はねバド!~Second Wind~ (STORICKS)
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はねバド!~Second Wind~ 石澤望編
プロローグ


「それで、どうしたいんだ? これから」

 インターハイを終えた逗子総合高校バドミントン部は、新人戦に向けた校内合宿を行っていた。

 後輩たちの声が、遠くに聞こえる。

「免許取りに行きます。……っていうか、もう行ってますけど」

「……そうじゃない」

 倉石監督は最近、練習中に抜け出すことが多い。

 練習場に来れば相変わらず声が大きいが、頭ごなしに怒鳴りつけることはなくなった。

「進路だよ、進路。石澤、お前の」

「はぁ……」

 私は、特待生としてこの逗子総合に呼ばれた。

 荒垣のウィークポイントを見抜いていた、倉石監督の肝煎りだったらしい。

 たしかに、この夏、私たちがインターハイに出られたのは、北小町に荒垣が居なかったから……かもしれない。

 私も負けた。

 準決勝で。

「どこか、ありますか?」

 多分、ない。

 逗子総合として、団体戦はインターハイに出られた。

 でも、結局フレ女に負けてしまって。

 個人戦は荒垣に準決勝で負けたから、インターハイには出られなかった。

 つまり、大した選手じゃない。

 激戦区神奈川とは言え、予選で消える名前だ、私は。

「……俺だって逗子総合の監督だ。口を利いてやれないわけじゃないが……」

 苦虫を嚙み潰したような顔で、倉石監督は唸った。

『石澤望』の値札には、そう大した数字が付けられない、というわけだろう。

「いいですよ。普通に一般受験で、どこか探します」

 自慢ではないけれど、三年間で今まで一度も赤点を取ったことはない。

 曲りなりにも主将として、同級生や後輩に、文武両道の範を示せ。

 そう言われていた。

「いや、まぁ……あるにはあるんだ。ただ……遠くてな」

「……?」

「まぁ、座れ」

 促されるまま、皺だらけの古びたソファに腰掛ける。

 タクシーのような座り心地だ。

 不特定多数の、とても多くの人間が座ったような。

「これだ」

 机の引き出しから、倉石監督は一枚の封筒を取り出す。

「開けても?」

「ああ」

 封はされていなかった。

 よくあるパンフレットの類か……。

 私と同じく引退した三年生のチームメイトも、よくこういうのを開いては、悩み顔を見せている。

 今の時期、『高三の夏休み』は特にそうだ。

「……」

 厚手の紙でできた、数ページの冊子。

「東北体育大学……でも、私立ですよね、これ?」

 逗子総合も私立だけど、一応は特待生で入学したから、学費は免除だった。

 でも、大学となると、ちょっとな……。

「必ずしも行けとは、俺も言わん。実業団の時の仲間が監督やってるところなんだが、まぁ大した山の中でな」

 頭上から聞こえる倉石監督の声に頷きつつ、その冊子をめくる。

 残雪の山をバックにした表紙をめくると、二枚目の大学構内図にもやたらと緑。

 その次のページから、数枚のキャンパス風景写真を読み飛ばして、裏のアクセス図を見る。

「山形新幹線?」

 私が乗ったことがあるのは、東海道新幹線だけだ。

 自分と同じ名前の『のぞみ』。

 それとは違うらしい。

 新幹線『なぎさ』はあるんだろうか?

「……いーしーざーわぁー?」

「へ?」

「聞いてたか? 俺の話」

「……すいません」

「まぁ、いい。言っちゃなんだが、この大学は『二線級』だ」

 申し訳なさそうな顔のまま、倉石監督は話を続ける。

 

 

 

 

 ……ところどころ、眠くなって聞き逃した。

 つまるところ、『一線級』──神奈川体育大学のような、素材も環境も整った大学ではない、ということ。

 それでも、私がおぼろげに考えていた、『偏差値が下の方の国公立大学』よりはマシだろう。

「はぁ……」

 電車の揺れが、眠気を増幅させていく。

 ぼんやりとした頭で、三年間を振り返る。

 入学したての頃、上級生に勝って天狗になっていた私を、倉石監督が叱ってくれたこと。

『お前の強打は通用しない』。

 それから、あの口うるさい指導が始まった。

 今にして思えば、倉石監督は彼なりに、私の『未来図』を探してくれていたのだと思う。

 その『目的地』である志波姫には、手も足も出なかったけど。

 彼女にはもう、いくつもの実業団チームから誘いが来ているらしい。

 荒垣だってそうだ。

 知り合い、または友達という贔屓目を差し引いても、近い将来、彼女たちは大舞台に立つだろう。

 私に、『東京オリンピック』の席は、たぶん、ない。

 今のままでは。

 ……『今のままでは』?

 そう思った時点で、私は心の底で、決めてるんじゃないの?

 

 

 

「四年ぶりだったんだよ」

 醤油に浸した大根おろしを厚焼き玉子に乗せながら、倉石は嘆息した。

「『全免』の特待に限れば、もっと……俺が逗子総合の監督になってからはあいつ一人じゃないかな」

 二人が酒席を共にすることは、これまで何度もあったが、自分の生徒について話をするのは、立花の記憶の中では初めてだった。

 もっとも、何度か『気が付いたら部屋で寝ていた』をやらかしたことはある。

「そこまで入れ込んでたんですか? 石澤に」

「ああ、まあな……好きなんだよ、ああいうタイプが。変な意味じゃないぞ?」

 立花の苦笑を受け流して、倉石は話を続ける。

 彼女が入学する数年前から、団体戦で頂点を守り続けてきた逗子総合に『全免』──学費全額免除で入ってきた新入生。

 当時、いつの間にか消えた『神藤』を除けば、神奈川のジュニア世代は荒垣と、名前の出ない『それ以外』、と言われるほどに評価の差は大きかった。

 上級生のみならず、OBや保護者に至るまで、常勝の二文字に相応しいのは荒垣だと考えていた。

「馴染めんわな、あいつはあんな性格だし」

「まあ、でしょうね」

 他でもない望自身が、その『役柄』に足る度量がなかった。

 春休みに行われた関西の強豪との練習試合。

 『荒垣』の代わりに、と自念して試合に臨んだ望は、進級したばかりの二年生に惨敗した。

 その学校のレギュラーではなく、実力試験の意味合いで帯同したサブメンバー。

 大したテクニックもなく、パワーでごり押ししてくるだけの選手だったにも関わらず。

「それで、どうしたんですか?」

「どうもこうもない。放っておいたさ。いや……」

 この言葉は正確ではない。

 実際には、レギュラー外の二年生を一人付けて、ノートを一冊手渡した。

「あの戦術ノートですか?」

「そうだ。ただし……白紙だ」

「白紙?」

「自分で考えさせた。あらゆるプレーヤーに対して優位に立てるラリーの立ち回りをな」

 中ジョッキのお代わりを店員に告げて、倉石は話を続ける。

「一週間も持たなかったな。ノートを全く埋められずに持ってきた」

 コートを空けてくれる他の部員や、何より練習に付き合ってくれている二年生に申し訳ない、と泣いた。

 それ以来、ステップワークからラリーの組み立てに至るまで、倉石はほとんどマンツーマンで望に教え込んだ。

 戦術練習がほとんどだったから、結局最後の最後までスタミナの不足は解消されず、それが荒垣との一戦での第三セットのスコアに現れた。

「でもな、基礎トレもちゃんとやってんだぞあいつ。三年間、いつも最後まで残ってな」

 『荒垣の代わり』というレッテルを誰が貼ったのか、結局誰も貼っていなかったのか。

 わからないままに臨んだ二年の県予選は、連続優勝を途切れさせる結果となった。

 当然のようにシングルスの枠を与えられ、当然のようにインターハイに出るものと思っていた望は、『荒垣の代わり』以来の十字架を背負い込む。

「『お前は荒垣じゃねーんだ』って……何度言ったかな」

 ジョッキを呷り、倉石は大きく息をつく。

「立場が人を作る、って言うよな」

「ええ……その点じゃ、荒垣については失敗したかもしれません」

「失敗?」

 立花の言う失敗とは、荒垣の団体戦欠場のことを指す。

 ひとしきり大笑いした後、倉石はかぶりを振った。

「『失敗』か、ま……そうだよなあ。シングルスの代表二枚いて、団体のインハイを逃すなんてな……俺なら、次の就職先を探すところだ」

「ひっぱたいてでも止めとけば……」

「バカ言え。体罰は厳禁だぞ」

 そうじゃなくて、と立花が言うのを遮って、倉石は続けた。

「止めたところで、爆弾抱えたままの荒垣を団体戦にエントリーするのか? 君にはできないはずだ。ほかの指導者ならともかく」

 立花自身、ケガで選手生命を絶たれた一人だ。

 誰が、何が原因となったかはわからない。

「指導者の先輩として、一つ教えとこう」

「……?」

「選手の『いちばんいいところ』だけは、俺は今まで弄ったことがない。特待だろうが一般だろうが、レギュラーだろうが補欠だろうが、な」

 倉石が考える、石澤望の『いちばんいいところ』とはなんだろう。

 骨と皮だけになったホッケの開きをつつきながら、立花はぼんやりと考えていた。



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1st game Summer song

「そうですか……わかりました。では」

 相手が電話を切るのを待ってから、受話器を置く。

 実業団を引退して、社業に専念した数年間の名残だ。

 今日のようにスーツを着ているときは、余計にこの仕草が出てしまう。

 パイプ椅子を軋ませながら、倉石は思案する。

 と、体育教官室の扉が開いた。

「失礼します」

「おう、石澤。まあ座れ」

 言われるまま、望は腰を下ろす。

 彼女は引退してからも、平日はもちろん、今日のように、自動車学校の予約のない土日にも部活に顔を出す。

 と言っても、できるだけ現役生に迷惑をかけないようにと、トレーニングルームでの筋トレと、体育館の隅でのフットワーク練習ぐらいだ。

 たまに後輩にせがまれて、実戦練習の相手をしている。

「あの……」

 顔を伏せたままの倉石に、望は怪訝そうだ。

 倉石の服装にも、クエスチョンマークがついているのかもしれない。

 いつものくたくたのTシャツではないし、無精髭もきれいになっている。

「あぁ、すまん。進路の話だ」

「こないだの、東北体育大学ですか? まだちょっと、親とも……」

「いや、それは焦らなくていい」

 そう言うと、倉石は内ポケットから小さな手帳を取り出した。

「十一月の連休に、キアケゴー氏の協賛で開かれる大会がある。『スピリッツ・オープン』、知ってるか?」

「えっ? いえ……全然」

「だろうな。俺もさっき電話で初めて聞いたクチだ。引退してから大学入学までのつなぎとして、部活引退後の高三を宮崎に集める大会らしい」

 バドミントンのメジャー化のためとはいえ、商魂たくましいヴィゴ・キアケゴーのことだ。

 ちゃっかり動画サイトとのタイアップを仕込んでいる。

 それはともかく、大義としては、この大会で各地の有力選手にスポットライトを当て、大学や実業団の目を向けさせようという狙いだろう。

 ひいてはそれが、日本のバドミントンの隆盛につながる。

「個人戦でインターハイに出た選手には、だいたい声をかけているそうだ」

「はぁ……」

「行くか? 宮崎」

 望は思案した。

 話は唐突すぎるきらいがあるが、バドミントンが出来るなら行かない理由はない。

 どちらかというと、模試の日程や、親の了解の方が気になる。

「行きたいです、けど……」

 三年間、結局望は個人のシングルスではインターハイに出場できなかった。

 うち二回は、荒垣に阻まれたのだが。

「よし、決まりだ」

「えっ、あの」

「金の事なら心配するな。今年は団体も早く帰ってきたからな」

「うっ……」

 冗談だとわかっていても、まだ整理しきれていはいない。

 目の奥が熱くなる。

「いや、すまん。飛行機代と宿泊費は学校持ちだ。負い目を感じるなら、結果で応えてみせろ」

「……はいっ!」

 うん、と頷いて、倉石は席を立った。

「さて、それじゃ俺は出掛けるからな。特待で声をかけてる選手の親御さんに会うんだ。これから前橋だぞ、信じられるか? もう一時だってのに」

 望ははにかんで、答える。

「探して下さいね、次のエースを」

「ああ、任せとけ」

 ぺこりと頭を下げて、望は部屋を出ていく。

 思えば練習中も、どこか肩を落としがちだった。

 まだしばらく、望の背負っていた『常勝・逗子総合』の重しは後を引きそうだ。

 あるいは、過去のエースとしての、現役生に対する不安が、体育館に足を向けさせるのだろうか。

 倉石はふと、横浜翔栄の木叢監督が言っていたことを思い出した。

──上げ膳据え膳はその子のためにならない。でも、だからといって、千尋の崖に突き落とすのもよくない。バランスが大事なんだ。特待だろうがなんだろうが、結局ただの十五歳の少女なのだから。

 望について、倉石にあるのは『介入し過ぎた』という後悔の念が多くを占める。

 木叢監督のように放任的であったなら、どうなっていただろう。

 一度ぐらいは、神奈川のシングルス代表として、全国の舞台に立てただろうか。

 そうすれば彼女は、自分を高めてくれるライバルとより多く、より早い段階で出会えていたかもしれない。

 一年か二年のときに、志波姫と対戦していれば。

「……もう行かないとな」

 学校のパンフレットと、部活風景を収めたDVD。それから、白紙の戦術ノート。

 この三点セットは、スカウトには欠かせない。

 ポケットの中に車の鍵があることを確かめて、倉石は部屋を出る。

 二階にある体育教官室からは、練習風景がよく見える。

 石澤は、ゴムチューブを使ったトレーニングに没頭していた。

 筋力を高めながら、肩肘の柔軟性を損なわず、よりしなやかに。

「……そうだよなあ」

 お前は志波姫じゃねーんだ──呟いて、倉石は階段を降りる。

「じゃ武山、あと頼むな。メニューは軽めでいいが、ダラけないようにしろ」

「はいっ」

 逗子総合のキャプテンは、石澤から新二年生の武山に代替わりした。

 神奈川の同世代の中では有望な選手だったが、特待生ではないし、スカウト順位も一番ではない。

 数年前の主力選手の妹だった。

 姉は、今も大学でバドミントンを続けている。

 上背はなかったが、とにかく体力を鍛えて走り負けない選手に仕上げた。

 妹の方は姉よりもフィジカルには恵まれたが、姉から『逗子総合のシゴキ』を聞き及んでいたのか、入部当初から走り込みを続け、最後まで足を止めないステップワークを身上に活躍している。

「さて、と」

 蝉の声もまばらにはなったが、屋外に停めてある車は蒸し風呂状態だ。

 エンジンをかけ、エアコンを最大にしてから、倉石は体育館の入り口脇にある自動販売機に歩く。

 今日の目的地は前橋。

 長丁場の運転になるから、コーヒーは避けておこう。

 何度か十円玉を入れ直してようやく出てきたスポーツドリンクを片手に、倉石は車に戻る。

 運転席に座ると、あっという間に汗が噴き出してきた。

 カバンからタオルを取り出す。

 ついでに、今日勧誘に向かう中学生のファイルも。

「うむ……」

 逗子総合に寮はない。

 もしこの子が特待を受けるとしても、一人暮らしをすることになる。

 無論、それだけの逸材だからわざわざ行くのだし、家庭も裕福と聞いていた。

 前橋インター近くのコンビニに、カーナビの目的地をセットして、倉石は車を走らせ始める。

 

 

 

 第三京浜を降り、環八へ。

 渋滞に埋まった車内に、多摩川を越えて降り出した雨の音が響く。

 バドミントンは天候に左右されない競技だ。

 他の部活の指導者とは違い、天気予報を気にする必要はほとんどない。

「いつも混むな、ここは……」

 ワイパーが吹き残した水跡の向こうで、信号が青に変わる。

 先の方で、車線が減っているようだ。

 初心者マークを貼ったハイブリッドカーを割り込ませる。

 時間に余裕を持つのは大事だ。

 それは、バドミントンの指導でも。

 教えるべきことの優先順位をきちんと付けておかなければ、実質二年半しかない高校の部活では、何も教えられない。

 もっとも、逗子総合の三年生たちは望に限らず練習熱心で、引退してからもみなちょくちょく顔を出す。

 前を行く初心者マークのブレーキランプが光った。

「関越に乗るまでは、ノロノロだな……」

 車の運転は嫌いではないし、前にいた高校では、合宿や大会の移動のためにも運転していた。

 ふと、倉石は望の言っていた事を思い出す。

 自動車学校に通っている、と。

 つまりそれは、大学に入ってしまえば部活漬けで、自動車学校に通う時間が無くなるから、ということだろう。

 どこであれ望は、大学でもバドミントンを続けるつもりなのだ。

 高校最後の大会で、インターハイに出場できた達成感。

 また逆に同級生──ここでは、志波姫唯華のことを言う──にあれだけ完敗してしまうと、もう競技者としての『上がり』に浸ってもおかしくない。

 終わる理由は人それぞれだが、終わらせるのは例外なく本人だ。

 望に関しては、幸運にもむしろ、バドミントンへの熱量を増大させる結果になった。

 まだ記憶に新しい、あの敗戦。

 相手の弱点を理解するのが早く、試合後半にタイガー・ウッズ顔負けのラッシュを見せる志波姫に対して、敗れはしたが第二ゲームで得点を伸ばした。

 倉石自身の助言はあったが、プレーをしたのは望で、その得点は彼女の思考と実践の結果だ。

 だが、もっとお互いに、色々なことに、気づくのが早ければ……。

「……いかんいかん」

 難しい顔をしていては、これから会う生徒に怖がられてしまうかもしれない。

 もっと他愛ないことを考えよう。

 たとえば。

「あいつ、車何買うんだろう……」

 

 

 

「……くしゅんっ」

 もう、夏も終わりだな。

 日が傾くのが早くなって、風が少し涼しくなっていく。

『ブカツ』に取り組む高校生はこの時期、その多くが夏に残した後悔を胸に練習に励む。

 去年までなら、春の選抜に向けて修正点を洗い出している時期だ。

 望にとって、それは今年も変わらない。

 端的に言えば、視野の狭さ。

 それは複合的な要因で、とにかく監督の指示を全うすることに固執するプレイスタイルによるものでもあり、丁寧にシャトルをミートし、また持ち味のカットを正確に叩き込むためにフォームにこだわるテクニカルな問題でもあった。

 自分なりに考えたのはそのぐらいだ。

 荒垣との準決勝の後、もちろん監督とは話し合った。

 ただ、その時はお互い試合後のアドレナリンが出ている状態だったから、どこまで冷静な話し合いができたかはわからない。

 お酒が飲める歳なら、もっとよくわかり合えるのかもしれないけれど。

 後者の要因については、望は一筋の光明をとらえていた。

 志波姫との対戦で感じたこと。

 荒垣のように力業でこちらの戦術を潰してくるのではなく、『読み』をもとにこちらの返球パターンを強制してくるような。

 あれは……マークシート形式のテストだ。

 そして、たぶんどれも正解じゃない。

 荒垣のは圧迫面接だな。羽咲のクロスファイアは、さしずめひっかけ問題のなぞなぞだろう。

 ともあれ、ショットのクオリティ自体は、志波姫とそこまで差がなかった、と思いたい。

 もっと実力差があれば、テストというよりセミナーのように感じたはずだ。

 体力面はわからないが、志波姫がやっているバドミントンは、極論で言ってしまえば、『足の削り合い』をしなくてもいいスタイルのもの。

 運動量なら三強の津幡を筆頭に、志波姫を上回る選手が全国にはいるだろう。

それが『走っている』か、『走らされている』かの違いで……。

「あの、先輩」

「どうしたの?」

「いや、扉閉めるんで」

「あ、うん」

 監督があまり口を出さなくなって、最近はスカウトやなんかで練習中にいないことも多い。

 目先の大会は全国につながるようなものではないし、自分たちが『いちばん上』になったばかりで、緩みがちな時期。

 それでも武山はきちんと休憩時間を決めて、体育館に響く声は、人数が減っても変わりない大きさだ。

 これなら、選抜も期待できそう。

 

 

 

 

「……今日も来たのか。今日は練習試合だからコートは使えないぞ?」

「いいです。トレーニングだけやります」

 新人戦を控えて、今の時期はどの高校も練習試合を多く組んでいる。

 大会日程や会場の関係から、好きなだけ人数をエントリーすることができないためだ。

 やっとこさ団体戦に出られるだけの人数しかない公立校なら別だが、逗子総合を含む多くの私立強豪では、全員を大会にエントリーできない。

 望のようなエース格になれば当然、コンディションと相談して出られるだけ出るわけだが、結果空いたところの『穴埋め』でしか試合経験を積めない選手も多い。

 練習中は声出しに終始し、大会期間は応援に徹する。

 高校生活をそれに費やしてしまうのは、寂しいものだ。

 チャーターバスで乗り付けてきた関東第五高校の生徒の中にも、そういった選手がいるだろう。

「じゃ、ロードワーク行ってきます」

「ああ……」

 夏の盛りは過ぎたとはいえ、晴れている日はまだ三十度を超す。

 そんな中、望は長袖のウインドブレーカーを着込んで走り出した。

 日焼けを嫌がるわけでもないだろう。

 どこかの高校野球の強豪校は、夏でもグラウンドコートを着て、マスクをつけてランニングするそうだ。

 

 

 

「11-6。インターバル!」

 一年生の審判姿も板についてきた。

 倉石は立ち上がって手を叩き、戻ってくる選手たちに声をかける。

「よしよしよし、オッケーオッケー!」

 10-3からの三連続失点で流れが多少悪くなったが、最後は長いラリーを制してのインターバル入り。

「これが四点差なら全然違うぞ。よくやった。後半は連続ポイントを与えないように、どんどん目先を変えていけ。いいな?」

「はい」

 中学からペアを組む彼女たちは、二人とも『半免』の特待生だ。

 インターハイの連続出場が途切れた昨年の夏大会でも、ダブルスでそこそこに勝ち上がっている。

「あと、いつも言っているが、二人同時にペースを上げすぎるな。さっきの最後のラリーは別だが、点差があるうちはサッと流して取り返せばいい。二十一点目に先にたどり着けばいいんだ。そこは二人で声をかけろ」

「わかりました。行ってきます」

 と同時に、審判の試合再開の声。

 軽く手を合わせて、二人はコートに戻っていく。

 倉石はまた、パイプ椅子に腰を下ろした。

 

 

 

「ふぅ……っ」

 浪子不動の階段を二十本。

 膝に負担をかけないよう、下りはゆっくり歩いて戻るだけだが、それでも足がじんわりと痛む。

 乳酸がたまっている証拠だ。

 逗子総合のある三浦半島は、山が海に迫っているところが多い。

 下半身を鍛えるにはうってつけの環境だ。

 学校を出発した時から持っていたペットボトルの中身は、ほとんど尽きかけていた。

 望はそれを飲み干すと、ゆっくりと歩き出す。

 海岸沿いを走る国道の脇に、公衆トイレがあることは、望は入学前の春休みから知っていた。

 催したわけではない。

 水道と、近くの自動販売機に用があるだけだ。

 この時期は、盛りのついた若者も多い。

 そういう手合いが周囲にいないことを確認してから、望はウインドブレーカーを脱ぎ、水道で顔を洗うと、裾で顔を拭いた。

「……よしっ」

 ウインドブレーカーを腰に巻き、望は学校までの帰り道を走り始める。

 そろそろ、練習試合も終わっている頃だろう。

 

 

 

 練習試合は、おおむね逗子総合の勝利に終わった。

 負けた試合もあったが、それは時間の兼ね合いで、先方の二年生とこちらの一年生の試合になったからだ。

 倉石は手ごたえを感じた。

 関東第五は、ネームバリューで言えば、横浜翔栄と並ぶ関東の強豪だ。

 逗子総合の知名度はその二校に比べてやや落ちるが、それは特待生のスカウトエリアが狭いからだ。

 団体戦の連続優勝が途切れるまでは、ほとんど神奈川県内からしか特待生を取らなかった。

 昨日行ってきた群馬の前橋などは、数年前なら及びもつかなかった場所だ。

 無論、それだけコストもかかっている。

 横浜翔栄ぐらいの知名度があれば、有望な生徒の方から自発的に越境入学してくることもあるのだが。

「武山、挨拶行くぞ。ほかの者は自主練したければしていいが、きちんと試合の反省をしてからだ。いいな?」

「はい」

 二十人程度の円の中から、武山が進み出て倉石に続く。

 他の選手たちはそれぞれに、今日一日の結果を振り返っている。

 しかし、フレゼリシア女子のように海外から、しかもプロ選手を引っ張ってくる高校に比べれば、かわいいものだろう。

「ありがとうございました。倉石さん」

 関東第五の監督が、握手を求めてくる。

 それに応え、倉石は手を握り返した。

「いえ、こちらこそ。いい選手いますね、第五さんも」

「いやいや、ウチは栄枝にも近いですから。トップクラスはそっちに獲られちまいます」

 強豪校の監督同士は、だいたい顔見知りだ。

 県予選はもちろん、関東大会でも上位に出てくる名前はだいたい同じ。

 今年の『北小町』は、ちょっとしたセンセーションだったが。

 と、バスに荷物を積み込んでいる生徒たちの傍らを、望が歩いてくる。

 一人、車体から離れてついてきた。

「あの、石澤さんですよね」

「えっ?」

 望には、他校の隠れファンも多い。

 荒垣ほどでないにしろ背が高く、また簪を挿した独特のスタイルも良く目立つ。

 風貌はどこか大人びていて、他校の応援に来た生徒が心酔してしまうことはよくあった。

 もっとも、実力があるということが大前提ではある。

 望自身、あまり愛想の良くない方だが、大会で何度もやりあった横浜翔栄の重盛なんかとも、実は仲がいいらしい。

 今時の高校生というのは、そういうものなのだろう。

 もっとも、ほんのちょっとしたことで、もしかすると重盛は、望とチームメイトになっていたかもしれないのだが。

 自分の高校時代と対比しながら、そのほほえましい光景を倉石が眺めていると、少しばかり会話を交わした後、望はにっこりと笑い、その少女と握手をしてから、倉石のもとに戻ってきた。

「お疲れ。もう試合終わったから、自主練やる奴と一緒にやっていいぞ」

「はい、ありがとうございます」

 体育館からは、早くもシャトルを打つ音が漏れ聞こえている。

 逗子総合の選手は、とにかく日がな一日、コート内を走り回っていることが苦にならない者ばかりだ。

 こういう選手を預かる監督の仕事は、無理をせず、無駄を無くすために必要な技術を教えること。

 オーバーワークによる故障を避けてやること。

 つまりは、自分の実力と競技との『距離感』を保って、三年間やって行けるかどうか。

 倉石はそれをスカウティングの最重要項目にしている。

 それゆえに、望と同世代で『そこそこ』だった重盛をピックアップしていた。

 当時重盛よりも優れた選手は、神奈川県内に限っても二桁は居た。

 用意していた『半免』の特待枠でさえ、彼女には破格の待遇だっただろう。

 それでも倉石がリストに彼女の名を載せたのは、そういう『距離感』が抜群に良かったからだ。

 フィジカルはなく、技術もまだ未熟ではあったが、その時々で『勝てる』ショットを丁寧に叩き込み、当時の先頭集団を冷や冷やさせる試合を幾度も繰り広げた。

 何よりも、万能感に溺れる多くの『神童』たちと違い、地に足を付けたプレイスタイルが倉石の心を打った。

 もちろんその拡大強化版として、石澤望という選手がいたのだが。

 結果的には、『半免』の逗子総合ではなく、重盛は『四分の一免除』の横浜翔栄を選ぶ。

 それでも、二年半の月日が流れて今、その二人が実は仲がいいというのは、倉石には不思議でも何でもない事だった。

 不思議と言えば、橋詰が神奈川に来たことの方だ。

 その当時の彼女ほどの実力があれば、埼玉栄枝からも当然オファーが来ていただろう。

 それが『全免』だったのか、『四分の一免除』だったのかはわからないが。

 

 

 

「そういえばお前、免許はいつ取れるんだ?」

「さぁ……九月頭ぐらいに卒検ですね、たぶん」

「そうか……」

 『スピリッツ・オープン』への参加申請書類を記入している望を眺めながら、倉石は考えた。

 この大会には、インターハイ出場者がずらりと顔を並べるらしい。

 キアケゴー氏によれば、流石に『三強』はもう進路が決まっていて、そもそも声をかけてはいないらしいが、それでも居並ぶ名前と学校名を見る限り、武者震いが止まらない。

「大したメンバーだ。この大会で勝ち上がっていけば、いいところから声がかかるだろう」

「トーナメントなんですか、これ」

「……えっ?」

 お互い顔を見合わせる倉石と望。

「……あれ? いや……書いてなかったか? その紙に」

「初日、二日目はシングルス個人戦。三日目はランダムペアのエキシビションダブルス……としか」

「んん……?」

 首を傾げる倉石に、望は大会要項の書かれた紙を手渡した。

 どうやら会場近くのホテルを借り切って、選手同士の夕食会も行われるらしい。

 そういう雰囲気はあまり望は得意ではないが、『宿泊費』のぶんだけ、肩が軽くなった気がした。

「まぁ、いい。翔栄の木叢監督にでも聞いておくよ」

「あそこも誰か出るんですか? 橋詰?」

「いや、重盛らしい。橋詰はしばらく競技と距離を置くそうだ」

「ふーん……」

 望が逗子総合に入学したての頃、橋詰とは対戦したことがある。

 スコアは覚えていない。ということは、多分勝ったんだろう。

 重盛と対戦したことは、少なくとも公式戦ではなかったはずだ。

 そのおかげで、お互いの『距離感』が上手く保たれている面もある。

「ラインしてみよう」

 橋詰はともかく、重盛が宮崎に行くのなら、夕食会とやらも、寂しい思いをせずに済みそうだ。

 

 

 

 

 

 逗子総合は、基本的には進学校だ。

 だから、普通の高校よりもちょっとだけ、夏休みが短い。

 八月の最後の週から、授業が始まる。

 三週間ぐらい経ってようやく『日常』に収まってきたそれに、少し飽きてきたある日の昼休みのこと。

「あ、シゲ。悪いね電話しちゃって」

『いいよ。もう今日から始まってるんでしょ、試験』

「まあね……それで、こないだの話」

 スポーツ特待生の集まるクラスは、活発な生徒が多い。

 昼休みの喧騒をできるだけ遠ざけようと、望はアイスティーのペットボトルを机に置き、教室の窓を開ける。

 潮の香りがほのかに漂ってきた。

 電話の相手は重盛だ。

『いいんだけどさぁ、ウチもう新チームになっちゃってるから、練習相手が……』

「だから電話したの。逗子総こない? 今週日曜とか」

『いいの?』

 その日は、新人戦前最後の練習試合が組まれているが、今度は遠征だ。

 つまり体育館は誰も使わない。

 鍵は前キャプテンの望も持っているし、倉石からも『学生証は持ってくるように言っておけ』とだけ。

『じゃあ行こうかな。駅から歩きで行けるよね?』

「行けるけど……迎えに行こうか? 車で」

『なに? もう免許取ったの?』

「先週ね」

 逗子総合では、二輪の免許はご法度だそうだが、乗用車の免許についてはとやかく言わないらしい。

 もっとも、自動車学校に入学するという届け出と、安全運転の誓約書は出さなければならなかった。

『でも、車なんてどうやって……』

「お父さんが、乗ってないやつ貸してくれたの。『免許取っても、乗り続けてなきゃ逆に危ない』って」

『ほーん』

 確かに一理ある、と重盛は思った。

 パパも似たようなことを言っていた気がする。

「じゃあ、その時間に迎えに行くね。なんかデカい羽根ついてる車だから、すぐわかると思うけど』

 ……デカい羽根?

 

 

 

 約束の日曜日。

 時間に余裕を持って現れた望より早く、駅に着いていた重盛。

「うわぁ」

 その『なんかデカい羽根』のついた車に、彼女は目を丸くした。

「デカい羽根って、こういうことか……」

 GTウイング。

「お父さんスゴイね。走り屋でもやってたの?」

「走り屋?」

「峠とか首都高とか、サーキットとか走るの」

「なにそれ……」

 重盛はその大きなウイングを眺めながら、後ろから助手席に回り込む。

「うわぁマニュアルじゃん」

「『練習しろ』って、お父さんがね」

「ぱねー。GTウイング付けたS15に初心者マークかぁ……」

「イチゴ?」

 今日のパンツは無地だったはずだ。

「この車の形式だよ」

「ふうん。重盛んち、車屋さんだっけ」

「ただの板金屋だよ。パパは『プライベーター』なんてカッコつけてるけど」

 重盛の家は、藤沢街道沿いの──重盛の父が言うには『チューニングショップ』だという。

 一時は潰れかかっていたそうだが、数年前には丘陵地に一軒家を買うぐらいまで持ち直したらしい。

 ここ数年、スポーツカーが人気だそうだ。

 確かに望も、隣を走る車にのぞき込まれた覚えが何度かある。

「まぁいいや、サァ行くか!」

「うん。シートベルトしてね」

 望はギアを一速にいれ、大仰に安全確認をしてから走り出した。

「終わったらご飯行こうよ。びっくりドンキー」

「あぁ……びっくりドンキー、いいね」

 

 

 

「出来た?」

「うん、オッケー」

 二人でコートの準備は完了。

 ポールを立てたりネットを張ったり、お互い三年生の二人には久しぶりの作業だった。

 望と重盛はコートの反対側同士で、準備運動を終える。

「じゃ……軽くやろっか」

「よしっ」

 最初は望のトスアップ。

 重盛は、力みはないがスナップの利いたハイクリアーで返球。

 受けて望も、同じショットで返す。

 ある程度の実力者同士が打ち合えば、それはそのまま、緊張感を保った効率の良い練習となる。

 お互い相手のステップの邪魔にならないところに、丁寧に羽根を『置いて』行く。

 試合前練習でも、こういうところで相手の力量がわかるし、相手にとってもそうだ。

 フォア、バックのクリアー。

 目で合図した後、ドライブに切り替えて数十回。

 ひとしきり打ち合って、最後は少し動いて打った重盛が、ネットにかけてラリーは終わった。

「ふぅ……」

 望は少し、重盛よりも動きの量が多かったようだ。

 まだ足りない、と言わんばかりに肩をぐるぐる回す重盛。

「やっぱいいね、シゲ」

「ん?」

 きょとんとして、重盛は動きを止めた。

「シゲの羽根は、いい音する」

「なに、それ。言われたことないよ」

 苦笑する重盛に、休憩を促して望はコートを出る。

 一人分ほどの空間を開けて、重盛はドリンクボトルを手に座り込んだ。

「私けっこう、その日一発目の立ち上がりとか集中できなくてさ。隣のコートの練習とか、ぼーっと見ちゃったりするの。ほんのちょっとだけどね」

 ストローを口から離して、重盛は頷く。

「なんとなく、違いがあるの。ショットの音っていうより、風を切る音っていうか……」

「ふーん……」

 重盛にはよくわからなかった。

 基本的には目の前の対戦相手に全力で、悪く言えば余裕がなかったから。

「いや、なんか……うまく言えないんだけどね」

「なんとなくわかるよ。人によって、向かってくる音の感じが違うのは、わかる」

 『言われてみれば』のレベルで、自信はないけれど。

「シゲの音は、『さぁ来い!』って、呼んでるような感じ」

 望が立ち上がる。

 重盛も。

「よしっ、……じゃあもっと呼んであげるよ」

「うん」

 再び、体育館に音が広がる。

 

 

 

「あー……」

 片付けを終えた頃から、なんとなく外が騒がしくなっていた。

「いやあ、すごいね」

 ほんの五〇メートル先に停めた望の車が、霞むほどの大雨。

「最近多いよね、こういうの」

「ね」

 汗が冷えないように、重盛は羽織ったジャージをきちんと着直す。

 エントランスの冷えた床が心地よい。

「シゲ、あの大会出るんでしょ?」

「出るよ」

 にやり、と笑ったように見えた。

「翔栄でやりきったことに悔いはないけど、まだ終わりたくないからね」

 今年の夏、横浜翔栄が団体戦で北小町に敗れたのは、波乱といえば波乱だった。

 いや、それを言ったら今年の高校バドミントンは何もかもが波乱だったような気がする。

 三強の一角、それも世代最強と目されていた益子泪が一年の選手に敗れた。

 その『一年』がとびっきりのモンスターだったことは、今は誰も疑っていないだろうが。

 順当といえばそれこそ、荒垣が県予選を連覇したことぐらい。

「大学でも続けたい。だけど、一般だとウチがね」

「やっぱ、お金かかるよね」

「かかるね。翔栄の特待だって、Cランクでもありがたかったもん」

「うん……」

 望は『全免』だったが、それでも用具類のサポートまではつかない。

 『四分の一』だけの免除ではさらに厳しいだろう。

 いくら家の商売が上手くいっていても。

 それに、大学となれば学費も生活費も、バドミントンにかかわるお金もけた違いだ。

 強豪に入れば長期間の合宿や、海外遠征まであるだろう。

「ま、それもそうなんだけど」

「?」

「AとかBの特待で入ってきてる子達と勝負したかった、ってのもあるんだけどね」

 その言葉に、望は妙に納得がいった。

 そうか。

 シゲは多分、相手を値踏みしないんだ。

 格上だから割り切ってやろうとか、格下だから体力の消耗を抑えようとか、そういう考えにならない。

 だから、最後まで走り切る。

「……なるほどね」

 

 

 

「ありがとね、今日」

「ううん、私も楽しかったよ」

「じゃあまたね。大会、頑張ろう」

「うん」

 手を振り、駅の改札口に消えていく重盛を見送って、望は車を発進させる。

 車の運転というのは、難しいものだ。

 確かにこれは、期間が空いたら出来なくなってしまうことかもしれない。

 ましてやマニュアル車では、それこそ両手両足を使って運転するのだ。

 こんな雨の日は、余計に神経を使う。

 それでも望は、案外この車が好きになってきていた。

 カーブを抜けた先でアクセルを踏み込むと、ちょうど人間の両足の踵がスッと揃うような。

 五感を使い切る感覚は、望が今バドミントンに求めているものに通じる。

 車のことはよくわからないけど、教習車とは明らかな違いがあった。

 あれはなんとなく、手で無理やり曲がっていくような感じで。

 少し先の信号が赤に変わる。

 行動範囲が広がるのは、いいことだ。

 ガソリン代を使いすぎるのは、両親もあまりいい顔はしないけれど。

 

 

 

「新人戦、どうでした?」

「まあまあだったな。武山も勝ち残ったし。ただ、ダブルスは港南のあいつらにやられちまった」

 港南のあいつら、とは、芹ヶ谷と笹下のことを言う。

 一年生で神奈川予選を制して、インターハイでも益子のペアに食い下がった二人だ。

 聞けば、逗子総合からエントリーしたダブルスのペア二つとも、彼女たちに負けたらしい。

 片方は一年生の腕試しだからまだいいが、二年生ペアの方は尻に火がついているところだろう。

「ま、練習だな。石澤もしっかりやっとけよ。あと一か月ちょっとだぞ」

「わかってますよ……で、大会の中身は分かったんですか?」

「ああ」

 倉石は、手書きのメモを取り出した。

 A4サイズを折りたたんだそれを開くと、たぶん木叢監督がまとめたのだろう。

 倉石とは違う筆跡で、文字が並んでいる。

「……なんですか、これ。どういう……」

 その紙に書かれていた内容を、要約するとこうだ。

 初日、二日目で合計七試合をこなす。『全員が』──らしい。

「最初の対戦相手はランダムで決まるらしいが、そのあとは自由対戦ということだ」

「自由対戦って……」

「空いたコートにどんどん入っていく。相手は適当に見つけてな」

 初日に最低三試合を戦わないと、二日目以降は参加できないとある。

「まだ全員の名前がわかったわけじゃないが、今のところ分かっているのはこの辺だ。とりあえず『第二集団』はほぼ全員来る」

 三強からは一段落ちるが、それでも全国区の選手たち。

 久御山に馬野山、華のある豊橋アンリ。益子の陰に隠れがちだが、シングルスでもいっぱしの実力者の旭海莉。フレ女の矢本の名もある。

 重盛の名前も、もちろんあった。

「強いですね」

「都合二日間で七試合、勝ち負けが同じならセットカウント、得失点で優勝を決めるらしい。優勝すれば現地のアンダー18の大会に招待される。ついでにデンマーク旅行だ」

「ワッフルでしたっけ」

「それはベルギー」

「あぁ……」

 呑気なもんだ、と倉石は頭をかく。

「あのな、石澤」

「はい?」

「そういう『ニンジン』がぶら下がって、しかもこの条件だ。『楽に勝てそうな奴』には群がってくるぞ」



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2nd game RIDE ON TIME

「これチケットな。新逗子から一本で行けるから、迷うことはないだろう」

「はい」

 羽田発宮崎行きの飛行機のチケットを受け取り、望はそれをカバンにしまい込む。

「一人旅なんて初めてか?」

「ええ、まあ……」

 大会要項をよくよく呼んでみると、キアケゴー氏の考えが随所に滲んでいる。

 夕食会の会場であるホテルに招待されるのは選手のみで、指導者は招待されていない。

 理由は二つあるだろう。

 単純に、プレイヤーではない人間を招待するコストが出せない。

 オリンピックを制し、ヨーロッパ各国、先日日本にもアカデミーを開設したキアケゴー氏ではあるが、その運営にかかる費用の多くは、キアケゴー氏個人の著作やメディア出演、コーチング料などの収入から持ち出しだ。

 順調に回り始めればアカデミーの入会費やレッスン料で収入は上がるだろうが、コーチの人件費も考えればそうそう儲かるとは思えない。

 もう一つは、このタイミングでいったん、選手をこれまでの指導者から切り離す必要がある、ということ。

 これも考えてみれば当然だ。

 大学にしろ実業団にしろ、新たな指導者の下で選手は戦うことになる。

 そのフィッティングに時間がかかっているようでは、『二年後』には到底間に合わない。

 求められるのは選手個人の自律能力だ。

 二日間で七試合という、多くの大会に比べてやや甘いスケジュールになっているのも、ペース配分や、戦術を自分でしっかり考えて試合に臨ませるためだろう。

 スペースの問題もあろうが、この大会のコートに『コーチの席』は用意されていないのだ。

 取材関係者を除き、一般の観客や引率の教員、監督たちはみな二階に案内されることになる。

「まあ、行っても俺からは全く指示を出せないからな……ノート持ってるか?」

「え? はい」

 ラケットバッグの横のポケットから、石澤は萎びたノートを取り出す。

「もう一冊持っていけ。こっちは白紙だ。少しずつ、埋めていけ」

「ありがとうございます……」

 同じデザインのノートを二つ。新品という割には、少し色あせた表紙の方を上に重ねて、望はそれを再びバッグのポケットにしまった。

「まあその、あれだ。思い切りやってこい。お前自身のバドミントンで」

「はいっ!」

 

 

 

 始発駅から乗車して、三十分ほどたっただろうか。

 空港直通の急行列車が、横浜駅に滑り込む。

 ドアが開くと、見知った顔がいた。

「あ、石澤!」

「シゲ」

 手を振るのもそこそこに、重盛はプラットホームを振り返り、ガッツポーズを作った。

「行ってきます」

 相手は、横浜翔栄の木叢監督。

 望の姿を認めると、目を細めてにっこりと笑い、軽く頭を下げる。

 応じた望が再び顔を上げると、ドアは閉まりかかっていた。

 平日だが、夕方五時少し前の時間帯では、電車内もまだまだ余裕がある。

 重盛は、背中の大きなバッグを膝元に降ろし、座っている望と向き合った。

「いよいよだね」

「そうね。ちょっと緊張する」

 重盛の方は、そうでもなさそうな表情だ。

 正直に言えば、望や重盛よりも格上の選手がほとんどの大会に出るというのに、気後れはしないらしい。

 望の方は、飛行機に乗る自体初めてだったから、そのぶんの緊張もあるのかもしれない。

 家族旅行といえばほとんど車で、インターハイの移動も新幹線だった。

 

 

 

 空港、というものを望は生まれて初めて、まじまじと眺めた。

 ひたすらに大きく、広い。

 見上げても朧げな、遥か高空をゆくそれらが、地上でのそのそと動いているのを見るのは、すこし可笑しく思えた。

 国際線のメインは成田だが、羽田にも海外へ行く路線があることぐらいは、望も知っている。

 世界ランク一位、ワンのいる中国。コニーの故郷デンマーク。

 それらと渡り合った荒垣や羽咲は、いずれ大人になったら世界へ行くのだろう。

『……私は、どこへ行くのかな』

 チケットには宮崎と書いてある。

 そうではなく、『二年後』、またはもっと先の自分は、一体どこにいる?

 機内は冷えると聞いていたから、スカートはやめておいてよかった。

 それよりも、飛行機のトイレにまでウォシュレットがついているとは驚きだ。

 白いチノを引上げ、履き直す。

 鏡を見て、金属探知機にひっかかった簪を挿し直し、望はトイレを出て自分の席に戻る。

 アテンダントに促され、シートベルトを締めると、それを待っていたかのように飛行機は動き出した。

「私待ちだった?」

「どうだろう……石澤って結構マイペースだよね」

 二人顔を見合わせ、重盛と望は笑う。

 窓際に座った重盛の向こうに、東京湾岸の夜景が少しだけ見えた。

 やがて飛行機は向きを変え、窓には一列に並んだライトが映る。

「飛ぶね」

「シゲ、乗ったことあるの?」

「何回かね。旅行で」

「ふーん」

 ずしん、と振動が腹に響いた。

 煌々と明るいターミナルビルが、後ろへぐんぐん流れて行く。

 やがて飛行機は地上を離れ、振動と轟音が遠くなる。

 左、右と向きを変えていくうち、地上と夜空が交互に見えた。

 幾度かそれを繰り返し、星が少しだけ大きく見えるような高度に達すると、体がふっと浮くような感覚。

 ベルトサインが消え、チャイムが鳴る。

「トイレ行ってくる」

「あ、うん」

 膝をすぼめて、重盛の通るスペースを作り、望は何も映らない窓を眺めた。

 と、何か放送している。

「──……定刻通りに東京国際空港を出発いたしました。機長は荒垣、副操縦士は小松。現地天候は晴れ、飛行時間は一時間四十五分を予定して……──」

 慣れない重力の変化か、ラケットバッグのほかに、三日分の着替えを詰め込んだキャリーバッグを持っての電車移動の疲れか。

 望はすこし微睡を感じていた。

 重盛が戻ってきたら、少し眠ろう。

 寝汗を掻かないように、望はライダースジャケットのジッパーを少し緩めた。

 

 

 

「ああ、あそこねぇ」

 空港を出てタクシーに乗り込んだ頃には、夜九時を回りかけていた。

 普通なら、未成年の少女二人が大きな荷物を抱えて、こんな田舎のタクシーを捕まえれば、運転手の方は訝しむところだろう。

「今日は、お嬢ちゃんらみたいなの、たくさん乗せちょるきに」

 地方のFM局にありがちな、少し古めの流行り歌を三つほど聴いているうちに、タクシーはホテルのエントランスに滑り込んだ。

「はいこれお釣りね。領収書は?」

「あ、大丈夫です」

 荷物を受け取り、ホテルのエントランスに向かう。

 入れ違いに、スポーツウェアに身を包んだ少女。

「あれ……」

 イヤホンをしていたせいか、望と重盛には気付かず、彼女は脇をすり抜け、走り去って行った。

「今治第三の阿方だ」

「えっ、知り合い?」

「ううん。私は対戦したことないけど、今年のインターハイで荒垣がね」

「ふーん」

 招待状を手に、フロントに向かう二人。

 と、少し舌っ足らずな日本語。

「アナタたち、『スピリッツ・オープン』の参加者かしら?」

「えっ?」

 振り返り、声の主を探していると、ロビーの隅のテーブルから、初老の老人とともに若い女性が向かって来た。

「ようこそ、『スピリッツ・オープン』へ」

「貴方は……」

 蓄えた髭が、もさもさと動く。

「ヴィゴ・キアケゴーです。宜しく。本物デスヨ?」

 ヨーロッパ風のジョークだろうかと首を傾げつつ、望と重盛は彼と握手をした。

 皺の深い手だが、バドミントン選手の証であるマメは、まだまだ固さを残している。

「ミスター・キアケゴー! サインください!」

 と、重盛はカバンから綺麗に折りたたんだタオルを取り出す。

 望の方は何も用意していなかったから、目の前の老人にどう対応しようかと迷っていた。

「主催者自ら出迎えですか……」

「モチロン。アナタ達は全員が、我々の『フェスティバル』の大切なゲストですカラ」

「『フェスティバル』……?」

 キアケゴー氏は、側にいる若い女性に目配せした。

「ミス・アンヌ。アレを」

「はい。お二人とも、これをどうぞ」

「……?」

 渡されたのは、パッケージに入ったシリコンバンド。

 小さい頃に流行ったヤツだ。

 重盛などは中学生のころ、これを七色そろえて虹色を手首に巻き、チームメイトから『マサイ族』と綽名されていたらしい。

「会場が狭いのでね。最初の一試合は順番で戦ってもらいます。最初は青いバンドを貰った選手同士。アナタ達は緑と赤ですから、少し後の方になりますネ」

「ふーん……」

「それと、ICタグですね」

 ミス・アンヌと呼ばれた、胸元の空いた女性が補足する。

「明日の午後からの自由対戦では、試合前と試合後に、各コートの主審にこれを読み取らせてください。それで試合数、対戦相手と勝敗を管理します」

「はいっ」

 

 

 

 改めてフロントでルームキーを受け取り、望と重盛はエレベーターに乗り込んだ。

 まずは荷解きをして、さっきすれ違った阿方のように、体も動かしたい。

 時計は夜の十時前。

 近くにコンビニがあることも、タクシーの車窓から確認済みだから、ちょっとそこまで走るのが良さそうだ。

「『フェスティバル』、だってさ」

 重盛がぽつりとつぶやく。

「うん……なんか不思議な感じだね。普通の大会じゃないってのは、なんとなくわかってたけど」

「これさ、ウチら色違うじゃん」

「そうだね」

 重盛はさっそく手首に付け、望はライダースジャケットのポケットにしまったそれを取り出し、お互い見合わせる。

「てことは、一試合目はシゲと当たらないんだ」

「そうだね。でも、一回はやりたいね」

「うん」

 そのうち、エレベーターは重盛の部屋がある階に止まった。

「じゃ、ウチここだから」

「うん、お疲れ」

「また明日ね」

 手を振り、重盛は自動ドアの向こうに消える。

 シリコンバンドを手に持ったままの望は、とりあえずそれを手首に付けてみた。

 偶然だろうが、緑色は逗子総合のジャージと同じ色。

 望以外の三年生が、どこかの特待の話を貰ったとは聞いていない。

 この大会で自分が活躍すれば、『逗子総合』自体にも注目は集まるだろう。

「よしっ」

 ドアが再び開いて、望は一歩踏み出す。

 と。

「あっ」

「きゃ──」

 小さく声を上げたのは、望よりいくらか長身の、長い黒髪の少女。

「ごめんなさい。見てなくて」

 スマートフォンを片手に、その背の高い少女は謝る。

「あ、いえ。全然」

 と、左手に持ったスマートフォンの根元に、緑色のシリコンバンド。

 一瞬それに目を止めて、顔を上げると、向こうも気づいたようだ。

「あなた……あれっ?」

 見覚えのある顔だ。

「あっ、もしかしてフレ女の」

 そこまで言うと、その少女はスッと背筋を伸ばし、軽く頭を下げた。

「こんばんは。矢本です」

「やっぱり……逗子総合の、石澤です」

「知っているわ。うちの学校と対戦したもんね」

「あ、うん……」

 矢本のいたフレゼリシア女子にとっては、優勝の一過程に過ぎなかっただろう。

「唯華と戦ったわよね? 二セット目なんか、一年生の頃の唯華を見てるみたいだったわ」

「っ──」

 きゅっと眉を顰めた望。

 それを見て、矢本は慌てた表情で背中を丸める。

「ごめんなさい。イヤミじゃないのよ、本当」

「あ、うん……」

「良い選手だな、って思った。貴方と似てると思う、唯華は」

「ありがとう……」

「それじゃ、またね」

 また背を伸ばし、エレベーターのドアが閉じきるまで、彼女はにっこりと笑ったままだった。

 望はといえば、つい先ほどの矢本の言葉を反芻していた。

『一年生の頃の唯華』……。

 彼女に悪気がなかったのは本当だろうが、悪気がなくても、あの時の望はその程度の選手だったのだ。

 技術はそれなりのレベルにあっても、戦術の方がお粗末。

 メンタル面でも、同じ強豪校といえど向こうは全国制覇、こちらは神奈川を勝つのがやっと。

「ふうっ……」

 臍を噛み、望は自分の部屋に向かう。

 『二年後』に、オリンピックのコートに立てるのだろうか、自分は。

 あるいは、毎年行われるインカレや、その先の全日本。

 トロフィーを抱くことなく、そう遠くないうちに、競技生活の『上がり』を迎えて、普通の人になってしまうのだろうか。

「……よし」

 今は考えないようにしよう。

 脱ぎ散らかした服も、開いたキャリーバッグもそのままに、望はランニングシューズに履き替え、ワイヤレスのイヤホンから音楽が流れていることを確認してから、部屋を出た。

 熱くなった心を鎮めるには、コンビニまでじゃ短すぎる。

 

 

 

 じっくり堪能したホテルの朝食を、ほとんど消化し終えた頃。

 望が振り分けられた緑色グループの一つ前、黒いバンドを巻いた選手たちが各コートに散っていく。

 五面二列、都合十面のコートは、すべて埋まっているわけではなかった。

 『次のグループの選手は、コートが空いていればそこで練習してもいい』というのは、今朝行われたキアケゴー氏の挨拶の後、ミス・アンヌが行った説明の中にあった事項だ。

 望は念のため、練習相手が『色違い』でも構わない、ということもミス・アンヌに確認してある。

 しかし、そこに向かおうとする人影はまばらだ。

 試合を終えた青と黄色のグループは、それぞれ知り合いを見つけては場所を取り、これから始まる黒色グループのある試合に注目していた。

「──第四コート。旭海莉、宇都宮学院。馬野山美保、松江愛鹿」

 静かな呼び出しに、右手に握ったラケットを軽く掲げる余裕を見せたのは旭。

 幾人かのカメラマンがフラッシュを炊き、次いで彼らはレンズを馬野山に向けた。

「各コート、ウォームアップを始めてください。ウォームアップは三分間です」

 アナウンスの後、ひと呼吸おいて最初に音を出したのは旭だった。

 吸い込まれるような高いサービス。

 といっても、まだ試合ではない。

 馬野山は硬い表情のまま、ハイクリアーを返す。

 シューズがフロアに擦れる音が、次第に増えていく。

 たちまち、すべてのコートで打ち合いが始まった。

 お互いに手を探り合うような。

「……」

 空きコートを占領した望と重盛も、その光景にしばらく見とれていた。

 二階席から見るのと、同じフロアの視点から見るのでは、情報量が全く違う。

「シゲ、やろうか」

「あ、うん」

 重盛はここにきて緊張しているのだろうか。

 幾度かイージーミスでシャトルをネットにかけている間に、三分は過ぎた。

 静まり返った空間に、まだ出番でない者が音を立てるのは無粋だ。

 そう思い、望はシャトルを拾い上げてコートを出た。

「もういいの?」

「うん。ちょっと見たい」

「そっか。ま、ウチも見たいけど」

 望と重盛が興味を示しているのは、専ら第四コートだ。

 そしてラッキーなことに、二人が陣取った第五コートは、そのすぐ隣にある。

 ここは特等席だろう。

「オンマイライト、旭海莉。オンマイレフト、馬野山美保。馬野山、トゥサーブ。ラブオール、プレイ!」

 示し合わせたわけではないだろうが、主審のコールは第四コートが最も早かった。

 他コートに遠慮したのか、馬野山は間合いもそこそこにショートサービスを放つ。

 アンダーハンドから大きくバックスイングを取った旭の返球は──ヘアピン。

「!?」

 高く打ち返すだろうと思っていた馬野山は慌てて前に出るが、既に立ち遅れていた。

 急いた足音が、他コートのコールに掻き消される。

「っ!」

 なんとか触ったシャトルは、すぐさま旭に叩き落された。

「1-0、サービスオーバー」

 しまった、という表情の馬野山が、旭にシャトルを渡す。

 してやったりというわけでもなく無表情で、ぐるりと小さく円を描いて歩き回った後、旭はサービスの構えに入った。

 他のコートはまだ、シャトルが落ちていない。

「ふッ!」

 息が漏れるほど、力を込めたロングサービス。

 天井に突き刺さろうかという高さに面食らった馬野山だが、機敏なステップでバックラインを踏み越えた。

「そうだよね、やっぱ……」

「えっ、何が?」

 望が発した言葉に、重盛は疑問を向ける。

「初めての会場だからね。コートの広さを把握するために、出来るだけ高く遠く打ち上げる。セオリーだよ」

「ふうん……」

 旭のサービスの、長い滞空時間の間に、他のコートでも最初の得点が入ったようだ。

 これだけにぎやかになれば、練習を疎ましく思う人もいないだろう。

 望は重盛を促し、再びコートに入った。

 

 

 

「マッチワンバイ旭、宇都宮学院。21-9、21-4」

「えっ」

 驚きの声を上げたのは重盛だ。

「あ?」

 何か不満か?とでも言わんばかりに、旭が重盛を睨みつける。

 重盛は慌てて目をそらして、敗者の方を見た。

 もっとも、その瞬間、馬野山に注目していたのは恐らく彼女一人だっただろう。

 圧倒的な勝利にも表情一つ変えず、丁寧にラケットをケースにしまう勝者を、何台ものカメラが追う。

「シゲ?」

 不思議そうな顔で、望は重盛を見る。

「石澤。あの旭って何者?」

「何って、益子泪のダブルスパートナーだよ」

「マジでか」

「知らなかったの?」

「全然」

 声を潜めてはいるが、もし聞かれたらまた旭のガン付けを喰らいそうだ。

「馬野山は今年、荒垣に初戦で負けたけど、そんなに弱い選手じゃないよね」

「うん、まあね。それよりシゲ、もうそろそろ上がろう。組み合わせ見ないと。それに……」

 望が視線をコートの外に送る。

 その先でコートの空き待ちをしているのは、今治第三の阿方と、もう一人。

 チームメイトの鈴木美空だった。

「あ、そうだね。ごめんなさーい」

 そそくさと用具を片付け、重盛はコートを出る。

 望の方は、ひとまずベンチを空けて、待っていた二人に会釈した。

「すみません、お待たせしました」

 阿方は無表情のまま、軽く頭を下げてベンチに向かう。

 望に答えたのは鈴木の方だ。

「かまんで、全然。試合、がんばらんかね」

「ありがとう。そっちもね」

 柔和な表情の鈴木に、阿方が声を荒げる。

「美空、なにやっとん! はよぅせんか」

「はいはい」

 まるでアトラクションに急ぐ子供と、お母さんのようだ。

 望は二人に見えないようにクスッと笑い、大会事務所に向かう。

 ふと、周囲を見渡してみる。

 望のグループ、『緑色』は全体の四番目だ。

 午前中は全員が一試合を終えるまで、自由対戦は無しとのことだったから、それまでの三つのグループのほとんどは、二階席に戻っていた。

 今フロアにいるのは『緑色』と、重盛がいる五番目の『赤色』。

 フロア中央の大きな通路スペースを歩く望と逆方向に、小走りで去っていく選手は大体赤色だ。

 ちらほらいる他の色は、そのグループに友達でもいるのだろう。

 よく見れば、コートを設置しているのはフロアの半分ほどで、空いたスペースにはバドミントン関連の用品メーカーのブースが並んでいる。

 少し針路を変えてそこに寄ってみると、望が普段使用しているガットのメーカーもあった。

 数十種類のガットのパッケージが壁に並び、ブース中央にはガットマシンと専属のスタッフ。

 まるで祭りの夜店のようだ。

 『フェスティバル』とはこういうことか、と望は気分が沸き立つのを感じつつ、組み合わせ発表場所である大会事務所に急いだ。

 もう既に、いくつかの組は指定されたコートに向かって歩いている。

「遅いですヨ、望チャン」

「は? えっ、はい……」

 ちゃん付けよりも、何故キアケゴー氏自ら呼び込みをしているのかのほうが気になったが、怪訝な表情の望に、キアケゴー氏は表情を変えぬまま、机にある資料に目を落とした。

 眼鏡はかけていないから、老眼はまださほど来ていないのだろう。

「エート……アナタの相手は豊橋サンですね。アンリチャン」

「はいっ!」

 机を取り囲んだ数人の人垣の向こうで、右手が上がる。

「よろしくね、えっと」

「石澤です」

「石澤さん!」

 贅肉のない腕、きれいな肌。長い睫毛と大きな瞳。それらの何よりも彼女の魅力を引き立たせているであろう屈託のない笑顔で、豊橋アンリは望に握手を求める。

「うん、よろしく。いい試合をしよう」

 望はそれをしっかりと握り返した。

 

 

 

「──ラブオール、プレイ!」

 主審のコールに合わせるように、周りの雑音が遠のいていく。

(ロングならパターンC、ショートならD……)

 頭の中でノートを開いて、望は攻め筋を再学習する。

(──ロング!)

 スローモーションの中、白帯を突っ切って打ち上げられたシャトル。

 いい集中だ。

 望は自身の立ち上がりに満足しつつ、脚を後方へ運ぶ。

 高いが、入っている。

 パターンCはネット前からボディフェイントでクリアーを誘発し、お互いに距離を取るための手筋だ。

 対荒垣用に磨き上げたものだが、望はそれをロングサービスへの対応に応用した。

「ッ!」

 予定通りのハイクリアー、体の重心はニュートラルへ。

 対戦相手が荒垣だったなら、ちょっと球足が短ければ即座に強烈なスマッシュが飛んでくるところだが、今日の相手は豊橋アンリだ。

 上背は無いし、強打を武器にする選手でもない。

 足を止めずラリーを続けて、優位に立ったところで最小限のリスクを冒して点を獲ってくる。

 あの羽咲でさえ一時は追い込んだほどのプレイヤーだ。

(前……!)

 ミドルコートへ出た望に対して、安全策をとるならクリアーでの返球。

 だが、豊橋はミートポイントを深く置き、コースを狙ったドライブを打つ。

(バックではたく……、いや)

 クロスへのワイパーが一瞬頭をよぎるが、望はラケットの角度を変え、豊橋の鼻先へとヘアピンを落とす。

 コートに落ちればラッキーだが、拾われても主導権はイーブンだ。

 持ち前のフットワークで難なく追いついた豊橋は、ミドルやや奥へのクリアー。

(ネット前は嫌う、か)

 立て直すべく足を戻す豊橋をちらりと見て、望はやや後方に跳び、──

(無理筋だけど、……勝負!)

 炸裂音とともに放たれたシャトルは、豊橋が戻ろうとする右コートの反対側へ、鋭く曲がり落ちる。

「──!」

 強い回転を与えられたシャトルが、ねずみ花火のようにコートを這う。

 さしもの豊橋も、重心が後ろへ下がった状態では、斜め前への体重移動はできず、これを見送るしかなかった。

「サービスオーバー、1-0」

「っし!」

 望は小さくガッツポーズ。

 ふと、バックライン奥を見るが、そこには誰もいない。

 重盛はどこかでウォームアップでもしているのだろう。

 それよりも、監督がいない。

 喧しかった頃の倉石も、インターハイの時のように、片膝をつきじっくりと見守っていた倉石もいなかった。

 それがどうした、と言わんばかりに望は、使い慣れたラケットのグリップを握りしめる。

(ショート、かな)

 早い間合いに対して、豊橋は苦も無く高いクリアーのリターンを上げた。

 先刻と同じように、望はコート奥にいったん下がる。

(それなら、それで)

 ネットに張り付かれるのがいやなら、別にこちらは張り付く気もない。

 逗子総合に入学したてのころに比べれば、身長だって少しは伸びている。

 それに、身長に頼らず角度を付ける方法が、望にはあった。

(距離を取るなら、取らせればいい……)

 パターンCの、前へのフェイント。

 豊橋はそれが欺瞞だと知りつつも、容易に短い羽根は送れない。

 カットスマッシュ一本で、彼女はほぼ正確に望の実力を把握した。

 近い間合いでのドライブの乱打戦になれば、細かい変化でこちらの芯を外してくるだろう。

 少しでも浮かしてしまえば、はたき落されるだけ。

 前には張らせない、という強い意図を望は受け取っていた。

(前後に振ってクロスで落とす。オーソドックスだけど……全国屈指のディフェンダー、豊橋アンリにラリーで勝負する……!)

 長く高い豊橋のシャトルに対して、望は変化を抑えたカットをランダムに混ぜて揺さぶる。

 そのたびに豊橋は反対コートの『前』を伺うが、フェイントと見切っているはずの動きに縛られて攻め手が出せずにいた。

 やがて、しびれを切らした豊橋がミスを犯し、シャトルはサイドラインを越えてコート外に落ちた。

「あーっ!」

 声を上げ、豊橋は左手で太ももを叩く。

 2-0。

(流れは変えない。切れるまでショートで行く)

 と、先ほどとは違って豊橋は純粋なクリアーでなく、ドライブ気味に返してきた。

 初手からリスクを負ったそれは、ネットにかけることを嫌ったか、やや浮き気味だがコースは厳しい。

 裏をかかれた望は、バックハンドで返さざるを得ない。

(ち……っ、ここから!)

 パターンに付けられたアルファベットは、あとの方になるほど悪い状況の想定だ。

 Cはあくまでも、イーブンなラリーからエースショットへの手筋。

 今の状況では使えない。

 やや甘くなった返球を、豊橋はまたも厳しい逆サイドへドライブ。

「くっそ……!」

 すんでのところでコートに落ちそうなシャトルを、望はアンダーハンドで思い切りしばき上げた。

 体勢はさらに悪く、ほとんど豊橋に背中を向けている。

 望は時計回りに体を回転させて、目を切ったシャトルを探した。

 豊橋は細かくステップを刻み、上を見上げている。

 返せただけで御の字、深さもコースも大甘。

(スマッシュ、来る!)

 コンマ五秒の読み合い。

 ラケットを体の中心に据え、豊橋の目線からコースを探る。

(──右ッ!)

 と、一歩目を踏み出したところで、望は軽くジャンプした。

 逆だ。

 シャトルは選んだ方とは反対側のコート奥隅ギリギリに落ち、跳ねた。

 ふうっと大きく息をついてから、望はシャトルを拾い豊橋に送る。

「サービスオーバー、1-2」

(仕方ない、切り替えろ……)

 サービス自体が甘かったのか、あるいは二球ショートを続けたのが甘かったのか。

 考えている余裕はない。

 望の構えに呼応して、豊橋のサービス。

(ロング──攻める!)

 十分に深いサービスに対し、望は大きなストライドのバックステップを踏み、いったんコート外まで出る。

 豊橋の動きは見ない。

「──らぁッ!」

 まるでテニスのサーブのような、オーバーハンドのストローク。

 放たれたシャトルは白帯ぎりぎりを飛び、ネットの向こうに抉れて落ちる。

 呆気にとられた豊橋は、あるいはアウトだと思ったのか、ほんの一歩二歩動いただけで足を止めた。

 サイドラインに跳ねたシャトルに、二階席からどよめきが上がる。

「サービスオーバー、3-1」

 心なしか、主審のコールも上ずっているように思えた。

 手応えを確かめつつ、望は豊橋の準備を待って、間合いを図る。

 

 

 

(なに、今の……)

 手に持った紙コップを落としそうになり、旭は慌てて手元に目をやる。

 甘いサービスならまだしも、ジャッジが悪い選手なら見送るほど際どい、非の打ちどころのないロングサービスだったのに。

 多くの観衆が、フレゼリシア女子の矢本を見ようと集まるエリアを避け、どちらかと言えば空席の目立つエリアに、彼女は陣取っていた。

 その直下で行われている、『組み合わせ次第では全国ベスト8クラス』対『個人としては県ベスト4』の試合。

 九州の片隅にまで、追っかけと思しきファンが訪れている豊橋アンリに、『ジャリを一匹連れた若女将』が極上のジャイアントキリングを仕掛けている。

(泪がいれば絶対パシらせるのに)

 腹の虫を宥めつつ、旭は名残惜しげに席を立った。

 と、スマートフォンが振動する。

「なに」

 不機嫌そうに出た旭に、電話の相手は驚いた。

『えっ、怒ってんの?』

「別に。なんか用?」

『あ、いや……今何してるかなぁって』

 彼氏か。

 旭は心の中でツッコミを入れつつ答えた。

「一試合終わって、勝ったよ。今休憩中」

『よかったじゃん。相手、誰?』

「えっ?……うま、うまなんとか」

 近くに『うまなんとか』が居ないだろうな、と旭は周囲を見渡す。

 どうやら居ないようだ。

 誰も目を合わせてこないし。

『なんだそりゃ』

「んなことより飯買ってきてよ、泪。お腹空いちゃった」

『バカなの? バカになりたての人?』

「うるせぇ」

 ケラケラと笑っているうちに、旭はエントランス前に並んだ出店に辿り着いていた。

 益子と、彼女の兄の珍道中に対しては生返事で間を持たせつつ、腹持ちのよさそうなサンドイッチをチョイスする。

「あ、一人面白いヤツいたよ」

『誰?』

「名前は知らない。頭に割り箸差してる」

『──そいつ、石澤でしょ多分。昔やった時は耳かきだった』

「ほーん」

 お釣りを確かめもせず無造作にポケットに突っ込み、旭はサンドイッチ片手に館内に戻る。

 自分の席まで戻ったところで、ふと、眼下の試合が止まっていることに気づいた。

「うわっ」

『えっ、なに?』

「豊橋アンリに11-3だ、今」

 

 

 

 八点差で最初のインターバルを迎えたが、望の心中は穏やかでなかった。

 逃げ切りを決めるには、まだゴールまで遠すぎる。

 それよりも。

(軌道を見られてる……?)

 セットアップのパターンは違えど、最終的な手筋はほぼ同じ形の得点。

 左右どちらかの前に豊橋を釣り出してから、後ろに体重をかけたのを見ての逆サイドへのカット。

 こちらも遠くから打っているのでスマッシュにはならず、足を出せば追いつけたショットもいくつかはあったはず。

 ところが現実は、4-2からひとつ取り返したのみで、豊橋は消極的なプレイに終始しての、望の六連続得点だった。

(まぁ、いい)

 見せたパターンはそう多くない。

 手早くグリップテープを巻き直すと、望はコートに戻った。

 

(──やっぱり、ね)

 第一ゲーム後半、豊橋は一気に組み立てを変えた。

 ロング、ショートに関わらず、サービスリターンは全て望のフォアサイドへの低く長い羽根。

 敢えて打ちやすいところに返球し、相手が丁寧にスイングのトップを作るための時間を与える。

 その隙に豊橋は態勢を整え、持ち前の長いラリーに望を引きずり込んでいく。

 望が一点ずつを取り返す間に、豊橋は二点、三点を奪った。

「サービスオーバー、13-8」

 とはいえ望も、この程度の粘りは想定済みだ。

 厳しいコースは捨て、チャンスボールだけを確実に仕留める。

 ただ、このままの流れで行ってしまうと、二〇点手前で同点になってしまうだろう。

(リバース、混ぜてくか)

 できればこのゲームのうちは使いたくなかったし、前半終了時点ではそれで行けそうだった。

 ここまでの展開で、望はリバースカットを一球も打っていない。

 オープンコートへの長いドライブでも、できるだけラケットの面をまっすぐに向けて、リバースカットのイメージを消してきた。

 彼女が恐らく唯一与えられた才能──肘、手首の柔らかさ。

 それによって、望の放つリバースカットは、通常のスイングとほとんど見分けがつかない。

(バックにロング。今まで通りフォアに置いて来れば──)

 高く打ち上げたサービスに対し、豊橋はラウンドを入れてのハイクリアー。

 望の正面のフォアサイドが大きく空いているが、これは罠だろう。

 視界の端に、コート左ミドルへスタートを切る豊橋。

 望は彼女の手元に狙いを定め、秘蔵の一撃を放つ。

「え──」

 ストレートを向いていたはずの望から、シャトルがまっすぐに向かってくる。

 虚を突かれ、完全に詰まらされた豊橋の返球は、ネットにかかった。

「14-8」

 こちらにシャトルを寄越す彼女の表情から、望はそのインパクトの大きさを感じた。

 ラケットの振りからは全く見分けがつかないそのリバースカットは、目線が少しでもブレている状態では、捉えることができない。

 目で捉えられなければ、一歩目が出ないのも道理だ。

 もともと、この大会の七試合を戦う上で望は、序盤の二試合ぐらいは全く見せない戦略を立てていたが、初戦の相手がこれほどの強敵なら、致し方ない。

 

 

 

「さっきの奴より全然強いじゃん、コイツ」

 サンドイッチを食べ終え、ゴミ箱を探して歩き回った後。

 ラケットメーカーのブースで最新モデルを素振りしたりして戻ってくると、第一ゲームは終わっていた。

 21-10。

 インターハイで見ていた『一年』との試合よりも、豊橋が粘れずに落としている。

 その事実に旭は驚愕した。

「逗子総合……そう言えば居たな、開会式」

 サイドチェンジして、旭が座る席に、今度は望が背中を向けた。

 黒いユニフォームに白抜きの学校名。

 旭の通う宇都宮学院と同じ関東圏、神奈川の強豪だ。

「……一本!」

 コートから声が響く。

 気力充実といった背中の望に対し、顔が見える豊橋の方は、ややショックを引きずっているようだ。

 足の削り合いでは益子にも迫る豊橋だが、打球に対して足が止まったのは、彼女にとっては恐らく初めての体験だっただろう。

(あれは私でも止まる……。シャトルが瞬間移動してくるような)

 益子のダブルスパートナーであり、練習相手でもあった旭。

 バドミントンに有利な左利きの益子泪。

 『スピリッツ・アカデミー』に所属している羽咲を上回る変化量のクロスファイアも、対面で何度も見てきた。

 第二ゲームからは惜しみなく繰り出される望のリバースカットに、コート全体を俯瞰できる位置にいる旭ですら、目が追い付かないでいる。

 当然その逆、ストレートに鋭く落ちるカットもあるのだ。

 ヘアピンやワイパーの小技もうまいし、ノーマルなドライブも、その身長にしては強く、深く伸びてくる。

 シャトルの軸がぶれない、綺麗にミートしている証拠だ。

 と、旭の視界が少し暗くなった。

 頭上の照明を遮っているのは、この大会の主催者。

「素晴らしいデスネ、彼女」

 ヴィゴ・キアケゴー氏は、ミス・アンヌを伴い、旭の隣に座る。

「……そうですね」

 益子と違い、目上にはとりあえず敬語を使う。

 幼少から輝きを放つ選手ではなかった旭の、ささやかな処世術だ。

「当たり前デスガ、ノーマルなショットとカットでは、ラケットの向きが違いマス。スイングが効率良く、強くなる……トップランカーになればなるほど、違う軌道を描く時間は短く、見分けは付きづらいデス」

 関節が柔らく、ラケットをより素早く回転させることができれば、外から見た軌道のズレは小さくなる。

 肘の外旋・内旋という言葉がある。

 投擲系のスポーツ──野球におけるピッチングが代表的だが、手に持った『もの』により強い力を加えるためには、肩の回旋だけでなく、肘の回旋が重要となる。

「その一点に限って言えば、望チャンは全日本クラス。それと──故障歴がナイ」

「故障歴?」

 野球肘、という言葉があるように、幼少期の肩肘の酷使は、靱帯に深刻な損傷を与える可能性がある。

 省エネ型の志波姫でさえ、高校二年の時に肩を壊した。

 あの『簪』の方は、今見ている限りでは肩や肘、脚を気にすることなく戦っている。

「競技に入ったのが比較的遅かったということもありマスガ、指導者が良かったんデスネ。選手をよく見ている。才能に頼って選手を壊さないコーチは、この国では貴重デス」

 裏を返せば、この国の指導者のレベルはまだそんなものなのだろう。

 確かに他の競技でも、選手ならいざ知らずコーチとして日本人が活躍しているというのは、ほとんど聞かない。

 取り立てて愛国心などなく、この先国旗を背負って戦うつもりもなかった旭だが、少しばかり恥ずかしさを感じた。

 あらゆるスポーツの中で打球初速が最速と言われるバドミントン。

 ラケットは肉まん程度の重さしかないとしても、肘の柔軟性にかまけて無暗にカットを乱発しては、いずれ肘を壊す。

 そして、ヒトの靱帯の再生能力は極めて低い。

 練習場所が被らない野球部と『強豪』を兼ねているバドミントンの名門校も多いが、あちらの『甲子園』では、毎年のようにエースピッチャーの連投、投手の酷使が話題になる。

 口さがない評論家などは、『才能の墓場』とまで言う。

 ゴールデンエイジを過ぎて、あらゆる形の篩にかけられる年代にあって、故障で競技を離れるというのは、あとになって回復不可能なロスになってしまうのだ。

 バドミントンも他人事ではない。

 プロ選手を呑み込むまであと一歩のところで、棄権せざるを得なかった荒垣。

 神奈川県のチャンピオンが、団体戦の予選をパスしてまで回復に努めた膝が、最後の最後に悲鳴を上げた。

 完調ならそれこそ、下で試合をしている望の逗子総合は、インターハイに来れなかったかもしれない。

「……いつだって『二番手』だったんデショウネェ……」

 二番手──。

 キアケゴー氏の言葉は、自分のことを言われているようで、旭は少し体の奥が冷たくなった。

 ペアを組む以上は対等とは言え、一対一の手合わせで、益子に勝てたことなど、結局最後までなかったのだ。

 望にしても、荒垣という県内屈指の才能に、全国への道を二度も断たれた。

 もし、今年のインターハイに出ていたら……。

 それは、眼下の試合結果がヒントになるだろう。

「──マッチワンバイ石澤。21-10、21-14」



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3rd game メダカが見た虹

 豊橋アンリに快勝したことで、『インターハイで見なかった名前』に対する見方は変わった。

 すれ違った後、望の背中を目で追う選手も増えている。

 彼女にとってはいくらか面映ゆい部分もあるが、注目を受けるのは満更でもない。

『自分のバドミントン』で、全国屈指のラリープレイヤーを押し込んだ。

 心なしか、メーカーブースのスタッフの愛想も良くなった気がする。

 ガットやグリップテープ、シャトルはもちろんだが、バドミントンにおいてはラケット自体も消耗品だ。 

 小物類に比べれば断然長持ちはするが、使っているうちにカーボン繊維に微細な隙間ができてくる。

 またラリーの最中、床に倒れこんだ拍子にラケットを踏んでしまって折れる……というようなことも、たまにある。

 だから望達は、大きなラケットバッグに、同じスペックのラケットを最低二本は持っておく。

「──あ」

 全国大会常連の強豪校には、用具メーカーからの営業回りも多い。

 卸価格そのままというわけにはいかないが、一般の店で買うよりも多少は安く購入できる。

 望が今愛用しているラケットは、その時営業が持ってきていたモデルで、県予選の少し前から使用しているものだ。

 その後継だろうか、最新バージョンが出ている。

 掲示された希望小売価格と、財布の中身を照らし合わせていると、ブースの奥の方にいたガット張りのスタッフの動きが止まり、側に立っていた選手がそれを受け取った。

「はい、22ポンドですね」

 (えっ、22……?)

 女子選手ではかなり強めのテンションだ。

 望は標準的な20ポンドを張っている。

 実際にはガットは打撃を繰り返すごとに、僅かに緩んでいくから、実質は20ポンドを切っているだろう。

 22ポンドというのはそれこそコニーや荒垣、津幡など、パワー系の頂点に君臨する選手の数字だ。

 それよりも。

 (お金、先に払ったのかな?)

 その選手は、ラケットは自前だったのだろう。

 バッグにしまい込むと、そのまま奥の空きコートへ歩いて行った。

「あの……このラケットって」

「使いますか?」

 一仕事終えたスタッフが、ガットマシンの脇から歩いてくる。

「あ、えっと……」

「ここにあるのは全部試打会用のものだから、後で返却してくれれば、使ってもらってかまわないですよ。ガット代だけは、頂きますけど」

「えっ」

「むしろ、使ってもらえるとこっちも宣伝になるので」

 そういえば、さっきの選手が持っていったラケットも、ステンシルマークが入っていた。

 学生の大会では基本的にダメなはずだが、この大会は別に関係ないのだろう。

「じゃあ、そこの上のやつを、エアロバイトの20ポンドで」

「色はどうしますか?」

「あ、緑で。ステンシルはいいです」

 熟練のスタッフなら、ガット張りはすぐに終わるだろう。

 望はそのブースを離れず、彼女の後の『赤色』グループの試合を眺めた。

(シゲ、頑張ってるなぁ)

 重盛の初戦の相手は、有川という選手だった。

 第一ゲームは案外競らずにモノにしているが、第二ゲームは序盤からもつれ合っている。

 選択肢が少なく、迷いのない選手は、格上相手でも序盤は主導権を握れることが多い。

 遠くに見えるスコアは6-6。

 ここから自分の長所を生かして突き放せれば、ストレートで勝ちきれるだろう。

 逆に弱点を突かれる形になれば、恐らく第三ゲームまでもつれる。

 それは、望の昼食の時間が遅くなることを意味していた。

 

 

 

 他のスポーツに比べれば、バドミントンは用具の進歩が少ない方だ。

 コンタクトスポーツではないから防具など付けないし、同じカーボン製でもゴルフクラブやテニスのラケット等に比べれば、それ自体の価格は安い。

(ちょっと、打ちたいな……)

 十一時半を回った会場内。

 二階席には昼食をつまみながら試合を眺める人影が目立つ。

『はい二人組作って』──が苦手な望にとっては、この状況で練習相手を探すのは苦行だ。

 と。

「あら、石澤さん?」

「え?」

 声に振り返ると、矢本が居た。

「ラケット借りたんだ」

「あ、うん」

 矢本も同じく、この『出店』をぶらついているクチだろう。

「どうだった? 一試合目」

「え、まぁ……なんとか」

 勝つには勝ったが、出来ればストレートだけで勝負したかった。

 倉石の戦術は望専用のスペシャルというわけではないから、カット主体の組み立てでなくても使える。

 もちろん、パターンの中にはカット系のショットを挟む手筋もあるが、それは一般的な選手でも打てるレベルのものを想定していた。

 考え込む望に、矢本は歩みを止める。

「お昼、一緒にどうかしら」

「いいですけど、シゲ──友達を待ってても?」

「構わないわ。どのコート?」

 矢本はそう言うと、試合が行われているコートを一つずつ見回していく。

「あそこ。あの髪を結んだ──」

「ああ……ふうん」

 スコアは11-9で、重盛のリード。

 サーバーが相手ということは、いったんは引き離したが、また捕まっているということだ。

「雲海の有川ね、相手」

「強いんですか?」

「さあ……やったことはないけれど」

 雲海と言えば、北陸の古豪だ。

 高校野球ではよく名前を聞くが、バドミントンも強いらしい。

 インターハイに出てきたなら、有川は恐らくその学校のエースなのだろうが、重盛がここまで善戦しているのは、望にとっては意外だった。

「結構やるのね、重盛さんって……そっか、横浜翔栄か」

「うん、まぁ」

 翔栄はともかく重盛個人はそうでもなかったはず、と望は思っている。

 県予選前のある日、練習後にレギュラーメンバーを集めたミーティングで、団体戦の展望を倉石が語ったことがある。

 トーナメントの序盤は問題なく勝ち上がれるだろうということについては、メンバー全員の意見が一致していた。

 本題はその先、横浜翔栄との決勝についてだった。

 望は、シングルスのみのエントリーで、橋詰にぶつける。

 そこは木叢監督との読み合いだが、誰が来ても望なら勝てると踏んだのだろう。

 ダブルスの橋詰のペア、重盛瑞貴。

 ここは横浜翔栄にしてみれば、半ば『捨て』だと倉石は言った。

 重盛以上に勝てる選手でもう一つのダブルスを組み、確実に一つは勝てるようにする。

 つまり、重盛はその当時の横浜翔栄の団体戦メンバーの中で、三番手以下だったということだ。

 ここを逗子総合の二番手・三番手のペアで勝って、ダブルスの勝敗はイーブンにしておく。

 ──石澤、お前は相手が橋詰だろうと誰だろうと、絶対に勝て──。

 あとは残りのシングルス二枚で一つ勝てばいい。

 そうすれば『全国』だ──。

「……」

 そんな話を思い出しながら重盛の戦いを眺めていた望は、ふと矢本に目を移し、口を開く。

「──フレ女は、どうしてシングルスとダブルスで重複させなかったの?」

「えっ?」

 唐突だったのだろう。

 矢本にしてみれば、昨夜ちょっと望を不機嫌にさせてしまった一件があったから、あまり自分の学校や、自分自身のことをつらつらと喋る気はなかった。

 しかし、問われれば答えるのは礼儀だ。

「ううん……一番は、唯華の状態かな。肩は完治してたけど、宮城の決勝もかなり熱かったしね、コニーと」

 春の王者は、この夏地方大会を制して全国にやってきたわけではない。

 同校対決を制したのは留学生のコニー・クリステンセン。

 かなりの接戦だったと聞く。

 あのレベルの選手になれば、たとえ同校対決でも手を抜くことはなかっただろう。

 全力で戦い、胸を張って全国に行く。

 それが、トーナメントで戦ってきた選手たちへの矜持だ。

「単純に勝つことだけ考えれば、唯華がダブルエントリーするのが、一番勝率が高かったと思う」

 それでも、シングルスに専念した理由。

 地方大会からそれでやってきているから、というのもあっただろう。

「ウチは確かに選手層は厚いけど、唯華に追いつける選手は居なかったからね」

「うん……」

「でも、それをやっちゃうと、また同じことになるから」

 同じこと、とは肩の怪我のことだ。

 カットや強打を多用するわけではない志波姫。

 フォームに問題を抱えているはずもない王者の肩が壊れたのは、単純にオーバーワークによるものだろう。

「石澤さんは、今まで怪我したこと、ある?」

「あ、いや、私は全然……」

 頑丈な身体。

 それは、アスリートにとってかけがえのないもの。

 逗子総合だっていっぱしの強豪だ。

 手ぬるい練習では、神奈川の頭は到底張れない。

 そもそも望が逗子総合に呼ばれたのも、『壊れない選手』だったからに他ならない。

 あるいは重盛も、そうだったかもしれない。

「さっ、来い!」

 コートから大きな声が上がる。

 第二ゲームはデュースまでもつれたが、重盛がマッチポイントを迎えていた。

 有川は肘の調子が悪いのか、しきりに利き腕の外側を揉むようなしぐさを見せている。

 望はその姿を、逗子総合に入りたての頃に、練習に付き合ってくれたある上級生に重ねた。

 『壊れそうな選手』を見分けられるのは、倉石が『壊れた選手』を知っているからだ。

 

 

 

 ──二年前。

「私が言うのもなんだけどさ、石澤。あんた今のままじゃ勝てないよ」

 入学したての練習試合で惨敗し、スランプに陥っていた望にある日、倉石が付けた二年生が言った。

 彼女は現在の望と同じく、絶品のカットスマッシュを武器に一年から県予選のレギュラーを張り、当時のエースだった上級生とともに、個人戦ダブルスでの夏の全国を手中に収めた。

 全国大会でも活躍し、将来有望と言われた選手だったが、インターハイの後に肘を壊す。

 冬を越えても肘は復調せず、リハビリを続けながらマネージャーとして部に帯同していた。

 伸び盛りの二年の春でこの状況では、彼女の高校でのバドミントンは、既に終わったと言って良かっただろう。

 もっとも、倉石が彼女を望の練習相手に指名したのは、そういった理由のほかに、同じくカットを武器とする選手であったこともある。

「はい……」

 肩を落とし、ため息をついて望はコートに散らばったシャトルを集め始めた。

「それ、集めたらちょっと休憩しよっか」

「あ、はい」

 どちらかといえば少数精鋭の逗子総合だが、望のためにコートを一つ空けている分、他の選手たちは割を食う。

 鳴り物入りで入部したルーキーに不満はあろうが、怪我に悩むその二年生部員の献身的な指導を見て、周囲はそれを呑み込んだ。

 すべてのシャトルをかごに戻した望を連れて、彼女は体育館の外に出た。

 軋み音を立てて外の光を呼び込んだ扉に、倉石が目を向ける。

「ちょっと出ます」

「ああ──」

 望と同じく彼女も、『全免』ではなかったが一応は特待で、逗子総合に入ってきていた。

 普通なら選手として戦えなくなった時点で特待扱いは外され、一般の生徒に戻るところだったが、倉石は彼女をそのままバドミントン部に在籍させている。

 外に行って何をするかは知らない。

 女同士のナイーブな話かもしれないし、一発平手を喰らわせるのかもしれない。

 ただ、ひとまずは任せよう。

 そう思い、倉石はほかのコートで行われている三年生の練習に目を戻した。

 

 

 体育館から校舎へ続く屋根付きの通路の脇、自販機が並ぶちょっとしたスペースで、二人は足を止めた。

「あの……」

「石澤、ここに手、届く?」

「え?」

 彼女が指し示したのは、屋根の下についている雨樋だった。

 望はそこに手を伸ばすが、つま先立ちでは届かない。

 軽くジャンプして叩いた雨樋は、金具に擦れて奇妙な音を立てた。

「私は届くよ」

 そう言うと、彼女は踵を少し浮かせただけで、その雨樋に指先を掛けてみせる。

「荒垣なら、ベタ足でも届くだろうね。腕も長いし」

「……」

 荒垣──その名を聞くことに、望はうんざりしていた。

 監督からも同じことを何度も言われている。

 時には怒鳴りつけられ、時には諭すように。

「自分より才能持った人って、たくさんいるんだよ」

 連綿と続く強豪・逗子総合の歴史。

 それを紡いできた先輩の中には、有名大学や実業団、全日本メンバーになった人もいる。

 そういう人が時たまのオフに母校を訪れては、現役生とともに練習に励む。

 石澤が入学してからも、数回あった。

 いつも仏頂面の倉石監督が相好を崩し、彼女たちと会話している。

 やがて三年生の誰かが指名され、試合形式で打ち負かされるのが常だった。

「はっきり言うよ。あんたのスマッシュは拾われる。うちの一年にだってそうじゃん」

「それは……わかってます、けど」

「けど何?」

 バドミントンを始めた頃、誰しも『かっこいい』スマッシュに憧れる。

 それは野球小僧がホームランに憧れ、波打ったスイングで三振を繰り返すように。

「スマッシュ打つのは私も好きだよ。バドミントンやってる奴で嫌いな奴はいないと思うけど」

 強打で押し込んで、堪え切れずクリアーに逃げる相手。

 コートを蹴って飛び上がり、オーバーストロークから相手コートにシャトルを突き刺す。

 誰もが憧れる夢、少年漫画の必殺技だ。

「ガキの頃、それこそ団栗の背比べの頃はよく打ってたし、決まってたよ。中学に上がったら背の伸びる奴もいて、叩かれたらやり返したくて、深め狙ってちょっとアウトになったりしてさ……」

 彼女も、ジュニア世代ではそこそこに名の売れた選手だった。

 神奈川では有名なクラブに入っており、中学ではすっかり有名選手になった彼女をスカウトに来た倉石の前で、二つも三つも年上の選手を破ってみせた。

「調子乗ってスマッシュ打ったら、普通にドライブで返されてさ」

 もちろん、自分の成長が止まりつつあることを自覚していた彼女が、本気でスマッシュでポイントを取りに行ったわけではない。

 その時は既に、強打に固執する選手ではなくなっていた。

 カットを多用する、中学生にしてはクレバーな立ち回りが、倉石のお眼鏡にかなったわけだが。

「そういうのって結構楽しかったりするんだよね。絶対壊れない壁って、全力でぶっ叩けるじゃん?」

 それについては、望も同意する。

 ジュニア時代の荒垣と対戦したことも幾度かあったが、そのころから身長が図抜けていた彼女に対して、強打で勝負を挑んだことも数多い。

 もちろん、中学一年から二年、三年と上がるにしたがって、荒垣はどんどん背が伸びていき、『そこそこ』で止まった望の強打は、全く通用しなくなっていた。

「そういう、『無邪気』っていうのかな。私は別に嫌いじゃない。でもさ」

 きゅっと睨みつけられた望は、身体を固くする。

「あんたはもう、そういうのじゃないでしょ。『逗子総合の石澤』なんだよ、あんたは」

 

 

 

 『逗子総合の石澤』──。

 その言葉が脳に貼り付いたまま、望はその日、練習を続けた。

 がむしゃらに強打を叩いてみても、シャトルはコートに落ちない。

 肘を壊した二年生ですら、たやすく返球してくる。

 やがて無為に過ごした時間が終わり、部員は後片付けに走る。

 望が使っていたコートだけ、ネットはそのままだ。

 塾に通うから、と二年生が帰った後、望は一人でステップワークの練習を繰り返す。

 何十周しただろう。

 疲れ果ててポールにもたれかかり、ふと見ると外の光は、真っ赤な夕焼け色に変わっていた。

 今日は日曜だから、朝から練習だったはずだ。

 でも、何をしていたのか思い出せない。

 苛立ちに任せてグリップテープを毟り、巻き直す。

「あ……」

 白いグリップテープが、まだらに紅く染まっていた。

 ふと右手を見ると、マメは潰れ、まだ潤った血が手に滲んでいる。

「っ──」

 これだけやっても、何もわからない。

 気付くまでは何も感じなかった右手が、熱を持ち痛み始める。

 掌に涙が落ち、ついに望は声を上げて泣き出した。

 聞きつけた倉石が二階の教官室を飛び出し、降りてくる。

「どうした石澤! 怪我でもしたか?」

 倉石が、座り込んだままの彼女の左腕を掴み引き上げると、望はそのまま倉石に倒れこんだ。

「お、おい──」

 ハッとして望は、慌てて姿勢を正す。

「すみません、監督……わかんないです、もう、こんなんじゃダメなのに──」

 嗚咽の合間に、望は言葉を絞り出した。

 どうやったら勝てるのか。

 好きなやり方じゃ勝てないのか。

 何のためにバドミントンをしているのか。

 倉石は腕組みをしたまま、望がひとしきり泣き腫らすまで無言だった。

「……石澤」

「うっ──はい……」

「お前が、『自分のバドミントン』で勝つことは、今は出来ん。それは、三年間お前を預かる責任として言っておく。ただ──」

「?」

「『逗子総合の石澤』としてなら、勝つ方法を教えてやることはできる」

 その日から、ノートは少しずつ埋まり始める。

 

 

 

「一時には戻らないと」

「そうだね」

 会場近くの定食屋に腰を落ち着けた三人は、それぞれに好みのメニューを注文する。

 せっかく宮崎くんだりまできたのだから、どうせなら地元の名産品を食べたい、と言ったのは重盛である。

 どちらかと言えば矢本の方がそれに同調したのは、望にとっては意外だった。

「宮崎と言えばやっぱ豚肉でしょ」

 そう言って重盛が注文したのは、厚切りの生姜焼きが見た目にもジューシーな定食。

 望は豚トロ丼を選び、対抗して海の幸を選んだか、矢本はカツオのたたき定食をチョイスした。

「そういえば矢本さんは、一試合目どうだった?」

「勝ったわよ。もつれたけどね」

 対戦相手は福岡国際大付属の中尾。

 インターハイでは益子や豊橋、羽咲までもが絡んだ『死の山』に骸を晒す結果となった彼女だが、それでも王者フレ女の一角を占める矢本から、一ゲームを奪う健闘を見せた。

「昼から誰とやろうかなぁ……」

 思わせぶりな視線を向ける彼女に、望は箸を止める。

「ウチは、上から順番がいいな」

 微かな沈黙に口を挟んだのは重盛だった。

「上から順番?」

「強いヤツとやりたい」

 一枚残した生姜焼きをご飯に乗せて、重盛は口を大きく開けてかぶりつく。

「……そうだね。せっかくだし」

 この大会はトーナメントじゃない、ランクマッチだ。

 七つ勝てればベストだが、負けても終わりにはならないのなら、自分が成長できる相手と──。

「やろう、矢本さん」

「……いいわ」

 

 

 

 定められた時刻の少し前、三人は会場に戻ってきた。

「ありゃ、これは一試合『待ち』だね」

 設営された十のコートにはすべて、先客がいる。

「そうね……」

 二階に上がるのも億劫だとばかり、矢本は壁際にラケットバッグを置き、サイドのポケットから小さなパッケージを取り出した。

「なにそれ」

「これ? BCAA」

 アミノ酸。

 連戦が続き、試合開始時間も前の試合に引っ張られるバドミントンの大会では、時間を決めて食事をとることはできない。

 故にトッププレイヤーともなれば、手軽にエネルギーを補給できる食べ物、たとえばバナナやおにぎりなどを常に携帯している。

 遠征ではそれらを用意するのは面倒だし嵩張るものだから、小さなパッケージで事足りるサプリメントは有用だ。

「私も持ってるよ。これはカプセルだけど」

 矢本が飲んだのは粉末状のもので、望が持っているのはカプセルタイプだ。

 おおむね一回に六粒ほど摂るのだが、米国産だけあって一つ一つが大きい。

「それ、ちょうだい」

 せがむ重盛の掌に、望はカプセルを落とす。

「あ、シゲ。水──」

 望がペットボトルを差し出す前に、重盛は喉を大きく動かし、カプセルを飲み込んだ。

 数度胸を叩き、重盛は大きく息をつく。

「あ~効いてきた」

「そんな速効性はないよ」

 そもそも飲んですぐは、カプセルが溶けていないだろうに。

 苦笑する望と矢本。

 そうこうしているうち、午後からの『二試合目』が始まった。

 やや被り気味の、各コートのコールアップ。

 二階席や取材スタッフの注目は、やはり京都の久御山か。

 あるいは、宇都宮学院の旭海莉か。

 もっとも、周りが一番観たがっているのは、その二人の対戦かもしれない。

 望と重盛にしてみれば初見の相手も多いのだが、矢本にとっては手の内を知っている相手も多いのだろう。

「ちょっとあっちの方見ていかない?」

「あ、うん」

 確かに、見ていても重盛には特に打てる対策はないし、望にとって少なくともこの大会では、『自分のバドミントン』がどこまで通用するか、ということにしか興味がなかった。

 勝てそうな相手を選ぶ、というその思考自体がすでに、相手に合わせてバドミントンをするということ。

 今必要なのは、それではない。

「そういえばさっき、ラケット借りてたわね、石澤さん」

「ええ、まあ……」

 ラケットブースに来てみると、望が借りたはずのモデルが、再び壁にかかっていた。

 おそらく同じものを複数持ってきているのだろう。

 それはそうだ。

 望や重盛はともかく、矢本や今試合中の久御山クラスになれば、特待の誘いの一つや二つあるはず。

 名前を見ればおそらく半分ぐらいの選手は、そうした『滑り止め』をキープした状態でこの大会に来ている。

 結果を残して、さらに上位の大学からの誘いが来ればしめたもの。

 用具メーカーにしても、他社にガッチリ食い込まれている大学や実業団に行くだろう『三強』クラスよりも、こういった選手に使ってもらう方が宣伝効果は高い。

「ああ、これね……」

「今使ってるのと、そんなに変わらないと思う。まだ打ってないけど」

 矢本はそのラケットを手に取り、タグに書かれたスペックを確かめる。

「いくつ張った?」

「20」

「私なら21ポンドにするかな。細めなら22で」

 そう言うと矢本はラケットをもとの壁に戻し、隣のブースに歩みを進めた。

 フレ女のユニフォームに、スタッフの方も揉み手で待ち構えていたが、残念。

 

 

 

 午後一番手の試合がおおむね終わり、ちらほらと空いたコートに新たな選手が立つ。

 危なげなく二勝目を挙げた久御山と入れ違いに、望は中央の第三コートに入った。

 この位置で、対戦相手が矢本と来れば注目度も高いだろう。

(立ち上がりを大事にしよう。失点も意味のあるものに……)

 矢本千景は、荒垣ほどではないが背が高く、腕も長い。

 コニーの加入でオーダーに多少の変動があったが、昨年までの雄勝・矢本のペアと言えば、二人そろって身長を生かした強打で押し込んでいくスタイルが身上の、全国でも有数のペアだった。

 と──。

「えっ……」

 ネットを挟んで反対側。

 彼女は、膝にサポーターを巻いていた。

「矢本さん、膝」

「ん? ……ああ、大丈夫よ。おまじないみたいなもの」

「──」

 望は、県予選を思い出す。

 対荒垣戦の序盤は、左右に走らせて膝にダメージを与える作戦を仕掛けた。

 体力を奪う、という意味なら常套手段だが、倉石は荒垣の膝が限界に近いことを知って、その作戦を指示したのだ。

 結果的には、荒垣の強打に対しコントロールしきれなかった望が、彼女の膝を終わらせることはなかったが……。

 一抹の影を心に落としたまま、望はウォームアップを終える。

(やるしかない──C2からC6のローテ)

 初手は矢本のサービス。

 ネット前では、サイズの大きい矢本よりも望の方が分がいい。

 それを知ってか、ロングサービスを挙げた矢本に対して、望は彼女のバックサイドへのドライブ。

(おっ)

 やや、球足が長い。

(というよりも、初速が高いのかな?)

