Fate / Amazing Grace (牡丹座)
しおりを挟む

#0

 人類史きっての不朽の課題。

 ‘差別闘争,

 文字通り、差別から始まる第一者と他者の間に生じる関係。これに多くの場合攻撃的姿勢が伴うことから闘争という言葉を仮に適用する。

 

 会話から始まり、戦争や宗教までもを発生させるのは人間の存在があるからこそ。しかし人間が一人で空間に座標を打っていても会話も諍いも始まらない。そこで何かが起きるには多面性を持つ第二の同位存在が必要不可欠なのだ。

 

 論題として、人が一人だけならば差別はなくなるのか否かというのが注目されてきた。確かに人間を個別空間に隔離して個人が完全解離のもとに営まれる社会では複数の人間の同時存在に起因する差別は生じないだろう。そこには会話もなく、争いもない。

 しかし現実と相反関係にある論題など掲げても栓の無きことというのが人間の余興的性質というもの。つまりは論じたところでどうすることも出来ないことに限って余裕を持て余した識者などは好んで課題に掲げて言葉を交わしたがる。そこで新たに意見の相違を得て対立を始めるというのだから道理でこの世界に進展が訪れないことも頷ける。

 人間自体の本質が日本でいう旧石器時代から変容していないと指摘する声は紀元前から聞こえる。事実、生命体としてのレベルアップでいえば微々たるものと言えよう。無論人間社会が形成した技術面に関しては語るに尽くせないほどのドラマティックな人間の奮闘があったからこそ、今日までの社会が形成されるに至っている。技術がもたらした平和はたとえ『仮初め』と揶揄されても平和には変わらない。

 

 とにかく平和が訪れたら不毛のようにも思われてもいろいろと思惟したがるのが人間の惰性ともいえる。

 そこで目下の格好の餌食となるのが『差別闘争』。差別というものが人間の基本構造として成立するのに不可欠な競争的性質を喚起させるのに必要となれば、問題なのはそれがどういう形であれ闘争に発展してしまうことと考えて問題はない。言ってしまえば人が二人いれば比べるのは‘当たり前,でもそこで悪い感情を挟んで‘喧嘩する必要ないよね?,という課題を人間は紀元前から近代まで温めてきたということだ。

 

 これはいわばそのような神でも覆せないような人間の基本構造(惰性)に対して一定の試練と課題を設け、小粋な計らいとして人類に一計を案じたある存在が催したゲーム。

 

 偉大なる恩寵は他人事ではない。恩寵が神から享受するするものと仮定するのは愚かなことで、さしずめ自らが望んで行動しない限りは人の世に変容などあるはずもない。

 

 人々がその論題の解答《answer》を生命をかけて渇望した時ようやく、大地が溶けてもなお生き続ける新たな人類の概念が形成される。何万年を経ても生き続ける解答はそうして神から人に委ねられるのだ。

 

 さぁ。前口上が長くなりました。

 しかしてこれよりの物語はさらに長く苦しい闘いの物語。

 

 聖杯の所有権を巡った紛れもない‘聖杯戦争,に御座います。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene1-1

 

 思い返してみればそれは夢の一環だったのかもしれない。

 目覚めた時からその日は運の良い一日のように感じていたのだ。

 

 彼、赤須家の長男坊である赤須卵(アカスラン)の朝の目覚めは妙に清々しかった。毎日のように寝起きの彼を苛む異様な寝癖はその日に限って付いておらず、気怠さの付きまとう朝食時にも妙な晴れやかさがあった。一昨日から降り続いていた雨はあがっていて、広い中庭を歩けば涼やかな秋風が頬を撫でた。

 

 呼び出しの手紙が届いたのは正午を過ぎてから。集合時間は深夜零時という話だった。欧奈東区は交通網の整った綺麗な地方都市だ。集合地点に指定されている教会堂までは山間を進むとはいえ片道二時間といった所、午後の仕事を片付ける時間はあった。

 とはいえ不穏な手紙が届いたからといっても、朝から続いた心持の妙な晴れやかさは続いていた。だからこそ、その深夜の一悶着は少々心にこたえるものが大きかったのかもしれない。

 

 

 電灯が仄かにでも山道を照らしてくれたのは山の中腹の何とも微妙な地点までだった。卵は仕方なく従者を連れずに一人でその先の山道を進んだ。とても暗い山道で、秋の暮れということもあって非常に寒い。

 手紙に記されてあった「独りで来られたし」という言葉はどこか脳裏に不穏なものを感じさせていた。この世界の至る所で先日から不穏な動きがあることなど、秋風と同じように宙からそよいでくるというもの。そんな不穏な世界の中に置かれた自分の立ち位置など正直考えることも億劫になった。

 手紙に申し訳程度に書いてあった地図だが、教会堂の目星はすぐに付いた。夜の森林には相応しくないほどの光量を巻き散らす奇妙な建造物が太く長い木々の合間から光を零している。しばらく歩けばその建物が教会堂であることは見慣れていなくとも判別が付き、一度腕の時計に視線をやった。

 指定されている時刻より数分遅れていた。山道を少なからず歩いただけに多少の誤差はやむなしといったところだろう。

 

 古い木製の大扉を開けたところ教会堂の内部は外部の不自然な光量とは裏腹に蝋燭が連なった落ち着いた雰囲気だった。中には拝廊からでもよく見える内陣の聖母像が目立っていた。一見しただけでは参拝者と呼べる人間は自分だけのようにも思えたが、聖母像の裏手のアプスから一人の前期高齢期あたりの人物が姿を現した。どこで仕入れられるかもわからないような真っ赤なスーツを身に纏い、丸眼鏡と整えられた白い髭が目立つ印象的な男だった。

 

琴海(コトウミ)さん、お久しぶりです」

「ハイ、ランちゃんお久。すまないねぇ、急な呼び出ししちゃってさ」

 見た目に沿っているのかそぐわないのかもよくわからなくなるねっとりとした喋り方は相変わらずだった。卵は羽織ってきたコートを近くの席に置くと、少し丸みを帯びた眼鏡を掛けなおしてゆっくりと手を組んだ。

 儀礼的なものだが、教会堂でまっさきに祈りを捧げるのは褒められたことだろう。

「随分と急な呼び出しで驚きました」

「そうね、こちらもあまり気持ちの良くなかったけど仕方なしだねぇ」

「一体、何が起こったんですか?」

 琴海は聖母像と卵の間を通り抜けて、静かな教会堂の翼郭に背を付けた男に目を向けた。正直卵はその青年の存在に今の今まで気が付かなかっただけに、少し無意識に後退るような反応をとってしまった。

「遅刻を悪びれないとは不謹慎な男だな、まったく」

 それは相手を居竦ませるような、なんというか、鷹のような瞳の青年だった。

 歳はそう卵とは離れていない二十代中盤といったところだろうが、少し年上と見える。その姿は一般人の装いとは少し趣の違った、戦闘服染みた召し物であり、全体的に黒地で動きやすそうな恰好に見えた。まるで誰かと闘いに来ている、そう言わんばかりの闘志も十分に感じ取れる。

 

「そちらは…?」

「椿ヶ丘君、ランちゃんと同じ『ナクサトロズ』と言われる一家の一つだよ」

「そう、ですか」

 

 ナクサトロズ。

 それは知る者ぞ知る、知らぬ者は知らぬが特に問題もないような存在。

 一般人の領域には存在すら知覚されにくい国家の影。とまでは言わなくとも、少なくとも国家からの承認が一応とて下っている法外組織として機能している。広義に捉えれば‘常ならざる力を提供する集団,狭義には‘国家貢献のための狗,といった所の集団だ。

 魔術然り、芸術でもそうだが、ある種の特殊技能はその本質が秘匿に集約する。常ならざる力を持っているならばそれなりに結社を組織して技術の昇華を測ることはあれど、好んで国家やそれに準じる機関と結託してその力を扱おうとは思わない。それそのものが自由な生き方を束縛する自己選択であることに加え、神秘の秘匿を嫌う無数の異能力者から悪印象を受けることは避けられず、敵を増やす行為になり得るからだ。

 しかしナクサトロズは太古からこの日本における政府従属の家計の変形体として知られている。その呼称は‘蛾閥,‘三本剣,‘国狗,と様々だが、主に魔術関連における大派閥では彷徨海を除いては『時計塔』『アトラス院』『聖堂協会』から共通してナクサトロズという蔑称が適用されている。

 とはいえ当のナクサトロズたちにはそもそも集団意識というものがない。つまるところ奉公のベクトルが同じ当代の政府に向けられた活動成果だとしても、技術も能力も異なる彼らはその恩恵の受け方も異なり、基本構造が家ごとで区分されているために同じナクサトロズでも家同士で結託して行動を起こすことはない。

 そもそもナクサトロズにおいても、その魔術的技術を以てしての貢献など不可抗力という面も大きく、総括してしまえば嫌々やっているという捉え方も出来なくない。慣例化しているわけではないとはいえ、太古から存続しているいわば日本という概念との契約。それを断ち切る術は日本国家そのものが瓦解して政府としての概念が消失することに他はない。それがないからには彼らナクサトロズの家は代々必要とあらば国家の狗としてその秘匿すべき異能を貢献し、力を奮う。数あったナクサトロズの家柄も次第にそんな宗教的な国家との契約から逃れようと遠方へ移り住む家もあったが、それを処理するのがつまるところ魔術協会と聖同協会なのだ。彼らからすればナクサトロズは大変迂闊に魔術を乱用している愚か者にすぎず、それが日本の庇護を受けた存在でなくなった途端その処理を即座に行う。それによってナクサトロズはいよいよ今日まで逃げ場を失ってしまったのだ。

 

(椿ヶ丘。確か身体強化系の魔術に磨きをかけた超人の家柄。解除不能の呪いにも似た強化を何代にもかけて行うことで末恐ろしい身体能力を自在に制御できるようになったとか、ならないとか…)

 

「赤須の家か。なんとも、ナクサトロズの中で最も名の売れているうちと最も得体のしれないお前の家が呼び出されるとはな……」

 面白い。と言わんばかりの表情で椿ヶ丘は口の端を緩めていた。なんとも印象の悪い人物だった。

「今はナクサトロズがどーとか、家柄がどーとかはどぉーでもいいわけ」

 琴海は卵から呼び出しの際に送ってきた手紙を受け取り、それを蝋燭の火にかけて抹消した。

「夜が明けないうちにやることがあるの。明日にはNYまで飛んでもらわなきゃならないわけだからね」

「「!?」」

 その発言に卵と椿ヶ丘は同様に目を剥く。

「な、」

「話が見えてこない。どういうことだ聖堂協会ッ」椿ヶ丘の糾弾が空気を揺らす。

 琴海は曲りなりにも聖堂協会の人間。いわばナクサトロズが海外に出た際には彼らを抹殺する側の立場にある人間だ。彼は普段から神出鬼没でたびたび赤須家との交流をもっていたために卵は彼に対して敵対感情は持っていないが、椿ヶ丘の家ではそうでもないらしい。聖堂協会の人間にこうも堂々と呼びつけられれば戦闘を意識した服を着てくることも無理はないだろうし、ましてや政府からの庇護がない海外へ行ってもらうとなればその態度も当然とさえ言える。

 

「とても一言では説明できない緊急事態なの。……君たち、『聖杯戦争』って知ってる?」

 サングラスを外した琴海の瞳はどこか虚ろに見えた。

「魔術礼装である聖杯を巡った魔術師同士の殺し合い、ということくらいは……」椿ヶ丘は応える。

「同じ国で起きていることとはいえ、大原則的にこちらからは手出ししないようにとの教訓がありましたからね。聖杯戦争の一環として冬木市が炎に包まれた時、流石に意識はそちらに向きました。……聖杯戦争が由来する魔術師の在り方というものにも興味が沸き、一時期調べていた時期はありましたが詳しいところとなると…」

 戦闘集団として、実際の武装勢力やら、時には鬼や魑魅魍魎の討伐といった陰陽師じみたことをしている椿ヶ丘家ではそんなことを調べている余裕はないのだろうが、赤須家は基本的に魔術を用いた兵器の生産と販売を軸にした一族。多少の余暇から聖杯戦争についての興味を辿っていた時期が卵にはあった。

「うん、そう。その聖杯戦争は四次、五次と冬木市で繰り広げられたわけだけど、実際の所、イレギュラーな亜種聖杯戦争は世界中でそれなりに勃発してた。多くの場合はその対処に魔術協会が追われ、水際の所で騒ぎや問題が回避・秘匿されてきたわけだけど、今度のはその性質が異なる」

「つまりはその亜種聖杯戦争は今起こっていると?」

「そう。何しろ私も専門外だからね、そこまで詳しい聖杯戦争のルールを熟知しているかと言われればそうでもないんだけど、これまでに勃発した聖杯戦争というのは聖杯が『自主的』に戦争を発生させた一種の災害のようなもの。聖杯とは何か、の概念はいくらでもあるが、その都度多くの魔術師がその戦争の中で力を証明することで戦争を終わらせ、結果的に事件の収束と名誉を得ることに繋がっている。多くの場合が聖杯戦争を望む存在に令呪が与えられたことから、その聖杯の本質が魔術師の闘争意識の関与しているとの意見も多かったし、正直私もそんな風に考えていた」

 聖杯戦争の中での力の証明ともなれば、つまるところ多くの命を奪ったという証明にもなる。魔術師を殺すことで魔術師が事件を終わらせるなど、いわば聖杯に繰られた操り人間とでも考えられるだろう。

 

「今度のは何が違うっていうんだ。要は聖杯戦争ならただ一人の勝者を選別するだけの機械的な儀式、そんな愚かな儀式に異変が現れたからといって、どうしてナクサトロズである俺が呼び出されることに繋がるんだ」

「言いたい事は重々理解できるとも。だがね、今度の亜種聖杯戦争の異質さってのは『明確な主催者』が存在するという所にあるのさ。というのも、今回ばかりは異質も異質……なんたって、まさかの『高位存在』が絡んできているのさ」

 琴海のその物言いに卵は実感というか、彼が言うほどの強い印象を受けなかった。眉を潜めた椿ヶ丘は少し考えるようにぶつぶつと言葉を漏らしていたが、考えの整理がついたのか、言葉を向ける。

「高位存在というと、あの…?」

「ああ、多分それであってる。何分啓蒙結社のトップクラスでしかコンタクトすら取れないこの世界の奥底にいる奴だ。今まで眠ってたのか、散歩でもしてたのか…なんにせよ今になってアメリカに彼が『特異点』を齎した」

 そこで琴海が少し微笑む。

「齎した、というよりは創造した、の方が正しいかな」

「なんでまた、奴がそんな……」

 そこで卵は二人の顔色を伺いながら問いかける。

「正直、僕は名前についてしかその存在を知りません。…いったいその高位存在というのは何者なのですか?」

「はっ、半隠居人が何してようと知らないが、魔術世界退いては裏社会全体の共通認識みたいなもんだぞ、アレは」

「そうだね、言ってしまえば魔法の上を行く存在。地球基盤に根付いた人ならざる何かが顕現した存在。アレが自己主張することなんてそうあることではないけど、その都度人間社会ではなんらかの変化が生じているのさ。聖堂教会では高位存在のことを『管理者』と呼んでいる。読んで字が如く、社会の管理を行っている万物の頂上にいる存在さ」

「それは、宇宙人か何かですか?」

「いいや、少なくとも地球と同時発生した何かが昇華したのが高位存在と言われている。だから奴は地球であり、魔法であり、人間なんだ。これは哲学とも宗教とも言えない問題だがね、人理以前のメカニズムで動いている存在という認識で間違いないから宇宙人やエイリアンの類ではない。……むしろ、奴が通常に存在を確立させている以上は宇宙からの侵略者なんて到底許さないだろうね。いわば地球が高位存在の体そのものであり、地球環境や人類の社会というのは傍観するに丁度良い箱庭のようなものだろうからね」

 

 卵はそこまで話を聞いてもうまく考えが繋がらなかった。

 それほどイレギュラーかつ規格外な存在がいるのと聖杯戦争が起こることが繋がっていても、それに自分らナクサトロズが呼び寄せられることに関連性が見いだせない。

 

「では、その高位存在が亜種聖杯戦争を主催することになったとして、それが我々にどういう関係があるのでしょうか?その特異点の解決の後方支援という形での参戦ならば、それはナクサトロズの仕事ではありません。聖杯戦争である以上は魔術協会と聖堂教会がどうにかするべき問題だと考えます…」

「だろうね。私だって同意見さ。だから言っただろう、今回は異常だってさ」

「……まだよくわかりません」

 そこで椿ヶ丘が苛立って卵に詰め寄った。魔術は行使していないが、途轍もない殺気と気迫で彼に掴みかかって睨みつける。

「お前はなんだ?」

「は…?」

「どうして理解できない。お前も俺も被害者のようなものだろう?」

「だから……何を」

 そこで椿ヶ丘は卵を突き飛ばして苛立ちながら髪をかきあげる。唾棄すべき害虫でも見下すような視線を卵に注ぎ、吐き捨てるように言う。

「教えてやれよ神父。この能天気な愚か者に現実ってやつをな!」

 気のせいか、蝋燭の火がきまって揺らいだ気がする。

 嫌な気分だった。

 今日は清々しい目覚めの朝だったというのに。

 庭は朝露に彩られ美しかったといいうのに。

 

