わたしのかんがえたさいきょうのせっちゃん (ワイマール拳法)
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「洞」

 毟る――。

 それだけが赦された行為であるかのように、少女はただ黙々と背中にある「翼」を毟った。純白の翼は、底のない闇に包まれた洞でも、月魄のように耀いていた。しかし、無垢なまでに純白な存在は、少女にとって忌々しいものでしかなかった。

 それは業であった。

 それは咎であった。

 それは罪であった。

 毟る――。

 少女の指先によって抓まれた純白の羽が、また一枚、足元にある泥濘(ぬかるみ)へと沈んだ。純白が、ぐずぐずと穢れていった。少女が翼を毟れば毟るほど、大切なものが崩れ風化され流され失せ砕かれ壊され穢され犯され蝕まれ刺され燃やされ斬られ刈られ潰され弄ばれ呑まれ喰われ陵辱され嬲られ蹂躙され奪われ裂かれ虐げられるかのようだった。

 少女には男に罵られた記憶が蘇った。

 少女には女に蔑まれた記憶が蘇った。

 少女には大人達の黒々とした感情に曝され、(オカ)された記憶が蘇った。

 

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。私は男に罵られたかったのか。私は女に蔑まれたかったのか。私は翼を捥ぎたかったのか。私は男に冷笑されたかったのか。私は私という存在を赦されたかったのか。私は女に嘲笑されたかったのか。私は翼を失くしたかったのか。私は母に抱かれたかったのか。私は父に愛されたかったのか。

――私は、ただ、このちゃんを助けたかっただけなのに。

 

 少女の脳裡に、たった一人の親友である近衛木乃香の姿が浮かんだ。

 禍々しい感情の毒牙に蝕まれながら、彼女はなおも純白の翼を毟った。少女の裡にある大切なものが(こぼ)れていった。肉体のなにもかもが砂粒のように失われていく感覚だけが、少女の忌々しい記憶を忘れさせた。

 毟る――。

 もはや、少女の両手は生血(のり)に塗れていた。少女は、祈るかのように仰いだ。ただただ暗澹たる洞が少女を覆っていたが、彼女はまるで聖女かのように陶酔と微笑んでいた。

 少女は妄執していた。

 少女は、これで赦されるのだと信じていた。

 少女は、これで解放され(オワ)るのだと信じていた。

 母胎のような恍惚に包まれながら、少女は眠るように瞼を閉じていった。

 

  ○

 

 桜咲刹那は、誰彼(だれか)を待つように大木の袂で凝然としていた。静謐な夜である。夜風に吹かれた幾多もの桜の(はなびら)が、月光に灯されながら舞っていた。桜の満開も間近であった。

 

「刹那」

 

 刹那のクラスメイトで同僚の龍宮真名の声であった。真名の背後には、スペイン階段をモチーフにした世界樹広場があった。かの世界樹は、さながら神のように悠然と聳立(しょうりつ)している。世界樹の麓では、麻帆良学園理事長近衛近右衛門が仙人さながらの立派な髭を撫ぜながら苦笑していた。

 

「またカツアゲか」

「心外だな」刹那の言葉に、真名は肩を竦ませた。「正当な報酬さ」

 

 真名の手には、一枚の契約書があった。近右衛門が、傭兵である真名にケツの毛まで毟られてしまった証である。真名は、契約書を豊満な胸の谷間に(しま)った。

 素寒貧となったお財布()に悄然とした近右衛門が転移魔法で去り、世界樹広場は森閑とした。

 麻帆良の学生達に囁かれてきた、草木も眠る丑三つ時に世界樹広場でサバトが開かれるという噂の真相が、魔法使い達による関東魔法協会麻帆良学園本部定例会議であった。魔女集会(サバト)という世迷言も、ハズレではない。どうにも馬鹿々々しいものだから、刹那はつい笑ってしまう。

 

――呑気だなあ。

 

 くつくつと笑う刹那に、真名は呆れた。

 かの千の呪文の男(サウザンド・マスター)の息子ネギ・スプリングフィールドの修業の地が麻帆良に選ばれた矢先に、桜通りの吸血鬼騒動である。麻帆良の魔法使い達はいつも以上にナーバスになっていた。それでも魔法使い達をまるで小馬鹿にするように、刹那はなおも嗤笑(わら)っていた。

 当然ながら魔法使い達にとって愉快ではない。薄闇の奥にある幾許もの視線は、実に剣呑である。真名はさながら針の筵だ。だが、真名も刹那のように口許を皮肉(シニカル)に歪ませた。

 真名も剛胆で、やはり呑気だった。

 

「モテモテのようだなあ、桜咲刹那」

 

 肌がひりひりするような世界樹広場から、またも呵々とした呑気な声があった。さながら人畜を虜にするサキュバスのように、艶然としていた。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルである。幼女エヴァの背後には、幾望の月が彼女を祝福するように燦然と夜を彩っていた。

 まるで一枚の絵画であった。

 

「グッドマンも実に熱烈じゃないか」エヴァは愉快(からから)と笑った。「まるで愛の告白だな」

 

 魔法生徒の一人である高音・D・グッドマンが、不愉快とばかりに眉宇を顰ませていた。高音を慕う魔法生徒の佐倉愛衣が胸に箒を抱いたまま、剣呑な彼女に左顧右眄と困惑していた。

 

「プロポーズには返事をしないとな」

「はあ」

 

 エヴァの言葉に、刹那は生返事をした。

 大魔法使いエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、ナギ・スプリングフィールドに愛の告白(プロポーズ)をしたが、フラれた上に返事は「麻帆良の地に封印」であった。魔法使い達の裏業界(ウラ)では随分と有名な噂話である。刹那と真名は、噂が真実であると知っていた。随分な皮肉である。真名は、呆れた。

 刹那は返事をするように、高音と愛衣へ呑気に微笑んでいた。

 

  ○

 

 桜咲刹那は下種である。

 同僚という関係にある真名は、立派な魔法使い(マギステル・マギ)を信奉する一派から刹那と同類だと(みな)されていた。不本意であったが、真名は否定するつもりもなかった。真名が、金と交渉次第で誰の敵にも味方にもなる傭兵であるからだ。

 刹那はチカラを欲した。どのような手段も厭わなかった。呼吸をするかのように狂奔した。信条も、矜持もなかった。何故刹那はそれほどまでチカラに固執するのか。真名の言葉に、刹那はさも当然かのように嗤笑(わら)った。

 

「このちゃんの為や」まるで童女のように、刹那は無垢な瞳を爛々とさせた。「私、このちゃんの為なら、何でもするえ」

 

「このちゃん」の為ならば、暴力を厭わなかった。「このちゃん」の為ならば、闘争を厭わなかった。大切な幼馴染を護る為ならば、穢れるのも厭わない。なるほど立派ではないか。

 しかし、刹那は致命的にズレていた。

 刹那は、彼女自身が純潔であると一切疑っていなかった。

 刹那に、下種であるという自覚がまるでなかった。

「このちゃん」の為と謳う大義名分に、近衛木乃香の意思は存在しなかった。刹那はチカラなど欲していない。「このちゃん」が欲しかっただけである。

 だから、真名は刹那と共にある。

 チカラに溺れた者の末路を、胸に刻む為であった。

 

  ○

 

 刹那達を軽蔑するように、高音が世界樹広場から去っていった。(おく)れるようにして去った愛衣に、刹那はまるで親しい友人と別れるかのように微笑んだ。

 

「今日は茶々丸さんがいないようですが」刹那が、エヴァに問うた。「やはり、桜通りの吸血鬼の件ですか」

 

 エヴァは、忌々しいとばかりに口許を歪ませた。童女にあるまじき形相であった。

 

「じじぃに大事な話があるからと呼ばれたが、ただの説教だった」エヴァは、辟易したとばかりに大仰な溜息をした。「まるで私が下手人であるかのようだ。これでは魔女裁判ではないか」

 

 さながら蝙蝠の羽のように黒々とした薄手のドレスから(あらわ)にした艶かしい肩を竦ませながら、エヴァは悲嘆した。実に白々しいの一言である。真名はまたも呆れ、刹那は呑気に嗤笑(わら)っていた。

 

「噂の吸血鬼は何人襲ったのだろうな」

「十三人。私は少食なのでな」

「おい」

 

 真名の言葉に、エヴァはあっさりと白状した。これでは裁判もクソもない。真名は、頭痛がした。

 

――彼女は、本当にあの吸血鬼の真祖(ハイ・デイライトウォーカー)なのか。

 

 満月の夜になると麻帆良学園学生寮前の桜並木で吸血鬼が現れるという噂が有名になったのはつい最近である。しかし、満月の夜道に倒れていた女子生徒が学園広域指導員に保護されるという事例は、半年前から幾度も起きていた。埼玉新聞でも記事にされたが、どれも貧血による症状と診断され、吸血鬼などという荒唐無稽な噂話にはならなかった。

 だが、先月の話である。

 ゴシップ記事を書かせたら天下一の「まほら新聞」に、ある記事が載った。

 満月の夜、桜並木で吸血鬼に襲われたという女子生徒の独占インタビューという(てい)であった。記事には、牙のような傷跡が残された彼女の腕の写真も掲載されていた。これが火種となり、桜通りの吸血鬼は麻帆良学園生徒の間で口々に囁かれるようになった。後日、まほら新聞の記者朝倉和美は、学園広域指導員である鬼の新田から一週間のトイレ掃除という厳罰を処せられた。

 無論、桜通りの吸血鬼はエヴァの仕業である。

 近右衛門ら上層部や刹那や真名のような情報通(ピーピング・トム)には、なかば公然の秘密であった。

 春先だが、まだまだ夜風は乙女の肌に厳しい。従者である絡繰茶々丸に温かい夜食を作らせたから上がれと、エヴァに自宅(ログハウス)へ招待された刹那達は、森林に囲まれた小川道を歩いていた。

 

「それで」真名は、ビスクドールのような背中に問うた。「次は、誰を襲うつもりだ」

 

 確信しているかのような真名の言葉に、エヴァは子供のように嗤笑(わら)った。

 一連の吸血鬼騒動は、杜撰の一言である。エヴァが本当に秘匿するつもりだったならば、襲った女子生徒を桜並木へ放ったままにするはずがない。完全に記憶を消去または改竄し、茶々丸が女子生徒を寮のベッドにぺいと放ればいいだけの話である。碌に記憶の処理もせず、まほら新聞の記事にまでされてしまった。これではバレてしまうのも、当然であった。

 だが、ネギ・スプリングフィールドにバレるのがエヴァの目的ならば話は簡単である。

 

「佐々木まき絵か、宮崎のどか。和泉や大河内でもいいな」エヴァの言葉は、実に傲岸不遜であった。エヴァは、嬉々としていた。「もし噂の吸血鬼に生徒が襲われたとなれば、当然ぼうやは黙っていないよな」

 

 不穏なエヴァにも、真名は恬然としていた。エヴァの余興で貧乏籤を引かされたまき絵達は御愁傷だが、どうするつもりもなかったからである。

 近衛近右衛門から依頼があれば、話は別であったが。

 

「あいつが」エヴァは、皮肉(シニカル)嗤笑(わら)った。「約束を反故にするからだ」

「エヴァンジェリンさんも大変ですねえ」

 

 刹那の言葉は、実に能天気であった。エヴァは深々と嘆息した。刹那は、どうもネジが外れているのだ。真名は苦笑した。呆れる二人を余所に、刹那は呑気に微笑んでいた。三人の先にあるログハウスの前で、メイド姿の茶々丸が深々と頭を下げていた。

 桜咲刹那。

 龍宮真名。

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。

 それは、奇妙な友人関係だった。

 

  ○

 

「旨い」

 

 白磁の咽喉を蠕かせながら、エヴァがワイングラスを空にした。瑞々しい唇はぬらぬらと耀き、ワイングラスの底に残された雫は血のように紅々としていた。エヴァは「キリストの血」に御満悦なのか、仔リスのような頬が(あから)んでいた。さながら娼婦のように、妖艶であった。

 

「満月でないのが、実に残念だ」

 

 窓辺で月夜を仰ぎながら嗤笑(わら)うエヴァを尻目に、真名は銃器のメンテナンスに余念がなかった。先刻まで大吟醸をちびちびしていた刹那も、愛刀である野太刀夕凪を前に瞑目していた。

 一時間もすれば、刹那達には麻帆良の警備という仕事があるからだ。

 関東魔法協会の総本山である麻帆良学園に侵入しようという輩は、よほどの阿呆か、よほどの凄腕である。春の陽気に誘われた雨後の筍さながらの阿呆なら、電子精霊のスペシャリストである弐集院光謹製の電子防壁に阻まれ、御用である。だが、凄腕となれば話は別である。刹那達実力者が武力で排除しなければならない。「東西」の仲が険悪だった十数年前のようには滅多に現れないが、不安の芽を摘む為にも警備は不可欠であった。

 しかし、賊というものは古今東西、夜行性が常である。

 関東魔法協会が麻帆良学園という教育機関を隠れ蓑(カモフラージュ)にする以上、学生の模範となるべき教師や、学生達に無理はさせられない。勉学に支障がないようにしなければならない。

 故に、夜の警備は教師や学生達からの熱心な志願者や専業警備員、エヴァのような人外(夜行性)の仕事だった。

 

「忌々しいが、またじじぃにドヤされるのも御免だ」空になったワインボトルを惜しむように、エヴァがソファから鷹揚と腰を上げた。「茶々丸」

「はい」

 

 刹那達が食事をしていたテーブルは、既に綺麗である。濡れた掌をタオルでぱたぱた拭きながら、メイド姿の茶々丸が返事をした。(マスター)であるエヴァに問われるより前に、瀟洒な茶々丸は準備を終わらせていた。忠実な従者に、エヴァは欣悦と歯牙を剥いた。

 それが合図だったかのように、真名はギターケースを担ぎ、刹那は帯刀(たちはき)をした。

 