 新品のラケットに新品のガット。

 いつもと同じポンド数で張ってもらったはずだが、少しばかりシャトルの伸びがいい。

 ガットマシンに狂いはないが、一般の小売店では初期のガットの伸びを考慮して、ほんのコンマ数ポンドほど高めに張る。

 そのせいだろう。

 深いドライブに対して矢本は、最も長い対角線にクリアーを返す。

 ラウンドを入れてフォアからリバースカットを打てば、最初のポイントは望のものだろう。

(でも……)

 望はそうはせず、ストレートに回転数を抑えたカット。

 相手のフォア前に落とすC2、これは拾わせていい。

「ッし!」

 長い脚を生かした広いストライドで、矢本は難なく追いつく。

 重心を腕にかけ過ぎていないからコースも突けるし、身体の戻りも早い。

(上手いな、足が良く出てる)

 打球を追いつつ、望は矢本の動きを見る。

 コート中央奥、どちらにも対応できるニュートラルな重心。

(もう一度距離を取る。C4……!)

 高く打ち上げる、バック奥へのクリアー。

 しかし、思ったよりも距離がない。

(──しまった!)

 ラウンドを入れても十分、スマッシュのバックスイングには間に合う。

 望は細かくステップを踏み、身体を低く伏せた。

 だが。

「え──」

 矢本はラウンドを入れず、ハイバックでクリアーを返す。

 長い腕を生かしたそれ自体は十分な深さがあり、即座に攻めに繋げるのはリスクが大きい。

(……なんで?)

 矢本ほどの選手なら、中途半端な飛距離のクリアーなど上から叩き伏せるはずだ。

 ラウンドが出来ないということもないだろう。

 思い当たることとすれば──。

(やっぱり、膝か……)

 ラウンドを入れて上から叩くとなれば、身体がやや後ろに流れながらのジャンピングスマッシュが最善手。

 ただしその場合、踏み切りと着地の二度、膝に大きな衝撃が来る。

 それを避けるためにハイバックでいなす、というのは道理だ。

 矢本のハイバックを受けて、望は空いたフォアにドライブカットを沈める。

 1-0。

 膝に手を当てることこそないが、シャトルを拾ってよこす拍子に、踵を軽くフロアに叩き付ける仕草からも、膝の状態が良くないことが分かる。

「……」

 ショートサービス。

 間合いが詰まればスピードで望が優位、守備範囲ではリーチの長い矢本に分がある。

 ただしそれは、フットワークが万全なら、という条件付きだ。

 膝を労わるなら、ネット前には来ない。

(──だよね)

 矢本の返球はまたしてもクリアー。

 足が出ない代わりに腕を伸ばし、大きくラケットを振ったそれは、飛距離こそあれコースは甘い。

 これならパターンCが使える。

 同じタイミングで一試合目をこなした矢本は、おそらく望のリバースカットを見ていないだろう。

 まだ、奥の手を出すタイミングではない。

(バックサイドへ長いボール、C2……)

 矢本の返球はまたしてもハイバック。

 次はクロスでネット前に落とすC3。

 先ほどと同じC4を、今度は丁寧に深く、コート奥隅へ。

 背中を向けて追いかける矢本の顔が歪む。

 C5はストレートへのヘアピンだが──。

「はっ!」

 同じハイバックの返球を、望は力いっぱい叩き返した。

 ボディへのドライブ。

 かつての倉石なら怒号が飛んだことだろう。

「く──」

 矢本はハイバックの体勢から体を引き、逆手でシャトルを打ち返す。

 ジャストミートではない、差し込まれた羽根だったが、幸運にもシャトルは白帯に当たり、望のコートに落ちた。

「あ……ごめんね」

「いえ──」

 ネットインはハードラックだ。

 ポイントを得た方が謝意を示すのは競技における一つのマナーとなっている。

 間違っても『狙った』だとか、煽りを入れてはいけない。

「……でも今の、ヘアピンの方が良かったんじゃない?」

「!」

 答えずに、望は踵を返した。

(わかってる。C5はストレートのヘアピン、でも……)

 それを打ったら、矢本は拾いに走っただろうか。

 拾わせればC6──相手の体の後ろへのクリアーで、手筋はC2に戻る。

 それを繰り返して体力を奪い優位に立つ。

「サービスオーバー、1-1」

 矢本はまたしてもロングサービス。

 強打があるのに、崩しに来ない。

 望はほぼ確信していた。

(膝、相当悪いな……)

 大きな身長は長所ではあるが、ウェイトという短所をも同時に生む。

 荒垣に比べれば足回りは多少細いが、上半身の肉付きは彼女以上に思えた。

 ここ最近急激に悪くなった、というわけではないだろう。

 おそらく『かなり悪い』と、『ちょっと悪い』の間をずっと行き来している。

 その意味では荒垣と違い付き合い方を知っている分、今この試合で壊れる確率はずっと低そうだ。

 ただ、それでも。

「──っ!」

 C4までをなぞった後、望はカット気味にラケットを振る。

 腕が長い選手はどうしても、手元が詰まる。

 今度ばかりは矢本も捉えきれず、シャトルは彼女のコートに落ちた。

 2-1。

「……」

 不満げな顔で、矢本は足元のシャトルを拾い、ラケットに乗せて望に放り投げる。

「ねえ?」

「?」

「気にしてる? 私の膝」

「え──そりゃあ、まあ……」

 他の選手なら、別段気にも留めなかっただろう。

 自分自身が不調を抱えているかもしれないし、お互い様と言っていい。

 ただ望には、それを良しとすることができなかった。

 あの二年生や、荒垣を知っているから。

「貴方はそういう人なんだ……」

 甘いと言われれば、間違いなくそうだろう。

 否定はできない。

「お願いだから、手は抜かないで。限界が来たら自分で止めるわ」

「でも……」

「──ヒラで打とうや」

 小声だが明らかに変わった声色。

 望は目を見開いて矢本を見つめる。

「ね」

 それはほんの一瞬で、もう既にさっきまでの矢本に戻っていた。

(手は、抜かないで……か)

 望は改めて間合いを作り、サービスを打った。

 同情を拒むフリをするような、安っぽい浪花節ではないだろう。

 手合わせを望んだのは彼女だが、誘ったのは矢本の方だ。

(何か勝算がある? いや──)

 五点差でインターバルを迎えても、矢本の動きにキレは戻らない。

 様子見や撒き餌とするには、配分が大きすぎる。

 結局、第一ゲームを望が勝ち切ったところで、矢本は棄権した。

 

 

 

「なんで私と……無理にプレイしたの?」

 試合後、会場の隅でストレッチをする矢本と望。

 インターハイのような大舞台ではないから、そこまでしおらしい感情はないが、やはり望には腑に落ちない部分があった。

「ううん……最後にやってみたかったから、かなぁ」

「最後?」

「手術するの。まだ正確な診断は出てないけど、たぶん半月板ね」

 リハビリには一年はかかるという。

 それから、落ちた体力をもとに戻して競技の第一線に復帰するには、また短くても一年はかかるだろう。

 無理を承知でこの大会に出たのも、その二年間を待ってくれる大学を探してのことだ。

「……」

 考えてみれば、納得がいく。

 インターハイの団体戦もそうだ。

 ダブルスと重複せずにオーダーが組めるのなら、絶対的エースの志波姫、コニーのどちらかは万が一の切り札として、最後の試合にとっておけばいい。

 そうしなかったのは、矢本を出来るだけ温存する必要があったから。

 福岡国際大付属の中尾は、同校の平田に比べれば一枚格下。

 平田ならいざしらず、二番手に一セットを落とすというのは、『フレ女のシングルスレギュラー』としては考えづらい。

「でも、戻ってくるよ」

「そう……だね」

 手術とリハビリを終え、矢本が競技に戻ってくるのは順調なら大学三年、二十歳だ。

 バドミントンは案外、現役生活が長い。

 二十三歳の年齢から全日本を十連覇した選手もいる。

 もちろん、それに比べると望たちの才能や資質は、取るに足らないものかもしれないが。

 試合中一瞬見せた鬼気迫る表情とはうって変わって、矢本は柔和に笑う。

「目指せパリ、かな」

 



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4th game Thunderstruck

「リタイアド、デスカ……」

 このおっさんはヒマなんだろうか。

 旭が二試合目を終えて二階に戻ってくると、キアケゴー氏は相変わらずそこにいた。

 確かに、端のコート上のこの席は、会場全てを見渡せるという意味では悪くない位置だが、なにぶん反対側のコートとは距離が遠い。

「これって、初日三試合消化できないと、帰らされるんですか?」

 旭は、開会前の説明になかった疑問をぶつけてみる。

 彼女自身は何も故障など抱えていないが、重盛が敗れた有川は肘を厳重にアイシングしていたし、矢本はたった今棄権したところだ。

 誰もかれも、三年間ひたすら努力を続けてきた選手たちだ。

 痛いの痒いのと口には出さなくとも、抱えてる爆弾の一つや二つ……。

「イエイエ、そんなコトはありませんヨ。ランキングからは外れますケレド……」

 ランキング──。

 旭はゲームを落とさずに2勝を収めた。

 他にストレートで連勝しているのは、インターハイ第四シードの久御山に、長門湯谷都央の深川。

 ここまでは実力から言って妥当だろう。

 それに追いすがるのは同じく二勝の望だが、彼女の連勝は『対戦相手の棄権を含む』という注釈付きだ。

 

 

 

「お待たせ──怒られちゃった」

 電話を掛けてくる、と言って姿を消した矢本が戻ってきた。

「あ、うん……」

 赤くなった目を見て、望は察する。

 電話の相手はおそらく志波姫だろう。

 矢本にしてみれば、インターハイを制しての引退だ。

 膝に爆弾を抱えながらの全国制覇は、それまでの苦労が何もかも報われるような、至福の時だったに違いない。

 それで終わっても、良かったんじゃないのか。

 手術をすれば全てがリセットされるわけでは決してない。

 怪我を悪化させるリスクを背負ってまで、本気で挑むべき大会だったのか。

 同じように怪我を抱え、二年の大会ではトーナメントの半ばで姿を消した志波姫。

 ギリギリの状態でブレーキを踏んだ結果、春の選抜は個人戦優勝、インターハイは団体戦優勝を達成した。

 そんな彼女の言葉は重い。

「あと一つやれば、ノルマ達成ね」

 努めて明るく、矢本は言った。

「そうだね、でも──」

 重盛はまだ試合中だ。

 一セット目は17-21で落とし、二セット目の序盤。

 2-5というスコアは厳しい。

「相手、誰?」

 オレンジ色にグリーンのラインのユニフォーム。

 プレーは大雑把、よく言えば大胆。

 ただし、左利きだ。

 望はふと、羽咲を思い出す。

「名前は知らないけど、あのユニフォームは知ってる。那智高よ、和歌山の」

「あぁ、だからミカン色……」

 やっぱり、ウチやフレ女のように黒いユニフォームの方が強く見えるな、と望は思った。

 コースは雑だが勢いのあるショットを、重盛が足で拾いまわる。

 そんな展開のラリーが何度も続いているが、最後にはシャトルは重盛のコートに落ちる。

 結局、二セット目は12-21と差が開いての敗北。

「おつかれ、シゲ」

 挨拶を終え踵を返す重盛に、望が声をかける。

「あーっ! ダメだったぁ……」

 敗れはしたが、どことなく満足げだ。

 心底この大会を楽しんでいるのだろう。

 無理もない。

 重盛が横浜翔栄のレギュラー格と言えるようになったのは、せいぜい二年の秋ぐらいから。

 少なくとも県大会優勝時は、単・複のダブルエントリーを任されるほどではなかった。

 それまではA特待、B特待の選手が厚遇されていたが、橋詰を筆頭に鳴り物入りで入学しながら、今一つ伸びがなかった彼女たちのカンフル剤として抜擢された新人戦で、重盛は好結果を残す。

 結果的にはエース橋詰の不調で三年夏は北小町に敗れたが、それは言っても仕方がない。

『エースの負けは全員の負けだ』──よく、倉石に言われた言葉だ。

 学校を背負って立つ一番手の試合は、勝っても負けてもただの一試合ではない。

 そして、『エースが戦って負けたなら、しょうがない』とも。

 少なくとも望には、どのような結果になろうと周囲を納得させるだけの鍛錬を積んできた自負がある。

 だからこそ人付き合いが苦手で、どこか天然でマイペースな彼女はいつも、逗子総合の部員たちの中心にいた。

 本物のエースは、決して孤独ではない。

 三人で談笑していると、近づいてくる人影。

「あの……良かったら、やらへん?」

 聞き慣れぬイントネーションの主。

 望が思うに、彼女がこの大会参加者の中では、一番強いだろう。

 勝ち越しを決めて、ノルマの三試合目。

 間延びしたタイムスケジュールもあって、少し疲労を覚えていた望だが、『インターハイ第四シード』ならば、相手にとって申し分なかった。

 

 

 

「面白いカードが始まりますネェ……」

 キアケゴー氏が顎で示したのは、どことなく雰囲気が似た二人のマッチアップ。

 宇治天神台・久御山久世に相対するのは逗子総合・石澤望。

 お互い2勝を挙げている者同士の対戦だ。

「望チャンとくーチャンは、ざっくり言えば同じタイプデス」

「……くーチャン?」

 たぶんそうだろうと旭は思っていたが、久御山のことだとミス・アンヌが補足する。

「どちらもラリーの組み立てに長けたオールラウンダー。違うのは、カットの切れを生み出すのがくーチャンは振りの強さ、望チャンは肘の柔らかさ……ぐらいでしょうネ」

 オリンピックの金メダリストにそう言われると、旭はそんな気がしてきた。

 だいたいどの試合を見ているときでも、隙あらば鼻毛を抜いていそうな泪ほどではないが、旭もあまり他人の試合をじっくり見る方ではない。

 ただ、午前の試合で望が見せたリバースカットは、まだ彼女の脳裏に鮮明に焼き付いている。

「実力で言えばくーチャンが上でしょう。夏の第三シードは伊達ではナイ。ただし──完全上位互換では決してアリマセン」

 コートの二人がウォームアップをしている間、キアケゴー氏は話を止めなかった。

 『三強』の三人がみな東日本出身であるのに対し、それに次ぐ実力とされる久御山は地元京都の出身で、宇治天神台にも自転車で通っている。

 小学生世代から鎬を削る『三強』が、関東のレベルをぐんと押し上げたのに対し、久御山の育った関西では、彼女ほどの圧倒的な存在は居なかった。

 当然のようにジュニアの地区大会を制し、関西圏の強豪校がこぞって特待枠を用意したのに対し、彼女は自宅から最も近い宇治天神台を選ぶ。

 条件に差は無かったから、自宅から通えてバドミントン以外に労力を割く必要がない選択をするのは当たり前だった。

 キアケゴー氏に言わせれば、それが彼女と『三強』の間にできた段差の原因だという。

「アナタの友人たちが子供のころ、周囲に与えた熱量を、なぎさチャンや望チャン……、沢山の選手たちが受け取ったハズ。もちろん、海莉チャンもネ?」

 もはやツッコミを入れるのはあきらめて、旭はコートに目を向ける。

 才能は輝きを放ち、太陽の周りを惑星が回るように、呼応して別の才能が覚醒する。

 『黄金世代』の成り立ちは得てしてそういうものだと、キアケゴー氏はため息交じりに言う。

「くーチャンは残念ながら、彼女たちとは離れていた。積み込んだ燃料が少ないのデス」

「……」

 ある一定の速度以上に加速しなければ、ロケットは地球の重力から逃れられない。

「予言、シマショウカ?」

「──予言?」

「この試合は、ガス欠にあえぐロケットを、殻を破った猛禽が叩き落す──そんな試合になるデショウ」

 名残を惜しむように、キアケゴー氏は目を細めた。

 そして、閉じる。

 と、また先ほどまでのいたずらっぽい笑み。

「──その猛禽が、狩りの仕方を弁えていれば……デスガネ」

 

 

 

「ふ──うっ……」

 長い台詞回しを続けている舞台俳優のような気分だ。

 喉元の澱みを吐き出して、望は白帯を見つめる。

(0-3か……ここで一本返したい……)

 簡単に与えた点数ではない。

 音楽に例えるならほんの一小節だけ、久御山の方が長く歌い上げただけのことだ。

(──ショート。 前に張る!)

 球足が伸びないように気を使いながら、望はヘアピンを返す。

 彼女にさほどの強打がないことを知ってか、コートミドルに留まっていた久御山は、高く打ち上げて距離を取った。

 アウトレンジでは、望に分が悪い。

 しかし、そう簡単にネット前にはつかせて貰えないことは、望も承知の上だ。

 なにしろ相手はインターハイ第三シード。

 荒垣には敗れたが、それでも一セットをもぎ取ったほどの実力者。

 その点では望も同等であるが、それは荒垣が進化を遂げる前の出来事だ。

 倉石の指示を完遂していればあるいは、勝っていたかもしれない。

 矢本と同じように、限界を迎えた荒垣が棄権して……。

(いや……考えるな。好きにやる。好きだから、もっと好きになるために)

「石澤、がんばれー!」

 と、コート後ろで声援を送るのは重盛だった。

 矢本も右手を握り、劣勢の望を鼓舞する。

 緊張していると思ったのか、重盛はラケットを逆手に持ち、エアギターの真似をしてみせた。

「うん!……、──よしっ」

 ここからだ。

 

 

 

「押されてますね」

「ン? ソウデスネェ……」

 含み笑いで受け流すキアケゴー氏の表情から旭は、まだ彼は『予言』を外した気にはなっていないと理解した。

 コートではまたしても長いラリー。

 これまでのポイントのリプレイを見ているような、足音の少ない探り合いだ。

「シャトルの音、綺麗デスネ」

 要領のいい選手は、既に三戦を戦い終えたのだろう。

 望たちの第三コートの両隣は空いていて、フロアは閑散としていた。

「……どっちが?」

「両方デスヨ。海莉チャンは、『共感覚』って、知ってマスカ?」

 『音』に、『色』がついて『見える』というそれは、専門的には『色聴』と呼ばれる。

 もちろん旭はそんな感覚を受けたことはないし、コートで戦っている二人もそうだろう。

 学校に戻ったら、連れの多重人格者にでも聞いてみよう。

 話半分にラリーを眺める旭を脇に置いて、キアケゴー氏はまたも独白を始める。

「バドミントンを始めた頃、ある国際試合で、そういうコトがありました。もっとも、『色』のような、はっきりした感覚ではアリマセン」

 大きなタイトルのかかった試合、ここ一番のポイントで、相手の意図がシャトルの音を通じて見えるのだという。

「それは、『勘』みたいな……?」

「違いますネ。もっと具体的で確実な、『読み』とも違うナニカ、デス」

「……『ゾーン』に入る?」

「近いデスネ、素晴らしい。海莉チャンも経験が?」

「まあ、多少は……」

 思考の周波数が一気にオーバークロックされるような。

 ほんの数秒を何十倍にもスローモーションして、『何をしたか』は後になってもはっきりと覚えている。

 そういったことは今まで何度かあった。

 ただ、自分は凡人だと自覚している旭と、元金メダリストの感覚が同じなはずはないだろう。

「私は幼い頃から、国の強化選手として、最高の環境を与えられてキマシタ……」

 それは練習機材や金銭的な援助のことではない。

 『好敵手』の存在だ。

「日本語では『咬ませ犬』に侮蔑的な意味合いを含みマスガ、英語で言う『アンダードッグ』には、そうした意味合いは薄いデス」

 英語の勉強は大事ですよ? と、この時期の高校三年生にはきつい冗談を挟み、キアケゴー氏は続けた。

「なぎさチャンとコニーの試合など比較にならない、文字通りの死闘。泥仕合の連続デシタ……」

 血の滲んだ汗がコートに広がり、足の痙攣が止まらず無理やり打ったスマッシュに飛び込んだ相手が、緑色の胃液を吐いた後動かなくなった。

 そこまでやらないとメダルは獲れないのだろうか。

 旭にしても、冬の練習で吐く選手は何人も見たことがあるが……。

「どんなスポーツでも、超一流のアスリートというのは、『人体の究極』を見せてくれる存在デス。彼らは必ず、『ゾーン』に、意図的に入る術を会得シテイル……」

「──……羽咲」

 あのインターハイ、益子との試合で見せたそれは、まさに今キアケゴー氏の言っていることじゃないか。

 旭は身震いした。

 試合前にキアケゴー氏の言った通り、久御山は彼女たちよりは格下のはずだ。

 だとしたら──。

「……えっ?」

 いつのまにか、スコアはひっくり返っていた。

 

 

 

(おかしい、なんでやの……)

 六連続失点など記憶にない。

 男子並みのスマッシュを持つ荒垣に押し込まれたあの試合の一セット目でさえ、そんな連続ポイントは与えていない。

 対面の選手はまるで、著名なジャズ奏者のように、飄々と己のソロパートを続けている。

 何かキッカケがあったか?

 最初の失点はいったいどんな形で……。

(とにかく、一本切らな)

 七本目のサービス。

 ここまでずっと、ロング、ショート交互に打ってきているから、順番通りならここはロングだ。

(やっぱり!)

 読み通りだ。

 確かにサービスは安定している。

 というより、強打やフットワークで劣る選手ならば、サービスを鍛えるしか勝ち筋はないのだ。

 久御山自身も、サービスには自信がある。

「──っと!」

 望のバック奥へ、大きくクリアー。

 打数は増えるがお互いに、攻め手を作れない状況。

 詰めるには持ち駒が足りない。

(あ……そや、これ……)

 徐々に、久御山は自分の失点を思い出してきた。

 望の組み立ては基本的に、少しずつ距離を詰めてミドルからのドライブの応酬。

 足を止めて戦うその手口は、三試合目の疲労を考えれば妥当だ。

 しかし、何かがおかしい。

 意図したとおりの展開なら、あんなに急いで返球する必要はないはず。

(なんでそんな、小さい振りで……?)

 

 

 

「海莉チャン?」

 隣のおっさんは何か喋っていただろうか。

 旭はハッとして、キアケゴー氏の方を向いた。

「海莉チャンは、音楽は好きデスカ?」

「──は?」

 雰囲気重視の援交オヤジかよと思いながら、旭は適当な答えを探す。

「あーまぁ、それなりに、ですね。洋楽とかはあんまり……」

「ピアノとギター、どっちが好きデス?」

「は? いや、どっちもどっち……」

 小さい頃に楽器をやっていたとわけではない。

 年相応にカラオケは好きだが、寮の門限を破るほどでもない。

(ピアノとギター? もっと三味線とかお琴とかあんだろ、ジジイ)

 見た目には気を使っている旭だが、さして派手好きというわけでもない。

 どちらかと言えば、奔放な益子の隣で、彼女を必要以上に浮かさないためのおしゃれという側面が強かった。

 宇都宮学院と言えばそこそこにお嬢様私立ではあるから、ピアノのレッスンとやらを受けている一般生の友達もいるかもしれない。

(部活以外のメンツとは、そこまで絡まなかったけど……)

「要するに、『鍵盤楽器』と『弦楽器』──ナンデスヨ」

「は? はぁ……」

 ピアノの調律師の人数を推測する問題が、よく外資系企業の入社試験で出されることがあるが、ピアノというのは『調律』をしたら基本的にそれを弄ることはない。

 対してギターというのは弦の張りを調節する機構がついていて、極めて容易にチューニングを変えることができる。

 音楽の授業の評点などどうでもよかった旭だが、そう考えてみるとギターの方が面白そうだ、と思った。

 そして、気づく。

(──……チューニングを変える?)

 

 

 

 おぼろげに、久御山は望の優勢の理由を感じ始めていた。

 たまに思い出したようにバックスイングをキッチリと取ってクリアーを上げることはあるが、遠目に見れば何の変哲もないドライブの連打。

 だが。

(全部違う……。球の伸び、カットの変化量も。こんなの──)

 非常識だ、と久御山は心の中で悪態をつく。

 やっている本人はおそらく、意図的に打ち分けてはいない。

 そのためにやたらと急いたスイングで、『フォームを作る時間』を潰しているのだろう。

 こんなことは、練習するものではない。

(コイツ、今思いついたやろ絶対!)

 常識からは外れている。

 少なくとも、久御山自身が考え、作り上げてきたバドミントンの中にはない。

「あっ──」

 荒垣と渡り合うほどの打ち手が、普通なら絶対差し込まれないようなドライブ。

 身体を捻って躱せばアウトだったかもしれないそれを、久御山は当ててしまう。

(アカン……呑まれる)

 力なく浮いたシャトルを望が叩き、スコアは11-7となってインターバルに入った。

 

 

 

 

 あの日、その言葉を投げかけた『二年生』にそこまでの意図はなかっただろう。

 ただその瞬間、望の心は完全に折れた。

 二度と開けるまいと誓った宝箱を抱えて、ひたすらに倉石の戦術を飲み込み、技術を吸収していく。

 握力のなくなった右手から、生皮ごとラケットが抜け落ちることもしょっちゅう。

 いつも望は、倉石がやめろというまでブレーキを掛けなかった。

 入学したての一年生など、血飛沫の舞うコートに圧倒され泣き出す者もいたほど。

 『逗子総合の石澤』は、そうして作り上げられていった。

 敗れた時は、口には出さないが望は倉石のせいだとどこかで思っていたし、倉石自身がその負けを背負い込んでいた。

 やがて競技を続けるか否かの分岐点が近づき、望は心のどこかで、宝箱の鍵を探し始める。

 鍵を手渡したのは荒垣だ。

 しまい込んだ宝物は、より輝きを増して少しずつ、望のもとに戻ってくることとなる。

 

 

 

「望チャンの積んできた努力は、他の誰よりも、『純度』の高いモノデス」

 『やりたいこと』を一切捨てて、『出来ること』だけを追求していく。

 多感な年代、夢が最も大きく膨らむ時期の選手にとって、それは容易ではない。

 それはある意味では重盛にも通じるものだが、競争の中で勝っていくための取捨選択という重みしかもたなかった彼女のそれに対して、望にとっては唯一の、競技における死を避ける手段だった。

「トコロデ、先程の話デスガ……ギタリスト、誰か名前を知ってマスカ?」

「リンゴ・スターとか?」

「……それはドラマーデスネ。ビートルズはいい趣味デスガ」

 別に旭はビートルズファンではない。

 ただ、音楽の教科書で見た名前だったから挙げただけだ。

「ギターソロには楽譜がアリマセン。いわゆる即興ライヴ、インプロヴィゼーション、デス」

「──石澤がそれをしてる、と?」

 キアケゴー氏はにっこりと頷いた。

「華麗なギタープレイも、日々の基礎的な鍛錬があってのモノ。そして『基礎』とは、最早音楽とは言えない、ただ音を並べただけのモノだったりシマス」

 指を動かす、あるいは一定のリズムを乱れずに刻む。

 楽譜を並べて、ひとつひとつ弾けるように上達していく、というのとは技術の厚みがまるで異なる。

 望はつい最近まで、競技者として伸び盛りの時期をただひたすらにそんな基礎に費やしてきた、とキアケゴー氏は言う。

 どちらが楽しいかと言えば後者だろう。

 バドミントンとは言えないような低レベルな事から、繰り返し繰り返し練習してきた。

「競技を始めた『最初の一日』が、最も成長度が大きい。これは、ワカリマスネ?」

「ええ……」

「出来ることがどんどん増えていく。それが周囲より少し早いだけで、全能の神にでもなったヨウナ……」

 早熟の天才、神童。

 よく言われることだ。

 しかし、それが通用するのは高校まで、彼はそう言い切った。

「泪チャンもようやく、普通の人になりマシタ。勿論、それで終わりデハナイ。伸びしろはまだいくらもアリマス──本人が望めばデスガ」

 ただしそれは、大人と渡り合っていくための『第二段階』の成長だ。

 基礎を見直し体力を練り直し、気ままに積んだ積み木をいったん崩す覚悟も必要だろう。

 大学生に勝った志波姫や、プロ選手であるコニーは既に、その領域に入っている。

 そのための『燃料』も十分に積み込んである。

「望チャンの成長曲線は、似てはいますが彼女たちとは違いマス。なぎさチャンや、くーチャンとも、ネ」

 誰よりも早く『第二段階』に直面し、モチベーションの折れた望には、何の覚悟も必要なかった。

 少しばかり悪態をつきつつも、自らの燃料をほとんど使うことなく、指導者に牽引されて成長した。

 久御山は違う。

 覚えた楽譜を、より上手く弾けるようにと努力しただけだ。

 それ自体否定されるものではないし、それは聞き惚れるほどに『上手い』のだが。

「ラリースポーツは、言わば即興ギターバトルなんデスヨ」

 旭はもう一度、今年のインターハイを思い起こす。

 相手のプレイを受けて、絶妙なレスポンスを『即興演奏』する志波姫。

 そもそも、体格やセンスで、誰よりも『フリースタイル』なプレイが許容されるコニー。

 両手使いの羽咲も含まれるか──。

「荒垣も……」

「その通りデス。彼女はコニーとの一戦で、明らかに変貌した。『コニーだったから』とも、言えマスガ……」

 『好敵手』の存在。

 惑星の誕生は、いくつかの星がぶつかり合ってできたものだという。

「望チャンも、変わりましたネ……」

 コート上で起きている現象から読み取るならば、『視野の広さ』が大きく向上した。

 何も考えず手癖で打っているような、バラついたドライブを見れば、意図的にそうしているとわかる。

 拘ってきた『基礎』のフォームは、捨てようとしても捨てられない。

 理にかなったフォームだから、シャトルをミートできる。

『キー』さえ外さなければ、この演奏が終わることはないだろう。

「ソレは無理ですヨ。くーチャンではネ……」

 十代の選手が持つ『上手さ』は、時には大人を喰ってしまうレベルに成長するかもしれない。

 しかしそれは所詮、基礎に穴を残した『砂上の楼閣』──。

 本物の強敵と相対した瞬間に、なまじ穴が見えてしまうから、傾いた柱にしがみつくしかない。

 やがて──驚くほどあっさりと、城は陥落した。

「マッチワンバイ石澤──21-17、21-6」

 後半は完全に望の独り舞台だった。

 得意のラリーで相手に翻弄されてしまったとあっては、さしもの久御山にも打開する手段がない。

 第一セットはほんの手慰み程度のスピードプレイで望に迫ったが、終盤はほとんど足が止まり、望もそれを感じてか早めの仕掛けですんなりと勝ち切った。

 第二セットに至っては、リバースカットの大盤振る舞いで望が序盤を走り、集中力を欠いた久御山のミスも続いての結果だ。

 人もまばらになった二階席が、コールを聞いて静かに沸く。

 お目当てだっただろう矢本がリタイアし、大半の選手が既に三戦目を終えてホテルに戻っても、残っていたわずかな取材陣が、遠慮がちにカメラを向けた。

「三連勝……デスネ」

「凄かったです。特に、第二セットは……」

「まぁ、疲労もあったのデショウネ」

 確かに、通常の大会のように次々と試合をこなしていくのならば、案外疲労は残らないものだ。

 三試合目を阿方と戦い、勝ちはしたが旭は一セットを落とした。

 白星を三つ獲得したのは数人だろうが、セットカウントでいくなら、旭は望に勝たなければならない。

「石澤とやりたいな……」

「それはいい。私も是非見ますヨ」

 

 

 

 圧倒的勝利を収めた望を、重盛と矢本が労う。

「ありがと、シゲ」

 重盛の差し出したタオルを受け取り、望はベンチに座り込んだ。

 友人の唐突な覚醒に戸惑っているのか、重盛は少し距離を置いて座る。

 矢本は矢本で、どことなく収まりが悪そうに髪を弄っていた。

「ちょっとは、強くなったかな」

 満足げに、望は借り物のラケットを握った。

「ちょっとどころか──」

 と言いかけたところで、重盛のお腹が豪快に鳴る。

「……あはは」

「帰ろっか、ホテル」

「うん!」

 会場を出る間際、一試合目の組み合わせ発表の場所で、望は足を止める。

「?」

 外用のスニーカーに履き替え終わった重盛が、ドアの前で引き返してきた。

「ごめんシゲ、ちょっとだけ待って」

 望は携帯電話を取り出し、そこにある自分の今日の試合結果を撮影する。

 そして、他の選手たちの星取りをチェック。

(宇都宮学院の旭海莉……あとは知らないなぁ……)

 照明がほとんど落ち、暗くなった会場内では各セットの細かい数字までは読めなかった。

 セット数はわからないが、同じく三連勝していたのは他に今治第三の鈴木、長門湯谷都央の深川、埼玉栄枝の岩崎。『ミカン色』の那智高・米子の名もあった。

「これは……」

 矢本が思案顔で星取り表を見つめる。

「実力ならやっぱり深川、かしら。栄枝の岩崎も強いけれど……」

 能天気なのか、空腹が限界を迎えているのか。

 重盛は笑って、外に出ようと二人を促した。

「いやー今の石澤なら誰だって勝てるよ! だからほら、はよはよ」

「そんな簡単には行かないよ……」

 泉や橋詰に苦戦していた夏からしたら、この大会では何もかもが上手くいきすぎているようで、望は浮かれるよりも不安が強い。

「大丈夫──アンタは今、誰よりもバドミントンが上手だよ」

 

 

 

「夜はもうだいぶ冷えるな。今日は熱燗にするか……」

 お通しと、とりあえずの生ビール。

 いくつかの小皿を空けた頃、倉石は店員を呼ぶ。

 ふと、テーブルに置いた携帯電話の画面が灯った。

「電話ですか?」

「いや……『ライン』だ。石澤から」

「へ?」

 立花は、目をぱちぱちとさせる。

「『ライン』なんかやってんすか? 生徒と?」

「バカ、大声出すな」

 倉石に比べれば、はるかに生徒たちと年の近い立花ですら、泉以外のラインは知らない。

 コーチになりたての頃は、猛練習で部員の顰蹙を買い、荒垣にも嫌われていたという事情はあるが。

「全員入ってるぞ。ほら、武山、松浦、稲田……」

「なんでまた……」

「便利だからな、色々と」

 聞けば、大会の日程や組み合わせ表はPDFで送られてくるから、それをそのままPCから部員のグループに送信しているのだという。

 なるほど合理的だ。

「声には出しづらい事も、文章には書けるしな……」

「で、石澤は何て?」

「『3つ勝ちました。明日も頑張ります』だとよ」

 そうして倉石は、添付されていた写真を立花とともに見る。

「『勝ちました』って……えぇ!?」

「意外か?」

「失礼ですけど、まぁ正直……一つは相手の棄権ですけど」

 一つ目は、豊橋アンリに快勝。

 第二戦の相手・矢本千景は棄権し、三戦目。

「久御山にこのスコアというのは……」

 今年の夏、インターハイに出場する荒垣と羽咲のために、立花は松川女史の助力を得て、全国の有力選手を調べ上げた。

「俺からすれば、予測……いや、期待できた事だがな」

 お猪口を呷り、倉石は息をつく。

「荒垣との神奈川準決勝、第一セット終わってインターバルの時、石澤が俺に何を言ったと思う?」

 『私のやりたいバドミントン──これから、見つけてきます』

 反対側のサイドにいた立花達には、そのやり取りは聞こえていなかっただろう。

 しかしその後の第二セット、倉石は指示を飛ばすことを辞め、望は荒垣から一セットを取り返す。

「あの時から、だな」

 その短いインターバルの瞬間、『逗子総合のエース』は、自らの胎内に、バドミントンプレーヤーとしての『石澤望』の核を宿す。

「そして、全国大会で──ゲスく言えば、志波姫に孕まされたようなもんだ」

 本人の前では絶対言わないが、と倉石は注釈を付けた。

 何かのはずみで、そうしたことは往々にして起きる。

 コニーに相対した荒垣の、覚醒とも言える変貌を、最も近いところで目の当たりにした立花にしてみれば、その比喩は実にしっくりと腑に落ちた。

「なんとなく、わかります」

 おそらく、久御山との二セット目に、新たな『石澤望』が誕生した。

 これからしばらくの間、その『石澤望』は無邪気に自分の世界を広げていくだろう。

「……でも、それは、コーチじゃダメなんですか? 倉石さんじゃ──」

「それじゃダメだ。大人にやり込められた、それだけではこの年代は成長しない。羽咲がそうだろう?」

 相手の本気度はわからないが、事実として世界ランク一位の王に1セットマッチを勝った羽咲。

 『未知との遭遇』によって選手が成長する、というのなら、羽咲は神奈川準優勝に留まることはなかっただろう。

「プレーヤーとしての成長は、俺たちが狙って起こせるものじゃない」

 基礎たる土壌を貪りつくした果てに、その種が芽吹くかどうかは誰にもわからない。

 それでも、芽吹いたはずの種を死なせないために、倉石はひたすら精力的に指導を送る日々を繰り返す。

 その結果が、一年の空白を挟んでなお躍進し、名だたる強豪を抑えて、神奈川の王者に君臨する逗子総合の原動力だ。

「だから、石澤をこの大会に送り込んだんだ。費用は全部俺持ちでな」

「──は?」

「当然だろ。特待とは言え引退した三年生だぞ? しかも実績のない初開催の大会に、学校から経費が下りるわけないだろう」

「まぁ、そりゃそうか……」

 だったら今日は奢りますよ、と立花が言うが、倉石は固辞する。

 学生コーチに奢られるほど困っちゃいない、と冗談めかして。

「勿論、アイツにはそんな事言ってない。……クサイ言い方だが、俺の罪滅ぼしでもある」

 スランプと言うには深すぎる闇に落ちた望に、半ば強制的に練習メニューを指示し、技術を教え込んだ。

 それが度を越した単なるシゴキではなかったのは、今の望が故障を抱えていない事実を見ればわかるが、約二年半もの間、基礎練習に明け暮れ、フォームの欠点をひとつひとつ潰していく作業に、望は音を上げることはなかったのか。

「──『辞めたい』と言ってきたことは流石になかったが……な」

 どちらかと言えば、彼女の周囲の声の方が大きかった。

 なぜそこまで、一人を追い込むのか。

 一見すれば『特別扱い』に、不満を持った部員もいたが、そんな生温いものではなかった。

 部内の対抗戦にもほとんど顔を見せない。

 しかし、たまに試合に出れば、次々と飛ぶ倉石の指示を、機械のごとく精密にトレースしてみせる望に、周囲は徐々に反応を変える。

 アスリートとしては欠点と言える、望の『心の弱さ』が少しずつ、見えてきたからだ。

 試合中は全く表情を変えないが、終わって握手を交わすときには、後ろからの声に苛立ったり、寂しげな顔をしたり。

 居残り練習後、一人ぐずりながら後片付けをしている姿を、たまたま忘れ物を取りに来た後輩が見つける。

 望はそれに気づかず、後輩にとってもその時の彼女は、気安く声を掛けられるような状態ではなかったが、その事実は部員の『ライン』で広がる。

 ほんの少しでいい。

 悩めるエースの重荷を、肩代わりしてあげられるようになろうと、部員たちは陰で団結する。

 望も含めて全員の努力はやがて報われ、夏の王座奪回を果たす。

「罪なんてないんですよ、たぶん……」

「ん?」

「だってみんな、倉石さんと石澤の周りに、集まってたじゃないですか」

「──……そうだな、そうかもしれん……」

 

 

 

「なんでいきなり強くなっちゃったの?」

 夕食のバイキングに出たポークソテーの肉はデンマーク産の豚だそうだが、恐らく味わっては居ないだろうスピードでいち早く食べ終えた重盛が、デザートと思しきアイスクリームを手に聞く。

 きょとんとしている望に、重盛はスマッシュを叩きこむ。

「県大会の時、そんな強くなかったじゃん」

 矢本は思わず噴き出した。

「なんでだろう……やりたいことが、明確になったから、かな」

 つなぐ言葉は覚束ない。

 しかし望は、掴んだ欠片を是が非でもものにしようと、今日の三試合を反芻していた。

 他でもない自分の身に、いったい何が起きたのか。

 豊橋に対しては、ここ一番の点差状況までリバースカットを伏せた。

「説明、シマショウカ?」

 と、物好きの老人が現れる。

「ミスター・キアケゴー! サインください!」

 重盛は目にもとまらぬ早業で、紙ナプキンを一枚とり、どこかからボールペンを取り出す。

「ハッハッハ。ミス・アンヌ」

「はい、どうぞ」

 用意が良いのか、他のテーブルでも同じことを言われているのか。

 ミス・アンヌが取り出した色紙に、キアケゴー氏は太めのサインペンを走らせる。

「メルシィ!」

 それはフランス語だ、と望は心の中で突っ込んだ。

「二枚目デスヨネ? 転売はダメデスヨ?」

「あ、大丈夫っす。英美のぶんだから」

「アア、ナルホド……ではもう少し、書き加えマショウ」

 そう言うとキアケゴー氏は重盛から色紙を受け取り、再びサインペンで何かを書いた。

「……なんて読むの?」

 矢本と望も色紙を覗く。

 そこには、『エミチャン』とカタカナ。

 そして。

「……”God Rejse”……?」

「『良い旅を』と言う意味デス。受け取り方はエミチャンに任せますケレド……」

 髭をさすり、サインペンのキャップにふたをして、キアケゴー氏は空いた席に腰を下ろした。

「望チャンは最近何か、新しいことを始めましたカ?」

「新しい……それは、バドミントンでですか?」

「イイエ、日常生活でも、なんでもイイデス」

 思い当たることと言えば、ひとつ。

「そういえば車を──免許、取ったので」

「オオ、素晴らしいデス。車はいいものデスヨ。特に日本車はイイ、壊れマセン」

 彼ほどの成功者なら、ポルシェにでも乗ってるだろうか。

「私が最初に乗った日本車は……そう、ミアータでしたかネ」

 付き合いの古い友人から格安で譲り受けたオープンカーだという。

 背の高い彼には、小さな日本車では屋根付きだと都合が悪かったらしい。

「車にはエンジンが積まれてイマスヨネ?」

「はぁ、はい……」

「アスリートも同じコト。レースで勝つには、エンジンが大事デス」

 草レースの盛んなあちらの車事情。

 キアケゴー氏には中年以降の趣味として、草レースを嗜んだ時期があった。

 のめり込んで、結構な額をチューンナップにつぎ込んだ事もある。

「エンジンというのは、技術の塊デス。アスリートに置き換えれば、最も基礎的な、コアになるモノ……」

 クランクを、ピストンを磨き上げ、バランスを取る。

 レース用エンジンはそうやって、勝つためのパワーを高めていく。

 もちろん、普段のメンテナンスも重要だ。

 オイルや点火プラグは消耗品。

 ターボというのは、言ってみればドーピングのようなものだから、ここでは自然吸気エンジンの話をしよう。

「そうしてここ一番、ホームストレートで思い切りアクセルを踏む。スピードは上がり、前を行くライバルを追い抜く……最高の瞬間デスネ、アレハ……」

「……」

 望は、アイスを食べ終えた重盛を横目で見る。

 話相手の自分よりも、重盛の方が理解が深そうだ。

「アクセルを踏まなければ、パワーは出マセン。少し前までの望チャンは、そんな状態デシタヨ?」

「え──」

 今まで一度も、試合で手を抜いたことはない。

 倉石が格下と断じた対戦相手にも、彼は『次の試合』に向けてベストの勝ち方を模索していたし、望もそれを受けて忠実に戦った。

 それ自体は、まごうことなき『全力』だ。

「簡単に言エバ、望チャンのエンジンは……もっとパワーが出る、というコトデス」

 突き詰めたレース用自然吸気エンジンは、時にレブリミットが一万回転を超える。

「今までの望チャンは、せいぜいエンジン出力の八割程度しか使い切ってイナイ。そうさせたのは指導者デショウ。モチロン、一概に悪いという事ではアリマセン」

 むやみにエンジンをふかす、というのは確実に、その寿命を縮める。

 競技生活はスプリントではなく、耐久レースだ。

 少なくとも幼少期に大した戦績のない望は、そう願っていた。

「しかし──今日は違いましたネ?」

 望は頷く。

 三戦目、明らかに『格上』と思える久御山に先行を許した立ち上がり。

 それまで培った基礎に身を委ね、望は敢えて思考を止めてスピード勝負を挑んだ。

 バックスイングもなく、スイートスポットをずらしたシャトルは面白いように久御山のリズムを崩し、立て直そうと彼女が仕掛けてきた早いラリーにも打ち勝っての第一セット先制。

「アレこそまさに、限界ギリギリまでアクセルを踏みこんだ瞬間デス」

 『ゾーン』に入る経験は、何も技術を高めていれば必ず出会えるというものではない。

「──イヤ、もしかすると……アレでもまだ、レブリミットではないのかも知れませんネ」

 第二セットは、あまり参考にはならないだろう。

 集中力の限界と疲労が同時に来た久御山には、精密にサイドラインに落ちていくリバースカットをただ見送るしかなかった。

「プロ選手と言えど、一人の社会人デス。車も運転スレバ、飲みにも行くデショウ」

 おっと、これは望チャンには早かったですかね?

 そうキアケゴー氏は言って、席を立った。

「ヒントになりましたカ?」

「少しは……ありがとうございました」

「ウン、それは良かったデス。それと──」

「?」

「──パスポートは、持っていますカ? 恐らく望チャンは、近々それを必要とするデショウ」

 

 

 

(パスポート……)

 それを必要とするような未来が、あるのだろうか。

 日課にしている筋トレをこなして、長めの入浴とストレッチを終えた望は、ホテルの部屋の狭いテーブルに、二冊のノートを広げた。

 一冊は、バドミントンのコートがずらりと描かれた、専用のもの。

 こういうものは一般の文具店では見かけないが、倉石によれば部活動用具の専門卸業者が取り扱っているのだという。

 もう一冊は、普通のノート。

 特段、誰かに見せるために書いているものではないが、日々の練習での気付きや、その日の心境などを手なりに書き綴ったものだ。

 三年に進級してすぐに三冊目のノートを使い切り、今広げているそれは都合四冊目になる。

 今までのページには、ゴールデンウィークの合宿から、夏のインターハイまでの記録を付けてあった。

 それからしばらくノートを付けていなかった望だが、ふと思い出したように、ペンを走らせる。

「速いラリー……スイッチを入れる感覚。──違うなあ」

 熱で消えるというそのインクで書かれた文字を擦って消し、望は改めて書き直した。

──ギアを上げる。

 これだ、とばかりに望は蛍光イエローのマーカーペンを取り出し、その短い部分をなぞる。

 言葉にしたことは案外すぐに忘れるように人間はできているが、何かに書き記す、というのは記憶を長持ちさせるには有効だ。

 備え付けのティーバッグをカップから取り出し、熱い紅茶を啜る。

「ふぅ……」

 明日は誰と戦うのだろう。

 二日間で七試合だから、明日は四試合だ。

 『パスポート』を使う気なら、今日負け越した選手を指名すればいい。

 ただ、今の望にとって、それはあまり意味のないことだ。

 そもそもデンマークの大会にしても、どれほどの質かは分からない。

 野球やサッカーならだいたいどこの国が強いかは望も知っているが、バドミントンにおける強豪国、というのはあまり聞かない。

 それこそ、キアケゴー氏やコニーの出身であるデンマークぐらい。

(たしか、ドイツの上の方だよね……?)

 あいにく地理の教科書は持ってきていなかったので、望は頭の中に世界地図を描いた。

 東南アジアの地形は詳細に描けるが、こと地球の裏側についてはぼやけてしまう。

 そこで話される言葉が何語かもわからない。

 英語ではないだろうというのは、夕食の時に重盛がもらったサイン色紙の文字で分かった。

 アルファベットだが、綴りは英語のそれではない。

「……ま、いっか」

 枕元に置いた携帯電話が充電コードにつながっていることを確認してから、望は部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。

 しんと静まった室内に、時折外の廊下の話し声が聞こえる。

 若い女性の声だから、たぶん望と同じ、この大会に出場している選手だろう。

 シーズン外れの南国の宿にはうるさい団体もおらず、心地よい疲労感にたちまち望はブラックアウトした。

 

 

 

「相手を崩そうとするあまり、堅く考えすぎだ」

 脳内で声が響く。

 電波の遠い通話のようなそれがさざ波のように引いて行き、ふと望は、自分がコートに立っていることに気づく。

 誰に宛てたものかわからない声援。

 隣のコートに目をやれば、どこの県の学校なのか、聞かない名前同士が戦っている。

 白帯の向こうには、志波姫──。

(……よしっ)

 主審に促され、望は彼女のサービスに備えて膝を曲げ、姿勢を低くする。

(初手は高く、奥に返す。身長がさほど変わらない相手なら、長いラリーはイーブンで行ける。問題は、そのあと──)

 二手目、三手目と望は徐々に志波姫をバックコートに押し込んでいく。

 空いたフロントにカットスマッシュを沈めるのがベストパターンだろうが、それが通用しないことは一セット目ではっきり分からされた。

(ミドル奥からストレート、ここから……)

 志波姫は高めの球で望をいったん下がらせ、作った時間で少しずつネット前に寄せる。

(ドライブで、ボディへ!)

 乾いた音を立てて、シャトルは志波姫の肩口に向かう。

 距離を詰めてのボディブローだ。

 いかに春の王者と言えども、苦しい体勢からなんとか肘を抜き、シャトルを弾き返す。

(詰まった! もう一度──)

 ごくわずかだが、確実に浮いたそれを望は、早いトップから今度はカットをかけて返球。

 同じ球なら二度は通じないだろう。

 しかし、肩から少しだけ沈んで鳩尾を抉ってくるそのシャトルを、志波姫はたまらずクロスに打ち上げて逃げる。

 次はヘアピン、と読んだのか。

 志波姫は小刻みにステップを踏み、ネット前中央に張り出す。

「ふッ──!」

 望の返球はまたしてもボディへ。

 十分なバックスイングから放たれたリバースカットは鋭く曲がり、シャトルは志波姫のラケットを弾いて転がった。

「よしっ!」

 志波姫に後手を踏ませた。

 望は興奮を沈めつつ、サービスの構えに入る。

 ここは間合いを取らない。

(一気に走る──後半に強い王者の方程式を壊す!)

 ロングを打ち上げ、望はコートミドルに出る。

 志波姫の返球は──。

(高い……? いや──)

 腰を溜めてタイミングをずらし、ラケットを振りぬいた志波姫を、望は見逃さない。

 しかし、相手を見ていた分、対応は一歩遅れる。

(差されたッ──一度クリアーで逃げる)

 トップを作り切れずに下から打ったクリアーは、それほどコースは厳しくない。

 案の定志波姫は、お膳立てと言わんばかりに望の足元へ返球。

 シャトルを追って前に出ながら、望は考えた。

 高度は既に白帯を割っている。

 上からは打てない。

(ここから押すには、どうする?)

 強打のない相手にラリーで勝つには、前に出るのが一番手っ取り早い。

 それを知らない志波姫ではないだろう。

 彼女はたちまちネット前に詰め、盤石の態勢で望を待ち受ける。

(乱れさせなければ叩かれる……ここはクリアー)

 渾身の力で、望はシャトルをしばき上げた。

 触れないぎりぎりを狙った『抜き』のクリアーなら攻勢的意味を持つが、このクリアーはそうではない。

 完全な時間稼ぎだ。

 志波姫もそう受け取ったらしい。

 一瞬ラケットを出しかけるが、あきらめてすぐにバックステップを踏む。

 呼応して望も後ろに跳び、改めて前に──。

(キック、バック……)

 前後のフェイントを入れた望に対し、一瞬の逡巡を挟んだ志波姫。

 二度目のキックを見て、彼女は改めてネット前勝負と確信し、ドライブを打って再び前に詰める。

(ここでヘアピン!)

 前に走る志波姫の目前に、望はそっとシャトルを『置いた』。

 可能な限り重心をニュートラルに保ちつつ、志波姫はそれを打ち返す。

(崩れない……でも、体勢は悪い!)

 白帯の上を這うように越えてきたシャトルを、望は落ち着いて返球する。

 志波姫のバックへのストップショット。

 時間を取ろうと、彼女はそれを掬い上げ、望の頭上に送った。

(浅い──叩く!)

 飛び上がった望は、力いっぱいシャトルを上から打ちつける。

 無理な体勢から放った攻撃は、十分な威力を持たなかった。

 なんとかボディには行ったが、スピードが足りない。

 志波姫は右足を引いてスペースを作り、器用にラケットを操って返した。

 詰まった距離が、徐々に開いていく。

(よし……バックコートへ!)

 望はほとんどネットに背中を向けた体勢から、ラケットを横に振る。

 ミドル奥に戻っていた志波姫は、足を切り替えて左斜め前へ出、広く空いた眼前、望のフォアサイドにヘアピンを送った。

(く──これじゃダメだ……)

 振り子時計のように、戦況は僅かな振れ幅で動いている。

 大きくバランスを崩すには──。

(ドライブ! 浮いていい、可能な限り遠く……)

 フォアハンドから、望は志波姫のコートの対角奥にシャトルを飛ばす。

 滞空時間の長いそれに追いつくのは苦労しない。

 志波姫は体を捻り、より長いクリアーを望に返した。

 コースはほぼ中央だが、十分な深さがある。

(リバースカット……サイドラインへ落とす!)

 半分、志波姫はそれを予期していただろう。

 しかしそれでも、物理的に拾えないシャトルはある。

 目いっぱい投げ出した志波姫の手からラケットが飛び、フロアに転がって大きな音を立てた。

 からん、からんからんからん……。

 湧き上がる観衆。

 望の脳内に反響する音は次第に大きくなり、耳がぞくぞくとするような感覚を伴って──。

 

 

 

「……あ」

 厚い布団にくるまれ、じんわりと汗ばんだ身体。

 呼吸をする胸の上下に伴って、掛け布団がかすかな音を立てる。

 まだ覚醒しきっていないのだろうか、少し耳鳴りがした。

「…………そうだよね」

 あの志波姫がラケットを手から滑らせるなど、有り得ない。

 夢の中でも失礼な話だ。

 望は独り、にやりとして、携帯電話を手に取る。

「五時半……か」

 ついこないだまでなら早朝ランニングの時間だった。

 しみ込んだ生活リズムはなかなか変わらない。

 寝巻き代わりの着古したジャージを脱ぎ、望は床に置いたカバンから、着替えの入ったビニール袋を取り出す。

 防寒用のスポーツタイツに、中綿の入った冬用のジャージ。

 寒さを考えるならニット帽も欲しいところだが、望の場合は簪が引っかかるのでNGだ。

「──行くか」

 名も知らぬ今日限りの隣人を起こさないよう、望はそっと鍵をかけてエレベーターに向かう。

 一階で止まっているそれを動かすのは、恐らく今日は彼女が初めてだろう。



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5th game Burning Desire

 二日目は、初日に三試合を戦えなかった十数人を除いた人数で行われる。

「デハ、各々対戦相手を見つけて、試合を開始してクダサイ。──あまり取材の方々を待たせないように、ネ?」

 いたずらっぽく笑ったキアケゴー氏が二階に収まると、集まった選手たちの中から一組、また一組と別れてコートに入ってゆく。

 望は、二日目の頭を埼玉栄枝の岩崎と戦うつもりでいた。

 年一回の恒例となっている、逗子総合と埼玉栄枝の練習試合で手合わせをしたことがあったからだが、それはもう一年以上も前のことだ。

 その当時の、倉石の指示に忠実に動く、しかしやたらに精密なバドミントン人形だった望ではない。

 もっとも倉石には、望を己の操り人形に仕立てるつもりは毛頭なく、ただ『逗子総合の石澤』を育てていただけのことだったが。

「──ねえ、あんた」

「え?」

 声の主が岩崎ではないことは、望にはすぐわかった。

 数人の人影の向こうで、岩崎は隣県の強豪、宇都宮学院の旭海莉と腹の探り合いをしていたからだ。

 そこに割って入って、この二人との連戦となるのは、望の本意ではない。

 そこまで自信は持てなかった。

 なお重盛は朝食を食べ過ぎたらしく、キアケゴー氏の挨拶が終わるとすぐにトイレに駆け込んでいた。

 昨日の二試合目で棄権し、デンマークへの挑戦権を失った矢本は、既に二階席で観客の一人となっている。

「やろうよ、一試合目」

 望に声をかけてきたのは、長門湯谷都央の深川ゆも。

 その珍しい名前は両親が付けたものだが、望にはその意味が分からなかった。

 ただし、『自由な発想』の両親に育てられたおかげで、同い年とは言え初対面の人にも、随分とフランクなようだ。

「あ、えっと……」

「深川ゆも。『ゆも』でいいよ」

 そう言ってはにかむ姿は可愛いものだが、望の返事も聞かずに袖を引っ張ってコートに向かう様は、周囲の耳目を集める。

(こういうのと付き合う彼氏は大変なんだろうなぁ……)

 まるでバドミントンとは関係のない事を思い浮かべつつも、望は彼女がつまんだ袖を振り払おうとはしなかった。

 

 

 

「オヤオヤ、ゆもチャンですか……これは大変デスネ」

「そうでしょうか? 久御山さんにあれだけの大勝をして、私はもう、石澤さんの方が……」

 髭のおっさんとぐだぐだ喋るよりは、お互い手の内を知っていてやり辛さのある岩崎と朝っぱらから戦う方がマシだと、旭は考えたらしい。

 そのため、今日のキアケゴー氏の話し相手は矢本だ。

 彼女には試合の予定はないから、たぶん一日中そうなるだろう。

「コトはそう簡単にはいきマセン──ゆもチャンは圧倒的スピード型デス」

 昨日、望が戦った相手は、豊橋にせよ久御山にせよ、基本的にはバランス型だ。

 その上で己の長所を磨いた結果、豊橋は粘り強い『拾い』を得て、久御山は一回り大きな核を得た。

「東のあかねチャン、西のゆもチャン──マァ、綾乃チャンもスピードタイプと言えばソウデスガ……この二人には劣りマス」

 可愛がっている割には、羽咲のことをあまり大きくは評価していないんだな、と矢本は思った。

 確かに羽咲は二つの大きな欠点を持つ。

 体格の小ささ、体力のなさ。

 バドミントンを辞めていた期間がある選手で、あそこまでハイレベルになるのは異常だと矢本は考えているが、単純なスピードであれば狼森、深川の二人が双璧と言えるだろう。

「恐らく、今の望チャンが最も苦手なタイプ……初っ端から体力を使い、カットを連発して走らせ続けレバ、この試合には勝てても、『その後』が辛くなりマス。唯華チャンなら、その辺は上手くやるデショウケドネ」

 対豊橋戦のように、要所要所で望が必殺技、完全ノールックでサイドラインに落ちるリバースカットを放つというのなら、それは値千金の一打となる。

 しかし、とにかくカット系を乱発して相手を振らなければならない、となると望の体力面で厳しい。

 足は四戦目でも動くだろうが、カットを打つたびに捻られる腕の筋肉は、そのうちオーバーヒートして使い物にならなくなる。

 中断期間のあった羽咲よりは体力はあるにせよ、キレがなくなれば、左利きのクロスファイアでさえ、サイズが大きく、ラケットワーク自体は決して抜きんでてはいない荒垣のような選手にすら拾われる。

「でも、唯華は別に、カットプレイヤーではないですけれど……」

 彼女と長く一緒にプレイをしていたということもあるが、矢本はいくつかの点で、望のプレイを志波姫に重ね合わせていた。

「唯華チャンは特別デス。彼女はバドミントンの『コア』が違う。例えて言うなら、『トラック』と『リリック』デスネ」

 『トラック』とは車のことではない。

 歌曲の伴奏、特にヒップホップ、ラップ系のそれを指して『トラック』と言い、『リリック』は韻を踏んだ特徴的な歌詞のことだ。

「『トラック』は原則的には、音楽理論に基づいて作られるモノ。対して『リリック』の自由度ははるかに大きい。何語を交えようが自由デスシ、例えばラップにありがちな『汚い言葉』も唯華チャンは、使おうと思えば使えるデショウ?」

 確かに、と矢本は頷く。

 もちろん志波姫の人間性からして、キャプテンという地位を笠に着て誰かを虐めるようなことは全くない。

 しかし例えばノック練習などでは、対面コートに立っているのが誰であれ手心を加えるようなことはなかったし、平たく言えばサディスティックなものを、矢本は時たま感じていた。

 息が上がり、太ももの筋肉が軋み始めている部員に対して、取れそうで取れない──逆だ。

『取れなさそうで取れる』配球をするのが、格段に上手い。

 だからこそ身体の大きい矢本や雄勝が、大舞台で活躍できる選手に育ったわけだが。

「ソノ二人が組めば、面白いデショウネエ……」

 にんまりと目を細め、キアケゴー氏が呟いた言葉を、矢本は聞き逃さなかった。

「あの、この大会で優勝したらデンマーク派遣っていうのは……」

「フフフ──始まりますネ」

 

 

 

(速っ──!?)

 これはシングルスのラリー速度ではない、と望は驚嘆していた。

 距離を取ろうとクリアーを深め一杯に打っても、数巡すればまたネット前の乱打戦に戻る。

 まるで、社会科の授業で見たビデオの、湾岸戦争の対空砲火。

 テレビの中の出来事と違うのは、望のシャトルが次々と撃墜されていることだ。

 時の米大統領なら、そんな事態になれば世論に配慮して早々と撤兵するところだが、もちろん望にその気はない。

 対空砲火の一瞬の切れ目を縫って、望は申し訳程度のポイントを取り返す。

 常軌を逸したスピードバトルが十八番の深川だが、目の前の強敵を撃ち落とすために少々無理をしているらしく、いくつかネットにかかったシャトルもあった。

 それでもスコアは4-11。

(落ち着け、相手のリズムに呑まれるな……)

 望は心の中でそう唱えてから、目を瞑って二、三度深く呼吸をする。

 速いラリーを落ち着けるには、クリアーの連打でとにかく相手をミドルコートから奥に押し込むしかない。

 それぐらい望も分かっている。

 論理的思考というよりは、身体に染み付いた行動原理のレベルで。

 人間の三大欲求の一つ──どれかはわからないが──が『シャトルを拾う』に置き換わったのが羽咲とすれば、目の前の深川は、『速く打ち返す』に置き換わっているのだろう。

 夕方になればこのスピードも少しは衰えるのだろうが、今はガソリン満タンの朝一発目だ。

 二セット目の頭からがむしゃらに全力をぶつけて行けば、そのセットは獲れるだろうが、消耗戦に引き込むのは『その後』を考えると、最終的な勝利が遠のくように思える。

(そういえば、あんまり『速い選手』とやったこと、なかったなぁ……)

 ふと、望はそう考えた。

 自分には経験値がない──少なくとも、これほどのレベルのスピードラリーは未体験ゾーン。

 で、あるならば。

(……このセットは相手にやる。ひたすらクリアーを打ち続けて、深川が前に出るパターンを全て曝け出させる。それから、第二セットで深川の『一歩目』を潰す。これしかない──)

 

 

 

「……スピード、落ちました?」

「マサカ」

 まだ午前中ですよ、とキアケゴー氏は笑う。

 だが、コートから聞こえてくる打撃音は、第一セット前半よりも明らかに間延びしていた。

 というよりも。

「ただ、リズムは変わっていますネ……まるでシャッフル・ビートデス」

 同じようなリズムを、矢本は聞いたことがある。

 スマッシュ練習だ。

 それよりは幾らか二つの音の間が縮まっているのは、深川の方がミドルコートより前で望のクリアーを捌いているからだ。

 コートの中では、深川がとにかくドライブで望を振り回し、望の方は全く反抗することなくひたすらにクリアーを上げ続けている。

 コースも間合いも厳しいそれを無理やりクリアーに持っていっているのだから、深い返球にはならない。

 そんなラリーを十数回も続ければ破綻する。

 シャトルがコートに落ちた回数は、望側の方が圧倒的に多かった。

 結局望は第一セットを8-21で落とす。

 しかし、コートチェンジをしてこちら側に来た望の顔は、矢本には妙に自信ありげに見えた。

(さて、と……)

 僅か八点しか取れなかった第一セットだが、望の心中に焦りはない。

 傍目にはまるで深川の練習相手をしているような、クリアー一辺倒のラリーパターンも、意図したものだ。

(前に出る方法は、だいたいセオリー通り──深川は、相手も前に引きずり出して、決着を付けたがるタイプ……)

 基本的に深川はショートサービスしか打たない、ということも望は分析していた。

 ショートサービスに対してのレシーブ、という意味のクリアーでは、本来もっとコースを突くべきもの。

 しかし、第一セットの後半全てを、望はまず『見る』ことに消費した。

 事実、望が挙げたクリアーは、絶妙なコースに打ち分けられたものではなかったし、さして上背のない深川であっても、それを叩き返すこともできた。

 だが敢えてそうせず、彼女はネット前に望を出させる。

 つまりはそこで優劣をハッキリさせて追い込むのが、彼女の戦い方なのだろう。

 深川も同じくクリアーで返球してくるから、必然的にネット前勝負になる。

 さもなくば、彼女はヘアピンを落とすだけで簡単に完封することができたし、望もある程度はネット前に付き合った。

 よほど自信があるのだろう。

(実際、上手い。でも──『誘う』クリアーを打つ瞬間に、隙が出来てる……)

 そこを突くにはどうしようか、と考えているうちに、インターバルは過ぎた。

(まずは、強打を入れてみる)

 第二セットは、望のサービスからだ。

 (ロングで行く。ネット前を嫌っている、無理やり引きずり出している、と思わせるために──)

 一瞬深川と視線を合わせ、望はシャトルを左手から離す。

「っ──!」

 ロングなら、打ち上げたシャトルが落ちてくる間に、望はネット前に詰めることが出来る。

 深川にしてみれば、手間が省けて好都合だろう。

 案の定彼女は、返球はしやすいが微妙な高さに、シャトルを打ち返してくる。

(この乱打戦は付き合う。でも、この一回きり──!)

 相手が前に出てくるのは予想通りだ。

 足元を突くのは困難と見て、望は彼女の手元にドライブで返球。

 サイドアームからでは、そう厳しい球は返せない。

 深川は手首を返してシャトルをラケットにミートさせ、望のボディ目掛けて打ち返す。

(久御山戦のアレで行くか……? いや──ここはボディにドライブ!)

「ふッ!」

 望は身体を大きくスライドさせ、ラケットを振るスペースを作る。

 なんとか面は作れたが、コースは限定された。

(関係ない、強くッ!)

 身体のほぼ真横で捉えたシャトルは、それなりの威力を得て深川のバックサイドに返った。

 ヘアピンを落とせば、望がそれを読んで動いていなければ、得点できただろう。

 しかし深川はあくまでも望を『抜く』ことに拘っている。

 当然だ。

 さっきの第一セットは、それが通用したのだから。

(キックして身体を中央に戻す。そして下がりながら──)

 望がヘアピンを拾うためにネットと平行移動していれば、そのシャトルは彼女の腋の下を抜けていっただろう。

 しかし、深川が打ったのはバックハンドのドライブ。

 無論、威力はフォアよりも落ちる。

 ドライブと読んでバックステップを踏んだ望には、それをコントロールして返すことは容易い。

(低いフォアへ……勢いを殺せ、できるだけ──)

 ワイパーショット。

 深川は腕を伸ばして何とか拾うが、厳しい返球は出来ない。

 ネット前勝負を挑んだ時点で、コート片側に押しやられてからの、球足の短い急角度のワイパーに対抗する術はない。

 広く空いたバックコートへシャトルを沈め、まずは望の得点。

(これでいい……まず、『組み立てを変えた。簡単には抜けない』と思わせる。その上で──)

 二本目のサービス。

 望はショートサービスを選択した。

 深川にとっては大好物だろう。

 難なく拾ってすぐさま、ネット前に張る。

(あくまでも『抜き』に来るか……)

 今度は望は付き合わない。

 バックハンドからクリアーを、深川のバック奥へ。

 間合いの長いラリーに引き込むつもりだと彼女は誤解したのか、頑なにロングラリーを拒み、望が前に出る時間をわざわざ作るハイバックのクリアー。

 コート対角から前に出てくる深川を確認して、望は『必殺技』を放った。

 自分から間合いを詰めたのだ。

 何が起きたかを正確に把握できたとしても、対処する時間はない。

 シャトルはネットにかかる。

 2-0。

「よぉしっ!」

 望はひときわ、大きなアクションを取ってみせる。

 安っぽい挑発ではない。

 そうなればしめたものだが、望の狙いは、『このリバースカットが奥の手』だと深川に思わせることにあった。

 苦しくなれば『アレ』が飛んでくる。

 クリアーで距離を取るのは愚策だ、そう思わせるために。

 

 

 

 そこからしばらく、望が優位で試合は進行した。

 スコアは15-9となっている。

「ウーン……」

 キアケゴー氏はなにやら不満顔だ。

 急場しのぎの対策に、羽咲よりもお気に入りの『ゆもチャン』が引っかかっているのが気に入らないのだろうか。

「石澤さんは、立て直しましたね」

 矢本がポツリと感想を漏らす。

「ソウデスネエ……確かにあのリバースカットがあれば、不用意に間合いを開くのは危険デスガ……」

 なまじ『見る時間』があるから見てしまう。

 望は、ストレートにカットスマッシュを打った場合の『偽』の着弾点を見て、ラケットを振っている。

 どれぐらい肘を捻り、いくつの回転数をシャトルに与えれば良いのか。

 彼女はそれを体得していた。

 それを意識してコントロールする練習を、ひたすら積んでいたから。

 もやがかかったような不明瞭な精神状態のまま、身体はひたすら単純作業を刷り込まれ、意識は単純化されていく。

 もっと重心を下げろ。

 パターンCは、Dは……。

 お前は荒垣とは違う。

 ──じゃあ、『わたし』はいったい、なんなのか──

 五里霧中の中で、倉石の指導だけが『灯台』だった。

 ひたすらそれに向かって漕ぎ続ければいずれ、船は辿り着く。

 辿り着かなければ『死』だ。

 ただ一点だけを目指し、意識を集中させる。

 意識、意識、意識……がやがて無意識になる。

 そうして霧が晴れた瞬間、望は己にありとあらゆる『武装』が備わっていることに気づき始める。

 荒垣が手渡し、志波姫が鍵穴に差し込んだ『鍵』は、あるいは安全装置の解除キーだったのかもしれない。

 手にした武器は無意識に操られ、『正しい着弾点』を見なくてもそこに打ち込める。

 攻撃目標の座標を入力してから発射される、巡航ミサイルのようなものだ。

 根本的に、それを迎撃するにはまず、望が狙う『座標』を読まなければならない。

「その為ニハ、『一つか二つ前のラリー』で、彼女がロックオンしている瞬間を見逃してはイケマセン。デスガ……」

 深川は、己の最大の武器を生かすために、前後左右の揺さぶりで望を釣り出すことに労力を割いている。

 それではダメだ、とキアケゴー氏はため息をつく。

「イケマセンネェ……『音』がうるさすぎます、アレデハ」

「ノイズ、ですか」

「エエ……」

『一つか二つ前のラリー』の時、石澤は前に張りたがる深川のために、自分自身も付き合って前に出ている。

 そこで行われるのはたいていヘアピンの交換。

 仮に望のヘアピンが甘ければ、深川がプッシュの連打で強引に勝ち切るか、あるいはいったん彼女をネット前から剥がして、自分だけが優位な位置をキープしようとする。

 また逆に深川が甘ければ、やや浮いたシャトルを望がコースにコントロールし、深川を四隅に押し込んでから開いたコートへ叩き落す。

「ゆもチャンは、身長にしては腕が長いデスヨネ? いわゆる、ウイングスパンが広いプレイヤー……」

「確かに……」

 スピードプレイヤーにありがちなスタミナの消耗による自滅を深川があまり見せないのは、腕が長い事で、フットワークをある程度『サボれる』ことによる。

 長い腕は、短く使うこともできる──それが抜群に上手いのが、彼女を全国区のプレイヤーに押し上げている理由の一つだ。

 これは綾乃チャンにも言った事ですが、とキアケゴー氏は前置きして話す。

「日本の高校生のレベルは、世界的に見ても高い方デス。その中で一定の地位を築けるプレイヤーは必ず、何かしら『ストロングポイント』を持ってマス」

 羽咲は『サウスポー』、荒垣や津幡は『強打』、志波姫は『戦術』……。

 倉石から譲り受けた老獪な『戦術』はまだまだ望のモノにはなっていない。

 志波姫のように数多の強豪と渡り合っていくことで、今後醸成されていくものだ。

 即ち望の『戦術』は、現時点で志波姫のそれに比べれば劣るものだが、彼女にはそれと別に、目の肥えた元全日本の記者をして、『シャトルの捉え方が上手い』と言わしめる長所があった。

 肘の柔らかさからくるカットのキレは、言ってしまえばその副産物に過ぎない。

 そして、深川と同じように──シャトルの捉え方が上手いなら、『下手』に捉えることも出来る。

 だが、『スピード』は本来歓迎すべき『身体の成長』に伴って徐々に失われていく。

 トレーニングをして筋肉量を増やせばウェイトは増え、それでもスピードに拘れば、待っているのは悲劇的な破綻だ。

「スピードと言うのは、只々『速ければいい』と捉えられがちデス……」

 ところが実際には、そのスピードを敢えて『遅く』することで相手を幻惑することも出来るものだ。

 瞬間的にではあるが、望は『着弾点を見るスピード』をゼロにしている。

 それは最速ともいえるし、最遅ともいえる、言わば『特異点』──ゼロ・ポジション。

──そもそも、『荒垣とは違う』って、いったい何が。

 第二セットを望が21-16で勝ち切りイーブンに戻した後、二人はインターバルに入る。

 身体を休めることに専念している望に対して深川は、軽くステップを踏み、手首のストレッチをしていた。

 最終セットは序盤から得意のスピード勝負を仕掛け、ポイントを奪って逃げる腹だろう。

(私が荒垣と違うのは……)

 身長、パワー、選球眼、ネット前、カット……ほんの数秒ほどの時間でもこれだけ思いつくほど、あらゆる要素がある。

 要するにそれらが『優』と『劣』を両極に持つ軸線上に散らばっているのだと、望は気付いた。

 『違う』ということ自体が即ち『劣っている』わけではない。

──なんだ、倉石監督も言ってたじゃない……。

 荒垣なら深川に対して、ひたすらにボディを強打してまともにラケットを振らせない戦い方ができる。

 深川お得意の、『ネット前』に持ち込む展開の出鼻をくじいて、すんなりストレートで勝ちきれる。

 それができなくとも望には、深川に勝つ方法がすでに備わっているはずだ。

(裏をかく……このセットもそれで行く)

 第一セットとの無抵抗とはうって変わって、第二セットは望がラリーの主導権を握り続けた。

 リバースカットを意識させて深川の出足を抑えたこともあるが、突如豹変した相手に対する戸惑いもあっただろう。

 それを受けての作戦続行だが、望はひとつの見落としをしていた。

 いくら策を弄しても根本的に『スピード』は深川が上であること。

 そして、追い込まれた対戦相手が迷いを殺して愚直に向かってきたとき、『裏』は無くなる。

 

 

 

「──っ!」

 完全に差し込まれた。

 浮いたシャトルはサイドラインを割り、深川のポイント。

 カットの切れが落ちたわけではない。

 不意に挟み込まれるカットスマッシュに、彼女が完璧にタイミングを合わせて返球してくることはなかった。

 それでもスピードにやられてコントロールを失う場面も多々あり、スコアは13-13。

 幾度か先頭は入れ替わったが、お互いが相手の背中に張り付きながら高速ラリーを続ける展開。

(どこまで付き合うか……)

 望はこの状況でも、自分がさほど冷静さを失っていないことに安堵する。

 相手の意図が決まり切っているのも一つの要因だが、そもそも深川は本来、今まで望が相対してきた強敵たちに肩を並べるには、少しばかり力不足な選手だ。

 『ベスト4』の志波姫や荒垣とやりあった望にとっては、『ベスト8』級の彼女の『強さ』そのものは、未知の領域ではない。

(志波姫の手を使う? でも──)

 インターハイ団体戦、志波姫との第二セット序盤で彼女にやられた手。

 速いラリーを落ち着ける、と見せかけてその実、ドライブを望に返球し乱れを誘った。

 恐らくあの試合ではそれが『真実の瞬間』だっただろうし、相手が『自分自身』なら間違いなく有効なだろう。

 しかし、相手は自分よりもスピードのある深川だ。

 彼女たちの世代の一般的な選手──たとえば泉や、重盛のドライブのスピードが100として、荒垣やコニーのドライブは時に軽く150を上回る。

 なかばスマッシュのような強打だからこそ、大きな武器になるわけだが、シャトルを拾う速さも計算に含めれば、羽咲や狼森、目の前の深川だって120ぐらいは出ているだろう。

 前に詰めて前で打つ、それは遠くから強打するのと結局、時間的には変わらない。

 望や志波姫は、戦術で優位に立てる分や、コントロールの良さによるコースの厳しさを加味しても、やはり120程度。

『普通のプレイヤーよりは、なかなかいい』──そんなものだ。

 だから多分志波姫はもし荒垣と対戦したら、スマッシュは絶対に打たせない。

 相手の『150』を殺すと同時に、自分の『120』を押し付けていく。

 自分にもそれが出来ればいいのに。

 望はそんなことを考えながら、深川のラリーに付き合い、お互いに二点ずつを得る。

 15-15。

(……もう、いい加減に突き放さないと)

 こういう張り付いた終盤では、『強み』のある深川の方が走りやすい。

 一点を先んずれば、間を置かず次のサービスを打ち、同じムードのままで二点目を奪いに行ける。

 デュースに入ってしまえば、それでゲームセットだ。

(うーん……)

 確かに追い込まれてはいるが、望は微かに口角を上げる。

 少し笑ってしまうほど、自分の思考回路の安定感に驚いた。

 今なら志波姫のように相手の行動の理由を、七つも八つも考えられるだろう。

 また一点ずつを取り合い、16-16。

 誰かに、どこかにヒントはないか──?

(久御山……違う。荒垣は、無理だ……)

 ふと、耳に別コートのコールが飛び込んできた。

「マッチワンバイ旭。21-19、18-21、24-22」

(旭……益子……いや、そんなセンスは──そうだ、羽咲!)

 集中力をいったん切った望が落としたポイントの後、深川が間髪入れず続けたラリー。

 その最中、望はラケットを握る手をほんの少しだけ開いた。

 中指と薬指だけが最低限密着していれば、それでコントロールは出来る。

 基本的にはパワーのなさを補うため、しっかりラケットを握って打つことに拘ってきた望だが、ここで一旦、それを捨てた。

『強打』の裏は、『弱打』とでも言うべきか。

 僅かに緩んだシャトルは、ほんの少しだけ深川のステップを澱ませた。

 息の上がった望が、少しタイミングをしくじったように思えただろう。

(もう一度、今度は普通に──)

 オーケストラの指揮者のように、望は抑揚をつけてラケットを振る。

 深川のフォア、低めに落としたシャトルも、彼女は身体を翻して難なく返球してきた。

(次は、ちょびっと『掛け』て──)

 打撃音が鈍くなった。

 少しだけ山なりになったシャトルに、深川はまたも足を惑わせる。

(ここで、真っすぐ──叩け!)