「残念だが卵ちゃんはその高位存在に選ばれたよ」

 

 気が遠くなりそうになった。

 

「椿ヶ丘君と共に、六番目と七番目の『マスター』に」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene1-2

 思えばそれが人生最大の転機だったようだ。

 

 目が眩んだと思えば右手の甲にはまるで冬の魁星のような模様があり、激しい痛みと共に様々な感情がこみ上げてきた。傷つけ合い、殺し合う。そんな他人事極まりない世界にこれから自分が身を投じようとしていると思うだけで反吐出る思いだった。

 駆け巡る虫唾に苛まれる様子を嘲笑するでもなく、罵倒するでもなく、傍らに佇む青年は静かに自らが置かれている状況を受け入れようとしていた。別段その様子を眩しく感じたわけではない。ただただ愚かに見えた。戦う覚悟を決めることほど、人間の行く末を死に近づける精神ではないのだから。

 

 

「どうやら二人とも令呪が顕現したようだね。まぁ、これも異質の一部だね。高位存在に名指しされた者らにはその事実が通告された瞬間に令呪が授けられる。それは強力な魔力を秘めていてね、その画数の分、自分の使い魔に対して強制命令を執行できるんだ。或いは魔力ブーストに使うのもありらしいけど、聖杯戦争という儀式そのものに対して知識の浅い我々には無暗な行使は憚られるね」

 その琴海の発言に椿ヶ丘は目を丸くした。次いで食い気味に問う。

「我々って今言ったな?ということはもしかしてアンタも」

「あぁ、私は二番目に通告されたマスターだよ」

 琴海はほぼ三重の円となっている令呪を見せた。

「私にはイルミナティから連絡が入ってね。彼らは高位存在と間継ぎ役としていろいろ情報を提供してくれた。今回の聖杯戦争の基本的なルールは聞き及んでいる」

「イルミナティは俺たちへの接触はしないんだな」

「それは高位存在がどうにも最後まで参加者を決定していなかったからのようだよ。実際、まだ聖杯戦争は始まっていない。そして残りの君たちが参加者だと決定された段階でイルミナティが面倒を省くために私に状況説明を仰せつけたというわけさ」

 琴海は肩を竦める。そして呆けている卵に向き直った。

「正直、歳くった私はともかく若い君たちには酷な現実だと思う。でも最悪というわけではないさ、なにせ今度の聖杯戦争は我々七人のマスターで争わなくて良いんだから」

 目を覚ますように卵はふっと言葉を漏らす。

 

「じゃあ、誰を斃せば良いっていうんですか」

「んん……それが今回の聖杯戦争の肝の肝。我々七人のマスターが打倒すべきは彼の特異点であるアメリカはニューヨーク、国連本部に巣くう七騎の英霊さ。だから今回の事例は聖杯大戦に近しいものがある。七騎対七騎では通常の聖杯戦争と比べて戦略性も高く、工夫次第では損耗なしに強大な英霊を打破することも十分に出来る。だからこそ、私はここで我々の結束を高めたいと思ってるんだよ。ここで君たちが英霊召喚をした時点で聖杯戦争は始まる。もう後戻りできない異常、結託してこの困難に立ち向かおうじゃないか…」

「はっ、道化爺かと思えば大した小心者だな。だが、まぁそれもやむなしだ。特異点の解決云々よりも個人的な生存欲で戦わせてもらう。願わくば高位存在とやらの殺害も狙ってな…」

「意気込みは結構。意気軒昂でないと聖杯戦争なんてとても乗り切れない。そうさ、生き延びるためにはやるしかないんだ」

 

 楽観主義だな。

 

 卵の中で不満が溶けた。

 琴海も椿ヶ丘も結局は道化師だ。自分の中に確かにある恐怖をしょうもない演技で取り繕っている。

 椿ヶ丘がどれほど裏社会で魑魅魍魎を退治し、人さえも屠ってきたとしてもそれがこの現状にある自分を装飾してくれるわけではない。今まで自分がしてきた成果を今後につなげられるなどと勘違いしている者はやはり愚かなのだ。

 結局は同じ条件や状況の戦いなどありはしない。結託しようが信頼しようが死ぬときは死ぬ。だから嫌なのだ。決定的に身の安全が駆けている空間に身を投じる、それ自体でその魂が戦場の中で孤立して死んでいるのと同義。不毛不要ではないにしても、必要そうだから戦うのと必要を迫られて戦うのとでは意味合いが違いすぎる。

 

「僕は……嫌です」

「ん?」

「卵ちゃん…」

「僕は死にたくありません、えぇ、嫌です。戦場に赴くなんて信じられません、戦闘能力もおそらく最弱でどうにもならないほどに足手まといでしょう。英霊だって僕如きに使役されることは望まないでしょうし、そんな風に扱いきれない力を押し付けられてもどうしようもない不毛が生まれるだけです」

 そこで椿ヶ丘が卵の胸倉をつかむ、顔を寄せて鷹のような眼で卵を覗き込む。

「出来るかどうかじゃないって話をしていたと思うんだが?」

「ええ、だからやりますよ。サーヴァントは召喚し、聖杯戦争を開始させます。でも僕は戦場に行きません、そんな魔王みたいな連中と戦うのは御免です」

「……確かに理論的にはサーヴァントさえ召喚してしまえば聖杯戦争は開始され、君は特異点にはせ参じる必要なはないのかもしれないよ。でも、それは…」

 琴海の弱気な声音が椿ヶ丘を刺激したようだった。

「神父。例えば俺がこいつを殺した場合、どうなる?」

「なっ」

「再選されるよな?……流石に吐き気がするぜ、こいつの臆病さ加減にはよ。殺して新しいマスターが再選されればまぁ、流石に二人連続で戦場に行きたくないとか言い出すことはないだろうしな」

 

 卵は懐に仕舞っていた小さな壺形のものを取り出した。その栓を抜き、床に柔らかく投げ放つ。

「いいとも、もとよりこの命、誰かのために使いたいとは思ってたさ。マスターが再選されてもっとまともな適合者になるのならそれも良いと思う。けど、結局僕は死にたくないわけだから僕を殺そうとするなら…」

 

 椿ヶ丘の体を何か霧のようなものが包んだ。

 その瞬間、彼の体は宙に浮くように足が床から離れた。凄まじい推進力と揚力に攫われて、彼の全身が教会堂の宙に投げ出された。次いで受け身をとろうと反射的に重心を意識した椿ヶ丘をさらにそのうえから黒い煙のような何かが突進してきた。

 結果、受け身は許されずに彼の体は教会堂の床に叩きつけられ、大きく咽込んでしまった。鈍痛が彼の体にいきわたり、状況を理解しようと必死に鷹のような眼を動かしている。

 

 

「清々しいほどに背徳的だろ、これが僕の力だ。虫呪を基礎にしいた応用的な兵器に昇華させる術を会得してる。こんな付焼刃みたいな発生蟲じゃあ心もとないけど、人間のアンタを殺すくらい他愛ないことだ!」

「へぇ、そうかよ。わざわざ教えてくれるなら世話ねぇな…」

 

 すると椿ヶ丘の体から途轍もない魔力は吹き荒れた。まとわりついた蟲が瞬時に離散し、あまりの圧力によって焼け溶けた。ビリビリと溢れ出る魔力が徐々に四散的な雷電じみた揺らぎを生じさせ、彼が立ち上がるのに合わせて教会堂の四方の壁に小規模ながら雷がぶつかった。

 

「雷の魔力放出!?椿ヶ丘君、君って人は人間の身でなんというっ…」

 卵が使役していた蟲の全てを吹き飛ばした椿ヶ丘は目を瞑って一度だけ呪文のようなものを唱えた。すると、彼が身に纏っている戦闘服のようなものにエメラルド色の魔術回路が浮かび上がり、仄かに発光する。放出されていた雷はだいぶ小さくなったが、それでもまだ微量の雷電を放出し続けている。一見しただけで魔力のストックが卵と段違いだと思い知らされた。

「さきに攻撃をしたからには文句言うんじゃないぞ、手心なんてなしだ。全霊の一撃で叩き潰してやろう」

「希望的観測は生まれつきか?しっかりと周囲を確かめてから仕掛けるんだな」

「しかし今の俺にゃ蟲細工なんて通じないわけだ。残念だが諦めて大人しくすることだ」

 椿ヶ丘の右足が僅かに上がると同時に彼は卵の眼前に肉迫していた。

 突きつけられた拳は既に卵の心臓部に命中しており、その硬い拳で卵の心臓を殴り穿っていた。

「だから周囲に警戒しろって言ったんだ」

「『巨魁蟲虚』か…」

 心臓を吹き飛ばしたと思われた卵は無数の羽虫となって離散していた。蟲は教会堂の内部を渦巻く渓流のように滑り過ぎ、やがて少数の分隊でも組織するかのように複数の蟲の集団となって浮遊飛行を始めた。

 巨魁蟲虚という古術は基本的には自身の存在を一定数の蟲に移行して自我を保ちながら蟲として行動するという呪いの発展形。名前は良く知られているものの、基本的に構成されている蟲をすべて蹴散らしたとしても崩壊した存在座標が再集合して人間に戻れるという闘争回避に優れた術だ。逃げに徹された場合は友好的に息の根を止めることは難しいうえ、蟲単位に対する攻撃に慣れていなくては最悪押し負けることも十分に有り得る。

 

『移植・邂逅・再接続』

 椿ヶ丘は戦闘服の腿裏から黒くしなやかな棒を取り出した。それはドラマくらいでしか拝む機会のない警棒と呼ばれるものだった。彼はそれをこともあろうに二本目を取り出して両手に収めた。呼吸を整えて『針路』と呼ばれる魔力の流れる体内脈を調整していった。

 うっすらと開いた椿ヶ丘の瞳から眼光が木漏れ日のように流れ出す。赤く濁った瞳が変容した彼の戦闘力の程を告げ、針路を基に再構成された魔力が警棒を煌々と赤く色づかせていた。

「人生における『思いがけない出会いである邂逅』を魔術理論で変形させ、編み込み、針路に満たす。それは幾星霜と受け継がれた運命論すら根底から覆す至高の能力操作。頭は己の体から果ては棒切れまで、自己を取り巻くすべてを魔力の極限まで能力を向上させる秘儀だ……」

「なんて、獰猛な迫力だろうね…」

 サングラスをかけてその眩い煌々と赤色を発する双警棒を見つめた。自己の身体能力強化と武器の性能強化と同時に行っているというだけの技といってしまえばそれだけだが、そもそもそれを効率よく行ったり持続させたりするにはその体にストックされている魔力が莫大でなければ話にならない。ましてや周辺の空気まで張り詰めさせるだけの気迫をおつり感覚で生じさせているだけでもかなり椿ヶ丘の魔力量は異様なのだ。

「理論はわかる。……邂逅を自己の駆動エンジンと昇華させるということは針路を解放血管系のように、体内に魔力をいきわたらせやすく自己改造を施しているということだろう。本来なら閉塞的かつ局所的に流動性を持ち、自己修復能を異次元にまで高めるのに重宝される針路をその基礎から解明して発展と応用に辿り着いたのはさすがナクサトロズの家の魔術師というだけはあるよ……」

「それだけじゃない、ナクサトロズから言わせてもらえば、あの時計塔ですら針路に対する見識の着眼点にすら至っていない程度の利用しか出来ていねぇ。針路っていうのは理論でよく持ち出されるが……それを実際に繰り練ろうとすればそれこそ一国単位の庇護や助長を得なくてはとても根本の部分を突き詰めることは出来やしないのさ」

 そんな椿ヶ丘に蟲の集合群を突っ込んでいった。幾つかに分かれた分隊的な蟲たちが目まぐるしく彼に向って行き、それに合わせて椿ヶ丘は激しく両手の警棒を振り捌いて行った。

 蟲たちは向かっていくとたちまちに霧になるように叩き払われた。それこそ作法の無いような無茶苦茶な棒捌きに見えるが、熟達された剣士、剣聖とも言われるまでの位置にあたると思われるほどに正確無比な連撃を織り成している。

 赤い軌跡が彼の編み出す剣線をなぞり、とめどない強襲を振り払っている。見る程にそれは圧巻の太刀筋であり、軌跡が連なるほどに彼の腕が一本、また一本と増えていくような錯覚にも陥った。

 

(( どう見る、ランサー ))

 琴海の静かな声音が乱れる羽音と剣の振り捌かれる風切り音の中で舵を失った船のようにこぼれ出た。まるで花火を見ているような虚ろな瞳のまま、言峰はサングラスを掛けなおす。

<< この人間たちのことかい? >>

(( そう。率直な感想だけを聞かせてほしい ))

<< うぅん。喩えるなら華と雨かな。二人とも美しく唯一の華のような子たちさ、しかし彼らは環境に左右されすぎている。虚飾の人生とまでは言わない、しかし蓋然性の高い不自然な技と力は世襲的側面から芽吹かされた強制力の強いものだと感じたよ。……しかしあの棒の使い手はなかなかにそんな不自然な力を自分のものにしてる。本気を出せば力を出し切る前のサーヴァントに渡り合えるくらいの力を持っている。残念なのは、決定的な経験不足。彼は人生の本当の山場というものをまだ知らない。だからまだ自分自身のうちに潜む人間の美しさを解放することが出来ていない…… >>

(( そうか ))

<< マスター、止めたほうが良いのなら手を貸すよ >>

(( いや、いい。どうにもこの教会堂には妙な気配がある。ランサーの気配検知に引っかからないということはつまり……招かれざる客の中でもかなり面倒な方だと思う。だからまだ霊体でいた方が良い ))

<< そうかい >>

 

 いつの間にか卵はその姿を元の人間のそれに戻していた。しかし、その人間の姿のままでいながらサーヴァントにすら及ぶと評価された打ち込みを器用に避けていた。その避け方はどれもが紙一重だが確実なもので、柔らかい体を生かして止めどない攻撃をすり抜けていた。

 

「ッ……!…?」

 椿ヶ丘は一度警棒を手放して直接拳で攻撃を開始した。拳法家のような滑らかな当身用の連撃だが、それもやはり卵に届かない。

「何故だ…」

 椿ヶ丘の大振りの蹴りが教会堂の燭台を蹴り砕いた。次いで突き出された掌底が聖母像を揺らす。卵はそんな彼を見据えて飛び退り、懐から壺型の容器を取り出し、まだまばらに宙に残っている蟲をその壺に吸い込んでいった。

「んん、教会堂の扉を開ければ僕の勝ちだ。赤須の家で僕はこれまで通りの生活をさせてもらう。聖杯戦争でもなんでも勝手にやっていてくれ」

「糞がッ、逃げ足だけは達者だなァオイ!」

「じゃあ捕まえればいいだろ。それが出来ないのがお前のくせに何を怒ってるんだよ」

「おいおい、こんなに侮辱されたのは生まれて初めてだ」

「餞別として教えてあげるよ。ほら」

 すると卵は涙袋を指で引っ張り下げて自身の眼を主張した。攻撃を仕掛けている最中には、自分自身のあまりの速度によって見逃していたが、こうして見てみると卵の瞳は教会堂に入ってきた時のような人間らしいそれとはかけ離れたものとなっている。

「……!?…重瞳の者は見たことあるが…ここまで人間離れしている奴を見たのは初めてだ」

 椿ヶ丘の唾棄するような歪んだ表情はその視線の先に移った無数に蠢くいくつもの眼球。蠅や蜻蛉などがそれを有しているということで広く認知されている特殊眼『複眼』だ。

 特に蠅においては顕著にその特性が知られている。人は時間ごとに目に映る光と光景を区切って脳で繋ぎ合わせ、それを映像として再生させることで残像明滅を世界光景として捉えている。人間が光を感知する速度は一秒間で30Hzと言われてるが、蠅の複眼の特性では一秒間に300Hzまでを感知することが出来る。そうなれば単純に一秒間での情報を十倍まで引き延ばして感知することが出来るため、複眼を持っている生物に速度で勝負を挑んでも基本的には勝負にならない。

 まして、卵が今、発現させている複眼は魔術行使によって成されたもの、となればその時間分析能力は十倍では収まらない可能性すらある。道理で椿ヶ丘の攻撃が先ほどからかすることもないわけで、しかも紙一重で回避しているということは殆ど余裕の見切りをつけているくせにわざとあと少しの所で避けて見せているのだ。

 まさに生存行動に直結した能力。死を惧れ、強者との戦闘を嫌う魔術師が獲得した魔術の大成といっても良いだろう。

 

 いよいよ教会堂から離れようと入堂時と同様、巨大な木製の扉を開け放とうとした時、卵はいくら力を注いでも扉が微動だにしないことに気が付いた。二度、三度と力を入れてみてもビクともしない。じれったくなって再び壺型の容器から蟲を放出して集団で突進させても変化はなかった。

 そこで彼は再び椿ヶ丘に向き直り、蟲を自身の周囲に集結させた。

 

