「それじゃあ今日はこれで解散。お疲れ様でした」
日の傾きかけたグラウンドの隅で、今日の活動を終える陸上部の姿があった。秋も深まりとても過ごしやすい気候ではあるのだが、部員は皆、額や首筋を汗で光らせている。つまりは懸命に練習に励んでいるということに他ならない。部長は解散と言ったが、体操服のままでいるわけにもいかないので、結局は揃って部室に入っていく。いつもの仲良しグループというものはあるようで、二人から四人程度のいくつかの集団に自然に分かれ、それぞれの会話に盛り上がっている。南智花と松島みちるも例外ではない。
「智ちゃん、今日どうだった?」
「ちょっとだけいいタイムが出せたよ。みちるちゃんは?」
などと言っているから、今日の練習の成果について話しているらしい。結果が良かったのだろう、二人とも笑顔が明るい。
ふと耳に入った単語が二人の会話を止める。声のした方には、少し離れたところに四人ほどの集団がいた。噂好きで、いつも学園内のいろいろな人が話題に上っている。なんでも報道部の知り合いから聞き出しているとかいないとか。夏海はしっかりやっているのだろうかと、智花は思わずにいられない。智花もみちるも聞き耳を立てる。
「今なんて?」
「だから転校生に好きな人がいるらしいって」
部室中が「ええっ!?」と驚き返る。最近誰かが転校してきたという話は無い。となれば、ここでの転校生とは、学園で知らぬ者はいない、その特異な体質ゆえに男女問わず引っ張りだこの、あの生徒で間違いない。
「昨日、報道部の前を通った時に中から岸田の声が聞こえてきたんだよ。あまりの大ニュースに記事が書けないでいるらしいけど」
動じない風を装っていた智花とみちるだったが、制服の袖の左右を間違えたり、自分のものだと思って隣の人のタオルを使おうとしたり、傍目にも動揺していると見て取れる。再開した会話もうまくつながらず、どうにか着替えと片づけの終わった二人は、まだ残っている部員に軽く声を掛けた以外は黙ったまま、部室を後にする。
まだ残っている部員のうちの一人がつぶやいた。
「あの二人、転校生のこと好きだよね」
部室を後にした智花とみちる。普段なら二人で学生寮まで帰るところだが、今日はみちるの一言がそれを取りやめさせる。
「ごめん、わたし、忘れ物しちゃったみたい。智ちゃんは先に帰っていいよ」
「別に待っててもいいけど」
「ついでに職員室にも寄ってくから遅くなっちゃうよ」
「じゃあ、それなら、先帰るね」
「うん。また明日」
そう言って小さく手を振りあって別れた。
「あーあ。嘘ついちゃったなあ」
智花と別れ、教室棟まで来たみちるがつぶやいた。この時間はまだ生徒の影がちらほらと見える。みちるはこの中にいるであろう件の人物を探していた。普段から仲の良い智花に対し、嘘をついてしまったことに若干の悔いが残る。そのためなのか他の要因があってか、次の行動を決めかねていた。とりあえず自分の教室までやってきたは良いものの、忘れ物というのは嘘であり、今探している人物もここにはいない。待っていれば会えるという保証はないので、捜すならアタリを付けて見て回るべきだろう。単純なことだが踏ん切りがつかない。はあ、とため息が漏れた。
その頃、智花はと言えば、まだ学園の中にいた。先に帰ると言ったが、正門に近づくにつれ歩幅が小さくなり、今は噴水の縁に座ってぼんやりとした様子で小鳥を眺めていた。時折、附近を通り過ぎる学園生を気にしている。一人になったこともあり、部室で聞いた噂話が無意識中に彼を探させていた。彼のことだからまたどこかで誰かの世話を焼いているのだろうし、それはとても彼らしいことで、その様子を思い浮かべるとふふっと自然に笑みがこぼれる。それは同時に、もしそうでなかったらと考えると胸のどこか深いところで痛みが動く薄氷でもあった。
ほんの数分とも数十分とも知れぬ時間が過ぎた頃、もう完全に日が暮れていた。気付けば、灯りと言えるものは、門から続く道の電灯と、数えるほどの教室から漏れ出る照明だけになっていた。噴水の縁に座っていた智花はまだなんとなくぼーっとしていたが、辺りがすっかり暗くなっていることに気が付くと我に返ったかのように慌てて腰を上げた。スカートをはたいて埃を落としていると、足音が聞こえる。音のする方を見ると誰かが歩いて近づいてくる。電灯の灯りの向こうにいるので影しか見えない。それでも智花の直感は影が転校生だと認識する。彼の他には誰もいないようだ。影が灯りの下に差し掛かり、バックライトのようになっていた教室の照明が一つ消えると、やはり影の正体は転校生であった。
「転校生さん」
