星々の名をたずね (さんかく日記)
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【1】イゼルローン駐留艦隊

漆黒の宇宙に浮かびあがる天体。

青白い光が河底のように揺らめいて球体を包む様は幻想的で、遠目にはまるで芸術作品のようにも見える。

しかし、輸送船が天体へと近づき硬質な表面が眼前に迫ると、銀河に浮かぶ巨大な球体は本来の役割をはっきりと示して見せた。

人工の球体の名は、「イゼルローン要塞」──9億2400万メガワットの出力を持ち、一撃で数千隻もの艦艇を沈めることのできる絶大な主砲「トゥールハンマー」のもと、500万の人員と2万隻の宇宙艦隊を抱えた軍事要塞である。

直径60キロにも及ぶ巨大な人工の天体は、400隻を同時に修復可能な整備ドックや一時間で7500本のレーザー核融合ミサイルが生産可能な兵器廠、7万トンもの穀物貯蔵庫に加え、学校や病院、商業施設といった生活インフラを揃えており、軍事基地というだけでなく巨大な都市という側面も有している。

長きに渡り、銀河帝国軍の支配下に置かれ、難攻不落の要塞として宇宙回廊に鎮座してきた軍事基地が、歴史上初めて自由惑星同盟の手に渡ってから、半年が経過していた。

「イゼルローン回廊は叛徒どもの屍で舗装されたり」と帝国軍が豪語したとも言われる要塞に対し、自由惑星同盟は実に六度もの攻略戦を仕掛け、そのすべてで大軍を失って敗北している。

ついに七度目となった「イゼルローン要塞攻略作戦」にて、巨大要塞の占領という偉業を果たした人物こそが「ヤン・ウェンリー大将」であり、今は彼が「イゼルローン駐留艦隊司令官」の名のもとに、この要塞の主となっている。

 

軍用の輸送船でイゼルローン要塞を目指す一人の女性、ジーン・ブラックウェルは、今や民間人でも知らぬ者はいないほどに有名となった名前の持ち主について様々に思いを巡らせていた。

「エル・ファシルの英雄」、「ミラクル・ヤン」など多くの呼び名を持つ彼は、弱冠29歳であり、高級軍人としては突出して若い。

今日この日より、ジーン自身の上官となる人物である。

自分とそう歳が違わないながら数々の武功を立て「大将」の地位にあるヤン・ウェンリーとはどんな人物なのか、それは単純な興味というよりも気構えのような関心だった。

着任に当たって多くの資料に目を通しては来たジーンであったが、心のうちにある感情は期待よりも不安のほうが大きかった。

 

今日に至るまでのジーンの経歴は、自由惑星同盟軍においてはかなり異質なものである。

何しろ彼女は、つい先日までハイネセンの有力議員の秘書をしており、軍や戦争とは遠く関わりのない場所にいたのだ。

宇宙船から航空機、地上車までを生産する巨大企業の創業家の主を父に持つ彼女が政治学の道に進んだのは、幼い頃に読んだ「アーレ・ハイネセン」の伝記がきっかけだった。

建国の英雄である彼の人生を描いた挿絵付きのその本は、今でも彼女の実家の書棚の特等席に置かれている。

ゴールデンバウム王朝の圧制下で奴隷として苦役を強いられていたアーレ・ハイネセンが、ドライアイスを用いた宇宙船を建造し、仲間とともに流刑地を脱出する様子は、幼い少女の心臓を昂ぶらせ、宇宙空間をさまよう中で仲間を失い、やがて彼自身も命を落とすことになる逃亡の悲劇は少女の小さな胸を激しく締め付けた。

やがて少女は大人になり、先人たちの積み上げた崇高な理念の執行者となるべく政治の道を志した。

民主主義の恩恵のもと何ひとつ不自由のない暮らしの中にいた少女を導いたのは、遠き日の祖国に自由と希望とをもたらした偉大な一人の政治家だったのである。

 

しかし、今は民主主義がもたらす希望も資本主義の力強さも、彼女の心を支えてはくれない。

宇宙歴796年、この夏に最高評議会が決定した銀河帝国領土の開放作戦が、ジーンの人生を大きく変えてしまっていた。

イゼルローン要塞の陥落は、長く銀河帝国の脅威に晒され続けた自由惑星同盟の市民たちをおおいに勇気づけ、歓喜させた。

その中で起こったのが、「帝政の下で苦難を強いられる銀河帝国国民の解放」という壮大な作戦を巡る議論である。

公民主義の観点で言えば、帝政からの解放は確かに正しい道なのかもしれない。

だからといって、他国を侵略する行為を「正義」とは呼ばないというのが、彼女が秘書を務める代議員の意見であり、ジーン自身も同様の考えを持っていた。

勝利の余韻が軍国主義へと傾いていく中で、評議会は荒れた。

経済開発委員会の重鎮である代議員は、銀河帝国との本格交戦を望む中央政府を当初厳しく批判していた。

「民主主義とは、軍事力ではなく議論と交渉で問題解決をはかるべき理念だ」という彼の主張にジーンは多いに共感したし、強大な軍を従える皇帝の圧政から逃れるために建国された自由惑星同盟が、今度は逆に帝国領を侵攻するという発想はとても理解できない。

暴論が、議論によって打ち破られることを願った。

 

しかし、代議員はあっさりと変心し、議員らの後押しを受けた最高評議会は「銀河帝国領土への侵攻」をついに決議した。

「なぜ」という問いかけへの答えが、ジーンを一層絶望させた。

 

『我々政治家は民衆に選ばれて初めて職務を全うできる、それが民主主義だ。そして、民衆が今求めているのは軍事的な成功。政治とは駆け引きなのだよ。時勢に応じて意見を変えるのは、いつか自分の理想を叶えるためだ。』

 

『先生は、将来の理想のために目の前にある信念を捨てるというのですか。』

 

『政治とは駆け引きなんだ、ジーン。』

彼が告げた言葉が信念であったのか、それとも詭弁であったのかはわからない。

はっきりしていることは一つ、最高評議会も代議員たちも、「政治に戦争を利用している」ということだ。

事実として、低下していた中央政府の支持率は、この決議によって回復の兆しを見せていた。

 

市民こそが戦争を求めている。

果たして本当にそうだろうかとジーンは思う。

軍事的成功を賛美し、より大きな勝利をという時勢は、政治家たちこそが作り出しているのではないかと彼女は思うのだ。

民主主義と資本主義のもとに発展を続けてきた自由惑星同盟の人口は130億人、ついに銀河帝国の半分を超えた。

膨らんでいく人口によって経済的な歪みが生じ、富めるものはより富み、貧しい人々に与えられる再起の機会は確実に減っている。

格差が生み出す不満や社会の閉塞感は時を追うごとに強まっており、批難の矛先は当然に中央政府に向いていた。

だからこそ──政府は、国民の視線を銀河帝国という外敵に向けることで、経済的不満を逸らそうと考えているのではないだろうか。

 

戦勝という美酒は、民衆を酔わす。

また、戦争のために割かれる膨大な人と物資が、時として経済の起爆剤となり得ることも事実である。

軍需産業を中心に製造業は売上を伸ばすことができるし、雇用も増える。

戦後に起きる経済変動や戦死者の増大による人口の偏りを考えれば、負債を先送りする以上の麻薬でしかないのだが、過去の歴史においても実際に戦争が経済的な閉塞感を打ち破るための手段として利用されることは実際にあった。

 

心にかかった靄を振り払えずにいたジーンを打ちのめす出来事が起きたのは、アムリッツァ星域の戦闘での敗戦が決定的となり、作戦を断行したサンフォード内閣が倒壊へと向かう中でのことだった。

主戦論に沸いていた世論は反戦へと大きく傾き、同盟領は大きく揺れた。

各地で政府への抗議集会が開かれる中、膨れあがる熱はやがて暴力へと変化していく。

軍需部門をもっていたジーンの父の会社も大きな非難に晒されることとなったが、まるで凶事は重なるとでもいうように父が病に倒れたのである。

 

度重なるデモやテロまがいの行為に対抗する柱を失った会社の株価は急落、病床の父が代表の椅子を重役の一人に譲ると同時、支配株数を持たない創業家はあっという間に経営から排除された。

管理職の地位にあった兄もその座を奪われ、後ろ盾を失ったジーンもまた厳しい立場に立たされることとなった。

父の看病に専念するという理由を建前に彼女は議員秘書の職を辞し、ハイネセンポリスにある実家に戻った。

 

そのジーンに、声をかけたのが古い友人であるフレデリカ・グリーンヒルだった。

統合作戦本部次長であるドワイト・グリーンヒル大将を父に持つ彼女とジーンと少女時代からの友人同士、所謂幼馴染みの関係である。

仕事を通じて知り合った彼女たちの父親は、軍人と経済人という垣根を越えて親しい友人関係を築いており、父親同士に連れられて始まった少女たちの交流は、ジーンのほうが3つ年上ということもあり、どこか姉妹のようでもあった。

フレデリカが士官学校に進んだ時はさすがに驚いたジーンだったが、お互いの立場を超えて話し合える友情は今も変わらない。

 

そのフレデリカが、「あなたに頼みたいことがある」と言う。

同盟軍に属する彼女からの提案であるからには軍に関わることであるのは当然で、そのことにジーンは戸惑った。

かつての志が揺らいでいるとはいえ、ジーンは基本的に軍に対して決して好意的な印象を持っていない。

銀河帝国という脅威と対峙している現代において軍の重要性は十分承知しているつもりだが、それでも「非武装の平和」こそ人類の理想ではないかと思うのだ。

 

それが理想に過ぎないということも、一方で理解している。

そして、先の会戦で多くの人員を失った軍が、深刻な人材不足に陥っていることも知っていた。

人的資源は枯渇する一方であり、銀河帝国の膨張を目の前にした自由惑星同盟にとって、同盟軍の立て直しは喫緊の課題である。

とはいえ、当のフレデリカの父も敗戦の責任を問われる厳しい立場に置かれている。

今後起こるであろう混乱を思えば、今軍に近づくという行為は危険だと言わざるを得ない。

 

国家の難局に、果たせる役割があるのなら──。

ジーンが申し出を受けたのは、フレデリカに対する友情と「ヤン提督に会えば、きっとわかってもらえるから」という彼女の強い説得の結果だった。

 

 

「ブラックウェル少尉です、本日付けでイゼルローン要塞の事務官として着任いたします。」

 

「お待ちしておりました!」

履き慣れない軍靴の踵を揃えて告げると、軍人らしくよく通る声がそれに応える。

 

(……少尉、ね。)

自分で口にしながら、違和感でおかしな味がしそうだと感じている。

慣れない言葉を発した反動で眉をわずかに歪めながら視線を滑らせると、居並ぶ輸送船の間を駆けるベレー帽に、ついにやって来てしまったと感慨とも諦めともつかない感情が胸の中に湧いてくる。

規律正しい足音、訓練された軍人たちの独特の所作。

隙のない重厚な空気に支配されたこの場所は、紛れもない軍事基地なのだと肌に感じる雰囲気で頭よりも早く理解する。

 

「銀河帝国の圧政から苦役に耐える人民を開放する」という政府の大言はついに実現せず、勝利の高揚は敗戦の責任を問う怒声へと変わった。

人々は悲しみ、怒り、混乱し、同盟領土内には不満と不信が渦巻いている。

法に沿って選出されたトリューニヒト国防委員長を暫定議長に選出した最高評議会は、形こそ一応は保ってはいるものの、かつての権威も信頼も今は失いつつある。

積み上げてきた過去への誇りと未来への不安の間で同盟全土を揺るがす声が、一層大きなうねりを生み出そうとしている。

 

 

輸送車両に乗ってイゼルローン要塞の司令部へと向かいながら、ジーンはそっと目を閉じる。

時代の荒波の中で、彼女の心もまた揺れていた。

 

(闇が濃くなるのは、夜が明ける直前……。)

アーレ・ハイネセンが民衆を励ましたというその言葉が、今は不安への予兆としてジーンの胸に迫る。

世界を覆おうとする闇が、すぐそこまで来ている。

多くの有能な将官を失った同盟軍において、唯一の希望のごとく人々が求める名前──ヤン・ウェンリー提督がもたらすのは、より深い闇夜か、それともまばゆい夜明けなのか。

軽いブレーキ音を立てて停車した車両が、司令部への到着を知らせて寄越す。

胸の底に漂う不安を瞬きで隠して、腰掛けていた椅子から、ジーンはゆっくりと膝を伸ばして立ち上がった。



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【2】ヘイゼルの眼差し

デスクの向こうから自身を見る上司の視線を、ジーンは正面から受け止めた。

ヤン提督の要請を受け、彼女と同日にイゼルローンに着任した要塞事務監、アレックス・キャゼルヌである。

直近まで第14補給基地の司令官を勤めていた彼は、先の「帝国領土侵攻作戦」が失敗するまでは統合作戦本部長の次席副官に任じられていたという後方支援のエリートだ。

士官学校の事務次長であった時に学生時代のヤンと知り合い、以来プライベートな親交を結んでいるらしい。

事務方にして33歳で准将というのはかなり早い昇進であるし、重要部署が名を連ねる経歴を見れば、能力の高さと中央からの厚い信頼とが推察される。

 

「ここ、イゼルローンには500万の人員と2万の戦艦が収容されている。加えて今、帝国軍の将兵50万を捕虜としているわけだ。」

 

「そう聞いております。」

数を誇るような表現に少しばかり辟易とした気持ちになりながら返事を返したジーンに、キャゼルヌが身を乗り出して聞いた。

 

「これがどういうことかわかるか、ブラックウェル少尉。」

 

「……まあ、莫大なお金がかかりますよね。」

軍人らしからぬキャゼルヌの雰囲気に同調した部分もあり、つい平素の口調になってジーンは答えた。

 

「その通り!さすがは実業家のお嬢さんだ。そういう発想ができる人間が欲しかったんだよ、まったくここの連中と来たら物資の計算もロクにできないヤツらばかりで……ヤンのやつ、殊勝に俺を頼ってくると思ったら、案の定この有り様だ。」

まくし立てるようにそう言うキャゼルヌに呆気にとられていると、彼はデスクから身を乗り出してジーンの手をガシリと掴んだ。

 

「ついでに言うと、君の父君の車のファンでもある。」

怯むジーンの手をしっかりと握り、しかし茶目っ気のある笑顔を見せて彼は笑った。

「よろしくな」と改めて頷く仕草に、ジーンも吊られて微笑む。

 

「ええ、よろしくお願いします。」

なんとなく馬が合いそうだというのが、率直な感想だった。

規律や形式を重んじる軍という組織について、正直に言えば身構える気持ちのほうが強かった。

しかし、今目の前にいる新しい上司は、かつて接してきた同僚や上司と同様かあるいはそれ以上に気さくで接しやすい雰囲気を持っている。

 

「早速なんだが、艦隊の維持・管理費、食料、ライフラインの維持費、将兵の給与と……ああ、あとあの馬鹿でかい大砲についてもデータの洗い直しを頼みたい。」

 

「すみません。グリーンヒル大尉ほどの記憶力を私は持ち合わせておりませんので、項目をメールで送っていただけますか。」

フレデリカを引き合いに出して混ぜ返すと「すまんね」とキャゼルヌも笑って、「すぐにファイルごとメールで送るよ」と請け合う。

両肩の緊張が和らいでいく感覚を、はっきりと受け止める。

キャゼルヌとのやりとりは、不安に傾いていたジーンの心を励ますには十分なものとなった。

 

 

大変な人の下についたなと思いもしたが、初日から仕事漬けというのはありがたくもあった。

たった半年の間に、あまりにも多くのことがあり過ぎたのだ。

大がかりな軍事行動、敗戦、そして世間を覆う不穏、昨日までの価値観など一瞬で不確かになってしまうような日々の中で考えばかりが堂々巡りし、精神は常に張り詰めた状態にあった。

目の前に集中できる業務があるということは、率直に良かったと思えることだった。

与えられたデスクに向かい、ジーンは数字と格闘する。

キャゼルヌの言う通り、過去に作成されたというファイルのデータは精度を欠き、でたらめとは言わないまでも正確さとはなかなかに良い距離感を保っている。

修正し、分析し、予測を立てる、作業を繰り返すうちに見えてくるのは巨大な要塞の全容だ。

巨大な金属の塊はジーンの脳内で数字とグラフに変わり、球体とはまた異なる形を形成していく。

浮かび上がってくるのは、銀河帝国によって度外視の予算を与えられ続けて膨れあがった維持管理費と狭い回廊に位置するゆえに補給という弱点を抱えたアンバランスな軍事施設の姿だった。

 

(いかに無謀な作戦だったかということが、よくわかる……。)

イゼルローンを拠点として銀河帝国領へ進軍するという作戦の稚拙さに、込み上げるのは怒りだ。

領地を占領すれば、当然に軍艦の維持費だけでは済まない。

地上用の武器弾薬だけではない、占領地での食料も必要だ。

しかし、その物資輸送の拠点となるイゼルローンもまた過密な人員を抱えていた。

後方支援の基地としてイゼルローンは不十分であり、本土からの救援を考慮に入れても莫大な予算と時間、人員とが必要だったと容易に推察される。

軍事会計について素人であるジーンの目から見ても明らかに無謀と言える作戦を、なぜ中央政府は実行したのか。

(誰のために、何のために人々は死んだの……。)

民衆を扇動した政治家、「解放」の文字に酔う群衆、民意の名のもとに考えることを放棄した評議会。

目先の利益のために、一瞬の快楽のために、どれほどの生命が失われ、どれだけ大きな犠牲となったのかと憤りに吐く息が震える。

 

「お疲れ様!」

苦痛と悲しみとが胸を覆い、キーボードを打つ手が止まりかけた時だった。

背中を叩かれて顔を上げると、ジーンを招聘した女性本人がデスクの横に立っていた。

 

「さすがキャゼルヌ准将ね。」

彼の人柄を知るらしいフレデリカが苦笑し、それからリラックスさせるように、ジーンの背中を撫でる

 

「だけど、もう退勤時間はとっくに過ぎているのに気がつかないなんて、ジーンのほうも大概だわ。」

知性と明るさの同居するヘイゼルの眼差しに見つめられ、ジーンは瞬きを返した。

 

「来てくれてありがとう、ジーン。」

「フレデリカ」と名前を呼ぶと、柔らかな微笑みがジーンを見る。

あたたかな友情を示す眼差しに見つめられ、凍りかけていた心がそっと解けていくような気がした。

 

「今日はそこまでにして食事に行きましょう。久しぶりにゆっくり話もしたいし。」

フレデリカとは着任の挨拶で司令室を訪れた際に顔を合わせてはいたが、その時はお互い儀礼的な言葉を交わしたのみだった。

ヤン提督の副官としてきっちりと軍服を着こなす彼女に気後れを感じたジーンだったが、こうして改めて声を聞けばよく知っているフレデリカそのものだと思える。

そのことにほっとして、ようやくジーンも笑顔になった。

 

「そうね、フレデリカとゆっくり話せるなんていつぶりかしら。」

着替えてから二人で夕食を取ろうと誘われて、ジーンは一旦自室に戻った。

着るものに迷ったが、スーツというのもおかしな気がして、結局はカジュアルな私服を選んで待ち合わせ場所へと向かう。

 

「やあ、お嬢さん。お出かけの場所はもうお決まりですかな。」

フレデリカを待っていたジーンにかけられた声。

 

「軍服よりも余程お似合いだ、素敵ですよ。」

振り返る彼女の服装をいかにもさらり褒めてみせたのは、背の高いがっしりとした体躯の男だった。

司令室でヤン提督の後ろに控えていた人物の一人だということは、彼の華やかな容姿も手伝ってすぐにわかった。

 

「シェーンコップ准将。」

ヤン艦隊の主要な幕僚の一人である彼に関するデータはジーンの頭の中に一通りインプットされている。

銀河帝国からの亡命者で結成されるローゼンリッター連隊の第13代の隊長。

士官学校を蹴って軍専科に入学したという陸戦の専門家である。

幼い頃に自由惑星同盟に亡命してきたという出自ゆえなのか、華やかで優雅な雰囲気が軍人らしい重厚さの中に感じられ、司令官室の面々の中でも一際目を引く存在だった。

 

「ハイネセンほどではありませんが、ここにもなかなかのものを食わせる店がありますよ。」

ご案内しましょうかとシェーンコップが告げる前に、待ち合わせの相手が早足でやってきた。

 

「ごめんなさい、遅くなって!」

抱きつくようにしてジーンの腕を取ると、シェーンコップの視線を見上げてフレデリカが告げる。

 

「今日は二人きりのつもりなんです。だからジーンのことを口説くのなら、また後日にしていただけますか。」

はっきりとした物言いに、歴戦を誇る勇者も苦笑するしかない。

 

「美しい女性二人を眺める機会を逃すのは残念ですが、そういうことでしたら仕方ありませんね。」

洒落と余裕とを感じさせる台詞と共に一歩身を下げ、シェーンコップはわずかに首を傾けてみせる。

その仕草が、いかにも様になっている。

振り返る先にある名残惜しそうな視線に見送られながら、フレデリカに腕を取られたままジーンはその場を去った。

 

「仔牛のローストが評判の店を予約してあるの。」

 

「ここでそんなものが食べられるの!」

目を丸くしたジーンだったが、すぐに考えを改めさせられることになる。

フレデリカに連れて来られたレストランで提供されたのは、新鮮な野菜のサラダとポークリエット。

500万の人員を養えるだけの食料プラントを完備していると資料で把握していたジーンだったが、並べられた食事の彩りには目を見張らずにいられない。

 

「まるで一つの街なのね……。」

事実、ひとたび軍本部を出ればそこは要塞というより都市そのものだった。

人口500万に恥じないだけの施設とインフラが見る者を圧倒し、人々の行き交う街並みの賑やかさに硬質な要塞都市というイメージはあっさりと覆されてしまった。

 

「キャゼルヌ准将とジーンが来てくれたからには、食事ももっと充実しそうだけど。」

悪戯っぽく微笑むフレデリカも、司令官室で見た凛々しい表情とはまるで別人だ。

幼い頃から変わらない友情がそこにあり、明るく気立てのいい彼女の性質もまた変わっていない。

軍人らしさのないキャゼルヌ、まるで映画から抜け出てきたようなシェーンコップ、可憐な少女らしさを残したフレデリカ、一日の間に出会った人々を頭に思い描く。

失意と混乱、そして緊張の中にあったジーンにとって、彼からの人となりは「ここに来てよかった」と思わせるだけのものだった。

新しい日々の中で新しい希望を見つけることができるかもしれない、目を細めて笑うフレデリカにジーンも希望を見い出しつつあった。

 

「それで、ポプラン大尉とシェーンコップ准将が今度はそれぞれ別の女性の部屋から出てきたっていう話があって……。」

 

「ポプラン大尉ってパイロットの?」

 

「そうよ。そのうち彼にも会うかもしれないけど、注意して。」

インゲン豆のパスタの後に運ばれてきた仔牛のローストを前にクスクスとフレデリカが笑う。

彼女の右手の指先がかかるのは上質な赤いワインの入ったグラスだが、会話の内容はまるで女子学生同士のそれだ。

けれど、そんな時間が楽しいとジーンは思った。

予算や施設運営、あるいは軍事評論といった実務から離れて、今はただ少女の頃に返ったように笑い合っている。

軍務から離れて過す時間の居心地の良さは、フレデリカも同じなのだろう。

軍本部を出てからずっと、二人はただの女性同士として噂話や男性評に華を咲かせていた。

 

「だけど、あなたのヤン提督は予想外だったな。」

 

「私のって!」

 

「だって、あなたの大のお気に入りでしょう。ずっと昔から……もう何度聞かされたかなあ、エル・ファシルの英雄の話!」

柔らかな仔牛の肉を咀嚼して「美味しい!」とシンプルな感想を口にしてから、今度はジーンが悪戯な笑みを向ける。

 

「29歳で大将なんてどんな英傑かと思ったら……“ああ、うん。じゃあ、一つよろしく頼むよ”って。」

司令官室で挨拶した際のヤンの様子を真似てみせるジーンに、フレデリカは顔を赤く染めた。

 

「英傑には違いないもの。だけど、あの方は普通の人とは違って……。」

 

「うんうん、そんなところも大好きってわけね。」

 

「ちょっと、ジーン!」

少女時代にエル・ファイシルからの脱出作戦でヤンに救われて以来、フレデリカはずっと彼の「ファン」を自称してきた。

幼い頃から何度も聞かされてきたヤン・ウェンリーの武勇伝は、フレデリカの熱弁も手伝って物語のようにジーンの中にも根付いてしまっている。

そして、憧れの英雄に対する思いには今、どうやら新しい感情が加わっているらしいとジーンは察していた。

「あなたのヤン・ウェンリー」とからかい半分に言いながら、どこか微笑ましい気持ちを感じている。

 

「普通の人と違って」とフレデリカが表現した通り、ヤン・ウェンリーは異質な提督だった。

どこか頼りなげな外見やのんびりとした物言いだけではない。

軍事の、特に戦術面において輝かしい戦績を数多に残しながら、事務処理能力はもとより生活能力までもが著しく欠如しているのだ。

望まずして軍人となったらしいと事前に記録で読んではいたが、確かに彼に規律正しい軍規の中での生活は似合わない。

「20代にして既に大将」という大仰な触れ込みで伝えられた彼の人柄の意外さは、ジーンにとってもかなり印象的なものだった。

 

けれど、そんな異質さこそが彼が慕われる理由でもある。

「厄介ごとを押し付けられた」とぼやくキャゼルヌも、ヤンのためならと奔走するフレデリカも、どこか頼りなさのある軍師に惚れ切っているのだということはすぐにジーンも理解することとなった。

 

 

キャゼルヌとジーンの着任から暫く、ようやく補給経路の動脈が順調に機能し始めた頃のことである。

銀河帝国軍と自由惑星同盟軍とはイゼルローン回廊の出口で局地的な衝突を繰り返してはいるものの、大規模な戦闘に発展する気配はない。

しかしヤン曰く、「歴史的な大勝はラインハルト・フォン・ローエングラム元帥を帝国軍人として圧倒的な地位へと押し上げた。年若い元帥が巨大な野心の持ち主であれば、次に取る行動は決まってくる」とのことだった。

 

「ただその辺りの情報が今ひとつ不足していてね。」

司令官室に呼び出したジーンを前にして、ヤンが告げた。

軍事要塞勤務にもようやく慣れようかという頃の呼び出しに「何事か」と不安とも不穏ともつかない感情を抱えていたジーンは、司令官から与えられた任務の内容に驚きを隠せなかった。

 

「ムライ少将と二人でフェザーンに行ってもらいたい。」

ヤンとジーン、それに参謀長のムライが、司令官室で顔を合わせていた。

高い良識と緻密で堅実な実務能力で知られるムライだが、ヤンの参謀という立場もあり、キャゼルヌの部下であり後方支援に従事しているジーンにとっては正直あまり馴染みがない。

それに、イゼルローン要塞からフェザーンへは首都星ハイネセンを経由して約一ヶ月という長距離の移動となるのだ。

ムライとジーン、そしてフェザーン。

なぜその組み合わせなのかと、疑問の答えを頭の中に求めた。

 

「……銀河帝国に対して謀略を図るのですか。」

行き着いた答えのまま、問い返したジーンに驚いた様子を見せたのはヤンだった。

 

「まさか!あくまで情報収集の一環だよ。」

参謀長と事務官という異色の取り合わせと、先頃から話題となっている「ラインハルト・フォン・ローエングラム」という名前を結びつけ、何か重大な作戦の一端だろうかと推察したジーンだったが、どうやら違うらしい。

 

「君は複数の言語に精通しているし、お父上の仕事の関係でフェザーンの事情にも明るいと聞いている。」

物資と資金の調達の名目でムライがフェザーンの駐留軍を訪ね、その秘書官という立場で随行したジーンに彼女の持つ人脈で情報を集めて欲しいというのがヤンからの指示だった。

 

「承知いたしました。」

答えてから敬礼を忘れたことに気が付いて、ジーンは慌てて片手を掲げる。

これに対して、要塞最高位の司令官は口元を緩めて笑った。

 

「いいよ、そんなの。」

照れたような仕草で首を振って、ジーンの不敬を受け流す仕草。

はにかむような笑顔に、なぜだかドキリと胸が跳ねた。

 

(え……。)

自分でも予想外の反応だった。

尊敬とはまだいかないまでも、ヤンの提督としての能力や人望はジーンも理解するところだ。

けれど、これではまるで──。

フレデリカの顔が浮かんで慌てて目を伏せると、ジーンは司令官室を足早に辞した。

 

「ブラックウェル少尉。」

 

「ムライ少将!失礼いたしました……!」

追いかけるように着いてきたムライに声をかけられて、慌てて立ち止まる。

 

「作戦の詳細を詰めよう。キャゼルヌ准将には君の予定をあけてもらえるように頼んである。」

 

「わかりました。では、会議室を押さえます。」

胸の奥が、ざわめいている。

大袈裟なため息をついて嫌味を言ったであろう上司の顔を思い浮かべることで、ジーンは胸に浮かんだ感情を追いやろうとした。

どうやらそれは成功したらしく、ムライと会議室で向き合う頃には元の冷静さを取り戻していた。

 

 

「銀河帝国への謀略は有効だと思うか。」

 

「え……。」

 

「先ほど、ヤン提督に聞いただろう、“銀河帝国に謀略を図るのか”と。」

彼らしい生真面目な態度で尋ねるムライに、ジーンは首を捻りながら答える。

 

「熟慮もなしに申しあげたことを反省しています。私は軍略に関しては素人ですから。」

出過ぎたことだったと口を噤んだジーンだったが、続く沈黙に「ただ……」と再び口を開いた。

「ラインハルト・フォン・ローエングラム」に関するジーン知識は、決して多いわけではない。

彼は、先の帝国領土侵攻作戦におけるアムリッツァ会戦の総司令官であり、自由惑星同盟軍を大敗へと追いやった張本人である。

若き帝国軍人、前皇帝の寵姫の弟、類い稀なる軍事的才能と高潔な人間性を有しているという銀が帝国内での評判──資料から得られた戦績以外の情報はせいぜいその程度だ。

少ない情報の中で「前皇帝の崩御」が彼にどんな影響を与えるのかを考えてみた。

可能性は二つ、両極端な道がジーンの脳裏で示させている。

前皇帝の後ろ盾をなくして権力を弱める、あるいは新皇帝を手中に治めて権力をより強固なものにする、どちらの道になるのかは若い元帥の政治力と人間性に依るところが大きく判断できない。

 

「けれど、そのどちらであったとしても、ローエングラム侯と旧来の権力者たちとの対立は間違いないでしょう。」

銀河帝国は、建国者ルドルフ・ゴールデンバウムの治世よりずっと皇帝による独裁と貴族による支配政治が続いている。

そして、前帝の後継者は年若い女性か幼児のいずれかであり、皇帝自身に銀河帝国を動かせるだけの政治力はない。

実権を欲する者はいくらでもいるだろうが、だからこそ起き得るのが権力を巡る闘争である。

貴族同士の対立を煽る、あるいは門閥貴族とローエングラム侯を対抗させることができれば──銀河帝国を内乱へと引き込むことができるのではないか。

もし内乱が起きれば、自由惑星同盟としては再侵攻や講和の好機になるのではないだろうか。

 

「けれど、考えてみればヤン提督が“帝国領土への再侵攻”という案を採用するとは思えませんから、講和を勧めるきっかけを模索したいということかもしれませんね。」

自身の考えをムライに披露してからそう締めくくると、ジーンは曖昧な笑顔を彼に向けた。

ムライのほうはそれに応えるではなく、眉間に皺を寄せて黙り込んでいる。

彼が作り出した沈黙が、ジーンの脳にもう一つの可能性を浮かび上がらせる時間をつくった。

 

「ッ、」

まさか、と声に出しそうになるのを寸でのところで飲み込んだ。

軽率に口にすべきではないように思えたし、逆に言えば浅知恵に過ぎないようにも思われたからだ。

 

(同盟軍の再侵攻を防ぐために、ローエングラム侯が謀略を仕掛ける……?!)

自身の考えをムライに告げたところで、何かが変わったというわけではないのかもしれない。

しかし、直後に起こる混乱は、ジーンに後悔と自責の感情をもたらすこととなるのであった。



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【3】ハイネセンの悲劇

ローエングラム侯蜂起の知らせを受け、ムライはイゼルローンへと帰還した。

秘書官として随員したジーンがフェザーンに留まったのは、銀河帝国の情勢を探り、さらなる情報を得るためである。

表向きの要件である物資の調達や資金繰りの算段の面談をこなしながら、合間を縫って古い知り合いのもとを訪ねた。

大企業の代表を退いたとはいえ、商業都市フェザーンにおいてジーンの父の名前は未だ有効で、人脈を通じて想定以上の人物と接見することができた。

 

そうして日々を過しながら、胸の中で燻る不安。

ローエングラム侯が自由惑星同盟に対して謀略を仕掛けるのではないかという懸念は、ジーンの中から消えていない。

自由惑星同盟は、敗戦後の指針を定めることができずに未だ大きく揺れている。

もしも何らかの謀略が図られるとすれば、それが暴力にせよ政治的な混乱にせよ、同盟全土のバランスを著しく変えてしまう可能性さえあるとジーンは考える。

明確な指針を持てずにいる今、外部から介入や圧力は絶対に避けなければならない危機なのである。

 

特定の支配者や支配階級による政治ではなく、すべての国民が自己の責任をもって国政に携わり運営していく、それが民主主義である。

しかし、等しく与えられた権利は、ひとたびお互いが違う方向を向きだせばあっという間に収拾などつかなくなる。

圧政を逃れて辿り着いた自由の地で、人々は平等という権利を謳歌してきた。

「自由」は、多くの市民たちにとって美しい理念だったはずである。

だが、今の自由惑星同盟は「自由」を美しいとはとても呼べない状況にある。

最高評議会の弱体化、反戦機運の高まり、まとまりをなくした民衆は口々に自儘な意見を述べ、それに呼応するように政治家たちも様々に意見を変え、さながら人気を取り合うゲームのようにさえ見える。

「自由」という言葉が、「身勝手」へと意味を変えていく。

絶対権力の支配から逃れるために打ち立てられた自由の国は、「自由」ゆえの混乱に揺らいでいた。

 

祖国の混乱を思う時、重なって描かれるのが「銀河連邦」の崩壊である。

人類初の統一政体、平和を旨としたはずの組織がいつの間にか疲弊し、やがて一人の男によって簒奪された歴史を思考の中に辿る。

若き軍人から政治家、そしてついには「神聖不可侵の皇帝」を自称した男、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム。

銀河帝国皇帝という歴史的支配者を生み出したのもまた、祖国の混乱だった。

経済的抑圧、治安の悪化、不正と汚職の跋扈する社会を粛正したルドルフの治世は、民衆の支持の中から誕生したものだった。

やがて暴力で人民を支配することになる専制君主を作り出したのは、銀河連邦に暮らす人々自身だったのである。

混乱を収束する英雄を、悪弊を取り除く粛正者を、そして民衆を導く支配者を、人々が求める「英雄」がやがて「支配者」へと変わり、圧政へと向かっていった歴史。

不安に揺れる祖国を思う時、ジーンの心は恐怖に震えるのだ。

 

 

不安に逸る気持ちをかろうじて抑えながら、ジーンは父親の知人らとの接見を続けている。

しかし、耳に入るのは凶報ばかり。

ラインハルト・フォン・ローエングラムはリヒテンラーデ公と同盟し、門閥貴族を相手取ったクーデターを起こした。

現皇帝であるエルウィン・ヨーゼフは彼の手の内にあり、戦局もまたラインハルト陣営の有利に進捗しているらしい。

利に聡いフェザーン人たちの資本も、次代の権力者であるローエングラム侯へと流れつつあるようであった。

 

一方で、銀河帝国が自由惑星同盟に干渉するという情報は得られていない。

ローエングラム侯がヤンの言うような「野心の持ち主」だとすれば、弱体化しているとはいえ敵国である自由惑星同盟を放置しておくはずがないと思うのだ。

だからこそムライとジーンをフェザーンへ送ったのだと、彼女は思っている。

しかし、フェザーン人の売る情報は高い。

それは、金銭という意味だけではなく「信用」と「実績」という意味においても同様である。

つまり父の名前は有効でもジーン自身への信頼が足りないのだ。

立場を用いた説得も、あるいは金銭であっても彼らには容易には通じない。

最小限の軍隊しかもたないフェザーンでは情報こそが生命線であり、だからこそ彼らは安易にそれを明け渡さない。

たとえ父親の名前があったとしても、今のジーンは昨日か今日にやってきた同盟軍のバッヂをつけた小娘に過ぎない、彼らにまともに扱ってもらうには信用も実績も何もかもが不足していた。

そのことを痛感するにつけて、不安ばかりが募る。

ヤンかムライに相談しようかと思い始めたちょうどその頃、「最悪の一報」がもたらされた。

 

自由惑星同盟内で、クーデターが勃発したのである。

一部惑星でのテロ発生を知らせる報からわずか三日後、ハイネセンが占拠され、「救国軍事会議」から軍国主義の樹立を目指す声明文が発表されたのだという。

予感が現実へと変わっていく様子にジーンは言葉をなくし、呆然と立ち尽くした。

「混乱」を抜け出すための手段として、暴力が選ばれたのだ。

それは、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを生み出した過去の歴史を彷彿とさせる。

祖国の尊厳が祖国の軍人たちによって踏みにじられる様子を想像し、苦々しさを噛み締めたジーンだったが、彼女をより驚愕させたのは、「救国会議」に列する人物の名前の筆頭にフレデリカの父の名前を見つけたことだった。

 

(グリーンヒル大将がなぜ?!)