 ボディへのドライブ。

『伸びがいい』シャトルは、深川の胸元に飛び込んでいく。

 ラケットのネックを弾いたそれは、彼女を飛び越して真後ろに落ちた。

 17-17。

「──よしっ!」

 傍目には、簡単なミスで取られた点をあの手この手で何とか奪い返したように見える。

 しかし、『それ』に気づいた者もごくわずかにいた。

 

 

 

「『天才』──という言葉は、この場合敬意を欠いていますネ……」

 キアケゴー氏はゆっくりとしたテンポで、そう評した望に拍手を送った。

「ちーチャンは、ラリー図を描いたことアリマスカ?」

「へ? あ、まあ……一年のころなんかは結構……」

 ラリー図とは、コートの図に、そのポイントごとのラリーの流れを描き入れてゆくものだ。

 ごく基本的な定跡と言えるパターンなどは、書店にあるバドミントンの入門本などにも載っている。

 矢本が描いていたのはフレゼリシア女子に入学した頃。

 それまではシングルスプレイヤーだった彼女が、高校に入ってダブルスプレイヤーとして戦っていくために、その当時の先輩の試合などを描き入れていたものだ。

 それを持って試合後、先輩に『あの時なぜこうしたのか』と聞き、また志波姫達ともそうやって切磋琢磨してきた。

 指導者である亘監督は、倉石のように口数の多いタイプではないから、部員同士で考える必要が大いにあったのも理由の一つだ。

「アレね……プロの中には軌道の横に『数字』を書いている人も居るんデスヨ」

「数字?」

 望が試合中に考えていた三桁ではなく、一桁の数字。

 それは紙のスペースを考えれば当然の対処だろうが、たとえばある選手は五段階ぐらいで、そのショットの『強度』を明記しているのだという。

 1なら80%、2なら85%……という風に、微妙に各ショットの強度を変えていくことが、揺さぶりになるのだという。

「へえ……やっぱり、プロってすごいんですね……」

 小学生並みの感想を返しつつ、矢本は考える。

 各ショットの強度『だけ』を変えることができるプロのレベルの高さにも驚くが、それを同い年である望が、その精度の差こそあれ『出来ている』ことにはより驚嘆を覚えた。

 もっとも、それが出来る選手はほかにも知っている。

 志波姫だって、あの第二ゲームで当の望を乱れさせたのは『その手』だったし、キアケゴー氏のもとで羽咲は、同じフォームから繰り出す三種類のクロスファイアを使って狼森や益子を破った。

 本質的には同じことだ。

 望がそれを出来ることにも、よくよく考えれば不思議はない。

 誰よりも高い確率でシャトルをクリーンヒットできる彼女が、敢えてそうしなかったとき、シャトルは伸びを失う。

 だが次のシャトルは、元気いっぱいに伸びてくる。

 同じスイングからその二種類が来れば、どうしたってこちらの精度は悪くなる。

 二階席で座って見ている矢本だから、なんとなく『何をしているか』が分かる程度で、コート内を走り回り、視線がブレている深川には、全く気付けない。

 志波姫が望に掛けた『球種を見誤らせる』という魔法よりも、こちらの方が厄介だ。

 視野が広かろうが対応するスピードがあろうが、『気付けない』──意識の外から攻撃されているとなっては、対処不可能。

 無論それで惹き起こされる『乱れ』は、志波姫のそれに比べればごく小さいものだから、彼女のように即座にポイントにつながるものではない。

 深川は『自分が少し疲れてきたから精度が落ちている』としか思っていないだろう。

 だが、この状況下ではそれで十分なのだ。

 第三セットを自分のストロングポイントを望に押し付けて走り切る──そう考えていた深川の目論見は、この土壇場でひとりでに崩れる。

 また『裏』が現れれば、とどのつまりは同じこと。

 21-18。

 欺瞞の『疲れ』に自ら飲み込まれた深川は急にパフォーマンスを落とし、望が終盤ポイントを連取して試合は終わった。

「セッティングを終えた状態──自らの心が揺れていない状態デハ、望チャンは強いデス」

 しかし、どこか『お膳立て』に拘り過ぎているところがあった。

 心がしっかりと立てば揺れることはないが、まずセットアップが出来ないと途端にパフォーマンスを下げてしまう。

 その状態では、『上』で戦っていくのは、厳しい。

 そうキアケゴー氏は言う。

 国際大会ともなれば、縁もゆかりもない地球の裏側の国から、とんでもない才能が飛び出してくることも、ままあるのだ。

 そもそも荒垣に敗れたのも、望が自分で考えたのではなく、倉石が考えた戦術が通用しなかったのが本質だ。

『お膳立て』が崩れた後も、一時の覚醒状態を得て取り返すには至ったが、それは幻でしかない。

 扉が開いたのはやはり、志波姫との一戦だ。

「シカシ、マァ……あと三試合、誰が抜け出しマスカネェ」

「これって、トップの選手しか行けないんですか?」

「ソウデスネ。最終的には、『私が決めることではない』デスガ……」

「──?」

 

 

 

「シゲ、お疲れ──もしかして……」

「勝ったよ、初勝利!」

「やったじゃん。相手は──」

 今治第三の鈴木らしい。

 初日の練習時に、連れの阿方の方は待たされて不機嫌な顔を見せてきたが、対照的に柔らかな表情の、どこか所作もおっとりした彼女を、望はよく覚えていた。

(まあ、でも……)

 ああいう、『毒』のない子は、そんなにスポーツは強くならないんだろうか。

 重盛にしても、たまにきつい事を言う。

 もっとも彼女の場合は悪気はなく、持ち前のハングリー精神がそうさせるだけだろう。

「ま、一勝三敗だからね。デンマークは無理だなぁ。石澤は?」

「勝ったよ。でも、一セット落とした」

「四連勝かぁ……やっぱ石澤とやるの、辞めよ」

 重盛がぽつりと漏らした言葉に、望は耳を疑う。

「……なんで?」

──勝負は、やってみなきゃわからない。

 そんな安易な言葉は、重盛を惨めな気分にさせるだけだろう。

 望は出かかった言葉を呑み込んだ。

「やらないよ、悪いけど」

 その言葉を合図に歩き出した重盛を、望は早足で追った。

 二人は横に並んで、会場外の自販機に向かう。

 彼女は悟ったのだ。

 全国区の強豪を薙ぎ倒して四連勝した望と、凡人同士の手慰みでようやく一勝を拾った自分には、埋め切れない実力差がある。

 それは今となっては客観的事実かもしれないが、それが全てではない。

 重盛はそんな投げやりな性格ではないし、一時の苦悩を周囲に八つ当たりするような子供でもない。

「──やらないよ?」

 自販機まで来て、重盛は同じ言葉を繰り返した。

 望の予想通りだが、彼女の表情には、諦観や卑屈さは無く。

「わかった。……シゲ、ありがと」

「おう! また、あとで」

 重盛は笑顔を見せ、買ったばかりのペットボトルを手に戻っていく。

 宮崎に来る前、重盛は『高校でやりきった』と言った。

『でも、まだ終わりたくない』──とも。

 彼女の高校での競技生活は、ある面では全く満足のいく、実り多い日々だっただろう。

 木叢監督は、倉石のように煩いタイプではないと望は記憶していたが、それは虚飾やハッタリで、生徒を惑わせないためだろう。

 倉石はときたま、望や選手たちを鼓舞するために、大きなことも言う。

(あぁ、そうか。やっぱりシゲは……)

 大して期待もされずに入学したとはいえ、木叢監督の大切な教え子の一人なんだな、と望は思う。

 横浜翔栄の選手たちは、自分で考える。

 それは木叢監督の指導の根幹を為すもので、試合中一番煩いと言われる逗子総合とは対照的だ。

 好対照、とは言わない。

 実際倉石が観客から顰蹙を買ったり、主審に注意を受けることもしょっちゅうで、『分からない人』から見れば、生徒に自分の考えを押し付ける傲慢なロートル──そう思われることもしばしばあった。

 当然、逗子総合の部員たちは倉石がそんな三流監督でないことはよく知っていたし、心情的には気に食わないことがあっても、結局『勝てる』わけだから、それでよかった。

 対して木叢監督は、究極的には『勝ちを追わない』──。

 生徒が自分で考え、必死に戦った結果ならば、将来バドミントンを続けていく上での、『より良き負け』と考える。

『敗北』が意味を持たなくなるのは、バドミントンで金を稼ぐようになってからだ。

 コニーのように。

 もちろん、強豪校の指導者としては結果を残さなければいけないから、彼は特待の待遇をABCの三つに分けることで、競争意識を煽り、学校側のコストを下げるという一石二鳥の手を生み出した。

 C特待だから来なかった選手もいるし、重盛のようにそれでも翔栄に来た選手もいたし、Aに甘んじて、自分の『本当の大きさ』を見誤った選手もいた。

 ともあれ、それが奏功しているのは、逗子総合の連続インターハイ出場記録が途絶えたことで証明されている。

──だからシゲは、考えてくれたんだ。

 望は『友達』に感謝した。

 重盛に勝っても他の誰に勝っても、一勝は一勝だ。

 単純に、デンマークには近づく。

 だがそれに、どれほどの意味があるのか。

 『格下』から稼いだ星でまやかしの栄光を買っても、何も得られない。

 橋詰のようになるだけだ。

 上手かろうと、強かろうと確固たる基礎が無ければ、鉄火場でバックを引く。

 その場凌ぎではたとえ、『精一杯』やろうと、勝てないのだ。

 重盛がさっき言った、『悪いけど』の意味が分かって、望はほっとした。

 一瞬揺らいだ心が、ぴたりと定まる。

 二試合目は誰にしよう。

 さっきの深川ほど鮮明な武器を持った選手は見当たらないから、別に一セットを『見』に費やす必要もな い。

 同じタイプとの単純な実力勝負で行けば、望と同じ『インターハイに出た組』の、埼玉栄枝の岩崎や、宇都宮学院の旭には多少分が悪いかもしれない、と彼女は考えている。

(どっちかというと旭の方が嫌だな。知らないし……)

 とは言え仮に負けたところで、それは『より良き負け』にあたるものだろう。

 同じタイプの選手同士の対戦なら、細かい部分の優劣で鬩ぎ合っていくことになる。

 そういう試合を通じて、志波姫に近づいていくことが望の現時点での目標であるし、結果的に今回デンマークには行けなくとも、バドミントン人生においては価値がある。

 だが、重盛と戦って得られるものはない。

 将来の時点では、あるかもしれないが……。

 お互い、バドミントンを続けるにしても日本の大学だろう。

 デンマークに行けても、入社式も終わっているこの時期では、実業団からの誘いは流石にないだろうし、

 せいぜい、私学の入試が始まる二月末ぐらいまでに、ちょっとはオファーが来れば上出来だ。

 海外に留学というのも現実的じゃない。

 ならばこれから未来で、どこかで交わることもあるに違いない。

 その時に取っておこう。

 望はスポーツドリンクを飲み干して、エントランスの対戦表に向かう。

──あと残ってる『四連勝』は誰だ?



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6th game When Johnny comes marching home

「ミス・アンヌ? これは何かの間違いデハ……」

「いいえ、合ってます。電話して確認しましたよ? 申し訳ないが、今回は準備期間が取れないので、と……」

 久しぶりに、自分より胸の大きそうな女性を見た。

 矢本はそう思って、キアケゴー氏の手元の紙を覗く。

「なんです? これ……」

「アッ! ダメですよ、ちーチャン。これはトップシークレットデス。ヒットマンに命を追われマスヨ!?」

「はぁ……」

 国家の存亡を左右する機密文書でもあるまいに、と矢本は苦笑する。

 一瞬ちらりと見えた文字は、何某の『辞退』。

 彼の抱えているアカデミーが、どこかの国の選手を引っ張ろうとして断られたのだろうか。

──あれ?

 待てよ、と矢本は気付く。

 一瞬で読めたのなら、それは日本語のはずだ。

 辞退する?

 インターハイも終わったこの時期に、何を?

「参りましたネェ……マァ、私がいくら気を揉んでも仕方アリマセンガ、コレハ……」

 隣の老人は、その紙をくしゃっと握り潰した。

 丸まっていて光沢があるから、おそらくファックスの用紙だろう。

 亘監督に言われて、よくファックスを送ったり、受け取ったものを持っていったりしていたから、矢本にはわかる。

「そうすると……『アソコ』しかないですネェ……」

 思案顔の老人をよそに、フロアでは二試合目がちらほらと始まっていた。

 望の姿を矢本は探す。

 すると、視界の端の方で、簪がきらりと輝いた。

 対面にいるのは、『ミカン色』だ。

「これは、勝てそうですね……」

「エエ、まあネ」

 なんとなくキアケゴー氏は上の空だ。

 矢本も集中を解き、ゆったりと眼下の試合を眺める。

 昨日の『ミカン色』──那智高の何某さんのプレイを見るに、今の望と張り合えるレベルにはない。

 これは無風で勝ちだな、と彼女は思った。

 あまり長いラリーも続かず、というよりも『ミカン色』のミスが多く、望は得点を重ねていく。

(んー……確かに強打はあるのだけれど……)

 それ以上にミスが多いし、強打自体の精度も低い。

 気の強い雄勝なら、『よくこんなんでインターハイに出られたな』などと、ポロっとぬかしてしまうレベルだ。

 矢本も油断しないように、唇をきゅっと結ぶ。

「マァ、田舎の選手ですからネ……」

 キアケゴー氏もつまらなそうに言う。

 あるいは、さっきの『辞退』のショックが尾を引いているのか。

 お気に入りの絵本を読み終えてしまった子供のような目をしている。

 しかし、そんな二階席とは対照的に、コートの中の『ミカン色』は、大差にもめげずにパワー全開だ。

 気圧されて多少はポイントを失ったとは言え、試合が行われている各コートの中でいち早くインターバルに入っているぐらいだから、望にとっても楽勝は楽勝なのだろうが。

「でも、楽しそうですね」

「部活動としては、アレが正解デショウ。立派な『アスリート』デスヨ」

 それが野球部であれサッカー部であれ、高校における部活動とは、あくまでも教育の一環だ。

 プロを目指し、物心ついたころからラケットを手にしていた選手と、高校に入って初めてバドミントンのコートに立った選手とでは、当然実力は大きな差が出る。

 和歌山。

 矢本には場所も良く知らず、ミカン畑しかないというイメージの田舎だ。

 過疎の進む地域の高校で部活動を運営するには、バドミントンのような、一人でもできるスポーツぐらいしか成立し得ないのだろう。

 しかし、たとえば幼いころからバドミントンをやっている選手が最終的に目指す地点──『プロ』になるために、『競技を楽しむ』ということが絶対不可欠な資質の一つであるとするならば、コートで望と対峙しているプレイヤーは、他の要素はともかく、それだけは間違いなく持っていた。

 あのインターハイで、望が最後まで見せなかった、見せられなかった表情を今、彼女はしている。

 第二セットも最初のラリーでスマッシュをアウトにしてしまった彼女は、最早この試合では望の影を踏むことさえないだろう。

 それでも、いつかの日に一旦潰えた『石澤望』というバドミントンプレイヤーの、祝福すべき再誕に、彼女──『橋本芽衣』はほんのひとさし、色を添えるに違いない。

 

 

 

 

 五連勝、セットロスはわずかに1。

 旭海莉と石澤望は、矢本の棄権を別にすれば、その数字で並んでいた。

 もしこの後二試合を戦ってまだ同率だった場合、自分の棄権が何かしら影響してくるのではないか……と、矢本は心配している。

 昼を過ぎ、セットは二つ落としていたものの、同じく五勝で並んでいた埼玉栄枝の岩崎が、豊橋に敗れて星を落とす。

 望は今治第三の阿方に、旭は雲海の有川に勝ち、六勝をキープ。

 文句を言わせないためには、直接対決しかない──。

 旭もそう考えたのか。

 二階席で、彼女は望を『待っていた』のだろう。

「いいよ。最後だし、ハッキリさせようか」

 彼女は静かにそう言って、ひとつ背伸びをした後、歩き始める。

 フロアに下りる階段は狭いし、なんといっても今はライバルだから、望は彼女の後ろについて歩いた。

 ささやかな観察だ。

 背筋を伸ばし、軽い足音を一定のリズムで刻んでいる。

 同じ会場で六試合もやっていれば、少しは相手のプレイを見る時間はある。

 その意味では、重盛と一緒にうろうろしていた自分よりも、旭の方が少しだけ有利かもしれない。

 そう望は考えた。

 

 

 

 降りていく二人を見送って、矢本と重盛はキアケゴー氏の言葉に耳を傾ける。

「泣いても笑っても、これがラストゲーム。総合的には同じタイプ、サイズもウイングスパンも同じぐらいデショウ」

 少し望チャンの方が『重そう』ですがね、と彼は付け加えた。

 生理の重さなら益子と毎日付き合っている旭の方が重いだろうと重盛は考え、矢本は『それを言うなら、胸は私の方が……』と視線を下に向けた。

 恐らくキアケゴー氏の意味するところは後者だろうが、ともあれ二人はコートにつき、言葉を交わすでもなく準備を始める。

 と。

「──ねぇ、一セットじゃダメなの?」

 コートに立っている旭から、二階に声が飛ぶ。

 それは会場に反響し、自分の試合を終えてもまだ残っていた選手たちや、周囲の取材陣は静まり返る。

 問いかけた先は、この大会の主催者。

「フムン……」

 キアケゴー氏は何事かミス・アンヌに耳打ちすると、旭に少し待つように言った。

 ミス・アンヌはどこかに電話をし、ほんの十秒ほど通話して、キアケゴー氏に向かって親指を立てる。

「──オーケーですヨ。もうアナタ達以外に優勝の可能性はアリマセン。ただ……両者が同意スレバ、デス」

 最初に旭が提案をしてから、望はずっと考えていた。

 仮に一セットマッチになった場合、有利なのはどちらだろう。

(断る理由は無い……かな?)

 二人とも四試合目だ。

 体力、というこれ以前の試合によっては大きく消耗度が異なるパラメータを、勝負のアヤにしたくない。

 旭はそういう意図なのだろうか?

 それとも、短期決戦で優位に立てる何か──例えば圧倒的な武器があるのか?

(でも、そういうセコい事はしなさそう)

 今まで望は、彼女と直接試合をしたことはなかったが、その『横にいる人』がとことん目立つものだから、彼女のことはちらほら聞こえていた。

 あの『益子泪』とダブルスを組む選手──それはある意味、畏怖の対象でもある。

 益子自体はそれこそ世代の中ではずっと抜きんでていて、『セコい』策を弄する必要もなかったし、そういう『王者』と対等に付き合おうとするなら、ある種の『気品』は求められるだろう。

 どこぞの選手のように、勝てないからと言って相手に風邪を移すとかはしないはずだ。

 望はかつて荒垣からその話を聞いた時、芹ヶ谷の行動がしょうもなさ過ぎて笑ってしまった。

 もっとも、それで母親が家を出てしまったという当の本人、羽咲の境遇には同情するが。

(あー……なんでもいいや)

 思考が道を間違えてしまった。

 あまり間を持たすのも得意ではない。

 実際望自身も疲労は感じている。

 ならばベストのパフォーマンスが出せる間に、勝つにしろ負けるにしろ決着をつけたい。

「いいですよ。一セットで、やりましょう」

 会場から、どよめきとまばらな拍手。

 旭は望に向けて軽く頭を下げた後、ウォーミングアップを始めた。

「なんで一セットにしたんだろうね?」

 重盛は先程のやりとりを、よくわからないという顔で眺めていた。

 矢本にも、それに対する答えは浮かばない。

「さあ……別に故障もないと思うし」

「特別、どちらかにとって有利ということはアリマセン」

 キアケゴー氏が言った。

 一セットマッチにしてしまえば、望は相手をじっくり見ることはできないが、それこそ一ポイントごとに違うパターンのラリーを繰り出せるほど、ボキャブラリーは多い。

 旭の提案は『スタミナ』面の不安が大きいだろう、と彼は考えた。

「たしかに、旭さんはダブルスプレイヤーですし」

 重盛も同意した。

 ダブルスよりもシングルスの方が疲れる。

 二人で戦えば指示や状況判断、またテンションの上がらない相方を鼓舞するなど、いろいろと仕事は増える。

 対してシングルスは、当然コートは広くなり、運動量も大きくなるが、それは強豪相手のダブルスでも同じことだ。

 どちらかと言えば、『自分で結果のすべてを背負える』という意味で、確かに疲れない。

「でもさ、それだと旭さん有利じゃない?」

「イエイエ、コトはそう単純じゃないんデスヨ……」

 あの短い時間に望がそこまで思慮を巡らせたかどうかは分からないが、とにかく彼女はその要求を呑んだのだ。

 それは、今となっては数少なくなった望の欠点である体力面の不安からかもしれないし、あるいは、短期決戦に自信があるのかもしれない。

 ただ、重盛には、少なくとも神奈川県予選の頃の望からは、そうとは思えなかった。

 どちらかと言えば泉には粘られているし、荒垣にも第三セットで大差を付けられたのはガス欠が一因だ。

 やがてウォーミングアップは終わり、会場には静寂が訪れる。

 そして、最初のポイントを伺うサービスの構えに望が入ったところで、ざわつきが起きた。

「──……左?」

(え──!?)

 望は目の前の光景を疑った。

 旭は右利きだったはず。

 それなのに。

 望はあわてて主審に合図し、靴紐を結び直すことを告げた。

 公式試合ではないから、多少は大目に見てもらえる。

 一度紐をほどき、再度結び直す時間で、望は心の動揺を鎮めようと努力する。

(右利き、だったよね? ハッタリ……にはリスキーすぎる)

 相方の益子は確かに左利きだ。

 だから見様見真似でそれを習得したとも考えられる。

 しかし、試合で使えるようなレベルになるのだろうか。

(仕方ない、とりあえず『見る』しか……)

 改めて仕切り直しの後、望はショートサービスを打った。

 まずはネット前の細かいラケットワークを見る──。

 と。

「あっ──」

 望がシャトルを打った瞬間、旭はラケットを右手に持ち替えていた。

 おそらく、ラケットに目を落とした一瞬に。

(なに、結局ハッタリ?)

 ネット前に詰めた旭は、大きくロビングを上げて距離を取る。

 飛距離もコントロールも、間違いなく『利き手』のそれだ。

(まあいい。旭に強打は無い、それなら……)

 旭が対面のコートミドルにいるのを確認してから、望は足を踏み切って落下点に入り、クロスにスマッシュを放つ。

 拾われることは百も承知だ。

(もし、ラリーの途中で『左』が出るなら、それは本物──旭のバックを狙って組み立てる……)

 機敏にサイドステップを踏み、旭はシャトルに追いつく。

 ラケットは当然、右手に握っていた。

 上がったコースは甘く、ネット前に詰めた望には容易に仕留められた。

 だが、確かめておくべきことがある。

(これを、クロスにドライブ──さあ、どうだ?)

 敢えて長い球を返球した望の、『期待』通りと言って良かっただろう。

 旭は左手にラケットを持ち換えて、クリアーを返す。

 だがこれも厳しくはない。

 数巡のラリーの後、最初のポイントを奪ったのは望だった。

(……なんで? まるで意味のない──)

 まさか、益子への憧れなどは無いだろう。

 最初のインパクトだけだ。

 それを武器とするなら、『質量』が不可欠になる。

 確かにそこそこ様になってはいるが、利き腕よりも筋力がない事を考えれば、『右』よりも厳しいコースに配球できるクオリティが必要なはずだ。

(また『左』か……なら今度は、ロングを打ってみよう)

 バドミントンでは左利きが有利なのは事実だ。

 それはシャトルの設計からくる、左右の非対称性によるものでもあるし、守備範囲や組み立て、強打の角度が多数派の右とは異なる、ということからもわかる。

 望はあえて、少し伸びのないロングサービスを放った。

 コースはギリギリをついているから、『右』ならばラウンドを入れてスマッシュで返すところだろう。

(それでも『左』に拘るなら──)

 旭は足を細かくステップしただけで落下点に入り、左腕に握ったラケットを振りぬいた。

「!」

 望が構えたラケットから、シャトルは鋭く曲がる。

 軌道を大きく変えた──クロスファイアが決まり、スコアはタイ。

(これ、か……? いや、これだけ?)

 確かに、望の打つリバースカットよりも、よく掛かっている。

 しかしそれなら、『打たせなければいい』のだ。

 『左のフォア』即ち『右のバック』へのショットを避ける。

 それだけでいい。

(──でも、そうすると……)

 リバースカットは使えなくなる。

 もちろんコースに決めればいいわけだが、今までのように絶対的な安牌にはならない。

 益子と一緒に練習してきた旭だ。

 クロスファイアの軌道だってイメージはあるだろうし、それよりキレの落ちる右利きのリバースカットなら、拾う確率は高い。

(なるほど、考えたなぁ……これが有効に使える間に勝負を付けたいから、一セットマッチなんだ、たぶん)

 両手打ちの練習なんて、部活ではやらせてもらえないだろう。

 筋力のスタミナはほとんどないに等しい。

 スタミナがなくなればコントロールは出来ないし、あの小さなコルクを利き手じゃない方で正確に『切る』のは不可能だ。

 そうなれば普通の『右』オンリーになるに違いない。

 

 

 

(思ったより冷静だな、あいつ……)

 旭は、対面の望を見て思った。

 さっきのクロスファイアは、たまたま上手く捉えらえた。

 ただそれ以前に、『打たせてもらった』という部分が大きい。

(まあ、こんな『遊び』で何点も取れるとは思わないけどね……)

 それがある、と思わせるだけ──それでいい。

 リスクが大きすぎる。

 こんなのをいつでもどこでも繰り出してくる羽咲が異常なんだ。

 旭は袖で額の汗を拭き、サービスの構えを取る。

(私レベルじゃ、僅かでも石澤のバリエーションを削ることが出来れば、この奇襲は成功。どこかで前に出て、そこから一気に体力を使い切って逃げる。追いつかれれば私の負け、逃げ切れば勝ち──)

(拾われる……)

 インターバル中、望は第一セット前半を頭の中でリプレイする。

 リバースカットを計四本打ち、旭はそのうち三本を返してきた。

 もっとも、さらにその中の二本は甘い返球だったから、結局リバースカット勝負は三対一で勝っている。

 しかし、そもそも渾身のカットに『触られる』こと自体が、望の予想外だった。

 スコアは11-10。

 一点差と言えどリードはリードだが、早晩無くなるだろう。

 旭は時折『左』を見せて望の心理的なリズムを崩しつつ、ヒタヒタと背後に迫ってきている。

(にしても、なぜ……?)

 旭自身の謙遜を省いても、彼女はそこまで抜きん出た選手ではない。

 少なくとも『三強』の地位を脅かすような存在ではなかったし、そう言う意味では狼森や豊橋よりも『格下』と言える。

 望は、旭が手を抜いてこちらを煽っているのかとも思ったが、それはないだろう、と打ち消した。

 挑発に乗せるためには、物理的なエサが必要だ。

 一番簡単なのは、点数を与えること。

 あるいはいつぞやの羽咲のように、荒垣に対してスマッシュをわざわざ『打たせてやる』──だとか。

 そして『挑発』とは、その後に少なくとも与えたポイントを取り返すことで成立する。

 それがなければただの接待か、八百長だ。

 あの益子泪の隣に三年間立ち続けた選手が、そんなつまらない真似をするはずはない。

『左』がこれからも出るなら、それに対する警戒を怠らなければいい。

「ふー……っ」

 旭は天井を見上げ、目の焦点を意図的にずらした。

 頭の奥に、かすかに痛みが走る。

──目が疲れている。

 無理もない、もう四試合目だ。

 対面の望は既に立ち上がって、屈伸運動をしている。

(足に来てるか──?) 

 周囲に気づかれないようにタオルをかぶってから、お互い様だな、と旭は笑う。

 足にはもちろん来ているし、普段使わない左腕にも、鈍さを感じ始めている。

「……ねぇ、泪」

 あれは、いつだったか──。

 

 

 

「なんで、手を抜くの?」

 泪と付き合い始めてすぐの頃。

 ムラっ気にはさんざん悩まされてきた旭が、一年秋の関東大会の敗退後にキレた。

「あ?」

 試合の途中から急にペースを落とした泪を見て、旭は一瞬怪我を疑ったが、歩いている姿を見れば、そんな素振りはない。

 泪は何か、ゴニョゴニョと呟いている。

「──ハッキリ言えよ」

 彼女の肩を掴み、旭はドスを聞かせて睨み付けた。

 泪は目を逸らして、旭の手を振り払う。

「っせぇな……」

 それきり、赤くなった顔を背け、速足で逃げていく彼女を、旭は追わなかった。

 その日の帰りのバスで、泪は独りで一番後ろの席を占領していた。

 普段なら旭がそこにいるが、今日は居ない。

 

 

 

 寮に戻ると、泪は同室の旭に一言もかけず、汗に濡れたウェアをランドリー用の籠に叩き込んで、大浴場に向かっていった。

 本当は学年が上の先輩達から先に使うのが暗黙の了解だが、彼女にそれを咎める人はいない。

 旭は何もかもバカバカしくなって、バスの中から耳に付けていたイヤホンを乱暴に引き剥がし、机の上に投げ捨てる。

「──クソ……クソっ……」

 勝ちたかったのに。

 泪と、じゃない。

 他でもない、自分自身が勝ちたかった。

 もし勝っていれば、春の選抜は当確──。

 なのに、何故。

 と、部屋をノックする音。

(なんだよ……パンツでも忘れたか?)

 旭はもし今泪と顔を合わせたら、ぶん殴ってしまいそうだったが、幸運にもそれは避けられた。

「──キャプテン」

「ごめんね、旭。益子居ないなら、入っていい?」

「あ、どうぞ……」

 後輩が『お姉様』の所に遊びに行くことはよくあるが、先輩が後輩の、それもキャプテンが一年生の部屋を訪ねてくるのは珍しい。

 大したもてなしもできないが、旭の心配は杞憂に終わる。

 彼女は自前でペットボトルに入った炭酸飲料を持ってきていた──二本。

「飲む?」

「あ、頂きます」

 さっき、少しばかり目から出た水分を補給しよう。

 キャップを空けて一口啜る。

 炭酸は苦手だが、まあせっかくのご厚意だ。

「あいつ風呂行きました。──すんません」

「いいよ、そんなの。いつもの事でしょ」

 寮のルールはいくつかあるが、それを破る事にかけては、もしかするとバドミントンよりも益子は才能がある。

「……惜しかったね、今日」

「あ、はい。でも……」

 次の言葉は、上手く継げなかった。

 でも、なんだろう。

『わざと負けた』──。

 あんなに練習したのに。

 他のみんなが遠ざけた泪に、色んなことを教わって、上手くなって、頑張ったのに。

 肩を震わせる旭の背中を、キャプテンは優しく撫でる。

「旭には、辛いよね。私たちがもっと、しっかりしてれば──」

「……違います、キャプテン。私と泪の、問題です。先輩たちは悪くない」

 それからひとしきり泣いて、旭は大きく息をついた。

「──すんませんでした、甘えちゃって……」

「ううん……あんまり抱え込まないで?」

 ぽん、と旭の頭に手をやって、キャプテンはベッドから立ち上がり、机の脇のスツールに腰を下ろす。

 泪はまだ、戻ってこない。

 ほんの少しだけ晴れた気持ちで、旭は泪のことを考える。

 使い古された表現だが、『泣く』という行為は、心の洗濯だ。

(──泪は、泣いたことあるのかな?)

 人間はみな、泣きながら生まれてくる。

 そういう意味では、あるに違いないが……。

「なんで、ああなったんですかね……」

「え? うーん……なんでだろ」

 旭と共に戦うことが、いきなり嫌になったわけではない。

 何もきっかけは無かった。

 少なくとも、旭に落ち度はない

 ミスを続けたわけでもないし、むしろ好調だった。

 プレーの合間のコミュニケーションも、普段と変わりなかった。

 良くも悪くも目立つ泪に、虫の居所が悪くなるようなヤジでも飛んだのか。

 しかしどちらかと言えば旭には、泪が何かに怒って集中力を欠いたというよりも、エネルギーを急に失ったように見えた。

──多分考えても、答えは出ない。

 益子泪は天才だ。

 安っぽい賛辞ではない。

 周囲の大人も、戦った子供も、みな口をそろえて言う。

 多分気まぐれに、旭との間に開いた扉を閉じただけの事だろう。

 他の誰にでも、そうしてきたに違いない。

 感情的になっている旭を察してか、キャプテンは口を開いた。

「あの子、なんでウチに来たか知ってる?」

「えっ? そりゃ、まあ、みんな噂してますし……」

 本来、宇都宮学院は益子ほどの逸材が来るような場所ではない。

 全国に名の知れ渡る強豪であるが、部員は全寮制だということや、肝心要の体育館が他の部活動と共用であることなどから、今一つ選手の集まりは悪い。

 戦績はあまり安定せず、埼玉の栄枝や、神奈川の横浜翔栄などに比べれば一段下と言えた。

 そんなところに『天才』が来た理由──家庭環境。

「あの子はね、家族から拒絶されて、ウチに来たんだよ」

「……」

 泪が中学三年生の時、あるいはそれ以前から既に、多くの名門校が獲得に名乗りを上げていた。

 その中には当然、埼玉栄枝や横浜翔栄も含まれる。

 同世代では橋詰や石澤、荒垣などが関東では有名選手だったが、それでも益子に対する評価とは、大きな開きがあった。

 それらの中で唯一全寮制だったのが宇都宮学院だ。

 そこを選んだ理由はつまるところ、『家に居られない』──ということ。

 言わば泪はこの学校に、閉じ込められている。

「それは、みんな知ってますよ」

「そう、あの子は『周囲の大人』に恵まれなかった──」

「……」

「旭」

「はい?」

 スツールから立ち上がり、キャプテンは言った。

「良い『大人』になろう、私達は。──泪のために」

 

 

 

 翌朝。

「あれ……おい、今日練習だっつったろ?」

 集合時間として伝えたのは八時。

 それをすっかり過ぎて、時計の長針が真下に来た頃に、ようやく泪は現れた。

「いいからアップしなよ」

 旭は素っ気なく言う。

「んだよ……何すんの? ノック?」

「試合だよ」

「は? 誰と」

 泪がシューズを履き、つま先を床に打ち付ける音が響く。

「私と。勝ったら──」

 と、体育館の扉が閉まる。

 もちろん、自動ドアじゃない。

「えっ、なんで締まった?」

「勝ったら、『出してあげる』よ?」

「はぁ!?」

 泪はにやついて首をかしげる。

「……『俺』に勝てると思ってんの?」

「だから特別ルール。1ポイント取ったら私の勝ち」

 鼻で笑う泪。

 まあそうだろう。

「いやお前、そりゃいくらなんでも──」

 旭は体育館の電気をつけ、コートに入った。

「これでも?」

 ラケットを、左手に握って。

「……上等じゃんよ」

 

 

 

 左でも、案外やれるもんだ──。

 旭はそんなことを考えながら、泪の何十度目かの挑戦を退けた。

 時計は午後一時。締め切った体育館は、二人を汗だくにしている。

(こんなこと、五時間もやってたのか──)

「……おい……」

 当然だろう。

 旭は泪が21点連取するのを防ぐだけでいいのだから。

 例え利き手ではなくても、対戦相手が天才でも、そのぐらいは出来る。

「なに? ゲームカウント37-0、だっけ?」

 それでも、ここまで来れば意地だ。

 普通の試合で換算するなら、軽く五試合分ぐらいは動いている。

 泪の方はその数倍以上で、もう膝が笑っていた。

「てめ──」

 ネットを腕で押し上げ、泪は旭に詰め寄る。

「何のつもりだ、コラ」

 背の高い泪に見下ろされる旭。

 しかし、弱ったその眼差しは、睨み返すのに苦労しなかった。

「──なんで昨日、わざと負けた?」

「は?──……」

 泪は押し黙る。

 もし勝ってたら、選抜行けたのに。

 そう言っても、彼女には響かないだろう。

 中学時代から既に国際大会への出場経験がある泪だ。

 国内の学生大会など、どうでもいいのかもしれない。

「んなもん、別に──」

「質問に答えなさい、泪。どうして、途中で勝つのをやめたの?」

 泪はそれに答えずに、踵を返して扉に向かう。

 篩える腕で力いっぱい扉を横に引くが、動かない。

「なん、っだよ……! 出せよ!」

 思い切り扉を蹴りつけると、泪の方が反動で吹っ飛んだ。

 疲労困憊で足は滑り、なかなか立ち上がれない。

 それでも彼女はめげずに、拳で扉を叩く。

「出せっ……出してよ!」

 怒気は薄れ、声は弱弱しくなっていく。

「出して、……ここから、出してよ──う、っ──!」 

 何かが破砕する音。

「──泪?」

 尋常でない反応。

 身体が痙攣している。

 彼女は口から、ほとんど水分ばかりの吐瀉物を滴らせていた。

 そして、それを拭おうともせず床に倒れ込む。

「ちょ──キャプテン! キャプテン!?」

 旭が叫ぶと、扉はすぐに開いた。

 今日のことは彼女と示し合わせて、外から閂をかけておいた。

「なっ──、どうしたの、これ!?」

「いや、……外に出ようとして、急に吐いて……」

 キャプテンは旭からタオルを受け取り、まず泪の口元を拭いて、それから上着を脱がせた。

「意識がない、けど息はしてる……過呼吸?」

「たぶん脱水症状ね。とにかく運ぶよ」

 旭は彼女と共に泪の腕を抱え、寮まで運んで行った。

 

 

 

 上半身を拭いた後、冷えないようにジャージの上を着せて、旭は泪をベッドに寝かす。

 それから、己の浅慮を悔いた。

「……旭」

「──はい」

 謝る、のは当然必要だろうが、ひとまずはキャプテンの言うことを聞こうと旭は考えた。

「貴方の意図もわかるけどさ……」

 まともに聞いても、泪から真実は返ってこない。

 はぐらかされるだけだ。

 それでは意味がない。

 だから、素人考えでショック療法を実行した。

 とことん追い込んで弱らせれば、本音を吐くだろうと思って。

──一歩間違えば、泪の命を絶っていたかもしれない。

 単純な疲労と心理的なショックだけでは、そこまでの事態には至らなかっただろうが、これまた素人考えでそう思い込むと、旭は背筋が寒くなった。

「危ないから、普通に。ウチでも夏の練習じゃたまにあるでしょ? 水買って来たから、気が付いたらゆっくりこれ飲まして、それから話しなさい。私に謝るのは後でいいから」

「──」

「言ったでしょ? 自分で抱えるなって」

「はい……」

「じゃ、片付けてくるから」

「え、私が──」

「貴方はここに居なさい。目が覚めて誰も居なかったら、今度はその子、何するかわからないよ?」

「……」

 そう言うと、キャプテンは部屋を出ていく。

 それから、どのぐらいの時間が経っただろう。

 ペットボトルはすっかり露を纏っていて、旭は少し肌寒さを感じた。

「……泪」

 僅かに空いた唇から、微かに吐息が聞こえる。

(寝顔は、子供なんだけどな……)

 見つめていると、すうっと引き込まれそうになり、旭は思わず、唾を飲んだ。

 そして──、彼女のベッドに身を忍ばせる。

 石鹸の匂い。

 どうしていつも、泪は安物のシャンプーばかり買うのだろう。

 もっと気を遣えば、あんなにガサガサに髪が跳ねることもないのに。

 ふと、旭は身体を起こし、眠っている泪をまじまじと見つめた。

 被せただけのジャージはとうにはだけて、彼女の左半身が露になっている。

 筋張った左腕、丸く盛り上がった肩。

 そして──、

「ちっさ……」

 ぷしゅっ、と泪の口から息が漏れた。

「……なにお前、そう言う趣味なの? 私としたい?」

 調子は軽いが、弱くかすれた声。

「は──んなわけないでしょ!?」

 旭は顔が真っ赤になるのを見られまいと、掛布団ごと跳ね起きて自分のベッドに逃げる。

「ちょ……寒い」

「あっ、ごめん──」

「来いよ、旭」

 そう言うと泪は身体を壁の方にずらし、旭が入るスペースを作る。

「……その前にちゃんと着て、服」

「マジ寒い、早く」

 想像もしないほど弱った声でそう言われてしまうと、旭は言う通りにするしかない。

 投げ出された左腕を枕にするしかなかった。

 背中に抱えた布団とともに、泪のベッドに倒れ込む。

「──ごめんなさい」

「……俺も」

 それからしばらく沈黙が続き、旭は少し眠気を覚えて来た。

 その前に、聞いておかなければ。

「ねぇ?」

「なに」

「なんで、──わざと負けたの?」

「……わかんない」

 絞り出すような声。

 でも、『言いたくないなら、言わなくていい』とはならない。

 疲労困憊の泪が、無言の重圧に負けたとすれば、今日の出来事は、いつか『若気の至り』になるだろう。

 彼女は語り始める。

「──私、何もわからなくなった」

 なんでこんな学校に居るのか。

 私は本当は埼玉栄枝に家から通っていて、部活の帰りに肉まんや何かを買い食いして。

 当たり前に勝ち上がって行って、でもいつか、当たり前に負ける日が来て。

 悔し泣きして家に帰って、『頑張ったね』って言われてまた感極まって。

 次の日から、次は絶対負けないって思って練習して。

 左だから有利だとか、背が高いから強いとか、そんなんじゃなくて。

 全力、全開で勝ちたくて。

「……」

 ひとしきりの独白を、物言わず聞いていた旭は、まず素直に『わがまま』だと思った。

 でも、泪にしてみたら、それは本当にささやかな願いなのかもしれない。

「『負けたかった』──の?」

 途中から涙声になっていた泪は、鼻をくすんと鳴らして答える。

「そっか……」

(ああ──)

 この子を救うには、どうしたらいいんだろう。

 泪が全力を出しても、勝てない相手なんて。

 自分では、無理だ。

 遠く及ばない。

 ダブルスを組んではいるけど、旭が試合でやることと言えば、順番が来たらサーブを打って、飛んで来れば適当に返すだけ。

 旭自身、そこそこの選手ではあったから、泪と組んでいれば相手は勝手に気圧されて、競り合う試合なんて今まで一度だってなかった。

 それからは、記録上は旭のポイントであっても、結局泪が独りでやってしまっていた。

 一緒に組んでいるから、旭には分かる。

「ねえ、泪」

「……ん」

(私がもっと上手くなって、ダブルスで、泪が少しでも私に頼れるようになれば、泪はきっと、それを『負けた時の言い訳』にできる)

 今はまだ、そんなレベルじゃないとしても。

「私がもっと、下手だったら良かったのかな……どんな上手い人と組んだって、選抜なんか出れるわけない選手だったら……」

「……」

「私の方が、『わがまま』なのかな」

「……ちがうよ」

 力ない否定。

 泪にしてみれば、『私が手を抜いたぐらいで負けんなよ』って、言いたいのかもしれない。

 そのぐらいの奴じゃないと、ペアなんか組みたくないって。

「ペアだから……もっと、旭と組みたいから」

 実力差がありすぎるダブルスペアは、お互いが不幸になってしまう。

「──イヤになった? 旭は、私と組むの」

「……百パーセント『ノー』とは言えないかもね」

「やめる? ダブルス」

「──やめない」

 やめるもんか。

 旭は、手探りで泪の右手を探り当て、強く握る。

「だから、教えて? あんたが『旭に頼ったせいだ』って言えるぐらい、私が強くなるように」

「……」

「それまでは、泪が何をしても、わざと負けても、文句言わない──」

 ──自分は何を言ってるんだろう。

 わざと負けるなんて、スポーツへの冒涜だ。

 それでも旭は、己の理性ではもう、心から出た言葉を打ち消すことはできなかった。

 『ただのバドミントンプレイヤー』であることをやめる。

 これからは、『益子泪の隣にいるプレイヤー』として生きる。

 少なくともあと二年間の、高校生活の間は。

 それがひとまずは今日の償いであるし、泪が求める、ある意味で『死に場所』に辿り着くために。

(ズルいんだよなぁ、先に『死に』やがって……)

 しばらく、昔の思い出に浸った後、旭は主審の呼びかけに答えて立ち上がる。

 と──。

(いっ……て……)

 くるぶしに、強烈な痛み。

 旭はできるだけ顔に出さないようにして、気取られないように右足の足首を曲げ、伸ばす。

 ごくささやかなストレッチに見えたが、望は見逃さなかった。

「……?」

 規定より恐らくはかなり長かっただろうインターバルの間、望は一つの指針を見出す。

 ポイントを奪えないまでも、旭の『左』はこれまで有効に作用している。

 リバースカットを狙うことに躊躇してしまう、という点で。

 で、あるならば。

(──相手の策を『封じる』バドミントン)

 今までの六試合、あるいはもっと以前から、望は根本的にその考えを捨てていた。

 これは、『相手が上手く立ち回った場合の失点は仕方ない』という、倉石の立てた戦術によるところが大きい。

 対荒垣戦で狙いとしたのは、『体力を削って消耗戦で勝つ』という一点のみで、スマッシュや強打そのものに対して、それを封殺する作戦を立てていたわけではなかった。

 インターハイの対志波姫戦でも、彼女の巧みなラリーに、望はミドルコート以降まで押し込まれることが多かった。

 そうなってしまっては、カットスマッシュの威力は半減する。

 望の身長では、角度がつかないのだ。

 故に、二セット目を取り返すまでには至らない。

 より得点を伸ばすことができたのは、ある意味『開き直り』のおかげでもあり、オーソドックスな組み立ての精度がやたらに高かったから、というのが理由であった。

 無論、春の王者に対して、そんな単純な攻撃を通用させてしまうところに、望の今大会での躍進の一端があったわけだが。

 

 

 

「いやーまいったまいった」

 重盛はようやく腹の嵐が収まったのか、晴れやかな表情で矢本達の隣に座る。

「なんで、全部左で打たないんだろうね?」

「それは……急ごしらえ、ってわけでもなさそうだけど」

「──『利き目』デスヨ」

 人間の眼は両方が同じ機能を有してはいるが、その精度には大きな差がある。

 バドミントンでは言うまでもなく重要な『動体視力』が、実は左右の眼で大きく異なるのだ。

「シャトルを打つときは、半身の体勢になりますヨネ? 『利き目』はその時、後ろ側にあるほうが都合が良いデス」

 スイングの体勢づくりや、次への対応という意味で、基本はネットに対して半身になる。

 真正面から飛んでくるものに対して、案外遠近感がつかみづらいということもあるが、十センチほどのわずかな差であっても、それだけシャトルを長く見ることができる。

 仮に旭のそれが、長い年月をかけて習得した『左打ち』であっても、『利き目』との整合性が取れていなければ、効果を発揮できない。

「でも、あのリバースカットを返せる、となると」

「ソウ……本当は、海莉チャンの眼は、『左利き』なのかも知れませんネ……」

 コート上では、ようやく後半戦が始まった。

 望のサービスから始まったそれは、ロングに放たれる。

 旭はできるだけ足の指をいたわるように、かかと体重で後ろに下がり、ロブを返した。

「……駄目デスネ」

「え?」

 流石金メダリストと言うべきか、キアケゴー氏は一瞥しただけで旭の右足に起きたトラブルを見抜く。

 それと、もう一つ。

 ずしゃり、と足を滑らせる音。

「ちょ──石澤さんっ!?」

 望が、倒れていた。

 

 

 

(やば……つった……)

 ハムだ、と望は痛みの個所を特定した。

 重盛の好物ではない方の。

 彼女が顔を上げる前に、主審は試合をストップしていた。

 痙攣の止まらない太腿を、なんとかしようと揉みしだくが、今度はふくらはぎがつる始末。

 これはもう、無理だ。

 プレーを続行しても、今のは旭のポイントになっているから、背中にロングサーブでも打たれてしまえば拾えない。

 主審に向けてバツ印を作ろうと上半身を上げた時、視界の端で揺れ動く人影。

「え──」

 旭も、限界が来ていたらしい。

 なんとか立ってはいるが、顔は苦痛に歪み、歩いているわけでもないのに、右足の靴紐が揺れている。

「ダメ──」

 ひざを折ったかと思うと、旭はそのまま尻もちをついて座り込んだ。

 ミス・アンヌと重盛、膝の悪い矢本が少し遅れて駆け寄る。

「シゲ……ごめん、つっちゃった」

「大丈夫? 伸ばすよ──」

 重盛は、望の右足かかととつま先を両手で持ち、力を入れて脚を伸ばす。

「あ、いってっ……」

 四試合という数字だけでは、さほどの負担ではなかっただろうが、慣れない環境での大会、間延びした試合感覚など、二人の体力を削る要因は各所にあった。

 最大の原因は、二人とも長いラリーを得意としており、また打開する策に乏しいという点。

 望のリバースカットが拾われ始めていたのも、左どうこうではなく、単純にキレが落ちていたのだと、彼女は悟った。

「医務室に行きマショウ。大会は終わりデス」

 キアケゴー氏に促され、ミス・アンヌは旭を、重盛は望の腕を担いで、コートを後にする。

 誰彼ともなく、まばらな拍手。

 申し訳程度に残っていた数試合が行われ、その日の日程は終了した。

「シゲ、ありがとね」

「うんにゃ、いいよ。惜しかったね」

 旭の隣のベッドに収まり、望はうつ伏せになっている。

 痙攣を起こした右足に、キアケゴー氏が現役時代から愛用しているという、怪しいジェル状の何かを塗られているためだ。

 塗っているのはミス・アンヌだが、彼女の手もなかなかに『強者』だと、望は彼女の過去に思いを馳せた。

「ウウン、海莉チャンはちょっと、捻ってますネ、これ」

 流石に旭にそのジェルを塗っているのはキアケゴー氏ではなかった。

 そういうものの扱いに手慣れているらしく、矢本がその役を買って出ている。

 まあ確かに、重盛にやらせると、その手でそこら中を触りそうだから、矢本の方がいいだろう。

 筋肉の内部の痛み、熱を、外に塗ったジェルのメントール成分が奪っていく。

 これはいい、あとで商品名を聞いておこう。

 望はそう思った。

 11-10から後半が始まって、旭のリターンを望が拾いに走った刹那の事故。

 つまりはスコアが同点のまま、二人とも棄権してしまった。

「あの、ミスター・キアケゴー……」

「ンン? 何ですか、望チャン?」

「試合結果は──?」

 はあ、と彼はため息をついた。

「……マァ、引き分けでいいんじゃないでしょうかネ。両者優勝デ」

 望は頷く。

 そして、旭の方を見る。

 目が合った。

「あ、……えっと」

「いいよ、それで。──石澤さん」

「うん」

 それきり、会話は続かない。

(……ほとんど初対面みたいなもんだしなぁ)

 いきなり『なんで左で打ってたの?』とか聞くのは、望のコミュニケーション能力では荷が重すぎる。

 なにしろ相手はあの益子泪のパートナーだ。

 蛇の道は蛇、ではないが、彼女も相応に癖のある人間だろう。

 望は足元から漂うメントールの香りを楽しむことにした。

「あの、このジェルって……」

「欲しいの?」

 ミス・アンヌはそのパッケージを望に見せる。

 思いがけず、それは日本語だった。

「サロメチール?」

「日本製よ。普通に薬局でも売ってるわ」

「ふーん……」

 なんだ。

 それならいつでも買える。

「コレはイイですよ? 『引っかからない』デスシ」

 キアケゴー氏の言った言葉が、一瞬望には『引っかかった』。

(……引っかかる? 何に──)

「ともあれ、落ち着いたらホテルに帰って、あとは夕食会デスネ」

 また重盛が暴れるだろうな、と望は苦笑する。

「明日のエキシビションは、ドウシマショウ?」

 そういえばそうだった。

 ランダムでペアを組んで、ダブルスマッチを行う。

 これは大会に参戦した全員がペアになる可能性があるが、矢本など故障を抱えている選手は免除だ。

「うん、私は構わないですけど……」

「私も大丈夫です」

 ベッドの上で身を起こし、旭は言った。

「ただ、できれば石澤さんと」

「え──」

 試合中の表情とは違い、穏やかに笑って、旭は言った。

「組みたい。ダブルス」

「……うん、いいよ」

 キアケゴー氏は意味深に笑う。

 二人の思いを実現する企みを、始めたのだろう。

「いいデスネ、それ。優勝者のペアなんて、受けますヨ。ソレニ……お互いにとって、価値がアル」

 

 

 

 重盛と言う名の暴走特急が、あらかたオードブルを喰らい尽くした頃。

 望のように友人を連れていたり、阿方と鈴木のように同じ学校から来ているのは少数派だから、おおよそ皆、『食事を共にする』というレベルでは初対面のはずだが、どのテーブルも空いた皿を脇に、会話が弾んでいる。

 ひときわ笑顔が弾けているのは、豊橋のいるテーブルだ。

 試合中も、努めてプラスの感情を表に出し、対戦相手へのリスペクトも持っている。

 そういうところが、人を引き付けるのだろう。

 幼い頃から競争に晒されてきた選手たちの中では、それはよほど新鮮に映るに違いない。

 と──。

「石澤……さん、ちょっと話できる?」

 彼女のテーブルを訪ねてきたのは、旭だ。

「あ、うん。いいよ」

 矢本と重盛に断って、望は席を立つ。

 かなり前からタイミングを伺っていたらしい重盛は、いそいそとデザートのコーナーへ向かった。

 矢本もそれに付き合って、空のグラスを手に後を追う。

 望と旭はホールを少しばかり歩き回って、余分のテーブルがまとめられた、静かな場所へ向かう。

 喧騒が遠ざかる。

 周囲を見渡して、人影が近くにない事を確認してから、旭は話を始めた。

「──今日、ごめんね。最後までやれなくて」

「ううん、私もだから……」

 それだけ? と言う風に旭に目を向けると、彼女は思案顔だ。

「……あの、さ」

「?」

「キアケゴーさんに聞いたんだけど、デンマーク行きの件」

「ああ……」

「──『二人』じゃないみたい」

「え──?」

 望には当初、その意味が分からなかった。

 明日はあくまでエキシビションだし、望は旭と組むことになっている。

 そうなると、六勝の内容的には、旭の方がふさわしい、となる。

 なにしろ彼女は全ての試合を最後まで戦い切ったのだ。

「……一人しか、行けないってこと?」

 旭は頭を横に振る。

 それから、もう一度周囲を見渡して、彼女は小さな声で言った。

「まだ、他にもいる」

「──え?」

 

 

 

「ほかに居ないんですか? 亘さんとか、矢板さんとか……ほら、加賀雪嶺の──」

『そこら辺に断られたから、と言うわけでは誓って、ないデス──ガ、貴方にやっていただくのが、最善と考えてイマス。無理なお願いだとは百も承知デスガ、是非……」

「明日まで、考えさせて下さい。急すぎる。事情はわかりましたが……」

『良い返事を期待してイマス。こちらからの条件は、『石澤望と、旭海莉をメンバーに含むこと』──それだけデス』

 それで、通話は切れた。

 随分長い間話し込んでいたように倉石は感じていたが、携帯電話に表示された時間は八分ほど。

 眼鏡を外し、眉間を指で押さえる。

「……まいったな」

 そんなところに名前を出すようになった教え子の成長にも驚くばかりだが、自分にこんな大役が回ってこようとは、倉石は思ってもみなかった。

 電話相手の髭の老人が彼に求めたのは、コペンハーゲンで行われる『ワールドユースバドミントン』の代表監督。

 世界のバドミントン強豪国のU-18世代が集う大会だが、そもそもバドミントンの強化に力を入れている国自体が少なく、アジアからの出場国と言えば長年中国、インドネシアを筆頭に、韓国、タイなど数か国に留まっていた。

 それらの国々でさえ、年によっては参加していないことも多く、日本も国内の大会スケジュールの関係や、個人戦がなく団体戦のみで争われること、協会の強化費用の予算繰りの問題からこれまで参加していなかった大会だ。

 そもそも、キアケゴー氏が宮崎での大会を主催したのも、インドネシアが国内事情により急遽参加を断念した事情による。

 スポンサーや、テレビでの放映権料の問題から、16か国が揃わないと都合が悪い。

 そこで白羽の矢が立ったのが、バドミントンの人気もそこそこにあり、キアケゴー氏が先だってアカデミーを開設するなど協会への影響力もあった日本だということらしい。

「日本代表だと?あいつが──いや、俺が監督? 冗談きついぜ、全く……」

 十一月下旬のこの時期は、差し迫って高体連の大会が近いわけではない。

 ただ、それだけに母校の選手をじっくり指導できる時期でもある。

 それは辞退したフレゼリシア女子の亘監督や、宇都宮学院の矢板監督と同じく、倉石にとっても重要だ。

 なにしろ『飯のタネ』なのだから。

「……」

 ともかく、引き受けるかどうかはさておき、選手の選考をしなければ。

 倉石は、電話の少し前にキアケゴー氏から送られてきたメールを開く。

 添付ファイルには、大会要項と組み合わせ表が付いていた。

 何と言っても国際大会だ。

 予選リーグは抜けたインドネシアの代わりに入って、ロシア、中国、ポルトガルと戦う。

 2複3単は普段の高体連の団体戦と同じだが、おそらくテレビ放送の関係だろう、勝敗が決まってもダブルス、シングルスと、必ず全ての試合を、一試合ずつ行う、とあった。

「うーむ……」

 三日連続の予選リーグの後、一日空いて決勝トーナメント。

 ひとまず決勝トーナメントは脇に置いて、予選の一回戦は中国が相手だ。

 向こうの事情は分からないが、国策としてスポーツでも世界の覇権を狙っているお国柄、生半可な選手が出てくるとは思えない。

 こちらも日本最高の選手を揃えなければ、あるいはモチベーションを失う結果にもなりかねない。

 とすれば、志波姫、益子、津幡……羽咲に荒垣、か?

 そこに旭と石澤を入れろとなると、あとはリザーブで二人ぐらいだろう。

 実力で行くなら狼森、豊橋、久御山……。

 しかし志波姫や益子はともかく、その他は国際大会の経験などあるのだろうか。

 『三強』の中では一歩後手を踏んでいる津幡でさえ乏しい。

 荒垣の膝の状態も気になるし、立花と相談しないといけない。

 羽咲は世界ランク一位のワンから一セットを奪ったほどだから、実力や経験と言う意味では申し分ないが、そもそも自分があれを制御できるのか。

 それは、『石澤望』以外の選手についても言える。

 大会まであまり時間がない。

 協会のトレーニングセンターも予定がいっぱいで使えないから、合宿を張るとなれば逗子総合が会場になる。

 そもそも急な代表団派遣に予算が付いたのも奇跡的だ。

 協会が出すのはささやかな合宿手当てに現地の宿泊費と、デンマークまでの往復はプレミアムエコノミー。

 選手のコンディションを考えればビジネスクラスにでも座らせてやりたいが、まあギリギリの線だろう。

 合宿のための国内移動の交通費は各自の学校持ちだ。

 そうすると新幹線一本で東京まで来れるところ──福岡国際大付属の中尾ぐらいが限界か。

 宿は最悪、ウチの合宿所を使えばいい。

 日本代表としては貧乏くさい気もするが……。

「──俺一人で考えても、埒が明かんな」

 倉石は携帯電話を手に取り、電話帳で『ま行』を開いた。

『や行』とか『わ行』は後でいい。

 選手の招集に関しては、キアケゴー氏が直接交渉してもいい、とまで言ってもらっている。

 ただ、立花には直接話すべきだろう。

 引退後の荒垣はともかく、羽咲に関してはまだ高校での競技生活がたっぷり残っている。

 『ま行』──先日引退したばかりの松浦の後に、その名前はあった。

 元全日本の彼女なら、国際事情にも詳しいだろう。

『──お世話様です、松川です』

「ああ、すいませんどうも。逗子総合の倉石です。実は折り入って相談が……」

 それから手短に、倉石は事情を説明した。

 松川もキアケゴー氏の周辺にはよく顔を出しているから、仕事と日程が折り合わず行けないまでも『宮崎の大会』のことは知っていたし、亘監督が代表を率いることを固辞した、あたりまではすんなりと進んだ。

「……それでですね、松川さんに『アドバイザー』として帯同して頂きたいんですよ」

『──アドバイザー、ですか? まぁ、もともと旅行がてら取材に行くつもりでしたから、予定は合わせられますよ』

 彼女の主戦場は高校生年代だが、夏のインターハイから秋口の新人戦にかけて、働き詰めだったらしい。

 そのへんの仕事がようやくひと段落ついて、やれ航空券でも手配しようか……といった頃の倉石の電話だ。

 現地の事情にも詳しい彼女が代表に帯同してくれれば、これほど心強いことはない。

 倉石とて現役時代は強打で鳴らした選手だから、国際大会の経験もあるにはあるが、それはもう何十年も前の、台湾や中国、アメリカなど比較的日本人になじみのある国の話だ。

 是非に、と倉石は念を押して、電話を切る。

 ──と。

 画面にラインの新着。

『優勝しました! 宇都宮学院の旭さんと同率ですが(汗 それと、帰ったら相談したいことがあります』



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はねバド!~Second Wind~ 日本代表編
7th game エクストラ・マジック・アワー


 選手の招集には全力を尽くす──その言質を得て、倉石は決心した。

 やるぞ、となれば行動は素早い。

 まずは立石を『いつもの店』に誘い、招集が確定している宇都宮学院・矢板監督への挨拶。

 それから、タイミング良くドアをノックする音。

「──入れ」

 微かなドアの軋みの後に姿を現したのは、逗子総合の制服に身を包んだ、──日本代表。

「お帰り、石澤」

「はいっ!」

 心なしか背筋も伸び、風格がついている。

 荒垣より上だ、と信じてはいたが、ここまでになるとは、倉石も思ってはいなかった。

「優勝おめでとう。間違いなく、お前自身が掴んだものだ」

「──ありがとうございます」

 少し潤んだ目元を指で撫で付け、望はカバンから封筒を取り出す。

「? なんだ、それ」

 封は切られていた。

「中、見てください」

 『これから見つけてきます』──そう言ったあの時よりも、強い意志の宿った眼差し。

 倉石は頷いて、その箔押しの封筒の中身を開く。

「……これは」

 厚手の白い紙に、透かしと、明朝体の羅列。

 表題は、『ワールドユースバドミントン大会日本代表選手団招集通知』。

 文面はお決まりのものだ。

 倉石も大学生の頃に何度か受け取ったことがある。

 そのころのものに比べれば、印刷もきれいになっているが……。

「『……貴殿を上記大会における日本代表選手団派遣対象とします』……」

 そして、その下。

「『代表選手団特別顧問ヴィゴ・キアケゴー』……、──ん?」

『監督』の欄は空白だった。

 その役が決まる前に、望が宮崎で受け取ったものだから、当然と言えば当然だ。

 これから選ぶ選手には、倉石の名前入りの招集状が送られるのだろう。

「……」

 倉石は空白の欄と、戸惑っているような望の顔を見比べる。

 困ったような彼女の表情をひとしきり楽しんで、倉石は彼女に背を向け、サインペンを手に取った。

「え? 監督──」

「『日本代表』にようこそ、石澤。俺が、代表監督の倉石だ」

 望の目尻から、さっきは何とか堪えたものが頬を伝る。

 そして、肩を震わせたかと思うと、──彼女は笑い始めた。

 つられて倉石も笑う。

「短い間だが、よろしくな」

「……はい!」

 

 

 

「──羽咲と荒垣を、代表に!?」

 相変わらず声が大きいな、この男は。

 倉石はそう思いながら、二割ほど残ったジョッキを空にした。

 羽咲綾乃については、立花もすぐに了承した。

 もっとも、本人次第ではあるが。

 羽咲の性格からして、そこに『強いヤツ』が居れば喜んでやって来るだろう。

 もう一人の方は、どうだろう?

 ──単刀直入に行こう。

 倉石は店員にお代わりを告げて、立花に切り込む。

「あいつの膝は、どうだ?」

「……悪くはないです」

「なら──」

 立花は彼を制するように、持ったままの箸を置く。

「本人に聞いてみます、とりあえず……まあ、答えはわかってますけど」

「そうだな……」

 荒垣本人は百パーセント、『行きたい』と言うはずだ。

 だが、無理はさせられない。

 彼は『荒垣なぎさ』を、世界に連れていくという使命を背負った。

 それだけの才能だし、順当に開花しつつある──かすかな不安要素を抱えながら。

「試合は三日連続の予選で、ダブルスとシングルスの重複はできない。テレビの関係とか、選手の負担とかの理由だそうだ」

「じゃあ、予選で終わるなら、多くても三試合ってことですか……」

「まあ、そうなるな。終わらせる気はさらさらないが」

 立花は思案顔だ。

 荒垣本人の耳に入れれば、這ってでも参加したがるだろう。

 そして、この機会を捨ててまで、『今』を膝の治療に充てることが正しいのかどうか、答えを見つけられないでいる。

「……俺は、行かせたいです」

「ああ──不安か?」

「そりゃ、そうでしょう。今はプレーの動きを控えているとは言え、膝が完治したわけじゃない」

「なら、君も来ればいい」

「え?」

 もともと、倉石はそのつもりだった。

 合宿を張れるのはせいぜい四日程度だが、それでも倉石と松川だけでは選手のコンディションやプレーの意思を隅々まで確認し、コーチングすることはできないだろう。

「コーチとして帯同してくれ」

「倉石さん……」

「──ここは奢るから」

 快諾を得て、倉石はほっとした。

 出来ればもう一人ぐらいほしいところだが、それはすでに当てがある。

 

 

 

『──はい、フレゼリシア女子高校バドミントン部です』

「……あれ?」

 随分声が若いな、と倉石は思った。

「あ、ええと、逗子総合の倉石です。夏のインターハイではお世話に──」

『ああ! その節はどうも。志波姫です」

 なんだ、やっぱりか。

 一瞬亘監督が女子高生に変身したのかと、倉石はバカな想像をしたと恥じる。

「どうも……志波姫くん、亘監督は?」

『今日はスカウトに出てます。神藤コーチなら居ますけど……』

「そうか──いや、うん。また電話します、と言伝を頼めるかな?」

『承知しました。メモ取りますね──』

 それから、倉石は自分が代表監督を引き受けたこと、『神藤有千夏』にコーチを頼みたいことなどを伝える。

 思えばどうして、彼女はフレゼリシア女子のコーチを引き受けたのだろう。

 自分が育てたコニーがいるから、というのは確かに理由になるだろうが、そうすると彼女が卒業したら同時に辞めるのか?という疑問が倉石にはあった。

 彼女の手腕に疑う余地は全くないし、だからこそ倉石はコーチをお願いしているわけだが、フレゼリシア女子にしてみれば、僅か二年だけコーチを呼ぶというのは、長期的な目線で見て強豪校の永続にとってプラスばかりではない。

 とすれば、コニーが引退した後も……?

「それはそうと、亘監督はお元気ですか?」

『ええ、元気ですよ。相変わらず、そんなに顔は見せないですけど。たまに身体動かしたりして、あの体形を維持してますからね』

「維持してるんだ、あれ……」

 電話の向こうで志波姫が笑う。

 これは彼女のジョークだっただろうか。

 最後に、倉石は最も重要なことを伝える。

「それから、──志波姫くん、『代表』に来てもらえるか?」

『私、ですか?』

 意外だ、という反応をしたのが、倉石にとっては意外だった。

 彼女の実力なら、呼ばないはずがない。

「ああ、故障がもしあるなら、別だが……」

『ありませんよ、今は。そうですね……監督と相談します』

「ぜひ頼む。良い返事を期待しているぞ」

 電話を切り、倉石はまた考える。

 志波姫の性格からして、周囲に相談せずに即決はしないだろうとは思っていたが。

 しかし、やきもきさせる──。

(次は矢板先生……)

 電話帳をフリックする指を止め、倉石はふと考える。

 よくよく考えれば、旭はダブルスプレイヤーだ。

 であれば、益子泪を呼ぶのは当然のように考えていたが……。

(──そもそも来るのか? あの益子が)

 幼少期から世代の先頭を突っ走り、羽咲に負けたことでようやくその『重荷』から解き放たれた益子泪。

 彼女の心境を慮れば、引退してから大学までの、貴重な『充電期間』だ。

 年相応に、遊びたいこともあるだろうし、それを許されてもいいほどに、益子の果たしてきた役割は大きい。

 家庭環境も複雑だと聞いている。

 だからこそある種『都落ち』とも言える宇都宮学院への進学を選んだ彼女だが、今一度『日本代表』という肩書を背負わせるのは、一人の少女に対する仕打ちとして、褒められるべきことなのか?

(戦力的には間違いなく必要だ。背丈のある左、と言う点では、志波姫よりも優先順位は高い。そして何より──)

 益子泪が来ないとなると、旭海莉の扱いが難しくなる。

 望と共に彼女が勝ち取った今回の『代表招集』は、どこにもケチのつけようのないものだが、やはり旭は『ダブルス』でこそ真価を発揮する。

 宮崎の三日目、エキシビジョンでは望と組んで暴れまわったらしいから、益子が来なくとも他の誰かと組ませればいい、という考え方もできるが……。

「──とりあえず、保留かな」

 気分を変えようと、倉石は体育教官室を出る。

 自販機の前まで来ると、そこに数人の人影。

 望と、二年生の後輩たち。

 すっかり日も落ちて、生徒もまばらになった校舎に反射する笑い声。

 倉石はどことなくバツが悪そうに、自販機に向かう。

「おーい、風邪ひかないうちに帰れよ?」

「あ、監督! おつかれさまでーす。じゃあ先輩、また」

 パタパタと駆けていく後輩たちを笑顔で見送って、倉石と望は二人きりになる。

 望は引退後も相変わらず、毎日大きなラケットバッグを抱えて登校していた。

「おう、お疲れ」

「お疲れさまです」

 この季節ではもう、ホットのコーヒーが当たり前なのだろうが、今倉石が必要としているのは冴えた頭の回転だ。

 数台並んだ自販機をなぞって、隅っこにコールドのブラックコーヒーが残っているのを見つける。

「……そうだ、石澤」

「なんですか?」

「代表に呼ぶんだが、誰か良い選手いないか?」

 望はしたり顔で言う。

「……荒垣」

「お前の方が上だ」

 同じセリフを今まで何度言っただろう。

 倉石が苦笑すると、缶が熱いのか、つまんだ袖ごと握ったコーヒーを揺らせて、望は笑った。

(俺に向かって冗談を飛ばすとは、逞しくなったもんだ……)

「荒垣はもう誘ったよ、羽咲も。あとは志波姫。益子はまだ連絡してないが……」

「そうですか。うーん……」

 望は、夏のインターハイと、宮崎の大会を振り返る。

「狼森は?」

「もう呼んだ。合宿に来るよ」

「ちょっと落ちますけど、芹ヶ谷?」

 笹下とのペアで、インターハイ準々決勝まで行った選手だ。

 しかし神奈川県予選では、羽咲に敗退している。

『ちょっと落ちる』のはまごうことなき事実だ。

「あいつを呼ぶなら、笹下も呼ばなきゃならん。二人は無理だ。他のメンツは落とせん」

 一年生にして夏のインターハイを準々決勝まで勝ち上がった彼女たちは、実力的には申し分ない。

 しかし、短期決戦で不可欠になる『バリエーション』へのアジャストの点で、経験値の不安はある。

「久御山とか、アンリちゃんは?」

「アンリって豊橋か? あいつはいいかもな」

 そのあたりは、松川も推していた名前だ。

「……よし、わかった。ありがとうな。気を付けて帰れよ、『日本代表』?」

「はい。お疲れ様です」

 少し大きくなった背中を見送って、倉石は空き缶を捨て、独りきりの『作戦会議』に戻る。

 おおよその大枠は見えてきた。

 この場限りの『日本代表』が、動き始める。

 

 

 

「ちょっと泪、どこまで行くの」

「へ? 新幹線じゃないの?」

「違うって」

 新幹線も止まる地方の主要駅と言えど、平日の昼前では駅構内の人もまばらだ。

 間違えた方向に突き進んでいる泪の手を引き、旭は券売機の前に立つ。

「……」

『逗子』の文字を路線図で探すが、すぐには見つからない。

「なー、やっぱ新幹線にしようぜ」

「ダメ。電車一本で行けるんだから」

「何時間乗るんだよ、それ……」

 とりあえずICカードにチャージしておけば、なんとかなるだろう。

 そう思い直して旭は、財布からくたびれたカードと五千円札を出した。

 古い日付の定期券が印字されている。

「泪、お金ある?」

「あるよ、バカにすんな。仕送りだけはやたら多いんだよ」

「ならいいけど……」

「グリーン乗ろう、グリーン」

 そう言うと泪は歩き出して、改札に向かう。

 旭は慌てて後を追った。

「お昼いらないの?」

「いる。めっちゃいる。駅弁食おう、駅弁」

「じゃあグリーンだね」

 進行方向を変えた泪に、旭は追いつく。

 思えば、電車なんていつぶりに乗るだろう。

 部活のオフが土日にかかれば、ちょっと足を延ばして大宮ぐらいまでは遊びに行くこともあった。

 宮崎に行くときは高速バスで羽田まで行って、それから飛行機だった。

 そうなると、岡山でのインターハイ以来か……。

「いろいろあんなぁ。焼き餃子ダブル弁当」

「やめときなさい、そんなの。太るよ」

「お、なんだこれ。新幹線だ」

 泪が着目したのは、数年前にできたばかりの北陸新幹線を模った容器の弁当。

「色んなの出るなぁ」

 随分と楽し気な泪を横目に、旭は構内の時計を見る。

「私これでいいや。だるま」

「じゃ、私はこの新幹線にしよう」

 二人は目当ての弁当とペットボトルのお茶を買い、袋を手に改札に向かう。

 平日の真昼間から制服の女子高生が駅をうろうろしているとなれば、周囲の耳目を集めそうなものだが、『サボり』の疑いは、彼女たちが抱えている大荷物によって薄れているだろう。

 改札を通り、ホームに向かう。

 普段は使わないエレベーターを待つのは、彼女たちだけだ。

「ねえ、泪」

「ん?」

「アンタ、もしかして来ないかと思ってた。イヤになったじゃないけど、疲れたかなって」

 旭のそれは偽らざる本心だが、泪は何事でもないように笑い飛ばす。

 ようやく『普通の人』になることができたのだから、わざわざまた『十字架』を背負いに行くことはないのに。

 倉石からの招集を受けて、矢板監督にも、同じような内容を言われた。

 彼は大人だから、泪の家庭環境についても生徒たちより深い部分まで聞いているだろうし、人一倍泪を気にかけていたことは、普段の練習中でも見受けられた。

 バドミントンの技術的な部分では、そうそう教えられることはないにしろ、体力面の強化などは手を抜かせずにやらせていたし、彼もまた生徒を預かる責任を負っていた。

 根っこが腐ってしまえば、いくら手をかけても芽は出ない。

 だが、矢板にとっては、預かった三年間で花は咲かせられなくとも、『益子泪』を保存しておくという責務があった。

「お前なぁ……私はずうっとやってきたんだよ、バドミントン」

「でも言ってたじゃん。『勝つから楽しい』んだって」

 負けた後でも楽しいものなのか、とは旭の立場からは聞き辛かった。

 彼女は幾度も全力を出しながらも負けてきたから、それでも、だからバドミントンは楽しいと、とっくに理解している。

 対して泪は、本当に『全力』を出して負けたのは羽咲だけだろう。

 あれは、誰がどう見ても異常な才能の持ち主だ。

 だから『負けたのは仕方なかった』という風潮が、益子泪を追うファンや大人の間にはくすぶっている。

 それでも、たった一つの『全開の敗北』のおかげで、ずっと追ってきている記者以外からの取材はなくなったし、高校卒業以降の、用具メーカーのスポンサーの話も立ち消えになった。

 これから二つ目、三つ目の負けを経るごとに、そうした『特別扱い』がどんどんなくなってしまう。

 それ自体は泪が望んでいたことだが、もっと大人になってから、『益子泪』の伝説を終わらせる方が、その後の彼女にとっても受け入れやすいのではないか?

 彼女を受け入れてくれる『家族』は、まだ居ないのだから。

「ずっと大人に『ハジかれる』ばっかりだったからさ……」

「……」

 ある時期から、益子泪は協会主導のジュニア代表から姿を消す。

 国内大会には変わらず参戦していたから、怪我などではなかった。

 まあ彼女自身の素行もあったのだろうが、多くの理由は『大人』の横槍だ。

 そして宇都宮学院に入ってからの戦績を見れば、明らかに競技へのモチベーションが落ちているのが見て取れる。

 このまま埋没する──本当の『益子泪』を知らない大人たちがみれば、よくある早熟の天才、神童の墜落に過ぎない。

「ほれ、電車来たぞ」

 緑とオレンジのライン。

 グリーン車には車内清掃が入るらしく、五分ほどの待ちぼうけ。

 車体の動きが止まり、電磁音が消えると、ふと静かになった。

「お前が言いたいのはこうだろ──益子泪が、普通の人間になっちまう前に、『伝説』のまま消えるって手もあるんだぞ、って」

「……そうね。そのつもりだと思ってた」

「けどな、それは神藤との試合の、『負けを認めない』ってことだろ。それはイヤなんだよ。家族とか、大人とかどうでもいいけど……」

「──」

「何十年か先に引退した時に、『あいつに負けてよかった』って思える自信があるから、今は」

 旭はハッとする。

 これだけ泪と近い位置にいる自分でさえ、あの『伝説』を心のどこかで、まだ追い求めている。

 『辞めるなよ』とは言ったが、それは憧憬から出た言葉だ。

 周囲の、理解していない大人と同じ。

「……ごめん」

「謝るなって。お前と一緒にやってきてよかったよ、ずっと」

 旭は下唇を噛み、かつてキャプテンに言われた言葉を思い出す。

『いい大人になろう』──。

「ありがとう、泪。また、間違えるところだった──」

「いいって、私はここにいるんだから。それに今日この電車に乗れってことは、『分かってる大人』がいるんだろ? どこかに」

 

 

 

「──で、アンタどうしたいの?」

「出ますよ、勿論。集大成ですし」

「ふーん……」

 今日はいつもよりリボンの張りが悪いな、と志波姫は思った。

 目の前にはフレゼリシア女子のコーチ、神藤有千夏。

 もちろん、彼女に相談する前に、亘監督にも話をした。

 ほっほっほ、と笑い、彼はにっこりと頷いた。

「コーチは行かないんですか?」

「いや、……決めかねてる」

「ありゃ、なんで?」

「綾乃がいるから」

 羽咲が神藤有千夏の実の娘であることは、今や公然の事実だ。

 ただ、『親子のしがらみ』としては、益子家のそれよりもはるかにレアケース。

「別に清算しろなんて言いませんけどね」

「……どんな顔して会えばいいんだろ」

 会うなり即抱きしめてやればいいのかな、と有千夏は呟く。

(距離の詰め方ヘタな奴か?)

 志波姫は見えないようにジャージのフードをかぶってから、くすりと笑った。

「──ま、四日間の合宿だけじゃ、何かを教える時間は無いですし……選手の心を引っ掻き回すぐらいなら、来なくていいですよ?」

「……言うねぇ」

 確かに厳しい口調だったと思う。

 でもそれを言っておくことが、代表に選ばれた選手としての責任だと、志波姫は思った。

 まして、倉石からは代表のキャプテンを依頼されている。

 もっともそれは、実力や性格からして、他に適任者は居ないだろうと彼女自身も考えている。

「まぁ、アンタとか益子には、すぐに直せる欠点は無いけどね……他の選手はどうだろ」

「綾乃ちゃんは?」

「良くなってるよ、ヴィゴのおかげだ。それを継続させる作業は必要だろうね」

 有千夏の中では、旭と石澤は良く知らない。

 荒垣と久御山は試合を見ていたし、綾乃の対戦相手の豊橋も少しは覚えている。

 彼女たちはそれぞれ、全日本十連覇の選手から見れば、すぐにこれとわかる欠点を抱えていた。

「……やっぱり、ダメだな」

 気付いてしまったなら、『日の丸』を背負う選手に、その欠点を残したまま戦っては欲しくない。

 有千夏はため息をつき、志波姫に向き合った。

「──行くよ、私も。『日本代表のコーチ』としてね」

「……それじゃあ、合宿とかの日程のメールはあとで、転送しておきますね」

「ああ、頼む」

 二人は身体を翻し、逆方向に歩き始めた。

 そうだろう、と志波姫はにやりとする。

 放っておくなんてできやしない。

『欠点』とは可能性だ。

 デンマークや中国まで行って、才能を見つけ、育ててきたあなたなら。

『今』のすべてをコートに賭ける選手たちの、しなやかな情熱を目の当たりにしてしまったなら、もう──目を伏せてやり過ごすなんて、出来ないんだ。

(──だから、綾乃ちゃんに会いに行くんでしょ。素直じゃないなぁ、どいつもこいつも)

 

 

 

 

 

「すまんな武山。現役のお前らに……」

「いえ、全然」

 代表合宿を受け入れる準備として、逗子総合バドミントン部は総出で合宿所の大掃除をしていた。

 つい数週間前に、テニス部が秋合宿を張ったばかりで、思ったより手間はかからなかったらしい。

「目の前で、日本代表の練習見れるんスから、そっちのが全然ありがたいですよ」

 物わかりの良い、と言うよりも、純粋に競技者としての欲だろうか。

「ありがとうな。……これで、みんなで飯でも行ってこい」

 倉石は財布から一万円札を数枚出し、武山に渡す。

 普段は部活終わりの買い食いは禁止という建前だが、今日は特別だ。

「──ありがとうございます。行ってきます!」

 そうして、まだ片づけをしている部員のもとに、武山は走って行く。

「……さてと」

 合宿は週末の金曜からだ。

 火曜日には成田から飛行機に乗ってデンマーク、コペンハーゲンに行く。

 キアケゴー氏に頼んで、スカンジナビア航空のプレミアムエコノミー席を確保してもらった。

 バゲージの扱いが乱暴だから、用具類は機内持ち込みにした方がいいだろう、とは彼のアドバイス。

 帰りは一応、決勝まで残ったことを想定して、余裕を持たせた日程にしてある。

「さて、資料作らないとな……」

 合宿が始まる前日の木曜日には、全員が逗子総合に集まることになっている。

 選手の資料は、既に松川から倉石に送られてきていた。

 ご丁寧に、望の分まで。

 倉石は、ダブルス専門で益子と一緒くたになっている旭を除いて、五十音順で先頭になる荒垣から、レポートを手早く確認する。

「……これなぁ」

 膝蓋腱炎、軽度──診断したのは倉石も何度か生徒を連れて行ったことのある、神奈川では有名なスポーツ診療所だ。

 診断に間違いはない。

 立花の話では、今は軽いトレーニングに留めて、膝の靱帯を整復させることに取り組んでいるらしい。

 軽い打ち合いでは問題ないとのことだが、いざ試合になればどうだろうか。

「次は……石澤」

 松川よりはよほど長い時間、彼女のプレーを見てきた倉石だ。

 自分の方が良く知っている。

 そう思っていたが、そのレポートには彼が気付いていないことが、たくさん書かれていた。

「……『攻め手に詰まると、距離を取りたがる。その瞬間は視野が狭くなり、志波姫戦でもそこを突かれている』──か……。確かに、そうだな」

 意図の限定されたショット──どうしてもそれは気持ちを抜きがちになる。

 野球に例えるなら、ボール球が先行し、苦し紛れにストライクを取りに行った棒球をホームランされる、というような。

 しかし、松川のレポートは悪い内容ばかりではない。

 最後に記されていた一文。

『もし、高校生活が五年間あれば、彼女はインターハイを制する可能性が高い』……。

 

 

 

「はぁー、こいじゃこいじゃ……まだ乗るんか、汽車……」

 昼下がりの東京駅。

 居合わせた修学旅行らしき団体を掻き分けて、狼森あかねは悪態をつきつつ歩を進める。

「あかね!」

「──あ!?」

 在来線ホーム下、ずらりと並んだ柱の一角に、見知った顔が居た。

 あまりスキを見せたくない相手だが、この大都会に気後れしていた狼森には、救いの神に見える。

「志波姫! なんしたば、お前さ?」

「何って、合宿でしょ、あんたも」

「んだ」

「しっかし……随分大荷物だね」

「だでお前、二週間も海外行くんだ。このぐらい……」

 バドミントンバッグに、大きなキャリーケース。

 おまけに背中にやや小ぶりのリュックを背負った彼女は、遠くからでも良く目立った。

「したばって、誰か待っとる?」

「ああ、神藤コーチをね。今トイレ行ってるから。一緒に行こうよ、逗子まで」

「おおよ」

 渡りに船、とばかりに狼森はキャリーケースを柱に立てかけ、その上に腰を下ろす。

「しっかしお前、ようやっと『海』に出れるやな?」

「……?」

「言ってただが、あんとき──」

『この大会が終わったら私は海に出る。世界を一周するんだ』──。

 夏のインターハイ。

 ベスト4が出揃った後、会場近くの道で狼森は志波姫を呼び止め、『羽咲』対策のヒントを与えた。

 一緒にいた美里には、ただの冗談に聞こえていたようだが、ずっと志波姫を追ってきた狼森には、その言葉の響き方は異なっていたようだ。

「ああ……」

 随分細かいことを覚えているものだと、志波姫は苦笑する。

 もっとも、彼女がそう言ったのは、まるっきり口から出まかせでもなかった。

 朧げに、高校を卒業したら海外に出るつもりではいたのだ。

「そういえば言ってたかな、そんな事……」

 そのつもり、ではあった。

 もう、日本でやり残したことはない。

 強豪校主将として団体戦優勝を果たし、自身も肩の怪我から完全復活を印象付けた、春の選抜での優勝。

 戦績に陰りが見え始めた『益子泪』よりも、スムーズに『子供』から『大人』のバドミントンプレーヤーへと羽化を遂げた志波姫の方が、将来的には大きな存在になる。

 それが一般的な見解であった。

『二年後』を本気で考えるなら、海外に出て、武者修行をするべきだ──そんな声もあったし、志波姫自身もそれを見据えて臨んだ、夏のインターハイ。

 しかし、狙っていた春夏の個人戦連覇が羽咲に絶たれ、そうも言い切れなくなった。

 無論、一つの負けで、志波姫の評価が揺らぐことはない。

「まぁ、でもね」

 それでも、『やり残したこと』がいくつも見えてきてしまった。

 それを解決しなければ、海外での戦いも、実りの多いものにはならないだろう。

「志波姫、お待たせ──と。あんたは……」

「青森高田の狼森あかねだ、神藤コーチ。よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく。行こうか」

 そう言うと、神藤は腕時計に目をやり、二人を少しだけ急かした。

 

 

 

「うーん……」

 オーダー表を前に頭を悩ませているのは、倉石と松川、立花だった。

 予選一試合目は中国が相手。

 オリンピックなど国際大会でも常に上位に顔を出し、全ての年代にわたって、デンマークを凌ぐ最強国と言っていいだろう。

 個の力では上回る選手が居ても、団体戦となると十三億の人口がモノを言う。

 インターハイや県予選のような、『当たりの読み合い』は、向こうはしてこないだろうから、単純に『強い順』で組んでくる。

 そうなると──。

「一番強いペアが先頭に来る、ですか?」

 倉石がそう聞くと、松川は頷いて言った。

「ええ……私もナショナルチームに居た頃、ユーバー杯なんかで中国とはさんざんやりましたから」

 そのころの記憶を、松川は書き続けているノートに求めた。

 中国はどの競技でも、選手の実力ごとに階層付けが為されている。

 国土が広いこともその一因だ。

 地方都市で一番になった選手が、北京、上海の国家体育センターに招聘され、そこに集まってきた選手たちの中でのトップが、代表選手の枠に収まる。

 日本のように、代表クラスが常に大会で顔を合わせるということは無いから、チームとして機能させるためには、合宿期間を長くとり、統一した戦術を浸透させなければならない。

「……だいたい、同じような選手なんですよね。まあ、顔も一緒ですけど」

「フムン。確かにリオを見ていたが、特にダブルスではその傾向が強い……」

 プレーの質は当然高いが、やっていることはオーソドックスだ。

 シングルスではやたらに背が高かったり、といった一芸選手が出てくることもあるが……。

「で、あれば。最初は『見』に回る──か」

 卓上サイズのホワイトボードの上で、倉石は選手の名前が書かれたマグネットを滑らせる。

「羽咲、豊橋……?」

「まずダブルス1は、相手の出方を見る。『専守防衛』に徹すれば、この二人なら中国の攻撃パターンをほぼ全て使わせることができるだろう」

 そうして得た情報をもとに、『旭・益子』で攻略する。

 ここで悪くてもイーブン。

「シングルスは……」

 立花が右手を上げる。

「俺は、ここで荒垣を見ておきたいです。『何か』が起きるなら、早い方がいい……」

『何か』が起こってほしくはないし、現地到着後には大会本部でのメディカルチェックと、ドーピング検査がある。

 ドーピング検査の方は、予選終了後にも再度行われるらしい。

「それなら、荒垣はシングルス1だ。石澤と久御山はそんなに『上』での経験がない。中国戦は見させて、雰囲気を掴ませる」

「──なら、狼森、志波姫ですね」

「そういうことだ」

 ひとまず、オーダー表は出来上がった。

 あとは、合宿でどこまでフィットできるかだが、中国戦で組ませるペアについては問題ないだろうと、倉石は考えていた。

 旭と益子はそもそもずっとダブルスを組んでいたし、豊橋と羽咲は二人とも、『受けて立つ』タイプのプレイヤーだから、例えば荒垣と益子を組ませたりするよりはやりやすい。

 一息入れようと倉石は二人を促して、体育教官室を出る。

 神藤コーチとキャプテンの志波姫が参加するなら、応接室のスペースが足りなくなってしまうから、合宿所の食堂を使うのがよさそうだ。

「……そういえば、荒垣さんは?」

「今、石澤と打ってます。羽咲も家に寄ってからくるって言ってましたから、多分もうすぐ……」

 ドアを開けると、軽やかな羽根の音が飛び込んでくる。

 いまや『日本代表』の二人には、ほんの遊び程度のラリーだろう。

 それでも、立花は幾度となく荒垣の膝に目をやり、また彼女の表情を見て、問題はないかと心配している。

 ほどほどにしとけよ、と声をかけて、倉石達は外に出ていく。

「そういえば、松川さん」

「はい?」

「全員揃ったら、少し『薬』のことについて話をしてもらえますか? 引っかかると大変だ」

「そう、ですね……」

 

 

 

「いやー、日本代表かぁ」

「顔、顔がもう……」

 浮かれている、という次元ではないほどに緩み切った荒垣の顔に、望は思わず吹き出してしまう。

「だってさ……」

 中学生に完封負けを喫した後しばらくの落ち込みからは、想像もつかない幸福だ。

「──にしても、まさか、逗子総で練習するとは思わなかったよ」

「そうだね……」

 望と荒垣は、それぞれに歩いてきた三年ほどの道のりを思い返す。

 どうして、荒垣でなく自分が逗子総合に選ばれたのか──。

「神奈川の決勝の前、言われたんだよ」

「?」

「『お前もウチに獲っておけばよかったと、後悔してる』って、あの監督が」

「うそ……」

「いや、ほんとほんと」

 そうだったらよかったのにな、と望は下を向く。

 でも多分、荒垣が逗子総合に来ていたら、彼女は満足できただろうか?

