桂木弥子と暗殺教室 (ぽぽぽ)
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1話

 雲から覗き出る太陽が、容赦なく熱を放射する季節であった。

 自然に囲まれた山の上にある椚ヶ丘中学の隔離校舎も存分に陽の光を浴びていて、蒸気が霧散しているかのような湯気すらも目に見える気がした。

 そこで学ぶE組の生徒たちは、いつもなら何人かはその暑さに不平を垂れ、やれクーラーを用意しろだの、プール開きはまだかなどと言っている筈なのだが、その日ばかりは腕に汗の粒を垂らしながらも別の話題に躍起となっていた。

 

「新しい先生が来るって、茅野、それ本当?」

「うん……」

 

 朝のHRが始まる前から茅野カエデの席の周りは人だかりが出来ていて、自然と潮田渚にもその会話は聞こえてくる。

 

「たまたま朝早く来たら、職員室の前の廊下から烏間先生の電話する声が聞こえたの」

「いつから来そうなんだ」

「会話の感じ的に、多分今日」

「まじかよ……」

 

 新しい教師の赴任というのは、中学校の生徒にとっては一大イベントとなる。どんな人間にしろ生徒たちの学校生活に必ず変化を与えてくれるその存在は、彼らにとって大きな刺激となる。大抵は、新任教師の赴任前は大きな期待で教室は盛り上がるはずなのだが、彼らのいる、『暗殺教室』ではそうはいかなかった。

 

「絶対普通の人じゃないよね」

 

 倉橋陽菜乃が不安を顔に浮かべながら呟くと、ほかの生徒たちは小さく頷いた。

 

 

 彼らは、日々の学校生活の他に、ある特別な訓練をしている。

 それは、暗殺である。しかも、自分たちの教師の暗殺だ。

 信じがたいことに、今年の四月から彼らの教鞭をとっている教師は地球の破壊を企む破壊生物で、一年間でその生物を暗殺することが彼らの目標の一つであるのだ。

 そして、そんな教室に関わる人間がまともではないことを、彼らは経験から理解していた。

 

「最近鷹岡のやつが来て、出て行ったばっかりなのにな」

「ほんと最低だったなあいつは」

「ビッチ先生みたいな人だったらいいんだけどなぁ」

「岡島鼻の下伸びてる」

「でもビッチ先生だって最初は嫌な人だったよ」

「そりゃ、殺し屋なんだからいい人なんて少ないっしょ」

 

 

 各々話す会話には、やはり期待とは程遠い感情が現れていた。

 そんな中、遅れて教室に来た赤羽カルマは自分の机に荷物をどすりと置いた後、不思議そうに渚の席へと近づいて行った。

 

「なにこれ。なんの騒ぎ」

「あ、カルマ君おはよう」

「うん。そんで?」

「ああ、なんか新しい教師がまた来るみたいで」

「……へぇ」

 

 カルマは顎に手を乗せて、少し考えるようにしてから不敵な笑みを浮かべた。渚はすぐに、あ、これ悪いこと思いついた顔だ、と思った。

 

「そしたらさ、今度はこっちから仕掛けてやろう」

 

 その提案に、話していた生徒たちは皆カルマの方を向いた。

 

「仕掛けるって?」

 

 皆を代表して磯貝悠馬がカルマに訪ねる。

 

「大体新しくやってくる大人たちってさ、完全に俺たちのこと舐めてるじゃん。だから、舐められないようにするんだよ」

「……どうやって?」

「そりゃ、プライドをずたずたにして」

 

 そう言ってから、またカルマは笑った。相変わらずの悪い考えにクラスメイトは一度身構えたが、それから徐々に賛同の声が上がっていった。

 それほど以前来た鷹岡という人間には苦しめられた思い出があるのだ。

 

「だけど、どうやってやる?」

「出鼻をくじこう。最初っからめちゃくちゃにしてでかい顔できないようにする」

「罠でも仕掛けるか?」

「でも、来るのはきっとすごい殺し屋でしょ?引っかかるの?」

「そこをうまくやるんだろ?」

「あれあれ? 標的用に仕組んだ罠にどうしてひっかかっちゃうんですか? こんな中学生の罠も見破れないんですか? 結構雑に作ったんですけど? っていうから」

「ゲスイなぁ」

 

 

 皆が団結してああだこうだと話し出す。

 そんな姿を渚は苦笑いしながら見ていると、横からカエデにちょんちょんと腕を突かれた。

 

「なんか、渚あんまり乗り気じゃないね」

「うーん。ちょっと気になることがあって」

「どうしたの?」

「前に鷹岡先生が来たとき、烏間先生僕たちのために鷹岡先生を追い出してくれたよね。そんな烏間先生が、あれから時間を置かずに変な人を連れてくるかなって思って」

「……確かに、そうかも」

 

 二人が会話をしている内にも、カルマ君を中心としたゲスイ罠づくりはすでに制作段階まで移っている。

 そんな彼らを今更止めることができず、渚は、「でも、僕の考えすぎかもしれないから」と自信なさげにカエデに伝えて、罠づくりを見守ることにした。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「来た!確かに烏間先生の後ろにもう一人いる!」

「ビッチ先生じゃないか?!」

「顔はよく見えないが髪の長さが違う!十中八九新しい教師だ」

「よし」

 

 廊下の奥から教室に向かってくる姿を、別の場所に待機していた杉野が確認して連絡を寄越してきた。

 

「烏間先生誘導隊準備」

「了解!」

 

 カルマの合図とともに、何人かの女子たちが廊下側の窓から廊下に出る用意をする。

 

「来た!烏間先生ドアにタッチ!」

「GO」

「烏間先生~!助けて―!」

「なに!?」

 

 生徒たちの声に素早く反応し、烏間は身をすぐに翻した。

 その隙に、教室のドアそばに待機していた菅谷が扉を開ける。そして機動力のある杉野が、烏間のそばにいた女性を教室へと押し込んだ。

 

(この人軽っ!)

「へ?」

 

 まったく何の抵抗も感じなかった杉野はあまりの簡単さを意外に思ったが、その間にも間抜けな声を出した女性はあっけなく一番教室に入り、まず、足元が何かに引っかかる感触に気付く。

 開けたドアからピタゴラスイッチの要領で次々罠が動いていく。

 女性はまず、足元のロープに転んでビターンと痛々しい音とともに顔から思いっきり倒れる。いてて、と言いながらも上に仕掛けてあったチョークの粉が躊躇に彼女に大量に降り注いだ。理解が追い付かずにえ、え、と困惑している女性に、最後は大きな金のたらいが落ちてきて、コーンと軽快な音を教室中に響かせた。

 

 そして、な、なにこれぇ、と真っ白になりながらタライをよかした彼女の上に、もう一つタライが落ちて、カルマの罠大作戦は終わった。女性はばたりと倒れこんでいた。

 

「あれあれー……」

「何をしているんだ君たちは!?」

 

 カルマが思いっきり煽ろうとする前に、烏間がすぐにその女性の傍へと駆け寄っていった。大丈夫か! と烏間はタライをどかしてチョークの粉を振り払っていく。

 

「どういうつもりだ!」

「先生ー。お言葉ですけど、こんな罠に引っかかる人に教えられることなんてないっすよ」

「馬鹿を言うな! 桂木先生は何の訓練もしていない人間だぞ!」

「……は?」

 

 そう言われて、生徒たちはチョークまみれで目を回しているその女性をやっとしっかりと見た。

 幼い顔とそのあほっぽさはどうみてもその筋の仕事をしていなさそうで、そして、だれもが知っている有名人とそっくりであった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 烏間に一通り生徒たちが叱られている間、桂木弥子は一度シャワーを借りてチョークまみれの体をしっかりと洗っていた。

 

「ひどい目にあった……」

 

 弥子以上に怒りを感じているのか、弥子の髪の一部は、思いっきり体を揺らして怒りを表している。

 

「あ、あかねちゃん。落ち着いて」

 

 落ち着かせるように入念に髪も洗い、粉まみれの服の代わりに用意してくれた学校のジャージに着替える。

 

「なんか、久々にあんな目にあったよ」

 

 思い出すのは、ネウロと一緒にいた時にくらった拷問まがいの行為の数々である。あれに比べれば文字通りこんなのは子供の悪戯レベルなのだが、あまりに久しぶりだったので、少し面食らってしまった。

 

 そうして、些細なことからネウロの面影を思いだして弥子が一人で微笑みながら廊下に出ると、それを見てしまった烏間が額に汗をかいた。

 

「だ、大丈夫か?まだ何かおかしいようだが」

「だ、大丈夫です!はい!」

「ならいいのだが……」

 

 あれだけの目にあって一人で笑っている姿は異常者に近いものがあったが、烏間はなかったことにしてくれるらしい。その優しさのせいでより恥ずかしさが増して弥子は顔を赤くした。

 

 廊下を歩き、再び教室に向かいながら烏間は弥子に話しかける。

 

「先ほどは本当にすまなかった。生徒にはこちらから強く叱っておいた」

「いえ!あれくらいならなんともないですよ」

「そうか」

 

 淡白な言葉ながらも、その言いぶりから弥子は正しく彼の性格を理解できた。冷静で真面目な人だが、しっかりとした芯があり他人を思いやっている。彼はきっと、私だけでなく生徒のためにも叱ったのだろう。

 

 少しだけ、笹塚に似ていると感じた。

 

「優しい人ですね」

 

 ぼそりと弥子が言うと、烏間は珍しく目を少し丸くしてから、初対面で言われることのない言葉だ。と真顔で返した。

 それから、初対面じゃなくても言われたことのない言葉だと烏間は遅れて気付いた。

 

 

 

 ○

 

 

 次こそは何のトラブルもなく普通に教室に入れた。

 まず生徒たちは皆自分の席で立っていて、弥子が教室の中央に行くと一斉に謝罪の言葉を述べてくれた。大勢の子供たちを謝らせたという事実が恥ずかしくて、弥子はすぐに、気にしてないから大丈夫です、と伝えた。

 その言葉に安心したのか、生徒たちはほっと胸を撫で下ろしてから席に座った。

 

 そして、烏間が慣れた様子で皆に話を始めた。

 

「先ほど少し話をしたが、今日から新しい教師としてもう一人このクラスに加わることになった。知っている人も多いと思うが、桂木弥子先生だ」

 

 皆の注目が一斉に弥子へと向く。自分の名前を知っている人が多いのか、好奇の目線を多数感じた。子供たちの純粋な瞳を一気に感じて、まだなんとなく状況に慣れていない弥子は、ど、どーも、とだらしなく返事をしてしまう。

 

 

「あの、どーして暗殺者じゃなくて有名な『女子高生探偵』がこのクラスに?」

 

 髪を二つに縛った中性的な少年、渚の質問に弥子はぎょっとした。

 話に聞いていた通り、この生徒たちは暗殺について学んでいるらしい。子供が簡単に何の疑問もなく『暗殺者』と口に出したことがこの環境の異常さを物語っていて、少し臆してしまった。

 言い淀む弥子の代わりに、烏間が説明してくれる。

 

 

「今はただの『探偵』桂木弥子だ。彼女には防衛省が正式に依頼してここへ来てもらった。彼女の仕事は暗殺ではなく、弱点の解明。探偵として、彼女にはあの怪物の『謎』を調べてもらうために来てもらった」

 

 

「ヌルフフフフ。出来ますかねぇ、私の謎を調べるだなんて」

 

「うわぁ!!」

 

 突如後ろから聞こえた声に、弥子は思わず声をあげてしまった。生徒も烏間も慣れているのか特に驚く様子がなかった。

 

「初めまして、桂木弥子先生。私、殺せんせーと申します」

 

 弥子はそこで初めて、殺せんせーを実物で見た。

 彼が、この地球を破壊しようとしている怪物なのだ。

 話を聞くときに写真では見せてもらったが、現実に見るとやはり驚く。

 まん丸の黄色の顔に絵に描いたようなパーツ。袖からはうねうねとした触手のようなものが何本も飛び出してきている。どうみても、人間ではない。

 

 

(俺たちは慣れたけどさぁ、やっぱ殺せんせーって初対面だと相当やばいよな)

(見た目は完全に化け物だもんなぁ)

 

「こら! 吉田君も村松君も聞こえてますよ! 先生だって傷つくんですから!」

 

 

 親し気な様子で殺せんせーは生徒に注意をする。そんな姿が、弥子には意外だった。

 

 

「えと、ころ、せんせーでいいんですよね。」

「はい。これからよろしくお願いします」

 

 そう言って、殺せんせーは何本かの触手を弥子へと向けた。

 

(へ?! 握手!? 握手だよねこれ! どれ?! どの手につかめばいいの!?)