父親の友人として接してきた彼の人の姿を思い浮かべる。

良識派の軍人として知られ、民間人とも積極的に交流を図ってきたその人は、軍国主義に傾くような思想の持ち主ではなかったはずだ。

「なぜ」と憤り、そして──彼の娘であるフレデリカのことを思った。

中央政府と同盟軍を相手取ったクーデターに対し、当然ながらヤンやフレデリカはそれを鎮圧すべき立場となる。

つまりグリーンヒル父娘は、クーデターの首謀者と鎮圧者として向き合うことを強いられるのだ。

 

フレデリカ・グリーンヒルは強く気高い女性だが、状況はあまりにも彼女に酷すぎる。

ジーンにとって、フレデリカは過去も今も誰よりも大切な友人の一人だ。

親友として心の内を打ち明け合った間柄というだけではない。

目指すべき道を閉ざされ、家名を貶められて、途方に暮れていたジーンに手を差し伸べてくれたのは他ならぬフレデリカなのだ。

軍に士官するという予想もしない道ではあったが、フレデリカは落ち込むジーンの手を引いてくれた。

がむしゃらに職務と向き合ったこの数カ月は、ジーンにとって久しぶりに自分の価値を実感させてくれるものだった。

生きる場所と自分の価値を彼女が教えてくれたのだ。

 

(フレデリカ……!)

どんなに願っても、遠くイゼルローンにいる友人の手を取ることはできない。

抱きしめることも、直接言葉をかけることも、ただ傍にいることさえできないのだ。

ヤン率いる第13艦隊がイゼルローンを発ち、クーデターの鎮圧に向かったという情報が送られた時、ジーンに与えられた指示は「フェザーンでの待機」だった。

戻ったところで何ができるわけでもない、それでも友人と共に在れない自分が歯がゆかった。

 

先の帝国領土遠征が失敗したのは、軍部による無謀な作戦と安易なヒロイズムに政治が便乗したことが原因だということを、イゼルローンで得た情報で知った。

「自由」の旗のもとに多くの人が死んだのだ。

 

(自分の身勝手が祖国を破滅させると、どうして気が付かないの……?!)

 

 

「アーサー・リンチ」の名前を耳にしたのは、募る不安に押しつぶされそうになる中でのことだった。

街の雑踏の中で、その名前を聞いた。

フェザーンは豊かな惑星だが、以前にジーンが父と訪れた時とは明確な変化がいくつか起きている。

その中の一つが、路上生活者の急増である。

フェザーンは商業都市であり、もちろんその中で勝者と敗者とが存在するが、それでも全体の生活水準は高い。

そのフェザーンで、以前にはほとんど見かけなかった路上生活者が増えているのだ。

多くが戦火から逃れてきた銀河帝国の国民であったが、帝国、同盟双方の帰還兵の姿があることも見て取れた。

帰還兵の中には様々な理由で帰る家さえも失ってしまった者もおり、行き場のない彼らが生活の術を求めてフェザーンへと流れついているというのが、土地の人々の話だった。

 

軍服を着用しているわけではなかったもののどこか後ろめたく感じ、同盟軍の帰還兵らしき集団の前を足早に通り過ぎようとした時だった。

 

「リンチのやつ、ついに狂ったに違いない。」

 

「帰還船の中でもずっと、うわ言みたいに“恥をかかせやがって”とか呟いてたよな。ついにイカれちまったに違いないぜ、あの様子じゃあ政治家か軍上層部の誰かを刺し殺したっておかしくない。」

 

「まったくだね、アーサー・リンチの名前を新聞で見る日も近いかもな。」

下卑た笑いの合間に聞こえた会話に、俄かに心臓が騒ぎ出す。

リンチ、アーサー・リンチ。

その名前に聞き覚えがある。

一体誰だったか、こんなにも胸が騒ぐのはなぜ──?!

 

こんな時フレデリカなら持ち前の記憶力ですぐに答えを導いたはずだ。

口唇を噛みしめた時、フレデリカの言葉が鮮明に脳裏に浮かんだ。

 

『それでね、ヤン中尉は引き返してきたリンチ少将たちを囮につかって民間人を逃がしたの!』

嬉しそうに話すフレデリカから、何度も聞かされたヤン・ウェンリーの武勇伝である。

導かれた答えを抱えて、逸る気持ちを抑えながら宿舎へと帰ると、ジーンは回線を開いた。

相手はムライである。

 

「ムライ少将!アーサー・リンチという名前は、帰還兵の名簿にありますか?!」

開口一番尋ねたジーンにムライが臆する様子はなく、咳払いを一つしてから「ある」と彼は短く答えた。

 

「……リンチ元少将はグリーンヒル大将の後輩だ。すぐにヤン提督にお伝えする。」

ムライとジーン、二人の認識が重なった瞬間だった。

 

 

祖国への謀略の正体を今更掴んだところで、クーデターを止めることはできない。

けれどもし──もしもっと早くこの情報を掴んでいたら、故郷の混乱を防ぐことも友人を守ることもできたかもしれない。

フェザーンでの出来事は、人脈と情報がいかに大切で重いものか、それを築くことがいかに難しいかをジーンに痛感させた。

激しい後悔と深い教訓とが、ジーンの胸に刻まれた。

身動きさえままならないまま五ヶ月、彼女は祖国の動乱の終結をフェザーンの地で待つこととなったのである。



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【4】魔術師の休息

士官用の食堂の隅にジーン・ブラックウェル少尉の姿を見つけ、シェーンコップは足を止めた。

彼女は、御多分に漏れず慢性的人材不足に陥っているイゼルローン駐留艦隊に現れた救世主である。

 

著名な経済人の息女で政治家秘書だったという彼女が、要塞事務監キャゼルヌの腹心としてその辣腕を存分に発揮して久しい。

着任からしばらくが経ち、軍服姿も大分様になってはきたが、それでもきっとブラックスーツのほうが似合うだろうと容易に想像できる。

理知的な印象の美人だ。

自立した女性らしい溌剌とした表情は、友人だというフレデリカとも共通しているが、フレデリカが初夏の零れ日だとすれば、彼女は日差しを映しながらも涼やかに揺れる湖面のようだとシェーンコップは思う。

明るさの中に知性と静けさをあわせ持っている。

 

近づいて見れば、ジーンと話し込んで背を向けていた人物の意外さに、再び足を止めることになった。

この要塞の主人でありながら、もっとも主人らしくない人物。

つまりヤン・ウェンリー提督、その人である。

 

「マグカップでバーボンとは随分色気のない話ですな。」

 

「シェーンコップ……!」

二人の間に置かれたボトルにため息をついて見せると、一応は気まずい様子を作ってヤンが笑った。

 

「しまったな、人に見られるとは思わなかったから。」

マグカップの中にはカフェテラスでもらってきたのであろう氷と琥珀色の液体。

せっかく美人とグラスを傾けるチャンスというのにマナーがなっていないなと上官ながら呆れるが、そんな形式ばらない気さくさこそがヤンが人望を集めている理由なのだから仕方ない。

第一に、綺麗に削った氷を浮かべて美女と隣り合わせたヤン・ウェンリーなど誰に聞いても笑われるだけだろう。

 

「君も一緒にどうだい。カフェに頼めば多分グラスも借りられると思うんだけど。」

言い訳のよう言う様子から考察するに、最初は紅茶か何か飲んでいたカップを、興が乗ってきたからとそのまま酒の入れ物に流用したようだった。

 

「では、お言葉に甘えさせていただきます。」

食堂で一杯など情緒のない話だとは思うが、せっかくのチャンスをみすみす逃すのは勿体ない。

グラスを拝借してきますと告げて、「ついでにもう少しマシな氷があればもらってきますよ」と冗談めかして毒づいた。

 

困ったように眉を下げるヤンの隣で、ジーンが肩を揺らす。

彼女の手にもヤンと同じマグカップで、そのアンバランスさが可笑しい。

資産家令嬢だという出自に相応しく高級品の雰囲気を纏う彼女だが、綻ぶ笑顔同様に性格も朗らかで庶民的らしい。

 

 

「それで、お二方は何を議論しておいでですか。」

氷を入れたグラスにボトルの中身を注いで、シェーンコップはジーンの横に陣取った。

グラスは無事に手に入れたものの「マシな氷」は難しく、白く濁った塊をヤンたちと同様に琥珀の波に浮かべている。

 

「いや、議論なんて大袈裟なものじゃないさ。ただ歴史の話ができるのが嬉しくてね。」

 

「ヤン提督の博識にはとても及びませんが。」

ボトルの中身は既に半分ほど減っているが、それをものともしない様子でふわりとジーンは笑って、シェーンコップに向けてカップを掲げて見せた。

落ち着いて見える表情が崩れ、悪戯に微笑む視線が眩しい。

 

「けれど、共通の友人が一人いれば、それだけで話も弾むというものです。」

 

「なるほど、良い友人をお持ちのようだ。」

二人を結びつけた「友人」とはどうやらトウモロコシを主成分とする高濃度のアルコール飲料のことのようで、その砕けた言い回しはシェーンコップも気に入った。

配属初日に司令官室で顔を合わせて以来、いつかじっくり話してみたいと思っていた相手だったが、多忙を極めるキャゼルヌの部下であり、一時はフェザーンに長期出張していたジーンと向き合うのはこの時が初めてだった。

知的で物静かだと思っていた印象は話してみれば一変し、冗談を言いながら笑う様子はどこか子どもっぽくも見える。

一方で評判通りによくまわる頭が次々と新しい話題を紡ぎ、いつまでも話していたいと思わせる魅力が彼女にはあった。

 

ヤンの酒量は相当のものだが、ジーンのほうもなかなからしい。

シェーンコップという友軍が加わったこともあってボトルはすっかり空になり、名残惜しさを感じさせながら撤退の号令がヤンから発せられることになった。

 

「君の援軍は少し強力過ぎたなあ。」

 

「ほう、小官はお邪魔だったということですか。」

 

「そうじゃなくて。だけど、今度はボトルの一本も持参してくれるとより助かるなってことだよ。」

間延びした口調で言いながら腰を上げ、マグカップに残る液体を惜しむように啜るヤンにジーンが笑う。

 

「フレデリカに聞かれたら、飲み過ぎだってきっと怒られますよ。」

 

「ああ、そうだねえ。まったく……ユリアンがこっちに来てから、なぜかグリーンヒル大尉の監視も強まる一方とは。」

 

「ヤン提督の周りは人材が豊富ですからね。」

ヤンのぼやきを聞いて肩を揺らすジーンの背中を観察しながら、酒を過ごした二人の歩調に合わせてシェーンコップは半歩後ろを歩いていた。

 

「とんでもない、とんだ人材不足だよ!ああ、だけど君という逞しい味方が加わったからね。」

 

「ふふ。キャゼルヌ少将に叱られない範囲でしたら、いつでもお相手いたします。」

上司の名前を出して受け流すジーンの頬が僅かに紅い。

あれだけの酒量を前にして顔色一つ変えなかったというのに、だ。

 

「それでは、小官たちはこちらで。」

 

「ええ。シェーンコップ少将もまた。」

居住エリアが分かれる手前で足を止めたところで、ようやく自分に向けられたジーンの視線。

 

「美女のお誘いとあれば、いつでも最優先で馳せ参じますよ。」

軽口で答えながら、内心で思う。

 

(ヤン提督も困ったお人だ。)

ジーンは、ヤンに惹かれているのだろう。

小一時間も酒を酌み交わせばなんとなくはわかる、少なくとも恋愛において百戦錬磨のシェーンコップにとってはそう難しいことではなかった。

 

もっともジーン自身もそれほど自覚しているとは思えず、ヤンに至ってはまったく気づいている様子はない。

それに、ジーンが時折フレデリカの名前を出してヤンを窘めたりからかったりするのは、自身の気持ちにブレーキをかけている現れだと推測された。

ヤン提督の優秀な副官が、尊敬以上の気持ちを上司に対して抱いていることは、ヤン以外の多くがおそらくは察している。

フレデリカの友人であるジーンなら、直接彼女の胸のうちを聞かされてもいるかもしれない。

 

惹かれながら、己の気持ちに蓋をして、それでも慕う気持ちを止められずにいる。

若い女らしいいじらしさが、大人びて見えるジーンの魅力を逆に引き立たせているように感じられた。

自分よりヤンのほうがいいという意見は気にくわないが、恋に身を焦がす女性というのは一層美しく魅力的だとシェーンコップは思い直して、からかい半分の牽制をヤンに向けてみる。

 

「提督は、ブラックウェル少尉のような女性がお好みですか。」

 

「ん、なんだって?」

想定外の一投だったのか、どこかぼんやりとした様子でそれを受け止めて、軍事であれば万事を見通す千里眼を持っているはずの彼が疑問符を浮かべて振り返る。

 

「知的で快活、年齢も4つ違いとあれば艦隊司令官の未来の伴侶としてはなかなかにお似合いだと思いますが。」

重ねて告げれば、驚いた様子の視線をシェーンコップに向けて、「まさか」とヤンが首を振った。

 

「やめてくれ。そんなことを言われたら彼女を気楽に誘えなくなるじゃないか。」

だからこそ言ったのだとシェーンコップは眉を上げるが、牽制を向けられた相手は気づく素振りもない。

 

「私の無駄話に付き合ってくれて、しかも酒好きなんだ。貴重な人材を失いたくないからね。」

それどころか逆に念を押されてしまって、閉口した。

この無自覚な罪人は、どうやらこれからも二人の女性の心を振り回すのを止めるつもりはないらしい。

 

「なるほど。では、誤解など招かぬように……今後は出来るだけ小官も陪席させていただきましょう。」

ならば作戦変更と、今度はわかりやすい牽制球を放ったシェーンコップにヤンは気軽な様子で頷いた。

 

「そうだね。だが、そうなるとやっぱりボトル一本じゃ足りないよね。」

無自覚の女殺しというのは自分などより余程質が悪いと内心で毒づきながら、しかしヤンを嫌悪する気持ちは微塵もない。

それどころか、この男の魅力を正しく理解する女性こそがいい女なのだと思っている自分がいる。

己のほうも解決しがたい矛盾を抱えているなと苦笑して、シェーンコップは上機嫌のヤンに従うようにして歩みを進めた。



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【5】ガイエスブルク襲来

宇宙歴797年、自由惑星同盟と銀河帝国は一度も戦火を交えることなく、ついに一年を終えた。

双方ともに深刻な内戦状態にあったことが理由だが、その混乱の終結が次に何を招くかは両陣営にとって自明のことと言えた。

宇宙回廊を挟んで対峙する二国は、銀河帝国元帥ラインハルト・フォン・ローエングラムの登場によりこれまでにない緊張へと向かいつつあった。

若い元帥は、内乱によって自国の支配権を確実なものとしつつある。

かつての支配層であった門閥貴族を廃し、権力を自らへと集中させた彼は、宰相として行政改革を行うと同時、軍事力を増強し、外部への圧力を強めている。

銀河の星々を伝い、緊張はイゼルローン要塞へも伝播していた。

 

しかし、愚行を繰り返す自由惑星同盟の中央政府は、こともあろうに軍略的要所であるイゼルローン要塞から本土へと司令官を呼びつけたのである。

救国軍事会議によるクーデターの際、第11艦隊と相対したヤンが発した言葉の揚げ足を取っての査問会である。

軍人としての栄達はおろか、主義はあっても主張はしないという彼にかけられた「反乱」の嫌疑。

政府の無能もここに極まれりとイゼルローンの誰もが嘆いたが、恐れていた事態はこの中で起きた。

銀河帝国軍のガイエスブルク要塞が、ヤン不在のイゼルローンを急襲したのである。

 

ガイエスブルクをワープアウトさせ、巨大な要塞同士を対峙させるという銀河帝国の大胆な作戦は、イゼルローンに駐留する人々を震撼させた。

 

「酷な頼みだとはわかっているが、おまえさんしか人材がいない。」

なんとか自身を奮い立たせるといった様子で拳を握り、ジーンに向き合ったキャゼルヌが眉を寄せている。

光年を隔てた宇宙の彼方から、「それ」はやってきた。

漆黒の宇宙区間に突如現れた球体、それが銀河帝国の要塞「ガイエスブルク」であることが判明すると同時、イゼルローン内は驚きと混乱に見舞われた。

遥かな距離を移動する艦艇は、確かにワープアウトを多用しながら進むものである。

しかし、艦艇とは比較にならないほどの質量をもった要塞がまさか移動してこようなどとは誰も想像さえしていなかった。

 

ガイエスブルク要塞は、イゼルローンを失った銀河帝国において最大規模となる軍事拠点である。

1万6千隻の艦艇を収容するとされている直径45kmの人工天体で、主砲である硬X線ビーム砲は、7億4000万メガワットの出力を誇っている。

「ガイエス・ハーケン」と帝国軍に呼ばれる主砲の威力は、イゼルローンのトゥール・ハンマーに匹敵する。

それほどの巨大要塞が、遙か宇宙の彼方から飛来したのである。

驚愕に見舞われたイゼルローン同様、ハイネセンに置かれた自由惑星同盟中央政府もまた大いなる混乱に陥っているはずだ。

 

「未熟ながら全力を尽くさせていただきます。こちらはお任せいただき、どうぞ作戦に集中なさってください。」

要塞の砲口を向けられているという現状に対し、ジーンにも当然恐怖はある。

それでも胸を張り、まっすぐに上司の両眼を見返すと、微笑みをもって彼女は告げる。

不安と恐怖を感じながらもなんとか笑おうとしたのは、飄々とした平素の態度を一変させて顔を青ざめさせる上官を少しでも勇気づけたいと思ったからだ。

イゼルローンに駐留する者にとって絶対的な存在ともいえるヤンが不在という不安は、誰しもに共通するものである。

けれど、誰よりもその重圧を感じているのは、目の前にいる人物のはずだとジーンは思うのだ。

 

「はあ、まったく……おまえさんの方がよっぽど肝が据わってる気がするよ。」

 

「キャゼルヌ少将。」

 

「わかってる。弱音を吐けるのはおまえさんの前くらいってことだ、許してくれ。」

窘めるように名前を呼んだジーンに、キャゼルヌが眉を下げる。

厳しい中にも明るさを欠かさない彼にとって、珍しい表情だった。

 

「失礼しました。ヤン提督が戻ってきたら、またいくらでも愚痴をお聞きしますから。」

事務官であるキャゼルヌにとっての「戦友」は、ある意味ではヤン以上に今はジーンであるとも言うことができたし、ジーンにとって最も身近な上官もやはりヤンではなくキャゼルヌだった。

事務方のトップとその補佐官として、後方支援におけるあらゆる場面で議論と作業とを重ねてきた二人である。

キャゼルヌの意図をジーンは誰よりも素早く汲み取ることができたし、そんなジーンへの信頼を真っ先に示したのはキャゼルヌだった。

その彼が「おまえさんしかいない」と言っているのだ。

上官からの信頼を素直に嬉しいと感じながら、一方で重い責任が両肩へとのしかかるのを感じている。

物資、燃料、食料の補給と要塞内の秩序の維持、それをキャゼルヌなしにこなさなければならない。

それも、敵軍の襲来という恐怖の中で。

 

ハイネセンの大学を卒業後、代議員の秘書をしていたジーンにとって、ガイエスブルクの襲撃は、初めて自らが危険に晒されることになった戦闘である。

恐怖は、言葉では容易に言い表せないほどに大きい。

胸の中で吹き荒れる弱気を追いやって、意識を実務へと集中しようと試みる。

必ずやり遂げなければ、与えられた役割を果たさなければ、そのために自分はここにいるのだから。

自分を呼び寄せたフレデリカや仕事を任せてくれたヤン、そして誰よりも自分を信頼してくれるキャゼルヌの期待に応えなければ。

胃を押し上げるようにして感じる不安をこらえて、視線に力を込めた。

 

「では司令官代理、いってらっしゃいませ。この扉の向こうでは、もうそんな顔をなさってはいけませんよ。」

イゼルローンには500万の人々が暮らしており、多くの一般市民も含まれている。

戦闘が開始されればイゼルローンからの脱出はほぼ不可能となり、同時に近隣惑星からの物資の供給も困難になるだろう。

その中にあって秩序を保ち、生命とインフラを維持し続けること、それがキャゼルヌから引き継いだジーンの使命である。

信頼を微笑みに変えて、自分よりもずっと大きな不安を抱えているであろう上官に激励の言葉を贈る。

 

「……そうだな。」

自信がない、とはキャゼルヌは言わなかった。

事務官である彼にとって艦隊と戦闘員を指揮下に置く司令官代理の肩書きがあまりに重いものであることは間違いない。

それでも、気弱な物言いが許されないことを彼は十分にわかっている。

ヤン・ウェンリーはイゼルローンにとって絶対的な守護者だが、今彼はここにおらず、査問会などという茶番に彼を呼び立てた政府を批判したところで事態が解決するわけでもない。

キャゼルヌを代理として団結しなければ、イゼルローンに駐留する軍はもとより一般市民までもがいつ悲劇の主役となってもおかしくはないのだ。

それをわかっているからこそ、キャゼルヌも己を鼓舞し軍人としての責任を全うしようとしている。

 

上司の背中を見送ると同時にジーンは着席し、モニターに向かった。

素早くインカムを装着すると、目を閉じて一度深呼吸する。

ドキドキと心臓の音がうるさい。

気を抜けば飲み込まれそうな恐怖が、すぐそこで口を開けている。

しかし、モニターに映し出された数字を見つめた時、頭の中にある景色が姿を変えた。

意識が画面へと埋没していき、じっと見つめる視界の中で次々と作業の手順とルートとが組み立てられていく。

広大なイゼルローンの内部にある様々な設備と指示系統、次々と脳裏に呼び起こされるそれらを元にジーンは作業を行う手順を整理していった。

 

「ジーン・ブラックウェル少尉です。キャゼルヌ要塞事務監から事務系統の指揮を引き継ぎました。以後は私の指示に従い、各自業務に当たってください。」

インカムに向かって発した声は、ジーン自身が驚くほど落ち着いていた。

脳裏には、いずれここに戻ってくるはずの司令官の姿と必死で留守を守る彼の部下たちの姿がある。

自らを奮い立たせなければ立っていられないのは、キャゼルヌだけではなくジーンも同じだった。

それでも、キーボードに両手を置けば、自然と意識は冴え渡る。

恐怖は、意識の彼方へと消え去っていた。

モニターに表示された数字を手早く裁きながら、先へ、その先へと意識を送り、仮定と執行を繰り返していく。

 

「休止、稼働箇所の指示を送ります。電力部は生活インフラの節電可能箇所の割り出しと試算を、生活部は治安維持のためのプランを早急に提出してください。」

 

「一般市民の移動を制限します。イゼルローンが現在戦闘下にあることを早急に通知し、通路を封鎖してください。」

 

「物資と燃料の試算は完了しましたか。当方で再度チェックを行い、司令官室へデータを転送します。試算は正確に、だけど急いで。」

 

ガイエスブルクからの砲撃がイゼルローンを覆う流体金属を揺らし、漆黒に浮かぶ天体に大きな振動が伝わった。

当然、ジーンのデスクも激しい衝撃に揺さぶられたのだが、視線はモニターから動かない。

ジーンの視線の先にあるのは膨大な数字とデータ、そしてそれこそがイゼルローンの生命線である。

 

「試算結果を受領、生活エリアの電力を60%節電します。関連部署は速やかに指示を確認して、対応してください。次に、移動可能区域と封鎖エリアについて連絡します──。」

 

 

キャゼルヌの指示のもとトゥールハンマーが閃光を吐き出すと、砲撃の応酬が戦いの火蓋を切って落とした。

相対するのは二つの巨大な軍事拠点、要塞と要塞とがぶつかり合うという史上稀にみる決戦である。

同時に──後方におけるジーンの戦いも幕を開けたのだった。



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【6】銀河帝国の老将

「現在の動力、物資の状況から勘案すると戦闘可能期間は約三ヶ月。それ以降は補給戦になると思われます。」

 

「なるほど。であれば、当然地理的にこちらが優位なわけだが。」

 

「ということは、帝国側はある程度の短期決戦を想定しているのでしょうな。」

ジーンが司令部に持ち込んだデータをもとに、議論が続けられている。

戦闘における議論のほとんどはジーンには理解できない、しかし武器弾薬を含めた補給についてはキャゼルヌの補佐を務める中で十分な知識を得ていた。

耳慣れない言葉を記憶の中の文献と照合しながら、ジーンは黙して議論の行方を見守っていた。

 

そうして幕僚たちを見回しながら、自身と同じ姿勢を取る人物をジーンは見つけた。

ローエングラム陣営との内戦に敗れた後、銀河帝国から亡命し、客将としてイゼルローンに駐在するメルカッツ中将である。

老練な手腕を持つ歴戦の勇将として自由惑星同盟軍でもその名を知られる人物だという。

ジーンも彼の戦歴をデータとして確認しているが、確かに見事なものだった。

艦隊戦において当代でも指折りの能力を有すると名高く、老練さと質実さを感じさせる風貌同様に「堅実にして隙がなく、常に理に適う」と評されている。

銀河帝国では上級大将の位にあり、一時は「宇宙艦隊司令長官に相応しい」とさえ言われていたらしい。

それほどの名将である彼が、沈黙を守っている。

 

事務官であるキャゼルヌをトップとした議論は終始保守的なものとなり、シェーンコップらによって弱腰を指摘される場面もあった。

しかし、メルカッツは変わらず口を開こうとしない。

そのことは、却って彼の人柄が信頼できることを示しているとジーンには感じられた。

百戦錬磨のメルカッツからすれば、事務官のキャゼルヌの理論は物足りないものであるはずだ。

それでも口を挟まないのは、彼が客分として許容される範囲を十分に認識し、あえて出過ぎない態度を取っているからだろうと推察された。

 

銀河帝国の壮麗な軍服を着用した客将は、当初はスパイではないかと当然に疑われもしたし、今でも亡命者である彼を快く思わない者たちがいる。

しかし、ヤンやキャゼルヌなどは一貫してメルカッツに対して好意的である。

彼らの意見ならばと便乗する気持ちもないわけではないが、現状を見守るようにして沈黙を守る老将の態度は、ジーンにとっても好ましいものに見えた。

 

一通りの議論が終結し、幕僚たちが各自の持ち場へと戻る中、ジーンは司令官室を引き揚げるメルカッツを追いかけた。

 

「メルカッツ提督!」

副官のシュナイダーとともに振り返ったメルカッツが足を止める。

 

「私に何か御用ですかな、ブラックウェル少尉。しかし、そのように慌てられては無用の誤解を招く場合もあります、ご注意された方がいい。」

 

「失礼しました……!」

厳格だが決して居丈高ではない物言いは、寡黙な先ほどまでと少しだけ印象が異なる。

軍人らしい硬質さの中に独特の優雅さがあり、これが帝国貴族ということなのかとふと思わされるのだ。

同盟軍の中にも古老の将軍というような風貌の人物は確かにいるが、同じ軍人でもメルカッツのまとう雰囲気は同盟軍将官のそれとは異なっている。

メルカッツと副官のシュナイダーは、共に名前に「フォン」の三文字を有している。

このことは、彼らが帝国貴族、つまり銀河帝国における支配層に所属していたことを示していた。

ジーンの知る限りでは、銀河帝国の国民は自由惑星同盟の市民を「叛徒」と呼ぶらしい。

銀河における政体はあくまで自分たちだけであり、自由惑星同盟は国家を自称するだけの叛乱者の集まりだというのである。

そのような常識の中で生きてきた、しかも特権階級である彼らの目に自分たちは一体どう映っているのだろうと不安は、確かにあった。

 

「お引き留めして申し訳ありません。その……。」

 

「どうぞご遠慮なく。」

勢い声をかけてしまったものの、メルカッツのまとう独特の雰囲気に気圧されてつい口を噤むジーンを、老将が笑みを作って促した。

彼の背後で若い副官が何か言いたそうにこちらを見ているのが対照的だった。

 

「いえ、その……うまく申しあげられないのですが。」

軽率だったという自覚はある。

興味本位に声をかけて雑談が出来るような相手ではないかもしれないし、何よりも出過ぎた行為だったと自分を恥じた。

そんなジーンの戸惑いを打ち消すように、メルカッツは柔らかな笑みで続きを待っている。

 

「あの……補佐役の私が言うのもどうかとは思うのですが、キャゼルヌ少将の専門は後方支援ですし……その、例えばメルカッツ提督には他の作戦案などがあるのではないかと思いまして……。」

思い切ってそう尋ねたジーンに対し、返ってきたのは暫くの沈黙だった。

事務官なのは自分も同じ、ましてジーンは軍に籍を置いて短い。

親しい上官とはいえ「司令官代理」の任にあるキャゼルヌの力量を疑うような言い方は、褒められたものでは当然ないだろう。

軍事行動の指揮という慣れない立場に置かれた上官を思う気持ちから出た行動ではあったのだが、歴戦の軍人であるメルカッツには不敬に映ったのではないかと不安になる。

しかし、顔を曇らせたジーンに返されたのは、厳しい言葉ではなかった。

 

「ヤン提督を待ってから攻勢に出るという作戦に異論はありません。私もそれが一番だと思っていますよ。」

告げられた答えは想定内のものだったが、沈黙の後にゆっくりと告げられたそれはメルカッツの思慮深さと誠実さを感じさせるものだった。

彼には戦歴があり、知識があり、そして度量がある。

実力ある艦隊司令官であればこそ、おそらく何らかの意見も持っているのだろう。

メルカッツの沈黙は、却って雄弁にそれらのことを伝えて寄越した。

 

「それに、」

今にも口を開きたそうに視線を動かした彼の副官をちらりと見ると、メルカッツは笑みを深める。

 

「あなたの上官は、あなたが思うよりも気概のある人物ですよ。大丈夫、安心して彼に任せておきなさい。」

銀河帝国軍の軍服を身につけた勇将はそう告げると、微笑みを消してから「では、失礼」と短く言ってジーンに背を向けた。

メルカッツから寄越された自身の上官に対する意外な信頼に思わず眉を跳ねた後、去っていく背中にジーンはほっと息を吐く。

安堵した気持ちになった。

ジーンが推察した通り、客将としてただ座すだけではなく、メルカッツの頭の中には様々な作戦案が描かれているのだろう。

彼がそれを披露しないのは、今は必要ないと考えているからだと、先ほどの態度を見て感じている。

そして、もう一つ。

キャゼルヌを案じるジーンの気持ちが、メルカッツにも通じたのではないかと思うのだ。

出過ぎた態度だったと思うし、わきまえが足りなかったともやはり思う。

規律正しい軍人であり、まして貴族の出身である彼からすれば、女性の、しかも一介の事務官に過ぎない人間が要塞の司令官の采配に口を挟むなど許しがたい越権行為のはずだ。

けれど彼はジーンの声に耳を傾け、誠実に向き合ってくれた。

それはメルカッツの人柄に依るものだったのかもしれないが、「人を思う気持ちは帝国人や同盟人という垣根を越えて心に届くのだ」とジーンには感じられた。

 

銀河の向こうから、自由の国へと向けられた戦火の矛先。

「叛徒」と自分たちを呼ぶ彼らにも、知って欲しいと願った。

すべての星のすべての人々に暮らしがあり、誰しもが誰かを思いながら必死で生きている。

人々の生命は、心は、腐敗した政治家のものでもたった一人の支配者のものでもないのだ。

主義や心情を超えて、結びあえる絆もあるはずだと信じたい。

 

足下の自由は揺らぎ、戦乱の恐怖は眼前に迫っている。

憎み合うことで散った生命を思い合うことで共に弔うことはできないのか、二国の支配者たちに向ける願いは、ジーンの胸の中で一層強くなる。

 

戦局は有利とは言えず、司令官室の緊張は日々増すばかり。

ヤンを欠いたイゼルローンがいかに不完全なものかと、そこにいる誰もが思い知らされている。

それでも、司令官の留守を預かっているのだ、だからこそ自分たちが守らなければという気概があった。

胸に抱くのは、共にある仲間たちへの信頼。

闇夜の先にある朝日を信じて、与えられた戦場へとジーンもまた戻るのだった。



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【7】薔薇の騎士

互いに主砲を撃ち合うという形で鮮烈に幕を上げたイゼルローンの攻防戦は、シェーンコップら陸戦部隊の活躍、メルカッツの巧みな艦隊戦、そして帰還したヤンの知略によって同盟軍の勝利で幕を閉じた。

