 考える事は山程あったけど、中でもとりわけ気になる事といえば、やはり、こうさかさんだろう。

 

 

 思えば、ボクは、彼女の下の名前も知らない。

 この施設には、「さぁ、お互いの名前を知り合って仲良くなりましょう」みたいな風潮は無いから、名札や名簿等の名前を示してくれる物も無いのだった。

 系太に関しては名前を知れたが、それは彼が「空中相撲」をしよう、と言い出した時に自己紹介をしてくれたからであった。

 

 

 だから別に、隠している訳ではないのだが、他人の名前を知るには本人に訊かねばならないのだった。

 故に、ボクはこうさかさんの名前を知らない。

 訊くのは恥ずかしいし、かといって系太辺りに教えてもらうと、変に意識していると思われて、それをネタに弄られると面倒だ。

 

 

 まぁ。 

 別に知らなくても問題ないし。

 問題ない。問題ない…筈だけど。

 なぜか、やけに気になる。やけに知りたい。

 ……。

 

 

 ―。

 さぁ、グラウンドだ。

 ん?目の前に、誰かいる。

 「系太だ…」

 あちらもボクに気づいたようで、こちらに顔と、目を向けた。

 

 

 「あぁ、…ようっ。お前、楽しみにしとるで。ワイに空中相撲で勝ったんやから、さ。イイ感じのプレイ見せてもらわんとな」

 「…あぁ、えっと、がんばるよ」

 そう答え、ボクは、にやっとする。

 すると系太は少し気持ち悪そうに、おぉ、がんばれよ…と言った。

 

 

 …。

 ぎこちなかったのだろうか。

 最近、人とコミュニケーションをとっていなかったので、ちょっとおかしく見えてしまったのかもしれない。

 だが、そんなことを気にしている場合ではないので、それは後でまた考えることにして…。

 

 

 「…」

 無言で急いで、集合地点に向かう。

 タッ、タッタッ。ボクは駆けた。

 

        20

 

 …。

 「ふぅあ…」

 体育が終わり、教室に帰ってきた。

 授業の感想は、…まぁ普通。可もなく不可もなく、といったところだ。

 つまり、面倒なだけの、だるい時間だったということである。

 それで良いのだが、少し残念だ。

 

 

 さぁ、次の授業は…。

 「みなさん! えっと、…私の不注意で体育の時間に、近藤(ちかふじ)君がケガをしてしまいました…。それで、かなり重傷のようなので、彼を病院に連れて行きます。…次の時間はその為、自習とします」

 

 

 だ、そうだ。

 クラス内で、一人か二人が歓声を上げたが、先生の報告に対する反応はそれだけだった。

 氷溶園(ここ)なら、そんなものか。

 最初から分かっていたことだが、こういった氷溶園特有の反応を見せられると…何というか、すごくシュールだと思う。まるで、半数以上がロボットで構成されているようだ。

 

 

 これだけ冷めきった奴等だと、一緒にいる人間としては普通、良い気分にはならないだろうが、ボクにとっては…。

 ボクにしてみれば、寧ろありがたいのだった。

 

 

 「自習か…」

 そこで、チャイムの音が鳴り響く。

 さぁ、自習…自習だ。

 といっても、何をすれば良いのか。

 ん?

 

 

 ふと横を見れば、いつの間にか、こうさかさんが座っている。

 …。

 ……。

 ゴソッ。

 そして何かを取り出して。

 

 

 その小さな何かを、開き始めた。

 どうやら包装紙に包まれているらしい。

 バリッ。スッ。

 「……」

 

 

 無言。無言で、地味な作業を…ガサゴソ、ガサゴソとしている。どうやら包装紙はもう剥がしたみたいなのだが、何故かまだ、自分の手元を見つめて指を複雑に動かしているのだ。

 気持ち悪い。

 変人か、コイツ?

 

 

 …。

 それにしても、先生が連れて行った近藤という子、どうやってケガしたんだろう?

 ちょっと言い方がおかしい気もするけど、この表現が相応しいくらいに、安全な授業だったと思うんだけど。最初だったから簡単なことしかさせられなかったし。

 

 

 不思議だ。 

 それに、体育の時間中にケガしたんなら、もっと早く、体育の時間中にはボク達がそのことを知ったはずだ。どういう事なのだろう。

 …うーん。

 

 

 ガサッ。

 「…?」

 こうさかさんの方を見る。

 相変わらず、作業をしているのだが、何をしているのか……あ!

 

 

 こうさかさんの手元にある「物」の表面に、「十色折り紙✪」と書かれているのが見えた。

 こいつ…。

 折り紙を…。ヒマ潰しって訳か。

 …。

 

 

 あはは。

 見せつけてやるか。

 ボクはノートを一冊、取り出す。開き、最後の方の適当なページに目をつけると、ちぎった。

 ピリリッ。ピリピリッ、と。

 

 

 「……くすっ」

 折り紙は苦手なのだが、一つだけ超上手に作れるやつがあるのだ。しかもかなり難しいので、人に自慢するに足るものである。

 …。

 ボクは、さっそくそれを作るために、折り紙を始める。

 

 

 ノートブックから切り取った一枚の用紙を切り分ける。指でまた、バリッビリッ、と。

 そして折り目をつけ、折り、広げ、たたむ。

 ふと、こうさかさんの方を見ると、どうやら「ツル」を折っているらしく、羽のような突起が生えた物が少しずつ出来上がってきている。

 

 

 だが遅い。

 ボクの方が、早い。

 ―。

 ボクは手裏剣を作り終え、最後の仕上げを…。

 ―。

 

 

 …。

 でーきたっと。

 「短刀(たんとう)

 ボクの、自分で考えたので多分オリジナルな、一品である。

 手裏剣の四つある刃の内の一つを、長くする。

 

 

 ただそれだけのことだが、ボク流の作り方だと、それだけですごく様になるし、とても難しくなるのだった。…だから、自慢できる。

 その上ボクは作り慣れているから、折るのが早いのなんのって。自分でも驚く程だった。

 …。

 

 

 さてと。もう、折り終えてしまった。

 見せつけよっと。

 …。

 人が緊張しながらも一生懸命、話しかけたのに……あんな態度とりやがって…。

 ムカついてきた。イラついてきた。

 

 

 このクソ女。

 …くらえっ。

 「…あっ!」

 ボクはそんな、やっちまった⁉ な声を上げて、「短刀」をこうさかさんの机に落とす。

 

 

 もちろん、わざとではあるが。

 「…」

 こうさかさんは、ボクの短刀を少し見つめた後、それがそこそこ凝った作品だと分かったのか手にとって…。

 観察し始めた。

 

 

 「……」

 見るが良い。

 見ろ見ろ。

 お前じゃ一時間はかかりそうなそれを、ボクはお前がツルを一羽折るより早く…。

 

 

 ダンッ。

 「…⁉」

 何、したんだ?コイツ。

 ボクの、短刀を…。あ。

 ……。

 

 

 踏みつけやがった…!

 潰れた紙くずとなった短刀をボクは見つめ…。こうさかさんが、それを拾って…。

 女はそれを、小さく「…へぇ」と言いながら開きだした。

 「ちょ…」

 何か言おうと思ったが、ダメだ。

 

 

 言葉が出てこない。

 ―。

 放心。

 何も考えられない。

 …。何なんだコイツ?

 

 

 ボクは一応、やっちゃったっ? て感じで短刀を、落としたのに…。 

 そりゃ折り紙を偶然に二人共がやっていたと考えるのはちょっと不自然だから、嫌がらせをボクがしようとした、と解釈されても仕方ないのかもしれないけど。

 それにしたって、いきなり…踏むなんて。

 どういう頭してんの…?

 

 

 やりすぎだろ、オイ…。

 いや、悪意が伝わってしまったのなら、しょうがないのかも…。

 いやいやいや、流石にやりすぎだ。

 何か言わなきゃ…。

 「…お(い)」

 

 

 だがそこで。

 そこで突然。

 クラスの何人かが、立ち上がった。

 ガバッ、と。

 …その何人かには、今ボクの目の前で短刀を弄っているこうさかさんも、含まれており…。短刀を持ったまま立ち上がったのだった。

 

 

 …。

 ボクが訳わかんなくなっていると、こうさかさんを含めたその何人かは、教室の出入り口に向かっていき…。そのまま、いなくなってしまった。

 ―。

 ボクはポカーンとしながらも。

 

 

 おいおい。自習とは言え、今は授業中、なんだよ?

 とか、言いたくなった。

 



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第八章 小さな戦い

 次の休み時間。

 結局、こうさかさん達は、それまで帰って来なかった。どこで何をしていたのかも、分からない。

 ただ一つ言えるのは、こいつ等が不真面目な人種だということ。

 ああいったサボタージュを平気で行えるのは、性根が腐っているからなのだろう。特にこうさかのアホは、ボクの力作を踏みつけるような非常識野郎なので、もはや不良の域すら超えている気がする。

 

 

 まぁ、教室に帰って来てからは、ただ座っているだけで何もちょっかいを出してこないのだから、ケンカを売ったり、やられたら必要以上の仕返しをしたりする類の人間ではないのだろうが。

 それにしたって優しい人間、等である訳はなかった。

 もともとボクは穏やかな方なので、この女とは気が合わないのだろうと思われる。

 

 

 …。

 タンッタンッ。

 その時、子供のそれとは少し違う足音がボクの耳に響いた。

 我々の担任の先生が病院から戻ってきたのだ。どうやら次の授業は自習ではないようである。

 

 

 こうさかさん達も、次の時間はどこかに行ったり出来ないだろう。

 …。

 というか、あまり彼女たちに関わらないようにした方が良い。

 

 とそこで。

 チャイムが鳴り、授業が始まった。

 こうさかさんは急いで駆けてきて、席に着く…。五分前行動という言葉を知らんのか、こいつは。

 何か特別な用があった…ってことも無いだろうし。

 

 

 というか、休み時間の初めの方は、この女、席に座っていたような。いつの間に…。

 ボクに気を取られぬように立ち上がって、忍び足でどこかに行ったんじゃないのか?考えすぎかもしれないが、こうさかさんに厄介なことをされぬよう軽く見張る位のことはしていて、それなのに気づかぬ内にどこかへ行ってしまった…。もう注意して気づかれないように移動したとしか思えない。

 

 

 多分、そうなのだ。そうなのだと思う。

 でも、何故。

 何故?

 何かボクに…人に見られちゃまずいことでもしてたっていうのか。

 恐ろしい。

 

 

 すごく恐ろしく、感じてしまう。

 この子は何だかボクにはよく分からない。はっきり言って背筋に寒気が走るほど怖い。

 そんな、ボクに恐怖の念を与える程の、変人のこうさかさんが。

 人に隠さず、自らの「変」をオープンにするこの子が。そんなこの子ですら、人に見られたくない、と。そう思うものとは…。

 

 

 …。

 とか、そんなことばかりボクは考えていて、全然授業に集中出来ないのだった。

 ふと、こうさかさんの方を見れば、肩が凝るのか肩の肉を揉んだり叩いたりしているのが気になると言えば気になるだけで、真面目に授業を受けているように見える。さっきの自習とは大違いである。

 

 

 …。

 ―。観察、する。

 …。

 トントンと肩を叩こうとすると、首を傾げる動作が伴い、その度にくくられた一本の尾のような髪が、可愛らしく揺れる。

 

 

 ああ-。

 変なことしゃなきゃ、良い感じなんだよな。

 ―。

 ……。

 「…あっ…落ちたぁー」

 

 

 

 と、そこでそんな声が。

 わざとらしい声が聞こえた。

 そしてそんな声を発しながら、こうさかさんは…この女は、紙でできた小物を、肩を叩かないもう一方の手で、机に落とした。

 わざとらしい。

 

 

 …。 

 いや。

 わざとだった。

 「……」

 見るまでもない。

 

 

 落とされたのは、こうさかさんが自作したらしい、ボクのオリジナルアイデアによる作品―「短刀」であろう。

 どうやら踏みつけたボクの「短刀」を開いて、作り方を知ったようである。

 …ご丁寧にぐしゃぐしゃになったボク作の「短刀」も、一緒に落としてくれて、いる。見比べろ、ということか。

 

 

 …。

 ―。

 はぁ。仕掛けてきたか。こんな悪質な…。

 もう、さ…。何ていうか。

 

 

 やりすぎだろ。久しぶりに、キレそう。

 

 

 ボクは、この女を、キッと睨む。

 怒りを、込めて…。

 ―。

 すると、女は。

 この性悪女は…。

 

 

 「その目こわい」

 ボクの眼を、刺した。

 

 

 この女が自作した、「短刀」を使って。

 握って。  

 振って。

 刺した。

 …。

 

 

 「……⁉」

 無遠慮で、失明してしまうんじゃないかと思う程に痛い、一撃。それに驚くより先に。

 あまりの痛さに、軽くうめいてしまう。

 …ぐぁ…。

 「…ぁ…ぅ…」

 

 

 涙が次から次へと溢れてきて、止まらない。

 …うああ。

 

 

 

 痛い。あっあぁ。

 ―痛みが少し引いていって…。

 「…」

 おい。おいおいおい。

 こいつ、もう。

 

 

 許せないや。

 ―死ね。

 何も考えられなくなって、体が本能的に動いていく。

 ぐしゃぐしゃの「短刀」を拾い上げ、握る。

 そしてそれを、クソ女の右目に目掛けて、放つ…。

 

 

 女は目を閉じようとしたのだが、残念! 間に合わず、紙の刃は目を捉える。

 当たった。

 当たったぞ!

 ざまぁみろ。人にやった悪いことは、やり返されることもあるんだよっ。

 ははは、痛い?

 

 

 ざけんな。

 ボクだって…。…え。

 ―。

 

 

 予想外、だ。

 こうさかさんは、痛そうな素振りを全く見せなかった。それどころか、能面のような顔で涙だけ流した後……少し楽しそうに。

 微笑を浮かべた。

 …この人、怖い。

 

 

 短い沈黙。

 板書の音だけが耳に届き…。

 そして次の瞬間。

 ぐわぁっと世界が歪んで。

 ボガッ。

 ―ボクは転んだ。

 

 

 もちろん自分で転んだ訳ではない。こうさかさんに椅子の足を払われたのである。

 …。

 クラスメイトの何人かが驚いてボクの方を見るが、こうさかさんはすでに真面目ちゃんに戻っており、ボクが勝手に椅子から落ちたかのように、現実は、なっていた。

 皆はすぐに、授業に意識を戻す。

 

 

 「…」

 …。

 ……。

 ぶちぎれた。

 

 

 この女が怖いとか関係無い。ムカツク。もう絶対に、許さない。

 痛みも忘れ、ボクはそんなことを思った。

 

            21

 

 そしてそれから。

 それからというもの、ボク達は度々小競り合いをした。何故か毎度、授業中に。

 足の踏み合いで、指相撲のように、相手の足を長い時間踏み押さえ付けようと必死になることもあれば、鉛筆でつつき合ったりもした。

 

 

 

 ボクは毎回、殺すぐらいのつもりで攻めていったし、こうさかさんも同じ程度に本気だった。それ故、他の者が考えるような「遊び」では断じてなかった筈だ。

 とにかくボクは彼女とのやり取りの中で、彼女に対しての怒りやストレスを晴らし、そしてまたその中で溜めるといった連鎖を繰り返していた。それにより次第に彼女の位置づけは、この施設で最大の敵となっていった。

 

 

 多分、彼女もボクをそれと似たような存在として見ているのだろう。まぁ彼女の場合、()()()()だろうが。

 敵-と言ったならボクの中では、コネクター症候群で感じさせられる、見えない者との戦いでの特異なやり場のないストレスに、さらに形あるものとして別の種のストレスを混合させて、ボクの正気を壊そうとする存在という扱いになる。

 

 

 この考えなら彼女は害悪以外の何物でもなく、ボクも遠慮無しで自分から攻めていくことが多く、少し可哀想になったりもする。

 しかし、彼女の「やりすぎ」は相変わらずで、それによって本当に殺してやりたくなる時も結構あり、そんな時の彼女は、ただの憎らしい敵となった。

 

 

 憎らしいことはあっても、怖いと感じることはもう無い。何故なら、こうさかさんの異常には慣れてしまったからだ。何だかんだで、ちょっと狂気を感じさせるだけだったので、そう怖くもなくなってしまった。

 よって、もはやただの、敵のような人であった。

 

 

 ―。

 本日、最後の授業。

 隣には敵のこうさかさん。

 そして科目は、数学である。

 今ボクは、隣の席に注意を払いながら、数学の授業を受けているのだ。

 

 

 ―。毎度の事でもう慣れてはいるものの、やはり少し面倒ではある。だが、こうさかさんに先んじて嫌がらせをされてそれに対応出来ない、何てことにはなりたくないので、多少は我慢しなければならない。

 それから、数学は愉可先生が乗り気だ。板書を途中で止めて続きを生徒に考えさせたり、黒板の前まで呼んで書かせたりする。

 

 

 その為、こうさかさんに意識を向けるだけでなく、ちゃんと授業も聞いておらねば恥をかくことになるかも知れず、数学の授業は油断できないのだった。

 …。

 こうさかさんの方を見る。

 今日の彼女の髪型は、細い、一本三つ編みのポニーテールだ。他には只のポニーテールという場合もあるが、この子はいつも一本に束ねている。

 

 

 ま、髪なんてどうでも…。

 「じゃあ、明日創くん」

 とそこで、先生の長すぎる話の中から、そこだけを切り抜いたかのように、その部分が頭に濃く映された。

 

 

 呼ばれた。…問題を見る限りでは、先生は口で説明させるのが難しいと思ったのだろう。グラフ問題である。

 ボクは席を立つ。黒板に近づき、白チョークを手に取った。

 白い点を、夜空のような黒板に、星ができたかのように、落とす。星座のように点と点を結んで…。

 

 

 「はい、そうです。正解」

 

 

 その先生の声を聞いて、ボクは席に戻る。

 …と、その途中。

 ガッ。

 ボクは隣の席の女の足を、蹴る。

 ちょっとだけ、女がよろめく。

 

 

 罪悪感を抱く必要は無い。彼女も同じ様なことをボクにしたのだから。それに、足を机の下から出していた理由は? ボクを転ばせる為なのではないのか。

 女とボクの席の後ろを回り、自分の席に着く。

 もう、好きな様にはさせない。気を入れ直し、女の攻撃に備える。

 ボクから何かしら仕掛けてやっても良いが。

 

 

 さて、どうする。どう来る。どうなる?

 

 

 ―そのまま気の休まらない授業は進んでいき、とうとう終わりを迎えようとしていた。

 女は相変わらず熱心に先生の話を聞き、必要が有ればノートをとっていた。

 ちょっかいは出されなかったし、ボクも動かなかった。つまりボクの足を蹴る行為が成功したことのみがボク達の闘いの中で起こった出来事、という訳だ。この時間は、ボクの勝利、でよいだろう。

 

 

 なんて思いながら悦に入ていると、先生が、ああそうそう、と言った。

 「明日、この時間に校長の『林先生』が教室を覗きに来ます。それで…例の『god know now』を朗読することになっているので、皆さん練習しておいて下さい」

 

 

 …?

 「あ、転校生の明日創君は、持ってなかったね…はいこれ」

 そう言って、愉可先生が一冊の小冊子を渡してくる。

 開いてみると、そこには文字がぎっしり。

 「明日創君は十四~十八ページまで覚えてくるのよ。前の席の人が読んだら、次に読んで」

 

 

 と、ボクに言って。

 

 

 「この施設の最高権力者なので、ちゃんと文章を覚えてしっかり声を出して読み、良いイメージを持たせること。彼女に悪い印象を与えてしまったら、脅すようだけど、もしかしたらここを抜けさせられるかもしれない。…でも逆に言えば気に入られるチャンスだし、まぁ、とにかく、皆明日は緊張しすぎない程度にがんばること、いいね?」

 

 

 とクラス全体に言った。

 そこでチャイムが鳴り、今日の授業は全て終了した。



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第九章 氷を解かす恋

 林先生に聞かせる、朗読か。

 面倒くさ。

 あの小冊子の中を少し見てみたが、酷い。

 カルト的教団の信者がちょっとおかしくなって書いたような内容だった。

 一言で説明するなら「狂科書」だ。狂っていた。

 

 

 『神は私達の全てを知り、ナカを見つめておられるのです。排泄から食事、夢までを我等と共にしています。しかしそれを疎んではなりません。何故なら-』

 だそうだ。

 ま、覚えなければならないのだろうが。嫌でも…。

 

 

 そういうもの、だろう。諦める。

 と、その時。サイレンが鳴り渡った。

 「竹々山(ちくちくさん)が、えー、噴火しました。近い火山ですが、噴火による影響はありませんので、ご安心ください。―以上」

 え?

 

 

 火山、噴火? ちょっとおもしろそう。

 確か、この地に越してきたときに、大河さんに連れて行ってもらったはずだ。どんな山だったっけ? えーっと。

 

 

 緑が少なかったような気がする。形状は、少し前の事なのに何故かよく覚えていない。

 ボクがあの山について知っていることと言えば、隣の隣の町はずれにあって、あまり有名ではない、という位だ。正直、興味は無かった。

 

 

 だが、この単調で素朴すぎる日常に、いつもと違う色をもった出来事があれば、ボクでもそれが気になってしまう。だからボクは、竹々山のことを少し考えていた。

 …。

 近いし、やっぱり、影響が全く無いということはないのではなかろうか。―火山灰ぐらいは降ってきそう。そうしたら、雪のように白く降り積もるのだろうか。手ざわりはどんなだろう。ざらざら、さらさら?

 

 

 噴火時に音が鳴ったのだろうか。鳴ったのなら、どこまで伝わったのだろう。ひょっとしてボクが聞き逃しただけで、この辺りにも届いていたのかも。あー。どんな音が鳴ったのだろう。

 自分でも不思議な程に、火山のことを考えていられる。氷溶園に来て、ボクの隠れた能力が現れてきたのかもしれない。

 

 

 とにかくずっと。

 火山っておもしろそうだなーって思い続けて、考え続けて、いたら。

 ―もうかなり時間が経っていた。

 ここはどこだろう。

 …。

 

 

 ―意識がはっきりしてくる。

 …。辺りを見回す。

 ここは教室、なのだろうが、何だかいつもと違う。皆がなにか…何か読んで…あ。

 クラスメイト達は例の朗読用小冊子を読んでいるじゃないか。でも何でそんな必死に?

 

 

 丸時計を見る。

 頭の中にある時間割表と照らし合わせると、どうやら今は、一日最後の授業の前にある休み時間のようだ。

 ん。あ…。

 …忘れていた。

 

 

 ボクは急いで机の中をまさぐるが、無い。今日、これから朗読しなければならないのに、その、読む文が著された小冊子が、無い。

 多分、自室に置いてきたのだろう。

 …。先生の言葉が蘇る。

「―もしかしたらここを抜けさせられるかもしれない」

 

 

 やばい。…どうしよう。

 そんなボクなどお構いなしに、チャイムは鳴った。

 校長の林は、教卓横にあったパイプ椅子にかけている。

 老けたメガネのおばさんである。こんな、おばんにボクを追い出す権利があるなんて…。

 

 

 ここを追われたら、大河さんに申し訳ない。というかそんなことより、ここ以外には、ある程度の学歴が得られコネクター症候群の人間にも優しい、なんて場所、無いって大河さんは言っていた、と思う。

 

 

 …どうしよう…どうしよう。

 そんなことを考えている内に、朗読は進んでいく。徐々に、しかし確実に。

 ボクは生きながらにして、なぶり殺されるのに近い気分を味わっていた。どうにかしようと思うのに、どうにも出来ずにただ時が過ぎ、着実にボクの番が近づいてくる。

 

 

 …とうとう、ボクの前の席まで順番が回った。…もう…。

 「…!」 

 そのとき、ボクの肩に、とんとん、と-。

 …こうさかさんだった。

 ―。くそ。頼る、か?

 

 

 いつもは敵同士なのに、こんな時に限って。でも、背に腹は代えられない。席に座ったままで朗読しても良い、という少し異常なきまりを最大に活かすだけだと思って-。

 だがその刹那。

 彼女は表情を無くした。無表情だ。

 そこでボクは全てを悟る。

 

 

 これはこうさかさんからの助け舟ではないのだ。彼女がするのは、あくまで悪意の伴った嫌がらせ。つまり小冊子を見せてくれる訳がない。見せびらかして、その挙句、笑いながらボクを放置するつもりなのかもしれないのだ。

 虫が良すぎた。寧ろそれが当然―。

 ―突然、ボクのすぐ近くに気配が現れた。

 

 

 こうさかさんが近づいてきたのである。もう、肩同士が触れてしまいそうな程に近くにいた。

 何を考えているんだろう。これも嫌がらせの一環なのか。表情は無いままだ。

 彼女はそれから、小冊子を立て、十四ページがボクに見えるよう、示した。

 そしてそこで。

 

 

 前の子の朗読が終わる。次はボクの番…。

 こうさかさんの行動の意図が全く掴めないのに、これを読み上げても良いのだろうか。

 でも悩んでる時間なんてもう無い。

 そう思い、ボクは朗読を開始す…はいはい。

 

 

 今、再認識した。この女はボクのことを敵だ、と思っている。まぁ当たり前か。ハハハ。

 こうさかさんは、十四ページの最初の文を指で覆った。これでは、ボクが読めない。妨害行為というわけだ。

 やっぱり。

 

 

 ほら、こういうこと、してきた。

 このクソアマァ…。そしてそのアマは…。

 「指に従って、読んで」

 と言った。女は指をゆっくり、下にスライドさせていく。ボクは女の指からはみ出た文字を、少し焦りながら読む。察したのだ。

 

 

 「神は私達の、全てを知り、ナカを見つめておられるのです。…」

 …何てことだ。

 こうさかさんは、先導してくれるつもりだったのだ。読み慣れていないのを悟って。

 

「我等と共にしています。しかしそれを疎んではなりません…」

 この無表情もきっと、ノーマークだったボクの朗読パートのガイドをするために、指のスライドの速さなどを真剣に考えているせい…とかなのだ。何となくそう思えてきた。

 

 

 ……。

 「ありがとう。…そう、神に言ってあげたことはありますか。あなた方は、自分の友人や家族にはきっ…と」

 何でそんなに優しくしてくれるの。分かんない。

 ボクとお前は敵同士、なのに。

 

 

 やめてよ。何を考えてんの、いつもの嫌がらせはどうしたんだよ。

 悪意が、全く感じられない。純粋な手助けみたいに思える。でもそんな訳が…。

 ―。

 こうさかさんが近くに、いる。息づかいが聞こえる。何だか普通の女の子みたいだ。

 

 

 「そう…神は私達の一番近くにいるのに、私達を、守っているのに、感謝されることが少ないのです…」

 たまに指を止めて、気まぐれにボクを困らせる。そしてボクにしか聞こえない小さな音を立てて、微笑するのだ。

 余裕がでてきたのだろう。

 

 

 ボクが一段落読み終えると、手でOKやGoodをつくり、ボクを褒めて共に喜んでくれているかのようにもなった。

 いつものこの子との闘いと、どこか似通った雰囲気。…この子にとっては、あんなものふざけ合いの範疇内だったのだ。

 

 

 ただ…友達との馴れ合いに慣れていないとか、ここに入る前にいたところの環境とか、そういった原因が少し過激な言動、態度を生んでいただけで、いつの間にか心を許してくれていたのか。痛い思いや怖い思いもさせられたけど、彼女にとってはただのスキンシップだったのだろう。無邪気に遊んでいただけ。

 

 

 必死になって、調子に乗って、闘いをしているような気になっていたのは、ボク一人。

 …。

 ボクは赤面した。

 「神へ。今からでも遅くはありません」

 

 

 …こうさかさんの、栗色がかった黒い髪。長くて綺麗。

 細く縛られた、三つ編みポニーテール。

 普通に束ねてポニーテールになっていることも多いが、最近はずっと、この髪型だ。

 今日の夕日は、やけに朱くて、こうさかさんの黒髪を赤っぽい色に染めていた。

 すごい…。触れたくなってくるが、嫌われそうなので、やめておく。

 

 

 それにしても、夕焼けでやけに映える女の子だ。

 「そう。そう、神と…心を、一つにするのです」

 そう言って、ボクは朗読を終えた。

 地獄に囚われるような気分で過ごすのだろうと思われた時間は、実は、甘かった。

 終わってほしくない、というのが本心だったが、仕方無い。

 

 

 …言うか。言おう。

 そしてそこから、ちゃんとした、友達関係を築く。

 もう、嫌がらせは絶対にしないし、不快なことも言わない。本当はちょっと楽しかったけど、あんなのはもう終わりにする。

 

 

 本当は、ちょっと、…楽しんでた。心地良かったのだ。いつもこうさかさんを、心のどこかで気にしていて。

 …教室にいないときでも、ずっと。

 

 

 火山が興味深かった、というのは嘘だ。本当は、噴火した火山の上で、あの子と逃げ惑う想像を。共に火山灰を蹴散らす想像を。噴火の音で怖がるあの子を、…想像していた。火山のことを考えようと思うのに、何故か、いつも出てくるのだ。

 

 

 そうしてそれが、あまりに心地良いもんだから、ずーっと、浸っていた。

 …。―何だろう。これは。

 とにかく、お礼だ。礼を言わなくては。

 「…あ、ありがと、こうさかさん」

 すると、こうさかさんは困ったような顔をして、人目を気にするかのように周りを見た。

 

 

 彼女なりの照れ隠しだろうか。まぁ良い。

 それからまたすぐに、朗読の時間も終わっていった。

 

          22

 

 ここは、氷溶園。

 心が病んでいるガキの集いしところ。

 ボクは、その施設内の二〇七号室という個室にいた。

 そして時刻が四時を少し回ったところでボクは何故か起きていた。

 

 

 目が覚めてしまったのだ。だから今、見回りの先生に起きているのを悟らせないようにと電気を消して、暗闇に慣れてきた目で室内を見回している。

 大河が持たせてくれた大きめの旅行用鞄。

 こいつにはすごい数の着替えや、ティッシュ、暇潰しのための規制に触れない簡易玩具、等々色んな物が入っている。

 

 

 そして、その隣の小さなリュックサック。

 これには、身分証明書と財布が入っている。

 その上にはこの部屋に付いていた掛け時計があり、四時十三分を示しているところだ。向かいには、ボクが座っているベッド。

 そして、ベッドの頭を向ける方には、ベッドと垂直になる様に勉強机と椅子が置かれている。

 

 

 という、この部屋で。

 ボクはかなり妙な夢を見た。

 夢を見て、そのせいでこんな起床時間より遥かに早い時刻に起きてしまった。

 妙、というより、変な夢。

 先日教室で会った、()()()()という女の子。

 

 

 あの子が、とにかく笑っている、ていう夢。

 とにかく笑って、こっちを見ていて。それでボクは、彼女が笑う度に心臓を止めて、そして一度折れた骨が丈夫になって戻るように、前より大きく鼓動をするようになる。

 ドクン。ドクン。ドクンドクン。

 

 

 そして、そして起きたら、やけに体がしんどい気がして、体が奥から燃やされている様な、不思議なだるさを感じた。

 それは、発熱に似ているな、と思う。

 なんだか、頭がぼぉーっとして。

 そわそわして。

 

 

 まだ4月の初めで寒いのに、ボクだけは熱い位に温かい。

 だから今、体温計を脇に挟んで測ってみれば、示された数値は「36.2」。

 こんなの初めての感覚でもう、訳が解らないけれど、一つだけ何となく解る事がある。

 

 

 ―あの、夕焼けの笑顔をもう一度見たい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十章 そして、明くる日…。

 今日、当然、こうさかさんには会えた。だがおかしいのだ。

 何だかまた、振り出しに戻ってしまった。話しかけても返事をしてもらえないし、どんなアプローチをしても無視されてしまう。

 泣きそうだった…。

 また、仲良くなれたと思った次の日に、冷たくなっていたという訳だ。

 

 

 ボクには彼女がわからない。

 とにかく、こうさかさんは何故翌日に機嫌が悪くなっているのか、そもそもあれは機嫌が悪いのか。その辺りを知らねば先には進めないということだろう。

 それにしても、無駄、無駄か…。確かにこうさかさん的には無意味だったのかもしれないが、ボクには…この体の、火照りは…。

 

 

 と、そんな事を考えている内に、皆が集まっているグラウンドに着いた。

 男と女は分けられているようで、ボクは男の集団の最後尾についた。

 そして。

 クルッと回って、後ろを見回した。女の集団の中にあの人がいないかと、目を動かす。

 

 

 ほぼ無意識に。本能がそうさせた。

 でも、その人の姿をボクの目が捉える前に

 

 

 「はい、では授業を始めましょう」

 

 

 

 という先生の声が掛けられてしまった。

 

           23

 

 その体育の授業は、体操と集団行動をして終わった。

 並んで走って、右向け右、回れ左、前ならえ。そんなことをずっとやった訳だ。

 しょうもない。しょうもないとしか言いようがない。つまらないし、意味も無い事だと思う。

 

 

 今のボクはいつもより機嫌が悪い。

 先生に、白線を引くためのライン引きを車庫に戻しに行くよう言いつけられたからだ。

 このタイムロスはどうしても、嫌だった。

 だって、こうさかさんに、体育のせいで一時間も会えなかったから。途轍もなく、焦らされた気持ちだったから。

 

 

 会いたい。会いたいよ。

 心が疼いた。何か大切な心のピースが抜け落ちてしまったように、悲しい気分だ。

 一刻も早く顔が見たかったのに、こんな仕事を押し付けられて、ボクは苛立っていた。

 倉庫の扉の前に到着すると、錠前に手をかける。

 

 

 そして、先生に貸しつけられていた鍵を、錠前の表面にある隙間に差し込んだ。

 ガチャ。

 と音を立てた錠前。続けて…。

 ギィィ。

 と音を立てて開く扉。

 

 

 その瞬間に、室内の、埃っぽい空気が漂ってくる。

 気にせず、ボクは足を一歩踏み入れる。

 室内は薄暗かったが、昼間なので何がどこにあるのか位は、分かる。

 跳び箱。得点版。バスケットボールの山。サッカーボールの山。折りたたまれたマット。大きな緑マット。綱引き用の綱。ハードルと、そこに倒れ込む女の子。そして平均台…。

 

 

 ん?

 何か妙なものが視界に入っていた気がする。

 もう一度辺りを見回してみる。

 …。すると。

 やっぱり、そこには、だるそうに倒れ込んだ女の子がいた。

 

 

 「え? ちょ、どうしたの」

 

 

 そう、ボクが声を掛けながら近づくと。

 ガサ、ガサゴソ。

 そう、音を立てながら、小さな何かが地面を横切っていった。

 虫?

 虫だろうか。うん、虫だろう。ゴキブリだとか、そういうやつ。

 

 

 こんなに使用頻度が低い倉庫になら、そういう虫がいてもおかしくない。

 でも、そんな事はいいのだ。まずは、この女の子。

 そう思って、ボクがその少女に視線を戻すと、その頃にはもう顔を上げていた。

 そして、目が合った。

 ドクン、と。

 

 

 心臓が止まったような感覚が訪れた。

 ボクは、この子を知っている。

 というか、体育の前の授業まで、この女の子ばかりを見ていた。

 ―こうさかさん。

 

 

 「あ、あの。こんなところで何をしてるんですか?」

 

 

 思わず、ボクはそう訊く。

 なんて可愛い顔をしているんだろう。その顔は、今までボクを睨んでいたような冷たい表情をしてはいなかった。

 まるで、最愛の人に会えた時のように、希望に満ちていて、目がキラキラしていて。

 

 

 心臓から、血が溢れ出ていそう。体が火照る。

 あぁ、やっぱり。こういう表情がつくれるんじゃないか、こうさかさん。

 あとは、笑ってくれれば。

 あの笑顔を見せてくれれば、完璧なんだけど。

 …なんて高望みをしたからだろうか。

 

 

 ギャンブルでも、上手くいったからと更に積むと、今まで上手くいっていた分も失ってしまったという話を聞いたことがある。

 今回も、そういう事だろうか。

 こうさかさんは急に、目を大きく見開いて驚いた様子になると、それから段々といつもの冷たい顔に戻っていった。

 

 

 そして、いきなり怒り出した。

 

 

 「何で、来たのよ⁉」

 

 

 と、血相を変えて、怒鳴った。

 さらに。

 ベチッ。

 と、ボクの頬を平手打ちした。

 …。

 

 

 訳が解らない。

 理由が解らない。

 何故、こうさかさんは怒っているんだ?