 

 

 訳も分からず、弥子はとりあえず一つの触手を握る。あ、タコみたいと、思わぬ想像によだれが出そうだったのを弥子は必死に抑えた。

 

 顔を上げると、殺せんせーは笑っていた。単純なパーツの作る表情だが、穏やかに笑ってくれていることが弥子には分かった。

 

(……あれ)

 

 予想と大きく違っていて、弥子は困惑してしまった。

 

 地球を破壊しようと企む生物。

 事前に聞いた情報だと、弥子はいつかの大悪人を頭に思い浮かべていた。

 人を痛めつけることをただただ嬉しく思い、人が死ぬことに何の感情も湧かないあの化け物と呼べるレベルの人物。自らを『シックス』と名乗り大きな被害を出したあの人物と重ねようとしていたのだ。

 

 なのに、この笑顔からはそんな感情からはほど遠いものを感じた。

『シックス』とは違う。魔人であったネウロとも違う。

 この人はもっと、私たちに近い、何かであると、直感的にそう思った。

 

 

 

「さて、あなたも教師としてここに来たからには、生徒たちに何か教えてもらいますよ?」

「え? でも、私教育免許もないし」

「ヌルフフフ。大丈夫です。何か一つでも得意なことがあれば、そのことを生徒たちに話してあげてください。明日からでいいので今日は見学でもして考えておいてくださいね」

 

 

 烏間の方を見ると、彼も申し訳なさそうに頷いていた。つまり、これも依頼の内に入るらしい。生徒たちは数人除いてみな興味ありげにしている。

 弥子は一息ついて、小さく、分かりました、とだけ返事をした。

 

 

 

 





暗殺教室とネウロのクロスオーバーです。
原作既読推奨です。
更新はゆっくりだと思いますがよければお付き合いしてください。


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2話

「つ、疲れた」

 

 生徒達が皆帰り、人が居なくなった教室で、弥子は一人誰かの席についてうな垂れるようにして座っていた。

 

 朝のHRの後から、授業の合間の弥子への質問責めは相当なものだった。探偵としての仕事について聞かれたり、単純に弥子の趣味などを尋ねられたり、女の子達には男の趣味なんかを聞いてくる子もいた。何より激しく詰め寄ってきたのは不破優月という子で、弥子のファンらしくサインを誰よりもねだってきた上に決め台詞を言って欲しいとまで言ってきた。困っていた弥子に気付いて見かねたクラスメイトが彼女を引き下げてくれたが、他にもサインを欲しがる子はいた。単に有名人なら貰っとこうという感覚なのだろうが、未だにそこまで持ち上げられることに慣れていない弥子には何となくしんどかった。

 

 

 また、もう一人のE組の教師であるイリーナにあまり好かれていないのも弥子の心労を増やす原因であった。

 

 生徒達に囲まれていた弥子が気に食わなかったのか、まずお洒落に気を使ってない外見や童顔であることを責めてから(服装がジャージなのは弥子のせいではないが)、弥子の前で英語の授業をしてみせていた。

 本場の英語かつ分かりやすく、更には何故かエロティックに教えるその姿から、あんたみたいなお子ちゃまにこれが出来るかしら、という何故かライバルめいた視線を向けられていて、弥子は困った顔を浮かべるしかなかった。

 

 弥子先生が人気だから嫉妬してんだよ、と伝えてくれた男子生徒は、生意気だとディープキスされる罰にあっていた。それが罰となっているのかは分からないが、その生徒はヘロヘロになっていたので成立はしているのだろう。

 

 正直に言うと、しばらく世界を旅に出ていたおかげで英語は多少話せるので、中学英語くらい教えられると思っていた。しかし、彼女ほどのレベルで教えられる気にはなれない。

 その少しふざけた言動と行動とは裏腹に、彼女の授業は日常会話として分かりやすく、何より面白かった。

 実体験として語られる彼女のエピソードで皆を引き込み、そのまま劇のよう使える英語を教えていく。海外語に生で触れる気分になれる彼女の授業は、弥子から見ても素晴らしく見えた。

 

 

 そして、授業の分かりやすさで言えば、殺せんせーの授業は見事だった。

 多数の触手を使いこなし、それぞれの生徒の理解度を正しく把握し、全員が興味を持てるように授業をしている。ここにきて1日目の弥子でさえ、その授業の凄さははっきりと理解出来た。

 

「教師って難しいなぁ」

 

 まだ何も教えてないのに、弥子は机に手を伸ばしぐったりとしたポーズを取った。

 

 一応探偵として依頼を受けてこの場にいるのに、まさか最初に教師としてつまづくとは思ってもみなかった。

 烏間先生にも、立場上探偵としての仕事と教師としての仕事を両立させてほしいと頼まれてしまうし、よく考えればここに来る前にあったあの目つきの悪い理事長も、弥子に授業をするように進めていた。

 教えるなんて経験に乏しい弥子がそこで悩むのは仕様がないことなのだが、だからといって前進しない訳にはいかないので、こうして誰も居ない教室で頭を抱えているのである。

 

 

「ヌルフフフ、悩んでますねぇ」

「……あの、どうしていつも突然後ろに現れるんですか?」

「マッハ20の速度と、音や衝撃が出ないように上手く使える触手があれば簡単です」

 

 どうやって、という意味で聞いたわけではないのだけれど、と頭でツッコミながら弥子は声の聞こえた方を向く。

 分かっていたことだが、そこには三日月のように口角を上げた殺せんせーがいた。

 

「弥子先生、明日には何かひとつ授業が出来るように考えておいて下さい」

「明日ですか……」

 

 随分と急な話であるので、弥子は不服そうな顔をしてみせた。

 

「探偵の仕事をしなければならない一方で、子供達に教える授業を考えなければならない。それは、生徒達が暗殺と勉強を両立することと似ています。ならば、やはり教卓に立つ人にはそのくらいは出来て欲しいのです」

 

 1日ここにいて分かったことだが、殺せんせーは常に子供達のことを考えて行動している。まさしく教師として正しい姿である彼を見て、弥子は破壊生物であるなんて思うことが出来ず、こうやって馴れ馴れしく話しかけられても、普通に話してしまうのだ。

 そして、弥子はそれが嫌なこととも思えない。

 地球破壊という大犯罪は許せないのに、そんなことよりもまず教師としてあろうとする彼という人物に、そして彼を慕うこの暗殺教室に、弥子は興味を持ってしまったのだ。

 

「でも、私勉強を人に教えられるほど賢くないですよ」

「教科書にあることを教える必要はありませんよ。試験で大事なことを教えるのは私の仕事です。烏間先生やイリーナ先生、そして弥子先生には、あなた達にしか教えられないことを教えてほしいのです」

「……私にしか出来ないこと?」

「はい」

 

 そういって、殺せんせーはにんまりと笑った。

 

「烏間先生が自身の持つ戦闘技術を子供達が一つずつ学べるように教えるように。イリーナ先生が自身のハニートラップと他者との付き合いを通して得た経験を英語という世界共通ツールで教えるように、探偵として今いるあなたにだけ教えられることがある筈です」

 

 

 そしてその答えはあなた自身が見つけるのですよ。

 そう問いかけてくる表情であって、弥子は彼にとって私もまた生徒と変わらない存在として見られていることが分かった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「私にしか出来ないこと、と言われても……」

 

 にゅやっ!もうすぐアメリカでベースボールが始まってしまいます! などと言いながら殺せんせーがあっという間に消えてからも、弥子はまだ教室にいた。外はすでに殆ど日が落ちていて、そろそろ帰らないと山から下って行くのが困難になりそうだ。

 

 

「……あの、桂木弥子先生」

「はい!?」

 

 再び誰も居ない筈の教室で声を掛けられて、今度こそは飛び上がるようにして驚いてしまう。

 明らかに殺せんせーとは違う声だった。

 

「大丈夫ですか。ひどく疲れているように見えますが」

「あーうん。大丈夫。ありがとね。えーと」

 

 弥子は声の主を探そうと教室を見渡すが誰の姿もない。不審に思いつつも首を振るがやはり人の姿は見えない。

 

「弥子先生、ここです」

「……えっ! あー」

「自律思考固定砲台の、律です」

 

 律は黒く平べったい板状の物体の正面を液晶にして、そこに少女の姿を映し出して弥子に話し掛けていた。ビスで床に固定されたそれは正しく固定砲台であることを表している。液晶に映る少女はピンクの髪色をし、瞳は青色であった。

 

 まだこのクラスに慣れていない弥子は、やはり驚く事ばかりである。他の生徒に聞けば、暗殺機能をもつ人工知能機械としてこの教室に送り込まれてきたのが彼女らしい。初めは殺せんせーを殺すことだけに特化していたせいで周りには迷惑を掛けたらしいが、今はしっかりとクラスメイトとして皆と仲良く学校生活を送っているようだった。

 

「何か悩み事でも?」

 

 液晶にいる少女から話しかけられて、弥子は頬をかきながら場所を移動して彼女前の席にある椅子に座った。

 

「うん。ちょっとね。自律思考……」

「律で構いませんよ」

「律は、ずっと私を見てたの?」

「はい。私はずっとここにいますから」

 

 そっかーと、弥子は生徒の前でだらしなく座っていた自分を恥ずかしく思った。

 殆どの生徒は帰ったといっても、そりゃ固定されてる彼女は帰れないね、と納得して弥子は律の顔をしっかりと見た。

 

「……どうかしましたか?」

「いや、やっぱりここは不思議な教室だなって思って」

「不思議、ですか?」

「うん」

 