軍に籍を置いて初めて迎える戦闘に緊張を強いられ続けたジーンだったが、会戦が終わったからと言ってすぐに任務から解放されるわけではないのが事務方の常だ。

戦禍の中で感じた恐怖や今後の時勢に対する不安を思い出す暇さえないほどに、時間は目まぐるしく過ぎていく。

慣れない日々にジーンの疲労もいよいよ高まった頃、一つの変化があった。

ヤンの推挙によって、一つ階級を上げることになったのである。

 

「いかがですか、昇進なさった気分は。」

テーブルを挟んで向き合った男が、優美な笑みを作ってジーンを見つめている。

ヤン艦隊の幕僚であり、先のイゼルローン攻防戦でも多大な貢献を果たしたローゼンリッター連帯の隊長、シェーンコップである。

 

「あまり自覚がない……というのが正直なところです。」

運んできたボトルをソムリエが傾けて、濃い赤が二つのグラスへと注がれた。

波打つ液体を見るともなしに眺めていたジーンだったが、ややあって視線を向かい合う彼へと向けた。

 

「私は自分を“軍人である”とは思っていませんし、今はただ……キャゼルヌ少将の仕事を少しでも楽にして差し上げたいというだけです。」

 

「……忠実な部下をもたれて、事務監殿は幸せですな。」

意味ありげな沈黙の後でシェーンコップはグラスの液体を回して、彼にしては珍しい曖昧さを選んでグラスを掲げた。

 

「何はともあれ、おめでとうございます。」

 

「ありがとうございます。」

白い指先がグラスを摘まみ、シェーンコップに合わせてジーンもグラスを上げる。

飲み下したワインは保存状態も良く、芳醇な香りが一瞬で鼻孔へと広がる。

こんな風にして落ち着いて食事をすることは久しぶりだった。

一度はひっ迫していた物流が再び動き出し、嗜好品が滞りなく供給されていることを実感し、そっと頬を緩める。

これこそキャゼルヌと自分たち部下の努力の賜物なのだと思うと、それが誇らしかった。

 

「あなた方のおかげですな。」

 

「え、」

 

「事務方の努力あってこそ、こうしてうまいワインが堪能できる。感謝してもしきれませんよ。」

 

「ありがとう……。そう言ってもらえると努力のし甲斐があります。」

シェーンコップに言われて、ジーンは思わずはにかんだ。

秘かに感じていた小さな誇りが歴戦の軍人である彼に認められた気がして、そのことが素直に嬉しかった。

 

幼い頃に祖父母に連れられて銀河帝国から亡命して来たという彼は、メルカッツ提督同様、名前に「フォン」の文字を持つ貴族の出身である。

そのせいだろうか、陸戦部隊という猛者の中にあっても優雅さを失わない彼はどこか独特の雰囲気を持っている。

歯に衣着せぬ物言いと揺るぎない実力とで部下たちの信任厚いシェーンコップは、イゼルローン要塞においても一際強い存在感を放つ幕僚の一人だ。

上司であるヤンに対しても遠慮のない言葉をしばしば投げかけるが、それも含めてお互いの間に強い信頼関係があるのだということは、周囲にもよく理解されている。

 

着任初日に声をかけられてから幾度となく食事に誘われているジーンだったが、彼と二人きりで出かけるのは今日が初めてだった。

戦時下の外出は困難であったし、その後もヤンと三人、あるいはフレデリカと四人かもっと大人数か、とにかく複数での食事しか機会を得られなかったシェーンコップが、「昇進祝いに」と半ば強引にジーンを誘い出して今に至っている。

 

彼女がシェーンコップと二人きりにならなかったのには、一応の理由がある。

言うまでもなく彼の女性関係の噂の派手さがその原因で、ジーンとしてはその噂話に名前を連ねるようなことになるのは本意ではないと考えたからだ。

彼自身を嫌っていたわけではないのだが、とにかく噂話や女性同士のいざこざに巻き込まれるのは勘弁だった。

けれど、同じだけ彼の魅力も理解している。

華やかで人目を引く顔立ちが女性たちの心をときめかせるのは当然だと思えたし、整った体躯や男らしい性格に惹かれる女性が多いのも頷ける。

何よりも、さも軍人らしい逞しさを持ちながら、柔軟で配慮に満ちた彼の口ぶりはジーンにとっても特に話しやすい相手だと感じさせるものだった。

彼女自身としては、学生時代や代議員の秘書官時代を含めて多少は男性を見る目を養ってきたつもりでいた。

しかし、過去に出会った誰とも違う、そして圧倒的な魅力をシェーンコップは持っていると認めざるを得ない。

屈強な軍人であるはずの彼の紳士的な態度にいつしか気構えも外れ、気が付けば自然に笑い合うようになっていた。

 

「肉料理がお好きだと伺ったので。」

サラダの後に登場したのは牛肉のタルタルで、生卵の乗った赤身肉の脇には数種類のソースが並んでいる。

 

「美味しそう!」

思わず顔を綻ばせたジーンに、シェーンコップが満足そうに笑う。

 

「ここのリブロースは完璧ですよ。この後で鉄板ごと出てきますから、お楽しみに。」

深層の令嬢だという彼女の舌をなんとか唸らせてやろうと考え抜いた店選びは、どうやら成功したらしい。

ヤンやフレデリカと接する様子から、気取った店よりもこの手合いが効きそうだと踏んでいた自身の勘をシェーンコップは誇らしく思う。

 

「さすが、いいお店をご存じですね。」

 

「食事も酒も、上質なもので有意義に過ごすに超したことはありませんからね。」

安酒でも構わずに飲むヤンを揶揄して言えば、ジーンも笑った。

 

「私も本当は食い道楽なんですけどね。」

「自身の名誉のために言っておく」とジーンも茶化して言って、グラスを重ねるごとに会話は潤いを増していく。

 

「そんなあなたのおかげでイゼルローンの食事水準は保たれているわけだ。」

 

「それは大袈裟ですけど。だけど大事なことだと思います、心の豊かさって食事が基本ですから。」

話しながら、ジーンの中でのシェーンコップの印象も変化していく。

本業だけでなく恋愛に関しても血のにおいを知れば飛びかかる狼のような男だと想像していたが、こうして向き合えば、意外なほど穏やかな紳士である。

ジーンの知っている帝国貴族はメルカッツと彼くらいだが、タイプは違ってもどこか優雅さを感じさせる点は共通しているかもしれないとふと思った。

 

「うまい食事といい酒と美しい女性と、それこそが人生の彩りだと私は思いますね。」

そんな言い方を彼らしいと思ったり、軍人としての信条を語らないことを意外だと思ったりしながら、唄うような声を聞いている。

 

「美味しい食事とお酒は同意しますけど、“素敵な男性”を語れるほど私は人生を知らないみたい。」

つい本音が漏れてしまったのは彼の話術の賜物なのかもしれないと感心しながら、ジーンは思わず苦笑した。

 

「ほう。」

初心な女を演じるつもりもないのだが、目の前にいる男に比べれば自分の経験値など赤子同然なのだから仕方がない。

素直な考えを口にしたジーンに、シェーンコップはナイフを持つ手を止めた。

 

「このイゼルローンに、あなたの興味を満たす男はいませんか。」

唐突に吹いた風に心の湖面が揺らめくような、そんな感覚だった。

思わず深く息を吸い、頬に集まる熱から逃れるようにジーンは首を振る。

 

「……あまり考える余裕がなかったから。」

脳裏に揺れる黒髪と困ったような笑顔、つい今まで忘れていたはずの姿が思い出され、胸が苦しい。

 

「恋愛は大いにするべきですよ、ミス・ブラックウェル。」

「中尉」とせっかく昇進したその階級ではなく彼女を呼んで、シェーンコップの視線がジーンを見つめる。

胸が早鐘を打った。

 

「……そうかしら。」

 

「そうですとも。」

「是非私と」とは、彼は言わなかった。

苦しい秘密を抱えるジーンの心にそっと寄り添うように、あたたかい笑みを向けている。

秘するべき恋であってもそれは悪ではないのだと言われた気がして、ジーンは消えかけていた笑みを取り戻した。

 

「さあ、ここはデザートも絶品です。メニューを貰いますか?」

歯を見せて笑ったシェーンコップにジーンもつられて笑い、ほっとしたように息を吐いた。

 

「いつもはエスプレッソだけなんですけど。」

 

「たまには自分を甘やかすのも大切ですよ。それにあなたは十分痩せてらっしゃいますしね。」

この夜を楽しむべきだ、そう決めてしまえば自然と心は軽くなる。

誰もが羨むほど魅力的なこの人と、今宵は思い切り楽しんでしまおう。

 

駆け引きめいた会話や視線のやりとりが心をときめかせ、それでいて決して一線を超えようとしないシェーンコップの態度がジーンを安心させた。

鼓膜に響く優しい低音に耳を傾け、素直な視線で見つめ返せば、優しい笑顔が受け止めてくれた。

甘い予感は見ないふりと互いに決め込んで、賑やかに過ぎる時を共有する。

今はそれが心地いい。

年上の男が紡ぐ穏やかな時間に、ジーンはそっと身を委ねた。



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【8】揺れ動く想い

その夏は、目まぐるしく出来事が展開される季節となった。

ユリアンのフェザーンへの転勤が決まり、メルカッツは銀河帝国正統政府の軍務尚書となってハイネセンに異動して行った。

若いユリアンは無遠慮に不満を口にし、控えめな態度でメルカッツの後ろに控えている印象だったシュナイダーも毒舌を露わにこの人事を罵った。

 

自由惑星同盟のために誰よりも多くの勝利をもたらしたはずのヤンだが、政治家たちの彼を見る目は民衆のそれとは異なっている。

民衆の信認を得ているからこそ、というべきなのかもしれない。

英雄であるはずの彼をやっかみ半分に厄介者として扱う様子は、まさに衆愚政治のそれである。

外敵の危機に晒されているというのに気になるのは自分の足下だけという悪意と疑心ばかりが蠢く様は、まるで同盟政府の暗転していく未来を示しているようで恐ろしい。

当のヤン自身は淡々とした様子で職務をこなしているが、彼の広大な脳内ではやがて来る混乱への道筋とそれに対する策のあれこれとが描かれつつあるようだった。

 

救国会議によるクーデター以来、独自の情報網を築くことに腐心していたジーンは、フェザーンに赴くユリアンのため現地の知人たちの幾人かを紹介した。

それは勿論ユリアン自身のためではあったが、同時に彼の親代わりであるヤンの心労を少しでも和らげたいという気持ちゆえでもある。

軍人である父を持ち、ヤンのもとで育ったユリアンが同じ職業を志すのは自然なことではあったし、それに敵うだけの才能が彼にはあった。

シェーンコップやポプランなどは随分とユリアンを可愛がっており、それは彼の軍人としての豊かな才能と養父譲りの戦略眼を認めているからでもある。

それでも、「できれば軍人以外に」という考えをヤンが捨て切れていないことにジーンは気付いている。

それは親心でもあり、彼の信条に基づくものでもある。

ユリアンという個人を尊重しつつ、しかし本心では別の道をと願っている。

それはまるで、ヤン・ウェンリーという数奇な運命を辿る一人の軍人を象徴しているようでもあった。

 

ヤンとジーンの間にアルコールを介したささやかな交流が始まってしばらく後、彼の出自に触れる機会があった。

彼の父親は惑星間を商って回る星間交易船の船長であったという。

人生の半分を交易船の中で過ごしたというヤンが、その知識と信条を身に着けるに至った経緯はどうやら本の中にあるらしい。

惑星間を移動する暮らしで学校教育と無縁だった彼にとって、積み荷の中にあった数々の本が教師代わりとなったようだった。

とりわけ彼を惹きつけたのは歴史書で、偉大な為政者、横暴な支配者、そして歴史の波で蠢く人々の営みが描かれる書籍の中に、彼は常に疑問と答えとを見出してきた。

権力者や軍・戦争を嫌悪し、歴史家を志す一方で、実際は士官学校へと進学し、艦隊司令官としてその名を馳せることになった彼を、以前のジーンはどこか物語の登場人物のように捉えていた。

しかし、言葉を交わしてみれば、その印象は想像とは少し異なる。

軍人らしからぬ怠惰な生活態度はもとより、温和に見えて意固地な性格や飄々としているように見えて強い信念を胸に抱く様は、ヤンという人の人間味を感じさせ、ままならない人生を生きながら前を向くことを止めないその強さに憧れた。

柔らかな強さを持った人なのだと、今は感じている。

 

(ヤン提督こそが、ユリアンを必要としているんだわ。)

彼は強い。

けれど、彼の強さを形作るのは軍人らしい硬質さではなく、人間味溢れる柔軟性なのだ。

だからこそ、それを支える人が必要なのだと思う。

仲間や信頼という絆こそが、彼を彼たらしめ、その強さを支えている。

亜麻色の髪の少年の明るさは、変わり者の司令官の内側を光で照らす。

ユリアンの朗らかさこそが、過分な重荷を背負わされたヤンの背を支えているのだとジーンは思う。

キャゼルヌやシェーンコップやムライにアッテンボロー、ヤンの周りには彼を心から尊敬し、真心から尽くそうという良き幕僚が揃ってはいるが、ユリアンが支えている部分は他の誰とも違う部分なのだ。

飄々とした態度で周囲を煙に巻きながら、その実、内側には強い意志を秘めている。

しかし、強さとは常に孤独の裏返しでもある。

仲間と共にあればこそ強くもある彼が、立場ゆえに抱える孤独。

それを温かく包み込む存在が家族であり、つまりユリアンなのだと感じている。

 

「フレデリカ。」

およそ軍人らしからぬ態度で、しかし誰よりも指揮官としての資質を備えたその人の柔らかな部分、もしそれを支えられる人がユリアンの他にいるとしたら……。

 

「あなたまでそんな顔をしていては、提督が余計に寂しがるわよ。」

ユリアンのいないイゼルローンに肩を落とすフレデリカに、ジーンは苦笑する。

決して見せることのないヤンの内面の揺らぎが、まるで彼女にまで乗り移ってしまったようだと思った。

そして、彼に寄り添える女性だからこそ──稀代の英雄は彼女を必要としている。

 

「ごめんなさい。でもなんだか……提督のことが心配で。」

平素と変わらずに過しているように見えるヤンの僅かな変化には、フレデリカも気付いている。

だからといって自分まで落ち込んでどうするのだとジーンは笑った。

彼の気持ちに寄り添えるのはやはりフレデリカだけだと思う一方で、どうせ気付いたのなら共に悲しむよりも逞しく支えてあげて欲しいと思うのだ。

それは、愛らしい親友への友情とほんの少しの嫉妬心。

彼女にしか果たせない役割なのだということをジーンは知っている。

 

「そうね、フレデリカ。でも……。」

彼女の想い人同様、どこか鈍感な部分があるらしいフレデリカに苦笑して、彼女の背に手を添えた。

同盟軍随一の智将の右腕として辣腕を振るう彼女が、果たしているもう一つの役割。

それはきっと、ユリアンが担ってきたものに一番近い。

 

「あなたが支えてあげなくちゃ。」

フレデリカならきっと、ユリアンと同じ光を、同じぬくもりをヤンに与えることができる。

彼もきっと、それを求めている。

 

「わ、たしが……?」

 

「うん、そうでしょう。」

 

「でも……。」

フレデリカがヤンを見つめてきたように、ジーンもヤンを追いかけ続けていた。

だからこそ、彼らが惹かれ合い、求め合っていることにも気付いたのだ。

他の誰でもない、フレデリカだからこそ果たせることがある。

彼女だからこそ、支えられる人がいる。

どんなに羨ましくとも、自分では代わることのできない大切な役目をフレデリカこそが担っている。

 

「あなたもヤン提督も鈍いから。」

丸く見開かれたヘイゼルにジーンは笑って、「提督もきっと同じ気持ちよ」と視線で告げる。

フレデリカの頬が、ぱっとピンク色に染まった。

 

「ねえ、フレデリカ。あなたにしか出来ないことだもの。」

頬を染めて、俯いて、それから目を潤ませて、「だけど」、「でも」と繰り返すフレデリカも今だけは副官の仮面を外している。

叶って欲しいと思い、彼ら二人の美しい未来を願った。

わずかに揺れる寂しさは、心の奥深く、蓋をして仕舞い込んだ。

 

「自由惑星同盟の今後はあなたに掛かっているかもしれないわよ。」

冗談めかして笑うジーンに、今度こそ耳までを赤く染まった顔をフレデリカが両手で覆う。

 

「ジーン!」

 

「あはは、頑張って!ヤン提督は倍鈍そうだから、そこはあなた次第じゃない。」

夜明けを運ぶ英雄に、どうか最強の援軍を。

愛する親友の未来に、どうかあたたかな祝福を。

寂しさの代わりにやってきたのは優しい日差しのような感情で、目を閉じればそこに輝く朝日の昇る様を思い浮かべることができた。

 

しかし、共に笑い合えた時間は、振り返れば僅かなものであったと言える。

夏の終わりが近づく頃、ついに──銀河帝国よりラインハルト・フォン・ローエングラムの名前で自由惑星同盟に対する宣戦布告がなされたのだ。

両陣営は壮絶な情報戦へと突入し、真偽の定まらない情報が入り乱れる。

本土から届く変則的な指示に右往左往しながら、最前線であるイゼルローン要塞も慌ただしさを増していった。

二国の軍が再び戦火を交える瞬間は、すぐそこまで迫っていた。



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【9】近づく不安の中で

オスカー・フォン・ロイエンタール。

その名前を聞かされたのは、同じ「フォン」の文字を持つシェーンコップからだった。

ローエングラム元帥配下として特に名前を知られる人物で、艦隊の指揮における緻密さと大胆さの両方において他に類を見ないほどの才覚を有しているという。

銀河帝国内での内戦で実際に彼と相対したというメルカッツは「当代で右に出る指揮官はそう多くない」と評する相手である。

その彼がイゼルローン要塞攻略のための遠征軍を率いて出兵するという情報が、ヤン艦隊の元へもたらされていた。

 

「そんなに……恐ろしい人物なのですか。」

老練の提督をして手放しとも言える評価を受ける艦隊司令官を回廊攻略の最前線に送るということは、ラインハルトの宣戦布告が決して形だけではないことを示している。

 

「まあ、帝国軍の双璧などと言われているようですから、先日のケンプ提督以上の相手であることは間違いないでしょうな。」

事も無げに言ってコーヒーを啜る彼の言葉に、ジーンは小さく眉根を寄せた。

言葉にし難い不安と恐怖が、じわりと胸の奥を侵していく。

 

彼女の人生において「戦争」は、決して身近とは言えないものだった。

祖国は長く銀河帝国と対立関係にあったが、それでも時折起こる戦闘はどれも局地的なものばかりでどこか遠い国の出来事のように感じることさえあった。

それを恥じた。

最前線に立つことで、ようやく「戦争」というものを知ったと思った。

祖国が莫大な資金を投じた同盟軍が、会戦のために散っていった生命がどういうものなのか、現実となって今ジーンの胸に迫っている。

 

「そんなに不安に思われる必要はありませんよ。」

一向に減る気配のないカップを手にしたまま俯いたジーンに、シェーンコップが微笑んだ。

戦局など意に介さないという彼の態度はいかにも歴戦の猛者で、実力と結果に裏打ちされた彼の態度は、ヤン艦隊のバランスを保つ重要な要素でもある。

頼もしいとも思い、不安にも思い、目を細めて向けられる視線を見つめ返すことしかできない。

 

「我がイゼルローンにはなんといってもヤン提督がいらっしゃいますし、イゼルローンさえ落ちなければ、本土の安全は確保されている。」

殊更に明るさを作るようにして、シェーンコップが告げる。

ジーンを安心させようとして発せられたその言葉が却って、ジーンを胸を一層揺らめかせる。

 

「イゼルローンさえ……。」

 

「大丈夫、易々と敵の侵入を許す我々ではありません。」

ガイエスブルクの襲撃の際、陸戦部隊の突入を防いだシェーンコップの言葉であればこそ重みもあり、彼もそれをわかって言っている。

しかし、ジーンの頭を過ぎったのは、「イゼルローン要塞を堅守できるか否か」ではない。

 

 

フェザーンの「友人」から届けられた情報の一つ。

銀河帝国に駐在する弁務官、ニコラス・ボルテックに不穏な動きがあるというのだ。

現在のところ、フェザーンは自治領主ルビンスキーのもと、銀河帝国、自由惑星同盟の双方に対して政治的・軍事的独立を保っている。

しかし、フェザーンという土地はその独自性ゆえに、あらゆる意味において一枚岩ではないのだ。

 

人口20億を抱える銀河最大規模の惑星がフェザーンだが、より特筆すべきは全銀河の一割に上るとされる彼らの財産である。

同盟、帝国両国の国債を保有して政治的力を強める一方で、自由商人の行き来や軍事交渉の仲介を行うことで中立を保っている。

形式上は銀河帝国の自治領であるフェザーンだが、たとえ銀河帝国軍であろうと惑星が鎮座するフェザーン回廊を自由に航行することはできないのだ。

 

そのフェザーンの弁務官が暗躍している。

ボルテックはルビンスキーの腹心の位置にいる男だが、何かと噂の多いルビンスキーと比べれば器のほどは図るべくもない。

そんな男がラインハルトに対抗できるはずもなく、彼を銀河帝国の弁務官として派遣したことについては却って危うい局面を生むのではないかと心配するフェザーン人は多いらしい。

能力に釣り合わない野心を持った男、というのが現地財界人のボルテックに対する評価だった。

彼の野心が銀河帝国に利用されるのではないか、とうのがフェザーン人たちのもっぱらの心配事らしい。

独立性こそがフェザーンの価値を高める最重要の要素であるが、それが脅かされるのではないかというのが「友人たち」がジーンに告げた不安であった。

若き元帥の躍進は、情報通のフェザーン商品たちの動静にも確実に影響を与えつつある。

 

「シェーンコップ少将……。」

このところ頭を離れないでいる自身の考えについて、果たして披露していいものかジーンは迷っていた。

確証があるわけではなく、あくまでも状況からの推測であったし、何よりもまず不吉な推測であるからだ。

言葉を継げないでいるジーンをシェーンコップは待っていた。

 

「あの、」

言いかけて、また迷う。

まずはキャゼルヌに相談すべきというのがジーンの立場であり、いくら話しやすいからといって思いつきのようにしてシェーンコップに告げてしまうことは軽率に思われたのだ。

 

仮定として、ボルテックがフェザーンの自治権を売り渡し、見返りに地位なり金なりを得たとする。

それはそれで十分に危険なことだ。

同盟領と帝国領を隔てる二つの回廊がイゼルローン回廊とフェザーン回廊であり、一方を帝国軍が通過してしまえば、もう一方を守り抜いたところで片手落ちになる。

その先に何が待っているかなど、軍事のプロでなくとも容易に想像がつく。

けれど、本当にそれだけだろうかという思いがジーンの中にあった。

 

ラインハルト・フォン・ローエングラムは弱冠22歳の帝国元帥である。

天才的軍略と清貧を旨とする性格で、銀河帝国内では既に大いなる人気を得ているという。

一方で将として勇敢であるだけでなく、知略、謀略にも優れ、支配者としての冷徹さも持ち合わせているというのが、彼に対する多くの者の評価だった。

若き元帥に関する評価は見る者の立場や角度によっていくつかに分類されるが、ジーンの目には若さと苛烈さとが特に印象的に映った。

 

優れた執政を行う政治家、けれど大前提として彼は軍人なのだ。

その彼が自由惑星同盟に対して宣戦布告を行ったということは、同盟領土の完全なる征服を目指しているということだろう。

 

(自由惑星同盟を武力で制圧しようという人物が、フェザーンとの関係を政治力のみで解決するだろうか……。)

中立の立場を堅持し続けて来たフェザーンには、最小限の軍隊しか備えられていない。

軍事力で見れば、フェザーンを征服することは同盟領を征服するよりも圧倒的に簡単なことなのだ。

 

「ブラックウェル中尉は、フェザーン回廊のことを心配されているのでは?」

シェーンコップに問われて、ジーンははっと顔を上げた。

 

「ヤン提督も同じ心配をされてらっしゃいました。悪戯に不安を煽るだけなので他言は無用とのことでしたが、あなたも同じ考えということはいよいよ真実味を帯びてきたと感じています。」

 

「いえ、私は……!」

既にヤンの中に同じ不安があるのであれば、自身の意見など彼に及ぶはずもない。

そう思うことで却って安堵する気持ちになり、ジーンは自身の得た情報と見解について口を開いた。

ボルテックとラインハルトが接近しているらしいという情報、ボルテックという男の素性、そして苛烈なる帝国元帥が武力によるフェザーン制圧を選択する可能性について。

それはジーンがイゼルローンに来て初めて、自ら進んで行った進言であった。

 

「なるほど。筋書きはヤン提督のものと殆ど同じ。加えてフェザーン人の意見もというなら証左に役立つでしょう。あなたからヤン提督にお話しになるといい、不安でしたらキャゼルヌ要塞事務監に同席していただくと良い。」

視線を落として言葉を探しながら告げられたジーンの意見を、シェーンコップは腕を組みながら聞いていたが、少しの思案の後ゆっくりと口を開いた。

未熟さを指摘することなく偏見なく耳を傾けてくれる姿勢に安堵し、ジーンは安心したように頷いた。

 

「やはり得がたい人だな、あなたは。」

 

「え?」

礼を言って立ち上がろうとするジーンに、告げられた声。

 

「だからこそ悩ましい。ただの女性であったなら、すぐにこの手で攫ってしまうものを。」

寄越された言葉の意味を自分で理解するより前に、ジーンは椅子を引きその場を去った。

より理解したいとも思ったけれど、理解して良いことなのかというと判断は少し難しかった。

この上なく魅力的で、女性であればきっと誰しもが憧れるであろう存在がシェーンコップという男である。

彼から向けられた言葉に、木々を揺さぶられるような落ち着かない気持ちになる。

それはときめきに似ていたし、歴戦の戦士から与えられた信頼は喜ばしくもあった。

けれど、その先にある自分の感情と向き合おうとするとジーンの心はたちまち迷路へと入り込んでしまう。

未だ忘れることのできない黒髪が、心の湖面をさざめかせる。

恋と呼ぶにはあまりに未熟な想いだが、それでも──憧れを抱きしめる時間が愛しくて。

 

戦局は両軍の衝突間近へと迫っており、皮肉にもそのことがジーンの意識を外へ向けることを助けた。

各地から届く情報のどれもがロイエンタール艦隊のイゼルローン襲撃を示しており、軍本部の緊張は日に日に高まっていた。

そしてついに、同盟軍の偵察艦が帝国軍の艦艇の侵攻をそのレーダーに捕らえたのである。



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【10】帝国軍の双璧

もたらされた情報の通り、その年の冬の始まりにイゼルローン要塞は銀河帝国のロイエンタール艦隊の襲撃を受けた。

 

ヤンの説得虚しく、「フェザーン回廊を帝国軍が通過し同盟領を挟撃するはず」という予測は、中央政府を動かすには至らなかった。

民主政治ゆえの判断の遅さや決定力の欠如が事態を悪化へと導いていく様は皮肉としか言いようがない。

意思決定のスピードにおいて自分たちを凌駕する相手に対してすべてが後手に回っていく状況は、民主政治こそあるべき姿と考えるジーンにとって衝撃的な出来事であった。

一人の優秀な支配者は、数多の民衆の総意よりもあるいは正しく人類を導くのだろうか。

否定したいと願う思いをねじ伏せる帝国軍の力は強大で、だというのに肝心の同盟政府は混乱し、愚行を繰り返し、それでもなお権力闘争を止めようとしない。

 

そして戦況は、政治情勢以上に厳しさを増していった。

 

フェザーン方面からのハイネセン侵攻。

確信となりつつあるその事態に備えたいと思いつつも、ヤンの艦隊はイゼルローンに張り付かざるを得ない状況に置かれている。

「帝国軍の双璧」と呼ばれるロイエンタールの艦隊戦術は、ヤンの智略を以てしても容易には攻略し難いものだった。

 

3万6000隻の戦艦を率いたロイエンタールは、堂々たる姿勢でイゼルローンの前に布陣している。

派手な砲撃をもって開戦を告げて寄越した彼らだが、ヤン艦隊ではこれは銀河帝国の長大な遠征の一部に過ぎないという認識が共有されていた。

銀河帝国元帥ラインハルトは、自由惑星同盟の完全制圧をこそ目論んでいる。

ロイエンタールの進軍は、同盟軍随一の智将であるヤンをイゼルローンに張り付かせておくための戦略で、銀河帝国の本隊はハイネセン侵攻に向けて別のルートを進んでいるに違いないと彼らは考えているのだ。

ヤンの司令官室ではもはや共通の認識となったそれは、ロイエンタールの出現によっていよいよ現実へと近づいていた。

 

事態を打開するための作戦が練られつつあったが、要塞のインフラ維持のため事務監室に張り付いているジーンがそれを知ることはなかった。

主砲と距離を置いて布陣するロイエンタールの艦隊に、ヤンは少数の艦隊による局地戦を繰り返して対応していた。

しかし、戦局を打開したくとも容易には許してくれない相手がロイエンタールである。

巧妙に陽動を仕掛け、それに対処しようとイゼルローンから艦隊が出動すれば、彼もまた艦隊を出して対応する。

数を武器にじわじわと出血を強いるロイエンタールの戦略は、同盟軍の頭脳たるヤンとの駆け引きを楽しんでいるようにさえ見えた。

 

次々と上がってくる艦隊の損傷や死傷者の報告を数字として見つめながら、これが戦争というものかとジーンの絶望は強くなる。

何のために人が死んでいるのか、自由のため?平和のため?祖国を守るため?

あるいは──ただ一人の支配者の地位を揺るぎないものとするために?

疲労感を増す思考の中で多くの疑問が去来するが、なんとかそれを振り払ってジーンは目の前の事態に対応することに集中しようと心がけた。

けれど、消えない。

恐怖も疑問も、そして絶望を──消すことが出来ない。

 

何のために戦うのかと問えば、ヤンなら何と答えるだろう。

「自由主義が専制主義に屈するわけにはいかない」と言うだろうか?

それとも「明日の朝食をのんびり食べるためさ」と嘯くだろうか。

では、ローエングラム元帥は?