 そして

 

 

 「さっさと、出て行きなさい」

 

 

 と、落ち着いた様子に戻って、言った

 ボクは戸惑ったまま、動けなかった。

 

 

 「あ、あの」

 

 

 どうすれば良いか分からず固まっていると。

 バシィン。

 顔に物凄い衝撃が走った。

 普通じゃない、痛み。小柄な女の子なんかが、到底産みだせないだろうレベルの、痛みだ。

 

 

 それはそうだろう。何たって、彼女はボクに、傍にあったサッカーボールを投げつけたのだから。

 生身の人間では、生じさせるのがちょっと難しい程の、痛み。

 その痛みを受けて、ボクはよろけた。

 

 

 「出て行け。邪魔だ」

 

 

 不可解だ。

 痛いし。

 …。それでも、拒絶はされていても、一緒にいるだけですごく満足している自分がいた。心の、心地よさを測るメーターが振り切れてしまいそうなほどに。

 ボクはこのまま、ここに居てもいい。というか居たい。

 

 

 でも、こうさかさんは、それを望んでいないようだ。

 だから、ボクは教室に戻ろうと思う。この子にこれ以上、嫌われたくない。

 

 

 「わかったよ。ごめんね」

 

 

 ボクはそう言うと、ライン引きを押して、言われていた場所に戻した。

 ふぅ。

 石灰が大量に詰まっているのか、けっこう重い。だから解放されて、心まで軽くなった心地だ。

 ボクは、そのままこうさかさんの横を通り抜ける。

 

 

 「じゃ、ここに鍵、置いておくよ」

 

 

 ボクはそう言って鍵を床に置くと、倉庫を後にした。

 それにしても、鍵はボクが先生から借りたのだ。そしてボクは鍵を使って倉庫の扉を開けた。つまり、扉は閉じられていた。

 どうやって、こうさかさんは、倉庫の中に入ったんだろう。

 …。

 

 

 授業前の先生がライン引きを出す時に、倉庫にこっそり侵入し、そのまま授業をサボったとか?

 うーん。

 イメージが壊れちゃうよ。

 まぁ、それでも別に、ボクの中で印象が悪くなったりはしないけど。だってボクも、あんな意味わかんない授業受けたくないし。

 

          24

 

 昼食の一つ手前にある授業。

 ボクは、今それを受けていた。

 科目は、数学。

 教室に響いているのは我々の担任の「村田 愉可(むらた ゆか)」先生の声と、その先生が黒板に白のチョークで字を書くときに生じるタンタンという音だ。

 

 

 つまり、先生は真面目授業をしているのだ。しかしその授業をまともに受けている者など、殆どいない。

 生徒など、寝ている者。窓の外を眺めている者。見つからないように遊んでいる者。手紙を回している者。それらが大半である。不真面目なものだ。

 まぁ、そうはいっても、ボクもまともに授業を受けていない者の一人なのだが。

 

 

 だって、こんな小学校低学年で習うこと教えられても、真面目に受ける気など湧いてこない。

 いや、ボクの場合、どのみちどんな環境で、どんな授業を受けさせられようとも、ちっとも真面目に受ける気は無いのだ。

 何たってボクの隣には、それと比べ物にならないほど面白い人がいるんだから。

 

 

 こいつは、さっきから、何をやっているのか。

 まず、出している道具がおかしい。今が数学の時間であるにも関わらず、この少女は()()という数学におよそ関係無いものを出している。

 何を調べているのか。ここからでは、ちょっと見えづらい。

 分かるのは、和英辞書だということだけだ。

 

 

 それにしても可愛らしい。

 見ていると、心がモゾモゾ、モアモアしてくる。いつものやつだ。

 とにかく、良い心地だ。あのとき系太との闘いに勝って、本当に良か…。

 

 

 「ふふっ」

 

 

 と、そう思った時。

 こうさかさんが、微かに笑った。

 何を調べているんだろう。ちょっと、心配だ。

 でも今、ちょっと…どきっとした。

 

 

 授業が終わって、次は昼食の時間だ。皆のテンションが少しだけ上がった気がする。

 次が昼食の時間。それがそんなに嬉しいか。

 ボクは、こいつ等を「何て気楽な奴等なんだろう」と思う。

 だって、食べることを楽しみにしているから。

 食事がまともに出来ないボクの前で。

 

 

 主にクラスメイト達と固まって食事をするので、ボクも付き合わされる。

 いい加減にしてほしい。食べ物の匂いが漂ってくると、吐きそうになるのに。何故、こんな所に来なくてはならないのか。

 いや、まぁ死なない程度に栄養補給はしなければならないから、こいつ等に付き合わないまでもここに来る必要はあるのだけど。

 

 

 それにしたって、さっさと自分の栄養補給は終えたのに、こいつ等の食事の終了を待たなくてはならないというのは、退屈だし、辛いものである。

 そして右を見ても、左を見ても、料理料理。

 嫌になるにもほどがある。

 …。

 

 

 それでも、前に通っていた学校のような、クラスメイト達が騒ぎながら食事をしている光景よりは幾らかマシだ。

 本当に、これは有難い。

 氷溶園は頭髪検査も無く、雰囲気がキモイ奴などは少ない。そもそも話そうと思えば系太と容姿についても話せるだろう。

 

 

 そしてそんなことより、コネクター症候群のボクにとって、周りが周りの人間に興味がない環境というのは有難くて仕方ないのだ。

 大河には、感謝する事が山ほどある。本当に大河様様である。

 …。

 ふとそこで前を見てみると。

 

 

 そこには、周りと明らかに違う子がいた。

 羊の群れの中に一匹ヤギが混ざっているかのように。

 いや、ヤギは二匹だ。なぜなら、ボクも彼女と同じだから。

 その子は、なんと、食事をしていなかった。そして、ボクと同じように、皆が食べ終わるのを待っているのだった。

 

 

 ―嘘だろ。

 その子は細長い三つ編みの髪を垂らし、頬杖をついている女の子。

 こうさかさん、だった。



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第十一章 見つけた希望の火

 次の授業は、社会科。

 ボクはまた、隣の女の子に視線を向ける。

 ボクは授業が詰まらないから、彼女の方を見ているのではない。もちろん、授業は面白くないけど、どんなに素晴らしい授業でも耳にも目にも入らない。この子があまりに気になるのだ。

 

 

 こうさかさんの長い黒髪を見る。

 それから手元、顔を順に見回す。

 やはり何とも良い気分だ。このまま、いつまでもこうして居たい。

 

 

 「んあぁ」

 

 

 こうさかさんの様子がおかしいのに気づく。

 目を半分閉じて、とても怠そうにしている。

 病気だろうか。先生に言った方が…。

 いや、…ははっ、違う違う。

 よーく彼女を見てみると、病気などではないことが分かる。

 

 

 こうさかさんは、確かに怠そうにしてコクッコクッと体を傾けているが、それは体調が悪いからではない。

 ただ単純に眠いのだ。

 こうさかさんは、眠気と戦っているのである。

 昨日夜更かしでもしたのか、それとも授業が詰まらないからなのかは分からないけれど。

 

 

 こくん、こくん。それに。

 細く、一本に束ねられた髪もつられて動く。

 目はもはや、半分ではなく完全に閉じられていた。

 コクンッ、コクンッ、バタッ。

 と、そこで遂に、完全に眠りに就いたようである。

 

 

 机に突っ伏して寝ている彼女からは、すやすやと寝息が聞こえてきて。

 

 

 「すー、すーっ」

 

 「ふみゅ」  

 

 

 可愛らしい声と息づかいを間近で聞かされた。もう今死んでも本望なくらいだ。

 それからも、こうさかさんを観察する。

 すると今度は。

 こうさかさんは、とても、とてつもなく愛らしく。タラタラと…。

 涎を垂らしだした。

 

 

 机にだ液が広がる。

 机の上をよく見ると、教科書、筆箱、そしてノートがある。

 今、このノートが彼女の下敷きになっている。このままでは、だ液でノートがべちゃべちゃになってしまうだろう。

 それは、後々可哀想だ。ノートを避難させよう。

 

 

 ボクはノートに手を伸ばす。指がノートの端に触れる。

 

 

 「す、ふー」

 

 

 ボクはそれを、引き抜いた。

 

 

 「―ふぁ⁉」

 

 

 すると、その衝撃で、彼女は間抜けな声を上げて目を覚ます。そこでボクは急いでノートを机に戻した。

 これで、全て元通りだ。

 ボクは再び、こうさかさんに視線を向ける。

 

 

 するとその時。

 ギイッと。

 こうさかさんが睨みつけてきた。

 でも、その睨みは寝ぼけ眼で行われたので、全然怖くなかった。寧ろ…。

 しかし、こうもボクに冷たいのは何故だろう。心当たりが全くない。

 

           25

 

 …ここは、男子トイレだ。

 用は、今終えた。

 それを、今しがた思い出した。

 忘れていたのだ。自分がドコにいて、何をしていたのか。というより、意識していなかった。いや、そんな事を認識する余裕が無かった、という方が適切だろう。

 

 

 今、ボクの脳内では、すさまじい轟音と化した暴言が響いていた。それに意識を乗っ取られていたのだ。

 

 

 「くそガキ、さっさと死ね」

 

 「あ、私に触れないでよ」

 

 「お前なんかに着られていたくない」

 

 「近寄るな。クソガキが‼」

 

 「お前のくさい足、支えるの限界だわ」

 

 「さっさと、死ね」

 

 「死ね」

 

 「死ね」

  

 「死ね」…

 

 

 この暴言は、人から発せられているものではない。ボクの脳が発し、脳が受けているものなのだ。つまり、誰が言っている訳でもない。ボクの頭の中だけで響く、言わば自作した音なのである。その音に、自分自身が苦しめられている。

 その音は、身の回りにある道具、つまりは本、蛇口、ズボン、靴、扉。そういったありとあらゆる物から聞こえてくるように感じる。

 

 

 すなわち、物という物が、ボクに悪口を言ってくるのだ。少なくとも、そう感じるのだ。

 最近は、あの頃のように、常に聞こえてくる訳ではない。それは、氷溶園に入る前に、大河に滝へ連れて行ってもらったからだ。

 滝は全然、悪口を言ってこない。それについては滝自身が大きな音を立てていて、脳が悪口を意識しようとしても、その悪口よりも滝の音の方を意識してしまうからだと言っていた。

 

 

 それで何となく、自分に音なんか聞こえてこないと、少し思えるようになった。

 それから、ボクは時々しか悪口を聞かなくなった。いや、物という物が、悪口を時々しか言わなくなった。

 ただ、こうやって時々は言ってくる訳で。

 そんな時は、机一台からネジ一本まで、ありとあらゆる物がボクをいじめてくるのだ。

 

 

 いや、もし物という物全てが心を持っているのなら、それは当然の要求なのかもしれない。しかし、物は心を持っていないし、鉛筆一本持っただけで悪口を言われるボクは、相当に辛いのだ。

 だから時々、発作が起こるかのように音が聞こえだすと、その場所はたちまち地獄に変わる。

 

 

 今がそれだ。

 もはや、自分が何をしていたかなんて、気に出来ない。

 泣き叫びたくなるほどの、絶望。

 いや実際に、コネクター症候群が末期の頃は泣いていたんだっけ。

 これがいつまでも続くんだ、と思うと耐えられなくなって。それで泣いた。

 

 

 母さんは気付いて寄って来てくれるけど、何で苦しんでいるかイマイチ分かってもらえなくて。だから、まともに励ましてくれやしない。 

 

 

 とにかく、時間が経てばこの声はおさまる。今は、そうなっている。だから、ボクはそれまで耐えればいいんだ。

 そう思って、ボクは()()()()()

 音を聞きたくないなら、普通は耳を塞ぐだろう。だがボクの場合、音が本当に耳に届いている訳じゃない。だから、耳なんて塞いでも無駄だ。

 

 

 でも他に、ちゃんと対処法はある。それが目を閉じて物を見ないようにする事なのだ。

 目を閉じていても、服や自分の近くにある大きな物ぐらいならそこにあるのが分かるから、それらからの声は聞こえてしまう。だけど、かなり音源の数と声量はマシになる。

 だからボクは今、目をつぶった。

 

 

 心境は最悪だ。実際にイジメられていた事があるから言うが、「いじめられている最中の気分」だ。今ちょうど、世界中の物という物から袋叩きにあっている気分。

 冷たい。何もかも全てが冷たい。

 …。

 そういう気分だった。

 

 

 体験した者にしか分からない、この上なく冷たい気分。誰にも解ってもらえない。

 その冷たさを感じている。

 …いや、感じて()()

 さっきまで、感じていた。

 

 

 ボクは目をつぶっている。瞼を閉じているのだ。

 瞼を閉じた、その瞬間に見えてきたものを、ボクは今も見ている。瞼の裏に()()としか思えない。それぐらい、はっきりくっきりしていて、そして。

 とても、温かい。

 それは、冬に行われる焚火のようだと思う。

 

 

 そんな温かさ。

 でも、そんなに大きな火ではなくて。

 寒さも冷たさも、防ぎ切れはしないけど。

 痛みも辛さも苦しさも、残ってしまいはするけれど。

 確実に、そこにある。

 

 

 希望の火。

 こうさかさん。

 今までは知らなかった感情。味わったことのない、想い。

 それが、小さいけど、すごく強くて。

 もう、声なんて殆ど気にならない。

 

 

 意識の話で言うなら、「声を意識する」よりも遥かに強く「あの子のことを意識」しているのだ。

 心が少しずつ食べられて、あの子に会わないと、声を聞かないと、心が無くなってしまう、そういう魔法をかけられたような。

 とにかく、会いたかった。

 

 

 だから、ボクは駆けた。

 心地良い乾きが一瞬で満たされ、そのままあふれ出すような感じ。

 正体不明の気持ち良さ。ほんのちょっとの苦しさがアクセントになっている、甘い心地。 



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第十二章 じれったい休日

 休日。

 一応、氷溶園には休日というものが存在する。

 施設外に出ることはできないが、授業が無く一日自由に過ごせる日だった。

 しかし、今までのボクなら喜んだだろうこの一日も、今のボクには何故か憂鬱なものだ。

 その理由は、ひどく焦らされているような気分になっているからだ。

 

 

 …あの子に、会えない一日。

 女子寮と男子寮は離れているうえに、異性の寮には立ち入ってはいけない。だから外に出ていない女子とは休日に顔を合わせることは皆無だ。

 焦らされているような気持ちになり、我慢できなくなったボクは、中庭まで出ていた。女子寮の玄関に最も近く、それでいて居ても怪しまれない絶好のスポット。

 

 

 そこで、あの子を待って、読書をしていた。

 やはり貴重な休みを人を待つためだけには使いたくない。そう思って、ボクは読書をしていたのだった。

 ページをめくり、文章を目で追う。そして、たまに玄関に目を向ける。あの子が出てきていないかを確認するのだ。

 

 

 だが、一向に出て来ない。

 今日は、外へは出ない予定なのだろうか。

 そんな諦めムードを醸し始めていると

 

 

 「お、やっと見っけたで。捜したんやで」

 

 

 と、系太に声を掛けられて、ボクは振り向いた。

 休日にボクを捜すなんて、よほど暇なんだろうか。

 そんな暇人にボクは言う。

 

 

 「おお、お粗末な命。どうした、何か用?」

 

 「その呼び方、やめい。ダサイわ! あーあ、お前さんに呼び名教えるんじゃなかったなぁ」

 

 

 と言い、さらに

 

 

 「要件は、な。えーと、あぁ、もうしばらくしたら神社訪問があるやんか」

 

 「あぁ、出掛けるやつか」

 

 

 神社訪問とは、外出機会の少ない我々のために作られた神社を訪問するイベントだった。神社に行って奉仕活動をして帰ってくるだけだが、数少ない外に出られる時間は皆に有難がられている。

 今は訪問する神社が補強工事を行っているため、ボクは一度もこのイベントに参加したことがない。次の予定は数か月後らしい。

 

 

 ボクも、この息苦しい鳥かごのような所から出られる、ほぼ唯一の機会を楽しみにしていない訳では無い。行く場所が神社で、奉仕活動をさせられるというのが、ちと嫌なのだけど。

 

 

 「えー、ま、言い辛いんやけど。…チームにならへんか?」

 

 「え?」

 

 

 何を言っているのか理解できない。

 

 

 「なんや、その『何を言っとんか理解できへんわ』みたいな顔は。お前はこの前入ったから知らんのかもしれんけど、神社訪問は二人一組のペアを全員が作ってから行くねん。逃げるとか、そういう変な事をせんように互いを見張るんや。お前、どうせまだ一人なんやろ? やったらワイとペア組もで」

 

 

 そんなことを系太に言われた。

 それに、一瞬こうさかさんの姿が頭をよぎる。だが彼女はもうペアを作っているかもしれないし、何よりあの子はボクのことを嫌っているので誘っても無駄だろう。

 他に、というと、ボクはこの施設内には友達がいないから、ペアを作ろうと誘える相手もいない。情けないことに。

 

 

 だから、この提案は普通に有難くて、断る理由はなかった。

 

 

 「いいよ。よろしく」

 

 「うん、よろしゅう。あ、そうそう、ワイの呼び名な『お粗末な命』やのうて、『ケイ』にしてくれんか? 系太の『ケイ』や。カッコエエやろ。たのむわ」

 

 

 と言ってくるので、ボクは

 

 

 「うん、分かったよ『粗末』」

 

 

 「粗末」は粗末に扱われたことが気に食わなかったのか憤慨した。

 

             26

              

 「おい大河。今回の案件も、上手くいって良かったな」

 

 

 そう、僕の前の兎は言った。

 それは僕にしか聞こえない声で喋る、兎の形を模したぬいぐるみだ。

 

 

 「殺しの依頼、結構こなしたよな。もうアキラとお前が、死ぬまでの生活費ぐらいは、軽く貯まっているんじゃないのか?」

 

 

 兎は、そろそろ殺し屋の仕事は辞めていいだろう、とさりげなく言ってきているのだろう。

 だが、それにボクは言った。

 

 

 「ううん。まだだ。まだ足りないよ。やりたい事、見つかったから。それをするには、お金がいるんだ。だから、まだ辞められないよ」

 

 「あぁ、この間の報酬で貰ったあの、『車』か」

 

 

 そうなのだ。ボクは少し前の殺しの案件で、金で報酬が払えない雇い主に、金の代わりとして「車」を貰っていた。

 僕は、それをスポーツカーと呼べるのかすら知らないが、車高が低く、速く走れそうなデザインには滾るものがある。

 それですっかり、やる気だった。峠攻めというやつを。

 

 

 サーキット等は近くになかったので、本格的に走ろうという意思は薄かった。だが公道でも、あの車の魅力を多少は見れるだろうと考えたのだ。それでもし、さらにモチベーションが上がれば、力を入れて始めてみようと思っている。

 とにかく、車で遊んでみたくなったから、もっと金が要るのだ。

 

 

 「車は、維持費やら、速くするならチューニングの費用やら、色々と金がかかるもんなぁ」

 

 「そうなんだ。まぁ、こんな危ない仕事、ボクも早く辞めたいんだけどな」

 

 「だよなぁ。いつサツに捕まるとも知れないし、それ以外にも危険はいっぱい」

 

 

 僕のやっている殺し屋は、人口に膾炙した「殺し屋(それ)」とは違う。

 通常の殺し屋とは違い、()()()()()()()()()のである。

 つまり、「殺してくれ」と言われるのを待つのではなく、「殺したい」を探しに行く仕事だと言える。

 

 

 まず金を持っている人物を何人かマークしておく。そしてその人物たちについて、とことんまで調べ上げる。

 さらに、彼らの中に並々ならぬ恨みを持っている者がいれば、その人物に少しずつ揺さぶりをかける。契約が成立すれば、ターゲットに指定された人間を殺し、報酬を受け取る。最後に、足がつかないように依頼主の前から消えれば、その案件は終わりだ。

 

 

 僕には人脈がない。インターネットで依頼人を募るには、ネットの知識と技術が足りない。

 それなら、こちらから雇い主を探しに行く方が安全だろう。

 そう思って、僕は、この形式で殺しを行っているのだった。

 

 

 殺し屋よりも楽で安全な仕事は多いだろう。だがきっと、別の苦労を負うことになるのだ。

 僕は、「コネクター症候群」で強くなりすぎた精神を最も活かせる、殺し屋を選んでしまった。

 

 

 「そういえば、アキラ君の『コネクター症候群』は、どうなっただろう」

 

 

 と、そこで、思い出したように僕は呟いた。

 そしてあの、()()()()()となってくれた少年の事を思う。

 彼の帰ってくるべき場所として、わざわざ建てた家の中で、僕は彼に想いを馳せた。

 氷溶園にいる、彼に。

 そして、その頃、彼は…。

 

              27

 

 こうさかさん。あの子はずるい。

 授業中に寝るし、倉庫の中で授業をサボタージュするし、最低だ。

 その上、ボクにこれだけ意識させておいて、目が合っただけで嫌そうな顔をしたり冷たい態度を取ったり。無責任だと思う。

 だって、こんなにも苦しいのだから。心が痛むのだから。

 

 

 「今からあの子に会いに行こうよ。この部屋から出てさ」

 

 

 心は、なんてふざけたことを言うのだろう。

 今は深夜。みんな自分の部屋でおとなしくしている時間だ。

 

 

 「馬鹿言うなよ。それに、もし会えても嫌な思いするじゃん」

 

 

 それに対して頭は冷静で、慎むべき行動だと弁えている。

 心と頭は討論を始めた。その主であるボクは、彼女に会いに行くべきか行かざるべきかを悩んだ。

 心と頭はいつまでも言い争いを止めないだろう。ボクも今日は朝になるまで悩み続けることになる。

 

 

 しかし、その長丁場になる予定だった論争は、突如終わりを迎えた。

 ガチャッと。

 そう、音を立てて、ボクの部屋の扉が開いたのだ。

 そして外から人が入ってくる。鍵をかけていなかった事を後悔していると、目が冴えてきて誰が入って来たのか分かるようになった。

 

 

 系太だ。

 さっき心が言った馬鹿を、実際にやらかしたのは系太だった。

 

 

 「まさか、もう、寝よったんか? 電気つけるで」

 

 

 と、そう言って、扉の側にあった照明のスイッチを入れた。

 するとすぐに、高い音と共に明かりがともった。

 系太とボクの姿が露になる。

 

 

 「なんや、アキラ。お前…」

 

 「泣きよんか」

 

 

 そう、ボクは泣いていた。今は少し落ち着いているけれど、少し前までは声を上げて大泣きしていた。隣の部屋ぐらいになら聞こえていたかもしれない。

 

 

 

 「…」

 

 

 あまりにも、ふざけた態度をとるから。

 あの、髪の長いバカこうさかが、ふざけた態度をとるから。

 こんな気持ちにさせておいて、突き放すようにボクに接するから。

 そのせいで、泣いていた。 

 悲しくなって、どうしたらいいのか分からなくなって。

 

 

 大泣きしていたのだ。

 そんな、さっきまで泣いていた泣き虫のボクに、系太が言う。

 

 

 「え、えっと。なんや辛いことがあったんなら、ワイに相談してみいや。力になれると思うで」

 

 

 それにボクは、涙のあとを手で拭って

 

 

 「じゃあさ、系太は、こうさかさんの事、どう思う?」

 

 「え? どうって、そう言われてもなぁ」

 

 「なんか、変な魔法にかけられている感じ、しない? 変に意識してたり…」

 

 「うん? そない変な感じは、せんで。普通や」

 

  

 ということは、系太には彼女の魔法が及んでいないのか。

 

 

 「変なんは、お前やで、アキラ。どうしたんや。何があった? …ん」

 

 

 そこで、系太が、ボクの机の上にあるノートブックに気づく。そして、勝手に中に書かれている文章を読み始める。

 だが、ボクは止めない。別に変なことが書かれている訳じゃないからだ。恥ずかしがることはない。

 

 

 「なんや、これ。日記か。お前、日記を書きよったんか、へぇ~。えっと、なになに…」

 

 

 そう、ノートには、ボクが氷溶園に来た日からずっと書き続けてきた、日々の記録が記されている。ここに来る前にも日記は書いていたが、大河の購入した家に昔の日記帳は置いてきた。それで新しく、持ってきたノートのうちの一冊を日記帳にしたのだ。

 

 

 「へぇ。お前さ、こんなこと思っとったんやな。なんか、やっぱおもろい奴やで。しかし、それにしても…」

 

 

 息を吸って、続ける。

 

 

 「お前が、こうさかのこと、好きやったとはなぁ」

 

 

 などと、訳の分からない事を言ってくる系太に、ボクは言い返す。

 

 

 「好き? えっと、それって、恋愛感情の好きってヤツ? ちがうちがう。そんなんじゃないって。確かに気にして日記にも書いたけど、好きとかそういう事じゃなくて…」

 

 「お前、まさか、恋したことないんか?」

 

 

 と、それに、系太がまた妙な事を言ってくる。

 

 

 「いや、こうさかの前に、一度もしたことないんか」

 

 「だから違うって。そういうんじゃな…」

 

 

 しかし、それを遮って、系太が言う。

 

 

 「あぁ、もうええて。分かってないみたいやから。それにしても、そうか…」

 

 

 系太は、それからボクの話をまるで聞かずに、勝手に自分の話を始めた。

 しかし話し出すと長い奴で、ぺらぺらと自分の事を隅から隅まで明かすくらいの勢いで話をしている。

 そういえば、空中相撲をする前にも、こうやって話を聞かされたっけなぁ。

 あの時も、話が長かった。

 

 

 暇だからとりあえず、この部屋に来たのだとか。氷溶園に入ってからの事とか。系太はいつまでも喋っていた。

 それにしても、とりあえずでここに来るなんて。この時間に、生徒が部屋の外に出ることは禁じられているのに。なんて軽い奴なんだろう。

 そして、系太君は恋をしていらっしゃるそうだ。

 

 

 お相手は、ボクの一つ後ろの席に座っている、金髪碧眼の美少女。

 ボクはその子の名前も、こうさかさんの下の名前と同じで知らなかったが、系太はボクと違ってちゃんと調べて知っていた。

 彼女の名前は「三階堂(みかいどう)ジュリア」というらしい。ハーフだろうか。 その子のことを話す時、やけに系太らしくなくて、何だか照れているような感じで、少し面白かった。

 

 

 しばらく話していると、系太がまた先ほどの日記を手に取った。

 

 

 「あのな、アキラ。お前、日記書くん下手やと思うで。何ちゅうか、会話とかそういうん挟みよったろ。それから、やけに小説くさい文章やったし。あの書き方は日記には合わんのや」

 

 

 そう言われてみると、確かに違和感のある文章だ。

 まぁ、系太の言っている事がどこまで正しいかはともかく、日記を書くのに向いていない書き方だというのは本当だろう。

 向いていない、それに飽きも感じていたところだし。

 そろそろ、やめようか。

 

 

 「それに、や。こんなもん書いて、過去ばっか見るんは、ワイは嫌いやで」

 

 

 と、系太が辞めようという思いを後押しするので

 

 

 「じゃ、やめようかな」

 

 

 と、ボクは言った。

 

 

 「うん、そうせい、そうせい」 



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第十三章 夜休み

 ボクが近づくと、こうさかさんは今にも泣きそうな顔で逃げ出す。

 そんなに嫌がられるなら、ボクは遠くから見ていた方が良いのだと思う。だが、嫌われる理由くらい知りたいとも思ってしまう。

 恋愛に疎いボクは、彼女を追いかけて聞いてしまうのだ。

 

 

 「こうさかさん、一体ボクの何が駄目なの?」

 

 

 ぺちんっ。

 弾けるような音を立てて、平手打ちを頬にもらった。

 今すごく気になっている人に。他の誰にされるより傷つく相手に。

 それはもう、可愛い、見てるだけでどうにかなりそうな、その子に平手打ちをされたのだ。

 

 

 ボクは、ジンジン痛む頬を手で押さえて、その場に立ち尽くした。

 そして、初めにボクの頭に浮かんだのは。

 ―嬉しい。

 と、その感情だった。ボクは本当に、おかしくなってしまった。

 例えそれがマイナスの意味合いだとしても、ボクを意識してくれたことが嬉しかった。彼女の手がボクに触れたことに、心臓から血がせり上がってくるのを感じた。

 

 

 だが次第に、目の前にいる彼女に、意味も分からず嫌悪の表情を見せられている内に、どうしても悲しくなってくる。自分を無視する、その姿を見せられて。

 

 

 「う…くっ」

 

 

 悲しみで頭が爆発するような感覚。次の瞬間には、ボクは涙を流していた。

 えん、えん、えん。無様に泣き続けるボク。

 それを見て、こうさかさんは、少し()()()()()()をした。

 ボクの泣き顔と、対照的な顔。

 喜んでいる表情を、していた。

 

 

 驚愕する。何が彼女をそうさせるのか全く分からない。

 そしてその驚愕は、次第に怒りへと変わった。

 

 

 「何なの、それ…」

 

 

 こうさかさんを見ると、もう踵を返して教室に戻っていく。

 授業が始まってしまいそうなので、仕方なくボクも続いた。

 頭が麻痺しているように、彼女の事は考えられない。

 

 

 こうさかさんは何事もなかったみたいに平然とした顔で座っていた。

 もはや、ボクもつられて何も無かったように思えてくる。

 後方を見れば、金髪美人のセミロング少女がいる。名前は、ジュリアだったか。

 この前、系太が、この少女に恋愛感情を抱いていると言っていたが、どうやらそれは本当だったようだ。

 

 

 なぜなら、系太がさっきからずっと、セミロング少女の方をちらちら見て、その度に顔を赤く染めているから。

 どうやら、この前の空中相撲で得をしたのは、ボクだけではなかったらしい。

 というか、相撲の話は初めから負けるつもりで持ち掛けたのかもしれないし、席替えするチャンスを待っていたところにボクが現れたという可能性も出てくる。

 

 

 そう考えると、ボクが勝ってしまって系太に申し訳ないと思っていたのも、バカらしいことだったな。

 喜んでんじゃん、こいつ。

 顔赤くして、にやにやして。

 まぁ、良かったな、系太。

 

 

 

 前と横じゃ、随分違うからな。

 座っている時間が一番長い授業中に、横側から顔を見れるのと、前から後ろを振り向かねば顔が見れないのでは大違いだろう。

 いつでも彼女を眺められる隣の席に座れている、嬉しそうな系太を、ボクは素直に祝福してやる。

 

 

 というか、そこまで興味も無いので、特に邪魔したり応援したりする気は無いだけだ。だから、祝福する。

 そんなことより、ボクはボクの事をしよう。

 

 

 こうさかさんを見ると、平然と授業を受けようとしていた。

 ボクの中で忘れていた怒りが、また沸々と湧き上がる。

 ボクが友好関係を築こうとすると拒否し、ボクが泣くと嬉しそうな女。そんなにボクが嫌いなら、敢えて話し掛けたくなるのが人情だろう。

 ボクは大きく息を吸い込む。

 

 

 「こーさぁかさーん。お話し、しようよー」

 

 

 するとその瞬間に、クラスメイト達と先生が一斉にこちらを見る。

 驚いた表情で。

 授業中に大声で言葉を発したのだから、当然だ。

 そして、その中でも話し掛けられた本人であるこうさかさんは、特に驚いている。

 彼女は、まさに鳩が豆鉄砲をくらったような、そんな顔をしていた。

 

 

 目を大きく見開いて、可愛らしい顔を少しだけ面白くしていて。

 するとすぐに、何かを恐れているように表情を歪める。

 その表情の変化を見せつけられた瞬間に、ボクの頭の中をとんでもない喜びが走るのを感じてしまう。「してやったり」と。

 

 

 授業が終わると、先程と同じように彼女は逃げ出した。いつぞやの小競り合いを思い出して高揚したボクは、こうさかさんを追いかける。そこに深い意味や作戦があるはずもなく、ただ自分が気持ち良いから追うのだった。

 

 

 「待ってよ!」

 

 

 と、そこで。

 ボクが彼女に追いつく。

 そして、手を肩に触れさせようとして…。

 触れる寸前。

 バッ、と。こうさかさんが振り向いた。

 

 

 そしてそのせいで、肩に触れようとして進み出た時の勢いのまま、抱きついてしまいそうになる。頬が赤くなったのを、感じる。

 だが、そんな甘い展開は訪れなかった。

 その、勢いに乗っているボクの赤い頬に、またも平手打ちをかましたのだ。

 バシンっ。

 

 

 勢いが乗っている分、すごく痛い。

 赤い頬がさらに赤くなり、きっと林檎のような真紅に染まってしまっただろう。こうさかさんに触られて頭がズキズキするほど気持ち良かった。それでさらに血流が早くなる。

 そんな超赤面状態のボクに

 

 

 「ちょっと、黙ってよ‼ もう、こっちの気も知らないで! 何様のつもり⁉」

 

 

 それから重たい音が、耳に届いて。

 凄まじい痛みが頬から口までを貫く。

 今度はすぐに喜ぶ余裕は無かった。だが次第にボクに向かって言葉を発してくれたことが嬉しくなる。

 それにしても、「こっちの気も知らないで」とはどういう意味だろうか。

 

 

 「え、えっと。それは、どういう…」

 

 「うるさいのよ‼ 死んでよ! 死ね!」

 

 

 今度は腹にこうさかさんの拳が刺さる。鈍い痛みに膝が崩れ、両腕で腹部を抑えた。

 

 

 「あっ、がっ…は」

 

 

 女の子に殴られて跪くなどこの上なく屈辱的だ。しかし痛みは本物で、立ち直るには時間を要した。

 こうさかさんが去った後の廊下には誰もいなかった。長い間呻いていたから休み時間が終わったのかと、壁に掛けてある時計を見る。

 すると、あと一分で授業が始まりそうだった。

 

 

 「んじゃ、帰るか」

 

 

 そう言って、ボクは教室へ歩き出した。

 こうさかさんは何なのだろう。他の人には理不尽なことをしないのに、ボクにだけ暴行したり逃走するのは何故だ。生理的に受け付けないというやつなのか。

 教室の入り口に到着する。ボク以外の生徒はもう全員着席しているようだ。

 こうさかさんは何食わぬ顔で座っており、本当に腹立たしい。

 

 

 奴のせいでボクは三分前行動すらできなかった。その原因になった彼女が平然としている様には殺意すら覚える。

 中に入って、文句の一つでも言おうと思った。

 その瞬間。

 ボクは、誰かに見られているような気配を感じた。

 

 

 そして、その気配は、今ボクが歩いていた廊下から感じられて。 

 不気味だった。それこそ、ブルッと震えるほどに。

 後ろが、気になる。

 どうしよう、幽霊なんか居たら…。

 うーん。

 

 

 よし、決めた。好奇心に従ってやる。

 そしてボクは振り向く。

 すると、そこには…

 

 

 

 誰もいなかった。

 そして振り向いたとき、すでに先ほどまであった気配が消えていた。

 

 

 「気のせいか? まぁいいけど」

 

 

 気を取り直して、教室に入っていく。

 今ボクには、そんな些細な事などどうでも良かった。

 すたすたと歩き、自分の席をめざす。

 こうさかさんは、ボクを一瞥するとすぐに視線を机の上に戻した。

 ボクの心では怒りの嵐が吹き荒れる。

 

 

 「こっちの気を知らないのは、こうさかさんの方でしょ! 何が原因なのか分からないけど、ちゃんと話し合ってよ!」

 

 

 こうさかさんの顔から血の気が引いていく。

 今度は恐ろしそうな表情。忙しい人だと思う。

 

 

 「お、おい、アキラ。もう、ええかげんに、話やめい!」

 

 

 ボクを含め周りの三人しか聞こえない声で、斜め後ろに座る系太は喋った。

 ボクもつられて、声を潜める。

 

 

 「ん? あ、ごめんごめん。うるさかったか。でも、後で何かするから、今は見逃してよ」

 

 「そうやないんや。五月蠅いとかやのうて。ああもう、ちょっと耳貸せアキラ」

 

 

 系太がそう言うので、面倒くさがりながらも彼の口元に耳を近づける。

 

 

 「今日の、入浴時間前の『夜休み』に屋上まで来い。本当の事を教えてやる」

 

 

 真面目モードの標準語になって、系太はそんなことを言った。

 今度はボクにしか聞こえない小声だった。

 「夜休み」は氷溶園に昼休みが無い代わりとして、夜食と入浴の間にある一時間の自由時間のことだ。

 そしてその、貴重な自由時間を奪ってやろうと言っている。

 

 

 いつものボクなら100%断るだろう。

 だが-。

 この、系太の真剣な様子。 

 そして、「本当の事」とやらが恐らく、こうさかさん絡みの内容だということ。

 行かなければ彼女に嫌われたまま。それは喜ばしくない。

 

 

 「わかったよ」

 

       28

 

 夜休み。

 屋上には体育教師の筋骨隆々な(てつ)先生と、男子生徒五名が屯していた。

 何枚もの干された白いシーツの中に、彼らの姿は消えていった。

 

 

 「なぁ、ケイタ。まるで演劇でも始まりそうな雰囲気だな」

 

 