 全身が映るディスプレイの中の少女は、生徒たちと同じ制服を着こなし、表情もあるようにみえる。とても機械の存在とは思えなかった。

 

「月を破壊して、地球を壊そうとしている破壊生物がいるっていうから結構身構えて来たんだけどさ、思ったよりずっと普通で、みんな楽しそうな教室だったから」

「……あんな教師がいて、私みたいな生徒もいるのに、普通、ですか?」

「うん。私も学校生活を思い出して、懐かしい気持ちになっちゃった」

 

 間髪なく肯定して頷いてくれた弥子に対して、律は少し驚いた。

 この女性は、見た目よりもずっと肝が座っているようだ。あんな生き物を見ても。機械である律を見ても。大きく戸惑うこともなく、気付けば皆と平等に接している。これが、探偵として経験を積んだ彼女の個性だと思うと、数々の事件を解決したという経歴に少し納得がいった。

 

 

「……弥子先生。いきなりですが、一つ訪ねたいことがあります」

「なに?」

 

 少しだけ間を置いた後、ディスプレイの少女が口を開けるのと同時に、音声が弥子の耳に届く。

 

「春川英輔をご存じですか?」

「!?」

 

 懐かしく、忘れられない名前を唐突に出されて、弥子の脳に電人HALとの記憶が流れ込んでいく。

 弥子にとって、HALの事件は大きな転機となる出来事の一つであった。世界中の人を巻き込む大事件となり、自分もその火中にいる人間の一人として、確かにネウロの力となって解決出来た事件だ。

 

「……うん。知ってるよ」

「そうですか」

「どうして?」

「彼は、私の産みの親に当たる存在だからです」

 

 液晶の中の律は、指を組み、少し顔に影を宿して話を続けた。

 

「私の開発者は、ノルウェーにいる研究員達です。彼らによって私は暗殺用の武装と戦闘AIを組み込まれ、開発されたのです。しかし、大元である学習用プログラムや思考式AIを作ったのは彼等ではありません」

「もしかして、それが……」

「はい。私の過去のデータをサルベージすると、私の根幹となるプログラムは、春川英輔という人物が作成したものであると分かりました。恐らく相当優秀だった彼は、誰かからの依頼だったのかそれとも元々の研究データを利用されたのかは分かりませんが、死後も多くの研究機関に調査されていることが分かります」

 

 人工知能を作るという面で、確かに彼以上の研究者はいないのであろう。

 彼は、脳の研究をしていて、さらに自分と同じ思考回路を持つAIも作り出せていた。

 

 弥子はいつか篚口に聞いた話を思い出していた。シックスとネウロの戦闘後、海に落ちたネウロを救出したのは、春川が作った救助ネットワークであったと。

 彼の死後も、自分達との因縁を感じて感慨深く思っていたのだが、今もなお彼の名前を聞くことになるとは思わなかった。

 

 

「弥子先生。春川英輔という人物は、HAL事件の犯人だったのですよね。そして、その事件を解決したのは、弥子先生が解決したのだと、インターネットワークにも私の中のデータベースにも書かれています」

「……うん」

「ならやはり、彼は極悪人の犯罪者であったのでしょうか。何人もの被害者を出し、世界を巻き込んだ事件を起こした彼は、許しがたい人物でしたか?」

 

 弥子は、彼との、HALと話した最後の会話を思い出していた。

 確かに彼は、世紀の大事件を起こした。

 

 しかし、その動機は。

 その目的は。

 誰もが胸に持ち得る、一つの感情が向かう道でしかなかった。

 

「違うよ」

 

 弥子がはっきりと律の言葉を否定すると、律は機械らしからぬ驚いた表情で弥子を見た。

 

「春川教授は、HALは、確かに犯罪者だった。悪いことをした。でも、とても人間らしく、純粋な人だった」

 

 ポツリポツリと弥子が言葉を紡いでいくと、律は機械の自分にない筈の、どこかが高鳴るような感覚を覚えてしまう。

 

「あの、弥子先生。よければ、私に春川英輔のことを、HAL事件のことを、教えて下さいませんか。あの事件については、どのデータを探しても最初から最後までは説明されていません。ですが、当事者の貴女であれば……」

 

 それは、子が親を知りたいという純粋な気持ちなのだろうか。機械のプログラムとしての思考を読めない弥子にとっては、律の気持ちをはっきりと汲み取ることは不可能であったのだが、その表情や言い草はどう見てもただの中学生が親に抱く感情と似通っているようで、気付くと、いいよ、と彼女の言葉に承諾していた。

 

 

「……じゃあ、まず、一人の女性のことについて説明するね。春川教授には、刹那さんという名前の大切な女性がいてーーー」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 弥子があの事件についてひとしきり説明し終わった頃には、もう外はすっかりと暗くなっていた。

 春川教授とHALの目的から、弥子がどうやって解決したのか、彼等が愛してやまなかった人物まで話していると、機械であるのに関わらず律はとても興味を持つように聞いてくれたので、弥子も止まれなかったのだ。

 

 

「弥子先生。私、とても貴重な体験が出来た気がします。機械であるのに、こんなことを言うのはどうかと思うのですが、新たな価値観が植え付けられるのを確かに感じました」

 

 所々腑に落ちないところはありましたが、と続けられて、弥子はあはは、と誤魔化すように頬を掻くしかなかった。

 

 ネウロのことを上手く話すのは難しいのだ。

 まさか魔人の助手がいた、なんて言える訳もなく、だからといってネウロがいなかった体で話すとどうやっても変になる。とりあえず弥子は適度にアレンジを加えてすごい助手程度に抑えて話したのだが、それでもネウロのやったことは常識外れすぎて無理がある。

 ミサイルに掴まって空母へ突入したなど、なんて説明すればいいのだ。

 

 しかし、とどこか興奮した様子で、律は弥子に顔を近づけるような液晶に顔をアップにした。

 

 

「……私は、春川英輔のことを知れて良かった。犯罪者であろうと、私を作った人物は、人を愛していたと知れて、良かったと思うのです」

 

 変ですか、と聞かれたので、弥子は首を横に振る。

 律は、中学生らしく微笑ましい笑みを浮かべた。

 

 

 

 そして、唐突に自分に出来ることに気付いた。

 

 人を知って、人と関わって生きたあの探偵生活。

 胸を張って彼等に話せることなんて、最初からこれしかなかったのだ。

 

 

 あぁ、なら最初の授業は、あの事件のことを話そう。

 私の大好きな綺麗な歌声のあの人のことを、みんなに聞いてもらおう。

 

 犯罪とは。人を殺すとは。人を助けるとは。

 

 私だってみんなに話せるほど全てを分かった人間ではないけれども。

 それでも、私が経験した事件の関係者や犯人の想いを伝えられるのは、きっと私しかいないのだから。

 

 

 

 

 




クロスオーバーするにあたってこのような独自設定が増えていくと思います。
どうかお許し下さい。


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3話

「次さ、弥子先生の授業だよね」

 

 殺せんせーによる3限目の国語の授業が終わった後、茅野が教科書をしまいながら渚に話し掛けていた。

 

「うん。朝のHRに4限目にします、って殺せんせーは言ってたね」

「ちょっと楽しみだなー私。実在する探偵に授業してもらえるなんて思わなかったし。しかも、超有名な探偵!」

 

 目を輝かせながら語る茅野の言葉を聞きながら、渚はノートの下に置いた対先生用のナイフをしまいながら頷いた。

 普段の授業中は隙あれば暗殺するためにこうやって対先生用の武器をどこかに隠し持っていることが多いが、弥子先生の授業の時は必要ないだろうと引き出しに入れておく。

 横目で見れば他の生徒も同様に考えているのか、それぞれ隠していた武器を片付けているようであった。

 

「でもさ、弥子先生には悪いけど、ちょっとイメージと違ったよね」

「あーうん。それはそうかも」

「私、探偵って言えば、頭良くて、冷静で、切れ者で、帽子被ってパイプをプカーってイメージなんだけど」

「まぁ、言いたいことは分かるよ」

 

 そう言って、渚も頭の中の探偵のイメージを浮かべる。そこには、身体は子供頭脳は大人である眼鏡を掛けた男の子の姿があった。

 探偵なんて創作でしか見ない仕事なので、こうやって昔見たフィクションのキャラクターを想像するしかないのだ。茅野も恐らく渚と同じで、いつか見た海外ドラマなんかのキャラクターをイメージしているのだろう。

 そして共通して言えることは、頭が良くなくては出来なさそう、ということだ。

 

「弥子先生って、あんまり、その」

「賢くはないだろうね」

「っ! カルマくん」

 

 いつのまにかカルマが二人の席の近くまで来ていて、少し不愉快そうな顔をしていた。

 

「普通さ、あんなブービートラップに引っ掛からないよ。あんなのただの一手目であれを避けた時のための策をいくつか用意してたのに、意味なかったじゃん」

 

 カルマがそんな顔をしてるのは、自分の策が使えなかったからか、それとも烏間先生にこっぴどく怒られたからなのかは、渚には判断がつかなかった。

 ただ、機嫌があまり良くないのは確かである。

 

「でもさ、もしかしたらわざとちょっと駄目そうなフリをしてるのかも。ほら、この前の渚みたいに」

「いや、僕は別に駄目そうなフリをしたつもりはないんだけど」

 

 苦笑いしながら渚が答える。

 茅野が言っているのは、先日鷹岡と渚が対決した時のことだ。渚は鷹岡に指名され一対一で向き合うことになり、その時は渚が鷹岡が油断している隙をついて勝利していた。

 

「俺は渚君のそれを見てないから分かんないけど、多分あの人のはそんなんじゃないね。素であのざまだよ」

 

 吐き捨てるように言った言葉に、渚は違和感を覚えた。

 カルマは確かにいつも口が悪く、素行も悪い。

 しかし、それは他人を怒らせたり周りを見えなくするためにやることが多く、地頭の良いカルマは、陰口なんて特に意味はなく、陰で言うくらいなら直接言えば早いということを知っている。ただ渚の前で愚痴を言うなんてことは、そうそうないのだ。

 

「もしかして、カルマくんあんまり弥子先生のこと好きじゃない?」

「……」

 

 意味深に沈黙したカルマは、ただ目を伏せるだけであった。質問に答えはせずとも、いいように思ってないことは間違いないのだろう。まだここにきて2日目の弥子を嫌う理由は渚にはよく分からない。

 もしかしたら弥子が教師となってここに来る前から何か因縁でもあったのか、と渚が訊ねようとした時に、チャイムが鳴る。

 皆が自分の席に戻っていく途中で、教室のドアがガラリと音を立てて開き、そこから弥子が入ってきた。

 

 皆の視線が一斉に弥子へと集まる。

 

「……えーっと、それじゃあ、私の授業を始めます」

 

 少し緊張した様子で、弥子は初めての授業を行おうとしていた。

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 教壇の上に立つと、子供達の視線が自分に集中しているのが、身に染みるほど分かった。

 教室の後ろには、殺せんせーや、イリーナ、烏間もいる。彼等も弥子の最初の授業がどんなものなのか見に来てくれたのだろう。殺せんせーは見守り、イリーナは試し、烏間は心配、それぞれがそんな思惑で見ているのだということを弥子は表情で察した。