「何をした?」

「何もしてねぇよ、失せるなら失せろ」

「……?」

 この期に及んで魔力効果もなしに扉が封印されるなんてことは考えられない。最期にもう一度扉を開けようとしてみたが、やはりいくら力を入れても動かない。

 その様子に椿ヶ丘は気が付き、落ち着かせ始めていた魔力放出を再び猛らせた。扉が開かない事情など興味はなくとも、逃がさずに戦いを続けられるならば細かいことに興味はなかった。再び警棒を持ち出した彼は即座に扉付近に立っている卵に詰め寄って警棒を振りつけた。

 

「琴海さん、何かしましたか」

 卵は複眼を用いた見切りで先ほどのように椿ヶ丘の攻撃を回避しながら平静的に尋ねた。

「いいや、私は何も……ということは、やっぱり何か…」

「いますね」

 

 その時、卵は足元が硬直した。回避のモーションが停止する。突然なことで理解が追い付かなかった。ぎょっとして足元を確認しようと思った時には既に椿ヶ丘の薙いだ警棒が卵の額に肉迫していた。いくら素早い動きを視認できても、身動きが取れなくては意味がない。

 警棒が直撃して頭蓋を割られ、脳髄を吹き飛ばされる。そんな恐怖が卵の全身を飲み込もうとした時、その複眼では同じように身動きが取れずに攻撃が制止されてしまった椿ヶ丘の姿が映った。どうやら彼もまた、何かに動きを封じられたのだ。その証拠に、彼の振り払った警棒を封印するように周囲から伸び絡まった白い鎖が彼の四肢にも巻き付いていた。

 

 

「………どうやら国連のサーヴァントが紛れ込んでいたみたいだね。いや、紛れ込んだというよりは最初から居たのかな?」

 琴海は二人のように白い鎖に縛られてはいなかった。徐々に数を増して卵と椿ヶ丘の二人を完全に封じていく白い鎖を俯瞰するように見つめながら、彼は聖母像の前で手を絡めながら祈っている男に意識を向けた。

 アングリカン・キャソックを身に纏った聖職者姿。聖堂教会の琴海にはそれが一目でカトリックような神父ではなく、プロテスタントの教会堂にいるような牧師であることがわかった。とはいえ、この期に及んで普遍的な牧師が現れるわけもない、間違いなく魔術師かサーヴァント。おそらくは後者と断言して間違いない。

 

「最初からいたわけじゃない。まぁ向こうから見ていたがね。随分と熱のあるマスターたちだな…と」

 牧師と思われる男は祈りの手を解き、卵と椿ヶ丘を見やる。

「どうやら魔術師と言ってもこの二人は件の時計塔やらのそれとは異なるんだな、んん、そっちのはどうしても死にたくないとか……」

 男は色白の顔を撫で、ブロンドの短髪を撫でた。牧師と呼ぶにはいささか雰囲気がそれらしくない。しかし格好だけを言えば琴海よりかは聖職者らしい。

「俺はサーヴァントだ。クラスはアルターエゴ、真名は勝手に予想してくれ。……要件はのんびりし過ぎてる日本人たちにさっさと英霊召喚をするように促しに来ただけなんだが、こいつは癖が強そうだな、どうも…」

「アルターエゴ……」

「お前たちがそちら側の最期のマスター、然るに英霊召喚が済みマスターとサーヴァントが揃い次第聖杯戦争が始まるわけだが、遅いんだよ。お前たちのいざこざは後で済ませることにして、さっさとサーヴァントを召喚してしまってくれないか?」

「なら、この鎖を解きやがれ」

 椿ヶ丘は自身を封じる白い鎖を忌々しそうに睨みつけた。先程から休まずに抵抗を続け、体をゆすり動かしているが、鎖は底なし沼のようにあがけばあがくほどに彼の体を束縛していた。そんな椿ヶ丘に対し、アルターエゴは素直に四方から出現していた鎖の元となる奇妙な丸い円のようなものを消滅させた。

「お前たちの所為で全体が迷惑をしているわけだ。さっさと済ませてくれ」

「ここでお前を殺すのはありか?なしか?」

「出来るならしても構わないとも。だが、出来ないだろうから時間のロスをこれ以上させないで英霊を召喚しろ」

「やってみなきゃわからないだろうが……それに俺はどうにも聖職者っていう連中が気に障るらしい、見ていてイライラしてどうにも落ち着かない」

 

 再び雷が教会堂に吹き荒れる。まだまだ底が見えない魔力が存分に放出され、待ったなしの身体能力向上が椿ヶ丘の全身を満たしていった。

 

「ーーーー 再選考すべきはお前かもしれないなァ、糞餓鬼が」

 

 アルターエゴは高らかに右腕を振り上げた。

  

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene1-3

 戦闘において全霊の戦いというものは、戦闘そのものに興味があろうがなかろうが少なからず血沸くものだ。

 目にも止まらぬ攻防、熟達されて巧さを極めた技の数々、千載一遇を見極めた切り札の使い方。それらはまるで人生に呼びかけるように傍観者を揺り動かすものなのだ、それに年齢や性別は関係ない。

 

 然るに、彼らの戦いでは血沸くことも肉躍ることもなかった。傍観していてもわかる不条理に似た圧倒。双方が己の全霊を駆けて覇を語ればさぞ見応えがあったことだろうが、それでも少なくとも一方はまるで力の半分すら出すことを惜しむかのように達観した眼差しで挑戦者を見据えている。

 教会堂を揺らすのは重い一撃が牧師の体を鳴らすためだけではない、挑戦者であろう椿ヶ丘の怒号にも似た雄叫びが燭台に乗った柔らかな蝋燭の光を靡かせる。

 

 アルターエゴは彼の攻撃を避けることすらしなかった。何かを思い知らせるためというわけではなく、純粋に興味があったのだろう。猛り狂う人間の魔術師がどれほどの力量を備えているのか。それとも本当に身動き一つも必要としないことを伝えたかったのか。

 やがて振り上げたが徐々に傾きだし、ゆっくりと椿ヶ丘の肩にそれが優しく乗せられた。それでも彼は荒れ狂う暴風のように攻撃の手を緩めずに超強化された自身の武脚と警棒を以てしてアルターエゴの打倒を掴み取ろうとしている。

 

 マスターがサーヴァントに基本的性能で勝ることなどあり得ない。たとえ追い付けたとしても、それは同じ土俵にやっとたどり着けたというだけの話。他者の意思で呼び出され、装置として不都合の破却の役割を課せられる英霊に対し、どれほどの覚悟と決意を以てして挑んでもその殻を破ることが出来ない。ましてや、英霊個人に秘められた壮絶な歴史の在り様など、真名や宝具云々で容易に理解した気になれる魔術師が、本当の意味で人類史の偉人たちに立ちはだかることなど出来やしないのだ。

 

「琴海さん、英霊召喚の方法を教えてください」

「………こちらとしても召喚をしてもらわなければ儀式そのものが正式に開始されない。だからどうあっても君に英霊召喚だけはしてもらわなくちゃいけないわけだけども……本当に協力して特異点解決を志してはくれないのかい?」

「それは、サーヴァント次第で決めます」

「……?」

 琴海の元まで忍び寄るように近づいた卵は小声でそう言った。その瞳の奥にある妙な翳りを感じ取り、琴海は若干の不安を煽られた。単純に言って胸騒ぎ、難解に捉えれば野望や綿密な悪巧みの施しを感じてならない。

「どうして、そうするの?」

「どうでしょうね。まぁ僕もちゃんとやる場面ならちゃんとします。マスターとして選ばれたのなら、とりあえず英霊を呼ばないと始まらないでしょう?」

「そうだけどさ。…まぁ…いいや」

「確か、召喚の儀式があるんでしたよね。魔法陣とか、描くんですか?」

「いや、もうある。聖母像の下に少し見えているだろう。座標地点は周到に構成されてるから、おかしなことは起きないと思うよ。……召喚に使う詠唱はーーー」

 

 アルターエゴがいよいよ椿ヶ丘を押しのけた。軽く突き飛ばした程度で、すぐに椿ヶ丘は詰め寄ろうと姿勢を動かしたが、足裏が床を蹴ったというその瞬間に床より少し上の所に空間の濁りのようなものが生じ、その中より複数の白い長鎖が飛び出した。それらが完璧に絡み合うことによって椿ヶ丘の動きが見事に静止し、すぐに床に引っ張られて転倒させられた。

「まずお前は足元から見直す必要があると思うぞ。死角から引っ張られた程度で転げ落ちるような魔術師をどう相手しろと言うんだ?」

 アルターエゴの傍らに動揺の空間の濁りと澱みが生じ、同時に周辺に渦巻く魔力の気流が爆発的に上昇する。

「それとも、本気で俺に勝てると思っていたのか。ここまで考え無しのマスターなら、案外もう一人の方と大差なく使い物にならないかもしれないぞ……人の事を言えたものではないな」

 加速がついた鎖は瞬く間に椿ヶ丘の全身に纏わりつき、水に濡れた雑巾を引き絞るように四肢と首を重点的に締め上げた。魔力の量が増え、体に触れているだけで痛みを伴うそれが大量に巻き付ているだけに流石に彼の集中の糸が容易く絶たれた。猛っていた闘気が火を掻き消すように煙に巻かれてしまったようだ。

「聖杯戦争が始まらないうちに殺してしまっては『高位存在』に申し訳ない。まぁせめてそこでもう一人の小僧がどんな英霊を召喚するのか眺めていればいい」

「な…に…?」

 

「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。租には日出づる圀の府宝を……降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ……満たせ。満たせ。満たせ。満たせ。満たせ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

 

 セット

 

 

「―――――Anfang」

 

「――――――告げる」

 

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よッ!!!」

 

 

 茂る密林で伏せる虎が見えた。それはまるで絵画だが、大和絵とは少し違った。

 溢れ出る悪感がこの世の全てを呪い殺そうと誰かに語り掛けていた。

 雑草に伏していた。違う。埋もれていた。飛び交う鳶の群れを見て、大の字に叢に自ら埋もれていた。

 それは記憶。きっとこれから姿を現す誰かの記憶。

 流れ込むのはその者を傍らから見つめている誰かの視点。

 そっと手にした刀を喉に添えた男は静かにそれを横え手ずから払った。

 刎ね転げた首が影に落ち、崩れた胴体は赤を垂れ流した。

 青天の中で静かに自殺した男は叢雲から抱擁されるように飛び出した雷に攫われていた。

 

 瞼を開ければその男が聖母像の前に立っている。

 

 黒地に牡丹と菊の模様の入った直垂を着ている。肩に峰を乗せている刀は刃が薄緑に揺らめいていて、咳き込んだ顔は手拭のようなもので口元が隠されていた。目先は鋭く、細身だが筋肉質な体だけに年齢が判別しずらいが、三十代後半か四十代前半だろうと思われた。

 

「ほほう、最優と誉れ高いセイバーのサーヴァントか。ふっ、蟲小僧にしては良い使い魔を拵えたもんだ」

「あ…が……かはッ」

「おっと、悪いな。吊るしたままで召喚できないよな」

 アルターエゴが呑気な口調で言うと、鎖を解こうとした。すると、鷹のような眼を見開いて口を大きく動かしている椿ヶ丘の様子が伺えた。

「…に…鉄……!…た、公ッ…四…門はと…ッ!!……王国に至る三差路は循環せよ…ッ」

「驚いたな、お前、縛られたままで…」

「み、せ…満たせ…みた……満たせ…満たせ!…くり…ド…ただ……刻を…するッ!!!!」

 そこでアルターエゴは束縛する鎖の拘束力を強めてみた。単に興味があったというだけの、嫌がらせにも満たない好奇心だった。

 

 セット

 

「―――――Anfang」

 

「――――――告げる」

 

「…汝、身は我が、とに……が命運…汝の、に。聖杯の寄るべに従い、こ、い、この理にした、うならば応えよ。誓いを此処に。我は……総ての善、成る者、我は……総ての悪を敷、者。されど……侍るべし。汝、…………れし者。我は……る者――。汝……三大の言霊を纏う、七、天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よッ!!!」

 

 聖母像が溶けるように蒸発していった。既に教会堂の内部が椿ヶ丘の内部からにじみ出る魔力によって奇妙な模様で歪められている。空気そのものが揺らめているのだ。融かされた聖母像の下に描かれた魔法陣が赤く点滅し、なんらかの不和を以てして激しい発光と点滅を生じさせる。そんな明滅の中から呼び込まれた英霊が深淵から這い出るように腕を出した。

 

「さっさと出てこい、バーサーカー!」

「カカッ、正気か汝れ。吾をここまで騒々しく、ましてかように半端な程度で呼び出しておいて…」

 

 バーサーカーはやがて飛び出すように魔法陣の中から姿を現した。例を見ない無茶苦茶な英霊召喚だけにその鬼は体の一部が蕩けて欠けていた。既に血を流していた彼女は自身のスキルと思われる能力でその傷を己で修復させ、巨大な骨刀を振り上げて声を張り上げた。

「サーヴァント、バーサーカー、茨木童子。大江山の鬼の首魁よ。吾を呼び寄せたのならそれなりに要求はさせてもらうが…まず汝れは吾を解き放て、されば見せてくれよう」

「は……鬼…かよ。……皮肉か、こりゃ……さんざん鬼を殺しまくってきた俺には…似合わねぇな」

「マスターよ、何故汝れはかようなところで吊るされているのだ?」

 金髪の小柄な鬼は口の端を緩めてそう言った。次の瞬間には彼女は椿ヶ丘を束縛する無数の鎖を両断し、次いで空気中に曇っている澱みも薙ぎ払った。

 

「サーヴァント、セイバー。召喚に応じ現界した次第。一瞥してあまり余裕がない様子な故、ここで刃の向きをお決めになられよ」

 尖った目つきと比較して、まるで喉のつぶれた老人のような声音だった。蟲の羽音にも似た、乾いたそれ。だが、彼の佇むその姿は深夜の冷めた世界に曙が訪れたような柔らかさがあった。しなやかで、なおかつ研ぎ澄まされた尖兵のような存在。それがセイバー、彼だった。

 セイバーは刃の物打に薄緑の靄が揺らめている刀で八相の構えを形作る。刀身には両面に『上上上不得他家是以為誓謹思』という文字が刻まれており、直刀にしてはやけに刀身の縦幅が長かった。八相の構えを取った時点で彼の周囲の空気が一瞬だけ震えて鎧武者の外殻を作り出し、同時に上帯と太刀帯に絡まれた腰刀が現れる。

 

「……さて、これでそちら側も七騎の英霊が数を満たしたな。ようやく聖杯戦争が開始されるということで良いのか、それとも戦場もあちらに場所を変えた方が良いのか……」

 アルターエゴは見事に体を半分ほど仰け反らせて仁王立ちしながらも背後での卵とセイバーの姿を見つめて言った。そして、今の発言の通り、この場で戦うのかどうかを迷う様子を見せた。

「何を言ってやがる。ここまで急かしに来たんだろう?ならこの場で死合うのが常道じゃないか?」

「俺はそれでも構わないんだが、何分こちらにはお偉いグランドマスターがいるものでね、そう好き勝手するわけには………と、いや、良いそうだ」

「?」

「赦しが出た。この場でそちら側のサーヴァントを三騎も一度に減らしてしまうのは非常に心苦しいところだが、仕方がないな。そうも意気軒昂ときたら、俺もそれなりの返礼をもって応じなければ…」

 

 アルターエゴが出現させた複数の空間の濁りが一斉に白い鎖を噴出させる。飛び出した鎖が椿ヶ丘とバーサーカーを檻に閉じ込めるように周囲を囲い、次いで頭上に出現したそれらが五月雨のように振り注がれる。それらを二人は器用に得物を弾くと、凄まじい勢いでアルターエゴに向けて飛び掛かった。

「俺も戦う。殺れッ!バーサーカー!」

「術理で殴るとは酔狂よなァっ!嫌いではないぞぅ」

 アルターエゴも今度は攻撃目的で鎖を操っている。一撃が強力な迫撃かつ狙撃であるそれらを前にして完全に避けきることは難しく、バーサーカーはともかく椿ヶ丘は捌き切れずに被撃している。叩きつけられた鎖はどれも高速なだけに威力が高く、強い衝撃に椿ヶ丘は簡単に吹っ飛ばされてしまった。

 バーサーカーは大骨刀を軽々と大振りしてその風圧だけで鎖を払いのけているうえ、飛び掛かった瞬間には大骨刀の一撃とほぼ同時に蹴り上げと掴み掛りを行っている。まさに全身を武器としたダイナミックな攻撃手法にアルターエゴはそれなりに丁寧な対策を強いられ、目にも止まらぬ速さで鎖を繰っている。

 先ほどは微動だにしていなかったアルターエゴだが、いざ動き出すとなると存外な機敏な動きを見せた。アクロバットやパルクールにも似た器用かつ俊敏な回避によって的確に距離を取りながら、詠唱や発動モーションを必要としない上に威力がやけに高い鎖を至る所から噴出させて波状攻撃を仕掛けている。

 教会堂の中はたちまちに大混戦になり、見れば琴海も呪文を詠唱して魔力の塊を弾にして逃げ回るアルターエゴに投げかけていた。今まではは宙に出現した靄の中から高速で飛び出すばかりの白い鎖だったが、複数人を一挙に相手取るにあたっては複雑な挙動やうねりをしながら三方向からの攻撃に併せて防御とその先の自身の機動力と展開力を保たせている。

