【完結】源静流の庭園 (月島しいる)
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01話

「昔話をしましょうか」

 庭園の池で鯉に餌をやっていると、後ろから凛とした声が聞こえた。

 ボクは餌をやる手を止めて、後ろを振り返った。

 長い黒髪を後ろで結った静流(しずる)さんが立っていた。

「遥か昔、私達は広い土地を持っていた。肥沃な大地で様々な穀物を育て、皆でそれを分け合って生きていた」

 何度も聞いた話だった。

 静流さんはこうして事あるごとに昔話を語るのが好きだった。

 ボクは既に暗記してしまったその続きを口にした。

「でも、争いが起きた。仲良く出来ない人間たちに雨神様(あまがみさま)は大層お怒りになった。大雨で大地は流され、山には物の怪が解き放たれた。人は住処を失って、山奥でひっそりと暮らすようになった」

「そう。雨神様は今も人間に対してお怒りだわ。だからお祈りが必要なの」

 静流さんはそう言って、ボクの頭をそっと撫でた。

 ボクは残りの餌を池の中にばら撒いて、それから頭一つ分身長が高い静流さんを見上げた。

「もうお祈りの時間なの?」

「ええ。さあ、片付けて」

「うん」

 静流さんの言う通り餌箱を巾着に入れて、それから膝をついて両手を合わせる。

 静流さんは微笑むと、白に向かい合うように膝をつき、同じように両手を合わせた。

「雨神様。雨神様。天高く築くその御身。我ら十二族、八の形。輝く標に感応致します」

 静流さんが唄うように祈りの言葉を紡ぐ。

 風が吹き、静流さんの後ろで結った髪がさらさらと揺れた。

 空を見上げると、雲間から太陽が顔を出すところだった。

 陽光が庭園を照らし出し、思わず目を細める。

「食事にしましょう。中に入りなさい」

「うん」

 静流さんが立ち上がり、屋敷に向かって歩き出す。ボクもその後に続いた。

 縁側で履物を脱ぎ、室内に入る。食卓には既に静流さんが用意した昼食が並んでいた。

「さあ、雨神様の情けに感謝して頂きましょう」

 静流さんが背筋を伸ばし、汁物を啜る。

 ボクは小さく目礼した後、静流さんを真似するように汁物を啜った。

 それから揚げられた山菜に箸を伸ばし、口に含む。しゃりしゃりと小気味いい音が響いた。

「どう? 美味しい? 今日はたらの芽とうどが見つかったの。私はこの2つが大好物なのだけれど」

 山菜を食べるボクを、静流さんが優しい眼差しで見る。

「うん。美味しいよ。昨日のふきの炊き合わせも良かったけど、僕は今日の方が好きかな」

「そう? 群生しているところを見つけたから、これなら明日も用意出来ると思うわ。楽しみにしていてね」

 食事を止めて、にこにこしている静流をじっと見つめた。

「静流さん」

「なぁに?」

「山菜採り、明日ボクも一緒について行ったらダメかな?」

 途端、それまで機嫌の良かった静流さんの表情が一変した。

「いけません」

 表情が消え、感情の見えない双眸がボクに向けられる。

 それから、いつもの説教が始まった。

「白。あなたの名前には、決して穢れないもの、という意味が込められているわ。この名にはお怒りになった雨神様から貴方を守る術が施されているの」

 知っている。

 何度も聞いた話だった。

「外には物の怪が大勢いるわ。大昔に雨神様が解き放った軍勢よ。白、あなたはこの庭園を出てはいけないの。あなたは穢れてはいけない。外に出るのは私の仕事よ。白はこの屋敷で私の帰りを待っていれば良いの。そうしなければいけないの。そうする事が、十二族で決められているの」

「ごめんなさい。でも、静流さんの役に立ちたくて」

 そこでようやく、静流さんの顔に表情が戻った。

 柔らかな笑みを浮かべて、彼女は首を横に振る。

「白。あなたの気持ちは嬉しいわ。心配してくれているのね。でも決して外に出ようなどと考えてはいけないわ。山には恐ろしい結界と呪いもあるの。絶対に出てはダメよ」

「うん。ごめんなさい」

 頭を下げると、静流さんはそれ以上何も言わなかった。

 静かに食事を再開し、山菜を咀嚼する。

 庭園からコマドリの鳴き声が聞こえた。

 庭園に目を向ける。雨神様の機嫌が良いのか、暖かな陽光が庭園を照らし出していた。

 それからふと疑問に思った。

 外を自由に飛んでいるコマドリは、どうやって物の怪や呪いから身を守っているのだろう。

「手が止まっているけれど、もしかして食欲がないの?」

 静流さんの心配そうな声。

 ボクは静流に向き直って、心配させまいと首を横に振った。

「ううん。外がいい天気だから見てただけ」

 そう言って、ご飯を口に運ぶ。

 先程頭に浮かんだ小さな疑問は、いつの間にか溶けて消えてしまっていた。



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02話

 微睡みの中、静流の声が聞こえる。

「昔、この一帯は戦が丘と呼ばれていたそうよ」

 何度か聞いたことのある話だった。

 静流は、同じ昔話を何度も語る悪い癖がある。

「大きな戦争があったの。朝廷と呼ばれる皇を中心とした軍と、幕府と呼ばれる将軍を中心とした軍がここで衝突したわ。山は崩れ、森は枯れ、後には何も残らなかった」

 縁側で眠る白の頭を撫でていた静流の手が止まる。

「白? 寝てしまったかしら?」

「ううん。起きているよ。続けて」

「雨神様がお怒りになるずっと前の話。人々は死んだ山を取り戻そうと、一つの木を植えたわ。ソメイヨシノ。桜の木よ」

 降り注ぐ陽光と、聞き飽きた静流の語りが眠気を誘う。

「このソメイヨシノは江戸と呼ばれた時代に、植木屋のある男が作り出した木なの。人が挿し木をしなければ後世に残らないとても儚い桜。十二族に伝わる全てのソメイヨシノは、元を辿れば一本の桜が脈々と受け継がれてきたものなのよ。私達がそれを止めてしまえば、ソメイヨシノという桜は世の中から消えてしまう」

 ひらひらと、桃色の花びらが庭園を舞う。

 静流の手がそっと白の髪を梳いて、それからゆっくりと離れた。

「この桜はね、十二族の絆を示しているの。全てのソメイヨシノは同一の特性を保持していて、同じ時期に花開く。桜が咲く美しい姿を見て、私たちは他の氏族を思い出し、そして忘れないようにするの。ずっと遠くまで語り継いでいくのよ」

 微睡みの中、思う。

 きっとそれは、とても尊い事なのだろう。

 呪われた世界で、まだ見ぬ人たちが今を生きている。

 互いを思い合い、励まし合う絆が形として花開き、次代へ受け継がれていく。

 それは決して絶やしてはいけないのだと、白にも朧気ながらに理解できた。

「白、あなたも語り継いでいくのよ。私と一緒に次へ繋いでいくの」

 頬を何かがくすぐった。

 ぼんやりと目を開くと、間近に静流の瞳があった。

 彼女の肩から結った髪がさらりと零れ落ち、白の頬を撫でた。

「白」

 吐息が首元にかかった。

 首元に顔を埋めるように、静流が顔を落とす。

 ぴちゃり、と濡れた音が響いた。

 静流が舌をだし、ゆっくりと白の首元を舐める。

 覆いかぶさる静流から甘い香りがした。

「静流さん?」

 静流は何も答えず、白の首元に顔を埋めたまま優しく舐める。

 白は微睡みの中、静流が甘えているように思えて、そっと頭を撫でた。

 静流が面をあげ、クスりと微笑む。

「白」

「うん」 

「私の白」

 静流が再び首元に顔を埋める。

 白は何も言わず、目を閉じた。

「心臓、と呼ばれる臓器があるわ」

 静流の冷たい手が、ゆるりと白の首元から潜り込み、胸元をまさぐった。

「とても強い筋肉よ。この筋肉が脈動する事によって、血液が全身を巡るの」

 胸元をまさぐっていた静流の手が、白の衣服を脱がせるように動く。

「血液の中には栄養があって、人間はそれで生きているの。植物が根から水を全体に送るのと一緒よ。私達と植物の在り方は、それほど変わらない」

 首元に顔を埋めていた静流が、そろそろと胸元に移動し、舌で舐める。

 くすぐったさに白は小さく身をよじった。

「全てのソメイヨシノは同じ遺伝子を持っているわ。それでもああやって問題なく育っていく。十二族に絆を与えてくれる。白。きっと人間も同じよ。同じ遺伝子を持っていようが、生殖は問題なく行えるに決まっている」