 シーツが幕のように感じられ、陽が沈みかけた時間帯も相まって、そんなことを思ってしまう。

 もしかしたら、本当の事などと誘っておいて、ボクの歓迎会でも始まるのかもしれない。だとしたら、こうさかさんの態度は何だったのだろう。

 

 

 「あれを見ろ」

 

 

 シーツが風に煽られて、屋上の奥が見える。開幕だった。

 そこにいたのは、男子生徒たち、鉄先生、そして…。

 

 

 「愉可先生?」

 

 

 そこにいたのは、白の体操服を着た、ボクのクラスの担任だった。

 



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第十四章 語られる真実

 ボクは目の前で行われる演劇じみた光景を信じられない。

 バシンッ、バシンッ。

 そんな音が、密室でもないはずの屋上でこだました。

 鞭だ。鞭が地面を叩いたのだ。

 巨体の体育教師、鉄によって振るわれる。

 

 

 それにボクは、あまりの驚きで言葉を失っていた。

 人間は、衝撃的な局面に直面した時、どんなに強靭な精神を持っていても頭が真っ白になってしまう生き物なのだと思う。

 だからボクも、その例に漏れず喋ることもできなくなっていた。

 

 

 …。 

 しかし、何故、愉可先生が⁉

 いったいここで、何が行われて…。

 

 

 「わかったか、アキラ。これがお前に見せたかった真実(まこと)や」

 

 

 それに、ボクは言葉を返せない。何も考えられない。

 

 

 「うちのクラスにはこうさかを崇拝する派と、過激な行為に及ぶ派がおる。ワイとお前以外の男子は全員この二派のうちどちらかに属しとるんや」

 

 

 系太は意味の解らない言葉を発している。

 「god know now」に書かれているような、狂った内容だった。

 

 

 「馬鹿言ってんなよ。何でこうさか教を布教し始めるんだよ。お前はそんな変なキャラじゃないだろ」

 

 「この状況で嘘言って何になる。ほんまの事や。あれは崇拝派の人間が、不届き者に罰を与えよんや」

 

 

 系太の説明では全く状況が掴めない。

 鞭で打たれる女。鞭を振るう鉄。

 そして、それを見て楽しそうに笑う男子生徒達。

 愉可先生の腕には小さく鋭利な、手錠のようなものが掛けられている。

 手錠は鎖でつながれ、愉可先生は逃げられない。それらは銀色の蛇の顎と尻尾の様だ。

 

 

 どこか過激な映画のワンシーンにも思える。

 ボクは形容しがたい屋上の惨劇を、何とか表せる言葉を一つだけ知っていた。

 

 

 「これ、いじめじゃん…」

 

 

 虐待や暴行といった表現が適切かもしれないが、周りで笑う生徒達のイメージが強くて、ボクは「いじめ」を連想した。

 …いや、虐めだろうが暴行だろうが拷問だろうが、呼び名なんてどうでもいい。今はそんなことより気にすべきことがある。

 

 

 「おい、ケイタ。こんなこと、よくあるのかよ?」

 

 「ああ、しょっちゅう。週に何回かは、この時間にここで行われとる」

 

 「なんでそれを知っていて止めないんだ? 一人でやめろって言うのは難しいだろうけど、施設の関係者に言えば…」

 

 

 系太は首を横に振った。

 ボクは被害者の立場だったことがあるため、何もしない周りの人間には思うことがある。そこにどんな事情があるのかまだ分からないが、系太の心証は悪くなった。

 

 

 「言おうとした奴は病院行きになった。鉄たちに歯向かえば、命すら危ういんや。…いくら『お粗末な命』て呼ばれとったからって、好きなやつも居るのに本当に命を粗末になんかできるかいな。クラスの女子たちも、そこは同じやったやろ」

 

 「あぁ、その意味不明なあだ名、つまりは向こう見ずだってことだったのか」

 

 

 事件とは関係ないことに食いついたボクに、呆れたようにため息を漏らす系太。

 

 

 「何で呼ばれとったかは、忘れてしもたな。ほやけど、どうでもええやろ、そんなこと。とにかくワイは、人にこのこと伝える勇気は持ってなかったねん」

 

 「なるほどね…。それについては分かったよ。それで、今もこうして手をこまねいて見てるだけか」

 

 「お前もな。ワイの話なんか聞かずに、さっさと止めに行けば先生を助けられたかもしれんのに」

 

 

 ぐうの音も出ない正論だった。圧倒的に不利な状況に飛び込んでいく勇気など、出会って数か月しか経っていないあの先生のためには出せない。その意味ではボクは系太と何ら変わりなく、こいつを責める権利などボクには無いのだ。

 

 

 「それにしても、あいつらボク達に気づいてないのか」

 

 「聖なる裁きにしか興味がないんやろ、今は。こうさかに暴力をふるう過激派の立花も、周りが見えんようになっとったけんな」

 

 「何だって…」

 

 

 聞き間違いかと思った。

 

 

 「どういうことだよ、それ」

 

 「立花は知っとるやろ? あの学級委員の男や。かなりイケメンやな」

 

 

 その男の事は知っていた。前の席で授業を受けている二枚目。先生から名前を呼ばれることも多いため、新参者のボクでも名前を憶えていた。

 

 

 「あいつが、こうさかさんに乱暴を?」

 

 「乱暴なんてもんやない。実験的な拷問、羞恥を植え付けるための行為。完全にイカレとるで」

 

 

 こうさかさん…。

 車にぶつかったのかと思うほど強烈な衝撃が走る。

 ボクが呑気に癒されている間に、彼女は絶望を味わっていたのだ。

 許せない。

 こうさかさんを好き勝手した男も、何も知らなかった自分も。

 

 

 「何だよソレ…お前! 何でせめてボクに教えてくれなかったんだよ⁉」

 

 「それは逆効果やからや。いいか、アキラ。今までお前も違和感を覚えとったかもしれんが、お前がこうさかと話したり親しくすると立花はその分だけ、こうさかへの行為を遠慮なくしていくんや。だから、お前と関わっとるんは、あまり見られとうなかった。そしてお前をあいつに関わらせるわけにはいかんかった」

 

 

 それが彼女がボクに冷たく当たっていた理由だというのだろうか。だとしても分からないことだらけだ。そもそも何故ボクと関わった分だけ立花の行為がエスカレートするのか理解できない。

 

 

 「お前だけやない、崇拝派と過激派によって他の生徒との接触が禁じられとるんや。これも随分と前からの話でな、もう長いことあの女は他人と声を交わしておらんかった」

 

 「つまり、ボクだけが事情を知らなかったから、こうさかさんに接してしまって…あの子はそれを嫌がっていたわけかよ…」

 

 

 ボクは奇想天外な状況には慣れていて、おかげで系太の話す真実を飲み込むのが早かった。だが、そんなボクですら突然聞かされた歪な事実を処理しきれない。

 

 

 「それにしたって、どう考えても、あの子に関わるなとボクに言うべきだろう。隣の席になっちゃったんだから。というか、お前がジュリアと隣に座りたいからって、空中相撲でわざと負けたのが悪いじゃないか」

 

 

 それに系太は頭を振った。

 

 

 「そうすれば過激派がこうさかを更に苦しませることはないやろうけど、今度はお前に告げ口したやつが、崇拝派によってあそこで鞭打たれてる愉可先生みたいに罰せられることになる。二派は、こうさかを神聖視することの他は全く別の考えで動いとるからな」

 

 

 系太は恥ずかしそうに顔を反らして、少し声を潜めた。

 

 

 「それに言ったやろ、ワイはわざと負けたんやのうて、純粋に勝負してお前に力及ばんかったんやって。本当はお前に勝ってこうさかの隣に座らせんようにする筈やったのに。」

 

 「どうでもいいよ、そんなこと。それより、崇拝派と過激派の考えって何だよ」

 

 「ぎゃああああ!」

 

 

 そのとき、愉可先生が大きな悲鳴を上げた。

 裁きが行われている方を振り返ると、今まで服の上を叩いていた鞭が、先生の先端部分…無防備にさらけ出した手足に当たったのが分かった。

 鉄たちの裁きがヒートアップしているのだ。周囲の男子生徒の熱狂がここまで伝わってくる。

 

 

 「やばいなあ。もう佳境に入ったみたいや。あれが終わったら、ワイらがここに居ることバレるで」

 

 「助ける気はないんだから早くとんずらしようぜ。ボクら二人じゃ、そもそも助けられないけど」

 

 

 助けを呼ぶとしても、バレたら殺されると考えたら適当なことはできない。そして確実に事件を収めてくれる人にしか頼めないわけだ。

 何もしてくれなかった傍観者の気持ちも多少は分かる。誰だって自分をむざむざ危険にさらしたくはないのだ。

 だからこそ、こうさかさんなら兎も角、愉可先生のために危険は冒せない。

 

 

 「ちょっと待ちいや。ワイは鉄たちが裁きを終えるまでここに居るつもりなんや。この件について簡潔に教えたるさかい、もうちっと待て」

 

 「居るつもりって…ただ立ってるだけで何になるんだよ」

 

 「お前と(ちご)て、愉可先生が本当に殺されそうになれば助けに入るつもりやねん。ワイは勇敢やからな」

 

 

 勇敢というか、空中相撲なんて危険な競技を好いているだけあって、命を粗末にできるやつなのだろう。

 ボクにはできない。

 

 

 「じゃあ、早いとこ話してくれよ。ボクはあいつらにボコられるのは勘弁だから」

 

 

 系太は息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

 

 

 「そやな。じゃあ、簡潔にまとめて話すさかい、黙って聞いとってくれよ」



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第十五章 決起

 氷溶園の屋上。入浴まえの夜休みに、ここでは信じがたい事が行われている。

 ボクのクラスの担任、村田愉可が鞭に打たれて絶叫していた。

 ボクと系太は、その惨状を見ておきながら動かない。鞭を打つ男と、その周りを取り囲む男子生徒達を怖がっているのだ。ボクたちは勇気を振り絞れなかった。

 助けないで何をしているかと言えば、ただ立って話しているだけ。

 

 

 「早く話してくれよ」

 

 「あぁ、じゃあ立花がこうさかに出会ったところから、要点を話すから」

 

 

 系太は呑気に、今まで何があったのかを話そうとしていた。

 それを、ボクも呑気に聞こうとしている。

 

 

 「立花は氷溶園に入ったばかりの頃、本当に病んどったんや。いっつも人を睨みつけて、そりゃ愛想悪かったわ」

 

 

 愉可先生を放っておいて、系太は昔話を始めた。もう屋上の奥で起きている事件には意識が向いていない。

 

 

 「そんなとき立花が見つけたのが、こうさかやったんや。お前もあの子の笑顔にやられたんやろ? やったら気持ち分かるんやないかな。…立花は、こうさかに希望を見出したんや」

 

 

 息継ぎをして続ける。

 

 

 「それ自体は別にええと思うんや。けど、問題は立花(あいつ)の病み度合いやろな。立花は笑っとるこうさかを見たり、話をするだけじゃ満たされんかった。それで色々と過激なことを考えるようになって、そしてとうとう行動に移したんが半年前や」

 

 

 過激なこととは、先ほど系太が挙げた二つの形で成されたのだろう。実験的な拷問と、羞恥を感じさせる行為。

 系太も気を遣って言わないでおいてくれたのだろうが、具体的に何をしたのかは知らない方が良い。ボクは、こうさかさんに心無いことをした男に怒りを感じていれば良いのだ。

 

 

 「立花は一人で実行したりせんかった。頭ええからな、味方をつけたんや。それが鉄。こうさかが、どれほどに嗜虐心を揺さぶる人間かを教えたんやろうと思う。それから二人はグルになった」

 

 

 いい大人が何を考えているのだ、なんて思ったが、よく考えるとボクも彼女の魅力に取り憑かれて追いかけたりしたものだった。あの喜びは大人だろうと聖人だろうと、耐えられるものではない。

 

 

 「そして鉄はこうさかに手を出すのを止め、自分たちの邪魔をする痴れ者を罰する崇拝派に。立花はそのまま、こうさかを弄る過激派になったんや。二人は男子生徒を味方につけていき、今となってはワイ以外の男子は全員どちらかの派閥におる」

 

 「まじかよ…。でもこの光景を見せられたら、信じざるを得ないよな。ていうか、お前はこうさかさんの虜にならなかったのか?」

 

 

 系太は少し誇らしげになって、声のトーンを上げた。

 

 

 「まぁ、ワイにはジュリアがおったし。そもそもワイはそんな病んでへんかったから、こうさかの輝きは要らんかったわ」

 

 「なるほどね。あの金髪の子はとんでもなく綺麗だけど、こうさかさんとは違うタイプだし、あの子が好きならこうさかさんはどうでも良いかも」

 

 

 そう口にしていても、心の中ではこうさかさんを放っておいた系太のことを快く思っていない。

 こいつが早いうちにボクに相談してくれたら、こうさかさんを守ることが出来たかもしれないのだ。今、愉可先生の身を案じるくらいなら、ボクに早くこのことを教えてくれていたら。そうしたら、ボクが間接的に彼女を傷つけることはなかった。

 

 

 でも、ボクもいじめられていた経験があるのに察しが悪すぎた。今思えば、体育倉庫にこうさかさんが居たことや、ボクが入ってきて天の助けが来たような顔をしたこと、その後ボクの周りの何かに目を向けて押し黙ったことなど、彼女の様子は明らかに異常だった。もう少し頭を使っていれば、系太に教えてもらわずとも自分で気づけたはずだ。

 

 

 ボクはこうさかさんの魔法にかけられていた。あの子を見つめること以外、何も考えなくなる魔法を。

 そしてそれは、ボクだけではなかったのだ。

 

 

 「この氷溶園という空間に閉じ込められた、哀れな女。ほんまは、ここから逃げ出したいやろうな。でも、行き先は無いし、逃げたところでどうしようもない」

 

 

 …。

 

 

 「立花達にいじめられる前のこうさかはな、この氷溶園という環境ですら友人づくりに励んでいたんやで。この人見知りみたいな(もん)しかおらん施設の中ですら。それだけ孤独が嫌いやったんやろう。あの女が皆を虜にするんは、その明るさにも一端があったんやないかな。昔はかなり友達もできていっとったように思うよ」

 

 

 系太が語るこうさかさんには、ボクが知らない一面があった。

 

 

 「あまりに露骨な孤独嫌いやったし、ワイ等にも伝わってきよった。…驚くかもしれんけどな、ぶっちゃけ立花に弄られだした頃より、人との接触を断たされだした頃の方が辛そうにしとった気がするな」

 

 

 こうさかさん…。

 

 

 「でもな、お前が転入してくると知った時のこうさかは嬉しそうやったで。新しく入ったお前とは仲よくできるんやないかてな。まぁ、すぐに無理やと思ったんやろけど。つまり…お前が教室で紹介されたときは、まだこうさかはお前に親しくするつもりやったやろう。覚えはないか、アキラ? 日記にも書いとったやないか、笑ったとかなんとか…それは」

 

 「もういいよ。ありがとう」

 

 

 ボクは系太を制すると、屋上の入り口に歩き出した。

 陽が落ちかけた空を眺めているボクの胸中は、ある感情で満たされている。

 普通は、鉄や立花を責める気持ちを抱く。きっと、こうさかさんの代わりに彼らを痛めつけてやりたくなるだろう。

 だが、ボクは違った。コネクター症候群に囚われていた経験のあるボクは、違った。

 

 

 そんな他人の不幸を、本気で可哀想だと思うような軟弱な心は持ち合わせていないのだ。

 では、ボクは。

 ボクは一体、何を感じたのか。

 

 

 それは。

 それは、一言で表すなら…そう、喜びだ。

 嬉しさだ。

 

 

 うれしい。うれしいよ…。

 こうさかさん、ボクのことが嫌いな訳じゃなかったんだ。それどころか、本当はずっとボクと接したかったなんて…。

  

 ボクは、こうさかさんを崇め奉る連中の事も系太の事も忘れて、ある場所を目指す。

 溢れ出んばかりの喜びで胸を躍らせながら。

 しかし、そこは…。

 ボクが目指している場所は、自室ではなかった。

 ボクが目指しているのは、この施設内に置かれた、ただ一つの公衆電話だった。



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第十六章 殺し屋

 アキラは無事、部屋までたどり着いただろうか。立花の一味に見つからなかっただろうか。

 それだけが心配だ。

 自室に帰ってきた今も、アキラがちゃんと部屋に戻れたかをずっと考える程に。

 …アキラ、ちゃんと帰っとれよ。

 

 

 こんなに他人を心配したのは、両親を失ったあの日以来だ。

 あの日も、変な事に巻き込まれずに帰って来てくれよ、とか思いながら両親の帰宅を待っていた。

 十一時になっても母さん(おかん)を迎えに行った父さん(おとん)の車が戻って来なかったから、ワイはとても心配していた。

 

 

 そしてその日の天気は、雪。昼頃から降り始めて夜にはかなりの高さまで積もっていて、電車も動かなかったっけ。

 そう。それで帰る手段がごく限られてしまった母さん(おかん)父さん(おとん)は迎えに行った。

 車で。彼は無謀にも車で出かけた。

 

 

 スタッドレスタイヤを履かせず、タイヤチェーンもつけていない車は、父さん(おとん)には制しきれなかった。あの人は、ワイに似て無駄にスリルを愛している一面があった。その一面がこの悲劇を起こしたのである。

 

 

 それでも()()はなんとかなった。

 問題は帰り道。スピードコントロールをミスった父さん(おとん)は、そのままガードレールに車を直進させてしまったのだ。ブレーキは踏んだのかもしれないが、何しろ路面は凍結していたから、恐らく間に合わなかったのだろう。

 

 

 その事故で、ワイの両親は文字通り「帰らぬ人」となった。葬式では泣いたし、悲しかったのは確かなんだけど…。でも。

 正直、あの二人が死んでくれたのは有難かった。

 それは、氷溶園に来れたから。 

 あの子に、会えたからだ。

 

 

 …。

 おっと。今は別に、考えることがあるんだった。

 アキラはどうなったかな。

 うーん…。

 

 

 心配していても埒があかない。

 なら、ちょっと見に行ってみよう!

 そう思い立って、ワイは部屋を出た。

 この時間帯に部屋を出ることは禁じられている。もう食事も風呂も終えて、あとは寝るためだけの時間なのだ。もし外に出て見つかれば、きつい罰を受けるだろう。

 

 

 だが今のワイは、アキラが無事に部屋に着いたかどうかが気になって寝付けそうにない。寝不足で明日の授業に集中できないと困るし、ワイならバレずに往復できるだろう。

 そう自信満々に、この前アキラの部屋に行った時の、人に見つからないルートに沿って歩いていく。

 

 

 トントントン。と、ワイの足音だけが静かに響く。当然だろう、起きているのはワイ一人なのだから。

 …それにしても、本当に物音一つしない。

 夜の廃病院やら廃学校はよく心霊スポットに選ばれるが、確かに物音がしないだけで結構怖いものだ。その選択は正しいと言わざるを得ないだろう。

 

 

 ここまで暗くて静かだと、急に見回りが現れたら驚きのあまり固まってしまいそうだ。この前の空中相撲で腕の骨を折っているし、体を掴まれるともう振り払うことはできない。とにかく慎重に進んでいかなくてはならな…。

 

 

 「ふ、ぐふーっ‼ ふー、ふー!」

 

 

 その時、ワイが前を通った部屋の中から、くぐもった呻き声が聞こえた。夜でなければ聞き逃してしまっただろう、小さな声だった。

 どうしたのだろう。持病で呻いていたとか?

 確か…この部屋は、あっ!

 この部屋は、体育教師の鉄の部屋だ。

 

 

 それに気づいたワイは、逃げた。

 音を立てないよう、早歩きで。

 やっちまった、やっちまった。

 もし鉄が外の空気でも吸いに扉を開けたら、ワイ見つかっちゃうやんか。

 痛恨のミスや。急いで逃げんと。

 

 

 ワイは廊下を駆け抜ける。

 次第に足音を大きくしながら、走る。

 向かう先は自室ではない。ここからなら、アキラの部屋の方が近い。とりあえず、30分ぐらい匿ってもらおう。その後、慎重に自室に戻るのだ。

 

 

 そのとき。 

 ワイがそんなことを考えていた、その時。

 背後で、バタンッという音が響いた。

 ワイは思わず、後ろを振り向く。

 そこには、鉄が。体育教師の巨漢、鉄が立っていて。

 

 

 ワイは驚きで心臓が止まったかと思った。

 あいつは苦痛に必死に耐えているような、そんな形相でこちらを睨んでいた。

 そしてワイに気づいたようで、ワイを見て

 

 

 「助けて、くれ」

 

 

 と、ワイに手を伸ばした。

 その異様な光景に。

 あの、自らが崇拝する少女に関わった者を痛めつける、残虐な鉄が()()()()()()()()という状況に。

 ワイは今度こそ逃げ出した。脇目も振らず、一心不乱にアキラの部屋を目指した。

 

 

 この訳の分からない状況が恐ろしすぎて、ワイも助けを求めていた。

 アキラに。

 もう少し、もう少しや。あとちょっとであいつの部屋に着く…。

 だがそこで。

 そこでワイは、アキラの部屋の扉の前に、先客がいることに気が付いた。

 

 

 誰だろう?

 背が高いようだから、大人だろうか。

 姿は暗いのでシルエットが霞んで見える程度にしか分からない。たぶん男だろう。

 その人物は、扉をノックする。

 トン、トンと二回。

 

 

 するとすぐに、中からアキラが扉を開けた。

 いや、誰なのかぐらい聞けよ!

 

 

 「やぁ、大河さん。来てくれてありがとう。それで、さっそくなんだけど、仕事を…」

 

 「もう終わったよ。鉄っていうガタイの良い男と、二人いがいの男子生徒達。痛めつけてアキラ君の言う通り脅しといた」

 

 

 一瞬、その男が発した言葉を理解できなかった。

 鉄を? 他の奴等を?

 

 

 「え、はやっ! ちょっと早すぎるでしょ。…ほんとに、もう終わらせたの?」

 

 「もちろん。殺し屋の一番重要な能力は、気配を消す力。そして二番目が素早く任務を終える力だと、僕は思っているからね。これぐらいできなきゃ」

 

 

 男が続けて言う。

 

 

 「ただちょっと、僕としたことが、アキラ君に教えられた部屋番号忘れちゃって、男子の部屋特定するのに手間取っちゃったけど」

 

 「そ、そっか。まぁ早いに越したことはないよ」

 

 

 先ほど、鉄の部屋のすぐ前で見たあの光景。

 あれは、この男によるものだったのか?

 いや、そう考えるとおかしな点が出てくる。

 ワイは、あの出来事を尻目に、全速力でこの部屋の前まで来たのだ。

 もしあれがこの男によるものなら、こいつは…。

 

 

 ワイより長くあの場にいて、ワイより早くここに着いた、ということになる。

 全速力で走ったワイより、速く。

 「殺し屋の能力において、二番目に重要なものは素早さだと、僕は思っている…」

 男の言葉が、脳内で再生された。

 殺し屋とは、この男の事? その殺し屋と知り合いのアキラは一体? 

 

 

 そして、いくら何でも素早すぎる。

 疑問や驚き、それに恐ろしさで頭が一杯だった。

 どうなってんだ…。

 

 

 「んじゃ、大河さん。ボクも自分の仕事をしに行くよ。どうせ、もう呼び出しは終わっているんでしょ?」

 

 「もちろんだとも。さぁ行こう、屋上へ。見回りは眠らせたし、心配する必要はないよ」

 

 

 ワイの混乱を無視して、二人はそんなことを言った。

 そしてアキラが頷き、二人はワイがいるのとは反対方向の廊下一杯に広がる、闇の中へと姿を消した。

 それを見てワイは、混乱する頭を使って、どうするべきか考えた。

 普通なら見なかったことにするだろう。だが、ワイは…。

 

 

 「…」

 

 

 考えた末に、そのやばい奴等について行くことにした。

 例え危険な目に遭うとしても、何も知らずに今後を過ごすよりはマシだ。

 それに何より、久し振りに波長が合う人に会えたのに、そいつのことを訳分からないやつのままにしたくない。せめて事情だけでも知りたい。

 だから、行く。

 

 

 

 そう覚悟を決めたワイは、すでに見えなくなったアキラ達を追った。



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第十七章 決闘

 もう足音すら聞こえない。ワイは、奴等に気づかれないよう物音を立てないように移動している。そして奴等の足音も、遠すぎるためか聞こえない。だから今はもう、完全に無音だった。

 施設が、沈黙している。

 完全な静寂。

 

 

 暗闇と、静寂。この二つの要素が揃って、初めて生まれる無の空間。

 五感がほとんど刺激されないからか、果てしなく長い時間に感じる。

 だがアキラの連れている男は、遠くなりそうな意識を緊張させた。あの鉄を痛めつけ、迅速に見回りを眠らせた手際の良さ。そして何より、全力疾走したワイより早くアキラの部屋に辿り着くという、底の知れぬ能力。

 

 

 そんな力を持った相手を警戒しないわけにはいかない。

 ワイは、彼に尾行を悟らせないよう、最大限の注意を払った。

 彼らが向かっているのは、どうやら屋上のようだ。

 

 

 今さらあそこに何の用だ?

 愉可先生はもう罰を受け終わった。あそこには誰もいないはずだ。

 どれだけ考えても、彼らがやろうとしていることは、さっぱり分からない。

 

 

 と、そこで。

 そこでやっと、アキラと男が足を止めた。

 ワイはそれに気づき、緊張から解かれたことに胸を撫で下ろした。

 そこは、やはり屋上だった。この施設の、最上部。

 さっきまで愉可先生に裁きが下されていた場所だ。

 

 

 そしてどうやら、この屋上にも先客がいるようだった。それは、二人。ワイと同じ年頃の、少年少女。

 その二人は話をしているらしかった。

 

 

 「何だよ! あの変な男は⁉ 脅されて来てみれば、お前がいるし…」

 

 「私だって、知ら…知りません。何が何だかよく解らないです…」

 

 「そうか。そうだよな…。…って、いや違う違う! とぼけやがって、お前がやらせたんだろ⁉ ふざけんなよ、こんな事しといて…この程度でオレ達がやめると思ってんのか? はは、上等だぜ。明日、罰ゲームだ。イモムシ十匹、捕まえとくからな」

 

 

 それを聞いて、女の顔が青ざめる。この暗闇でも分かるくらい、それは露骨な変化だった。

 

 

 「いやあああ! それだけはやめて‼ もうイヤ、あれだけはイヤ‼」

 

 

 女は甲高い声で悲鳴を上げた。

 そして、もうそれでワイにはこいつ等の正体が分かっていた。

 立花と、アキラの想い人。

 こいつ等だったのか…。

 

 

 「んん? こーちゃん、口の利き方がなってないなぁ。オレには敬語、でしょう? まぁでも、大丈夫。オレがちゃんと教育してアゲルから♪」

 

 

 アキラと男が、何故二人を呼び出したのか。それは分からない。

 アキラにとっては大事な人にあたる筈の、あの女子に何故こんな危ない対面をさせたのか。そもそも、これはアキラの意志なのか。

 一つ言えるのは、この光景は見ていて気分の良いものではないっちゅーこと。

 殺されるん覚悟してまで、ついてくるんやなかった。

 

 

 「じゃ、教育、してあげようね。まず、立花さん。はい言ってごらん」

 

 「…立花さん」

 

 

 ああ、気持ち悪い。胸糞悪い。

 そう思って耳を塞ごうとしたが、片方の腕は痛めており、もう片方の手は塞がっていたのだった。

 

 

 「次に、立花様」

 「立花様…」

 

 

 痛めている方の腕をゆっくり動かして、耳に近づける。

 もう少しだ。もう少しで、この気持ち悪いやり取りから解放される。

 

 

 「三つめ、あなたに全てを捧げます」

 

 

 耳たぶに指の第二関節が触れた。

 

 

 「あなたにす…」

 

 

 しかしそれを遮って

 

 

 「あなたに、拳を捧げます」

 

 

 塞ぐ寸前だったワイの耳に聞きなれた声が伝わった。アキラの声だ。

 そしてその声と同時に、立花の顔面に言葉通り「拳」が届けられていた。

 立花がアキラに殴られている姿を見て、高揚したワイは叫んだ。

 

 

 「うおっしゃああ! ええぞ、アキラ!」

 

 

 そのワイの叫び声に、アキラはこちらを一瞥しようとした。

 だが、その一瞬の隙を突いて、今度はアキラを立花が殴る。

 アキラの細腕から放たれた拳と違い、重い音を響かせる、立花の拳。

 その痛恨の一撃を受け、アキラは倒れる。

 

 

 アキラとは対照的に、攻撃を受けても平然と立っている立花は、どうやら痛みではなく怒りで顔を歪めているようだった。

 

 

 「そうか、系太と良(おまえら)か。明日が楽しみだなぁ。生贄が二人もいるなんて、想像するだけで楽しいよ」

 

 

 どうやら、アキラだけでなく、ワイに向けての言葉でもあるらしい。

 二人という人数に疑問を覚えて周りを見てみると、なるほど、あの大河とかいう男はどこにもいない。

 恐らく、殺し屋に一番必要な能力である、気配を消す力とやらを使って、上手くこの場から逃げ(おお)せたのだろう。目的は不明だが、アキラを残したままで。

 

 

 そもそも彼なら、この場を収めることぐらい造作もないのだから、何がしたかったのかさっぱりだ。

 そんなことを考えていると、その、殺し屋に置いて行かれたアキラがようやく立ち上がった。

 

 

 「ぶっ…、ふははは、ふふ。なんておめでたい奴なんだ、お前…」

 

 

 意味不明な笑い声をあげたアキラを、立花はまた殴る。

 アキラは咳き込みながら倒れた。

 

 

 「はぁ⁉ ざけんなよ。何、調子乗ってんの? お前、自分の立場を知れよ。お前が今オレにしていいのは、明日の罰を少しでも軽いものにしてもらうための、機嫌取りだろうがよ!」

 

 「明日? 明日も、今までの優勢な立場を維持できると思っているのか? ホントに、お前はおめでたいなぁ。ボクたちが何の策もなく、こんな大胆な行動をとるわけがないだろう。ちょっとは頭使えよ、この馬鹿」

 

 

 アキラはまた、殴られる。

 血が飛び散ったのが、ここからでも分かった。

 

 

 「この状況を変える? 無理に決まってんだろうがよ! その女もお前らも、地獄行だぜ。女は殺しはしないが、お前らは比喩じゃない。本当の意味で地獄行きかもな」

 

 「今までの状況なら、もう変わっているんだよ。今夜、すでにね。お前たちの天下は終わりだ」

 

 

 そのアキラの言葉に、殴り合いを間近で見ている少女は驚きの表情を浮かべた。それは、地獄の底で天から降ろされた糸を見ているような、そんな驚きと期待を秘めているように思える。

 …この期待をアキラは裏切らないだろう。

 というか、裏切んなよ、アキラ。絶対にだ。

 

 

 こいつがこんな顔をするのは、ワイが知っている範囲では初めての事だ。

 ジュリアがおらんかったら、惚れとったかもしれん。そのぐらい可愛らしく、無垢で、希望に満ちている顔なんや。

 やから。

 やから、絶対に期待に応えろよ、アキラ。

 

 

 「天下が、終わるねぇ。別にこの施設の支配者だったつもりは無いし、特に何か権利を持っていたわけじゃないんだけど。ここを管理してんのは例の金持ちの婆さんだし。でもお前がそう言ってくれるってことは、お前らにはオレが天下人に例えるほど特別な存在に見えてるのかな」

 

 「ははは。ボクとしたことが、勘違いさせちゃったね。お前らはただのクズだよ。そんな素晴らしい業績を残した人たちと同じには、とてもじゃないが出来ない。確かに特別な権限は持ってないかもしれないけど、お前は()()()()()()()()()()()()。許されないんだよ、お前がした変態行為は」

 

  

 そのアキラの言葉に。立花は。

 ボガアッ!

 ドッ!

 ズゴッ!

 ドガッ!

 

 

 アキラを滅多打ちにした。

 最後の二発は蹴りだった。

 

 

 「お前こそ。ふざけんなよ? 神聖な儀式を、変態行為呼ばわりだと⁉ 価値も分からぬ愚民が‼ 口を慎めっ!」

 

 

 きもっ。

 

 

 「うっわ。お前、病気なんじゃないか。神聖だの…」

 

 

 

 ドンッ! 

 ベシッ!

 今度は、アキラはもう最後まで言わせてもらえない。

 

 

 「ゴミが。無様なもんだな。喋らせてもらえなきゃ、力だけじゃなく口喧嘩でも不戦敗だ。情けなさすぎるぜ」

 

 

 「は? そりゃ、ブガッ…。くっ…逆だろ。相手の話を遮ったら、その時点で…くぅ、反論が出来ないんだから、負けなのが口喧嘩だよ」

 

 

 アキラは殴られながらも、必死に言いたいことを言い切った。

 …いや、まだ続く。

 

 

 「お前、殴る力が、弱まってきてるぜ。お手手が、痛くなっちゃったのかな? だから、足も使ってんのかな? 雑魚がっ! お前のその手の痛みの何億倍、お前はこうさかさんを傷つけたとおもってやがる! ぐはっ」

 

 「はぁ? 手も使えますよー。ナメてんのか、ゴルァ。こっちは痛くも痒くもねぇんだよカス」

 

 

 アキラは何か考えるように、目を瞑った。

 …。 

 ……。

 そして、何かを思いついたように目を開ける。

 アキラは思いついたことを言おうとするが、しかしそれをする前に立花が。

 

 

 「おい敗者。負け犬が喋ろうとしてんじゃ、ねーよ」

 

 

 そう言って、アキラを殴る。

 

 

 「ふがっ」

 

 

 痛そうにアキラが仰け反り、そして。

 

 

 「…くっ。はは」

 

 

 次の瞬間。

 何を思ったか、アキラが立花に抱きついた。

 多少、驚いたが、ワイはすぐにアキラの意図を察した。

 アキラは、立花の腕をしっかり、ホールドしているのだ。つまり、立花はもうアキラを殴れず、また発言を妨げることもできない。

 

 

 そして、邪魔がなくなった状態でアキラが言う。

 

 

 「一つ。言っとく。あのな…くっ」

 

 

 いや、殴られていないだけで、立花は抵抗しているのだから邪魔は有るのだ。それに苦しめられながらも、アキラは何とか言葉を紡いでいく…。

 

 

 「お前は、力で勝って喜んでるみたいだけど、な…」

 

 

 アキラがさらに続けて、言う。

 

 

 「甘いなぁ。お前が力で勝ってるのより、ボクの口喧嘩の勝利の方が、価値が高いってことに、気づかないのかよ」

 

 「はぁ⁉ なんでお前が何もせず得た沈黙の勝利が、オレのこの圧倒的優位より上なんだよ。こんなの、誰が見たってオレの勝ちだろ。それとも何か? 道徳的に勝ってるとか、そんな甘っちょろいこと言うつもりか、オイオイ、くっ、はははは。傑作だぜ、お前の能天気さはよ」

 

 

 それにアキラは答えようと、口を開く。

 もう長くはもたないだろう、立花の手足の拘束を、それでも懸命に続けるアキラ。

 そのアキラが、死力を尽くして、言う。

 もう一度に長く喋る事すらままならない、その余裕のない口調で、絞り出すようにして言う…。

 

 

 「理由か? そりゃ…っく、お前、わかんないか? それな、ら、教えてやる、よッ」

 

 

 …。

 

 

 「それは、な…」

 

 

 …。

 

 

 「け、喧嘩って、いう字…を…」

 

 

 …? 