 膝の故障の兆候が見えた瞬間、倉石なら間違いなく、通常の練習メニューから彼女を外す。

 そうして回復に努めるとなれば、やっぱりどこかで、インターハイの連続出場は途絶えてしまっていたのかもしれない。

「でもさ……」

 その後を言いかけて、望は慌てて口を閉じた。

(本気で、逗子総合に来たかったの? なんて……私からは言えない)

 彼女の父親はパイロットだし、家は裕福なはずだ、と望は考えた。

 それなら、多少条件が悪くても横浜翔栄や、埼玉栄枝だって行けたはず。

 それこそ重盛と同じC特待で翔栄に行ったなら、橋詰やその他の特待生など蹴散らして、エースにのし上がっただろう。

 でも、そうなっていたら、オーバーワークで膝を壊していたかも知れない。

 木叢監督は、選手に無理を強要するような人ではないが、選手本人がやってしまえば同じこと。

 『やらない』のを叱らないのだから、『やる』のも止めないだろう。

「なんだかんだ、一番いい道だったのかな、って気はするよ」

「……そう、だね」

「でも、望は倉石さんのところで、良かったんじゃない?」

「そりゃ、私は──」

 色んな高校から誘いが来るほど、大した選手じゃなかったから。

 今は仮にも日本代表だが、子供の頃は『三強』はもちろん、荒垣にだって大きく負けていた。

「見る目あるよ、あの監督」

 そう言って、荒垣は膝のサポーターを撫でる。

「これだって、倉石さんからもらったんだぜ?」

「──え、それちょっと引かない?」

「……確かに」

 一応、ウチのコーチに言われたんだけど、と荒垣はフォローしておいた。

 そして、二人はまた、コートに戻る。

 ふと、踵を鳴らす望を見て、荒垣はもう一言、倉石が言っていたのを思い出す。

(……ま、言わなくてもいいか)

『石澤を獲ったことは、後悔していない』──。

 

 

 

「それじゃ、駅まで豊橋と久御山を迎えに行ってくる。立花君、あいつらを頼む」

「了解っす」

 倉石は松川を助手席に乗せ、体育館脇の門をくぐる。

 遠ざかっていく排気音の代わりに、近づいてくるヘッドライト。

 型落ちの高級車だが、ショーファードリブンとして設計されたそれは、後部座席に三人が座っていても、窮屈さはなさそうだ。

「イヤ、遠かったデスネ。日本のハイウェイは機能的ですが、車の数に対して貧弱スギマス……」

「電車でいいって言ったじゃないの、ヴィゴ……」

 ミス・アンヌにお礼を言って、彼女──神藤有千夏は車を降りる。

 次いで、志波姫と狼森が、大人たちの手を借りつつ、大荷物をトランクから下ろした。

「……おい石澤、キンチョーすんなって」

「いや、いざってなると、ちょっとね……」

 そうは言っても、望は今のところ、この場にいる唯一の逗子総合の関係者だ。

 体育館の扉から進み出て階段を降り、到着したゲストを出迎える。

「あ、石澤!」

 人懐っこい笑顔で手を振り、キャリーバッグを引きずって近づいてきたのは、志波姫だった。

 後ろに狼森も続く。

 先に到着していた羽咲も、望の後に続き、束の間、再会の感傷に浸った。

「それじゃ、ヴィゴ。ありがとうね」

「──!」

 耳ざとく『母親』の声を聞きつけた羽咲が、一瞬表情を硬くする。

 それを察してか知らずか、望が一足先に、神藤有千夏に握手を求めた。

「よろしくお願いします、神藤コーチ。ウチの倉石は──」

「ああ、明美から電話があったよ。駅に二人迎えに行くって。よろしくね、石澤」

「はいっ」

 そして神藤は、荒垣とも握手を交わすと、そのまま体育館の中へ進む。

 中に逃げ込んだ、自分の娘を捕まえるために。

「──綾乃」

「……」

 二人のわだかまりは、もう随分薄れたはずだ。

 それでもまだ、直に顔を合わせて話すことは、難しいのだろうか。

 なんとなく聞き及んでいたが、根本のところは良く知らない望は、同じ境遇の狼森を、合宿所に案内して、姿を消す。

「──お母さん」

「!」

 張り詰めた空気が、動いた。

 事情をよく知る荒垣と立花、志波姫は、息を呑む。

「もういい年でしょ? なんでコーチなんか……」

「は?」

 場を和ませようとしたのか、志波姫がわざとらしく吹き出す。

「──あははは! 神藤コーチ、『いい年』ですって」

「ふ……覚悟しな、綾乃? 今度こそ、最後まで付き合ってあげるよ」

──『ご飯』は逗子総合の部員たちが作ってくれるらしいし。

「ま、それより先に……立花君と唯華、ちょっと」

「? はい」

 神藤は二人を連れて、体育館の二階へ上がる。

 フロアには羽咲と荒垣が残された。

「じゃ、なぎさちゃん──」

「やんねーぞ、今日はもう」

「え~!?」

「お母さんにやってもらえよ、あとで」

 合宿の本番は明日の朝からだ。

 今日の所は、全員が顔を揃えて夕食を共にし、お互いのことを少しでも理解する時間をとる。

 聞けば風呂も大浴場を使うらしい。

 理子に持たされた化粧水は、適当にみんなに分けてやろう。

 益子なんかは、喜ぶだろうか?

「さて、アタシらも寮行こうぜ。着替えたいし」

「むぅ……」

 

 

 

「──これ、明美の作った資料?」

「ええ、そうです」

 青いプラスチックのファイルに収まった、九人分のデータ。

 神藤コーチはそれを開くと、一ページ目からざっとめくっていく。

「荒垣、石澤……旭は?」

「益子の次です。彼女は基本的にダブルスプレイヤーなので……」

「なるほど……確かに、そうかもね」

 シングルスとダブルス、両方の経験がある選手はいいが、荒垣のようにほとんどシングルスオンリーの選手や、旭のようにその逆が居ると、オーダーを組むのも苦労する。

「ちょこちょこ相談は受けてたけど……悪くないメンバーだね。津幡が出られないのは残念だけど。荒垣が居るなら、あのタイプは一枚でいい」

 本来は、『三強』の津幡にも声をかける予定でいた。

 ところが夏のインターハイを経て、『荒垣なぎさ』に対する評価は極めて高くなっている。

 膝の不安を込みで考えても、将来必ずデンマーク代表のエースを張るコニー・クリステンセンを、追い込んだほどの選手だからだ。

 彼女に負けてしまった津幡より、『同じタイプ』でより上回っている。

 それがキアケゴー氏や神藤、倉石の評価だった。

「相変わらず細かいね、明美は……唯華、見るかい?」

「私の攻略法でも書いてますか?」

 にやりとした後、志波姫はそのファイルを受け取る。

 と、階段を上がってくる音。

「遅くなった──と。志波姫……」

「あ、倉石さん。いえ、監督」

「呼びやすい方でいい。豊橋と久御山が着いたぞ。今松川さんが案内してる。部屋は全部二人部屋だから、適当に分けといてくれ」

「じゃあ、行ってきます」

 そう言うと志波姫は、ファイルを神藤に戻し、体育教官室を出ていく。

(部屋分け、か……)

 フレゼリシア女子の寮も、基本的には二人部屋だ。

 彼女は相方が途中でやめてしまって、三年の時は独りだったが。

(泪と旭は、一緒でいいな。あとは綾乃ちゃんが気を使わなくていいように、荒垣の部屋で……)

「うっ、さむ……」

 宮城よりは、多少暖かいと思っていたが、それでももう、十二月が近い。

 志波姫はジャージの襟を立て、腕組みをして背中を丸める。

(アンリは誰とでもいいだろうけど、久御山……どうしよう)

「あんまり知らないんだよなぁ……石澤もだけど」

 久御山久世──関西では世代随一のプレイヤーと言っていい彼女だが、今までの高校生活では、直接手合わせをすることはなかった。

 ほとんど選抜もインターハイも常連で出てきていた彼女だが、結局『戴冠』というところまでは至らずに、高校での競技生活を終えている。

 望に関しては、夏に手合わせした限りでは、余裕をもって勝てる選手ではあった。

(でも、片鱗は見えた。だからこそ、宮崎で勝ってきたんだろうな……)

 選手としてのピークを、人為的に操ることはできない。

 目の前の勝利を渇望して、全力を出すのはアスリートとして当然のことだ。

 特に、ただ純粋に競技に打ち込める年代である、ジュニアからアンダー20ぐらいまでの期間は。

 プロになってしまえば、それぞれの大会は異なる『重み』を持つ。

 A代表への選考対象となる大会では、遮二無二勝利を目指すとしても、実業団リーグの試合で大差がついたら、最後の最後まで羽根を追うか? と言われれば、答えはノーだ。

 

 

 

「これでコーチ陣が揃ったわけだが……」

 倉石は眼鏡を拭き、掛け直す。

「合宿は明日から四日間しかない。中国なんかは二週間以上やって来てるそうだ」

 その情報をもたらした、松川が頷く。

 神藤が言う。

「今から出来ることは、ペアのフィッティング。これに二日はかけたい」

「一戦目のオーダーは決めたよ。これで問題なければ──」

 そう言って松川が手渡した紙を、神藤はじっと見つめた。

「……まあ、妥当だろうね。現実的に勝ちに行くなら、これしかない」

 予選リーグは中国の後、ロシア、ポルトガルと対戦する。

 ロシアはともかく、ポルトガルは明らかに格下と言っていい。

 一昔前には名選手も輩出したが、とりたてて国を挙げての強化などしていないし、小国から出てくる才能はそう多くないから、団体戦では問題なく勝ち越せるだろう。

「ロシア……今はどうなんですか?」

 立花が訊く。

 彼と他の三人では、競技の年代に二十年近い開きがあった。

 もともと、国威発揚を目的にスポーツにも資金や人材を注入してきた共産国家だが、ソビエト連邦崩壊後の今でも、そのある種『伝説的』な強さは保たれているのか。

「大したことはないと思うよ。もともと優先強化対象ではなかったし、素材は中国ほどは揃わない……」

「そう。つまりは悪くとも二勝一敗で、予選は突破できる。できる、が──」

 そうなったとき、即ちB組二位で予選を通過した時、決勝トーナメントの対戦相手はA組一位となる。

「A組は……」

「オランダ、アメリカ、台湾、オーストラリア。……まあ間違いなくオランダだろうな」

「オランダかあ……」

 松川は天を仰ぐ。

「厳しいね」

「うん……そうねぇ……」

 神藤がポツリと漏らした一言に、松川も同意する。

 デンマークと並んでオランダは、西欧では比較的バドミントンの人気が高く、何より国を挙げての強化体制が整っている。

 何より彼らを悩ませるのは、オランダ人の特性──女性の平均身長にして、日本人とは十センチ以上の差がある。

「全員荒垣みたいな感じだからな。日本人は一番苦手とするタイプだ。むしろ中国なんかの方がやりやすさはあるだろう……」

 お家芸のテクニックも、パワーで押し込まれてしまっては使いどころがなくなる。

「一位で突破したら?」

「D組二位だ。勝てば、C組一位とA組二位の勝者」

「……C組は」

「まあ一番キツイ組だろう。これはどっちが出てくるかわからん」

 デンマークとマレーシアが含まれるCポット。

 コニーが居るデンマークの方が、一歩有利だろうか。

「言ってもマレーシアにとっては国技ですからね。デンマーク代表と言えど、楽には……」

「そこで消耗し合って、ヘロヘロで準決勝に出てきてもらえれば、優勝まで見えるな」

 倉石がそう言うと、松川と神藤は顔を見合わせた。

「希望的観測には付き合いかねる──けど、可能性はある」

 

 

 

 

「みんな、良く集まってくれた。監督の倉石だ。明日から練習が始まるが、その前にいろいろと説明をしなきゃならん」

 そう言って倉石は松川を促し、『薬』──ドーピング検査についての講義を開始する。

 ナイーブな話になるだろうと思い、倉石と立花の『男性陣』は松川に目配せをして、外に出ていった。

「……ドーピング検査が初めての人もいるだろうから、基本から説明するね。まず、やることは尿検査とかわらないんだけど──」

 U-18と言う年代は、国の選手層によっては、オリンピックに直結する選手たちだ。

 急ごしらえとは言え、この代表には『東京』の枠を十分狙える逸材が揃っていると倉石達は自負するが、それは他の国も同じこと。

 選手としてピークを迎えるにあたって、こういった『トラブル』は避けねばならない。

 小さい頃からジュニアの国際大会に出場経験があるのは、益子と志波姫だけ。

 高体連の大会ではドーピング検査などしないから、他の選手たちにとっては初めての体験だ。

 相手が同性とは言え、見られながら用を足すというのは、あまり気分のいいものではない。

「……うん、それであの──もしよかったら、練習してみて? 結構ガッツリ見られるから……」

 練習、という言葉の意味するところを得て、選手たちに動揺が走る。

 無理もない。

 もちろん誰にでも、幼いころにおしめを変えて貰い育ってきたわけだが、そんなのはもう、物心つく前の話だ。

 ざわつきを鎮めようと、壁にもたれて黙っていた神藤が口を開く。

「あのさ、一応──出ないと、試合出れないからね。オリンピック目指すなら、必要なことだから」

 思いがけず厳しい口調に、再び空気は締まった。

「そういうこと。あと、サプリメントなんかは必ず報告書に記入すること。メーカー名と、商品名は英語で書かないといけないから、それも調べておいて」

 そうして、松川は報告書のコピーと、『練習用』の紙コップを皆に配る。

 報告書の方はともかく、紙コップの方をまじまじと見つめ、望は隣に座った志波姫の表情を伺う。

 彼女にとっては、なんでもないようだ。

 それは経験がそうさせるのか、あるいは性癖か──。

「──お母さんも、やったの?」

 と、羽咲が口を開く。

「やったよ。明美もやったし、麗暁やコニーだって、やってるさ」

「ふうん……」

 他人に見せるんだ、と羽咲は呟いた。

「……ま、検査官のことは、ぬいぐるみだとでも思いな」

 性的に最も成熟しているのが誰かは分からないが、最も未熟なのは羽咲だろう。

 下手な『手ほどき』をすれば、心に傷を負ってしまうかもしれない。

「そんなところかな。あとは現地で外に行くときは、必ず私か有千夏がついていくから。これは、未成年として当たり前のことね」

 デンマークの治安はさほど悪いという印象はないが、それでも言葉も通じない外国だ。

「じゃ、呼んでくるよ──」

「あ、明美。ちょい待って」

 壁から背中を離し、神藤は皆が座るテーブルの正面に立つ。

 そうして上着を脱ぎ、コーチ用のポロシャツに縫い付けられた、『日の丸』のワッペンを見せて言った。

「アンタたちにはまだ、『これ』の本当の重みは理解できないかもしれない。けれど──」

 皆を見回す神藤に、選手たちも呼応して目を向けた。

 益子も椅子を鳴らし、背筋を伸ばす。

「変に気負ったり、退くことはない。これからの、『これ』の重みを作っていくのは、アンタたち自身だからね」

 何十年か先に引退した時、あの時『これ』を背負って戦って良かったと、振り返ることができるように。

 次の世代が、決して軽んじることのないように。

「短い期間だけど、私らは全力で、アンタたちに教えるから」

 

 

 

 松川が男性陣を呼び戻し、今度は倉石が中央に立つ。

 後ろには、部活でも使用していた、オーダー表とバドミントンのコートが描かれたホワイトボード。

「一戦目、中国戦のオーダーを発表する」

 その隅に張られた名前入りのマグネットを、倉石と立花が手早く所定の位置に貼っていく。

 意図したわけではないだろうが、倉石は背中で隠していたそれを、自らが横にずれて露わにする。

「……」

 沈黙の中、ペアに宛がわれた豊橋と羽咲が、顔を見合わせる。

 枠に名前のない久御山と望は、少し目線を下げた。

「理由を一つずつ説明する。まず、入っていない久御山と、石澤」

「──」

「お前たちはこの中でも、国際大会の経験が少ない方だ。だから一戦目は見させる。いいな?」

「はい」

 少ない、と言うよりも、自分にはないから当然の処置だろう、と望は思った。

 久御山の方はどうか知らないが、彼女もそう経験が多いとは思えない。

「当然二戦目の、ロシア戦は出てもらう。逆に荒垣は休みだ。お前はしっかり休養を取ってくれ」

 うん、と頷いた荒垣を確認して、倉石は話を続ける。

「で、オーダーに入ってる豊橋と羽咲のペアだが……明日から練習だ」

 急ごしらえのペアに、中国相手に白星を期待するのは酷だが、倉石はそこにもフォローを入れる。

「誤解しないでほしいが、お前たちに勝てとは言わない。ただ……このダブルス1で、中国の選手のパターンを出来る限り多く、あとの奴らに見させてほしい。それが出来ると踏んだから、お前たちに大事な一発目を任せるんだ」

 もちろん勝てるならそれに越したことはないし、ダブルスを組んでみて呼吸が合うようなら、後の益子・旭のペアとで二連勝も望める。

 よくわからない、という顔をしている羽咲に、立花が助言する。

「羽咲……神奈川での、橋詰と重盛との試合と一緒だよ」

「……うん」

 どうやら納得したらしく、羽咲は隣に座った豊橋と手を合わせ、お互いの健闘を誓いあう。

「あとはシングルスだが──荒垣、狼森、志波姫で行く」

 二勝二敗で最後までもつれたなら、そこはキャプテンの志波姫しかいないだろう。

 本当ならプレッシャーに強い荒垣を、勝敗の決まる可能性の高い四戦目に持っていきたいところだが、星取りが『悪い方』で回ってきたなら、取り返そうと無理をしてしまうことは容易に想像できる。

 であれば、スピードと言うストロングポイントを持っている狼森を四戦目に置いた方がいい、というのが松川や神藤の意見だった。

「確かに、ドンケツはヤだかんな……」

 狼森がぽそっと言った。

「──まあ、団体戦だからな。志波姫は最後だが、どんな形で回ってきても、『日本代表』としての戦い方を見せてやれ」

「わかりました」

「うん。明日は八時から練習だ。今日は風呂入って早めに寝とけ。それじゃ、解散」

 ありがとうございました、とそれぞれが言い、立ち上がる。

 と。

「ねぇ、ちょっと待って──私達だけで、話をしよう」

 志波姫がそう言うと、いの一番に部屋を出ようとした狼森が立ち止まり、戻る。

『大人たち』が出て行ったのを見計らって、志波姫は口を開いた。

「なんだばや、話って」

「別に、大したことじゃないんだけどさ……」

 彼女の人間性、リーダーシップは、この年代の選手なら誰でも知っている。

 幼いころから共に戦ってきた益子達だけではなく、荒垣や望にとっても、それは例外ではなかった。

 自然に、志波姫の話には皆耳を貸す。

「どうしよっか、部屋割り」

「部屋ぁ?」

 何だそんな事か、と益子は首を鳴らし、旭の袖をつまんだ。

「私はこいつとじゃないと、やだ」

「別にそこはいじらないわよ。けど、他の──」

 そう言って、志波姫は荒垣と羽咲を交互に見る。

「ん……アタシは別にいいぜ、誰でも」

「えぇー」

「ペア組むんだろ、豊橋と寝ろよ」

 と、豊橋の顔が赤くなった。

「あ、いや……そういう意味じゃなくて」

「それじゃ、そうしましょう。荒垣は久御山と、アンリは綾乃ちゃんね」

 うん、と頷いて、羽咲は豊橋にまとわりつく。

「あれ、そう言えば……あかね、アンタ一人だよね」

「あ? ウチはいいべ、別に」

「ダメよ。アンタ……も、そうね。アンリの部屋で」

「でら狭くなっちまうべや、それ」

 と、望が口を挟む。

「大丈夫。あそこ角部屋だから……」

 大荷物の豊橋を見て、松川が宛がった部屋。

 二階の角になるそこは本来四人部屋だから、三人と、豊橋と狼森の荷物を置いても、狭さは感じないだろう。

「じゃ、それで。石澤は私とね」

「え……うん、よろしく」

 よかった、と望は安堵した。

『練習』をするにも、年下の羽咲や狼森にはあまり見られたくなかったし、子供のころから良く知っている荒垣もちょっと、遠慮したかったところだ。

 益子の『俺』が出れば何をされるかわかったものではないし、ベストとは言わないまでも、志波姫なら『本番』の経験だってあるし、まあなんとかなるだろう、と望は思った。

 そうして数十分後、望は自分の目論見が、国際大会では全く通用しないことを知る。

 

 

 

「ユニットバス付なんて、結構いい合宿所あんじゃん? 逗子総合」

「便座は冷たいけどね」

 午前中は授業、午後からは荒垣にラリーを付き合い、夕食後のミーティングも済ませた望は、少し眠気を感じていた。

 しかし、同室の志波姫が机に置いた『それ』を見て、はっと目が醒める。

「……志波姫、それさあ」

「ん? これ?」

「うん」

 先刻、松川から聞かされた、国際大会の洗礼。

「あぁ……望は、無いんだっけ? 経験」

「ない、よ?」

 ドーピング検査の経験の話だろうか、それとも、同い年の女の子の前で──したことがあるかどうか、ということだろうか。

 どちらにしても、望にはそういう経験はなかった。

「これねー……」

 そう言うと志波姫は紙コップを手に、ベッドに座る望の足元にしゃがみ込む。

「──このぐらい、見られるから」

「……マジで?」

「マジ」

 赤くなったり、青ざめたりしている望を可愛いと思ったのか、志波姫は彼女の隣に腰を下ろし、頭をぽんぽんと叩く。

 そもそも昔は、一人で採取したそれを、窓口に提出するだけでよかったのだという。

 それなら望にも、病院の診察で何度か経験があった。

「『すり替え』をした選手が居たのよ。もうだいぶ昔の話だけど。しかもその方法が──」

 志波姫の話は、望にドーピング検査の必要性と、その手順の妥当性を納得させるに値する、衝撃的なものだった。

 禁止薬物の反応が出ない他人の尿を、体内に入れておく、だとか。

 それが明るみになると、今度は簡易DNA検査まで行われるようになり、それが本人のものであることを確かめる。

 極め付けは、薬物を摂取する前に採った尿を避妊具に入れ、それを体内に入れて検査の時に出す。

 これを見破るためには──。

「──それはもう、なに? 『拡げて見せろ』ってこと?」

「言い方」

「あ……」

 今度は真っ赤になった望を気遣ってか、志波姫は努めて明るく言う。

「ま、相手はお医者さん、だから。間違いなく女性のね」

「うーん」

 望は簪を外し、頭をかく。

「日本でも、社会人の大会だと、ドーピング検査やることもあるよ? 全員じゃないけどね」

「そっか……」

 結局、アスリートとしての義務であるものだから仕方ないんだと、望は理解した。

 理解はしたが、だからと言っていざ本番で、ちゃんと『下』が緩むかと言われれば……。

「日本人はそんなに疑われないから。逆にちゃちゃっとやらないと、怪しまれるしね」

「自信ないなぁ……」

「練習する?」

 志波姫の屈託のない笑顔に、望は若干背筋が寒くなるのを感じた。

 しかし合宿の間に一度ぐらいは、練習しておかないとダメだろう。

「……考えとく」

 せめてもう一段階ぐらい、間を踏んでいけばなんとか……。

 望は、志波姫を促して大浴場に向かった。

 

 

 

「やるよ、泪」

「マジで?」

 酒が飲めるなら、酔った勢いでやってしまえるのに。

 そう旭は思いながら、紙コップを手に、ユニットバスに向かう。

 開けっ放しのドアの前に、泪を立たせて。

「いやーきついっす」

「茶化すな! 目、瞑っててよ」

「ごめんごめん……」

 泪が、きちんと目を瞑ったのを確認して、旭は下着を脱ぎ捨て、空っぽの浴槽の中で座り込んだ。

 気まずい沈黙。

 電気を付けないのは賢明な判断だが、換気扇でも回せばいいのに──と泪が思ったその時。

「っ……──あ!」

 ぱたたた、とFRPに跳ね返る水音。

(シクったな、えんがちょ)

 泪は彼女に気づかれないように鼻を鳴らす。

 軌道修正に成功したらしく、それからは少しこもった音が響く。

「……ふう──ほら」

 紙コップには、八分目ほどまで注がれた、黄色い液体。

 やはり『シクった』らしく、手が少し濡れている。

 まあそれでも、糸を引いてるよりはましだと、泪は思い直した。

「見せんでいい。手洗えよ、百回ぐらい」

「うるさいよ」

 真っ赤な顔で旭は泪を睨み付け、中身を便器に捨てる。

『それ』を浴槽の中に捨てられなくてよかったと、泪は安堵した。

「アンタもやれ」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

「なんでだ」

「同じコップ使うのかよ……」

「いいわよ、洗ってあげるから」

「やめろ、フニャフニャになるだろ──あぁ!?」

 旭は勢いよく蛇口をひねり、紙コップを洗う。

 硬さを失ったそれが変形し、ついには旭の手に、くしゃりと握りつぶされた。

 彼女はひょうたん型になった断面を指で拡げ、なんとか元の形にしようとする。

「……はい」

「『はい』じゃないよなぁ?」

「ズルいでしょ、私だけやり損かよ」

「──わかったよ!」

 ひと呼吸おいて恥ずかしくなってきたらしく、真っ赤な顔で震え出した旭が可哀そうに思えた泪は、自らも同じように下着を脱ぎ、浴槽に腰を下ろした。

「お前これ入んねぇって、物理的に」

「気合いでなんとかしなさい」

 くそ、と小さく悪態をついて、泪は背筋をきゅっと伸ばし、狙いを定めるため、下腹部に右手を伸ばした。

「……」

 つととと。

 最初は小さかった音だが、途中から泪は狙いを付けるのをあきらめたらしい。

 浴槽内に、盛大に跳ね返る音を閉じ込めようと、旭は慌ててドアを閉める。

「おい、ちょ──」

 これで少なくとも、廊下まで漏れ聞こえることはないだろう。

 旭は安心して、音が終わるのを待った。

「……終わった?」

 旭が再びドアを開けると、真っ暗闇の中でバランスを崩したらしく、泪が膝立ちになって肩を震わせていた。

「──暗くて狭いのは、いやだ」

 涙目でこちらを振り向く彼女に、旭は慌てて謝る。

 昔、そんなことがあったのかもしれない。

「……ごめん。慌てた」

「いいよ。はい、これ」

 底から雫の垂れる『それ』を、泪は旭に渡そうとする。

「いや、いらないから」

「だよなあ」

 そうして泪は、中身を便器に捨て、紙コップを握りつぶす。

「はい、というわけでね」

「というわけで、じゃない。シャワーで流してよ、ちゃんと」

「はいはい──いいやもう、風呂入っちまおう。着替え出しといて」

「わかった」

 と言うが早いか、泪は上半身をすっかり曝け出していた。

 十八歳の女性にしては筋張った背中に、旭はしばらく見とれる。

「……なんで閉めない」

「あっ──」

 後ろ手に投げつけられた服を受け取り、旭は慌ててドアを閉めて、浴室の電気を点けてやった。

 洗濯籠代わりのスーパーの袋にそれを詰め込んで、旭はベッドに寝転がる。

 本当は大浴場でみんなと入るのが好ましいのだろうが、泪の裸を他の誰かに見られるのは、少し口惜しい気がした。

(まったく、もう……)

 浴室からは呑気な鼻歌が聞こえている。

 と、こもった声が旭を呼んだ。

「おーい、旭~」

「あ? あぁ……」

 そう言えば、泪は手ぶらでシャワーを浴びているはずだ。

 旭は泪の鞄から、手際よくまとめられた『お風呂セット』を取り出す。

「はい」

 出来るだけ見ないように、旭は少しだけ開けたドアの隙間から、それを彼女に手渡した。

「いっつも思うけどアンタ、意外と几帳面なのね」

「は? つーより、慣れてるからな、遠征とか」

「ああ……」

 それに、恐らく泪は、彼女の家の中にも『居場所』がなかったはずだ。

 身の回りのものも、こじんまりと収めていたに違いない。

 宇都宮学院の寮ではなにかと奔放に振舞い、旭との二人部屋でも随分と店を広げていたのは、孤高の天才としての見せかけと言うよりも、そう言ったことの反動があったのかもしれない。

 風呂にしたって、いつも勝手に一番風呂に入って、勝手に上がってくる泪に付き合ったことも、何度となくあった。

 そのたびに先輩に頭を下げるのは旭の役目で、よく先輩たちもそれを叱らなかったものだと、旭は思い返して笑みを零す。

「ちょっと、飲み物買ってくるからね」

「おーう」

 上機嫌な返事を聞いて、旭は財布を手に部屋を出る。

 と、湯上りで赤らんだ顔の志波姫と、望に出会った。

「お、旭~」

「……お疲れ」

「泪は?」

「いるよ、風呂入ってる」

 そう言うと、志波姫は大げさに、口をへの字にして見せた。

「あ、ダメだなぁそういうの。みんな仲良く裸の付き合いしなきゃ」

「いや、まあ……『練習』の流れでさ」

 それを聞いて驚いたのは、望の方だ。

「え、もうやったの?」

「言い方」

「あっ……」

 やったと言えばやったに違いない、と旭は苦笑する。

 志波姫は肩をすくめて、表情を崩した。

「旭──」

「?」

「ありがとうね、泪を独りにしないでいてくれて」

 



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8th game WILD CHALLENGER

「豊橋と羽咲は奥のコートで、立花君がノックを打つ。益子と旭は俺が見る」

 倉石が飛ばした号令に呼応して、四人はシャトルがいっぱいに詰まった籠を持ち、指定されたコートに向かう。

「荒垣と志波姫はまずストレッチだ。他三人は交代で1セットゲームを回していけ。神藤コーチが見るから」

 あらかじめ引いてあった体育用のマットに二人を促し、松川は袖をまくる。

 今更ストレッチなんて、と悪態をつくでもなく、荒垣はそれに従った。

 現時点で膝に不安を抱えている彼女だが、兆候はないにせよ、肩や肘もスマッシュを打った分だけ酷使しているのは間違いない。

 志波姫にしても、古傷の再発は絶対に避けたいところだ。

 それに彼女にはとりたてて、すぐ直せるような欠点は存在しない。

「あ、じゃあ……あかねちゃんと久御山、最初にやっていいよ。私審判やるから」

 代表練習とは言え、ここは望にとってホームコートだ。

 ゲストを優先するのは当然の事だろう。

 倉石は手際よく役割を分担する三人を横目に、益子と旭のもとに向かった。

「待たせたな。お前たち二人は心配してないが……ただノックを打つというのもつまらんからな」

 そう言って彼は、自らのコートの奥隅二か所に、底が彼女たちから見えるようにして空き籠を置く。

「狙って、入れてみろ。そうだな……1ダースのうち五本入れば、ジュースを奢ってやろう」

 つまりそれは、上からでなく、ドライブで叩き入れろ、と言うことだ。

 ふん、と益子は鼻を鳴らす。

「よっしゃ、やろうぜおっさん」

「泪!」

「──もとい、監督」

 旭がすまなさそうに向けた目を高笑いでいなし、倉石は練習メニューを開始した。

(こんな跳ねっ返りは、ウチにはいなかったな──)

 

 

 

「……狼森、ちょっと」

「なんだばや、コーチ?」

 久御山がポイントを取り返し、二点差にしたところで、おおむね狼森の押し気味で進んでいた試合を、傍らで見守っていた神藤コーチが止める。

「望ちゃん、シャトル──」

「あ、うん」

 少し羽の曲がったシャトルを、久御山は望にはたいて寄越す。

 望はケースから新品のシャトルを取り出し、彼女に投げて渡した。

「おおきに」

 その間に神藤コーチは狼森のコートに立ち入り、身振り手振りで指導を送る。

「アンタも綾乃と一緒、頭振らないようにしな」

「お、おう」

 神藤は狼森の肩と腹部に手を置き、力を入れて彼女の上体を起こした。

「体幹を立てれば、頭はブレない。点数はいいから、常にこれを意識すること」

「おーん……」

 それから神藤はコートの外に出て、手を打って鳴らす。

 それを合図に、久御山がサービスを打ち、再び試合が始まった。

「コーチ、今のって……」

「ん、ああ──」

 神藤は望の横に立ち、試合中の二人の邪魔をしない音量で語り始める。

 背が小さく、『拾い』からゲームを作るスタイルの選手が陥りがちな欠点。

 それは彼女の娘もそうであったし、今指導したばかりの狼森や、同じくラリーを主体とする豊橋にも見える傾向だという。

「頭が動くと目線がブレるし、何より疲れるからね。体重の八パーセントほどは頭だから、だいたい五キロの錘を振り回してるようなもんさ」

 久御山にはそういう欠点は見えないらしく、彼女には神藤は特にコーチングをしないまま、一セット目が終わった。

 スコアシートは用意してはいたが、この練習はポイントが重要ではない。

 望の頭の中で計算した限り、21-15ぐらいだっただろうか。

 勝ったのは狼森だが、久御山も特に悔しそうな表情は見せない。

「久御山」

「はい?」

 独特のイントネーションと共に、首をかしげる彼女。

「狼森は、結構中国の選手に似てる部分があるけど──やってみて、どうだった?」

「そやなあ……」

 久御山はラケットを脇に挟み、手ぶりを交えて神藤に伝える。

 うん、うんと頷いている彼女を横目に、望は入れ替わりでコートに立った。

 狼森と軽くウォーミングアップをしながら、二人の会話に耳を立てる。

「横より縦とちゃいますか? 崩すのは……」

「そうだね、正解だ。人間の体は横長だからね、あとはそれを実現できるように、メリハリをつけて打つこと。攻めてのネットは仕方ないから」

「はい、おおきに」

「じゃ次、石澤と狼森、始めて。狼森は、さっき言った事忘れないようにね」

「はいっ!」

 

 

 

 かつん。

 シャトルが籠の取っ手を叩く。

「──二本、だな」

「オイ小さくねぇかその籠、おっさ──監督」

 五本も入れるのは無理だよ、とばかりに益子は旭の方を振り向く。

 まんべんなく散らされたシャトルを打ったのは、二人とも半分ずつぐらいだったが、籠に入れたのは益子だけだ。

「石澤は最高九本入れたぞ? と言っても、フォアのスマッシュリターンで、だがな」

 と、倉石が教え子自慢を披露したところで、『天才』のプライドに火が付いたようだ。

「……旭、どいてろ」

「え? ちょ──」

 彼女の肩口、ギリギリ柔らかくない所を手で押しのけて、益子はコートの中央に立つ。

「十本入れてやる」

「オーケー……」

 やれやれ、と言う風に旭は肩をすくめてみせた。

「ほれ!」

 倉石はバックスイングをとり、シャトルを泪のフォアサイドに上げた。

 心地よい打撃音が響く。

 シャトルは倉石の腰をかすめて、左側──益子のクロスサイドの籠に突き刺さった。

「ほら、一本目!」

「フムン……」

 得意顔の益子を見据えて、倉石は再びシャトルを上げた。

 今度は、彼女のバックサイドだ。

「っ!」

 矢継ぎ早にシューズとフロアの擦れる音を立て、益子はサイドステップで落下点に入る。

 そして──。

「おりゃ!」

 コースが甘い──と倉石は錯覚した。

 シャトルは空中で弾かれたように角度を変え、過たず、今度は倉石の右側の籠へ一直線。

 彼女の十八番のクロスファイアは、籠の『底』でなく内側の『壁』に命中する。

「ほぉ……やるな」

 当然、と言わんばかりに益子は胸を張って、得意顔を彼に向ける。

 傍で見ている旭も、初めて自転車に乗れるようになった我が子を見るような目で、彼女を見つめていた。

「どんどん来いや、監督」

「よおし──それっ!」

 三本目も、倉石はバックサイドへシャトルを送る。

 ただし、前回よりもずっと遠い。

 見送ればアウトかも知れないそれを追う益子に、旭は一歩二歩下がってスペースを空けた。

「ふッ──」

 バックのオーバーハンド。

 手首と肘の外旋をフル活用して放たれたそれは、倉石の予想に反して、彼の左側──ストレートコースの籠のわずかに手前でバウンドし、そのまま吸い込まれた。

(流石、と言おうか……)

 ワンバウンドだからノーカンだ、と倉石が言うかどうか迷っている間に、益子が声を上げた。

「今のはキツくねぇか?」

「……ま、そうだな」

「今の球は旭に任すよ。決めてくれるよな?」

 水を向けられた旭は、わずかにはにかんで頷き、重心を載せる脚を入れ替える。

「そう、ね……あんたのペアだからね、私」

「だな」

 

 

 

 結局、益子泪の記録は八本だった。

 といってもこれには、ワンバウンドの『疑惑の判定』は含まれていない。

 むしろあのコースをクロスでなく、ストレートにコントロールできるあたりが、彼女の非凡なところだろう。

 その後の旭は四本に終わったが、彼女の場合は『外した』シャトルも、全てバックラインぎりぎりに着弾している。

 旭海莉も、決して凡人ではない──と、倉石は確信した。

 そこに、何やら面白そうなことをしていると見て、ストレッチを終えた荒垣がコートに近づく。

「おう、荒垣。膝はいけるか?」

「問題ないよ、倉石さん」

 強気に振舞っている、と言うわけではないだろう。

 彼が手渡したサポーターも、荒垣はきちんと付けている。

「アタシもやらせてよ、スマッシュのコントロール?」

「かまわんが、壊すなよ?」

 そう言った倉石に右手を上げて、彼女は小さく呟く。

 壊れねぇよ──。

「泪、あんた荒垣とやったんでしょ?」

「もう昔だよ、そんなの。覚えてねぇわ……」

 どちらかと言えば、彼女の記憶に残っているのは、別の出来事──。

「……そういやあいつ、神藤にスコンクで負けたんだよな」

「ちょっと、泪」

 わざとらしく、聞こえるように言ったのを咎めようとして、旭は泪の肩に手を置く。

 当然耳に入っていた荒垣だが、それを制する。

「いいんだよ、旭」

 そうして、確かめるように屈伸をしながら、彼女はふうっと息をついた。

「アタシが弱かったから──今は違う」

 上半身を沈み込ませ、荒垣は上目で旭と益子、倉石を順番に睨み付ける。

「さ、来い!」

 呼応して、倉石はシャトルを打ち上げた。

 さっきまでの二人よりも遠く、高く。

 クリアーと言うよりはロブに近いそれに対し、荒垣は半歩体を引いて、空中に飛び上がった。

 金属のような衝撃音と共に、空気が歪む。

 ターゲットの上っ面にヒットしたシャトルは、その勢いのまま、反対コートの豊橋の足元まで飛んで行った。

 ひっくり返った籠は、無残にも取っ手が割れ、欠け落ちている。

 歪んだ空気が元に戻るのを待って、倉石が言った。

「……壊すなって言ったろ。三百円な」

「へーい」

 荒垣はちょろっと舌を出して見せる。

 本気で請求する気がないのは、倉石の表情を見れば明らかだ。

 それから、彼と同じように、『荒垣なぎさ』への認識を改めた人物がもう一人。

「──泪、口あいてる」

 

 

 

 

 数か月前に受けた、自動車教習所の卒検のような気分で、望はひとまず一セットを終えた。

「おつかれ、望ちゃん。やっぱし上手いわなぁ」

「ありがと」

 久御山が差し出したタオルを受け取り、望は神藤の顔色を伺う。

 その表情から、さほど期待を裏切ったわけではないと、彼女は思っていた。

「石澤は、もっとシンプルに行っていいよ」

「え? はぁ……」

 相手をどうやって崩そうか、と考えるのはとてもいいことだ、と神藤は言う。

 ところが望の場合、そこにばかり意識が向きがちで、かえってラリーを複雑にしているらしい。

「石澤はたぶん、セットで勝つときは、点差開いてるでしょ?」

「ええ……」

 宮崎での試合を、彼女は思い返してみる。

 旭と一緒に途中棄権した試合を除けば、デュース間際まで競ったのはせいぜい深川との三セット目ぐらいで、あとは豊橋を十点に抑えたり、久御山に至っては六点に留めて大勝した。

「リズムがいいときは、アンタは強い。ただ──事実として点数が取れているなら、深く考える必要はないんだ」

「はい」

「うん──志波姫!」

 神藤は、松川と軽くウォーミングアップをしている志波姫を呼んだ。

「はい、コーチ?」

「アンタ次、石澤とやりな」

「おっ」

 にやり、とする彼女に、望は軽くたじろぐ。

 久御山や狼森はともかく志波姫は、望にとっては夏のインターハイで戦って負けた相手だ。

「……それじゃ、狼森はさっきの意識を作る練習をしよう。久御山は審判ね」

「ほい」

 二人の間で、ほんの少し空気が張り詰めたのを察してか、神藤は狼森を松川のもとへ向かわせた。

「よし、勝負だ望!」

「ええっ」

「じゃあ、負けたら勝った方の言うことを聞く、でいいね?」

 口角を上げた志波姫に、望は沸々と闘志が沸き上がるのを自覚する。

 それはどちらかと言えば、『勝って当然』と言わんばかりの志波姫の表情に対してではなく、自身の貞操の危機に対してだった。

 心の中で、望は呟く。

(この一球は絶対無二の一球なり……!)

 

 

 

 裂帛の気合が充満するコートの隣で、豊橋と羽咲がへたり込んでいた。

 かれこれ一時間近くノックを打ち続けている立花も、日の丸のジャージが身体に張り付くほどに、汗をかいている。

「──疲れたね、綾乃ちゃん」

「うん……」

 とにかくまんべんなく、あらゆるコースに配球されたシャトルを、二人は手際よく分担して追い続けた。

「ちょっと休憩しよう。脚とか痛くないか?」

「あ、それは全然……どうでした? コーチ」

「ん……正直、初めて組んだとは思えない」

「でしょ?」

 素直に感想を述べた立花に、豊橋は得意げに羽咲と笑みを交わした。

 荒垣と組んだ時ほどはバタつかないだろうと、彼も予想はしていたが、守備範囲の広さでは羽咲にも引けを取らない豊橋のサポートがあれば、『攻撃』への転換も極めて容易に、また随時に行えるだろう。

「ただ──倉石さんも言ってたけど、お前たち二人の仕事は『次』にできるだけ多くの情報を伝えることだ」

 二人は表情を引き締める。

「もちろん、勝てば最高だけどな」

「一回やってるからね、綾乃ちゃんと」

「そうだね」

 二人は、今夏のインターハイ二回戦で対戦している。

 二回戦からの登場で、羽咲よりも体力的に有利だったとはいえ、彼女はその試合で、『羽咲綾乃』を幾度となくネット前から引き剥がして見せた。

「強かったもんなぁ……アンリちゃん」

 羽咲のような、いわば『自由形』のプレイヤーにとっては、『やりたいことをやらせてもらえない』のは苦痛だっただろう。

 また豊橋にとっても、高校生活最後の試合で、一年生に負けてしまうというのは、悔いが残らない結果だとは、とても言えない。

 それでも今二人が、懐かしそうにその試合の思い出を語るのは、豊橋が試合中に投げかけた言葉によるところが大きい。

『いい試合をしよう』──。

「そんなことも、言ったっけ……」

「言ったよ、アンリちゃん」

 バドミントンに愛される選手は限られている。

 しかし、バドミントンを愛することは誰にでもできる。

 関わる全てを愛し、リスペクトしてきたからこそ、豊橋アンリは一年生からインターハイに出場するほどに上手くなり、また自分自身が一年生に敗れる側に回っても、勝者を讃えることができるのだろう。

「また、試合したいね」

 その言葉に、豊橋はうんと頷いて、シャトルを集めているコーチを手伝おうと、腰を上げた。

 羽咲も、後を追って立ち上がる。

 ふと、隣のコートの試合が目に入った。

 まるで本番さながらに険しい表情でカットスマッシュを打ち込む望。

 半分飛び込みかけて、追うのを諦めた志波姫がシャトルを拾って返すと、審判役の久御山がデュースと言った。

(……私も)

 背中を向けている母親をじっと見つめ、念を送る。

「おーい、羽咲?」

 名前を呼んだ立花の声に、神藤は軽く後ろを振り返る。

 羽咲はあわてて目を逸らし、シャトルを拾う二人に混じった。

 

 

 前半から中盤を過ぎるあたりまでは、志波姫が三点ほど離していた時間帯もあった。

 しかし望は、そこから怒涛の追い上げを見せて、先にマッチポイントを窺ってみせる。

 デュースに入って先にマッチポイントを握ったのは志波姫だが、望は前後の揺さぶりから、伝家の宝刀リバースカットでひっくり返した。

(この一球は──)

 二十回以上詠唱している呪文を途中で切り上げ、望はショートサービスを放つ。

「っ──」

(前に詰める? ならこっちはクリアー、と見せかけて──)

 志波姫はインターハイで使った手を、再び繰り出す。

 フォームに拘る望がステップ位置を確かめ、バックスイングを大きくとることを予見し、彼女の目線が下がった一瞬に、ラケットを走らせた。

(さあどうだ──!?)

 白帯を越えていくシャトルを見送り、リズムを乱すことを期待して志波姫は望を見る。

 と、二人の目が合う。

(え……)

 早いテンポを欺瞞することを意図したサイドアームを、望は完全に見切っていた。

 ドライブリターンなら、差し込まれたのは志波姫の方だろうが、望はカットを強く掛けて打ち返す。

(二重で、仕掛けるか──)

 最初の目論見が失敗し、ドライブを予測して足を踏みかえた志波姫は、緩んで曲がり落ちるシャトルに向けてダッシュ。

 下で拾うしかない高さに落ちてきたが、タダでチャンスボールを与えるわけにはいかない。

(遠くに!)

 志波姫はアンダーハンドからラケットをしゃくり上げ、シャトルを望の後方に飛ばす。

「──!」

 望はバックステップを踏み、シャトルが自由落下に入る一瞬の間で、志波姫の位置を確認した。

 踵をコートに擦り付けて、加速度の向きを変える彼女が見える。

(コートミドル──よし!)

 後ろ体重になった志波姫の手元に、望は渾身のスマッシュを叩き込む。

「ち──」

 身体の半分だけをスライドさせ、下手から志波姫はシャトルを捌く。

 上に打ち上がるしかない。

(貰った──!)

 引いた半身を戻す志波姫を流し見て、望は前に跳躍した。

「──ふッ!」

 風船が割れるような音を立てて、シャトルは志波姫の重心の逆、バックサイドへ飛ぶ。

 志波姫も自身の運動神経に入力はしたのだろうが、バランスを崩し、脚をもつれさせた。

「よっし!」

 シャトルが彼女のコートに着弾したのを確認して、望は背を向けてガッツポーズをする。

「……えっと、マッチポイント、望ちゃんやな?」

 頼りない久御山のコールに、振り返った望は力強く頷く。

 対面の志波姫はコートを踵で撫で付け、前髪に絡んだ汗を拭きながらも、飄々とした顔色を変えない。

「いやあ、強くなったねぇ望。何がアンタをそこまで──」

 ズレたリストバンドを直しながら、志波姫は笑みを送る。

「……本能、かな」

 強くなったのは紛れもない事実だろう。

 しかし、この場合はとにかく、『真実の瞬間』は試合中だけに留めておいてほしい──という、望の切なる願いが、三度目のデュースを生んでいる。

 もっとも、コート脇の二人には、彼女が『インターハイの借り』を返そうと燃えているようにしか見えない。

「本能? いいねそれ、椎名林檎?」

 生まれる前の曲のタイトルに、久御山は素朴な感想を述べる。

「古っ」

「え──」

 神藤の顔が歪んだ。

 

 

 

 

 午後になり、逗子総合バドミントン部の中で早めに授業が終わる特待組が、ちらほらと顔を出す。

 普段の着古しのTシャツとは違い、日の丸の入ったポロシャツを纏う倉石を見て、数人の生徒は、顔をほころばせて更衣室に入っていった。

「ねえ、なぎさちゃん」

 壁にもたれて靴紐を結び直しつつ、羽咲は荒垣に問う。

「あの望ちゃんって、そんなに強かったっけ?」

「はあ? 逗子総合のエースだぞ。弱いワケないだろ」

 荒垣が笑い飛ばす。

 しかし羽咲は、どうにも腑に落ちないようだった。

「やってみたいなぁ……」

 目下のところ、彼女の練習メニューは豊橋とのマッチングを高めることだ。

 午後からは相手を変え、倉石がノックを担当する。

 望は相変わらず、志波姫や久御山、狼森と一セットずつのランダムマッチを繰り返し、都度神藤からのアドバイスを受けて、それを実践する作業に没頭していた。

 志波姫との二度目のセットで、何も賭けているものがない事を確認したおかげか、分相応と望が自覚するスコアに収まった後。

「──ほんとアンタ、いい打ち方するよね」

 神藤がポツリと言う。

「え? ありがとうございます……」

 打球初速が高いバドミントンだが、終速はそれほどでもない。

 球体を打ち合うテニスや野球などに比べれば、シャトルははるかに空気抵抗の大きい形をしている。

 競技を始めたばかりの初心者ならいざ知らず、ある程度出来るようになれば、ついつい疎かにしてしまいがちな『シャトルをミートする』作業。

「技術的に、すぐにどうこう言える部分はないけど、何かあったら聞きな。こっちは上がっていいから、益子呼んできて」

「あ、はい」

 手渡されたタオルを肩にかけた時、気軽に返事をしてしまったと、望は後悔した。

 相方の旭とは、宮崎の大会で少し仲良くなれた──と自負しているが、バドミントン雑誌でジュニア世代の特集が組まれればまず一番手で名前が挙がった益子泪と、会話をしたことなどあるはずもない。

 もっとも、どちらかと言えば望には、彼女が写っている写真では、いつも耳に絆創膏を巻いていること──つまりはピアスの穴を隠しているのだが、そういう『ヤンキー』めいたところも、益子泪を実力の隔たり以上に遠く感じさせる要因の一つだった。

(……)

 気持ちを落ち着けるために少し遠回りして、望は彼女たちがノックを受けているコートに向かう。

 ふと、望は益子の耳元を見た。

 絆創膏は貼っていないが、茶色い点がいくつか。

「あのー、益子さん……」

 怪訝な表情で、益子は振り返る。

「──なに」

「あ、えっと、神藤コーチが呼んでる」

「ああ──『さん』は要らないよ」

「……うん」

 肩を少し上下させて息を整えてから、益子はコートを出る。

 彼女はすれ違いざまに、望の肩からタオルを奪い取った。

「借して?」

 ラケットを両足の間に挟んだ益子は、『行儀悪い』という旭の声に手を振って応える。

 顔を覆い、目のあたりをタオルの上から両手で擦った後、彼女は腕、胸元、脇と拭いていく。

(私のなんだけどなぁ……)

 それを口に出すと、彼女の耳のように穴だらけにされてしまいそうだったから、望は思いとどまった。

「──悪い、結構ガッツリ拭いた」

「大丈夫、洗っとくから」

「サンキュ」

 少し温もったタオルを望に返し、益子は肩を回して神藤のいるコートに向かう。

 散らばったシャトルを片付け終えた旭が、望に申し訳なさそうな顔を見せた。

「ごめんね、石澤。後でシバいとくから」

「あぁ、全然いいよ」

(……なんだか、いい匂いするし)

 逗子総合の倉庫には、多種多様なタオルが山と積まれていた。

 それは大会応援の際に一般の生徒に配るために作った分の余りだったり、はたまたメーカーの営業が、カタログ落ちした在庫品を置いて行ったりしたものだ。

「旭と石澤は、宮崎の大会で組んだんだろう?」

 と、対面コートの立花コーチが言う。

「ええ、まあ……言っても、エキシビションですけど」

「いやいや、経験がゼロじゃないってのは大きいさ。少し散らすから、二人のペア合わせをしよう」

「はいっ」

 そうして望は、タオルをポールのフックに掛けて、旭と軽く手を合わせた。

「よろしくね」

「うん──今日は万全だから、脚」

 

 

 

「泪、ちょっと」

「あ?」

 一日目の練習が終わり、汗が引かないうちに風呂へと急ぐ益子を、旭がドアの前で止める。

「なに」

「あのね──」

 旭は、ラケットバッグからタオルを取り出す。

 益子が今日の練習中に、望から借りたものだ。

「それ、あいつのじゃん。サインしろって?」

「違うわバカ」

 ふん、と益子は鼻を鳴らした。

「ちゃんと洗って返しなさい」

「えぇ……いいだろ別に、そんなの」

 ベッドにふて転がる益子の顔面に、旭はそのタオルを投げつける。

「わぷ──」

「もう、いつまでも子供ぶってんじゃないの」

 表情は厳しいが、旭は努めて諭すように、益子に声をかけた。

「……だって」

 否が応でも、『益子泪』はこれから先、どんどん『普通の人』になっていく。

 才能だけで勝ち切れるのは高校まで──そんなキアケゴー氏の言葉を旭が思い出すまでもなく、周囲は益子泪に対する眼差しの熱量を落としている。

「今までと同じことをしてたらダメ。もっと相手の気持ちに立って、言動に気を付けなさい」

 そうしないと──。

(お義母さんといつまで、絶縁してるの……って、言えないか)

 上げ膳据え膳で取り扱ってくれる大学や実業団など、益子と言えども存在しない。

 遠征、合宿、大会──事あるごとに、お金がかかる。

 そう遠くないうちに必ず、解決しなければならない問題を前に、今の奔放な泪では、ダメだ。

「我慢することも覚えて。私だって、春が来たら卒業して、泪とは──」

「……わかってる」

 口をとがらせ、益子は呟いた。

 彼女自身も、そう言った『引き潮』は感じていたのだろう。

 中学までは無敵で、津幡は勿論志波姫にも追随を許さなかった。

 しかし高校三年間で、二人の差はぐっと縮まる。

 志波姫の間断ない努力の賜物であるし、益子が最大の上昇角を維持できなかったのも確かだ。

 それが『三強』で収まっているうちはまだいい。

「みんな、強くなってるんだから」

「……」

 豊橋や久御山はともかく、かつての益子にとっては荒垣など鎧袖一触の相手だった。

 なのに、今日彼女のスマッシュを見て、端的に恐怖を覚えた自分がそこにいる。

「洗濯機の使い方なら、教えてあげるから」

「ほんと?」

 益子の顔がぱっと明るくなる。

 ひょっとして、使い方がわからなくてゴネてたのだろうか。

(いや、まさか……でも、泪のユニフォームも私が洗濯機かけてたし……)

「お風呂、行ってからでいいから」

「旭も行こうよ」

「え? 大浴場?」

「イヤか?」

「イヤじゃないけど……」

 益子がそんなことを言い出すとは、意外だった。

 旭は含み笑いが彼女に見えないように背を向けて、手早く着替えとバスタオル、お風呂セットの類をまとめる。

「──よし、行こ」

「おう」

 暖房の利いていない廊下に出て、二人は肩をすくめて一階への階段を降りる。

 角の取れた板張りが立てる軋み音を縫って、大浴場の更衣室からは幾人かの騒がしい笑い声が聞こえた。

 益子は、中の状態がどうなっているかも気にせず、引き戸を全開にする。

「──お、泪!」

 声を上げたのは志波姫だ。

 簪を解き、髪を下ろしている望の脇をすり抜け、彼女は熟練の刑事のような動きで、益子をホールドする。

「おい、やめろ」

 口ではそう言いながら、されるがままに上着を脱ぐ泪を見て、旭も顔をほころばせる。

「旭、お疲れさま」

「うん──今日のタオル、明日返す……──」

 小さなボディタオル一枚で前を隠す望を、出来るだけ見ないようにと旭は心がける。

 天才は作れる、という持論を持つ神藤も含めて、バドミントンが上手い奴は胸が大きい、という持論を、これ以上補強したくなかった。

 もっとも、それに対する反証は、益子や羽咲のおかげで保たれているから、これは永遠に答えの出ない問題、となるだろう。

(ま、そうは言っても泪よりは……)

 第二段階に差し掛かったプロレスを横目に、旭は手早く服を脱ぎ、望を追って風呂場へ向かった。

 

 

 

 

 ひとしきり、風呂で騒いだ後。

 ランドリールームに望と旭達は集まっていた。

 洗濯機は二台あるが、片方は誰かが使用中だった。

「石澤、私がキッチリ洗うから」

「あ、うん」

 どうせいっしょに洗うのだから、益子からタオルを取り返そうと思ったが、本人が洗うと言っているのだから、まあいいか──と望は思った。

 と、旭が彼女たち三人分で一杯になった洗濯槽の中に、液体タイプの洗剤を投入した後に、益子がおもむろにもう一本の『何か』を投入しようとする。

「それなに」

「リンス。いい匂いすると思って」

「やめなさい。しかもそれ、私のでしょ」

「えー」

 旭は益子の手を押さえ、ふたを閉じてスイッチを押した。

 勢いよく水が流れ込む音。

「……ま、その気持ちは大事」

 他愛もない話をしていると、凹みの多いアルミ製の引き戸が開く。

「志波姫──と神藤コーチ」

「やあ、お疲れ」

 神藤は大きな洗濯籠に、三つほどの袋を入れていた。

「えらく多いですね、コーチ……」

「朱美と、綾乃のぶんもあるからね」

 あの子の洗濯物をやるなんて何年ぶりだろう。

 そう言って、神藤は懐かしそうに微笑んだ。

「そういえば、みんな寮なんだよね。洗濯とか、大変じゃない?」

 彼女はともかく、フレゼリシア女子も、宇都宮学院もバドミントン部は全寮制だ。

「うちは後輩がやることになってるから……一年とかの頃は大変だったね」

 志波姫が語る。

 強豪校と言えども『部活動』である限り、一定の上下関係というものは発生する。

「やっぱあるんだ、そういうの。人数多いしね……」

「ウチはそういうの無いよな?」

 と、益子が旭に聞く。

「あるよ。アンタは自分のだけさっさと入れて、回してたでしょ」

「だって家でもそうだったし……」

 小学校ぐらいまでは、義母との拗れもまだ小さかった。

 中学に上がって、めきめきと頭角を現す益子は、両親が期待をかけていた兄を簡単に追い越してしまう。

 決定的になったのは、兄の特待を叩き潰した一件だった。

「もうそこから親と口きいてなくて、貰ったのお金だけ。飯も自分で炊いてた」

「……」

 あっけらかんと話す益子に、旭以外の慣れていない三人は表情を曇らせる。

 彼女のことを良く知っている志波姫でさえそれだから、自分も似たようなことをやらかした神藤など、苦虫を嚙み潰したような顔だ。

 空気を察した旭が、泪を連れて出ていく。

「──なんか、聞いちゃいけなかったのかな」

「あの子が自分から言ったんだから。気にしなくていいよ、望」

「うん……」

 と、片方の洗濯機が止まり、ブザー音が鳴った。

 神藤の眉間の皺が緩んできたころに、その洗濯物の主が現れる。

「おつかれさんです」

「ああ、それ久御山のだったんだ」

「荒垣のんもあるよ?」

 独特のイントネーションで場を和ませつつ、久御山は袋を開けて中身を手早く乾燥機に移し変えた。

「ほい、お待たせ」

「先やっていいからね、乾燥機」

 選手のコンディションを考えるなら、全てコーチが身の回りの雑用を取り持ってやる方がいいのだろうが、予定外の代表派遣とあっては、あいにくそこまでのスタッフは揃えられなかった。

「ありがとうございます──」

 逗子総合バドミントン部がこの合宿所を使うのは、春休み期間ぐらいだ。

 部活動の時間が長くなる大会前の強化練習の時期は、自主的に泊まり込む部員は何人かいる。

 志波姫は、粉末の洗剤を小分けにしたパックを取り出す。

 興味を持ったらしく覗き込んだ久御山に、彼女はひとつ分けてよこした。

「こんなんするんや、志波姫はん」

「液体は飛行機に持ち込めないからね、嵩張るし」

「ああ……」

 

 

 

「なんか私、変な事言った?」

「かなりね」

 旭と益子は、合宿所玄関の自販機の前にいた。

 色褪せた赤いベンチに座り、しばらく夜風の音を楽しむ。

「アンタ実際、どうする気? その、家のこと」

「どうしよっかなぁ……」

 益子がどこまで考えているかは分からないが、旭はとりあえず、最高と最悪のシチュエーションを想像してみた。

「そりゃ、全部解決してくれれば、私は嬉しいけど」

「……たぶんすぐには無理」

 経済的には到底自立などできない高校生の益子を、両親と繋いでいたのは兄だ。

 彼はトップの名門とは言えないが、大学でもバドミントンを続けている。

 エリート街道から外れても、道はたくさんあるんだから、『コースアウト』させた泪を、そんなに責めることはない、と。

「直接は、まだ無理」

「そっか……」

 最悪、はそれこそ彼女が高校を卒業して、路頭に迷うことだ。

 仕送りはいい額を貰っているとはいえ、高校を出て即働くにしても、たとえばアパートを借りたりするほどの貯金はない。

 そもそも未成年だ。

 何をするにも親の同意が要る。

 それは、バドミントンの『プロ』になるにしても。

「……この大会が終わったら、結論を出そう、泪」

「──うん」

 旭は卒業したらいったんは普通に親元に帰る予定だ。

 どこの大学に行くかは分からないが、単純に独り暮らしはしてみたいと思っている。

「なんかでも、将来そういうの、バレそうでやだな」

 この年代のバドミントンを追う記者の間では、益子泪の家庭環境は言わば公然の秘密だ。

 事情を理解しており、また競技の発展を願う彼らのコミュニティの中では、『そのこと』は書かないのが暗黙のルールとなっている。

 しかし、将来彼女がトッププレイヤーに返り咲いた時、また大きな大会で結果を残した時。

 『そうでない』人間が、その事実を面白おかしく書き立てる危険は、十分に考えられる。

「……そうね。でもしょうがないんじゃない? 過ぎたことだし」

 旭にはもちろん、そういった特殊な事情はない。

 だからある意味『他人事』として見るべきものであるし、益子が彼女自身で、この問題を解かなければならないのだ。

「それまでに、大人になりなさい」

「簡単に言うなあ、お前」

 

 

 

「望? なにぼーっとしてんの?」

「──へ? ああ、いや……」

 さっきの益子の話を、望は考えていた。

 彼女の家族の中で何があったかは知らないし、おそらく聞くべきことではないのだろうが、それでも、両親と一年間口を聞かないなど、望には考えられなかった。

「あんた優しいもんね」

「……」

 優しい、というか、心が弱いのだろう。

 望はそう自覚していた。

「荒垣の膝も、壊さなかったんでしょ?」

「まあ、それは……」

 どちらかと言うと、『壊せなかった』の方が正しいだろう。

 『全国』に行きたいという気持ちは、完全に荒垣の状態を思いやる気持ちを上回っていた。

「志波姫だったら、どうする? 昔からの友達と、故障を抱えてる状態で対戦したら──」

「うーん、そうねえ……」

 それでも、私はやっちゃうかもな、と志波姫は呟いた。

 大会にエントリーして、コートの向こう側に立った以上は。

「全力でやるのが礼儀とか、そういう意味じゃないんだけど……」

「そういえば志波姫、矢本さんと──」

「あ、それだ!」

 宮崎の大会で、望は矢本と対戦した。

 彼女が膝に故障を抱えていることは、いざ試合開始の時まで知らなかったが、望は彼女を左右に振るのではなく、大柄な選手のウィークポイントになりがちなボディを攻めていくことで、ひとまず一セットをモノにした。

「千景に怒ったのはね、あれだよ。単純に無理をしたから」

「……」

 あの時のフレゼリシア女子は、インターハイ団体戦優勝を成し遂げた後。

 世代の頂点を極めてなお、もっと上でやれる才能があって、どうしてそれを潰してしまうようなリスクを負うのか。

「高校生活が終わったら全部終わり、じゃないんだから──ってね」

「……荒垣がフレ女に居たら? メンバーだったと仮定して」

「外す」

 きっぱりと彼女は言い切った。

 それは、コニーが来たからどうとかいう話ではないことは、望にもわかる。

「私は家族だと思ってるからね、みんな。『フレ女一家』で勝ちたいなら外れなさい、って言うよ」

 そういう意味では、子供の集まりなのかもしれないな、と志波姫は言った。

 高校生なのだからそりゃそうだろうと、神藤や久御山は思うが、ひとまずは彼女の話を聞き続ける。

「だから団体戦で優勝するとこって、絶対的な一本の柱がないとダメなんだよ。私はそうなろうとしたし、望もわかるでしょ?」

「……うん」

 もちろん、彼女たちに負けた逗子総合には、そういう柱がなかった──という謗りではない。

 ではないが、志波姫と自分を比べれば、『エース』としての柱の太さは、歴然の差があっただろう。

 それでも、神奈川を勝ったというのは事実だし、望にとってはバドミントンを続けていくうえで、かけがえのない財産だ。

 エースナンバーを背負って勝ち上がる、ということの意味。

「はっきり言うけど、私はこの代表でも、私が『エース』だと思ってる」

 関白宣言だね、と志波姫は笑ってみせた。

 



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9th game Little Soldier

 合宿二日目、三日目の午前を終えて、日曜午後はオフとなった。

 コートを貸している逗子総合に、どうしても外せない練習試合の予定があったからだが、そこに『日本代表』が居ると、みな気もそぞろになるだろうから、という倉石の申し出だった。

「そんなわけで、今日はこれで上がりだ。明日も軽めの調整をして、チャーターバスで成田空港に移動。火曜日の便でコペンハーゲンに向かう。何か買い揃えたいものがあるなら、今日のうちに行っといてくれ」

 車が必要なら、松川さんか立花君に──と倉石が伝えたあと、解散の号令がかかり、選手の輪が溶ける。

 フロア内では逗子総合の部員たちがあわただしく準備を始め、倉石も二階の教官室に武山を連れて行った。

 代表組はそれぞれに、壁際のバッグをまとめて出ていく。

「……どうしよっかな」

 望は、隣の志波姫に問いかけるでもなく、ぽそりと言った。

「どこか行く? シャワー浴びてから」

「そうだね──」

 と、彼女たちに松川が声をかける。

「石澤さんと志波姫さん、ちょっといい?」

「え?」

 全日本のジャージの脇にノートパソコンを抱え、彼女は数日振りに敬称を付けて二人を呼んだ。

「ちょっと取材、受けてもらえないかしら? お昼でも食べながら」

「いいですよ。ね、望?」

「うん」

 松川は時計を見る。

「そしたら、十三時に体育館前で──あ、ジャパンのジャージは着ておいて? 写真も撮るから」

 そう言って、彼女は手を振って別れていった。

 

 

 

 車を走らせながら、松川は後部座席の望に聞いた。

「どこかおススメある? 石澤さん」

「んー……びっくりドンキー?」

「……もうちょっと静かなところがいいかな」

 苦笑する松川に、望は返答に詰まる。

 もう二年以上も逗子総合に通ってはいるが、あまり寄り道などする体力もなく、部活に明け暮れた毎日だった。

 そんな望を察してか、志波姫がスマートフォンを取り出し、素早く店を検索する。

「──これいいかも。イタリアン」

「お、いいね」

 他の誰でもなく、志波姫と一緒でよかったと、望は安堵した。

 旭や益子なら、昼飯なんてコンビニでいいと言うだろうし、荒垣はとりあえず肉を喰いたがる。

 志波姫のナビで車は向きを変え、海沿いの国道に出る。

 夏場ならパラソルが一面に広がっているところだが、師走の海岸線は白波が立ち、人影もない。

 目当てのイタリアンの店はすぐだった。

「三人で。あと、できれば──」

 洒落た作りのテラス席を希望すると、店員は気を利かせて電熱式のヒーターを設置してくれた。

 それぞれに軽めの注文をし、松川は話を始める。

「石澤さん、宮崎行ったんでしょ? 私も取材行きたかったんだけど、日程がね……」

「楽しかったですよ。なんか、ああいう大会って、初めてで」

 キアケゴー氏の意向によるところだが、出場したのは高校での公式戦をすべて終えた三年生だけだ。

 よりよい進学先、就職先を探すという目的は望にもあったが、それまでの大会のようなプレッシャーはない。

 純粋にバドミントンだけをすることができた。

「まあ、あの大会はほんとに実験的なものらしいけどね。でも、深川さんなんかは、いいところから声かかったみたいよ?」

「へえ……」

「望は、まだ進路決めてないの?」

 志波姫が問う。

「監督に紹介してもらったところはあるけど……まだ親とも話してないし」

 バドミントンが強い大学ではあるのだが、今一つ魅力を感じない。

 一般入試で強豪校を受けるのは、望の学力的には全く問題のないところだが、家庭の経済的にはどうだろうか。

「まあ、焦ることはないと思うわ。有千夏だって、全日本獲ったのだって大学卒業してからだしね」

 進藤有千夏が全国制覇をしたのは、二十三歳の時。

 それから数年経って綾乃を産み、それからも勝ち続けた十年間。

「今は流石にね……私が言うのもなんだけど、あの当時はまだまだマイナースポーツだったから」

 毎年チャンピオンが変わるぐらいが、競技の発展には良い。

 そんな話をしていると、メニューが運ばれてきた。

「わ、おいしそう」

「ほんとだ」

 と、松川のスマートフォンが震えた。

「ごめんね、先食べてて──もしもし、有千夏?」

 松川は席を立ち、テラスの手すりにもたれかかる。

「食べよっか」

「そうだね」

 二人は料理に手を出し始めた。

「志波姫って、こういう取材とかって受けたことあるの?」

「あるよー? 松川さんも、何度も」

「ふうん……」

 バドミントン雑誌は『読む側』でしかなかった望には、今日のことは新鮮だが、志波姫にはそうでもないのだろうか。

「望は、ないの?」

「うん……まあ、そんな選手じゃなかったし」

 ちょっとしたコメント程度なら、求められることはあったが、今日のように写真を撮られるようなことはなかった。

「あ、でも。逗子総合としては取材受けたことあるかな」

 それは昨年のこと。

 数年来続いてた神奈川トップの座を横浜翔栄に奪われた後の、新人戦の前だった。

 新たな王者となった横浜翔栄と、王座奪還へ向けて、逗子総合の指揮官とエースにフォーカスした記事。

「あ、なんか読んだことあるかも。橋詰だよね」

「そうだっけ……」

『太い柱』がエースの条件であるなら、橋詰は頼りなさ過ぎた。

 北小町との団体戦を見る限り、重盛の方がよほど大黒柱と呼べる存在だろう。

「望も載ってた気がするけど、覚えてない?」

「うん……あんまり興味なかった」

 その当時の彼女にとっては、自分の事だけで精いっぱいだった。

 同じ『エース』としての戦い方においても、志波姫と望のスタンスは違う。

 実力的には部内で突き抜けたものを持っていた二人だが、志波姫は周囲の『プラスを増幅させる』のに対して、望は『マイナスをカバーする』スタイルだ。

 日本代表には、『マイナス』を抱えている選手はいないから、今までの彼女のスタイルでは、チームを引っ張ることができない。

「難しいよね、団体戦って……」

「そうだね……チーム引っ張るのは大変だよ」

 県と、全国の違いはあろうと、同じ頂点を極めた団体チームのエースの二人。

 今回の代表メンバーの中では、この気持ちを共有できるのは志波姫しかいない。

「望は、ダブルスも出てたんだっけ?」

「たまにはね。でもシングルス一試合だけの方が多いかな」

「私もほとんどそう。だからなおさら、ゴールだけじゃなくて、その過程を見るようにはしてたね」

 過程──。

 望は改めて、あのインターハイの試合を振り返ってみる。

 彼女と志波姫はお互い、シングルス2でマッチアップした。

 その前の雄勝までで決まっていれば、そもそも『エース』には回ってこない。

 オーダーを決めたのは勿論倉石と亘だが、二人とも、どこかで一つは落とす、という考えだったのだろう。

 実際のところは、膝に不安を抱えた矢本と下級生の多賀城のペアに逗子総合が勝って、『エース』に回す展開になった。

「あの時、冴子が勝ってウチがリーチをかけた状態で、望とやったよね」

「うん」

「百パーセント勝てるとは、私は誰に対しても思わないけど、絶対に勝つつもりでいたんだ」

「なんで?」

 宮城県の個人戦で、志波姫はコニーに敗れた。

 つまりそれは、あの時のフレゼリシア女子の中では、コニーこそが最強のプレイヤーだったということに他ならない。

「『奥の手』を出してしまったら、後がキツいってのもあったけど……」

「……」

「あの子はエースじゃないから。私の仕事は、『エース』に勝つこと。それが重複でエントリーしなかった理由だよ」

 エースに勝つ──。

 言葉で言うのは簡単だが、望と志波姫の力関係を別にしても、それは容易なことではない。

「望は、そういうの無かったの?」

「あんまり……」

 団体戦でのライバル、といえば横浜翔栄に違いないが、橋詰との間での『格付け』は、一年秋の新人戦で既に決まっていた。

 鳴り物入りで東京の中学から越境入学してきた翔栄のA特待を、粘られはしたがストレートで退ける。

 今しばらく数年は、まだ逗子総合の天下が続くだろう。

 そう思わせた試合だったが、翌年夏の神奈川代表を勝ち取ったのは横浜翔栄。

 個人戦でも荒垣に敗れた望は、結局最後の最後、三年夏のインターハイ、それも団体戦でしか全国を経験していない。

 文字通りの『常連』である志波姫や益子とは、見ている景色が違う。

「──私、結局自分が好きなだけなのかな」

「は?」

 志波姫はフォークを置き、腹を抱えて笑ってみせる。

 ひとしきり笑って、最後には咳き込んだあと。

「みんなそうでしょ? そんなの、私だってそうだよ」

「……」

「フレ女を背負ってる自分が好き。チームをほったらかしにしていいってんじゃぁ、ないよ?」

「うん」

「もっと自分を好きになるために、背負うの。いろんなものを──それがエースでしょ?」

 負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと。

 志波姫は古いポップソングを諳んじる。

「……ちょいちょい古いよね、志波姫って」

「あはは──でも大事だよ? 仲間を信じる自分を、信じるの」

 そう言って志波姫が笑うと、望も納得がいったようで、舌に乗せた料理が、より美味しく感じられた。

「はいはい、じゃあね。伸びちゃうから──え? ラーメンじゃないよ、じゃ──」

 電話を終えた松川が戻ってくる。

 二人の話は聞こえていなかっただろうが、その表情を見て、慣れない取材に緊張していた望も、少しばかりほぐれたことを悟る。

「ごめんね、お待たせ」

「いえいえ」

 松川は急ぎながらも、美味そうにパスタを頬張る。

 きっと雑誌の記者なんて不規則な生活だから、食事もゆっくりは摂らないのだろうと、望は思った。

 

 

 

「もう少し、長く合宿をしたかったな」

「まあ……そうは言っても仕方ないでしょう、倉石さん」

 まあな、と苦笑して、倉石は電子レンジからコンビニ弁当を取り出す。

 立花の方はカップラーメンと、サラダのパックだ。

「そんなの喰ってちゃ、生徒に示し付かないぞ?」

「お互い様でしょ……しかしまあ、石澤も立派になりましたね。って俺が言うのも変か──」

「荒垣より上だ、ってずっと言ってるだろう?」

 嫌味なく口角を上げ、倉石はペットボトルの封を切る。

「俺たちの仕事は、生徒に暗示をかけることだ。催眠と言ってもいい」

 実際にそうであるかどうかは別にして、望は荒垣よりも上に立とうとしたし、そのために努力をしてきた。

「荒垣の膝が壊れるような戦術を指示したのは俺だが、実行したのは石澤だ」

 逃げ口上ではないことは、立花にも分かっている。

 リングの上での殺人は、罪にはならない。

 そんな理屈を語るまでもなく、あの時彼女は若さ故の狂気に身を任せ、荒垣を潰そうとした時間帯があった。

「あいつに、『あの指示は間違いだった』──とは、言ってないんだ」

 言ってしまったら、それまでの指導は全て嘘になってしまう。

 荒垣の膝を守るのが立花の責任ならば、石澤に勝つ方法を与えるのが、倉石の責任だ。

「──だが、間違いだったと、俺は思ってる」

 才能ある選手の未来を奪ってしまいかねない指示に対する、競技に携わる者としての反省も多少はあるが、主とするところは、手塩にかけた教え子が全うしきれない戦術を、指示してしまったことに対してだ。

 結果的に荒垣の強打を捌ききれず、目論見は破綻する。

 望は個人としては、『上』の世界を見ることなく高校生活を終えた。

「もう何年もこの世代を見てきて、石澤には多分一番時間をかけた。それでも俺は、選手を把握しきれない……」

 何が違うんだろうな、と倉石は呟いた。

「……誰とですか?」

「神藤コーチさ」

 コニーと、王。

 彼女は手を掛けた二人の選手を育て上げ、王は世界ランク一位にまでなっている。

『東京』では、日本勢に立ちはだかる最大の壁になるだろう。

「母親……ではないですからね。少なくとも、王に対しては」

「──だよな」

 俺は、まだまだ甘いのか?

 そう問う倉石に、立花は笑って首を振る。

「あんなうるさい監督いないでしょ……」

「そうだなあ──」

 

 

 

 がつん、と音が響いた。

 昼食を食べ終え、自室で本を読んでいた久御山は、音のした方を振り返る。

 二人のベッドの間で、荒垣が床に倒れ悶えていた。

「荒垣はん、何しとん?」

「……瞑想」

 随分トリッキーな瞑想だと、久御山は笑う。

 実際のところは、座禅を組んだまま眠りこけた荒垣が、顔面からベッドを転げ落ちただけのことだ。

「久御山は何してんの?」

「本読んどる」

 そう言うと彼女は、手に持った本を閉じ、荒垣に拍子を見せる。

「野球?」

「メッセンジャーやで、阪神の」

「ああ……よくわからんけど」

 ええこと書いとるで──と、久御山は荒垣に本を手渡す。

 活字が嫌いな荒垣だが、知り合って日も浅い友人の好意を、無下に断るのは悪いと思ったのか、出来るだけ興味ありげにそれを受け取った。

「……」

 しかしすぐに限界が来て、彼女は表紙から適当に数ページずつ飛ばしながら、字を追っていく。

 目次を見てみても、そもそも違う競技の話だし……と指の力を抜いた瞬間。

「──ん……?」

 その一文が妙に、はっきりと目に映った。

「……」

『人間の肩に生まれつき込められている弾丸の数は個人差はあれど、有限だとぼくは思っている』──。

 きゅっと膝が痛んだように感じて、荒垣は顔をしかめる。

 それが幻痛だとわかると、彼女はまた緊張を解いて、数行を読み進めた。

 そして。

「……うん、ちょっと読んでみる」

「ほな、貸しとくわ。日本帰ってきたら、返してな」

「ああ」

 首を鳴らしてベッドに寝転がり、荒垣は本を掲げて読み始める。

 手持無沙汰になった久御山は、小銭を手に一階の自販機へ向かった。

 

 

 

「石澤選手は──」

 慣れない呼ばれ方をして、望は吃驚して背筋を伸ばす。

「海外遠征って初めてだよね?」

「まあ、はい」

「どう? 緊張してる?」

「……わくわくしてる方が多いですかね、たぶん」

 実際、緊張しているかと言われれば、首を縦に振る気はしなかった。

 志波姫や益子のプレイを連日、すぐそばで見られる事自体幸せだと思っているし、その中の一人として、自分がいるということも、望には新鮮だった。

「コートに立てば、緊張し始めるかもしれないです」

「なるほど……」

 あと、『検査』も──と言おうとしたが、松川がICレコーダーをずっとオンにしていることを思い出し、望はやめておいた。

 今受けているのは夕刊フジの取材ではない、バドミントンラッシュだ。

「あんまり、対戦相手の情報を教えるのも良くない気がするけど──」

 一瞬コーチの顔になった後、松川は元の表情に戻って言った。

「決勝トーナメントに出ればオランダやデンマークの有望選手たちが続々出てくるけど、コニーも出るからね」

「──やっぱり、出るんですか?」

「そりゃあ、デンマークのあの世代ではトップクラスだから」

 それでもトップ『クラス』なのか、と望は息を呑んだ。

 結果的には荒垣が棄権したから、本当に最後の最後どうなっていたかはわからないが、それでもずっと倒そうと目標にしてきた彼女を、コニーは破ったのだ。

「ま、オランダにもすごい選手いるけどね。身長百八十八センチのファンベルヘン選手とか、いろいろ」

「百八十八!?」

 横で聞いていた志波姫が、彼女にしては珍しい調子で声を上げる。

 望も驚嘆した。

「サイズ特有のスキは当然あるけど……そういう『怪物』が、どんどん出てくるわ」

 

 

 

 

 

「なぁなぁなぁなぁなぁ」

「……なに」

 何やら嬉しそうにスマートフォンを掲げる益子に、旭はあからさまに警戒心を曝け出す。

「ここ行こう」

「は?」

 彼女の差し出した画面には、『記念艦三笠』の文字。

「……一応聞くけど、なんで?」

「かっこいい、強そう」

 わざと聞こえるように舌打ちをして、旭は彼女の掲げた腕を掴んで下げる。

「どうやって行くのよ、だいたい」

「立花コーチにお願いしようぜ。好きだろああいうの、知らんけど」

 何がだ、と旭は嘆息しつつ、つい最近アドレス帳に入れたばかりの立花の名前を探す。

「──お疲れ様です。あの、車を出していただきたいんですが……あ、横須賀で──え? あー、聞いてみます──」

 期待に胸を躍らせている益子に、旭は彼との電話の内容を伝えた。

「羽咲と一緒でもいいか? ってさ」

「全然。むしろって感じ」

「あーはいはい」

(どこまで羽咲が好きなんだ、こいつは……)

「──あ、すみません立花さん。『しゃーなし』だそうです」

「おい」

 電話の向こうで笑い声が聞こえたのを確認して、旭は『お願いします』と言って電話を切る。

「今飯食ってるから、ちょっと後ならオーケーだって」

 そういえば、と旭は気が付いた。

 練習中にエネルギーゼリーや果物などの軽い補給は入れていたものの、この空きっ腹はあまり長く持たせたくない。

 喜び勇んでスマートフォンを忙しなく操作する、目の前の女のせいでもあるが、旭はあまり胃が強い方ではないからだ。

「シャワー浴びよ……アンタは?」

「いい」

「……よくない」

 何とかは風邪を引かないという言い伝えは宇都宮にもあるが、年頃の乙女が汗を纏わらせたまま人前に出るのは、どちらの方向にも良くない。

 そういう常識を彼女に伝えて、旭は脱いだ練習着と下着を洗濯籠に放り込む。

 益子の前で裸になるのは、もう慣れたものだ。

 宇都宮学院での寮生活でも同部屋だし、一緒に風呂に入ることなど日常茶飯事。

 あまり他の女子から羨まれるものをお持ちでないこともあるが、他人の視線はさほど気にならない。

「早めに出てあげるから、入りなよ?」

「んー」

 相変わらずスマートフォンに夢中になっている益子に声をかけてから、旭はユニットバスに入り、ドアを閉める。

「戦艦三笠ねぇ……」

 益子と違って真面目に授業を受けている旭だが、その艦が、教科書にも載っている日露戦争の分岐点となった海戦の殊勲艦であることを思い出すには、髪がすっかり解れるまでの時間を要した。

(よくわからん、けど……ま、いいか)

 なんにせよ折角のオフだ。

 益子の相手をするのは慣れているからプラマイゼロとしても、少しだけ仲良しの望は志波姫と、どこかに行っている。

 羽咲は立花が相手をしてくれるだろうから、彼女が気にすべきことは、益子が熱心に検索していた海軍カレーを、彼女の服に跳ねさせないようにすることだけだ。

「明日……明後日か」

 成田空港そばのホテルに前泊して、火曜日に出国。

 修学旅行のために作ったきりのパスポートを探すのに、随分苦労したことを思い出す。

 まさか自分が海外大会など出ると思っていなかったから、押し入れの奥の方に紺色のそれを発見した時は、安堵で身体の力が抜けてしまうほどだった。

 益子の方は当たり前のように、机の本立からものの数秒で見つけてみせたが。

「おい旭ー」

 と、ユニットバスのドアが開く。

「ちょっと!」

 慌てて緩んだ顔を引き締めてシャワーを止め、旭は洗面器のそばに置いたタオルで前を隠す。

「なんか急ぐんだって。神藤が腹減りすぎて二回ぐらい死んだって」

 対して益子は特に何を隠すでもなく、旭のいる浴槽に乗り込んで来た。

 他人がシャワーを浴びているときは入って来てはいけない、と教えるのを忘れていたと、旭は後悔した。

 まさしくあの、『裸の王様』のような振舞いも、多少ナチュラルな部分があったのだろうか。

「アンタ子供なんだわ、きっと……」

「大人になってもお前には欲情しないわ、たぶん」

 しないと思うよ。しないんじゃないかな? ま、覚悟はしておけ──。

 顔を真っ赤にして背を向けた旭を気遣ってか、益子は軽口を叩き、スポンジにボディソープを出す。

「ひゃ──」

 ろくに泡立てもされないままのそれを首筋に塗りたくられ、旭は背中を竦めた。

 益子は特に気にも留めず、そのままスポンジを彼女の肌に滑らせていく。

「たまに、こうやって背中流してたよな」

「そうね……」

 昼前に寮の大浴場の掃除が入るのだが、寒い時期になってくると、その前に朝風呂を楽しむのが益子の趣味だった。

 付き合わされる旭へのささやかなお詫びか、普段の付き合いへの感謝かはわからないが、そんなとき決まって益子は旭を座らせ、丹念に──本人はそう思っている──背中を流していく。

「いいよ、軽くで。どうせまた夜入るでしょ?」

「あ、そっか……」

 

 

 

 夕刻、練習試合を終えた逗子総合の部員たちは、だいたい皆満足そうな顔をしている。

 自分たちの練習時間は代表のために削られていたが、それでも、世代最高の実力者たちのプレイを見ることは、自身が抱いているイメージを、より鮮明に描くのにはとても役に立ったようだ。

 志波姫に感化された、かつての望のように。

 合宿所に戻ってきていた望は、部員たちの前でここ数日の感謝を述べる。

 最後の方の数試合を見て、前主将としての『お小言』も多少はあるものの、彼女が日本代表になったからと言うわけではなく、皆真剣に聞き入っている。

「もっと自分を律して行かないと……最後の最後で、自分を信じ抜くことができなくなるよ」

 どちらかと言えば、主将時代の望は、弛んだ空気を引き締めるためのスケープゴートとして、倉石に叱られることも多かった。

 彼女が怒られないようにと、周囲が自らの気を張って──。

 志波姫の『エース観』に触れて望は、自分は主将として最良の存在ではなかったのではないか、と思い始めている。

 二年の秋に先輩から受け継いだだけで、逗子総合を『率いていた』のはまさしく倉石であるし、彼の厳しい指導に心の折れかけた後輩を慰めるぐらいしかしていない。

──自分は、『日本代表』でもエースだと思っている。

──エースが負ければ、チームが負ける。

 志波姫の言った言葉と、かつて倉石に言われた言葉を、望は照明の落ちた体育館で独り、重ね合わせてみた。

(志波姫は……)

『自分が負ければ、日本が負ける』というプレッシャーを、自ら好んで背負っている。

 男子ならいざ知らず、四捨五入すれば二十歳になる女子には、安い浪花節は通じない。

 倉石もこの合宿中では、あまり勝利を意識させたりだとか、対戦相手のことを細かには語らなかった。

 時間的な制約もあったが、高校でのバドミントン生活の最後に、いわばご褒美としてこの場を用意した──そんな雰囲気だ。

 宮崎の大会で優勝した『景品』として今回の代表招集を受けた望には、なおさらそう感じられる。

(ただバドミントンが強くなるだけじゃ、ダメだ──)

 経験がないという理由で、中国戦のオーダーからは外れているし、初出場が予定されているロシア戦も、経験豊富な志波姫とのダブルスでエントリーされる予定だと、倉石に聞かされた。

 その配慮自体はありがたく感じているが、望は、それではダメだと、自分に言い聞かせる。

 倉石のおかげでバドミントンが上手くなり、志波姫と戦ったことで、ささやかではあるが、バドミントンが強くなれた。

 しかし、いつまでも学んでいるだけではダメだ──。

 自分自身を、誰かの作り物ではない『本物』にするために、自らの力で、この世界大会を戦わねばならない。

 

 

 

 

 ささやかな出発式の後、チャーターバスは逗子総合を出発する。

 神藤が実家からガメてきた饅頭を皆で分けていると、一番前の席で倉石が立ち上がった。

「選手のみんなは聞いてくれ──現地での、用具類の入手の件だが……」

 倉石は手短に内容を説明する。

 大手メーカーから国際営業部の部長が同行してくれるという話に、そう言った経験のない荒垣は驚嘆の声を上げる。

「もちろんガット張りぐらいはスタッフがいるだろうが、それでも日本国内とパッケージが違ったりするからな。その辺は俺たちに聞いてくれれば、その営業の人に繋ぐから。あとは──」

「あーっ!」

 望が素っ頓狂な声を上げる。

 一番長く彼女を見てきた倉石も、聞いたことのないような声だ。

「……どうした、石澤? 忘れ物でもしたか?」

「あ、いえ──ラケットを宮崎で借りたんですけど、そのまま……」

 ほんの数週間前の記憶を、望は反芻する。

 あの大会に出ていたブースで借りたラケットを、そのままバッグに入れて帰ってきた。

「最後、エキシビションやって、それから……」

「いつも使ってるヤツか? 型番が分かれば、現地の代理店で取り寄せは出来るだろ」

「いや、多分新製品……」

 望が使っていたものよりも、商品名の数字が増えている。

「石澤、うちの知り合いの営業さんに聞いといてあげるよ」

 助け舟を出したのは神藤だった。

 彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、アドレス帳をフリックする。

「お母さん、私にはラケット買ってくれたことないのに……」

「アンタの道具はだいたい全部、メーカーに貰ったヤツだよ。そっちの方が有難いんだから感謝しな」

「ふーんだ……」

 ムスッとした表情を作ろうと羽咲は努力するが、口に含んだ餡の甘さに、口角が打ち負けてしまう。

「ま、それは神藤コーチに頼もう。前のラケットも持ってはいるんだろ?」

「ええ、まあ……でも、借りっぱなしは良くないと思って……」

「──お前にだってそろそろ、メーカーのサポートがついてもいい頃だと思うがな」

 優しい表情をした倉石にそう言われて照れる望を見て、かつての二人を知っている荒垣と立花は、自分たちまで気恥ずかしくなってしまう。

「あ、もしもし──あぁお久しぶりです。え、今? アンダー18のコーチで、これから成田です。明日コペンハーゲン行くんだけど──」

 電話で話す神藤の表情を見て、交渉は順調に行っているようだと倉石は安心した。

「貰っちまえよそんなの」

 手に付いた餡を舐りながら、益子が言う。

「アンタだって調子乗ってると、いつかスパって切られるわよ?」

「やだねえ、大人ってのは。まあこの大会で後悔させてやるさ」

 通路を挟んで、志波姫と軽口を言い合う益子を見て、望は少し気が楽になる。

 彼女たちにとってはカタログに載る前の用具を供給してもらうのも、ありふれたことなのだろう。

 自分もそうなればいいな──。

「ウチもそういうの、欲しいわあ……」

「久御山はないの? 何か貰ったり」

「部としてはあるけどな……アンリちゃんみたいにファンもおれへんし」

 一年生からインターハイに出ていることもあるが、豊橋は大きな大会に出ると自らの学校以外からもよく応援の声が飛ぶ。

「イマイチ何考えてるかわかんないからね、京都の人って」

 またまた志波姫が冗談めかして言うと、久御山は苦笑して答えた。

「アンタだけには言われとうないわ……」

 和気藹々とした空気を運んで、チャーターバスは高速道路に乗る。

 

 

 