 静流は同じ話をよく繰り返す。しかし、その話は聞いたことがなかった。

「遺伝子?」

「そう。大昔に遠国で発見されたものよ。あらゆる生物を決定づける根源的なもの」

 静流が耳元から垂れた髪をかきあげ、顔をあげる。

「人を作り出すものよ」

「人を?」

 眠気に耐えながら、疑問を口にする。

 静流は口を結んだまま、ゆっくりと微笑んだ。

 そっと彼女の指が、白の瞼を撫でる。白は逆らわず、目を閉じた。

 暗闇の中、深い微睡みに落ちていく。

 意識が途切れる寸前、唇に何かが触れた気がした。

 白はそれが何か理解することなく、意識を手放した。



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03話

「カイコの成虫には口がないの」

 庭園で腰を下ろし、空を見上げていた時だった。

 いつの間にか隣に立っていた静流がいつものように長話を始めた。

「口がないなら、どうやって食事するの?」

「できないのよ。そのまま飢えて死んでしまうの」

 静流はそう言って、隣に腰をおろした。

 よく見ると、その手には羊羹の乗った小皿があった。

 静流が一切れをつまみ、白の口元に差し出す。

 なされるがままに口を開けると、羊羹がそっと押し込まれた。甘みが口内に広がっていく。

「美味しい?」

「うん」

 静流は微笑んで、それからもう一切れを自分の口に運んだ。

「カイコガはね、こうやってものを食べる事ができないの。短ければ数時間で死んでしまうわ」

「数時間?」

「そう、数時間。カイコは糸を取るために長い年月を人間に管理されて生きてきた。すでに種として人間に依存してしまっているの」

「カイコたちは、空を飛ぶために羽化するの?」

 静流がクスクスと笑う。

「カイコガは人間が品種改良を繰り返したせいで空も飛べないのよ。ただ生殖するために羽化して儚く死んでいくの」

 静流の手がそっと白の手に重なった。

「白」

「うん」

 静流の顔がゆっくりと近づく。

「それはとても大事な事なのよ。あらゆる生き物が、つがいを見つける為に命を投げ出していく。生きる目的は、そこに集約されていく」

 白には静流の言おうとしている事が、よくわからなかった。

 首を傾げると、静流は優しく微笑んだ。

「白は確か、今年で十四を数えるわね」

「うん」

「もう少しで分かるようになる。いいえ、時が満ちれば私が教えてあげるの。ほんのもう少し未来よ」

「静流さん?」

 話が見えない。

 静流は薄い笑みを浮かべたまま、小皿に残った羊羹を手に取った。

「白、口を大きく開けて」

 言われた通りに口を開けると、羊羹が優しく放り込まれ、静流の細く長い人差し指がそっと唇を撫でた。

「白もたくさん食べて、羽化するのよ。大丈夫。人間はカイコガのように短命ではないから」

「そしてつがいを探すの?」

「白には私がいるでしょう。その必要はないわ。大事なのはその先」

 静流はじっと白の瞳を覗き込む。彼女の瞳の奥で、何かが蠢いていた。

 静流が怒っているようにも見え、白は僅かに怯えた様子を見せた。

「その先?」

「そう。次を紡ぐの。源の家が永遠に、十二族が永遠に続くように」

「永遠に」

「そう、永遠に。私たちはカイコガじゃない。終わってはいけないの」

 そのために、と静流は言葉を続けた。

「今の十二族が作られたのよ。全てはその為だった」

 重なった手の指先が絡められていく。

「その為?」

「そうよ。私は全てをそれに賭けたの。この庭園はその最たる象徴」

 沈黙が落ちた。

 気安く触れてはいけない話題のように思えた。

 静流は独自の挟持と何らかの確固たる意志を持っている。

 それは、白が触れるべきものではないように思えた。

「カイコガの話はこれでおしまい。さあ、洗い物をしないと」

 空になった小皿を持って、静流が立ち上がる。

「ごちそうさまでした」

 声をかけると、静流は最後に振り向いて優しく笑った。



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04話

 静流の部屋を覗くと、机に向かって筆を走らせているところだった。

 真剣な顔で文字を綴る静流の横顔は、美しかった。

「静流さん」

 声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。それから優しく微笑む。

「白。どうしたの?」

「何でもないけど、何してるのかなって。また物語を描いているの?」

「ええ。私が知っている限りの記録を残しておこうと思って」

 部屋に入り、乱雑に積まれている本の中から一冊を取り出す。

「この表題はなんて書いてあるの?」

「源氏物語。平安と呼ばれた時代のとても古い本の覚書よ。私の記憶から再現しただけだから原本とは異なるけれど」

「げんじ?」

「そう。十二族が二の形、藤原の家に連なった者が描いた物語。上位公卿十二家系の分岐点の一つ」

「今の十二族の元になるものなの?」

 ええ、と静流は頷き、それからやや演技がかった口調で歌を詠み上げた。

「この世をば、わが世とぞ思ふ、望月の、欠けたることも、なしと思えば」

「どういう意味?」

「この世は私のものだ。満月のように欠けたところがなく、完璧なものである、という意味よ。雨神様がお怒りになるずっと昔、栄華を極めていた時代の歌」

 静流はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。

 書物に囲まれた灯りの乏しい部屋で、静流の双眸の奥に熱を持った何かが煌めいた。

「他の十二族は遠い過去の栄華を懐かしんでいるかもしれない。でも、私は今こそが完璧な世界だと思っているわ。この屋敷と庭園こそが望月のようなものだもの」

「完璧、なのかな?」

 白は首を傾げた。

 雨神様の呪いは十二族を分断し、自由を奪った。多くの人が住処を失った。

 その惨状は望月とは程遠いように思えた。

「私はこの庭園と白、そして古い物語があればそれでいいもの。それ以外に本当に必要なものなんて何もない。私は今の静かな暮らしが好きよ」

 静流が足を踏み出し、白を見下ろすように前へ立つ。

 そっと静流の手が白の頬に添えられた。

「忘れじの、行く末までは、かたければ、けふを限りの、命ともがな」

「その歌はどういう意味?」

「あなたの事がとても大事、という意味よ」

 それから、彼女は窓の外を見た。

 しとしとと雨が降っている。

「今日は散歩出来なくて残念ね」

「うん。静流さん。今度、文字を教えてくれないかな? 雨の日は暇だから」

 静流の視線が、ゆっくりと白に戻る。

 雨音が響く中、床が小さく軋んだ。

「白。書物には呪いが込められているものもあるの。危険な行為なのよ」

 それに、と静流は続けた。

「もし物語が読みたいなら私が聞かせてあげるから問題ないでしょう?」

 同じ物語を何度も話す癖があるのが問題だったのだが、白は何も言わなかった。

「……うん」

「暇な思いをさせてごめんなさい。そうね。今日は新しい話をしましょう」

 静流が白の手を取り、そっと畳に座る。

「雨神様の呪いは、争いを引き起こした元である知と富の独占にも向けられたわ。国中の書物が集まった大公書院は焼かれ、点在した複写物にも呪いが広がった。人は書物によって知を継承する事を禁止され、口伝が全てとなった。あらゆる知識と物語が歴史から欠落していったの」