「桜咲」ログハウスの玄関で刹那の背中に、エヴァが問うた。エヴァの口許は、歪んでいた。まさに悪の魔法使いの面目躍如だった。「近衛は、大切なお嬢様だったよなあ」

「はあ」

 

 いつもなら返事をするまでもない愚問だが、刹那にはどうにも意図が分からなかった。怪訝な刹那に、やはりエヴァは愉快とばかりにけたけた嗤笑(わら)った。真名は、端麗な眉宇を顰ませた。真名には、エヴァの真意が分かっていた。

 ナギ・スプリングフィールドによる「登校地獄」の解呪に、エヴァは血縁である息子ネギの血が必要であった。まず封じられた魔力を補わなければならなかった。それが桜通りの吸血鬼騒動の発端である。千の呪文の男の息子たるネギと相対するには、当然ながら相応の魔力()が必要である。だが、厳密には一般人の血など必要なかった。麻帆良には、格別な魔力の(タンク)があるからだ。

 それが、近衛木乃香であった。

 

「桜咲は近衛の護衛(ナイト)だ」エヴァは、嗜虐的に嗤笑(わら)う。「私が近衛を眷属(グール)にするとしたら」

 

 愉悦に歪んだ口許から、吸血鬼の牙が耀いた。

 

「貴様は、どうする」

 

 刹那は、微笑んだ。

 

  ○

 

「学園長先生にも困ったものですわね」

 

 持参したクッキーをぽりぽりしながら口許を掌で(おお)うと、雪広あやかは呆れたように苦笑した。クラスメイトである近衛木乃香の寮部屋で、あやかは呑気に寛いでいた。あやかの敬愛するネギ・スプリングフィールドが居候の身なので、あやかは暇あらば木乃香の寮部屋で優雅にティータイムとネギを堪能していた。当然、あやかはネギの行動(スケジュール)を把握し、腐れ縁で木乃香と相部屋の神楽坂明日菜にネギとの逢瀬を邪魔されないように、彼女の行動(スケジュール)も把握していた。

 阿呆の所業であった。

 

「ウチ、まだ子供やのに、おじいちゃんは勝手やわ」

 

 あやかの手土産であったローズヒップを淹れたティーポットとティーカップをテーブルに用意した木乃香は、学園長である祖父近衛近右衛門に御立腹らしい。ぷりぷりとする木乃香に、あやかが微笑んだ。

 

「だからって、脱走はいけませんわ」まるで、母親のような口調であった。「先方の迷惑になってしまいます」

「けどなあ」

 

 両頬をぷくぷくとさせたままクッキーを抓む木乃香は、仔リスのようで微笑ましい。しかし、あやかにとってはそれ以上に、二人が一体どのような話をしていたか分からないのか、呆然としているネギがとても愛らしかった。とても愛らしいものだから、あやかは衝動のままにネギを抱擁した。

 辛抱ならなかったようだ。

 

「あぶ、い、いいんちょさん!」

「嗚呼、ネギ先生!」

「もう、ウチ、真面目な話しとるんよ」

 

 ゴチ。

 あやかは木乃香に金槌で叩かれた。大和撫子らしからぬ、実に容赦のないツッコミであった。

 

  ○

 

「お見合い、ですか」

 

 額に絆創膏が貼られたあやかを幾度も心配しながら、ネギは木乃香の話を戻していた。テーブルには、クッキーや紅茶の他に、精悍な男性の写真が何枚も置かれていた。

 どれも木乃香の縁談相手であった。

 

「つまり、このかさんは、お見合いが嫌なんですね」

「そうなんよ。趣味かしらんけど、おじいちゃん、いつも無理矢理するんやもん」

 

 木乃香は写真の一枚を不承々々とばかりに抓んだ。写真の男性は、三十代前半の警視庁キャリア候補だった。他にも医者や弁護士など、錚々たるメンツだ。

 アンニュイに頬杖をする木乃香の隣で、あやかもこれには感嘆した。

 

「まだまだありますね。常々疑問でしたが、学園長先生のパイプは恐ろしいですわ」

「それで」双眸を無垢に耀かせたネギが、ふとしぱしぱ目瞬(まばたき)をした。「お見合いとはなんでしょうか」

 

 あやかが姉のような口調で、ネギに返事をした。

 

「お見合いは、結婚相手やパートナーを探す為の、日本の慣習ですわ」

「ネギ君も、パートナーが勝手に決まってまうなんて、嫌やろ?」

「はい、それは困ります」

「でしょう」ネギの言葉に、木乃香が破顔した。下がったままだった木乃香の眉尻が緩んだ。「だから、おじいちゃんには困ってまうなあって話をしとったんよ」

「あの……、脱走というのは」

 

 純朴なネギの言葉に、木乃香は抓んでいた写真をテーブルに置き、俯いてしまった。

 

「あ、あれ」

 

 悄然とした木乃香に、ネギは狼狽した。

 

「以前、縁談を反故にしてしまったとき」動揺するネギに、あやかが微笑んだ。「先方とちょっとした騒動になってしまって」

 

 あやかにとっても木乃香の事情は身近なものであった。あやかは、財閥でもある雪広グループの令嬢だからである。あやかも縁談の類にどれほど悩まされてきたか分からない。あやかの父は縁談が時期尚早という彼女の意思を尊重したが、それでも断れない縁談は幾度とあった。木乃香もこればかりは親友の明日菜より、あやかや那波千鶴に相談をしていた。あやかも、ときには木乃香や千鶴と一緒に愚痴ったものだ。

 故に、あやかは木乃香の縁談や、ちょっとした騒動の顚末を知っていた。

 木乃香はいつものように縁談が嫌で反故にした。いわゆるドタキャンであった。いつもなら、木乃香を追わされた近衛家直属の黒服(ボディーガード)達の呑気な酒の肴にされるだけであった。しかし、先方の親族を憤慨させてしまった。親族が、外聞や体裁を重要視するステレオタイプの人間だったからである。曰く、面目を潰されたと激昂され、さすがの近右衛門も事態の終息に尽力したが、親族は実に鰾膠(にべ)もなかった。当事者だけでは、紛糾するばかりであった。ついに第三者が仲裁に奔走し、どうにか元の鞘へ収まらせたという。

 以来、近右衛門の厄介な趣味も鎮まったが、木乃香は縁談の類がより苦手になってしまったらしい。

 

「で、でも収まったのならいいじゃないですか」

「それは、そう、なんやけど」

 

 ネギの言葉も、また木乃香は俯いてしまった。言葉にも、力がない。

 ネギやあやかに心配されたと分かっていたが、それでも木乃香は暗澹としていた。二人を心配させない為に、木乃香はいつものように笑わなければならない。いつものように。しかし、木乃香の口許は雨に濡れてしまったかのように、冷たかった。胸が苦しかった。眩暈がした。全身は別人のように、感覚がなかった。

 脳裡で、木乃香は彼女と相対していた。二人だけであった。夕日に沈んだ麻帆良の街は、飴細工のように耀きながら木乃香と彼女を包んでいた。微睡(まどろ)むようなオレンジ色のベールに焦がされながら、彼女は微笑んでいた。

 

――あ、あの……。

――ええんよ、このちゃん。このちゃんの為なら、私、これくらいへっちゃらやから。

 

 縁談の一件で奔走させてしまった彼女に、木乃香は感謝しなければならなかった。ありがとうとか、陳腐な言葉だけでもいい。

 しかし、彼女を前にして、木乃香はただ呆然としてしまった。

 

――このちゃん。

 

 微笑む彼女に抱いてしまった感情を、木乃香は忘れられなかった。許せなかった。どうしてか、分からなかった。どうすればいいか、分からなかった。

 

  ○

 

 桜咲刹那はいつまでも不気味に嗤笑(わら)っていた。




 しばらく物書きから離れていたのでリハビリしています。


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「嘘」

 満月が厭に煌々としている夜であった。

 ネギ・スプリングフィールドは、噂の桜通りの吸血鬼と対峙していた。ネギは、瞠目していた。桜通りの吸血鬼が、生徒のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだったからである。さらに彼女が、気絶している宮崎のどかを「盾」にしていたからであった。のどかの喉元には、さながらナイフのような爪があった。

 

「エヴァンジェリンさん!」ネギは、狼狽した。「どうしてこんなことを!」

 

 桜通りで倒れていたという佐々木まき絵には「魔法」の痕跡があった。どうやら近頃は桜通りの吸血鬼という噂もあるらしい。ネギは、寮の前にある桜並木を用心していた。ネギは、対峙しているエヴァが桜通りの吸血鬼であると確信していた。本当に吸血鬼かどうかは分からないが、魔法使いであることは確実である。

 ネギにとって魔法使いとは誰かの為にあるべきものである。どうして魔法使いが「悪いこと」をするのか、ネギには分からなかった。

 

――などと思っているんだろうなあ、ぼうやは。

 

 青二才なネギを、エヴァは両断した。

 

「まだ碌に自己紹介もしていなかったな、先生」エヴァは、悠然と嗤った。血に濡れた牙が、月光に耀いた。「私はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、正真正銘の吸血鬼(ヴァンパイア)さ」

「ホンモノの、吸血鬼……?」

 

 エヴァの言葉に、ネギが目瞬(まばたき)をした。エヴァが吸血鬼であると、ネギにはいまだ信じられなかった。エヴァにはほとんど魔力がなかったからである。逡巡しているネギを、エヴァがけらけらと嗤っていた。ネギは、馬鹿にされたような心地であった。ネギは、ぷりぷりとした。

 

「み、宮崎さんを離してください!」

 

 ネギの言葉にも、エヴァは柳に風とばかりに飄々としていた。

 エヴァは、もはやのどかに用がなかった。のどかの魔力()も、既に頂戴していた。エヴァは、ネギと相対することが目的であった。エヴァがのどかを「盾」にしたのは、ネギを本気にさせたかっただけである。

 

「サウザンドマスターの息子にしては」エヴァは、傲岸としていた。「随分と甘ちゃんのようだな、ネギ先生」

「ど、どうして知っているんですか!」

 

 エヴァの言葉に、ネギが動揺した。馬鹿正直なネギに、エヴァは嗤った。嬉々としていた。

 

「よく知っているよ」エヴァの言葉は、淡々としていた。エヴァは、自嘲した。「あやつが私を麻帆良に封じたのさ」

「父さんが……?」

「だから」エヴァの瞳に貫かれ、ネギは恐怖した。冷酷としていた。離してしまわないように、ネギは杖をぎうと握った。両の掌には、汗が滲んでいた。「解呪には血縁たるお前の血が必要なんだよ」

「なら、宮崎さんは無関係です!」虚勢でもいいと、ネギは叫んだ。ネギの瞳は、決然としていた。「宮崎さんから離れろ!」

「ほう」

 

 恐れながらも、ネギは臆していなかった。エヴァにとって意外であった。感心したように、エヴァは牙を剥きながら嗤った。獲物を狙う獣のように、獰猛であった。

 

「それでいい、ぼうや。私は悪い魔法使い、お前は正義の魔法使い。悪のエゴに正義が付き合う必要などない」

 

 詠うようなエヴァの言葉は、独善的であった。挑発的であった。立派な魔法使い(マギステル・マギ)を揶揄しているようなエヴァにも、ネギは先刻のように感情を露にしなかった。激情は、魔力としてネギの全身から闘志のように溢れていた。エヴァが、欣悦と嗤った。

 

「フン」ふと、エヴァの眉宇が歪んだ。エヴァが、不承々々とばかりにのどかを離した。「邪魔が入ったようだ」

 

 ネギの意識が、石畳に倒れるのどかに向いた。一瞬の隙であった。既にエヴァの姿はなかった。転移魔法であった。触媒である魔法薬の破片だけが残されていた。

 

「宮崎さん!」

 

 のどかは眠っているだけであった。怪我や、噛まれたような傷跡はなかった。安堵したネギは、脱力した。泥のように疲れ、ネギの足腰は仔鹿のようにぷるぷるとしていた。

 

「あれ、ネギ?」

 

 能天気な神楽坂明日菜に、ネギは日常が戻ってきたように思った。

 

「本屋ちゃん、いったいどーしたのよ?」

 

 ネギは、油断していた。

 のどかは、既にエヴァに噛まれていた。「まほら新聞」の一件は、桜通りの吸血鬼という噂になるようにエヴァがわざと傷跡を残していただけであった。佐々木まき絵には、魔力の痕跡があった。エヴァが、魔法で傷跡を治癒していたのである。

 エヴァがのどかにも「処理」した可能性を、ネギは失念していた。

 

  ○

 

 麻帆良学園本校女子中等部三年A組は、実に自由奔放なクラスである。

 疲れているらしい子供先生ネギ・スプリングフィールドを拉致して、学生寮にある大浴場の一角を勝手に占領してしまうほどである。いつもはストッパー役である生真面目な雪広あやかも、恋は盲目さながらネギに夢中であった。噂の桜通りの吸血鬼に襲われ、昨日までぶっ倒れていたはずの佐々木まき絵も、クラスメイトと一緒になってネギで戯れていた。

 

「やめっ」三年A組一同の恐るべきバイタリティに、ネギは玩ばれていた。「やめめめ」

 

 桜咲刹那は、ネギを励ますつもりのクラスメイトに腕を引かれるがまま入浴していた。騒然としたクラスメイトの輪から離れた刹那は、ネギの為にあやかが用意したらしい高級甘酒を勝手に失敬していた。実に臆面もない刹那だが、あやかの友人である那波千鶴も村上夏美と甘酒を堪能していた。

 

「いいのかなあ」

 

 夏美の言葉に、刹那から返事はない。千鶴も微笑むばかりである。夏美は萎縮しながら、甘酒をちびちびとした。夏美の心配は杞憂であった。あやかは、ネギで戯れようとするクラスメイトの荒波に呑まれ、昏倒していたからである。

 三年A組らしい、実に馬鹿々々しい日常であった。

 刹那にとって、それに価値などなかった。

 

――このちゃん。

 