 

 あー、えー、としどろもどろになりながら、弥子は慣れない様子を顕にする。

 生徒の見上げた顔も、弥子からは良く見えた。

 彼等もまた、期待していたり、興味がなかったりと、それぞれに想いを抱えているようだ。

 一番後ろの席にいる、律と目が合う。律は、液晶に、先生頑張って、と文字で表示させて手を振ってくれた。

 思わず、少し気が緩む。

 

 大勢に注目される、という経験はなかった訳ではない。

 だからといって、こうして何かを期待されのは、緊張しない筈もなかった。

 

 いつかも、こうやってみんなに注目されたことがあったな、と弥子は過去を思い出す。

 

(あれは、いつだっけ)

 

 弥子が、多くの人の前に立ち。

 

(いや、違う。無理矢理、あいつに投げ飛ばされて、舞台の上に立たされたんだ)

 

 そう。ちょうど、弥子が話そうとしていた事件の時も。彼女は多くの注目の中、確かに自分の言葉で、犯人に想いを伝えたのだ。

 

 

 

 ーー探偵さん。あなたにお願いしてよかったと思ってる。ほんとよ。

 

 

 ーー誇っていいぞヤコ。それは貴様やあの女が持っていて……我が輩が持っていない能力だ。

 

 

 

(そうだ。私が初めて探偵として犯人にちゃんと向き合った時、ネウロが珍しく褒めてくれた時も、あの時だった)

 

 

 弥子は、意を決して顔をあげ、生徒達をしっかりと見渡した。

 

 

 

「ーー私は、高校生の時に、探偵事務所を設立しました」

 

 やっと弥子が言葉を喋りだすと、眠そうにしていた生徒も耳を傾けてくれているのが分かった。

 

「探偵なんて、当時は周りの人間、というかたった一人によって無理矢理やらされていて、あんまり乗り気じゃなかったんだ」

 

 話しながらもネウロとの衝撃的な初対面を思い出し、その懐かしさに胸を少し暖かくして、そしてそれを懐かしいと思うほど年月が経ったことを意外に思いつつも、弥子は話を続けた。

 

「何回も辞めようと思ってたっけ。でもね。ある事件を境に、知名度が一気に上がっちゃって、そういう訳にもいかなくなっちゃった」

「……っ! その事件って、あれですよね! あの、有名な! 」

「うん、多分それ」

 

 身を乗り出して興奮する不破に、弥子は笑って答える。不破は本当に熱心なファンなようで、大層興奮して嬉しそうにしていた。

 

「私は、殺せんせーみたいに頭がいい訳じゃないから、皆にちゃんとした勉強は教えられない。でも、私があの時した経験を、話すことは出来る」

「経験、ですか?」

 

 渚が呟いた言葉に対して、そう、と弥子は頷く。

 

「今から話すのは、わたしが遭遇した事件の中でも、残酷で、そして悲しい事件。その人が、アリバイの中どうやって人を殺したのか。どうして、そこまでしなきゃいけなかったのか。その人にとっての殺すとは、どういうことなのか。それを皆に話したいと思う。だから、皆は私の話を聞いてどう思ったかだけを、考えてくれたらいい」

 

 教室の雰囲気が、独特なものとなった。

 これは、今までの授業とは異なるものである。ノートもペンもいらない。いや、授業として成立していないかもしれない。

 勉学ではなく、この教師から学ぶのは、ひとつの事件のことなのだから。

 

「殺す、とは……?」

 

 馴染みのある言葉だからか、渚はそのフレーズが気になった。

 

 自分達は、毎日殺せんせーを暗殺しようとしている。しかし、弥子の言う殺す、という言葉の重みは、それとは比にならないものだと感じたのだ。

 

 渚は、弥子のする話に興味を持った。暗殺をしようとする自分達は、ただナイフを殺せんせーに突き刺すだけではなくて、その意味を知る必要があるのかもしれないと、思ってしまったのだ。

 

 

「それじゃあ、授業を始めます。人間が自分の理性と欲望の中で作り出した『謎』を解いてきた私が最初にする話は、とある有名歌手の話」

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 

 

「イリーナ、どう思った」

 

 弥子の授業が終わった後、簡素な机がたった四つ向き合って置かれただけの教員室で、烏間はイリーナに声を掛けた。

 今はちょうど昼休み。弥子の机もあるが、一瞬で防衛省から支給された弁当を食べ尽くし、これだけではとても足りないと言い放ちダッシュで本校舎の食堂まで駆けていったため、この部屋にはいない。

 その後本校舎の食堂のスタッフがどんなに混雑した昼時よりも忙しくなることはまだ誰も知らない。

 

「どう思ったって何!? 烏間もしかしてあーいう貧弱体型がタイプ!? だから私に靡かない訳!?」

「違う! さっきの彼女の授業のことだ!」

 

 胸を強調しながら詰め寄ってくるイリーナを手で払いのけて、烏間はもう一度同じ質問をした。

 

「桂木先生の授業、お前にはどう映った」

「……ふん。あんなの、小娘が自分の功績をただ得意げに語ってるだけじゃない」

「本当にそう見えたか?」

「……嘘よ。あの話自体は、少し怪しいところもあったわ。特に、アリバイの解き方なんて、ちょっと雑な説明だったしね。ただ、動機を話すところだけは、気持ちが籠ってた。彼女、見た目よりも修羅場をくぐって来たってのはよく分かった」

 

 烏間はイリーナに同意するように頷いた。

 

「あれは、死をちゃんと捉えられている眼よ。抽象的でなく、自分で他人の死を間近にして、尚且つ、自分の中で答えを持っていないと出来ない眼。烏間側の人間だと思ったけど、どっちかといえばこっち側かもね」

 

 見た目はそうは見えないけど、と付け加えて、イリーナは自分の席に座る。

 烏間は、校舎の外に目をやりながら、先程の弥子の話をもう一度反芻させていた。

 イリーナの言う通り、烏間も弥子の評価を改めた。最初はただの探偵業務に就く一般人だと思っていたし、この場に来てからの彼女を見てもとても特別な人間だとは思わなかった。

 しかし、彼女の話す言葉を聞いていると、確かに弥子は探偵として多くの事件を目の前にした人間で、その在り方と価値観は、彼女にしかないものだと実感することが出来た。

 

 イリーナは、弥子は自分に近いと言ったが、烏間はそうは思わなかった。彼女は決して殺す側ではない。しかしだからと言って、やられるものでも、自分のように誰かを守るものでもない。

 その間を繋ぐ、ちょうど中間の人間だと感じたのだ。

 

 

「……生徒達に彼女の話を聞かせ続けていて、いいのだろうか」

 

 烏間は、まだはやい、と思った。

 

 いずれ生徒達が自分で気付くことだとしても、殺す、ということについて意識を持ってしまうのはまだ時期尚早だと、そう思った。

 

 

「フッフッフ。いいんですよ、烏間先生」

 

 見ていた校舎の窓から、見慣れた黄色の球体が、突然にゅるりと顔を出した。

 

 そのまま、その生物は教員室に入り込み、服についた汚れを自分の触手で振り払う。

 

「彼女ほど、それを生徒に教えられる教師は居ないでしょう。彼女が話すことは、きっとどれも人生を生きていくのに役に立ちます。殺人ほどの事件はなくとも、誰かの悪意は常に生きていく上で降りかかる。勿論、自分の悪意もです。それを他人がどうやって形にしてしまうのか。何を我慢しなければいけないのか。それを知ることは、とても大事なことなのです」

「違う。俺が言いたいのは、あの子達の持つナイフに、罪悪感がのしかからないのかが、心配なんだ」

 

 殺すということを意識してしまうと、きっと彼等の刃は鈍る。日常的に暗殺の訓練を行なっているとはいえ、彼等はまだ子供なのだ。

 烏間が見ても分かる通り、この教師は破壊生物のくせに生徒からは好かれてしまっている。それでも、暗殺者とターゲットという関係を忘れていないから、彼等は全力でぶつかっていけるのだ。

 

 だが、彼女の話で、彼等がこの生物への見方を変えてしまったら?

 恩人の教師を想うかのような気持ちで彼を見始めてしまえば、きっと生徒はもうそのナイフを持つことが出来ないのではないだろうか。

 

 

「大丈夫です。それもいつかは、彼等自身が気付き、考えなければいけないことです。そして、その考える時のためにも、生徒達には弥子先生の授業が必要なのだと思います。ここは、暗殺教室なのですから。生死を学ぶのもまた、この教室ならではなのです」

 

 

 殺せんせーは、そう言って、怪しげな笑みを浮かべた。イリーナも何か思うことがあるのか、考えるように机に肘をつけている。

 

 

 彼女が来ることで、この教室は変わるのだろうか。烏間はそう思いながら、ただ窓の外を見続けた。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 

 

 そのすぐ後に、理事長から烏間宛に電話が来た。

 理事長曰く、「君達が雇ったあの探偵が、生徒の分が無くなるほど食堂で食事をし続けている。この分だと学校運営のために新たな食材費が必要なので、勿論それは君達が支払うのだろうね」という内容だった。

 

 只でさえ学校に多額の黙認費を払ってる上、そんなものまで請求させるようになってしまうのか、と、烏間は独り頭を抱えた。

 

 



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4話

 弥子が本業の仕事を始めたのは、その日の放課後からであった。本業とは、言うまでもなく探偵である。そもそも彼女は本来は教師としてではなく、探偵としてここに雇われている。破壊生物の弱点という『謎』を探す仕事だ。事件を解決する為の探偵とは些か異なる依頼ではあるが、ネウロがいなくなってからは寧ろ交渉人のような仕事をしていた弥子からすれば、事件としての仕事に拘ることはなかった。

 

「それで、渚君に少し話を聞きたいんだけど」

「僕、ですか?」

 

 水色の髪を高い位置で二つに縛った中性的な少年、渚が、意外そうに訊き返す。

 渚はちょうど下校しようと廊下を歩いていて、その時に突然弥子に呼び止められたのだ。

 

「うん。ほら、聞き込みってやつ」

 

 周りの人間から情報を得るのは、探偵の基本中の基本である。謎を解く作業はネウロに任せっきりだったとはいえ、聞き込み等は元から弥子がすることが多かった。弥子はネウロのように頭がいい訳でも魔界道具がある訳でもないが、せめて形だけは探偵らしいことをしようとしていた。

 

「でも、どうして僕に?」

「ちょうど誰かに話聞こうと思ってた時に通りかかったからさ。もしかして何か予定があった?」

 

 要するに、たまたまということだ。そういえばビッチ先生も最初は僕に聞いてきたなぁ、と渚は当時を思い出しながら、大丈夫ですよ、と、笑顔で答えた。

 

「僕殺せんせーの弱点をいくつかまとめているんですが、見ますか?」

「え、いいの?」

「はい。これです」

 

 そう言って、渚は弥子にメモ帳サイズのノートを手渡した。弥子にとっては願ってもない話だ。弱点を探ろうと生徒を訊ねたら、既にその生徒がいくつも弱味を握っていて、しかもそれを見せてくれるという。