 静流は近くにあった一冊の書物を手にとった。

「長い時間の末、人々は再び書に知識を込め始めたわ。ひっそりと、雨神様に気づかれないように。私たちは口伝で残ったものを書き記すようになった。特に十二族には多くの話が伝わり残っていたから、それを積極的に交換し、補完するように努めた。その中にはかつて呪いが込められた呪いの複写物も混じっていた」

 静流は書物を開き、それを白に見せた。

「この書物は口伝を元にある伝説を私が書き記したもの。雨神様の呪いはないわ。でも、中には他の十二族から譲り受けた古代の複写物が混じっていて、それを読んでしまえば呪いが降りかかってしまう。だから私のような上公巫女の役割を与えられた者以外が読む事は十二族の協定で禁じられているの」

 白にとって難解な話だった。

 文字に込められた呪い、というものがはっきりと理解できなかった。

「もしボクがその書物を開くとどうなるの?」

「呪いがこの一帯に広がるわ。物の怪さえも近づけない不毛の地となる。だから白はこれらの書物を開いてはいけないの」

「……うん」

 頷くと、静流は満足そうな笑みを浮かべた。それからそっと白を抱き寄せる。

「私の白。いい子にするのよ」

 静流の胸の中、そっと窓の外を見る。

 いまだ雨が止む様子はない。

 今夜は望月どころか月光の欠片すらも見えそうになかった。



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05話

 餌箱から掬い上げた餌を、池の鯉に向かって投げる。

 たちまち鯉たちが目の前に集まり、口をぱくぱくと開いて餌を拾い上げていく。

「君たちは本当によく食べるね」

 眼下の鯉を眺めながら呟くと、後ろからクスクスと笑い声が届いた。

「それは胃がないからよ。きっと、いつも空腹なんだわ」

 振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた静流が立っていた。いつも後ろで結っている髪が、今日は解かれていた。

「胃がないって?」

「そのままの意味よ。鯉は食道と大腸が直接繋がっていて胃がないの」

 静流が横に立ち、じっと鯉たちを見下ろす。

「朝昼晩、いつ餌をやっても良く食べるでしょう? 食いだめが出来ないから四六時中お腹が減っているの。だからと言って餌をやりすぎてもダメよ」

 鯉たちは、池に浮かんだ餌をなおも食べ続けている。静流はその光景をじっと眺めていた。

「満腹感がないなんて可哀想、と思わない?」

「うん……いつも飢えてるのは可哀想だね……」

「そう。満足感がないの。それはきっと、とても苦しい事だわ」

 静流が空を見上げる。

 白も釣られて空を見上げた。雲ひとつない晴天が広がっていた。

「ねえ、私も同じなのよ。ずっと飢えているの。満足できなかったの」

 だから、と静流は言葉を続けた。

「全て壊してしまったの」

 そよ風が、止まった気がした。

 暖かな陽光の中、静流の瞳がゆっくりと白に向けられた。

 静流の透明な瞳に美しい庭園が反射し、瞳の奥には困惑した白がいた。

 虫のさえずり声さえも、いつの間にか遠ざかっていた。

「壊した?」

 白は静流の言葉をゆっくりと反芻してみせた。

 彼女は肯定するように頷いた。

「ええ。何もかも全て壊してしまったの」

 その声には、疲れのようなものが混じっていた。

「私はね、たまに自分が狂人である事を自覚するの。でも、後悔の念が沸き起こる事もない」

「静流さんは狂ってなんていないよ」

 否定の言葉が、静謐な庭で妙に大きく響いた。

 静流は声もなく穏やかに笑った。

「いつも飢えていたの。満たしたいと思ってしまった。後は坂道を転がるようだった。世界は私が思っているよりも遥かに脆くて、気づいた時にはあっという間に呪いが膨らんで、全てを飲み込んでしまったの。私はその中で、ずっと冷静だった気がするわ。ねえ、私は冷静だったのよ」

 何かを懺悔するように、静流は次々と言葉を吐き出していく。

「私の白」

 彼女の手が、白の頬を優しく撫でた。

「ひとつ教えて。この池の鯉たちは幸せだと思う? 狭い池に閉じ込められて、でも外敵からは守られる。餌も用意してもらえる。この鯉たちは幸せなのかしら?」

 静流の瞳の向こうで、何かが揺れていた。

 いつも大人びている静流が、どこか幼く見えた。

 白は言葉を選びながらも、静流から視線を逸らさなかった。

「幸せ、だと思うよ。この鯉たちは呪いの満ちた外では生きられないもの。それに今よりずっと飢えた状態かもしれない。だから、幸せなんだと思う」

「そう……」

 頬に触れていた静流の手が後頭部に周り、そっと引き寄せられる。

 静流の胸の中、白は彼女を見上げた。

「静流さん?」

「白はもう少しで十四を数えるでしょう?」

「うん」

 静流の冷たい手が、そっと浴衣の間に潜り込んだ。

 冷たい感触に思わず身をよじる。しかし、静流の手は止まらない。

「頃合いだわ。時が来たら成人の儀を挙げましょう。もう飢える必要はなくなって、私の世界が、庭園が全て完成するの」

「静流さん、えっと、待って、くすぐったいよ」

 静流の手が、浴衣の中で胸元をまさぐる。

 彼女の荒い息遣いが白の耳に届いた。

「白。私の白。私だけの白。穢れなき白」

「静流さん」

 大きく身をよじると、静流の手がようやく止まった。

「ごめんなさい。成人の儀の事を考えてしまって」

「成人の儀はなにをすればいいの?」

 首を傾げると静流はクスクスと笑い、それから舌なめずりした。

「大丈夫。その時が来れば私が教えてあげるわ。そう、私が教えてあげるの。貴方は清く、穢れのないままでいてくれるだけで大丈夫よ」

 静流が身体を離し、立ち上がる。

 黒い長髪が風で広がり、甘い香りがした。

 彼女はその澄み切った瞳に広大な庭園を映して、笑い飛ばすように呟いた。

「私はきっと、狂人なのでしょうね」

 その姿が、白にはどうしようもなく美しく見えた。



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06話

 たまに夢を見る。

 知らない人たちが出てくる夢だ。

 何人もの大人が出てきて、白はどこかの屋敷でその人たちと食事をとっている。

 記憶にない世界と、記憶にない話。

 何故、そんな夢を見てしまうのか分からない。

 ただ、起きた後、とても懐かしい気持ちになってしまう。

 暗闇の中、白は半身を起こして目を拭った。

 暫く夢の余韻に浸った後、そっと隣の静流を起こさないように立ち上がった。

 廊下に出て、それからふと外を見る。窓の向こうで月光が庭園を照らし出していた。

 玄関にまわり、そっと靴を履く。

「どこへ行くの」

 後ろから冷たい声がした。

 振り返ると、暗い廊下に静流が立っていた。

「眠れないから散歩しようと思って」

 白の言葉に、静流は微笑んだ。

「そう。なら私も付き合うわ」

 玄関に足を進めた静流を月光が照らし出した。彼女の美しい双眸が暗闇で煌めいた。

「足元、引っかからないようにね」

 玄関口の段差を乗り越えながら、静流が白の手を取る。

 白は頷いて、彼女の後を追うように外へ出た。

 夜行性の虫の鳴き声が澄んだ夜空に響いている。

 静流は白の手を握ったまま、池の方へ足を進めた。

 ちゃぽん、と鯉の泳ぐ音がした。

 彼女は近くの石へ腰を下ろし、白もそれにならって隣に座った。

「かつて、満月は人を狂わせると言われていたわ」

 月を見上げながら、静流が語り始める。

 それは白がまだ聞いたことのない話だった。

「西方に位置する島国では、それにならって月狂条例というものが施行されたの。精神に異常をきたした人を隔離する為の掟よ。100年と少し前の話。そして、今でもその掟は続いてる」