 

 

「セイバー」

「決まりましたか」

 セイバーは八相の構えを崩さずに声だけで応える。その視線は常に鋭く、教会堂の中を存分に使い潰すようなダイナミックな戦闘に向けられている。近くにいるだけで、ピリピリを軋むような威圧を感じた。誰かに惧れを抱かせることに慣れているような、自分から人間を付き跳ねるような静かな怒りのようなもの。祈りにも似た、理解の及ばぬ境地に立つ者の風格を感じ得なかった。

「真名を強く隠す必要はない。最もこの場で効果の強い宝具を選んで、他の英霊を区別なく殺せ」

「ほぅ、既に私の真名を看破しておられるのか?」

「いや、だが、その宝具や力の片鱗くらいはその剣に記されている文字で分かったよ」

 そこで卵はふと、先ほど脳裏を駆け巡った情景のことを思い出した。確か、彼は丈の長い叢に埋もれていて、どこか遠い空を眺めていた。そのあと、自身で首を刎ねて自害したのだが、その時には別の剣を用いていた気がした。

「しかし、よろしいのか?共闘できる者も区別なく殺すなど、この先に支障がないとはとても言えないことかと」

「…………」

 卵は無言で顎をしゃくる。さっさとやれ。その程度の意味合いでしかないのだろう。

「受け賜わった。この剣、マスターのものであることをこの場で示しましょう」

 

 するとセイバーはこれまで保ってきた八相の構えを解いた。となればこれまでのこの構えは敵から攻撃された際に素早く対応するためか、それとも単に魔力を研ぎ澄ませるためのものだったのだろう。

 今度は剣を正眼に構え、ゆっくりと切っ先を床につくかつかないかのような所まで下げていった。そこで彼は口を少しだけ開き、皺枯れた声音で蝉の断末魔のような詠唱を絞り出した。

 

『 剣で殺すことなかれ 剣で奪うことなかれ 剣で裁くことなかれ 

  されど 剣で殺さぬことなかれ 剣で奪わぬことなかれ 剣で裁かぬことなかれ 剣で絶たぬことなかれ 

  落葉は床 木漏れ日は愁祭 風の間隙に立ち より多きを絶て その剣は盾ではない 隠匿されし蜜を啜れ

  人殺しを殺せ 全ては偉大なる帰路のため 繋がりはそこにある 案ずるな 果報はここにあり 』

 

 世界が塗りつぶされた。

 あまりの規格外、予想外、そして垣間見える人外の域。

 インドでは魔術的意味合いの強い召喚の際にはこれを取り扱うという。日本では古くは密教芸術が最盛に至った際に広く認知され、仏の世界というものを人々の間に鮮明にイメージさせるのにとても意味を持ったそれ。現代における独特な日本の混合宗教観の中でも鮮烈に人々の意識の中で神仏世界を喚起させるその『曼荼羅』の世界においては、四方と天井の消滅したぽっかりとした教会堂は場違いが過ぎるようだった。

 空間そのものを曼荼羅へと引きずり込んだ。事実としてはそれだけだが、それを成せる者など果たして存在して良いのかどうかも考えものだった。自身の能力として曼荼羅という世界そのものを構成し、顕現させ、周囲の者や物体を部分的または全てその世界の中に取り込む。

 紛れもない大魔術『固有結界』。

 宮曼荼羅、垂迹曼荼羅、浄土曼荼羅、一重に曼荼羅とはいっても、その世界はこれらすべてを内包したような普遍的な連想意識の中での曼荼羅を構成していた。簡単に言えばごちゃ混ぜ。弥勒菩薩から千手観音、仁王から廬舎那仏まで様々な仏がその世界の宙を埋め尽くさんという叢雲の上に佇み、また座している。世界は深い柚子葉色に染まり、遠近に見られる多種多様な太陽がその世界の中で天の川のように煌々と黄金の光を放っていた。

 

「は……?」

 戦闘に没入していた狂戦士の動きすら止めてしまうその光景。日本の鬼である茨木童子にとって、仏の世界に己があることは言葉にならない心境に至らせるに十分だった。また、そのマスターである椿ヶ丘も完全に思考が停止して呆けてしまっている。口をぽかんとあけ、その荘厳で果ての無い世界を前にして立ち尽くす。

 アルターエゴは異変を感じて一早く霊体化しようとしたらしい。しかしそれは叶わずに、発生させた無数の鎖で自身を囲みながら早急に事態を確認しようとしているようだった。

 

「悪いな、醍醐味を減らすのは趣味じゃないが、これは仕方ない」 

 そういうとアルターエゴは目を見開く。その瞳の色が赤く色づき、しきりに瞬きをしながらその異様な世界を生み出した根源であるセイバーを見極めようとしていた。その赤い瞳がぎょろりぎょろりと動き回り、セイバーの顔を執拗に見つめているうちにセイバーがふと何かに気が付いたように口を大きく開いた。

「……ッ!?……挑戦者のセイバー、お前、私の能力を知っているのか?」

「ああ、貴様のスキルの中に相手の歯を見定めることで真名を看破する力があることくらいは想像できる。んん、俺は貴様の真名を一足先に看破してしまったが、俺の真名は知れたか?」

「ふふ、なんという自信のありようだろうか。どれほどの歴戦の猛者でもサーヴァントとして現界したからにはそれなりに敵に敬意を払ったりその正体から特性を暴こうと躍起になり中々油断しないものだが、まるで慢心を絵に描いたような男だな、お前は」

「慢心していたら宝具展開などしない」

 アルターエゴは周囲を囲んでいた大量の鎖を解いた。

 

「お陰様でお前の真名を見極めさせてもらった。……少しこの国の史実には疎くてね、本来ならこの曼荼羅という世界を顕現させた時点で候補を絞るくらいはして見せるべきだったのだが、スキルを使わせてもらった」

 アルターエゴは続ける。瞳の色は戻り、鎖は新たに出現して柔らかく折り重なりながら建造物のようなものを形作り始める。

 

「日本史実において、英雄中の英雄と名高く、武の化身として崇拝の大いなる対象された大英雄『坂上田村麻呂』。桓武朝を始めとした歴代天皇に使えた武人。軍事と造作を支えることでその忠臣ぶりが広く知られ、征夷大将軍という称号を得て東北地方を駆け抜けたことは言うにも及ばない。また、賊や鬼の討伐にも奇才を見せ、坂上田村麻呂伝説では魏石鬼八面大王、悪路王、鈴鹿御前、大獄丸、阿久良王といった名だたる鬼の首魁たちを次々と討伐し人々を救った仏の化身。また田村麻呂が同時に建立した伝えられる六ヶ寺には箟獄観音、牧山観音、大武観音、小迫観音、長谷観音、鱒淵観音のいづれにも成敗された賊や鬼神が埋められている。やがては日本全国においてお前を祀る寺院が建立され、お前を由縁とされる寺院は百を超えると言われている。……天皇に讃えられ、民草に崇拝され、やがては毘沙門天と同一視されるようになった紛れもない武神信仰の対象。その生涯の中で英雄譚を生み出し、死後になお崇拝し続けられた存在であるお前は紛れもなくサーヴァントとしてこの仏の世界を顕現させる権利があるのだろうな」

 

 椿ヶ丘は生唾を飲み込んだ。泥のような汗が頬を撫でる。

「だからといってやって良いことと悪いことがあるだろ。仏さんがここまで末恐ろしく見えることも無いもんだ」

 燦然と輝く叢雲の合間より発生した尋常でない数の焔。それらが稲妻となって宙を舞い踊り、次第に田村麻呂の頭上の叢雲に座している毘沙門天の右手に集合していった。千手観音、仁王、名だたる有名どころの御仏の類がその毘沙門天の付近に集まり来て、やがて各々がその体の少し前に輝く焔を出現させた。一つ一つが太陽のようなそれ。どこまでも燦然と世界を照らすように煌ているというのに、柚子葉色の世界はずっしりとその重たい影を晴らそうとはしなかった。

 

 宝具 -

 

『 死してなお、我が伽藍堂は広がりけり 』

 

 御仏の類が一斉に『攻撃』を行った。光線、霹、灼熱の吹雪。エネルギーというエネルギーを八方から畳み掛け、圧し潰し、消し飛ばす。特に田村麻呂の頭上に集合した御仏たちの超エネルギーの同時発射はその世界を揺るがすに値した。それらを正面とする曼荼羅世界は裂け、光が連なって、連なりすぎて絶えた。

 それらのエネルギーは十中八九信仰心だろう。

 英霊という存在が信仰心を糧として力を得る側面が存在する以上、混在する宗教観の中でも日本人の心をいくらでも左右する仏教という巨大すぎる存在の信仰心そのものを宝具とする田村麻呂の力は間違いなく絶大だった。例えば人々が多く参拝する新年の初詣などを例にとっても、国内でほぼ同時期に何千万という信仰心が各地に集う。仏事や仏教建築を目当てに訪日する観光客なども年々膨れ上がり、世界規模で日本に向ける信仰心も増大してきている。それらを固有結界という世界に顕現させ、それらを攻撃力として使役することが出来るなど、怪物と言っても収まりが付かないことなのだ。

 

 宝具 -

 

『 素晴らしき恩寵  』

 

 固有結界の全てを焼き払い、破壊するエネルギーの波状攻撃の嵐の中、鈍く仄かに点滅する固有結界が新たに発言した。意味不明な火力すら無に還元させるような奇妙な壁がアルターエゴを始めとして茨木童子や琴海、椿ヶ丘を包み込んでその無為無差別の破壊の絶景を凌ぎきった。

 驚くべきことに田村麻呂の宝具である超絶的な火力攻撃は数分間続いた。信仰心をガソリンとするのは無論の事ではあるが、とはいえ、これほど持続的に高エネルギーをこの世界で発生させるには間違いなく田村麻呂本人の底のしれない魔力量が由縁している。これには先ほどまで椿ヶ丘の様子で脱帽していた琴海も開いた口が塞がらなかった。

 世界を包み込むような無限にも思える破壊光線がやがて点滅、明滅へと変わり、次第に収まっていくにつれてやがてまた柚子葉色に沈んだ世界が姿を現した。あれほどの宝具を使用した後にも関わらず、田村麻呂に変わりはなく、また御仏の類らにも異変はなかった。

 

 宝具 -

 

『 死してなお、我が伽藍堂は広がりけり 』

 

「「「‼‼‼‼???」」」

 

 理解が及ぶ間もなく再び焔の合唱が始まった。

 減七の和音。

 吹き荒ぶエネルギーの奔流。

 無機質な稲妻が競りあうように彼らに襲いかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

素晴らしき恩寵(アメイジング・グレイス)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene1-4

 その時、彼はひたすらその光景を傍観することしかできなかった。

 自分が赦し、自分が解き放った力。たった一つの命令を遂行するためだけに生じた万物を赦さぬ世界。

 そこに引きずられた時、卵は見つけたのだ。遠く。ずぅっと遠くで草臥れたように作りかけの乾漆像に凭れている田村麻呂の姿を。鬼とも獣とも人とも分からない何かの骨が積み重なった躯の山に背を向けたサーヴァントになる前の彼の姿を。

 

 闇は次第に濃くなっていくようだった。彼を召喚した時以上の悪寒に噎び泣きそうになった。

 あまりの絶景。気が遠くなるほどの破壊の絶唱。濫觴を前にしたような高揚。

 それが自分自身の感覚なのかどうか、わからなかった。

 懐かしい記憶のような、どこか遠くの未来を見ているかのような。他人事ではないような、自分のことであるような。でも、どこか釈然としない感覚。

 

 

★ 

 

「宝具連続使用はこの期に及んで驚きはしないが……対軍ないし対国宝具ほどの力を間髪置かずに撃ち放つとはな…」

 アルターエゴは宝具展開によってあの火力攻撃を防ぐまでに食らってしまったエネルギーの創傷を手ずから治癒した。茨木童子も同様に自身の体に受けたダメージを修復し、椿ヶ丘も黙って意識を集中させて回復に努めている。針路をうまく活用できるだけに修復は早いが、それでも少し掠っただけでも大火傷の大破壊だった。

 

 妙な静けさの合間にセイバー・田村麻呂は立ち尽くし、直刀を見つめていた。

 柚子葉色の背景に溶け込むように、卵が出現させた蟲たちが舞い始める。

 

「真名が割れたな、アルターエゴ・ジョン・ニュートン」

「ふっ…本当はもう一つの宝具の方で何とかなると思っていたが、これは予測の域を越えられたな。迂闊だった。俺がこれ以上『こんなところ』で戦い続ける道理もないだろうさ」

 アルターエゴを包み込む白色のベールが蕩けるように消滅していった。アルターエゴの宝具により生じた壁が田村麻呂の超絶火力の宝具を凌ぎきったことも驚異的な力と言えるだろう。田村麻呂の宝具連続使用に対し、壁による相殺効果の持続時間が長かったことで二発目まで完全に防ぎきってみせたのだ。壁は一見したのみでは一枚のさほど厚くもないものだったが、壁を起点として複数の防御膜が出現し、何層ものカーテンを並べたようなものだった。

 アルターエゴは感服しつつもまだまだ余裕がありそうな柔らかい表情を浮かべながら、地面にその掌を触れさせた。すると、一度大きな振動が起こり、それからそう長く経たないうちに柚子葉色の世界に黒いインクを投げかけたように空間に歪みが生じはじめた。みるみるうちに曼荼羅の世界が搔き乱され、耳に残るような不協和音の中で不気味に浮かぶ太陽も叢雲も御仏の類も有象無象の象形文字のようなものとなり、融解するように霧に変化してしまった。

 魔力的強化状態にある者の強化解除の力は数多くあれど、こうも容易く固有結界ほどの大魔術が消化されてしまったことに田村麻呂も目を丸くした。おそらく彼は三度目の宝具が例の壁に阻まれるかどうかを見極めるために膠着状態を取ろうとしていたのだろうが、よもや自身の曼荼羅世界が現実世界に転換されるとは予想しなかったようだ。

 

「……心象世界を強制還元だと?俺も貴様を見縊っていたようだな」

「まぁ、条件次第ならこんなことも出来るというのがサーヴァントの特権というものだ。なかなかに刺激的な戦いだった。まさか死後にここまで胸躍ることがあるとはな。是非ともお前はこの手で討ち破りたいものだよ」

 アルターエゴは指を鳴らす。彼の体の周りに十字架のような模様が複数発生し、イングランド教会で聞けるような鐘の音が響いてきた。

「マスター、指示を」

「この場で討てるなら、そうしな。他の人たちはもう攻撃しなくていい」

 田村麻呂は二秒ほど静観していた。三秒目にはアルターエゴの体が瞬間移動染みた消滅をしたために、この場での決着を諦めたのだろうが、それでもまだ敵と呼べる存在が残っている。田村麻呂や卵、アルターエゴには固有結界の消滅から元の教会堂に戻るまでに別段差し障りはなかったが、強制的に複数の世界を引き摺られた琴海や椿ヶ丘たちはしばらく昏倒していた。それでもアルターエゴの姿が消滅した頃にはまず椿ヶ丘が起き上がり、次いでバーサーカー、琴海の順に目を覚まし出す。

 卵としては、この場で全員を殺害してしまうことが最も快いことに思えてはいた。いきなり押し付けられた大役を買って出る果敢さなど見いだせないし、せめてこの不満を椿ヶ丘に向けて発散することが精神的に良いと感じた。だが、それをしてしまうとその後が何かと問題になってくるのはこの教会堂の一見で知れてしまった。やはり今回の聖杯戦争は少なくとも世界規模で意味合いの強い魔術戦争であることはアルターエゴのグランドマスターである高位存在の存在によって確定してしまった。不平不満のままにマスターである椿ヶ丘を殺してしまえば、高位存在から不服を買って強制的に因果消滅を受ける可能性もあるだろうし、事の次第によっては世界中を敵に回す可能性すらあるのだ。少なくとも琴海に言うように棄権を名乗り出てもそう簡単に認められはしないのだろう、高位存在に選抜されたマスターであり、この猶予のない枠を手ずから潰してしまうなら時計塔やアトラス院からの叱責や報復など考えただけでも耐えられるものではない。

 とはいえ、このまま惰性的にマスターとして国連本部に出向くにしても課題は多い。第一にこの聖杯戦争そのものが秘匿案件であるがために日本国家からのバックアップは期待できないうえ、庇護と監視の行き届いた国内から出ればそれだけで聖堂教会の人間などから目をつけられて殺害される可能性もある。そのうえ秘匿の重要性次第では国家にも聖杯戦争参加を告げることが出来ないため、このまま黙って国内を出ればそれだけで国家は歴史の黒い部分で良いように飼い使っていた魔術師を海外に逃がすのと同じこと、つまりは日本政府から秘密秘匿のために追いかけられて直接駆除される可能性すら十分に有り得るのだ。

 状況的に言えばナクサトロズがこの大役の椅子に座れと言われた時点で『積み』なのだ。

 うまく政府や魔術師たちからの攻撃を忌避して聖杯戦争に突入したとして、待ち受けるのは歴史にその名をとどろかせた英霊たち。運よく勝ち越せたとしても聖杯戦争後でも無防備な状態におかれることは目に見えている。もはやこれを積みと言わずしてどう表現できるのだろうか。