 

 

 「け、喧嘩っていう字には、『くちへん』が二つも含まれているだろ?」

 

 

 …‼…⁉

 

 

 「つまり、喧嘩は、口で、しろって解釈、なのさ。ボクにとっては。口でするもんなんだから、口喧嘩の、評価は…」

 

 「口喧嘩の、評価は…だから、でかいんだよ…」

 

 

 それに対して、立花は。

 その、暴論に対して、立花は。

 

 

 「は…はあ⁉ お前、バカ、かよ。いや、もう幼稚園児だろ。お前さぁ、ああ。()UZEEEEE(うぜえええええ)‼ うおああああ!」

 

 

 と、言った。いや、叫んだ。

 そして、叫びながら、とうとうアキラを突き放す…。拘束を解いたのだ。

 アキラは、尻餅をついた。

 しかし、すぐに立ち上がる。

 そうして、二人は向かい合う。

 

 

 …。

 …もう、ダメだろう。アキラは。

 遠目に見ていても、それが分かる。

 ボロボロの、よれよれだ。

 具体的には、あと一発パンチが繰り出せるかどうか…といったところだろう。

 もう無理、限界だ。

 

 

 だが。

 そのアキラが、拳を構える。

 そして、助走をつけて立花へと向かっていく…。

 

 

 「く、くらえええ! 確定、勝利状態で、さらに追い打ちだ…! こうさかさんの痛みを、思い知れ!」

 

  

 アキラは、立花に拳を突き出す。

 立花は…。

 立花は、よけない。

 その、恐らく最後になるだろう攻撃を、立花は躱さない。

 そして当たる。

 

 

 いや、立花が()()()

 すると

 

 

 「ほんと、ひどい軽さのパンチだなぁ」

 

 

 と、立花が言い、全く効いていないことを悟らせる。

 そして…。

 

 

 「お返し♪」

 

 

 と言って、アキラを思い切り突き飛ばす。ワイの死角に入り、アキラは見えない。

 殴ったり蹴ったりしなかったのは、やはり暴行を繰り返したことで痛みが蓄積しているのだろうか。

 いや、そんなことより、アキラは…。

 ワイは、アキラを目で探す。

 

 

 …。

 見つけた。

 アキラは、屋上の端にある落下防止用の柵に、頭をつけた状態で倒れていた。

 多分、頭を打ったのだろう、すぐには立ち上がれない雰囲気だ。

 アキラは死力を尽くして戦い、そして、もう立てないところまで頑張った。

 

 

 そんなアキラにワイは。

 

 

 「ようがんばったな、アキラ」

 

 

 と、小声で称賛せずにはいられなかった。

 ワイでは多分、真似できないだろう。

 こいつは、本当に…ようやっ…。

 

 

 しかし。

 そんなワイの称賛を、アキラの頑張りを踏みにじるような音が、ワイの耳に届いた。

 それは蹴る音だった。人が人を蹴る音。

 立花が、もはや動けないアキラに暴行を加えていた。

 ワイは、思わず叫ぶ。

 

 

 「おい! もう勝負はついたやろ⁉ 何をやりよんや、おどれは‼」

 

 

 だが、そんなワイの声など耳に入らないのか、立花はアキラに殴りかかろうとしていた。それはもう、思い切り、躊躇なんて全くない攻撃だった。

 …おい、ちょっと、待てや。

 アキラは完全に無防備なんやで?

 考えるより先に体が動いていた。脚をフルに稼働させて、アキラと立花の間に割って入る。

 

 

 そして立花のパンチを、反射的に突き出してしまった、ケガをしている方の手で受けた。

 くっ。

 電流が走ったような痛みが、腕を駆け巡る。

 だが、しっかりと受けきる。

 

 

 「無抵抗の相手に暴力ってのは、嫌いやなぁ。最初のアキラの不意打ちはええよ。ワイが許せんのは、動けん相手への暴行だけやからさ。だって、有り得へんやろ、弱者や敗者への追い打ちなんて」

 

 

 人の喧嘩には割って入らない主義だったが、相手がこんなクズなら喜んで相手をしよう。

 ワイは、立花の拳をしっかり握っている右手とは反対側の、左手で持っているものを宙に掲げる。

 

 

 「これ、な~んやろな?」

 

 

 と、立花に問う。

 宙に掲げた、その物体が何なのかを問う。

 …。

 立花は黙っている。

 

 

 「暗いから見えへんか? じゃ、教えたるわっ!」

 

 

 そう言って、ワイはその持っている物で、思い切り立花の頭をどつく。

 何だかんだ言っても、アキラの相手でもう疲れていたのだろう。立花は避けなかった。

 つまり、アキラの奮闘は無駄じゃなかったってことだ。

 

 

 「うっ、ぐはぁ…」

 

 

 立花は呻きながら倒れた。

 これで、決着や。

 …。

 ワイは今、金色に輝く「トロフィー」で立花を殴った。このトロフィーは、「関西空中相撲大会」における小学生の部で優勝したときに、貰ったものだ。

 

 

 ワイの特技、空中相撲。

 ワイは空中相撲でかなり優秀な成績を残してきたつもりだ。

 これはその空中相撲で残した好成績のうち、一つが形になったものである。

 そのトロフィーを、ワイは今持ってきていた。もちろん、立花を殴るための鈍器として使うために所持していたのではない。

 

 

 アキラの部屋に向かうべく部屋を出た時、せめてもの護身アイテムとして手に取ったのが、このトロフィーだったのだ。かなり硬く、即席の武器としては丁度良かった。その証拠に、これで頭を殴られた立花は今、倒れ込んでいる。

 

 

 「……」

 

 

 ワイは、少し凹んでしまったトロフィーを、アキラの側に置く。この闘いから逃げなかったアキラへの、せめてもの労いだ。

 いや、この一件がなくても、ひょっとしたら、アキラの手に渡るべきものだったのかもしれない。

 …一度負けただけで、それは考えすぎか。

 

 

 「よっ」

 

 

 と掛け声を出して、立花の体を、空になった左手で掴んで左腕で支える。

 そして、そのまま引き摺っていく。

 ズズッ、ズズッ。

 立花は、とりあえず立花自身の部屋まで運ぼう。

 …。

 

 

 そこで振り返ると、当然アキラとその想い人がいて。

 気絶しているアキラと、それを見ている少女がいて。

 それにワイは笑みを浮かべ、できる限り静かに去った。

 



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第十八章 夏休み

 「あ、えっと…くん。起きた?」

 

 

 聞こえるのはボクがよく知っている声。そしてボクが今、一番聞きたかった声。

 緊張しながらも瞼を開くと、光がボクの世界に溢れた。初めは、そのあまりの眩しさに視界がぼやけていたけど、次第に目が慣れてくる。

 そして、目の前に人がいることが分かる。

 誰かがいることが分かる。

 

 

 「…」

 

 

 そして、その人物が誰なのかは、もう知っていた。

 

 

 「こうさか、さん」

 

 

 そう呼びかけてしまったことを、少し後悔する。

 何故なら、彼女の関心は、ボクではない誰かに向けられているのだろうから。

 さっき呼ばれた「…くん」という聞き覚えのない名前の人物に、向けられたものだからだ。

 …しかし。

 

 

 「ああ、やっぱ起きてる。えっと、アソウ…りょう…くん? おはよ。それであの…」

 

 

 どうやら、その声はボクに向けて発されていたらしい。何故かボクの下の名前がリョウなのだと思い込んでいる。

 どこかで「良」が下の名前だと見て、読み方は自然な「リョウ」だろうと勘違いしたのだろう。

 名前を間違って覚えられていることは、少し不快だった。

 

 

 だがそんな思考は、次の彼女の一言でどうでも良くなってしまう。

 

 

 「あの…あの、助けてくれて…守ってくれて、あ、ありがと」

 

 

 ボクは、熱くなる。赤くなる。

 何も、考えられなくなる。

 …心が、溶けだすような、妙に心地よい感覚。いつもの、この子と関わった時や、この子の事を考えたときに感じる…いや、最近この子のせいでずっと感じている、気持ち良い感じ。今日は、いつもにも増して…。

 

 

 「あの、ほんとにね。…それと、今までごめん。ええと、それから…」

 

 

 ボクとは今まで喧嘩をしているような雰囲気だったから、多少気まずいのだろう。彼女はキョドリながら言う。

 可愛い。

 見ていると、気持ち良い。

 ずっと、見て居たい。

 

 

 …。

 そんな彼女が、訊いてくる。

 

 

 「それでその、さっきのた、立花との会話でのことなんだけど。今の、状況が変わるって?」

 

 

 明らかに立花の部分を言い難そうにしている。立花、という二文字を思い出すのも苦なのだろう。本当に嫌そうだ。

 そんな彼女にボクは、立花(あいつ)のことを一刻も早く忘れさせてあげたいなと思って、答えた。

 

 

 「あぁ、うん。えっと、大丈夫…だよ。もうほんとに。今にも鉄たちは自分達の罪を林先生(あのばあちゃん)に告白するだろうからさ。そうなるように仕向けたし。だから、その、し、心配しなくても、いいんだよ」

 

 

 ボクは、彼女につられてキョドリながら状況を伝えた。

 すると、彼女は。

 先ほどまで、少し不安そうに話し掛けてきていた彼女は。

 顔に、希望を満たしていく…。そして。

 

 

 笑った。

 

 

 …。

 ずっと前に、この子に夕焼けの中で笑顔を見せられたことがある。

 その後、あんまりその笑顔が綺麗だったから、ボクは「あの夕焼けの笑顔が、もう一度見たい」なんて思ったものだ。

 その願いは立花達のせいで、叶わなくなってしまったと思われた。だがそれが、今…。

 

 

 叶った。

 もう、ボクは最高に幸せで、満足だった。

 まぁ、()()()の笑顔になってしまったけれど。

 そんな些細な違いは、どうでも良い。

 

 

 …ああ。幸せだ。

 

 

 「ありがとう‼ 本当にっ。やった、やったっ。これで、もう…」

 

 

 …。

 

 

 「あ、そうだ。私の下の名前、知らないでしょ?」

 

 

 遂にこの時が来た。ボクは、しっかり耳を澄ます。

 

 

 「名前はしう。『しう』っていうの。幸と羽で幸羽。紅い坂の、幸羽(しう)ね。よろしく、あそう、りょうくん」

 

 

 そうしてボクは、知りたがっていた彼女の名を、知った。

 

          29

 

 その日、ボクと幸羽(しう)ちゃんは、先生たちから事情を洗いざらい聞き出された。ボクは立花によってかなり酷い怪我を負っていたので、幸羽(しう)ちゃんと共に事情聴取される羽目になったのだ。

 事件のあらましと、自分がどう関与したのかを主に聞かれたので、それについては正直に答えた…のだが。

 

 

 一つ、嘘を吐いた。

 それは、傍観者であった系太について。昨日まで何も教えてくれなかった彼についての嘘だった。

 …。

 

 

 「今回の事件の加害者側は、立花、鉄先生、あと…安部くんと君以外の男子だったよね? 具体的に何をしていたのか、知っている範囲で答えてくれるかな?」

 

 「あ、えと。その前に、加害者側って、実はその人たちだけじゃないんですよ。その人たちとは別に、いじめてた奴等がいて。その…ボクの後ろに座っていた二人なんですけど、もうホント悪質で。こっそりやるもんだから、近くのボクぐらいしか気付けなかったと思うんです…」

 

 「そう…なのね。わかった。じゃあその二人にも『彼らと同じ措置』をとらせてもらうわ…残念だけど」

 

 

 ―。系太を、この施設から移動させるための嘘だ。別に完全な私怨からではない。気軽に話し掛けてくる彼は、コネクター症候群を患うボクにとって危険すぎる。もうしばらくは幸羽(しう)ちゃん以外の人とは関わりたくないし、何より治りかけの瘡蓋を引っぺがすようなことになると困るのだ。

 

 

 もちろん、幸羽(しう)ちゃんへの姿勢に不満があり、どうしようもなく怒気が溢れて許せなくなったというのはある。幸羽(しう)ちゃんの代わりに懲らしめたかった。

 だが、流石にそれだけで人の人生を左右するような嘘は吐けない。

 あくまで、ボクの病気を悪化させてしまう彼を、ボクから遠ざけられる良い機会だからというのが主な理由だ。

 

 

 決して、自らの恨みの念だけで動いたのではない。

 ない…。ない、のか?

 いや、ある。多分そんなのは建前だ。

 ボクは彼に、仕返しをしたかった。

 何だか自分でも信じられない位、ボクは怒っている。

 

 

 だから、こんな機会なくて移動させなかったとしても、ボクは彼に何がしか危害を加えた。

 彼の幸羽(しう)ちゃんへの不干渉を責め立てる気は、そんなになかった。そんなことでは、無いのだ。

 昨日、屋上でボクに事の概要を論じたとき。あの少し楽しそうな態度で。

 

 

 あああ、腹が立つ。

 彼女を馬鹿にしたような、彼の態度。

 それがボクには、ゴキブリに寝ているときに口から入られ体を巡られることと、同じように不愉快に感じられた。

 もう、殺して、焼いてやりたいほどに。

 

 

 …。…立花たちよりも、さらに…。

 だから。

 だから、運が良かったような気がする。お互いに、系太の移動だけで済んだのは、良かった事のような気がする。

 

 

 それにあいつが大好きな、金髪の、ジュリアとかいうのも一緒だから、まぁ許してくれるだろう。許してくれ。…まぁ、元気でやれよ!

 

 

 彼らが送られるのは、氷溶園に似た施設らしい。かなり厳しい、変質者の教育や断罪に相応しい所だそうだ。頑張ってもらおう。特に主犯格の立花と鉄は、特別待遇をしてもらえるらしいので、張り切って頂きたい。

 氷溶園の大人たちの対応は、それだけであった。周りに広めたくないから、とのことだ。

 

 

 ……ああ…。

 それにしても、今日はとても良い日だ。

 もう死んでも良いと、六回も思えた。

 だって。だって、幸羽(しう)ちゃんが面白いほどボクの言葉に応じてくれるから…話をしてくれるから。

 

 

         30

 

 幸羽(しう)ちゃんと過ごす日々は幸せすぎて、気づけば彼女と居られる時間は終わっていた。

 遂に夏休みを迎えてしまったのだ。

 氷溶園では、八月の下旬の二週間が休みになる。もちろん本当に身寄りのない子は、その間も氷溶園でだらだら過ごすことになるのだが、どちらにしろ授業はなくなる。

 

 

 ボクには大河さんが居るし、帰る家もある。

 だからこの期間は家で過ごすことになっていた。

 例え施設に残ったとしても、幸羽(しう)ちゃんは居ない。彼女も祖母のもとに帰っているのだ。

 つまりどのみち、この二週間は幸羽(しう)ちゃんとは離れ離れ。

 

 

 この夏休み中に行われる祭りで会う約束をしたが、少なくともそれまでは会えない。

 ボクはそれが、嫌だった。

 嫌で嫌で堪らなかった。

 ただ、ある人気シリーズのゲームをやる日々。

 それは本当に詰まらない。子供は大好きな筈のそのゲームが、しかし詰まらない。

 

 

 何をしても、面白くなかった。何をしても退屈だった。

 休みなんかいらない。

 ボクは幸羽(しう)ちゃんに会いたいのだ。

 



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第十九章 祈り

 遂に明日は、幸羽(しう)ちゃんと約束したあの日だ。

 ボクはとうとう、あと一晩明ければあの子に会える。

 

 

 それはとんでもなく嬉しい。

 嬉しいことは間違いない。

 だけど。

 だけど、たったの二週間。例年なら夏休み中の二週間なんて、すぐに過ぎ去ってしまうのに…。

 

 

 長い、長い。あまりに長すぎる。

 何故、十四日の内の、十一日ごときがこんなに長いのだ。何故こんなに、時間が経つのが遅いのだ。

 それは分からないけれど、ボクは、ただ待つしかなかった。

 だからじっと。じーっと、ただ待つ日々を過ごしていて。

 

 

 夜遅くまで、ゲームをやって過ごしていて。その後、眠ろうとするけれど寝付けないのだった。

 …ほんとに。本当に、眠れない。

 クリスマスイブの夜みたいに、そわそわして眠れないのだ。

 明日は幸羽(しう)ちゃんに会えると思うと、意識が冴えわたってしまう。

 

 

 幸羽(しう)ちゃんが、目の前でずっと笑っているのだ。それを見ていると、寝るなんてどうでもいいことに思えてくる。そんなことより、こいつを…

 

 

 …。

 ……。

 ボクは想像の中の、幸羽(しう)ちゃんに抱きつく。

 柔らかい。想像しているだけなのに、体がどんどん熱くなる。

 そうだ。もう眠るのなんてどうでもいい。このまま、この子の唇に…。

 

 

 「アキラくん! 大変だ! 明日にしようかとも思ったけど、眠っていないみたいだから、今言わせて」

 

 

 せっかくの至福の時が…。

 

 

 「何? どうしたの?」

 

 「明日、雨だってさ」

 

 

 ボクは耳を疑った。

 

 

 「へ?」

 

 「だから、明日の天気は雨なんだってさ」

 

 

 明日、雨が降るって?

 でも、明日は…。

 

 

 「どうする? 僕の方の約束は、レースをやって終わりだから良いんだけど…。アキラ君たちの方は、祭りも中止になるだろうし、一緒に遊ぶっていうのは…ちょっと難しいと思うんだけど」

 

 

 ボクは明日を、明日だけを支えに生きていたのに。

 それなのに、雨? 

 そんなぁ。

 

 

 「……」

 

 

 会いたいよ。

 雨だからって、そんな…。

 

 

 ボクと大河さんは、明日どうすれば良いか分からず、黙り込む。

 そんな中、急に大河さんが何かを思いついたように顔を上げた。

 

 

 「あ! アキラ君、その子に電話すればいいんじゃない? 明日、雨降ってたらどうするか、電話で相談すればいいよ」

 

 

 なるほど。確かにそれは、良いアイデアだ。幸羽(しう)ちゃんと相談して、明日どうするかを決める。イイじゃない。

 何より、何でも良いから、一秒でも早く声が聞きたい。そうしないと、落ち着かない。

 だが。

 

 

 「あー、だめだ。電話は、できないよ」

 

 「なんで?」

 

 

 理由? そりゃ…。

 

 

 「番号、訊いてないから…」

 

 

 そうなのだ。ボクは、幸羽(しう)ちゃんの家の電話番号を、知らない。というか、訊くのを忘れていた。あーあ。

 しまった。

 

 

 「ああ、そうなんだ。ならしょうがないね。明日は、えっと」

 

 「うーん。ま、雨降ってたら向こうも流石に来てくれないだろうし、晴れてたら行くって感じで」

 

 

 それに大河さんは、「わかった。じゃあ、それで」と言って部屋から出て行く。

 ボクは、また一人になった。

 

 

 「…」

 

 

 明日、晴れるといいな。

 そう、空を見上げながら思って、ボクはまた布団にもぐる。

 そして。

 …し、しう…。今、行くよ。

 明日は、浴衣姿の幸羽(しう)ちゃんが見れる。楽しみだ。

 

          31

 

 「ん?」

 

 

 そこでふと、ボクは周りの変化に気づいた。

 何だか、明るいのだ。少しだけだけど、確実に布団の外が明るくなっていて。

 それでボクは、布団からちょっと顔を出す。

 

 

 すると、その先に広がっていたのは、なんと。

 なんと、薄暗いが空間をはっきり見通せるぐらいに、明るい部屋があった。

 さっきまであんなに真っ暗だったのに。

 この日の差し込みようは…。

 

 

 間違いなく、朝だった。

 朝。今はもう、朝。

 嘘だろ…。

 まさか、そんなに。もうそんなに時間が?

 昨夜、ボクが大河さんと話をして、それから布団に入ったのが二十二時半頃だったから…。

 

 

 そこでボクは、部屋の壁に取り付けられた円盤の形をした時計を見る。その時計は、短針が七、長針が六と七の間を指していた。

 つまり、午前七時三十二分。それが今の時刻ってことで。

 昨夜、布団に入ってから、今まで九時間ほどの時を過ごしたのだ。

 

 

 その紛れもない事実にボクは、ただ唖然とするしかなかった。

 だって、そんなに長い間…ボクはずっと…。

 しうちゃん、しうちゃん、ってずっと。

 しうちゃんの妄想をしていたのだ。

 

 

 「…」

 

 

 我ながら、何というか。

 少し気持ち悪い。

 …。

 

 

 おっと。そんなこと考えてる場合じゃなかった。ボクには、確認することがあった。

 ボクは窓際へと小走りで近づく。

 そして、窓の外を見る。

 …。

 雨だ。存在感はあまりないが、確かにそこに雨粒が降っていた。

 

 

 そして、それで。

 それでもう、ボクには分かってしまった。

 今日の天気は、ずっと雨なのだという事を…。

 だって、こんな量…。

 

 

 雨は、どしゃ降りだった。

 その後も、ずっと雨は降っていた。

 しつこいほどに。有り得ない程に。

 雨は止むことは無かった。

 天気予報も、一日中雨だと言っていた。

 

 

 確定的に、今日は雨の日だった。

 大河さんはガレージに篭りきりで、何やら車の最終確認をしているらしい。ボク用の朝飯(サンドウィッチとおにぎり)をリビングのテーブルに置いてからは、一度も車の側を離れていなかった。

 そしてそれから、時はどんどん経って…。

 

 

 ボクはただ、しうちゃんに会いたいと、声が聞きたいと、思い続けて。ただ、連絡手段を何か一つでも整えていなかった自分を責め続けた。

 それからまた、時は流れていって…。

 …。

 …。

 

 

 今の時刻は、四時三十分。

 もう半日経過してしまっていた。

 ボクは何もできず、ただ天に、晴れますように晴れますようにと、お祈りをするだけで。

 そしてその願いも、天には届かなくて。

 

 

 結局、雨は止まず、寧ろその強さを増していくだけだった。

 ざぁ、ざぁざぁざぁざぁざぁ…ってうるせえよ!

 黙ってくれ、止んでくれ。晴れてくれ。乾いてくれ。

 どう願っても、どうお願いしても、空は晴れてくれない。

 どうしよう…。

 

 

 雨が止まらない。

 落下が止まらない。

 川が。いや、滝が。

 全然、止まらない。止まらない止まらない。

 

 

 これじゃ、会えないじゃん。会いに行けないじゃん。

 あんなに、永遠のような二週間の間、ずっと楽しみにしていたのに。

 会えないなんて。声が聞こえないなんて。

 顔が見られないなんて。

 いやだ。

 

 

 でも、どうしようもなくて、どうにもできない。

 こうして、祈ること以外、ボクには何も出来ないのだ。

 …。

 こんなに強く思っていても、会うことはかなわない。

 何故なぜ?

 

 

 会いたいのに。会いたいのに。

 なんで、雨が降っているだけで?

 と、ボクは思う。

 何故、こんな些細な願い一つ、神は叶えてくれないのだろうか。とも思う。

 そうしたら、なんだか急に自分が不憫に感じてきて、自分の人生が不幸に思えてきて。

 

 

 嘆いてしまう。

 どうしてボクは、コネクター症候群なのか、とか。何で、自由に物事に意見も出来ないのか、とか。何故、あんなに良い奴だった系太と、自分から縁を切るような真似をしなければならなかったのか、とか。

 それもこれも、全部あのドラマのせい?

 両親のせい? 大河さんのせい? 

 

 

 違う。ちがう。

 神のせいだ。

 天のせいだ。

 お上のアホ共が、勝手にボクの人生を操りやがったのが悪いんだ。

 あいつらは、いつも、ボクの人生を、まるでお菓子の箱の中のプチプチを潰すかのように弄んで、狂わせる。

 

 

 死ね。死ね。死んじまえ。

 大体、自分たちを信じない者にはバチを当てるって。身勝手にも程があるだろうが。

 上に立つ者として、失格なんじゃねーのか。

 ふざけんな、ゴミがっ‼

 来る者拒まず、去る者追わず。これが基本だろう。偽善者やってんじゃねーよ。

 

 

 この、バカがぁっ‼

 

 

 「く、ぐすっ」

 

 

 涙が出てくる。何だか、ここ一年間くらい、とてもよく泣いている気がする。でも…。

 何故、ボクが泣かなければならないのだろう。ボクは、何か悪い事でもしたのだろうか。

 …。

 してない。

 

 

 しかし。

 それらのことは、正直、どうでも良かった。

 一つだけ。ボクが気にするのは、たった一つだけ。

 しうちゃんに、会えない事。

 この二週間、ボクは何のために過ごしてきたのだろう。 

 

 

 馬鹿みたいに、今日の事だけ考えてきたのに。

 あの子のことばかり、考えてきたのに。

 

 

 「っ…。なのに…」

 

 

 この雨で、全部、無意味になった。

 この雨で、全て無駄になった。

 天の、気まぐれ。そのせいで何もかもクソになってしまったのだ。

 もう、どうにも出来ない。

 …

 

 

 「…」

 

 

 と。

 そうボクはその時まで打ちひしがれていた。泣いていた。

 しかし。

 次の瞬間、泣くのを止めた。

 泣くことを忘れる程、妙な事が起きたのだ。

 

 

 それは、ぺたっと。そして、すりすりと。

 ボクの頭を、なでた。

 手だった。柔らかい、手。

 でも、誰の手だろう?

 それが、分からなかった。

 

 

 大河さんはガレージだし、この家にはボクと大河さん以外、誰もいないのに…。

 ボクの頭を撫でているのは、誰なのか。

 何なのか。

 それが、すごく気になってしまう。

 どうしようもなく、気になってしまう。

 

 

 それでボクは、頭を上げた。

 そこにいるのが誰なのか、確認するために。

 目を、向けた。

 

 

 ボクは息を呑んだ。

 そこに立つ者の、あまりの美しさに。明るさに。…そして、懐かしさに。

 

 

 「しうちゃん…?」

 

 

 ボクは、そこに立つ者をそう呼んだ。

 そこには、しうちゃんのシルエットがあった。涙で目の前が霞んでいて、よく見えてはいなかったけど。

 でも、長い髪をポニーテールにして。低くも高くもない背丈で。こんな優しい雰囲気を持っている子。なんて、他には思い当たらない。

 

 

 「し、しうちゃん…」

 

 

 そして、手を伸ばす。

 求めるように、渇望するように。

 だが、そこに質感は無く、ただただ虚しさが有るばかりであった。

 このしうちゃんは、幻なのだ。

 夢。白昼夢。

 

 

 これが幻想だという現実。 

 それにボクは、もう、何も言えなくなる。

 ただ、虚しさと絶望で、うずくまりそうになる。

 また泣きそうになって…。

 しかし、泣かなかった。

 

 

 悲しみとは別の、もっと強い感情が自分の中で膨れ上がってきてしまって。泣けなかったのだ。

 その感情は、欲望(デザイア)

 この「しうちゃん」に、質感を。

 感触を。柔らかさを。温かさを。命を。

 

 

 欲しい。ぎゅっと抱きたい。

 そういった願望だった。

 

 

 「…よしっ」

 

 

 そして、その感情を抱いてから、決意する。

 今日、絶対にしうちゃんに会う。

 

 

 そう決めてからのボクの行動は素早かった。

 まず涙を拭き、もう消えてしまっている「しうちゃん」に待っててと言う。

 そして時計を見ると、時刻はもう七時半を回っていた。

 約束の時間を、三十分も過ぎているのだ。

 のんびりしている余裕は無い。

 

 

 自室を出て、玄関で靴を履く。

 そしてそのまま外に出る。

 ガレージは目と鼻の先だった。

 ガレージには、何だか背の低い黒の車が一台あって。

 大河さんがその下に上半身を突っ込んでいた。

 

 

 ボクはその、大河さんに向かって

 

 

 「あの…、えっと、大河さん」

 

 「ん?…何?」

 

 

 大河さんはそれから少し遅れて、上半身を下の隙間から出す。そして、こちらを向く。

 言わなくては。ちゃんと。

 

 

 「あのね、今日やっぱり会いに行きたくなった。勝手なのは分かるけど、連れて行ってください」

 

 

 必要最低限の言葉を、ボクは発した。

 しばしの沈黙。

 

 

 そしてしばらくの後。

 大河さんの表情が、この上なく嫌そうな歪んだものへと変わった。

 失敗した!!

 

 

 この反応。

 大河さんだって今日という日を楽しみにしてきたし、今更お願いしたら時間的にかなり拘束されてしまう。だから仕方ない。

 ここから祭りのある場所までは、片道二時間。本来なら大河さんは、ボクを連れて行ってから、その道中にある峠で約束の相手と落ち合う予定だった。

 

 

 しかし今から連れて行ってもらうと、峠で落ち合う時間が二時間もズレてしまうのだ。こんな身勝手な要求は無視されても仕方ない。その位、勝手なことをお願いしている。

 だが、引く気は無い。

 大河さんが連れて行ってくれないなら、走ってでも行ってやる。

 

 

 そこに、しうちゃんが居ようが居まいが。

 とにかく、絶対に行く。

 そう思いながら、ボクは大河さんの言葉を待った。

 

 

 「…よし、できた」

 

 

 大河さんは、何かの作業を終えたようで、出していた道具を片付けた。

 

 

 「分かった。乗れ。もう今すぐに行くから。急げ、早くしろ」

 

 

 大河さんはいつもとは違う、乱暴な口調でそう言った。そして、その有無を言わさない口調に戸惑いつつも、ボクは車に乗り込んだ。

 



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第二十章 カーチェイス

 今日は最近知り合った初老の男と会うことになっていた。

 目的は一つ。どちらが速いかを決めるためだ。

 全開ドライブの峠バトル。こんなに危険なことも少ないだろう。

 僕が日々行っている「殺し」に比べれば多少はマシだが、対向車がいるかもしれないことを考えれば全く軽視できない。

 

 

 それでも僕が行くのは、別に特別な理由があるわけではない。

 ただ僕がどれだけやれるか試してみたいのだ。

 それだけのために、僕は命を粗末にしようとしていた。

 

 

 僕の今日の対戦相手は、「上原(かみはら)あさひ」といった。彼はプロレベルの走り屋で、尚かつ自動車評論家とかいう、もう明らかに僕なんかとは格が違うドライバーだ。

 歳は六十二。

 僕が出会った中では最も運転が上手いドライバーで、実は僕の走りの先生でもあった。

 

 

 彼に出会って、車が好きになったと言っても過言ではない。

 峠での走り方からメカについて、様々なことを学んだ。

 時に叱られ、時に褒められて、その関係はまるで教師と教え子のようだった。言うなれば、彼は僕の恩人である。

 気が合うから友と言っても良いかもしれない。

 そして今日、僕はその、友であり恩人であり先生であるスーパードライバーと競争する。

 

 

 多分、敗れるだろうが、とにかく諦めず全力を尽くすつもりだ。

 何たって、今日のバトルは「上原 あさひ」氏のドライバー人生に幕を下ろす、最後のレースになるのだろうから。

 

             32

 

 「すいません、あさひさん。日が落ちるまで待つ予定だったんですけど、急用ができてしまって…今すぐ始めるわけにはいきませんか?」

 

 

 皿筋山(さらすじさん)の中腹で、僕とあさひ氏は車の窓越しに言葉を交わしていた。

 もう雨は止んだが路面は全く乾いておらず、本来ならばできる限り時間が経つのを待って始めるべきだ。

 僕はそれを、あろうことか陽が落ちる前に始めようというのである。

 

 

 「そうなの? 俺はいいけど、この時間帯だと対向車も来るだろうし、下らない事故を起こしても困るだろ」

 

 「確かに危ないですけど、あさひさんは余裕ですよね。僕に関しても、もう覚悟は決めています。本当に急ぐ用なので、お願いします」

 

 

 急な申し出にも彼は応じてくれた。車を横に並べるべく、バックで近づいてくる。

 思えば、彼との出会いも唐突なものだった。

 すべての始まりは、仕事の見返りとして、いま運転している後期型のAW11を貰ったことだ。金を持っていると見込んだ男は、一夜で無一文に転落していた。彼が持っているのは、この車だけになっていた。

 

 

 何を言っているか分からないかもしれないが、僕も何が起こったのか把握できなかった。とにかく、僕はその依頼主からこの車を受け取ったのだ。

 それから、最寄りの峠であるここ「皿筋山」で走るようになった。難しかったが、アクセルを踏むのがとにかく楽しかった。

 毎晩、走りに行ったものだ。

 

 

 走って走って。

 走りまくって。

 そしたらちょっと、飽きてしまった。

 碌にテーマもなく、ずっと下手な走りをしていたのだ。当然と言えば当然だろう。

 でもスポーツ走行自体はやめる気になれなかった。

 

 

 だから僕は、皿筋山以外で家から比較的近いほかの峠に行くことにした。そこは「東森峠(あずまもりとうげ)」といって、かなり勾配のきついコースだった。

 走ってみると、そこのダウンヒルに相当ハマってしまって。

 また走りまくった。

 そして、そんなことを繰り返していたら、とうとう出会ってしまったのだ。

 

 

 この男に。

 

 

 二台の車はアイドリング中で静かに唸っている。走り出すときを待っているのだ。

 その様はまさに、待てと指示を受けた猟犬だった。僕たちの合図でこの二台は飛び出していくだろう。その瞬間は、刻一刻と近づいていた。

 車の調整には思い残すことは無い。今できる全てをこいつに込めたはずだ。

 問題は、コースの方かもしれない。

 

 

 走り慣れた峠だが、今日は雨が降った後。その上、まだ日が落ちるまで少し時間がかかるという危険極まりないコンディション。

 もともと特殊な峠だから、余計に気を遣う必要が有るだろう。だが地元のドライバーとしては、望むところだと言いたい。公道ではアクシデントなど当たり前。この程度で怖気づく僕ではない。

 

 

 皿筋山は、上りと下りの複合コースだ。山の麓から中腹までを駆け上り、勾配の緩やかな中腹を走って、また麓へと駆け降りる。山頂への道は獣道のようになっておりスポーツ走行には向かないため、帰りも行きも『コ』の字を描くように走るのだった。僕も最初は、その構造の異質ぶりに驚いたものだ。

 

 

 頂上近くまで行くつもりが、いつの間にか峠を越えていたこともあった。路面の粗さも相まって、とてもじゃないが走りやすいステージとは言えない。

 だが、全力で走行できる道はどこにでもあるものではないのだから、こればかりは仕方のないことだろう。

 

 

 ちなみに皿筋山の名称の由来は、遠くから見ると皿をひっくり返したように見える山に、木が切り倒されてつくられた(スジ)が入っていること、だそうだ。つまりは、ひび割れた皿に見えるということだと思われる。

 まぁ、走る上でそう重要ではないことだ。

 

 

 僕は助手席で眠っているアキラ君に視線を向ける。

 昨日は一睡もしていないそうで、これからどれだけGがかかろうと起きることは無さそうだ。

 この子のために、僕はここまで車を飛ばしてきた。

 そのアキラ君は、今からどうしてもその「友達」に会いたいのだと言う。

 

 

 片道二時間もかかるのに、それでも会いたいのだと言う。

 大したことではないように聞こえるが、そんなことはない。特に「コネクター症候群」になっている人間が、こんなにも他者と関わりたがるのは、僕に言わせれば異常な事だった。

 それも、その友達とやらは、どうやら女の子のようで。

 

 

 そんな心境に達することができたアキラ君が、僕は素直に羨ましい。そして、できることなら何でも協力してやりたいのだ。

 僕が今、この子の為にできること、それは…。

 一秒でも早く、目的地まで走り抜けること。

 それだけだろう。レースは、もう始まっているのだ。 

 

 

 「なぁ、俺たちが合意していても、対向車に迷惑がかかるんならダメじゃないか? 予定日をずらしても良いし…」

 

 

 そんな呑気な事を言ってくるものだから。

 

 

 「すみません。えっと…本当に急いでいるんで、さっさとおっぱじめませんか」

 

 

 するとあさひ氏は、僕の少し焦った口調に何か察してくれたのか、「じゃあ、十秒後な」とだけ言って窓を閉めた。

 十秒後にスタートだという意味だ。

 僕も、手回しハンドルをぐるぐる回して窓を閉めた。

 スタートダッシュの準備をしなくてはならない。

 

 

 バーンナウトは…ここまで走って来たからいらないか。さっさとやろう。

 ということで、サイドブレーキを引く。

 

 

 『9』

 

 

 アクセルをふかす。エンジン音は普通のAW11のそれとは少し違う、妙な音だ。

 だがそれで良い。こいつのエンジン音は、これが普通だ。

 

 

 『8』

 

 

 アクセルペダルを微調整する。タコメーターを見て、エンジンの回転数を4000回転に合わせる。

 

 

 『7』

 

 

 アキラ君の方を見る。

 眠っているようだが、どうだろう。このレース中に起きたりしたら、衝撃で驚いてしまうのではないか。

 まぁ、シートベルトをしていれば大丈夫か。

 ん? いや、アキラ君シートベルトをしていないじゃないかよ。もう…

 

 

 『6』

 

 

 僕は、アキラ君のシートベルトに手を伸ばす。金具に力を籠めて締めた。

 

 

 『5』

 

 

 うっかりアキラ君のせいでズレてしまった回転数を戻すために、アクセルを踏み直す。

 

 

 『4』

 

 

 あぁ、緊張する。大衆の前で発表を控えているかのようだ。

 落ち着こうと、サイドブレーキの隣の特別席に座っている「クロピョン」に触れる。

 その小さな席に腰掛ける兎のぬいぐるみは、僕をいつも勇気づけてくれる。

 

 「大丈夫。大丈夫だから」

 

 「ああ」

 

 

 『3』

 

 

 ぐぉぉ、ぶぉぉぉん…。

 

 

 『2』

 

 

 …。

 

 

 『1』

 

 

 僕は、クラッチペダルから足を離す。クラッチを繋いだのだ。

 

 

 『ゴー‼』

 

 

 サイドブレーキを、戻す。

 きゅきゅきゅっ。

 少しホイールスピンをしながら、AWは弾かれたように飛び出した。

 僕はそのままアクセルを踏み込む。

 ぐぉぉぉぉぉ。

 

 

 「…」

 無言の室内。しかし無音ではない。

 よく聞きなれた、エンジン音が響いている。

 MRであるため、背後からアホみたいに元気なエンジン音が聞こえてくるのだ。

 うるさいと思うこともあるが、僕はこのエンジンの音を頼もしく感じていた。

 

 

 頼んでも止まってくれそうにない程、活力に満ちたエンジンだと思わせてくれる。

 だからこの音が、僕はそこまで嫌いではなかった。

 

 

 と。

 そんなことを考えている内に、AWは、あさひ氏のEG6の前に出る。やはりスタートではFFのEG6より、MRのAW11の方が有利なのだろう。

 そのまま少しずつ、差を広げていく…。

 タコメータにレブリミッターが作用し、針が動かなくなった。

 

 

 僕はクラッチを切って、シフトレバーを操作する。1速から2速へ、シフトチェンジ。

 

 ぶおんっ。

 

 クラッチペダルから足を、丁寧に離した。そしてまたアクセルを踏む。

 ……。

 

 

 第一コーナーが、近づいてくる。

 



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第二十一章 秘密兵器

 第一コーナーはある程度Rが大きい。2速のまま走り抜けるべきだろう。

 アクセルを抜いて、ブレーキングを開始する。右足をブレーキペダルにつける。

 だが、ブレーキペダルはあくまでも丁寧に踏まなくてはならない。ドンッと踏んづけてしまったのでは、この車の場合は不安定になるからだ。

 とにかく丁寧に。

 

 

 ブレーキを残していって…。

 ステアリングを左に切る。AWがそのコーナーを曲がる途中、曲がり終わる少し手前でアクセルを再び踏んだ。

 立ち上がって、スピードを取り戻していく。

 

 

 いつもより気が引き締まっているせいか、キレがあるコーナリングができた。僕としてはこの上ない完成度だったと思う。

 だが、バックミラーを一瞥すると…。

 そこには、一杯に広がった黄色の車体が映っているのだった。あさひ氏のEG6は、圧し潰さんばかりの勢いで迫っている。

 

 

 さっすが。

 スタートダッシュでついた差が、完全に埋められてしまった。あんな大して力量の差が出ない1コーナーを抜けただけで、マージンを0にするなんて。

 これが経験の差というやつなのか?