声を掛け駆け寄る。「あのっ」と言いかけたところでもう一つの足音が「転校生くーん」という声と共に近づいてきた。聞きなじみのあるこの声はみちるだ。追いつくが早いか話し出す。
「やっと見つけたよー。もう帰ろうかなって外見たら歩いてるのが見えてさー」
智花がいることには気づいていないのかもしれない。このまま話し込みそうな勢いだ。そうはいっても先に話し掛けたのは智花である。普段ならしないはずだったが、転校生の手を取り今回はみちるの話を遮った。
「あのっ、転校生さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
やはりというかみちるは智花に気付いていなかった様子で慌てている。
「えっ、とっ、智ちゃん」
みちるはうまく状況が呑み込めていないらしい。自分と転校生の二人だけがここにいるものだと思っていたらしかった。いつからここにいたのかと続かなかったのは、智花が突然現れたように見えたからかもしれない。智花が転校生の手をつかんでいることに気が付くと、みちるは転校生の腕を抱き、
「わ、わたしの転校生くんなんだから!」
と言った。言ってしまった。その場が静まり返る。
しばし夜風が静寂を連れて通り過ぎるのを待って、ようやく我に返ったみちるの顔が赤く染まる。未だ転校生の腕を抱きつかんでいるのを見て、染まった顔から火を噴いてしまう。途端に寮に向かって走り去ってしまった。智花はというと一度冷静を取り戻し、みちるの発言と自分の行動を思い出し、そして転校生の顔を見たところで、その場から逃げるように走り出した。
一人残された転校生は目まぐるしく駆け抜けたひと時を、ただただ、佇むことしかできなかった。
※ ※ ※
びゅーと風が強く吹き抜ける。秋の夜風は冬が近いことを想起させる。このまま風邪を引いてはいけないと、転校生も正門を出ようとした。もう一度吹き抜ける。紙が飛んできて足に引っかかる。取り上げて見てみると、報道部の新聞原稿らしい。日付が明日なのを見るとぎりぎりまで粘っていたようだ。原稿が飛ばされて、果たして公開に間に合うだろうか。報道部の誰かの心配をしていたが、この写真、どうも自分の後ろ姿に見える。見出しはこうだった。『特派員は見た!! 転校生が恋愛相談!?』
身に覚えのない転校生はそのまま記事を読み進める。どうやら海老名あやせと話しているところを聞かれ、推測と混ぜ合わせて書かれている。記事内容を考えれば、転校生に対し取材をしていないことは分からなくはない。しかしそれは当然誤りを生むことにつながる。その誤りを持った記事を当の本人が手にしてしまっている。この記事を書いた部員には気の毒だが、虚偽報道を公認するわけにもいかない。上着のポケットにしまおうと四つに折る。とそこに誰かが駆け寄ってきた。飛んで行った記事を追いかけてきた報道部員だろうか。振り返ると岸田夏海がいた。こちらの顔を見るなりぎこちない動きになる。
「あ、あのー、こっちに紙が飛んでこなかった?」
これを書いたのはやはりといえばやはり、夏海だったか。これのことかと四つに折った紙を広げて見せる。げっとした表情を夏海は浮かべた。
「あのー……、もしかして……読んだ?」
そう恐る恐る尋ねる夏海に首を縦に振る。夏海はあちゃーと手を額に当てた。
「でもでもっ、記事の内容は合ってるでしょ? そりゃあ推測もちょっとはあるけどさあ」
今度は首を横に振る。ええっと夏海が声を漏らす。どうやら脚色こそあれ正しいと思って書いていたらしい。
「だって、あやせに言ってたでしょ? 好きな人がいるって。あたしちゃんとこの耳で聞いてたわよ」
そんなこと一言も発していないはずだがと首をかしげる。そういえば一つ思い当たることがあった。それはいつ頃聞いたのかと確認を取って、夏海に伝える。
「ええっ!? それ、ごまかしじゃないわよね」
ああやはり夏海は重大な勘違いをしていた。
「まさか『すき焼きの具、要る』を『好きな人が居る』だと聞き間違ってたなんて……。ああもうこの記事ボツにするしかないじゃない! すき焼きの具って何よ! そういうことは花梨に相談しなさいよね! 転校生! なんかいいネタ無い? これから取材でもいいわよ。ていうか新しく記事書くの手伝いなさい! 部長が記事を書いてないなんてことになるわけにはいかないんだからちゃんと責任持って――」
自分のせいにされている気がしないでもないが、学園中に虚報をばらまかれるくらいなら仕方がない。今夜は寝させてもらえないらしい。
《了》
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