「隔離って?」

「他の人と接触できないように閉じ込める事よ。人間が大勢いた頃はそうやって他の大多数を守っていたの」

「誰も会えないって事? じゃあ、それって――」

 白は冗談のつもりで口を開いた。

「――今の十二族とか僕たちみたいだね」

 冗談のつもりだった。

 しかし、空気が変わった。

 静流の顔から表情が消えた。

 月に照らされた彼女の横顔は白く、血が通っていないように見えた。

 庭園に響く虫の鳴き声が、ぴたりと止んだ。

「今の、十二族みたい」

 静流がゆっくりと、白の言葉を反芻する。

 白は何も答えなかった。

 今の静流に触れてはいけない気がした。

 見ると、静流は静かに笑っていた。

 声もなく、月光の中で口元が吊り上げっていた。

「白」

 ひどく抑揚のない声だった。

「あなたは時々、とても鋭い事を言うのね。それが私にはとても面白いの。そう、面白いの」

 静流の瞳が、大きく開いていた。

 暗闇の中、白の表情を観察するように彼女がゆっくりと顔を近づけてくる。

「ねえ、白。既に私は気が触れてしまっていて、この屋敷に隔離されているのかもしれないわ」 

 でもね、と静流は言葉を続けた。

「それが本当だと仮定して、外の世界はまともだと言えるのかしら。全くの反対かもしれない。まともなのは私達二人だけかもしれない」

 だって、と彼女は空を見上げる。

「綺麗な丸いお月様。今日は何の月だったかしら」

「皐月、だよ」

 白が短く答えると、静流は満足そうに頷いた。

「そう、皐月だわ。月によって私達は時間を規定する。指定する。でもどうかしら。遥か昔、人々は曜日という作り物に縛られていたのよ」

「曜日?」

「そう。7日間を一周とする数え方。そうしたかっただけ。そうした方が都合の良い人がいただけ。でも、それが大衆を支配していたのよ。大勢の人間がいた太古の世界は、そんな良くわからないものを中心に生活を組み立てて動かされていた。狂っていると思わない?」

 白には話が理解できなかった。

 そんな作り物で生活が動いていくという道理が分からなかった。

 静流の思考が飛び、次々と話題が変わっていく。

「全てが不完全な世界だったのよ。でも皆がそれをまともだと信じていた。私よりも遥かに、世界の方が先に狂っていたの。それだけは確かよ」

 静流の大きく開いた瞳が、月光で煌めいた。

 白は独白を続ける静流をじっと見守る事しか出来なかった。

 彼女はたまに、雨神様以外の何かが世界を壊したように言う。雨神様よりもっと大きい存在があったように聞こえる時がある。

 静流は上公巫女として、呪いの根源的な何かを知っているような気がした。

「静流さん」

 太古の世界を語り続ける静流に、声をかける。

 静流の動きが止まり、開いていた瞳孔がゆっくりと元に戻る。

「なぁに?」

 いつも通りの優しい微笑みを浮かべる静流の袖を引っ張って立ち上がる。

「戻ろう」

「ええ、そうね。話し込んでしまったわ。戻りましょうか」

 静流が立ち上がり、それから最後に空を見上げた。

「月が綺麗ですね」

 彼女はそれから一人でころころと楽しそうに笑い声をあげた。



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07話

「それじゃあ、暫く留守を頼んだわ」

 玄関口で、支度を整えた静流はいつものようにそう告げた。

「うん。気をつけてね」

 白は頷いて、小さく手を振った。

 静流が引き戸を開き、玄関に陽光が差し込む。

 外はよく晴れており、温かい風が頬を撫でた。

「日が暮れるまでに私が帰らなかった場合、雨神様にお祈りを捧げること。物の怪に見つからないように決して屋敷外に出てはダメよ。家の中で物音立てず、静かに夜をやり過ごすの。わかった?」

「……うん」

 小さく返事をすると、静流は身を屈み白の顔を覗き込んだ。

「雨神様。雨神様。十二族、八の形。安寧の標、感応の印、ここに刻む事をお許し下さい」

 上公巫女として祈りの言葉を呟く静流に、白も復唱した。静流が満足そうに頷く。

「これで大丈夫。さあ、良い子にしているのよ」

 静流が引き戸から出ていき、扉を閉める。

 今日は十二族会議の日だった。

 書物や食料の交換の為に十二族が集まる日。

 上公巫女の立場にある静流は、こうして度々他の十二族との交流に顔を出している。白は物の怪に対して何ら対抗手段を持たない為、静流のように外を出歩く事は出来ない。

 白はぼんやりと玄関を見つめた後、踵を返して居間へ向かった。

 そっと畳に寝転がり、天井を見つめる。天井のシミが人のような模様になっており、そこから物語を考えるのが白は好きだった。

 天井のシミたちが、空想の中で激しい合戦を始める。静流が何度も語る戦が丘の戦いだった。

 皇と幕府の戦い。

 白はそれを良く知らない。静流の語る物語から断片的に想像して、それを繋げるだけだ。

 戦いは、すぐに終わりを迎える。雨神様の神罰により大雨が降り、大地は海へと流されていく。

 人々は山へ逃げ、そこで十二族として散らばって生きる事になった。源の家はその中で第八の形と呼ばれ、霊力に恵まれた家系として十二族の巫女を取りまとめている。しかし男児である白に霊力はなく、静流のように自由に外へ出る事も叶わない。

 空想の戦争はあっという間に終わりを告げ、後には天井のシミだけが残された。

 静流がいないと話し相手もいなくて暇だった。

 身を起こし、外の庭園を眺める。

 日差しが強く、夏の到来を予感させた。

 しばらく庭園を眺めてから、そっと立ち上がる。

 陽光に誘われるように縁側へ出ると、心地良い虫の鳴き声が届いた。

 いつも通りのゆるやかな日常が流れていく。

 そのはずだった。

 しかし現実は違った。

 聞こえるはずのない声が聞こえた。

 人間の声だった。

 驚いて声の聞こえた方向を見る。

 錆びた門の向こう側に人影があった。

「すいませーん。源さん、お話良いですか」

 低く、くぐもった声だった。

 見たこともない服装の男が、門の向こうから白を呼んでいる。

 白は予想外の展開に動揺して、ただ男を見つめる事しか出来なかった。

「源さん? すいません、すぐに済みますんでお時間ください」

 焦れたように男が大声を張り上げる。

 白は素足のまま縁側から降りて、男の方へゆっくりと足を踏み出した。

 心臓が早鐘のように打っていた。

 状況が理解出来ないまま、門を盾にして男と相対する。

「源さん、すいません。お姉さん在宅ですか?」

「……静流さんは、十二族会議に出ています」

「はあ。いつ頃戻られますかね?」

「……夕刻までには戻る予定ですが、物の怪が出ればどうなるか分かりません」

 男は何か言おうとした後、白の足元に目を向けて顔をしかめた。

「足、大丈夫ですか? 怪我しますよ」

 白は何も答えず、まるで正体が見えない男を警戒するように睨んだ。

 一見すると人のように見えるが、人ならざるものかもしれない。

 そうした物の怪がいるのだと、静流から教わった事があった。奴らは人に化けるのだ、と。

「あのー、本題なんですが、子供を見かけませんでした? 男の子三人なんですが、昨日から山に入った後帰ってきてないんですよ。この一帯は源さんの家くらいしかありませんし、何か知っていればと思って」