 

「琴海さん。アメリカ行きの便は国内線ですか?」

「んあ?…あぁ…いいや、個人用、というか魔術師専用の機体を使う。途中で中国を経由してもう一人のマスターをピックアップしていく予定だよ。明日の深夜には聖杯戦争参加者と関係者の本部が構えてあるニューヨークの『overture』というホテルに到着し、状況を見次第で国連本部へ向けての策略が固められる手筈になってる」

「国連本部というと、タートル・ベイですよね。そこが特異点として形成され、本来の座標とは逸脱した空間へと塗り替えられているわけでしょう?…ならば流石に事態の秘匿性も何もないはず。国際的に重みのある地点が異世界に呑まれましたなんて報道がされるとも思えない」

 琴海は非常に神妙な面持ちだった。

「そこはほれ、米国様の隠蔽と秘匿能力が評価される所さ。無論、かなり上層階級にある国家視点では筒抜けだろうけど、そこまで行くと宗教的観点からの圧力で報道はなくなるさ。高位存在が絡むというのはそういうことさ。フリーメイソンやイルミナティ、場合によってはさらに深層社会に位置する啓蒙結社が各国に圧力をかけまくっている。だから現状、事件発生は墨で塗られたように闇に葬られているのさ」

 琴海は続ける。

「しかし、それが徹底しすぎているせいで、ある種そういったネタを食い荒らすのが専門職のメディアではちらほらと目を輝かせる連中が続出している。あまりに事態を抹消しようとする動きが強いために、それ自体に反応する者たちがこぞって特異点に近づこうとしているんだ。…報道規制という名で既に公職と市民の間で戦闘すら起こってる。何しろ特異点に変化したタートル・ベイ周辺には空間規模の歪みからなる妙な黒霧や烈風が生じているからね。それらも丸ごと隠しこもうと大量の資金が投入されて隠蔽工作が強いられているわけだ。その過程で周辺住民との大なり小なりの衝突が生じるのも頷ける」

「そうですか……」

 そこで髪を掻きながら椿ヶ丘が歩みよってくる。顔色が随分と悪くなっており、精神的な消耗が伺えた。

「んで、そんな緊急事態だってのにどこかのマスターは死にたくないから参加しません、とかほざいてるわけだ。気は変わったか?そうでなくとも一発は殴らせてもらうわけだが」

 もはや彼からは先程のような猛々しい魔力は感じられない。それでも、戦闘を行うにおいて最小限の実力は発揮できるように力を針路のどこかにうまく隠しているような気配も感じた。針路を巧く運用する魔術師は殆どナクサトロズに限定され、そのの特徴や運用方法もなんとなく卵には理解できた。というのも、卵の操る蟲や蟲を使った呪いもその行使に多少の針路でも魔力調節が必要となるのだ。

 そう考えると、針路とは非常に便利な魔力調節装置に思われる。魔力の放出の際のエンジン、魔力を貯蔵するためのタンク、魔力の体内循環を助けるポンプ、魔術回路のさらに奥の方の魔力の動き方を自己的に改造できる変形性の高さ。さらに体内の一部機関でうまく歯車のように魔力循環を咬み合わせれば、ゼロから魔力を大量に生み出すことも可能となる。人体における心臓や肺や肝臓をうまく掛け合わせたような利用恩恵の塊のような存在とも言えるだろう。

 そこでふと思い出すことがある。セイバー・田村麻呂の尋常でない魔力の自己精製力と貯蔵力。先程の戦闘にしても、事実、サーヴァントとしてあり得ないくらいに卵からの魔力供給を行っていなかった。あれほどの宝具を連発するなど、魔力供給源である卵を殺すような行いといっても過言ではない。となれば、田村麻呂は自身の中に卵や椿ヶ丘を超越した針路を持ち、それを非常に巧みに使いこなしているのかもしれない。

 

「…………椿」

「あぁ?」

 卵は足を引いて膝を床に付ける。もう片方の膝も床に触れ、両手を床に添えて顔を埋めた。

「申し訳なかった。……僕が愚かで軽薄だった。この戦い。世界の為にこの身を捧げることを誓おう」

「土下座ねぇ」

「反省してるよ。気が済まないのなら殴ってくれても構わない。これからは同じ国のマスターとして、ナクサトロズとして共闘したいと思ってる」

「そうかい」

 そこで椿ヶ丘は警棒を取り出した。力半分も出していないようだが、それでもかなりの魔力をその警棒に注いでいるように感じられた。怒りという怒りはそこまで感じられない。だが、もし気が済まないついでにそれを叩きつけられれば致命傷になりうる。卵は蟲の大群に変化しようかどうか迷った。

「赤須卵。あんたの発言の真偽はどうでもいいが、それは行動で見定めさせてもらう。別に俺はあんたを裁く立場にあるわけでもそういう役を買って出るわけでもない。第一、いちいちあんたをイライラしながら見るのもつかれるからな。だからそっちの言い分通り、俺は協力関係に賛成だし、ナクサトロズとして境遇を共有している部分もある。相棒になるつもりはない、友達になるつもりもない、だが、マスターとしてこの戦いを一団結して乗り切ろうじゃないか」

「そう言ってくれると、助かるよ」

「だが、お前さんのサーヴァントは少し様子がおかしいようだ。まぁ別にとっかえひっかえできるものでもないだろうからどうしろとは言わない。だが、マスターだけが知り得るようなことで、こいつの力の大切な所を秘匿しようとするならばそれはこの世界の重要事態において大切な部分を言わないのと同じだ。何か気が付いたり、知れたりしたら隠すんじゃない」

 まるで体中に爆弾を巻きつけた者を見るような視線を椿ヶ丘は田村麻呂に向けていた。それに対し、田村麻呂は無言で応える。次いで、顕現させていた鎧を解除して元の直垂姿に戻った。

「ああ、そうするよ」

「あと、針路を扱うプロとして個人的にセイバーに聞きたいんだが、お前が宝具を使用する時に周囲に漂っていた魔力の質が正直なところ俺の魔力編纂の時によく似ている。お前は……英雄坂上田村麻呂は生前今でいうナクサトロズの立場にいたのか?」

 椿ヶ丘は警棒に赤く光として溜めていた魔力を軽く炸裂させて魔力を消滅させた。ちらつく赤い閃光を遠くを眺めるような瞳で追いながら、田村麻呂は布に隠された口元から蝉のような擦り切れた声を出す。

 

「貴様を見ていると俺の若い頃を思い出す。……針路か。確かにそれを扱うことで俺は多少なり魔力を自由に使う。それだけではないがな。いつか貴様にも理解できる日が来るだろう。だが、その時は力を使うかどうかを悩め。簡単に自らの人生を決定させるな、答えなんて本来いくらでも用意できるのが人間の特権だからな。もし、軽はずみで目覚めた力の使い道を決めようものなら、必ず後悔するだろう」

「なんだ。随分と饒舌じゃないか。さっきは諸共殺される所だったが、味方となればこんなに心強いサーヴァントもいないだろうな」

「そうさな。鬼斬りでなくばさぞ大成した人の子であっただろう」

 その声は茨木童子だった。大骨刀を携え、腹立たしそうにそっぽを向いている。

「音に聞こえし大鬼斬り。吾は好かん。京に晩年とどまってその力を奮っていようものなら京すべての鬼が屠られていたとも伝えられている。よくも人の子の人生の中でここまで悪名を馳せたものだ、おまけに仏の現身とは身震いする」

「俺の後に生まれたと『される』鬼か。まぁ、田村麻呂の生涯というのはきっと『そういうもの』だったのだろう」

「まるで他人事だな。やはり吾は汝れを好かん」

 

 

「対策本部と連絡が付いた。少し前からovertureの方で少し問題が起こってたみたいで混乱してたみたいだけど、おおそよ問題なく出発できる。私たちはこれから欧奈北区の中央埠頭に向かう。そこで対策本部が用意したヘリに分乗して一機が中国経由でニューヨークまで飛ぶそうだよ」

 茨木童子と田村麻呂は霊体化し、椿ヶ丘と卵は頷いた。

「そういえば、今になって気になったんですが、琴海さんのサーヴァントは何者なんですか?」

「確かに、曼荼羅に引きずり込まれた時もだんまりだったな。ずっと霊体化していたってことか」

「うーん。まぁ、そう遠くないうちには紹介する時が来ると思う。けどまだ何が起こるかわからないからね。少しの間は隠させてくれにないかい?」

 二人とも、まぁ構わないといった風に肩をすくませた。

 

 埠頭に向こうと教会堂を出れば、やはりまだまだ深夜の闇に染まった山だった。

 曼荼羅の世界という別格の非日常を体験した後では、人々が忌み嫌うような不穏な闇の世界すら可愛く思えた。どうにも静まり返った森のはるか遠くでは地方都市の灯が垣間見え、夜空に浮かぶ無数の星々と相まってなんだか幻想的に感じられた。

 

「………」

「どうかした?卵ちゃん」

「いえ、そういえば、この教会堂に入る時、妙な光が教会堂から燦燦としていたなぁ、と」

「光?」

 琴海が繰り返す。

「俺が来た時にはそんなものなかったぞ。第一、深夜にひっそり来いと言われて指定場所が光ってるようならとんだ酔狂な話だ」

「こちらから手を加えて光を出した覚えはないよ。妙な光というのなら十中八九魔術によるものだろうけど…」

「なら、あのアルターエゴの何かの能力の一つだったのかもしれませんね。すみません、光を見たことで何か防げることの一つでもあったかもれないのに…」

「ま、過ぎたことを考えてもしょうがないさ」

 

 そして三人の人間と三騎の英霊は日本を経って行った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene2-1

 - 中国 北京西駅

 

 そこはハルビン駅、長春駅、瀋陽駅と台湾を除く中華人民共和国内全ての省の首府へ発着する列車が存在する国内への蜘蛛の巣の中心地。中国北西部、南西部、またベトナムへの玄関口ということもあり、往来する人々の中には多少なり観光客と思われる者らの姿が垣間見えた。

 一日の平均乗降者数は七、八万人。春には十万人を超える人が行き来する決して小さくない駅において、いくらその駅舎の頂点で強風に煽られながら必死にあたりを見回しても、特定の人間を見つけることは難しいだろう。しかし、今の彼にとって用があるのは人の形をした存在ではない。木を隠すなら森の中というが、人の中に人ならざる者が紛れ込んでいては、それを識別するに特化した『眼』を持ち合わせた者にとっては餞別するにはさほど難しいことではなかった。

 

 狼梁梁(ランリョウリョウ)は徐々に明かりが灯り始める中国の夕下がりの町を見回した。ちらほらと人外の存在が見受けられるにしても、それ自体に中国の町においてはそれほどに珍しいことではない。それなりに妖怪的な存在が息巻いているとはいえ、今の世に人々の圧倒的脅威となるような強大な怪物は皆無だからだ。そういった者らの対処は基本的に国雇いの異人が担当するために放置して良いのだが、狼のようにはぐれ魔術師が変身した怪物を処理する特役にある者はより早急な対処が求められる。

 徐々に強風も威力をさらに強めてきた。予定では今夜は明け方にかけてまで晴れだったのだが、もう少しでも経てば雨でも降りだしそうなものだった。

 

 小型通信機のコール音が耳に入ったのは数秒前からだった。集中していたため少し反応が遅れたが、コール音の種類が今季の最重要事項の関係者だっただけにすぐに呼び出しに応じる。

 

「こちら梁梁。どうぞ」

『こちら‘ゲルダG-3,日本では今日ですべてのマスターが成立する予定となっている。狼君。君のことだ、迎えのヘリが来る直前まで仕事をするつもりなのだろう?』

「そうですねえ。こちらとしても対処の急がれる課題が多くありまして……今夜中に一仕事片付けるつもりです。遅くとも早朝にはヘリが来ると考えていて良いのでしょうか?」

『うむ、問題ない。戰の前だ。気張り給え。ニューヨークの方では少々問題が目立ってきている。こちらについてからも少々本業の方で頼りにしてしまうだろう」

「了解しました。では遠くないうちに…」

 

 定期連絡という奴だろう。並大抵の魔術師よりも格段に移動範囲と活動領域の広い狼に対して気を働かせることは重要だろう。狼としても頻繁に宿を変えて我が家を持たないという生活には辟易してはいるのだが、何しろ殺害対象がころころと潜伏先を変えるのだからどうにも具合が悪い。

 レクトワルナイフという希少鉱石を原材料とした魔石ブレードを装着したM4A1カービンを手にし、夜に沈みゆく町を仰ぐように見つめ、狼は息を整えた。

 そろそろ時間制限的に無理に思えた任務だったが、やはり運は諦めないものに巡ってくるようで、陽がいよいよ沈もうとする西日の光を浴びる一体の怪物の姿が目にとまった。無数の影を纏う数メートルの巨体。半霊体というものだろう、実際に戦闘を始めないことにはその本質は見えてこないが、今は少なくとも魔力を用いて空間迷彩を施しているために人々の目には映っていない。

 

惡魔的時間(タイムアルター) 加速靈魂(アクセラレート)

 

 空気に馴染むような疾走だった。宴の俟ち合いに活気づくような眼下の人々の表情を見下ろしながら、彼は建物の壁や屋根を跳ねるように走破する。厭戦に臨むその面持ちは暗かれど、その指の先は既に銃剣のトリガーにひっかけている。

 加速した。そして、もう一段階加速を経る。捷いというよりは、機動力という概念そのものを強化して身体を加速させているような魔術だった。自身が一定に与えられた時間の中でどのように動いたかという命題を掲げたうえで、既定路線である結末Aを直線的に運命事引き延ばしている。自分の最終的な座標を細かく引き延ばすことによって直接的に自身の行動範囲を飛躍的に伸ばしており、一動作にかかる現実的負担は重くとも、少しの軽々とした弾みの動作一つでビルからビルへと飛び移るという動きを可能としている。

 そうする理由は狼が狙っているその対象が同じようにして中華の町を目まぐるしい逃走を始めたからだ。どこにいっても一定数の人だかりがある以上、むやみやたらに銃口に火を吹かせるわけにもいかない。とはいえ、一度魔の境地に堕ちた存在が本気を出して逃げるとなればとても長々と鬼ごっこが続けられる相手ではない。

 

「悪魔的時間。加速靈魂」

 

 疾走が突風に変わる。照る様に光を放つ狼の彗瞳が光の軌跡を宙に流した。魔力の欠片が鱗粉のように舞い散る。それすらも風に攫われて彼の軌跡をなぞった。

「アサシン。君、せっかくだから俯瞰してくれないか?」

『マスター。私は君から魔力を供給してもらう立場だからこそ言わせてもらうが、今のマスターの魔力損耗度合いがあまりにも大きすぎる。もう少し抑えないと私の存在証明すら危うく…』

「良いから。対象の動きに癖のようなものは感じられないかな?今後逃げ込むのに選びそうな場所とか」

『しかしだな。今のマスターの行動速度は正直サーヴァントを越えている。無論、私は鈍足を射抜くに長けてはいるが高速移動する存在を分析するのは得手でない。だが、必死に逃げるウサギが好みそうな隠れ蓑は察せる。駅舎から見下ろせたと思うが、今マスターと対象のウサギの近くには廃工場群がある』

「ああ、あれか。確かに、変に曲がりまくってカモフラージュしようとしてるけど、少しずつその廃工場群に向かってる気もする。もしそこに隠れ込む様子が見えたら狙撃してしまってくれ。建物の屋根を吹き飛ばすだけでもわかりやすくなるから助かる」

『問題がある。さっきも言ったが立ち入り禁止にも関わりなく、ちらほらと人の往来が見える。サーヴァントの存在が基本的に秘匿に徹するに値するものなら、私はここで実力行使に出るべきではない』

「確かに。使い魔に慮られるとは魔術師失格だなぁ」

 

「悪魔的時間。加速靈魂」

『ッ!!マスター!!いくらなんでも加速しすぎだろうッ!?』

「問題があるのは僕じゃなくてウサギさんさ。なんでここまで加速してもちっとも距離が変わらないと思う?」

 

 もう既に音の壁に競り合う速度の逃走劇となっていた。軌跡の流動は松葉のように尖り、宙に形を残している。目にも留まらぬとはまさにこのこと、瞬きでもしようものならその姿すら垣間見ることも出来ないほどの速度で駆け抜けている。時には車道に着地して車の渋滞の合間を縫うように走破する。時にウサギが高く高く建物を駆けのぼろうともそれに追随して悪魔的速度で詰め寄ろうとする。消費し、損耗する魔力は結果に釣り合っていない。いくら速度を上げ、理論を捻じ曲げた移動を成していてもちっとも距離が縮まることはなかった。

 

『この逃走劇そのものに因果逆転が働いていると考える他ないだろう』

「そう。先にウサギさんが僕の追跡に対して‘逃げ切った,という結末を用意してるものだからいくら速度を釣り上げて、こちらが疲れようとも意味を成さないわけだ。じゃあどうするか。僕がどうしたいか。わかるかな?」

 