あるいは、彼のためにこのイゼルローンに矛先を向ける人物は──ロイエンタール提督は何と答えるのだろうか。

 

自由惑星同盟の結束は揺らぎ、専制主義の覇者たるラインハルトの手は、今にも民主主義の牙城であるハイネセンにまで及ぼうとしている。

「偉大な英雄」と銀河帝国の人々は彼を仰ぎ見るのだろうか。

英傑の背中を仰ぎ、彼だけを信じていれば美しい未来が得られると本当に思っているのだろうか。

共和制の中で生まれ育ったジーンにとって、専制主義はほとんど「自由」の反語のようなものだ。

人類の歴史は専制政治からの解放によって前進してきたはずだと彼女は考えているし、ルドルフ・ゴールデンバウムによる銀河帝国の樹立がもたらしたものは、格差と差別の蔓延した支配階級のためだけの治世だと認識している。

その頭をラインハルトにすげ替えたところで、与えられるのは一時の安寧に過ぎないのではないか。

長く安定的な成長は果たして専制主義のもとで得られるものなのかと疑問を抱くジーンにとって、独裁者の存在はやはり許容できないものだった。

 

若き元帥が望むのは、銀河帝国の腐敗の一掃と発展なのだとヤンからは聞いている。

彼は単なる軍人ではないと、イゼルローンの司令官ははっきりと言い切った。

そのラインハルトが向ける切っ先は、今にもハイネセンまで届こうかというところまで来ている。

まるで彼に踊らされるかのように、同盟領の政治家たちは重ねる愚行を未だ止めようとしない。

自由は人を怠惰にし、平等は我儘を助長するに過ぎないとでもいうように、祖国は混乱から抜け出せないでいる。

アーレ・ハイネセンたちが光年の果てに辿り着いた自由の地は、また支配者を受け入れなければいけないのか。

幾多の屍の上に築かれようとする王国は、果たして誰のためのものなのか。

 

不安と恐怖の中で湧き上がる疑問。

得られるはずのない疑問は余計に精神を疲弊させ、ジーンはなんとか冷静さを取り戻そうとモニターに向き合う。

戦死者の数を示す数字が跳ね上がり、戦闘が新しい段階へと移ったことを知る。

シェーンコップの率いる陸戦部隊を乗せた強襲揚陸艦がロイエンタールの乗る旗艦を襲撃したのは、その直後のことだった。



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【11】イゼルローン脱出

1月、フェザーン陥落と帝国軍の同盟領侵攻の報を受けた駐留艦隊は、ヤン提督の「箱船作戦」によりイゼルローンを脱出した。

難攻不落を誇る要塞を放棄するという大胆な作戦は、帝国軍がこれを追撃しなかったことも功奏し、辛くも成功した。

キャゼルヌの指示に従って脱出に同行したジーンは、初めて艦隊の構成員として戦艦に乗船した。

 

辛くもイゼルローンを脱出したものの、ヤンたちの予想通りであれば帝国軍はフェザーンから同盟領に向けて進撃しているはずだ。

有史以前最大の危機を迎えつつある祖国を思うと、焦る気持ちが押し寄せてくる。

ジーン自身長く軍と関わりのない暮らしをしており、戦闘行為とはずっと無縁だった。

危険に晒されるであろう民間人のことを考えると、明るい気持ちでは決していられない。

 

「おまえさんの心配はわかるが、今はこっちに集中してくれ。」

 

「キャゼルヌ少将!申し訳ありません……。」

慌てて詫びるジーンに、キャゼルヌも眉を下げる。

 

「いや、こちらこそすまない。君は元々軍人じゃあないんだ、ナーバスになるなっていう方が無理だな。もし辛いなら少し休んでもらっても……。」

言いかけたキャゼルヌに首を振る。

 

「いいえ、キャゼルヌ少将。お気遣いだけで十分です。確かにこの状況は私にとって予想外のものですが……早く戦争を終わらせるため自分の仕事をする、今はそう考えることにします。」

昨年のロイエンタール艦隊の襲撃以後、ジーンにとっては特に想定外のことが続いている。

軍人になることさえ想像していなかったが、まして軍事行動の真っ只中に放り込まれることになるとは、自分の人生にとってあまりにも想定外の状況と言える。

当然のように恐怖はあったし、憤り、悲しみもした。

しかし、そればかりではいけないとも思うようになった。

 

何のために戦うのかと、戦場に問いかけた疑問を自分自身に向けている。

ヤン提督の艦隊における自分とは何のためにあるのか、何のために任務を果たそうとするのか。

崇高な目的を掲げるだけの強さは、今はない。

心は疲弊し、少し気を抜けば死の恐怖に飲み込まれそうになる。

それでも、与えられた任務を果たしたい。

そう願うのは、民主主義のためでも、自由のためでもなく、今ここにある仲間の安息のため。

共にある仲間たちのためになら、いくらでも戦うことができるとジーンは思った。

 

「早く戦争を終わらせて……そうしたら、みんなでゆっくりと朝食でも取りましょう。」

かつての自分とは違う強さが芽生えつつあることを、自分自身で感じていた。

 

「はあ、なるほどね。なんだかおまえさんまでヤンみたいになってきたな。」

あえて気軽なセリフを選んだジーンにキャゼルヌが苦笑する。

 

「いいじゃあないですか。小官もその朝食を楽しみにしていますよ。」

二つのコーヒーカップを手にしたシェーンコップが事務室に顔を出したのは、その時だった。

 

「また剛胆なヤツが来たな。」

カップの一つをジーンのデスクに置いて、もう一方に悠然と口をつけた彼に、「俺の分はないのかよ」とキャゼルヌが毒づいて、それから三人で笑った。

久しぶりに頬の筋肉が緩んだ、そんな気分になる一瞬だった。

 

「だが、少し残念な知らせですよ。ランテマリオ星域で、同盟軍の本隊が帝国軍とぶつかったようです。」

 

「!」

開戦の知らせをコーヒー一杯と共に告げて寄越して、シェーンコップは口唇の端を曲げた。

 

「当方の旗艦3万に対して、あちらさんは11万。この艦隊も救援に向かって舵を切ったところです。」

シェーンコップの報告に、キャゼルヌが顔色を暗くした。

 

「なに、数的な不利はアムリッツァで敗退してからわかっていたことです。それを踏まえた上で情勢を覆す方法なら、我らの提督閣下はとっくにお考えですよ。」

こういう時のシェーンコップの態度は、いかにも歴戦の猛者といった様子だ。

あえて気楽さを作って告げるシェーンコップの物言いは不安の淵へ転がり落ちそうになるジーンを何度となく救ってきた。

彼だって、決して事態を楽観視しているわけではないとわかっている。

それでも、難局の到来さえ朗らかに告げるシェーンコップの言い方はジーンにとって心強いものだった。

 

「先陣はミッターマイヤー提督のようです。」

 

「……そうか。」

ウォルフガング・ミッターマイヤーは、フェザーンを制圧した帝国軍の提督の名前だ。

ヤンの予想通り銀河帝国軍はフェザーンを軍事力で制圧し、その上で回廊を通過して同盟領へと進軍してきている。

これに対処するため同盟軍も当然に艦隊を派遣しているが、圧倒的な数的不利が兵士たちの過酷な未来を予見していた。

恐れていた危機が、すぐそこまで迫っている。

少しばかり声のトーンを落として交わされるキャゼルヌとシェーンコップの会話をジーンは黙って聞いていた。

 

「そうなるといよいよ惜しくなりますがね。」

 

「言っても仕方のないことさ。まあ……帝国軍の双璧の一方を落とせていればそりゃあ良かったには違いないが、簡単に落ちてくれないからこそ双璧なんぞと呼ばれているんだろうからな。」

イゼルローンの攻防戦の中でロイエンタールの旗艦を急撃したシェーンコップは、帝国軍の提督その人と直接一戦を交え、あと一歩というところまでその刃を肉薄させたらしい。

 

「艦隊の司令官にあれだけの技量を披露されると、白兵戦のプロとしては苦々しくありますが……まあ、好敵手と言わざるを得ないでしょう。」

シェーンコップの口ぶりから察するに、ロイエンタール提督は艦隊戦だけでなく陸戦における実力も相当なものらしい。

それほどに帝国軍の人材は厚いのかと思うと、改めてアムリッツァの悲劇が悔やまれる。

あの時、中央議会が政治判断を誤ったりしなければ、安易なヒロイズムに便乗した「帝国領への侵攻」などという作戦を軍部が取り上げなければ──。

しかし、過去を悔いたところで取り戻しようがないこともわかりきっている。

 

「さあ、我々は我々の出来ることでヤン提督をお助けしましょう。何しろあの方は艦隊運営だけは一流で、白兵戦も、それどころか射撃もままなりませんからね。」

ロイエンタールと自身の上司とを比較して皮肉ったシェーンコップに、キャゼルヌも笑って答える。

 

「物資の管理も補給線の計算も苦手、洞察力はあっても政治的駆け引きはからっきしだからな。」

二人のやり取りを聞いていたジーンも笑って、それを機会に各自が持ち場へ戻ることになった。

 

しかし、三人が穏やかに会話を交わせたのはこの時が最後だった。

それからの三ヶ月、戦局は熾烈を極め、劣勢に継ぐ劣勢をなんとか覆しながら、ヤン艦隊は転戦を繰り返すこととなったのである。

帝国軍と激闘を繰り広げるランテマリオ星域へ救援に駆けつけたヤン艦隊であったが、同盟軍は辛くも全壊は逃れたものの多大な戦力を失い、崩壊寸前の状況まで追い込まれた。

その後、起死回生を狙ったヤンの作戦により、バーミリオン星域で両軍は再び激突──それが、ジーンにとってヒューベリオンで迎える最後の戦闘となったのである。



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【12】夏の日の出来事

輝くような初夏の日差しが、木々の隙間から降り注いでいる。

湖畔に立つ上品な邸宅の庭は隅々まで手入れが行き届いており、そこに住む人間の豊かな財力をさりげなく示していた。

 

「ヤン提督の結婚式以来ですね。」

湖を見下ろす芝生の上に設えられたテーブルには、アフターヌーンティー用のケーキスタンドと紅茶が置かれている。

「コーヒーのほうがお好きでは」と尋ねられたことを喜びつつ、「せっかくですから紅茶にしましょう」と答えた彼は、穏やかな表情で向かいに腰掛けた女性を見つめている。

 

「あの時は飲み過ぎてしまって。」

シェーンコップとジーンが顔を合わせるのは、ヤンとフレデリカの挙式の後にレストランで開かれたパーティー以来のことである。

ヤン、フレデリカ、それにシェーンコップにジーン、今は全員が軍部を去っており、「提督」という呼び名は些かおかしくはある。

しかし、シェーンコップはその呼称以外にヤンを呼ぶ方法を知らない。

 

「お強いあなたでもあんなに酔っ払うとは、一体どれ位飲んだんです?」

 

「そんなに酔っ払ってました?」

 

「いや、楽しい酒でしたがね。」

秘かにヤンに想いを寄せていたらしいジーンが真実を打ち明けることはついになかったが、それでも二人の結婚式には感じるものがあったらしい。

随分と酒を過ごし、陽気に笑い、常の落ち着いた彼女とは別人のようにはしゃいでいた。

 

「恥ずかしいところをお見せしました。」

頬を染める彼女だが、本当の意味で恥じらっているわけではないらしい。

それくらいには交流を温めてきたはずとシェーンコップも自負している。

 

「こちらでの暮らしはどうです?」

尋ねたシェーンコップに、ジーンは少し複雑に表情を歪めて見せる。

 

「落ち着いている、と言えばそうなのですけど……。」

人生の大半をハイネセンの中心部で過していた彼女の暮らしが大きく変化したのは、三年ほど前のこと。

企業家であった父親が病に倒れ、同時に職を辞したことで、ジーンの人生はそれまでとはまったく違う方向に舵を切ることとなった。

友人であるフレデリカに請われイゼルローン要塞の事務官となった彼女は、帝国軍の侵攻の中でシェーンコップたちヤン艦隊と共に転戦することとなったのだ。

 

しかし、洗練された邸宅で過す姿を見ると、今こうしている彼女こそが本来のジーンであるように見える。

教養深い資産家令嬢であり、軍や戦争とは最も遠い穏やかな存在──そんな風に。

 

「お父上の具合があまりよろしくないとは伺いましたが。」

 

「ええ。兄も新しい事業を立ち上げてなかなか時間が取れないようですし、今はこうして……私が父の傍に。」

アムリッツァの会戦後の情勢不安の中で、彼女の父や兄は先代から受け継いだ会社を追われたと聞いていたが、どうやら彼女の兄というのもなかなかに逞しい人物らしい。

一方で父親は、療養のために帝国軍の駐留する都市部を離れ、ジーンもそれに付き添って地方の別邸へと移っている。

 

「だけど……そうですね、悪くないのかも。この数年は色々なことがあり過ぎたし、こうして落ち着いて過すのも久しぶりですから。」

視線を落としたシェーンコップだったが、ジーンは声を明るくして微笑んだ。

 

「実はね、料理を覚えたんですよ。このケーキも私が作ったんです。それにスコーンも!」

 

「あなたが料理を?」

純粋な驚きを声に乗せたシェーンコップに、ジーンは声を立てて笑った。

 

「事務処理以外にも向いてるものがあったみたいで。」

別邸に移ってからあれこれと暇に飽かせて挑戦し、今はなかなかの腕前なのだと胸を張ってみせる様子が愛らしい。

知的で落ち着いているという印象のジーンだが、こうして笑う様子を見ていると、ヤンと三人で安酒を酌み交わした時間が甦り、そういえば存外朗らかな女性だったなと自然と口唇が綻んだ。

 

「では、ご賞味に預かりましょう。」

 

「ええ、是非!」

少女のように微笑んで自分を見つめる姿に、胸が熱くなる。

たくさんの女性を愛し、恋愛という戦場でも場数を踏んできたつもりだったが、こうしてジーンと接していると新鮮な感情が沸いてくる。

美女を口説くのは男の務めと自負してきたが、あるいは違う意味でジーンに惹かれているのかもしれないと感じていた。

 

「シェーンコップ中将は、今はどうされてるのですか。」

「大変結構」とケーキの感想を述べたシェーンコップをジーンは素直に喜んで、それから彼の近況を尋ねた。

 

「もう中将ではありませんよ。」

ヤンのことを「提督」と呼んだ自分を棚に上げてそう言い返せば、

 

「ええと……。」

わずかにそよぐ風がジーンの髪を揺らして、二人の間にある空気もまた──微妙に色を変える。

 

「ワルター・フォン・シェーンコップです。ご存じでしょう……ジーン。」

呼びかけた彼自身もまた、初めての呼び名を口唇に乗せる。

 

「ッ、」

瞳を揺らし、それから頬を染めた彼女が口唇を開きかけた時だった。

シェーンコップの携帯用端末が受信を知らせた。

 

「失礼。」

苦笑して端末を取り上げたシェーンコップの顔色が、みるみると変化していく。

 

「……ヤン提督が、政府に拘禁されました。」

 

「!」

これから起こるであろう事態を一瞬の後に予測したのは、二人同じだった。

政府によるヤンの拘禁は、おそらく帝国側の指示によるものだろう。

ヤン自身にその気があるかどうかはともかく、彼は自由惑星同盟における生きた英雄である。

彼の存在をクーデターの要素として警戒しても不思議ではない。

だとすれば、拘禁された後は──。

 

「申し訳ない、すぐに戻らなくては。」

 

「ッ、私も……!」

椅子を蹴るようにして立ち上がったシェーンコップの後に、ジーンも続こうとする。

ヤン、フレデリカにユリアン、かつての仲間たちの存在が、彼女を安住の地から引き離そうとしていた。

 

彼女の手を引くこともできたはずだった。

けれど、シェーンコップはそれをしなかった。

ジーンの手を取る代わりにその頬に触れ、彼一流の微笑みを彼女に送る。

 

「お父上の傍にいてあげなさい。」

 

「でも……!」

この先に待っているのが、死線であることをシェーンコップは知っている。

彼女は十分にその身を同盟軍に捧げてくれた、これ以上の危険には巻き込むべきではないと思った。

それ以上に──守り切れる自信のない場所に、彼女を連れて行きたくなかった。

 

「私、私にも……何か出来ることがあるはずです……!」

ジーンが優秀な事務官であることも、自分たちのために献身的に働いてくれることもわかっている。

それでも連れて行きたくない。

 

「ジーン。」

頬に触れていた手を彼女の背中にまわし、そっと引き寄せる。

彼女が息を飲んだのがわかった。

 

「厳しい戦いになります。私も、残るあなたにとっても……。」

抱きしめた腕の意味を、シェーンコップの望む形で彼女が理解したのかはわからない。

けれど、強ばりの抜けていく背中に、どうにか説得に成功したことを知る。

 

「自分が何のために在るのか、優秀なあなたであればこそ迷うこともあるでしょう。その時は、私のために在るのだと思ってください。私は待つだけの価値がある男です、帰ってきたらきっと……証明して差し上げますよ。」

迷い、苦しみ、それでも前へ進むために戦ってきた彼女を知っている。

自分たちを支えるために、持てるすべてを捧げてくれた彼女を知っている。

だからこそ、待たされる苦しみが、彼女を苛むであろうことも知っている。

 

彼女を置いて去ることは、自分の身勝手なのかもしれない。

だとすれば、その償いはきっとする。

 

『早く戦争を終わらせて、みんなでゆっくりと朝食でも取りましょう。』

 

そう言って微笑んだ彼女のもとに、きっと帰ってくる。

ヤンを、フレデリカを、共に在った仲間たちを連れて。



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【13】悲しみと決意

一年という月日は、世界の何もかもを変えてしまったかと思うほどだった。

 

かつてジーンも駐在したイゼルローン要塞は、旧同盟軍の有志たちによって政治的に独立した組織としての地位を固めつつある。

フレデリカを政治的指導者とし、ユリアンを軍司令官として発表したその場所に──皆の求める主、ヤン・ウェンリーはいない。

彼がテロリストの凶弾に斃れたことを、ジーンはイゼルローンからの公的な発表で知った。

 

夏の別邸でシェーンコップと別れて以来、彼ともフレデリカとも一切の連絡を取っていない。

去り際のシェーンコップのことを振り返ればそれは当然にも思えたし、一方で寂しさや孤独感に似た複雑な感情もジーンの中にある。

 

「待っていてくれ」と、シェーンコップは言った。

それは病気の父親の看病に当たるジーンのためとも思われたし、元々が軍人である彼らとはやはり違うのだと線を引かれたようにも感じていた。

背中に触れた手のひらの熱を思い出せば──あるいは別の意味もあったかもしれないとも思う。

 

それでも、ジーンはただ待つことはできなかった。

彼女を動かしたのは、確かに生来の性質もあった。

しかし、大きかったのは──敬愛していた二人の人物の死だった。

ヤンの訃報を聞く半年ほど前、彼女の父もまた息を引き取った。

 

父をなくした時、ジーンは大学に戻って研究の道に就こうとした。

しかし、一度は決めた人生の方針を変えたのは、ヤンという大きすぎる存在を失ったことが理由だった。

悲しみはあまりに大きかったが、同時に、遠く離れた場所にいるフレデリカたちを思うと何か行動を起こさずにはいられなかったのだ。

ジーン以上に、彼らにとってのヤンはあまりにも大きな存在だろう。

 

彼は──暗がりの中で行き先を示す灯台のような存在だった。

希望であり、指針、そんな彼を失った今、フレデリカもユリアンも漆黒の不安の中にいるはずだ。

示す明かりのない今、かつての仲間たちを乗せた船が、皆で同じ場所を目指し進めるのかも気がかりだった。

 

遠くにある仲間を思いながら向かった場所は、ジーンにとって最も身近な場所であるハイネセンの首都だった。

ハイネセンは今、「新領土」の名のもとに、銀河帝国の一領土としての一歩を踏み出してたところである。

ジーンが、その「新領土」の行政機関である「総督府」に向かったのは、そこで事務官の職を得るためだった。

 

「民事長官の補佐官として採用」という内示を受けたことを、ジーン自身が驚いた。

民事長官のユリウス・エルスハイマーは、銀河帝国にて内務省次官、民政省次官を歴任した文官で、新皇帝直々の人事を受け、ハイネセンに赴任してきたのだという。

そんな高位の人物の補佐官に採用されようとは、まさか思っていなかった。

自身の能力を卑下するつもりはないが、これまでの職務履歴を正直に提出した身としてはむしろ不採用であっても仕方がないと思っていたのである。

 

正式な辞令を受け取るため総督府を訪問したジーンは、あっさりとその人物に面談できたことにもまた驚かされた。

エルスハイマーは文官らしい落ち着いた物腰の人物で、彼の柔和な話しぶりは、敵地に乗り込むような思いで面談に挑んだジーンを幾分安心させた。

 

「気を悪くしないでもらいたいのだが、」

一通りの挨拶を終えた後で咳払いをすると、新しい上司は少し気まずそうな表情をつくる。

 

「帝国本土では女性が行政に携わることは少ない。つまり、君に対してあまり快く思わない者もいるかもしれない。」

なるほど、とジーンは小さく頷いた。

歴史における専制政治における常として、女性は多くの場合行政の外に置かれてきた。

それは銀河帝国でも同様らしい。

新皇帝の秘書官は美貌の女性であったように記憶しているが、それは何かの例外なのだろうかと表情に出さないままで考える。

しかし、エルスハイマーの考えは少し違うようだった。

 

「皇帝陛下は先見の明のあるお方だ、たとえ旧同盟領の習慣であっても良いものは積極的にお取り入れになるだろう。」

彼の発言は、苛烈な軍人という新皇帝に対する印象を変化させた。

専制君主でありながら部下にこのように言わせるだけの人物は、歴史を振り返ってみてもそう多くはいないだろう。

それほどの人物かと感嘆する一方、だとすれば希望はあるとジーンは思う。

長い間敵対関係にあった自由惑星同盟の領土を、新皇帝はどのように治めていくつもりなのだろうかと不安に感じていたが、少なくとも無益な圧制や人民に犠牲を強いるような政策は行われないだろうと思ったからだ。

 

垣間見た皇帝の輪郭に安堵の感情を得ると、ジーンの興味は総督府の主である人物に移った。

オスカー・フォン・ロイエンタール、初めてその名前を聞いたのは、二年ほど前のことだった。

当時イゼルローンに駐在していたヤン艦隊を襲撃した敵将で、その後も戦役を重ねるごとに武名を高め、今は帝国元帥の地位にある。

ヤンをして名将と言わせた人物は、行政の守護者としてどのような治世をもたらすのか。

 

軍略に優れた人間が、必ずしも政治家として優れているわけではない。

アンバランスという意味においては、ヤンのような極端な例は珍しいかもしれない。

しかし、軍による独裁が失敗する場合、その多くは「武功によって地位を得た軍人が、不慣れな政治で失策を繰り返したこと」が原因であると過去の歴史が物語っている。

 

 

「それに……正直なところ、我々も人手不足でね。」

エルスハイマーが先ほどまでの儀礼的な表情を崩して眉を下げると、砕けた帝国公用語でそう告げる。

知りたいと思った情報は与えられなかったが、彼の気さくな態度にほっとしたジーンも笑みを返す。

 

「長官のお力になれるよう努力いたします。」

新しい上司ともなんとか上手くやれそうだ、そう思った。

 

せっかく採用されたのだから、是が非でも上手く立ち回らなければいけない。

それが、今の自分にできること。

この総督府で実力を身に着け、地位を築けば、いつかきっと──。

 

強い気持ちを胸に新たな職務に励むジーンに意外な人物からの連絡が届いたのは、それから暫く後のことだった。



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【14】静かなる約束

「迷惑ではなかったか。」

 

「とんでもない。久しぶりにお会いできて嬉しいです。」

1年半ぶりに会うムライは、ジーンの知る彼よりも少しばかり老け込んで見えた。

それだけの苦労があったのだろうと思うと、イゼルローンにいるフレデリカたちのことが気にかかる。

 

「私に連絡をくださったということは、何かお手伝いできることがあるということでしょうか。」

声を低くし、けれどストレートにジーンは尋ねた。

 

「……そうじゃない。ただ、」

ムライが顔を曇らせる。

彼の表情に浮かんだ感情を察したジーンは、目の前に置かれたコーヒーカップに静かに口をつけた。

 

「ご心配なさらないでください。私が総督府で働いているのは、あくまで一人の職員としてです。危険なことはするつもりはないし、それに……フレデリカたちからの連絡もありません。」

ムライがイゼルローンを離れたという情報はジーンも得ていたが、詳しい事情は知らない。

それでも、ムライがかつての部下であるジーンの身を案じてくれたのだということは十分に伝わったし、彼の態度を見ればムライにはもうイゼルローンの彼らと戦いを共にする意志はないのだろうと思われた。

 

「イゼルローンの現状に納得していない者たちは、私と一緒にハイネセンに戻った。」

 

「ええ。」

二人は、人の行き交う通りのカフェで向き合っている。

この場所を指定したのは他ならぬジーンで、それはムライにも自分にも不要な疑いが向かないように、「旧知の者同士の純粋な再会」であると周囲に示したかったからである。

 

「わかっています。」

ムライの一言に、ジーンは事情を理解した。

彼は彼で、自身の目的のためにイゼルローンを離れたのだ。

ヤンを失い、イゼルローンは一枚岩とは言えない状況に陥ったのだろう。

不満を持つ者、不安と恐怖を抱える者、ヤンがいるならばとハイネセンを飛び出して行った者たちの中には、そこに残る意義をなくした者も多かったはずだ。

だから、ムライは彼らを連れてハイネセンに戻った。

イゼルローンの意志をより強固なものとするために、彼は彼の役割を果たしたのだ。

 

「ムライさん。」

誰にも告げるつもりのなかった思いだが、自分の身を案じてくれたムライには打ち明けようと思った。

静かに、しかしはっきりとジーンは告げる。

 

「政治的解決は、武力ではなく協議と交渉でこそ成されるべきだと私は今も思っています。必要とされる時が来たら……私も力を尽くすつもりです。」

それ以上の表現は控えるべきだと思った。

しかし、ムライには十分に伝わったらしい。

 

新銀河帝国の安定が確かなものとなればなるほど、イゼルローンは孤立を深めていくだろう。

治世が平穏を取り戻せば、旧同盟領の人々さえ彼らを望まなくなるかもしれない。

自由主義を返せと今は声高に叫ぶ民衆も、銀河皇帝の名前に諸手を上げる日が来るかもしれない。

その時は、武力ではなく政治的交渉こそが──彼らを救う唯一の手段になるだろう。

 

時代は確実に針を進め、人々の心もやがて移ろい行く。

それでも、心は常に同じ場所にある。

ヤン・ウェンリー提督のもと、共に命を懸けた仲間たちが闘い続ける限り、ムライもジーンも戦場を降りることはない。

 

「夏はすぐそこです。お身体には十分お気を付けください。」

 

「ああ。君のほうも息災で。」

彼らしい気難し気な表情を崩して見せたムライに向かって微笑んで、ジーンは座っていた座席からゆっくりと立った。

 

時代の潮流が新たな不穏を運ぼうとしていることをこの時のジーンは知る由もなく、束の間の再会は、穏やかな余韻を残して過ぎていった。



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【15】金銀妖瞳の総督

ロイエンタール新領土総督の政治手腕は、誰も否定しようのないほど見事なものと言えた。

着任早々に長く放置されていた政治腐敗や経済界との不法な結びつきを是正した彼は、それと同時に治安の安定化と荒廃したインフラの再構築に乗り出した。

武力をもって行われる捜査の強引さは反政府勢力やジャーナリズムの反感を買いはしたが、結果として、民衆の心は平和と安定をもたらす新政府への信任に傾きつつある。

物価が安定し、街にかつての賑わいが戻るまでに要した時間は振り返ればごく僅かで、目まぐるしい変化の中で民政長官の補佐官として執務に当たるジーンも感心せざるを得なかった。

 

そうして行政をコントロールしながら、彼は言論統制や反政府運動の取り締まりを一切行わなかった。

500万を超える「新領土軍」の指揮権を持っていながらだ。

デモや集会が起これば警備のために兵士を送りはするが、彼の軍隊は統率が取れ、それでいて決して民衆に対して威圧的でなかった。

 

これだけの施政を短期間にこなす人物とは一体どんな人なのだろうと、単純に思う。

武官なのだから心身は壮健なのだろうがそれにしても殆ど休みなしに思えるし、滞りなく行政府を動かし領土の管理体制を確かなものにしていく彼の頭脳にはどれほどの容量があるのだろうかと不思議に思わずにいられない。

 

勿論、彼の外見であれば知っている。

直接会ったことこそないものの執政の長であるその人の姿は、頻繁にメディアを通して見かけているからだ。

彼の外見を表すならば、一言で言うと「貴族的」だ。

大層な美男子ではあるが、その印象は軍人や政治家のそれとはやや異なる。

優雅さの中に犀利さを感じるその人の瞳は左右の色がそれぞれ異なっており、そのことがまた彼の印象をどこか現実感のないものにしていた。

 

白皙の美貌を持つ若い皇帝同様、ロイエンタールに対してもジーンはどこか実在の人物でないように感じていて、「これが帝国貴族ということなのか」と自分を納得させてはいるもののどうにも自分の上司であるという実感が沸かずにいた。

 

その上司とついに対面を果たすことになったのは、ジーンが上奏したスポーツに関する助成金の案をロイエンタールが却下したことが原因だった。

「私が交渉します!」と予算案を握りしめるジーンをエルスハイマーは引き留めたが、結局の彼女の雄弁に押される形で許可した。

 

 

「先日提出したスポーツ振興に関する助成金の件ですが。」

挨拶もそこそこに総督のデスクの前に進み出たジーンは、用意してきた資料を目の前の人物に差し出した。

 

「その件なら既に却下したはずだが。」

デスクから視線を上げることさえせずにロイエンタールは答え、ジーンがデスクに置いた資料を一瞥もせずに捨てようとした。

 

「待ってください!スポーツは教育や社会秩序のための重要な要素です!」

人類におけるスポーツの歴史に触れ、現在のハイネセンで行われている競技について体系付けて記した渾身の資料である。

 

「現在のハイネセンは娯楽の供給が不足しています。このような状況が不穏を煽ることにも繋がると思いますが、総督はどうお考えですか。」

早口に告げたジーンに、ロイエンタールが執務の手を止める。

効果ありと判断して先を続けようとした時、彼の手が再び動き出す。

 

「では、公園整備の予算を削れ。その範囲でなら許可する。」

 

「ちょっと待ってください!あの予算だって苦労して捻出して……!」

 

「戦後処理も不十分な今、そのような余裕はない。」

一度も視線を上げずに答える男にジーンはフラストレーションを募らせたが、だからといって簡単に議論を放棄するわけにはいかない。

 

「予算を理由に市民感情を蔑ろにして良いとは思えません。つきましては、予算の洗い直しを行いたいと思いますが、許可いただけますでしょうか。」

彼と、目が合った。

貴族然とした秀麗な容貌に光る眼差し、鋭い視線に射抜かれてジーンは思わずたじろいだ。

 

「……明日の朝までであれば待とう。以上だ、下がれ。」

寄越された答えの無謀さに言い返したい気持ちがこみ上げるが、それを口にできないだけの迫力がロイエンタールにはあった。

 

「承知いたしました。」

部屋を辞した後で、大きく息を吐く。

それは緊張から解放された安堵のため息であったが、すぐに与えられた課題の難易度に対する憤りに変わった。

一晩ですべての予算を再試算するなど、到底不可能なことだ。

しかも、自分一人で。

 

ロイエンタールの迫力に気圧される形で承知してしまったが、明らかに無謀だ。

しかし、ジーンが「出来ませんでした」という安易な答えを持参した時、彼がどのような反応を示すかは、悪い方向に対する無限の可能性を持っていた。

まずはまとめて削れそうな分野に目星がつけられないものかと業務手順について思案しながら、ジーンは民政長官室のドアをくぐる。

 

「申し訳ありません、長官。」

至らなさを詫びたジーンだったが、それに対するエルスハイマーの反応は意外なものだった。

 

「それで、何をすれば認めると?」

 

「え?」

この二カ月を彼女の上司として過ごした上官は、苦笑をもってジーンに応え、

 

「即却下とは言われなかったのだろう、だとすれば勝機はある。」

そう言いながら、彼女の手にしたレポートを受け取った。

 

「この資料を見れば君の意見が正しいことは十分理解できる。だったら、やってみよう。」

まさか上司の協力が得られると思っていなかったジーンは驚きと感謝とで言葉を失い、代わりにエルスハイマーが部下を集めて指示を出した。

 

「まずは予算の洗い直しだ。生活インフラと軍事費は除こう、それ以外で削れそうなところを探してくれ。配分はすぐに各自の端末に送る。」

 

作業は夜を徹して行われたが、帰りたいと言い出す者は一人もいなかった。

彼らの忍耐強さを軍人らしいとジーンは受け取ったが、エルスハイマー曰くそれだけではないらしい。

 

「君の仕事ぶりを見ていれば、不要な業務でないことはすぐにわかる。我々は帝国本土の人間だが、何よりもまずこの新領土の執政を皇帝陛下から預かる身。領土の安定のために手を抜くことはできないだろう。」

自身の働きが認められたこと以上に、彼らにもハイネセンの安寧を願う思いがあることに喜びを感じる。

たとえ「皇帝陛下の御為」であっても、彼らの故郷から遠いこの土地を思ってくれることが嬉しかった。

専制政治と民主政治を隔てる壁は高い。

それらが交わる可能性は極めて低く、その対立は、有史以来ほとんどの場合で武力を持って解決されてきた。

けれどもしかしたら──いつかこの新領土で新しい政治を実現することが出来るかもしれない。

胸に灯った希望の光に、ジーンは笑みを深める。

 

 

「帝国の方は、スポーツはされないのですか。」

 

「娯楽というより自身の鍛錬の場という認識だな。士官学校では乗馬や剣術、それに体術も習得するが、それらは誰かに披露するためのものではない。」

夜のとばりが降りた総督府の一室で、エルスハイマーとジーンたちは数字と格闘し続けた。

 

「そう、ロイエンタール総督といえばいずれの分野においても名人として知られている。剣技にブラスターと一日に三度決闘を申し込まれて、三人を病院送りにしたという話は有名だが……。」

私的な決闘の武勇伝という同盟人のジーンにすれば些か古めかしいタイプの噂話だが、取り澄ました様子の上司の顔を想像すると苦笑せずにいられない。

 

「決闘って……女性関係ですか。」

エルスハイマーとジーンのやり取りに周囲も笑って、休むことなく作業を続ける彼らの間をどこか温かな空気が満たしていく。

 

こんな感覚は久しぶりだと、ジーンは思った。

戦場にあっても笑い合えた仲間たちの姿が脳裏を掠め、いつかすべての人を友だと呼べる日が来ることを願わずにいられない。

どうか戦火のない日々を、心穏やかに暮らせる日常を──祈る心を宥めるように、ハイネセンの宵闇が総督府を静かに包み込んでいた。



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【16】守るべきもの

「なるほど、エルスハイマーも紳士なことだな。」

目的としていた予算の許諾を貰い、ほっと胸を撫でおろしたジーンだったが、上司から放たれた言葉に再び身を堅くする。

徹夜で仕上げた書類を別段の指摘もなしに認可してくれた上司だったが、どうやら何事もなく済まされるというほど甘くはなかったようだ。

 

女性が働くことを快く思わない者もいるとエルスハイマーが言っていたが、「なるほど、この人のことだったのか」と今更のように納得する。

ジーンが女だから皆が手伝ってくれたのだろうと揶揄しているのは明らかで、これに対しては彼女のほうも反論がある。

同僚たちは確かに皆紳士的だが、それは決して悪い意味ではない。

同じ職場で働くものとして純粋に信頼を預け合っていると思えたし、そこに性差があるとは感じていない。

 

しかし、ジーンは無言を返事とすることを選択した。

帝国本土では知的労働に従事する女性は少ないと聞くし、特に貴族女性にとってはそれが当然のことらしい。

総督府のトップに鎮座する彼の心の内は知れないが、富裕な貴族の出身であることを鑑みれば女性蔑視とも取れるこの態度は想定の範囲だろう。

いたずらな反発が有益な状況を生むとも思えないので沈黙を選んだだけのことだったが、目の前の彼はぴくりと眉を動かして不快の意を示した。

 

「……ご認可いただきありがとうございました。他に御用がないようでしたら、失礼させていただきます。」

どうにも気が合わないらしい。

秀麗な容貌を唱われる上司に対するジーンの率直な感想である。

だからといってまさか上司と言い争う気にもなれないジーンは、気まずい沈黙を儀礼的な一言で終結させて部屋を出た。

 

民政長官室へと戻りながら、先刻まで相対していた上司の輪郭をぼんやりと辿る。

優雅さと怜悧さを兼ね備えた美しい顔立ち、貴族然とした振る舞い。

けれど、それは単なる見かけ倒しではなく、執政官としてのロイエンタールは驚くほど有能だ。

合理的であり、理性的、それに俊敏さと決断力を併せ持っている。

銀河皇帝から第一の信任を受けて新領土総督を任されたというのが納得できる人物で、その仕事ぶりには尊敬を抱かずにいられない。

けれど、先ほどの態度は「先見の明がある」とエルスハイマーが評した皇帝の臣下としては、些か後進的ではないかと思ってしまう。

確かに貴族社会では女性が労働に従事するというのは珍しいことなのかもしれないが、執政官としての彼の有能さとはどうにも噛み合わない気がするのだ。

アンバランスな輪郭を描くその人の印象を上手く処理できずに首を傾げるが、結局は諦めた。

 

(単に遊び人だからってことなのかな……。)

宮中の花を手折っては捨てて帝国の男たちの反感を大いに買ったらしいという同僚の軽口を思い出して、ジーンが思考を完結させようとした時だった。

 

「お手柄だったようですね、ミス・ブラックウェル。」

微笑みを称えた男に行く手を遮られ、足を止めた。

この男の存在には、冷静を旨とするジーンも不快感を禁じ得ない。

 

「私もお力添えをと思ったんですがね。」

「高等参事官」の役職を持つ男は、エルスハイマーを補佐する役割を与えられた民政部門におけるナンバーツーだ。

しかし、同じ民政府に属し、また同じ同盟人であるジーンにとってさえ、最も信用のならない相手と言える。

整った容姿と爽やかな弁舌はいかにも政治家向きであり、実際にヨブ・トリューニヒトはその才能を存分に発揮して旧自由惑星同盟における権力のトップに上り詰めた人物である。

 

しかし、ジーンのかつての上司は、彼を民主主義に巣くう怪物だと考えていた。

ジーン自身もまったく同じ考えを持っている。

あの日、この男が己の身可愛さに講和を受け入れなければ──ハイネセンが占領されることも、ヤンを失うこともなかったかもしれない。

民衆を扇動し、利用し、時に裏切り、時勢を揺蕩いながら変質していく化け物、それがトリューニヒトであり、この男こそが民主主義を衆愚政治へと貶め、ハイネセンを専制君主に売り渡したのだ。

民政長官の補佐官となったからには、新しい道を歩き始めたハイネセンを彼から守らなければという意思をジーンは強くしている。

 

「……生憎ですが、参事官のお手を煩わせるような内容ではございませんので。」

敵意を消すことが精一杯で、無表情のままジーンはそう告げた。

しかし、トリューニヒトは意に返す様子もなく、笑みを浮かべたままで言った。

 