 話が見えない。

 男が何を言っているのか理解できなかった。

 黙り込む白に、男が困ったような笑みを浮かべる。

「あのー、源さん? 3人とも小学4年生の男の子なんですよ。見てないですか?」

 人など見るわけがなかった。呪いの中、子供が出歩くわけがない。

 男の話は支離滅裂で、理解不能なものだった。

 白は一歩後ろに下がり、男を油断なく見渡した。

 黒色の帽子に、何らかの刺繍が施されている。服も同様に黒で染め上げられ、見たことのない形をしている。

 少なくとも十二族ではなさそうだった。

「あー、すいません。名乗ってませんでしたね。私、麓の交番に勤めている桑木野と申します」



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08話

 それからの事を、白はよく覚えていない。

 ケイサツのクワキノと名乗った男は、すぐに帰っていった。

 呪いに塗れた小道を、平然と歩いて。

 子供を見つけたら麓にあるコウバンに連絡して欲しい、と最後にそう言った。

 何から何まで意味が分からなかった。

 突然現れた男は、白の理解を超える存在だった。

 空を仰ぐと、青空が広がっていた。

 物の怪が活性化する夕刻までにまだ時間がある。

 十二族以外に属さないあの男が何なのかは知らない。その正体は良くわからない。

 しかし、敵対勢力ではないように見えた。少なくとも男は静流の名前を一度口に出したのだ。知り合いである事は間違いない。

 白は男の去っていった小道を見つめた後、門扉に手をかけた。

 行方不明の子供を探さなければ、と思った。

 夜になればきっと助からない。

 キイ、と金属音が響いた。門扉がゆっくりと開く。

 白は一度屋敷を振り返って、それから外に足を踏み出した。

 呪われた世界を踏み込み、前に出る。

 それはあまりにも呆気ないものだった。

 雨神様の神罰は来なかった。

 呪いは襲ってこなかった。

 いや、まだ気づかれていないのかもしれない、と思い直す。

 二歩、三歩、と外の世界を進む。

 すぐには呪いを受けない事を確かめて、白は駆け出した。

 いつも庭園から見ていただけの世界を、物の怪に見つからないように駆け抜けていく。

 青々とした木々の間を縫うように、開けた一本道を進んだ。

 走る習慣がないせいか、すぐに体力の限界が来た。

 息切れし、近くの木に手をついて足を止める。

 荒い息を吐きながら、周囲を油断なく見渡した。

 静かな木々の間から、鳥の鳴き声が聞こえた。 

 頭上を見上げると、二羽の鳥が飛んでいた。

 木漏れ日の向こうには、何にも囚われない自由が広がっていた。

 白は頭上に広がる青空に思わず目を奪われた。

 降り注ぐ陽光は暖かく、どこか柔らかさを感じるものだった。

 乱れていた息が整ってくる。

 膝に手をつき、短く息をつく。

 その時、地面に列をなす蟻の姿が目に入った。

 蟻たちは綺麗に整列して白の足元を行進していく。列の先には巣穴のようなものがあった。

 白はもう一度周囲を見渡した。

 雨神様の呪いに反して、懸命に生きる生命たちがそこにいた。

 目の前で羽虫が飛んでいて、羽音が耳に届いた。

 虫を手で払って、ゆっくりと小道を進んでいく。

 どこまでも続く小道は乾ききっていて、雨が降った様子はない。

 ケイサツと名乗った男や、居場所が分からないという子供たちに対して呪いが降り掛かった痕跡はどこにも見られなかった。

 得体の知れない不安が心臓に絡みついて、頭の奥で正体不明の警鐘が鳴っていた。

「雨神様、雨神様」

 小道を進みながら、祈りの言葉を捧げる。

「天高く築くその御身。我ら十二族、八の形」

 幾度となく呟いてきた祈りの言葉を、省略する事なく紡ぎ出していく。

「輝く標は瞬いて、星の輝きに感謝し、天高く築くその御身、我ら十二族の魂を捧げ感応致します」

 雨神様は何も答えない。燦々と降り注ぐ陽光がただ眩しかっった。

 それからどれだけ歩いただろうか。

 白はひたすら道を進んだ。

 辿り着いたのは、開けた場所だった。

 前方には別の山が並び、雄大な景色が広がっていた。

 白はそこで足を止めて座り込んだ。

 酷く疲れていた。

 前方に広がる山々をぼんやりと見つめ、考えていたよりも山が広すぎる事を悟る。

 子供を見つけるのは難しいだろう、と限界が見えてしまった。

 それからふと気づく。

 山間の向こうに、何かが広がっていた。目を凝らすと、家のようにも見えた。

 心臓がとくん、と跳ねた。

 思わず立ち上がり、じっとそれを見つめる。

 家らしきものが無数に並んでいた。

 雨神様の呪いで流されたはずの街なのだとすぐに分かった。

 白は暫くそれを呆然と見つめる事しか出来なかった。

 日が傾き、空に蝙蝠が飛び始める。

 何もかもが、雨神様を無視するように生きていた。

「白?」

 背後から声が届いた。

 振り返ると、紙袋を抱えた静流が立っていた。

 紙袋が静流の手から零れ落ちて、草むらに落ちた。

「……静流さん」

 沈んでいく夕陽が、やけに眩しかった。



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09話

「静流さん……」

 白の呟きに、静流は答えなかった。

 彼女の足元に落ちた紙袋が風に揺れてガサガサと音を出した。

「静流さん、ごめんなさい。ボクは、ただ……」

 敷地から抜け出した言い訳をしようと口を開く。しかし、それより先は言葉にならなかった。

 じっとこちらを見つめる静流の瞳からは何の感情も読み取れなかった。

 数秒の後、静流はようやく動きを見せた。彼女は無言で白に歩み寄り、それから手を握った。

「日が落ちるわ。物の怪が動き出す前に帰りましょう」

「……うん」

 強く握った手を引っ張るように、静流が屋敷に向かって歩き出す。白も並ぶようにして後に続いた。

 みるみるうちに周囲が薄暗くなり、静流が急ぐように歩を進める。

「どうして」

 不意に静流が呟いた。蚊の鳴くような声だった。

「どうして、外に出てしまったの」

「……ケイサツの、クワキノさんって人が家に来て、近くで子供が行方不明になったって。だから、探さないとって」

「……白、あなたは優しいのね」

 静流は悲しそうにそう言った。

「貴方は穢れていないから。だからこそ、外に出るべきではないの」

「外……」

 白は静流の横顔を見上げ、それから意を決して口を開いた。

「静流さん。さっきの丘で遠くに家がいくつも見えたんだけど……あれは、何なの?」

 答えは返ってこなかった。

 手が強く握られ、静流は唇を強く噛んでいた。

 白は一瞬怯んだ後、更に言葉を続けた。

「雨神様はまだボクに気づいていないの? 呪いってすぐには降りかからないの?」

 静流は答えない。

 暗くなってきた獣道を、ただじっと進むだけだった。

「ねえ、ボク、呪いで死んじゃうの?」

 そこでようやく、静流は足を止めた。

 彼女は何かを我慢するように深く息を吸って、それから呟いた。

「全て嘘なの」

 白は言葉の意味が分からず、ただ静流を見つめる事しか出来なかった。

「雨神様なんていないのよ」

 彼女が何を言っているのか、わからなかった。

「でも、この世界が呪いに塗れているのは本当の話」

「静流さん……?」

 白の問いかけを無視するように、静流は言葉を続ける。

「私の母親は、殺されたの」

 静流が振り返り、どこか疲れた様子で言う。

「白、貴方の母親は重い病気だった」

 一体何の話をしているのか、白には全く理解できなかった。

「私達の父親は、生きる事を諦めてしまったわ」

 理解の追いつかない白を無視して、静流は喋り続ける。

「この国の若い人はね、病気で死ぬより自ら死を選ぶ人の方が多いのよ」

 脈絡がない。見えない。

「私はこの世界で生きていく自信がなかった。貴方を守っていく自信がなかった」

 細部の意味はわからないのに、何か重大な話をしているのがわかった。

「だから、こんな世界なんて壊してしまおうと思ったの」

 どこか清々しい顔で、静流はそう宣言した。

「私達だけの優しい世界を、作ろうと思ったの」

 