 道路の継ぎ目を渡るリズムは、ずっと一定のまま。

 益子は早めに睡眠を決め込んで、イヤホンを耳に挿していた。

 今日のメンツの中では、それを咎める気も旭には起こらない。

 創業百六十年の銘菓を片手に、望や志波姫、久御山達と語り合うのが心地よいからだ。

 志を同じくし、共通の話題がある。

「──強打が通用しないんじゃなくて、強打が通用する状況を作れない、だよ」

 望が積年の悩みを打ち明けると、志波姫はあっけらかんと言った。

「……どういうこと?」

「私がやったでしょ、アンタ相手に。ああいう事よ」

「緩い球が来ると思わせて、ドライブを──」

「そう」

 荒垣やコニーのように、強打で相手を押し潰すことはできない。

 翻って羽咲や益子のように、競技の特性に踏み込んだ強みも持たない。

 今会話を交わしているグループは、そんな選手たちの集まりだ。

「ちょっとずつ、やってみてはいるんだけど……」

 その仕掛けに対する『対応』は、十分にこなせている。

 宮崎の大会でも、深川のスピードを惑わせるために、志波姫の肩を半分借りて、望はその戦術を使ってみた。

「まだ試合で使いこなすまでは、行ってないかな……」

 それからしばらく、志波姫先生の戦術講座は続いた。

 ことゲームプランの組み立てに関しては、彼女の右に出る者はいない。

「なんだろうね、あれかな。あかねと試合するときなんかもそうなんだけど……強みに固執されると、それはそれで厄介なのよ」

 狼森もどちらかと言えば、名前の通りの一匹狼だ。

 というよりは単純にこの大都会が物珍しいのか、車窓を流れる景色に見とれている。

 こちらの話も聞こえていないようだ。

「崩しても崩しても、物理的にそこで『負けてる』ポイントで戦われると、どうしたって苦しくなるからね」

 荒垣と試合をしたら、志波姫はスマッシュを打たせないようにするだろう。

 とはいえ、バドミントンにおける強打とは、なにもスマッシュだけを指すものではない。

 自由落下する球種以外は全てが強打になりうる。

「現実的に勝ちに行くなら、拾えるコースにスマッシュを打たせる──かな。私、相手の弱点突くの苦手だから……ほんとだよ?」

 その言葉に旭と望は苦笑し、久御山は大阪仕込みの大げさなリアクションを取ってみせる。

「弱点突くのは、やっぱ綾乃ちゃんでしょ」

 夏のインターハイ、益子との対戦。

 羽咲はひたすらに彼女のボディを攻めることで、得点を重ね、最後までそれで勝ち切った。

「みんな知ってると思うけど、泪は自信家だからね。荒垣もそう」

 自信を持っているポイントを締め付けられると、それは途端に『弱点』として認識してしまう。

 強打は通用しないんじゃないか。

 ボディは少し塩梅が悪い──。

「そうやって、仕留めていくの。強い相手とやる時は、そうするよ」

 望たちは頷いた。

 確かに、志波姫は抜きん出た実力者ではあるが、スピードやサイズ自体が頭抜けているわけではない。

 身長だって望と同じぐらいで、久御山の方が背が高いし、スピードも一般的なプレイヤーよりは速いが、狼森たちトップクラスのプレイヤーほどではない。

「私は?」

 望が訊く。

「メンタルだろうね、望は。あの試合は『組み立て』で勝ったよ、多分一番頭使った……」

 目の前で容赦ない事を言われても、今の望にはしょげるほど心に空隙がなかった。

 それは志波姫という実力者の言葉であると同時に、その裏にある意味を受け取ることができたからだ。

 単純なショットの精度では、彼女に迫るものを持っていた。

 少なくとも志波姫は、ある意味では超えているとさえ感じていたから、彼女の『戦術』を一つずつ折っていくことで、勝利をものにしたのだ。

 望が自分で、全て使いこなせるはずの戦術を、自信がなくなったものから消去法で外していった。

 これはダメだ、あれも通用しない──最後には原点に立ち返って、オーソドックスすぎるラリーの打ち回しに終始した。

 同じ、ストロングポイントのないバランス型の二人の対戦で、相手に『弱点』を発症させた志波姫と、罹患した望。

 彼女は今日この場で、本当に『学ぶ』べきものが何であったかを悟った。

 

 

 

「石澤、ラケットの件だけど……」

 バスから荷物を下ろしている望に、神藤が近づく。

「明日出発までに、宮崎でセットアップしたのと同じ状態で持ってきてくれるから。一本だけね。まだ日本に三本しかないんだって」

「ありがとうございます」

 よかったやん、と久御山に声を掛けられ、望も顔が綻ぶ。

 一本しか無いのでは、折ってしまったら前のものを使うしかない。

「じゃ、さっき言った通り、夜七時にミーティングだからな」

 倉石は大きなキャリーバッグとノートパソコンを手に、立花達とロビーの一角に陣取った。

 選手たちは自由時間だ。

 といっても、都心から離れていることで有名な成田空港。

 その周辺には、彼女たちの世代が時間を潰せる場所などない。

「私達だけで、ミーティングしよっか。全員荷物置いたら、私と望の部屋に集合ね」

 イヤホンをしたまま益子が頷いたのを確認して、志波姫はエレベーターに乗り込んだ。

「部屋、九人集まったら狭くない?」

「いいのよ、そんな堅苦しいもんでもないし」

 望の心配はいくらか的中していたが、それでもどうにか九人分のスペースをひねり出せそうだ。

「必要なもんだけ出して、こっちの棚に置いときましょ」

「うん──」

 と、ドアをノックする音。

 志波姫が開けると、一番乗りで狼森、豊橋、羽咲の三人が入ってきた。

「わんつか狭かねえか?」

「大丈夫よ。ベッドに二人ずつ寝て、綾乃ちゃんはアンリの膝でいいでしょ。泪は床でいいから」

「ひでえや」

 

 

 

「ウチの寮より狭いじゃねえかよ、オイ」

 到着してさっそく悪態をつき、益子は窓際の椅子に腰を下ろした。

 手には白いビニール袋を提げている。

「……なにそれ」

「昨日買ってきた」

 彼女が袋を逆さにすると、中からは十個ほどの土産物が落ちてくる。

「なにこれ」

「だから昨日買ってきたんだって、横須賀で」

 説明するポイントを間違えている益子に、旭が助け舟を出す。

「『Z旗』のリストバンドだって。『三笠』の近くの土産物屋で見つけた」

「高かったんだぞ、これ」

「アンタ小銭しか出してないでしょ、ほとんど立花さんが払ったんじゃん……」

 羽咲と狼森はまだ教科書がそこまで進んでいないかもしれないが、他の七人には授業で、その旗に込められた意味を学んだ記憶がある。

「『皇国の興廃この一戦に在り』──ってやつ?」

「そう、それ」

 泪にしてはいい考えじゃない、と志波姫は笑った。

 他人を遠ざけてきた彼女ではあるが、それでも『仲間』と呼べる存在があるとすれば、同じ競技に打ち込んでいる同世代ぐらいのものだろう。

 無論これから先は、それではダメだ。

「いいじゃん。じゃあ、みんな一個ずつね」

 旭と志波姫が分担して、皆にリストバンドを配る。

 気の早い狼森はすぐにパッケージを破り捨て、左手首にリストバンドを嵌めた。

「うん……泪、ありがとうね」

「いいってことよ。──私も勝ちたい、今度の大会は」

 思いがけず決意を口にする益子の表情に、荒垣や望も背筋が伸びる。

 奔放な振る舞いをしていても、本音のところは、勝ちたい。

 それを確かめることができて良かったと、志波姫は手元のリストバンドを握った。

「よし、じゃ……倉石監督とか、松川さんとも話をしたんだけど、対戦相手のこと」

 メンバーの中ではもっとも精神的に成熟している彼女には、倉石達も詳細な情報を寄越していた。

 志波姫はその中から、必要な情報を取捨選択する。

「まず中国ね。これは倉石監督も言ってたと思うけど、『突出したプレイヤーはいない』──」

 とはいっても、相手は人口比で十倍以上の大国だ。

 そこで厳選され鍛錬を積んだ選手ばかりだから、個性は無いにしてもプレイのスキルは高い。

「だからアンリと綾乃ちゃんは、大変な仕事だと思うけど、後に繋いでね」

 うん、と二人は頷く。

「たぶん中国が一番キツイと思うよ。ポルトガルは大したことないし、ロシアもそこまでは……」

 油断は大敵だけどね、と志波姫は結んだ。

 しばしの沈黙の後、口を開いたのは荒垣だ。

「じゃあさ、予選は突破できるってこと?」

「九十パーセント以上はね。ただ、できることなら一位で通過したい」

 二位で通過すると、Cポットの一位と当たることになる。

 マレーシアか、デンマークと言うことになるが、倉石の分析も、志波姫の読みもデンマークで一致していた。

「コニーがいるからってんじゃないけどね」

 日本の『三強』の定義は、インターハイの結果によって多少の不確定要素を含んでいるが、デンマークのそれはほぼ固定だ。

 プロ活動をいったん休止して日本に留学してきたコニー・クリステンセン。

 志波姫キャプテンのもと、世界的にもハイレベルと言われる日本のインターハイ団体戦を制した。

「あと二人、デンマークのアンダー18で強い選手がいるんだ」

 バドミントン雑誌はいくつかあるが、いずれも日本国内の選手や大会を扱った記事がほとんどで、アジアの強国は多少露出があるものの、デンマークの選手を記事に載せることはまずない。

 そんな中で、デンマーク三強と呼ばれるコニーと、あと二人。

「一人は、ミーケ・シュヴァリエ。こいつは完全なスピード型だね。松川さんに映像見せてもらったけど、あかねより断然速い」

 引き合いに出された狼森は、信じられないといった顔をする。

「最後の一人が、ラファエラ・ルイ・デュポール──これはサウスポー。名前も一緒だし、あっちの泪かな」

 益子は旭と顔を見合わせ、肩をすくめて応える。

「……こんなの二人も居たらヤなんだけど」

「大丈夫よ、多分臍ピアスはしてないから」

「臍にはしてねぇ」

 一同に笑いが広がる。

 チラリズムに長けた益子のことだから、皆それが真実であることは知っていた。

「どっちにしても勝ち上がって行けばどこかでやるけどね。読み合いだからなぁ……」

 セオリーとしては、絶対に回ってくる上に団体戦の流れを決定しやすい三戦目、シングルス1に最強の選手を持ってくるのが筋だ。

 しかし、各国のトッププレイヤーを集めてオーダーを組む国際大会では、何が起きるかわからない。

「ただ……どこかで誰かがコニーとやる。やり辛さで言えば一番だよね」

 対戦経験のある荒垣、羽咲は志波姫の言葉に同意する。

「あと、まあオランダにも百八十八センチってのがいるんだけど……ヤーナ・ファン・ベルヘン」

 ただ、そのポテンシャルにしては、プレイの質は驚くほどではない、と志波姫は付言した。

 要約すれば、『あまり強くなかった頃の荒垣』を巨大化させたような選手。

 バドミントンの適正身長をオーバーしている、というのが、神藤や倉石の見立てだ。

「ま、そんなとこかな──とにかく、まずは中国戦。それぞれの仕事をして、次に繋いでいこう」

 よしっ、と荒垣が声を上げる。

 皆の気持ちが一つになったのを確信して、志波姫は一階のロビーでの、軽いお茶会を提案した。

「刹那主義には賛同できねえなあ」

 腹の虫が鳴ったおかげで、全く説得力をなくした益子の言葉を合図に、皆は立ち上がって部屋を出る。

 最後に電気を消して、望は志波姫の背中を追った。

 ジャージの首元に、小さく『JAPAN』の文字。

 志波姫のフレゼリシア女子でもないし、望の逗子総合でもない。

 日本代表としての戦いを控えて、望は身体の奥底の歯車が、音を立てて回り始めるような感覚を覚えた。

 



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10th game Dreamland

 保安検査ゲート前で、倉石は数人のメディアに囲み取材を受けていた。

 遠巻きに眺める望たちには、その話の内容はよく聞こえない。

 やがてマイクの作る輪は、神藤有千夏の周囲へと移動する。

 やれやれという風に肩をほぐしながら、倉石は彼女たちのもとへ歩んできた。

「すまんな、待たせて。全員準備は大丈夫だな?」

 集団の中で、志波姫が返事をする。

「オッケーですよ、監督。取材、大変ですね」

「案外注目度が高くてな……日本でも、衛星テレビで録画放送されるらしい」

「ははぁ……そりゃすごい」

 協会カレンダーにはなかった海外派遣だが、キアケゴー氏の根回しもあり、俄かに注目度は高まっているらしい。

 とはいえ、空港に見送りが来るほどではないし、そういった経験のない荒垣や望にも、いたずらに緊張が高まるほどのプレッシャーはなかった。

 やがて取材陣は姿を消し、観光地としては決してメジャーではないコペンハーゲン行きは、それを待つ団体もいない。

 ガラス越しに見慣れぬ顔ぶれの『日本代表』を眺める公衆をよそに、選手団は倉石と志波姫を先頭に、ゲートに向かう。

「望、それ外さなくていいの?」

 志波姫が、彼女の頭を指さす。

「あ、そうだ」

 学校に行くのに着用する装身具として、できるだけ華美を取り払ったそれは、二本の木片を金属製の箍で留めただけのものだ。

 宮崎への飛行機に搭乗するときにも、金属探知機に引っかかったことを思い出した望は、簪を抜き取り、髪を振りほどく。

 セミロングの髪を指で掻き下ろし、望は係員にそれを手渡す。

「神藤コーチ、えらい荷物少ないでんな?」

「ん? ああ……現地で買える物は極力、持って行かないからね」

 さらりと言い切る神藤に、久御山は感嘆する。

 デンマークで話されるのはもちろんデンマーク語だが、英語も日常生活では十分に通用するというが、学校の授業程度でしか外国語に触れていない選手たちには、まさしく羨望の的だった。

「英語なぁ──」

 眉尻を下げて苦笑いする久御山の隣に、望が並ぶ。

「久御山は苦手?」

「読み書きはともかく、喋るんはな」

「私も。大丈夫かな、受験……」

「それは、考えんことにしとる。今は」

「……そうだね」

 当然皆参考書など持ち込んではいない。

 受験生にとって、十二月に二週間もの間、一度も参考書を開かないことは致命的だ。

 倉石を始めコーチ陣は、キアケゴー氏の協力も仰いで、皆の『進学先』を確保することに尽力している。

 もっとも、この大会で日本代表として参戦する彼女たちが、素晴らしい成績を収めれば、それらは全て取り越し苦労に終わるだろう。

 やがて全員の保安検査が終わり、代表選手団はそれぞれにパスポートを取り出し、出国印を受ける。

「プレミアムエコノミーって、どんなの?」

 松川が神藤に訊いた。

 彼女もパスポートは紺色だが、海外はしばらくご無沙汰だ。

「さあ……直行便あんまり乗らないから、私」

 デンマークにあるキアケゴー氏の本拠を訪ねるときは、いつもヒースローやフランクフルトを経由し、土地の土産物を買って帰るのが神藤の習慣だった。

「羽咲のオカン、凄い人やな……」

「うん……」

 発券されたチケットが隣同士の久御山と望は、そのまま機内まで並んで歩いて行く。

 選手団の先頭を旭と益子に譲った志波姫は、何かにつけて物見に耽る狼森を引っ張り、集団に追いついた。

 

 

 

 宮崎へ向かった時は夜の便だったせいか、時折機体が翼を振る時に見える地表に、望は興味を持った。

 といっても、窓際の益子と、その隣の旭越しでは、その景色の多くは彼女の想像によるものだ。

「おーい旭、宇都宮学院が見えるぞ」

「見えるわけないでしょ……」

「夢を持てよ、もっと」

 彼女たちの会話を聞く限り、飛行機はまず北へ向かっているらしい。

 やがて重力の方向がずれると、今度は西へ飛び始めた。

「お、富士山が見える。なあ旭」

「はいはい」

 やれやれと言った顔で、旭は座席のイヤホンジャックに愛用のイヤホンを接続した。

 音量を調節すると、どこかで聴いたかもしれなくはない、耳ざわりの良い洋楽が流れ出す。

「お、片っぽくれ」

「耳痛くなるからやだ」

 他愛もないやりとりが展開されている横で、自分のイヤホンを持ち合わせていない望は、座席備え付けのヘッドホンを取り出す。

 ふと、彼女たち代表選手団の陣取ったプレミアムエコノミー席に、キャビンアテンダントが歩いてくる。

 一番外国語に長けている神藤が声を掛けられ、何やら耳打ち。

「──みんな、ちょっと聞いて」

 これから飛行機は西に向かって飛び、ジェット気流の一番強いところを避けてやや南下するが、その際、少し機体が揺れるかもしれない、とのこと。

「そんな事まで教えてくれるんや……」

 海外旅行と言えばギチギチに詰め込まれた修学旅行ぐらいしか思い出のない久御山にとっては、このプレミアムエコノミーのもてなしはカルチャーショックらしい。

「──『これは実話であり、公式記録、専門家の分析、関係者の証言をもとに構成しています』」

 志波姫の呟いた言葉に、他の者は特に反応しなかったが、唯一荒垣だけは苦笑いを返した。

「あ、これ好きかも。誰これ」

 益子はイヤホンに手を当て、より耳に密着するように調整する。

「ちょっと!」

 引っ張られた旭の耳から、イヤホンがもげて落ちた。

 

 

 

 到着したら現地は午後四時だ。

 だから出来るだけ寝るなよ──というのが倉石の指示だったはずだが、それを律義に守っているのは豊橋と志波姫ぐらいのものだ。

 いつの間にかイヤホンを旭に返したらしい益子は、窓から差し込む夕日にも負けず、惰眠を貪っている。

 荒垣はとっくに瞑想に入っているし、椅子の座り心地の良さは、普段あまりスキを見せない望や旭が、口をだらしなく開けて寝息を立てていることでも証明されていた。

 ムラっと来ている志波姫と、スマートフォンを取り出して二人にピントを合わせる豊橋をよそに、松川と倉石は資料を読みながら小声で話を続けている。

「二戦目、ですか」

「過保護すぎますかね、少し……」

「いえ──私も最初はそんな感じでしたし、有千夏にも助けられて代表やってましたから」

 二人の話題は、望の使い方だ。

 実力は疑うべくもないが、久御山よりもマイナス思考に陥りやすい彼女を上手く大会の空気に慣れさせるには、やはり熟練者とのダブルスが望ましい。

 そこで、二戦目、ロシア戦のダブルス1で志波姫と組ませる、というのが倉石の提案だ。

「志波姫には、私から到着してから話します」

 松川の気遣いをありがたく受けて、倉石は一つ目の資料を閉じる。

「お願いします。あとは対戦相手の情報、これをどこまで……」

「海外の取材をメインにしている先輩から貰ったものですけど、『鮮度』はちょっと保証できかねますね……」

 とは言え、それは他国からしても同様だろう、と神藤が口を挟む。

 先ほどまでは、娘の涎を拭くのに忙しかったようだが、今は雨も上がったらしい。

「益子と志波姫ぐらいでしょ? 海外で露出あるのなんて」

 それも、もう何年も前の話だ。

 世界のバドミントン競技の中では一定の存在感を持つ日本ではあるが、高校生の国内大会にアナリストを送り込むほど、他の強豪国も研究熱心ではない。

 まして立花の言を借りれば、数か月、いや数日の間に、プレイヤーは大きな変貌を遂げる。

 たった一試合でそれが起きる事だってあるのだ。

 完成された選手など、この年代には居ない。

 宮崎で『孵化』を果たした望でさえ、それが宮崎で完了したと誰も断言できない。

 

 

 

 

 夕暮れを追いかけ続けて十時間以上。

 望たちを乗せた飛行機は、ポーランド上空で高度を徐々に下げ始める。

 進行方向には未だ沈まない太陽。

 英語のアナウンスに耳を欹ててみるが、望の拙い英語力ではそれの多くを理解できないまま聞き逃す。

「泪、起きて。ベルト締めろって」

「あ? んー……旭、やって」

 食事の時間だけは律義に起きていた益子だが、栃木県と富士山以外の地表にはさほど興味がなかったようだ。

 しばらくしてベルトサインが点灯し、望は先程の放送の意味を知る。

 それから小一時間ほどで、機体はコペンハーゲン、カストルプ空港に着陸した。

 東京を昼に出発して、十二時間。

 日本は真夜中だが、コペンハーゲンの空はまだ微かに明るさを残している。

 高緯度に位置するこの都市は、北欧諸国の中では比較的温暖な方だ。

 それでも、東京よりも平均気温は低い。

 特に最高気温が低いから、昼間でも防寒対策はしっかりしておけと、倉石は出発前に言っていた。

 望は手荷物の中からマフラーを取り出し、首に巻く。

 益子と旭は、飾り気のないスポーツメーカー製のネックウォーマーだ。

 入国管理官のささやかな歓迎の言葉も良く理解できず、望は笑顔で受け流してゲートを出る。

 デンマーク行きが決まってからと言うもの、受験勉強の合間にデンマーク語についてインターネットで調べるぐらいはしていたが、結局良くわからないし、発音も文法も理解できなかった。

 ここでは、授業で習っただけの英語が頼りだ。

 もっとも彼女には、差し当たって特に必要な買い物はない。

 どちらかと言えばデンマーク語で『トイレはどこですか?』はどう言うのかを、知っておくべきだと思っていた。

 デンマークへの入国をつつがなく終えた一行は、今度はチャーターバスに乗り込む。

 試合会場のあるロスキレまでは、およそ一時間程度。

 徐々に暗闇に消えていく牧歌的な街並みを惜しみつつ、望は車窓に目を泳がせる。

 快調に流れる北欧の高速道路は、ロスキレに着くまでに椅子を温める暇もないほどだ。

 やがてバスは下道に降り、スカンジナビア半島一円にフランチャイズを持つホテルに到着する。

 こちらのバドミントン雑誌の記者だろうか、気さくな笑顔を見せつつカメラを向ける外国人が、数名いた。

 神藤の旗振りで手際よくチェックインを済ませ、彼女は三本の鍵を志波姫に手渡す。

「三人部屋が三つ、適当に振り分けな」

「はい、コーチ」

 ここからは志波姫の本領発揮だ。

 彼女はその明晰な頭脳を──もしかしたら、バドミントンの試合よりも──フル回転させ始める。

 まず最初に思い付いた悪だくみは──。

(泪と旭、離すか……でも、私だと意味ないし……)

「望、泪。それからアンリちゃん。はいこれ」

 手に持ったリュックをずり落とす益子をよそに、豊橋は満面の笑みで鍵を受け取る。

「綾乃ちゃんとあかねと……久御山!」

「はいな」

「あとは私と荒垣と、旭ね」

 彼女の目配せに旭は意図をくみ取り、わざと益子に聞こえる声で言った。

「よかった。よろしくね、荒垣」

「あ、ああ……」

 置いて行かれた益子をよそに、久御山達も自分の部屋へ向かう。

「……益子さん、行こう?」

 流石に可哀そうになってきたのか、豊橋が彼女の分のキャリーバッグも引いていく。

 この組み合わせになるとは望も予想していなかったが、なんとなく寝ている間も煩そうな荒垣と同室でないことは、安心できる材料の一つだ。

 あとは益子が夜中に脱走しないことを祈るばかり。

 

 

 

「ねえ、益子さん」

 長旅の疲れに身を任せ、ベッドに沈んでいる望をよそに、豊橋は体育座りの益子に声をかける。

「……『さん』はいい」

「そう? でも、今はまだそう呼ぶよ。この大会が終わるまでに、名前で呼べるように頑張るから」

 頑張るってなんだよ、と益子は呟き、ベッドにふて転がった。

 気立ての良さでは松川と双璧を為すと望が思っている豊橋の事だから、別段益子を困らせようとしているわけではなさそうだ。

「──飯、何時? 腹減った……」

 どちらかといえば益子も望と同じく、旅の疲れが出ているのだろう。

 眠るという行為は体力の回復に極めて有効だが、それが椅子に座った状態では、期待した効果は上げられないばかりか、体のどこかが痛むということにもつながる。

 望は松川と神藤が作った『旅のしおり』的なものを取り出し、書かれているタイムスケジュールを読み上げた。

「現地時間二十時、だって」

「八時ィ!? あと一時間もあるじゃん……」

 ベッドの上で長い手足をばたつかせる益子をなんとかしようと、望と豊橋はしおりを読み進める。

「ミーティングルームにある軽食はいつでも食べられる……だって」

「マジ? じゃあ行こうぜ」

 跳ね起きた益子に、豊橋は別に腹は空いていないと言う。

「いいよ、行こうか」

「よっしゃ」

 結局、彼女を引率するのは望の役目になった。

 コンプレッションシャツの上から、脱いだ日本代表ジャージを再び被り、ヨーロッパ特有の広い廊下を歩く。

 ミーティングルームは大会期間中借り上げており、そこでは倉石達が作戦会議をしているだろう。

 開け放たれたドアの向こうで、彼らの話声が聞こえる。

「──あ、お疲れ様です」

「おう、石澤……と益子。体調は万全か?」

 ちょっと疲れた、と返事して、益子はテーブルに並んだグラスを一つ取り、ドリンクバーを物色する。

 夕食はバイキングらしく、並んだ保温器のいくつかには、微かに美味しそうな匂いを漏らす料理が、蓋をされて収まっていた。

「何してるんですか?」

「まあ一応、中国の選手の映像をな。石澤、お前は試合中ヒマだろう?」

「いや、応援はしますけど……」

 湯気を立てるホットコーヒーにミルクを入れて、望は倉石の隣に座る。

 パソコンの画面には、微かな音とともに中国選手の試合の模様が映っていた。

「それはもちろんだが、多少歩き回ってもいい。会場や観客、周りをよく見ておけ」

「ああ、はい……」

 バドミントンに選手交代はない。

 一戦目ではオーダーを外れることになっている望と久御山は、代表の活動に支障のない範囲で取材を行うことを条件に帯同している松川と共に、観客席で応援することになる。

「石澤は、二戦目の頭だろ?」

「まあね……ロシア戦」

 世界共通の炭酸飲料を手に、益子はテーブルに置かれた資料を適当にめくる。

「なあ監督、私はずっとダブルス?」

「──少なくとも、予選のうちはな。できれば隠しておきたい」

 旭と組んでいる時には、益子はほとんどクロスファイアを使わない。

 そもそも『使う必要がない』こともあるが、狭いコートに二人が守るダブルスでは、削り合いの起点となるクロスファイアの影響度はどうしても、小さくなってしまうからだ。

「なんなら右で打とうか?」

「はっはっは……勝てるならそれがベストかもな」

 中国、ロシアはそれだと無理だろう、と倉石は言った。

「でも荒垣はずっとシングルスなんですね……」

「あいつの場合は逆さ。スマッシュを見せつける」

 コニーとの一戦の後、彼女の強さは格段にその迫力を増した。

 かつては強打だけがストロングポイントと言って差し支えない選手だったが、その評価を完全に覆すほど、頭を使い始めている。

 クレバーと言うには、志波姫や望には手が届かないが……。

「意識させれば、相手のオーダーが歪む。まあ、あいつ自身の膝の問題もあるし、休み休みにはなるがな」

 膝──その単語を聞いて、望は半年ほど前の対戦を思い出す。

 全国大会に行きたい、という一心で、彼女は荒垣の膝を壊しにかかった。

 結果的にそれは、幸運にも実を結ばなかったが、今現在の荒垣の膝に、僅かでも影響を与えたとしたら──。

「石澤?」

「え? ああ、ごめん……」

「荒垣と石澤って、昔から友達なんだろ?」

 昔から、というのがどの時点を指すのかはわからないが、望がある一線以上にこの競技にのめり込んでからは、友達とはいかないまでも、会えば軽く挨拶を交わす程度の知り合いと言って差し支えなかっただろう。

 急に距離が縮まったのは、やはり神奈川予選の団体戦前後か。

「まあ、そうだね。たぶん」

「じゃあ組めばいいじゃん、二人で」

 いや、と倉石が横槍を入れた。

「荒垣と石澤はタイプ的に合わない。というよりもお互い、ダブルスだと活きないタイプだからな」

 蛇の道は蛇──ではないが、と彼は語る。

 同じ蛇なら夫婦にでもなれそうなものだが、違う蛇では殺し合うだけ。

 二人ともどちらかと言えば、攻撃面に優れた点を持っている。

 荒垣の強打はまさしくそれであるし、望のコントロールやカットも、守備に追い込まれてはその威力を失ってしまう。

 それに、コート内でのコミュニケーションも、口下手な二人では上手くいかないことも多いだろう。

「ハッキリ言えば、ダブルスがへたっぴってことさ」

「ああ、……なるほどね」

 その表現は、益子にストンと落ちた。

 短期間ではあるが代表合宿を経て、益子は必ずしも自分が抜きん出た存在ではないことを気付いていたし、旭が随分自分に気を使って、ダブルスを組んでくれていたことも理解し始めている。

 それはコートの中でも、外でも。

 シングルスでやり合えば、十のうち十試合を、旭に勝つ自信はある。

 それでも、旭と一緒でなければ、自分はバドミントンを続けることができなかったかもしれない。

「監督──」

「ん?」

「私、旭以外と組めると思う?」

「……さあな」

 考えておく、と倉石は言って、パソコンの画面を閉じた。

「あと半時間ってところか、飯まで。俺は風呂に入ってくる。資料は見てもいいが、汚すなよ?」

「へーい」

 

 

 

 

「神奈川の合宿の時も思ったけどさ……」

 『瞑想』で汗ばんだシャツを着替えようと、ベッドの上で万歳をしている荒垣に、志波姫が話しかける。

「荒垣、おっぱいデカいね」

「ぶッ──」

 噴き出して、あわてて荒垣はシーツで前を隠す。

「なんかやってんの?」

「……なにもやってねぇ」

 そんな二人のやり取りをよそに、旭は海外用の電源コードを取り出し、充電ケーブルをつないだスマートフォンを操作している。

 イヤホンが差さっているのは片耳だけだから、親交を拒絶する意図はないらしい。

「旭、何してんの?」

「ん? ああ……飛行機の中で聞いた曲が良かったから、ダウンロードしてる」

「ふーん」

「筋トレしたら、胸デカくなるらしいよ?」

「嘘だあ……」

 志波姫と荒垣の言葉が被る。

 荒垣にとっては、これからも筋力トレーニングは続けていくつもりだから、これ以上大きくはなってほしくない、という願望の意味で。

 志波姫にとっては、『自分は筋トレしても大きくなってない』という反論の意味がこもっている。

「羽咲なんて家にウェイトマシンあるんだぜ。なのに小っちゃいじゃねぇか」

「あれは遺伝じゃない?」

「でもお母さんアレだぞ?」

「アレだね、おかしいね」

 恐らく三人とも大して胸のサイズなど気にしてはいないだろうが、年頃の少女としてはこういった話題の方が、共通点を作りやすい。

 そこまで志波姫が考えていたかどうかは知らないし、むしろずっと先の段階まで考えていたかもしれないが、とにかく部屋の空気は少し和やかになった。

「そういや旭、泪と部屋離しちゃってゴメンね?」

「ああ、全然いいよ。あいつたまに『寂しい』とか言って枕元に立ってるから……」

「──私も今度やろうかな、コニーに」

 と言っても、寮で同室の彼女も、今は同じデンマークに来ている。

「志波姫の学校って、こっちに姉妹校あるんだよね?」

「あるよ、交換留学制度もあるし……コニーはそれで来たからね」

 デンマークが含まれる組の予選会場は、北海沿岸の港町エスビアウ。  志波姫の通う学校の姉妹校があるフレゼリシアはちょうど、エスビアウとロスキレの中間地点だ。

 インターシティ──特急列車で行けば、二時間ほど。

「プロなんだもんな、今は一時休止してるとは言え……」

「うん──荒垣は良く戦ったと思う、あそこまで」

 益子泪が敗れたその隣で、もう一つの大きな衝撃を会場に与えたのが、荒垣とコニーの一戦だ。

 最後の最後までもつれたゲームは、最終的に荒垣の棄権で幕を閉じる。

「あそこまでが、限界だったよ。終わらなきゃ、多分取り返しのつかないことになってたと思う」

 目当ての曲を見つけた旭は、イヤホンを耳から外して、軽く息をついた。

『終わらなきゃ、取り返しのつかないことになってた』──のは、益子も同じだ。

 羽咲がバドミントンから離れたままで、インターハイに出て来なかったら。

 彼女は豊橋か狼森を軽く蹴散らし、志波姫との準決勝で、今まで通り手を抜いただろうか。

『プロ選手のコニーに負けるのは仕方ない』と言う外野の声に押し流されて、益子泪の時代はまだ続いていただろう。

 本人の意思とは無関係に。

「志波姫も、分かってて私と泪を離したんでしょ?」

「当然」

 

 

 

「アンタと組めるプレイヤー、ね……」

「そうなんだよ、おば──神藤のお母さん」

 常識的に考えれば、日本最高と言って差し支えない旭と益子でペアを組むのが、予選を勝ち抜くにあたっての最善手であることは、神藤も理解している。

 しかし彼女はいつものように、ずっと未来の彼女たちのプレイヤーとしての姿を見通していた。

「アンタだから、厳しい事を言うけどさ……旭は『最後』までは、アンタについて来ないよ」

「……」

 望が初めて見るほど神妙な面持ちで、益子は神藤コーチの言葉に頷いた。

「旭にはセンスがないからね。もちろん、表面的な才能の話じゃないよ」

 思いがけない辛口の評価に、望も手に持ったコーヒーカップを下ろす。

「私は、旭は相当なプレイヤーだと思っていますけど……」

 益子のようなじゃじゃ馬を制御するには、かなりの実力が求められる。

 旭海莉という個人で名前を売る機会には恵まれなかったが、それでも彼女は、あの宮崎の大会を望とともに優勝したのだ。

「プレイヤーとしてのレベルは高いよ。益子みたいな珍しいタイプに合わせられるし、石澤にしたって、アンタの戦術にしっかり対応してくれたんだろう?」

「はい……」

 上背のある左利き、プレイスタイルは決してオーソドックスではなく、どちらかと言えばトリッキーな益子。

 それに合わせられるというのは、志波姫には及ばないが、バドミントンのIQは極めて高い。

 旭は誰と組んでも、それなりに上手くやれる。

「あの子は状況に合わせてプレーするタイプだからね。でも──そこが問題なんだ」

 状況をまず把握し、相手の力量や武器を読み取って対応する。

 それは志波姫のスタイルに近いし、望がそうでありたいと願っているプレイヤー像だ。

 神藤コーチはテーブルに散らばった資料から一枚をつまみ上げて、言った。

「例えばこの選手が出てくる。序盤の探り合いで二点ぐらいリードして、『なんとなく、わかんないけどOK、いっちゃえ』──が出来るのが益子や綾乃。旭はそれが出来ないんだよ」

 アバウトなセンス、勘と言ってもいい。

 トッププレイヤーになるためにはそのどちらも必要だが、こと情報不足の若い世代による国際大会では、『勘』を早く掴むことがより重要になる。

「たとえばドライブで逆を突かれてポイント落とすよね。旭はその原因をまず探す。ステップワークか? 判断ミスか? そしてそれがわかる──修正能力に長けているのは間違いない」

 しかし、点数を重ねて試合が深くなり、その一ポイントの重みが増すほど、旭の自由度は失われていく。

 そこを『まあいいや』で突き抜けられるのが益子であり、綾乃であるというのが、神藤の説明だった。

 どう贔屓目に見ても、二人の実力には段差がある。

 いったいどれほどの未来の話かは分からないが、益子が世界の頂点を目指すなら、いずれそれはペアを解消する原因になるだろう。

「だからアンタが旭以外と組むって言うより、旭がアンタ以外と組めるプレイヤーを探す……のほうが正確かな」

 ここまでトップを極めて、高校でバドミントンは終わり、でもないんだろう? と神藤は言う。

「だったら旭にアンタが合わせて同じ大学に行くしかないね。旭はどこか話来てるの?」

「さあ、どうだろ……つーかそれ言ったら私もなんだけど」

「ああ──アンタも親に引っ掻き回されたクチだったね……」

 バツの悪そうな顔でコーヒーを飲み干し、神藤は席を立つ。

「ま、案外なんとかなるもんだよ。バドミントンの神様はどこかで見てる」

 真剣に競技に打ち込み続けても、それで身を立てられる選手は多くない。

 それでも様々な出会いの中で、いつの間にかいい方向に進んでいることもある。

 思いがけないところから、友人ができ、仲間ができ、人生のパートナーもできる。

「私は性根が楽天的だからさ……今預かってる九人については、この大会も、将来も含めて、何も心配していないよ。決して無責任で言うんじゃない、『なるようになる』よ」

「そう──か。ありがと、神藤のお母さん」

「ああ……」

 コーヒーのお代わりを望に促し、二人分のカップを持って戻ってくる神藤の表情は、さっきよりも少しだけ和らいでいた。

 彼女を追いかけて足音が近づく。

 いつのまにか、時計の長針が天辺ににじり寄っていて、空だった保温器にも料理が並んでいた。

 匂いを嗅ぎつけてきたのかは分からないが、狼森が一番手で姿を見せる。

「久御山パイセン、肉だ肉!」

「まあ待ちいな……」

 続々と集まる選手たちを見て、神藤と、隅の方で話をしていた立花と松川も資料を片付ける。

 十数人では埋まる席も半分ほどだが、ささやかな晩餐の始まりだ。

 

 

 

 

 

 神藤コーチたちが言う『センス』の中に、胃袋の大きさが含まれていなければいいな、と望は思った。

 片付けに走るホテルのスタッフたちがあらかた退場して、フロアにはドリンクのグラスだけが置かれたテーブルが残る。

「明日の予定を簡単に説明しておく。十時にここを出発して、レセプションと記者会見を受ける」

 そこに出るのは倉石と志波姫、そして通訳として神藤の三名だ。

「他のメンバーは午後一時からの公式練習に合わせて昼食を摂る。ケータリングを発注してあるから、外に出る必要はないぞ」

 日本の飲料メーカーからの差し入れも届く、と倉石は言った。

 デンマークは世界でも指折りのキャッシュレス先進国だから、気軽に小銭で買える自販機も少ない。

「そして、夜十八時に中国戦が始まる。オーダーはかねて説明したとおりだ」

 日本の含まれるB組は首都コペンハーゲンにほど近いロスキレで、コニーのいるデンマークのC組は地方都市でも集客が見込めると判断したのか、北海沿岸のエスビアウで同時刻から行われる。

 オランダにアメリカ、台湾、オーストラリアと強豪が集ったA組は、ユーバー杯の会場でもあるオーデンセ、D組は北部の主要都市オールボーだ。 

「普段の高校の大会とは、大きくスケジュールも違うし、やり辛さはあるだろうが、全員ベストを尽くしてくれ」

 機内で寝ていた者もいるが、できるだけ睡眠をしっかりとるように──。

 そう言って、倉石はスピーチを終えた。

 神藤が市内のスーパーマーケットから仕入れて来たらしいビールの袋を持って出ていく彼らを見送り、志波姫は選手だけになった空間を見回して言った。

「いよいよだね。明日──」

 みな、どこからともなくZ旗のリストバンドを取り出し、腕に嵌める。

「円陣を組もう。声は出さなくていいから」

 そうと言ったわけではないが、誰しも彼女を『日本代表のキャプテン』だと認めていたのだろう。

 すかさず羽咲の隣を確保した益子が、率先して両脇の羽咲と志波姫の肩に、手を回す。

「……何言おっかな。考えてなかった」

「おい」

 組まれた輪が一旦解けて、また繋がる。

「フレ女のあれじゃダメなの?」

 望は、夏のインターハイの試合前、志波姫が組んだフレゼリシア女子の円陣の中で言っていた言葉を思い出す。

 ──すべきことを見失わなければ、コートにはいつだって楽しみがある。自分の仕事を見失うなよ。

 もっともあの観衆の中だから、細部は宮崎で矢本から聞いた内容だ。

「自分の仕事……も大事だね。でも、そんなのみんな分かってるでしょ?」

 明日の先頭を任された豊橋と羽咲は、力強く頷く。

 中国の選手たちは、一人の指導者から長い期間にわたって濃密な指導を受けている。

 押し込まれたときの思考回路は似通っているだろうし、指導者の『クセ』をどこかに内包しているはずだ。

 二人の『仕事』は、その微かな綻びを見つけるために、可能な限り試合を長引かせること。

 そうすれば、倉石や志波姫、神藤コーチがそれを分析し、二番手の益子・旭ペアが優位に戦える。

 急場の策でも対応でき実行できる益子がいるし、そのモンスターの手綱を高校三年間握ってきた旭がいる。

「アタシはとにかく、シングルスの一発目をぶっ飛ばせばいいんだな?」

 荒垣の言葉に、志波姫も同意した。

「そうだね、荒垣は『衝撃』を相手に与える。あとはあかねと私で勝ち切るよ」

 狼森と合わせた視線を望と久御山に送り、彼女は言った。

「二人は見ていて。中国に勝って終わりじゃない。ロシア戦があるし、ポルトガルも、その先も──コートを自分たちのものにしよう」

 そういえば、と志波姫は何か思いついたようだ。

「なんかネットのテレビで見たんだけど、『オン・スリー』で行こう」

「……なんだそれ」

 熱が冷めないうちに、志波姫は手早く説明する。

 円陣で肩を組み、あるいは手をハイファイブで合わせ、リーダーの言葉を『ワン・ツー・スリー』で復唱する。

「かっけぇ」

「アメフトとかでやってるやつだよね、見たことある」

「そう。いくよ『ニッポン・オン・スリー』、──ワン・ツー・スリー」

『ニッポン!』

 

 

 

 それぞれに夜食とドリンクを物色したあと、選手たちは各自の部屋に戻っていく。

「泪、アンタ寂しいからって誰かの枕元に立たないでよ」

「だまれ」

 呆れたような笑顔を返し、益子は望たちと自分の部屋に入る。

 気丈に振舞っているわけでもない軽口に安心したらしく、旭も少し緊張を解いて志波姫達に続いた。

「大変だねぇ、手のかかる子を持つと」

「ホントだよ……志波姫はコニーと一緒なんでしょ?」

「まあ、あの子もね。努力家なんだよ、ああ見えて。無理するから」

 誰だって結局は、そうだ。

 何かを極めようと思えば、地味な練習の繰り返ししかない。

 旭は益子に少しでも追いつくためにそうしていたし、彼女も決して自分の才能に胡坐をかくことなどなかった。

「羽咲も、『バドミントンは痛くて、血が流れる』って言ってたな……」

 春先の神奈川合宿の後、ささやかな打ち上げの席での話だ。

 彼女と同級生の藤沢の会話の中で、荒垣が驚いた一文があった。

「血がにじむ、ならわかるけどさ。アタシだって、血豆潰してグリップ真っ赤になるなんてしょっちゅうだったし」

「そうだね、私も──」

 力いっぱいラケットを握ってフルスイングする荒垣の右手は、到底女子高生のそれとは思えないほど骨ばっていて硬い。

 志波姫は上手く脱力してラケットのヘッドを振る術を、幼いころに身に付けてはいたが、彼女の掌も十年物のマメが出来上がっている。

「……私、あんまりマメ破れないけど」

 旭は掌を広げて見せた。

 志波姫はすかさず旭の手首をホールドし、手相でも伺うかのようにまじまじと見つめる。

「うわ、あんた愛情線ごついね」

 実際そうだったらしい。

「なにそれ」

「浮気性の人はごついんだよ、この線」

 そう言って志波姫は、左手を差し出し、親指と人差し指の間にある大きな円弧の内側、小さなラインを指でなぞった。

「──いや、あんたもじゃん」

「ま、私はね?」

「なんでドヤ顔……」

 苦笑いして、旭は自分の掌に視線を落とす。

「でも確かに……マメ少ないね。旭はラケットを抉ってないんだ」

「そうなのかな」

 力任せにラケットを抉れば、手に残る感覚としてはハードヒットできているように思える。

 しかし実際には、腕の振りが固まってしまい、最大の物理量をシャトルに与えることができない。

 荒垣も主に精神的なプレッシャーから一時陥った症状だが、彼女はそれを克服し、ムチのように腕を、そしてラケットをしならせるフォームを会得した。

「あんまり意識したことないけど」

「いやあ、大事だよ。意識しなくても出来るのは凄いと思う。抉るとシャトル伸びないからね」

 志波姫の言葉に頷く荒垣だが、いまひとつ旭にはよく理解が出来なかった。

 基本的に放任主義の矢板監督の下では、事細かにスイングフォームをチェックされることもなかった。

 名門とされる宇都宮学院には、そんなレベルの選手は来ない、ということもあるが。

「さて……あんたたち、眠い?」

「あんまり」

 プレミアムエコノミーを満喫した二人には、外が暗いから夜なんだ、程度の認識しかない。

 一方の志波姫も、旭と望の寝顔をカメラで仕留めることには成功したが、欲求不満を抱えたまま、機が黒海を掠める頃には微睡んでいた。

「泪の部屋行く? あの部屋、空気重そうだし」

 いたずらっぽく志波姫は笑うが、本心は豊橋の精神面が気がかりだ。

 決して心の弱い選手ではないにしても、経験の少ない国際大会、組んだことのない羽咲と共に中国戦のトップバッターを務める。

 そのプレッシャーは小さくはないだろう。

「行ってみるか……石澤ともちょっと話したいし」

 旭の意見は聞かずとも分かっている、と言わんばかりに、荒垣と志波姫は率先して彼女を連れ出した。

 

 

 

 部屋をノックする音。

「はーい?」

 日本語じゃ通じねえだろ、と益子はイヤホンを耳にしたまま呟く。

 音量は絞っているようだ。

「ルームサービスです」

 ドアの外からも日本語が聞こえた。

「──なわけねーだろ」

 ツッコミを入れながら、益子は望を追い抜いてドアを開けた。

「旭──お前かよ」

「なによ泪、アンタが心配で見に来てやったのに」

 悪態をつきつつ、調達した夜食とドリンクを手に志波姫達は益子の部屋に押し入った。

 WiFiを繋ぐことに悪戦苦闘している望と豊橋を横目に、志波姫は窓際の机にそれらを並べ始める。

「アンリ、明日どう?」

「んー……緊張はしてる」

「綾乃ちゃんと一緒の部屋の方が良かった?」

「あ、それは問題ないよ。すごく良く合う、綾乃ちゃんとは」

 豊橋アンリは、羽咲綾乃が対戦を通じてリスペクトを持った数少ない選手の一人だ。

 益子もある種神格化して羽咲を崇めてはいるが、それは多少歪んだ愛情がこもっている。

 隙あらば旭にやらかした事と似たようなことを羽咲にもしかねないから、この二人を同室にするのはNGだった。

 旭なら殴り飛ばしてでも止めるだろうが、それでは第一の命題である、『旭と益子を別部屋にする』が達成できない。

「石澤は何やってんだ?」

「あ、荒垣。助けて……」

「なんだこりゃ」

 荒垣が受け取ったのは、部屋に置いてあるWiFiのパンフレット。

 デンマークにおける外国人とは基本的に英語話者を指すらしい。

 あとはフランス語かドイツ語か知らないが、アルファベットの上や下に点々のついた文字が並んでいる。

「普通に繋げばいいんじゃないの?」

「なによ、普通って……」

 父親の職業と関係があるかは知らないが、荒垣が唯一得意と言える教科が英語だった。

 もちろん、他に比べてという相対評価でしかない。

「……お前これ、機内モードになってんじゃん」

「あ──」

 



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11th game Shape of You

 荒垣の協力を得てWiFiを繋ぐことができた望は、両親にメッセージを入れる。

 ひとまずは、無事にデンマークに辿り着いたこと。

 それから、明日は出場機会がないが、ロシア戦では出番があるということ。

(テレビとか、やるのかな……?)

「望、彼氏?」

「違うよ、いないし」

「じゃあ彼女?」

「待って」

 ベッドに乗り込んでくる志波姫を躱して、望は自分の分の夜食を確保する。

 待望のワッフルではなかったが、色とりどりのチョコチップが掛かったクラッカーを一枚口に入れると、何とも言えないジャンキーな甘みが広がった。

 望のガードを下げさせることを諦めた志波姫は、今度は泪にちょっかいを出し始める。

「アンタ何枚食べんのよ。太るよ?」

「いいよ、私太らない体質だから」

 旭と豊橋の顔が引きつった。

 すかさず、志波姫は話題を変える。

「そういえばさ──明日の試合だけど」

 似たような選手ばかりの中国代表だが、それを看破するには初手の羽咲と豊橋の立ち回りが重要だ。

「唯華は、相手をどうやって判断してるの?」

 ショックから立ち直ったらしい豊橋が問う。

「そうね……『ポイントを取る形』を見るのが一番手っ取り早いかな。──バドミントンの話だよね?」

 他に何があるのかと、望と荒垣は訝しんだ。

「泪とか望は、私とやったことあるから、なんとなくわかるでしょ?」

 試されているような感覚は、望も受けたことがある。

 ストレートを打てる配球をしてもらっているのに、クロスに飛ばした結果、より厳しいコースに返球されてしまい、力なく上がったシャトルを志波姫に叩かれた一点。

 その時の思考は──。

「あれか……」

「真っすぐ叩こうとは思わなかった?」

「ううん……、フォア勝負なら分があると思ってた」

 まあね、と志波姫は頷く。

 生まれ持っての柔軟性のおかげで、望は差し込まれた羽根もうまくやり過ごすことができる。

 純粋な打ち合いでは押される、と考えたからこそ、志波姫も策を弄したのだ。

 今にして思えば──随分と遠い昔のように望には思えたが、あのポイントは、オープンバックへのドライブでも良かった。

「強打、強打で来られた方が確かに私は苦しかったけど……望が、カットを効果的に見せたがってた感じはしたね」

「確かに、それはあったかな」

 カットスマッシュが最大の武器であることは、望も自認していた。

 この世代では、シャトルに変化を掛ける能力は抜きん出ているが、それを活かそうとするなら縦、すなわち前後への配球が必要になる。

 倉石が教えた戦術は、どちらかと言えば左右への散らしに比重を置いたもので、その戦術をなぞってシャトルをコントロールできる技術もまた、望の武器の一つではあるのだが。

「だから──ある程度、相手に自由にやらせる時間帯があっていいと思う。団体戦ならなおさらね」

 ダブルス2は旭と益子だ。

 体調や精神面にトラブルがなければ、中国代表と言えど、同世代相手にこの二人が星を落とすことは考えにくい。

「負けていいとは絶対に思っちゃダメだけど……あとは綾乃ちゃんをどこまで我慢させられるか、だね」

「我慢、かあ……」

 豊橋は首を捻り、クラッカーを咀嚼しながら考え込む。

 ペア合わせは他のパターンよりも抜群にフィットしているとは言え、それでも実戦で組んだことはない。

「できれば練習試合でもいいから、やりたかったなあ」

「うん……ま、でも──お互いインターハイでやってるのは大きいよ」

 限界領域でのバトルを繰り広げることは、たとえ一試合だけでも相手を理解するために、大きな助けとなる。

 どういう配球をすれば嫌がるのか、また逆に、どこがツボなのか。

「だから、私と望もきっとうまくいく」

 志波姫が言ったのは、ロシア戦で組む予定のダブルスのことだ。

 二戦目は膝の様子を見て荒垣と、疲労を考慮して一年生の羽咲が欠場する。

 その代わりに望は志波姫とペアを組み、久御山はシングルスで出場する予定だ。

「……中国に勝てる要素って、そこかもな」

 荒垣は、自分のこれまでの経験を反芻する。

 望や橋詰、年下の笹下は勿論、相手は覚えていないだろうが、益子とも顔を合わせたことがある。

 選手同士の交錯が多い、狭い日本の育成環境が、相互理解の必要な代表団体戦では、優位に働くこともあるに違いない。

「そういうこと。ホントはアンリも綾乃ちゃんと一緒の部屋にしようと思ったんだけど」

 あの子はあの子で、色々抱えてるものがあるからね、と志波姫は呟いた。

 豊橋も少し気が楽になったらしく、あくびをかみ殺す。

「……そろそろ寝ようか。じゃ、私達は部屋に戻るから」

「うん。明日ね──おやすみ」

 手早く夜食の残骸を片付けて、志波姫は立ち上がる。

「泪、アンタちゃんと歯磨きなさいよ」

「わかってらい」

 律義に歯を磨いてきた益子の後に望が続き、最後に身支度を終えた豊橋が、部屋の電気を消す。

 望は内心驚いたが、あれだけ昼間寝ていたのに、とたんに眠気が襲ってきた。

 出来るだけ体温を逃がさないように、毛布を首まで被って目を閉じる。

 日本とは少し違う音を出している車が、時折窓の外を走り去っていく。

(明日は、まあ……気楽だな)

 なんだかんだ言っても、中国は強敵だ。

 負けてしまう可能性だって十分ある。

 そうでなく、期待した結果になるにせよ、自分が出られないのは歯痒いものだと、少し気持ちが落ち込む。

 それでも、明日で終わりではない。

 インターハイの前日の夜。

 自分なりに精一杯やり切った自信はあったが、それでも不安で寝付けなかった。

 フレゼリシア女子という強豪の名のせいか、それとも、志波姫唯華と言う強敵のせいか。

 結局は、自分の中身の問題だったんだろう。

 意識が薄れるまで、望はぼんやりと、今年の春から今までの事を振り返ってみる。

 神奈川の予選すら突破できなかった自分が、よくもまあ日本代表になんてなれたものだ。

 小さく息をつき、しきりに寝返りを打つ益子の衣擦れを聞きながら、望は眠る。

 

 

 

 ──鼓膜が揺れている。

(……?)

 部屋はもちろん、窓の外もまだ暗い。

 それなのに、こんな時間にドアをノックするなんて──。

 望はしばらく、ドアの外にいる誰かが諦めるのを期待して、スマートフォンの画面で時計を眺める。

 思ったよりもゆっくりと眠っていたようだ。

 二回ずつだったノック音が三回になったタイミングで、望は観念して起き上がった。

 気配を察したのか、それとも、もっとずっと以前からノックを無視していたのかは知らないが、上半身を起こした益子の眼光が、闇の中で光る。

 まるで機嫌の悪い猫のようだと思いつつ、望はまだ寝ぼけた足取りでドアに向かう。

 鍵を開けると──。

「おはよう! みんなで散歩いこう」

「ああ、はい……」

 生返事を返して、望はドア脇の壁にある電気のスイッチを入れた。

 人類の英知で明るくなった部屋を改めてみると、益子は布団にくるまって狸寝入りを決め込んでいた。

 その首筋に手を回して引き起こしつつ、部屋に侵入してきた志波姫が彼女の耳元で囁く。

「おーい泪~? 早く起きないと食べちゃうぞ?」

「やめろ」

 肘で志波姫を押し退け、益子はベッドの上で胡坐をかいて髪を掻き毟る。

「……お前、外真っ暗じゃねえかよ」

「デンマークは昼が短いの。日本なら学校行く時間だよ?」

「はあ、嘘つけお前──」

 益子も先程の望と同じように携帯電話を握り、時刻を確かめる。

「──マジか……」

 知らず知らずのうちに、疲労が蓄積していたのだろうか。

 身体の調子を確かめようと、益子は首を鳴らして、腕のストレッチを始める。

「やらかいね」

「痴漢すんな!」

 志波姫が触っている場所が柔らかくなければ一大事だ、と望は苦笑しつつ、自分のキャリーバッグから着替えを引っ張り出す。

「外寒いよね、絶対」

「下、タイツ履いた方がいいよ」

「そうする」

 温熱素材のタイツとスパッツを重ね履きして、望は身支度を整えた。

 ニット帽とネックウォーマーのせいで目線しか見えていない益子も、嫌々ながら集団についてくる。

「松川さん、お待たせしました」

 待たせたうちの八割ぐらいは益子だっただろうが、松川は気にせずに笑顔を返す。

「じゃあ行こうか」

 彼女に先導されて、集団は動き出した。

 ペースは普段の歩く速度よりもゆっくりだが、あくびをかみ殺しながらの気分転換にはちょうどいい。

「ホテルの裏、公園なんやね」

 両腕を目いっぱいに広げて伸びをしながら、久御山は集団の最後尾を歩く。

 睡眠中は水分が失われるから、散歩の間に一本飲み干せ──そう言われて渡されたスポーツドリンクを早くも飲み干した彼女は、ペットボトルを手持無沙汰に振り回している。

 まるで、『ヒーローは遅れて現れる』とでも言わんばかりに、力みがなく、威風堂々とした表情で──というよりも、性根が呑気なのだろう、と隣の望は思った。

 益子は益子で、羽咲と旭の引力にふらつきながら、徐々に心と体を覚醒させているようだ。

 どちらかと言えば旭に接近しているのは、目当ての羽咲が豊橋と仲睦まじく会話をしているからかもしれない。

「荒垣、膝どう?」

 志波姫が首から上だけで振り返り、荒垣に訊く。

「まあ……違和感はないかな。冷えるから少し痛むかと思ったけど、全然」

 散歩と言う割には、先導する松川の針路はぶれない。

 何ともなく徒然に会話を続けていると、話題が尽きる暇もなく一団は幅の広い道路に突き当たった。

「この横断歩道、信号あらへん……」

 数台の車が久御山のボヤキを掻き消したあと、松川は左右を確かめて選手たちを促す。

 道路の向かいは、大学病院。

「……忘れてた」

 寝起きドッキリのように急かされたスタートも、出発前に全員に一本ずつ渡されたペットボトルも、本当はこのためだったのかと、望は合点がいった。

 仕掛人の志波姫と松川以外のメンバーも、ほぼ同時に気が付く。

『検査』だ。

 

 

「泪、……出た?」

「バッチシ、クロスファイアで」

 意味不明な事を宣う益子を見て、『検査』の経験がある彼女でも緊張したのだろうと、旭は少し安堵した。

 あるいは、脳内を快楽物質が駆け巡っているのかもしれないが。

 監視をする人物がもはやおばあちゃんと言っていいレベルの老女であったことも奏功したか、経験のない望や久御山達も、出すものを出すことはできたようだ。

「オバハンで良かったわ」

「そうだね……」

 ドッキリ大成功の札が似合う満面の笑みを湛えて、帰路は志波姫が先頭に立つ。

 検査の結果はまだわからないが、怪しい薬など飲んでいるメンバーはいないから、問題も起きないだろう。

 十分ほどの道のりを歩いて戻ると、日本代表の根城となっているミーティング室には、朝食の用意が整っていた。

 相変わらず羽咲の隣をキープしたがる益子をスルーして、旭は望の隣に座る。

「結構量あるね」

「うん、でもおいしそう」

 少なくともここ数年、望にとっての朝食とは、あくまで朝のランニングで失った水分やエネルギーを補給するためのものだった。

 このように手間のかかった食事を朝から摂る時間もなかったし、第一満腹になってしまっては、その後の朝練で動けない。

 特に焦っているわけではないが、結局一番乗りで食べ終えた望は、コーヒーメーカーの前に立つ。

「緑茶あるやん──」

 脇からぐいと手を伸ばしてカップをセットし、久御山は『GREEN TEA』と書かれたボタンを押す。

 湯気を立てて出てきた緑色の液体を一口含むと、彼女の表情が曇った。

「まっず……嘘やろ……」

 苦笑しつつ、望は砂糖をひと掬いだけカップに入れ、その上からコーヒーを注いだ。

「望はコーヒー派?」

「まあね……ほんとはアイスコーヒーがいいんだけど、寒いし」

「ふーん」

 久御山に続いて志波姫が横に並び、薄く色づいた紅茶をカップに注いだ。

 そして、彼女はパンが満載になったバスケットの横からストロベリージャムを一個取り、自分の席に戻る。

 おもむろにパッケージを開けて、スプーンですくったジャムを口に含み、溶かし合わせるようにカップを傾けた。

「おしゃれかお前」

 益子がツッコミを入れる。

 志波姫がやっているのは由緒正しいロシアンティーの飲み方だが、そういった教養は益子には備わっていないようだ。

「アンタもやってみれば? 美味しいよ」

「いい。水が一番だよ、なあ神藤」

「……牛乳」

 はあ、と益子はため息をつき、横から羽咲の牛乳を取り上げて飲み干す。

「あーっ!」

 だいたい皆朝食も食べ終えた頃合いに、倉石が姿を見せた。

「志波姫、そろそろ行くぞ。試合会場で記者会見だ」

「あ、はい。じゃあ、みんな。行ってくるね」

 代表ジャージの襟を正し、姿見で身なりを整える彼女に、メンバーはそれぞれにエールを送る。

 キャプテンと監督が姿を消し、通訳の神藤コーチも出て行った。

 後には立花と松川、そして八人の選手たちが残る。

「──みんな予定はわかってる?」

 松川の問いに、大丈夫と言ったのは益子だ。

「それじゃ、ひとまず解散ね。昼食は会場で摂るし、量も少ないから、物足りなかったらまだ食べてていいよ」

 そうして大人たちが姿を消すと、リーダー不在のミーティングルームでは、会話もまばらになる。

 しかし、誰もその場を立とうとはしなかった。

 食欲旺盛な狼森と、親の仇のように牛乳をヘビーローテーションしている羽咲を除いては、もう十分腹も膨れたはずだが。

「……大丈夫かな、アイツ」

 お前に心配されるような奴じゃないでしょと、旭は出かかった言葉をコーヒーで飲み込む。

 

 

 

 つつがなく記者会見を終えたらしい志波姫たちと、会場で合流する。

 外国人記者を相手にできるほどの英語力は彼女も持ち合わせていないから、ほとんど一人で喋っていた神藤コーチは少し疲れた顔をしていた。

「いや、こいつがさ……みんな日本語わかんないと思って煽るから」

 四川省の十五歳、羅小麗がいない中国代表など楽勝と吹いてみたり、日本代表は合宿期間こそ短いが、ある『特殊なコミュニケーション』を通じて選手同士の親交を深めている、だとか。

 倉石とて海外のメディアに取材を受けることなどなかったから、質問への返答はすべて日本語で、それを逐一神藤コーチが翻訳していた。

 ひとまず彼女の労をねぎらい、選手団は与えられた二面のコートに散らばる。

 志波姫は遅れて昼食を摂っており、中国戦で組む予定の豊橋・羽咲ペアの対面には旭・益子。

 荒垣と狼森がもう一面のコートで打ち合っている間、石澤と久御山は二人でサポートに回る。

 やがて飽きてきたらしい益子が練習を早めに切り上げて、傍でシャトルを拾っていた久御山に、自分の代わりに入るように促した。

 旭も旭でそれを止めないが、二人のペアには不安がないということだろう。

 とりあえず中国戦には出ないといっても、公式練習は貴重な機会だ。

 次は自分も、という風に、望は自らのラケットバッグから、相棒を引っ張り出す。

 今は都合四本のラケットが入っているが、試合で使うのは『最新版』の二本だけの予定だ。

「石澤、それさあ」

「なに?」

 にじり寄る益子の視線を注意深く観察すると、それは望の握っているラケットに向かっていることが分かった。

 望は安心して、益子にそのラケットを手渡す。

「……しなるな、結構」

「私そういうの好きだからね」

「ふーん……」

 彼女は受け取ったラケットを軽く振ってみたり、手でくるくると回してみる。

「益子──のは?」

「ん? ああ」

 一瞬益子は戸惑うような表情を見せたが、すぐに笑顔になって自分のラケットを取り出す。

 呼び捨てに気を悪くされないでよかったと望は安堵した。

「これ。21ポンド半」

「……硬いね」

 上背があれば、シャトルは強く叩ける。

 だから益子には、このポンド数でも十分なのだろう。

 望が自分のストリングスのポンド数を落としているのは、パワーを補うためもあるが、どちらかといえばカットをよりよく掛けるために、ストリングスとシャトルの接触時間を長くとる意味合いが大きい。

「荒垣も硬いだろ、多分」

「そうだね。男子並みだと思うよ」

 狼森の対面の荒垣に目をやると、彼女は元気よくステップを踏み切り、ジャンピングスマッシュを叩き込んだ。

 練習だから狼森の表情もさほど変わらないが、これがインターハイだったなら、彼女は動揺しただろう。

 ほどほどにしておけ、という立花コーチの言を素直に聞き入れて、荒垣はコートを出る。

 走りこんでひと汗かいた狼森も同時にコートを離れ、空いたコートに益子は歩みを進めた。

「あ、益子。ラケット──」

「ちょっと交換して」

「いいけど……」

 彼女の方は別に問題はなさそうだが、望にとっては、シャトルを打つという作業は繊細なものだ。

 セッティングの違う他人のラケットを使うのは好ましくないが、バッグを置いたベンチまでラケットを取りに戻るのも忍びない。

 益子は軽くラケットを振り回した後、アンダーハンドから大きくシャトルを打ち上げる。

「──っ」

 どうにでもなれ、とばかりに望は力を入れて、ラケットを思いきり振り抜いた。

 普段とは違う、金属音のような甲高い反響を残して、シャトルは益子のバックサイドへ伸びていく。

(あ、意外と……でもないか)

 目で追わなければ、そのシャトルの行く先がわからない。

 自分のラケットなら、接触音と手に残る感覚で、おおよそコートのどのあたりに落ちるかが判別できる。

(インフォメーションが少ない……これは『考える』ことをしないと使えないな)

 もっとも、試合になれば当然使うのは自分が長いこと付き合ってきた相棒だから、さほど望は落ち込んでいない。

 益子は体を翻してロブを打った後、手振りで望にフォアサイドを要求する。

 求めに応じてシャトルを返すと、浮き球、と追加注文。

(──ああ)

 思い当たった望は、彼女の腕がちょうどよく伸びる距離に、シャトルを『置いた』。

「っし!」

 軸のぶれた扇風機のような音を立てて、シャトルは弧を描いて望の右腋を抉っていった。

 クロスファイア──。

 球足は短いが、変化はかつて羽咲との試合で見た時のそれよりも大きい。

 落ちたシャトルを拾い、益子に返そうと顔を上げると、彼女はネット前に立っていた。

「……いいな、これ」

 差し出されたラケットを受け取り、望は『これもよかったよ』と言ってあげたくなったが、本心はそうでもなかった。

 自分のラケットを手にすると、やはり『スイッチ』が入る気がする。

 

 

 

 

 会場内は一定の照度だが、壁にかかっている時計を見て、望は夕闇の訪れを知る。

 彼女と久御山、松川のいる観客席にも人影が増え始めて、会場を二つに区切った反対側のスタンドが沸くと、ロシアとポルトガルの選手団が入場してきた。

 試合開始時刻は同じだが、呼び込みの順番はその二国が最初だ。

 そして、望たちのいる側のスタンドも、眼下に入場してくる選手団に声援を送る人並みで盛り上がる。

「──」

 身震いして、望はぎゅっと目をつむり、そして開く。

 被らないようにタイミングをずらして四か国の国歌が流れ、最後に流れた君が代と、日の丸の掲揚に合わせて起立した三人は、周囲を見渡しながら席に座った。

「……日本人、少ないなァ」

 彼女たちと同じタイミングで同じ行動をとった人数は、そう多くない。

 益子を追い続けている熱心な記者も、さすがにデンマークまでは来ていないし、選手たちの家族も招待されているわけではなかったから、仕方ないといえば仕方ないのだが。

「──始まるね」

 観客席からカメラを向けるのは無粋だと思ったらしく、松川は取材にかかわる『画』のほとんどは知り合いの外国人記者に融通してもらう算段をつけている。

 さすがにデンマーク語も英語も話せない未成年を二人放り出して、取材に走るのはいけないと判断したのだろう。

 普段の高校生同士の試合よりも、ずいぶんと広く余裕をとったコートの中央で、豊橋と羽咲がウォームアップをしている。

「あの二人は──」

 松川は対戦カードの書かれた電光掲示板に目をやり、手元の資料をめくった。

「洪麗麗、16歳。それからあっちの背の高いのが、18歳の甲美雹だね。甲のほうはアジアユースでも上位に入ってる」

 背が高いといっても、ペアの洪がどちらかといえば小柄だから、そこまで飛びぬけて上背があるわけではない。

 年齢も、ペアの組み合わせも、二人とも右利きであることを除けば豊橋・羽咲と同じといっていいだろう。

 規定のウォームアップ時間が終わり、彼女たちはそれぞれの監督のもとに戻る。

 狼森と旭がタオルと飲み物を持って二人に手渡すが、豊橋はタオルだけ受け取り、ドリンクのボトルは手に取ろうとしなかった。

「……ちょっと緊張してるね」

「せやな」

 羽咲の方は自分との対話で忙しいらしく、ラケットをくるくると回したりして、倉石の指示も話半分のようだが、豊橋の方はどことなく硬い表情で、彼の言葉に頷いている。

 もっとも笑顔は見えるから、そこまで『悪いモード』ではなさそうだ。

 

 

 

「綾乃ちゃん──」

「なに?」

 ゲームの初手のサーバーとなった豊橋が、残り僅かなオープニングインターバルの間に羽咲の肩を引き寄せる。

「最初はロングで行く。あっちの甲の、強打の質を見よう」

「のっぽの方? いいよ」

「うん。よし、行こうか!」

 ぱしん、と手のひらを合わせ、二人はそれぞれのポジションについた。

 主審のコールの後、一拍置いて豊橋はラケットのスイングを開始する。

「──ロング!」

 観客席で見ている望たちの目線の高さまで、シャトルは打ちあがった。

 おそらく目一杯の力で、豊橋はカチ上げたのだろう。

 深さはあるだろうが、コースは甘い。

 しかし中国ペアも緊張はしているらしく、レシーブに回った小さいほう──洪麗麗は戸惑いを見せながらアンダーアームでロブを返した。

「綾乃ちゃん!」

 豊橋の声が飛ぶ。

 後ろに、という手振りを受けて、羽咲は斜めにバックステップを踏み、ラウンドからハイクリアーを入れた。

 サイドラインを半分踏み出してはいるが、空いたスペースを前衛の豊橋がやや後ろ目に立ち、守っている。

 守勢に回った形だが、これはもともとのゲームプラン通りだ。

 立ち上がりはゆっくりとした組み立てをして、国際大会の経験が少ない豊橋の、心のエンジンがしっかり暖気するのを待ち、また羽咲の体力的な不安も考慮する。

 神奈川の大会でも思ったけれど、と松川はつぶやいた。

「ほんとに選手をよく見てるし、理解が深いよね、倉石さんは」

 望も同意する。

 彼が望たちの世代で一番時間をかけたのは彼女には違いないが、ほかの選手にも相応の指導をしていた。

 だからこそ逗子総合は全国大会に出ることができていたし、望も今、ここにいる。

 そんな彼が仕掛けた戦術だ。

 国際大会の一発目で取る策としては、リスキーではある。

 日本最高のダブルスペアが後に控えていなければ、成立しえないだろう。

 豊橋が誘い込んだ長くゆっくりとしたラリーの最後は、攻め気を見せた洪がシャトルをサイドアウトしてしまい、日本ペアに最初のポイントが入る。

「よーしよしよし、ラッキーだ! 慌てるな、自分たちのペースで行け!」

 相変わらず大きな声だ、と望は苦笑する。

 ここにいるデンマーク人の何人かは、いくつかの日本語を覚えて帰るだろう。

 本当に大事なのはここから、と言わんばかりに、豊橋はさっきよりも長い間合いを使って、同じくロングサービスを放つ。

 年上と組む国際大会のダブルスで、最初の一点をミスで与えてしまった洪だが、今度の返球は強気にヘアピン。

 ネット前なら私の十八番──と勇んで羽咲は前に張り出す。

 ヘアピンの拾い合いのあと、左右の利き腕の違いから、噛み合わないと判断したのか、先に『逃げた』のは洪だった。

「オーライ!」

 平行陣から雁行陣へのシフトで、後ろに下がったのは豊橋だ。

 羽咲の体力をできるだけ温存する意図もあるだろうが、これは日本ペアの形ではない。

 身長の高い甲が前に出てくる。

 豊橋は、彼女の頭上をやり過ごすようにロブを上げる。

(……いい。無理をしない、落ち着いている)

 倉石は右手を握り、腕を組み直した。

 ダブルスのペアには、大きく二種類ある。

 お互いを『補い合う』ペアと、『高め合う』ペア──羽咲と豊橋は前者だ。

 序盤はできるだけ見せないように、と注文を付けてはいたが、同じフォームからのストレートとクロスファイアなど、攻撃のオプションが多彩な羽咲と、走り合いを避けずに受けて立つ体力があり、守備の中で攻撃の形を作っていける精度と視野を持つ豊橋。

 今のように、悪い形に陥ってしまっても、それを打開して自分たちのいい形で戦える。

(石澤と志波姫は違う。二人の平均値で優位を作り、掴んだ流れを離さずに行くタイプ……)

 どちらかの能力が突出していれば、『補い合う』形になりやすい。

 旭と益子もそうであるし、レベルは違えど泉と羽咲も同じだ。

 ただし、その形に対応されてしまうと苦しくなる。

 アタッカーとディフェンスが自由に入れ替われる、同じタイプ同士のペアの方が、読まれづらいのは確かだ。

 コート上の二人も、本来の形──羽咲が後ろで拾い回り、豊橋がコースにドライブを決めて相手を崩すスタイルに戻すのに手間取っている。

 洪のミスで先制はできたが、中国ペアのレベルは高い。

「まぁ、しかし……落ちへんなぁシャトル」

「あの二人じゃね……」

 見たかった甲の強打はまだ万全の形で打たせてはいないが、ところどころに強い羽は混じっている。

 それを苦も無く拾う羽咲の前で、豊橋が後衛の洪に睨みを利かせているおかげで、お互いに決め手がない状況だ。

 長いラリーの最後に待っているのは、どうしてもミスが多い。

 そもそもシングルスに比べてエースショットの打ち合いにはなりづらいダブルスだが、これではあまりにテレビ映えしないだろう。

 苦笑する倉石をよそに、試合はミス絡みの荒れた展開で団子のまま、最初のインターバルを迎えた。

 11-10。

 ここでは豊橋も、差し出されたドリンクを呷り、喉を鳴らす。

「よし、よく我慢している。ミスが多いのは仕方ない。切り替えて一点ずつだ、わかったか?」

 ボトルのストローを口から離して、羽咲が言う。

「──もうちょっと、攻めていい?」

「ん……気持ちはわかるが、このセットは待て。落としても構わないが、もし取れたら、第二セットから全開で行っていい。ただし、行けると判断したら叩け」

「わかった」

 甲のスマッシュの頻度が上がれば、守勢に回らざるを得ないが、そこで体力を消耗してしまうと勝ちの目はなくなる。

「よし、行ってこい!」

「おっす!」

 旭にタオルを投げ渡し、豊橋は肩を回しながらコートに戻る。

 羽咲も、獲物をうかがうように首を鳴らして、中国ペアの前衛、甲と斜向かいに対峙した。

「難しい戦術だけれど、これを完遂できたら……彼女たちは、『上』で勝てる選手になるわよ」

 松川は感慨深そうに言った。

 根本的にインターハイなどと違うのは、世界大会に出てくる選手にあからさまな『実力差』など存在しない、ということ。

 いい意味でも、悪い意味でも。

 であるならばまさしく『戦術』の勝負になる。

『技術』で勝ち上がれる学生の大会と全く違うのはそこだ。

 荒垣のスマッシュも、益子のクロスファイアも、それがまるっきりエースになることなどありえないが、だからと言って彼女たちが『死ぬ』わけでは決してない。

『戦術』を望に教えたのは、倉石が彼女を『上』──将来にわたって競技の第一線で活躍できる選手だと見込んでいたからであるし、そこまで行くことなく選手生活を終えると踏んでいた荒垣を、特待で取らなかったのも同じ理由だ。

『お前は荒垣じゃない』──望を壊し、惑わせ、覚醒させた言葉の本質はそこにある。

 石澤望は、『上』の世界に行く。荒垣は──果たして彼の目論見は、いい方向に外れた。

 第一ゲームが長くなることを見越して、ゆっくりとしたペースでストレッチをしている彼女を見やり、望はまだ見ぬそのコートからの景色を想像する。

 

 

 

 

 インターバルを終えて、中国ペアが三ポイント連取する。

 14-10となったところで、羽咲はシャトルを拾い上げて主審に交換を要求した。

「ゴメン、綾乃ちゃん」

「だいじょうぶ、次取ろう」

 豊橋の方を見ずに、短い言葉で彼女を促した羽咲は、倉石の方を見やる。

(……フムン)

 だいぶフラストレーションが溜まっているように、彼には思えた。

 無理もないだろう。

 豊橋がミスを続けたわけではないが、この三ポイントは全てエースショットを打たれている。

 拾いきれなかったのは二人のコミュニケーション不足もある。

 しかしそれ以上に、インターバル明けから中国ペアの動きが激しい。

 特に甲美雹は難度の高いコースへのジャンピングスマッシュを二本続けて決めた。

 このまま調子に乗られると、不味い。

「──旭、益子」

「ん」

 バックゾーンで柔軟体操をしている二人を、倉石は呼んだ。

 神藤コーチを交えて、四人で彼が記した中国ペアの傾向を読み解く。

「次のダブルス2も、高い選手と走る選手のペアだ。つまり──」

「自分たちの『形』を押し付けてくる。こっちの動きはあまり考慮しない」

 神藤コーチの補足は的を射ている。

「単純なエースショットの打ち合いでは、さすがに分が悪いかな」

 控えめな旭の分析に、益子も珍しく同意した。

「私らはいつも通りやるけど……」

「それでいい。ただし、相手の流れだと思ったら、少しリズムを変えて行け」

 急場の作戦会議では、このぐらいの指示がやっとだ。

 倉石はノートで頭を掻き、コートに向かって大きな声を出す。

「羽咲! もういいぞ、ゴーだ!」

 第一ゲームを落とすことは想定内だが、この『落とし方』は良くない。

 そう判断して、倉石は羽咲と豊橋に課したミッションを、ここで完了とさせた。

 二人の間に飛んできたドライブを、羽咲は踏み切って強打で返す。

 守備一辺倒の小柄なプレイヤーだと思い込ませたところで、本当の役割は逆だと見せつける。

 久方ぶりの得点が日本ペアに入り、コート上で二人は手を合わせた。

(この三連続ポイント……インターバル前から合わせれば四連続だが、これは今までの『流れ』を切るための、甲美雹の独断専行だろう)

 倉石は旭と益子に、少しウォームアップのペースを落とすように指示する。

 まだマッチポイントまでは遠いが、ミス絡みの展開に彼女がまず音を上げて、その流れを押し退けようとした動きだ。

 付き合って、ラフな展開にすることはない。

 羽咲も意図を同じくしたのか、ショートサービスから今度は自分が前に張り出し、高く抜かれたシャトルだけは豊橋に任せている。

(──それでいい。間合いの開いたハードヒットの応酬は、上背のない羽咲と攻め手に欠ける豊橋では対処しづらい。ネット前の細かい仕掛けから、中国ペアのバランスを崩す)

 長いラリーは相変わらずだが、その中で豊橋は小さな餌を撒いていた。

 中国ペアの後衛・洪の前にやや短いシャトルを送り、羽咲とのネット前勝負に引き込もうとしている。

 餌につられたわけではないだろうが、洪はヘアピンをサイドに散らす。

 機敏に反応した羽咲が、すぐさま追い付いて打ち上げた。

(……よし、少し前掛かりにさせた。綾乃ちゃんがクロスファイアを打てる球を出させるなら──)

 再び間合いの開いたラリーの中で、中国ペアは前後を入れ替え、洪がネット前中央に張り出す。

 渋々後ろに回った甲美雹は、羽咲の守備範囲を迂回する大きなロビング。

「──はっ!」

 ほんの少しだけ、そのロブは短かった。

 豊橋は渾身の力でコートを蹴り、ジャンピングスマッシュを放つ。

 慣れない強打の、コースは甘い。

 しかし、それがかえって、中国ペアの逡巡を生み出した。

 下がりながら腕を伸ばした洪と、平行陣に組み直すべく前に出た甲のラケットがぶつかり、シャトルはゆがんだスイングの軌道をすり抜けて甲の膝に命中する。

 しばし顔を見合わせた彼女たちは、何か唇を動かして言い合った。

(やってみるもんだね……今のが『強打が通用するポイント』、なのかな?)

 コートを上から見れば、鏡写しの雁行陣。

 しかし、日本ペアは利き腕の関係上、フォアの範囲が被らない。

 前に速い羽咲、後ろに比較的強打を使える豊橋──この組み合わせが本来は、最大効率を発揮する。

 このセット途中までは使わなかったフォーメーションだ。

 何より、豊橋は速い選手を思い通りに動かさない配球ができる。

 インターハイの対羽咲戦でも実行しており、それを倉石は見ていた。

「豊橋、ナイススマッシュだ! 撃っていけ、どんどん攻めろ!」

「はーいっ!」

 中国ペアが少し間を置く間に、倉石の声を受けて豊橋もテンションを上げる。

 守備から入り、ラリーで崩す──中国側の彼女たちに対する分析は、間違ってはいない。

 プラスアルファだ。

 羽咲は絶対的には強打になりえるショットを打てないが、スピードを使って強打に『見せる』ことができるし、豊橋は、この中国ペアが相手ならば、『強打』そのものを打てる。

 対戦相手は、益子や荒垣のような高身長の選手ではない。

 ダブルスの二人の守備範囲が絡んで、後衛のハードヒッターがカウンターを打てない──この状況なら通用するんだ、とスタンドで観戦する望も気が付いた。

「……私、この試合観ててよかった」

「はん?」

 両手を頭の後ろで組み、たっぷりとリラックスしていた久御山は、キョトンとした顔で背筋を伸ばし、望を見る。

 彼女のその言葉は、消極的な思考からではない。

 明日のロシア戦では志波姫とダブルスを組む予定だが、今までの望なら、志波姫のゲームプランに組み込まれるだけだっただろう。

 それでは、本当の意味での『経験値』は稼げない。

 コート上にいる四人の中で、豊橋はおそらく一番格下だろうが、それでも今このゲームを動かしているのは彼女だ。

「豊橋さん、すごく周りを見て、試合をしてる」

「まあ、そらな……頭の良さで言うたら、豊橋は志波姫と張るで」

 望が欲しかったもの。

 それは『戦術』を活かすための視野だ。

 志波姫のように見る『時間』を長くするのもいい。

 またコート上の豊橋のように、相手の二人をじっくりと見て、また年下で自律能力にやや劣る羽咲をしっかりフォローするのも必要だ。

 ともすれば、明日の試合は志波姫に引っ張られるだけだったかもしれない。

 そういう意味で、今日は見ているだけでよかったと、望は安堵した。

 と同時に、明日への欲求が沸いてくる。

 コート上では甲美雹の強打が徐々に日本ペアを圧しはじめ、うまく攻撃に結び付けられないままに第一セットを落とした。

 最後まで競るには競ったが、それは主に洪のミスと、羽咲がたまに見せたクロスファイアからの崩し。

 デュースに入る一歩手前、19-21で中国がセットを先制する。

「ごめん、アンリちゃん、監督……取る気だったけど……」

 ふがいない、という風に羽咲は、差し出されたボトルを握りつぶし、口の周りを濡らす。

 労う様に志波姫は手にしたタオルで、彼女の頬を拭いてやった。

「慌てないで、綾乃ちゃん。アンリもね」

「うん……でも、次は取ろう。勝てるから」

 最後までわからないセットの後は、どうしても指示がボンヤリとしがちだ。

 倉石はできるだけ根拠を頭の中で作り上げて、二人に戦術を教える。

「わかっていると思うが、洪はミスが多い。年もまだ子供だし、緊張もあるだろうが……逆に、甲の調子はいいようだ」

 つまり、と倉石は豊橋に目配せする。

「──甲の強打を止めろ、ですか?」

「そうだ」

 決まっていたスマッシュが決まらなくなれば、リズムの上がらない洪とともに総崩れにできる。

 第二セットを一気に取って勝ち星を付けたい焦りも出てくるだろう。

「よし……綾乃ちゃん、あの作戦で行こう。『なぎさちゃん封じ』で」

「……オッケー」

 ゲスい笑みを零して、羽咲はコートに向かった。

 タオルを志波姫に返して、豊橋も彼女を追う。

 バックラインの前で、二人は並んだ。

 観客席の望と久御山を認めると、豊橋は軽くラケットを上げて見せる。

 久御山も立ち上がり、右拳を振り上げた。

「──さてと、どう狙おうか」

「んー……アンリちゃんは、甲を私のフォアに置いて。そうしたら、私がコントロールする」

「了解っ!」

 二人はラケットとシャトルをかち合わせ、握ったお互いの利き手をぶつけ合う。

 反撃開始だ。



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12th game Up!

 豊橋・羽咲の合作による『なぎさちゃん封じ』はひとまず、功を奏しているようだ。

 4-0と序盤を走ったところで、中国ペアがシャトルの交換を要求する。

 わずかな時間に、彼女たちは口早に何かを話していた。

(……うん、いい感じ)

 対応はまだ出来ないだろう──というよりも。

 後衛の豊橋の位置からでは断言はできないが、羽咲の作戦はバージョンを上げている。

 荒垣との神奈川決勝の時に打っていたのは、選球眼のあるプレイヤーならはっきりとアウトだと判別できる球。

 しかし、今は違う。

 アウトかインかで言えば、入っているコースに上げている。

 甲美雹の選球眼がどれほどのものかはわからないが、羽咲の放つ『紛れ』を含んだシャトルは、徐々に彼女の守備範囲を広げさせ、疲労を惹き起こす。

 それとともに、波に乗れない洪麗麗がプレーに関与する機会を減らし、羽咲と甲のマッチアップで優位に立つ。

 後衛のクオリティは、今現在は断然に豊橋が上だ。

 自然と、中国ペアは追い込まれる場面が目立っている。

(もう一つの大きな理由は、中国の強化体制にある──)

 神藤コーチは、自らの教え子、王麗暁のことを思い出した。

 今でこそ世界ランク一位の座についているが、目を付けた頃は、そこまでの選手ではなかった。

 彼女の手解きによって、王は短い期間に、中国の一地方から中央まで上り詰める。

 それはもちろん彼女の才能と、努力の賜物であるが、中国の指導体制に神藤有千夏が打ち込んだ楔でもあった。

『才能は畑で取れる』──そんな冗談を飛ばすまでもなく、中国の選手層は厚い。

 儒教思想の韓国ほどではないが、同じ才能なら年長者、それも都市部の選手が優遇されるのは中国の国家体制としては否応のないところだ。

 とりわけ共産党本部のある北京に近い出身者の多い国家体育委員会のメンバーには、南部出身の若い選手を取り立てて重用する気もなかったが、日本国内で十連覇を果たした名選手の教え子となれば、無下に扱うこともできない。

 そして何よりも、王自身が結果を残す。

 ここ数年の中国は、若い選手を地方から掘り出すことにご執心だ。

 洪麗麗はそうした『若手抜擢』志向の最右翼と言っていい。

 十八才でバランスの取れている甲美雹は、既に卒業間近のユース大会だけでなく、フル代表の一員としても経験を積んでいる。

 二人の間で主導権を握るのは、甲の方になってしまう。

(組ませる相手が悪い、かな……)

 本来なら、甲美雹をシングルスで出したいというのが中国代表の本音だろう。

 彼女も、出来の悪い相棒をほったらかしにするような未熟な選手ではないし、『世界で通用する有望株』というのは決して過大評価ではない。

 しかし、補うことはどうしても必要だ。

 それが足枷になり、彼女は日本ペアの狙いに嵌まってしまう。

 五点目を連取される間に、彼女はそれまで決まっていたスマッシュを二本拾われ、二本アウトにした。

(まだ若い──今は『怖さ』だけを知ってしまった時期だ……)

 調子が良ければ、あるいは何かしらのきっかけで、突発的に大人さえ喰ってしまうのは、この年代の有望選手に共通する『ロマン』だ。

 コニーに対する荒垣もその途上にあったし、羽咲が王に勝ったのも同じ。

 もっともコニーは、プロとして活動するようになってしばらくして、そういった『幼児性』を徐々に排斥していく。

『当たり前のように勝ち、当たり前のように負ける』──ささやかにポイントを稼ぎ、少しずつランキングを上げていく。

 仕事としてその競技をする者、という意味でのプロフェッショナルとしては、至極まっとうな成長だ。

 そうでなければ、世界を転戦する体力が持たない。

 オリンピックなどの大舞台ならいざ知らず、スケジュール通りのグランプリツアーで、倒れるまで走ってしまったら、身体に取り返しのつかないダメージが残る。

 自分独りの人生を背負うのと、国を背負うのではまるで違う。

 中国ペアの二人に、十三億人の大国は重過ぎるようだ。

 11-2。

 インターバルまで走り切った豊橋と羽咲は、少し肩で息を切らせてコートを出る。

「──よし、まず息を整えろ。返事はしなくていい」

 急にペースを上げた羽咲を、後ろで支えるように志波姫が抱く。

 嫌がるしぐさも見せず、羽咲は渡されたボトルを呷った。

「作戦は順調に進行中だ。だが、インターバル後は対応してくるかもしれん。そうなれば二、三点やってもいいから、変化を見ろ」

 ふう、と息をつき、豊橋は頷いた。

 プロの試合ではトラブルでもない限り、これだけ一方的な展開になることはないが、ここまで前半で点差が開くと、そのセットは『捨て』に入る。

 だから体力を温存し、切り替えて最終セットに臨むために、指導者があえてカンフル剤を打たない場合もあるだろう。

(変化が無いなら無いで、取り切ってしまえばいい──が、コーチの考えを見るには、変化があった方がいい)

 成長するのは選手だけではない。

 倉石自身も、インターハイの団体戦で志波姫の視線を受け、反省したことがある。

『指示の出し方』だ。

 志波姫のようなことができるプレイヤーは国内には少ないだろうが、世界にはいるかもしれない。

 対戦している選手だけでなく、その指導者までも見透かすような。

 あの試合は最早、志波姫唯華と石澤望の一対一ではなかった。

 二人の実力差を埋めるのがコーチの仕事だったが、倉石は、ともすれば自分は望にとってマイナスですらあったのではないかと悔やんだ。

 荒垣戦とは全く意味合いの違う『マイナス』だ。

 神奈川予選を終えて話し合った二人の間に、ぎくしゃくしたものは当時既に無かったし、望は倉石の指示を受けて得た第二セットの初得点のあと、彼を振り返って喜ぶ。

『勝てる』という気持ちが出した隙だったかもしれないし、優位に立って逃げ切るという望のプランにおいては、出発点になるポイントだった。

 それを取れたにもかかわらず──。

(……うん、いかんな。今は忘れろ)

「落ち着いていけ。点差は大きい。相手は逆に、もうこのセットを捨ててくるかもしれないが、こちらのペースは崩すな。ラフにいかず、丁寧に、だ」

「はい──」

 アップに行った旭の代わりに、インターバル中に豊橋の世話をしているのは狼森だ。

 豊橋の返したボトルを受け取り、自らも水分を補給する。

 間接キスだが、あまり気にしないようだ。

「おっし、行こう綾乃ちゃん。私も甲美雹を動かしてみる」

「うん」

 後半の立ち上がりも、同様の展開が続く。

 徐々にネット前から剥がされる甲美雹は、無理に強打を打ちに行く場面が多くなってきた。

 当然コースは甘く、角度もつかない。

 翻って、羽咲の自由度は増した。

 豊橋がうまくお膳立てをしてくれているおかげで、自らは心もとない体力を摺り減らすことなく、狙いすましたタイミングで洪のドライブをカットできる。

 常に先手を取って動かせる日本ペアが、得点を連取していくのは道理だ。

 あるいは倉石の読み通り、このセットを『捨て』にかかっているのか。

 さしたる抵抗もなく、第二セットは日本ペアの手に落ちる。

 21-8と大きく開いた点差に、会場からはどよめきが上がった。

 しかし、現実的には0点に抑えたところで、このセットを取ってやっとイーブンだ。

 行く末が気になるところだが、荒垣も後ろ髪を引かれる思いでコートサイドを離れ、ウォーミングアップに向かう。

 その背中をちらりと見て、羽咲は天を仰いだ。

「……アンリちゃん、疲れてない?」

「んー……まだ行けるけど。綾乃ちゃんは?」

 フロアに視線を落として、羽咲はタオルで顔を拭く。

「私は万全だよ。どこかのタイミングで、前後ろ代わろうか」

「オッケー」

 いや、と倉石は制止した。

「中国ペアがフォーメーションを変えるなら別だが、こちらはひとまずそのままでいい」

 体力的に問題ないことを豊橋に念押しして、倉石は続ける。

「十点以上差が開いたのは、当然捨てにかかっていたからだが、甲美雹はともかく、洪は全く乗れていない。あいつのリズムをこちらから変えてやることはないからな」

「──わかった。じゃ、アンリちゃんもそれでいい?」

「うん」

 勝てるならそうしよう、と豊橋も頷いた。

 実際倉石は、別のことを考えている。

 それは豊橋の体力ではなく、彼女のボール回しが極めて良好だということだ。

 手塩にかけた教え子にも匹敵するほど、精度がいい。

 それ以上に、『インテンシティ』──集中力が高まっているのが見て取れる。

 

 

 

 豊橋アンリは、口の悪いバドミントン記者の間では、『いまひとつ持っていない』選手、という評判だった。

 愛知の名門・尾張渋川高校で一年生からインターハイに出場するなど、実力に疑問符をつけるものはいないが、三年春も惜しいところで『四強』扱いのAシードを久御山に攫われ、最後の夏も『死の山』に埋もれてしまうあたりは、まさしく『持っていない』と言っていい。

 羽咲綾乃というバグが存在しなかったら、という仮定の下でも、彼女が個人戦の二日目──すなわち、ベスト4以上にのし上がると予想した記者は少なかった。

 何故そうなったか、といえば彼女のプレイスタイルに原因がある。

 豊橋は相手選手を軽んじることは決してないが、過大評価をするわけでもない。

 コート上ではマイペースで、どんな相手に対しても自分の強みである『ラリー』に誘い込み、決着をつける。

 悪く言えば愚直だ。

 望や志波姫のような戦術に精通しているプレイヤーではないし、益子や狼森のようにここぞで豹変するタイプでもない。

 ギアが上がらないタイプ、というよりも、例えて言うなら『オートマ』だ。

 思い通りに自分のギアを上げられる、マニュアルシフトの選手に対しては、どうしても分が悪い。

 それでもエンジンの馬力はあるし、車体の性能もいいから、戦う『サーキット』を選べば勝てるのだろうし、実際にそうすることで彼女は一年生から輝かしい戦績を収めてきたのだが、それが結局『アスリートとして物足りない』という評価につながる。

 益子のように周囲に毒をまき散らしていれば良いというものでもないし、『豊橋アンリ』を一人の人間として尊敬する人々は数多いが、おそらく終着駅は『部活のバドミントン』だろう。

 しかし、今倉石の眼前にいる選手からは、そんなどことなく『和らいだ』雰囲気は消えつつある。

 世界大会というこの舞台で紛れもなく『成長』している。

 意図を持ったプレイ──倉石の指導の中核となるものだ。

 本人の資質にそぐわない『意図』を持っていた望に対しては、特に口酸っぱく教えた。

 四日間という短い合宿では、彼女を除いた八人の選手の『意図』を完全に読み解くことは難しい。

 しかし、豊橋アンリについては、倉石はそういった不安をほぼ消し去ることができていた。

 放つシャトルの一本一本に、確かな『意図』が見える。

(──このまま甲にプレッシャーをかけつつ、洪の出番を極力削る。それでいい……)

 彼女が生来持ち合わせている『マイペース』は完全にゲームを支配しつつあった。

「──綾乃ちゃん!」

「オーライ!」

 久しぶりにシャトルに触った洪だが、攻撃的なショットを打てず、戸惑いを含んだクリアーをコート奥へ。

 二人の前後が入れ替わり、羽咲が後衛に走った。

 前に引っ張り出された格好だが、セオリーならば身長のある豊橋が前、というのはノーマルな形だ。

 長い滞空時間の間に前に張り出す洪を、羽咲が長いロブで押し返す。

 第二セットを取り返され、最終セットも日本ペアに先行を許している中国ペアとしては、ここは攻めに出る場面だ。

 しかし、洪はまたも消極的なショットを打つ。

 中途半端な距離に上がったクリアーを、豊橋が飛び上がって叩き伏せる。

 カットスマッシュ。

 弓なりに落下していくシャトルは、飛び込んだ甲のラケットを掠めて転がった。

 9-6。

 微妙な点差だ、と倉石は唇をかんだ。

(このまま逃げ切るには乏しいリードだが、ワンミスでひっくり返る点差でもない……)

 本来『負けてもいい』ぐらいの計算で組ませた急増ペアだが、二人の波長は思った以上に合っている。

 ここを取れれば、次は盤石の旭・益子ペア。

 シングルス1の荒垣次第で、ストレートで勝ち越しを決められるだろう。

 

 

 

「なあんか、楽しそうにやってんな、神藤の奴……」

「いいじゃない、別に」

 何が不満か、と旭は益子に目を向けつつ、大きく開いた脚の間に上半身を沈める。

(あの試合の『次の日』のアンタも、楽しそうだったけどね……)

 益子と組んでいれば、それなりに大きな大会の経験も増える。

 さすがに海外の大会に出る経験はなかったが、それでも国内大会への招待選手などとの試合は何度もこなしてきた。

 世界大会とはいえ、さほど緊張もしていない。

 それは掛け値なしに益子のおかげだろう。

 彼女の隣に居続ける、ということは、『益子泪』に向けられるあらゆる視線を、多少なりとも同時に受けるということだからだ。

 突出してはいなくても、バドミントンの才能がそこそこある身体に産んでくれてよかったと、旭は両親に感謝する。

「アンタも楽しめば?」

「……べつに、今は楽しいよ。普通に」

「あっそ──なら、いいけどさ」

 世代の最先鋒を突っ走る役を降りてからというもの、益子泪はすっかり毒気が抜けてしまった──とは、旭も思っていない。

 相変わらず振る舞いは自分勝手なところが目立つし、常識や遠慮というものを知らない。

 それでも今、高校の部活としてのバドミントンが終わってみると、彼女と過ごした二年半の間に、自分もどこかで『益子泪は特別だ』と思ってしまっていたのかもしれない。

 突飛な行動も、よくよく考えてみれば、ちょっと幼いだけの高校三年生だったのだろう。

 少なくともバドミントンには、真剣に打ち込んでいた。

 納得のいかない日はあったにしても、しっかりと話をすれば、バドミントンのことなら答えてくれる。

「ああ──終わるな、これ」

「え?」

 旭は体を起こし、電光掲示板を見た。

 アップゾーンにいる彼女たちからは、コートサイドの得点板は見えないが、スコアはそれで確認できる。

「まだ14-10じゃん」

「いや、あの小さいほうがもう終わってる。あの、やたらうるせーピンクの相方と一緒だよ」

『やたらうるせーピンク』の方は、旭も名前を覚えている。

 芹ヶ谷薫子だ。

 苗字は、思い出すのに少し時間がかかった。

 一年生のわりには、よく考えてプレーしていたのを記憶しているが、華のある選手に食ってかかる益子の悪癖が出て、あえなく撃沈されてしまった。

「ああ……なんだっけ、あの子。シャチハタ……?」

「笹下な。お前人の名前覚えるの苦手な、ほんと」

 宮崎の大会の間に、旭から掛かってきた電話を、益子は思い出した。

──馬野山の名前もうろ覚えだったし、石澤の名前もコイツは知らなかった。

「私、泪ちゃん以外に興味ないからね」

「……そういうの、やめろ」

 照れる益子の表情を楽しんだ後、旭が再び電光掲示板を見上げると、スコアはそのまま二点ずつ平行移動していた。

 

 

 

(あと五点……『流れ』を渡さないまま、勝ち切る!)