 刹那や長谷川千雨のように、近衛木乃香はクラスメイトから離れていた。木乃香は図書館探検部の仲間である綾瀬夕映と、破廉恥な早乙女ハルナに呆れていた。お湯に浸からないよう、木乃香は黒髪をアップにしていた。濡れたうなじが、きらきらとして瑞々しい。華奢な肢体は、童女の面影がありながらも艶かしい。

 

――本当に、綺麗になったよ。

 

 刹那は微笑んだ。恍惚としていた。

 

  ○

 

「おや、珍しいでござるな」

 

 大浴場に現れた(まれびと)の姿に、クラスメイトの用意したおかしを失敬していた長瀬楓が呟いた。制服姿のエヴァと絡繰茶々丸である。明日菜も一緒であった。二人の隣でやや憮然としていた明日菜だったが、子供先生ネギをおもちゃにする阿呆なクラスメイトにぷりぷりとした。

 

「あんた達、ガキ相手になにしてんのよ!」

「げぇっ」

「オカン!」

「誰がオカンじゃ!」

「こ、これには事情が」

「問答無用!」

「うひゃあ!」

 

 クラスメイトに盾にされたまき絵やハルナ、鳴滝風香史伽姉妹は、激昂した明日菜を前にして蒼白である。律儀にスリッパと靴下を脱いでシャツの袖を捲った明日菜がじゃぶじゃぶと湯船に入っていき、贄にされたクラスメイトを馬鹿力でぺいぺいと(ぶんな)げていった。小柄なまき絵や風香史伽姉妹はまだしも、ハルナまでもが悲鳴を上げながら、綺麗な水柱とともに湯船に散っていった。気絶したあやかやネギまでもが、次々と明日菜に擲げられた。明日菜は、もはや暴走していた。「アスナが壊れた!」

 

「して、エヴァンジェリン殿は何用でござったか」

 

 実に阿呆な三年A組の面々にも、楓はいつものように飄然としていた。毒気を()かれたように、エヴァは溜息をした。

 

「仕事だ。鼠が入ってきたようなのでな」

「鼠、でござるか。エヴァンジェリン殿も大変でござるなあ」

 

 やや険のあるエヴァの言葉にも、楓は実にふわふわとして笑顔である。エヴァの眉間には、もはや皺があった。

 

「マスター」制服を濡らした茶々丸の足元には、簀巻きにされたなにかがもごもごと芋虫のように暴れていた。「これはオコジョのようです。鼠ではありません」

「茶々丸殿。鼠には、不届き者という意味もあるでござるよ」

「なるほど、勉強になります」

「ボケどもが……」

 

 誰も彼も実に呑気である。エヴァは頭痛がした。いまだ茶々丸の足元で踠いている簀巻きオコジョを、エヴァは鬱陶しいとばかりに足蹴にした。「ぐえ」踏まれたオコジョはまるで中年男性のように呻き、体長ほどある尻尾がさながら攣ったかのように硬直した。

 オコジョを足裏でむぎゅむぎゅ弄ぶと、エヴァは微笑んだ。嗜虐的であった。

 

「私はこれで失礼するよ。こいつに色々と話もあるのでな」

「はあ」

 

 オコジョに話があるとは、一体どういう意味なのか。楓は怪訝とした。ボロ雑巾のようであったオコジョが、彼女の言葉にまた暴れた。躾をするかのように、エヴァがオコジョの尻尾をぎうと掴んだ。

 

「ひん!」

 

 オコジョは、乙女のような悲鳴を上げた。けらけらと上機嫌なエヴァに、楓は呆然とした。オコジョは、もはやエヴァにとって格好のおもちゃであった。「許されよ」楓は呻いた。楓の言葉に、オコジョが愕然とした。

 おこじょ妖精アルベール・カモミールの命運は尽きた。

 茶々丸が楓に深々と御辞儀をして、二人と一匹は大浴場を去っていった。大浴場の扉が、まるでオコジョの断頭台のようである。「えんがちょ」楓は、飄々と呟いた。

 刹那が、ただ嗤っていた。

 

――歪、でござるなあ。

 

 楓は、妖や化生の類を知っている。楓は確信していた。刹那は、ヒトのカタチをした化生である。

 それは、正鵠であった。

 

  ○

 

 翌日の放課後である。

 ネギは、なぜか欠席したエヴァの自宅(ログハウス)を訪れていた。ネギの脳裡には、夜の桜通りと満月のように炯々としたエヴァの瞳が蘇っていた。ネギは、エヴァの真意を知りたかったのである。

 

「やあ、ネギ先生」

「あれ、龍宮さん?」

 

 ネギを応対したのは、制服姿の龍宮真名であった。ネギは、目瞬(まばたき)をした。当惑しているネギに、真名は微笑んでいた。

 

「ど、どうして龍宮さんが?」

「エヴァの看病だよ」

「看病って、でもエヴァンジェリンさんは吸」

 

 ネギは両掌で口を塞いだ。迂闊なネギにも、真名は愉快とばかりに呵々としていた。

 

「知っているよ」ネギを安心させるように、真名が破顔した。「彼女が吸血鬼だということ。魔法があるということ。ネギ先生が魔法使いということも」

 

 真名の言葉に、ネギは呆然とした。青天の霹靂に、ネギの思考回路はもはやショートしていた。懊悩するネギの姿は、愛らしかった。ネギの言葉を待っているかのように、真名は微笑んでいた。

 

「龍宮さんも、魔法使いですか?」

「ああ」

 

 ネギの言葉に、真名は首肯した。厳密には、魔族とのハーフである。嘘であった。純粋なネギを前にしても、真名は実に臆面もなかった。

 

「上がってくれ。話があるんだろう」

「はい」

 

 頷いたネギの瞳には、覚悟があった。子供ながら、ここが虎穴であると分かっているようである。真名の口許が、嬉々としていた。

 

「看病って、エヴァンジェリンさんは病気なんですか?」

 

 真名に案内され、ネギはリビングにあるテーブルの前にちょこんと座っていた。部屋は綺麗に整頓されている。テーブルの中央には、意匠のようにゴシック・ロリータ調の人形が置かれていた。二人は、呑気に和菓子と緑茶を味わっていた。

 

「ああ」ネギの言葉に、真名が頷いた。「エヴァは、吸血鬼としてのチカラのほとんどを封印されている。満月の前後は別だが、エヴァの身体は十歳の少女かそれ以下に弱い。季節の変わり目は、いつも体調を崩している」

「いつも?」

 

 ネギは、慣れない和菓子に奮闘していた。もちもちした生地相手に苦戦しているネギの姿は、微笑ましいものがあった。

 

「何回も看病しているからね。私はエヴァを友人だと思っている。エヴァはどう思っているか分からんが」

「友人、ですか」真名の言葉に、ネギは表情を曇らせた。「龍宮さんはエヴァンジェリンさんに協力しているんですか?」

「友人だが、味方じゃない。頼まれたら、友人として協力するかもしれないが」

「エヴァンジェリンさんが悪いことをしていると、龍宮さんは知っていたんですね」

「ああ」

 

 ネギの言葉は、断定的であった。事実でもあった。真名に反論はなかった。それでも、ネギは真名を(といただ)さなかった。

 

「エヴァはサウザンドマスターに封じられた。十五年前の話だ。本来なら三年で解かれるはずだった」真名は、ネギを一瞥した。「だが、約束は守られなかった」

「え?」

 

 六年前にナギと会ったネギは、彼が生きていると信じている。だが、六年前にナギが生きていたなら、約束は守られていてしかるべきである。辻褄が合わなかった。ナギが、エヴァに嘘を()いたことになる。父を信じているネギは、動揺した。

 

「先生もサウザンドマスターの息子なら知っているはずだ。十年前。彼が死んだという噂。それでも、エヴァは何年も彼を待っていた。だから、彼の息子である先生に、エヴァは躍起になっている。それを邪魔するような真似は、私にはできない」

「そんな、だって、父さんは――」

「龍宮」

 

 階段の上から、エヴァが二人を睥睨していた。エヴァの口調は、さながらブリザードのように冷徹としていた。ネギは、言葉にならない悲鳴を上げた。

 

「意外におしゃべりとは、知らなかったよ」

 

 どうせネギに話すつもりであったが、エヴァはどうにも癪であった。憤然としているエヴァにも、真名は飄々と微笑んでいた。

 エヴァの隣には、桜咲刹那の姿もあった。どうやら看病をしていたらしい。なら真名はなにをしていたのか、ネギには疑問であった。真名は、呑気に和菓子をもごもごしていた。

 

「エヴァンジェリンさん、寝てなきゃダメですよ」

「うるさい。お前は母親か」

 

 苦言を呈した刹那が、エヴァに一蹴されていた。

 

「具合はどうだ?」

「貴様の所為で最悪だよ」

「息災でなによりだ」

「ボケどもが……」呑気な真名に、エヴァは辟易したように嘆息した。まるで昨晩のようである。エヴァは、また頭痛がした。「で……、何の用だ、ぼうや」

 

 ネギは、エヴァと対峙した。

 ネギの脳裡には、エヴァの言葉が蘇っていた。「悪のエゴに正義が付き合う必要などない」つまり、ネギのエゴにエヴァが付き合う道理もないということである。それでもネギは、エゴを貫かなければと決断していた。

 

「これ以上、エヴァンジェリンさんに悪いことはさせません」

 

 杖を手にし、ネギは決然と断言した。覚悟しているのか、ネギの頬には一筋の汗が流れていた。

 

「ああ」エヴァが、艶然と微笑んだ。「構わんよ」

 

 ゴッ。

 あっさり了承され、ネギはマヌケにもすっ転んだ。額からの、綺麗なダイビングヘッドであった。

 

「だが、お前の血が欲しいのは変わらん。定期的に血をくれるならば、もうしないと約束しよう。封印の解呪も、すぐにしようとは思っていない」

「ほ、本当ですか!」

 

 ネギの言葉に、エヴァが鷹揚と頷いた。興奮したようなネギの、ぶつけた額は赤々としていた。ネギの瞳は、無垢として耀いていた。

 

「疑うなら契約書(ギアス)も用意するが」

「大丈夫ですよ!」予想外の展開に、ネギは有頂天であった。「生徒を信じないなんて、先生失格ですから!」

「コイツ、お人好しすぎないか?」

 

 あまりに無邪気なネギに、エヴァが嘆いた。もはや本当にナギの息子なのか、エヴァには疑わしかった。愉快とばかりに嗤っている刹那が、小癪であった。

 

「桜通りの吸血鬼が噂になった以上、計画に無理があったということだ。観念するさ」

 

 嘘であった。噂にさせたのは、エヴァ自身である。実に白々しかった。エヴァは、嗤った。

 ナギの息子であるということにどれほどの価値があるか、ネギは理解していなかった。吸血鬼の真祖を御したという「箔」を対価に、エヴァはナギの息子という強力な「パトロン」を掌中にしたのである。桜通りの吸血鬼というマッチポンプで得られたものとしては、破格であった。宮崎のどかという手駒も、エヴァには残っていた。

 

「血を貰う代わりだ。困ったことがあれば協力するよ、ぼうや」

「ネギ先生は魔法の秘匿が甘いですからね」

「うぐ!」

 

 辛辣な刹那の言葉に、ネギは呻いた。図星であった。ホレ薬や図書館島、いつも困ったことになっているという自覚はあったらしい。

 煩悶としているネギを安心させるように、刹那は微笑んだ。

 

「いつでも頼ってください、ネギ先生」

 

 刹那の双眸は、ヘドロのように澱んでいた。

 

  ○

 

 桜咲刹那は、近衛木乃香の護衛という関西呪術協会に近しい存在である。関東魔法協会の一大拠点である麻帆良からすれば、部外者である。それでも、刹那は魔法生徒という立場にあった。

 理由は、人材不足である。

 世界樹を有する麻帆良が霊脈として優れている以上、常に魑魅魍魎の類や敵対組織に狙われている。それを撃退するのが、当然ながら魔法使いである。しかし、魔法の射手(サギタ・マギカ)などの魔法による砲撃を基本とする魔法使いには、盾や剣となる魔法使いの従者(ミニステル・マギ)が必要不可欠である。つまりは、前衛が不足していた。前衛たる実力者を重宝しなければならないのが、麻帆良の現状であった。

 退魔を祖とする京都神鳴流の剣士、桜咲刹那と葛葉刀子。

 超長距離狙撃と特殊近接格闘術ガン=カタの名手、龍宮真名。

 接敵戦に優れた高等魔法操影術の若き魔法使い、高音・D・グッドマン。

 無音拳と究極技法咸卦法による麻帆良随一の武闘派、タカミチ・T・高畑。

 自動拳銃(オートマチック)による近中距離射撃や近接格闘術のエキスパート、ガンドルフィーニ。

 正規の魔法使いではない刹那が、高音や佐倉愛衣のようにガンドルフィーニに師事することはない。だが、魔法使いのセオリーに囚われないガンドルフィーニを、刹那は慕っていた。

 高音と刹那、相反する二人から慕われているガンドルフィーニの心労は途方もなかった。

 

「終わったか」

 

 嘆息しながら、ガンドルフィーニは額の汗を拭った。

 麻帆良メンテナンス大停電も無事に終わっていた。侵入者の警戒に奔走していた面々が世界樹前広場に集まっていた。

 報告によれば、警備システムに小規模なハッキングがあったらしい。システムの一部が不安定になったが、幸いにも支障はなかった。手口から超鈴音の可能性が高かったが、証拠はなかった。あの超鈴音が、証拠を残すはずもない。証拠がないということは、逆説的に超鈴音の仕業である。ガンドルフィーニは、なかば確信していた。

 

――まったく、イヤになるな。

 

 ふと、ガンドルフィーニは辟易とした。生徒を疑っているという事実に、である。ガンドルフィーニの眉間には、皺が刻まれていた。

 

「先生、お疲れさまです」

 

 世界樹前広場の薄闇から現れたのは、桜咲刹那であった。刹那は、まるで友人にするかのように微笑んでいる。ガンドルフィーニは胃痛がした。

 