 今の僕には分からない。

 

 

 一つ言えることは、「コーナーでは勝ち目がない」という予想していた通りの事実だけだ。

 とにかく、行けるところまで行くしかない。

 次の右コーナーが近づいてくる。僕はブレーキングをして、右にハンドルを切った。

 外に膨らみそうになる前に、左にハンドルを回す。このカウンターステアによって、余計な横滑りが緩和されるのだ。

 

 

 アクセルを開けて、再び加速させていこうとすると―。

 唐突にAWが震えた。いや、寧ろ跳ねたと言うべきか。

 とにかく、AWはおかしくなってしまったのだ。

 先ほどのカウンターステアでせっかく止まった横滑りが、再び始まる。

 だが、僕もあさひ氏がこういったことをするのは読めていた。きちんと対応することができる。

 

 

 ハンドルを、もうこれ以上ない位、力いっぱい右に切る。

 

 

 「ぐっ…、う…」

 

 

 きゅうう。

 音を立てながら踏ん張っていると、何とか滑りは止んだ。

 何とかガードレールには当てずに済んだか。

 ふぅ、と胸を撫で下ろしたのも束の間―僕の目の前に、熟したバナナのような色のリヤが現れた。さっきまで後ろに張り付いていた、同じ色のボンネットとヘッドライトは夜の闇に変わっている。

 

 

 抜かれた。

 

 

 「チッ…」

 

 

 分かっていたことでも、やはり悔しい。(あさひ)の前には、長く居座れないのだ。

 彼はドライビングの達人である。その能力は恐らく、プロにもあまり劣っていないだろう。今使われたのは、その彼が一番得意としている追い抜き技術である。ひょっとしたら、それに関してはどんなプロレーサーをも凌駕しているかもしれない。

 それは相手の車の体勢をくずして、ラインから外すための技だ。

 

 

 前走者の車体に自分の車をぶつける訳だから、少なくとも推奨されることではない。けれども彼の場合においてのみ、それが許されるのだった。

 ただの上級車が行うそれをカブトムシの角による吹き飛ばしとするなら、あの人によるそれはシーソーによる飛び上げなのだ。

 殆どぶつけられた衝撃を感じない上、車に当てられた痕は全く残らない。

 

 

 衝撃をほとんど感じないから、こちらの車が狂ったのかと思ってしまう。恐らく、車をゆっくりと接触させ、押すように体勢をくずしているのだ。

 その技は「押して道を開けさせる」という特性から、「プッシング」と呼ばれていた。相手を追い抜く手段の一つである。

 

 

 プッシングを卑怯ではないと思っているわけではないが、傷が残らないことからそれをやったという証拠も生まれないので、やられても責められない。言い逃れられたら、それで終わりなのだ。

 つまり、彼はその気になれば相手をいつでも追い抜ける。あの洗練されたテクニックは、最速のコーナリングスピードと合わさることで最強の武器になるのだ。

 

 

 僕が勝つ手段があるとしたら、それはもう直線で彼のEG6を圧倒することしかない。どうあがいてもコーナーでは足元にも及ばないのだから、車のパワーで上回るしかないのだ。

 そしてそれに関しては、実はかなり現実的な話だった。

 エンジン自体の性能では手も足も出ないが、僕のAWにはある特別な物が付いていて、あさひ氏のEG6よりも直線や登りが速い。

 

 

 そのためコーナーで離されても、直線に出てしまえば徐々に差は詰まっていく。今のこの麓から中腹までを駆け上る区間では、僕は寧ろ有利なくらいである。

 二台はもう、車間距離二、三メートルのところまで近づいていた。

 まぁ、どれだけ迫れてもプッシングがある限り、迂闊に前には出られないけれど。

 まったく厄介な技だ。直線でパワー任せに抜いても、すぐに抜き返される。

 

 

 とにかく今は、長い直線まで何とかついていくことを考えよう。コーナーの一つや二つでは抜かれないほどのマージンを確保してしまえば、ペースを上げて逃げてみせる。

 AWは緩やかな曲線を描いていく。

 右に、左に。

 ブレーキングもシフトダウンも必要ない、コーナーとすら呼べない曲がりを走り抜けていく。

 

 

 AW11とは思えない程の、すごいパワー。

 さすが、レース関係の仕事をしていた元依頼人の愛車なだけはある。

 何たってあの、「プレッシャーウェーブスーパーチャージャー」がエンジンルームにぶち込まれているのだから。

 こんなAWはどれだけ探しても二台と見つからないだろう。

 

 

 このプレッシャーウェーブ式のスーパーチャージャーは、従来(ルーツがた)のスーパーチャージャーやターボチャージャーとは異なった第三の過給機である。

 

 

 まずクランクシャフトによって回されたローターに吸気が導かれる。次に、排気管内の圧力が一気に上昇する際の「圧力波」をローター内に導くことで、吸気が瞬間的に加圧される。それから高圧の排気ガスに押された吸気は吸気管内に過給され、跳ね返った圧力波に押された排気ガスは外へと排出される。最後に、排気の慣性でローター内は負圧になるため、新しい空気が吸い込まれる。これを繰り返して、PWS(プレッシャーウェーブスーパーチャージャー)は過給機としての役割を担うのだった。 

 

 

 物理の詳しい知識に乏しいため正確なことは知らないが、この仕組みは相当にロマンを感じた。

 他の過給機のように吸気や排気を操作しようと躍起になっているのではなく、人間はただ吸気と排気を出会わせただけだ。あとは自然の物理法則が無駄なく空気を圧縮して排気を追い出し、新しい空気を呼び込む。何とも理にかなった過給機である。

 

 

 吸気と排気が触れ合っても圧力差があるから混ざり合わない、という性質もまるで魔法のようだ。美しいとすら思ってしまう。これでしっかりと速いのだから、もう完全に惚れてしまった。

 ギュルルルという騒音がMRであるため耳元で響いているが、それも許してしまうほどの魅力を持っているのだ。

 

 

 そんなお気に入りの過給機を乗せたAWは、直線ではEG6の加速すらも寄せ付けない。本来は優れた高回転型エンジンを持つEG6に対し、そう簡単に直線で勝つことはできないだろう。だが、あさひ氏のEG6にはある仕掛けがあり、重量がかなり大きくなっている。そのせいで加速にもいくらか手間取っているというわけだ。お陰様で、AWはEG6に直線で優っていられるのである。

 

 

 僕は確かにこの人には、全く及ばない。

 だが、この車にはまだ勝機があるのだ。僕はそれを活かすことを考えよう。

 



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第二十二章 EG6

 メカ関連の情報量が多いので、めんどくさい人は飛ばして次の話を読んでください。
 次回からはレースしているところがメインになると思います。


 夜の峠道を二台の車が疾走する。前を行くのは黄色のEG6、ドライバーは初老の天才「上原あさひ」だ。彼は類まれなドラテクを持っているが歳には勝てず、危険を顧みてこれを最後のバトルに選んだのだった。

 僕は殺しの報酬として受け取った黒のAW11で彼を追っている。差は詰まっているが、彼の追い抜きの技術は常軌を逸していて、迂闊に前へ出られない。

 

 

 僕はスポーツ走行を始めたての初心者だ。あさひ氏のラストバトルの相手には相応しくない。

 あさひ氏としても、最後はプロレーサーとの白熱したせめぎ合いで幕を閉じたかっただろう。彼にはその資格があるし、その手の人脈も豊富なはずだ。何故、僕のような素人に毛が生えた程度のドライバーを選んだのだろうか。

 

 

 本人は僕に昔の自分と近いものを感じたと言っているが、本当のところがどうなのかは分からない。ただあの特殊なEG6を、僕という丁度良いレベルの初心者で試したいだけなのかもしれない。

 あのEG6はロマンを追い求めた車になっていて、大掛かりな仕掛けが施してある。そのせいで重量が大きくなっているので、上級者とのバトルでは負けが確定してしまうのだ。

 

 

 だから恐らくは、ただの高等技術の応酬には飽きてしまって、どうせ最後ならとEG6を試してみたくなったのだと思う。初心者としてではあるが、あさひ氏ほどのドライバーに見込んでもらえたのは素直に嬉しい。

 とにかく僕は、彼の期待を裏切らないように全力で走るだけだ。

 

 

 アクセルを踏み込むと、AWは力強く加速してくれる。これにより少しずつ差は詰まっていく。

 このパワーの源であるエンジンには、とびきり珍しい過給機がついている。純粋な速さのみを求めるのならばターボの方が良いかもしれないが、この過給機は他にはない不思議な魅力があった。

 

 

 プレッシャーウェーブ式のスーパーチャージャーは、排気ガスを利用して空気を圧縮する点においてターボチャージャーに類似しており、クランクシャフトからトルクを取り出してローターを回す点で従来のスーパーチャージャーに類似している。二つの機構を混合させたような過給機でもあり、僕はこのロマンに満ちた過給機が気に入っていた。

 そのPWSによって中低速でのトルクは格段に上がっていて、AWはあさひ氏のEG6を追い詰める。

 

 

 後ろに張り付いて濃い黄色のリヤを眺めていると、次のコーナーが近づいてきた。

 右足でブレーキを踏んで、左足でクラッチを切る。右足はブレーキを踏んだまま、その踵でアクセルを煽る。そしてシフトダウン。…4速から3速へと。

 それからクラッチを繋ぐ。

 この一連の減速は「ヒール・アンド・トゥ」と呼ばれる。上手い走り屋は大体身に着けている技術だ。

 

 

 僕はこれが出来るようになるまで、かなりの時間を要した。全ては速くなるためと思って練習していたが、出来るようになると気持ちいいものだ。

 もっとも、出来るようになったと言っても、まだタイムに影響しているのかすら怪しいレベルの完成度である。

 

 

まだまだ詰める必要がある技だ。

 

 「…さて」

 

 

 僕はステアリングを右に切っていく。

 少し曲がってから、アクセルを踏む。

 立ち上がって、アクセル全開。前方に見えるEG6に、数センチずつ近づいている。

 それに伴って、黄色の車の尻がフロントガラスに大きく映される。

 このバトルでかなり長く見せられることになるだろう、あさひ氏の後ろ姿だ。

 

 

 

 横に長く広がった二つのテールランプ。

 本来、こちら側から見て右に一本だけついている筈のマフラーは、左にも一本ついている。

 これが彼のEG6を背後から見た姿だった。

 完成された芸術品のような仕上がり。もちろん、特に目を引くのはマフラーだ。

 それを見ながら思う。

 

 

 あぁ、とうとうあの地点だ、と。

 …拝見させて頂こうじゃねぇか。

 

 

 「……」

 

 

 次はヘアピンカーブだ。

 僕は3速から2速へシフトダウンする。

 その時点でEG6はコーナーの奥に消えてしまって、僕の視界から消える。

 僕はステアリングを左に切った。それからカウンターをあて、立ち上り区間に入る。するとまたEG6が僕の視界に入って来た。

 

 

 この直線は、上りでは一番長い。PWSによって高められた加速力で追い抜いて、一気に差をつけたいところだ。

 だが…。

 そこで並びかけたEG6に変化が起こった。それはあまりに衝撃的なことで、僕の意識はEG6に乗っ取られてしまった。

 

 

 加速したのだ。EG6が、ものすごい勢いで。

 それも、右側のマフラーから青い炎を吐きながらだ。

 僕のAWに分があるはずの、低中回転域における加速勝負はまさかの完敗である。

 EG6が得意な中高回転域まで、一気に吹ける。そのまさに衝撃的な加速に、僕とAWは、優っていた直線であるにも関わらず離されていく。

 僕は、必死になって追いかけた。

 

 

 シフトアップを繰り返して4速で追いかけても、どんどん差は広がっていく。

 全然ついて行けない。

 

 

 「…はぇぇ」

 

 

 彼のEG6には「ナイトロ」という、エンジンのシリンダー内に噴射すると車を劇的に加速させることができる物質が積まれていた。そのため短時間ではあるが、自分が決めた区間で破格の加速力を得ることができるのだ。

 これだけでも今の日本でよく実現させたと褒め称えたいところだが、実は彼のEG6はまだ全てを発揮していなくて…。

 

 

 ここからの挙動にも目が離せないのだった。

 2速にシフトダウンして、ブレーキングをする。

 僕はコーナリングをしながらも、固唾を呑んでEG6が視界に入るのを待った。

 

 

 「まじかよ…」

 

 

 コーナーを抜けると、その先に待っていたのは闇だった。

 遠くで小さくなったEG6が、左のマフラーから赤と橙を混ぜたような色彩の炎を吐く。

 そして、もう次のコーナーに入ろうとしていた。

 まるで、4DWの車をガチガチにチューニングしたかのような立ち上がりだ。

 僕は息を呑んでしまった。

 

 

 話には聞いていたが、すっげぇ立ち上がり加速。シビックとは思えない…。

 

 

 「…さすがだ」

 

 

 あさひ氏のEG6のコンセプトは二つだ。

 ナイトロを使い、アフターファイアを起こさせる。その際にマフラー二本についた触媒を改造して、片方のマフラーからは赤、もう一方のマフラーからは青の炎を吐かせることが一つ。

 

 

 そして、ナイトロを使って直線を走った後に、次の立ち上がりでEG6の後輪を駆動させて4WDのように加速させるという「二段階加速」が一つ。

 

 

 聞いていた話ではアフターファイアは赤と青の炎を同時に出すことになっていたが、実際は赤い炎は遅れて出ていた。

 やはり難しいのだろう。触媒を複雑に弄らなければならないだろうし、アフターファイアを操作したという前例は少ないはずだから仕方ない。

 

 

 だがその代わり、ナイトロの使用と四輪を駆動させることで二度加速させる「二段階加速」には成功していたようだった。

 流石、あさひさんと言ったところか。

 後ろ(リヤ)に小型化したモーターを積み、二つの心臓で低回転域と高回転域を補い合わせる仕組み。

 

 

 あさひ氏の運転席に取り付けられた四つ目のペダルを、()()()()ことで後輪とモーターのクラッチが繋がる。それまで温存されていたFF車のリヤタイヤが、存分に車を加速させるのだ。

 全ての立ち上がり区間で後輪のクラッチを繋いでしまえば、僕など簡単に引き離されるだろう。

 

 

 だがあさひ氏としては、複雑なマシンなだけあって高頻度で使ってしまうと壊れたり不調になる可能性が捨てきれず、二段階加速で一気に突き放すための使用に止めたいのだそうだ。車への負担は極力減らしたいとのことだった。

 本当のところは知らないが、それは多分嘘だ。僕に対するせめてものハンデのつもりなのだろう。

 

 

 それらが彼のEG6に施された仕掛けの全てだった。重量は僕のAWより何百キロも大きくなっているはずだ。モーターを積み、動力伝達装置を後輪との間に設けているのだから、どれだけ他で軽量化に努めても物理的な限界がある。

 軽いという大きなアドバンテージを活かして僕がジャイアントキリングを起こすか、あさひ氏がロマンの詰まった車で逃げ切るか。このバトルの本質はそういうところにあるのだ。

 

 

 EG6の二つ目のコンセプトは、二度の加速や二つの心臓など「2」という数字に拘っている。それに因んで、ナイトロの使用も二度まで可能にしていると聞いた。

 つまりはもう一度、あの加速を耐え凌ぐ必要がある。そして得意の直線でEG6を追い抜き、コーナーで取り返せないほどの差をつける。

 これが最も可能性のある勝利への道なのだ。

 

 

 ここからは勾配の緩い中腹を駆け抜ける区間。AWのアドバンテージはどんどん小さくなっていく。

 焦っても仕方ないが、早く二段階加速を使わせなければ勝機は無いだろう。

 僕は気合を入れ直し、アクセルを全開にした。

 ずんずん加速していくAW。

 

 

 少しずつだが確実に、差は詰まっていく。

 



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第二十三章 夜の峠道を二台の車が疾走する

 僕とAWは、二段階加速によってつけられた大差を埋めるべく、懸命にペースを上げて走っていた。

 ただでさえ限界ギリギリの走りをしていたのに、そこから更に攻めていくなど破綻必至である。だが、そうしなければ勝てないと明らかになってしまった。これから先、下り勾配があっても上り勾配は殆ど存在しない。ただ車のパワーを発揮するだけでは彼には勝てないのだ。

 

 

 僕は手っ取り早く速度を稼ぐために、AWのヘッドライトを閉じた。今ならまだ、微かな光がコースの姿を淡く教えてくれる。閉じたままでも問題なく走れるだろう。

 リトラクタブルのヘッドライトは上げた状態よりも、下げた状態の方が空気抵抗が小さくなる。

 某漫画で確かそんなことを書いてあった。

 

 

 ほぼ変わらないかもしれないが、今すぐに改善できる部分はこのぐらいしかない。もう何でもやってみるしかないのだ。

 そう思い立ってヘッドライトを消したものの、これには流石の僕も恐怖を覚えた。

 ただでさえスリル満点な峠の全開ドライブに、視界不良というこの上ない不安定な要素が加わり、今すぐにでも車を止めたくなってしまう。

 

 

 だが、僕が出来ることは他に何もない。こればかりは譲るわけにはいかない。

 僅かな明かりを頼りに、ブレーキングポイントを見極める。コーナリングを開始してしまえば体が覚えている通りにハンドリングを操作し、アクセルを踏むだけだ。

 

 

「そうそう、それでこそ男ってもんだぜ。綱渡りは慣れっこなんだし、何よりお前はこの峠を走り込んでる。100%事故らないよ、保証するぜ」

 

 

 クロピョンは他人事だと思って、根拠のない言葉を並べ立てている。だが、意外にもこの励ましは今まで僕を支え続けてくれたものだった。この人形の声が自分の想像だと分かっているからこそ、僕が心の底では強気で居るのだと思えてくるのだ。

 クロピョンのお陰もあって僕は乗れてきた。寧ろ、視界が制限されたことで無駄が無くなり、今まで磨いてきたラインが引き出されるような気がする。

 

 

 この作戦は大成功だ。思わぬ形でスピードアップに成功した。

 このままEG6に追いつき、焦らせて二段階加速を使わせてやる。

 そう意気込むと、僕はまた力いっぱいにアクセルを踏み込んだ。

 

 

 「頑張れ大河…。一度追いついちまえば、あっちもあの加速に頼らざるを得ないんだから」

 

 

 丁寧にブレーキペダルを踏み込む。前荷重を意識しながらのブレーキングだ。

 車は慣性の法則によって前のめりになって、速度を落とす。

 ステアリングを浅く左に切る。車がそれなりに奥まで行ったら、アクセルを浅く踏む。

 

 

 「…あぁ」

 

 

 この一連の流れの中で、AWは僕に「自分を中心にして車が回る感じ」を抱かせてくれる。MR特有のこの感覚は、僕のドライバー人生において最も豊かな遺産だ。この車に出会わなければ知ることも無かった、何とも心地よい瞬間。

 しかし、すぐにその至福の時は終わる。

 ドアに押し付けられるような横Gは無くなり、AWはもう僕を中心に回ってくれない。

 

 

 それは残念な事だったが、僕には新しい楽しみが近づいていた。

 アクセルを全開にすると、今度は力強く加速していくAW。このAWのトルクは、僕にとびきりの爽快感を与えてくれる。4A-GエンジンとPWSが良い仕事をしているのだ。

 直線もコーナーも充実している最高の車だ。こいつと出会えて、本当に良かった。

 

 

 その後も確実にAWはEG6との距離を縮めていった。だが日が完全に落ちてしまい、ヘッドライトを点けざるを得ない状況に陥ると、また二台の車の間は埋まらなくなった。

 どうにもならない現状に焦れていると、追い打ちをかけるようにコースは麓まで駆け下りる区間に突入していく。

 こうなってしまえば、もはや僕の勝ち目は薄い。あさひ氏の二段階加速を剥奪できなかったのが痛すぎるのだ。

 

 

 しかし、これだけ楽しい走りができたのだから、僕はもう満足だ。あさひ氏としてもEG6の仕掛けは試せたわけで、ある程度は喜んでくれただろう。

 もともと相手が相手だったから、勝てなくても仕方ないと思っていた。精一杯のドライビングで挑んだし、競争相手がいることで緊張感をもって楽しめた。

もう負けても本望というものだ。

 

 

 ただ…。

 ただ一つだけ、思い残していることがある。

 それは、何百キロも重い車を相手に地元のコーナーで負けていること。いくらプロと初心者の差があると言っても、AWは決してコーナーが遅い車ではないのに当然のように負けていること。

 

 

 僕はこのことが気になっていた。

 気になって仕方なかった。

 

 

「ふぅ…」

 

 

 まぁ、このまま負けるわけにはいくまい。

 ステアリングを握り直し、コーナリングに備える。

 僕を中心に車が回る感覚を味わって、早めにアクセルを開けた。

 立ち上がりではAWが優っているが、やはりコーナリングではあさひ氏より速く走れている気がしない。

 

 

 一体何が違うというのだろう。

 重量差的にコーナーが苦しいのは向こうのはずなのに、僕より速く曲がっていく。

 何をしているんだ、あさひさん。

 EG6のコーナリングを観察すると、鋭く切り込んでいくタックインと無駄のない立ち上がりを実現している。

 

 

 基本に忠実な理に適った走りだ。プッシングのような必殺技が光るのは完璧なドライビングテクニックに裏打ちされているからだろう。基本が出来ているからこそ、一撃で決められる大技が生きる。

 僕にここまで熟成されたテクニックを再現することは不可能だ。経験の量も質もまるで違うのだから。

 

 

 僕が彼に対抗できることと言えば…それは一つしかない。

 セミプロ級のドライバーに負けないものなど、僕には一つしかないのだ。

 ガードレールに擦りながらコーナーを抜けていく、AW。

 今までよりも奥でブレーキングを開始して、ギリギリまでガードレールに接近する。もともと扱いの難しいこの車に、更にリスキーな走りをさせる。

 

 

 この破綻と表裏一体の運転だけが、僕が彼に対抗するための唯一の術だった。

 ダウンヒルでは特にマージンを確保して走るものだ。だが今、僕のAWは全く安全マージンを取らず、全開で走行していた。躊躇せずにこの領域に踏み込んでいくのは、それなりの経験を積んだ者でも難しいだろう。僕は殺し屋として、危険区域の仕切りを超えることに慣れていた。それを活かして限界を超越したドライビングに挑んでいく。

 

 

 幸いなことに、右コーナーは先行するあさひ氏が先に抜けてくれる。対向車が無いことを確信した僕は、そこに躊躇うことなく突っ込む。これで右コーナーだけは僕の方が速く抜けられるようになった。バトルを早く始めたことで突破口が生まれたのだ。

 左コーナーでは相変わらず負けているが、トータルでは僕がまた差を詰めている。

 徐々に膨らんでいくEG6の後ろ姿に、僕は希望を見出していた。

 

 

 「とにかく、何とかあの加速を使わせないと、勝つ見込みがないからな。温存されたままだとストレートでも追い抜けなくなるし、最後の方まで残されたら終わりだと思えよ」

 

 「わかってるから、そんなに焦るようなこと言うな」

 

 

 クロピョンはたまに僕を煽って焦らせる。車が下を向いて滑り落ちていきそうな急勾配の中で、ミスを誘発させる発言は控えろと言いたい。殺しに行っても同じ様なことを語りかけてくる時があって、危なっかしいから連れて行くのを止めようかと思う程である。

 全く…。

 

 

 コーナーが近づいてくる。

 次はU字のヘアピンカーブだ。ここは流石に、限界ギリギリまで攻められない。しっかりブレーキングしなければ僕の腕では曲がれないのだ。

 アクセルを抜いて、ブレーキペダルを踏まなくては。

 そう思って、足を動かそうとした…。

 

 

 しかし、次の瞬間。

 ブレーキペダルを踏もうとした僕の右足が、空を蹴った。

 

 

 「…っ⁉」

 

 

 しまった!

 その四文字が頭をよぎったときには、もう遅かった。AWは限界を超えたハイスピードでヘアピンに突っ込んでいく。

 ペダル操作のミス。車を運転する上で最も避けたい痛恨のミスである。特にブレーキの方は、前や後ろに他の車がいなくても事故につながる可能性が高い。

 

 

 最悪だ。

 …とにかく対応を急がねば。

 ハンドルとクラッチを切り、サイドブレーキを引く。するとリヤが出て、スピンしそうな状態となった。AWの左側面が、ガードレールに突っ込む…。

 アキラ君、ごめん‼

 

 

 ボガッ。

 ガードレールに衝突した。車内に凄まじい衝撃が走る。

 

 

 「ぐっ」

 

 

 僕はハンドルを目いっぱい切って防ごうとしていたが、激突は避けられなかった。

 車はガードレールにぶち当たり、何とか大破は免れたが、塗装が剥げる程度のダメージは負ってしまっただろう。

 それにアキラ君も起き…。

 

 

 「すぅ、ふぅ」

 

 

 ていなかったようだ。マジかよ。

 意外に被害は少なかった。

 奇跡的な幸運である。痛んでしまった場所は無いか確かめたくなるが、今はとにかくバトルだ。

 そう思い、僕はサイドブレーキを戻して、アクセルを踏む。

 まったく、クロピョンが焦らせるからこういう事になるのだ。

 

 

 これからは置いてきてやろうか。

 

 

 「そんなこと言っても、俺はお前の意識が喋らせているんだから、俺自身ではどうしようもないじゃないか」

 

 

 確かに、その言い分には一理あった。こいつに気を付けろと言っても始まらない。

 まぁこの兎の処遇は後々決めることにして、今はバトルに集中しよう。

 EG6にはまた離されてしまったが、あまり差がついてはいないようだ。

 恐らく、重さが仇になってヘアピンからの立ち上がりをもたついたのだろう。これなら、右コーナーを二個も抜けるころには取り返せる。

 

 

 僕はまたマージンを取らないギリギリの走りを始めて、あさひ氏を追いかけた。

 

        33

 

 僕の必死の追走が実を結んで、AWはあさひ氏の車の背後に迫っていた。

 だが、どんなに追い詰めたところで、二段階加速をあさひ氏が使うことは無かった。考えてみればそれも当然の話で、僕が例え追い抜いたとしてもダウンヒルの直線で大きな差をつけるのは難しく、次のコーナー辺りでプッシングをされて抜き返されてしまうだろう。焦って二段階加速を使う必要は全くない。

 

 

 普通に追い回していたのでは、あさひ氏はあれを温存したまま優位を保ち続ける。

 何か特別なことをしない限り、僕の勝ちは無いのだ。

 

 

 「……」

 

 

 僕は決起すると、空気を大きく吸った。四秒待って、ゆっくりと吐き出す。

 これは仕事で特に危ない橋を渡るときに行う、ルーティーンのようなものだ。心が落ち着いて針の穴に糸を通すほどの繊細な作業を難なくクリアできる。

 今から僕は、それらの危険な行為と同等の、一歩間違えれば死ぬかもしれないことに挑もうとしていた。

 

 

 タイミングを見計らう。この手は二度は通用しないだろうから、確実に決める必要がある。

 …。

 いくぜ。

 AWのヘッドライトを閉じる。その瞬間、視界が闇に包まれEG6のテールランプ以外何も見えなくなった。闇を切るAW11のスピード感は普段の何倍にも高まった。

 

 

 分かっていたことだ。驚くな、恐怖するな。僕が為すべきことは一つ、それをそつなくこなすだけだ。

 あさひ氏は僕がミスってスピンしたとでも思っているだろうか。そうやって僕がいなくなったと勘違いしてくれれば僥倖だが、PWSのせいで騒音が出ているからそこまでは望めない。

 

 

 EG6のヘッドライトが照らすコースを、焼き付けた記憶と照らし合わせる。中腹でのそれとは全く違う、見えない道との闘いがそこにはあった。あさひ氏について行けるギリギリまでマージンを確保して、何とかコーナーを抜ける。

 

 

 左、そして…。

 詰めの甘い右コーナーで、インにつく。ヘッドライトを点けると、EG6の挙動が目に見えておかしくなった。立ち上がる際にEG6を追い抜いていく。

 と、そこで。

 後ろのEG6が、尋常でない加速をした。

 

 

 僕はあっという間に抜き返されて、黄色のリヤから突き出したマフラーから青い炎が吐き出されるのを見せつけられる。

 

 

 「どんなもんよ」

 

 「それでこそ大河だぜ。よくやったな」

 

 

 あさひ氏は二段階加速を使った。僕の陽動作戦が功を奏したのだ。

 某漫画の主人公のように上手く決められた。

 二段階加速を使ったところで、この直線と次の直線は大して長くない。その差を縮めることは難しくないだろう。これでまだ勝負は分からない。

 

 

 EG6がナイトロでの加速を終え、二段階目の加速に移る。二つ目の心臓であるモーターが後輪を駆動させ、苦手な低回転域を補う。

 長い直線が少ない峠に適した仕組みだ。シケインなどの減速区間があっても、二度目の加速で更に差を広げることができる。

 強力な仕掛けだが、それでもここで使わせてしまえば、決定力に欠けることは間違いない。

 

 

 僕は間違いなく、あさひ氏が想定していた以上の働きをしている。だからこそ、二度の二段階加速を使わせるまでに至ったのだ。

 勝てる…勝てるぞ!

 



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第二十四話 黒い影

 あさひ氏のEG6との距離はもはや数センチと言ったところか。

 EG6は二段階加速を使い果たし、僕を突き放す術はない。もう完全に追いついた。

 あとは僕が追い抜いてしまえばこのバトルは終わりだ。

 しかし、問題が無くなった訳では無い。あの「プッシング」という技術さえあれば、抜いても次のコーナーで抜き返されてしまうのだ。

 

 

 一気に差を付けられる長い直線で抜き去るしかない。だが、そんな直線はもう一か所だけだった。

 コース終盤にあるこの峠で最長のストレート。あそこで抜いてしまえば、もう勝ちは揺るがないだろう。

 そう…抜くことができれば。

 

 

 …あのストレートは道幅が狭く、歩道が確保されている。二台並んで通るには幅がギリギリ足りないのだ。

 あと少しで勝てそうなのに。

 どうすればいい? 何か良い手はないか?

 …。

 

 

 と、そのとき。

 

 

 「なぁ、大河…こんなのどうだ?」

 

 

 兎が。

 今まで勝負を邪魔していた兎が、僕に妙案を提示した。それは実に画期的で現実味を帯びたアイデアだった。

 確かに、それならば二台並んで通れるかもしれない。

 危険は付き纏うが…。

 

 

 よし。今日の僕は調子が良いし、やってみよう。

 成功するかは分からないけど、まぁ子供の頃にも似たようなことをしていた訳だし。

 人を殺して荒んだ自分を癒すために、童心に返るだけだと思って…。

 

 

 大きく息を吸い、四秒待って吐き出す。

 この直線で、勝負を決める。

 

        34

 

  一筋の光も射さない峠道に負けないぐらい、俺たちのお先は真っ暗だった。女子生徒を辱めていたことがバレてしまって、俺たちは意味不明な施設に入れられてしまった。そこでは残酷なまでの厳しい教育を受けさせられる。

 あまりの辛さに俺たちは心を失い、目的もなく夜の峠道を散歩していた。

 俺と立花君を狂わせた女、あいつは今何をしているのだろうか。

 

 

 紅坂幸羽―。

 あの女はとにかく、おかしい。

 いや、周りをおかしくさせる。

 ただの人間だというのが信じられないほど、相手を虜にする能力に長けているのだ。

 あいつに取り憑かれた人間は、いつか必ず崩壊するだろう。

 

 

 あの、「明日創 良」とかいう少年も、いつか俺たちと同じ道をたどるのだ。

 

 

 「ん?」

 

 

 高い音が聞こえてきた。これは車のスキール音だろうか。

 ここは歩道だから安全だが、念のため止まっておこう。

 

 

 「立花くん、車が来るみたいだから動かない方がいいよ」

 

 「ん…ああ」

 

 

 声から魂が抜けていた。若い立花君にはあそこでの教育は辛いものがあるのだろう。俺以上に病んでしまっている。

 どうすれば良いんだ。あと数年はあの施設で過ごさなければならないが、俺たちは既に限界にきている。これなら、刑務所に入る方がマシだったな…。

 

 

 車はどんどん近づいてくる。エキゾースト音から考えるのに、一台だけではないようだ。

 まさかこんな時間にスピードを出して、レースまがいの事をしている訳では無かろうが…。

 遂にコーナーから一台の車が姿を現した。

 暗いから確信は持てないが、あれはCivicのEG型だろう。

 

 

 コーナーを曲がってすぐにアクセル全開で加速するあたり、後続車とバトルをしているようである。

 まじかよ…。やるにしても夜が更けてからだろう、常識的に考えて。

 続いてコーナーから出てきたのはMR2だった。夜の闇に紛れるように、真っ黒のボディを風のように走らせている。

 

 

 二台の間にほとんど差はない。トラクションのかかりやすいMR2のことだから、ここ以外の直線だったら並んで加速勝負に持ち込んだかもしれないが、流石にこの道幅では無理だろう。

 いずれにせよ僕らの安全は保障されている…。

 歩道にいる限り絶対安全だ。

 

 

 だが、そんな俺のゆとりに満ちた考えは、次のMR2の行動で捨てさせられることになる。

 黒い航空機は前のEG6に並ぶと、離陸した。

 確かに浮いている。空いているスペースを空に見出したかのように、1トンを超える鉄の塊は地面を離れて上からEG6を抜きにかかる。

 目の前をすごいスピードで通過していく二台。黒い翼に当たりそうになって反射的に身を反らす。

 

 

 それだけ近くで見たおかげで、AWが何をしたのか俺には分かった。

 あのAWのドライバー狂ってやがる。

 車道と歩道を分ける「歩車道境界ブロック」の上に、片輪を乗せたまま走っていやがった。

 確かに、ここのブロックは両端が潰れてそのまま乗れるようになっているタイプのものだ。

 

 

 だが、反射材で凹凸ができたブロックの上を、それもあんなにか細い足場を、アクセル全開で抜けていくなんて…どういう神経してるんだ。

 

 

 落ちたら即あの世行きだというのに、全く乱れる様子もない。

 あのドライバーは多分、何か特別な生き方をして、ここまでの芸当ができるようになったのだろう。それは天性のものか、それとも努力によるのかは分からないが、俺たちが一生何かをやり続けても絶対に辿り着けない領域なのだと思う。

 美しい。

 

 

 意味が解らないほどの力は、見るものを魅了し惹きつける。あの紅坂という女より、このドライバーは美しかった。

 

 

 「いけ…抜いちまえ! 黒いの!」

 

 

 今まで何を言っても気返事しか返さなかった立花君が、熱くなって叫びだしていた。

 しかし、EG6のドライバーも、抜かれるのを何もせずに待っている玉ではないらしい。

 落ちろ!と声が聞こえてきそうなほど執拗に車体をぶつけていた。その当て方も実に絶妙なもので、勢いをつけてぶち当てるのではなく押し付けるように体当たりをするのだ。

 それでも何とか体勢を保って、EG6を置いて行く。

 

 

 AW11は遂にEG6を抜き去ると、ブロックから降りてEG6の前に出る。

 路面に両側のタイヤをつけて存分に加速すると、EG6との差は更に広がっていく。

 コーナーまでしっかりと加速した黒い航空機は、エルロンを立てて旋回を始めた。EG6は途轍もない突っ込みで追うが、既に取り返せないほどの差がついてしまっていた。

 

 

 ―。

 二台が去った後の峠は何事もなかったかのように静まり返っていた。

 俺たちは立ち尽くして、今見た衝撃的な光景を頭の中で思い返すことしかできない。

 

 

 「あのさ…おれ」

 

 

 そのとき唐突に、立花君が口を開いた。

 今まで彼の方から声を掛けてくることなど、一度もなかった。

 

 

 「おれ、車買うよ。あの施設をさっさと出て、カッコいい車を買ってやる!」

 

 

……。

 

 

 「おお、そうだね! その意気だ! おれもRX―7とか欲しくなったよ」

 

 

 あれだけ心が死んでしまったと思っていたのに、一つ小さな夢を見つけただけで、人間はまた輝くことができるようだ。

 心の中と、手の中が、熱かった。

 まだまだ、人生を諦められない。

 

        35

 

 「よっしゃ‼ 勝った勝った! あさひ氏に勝ったぞ‼」

 

 

 僕は興奮しすぎて、寝ているアキラ君の事も考えず叫んだ。

 これが冷静でいられるはずもない。

 だって、あさひ氏に勝ったのだ。

 あの、プロとタメを張る実力者のあさひ氏に。

 あの、自動車評論家のあさひ氏に。

 

 

 こんなに嬉しいことは他にはない。

 今にも踊りだしてしまいたい程に、昂っていた。

 あまりに嬉しくて、僕は自分の代わりに車を舞わせることにした。

 サイドを引いてきっかけを作り、そのままドリフトしていく。とにかく派手に、水しぶきを上げながら回った。

 

 

 とんでもない充足感だ。人生の内で、そう何度も訪れはしない至福の時。激闘の末にもぎ取った勝利の美酒に酔いしれる、最高の瞬間だった。

 自らの奮闘がこの時間に繋がったという事実は、何にも勝る自信に変わるだろう。

 それもとうぜん…。

 

 

 「……は?」

 

 

 僕はバックミラーに映る有り得ないものに、水を掛けられたかのように硬直した。

 そこには、どんな心霊写真よりも恐ろしい、EG6が一面に映った鏡があったのだ。

 何が起こったのか、分からなかった。

 例え縛りを破ってモーターと後輪を繋いだのだとしても、その程度の加速で稼いでしまえるマージンではなかったはずだ。

 

 

 ナイトロは使い果たしていた。もし実は三発目を隠し持っていたというのなら、とっくに抜かれているだろう。

 どう考えても、有り得ないのだ。

 ……。

 

 

 次のコーナーで、僕のAWはアウト側に膨らんでいく。

 この車がここまでアンダーステアになるのは初めてだ。明らかに何か別の力が加えられている。

 そして、イン側を駆けるEG6に、僕とAWはあっさり抜かれた。第2コーナーで決められたときより車から衝撃が伝わって来ない。

 

 

 ラストの短い直線が見えてくる。もう、負けだ。

 EG6は念のために、横滑りしながらガードレールと垂直になるように走っている。

 通せんぼ、という訳だ。

 FFでそんなこと、できるのかよ…。

 

 

 僕の中で、沈んでいた何かが引き上げられた。そしてそれが、破裂したのが分かる。

 今までのは、遊びだったのか。本気を出せば、僕なんて相手にならなかった、と?