 豊橋は力を込めて、ロングサービスを放つ。

 受け手は甲だ。

 洪と違い、まだ心の折れていない彼女は、何か糸口を捕まえようと、遠い距離から強打に打って出る。

 あまりにも単純だ。

 機敏に反応した羽咲は、あえて膨らんだヘアピンを洪の前に落とす。

 ぎこちない動きで返球する彼女に、羽咲は今度は強くドライブをぶつけた。

(──?)

 数巡の間、手持ち無沙汰になった豊橋は、羽咲の挙動に違和感を覚える。

 最初のヘアピンが少し長くなったのは、ミスなのか?

(……綾乃ちゃんがこの場面で雑にやるとは思えないし、ミスも多分ない。とすると……)

 洪を捕まえて離さないラリーは、わざとそうしているのだろうか。

 ひとまず任せようと思い、豊橋はあくまでも羽咲のカバーにだけ、位置を動かす。

 洪の精神状態を差し引いても、ネット前のクオリティで大きく上回っている羽咲が、優位のままに彼女を振り回している。

 助けに入った甲を押しとどめるように、コースの甘い洪のドライブを、大きくクリアー。

 よくバックハンドでこれだけのコントロールができるものだと、豊橋は感心した。

 長くなったラリーの最後は、羽咲が洪の足元にシャトルを沈めて、日本ペアがさらに一点リードを広げる。

 17-12。

 すかさず、豊橋は羽咲に駆け寄った。

「綾乃ちゃん? 今のラリー……」

「ああ──ちょっと、自分の調子を確かめたかったんだ。ゴメンね」

「ううん、いいよ。でも、ここは早く勝ち切ろう」

 豊橋の言葉に納得したのか、羽咲は頷いて踵を返す。

 背中を見送り、豊橋は改めてサービスの構えに入った。

(……やっぱ、緊張してたのかな? 調子は良かったと思うけど……)

 ロングサービス。

 うまくいっている流れで、パターンを変える必要はない。

 羽咲も自分の試運転を切り上げて、一気にネット前に張り出した。

 つい先ほど、彼女の『上手さ』を見せつけられた洪は、どうしても彼女を避ける打球を放ってしまう。

 そうなったときに展開される間合いの広いラリーは、豊橋の得意分野だ。

 甲の放つ強打も、羽咲は難なく拾ってしまう。

 こうなっては、中国ペアに攻め筋が見えない。

 21-13。

 小さなミスで一点を失ったものの、豊橋の狙い通りに終盤を走り切った日本が、まずは一勝を挙げた。

「よぉし! ナイスゲームだ、豊橋、羽咲!」

 ひときわ大きな声を上げ、倉石は二人を出迎える。

 実力的にはわからないが、この団体戦の戦略の上で、また決勝トーナメントを見据えた際、大金星と言っていい。

 歓喜の交換もそこそこに、仕事は終わったとばかりに羽咲はタオルを頭からかぶり、神藤コーチの待つアップゾーンへ向かった。

 豊橋はそのままベンチに腰を下ろし、倉石とささやかな反省会をする。

「本当によくやったぞ、二人とも」

「ありがとうございます──あの小さい子がミスミスで沈んでくれたのが大きかったですね」

「そうだな……」

 豊橋は、中国の監督の叱責に肩を落とす洪麗麗に目を向けた。

 彼女には辛い一日となっただろう。

 第一ゲームでもたついたのも、洪のミスが原因であるし、第二セット以降は消極的なプレーに終始してしまった。

 しっかり切り替えて挑まれたならば、あるいは第二セットももつれ合って、第三セットの正念場で、羽咲にガス欠が来ていたら……。

 今日の実りは少ないが、それでも、またどこかで戦うことがあるかもしれない。

 

 

 

「うしっ、行くぞ旭」

「はいよ」

 首を鳴らしながら、ダブルス2の二人が出ていく。

 入れ替わりに、益子とハイタッチした右手をさすりながら、羽咲がアップゾーンに戻ってきた。

「綾乃! お疲れ様」

「うん……お母さん、ストレッチとマッサージして」

「いいよ。どこか張ってる?」

「わかんない……なんとなく、動き悪くて……」

 羽咲が上げた両手を掴み、神藤コーチは背中越しに彼女を持ち上げて伸ばす。

「身体、固い?」

「うーん……」

 背中を向けたままの娘の肩に手を置き、神藤はそのまま彼女の肩を揉んだ。

 それから、身体を回転させて、羽咲の利き腕である左の手を両手で握り、揺り動かすようにストレッチ。

(特に、どこも張ってはないけど……)

「肩肘は? 痛みある?」

「どこも痛くないよ、でも──」

「?」

 あんまり、動けなかった……と、娘は呟いた。

(──ああ、そういうことか)

「綾乃。これはアンタが大きな試合に慣れてないからだよ、たぶん」

 ウォームアップだけで百パーセントの動きをするのは、案外難しい。

 特に試合前の催し事の多い国際大会ともなれば、序盤は身体を本調子にもっていきつつの探り合いが常套手段だ。

 実際そういった試合展開になりつつあったが、どちらかといえば点数をもぎ取るというよりも、譲り合うような序盤。

 今一つ『ノリ』の悪いまま、試合が終わってしまった──というところだろう。

「豊橋に頼るのはいいけど、試合展開に流されちゃダメ。もっと、自分を強く持たなきゃね」

「うん……」

「さ、応援してきな」

 まだ出番が当分先の荒垣は、二人の会話をぼんやりと眺めていた。

 前の試合が始まってもいない今から体を動かしていたら、本番では疲れて動けないだろうし、『瞑想』はいいが、寝るなよ──と釘を刺されてしまっては、やることもなく手持ち無沙汰だ。

「まだまだ子供だなぁ」

 どことなく嬉しそうに、神藤コーチは言った。

 

 

 

 

 ウォーミングアップの後、益子はコートにしゃがみ込み、靴ひもを結び直す。

 旭も、目線の高さを合わせようと膝を折った。

「──最初のインターバルまでぶっ飛ばすぞ。旭、ついて来いよ」

「え?」

「そこでケリを付ける。この試合はそれで終わりだ」

 得意の三白眼で中国ペアを睨み付け、益子は左手首を、旭の右手首と合わせる。

──皇国の荒廃、この一戦に有り。各員一層奮励努力せよ──。

「……わかった。サービスは?」

「全部ショートでいい。多少無理でも私が全部返す」

「オッケー、行こうか」

「おう──」

 益子は立ち上がり、主審からシャトルを受け取る。

 普段ならシャトルに乗せたまま投げ渡すところだが、彼女はそれを右手で、旭に渡した。

 

 

 

 

 母親に疑念を吐き出した羽咲が、少し憮然とした表情で豊橋の隣に座る。

 二人とも、試合中に上がった心拍数はすっかり落ち着いていた。

 豊橋の方は満点の充実感と、心地よい疲労感はあるが、この舞台で微睡むほど肝は据わっていない。

 何より、ずっと目標にしてきた益子のプレイを、こんなに近くでじっくりと見ることができるのだ。

 彼女よりずっと遠い場所で、同じようにコートに視線を送る二人がいる。

「……なんか、あっけなかったわな、最初の試合」

「でも、あんなものじゃないかな、多分」

 ペアを見捨てたわけではないだろうが、甲美雹の方も、最後は少し諦めたようなプレイが目立った。

 とはいえ、それは仕方のないところだろう。

 かつての荒垣のように、すべてのシャトルを遮二無二追いかけていては、勝てる試合も勝てなくなる。

 部活ならそれでもいいだろうが、これは世界大会だ。

 予選リーグは三日連続で続く。

 日本は明日ロシアと、中国はポルトガルとの対戦だ。

 かの二国の実力差は、ロシアや日本に比べても大きい。

 であれば、シングルスに回るにしろ、また洪麗麗とダブルスを組むにしろ、『自分たちの形』でしっかりと勝ち切ることが重要になる。

 そのために体力を温存するのは、長い目で見れば正解だ。

「松川さん、このペアは?」

「えっとね……」

 松川は手持ちのノートを開く。

 四方八方からかき集めた情報が、そこに収まっていた。

「──楊蘭羽と張暁姫、二人とも右利きのラリープレイヤー……ぐらいかな」

 首をひねり、困ったような笑みを浮かべて、松川はノートを閉じる。

 情報が少ないということは、要するに大した選手ではないのだろう。

 少なくとも、同世代で日本最強のペアに伍するほどの実力者ではないということだ。

「荒垣の相手は……?」

「ああ、そこはたぶん強い子が来るよ。張蒼華──あっちの、後衛の方の妹だね」

 松川がボールペンで指し示した先にいるのは、姉の方らしい。

「あとはシングルス2が劉知栞、最後が張緋」

 ただし、そこまでには勝敗が決着しているだろう、というのが彼女の見立てだ。

 倉石の隣に座ったままの志波姫も、代表ジャージを着込んだまま身動ぎ一つしていないし、荒垣は熱心にウォーミングアップをしているが、狼森の方はようやく軽い動的ストレッチを始めたところだ。

 それだけ、一試合目を勝ったのは大きいということだろう。

 日本の勝利への道程を補強するように、コート上では益子泪が躍動している。

 なかば独り舞台と言ってもいいほどに。

 

 

 

(甘いなぁ、おい……)

 四ポイントが既に計上されているこの試合で、まだ旭以外にサービスを打っている選手はいない。

 ショートサービスを受けて、レシーバーの楊は背の高い益子を避けるコースへの返球を選ぶ。

 ちょうど都合よく、益子のバックサイドだ。

 天才だか何だかわからない頃の、無気力で制御不能な彼女なら、手の届く範囲の浅いクリアーを、わざわざ見逃すなどしなかっただろう。

 しかし今は、後ろからリードを握り締めている飼い主がいる。

「任せて!」

「よ──」

 一旦右に掛けた体重を戻し、旭が突進するスペースを空ける。

 そこに文字通り『飛び込んで』来た相棒は、中国ペア前衛の張をぶち抜くスマッシュで、五ポイント目を挙げた。

 弾き飛ばされたシャトルを拾い、張は交換を要求する。

「やるじゃん」

「ありがと。縦、縦でしょ?」

「ああ」

 とかく高身長が話題になる益子泪だが、旭海莉もその点では劣っていない。

 矢本・雄勝のペアには平均身長で負けるものの、基本的に彼女たちは、強打で押し込む戦術で頂点に立っている。

 その上でセンスにものを言わせ、スピードで翻弄するのが益子なら、旭は精度と胆力で勝負するタイプだ。

 益子泪が『悪いモード』に入ったとき、その手綱を握って修正するのは旭の役割で、その任務をきちんとこなせる能力をつけるために、彼女は努力してきた。

 ただの『お膳立て』に終始するプレイヤーではない。

 張からシャトルを受け取り、サイドを変えた二人は、試合前に示し合わせたとおりの戦術を続行する。

 倉石も、この二人の試合ならば、安心して見ていられると思った。

(経験の差か……)

 本人に気づかれないように、倉石は少し離れたベンチに座る羽咲を見た。

 その隣の豊橋はともかく、羽咲も多少の空白期間はあれど、ジュニア世代から活躍していたプレイヤーだ。

 大きな大会の経験は、豊橋よりも多いはず。

 しかし益子泪は、やはりそれを上回る。

 中国という強敵を相手に、思いがけずに取れた一戦目のあと、血気に逸って二戦目に飛び込むのは、セオリーで行けば愚策だ。

 情報のない初物相手の試合なら、なおさら『様子を見る』という考えに至ってもおかしくない。

 インターハイで羽咲綾乃に相対した時、益子はその手を選んでいたし、周りが思うほど、益子は自分が『特別な才能』の持ち主だとは考えていなかった。

 それを誰かに知って欲しくて、旭にもずいぶんと迷惑をかけた。

 そう見せざるを得なかった事情はあるにせよ──。

 最初の数ポイントを見るか、一セットまるまる見るかだけの違いで、最初から無鉄砲に突っ込むほど、バドミントンプレイヤーとしては馬鹿ではないし、そもそもそれでは効率が悪く、勝ち上がることはできない。

 連戦の中で必要なことは、相手の実力を正確に見極め、最適な『出力』で打ち負かす能力だ。

 アクセルを踏みっぱなしでただ加速していくだけでは、視野が狭くなり、ガス欠も早くなる。

(ここぞでエンジンを吹かしていく『見極め』の能力。これは練習では決して会得することはできない……)

 自分はここまでのことをしてきた、という『自信』。

 周囲からの特別扱いも、望まぬ形ではあるがプラスの『経験』となっているだろう。

 その二つがあるから、気負いのない精神状態で、強豪相手の勝負に臨める。

『大舞台を経験する』とは、そういうことだ。

(それと、もう一つ……)

 アドレナリンが体中に行き渡り、全身が躍動するような感覚の中で、プレイヤーはしばしばその精度を落とす。

 荒垣に対してマッチポイントを握りながら、サイドアウトを喫した、コニーのように。

(超高速で、車はまっすぐ走らない──)

 利き腕、利き足などという単純な話にとどまらず、人間の体は非対称だ。

 ましてや、日々トレーニングを続けているアスリートの体は、驚くほどに左右のバランスが違う。

 正念場で各所の筋肉に残されたスタミナの不均衡も、アライメントの狂いを生み出す要因となるのだ。

 そこまで、自分自身をコントロールできるのは、神に選ばれた一握り──それこそ、オリンピックで金メダルを取るような選手のみ。

 

 

 

 無傷で十点を奪い、最後の一点を狙って、旭がサービスを打つ。

 ロシアとポルトガルの方は白熱しているようだが、こちら側半分の観客席は静まり返っていた。

 中国ペアに影も踏ませず、とばかりに、益子は返球を片っ端から打ち落としていく。

 数巡のラリーの後、張が果敢に前に出た。

(お──)

 益子の悪戯心が起動する。

 そんな雰囲気を背中から察知したか、旭は敢えて前衛の張に強いドライブをぶつけた。

 この間合いでは、コースを選ぶ余裕はない。

 それでも最悪の選択肢は回避しようと、張は益子とは反対のコートに、短い球を落とす。

「任せろ!」

 ボディへの仕返しに備えて、左足を引き懐を深く保っていた益子は、咄嗟に反時計回りに身体を翻し──完全にネットに背中を向けた状態から、落ちていくシャトルを叩き上げる。

 サイドステップからのバックハンドでは、面が作れずにストレート、張の眼前にしか返せないところだが、わざと遠回りして、追い付ける最大高度よりも十センチほど落ち込んだシャトルに合わせた面は、機敏な回転の角速度を得て、クロスへの返球を可能にした。

 虚を突かれた後衛の楊が、慌てて前に出る。

 上体を下げつつもなんとか追い付いた彼女は、シャトルの下にどうにかラケットを潜り込ませて打ち返した。

 だがそれは、回避したはずの、最悪の選択肢。

 二人とも前に出た状態では、彼女の強打に対応できないとみて、楊は細かいステップで重心を戻しつつ、バックステップを踏んだ。

 口角を上げた益子は、中国ペアの二人の位置をゆっくりと確認してから地面を蹴る。

「──らッ!」

 羽咲でさえ拾えなかった魔球が、楊蘭羽の前に落ちて、それでも回転を止めないシャトルは、ねずみ花火のようにコートを転がった。

 尻餅をついた楊には目もくれず、雄たけびを上げて益子がベンチに戻る。

 鳥肌の立った腕を、望はジャージの上から抑え込んだ。

 寒気がするような強さを見せつけられてはいるが、それでもコート上で益子が発した叫びは、彼女が情熱によって動く内燃機関であることを、如実に物語っている。

 気圧されたか、倉石の方は、手を叩く音は大きいものの、話す声は普通だ。

「……益子」

「ん?」

 ぼんやりと遠くを見ているような羽咲の代わりに、二人分動いている豊橋からドリンクを受け取り、益子は少し長い間、口に含んでから飲み下す。

「ありがとうな」

「──なにが?」

「いや、……まあ、なんだ。一気に決めてこい」

 ゲームに入り込んでいる選手に、これ以上の言葉は邪魔というものだろう。

 旭と益子、二人の世界にピンチが訪れるまで、自分に出番はないと、倉石は席に戻った。

 

 

 インターバルで、選手に『ありがとう』と声を掛けたことなど、倉石は今まで経験がなかった。

 その言葉は考えて出したものではなく、自然と口から出たものだが、次に彼女たちが戻ってくるまでには、その言葉が出た『根拠』を用意しておかなければならない。

 中国代表を相手にスコンクなどと言う夢を見てしまうほど、第一セット前半の益子泪は圧巻だった。

 破壊的と言ってもいい。

 もっとも、後半始まってすぐに、そんなバカげた夢は消え失せたが、それでもなお、益子は中国ペアを翻弄し続ける。

 圧倒的優勢にも緩むことなく猛攻を続ける益子を見守りつつ、倉石は頭の中を整理する。

 彼女がこの戦術──ポーカーで言えば席に着いた途端のオールインを選択した理由は、いくつか想像がつく。

 もっとも、益子泪を直接指導した期間はごくわずかだから、それは多分に倉石の誤解も含んでいるだろう。

 豊橋と、彼女が大好きな羽咲の金星に感化された、という単純な理由かもしれない。

 あるいはもっと狡猾で、膝に不安を抱える荒垣と年下の狼森のために、次に出てくる選手の心さえもへし折りに行っているのか。

 姉が目の前で良いように嬲り殺されたとなれば、荒垣と戦う妹の張蒼華にも、影響は出るに違いない。

 ただ、倉石が『高校のバドミントン部の指導者』として、この世代の頂点であった『益子泪』という存在に描いている夢の残り香からすれば、もっと違った見方が生まれる。

 様子を見る、という絶対安牌とも思える選択肢には脇目も振らず、ただ一つ『勝利』のみを求めて我武者羅に突っ走る。

 世代最強の選手がなりふり構わず勝ちに行く姿を見れば、後を受ける荒垣も、観客席にいる望や久御山でさえも意気に感じるだろう。

 経験の乏しさや、自らの調子に関わらず、そうした時にチームは、全体が一気に『アガる』──。

 もちろん、結果が伴えば、という条件付きだ。

『戦術』と言う言葉には、いくつかのスケールがある。

 たとえば石澤や豊橋は、ラリーにおける『戦術』にはそこそこ精通している。

 ゲームを勝ち切る、というサイズ感で行けば、志波姫が一枚も二枚も上手だろう。

 今の益子がやろうとしているのは、予選を突破し、トーナメントを勝ち上がり、頂点を奪うためのグランドデザイン。

 そのように、倉石には思えた。

(そこまで見ているのか……いや、これが『益子泪』のスケールか──)

 もう少し、そう言った心の機微について指導しておけば、昨年の夏に、インターハイの椅子を横浜翔栄に取られることはなかっただろうか。

 既にデカい木叢監督の顔を、これ以上デカくさせるわけにはいかないと、倉石は眼鏡を拭いて目を見張る。

 益子泪から──いや、自ら代表に選んだ選手全員から、学ぶことがある。

 



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13th game It’s Tricky

 力みのない、しなやかなストロークで放たれる強打は、面白いように中国ペアの陣形を崩していく。

 一瞬ダブルスの試合であることを忘れるほどだが、楊蘭羽と張暁姫の意識が益子一人に集中した瞬間に、旭が介入する。

 友軍の陽動を得てレーダーにも映らず侵入し、精密な『爆撃』を繰り返す様は、まさしくステルスファイター。

(──中国のユースで代表枠を勝ち取るプレイヤーが、視野が狭いはずはない。これは陽動でなく、本気の攻撃だ。だからこそ、決してパワータイプではない旭の強打が、決まっている)

 メンツを保てる最低限の得点を挙げつつも、完全に押し込まれた中国ペアは、その背中に焦燥感を漂わせて、自らのコーチのもとへ戻る。

 21-5。

 日本ペアの二人は、軽く手を合わせた後、お互いの行動を妨げないように少し距離を置いて倉石のもとに向かう。

 八面六臂の活躍を見せた代償に、短期的ではあるが大きく体力を消耗した益子は、少し目線を下げがちだ。

 倉石はしばらく逡巡したあと、彼女がドリンクボトルを口から離し、大きく息をついたタイミングで話しかける。

「……益子」

「大丈夫、次のセットは少し休むよ。旭、頼む」

「いいよ」

 これは、想定したとおりのゲームプランだと言わんばかりに、益子は倉石の干渉を遮るようにタオルを頭からかぶった。

 流石に走りすぎだ、と諫めようとしたが、倉石は思いとどまる。

 彼女ほどの選手が、肩で息を切って、心拍を落ち着かせようとしているのだ。

 何も言うべきではない、と彼は頷いて、旭に話しかける。

「難しい注文だが……益子を出来るだけ動かさず、前半を三点差までに抑えられるか?」

「──やってみます」

 旭は、素早く頭の中で計算を始める。

 第一セットは、相手の得手不得手などそもそも曝け出させる前に終わらせた。

 マラソンなのに、最初の十キロで全力を使ったようなものだ。

 その時点では断トツのトップに立てるのは、当たり前のこと。

(泪を動かさない、となると……)

 益子を前衛に張り付けておいて、自分が後ろで拾いまわる。

 それがベターな手段だろう。

 しかし、ダブルスにおいて後衛からエースショットを沈めるのは、ほぼ不可能と言っていい。

 ラリーが長くなれば、こちらより体力も残っており、挽回に躍起な中国ペアに有利だ。

 ひとまず呼吸を落ち着けた益子の後に続いて、旭はラケットの面を撫でながらコートに戻っていく。

(……流石に難易度が高すぎる。というより、折角掴んだ流れを手放せるか……?)

 セットカウントで行けば、ダブルス1の第二セットから三連続で奪っている。

 しかも、相手を十本そこそこに抑えての快勝だ。

 常識的に考えれば、ここで流れを切るリスクは踏みたくない。

 ましてや旭にとっては、長らくペアを組んでいる益子だ。

 ケツにムチを入れて、末脚を出させることは容易いだろう。

 倉石にとっては、益子自身が旭に『少し休む』と告げたことだけが頼りだ。

 旭がどこまで、相棒の名を呼ばずにゲームを進められるか──。

 

 

 

 

『サウスポーの方が少しガス欠気味だ』と見て、中国ペアは益子に攻撃を仕掛ける。

 彼女の返球はほとんどがロビングだ。

 倉石の課した『三点差』以上に差が開くと、そこで少しだけ本気を出し、旭と共にポイントを奪い返す。

 しかし、二正面攻撃でなければ、旭の強打も決まらなくなってしまう。

(……くそっ、思ったよりきつい。二人を同時に後ろに押し込むのは無理だ……)

 相棒の取り返したポイントを受けて、旭はサービスの構えに入る。

(──待てよ?)

 相手を後ろに行かせたいのだから、当然ロングサービスだろうと旭は思っていた。

 だが、それでは現状を打開できない。

 何とかノルマの三点差は保っているが、もう一つのオーダーである、『益子を動かさない』は達成できていない。

(ショートを打ってみるか……二人とも敢えて前に出させて──)

 レシーバーの張は、いつ動き出すかわからない益子を起こさないように、旭の頭上に大きくクリアーを返す。

 そのシャトルを追いながら、旭は益子に叫んだ。

「泪、センター!」

「──は?」

 意味は理解できないが、言われるままに益子はコートのセンターラインを跨ぐように位置を変える。

 彼女の長い腕をもってしても、ステップを踏まなければ全てのコースはカットできない。

 旭は相棒が指示通りに動いたことを確認して、彼女の頭スレスレを狙ってドライブを放った。

(──っ!?)

 風切り音に驚いたのか、益子はほんの少し姿勢を低くする。

 サウスポーが寝ている今がチャンスとばかりに、ネット前で平行陣を組んでいた中国ペアも、ちょうど真ん中に飛んできたシャトルに驚いたようだ。

 一瞬シャトルが視界から消えたせいで、ほんの少し差し込まれはしたが、フォアサイドで受けることのできた楊蘭羽が、シャトルを面で捉える──と、眼の前にはほとんど棒立ちの益子が居た。

 相方がゴルゴ13でなくてよかったと安堵しているらしい彼女のフォアサイドに流してしまえば、叩かれるのがオチだ。

 仕方なく、というよりも選択肢を潰された楊は、無理やりストレートに引っ掛ける。

 距離の足りないクリアーが、日本ペアのコートのほとんど真ん中に打ち上がった。

「泪、しゃがめ!」

「──はい!?」

 相方が凄腕スナイパーでないのはともかく、自分が望のように、割り箸を頭に挿してなくて良かったと、益子は白帯の下に頭を沈めながら思った。

 コンマ数秒前まで益子の後頭部があった位置を、不気味な唸り声をあげてシャトルがすっ飛んでいく。

 前掛かりに体重を乗せた旭のスマッシュに、楊のラケットを弾いて、シャトルがあさっての方向に飛ぶのを益子が確認したあと。

 頭を上げようとしたところで、彼女は相棒のフォロースルーが、かつての自らの後頭部が存在した位置をクリーンヒットしていることに気づいた。

「……お前、これ……」

「なんだっけ、これ。イタリアン──」

「オーストラリアン・フォーメーションな。普通やらねぇぞ、バドで」

 思いつきにしては上出来だけど、とボヤキながら、益子は無事だった頭を掻いた。

 スコアは6-8。

 ミッションはなんとか達成できそうだ、と旭は一息ついて、サービスを打つポジションに、反時計回りに小さく歩いて辿り着く。

 

 

 

 

(さて──と……)

 飛んだり跳ねたりはあまり得意分野でないことを、旭は自覚している。

 そういう派手なプレイは益子に任せておけばいいし、彼女の方が上手い。

 さっきのスマッシュは練習ぐらい甘い球だったから決まったようなものだ。

 少し長く時間を取ってから、旭は再びショートサービスを放つ。

 上手くいった作戦なら、続行だ──益子と決めた、ダブルスを組む上でのルールの一つ。

 他にも何か条か存在するが、最後の条文は、『ルールは破るためにある』──だ。

(アイ・フォーメーション……)

 倉石は、バドミントンといくつかの共通点を持つ競技にも、指導者としての素養を高めるために興味を持っている。

 彼女たちが見せた陣形は、同じくラケットを使うスポーツであるテニスで見られるものだ。

 本来は正統派のトップアンドバックが彼女たちのスタンダードで、二人とも身長がありテクニックに長けることから、その流動性が高いことが特長だ。

 二人が前に詰めた際の、ネット前の迫力は大きい。

(しかし、ダイアゴナルですらない直列陣形では、旭の飛び出しは無くなる……)

 利き腕が違うおかげで、守備範囲はさほど狭まってはいないが、この状態での日本ペアの攻め手は、旭が深いショットを打ち、そのリターンを益子がカットする、その一手しかない。

(それを避けるのは容易い。中国ペアは益子のフォアを避けてクロスに……そうか──)

 長いロブで返せば、旭は余裕をもって叩ける。

 精密にコースを定める時間的な猶予が生まれれば、絶対的なパワーがなくとも崩せるショットになる。

 つまりは、速い打球、即ちスマッシュを打つか、あるいは短い打球──ヘアピンを落とすしかない。

(スマッシュコースは三分の二を益子が切っている……旭の正面なら難なく拾えるだろうし、これは案外──)

 ダブルスにはあまり見られない、長い球足のラリーが続く。

 お互い様子見だが、甘くなった時の危険を感じているのは中国ペアだろう。

 前に張り付きっぱなしの楊蘭羽は、後衛の張暁姫がベースラインを往復するのを、ただ見送るだけだ。

 もっともそれは益子も同じで、時折思いついたようにステップフェイントを掛けるが、実質はただのウォーミングアップに近い。

 前半の攻撃に参加していた旭の方が、より体力の切れ目に近いことは、コート外の倉石にも見て取れる。

(益子にゴーを出すか? いや、ここは旭の粘りに賭ける……少なくともインターバルまでは──)

 張暁姫のコントロールが旭を大きく上回っているということはないが、彼女は旭よりもシャトルの打点を低くして、しっかりとバックスイングを取ってサイド気味の角度から打ち返している。

 対する旭は、セオリー通りのオーバーストロークだ。

 クロスにドライブを打てば、お互いの相棒が待ってましたとばかりにカットに入るだろう。

 スマッシュを打ったとしても、この位置からでは角度がつかない。

(攻め手がない、お互いに……根負けしてミスを犯すのを待っているのか? さすがに中国代表に対して、それは甘すぎる。旭は現実主義者だ。何か考えているはず──)

 

 

 

 

 何度となく繰り返されるロビングの交換のなかで、その『変化』に気付くには、倉石の目線は低すぎた。

 最初に気付いたのは、『観客席』の松川。

「……だんだん、高くなってる」

「え──?」

「前ごめんやっしゃ」

 ついさっき、デンマーク語で『トイレ』が何と言うかをスマートフォンで調べた後、少し席を外していた久御山が、手をポケットに突っ込んで戻ってくる。

 視界を遮る彼女の体を避けるように松川は身を捩り、ラリーがまだ続いていることを確かめた。

「ロブ、ですか?」

「うん──下で見てたら、気付かないと思うよ。一番最初のロブよりも、二メートルぐらい高い」

 そう言われてみれば、そんな気がしなくもないな……と眉間に皺を寄せて、上がっては落ちていくシャトルの動きを見ながら、望は考える。

 旭がだんだんとロブを高くしている、その意味を。

 セオリーで行けば、無暗に高いロブを上げる必要性は薄い。

 相手の前衛が飛んでも跳ねても触れない、ギリギリの高さを通過させるのが最善であるし、決して特殊なショットではない。

 望や久御山だって、事も無げにやってみせるだろう。

 特別左右に振り回されて、体勢が悪いわけでもないなら、猶更だ。

「……なんでですか?」

 分からないことは訊け、という倉石の教えを遵守する望に、松川は少し面食らった。

 自分も分からない、と言うのがひとつ。

 もうひとつは、アドバイザーだかコーチだかよくわからない微妙な立場に居つつも、彼女たち選手にとっては指針となるべき『大人』なのだから、何か言わなければという焦り。

「うーん……難しいね、これは。正直ハッキリとはわからないわ」

「『通天閣打法』やろ──」

 聞きなれない打法に、望は首を傾げる。

 思い当たった松川は苦笑した。

「アレかぁ……確かにこれだけラリーが続けば、シャトルはもうだいぶヤレてるけど……」

 古い野球漫画の中に出てきた、突飛な打法。

 内野に高くフライを打ち上げて、落下する間にベースを駆け巡る。

 強くスピンのかかった打球は、曲がりながら落ちてくる──。

「バドミントンのシャトルで、『回転』はそないにせんと思うけど……」

 確かに、と望も頷く。

 カットスマッシュを初めとした変化球を巧みに操る彼女でさえ、そんなことは出来やしない。

 そもそもバドミントンにおいて、シャトルにそれだけの回転を与えるということは、単純な打撃力をその分減衰させているということだ。

 そこまで高く打ち上げられるものではない。

 となると──。

「あっ」

 風に跳びかけた紙切れを、手で抑えつけるような音がして、ラリーは形を変える。

 先ほどまでのクリアーよりもほんの一瞬、旭は待った。

 カットスマッシュだ。

 コート中央に立つ益子は、対面の楊の視線の変化を見て、位置を旭の対角にずらす。

 呼応して、大きく開いた彼女のバックサイドをフォローするように、旭は立ち位置を一歩前へ。

 虚を突かれた中国ペアだが、ベースラインから放たれたカットスマッシュそのものは、見てからでも十分な猶予があるから、返球に苦労はしない。

 というよりもそのカットは、コースこそ厳しい角度に行っているが、『益子泪のペア』が打ったにしてはキレがなく、球足も中途半端に長い。

 一瞬の空白を挟んだことでほんのわずかに差し込まれてしまい、シャトルを下から押し上げるような格好になってしまったせいだろう。

 後衛から前に素早くステップしてきた張暁姫は、焦ることなく目の前の益子をやり過ごして、高いクリアーを上げる。

「なんやろ、今の──あっ、またロビングや」

「うーん……前に落とすカットにしては、球足が長いけど……」

(──敢えて、拾わせに行った?)

 

 

 

 シャトルの動きを目で追っているうちに、コートサイドの倉石も気づく。

 ついさっきの、キレの足りないカットスマッシュのあと。

 旭は渾身の力でシャトルを掬い上げた。

 観客席の三人が見上げるほどの高さに打ちあがって、シャトルは中国ペアのコートに落ちていく。

(体力的な、……ではないか。長いラリーとは言え、崩し合うというよりも、お互いの探り合いだし……)

 恐らくさっきの旭のショットは、ミスではないのだろう。

 遥か上空から相棒に向かっていくシャトルを見ていた楊蘭羽が、何かに気付く。

(折ったのか、羽根を──)

 腕の振りの速度が同じなら、衝撃を与える時間が短い方が、より強いショットを打てるのは物理的な事実だ。

 旭は敢えて、ラケットの面でシャトルを擦るように上から叩き伏せ、見た目にはミスショットとも思える、だらしのないカットスマッシュを放った。

 不揃いな羽根のせいで微かに落下点をずらしたシャトルを、『見過ぎて』しまった張暁姫は、スイートスポットを外す。

 深さの足りないロブに手を出そうとする益子を制して、旭が前に飛び込む。

 彼女のスマッシュに大きく陣形を崩された中国ペアは、長いラリーを呆気なく落としてしまった。

 足元のシャトルを拾い上げて、楊蘭羽は旭を睨みながら主審にシャトルを差し出す。

 してやったりと言った顔で小さく舌を出し、旭は相棒と拳を突き合せた。

「あと一点」

「わかってる」

 7-8。

(ウルトラCだ、こんな……いや、『部活動』の強みか?)

 相手ベンチに悟られないように、倉石はノートで口元を隠して笑う。

 シャトルは消耗品だ。

 しかし、自然の素材を使っていることもあって、その単価はバカにできないほど高い。

 行儀のいい選手ばかりならば、特待生をもう一人誘えるほどに。

 使い古されたシャトルでノック練習をするのは、普通の学校も、強豪校も同じだ。

 中国ペアの二人も、自分たちのホームではそうしていたのだろうが、国家の威信を掛けて臨む大会の前に、随分と長い合宿をこなして来ている。

 湯水のように金を使える練習環境だ。

 海外メディアの目もある中で、貧乏くさいところなど見せられるはずがない。

 日本にしても、A代表の使うトレーニングセンターの設備などは、部活の指導者でしかない倉石達からすれば垂涎の的だ。

(スリックタイヤでオフロードは走れない。精神論は好かないが、時には『泥を喰う』ことも必要だ──長い合宿の間に、牙が鈍ったか……)

 時に、恵まれない環境や逆境から花開いた才能に、人は心を動かされる。

 今年の冬も、武山達にはうんと厳しいトレーニングを課してやろう、と倉石は思った。

 

 

 

 

 

 一点差に迫った後、テンションを高めた中国ペアに二点を奪われて、スコアは再び三点差となった。

 次も連続失点すれば、そのままインターバルに入ってしまう。

 旭もあの手この手で中国ペアを翻弄しようとしてはいるものの、相棒の益子がまだ『整っていない』状態では、押し込まれるのは当然と言えた。

 倉石の出した課題である『三点差』は即ち、二点取られる間に五点を取れば追いつけるギャップ。

 大きな点差であることに疑いはないが、四点差になるとぐっと厳しくなる。

 相手にポイントを与えずに連続得点を決めればいい、というのは早計だ。

 現実的には、三点失う間に七点、または二点失う間に六点、といったところだろう。

(だが、そうなると煮詰まった場面でのタイスコアになってしまう。益子の回復を待っているとは言え、コートに入っている以上は万全に戻ることはないのだから、徐々に苦しくなるのはこちら側だ……)

 第二セットを奪われてしまえば、追いつかれて戦う第三セットは、精神的にも厳しい状態になる。

 益子がロケットダッシュを選択した時点で、そのリスクは当然見えていた。

(なんてことだ──一番冷静でいるべき監督の俺が、焦ってしまっていた……か)

 最低限第一セットのインターバルで、益子にブレーキを掛けておけば──。

 彼女の勢いに呑まれ、中国ペアは後半早々から第一セットの『捨て』を決めていた節がある。

 最後の方でいくつかポイントを奪ったのは、あるいはこのセットのために『試運転』でもしていたのだろうか。

 もちろん倉石とて、そういったリスクを理解してはいた。

 思いがけず得られた一戦目の勝利に、欲が出てしまったのか。

(『チームを乗せる』──益子本人がそう言ったわけではないが、序盤の試合運びはそうした意志の表れだろう)

 要するに彼女は、上手くいった場合のリターンの裏にあるリスクを軽んじていた。

 そこをしっかりと意識させ、フォローしていくのが自分の仕事だったのに、と倉石は心中を掻き毟る。

(……益子の回復に賭けるしかない)

 指導者としての不覚はひとまず秘めて、倉石はコート上で展開されるラリーを見つめた。

 旭は相変わらず、守勢に回っている。

 簡単にポイントを落とさないのは、彼女が持つ繊細なシャトルコントロールが存分にできているからで、つまりそれは、彼女の疲労度はまだ危険水域には達していないということだ。

 

 

 

(厳しい──頭が回ってない……)

 シャトルを変形させるという場外戦術で中国ペアの背中を掴んだが、結局やり返されて三点差に戻ってしまった。

 中国ペアがテンションを上げたのも事実だろうが、一点差に縮めて、あわよくば……と、旭は少し心が浮ついたことを悔やんだ。

 ネットに張り付かず、タイミングを伺っている楊蘭羽をちらりと見て、旭は彼女をコート隅に追いやるようなクリアーを上げる。

 ペアの張暁姫の方も慎重になっているらしく、ラリーの形が変わるのは楊蘭羽が前に詰めた瞬間だけ、といった様相だ。

(泪を使って──いや、ダメだ。ここは頼らずに打開する)

 相変わらず動きのない益子だが、シャトルに対しての反応はしていた。

 楊蘭羽の動きにも、重心を少しずらすことで、『かかって来るなら、相手になるぞ』とプレッシャーを掛けている。

 一セット分を全力で走り切ることが、その後にどれほど影響するのか、旭にはわからなかった。

 そんなことはしないからだ、普通。

 ダブルスならなおさらで、恐らく益子も、瞬間的とはいえこんなに重いバテが来るとは思っていなかったのかもしれない。

 それはともかく、と旭はシャトルを高く打ち上げて、思考をいったん切る。

 後衛の張暁姫が落下点に入り、高い打点からのスマッシュ。

 コースは厳しくないし、ベースラインからではたとえジャンピングスマッシュでも、大した角度はついていなかった。

 コートミドルへ足を進めながら、旭はバックスイングを整える。

 サイドアームで拾ったシャトルを、楊蘭羽の頭上へ──。

(ラウンドなら、強打はクロスにしか来ない……!)

 旭は意を決して、益子と並ぶほど前に張った。

 パートナーの気配を感じて、益子は右足から体を引き、二歩分後ろへ下がる。

 強打を受けるための準備だ。

 それぐらいはしてくれるようだと安心して、旭は楊蘭羽のスイングを観察する。

(上げろ──泪のフォア奥へ)

 果たして、シャトルは旭の思い描いた軌道で戻ってきた。

 後ろがかりの重心移動に任せて、下がって受けようとする益子。

「オーライ!」

 ひときわ大きく響いた旭の声に、益子は左足の外側に全体重を乗せて身体を止める。

(……ってお前、バックしか無理じゃん!?)

 頭上を通過していくシャトルの先、旭が落下点に駆け込むのを見て、益子は反対側のコートを埋めようと、左足踵でコートを蹴り、低い脚運びで素早くサイドチェンジ。

 すんでのところで衝突を回避した益子に安堵しつつ、旭はネットに背を向けて飛び上がり、思い切り身体を捻る。

 フォアサイドに回り込む余裕は、なかった。

 空中で向きを変え、右足を大きく後ろに振り上げて、旭はバランスを取る。

「──はッ!」

 なんとかラケットの表で捉えることは出来るが、どうしてもコルクの先端を『切る』形になってしまう。

 しかし、それでよかった。

 ラウンドから放たれたカットスマッシュは、先ほどとは違い、大きな下向きの加速度を得て張暁姫の前に落ちていく。

(打開した──!)

 倉石は、思わず膝を打つ。

(ストレートならまだしも、掛け違いの雁行陣からのクロスロブを後衛が追いかけるなんてセオリーはない。読み合いで優位に立ってからの、イニシアチブを保った仕掛け……これは決まる)

 牛耳っているのは益子泪だけではなく、このゲームそのものだと言わんばかりの大立ち回り。

 高い打球の応酬──シングルスならいつでもカットから崩しにかかることは出来る。

(一対二であることを逆に利用したか……中国ペアの油断もある)

 もっと強引に攻め込む手もあった。

 益子が睨みを利かせているとは言え、シャトルに触っていたのはほとんど旭ひとりだ。

 彼女を走らせて磨り潰せば、もっと点差を開いてインターバルに入ることも出来ただろう。

 しかし、中国ペアの二人にとって、『抑止力としての益子泪』は、そんな安易な思考を許さないほど強力だったということだ。

 張暁姫はもとより、前衛でやりあった楊蘭羽のほうがとりわけ、より第一セットの幻影に蝕まれている。

(益子が再起動してしまえば、勝ち目は無くなる──そんな焦りを打ち消してしまうほど、警戒していたということだろう……ならば意味はあった。確実に──)

 ほどなくして、任務完了の知らせが届く。

 8-10。

(これで落としても三点差。旭はよくやった、本当に……)

 益子泪の『パートナー』だから、只者ではないのだろう。

 倉石は特に根拠もなくそう考えていたが、それは今確信に変わった。

 しかし、彼が本当に驚いたのはこの後だ。

 サーブ権を受けた益子は、思い切り高く打ち上げる。

 楊蘭羽が何かに気付き、シャトルを追うステップを緩めた。

 アウトだ──明らかにシャトルはベースラインを超えている。

 観客席で見ていた望もすぐに気づき、下唇を噛んだ。

(な──)

 ふん、と鼻を鳴らして、益子はふてぶてしくベンチに戻って来る。

 旭も何も言わず、豊橋からタオルを受け取り、乱暴に顔を擦った後、前髪を指で掻き上げた。

「……益子、ドンマイだ。切り替えろ──」

「その必要はないよ。最後のポイントは『譲った』んだ」

 前のセットのインターバルとは違い、すっかり落ち着いた心拍数で、余裕をもってドリンクを飲み干す彼女を見て、倉石は引きつった笑顔を浮かべる。

「譲った、だと? 何故だ?」

「あいつらに気持ちよくやらせないためだよ、後半も」

 前半を勝って終えた、逃げ切った──そういう気持ちにさせたくない。

 ボトルのストローを噛みながら、益子は中国ペアを見ている。

 向こうのコーチは、一戦目の時と同じように、口酸っぱく何かを指示している。

(それは、わかる。頭では……だが、そこまで徹底できるものか……?)

『譲る』ということは、自分の内部から出ていく、自分自身が主体となってコントロールする心の動きだ。

 それによって、こちらが乱されることはない。

 事実としてポイントを奪われてインターバルに入ったわけだが、スコアは要求通りの三点差に収まっているし、充電を終えた益子は、後半を一気に走り切る用意も整っているのだろう。

「さて、と──旭は行ける?」

「まあ……長くても足止めたラリーが多かったし、多分最後まで走れるよ」

「じゃあ、レシーブ一発目から突っ込むぞ」

──さっきの点はお前らにやったんだ。すぐに取り返してやる。

 そう言わんばかりに益子は背筋をぐっと伸ばし、胸を張ってコートを見据える。

 時間にはまだ余裕があるが、倉石は、何も言うことはないと二人を送り出す。

 中国のコーチは楊蘭羽と張暁姫に対して、大きな手ぶりで話を続けていた。

 倉石の次の仕事は、荒垣の状態を見逃さず、最小の労力で勝てる策を授けることだ。

 今でこそ多少『小賢しい』バドミントンができるようにはなったが、それでも世界のレベルではまだまだ、荒垣に細かいプレイは無理だ。

 精度が悪いなりに組み立てをなぞることは出来ても、その本質は理解できないだろう。

 それでは折角の戦術も効かなくなる。

(……ならば、ペースだけはこちらでコントロールしつつ、好きにやらせてみるか)

 アップゾーンから顔を覗かせた荒垣を見とめて、倉石は親指を立ててみせた。

 同じように彼女が返したサムアップに、倉石は笑顔を作る。

(──お前は、石澤じゃないからな……)

 

 

 

 

 張暁姫のサービスをリターンし、速攻で押し込んであっさりと、『譲った』ポイントを取り返した後。

 今度は細かいネット前での探り合いから、益子がテクニックで楊蘭羽のミスショットを誘い、一点差に迫る。

 その二ポイントだけ見れば、倉石にはもう十分だった。

 再起動が完了した益子は引き続き躍動し、あっさりと三点差を跳ね返してなお緩まない。

 四連続ポイントの締めは伝家の宝刀クロスファイア。

 羽咲ばりの『速い』球足で張暁姫のリターンを浮かせ、今度は足元に急角度のカットを落とす。

(よし。この試合は、このまま勝てる……)

 倉石は少しだけ頭脳の回転を緩めて、ウォーミングアップの最終チェックを終えた荒垣を呼ぶ。

「なに、倉石さん」

 一戦目の頃は、まだ表情にも少し緩んだところが見られたが、いよいよ自分の出番が近づいて、声色も硬い。

「いや……」

 自由にやれ、と倉石は言うつもりだったが、それだけではかえって思考が凝り固まってしまうだろうと、彼女の心中を案じる。

「相手の情報とか、わかる?」

「ん、まあ──な」

 倉石は神藤コーチに目で合図する。

 彼女は赤色のファイルを開き、閉じられた中から荒垣の相手、張蒼華のページを見つけた。

「張蒼華、17歳。今やってる暁姫の妹だね」

「ふうん……どんなタイプ?」

 神藤は答えを見つけかねているようだ。

 数多の選手を見てきた彼女だが、荒垣と対戦したことがある、または想像できるような選手はパッと思いつかない。

 倉石が助け舟を出す。

「そうだな……神奈川で言うなら、芹ヶ谷とか……泉も近いかな。ある程度の身長があって、相手の裏をかこうとするタイプだ」

「うーん、そっか……」

 公式戦で泉と対戦したことはないが、北小町での現役生活の中で、彼女がどうにかして荒垣に勝とうと、色々な手を繰り出してきた日々は、荒垣の記憶にも鮮明に残っている。

 時折、向こう側のアップゾーンから顔を見せる張蒼華をよくよく見れば、確かにどことなく泉と風体は似ていた。

 眼鏡はかけていないし、髪の長さも違うが、どことなく、ユニフォームの着こなしや振舞いが──。

「まあ、細かいことは言わんさ。自分で決めようともしなくていい。高いレベルでまとまっていて、良いプレイヤーだとは思うが、今のお前の力を出せば、普通に勝てる相手だぞ」

 デンマークに来る前、倉石や神藤コーチは、中国代表は『強い順』にオーダーを組んでくる、と読んでいた。

 しかし、ダブルスの二試合を見ている限りでは、どうも逆のようだ。

 弱いとは言わないが、経験の少ない選手の順に出しているように思える。

 一戦目の洪麗麗はまさにそれであるし、姉妹でダブルスを組む方が何かと都合が良いはずなのに、敢えてそうせず楊蘭羽を張姉妹の姉と組ませているのは、ある程度妹の方は計算が立つ選手、ということだろう。

(当然と言えば当然だ。中国にしてみれば、この四か国の中で二位以内に入ることは容易い。であれば、単純に最初の試合で経験を積ませておくために、セオリーとは逆のオーダーにしただけのこと……)

 もっとも、それはある意味で倉石達にも当てはまる思考だ。

 経験を積む、という命題は同じで、そのアプローチが違うだけのこと。

 もし、ダブルスの順番が逆ならば、益子と旭ははるかに簡単に勝利をものにしていただろうし、羽咲と豊橋は、あるいは破れて星取りをタイに戻されてからの主砲荒垣の出番、ということになっていたかもしれない。

 中国と日本の『格付け』が決まったわけではなく、ただ単にマッチアップの掛け違いの結果だ。

 そういう目線で、改めてクライマックスを迎えているコート上に目を戻すと、なるほど今一つ楊蘭羽が積極的に行けないのも納得がいく。

 フリースタイルなプレイヤーの益子に対して、彼女の持つ経験値ではまだ、抗っていくことが出来ないのだろう。

 試合を通じて、受動的なプレイが目に付く。

 ダブルスの経験が浅いのかもしれない。

(中国のオーダーの『歪み』を突いての二連勝……おそらくそうなるが、三戦目はどうだろうか?)

 ダブルスをふたつ落としても、シングルスの三試合をスイープしてしまえばいい、という自信があるのかもしれないが、こちらも志波姫唯華が最後に控えている。

(野球に例えれば、志波姫はチームを背負う大黒柱、まさにエースだ。益子は試合を決める『四番』だと思っていたが……)

 どちらかと言えばクラッチヒッターだと、倉石は認識を改める。

 自分で『長打』を打つことも出来れば繋ぎも出来る。

 風格やプレイスタイルからすれば、荒垣の方が『四番』らしいだろう。

 彼女に試合を決めてもらうために益子は、あえて最短距離ではない道筋で、勝利を目指した。

(──『勝ちたかった』んだろうな……益子泪とて人の子だ)

 矢板監督率いる宇都宮学院は、この夏のインターハイ、団体戦には出場できなかった。

 益子にとって必ずしも、行きたかった学校ではなかったかもしれないが、それでも旭海莉という理解者を得て、色々と雑音を耳にしながらも戦った三年間だ。

 愛着が全くないわけでもないし、彼女へ向けられる視線の余波を受ける周囲への気持ちも、決してゼロではなかった。

(……ある意味、誰よりもこの日本代表で、『勝ちたい』気持ちが強いのだろう)

 追いすがる中国ペアに付け入るスキを与えまいと、果敢にフロアに体を打ち付ける彼女を見れば、どこか斜に構えた、又聞きの『益子泪』など、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 伸びやかにラケットを振り切ってシャトルをコートに沈め、白い歯を見せてガッツポーズで旭を振り返る。

 その笑顔が誰かの作り物ではない『本物』だから、観衆は心を動かされる。

 二階席で見ている望も、遠くに思っていた彼女との距離が、少し縮まったように感じていた。

(……同じだ、私たちみんな)

 何のためにバドミントンをやるのか。

 それを得た彼女は、気負いなく、緩みなく、表情豊かに振舞う。

『益子世代』の一員に名を連ねていることを、望は誇りに思った。

 

 



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14th game Hands in the Air

 伝説の第二章の始まりを告げる、ゲームセットのコール。

 最後まで走り切った益子に肩を貸して、旭が戻って来る。

「よくやった、二人とも」

 月並みな言葉では物足りないが、今は彼女たちをいかにうまく称賛できるかを考えるよりも、『次』に意識を向けるのが重要だ。

 勝利を掴み取って戻ってきた二人が、何よりも必要としているのは『チームの勝利』だからだ。

 彼女たちの奮戦に応えるためには、次の試合を取って勝ち切ることが唯一にして最高の結果。

 それが自分の責務だと、倉石は労いもそこそこに、荒垣に声をかける。

「さっき言った通りだ。細かいことは考えなくていい、大きなデザインで行け」

「了解──」

 目を閉じて、細く長く呼吸をしてから、荒垣はコートに向かう。

 膝にはサポーター。

 立花も不安を顔に出さまいとしているが、内心は穏やかではないだろう。

 張蒼華が倉石の戦術ノートを読んでいるはずもないが、ウェイトの大きな選手に対しては、シャトルを散らして走らせ体力を奪い、コンセントレーションを低下させる──というのは常套手段だ。

 中国代表に席を貰っている選手ならば、何も指示されなくともそうするだろう。

 スマッシュもそうそう打たせては貰えない。

 見た目に『わかりやすい』選手である荒垣は、常に相手に手の内を晒した状態で戦わなければならないようなもの。

 もちろんその分、虚を突いたプレーはより鮮やかに決まるだろうし、そういう『意外性』をきちんと制御して行けば、荒垣なぎさは、もう一段上のステージに上がれる。

 そのために、膝に不安を抱えつつも、この日本代表に呼んだのだ。

 しかし、だからこそ倉石は、敢えて一歩引く。

 選手をしっかりと見ろと、教え子にその行動と、彼女たち──石澤望も、荒垣なぎさも──が残した結果に教えられた。

「──立花君」

「はい?」

「君が見てくれ、荒垣は」

「……わかりました」

 選手を一番よく知っている人間がコーチングするのが、最も効率が良い。

 そんな常識論を持ち出すまでもなく、『ここは立花君の出番だ』といったふうに、倉石はいったん席を外す。

 向かう先は、試合を終えたばかりの二人が休むアップゾーン。

 先ほどやりそこねた祝福と労いを、しっかりとこなすためだが、志波姫と、狼森の状態も気になる。

「お疲れさん、二人とも」

 彼女たちの性格からして、握手よりもハイタッチの方がいいだろうと倉石は考えたが、益子は彼の手をぐっと握りしめる。

 望なら事案になるところだ。

「お、おい──」

「ありがとう。……ごめんな、監督。勝手して」

「いやなに、『勝手』じゃないさ、何も──」

 すべてチームのためだったんだろう、と倉石は理解している。

 ただ、それを殊更に言うのは、今はまだ早い。

 荒垣の試合がどうなるかは、やってみなければわからない。

「旭も、よくやってくれた。難しい注文をしたな」

「ホントですよ……勝てたから良かったですけど……」

 どちらかと言えば旭の方は、勝利への喜びを、疲労が多少上回っているようだ。

 実力不透明とは言え中国代表を相手に、一時はほとんど一人で戦っていたのだから、無理もない。

 益子が離した手を、彼女と叩き合わせる。

「勝たなきゃ、何のためにやってるかわかんねーだろ」

 旭の短いため息に得意げな笑みを浮かべて、益子はフロアに腰を下ろした。

 しきりに足首をくねらせて、筋肉を解そうとしている彼女を見て、倉石はクールダウンをしっかりさせようと思った。

 明日も試合は続く。

「マッサージがいるだろう、神藤コーチを呼んでくる──」

 そう言って踵を返す倉石を、益子は制した。

「いいよ、旭がやってくれる。上手いから、コイツ」

 

 

 

 

 荒垣と張蒼華の試合は、重い展開のまま最初のインターバルを迎える。

 二人の選手のうちどちらかが抜け出すということもなく、また一戦目のようにミスの目立つ試合でもないが、とにかく、前半を勝って終えたのは張蒼華の方だった。

「……荒垣」

「大丈夫、問題ないよ」

 強打で崩してお膳立てをし、盤石の体勢から相手の読みを見切って、荒垣はスマッシュを打っている。

 また張蒼華も、前評判に違わぬハイレベルなプレイヤーであり、きちんと強打を受け切って荒垣を追い込む場面も見られた。

 お互い持ち味を出した結果が、今のところは一点差で張蒼華のリードとなっている。

 もっとも、10-9に追い上げたまではいいが、最後のポイントは左右に振り回されてからの、前へのカットを上げきれずネットに掛けた失点だ。

 インターバルに入る、その形は悪い。

(逗子総合の石澤がやりたかった戦術だ、これは……)

 立花は記憶を辿る。

 あの時は、彼女の才能の片鱗を感じつつも、荒垣が最後まで押し切って勝利した。

 三セット目に、望の方が少し息切れしてしまったというのもあるだろう。

 序盤、主導権を握られて攻め手のないままに迎えたインターバル。

 彼は荒垣に教えた。

 一つか二つ前のラリーを工夫すれば、その後の結果が変わる。

 つまりは、望にカットスマッシュを打たせなければいい。

 その方法は自分で考えろ──。

(強打……は実際に拾われている。スマッシュが決まっているのは重心の逆を突いた時だけだ)

 立花と荒垣の思考は、ほとんど重なっている。

 高身長に胡坐をかかず、努力を怠らなかった結果、金メダルさえ夢物語ではないと思わせるほど、世代では群を抜いていた。

 突如として襲った膝の故障により、ほとんど隠居状態で北小町のコーチを引き受けた立花だが、教え子に同じ轍を踏ませるつもりは毛頭ない。

 ただ、二人は男女の違いこそあれ、同じタイプのプレイヤーだ。

「神藤コーチ、何か──」

「フムン……あんた、カットスマッシュは打てるよね?」

「え? まあ、多分……」

 日本代表にしては頼りない返事に苦笑しつつ、神藤コーチは話を続ける。

「今まで一本もウォッチはないだろう? それはもちろん、相手の張蒼華がしっかりインコートで返球してるからだけど──」

 ウォッチ、即ちアウトになるボールを見送る行為は、今までどちらの選手もしていない。

 コニーとの試合で荒垣は、自らの大きな弱点の一つであった『選球眼』をわずかながら克服した。

 それはリスクを背負っての、ある意味『勝負』に勝ったわけだが、本来の選球眼とは、一時的に精度が高まるようなものでは、当然ない。

 常に意識をし続けて、無意識にインかアウトかを、打ち返せるタイミングのうちに判断する必要がある。

 ああいったプレッシャーのかかる場面で『シャトルを見送った』経験は荒垣にはまだ少ないし、彼女の場合はそもそも、全てのシャトルを追いかけまわすスタイルになってしまったきっかけに、弱点を作ってしまった原因がある。

 それを、今直せというのは不可能だ。

「怪しい球は見る? でも……」

「いや、全部いっていい。ただし、『怪しい』と思ったら一拍待ってカットを打つんだ。アウトボールを無理やりフルスイングするのはリスクがあるし……」

 それは、荒垣にもわかる。

 膝や肩が痛くなったり重くなるのは日常茶飯事だし、羽咲との試合では、彼女の仕掛けた『なぎさちゃん封じ』にハマって背中を痛めた。

 もっと幼いころから選球眼を醸成しておけば、団体戦前という最悪のタイミングで膝が限界を迎えることもなかっただろうが、それはもう、終わった話だ。

「『怪しい』と言う判断をした上でアプローチを変える。それを相手に気付かせる。中国代表相手に、あんたの駆け引きは、実体がなきゃ勝負にならないよ──今は、まだね」

「……わかった」

「ホントかい?」

「なんとなく」

 帽子の鍔を揺らせて高笑いをし、神藤コーチは荒垣を送り出す。

 

 

 

「あいつ、大丈夫かよ……」

「へぇ、泪も人の心配するようになったんだ。お姉さん嬉しいわ」

「うっせぇ、バーカ」

 試合の熱は引いたが、二人は身体を冷やさないようにジャージを着込んでいる。

 しかし、益子の顔が赤いのは、それだけが原因ではないだろう。

 狼森は志波姫が世話をしているし、ベンチワークは豊橋に任せておけばいい。

 電光掲示板と、ディスプレイで試合を確認しつつ、時折カメラが映さない時間帯に、荒垣の表情を見に行くぐらいしか、今の二人には仕事がなかった。 「──なんとかするでしょ、荒垣なら。あのスマッシュがあったら、普通は負けないよ」

 暇そうな二人にちょっかいを出そうと、志波姫が割り込んでくる。

 お前の『普通』を普通にするな、と旭は言いたかったが、それよりも先にパートナーの方が反論した。

 ディスプレイから視線を外し、益子は思い切り首を後ろにそらして、彼女に顔を向ける。

「やけに肩持つじゃねーかよ、唯華のくせに」

「そう? 私は全員の肩を平等に持ってるつもりだけど」

 さかさまの視界の中で、志波姫がにやりと笑う。

「ほーん」

 益子が生返事でやり過ごす間に、スコアはイーブンに戻る。

「やっぱエグいわ、あのスマッシュ。お前受けれる?」

「無理。でも、打たさないようにはしたい」

 ドリンクのボトルを握ったまま、旭は手を振った。

 首の角度を直した益子も頷く。

「そうだよなあ……なんで、あんなに打たせてるんだ」

 取り返せる自信があるからよ、と志波姫は益子の隣に座る。

「逆突かれた時以外はちゃんと返してる。あっちの中国の子だって、国の代表なんだし、レベルは高いはずだよ。現に荒垣は、ネット前全然勝ててないでしょ?」

 ネット前で勝てない、という事態に今一つ理解が乏しいような顔で、益子は唸る。

 旭は別にしても、彼女や、横でストレッチをしている狼森には、ネット前で相手にやられた記憶はほとんどない。

「ホントはもっと距離を保ってラリーをしたいけど、そうすると走らされる距離が長くなるからね」

 苦手意識が消えたわけではないネット前に、荒垣はたまに敢えて飛び込んでいる。

 結局不利を被ってポイントを落としているのだから、それはあまり意味のないように益子には思えた。

「そんなもん、振らせなきゃいいだけじゃねーか」

「アンタならそりゃ、そうできるだろうけど……荒垣は小手先の技術はまだまだだし、『勝負』するしか手がないからね」

「やけにディスるじゃねーかよ、唯華のくせに」

「見てんの、ちゃんと全員。アンタと違ってね」

「はー」

 もちろん、志波姫には荒垣を殊更『ディスる』意図はなく、ただ自分の分析結果を披露しているだけのことだ。

 益子ならば、強烈なドライブをコースに差し込んで行ける。

 志波姫なら相手を前に釣り出して、後ろへ追い返す。そうした戦術で上回ることが出来るから、相手の意図など具現化させないだろう。

 そもそも、相手が用意した『勝負』の舞台に乗らずに勝ちを収めることが出来る。

 先程の試合にしても、益子は初っ端から独走態勢を築くことで、中国ペアが戦術を試す間もないままに、ゲームのペースを自らの手に引き込んだ。

「お──」

 荒垣がポイントを連取して、電光掲示板の数字がカウントアップする。

 12-11、これで逆転だ。

「……スマッシュ打ってるだけじゃねーか」

「アンタ、北の偉い人に『核ミサイル撃ってるだけじゃねーか』って言える?」

 突拍子もない志波姫のたとえ話に、旭も思わず噴き出す。

 益子はと言えば、どこかで見たニュースの記憶を手繰りながら、反論を試みる。

「あんなの、どうせ中身入ってないんだろ? パカパカ撃ってるけど」

「そうだよ。──『抑止力』、だから。今の荒垣は違うでしょ? 実際それでポイントを取ってる」

 小難しい言葉にはついていけないと、益子はタオルの上から髪を掻く。

 旭には少しだけ、思い当たる節があった。

 あの、宮崎での試合。

 石澤望のカットスマッシュを見てから、一歩目を出せなくなった豊橋アンリの後ろ姿が、脳裏に浮かぶ。

 強烈なエースショットは、対戦相手にはっきりと残像が残る。

 打たれればポイントを失うのだから、無警戒で突っ込むことなど出来ない。

 かと言って警戒し過ぎれば、豊橋のように勝負どころで自分のストロングポイントを出せなくなってしまう。 

「……本当は、打たない方がいいってこと?」

 どんな競技も、ある部分ではメンタルスポーツだ。

 技術だけで勝敗が決まるなら、旭だってこれほどは、バドミントンにのめり込んではいない。

 ここにいるプレイヤーなら、他の誰しもがそうだろう。

「うん──この試合はともかく、荒垣にとっては将来的にその方がいいね。いろんな意味で」

 それを理解した上でやってるならいいけど、と志波姫は呟いた。

 旭も同意する。

 荒垣が今やっているのは、ただ自分の好きなようにバドミントンをプレイしているだけだ。

 対戦相手も同様に、自分の得意なシチュエーションでは、しっかりとポイントをもぎ取っている。

 単純な実力勝負。

 張蒼華の方も、これまでの選手とは違って、表情豊かだ。

 荒垣と目線を合わせるようなタイミングもあって、お互いに健全なヒートアップをしながら、せめぎ合いを楽しんでいる。

 見ていても楽しいが、そこに一抹の不安を過らせる、荒垣が装着しているサポーターをディスプレイ越しに見ながら、益子はタオルの中で考えた。

(あんだけ飛んでりゃ、膝もやっちまうよなぁ……)

 インターハイ、コニーとベスト4を争う試合で、彼女が途中棄権したという結果だけは知っているが、試合の中身がどうだったかは、同じタイミングで羽咲とやっていたから知らない。

 その後に兄と久しぶりに会って話をして、宿に戻って旭を待って、それからどうしたのか。

 あまり記憶は残っていないが、その翌日の試合はやけに身体が軽く感じて、楽しかったことははっきりと覚えている。

「年取ると垂れるんだよね、若い頃運動してた人って」

「……は?」

 

 

 

 

 荒垣に逆転されたと見るや、張蒼華はねじを巻き直す。

 アップテンポの展開でポイントを取り返し、スコアは再び張蒼華が前を走る。

 14-16となって、荒垣は主審にシャトルを返した。

 わずかな隙間に、彼女は思考を走らせる。

(ネット前は全部やられてる……神藤コーチに言われた『怪しい球』も今のところ無いし──)

『荒垣なぎさ』と言う選手について、中国代表がそれほど警戒心を持って偵察を入れていたわけではないだろう。

 ジュニア時代に大舞台を経験している益子や志波姫の方がよほど、海を越えて名が知れている。

 しかし、特徴的な選手であることは間違いないから、対策も立てやすい。

『荒垣はネット前が下手』と言う情報がなくとも、これほどの強打と走るスタミナを持っていて、ネット前まで上手い選手ならば、出場するのはこの大会ではなく、ユーバー杯やオリンピックになるだろう。

 必然的に、足りないだろうと思える部分を突いてくる。

 それでも強打を防ぎきれないから、スコアが競っているだけのことだ。

 この試合ここまで、スマッシュを完璧にリターンはされていないが、早晩目は慣れてくるだろうし、荒垣の体力も落ちていく。

(石澤とやったときみたいだ……ネット前で勝てるイメージがないから、スマッシュに固執しちゃう。ポイントの取り合いにはできても、この点差じゃ最後交わされる……)

 コニーとの試合で、荒垣がネット前に詰める選択をしたのは、12-11と勝ち越していたタイミングだ。

 立花の飛ばした指示通り、クリアーで逃げる手もあった。

 突如ネット前に寄せた荒垣に対し、オーバーシュートを連発してしまったコニーだが、その『怪しい球』をしっかりと看破できたことで、彼女は一回り成長した。

 だが今の対戦相手、張蒼華は少なくとも、ミスはしていない。

 ネット前の勝負を挑んで勝てる自信は荒垣にはないが、仮に五分で引き分けたとしても、デュースを待たずに張蒼華が逃げ切ってしまう。

 一セットを失う代わりに得るものが、わずかばかりの体力の温存では、まったく割に合わない。

 ただし、もう少し『何か』をせしめることが出来れば、許容できるロスになる。

 タイプが違うだけで、プレイヤーとしての大まかな実力はほとんど同じ。

 それは荒垣の自信過剰ではなく、コート外から見ている神藤コーチや、立花の見立てとも矛盾しない。

 張蒼華のロングサービスを追いながら、荒垣は考える。

(──今までアタシがエースを獲ったのはスマッシュだけ。なら、あえてそこを軸に置いてみよう。単純に……)

 可能な限りの思考時間を確保しようと、荒垣は大きくクリアーを上げた。

 張蒼華は大きなストライドでラウンドに入り、ラケットを背中に担いで振り抜く。

 リードしている状況下で、対戦相手がある意味消極的になり、ゲームに『凪』を求めているなら、殊更にそれを崩しに行くことはない。

 彼女はそう考えているようだ。

「違うよ」

 不意に聞こえた娘のつぶやきに、神藤コーチも同調する。

(『違う』……のは確かにそうだ。よく訓練されてはいるけど、野生がない)

 ダブルスを二つ落として、後がなくなったシングルスの頭。

 あと五ポイントで第一セットを奪えるというときに、相手の『流し』に合わせる必要はない。

 荒垣とて、攻めに出た瞬間のミスは、即座にポイントをロスしなかったものも含めれば、いくつかあったものの、単純なミスショットはここまで犯していない。

 センスが良ければ、ここで『凪』には付き合わない。

 間延びした打撃音の続くコートの中で、荒垣は考えを組み立てていく。

(待ってる──ミスを、というより、攻めを……)

 それはこっちもなんだけど、と荒垣は心の中で苦笑しながら、ボディフェイントを入れてクロスにドライブを打った。

 張蒼華は機敏に追いつき、しっかりと球足を抑えたヘアピンを返す。

 もっとも、これは荒垣も意識していた返球だ。

 できるだけ膝に負担を掛けないように重心を身体から外さず、腕を伸ばして拾い上げる。

 少し高くはなったが、ネットに張り付いて落ちるシャトルに対して、張蒼華は一瞬のためらいを含みつつも同様にヘアピンを打った。

 さらに一歩詰めた荒垣が、彼女のバックサイドへ低く流しつつ、自らもシャトルのサイドへステップ。

前に出てラケットを立てれば、そうそう頭上を抜かれることはない。

 案の定張蒼華は、平行移動した先でまたもヘアピンを選択した。

 荒垣は彼女よりも一歩余分にサイドステップし、ヘアピンからプッシュの打ち合いに変化したラリーに対応するため、徐々にネット前から後ろに下がる。

 フォア奥をやや大きく開けて──。

 

 

 

 

「ネット前勝負?」

 アップゾーンでディスプレイを見ていた三人も、試合の様相が変化していることに気付いた。

 狼森は遠く離れたところで、試合の進展を確認するためだけに、画面に注意を払っている。

「プッシュだかドライブだかわかんねーな、あれ」

 ネット前が苦手な荒垣が、張蒼華と互角に渡り合えているのは、彼女が一定の間合いを保ち、ラケットをしっかりと振る空間を得ているからだ。

 もっともその分、相手にも時間的な余裕を与えてしまうから、荒垣の返球にも張蒼華が差し込まれることはなく、時折リズムを変化させながら、プッシュの応酬が続く。

 このままどちらかがスイートスポットを外して失点するだろうと、三人は思っていたが、突如荒垣はラケットを高く掲げ、開いていたネットへの距離を詰める。

 虚を突かれた張蒼華は、荒垣の重心が既に後ろに方向転換していることに気付かないまま、彼女のフォア奥へクリアーを上げた。

 プッシュのバックスイングからでは十分な飛距離は稼げない。

 荒垣は素早くバックステップを踏み、落下点に入る。

「……パターンC?」

「はん? なんだよ、それ──」

「前に出るフリをしてクリアーを打たせて、距離を置く。その上でカットスマッシュを──」

 志波姫が導き出した結論は、インターハイ団体戦での望との試合で見た手筋だ。

 彼女が倉石に貰ったというノートを読むと、その手筋は『パターンC』と名付けられて、そこに記されていた。

 よくよく見てみれば、どれもこれもオーソドックスなパターンばかり。

 望はこれで面白いのかと、志波姫も気にはなったが、あの試合の第二セットは、そんな組み立てに少々圧されてしまった。

 ベーシックな戦術であっても、その精度がとことん高ければ、志波姫でさえ追い込まれることもある。

 彼女のような基礎技術がしっかりしていて、コントロールが良いオールラウンダーには、うってつけの『教本』だっただろう。

 ところが、今それをやろうとしているのは『スマッシュだけは男子並みの大艦巨砲主義者』だ。

 十分な準備を経て放たれたスマッシュは、張蒼華が打たれる前に足を止めてしまうほどのスピードでコートに跳ねた。

 15-16。

(パクったな、あいつ……)

 倉石は開いたノートで口元を隠し、荒垣に拍手と声援を送る。

 特に内容のある言葉は、あえて発しない。

「微妙な展開だね……」

 神藤コーチが、帽子をかぶり直して言う。

 豊橋と羽咲は少し離れたところに座っているから、二人の『横綱相撲』に熱の上がった歓声の中では、彼女の声は聞こえなかっただろう。

「本音を言えば、サッと譲って手じまいにしておけばよかった。あの子の性格じゃ、それができないだろうけど──」

 先ほどの見様見真似の『パターンC』は、次のセットに持ち越しておいても良かった。

 少なくとも、セットが深まって負けている場面で、ポイントを取り返すために使うのは、新しい『味』としてはもったいない。

 立花と倉石も同意する。

「確かに……ここは落としても、第二セットを取り返せば、追い込まれてる向こうの方が最終セットはプレッシャーがかかる」

 このセットを落とせば三連敗で団体戦敗北──その重圧に打ち勝てるほど完成された選手はこの世代にはなかなかいないし、また張蒼華のプレイを見ていれば、プレッシャーを感じないタイプでもなかった。

 プレイスタイルと性格はリンクするというのは、神藤有千夏の持論だ。

 もちろん、『第二セットを取り返す』のはただの皮算用であるし、現に今もつれてしまっているから、この作戦はもう使えない。

「コニーとの試合もそうでした」

 立花が唇をかむ。

「第一セット頭から全力で行って、最後まで膝が持たなかった」

「ああ……」

 あの時と、同じような展開だ。

 もっともコニー相手にはそうするしかなかったし、今日の相手である張蒼華も引けを取らない選手ではあるだろう。

 だが、また今日も最後の最後で棄権などと言うことになったら──。

「立花君」

「はい?」

「もしそういう『兆候』が見えて、君がダメだと思ったら絶対に止めるんだ。益子や、後の狼森の事なんか考えなくていい」

「……わかりました」

 背中に冷たいものを感じながら、立花はコート上で躍動する教え子をじっと見つめる。

 スコアはまたしても、同点になっていた。

 

 

 

 

 ゲームはその風圧を増しながら、デュースへと突き進んでいく。

 19-19となってなお、荒垣に『変化』の手立ては見つからない。

(もう、こうなっちまったらしょうがない……最大集中で第一セットを獲りきる──!)

 何も考えずにストロングポイントを押し付けていく。

 そのために、望と倉石の編み出した戦法を少しだけ借りた。

(駆け引きは『実体』──スマッシュを打たなきゃ始まらない……)

 パターンCへの入り口を作るために、荒垣はショートサービスを選択する。

 強打を警戒してか、張蒼華は高くレシーブを上げて、コートミドル奥に陣取った。

 見た目にはコースは空いているが、これまでに見た彼女の反応速度を計算すると、エースを獲れるコースはごくわずか。

 いなされてしまえば、一つ前のラリーで動作が大きかったぶん、『次』に立ち遅れるのは荒垣の方だ。

(コントロール……八割の力で、バックサイド!)

 ほんの少し足を浮かせて、荒垣はラケットを振り抜く。

 威力よりも精度を高めるチョイスの結果だが、この程度のスピードならば、張蒼華もコントロールを失うことはない。

 丁寧にラケットの面を合わせ、荒垣のフォアサイドへ低くはたく。

(張が『上げてしまう』のは、アタシの強打を受け切れなかったとき……)

 いったんネット前に出てヘアピンの交換を挟んだ後、荒垣は大きく打ち上げて再び間合いを取った。

(さっきのタイミングで上げさせても、スマッシュは決まらない。どちらかのコートをオープンにさせる──攻守の入れ替わり、その一手目で叩かなきゃ……)

 ホームポジションへの『戻り』は、決して遅くはない。

 しかし、張姉妹としてダブルスを組んでいる期間が長かったのだろう、彼女は少しだけその基礎をないがしろにしているように、荒垣は感じていた。

 というよりも、殊更にホームポジションに固執することのないダブルスである程度結果を残している彼女だから、その『効率化』の残滓がシングルスに出ていると言ったほうが、より適切だろう。

 これを欠点と言うのは、重箱の隅を突くようなものだ。

(荒垣特有の問題ではないが、サイズの大きい選手は、そうでない選手よりも、『ボディワーク』でコースを悟られやすい……)

 倉石は、両隣の立花と神藤コーチを見る。

 二人とも、ある程度サイズが大きい部類のプレイヤーだ。

 特に神藤コーチは左利きということもあって、右利き同士の対戦とはラリーの形が異なるから、よけいにボディの動きを見られることが多かっただろう。

(だからこそボディフェイントが効く、という利点もあるが──基本的には、デメリットが先に来る。コースを読んで守備範囲に濃淡を作れる選手ならば猶更だ。張蒼華のように)

 人間の体幹は、せいぜい五度ぐらいしか回転しない。

 荒垣が男子に迫る強打の『出力』を持っているのは、体幹から発したパワーをうまくシャトルまで伝えるスイングによるものだが、理想的でセオリーに適ったそのスイングは、コースを読まれやすいというリスクもはらむ。

 もっとも高校生レベルで、そこまで相手を観察しながら、あの強打に対応できる選手などそう多くはなかったから、これまでそのリスクが顕在化することはなかった。

(体幹の自由度で行けば、志波姫と石澤が双璧……)

 ただし、志波姫のそれはある種『捻じ曲げる』という行為を含んでいる。

 ナチュラルに下半身、体幹から肘までの連動のラインを変えることが出来るのは、彼が見てきた選手の中では望が一番得意だった。

 考えてみれば当然だ。

 しなやかで弾力性に富んだ肘を持っている彼女が、他の関節は何故か固い……など、遺伝子の作りからして有り得ない。

──『肘だけ』が柔らかいはずはない。

 膝も、体幹も、手首も。

 あらゆる関節の自由度が高い。

(タップ、スイープ、ロック、ベンド、コック……インパクトの瞬間の手首の使い方でさえ、数えきれないほど種類がある──混乱するだろうと思って教えなかったが、アイツは宮崎でそれを勝手に掴んできた─)

 荒垣のような強打はないし、志波姫ほど洗練されてもいない。

 益子や羽咲のように、この競技においては天啓たる『左利き』でもない。

(『ストロングポイントを押し付ける』というとことさら、力を込めて相手をねじ伏せるイメージを浮かべがちだ。だが、それはまったく違う……)

 志波姫の絶品のフェイクドロップも、羽咲の回転数を抑えたクロスファイアも、アクセル開度を絶妙に調節した、『ハーフスロットル』の産物だ。

 操作できるかどうかは別として、その入力の分解能は『石澤望』がもっとも細分化されている。

 荒垣は──。

 

 

 

「よしッ──!」

 球足の長い、強いドライブの打ち合いを制して、荒垣はガッツポーズする。

 こういったところでのミスが減り、徐々に戦術の幅を広げているのは、倉石達にも見えている。

 常にアクセル全開でラケットを振っていては、ネットに掛けるかサイドアウトするかして、マッチポイントを握られていたところだろう。

(強打の威力が、ほんの一枚上手であるだけで、単純なラリーなら優位に立てる。先が見えないまま来るところまできた、セットの最終盤だ……相手にとっても、取れる選択肢はそう多くない)

 ある程度の点差、たとえば五点ほど開いた時間帯があったなら、そこで『捨てる』なり『形を変えて一気に追いつく』なりの変化を生み出すタイミングはあっただろう。

 しかし、張蒼華は荒垣の求めた『凪』に付き合ってしまった。

(あそこでネットに張り付かれて、速いラリーで攻められれば、そのまま20-17ぐらいになっていただろう。そうなればこちらも『捨てていい』と指示を出した──荒垣は聞かないと思うが……)

 その指示に従わなかったとしても、例えば力んだ荒垣がスマッシュをアウトにしてしまったりして、結果的に最後の最後まで追いつめたのに逃してしまう、という幕切れは避けられただろう。

 中国代表相手にマッチポイントを奪われて、三点を奪い返す引き出しは、彼女にはない。

 スマッシュも早々決まっているものではないから、闇雲に打っても三つのうち決まるのは良くて一つ。

 結局デュースまでは持ち込めない。

 そうなれば張蒼華は一気に盛り返し、悪い流れで年下の狼森に引き継いでしまう。

 益子の努力も水泡だ。

 志波姫はなんとかするだろうが、予選の一試合目で彼女をフル稼働させるのは、決勝トーナメントへ向けての駆け引きを考えれば、既に半分負けていると言っていい。

 日本まで偵察隊は来なくとも、ここはデンマークだ。

 観客席には、それらしい人影もちらほらと見える。

 日本代表には、当然そうしたスタッフは随伴していない。

 映像はテレビ放送で得られるとしても、外から俯瞰して試合を見ることのできるアナリストが居ると居ないとでは、得られる情報の『熱量』が違う。

 これは日本代表にとって不利だ。

 だからこそ、予選リーグでは益子のシングルスを組む予定にしていないし、志波姫もできるだけ試合が決まった段階で、究極言えば『手の内を見せないという制限下でならば、負けてもいい』ぐらいの意図を彼女に伝えてある。

 それが『日本代表』としての戦い方だ。

 単純な力比べなら、デンマークは別としても他の国には、シングルスに益子、志波姫、羽咲と並べれば勝てる。

 旭と石澤で補強するのもいいし、羽咲の代わりに狼森を豊橋と組ませても、マッチングが合えばある程度計算できるペアだろう。

 お互い上背のある久御山と荒垣を組ませてみるのもいい。

(──だが、そうはしなかった。オーダーが歪んでいるのは中国だけじゃない、日本もだ……)

 羽咲と豊橋は自らに課せられた任務を完遂した。

 益子は自分の試合だけでなく、トーナメントまで見据えた勝ち方に拘り、旭の協力を得てそれを成した。

(だからこそ、ここは一気に勝ちたい……単純に、三セット目までもつれた場合の狼森の状態も心配だが、何より『流れ』に乗るうえで、ここは落とせない──頼む、荒垣)

 何も言葉を発することなく、倉石は手を大きく叩く。

 荒垣がそれに反応する素振りは見えない。

 集中に入っている。

 ショートサービスから深いリターンを待ち、長いドライブを二本差し込む。

 コースに打ち分けたそれにも、張蒼華は素早いステップで追いつき、荒垣を前に釣り出そうと短い羽根。

 まだ、足は動く──。

 最後に踏み込んだ左足と同時に、荒垣はシャトルを思いきりカチ上げた。

 時間的な猶予はあると見て、ラウンドからハイクリアーを返す張蒼華。

 深く返されたそれを、荒垣はサイドアームからバックハンドでドライブリターン。

 コントロール重視、威力は五割まで低下しているだろう。

 すべては『必殺技』へのお膳立てだ。

 再びベースラインを走って追いついた張蒼華は、前へのショットを警戒する荒垣のバックサイドに、低く返球する。

(く……これは繋がらない、『最後』には──)

 広く開けたクロスに打って来れば、前に出た勢いのままに飛び込んで叩くつもりだった。

 だが、そうはさせてもらえない。

 荒垣はラケットの面を立てたまま身体を半身にし、肘をたたんで振り抜く。

 詰まらされたことが奏功して、張蒼華の足元にシャトルは落ちていく。

 身体を反転させて、バックにラケットを引く余裕はない。

 と、張蒼華は右足を浮かせ、その下にラケットを振り下ろした。

(──股抜き!?)

 虚を突かれた荒垣だが、曲芸から跳ね返されたそのシャトルは、決してコースは厳しくない。

 むしろ絶好球──。

(落ち着け……)

 ステップを取り直し、体勢を整える張蒼華を見て、荒垣はコースを探す。

 どちらかのサイドが広く空いていれば、それはそちらに『網』を張る用意をしているということ。

 彼女の立ち位置はほとんどホームポジションだが、試合を通じて見られた傾向──フォアサイドがわずかに広い。

(──クロス!)