 

 

 

 

 源静流の記憶には、母親に関するものが残っていなかった。

 人づてに聞いた話では、母親が亡くなったのは静流が5歳の時だったという。

 年齢的には記憶に残っていても良さそうなものだったが、母の古い写真を見ても記憶の残滓を拾いだす事は出来なかった。

「どうしてうちにはママがいないの?」

 いつか、父親に疑問をぶつけたことがあった。

 すると父はひどく悲しそうな顔をして、静流は子供ながらに聞いてはいけない事を聞いてしまったのだと理解した。

 静流はそれ以降、成長しても母親の話題に触れる事はしなかった。母が強盗事件に巻き込まれたのを知ったのは随分後になってからだった。

 父親は一日の大半を仕事に費やしていた。

 一日の中で中々会う時間がなく、夜遅くに帰ってくる音がすると静流は布団から起き上がってわざわざ父親を出迎えた。すると父親は嬉しそうに笑って「ただいま」と言ってくれた。静流はそれがとても嬉しくて、毎日布団の中で眠るのを我慢して起きていた。

 父は寡黙で、優しい人だった。

 酒に溺れたり、弱音を吐くところなど見た事がなかった。休みの日は車で遠くに連れ出してくれた。

 良き父だった。

 だから、父が再婚出来たのは当然の結果だったのだろう、と静流は思う。

 静流が10歳になった時、父が知らない女性を連れてきた。酷く申し訳無さそうな顔をしていた事を覚えている。

 多感な時期の娘に再婚の相談をするのは不安だったのだろう。それでも父はその女性を愛していた。

 父と同じく、その女性も優しい人だった。

 血の繋がっていない静流に対して、本当の母親のように接してくれた。

 静流は二人の再婚を後押しした。本当の母親の事は記憶に残っていなかったからセンチに浸る事もなかったし、父は幸せを掴むべきだと思った。だから背中を押した。

 新しい母は薫(かおる)と言った。源薫。

 彼女は優しいだけでなく、ダメな事をした時は叱ってくれた。

 振り返れば、彼女はとても気を遣っていたのではないか、と思う。

 連れ子をしっかり叱る事は難しい。適度に甘やかしたほうがよっぽど楽だ。でも彼女はそうしなかった。本当に母親のように接してくれた。父が惚れた理由が分かった気がした。

 再婚してすぐに薫は妊娠した。もしかしたら、再婚前に妊娠が発覚していたのかもしれない。当時の静流にそうした事情は分からなかったが、とにかく新しい命が源家に誕生しようとしていた。