「そうですか。必要な時はいつでも声をかけてください。人民のためとあらば、私は努力を惜しむつもりはありませんからね。」

悪意など微塵も感じさせない表情こそが、この男の恐ろしさだとジーンは思う。

男の持つ不気味さに感じた不安と怒りとをなんとか堪え、ジーンはその場を辞した。

 

エルスハイマーの待つ部屋に帰り着くと、どこかほっとした気持ちになる。

ここで働き始めてからまだ僅かだが、想像していたよりもずっと──帝国人と同盟人の垣根は低いように感じている。

就業を決めた時には、征服者である彼らがどう振る舞うのか不安に感じていたジーンだったが、今は違う。

思想という点において高い隔たりのある彼らとジーンだが、「良い治政を」という気持ちは互いに共通している。

 

専制主義は、ジーンにとって受け入れ難いものではある。

しかし、時代は確実に「前へ」と動き始めている。

復興の道を歩き始めたハイネセンには活気が戻りつつあり、人々は征服者たちと距離を置きながらも新しい生活に馴染もうと努力している。

この先の未来には、もしかしたら──銀河帝国と旧自由惑星同盟、そしてイゼルローンに居るかつての仲間たちが共に在る世界が待っているのではないか。

 

夜明けと呼ぶには不安の多い時勢ではある。

それでも──希望の灯は確かにともりつつあった。



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【17】或る夜

お互いの間には気まずさしかないというのがジーンの見解だった。

 

彼は帝国人であり、軍人。

言うまでもなく男性、貴族、そしてどうやら女性蔑視のきらいがあるらしい。

そして、ジーンはまず女性である。

同盟人であり、一時は軍部に所属していたとはいえ彼女の人生の大半は軍とは遠いところにあった。

業務上の上司と部下とはいえ、直接のやり取りは最低限に留めるべき間柄だとジーンは思っている。

 

その二人が、夜の執務室で顔を合わせている。

 

「……エルスハイマーは不在か。」

とりあえずの口火を切ったのは、上司であるロイエンタールのほうだった。

 

「長官はお帰りになりました。奥様のお誕生日ということでしたので、今日は私が業務を代わらせていただいた次第です。」

エルスハイマーは仕事熱心な上司で、部下たちの業務の確認のためにいつも最後まで一人残って仕事をしている。

その業務量がかなりのものであったことをジーンは今まさに実感しているところだったが、そんな折りの訪問者である。

会話を楽しめる相手とも思えなかったが、相手もそれを求めてはいないだろう。

 

「何か御用がございましたか。」

儀礼的な態度で尋ねると、彼もまた上司の姿勢を崩さずに答えた。

 

「一つ頼もうと思っていたが、奥方の誕生日ならば仕方あるまい。明朝俺の執務室に来るように伝えてくれ。」

「はい」と答えればそれで終わった会話を引き延ばしてしまったのは、妻のために早々に帰宅した上司について、彼が「仕方ない」と言ったことを嬉しく感じたからだ。

冷たい男という印象だった彼の意外な人間味が、ジーンの返答を変えた。

 

「私で承れることであれば、お伺いいたしますが。」

JaかNeinかの選択権は上司である彼にあるので、あくまで儀礼の範囲で発した一言だったが、

 

「……では、頼もう。」

少しの沈黙の後で彼が下した判断が、居心地の悪さを悪化させることになった。

ロイエンタールが指示したのは、ここ最近に起きた反政府行動の人数と場所のデータ解析というややデリケートな内容ではあったが、だからといって彼に監視されながら作業しなければいけない程のものではないとジーンは思う。

しかし、ロイエンタールはエルスハイマーが使っている椅子に腰掛けると腕を組んでそのまま沈黙してしまった。

出て行ってくれとは言えるはずもなく、ジーンのほうも無言で作業を続ける。

 

キーボードを叩く音だけが響き、その場を支配しているのは気まずい静寂という状況だった。

部屋にいるのがエルスハイマーであれば彼の家族についてやハイネセンの娯楽について気軽に言葉を交わして多少砕けた空気になるのだが、ロイエンタールが相手ではそうはいかない。

少しの気安さでもあれば彼の女性遍歴をからかってみたりしたいものだとも思うのだが、続く静寂を鑑みるとあまりに無理がある。

同僚たちの話では、彼は銀河帝国軍きっての漁色家と呼ばれているらしく、軽口に聞く噂話にはとにかく女性の話が多い。

ハイネセンでの厳格な態度の彼しか知らないジーンにとってはなんとなく違和感のある噂話だったが、女性が騒いで当然の外見であることは認めざるを得ない。

均整のとれたしなやかな体躯と優雅な身のこなし、神経質そうに見えるが整った容貌は彼の怜悧さを際立たせている。

加えて有能な軍人であることを考慮すると多少の愛想のなさは許容されるのかもしれない。

あるいは女性の前では柔らかな態度に変わったりするのだろうかと想像してから、自身に対する頑なな様子を思い出して肩をすくめた。

 

居心地の悪さを空想でやり過ごしつつ作業を進め、彼の求めていた資料がようやく完成しようかという時だった。

データを地図に落とし込めばわかりやすいのではとふと思ったジーンは、発案の可否を尋ねるために隣のデスクに座る上司へ顔を向けた。

 

「総督」と呼びかけようとした声を飲み込んだのは、腕を組んだままの彼の目蓋がまるで動く気配がなかったからだ。

意外な無防備さに驚くけれど、考えてみれば多忙の身である。

自分に厳しい人だという評判はジーンも聞き及ぶところであったし、決して付き合いやすい上司ではない彼を部下たちが非難しないのは、ロイエンタール自身が部下たち以上に勤勉であるからだということも知っていた。

 

長い睫毛が影を落とす秀麗な顔を観察するのは僅かにとどめ、ジーンは再び作業に戻る。

しかし、彼女が地図データを添付した資料を完成させ、肩代わりしたエルスハイマーの業務を終えてもロイエンタールが目覚める気配はない。

後は帰宅するばかりとなり、お気に入りのホットレモネードに蜂蜜を垂らしながら「飲み終わっても起きなかったらさすがに声をかけよう」と思った時、ようやく彼の目蓋が持ち上がった。

あっという間に気まずい空気が戻ってくるが、とはいえ今この瞬間は自分に分があるとジーンは思う。

部下が作業する横で居眠りとは、十全十美の総督閣下とはいえ居丈高ではいられないだろう。

 

「データは総督の端末にお送りしましたが、こちらでご確認なさいますか。」

 

「……戻って確認させてもらう。」

彼が上司らしい態度を崩すことは勿論なかったが、僅かに逸らされた視線はジーンを満足させるには十分なものだった。

完璧を絵に描いたような上司の意外な一面に秘かな優越感を感じつつ、カップに揺れる蜂蜜色を啜る。

ホットレモネードの入った二つ目のカップを無視して彼は出ていってしまったが、次に会う時には少しは身構えずに済むかもしれない。

いずれ来るであろうその日をどこか楽しみに感じながらジーンは頬を綻ばせた。



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【18】明日を夢見て

「こうしてデータを見ていると、女性の雇用促進は喫緊の課題と言えますね。」

端末に映し出された数字を眺めながら、同僚の一人が言った。

 

「帰還兵を含めた軍部出身者の雇用同様、急ぎ対策を進める必要があるだろうな。」

エルスハイマーが請け合う。

 

「一部については帝国軍で雇用を検討するとベルゲングリューン軍事査閲監より申し出があった。とはいえ、人員の精査は容易ではないし、一方で彼らの雇用状況は治安問題と直結するから複雑な問題だ。」

経済が活力を取り戻し、雇用も回復しつつあるが、女性や元軍人たちの雇用はどうしても劣後しがちだ。

復興の道を着実に辿りつつあるハイネセンだが、長く対立関係にあった銀河帝国からの征服者を迎えることとなった今、人々の心には隠しようのない不安がある。

何が不穏を煽るきっかけになるかはわからない、そんな晦冥さが領土全体を覆っている。

生活の根幹である労働に関する不足は、特に火種となりやすい事項である。

雇用問題はジーンにとっても心の痛い課題であり、政治的に不安を感じる要素だった。

 

議論は長く続いたが、画期的な打開策は見いだせないまま会議は終了した。

これまでも幾度となく繰り返されている議題だが、有効な解決策とはほど遠い状況だった。

 

「些か無益な議論だったな。」

 

「何事も考えることに意義がありますから。思わぬアイデアが出てくるのも議論あってのことですし。」

ため息交じりに言ったエルスハイマーを励ましながら、不安な予兆を振り払うように笑顔をつくる。

お茶でも淹れましょうかと気軽な調子を意識して言うと、上司のほうもようやく表情を和らげた。

「少し休憩しようか」と言ったエルスハイマーに従ってジーンが紅茶を淹れ、二人でティーカップを傾けた。

 

 

「君は……誰か心に決めた人がいるのかね。」

 

「え?」

突然の問いかけに、ジーンは言葉を詰まらせた。

 

「え、ええと……心に決めた人というと、つまり……恋人とかそういうことでしょうか。」

プライベートなことを聞かれるのは初めてのことだったが、愛妻家と聞く彼の質問であれば不快感はない。

上司からの問いかけを雑談と受け止め、笑顔をつくってジーンは答える。

 

「残念ながら、今は。」

砕けた調子で眉を下げたジーンだったが、エルスハイマーは神妙な顔で頷いた。

 

「先ほどの議論の通り、戦後で男女の人口比が大きく偏っている。君ほどの女性でもお相手を見つけるのは難しいのかい?」

雑談というよりは、どうやら議論の続きだったらしい。

いかにも真面目な上司らしいとジーンは思い直したが、「どうでしょう」と曖昧に受け流す。

 

その心をさざめかせる人がいる。

その人は、ほんの1年前までジーンのすぐ近くにいた。

同じ場所に立ち、同じものを見て、時に弱気に揺れるジーンの心をそっと支えてくれた。

けれど、今は互いに遠く離れた場所にいて、言葉を交わすことさえ叶わない。

恋をしたとはっきりと言えるほど、二人の時間があったわけではない。

それでも「寂しい」とはっきりと思うし、彼の身を案じる気持ちがジーンの中にある。

そんな彼女の気配を感じ取ったのか、上司はジーンの顔を覗き込むと思わぬことを尋ねて寄越した。

 

「君は、帝国人の男は嫌いかな。」

 

「えっ!」

驚くジーンに彼は笑って、

 

「私の妻の兄なんだがね、軍人だが性格も穏やかで気のいい人物なんだ。」

本気とも冗談とも取れぬ調子でそう続けた。

 

「君のような女性を一人にしておくなんて勿体ないし、それに彼は誠実で本当にいい男だよ。」

穏やかだが熱のこもった口調で言う上司に続けて驚きながら、ジーンは曖昧に口角を上げる。

 

「私には勿体ない話です。」

上司の気づかいが嬉しかったし、身上を案じてくれる彼の人柄には感謝の気持ちしかない。

それでも、女性として人並みの幸せをとは──今は思えなかった。

 

「君は、」

 

「誰かの妻になるには、私は夢見がち過ぎるんです。」

言いかけたエルスハイマーを遮って、ジーンは微笑んだ。

 

「大きな夢を……見ているから。」

祖国は戦禍の末に主権を失い、仰ぎ見た英傑も逝ってしまった。

共にあった仲間たちを支えることさえ今はできず、遠く離れた場所で彼らを想うばかり。

なんと非力なことかと自分を嘆いたこともある。

自分が在る意味を見いだせないと途方にくれたことも、何度もある。

それでも今は、自分の出来ることをしたい。

祖国の安寧のために力を尽くし、離れている仲間たちのためにいつか戦いたい。

 

「……そうか。」

頷いた上司はきっとジーンの心情を理解してくれたのだろう。

彼女を追求しようとはせず、代わりに明るい口調で軽口を言った。

 

「だけど、ロイエンタール総督だけは止めておいたほうがいい。あの方のために涙を流した女性は、それこそ一個隊が組めるほどいるからね。」

篤実な彼らしからぬ冗談にジーンも笑った。

気詰まりな面の多い上司であるが、こうして職員たちの軽口の対象になるというのは意外に慕われている証拠なのだろう。

ジーンにとっては未だ遠い存在であるロイエンタールだが、実力をもって信頼と尊敬を得ているということは彼女にも理解できた。

 

「銀河帝国の淑女の心境とは、私はかけ離れているみたいです。総督が女性に笑みを向ける姿というのがあまり想像つかなくて。」

 

「まあ、部下である私としても概ね同意見だがね。」

こうして銀河帝国の官僚と笑い合う時間も、気が付けばいつの間にか当たり前になってきている。

ふと、キャゼルヌのもとで働いた日々を思い出す。

記憶の中にある時間が寂しさを呼び起こすが、決してそれだけではない。

懐かしい思い出と目の前のあたたかな笑みとに思いを馳せながら、ジーンは頬を綻ばせた。



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【19】二つの王国

「ミス・ブラックウェル。」

「ロイエンタール総督閣下がお呼びです」と、噂の人物の名前が告げられたのは、エルスハイマーとジーンがカップを空にして立ち上がろうとした時のことだった。

 

「ロイエンタール総督だけは止めておけ」とエルスハイマーは言った。

その上司のデスクを斜めに見る位置に、ジーンの席が置かれている。

事務仕事の補助要員としてしばらくの間彼女を借りたいとロイエンタールが求めたため、エルスハイマーの元を一時的に離れることになったのだ。

「女性だから仕事を手伝ってもらえたのだろう」と嫌味を言っていた上司が正当に実務能力を評価してくれたことは嬉しくもあったし、かつてほどの気詰まりはもう感じていない。

 

一方で、彼と働くようになってまだ僅かだが、「涙を流した女性で一個隊が組める」と言ったエルスハイマーの言葉もまんざら嘘ではなさそうだと思っている。

貴公子然とした容貌はいかにも帝国貴族らしく華やかであるし、所作から視線運びに至るまでの一つ一つが洗練されている。

ジーンにとってのロイエンタールは、長く「敵軍の恐ろしい司令官」という位置づけだったし、ここ暫くの彼は「有能だが気詰まりな上司」だった。

しかし、間近で彼を見ることが増えるほどに、いつかの無防備な姿が却って思い出される。

彼が有能であればあるほど、隙の無い優雅さで振る舞うほどに、そのコントラストは鮮明になる。

相変わらず舌鋒鋭い上司ではあるが、いつかの夜を思い出すとそれほど身構えるようなこともないような気がしてくる。

むしろ──怜悧な皮肉屋の仮面の下を覗き見たくて、女性たちが胸を焦がしたとしても仕方がないことのように思えていた。

 

「俺の顔に何かついているか。」

そんなことを考えていたせいか、彼の顔を凝視していたらしい。

不快というよりは好奇の視線で、ロイエンタールがジーンに尋ねる。

 

「……隈が。」

女殺しと名高い上司の考察を巡らせていたとは言えるはずもなく、代わりに見たままを答えた。

青と黒の異なる両眼の下、左右に共通しているのが日に日に濃くなる寝不足の証だ。

 

「隈?」

 

「ええ。」

ここ数日気になってはいたものの指摘せずにいたそれを告げると、それが意外だったのか「ほう」と小さく言って、ロイエンタールが目の下をなぞる仕草を見せた。

エルスハイマーも熱心な上司であるが、噂に聞くロイエンタールの仕事ぶりは彼以上のものらしい。

新天地を任された重責を負っているとはいえ、並の人間には到底続くはずもない長い時間を執務に当てていると聞いている。

 

「鏡をお貸ししましょうか。」

整った容姿には些か不釣り合いな影だったが、生憎と健康管理はジーンの専門外だ。

とはいえ自覚くらいはしても良いだろうと尋ねたジーンに返ってきたのは、予想外のものだった。

 

「ッはは……!」

この人も笑うのかと呆気に取られるジーンに、彼は声を抑えながらもまだ肩を揺らして、

 

「まったく同盟の女はわからぬ。」

そう言って、さも可笑しいというようにまた笑った。

皮肉めいた冷笑こそ見たことがあったものの、声を立てて笑う彼など見たことがない。

今何を言われても驚きしか返しそうにないなと思いながらただ視線を返すジーンに、ロイエンタールは今度こそ見慣れた皮肉な笑みを向けた。

 

「ひとり寝ばかりでは寝不足も仕方あるまい、この星は食事以外も実に味気なくて困る。」

同盟女性は色気がないとでも言いたげな台詞に閉口したが、気詰まりと思っていた上司の軽口は意外でもあった。

 

「女性に関する議論は良い帰結が見えないので差し控えますが、食事に関しては胸を張ってご紹介できる店がありますよ。」

ロイエンタールという人物の複雑さが、少しずつ輪郭を形作っていく様子をジーンは感じていた。

高い矜持を持ち、それが肯定されるだけの能力が彼にはある。

だからこそ簡単に他人に気を許すことをしない性格だが、決してそれだけではない。

厳しさの下にある「何か」が、彼を形づくる重要な一部となっている気がする。

 

それが何なのかはわからない。

わからないけれど──誰かにそれを知っていて欲しいと思った。

なぜそんな風に思ったのか自分でも不思議だとジーンは思うけれど、それは確かに彼女の中にある感情だった。

親友でもいい、家族でも恋人でもいい、誰か──傍にいる誰かに彼の柔らかな部分を支えてあげて欲しいと思った。

 

彼女は忘れていた。

かつて同じ思いを、ある人物に対して抱いたことを。

ヤン・ウェンリー──誰よりも尊敬し、憧れたその人と同じだけの心の面積を今やロイエンタールの存在が占めつつあることに、ジーンはまだ気付いていなかった。

 

「ほう、言うようになったな。」

口の端を曲げた上司の皮肉を受け流して、ジーンが微笑んだ。

 

「本当の私はすごく毒舌なんです。総督のご機嫌を損ねないために、これでも必死に猫をかぶってるんですから。」

 

彼の顔にある隈は相変わらずだったが、その日から執務室の空気は少しずつ変化していった。

互いの能力に対する評価で結びついていた関係は、確かな信頼感へと変わりつつある。

遠慮のない物言いをするジーンに、ロイエンタールが皮肉で返すことも増えた。

やがて民政府に帰任したジーンだったが、上司との調整役を易々とこなす彼女にエルスハイマーは驚き、同僚たちは救世主とはやし立てた。

 

しかし、彼らに許された平穏は決して長いものとはならなかった。

秋の始まりを告げる9月初日、グエン・キム・ホア広場で暴動が発生したのである。



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【20】同盟領の女

新領土総督府に入り込んだ異質の存在を、ロイエンタールは当初から把握していた。

総督府を構えるにあたり、帝国本土からの赴任者ばかりでは当然人員が足りず、旧同盟の役人たちを多く雇用した。

多くは中央政府の諸部署に勤務していた者たちであったが、一部には軍関係者もいた。

侵略者である自分たちを快く思わないのはむしろ当然のことと考え、過度な疑心は却って不要と思い切ったのは彼の度量である。

 

しかし、イゼルローン駐留軍に所属し、あの「ヒューベリオン」にも乗艦したという彼女の経歴は、提出された多くの履歴書の中でも異色のものだった。

帝国公用語を話し、政府と軍部に精通した人員であれば、新総督府の職員としては望ましい。

しかし、ヤン・ウェンリーの部下だった人物を雇用するというのは果たしてどうなのか。

トリューニヒトを民政府の参事官に迎えているものの、彼の人物には不審しかない。

エルスハイマーが別の補佐役を欲しがるのはもっともなことだったが、ジーン・ブラックェルの履歴書を持参してお伺いを立ててきた彼にどう返答すべきか、ロイエンタールも多少迷った。

 

──自分はヤン・ウェンリーに拘り過ぎているのではないか。

そう思考したことがジーンの雇用につながったことを、ロイエンタール自身だけが知っている。

ヤン・ウェンリーは銀河帝国に対して常に脅威であり続けたが、ロイエンタールにとってはただの敵将として消化できない存在でもあった。

ロイエンタールと同年に生まれたその男は、時に緻密に、ともすれば大胆に、華麗な戦略を駆使して艦隊を操る魔術師のようだった。

 

ロイエンタール自身もまた、イゼルローン要塞の攻略作戦の際に彼と対峙したことがある。

知略には自信があると考えていた彼でさえ、ヤン・ウェンリーがイゼルローンを放棄した時は「さすが」と感心したものだ。

艦隊を操る能力だけではなく、地勢を読み取る機知と行動力が備わっている。

イゼルローンを捨てて救援に向かったヤン・ウェンリーがいなければ、銀河帝国軍はもっとずっと小さな損害でハイネセンを手中に収めることができていただろう。

しかし、それだけの戦歴を残しながら、彼は必ずしも自由惑星同盟の要人とは言い切れず、政府からその存在を排除されそうになったことさえあった。

それでも彼が祖国を見捨てずに戦い続けた理由、それがわからない。

 

彼が何者であったのか知りたい、それは純粋な欲求として常にロイエンタールの中にあった。

しかし、彼の武人としての矜持がそれを思考から排除させた。

 

(所詮女ではないか。)

「案ずるほどの存在ではないだろう」と彼はエルスハイマーに言い、結果としてジーンは雇用された。

 

しかし、その「所詮」と思った女が民政府内で存在感を増しつつあることは、ロイエンタールにとってあまり気分のいいことではなかった。

彼女は自身の職務の範囲を忠実に守り、決して出過ぎるわけではない。

その忠実さが却って彼女の有能さを際立たせ、周囲に影響を与える存在となり始めていたのである。

 

「女」をロイエンタールは信用していない。

だが、彼は「女」をよく理解してもいる。

だから、化けの皮を剥いでやろうと思った。

訪ねた民政長官室で寝顔を見せるという失態の後だったことも余計にそう思わせた。

 

自分の補佐を命じたのは、猜疑心と好奇心の混じり合う複雑な心理の帰結である。

しかし、そこでもまた彼女は「自身の領分」を適切に守った。

余計なことを尋ねるでもなく、差し出たことも言わない。

多くの女たちがそうだったように、彼の歓心を得ようと気の利いたことを言ったりもしなかった。

 

その彼女が自分の顔を熱心に見つめていたことがあった。

ついに来たかと実は思った彼は、好奇の眼差しで彼女に尋ねた。

 

『俺の顔に何かついているか。』

見咎められたことを恥じらうでもなく、「隈が」と答えた彼女が、「少しお休みになられてください」などと言い出せば、これ幸いと口説いてみるつもりだった。

「女など所詮は感情の生き物」というのがロイエンタールの女性全般に対する認識で、その感情の襞を少し擽ってやればあっという間に心も身体も許してしまう安易さを、好ましくも疎ましくも思っていた。

 

『鏡をお貸ししましょうか。』

と返ってきた答えに思わず笑ってしまったのは、またしても失態だったとは思っている。

色気とはほど遠い返答だった。

しかし、味気ないにも程があると思ったそれを好ましいと彼は感じた。

節度を守っているといえば聞こえがいいが、男と女どころか上司としての自分さえ、まるで一歩引いたところから観察しているようで可笑しい。

職務に忠実である一方で、彼女はロイエンタールに対して傍観者を貫いているのだ。

あるいはそれは、同盟人としての矜恃が作り上げた壁なのかもしれない。

それはそれで賢いことだと感じたし、感傷を職務に持ち込まない姿勢は自身の部下に相応しいことだと思えた。

 

彼女には部下としての条件を満たすだけの有能さがあり、自身の領分をわきまえるだけの賢さがある。

そのことに納得すると同時、彼本人さえ気づかぬ間にジーン・ブラックウェルはロイエンタールの心の内に居場所を得てしまっていた。

思想も性別も、生まれた場所もこれまでの生き方も、まるで違う。

高く隔てられた壁の向こう、彼女が決して明け渡そうとしないその領域に何があるのか──それを知りたいと思う感情が、ロイエンタールの中に生まれていた。



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【21】グエン・キム・ホア広場

鎮魂の催事であったはずの慰霊祭は、14時06分の投石をきっかけに血と硝煙に包まれる悪夢と化した。

5,000人近くの市民が犠牲となり、100人を超える兵士も命を落とすこととなる暴動の発生を、ジーンは民政長官室でエルスハイマーと共に聞いた。

 

「そ、んな……。」

飛び込むようにしてベルゲングリューン軍事査閲監が民政長官室にやってきて、エルスハイマーと共にロイエンタールの執務室に駆けていった。

慌ただしさを増す総督府で、ジーンは自身の不安が現実となりつつあることを感じていた。

 

旧同盟軍の兵士たちの再雇用が進んでいないことは、ここもとの会議でも何度も問題となっていた。

職業軍人であった彼らに、軍務以外の職業経験はほぼない。

ベルゲングリューンは一部の兵士を帝国軍で雇用すると言ったが、彼らの身上調査には莫大な費用と時間が必要なこともあり、思うようには進んでいなかった。

元兵士たちの不満は暴力に直結する、それは歴史の上で繰り返されてきた悲しき事実でもある。

その不安が的中してしまった。

 

同時に、「誰かが暴動を引き起こしたのではないか」という疑念がジーンの中で持ち上がる。

彼女の記憶に甦るのは、同盟領で起こった「救国会議」によるクーデターだ。

後に銀河帝国の謀略であると判明した事件だが、その影に巧妙に絡んでいたのがかつてのフェザーンだった。

 

(フェザーン……いえ、地球教……。)

フェザーンの陰には常に地球教があり、その地球教徒によってヤンの命も奪われた。

平穏を切り裂いた暴力に、時勢の陰で蠢く謀略の気配を感じずにはいられない。

 

不安を溢れさせる思考に落ち着けと命じて、ジーンは長い間握り締めるだけだった糸を引いた。

フェザーンへと続く情報網、ひっそりと続けていた私的な外交経路を再び活用すべき時が来たのだ。

「友人たち」の囁きを聞けば、きっと何かがわかる。

今度こそ──手遅れにならないために。

 

 

「ジーン・ブラックウェル。」

彼女をフルネームで呼ぶ人物は少ない。

「フロイライン」と帝国式に呼びかける者もいたが、彼女を尊重し「ミス・ブラックウェル」と同盟式で呼ぶ者のほうが多かった。

 

「何か御用でしょうか。」

振り返ると、予想通りの人物がそこに立っていた。

銀河帝国元帥の壮麗な軍服に身を包んだ彼は、いつも通りの威厳を有してまっすぐに立っていたが、色の異なる左右の瞳が平素とは違う光を帯びている。

そもそもこの総督府の主たる彼が、わざわざ部下を廊下で呼び止めること自体が通常なら有り得ない。

慎重さを崩さずに、しかし彼を真摯に見返してジーンは答えた。

 

「少し、聞きたいことがある。」

グエン・キム・ホア広場での暴動以降、ジーンたち職員も過密な勤務状況が続いていた。

上司であるエルスハイマーやベルゲングリューンは部下たち以上に多忙を極めている。

当然ロイエンタール自身はそれ以上の職務に忙殺されているはずだが、それを押してジーンを訪ねるとは余程のことだと推察された。

 

グエン・キム・ホア広場の一件については旧同盟軍の関与が疑われており、実際にシトレ元元帥が拘禁されている。

自分の経歴を考えれば、査閲を受けても仕方のないことかもしれないとジーンは考えた。

しかし、ロイエンタールの問いかけは違った。

 

「ヤン・ウェンリーとはどんな男だったか。」

彼の執務室に入ると、ロイエンタールはワイングラスを差し出して言った。

食事はおろか、彼とお茶の一杯さえ飲んだことがないジーンとしては面食らったが、常ならざる彼の様子に黙ってグラスを受け取った。

淡い黄金色をした液体が、静かに注がれる。

 

「一人の死者が、数億の生きた人間を動かすことがあると思うか。」

言葉を探すジーンに、ロイエンタールが重ねて聞いた。

グエン・キム・ホア広場での出来事について尋ねているのだということは、すぐにわかった。

慰霊祭の最中に起こった暴動では、多くの人々が「ヤン・ウェンリー万歳」と叫んだと聞かされている。

 

「ヤン提督は、」

言いかけてからジーンははっとなり、しかし、「今はヤン提督と呼ぶことをお許しください」と告げて続けた。

 

「ヤン提督は、どこか掴み所のない方でした。確かに軍師としての力量は一流でしたが、一方でどこか頼りなく……それを支えたいと思って人が集まるようなところがあったと思います。」

ロイエンタールの意図を測れないままで、それでもジーンが正直な意見を述べたのは、上司としての彼を信頼していたからだ。

専制国家の軍人である彼と民政政治こそ正道と考えるジーンとでは、互いの主義には大きな隔たりがある。

しかし、短い時間とはいえ彼に尽くしてきたという自負があり、彼からの信頼も感じているつもりだった。

 

「俺は幾度も奴と戦火を交えてきたが、結局対面するには至らなかった。我こそがその首をと欲したこともあったが、ついには卑怯者の手でこの世から去ってしまった。」

ロイエンタールはなぜ、今、ヤンについて知りたがっているのだろう。

彼の真意を知りたいと瞳の奥を覗きこむが、左右どちらの瞳も薄暗い光を湛えるだけ。

 

「ヤン提督がどのような未来を標榜していたのか、今となっては尋ねることは叶いませんが……少なくとも暴力によって拓かれる未来は望んではいないと思います。」

 

「だが、奴は軍人だ。」

それこそがヤン・ウェンリー最大の矛盾なのだとジーンは思う。

軍人として誰よりも多くの功績を残しながら、私人としては自身の軍事行動にさえ否定的だった。

 

「望んで軍務に就かれたのではないと聞いたことがあります。けれど、あの方は……。」

その先の言葉は、言うべきかどうか迷うものだった。

グラスに注がれた白ワインを口に含み、逡巡する。

しかし、結局ジーンは続けた。

 

「国家のためではなく、自らの栄達のためでもなく、自由のために戦っていたのだと思います。」

 

「自由?」

専制主義とは縁遠いであろう言葉を告げながら、ジーンはロイエンタールの両眼を静かに見つめた。

 

「誰しもが自分自身のために考え、自分のために職業を選び、自分らしく生きる……それから、遠慮なくお酒を飲んで語らったり。」

最後の一つはジーンの冗談であったが、彼女の微笑みにロイエンタールは応えなかった。

彼は考え込むように顎先に指で触れ、「自由」と、不慣れであろう言葉を口の中で繰り返した。

 

「それが常に正解でないことはわかっています。腐敗した民主政治がいかに危険で愚かなものかは総督もご存じの通りです。」

あの日──ハイネセンが講和を受け入れずに戦い続け、ローエングラム公を討ち果たしていたとして、そこにどんな未来が待っていただろう。

トリューニヒトらによる悪政が続き、主権こそ保たれたものの、結局は銀河帝国との抗争の歴史を長引かせていただけではなかっただろうか。

専制主義への肯定に一歩を譲って、ジーンはもう一度ロイエンタールに向き直る。

 

「けれど、考え続けなければ。誰かに任せるのではなく、考え続けなければ。未来のために自分が何をできるのか、それが今を生きる者の責任であると私は考えています。」

自由には責任が伴い、責任とは考えることなのだとジーンは思う。

専制主義であろうと、民主主義であろうと、人々が考えることをやめてしまえば、国家は腐敗する。

だからこそ、人々を正しく、導く優れた為政者が必要なのだと。

ヤンについて尋ねられたはずが、いつの間にか政治論を披露してしまったことをジーンは恥じて、「申し訳ありません」と瞳を伏せた。

 

不思議な感覚だった。

目の前にいる男は、かつて自分の命を脅かした敵将であり、専制主義の旗を掲げてやってきた征服者だ。

遠い異国に在った二人がこうして向き合い、グラスを傾けている。

そして、その間にあるのは──今は敵意ではない。

 

鈍く光を揺蕩わせていたロイエンタールの瞳が、怜悧な思考を取り戻す様子を感じていた。

彼と出会わなければ、ジーンが専制主義の優位性を認めることはなかっただろう。

あるいは、彼も同じではないか──それは希望や願望という種類に近いものだったが、きっと通じて欲しいと彼女は願った。

 

ロイエンタールの見せる治政に希望を見たし、帝国から来た同僚たちが自分に示してくれた誠意を知っている。

だから、彼らのつくる総督府がハイネセンに美しい未来を見せてくれると信じたかった。

 

 

時勢はまた、いつか見た暗雲に覆われようとしている。

けれど、いや、だからこそ力を尽くさなければいけない。

国家や信条、題目のために、誰かが死ななければならない時代は、一刻も早く終わるべきだ。

 

「総督。」

グラスを見つめる彼に、ジーンはもう一度微笑んだ。

 

「ヤン・ウェンリー万歳なんて、本人が聞いたらきっとお困りになるに違いありません。彼は英雄になることを望まないし、人々が望んでいるのもきっと……本当は英雄なんかじゃない。」

 

「では、なんだというのだ。」

冴えた光を取り戻した彼の瞳には、議論ならば受けて立つという表情が浮かんでいた。

けれど、ジーンはただ笑った。

 

「明日の朝食をゆっくり食べられますように。」

皮肉屋の笑みを取り戻した彼を見つめて、ジーンは願っていた。

 

どうか安寧な日々を、この国に。

そして、どうかこの人にも──安らかなる日常がもたらされますように。



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【22】ウルヴァシー事件

安寧な日々をと願うジーンの思いは、ついに大きく裏切られることとなった。

荒れるハイネセンにこそ皇帝の御幸をというロイエンタールの申し出に応え、新皇帝・ラインハルトはフェザーンを発った。

しかし、その行幸の途中で事件は勃発する。

 

経由地のウルヴァシーで、皇帝が襲撃されたのだ。

戦没者墓地の完成式で皇帝の暗殺未遂事件が起きてから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。

グエン・キム・ホア広場での暴動もあり、新領土の治安維持を強化している中でのことでもあった。

総督府がこれまでとは桁違いの混乱に見舞われたのは、襲撃事件がロイエンタールの叛意によって引き起こされたのではないかという報がもたらされたためである。

総督府として正式な発表は、何もない。

事実とも虚偽ともわからないままでロイエンタール叛意の情報は職員たちの口から口へと伝播していった。

不安と疑心暗鬼とが総督府を支配し、これまでとは明らかに違った雰囲気を呼び起こしている。

 

保身のため、辞表も書かずに総督府を抜け出した者もいる。

旧同盟領の人間からすれば、帝国人同士の争いに巻き込まれた末にいたずらな嫌疑をかけられるなど一番避けたいことだった。

帝国軍人たちでさえ顔色を青くし、事態の行く末を推察して不安を口にしている。

彼らにとって直属の上官はロイエンタールだが、それと同時に銀河帝国皇帝に忠誠を誓う国民でもある。

また、彼らのほとんどは帝国本土に家族を残してきている。

誰に従い、何をすべきかわからないという状況は兵士たちを混乱させ、総督府全体に不安な機運を生じさせていた。

 

ジーンたちが最初に受け取った正式な報告は、「何者かによって、ウルヴァシーで皇帝陛下が襲撃された。テロリストの正体は不明だが、新領土総督府として全力をもって皇帝陛下の安全確保と治安の回復に努める」というものだった。

ロイエンタール自身の声明として総督府全体に伝えられたそれを受け、混乱と不安に包まれながらも総督府は彼の指示に従って動き出す。

 

旧同盟出身の職員たちの一部が逃亡したことで人員は大幅に不足し、職場に留まったジーンの業務負荷も大いに増した。

しかし、彼女は業務だけに集中するわけにはいかなかった。

 

「ロイエンタールに叛意あり」という情報は、これまでも複数回に渡りフェザーンの「友人たち」からもたらされている。

新領土に赴任する以前、ロイエンタールは皇帝自身による査問を受けている。

宿将としての忠義と功績をもって一度は疑いを捨てたラインハルトだったが、二度目の嫌疑がかけられたからには叛意は今度こそ本物ではないかと噂されているらしい。

数年に渡って蓄積されてきた彼女の情報網は今や銀河帝国の中枢近くまで届いており、ひとたび問いかければ「友人たち」の囁きがあらゆる方面からの情報を運んでくれた。

そしてその殆どが、ロイエンタールの反逆は真実に近いとするものだった。

 

一方で、総督府に属する彼女の視界においては、ロイエンタールの真意はまったく不明のままである。

民政府に属する彼女は軍事方面については情報、人脈双方に乏しく、彼が謀反のために作戦を起こしているのか否かは判断のしようがなかった。

彼の心の内についてはもっと知りようがない。

 

(総督が……皇帝を裏切る……?)