 甲高い打撃音と、ほとんど同時にシャトルがフロアに着弾する音が響く。

 倉石の願いが叶った瞬間だ。

 第一セット終了のコールを聞きながら、彼は会場から聞こえる拍手に、『後悔』をより一層深める。

 

 

 

 

「よく獲りきったな、荒垣……」

「まあね」

 思ったよりも地に足を付けてプレイしている。

 倉石は素直に彼女の成長を認めた。

 インターハイから少し『冷却期間』を置いたこの時期、短い合宿と言うこともあって、特に怪我持ちの荒垣の状態はどうか、という懸念もあったが、ひとまずは心配なさそうだと、立花や神藤も胸をなでおろす。

 もっとも、乏しい引き出しを総動員してなお、深い点数までゲームは煮詰まった。

 見ている限りでは、張蒼華もさほど試合巧者という印象はなかったが、武器を曝け出している荒垣の方が、今後打つ手がなくなってくるのは確かだ。

「──スマッシュをカウンターの起点にされると、一気に苦しくなる。さっきのようにしっかりと『お膳立て』をすることを怠るなよ?」

「わかってるって、倉石さん」

 膝をぐりぐりと回しながら、荒垣はにやりと笑ってみせる。

 その表情からは、痛みを我慢しているようには思えない。

 それでも、念には念を入れよとばかり、立花は彼女の足元に屈んで、膝をいろいろな方向から押してみる。

「──いまのところ、大丈夫だよ」

「……わかった。だが、今日はもっと手前で『止める』ぞ。それは約束しろ」

 狼森だって、志波姫だって居るんだから、と立花は諭すように言う。

 荒垣は反抗するでもなく、おとなしく彼の言葉に耳を貸していた。

「このセットで決める──行ってくる!」

 右肩を大きく回して、荒垣はコートに戻ってゆく。

 あまり不安そうな顔をしていては、後の選手にも影響が出る。

 倉石は立花にそう言って、一つ大きく声援を荒垣に送った。

 

 

 

(ああは言ったけど……)

 張蒼華のサービスを待ちながら、荒垣はぐっと身体を低くする。

 同じ組み立てで勝てるか? といえば微妙だ。

 単純に、スマッシュの速度に目が慣れてくるだろうし、逆に一転攻勢に転じるチャンスを与えてしまうかもしれない。

 第一セットでは特に、コースを気にせず全力で打ったスマッシュの方が拾われていた。。

(スマッシュは無暗に打たない──整うまでは、抑えてコントロールする)

 クリアーのリターンに対し、いったん下がった張蒼華は、同じハイクリアーが宙に浮いている間に、素早く前に詰める。

 彼女は第一セットと同じく、フォアサイドをわずかに広く開けて、ネット前に陣取った。

 意識の薄いバックサイドをドライブで抜きたいところだが、距離が遠すぎるし、クロスサイドは塞がっている。

(──クロス、の上!)

 荒垣は低い軌道のドリブンクリアーを選択。

 フォアへの意識が強い張蒼華に対して、持ち前のパワーで放った快速球。

 バックから軽く落とされることはない。

 案の定、張蒼華は差し込まれを回避するため、打点を身体の近くに置いてハイバックを返した。

(さっきと一緒だ、ハイバックが甘い──)

 そんなところまで泉に似ているのか、とほくそ笑みながら、荒垣は深さの足りない浮き球に、ラケットを目いっぱい叩き付ける。

 コースはどこも塞がっているが、絶好球なら話は別だ。

 狙いはボディ、いや、どこでもいい。

「──はッ!!」

 張蒼華のラケットを弾き飛ばす豪快なファーストポイントに、観客席が沸く。

 

 

 

 

(ハイバックが苦手な選手は多い。イヤになるほど……)

 倉石は自らが手掛けた幾人もの教え子の顔を思い出す。

 張蒼華に似ていると言った泉もそうだったし、現に張蒼華も、そのほかのショットに比べれば精度が著しく落ちる。

(近年見た中で上手かったのは石澤と、橋詰ぐらいか……志波姫は全部上手いし)

 理由はいくつかある。

 まず、多くの指導者がハイバックを嫌うことだ。

 フットワークをサボらず、しっかりとラウンドに入って打てと教えるのは、ある意味では当然ともいえるし、倉石自身もハイバックの技術を高める事とは別に、基本としてそう教えている。

 もう一つは、ラリーの中でハイバックを打たざるを得なくなった時点で、既に旗色の悪い方向に動かされているということ。

(背中越しにシャトルを追いかける──つまり視線がブレる。その状態で後ろから飛んでくる物体を正確にとらえることは、人類には難しい。肩や肘の動きも通常とは逆だ)

 これまでの中国代表の選手を見ていれば、なるほどフットワークは基礎を忠実に守っていて、そこには微塵も『サボり』は感じられない。

 後ろ向きから回転しなければならないハイバックよりも、ラウンドに入って打った方が、後の行動が素早く取れるという利点もある。

 身体の正面でしっかりと捉える、それは基本中の基本だ。

(少なくともアジア人の中では、荒垣の強打は極めて有効な武器になっている。小手先の戦術では崩しきれないだろう……)

 仕方なくスマッシュに固執した結果が、幸運にも最善手となっている。

 これでは何のためにコーチがいるのかわからなくなってしまいそうなものだが、細かい指示は荒垣を混乱させるだろうし、何より彼女のやる気を削いでしまう事にもなりかねない。

(好きにやらせる──情けないが、これが今のところベストだ。ただし──『止める』時は引き摺ってでもコートから出す)

 そうさせないためには、荒垣はこのセットで試合を終わらせるしかない。

 知ってか知らずか、彼女は序盤からアクセルを踏み込んでいる。

 

 

 

 

「強いわ、やっぱり……」

 久御山が呆れたように言う。

「ああ……久御山は荒垣とやったもんね」

 組んだ足を床に降ろし、久御山は手をひらひらとさせながら苦笑いした。

「アカンて、あのスマッシュは。ウチも色々考えてやったけど……」

 意識していても返せるかどうかという強打を受けるために、久御山はどうしても『自分の形』を崩す瞬間を作らざるを得なかった。

 二年連続出場とは言え、当時まだまだ無名選手だった荒垣に対し、彼女は序列の上では益子泪を上回る第三シードでのエントリー。

 それほどの選手でさえ、荒垣のスマッシュに対応する術を見つけることは出来なかった。

「打たしたら負けやね。羽咲ちゃんぐらいレシーブ強いんやったら、なんとかできるかも知らんけど……」

 一つのポイントを争うラリーの単位では、張蒼華もそれが出来ているシーンはある。

 だが、羽咲のような何でも拾ってしまうほどの読みと反応速度は持ち合わせていないから、『荒垣のターン』が来れば、ポイントを明け渡してしまうことになる。

 4-1と開いたスコアをさらに伸ばそうと、荒垣は短い間合いでロングサービスを放った。

「これで走ったら、もう勝ちやな……」

「うん──」

 望は、これまでコート上で展開されているラリーを反芻した。

 コントロールを重視していることもあるが、今日の、あるいは今の荒垣はドライブが非常に『締まって』いる。

 もともと球足が極めて速いそれが多少速度を落としたところで、コースがより厳しくなっているから、攻めに繋げるリターンはおいそれと打てない。

 それはたぶん、羽咲に大敗してからのいろいろな試行錯誤の間に身に着けたものでもあるだろう。

 増大した練習量の産物かも知れない。

 彼女のプレイスタイルにとって、最大効率の鍛錬ではなかったかもしれないが、意志を以ってラケットを振り、シャトルを打っている限り、無駄な練習などない。

 少なくとも望はそう教えられたし、実際大したことのない選手だった自分が逗子総合のエースになれたのも、愚直に基礎練習を積んでいった結果だ。

 努力の積み重ねをひっくり返してしまうほどの才能など、存在するはずがない。

 自然に、張蒼華は決め手を欠いたままの長いラリーに引き込まれ、集中力が途絶えたところでの甘い返球を、才気煥発の荒垣が逃さずチャンスにつなげ、しっかりと攻め切っている。

 第二セットはそれが余計に顕著だ。

「一セット目は、ちょっと迷ってる感じだったけど……」

 松川も久御山に同意する。

「このセットは最初から思い切り行けてるね。前の試合の流れを、いい意味できちんと『消して』戦えてる」

 二つ勝てば、あと一つ。

 積み重ねたリードに胡坐をかいて図々しく攻めれば、手痛いしっぺ返しを食らう。

 望は二年の夏を思い出す。

 もう随分、過去の事として振り返ることは容易い月日が流れたが、それでも忘れ去ることは出来ない。

 一つの試合の流れだけを読んでもダメだ。

 団体戦は、みんなで戦う。

 

 

 

「このまま、行っちまうか……唯華の出番はねーなァ」

「いや、全試合やるから」

 そうじゃなくて、と言いながら益子は立ち上がる。

「お前の『勝負』は無くなったってことだよ。そこの犬森も──」

「狼森あかねだ。そろそろ覚えろ」

 悪態をつく狼森も、どこか覇気のない顔で益子に向き直る。

「冗談だよ」

 気を抜くにはまだ早い、と旭が言うタイミングもなく、荒垣だけがスコアをどんどん伸ばしていく。

「こうまで崩れるもんかぁ?」

「うーん……」

 志波姫はなかば憐れみを含んだ目線を、ディスプレイに映る対戦相手に向けた。

 打開する手段が見つけられないまま、張蒼華は徐々にその火を弱めていく。

「あれだね。ずーっと揃わないルービックキューブみたいなもの」

「うわ──やだな、それ」

 一人遊びの得意な益子には、似たような経験があるらしく、誰よりも強い拒絶反応を示した。

 最初は、ここをこうしたらどうだろうと楽しく遊べる。

 そのうちに、いつまでも思い通りに行かないそれに人は苛立ち、やがて冷静さを失う。

 普通はそうなる前にルービックキューブを投げ捨てるものだが、国を背負った張蒼華には、ラケットを捨てることは許されない。

 むしろそのことだけが、彼女をなんとか立たせている支えだったのだろう。

 十七やそこらの少女には、あまりにも残酷な仕打ちだ。

(荒垣が中国語話せたら、あの子もコニーみたいにしてあげられるんだろうに……)

 張蒼華にとって唯一の救いは、圧倒的大差で終わった第二セットの後、荒垣が彼女の手を強く握り、しっかりと視線を合わせてくれたことかもしれない。

 

 



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15th game What Happens Next

 一気に流れを強めて行ったゲームの後を受けて、狼森が慌ただしく最終調整に入る。

 ベンチに戻ってきた荒垣は、倉石たちの労いを受け、拳を合わせて勝利を噛み締めていた。

(──ひとまずは、これで予選一勝。こうもすんなり行くとは思わなかったが……)

 それは、荒垣の二セット目についても、三連勝で一気に中国をうっちゃった事についてもだ。

 倉石の経験則でいくなら、荒垣はまさに今、プレイヤーとしての最大成長期に入っている。

 基礎を練り上げる時間が終わり、その基礎の上に一気に柱を立てていく──そんな時期だ。

 スマッシュを乱発せず、威力は抑えつつコースを狙ってドライブを打つ。

 それ自体は羽咲に惨敗してしばらく、荒垣が根拠もなく取り組んだことと、表面上は似ている。

(だが……ある種『逃げ』から生まれたその時のドライブと、今荒垣がやろうとしている『バリエーションを増やす』という『攻め』の意味合いを持ったそれとでは、全く精度が違う……)

 何かを『追う』という、ポジティブな精神状態に入ったプレイヤーは強いし、伸びる。

 それを再確認することが出来てよかったと、倉石も納得顔だ。

(そして、ここまでは中国のオーダーの『歪み』が、我々にとっていい方向に大きく影響した。ここからの二戦は違う。『逆』が来る……)

 思えば張蒼華にとっても、慣れ親しんだ姉とのダブルスではないというリスクもあったが、タイプ的に『受け』から入る彼女にとって荒垣は、相性が悪いと言えた。

 攻撃を受けてリズムを作る。

 カウンターの起点になることを拒んで、荒垣が『避け』た第一セットはもつれた。

 スマッシュの威力が落ちてくる第二セットは逆に『隠し』ていたわけだが、それもある意味で荒垣の『攻撃』だっただろう。

 結局糸口がないまま、張蒼華はあっさりと第二セットを落とした。

(噛み合わない、と思ったら無駄に抵抗しない。明日のこともあるが、『プロ』っぽい負け方だと言える……)

 中国相手の快勝の余韻が薄れてくると、倉石には一抹の不安がよぎる。

 狼森が走り回るコートの上では、それが徐々に具体化されてきていた。

(今考えたことは、そっくりそのまま狼森にもあてはまる……)

 アジリティの面で言えば、深川ゆもと双璧を為す。

 高校二年生ではあるが、既に世代では日本最速クラスのプレイヤーと言っていい。

 ただ、来年のインターハイが『狼森世代の競演』と評されるかどうかは、よくわからない。

(本来『受けて立つ』タイプはトーナメントを勝ち上がりにくい……志波姫は例外中の例外。事実石澤にしても、総合力なら神奈川ナンバーワンと言って良かった。だが、荒垣に敗れた……仮に俺の作戦通り、ヤツが壊れたとしても、石澤が羽咲に勝つ明確なビジョンは見えなかった)

 羽咲とやるなら当然体力的な弱点を突くことになっただろう。

 カット系を多用する望なら、ある程度羽咲のクロスファイアにもついていける。

 もちろんその時点で、『石澤望をインターハイに送り出す』ことは出来ていたわけだから、よっぽど彼女が荒垣の事を気に病んでいるなら、最悪棄権させる手すらあった。

 守備的なストロングポイントは、目に見えにくい。

 あのインターハイ団体戦、志波姫と望の試合で、彼女が奪った第二セット最初のポイントも、羽咲や狼森ならば拾っていたかもしれない。

 だが、それだけだ。

(特に年齢がひとつ下、というのもこの世代ではかなり大きな要素だ。志波姫とて二年の夏はベスト8、もちろん怪我もあったが……津幡はファイナリストの椅子を伺うところまで行っていた)

 それは、少なくとも荒垣が出てくるまでは、高校生世代で抜きん出たパワーと言うストロングポイントがあったからだ。

 現に、『身体の仕上がり』が揃ってくる三年の春は志波姫が優勝している。

 狼森が来年春に身長一七〇センチになって出てくるとは考えにくいが、可能性がないわけでもない。

 ただそうなった場合、彼女のストロングポイントは姿を変えているだろう。

 今の狼森は、攻撃的な選手とは言えない。

 受けに回った彼女のリターンを、劉知栞は時には強引に、時には巧みに流して、自分の手番を離さない。

 わずかな緩みを突いて、狼森は果敢にネット前勝負を仕掛けるが、これも上手く劉知栞はいなして距離を取る。

(志波姫は、相手を後手に回したら絶対にスキを見せずにポイントを奪いきる。劉知栞はそこまでのクオリティはないにせよ、同様なタイプだ……)

 ずっと『志波姫唯華』を追ってきた狼森には、ひとつ内面的な弱点が生まれてしまう。

 世代の看板はずっと益子が担いでいたが、実質上志波姫が世代トップになりつつある──そういった外野の声は、益子の波の激しさや、彼女の振舞いから感じられていた。

 そうした強大な壁に立ち向かうべく、常に志波姫に勝つことを意識し、彼女の存在をある種『灯台』にしてきた狼森は、対戦相手を過大評価してしまう。

 無意識に相手が『志波姫』と共通するポイントを探してしまい、そこに勝とうとする。

 たとえば、今年の夏のインターハイ。

 ベスト8を争う試合でマッチアップした時点で、羽咲は豊橋との走り合いを含んだ三試合。

 対する狼森は、それほどの有名選手とは絡むことなく、また一回戦をパスしたこともあって二試合を戦っての羽咲戦だった。

 残存体力には大きな差がある。

 似たようなアジリティタイプであれば、その有利不利ははっきりしていた──はずだった。

 事実、狼森は第一セット中盤まで、羽咲を向こうに回して大きくリードを広げる。

 試合展開の『分水嶺』となったのは、たった一本のクロスファイアだ。

(外から見ていれば、そんなもの打たせなければいいだけのことだった。調子を変えずに、ネット前のスピード勝負を最後の最後まで逃げずに受け切る。そうすればガス欠が先に来たのは、間違いなく羽咲の方だ……)

 現実には、狼森はその一本のクロスファイアを過大評価してしまう。

 それへの『対応』に走らされた結果、試合の様相は一変し、羽咲が一気に二セットを奪いきった。

 ただ、それは仕方のない事だと、倉石は分かっている。

 自分もそうだったから。

(『頂点』に立った経験のない選手は、どうしてもそうなってしまう……)

 だからこそ、倉石は寝食を惜しんで選手のために、分厚い戦術ノートを埋めていく。

 一番時間を使ったのが望だっただけで、他の選手をほったらかしにしていたわけでは決してないのだ。

 そこらの指導者が使っている時間以上に、全員に濃密な指導を送っている。

 この大会でもし優勝できたら、来年のインターハイ団体戦前は、『世界で』一番うるさい監督だ、と胸を張ろう。

 

 

 

「なんか、そーゆートコなんだよな……」

 試合を控えている志波姫も、狼森の劣勢が気になるのか、アップゾーンを出て行った。

 ここにいるのは、完全に集中を切って、テレビの前でゴロゴロするオヤジのような益子と、その足をできるだけ揃えようと苦心する旭。

 それに、充実の表情で身体をほぐしている荒垣と、彼女のサポートについている神藤コーチ。

 すっかりとリラックスモードに入っている益子に、膝を貸している旭が問いかける。

「──なにが、『そーゆートコ』なんだ?」

 荒垣は入念にクールダウンとストレッチを、神藤コーチの手を借りて行っていた。

 一応二人の服は乱れていないが、ここにカメラが入っていなくてよかったと、荒垣は胸をなでおろしている。

 神藤コーチは、遠い昔に、娘の耳掃除をしていたころを思い出して、少し顔もほころんでいた。

 それはもちろん、中国に勝ったという喜びもあるだろう。

「『負け』に意味を求めるヤツって、いるよな……私は嫌いなんだよ、そーゆーの」

「……?」

 一瞬、過去の自分の事を揶揄されているのかと、旭はムスッとした。

 何で負けたのか、と益子に詰め寄ったことを、いまでも覚えている。

 それがある意味転換点になって、益子泪はほんの少しだけ、その軌道を正しい方向に修正した。

「でもあんた、羽咲……に、負けてよかったって言ってたじゃん」

「それは、みんなが見た、負けたっていう『事実』のハナシ。プレイヤーとして私は一ミリも納得してない」

 少し声量を上げた益子を宥めるように、旭は彼女の髪を撫でる。

 荒垣の状態を確認し終え、二人のために耳かきを探してやろうかと神藤コーチは立ち去っていった。

「負けるには負ける原因があるし、だったらキッチリ測らないとダメだろ、その差を」

 アイツそれやってねーじゃん、と益子は、最後の方をゴニョゴニョとぼかして言う。

 なんとなく、荒垣の視線を感じたのだろうか。

(……キッチリ測る、か……)

 荒垣にも、そうした記憶はある。

 それは益子が言うような、戦術や技術がどうこうという細かい話ではない。

 全日本ジュニアで羽咲──当時は益子がお気に入りの『神藤』だったが──に完敗して、どうしてあんなに自分の形を見失ったのか。

 膝を壊したのも、あの時の無理な練習が影響しているのは間違いない。

(相手の姿をちゃんと見る……)

「白帯の向こうに見えるのは、自分の姿だよ」

 きょとんとした顔で振り返る二人に、荒垣は慌てて目を背ける。

「──いいコト言うなァ、お前」

 旭も納得した表情で、微笑んで見せる。

 それに安心して、荒垣は再び目線を上げた。

「いや──アタシも、気持ちは分かるから」

「……誰の?」

「えっ」

 誰だろう、と荒垣は自分の言葉の答えを探す。

 益子の気持ち?

 それはわからない。

 荒垣にしても、親は家に居ないことが多いが、別に絶縁しているわけではない。

 狼森とは、プレイヤーとしてのタイプが全く違う。

 それじゃあ多分、旭の気持ちが、一番わかるだろうか。

「まあ、誰ってことはないけど、なんとなく……」

 

 

 

 

 

 

 最後のポイントを奪われ、狼森は一つ声を上げて、ベンチに戻って来る。

(……うーむ)

 倉石は腕組みしたまま、豊橋と神藤コーチに宥められる彼女を見つめた。

 原因は、思い当たる。

(『できること』と、『やりたいこと』。そしてこの試合において『できないこと』との乖離が大きい──)

 次元は違うが、それは逗子総合に入ってきたばかりの望にも当てはまる。

 一年生当時の彼女の身長では、到底強打は通用しない。

 ことさらに荒垣と対比して、望の欠点をあげつらうような真似をしたのは、たまたま彼女が荒垣と同じ神奈川出身で、中学時代から試合で顔を合わせる機会もあったからだ。

 仮に志波姫が神奈川に居れば、倉石は望に対して『頭を使う前に足を使え』と叱り続けたことだろう。

 強打でガシガシと押し込んでいくスタイルに憧れる時期は、プレイヤーの誰しも経験する。

 倉石にしても、立花健太郎というプレイヤー──今はほとんどコーチ専任と化しているが──を見た時、自分に彼ほどの身長があったなら、もう少し『高い地点』に立てただろうと思っている。

 だが、無いものを嘆くのは簡単だ。

「狼森」

「……なんだばや、監督」

 少し苛立ちも収まっただろうか。

 伏せていた目を倉石に合わせて、狼森はふんと鼻を鳴らす。

(──今、言うべきことなのか?)

 彼女がこの試合で、劉知栞に大きく水をあけられて第一セットを落とした原因は、倉石にはすぐに分かった。

 恐らく神藤コーチも、立花も理解している。

(自分の姿を、見ていない。見えていない……)

 それを言ってしまえば、狼森のメンタルは崩壊するかもしれない。

 自らの不甲斐なさに怒る気持ちも十分以上に理解できるが、それを何一つ整理できないまま惨敗するのは、明日の事を考えても、いい結果とは言えないだろう。

(いや、言わなければならない、か)

 倉石は狼森の両肩に手を置き、諭すように言った。

「お前は、誰だ?」

「──は?」

 ひとしきり、ぽかんと口を開けて、狼森は犬歯を下唇に刺す。

 意味不明な事を言われた怒りを、痛みで抑えつけるために。

「誰って……」

「もっと自分を見ろ。相手を見るのはそれからだろう」

「──」

 これで十分だろう、と倉石は手を放して、また腕を組んだ。

 主審のコールアップに、狼森はハッとした表情で、踵を返す。

「……行ってくる」

 そのやり取りを見届けて、神藤コーチは物憂げな表情で天井を見上げた。

「もうちょっと色々、言うべきだったかな……」

 頭を掻き、首を振りながら、倉石は苦笑いを浮かべる。

「あれで十分ですよ──わからなければ、それまでの選手です」

 彼女が同意してくれて、痛んだ心が少しだけ和らぐ。

(コーチとして傲慢かもしれないが、俺は『それまでの選手』は誰一人、この代表には呼んでいない……)

 あとは自分で這い上がってこい、とばかりに、倉石は久しぶりにベンチに腰を下ろす。

 

 

 

「おーい、距離詰めるなぁ倉石さん。小動物系がタイプか?」

「茶化すなバカ。そういうとこだぞ」

 お前たちの方がよほど距離感がおかしいだろう、と荒垣は言いそうになったが、そこでこの二人の仲をおかしくさせるのも、また更に接近させるのもはた迷惑な話だと思い、あきらめた。

「負けちまうかなァ……」

「他人事みたいに言うなよ」

「──あん?」

 やばい、と荒垣は思った。

 口を滑らせたわけでもなく、それは狼森の心中を慮れば当然のフォローだという自信はあった。

 ただ、絶対的な世代の盟主の座にあった選手に、そんな下々の気持ちを分かれと言うのも、無理な話だろうか。

「いや、ごめん。アタシの言い方が悪かった。けどさ、チームなんだから……」

「変な事言うなぁ、お前」

「泪」

 怒気を込めた膝の主に、益子は少しもごもごと口を動かした後、言葉を発する。

「……だからさ。私だって別に生涯無敗なワケじゃないんだから。お前より、負けた回数多いよ?」

 どうだろう、と荒垣は首を傾げる。

 旭は、頭の中で適当に計算して、そうかもしれないと矛を収めた。

 ピラミッド状に積み重なっている各種の大会の中で、益子は上位の大会への出場権を確保したら、あっさりと負けてしまうことがよくあった。

 もちろん、それは傍目にもあからさまに手を抜いているような試合だったから、彼女のプレイヤーとしての力量には、さほどの疑問符は付けられていない。

 そんなことばかりしているから、ひとりぼっちにならざるを得なかったんだろう、と旭はため息をつく。

 今はそうではないにしても、だ。

「ま、回数なんてどうでもいいんだけど──私だって負けるんだよ。さっき言ったろ? 負けた時にキッチリその原因を受け止めろって」

「ああ……」

 羽咲綾乃に負けた事実はともかく、その原因にはこれっぽっちも納得していない。

 益子泪はその敗因を探して、つまりそれが現時点で羽咲綾乃に劣っているポイントだと認識した。

 インターハイから今までの期間で、そのポイントを修正することが出来たかどうかはともかく──。

「あいつは、自分の形で戦ってない」

 そう言ってディスプレイを睨み付ける益子に、旭は顔面にグーを入れてやろうと思ったが、ことのほか真剣な眼をしている彼女に、ひとまず思いとどまる。

 言い方はきついが、それは旭にも、荒垣にも、普遍的に理解できる話だ。

 他人との距離を測る前に、まずは自分がいまどのような状態で、どこに居るのかを正確に把握しなければならない。

 空高くから自分自身を俯瞰する『もう一人の自分』がいて初めて、それは成し得る。

「狼森は、今……」

「苦しいだろうな──自分が見えてないから、相手も見えない」

「だったら、どうすればいいのさ」

 旭は握りこぶしを準備して、膝に髪を擦り付ける益子に問う。

「どうしようもねえよ。一回壊れるしかない」

 壊れる──。

 荒垣にとっては嫌な響きだ。

 それは膝の事ももちろんだが、それよりも『神藤綾乃』に壊されてしまった記憶によるところが大きい。

「バドミントンなんて基本壊し合い、削り合いだろ。メンタルか、物理かは知らねーけど。二人で楽しく遊んでたら勝手にどっちかのオモチャが壊れました、ってんじゃねーからさ。こっちからぶっ壊しにいってるワケだから、全部」

 敢えて厳しい口調を選んでいるのだろうということも、その言葉自体も、荒垣にはよくわかる。

 倉石と望によって、自分がその標的になったこともあった。

 手など抜かれていない。

「あいつが今のまま、唯華を目標にしてる限り、選手として伸びねえよ。もう来年はいねェんだから」

 

 

 

 

 

(クソっ……なんでだ……)

 自分の情けなさに思わず泣きそうになるが、それよりも、プレイの出来の悪さに苛立つ方が、心の中身を圧迫している。

『自分を見ろ』と言われても、心の蓋を開けて底を浚ったところで、出てくるのは疑問符ばかり。

 コートの上に意識を戻してみても、2-8というスコアに、ほとんど心が折れかけている。

(考えろ──とにかく点を獲る、打開策を……)

 劉知栞のロングサービスを追って、狼森はステップバック。

 コースは厳しいのかもしれないが、彼女の脚力と反射神経をもってすれば、バドミントンのコートは狭い。

(これを返して……──返して……?)

 戸惑いを含んだリターンに、劉知栞はラケットを振り抜く。

 逆サイドへのドライブカット──だが、追いつける。

「ッッそォ──!」

 面の先端付近に引っ掛けたそれは、いびつな軌道で劉知栞の頭上を越えていく。

 準備万端と言った面持ちで、彼女はまたしても逆サイドへシャトルを送った。

 軌道の低いドライブクリア。

(後手に回ってる、ってレベルじゃねぇや……)

 自分がこれほど弱かったのか、と狼森はシャトルを追いながら考える。

 今年のインターハイ。

 目標にしてきた志波姫にとって最後の夏。

 つまりそれは、狼森にとってもひとまずは、彼女を追う旅の区切りになるはずだった。

 だが、どこからともなく表れた一年生、羽咲綾乃に負けてしまう。

 得意なネット前のスピード勝負、そこで生まれた逡巡から選んだたった一回の『後退』で──。

 それきり、勝利の女神に見放されたように、狼森あかねは急速にプレイの鮮度を落とす。

 第一セットは、ダブルスコアになっていた時期もあったのに。

 あのクロスファイア一本で──じゃない。

(『引いた』瞬間に、それまで防戦一方だったアイツに『手番』を回しちまった……それが試合の流れを変えた)

 判断を間違えて、冷静さを失ったという自覚もある。

──本当にそうなのか? それは『間違えた』のか?

 突如現れた一年生は、インターハイ常連の豊橋アンリさえも下して、一回戦から勝ち上がってきた。

 対する自分は二年生で、まだ二試合しかこなしていなかった。

 あんなチビの一年なんて、どうせ体力も切れかけていただろう。

 最初からエンジン全開で、ネット前勝負で磨り潰してしまえばよかったのに。

 事実、序盤はそうなっていた。

(どうして……『引いた』んだろう、羽咲に……)

 その判断は、一見クレバーだ。

 結果論でこそ、『間違えた』と言えるだけかもしれない。

 あの巡目で何か手を打たなければ、今の自分のように大差を付けられて第一セットを落とし、第二セットも焦りを隠せないまま戦うことになってしまう。

 揺れる心は、疲労を増幅させる。

 羽咲にとって、『何か』を起こしてターニングポイントを作るなら、あの瞬間しかなかった。

 もたつく足を動かして、相手の十八番のスピード勝負に乗る。

 そして狼森が『引く』判断をした瞬間を読み、フォア奥へのロブに先手で足を踏み切った。

(そこから、クロスファイア──)

 足を止めて冷静に考えれば、『打たせない』という選択もあった。

 今まで通りのネット前勝負を続けていれば、羽咲を磨り潰せる。

 (でも、『引いた』──当たり前だろ!? データのない相手が大差のビハインドでパターンを変えてきたら、志波姫だってそうする。五種類のクロスファイアがあるとわかってれば、打たせやしねェが……──)

 ハッとして、狼森は足を止める。

 間延びした走らせ合いの一手でしかない、何の変哲もないロブがコートに落ちたことに、劉知栞は怪訝な顔を見せた。

 2-9。

 

 

 

 

 劉知栞が、『無風で勝ち切れる』という確信を得た、狼森のブレーキ。

 しかし、試合は一気に流れを変える。

(狼森の雰囲気が変わった──)

 ようやく気付いたか、と倉石は口角を上げる。

 フィジカルはともかく、メンタル的に狼森の最大の弱点ともいえる、輪郭の見えない相手を過大評価してしまう傾向。

 彼女ほどのスピードがあれば、必然的に対戦相手よりも思考時間は長くなる。

 素早い出足でさっさと打ち返し、相手がいかに彼女の足を止めようかと思案している間に、次の次の次ぐらいまで一気に形をイメージする。

 それは、志波姫と同じレベルに行くために彼女が取り組んでいた鍛錬のひとつだ。

 だが、それが今は足かせになってしまっている。

(本来こういった情報の乏しい相手には、とりあえず自分のストロングポイントを押し付けていくしかないんだ。何度もやり合った、同じ日本の高校生じゃない──)

 その意味で、荒垣の取った行動は、彼女にとっては苦し紛れでしかなかったかもしれないが、実に正しいと言えた。

 それはスコアが証明している。

 そしてまた、狼森が第一セットを落とし、このセットも大差を付けられているのも、同じ理由だ。

(しかし、今それは消し飛んだ。点差は大きいし、ここから逆転勝利と言うのは、流石に中国代表は許さないだろうが……)

 先ほどまで比べると、狼森のリターンが速く、そして強くなっている。

 そこから上手く攻撃に繋げられないのがもどかしいところだが、これだけ速く高い位置でシャトルに触り続けていれば、早晩ミスも犯すだろう。

 案の定、差し込まれた劉知栞は中途半端なクリアーを上げてしまい、狼森が上手くサイドライン一杯に叩き落した。

 久方ぶりの得点に、ベンチの豊橋も大きな声で彼女を励ます。

 3-9。

(相手をデカくするな、ってことか……)

 次は何が飛んでくるだろう、と最初から受け身になってしまっていた今までの試合展開を、狼森は素早く頭の中でリプレイする。

 勿体ないことだ、と唇を噛むが、悔やんでも仕方がない。

 ショートサービスを打ち、彼女は素早くネット前に陣取った。

 ここが私のホームポジションだ、と言わんばかりに。

 スピードがある代わりに上背のない彼女に対して、劉知栞は冷静さを取り戻して距離を取る。

(ちっと無理やりだが……行けっ!)

「──ッ!」

 後ろに跳びながらのカットスマッシュ。

 球足は微妙に長いが、劉知栞の体勢を崩すには十分だ。

 ここまで、カット系は一本も見せていない。

 それだ、と倉石は膝を打つ。

(スピードと引き換えに強打が通用しないなら、カットで補う。それでいいんだ)

 ラリーの中で自分が優位に立っている瞬間があれば、本来の狼森はそれを決して手放さない。

 それは相手の思考を奪うほどのスピードと、走り負けないスタミナの賜物だ。

 粘り強さで言えば豊橋と肩を並べるほど──二年生にして。

 完全に『上手くやられた』ポイント以外すべてをモノにして、狼森は劉知栞の背中を伺うところまで寄せて、インターバルに入る。

 9-11。

 

 

 

「それでいいんだよ、それで」

 首元が蒸れてきたのか、益子は旭の膝から上半身を起こして、胡坐をかく。

 ディスプレイを見る目は、さっきよりも随分穏やかだ。

「狼森は結局、スピード勝負しか勝ち目がないってこと?」

「今は、な」

 お前も昔はそうだっただろう、と言いたげに、益子は荒垣の方を振り返った。

『技』の極致にいるのが志波姫ならば、『力』にすべてを委ねているのがスピードの狼森であり、少し前までの、パワーの荒垣だ。

 多少劣るにせよ、そのどちらも兼ね備える益子が言うことには、説得力がある。

 幼い頃から、後の三強は試合で相まみえていた。

 当時まだ身体の小さかった志波姫には、容赦なく『力』をぶつけて押し潰す。

 身体は大きいが、ややぽっちゃりとして技術的にも未熟だった津幡に対しては、自由にやらせない躱しの『技』で翻弄した。

 その三強の関係性が、今もなお続いている、というのが大多数の見方だ。

「一年で十センチも伸びることは無いだろうけど、ここから『上』でやってくなら、絶対にスピードだけじゃ勝てないし……それはアイツも理解してると思うけどね」

 

 

 

「悪い──頭に血が上っちまって……」

「いいんだ、狼森。まずは『自分の味』を出していくことだ。もう覚えただろう?」

 うん、と狼森は頷くが、その表情は少し暗い。

 インターバル明けは、変貌した──というよりも、これが本来の狼森の姿だが──相手に対応する策を得て、劉知栞は戦うだろう。

 翻ってこちらは、打てる手立ては特にない。

「まだ終わったわけじゃないぞ?」

「……んだ、な。頑張る」

 とはいえ狼森も、どこかで察している。

 劉知栞は強い。

 恐らく今まで出てきた中国選手の誰よりも、トータルバランスに優れていて、完成度の高い選手だ。

 志波姫とまでは言わないが、プレイスタイルは似ている。

 だから余計に、狼森は自分の姿を見失ってしまう。

 志波姫に勝つ──高校生のうちには、そのチャンスは潰えてしまった。

 フィジカルに恵まれない自分が、上のステージで活躍できる自信もない。

 焦りや、喪失感は小さくなかった。

(けど……)

 自らのウォームアップもそこそこに、ベンチから戦況をじっと見つめる志波姫に、これ以上みっともないところは晒せない。

「志波姫」

「……ん?」

「もうちょっと待ってろ。……最後まで、戦ってくる」

 狼森はラケットを握る手に力をこめて、コートへ向かう。

 その背中に声を掛けるでもなく、志波姫は表情を崩さない。

 キリっと締まった口元と、涼やかだが意志の強い瞳。

 倉石は彼女の心中に思いを馳せた。

(集中に入っている……か。狼森の試合がどうあれ、既に団体としての勝ちは決まっているが、やはり責任感が強い……)

 おそらく、狼森は敗れる。

 彼女にとって全く収穫のない試合では決してないだろうが、その一試合が、『次』の選手によっては大きく影響する可能性もある。

 ひとまず志波姫なら、その心配は薄い。

 彼女は当たり前のように、いつも通りの試合運びをするだろう。

 

 

 

 試合が再開してすぐに、倉石達の読み通り、劉知栞はスタイルを変える。

 速いラリーにはとことん付き合わず、前への誘いも無理には拾わない。

 狼森が得点してはいるが、暖簾に腕押しと言った調子で、劉知栞はすぐに失ったポイントを取り返す。

(メンタルが強い……それに試合運びもクレバーだ)

 相手の実力を正確に判断する能力が、『上』のレベルでは意外なほど重宝される。

 志波姫のそれは、倉石達から見ればまだまだ『慎重すぎる』という評価になる。

 自分をやたらと過大評価しないのは美徳ではあるが、謙遜し過ぎるのもまた良くない。

(その一点においては、劉知栞は志波姫さえ上回る。中国のこの世代での旗頭なのだろう……)

 彼女と狼森がマッチアップするシングルス2は、倉石達のような高校の部活指導者も頭を悩ませるポイントだ。

 ここに気兼ねなくエースを置ける高校は強い。

 今回は勝敗がどうあれ最後のシングルス3まで戦うことになっているが、高校の大会では三つ先勝すればその後の試合は無くなってしまう。

 だから、エースはシングルス1に、というのがセオリーだ。

 だがそうすると、ダブルスとの重複エントリーができないというデメリットがある。

 フレゼリシア女子のように数十人もの部員を抱える強豪校ならそれでも問題は無いだろうが、倉石の逗子総合や、横浜翔栄、宇都宮学院では、そうはいかない。

 芹ヶ谷・笹下と言う世代屈指のペアを擁する港南高校は、自動的に彼女たちをラスト二戦に配置したし、横浜翔栄も同様だ。

(当然リスクはある。シングルス1までで決まってしまうことはもちろん、そこに『一段落ちる』選手を配置して、相手のエースにコテンパンにやられてしまったら……)

 高校生のレベルで、前の試合の『流れ』を断ち切って、自分の試合に集中できる選手はそう多くない。

 荒垣は第一セットこそ難渋したものの、第二セットからはうまく自分のペースを掴むことが出来た。

 対して狼森は、彼女の試合の流れを悪い方向に『切って』しまう。

 自分のストロングポイントに縋ることは悪い事ではない、むしろ材料が揃わないならそうするのが自然だと、認識するのが遅かったのだ。

(だが、そこにきちんとフォローを入れなかった我々の責任は大きい。勝ちが決まって浮かれていたわけでは決してないが……)

 スコアは絡み付きながらどんどんカウントアップしていく。

 とうにデュースにもつれ込んでいるが、狼森の脚に衰えは見えない。

 第一セットで、彼女が脚を使って追い込んでいくシーンはほとんどなかったから、当然と言えば当然だろう。

 ここに至っても劉知栞は冷静そのもので、上手く狼森の矛先を逸らしながら、必ずマッチポイントを先に握っている。

 どうにかこうにか追いついている狼森だが、肩で息をしていて、サービスの間合いも長いところから見ても、限界は近い。

 表情は充実しているが、敗北の事実はきちんと受け止めなくてはなるまい。

 それは狼森だけではなく、倉石達コーチ陣の責任でもある。

 ホテルに戻ったら、きちんとフォローを入れてやらねばと、倉石は自分の不徳を恥じる。

「──志波姫」

 名前を呼ぶと、ワンテンポ遅れて顔を上げた彼女は、倉石に笑顔を見せる。

「なんですか、監督?」

「すまない。勝ってくれ──普通じゃなく、勝ってくれ」

 きょとん、とした顔を見せた後、志波姫は意味深な含み笑いを見せて、返事する。

「もちろんですよ?」

「……頼む」

 倉石がコートに目を戻すと、試合は終わっていた。

 ネット前に飛び込んだ狼森に、劉知栞は手を貸し、彼女の肩をポンポンと叩いて、健闘を讃えている。

 26-28。

 審判と握手の後、コート中ほどでぐっと背中を逸らして、狼森は息を吐く。

 何かを吹っ切ろうとしているような。

 そうしてぐるりと観客席を見回して、望たちの角度で一瞬目線を止めた後、もう一度息をついて、コートを後にした。

「わりい、監督──負けちまった」

「……よく戦った」

 今は、それだけでいい。

 神藤コーチが彼女の肩を抱き、アップゾーンに下がる。

 変わってコートに立つのは、日本のエース──。

 

 

 

 



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16th game Flaming June

(一手違いのエースの後だ。さほどの選手は出て来ないだろうとは、思っていたが……)

 倉石は、淡々と進行する試合を眺める。

 頭の働きの少なさで行けば、まさに『眺める』という表現が適切だった。

 中国代表の最後に名を連ねた張緋は、持ち前の高身長から、雑ではあるが受けがたい強打を繰り出す。

 志波姫でなければ、もっと一気に点数を稼いで、最初のインターバルまでを走り抜けることが出来ただろう。

 11-9。

「……うむ、悪くないぞ、志波姫」

「はい」

 短いやり取りの後、志波姫はすぐにベンチに腰を下ろし、シューズの紐を結び直す。

 倉石にとっても、今日の仕事は、ほとんど終わった。

(まあ……志波姫の事だ。相手をじっくり見て、正確に測る。今はその段階だろう。ここから点差は徐々に広がっていく──)

 最後の試合とあって、観客席の熱量も徐々に落ちてきたようだ。

 会場の反対側ではロシアがポルトガルを一蹴し、既に全ての試合が終了している。

「ロシアが勝ったぞ」

「そうですか。明日の一試合目、大事ですね」

「ああ……」

 どこまで本気にしているのだろう、と倉石が訝るほど、志波姫は飄々としていた。

 益子と並んで、こうした大舞台での経験は他のメンバーよりも多くあるにせよ、それでも国旗の入ったユニフォームを纏って戦うことなど、そうそうなかったに違いない。

(自分の姿を変えない。『揺れない志波姫』だからこそ、フレゼリシア女子は強い……)

 東北地方でバドミントンをする中学生にとって、彼女の母校は狼森の青森高田と並んで、特別な存在感を持っている。

『上』を目指すプレイヤーであれば誰しも憧れを抱いているが、その全てが入学を許されるかと言えば、決してそうではない。

 入ってきた新入生は誰もが将来有望とされ、神童扱いを受けて来た選手たちだ。

 表に出すか出さないかはともかく、鼻っ柱の強い選手も多いだろう。

(だが、少なくともあのインターハイでは、そうした不協和音は見られなかった……)

 十八歳にしては異常なほど高いキャプテンシー。

 プレイスタイルと性格はリンクするが、彼女についてはもっと深いところで、バドミントンと彼女自身が結びついている。

 志波姫とて無敗で三年間を過ごしたわけではない。

 自身の肩の故障もあり、また益子泪という稀代のライバルに対しては負け越している。

 そうした時、負けを素直に認めて受け入れることが出来るのも、また彼女の器の大きさだろう。

(自分を見失わない、だからプレイも堅実だし、とにかくミスが少ない……)

 主審のコールアップに応じて、志波姫は席を立つ。

 倉石は何も言わない。

 もっと上の世代をずっと見ている監督なら、何かしら言うべきことも見つかるのだろうが。

 もちろん彼にも、志波姫のプレイに注文を付けたい点はいくつかある。

 ただしそれは、高校生にやらせるには余りにもレベルの高い話だし、そもそも今は志波姫が自分の形をきちんと出したうえで、スコアは勝っているのだから、野暮な提案をするまでもない。

 

 

 

 

「益子はさ──」

「おーん?」

 荒垣自身は、志波姫と戦ったことはない。

 だから、疑問をぶつけるべきは彼女だ。

「志波姫とやる時、どんな感じなの?」

「どんなって……普通だよ、別に変わったことはしない」

 首を傾げながら、益子はこれまでの志波姫との対戦を可能な限り思い出そうとした。

 だいたいの対戦相手のことは、風呂に入って寝てしまえば忘れる彼女だが、志波姫については、負けた数も多かったから、なんとなく覚えていることもある。

「感覚に任せて突っ込む。それを受け切られたら負け、攻めきったら勝ち……みたいな? その日の調子次第だよ、ぶっちゃけ」

「……」

 何回もやってるからな、と益子は呟いた。

「──基本、アイツは『受け』に回る?」

「回るね、絶対。何回もやってる私でもそう。他の、よっぽど実力差があるような選手なら別だけど……」

 荒垣のようなタイプなら案外、志波姫から勝ちを拾えるかもしれない、と益子は思った。

 だが、それを本人に直接言うのはなんだか恥ずかしいし、拾えるにしても、せいぜい十のうち二つぐらいだろう。

 益子は、志波姫への『対策』を本気で考えたことは今までないが、これまでの彼女の戦いぶりや、実際に手合わせした時の印象からは、弱点は何も見つからなかった。

 勝てた試合も当然あったが、それは単純に自分の調子が良くて、志波姫の出来が悪かったり、体力の問題だったり──。

「なんつーか……相手を本気にさせないタイプだよな。荒垣とは逆」

「『本気にさせない』……?」

 荒垣は少し沈黙を作って、その言葉の本質を探す。

 益子をよく知る旭には、その意味は何となく分かった。

(確かに、相手を萎えさせるのが上手い、志波姫は……荒垣は逆に、相手を持ち上げるような──)

 荒垣がコニーと繰り広げた戦いは、旭も少しだけ見ていた。

 それは、彼女のパートナーが負けていく姿を直視することが出来なかった、僅かな時間の間だけだが、それでも二つのコートの熱量には大きな違いがあった。

 どこか湿っぽく、かつての王者が骸を晒すことを予期した観客の集う益子と羽咲のコートに対して、荒垣とコニーの舞台は、派手なスマッシュの応酬ということもあるが、コートフロアも観客席も熱気に満ちていた。

「さっきのルービックキューブの話じゃねーけど、アイツと試合するとたまに、萎えるって言うか、テンションが落ちるんだよ」

 もちろん、志波姫が益子に対して何か場外戦術を仕掛けたわけではない。

 試合態度自体は真摯そのものだ。

 ただ、バドミントンのプレーの上で、やりたいことをやらせてもらえない状態に陥ってしまうと、益子は急にモチベーションを下げてしまう。

 そういう気持ちにならなかったときは、確かに良い結果になった。

「こっちの手を全部出させて、それを潰してく。全部潰されたらあとはじゃんけんだし、そんなのつまんねーだろ?」

「……まあ、ね」

 後だしじゃんけんにならないのは、あくまでも益子レベルの話だろう。

 一般的なプレイヤーなら、絶対に勝てない作業の繰り返しに、すぐさま音を上げる。

 たとえ第一セットを落としたとしても、鮮やかに逆転勝利を飾る──『後半に強い志波姫』と言う評価は、対戦相手のポテンシャルが『後半に減衰されてしまう』ということの裏返しだ。

 益子やコニー、羽咲のレベルならば、第三セットまでもつれることもあるのだろうが、張緋はそれほどでもない。

 プレースタイルは荒垣によく似ている。

 フレゼリシア女子の中でも、コニーや雄勝、矢本なども同じタイプだから、こうした手合いへの対策は既にある程度パターン化しているのだろう。

 相手を見るための『誘い』も少なく、志波姫が徐々に引き離して第一セットを終える。

 21-16。

 

 

 

「さすが、日本のエースやな。望ちゃん、明日唯華ちゃんと組むんやろ?」

「えっ? ああ、そうだね……」

 あれほどのプレイヤーの隣にいて、自分らしくプレーできるだろうか。

 望は既に明日の心配をしている。

 松川もそれを咎めるでもなく、すっかり緊張を解いて、ノートも脇に置いていた。

「なあんか、ちょっと緊張してくるわぁ……」

 言葉と口調が全く合っていないあたり、久御山の大物感に苦笑しつつも、望も同意する。

 彼女にとっては、それは本物の緊張だ。

 ナーバスになっていたら、志波姫はたぶん助けてくれる。

 だが、それはあまり喜ばしいことではない。

 一人のプレイヤーとして、戦える形をしっかりと手にしなければ、ここから『上』のステージには行けない。

 望の胸中にあるのは、そうした焦りだ。

 無理もない。

 自分にこんな大きな大会の経験は無いし、海外の選手と試合をしたこともない。

 己の実力が、『世界』という枠でいったいどのレベルに位置しているのか。

 それを測るための物差しを、まず得なければならない。

(……志波姫の戦い方は、いつも通りに見える……世界レベルでも一緒、姿を変えない)

 インターハイで望と相対した時と同じように、最初は相手を探りながら、叩けるポイントをしっかりと捉えて、徐々に相手を追い詰めていく。

 荒垣のような『押し込む』と言う形ではない。

 直接手を下すショットは少ないが、一つ一つのシャトルに意味が透けて見える。

 それは、望が敗れたあの試合と同じだ。

 設定されたコースを嫌い、志波姫の誘いを蹴っても、結局ポイントは奪われてしまった。

 張緋も、無理に強打を狙ってアウトになるミスが目立ち始める。

 志波姫が今一つ走らないのは、五戦目ということもあって準備も難しく、既に試合が決まっている点からもちょっぴり『アガらない』のだろう、と望は考えていた。

 8-3。

 

 

 

 第二セットの前半を終えて、完全に試合は『流れ』が決まっていた。

 11-7と必要十分なリードを得て、汗も少なに志波姫はコートを後にする。

 相手方のベンチも、これは完全に相手が悪いと見て、張緋の集中力をキープしようとするかのように静まっていた。

 特に言うこともない倉石は、手持無沙汰にノートをめくる。

 試合で気付いたことをメモするためのスペースは、今までの五試合の中でいちばん空白が多かった。

(この子を指導できるコーチなど、居るのか……?)

 フレゼリシア女子の亘監督は、年齢もあってのことだろうが、なかなかの放任主義だと聞く。

 ただ、まさしく人生の先輩として、年端も行かない少女たちによく響く言葉を、たくさん打っている。

 数十人と言う日本屈指の大所帯を擁する強豪。

 当然、試合に出られない選手が多数を占めるが、途中でドロップアウトする選手が極めて少ないのも、彼女の母校の特長だ。

(だが……昨年のことか。宮城で有望選手と言われた一人が、部を辞めた──)

 聞けば、インターハイにも応援に来ていたらしい。

 埼玉栄枝を始めとした、日本の高校バドミントンにおけるトップグループの学校は、全国から有力選手を集めてくる。

 倉石の率いる逗子総合のスカウト網は、基本的に関東一円にとどまる。

 望を宮崎に送り出す前に、群馬の中学生を一人引っ張ろうとしたが、それは特異なケースだ。

 横浜翔栄に神奈川のトップを奪われたという危機感から、学校が付けた予算によるものだが、奪還を成した今年以降は、また近隣都県のみのスカウト体制に戻ってしまうだろう。

 申し訳程度に戦術の確認と、体調のチェックを終えて、志波姫をコートに送り出した倉石は、望たちが中学三年生だった頃を振り返る。

(あの年は……おかしなことだらけだった) 

 橋詰英美が越境で横浜翔栄に来たことは、序の口に過ぎない。

 最大のトピックは、益子泪が地元埼玉の強豪ではなく、宇都宮学院に進学したことだ。

(実は前年から、既に栄枝がツバを付けていたのは、我々関東の指導者の間では有名な話だ……もっとも、俺も益子泪を欲しがったうちの一人だが……)

 当時の彼女の実家があった指扇から逗子総合までは、軽く見積もっても二時間はかかる。

 それも六時前の電車で出ないといけないのだから、到底朝練など参加できるはずもない。

 当時はまだ人懐っこい性格をしていた彼女だが、倉石は流石に二の足を踏んだ。

 基本的に通学しかない逗子総合に彼女を呼ぶことは、体力や時間的な制約が大きく、手に余ると感じたからだ。

(結局、引っ越しだの、兄貴をバーターで取れだの……いろいろとあって、益子泪から手を引いた学校も多かった──)

 そこにとどめを刺したのが、複雑な家庭環境だ。

 結局彼女は、全国レベルではさほどの存在感のない宇都宮学院に入学した。

 実際団体戦も出られていないし、益子泪のスケールからすれば、高校での戦績は振るわなかった、と言う評価になる。

(もちろん、それは他の選手がどうこうという話ではないし、矢板先生が悪いというわけでも決してない──それはまあともかく……)

 橋詰を引っ張り、そこそこの選手だった重盛も獲った横浜翔栄・木叢監督の辣腕にも舌を巻くが、倉石も石澤望という宝石を手にしている。

 荒垣を獲らなかったことは後悔しているが、だからと言ってそれを連覇が途切れた言い訳にするつもりは毛頭ない。

(ただ、埼玉栄枝はもう一人、実力者に手を付けていた……志波姫唯華)

 当時の彼女はまだ線の細さも残していたが、既にその代名詞ともなっている、負けない粘り強さと、理性的なプレイスタイルの片鱗は存分に見せつけていた。

 結局幼馴染と同じフレゼリシア女子を選択したわけだが、それが彼女にとって一〇〇パーセント納得のいく決断だったかは、誰にもわからない。

(人間は、二つの人生を同時に歩むことは出来ない……)

 分岐点の一つ一つに後悔を残しながら、人生のレールを進んでいく。

 だが、細やかに自分の針路を制御すればするほど、後悔と言う名の内容物は外に流れ出てしまい、『己』は空虚になる。

 それを補給する何かがあればいいが、少し前までの望も、そうした状況だった。

(力感がない──意図は鮮明に感じるし、パッションもある……だが、なんだろう、この違和感──)

 既に試合は決して、観客席の冷め様も見れば、それは確かにテンションが下がる部分もあるだろう。

 長すぎる待ち時間も、パフォーマンスを落とす要因になりうる。

 ただ、あまりにもプレーが軽い。

(変幻自在、と言う意味での軽やかさももちろんある。それは石澤が完全に翻弄されてしまうレベルで……別に泥臭さがないことが必ずしも悪いわけじゃないし、特に今はそういう状況でもない。シンプルに攻めて、スマートに勝ち切る。それで必要十分なんだが、しかし……)

 もちろん明日の事を考えれば、遮二無二ポイントを奪いに行って圧勝する必要もない。

 体力を温存して、慣れないダブルスで、恐らく平常心では立てないだろう望をサポートするにも、余分なパワーは使わねばなるまい。

 理解は出来る。

 彼女のプレーも、そうしたスタイルもすべて。

 コートの外から見ているということもあるが、同じ高校生の選手に比べれば、倉石達はみな大人だ。

 バドミントンの知識や経験も、ハッキリ言って比較対象になどならないし、人間としての修羅場も多くくぐっている。

(こんな感じ、と言えば確かにそうだ。だが改めて敵でなく、味方として見ていると、どうにも『閉じて』しまっている。もちろん社交性に問題はないし、リーダーシップもあるが……)

 仲間になってからの期間が短いからというのは、指導者として言ってはいけないことだ。

 倉石はキーの変わらない試合を見つめながら、彼女についての『答え』を探す。

 

 

 

 

 夜も更けてきて、益子は旭の膝で微睡んでいる。

 流石にイビキをかいてはいないが、画面を見つめる瞳はすっかり光を失って、瞼が深くかぶっていた。

 荒垣も、本当はベンチで応援しないといけないのだろうと思いつつ、このまま二人を物陰に置いておくと、何かが起きるかもしれないと考えて、この場を離れられないでいる。

 なんとなく、それを後学のために見てみたい気持ちもあるが、羽咲ならともかく、志波姫にアドバイスなど思いつかない。

 と、立花コーチが顔を覗かせる。

「ん?」

 ふっとよぎった影に、益子が目を覚ました。

「荒垣、お前膝は?」

「いいよ、悪くない。でも、明日は休みでしょ?」

「ああ──そのことなんだが……」

 立花コーチが言うには、できるだけ荒垣の『実戦』のペースを変えたくない、とのこと。

 予選リーグは三日連続で、次に荒垣がコートに立つのは最終のポルトガル戦だ。

 そこまでは日本を発つ前にも伝えられていて、予定通り。

 だが、問題はその後だった。

「決勝トーナメントの前に、一日休みがある。明けて決勝一回戦なんだが……」

 順番通りで行けば、荒垣が『出る』日だ。

「……あ、そうすると」

「そう。準決勝は出れないんだよ。一日おきに試合に出る、これは悪いが決定事項だ」

 コーチ陣全員で話し合った結果だ。

 もちろん、荒垣も完全ではないが納得している。

 なによりも自分の状態を気遣ってくれての処遇なのは理解しているし、それに反発するほど今の彼女は子供ではなくなっていた。

 何より、将来への希望も持っている。

「その代わりに、決勝一回戦を休んで、準決勝だけ出る、って手もある」

「……うーん」

 荒垣は悩む。

 要するに彼が言いたいのは、『準決勝』が最大の山場になるということだ。

 今のスケジュールでは、そこに出場できない。

 それは日本代表にとって痛手だ。

 ただし前提として、三日連続で試合に出ることはNGが出ている。

 つまりは最大の難関である『準決勝』を突破するものとして、一回戦と決勝へのエントリーをするのか、あるいは一回戦はおおよそ勝ちが見えているから、『準決勝』に日本代表チームのベストオーダーで臨むのか。

「すぐには答えがでないだろう? だから、予選が終わるまでに決めてくれ」

「──アタシが決めるの?」

「まあ、そうだな。もちろん誰かに相談してもいいが、一番優先すべきは自分の膝の状態だ。それだけは忘れるな」

「うん……わかった」

 それだけ言うと、立花は出て行った。

(……)

 考えをめぐらす荒垣に、益子が話しかける。

「お前、そんな膝悪いの?」

「……まあ、今すぐどうこうってんじゃないし。ただ、この先もあるから」

「ふーん……」

 膝に不安のあるコイツより、津幡を呼んできた方が良かったんじゃないか、と益子は思ったが、それは今ここで言うべきでないと思いとどまる。

 彼女にも都合があったのだろうし、荒垣と津幡が戦えば、その星取りはおそらく拮抗する。

「まあ、あれだ。一回答え出すまで相談すんなよ、誰にも」

「えっ?」

「相談するにしても、出来るだけ仲良くない奴にしろ。私とかな」

──私は『一回戦と決勝』にしろ、って言うけど。

 益子の言葉を、荒垣はひとまず心に収める。

 珍しく正論だ。

 いや、いつもだいたい彼女の言うことは正論だが、その言い方がアレなせいで、受け取る方に正しく伝わらないことが多い。

 しかし今の言葉は、荒垣にきちんと届いた。

(準決勝を休め、ってことは……ちゃんと連れてってくれるってことかな? 決勝に──)

 

 

 

 

 21-14。

 あまりにもあっけなく試合は終わり、全員がベースラインに並んで礼をする。

 その光景を見つめながら、倉石はいくらかの充実感に浸っていた。

(まあ、ともかく……志波姫はふたつ『仕事』をした──)

 勝利する、と言うオーダーは団体戦の流れを考えても、エースと言う位置づけからもほとんど義務に近いものだった。

 狼森の敗北は決して無価値なものではないが、二連敗で明日を迎えるとあっては、望にかかるプレッシャーも全く違うだろう。

(ひとつは、『普段通りの試合運び』で中国代表に勝利する、というミッション。腕前はともかく、張緋がわりと単純なパワータイプで、国内でも似た傾向の選手との戦いが多くあったというのは大きい……)

 いつも通りのプレーをすれば、結果はついてくる。

 付き合いの長い狼森にそれを見せた、ということもあるだろうし、他の誰でもない志波姫自身がそうすることによって、豊橋や久御山など、大舞台での経験の浅い選手にひとつの指針を示した、というポイントも見逃せない。

 ただ、もうひとつの『仕事』の方が、倉石にとってはよほど重要だった。

(21-16、21-14と言うこのスコア……これはインターハイ団体戦での石澤との試合と逆──)

 意図してそのスコアにしたのかは、彼女に訊いてみなければわからないが、いちいち掘り下げるのも野暮と言うものだろう。

 ともあれ、倉石はこう考えている。

(中国代表に対してさえ、『いつもの志波姫』──すなわち、試合後半から徐々に相手を追い詰めて、ポイントを伸ばさせないの戦い方……それが石澤相手にはできなかった。つまり、それだけの実力をお前は備えている、そうした『物差し』を提示した……)

 少し穿ち過ぎたか、と倉石は苦笑し、立花達に撤収を促した。

 

 

 

 

 まだ祝勝会には気が早いが、ホテルの食事は相変わらず豪勢だ。

 あらかた皆が食べ終えた頃合いに、倉石がホールの正面に立つ。

「さて……これで中国に勝って、予選一勝だ。みんな、よくやってくれた」

 狼森は多少浮かない顔をしているが、敗戦を引きずっているというよりも、明日が待ちきれないと言った面持ちだ。

 気持ちが萎えていないことはわかるが、このままでは気負ってしまうだろうし、後で個人的にフォローを入れてやろう、と彼は考える。

「明日のロシア戦も同じ時間からだが、明日はレセプションは無いから、午前中はゆっくり寝てくれ。オーダーを発表しておく」

 ホテルの会議室に備え付けのホワイトボードに、倉石はD1からS3までのオーダーを書き込んだ。

「まず、荒垣と羽咲は休みだ。それから、ダブルス1だが──この二人で行く」

 二戦目にして、自分の名前が出たことに望は安堵し、それからいくらかの緊張を覚える。

「石澤も志波姫も、ダブルスは少しブランクはあるだろうが、落ち着いてやれ」

「はいっ」

 最近はずいぶんと素直に返事をするようになったものだと、倉石は笑顔を作る。

 次のダブルス2は、いつもどおりの益子・旭ペアだ。

「今日は少し特殊な試合運びをしたが、明日は普段通りでもいいだろう。それから……」

 シングルス1に書いた『狼森』の文字。

 倉石はその隣を、拳で軽く叩いた。

「──ここで予選突破を決めるつもりで、俺はいる」

 年齢はひとつ下でも、今日は負けてしまったとしても、お前は必要な戦力だ。

 得たりとばかりに狼森は頷くが、表情はまだ硬い。

「シングルス2は久御山。勝ちが決まればの話だが、ここは試運転の気持ちでいっていい。ポルトガル戦はシングルス1で行ってもらう」

「おっしゃ!」

「ラストは豊橋だ。どういう形で回ってきても、ベストを尽くせ」

「はい」

 全員の表情を確認して、倉石は頷いた。

 荒垣はともかく、外された羽咲は不満に思うかもしれないと彼は考えていたが、それほど気にもしていないようだ。

 この代表チームの中では、自分が抜きん出た存在では決してないと、理解しているのだろう。

「オーダーはこれで以上だが……ロシア代表の情報も伝えておくか?」

 倉石は選手たちとは別のテーブルにいるコーチ陣に目線を送る。

 別の方向から『聞きたい』と声を上げたのは益子と望だった。

「うむ……じゃあ松川コーチから」

 促され、松川が愛用のノートパソコンを脇に抱えて皆の前に立つ。

「それじゃ、まずロシア代表の特徴から──」

 松川はノートパソコンで資料を確認しつつ、ホワイトボードにペンを走らせていく。

 一行目には『身長・強打』、二行目には『役割分担』。

「えっとね、ロシア代表は基本的に身長の高い選手ばかりで組まれてるの。これはいつの時代も同じ」

 それは松川や神藤コーチが現役のころから変わらない。

 他の競技でも、種目ごとの適正身長こそ考慮されるものの、国の代表として選ばれるのは、同じ実力なら身体の大きな選手だ。

 一七〇センチを切る選手は、今回の大会でも一人もエントリーされていない。

 当然それは民族的な要因もあるだろうし、ソビエト連邦時代の国威発揚を旨としていたころの名残でもあるだろう。

「まあ、ただ……実力は正直中国より落ちると思う。決して弱いわけではないけれど」

 少なくとも現代のロシアでは、国家の威信を賭けて強化に取り組んでいる種目ではない、ということだ。

 そうした事情から透けて見えるのが、松川の書いた二行目。

「あと、この『役割分担』っていうのは、ダブルスとシングルスで強化体制が結構はっきり分かれてるのね。つまり──」

 オーダーが読みやすい。

 実際戦う選手たちにはあまり関係のないことかもしれないし、それを必要以上に強く意識させないことが倉石達の仕事でもあるのだが、彼らにとっては、わずかではあるが日本代表が有利になる点だ。

 日本国内の試合では、シングルスとダブルスの重複エントリーはよくある光景だし、特に高校の部活動などでは、有力選手が七人も揃う事などめったにない。

 自然に、その濃淡こそあれど選手は、ダブルスとシングルスの両方の経験を蓄積していくことになる。

 裏を返せば、世界のレベルではそれだけ、二つの種目には大きな違いがあるという事でもある。

「そんなところかな。有千夏はなんかある?」

「ん──まあ、特には……私も、中国もデンマークも行ったけど、ロシアはね……」

 よくわからない、と軽く手を上げて、首を捻ってみせた彼女の意見は、選手たちにスッと入ったようだ。

 そもそも神藤有千夏が世界を回って、王麗暁やコニー・クリステンセンを発掘し育て上げたのは、ただ単に自分の娘のライバルを作りたい、というだけのことではない。

 それはスピリッツアカデミーのコーチングスタッフの一員としての、いわば業務委託のようなもので、そうでなくては流石に資金面も追いつかない。

 いくらエゴが強く、娘に対しては完全に道を誤ってしまったとしても、そうした『大義名分』もあって、神藤コーチは自分を見失わないでいられた。

 そんな彼女が、ロシアについては『大したことはない』と断じているのだから、それは事実なのだろう。

「とは言え、国の代表だからね。油断したらぶっ飛ばされるよ?」

 しっかりと釘を刺してから、神藤コーチは帽子をかぶり直し、腕を組む。

「──うん、そういうこと。とりたてて有名選手ってのも居ないけど……一応映像もあるから、もし見たかったら後で来てね」

 ささやかな『講義』が終わり、倉石が再び前に立つ。

「まあ、相手の研究も大事だが、あまり夜更かしはするなよ? それじゃ、解散」

 

 

 

 ミーティングが明けてすぐ、志波姫を含む数人が松川のもとに向かう。

 狼森は敢えて映像を見ないと告げて、久御山から鍵を受け取り、羽咲と共に自室に戻っていった。

 荒垣は神藤コーチと共にストレッチに行き、鍵を持たない益子と旭も、仕方なく松川のパソコンを覗く。

「こっちに出そうか」

 倉石は脇に押しやった液晶テレビを引っ張り出し、画面にケーブルを接続する。

 その間に、選手たちはそれぞれ好みのドリンクを物色した。

「これは今年のベトナムユース、会場はハノイだね」

 キリル文字に難渋している選手たちの代わりに、神藤コーチが画面を翻訳する。

「今サービス打ったのがノンナ=チェルネンコ。ペアはイリーヤ=グレヴィッチ……」

 対戦相手は浅黒い肌の、おそらく地元ベトナムの選手なのだろう。

 思い出したように、松川が補足する。

「あ、この二人も今回出てくるね……」

 その情報が果たして必要だったかどうか疑わしいほど、ロシアのペアは彼女たちを圧倒している。

 ただし、画面の右上に表示されている第一セットのスコアは思ったより競っていて、つまりはロシアのペアにも何かしらの弱点があるか、ミスが多いのかもしれない。

「そう言えば、今日他の会場は?」

 質問を上げたのは志波姫だ。

 もうすでに彼女の中で、『値踏み』は済んでしまったということなのだろう。

「順当だね。デンマークもオランダも勝った。明日オランダはアメリカとやるけど、どうだか……今のアメリカじゃ勝てないんじゃない?」

「ふーん……コニーは?」

「韓国のエースに勝ったらしいよ。まあ、あの子なら当然だけど……明日はマレーシアだし、どうかな」

 彼女たちの会話を十分も聞いていれば、望の『行きたい国ランキング』は埋まってしまうだろう。

 そう思い、望は画面に集中する。

(スマッシュは強いな、流石に……でも打たせないようにすれば)

 ロシア国内のテレビ中継がネットに流れたものと思われるそれは、ロシア選手側のコート後ろ、上空からのアングルだ。

 バドミントンの中継では一般的な角度だが、これではいまひとつ、ネット前でのプレッシャーを感じにくい。

 できれば横から、選手と同じ目線ぐらいの高さの映像を見たいと、望は思った。

 と、画面の中で『ノンナ=チェルネンコ』の方がスマッシュを打ち、そのリプレイが彼女の希望するアングルで流れる。

「あ、今の──」

 松川は頷き、望の求めたシーンまで少し映像を戻す。

(……振りが強い。ジャストミートじゃないし、多少長いけどかなり速い)

 荒垣と同じぐらいの身長が、コートに二人。

 随分狭そうに感じるが、ロシアペアはお互いの距離をやや離れ気味に保ちつつ、基本的には常に

前掛かりの陣形で、サイズの小さいベトナムペアを押し込んでいく。

「ベトナムは平均身長低いからね……バドミントンでもまだまだ若い国だし」

 結局、最後までパワーで押し切ったロシアペアが試合に勝利したところで、映像は終わった。

「……こんだけ?」

 益子がつまらなそうに炭酸水を啜る。

「寝たら忘れるだろ、泪は」

「うるせーバカ」

 二人のやり取りに笑いが広がり、豊橋がジュースのお代わりを取りに行く。

 志波姫は望の背中をぽんぽんと叩いて、彼女について行った。

「松川さん、ありがとうございました」

「ううん、ごめんね。これだけしかなくて……紙の資料はもう少しあるけど」

 早く寝たがっている益子の恨めしそうな視線を感じて、望は食堂を後にする。

 

 

 

 それからすぐにロシア選手の研究会はお開きになったらしく、志波姫と豊橋、それに旭も望たちの部屋に転がり込んできた。

 ちょうど、益子がベッドの上で柔軟体操をしている。

「──あれ、望は?」

「風呂」

「……なんで覗かないの?」

「は?」

 水音の聞こえるバスルームのドアに志波姫が手を掛ける寸前のところで、益子が彼女を引き剥がす。

 笑いながら益子に体重を乗せた志波姫は、そのまま二人してベッドに倒れ込んだ。

「……この二人だと、ちょっとヤバい感じするね」

「そう?」

 豊橋は若干引き気味にその光景を眺めているが、旭はいつものことだと気にも留めない。

 実際ヤバいのは私たちの方だ、と妙な自信をたぎらせているのか。

 彼女の表情に、これ以上詮索しない方が無難だと、豊橋は諦めてささやかな『夜食』をテーブルに広げる。

「犬みたいに腰振るわけじゃないし……」

 ぼそっと呟いて、旭はしまったと後悔する。

 まだ豊橋には早かったようだ。

 赤くなった彼女に助け舟を出すかのように、望がバスルームから豊橋を呼ぶ。

「ごめん、タオル忘れちゃった。そこにあるの──」

「私が行こう」

 狼森に勝るとも劣らないステップワークで、志波姫はスツールに置きっぱなしのバスタオルを引っ掴む。

 何か叫び声が聞こえたが、北欧のこの国は壁が厚いから、そうそう迷惑にもならないだろう。

 

 

 

 しっぽりと温まった望がバスルームから出てくると、それを待っていたかのように、誰ともなく今日と明日の試合について語り合い始める。

 特に目的を整えようとか、今日の反省をしようと言うのでもない。

「にしても、泪のアレは賭けだったねホント……」

 バツが悪そうに首を傾げつつ、益子は志波姫に言葉を返す。

「だってお前、あと荒垣と狼森だろ? あそこ勝たないと」

「まあね……」

 とにかく旭の膝が彼女の定位置らしく、旭の羽織っている毛布を自分の方に引っ張りながら、益子は続けた。

「あいつらがどうこうってんじゃないけどさ。お前だってエースだと思ってるから、勝ちに行ったんだろ?」

「そりゃあ、そうだけど……」

 まばらな観衆の中で、良く目立つようになったどこかの国の偵察班は、志波姫唯華について、その精度はともかく、方向性としてはおおむね正確な情報を持ち帰ることが出来たはずだ。

 どのぐらいの『スケール』の選手であるかは、身体つきを見れば大体分かるだろうが、その選手が何を好み、どういったメンタリティでプレイをしているのかは、実際にそれを見てみないとわからない。

 もし志波姫がエースでなければ、たとえば大学生まで含むアンダー22や、それこそフル代表でのお試し招集だったならば、情報を渡さないために、『普段通り』のプレイを見せないことを望まれただろう。

「勿体ねぇとか思ってんじゃねーぞ?」

「まさか。勝ちに行ったし──強度は抑えたけどね」

「器用なこった……」

 益子が旭の腹の方に顔を背けて、いったん会話は途切れた。

 初日に久御山が不味いと断じた緑茶を興味本位で注いでみた望は、自分の浅慮を後悔しつつ、会話の空白を埋めようとする。

「志波姫──」

「ちょっと、裸の付き合いしたのにまだ名前で呼んでくれないんだ?」

「じゃあ、唯華……」

 名前を呼ばれる前に、志波姫は一歩目のスタートを切っていたようだ。

 望が膝に重みを感じると、彼女の頭が乗っかっていた。

「なあに?」

 猫なで声に平常心で対抗しつつ、望は膝に乗った頭の主に問うてみる。

「明日、どうする? 私とダブルス」

「んー……なんかプランある? まあ相手強打メインだから、受け主体になるけど」

「そう、だね──ロブを上げて下がらせて前のカット、っていうのが定跡だと思うけど……私は速球の打ち合いで、勝負してみたいかな」

「ふーん……」

 にやついた顔を望の膝に埋めてから、志波姫は身体を起こし、彼女に顔を近づける。

 望は後ずさろうとするが、背中には既に壁が張り付いていた。

「それでいいよ、やろう」

「あ、うん……」

 志波姫の表情からは、望のプランに対する評価は読めない。

 ただ益子は彼女の回答に百点を付ける気はないようだ。

「普通に行った方がいいんじゃね?」

 うんと唸って、豊橋も同意する。

 旭は、態度を保留しているようだ。

「明らかに無理だったら途中で変えるわよ、そりゃ」

「でもさあ……」

 万が一、ということは志波姫に限って起こさないはずだが、益子が心配しているのは望の精神状態だ。

 彼女が自ら考え、選択した戦術で勝てれば、それは勿論最高の結果になるだろうし、後を受ける益子達もテンションを上げて試合に入れる。

 ただ、負けはしなかったにせよ、望のプランが通用せず、結局志波姫の主導で試合を進めることになってしまったら……。

「望はそんなに弱くないよ」

 きっぱりと言い、自信満々な表情を浮かべる志波姫に、益子もそれ以上の追及はしなかった。

 完全に納得はしていないが、これ以上グタグタと文句を言うのは、それこそ望のモチベーションを下げてしまう。

 渋い顔で口をつぐんだパートナーの髪を、旭はそっと撫でる。

 いつのまにか、少しは人の気持ちを考えてあげられるようになったらしい。

「ていうか、私は誰も弱いとは思ってないからね? あかねだって、今日はたまたま負けちゃったけど……」

「わかったわかった」

 志波姫の熱弁が始まりそうなところを押し留めて、益子は旭に連れて帰るように促した。

 夜食はすっかり食べ終えてしまって、いい加減眠かったのだろう。

「布団ぐらい自分で被れや」

「むははは」

 呆れながらもかいがいしく益子の世話をする旭を待って、志波姫達は部屋を後にする。

「……はー……」

 ドアが閉まると、益子は充実感たっぷりに息を吐いた。

「あいつも結構ギャンブラーだからな……石澤、負けんじゃねーぞ」

「うん、もちろん……ん?」

 望は自分のベッドに、青いタオルが置かれているのを見つけた。

 布団に半分隠れていたそれを広げると、『純真必勝』の文字が白く抜かれている。

「唯華のだろ、それ」

「ああ、フレ女のスローガンだね、確かに」

 インターハイ団体戦、ちょうど斜向かいの観客席に、その横断幕は掲げられていた。

 逗子総合は『常勝』の二文字だが、望は自分自身がそのスローガンに見合う戦績を収めることが出来たとは、思っていない。

「そういえば、益子は見てたの? 私と志波姫の試合。荒垣はあんたと会ったって言ってたけど……」

「一応。まあ半分寝てたけどな」

「あ、そう……」

 参考にならないだろう、と望はタオルを折りたたんで、テーブルに置く。

 ところが思いがけず、益子は言葉を繋いだ。

「クオリティは志波姫に負けてなかったよ。ただ、ラリーの組み立てがクソ過ぎた。原始棒銀じゃんって思ったよ」

「クソ……」

 原始棒銀というのはよくわからないが、益子の口の悪さは聞き及んでいたし、もう長い事生活を共にしているから、望は別に苛立つこともなかった。

 別に心に刺さったわけでもないし、ただ苦笑しただけ。

 益子も特にそれを気にしている様子もないから、ただの軽口なのだろう。

「もっと単純な奴、例えば荒垣とか路だったら、あれで潰せるだろうけど、志波姫は無理だな。もっと色々挟まないと」

「そうだよね、やっぱり……」

 もちろん私も無理な? という益子のどや顔を受け流して、望は考える。

 確かに彼女の言う通り、本当はどこかでリードを奪ってから、もっと色々なパターンを繰り出して逃げ切る作戦だった。

 実際には先手を取ることが出来ず、思惑通りに試合を運べなかった。

 第二セットの最初のポイントは奪えたし、後半に追い上げたとは言っても、結局最初から最後まで、彼女の前を走ることはほとんど出来なかったわけだ。

「でも、旭が変な事言ってたんだよなぁ……お前のドライブ、一球ごとに変わるって」

「ん?──ああ……」

 それは、宮崎の大会でのことだと、望は思い当たった。

 彼女は一球ごとにシャトルへ加える力を加減することを思いつく。

 最初に試してみたのは久御山との試合。

 その時はまだ、とにかく素早くラケットを振り、丁寧なシャトルミートを捨てることでランダム性を出しただけにすぎず、自分で制御してシャトルの強弱を使い分けられるようになったのは、その後の深川戦からだった。

 旭との最終戦の頃には、意図通りにシャトルの強度を操ることに加えて、ラリーの中で『何番を使っていくか?』ということまで、頭に入れてプレーした。

「手首の角度とか、捻りを変えてみたの。もともと私、関節柔らかいから」

「……ふーん」

 インターハイの時、つまり益子が観戦していた時には、望はそんなことは思いついていなかった。

 むしろ丁寧にシャトルをミートするのが望の長所であったし、そのおかげで一般的な身長からは意外なほど、伸びる打球を打てるのが強みだった。

「だけど、最近始めたばっかりだから──」

「監督に教わったんじゃないの?」

 長い事何もしゃべらなかった豊橋が、会話に入ってくる。

 もしかして寝てしまっていて、自分たちの話し声が迷惑じゃなかったかと気になっていたが、望は安心した。

「違うよ。自分で気付いた」

「まあ、あの人なんも言わなそうだもんな……」

「え? めっちゃ煩いよ」

「えっ」

 きょとんとした顔で目を見開く益子を見て、望は笑みを零す。

(──そうか、益子たちは昔の倉石監督を知らないんだ)

 あまりにもやかましく、細かい指示をひたすら送り続ける監督を。

「最近……私が神奈川で荒垣とやった試合の後ぐらいかな」

「なんだ? セクハラにキレてぶん殴ったのか?」

 そんなことしないよ、と望は笑いながらも強めに否定して、話を続ける。

「荒垣との試合で、まあ……走らせて膝を壊せって指示が出たの」

「素でエグい。唯華かよ」

 豊橋もえぇ、と驚きの声を上げる。

 もちろん実際には、その時は荒垣の膝が壊れなかったことを、望はことさらに強調しておく。

 コニーとのインターハイでの棄権は、兄とイチャコラしていた益子はともかく、豊橋は現地で実際に見ているから、それは理解できる。

「まあ結局、できなかったんだけど……その、『自分のバドミントン』で戦いたいって言って、それから──」

「ほーん、要するに自分のエゴを通したワケだ」

「エゴ……まあ、そうなるかな」

 さっきとは違って、益子の言葉は少し望の心にトゲを突き立てた。

 言われてみれば、確かにそうだと納得しつつ、彼女は自分があの時、倉石に投げた言葉を反芻する。

 そして、その結果も──。

 別に荒垣の状態を気遣ってだとか、そんな心の甘えから出た『逃げ』ではない。

 足りなかったかもしれないが、その時望は、『逗子総合の石澤』として、常勝の二文字を背負ってコートに立っていたのだから。

 それでも、結果だけ見れば、倉石の指導は水の泡になった。

 そのことには、まだ完全に整理を付けられてはいない。

「いいじゃん、だから強くなったんだろ? その時から──実際今のお前見てて、荒垣に負けるとは思えないよ」

「え?」

「エゴを出さねえ奴なんて、強くならねえよ」

 



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17th game 白虎野の娘

「しかし、静かだな……北欧の建物は壁が厚いと聞いていたが」

 これはちょっと、日本のビジネスホテルとは比較にならない、と倉石は感心した。

 それだけ、選手たちも質の良い睡眠を得られていることだろう。

「あいつらって、あんまり騒がないですよね……」

 コーチ陣の中では一人だけ『若手』と言える立花が、度数の低いヨーロッパ特有の白ビールを呷る。

「今の若い女子選手は、だいたいそうだよ」

 神藤も調子よく、中ビンを空にしてお代わりを物色しているが、松川の方は記事の作成が忙しいらしく、しきりにパソコンのキーボードをたたいては、腕組みをして画面とにらめっこしていた。

「うむ……俺も毎年合宿に連れて行くが、宿舎に迷惑をかけるようなことは全然ないな。そういう意味では、手間はかからない」

 体育会系の色合いも、時代によって変化している。

 倉石や神藤が高校生の頃は、それこそ男女関係なく平手打ち程度は当たり前で、反発する部員の側も、取っ組み合いの喧嘩に飲酒や喫煙など、不祥事には事欠かなかった。

「血の気が多いってことが必ずしも悪いわけじゃないが……立花君の歳なら、もうそういうのはなかったか?」

 今の時代は、ありがたいことにバドミントンという競技への注目度も高まっていて、そうした外部の目も意識してか、指導者も選手も言わば『リテラシー』が高くなっている。

「そうですね……酒ぐらいは、家で飲んでましたけど」

「だよなぁ」

 そもそも日本では二十歳にならないと、飲酒は出来ないことになっているが、デンマークでは度数の低い銘柄のビールなら、十六歳からスーパーで買える。

「飲むのに年齢制限はないしね……タバコは流石に十八からだけど」

「優勝したら、祝いで飲ませてみるか」

 倉石の悪巧みに、神藤コーチと立花も調子を合わせる。

「そりゃいい。綾乃に買って来させよう」

『はじめてのおつかい』だ、と神藤は笑い、二本目のビールを早くも半分開けた。

「でも、まあ……益子が案外上手くやってるようで、俺はそれが結構意外ですけど」

 膝の状態を見極めるということもあるが、試合会場の外でも立花は、荒垣と会話を交わすことが多い。

 彼女の口から益子の話が出る頻度も多いのだが、それは立花が抱いていたような『一匹狼』のイメージが強い益子に対する先入観を、少し変化させている。

「石澤からも聞いてるよ。意外と人懐っこいし、喋りたがる、って。志波姫の方は、相変わらず距離が近くて困る、と言ってたが……」

 望と志波姫。

 明日は大事な一戦目を任せることになっていた。

「上手くいきますかね、あの二人……」

 記事がひと段落したらしく、松川は自分のぶんのビールを冷蔵庫から取り出し、封を切る。

 切れの良い音が響いて、彼女はグラスの八割ほどまで、一気にビールを注いだ。

「『逗子総合の石澤』と『フレゼリシア女子の志波姫』じゃあ、難しいだろうな。お互いに価値観が違う」

 ただ、倉石は望の方については、それほど心配はしていない。

 宮崎の大会を終えてからも変わらず練習に顔を出し続けていた彼女は、格段に戦術面で進歩していた。

 来年のエースと目される武山を歯牙にもかけず一蹴し、おかげで最上級生となった二年生たちも、尻に火が付いたようで、今頃も練習に熱を入れていることだろう。

「志波姫は、早い段階で完成され過ぎた」

 空になったグラスをテーブルに置き、倉石は僅かに残ったビンの中身を全て空けた。

 これは俺の持論だが、と前置きして、彼は語り始める。

「例えて言うなら、ひとつの街のようなものだ。荒垣や狼森には、ひとつの大きな『中心街』がある……」

 それはバドミントンにおけるプレイヤーとしてのコアになるものであったり、精神的な拠り所の面でも、彼女たちには土壇場で頼るべき武器が明確にある。

 望や志波姫は、どちらかと言えば先に区画整理をしておいて、そこにきちんと計算して建物を建てていくタイプだ。

 今の望はまだまだ『土地』に空きもあり、いくつかの街路を取り壊して、街の一部を作り直している段階にある。

 それに対して、志波姫の街は既にほとんど完成されつくしていて、あとは難易度が高くコストもかかる『高層化』ぐらいしか、人口を増やす手立てはない。

「ジュニアの頃から、そういうタイプでした。戦術面の傑出度は世代でピカイチ……」

 松川も補足する。

 そして、先輩の記者が言っていたことを、思い出した。

『いい時が早いか、ダメな時が早いか……ずっといい時の奴はいない』──。

 それは全小準優勝を飾った益子泪を評しての言葉だが、彼女は少し背筋に冷たいものを感じる。

(『今がピーク』なのは、志波姫唯華の方……?)