 おいおい。

 真剣に走ったボクは、どうなるんだよ?

 

 

「ナメんな、くそがっ⁉」

 

 

 アクセルを全開に。

 EG6にはくっついた。だが-。

 だめだ。

 このまま踏んでも、EG6をゴールまで押し込むだけで、僕は前に出られない。

 あーあ。完全に負け…。

 

 

「いや」

 

 

 まだだ。

 僕はハンドルを右に切り、クラッチペダルを踏む。そして…このバトルで何度もお世話になっている、サイドブレーキを、引くッ‼

 サイドを戻す。

 

 

 「…いけぇぇ‼」

 

 

 AWはスピンしながら、EG6にぶつかる。

 EG6が、AWの回転に巻き込まれ、前を譲った。だが、またAWは後ろに……そこからは、スピンに対応するだけで精一杯だった。

 ~。

 

 

 気づいたときには、AWは静止していて。

 EG6も、AWより少し先に進んだところで止まっていた。

 終わった―。

 でも、先に、ゴールライン代わりの大木の横を突っ切ったのは、どっちだ?

 

 

 EG6は走り出す。

 ぼーっとしてよく分からないが、とりあえずそれに続く。

 ああ。

 彼の愛車だったFD3Sでよく見せられた、黄色い背中だ…。

 

         36

 

 前に、黄色が点灯した信号機がある。

 もう赤になるだろう。

 二台は前と後ろに止まり、信号が青になるのを待っていた。

 右の窓を手回しで開けて、前にいるあさひ氏に話しかける。

 

 

 「…あのー」

 

 

 あさひ氏は普段だべっている場所まで行って話をするつもりかもしれないが、僕は急いでいるから、ここで済ませたかった。

 どうしよう。

 ―。

 あさひ氏も窓を開けた。

 

 

 顔をのぞかせて、僕に声を掛ける。

 

 

 「おう…。バトルは、まぁうん…ええと」

 

 「本気じゃなかったんですね…あさひさん」

 

 

 返事は無かった。もうさっさと追い抜いて、アキラ君を送ってしまおう。

 僕は信号を無視して、交差点に出て行く。

 

 

 「おい、俺は走るの辞めるけど…また何でも聞いてくれよ!」

 

 

 あさひさんはバックミラー越しに、皺のある口元を綻ばせた。

 僕は短くクラクションを鳴らして答えると、そのまま走り去った。

 分かっているのだ。勝負にならないから気を遣ってくれたことぐらい。

 僕だって年齢だけは大人なのだから。

 

 人との別れを惜しむのは、相当久し振りな気がする。懐かしい感覚だ。

 …いや、ごく最近に、味わったことがあった。

 アキラ君の父が、昔の友が死んだときに。

 きっと、記憶の上で唯一の友であった彼が死んだのが、悲しかったのだろう。あれは確かに、この感覚と一緒だった。胸の奥の大切なものが、抜け落ちてしまったみたいだ。

 

 

 あぁ、そういえば。

 近頃ようやく気付いたのだが、僕は、アキラ君の父を殺せなかったからアキラ君に殺してもらったのではないのだ。

 多分、殺すのが嫌だった。それで毎回、無意識に躊躇していた…だから、殺さなかったのだ。

 

 

 こんな小学生でも分かるようなことが、わからなかったなんて…。

 ちょっと、おかしくなっているのだろうか。殺し屋やコネクターとして生きてきて。特にコネクターが…。

 あはは。まぁ、良いけど。

 

 

 あさひ氏とEG6は、左にそれて小さな脇道に入っていく…。

 僕は、アクセルを踏んで本道を進んでいく。

 加速して大きくなったエンジン音。

 そして、僕の集中が途切れたのと同時に、心に語りかけてくる兎。

 

 

 「おい、大河。さっきの勝負、お前の勝ちだよ。見てたから。AWは、EGに前を譲るより先にゴールしてた」

 

 「あはは。ありがとう」

 

 

 なんて、本当かどうか判らないことを言うのだ。

 うるさい、うるせぇよ、二人共。

 でも、この兎人形には、愛着があって。

 このAWにはドキドキワクワクさせられっぱなしで。

 

 

 特にAWの方は、コイツがワクワクさせるせいで、あさひ氏という大先輩の引退をあまり悲しめなかったのだ。もうホント、PWSとMRの組み合わせ、ロマン有りすぎ。最っ高。

 

 

 一人と一匹と一台でこの寂れた時代を。

 

 

 「あぁ、これから、楽しくなりそうだ…」

 

 

 心に響く、兎の声。

 耳に轟く、エンジン音。

 あぁ。うるさい、うるさい。

 でも、…うるさいけれど…。

 僕はもう、さびしくないぞ……!

 



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第二十五章 わっしょい!

 ようやくなのだった。

 

 

「…はっ…はっ」

 

 

 やっと。

 ボクは胸の高鳴りを抑えながら、がむしゃらに走る。飛び跳ねたいのを我慢して走る。

 しうちゃん、どこ?

 鳥居の側で待ち合わせをしていたのに、姿が見えない。

 来ていなかったのか…それとも、もう帰ってしまったのか。

 

 

 いや、そんなわけがない。きっといる。

 そうでなければ、何のために、あの乗り心地の悪い車に乗ったのか分からない。

 ここに来た意味が、消えてしまう。

 ―。

 あの車の中で、ボクは悪夢を見ていた。

 

 

 海に落とされ、ぐるぐる回りながらボクを深海へ連れて行こうとする渦潮に囚われてしまう。それから、空に浮かぶ、しうちゃんがボクの目に留まって。

 ボクは彼女に触れようと手を伸ばしたり、必死に泳いで近づこうとするけれど、彼女はどんどん小さくなっていく…。

 

 

 気づけばボクは、今とは違う人生を歩んだことになっていた。

 とても繊細で感じやすい小学生の彼は、ある日、一生に二度出会えるかどうかの心が通じる親友に出会う。そして、その親友は幸羽(しう)ちゃんに似て可愛い女の子なので、恋をしてしまうのだった。

 

 

 ドラマチックなことが次々と起こって完全に運命だと確信してしまった彼は、その性質から心の奥の大切な場所に彼女を置いて、それを育てるようになった。

 それが後にどれほど自分を苦しめるかを知らないで。

 高校生になって自分の想いの途方も無さに気づき、もはや関係のなくなったその子に告白するが、もうどこにも彼女は居ないと分かり、酷い失恋を経験するのだった。

 

 

 それまで何をしていたのかというと、「コネクター症候群」に人生を害されることを嘆き、その果てに発見した境地を味わいつくす事に腐心していた。自分の苦しみには意味があったのだと思えたことより、掛け値なしの本物を見せてくれる未踏の地に魅せられたことが大きかった。

 コネクター症候群を体験していない者は人間として小さすぎる。そうボクは思っていた。そしてそれは全く正しいことだった。

 

 

 中学三年生くらいからボクはとんでもなく大きくなっていて、周りの人間はゴミだった。その上、創作物を絶対の存在にまで昇華してしまったから、もう自分の外の世界を対等に見ることができない。

 そういう見方で小さな世界を見るのが身に染み込むくらい、長いことそういう人間として生きてきたようだった。

 

 

 高校二年生で、ボクは完成させた。産んだ。

 ボクはもう何も要らなかった。

 それが有れば良かった。創作物を愛していた。

 ボクは、自分でもあんなものが造れたのが信じられなかった。

 ただ、相当に疲れていたし、勉強をしていなくて赤点を取ってしまった。

 

 

 それを親に言わねばならなかったり、とにかく、夏休みに入るまでに憔悴しきった。

 それで夏休みではしっかり休もうと思っていたのだが。

 ボクは休むついでに、昔の事を思い出すようになった。

 小学生や中学生時代の事。

 ゲームしたこと、大河さんと遊んだこと。

 

 

 恋をしたこと。

 ボクは、学童保育での色んなことを懐かしんだ。そこには勿論、()()()()も居た。

 その学童保育にいたときのことが、どういうわけか頭を離れない。

 あの子を好きだった時の感情も感覚も、あの頃ほど激しいようには思い出せないが、大まかな型くらいは思い出せた。ボクはそれまでに本当に様々な想いを経験していたので、よく覚えていたな、と少し不気味に感じた。

 

 

 ボクは、その、おかしさに気づいた。

 そして、その子との思い出が劇的なのを何十回か、不思議に思った。だが、今回は今までの回想とは違ったのだ。

 ボクはやっと、気付いた。

 その神の干渉のような何かと、現状の何と有り得てはいけないことなのかに。

 

 

 もう一度、あの子を掠め取られたことを意識すると、ボクは自分の、実の子より愛していられるくらいの創作物の事を、忘れる。愛していた想いも無くなった。

 そして部屋に入り、ベッドに横たわって、泣き始めた。

 「コネクター症候群」があったから、人に見られている感じがあるときの常として、格好良いキャラクターになろうとした。片目に手を当てて、嗚咽を漏らした。気取った。

 

 

 だが、また奪われたことを思い出すと、今まで絶対に砕けなかった「コネクター症候群」の症状が、いとも簡単に失せた。

 次の瞬間から、ボクは赤子のように泣きまくった。手足を動かした、物をぶん殴って投げた。

 ボクの声は心境に合わせて変わるようなことがあったが、このときの鳴き声は女の子みたいだった。

 

 

 小さなふるえている女の子の、心をしていた。尊大さが消え失せていた。

 ボクは、何度も悔しがった。

 

 ボクは、彼女と居るために生まれたのに。

 ただそれだけのために生まれたのに。

 当然のように、奪われていた。奪いやがった。

 他の女のことこそ、どうでも良かった。

 

 

 そうしてボクは、自分が訳の分からないことに時間を使って、彼女が変わっていくのを止められなかったことを後悔する。

周りに恋愛の兆しがなく、彼女に想いを伝えると馬鹿にされるという予感があって、踏み出せなかった事への後悔。気付くのがあまりに遅くなってしまったことへの後悔。

 積み重なっていく恐ろしい煩悩は、酷く漠然とした世界を残して全てを奪った。

 

 

 これから、脳が委縮したのかと思うほどの物凄く貧弱な意識と、生まれ持った性質のうち残った不器用さだけを抱えて社会に出なければならない。

 そこで、その悍ましい運命を与えられた男の夢は醒めた。

 あまりにメッセージ性の強い夢だったから、これは神様からの警告か何かだと思う。

 だが、ボクに一体何を伝えようというのだろう。

 

 

 コネクター症候群に関することは一段落ついたし、因縁のある人との関係も今さらどうにもならない。彼とボクは共通点があるものの、異なる部分も多いのだ。

 想い至ることがあるとしたら、それは幸羽(しう)ちゃんのことだった。登場した少女とも被るし、今ボクの心を埋めているのが彼女だから。

 しうちゃんのことで神に不満をぶつけていたら、その返事として見せられたのが先ほどの夢なのだ。かなり可能性のある説だろう。

 

 

 しうちゃんとの仲をどうにかしろと?

 それは、つまり…。

 そういう事なのか。

 ボクは黄土色で光沢のあるピラルクの、豆のような目を見つめながら唖然とした。

 水槽の緑は照らしつけられて明るく、光の筋が水中に揺らめいている。

 

 

 しかし、底まで薄汚さを際立たせる光の中で、狭いのに気丈に大胆な腰の振りを見せる巨大魚。

 それに対してボクは、水槽に映った自分の容姿の、素晴らしさを見た。自由に動ける大きな、この背丈の子どものために作られたとしか思えない世界を見た。眼鏡なしでもクリアな視界で世界を見た。動くのがただ心地よい小さな体もあった。

 

 

 何より、あまりに豊かすぎる心があった。

 そして、ボクはしうちゃんが好きだった。大好きだった。

 

 

 ボクはしうちゃんを探しに行くことにした。肌の油もこの体はあまり気にならない。

 ピラルクの大きな水槽の隣にも水槽が有り、その中には赤いタイや、金魚のように赤と白が混じった鯉が何匹もいる。金色の鯛もいるようだ。

 ピラルクの水槽と違って、桃色や赤、白が煌びやかに目立っていて鮮やかだ。それはとても美しいが、この付近に彼女は居ない。

 

 

 立木の間にある赤い灯籠が眩しい程に照らしているから、暗がりに隠れているわけでもない。

 やはり、来ていないのだろうか。

 …いや、待て。

 奥はどうだろう。本殿の方には…。

 

 

 もう一度その姿がないことを、水槽を振り返って確かめる。

 それから、本殿の周りにある真っ暗闇に挑む。

 賑わう鳥居から通路までとは違って、本殿の周囲は暗いうえに人があまりいない。輪になって話し込む祭りの関係者や、携帯端末をいじるお兄さんが数か所にいた。だが、 やはり少女の姿はなかった。

 

 

 暗いから見えていないだけかも、と思ってさらに奥へ。

 

 

「よさ! よいさ! ほいさ! ほいさ! よいさ! よいさ!」

 

 

 神輿が出ていたようだ。うるさい声がこちらに近づいてくる。

 ―あ。

 ひょっとして…。

 明るい光の塊のなかへ再び入り、水槽を過ぎて屋台の並びをくぐり、人だかりを分け入る。

 そうするとそこに、いた。

 

 

 ポニーテールだった。最近はこればかり。たまには三つ編みポニーテールも見たいのに。

 

 

「あー。りょうくん。遅いよー、何やってたの?」

 

 

 しうちゃんは肩を叩いたり揉んだりしながら、僕に声を掛けた。

 

 

「今、来たんだよ。神輿について行ってたんだね、しうちゃん」

 

 

 合流したボクたちは、いつものように話し始めた。

 三つ編みポニーテールだったのは、鉄たちに髪を触られ難いからだそうだ。今となっては、あの細い一本の三つ編みを作る必要は無くなった。

 だが、ボクがまた見たいとリクエストすると、考えておくと言ってくれた。

 ボクは嬉しくなって、更に饒舌になっていく。

 

 

 屋台で買ったフランクフルトを食べながら、しうちゃんと二人で歩く。

 

 

 「ボクさ、多分しうちゃんが好きなんだよ」

 

 

 その言葉を聞き得た、しうちゃんを挟んで向かいにいる「たこ焼き」を回すおじさんが、ふっと上目遣いにボクと目を合わせる。互いの視線が当たると、彼はまた下に顔を向けた。

 彼に注目したため逸れた視線を、しうちゃんに戻す。

 彼女は薄笑いの顔だった。

 そのまま、その顔のまま、しうちゃんは口に手を当てる。笑う口元が隠れる。

 

 

 「ちょっ!…いきなり何言って…。 あ、ごめん笑っちゃって…違うのよ馬鹿にしたんじゃなくて、ただちょっと」

 

 

 謝っているのに、まだちょっと笑ってる顔だ。

 ボクは彼女に構わず話をつづけた。

 

 

 「昔、途轍もなく思いを寄せた人がいたんだけど、その人に対する思いは呪いみたいだった。あれが愛だとか恋っていうものだと思っていたから、しうちゃんへの気持ちは、気持ち良すぎるしあそこまで命を脅かさない、恋とは別の感情だと思ってた」

 

 

 「でも…?」

 

 

 「うん。…でも、昔のそれが変な感情で、しうちゃんへの想いが恋なんだなって。そう気付いたんだ」

 

 

 「そうなの…。あの、いつから…いや、いいや。言ってくれて嬉しいよ。本当に嬉しい」

 

 

 しうちゃんはボクの話より、好きだと言われたことに意識が向いていた。

 可愛い。本当にかわいい反応で、愛しくなる。

 

 

 「だから助けてくれたの…。ありがとう、りょうくん」

 

 

 彼女だけが呼ぶ、ボクの名前。それは甘い響きで、もっと聞きたくなってしまう。

でも、さすがにいつまでも違う名前で呼ばれるのは、考え物だ。

 

 

 「りょうくんさ、コイキイロって知ってる?」

 

 「名前だけは聞いたことある。あれってこの地方にしか咲かない花だったよね」

 

 「そう、春にしか咲かない美しい花。私、あの花大好きなの。あの花には言い伝えがあってね、一緒に見た人は…」

 

 

 しうちゃんとボクは、夜が更けるまでずっと話した。

 知らなかった事、聞いたことがある事。しうちゃんのことを少しだけ知れたような気がした。

 一応、ボクの名前はアキラだと伝えておいた。

 「何で早く訂正しないの!」と怒られたが、ボクはただ心地よかったから放っておいただけだ。

 

 

 別に悪気があったわけじゃない。

 そう言うと、怒ったままだったけど、許してくれたようだった。

 気づいたころには、しうちゃんとの時間は終わっていた。

 今度はしっかりと電話番号を聞いておいたから、名残惜しかったけど、耐えられた。

 それどころか、あと数日経てば、またあの子に会える。そう思うと、心臓が幸せで満ちていく気分だった。

 



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第二十六話 歯

 青い瞳。

 金の髪。

 彼女の一番古い記憶だ。それは両親のもの。自分に受け継がれた王者の証。

 

 

 父。彼女の父は少し変な人だった。自分の娘を美しいと言って可愛がっていたのだ。

 かわいいよ、ではなく。

 

 

 いや。

 変だったのは彼女自身だったのだろう。異常だったのは、おかしいのは、彼女なのだ。

 ジュリアはあまりに、美しかった―。

 

 

 「お父さんお父さん」

 

 「なんだい。どうした?」

 

 「あのね、私ね、もう一人でお風呂入りたいの。だってねお父さん。…えっとね、かほちゃんもゆいちゃんも…みんな一人だけで入ってるって。だから私も。ね? ねぇ?」

 

 「…。ごめんね。でも君と一緒にやれることは全部、君を見ながらやりたいんだ。だからこれからも…頼むよ、ね? 何でも買ってあげるから。愛しているよ」

 

 

 君。そう君。

 この父は自分の娘のことを、恋人に用いるかのように、君と呼んだ。

 彼女は自分で体を洗わなかった。父が洗った。

 

 

 あまりの父の溺愛ぶりに、母は嫉妬の念を無意識に起こすようになった。だが、父は止まらない。

 いや、止まれなかった。

 自分では、どうにもできなかったのだ。

 

 

 そんな彼を止めたのは事故だった。母と共に遭った交通事故。それが唯一、彼の物狂いに歯止めをかけた。魂が消滅したことで、彼はもうジュリアを愛せなくなってしまった。

 そしてその後、ジュリアは氷溶園に入った。彼女はそこで、相当に目立ってしまうほど変だった。

 金髪碧眼で純血。日本で生まれ育った。だが親がどの国で生まれたのかは知らない。つまり自分が何人(なにじん)なのか知らないのだ。

 

 

 親が何も言ってくれなかったから。

 両親が何故、日本に居たのか? それも知らない。言ってくれなかったからだ。

 ひょっとしたら親か、他の誰かから教えてもらったかもしれないが、彼女は覚えていなかった。

 

 

 自分の端麗な容姿以外、全てがどうでも良かったのだ。

 氷溶園はそんな彼女を受け入れた。

 だが、彼女はある一人の少年によって、この場所に、「ここ」に移されてしまう―。

 氷溶園から、「ここ」へ―。

 系太の、目の前に。

 

 

 「うそだろ…」

 

 

 系太は思わずそんなことを口走った。

 よく考えれば人は、どれだけ驚くようなことがあっても、つい何かを喋ったりは殆どしない。独り言の多い人間か、周りの人に無意識に語りかける人間が、つい何かを喋ってきた。

 しかし今回。彼は本当に、驚きすぎて声を発してしまった。

 目の前の光景に吃驚させられて、声を発してしまったのだ。

 

 

 そしてその直後、胸に込み上げてくる新鮮な刺激に対する激情に、狂いそうになる。またも思わず、地団駄を踏む。

 熱い、のだろうか?

 彼はうっすらと、考えた。―違うと思った。

 これは、変なのだ。

 

 

 心が混沌としていて、自分でもよく説明できない。なんというか、こそばゆい感覚が強いのだが、なんというか…。

 何とも言えないのだった。

 そんな気持ちにさせた光景を、系太はもう一度、よく見る。

 

 

 天井から垂れ下がるのは鎖。その先端の手錠に通された右手は雪のように白く、吊り下げられた体は、…一糸纏わぬ眩しい肌を、誇示するように見せつけていた。

 胸にある二つの桃色の点までもが、露になっていて…。

 系太は。

 彼は、ここに、彼女の部屋に入って来た目的も忘れて、見入った。

 

 

 ―。

――。

―――。

 

 

 彼は我に返ると、彼女が寝息を()()と立てている内にしなければならないことを済ませるため、彼女に近寄った。

それにしても、彼女がいいタイミングで寝息を立て始めてくれたことと、ドアの鍵を開けてくれていたことは有難い。

 系太はそう思った。

 

 

 もっとも、見回りをする大人が消灯前に入って来るので鍵は開けておかねばならないのだったが。それでもジュリアが鍵を閉めている可能性は十分にあったので、系太は有難がった。

 

 (まさか今日、仕掛けられるとは。理想的な現実が恐ろしい程だ…。一縷の望みにかけて、わざわざ来てよかった。)

 

 

 そう思いながら、彼は手で握った椀に――力を、願いをしっかりと籠めるように入れ、それを愛しい人の口元に近づける。

 この奇跡的な機会をふいにすることがないように、絶対に無為に過ごさないように。

 そう決意して、一息に、その持った椀の中身を彼女の口腔内へ―

 

 

 ん⁉ くっ…。彼女は唐突に起こされた。

 

 

 これは、「ニゲラの種のスープ」。図書室で適当に手に取って読んだ本にこのスープの事が載っていて、彼の目を引いた。

 「ここ」の庭にちょうどニゲラがあったので、系太はこのスープを、神の導きのもとに歩くかのように思いながら作ったのだ。

 

 

 系太は緊張しつつ、むせるジュリアの青の瞳を見て、心を落ち着けようとする。

 きれいな目であった。それはとても澄んでいて、この場所にあるのが勿体なく感じてすらいる系太は、我知らず切なくなってしまう。

 だが。

 目が合う。そして、彼を切なくした青色が鋭く細まる。

 

 

 睨まれた系太は、また心を焦らせた。

 

 

 「えっと…何しとんの?」

 

 

 系太は、そう問いかけた。

 

 

 「何をしているの?」

 

 

 これは系太の問いではない。同じ内容の質問を返されたのである。

 考えてみるまでもなく、確かに系太の方が、鎖によって吊るされている彼女よりも余ほど危ない人物だ。変質者だ。

 何をしているのか。

 

 

 「それは…」

 

 

 決まっている。大切な―。

 

 

 「話をしようと思ってんねん」

 

 「…?」

 

 

 不思議そうにする彼女。全裸の姿を見られても恥じらう様子や怒り出す気配はない。

 

 

 「でもそれより先に、…あの、その、裸になってんのは、どないしたん?」

 

 

 ……。

 

 

 「…これは、暑いから」

 

 「もうかなり寒いと思うんやけど」

 

 「そんなことないよ」

 

 「そうか…。その、吊ってるんは? そこに付いとる手錠と鎖は、見覚えあるんやけどな」

 

 

 頭が真っ白になりそうな中でも、系太はトークだけは出来るのだった。良い取り柄を持っている。

 

 

 「拾ったの。困ることがあった? そうだとしたら、ごめん」

 

 

 …。系太は少し戸惑う。だが、彼女が変わり者なのは分かっていたことだ。すぐに元の調子を取り戻して、言う。

 

 

 「いや、ええんや。そんなことは。それより、あの…な?」

 

 「え?」

 

 

 系太は、生まれてきてから今までで一番、自分の人生で最も、大きな脈動が打たれていると感じた。こんな気持ちになることが有り得るのか、と思った。

 胸に何かが詰まっているようになって…。

 

 

 「ワイは………お前が好きなんや」

 

 

 その状態で、そう言った。

 タイミングも何もあったもんじゃない、告白である。

 ただ、どうにかなりそうな告白寸前の状況に耐えられず、爆発したのだった。

 しかし爆発しても解放されることはなく、「言ってしまった」と思って胸に詰まっていた何かは弾けたが、寧ろ余計に酷い心地になった。

 

 

 系太には全く余地が無い。

 気になるのは、その告白を聞かされたジュリアの、リアクションと返事。

 どうなるのだろう。

 ――。

 

 

 彼女は少し困っているような様子で言った。

 

 

 「…ごめんね。その、君のことは嫌ってはいないけど、他に好きな人がいるから」

 

 

 …。

 ………。

 そりゃそうだ。後半を除けば、もとからこの答えは知っていた。そう系太は思い返し、少し冷静になった。

 (そうだこいつは…。)

 

 

 系太は思い出していた。この少女の事を。

 

 

 「その好きな人っていうのは?」

 

 

 この、女の事を。思い返して笑った。

 

 

 「ん、……そのあの、…ひ、氷溶園に来る前の」

 

 

 しかしそこで。

 

 

 「化けの皮を剥げや。お前のことは、よう知っとるんやで」

 

         37

 

 それは七日前のこと。

 受講中に起きた出来事だ。

 氷溶園から「ここ」に来た面子は、氷溶園における席の並びをもとに座って受講するので、ジュリアと系太は隣同士だった。

 

 

 系太はいつもジュリアの方を見て刺激を得ていたのだが、この日はジュリアの不審な行動が気になったからジュリアを見ていた。

 もちろんその姿が視界の内にあるだけで刺激はあったから、その日ですら段々と刺激を得ることが目的になっていったのだが。それでも、初めのうちは好奇心から彼女を観察していた。

 系太に好奇心を抱かせたジュリアは、そのとき板書を写すためにある筈のノートに、何か授業とは全く関係無いことを一心不乱に書き込んでいたのだった。彼女のことが気になる系太は、ずっとそれを見つめていた。

 

 

 いつになく必死に、そしていつになく楽しそうに何かを書いているジュリア。

 一体何を書いているのかと、これまた必死に見つめる系太。

 いや、真面目に受講しろよ。

 …。

 こんなに不真面目なのは、この二人だけである。

 

 

 もとから「ここ」にいた者たちは、勉強はもちろん、「従事」と呼ばれる無意味で報酬のない肉体労働にも一生懸命に取り組む。氷溶園から来たメンバーも、もとから居た者たちには敵わないにしても、かなり集中して取り組むようになった。

 彼らが本気で「従事」や勉強に励むのは、そうしないと、どんどん待遇が悪くなるからだ。

 「ここ」はただでさえ酷い場所だが、定期テストの出来や「従事」への取り組み方によっては、その者にとって更に劣悪な環境に変わる。

 

 

 それで元氷溶園所属の彼らでも、みんな頑張っているのに。

 この二人ときたら、一言すら先生の話を聴かないのだった。

 もっと真面目にならないと、…知らないよ。

 …。

 まぁでも、もとから居た者たちのようになって欲しくもないが。

 

 

 彼らは「従事」や勉強に、脇目も振らずに取り組んでいる訳では無い。

 休憩は結構とるし、面倒になって適当に済ませてしまうこともある。

 彼らは何というか、欲に動かされる形で行動を起こしたり、「ここ」での義務を果たす以外のことを嫌っていて…。惰性で苦しまずに生きて居たいと思っている。

 そして、「()()()()()()」ことを下らない恥ずべきことだと思っているのだ。

 

 

 新参者は疎まれており、矯正されて自分たちと同じ考えになるまで、口も利いてもらえない。

 系太は何度かもとから居た者たちとの対話を試みたが、無視されるばかりだった。そのくせ、稀に氷溶園から来た新参者で盛り上がっていると、さり気なく邪魔して不快にする。そういう連中なのだ。

 

 

 いつか氷溶園から来た子たちも同じ様になるのか。

 系太やジュリアに奴等のようになって欲しいとは思わない。だが彼ら二人自身のために、もう少しで良いからちゃんと……。

 おっと、大分、話が逸れてしまった。

 何を思い出していたのか…そうだ。

 

 

 系太は、ジュリアの書く(さま)を見ていた。

 ―――。

 ガラーン。カラーン。

 あ、授業が終わった。

 どうやらかなり長いこと横道に逸れていたらしい。

 反省、反省。

 

 

 …ん?

 ガタッ。

 ジュリアが席を立った。そして…何やら急いで走っていった。

 私は知っている。トイレに行ったのだ。

 …。

 

 

 系太は、今がチャンスとばかりに、彼女の机に広げられたノートを手に取ってページをめくった。

 何が書いてあるのだろう?

 と、系太の胸は好奇心で一杯になった。

 そこには、こう書かれていた。

 

 

 「歯と一人で戦う私へ

 これから先にまた歯が取れそうになったときの私へ。今日私は歯がとれた。

 今はとっても苦しいのだろう…。よく分かる。私もそうだった。でもそれは選ばれた私への試練……。他の人間には体験できないのだ。何もせず穢れた歯がとれるのは私だけ。

 とれた後の歯を見てみるといいぞ。かわいい。きれい。

 私の空のひとみ。青の目。

 じゅくしていないバナナの皮のかみに次ぐ、美しさ」

 

 

 バナナの…皮…。

 

 

 「それにしても何本目だろうか。

 とれるとそこから毎回、また歯がでてくる。それがまたいいのだ。

 それはまるで、赤ちゃん」

 

 

 !

 あか…。

 

 

 「ああ、私はなんて美しいんだろう。……」

 

 

 その後もしばらく文が続いている。

 系太は最後のページに、絵のようなものを見つけた。

 (これは…何だろう? 船? いや何か違う。……あ、桜の花びらか! でもそれにしては立体的というか……!)

 

 (歯……)

 

 

 系太はノートを閉じた。

 そしてノートをもとに戻して、ジュリアが帰ってくるのを待った。

 (あいつが、これを…)

 系太は少し笑った後、このことは心に潜めておいて、たまに思い出して楽しむことに決めた。

 

 

 ジュリアちゃんには芸術的なセンスがあるよ。

 でも私と同じで、作るのはあまり人に見せられるものじゃないね。

 

 

 「とれた後の歯を見てみるといいぞ」

 

 

 …。

 

 

 「今はとっても苦しいのだろう」

 

 

 …。

 

 

 

 「赤ちゃん」

 

 

 たまげました。

 とりあえず、そんなものを書いている余裕があるなら勉強に充ててちょうだい。

 



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第二十七話 『ここ』での日々

 それは五日前のこと。

 ジュリアは「ここ」での僅かな休息の時間を庭のベンチに座って過ごした。

 周りに美しい花々が咲いているのに、彼女は上を向いていた。青い空を眺めていたのだ。

 近くの木陰には系太の姿。彼はジュリアの事を多く、密かに見ていた。機会が有れば話しかけることもあったが、主に隠れて彼女の姿を目で捉えたままじっとしていた。

 

 

 比較的、人通りの少ないその場所に、二人の少女が現れる。楽しげに会話を弾ませながら、静かな空気を乱す彼女たち。

 ジュリアも系太も、不快そうに彼女たちへ視線を向けた―。

 その時。

 少女二人はジュリアの座るベンチに、顔を輝かせながら近づいて、しゃがんだ。

 

 

 少女たちの視線の先にあるのはジュリアではなかった。その近くに咲いた、儚そうで綺麗な青の花であった。

 少女たち二人は一輪ずつ摘むと、その場を去っていき、後にはジュリアと系太だけが残される。少女たちの声は遠退いていく。

 再びその場所には静寂が訪れた。

 

 

 …。ジュリアを見つめる、系太。

 その系太の目は、数秒後、驚きで見開かれた。

 ふち、ふち、と。

 ふち、ふち、と。

 

 

 ジュリアが、少女たちの摘んだ青い花の残りについた花弁を、ふち、ふち、ともぎ取っている光景が広がっていたのだった。

 それからジュリアは、その花弁を地面に置き、踏みつけた。

 何度も。何度も。

 しかし真に系太が驚いたのは、それらの行為ではなかった。

 

 

 表情だった。

 いつも感情をあまり表に出さない彼女が、そのとき美麗な顔に刻んでいたのは、自分の親が他の子どもを可愛がったときに抱くような、子供じみた明らかな嫉妬だったのだ。

 彼女の本性を垣間見て、系太は相当驚いた。だがその直後に、何だか嬉しくなって微笑んだ。

 

 

 彼女の人らしい一面を知れたことで嬉しくなったのだ。

 もっとも、人らしい、というには少し独特かもしれないが。

 

 …何にしても、花への暴挙は軽いことではないぞ、ジュリア。

 

         38

 

 それは四日前のこと。

 「従事」の時間に起きた出来事だ。

 系太は穴を掘っていた。

 ショベルに汗を伝わせながら、日差しのもと、まるで工事現場にでもいるような気分で作業する系太。

 

 

 彼は周囲を見回す。ジュリアを捜しているのだ。

 一日前と三日前の事件以来、系太はなるべく彼女から目を離さないようにしていた。彼の知らない彼女の一面をまた見ることができる機会があれば、それを逃したくなかったからだ。

 ―。

 

 

 巡らせた系太の視線が、ジュリアの姿を捉えた。

 彼女は今、池の側で草を抜く「従事」に取り組んでいるようだった。

 「従事」用のエプロンをして、草を一本また一本と抜いていく。

 系太は羨ましいと思った。女は草を抜いたり花を植えたり、多少なりとも意味のある事をさせられるからだ。決して楽そうだからというのが理由ではない。

 

 

 陽光にさんさんと照らされ、まばゆいばかりの彼女の髪を、系太は見つめる。

 見惚れるあまり、ボーッとしてしまう。

 ……。

 ………。

 ―――。

 

 

 いやあの、系太くん、そろそろ掘らないとさ…。

 

 と、その時。

 系太の視線を釘付けにしていた髪が、何かを思いついたように浮き、動き、池に近寄った。

 ジュリアは池に近づくと、水面に映る自分を見つめて、姿勢を正す。

 …。

 そして、回った。

 

 

 系太は目を見張った。

 ―。

 一回転するとジュリアはエプロンの裾の端を両手で摘み、少し上げ、足を伸ばしたまま交差させた。

 系太は全てが停止したのを感じる。

 

 

 …。熟練された美しい動きだった。

 ジュリアはまた草を抜くために持ち場に戻ったが、系太は放心していた。

 おい、掘れ。

 

 

 「……」

 

 

 系太は完全に止まったが、ジュリアは「従事」に没頭している。

 偉いぞ、ジュリア。

 ―――ん?