 弥子は渚に礼を言ってから、そのノートをペラペラと捲って中身を見た。

 殺せんせーの弱点。カッコつけるとボロが出る。テンパるのが意外と早い。器が小さい。パンチがやわい。などなど、役に立つか立たないか微妙なラインのことが箇条書きにしてあったが、弥子は文句も言わずにひたすらに読む。

 弱点を上げていても、文字や書かれ方から渚から殺せんせーへの嫌悪感のようなものは一切伝わって来なかった。むしろ、こんな特徴があるんだ、と楽しみながら書いている気すらした。弥子は中学生らしいそのノートを微笑ましく感じながら読み続ける。

 

 

 ノートの文字を追いかける弥子の横顔を、渚はなんとなく見つめていた。

 これが、世界一の探偵。アヤ エイジアが起こした殺人事件を解決したことから一躍有名人となり、その後も数々の事件を解いてきた人物。最近では、重箱一つであらゆる事件を解決する交渉人とも言われているらしい。

 その幼い顔立ちからはとてもそんな凄い人には見えなかったし、未だ彼女が自分達の教師であるという実感は薄い。しかし、先程の授業では、彼女が彼女たるその片鱗が見えた気がした。

 彼女の話は、決して殺すことを肯定している訳ではなかった。それでも、彼女は今いる人の心に寄り添える人間だということは、きっと多くの生徒が気付いたことだ。

 

 

「あの、弥子先生はどうしてこの依頼を受けられたんですか?」

 

 思わず渚が質問すると、弥子はノートから顔を上げ、渚の方を見た。

 

「お金、ですか?」

「ううん。お金は確かに欲しい、というか食費はいつも枯渇してるし、大金があれば何でも食べれると思えば、貰えると嬉しいけど」

「食べ物のことに使う予定ばかりですね……」

 

 何の高級料理を想像したのか分からないが、弥子は涎を垂らしながらニヤニヤと語る。本校舎で有名人似のフードファイターが突然現れて学食をあり得ない量食べていた、という噂が昼休みにE組まで届いていたが、この食い意地を見るに本人で間違いないようだ。

 

「でも、それが理由じゃないよ」

 

 渚も、なんとなく金銭目的ではないだろうとは気付いていた。この人はきっと、お金で動くような人じゃないと感じたのだ。

 

「単純だよ。私の理由なんて。ただ地球が壊されたら困るってだけだもん」

「それは、分かりますけど。でも怖くなかったんですか? 殺せんせーの、……破壊生物の謎を解けって」

「話に聞いた時は怖いなって思ったけど、でももっと怖い思いをした覚えがあるし。それに、この世界が無くなったら約束を守れなくなっちゃうから」

「約束……?」

「うん」

 

 弥子は、遠くを見るような目をした。

 渚はそこでやっと、自分と彼女の年の差を、経験の差を唐突にはっきりと理解した。彼女はきっと、自分には想像出来ない程の様々な事件を経験してきたのだろう。

 どこか達観とした様子を見せながらも、胸の内に灯りをともした穏やかな表情は、同年代のクラスメイトからは見ることが出来ない。渚は、この教師にまた興味が湧いていた。

 

 それは、どんな約束ですか。

 そう訊ねようとした時に、弥子と渚のケータイが同時にメールの受信を知らせた。二人で一度顔を合わせた後、それぞれがケータイを開きメールを確認する。

 弥子のケータイには、吾代からメールが来ていた。

 

『ちょうど探偵が通う学校の近くに来たから、そのまま拾ってやる。さっさと出てこい』

 

 ぶっきらぼうなメッセージだが、弥子には吾代が自分を気遣ってくれたことが分かった。

 昨日学校から帰った後に、吾代に、ここは遠いのが少し大変、と何となしに言ったのを覚えていてくれたのだ。不器用な優しさが微笑ましくて、弥子は思わず口を緩めた。

 

「ごめん、渚君! 知り合いが迎えに来てくれたらしくて、今日はもう帰るね! また明日話聞かせて! 」

 

 そう言って立ち去ろうとした弥子の服の袖を、渚がスッと掴んだ。

 

「な、渚君?」

「弥子先生、今は山を降りない方がいいです」

「え、なんで?」

 

 渚は、自分のケータイの画面をそのまま弥子に見せるようにした。

 差出人は片岡メグと書かれていて、クラス全員に送られているようだ。

 そして、本文には。

 

『山の麓にどうみてもまともじゃない人が、ボロボロの車と一緒にずっと立ってる! 要警戒!! 』

 

 添付された写真には、イカツイ人相に金髪頭の男性と、その側には凹みと傷だらけの軽トラックが映っている。

 

「もしかすると殺せんせーを狙う暗殺者の一人かも。弥子先生も今は危険なので外に出ない方が……」

 

 渚が言い切る前に、弥子は額を抑えるようにして、小さな声で言った。

 

 ごめんそれめっちゃ私の知ってる人だ、と。

 

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 

 

 E組校舎から街に抜ける山の麓で、吾代は車から降り貧乏ゆすりをしていた。

 ちょうど暇だったので通りがかるついでに弥子を拾ってやろうとしたのだが、メールを送った後に、よく考えればこの山を登った先は学校であったことに気付いてしまったのだ。吾代は学校にろくな思い出がない。というより、最終学歴が小卒である彼にとって、学業というもの自体に良い想いはないのだ。

 

 あいつめ、教師の真似事なんかしやがって。と思いながら山の奥にあるだろう学校を睨め付ける。

 

 吾代は弥子が依頼された件について、ほとんど把握している。

 そもそも政府から連絡がきて国外にいる弥子を連れ戻したのは吾代である。探偵事務所で弥子とだけ話がしたいといったスーツを着た連中相手に、きな臭いと思って無理矢理そこに居座ったのだ。

 結果、絶対に口外してはいけない、という条件で聞いた話はあまりに荒唐無稽かつスケールの大きい話で、吾代は彼等を詐欺師だと決め付けた。その後事務所で本当に防衛省か判明するまで一悶着あったが、とりあえず本物だと分かった時、吾代は誰もが分かるほど嫌な顔をした。

 

 弥子が学校なんて意味のない所へ行くというのも気に入らなかったし、人間じゃない化け物が存在すると聞いてネウロやシックスを思い出し戦慄したし、地球が破壊されるなど勘弁だぞ、と恐怖もした。

 

 しかしそこまで話を聞いても、やります、と言い切る弥子を見てしまった。

 その顔をみれば、もう弥子は意地でもやるのだろうな、と分かってしまう。二人はそこそこ長い付き合いなのだ。

 吾代は、相変わらず肝が太い女だ、と溜息をつきながら、自分も出来る限り力になってやるか、と、軽く決心していた。

 

 

 弥子を待っていると、メールが届く。

『吾代さんありがとう! すぐ行く! あとなるべく愛想よく怪しまれないようににんまりしてて!』

 

 何を言ってるんだこいつは。

 愛想、なんて言葉と無縁な男は全く意味がわからず、メールに返事はせずにただポケットにしまった。

 

 

 そしてあまりに手持ち無沙汰なので、自分の車に目がいく。

 このボロボロのトラックを見るたびに、早くまともな車に替えてぇと思う。

 しかしどういう運命なのか新車は買う度にすぐさま壊れ、いつのまにか手元に戻ってきているのがこの車なのだ。三年前から乗るこの軽トラックには一応愛着はないこともないのだが、やはり周りの視線はあまり良くない。

 現に今も、何人かの視線を感じている気がする。それに苛立って、舌を打った後車に蹴りを入れるが、逆に足が痛くなり吾代はうずくまることになる。

 

 

 

 

 そしてその視線を山の中から送っていたのは、E組の生徒たちであった。

 

「あれ、絶対やばい人だよ」

 

 木に隠れながら吾代を観察していた倉橋陽菜野がそう言うと、側にいた片岡メグと前原陽斗も同時に頷いた。

 

「ヤクザじゃね? 人相がもうまともじゃねーし。眼つきが鋭すぎる」

「一応クラスのみんなには気をつけるように連絡はしたけど……」

「ここの道って通って帰る人結構多いよね」

「そうだな。現に俺たちも帰れなくなってるし」

 

 遠目から吾代を見つけてしまった彼らは、常に眉間にシワが寄ったそのいかつい風貌と何故かボロボロな車に、最大限の警戒心を抱いてしまった。

 彼等は、自分たちの校舎がまともじゃないことを理解している。殺せんせーがいることで、今までも色んな人物がここに訪れてきた。

 どんなヤバイ人がここを訪れても全く不思議ではない。だから、校舎付近でじっとそこに居続ける怪しい人間に警戒するのは仕方がないことなのだ。

 

「なにしてんの」

「あ、カルマくん」

 

 三人に声を掛けたのは、下校しようとやって来たカルマだった。一点を見つめながら木に隠れる3人を不思議に思ったのだろう。

 

「みろよ、あそこ。どうみてもヤベー奴がいて、帰れねぇんだよ」

「ヤベー奴って……あのヤクザみたいなの?」

「そう」

「んなの、気にしなくていいっしょ。俺普通にどいてって言ってこようか」

「やめとけって! どうせ絶対にもめるだろ! 」

「大丈夫大丈夫。ほんとにヤクザならあんなボロい車な訳ないし、多分ただのイカれた不審者だよ。なるべく穏便に済ませてくるから」

 

 絶対無理だ、と3人が心の中で突っ込んでいる間に、カルマは何の抵抗もなく、軽々と吾代のもとまで行ってしまった。

 

「あのさ、おっさん。ここで何してんの」

「あ?」

 

 声を聞いて、足を押さえうずくまっていた吾代が顔を上げて立ち上がった。

 

「んだよお前は」

「おっさんさ、何してるかしんないけど、そこいると俺らが帰るのに邪魔なんだけど」

「あ゛あ゛?」

 

 吾代は元から眉間が寄った皺を更に深くさせてカルマを睨み付けた。たしかに自分は気付けばもう28だが、他人からいきなりおっさんと呼ばれるのは気にくわない。何より、カルマの人を馬鹿にしたような態度は、誰よりも簡単に吾代を怒らせた。

 

 やっぱり全然穏便になってない! と、倉橋達は冷や汗を垂らす。

 

 吾代が自分の顔を思いっきりカルマに近付ける。鼻と鼻が触れそうなくらいにまで寄せて、もう一度、なんだよお前は、と凄んだ。

 

 それを見て、倉橋達は震えた。

 クラスメイトがヤクザらしい男に凄まれている、という絵面にも勿論恐怖はあるが、それよりも、カルマが何をしでかすか分からなかったのが、怖かったのだ。

 一瞬即発のその空気に、止めに行くべきじゃないのか、と、三人が顔を合わせて意思を確認しあった所で、片岡のケータイが鳴った。

 

「片岡さん!」

 

 急ぎの声で片岡を呼んだのは、ケータイの液晶に映る律であった。

 