ロイエンタールは、本質的に野心家である。

だからこそ今日の栄達を手にしているし、彼の人となりを知れば能力と自信に裏打ちされたそれを十分に感じることができた。

その彼がより大きな栄達を望んだとしても確かに不思議ではないように思える。

噂が一層の真実味を帯び、今この状態を生み出すに至ったのは、彼の性質による部分が大きいだろう。

 

しかし、「なぜ」と思考すると明確な答えは得られない。

ハイネセンは今、ロイエンタールの治世のもとで復興への道を歩み始めたばかりである。

ロイエンタールの政治手腕はジーンから見ても疑い様のない見事なもので、優れた為政者である彼がいたずらに領土を危機にさらすというのは考えづらい。

 

──信じたかった。

信じたいと、ジーンは思っていた。

たとえ同盟領の人間ではなくとも、優れた為政者の政治手腕はハイネセンに安定をもたらすと考えていたし、実際にロイエンタールはそれを着実に実行しつつあった。

いつしか、理想とする政治家の姿をロイエンタールに重ねるようにさえなっていた。

そのロイエンタールが、未来へと歩み始めたハイネセンを再び戦禍に引き戻すはずがないと信じたかった。

 

一方で、思考の奥から呼びかける声を聞いている。

 

(フレデリカ、ユリアン……!)

イゼルローンにいる仲間たちの姿が、目蓋の裏に甦る。

望んだ形でこそないが、今まさに時勢が大きく動こうとしている。

──今再び世が乱れれば、彼らの存在が光として浮かび上がるかもしれないと思うのだ。

 

ハイネセンと銀河帝国軍が対立すれば、イゼルローンの地理的な価値は著しく向上する。

専制主義下の新領土として歩み始めたハイネセンに、ともすれば共和制を取り戻すきっかけになるかもしれない。

ユリアンとフレデリカの掲げる共和制は、ジーンにとっても理想である。

もしもそれを、取り戻すことができるのだとしたら──。

 

揺れ動く胸の内を理性という箍で締め付けて、ジーンはフェザーンへと続くプライベートな回線を開いた。



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【23】慟哭

フェザーンの「友人たち」から届けられた情報は二つ。

 

一つは、皇帝の安否は依然として不明であり、ロイエンタール叛意の報はほとんど真実としてフェザーン内で定着しつつあるということ。

この情報について、ジーンはさほど気にとめなかった。

事実だったとしてもそうでなかったとしても、事態が展開する方向としてはごく当然である。

 

以前の彼女であれば、目の前の任務に集中することで動揺する心を鎮めようとしかもしれない。

しかし、時が彼女に情報という武器を与えたように、彼女自身もまた自らを戒めるだけの冷静さを身につけていた。

 

──ロイエンタールの叛意は真実か、あるいは偶然がもたらした不幸か。

冷静に、ジーンは二つ目の情報を見つめる。

 

第三の可能性は、もう一方の情報により示された。

「帝国軍人からの不法な横流し品が、先ごろまで大量に購入されていた」、それはフェザーンの商人の一人からもたらされた情報である。

 

商業都市として栄華を誇ったフェザーンであるが、銀河帝国による侵略、そしてオーディンからの遷都によって、かつてとは雰囲気を変えつつある。

しかし、大量の軍人が進駐し、軍事国家の首都らしく面影を変えていく中にあっても、逞しく生き延びていくのがフェザーンの商人たちである。

戦後の混乱に乗じる形で、マーケットは闇に向かって裾野を広げていた。

軍部による厳しい取り締まりが行われる一方で、末端の軍人たちが闇マーケットの拡大に一役を買うというのも歴史における常である。

彼らが横流しした品が大量に購入されたとなれば、穏やかではない事態を想像するのは当然のこと。

この状況なら尚更──。

 

「謀略」の文字が脳裏に閃くと当時、ジーンは椅子を蹴って駆け出していた。

 

「総督!」

飛び込んだ総督室にいたのは、ロイエンタール本人とベルゲングリューン、そしてジーンの上司であるエルスハイマーである。

三人の視線がジーンに集中する。

 

「ミス・ブラックウェル、何か緊急の用件か。」

問いかけたのは彼女の直属の上司で、そこに来てジーンは自分の行動が慎重さを欠いていたことに気がついた。

フェザーンに独自の情報網を持っていると告白すれば、悪印象は免れない。

それどころか、ジーンこそが謀略者の一端であると見なされかねない。

握りしめた手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。

 

「わ、私は……今回のウルヴァシーでの事件は何者かの謀略の可能性があると考えます。」

 

「……何か根拠があるのか。」

ロイエンタールが口を開き、二色を映す両眼がじっとジーンを見つめた。

 

「いえ……証拠はありません。しかし、私自身はこれまでも謀略により暴動が誘発されたケースを見てきています。」

なんと弱い論拠だろうかと自分でも思った。

案の定ロイエンタールは口の端を曲げて冷笑し、「根拠にならんな」と一蹴した。

彼は既に謀略の可能性を承知している、それを知った上で「根拠の示せないことは議論しても無駄だ」と言っているのだと、ジーンは気がついた。

それでも引き下がれなかった理由を、ジーンは自分でも理解できなかった。

 

「総督ご自身のお心に問いかけていただければ、答えはおのずと明らかでしょう。それとも総督はただの不幸な偶然であるとお考えですか?!」

詰め寄るようにして告げたジーンに、

 

「俺自身が企てたこととは考えぬのか。」

ナイフのような視線が突き刺さる。

しかし、怯む気持ちは沸かなかった。

 

「思いません。」

信じたいと願った相手の無実が事実として帰結しつつある今、ジーンの答えに迷いはなかった。

 

「ほう。」

冷ややかな笑みがジーンの頬を撫で、しかしすぐに怜悧な新領土総督の顔に変わった。

 

「……グリルパルツァー大将に治安の回復と調査を命じている。皇帝陛下の御身以外が目的というならいずれ何事かが判明しよう。」

下がれと命じられれば居残る理由はなく、ジーンは総督室を辞した。

そのジーンを追いかけてきた人がいる。

 

「ミス・ブラックウェル!待ちたまえ!」

忠告であれば甘んじて受けようと構えたジーンだったが、彼女を呼び止めたベルゲングリューンは、平素の折り目正しい彼とは様子を異にしていた。

 

「今、話したことは真実か。」

いつ何時も冷静さを失わない、歴戦の勇者として名高いロイエンタールの副官である。

その彼の表情に、暗い影が落ちている。

 

「……私はそう考えています。」

上司であるエルスハイマーと違い、ジーンは彼の人となりを詳しくは知らない。

厚くたくわえられた髭は彼の猛将ぶりを示しているように思えるが、ジーンに向けられた視線には篤実な人柄が滲んでいた。

一つ何かを間違えば、自分は破滅する。

それを覚悟しながら、彼女の観察眼はベルゲングリューンを信じると判断した。

 

「査閲監閣下。グリルパルツァー大将から報告があった際は、テロリストたちの素性をよくご確認ください。彼らの多くは銀河帝国の兵士かもしれない、けれどその中に必ず正体不明の謀略者が混じっているはずです。例え彼らが帝国軍の制服を着用していたとしても、軍部に名前を登録されていたとしても、怪しい点のある者は必ず出自がわかるまで調査してください。」

 

「なぜ、君はそれを……。」

ロイエンタールに語った以上の事実を打ち明けたジーンに、ベルゲングリューンは眉根を寄せる。

信用しろという方が無理なのだ。

ジーンにとって彼が信用できると確信できないのと同様、あるいはそれ以上に、ベルゲングリューンにとってのジーンは怪しんで当然の人間である。

 

「私は同盟人です。かつては同盟軍に所属していましたし、ヤン・ウェンリー提督の旗艦に乗船したこともあります。その私が純粋に総督府に身を奉じるはずがないとお考えになるのは当然のことです。」

静かに語りかけながらも、これは賭けだとジーンは思った。

 

「ご忠告申しあげるのが真心ゆえと言い切る自信はありません。ただ……そのような人間だからこそ知り得る事実もあるということです。」

即座に処断されてもおかしくない賭けだった。

そして、一つの賭けに勝った。

 

「……わかった、善処しよう。」

力強く頷いたベルゲングリューンに胸を撫で下ろし、ジーンは黙礼した。

 

「ミス・ブラックウェル。」

場を辞そうとしたジーンを再び呼び止めて、ベルゲングリューンが言った。

 

「ロイエンタール総督は比類なき名将、我々はあの方を失うわけにはいかない。」

 

「私は、良き為政者と存じています。」

真摯な眼差しを受け止め、ジーンは微笑みをつくって答えた。

ベルゲングリューンの口元も僅かに緩む。

 

「ミス・ブラックウェル、あなたが彼の味方であれば嬉しい。」

銀河帝国の勇将から寄越された言葉に、ジーンは思わずはっとなった。

 

ロイエンタールを信じたい、謀略によって叛乱の嫌疑をかけられた彼を救いたい。

なぜ自分はそう思ったのだろう。

優れた為政者にハイネセンを導いて欲しい、本当にそれだけだろうか。

 

イゼルローンにいる仲間たちを思いながら、しかしまっすぐにロイエンタールのもとへと駆けた自分。

胸を突き上げた衝動は、一体どこから来たのか。

目の前に示された答えは、ジーンを激しく動揺させ、精神を揺さぶり、脈打つ心臓の鼓動までも支配した。

 

(私は……ロイエンタール総督を……?)

 

押し寄せる圧倒的な激情に逆らえず、ジーンは口唇を震わせた。



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【24】闇を切り裂いて

「なぜです、長官!」

執務室にいる部下を見渡して辞意を告げるエルスハイマーに、ジーンはほとんど叫ぶように声をぶつけた。

 

「ウルヴァシーの件の内情は不明だ。だが、ロイエンタール総督は今明確に叛意を示され、ハイネセンは銀河帝国に敵対する立場となった。」

 

「しかし、長官……!」

すべては謀略なのだという主張が、ジーンの中にある。

しかし、エルスハイマーの次の言葉が、彼女から反論を奪った。

 

「ウルヴァシーで亡くなったコルネリス・ルッツは私の義兄だ。彼の死を総督に問いただす責任が私にはある。」

 

「長官のお義兄様が……。」

いつだったか、彼がジーンに紹介したいと言った相手だった。

彼は義兄を大切に思っていたし、その彼を紹介したいと言う程にジーンのことも案じてくれた。

その人の行く先を遮る権利が自分にあるだろうかと、ジーンは自身に問う。

答えは決まっていた。

 

「わかりました、長官。では、民政府の業務は我々で引き継ぎます……。」

行かないでと縋りたい気持ちを堪え、ジーンは力なく首を振る。

 

「ミス・ブラックウェル、君も去るべきではないのか。」

 

「え……。」

エルスハイマーが寄越した言葉が、ジーンの顔を青ざめさせることになった。

 

「グリルパルツァー大将からの報告によれば、暴動の主犯は未だ不明。謀略と思われる証拠も見つかっていないらしい。ベルゲングリューンの話だ。」

ロイエンタール自身が叛意を持っていない以上、ウルヴァシーの事件が何者かの謀略であることは間違いない。

ウルヴァシーの駐留軍が自らの意思で皇帝暗殺に動いたとは考えられないし、もしそうだとしても首謀者くらいははっきりするはずだ。

それらすべてが不明というのであれば、それこそが謀略の証ではないかとジーンは思う。

 

事態は、転がり落ちるように暗転していった。

銀河皇帝に対する弁明の論拠を見つけることができず、謀略と知りながらロイエンタールは叛徒へと身を落としつつある。

宣戦布告こそなされていないものの、ロイエンタールは回廊の封鎖を要求するための使者として、かつてのヤンの参謀であるムライをイゼルローンへ送るという。

頼みとしていたベルゲングリューンも、今は新領土各地に配置された兵力を再編するための任に当たっている。

執務室を去るエルスハイマーにそれらを聞かされたジーンは、表情を暗くした。

突破口を探そうと思考は必死に回転を続けるが、糸口は見えない。

 

謀略の気配に気付きながら防げなかったことは、これまでも二度ある。

一度目はフレデリカの父を含む多くの命が失われ、二度目にはついに祖国が征服されることとなった。

また、失うのか。

 

絶望の中で、一人の背中を見つめている。

その人は、自らを破滅させる戦禍へと今まさに踏み出そうとしている。

 

失いたくない──。

その人の姿を思う時、祖国も正義も、望んでいたはずの平穏な未来さえ霞んで見えた。

一人の女として、一人の男を救いたい。

それを罪と咎められたとしても、想いを止めることはできなかった。

 

 

ジーンがエルスハイマーと一緒に総督府を出たのは、その足でムライを追って宇宙港へ向かおうと思ったからだ。

ジーンの知るフレデリカなら、イゼルローンの回廊を封鎖することはあり得ないだろう。

それを説得できるとは、ジーンも思っていなかった。

しかし、回廊を通過する帝国軍との交信の際に、彼らに真実を伝えてもらうことならできるのではないか。

甘い見積もりであることはわかっている。

帝国軍がハイネセンに襲来すれば少なからぬ犠牲が出る、その事実を以てしてもフレデリカが自分に協力してくれる可能性は決して高くない。

それでも賭けるしかないと、総督府の表へと出た時だった。

 

「エルスハイマー長官!」

彼に声をかけて来たのは、若い男性だった。

腕を吊った痛々しい姿に沈痛な表情を浮かべるジーンに一礼してから、彼はエルスハイマーに向き直った。

 

「ご退官されたと伺いましたが。」

 

「……早耳だな。」

少しばかり困った様子のエルスハイマーだが、彼に対する態度は柔らかい。

聞けば、彼が帝国の内務省に勤務していた時の部下なのだという。

 

「グリルパルツァー大将のもとでウルヴァシーでの任務に当たっておりましたが、この通りの有様で……文官の自分が負傷など、みっともない話ですが。」

治療のために任務を外れているからと、エルスハイマーの見送りに来たらしい。

彼の人望の厚さを改めて確認し、惜しい気持ちが募るジーンだったが、青年の発した一言が状況を一変させることとなった。

 

「しかし噂には聞いていましたが、サイオキシン麻薬の効果とは恐ろしいものですね。」

 

「サイオキシン……。」

思わず繰り返したジーンに、青年が眉を寄せて告げた。

 

「ええ。疲れ知らずと言えば聞こえは良いのですが、ほとんど精神異常のそれです。ようやく鎮圧が終わって調査という時に襲撃されてこれです、錯乱しているとしか思えません。」

エルスハイマーと目が合った。

彼もまた、ジーンと同じ結論を得たようであった。

 

「ミス・ブラックウェル!至急総督府に戻り、ベルゲングリューン査閲監に連絡を取らなければならない!」

グリルパルツァーの報告書に、サイオキシン麻薬の記載はない。

サイオキシン、地球教が多用する重度の催奇性を持つそれはこれまでも何度も自由惑星同盟、銀河帝国双方に不穏の種を捲き続けてきた。

それを、グリルパルツァーは隠匿しているのだ。

 

「申し訳ありません、長官!行かなければならないところがありますが、私もすぐに総督府に戻ります!」

行き先は変わらない、ムライのもとだ。

現在の上司がもたらしてくれた新しい情報を携えて、かつての上司のもとへとジーンは地上車を走らせる。

 

ようやく見つかった突破口だが、望む道を得るために残された時間は、あまりにも僅かだった。



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【25】すれ違う心

「自分が何を言っているのか、わかっているのか。」

ムライの表情は硬い。

ロイエンタールの使者としてイゼルローンへ向かう彼をなんとか宇宙港で捕まえたジーンに、ムライは顔を曇らせて問いかけた。

 

「……はい。」

弁明の余地などないことはジーンもわかっている。

どんなに理屈で塗り固めたところで、ジーンが今ムライに頼んでいることはひどく個人的な我が儘でしかない。

 

ウルヴァシーでの皇帝襲撃事件は何者かの陰謀であり、ロイエンタール総督は関与していない。

皇帝の猜疑心を煽ることが目的と推察され、首謀者はおそらく地球教徒。

証拠として、ウルヴァシーではサイオキシン麻薬による汚染が見られた。

そして、これは新領土総督府の一員であるグリルパルツァー大将によって隠匿され、ロイエンタール総督には届いていない。

それを、イゼルローン回廊を通過するであろう帝国軍に伝えて欲しいというのがジーンの頼みだ。

 

一度は安定するかに見えたラインハルトの治世だが、ウルヴァシーの事件をきっかけに大きく揺らいでいる。

ロイエンタールの反逆はイゼルローンにとって無関係の事柄だが、結果として要塞は地理的価値を飛躍的に高めつつある。

これを利用すれば、逼迫したイゼルローン共和政府の状況を打開するきっかけになるかもしれないとムライは考えているのだ。

ジーンもまた、それを理解している。

彼女は共和制の中で生きてきた人間であり、総督府に勤める今も思想を捨てたわけではない。

イゼルローンの価値を最大限高めて外交手段として利用すれば、消えかかった共和制の火を崇高な理念として再び輝かせることができるかもしれない、それをわかっている。

 

「私が、なぜ使者を引き受けたと思っている。」

すべてを理解しながらなぜ?!とムライは問う。

 

「……来たるべき時に自分の役割を果たす、その約束を忘れたわけではありません。」

ムライがイゼルローンに向かう本当の理由、それはイゼルローンの意義について自身の考えを伝えるために他ならない。

 

ロイエンタールは、500万の新領土軍を配下に置いている。

銀河帝国随一の勇将とも言われる彼の指揮であれば、フェザーンから派遣される銀河帝国軍とも互角の戦いを演じることができるだろう。

しかし、それはあくまでフェザーン側の一方のみから帝国軍が侵攻した場合の話である。

イゼルローンとフェザーンの両回廊から挟撃されれば、いかにロイエンタールといってもこれを防ぐことは難しい。

だからこそ、ロイエンタールはユリアンたちに「イゼルローン回廊を閉じて欲しい」と過大な条件を提示しているのだ。

ハイネセンの自治権を譲渡するという条件は甘い果実だが、それは危険すぎる賭けでもある。

もしもユリアンとフレデリカが目先の利益のために回廊を閉じようとするならば、ムライはそれを諫めようと考えている。

 

──イゼルローンを離れても、心は常に彼らと共にある。

 

ジーンが総督府に勤務した理由も、イゼルローンのためだった。

イゼルローンと銀河帝国との間に政治的交渉が必要になった時、彼らとの仲介役を果たしたい。

そう思ったからこそ敵陣とも言える総督府に勤めることを決めたし、ムライにも「イゼルローンのためだ」と約束した。

以前、ムライとの再会でそれを告げたジーンには嘘も偽りもなかった。

しかし、今ムライを追って宇宙港にやってきた彼女は、かつてのジーンであれば告げるはずのない願いを口にしたのだ。

イゼルローンの仲間たちのために戦う──かつて交わしたその約束を裏切ってでもジーンが守りたいと願うものが、幾度となく自分たちを脅かした敵将の命であるということにムライは悲憤した。

到底、受け入れられないことだった。

 

「ごめんなさい、ムライさん。でも……どうしてもフレデリカに伝えて欲しいんです……。」

震える声で繰り返すジーンだが、ムライは返す言葉を見つけられずにいる。

自分たちは仲間ではなかったのか、志は同じと誓い合ったのではないかと問い正したい、いっそ怒りをぶちまけて許せるものかと糾弾したいとさえ感じていた。

それでも彼がジーンの願いを無下にしなかったのは──かつての彼女の献身を知っているからだった。

 

「伝えるだけは約束しよう。だが、それを受け入れるかどうかは彼らが決めることだ。」

資産家の令嬢として生を受け、政治の世界に入ったジーンが軍部に身を投じることとなったのは、今はイゼルローンにいるフレデリカの友情に応えたからだった。

戦争とは誰よりも遠い場所から宇宙回廊の要塞にやってきた彼女は、驚くほど有能に、そして献身的にヤン艦隊のために尽くしてくれた。

幾多の戦闘にもめげず、上官であるキャゼルヌとともに後方を守っていた彼女をムライは知っている。

だからこそ、彼女からの伝言を受け入れた。

それが、彼に出来る精一杯だった。

 

「ありがとうございます、ムライさん……!」

容易ならざることとはジーン自身が一番よくわかっている。

受け入れてもらえる確率は、ずっと低いということもわかっている。

すべてを理解しながらムライに縋ったジーンにとって、彼が返してくれた答えは十分過ぎるほどのものだった。

 

感謝の気持ちを言葉で尽くし、ジーンはまた、「在るべき場所」へと取って返した。

地上車に飛び乗って行き先を告げ、総督府への道を急ぐ。

気持ちばかりが逸り、心臓の音が落ち着いてくれない。

エルスハイマーはどうしただろうか、ベルゲングリューンに真実を伝えることはできただろうか、グリルパルツァーは、そして──ロイエンタールはどうしているのだろうか。

握りしめるように組んだ左右の指先は、緊張と不安とで冷えきってしまっていた。



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【26】あなただけを

民政長官室のモニターの前にエルスハイマーはいた。

駆け寄ったジーンに彼は青白い顔を向けると、絶望的となりつつある状況を告げた。

兵力再編の任に当たるベルゲングリューンとは連絡が取れず、グリルパルツァーは自身の戦艦へと既に乗艦しているらしい。

出撃の準備は整いつつあり、ロイエンタール自身も間もなく旗艦トリスタンへ向かうという。

 

「長官は引き続きベルゲングリューン査閲監をお探しください。私は……総督とお話ししてみます。」

誇り高き武人である彼を自分などが説得できるのかという思いはある。

それでも時間を稼ぐ必要があった。

ベルゲングリューンと連絡が取れさえすればグリルパルツァーの身柄を抑えることができるはずだし、彼がウルヴァシーで得た情報があればロイエンタールも皇帝に弁明する道を選んでくれるかもしれない。

 

 

「総督、失礼します。」

扉をあけた先に待っていた姿に、ジーンは息を飲んだ。

彼はいつもの通り華麗な軍服に身を包んでいたが、その全身を激烈ともいえる覇気が覆っている。

彼女が見てきたロイエンタールは、政治家としての彼だった。

だが、今は違う。

彼は今、圧倒的な軍人としての存在感を持ってそこに立っていた。

 

死地へと向かう悲壮感など微塵もない。

堂々とした佇まいは眩暈さえ感じるほど眩しく、活力に溢れていた。

剣によって道を拓き、剣によって自らを証明しようという男の姿だった。

 

「何か用か。」

尋ねる声さえも違って聞こえ、ジーンは思わず怯んだ。

 

「総督……。」

この人は軍人なのだと、強烈に示された現実に圧倒される。

 

しかし、

 

「だが、調度良い。誰かに預けようと思っていたが、手間が省けたな。」

デスクの向こうに立っていた彼がジーンに歩み寄り、一枚の紙を差し出した。

 

「いずれ必要になるかもしれぬ、取っておけ。」

中央で折りたたまれた一枚を両手で開いた時、ジーンの胸を激情が貫いた。

自身の反逆行為についてジーンは一切関係がないことがそこに記されており、そして──イゼルローンに使者を送った自分であるが、彼らと共謀したことはこれまで一度もないと書かれていた。

 

「ご存知……だったのですか。」

彼女が新領土のために働くと決めた理由、それがイゼルローンにいる仲間たちにあるということを知っていたというのか。

 

「さあな。」

すべてを知った上で、後のイゼルローンに害が及ぶことがないようにと彼は言うだろうか。

なぜと問いかける必要はもうなかった。

ジーンは知ったのだ。

鋼鉄の矜持と誇りの裏側にある彼の柔らかな部分、それが何なのかを──知った。

 

「総督、エルスハイマー長官は総督府に戻られました。私もここを離れるつもりはありません。ですから我々の忠誠に免じて、どうかお話を聞いてくださいませんか。」

彼の味方であってくれたら嬉しいと言ったベルゲングリューンのことを思い出す。

部下の忠誠心とは、ただ上司に従うことだけではないはずだ。

 

「総督はハイネセンにとって優れた為政者でした。きっとこれからも良き指導者となられます。総督には民衆の声を聞く耳があります、彼らを導くだけの声があり、決断する力があります。私はそのような方にこそ、ハイネセンを治めて欲しいと願っています。」

ロイエンタールの拓く未来のハイネセンを見たい、正直な思いだった。

静かに、しかし力強くジーンは彼に語りかけた。

静寂と緊張感とがその場を支配していたが、ロイエンタールからの返事はない。

しかし、彼は議論を打ち切ろうともしなかった。

 

「どうか我々を見捨てないでください、総督。私たちにはあなたが必要なのです。ベルゲングリューン査閲監は、あなたを比類なき勇将であるとおっしゃいました。同盟軍にいた私もそのことは存じております。そして、あなたの勇気は戦場でのみ発揮されるものではない。きっとそのはずです、違いますか。」

この問いかけは、ロイエンタールの整った眉の端を僅かに動かすことに成功した。

 

「対話による解決は、剣によるものと同じくらい古い方法です。」

古代ギリシアの時代より、軍人が後に優れた政治家となった例は多く存在する。

彼にもそうなって欲しいと思った。

戦禍へと逆戻りすることは、今生まれようとしているものを再び無に帰す行為だと気付いて欲しい。

 

そして彼女は、カードを切った。

 

「ウルヴァシーでの一件について、グリルパルツァー大将による情報の隠匿が確認されました。エルスハイマー長官がこのことについてベルゲングリューン査閲監に連絡を取っています。」

 

「!」

しかし、彼女が切ったカードは議論の流れを望まぬ方向へと変えた。

 

「……グリルパルツァーが、俺を欺こうとしたということか。」

低く響く声には、確かに憎悪の色が混じっている。

そして、それは憎悪だけでなく──

 

「オーベルシュタイン、ラング、グリルパルツァー……もうたくさんだ。」

 

「総督?」

ロイエンタールの瞳に燃え上がるのは、決意の色だった。

 

「策謀によって貶められ、策謀によって滅ぶなど、そんな愚かな死に様があってたまるものか……!」

乱世の梟雄としての性が、彼の理性と冷静さを再び上回ろうとしていた。

 

「ジーン・ブラックウェル。」

その視線の鋭さは、ジーンの身体をそのまま射抜くかと思うほどだった。

軍人としての苛烈な気性が憎悪さえも飲み込んで高揚感へと変わり、ロイエンタールを戦いへと追い立てる。

 

「おまえはこの俺に……惨めに膝を折り、卑しく許しを請うべきと言うのか。」

今まさに燃え上がろうとする炎が、彼女の願いごと焼き尽くそうと襲い掛かる。

それでも、ジーンは決して背を向けなかった。

逃げ出せないだけの理由があった。

彼を包む業火であれば、いっそ共に焼かれたい。

 

「そんなことは申しておりません!」

 

「だったらなんだと言うのだ……!」

 

「何度でも申し上げます!」

何度聞かれても答えよう、何を言われようと決して譲れない。

彼を行かせたくない。

 

「総督はお気づきのはずです、ご自身の才能に。あなただからこそ成せることがあるのです。」

 

「馬鹿な。」

ロイエンタールが口の端を上げ、自身さえも嘲笑するように歪んだ笑みを浮かべた。

 

「俺が望むのはこの宇宙の支配権だ。ヤン・ウェンリーのごとき夢想家とは違う。」

議論はどこまでも平行線で、ロイエンタールは今にもジーンを置いて宇宙へと飛び立とうとしている。

そうなれば彼はきっと、その命を瞬く星の間に散らすまで地上に戻ることはないだろう。

 

「本当に……?」

かつてヤン・ウェンリーとは何者かとジーンに問いかけた彼は、本当は気が付いているはずだ。

自身の才が活かされる場所が戦場だけではないことを、そして未来を拓く方法が決して武力だけではないということにも。

それでも彼が止まれないのは、高潔さと誇り高さゆえであり──そしてもう一つ、自身がこの世に生まれてきた理由を問いたいという、彼が生涯抱えてきた強い願望ゆえだった。

 

 

ジーン・ブラックウェルは、彼の誇りを曲げることはできなかった。

しかし、彼女は彼の疑問に対する答えを持っていた。

 

「総督……。」

今や悲しみだけを映すことになった彼女の瞳が、ロイエンタールの色の異なる両眼を見つめている。

それを告げることをジーンは愚かだと思ったし、言うべきでないと思った。

 

「総督、閣下……いいえ、オスカー・フォン・ロイエンタール様。」

しかし、胸を突き上げるように湧きあがるその言葉は、彼女の理性と思考とを追い越して、口唇から零れ落ちた。

 

「あなたを……愛しています。」

──だから、どうか行かないで。

ジーン・ブラックウェルの口唇を震わせた言葉は、彼女からいつも発せられる正しい発音の帝国公用語ではなく、彼女自身の祖国の言葉だった。

 

自分の発した言葉に自分で驚きながら、彼女は小さく頭を振った。

ついに言ってしまったという後悔となんと愚かなことをという惨めさで涙が溢れ、顔を伏せたジーンは、彼女が愛する高潔な男からその顔を隠した。

 

 

「ロイエンタール総督!あなたを皇帝陛下に対する反逆の罪で処断する……!」

扉を蹴破るほどの激しい音と共に飛び込んで来た影を見た瞬間、ロイエンタールは腰にあるブラスターを抜いた。

そこから先の光景は、まるでスローモーションのように彼の脳裏に記憶されることとなる。

 

ロイエンタールとグリルパルツァー、二人の放った光線が交錯し、一方はグリルパルツァーの胸を、そしてもう一方は──ジーンの身体を貫いた。

ロイエンタールの前に身を投げ出したジーンの身体はあっという間に鮮血に染まり、床へと崩れ落ちる。

グリルパルツァーを追って駆け込んできたベルゲングリューンの姿も、医者を呼べと叫ぶエルスハイマーの声も遠かった。

 

「ジーン!ジーン・ブラックウェル!ジーン……!」

ほんの僅か前、彼の名前を呼んだジーンの口唇は青ざめ、微かな息を吐きだすのみ。

閉じられた目蓋から伝う涙が彼女の命がまだそこにある証に思えて、濡れた頬に手を当てて彼女の名前を呼んだ。

 

「ジーン……!」

これほど激しく誰かを求めたことはなかった。

誰かを失うことが、こんなにも恐ろしいと思ったことはなかった。

 

そして、彼は知った。

何のために自分は生まれてきたのか、その答えを彼女こそが知っていたのだということを。



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【27】ノイエ・ラント

フェザーンを発ったミッターマイヤーは、彼の予測と異なる事態を前に、取るべき術を決められずにいた。

決断力と行動力で知られる彼としては珍しいことだ。

 

ロイエンタール叛意の報を受けたラインハルトが、ミッターマイヤーの進退を賭けた説得を受け入れることはなかった。

このことは友誼に厚い彼を絶望の淵へと叩き落したが、それでも彼がハイネセンへの出兵を引き受けたのは、もしも自分が行かなれば、皇帝自身しかその責務を果たせる者がいないことを知っていたからだ。

あるいはロイエンタールは、ラインハルトと戦うことを望んでいるのかもしれない。

そう思いながらミッターマイヤーが苦痛を受け入れることを決意したのは、銀河皇帝の身を案じたからではない。

臣下として当然そう思考すべきとわかっていたが、彼の本心は違っていた。

 

ラインハルトがロイエンタールを討ち果たした時、自分は変わらずに皇帝への忠誠を誓えるだろうか。

その答えに自信がない、それゆえに彼は自身に苦痛を科す道を選んだのだ。

 

しかし、間もなくハイネセンに至ろうかという星域に、ロイエンタールの艦隊がない。

それどころか、新領土軍の戦艦一隻さえも浮かんでいないのだ。

ハイネセンで何かがあったのだろうかとは、まず思ったことだ。

ロイエンタールの支配下にあるとはいえ、新領土軍はそもそも銀河皇帝の所有である。

よもやクーデターかと推察して、あのロイエンタールが指揮を誤るはずがないと思い直す。

そうなると余計に、事態は納得しかねる状況と言えた。

 

新領土の総督府に高速通信を入れることにする。

まずは親友と話さねばと思ったからだ。

しかし、開かれた回線の向こうにいたのは彼の幕僚であるベルゲングリューンで、ロイエンタール自身の姿はない。

 

「ミッターマイヤー元帥。」

彼らしく規律正しい敬礼でベルゲングリューンは挨拶し、「どうぞハイネセンへお越しください」と続ける。

 

「待て、ベルゲングリューン。ロイエンタールはどこにいるのだ。」

それは当然の疑問であり、ベルゲングリューンも想定していたようだった。

 

「ロイエンタール総督は、ハイネセンで閣下をお待ちです。」

 

「ハイネセンで……?!」

あらゆる可能性が瞬時に脳内を駆けるが、ミッターマイヤーは親友の招きに応じることを選択した。

彼が皇帝への謝罪を求めるのではという期待は僅かにあったが、ロイエンタールを誰よりも知る身としてはやはりあり得ないことだと思った。

誇り高く高潔な友は、二度目の嫌疑に膝を折ることを受け入れはしないだろう。

皇帝陛下に跪くことはあっても、ロイエンタールが軍務尚書や内務省次官の前に首を垂れることはあり得ない、ミッターマイヤーはそう理解していた。

 

それでも、と拳を握り決意を新たにする。

もう一度、いや何度でも、決して諦めずに彼を説得する。

ハイネセンで会えるのであれば好機ではないか、とミッターマイヤーは思った。

互いに艦隊の司令官として対峙してしまえば、あとはもう剣を交えるのみ。

だが、ロイエンタールが総督府で待つというのであればまだ勝機は残されているはずだ。

 