 ウサギとの追いかけっこをやめて町の郊外に飛び出した。狼はそこで一思いに体にブレーキをかけて急停止した。掻っ攫っていた空間の勢いが解放され、狂風が周囲を揺らす。体を支えようと突き出した右足の先からソニックブームが生じ、その先数十メートルの地面が抉れた。

 

『まったく』

 

 北京西駅舎の天辺が発光する。気配遮断のスキルの中の最上位に位する力を持った彼でも、戦闘態勢に移るこの一瞬だけは彼の悪魔的オーラが立ち上る。無論、凡下な一般人にはその姿を確認することは出来ないだろう。いくら気配遮断のランクが落ちたとしても、元来狙撃手として気配遮断状態での攻撃を常としてきた彼は攻撃時にも気配遮断が完全に途切れることはないのだ。

『宝具は使わない。というか、使えない』

 宝具を扱うには狼の中で融通の利く魔力の貯蔵量が少なすぎる。

 因果逆転系の厄介極まる効果を越えて目標を打破する方法は必然的に限られてくる。単純に、拘束された運命に望まれた解答。つまり、この状況においてはウサギに逃げ切ったという状況を生み出すという結果を提供したうえで別角度からの攻撃を仕掛ける。今回でいえば高速追跡から解き放たれた直後の狙撃という再度の攻撃。因果逆転系の魔術は雑多なその他の魔術を比較すれば遥かに連続運用が効かない能力。追跡を開始されるよりも遥かに別攻撃を受けた方が痛手になるはずだった。

 

『完全捕捉完了 - ロック 照準確定 』

 

 銃声は聞こえなかった。魔力攻撃の発生すら隠し通す最高峰の気配遮断能力。確かに存在したであろう狙撃だが、マスターである狼にもその如何については解しがたかった。

『狙撃は成功した。射角を利用して眉間から延髄までを撃ち抜いたが、生きている。防御をされた感じはしない。ウサギは屍か半霊体。または即蘇生の能力を備えた異形の存在だ。戦闘続行はお勧めしない』

「うーん。君が狙撃を失敗して言い訳するとは思えないけど。…そんな異形の存在であれば、僕から逃げるという選択自体を選ぶ必要性が無いように思えるな」

『私が一発だけしか弾を放っていないと思っているのか?…これまでに十三発。狙撃時に周辺魔力を巻き込んで無音爆散するエネルギー貫通型狙撃も四度試した。しかし、ウサギは抵抗する素振りすら見せずにのんびりと私のことを探しているようだ』

「悪魔的加速。加速靈魂」

『まったく。どれだけせっかち性なんだマスターは』

「ウサギの正体がわかった」

『ほぅ?』

「廃工場群だったね」

『ああ』

 

 悪魔的な速度を以てして狼の体は宙に預けられた。その跳躍でおよそ四十メートルはあろうかという所まで跳ね上がると、彼は即座に詠唱を初め、魔術を構成する。

 

「イー ロン ケァ チー シウ メィ ア 」

 宙に預けられた彼の身体が足場を得て空に留まった。赤色の魔法陣が彼を取り囲むように複数構成され、同じく赤色に光を放つカービンの銃口に魔術回路に似た模様が流れる。周辺数メートルの範囲に薄く張られたような魔法陣からやがては直接カービンに向けて魔力の胞子が飛んだ。これは通常の魔力運命とはかけ離れた外法の強化手段であり、銃そのものと自身の存在系を織り交ぜて一つの兵器を作り出そうとしているのだ。

 左手で銃を保持し、銃床を顎まで寄せる。右手を改めて振り上げてから肘を降り、抱き寄せるように銃を構え直す。

『マスター。秘匿案件だろう。仕事中に目立ってはいけないのだろ』

「平気だ」

 声音が低く唸るようだった。表情が凍てつく。不思議と若い顔に似合わずに目じりに皺が走る。

 次の瞬間、アサシンが視認していた廃工場群が戦塵を上げる。複数回の同時爆発と思われる急な地形変動。卓越した視力を有するアサシンには、立ち入り禁止の廃工場群に屯していた者らが瞬く間に撃ち殺されていく姿が目に留まった。どれも狙撃というよりは、凄まじい弾幕に呑まれて爆散しているように見える。カービンから放たれているのは鉛玉ではなく、魔力で補助を受けている術式だと伺えた。術式が被弾地点で超高速に構築から離散までを経て爆発を引き起こし、次いでに周辺物質を誘爆存在に置換して断続的に爆発を持続させているのだ。

『本当に平気なのか?』

「敵の名前は婆肝糺。大妖怪だ」

『バカンキュウ?』

「久しぶりに見たよ。そうだね。確かに今日は妙に風も強いし、十分に有り得たか」

『その大妖怪を討伐するためなら建造物破壊も厭うことではないと?』

「奴は周辺空間を捻じ曲げて変化された空間を元に戻す力がある。もちろん、条件付きだろうが便利な力さ。しばらくぶりの顔見知りだからさ。挨拶程度にこれくらいはしないと礼節が欠けてると取られる」

『ウサギとして追っている時には感づかなかったのか?』

「うん。敵が気配をすり替えていたと考えていてくれればいいさ。逃げてたのは僕をおちょくってたからだろう」

『戦闘か?それとも撃ち止めか?』

「それは向こうしだいさ」

 

 アサシンはどことなく、マスターである狼の顔に翳りが生じているような気がした。魔術の使い方にも違和感を感じ得ない。どこか人里離れたような、それこそ本当に影のような概念に近いものを感じてならなかった。

 狼の中性的な顔立ちが険しく強張っている。特に目尻に寄った皺が先ほどより深く刻まれている。首にも同様の皺が刻まれ、石化するように硬質に変化しているように見えた。

 思えば、アサシンから見て狼は非常に年若い。それこそ単なる若造として生前なら取り扱うであろう十代の子供だ。背もそこまで高くはなく、顔立ちはさらに柔らかく、中性的でむしろ女性に寄っている。尖ったような長髪が滑らかな黒と共に風に乗っているが、その風貌そのものにもどこか違和感に似たものを感じてならないのだ。

 すると、廃工場群から虹色の閃光が迸った。目標は宙高くで棒立ちしている狼に向けてだった。それらは狼が用意した魔法陣から放たれた赤い光線と相殺され掻き消されたが、破壊されて荒らされまくった廃工場群からは黒い煙の塊のような何かが姿を現し、空を流れるように狼に向けて移動を始めた。

 アサシンは静かに自身の得物の照準をそれに合わせ、静観する。マスターからの指示が無くては攻撃はしない。

 狼と接触した婆肝糺と思われる存在がしだいに形態を変化させ、どこか人に寄った姿になった。しかし、その胴体は獣や怪物のそれを思わせるような尖った体毛と棘のようなものに包まれていて、その足は靴を履かずに代わりに猛々しい鉤爪が見える竜種のようなものだった。

 アサシンは集中さえすればマスターと接触したその婆肝糺との会話を盗み聞くことが可能だった。この対面には少なからずアサシンも興味を示しており、それを汲んでか狼も躊躇うことなく言葉を交わそうとする。

 

「しばらくぶりにこうして見えたな、婆肝糺」

「はぁ。貴方が私を婆肝糺と呼ぶのですか」

「妖怪退治に興味はない。仕事の邪魔をして貴重な魔力を削られた恨みをここで晴らすことも吝かじゃないが…どうする?」

「私が貴方を殺したいと思っても。それは出来ません。ですが、貴方が私にいくら憤慨したとしても、私は逃げることが出来ます。そうさせるのは貴方なのだから。貴方は私を殺すことは出来ません」

「なら失せろ。二度と目の前に現れるなと言ったはずだ」

「本当に恨みがあるのはどちらか…お忘れですか?」

「己で解決することの出来ぬ事物に問答するだけに気を費やすほど暇な身ではないんだがねぇ」

「私はいつ何時であろうとも、貴方への恨み、呪怨を忘れることはありません。私を妖怪と唾棄するならば、私は人の身をして人を殺す貴方のような魔を憎みましょう」

 

 予想より遥かに人外染みた婆肝糺は女の声、女の頭を再び煙に包んだ。

 どこか悲しそうで冷ややかな言葉が紡がれていた。ひどく気分が悪くなるような、虫唾が走るような、不思議な会話だった。

 アサシンは風に吹かせながら、駅舎の頂点からマスターを観る。硬質的な皺が感情の悪化によってより強まっているのか、首筋から頬にかけてまで、その醜い皺が延びていた。周辺に展開された魔法陣を解除した彼は、静かにあたりを俯瞰し、婆肝糺が失せたことを確認する。

 

「異界の召喚獣。使い魔。サーヴァント」

 つい先ほどまで耳にしていた婆肝糺の声だった。

「最上ランクの気配遮断を貫通して俺に声をかけるとはな」

 見れば、婆肝糺がアサシンと同じように駅舎の天辺で立ち尽くしている。狙撃のためにあえて寝そべっていたアサシンはのっそりと立ち上がり、異形の容姿を隠さずに実体化している婆肝糺を見据えた。こちらもまた、顔だけは年若い娘のようだった。

「冬戦争の死神。シモ・ヘイヘ。聖杯に攫われた無垢な魂。私の語りに応じてください」

「どうにも、変に遜った物言いの魔物だな」

「貴方は既に、この呪われた儀式に掬われてしまった。故にその魂の宿り木である奴との縁が結ばれてしまっている。これよりは多くの苦難、戦いに臨む運命共同体となってしまった。だからこそ、私は貴方にあることを伝える義務があり、権利がない。故にこうして姿、声を届けるも、核心たる助言を告げることが許されない」

「つまり、其方は私に何か重要な事。とりわけ我がマスターに対しての苦言があるようだが、それがそちら側の都合で打ち明けるわけにはいかない。と。案ずるな。これでも後世に名を残し、生前に伝説までもを作った英雄。そこまで感が鈍いわけでもなし、いずれ自ずからマスターに対しての発見や勘繰りもあるだろう」

「貴方は聡明な方であるようだ。だからこそ、再度の御忠告を私は届けたい。良いですか、貴方の主は貴方が思うような、世間で知られるような者とは異なるのです。故に冬戦争の死神・ヘイヘ。私は傍観者として、影として貴方の傍らにおります。奴には悟られぬよう、奴に感づかれぬよう、静かに影として寄り添います。奴に貴方の無垢なる魂が食われぬよう、最期の選択の時を貴方に告げるため。私は同行いたします」

「…………」

「では、これよりこの身は影に。翳りに。しかして、本当の翳りは目に留まらぬものご用心なされよ」

 

 陽が沈み、影の失せたアサシンの足元に、それは暮れていった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene2-2

 オジョウ・スツリカは決して鋒鋩な気質ではなかったが、宵に差し掛かるその暮れの時分に理由もわからずにつれ回されるのは少し気に食わなかった。ついでに彼女の雇い主であるヒカル・ジョージ・ステンラルの様子も普段とは趣が違うことにもペースを乱されるようだった。

 彼女が気が立つのも無理はないのかもしれない。日々、ジョージと行動を共にしている彼女にしても、普段であればジョージは割合紳士的な気質でオジョウに余暇を気軽に与え、彼女が気が乗らない場合は同行を強要するようなことはなかった。まして、人込みを厭うオジョウに対して北京西駅という人々の往来の中に連れ込まれることなど、今までではあまり考えられなかった。

 

 オジョウ・スツリカがジョージに雇われたのは半年ほど前のこと。

 家庭の事情につき、半浮浪者のような存在となった彼女はアメリカの名も知られていないような土地で盗みを働く夜盗になり、やがてあまりよろしくない者たちと関わりを持つようになり、次第に裏組織の一員として社会に関わっていくようになった。主に使い捨ての面倒遂行係のような存在で、どうにも多国籍マフィアとやらの系統に属する組織の端くれで自らの席を確保していた。

 危険が伴い、罪が伴い、魂を摩耗させる日々が続いていた。それでも、端で自分と同年代の少女たちが『商品』として売られていく姿を見ていては、体が売られていないだけましだと考え、狭い心の檻に自らを仕舞いこんで静かに埋まることが出来ていたのだ。

 いつしか、人を傷つけるような仕事と役割を任されたことがある。失敗はあり得ず、成功して褒められるわけではない。ただ漠然と提示されたミッションを掻い潜るたびに次、その次にと別の依頼と役割が与えられてしまった。そのうちに自分に与えられたミッションに報酬が付くようになり、道具としての人生が少しだけ変わった。生存条件としてのミッションが、己の腕を見込んで任された職務へと変わっていった。

 自分の座る椅子が次第に大きくなっていくようだった。

 独房にも似た雑部屋で食う寝るだけを行っていた時期とは違い、やはり末端組織ではあるにしろ、幹部のような者たちを横目に流しながら肩を並べて食事を行う機会も珍しくはなくなった。

 

 気が付く頃には齢が三十に近づこうとしていた。それに比較して白髪は実に多く、目つきも一般人と遜色がないとは言えないような澱みを抱えていた。色褪せない生傷が隠されずに服の合間の至るところから垣間見える。また、口の左端には妙な具合に縫合跡がついているものだから群衆の中とはいえ、やたらと目につくことも多い。

 もともと頭のキレが良いということで便利に使われたオジョウだったから、最低限の教養を身に着けるのにはさほど問題はなかった。語学に長けているとは決して言えないが、仕事の都合上で何かと中国人やスペイン人と関わることが多かったがためにいくつかの言語で基本的会話くらいは可能なくらいに言葉を紡げるようにはなっていた。代わりに計算問題がこれっぽっちも出来なかったが、マフィアの中で金の流れと身近な所にいたために金勘定と価値判断は達者だった。

 

 そんな時、ジョージが彼女を組織から引き抜いたのだ。多額の資金提供。武器・薬物の提供。マフィアの組織的体力を底上げするに値するだけの資金資材を以てして謎の男が突如として彼女を個別契約を結んだ。それ自体も彼女にとっては衝撃的で、まさか自分個人を完全に所有しようと資金を投じるような者が現れるとは思ってもいなかった。

 それからはしばらくジョージは無言で彼女と共に過ごしていた。幾つかの鉱山を渡り歩き、地質調査の真似事のような、ただの散歩であるかのような、そんな時間を過ごしたのだ。

 言葉の通じない数各国を渡り歩き、それでも無言で肩を並べて歩く期間が二ヶ月あった。そして日本という国のある港町の埠頭で急に口を効くようになったのだ。

 

 ジョージは二ヶ月間一緒にいても謎の男だった。

 裏社会の大物なのか、探偵や小説家なのか、スパイ的な何かなのか、何でも屋の類か暗殺者の一種か。見当もつかないくらいに放浪していたのだ。

 埠頭で潮風に吹かれている時、彼はオジョウにこれまで彼女が身を置いていた多国籍マフィア系統の傘下組織『emerald』が壊滅したと告げた。その時、どんな気持ちになったか。今となっては彼女は忘れてしまったが、少し驚いたような気がする。

 壊滅したとは比喩表現ではなく、事実に即して構成員の全員が皆殺しにされて立ち行かなくなったという状態を指していた。そして、殺させたのは自分で、同じようにマフィア系統の組織の幾つかも同じように壊滅させると続けて語った。

 なぜ、そのようなことをするのか。したいのか。オジョウは尋ねなかった。興味がなかったのかもしれないし、突然の会話だったから物怖じる気持ちが勝ったのかもしれなかった。

 

 イタリア調の紳士的な装いで風に吹かれていた彼はそれからは実に饒舌な調子で、これまでの沈黙を忘れてしまうほどに良く言葉を交わそうとした。しばらくは日本という言葉の通じない国の中で過ごし、ジョージは何らかの調査を行っていた。やはりジョージがどういった人間で何を目的として生きているのかは謎に包まれてはいたが、それでものんびりと彼の横を歩いて特別でもない内容の会話を重ねながら旅をする日々は堪らなく愛おしいものだった。

 

 ジョージは平生から温和で物腰が柔らかく、それでも罪を決して恐れない大胆な男だった。立ち入り禁止区画や機密地帯にも平気で歩み入るし、荒れた連中に絡まれたとしても表情一つ変えずに撃退したりする。時には怪物や魔物の類とも思われるような異形の獣を前にして煙草を蒸かしていたこともあったし、理由も告げずに人を殺していたことも珍しくはなかった。

 ただひとつオジョウが信頼を持っていたのはジョージが様々な物事に対して親愛を向ける人間だったからだ。ジョージはオジョウを軽んじて扱ったことはほとんどないし、何か暴力的な動きの対象としてオジョウを選んだこともない。三食はどこからか湧き出てくるような資金で保証してくれ、寝床は各地のホテルを転々としていたが、それでも金に糸目を付けずに良い待遇を進んで選ばせてくれた。

 

 普段のオジョウの役割はそういった食事と寝床を見繕うことだった。基本的に一日中外を往来している彼女らは外食しかせず、移動範囲も広いために宿所も目的地に沿って変えなくてはいけない。そんな中でオジョウがいくらかの見当の末に決定していくのだ。とはいえ、現代社会において、幾つか融通の利く携帯端末を常備していれば簡単にそれらのサーチが可能であるし、よほどの田舎や秘境でなければ食事と宿に困ることは少なかった。

 

 

ーーーーー 北京西駅

 