「あ、ああ」ガンドルフィーニの笑顔は、疲れていた。「お疲れさま」

 

 ガンドルフィーニは、刹那が苦手である。高音と犬猿の仲というのもあるが、一番は刹那の(うろ)のような瞳であった。

 ガンドルフィーニは、「悠久の風」の一員として紛争地帯にタカミチと同行している。刹那の瞳は、紛争地帯の少年少女にとても似ていた。刹那の双眸は、いつも茫漠としていた。いつまでも空洞であった。かつて同門であった刀子によれば過去になにかあったらしいが、彼女にも詳細は分からなかった。

 実力者ながらまだ若い高音にとって、刹那という存在はただただ不気味であった。外道であった。ガンドルフィーニは、外道として生きることが刹那なりの慟哭だと思っている。ガンドルフィーニは大人としての無力をいつも痛感していた。

 

「どうされました?」

 

 憔悴としているガンドルフィーニを、刹那が心配していた。本心からだとガンドルフィーニには分かっているだけに、実に厄介であった。

 

「お疲れなら、少し休んでいきましょう」

「それは吸血鬼の真祖の塒でか?」

 

 エヴァと友人関係らしい刹那が、ログハウスをよく訪れているというのもガンドルフィーニは知っていた。刹那の言葉は、冗談ではないらしい。まるで悪夢のようである。ガンドルフィーニは呻いた。

 

「えっと……?」

 

 ガンドルフィーニの言葉に、刹那が目瞬(まばたき)をした。なにか問題でもあるのかと、刹那は怪訝としていた。ガンドルフィーニに休んでほしいと、純粋に慮っているだけである。ガンドルフィーニは目眩がした。

 やはり、刹那はネジが外れていた。

 

「桜咲さん」

 

 淡朦朧(うすぼんやり)とした世界樹前広場に、高音が幽鬼のように佇んでいた。高音の口調は、剣呑としていた。愛衣は、やはり左顧右眄としている。才能はあるが荒事の経験がない愛衣は、刹那がいかに外道であるかまだ分かっていなかった。

 

「生憎ですけど、またの機会にお願いしますわ」

「残念です」

 

 心にもない高音の言葉も、刹那は飄々としていた。嗤っているばかりで、刹那がなにを思っているのかは判然としなかった。

 

「では、またの機会に。皆さん、お疲れさまです」

「お、お疲れさまでした」

 

 兢々とした愛衣の言葉に頭を下げたかと思うと、もう刹那の姿は世界樹前広場になかった。

 

  ○

 

「桜咲です。首尾はどうですか」

『ぼちぼちや。期待せんと待っとき』

 

 天ヶ崎千草との通話(TEL)を手短に終わらせ、刹那は嗤った。



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「魔法」

「クラスの総意として、京都奈良修学旅行を選択いたしましたわ」

「京都、ですか」

 

 雪広あやかの言葉に、ネギが懊悩とした。日本の有名な古都であるとしか、ネギは京都や奈良を知らなかったからである。

 

「あまり知らないので、先生として勉強しておかないといけませんね」

「な、ならば!」ネギの言葉に、あやかが猛然とアプローチをした。絶好のチャンスに、あやかは興奮していた。「わ、わたくしに是非とも協力させてくださいまし!」

「え、えっと……?」

 

 あやかが、ネギの両手を覆うように握っていた。ネギは圧倒されていた。

 

「いいんちょ、ろこつー」

「ろこつー」

「黙らっしゃい!」

 

 あやかは鳴滝風香史伽姉妹を一蹴した。「怒った!」「怒られた!」あやかはぷりぷりとしていたが、風香と史伽は無邪気に笑っていた。風香と史伽の姿に、あやかは嘆息した。どうやら冷静にはなったらしい。

 

「……」

 

 ネギと修学旅行の下準備をするという好機に悶々としていたのは、あやかだけではなかった。宮崎のどかである。ネギに傾慕しているのどかとしては、巡ってきた千載一遇のチャンスを逃す手はなかった。

 

「うう……」

 

 なかったが、のどかは奥手であった。

 のどかは、積極的なあやかにすっかり萎縮していた。ちょこんと座ったまま、右顧左眄とするばかりである。臆病なのどかの背中に、綾瀬夕映が呆れていた。

 

「ネギ先生」

 

 親友であるのどかの為に夕映は助太刀した。

 

「よければ、図書館探検部にお任せください。京都に関する文献をご用意します」

 

 夕映は、近衛木乃香を一瞥した。了解したとばかりに、木乃香は破顔した。聡い木乃香は、夕映の意図を理解していた。「ぐっじょぶです」夕映が呟いた。

 のどかは呆然としていた。よく分かっていなかった。

 

「せやえ、ウチらに任せなーネギくん」

「んな!」

 

 思わぬ伏兵に、あやかが愕然とした。

 

「まー、このかでいい話よね」神楽坂明日菜が二人に同調した。明日菜は単純であった。「実家も京都だし」

「貴方はまたしても私の恋路を邪魔するのですかッ!」

「大袈裟よ!」

 

 あやかは慟哭していた。腐れ縁からか、あやかの矛先はもはや明日菜に向けられていた。あやかに胸倉を掴まれ、明日菜が叫んだ。ネギの話となると暴走するあやかの姿に、明日菜は呆れていた。

 

「ネギ先生、学園長が呼ばれていますよ」

「あ、はいっ」

 

 いつもの乱闘かと思っていた三年A組一同は、教室に入ってきた源しずなの言葉に腰を下ろしていた。あやかと明日菜の口論に腰の引けていたネギは、助かったとばかりに安堵していた。

 

「では、失礼しますね。しずな先生、あとはよろしくお願いします」

「ネギくん、バイバーイ!」

 

 お辞儀しながら教室を去ったネギに、佐々木まき絵が能天気に笑っていた。不在となったネギの代役としてしずなが放課を知らせ、チアリーディング三人組を筆頭に弾かれるように帰っていった。他の面々も雑談するなど各々の放課後を過ごすようであった。

 

「のどか」呆然としているのどかに、夕映が囁いた。「これはチャンスです」

「えっ」

 

 夕映の言葉に、のどかが赤面した。恋バナとあらば早乙女ハルナも三人の輪に入っていった。図書館探検部による包囲網が、既に敷かれていた。

 

「いいんちょには悪いけどさ、ここでネギ先生に急接近よ!」

「ええっ」

 

 強引な夕映とハルナに、のどかは狼狽していた。木乃香は微笑んでいるばかりで、夕映とハルナの味方であった。孤立無援である。のどかは、もはやオーバーフローしていた。

 

「でもでも、やっぱりいいんちょさんも一緒に」

「甘い!」

 

 のどかの言葉を、ハルナが一喝した。のどかは呻いた。

 夕映が追従した。

 

「委員長さんは積極的ですからね。彼女も一緒となれば、きっと主導権を握られてしまうです。万難を排すべきです」

「でも……」

 

 夕映の言葉にも、のどかは俯いたままであった。これ以上は厳しいかと夕映とハルナは目眴(めくばせ)をしていたが、木乃香がのどかの両手を包むように握った。

 

「ゴメンな」伏せられた木乃香の睫毛は、とても綺麗であった。「でも、のどかならきっと大丈夫や」

 

 それは根拠のない言葉であった。それでも、のどかは温かいと思った。木乃香の言葉は、のどかの両手を包む掌のように温かかった。木乃香の言葉には、いつも力があった。のどかは何度も木乃香に励まされてきた。まるで魔法のようであった。

 魔法であった。

 身体と、心を癒す。

 それが、木乃香の魔法使いとしての才能であった。非凡であった。天賦の才であった。

 

――このちゃん。

 

 桜咲刹那は、狂喜していた。

 

  ○

 

「関西呪術協会?」

「うむ」

 

 ネギの言葉に、近衛近右衛門が鷹揚に頷いた。近右衛門に促され、ネギは麻帆良学園理事長室のソファーにちょこんと腰を下ろしていた。ネギは緊張しているのか、お尻をむずむずとさせた。

 近右衛門が好々爺然と微笑んだ。

 

「関東魔法協会と協力関係にある組織じゃ。京都にあるのでな、修学旅行のついでにネギ君に挨拶してきてほしいんじゃよ」

「ついで?」

 

 仮にもネギは先生である。引率しなければならない先生が「ついで」で離れていいものか、ネギは不安になった。「安心せい」眉尻を下げたネギに、近右衛門が問題ないとばかりに微笑んだ。

 

「体験学習という名目で神社に宿泊させてもらうことになるのは、ネギ君も知っておるな?」

「あ、はい」それがなにか関係あるのかと、ネギは疑問であった。「えっと、カガビコノヤシロという神社でしたよね」

 

 ネギの言葉に、近右衛門が頷いた。

 

「炫毘古社は関西呪術協会の総本山でもあるんじゃよ。神社としてカモフラージュしておるということじゃ。麻帆良が学園都市であるようにのう」

「なるほど……」

 

 近右衛門の話に、ネギは得心したように頷いた。

 

「東と西で交換留学生の話も出てきておる。既にイスタンブールから魔法使いが留学しておるらしいしの。ネギ君の挨拶も、交流の一環と思ってくれればよい」

「わ、わかりました!」

 

 ネギの返事に、近右衛門が微笑んだ。

 

「それとなにか困ったことがあれば、瀬流彦先生を頼りなさい。彼も魔法使いじゃ」

「え、瀬流彦先生が……?」

「左様じゃ。彼も呼んだんじゃが、まだかのう」

 

 唖然としているネギを尻目に、近右衛門は実に呑気である。

 

――それにしても。

 

 ネギは独白した。

 まるでデジャヴであった。「困ったことがあれば協力するよ、ぼうや」ネギの脳裡には、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの姿が蘇っていた。

 吸血鬼の真祖。

 サウザンドマスター。

 呪い。

 十五年前の約束。「だが、約束は守られなかった」ネギの脳裡に、龍宮真名の言葉が残響した。ネギには知りたいことがあった。知らなければならないと、ネギは思っていた。

 懊悩としていたが、やがてネギは決意した。

 

「あの、学園長先生」

「ん、なにかの」

 

 ネギの言葉は決然としていた。重要な話であるらしいと、近右衛門は神妙に髭を撫ぜた。

 

「……父さんがエヴァンジェリンさんを十五年前に封印したって、本当ですか?」

「知っておったのか」

 

 近右衛門の言葉に、ネギが首肯した。

 エヴァがネギと接触しているのは、近右衛門も把握していた。だがここまでネギが知っているとは予想外であった。「うーむ……」顎鬚を弄ぶようにしながら、近右衛門は唸っていた。

 

「本当なら数年で解放されるはずだった」

 

 確認するようなネギの言葉に、近右衛門は無言で頷いた。

 

「けれど、解呪はされなかった。サウザンドマスターが十年前に死んだから。でも、それだとおかしいんです」

「おかしい?」近右衛門の眉根に、皺が刻まれた。「どうしてじゃ?」

「六年前、僕は父さんに会っています。村に現れた悪魔を、父さんが倒してくれたんです。僕を助けてくれたんです。僕の杖は父さんが僕にくれたものです」

 

 ネギの話に、近右衛門は瞠目した。

 だが、近右衛門は納得もしていた。近右衛門は、六年前にネギの住んでいた小村が悪魔に襲われ、誰かによって悪魔が撃退されたことを知っていた。疑問は、誰が悪魔を撃退したかであった。村は壊滅的であった。村民もほとんどが悪魔によって斃されていた。

 それも、ナギが撃退したとなれば話は単純である。

 だが――、

 

「生きていたなら、何故ナギはエヴァンジェリンとの約束を守らなかったのか」

 

 聡明な近右衛門は、ネギの疑念を洞見していた。悄然としながら、ネギは近右衛門の言葉に頷いた。

 

「ナギは実に奔放な男だった」近右衛門の言葉は懐かしむようであった。「だが、誠実な男でもあった。儂もあやつが嘘をついていたとは信じられんよ」

 

 近右衛門はネギに微笑んだ。近右衛門の笑顔に、ネギが安堵したように嘆息した。

 

「でも、それだと、父さんは……」

「うむ」

 

 ネギもまた聡明であった。

 ナギが嘘をついていなかったとすればという仮定から導かれる結論を、ネギは既に直視していた。十歳の少年としては、驚異的でもあった。

 

――ナギは本当に生きていたのか?