 

しかし、ハイネセンへと降り立ったミッターマイヤーを待っていた友は、彼の想像をまた裏切った。

 

「来たのか、ミッターマイヤー。」

ゆっくりと口を開き、ロイエンタールは無二の友の名を呼んだ。

その様子は彼らしく堂々としていて、凪いだ海のように落ち着いていたが──皇帝に反旗を翻した梟雄の姿としては自然ではなかった。

 

進んで詮議を受けることを拒否した友である、凄烈な激情を滾らせ、反逆の道へと突き進む軍人の姿をミッターマイヤーは想像していた。

だからこそ、絶望に挑む気持ちでここに来たのだ。

 

「ロイエンタール、卿は……。」

どうしたのかと問いかけようとして、単純な疑問はこの場に相応しくないと言葉を飲み込む。

親友の抱いた疑問を見透かすように、ロイエンタールが頷いた。

 

「驚いているようだな、だが当然だろう。」

彼の言葉に、決して自分の予想が間違っていたわけではないことをミッターマイヤーは知る。

 

「つい今までは、相手が誰であろうと飛び掛かって殺してやるつもりでいたのだがな。」

物騒な台詞をさらりと言ってのけて、ロイエンタールが笑った。

その笑みが穏やかささえ感じるものであることに、ミッターマイヤーは衝撃を受けた。

 

まるで死を受け入れた囚人ではないかと、ミッターマイヤーは思う。

彼の親友は、戦わずして死を選ぶ男ではない。

誇り高き武人であり、戦いの中にこそ生を見出すような男だ。

そんな彼を危ういとも思い、頼もしいとも思ってきたミッターマイヤーにとって、目の前にいるロイエンタールは初めて会う男のようにさえ感じられた。

 

「だが、もう良いのだ。」

彼は静かにそう言って、改めてミッターマイヤーの灰色の瞳を見つめた。

 

「卿ならばこの身を預けられる。連れていってくれ、皇帝陛下のもとに。」

説得をしようと乗り込んできたつもりのミッターマイヤーだったが、「なぜ」と思わず問いかけそうになる。

彼と戦わずに済むことはミッターマイヤーの望むことであったはずなのに、それを受け入れられない自分がいる。

己の中に生じた矛盾に顔を強張らせると、

 

「卿は俺を止めるつもりで来たわけではなかったのか。」

ロイエンタールが呆れたように言って、見慣れた冷笑を浮かべてみせる。

 

「それとも俺を殺しに来たのか。」

 

「そんなはずがあるか!」

この言葉にはミッターマイヤーもすかさず反発し、「そんなわけないだろう」と親友を見つめて繰り返す。

 

「おかしな奴だな。」

ロイエンタールは笑うが、彼もミッターマイヤーの心情の矛盾には気付いている。

 

一度抜いた剣を納める鞘を、ロイエンタールは持っていない。

艦隊を向き合わせての実戦であれば、あえて退く知略もあるだろう。

しかし、矜持をかけた戦いであれば、退く道など最初からあるはずがない。

一度向けた切っ先が逸らされることがあるとしたら、それは命尽きる時──彼の無二の親友は、ロイエンタールの気質をよく理解していた。

 

「それでどうするのだ、ミッターマイヤー。俺を連れていくのか、それともここで殺すのか。」

疑問と矛盾とを解決できていないミッターマイヤーだったが、急かす親友に促されるようにして頷いた。

 

「一緒に行くよ、ロイエンタール。フェザーンまでは距離もある、俺の艦で二人で酒を飲もう。」

なんとか口唇を緩めてみせたミッターマイヤーにロイエンタールも頷いた。

 

「それは有り難いな。もう一度卿と酒を飲む機会を得られるとは、これは僥倖だ。」

友人が使う大袈裟な表現に、ミッターマイヤーはまた不安を濃くする。

しかし、それに構うではなくロイエンタールはデスクのインターフォンを押すと、「ベルゲングリューン」と彼の忠実な部下を呼んだ。

 

 

やってきたベルゲングリューンの顔には、ロイエンタールとは違い不安の色が浮かんでいた。

豪気な男が無言で顔を青ざめさせる様子に、ミッターマイヤーの心配も大きくなる。

 

「では、俺は行く。ベルゲングリューン、エルスハイマーと協力し、情勢が乱れぬよう努めてくれ。」

まるで戻らぬという口ぶりに、寡黙な部下もさすがに口を開いた。

 

「ロイエンタール総督……!」

ベルゲングリューンの悲痛な表情を一瞥するが、ロイエンタールは変わらぬ態度で前へと向き直る。

 

「新領土を預かる者としての責務を果たしに行くだけだ。卿らには負担をかけることになるが、よろしく頼む。そう、くれぐれも……頼んだぞ。」

僅かに視線を下げたロイエンタールに何かを察したのか、ベルゲングリューンが直立に姿勢を正して力強く頷く。

開いた扉の向こうへ、振り返ることなく歩いていくロイエンタールにミッターマイヤーも続いた。

 

 

ミッターマイヤーが知る通りの優雅な足取りでロイエンタールは歩き、やがてベイオウルフへと乗り込んだ。

 

「なあ、ロイエンタール……。」

問いかけて言葉を止めたのは、そこにきてようやく気が付いたからだ。

軍港を発ったベイオウルフは次第に高度を上げていくが、ロイエンタールの瞳は眼下に広がるハイネセンの大地を見つめたまま。

 

半年を過ごしたその土地に、彼が今置いていこうとしているもの。

その「何か」のために彼は行こうとしている。

──自分ではない誰かのために、ロイエンタールは軍人としての彼を捨てたのだ。



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【28】導く者

数千光年の距離を、艦隊を連ねて進んでいく。

様々な光年、様々な光彩、漆黒の宇宙に漁り火のように瞬く星々を、ミッターマイヤーは見るともなく眺めていた。

 

この艦で幾度となく宇宙を駆けた。

輝かしい未来を夢見て胸を躍らせたこともあったし、死ぬかもしれないという覚悟をもって乗り込んだこともある。

いずれの場面でも、彼の心は闘志に燃えていた。

どれほど切迫した場面であっても、両足を着け、前を見て立つことができた。

 

それを為し得たのは、軍人としての誇りであったし──共に戦う友がいたからだ。

今この時ほど痛烈にそれを思い知ったことはないと、ミッターマイヤーは思う。

彼を討つと決めた時ですら、これほど頼りない気持ちにはならなかった。

けれど今、ミッターマイヤーの瞳はただ虚空を見つめるばかりで、その足は硬質な艦船の床で収まりなく行ったり来たりを繰り返している。

 

ベイオウルフの一室をロイエンタールに与え、その後でフェザーンへと高速通信を入れた。

ロイエンタールを伴って帰還するというミッターマイヤーからの短い連絡に、通信を受けた相手も思わずといった様子で沈黙する。

アルツール・フォン・シュトライト、皇帝ラインハルトの副官である。

 

「その由、皇帝陛下にお伝えいただきたい。」

直接ラインハルトと話すべきかと思ったが、ミッターマイヤーはそれを避けた。

何を伝えるべきかをミッターマイヤーは確信できずにいるし、何を問われても答えられる自信がなかった。

 

彼の親友は、何を思い、一度振り上げた剣を下ろしたのか。

ミッターマイヤーはその答えを得ていない。

問いかけるべき相手ならすぐそこにいるというのに、まるで死を受け入れたような彼を思うと、聞くことがひどく躊躇われた。

 

しかし、話さないことには何事も始まらない。

フェザーンまではまだ遠いといっても、残された時間にも限りはある。

殺せと言われても殺すことなど出来るはずがないし、死にたいと言われれば止めるまでだとミッターマイヤーは彼らしくはっきりと決断し、親友の居室へと向かうことにした。

 

 

幾日かは昔話に終始し、次の幾日かは艦隊戦術の何たるかを話し合った。

何杯もグラスを重ね、かつて過した日々のように冗談さえ言い合った。

 

思えば、お互い随分と遠いところに来てしまったとふと思う。

軍人になったのは栄達を志したからだし、この人こそはと思ったからこそラインハルトと共に戦ってきた。

夢中のまま戦場を駆け、気がつけばラインハルトは皇帝になり、ロイエンタールは新領土の総督を任され、ミッターマイヤーは宇宙艦隊司令長官の職を賜った。

望んでいたはずのその場所が、お互いの関係を複雑にし、昔のように同じものを見つめることを難しくしている。

あの頃のままではいられないのか──知性ある友に尋ねたいと思いながら、また躊躇ってミッターマイヤーが口を噤んだ時だった。

 

「……ルッツのことだが、」

ロイエンタールが、殉死した僚友の名前を口にした。

ウルヴァシーの事件以降のことを問えないでいた自分よりと彼とを比べ、やはり彼のほうが勇気ある者だと思わされたが、その名を口にするロイエンタールの表情も苦渋に満ちていた。

 

「どんな最期だったか……卿は聞いているだろうか。」

温厚な性格で、僚友たちの信任も厚かった彼が亡くなったのは、今日に至る事態の発端となったウルヴァシー、その場所である。

 

「自分が残ると言ったミュラーを行かせ、一人皇帝陛下の盾となり戦ったと聞いている。彼らしい堂々とした最期だっただろうと皆言っていた。」

 

「そうか……。」

 

「ルッツは射撃の名手だった。」

 

「そうだな、それに勇敢で冷静な分析力の持ち主だった。」

手にしたグラスの中で溶けた氷がぶつかり合い、カラリと小さな音を立てる。

 

「……エルスハイマーにも悪いことをした。」

ロックグラスに揺れる琥珀を見つめながら、ロイエンタールがハイネセンに残る部下の名前を告げた。

 

「彼はルッツの妹と結婚していたのだったな。」

ハイネセンを去る時、ロイエンタールはベルゲングリューンに「エルスハイマーと協力しろ」と伝えている。

エルスハイマーは文官らしい温和な性格の男だが、組織の長を任せられるだけの意思の強さも持ち合わせている。

その彼がよく総督府に残ったものだとミッターマイヤーは思ったが、

 

「一度は去ると言ったのだ。」

彼の疑問を察したのかロイエンタールはそう答え、小さく首を振った。

 

「……そうだ、やはり為さねばな。」

ミッターマイヤーの見つめる先で、彼の親友がその秀麗な面差しを曇らせる。

ついに彼の真意を知る時が来たとミッターマイヤーが感じたのは、この時だった。

 

「何を……するというのだ、ロイエンタール。」

問いかける無二の友にロイエンタールは視線を向け、左右の瞳でしっかりと彼を見た。

 

「……皇帝陛下に失策を詫び、温情を賜るようお願いする。」

それは、ミッターマイヤーが求めていたはずの答えだった。

一方で、得られるはずがないと思っていた答えでもある。

 

「ロイエンタール……。」

己の矛盾と格闘しながら、かろうじて忠実な臣下である自分を選択したミッターマイヤーだったが、「よかった」と肯定して親友の手を取ることはできなかった。

ロイエンタールの視線に激情はなく、しかし奥を覗き込めば──今ははっきりと葛藤の跡が見て取れた。

 

「すまんな、ミッターマイヤー。俺自身まだ……自分のことをわかりかねているのだ。」

自己矛盾を解決できていない友人に、ロイエンタールが口の端を曲げて見せる。

 

「だが、時間は限られている。卿にだけは話しておかねばなるまい。」

そう言って彼は立ち上がり、戦艦の窓辺に寄った。

勝利を目指し、二人、幾度も駆けた宇宙がそこに広がっている。

 

「俺は今でも……果てるならこの宙でと思っている。」

告げられた言葉にはっとなり、ミッターマイヤーも腰掛けていた椅子から立ち上がった。

 

「全身全霊をかけて戦い、己の力を試したい。叶うなら……皇帝陛下と艦隊を向き合わせ知力を競わせてみたい。」

 

「ッ、」

破滅を望むかのような危うい台詞だが、それはミッターマイヤーの知る親友そのもの。

しかし、彼はその選択をしなかった。

 

「ウルヴァシーでの襲撃は、勿論俺の指示ではない。」

はっきりと言ってから、ロイエンタールはこれまでの日々について語り始めた。

皇帝襲撃の報を新総督府で受けた時のこと、何とかラインハルトの身柄を取り戻そうと努力し、しかしルッツの死によってすべてが潰えたと知ったこと──そして、ウルヴァシーに調査に向かったグリルパルツァーが結果を隠匿したこと。

 

「では、グリルパルツァーを尋問すれば……!」

思わず声を大きくしたミッターマイヤーの前で、ロイエンタールは酷薄な笑みを浮かべて見せた。

 

「奴は、俺が殺した。」

 

「なぜ」と問えなかったのは、硝子越しに見えた彼の眼差しが見たことがないほどに冷たく冴えた光を湛えていたからだ。

冷静な彼らしくない判断だとミッターマイヤーは思った。

大事な証人を殺してしまっては、彼の潔白に対する印象は悪くなる。

調査に当たった兵士たちを調べることは当然できるが、責任者であるグリルパルツァーを自ら殺害したという事実は、疑いの芽を残すことにつながりかねない。

 

「皇帝陛下の御身を危険に晒し、ルッツまで失ってしまったのは俺の責任だ。許可も得ずグリルパルツァーも処断した。この上は自ら反逆者となり、いっそ武人らしく滅びるのが軍人たる者の矜持だろう。」

宇宙空間へと向けられていたロイエンタールの視線が振り返り、ミッターマイヤーを見た。

 

「……対話による解決は、剣によるものと同じくらい古い方法なのだそうだ。」

 

「な、に?」

耳慣れぬ言葉に思わず聞き返したミッターマイヤーに、ロイエンタールが尋ねる。

 

「対話と交渉による解決……本当にそんなことができると思うか、ミッターマイヤー。」

対話と協調は、民主主義の根幹である。

つい先頃まで存在した自由惑星同盟がそれを標榜し、今はイゼルローン共和政府を名乗る集団が同じ主張を掲げていることは、ミッターマイヤーも知っている。

だが、それをロイエンタールが口にしたことに驚いた。

 

「そんなことが容易にできると、俺は思っていない。できないからこそ、人は剣を取り、自らの道を拓くために戦うのではないか。」

曝け出された矛盾に、発しかけていた言葉を飲み込んだ。

 

「俺は軍人だ。無位無官の今はもう違うのかもしれないが、それでも軍人だった。民主政治の政治家など、トリューニヒトの如き悪辣な盗人ばかりではないか。」

苛烈さと絶望と、それでも捨てきれぬ何事かへの執着が、青と黒の中で揺らいでいる。

 

「それでも、」

親友との再会を果たした瞬間でさえ感情の色を消していた彼の眼差しが、今激しく揺れている。

 

「それでも、俺はもう戦えぬ。戦えぬのだ、ミッターマイヤー。」

死に赴く彼を繋ぎ止めたもの、軍人としての矜持よりも強く彼を導くもの、それを知りたいとミッターマイヤーは思った。

 

「皇帝陛下は俺をお許しにはならないかもしれぬ。いや、むしろ陛下にはそうあって欲しいとすら思う。だが……俺は新領土を守らねばならない。」

守らねば、と彼は言った。

いつだって前を見るだけだった彼が、そう言った。

自分の身の危険を顧みず、生への執着さえ持たない彼を、友として窘めたことが幾度もある。

その彼が「守る」と言ったもの。

 

「ハイネセンを……?」

新領土を戦禍に巻き込みたくないというのは為政者である彼の本心だろうとは思ったが、本当の心はもっと別の場所にあるのではないかとミッターマイヤーは思った。

 

彼に対話の道を選ばせた何か、いや──誰かがいる。

軍人としての誇りを胸に抱きながら、それでも膝を折ることを選んだ彼の中にある矛盾。

ロイエンタール自身が解けていない疑問、その答えを持っている人物がきっといる。

 

「……我ながら、度し難いな。」

見慣れた冷笑を浮かべて見せて、ロイエンタールはミッターマイヤーのよく知った彼の顔を取り戻した。

誇り高く、堂々として、それでいて皮肉屋。

勇敢さと冷静さを持ち合わせた自慢の親友が、いつの間にか戻って来ていた。

 

「我が友、ミッターマイヤー。もし、俺が死ぬことがあれば……この願い、卿が叶えてくれるか。」

 

「ああ、約束する。」

そう告げながら、心の中で思う。

 

この男を死なせはしない。

今度こそ守り抜き、彼の疑問に対する答えを共に探すのだと。

 

「だが、ロイエンタール。俺と卿とで、成し得なかった何事かが今まであったか。」

彼らしい笑顔を向けたミッターマイヤーにロイエンタールも笑うと、親友の差し出した手を取った。

 

イゼルローン回廊を抜けて新領土へ侵攻しているはずのメックリンガーから、ラインハルトとミッターマイヤーに向けて高速通信は送られたのは、その暫く後のことだった。



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【29】星空の誓い

白壁の図書館のレリーフが、光を受けて輝く午後。

空を覆う薄雲を揺らすようにして、ハイネセンの街に礼砲の音が響き渡る。

 

宇宙歴832年夏、「ヤン・ウェンリー記念図書館」前に広がる巨大な公園の一角で、石造りの記念碑の除幕式が行われた。

「新銀河連合」の要人たちが集まる盛大な式典を取り仕切るのは、図書館長であるユリアン・ミンツである。

 

今から約30年前、長きに渡り対立を続けてきた自由惑星同盟と銀河帝国の最後の大戦はついに終結した。

自由惑星同盟の敗北によって銀河帝国の「新領土」に併合されたハイネセンだったが、今は「ハイネセン共和国」の名を戴く一国家である。

ハイネセン共和国、銀河帝国を含む多くの国家による共同体、「新銀河連合」が発足して既に久しい。

 

記念碑に刻まれているのは、この「新銀河連合」設立の功労者であり、ハイネセン選出の連合議員にして初代議長、オスカー・フォン・ロイエンタールの名前である。

偉大な指導者として歴史に名を刻む彼の半生が、銀河帝国の軍人であったことを知る者は今や少ない。

ハイネセンでの彼は、傑出した能力を持つ稀代の政治家としてその名を知られている。

 

征服地の「総督」として銀河帝国からやってきた彼は、祖国に対する反逆者の汚名を受け、その職を追われた。

一度は祖国に戻った彼が、民間人としてハイネセンに戻った理由はごく私的なものであったとされているが、結果としてこのことが彼を政治家の道へと導くこととなった。

 

銀河帝国における第一代皇帝ラインハルトの治世は、早すぎる皇帝の崩御によってわずか三年で幕を閉じた。

幼帝を戴く銀河帝国、宇宙回廊に鎮座し、今や人口500万に膨れ上がったイゼルローン共和政府、そして不安定な新領土は、いつ戦渦へと逆戻りしてもおかしくない状態にあったという。

この時、銀河帝国の国務尚書となったウォルフガング・ミッターマイヤー元帥が、イゼルローン共和政府への使者として頼ったのが、旧友であるロイエンタールだった。

銀河帝国の提督として、フレデリカ・グリーンヒルやユリアン・ミンツと幾度も戦火を交えてきた彼が、どのようにして彼らとの交渉を成立させたのか、その詳細は公的な記録のどこにも記されていない。

ともかくも、交渉は成った。

 

この成果をもって再び新領土の総督となった彼が、人生の後半において取り組んだのが、新銀河連合の設立だった。

帝政、共和制を問わず、複数の国家によって形成される政治的な共同体は、各国選出の代議員による「連合議会」によって運営される普遍性を持った組織である。

各国の出資に基づいて設立された共同体は、軍事、医療、経済等、様々な専門機関によって共同運営を行うほか、外交上の問題が起きた際には国家間の調整役も果たす。

新銀河連合の設立と同時に独立を果たした複数の国家が加盟し、各国の主権と一定の距離を保ちながらも、唯一にして最大の国際機関として高い権威を誇っている。

 

良き指導者としてハイネセン国民の支持を受けてきたロイエンタールが、その名前を記念碑に刻むこととなったのは、彼がその住まいを天上へと移したからである。

宇宙を駆け、宇宙のために歩み続けたその人は、この夏を迎える直前に彼の愛した星空へと旅立っていった。

多くの人々が早すぎる死を悼み、悲しみを口にしてはその功績を称えた。

 

しかし、美しい大理石の記念碑は、彼の魂を宿してはいない。

 

 

「少しは落ち着きましたか、ミスター・ミンツ。」

ダークブラウンの髪を掻き上げた青年が、夏の日差しに目を細めながら図書館長に問いかける。

 

「このスピーチが終われば一段落だよ。後は職員たちに任せて僕もフレデリカさんたちのところに向かう予定だ。」

 

「いいんですか、あなたは責任者なのに。」

 

「責任者はこの国だよ。僕は進行を預かっているだけだし、上司が出しゃばり過ぎるのもよくない。これは僕の師に学んだことさ。」

軽い調子で言ってユリアンが笑うと、巨大な図書館の壁を見上げて青年も笑った。

 

「なるほど、それは確かに偉大な教えですね。」

彼の師の名前を冠した図書館は、本人が見たらきっと呆れるであろう壮麗さで、その辺りがこの図書館を建造した人物とヤン・ウェンリーその人の大いなる相違点であるのだが、気の利いた冗談のようで却っていいじゃないかとユリアンは思っている。

 

「君のほうこそ、いいのかい?スピーチしてくれって、何度も頼まれたんだろう。」

ユリアンは、自分の横に並んで大仰なスピーカーたちを眺める青年を見た。

知的な光を宿す青い瞳と落ち着いたダークブラウンの髪、優雅さを兼ね備えた秀麗な容姿が多くの女性たちを熱狂させていると噂の人物である。

 

「僕は実業家であって、政治家じゃありませんから。」

さらりと言ってのける彼だが、父親の跡を継いで欲しいという求めが随分とあったらしいと聞いている。

 

「まあ、ブラックウェル社のほうだって君を簡単に手放すはずがないな。今や社長の右腕だって評判だものね。」

彼、フェリックス・フォン・ロイエンタールは、ハイネセンの有力企業であるブラックウェル社の若き幹部として、ビジネス界にその名前を知られつつある。

 

「僕なんてまだまだですよ。だけど、ブラックウェルの伯父には感謝しています。ああ、好きなことをやらせてくれた父にも一応。」

茶目っ気のある笑顔でそう言う彼と「伯父」と呼んだブラックウェル社の社長に血縁関係はない。

しかし、彼はユリアンの前では決まってその呼び名を使った。

 

 

「ああ、もう終わるね。そろそろ出ようか。今から行けば夕方には着ける。」

夏の日差しが、少しずつ傾き始めている。

手早く準備を整えると、地上車を待たせているというフェリックスと一緒にユリアンは公園を出た。

 

走り出した地上車が、公園の群衆から遠ざかっていく。

 

「実を言うと、彼女にお会いするのは初めてなんです。」

後部座席から窓の外を眺めて、フェリックスが言った。

彼と同様に遠ざかっていく首都の景色を眺めていたユリアンだったが、その言葉に視線を横に座る青年へと移した。

 

「どんな人なのかも父は殆ど教えてくれなかったし、だったら駄目だって伯父まで言うものだから……気が付けば今日まで一度も。」

眉を下げて言う彼に、意外だなとも然もありなんとも同じだけ思う。

 

ジーン・ブラックウェルは、彼だけの女神だった。

ユリアンにとってもフレデリカにとっても、彼女は恩人だった。

けれど、彼女がそのすべてを捧げて愛したのは、オスカー・フォン・ロイエンタール唯一人であったし、彼もまたその愛に応え続けた。

 

「ひとり占めしておきたかったんじゃないかな、きっと。」

 

「そうかなあ。」

 

「君にも大切な人ができたらわかるかもしれないよ。」

軽い調子で言ったユリアンに、「とはいえたった一人を選ぶというのは難しいものですよ」と冗談とも本気ともつかない顔でフェリックスが言うので、思わずユリアンは吹き出した。

父親とは違う道を進む彼だが、どうやら性格はなかなかに父親譲りらしい。

 

そうして車内での時間を過すうちに、差し込む日差しが色を変え──やがて静かな湖畔へと辿り着いた。

 

 

「思ったより早かったな、ユリアン。」

陽の傾きかけた高台に、一揃いのテーブルと椅子が置かれている。

白ワインのグラスを掲げてユリアンを迎えたのは、シェーンコップだ。

ヤン艦隊で出会ってからイゼルローン共和政府の建国後まで、長くユリアンを導いてくれた師の一人でもある。

老年に足を踏み入れたはずの彼だが、溌剌とした様子は今も変わらずに若々しさを保っている。

 

「この場所でジーンと会った時のことを、元帥閣下に話していたところだ。」

そう言って鼻を鳴らす彼に、ユリアンは苦笑する。

意外な関係だと何度も驚かされたが、晩年のロイエンタールはシェーンコップと随分親しい関係にあったらしい。

ロイエンタールの旗艦に乗り込んで彼と斬り合いを演じたことのあるシェーンコップだが、そんな過去も彼らにとっては笑い話らしく、武勇と色事の両方で歴戦を誇る彼らは気の合う友人となったようであった。

 

「すみません、元帥。ほとんど自慢話だったでしょう。」

シェーンコップの武勇伝に辟易しているだろうとユリアンは思ったが、「元帥」と呼ばれた男性は愉快そうに笑ってそれを受け流した。

 

「いや、楽しいよ。俺の知らないロイエンタールの話も聞けたし、何より彼女のことは……すごく新鮮だ。」

白髪の交じる蜂蜜色の髪、ロイエンタールの生涯に渡る第一の親友であった人物、ウォルフガング・ミッターマイヤーである。

数々の戦場を共にした彼らは、後の政界においても盟友であり続けた。

ロイエンタールの怜悧さの横には常にミッターマイヤーの公明さがあったし、ミッターマイヤーの決断の裏にはロイエンタールの知性があった。

互いに背中を預け合い、時代を拓くために闘い続けた無二の戦友である。

真っ先にスピーチを終えて、真っ先に式典会場を抜け出していった彼の素早さは今も昔と変わらない。

 

「ユリアン!ジーンたちが待ちくたびれてるわ。」

夏の緑が薫る高台に現れたのは、また旧知の人だ。

フレデリカ・グリーンヒル代議員、イゼルローン選出の議員であり、連合の第二代議長を務めた女傑である。

ヘイゼルの瞳を持つ可憐な少女は、しなやかな軍人時代を経て政治の道へ入り、今は宇宙で名を知らぬ人のいない大政治家となった。

 

「フェリックス……。」

歳を重ねてなお綻ぶ花のように美しい彼女が、その微笑みを青い目の青年に向けた。

 

「ああ、今日こそ……ジーンにあなたを紹介できるのね。」

 

「花束を用意したのですが、気に入っていただけるでしょうか。」

真っ白な薔薇が光を受けて輝き、花束を抱えた青年の美しさを際立たせる。

 

「ええ、きっと……きっと気に入るわ。」

大粒のヘイゼルを潤ませてフレデリカが微笑んで、彼らを湖の畔へと誘う。

 

真っ赤に燃える夕暮れが、涼やかな湖面を染めていく。

それは、銀河のために命を燃やした彼の人の魂を、天へと見送るようにも見えた。

 

「ジーン、あなたに会いに来てくれたのよ。」

フレデリカに背中を押され、フェリックスが皆の中から一歩進み出る。

 

「……ようやくお会い出来ました。」

夕陽の色を映した白い花弁が、そっと──白亜の墓石に添えられた。

 

「我が儘な父ですが、どうかよろしくお願いします。」

時を重ねた墓標の隣に、今は真新しいもう一つが並んでいる。

 

「俺もそのうちに行くから待っていてくれよ、ロイエンタール。」

 

「次こそは彼女を奪ってみせるから、覚悟しておいてくれ。」

フェリックス、ユリアン、フレデリカに、シェーンコップ、ミッターマイヤー。

キャゼルヌやムライ、ベルゲングリューンの姿もあり、次々と花束やワインのボトルが二つの墓石に手向けられていく。

記念碑に関する式典を終えた後には、ハイネセンの重鎮であるエルスハイマーもここを訪れることになっていた。

 

 

宇宙歴800年、新銀河帝国黎明の冬──ジーン・ブラックウェルは戦乱の中で若い命を散らした。

彼女の人生は、どの歴史書にも、公的な文書にも記載されてはいない。

しかし、共に生きた人々の中には、彼女の想いと希望とが確かに刻まれている。

 

愛する人たちのために、安寧な未来を。

そう願った彼女の想いは、残された人々の心に確かに受け継がれてきた。

 

「あなたのお父様がイゼルローンに私たちを訪ねていらっしゃった時、こうおっしゃったの。」

多くの研究者たちが知りたいと願った歴史の真実を、今ここにいる者だけが知っている。

 

「“私は、妻の友人を訪ねてここに参りました。”」

こぼれ落ちた涙を拭ってフェリックスを見るフレデリカの声が、震えている。

生涯独身であったその人が「妻」と呼んだ女性、彼女がここにいる人々を結びつけた。

天上と地上とに離された彼らは、今生で結ばれることこそ叶わなかったが、それでもジーン・ブラックウェルは、ロイエンタールにとって心の伴侶であり続けた。

 

「あの時からずっと、私たちはお友達なのよ。帝国も同盟もイゼルローンも……どんな思想を持ち、どう生きてきたのかなんて、友情の前では些細なこと……そうでしょう。」

彼女の肩を抱いたのはユリアンで、ハンカチを差し出したのはベルゲングリューンだった。

フェリックスがフレデリカの手を取って、彼らは皆、肩を寄せ合って祈りを捧げる。

 

 

オスカー・フォン・ロイエンタールが眠るのは、彼が短い晩年を過した美しい湖の畔であり、その隣には、彼を愛し、支え続けた女性の墓標がそっと寄り添っている。

平和と安息の祈りを心に、古い友人たちは思い出話に花を咲かせ、今は共に在るであろう二人の姿を懐かしんだ。

 

やがて宵闇が辺りを包み、星々の影が湖面を揺らす。

遠い宙に瞬く光は、戦火に消えた英雄たちの姿──気高き魂を燃やし続けた彼らは何も語らず、けれど、地上に生きる人々の行く末を静かに照らし続ける。



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【30】挿話【完結】

空に浮かぶ雲が、茜色に染まっている。

気が付けば随分と日が伸びたなと執務室の窓から夕陽に焼けた空を眺め、エルスハイマーは一人ため息をついた。

 

半年ほど前に総督代行の職を拝命したが、どうにも居室を移す気になれず、未だ民政長官の部屋に留まったままでいる。

 

総督室の主は帰ることがないまま、しかし留守を預かるベルゲングリューンとエルスハイマーによってなんとか執務は滞らずに動いてはいる。

実際に彼の仕事を肩代わりしてみると、一体どれほどの才覚があればこれだけの執務を同時に捌けるのだろうかと舌を巻かずにはいられない。

長く内務官僚としての役を担ってきた自分でさえ戸惑うほどの量を、自分とは比べ物にならない速度で処理していた人物を思い出しながら改めて感心し、今夜も遅くなりそうだと腹を括った時だった。

 

「久しいな、エルスハイマー。」

静かに開かれた扉から、聞こえた声。

幻聴かと思うほどのタイミングで、しかし、それにしてははっきりとその人の声がエルスハイマーの名前を呼んだ。

 

「ロイエンタール総督……!」

ダークブラウンの髪、色違いの双眼、目の前に現れたのはエルスハイマーが今まさに想像していた人物そのもの。

 

「連絡を入れるべきだと思ったが。すまぬな、あまり自由の利かない身なのだ。」

二人の憲兵に伴われて民政長官室に入ってきたロイエンタールが、「ベルゲングリューンには先ほど会って来た」と告げる。

長くフェザーンで拘禁状態にあったというロイエンタールの身柄がハイネセンに戻されたことにほっとすると同時、彼の背後に立つ憲兵の姿に胸が痛む。

 

半年前の冬、それはロイエンタールにとっても、エルスハイマーにとっても激動の季節であった。

新皇帝の御幸の途中で起きたウルヴァシーでのテロ事件は、彼らだけでなく多くの人の人生の行先を大きく変える出来事となった。

多くの兵士が死に、エルスハイマーの義兄であるコルネリアス・ルッツも皇帝を守るための犠牲となった。

新領土で起こった事件は、皇帝ラインハルトと彼の宿将であるロイエンタールの間に亀裂を生じさせ、事態は軍事衝突の直前にまで発展したのだ。

 

「総督……。」

呼びかけたエルスハイマーを見返して、ロイエンタールが苦笑する。

 

「もう総督ではない。」

ロイエンタールは変わらずに堂々とした姿勢を保っていたが、それでもよく見れば少し細くなった顎や影を落とす瞳に、拘禁生活の疲れが感じられた。

 

「その人事は、もうすぐ卿に下されるだろう。」

沈痛な思いで彼を見ていたエルスハイマーは、思いがけない言葉に「えっ」と声に出していた。

 

「し、失礼を。しかし……!」

 

「この俺が、ハイネセンの自治権をオーベルシュタインに呉れてやると思ったか。」

驚くエルスハイマーに、ロイエンタールは彼一流の皮肉な笑みをもって応えた。

 

「新領土の総督には卿をと、幾度も推挙した甲斐が実った。まあ、苦労はしたがな。」

重い責務を両肩に感じるが、この人に言われるのであればという気持ちもある。

有能ではあるが本心の知れない上司であった彼だが、そういえばどこか雰囲気が違っている。

そして、それが何に起因するのかを──エルスハイマーは知っているのだ。

 

「いずれわかることだ。それを伝えに来たわけではない。」

彼は静かに言ってから目礼し、

 

「ルッツのこと、すまなかった。」

はっきりとした口調でそう言った。

 

「彼の死の責任は俺にある。卿にも卿の奥方にも申し訳ないことをした。」

まっすぐに謝罪の言葉を口にし、それから彼は礼を述べた。

 

「ベルゲングリューンと二人、よくやってくれた。ハイネセンがこうして落ち着いているのは卿らの努力あってこそだろう。」

ハイネセンのために礼を言うその人に、改めて驚きと感心を禁じ得ない。

自分にとっても彼にとっても、ハイネセンは長く遠い異国だった。

総督府を任されたといってもそれはわずか半年のことで、それでも彼は──この星を、「ハイネセン」を、まるで生まれた故郷の名前のように柔らかな声音で呼んだ。

 

ロイエンタールの視線が床を滑り、一点へと向かう。

彼が何か言ったわけではなかったが、エルスハイマーは両肩を強張らせて緊張し、思わず沈黙する。

何と言っていいのかわからない、何から話せばいいのか、何を告げればいいのかわからない。

すべては終わったことで、もう取り戻しようもないことだとわかっている。

だからと言って、事実だけを報告するのはあまりにも苦しい。

 

「……代わりの者は、雇っていないのか。」

エルスハイマーの席の前にある、何も置かれていない机。

一目見て空席とわかるその場所のことなら、ロイエンタールもこの部屋に入ってきた時から気付いていたはずだ。

それでも互いに触れずにいた、言えなかった。

 