「オジョウ、クジラの声はどのくらいの距離にまで聞こえると思う?」

 電車を降り、凄まじい数の人並に揉まれる中、唐突にジョージはそんな質問をした。

「ごめん、聞こえない」

 雑踏のただなかでは会話などまともに聞こえぬほどの騒々しさに呑まれていた。そこで何やらふっと零れるような笑みを浮かべた彼はオジョウの手を強めに引いてその雑踏の合間を縫って進んでいった。目的地は改札でなく、駅舎の屋根の上らしく、駅の発着によって人々の往来が絶えない中で立ち入り禁止の意味合いがありそうなマークが印された扉をあけ放ち、民間人のいる表舞台から姿を消した。

 まるで所見の建物でないかのようにするりするりと進み、オジョウもまたジョージの歩みに追随した。もう慣れたものだが、ジョージが何か目標を的確に定めて行動する時の移動速度は普段のそれとは比較にならないほどに素早くなる。彼が目指していると思われる駅舎の頂点に何があるのかは知れたことではないが、それでも平生とはやはり様子が少し異なった彼の姿は口を挟むのは少し憚られた。

 

最短ルートを的確についたような効率の良さで駅舎の上層部の外側に出たジョージは周囲を俯瞰して煙草に火をつける。何か深く考え入る時はよく煙草に手を出すのだが、オジョウはこれをあまり好かなかった。組織にいたころ、多くの者らが嗜んでいたそれはどうにも昔の記憶を妙な具合に煽ってくるので気が落ち着かないのだ。

 

「で、さっきは何て?」

「…………」

 オジョウは細々と視線を街角に向けている彼に尋ねる。彼は久しくちらつく無精ひげの生えた顎元をさすっており、問が投げかけられて少ししてから視点を上にあげた。

「そうそう、クジラの声」

「クジラ?」

「クジラの声はどのくらいの距離まで届くかわかる?」

「クジラねぇ…」

 あまり知識めいたことを聞かれても困るのだが、何か意図があるのだろうと思い、考えを巡らした。どこかで小耳に挟んだことがあるとすれば、サメは百万倍に薄めた一滴の血をかぎつけるとかそのくらいだ。クジラだって名前と姿かたちを知っている程度で生態に関しては興味すら持ったことがない。

「一キロメートルくらい?」

 オジョウは頭の中で青い海の中でずっしりと重い唸り声をあげているクジラを想像してみた。

「ところがどっこい。五百キロメートルも届くんだぜ」

「五百キロ?そんなに?」

「海にゃSOFER層って水深八百から千二百メートルにある太陽光の届かない一定の温度に保たれる場所が存在する。そこでは光ファイバーのように異なる層に挟まれた空間の中で声は光のように反射してより遠くまで運ばれるわけよ」

「………」

 それがなんだ、という表情を彼女が浮かべているということに気が付いたジョージは鼻を啜って滅紫を吐いた。

「ここ最近、ネタが入った。俺が長く探してきたバケモノが目の届きそうなとろこまで来てるっていうんでちょいと急いでここまで来たってわけよ」

「ふうん。で、ここからなら見えるの?…そのバケモノ」

「うんにゃ。俺ぁ今ほどまでこの街のSOFER層を探してた」

「ん?」

「言ってみりゃ世界にはいくつもの『層』ってのがある。地位、文化、精神、概念、宗教、力。数え出せばキリがないくらいのいろんな層があるわけだが、世の中には魔術やら魔力やらって視点もあって、そこでもやっぱり層がある。層っていうからには一つの大きなまとまりじゃなく、大小さまざまなまとまりが折り重なって層を成している。中でも、魔術世界におけるSOFER層には魑魅魍魎が巣くうのさ。光が届かないだけじゃなく、そこにいなきゃ反射して聞こえてこないような声も遠くから聞こえてきたりする」

 その言葉で何を伝えようとしたいのか、オジョウにはなんとなく理解できた。しかし、いきなり魔術がどうだ魔力がこうだという話をされてもその言葉をうまく消化することが難しかった。

 彼女は傾いた陽を眺めながら街を同じように俯瞰してみた。しかし、いまいちわからない。

 

『クチャルフィアクチャルフィア ロン イチシェアイチシェア アロング モア モア 』

 ジョージのイタリアン調のスーツが揺らぐ。上向きの風が妙にも彼の周辺だけに発生し、ゆったりと気流を生み出すように揺らめているようだった。やがてその上向きの風に光の粒がまちまちと交わり、美麗なイルミネーションのような具合に煌いた。

『 我 その法を辿るものなり 我 その外法を敷くものなり 我 その光を纏い 宝玉たる扉に瞳を据える 』

「ジョージ?」

 舞い上がった光の粒がふわりふわりと漂い、やがて強まってきた本当の風の方に乗って街に流れていった。それはどこか幻想的でもあり、儚さを感ぜられたような気もした光景だった。

 

「それが魔術なの?」

「俺は魔術師を名乗るには力不足だよ。今はやったのは布石さ。この街でそのバケモノが大立ち回りするようなら、犬が蜘蛛の巣に引っかかるようなもんで蜘蛛である俺にはそれがわかっても体毛ふさふさのワンちゃんにはそれがなかなか気づけない。要は目印を勝手に拾い集めてもらう魔術を仕掛けたわけよ。これで一応SOFER層での出来事を感知できる程度にはなったかな」

「ふうん。でも、私にはわかんないからなぁ。……ていうか、そのバケモノに会ってどうするの?殺すとか?」

「うんにゃ。俺に殺せるなら他の有象無象の魔術師崩れでも殺せるだろうよ。アレに恨みを持ってる連中何ていくらでもいるわけだからな。でも、殆どの奴は誰も勝てないことをわかってる。だから見て見ぬふりをしてた。けど、ある意味魔術師の舞台であるSOFER層にあいつが身を置くようになって、終いには大概の魔術師はアレを恐れて縮こまっているようになった。でも俺はちょっとばかりアレに恨みがあって、出来れば目に物見せてやりたいとも思ってる。今日は久しぶりに姿が見えそうなんだ」

「それがジョージの生きる理由なの?」

 ジョージは身を翻し、元来たルートを辿って駅舎の中を引き返していった。

 引き返す足取りは先程よりさらに早々としていて、今日はいつもと違って肩を並べて歩くことがなかった。その背中はどこかいつもよりも遠く感じ、哀愁が漂っているようにも見えた。

 

「生きる理由なんて人間に本来必要ないことなんだぜ」

「ジョージ……?」

「人が生きているのは惰性と曖昧な死生観があるからだ。中でも死にたくないから生きる、とか死ぬのが怖そうだから生きるというのが本当のところ。人が厭世して死んだ方がマシだと考えるのは生涯で平均して十回あるって言われてるが、それでも人間は病気で死ぬことが殆どだし、殺されることも自分から死を選ぶことも全体を通してみればごく少数にとどまっている。……宗教、文化、歴史の中で培われた死後の世界に対する期待や恐怖ってのも心理的には効果抜群だが、結局死の際まで信条に沿った生き方してる連中も少ないんだ」

「…………」

「人間は生き方を真に選べない。だが選べたとしても実際は生き方を全うしきることは出来ない。だからこそ、俺は生きがいなんて本当は持ちたくないし、持たない方が良いと思う。しかし、俺はアイツだけはどうしても殺したいし、それが叶った日にはそのまま死のうが朽ちようが構わないとすら思ってる」

「私、付いてくよ。別にジョージがどんな人だって気にしない」

「俺は外法の復讐者さ。職という職はないが、それなりに評価されてるからスポンサーは確保されてる。あとはアイツの餌になりそうなマフィアなんかを潰して結果社会貢献してるもんだから妙な具合に感謝されたりもする」

「後で、ちゃんとゆっくり聞かせてね」

 

 人の往来の多いホームの付近にまでやってきた二人は駅を離れ、バスに乗った。無賃乗車も厭わないという気質ではあるのだが、それでも彼らは決められた額を支払い、足早に次の目的地まで急いだ。今度に向かおうとしている場所は廃工場群だと言われた。

 何しろ先回りが必要だとかなり焦っているようで、いつもは決して走る以上のことはしない彼だったが、今日に限っては大胆に走行中のバイクを強奪して走破した。奪ったバイクの持ち主には一千万円相当の札束を懐に押し沈めておいたために構わないとジョージは言い、交通法を無視した法外な速度での運転をしてみせた。

 ネオン街とまではいかなくとも、そろそろ日暮れに差し掛かろうとしているだけに街々の明かりは灯り始めている。そんな光の背景が揺らぐほどに速度を高め続けるバイクはやがて跳ね橋を飛び越え、丘陵地帯に差し掛かろうとしているあたりにある木々に見え隠れしている廃工場群に飛び込もうとしていた。

 廃工場群は少なくともまともな人間が出入りするような場所とは思えなかった。何重にも巡らされた有刺鉄線付きの柵に加え、法律上での立ち入りが禁止されていることを指し示すことが掛れた看板が等間隔で取り付けられている。

 なんでまた、こんなところに血相を変えて飛び込むことになったのかを尋ねようとオジョウは疑問を浮かべて口に出そうとしたが、それよりもさきにジョージはさらにバイクを走らせて工場群の中を走破した。その際に周囲を入念に確認しながら進み、ある建物に目星をつけてからはそこに向けて突撃するように疾走した。

 

「ロイ、ロイ・スぺラはいるか!?」

 ジョージが怒鳴る声など、実に久しいものだった。

 見れば廃工場の至る所には人の顔が浮かぶように点在しており、立ち入り禁止区画であってもかなりの人数の人間が身を置いているようだった。誰もが警戒しながらジョージやオジョウを見ており、急な来訪者の発生に狼狽しているようだった。

 今の様子から察するに、ジョージの知り合いか友達かがこの廃工場群にいるように見える。

「ヒカルじゃないか。なんだってんだ騒々しい。お前さんも婆肝糺の噂が入って中国まで来たんだろうがよ」

 婆肝糺という単語が出たからには、ジョージの言っていたごく少数の婆肝糺に対して交戦的な意識を持った者たちなのだろうという想像はついた。だが、ジョージがなぜここまで焦っているのかが解せなかった。

「何をとち狂えばこんなところに陣を構えるというんだ!今すぐここにいる祓魔師全員連れて離れろッ」

「おいおい、何言ってやがんだ。俺らは三週間かけてここに結界を張ってたんだぜ?婆肝糺の影姿も何度か確認されてる。俺はお前が中国に来るってのも聞いてたからせっかくならお前らがやり合って消耗した婆肝糺をここまで逃がしてもらってから集中砲火で消し飛ばしてやろうって算段だったんだぜ」

「どういう冗談でそんな気の違ったことを口にするのか知りたいもんだ。婆肝糺をそこらの魔物と同じ括りでいるようなら間違いなく命はないぞ。神代から身を映す大妖怪だぜ。吐息で土地を融かし、命を涸らす。眼光は雷より鋭く、巻き散らす瘴気は山を谷に換えてしまう。人を欺き、人を弄び、心を食らい心臓で渇きを潤わせる。……奴にとってこの魔法陣が意味を持つと考えるのは台風に落とし穴を用意しておくのと大差がねぇ」

 それを聞き、ロイは眉を寄せて肩を竦めた。

「ああ、ああ。俺だってこの目で婆肝糺の姿を何度も見てきたぜぇ、それに何度も追い詰めた。奴の動き方や身のこなしなんてもう見切れるレベルだ。だったらチャンスがあったら仕掛けるべきなんじゃねぇかと思ってな」

「まずそれが間違いだ。お前が追ってるのは……ッ!!!?」

 

 周囲の空気が張り詰める。魔力が瞬間的に変換され、仕掛けられた術式がより強固な結界となって周囲の敵対存在の捕捉をしようと廃工場群を駆け巡る。祓魔師の結界は流派によってかなり癖があるが、中でもこれはかなり高位に位置する術式のようだった。しかし、それが無駄であろうということをジョージは知っていた。

 

「ほら、来たぜ」

 

 獣や怪物と思わせるような体毛と棘に包まれた胴体。脚は靴を履かずに代わりに竜種のそれが延びている。顔は年若い女のそれで、体中からあふれ出ている瘴気と翳りによって周辺の空間が歪められているようだった。

 

『まったく…』

 婆肝糺の言葉が静かに響く。異形の姿で周囲を見回す婆肝糺はまるで結界など意にも留めずに竜種の脚で地面を掴む。腕は黒い靄だったが次第に実体化し、蜥蜴のような形に変化して地面を触る。四つん這いに近い姿勢になってから婆肝糺は黒い靄を体からいっそう噴き出すようになり、自ら進んで影に包まれようとしている。

「ここであったが百年目だなァ婆肝糺」

 ロイの高らかとした声音がそのまま彼を滑るように動かした。華麗にステップを踏んだロイが踊るように婆案糺の影に詰め寄ると、彼は古典エクソシストが用いる槍を出現させて婆肝糺に斬りかかった。すると婆肝糺は交戦することなく連撃を回避し、それよりも他の無いかが気になるような風にしていた。

 オジョウはジョージの様子を確かめようと顔を捻ったが、先ほど立っていた場所に彼はおらず、代わりにエンジンをかけたバイクの走行音が耳に飛び込んできた。彼は華麗なドリフトを決めて彼女を掻っ攫うと、そのまま背にオジョウを引っ付けたまま息を巻いて廃工場群を飛ぶように去っていった。

 

「なんなの?ほんと」

「ロイはSOFER層が感じ取れない。気の毒だが、もうあそこにいる全員は死んだ」

 

 遥か遠くの空から飛び掛かる無数の烈弾がその後、たちまちに廃工場群を消し飛ばしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

# scene2-3

 中国 蓮花池公園 ---

 

 公園の池の水に冷やされた宵の風が狼の長髪を宙に流した。

 缶コーヒー片手に携帯端末でネットニュースをサーチしている彼は驚くべき速度でネット上に浮上していく廃工場群の破壊事件についての記事を読み眺めていた。缶コーヒーを鼻を啜る様に一気に啜ると、今度は常備している生薬の酒の小瓶を取り出した。

 それを煽りながら、端末の中にあるSNSアプリを開き、さらにそこからも情報を読み漁った。どうやら、廃工場群が謎の現象によって地面基盤が抉れるほどに荒らされてしまい、集団的になんらかの組織が実験場として利用していたなどの説がみるみるうちに浮上している。実際に廃工場群を消し飛ばしたのは集中的に浴びせかけた魔力風圧弾だが、それを特定するには有象無象の大衆には役不足だ。

 

「アサシン。廃工場群にいた不法侵入者たちは全員死んだかい?」

『さぁ、ちらほらと見えた分は撃ったが、マスターが空から仕掛けた段階でそもそも誰も逃げていないとは限らないからな……とはいえ、弾が魔力で構築されている分、それが攻撃であるかを認識できる者はそういないだろう』

「んん。まぁ、あまり人を殺してもあれだし。戻っておいで」

『了解した』

 空返事のようにも聞こえた応答から五分と経たないうちにアサシンは半霊体と化した状態で跳躍と霊体化を繰り返して人目に付かぬように狼の元まで参じた。とはいえ、もう既に陽が暮れてあたりはだいぶ薄暗くなったために、実体となっても動きを速めれば常人の眼にとまることもないだろう。

 狼はカービンを解体して詰め込んだライフルバックを肩に担ぎ、小瓶を懐に仕舞った。

「さて、深夜から明け方にかけてまでにニューヨーク行きのヘリが僕を拾いにくるそうだよ。それまでどうしようか……」

「んん……マスター」

「どうかした?」

「あれだけ走破したというのに、マスターはまるで疲労を浮かべていない。流石に固有次制御に似た魔術を行使した後、これほどまでに平生と変わらない立ち振る舞いを見せるのは理解が及ばない」

「つまり、所作の一つとっても疲れを滲ませろって?別に疲れていないんだから構わないだろう。疲れないようにするコツもある。それに、僕の疲労は動作よりも見た目に現れてくるんだ」

 そういうと、狼は自分の目尻を指さした。罅割れたように刻まれた深い皺がそこにはあり、かなり醜く耳裏までそれは伸びていた。それが強力な身体強化の代償だと言われれば、なるほどわかりやすいことはあるのだが、それでもあれほどまでの身体加速をそんな陳腐な外見変化だけで回収できる程度の代償など、やはり能力に釣り合っているような気がしなかった。

「………」

 アサシンは押し黙り、静かに狼に向けて移動を始めた。

 霊体化と実体化を繰り返す半霊体として、器用に跳ね飛びながらビル街を疾走し、狼のいる蓮華池公園を目指す。

 駅舎から見下ろした際に見受けられた雑踏は和らぎ、宵の訪れを感ぜられるほどにどこか静けさが街を呑んでいた。

「アサシン。イタリアン調の装いをした妙な男を見かけたら教えてくれ」

「…承知したが、何か障害にでもなり得るのだろうか?」

「いや、どうにも見知った人が中国にきているみたいでね、見えるようなら挨拶でも、と」

「んん」

 サーヴァントだからこそこうして宙を舞うような高速移動を可能としているが、そも生前のアサシンは狙撃兵だった男。地点観測には心得があっても、哨戒隊員のように自身の動きがある程度持続している中で見知らぬ特定の個人を発見することは容易ではない。遊弋しながらというならば或は可能であるかもしれないが、狼の口ぶりからしてそこまで躍起になることもないだろうと勘繰った。