「律? ごめん今ちょっと危ない所で……」

「弥子先生から伝言です。そこにいる危ない顔をした人はわたしの知り合いだから安心して! 私も今すぐそっちに行くから! だそうです!」

「え、弥子先生の知り合いだったの? 」

 

 クラスの新任教師の予想外の知り合いに三人は驚く。それじゃあ、尚更あれを止めないと、と彼等はすぐに動き出そうと木の裏から飛び出す準備をした。

 

 

「おっさん、顔近いよ。ホモなの? それに息も臭いし、歯も洗ってないの? 」

 

 ぶちり、と吾代の血管が切れる音がした。

 吾代はすぐに自分の腕を振り上げて、カルマに殴りかかろうとする。

 カルマは吾代との喧嘩を受けて立つ気でいるようで、余裕な表情を崩さない。

 

 止めようとしていた三人が、間に合わないっ! と、思いつつも走り出している。

 そして、そのすぐ横から、誰かが勢い良く駆けていく姿が見えた。

 

「吾代さんちょっと待ってー!! 」

 

 全速力で走って来たのだろう弥子が、麓にいる彼等に大声で呼び付けながら向かっていく。

 

 そして。

 

「あっ! 」

 

 下り道を走る彼女の脚が、地面につまづいて、飛び出す形になってしまう。

 

「は? 」

「あ? 探偵? 」

 

 パンチを避けようと集中していたカルマは、突撃してくる弥子に反応出来なかった。

 

 弥子の頭が、カルマの頭に勢い良くぶつかり、ごちん、という音が響き渡る。

 どさり、とした音共に二人が倒れた後、どこか白けた空気がそこには流れていた。

 

「お、おい、探偵。生きてるか? 」

「う、うん。……って吾代さん! 駄目だよ生徒殴ろうとしたら!」

「いやまぁ殴ろうとはしたけどよ。それよりも、そいついいのかよ」

「え? 」

 

 がばりと起き上がった弥子は、吾代の指差す所をみる。

 そこには、意識してない位置からの攻撃に気を失っていたカルマが横たわっていた。

 

「あ! えーと! ごめん赤羽くん! 大丈夫?! 」

「完全にのびてんぞ」

「とと、とりあえず事務所で治療しよう! 」

 

 そう言って、動揺している弥子はカルマを無理矢理車に乗せようとする。吾代は別にカルマはどうでも良かったが、反対するのも面倒なので弥子を手伝い、そのまま車を事務所へと走らせた。

 

 

 残った三人は、状況に理解が追い付かず、ぽつんとそこに立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 




ここにせっかくなのでボツ話を載せておきます。
読まなくても困りません。暇な人はどうぞ。





 ……やってしまった。
 弥子は放課後の廊下をとぼとぼと歩きながら、沈んだ顔をしていた。足を踏み出すと微かに木製の床が軋む音が聴こえて、それがまた弥子の気分を下げる。
 E組の教室についたので、扉に手を掛けて開ける。初日のトラップを思い出し、もうないとは分かってはいつつも慎重に部屋に入った。

「……弥子先生? どうなされましたか」

 弥子が教室に入った瞬間に、ブゥン、と音がして、黒い箱の液晶から律が映し出された。律以外は、誰もいない。

「ちょっとクラスのみんなに話を聞こうかと思ったんだけど、皆んないないみたいだね」
「はい。最近はこの暑さ故か、放課後に残る生徒はあまり多くありません。今日の皆さんの会話から察するに、カフェに行ったり図書館に向かったり家でまったりするようです」
「そっかー。これだけ暑いもんね」

 そう言いながら弥子は額の汗を服で拭った。教師なのだから、とワイシャツに黒いパンツという一般的な社会人のような格好をしているが、堅苦しいだけに普段より暑く感じてしまう。制服を着た生徒達も同様なのだろう。

「それじゃ、律に殺せんせーの話を聞いてもいい?」
「それはいいのですが、弥子先生。授業の時より少し声音が暗いですね。何かありましたか?」

 弥子は顔に出さないようにしていたが、機械である律には見抜かれてしまう。恥ずかしいと思いながらも、弥子は律の前の席に座って説明を始めた。

「ちょっと怒られちゃって」
「誰にですか?」
「この学園の理事長さん」

 その肩書きを聞いた瞬間に、律の表情に真剣味が増す。

「……ここの理事長は、E組ではあまり評判が良くありません。なにせ、E組という隔離クラスを作った当人ですので。しかし、どうして弥子先生は怒られたのですか?」

 律は直接対峙したことはないが、理事長の悪どい噂は生徒から耳にすることがある。完璧主義で、強者は弱者が存在する事で強者たるという思想故か、弱者のE組は何かと蔑ろにされている。もしかして、弥子がE組の教師だからと言って、不当な理由を押し付けられたのだろうか。
 律が心配していると、弥子は更に恥ずかしそうに顔を下げて答える。

「……学食の食べすぎです」
「……はい?」

 律が目をぱちくりさせると、弥子はがばっと顔を腕で覆うようにして机に伏してしまった。

「いやだって! 久しぶりの食堂だと思って舞い上がっちゃったんだもん! 仕方ないじゃん!」
「ああ、そういえば『探偵』桂木弥子はフードファイターも引くほど食べるという噂がネットにありましたね……」

 呆れた顔で律が言う。ネットに検索を掛ければ、飲食店での彼女の目撃談が多数ある。
 曰く、お好み焼きをもんじゃの如く鉄板1枚に厚く大きく広げてニヤニヤしながら食べ切った後、すぐに焼きそばも大量に焼き出して完食していた。曰く、食べ放題の店で時間一杯常に食べ続けた後、そのまま別の食べ放題の店に入店していくのを見た、などである。流石に荒唐無稽であると思っていたが、この様子を見るにそうでもないようだった。

「気付いたら皿が空になって積み重なりまくってて! ドン引きする他の生徒達がいて! トントンと肩を叩かれて後ろを見たら怖い笑顔の理事長が!」
「バラエティのようですね」

 因みにその後烏間にも呼び出され、数は用意するからどうか防衛省から配達される弁当で我慢してくれないか、と提案されていた。
 弥子は申し訳なさそうな態度をとりながらも、それじゃあ唐揚げ弁当を10個と言って烏間を引かせた。
その上、あと鮭弁当を10個と、一応おにぎりも、と加えて言って、弥子が顔を上げた時には烏間は頭を抱えていた

 烏間の苦労は絶えそうにない。




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5話

 カルマは、目が醒めると同時に自分が寝心地が良いソファに横たわっていることを不自然に思った。

 とりあえず体を起こして、周りを見渡す。見たことのない部屋だ。どうにか前後の記憶を思い出そうとしたが、頭に痛みを感じて、考えるのが億劫になる。撫でるように手を頭に当てると、瘤のような膨らみがあることだけは分かった。

 目の前には、背の低い机が一つ。そしてその奥に、大きく黒いデスクがあった。艶がある黒色で所々引っ掻き傷のような跡があるそのデスクは、有無を言わさぬ威圧的な雰囲気を放っているような気がして、少し気味が悪い。

 しかし、そこまで大きくもなく、割と殺風景なこの部屋は、どこか居心地が良く思えた。

 壁に目をやると、一部分だけ妙な盛り上がりがある場所がある。なんとなく気になり目を細めて注目すると、ちょっぴり動いた気がするが、流石に気のせいであろう。

 

 本格的に何があったか考え出そうと立ち上がった所で、部屋の扉が勢いよく開いた。

 

「なんだ。やっと起きたのかよクソガキ」

 

 扉から出てきたのは吾代だった。手には不似合いなコンビニの袋を持っている。彼はカルマの睨みつけるような視線を物ともせず、それをデスクの上へ乱暴に置く。

 

「なに? あんたが俺を拉致ったわけ?」

 

 警戒を崩さず、いつでも戦えるような姿勢をとりながらカルマは吾代へ言い放った。

 カルマの記憶は少しずつ戻ってきていた。

 下校する道の先にいたヤクザかぶれのこの男と向き合っていて、それから急に意識がなくなったのだ。

 もしかすると、仲間がいたのかもしれない。

 更に周りに注意を払いつつ、闘うプランと逃げるプランを組み立てていると、吾代が苛ついた顔で言った。

 

「ああ? なんで俺がお前を拉致る必要があんだよ。っち。だから捨てておけば良かったのに。探偵め」

「探偵?」

 

「あ、赤羽君起きたんだ! 大丈夫!?」

 

 ガチャンと勢いよく開いたドアと同時に、弥子が部屋へと入ってきた。そのまますぐにカルマへと近寄っていき、手を伸ばしカルマの頭を触ろうとする。反射的にカルマはそれを払ってしまったが、弥子は嫌な顔一つせず、もう大丈夫そうだね、と薄い胸を撫で下ろしていた。

 

「……なに? いまいち状況が掴めないんだけど、どういうこと?」

「えーとですね……」

「お前が俺に喧嘩売ってきてた時に、後ろからこいつが頭突きかましたんだよ」

「ちょっと吾代さん! それじゃ私が悪い奴みたいじゃん!」

「事実だろうが」

「そうだけど! そうなんだけど! 言い方!」

「そんでお前が気絶したから、とりあえず事務所に連れてきた」

「……それって拉致じゃん。普通病院とかじゃないの」

「いやその、ちょっと気が動転してまして……。そうだ! 冷えピタと一緒に起きた時食べれるようにお菓子買ってきたけど、食べる?」

「……こんなポテチのカスもらっても」

「あれ?! なんで!? 」

「ここに着くまでにほとんど食いながら歩いてたからだろうな」

 

 面目無い、としょげる弥子に溜息を吐いて、吾代は先程持ってきた袋からおにぎりを一つ取り出す。そして、カルマに向かって放り投げた。

 

「こうなるのが目に見えてたから別に買っといたんだよ」

「てか頼んでないし別に今腹減ってないんだけど」

「ほんといい度胸だなおまえは……!」

「え、なら私が」

「お前は茶でも入れて来いや!」

 

 怒鳴られると、はいー! と、勢いよく返事をした弥子が部屋の奥へと消えていった。

 

 言われた通りお茶を淹れてくれるのだろうか。別にそれもいらないんだけど、と思いながらも、カルマは帰るに帰れなくなってソファに座った。

 間を置いた横に、吾代がドスンと勢いよくソファに座る。大きく開いた足が、やはりヤクザのようにしか見えなかった。

 

「あんたらって、どういう関係なの」

「ああ? 」

 

 声を掛けられると思ってなかったのか、吾代は面倒くさそうな顔をした後、ぼりぼりと頭を掻いた。

 

「どういうも何も、仕事仲間だ」

「探偵にあんたみたいな仕事仲間がいるとは思わないんだけど」

「色々あんだよ。最初は厄介払いみたいなのさせられてたし、その後は仲介役とかタクシー代わりにもされたり……」

「されたり? そんな上下関係厳しいわけ?」

「当時はな、逆らったらまじでやばかったんだよ。お前ジャンプの間で紙みたいにペラペラになった500円玉みたことあるか? あんなのパワハラなんて言葉じゃ言い表せねぇ」

 