「触ってみる?」

 薫は膨らんだ腹部を撫でながら、静流に優しく問いかけた。

「いいの?」

「ええ。男の子らしいわ。あなた、お姉ちゃんになるのよ」

「男の子……」

「随分と年が離れてしまうから、一緒に遊んだりするのは難しいかしら」

 薫はそう言って幸せそうに笑った。

 静流もはにかんだ。幸せだった。

 それから少しして、薫は元気な男の子を産んだ。やや体重が小さかったが、出産は問題なく終わった。

 学校の帰りに面会に行った静流を、薫はやや疲れた表情で出迎えた。

「白(はく)、と名付けたの。穢れなき色という意味よ」

 産まれたばかりの赤ちゃんは、今にも壊れそうな細い手をしていた。

「静流。あなたはお姉ちゃんになったのよ。この子を守ってあげてね」

 今思えば、違和感のある言葉だった。

 まるで静流に託すかのような、そんな言葉を疲れ切った表情で薫は言った。

 薫が体調を崩したのは、それからすぐの事だった。

 一度は退院したものの、ひどい目眩を訴えた薫は寝てばかりになった。

 静流は学校から帰ると、白の面倒と薫の看病をするのが日課になった。

「これじゃあ、あなたの方が白のお母さんみたいね」

 薫は申し訳なさそうにそう言った。顔色がひどく青白かったのを覚えている。

 それから入退院を繰り返すようになって、薫は次第に病院で過ごすことの方が長くなっていった。原因は特定できなかった。

 父も日に日に疲弊していった。静流はどうしていいか分からず、白の世話をする事しか出来なかった。

 白の世話は苦ではなかった。手間のかかる子ではなかったし、甘えてくる姿がとても愛しかった。静流は殆ど白につきっきりの生活を送っていた。

 ちょうど、その頃からだった。

 中学生に上がった静流は学校で酷いいじめを受けるようになった。

 きっかけが何だったのか、今となってはもう思い出せない。

 影響力のある女子グループからからかわれるようになり、次第に学校で孤立していった。

 一度孤立すると、孤立しているという事実がいじめの原因になり、どんどん加速していった。

 静流は薫の看病と、白の育児を言い訳に学校を休むようになった。

 後は坂道を転がるように悪化していった。

 一度学校を休むと、勉強についていけなくなった。ノートを見せてもらえる友人もいなかった。

 欠席が増えると、出席しただけで注目を浴びるようになった。

「あ、今日は来たんだ」

 ふと耳に入ったそういう言葉が、酷く気になるようになった。

 クラス中の目線が自分一人に集まっているようで、静流はそうした目線に恐怖心を覚えるようになった。

 静流の欠席日数は、指数関数的に増えていった。

 父も母も、静流に目を向ける余裕がなかった事が拍車をかけた。

 白の世話を言い訳に、学校を休み続けた。

 穢れきなき色を体現するように白は無垢な存在で、静流は白にべったりくっつくようになった。

 あまりにも白とべったりな為に父から学校へ行くように怒られた時は学校に行く振りをして、そのまま山奥にある祖母の家へ遊びに行くようになった。

 祖母の家は古い木造建てで、広い庭園があった。手入れが行き届いていない為に草木が生い茂っていたが、街の喧騒から離れたそこは静流の逃げ場となった。

 祖母は独り身のためか、静流が来る事を拒まなかった。学校をサボっている事について怒る事もなかった。

 ただ一度、試すように言われた事があった。

「辛いのかい」

 短いたった一言が、胸に突き刺さった。全てを見透かされている気がした。

 黙り込む静流に、祖母は言った。

「なら逃げればええ。でも人は一人では生きられん。それだけは覚えときや」

 祖母の言いたかった事は、今でも分からない。

 逃げるのは良いが限度がある、という事だろうか。何度も考えたが、正解は見つからなかった。

 それでも、祖母は静流が逃げ込むのを見逃し続けた。父と母に密告する事はしなかった。

 そんな祖母が亡くなったのは、静流が14歳の時だった。

 発見したのは新聞の集金屋だった。庭で倒れているところを発見され、病院に搬送されたが既に事切れていた。

 怒涛だったのは、それからだった。

 母も急速に体調を崩し、祖母を追うように三ヶ月後に亡くなった。

 突然の事だった。

 亡くなる前日は、普通に静流と会話をしていた。それらしい最期の挨拶も出来なかった。

 葬式を終えた後、父は生気のない顔をしていて、無言で静流を抱きしめて泣き崩れた。

 父が泣く姿を見るのは、それが初めてだった。

 二度に渡って愛する人を失って、父の精神は限界だったのだろう、と思う。

 だから父が自殺した時、不思議と驚く事はなかった。

 通勤途中の立体歩道橋から飛び降りたのだと、電話がかかってきた。静流は白を抱きながら、その報告を黙って聞いていた。

 通勤途中というのが父らしい、と思った。死に場所を求めてどこか遠くへ行ったわけではなかった。ただきっと、唐突に死にたくなったのだろう、とそう思った。

 当時の静流は15歳で、白はまだ4歳だった。

 母の保険と、父と祖母の遺産が転がり込んできた。

 中学生の静流にとって大金だった。どうして良いか分からなかったが、下手に手をつけるべきではないように思えた。

 両親が亡くなった後、近所の人たちがしきり家に訪れるようになった。それが静流にとっては煩わしかった。

 もう学校に行くつもりはなかったし、誰とも関わり合いたくなかった。

 白を連れて、祖母の遺した屋敷に生活拠点を移すようになった。

 そのまま義務教育を終えた後、結局静流は高校へは進学しなかった。

 普通の高校生として人生を歩んでいく自信が、静流にはなかった。

 結局目標もなく、静流はそのまま進学も就職もせず、山奥の屋敷で白を育てるだけの生活を始めた。

 残った貯金を節約するため、自分の食事は出来るだけ山菜を使うようにした。庭園で家庭菜園も始めた。

 どこか現代人から離れた生活を数ヶ月続け、それからふと気づいた。この生活を続ける事に何も問題がない事に。

 外の世界は呪いに塗れている。

 母親のように殺される事だってある。

 父のように自ら死を選ぶ人間だっている。

 自分のように、ちょっとしたきっかけで集団から弾かれる存在だっている。

 悪意と呪いに満ちた世界で生きていく理由が、一体どこにあるのだろう。

 かつて薫は言った。

 ――白、と名付けたの。穢れなき色という意味よ。

 ――静流。あなたはお姉ちゃんになったのよ。この子を守ってあげてね。

 穢れなき白。

 きっと、外の世界では簡単に穢れてしまう。

 姉として守れるのはこの庭園の中だけだった。

 ならばいっそ、外の世界などいらないのではないか。

 悪意と呪いに満ちた世界など、壊してしまえばいいのではないか。

 そう思ってしまった。

 それに、と静流は幼い白を見つめた。

 無垢な穢れのない姿。聡明で、大人しく、上目遣いで見上げてくるその瞳が愛おしかった。

 他にはきっと、何もいらない。

 二人だけで生きていけば良い。

 だから源静流は、世界を殺す事にした。



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10話

「だから私は、世界を丸ごと壊してしまう事にしたのよ」

 当然のように、静流はそう言った。

 語られた生い立ちの全てが、白の理解を超えていた。

「静流、さん……一体何を、言って……」

「もっと単純に、もっと分かりやすく言い直しましょうか」 

 薄暗い森の中、静流は今にも泣きそうな顔で言葉を続ける。

「あなたはずっと、私の空想の世界で生きてきたのよ」

「空想の、世界……?」

「そう。全てが私の空想で、嘘だったの。雨神様の呪いなんてなかった。人々は今も、争いを繰り返しながら繁栄し続けている。さっき山の向こうに見えたあそこに、たくさんの人たちが暮らしているのよ」

 何かが崩壊していく音が聞こえた。

 先程まで確かに存在していた大地が崩れ、白を飲み込もうとしていた。

 世界そのものが軋み声をあげ、大切な何かがずれていく。

「十二族なんて元からいないの。それどころか私達に身寄りなんていない。上公巫女というのも嘘。私にはそんな大層な力なんて宿っていないもの」

 静流の口から次々と溢れる言葉を、白は呑み込む事が出来なかった。どのように理解し、どのように納得すれば良いのか皆目見当がつかなかった。

 唖然とする白を見て静流が泣きながら笑い声をあげる。自嘲するような、どこか自暴自棄な笑い声だった。

「おかしいでしょう? 私はずっと、貴方に嘘を教え続けてきたの。貴方が物心ついた時からずっとよ。空想の世界を真剣な顔で語ってきたの。自分でも頭がおかしいと思うわ。こんなのどこかで破綻するに決まってるのに、十年以上も嘘を重ねてきた」

「……ねえ、じゃあ、この森には物の怪もいないの?」

 問いかけると、静流は泣くように笑いながら頷いた。

「ええ。物の怪も空想の生き物よ。この世界にそんな怪物はいないわ。全部、何もかもが嘘だったの」

「じゃあ――」

 白は静流から目を離し、すっかり暗くなった空を見上げた。

「――このまま子供たちを探さないと」

 静流の瞳が大きく見開かれる。

 白はもう一度静流に視線を戻し、真っ向から彼女を見つめた。

「静流さん。お願い。ボクは外の世界をよく知らないから一緒に探して欲しいんだ」

 彼女はすぐには口を開かなかった。

 揺れる瞳で白を見つめ、長い間動かなかった。

「あなたは」

 静流が震えた声で言う。

「本当に穢れなく、何の色もつかないまま真っ白に育ってしまった」

 どこか悲しそうな表情だった。静流が何故そんな顔をするのか、白には分からなかった。

「怒らないのね。私が嘘をついてきた事に」

 白は首を傾げて、それから苦笑した。

「驚きはしたけれど、正直よくわからないよ。本当は雨神様がいなくて、人間が大勢生き残っているなんて想像できないし」

 それに、と白は言葉を続けた。

「静流さんはボクを守るためにそうしたんだよね。お母さんもお父さんも、ボクは全く覚えてないから良くわからない。でも、良くない死に方をしたんだって事は分かった。ボクは何も知らないから、静流さんがそこから何を考えて嘘をついたかは分からないし、それを悪くも言えないよ」

 それから思い出したように付け加える。

「あと、ずっと守ってくれてありがとう」

 静流の表情が崩れる。

 白はそれを困ったように見てから、ゆっくりと踵を返した。

 子供たちを探すため、暗い小道へ足を進める。

「白!」

 後ろから静流が白の腕を取った。

「ダメよ。夜の山道は危険だわ。夜明けまで待ちなさい」

 振り返ると、真剣な静流の瞳があった。

 涙に濡れた瞳が、今度は嘘ではない事を告げていた。

「物の怪なんていなくても夜は危険なの。夜が明けたら一緒に探しに出かけましょう」

「でも――」

「白、これは譲れないわ。山に慣れている人でも危険な事なの。外を知らない貴方に夜間の捜索は許可出来ない」

 白は少しだけ考えて、すぐに折れることにした。

「うん……じゃあ、夜が明けたら一緒に探してくれる?」

「ええ。だから今日は一度屋敷に帰りましょう」

 静流がそう言って、手を握ったまま屋敷に方向を変える。

 静流に歩みを合わせて隣に並ぶと、彼女はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。

 白は何も言わなかった。

 手を引かれて、見知らぬ土地から屋敷への帰り道を行く。

 彼女に引っ張られながら歩いていると、不意に古い記憶が蘇った。

 ずっと昔、こうやって山を登った気がする。白を守るように先を歩いてくれた人がいた気がする。 

 それだけはきっと、嘘ではない。

 ならば、十分だと思った。

 

 

 

 屋敷に戻ると、静流は真っ直ぐ自室へ向かった。

 白は縁側に腰掛け、明かりに寄ってくる虫を邪魔そうに手で追い払った。

 空を見上げると、鮮やかな月が浮かんでいる。

 いつもと変わらない星空だった。

 雨神様がいようといまいと、世界は何も変わらない。

 この庭園はとても小さな砂粒に過ぎないのかもしれない、と思った。

 草履を履いて縁側から立ち上がる、灯籠の明かりを頼りに池の中を覗くと、鯉たちは水底でじっとしていた。きっと眠っているのだろう。

 その場に座り込んで、動かない鯉をじっと見つめる。

 鯉たちは眠っている時でも目を閉じる事はない。

 自分も同じかもしれない、と思った。ずっと目を開けていたのに、深い眠りについて静流が語る夢を見ていただけの気がする。起きていると錯覚していただけだった。この世界は夢現に過ぎなかった。