「あ……。」

いくつかの返事が脳裏を巡り、けれどそのどれも言葉にすることはできず、エルスハイマーは小さく首を振った。

 

「そうか、重ねて謝罪せねばならんな。」

低い声に抑揚はなく、正も負も一切の感情を感じることはできない。

 

「義兄だけではなく、俺は卿の部下までも……。」

 

「閣下……ッ!」

今や「総督」でも「閣下」でもない彼かもしれないが、エルスハイマーにとっては変わらずに尊敬の対象であったし、何よりも──その空席に一番傷ついているのは彼自身なのだと知っている。

 

「………。」

彼は沈黙し、それから数歩歩いて机の脇に寄り、丁寧に磨かれた表面を──そっと手のひらで撫でた。

黙したままで、声を発するわけではなく、吐息を乱すわけでもない。

けれど、慈しむように無機質な平面を撫でる仕草に、エルスハイマーは思わず自分の口を覆った。

そうしなければ、こみ上げる嗚咽が口から零れ出てしまいそうだった。

 

たった半年前までそこに座っていた明るく聡明な眼差しの女性は、エルスハイマーにとっても掛け替えのない一人だった。

慣れないハイネセン赴任の導き手であった彼女は、どんな困難にも明るく、しかし粘り強く対処する優秀な職員だった。

同時に、国を思い、民を思う心を持った美しいその女性は、帝国、同盟という出自も思想も超えて、共に戦う同志でもあった。

より良い治政をという思いを共有し、手を取り合えばきっと世界は変えられると教えてくれた人だった。

 

しかし、彼女はもうここにはいない。

総督府にも、ハイネセンのどこにも、宇宙中どこを探しても、もう二度と会うことは叶わない。

あの日、ロイエンタールへと向けられたグリルパルツァーのブラスターは、彼の目の前を遮ったジーンの身体を貫いた。

すぐに医師による処置が行われたが、彼女の同僚たちの願いはついに届かず──ジーンが彼らの元に戻ることはなかった。

 

「葬儀は……。」

長い沈黙の後で口を開いたロイエンタールだが、視線は彼女のデスクに置いたままだ。

エルスハイマーは、彼女の兄が遺体を引き取り、郊外の別邸で葬儀を執り行ったこと、同僚たちや彼自身も参列したことを震える声で伝えた。

 

「そうか」と言ったきり、また沈黙したロイエンタールの視線が見つめているものが何なのか、エルスハイマーは不安になる。

まさか後を追うとは思えないが、それでも不安になるのは──彼を地上へと繋ぎ止め、軍人としての矜持を曲げさせたのは、きっと彼女なのだろうと思っているからだ。

 

彼女がいなければ、誰が止めようとロイエンタールは彼の旗艦で宇宙へと飛び立っていただろう。

そうなれば彼はここにいなかっただろうし、ハイネセンも今のようではなかったはずだ。

彼女の存在が、彼女の命がこのハイネセンを救ったのだと、エルスハイマーは思っている。

 

あの日、一人で総督室に向かったジーンとロイエンタールとの間に何があったのかは知らない。

特別な関係にあったとも思えない二人だが、こうして改めて振り返るとやはり他人にはわからない絆があったのかもしれないと思う。

稀代の軍人であるロイエンタールに剣を降ろさせた一人の女性の死にエルスハイマーは胸を詰まらせ、消えない悲しみを溢れ出した涙に乗せた。

 

「いつになるかはわからないが、」

ロイエンタールが顔を上げ、それから口唇を歪めて虚空を見る。

 

「墓を訪ねたい。」

「簡単に許されることではないだろうが」と自嘲気味に笑う彼は、まるでそこにジーンの姿を見ているかのようであった。

彼女の墓所は葬儀が行われた郊外の別邸にあり、首都からは幾分離れている。

ロイエンタールが自由に身動きを取れるようになるのも、彼女の兄の許しを得るのも、どちらも確かに容易ではないように思われた。

 

「私もお手伝いいたします。」

 

「そうか、世話をかけるな。」

ついぞ悲しみを表すことのないロイエンタールだったが、彼の言葉を聞けば、彼女の死を強く痛む気持ちは十分すぎるほどに伝わってくる。

ハイネセンに戻るだけでも並みの苦労ではなかったはずだ。

それを思うと、やはり彼はジーンのためにこの場所に戻ってきたのではないかと思わずにいられない。

 

 

「エルスハイマー。」

虚空を見つめていたロイエンタールの双眼が、エルスハイマーに向き直る。

その瞳が、いつの間にかかつての強さを取り戻していた。

 

「ハイネセンは未だ復興の途中だ、引き続きよろしく頼む。」

それは、かつてこの地を治めた為政者の顔であり、彼の力強い視線は今こそ、はっきりと前を向いていた。

 

「責任をもって当たらせていただきます。」

頷いたエルスハイマーも、強い意志が胸に宿るのを確認する。

先に彼に会ったというベルゲングリューンもきっと同じだっただろう。

 

「長い道のりかもしれぬ。」

エルスハイマーの様子を見たロイエンタールは僅かに口唇を緩めて、小さく頷いた。

冷笑ばかりが見慣れた彼の意外な表情に、目を見張った。

 

「だが、やらねばならん。それが……ジーン・ブラックウェルの希望だからな。」

 

「彼女の、ですか?」

穏やかだが力強い表情で言ったロイエンタールに、エルスハイマーが問い返す。

 

「エルスハイマー。ハイネセンを導いてくれという希望は、まず卿が当たらねばならんぞ。」

そう告げたロイエンタールは、どこか愉しそうにさえ見える。

まるで明日の訪れを望むように、青と黒の双眼に宿るのは確かに希望だ。

 

「ハイネセン、イゼルローン、そして……この宇宙、すべてを剣以外で治めよというのはなかなかに無理難題だが。」

そこまで言ってから彼は憲兵のほうを一度見て、

 

「これが終わらんうちは、俺にはゆっくり朝食をとる権利さえないようだからな。」

冗談でも言うように笑って見せた。

 

「は……。」

彼の言葉をすぐには理解できずに、しかし、それが──亡き女性から託された何事かを意味しているのだろうとは気が付いた。

 

「ミス・ブラックウェルは……。」

 

「ああ、実に厄介な女だ。」

穏やかに、エルスハイマーの知らない顔でロイエンタールが笑って、

 

「たった一言で、この俺を地上に繋ぎ止めてしまったのだからな。」

朗らかに言いながら、窓の外を見る。

 

たった一言。

それが何なのかを知りたいと思うが、きっと生涯明かされることのない秘密だということも理解している。

ロイエンタールとジーン、二人の間にあった「何か」。

神聖不可侵の絆、それが愛であったのか、それとも違うものなのか、エルスハイマーは知らない。

 

しかし、彼の希望は──真実とそう遠くない。

 

ロイエンタールはハイネセンに戻り、彼の目は明日への希望を宿している。

この奇跡をもたらしたのはジーン・ブラックウェルであり、彼女は確かに──偉大な為政者の心の中で生き続けている。

 

窓の外はいつの間にか夜の色に染まり、そのことが彼の滞在時間の終わりを示して寄越した。

 

「どうか、ハイネセンのことはお任せください。」

エルスハイマーも微笑みを取り戻して目礼し、ロイエンタールがそれを受ける。

彼がここに戻るまでの間、総督府を守らねばならない。

そう思うと、自然と心が強くなる。

 

時代は、常に前へと進み続ける。

悲しみを超えて、流した涙を希望に変えて。

時を紡ぐ者たちの背中を押すのは、在りし日の温かな眼差し。

 

夜のハイネセンに、また──希望の灯が点された。

 




【あとがき】
ミッターマイヤーがロイエンタールを救うために奔走するシーンは、原作の中で最も好きなシーンの一つであり、最も苦しいシーンでもあります。
彼らが再び並び立つ世界線はどこかにないだろうか……そう考えたことがお話を着想したきっかけです。
また、政治家・ロイエンタールを彼の行き着く先としたのは、ユリアンが「第三代あたりの皇帝に相応しい」と評していたからです。

ラストがこういう形になったのは、必然かとも思い、同時に不本意でもあります。
田中先生のお話を題材にするとは、きっとこういうことなのでしょう。「どうしても“そちら側”へ引っ張られるなあ」と、書きながら強い引力を感じました。
一方で、私自身は「ハッピーエンドで大円団」が好きなのです。
ラストが不本意と言ったのは、そういう理由です。

が、そこはやっぱり二次創作の世界なので……
幸せな「IF」のお話を書き、マルチエンド方式とさせていただこうと思います。
最終話のあとにもう一話、「ハッピーエンド」のお話をアップしていますので、もう少しだけお付き合いいただけたら幸いです。

※「活動報告」に執筆者コメントとアンケートを載せていますので、よろしければご覧くださいませ。


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【IF】新たなる旅路【マルチエンド】

ハイネセンの軍港に降り立ったミッターマイヤーは、郊外へと続く道を運転手付きの地上車でひた走っていた。

銀河帝国の国務尚書である彼に対し、護衛車をつけるようにと部下が進言したが、ミッターマイヤーはそれを断った。

特殊な加工を施した公用車ではあるが、ローエングラム王朝の国旗も掲げていない。

非公式の訪問であることを一応の理由としたが、その本当の理由は──旧い友人に会いに行くにあたり、大袈裟に体裁を整えるようなことはしたくなかったからだ。

 

ローエングラム王朝が成立し、5年目の夏をすぐそこに控えている。

しかし、この年の6月に行われた建国記念の式典は、決して明るいだけのものとは言えなかった。

ゴールデンバウム王朝の打倒を成し遂げた新皇帝が、あまりにも短いその生涯を閉じて早二年、幼帝の母であり摂政であるヒルダと国務尚書のミッターマイヤー、歴戦の将たる元帥たちによって新体制が築かれつつある。

しかし、先帝に集中していた権限の委譲だけでも莫大な時間と労力を要し、また、政治家や官僚たちの干渉もあり、内情は決して安定したものとは言い難いのが現状であった。

 

16歳で士官学校に入って以来、人生の半分を軍属として過してきたミッターマイヤー自身、正直なところ執政に関する知識は十分とは言えない。

とはいえ、自信のない素振りでも見せようものなら、長年宮廷を住処としてきた魑魅魍魎のような政治家たちの餌食になるのは目に見えている。

軍人らしい毅然とした態度で振る舞いながら、しかし「艦隊の運用であれば誰にも負けないのに」という他人に言えぬ愚痴を心の内に封じ込めることに必死だった。

 

摂政のヒルダは、聡明とはいえあまりに若い。

加えて幼帝の教育にも当たらなければならない身である。

提督時代を共にしてきた僚友たちであればミッターマイヤーの悩みを理解してくれるのかもしれないが、「首席元帥」の称号を持つ彼自身が安易な甘えを許さなかった。

 

「彼がいてくれれば」、とこの二年間に何度も思った。

無二の親友である彼に対してなら、酒を飲みながら何事も気安く打ち明けることができただろうし、それ以上に、

 

(俺などより、余程この任に相応しい。)

彼ならば、優れた政治手腕で難局を乗り切ることができたはずだと思ってしまう。

一番自信のある艦隊の運用でさえ、もしかしたら彼には敵わないかもしれないのに、と。

 

そう思いながら決して口に出さなかったのは、誰にも弱気を見せたくなかったからだけではない。

ミッターマイヤーが心より求める親友は遠くハイネセンに在り、要職はおろかどんな公職にさえ就いていない。

ローエングラム王朝の黎明期に生じた先帝と忠臣とのすれ違いは、臣下がその職を辞すことで決着した。

予備役からの復帰という筋書きを先帝は描いていたようであったが、歴戦の宿将であったはずの彼は完全に軍務から離れたいと申し出た。

権力から遠ざかることで自身の無欲を示そうと考えたのかもしれないし、あるいは、一度向けられた疑いはいつ再び不穏の種となるかわからないと新王朝の未来を慮ったのかもしれない。

彼は親友であるミッターマイヤーにさえ本心を語らず、以来二年半の間、その後の様子さえ知らされていない。

冤罪であったとはいえ謀反人の汚名を受けて表舞台を退いた男と新帝国の国務尚書とでは、かつてのように友誼を温め続けることは難しかった。

 

会いたいと願いながらそれを口に出来ずにいたミッターマイヤーに、「あなたの親友にご相談されては」と言ったのは、新帝国七元帥の一人であるエルネスト・メックリンガーだった。

勇敢であるだけでなくバランス感覚に長けた参謀役でもあった彼もまた、ローエングラム王朝の現状を案じている一人であった。

ミッターマイヤーが二つ返事でフェザーンを飛び出してきたのは、何もメックリンガーの進言を待っていたからではない。

 

ローエングラム王朝によって統一された新銀河帝国の中にあって、未だ自治権を主張し武装を解除しようとしない唯一の政治的組織、「イゼルローン共和政府」との膠着状態がいよいよ打開し難いものとなりつつあったからだ。

新銀河帝国は、国家としてのイゼルローンを勿論認めていない。

しかし、彼らは指導者のフレデリカ・グリーンヒル・ヤン、司令官のユリアン・ミンツを筆頭に「共和制国家」を名乗り、一歩も引かずにいる。

物資の輸送経路の遮断や政治的な孤立をはかるための情報工作等、様々に試みてはきたものの、旧同盟領からの密かな支援もあり、彼らはそれをすり抜けてしまう。

緊張の糸は張り詰め、ついに軍事的衝突は目前という状況が迫っていた。

 

不安定な内政下の遠征が新帝国の混乱を招くことは自明であり、ようやく落ち着き始めた旧同盟領土が再びクーデターやテロといった暴力の渦中に逆戻りする可能性も極めて高い。

軍人出身のミッターマイヤーだが、再びの戦火を望まない気持ちは多くの人民と同じであった。

 

ハイネセン等の「新領土」には、帝国併合以来「総督府」が置かれており、新帝国皇帝の親政には至っていない。

総督府の長は、創設時に民政長官を務めていたユリウス・エルスハイマーで、軍事部門はベルゲングリューン査閲監が引き続き担っている。

メックリンガーの進言を受けたミッターマイヤーは、すぐさま彼らに連絡を取ると、旧友との再会を果たすため自らハイネセンへとやってきたのだった。

 

 

美しく整えられた沿道の農地にミッターマイヤーが目を向けた時、目的地に近づいていることを彼の部下が知らせて寄越した。

巨大なビルの建ち並ぶハイネセンから数時間とは思えぬほどに、のどかな田舎の景色が広がっている。

青々と茂る草は牧草だろうか、その隣には農作物が植えられた畑が広がっており、その上空を中型のドローンが巡回しているアンバランスさがなんとも不思議な印象を与えていた。

ふと気がつけば、先ほどまであった車の揺れが収まっており、行く先を見ると、いつの間にか広くなった道幅と綺麗に舗装された車道とが目に入った。

その先に、石造りの壁が張り巡らされた街が見える。

 

街の入り口を車が通り抜けたところで、ミッターマイヤーは運転手に声をかけた。

急ぎの用件で来たつもりだったが、目の前にある景色の美しさについ車を降りて歩きたくなってしまったのだ。

 

「ここからは歩いて行く。」

自らサイドドアをあける国務尚書を部下が引き留めるが、彼は構わずに街の通りへと歩を進めた。

 

石造りの家の並ぶ古い町並み、石塀の外側まで敷かれていたアスファルトの道路ではなく整えられた石畳が、歩くミッターマイヤーを中心部へと誘う。

途中、小川を渡る。

さらに歩みを進めると、それが小川ではなく街に張り巡らされた小さな運河であることがわかった。

運河沿いに茂る夏の木々、その木漏れ日を受ける木組みのベンチに住人と思しき人々が腰掛けて談笑している。

水辺に浮かぶボートや蔦の葉の緑が眩しい石塀の家屋、夏の花々が彩るフラワーポッドが飾られた窓辺、絵本の中から抜け出てきたような美しい世界に、ミッターマイヤーは目を奪われた。

 

中心部の広場を抜け、丘陵へと続く道を歩く。

街道沿いには小ぶりの店舗が続き、華やかなディスプレイが施された店頭や行き交う人々の服装を見れば、暮らし向きの豊かさがはっきりと見て取れる。

立ち並ぶ店の途切れた先、緩やかな坂の上に一層見事な邸宅が建っていた。

 

ミッターマイヤーは、確かな足取りで丘の上に立つ屋敷を目指して進んだ。

脇に目をやれば、運河の水源となっているらしい湖が、夏の日差しを受けて硝子のように輝いている。

その湖を見下ろす場所に、目的の邸宅があった。

 

使用人に案内されて、屋敷の奥へ向かえば──求め続けた人がそこにいた。

 

「早かったと言うべきか、遅かったと言うべきか。難しいところだな、ミッターマイヤー。」

書斎の奥に設えられた重厚な執務机から立ち上がり、彼は言った。

ミッターマイヤーの知る頃のままの怜悧さと優雅さを兼ね備えた仕草で彼は歩み寄り、

 

「だが、よく来てくれた。」

真っ直ぐに伸ばした右手で、親友の手を握った。

変わらぬ力強さに、こみ上げるものがある。

権力を持つほどに深まった孤独を和らげてくれるのは、やはりこの男だけだと思った。

 

「ロイエンタール……!」

見慣れた軍服姿でこそないものの、ミッターマイヤーが求めていた彼が確かにそこに在り、共に宇宙を駆けた頃と同じ友情を持って親友を待っていた。

 

「一杯飲むか」とロイエンタールは変わらない調子で言ったが、頷きそうになるのを堪えてミッターマイヤーは慌てて首を振った。

安堵と懐かしさで大事な任務さえ忘れてしまいそうだったと、つい苦笑した。

彼の隣にいると、つい本心に返ってしまう。

軍務の中で出会った友ではあるが、夢も野望も、愚痴さえも共有し、胸襟を開いて語り合える唯一人の相手だった。

 

「是非そうしたいところだが、まずは卿に伝えなければならんことがある。」

頼みがあって来たのだと告げるが、相手もそれを承知していたらしい。

 

「卿たっての頼みならば、例え何であろうと引き受けぬわけにはいかんだろうな。」

「おおかた俺の予想通りだろうがな」と彼は皮肉屋の笑みを見せて、

 

「行ってくれるのか、イゼルローンに……!」

悩む様子さえ見せずに頷いたロイエンタールに、ミッターマイヤーは大きく安堵の息を吐いた。

 

「とはいえ、許可を得ねばならん相手が一人だけいる。」

事もなげに告げられた言葉だったが、ミッターマイヤーは思わず「あっ」と声を上げた。

急に落ち着きをなくした友人に向かい、ロイエンタールが喉を鳴らして笑う。

 

「そう浮ついていては、国務尚書の威厳が台無しだぞ。」

 

「しかし……!」

遠くフェザーンよりわざわざハイネセンまでやってきた理由。

それは、ロイエンタールにイゼルローンのことを相談するためであったが、それが正しい道であるかは、もう一人に尋ねないことには判断できない。

 

「街に図書館を作るのだと言って、放っておけば夜まで帰ってこない。迎えに行くか?」

 

「あ、ああ!」

俄に緊張した表情になるミッターマイヤーを見て、呆れたようにロイエンタールが笑う。

 

「まあ、気の強い女ではあるが、そう身構えることもあるまい。」

一層可笑しそうに笑う彼に連れられて屋敷を出ると、ミッターマイヤーは元来た道を引き返すことになった。

 

「美しい街だ。」

思ったことを素直に告げると、ロイエンタールが満足そうに目を細める。

 

「卿が管理しているのか?」

 

「いや。だが、何もせずにはいられん性格のようでな。」

一切の公職に就かないことを彼は先帝に対して誓っており、主君亡き後もその誓いを忠実に守っている。

しかし、街の発展を見れば、有能な執政官の手が入っているのは確かで、ロイエンタールが何らかの助言を行っているであろうことは容易に推察された。

 

 

湖を眼下に伺いながら勾配を下ると、再び店舗が軒を連ねる通りに戻ってくる。

店先の人々が気軽にロイエンタールに挨拶をし、彼が応える様を興味深く眺めながら、ミッターマイヤーもそれに倣った。

この宇宙の最高権力者が目の前にいるとは夢にも思っていない様子の人々を見ると、あるいはロイエンタールが何者であるかも彼らは知らないのかもしれないとふと思う。

そう思えるくらいに、今のロイエンタールは街の景色によく馴染んでいた。

 

「この通りの奥の屋敷を買い取って改装している。」

街の中心にある広場を右手に降りると、何台かの地上車が門前に止まる建物があった。

業者らしき人間が本の束を抱えて出入りする様子を見れば、そこが目的の場所のようである。

 

「どんな……女性なのだ。」

ミッターマイヤーは、ついに思っていたことを聞いた。

吐き出してしまえば何ということのない台詞だが、彼がこの質問を最初に尋ね損なったのは、反逆の疑いをかけられたロイエンタールを連れてフェザーンに戻る旗艦の中でのことなのだから、実に気の長い話である。

それを告げたミッターマイヤーに「そんなに気になるなら聞けば良かったものを」ロイエンタールは呆れたが、彼は屋敷の入口の前で足を止めた。

 

「そうだな。」

その横顔に浮かぶ穏やかな笑みを見つめながら、ミッターマイヤーは答えを待った。

 

「この俺を許せるほどに忍耐強く、この俺を飽きさせぬ程度には美しい。そして、俺を説き伏せただけの気の強さがある。そんな女だ。」

漁色家のくせに女嫌いで、ともすれば女性を憎んでいるようにさえ見えたこの男の心を捕らえた女性とは、一体どんな人なのだろう。

何度想像しても納得のいく答えを得られなかったミッターマイヤーだったが、ついにその人と対面する時がやってきたことに、感慨深さやら正体不明の気恥ずかしさやらのごちゃごちゃとした気分を感じていた。

 

「ジーン、邪魔をするぞ。」

業者たちが忙しなく出入りする屋敷は、居宅としての壁がすっかり取り払われて木目の書棚が天井までを埋めている。

その奥に、彼女はいた。

 

振り返る彼女の髪が揺れ、知的な光を宿した瞳が、彼女の夫と来訪者を交互に見る。

「気が強い」と言ったロイエンタールの言葉を感じさせる要素は伺い知れなかったが、確かに彼の言う通りの美しい女性であった。

しかし、ミッターマイヤーが目を見張った理由はそれだけではない。

 

「お父さま!」

ロイエンタールの足下に駆け寄った小さな姿。

彼と同じダークブラウンの髪をした少年は、ミッターマイヤーを見上げて「だあれ」と透き通るような青い目で問いかけた。

 

「お父さまの古い友達だよ、フェリックス。」

少年を抱き上げるロイエンタールの手の優しげな動きに驚かされ、「こんにちは」とミッターマイヤーはかろうじて言葉を発した。

甘えるように父親に抱きついて、「こんにちは」とはにかむ少年は、およそ五歳といったところだろうか。

ロイエンタールに子どもがいることは知っていたが、それが望まぬ形で生まれた子だということもミッターマイヤーは聞かされていた。

年の頃を見れば、この少年がその子どものはずだ。

 

「僕もね、たくさんお母さまの手伝いをしたよ。」

誇らしげに告げる様子が愛らしい。

父親らしいロイエンタールの振る舞いに驚かされるが、少年の子供らしい素直さが幸せの原風景のように見えて、ミッターマイヤーも顔を綻ばせた。

 

郊外の田舎町で暮らすロイエンタールなど、どれほどの想像力をもってしても思い描けないと考えていたミッターマイヤーだったが、彼の親友はあっさりとその想像を裏切ってみせた。

美しい街で睦まじく暮らす彼らを見ると、今更戻ってくれなどと言い出す自分が厄介者に思えてくる。

 

しかし、それは杞憂であった。

 

「初めまして、ミッターマイヤー元帥閣下。」

落ちついた声音でジーンはミッターマイヤーの名を呼び、

 

「いつかいらしてくださる日を夫と楽しみにしておりましたが、思い出話をするにはまだ早すぎるようですね。」

思慮深く言葉を選んで言ってから、そっと瞳を伏せた。

 

「フレデリカたちのこと、どうかよろしくお願いいたします。」

はっきりとした口調で彼女は言い、再び顔を上げてミッターマイヤーを見た。

美しい女性だとも、穏やかなひとだとも思ったが、その瞳に映る意志の強さを見れば、それだけの女性ではないことは十分に理解できた。

 

ハイネセンで学び、政治の道を志し、一時は戦火さえ潜った彼女が、ロイエンタールを愛した理由。

ロイエンタールがこの美しいひとを求めた理由、それをミッターマイヤーは理解した。

そして、政治や権力から遠く距離を置きながらも、彼らは変わらない志を持ち続けていることを知った。

 

「ええ、必ず。あなたのもとに彼らを無事にお連れすると約束します。」

姿勢を整えて告げた国務尚書に、ジーンが黙礼する。

 

「では、行くとするか。我が妻の友人たちのもとへ。」

悠然と笑顔を湛えてロイエンタールが言い、歴史が──また動き出す。

 

 

「ところで、ロイエンタール。この後のことだが……。」

ハイネセンへと向かう地上車で、ミッターマイヤーは意を決して切り出した。

国務尚書を代わってくれとはさすがに言えないものの、せめて新領土の総督には復帰して欲しい。

それが、彼の本音だった。

ロイエンタールは笑ってそれを取り合わず、

 

「気が早いな、ミッターマイヤー。まずはイゼルローンの友人たちのことではないか。」

気持ちを逸らせる国務尚書をゆったりと窘めた。

 

「いいじゃないか、俺と卿のことだ。何事も儀礼的でなければいけないような間柄ではない。」

しかし、立場で物を言うなとミッターマイヤーが言い返せば、「仕方がないな」と言いながらただの友の顔に戻る。

 

「引き受けるのは構わんが、条件がある。」

ワインを奢れと言うくらいの軽い調子で彼は言い、しかし挑発的な視線で灰色の瞳の親友を見た。

 

「なんだ、難しいことか?」

眉を寄せて聞き返しながら、ミッターマイヤーは自分の心が軽くなるのを感じていた。

責任と孤独をやり過ごすのに苦労した昨日までとは、今はまるで違う。

 

「そうだな、実に難題だ。どうする、ミッターマイヤー。」

無理難題と言われても、むしろ難解と言われるほどにやり甲斐があると思える。

それが、彼が隣にいる心強さだった。

 

「いいだろう、やってみよう。」

 

「内容を聞かずに決めていいのか。」

さすがに笑う無二の友だが、ミッターマイヤーの心は決まっている。

 

「俺の言葉を忘れたか、ロイエンタール。」

 

「“俺と卿とで、成し得なかった何事かが今まであったか“。」

かつての言葉を告げた親友に、ロイエンタールも頷いて、

 

「そうだったな、ミッターマイヤー。」

力強い眼差しでミッターマイヤーに答えた。

 

 

イゼルローンが無血開城され、やがて宇宙は新しい政治体制の構築へと進むことになる。

銀河帝国の一国支配ではなく、専制主義と共和主義とが争う世界でもない、新しい世界へと──。

 

戦場から外交の場へと舞台を変え、英雄たちの物語は続いていく。

 

戦乱の時代から安定と発展の時代へ。

未来という無限の宇宙を駆ける彼らが、自身の人生を振り返ることができる日は──まだ少し先のことである。

 




【あとがき】
改めまして、私の拙いお話に最後までお付き合いいただいた皆さまに感謝申し上げます。
皆さまのご感想や励ましのおかげで無事に物語を完結させることができました。
読んでいただき本当にありがとうございました。

※「活動報告」に執筆者コメントとアンケートを載せていますので、よろしければご覧くださいませ。


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【番外編】The Stars Twinkle Down【IFエンド挿話】

※マルチエンド【IF】サイドの挿話になります。


「自分で産んだわけでもない子を育てるというのか。」

問いかけたロイエンタールを、まるで事情が飲み込めないという顔をして彼女は見返した。

それから一瞬のあと、「ああ」とようやく合点がいった様子で頷いて、笑う。

 

「私の生まれた国では、様々な家族の形が定着しているんですよ。」

誇らしげに祖国の美点を語る眼差しが輝く様子を見れば、命よりも重いと思ったかつての誇りや矜持さえ霞んで見えるのだから不思議だった。

 

総督府を訪ねてきた女性から託された子どもがハイネセンの施設に預けられていると聞いた時のジーンの反応は、迷い一つない素早いものだった。

出生の届け出はどうなっているのか、では戸籍はと、民政府勤務のキャリアに相応しい機敏さであちこちに問い合わせ、付随して発生したいくつかの問題にも明瞭な意見をもって対処していった。

よく言えば寛容であり、ともすれば情緒に欠けるとも言えるジーンの様子に半ば呆気に取られていたロイエンタールがようやく発した言葉が、冒頭の一言である。

しかし、それさえも彼女は笑って受け流し、「行政権が総督府にあるおかげでいくらか手続きも簡単に済みそうです」とささやかな嫌味さえ言って寄越したのだ。

 

どんな時も前向きな明るさを絶やさない彼女のまぶしさを、今また感じている。

部下であった時のジーンは、聡明ではあるが常に折り目正しい姿勢と上司への遠慮を堅持していた。

しかし、今の彼女はロイエンタールにも臆せずに物を言い、意見を述べるに際しても遠慮というものをしない。

そして、よく笑った。

愛しいと思ったし、変わらずにいて欲しいと思ったし、この無遠慮で快活な女性を決して手放したくないと真心から思った。

 

ほんの数カ月の間に失ったものは、あまりにも多い。

元帥の地位も帝国騎士の称号も返上してしまったし、当然ながら「新領土総督」からもとうに外れている。

凍結された財産は自由にならず、ようやく居住地を移る権利を得て、ジーンが父親から相続した湖畔の別邸に移り住んだのもごく最近のことだった。

銀河帝国の軍人としてのすべてと半生をかけて築き上げた誇りとを投げ出して手に入れたものは、ただ一人の女性だけだ。

しかし、それこそがかけがえのないものだと思える。

自分の持てるすべてを差し出したとしても、彼女だけが欲しかった。

 

「手続きが終われば……二週間もあれば済むはずですが、そうすれば赤ちゃんもこちらに移れるそうですよ。」

ジーンはそう言って微笑むが、それを聞いていたロイエンタールのほうが苦虫を嚙み潰したような顔になる。

 

「なんて顔をするんです。」

呆れ顔をつくるジーンだったが、「当たり前だろう」と腕を引かれると吹きだすように笑い出した。

 

「なぜ笑うんだ。」

 

「だって、」

 

「だってなものか。ここに移ってまだひと月やそこらというのに、もう子持ちの夫婦になるのかと思えば当然だろう。」

自分の子どものことだというのになんとも無責任な言い方ではあったのだが、ジーンはそれを咎めなかった。

「少なくとも夫婦という自覚があるのだから及第点でしょう」と、長年の独身主義をあっさりと翻した男に合格点を与え、知的な眼差しをそっと細めてみせた。

 

「ナニーを探さないといけませんね。そう、メリー・ポピンズみたいな素敵な女性がいいわ。」

「忙しくなりますね」と人生における初めての休暇を満喫中である夫をからかいながら、彼の胸にその頬を寄せる。

 

「あなたの血を引く子だもの、きっと賢い子だわ。」

夢を唄うような美しい声音で彼女は言い、自分を抱く男の怜悧な眼差しを覗きこんだ。

 

「聡明で、気高く、物事を成し遂げる力をもっている……だけど、少し我が儘かしら。」

溢れる愛しさを隠さずに見つめる眼差しに引き寄せられるように、抱きしめていた手を彼女の頬に触れさせると、ロイエンタールはそっとジーンの目蓋に口付けを落とした。

 

「聡明で、気高く、物事を成し遂げる力をもっている、母を見習うことができればきっとそうなるだろう。」

自身のすべてを受け入れ、躊躇うことなく子の母となると告げた彼女こそ、その言葉に相応しいと思う。

この美しいひとを母にもてる息子を羨ましいとさえ思ったほどだった。

狭い道しか選べずにいた自分の手を引いて、世界は可能性に溢れていると教えてくれた人だ。

ひたむきに向けられた恋心も惜しまずに与えられる愛情も、すべてがあたたかく美しい。

遠き日に諦めて以来、望むことさえ忘れてしまった祝福を、彼女は無条件に与えてくれた。

幾千の言葉さえ足りないほど愛しく、どれほど愛しても尽きることがない。

初めて、その感情を知った。

 

子をもつことは、ロイエンタールにとって正直なところ受け入れがたいことだった。

自分と血を分けた存在であればこそ余計に愛せるはずがないと思ったし、自分と同じ性質をもった人間が育つのかと思うとまるで化け物を生み出したようで恐ろしい。

けれど、彼女が「我が子」と呼んでくれるのなら──赤ん坊の運命はきっと違うものとなるだろう。

自分の子を愛しいと思えるかはわからない。

しかし、彼女が慈しんでくれるのならば、きっと自分も慈しめるはずだと思っている。

 

彼の心音を感じ取るように、そっと左胸に添えられた手。

大丈夫だからと安心させるようなその仕草に、胸の奥から溢れるものがある。

 

「ジーン。」

これが愛かと、知らなかったはずの感情が湧きあがるのを感じていた。

愛しい、愛している、あたたかい、こんなにも──。

 

「我が妻、ジーン。ジーン・ロイエンタール。」

憎いとさえ思った家名も、彼女の名に添えれば美しい。

そして、その名は継がれていくのだ。

 

「俺はおまえにいくつものものをもらったが……。」

腕の中の妻の髪を梳いてから、再びその細い背を抱く。

 

「その中の一つを息子の名に与えたい。」

生きるために駆け続けたはずの自分が、足を止めたそこで見つけたもの。

彼女がいなければきっと、立ち止まることも、「それ」を見つけることもなかった。

美しく、尊ぶべきただ一つの真実。

 

「俺の人生にはきっと存在しないと思っていたが。ジーン、おまえが教えてくれたのだ。」

静かな眼差しがロイエンタールを見つめる。

答えを待つジーンの口唇にはそっと微笑みが浮かんでいた。

 

「……フェリックス。フェリックス・ロイエンタール。」

 

──幸福。

どれほどの成功よりも、幾たびの勝利よりも、ただ愛され、満たされることの充足を知った。

あたたかく、穏やかで、ただそこに在るだけで十分だと思える感情。

 

「……ああ、これが……”幸せ”ということなのだな。」

吐息と鼓動とを共有する距離で微笑み合い、静かに口唇を重ねる。

同じだけの愛と同じだけの幸福を、愛しきひとへ。

与え合い、慈しみ合う限り、この幸せは途切れずにつづいていく。

目を閉じれば鳴り響く祝福の鐘──それは厳かに、そして晴れやかに彼らの胸に響く。

 

その手に希望を、胸には愛を。

時代が再び彼らを求めるまで──今は、しばしの休息のとき。

 




【あとがき】
昨年の12/16、botさんが荒ぶる様子を見て、これは自衛せねば!と思って書いた限定公開作品です。一年経ちましたので、通常公開いたします。
同じ気持ちの方を励ませたら幸いです……!


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