 それから少しばかり体を浮かせる時間を用意しつつ、同じように移動を続けた。

 すると、蓮華池公園までもう少しという所まで来た。が、自然とその脚は止まり、数舜の滞空を経て重力に任せてその身が街路に降り立った。不自然に点滅する街頭の明かりがなんらかの高次的な力の発動を告げているようで、アサシンの視線は自然とその眼前に佇む男に注がれた。

 何故この時、こうして脚を止めてまでその男と向かいあったのか、後で説明しろと言われてもうまく彼にはそれを自分の中で証明することは出来なさそうだった。

 強いて言うなら、何か運命的なものを感じたのかもしれない。ある種死者であるその身に沸いた元来の生命的な直感に引き込まれたのかもしれなかった。恐怖でも、興味でもない、強く引き付けられる感覚。それはどこか春に芽吹いた若娘の抱く恋のようでもあり、極寒の地に取り残された遭難者の抱く絶望のようなもののようだった。

 精神の相反とまではいかなくとも、確かにそこには意識や摂理と乖離した何かが確かにあったのだ。

 

「君は…。……死霊の類が仮の肉体を持ち、常時から見放せないような魔力を漂わせている。…驚いた、まさかこんなところで英霊と出くわすとは」

「聖杯戦争について知悉しているような口ぶりだな。イタリアン調の装いとなれば貴方は我がマスターの知り合いか?」

「……なんの話だろうか。さて、君も英霊なら私と口を長く聞くだけの暇もないのでは?」

 男はどこか困惑した面持ちでそう言う。

「確かにな。そうだ。俺は貴方と声を掛け合わせるだけの理由も由縁もない。では、まぁ、いかせてもらう」

 

 魂が浮遊したような感覚は自分とも驚くほどにふっと途切れ、自然と足早に彼は公園まで辿り着いた。

 ライフルバックを担いだ狼はアサシンの到着を一瞥すると、携帯端末で行っていた誰かとの通信連絡を続け始めた。

 

ーーー とある街路

 

「今誰と話してたの?」

「いや、珍しいこともあるもんだよ。あれは英霊。聖杯戦争で見られるサーヴァントと呼ばれる使い魔の一種さ」

「見えなかったけど」

 オジョウはコンビニで用を足し終え、留め置いたバイクまでジョージと共に向かった。

「SOFER層のいい例かもな。見ようとしなきゃ見えないものもいるって証左よ」

「ジョージがおかしくなっただけかもねぇ」

 オジョウが面白がると、ジョージもまた少し微笑んだ。

「行くか、婆肝糺が搔き集めた匂いがもうかなり濃い。そろそろ対面することになるかもしれない」

「その婆肝糺って普段人に溶け込んでるの?バケモノが街にいたら騒ぎになるよね」

「いや、基本的には気体や霊体になっていると考えられてる。普段から異形を晒していると現代のありとあらゆるところで光ってる眼からはすり抜けんだろうよ」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー  アメリカ・ニューヨーク

ーーーーーーーーー  2nd Avenue 隣接

ーーーーーーー  ホテル 【overture】

 

 この時期の高級ホテルというのは何かと需要がある。

 特にアメリカのニューヨークではクリスマスへ向けてかなり多くの企業や団体がイベントや関連企画を用意する風潮があるし、やはりそこでも一定の市場効果から経済が回される。やはり季節に見合った各所の動きというのはこの世界がある意味健全に成長している様子を伺うわかりやすい例でもあるし、毎年この時期のovertureではそういった商談を持ち込んだりするプレゼンルームも幾つか用意されているだけに会社系の利用者が多くみられる。

 のだが、よもやアメリカの二番街ともあろう場所にかくも多くの宗教関係者が集結することもないだろう。まして、世界に散らばる個性強いさらに多くの魔術師が一堂に会するなど、もはや笑いの声がどこからか漏れ出しそうなものだった。

 基本的に魔術師の多くは氏族社会の文化の中で育っているだけに血筋を重んじ、過去に衝突した他の魔術師家系とはなかなか相容れないこともしばしばある。さらに言えば政府や役人を嫌う者や近代兵器を厭う者も一定数いるわけで、ただでさえ宗教関係者や魔術師といった異様な存在がごった返しているホテル内の中でさらに溢れかえりそうなほど集結した、機関も所属もあやふやな政府関係者の顔が並べられるこの光景はそれだけで世界の危機的な性質を蓋然的に予覚するようなものだった。

 

overtureの最大キャパシティが二千人超という特大ホテルということもあり、一応は彼らを収めておくだけの空間は提供できているのだが、なんとも数日前から強制された機密保持の制約によりホテルマンたちは非常な息苦しさを感じ得なかった。

 

ーーー overture 最上階 臨時設置司令塔及び管制室及び即応会議設置室

 

「三十人の先遣に対して帰還は二人か。どう見る、ギーゼルヘール?」

「報告の通りの実情だとすれば『大敗』という名の表現が相応しかろうよ。アーカス・レイ。これでこの対策本部の方針が定まったのだから喜ばしいじゃないか。我々の仮想敵は晴れて『武力国家及び連立同盟』といったところにまで定まった」

「まぁ、そうなるよな」

 

 毛色の違う面々がホテルに介したからとはまた一段二段と話の違った異常事態がこの対策本部を揺るがしている。無論、聖杯戦争などという儀式の中で国連本部がすっぽり特異点に呑まれたというだけでも十分すぎるほどの異常事態といってもなんら間違いはない。何しろ、この時代において一般人が視認出来る程度の発見敷居の低い異様な光景など、報道規制を仕掛けるよりも早く世界中に即座にバラまかれてしまう。それが生じて現状、大前提としていくつかの問題がこの異変に付きまとう。

 一つは紛れもない人の眼からなる事態の究明活動。報道機関を筆頭に有象無象のライターやらカメラマンやらが日をまたがずに押し寄せるという野次馬の数。これではそも神秘の秘匿云々の前にこの魔術儀式及びその存在が全世界に向けて生中継されているようなものだ。

 さらに一つとして特異点と化した国連本部のあった地点は直径1000フィートに及んで白濁した半球体上の煙の膜が立ち込めているということだ。しかもこの白濁した煙は常に一定の光度と明度を保っており、夜間では目に痛いほどその光が煌々と放たれている。これに影響されて興味本位でこの特異点に突っ込みだす者も少なからずおり、その都度それらが帰らぬ者となるのはやはり食い止める必要がある。集った方面の権力者が昼夜の奮闘によって打規模の封鎖と事態解決を試みる運動をしているが、大通りを封じればある程度効果的に人の侵入を阻める西側エリアとは違い、西側はほぼイースト川と隣接しており、やる気のある者なら水中を潜り進んで接近してくるものもいるので、立地的に様々な角度からの特異点接近を許してしまうのだ。

 言うなればこれは戦時の内線戦略にも似ている。多方面において同時多発的に生じた戦線をどう処理するかでやはりこの危機によるさらなる混乱と世界の攪乱の程度を左右することになる。

 また、対外的な侵入者に対してのみの対処でも手に余るということを構いなく、特異点内部から複数種の未確認存在の出現が発生している。人型のものから獣型のそれまで、統率性もなくふらふらと現れるあたりがゾンビ的なスローリーモンスターを思わせるが、出現個体によって動き方も行動の方向性もまるで違う。これらは即応的に『魔導存在』と呼称せざるを得ないが、それでもoverture側の対策本部をしてはこれらをいちいち捕獲して調査するだけの余裕は与えられてない。出現した地点は複数種のレーダーを重ね掛けすることで正確に割り出すことはできるのだが、先ほどの立地的条件からしても東側にはほぼ隣接した形でイースト川が流れている。幅にして2000フィートを超える川であるから対岸から迎え討つにしても動物的な乱数の生じる動きをされては対応にムラが生じてしまうのは避けられないし、そもそも対岸には押し寄せるようにカメラを並べた記者や野次馬が遥かに聳えている霧のドームを睨みつけている。可能な限り、イースト川の方向に出現したエネミーはその都度すぐさま排除する必要があるのだが、それもどこからどこまでをどうやって事に当たるかの思案だけで通常は数日かかってしまうくらい重要なことなのだ。

 現状、西エリアは国連本部の霧のドーム付近には厳重な侵入規制が敷かれ、各方面からの圧力によって一番街は完全に封鎖された。そしてそこは事実上overtureから急ぎ足で派遣された魔導存在鎮圧部隊とドームから出現した魔導存在にとっての戦場と化している。幸いにして地の利ばかりは鎮圧部隊側にあることから、エネミーに対して有効とまではいかなくともある程度の有利を保持したまま、なるべく人的損耗を生じさせずに鎮圧にあたれている。しかし、それでも決して死人が出ていないわけではなく、ほぼ断続的に排出されるエネミーの対処にあたる鎮圧部隊の出動サイクルもコマンド・ポストの循環も十分に回転しているとは言い難かった。

 何分、そもそも実力部隊として国軍をそのまま流用するわけにもいかないのだ。事の次第を国家権力のどのあたりまで開示し、協力すればいいのか、それ自体魔術師にとっての大きな命題であり、人間同士だからと簡単に手を繋いで事態に正面から向かうことは決して容易ではない。

 事実、不可抗力的にoverture側の混成機関は一般人のいくらかを殺害してしまった後だ。どうしても事態の追求をしようとして戦場につっこんでくる記者やカメラマンなどをいちいち区別していられるほどの余裕すら、戦場にはないのだ。さらにイース川を船で移動して特異点に接近する好奇心溢れた若者を狙撃銃でそのまま撃ち殺して不可視の迎撃ラインを既に敷いていたりもする。この未曾有の現象下で殺人が正当化されるようなことはよもやあり得ないが、それでもovertureの管理できない範疇で人の手がこの特異点に加わることはどうしても避ける必要があることなのだ。

 しかし、overture側の本来の目的というのはそもそも特異点に集まってくる野次馬の撃退や特異点からあふれ出る未確認生命体の鎮圧なのではなく、この特異点そのものに対する調査と状況把握である。ただでさえ余裕のない状況下であるというのに、それでも有象無象を未知の世界に突っ込ませるわけにもいかないということでかなり熟達した各方面の混成部隊を先遣隊及び調査班として三十人ほど向かわせたのだが、帰ってきたのはわずか二人であり、さらに彼らの持ち帰った情報というのがなによりこの対策本部を困惑させる要因となっていた。

 

 

「ヒトが棲んでいた。言葉も服装も見た目も大きく違ったが、それは確かに人間であり、理解力と協調性を持ち合わせた知能生命だった…と」

「特異点というからには『中身のほう』は決して直径1000フィートってことはないと思っていたが、国家がいくつか成立するほどに巨大とはなぁ。パラレルワールド、この場合は並行別世界というよりは時間軸、空間座標自体の摂理がこの世界とは乖離したそれといった方が当てはまりそうだな。まったく、高位存在は人間世界に深く干渉してこないものだと思っていたのだが、どういう風の吹きまわしだろうか」

「さぁて、これで干渉していないつもりかもしれんよギーゼルヘール?…奴は粘土細工みたいに空間だけ用意して生命の種をそこにバラまいたに過ぎないのかもしれない。その空間を世界に換えたのは紛れもない人間。あの特異点の中で生まれた人間の文明かもしれない。…それに完全乖離のパラレルワールドと君は言ったが、僕はそうは思わない」

「ほぉ?」

「完全乖離のパラレルワールドだとしたら、まぁ、あの霧の説明が付きやすいというのはわかる。あれが完全乖離による空間の歪みのエネルギーをこっち側とあっち側に分散させて中和効果を発揮していると思うんだろう?」

「ああ」

「だが、ドームから出現している魔導存在には幾つかこちら側の歴史に見られる武具武装の概念を匂わせるヒト型生命もいくらか排出されている。ちょうど古代の各文明の長所と短所をこちゃまぜにしたような武装だけど、いくらヒトだからって同じような思想に陥るにはいくらか条件的な集約性と制限性が働く、とはいえ、彼らの世界がどれくらいの文明レベルを保持して勢力を編んでいるのか、となれば話は少し異なってくる。だって出てくるエネミーは毎回少しずつ違うわけだし、ヒト型存在の武装形態もちょっとずつ違う。それにこっち側の世界に対して学習能力を発揮して武装を変えているわけじゃない」

「何が言いたいのかわかりにくい物言いだが、まぁ、理解した。お前が言いたいのはあのドームの中では順調に歴史が育まれている文明の成長が発生している、ということだな。なるほど、完全乖離のパラレルワールドというよりは相対性理論的な時間軸の関係性があると?」

「そう。向こうの世界が存続するにあたってこちら側の世界は人間の完成系、というか、人間の現状のモデルを無意識に向こうの世界に提供している、それがどういう手続きをへてむこうに影響を与えているのかは推察が及ばないけど、そういったモデル像の提供を受けて向こうの世界ではこちらの一日あたりに十年だか百年だかの文明成長を遂げているということさ」

「ふっ、だがこの対策本部の方針に変化はなさそうだな。自体の早期解決が望まれるが、相手がこちらの予想を遥かに上回る勢いで成長する国家体だと考えると、長く放置すれば武装国家がニューヨークのど真ん中にあるっていうとんでもない状況が生まれてくるわけだ」

「ま、わざわざ高位存在が我々と新興別世界国家との戦争を防いでくれるとも思えないしねェ」

「衝突を止める子は微塵の無いのだろうが、同じように戦争を誘引するような気もありはしないのだろうよ。単にあのドームの中で育った文明がいかようにこちらに干渉してくるかどうか、その際に我々が武力と以て制圧するか、否か……無論、手に余ることばかり積もり積もった現状からして、我々にのんびり考えて選択肢を熟考するだけの猶予もない」

「高位存在にとってはただのゲームか……しかしなんでまた聖杯戦争なんてマイナーな儀式を掘り起こしてこんな世界を揺るがせるような状態を作ったのか……」

「それも考えるのは我々の役目だが、まずは人事が第一だ。人事の構築と適応的な接続システムを構築できなきゃミジンコみたいな我ら二人がこの大量の混成組織を纏め上げることになる。それは流石に動きに限度があるし、第一我々二人では全体の隅々まで把握出来やしないだろう?」

「まぁ、今回の事件ではこれから起こるいろんなことが緊急事態かつ予測不能なサムシングだろうし、極論は各自の判断と献身的な活躍で補うしかないこともあるだろうけどね。…とにかく社会からの眼を意識するのは神秘秘匿機関『ゲルダ』に任せるのが良い。あれらはあれらで好き勝手やらせないと窮屈だろうし」

「イルミナティは扱いが面倒だからな、そもそも魔術師が組織的行動に向ていないのもある。時計塔と聖堂の者たちが同じ空間に押し込まれてるこのホテルも決して安全じゃない、だが、使える者は使い潰すくらいの意気でないとこの事件は乗り切れないだろうな…」

「アーカス。最終的な全体指揮はお前に任せる。その下に二つの大きな括り、魔術師と非魔術師で組織系統を二分させ、その下に七ツずつ役割ごとに機関を設ける。ひとまず、この場に集まった者たちだけは俺が一括して人事を担当しよう、細かいところは各所の責任者に委ねるのが良いだろうな。とにかく、今は現場に対する体力を落としてはいけない時期だ。先遣隊を新たに百五十人組織してドームに向かわせる」

「情報不足なのが心配なのはわかるが、百五十人はやりすぎじゃないか?推論通りならドームの中の世界の文明レベルは第一調査の時とは比較にならないと考えられる。それに、第一先遣隊は敵のサーヴァントも視認してるとの報告だ、あまり安易に人的損耗を被るのは避けたくないかい?ギーゼルヘール」

「いや、今は数千人でも数万人でも投入して情報を持ち帰るべきだ。何しろ敵は国家だからな。こちら側の常識や摂理通りに発展するわけがない。わかりやすい危機としては、向こう側がこちらを侵略対象として認定した場合に起こる大規模戦争だ。マサロスの人口論でもある通り、人間は生活に使える資源が足りなくなる段階まですぐに増える。意外とこれが無視できない。自分の所で飯が食えなくなったり、そうなりそうだったら御隣さんから奪いとるのが人間の原始的な礼節だからな。言葉が通じない国家相手なら『ROE』もないし、戦いかたすらまるで違うだろう。偶然、今の我々が奴らより軍事力で勝っているのだから、本来ならば叩ける今叩き切るべきだ」

「だが、まぁ、具体的な解決策としては現地に最終的に送り込むマスターたちの活躍に依るところが大きいのだろう?」

「そうさな。しかし、まずは敵を知り、金を使い、防衛ラインと迎撃ライン。そして戦争に使う人間資源を搔き集めることが求められるのだ。流石に異界の戦士相手に迎撃ラインを敷いても、マジノ線のようにはならないだろうしな」

「そういや、ROEがないなら、一応礼儀作法なしに武力を全力投入することも出来るわけだ。いや、まさか僕がそうしたいわけじゃないけどさ。選択肢には入るわけだろう?」

「ミサイルやら化学兵器やらを特異点に放り込むって?はは、頭がお花畑に寄ってるお偉方ならやりかねんな」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。