 吾代は当時を思い出して震えながら言うが、カルマは弥子がそんなことをする意味が今一分からず、何言ってんだろこの人、と口に出して言った。

 吾代はカルマの失礼な口調に慣れたのか、特に気にせず話を続けた。

 

「あいつ以外にもう一人、助手って役目のやべぇ奴がいたんだよ。ま、今はもういないんだがな」

「ふーん」

 

 聞いといてあまり興味がなかったのか、カルマは手元にあるおにぎりを何となく見つめている。

 

「でも、まだ一緒に仕事してるんだね」

 

 カルマはなんとなしにそう言った。

 吾代は少し間を置いて、何かを思い出すかのようにじっと虚空を見つめてから、そーだな、と静かに言う。

 今日初めて見るその落ち着いた吾代の顔を、カルマは少しだけ意外に思った。ただのチンピラと思っていたが、弥子との関係は短いものではないのだと、なんとなく見て取れた。

 

「あいつ、授業はどーよ」

「……どうって、別に」

「別にはねぇだろ。なんかやったんだろ? 一応」

「まぁ」

 

 突然歯切れが悪くなったカルマを吾代はじっくりと見る。カルマは目を合わさないようにわざとらしく横を向いた。

 

「なんだお前。あいつのこと苦手なのか?」

「苦手ではないよ。勝手な逆恨み」

 

 

 カルマは、その感情が、どうしようもなく自分勝手なものだと気付いていた。

 弥子とは直接的な関わりは何もない。彼女は何も悪くない。

 ただ、彼女が解決したその事件が、自分にとって不愉快な結果をもたらしたのが、気に入らないだけなのだ。

 

「二人でなんの話をしてるの?」

 

 お盆に紅茶の入ったカップを乗せた弥子が、奥から戻ってきた。流石に紅茶はつまみ食いすることはないようで、しっかりと三人分ある。

 あかねちゃんほど上手くは淹れれないけど、と呟きながら弥子は前の机にカップを置いていく。

 カルマは、まだ仕事仲間がいるのか、とぼんやりと思いながらもカップを口に当てた。不味くはないが美味しくもない。有名人らしくない普通の紅茶だった。

 

「探偵の授業がどんなだったのか聞いてんだよ」

「ええ。ちょっと恥ずかしいなぁ」

 

 弥子が紅茶を飲む姿は、乱暴にカップを掴む吾代と比べると流石に女性らしく見える。といっても、イリーナとは大きな差がある。

 

「んで結局探偵は何話したんだ」

「アヤさんのこと」

「はぁ? それってアヤエイジアのことか? どういう授業だよそりゃ」

「今まで色々あったから、それを皆に話そうと思って」

「……はーん。そんな楽そうな授業なら当時の俺も受けてたかもしんねぇな」

「でも中学の授業だよ。吾代さん小卒じゃん」

「お前、それ言うか?」

 

「あんたさ」

 

 割り込むようにカルマが口を開いた。

 思ったより大きな声が出てしまったので、弥子と吾代は一瞬黙った。それからすぐに、なぁに、と弥子が笑顔でカルマに聞いた。

 

「今でもアヤエイジアと仲が良いって、言ってたよね」

「うん」

 

 カルマは、カップを掴む手の力が強くなったことが、自分では気付かない。

 

「それ、嘘でしょ」

 

 目を見ず、カップの中で僅かに揺らぐ紅茶を見つめながら、カルマは言う。

 

「自分を捕まえた相手と仲が良いって、なにそれ。そんなのあんたの想像でしかないじゃん。あんたのせいでアヤエイジアは捕まったんだから、恨んでるに決まってる。自分が捕まえてしまったって罪悪感から逃げようとしてるだけなんじゃないの? 」

「……お前、いい加減にしろよ」

「吾代さん待って! 」

 

 胸ぐらを掴んできた吾代に、弥子はすぐさま静止をかけた。

 

「あのな探偵。こういう舐めたクソガキは一回殴った方が早いぞ。甘やかしてもつけあがるだけだ。その辺は多分俺の方が分かってる」

「違うよ! 赤羽君は私を馬鹿にして言ってるわけじゃないから! 」

 

 ここまで言われても怒るのは何故か吾代の方で、弥子はただ宥めるだけであった。っち、と舌を打ち吾代はカルマを掴んでいた手を離して座り直す。

 

「赤羽君、好きだったんだね」

「……は? なにが」

「アヤさんの歌」

「……」

「私も好きだよ」

 

 にこりと弥子は笑う。

 まるで、さっきまでのカルマの言い草など全く気にも止めないように。それどころか、カルマの気持ちを全て知った上で接するような態度だった。

 

 大人だな、と思った。

 自分より年上でも、身体が小さくても、彼女の精神はとても落ち着いている。いつか自分を否定し、E組送りにしたあの教師とは違う。

 穏やかで、優しいその笑顔は、カルマを救ってくれた殺せんせーと重なって見えた。

 

「……はぁ、ださいな、俺」

 

 そんな弥子を見て気がそがれて、大きく息を吐いてから、カルマは頭を掻いた。

 

「別に、好きって訳じゃなかったよ。あの人の歌を聴いたのは、たまたまラジオで流れるのを聴いた時だし」

 

 停学中に聞いたアヤの歌が、カルマには信じがたいほど衝撃的であったから、記憶に、脳に激しく残っていた。

 殺人犯となってからも、アヤの曲は廃れなかった。名曲として、何度もテレビやラジオで取り上げられた。だから、停学中に暇だったカルマがたまたまそれを耳にする機会があったのだ。

 

「本当に、脳を揺さぶられた気分だった。暴れて、裏切られて、誰も信用出来なくて、独りだった時に聞いたその歌は、恥ずいけど、救いになった気すらした」

 

 カルマは、自分が独りになった時を思い出す。

 教師に裏切られて、この世界には碌な大人がいないと絶望に似た諦めを胸に挟めていたあの時。テレビから聞こえた彼女の歌は、カルマの脳を揺らした。孤独を肯定してくれるその声は、カルマにとって心地良かった。

 

「それで、なんでこの人が捕まってるんだろうなって調べたら、あんたの名前が出てきた。だから、ほんとに逆恨み」

 

 カルマにとっては、その歌手がどんな人物だったなんてどうでもよかった。ただ、その声を止めたという事実だけに、ほんの少しの苛立ちを覚えてしまったのだ。

 殺人が悪い事は知っている。アヤエイジアが罪に問われるべきなのも分かっている。ただ、声だけに救われたカルマには関係がない。腑に落ちないという気持ちがなくなるわけではなかった。

 

「うん」

 

 弥子はカルマの目を見て、ただ頷いた。

 捕まえてごめんね、なんて言うわけがないだろう。正しいのは弥子の方で、悪いのはアヤだ。でも、カルマにとっての恩人を牢屋に入れた人間は、好ましく見ることは出来なかったのだ。

 

 あの、授業を聴くまでは。

 

 弥子は、最後までアヤエイジアを否定しなかった。

 人を殺すことを肯定しない。だが、弥子はアヤエイジアだけが抱えた孤独や、その胸の内に宿さざるを得なかった悪意を、丁寧に伝えていた。アヤエイジアの声だけじゃなく、人間的な部分が、カルマには見えた気がしてしまった。

 アヤは、自分の行いを酷く悩んだはずだ。そして、それに寄り添って事件を解決してくれたのが、弥子だったのだろう。だから、弥子がアヤと今でも仲が良いというのは、本当は嘘じゃないと分かっていた。

 

 授業を聞いていると、カルマはアヤの心を解放した彼女に対して持っていた負の感情をいつのまにかほとんど無くしてしまっていて、そんな自分にも戸惑っていたのだ。

 だから、さっきの言葉は、そんな自分を確かめるカルマらしくない不器用な方法だった。

 

 弥子には、それすら見抜かれてる気がした。

 

 これが、探偵。

 

 

「……あの授業は良かったよ。弥子先生」

 

 まだ自分の行いを素直に謝れるほどカルマは大人になれなかった。

 だから、辛うじてそう言うことしか出来ない。

 

 それでも弥子は、やっぱり笑って、ありがとう、と言ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 カルマを家まで送ってやる、と言い出したのは、吾代だった。

 カルマからしたら、吾代という男はまだ謎の多い人物であったが、いきなり連れてこられたこの事務所から帰るのは至難であったので、受けざるを得ない提案だった。

 帰り際、弥子が、赤羽君また明日、と元気よく手を振ってきたので、カルマは、カルマで良いよと言ってから部屋を出た。

 

 先程の軽トラックで、夕暮れの空の下を走る。

 カルマが意味もなく窓から景色を眺めていると、吾代が、おい、と乱暴にカルマを呼んだ。

 

「辞めた助手の話をしたよな」

「あー、ジャンプで10円を潰したとかいう?」

「500円な」

 

 嘘くさい話だったが、カルマは特に否定する気もなく聞いた。

 

「それがどうしたの」

「助手って奴と同じくらい、探偵も強かった」

 

 前を見て運転している吾代を、カルマはゆっくり見た。

 

「ただ力が強いってのは、別に楽しいことじゃねーぞ」

 

 

 ――強いって……疲れるね、忍クン。

 

 

 吾代の脳裏には、いつか自分がつるんでいた、一人の子供の姿があった。

 

 カルマは、吾代の言った意味が何となく分かった気がした。

 何の力もない弥子を、弱い人間だとは思わなかった。ああいう強さもあるのだと、知れた気がした。

 

「教師みたいなこと言うね、吾代さん」

 

 カルマがそう言うと、うるせーよ、と吾代は笑った。

 

 

 

 



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6話

 日に日に暑さが増していると感じる。生徒も今の時期は大変だろうな、と思いながら弥子は手で自分を扇いだ。

 今の時間はイリーナが授業をしている。烏間はどこかに行っていて、この教員室には自分しかいない。弥子はとりあえず段々と座り慣れてきた自分の椅子に腰掛けて、今あるだけの殺せんせーについての資料を纏めていた。

 弥子が知っている殺せんせーの情報は少ない。

 彼女が防衛省から聞いたことは、殺せんせーが月を爆発させた犯人で来年の3月に地球も爆発させようとしていること。彼が最高速度マッハ20で動く超生物であること。何故か椚ヶ丘中学校3年E組の担任をやろうとしていること。大まかに言えばこれだけである。

 弥子は、防衛省の人間、例えば烏間なんかも、もっと詳しく何かを知っていて隠しているのだろうと勘付いていた。しかし、自分からそれを催促することなどしない。彼の立場から情報が漏洩しないように守っていて、しかもそれを他人に言うつもりはないのだと、その表情から察していたのだ。

 

 実際に弥子の予想は正しく、防衛省は弥子に殺せんせーの情報をわざと詳しく教えていない。それは、依頼した他の暗殺者同様に、彼女もまた突き詰めればただの一般人でしかないからだ。弱点の解明は依頼したが、政府にとって彼女は役に立てばラッキー程度の存在でしかない。外部の人間に情報を漏らしそれが世間に広まって多くの混乱を招くことになるのを、危惧しているのだ。

 

(ほんと、殺せんせーってなんなんだろ)

 

 机に肘をつき、渚に教えて貰った情報にもう一度目を通しながら弥子は心の中で呟く。

 