 

 黙考しながら、近右衛門は顎髭を撫ぜた。

 ナギに会ったというのが、嘘か夢幻であれば話は簡単である。だが、ネギという少年もまた誠実であった。近右衛門は、この前提を最初から除外していた。

 

「うむむ」

「うむむむ」

 

 ネギと近右衛門は二人して唸っていた。実の祖父と孫のようで微笑ましい光景でもあったが、二人は大真面目である。理事長室は静寂としていた。女子生徒達の喧騒も届いていなかった。

 

「あのー……」

 

 沈黙を破ったのは、瀬流彦であった。

 瀬流彦が、扉の奥から顔を覗かせていた。実はノックをしていたが、没頭していた近右衛門から返事がなかった。なにやら深刻な話をしているようだと、瀬流彦は長々と遠慮をしていたらしい。

 瀬流彦は苦笑した。

 

「入っても大丈夫ですか?」

 

  ○

 

 翌日の放課後である。

 のどかの前には、彼女自身の弱気な姿が映っていた。のどかは、女子トイレの鏡と対峙するように佇んでいた。京都と奈良について勉強するネギに協力するという約束が、目前に迫っていた。「これはチャンスです」夕映の言葉が、のどかの脳裡にリフレインした。

 のどか自身もチャンスだと思っていた。臆病なままはイヤであった。

 

「よ、よーし!」

 

 頬を紅潮させながら、のどかは髪紐とヘアピンでポニーテールにした。のどかは朝から肌身離さず、放課後にようやっとイメチェンを決心していた。

 

「――江戸時代には、実際に二〇〇件以上の飛び降りが記録されています」

「な、なるほどー……」

 

 夕映の淡々とした解説に、ネギはただただ圧倒されていた。

 ネギに協力する一行は、図書館島の地下二階の一角に集まっていた。地下二階であれば、地下三階ほど罠もない。図書館探検部以外の一般利用もできないことになっている。邪魔も入らない、絶好の環境であった。

 ネギと図書館探検部の他に、明日菜の姿もあった。暇だったかららしいが、もはやネギの保護者である。修学旅行前に完成させたい原稿があると、ハルナは参加していなかった。

 協力というが、ただの口実である。

 訪れる観光地もほとんどが有名である。ちょっと調べればそれ相応の情報が得られる。いつもはスルーされる蘊蓄をこれ幸いと披露しながら、夕映はネギとのどかが二人っきりになれないかと機会を窺っていた。だが、のどかはネギの隣で夕映の話に感心していた。イメチェンしてきたときは一歩前進かと思ったが、これでは前途多難である。

 

――ハルナもいないですし……。

 

 無責任なハルナに、夕映は呆れていた。

 

「あの、綾瀬さん」質問があるとばかりに、ネギが挙手をした。「カガビコノヤシロについてなにか知っていますか?」

「カガビ……って私達が泊まるところよね?」

 

 ネギの言葉に、退屈していた明日菜が反応した。

 スケジュールでは、完全自由行動日が終わったら炫毘古社に集合して宿泊することになっている。明日菜が修学旅行のパンフレットを抓んで、ぺらぺらと弄んでいた。

 

「それがどーしたのよ」

「あ、いえ、ちょっと……」

「炫毘古社は神社であると同時に、アカデミックな研究機関でもあります。宿泊できるのも、麻帆良学園都市と協定を結んでいるからですね」

「けんきゅーきかん?」

「はいです」

 

 明日菜の言葉に、夕映が頷いた。

 

「有名なものでは陰陽道ですが、日本古来の呪術や占術に関する史学研究をしています」バカレッドの為に、夕映は補足した。「つまりはおまじないや占いです」

「なんだかオカルトねえ……」

 

 呪術という言葉は実に眉唾であったが、魔法使いが身近なだけに明日菜は否定できなかった。

 

「アスナさんのいつもしている恋占いがオカルトなのは否定しませんが」

「うるさい」

「かつては呪術や占術、魔術も学問のひとつでしかなかったです。高名な学者が錬金術師でもあったように、です」

「なるほどねえ」明日菜は相槌をしていたが、ほとんど分かっていなかった。「でもちょっと意外かも」

「意外?」

「夕映ちゃん、まほーとかあんまり信じてないかなって」

「魔法、ですか」

 

 夕映が唸った。

 迂闊だとばかりにネギが狼狽していた。のどかが怪訝としていた。

 

――あー……、いやでも、普段のアンタのほうがウカツじゃない?

 

 明日菜は訝しんだ。自覚はあるのか、ネギが言葉に窮していた。

 

「んー……、信じているというよりあったらいいなと思っています。神秘というか、ロマンですね。実に興奮するです」

「だよねー、あったらいいよねー……」

 

 夕映はまさに興奮していた。ジュブナイルやファンタジーに憧れているのどかも、「ハリー・ポッター」や「ダレン・シャン」の世界観を幻想していた。二人は恍惚としていた。

 すっかり没入してしまった本の虫に、明日菜は苦笑した。

 

「このかはなにか知らない?」

「え……」木乃香は上の空であった。「あ……、なんや、アスナ?」

「だからカガビ……」

「カガビコノヤシロです」

「に、ついてなにか知らないかなーって。どーしたのよ、ぼーっとして」

 

 熱でもあるのか、と明日菜は木乃香を心配した。「なんでもないえ」明日菜を安心させるように、木乃香は微笑んだ。まるでお見合いの話をしたときのようだと、ネギは思った。

 

「ならいいけど……」

「えっと、炫毘古社やけど……」やはり木乃香の言葉はどうにも空元気であった。「ウチの実家や」

「マジ?」

 

 明日菜は唖然とした。

 

「あー……、修学旅行が実家ってフクザツよねー」

「……うん」

 

 嘘だなと、明日菜は思った。もっと別の問題に木乃香は悩んでいると、明日菜は直感していた。木乃香と十年来の親友である明日菜には分かっていた。

 それでも木乃香の実家の話となると、明日菜はいつも躊躇していた。

 

「なるほど、ご実家でしたか」二人の間に、夕映がにゅるりと入ってきた。突然であった。明日菜は仰天した。「納得です」

「心臓止まるかと思った」

「大袈裟やわー」

「んで、納得ってなにが?」

「炫毘古社の神主が近衛詠春さんという方だったので」

「もしかしてお父さんですか?」

 

 のどかの言葉に、木乃香が頷いた。「スゴイですねー」ネギはのどかと二人して感心していた。実に呑気である。明日菜は呆れた。

 明日菜はネギの頬をむにゅむにゅと玩んだ。

 

「アンタの為に集まってんのよ。ちゃんとしなさいよ」

「す、すみません……」

「アスナはイジワルやなー」

 

 微笑んでいる木乃香に、明日菜は安堵した。

 この話はこれ以上するべきではないと、明日菜は思っていた。夕映は怪訝としていたが、炫毘古社の話を無理にしようとはしなかった。夕映も木乃香の友人である。明日菜の意図が分かったのかもしれない。

 図書館探検部のサポートもあり、ネギの下準備は順調に進んでいった。ラッキースケベがなければ、ネギはただただ優秀であった。あまりに早々に終わったので、ついでとばかりに明日菜の勉強会に移行してしまった。

 明日菜は絶望した。

 

「今日はありがとうございました」

 

 ネギが夕映とのどかに微笑んだ。ネギの笑顔は、薄暮に包まれていた。

 

「と、とんでもないですー……」

 

 恐縮とばかりに、のどかの頬は夕日のように染まっていた。

 ネギは夕映とのどかの三人で、図書館島から寮への道を歩いていた。明日も新聞配達のアルバイトがあるからと、明日菜は木乃香と先に帰っていた。明日菜は疲労困憊であった。「ネギくん、待っとるえ」木乃香は夕食の準備をするらしい。

 好機だと夕映は確信した。気分は、仔を千尋の谷に落とす獅子さながらであった。

 

「おっとハルナに呼ばれていたのを忘れていたです。用事があるので先に失礼します。ネギ先生のどかをお願いします」

 

 夕映のセリフは棒であった。どうやら芝居の才能はないらしいが、ネギは色恋沙汰にまるで鈍感であった。「わかりました、綾瀬さん」無垢なネギを背に、夕映は足早に退散した。

 獅子というより脱兎であった。

 

「ゆ、ゆえー……」

 

 残されたのどかは、雨に濡れた仔犬のようであった。

 

「行きましょうか、のどかさん」

「は、はひぃ!」

 

 乙女にあるまじき悲鳴であった。恥ずかしかった。それでもネギはただ微笑んでいる。たったそれだけである。それだけでも、のどかは無性に嬉しかった。

 のどかにとってネギは眩しかった。年下でも関係なかった。

 のどかの脳裡に、ネギの姿が去来した。

 大階段から落ちたときに助けてくれたネギの姿。「詳しいんですね、宮崎さん」二人っきりの図書館。崩れた本棚。屈託のないネギの笑顔。「宮崎さんから離れろ!」人質にされたときに助けようとしてくれたネギの姿。覚悟したネギの凛々しい表情。

 

――あ、あれ……?

 

 記憶になかった。のどかは困惑した。夢だったかもしれない。

 首筋が熱かった。のどかはそれを恋だと錯覚した。頬を高潮させながら、のどかは俯いていた。

 

――う、うう……。

 

 まるで熱病のように、エヴァに噛まれたのどかの首筋はいつまでも熱かった。

 

  ○

 

 ネギは困惑した。木乃香の隣に刹那とあやかの姿があったからである。

 ネギは、明日菜に内緒で木乃香と一緒に誕生日プレゼントを探す予定であった。ネギは、明日菜を喜ばせたかったのである。明日菜の親友であるあやかの姿に、もしやバレたのではないかと早合点な性格のネギがパニックになるのも無理はなかった。ましてや刹那もとなれば、ネギはさらに疑問であった。

 

「私もアスナさんには内緒ですわ」安心させるように、あやかはネギに微笑んだ。「癪ですが、アスナさんとは長年の付き合いですから」

 

 あやかも明日菜にプレゼントを渡すつもりらしい。あやかはネギに同行した。

 夕映の努力は不憫にも水泡と帰していた。

 

「えっと、桜咲さんは……?」

「私はお嬢様の護衛です。お嬢様が麻帆良から外出なさるときは私も同行致します」

「カッコイイ……」

 

 ネギは子供らしい純真無垢な瞳を爛々と耀かせた。刹那の凛とした物腰に、ネギはジャパニーズサムライの姿でも幻視したのかもしれない。ネギは、ヒーローショーを観劇した少年のように興奮していた。

 

「でも、どうして麻帆良ではしないんですか?」

 

「魔法の本」の件で図書館島を探索したときにも刹那の姿はなかったはずである。

 ネギの疑問にも、刹那は微塵も表情を崩さなかった。

 

「必要ないからです。麻帆良では学園長が私とは別に護衛を雇っていますから」

「へー……」

 

 ネギは感嘆した。当然ながらネギは刹那が護衛であると知らなかった。お見合いに護衛と、近右衛門は随分と木乃香に過保護らしい。

 

「行きましょうか」

 

 あやかが先導するように歩いていた。原宿は雑然としていた。

 木乃香はまたお見合いの話のときのように悄然としていた。ネギは心配であった。それはどうやらあやかも一緒なのか、彼女の視線は木乃香を慮っているようであった。

 木乃香が縁談を反故にしたとき、仲裁に奔走したのが刹那だとあやかは知っていた。それ以前に、あやかも木乃香の親友である。中等部に進学したばかりの木乃香が悩んでいたのも、あやかは知っている。木乃香は、京都から上京してきた幼馴染の刹那と再会したばかりであった。

 渦中にあるのは、いつも刹那であった。

 だが、あやかが弟の話をしないように、木乃香の実家について彼女も明日菜のようにほとんど知らなかった。

 かつてあやかは明日菜に励まされた。かなり強引であった。結果論かもしれない。それでもあやかは明日菜に救われた。癪であるが、感謝もしていた。

 今の木乃香に必要なのは、かつての明日菜のように無遠慮な存在かもしれない。

 

――それにしても……。

 

 かつての明日菜は寡黙であった。ニヒリズムのようにスレていた。ただマセていただけかもしれない。それでも子供らしからぬほど明日菜は達観としていた。ネギが当時の明日菜を知ったら別人と疑うかもしれない。

 

――本当に、ヘンなオンナですわ。

 

 あやかは笑った。

 

  ○

 

「……」

 

 刹那は真剣であった。刹那の前には、愛らしいぬいぐるみが並んでいた。

 

「意外ですね……」

「意外ですわ……」

 

 刹那の姿に、ネギとあやかが呟いた。随分と失礼であるが、二人にはただただ意外であった。刹那が物色しているぬいぐるみのコーナーは、女子中学生である明日菜のプレゼントとしては子供っぽかった。刹那は意外にも趣味が幼いらしい。呆然とする二人を尻目に、刹那は黒の仔犬のぬいぐるみを購入していた。

 刹那は童女のように笑っていた。

 

「お嬢様、神楽坂さんは喜んでくれますでしょうか」

「え……」木乃香は微笑んだが、彼女の眉尻は下がっていた。「あ……、ええんとちゃうかな。かわええと思うえ」

「よかった」

 

 木乃香の言葉に、刹那は嬉々として微笑んだ。

 木乃香は困惑としていた。

 微笑む刹那は、まるで子供の頃のようであった。木乃香と刹那が山奥の屋敷で暮らしていたあの頃である。木乃香と刹那はただただ友達として遊んでいた。あの頃の刹那に戻ったとなれば、木乃香は純粋に喜んでいたはずである。

 

――違う。

 

 それは漠然とした感覚であった。木乃香の勘でしかなかった。

 刹那は子供の頃に戻ったのではない。鉛色に曇ったような刹那の瞳は、まるで囚われていた。刹那は、夢のような思い出とかつての木乃香の姿に妄執していた。

 

――せっちゃん……。

 

 木乃香にとって、刹那はいつまでも不気味であった。

 

  ○

 

 仔犬のぬいぐるみは、明日菜と木乃香、ネギの寮部屋に置かれた。

 子供の頃、木乃香が屋敷で飼っていた仔犬にとても似ていた。



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「記憶」

 京都、奈良修学旅行に参加する麻帆良学園本校女子中等学校の三年生が大宮駅に集合していた。

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと絡繰茶々丸、近衛近右衛門から相坂さよの修学旅行欠席の連絡を受けていたネギは、各班の班長と六班の桜咲刹那とザジ・レイニーデイを呼んだ。

 

「六班に欠席者が出ましたので、お二人を別の班に入れたいと思うんですがそれで大丈夫ですか?」

「ハーイ」

「だいじょーぶアル」

 

 元気いっぱいに返事をしたのは明石裕奈と古菲であった。他の面々も異存はないらしい。「無論ですわ!」ネギの力になれるならばと、雪広あやかは嬉々としていた。刹那とザジも無言で頷いた。

 

「桜咲さん、龍宮さんと仲いいっぽいし私の班でいいんじゃない?」

「えー」裕奈の言葉に、古菲は不服らしい。「私、刹那と勝負したいアル。一緒の班になるアルね」

「くーちゃんはほんとスキねー」

 

 柿崎美砂が欠伸をしながら古菲に呆れていた。美砂はどうやらまだ眠いらしい。

 古菲が少年のように笑った。

 

「修学旅行って修行のことじゃないアルか?」

「……」

「じょ、冗談アル……」

 

 古菲はしょんぼりとした。

 

「二人はどこがいいとかない?」

「私はどこでも」

 