「白」

 振り返ると静流が立っていた。

 彼女はそっと白の横に腰を下ろし安堵したように言った。

「桑木野さんから連絡があった。行方不明の子供たちは全員無事に見つかったらしいわ」

「連絡?」

「電話という、外の世界とやり取りする方法があるの。今度また教えるわ」

「電話……」

 呟いて、それから白は口を噤んだ。

 知らない事が多すぎた。何から聞けばいいのか分からなかった。

 静流は白が新たな概念を咀嚼して飲み込むのを待つように黙っていた。

 その態度が、白には一層不思議だった。

「静流さんは」

 頭の中で整理しながら、疑問をゆっくりと吐き出していく。

「ボクに大きな隠し事をしていた。色々な事を隠しただけじゃなく嘘をついてた」

「ええ、そうよ。私は貴方に隠し事をして、色々な嘘をついてきた」

 静流は静かに肯定する。

 灯籠の明かりに照らされた彼女の瞳は、じっと池の中の鯉へ注がれていた。

 白は大きく息を吸って、それから言った。

「でも、分からないんだ。もっと騙せてたはずだったのに、十年も積み重ねてきた嘘をあっさり白状した。きっと静流さんなら誤魔化せたと思う」

 静流の視線は池に向けられたまま動かない。

「どうして静流さんは、あんなにあっさりと全てを白状したの?」

「どうして」

 静流は呟くように反芻して、それから目を閉じた。

「貴方がもう、十五歳になるからよ」

 真意を図りそこねた白は何も言わなかった。

 静流が目を開き、それまでじっと見つめていた池から視線を外して白を見る。

 視線が交差した。

「幼かった貴方を連れてこの屋敷に転がりこみ、世界を丸ごと壊そうと決意したのは私が十五歳の時だった。私はこの生き方を自分で選択してきた」

 だから、と彼女は言葉を続ける。

「貴方も選択するべきだと思った。十五を数えれば成人だと教えてきたでしょう。私が重ねてきた嘘を洗いざらい話して、そこで貴方自身がこの庭園で生きていくか外に出ていくか今一度選択を与えるべきだと思ってた」

 バレたところで今更隠す意味などなかったのよ、と彼女は自嘲するように笑った。

「もちろん今日の事は想定外だったわ。正直、動揺した。いえ、貴方のほうがもっと動揺しているでしょうね」

「……うん」

 白は小さく呟いて、それから空を見上げた。

「静流さん、この世界はどれくらい広いの?」

「言葉では言い表せないほどよ。この山があって、外には町があって、その外には都道府県と呼ばれる区切りがあって、そしてそれらをまとめる国があって、そうした国が何百と存在して、そうしてこの惑星があって、外には更に広大な宇宙が広がっているの」

 そうだ、と静流は悪戯っぽく笑う。

「空に月が出ているでしょう。ごく一部の人間はあの月まで移動した事があるのよ」

 白にはそれが冗談なのか本当なのか判断がつかなかった。

 ただ想像もできないほど恐ろしく広大な世界が外に広がっているのだとわかった。

 それで、答えが決まった。

「……静流さん」

 小さく息を吸って、それから慎重に言葉を口にしていく。

「静流さんは前に言ったよね。この池の鯉たちは幸せなのだろうかって」

「ええ、言ったわ」

「狭い池に閉じ込められているけれど、でも外敵からは身を守る事ができる。餌も用意してもらえる。果たしてこれは幸せなことなのだろうかって。静流さんはそう言った。それに対してボクは確かこう答えた気がする」

 静流の黒曜のような瞳を真っ直ぐ受け止め、白は告げた。

「きっと幸せなんじゃないかなって。この鯉たちは外の呪いの中では決して生きられないから」

 ボクも一緒だよ、と白は言葉を続けた。

「ボクもこの鯉と一緒なんだと思う。ボクはこの庭園の中でちょっと退屈だったけど幸せに生きてきた。お母さんみたいに誰かに殺される事もなかったし、お父さんのように自分で死のうなんて思わなかった。そんなボクはきっと、外の呪われた世界では生きられなかったんじゃないかなって、そう思うんだ」

 だから、と静流の手を取る。

 幼い頃からずっと引っ張ってくれた手を握り返す。

「ボクは静流さんに感謝してるよ。今までありがとう」

 池の中、鯉は目を開けたまま眠り続けている。

 その瞳は、夢現を見たまま動かない。

 うたたかの中、気泡が浮かんで溶けていく。

 小さな池に波紋が広がり、やがてそれはすぐに穏やかな水面となって消えていった。



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エピローグ

 暑い日差しが目を焼いた。

 白は空を眩しそうに見つめ、それからすぐに視線を落としてお腹をすかした鯉たちに餌を投げた。

 気のせいか鯉たちも元気がなさそうに見えた。

「白、準備できた?」

 後ろから静流の声。

 振り返ると大きな帽子を被った静流が立っていた。涼しそうなワンピースを着ている。

 最近の静流は浴衣をやめて、外の服をよく着るようになった。動きやすく気に入っているようだった。

「うん。ちゃんと財布も鞄にいれてるよ」

「そう、じゃあ戸締まりの確認してくるから」

 静流が玄関口の施錠を再度確認する。

 施錠。

 今までなかった事だ。この庭園の外に人がいるなんて思いもしなかったから。

 ちょっとした事が新鮮で、全てが違う世界のように見えた。

「白、靴紐解けてるわ」

 施錠の確認を終えた静流がやってきて、開口一番に指摘する。そこではじめて靴紐が解けている事に気づいた。

 白はこの靴紐が嫌いだった。結び方がややこしいし、何より面倒くさい。

 もたもたしていると、見かねたように静流が腰を下ろして靴紐を奪う。

「結び方が甘いのよ。もっときつく引っ張らないと」

「……靴だけ草履じゃだめかな」

「そんなの目立つからダメよ。それに変だわ」

 結び終えた静流が立ち上がり、白の手をとる。

「さ、行きましょう」

 今日は町に買い物に出る予定だった。

 白が町に出るのは初めてだった。

「うん」

 白は頷いて、静流の手を握り返す。

「ねえ、静流さん。町の見学だけじゃなく山菜のとり方も教えて欲しいな」

「それは今度ね。今日はまず、町に慣れないと」

 それと、と彼女は言う。

「町には他の女性も大勢いるけれど、白は私と婚約しているんだから話しちゃダメよ」

「婚約ってなあに?」

 首を傾げると、静流はにんまりと笑った。

「契約の一つよ。私は白以外の男性と話さないようにするし、白も私以外の女性と話しちゃダメなの。十二族協定より上の憲法で定められているの」

「そうなんだ。うん、守れると思う」

「いい子ね。私の白、穢れなき白」

 静流は歌うように言って、それから歩き始める。

 白も歩調を合わせ、彼女の隣に並んだ。

 庭園の敷地から、呪われた世界へ足を踏み出す。

 しかし、呪いはやってこない。すぐには降り注がない。

 母も、父も死んだ。

 静流は世界を壊すことを選んだ。

 それでも呪いは絶対ではない。それを白は知っている。

 隣を歩く静流と一緒なら、外の呪いはきっとそれほど強く恐れるものではない。

 少なくとも、雨神様はもういない。

 だからきっと大丈夫。

 白は静流を引っ張るように、地面を強く踏み込んだ。

 

 

 

 



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