 いや、これは、違う。草を「抜いて」いるんじゃない。

 結んでいるのだ。コソコソと。

 

 

 つまり、遊んでいるわけだ。この重要な時間を遊びに費やしているのだった。

 ―系太よりヒドいな。

 

 

 彼女は草を結んで輪っかを作った。

 そしてその輪っかを持って、再び池に近づいた。輪っかを頭に乗せ、水面を覗き込む。

 彼女は目を細め、口の端を吊り上げた。とても得意そうな顔である。

 

 

 …。ふ。

 まず輪っかの大きさ。それしゃ腕輪だ。

 それから結びが雑だよ。

 それと……。くっ―。

 ぐはぁっくふっふは、ふは、その、顔を、やめてくれぇ。

 

 

 笑いが、止まらない。…くそ。

 どうやら彼女は、気を抜いているときに感情が顔に出やすい系女子らしい。

 

 せっかくの綺麗な顔が台無しだぞ。

 

       39

 

 二日前。

 それは、氷溶園から来た者たちが、この数か月「ここ」で生活した感想を発表する舞台で起きた。

 感想を発表するといっても、自分が思ったことをそのまま発表できる訳では無い。「ここ」の管理者が見ているのだから「素晴らしかった」等としか言えないのである。

 

 

 系太は無難な内容の発表を済ませた後、席に着いた。

 …。

 ……。

 誰も聞いていない、似たような発表の連続。

 あ、ああ、ああつまらない。

 

 

 発表会だの何だの、こういう集会は本当に詰まらない。

 ただただ長く退屈だ。

 代り映えしなさすぎる。

 ずっと同じような…。

 

 

 とそこで。

 最後の発表者。

 それがあまりに代わり映えしすぎていて、その場の全員が目を見開いた。

 普段、氷溶園組は慣れているから仕方ないとしても、もとから「ここ」にいた奴等にすら、盲目さのせいで注目されなかったジュリア。

 

 

 そんな彼女は、氷溶園での席の位置が原因で、皆の記憶に残りやすい最後に発表することになっていた。

 最後くらい、と、この場にいた者たちが視線を向けた先にいた彼女は、邪魔な障害が殆ど取り払われたその場所で、己の美しさを遺憾なく見せつけていた。

 

 

 「…本日、えー、今日までの『ここ』での生活について感想を、ということで、私がまず言いたいのは…」

 

 

 しかしながら、発表は平凡そのもの。

 今までの発表者と何ら変わったところは無かった。

 目を向けていた聴衆は、耳だけは集中を解く。それから肘をついて髪を触る。

 そのままの状態で時間は過ぎていった。

 

 

 変化が訪れたのは、ジュリアの発表が終わる間際。彼女が何か思いついたように「あ」と呟いたのが、その始まりであった。

 「あ」と言ってから彼女は、少し楽しそうになって、話し方に抑揚をつけだした。

 

 

 「それで、まぁあまり詳しくはないんですけど、すごいなって…」

 

 

 どうしたのだろう、とその場の全員がまた耳を澄ます。

 

 

 「『従事』は、苦痛(くつう)ですけど…」

 

 

 そこで管理者たちが目つきを変えた。

 系太は、やべぇよやめろよ、と思った。

 しかし、続く言葉はこうだった。

 

 

 「普通に楽しいですから、がんばります」

 

 ――。

 

 「これを、一石二鳥と言いますよね。………終わります」

 

 

 一石、二鳥?

 というより、ただの駄洒落。私にも何が言いたいのか…さっぱりだ。

 

 

 「クスッ」

 

 「ふっ」

 

 

 そのとき、系太の耳にそんな音が届いた。

 ―――。

 

 

 彼女はこういった場では、冷静かつ適当に役目を終えることを信条にしてきた。にも拘らずこんなギャグを披露した理由は、それだけ面白いことを思いついたと思ったからだろう。

 実際に、大抵の奴は面白いと思ったし…。

 もっとも、面白いと思われたのはギャグではなく、彼女自身なのだが。

 

 

 感想発表会後。

 

 

 「…なぁおい」

 

 

 系太は話し掛けられた。誰かと思えば、もとから「ここ」にいる者たちの内の一人である。

 向こうから話しかけてくることは、今まで一度もなかった。

 

 

 「あの子さ、どんな子なの?」

 

 

 こいつを皮切りに、氷溶園組と「ここ」の古参たちは、少しずつ打ち解けて話をするようになった。話題がジュリアのことに限られてはいたが、「ここ」史上初となる新参と古参の和解の瞬間であった。

 「ここ」の古参たちは強情だ…。系太のトーク力をもってしても、結局誰とも仲を縮めることは叶わなかった。

 

 

 あの「ここ」の古参たちが、女一人に熱を上げるなんて。

 今となっては、系太と彼らは仲良しだった。それから先、仲良くジュリアへのアプローチを共に考え、試行を重ねた。全く効果はなかったが…。

 系太としてはこういう仲間がいる方が望ましかったので、普通に楽しくやっていた。どこぞの明日創り少年とは違うのである。

 

 

 系太以外の氷溶園組は、ジュリアのことを気にも留めていなかった。彼らの頭と心には、まだ紅坂幸羽がいるのだ。他の女のことはどうでも良かった。

 

 

 ジュリアなら「ここ」でも自分を貫けるのかもしれない……。

 もし出来たなら、それは本当にすごいことだ。



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第二十八章 ミカ

 今。

 そんな最近のことを思い返して、今。

 現在、系太はジュリアと向き合っていた。

 そして、「ここ」の古参たちには申し訳ないと思いながらも、ケリをつけようとしていた。

 彼女の目を見ながら系太は言う。

 

 

 「お前は、『そう』じゃないんやないか? 素を見せろ、素を。ワイが告るまでやったのに、その、流す態度はないやろう」

 

 …。

 

 「…別に、これが素だよ」

 

 「嘘やな。その『別に、これが素だよ』がすでにつくりものっぽい。どないしたんや? 素の自分に自信が無いんか?」

 

 

 ジュリアが目の青を大きくし、白色で青を囲んだ。驚いているのだろうか。

 と思ったら、すぐに大きくした青を細めた。怒っているようだ。

 

 

 「…は?」

 

 

 系太はギクッとした。彼女にキレられるのは初めてだったからだ。

 

 

 「あ、いや。ごめん、違うちがう。えっと…どうしてそう思うの?」

 

 

 ジュリアの取れかかった仮面がまたピッタリ。

 

 

 「やめーや。怒っとってもええから、さっきみたいに素で話せ」

 

 「そんなこと言われても…」

 

 

 ああもう焦れったい。系太はそう切に感じた。

 

 

 (こっちは、ここ数日のネタでお前をいじめたくてウズウズしとんや…。急がせてもらうで。)

 

 

 ――。

 「お前のその…」

 

 

 (ホントはこんなん言いたないんやで………。)

 

 

 「熟れてないバナナのような髪な、キレイやけど眩しいんや。切って短くしてくれんかな?」

 

 

 「………」

 

 

 ジュリアが、今度こそ本気で怒りだす。だがそれは、自慢の髪を切れと言われたからではない。

 

 

 「…見たの? あの…ノート…。見たんでしょ‼」

 

 

 ――。

 

 

 「…ああ。だからお前のことは知っとると言っとる。もう素で話してくれ。素のお前にワイを見せたい」

 

 

 …。ジュリアは怒りながら、呆れた。

 

 

 「あのさ。好きな人がいるって、言ったじゃん。しつこいんだよ。自分の部屋に戻れ」

 

 「…いややな」

 

 「は?」

 

 「いややと言うとる」

 

 

 ……。

 

 

 「何で?」

 

 「そんな奴よりワイの方が魅力があるから。それをお前がわかるまでは戻らん」

 

 

 その発言にジュリアは、ふっと吹き出してから、また喋りだした。

 

 

 「ああーわかった。じゃ、言うよ? 私が好きで、恋しくて愛しいのは、私なの。『私自身』。言いたいこと分かる?」

 

 

 彼女の言ったことは、嘘ではない。彼女は本当に自分のことを愛していて、恋愛感情に近いものを抱いている。

 今まで鏡に映る自分や水面に映る自分を見て、にやついて、それを見てまた目を細め口角を上げてきたのだ。生まれてから今までそれを繰り返して、その度にときめいてきた。

 だから、その辺りの人間の恋よりも、想いは重いぐらいである。

 

 

 系太が闘わなければならぬ相手は、そんな、ジュリアがジュリア自身に抱いてきた想いなのだ――。

 

 

 「そう。つまりあなたは、あなたが好きだと仰る私よりも私が惹かれる人間でないと、いけないということ」

 

 「…解った」

 

 「そう。じゃさようなら」

 

 「……」

 

 「…なんでや」

 

 「…なに? もう出てってよ」

 

 「やからさ、ワイがお前が見てお前自身より魅力的やったらええんやろ? そんぐらい何とかなる言うてんねん」

 

 

 ―――。ジュリアは笑った。

 

 

 「へー。すごいやん。ほんなら見せてくれまへんかねぇ、その魅力的なあなたを。(はよ)う、はよう~」

 

 

 系太はそこまで聞くと、すぐに壁に寄り、ジュリアの「従事」用のエプロンを取った。

 そのエプロンを手早く自分につけ、ジュリアに向かって言う。

 

 

 「じゃ、よう見といてな」

 

 

 ………。一秒の間の後。

 系太は回った。

 止まって、エプロンの裾の端を両手で摘み、少し上げ、足を伸ばしたまま交差させる。

 系太は、勝利の笑みを漏らした。

 ジュリアは、一瞬の真顔を経て、思わず、その真顔を崩した。

 ――――。

 

 

 その動きは、完璧だった。ジュリアはいつも密かに行うこの舞を、いつも隅々まで見ている。今の系太の動きがどれ程に忠実に、鍛え上げられた彼女の舞を再現したものであるかが分かってしまった。それは完璧だったのである。

 

 

 「…何…で」

 

 

 一度見ただけの筈の系太。それをここまで真似できたのには、系太の持って生まれた才能が関係していた。

 彼は関西少年空中相撲・第七回大会において、優勝の経験を持っている。

 数多の強敵たちを負かし、初の大会出場であるにも拘わらず優勝という最高成績を残した。

 

 

 だが果たしてそんなことが実現し得るだろうか。彼は、相撲の練習など殆どしておらず、身体もどちらかというと貧弱なのに。

 そこで彼を優勝させしめたのは、彼の才能。

 二億人に一人と持ちえないだろう、「相手の動きの機微をコピーする力」だ。系太は人がその動きを如何にして成り立たせているか理解して、それを再現する能力が異常に高かった。

 

 

 この才能で彼は大会に優勝したのである。

 彼の師「天地互換流(てんちごかんりゅう)の岡」こと岡本代助(おかもとだいすけ)の指導のもと、相手の力を利用する術をマスターした彼に敵は居なかった。

 何十年もかけて成熟させた岡本の技術を、系太は短期間で完全に受け継いでしまう。力で負けていても技巧(わざ)でそれをカバーし、系太は軽々と優勝したのだ。

 

 

 だがそれがいけなかった。かえってその優勝が彼には悪く働いた。

 彼はもう、体を動かして何かを為すのはバカらしいと思うようになったのだ。

 それだけ、周りが全て雑魚に見えてしまうだけの、才能を持って生まれてしまった。

 その結果、彼は空中相撲…どころか、スポーツそのものから興味を無くしていた。氷溶園で例の明日創り少年と勝負するまで、軽い運動すらしていなかった。

 

 

 可哀想なものだ。それまでは運動が生きがいのような子供だったのに。

 ……。

 そう言えば、例の勝負。系太と明日創り少年との一戦。

 あれは系太のプライドが、体格と力が同等で、そのうえ空中相撲は初めてである相手に対して、師の技術を使うことを躊躇ったため負けたのだ。

 

 

 師の技を使わなくても勝てるはずだったが、勝ったつもりが勝っていなくて不意打ちをされて負けてしまったのである。系太も負けを認めてはいるが、全力ではなかった。

 …慢心していることを突いて不意打ちを成功させたあの少年が、系太に初めて黒星を付けたのだった。

 

 

 さて、そんな訳で系太は、ジュリアの舞を真似することを難しいとすら思わなかった。

 それどころか、こんなことすらも彼はできた。

 

 

 「何でって、できるからよ」

 

 

 系太は少し笑う。

 彼が彼女の素を見たかったのは、この為だった。

 人をちょっと馬鹿にしたような表情を浮かべながら、系太は近づく。

 それから自分にうっとりするときのジュリアの顔を、一日前に偶然見れたその顔を真似しながら系太は言う。

 

 

 「かわいいよ、ジュリア」

 

 

 喋り方までも、似せる。

 ―――。

 それらの系太の「似せた偽の言動」が、あまりに高次元で記憶の中の自分に被って、またそれを、よく自分を知っているものだからジュリアは、不覚にもちょっと、いやかなり、何かが込み上げてきたのを感じて――。

 

 

 しかしそれを無理に抑えるから、悶えてしまい、それを系太に見られて恥ずかしく――。

 

 

 「やめて、その言い方ッ……。その、顔も…」

 

 

 ジュリアは目を瞑って、耳を塞ごうとしたが、耳の方は完全には塞げなかった。

 なぜなら、片方、腕を吊り上げているからだ。彼女は系太の声だけは、自分に似ている彼の喋り方だけは、感じてしまう。

 

 

 「おいおい。見せてくれって言ったのはそっちでしょ……これが、お前より魅力的な私ですよ。どうどう? 気に入った?」

 

 「………………」

 

 「どうしたの? 何か言ってよ、声にしないと伝わらないよ?」

 

 「………うるさい」

 

 

 系太は、そろそろかな? と思って、ジュリアの下についた前の切れ口を見る。

 すると、そのとき。

 ポツ。音がした。

 ニゲラの種のスープが効用を発揮しているのが分かった。このまま押し切ろう、と系太は思い、更に言葉を重ねる――。

 

 

 ニゲラの種のスープの効果は、性的高揚感を飲んだ者に与えることらしい。その小説の記述は胡散臭いので信憑性に欠けるうえに、材料も全て入れられなかったため当てにならない物ではあったのだが。

 それでも、無いよりはマシだった。系太にとって、このスープはお守りだったのだ。

 いくら彼でも、こんなことをするのは恐ろしかった。

 

 

 「………」

 

 

 もっとも今は。

 

 

 「赤ちゃん」

 

 

 最高に楽しいだけだが。

 

              39

 

 そろそろ次にいこう。系太はそう思い、少し穏やかな口調に変えた。

 

 

 「……ジュリア。別にお前をからかいに来たんじゃないんだ。今日は、その…」

 

 「……今更(いまさら)何? …笑えよ。笑ったらいいやんっ‼ もう何なんっ!⁉」

 

 

 …可哀想になって、冷静さを戻した系太は、口調を、感じを、さらにさらに穏やかにする。

 

 

 「お前、今日、誕生日やろ。…愉可先生に教えてもらったんや。…それで、祝いに来たんやで」

 

 「…………」

 

 「知らんかったんか? そのとぼけた顔は……。はは、そうか。まぁええやん、そんなん。祝ったる祝ったる」

 

「………ほんと?」

 

「ああ。本当に今日が誕生日。ええと何やったっけ。ハピ、ハーピバースデー…」

 

 「……」

 

 「トゥーユー、か。…ハッピバッスデートュー…」

 

 「…」

 

 「ユー。ハッピ…」

 

 「……何、ハッピバッスって」

 

 「ん?」

 

 

 おや。

 

 

 「ああ、間違えてもうたな」

 

 「…私のより、あんたの方が…(なん)よハッピってっ‼ そっちのが恥ずかしいじゃ、ん。もぅ本とうに、何よ何それ、くっ……う、うああああああう、うえ、ぐっばかっ、くずっくそがき。う…くっあ、ああああーー」

 

 

 ……。

 

 

 「ああ、そやな。ごめんな。ワイが悪かった、ホントにごめん、ごめんよ…」

 

 「くっそが、許すわけないでしょっ‼ ぐあうっ、くっ、嫌いよ、お前なんか死、しねっ、く…」

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 ジュリアは今まで、誰よりも心細い思いをしていたように思う。

 彼女の父は昔、日本にある三階堂(みかいどう)家の養子になった。それから母国にいた女を嫁にし、その女がジュリアを産んだ。

 その後ジュリアの一家は本家を離れて家を建て、そこに住むようになった。

 

 

 両親の死後ジュリアは一旦、本家に引き取られた。だが彼女が大人にされるがまま身を任せていると、何故かいつの間にか彼女は氷溶園に入っていた。それから系太の巻き添えを食って「ここ」に来て、今に至る。

 彼女にとっては、氷溶園も「ここ」も、もはや昆虫園でしかなかった。彼女自身と比べると、どいつもこいつもミミズみたいにしか見えなかったし、父があまりに美しいと褒めすぎたのもあって、彼女は自分の美しさを信じていたからだ。

 

 

 ミミズどもに囲まれながら生きていて、心が安らいでいた筈がない。その上、父が狂っていたから、彼女はまともに自分のことを知りもせず、ただ自分の美しさだけを見るようになった。

 周りのことはわからず。

 自分のことは知らない。

 

 

 そういう状態で、ここまで、生きてきたのだ。

 

 

 彼女が(いふく)を拒んだのは、ミミズとは違うと思うため。彼女が自分を吊ったのは、天を翔ける鳥に成らんがため。

 だが、もうそんなことをする必要は無い。

 自分に似た者が現れたからだ。自分の真似ができる者が現れたからだ。

 その者はそれでいて温かく、彼女が知らぬ彼女のことも知っていた。

 

 

 だからもう、彼がいるなら、鎖は要らない。

 そう、ジュリアは思った。

 心から安堵しながらそう、思った。

 

 

 「その手錠の鍵、どこにあんねん?」

 

 

 系太は問うた。

 

 

 「その、くっ、つ机、の、上」

 

 

 ジュリアは答えた。

 系太は、部屋に備え付けられた勉強机の上から、手錠を解く鍵を取る。それから椅子の上に立って、手を伸ばす。

 

 

 「もう大丈夫や。…しっかり泣け…」

 

 「…ぐっ。う、ん」

 

 「……よしよし」

 

 「あの、うっ、あいつらね、んっ、気持ち悪いんだよ、ひっ、すごく。めずらしそうにっ、う…見てき…たと、思っった、ら、無視するし。ばかにしてるじゃ、んっぐっうう…。うぁ、ああああ、ぐぇぇぇーー」

 

 「…よしよし」

 

 

 系太は、ジュリアの、濃い黄色に見えた、熟れる前のバナナなんて及びもつかない愛しい髪を撫でる。

 

 

 「大丈夫。泣け、もっと泣け」

 

 

 ジュリアの空のような青い瞳から零れ出す涙は、まるで海の水のように果てなく流れていった。

 

 

 「……うっ、ん」

 

 

 と、そこで。

 手錠が解けた。

 ジュリアは、系太に倒れかかる。

 系太はしっかりと、抱き留めた。

 

 

 「大丈夫。……そうや、おいジュリア。ワイ等、あだ名で呼び合わんか?」

 

 「……ん、いいよ」

 

 「じゃあお前はワイをケイって呼んでくれ。ワイは…、『三階堂ジュリア』か…。うん、ええっと……ミカなんてどうや。ええやろ」

 

 「……いい。なん、でも」

 

 「おお、やった。やさしいなー……ミカ。…あの、前いたとこにおったアイツ、覚えとるか? あの、アキラっちゅう奴や、アイツはワイのことそう呼んでくれんかったからな、やな奴やで、ホンマ」

 

 「………そう。やな奴、なんだ」

 

 「そうやで、やな奴や」

 

 「やな奴」

 

 「そうそう」

 

 

 「ここ」での生活には多くの困難が待っている。だが、この二人は大丈夫だろう。

 ジュリア…。系太…。

 ――――

 ―――――。

 ――――――――。

 人は抱き合うと温かくなれるものだ。

 



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第二十九章 幸せを運ぶ羽

 あの日からの氷溶園での生活は、相当に自由だった。

 授業中にずっと話をしていても、しうちゃんとボクが何か規則違反をしても、誰もそれを咎めない。皆、あのいじめの件で、ボク達に過剰に気を遣っているのだ。

 最高、だった。

 幸せ過ぎた。

 

 

 「どう?」

 

 「ん…普通」

 

 

 今、他の氷溶園の生徒は、神社へ清掃に行っている。

 ボク達は、今日を遊んで過ごすつもりだった。

 場所は、ボクの部屋。彼女をこの部屋に招いたボクは、開口一番に部屋の感想を聞いた。

 

 

 「普通って…えっと…」

 

 「おもしろ()がない」

 

 

 ――。

 

「しうちゃんの部屋だってそうだったじゃん!」

 

 「はは。いや、うん。だって普通は普通でしょ? 他に何とも言いようが無いんだよ」

 

 ひどい奴だ。

 氷溶園のインテリアなど機能重視で選ばれたシンプルな物しかないのに、それを詰まらないと言われてもどうにも出来ない。

 

 

 「まぁ、いいけど…。…さてと何して遊ぶ?」

 

 「何か遊べるものって無いの?」

 

 

 ボクは大きめの旅行用鞄のファスナーを開けて、幾つかの玩具を取り出す。

 この中で幸羽(しう)ちゃんと楽しく遊べるものといったら…。

 

 

 「トランプならあるよ」

 

 ボクは輪ゴムを外して、幸羽(しう)ちゃんの前にトランプの束を差し出す。

 

 

 「いいねー、神経衰弱やろう」

 

 

 幸羽(しう)ちゃんは意外にも地味なゲームを選択した。トランプだと二人だけで遊んで楽しいゲームは少ないから、消去法で選んだのかもしれない。

 ボクはカードの束をシャッフルする。それからカードを裏向きに左上から並べていき、手に持ったカードが無くなると―。

 

 

 「できた」

 

 

 と、幸羽(しう)ちゃんに伝えた。

 それではジャンケンを…。

 

 

 「ちょっと待って!」

 

 

 しかしそこで彼女がストップをかける。

 

 

 「どうしたの」

 

 「ただやるだけじゃ詰まんないから、条件……一回めくって当たりじゃなかったら、デコピン一発くらう、どう?」

 

 「え…」

 

 

 ドクン。

 「いいよ!」

 こちらからお願いしたいぐらいだ。

 

 

 「じゃあ、ジャーンケーン、…ポン」

 負けた。

 「そっちから」

 「うん」

 ……。

 

 

 ……。一枚目はスペードの9。

 はずれろ。

 ―。

 二枚目はダイヤのキング。

 ―外れた。

 

 

 バチーンッ。

 容赦のない一発に、しだいに頭、いや胸のあたりが熱くなる。というか、胸が酔う。

 

 

 「い…たぁ」

 

 「ははっ。痛かった? そりゃ痛くしたからね」

 

 

 だが次は、しうちゃんの番。

 

 

 「あ…」

 

 

 外した。

 幸羽(しう)ちゃんの額に中指と親指を近づける。顔全体が火照って、頬が紅潮するのが分かる。

 バチンッ。

 本気を出し切れなかった。おかしい。

 

 

 「なめてんの?」

 

 「い、いや」

 

 「もう一回」

 

 

 …。

 中指に力を込めて、それを親指で留めておく。

 幸羽(しう)ちゃんは目を瞑って、ボクの中指を待っている。それを意識すると、またボクの心臓は強く刺激を受けた。

 この体勢でいつまでも過ごしたい。このまま時が止まってくれたら良いのに。

 

 

 「はやく…」

 

 

 しかし、幸羽(しう)ちゃんはそれを許してくれなかった。

 ボクは仕方なく、構えた指を解き放った。

 バシーンッ。

 

 

 「痛っッ、…やりすぎでしょ、考えてよ…」

 

 「そんな」

 

 

 幸羽(しう)ちゃんはボクよりも多くのカードを獲得した。

 それは、ボクにカードを揃える気がほとんど無いからだ。気持ち良くて、全然終わらせる気にならないからだ。

 続いていく。

 気持ち良く、神経が衰弱していく。

 

 

 ……。

 ……。

 …………。

 

 

 「ちょっとさ、食堂っていうか、厨房に行かない? お腹減っちゃって」

 

 「うん、わかった」

 

 

 そのやりとりをする頃には、ボクはもうふらふらしていた。

 外に出ると、身体の熱をやけに感じた。頭も熱っぽくて、冷たい風が心地良い。

 もう夕方。神社を訪問中の生徒達が、もうすぐ帰ってきてしまう。

 ……。

 …。

 

 

 「よし、パン三つもらいっ」

 

 

 幸羽(しう)ちゃんが、出入り口の近くにあった食パンを三つ盗ってきた。香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐる。

 

 

 「おぉナイス」

 

 「? 三つとも私のだよ。あげる訳ないじゃん」

 

 

 もうすっかり大飯喰らいに変貌していた。

 

 

 「ケチ」

 

 「いやいや、だって私が取ってきたんだもん。…欲しかったら、自分で取ってくれば良いじゃなーい」

 

 

 それはそうだが。

 

 

 「…うくっ」

 

 

 ボクは、幸羽(しう)ちゃんの食パンを奪いに行った。

 だが、躱される。

 

 

 「無駄っ。…あ、やめて、…ちょっと」

 何度もボクは挑む。

 夕焼け色で一杯の、誰もいない食堂で、激しい闘いはいつまでも終わらなかった。

 というか、終わりにしたくなかった。

 

 

 …ボクは幸羽(しう)ちゃんの様子がおかしいことに、気づかなかった。

 

        40

 

 夜。

 ボクは幸羽(しう)ちゃんと、こっそり自室を抜け出していた。

 目的は一つ、氷溶園の探索だ。この施設には、ボクたち生徒の知らない部屋がたくさんある。それが何の部屋なのかを明らかにするのだ。

 暗い施設の中、幸羽(しう)ちゃんと二人で廊下を進む。

 

 

 足音を極力立てないようにして施設内を探索するが、稀に見回りの持つ懐中電灯が射す光に出くわす。そんな時は、近くの柱に二人で身を潜めるのだ。

 いなくなるまで待つ。

 ……。

 ……。

 

 

 幸羽(しう)ちゃんの呼吸する音。可愛らしい息遣いが聞こえる。

 ……。

 いない。足音すらしない。

 

 

 「行ったみたい」

 

 「そうだね」

 

 

 ボクたちは柱の陰から出て、探索を再開した。

 大河さんの気配を消す技術を貸してほしいものだ。あの人なら、施設内を何周しても見回りに気づかれないだろう。

 それで幸羽(しう)ちゃんの前を歩いて、頼れるところを見せるのだ。

 そしたら、ボクの腕に縋ってくるだろうか。考えただけで悶えそうになる。

 

 

 幸羽(しう)ちゃんが先へすたすたと行って…。その時、何故か不意に幸せだと感じた。

 幸羽(しう)ちゃんと居られるのが、夢みたいだと強く思った。

 

 

 …。

 ああ。

 

 

 「あのさ」

 ボクは言った。

 「ん?」

 

 

 …。

 「その…」

 

 「何?」

 

 「ボク…今すっごく幸せだよ」

 

 

 自分でも、どうして急にこんなことを言ったのか分からない。とにかくすごく満たされていて、口を突いて出たのだ。

 きっと、ボクはこの瞬間をいつまでも覚えているだろう。

 ……。

 

 

 「それは、どう…え?」

 

 

 幸羽(しう)ちゃんがボクを見ていない。

 ボクは、彼女の視線を追った。

 ―彼女が見ていたのは窓の外。そこにあったものは…人のシルエットだった。

 ここは、二階だ…。人が窓に映っているのは、おかしい!

 

 

 ……。

 ………。

 ボク達は恐怖のあまり立ち尽くした。

 

 

―――。

 

 「うわぁぁぁぁ‼」

 

 

 叫びながら逃げ出したのは、幸羽(しう)ちゃんだった。

 その叫び声を聞いて我に返ったボクは、便乗することにした。

 

 

 「うわぁー」

 

 

 ボクは叫んで逃げる最中に、ずっと幸羽(しう)ちゃんの揺れる髪を眺めていた。たまに見える横顔が、恐怖に歪んでいる。

 本気で怖がっている彼女を見たのは、初めてだろう。貴重なものを拝むことができた。

 幸羽(しう)ちゃんはそのまま自分の部屋まで逃げた。幸羽(しう)ちゃんの部屋は、ボクと大して変わらないシンプルな装飾が施されていた。

 

 

 そのことを指摘しても、幸羽(しう)ちゃんは何も反応してくれない。どうやら恐怖でそれどころではないらしい。

 ボクは彼女をなだめようと声を掛ける。

 

 

 「大丈夫だよ」

 

 「多分、木だよ。木が映っただけ…ね?」

 

 

 そしてその勢いで、心拍数を上げながら…。

 

 

 「ボクが守るから」

 

 

 なんて。

 

 

 立花に立ち向かってから、幸羽(しう)ちゃんに格好つけやすくなった。

 あそこで逃げていたらボクは、堂々と幸羽(しう)ちゃんに守るなんて言えなかっただろう。

 

 

 本当に、良かっ…。

 

 

 「……痛い…。痛いっ! ああ痛い痛い、いたい…」

 

 

 そのとき。

 幸羽ちゃんが悲鳴を上げた。

 それは、今までのように恐怖から声を上げたのではない。彼女は「痛い」と言った。つまり、体の何処かが痛むのだ。

 彼女の容態を確認するべく、ボクは近寄って声を掛けた。

 

 

 だが、もう彼女に意識はなかった。気を失う程の痛みだったのか、それとも重大な怪我もしくは病気が意識を奪ったのか、それは分からないが、とにかく大人を呼ばなければ…。

 

 

 「…ん」

 だが、彼女に起こった異変が、走りだそうとしたボクの足を止める。

 彼女の背中から白い液体が、噴水のように溢れ出したのだ。

 それはしばらく放出された後、ボクの視界を奪ったまま止まった。液体の筈なのに静止している。

 

 

 何かがまだ、牡丹雪のような形でゆっくりと落下していく。

 ゆらゆら。ふらふら。

 ボクの頭上を舞う一粒の雪は、手のひらに舞い降りた。手のひらを見れば、そこにあるのは羽根だった。

 

 

 「…しうちゃん」

 

 

 服は破れていた。そこから一点の曇りもない美しい羽が生えている。

 背中から飛び出した羽を見つめて、ボクは思った。

 

 

「だから、あんなに肩こりなの?」

 

 

 そりゃそうだ。重そうだもん。

 

 

 「……」

 

 

 あまりに美しくて、ボクはその羽根に触れてしまう。

 するとボクの中に、何かが流れてくる。

 それは記憶。彼女も今まで忘れていた昔の記憶。

 幸羽(しう)ちゃんの、天使の頃の記憶だった。

 これが、幸羽(しう)ちゃん。彼女は天使。

 

 

 記憶…!

 



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第三十章 背後霊な妹

 「お兄さま、大好き」

  

 「ボクもだよ、ティンパシア」

 

 

 彼等は、ティンパシアとディレンチス。

 二人は双翼がともに真っ白の天使だ。

 

 

 「私、お兄さまと結ばれたいわ。大好きだもの。お兄さま、お兄さま」

 

 「……」

 

 

 二人は兄妹だった。

 

 

 「だめだよ。そんなことを言っては。…もう言ってはいけない。ボク達は兄妹なんだから」

 

 

 二人は愛し合っていた。

 兄のディレンチスはそのことをまるで表に出さなかったが、妹は違う。

 妹は間抜けであった。

 

 

 「兄さま、お兄さまっ…」

 

 

 天使は血の繋がりがある者同士での恋愛を許されていなかった。

 この妹はそれなのに、ディレンチスに恋をし、愛し、それを隠さなかった。そのせいで神に裁かれるとも知らずに。

 

 

 「地へ…」

 

 

 神はそう言うのだった。

 その意味をディレンチスは理解したが、ティンパシアには解らなかった。

 

 

 「あぁ…ティンパシア。悲しい、悲しいけれどもう、仕方ない。お前が控えなかったのが悪いのだぞ…。許せ…」

 

 

 そう言って、兄は妹を地に堕とした。

 

 

 「すぐに…、お前の羽が戻ったその時、すぐに迎えに行くから」

 ―。

 「絶対に」

 

 

 ティンパシアは口の動きだけで、「わかった」と言った。

 

 

 「さようなら…さようなら。私の大好きなお兄さま…」

 

 

 そして彼女は、「紅坂幸羽」として転生した。

 

        41

 

 少年。

 今、彼は神社にいた。よく清掃に来ていた神社だ。

 木々に囲まれた石段や石畳は寄り添い合い、往来を振起して耐え続けてきた。順に、石段、砂礫の中ほどを貫く石畳が、来訪者を迎える。

 石畳の周囲には石灯篭が左右に三つずつ。それを過ぎると、大木と丸い低木に遮られ進めなくなる。

 

 

 顔を上げると、陽光を染み込ませた雲がどこまでも淡い光を発していて、寂寥感を覚えた。

 ……。

 

 

 「つまらない」

 

 

 私はそう吐息交じりに呟いて、本殿に視線を落とした。

 彼は何をしているのか。

 褐色の木造建築の内部には仰々しい日本画が数枚…。しかしそれだけで、やはり目を引くものは何も無い。

 あそこに何の用があるというのだ。

 

 

 建物の下を見ても、暗がりには鼠を捕る猫すらいない。

 ああ、何と詰まらないのだろう。

 ……。

 知り尽くしてもいないのに物事を語る若年無知の輩を思い起こし、敷地内を見直す。

 すると先ほどは見逃した手水舎が鳥居の横に、面白いのは屋根のない代わりに木がそこを覆い、存在を隠すように包み込んでいるのだった。だが関係無い。

 

 

 「つまらない」

 

 

 全てがそうだった。一つ残らず。

 もう少し何か…ないか。

 何か…あ‼

 ……。

 …あった。忘れていた。

 

 

 それは茂みの中。あぁ、鳥のように羽の生えたこれは、髪の長いこれは女?

 女?

 少年がここに連れ込んで、そのままこの場、この草木の群生に打ち遣ったこのこの、この女は人間? それともバード?

 あははは。はははは。

 

 

 父上、母上、あなた方の愛嬢はどうやら人ではなかったようですよ。

 (まこと)を知らずに死して良かったではないですか。このような…。

 

 

幸羽をそこまで言うのは、不遇で若くして幽霊となった、幸羽の妹。「針」であった。

 

          42

 

 白光がギラギラと疾駆する刀を携えて、現れたのは例の少年だ。

 世界が次の行動をとる前に、私は彼のもとに辿り着く。

 「何? それは…雷切? 村正? それともまだ見ぬ新作の…?」などと期待。

 だが、その期待は裏切られた。

 彼が手にしているのは、匂切れもかけ出しも切り込みも、何とまぁ、ふくら破れまで揃ったクソ刀なのだった。…こんなものが名刀である訳がない。

 

 

 本殿に入るまでの彼は、グロテスクなまでの紅と底の知れない黒や紫ではあっても、快晴だった。危険の種は存在しても非力で何もできないから、可愛らしくもあった。

 だが外に出てきた彼は、途端に濃密雲を当然のように引き連れた。彼が刀を扱う術を持たないことは確実と言っても良かったのに、突然、雷も豪雨も嵐でさえも操れそうだった。不機嫌という領域を超えていて、彼からは殺気以上の何かを感じる。

 

 

 それは、超人の悪夢を現実にしてしまうだとか、狂った趣向を持つ者たちによる裏の芸術を眼前に突き付けるだとかいう、最悪な何らかの気配を感じさせるのだ。まさに、殺してくれと懇願することになる何かなのである。

 少し前から不機嫌だと察していたが、次第に陽すら射さなくなっていった。始まりは間違いなく、あの女が翼を見せたあのときだ。あれから彼の様子がおかしくなった。

 

 

 人という生き物は、あの形ではいけない。

 幽霊と化して空間を、それどころか時間すらも自由にできる存在となって知ったことだ。

 達成したが何も起こらなかったときの、ひょうきんさが無意味になってしまう。あの羽にはその美徳を打ち消すはたらきがある。すでに美しすぎるのだ。

 

 

 上空には、鷲の姿に似た鳥が丁度飛んでいた。タイミングが良すぎたので、あれも天使みたく今度は人の体を生やせるのかもしれなかった。

興味はある。だが、それはすぐに通り過ぎていった。ならば今は構っていられない。

 私はあの鳥を確認する前からアキラとは違う何かの存在感を気取っていた。明らかに人間ではない何か。

 

 

 何かが、来る!