 神楽坂明日菜の言葉に、刹那は鰾膠(にべ)もない。ザジも同意するように首肯するばかりである。明日菜は苦笑した。「それ一番困るやつ」美砂の言葉にはイヤに実感があった。

 

「お?」裕奈が笑った。「カレシと喧嘩でもしたかあ?」

「うるさい」

 

 美砂は憮然とした。図星であった。美砂は修学旅行のお土産で彼氏と他愛もない喧嘩をしていた。「お土産、なにがいい?」「別になんでもいいけど」彼女からのお土産であればなんでも嬉しいという話ではあったが、女としての心情は別である。

 

「もう二人ともいんちょの班でいいんじゃない?」

「さすがにそれはどうなの?」

 

 裕奈はテキトーであった。明日菜が呆れていた。

 

「私はそれがいいと思いますわ。もともと一緒の班だったのですから、別々にする必要もないでしょう」

「委員長さん、大丈夫ですか?」

「心配ありませんわ」心配するネギに、あやかは微笑んだ。「六人も七人もさほど変わりませんよ」

「もともと私は班長でしたから、なにかあれば私も協力します。問題はないかと」

「お二人がよければいいんですけど……」

 

 刹那の言葉にも、ネギは唸っていた。なにか懸念があるらしい。

 

「旅館の部屋、七人だと狭いと思うんです」

「あー……」

「なるほどねー」

 

 ネギの言葉に、明日菜と美砂が納得していた。

 ネギは参考に去年の修学旅行を確認していた。去年の記念写真によれば、ホテル嵐山の部屋は基本的に六人で若干の余裕があるという案配であった。七人ではきっと手狭である。「ちょっと確認してきますね」ネギは新田の下へ走っていった。

 

「ぐぬぬ」あやかは呻いた。「旅館は貸切ですから、余っている大部屋に変更できれば問題ないと思うのですが……」

「たぶん大丈夫っしょ」裕奈は楽観的であった。「サイヤク、ホテルまでに決まってればいいんでしょ?」

「ゆーな、さっきからテキトーすぎない?」

「えー?」

 

 明日菜が苦言を呈したが、裕奈はなおも呑気に笑っていた。

 

「ダメでも桜咲さんが私んトコで、ザジちゃんはいんちょのトコでいいんじゃないかなって思ってたからさー」

「それが無難よね」

 

 はわわと、美砂はまた欠伸をした。「ねむ」美砂は目尻の涙を拭っていた。

 ネギが戻ってきていた。「別の部屋を借りられるように手配できたみたいです」ネギは満面の笑顔である。どうやら問題はなかったらしい。あやかが安堵していた。

 

「委員長さん、お二人をお願いできますか?」

「お任せあれですわ!」

「雪広さん、よろしくお願いします」

 

 刹那がすっかり上機嫌のあやかに頭を下げた。「……」ザジは仔猫のようにぼんやりと空を仰いでいた。

 

「一件落着アルな」

「よっしゃ解散!」

「かいさーん」

「アンタらねえ……」

 

 足早に班の下へ戻っていった能天気な三人に、明日菜は薄情者とばかりに呆れた。

 

「いいじゃないですか」あやかは姉のように破顔していた。「楽しんでいるのならそれが一番です」

「いや、イチバン楽しんでんのはアンタでしょ」

 

 明日菜はあやかを睥睨とした。あやかがネギの手をがっしり掴んでいた。「オホホホ」微笑んでいるあやかの肌には、どこか艶があった。

 あやかの隣でネギは苦笑していた。

 

「離しなさいってば」

「イヤです」

「イヤってアンタ……」

 

 幼児のようなあやかに、明日菜は勘弁してくれとばかりに深々と溜息をした。

 ネギとなると、あやかはすっかりポンコツであった。恥ずかしいので口にはしていなかったが、これでも明日菜は文武両道な親友を自慢に思っていた。もはや距離を置こうかなと明日菜は悩んでいた。

 明日菜の隣に、ザジが幽霊のようにふらりと現れた。ザジがあやかの首根をむんずと掴んだ。「ご無体な!」あやかが暴れたが、ザジは細腕にあるまじき怪力であった。

 瞠目する明日菜とネギを尻目に、ザジは無言であやかをずるずると連れていった。

 

「私達も戻りますか」

 

 実にマヌケな光景にも、刹那は悠然としていた。

 

「あ、うん」

 

 明日菜は生返事をした。

 苦笑していたネギも、新田の下へ戻っていった。ホテル嵐山に部屋の手配を頼んでいたのは新田らしかった。ネギが何度も頭を下げていたが、新田は携帯電話を片手に微笑んでいる。長年、女子中等部を相手にしてきた新田にとって、トラブルの対処は朝飯前であった。

 

「あ、桜咲さん」班の下へとぶらぶら歩きながら、ふと明日菜は刹那に笑った。「誕プレありがとう。お礼、まだだったから」

 

 昨日、明日菜は近衛木乃香から誕生日プレゼントを貰っていた。仔犬のぬいぐるみは、ネギと木乃香のプレゼントと一緒に木乃香から渡されていた。ぬいぐるみは明日菜のベッドにちょこんと置かれている。イメージしていた刹那のプレゼントとはギャップがあったので、より愛らしかった。

 

――でも……。

 

 問題があるとすれば、木乃香がぬいぐるみを明日菜に渡したときの表情であった。

 木乃香は、沈鬱としていた。

 だから、明日菜は刹那と対峙した。明日菜は、余計なお世話だと木乃香に罵られてもいいと思っていた。

 

「桜咲さんは、このかと暮らしてたんだよね?」

「はい」

 

 刹那は飄然としていた。それが明日菜は妙に癪であった。

 

「このかとなにかあった?」ほとんど言葉にならなかったが、それでも明日菜は刹那を(といただ)した。「このかと、なにがあったの?」

 

 明日菜の言葉に、刹那は微笑んだ。

 

「なにも」

 

 それはデタラメに結ばれた糸のように、歪であった。

 

  ○

 

 犬上小太郎が天ヶ崎千草から仕事を依頼されたのは、三月の下旬頃であった。

 小太郎と千草には長年の誼がある。先の大戦で両親を喪ったらしい千草に拾われ、小太郎はどうにか生きてきた。家族としてではなかった。ただの仕事仲間である。小太郎は千草を、千草は小太郎をともに断片的にしか知らなかった。

 それでもいいと思っていた。

 千草はまた家族を喪うのを恐れていた。小太郎は守られる存在となるのを恐れていた。

 だから、それがいいと思っている。

 小太郎は千草をファミレスで待っていた。小太郎の視界には仲睦まじい親子や家族の姿が厭でも入ってきた。孤独であった小太郎にとって、親という存在がどれほど大事かなど分からなかった。それでも小太郎は、千草にもあったはずの幼少や家族との団欒を想像していた。

 

――アカンなあ……。

 

 小太郎は感傷に浸ってしまっていた。頬杖をしながら、小太郎はテーブルにあるクリームソーダをずずずと啜った。仏頂面の小太郎であったが、不意にこつりと頭を叩かれた。

 

「あたっ」

 

 呻いた小太郎に、千草が笑っていた。

 

「近頃の子供は行儀がよろしおすなあ」

「うるせえ」

 

 無愛想にクリームソーダを啜った小太郎のぼさぼさとした黒髪を千草は愉快とばかりにぐしぐしと撫ぜた。小太郎はそれが不本意にも満更でもなかった。小太郎は既にほとんど空になっているクリームソーダを呷った。小太郎の頬は(あか)らんでいた。

 千草の隣には、イスタンブールにある魔法協会からの留学生であるフェイト・アーウェルンクスの姿もあった。

 小太郎も関西呪術協会で何度か会ったことがある。人形のような少年であった。千草がフェイトの指導を任されていなければ、まず縁はなかったはずである。

 

「あれはなんか隠しとるな」かつて千草がフェイトを評した言葉であった。「優秀なんが、癪やけどな」

 

 シートに凭れ、小太郎はフェイトを一瞥した。無色のような存在であった。

 

「んで、俺はなにをすればええんや」

「小太郎はバックアップ。主役はコイツや」

 

 千草は注文したフルーツタルトをフォークで崩しながら、フェイトを指した。

 千草の言葉にも、フェイトを悠然とコーヒーを堪能していた。

 

「バックアップぅ?」

 

 小太郎は露骨に口許を歪ませた。

 

「近衛木乃香の記憶に施された封印を解呪する」フェイトは、単刀直入であった。「それが僕の役目です」

「封印?」

 

 小太郎は怪訝とした。フェイトの言葉を、小太郎はなかば疑っていた。

 つまりは、関西呪術協会の長、近衛詠春の娘の記憶が改竄されているということである。

 

「ほんまかいな」

 

 小太郎の疑念が一言に集約されていた。

 関東魔法協会と関西呪術協会の間に、いまだ確執があるのは事実である。かつては木乃香を傀儡にしてでも関東魔法協会から利権を奪還するという派閥もあった。だが、タカ派として残っているのは、一部でしかない。彼らに強硬するほどの余力は残されていないのが現状である。

 千草の表情は苦々しかった。小太郎もあまり知らないが、千草もかつてはタカ派に属していたらしい。

 

「なら俺は邪魔が入らんよう露払いか?」

「せやな」

「つまらんなあ」

 

 小太郎は不満とばかりに唇を尖らせた。

 

「それで」フェイトの口調は淡々としていた。「桜咲刹那は何者ですか?」

 

 木乃香の記憶に施された封印の解呪を、千草に依頼したのが刹那である。かつてタカ派に属していた千草は、木乃香を傀儡にする為の呪薬や呪符を研究していたから問題はない。もし西洋魔術的な封印であったときは、フェイトの出番であった。

 

「このかお嬢様の護衛や。お嬢様の幼馴染でもある。京都神鳴流の剣士やけど、腕は並。正直、情報屋のが向いとるような小娘や」

「……」

 

 フェイトには興味があるのか判然としなかった。フェイトの瞳は粛然としていた。フェイトの手元にある、温いコーヒーのようであった。

 

「あの姉ちゃんなら、月詠のがよっぽどましやで」

 

 小太郎が不愉快とばかりに牙を剥いた。

 小太郎は刹那を厭っていた。

 月詠とは小太郎も何度か仕事をしたことがある。裏稼業に身を堕とした者は、常軌を逸した狂人であることが多々ある。月詠もまた「人斬り」という狂人であった。ただ、月詠は雑魚に一片の興味も示さない。強者を斬りたいという歪んだ純粋な欲望だけがあった。

 つまりは月詠もただの戦闘狂に他ならなかった。小太郎と同類であった。

 だが、刹那と会ったとき、小太郎は一目で確信していた。

 

――コイツは、ちゃうな。

 

 刹那は狂人ではない。ただの外道である。

 それは野性としての勘であった。

 黒々とした感情に沈む小太郎を尻目に、刹那は無垢とばかりに微笑んでいた。

 

「桜咲刹那です。よろしく、犬上君」

「ハ」

 

 小太郎は、もう嗤うしかなかった。

 ドブネズミのような女だと、小太郎は思った。

 

  ○

 

 三年A組一行は道中で多少のハメを外しながらも、京都奈良修学旅行一日目の京都清水寺見物を終わらせていた。縁を結ぶとされる音羽の滝の水を鯨飲したクラスメイト数名が、生活指導員鬼の新田教諭から大目玉を喰らうなどのハプニングもあったが、無事にホテル嵐山へ到着していた。チェックインしてからも、彼女達は大人しいという言葉を母胎に忘れたような有様である。バカレッドという屈辱的な汚名はあれど、意外と常識人の明日菜は騒がしいクラスメイトに嘆息していた。

 木乃香がクラスメイトの喧騒から離れ、ロビーの隅で消沈としていた。「ン!」鼓舞するように明日菜は自身の両頬をぺしぺしと叩いた。

 

「このか」明日菜にはなかば確信があった。「やっぱり桜咲さんとなにかあったんでしょ」

 

 明日菜の瞳は決然としていた。梃子でも動かないと木乃香は思った。

 木乃香は観念した。

 

「でも」木乃香が困ったように微笑んだ。「ウチにもよう分からんのや」

「分からない?」

 

 明日菜の言葉に、木乃香が頷いた。木乃香は困惑としていた。ともすれば明日菜以上に。なにが分からないのか分からないとばかりに、木乃香の思考は靄に包まれていた。

 

――なにかあるんなら……。

 

 木乃香の記憶には穿たれた大穴のように空白があった。木乃香が刹那と別離してしまった頃である。木乃香がただ幼少の記憶を忘れてしまったにしては、あまりにも不自然であった。なにがあったのか暴かれてはならないと、まるで隠されているようであった。

 なにかを木乃香はなかば恐れていた。

 

「ちょっとヘンな話よねー……」

「うん……」

 

 木乃香の話に、明日菜は唸っていた。

 魔法使いは必要とあれば記憶も消す。明日菜もすっかり忘れていたが、下手をすれば彼女はネギに記憶を消されていた。明日菜の脳裡にはネギへの激憤が蘇っていたが、問題はそれではない。

 木乃香も魔法を知ったから記憶を消されたのではないか。

 

――まさかね……。

 

 明日菜は否定していた。明日菜は他ならぬバカレッドである。どうせ外れていると、明日菜にはもはや確信があった。

 明日菜は勝手に凹んだ。

 

「ウチは友達やと思っとったけど、せっちゃんが一緒に暮らしてたんはもともとウチを護る為やった。きっとなにか問題でもあったんやと思う」

「問題って?」

「会われんようになってん、分からんのや」

 

 木乃香の言葉に、明日菜は憤っていた。

 刹那は木乃香の護衛である。それはかつても変わらなかったらしい。木乃香になにか問題があれば、護衛であった刹那の責任が問われるのも当然かもしれない。それでも小学生にもならない子供の話である。あまりにも酷ではないかと、明日菜は憮然とした。

 

「離れてからウチも何度かせっちゃんに手紙で聞いたんやけど、返事は別の話ばかりで……」木乃香が悄然と俯いた。「だからきっと悪いことや思うて、忘れるようにしとったんやけど」