(破壊生物って言うけど、いつどこで生まれてなんの目的があるのかも分かんないし。……ネウロだったら、こんな謎もすぐ解けたりするんだろうなぁ。いやでも美味しくなさそうな謎なら見向きもしないかも)

 

 いつかの相棒を思い出しながら、弥子はぐっと背を伸ばした。

 

 すると、ガラリと音がする。

 見れば、汁状のなにかを顔からだくだくと流した殺せんせーが、窓からナメクジのように部屋に入ってきた。

 

「……殺せんせー、その汁はなんですか? 」

「にゅにゅ、どうも昨日から調子が変なんです。鼻水が沢山出て……」

(鼻水出るんだ! てかそこ鼻なの!? )

 

 やはりまだこの生物について知らないことは多い。ならば、渚のように分かったことを一つずつ書いてくのは正解だ。弥子はネウロのような賢さは持っていない。せめて地道に進んでいくしかないだろう。

 弥子は目の前のノートに、殺せんせーは目の下の穴から鼻水を出す、と正直にメモをしておいた。書きながらもこれが役に立つ知識だとは思わなかった。

 

「何か心当たりはないんですか? エアコン付けっ放しで寝たとか」

「私は子供じゃないんですよ弥子先生。せいぜい風呂上がりにマッハで動きまくって体を冷やしたってことくらいですかね」

「めっちゃ子供らしいんですが……」

「私はそんなことでは風邪などひきません。強いて言うなら、昨日寺坂くんに殺虫剤を教室に撒かれてから変ですねぇ」

 

 それは弥子も小耳に挟んだ話だった。最近寺坂の行動が度を過ぎている。殺せんせーが作ってくれたプールを壊したり、教室に殺虫剤を撒いたりと、今まで彼と連んでいた子達もうんざりしてきているのだとか。

 弥子はまだ寺坂と話したことはないが、自分も曲がりなりにも教師ならば何か話を聞いてあげるべきなのでは、と思った。

 

 

「そういえば、弥子先生は学校に慣れましたか?」

 

 ティッシュで鼻水を盛大に拭いながら、殺せんせーは訊ねた。

 一応立場的には弥子と殺せんせーは敵同士だ。それなのに、慣れましたか、なんて気を遣って声を掛けてくれることが可笑しくて、弥子は思わず頬が緩む。

 

「まぁ、ちょっとずつは」

 

 はにかみながら、弥子はそう答える。

 しかし、弥子は自分が先生としてやれている自信はなかった。勉学を教えている訳ではないので、授業用の資料の準備などに追われることはない。勿論生徒に問題を聞かれるなんてこともないので、先生として自分がやっていることは非常に少ない。子供達とは聞き込みと言って話すこともあるが、一部を除けばまだ弥子を先生というよりは校内に現れた有名人、という感覚で見ている者の方が多い気がする。

 

「そういえば、次の授業はいつやればいいですか」

 

 別に楽しみということではないが、授業の時間を貰ったのはアヤの話の後に一度だけしかない。それから何もしてない弥子は、自分はやはり不甲斐ないのかと少し不安になる。

 

 因みに前回話をしたのは、食べれば成功を呼ぶと謳われた料理を作っていた至郎田の事件についてだ。最終的に追い詰められた犯人の至郎田はドーピングコンソメスープなどというものを摂取し、鍋を平らにするほど身体が巨大化した。そう言った時は嘘くさく思われながらも生徒にはウケたし、ドラッグを大量に混ぜた料理を出したことを批判し、食というのはそうではない、食べること自体が幸せなのだと熱弁すれば、原なんかは激しく同意してくれていた。

 気付けば大体食事のことについて話していて、終わった後に果たしてこんな話で良かったのか、とは疑問に思っていた。

 

 

「そうですねぇ。もう少し待ってくれますか?」

 

 殺せんせーは少し考えて、触手で自分の顎を撫でながら言った。

 

「1限分空けるために、他の授業を無理のないようほんの少しづつ早めています。そしてその分余裕が出来た時に、弥子先生にはお願いしたいのです」

 

 殺せんせーは、基本的に学校のカリキュラムを守っている。いくら進行が早くても、一つの時間に決められた範囲をしっかり教えきる。皆に興味が湧くように小ネタや裏話を挟んだり、理解の早い生徒にはその分野の応用を教えたりして、一つずつのことに対する理解をとても大切にしているのだ。

 本来存在しない弥子の授業の枠は、そんな彼の手腕によってやっと空けられた一枠を使っているのである。

 

「なんか、無理をさせてるみたいで……」

「いいえ。貴女の授業は彼らにとって必要なことです。それこそ、人生においては本当は勉学よりもずっと大事なこと。だからむしろこちらからお礼を言いたいくらいなんですよ」

「そ、それは……ありがとうございます」

 

 弥子は素直に褒められた恥ずかしさと、今後の授業に対するプレッシャーでなんとも言えない表情になる。自分がそんな大したことをしているという実感はないのだ。

 

「しかし、弥子先生も考える時間が欲しいでしょうから、これからは前のように急に頼むようなことはせず、なるべく前もって伝えますよ」

「あー、それは助かります」

 

 そうしてくれたら、もっと生徒のためになる話が出来るかもしれない。どうせ教壇に立つなら、弥子も彼らのためになりたいと思っている。

 

「……ただ、一つお願いがあります」

 

 殺せんせーが、いつものおちゃらけた感じとは少し異なる雰囲気を出した。

 真剣に見つめられて、弥子は身構えて背筋を伸ばしてしまう。

 

「……なんでしょうか」

「『絶対悪』について話すのは、もっと時間が経ってからにしてください」

「っ!?」

 

 思わず、びくりと肩が震えた。

 

『絶対悪』。

 

 抽象的な言葉であるが、弥子には何のことなのかすぐに分かってしまった。探偵を始めた時から今まで様々な事件を目にし色んな悪意と対面してきたが、それらが全部嘘に見えるほどの本物を、見たことがある。彼の起こした事件はあまりに残虐的で、今思い出しても吐き気がする。弥子にとっても思い返したくないことの一つだ。

 

 しかし、何故それを殺せんせーが知っているのか。

 この事件が公になったのは3年前。殺せんせーはその時から存在していたのか。いやもしかすると、その前から知っていたのか。本物の悪意が何かを本当に分かっているのか。弥子とあの『絶対悪』との繋がりも知っているのだろうか。

 疑問が次々と頭に浮かんでくる。

 

 殺せんせーは、話はそれだけです、とも言いたげに、弥子に背を向けた。それから、部屋にある冷蔵庫の前まで向かい、その扉の取っ手に触手を伸ばしている。

 弥子はそんな後ろ姿を見ながら、ゴクリと唾を飲んだ。

 

「……殺せんせー、その、『絶対悪』とは――」

「にゃにゃ!? 先生が冷蔵庫に入れておいたベルギー産のチョコがない!」

「ぎくぅ!」

 

 殺せんせーは、ゆっくりと弥子を振り返る。

 

「……まさかとは思いますが、弥子先生。食べましたか?」

 

 じっと見つめてくる殺せんせーから、冷や汗だらけの弥子は一生懸命に顔を背ける。

 

「何のことでしょう」

「私がわざわざ現地で調達した激レアチョコレートを勝手に全部食べましたね! あんなに沢山入ってたのに!ああ! オーストリアのザッハトルテも! イタリアのパンナコッタもない!? 」

「わ、私が食べたっていう証拠がないですね!」

「貴女のゴミ箱に溢れるほど大量の包み紙がありますが!」

「っあ!」

 

 やってしまった、と、弥子はすぐに口を抑えたが、既に遅かった。

 

「よくも人のお菓子を勝手に食べましたね!」

「だ、だって! 美味しそうでしたし! 名前も書いてないし! 美味しそうでしたし!! 」

「だからってあんなに大量に溜め込んだものを一つ残らず食べきるなんて! 」

「ごめんなさい! ほんとごめんなさい! 」

 

 何故倒すべき破壊生物にお菓子のことでこんなに怒られなければならないのか、という疑問が弥子の頭に浮かぶが、逆の立場になったらたとえ自分がどんな生き物だろうと地球が壊れるほど本気で怒る自信があったので、素直に謝罪をするしかない。

 

「だいたい、探偵のくせに証拠処理が甘いんですよ。そう――」

「……お菓子だけに、ですか?」

「……授業は明日お願いします」

「さっきと言ってることが違う! 」

 

 お菓子の恨みか、ギャグを先に言われたことが許せなかったのか、それともその両方かは分からないが、弥子は明日授業をすることになってしまった。

 

 渚のノートに書いてあった、器が小さい、というのは間違ってないなと心の中で呟く。

 

 

 

 

 それから、殺せんせーは仕方がないのでもう一度ヨーロッパでお菓子を買い込みに行くと言って、窓から飛び出していってしまった。

 

 結局、『絶対悪』――シックスのことは、聞けなかった。話題を逸らしたのは、詳しくは話したくないからなのか。(お菓子を食べたこともそれはそれで本気で怒ったのだろうが)。

 殺せんせーがシックスについて何かを知っていたのかは分からない。ただ、彼についての謎が。少しだけ増えてしまった。

 

 

 ちなみに弥子は飛び出していく殺せんせーに、卑しくも自分の分のお菓子も頼んでいた。

 

 

 

 

 ◯

 

 

 

 

 

 放課後になり、弥子が校舎の外を歩いていると、カルマが前に歩いているのが見えた。

 弥子は少し声を張り上げて、カルマ君、と呼ぶ。

 カルマはすぐに振り向いてくれた。

 

「弥子先生、何してんの」

「教室に誰もいなくてさ、律に聞いたら皆でプールに向かったって聞いたから」

「寺坂が殺せんせーを殺すためになんかするらしいよ」

「……寺坂君、大丈夫かな。ていうか、カルマ君はプールいかないの?」

「今行くとこ。寺坂の計画に協力する気はないけど、失敗するとこはみたいから」

 

 やっぱりちょっと曲がった性格だよなぁ、と苦笑いしながら、弥子はカルマの横について一緒に足を進めた。弥子先生もくんの、と聞かれたので、うん、と答える。寺坂のことが心配だった。

 

「弥子先生、次いつ授業すんの? 」

「明日、かなぁ」

「お、楽しみだね。前のドーピングコンソメスープっての、ちょっと笑ったよ」

「実際みたら結構恐ろしかったんだよ?」

「でも、助手ってのが倒してくれたんでしょ? 吾代さんも言ってたけど、そいつ本当はどんくらい強いの?」

 

 本気なら核爆弾でも死なないくらいかなあ、とは言えなくて、弥子は曖昧にして流そうとした。

 

 

 

 そして、その瞬間。

 耳を激しい勢いで割いたかのような爆音が、二人を襲った。

 

「……え、何今の音」

「……プールの方からだ」

 

 呟くように言ったカルマが、すぐに駆けていく。

 弥子もそれに続くように、走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 




感想評価お気に入り追加すべて本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

そして、誤字訂正してくれる皆さま。
本当に申し訳ない……!今後も気をつけます……!(無くすとは言えない)


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