 

 

 ―。

 トンッ。

 静かな着地だった。人の体を持っていたら、こうはいかない。

 見ると、それは先ほどの鳥だった。身動(みじろ)ぎもしない様子から死んでいるようだ。これは気配の正体ではないだろう。

 どこだ?

 

 

 私は空を見上げた。

 すると鷲より一回り大きな生物が、遥か上空で雲に影を落としているのを見つけた。

 間違いない。こいつだ。

 その生物は急降下。あまりの勢いに、それを中心に雲が塗り固められる。折り畳んだ巨大な翼だけをこちらに見せつけて、その姿はまさに蟻塚だった。

 

 

 雲だったものは翼に指示されたように渦巻く。彼を囲み、雲海から零れ落ちる雫となって膨らんだ。

 大きな大きな一滴は中空で弾けた。その核たる翼が、水平線と並行に並んだのだ。

 その物体は殆ど一瞬で着陸した。残された雫は煙のように散ってしまった。

 そこには水彩画を思わせる風景だけを残して、初めから何事もなかったように静まりかえった。

 

 



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第三十一章 良の日記①

とても膨大な情報を入れる必要があったので、羅列するような書き方になっています。アンチ・ヘイト要素も含まれるため、コネクター症候群に関することに興味のない人はしばらく後の章から読んだほうが良いかもしれません。少しでも興味がある方は、疲れない程度に覗いてもらえると嬉しいです!


 「ティンパシアを知らない?」

 

 「誰だよ」

 

 

 アキラは答えていた。怒っていた。

 手に持った刀で斬りかかる。だが只の鈍器と化したそれは殺傷能力がほぼ皆無であったし、何よりそこにいる生き物は人間には殺せない。

 髪の毛一本も揺らすことなく天使は受け止めた。

 俗に言う科学的な存在には干渉さえ許されていない。私は知っていた。

 

 

 そして、アキラが危険な状態であり、殺されそうになっていることも。

 だから私は自らの禁を破ることにした。

 入っていく。

 彼の中に…。

 ―。

 

 

 アキラの心と記憶。

 いや、今はそれよりも内側から指示を出して彼を救わなくては。心と記憶をさっさと見て、早く彼を。

 …! …‼

 

 

 マーヴェラス…!

 これは………。

 私は貪った。彼の危機など忘れ去って。

 …ふぅ…ふぅ。…はぁ。

 …。これが彼…その系譜…。

 

 

 それは人ではなかった。

 彼がコネクター症候群で最も苦しめられ、最も歪められ、最も初めから存在した駄ネタ。ぶっぱ。創作。狂気。苦悶…。解脱。

 私が霊となり、過去の優れた人間も未来の究極の叡智も知り果て、どれだけ酔ったことよりも、本物の切なさを持つはるかに孤高の、最高の、枠外の遼遠に足を垂らして座る少年のこと。

 

 

 私は彼が自害しようとしたとき、それを止めた。そのときから彼をただ見つめている。別にこれといった目的があった訳でもない。

 ただ、私が少女だった頃に電車とバスに乗ってふらふらと立ち寄った町の、絶望の果てに自害をした同じマンションの屋上に彼がいたから。そこで同じように自害を試みるのが彼だったから。

 

 

 人の心を見るのにも飽きてしまったから、ただ見守ろうと思っただけだった。

 私はその彼に、こんなにも莫大な魂が眠っているとは知らなかった。

 これは運命だ。

 

 

 彼はコネクター症候群になって初めて思い知った、「()ネタ」の恐ろしさ、その重さと就寝時間以外のいつからでも刺されるという現実を。寝る以外のすべてに付き纏うのだ。

 駄ネタというのはそもそも、クラスメイトや先生や親戚を、コネクターであるという意識の下で、全世界の人間が見て感じて聞いている状況で、その品格を下げるような想像をしてしまうことに端を発する。

 

 

 これは、他のどんな人間がコネクターをしても、通る道だ。駄ネタ。

 時が経つにつれ、彼の中で形が変わって行きはしたが、それでも常に有ったものだ。これを、脳をオーバーヒートさせながら消したり手を加えるのが「駄ネタ処理」だ。駄ネタを鼻につかないものに変えるための、逃れられないプロセスである。

 行事を貶す駄ネタなどは初心からあったため、どんな人格の人間も始めることになる。

 

 

 周りの何とも言えない空気のために、完璧な駄ネタ処理を要求されているという実感が脳を満たし、死に物狂いで処理させられるから逆に意識してしまう。雨のように降り注いでくる一粒が、信じられない程に重くて痛い駄ネタを処理するのだ。

 それはコネクター症候群の天才である彼では信じられないほど長く、独占して苦しめた。

 もちろん他の事も始まろうと燻りだしてはいたが。

 

 

 恥ずかしさや人への侮辱が弱い人間、そもそも駄ネタがあまり出ない人間はセンスが無いだけなのだ。駄ネタ処理が上手いというより、論外だった。

 何かを馬鹿にする類の駄ネタは多いが、そのどれにも引っ掛からないならば、この先には全く繋がらない。

 

 

 彼の学校は相当のエリート養成場だったので、狂ったように勉強をしなければならない。そして、長いテスト時間と難しい試験問題とも同時に闘わなければならなかった。あの沈黙と呟きと咳払いに、たまらない、駄ネタを出せば何の誤魔化しもなく叩き、体を動かす音や無言の文句まで飛んでくる空間に、何度も何時間も居座ることになるのだ。

 ずっと、難問と重たい駄ネタと闘わされた。

 

 

 彼の駄ネタの重さから言えば、短い休み時間と長い闘い、チャイムをゴングとしたボクシングとも考えられた。虚ろになって、処理しきれない駄ネタや頭の熱さに押され、テストが終わると毎回、恥ずかしさやら情けなさや不条理に耐えかねる想い、申し訳なさでくらくらしながら静かな所に逃げるのだ。

 そしてそこでも、頭の中でべちゃくちゃ言われながらクールダウンを少しずつ…。

 

 

 テストでなくても同じだった。音楽の授業でも歌うという事、ただ曲があるだけで駄ネタになるのに、歌わされることで駄ネタは本当に手が付けられなくなるのだった。

 駄ネタには大きく分けて二種類がある。音の駄ネタと映像の駄ネタである。厄介なのはどちらかと言えば映像の方だが、初心の内にしんどい思いをしているだけで、ある程度の者は音と同じ位しか警戒しない。

 

 

ちなみに、そのぐらいになった彼は、味覚や嗅覚でも駄ネタを出した。たまに触覚でも駄ネタを出した。

 彼はアニメやゲームが大好きな何処にでもいる少年のようだったが、感受性というか「心の感度」みたいなものが高い人なのだ。だからこそ、駄ネタと深く絡み合ってしまったのかもしれない。

 

 

 その感受性のようなものは、まるで前世で様々な壮絶さを味わっている最中で死に、物寂しいところで誰かを強く求めて浸っている風だった。しかし、私が見たところ彼に前世は無いようだ。

 感受性や感度すら超えた何か…。それを携え、前世の凄まじく切ない思い出を懐かしむような人生なのである。

 

 

 アキラには幼稚園時代から大好きな「ゲーム実況者」が居た。彼を尊敬するあまり、彼が実況したゲームに命がけでプレイしていた。ゲームの中で使い魔を育てるのだが、ただのデータでは済まないほど使い魔を愛するのだった。自分と一緒に成長した掛け替えのないものなのだ。全く同じ使い魔を見せられても変わらず愛せる程に強く想っていた。

 子供らしく、学校でそのゲームに詳しい生徒が居れば、自分を情けなく思うこともあった。

 

 

 睡眠不足で朝、奇跡のような心境で思いついた一番のお気に入りを、頭の中でボロクソに叩かれたこともある。

 学校などで外にいる人間は嫌いだった。唐突に息をヒッと吸い、「うわっ(コネクターがいる、駄ネタ出してる)」とでも言いたげな女子は殺したくなった。彼と比べれば知的生命体ですらない奴等のためにヘリ下り、うんざりされるのは可哀想だった。

 

 

 アキラくんは変に目立ち、横で寝ている人もいるのに、とても詰まらない授業でウトウトしたことを指摘される。それもまだ二回目なのに「いつも寝ているね」と先生から言われた。

 横で寝ている人は、それこそ常に寝ているのに。

 

 

 頭の中がうるさくて黙らないし、盛り上がっているので、何か音声(映像があると尚良し)をかけていないと家で勉強などとても出来ない。

 コネクターに新しい世界観をもらえたとアキラ君に示してくる輩が居ることがあるが、彼は宝物をとっても気軽に共有されたときの感覚に陥ったし、何よりだからと言って与えてやった世界観を重視しないなら、コネクターの辛さなど分かっていないと宣言するようなものだ。

 

 

 それが彼に、「あぁ、まだ、ずっとこれが続いていくのか…」と実感させるのだった。

 彼にとっては彼らの世界で生きてきたことが、黒歴史でしかない。そしてこれからも共に生きていかなければならない事実に足を引きずり、いやいや生きていた。「あぁ、やめて、そんなどうでも良いことで争わないで。くだらねぇって思ったら、また傷つけちゃうー」と口に出してしまいそうだった。

 

 

 共感したように「誰でもそのくらいは感じたことはあるんだよ。そのうえで~」と諭そうとしてくるが、何を知っているというのだ。そんな凡庸な人生を送っていて。

 彼は何かしら目立つため、何かをやらかすと静かな湖に波紋が一気に広がるように非難の空気に包まれた。さらに、馴染めていないから辛い目に遭うのだ。

 



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第三十二章 良の日記②

 大して好きでもないのに、そのゲームの知識を「軽く」ひけらかし、とても不愉快であった。

 そして絶妙に相談しづらい父と、全く知識のない母のせいでオンラインでそれを遊ぶことができなかった。これにより大してそのゲームが好きでもない奴等の前で、とても肩身の狭い思いをするのだった。

 

 

 それでも彼は美しい思い出をいくつも作る。愛する使い魔の一体にオフラインでしか楽しめないことを慰められながら寝た日もあった。

 

 

 コネクターにはプライドも何も持てたものではない。

 言葉を尽くしても駄目だし、何より感情を見せつけても駄目だった。

 押さえ付けたが出してしまった駄ネタを何度も脳内で再生され、攻められているように感じてしまう。

 劣等感を強く意識して「わかってますって」と自覚を持っていないと、お前ごときが、と聞こえてくる。

 

 

 「明日創 良」をボトムの指標にされる。

 痛いのは恐いが、耳や目は本気で無い方がいい状態だった。かといってそれらを除く痛みを考えると切り取りたくはなかった。

 

 

 ポジティブになると「あの張り切りマンうざーい」という方に彼らは進む。

 

 

 精一杯にやって、コネクター症候群のために疲れてちょっと下手を打つと、ピラニアのように普段の恨みだとか何とかで不満を露にされ、現実でそう示された。

 彼は気を遣いすぎるくらいだが、周りはストレスのはけ口にしてくる。

 漫画一冊買って帰るだけでも、問題が発生してそれがつながって、最高に不機嫌な状態で帰り着く。

 

 

 そもそもこういった文句を思い浮かべるだけで、現実でも心の中でも、何か言われ、もっと言いたいことがあるという空気を作られる。

 

 

 人を好きになると晒しものにしてしまうから嫌なのではなく、人を嫌いになれないのが辛すぎた。彼らは全員がそんなに立派なのか。

 彼の創った夢の国に無断で入国し、荒らす。一生やるつもりなのか…とうんざりさせた。

 彼らは彼に、自分が幸せだと彼らは不幸せになったり負の想いで満ちるようになっているのか、と思わせた。

 

 

 心の底からの誠意ある行動を、主に謝罪などで要求される。

 こんな年頃なのに、にわかだから感動していけないと伝えられた。

 人との付き合いを一生懸命にやっても無駄だった。彼は友達をただでさえ作りにくいのに、コネクター症候群がそれを更に加速させるため、結局は実質一人。

 

 

 彼らと一緒にいて均されそうなことが怖かったが、あるていど人として高くなってからは気にしなくなっていった。

 人間は意外と不安定にならざるを得ないのに、完璧を求められる。その期待に応えられないと、すぐにアホに叩かれた。

 この世界に味方が居ない、どころではなくて、この世界に敵しかいないのだった。

 

 

 音の駄ネタは面白くて、口では「大橋(おおはし)」と「石島(いしじま)」は大橋の方が言いやすいが、頭の中では石島の方が出やすい。それらの微妙な性質も駄ネタ処理に生かしていくのである。

 勉強に熱心な学校なのに、あそこは体育の運動量が多くて、駄ネタ処理で精一杯な中で声まで出されて、限界を超えてしまうのだった。そういうことを考慮さえしてくれない。

 

 

 心の中を変なテンションにして駄ネタ処理に生かすことは多いが、そもそもそのテンションが故に毛嫌いされる。

 

 

 常に息を止めているようでもあった。

 心を王にしているから、今まで私の見たどんな王より王たり得た。そもそも、今までの王様は、コネクターになっても上手いこと王としては居られない。

 

 

 コネクトがあるため、叩かれるので不幸な自分に浸れない。

 本気で不愉快になると、アキラ君は膀胱のあたりがムズムズしてくる。

 目の行き場に本当に困る。耳も困る。

 自分を校庭で傷つけられる大木に似ていると思った。

 とても高いレベルの悪い所取りで、もはや彼を痛めつける芸術だった。

 

 

 おとぎの国に行くか、時間を止めるか、飛べるなどの能力を手に入れなければ、明らかに潰れてしまうことだった。

 

 

 と、ここまで思い返しても…結局、彼の事は表しきれない。私が興味深いと思ったこと全ては覚えきれない。誰かに説明しようとしても言葉では表せないし、表せても言い尽くせない。見なければ駄目なのだ。皮肉なことだが、心を見なければ彼の凄まじさは全く味わえない。

 

 

 だが、これだけは印象的過ぎて、どうあっても忘れられないだろう。

 彼は自分に寝ている時いがいの全てで襲ってくる心の声たち(叩き、嘲りなど)に、完全に子供のイジメであるそれに対抗する手段として、「ネタ撃ちぶっぱ」を生み出す。

 

 

 これは、コネクター症候群の人間が共感し感動する意味の歌詞と物語性を一部でも持つ曲を、主に聴きながら「コネクターであること」「そのときコネクターだったこと」を嘆くという行為から始まった。

 略称でアキラ君は「ぶっぱ」と呼んでいた。

 ぶっぱが成功した時の心や精神や想いみたいなものが、誰でもは生み出せない、()()()()()()()()()()()()()()()()が無ければ出現しないのだと確信できた。

 

 

 というか、コネクターとして中を全て見られているという意識が要るだけかもしれなかった。とにかく、コネクター症候群でなければ出来ないのだ。彼は駄ネタ処理に専念せざるを得ない時期が長かったし、駄ネタのセンスがあって途轍もなく一つ一つが重かったので、そのフラストレーションのごりごりなイメージみたいなものが半端でなく、初期の「ぶっぱ」が本当に凄まじかった。

 

 

 ネタ撃ちぶっぱは、とんでもない。その凄まじさといい、一撃必殺のエネルギーといい、感情だとも想いだとも言い切れないが、とんでもないものだった。

 

 

 「ぶっぱ」と「駄ネタ処理」は対極に位置する。だが、「ぶっぱ」をしている時も駄ネタ処理と無関係になることはできず、集中して素晴らしいのが撃てているときは確かに必要なくなる時もあるけれど、やっぱり必要だ。起きていれば常に必要なのだ。

 

 

 ぶっぱを見出して少し経ったころから、彼の愛する使い魔たちや件のゲーム実況者をネタ撃ちぶっぱのネタにして、恋情や愛情みたいな感情を用いるようにもなっていく。

 

 

 全盛期が終わると「ぶっぱ」は止めたかったが、止めたくても止められなかった。

 アキラは、今まで以上に心の中の人たちにもリアルの人たちにも、まるで部下が上司にするように諂い始めた。自分がとんでもないことを何度も成し遂げたという実感があったから、後はもうコネクター症候群が治るか自分が慣れきって強くなるまで守りに時間を使おうと決意したのだ。ぶっぱの時間も減った。

 

 

 いざ時間ができると、色々な事を考えた。詰まらない人間ばかりだとしか思えなくなると、自分が恐らく今までで一番好きになった人間であるゲーム実況者のことが、忘れられなくなった。アキラはネットに強くなくて親に相談もできなかったので、親が整えていた以上のことは雲の上の世界でのことだった。だから実況者が活動の場を変えてからは、あまり熱心には見ていなかった。

 

 

 だがアキラは彼との昔の思い出がいかにドラマチックで、自分が本当の、コネクター症候群に影響を受けていない心でつけた記録かを、このさき人を心の底から愛せないことと詰まらない人間ばかりになったことから、意識した。

 実況者とは、あるゲームのサイトで、毎日会ってチャットする仲だった。決まった時間に会ってくれたし、彼にとって一番のリスナーは自分だと思えた。だが彼は他の人ともしっかり関わっていたので、意気投合できた親友ではあっても、彼の魅力ならば取られてしまいそうだった。

 

 

 アキラは焦ってしまい、特別な関係を終わらせてしまうのだった。嫌われてしまったようだった。

 そこまでの一セットの宝物となった記憶を何度も思い出し、色んなことを考えた。

 彼の住所は晒されていて、近所に住んでいることが分かっていたし、だからこそ親近感が最高に湧いていた。

 

 

 そう言う人だったからだろう、その人はアキラの心の底の底と、いつの間にか一体となっていた。

 幼稚園児の頃にチャットをしていたことも、小学生になって彼を動画や生放送でただ見ているだけになってからのことも、よく考えれば何より大切な宝だった。

 彼と街中で出会って話が出来ないものかと、外にいるときは常に思っていた。彼の顔も割れていた。コネクターだったし、会いたがっているのも知ってくれていると思っていたが、全然会えなかったものだ。

 

 

 どれだけアキラ君が苦しんでも彼は会ってはくれなかった。本気で彼を求めているからこそ素直な心ができない彼は、追い打ちをかけるようにコネクター症候群などで誇りも非常に高い自信も持っていたから、どうしても相手を素直に好きだという状態を作れなかった。それでもある程度は心をできるだけ少年のように無垢にして求めていた。彼はいつも仲を見ていて、少なくとも見ているようにしたまま放置して、アキラ君を焦らせた。確かに焦らせた。

 

 

 コネクトは存在するのなら、考察すればするほど彼に勝手についた能力とは思えなかったし、間違いなく彼らが身勝手に課したことだった。その為に彼のことがここまで忘れられないのに、対価として友達になってくれないのも会ってくれないのも、明らかにおかしいと思った。アキラは彼に絶望して、信じられない小人だと感じた。だがそれでも、彼に一緒に居て欲しかったから、出来る限り無垢に求めた。

 

 

 世の他の人間は、重要な改革にそれが生かせる分野の専門家でも、必要なコネクターの心や人生を、考察しながら見たりしない。彼はすでにとんでもない存在だったのに、上手いことまともに捉えずに見下している。

 

 

 彼はリビングのドアのうち、多少遠回りでもスライドするタイプのドアを使う。その方が刺激が少ないからだ。ノブを前後に押し引きするタイプを嫌った。

 

 

 アキラは、コネクター症候群で興味深いことを幾つか書き留めていた。そうせずには居られなかった。溢れていくのだった。

 

 

 アキラの母親は病的にものを知らず、知らないことについては明確なインサルトも普通の態度だったかのように応対した。はっきり言ってアホなだけの人間だったのだ。

 父親はさらに酷く、どうにも説明できない気持ち悪い、本当に気持ち悪い人間で低俗な奴であった。そのせいで家に居るとき、コネクター症候群が原因で生まれた歪みごときで、それも抑えたのに揉めて居心地が悪いようになった。

 

 

 彼等だけではなく、街には色んなブルートが居た。

 

 

 アキラに同情してか尊く思ってか、目つきだったり話し方や動作で優しくしてくれる女の子には、駄ネタにもせず好きになることでお礼として恋情をあげたいが、流石にそう簡単にはいかなかった。

 

 

 先生にコネクトだか仕事だかで溜めたストレスの発散で怒られても、心の中では半笑いだった。怒られて辛いと感じられたころを懐かしんだ。

 

 

 今までアキラ君が成したことは、自分たちが支えてやったからだと頭の中身が無さそうな発言をされたように感じたこともあった。

 



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第三十三章 良の日記③

 実況者の活動を全て見た。その人は大人気になっていた。駄ネタ処理とぶっぱの最中に、彼の喋り方や物腰、間の取り方は天性のものでは無いと察した。何かが、丁度コネクター症候群のような何かがあって形作られたのではないかと思えた。

 自分が愛した実況者がなかなかの人物だったようで嬉しかった反面、それ以外の部分がもはや下らない弱い人間のそれになってしまったことに関しては、「一体どういうことだ」と怒り悲しんだ。

 

 そんな失望しそうな状況でも、彼のためにモニター越しにできる精一杯を尽くした。

 

 

 フラウンダーすら気にならない位に、彼は洗練されてきていた。

 

 

 ぶっぱも駄ネタ処理もどんどん信じられない成功率になっていく。もっとも、ぶっぱは彼によると、絶対に昔の自分のものに敵わないらしかった。その様はまさに辣腕のコネクターだった。

 個人的に彼で一番凄いのは、私が息を呑むことも忘れた、全盛期の開き直りを軸としたぶっぱだと思う。

 

 

 コネクター症候群の最後の方は、本当に煩わしさを感じずに落ち着きと韜晦の境地で、味覚とたまに嗅覚の想起でアクセントをつくって、隙なくどんどんぶっぱした。その代わりに作品としては確かに見所が弱くなったが、それでも別の良さが有り、芸術からエンターテインメントに転じたと考えれば両方高レベルで大成功だ。

 

 

 駄ネタ処理で大事なのは、下半身の体の力を抜くことだった。そこから始まり、どんどん感覚を断っていった。

彼はこれを突き詰めて駄ネタや心に聞こえる声、人間として生きていると感じる煩わしさなどを克服するという、副産物を生み出す場所に至った。そしてこれを、その特徴から解脱と名付けたのだった。

解脱は彼の状態が変わると、それに合わせて次第に解けていった。

 

 

 解脱をすると様になっていた。

 

 

 不思議と疲れていても頭が疲れている意外には怠いという感覚が殆どない。集中力とかいう言葉では表せないほどに何でも持続させられた。よって、何の分野にしても行き詰ったと本気で感じたなら、彼の場合は才能における限界だろう。

 

 

 彼はゲーム実況者と電車の中で再会した。彼の降りる駅までついて行って、駄ネタを出さずに、軽すぎて普通の人みたいな心で彼と会話した。後々、問題を生まない振る舞いだった。

 

 

 彼はアキラ君のことを覚えていた。だが、アキラ君は彼の話し方から、彼がアキラ君をどう捉えているのか分かってガッカリした。話を聴いてただ失望した。そして覚悟はしていたが、あの世界の一回目はアキラ君と体験してくれると、口では約束していなかったけれど暗黙の了解のように約束してくれたのに、それも破られてもう色んな人とあの世界を見ていたようだった。彼の活動に必要なことでも無く、もしかしたらと思っていたが、やはり間に合わなかった。ネット上では一番彼としたい事だが、アキラとはもう無理なのだから後から一層のこともう済んでいてくれとも思う。

 

 

 更には、一人の面倒なファンをあしらうように、友達にもなってくれなかった。

 帰ってからアキラは絶叫した。大泣きした。数日それが続いた。心の底にあった大切で敏感で大きなものが胸から出てきて、汚い者たちによって悶える痛みと苦しみが鋭く襲う。それに伴って体がビクッとはっきり動いてしまうのだった。皮をもがれたてのコックそのものであった。

 

 

 思えば彼のことを全く考えず興味も失せていた時期でも、名前を耳にするか目にするか、話題になっていれば鋭い感情が襲ってきたものだった。彼への感情はいつも鋭かったとも思えた。先は鋭く、続く部分は大きくはっきりしているものが、アキラの中にあった。

 彼に会うまでの煩悶の時期に、彼のパートナーポジションについた男を嫌悪していた。彼は信じがたいことに実況者と仲よくしていて、アキラ君は敵だとみていた。

 

 

 アキラ君は本当に愛していたからこそ、自分の手の届かない所で楽しそうにやっていても、好きだった彼から変わってほしくない所が変わっていても、面影のある限り楽しそうで何よりだと思えた。しかし一方で本当に愛していたからこそ、絶対に許せずに怒りが強すぎて、相手がそれを分かっていないことから極々悲しくなってしまう。それにそのパートナーが多分人間として実況者に似ていて、アキラ君との日々以上にドラマや想いがありそうで、おまけにアキラ君ともそのパートナーは似ているようだという一つとして救いが無い現状に心からの現実逃避をして極力ごまかそうとした事もあった。

 

 

 しかしアキラ君はふと、自分と似ているパートナーが彼とあの世界への一回目を終わらせてくれていたら、今となってはそれが一番有難い事となるのを悟った。そして、その確率は高いとも思えた。

 それからのアキラは心の中を花畑にして、純度を最大に、大きな人生への期待で胸を躍らせていた。真に楽しそうで嬉しそうなその様は満たされたかに見えた。しかし偶に、彼の話に出てきた相当にアキラが嫌悪する今のパートナーと一回目だったらどうしようと、また少しの間は絶望したりと、それらを繰り返して一段落ついた。彼の傷は一生消えることはなく、時折疼くので終わりは無いが、とりあえず一段落ついたのだった。

 

 

 実況者には自分に適正な人物と居て欲しかった。

 

 

 アキラ君は彼を親友のようにも思っていたが、寧ろお兄ちゃんのように感じて想っていた。今までずっとそうだった。とにかく、限界を超えるまでに終わって良かった。

 

 

 ベースに昔の彼の姿を置いた、アキラのコネクターとしての物腰はすごいものだった。そういえば下らない彼のパートナーと彼と見られている状況のせいで、アキラ君のプライドは深く傷ついたものだったが、当初からそう気にならなかったし、今となっては何でもなかった。動じることを許されていなかったから、相当に動じ難い人間になっていたし、たまにボーッとしているせいでミスして怒られるときは、逆にぶっぱの影響かとんでもないことがあったようにドラマ的な負の感情を抱いて、内心楽しんでいた。

 

 

 コミュニケーションもコネクター症候群を持ちながらにしては有り得ないとも言えるほど上手いと思…う、というより、余裕があった。

 駄ネタ処理も体に染みついていた。祈るように手を絡めて、誦経する訳でもなくただ助けてと念じていると、処理できるというか落ち着けることもあった。

 

 

 思い返すと、駄ネタ処理もネタ撃ちぶっぱも名付けたのは同時期で、もっと前から駄ネタ処理はあったのに名付けられなかったものだった。駄ネタは思考の腫瘍のようなものだが、もっと活動的でどこにでもある物なのだ。「駄ネタ」を思いつくまで丁度良い名前を見つけられなかった。

 

 

 すごいハンデを背負って生きていた。頭の中に入りまくってくる人を、「そのまま下らない人生を送ってろ、ボクには関係無いしな」と見下して言い聞かせる虚しさ。あの人たちと一緒に生きねばならないという事実は再起不能ものだった。

 

 

 火を見ていると駄ネタ処理に使えた。

 肌が黒い人は駄ネタになると強かったものだ。

 煩わしさからは、抜けるのが上手くなっていた。

 心の声も信じられない位にリアルになっていた。

 コネクター症候群を一周してコネクター症候群ではない人間に戻ってきたようにも思える所まで来ると、その関連の成長をしていく際に、この病気自体が邪魔になるかもしれない。

 

 

 コネクター症候群もここまで来ると止められそうではある。何だかあれだけ手がつけられなかった駄ネタにも、今は「触れる」というか色々と上手く収攬できて、前までは水だったが今は氷で、噛み砕けるという感触があった。

 このレベルになるとケチをつけられずに感じること、考えることがかなりある。後々、それにケチをつけられることもあったが。

 

 

 この前の段階では、上手くなってもコネクターになっていくだけで、止めるという言葉とは程遠かった。

 昔出した駄ネタは強くて重かったので、頭の中で馬鹿どもに再生されるように流されると怒りそうになった。

 最近の駄ネタは重くはないが、とにかく早くてタイミングを選ぶ。

 寝起きと入浴のとき、駄ネタになりやすいものが増えた。

 



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第三十四章 良の日記④

 断られたときに実況者から聞いていたのだが、アキラがなろうとした実況者に近いポジションには、先輩ネットユーザーがついていたらしい。その人とはもう終わったが、もうそのポジションには暫く人を置きたくないとのことだった。実況者が例のことを始めて経験したのは、彼と一緒だというのが最も可能性が高かった。

 あの実況者の良さも何もよく分かっていない、リア充っぽい背が高そうな馬鹿だった。

 

 

 あんなのに敬語使いながら、下の立場で、教えられながらなんて有り得ない初体験で、そうでないようにと願った。彼等の共通の事も、信じられないほどに、何かの作品なのかと錯誤しそうな程に気に食わなかった。吐きそうだった。

 

 

 その先輩ネットユーザーと終えてしまったのは良いとしても(良くないが)、その後一緒になってそんなことを気にせずに済めばよいが、居てくれることもない。コネクトの関係など無いのが当然という日頃の彼等のきまりのようなものに隠れて、一人、社会の荒野を走らされ、コネクターは当然かのごとく一生続き、当たり前のように見られ続け、何か伝えられ忘れることもままならない。

 

 

 そもそも、終えてしまったことが、しかも、そんな先輩とだなんて、耐えられないのだ。彼は先輩の位置にいる人が寧ろ良いということは有りそうだった。

 彼は先輩と、彼がとても重要視なさっている「経験」やら多数が知ることになる感覚を、先輩を相手にして頭に詰め込めて良かったと心から思っているから、アキラでそのポジションに泥をかけたくなかったという事だろう。というか、アキラが実況者を好きなことと程度やら本質は違っても、似た意味で実況者が先輩を好きなのかもしれなくて、それは普通に有り得る話だったから、アキラを同じポジションに置いてやる訳がない。下らない奴である。

 

 

 コネクターだから忘れられないということは勿論あるが、感覚を断って研ぎ澄まして解脱した後であるから、もうこだわるしかなかった側面もある。解脱後は他に心が乗り続けられないようだったのである。

 

 

 心の声の「新しい人探せよ」が一番効いたかもしれない。

 

 

 実況者が先輩やらパートナーとこんなことをやったのだろうと、色々想像してしまって、辛かった。

 実況者にはちゃんと、あるイベントのときに言おうと思っていたし、別に彼とは電車の中で数回会っていたから、運命を感じて言う決心をしたのではない。酷な状況に耐えられなかったのだ。

 

 

 後から、―運命的にそのイベントの日に親しくなれたようにも感じられた。その反面、もう言うべきことは言ったし、そのイベントで会いに行っても二回目だから駄目そうだなとも感じられた。

 自分の事を本物だと悟ってきたのに、自分を信じるなり待ち続けるなり、そういう思い切ったことが出来なかったのがいけないのだ。

 

 

 それまで、「遅かった遅かった」、「早くすべきだった」、「会えたらとりあえず言わなくては」、と思っていたが違った。

 早かった。

 あれはあれで展開からしても正解だったように思えるが、本当は早かったのだ。

 

 

 狙った訳では無いが、解脱後から少し経った時期の彼は、人を決起させたりポジティブにさせるのが、この上なく上手だった。もちろん、コネクターを通してである。はっきりと弱い所があって、凄く、途轍もない人間であったからこそ実現した現象である。

 

 

 かなり以前からやっていたことだが、変な感じの完全な静寂のとき(静寂をしっかりと意識した静寂のときでもある)は、頭の中に声が聞こえてこないように故意に少し駄ネタを出したり少し騒いだ。

 

 

 悪夢が現実になるという経験をした。

 

 

 相手が自分を、今どういう人間として見てくれているのかが分からず、相手がこう見てくれていたら嬉しいと思うことがある。それに対して、ほぼ有り得ないと考えていたのに、希望的観測を意識したまま少し頭に残しておくと「勘違いしてる(笑)」というような雰囲気などで馬鹿にされたり、面倒なことになって複雑化もした。

 

 

 ぶっぱでは、ストレスが溜まり過ぎていたり追い詰められていたりという状況で、「今」圧倒しなければならないのだ。だから、日中に以前撃ったぶっぱを晒されるなどといったことがあって、恥ずかしいと思わせようと誰かがやっているようなのを、酷く的外れに感じた。駄ネタが出たり即席で雑だったりしても、その()()()()()なのだ。即興だからこそ、アキラの中であれだけのものが産まれ得る。

 必死で他にやりようも無かったのだから、これが恥ずかしいとされるなら、それでも仕方ないと思えた。

 

 

 撃てるときにぶっぱをしておかないと、数日後には撃てるとしても数十日後には絶対に撃てない曲、ネタ、動画になっているケースも多い。しかし、初めのうちに何度も同じ音とネタと展開などで撃てることもあるから、他の人がやれば適当になりがちだろうが、彼にそういう面での後悔は無い。やり切った。

 

 

 彼等の中で、人の中身を常時晒し上げて皆でおもしろおかしく文句を言って叩きながら勝手にアホみたいにしていたのは、完全にお調子の範疇内だったのだろう。自分が見に来ている側なのに、彼に出来そうもないことでも何でも幾つでも要求した。

 

 

 ぶっぱでは、あえて不謹慎なネタでやってしまったように演じて、何か制裁を加えられるかもと緊張したのを皮切りに、凄い領域で撃ったこともあった。撃てないはずの昔好きだったアニメの曲で撃って、生々しい昔の感覚を完全に思い出しつつテンションも上げて、夜が深くなっていくのに合わせて凄まじいことになった日もあった。前に撃ちやすかった曲で撃ち難くなった代わりに、本当に色んな曲や動画(とはいえ、この頃はもう映像は使わないことが殆どだったが)で撃てるようになった。

 

 

 その日に昔の少し情けない奴だと思っていた自分の考えや感覚の片鱗に触れて、尊ぶことはあってもバカにすることは無くなった。その夜は後半あたりから、人に見られていると感じていないくらい、コネクトを気にしなくなった。

 ぶっぱで一番大事なのは、彼のテンションかもしれなかった。色んなぶっぱを残した。

 

 

 彼がビギナーの頃は本当に辛かったものだ。年頃なのに二次元やネット界隈の楽しみを完全には楽しめなかったし、何度も嫌になって見ているのをやめることもあった。想像も出来なかった落とし穴が幾つもあって、複数の辛いことが連鎖したこともあった。

 コネクターで怖がりなのに、戦争や核爆弾、戦争のアニメを視聴させられて、駄ネタになるのが本当に怖くて眠れなかった。そもそも教えられたことや見せられたこと自体が怖くて眠れなかったこともある。汗だくだった。

 

 

いつも汗だくになった。

 普通の時間でも汗だくになることもある。

 

 

 コネクター症候群だからこそ、少ないながら簡単になる物事もあった。だが、当然難しくなることの方が多い。

 

 

 恥ずかしさ…というより、どうしても生まれる()()を、処理し続けていた。

 

 

 前まで駄ネタだったが今は駄ネタではないことは、思い浮かべることで駄ネタ処理に非常に有効になる。一度駄ネタになったほど彼の頭に浮かんで定着しやすいのだから、今出ている駄ネタを上書きしやすいのは当然かもしれない。今まで処理するのが大変だったからこそ、和解して仲間になってくれたみたいで凄く嬉しくて、ロマンも感じた。

 

 

 千変万化する現状と変わりゆく頭の中の設定に合わせて、対応できるようになっていく。

 

 

 何か知らないが、成長したらそれでまた怒られた。頭の中の住民は何なのだろう。

 自分のペースで何かするのも許されなかった。

 状況がチェインして、過去の問題のせいで現状が悪くなり、それがまた巡り巡って悪化していく。まさに負のスパイラルが実現していると思うときもあった。

 

 

 ネタ撃ちぶっぱも終盤以外は、圧倒する必要に迫られていた。だから、撃てるまで粘る破目になることもあった。

 ぶっぱと駄ネタ処理は相反する面を大きく持っていたのに、彼は本当によくやった。

 

 

 実況者の件で分かったのは、明らかにコネクトでのルールのようなものは何も考えずに作られたものだという事。心の中の声で、アキラが何かやったり言ったり思ったりすれば、「実況者が笑ってる」と言われもした。

 



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