「でも、桜咲さんはまたこのかを護ってくれてるのよね?」

 

 木乃香が麻帆良から外出するとき、刹那が護衛として就いている。それはクラスメイトにとって周知の事実であった。明日菜も麻帆良の外で何度か刹那と会っているが、木乃香は彼女の護衛を避けている節があった。木乃香はほとんど麻帆良の外に出ていなかった。

 ともすれば、木乃香が刹那を避けていただけかもしれない。

 

「なら、もう問題はないってことじゃないの?」

「たぶん……」

 

 不断な木乃香に、明日菜は頭を悩ませていた。

 明日菜は単純な性格である。木乃香が刹那を避けなければ簡単に解決すると明日菜は思っていたが、それを口にするほど浅慮でもなかった。明日菜は当事者ではない。木乃香と刹那には明日菜にも分からないなにかがあるとも思っていた。

 それは事実であった。

 木乃香は刹那が変わってしまったと思っている。刹那を不気味に思っている。それは根拠もない木乃香の感覚でしかなかった。かつての刹那を知らない明日菜に分かるはずもなかった。もはや木乃香にとって、刹那はかつての幼馴染の皮を被ったなにかでしかないと誰に分かるはずもなかった。

 明日菜と木乃香に言葉はなかった。沈黙が重かった。

 

「お風呂、行こっか」

「うん……」木乃香は微笑んだが、儚かった。「せやな」

 

  ○

 

 木乃香は魔法を知ったから記憶を消されたと明日菜は推論していた。

 それはほぼ正鵠である。

 

「ま、なんも起こらんわな」

 

 ホテル嵐山専用駐車場に一台のバンが停まっていた。偽装されたバンにはホテル嵐山ハウスキーピング部と書かれている。バンには千草とフェイト、小太郎と刹那の姿があった。

 千草が運転席のシートに凭れ、嘆息していた。

 

「ただの修学旅行ですから」

 

 千草の言葉に、刹那が微笑んだ。

 西洋魔法使いであるフェイトが水の「扉」を介して木乃香と明日菜を監視していた。マリオネット然とした表情を崩さぬまま、フェイトは高等魔法であるはずの「扉」を御している。「あれはなんか隠しとるな」千草の言葉が脳裡に蘇った小太郎は、不愉快とばかりに牙を剥いた。

 

「私が天ヶ崎さんに協力をお願いしたのは、天ヶ崎さんならいつ記憶の封印が施されたか分かっているのではと思ったからです」

「見当ならついとるな」刹那の言葉に、千草が嘯いた。シートが軋んだ。「ウチがこのかお嬢様の世話役になる前やろ」

 

 千草は幼少の木乃香と面識がある。千草は木乃香の世話役を命じられていた。当時の千草にとって不可解な話であった。噂では京都神鳴流の幼い剣士が幼馴染として木乃香の世話役に就いているはずであった。千草は訝った。木乃香は関西呪術協会にとって要人である。派閥抗争の匂いがした。

 だが、千草は断れなかった。

 天ヶ崎家は千草の両親の死によって没落していたからである。さらに千草は女である。政はいつの時代も男の世界であった。千草は翻弄されるしかなかった。それでも千草は「天ヶ崎」を守らなければならなかった。

 ただ、結局は杞憂に終わった。

 詠春によって木乃香は早々に麻帆良へ送られていた。千草は世話役を数年で御免となったが、木乃香との縁という「パイプ」が生まれた。

 万事塞翁が馬である。

 だから、千草は堂々と暗躍をしている。

 

「おおかた、このかお嬢様が怪我したから術で治してもうたんとちゃうか?」千草が刹那を一瞥した。「アンタ、まだガキやったしな」

「遠からず、ですね」

「で、実際はどうなんや?」

 

 小太郎に睨まれ、刹那が困ったように微笑んだ。

 

「川に溺れたお嬢様を助けたようとして、バレてしまったのです」

「だから、なにがや?」

「私の正体」剣呑な小太郎にも、刹那は柳に風であった。「私は烏族の鬼子です」

「へえ」

 

 小太郎が感嘆したように嗤った。刹那はつまらない女であったが、鬼子となれば話は別であった。小太郎は戦闘狂としての血が疼いていた。

 千草は黙考していた。

 刹那は詠春に拾われた娘という話である。刹那が烏族の鬼子という事情を、詠春も把握していたはずである。鬼子が災禍を齎すというのは、東洋呪術において常識とされてきた。長として関西呪術協会を改革してきた詠春は、それを旧弊として打破したかったのかもしれない。

 だから、詠春は刹那を重用した。

 問題はそれからである。

 木乃香を頭首にすべきというタカ派の、いわば前身である派閥はかつて彼女を次期頭首として教育すべきと主張していた。血筋を尊ぶ旧態依然とした派閥は、詠春よりも近衛家の直系である木乃香を尊んでいた。時期尚早であると派閥に反対していた詠春は、呪術や魔法の存在を秘匿していた。

 だが、刹那がそれを破ってしまった。

 

「子飼いのアンタが長の期待を無下にしてもうたんか」

「幼い頃の話ですが、面目次第もありません」

 

 千草に嗤われ、刹那は眉尻を下げた。

 だが、刹那の言葉はどこか軽薄であった。

 

「なら、近衛木乃香の記憶を封印したのは近衛詠春ですか?」

「はい」

 

 フェイトの言葉に、刹那は飄々と首肯した。

 

「ほーん」衝撃的ではあったが、千草は納得もしていた。「なるほどなあ」

 

 タカ派は掃討されていない。まだ生きている。千草にはそれが妙であったが、氷解した。近衛木乃香の記憶を封印したという瑕疵を、他ならぬ詠春が負っていた。

 

――なら、誰がタカ派を弱らせたっちゅう話やけど、ま、この小娘やろな。

 

 千草は刹那を睥睨した。「情報屋のが向いとるような小娘」千草の言葉に確証はなかったが、刹那は京都神鳴流とは名ばかりの小癪な女である。千草は確信していた。

 千草が木乃香の世話役だったなど、刹那にとってただの口実であった。千草がかつてしていた研究も、刹那は把握していた。

 刹那の野太刀は、もはや千草の喉元にあった。

 千草はそれを自覚していた。千草は嘆息した。

 

「長が封印したんなら、どうしてアンタが解呪するんや?」

「お嬢様も……」ふと、刹那は嬉々として微笑んだ。「このちゃんも、もう十五や。知ってもええと思うんや」

 

 まるで子供のような刹那に、千草は呆然とした。

 だが、千草には解せなかった。

 詠春の意思であれば刹那は暗躍する必要もない。言外にこれは刹那の独断でしかない。刹那の目的が分からなかった。それは小太郎とフェイトも同様であった。

 刹那は木乃香が理外の理を知るべきだと思っている。木乃香の裡にある強大なチカラを知るべきだと思っている。木乃香のチカラは刃のように磨かれるべきだと思っている。

 刹那はなおも童女のように微笑んでいた。

 

  ○

 

 刹那は壊れている。

 だから、存在すべきではないと刹那は思っている。

 死ぬべきであると思っている。

 木乃香に殺されたいと思っている。

 木乃香が彼女自身のチカラで殺した唯一の存在。

 それになりたかった。

 刹那は、愛する者の心に(のこ)りたいと願っていた。



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「子供」

 夜の帳も下りた麻帆良学園理事長室には三人の姿があった。近衛近右衛門とエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、侍女の絡繰茶々丸である。近右衛門は呻きながら、立派な顎髭を指先で抓むように撫ぜていた。囲碁である。エヴァの優勢であった。

 近右衛門が微笑んだ。

 

「待ったはなしかの?」

「なしだ」

「ケチ」

「やかましい」

 

 老獪な笑顔と対峙したエヴァはよほど厭だったのか、西洋人形がごとき艶美な眦を不機嫌とばかりに歪ませた。

 しばし近右衛門は唸っていたが、やがて頭を下げた。

 

「参りました」

「それでいい」

 

 ご満悦とばかりにエヴァは嗤った。

 

「京都か……」外を仰ぎながら、エヴァが呟いた。「貴様の孫、平気なのか。西には、東と対立する賊がまだ残っているという話らしいが」

 

 近衛木乃香を心配するエヴァに、近右衛門は怪訝とばかりに目瞬(まばたき)をした。他人の心配をするほどエヴァは殊勝な女ではない。近右衛門はエヴァの意図が分からなかったが、他意はないはずである。

 邪険にするほどでもないと、近右衛門は好々爺然として笑っていた。

 

「それなら問題ない。強硬派はほとんど残っておらん。西の長が尽力してくれたおかげじゃ。それに刹那君も護衛に就いておる」

 

 近右衛門は茶々丸が淹れた茶を頂戴して綻んでいたが、またも怪訝とばかりに眦を歪ませた。エヴァがくつくつと冷笑していたからである。絹のように繊細な金髪が、春の野原のように(たなび)いていた。月光によって克明と灯されたエヴァの表情は、外見とは不相応に妖艶としている。エヴァの不気味な嘲笑だけが、理事長室に反響していた。

 主の豹変に困惑したような従者をも尻目に、エヴァはより退廃的に嗤っていた。

 

「桜咲か。なら問題はないよなあ」

 

 冷笑するエヴァの言葉は、実に白々しいの一言に尽きた。エヴァの真意が分からない近右衛門は、やはり眉間を顰ます他なかった。日頃は眼前の老獪な狸に翻弄される身のエヴァとしては当然ながら痛快であった。

 エヴァは呵々大笑としていた。

 

「貴様も詠春も、よもや桜咲の本性を知らんはずもあるまい」

「刹那君は……、ちと問題がある」近右衛門は嘆息した。「じゃが、このかを害することはあるまい。それはおぬしも知っておろう」

 

 刹那は木乃香に心酔している。

 だがそれは根拠にもならないと、エヴァは嗤った。

 

「どうだかなあ」

「酔っておるのか?」

「酔っとらんわ」エヴァはお猪口を呷った。大吟醸であった。「どうせ桜咲ごとき、相手にもならんと思っているのだろうが」

「違うのか?」

「いや、違わんよ」

 

 刹那はチカラを欲している。弱いから、刹那はチカラを欲しているのである。歴戦の魔法使いである近右衛門ならば、刹那はまず相手にもならない。それは事実である。

 それでもエヴァは近右衛門を嘲笑した。甘いなと、エヴァは思った。

 近右衛門は刹那をただの小娘と侮っている。生まれたばかりの赤子のように、刹那は世の理も恐怖も知らない。それがどれほど恐ろしいか、近右衛門は理解していなかった。ついに耄碌したかと、傲慢にもエヴァは嘲っていた。

 

「なら、いったいなにが」

「なあに、別に大した問題じゃあない」エヴァは嗤った。佚楽としていた。「分からんならそれまでだ。せいぜい忘れろ」

「ぬぅ……」

 

 顎鬚を撫ぜながら、近右衛門は唸った。

 近右衛門も烏族の鬼子であるという刹那の素性を知っているが、それは表面的なものでしかない。刹那と親しいらしいエヴァが近右衛門以上に彼女を知っているのは、当然の道理ではある。

 

――エヴァンジェリンはなにを知っておるのか。

 

 懊悩とする近右衛門に、エヴァは上機嫌である。

 

「では邪魔したな、じじぃ」

「しっしっ。二度と来んでもいいんじゃよ」

 

 近右衛門の皮肉にも、エヴァは一顧もしなかった。「失礼いたしました」居丈高な主とは裏腹に、従者の茶々丸は瀟洒に理事長室を辞していった。辟易とした近右衛門の姿にエヴァは欣悦としていたが、それもやがては黙然としていった。

 薄い雲に覆われた麻帆良の夜空に、星はなかった。

 

「どうかされましたか?」

 

 茶々丸の言葉に、エヴァは嗤った。人造のヒトガタながらも、茶々丸の表情には不安があった。それがエヴァには愉快であった。

 

「お前は桜咲をどう思う?」

「どう、とは?」

「なんでもいい」

「なんでも、ですか」

 

 エヴァの言葉は実に曖昧であった。エヴァの意図は分からなかったが、茶々丸はしばし黙考した。エヴァは茶々丸というオーバーテクノロジーをほとんど理解していなかったが、客観的な意見が欲しいときは観測者としての彼女を頼っていた。

 

「私の推測でしかありませんが……」

「なんだ?」

「彼女は、解離性同一性障害ではないかと」

「ビリー・ミリガン、か」エヴァは乱読家である。ダニエル・キイスも読んでいた。「なるほどな」

 

 エヴァは刹那の過去を知っている。茶々丸の言葉にエヴァは納得もしていた。

 鬼子として迫害されていた過去。

 まるで幼子のような言動。

 木乃香への依存。

 専門家ではないエヴァに確証などなかったが、解離性同一性障害の条件としては十分なように思われた。

 刹那の、原点。

 刹那は「刹那」を守る為に生まれた。「刹那」を守る為にチカラを欲している。蛇の道は蛇と、「刹那」を守る為に悪たるべしと下種になった。

 誰かが「刹那」に悪意という黒のペンキを落としたが為に生まれてしまった失敗作。

 刹那に矜持はない。

 刹那に自己もないからである。

 

「ハ」

 

 エヴァは刹那を憐憫していた。

 だが、不幸であることを忘れられたかもしれない刹那が、エヴァは羨ましかった。

 

  ○

 

 京都、奈良修学旅行二日目である。

 

「あの、ネギせんせー。今日の自由行動、よろしければ私達と回りませんか?」

 

 どうしてか分からなかったが、宮崎のどかはほとんど緊張しなかった。のどか自身が唖然としていた。のどかの言葉に、ネギ・スプリングフィールドは快諾した。もしかすれば相部屋である神楽坂明日菜や木乃香の班だからという理由であったかもしれないが、それでもいいとのどかは思っていた。

 のどかはあまりに冷静であった。のどか自身、それが不思議ではあった。

 のどかは無意識下に意思誘導(マインドコントロール)されていた。積極的にネギと接触すべしという、ニュースバラエティの最後にある十二星座占いほどの軽い暗示である。ネギに好意的でなければ効かないような、稀薄な暗示であった。

 エヴァの仕業であった。のどかはエヴァの眷属である。捕縛したアルベール・カモミールの情報から、エヴァはネギに好意的なのどかを眷属にしていた。エヴァはネギの動向を監視するにはいいかもしれないとのどかを眷属にしたが、現状では便利な手駒でしかなかった。具体的には、のどかの視界を共有して京都、奈良を擬似的に観光していた。

 エヴァは暇であった。

 

「よくやったねー、のどかー!」

「え……?」早乙女ハルナはもはや感激していたが、のどかは上の空であった。「あ、うん……。ありがとう」

「テンション低いなー、どしたー?」

「なにかあったですか?」

「大丈夫」心配する綾瀬夕映に、のどかは微笑んだ。「なにもないよー」

 

 のどかの笑顔に陰はなかった。夕映は安心したが、不安があるとすればいつもの親友らしからぬ姿であった。綺麗であった。まるで別人のように。「ラブ臭、じゃない……?」ハルナの戯言も、夕映はどうしてか無視できなかった。

 

「んー……」判断に迷っていたようだが、やがてハルナは嘯いた。「なにはともあれ、告るチャンスだよ!」

「む、無理だよー」

「大丈夫だって! たぶん!」

「もう、たぶんってなにー……?」

 

 動揺すると夕映は思っていたが、のどかはふわふわと笑っていた。

 もはや能天気なのどかに、ハルナも悩ましいとばかりに唸った。

 

「無理に今、告白する必要もないのでは?」夕映はハルナに囁いた。「のどかもこの調子なら、いつでも告白できると思います」

「でも今がチャンスなのは変わらないっしょ」

「もっと親密になってからでもいいはずです」

「堅実だねー」

「ハルナはもっと慎重になるべきです」

 

 つまらないとばかりに苦笑したハルナに、夕映は呆れた。

 内緒話をする二人を余所に、のどかは先を歩いていたネギや明日菜、木乃香と合流していた。「置いてくえー」ネギや明日菜と談笑するのどかの隣で、木乃香が悪戯に笑っていた。

 

「い、いつの間に……」

「あれなら大丈夫かな」

 

 綺麗さっぱり忘れたかのように、ハルナが笑った。

 呑気なハルナに、夕映は嘆息した。夕映の脳裡には、まるで別人のようなのどかの姿が(しこり)のように残っていた。

 

  ○

 

 興福寺や奈良国立博物館、東大寺と奈良見学の日程を無事に終わらせていた五班は、春日野園地にある東屋で休憩していた。

 

「奈良公園って意外と広いのね」明日菜が縁台に腰を下ろした。「疲れたー」

「ディズニーランド十個分はありますから」

「マジか……」

 

 夕映の言葉に、明日菜は唖然とした。

 奈良公園は実に長閑である。アナーキーな麻帆良で育ってきた明日菜にはなおさらであった。木乃香とのどかは茶屋で買ってきた団子を堪能しながら、ネギと談笑していた。作画資料にする為か、ハルナは写真を撮っている。鹿せんべいを買った夕映が鹿と戯れようとしていたが、鹿どもは呑気に昼寝をしている。「ぐぬぬ」夕映は呻いていた。明日菜は笑った。

 平和であった。

 図書館島の地下で巨大ゴーレムと格闘していたのが嘘のようであった。

 

「ゴメン、ちょっとトイレ行ってくる」

「了解です」

 

 夕映に言伝をした明日菜は、景観を楽しむようにのんびりと御手洗に向かった。木立の奥には、有名な東大寺南大門があった。

 

――あれ以来、ネギも大人しいけど……。

 

 期末テストの図書館島と長谷川千雨が半裸にされた一件を最後に、ネギとの騒動らしい騒動はなかった。

 

――でも……。

 

 もしかしたらと、明日菜は思った。「マギステル・マギの仕事は、世のため人のために陰ながらそのチカラを使う」ネギの言葉である。もしかしたら明日菜が知らないだけで、ネギは誰かを陰ながら助けているのかもしれないと、彼女は思った。

 大階段からのどかを助けたように。

 

――てか、桜通りでなにしてたのよあいつ……。

 

 満月の夜、明日菜は桜通りに倒れていたのどかをネギと一緒に介抱した。なにがあったのか明日菜は疑問であったが、ネギはただ黙していた。なにかあったのは、明白であった。秘密にしなければならない理由が、ネギにはあったかもしれない。それでも明日菜は釈然としなかった。

 明日菜は歩きながらぷりぷりとしていたが、奇妙な感覚に襲われた。

 まるで眩暈のようであった。

 

――あ、あれ……?

 

 あれだけ群れていた鹿どもの姿が一頭もなかった。

 マヌケにも迷子になったのかと明日菜は狼狽したが、視界には子供の姿があった。子供の奥には奈良公園の喧噪があった。不思議な子供である。冬のような子供であった。春になれば忘れられてしまう雪のように、存在が稀薄であった。

 小柄な背丈。

 七分丈のズボンと、白のフードパーカー。

 小奇麗なフードパーカーからは、子供の存在をより華奢にさせるような純粋な白髪が零れていた。

 子供はフードを目深にしながらぼんやりと佇んでいた。明日菜は子供と対峙した。静謐としていた。明日菜と子供二人だけの空間は、ぽっかりと穿たれた隙間のようであった。シエスタのような微睡(まどろみ)であった。

 ふと、明日菜は目瞬(まばたき)をした。

 

――ヤバ……。もう戻んないとマズイよね。

 

 明日菜が東屋へと踵を返したときには、もう子供の姿はどこにもなかった。

 

  ○

 

 天ヶ崎千草達は昨晩のように偽装したバンで木乃香達を監視していた。ホテル嵐山の隅々には、刹那と従業員に扮装した千草によって傍受用の呪符が貼られている。「扉」の役目もほとんど終わっていた。フェイト・アーウェルンクスは仮眠をしていた。

 

「あー……」犬上小太郎はバンの後部座席で嘆いた。「暇やー、退屈で死んでまうてー」

「やかましいなあ、刹那と遊んどき」

「コイツ弱いからイヤやわ」

 

 小太郎の言葉を、刹那は否定しなかった。

 小太郎は何度か刹那と手合をしたことがある。刹那は弱かった。京都神鳴流とは名ばかりの平々凡々とした実力であったが、刹那はいかにも手札を残していた。小太郎が全力でなかったように、刹那も全力ではなかった。京都神鳴流としての野太刀も、つまりはただのブラフでしかなかった。手合をしているときも、刹那の瞳は、ジョーカーを切れば小太郎も相手ではないと嘯いているようであった。

 ムカついた小太郎は刹那を瞬殺した。

 

「じゅうぶん強いと思うけどなあ」

「千草はウシロやろ。コイツはマエ。話がちゃうわ」

「ウシロとしての話や」

「あん?」

 

 小太郎は怪訝としたが、刹那が手札を隠しているのは千草も分かっていた。ウシロ、つまりは後衛である呪符使いとしての直感であった。

 千草は刹那が「両刀」であると思っている。

 

「刹那の身代わりは一級品や」千草は刹那に嗤った。「他にもイロイロできるんとちゃうか?」

 

 刹那は「身代わりの紙型」の作成を得意としている。刹那はこれを生業としていた。刹那の紙型による「身代わり」は術者本人と寸分違わぬと、関西呪術協会でも評判である。実は千草も買っているが、手札として隠していないのはさほど痛手ではないからか、金になるからか。千草にも判然としなかったが、呪術は剣術の補助程度という刹那の言葉はまるで信じていなかった。

 千草の疑念にも、刹那は微笑んでいた。

 

「神鳴流は武器を選ばず、ですから」

「術師としての話をしとるんやけどな」

「誰にでも奥の手はあるものです。天ヶ崎さんにも、犬上君にもあるように」

 

 刹那の言葉に、小太郎は不愉快とばかりに仏頂面をした。

 

「やっぱムカつくなあ」

「ムカつくなあ」

「心外です」

 

 刹那の軽薄とした言葉が、千草は憎々しかった。

 信頼関係もクソもなかったが、それでいいと千草は判断していた。所詮はビジネスライクな関係である。下手な情は、野良犬にでも喰わせればいい。刹那と親しいのは、よほどの傑物かよほどの馬鹿か両方であると千草は思っていた。

 だが、千草の思惑とは裏腹に、刹那は彼女に興味があった。

 厳密には千草の「術」である。

 

「あの、天ヶ崎さん」

「なんや」

「えっと、ですね……」

 

 刹那はまるで恋をする乙女のようであった。

 千草はイヤな予感がした。

 

「私、知りたいんですよ」

「なにをや」

「貴方の術について、です」

「アンタは……、どこまで知っとる?」

 

 千草の言葉には棘があったが、刹那は無垢として瞳が爛々と耀いていた。

 かつて千草は「東」への復讐の為に、木乃香の「魔力」でリョウメンスクナノカミを調伏して式神にするつもりであった。呪符使いとしては凡俗であるが、千草には天ヶ崎としての「術」があった。式神をきぐるみのように変化させ、彼女自身のチカラを「気」や「魔力」に頼らずとも増大させるという一子相伝の秘術であった。

 誰も知らないはずであった。千草は動揺していた。

 刹那が頭を下げた。

 

「対価はご用意いたします。天ヶ崎さんの術を、どうか私に教えてくれませんか」

「アンタには必要ないやろ」

「私は知りたいのです。私になにができるか。ウチになにができないんか」

 

 刹那は興奮していた。やはり情緒が不安定であった。

 

「いったい、なにがしたいんや?」

 

 千草の言葉には、刹那はただ嗤っていた。

 刹那には興味があった。

 ヒトを式神にできるのか。

 千草の「術」は、ヒトにもできるのか。

 

――このちゃん……。

 

 木乃香とひとつになれるかもしれない。

 刹那は狂喜していた。

 

  ○

 

 歴史がズレていたが、超鈴音に焦燥はなかった。なかば予想していた事態であった。

 ズレの中心は刹那である。

 観測者である超は刹那の過去を知っている。刹那は生まれたことを否定され、迫害されてきた。刹那は「普通」になれなかった。刹那が「普通」になれない可能性を、戦禍に生きてきた超は予期していた。

 刹那は壊れてしまった。

 歴史を正さなければならなかった。

 超は自嘲した。

 

――神にでもなったつもりか、烏滸がましいネ。 

 

 思考とは裏腹に、超に躊躇はなかった。いまさらな話である。超は理想の為に、何度も葛藤してきた。それでも超は決断をした。

 超に、いまさら翻すという選択肢はなかった。

 だが、超は煩悶とした。

 

――さて、どうしたものか……。

 

 どう歴史を正せばいいのか、どう刹那を正せばいいのか、超はほとんどノープランであった。「超包子」の起業に茶々丸の開発、さらに「計画」の準備に追われ、規格外の天才である超も限界であった。実に無謀なスケジュールである。超はかつての彼女自身を呪っていた。「やろう、ぶっころしてやる。」気分はさながら過去の自分自身にぶちギレるドラえもんであった。

 

「なにやら物騒でござるなあ」

「寝不足ッスか?」

「きっとお腹が空いてるアルよ」

「乳酸菌が足りていないんですねー」

「カルシウムじゃないの?」

 

 呑気なクラスメイトに、超は呆れた。よもや葉加瀬聡美もである。超は呻いた。

 茶々丸の親である超も、彼女のように刹那が解離性同一性障害か、それ相応であると判断していた。

 ならば、超は刹那の人格を統合すればいいのか。それは否であった。解離して生まれた別人格にも意思がある。別人格にとって統合が消滅を意味すれば拒絶される。別人格がどうして生まれたのか、なにを望んでいるのかを知らなければならない。解離性同一性障害の寛解に必要なのは、理解と共存である。

 超は刹那を知らなければならない。

 超は刹那と対話をしなければならない。

 

――あの刹那サンが素直に話をしてくれるのか……。

 

 だが、超に問題はなかった。

 木乃香と接触すればいいだけである。木乃香は近衛詠春と近右衛門の意向で魔法を秘匿されている。魔法使い達から要注意人物と目されている超が木乃香と接触すれば、護衛である刹那は無視できない。もし無視すれば、刹那の護衛としての能力が疑われ、麻帆良での立場が失われる。それは刹那も望まないはずであると、超は判断していた。

 木乃香が刹那との関係に悩んでいるのは、超にも明白であった。超にこれを利用しない手はなかった。超に懸念があるとすれば、刹那と敵対する可能性である。寵愛している木乃香に接触したとなれば、刹那が躍起になるかもしれない。邪険にされるならまだしも敵対するとなれば、刹那との対話も儘ならない。

 超は唸った。

 

「お二人とも凄いですねー」

「もはや雑技団じゃないッスか」

 

 ハカセと春日美空が感嘆していた。

 古菲と長瀬楓が呑気にトレーニングに熱中していた。見事なプランシェである。二人には随分と余裕があった。「超もするアルかー?」古菲がふわふわと笑った。

 

 超は微笑んだ。

 

「しないネ」

 

 超に即答され、古菲はしょんぼりとした。

 

「ひどいアル……」

 

 古菲。

 超の、大切な親友であった。

 

「ン……」やがて、超が頷いた。「ちょっと明日菜サンのとこに行ってくるネ」

 

 超の言葉に、四葉五月が頷いた。

 超は決断していた。もはや刹那と敵対しようが、超には関係なかった。超は子供のように、刹那と喧嘩をするつもりであった。古菲のように拳で「対話」をすればいいのだと、超は思っていた。

 あまりにも馬鹿々々しかった。

 あまりにも麻帆良らしかった。

 儚い夢であったはずの麻帆良に、超は絆されていた。

 刹那も、超のようになればいい。

 超は、少年のように笑っていた。

 

  ○

 

 木乃香は超と談笑していた。

 刹那の泥のような瞳に、黒々とした炎が灯っていた。



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