 もちろん、当時の志波姫唯華と言えば、同郷の美里さきよりも背が小さく、成長の早い同世代のライバルに対して、戦術や技術を磨くことで勝っていた選手だ。

 そうして彼女はフレゼリシア女子に進学し、自身のバドミントンの『高層化』に成功した。

 そうでなくては、選抜の優勝も、団体戦でのインターハイ制覇も成し得なかっただろう。

 自分が長いこと見てきた選手だから、肩入れしているわけではない。

「俺は志波姫を見ていると、ときどきこういう思いが過るんだ。──もうこいつは、『引き際』の淵を見てしまっているんじゃないか……ってな」

 中国に勝った日の夜にする話ではないか、と倉石は頭を掻きつつ、皆に頭を下げる。

 だが、彼の言わんとするところは、短期間ではあるがコーチとして彼女を見ていた神藤には、よく理解できたようだ。

 二十歳になっても身長が伸び続ける人は多くいるし、志波姫の『街』が過密化の限界を迎えたわけでもないだろう。

 ただし、人間の身体はその年齢から、早くもパフォーマンスを落とし始める。

 神藤有千夏が如何にしてそれに抗ったのか。

 二十三歳からの全日本総合十連覇という偉業を成し遂げるために、彼女はとてつもない熱量を抱えて、それまでのバドミントン人生は、いわば負け続けてきたわけだ。

「……あの子が、『むこうぶち』に渡らないまま、選手として終わる可能性はある」

 とことん自分のエゴを削ぎ落し、フレゼリシア女子の大所帯をその『街』に収めることに腐心していた二年半の間、荒垣は自らのランドマークを築き上げ、望は凡庸ではあるが精緻な箱庭を作り上げた。

 乾いたスポンジが水を吸うように、志波姫の指導を受けて成長した選手は、かの高校には言うまでもなく多い。

 これから数年間は、そうした遺伝子は活力を失うことなく機能し続けるだろう。

 ただその裏で、志波姫自身は誰から、何を得たのか。

「そうさせないように、私もしたいよ。でも……それは大人がどうこう言ってなんとかなるもんじゃない」

 エゴを目覚めさせる為には、負けることだ、と彼女は呟く。

 負けた回数が多いほど、自分の中で耐えられなくなっていく。

 バドミントンが嫌いなら辞めてしまえばいいだけだ。

 しかし、少なくとも今デンマークに来ている九人は決してそうではないし、ならばただ単純に『勝ちたい』という気持ちを動かすための燃料を、どこかで補給しなければいけない。

 負けを受け入れる傾向がある、と言うのは、宮城の決勝やインターハイを見るまでもなくわかる。

 益子泪に対しても負け越してこそいるが、試合終了のあとに膝が笑って立てなくなるほど疲弊した試合など、一つもなかった。

 それはどこかで彼女がブレーキをかけ、最後まで自分のスタイルを崩さなかった結果だ。

 彼女にとってそれが『フレゼリシア女子の主将』としての矜持なのだとしたら、そこには疑問符を付けざるを得ない。

 全力を出し尽くして、それでも納得できない『負け』を経験しなければ、志波姫唯華は今のままで終わってしまうだろう。

「そういえば、私がコーチに行く前に一人、辞めた部員が……」

「ああ──」

 そのことは、記者の間では少し話題になったと、松川が答える。

 大所帯の強豪校には珍しく、上下関係も薄くみな仲の良いと評判のフレゼリシア女子で、故障や家の事情でなく辞めた部員が居るという噂は、彼女たちのような職業の人間の耳目を集めた。

「名前は、知らないけど……事の顛末は、矢本や雄勝から聞いたよ」

 当時その部員と最も仲が良かったのは二年生の多賀城らしいが、神藤が何より驚いたのは、亘監督でなく志波姫自身が、その部員に退部を勧告したという話だった。

 大雑把に言えば、『純真必勝』の旗印のもと、スタンドもコートの別もなく一致団結して戦う『家族』の中で、その部員の存在は、言うなれば異物だったということだ。

 フィジカルは恵まれなかったが才能はあり、ダブルスの編成によってはレギュラーを脅かす『一軍半』クラスの二年生。

 順当に行けば、来年のフレゼリシア女子のオーダーには、間違いなく名前が入っているだろうと思われた。

 ただ、『順当』には行かなかった。

 その部員はもともと志波姫に憧れて入ってきたらしく、ある時までは希望を抱いて練習に励んでいたそうだが、いつかどこかの地点で、自分の将来性を疑い、歩みを止めてしまう。

 志波姫も亘監督に直談判して寮を同室にしてもらうなど、色々と手を尽くしたらしいが、結局最後には──。

「要するに、『勝利を追わない部員が居ても、ここでは何もできない』と」

「──辞めさせた、ってことですか?」

「ああ……まあ、そうなるな」

 なんとも、と立花は首を傾げる。

 あれほどの強豪だ。

 中途半端なメンタルではついていけないレベルで我武者羅に猛練習──というタイプの高校ではないが、それでもそこで発せられる『熱量』に違和感を感じてしまったら、それはとても居心地の悪いことだろう。

 辞めた部員も、そうした不如意感を拭えないまま練習を続けるよりも、結局はその方が幸せだったと言えるかもしれない。

「うーむ……」

 少なくとも立花が見ている限り、志波姫は『朗らか』な人間だ。

 周囲に気を配り、また彼女自身はある意味『上』のレベルにいるとしても、それを気遣わせない細やかさがある。

 かといって物静かと言うわけでもなく、どちらかと言えば快活で、才気に溢れている。

「まあ……俺には少し、分かる」

 逗子総合は、フレゼリシア女子に比べれば部員は少ない方だ。

 全員が特待できているわけではないのは、どちらも同じだが、その『敷居の高さ』で言えば、フレゼリシア女子よりもずっと低いだろう。

 だからときおり、思った以上の『勝利の追求』に違和感を感じて、モチベーションを下げてしまう部員も出てくる。

 もちろんそうした選手は何かしら兆候が見られるし、それをキャプテンが倉石に談判して、最終的にその宣告をするのは指導者である彼の役割だった。

 幸いにして、望がキャプテンである間は、そういった『戦力外通告』はせずに済んでいたが……。

 ただ、主将とは言えそこまでの覚悟を、同じ立場である一人の部員に持たせるというのは、少し重すぎてはいないか。

 その『重圧』から解放された時、空気の入りすぎた風船が弾けてしまうように、全てを失ってしまうことにはならないのか。

 ともあれ、そうした部員がたまに出てきてしまうことや、結果的に途中で退部してしまうことは、一定のレベル以上の強豪校では、よくあることだ──それ自体は。

「……その時、かな」

 すっかり空になったグラスを手で回しながら、神藤は物憂げに呟く。

 もしその時、志波姫がその部員を辞めさせなければ、彼女はもっとエゴを強く持てた。

『フレゼリシア女子の主将』という立場が、歩みを止めて手を差し伸べることを許さなかった。

 例えば彼女がただの一部員ならば、その部員が結果的に辞めるにせよ、続けるにせよ、その責任を負う必要はない。

 もっとその部員に時間を割いて、なんなら隣に立ってのダブルスででも、『勝つ喜び』を教えてやることが出来ただろう。

「だけど、その子が憧れていたのは、志波姫のプレイじゃなく、『志波姫唯華』そのものだったんだよ」

 その部員を救うためには、彼女は『フレゼリシア女子の主将』であってはいけなかったし、『フレゼリシア女子の主将』でないならば、それはもはや、志波姫唯華ではない。

 同じ形のエゴは、絶対に重ならない。

 

 

 

 ぼんやりとした意識の中、望は枕元の携帯電話を手探りで探す。

 画面を確認して、望は自分が腹が減って目が醒めたのだと気付いた。

(……)

 随分呑気なものだと自嘲しながら、両手を万歳してぐいと背を伸ばして周りを見る。

「あれ、益子も豊橋も居ない……」

 とりあえず顔ぐらいは洗ってから、この腹の虫を退治しに行こう。

 テーブルに置かれたタオルを掴んで首にかけ、望はトイレに向かった。

「──お!?」

 パジャマをずり下ろして便座に腰掛け、難しい顔でスマートフォンを弄っている益子と目が合う。

「うわ、ごめんっ」

 望は力いっぱい、ドアを閉める。

 フロアの隅の方にも、共用の洗面所があったはずだ。

 ひとまずそこに向かおう。

 

 

 

「……泪」

「いや、悪かったって、な? 石澤」

「あ、うん。そんなに気にしてないから……」

 洗面所で旭と出会った望は、ついさっきの出来事を子細にわたり彼女に話してしまった。

 もちろん望にとっては特に益子を糾弾する意図はなく、旭がこれほど怒るとも思っていなかったからだが。

 とりあえずは、益子はあまり見たことのない顔を見せて、望に謝意を示す。

「ウチの寮じゃねーんだって、ここはよ」

「ごめんなさい」

 旭がこうなってしまうと、益子もいつもの調子で軽口を返すというわけにもいかないのだろう。

 宇都宮学院だったら、トイレに入る時に鍵を掛けなくてもいいのかという疑問は沸いたが、ひとまず望はそこにツッコミは入れないでおいた。

 いい加減空腹にも耐えかねていたし、ドアを開けた瞬間の益子は、望の食欲を減衰させるような状態ではなかった。

「まあ……ご飯行こうよ」

「そうだそうだ。旭も一緒に行こうぜ?」

「はいはい……カレーじゃなきゃいいけど」

「大はヒネってねぇっつーの」

 苦笑しつつ二人を促す望に、旭もようやく矛を収める気になったらしい。

 木造りの手すりに頼りながら階段を降りると、食堂兼ミーティングルームからは既に美味しそうな匂いが漂っていた。

 幾人かの選手が、それぞれに料理を物色しつつ歩き回っている。

「おぉ望ちゃん、おはようさん」

「おはよう、久御山」

 久御山はもう二度と『GREEN TEA』にチャレンジする気はないらしく、いくばくかの逡巡を挟んで、結局水をグラスに注いだ。

 まだ起きたばかりで胃腸が目覚めていない望も、刺激の少なそうなリンゴジュースを選ぶ。

 特に全員揃って食事をしろと言う指示があったわけでもないが、少し遅れて羽咲と荒垣が来て、全員が揃った。

 夜の試合を控えて皆会話は少ないが、それぞれに凛とした空気を纏い、栄養補給に励んでいる。

 オーダーから外れている荒垣は、サラダにしろ肉料理にしろ、親の仇のようにてんこ盛りにした皿を次々と空にしていった。

「荒垣、そんな食べたら太るよ?」

 つい余計なことを言ったと望は後悔したが、荒垣は特に気にせずさらりと返す。

「大丈夫、練習で動くし。それに、アタシはあんまり食べても太らないから」

 こんな奴ばっかりかよ、という恨みをこもった重い空気が、旭と豊橋の方から流れて来た。

 

 

 

 

 

 

 果たして自身の宣言通り、試合にも出ないというのに一番乗りで練習コートに立った荒垣は、志波姫と望の立つ相手コートに向かって、立花と共に強打のシミュレーター役をこなす。

 もう十分すぎる、と望はいったんストップをかけ、コートを出た。

「……強い」

「まあ、あの二人じゃね」

 あっけらかんと笑う志波姫を見ていると、望もどこか安心感が沸く。

 彼女の『流れ』にただ乗っかるだけではいけない、という気持ちは持っているが、それでもダブルスのパートナーとして、居心地の良い雰囲気を作ってくれるのは、素直にありがたいと思う。

「石澤、志波姫──」

 いつものノートを片手に、倉石が二人を呼ぶ。

 壁にかかった時計は、もうあと十数分で第一試合が始まることを示していた。

「大事な一戦目だ。お前たちはどうやって勝つ? あのロシアペアに」

「……」

 倉石は、おそらく志波姫が何か言うだろうと思って彼女の方を見ていたが、意外にも口を開いたのは望の方だった。

「強打で押します」

「……あのな」

 呆れたように首を振って、倉石はノートで自分の肩を叩く。

 どこから話を付けようかと迷ううちに、先に二の句を次いだのは望の方だった。

「通用する、しないはわからないですけど──『勝てる強打』を探します」

「ほう……」

 思ったより考えての作戦なのだろう、と倉石は理解した。

 望のことは良く知っている。バドミントンプレーヤーとしての彼女だけではなく、普段の一人の高校生としての彼女のことも。

 性格はどちらかと言えば控えめで、進んで他人の前に立つタイプではない。

 倉石自身も、そうした役割を求めて、彼女をキャプテンに指名したわけではなかった。

 単純に、その年の逗子総合の中で一番上手い選手だったから、というのが本音だ。

 もちろん、そのことを周囲も認めている、という条件をも満たしていた。

 それはつまり、何かプレーの上で彼女を叱れば、他の部員も我が事として受け止めるだろうという倉石の考えだが、いまや日本代表の一員となった彼女は、その集団の中で『一番上手い』わけでは決してない。

 一番上手いのは、今隣にいる志波姫か、スタンドで眺めている羽咲に熱い視線を送っている益子のどちらかだろう。

「『考えなし』というわけじゃあ、なさそうだが……厳しいぞ?」

「はい。──それに、『自分のバドミントン』でもないと思います。けど……」

「まあ、まだ時間はある。自分の整理がついているところまででいい。話してみろ」

 あれだけ拘っていて、ついに捨てきれなかった『自分のバドミントン』。

 今からやることは、それとは相反すると望自身が認めている。

 だのに、それをやろうとしている彼女に、倉石は端的に興味を持った。

「序盤は普段通り、前後で振っていきたいです。でもどこかで、絶対に決まるシチュエーションで、フルパワーで一本見せたい、です」

「ふうむ……なるほど」

 倉石は、望の意図を迅速かつ正確に読み取る。

 つまり彼女は、志波姫戦で羽咲が最初に打ったクロスファイアを、体現しようとしているのだ、と。

 もちろん右利きの彼女には、あのクロスファイアは逆立ちしても打てないだろう。

 ただ、当時観戦記を書いていた松川や、当の対戦相手である志波姫でさえ見誤ったように、最大限誇張できるタイミングで強打を放ち、それが『最高出力』だと思わせることが出来れば──。

「お前らしい、と言えばらしいな……」

 上背がないせいで、絶対的な打球速度はロシアペアに劣ることは間違いない。

 だが、彼女にはシャトルの『伸び』という、数値化されにくく、その割には残像が残りやすいストロングポイントがある。

(野球でもそうだ……一六〇キロのマシンを高校時代から打つなど珍しくもないのに、プロに入ったら一四〇キロにさえ詰まらされる。打球判断の猶予も、スイング時間も短いバドミントンなら猶更、それは効く──)

「いいだろう、やってみろ」

 頭に浮かんだ疑問点には敢えて触れず、倉石は教え子が考えた作戦を認めてやった。

(だが、どうやって『絶対に決まるシチュエーション』を作り出す……?)

 シャトルコントロールに長ける望に、戦術面で抜きん出たものを持つ志波姫が寄り添うこのダブルスならば、その状況を作り出すことは容易いだろう。

 だが、本当にそれを『真実の瞬間』にすることが出来なければ、ロシアペアの『過大評価』を引き出すことは出来ない。

 チャンスは、たった一回だ。

 

 

 

 

 両国国歌の演奏のあと、わずかなウォーミングアップを終えて、試合が始まる。

 オープニングサーバーはロシアのイリーヤ・グレヴィッチだ。

 金、というよりは白に近いポニーテールをわずかに揺らし、ショートサービスを放つ。

 受け手の志波姫は、軽くはたいてサーバーの足元へ。

 出足をくじかれ、前につんのめるような格好で返球したイリーヤだが、上背と腕力に物を言わせて、シャトルをベースライン一杯まで叩き返す。

「オーライ!」

 ロブに反応して下がったのは志波姫だ。

 望はコートミドル左をキープしながら、対面に出て来たイリーヤの飛び出しを警戒する。

 イリーヤと違って黒髪のノンナ・チェルネンコは後衛に陣取り、志波姫の返球を待つ。

 オーバーストロークのトップを作り、志波姫は下目に相手コートを睨んだ。

(雁行陣──初手は『探り合い』をお望みかな?)

 得たりとクロスにロブを返し、志波姫は前に出ることもなく相手を伺う。

 それを追うノンナの大きなストライドは、長い脚の賜物だろう。

(機敏とはとても言えないけど、スピードはある……)

 足音も豪快だが、スイングもまた速い。

 驚くべき上昇速度で視界から消えたシャトルを見上げ、今度は望が下がって追いかける。

 望、と声を出そうとして、志波姫はやめた。

(後ろへの反応がよくなった……? ただ、望の『進化』を見極めるには、この返球──)

 味方後衛の動きに呼応してサイドチェンジしたイリーヤの目線から、志波姫は彼女の行動を予測する。

(ドライブはコース切られてる。クロスロブか、ストレートにカット……)

 望が選択したのは、後者の方だった。

 丁寧にシャトルをストリングスに纏わせ、キレよりも変化量を追求したカット。

 世界レベルで『速い』返球に対してもそれができればいいが、と倉石は、まだ主導権の動かないラリーを見つめる。

 飛び出しを意図していたわけではないだろうが、球足の短いカットを拾うのは前衛の方が都合がいいと見て、イリーヤがネット前を走る。

 落下量の多さにあわててひざを折り、重心を下げ過ぎた彼女の返球は、ちょうどホームポジションあたりへの中途半端なシャトル。

(ラケットを抉った──)

 当然志波姫も、呼応して彼女について行っている。

 バックのサイドストロークから軽くはたいて先制点をモノにするには、おあつらえ向きのシチュエーションだ。

 1-0。

 

 

 

 

 

 

「よしっ──!」

 ハイタッチを交わすコート上の二人を見て、立花は満足げだ。

 倉石にとっても、教え子が世界大会に初出場した試合で、これまた初めてダブルスを組む相手と共に最初のポイントを危なげなく奪うことが出来た『事実』は、喜ばしいものではあった。

 ただ──。

(悪くない、のは悪くないが……石澤のカットを一球見れば、このレベルなら相手は対応してくる)

 思いのほか沈んだカットスマッシュに対して、ロシアペアの前衛・イリーヤ=グレヴィッチはシャトルのミートを逸らしてしまった。

 その結果の甘いボールを志波姫が軽く叩き伏せ、傍目には望の変化球が十分に世界レベルでも通用することの証左のようにも思えたが、事はそう単純ではない。

 コート上では望がサービスを打ち、より前への意識を強めたロシアペアを、精度の高いロブで押し留めるという日本ペアの形が出来上がっている。

 ベースラインにいったん押し込まれてからのスマッシュでは、さしもの高身長を誇るロシア選手でも、そうそうエースショットを打てるものではない。

 自然にラリーは長くなり、精度の高い日本ペアがミスの少なさで徐々にスコアを走り始める。

 6-3。

(ここまでは、ロシアペアに有効な強打を打たせていない……コート奥からではたとえスピードがあっても角度はつかないし、そもそも守備の固い二人だ──このスコアは予想の範囲内……)

 アンティシペイション、即ち『相手のショットがどこに来るか』を予測する能力にかけては、志波姫は世代の最前線にいる。

 今回の相手であるロシア選手たちと比較して、同等以上の強打を持ちながら総合力においては遥かに優れたコニー・クリステンセンを相手に、もう少しで喰ってしまえるところまで粘ったというのは、彼女の戦術、とりわけ『予測力』によるところが大きい。

 また望も、最初のポイントで得た自分のカットへの手ごたえを実感しつつ、この大舞台にも気後れすることなく、自らの実力を遺憾なく発揮している。

(……遺憾なく……遺憾なさすぎる──妙な印象だが、そんな感じだ)

 倉石の中に生まれつつある違和感は、順調に主導権を握ってゲームを進めている教え子の成長を、捉えきれていない事からくるものではない。

(絶品のフェイクドロップに代表されるように、志波姫のオフェンスは原則として『フェイク』の部分が大きい──)

 それはもちろん、三強と並び称された益子や津幡ほどには恵まれなかったフィジカル面の問題もあるだろうし、そうした人を喰ったようなプレイを彼女自身が好む性格にもよるが、ともあれ志波姫は相手の思考にバグを混入させ、コンセントレーションを潰して疲弊させる戦い方で、日本の高校生としては最高峰の選手となった。

 対して石澤望は、倉石が見ている限りは、逗子総合のキャプテンだった頃とプレイスタイルそのものはさほど変わりなく、実直に『リアル』なストローク勝負で優位に立とうとしている。

(『フェイク』は化けの皮が剝がれれば終わりだ。『リアル』にはその心配はないが、結局そのプレイヤーのスケールに左右される……)

 倉石はまだ、教え子がそこまでの選手になったとの確信は抱いていない。

 もちろん、将来的にそうなるという予測、または期待は大いにあるにせよ、だ。

 

 

 

 9-5。

 単純なクオリティ勝負では、その実力差が徐々に明るみに出てきている。

 志波姫が高い位置でのレセプションを丁寧に行い、上手く散らしたシャトルを拾うためにロシアペアが陣形を崩す。

 身体が大きい分飛び出しそのものは俊敏だが、その後の『戻り』に難があると見ての戦術だろう。

 無論志波姫の打球にそこまでの『威力』はないが、ほんの少し陣形が乱れたロシアペアに対して、後は望がやや前に出てカットスマッシュを打ち、更にもう一段崩す。

 あるいは、ボディ周りのスキをこれでもかとついていく志波姫に、耐えきれずにフォーストエラーを喫してしまう、というのがロシアペアの失点パターンだ。

(……つまり、『日本ペアの得点パターン』ではない。ただ、事実として点差は四点まで開いてインターバル目前だ。順当と言うよりほかない)

 春の選抜と、キアケゴー氏のなかば個人的な趣味による大会とでは大きく格は違うが、それでも『日本一』の二枚看板なのだから当然と言えば当然、と倉石は自分を納得させる。

 結局スコアが二点ずつ平行移動したところで、最初のインターバルに入った。

「うむ……二人とも良いじゃないか。相手もそう器用な選手ではないから、大きく戦術を変えてくることは無いだろうが、油断せずにやっていけ」

「はいっ」

「──ところで、石澤」

 一番最後のシングルス3にエントリーされた豊橋は、今日も今日とて出ている選手のサポートに動き回っている。

 久御山に手櫛で髪を梳かれている望は、倉石の方に目を向けた。

「なんですか?」

 もう付き合いも長いものだから、彼女の眼を見ればどういった精神状態なのかは、彼には大体分かる。

(……目力は、少し無いな。少なくとも、俺に反抗した時ほどじゃない)

 ただ、今日の試合展開と、望のプレイを見ていれば、それは元気がないわけではなく、どちらかと言えば『力みがない』と言う風に倉石には映る。

 気に病むようなミスも無ければ、なにか精神的なトラブルがあったわけではないのだから。

「まだ『強打』は出していないな? それと、リバースカットもだ」

「ああ……なんか、そういうムードじゃないですし」

 なんとも具体性のないコメントだ、と倉石は苦笑する。

 天才肌と努力家、という大雑把な分け方をするならば、望は後者に入る。

 益子や羽咲、久御山は天才肌に入るだろうし、志波姫や豊橋は自他ともに認める努力家だ。

 二人とも、よくある『人前で努力を見せない』というよりは、むしろ見せることによって周囲を感化していったタイプだ。

 特に志波姫は、役割上もそうせざるを得ない面があっただろう。

 荒垣や狼森はどちらかと言えば努力家だが、彼女たちはそれぞれ形は違えど、天性のものを授かっている。

 倉石自身は、選手としても監督としても努力の人だ。

 まだまだ子供で、時として生意気さも見せる女子高生を育てて結果を残すためには、分かっていてもあえて『歩み寄らない』ことも必要だったし、『雨降って地固まる』とするためにはそれ以上のケアも、また根拠のある指導も欠かせない。

 少なくとも選手時代に頂点に立ったことのない彼には、たとえば立花に比べればその言葉に『説得力』はないのだから、結果を出すための苦労もまたひとしおである。

 だから彼には自覚がある。

 天才は作れない──。

「ムード、というのは、まあ……なんとなく言わんとするところは分かる。だが、それが『変わった』と感じたらすぐに対応しろ。今までの流れに拘るな」

「はい。行ってきます」

 うん、と頷いて倉石は教え子を見送る。

 ラケットをくるくると回しながら、志波姫の言葉に頷いている彼女は、随分と大きく見えた。

 

 

 

(さて……)

 志波姫は相手を睨みつつ、ここまで自分たちが挙げた得点の中身を振り返る。

 ロシアペアのエラーによるポイントを除けば、志波姫が六点、望が二点だった。

 ただ、点数ほどは『自分独りで動いている』という自覚症状は、志波姫にはない。

 どちらかと言えば望のお膳立てにより、甘いシャトルを貰っている実感がある。

 ダブルスなんて久しぶりだ、と二人は思っているが、その内訳はまたそれぞれだ。

 望には、たとえば横浜翔栄の橋詰のように、ダブルエントリーで地区大会を戦っていた時期もあった。

 志波姫にはほとんどその経験はなく、生まれてこの方、というほどではないにせよ、ダブルスの経験値はさほど重ねていない。

 最後に組んだのも、対外試合ではなく、部内の紅白戦だった。

(──ロシアの攻めは、変わらない、かな?)

 対面のロシアペアにとっては、とにかく前に出て強打で押し込んでいくのが勝ち筋だったはずだろう。

 ただ、それは望と志波姫の持つ対応力によって、ほとんど防御できている。

 スマッシュの射程に入らなければ、撃墜されることも無いだろう。

 インターバル明けの最初の得点が日本ペアに入り、このままサイドアウトを切っていけば──という安全圏に至って、志波姫は試合へのコンセントレーションをほんの少し落とす。

 望がシャトルの交換を要求している間、観客席に目線を上げると、そこにはつまらなさそうな顔で試合を眺めている羽咲が居た。

 荒垣は自分と同じ高身長を武器にするロシア選手が気になっているらしく、志波姫と目線は合わない。

「志波姫?」

「ん、ああ──どうしたの?」

「次、前に出るよ、私」

「……オッケー」

 望は宣言通りにロングサービスを打ち、大きな歩幅で一気にネット前に張り付く。

 倉石も思わず顔を上げた。

(──石澤!?)

 サービスリターンはアーチの低いストレートのドライブクリアー。

 志波姫がベースラインからやや斜め前に走り、サイドラインを割りながらバックハンドでクロスロブを返す。

 ロシア後衛のノンナ=チェルネンコは、深いシャトルに対して一瞬の迷いを見せながらも、上からラケットを振り抜いた。

 そのバックスイングに呼応して、望はラケットを引いて面を立て、自分の右側、即ちサイドラインを締めて警戒する。

 だが、逡巡を挟んだことでノンナにストレートの選択肢は無くなり、彼女は仕方なく──望はそう感じた──コート中央を通って志波姫の足元へのコースを狙う。

 白帯の数センチ上を掠めて、勢いのあるスマッシュが飛んでくる。

 バックに振り替えた望が手を出さなくとも、球足が最も長くなる対角線のスマッシュを志波姫が受けるのは容易い。

 そもそも、目で追うのが困難なほどの初速で弾き出されたシャトルを、ネット前の望がシャットアウトするのはリスクが高い。

 だが──。

(ここで、そのリスクに乗る──)

 望は肘から先を一気に走らせ、恐らくそのあたりに来るだろう、というポイントに面を立てる。

 スイングの始動は、ノンナのインパクトとほとんど同時だ。

 うまく面にシャトルがヒットしてくれたとしても、コースをコントロールするなど不可能に近い。

 案の定、構えたラケットに、良くない感触が伝わる。

(浮いた──!)

 卵が潰れるような音を立てて望のラケットを弾いたシャトルは、グラグラと揺れながらノンナの前に落ちていく。

 後ろ体重で着地した彼女は、慌てて前へのスタートを切るが、面の先端にそれを『乗せる』のがやっとだった。

 倉石は思わず、ノートを握る手に力を籠める。

(『ここ』なら決まる!)

「ゴーッ! 石澤──」

 声を出し、そして彼はハッと気づく。

──チャンスボールは、確実にコースに落とせ。

 望にそう教えたことを彼は悔やんだ。

 短期的に勝つには、それが当たり前だったから。

 彼女がやろうとした戦術を成立させる千載一遇のチャンスを、たった一ポイントと引き換えにふいにしてしまう。

 だが。

 コート上の光景──次の瞬間に、彼の教え子が選択した『世界』は、倉石が予想したものとは異なっていた。

「──ふッ!」

 息が漏れるほど力を込めて、望はラケットを振り抜く。

 強い回転を与えられたシャトルは一瞬浮き上がり、体勢を崩されて仕方なく前に出た相方の代わりに、後ろに下がったイリーヤの足元に着弾した。

 観衆のどよめきを肩で切り、望は二度ほど拳を握りしめたあと、志波姫とハイタッチを交わす。

 彼女が選択したのは、確実に決まるタイミングでの強打ではなかった。

 といって、倉石の教えたセオリー通りの軽い叩きでもない。

(……フムン)

 スピードの遅いカットスマッシュは、こういったチャンスボールの際に選ぶ球種としては、思いのほかリスクが高い。

 上手くコントロールできず、また回転が足りずに球足が伸びてしまえば、相手は崩れた体勢を立て直し、せっかく取れたはずのポイントが宙に浮いてしまう。

(スマッシュを打ち慣れていないから、という消去法のショットではない──何かを意図して選択した……)

 そうでなくては、志波姫が多少小言を挟んで、望がすぐさま次のサービスに入る、ということはなかったはずだ。

 だが、彼女は間髪入れずにショートサービスを打ち、ロシアペアのちょうど中間地点へのドライブで、相手の逡巡を生む。

(石澤と志波姫は、それほど身長差はない。どっちが前衛に立とうと大差がないなら、攻め手のある石澤が前に立つのが良い形だと言える……)

 果たしてコート上では、望が微妙にスピードをずらしたショットでロシアペアの歩調を乱し、視野の広い志波姫がその濃淡をよりはっきりとさせる、絶妙なコントロールでドライブを通す。

(コントロール……という言葉は、ただ単に狙ったところにシャトルを送る技術を指すのではない──)

 やがてダブルスコアに到達し、ロシアペアにもこのセット限りでの『捨て』の気配が見えたところで、日本ペアはさらに得点を伸ばす。

 前半ネット前に張っていたイリーヤも、やや後ろ目のポジションに下がり、日本ペアを出し抜くというよりも、出来るだけ走らせて体力を奪う戦術に転換したようだ。

(意図の見えるコントロール、プレイスメントと言ってもいいが──技術としてのコントロールは石澤とて当然持ち合わせていたが、戦術としてのそれはまだまだだった)

 だが、先ほどのチャンスボールに対する望の選択は、倉石が想定していた彼女の『スケール』から大きく踏み出すものだった。

『捨て』を想起させるほど開いた点差の中、あのタイミングでは強打が決まったところで残像は残らない。

 ロシアにとっては、既にお手上げとなったあと、好き放題やらせたうちの一点でしかないからだ。

(だからこそ、あの場面は打たなかった。表面的にはスマッシュでエースを奪えても、実体的な意味を持つ『強打』ではないからだ……)

 つまりそれは、望が既に第二セットへの布石を一つ、あの時点で打ったということになる。

 カットスマッシュに崩され、あるいはそのままエースを奪われているシーンは、ロシアペアの頭の中にも色濃く残っているはずだ。

 

 

 

 

 21-12と大きく突き放して、望と志波姫はコートを出る。

「うむ──いいぞ、二人とも」

 終盤は多少走らされてしまい、汗をぬぐうのにも忙しいと見て、倉石はそれ以上二人に言葉をかけなかった。

 なにより、志波姫はともかく、教え子の望がどういう精神状態かは、目を見ればすぐにわかる。

(いい眼だ……力みなく、また昔のように反抗的でもないし、不安も宿していない──)

 益子や羽咲がたまに見せる、『むこうぶち』の眼。

 こんな眼つきができるようになったのかと、倉石は感嘆した。

「志波姫」

「ん?」

「向こう、変えてくると思う?」

 ストリングスの目を揃えながら、望は志波姫に訊く。

 志波姫の方は少し首を傾げて思案顔だ。

「……まあ、普通なら何かしら変えてくると思うけど……そこまで器用かなぁ?」

 それほど警戒する必要はないだろうという志波姫の読みを、神藤コーチが補強する。

「大丈夫だと思うよ。ロシアはハッキリ言って格下だし、アンタたちの出来もいい」

 言っている内容からはただのお世辞にも思えたが、神藤コーチの真剣な表情を見て、望はそうではなく、本当に──前半部分はともかく──今日の自分の出来はいいのだろうと思った。

「わかりました。じゃあ、行ってきます」

 

 

 

「なぎさちゃん、よくあんなのに勝てたね」

「ん?」

 羽咲の言った『あんなの』が誰の事かと一瞬荒垣は悩んだが、彼女の視線の先にいる友達を見て、それが望の事を指して言ったのだと理解した。

「まあ、あの時の石澤は、まだな……」

 当時の荒垣にとってあの試合は、石澤望との一対一というよりも、その後ろの倉石も込みで相手にしていたようなものだった。

 実際に望が彼の戦術を忠実にトレースしていた間は、攻め手がなく良いようにポイントを奪われてしまっていたし、立花のアドバイスが無ければ、試合に負けたかもしれないのはもちろん、膝の状態も今よりずっと悪くなってしまっていたかもしれない。

 望が優しいから、自分を壊さずにいてくれたとは荒垣も思っていないし、事実そうではない。

 彼女の強打を受け切れずに、戦術が破綻してしまったのが望の敗因だ。

「ん、でも……」

 荒垣はふと気づく。

 ロシアペアは、彼女と同等の身長を持っている。

 第一セットでは前に出ていたのが志波姫だったから、その強打もさほど有効には作用していなかったが、その後半から、またこの第二セットが始まっても、前衛にいるのは望だ。

(強打、克服したのかな……?)

 

 

 

 

 3-3ともたついたところで、志波姫がシャトルの交換を要求して間をとった。

「望?」

「ん──ごめん、次は止める」

「うん……」

 ロシアペアの三点のうち二点は、ロシアペアの強打をコントロールしきれなかった望の失点だ。

 第一セットでは、流れのターニングポイントになるところで、幸運にもエースショットへつながる返球をすることができた。

 しかし本来、望は強打に対してのレシーブが弱いことを、志波姫も気づいている。

(神奈川の予選の録画……あれはまあ、荒垣だったから──とも言えるけど)

 特別反射神経が劣るというわけではないが、それでも物理的に反応可能な速度を上回るショットが来れば、それはもうちょっとしたギャンブルだ。

 志波姫自身、羽咲のクロスファイアをミートしきれず空振った経験があるし、同じ左利きの益子のそれも、また津幡やコニーのスマッシュを受け切れなかったことも多々ある。

 望が前衛に出れば、確かに回転数を自在に操れるカットスマッシュなど『ファジー』なショットを多用して相手を崩すことが出来るのは間違いない。

 ただ今のところ、この第二セットにおいては、彼女の弱点が露呈している状態だ。

 それは当然、本人も自覚している。

「志波姫、次一本!」

「──よしっ」

 ただし、それを殊更気に病んでパフォーマンスを下げるような状態に落ち込まないうちは、ひとまずは好きにやらせよう、と志波姫は思った。

 何かを得ようとして、前に進む人が好きだから。

 もちろん、次のインターバルで滔々と望に戦術を説き、また彼女の弱点とその対処法を教えることもできるが、現時点ではそれさえ、志波姫はする気がない。

 彼女がどうやってこの弱点に立ち向かっていくのかを見てみたいと単純に思ったし、また志波姫は気付いてしまった──自分のバドミントンが、立ち止まっていることに。

 強豪校のキャプテンと言う立場の忙しさにかまけて、自己鍛錬を怠っていたわけでは、もちろんない。

 彼女が『気付いた』のはそもそも、そういった技術的なことではないのだ。

『揺れない志波姫』という渾名も、気分の悪いものではない。

(私が『揺れない』のは、仲間たちのため……それもあるけど、本当は──)

 逗子総合の黒いユニフォームではなく、自分と同じ日本代表のユニフォームを纏っている望の背中を見ながら、志波姫はレシーブに動く。

 あえて、ロシアペア後衛のイリーヤがスマッシュを打ちやすい、少しだけ浅いロブ。

 勇んで飛び上がったイリーヤに対し、望は彼女の視線の方向ににじり寄って、そのコースを切る。 

(取れるところには来る、けど──)

 心配そうに見つめる志波姫をよそに、望は先程までより始動を早く、また肘をたたんでラケットを構えた。

 まるでピストルのような突発音とともに、シャトルは彼女が網を張ったコースに向かってくる。

(──ここ!)

 肘から先だけでラケットを振り、望はこのセット初めて、ロシアペアのスマッシュを、相手コートに返す。

 ネットを超えてくるとは思わず油断していたノンナが飛びつくが、拾い上げたシャトルを望が軽くいなしてサイドに打ち落とし、逆転。

 4-3。

 



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18th game 会心の一撃

 目が慣れて来たのか、徐々にロシアペアの強打に対応し始めた望は、前衛から積極的に相手のショットを『切り』に行く。

 やや攻め急ぎのシーンも見られたが、志波姫の執り成しもあって、試合は再び日本ペアがリズムをつかみ始めた。

 8-7と点差は薄いが、内容的には噛み合いだしたロシアペアの攻めを上手くいなして、失点を最小限に抑えている──倉石はそう考えている。

(スマッシュで押し込まれるのは、もう仕方がない。あとは少しだけ、石澤に自重を求めたい場面も多いが……まあ、これも勉強だな)

 手持ちのノートを開いて、倉石はペンを走らせる。

 殴り書きの文字は他人には判別できないほど汚いが、これは望に渡したものとは違う、自分だけの『気付き』のノートだ。

(石澤はともかく、志波姫の方は完全に強打を切り捨てているわけではない──それはインターハイの羽咲戦でも終盤に見られた……)

 その少しあとの時間帯の、彼女の心境は、倉石には痛いほどわかる。

 自分が選んだ戦術に間違いはなかったのか──それとも、人生の道そのものに、どこかに掛け違いは無かっただろうか。

 そんなことまで考えてしまうほどの大きな敗北を何度も経験しているからこそ、倉石は勝つことに拘り、望を含めて数多の選手を育て上げた。

 だが、彼自身も、コート上で躍動する教え子と同じく、変貌しようとしている。

 あの宮崎の大会から、この世界大会までの二か月間、望はまるで新しい絵本をせがむ子供のように、新たなショットを倉石に求めて来た。

 もちろん、バドミントンにおいて彼女の知識欲を満足させるほどの球種などないのだが、それでも倉石は、過去に教えた基礎的なショットの応用と、そのタイミングを少しだけ望に伝授した。

(二か月、という期間は長くもあり、短くもある──ひとつの弱点を解消するために打ち込む時間としては充分に長いが、プレイヤーとしての輪郭を変えるには短すぎる)

 インターハイなどの大舞台でもあれば、その変化の一瞬に立ち会うことも出来ただろうが、既に望にはそうした大会は残されておらず、その期間に教えたショットも、まだ試合の中で有効に使えるようにはなっていない。

 倉石が現役選手にかかりきりになっている間、実戦練習の相手役を務めていた望は、ときたまジャンピングスマッシュも放っていた。

 当然、彼女の身長とパワーではそこまでの威力は出なかったし、それはあくまでも『仮想敵』としての役割を全うしようとしているだけのように倉石には感じられたから、ことさらそれを咎めることもしなかった。

(志波姫との試合で、石澤は間違いなく『新世界の扉』を開いた──それからしばらくの間、アイツの中ではバドミントンの『領域』が広がり続けている……)

 反射神経やボディワークからの『読み』に優れる志波姫を前衛に置いた方が、この試合を勝つには近道だろう。

 だが、望は自ら宣言して前衛に立ち、ロシアの強打に立ち向かっている。

(それは、ある意味では『焦り』……大学に行っても、バドミントンを続けるのは続けるだろうが、インカレ上位や、A代表を現実的な距離に持ってくるためには、今のままでは到底叶わない──そうした焦りは、石澤の中に確実にある)

 ただし、今のところは、望のモチベーションをむしろ高める方向にその『焦り』は作用しているから、倉石も特段その点を気に掛けることはなかった。

 自分が損なってしまったかもしれない彼女の『器』が健在であることに、彼は心底安堵し、自分を変えてくれた教え子を、『いつも通り』じっと見守る。

 11-10。

 

 

 

「よしよし、いいぞ。二人とも体力はどうだ? 志波姫はかなり走っていたが……」

「いえ、まだ全然。フレゼリシアの合宿に比べたら、オフみたいなもんですよ、こんなの」

 飄々とした顔を緩ませて軽口をたたく志波姫に、倉石はその言葉が偽りでないことを確信する。

 もっとも代表合宿こそ短いものの、招集の連絡そのものは宮崎の大会後すぐのタイミングで全選手に行っていたし、引退からも間がない彼女たちのスタミナをそこまで本気で心配しているわけではない。

「石澤は大丈夫だな?」

「はいっ」

 望の場合は、引退してからの方がむしろ『自分の練習』に没頭できるぶん、体力強化にも存分に取り組めた。

 キャプテンを任せている以上、大会が近くなったりすると倉石はどうしても、各選手の状態を彼女と話し合って把握する必要があった。

 もちろん、プレイを見れば倉石にもだいたいの出来はわかるが、たとえば部活以外の時間帯でどう過ごしているかや、女性特有の物事もあるゆえに、多かれ少なかれ望に頼る部分が出てしまう。

 ともあれそうした事から解放された彼女は、現役時代よりも厳しいメニューを自らに課していたし、実戦経験と言う意味でも、宮崎の大会に参加していない益子や志波姫達よりは試合勘を保っている。

(ただ……この試合の前に石澤が言った『強打』はまだ打てていない──)

 それを使わずとも優位に立てているから、というのもあるが、倉石がかつて彼女に言い渡し、望自身も認めるとおり『強打は通用しない』のだから、本質的にはマイナスの影響をゲームに与えるショットを、わざわざ選択する利点は見当たらない。

「後半はまた、私が後ろに行くよ」

「──うん、わかった」

 何かを言いかけてやめ、志波姫は望のゲームプランに同意する。

 彼女が口を挟まないのだから、倉石もそれ以上突っ込むことはしなかった。

(任せる──石澤に、と言うよりもこの二人に、だ……)

 倉石にはまだ、志波姫のどこか冷めた雰囲気が腑に落ちない。

 手を抜いているようなシーンは一切なく、ショット一つ一つの『説得力』も十分に感じ取れるのだが、それでもどこかに不安が付きまとう。

(ベストを尽くしているのは、本人に訊くまでもなく解る……だが、それ以上を発揮しようとはしていない)

 ライバル校の選手、として見た時──それはつい数か月前までの倉石の目線だが──、志波姫唯華のようなタイプは、何をしてくるか自体は予想がつく。

 言うなれば、『輪郭がはっきりしている』プレイヤーだ。

 得体の知れない『闇』を持っている、例えば羽咲綾乃などはその典型的な例で、それゆえに倉石は少しでも羽咲を理解する手助けになればと、普段あまり真剣に読まないバドミントン雑誌を、望にも読ませた。

 当時の彼女は、全国の舞台を賭けた荒垣との試合で頭がいっぱいだったが、倉石は荒垣に勝つ戦術は既に完成させていたから、たとえば羽咲しかり、横浜翔栄の橋詰のような選手の方がよほど、教え子が不覚をとる可能性が高いと踏んでいた。

(一〇〇パーセントを出そうとして、正確に出せる選手はいない……人間である以上当然のことだ。だから、一二〇パーセントの力を出しました、なんてコメントがよく出る──)

 志波姫にも、そうした瞬間はごくわずかにあった。

 インターハイの対羽咲戦で見せた、普段はほとんど打たないような、パワー重視でコースを追わないジャンピングスマッシュ。

 少し威力を抑えて、八割九割でコースをしっかり狙うようなスマッシュは、彼女もよく打っている。

 それはバリエーションを相手に見せて、要所で絶品のフェイクドロップを決めるための布石だ。

 この試合でも、いくつかそうしたショットが見られる。

 オーバーハンドよりも少しだけ打点の高い、両足を軽く宙に浮かしたスマッシュ。

 際どいコースにしっかりとコントロールしているそれは、ロシアペアの布陣を崩す『一番槍』として機能しているシーンが目立つ。

 インターバル明けの最初のポイントも、そうした志波姫の崩しから、ラリーが動き始めた。

 

 

 

「──しッ!」

 ベースラインを跨ぎながら後ろに跳び、望はラケットを縦に振る。

 ロシアペアのロブを受けてのカットスマッシュは、ロシア前衛に入ったイリーヤが追うフォアサイドへ落ちて行った。

 脇腹ほどの高さでラケットを振り抜いたイリーヤの返球は、白帯の下からカチ上がるクリアー──これは 志波姫も当然読んでいる。

 自らの経験値と照らし合わせて、その軌道がコート内に収まるには大きすぎると見た彼女は、ラケットを翻して望に叫んだ。

「アウト!」

「っ──大丈夫」

 なにが、と志波姫が問う前に、望はそのシャトルに対してバックスイングを開始していた。

 これだけ高いクリアーならば、ロシアペアには陣形を整え、また望にはその陣形を読み取る時間的な余裕がある。

 先程の返球よりもずっと高くジャンプしながら左手を掲げて『アタリ』を付け、望は思い切りシャトルを叩き下ろす。

 耳の後ろから聞こえてくる飛翔音が、普段よりも高いことに気付き、志波姫はロシア側コートを見回して、踵を浮かせた。

 望が選択したのは、クロスへのスマッシュドライブ──彼女を起点に千鳥配置の三人が、呼応してスタートを切る。

(前衛、イリーヤは抜いた──)

 志波姫はネットの向こう側の人影を一瞥して、後衛のノンナからの返球に備える。

 最高到達点が三メートルに届こうかと言うような、荒垣や益子の強打ではない。

『角度が付かない』と耳にタコが出来るほど聞かされたその強打に、望は別の意味を込めた。

(伸びろ──!)

 撒き餌として投じた、これまで何十本と打った、地に足を付けてのコントロールドライブとは全く異なる。

 その飛翔経路の終端に近づくにつれて、ロシア後衛ノンナの記憶よりも、ほんのシャトル半個ぶん高い位置で、正対しきっていない面を抉る──それで十分だ。

 インパクトの瞬間に、スイートスポットを外したと気付いたノンナは、打球の行方を見るまでもなく天を仰ぐ。

 あるいは、叩き返すにはおあつらえ向きの緩んだ『強打』に油断した自分を悔やんだか。

 シャトルはサイドラインを割り、コート外に落ちる。

 12-10。

 

 

 

 

(決まった……か?)

 今しがた教え子の見せた『強打』に、倉石は出来るだけ心の平静を保つべく、批判的な視線を心がける。

 第一セットから第二セット前半を通じてこれまでの試合展開の中で、望が上からのストロークでストレートのスマッシュドライブを選択した瞬間はひとつもなかった。

 その事実と、彼女が生来持っている『シャトルの伸び』が合わさって、ロシア後衛ノンナは、もっとも球足が長く対処時間に余裕があるはずの、コート奥からのクロススマッシュに対して差し込まれてしまう。

 インターバル明け、最終コーナーを回ったところでの『新種』に対処する時間は限られているし、そういう意味ではノンナ達ロシアペアに焦燥感を植え付けるには最適なタイミングだっただろう。

(だが……これは『石澤望のバドミントン』そのものじゃないか──)

 自分自身にもたらされた武器を最大限に使い、凡庸なフィジカルしか持たない彼女が『上』で戦っていくための作法。

 試合前に彼女が言っていた、本来打たないはずの『強打』を、どこかで相手をミスリードするために使う、と言う意味合いのショットではない。

 先ほどのインターバル中に志波姫から何かを言われていたという風でもないし、この試合では一貫して望がイニシアティブをとり、相方を引っ張っている。

 

 

 

「──伸びたな、今の」

「そう? 確かに差し込まれてたけど……」

 首筋に滲む汗を、ユニフォームを掻き上げて拭きながら、益子はディスプレイを眺めている。

 旭はきちんと自分のタオルを準備しているから、へそやわき腹を狼森にチラ見せすることもなく、淡々とウォームアップの仕上げを終えた。

 実際にコートで相対しているのとは違う角度からの映像でも、それだけ細かいシャトルの挙動が把握できるあたり、有り体に言って益子泪は天才なんだろうな、と旭は思う。

 もちろん、そこにさほどの謙譲はなく、ただ単に彼女を客観的に評価した結果、旭の語彙力と、試合前でバドミントンに対してのコンセントレーションを高めている今の段階では、そのぐらいしか言葉が見つからなかった、ということだ。

「アンタよく、スタンドから見てて色々わかるよね。羽咲のクロスファイアだって、五種類目も──」

「遠くから見てるからこそ、わかることもあるんだよ」

 だったらもう少し、自分の事も俯瞰して見ればいいのに、と旭は心の中で苦笑する。

『益子泪』という人間そのものが、自己中心的な人物なのは間違いないだろう。

 そのおかげで随分と苦労をすることもあったが、仮に益子が心優しく気立てが良く、周りと波風を立てない落ち着いた人間であったなら、彼女とダブルスを組んだ二年半は、あまり面白くないバドミントン生活になったに違いない。

 旭はそう考えている。

 一緒くたに後ろ指を指されるようなこともたまにあったが、それでも本当に大切なものは何一つ、失っていないのだから。

「あっそ……もう出来た?」

「うん。そろそろ行くか。これすんなり終わるよ」

 スコアは絡み合いながらも、ロシアペアが日本ペアの前を走ることは一度もなく、淡々と数字を上げていく。

 ついさっき映像で見た望の『強打』と思われるショットは、多少なりともロシア側に影響を与えたようだ。

 志波姫の左右への振り回しと、望の前後への揺さぶりに対して、安易にクリアーを上げて体勢を立て直す、という選択肢が取りづらくなっている。

 自然、ロシア後衛ノンナの返球は球足が長く角度はつかず、スピードはあるから前衛の志波姫が手を出さないにしても、後ろの望がキッチリと受けてしっかりとプレイスメントを意識したリターンで優位に立っている。

 前に落とせばイリーヤが追うが、これもまた志波姫とのネット前勝負では劣勢に立たされてしまい、結局彼女たちにできるのは『延命措置』でしかなかった。

 アップゾーンから出て来た旭は、まず第一にスコアボードを見て、もうしばらくだけ時間があることを確認した。

 いつの事からか、たぶんインターハイの後ぐらいだろうと旭は記憶を手繰るが、

──私は高校三年間、あいつとダブルス組んでたんだ。

 いつか益子がテレビに出たら、隣にいる誰か──それが友達か、あるいは自分の家族かも知れないが──にそう自慢しよう、と彼女は思うようになっていた。

 そしておそらく、もうひとつ自慢の種が増えてくれるだろう、ということにも、彼女は確信を抱いている。

──昔、あいつと引き分けたことあるんだよ……半セットだけね。

 

 

 

 大差でマッチポイントを握られたロシアペアの『諦め』を読んで、志波姫の隣に望が並び立つ。

 前に二枚の壁──このプレッシャーに抗う闘志は、既にロシア側には残っていなかった。

 著名な書道家がその筆を走らせるように、志波姫は流麗な曲線をネット際に描いていく。

 そうして、彼女は最後の仕上げに、まるでシャトルが一歩一歩ネットを登っていくようなスピンネットを放つ。

 身体をフロアに打ち付け、ラケットを持たない手をコートに踏ん張りながらも、イリーヤはなんとかラケットの鼻先でシャトルを拾い上げるが、最早既に勝負あった。

 起き上がれない彼女の上空を通過して、望がカットスマッシュをストレートに沈め、21-13。

「ぃよっし!」

 ラケットを逆手に持ち、握った両手をぐっと震わせて、それから望は志波姫とハイタッチを交わす。

 参りましたとばかりに、イリーヤとノンナはその大きな背中を丸めて彼女たちと握手をして、腰に手を当て肩を落とし、コートを出ていく。

 充実感たっぷりに倉石と目線を合わす望をよそに、志波姫は豊橋から受け取ったタオルを首にかけ、ふうっと小さく息をついて虚空を見上げた。

 神藤コーチは一瞬、どこか故障でも出たかと彼女の表情に探りを入れるが、目の焦点がきちんとあっていることを確認して、胸をなでおろす。

 それから、二人をアップゾーンに呼び、ストレッチとクールダウンを手伝った。

 倉石には、次の仕事がある。

「──松川さんの分析によれば、ロシアのオーダーはノーマルだ。昨日の中国とは違うぞ」

 ロシア国内のデータはあまり豊富ではなかったが、直近のヨーロッパでのジュニア大会や、高校生年代のオープン大会の戦績を可能な限り当たると、順当に『強い順』に選手を並べる、というロシアの方針が浮かび上がった。

 中国のように国を挙げて強化に取り組んでいるわけでもないし、もちろん極寒の北国のこと、屋内スポーツとして一定の人気はあるにせよ、才能の頭数が揃っているとは限らない。

 益子と旭が今日戦うのは、日本で言えばせいぜい地方の県の代表レベルだろう。

 先ほどと同じく背は高いし、根本的に『外国人』の見分けがつかないのは日本人の弱点であるから、倉石はとりあえず簡単に、ロシアペアのデータを彼女たちに教えることにした。

「あっちの、黒いフレームのラケットの方がリヤーナ=シュコヴァ、白い方がジーナ=マトキチナ……ぐらいしか情報はないが」

 補足を入れてやりたいのはやまやまだが、松川から受け取った資料には、あまり聞かないロシアの地方都市の大会での優勝、ぐらいのデータしか記載されていない。

 国際大会への出場に至っては、リヤーナは他の選手とのダブルスで、ジーナに関してはシングルスではあるものの、ダブルスでは経験ゼロだ。

「……ペア、途中で変わってんの?」

「ああ、リヤーナの相方が怪我でやめたらしい。といっても、あの二人は組んで一年以上だから、ペアが合ってないなんてことはないだろうがな」

 一年もあれば、国の代表に呼ばれるようなレベルの選手なら、おおよそペアは合わせてしまうものだ。

 それだけの対応力が無ければ国際大会で結果を出すことなど望めない。

「昨日は少し厳しい試合だったからな──気楽にやれ。普通にやれば勝つ」

「オッケー。行くぞ、旭」

「ほいよ」

 

 

 

「おーい、手抜かないでよ泪……」

 しょうがない奴だ、とディスプレイを見上げる志波姫をよそに、望はキアケゴー氏から教えてもらった──ついでに言うならば、新品を一本、ミスアンヌから頂戴した──塗り薬を、肘と肩に擦り込む。

「……湿布?」

 突如漂ったメントールの匂いに、志波姫は振り向く。

「あ、匂う?」

「だいぶ。おならの匂いを八十パーセントカットしそう」

 確かに相当匂いがきついから、引退する前は知らなくてよかったものかもしれない、と望は考えた。

 宮崎の大会の後、倉石との雑談の中でその塗り薬を見せた時も、彼はその存在を知っていたし、最近は使っていないが、と中身が減って随分折り曲げられ小さくなったそれを、机の引き出しから取り出しさえした。

 要するにメジャーな製品ではあるのだろうが、この何とも言えない匂いは、なるほど女子高生にはそぐわないだろう。

 湿布を張る事さえ、その匂いのために嫌がる部員も多い。

 逗子総合では、練習後のクールダウンや故障の予防のために、製氷機で作った氷をアイシングに使っている。

 業務用の製氷機だから高価なものだろうが、それは倉石が買って寄贈したものらしいということを、望は入学当初に先輩から聞いた。

 値の張らない『袋』の方は部費で購入するのに苦労しないが、『総合』と名のつく望の母校では、他の部活や授業の設備にも、また彼女自身のような特待生も他の部活にだっているから、そうそう大きな金額は与えられないのだろう。

 そういうこともあって、望たちは倉石に対しての『うるさいおっさん』という見方を徐々に融かしていく。

(荒垣のサポーターも、そうだったな……)

 倉石は直接選手の身体を制御して指導したりするタイプではなく、ラケットで指し示すのが彼のやり方だが、部員との距離で言えば、彼女のコーチである立花などは、ずいぶんと近いように望は思っている。

 もちろんそれは北小町の部員──荒垣と羽咲に限ったことではあるし、別に望も彼なら満更でもないのだが、また別種の匂いが漂ってしまうといけないと思い、あまり彼とは話をしていない。

 ミスアンヌがロリコンと評したキアケゴー氏ほど年の差もないし、荒垣と立花がいずれそうなるなら、それはお好きにどうぞ、というスタンスだ。

 まだそんなことは、望にとっては『どうでもいい』話で、松川のように四十を超えて独り身でも、溌溂と生きていられるならそれもまた悪くない人生だ。

「あ、神藤コーチ。包帯巻いてください」

「ああ……」

 志波姫のバッグから包帯を取り出し、神藤は脇に置いてあった氷袋を彼女の肩に載せ、白い包帯を巻いていく。

 正面に回って彼女の山並みを観察する気は毛頭なかったが、望はその行為が少し気になった。

「志波姫、包帯ってズレない?」

 氷袋を微調整しながら包帯で保持し、神藤コーチは最後に縫い付けられているクリップで、その包帯を留める。

 最後にぽんと背中を叩くと、志波姫は着替えに持っていた大きめのTシャツを着て、その上から代表ジャージを羽織った。

「んー、寝てる時とかはズレるけど……」

「バンテージあるよ。倉石監督持ってた、多分」

「ああ、いいよこれで」

 寝るときは当然氷水ではなくお湯だろうから、水滴で布団が濡れるということもないのだが、どうせならそれ専用の袋と固定具を使えばいいのに、と望は思った。

「脱がせてもらう理由になるでしょ?」

「……わかんない、その価値観」

 脱ぐ、という言葉に反応したのか、久御山が会話に乱入してくる。

 次から始まるシングルスは、狼森の次に彼女が初登場という順番だ。

「なんや、エロい話か?」

「そうだよ」

「違う」

 柔らかい雰囲気の中でふとディスプレイを見上げると、益子と旭は快調にスコアを伸ばしていた。

 ロシアペアも高身長からの強打はあるにせよ、その精度も低く、その強打ですら益子に後れを取っている。

 田舎の高速道路をゆったりと流すように、ゲームは淀みなく最初のインターバルに入った。

 11-4。

 

 

 

 

 相手次第でそのモチベーションを変えてしまう益子だが、今日の所は、悪いスイッチは入っていないようだ。

 旭は小刻みに肩を揺らしている彼女の背中を見ながら、ロングサービスを放つ。

 インターバルでは、倉石からは特に何もアドバイスは貰えなかった。

 だが、その必要がないほどに、二人はロシアペアを勝手気ままに蹂躙している。

(役者が違う──まさしくそんな感じだ。世代最強の日本人女子が気合十分で、故障も抱えていなければ当然こうなる……)

 強打で攻めるロシアペアの配球は、どうしても縦長になってしまう。

 それに対して日本ペアは、後衛の旭は緩急をうまく使って相手の脚を澱ませ、益子は一つの隙も逃さず、素早い飛び出しからの崩しを仕掛けている。

 特に彼女の場合は、使うコートの『横幅』が普通のプレイヤーに比べて極めて多い。

 強打を生み出すリストの強さは、ロシアペアのドライブに多少差し込まれても、狙ったコースに押し込むのに役立っているようだ。

 こうなると、倉石の仕事は早くも『次』に移ることになる。

 昨日、中国のおそらくはエースだったらしい劉知栞に敗れた狼森は、まだアップゾーンから出てきてはいない。

 ロシアのシングルス1、マイラ=シェフチェンコは、劉知栞ほどの強敵ではないが、今日もまた昨日と同じように、自分のスタイルを確立できないままに苦戦するようなことがあれば、それは狼森あかねが、今のところは国際大会で通用するプレイヤーではないという証明になる。

(あいつはやれる、と俺は思っているが……狼森自身が、自分を信じられるかどうか──)

 追い続けた志波姫との対比でなく、相手の姿を直視しなければ、それに対する自分の輪郭もぼやけてしまう。

 昨晩少し時間をとって、そのことを諭した彼だったが、やはりいざ選手を送り出すとなれば、その結果を背負うのは指導者の責務だ。

 コート上では、留まるところを知らない二人の快進撃が続いており、早くも第一セットのマッチポイントを迎えているが、倉石の心の内は重たい。

 

 

 

「──あかね」

「おん?」

 アイシングを終えた志波姫は、氷袋を彼女に投げ渡した。

「っと! 冷てぇぞ、おい」

「ふふ」

 意味深な笑みを浮かべて、志波姫は立ち上がり、彼女の後ろに回ると、背中から手を回して抱き寄せる。

「頭冷やしな」

「……は?」

 言い方はきついが、狼森の表情を見るに、彼女たちの間には与り知らぬ深いつながりがあるのだろうと、望はその場から少し距離を取る。

 自然に、久御山に近づいていくことになるが、それを認めた彼女は、試合前だからとってさほどナーバスになっているわけでもなく、望に話しかけた。

「望ちゃん。コートの感じ、どんなん?」

「ん……まぁ、高校の大会より広いね、かなり。照明は被らないから、それは問題ないよ」

「そうかぁ……」

 参考になったのかは分からないが、久御山はそのまま腕を後ろに回し、肩の可動域を広げるストレッチに入る。

「久御山は、緊張してない?」

「全然。ウチそういうタイプちゃうから」

「そうなんだ……」

 その後の戦績を見れば、いかに第三シードと言えど御しきれないと思われた荒垣にも、果敢に食らいついていった彼女の姿は、望もよく覚えている。

 普段の日常生活でも、所作はゆったりとしていて、険しい表情になることもない。

「何か、緊張しない方法ってあるのかな……」

 高校の部活として戦った試合の中で、ガチガチになって頭も体も動かないというような経験は望にも少なかったが、決してゼロではない。

 もちろん、それは一年生の最初の試合ぐらいで、『あれだけやってきたんだから』という自信は、彼女から緊張を遠ざける根拠になっていった。

「そら、あるよ。ウチはな、全部人のせいにしてるで」

「……人のせい?」

 せや、と久御山は笑う。

「自分で背負えることには、限界があるからな」

 例えば、宇治天神台が団体戦ではインターハイに出られなかったこと。

 益子泪の不調によって、第三シードまで祭り上げられ、注目選手として雑誌に名前が載ったおかげで、見る目も増え、厳しくなったこと。

 そうした『自分で制御できないこと』には、責任を持つ必要はない。

 久御山はそういう風に考えている。

 ある意味では、それは益子泪にも通じる考え方だが、彼女とは違って人当たりは穏やかなおかげで、それほど『斜に構えた』という印象を他人に抱かせてはいない。

「せやからウチ、シングルスしかできへんねんな」

 苦笑いしつつも、彼女はそれをさほど悪いとも思っていないのが、表情から見て取れる。

 望は笑みを返しながら、狼森のウォームアップに付き合っている志波姫をちらりと見た。

 二人の考え方は、まるで正反対だ。

 宇治天神台はそこまでの強豪ではないし、フレゼリシア女子に比べればその『格』は落ちるが、そのことが二人の心理構造を分けた理由ではないだろう。

 志波姫には志波姫の人生があって、久御山にも同じだけの厚みの人生がある。

『生き方』としては、志波姫の方がしんどいだろうな、と望は思った。

 

 

 

「──っしゃ!」

 第一セットを21-8で終え、第二セットも前半を終えて5本しか許さずにインターバルに入った二人は、既にこの試合を早く終わらせることにしか興味がなくなったようだ。

 多少強引に攻め込むシーンが増えてはいるが、今日のロシアペアに対しては問題なく通用しているし、プレーそのものが雑なわけではないから、倉石も特に気になることはなかった。

「いいぞ、二人とも──ひとつだけ注文を付けるなら、後半も無暗に走らず、このままのペースでサッと勝ってくれるといい」

 狼森のために、と倉石は補足する。

 ここでロシアペアの心を完全に折り、更にゲームを加速させていくのも悪くはないし、じゅうぶん可能だろうが、それでは狼森が準備不足でコートに立ってしまう恐れが出てくる。

 また逆に、体力温存に拘ってペースを落とせば、それもまた『次』へのベストな繋ぎではない。

 どれだけ相手との実力差があり、一方的な試合展開になろうとも、これは『団体戦』だ。

 次に出て来るマイラ=シェフチェンコが、コニーをもしのぐ稀代の才能ではない、とは誰も言い切れない。

 狼森との試合でいきなり開花する可能性とて無くはないのだ。

(まあ、そんなことは通常起こりえないが……旭はともかく、こういったことを益子に考えさせるのは、彼女にとって財産になるだろう……)

 宇都宮学院の矢板監督は、そこまでの事を益子には教えることが出来なかった。

 それほど才能の集まらない中堅校にあって、益子泪は誰が見ても『エース』だったが、その存在は突出し過ぎていた。

 チームとして戦う──そのことが、個人を成長させることもある。

 益子泪の『伸びしろ』があるとすればその部分だと、倉石は確信していた。

(強烈な『個』は、得てして周りを枯らしてしまう。旭とて、益子泪のダブルスパートナーとしてではないバドミントン人生も有り得た……)

 望も認める通り、旭海莉はシングルスでもいっぱしのプレイヤーだ。

 中学時代に時計を巻き戻してみても、彼女が神奈川か、遠くとも東京在住だったなら、倉石は確実にスカウトに行っていただろう。

「──よし、行ってこい」

「おう。行くぞ、旭!」

「はいはい」

 おつかいのメモを渡されてはしゃぐ子供のように、益子は軽く飛び跳ねながらコートに戻っていく。

 まさしくその保護者に見える旭の背中を、倉石はしばらく目で追ってから、神藤コーチに狼森を呼ぶように伝えた。

 

 

 

狼森の後を追って志波姫が出ていき、アップゾーンには入れ替わりに豊橋が入ってくる。

「おう、アンリ」

「久世ちゃん、調子どう?」

「そら、やってみなわからんわ。最近試合してないしな」

 軽やかに踵を返し、久御山は隅に置いたバッグからタオルを取り出した。

 汗をぬぐい、自分のラケットを手に取ると、ストリングスの格子をぎゅっと見つめて、それからしばらく目を閉じる。

 彼女なりの、集中に入るルーティンなのだろう。

 それから無口になった彼女から離れ、望はディスプレイに目をやる。

「うわ、もう終わり……?」

 第二セットも大詰め、マッチポイントを迎えて、サービスを打つのは旭だ。

 先ほどまでと変わらないロングサービスを、丁寧なバックスイングからコート奥隅へ通す。

「サービス良いよね、旭さん」

「そうだね……ていうか、全部上手いと思うけど」

 何でもそつなくこなす──というのが、望の旭海莉に対する評価だ。

 それはもしかしたら、益子泪と言うパートナーの威を借りているだけなのかもしれないが、ともかくそれを確かめる手段は、彼女がシングルスのコートに立たない限り存在しない。

「石澤さんは、これからどうするの?」

「え?」

 進路の話、と豊橋は言った。

 望は首を捻り、ううんと唸る。

 今、自分がここにいるのは、宮崎の大会で優勝したからだ。

 あの時戦った七試合は、周囲で見ていたらしいスカウトに、どんなふうに映ったのだろう。

 望には、誰がその『スカウト』かは見分けがつかなかったし、そもそも観客席を眺めるほどの余裕はなく、目の前の試合に退屈もしていなかった。

 今日とはまるで逆だ。

 既に自分の出番は終わってしまったし、あれがロシア代表のダブルスペアでトップの実力だというのなら、益子と旭の試合も、これだけ大差がついているのは容易に理解できる。

 観客席で荒垣と羽咲が暇そうに眺めているのも良く見えたし、倉石監督が普段のように、じっくりと腰を据えて見守ってくれているのも、なんならラリーの最中にだって確かめることが出来た。

「アンリはどうするの?」

「んー……まあ大学かな。セレクション受けたところも、宮崎の大会も含めて検討するって返事来たし……」

「やっぱ、そういうのあるんだ──私はまだ、なんにもないけど」

(ま、でも……ないならないでも、いいけど)

 バドミントンの強豪大学というのは、得てして偏差値はさほど高くない私立大学が多いから、一般入試で入るのはそれほど苦労しないだろう。

──どうして、あんなに切羽詰まって部活をやっていたのだろう。

 望は、ここ最近の自分がずいぶん楽観的な人間に変化してきたことを、不思議に思っている。

 いつも心が押し固められているような、不自由さを感じながら。

 それはきっと、倉石のせいだけではないはずだ。

(ヘタクソだったから、かな?)

 望は思わず含み笑いを漏らしてしまう。

 なんとなく、そんな至極単純な理由の気もする。

 純粋にバドミントンを楽しむことが出来たのは、あの宮崎の大会ぐらいのものだ。

 そして今も、自分ひとりで色々なものを背負う必要はないから、世界大会だって、楽しんでプレーできている。

「どこ行っても、バドミントンはやると思うよ──」

 ぽつりと漏らした言葉に、豊橋は頷いて何かを言おうとしたが、突如なだれ込んできた騒がしい二人──ほとんど一人の声に掻き消される。

「旭、ギャツビー!」

「自分で取れや……」

 旭は自分のバッグからウェットティッシュを取り出すと、パックを丸ごと益子に投げつける。

 タオルだドリンクだと騒ぎまわる益子をよそに、久御山はすっかり自分の世界に入っていて、身じろぎ一つせずに虚空を見つめていた。

 不満げな顔を見せながらも、ちゃっかり益子より先に自分の分を抜いた旭は、充実の表情で身体を伝う汗を拭っている。

 こんな面白い奴等が、世界にはあと何人いるんだろう。

 望は、ああ、だから今──楽しいんだと気付いた。

 



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19th game stone cold

 率直に言って、高校三年間──実質的には二年半だが──の部活は短いものだったと、望は思っている。

 もってできたことがあるんじゃないか、もっと上手くなれたんじゃないか。

 そうした後悔が百パーセントではないにしろ、部活動としては引退試合となった志波姫戦のあと、望の心を埋めていた。

 今になってみれば、倉石の言う『セオリー』もよく理解できるし、彼がそうした自分の考え方に選手を嵌めていく指導方針であるのも、こうした後悔を最小限に抑えようとする努力の結果なのは、わかっている。

 彼がスカウトしてくるのは、決まって中庸な選手だ。

 荒垣のように一つの武器に拘る選手にはなかなか手を出さないし、彼女の抱えている潜在的なリスクだけが、特待枠から外れた原因ではない。

(でも……)

 益子をして鋭いと言わしめたスマッシュを放つ志波姫は、自分とほとんど体格が違わない。

 彼が滅多に使わない『天才』という言葉で評した羽咲でさえ、それでも出発点は同じはずなのだから──と、望はある意味で希望を抱いている。

 それは逗子総合のエースとしての責任から解き放たれた高揚感による、一時的なものかもしれない。

 今のこの大会が楽しい、というのもあるだろう。

 同じ競技に打ち込む仲間たち──望は、自分の『順位』はその中でも下の方、なんなら一番下かも知れないと考えているが、そうした仲間と共に過ごす時間は貴重だし、現役時代はそうした『上』で渡り合う機会もほとんどなかったものだから、とりあえず大学、あわよくば社会人でもバドミントンを続けるつもりでいる望には、楽しくないはずがなかった。

 そこから得られるものも、多くある。

 望はふと、ぼんやりとディスプレイを見上げている志波姫に目を向けた。

 旭と益子が騒がしく歩き回っている横で、彼女たちと会話を交わすでもなく、また画面の中の狼森の試合を心配している風でもない。

 今日は昨日と違って、狼森は『自分のセオリー』をしっかりとなぞることが出来ているようだ。

 まだ試合は始まったばかりだが、三点のリードを抱えてインターバルに手を掛けようとしているのは、彼女の方だった。

 そして十一点目のリプレイを、望は志波姫の横に並んで見つめる。

「あれ、拾うか……」

 ロシアのシングルス1、マイラ=シェフチェンコは、望たちや旭たちの対戦したメンバーと同様に、身長が高く強打で押し込んでくるタイプだ。

 ただし、画面越しでさえ、ステップワークがあまり上手ではないのがわかる。

 歩幅が大きいぶん、重心が身体から遠く離れてしまい、切り返しにもたつくシーンが多い。

 狼森は最初の『一本目』の強打を上手く返球することが出来れば、その後はほとんど優位に立てている。

 11-7となり、今日は充実満面と言った表情で、狼森はベンチに戻る。

 

 

 

「いいな、狼森。後半もこのまま行って、第一セットは貰っておこう」

「んだ」

「体力が落ちてきた、と思っても、このセットはそのまま走り切るんだ。第二セットは多少抜いてもいいし、疲労にアジャストできてきたと感じたら、そこから作り直せばいい」

「んだ」

 汗を拭き、ドリンクを飲み、仕草は慌ただしいが、彼女の明瞭な返事からして、倉石は狼森が自分の指示をしっかりと聞いているのは理解している。

 こういう選手は、指導者によって大きく成長の形が変わる。

 倉石は経験則でそのことを知っていた。

(青森高田の監督は、面識がないが……なるほど、志波姫にさえ一泡やっつけるかもしれない、と言われている狼森だ。ただのスピード狂ではない……)

 自分の武器はそれとして磨き上げ、また足りないものもしっかりと理解している。

 それは、志波姫唯華と言う絶対的な存在を追い続けた結果だと、倉石は考えていた。 

(それが悪い方に顔を出したのが、昨日だが……まあ、人並みに緊張もしていたんだろう)

 そこを解してやれなかったのは自分たちのミスだ。

 出来ることなら、代表に呼んだ選手の指導者も、同時に呼ぶことが好ましい。

 豊橋や旭たちならともかく、狼森はまだまだ、志波姫が言うところの『バドミントンでしか遊ばない子供』だから、いきなり世界大会で自分のスタイルを出せと言うのは、無理ではないにしても難しい注文だ。

 主審がインターバルの終了を告げると、狼森は肩にかけていたタオルでもう一度顔を拭いて、豊橋に手渡す。

「──よし、行ってこい」

「おう!」

 元気のよい返事を聞いて、倉石も安心する。

 望や荒垣、羽咲はともかく、他の選手に対しての彼の『先入観』と実際の形の乖離は大きい。

(……狼森の場合は、戦術の『理解度』と『自由度』がまだまだマッチしていない……考えてプレーしているのはよくわかるが、例えば羽咲戦や、おそらく何度かあった志波姫戦と同じように、『考えすぎる』傾向がある──)

 昨日の中国代表は、バドミントン強豪国と言うこともあって日本のメディアでも紹介される機会は多いし、松川が入手してきた情報も、今日のロシア代表より格段に多く、また精度も良かった。

 対戦相手のマイラ=シェフチェンコについては、ほとんどろくな情報もない。

 だが逆に、そのことが狼森の頭の中をシンプルにさせ、彼女が『自分』を中心において戦うことが出来ている要因かもしれない、と倉石は思う。

 

 

 

「今日は、いい感じだね」

「ん? そうだね……」

 もちろん昨日は観客席にいたから、たとえば試合中の狼森の細かい表情まではわからなかった。

 それでも、望の感想に同意してくれた志波姫に、彼女は安堵する。

 マットの上でくんずほぐれつストレッチを繰り返している旭と益子は、狼森の試合もほとんど興味を示さず、自分たちの試合を振り返っている。

「縦、縦、横?」

「いや、縦、縦、縦、縦、横ぐらいでいいよ。縦長のラリーだから、それに合わせて──」

 あまりに抽象的すぎて、遠巻きに眺めている望にはよくわからないが、旭はそれで理解したようだ。

 汗が冷えて来たらしい益子のくしゃみにも動じず、隅のパイプ椅子に腰を下ろした久御山は、ゆっくりとした手つきで靴紐を結んでいる。

 彼女も今日が初出場だ。

 他人を遠ざける空気などめったに出さない久御山だが、今はどことなく近寄り辛い。

 自然に望は、志波姫と話をすることになる。

「うん……一発目がキモだね」

 第一セット後半も、狼森がポイントをとれるかどうかは、シェフチェンコの最初の強打に対するレシーブにかかっていた。

 上手く抑えて返球できれば、その後は狼森のスピードが一気に輝きを放つ。

 また逆に、返球が伸びたり浮いてしまったりすると、それはシェフチェンコの強打が連発されるきっかけとなってしまい、そうした時には狼森はポイントを落としてしまう。

「ミスったらもう、すぐ捨てればいいのに……」

 望が呟いた一言に、志波姫はほんの少し眉尻を下げた。

 その表情は望が見止めるところではなかったが、ともあれ彼女は、倉石の教えもあって、むやみやたらにはボールを追わない。

 体力的な不安をカバーするためでもあるし、倉石もフットワークの強化としては厳しいノックを打つことも多いが、試合の中では『無理なボールは捨てる』という選択肢を、選手たちに示すことが多々ある。

 今の狼森のラリーを見ていても、そうした最初の取っ掛かりで躓いた時はほとんどポイントを奪われてしまっているし、それでも強打の半分以上はきちんとコントロールして返せているから、この点差なのだ。

 だから猶更望には、自分が不利に回った時点で切り捨てるのは、クレバーな選択に思える。

 もちろん荒垣ならそれを良しとせず、それこそ膝が壊れるまで受けて回るだろう。

「あかねは私の背中見てるからね……」

 志波姫の言わんとするところは、『どんなボールでも食らいつく』自分の姿ではなく、そもそもどんな強打でも『きちんとコントロールする』自分だと補足した。

 益子や津幡、また最近ではコニーの強打ですら、自由には打たせない彼女だからそれが出来るのだろうが、狼森はまだ、相手の強打を封殺することは出来ない。

 彼女とシェフチェンコの身長差では、それは一生かかっても無理な相談かも知れないが、昨日のこともあって、狼森はとにかく足を出して、全ての打球に対して食らいついて行っている。

 

 

 

(まだ、自分の試合だけで手一杯……これは仕方がない)

 本州最北端の田舎のこと、団体戦で毎年常連になるほどは選手の揃わない青森高田では、『上』でチーム戦を戦う経験もそう得られない。

 ましてやまだ二年生──体力的な不安を考慮すれば、単複のダブルエントリーは三年生に役割が回る。

 精神的な面でも、彼女に任せるのはシングルスの一試合だけが妥当だろう。

 もちろんこれからは彼女が最上級生になるし、団体で県予選を勝ち上がっていくには、狼森が単複で出場しないまでも、こうした団体戦での試合運びを経験させるのは、彼女のためになる。

 第一セット後半は、少し動きの落ちて来た狼森が、それでも足を動かして獲りきった。

 21-18。

 セットの終了を見てアップゾーンから戻ってきた志波姫と望が、彼女の世話をして回る。

 その後に遅れて久御山が登場し、入れ替わりに豊橋がアップゾーンに入っていく。

「疲れは、どうだ?」

「ある……けど、追いかける展開は嫌いだ」

「フムン──」

 本音を言えば、もう少し苦労せずに第一セットを獲っておきたかった。

 十八本も相手に与えてしまったのは、後半に入って少し体力が落ちたことと、そのせいでメリハリが効かなくなってしまったのが原因だ。

 だが、それを今狼森に諭すのは混乱してしまうだろうし、本人がまだ走るという意思を崩していないのなら、とりあえずは好きなようにやらせてもいいだろう、と倉石は考えた。

 もし第二セット前半をビハインドで終えることがあれば、そこから本格的にテコ入れをしていっても、今日の相手なら十分間に合う。

 昔の荒垣と同じように、強打一辺倒で単純な攻めしかしてこないなら、いくらでもやりようはあるのだ。

「なら、走れるところまでは走れ。ただし、ベストプレーが出来ないと思ったら、そこは一気にペースを落としていい」

「んー……」

 含んだドリンクをゆっくりと飲み落としながら、狼森は唸る。

「難しいか?」

「いや、やるよ」

 バドミントンは、例えば野球やソフトボールのように、攻撃側と守備側で完全に分かれているわけではない。

 一本のミスショットで、一瞬にしてラリーの攻守は入れ替わる。

 狼森のような『速い』プレイヤーは、得てしてその速さに自滅しがちだ。

 自分のターンを冷静に見極めなければ、ポイントを奪うのにも無駄な体力を使ってしまうし、そうしたことの積み重ねが、終盤の失速の原因になってしまう。

 本来そうした自分の武器を使って『優位に立つ』のは、自分が攻撃側に位置している時だけでいい。

 もっともまだ今の狼森には、そこまでラリーの流れを読み取ることは出来ないのだろう。

「まあ、簡単なことじゃないが、トライしてみろ」

「んだ……行ってくる」

 言ってしまえば、昨日の旭たちの試合運びも、決して褒められたものではないし、倉石がその時言ったように、極めてリスクが大きい。

 それを成立させる鍵は、益子泪の『才能』と、旭と益子のダブルスペアとしての『経験値』に踏み込んだ部分になってしまうからだ。

 同じことを例えば羽咲と豊橋、あるいは今日の望と志波姫に求めても、そう上手くはいかない。

 羽咲なら実力でなんとか手じまいにしてしまえるだろうし、志波姫はそもそもそんなリスキーな戦術を選択するはずがないが、それはあくまで同年代同士だから出来ることだ。

 これから『無差別級』の試合をこなしていく上で、如何に三強と言えども、自分より五つも十も年上の選手とやる時には、そうした経験値で後れを取ってしまうのは否めない。

 それを少しでも教えることが出来れば、と倉石は考えている。

 

 

 

 

 果たして狼森は失速を見せず、インターバルに向けて先手を取り続ける。

 8-7と点差は薄いが、内容的には『もう一押し』といったところでポイントを落とすシーンも多く、彼女がこだわり続けてきたスピードが落ちないのであれば、このまま逃げ切りができそうな雰囲気だ。

(──第一セットのもつれは、当然マイラ=シェフチェンコの方にも影響を及ぼしている……どちらかといえば攻め手を潰されて落とした分、精神的にキているのは向こうの方だろう)

 コート上の狼森も、一番厳しいこの場面を乗り切れば、あとはホームストレートを駆け抜けるだけど言わんばかりに、気合のサイドダッシュから連続ポイントを奪った。

 シェフチェンコがシャトル交換をしている間、日本のベンチからは激励の声が飛ぶ。

「あかね、いいよ! あと一点しっかり取ろう!」

 激しい呼吸を肩で抑え込みつつ、コート上の狼森はこちらを振り向かず、頷いている。

 サイズの小さい狼森の方が、同じ動きをするならば体力の消費は少ないはずだ。

 そうした根拠から、倉石はある一定の『安心感』を抱いてはいるが、今度は持ち直したシェフチェンコが強打を二本沈め、譲らずの展開。

「打開策は──」

 先の見えない展開に、望の方は少し心配顔だが、志波姫は口角を落とした唇を真一文字に結び、じっとコートを見つめている。

 その表情には、倉石達にも見覚えがあった。

 インターハイ団体戦、逗子総合と対戦した時のことだ。

 自らのウォーミングアップもそこそこに、彼女はベンチから、あるいはアップゾーンから他のメンバーの戦いを見ていた。

 盤石の白石・美里ペアによる先制も、その後の多賀城・矢本の敗北も。

 変わらぬ表情でその戦いぶりを見つめている志波姫は、よく記憶に残っている。

 自分の試合の時はそこそこに表情も動くのだが、コート周りの『結界』を出入りすることで、スイッチを切り替えているのだろう。

 そんな結界に、久御山が入ってきた。

「──どんなもん?」

「これ取ればインターバル。相手も落ちてきたし、多分勝てるよ」

「そうか」

 ベンチの一番端に腰を落とし、手に持ったドリンクを呷る。

 ふうっと息を吐き出して、彼女は気合を入れ直すように、手櫛でゆっくりと髪を整えてから、すっと目を閉じて──最後の準備に入ったようだ。

 コート上に響く豪快な打球音も、せわしない足音も、聞こえていない風で。

 インターバルを告げる主審のコールに少しだけ顔を上げた後、小さく二、三度頷いてまた目線を落とす。

 

 

 

「よしよし、まず息を整えるんだ」

「んはー……はぁ……」

 狼森は左手を腹に当て、丹田に力を籠める。

 右手にはラケットを握っているから、彼女の両手はふさがっていて、ドリンクとタオルを準備している望たちも、手持無沙汰だ。

 十数秒ほど、そうしていただろうか。

 狼森は腹から手を放し、望が持つドリンクボトルを貰う。

 喉を鳴らして飲み干すと、狼森は大きく息をつき、それを見て志波姫がタオルを肩にかけた。

 疲労は想像以上だ、と倉石は思案する。

(神藤コーチの教えた、『頭を振らない』は一応できているが、それでも上体の身のこなしはまだまだ注文を付けたくなる部分が多い……が、今言うべきはそこじゃない)

「とにかく、前半勝って終えたのは大きい。相手も疲労があるのは間違いないんだ。ここから先はビハインドの展開も覚悟しておけよ?」

「んだ……」

 それは嫌だ、と狼森は言うが、語気は弱い。

「まあ聞け。今言った通り、シェフチェンコの方も強打の威力は落ちている。向こうが勝ちを意識した瞬間に使う、『最後のスタミナ』だけは残しておくんだ」

「──最後の、スタミナ……」

 そうだ、と倉石は強く頷く。

 もとよりたった一試合で、すべてのスタミナを使い切ってしまうほど狼森は脆弱ではないし、それはほかの選手も、相手のシェフチェンコもそうだろう。

 だが短期的な視線で見れば、一試合の中で疲れがピークに達するポイントは、ちょうど第二ゲームの後半に訪れる。

 今日のこの試合で行けば第一セットは相当に競った展開だし、ひとつひとつのポイントを奪い合うラリーも長い。

 それが第二セット前半まで二点差で来ているのだから、これからお互いに疲労は隠せなくなってくる。

「その最後のスタミナに手を付けない限りは、相手に先に行かれてもいい──上手くやれれば、狼森、お前が予選突破を決めるMVPだ」

 そうでないなら、MVPは久御山に取られてしまうぞ、と倉石は発破をかける。

 当の本人──久御山はこちらの話も聞いていないようで、ベンチの端っこに座ったまま、小指で眉を掻いている。

 それを見てようやく、狼森にも普段の不敵な表情が戻ってきたようだ。

「……じゃあ、何点までリードをやっていいんだ?」

「そうだな──二点だ。三点差では一気にまくるのは難しいし、一点差では明確なギアの切り替えが相手に伝わり辛い。多くても少なくてもダメだ」

「……よし、わかったよ監督」

 

 

 

 

 狼森がコートに戻って行き、望と志波姫も再びベンチに座る。

 旭と益子は相変わらずアップゾーンの中にいるようだが、何をしているのかはここからは見えない。

「……ん? どうした、石澤」

 名前を呼ばれて、望は初めて自分が倉石を見つめていたことに気付く。

「へ? あ、いえ、なんでも──」

 慌てて目線を正面に戻し、望は再開された試合を眺めた。

「不思議か? 俺がああいう指示をするのは」

「え? まあ……」

 二年生にやらせるには、リスクの高すぎる戦術だ──そう望が考えているらしいと、倉石はその表情を読み解く。

 そして、倉石は自分が来ている代表のジャージ、その左胸に縫い付けられた日の丸を指さして言った。

「──『これ』を着ているんだ、俺たちは。難しいことも要求するさ」

「そう、ですよね……すいません」

「はっは……別に謝ることじゃない、石澤」

 そう言われ顔を綻ばせた望だが、確かにさっきのは愚問だったなと自省する。

 自分だって、部活の時はほとんど打ちもしなかった『強打』を狙いながら戦っていたし、結果として試合前に意図していたものとは違う形だが、より『自分らしい』強打を打てたという実感はあった。

 つまりそれが、こういった大きな大会に出ないと得られない経験値であるし、それによる『成長』込みで彼は指示を出しているのだと、望は気づく。

 逗子総合のエースとして戦っていく中で、『厳しいこと』ならともかく、難しいことを要求された記憶は、望には少なかった。

 自分の知る限り、ほかの部員もそうだろう。

 勝利に対してのシビアさは、武山たち下級生の話を聞く限り変わっていないが、そこに至るメソッドはより彼女たちが受け入れやすい形で、倉石は伝えている。

 だからこそ、我の強い狼森にも彼の与えたセオリーはすっと入って、倉石の思惑通り、また狼森が実践している通りに試合は進行している。

 12-13。

 

 

 

 

(一点の余裕、と思えばいいのか……)

 連続ポイントを奪われる間に取り返したのは、わずかに一点だが、狼森に焦りはない。

 インターバル中に受けた指示を頭の中で何度も反芻し、焦るな、焦るなと過熱し始めた身体と心を抑え込む。

 そうすると案外、身体も軽くなってくるようで、がむしゃらにポイントを取り返しに行かない分のエネルギーを、狼森はほかのことに使い始める。

(確かに、強打はだいぶ落ちてる……向こうも疲れてるんだ)

 ネット前から少し下がった位置で、狼森はシェフチェンコの動きをじっくり見定めながら、リターンを返す。

 盤石の体勢でなければ、パワーの落ちたスマッシュも、触れないほどではない。

 もともとコースは甘いのだから、ブロックに走るのもほどほどでいい。

 最初からこうすれば、もっと楽に──と、シェフチェンコがスマッシュをサイドに外してしまった。

「む……」

 思いがけず同点となって、狼森がサービスに回る。

 想像以上に、好調に試合が推移しているように思えるが、倉石の心中は穏やかでない。

(フムン……我慢だぞ、狼森)

 こうなってくると、点数の計算を始めてしまいがちだが、今それをやってしまうとせっかくの戦術が狂ってしまう。

 試合を決めるまでには八点が必要だが、ここが最終コーナーと決めつけて走ってしまうと、最悪のタイミングでガス欠が来るだろう。

(まだ……まだ浅い──そうだ、焦らなくていい)

 倉石の危惧はひとまず、取り越し苦労に終わる。

 狼森は丁寧にロングサービスを打ち上げてシェフチェンコをコート奥に押し留めつつ、自らも決して不用意に前には出ない。

 昨日の敗北が、彼女の負けん気を削いでいるわけでもないだろう。

 ややプレッシャーに圧迫され気味ではあるが、精神的には決して悪い状態ではない。

 シェフチェンコとてロシアの代表だ。

 年齢は狼森より一つ上だし、やや精密さに欠けるものの、それを気にせず強打を打ってくるメンタルや、バタバタしながらもしっかりと走れる足回りから見ても、実力は疑いのないものがある。

 つまりは妥当なスコア──むしろ健闘しているといっていい。

(あの負けがあったから成長できた──雑誌なんかじゃよく見るセリフだが、それを言えるのは最終的に『勝者』となった者だけだ……)

 長いラリーの最後、今度はシェフチェンコがポイントを奪う。

 少しだけネット前での張り合いとなったが、狼森が遠くに弾いたロブを無理やり叩いたドリブンクリアが、上手いこと失速してライン際に落ちた。

(ネットインほど明確じゃないが、これは完全にラッキーポイント──第一セットの狼森なら走って拾いに行っただろうが、ここはもう、そういう時間帯じゃない)

 シャトルを拾って返す狼森も、その所作はいたって穏やかだ。

 足が動かない苛立ちなど、微塵も感じさせない。

 そのまま行けよ、と目線を送り、倉石はベンチの端に移動する。

「久御山」

「……ん? なんや、監督」

 敬語ではないが、敬意がないわけではない。

 瞑っていた目をしっかりと開いて、久御山は倉石に目を合わせる。

「相手の情報、要るか?」

「ん、んー……」

 久御山は再び顔を落とし、右手に持ったラケットをおでこに当て、ぽんぽんと頭を叩いた。

「──勝負掛かってたら、試合前に聞くわ」

「そうか……」

 倉石は松川から受け取った資料を閉じ、もとの位置に戻った。

 今回代表に呼んだ中で、いちばん『掴みどころのない』のが彼女だと、久御山について倉石は考えている。

 それはバドミントンのプレーのこともあるが、一人の人間としても。

 志波姫については、たとえば彼女を表現する語句はいくつもすぐに浮かぶ。

 軽やか、飄々として──また献身的でもあるというのは、彼女の母校での主将ぶりを見聞きするでもなく、短期間で理解できた。

 益子泪のことは、それこそ家庭環境の話や、特待騒動に絡むいろいろな事件に、倉石も人づてに聞いた話も多く、また、代表で一緒に過ごし、彼女の試合を一番近いところで見たとき、『本当は、そうじゃないんだ』という部分もはっきりと感じられた。

(泰然自若──志波姫にも当てはまるが、他者との関係性を重んじる部分が最も先に来る……)

 もちろん、久御山がチームワークに乏しいとか、人当たりが良くないということは全くない。

 むしろコートを離れれば人懐っこいところが多く、その内外をしっかりと切り分けられるアスリート、といった印象を倉石は得ている。

 ただ、単純に実力が計り知れない──。

(インターハイの荒垣戦、久御山は第二セットを取り返し、最終セットまでもつれ込んだ……)

 コニー戦の覚醒前、という条件付きで言えば、それは教え子と同じゲームスコアだが、第三セットを望は十本も行かずに落としたのに対し、久御山は十七本まで粘っている。

(だが宮崎では、石澤が完勝している……それを素直に、石澤が成長した結果と受け取ってもいいが──)

 試合のサイズによって、自分のポテンシャルを閉じたり開いたりするタイプなのか、と倉石は考える。

 それを確かめるには、勝敗のかかった場面──すなわち、狼森が負けた場合に、彼女の本質を知ることができるかもしれない。

 ただ、コート上では狼森がしっかりと倉石のセオリーに乗り、自分の仕事を忘れずに実行している。

 16-18。

「──よし、狼森! ゴッ、ゴー!」

 突然の、後ろからの大きな声に狼森は何事かと振り返るが、身振りも大きい倉石がその声の主だとわかり、安心してサービスの構えに入る。

 選択したのはショートサービス。

 もう、強打は打たせないとばかりに一気にネット前に詰め、足が出ず手で拾い上げたシェフチェンコのリターンを逆サイドに振り飛ばす。

 あっけなく一点を奪い返し、そして間髪入れずに速攻──。

 今度は予期していたらしいシェフチェンコはしかし、前に詰めてくる狼森のプレッシャーから逃げてしまう。

 頭上に上がったロブを追って、狼森は大きく跳んだ。

「──おりゃ!」

 コートミドルからのジャンピングスマッシュ。

 角度はつかず、コースは甘い。

 が、これも積極的な返球はできず、シェフチェンコはさらに押し込むべくドリブンクリアー。

 長いストローク勝負でも引けを取らないのが、狼森あかねが二年生にして打倒志波姫の最先鋒に挙げられている理由だ。

 キレよくラケットを振りぬき、捩れのない綺麗な弾道が、空いたサイドへ飛んで行く。

 悲鳴を上げている筋肉をなだめながら、シェフチェンコは何とか追いつくが、また逆を突いた狼森のスマッシュドライブに、もう勘弁とばかりに追う足を緩める──。

 18-18。

 ダメ押しとばかりに今度は長いサービスを狼森は放ち、ジャンピングスマッシュで返したシェフチェンコの『戻り』が遅いとみるや、上手く体全体でいなしたストップショットで、ノータッチエースを奪った。

(一気にまくった──!)

「よしよしよし、いいぞ狼森! 攻めろ、ミスを恐れるな、攻めろ──!」

「おっしゃ!」

 その時、視界の隅で、ふふ、と久御山が小さく笑ったのを、望は見止めた。

 コート上で起こる出来事をひたすら楽しんでいるような、穏やかな笑顔。

 目立たないように控えめに笑ったのは、そこにもう一つ、自分がMVPになり損ねた、という苦笑いも含んでいるのだろう。

 

 

 

 

 

 狼森を中心に広がる歓喜の輪をよそに、久御山は音もなく立ち上がる。

「久御山──」

「ん?」

 倉石の呼び止めに応じて身体を翻した彼女の、表情は柔らかだ。

「相手の情報なら、いらんで」

「そう、か……? まあ、しっかり自分の調子を確かめながら、やっていけ」

「ほいほい」

 軽やかにラケットを振り回しながら、久御山は対戦相手のナターリア=シャンキチの待つコートへと向かう。

 充実の表情で、心地よい疲労感に任せて志波姫にもたれかかっている狼森は、そのままアップゾーンへと連れていかれた。

(さて……何はともあれ、これで予選一位が確定──仮にウチがポルトガルに負け、明日のロシアと中国がどういう結果になろうと、直接対決で両方とも勝っている……久御山には少し悪いことをしたかもしれん)

 代表合宿でも、神藤コーチたちから久御山にはさほどの注文もなく、ただ彼女の調整に時間を費やしてもらった。

 充分とは言えないが、もともと久御山は宮崎の大会も石澤に敗れたのみの六勝一敗と好成績で終えている。

 それは今夏のインターハイで、第三シードにエントリーされた評価に違わず、実力を発揮した結果だ。

 

 

 

(──ほな、いきますか)

 オープニングサーバーは久御山だ。

 やや長めの間合いから、まずは相手を見るショートサービス。

 対面のナターリアは機敏に反応し、久御山をコート奥に抑え込む、長いロビングを放つ。

 穏やかなラリーが続くコートを見つめる望の横に、旭が座る。

「旭、おつかれ」

「うん」

 益子の方は、さっきアップゾーンに入っていた志波姫にちょっかいでも出されているのだろう。

 コートの上では、久御山があまり気忙しいステップを踏むこともなく、ナターリアのドライブをバックハンドでいなしながら、じっくりと相手の様子を見る、といった格好だ。

(初手から遮二無二攻めていかないあたり、こういう大会のサイズ感によく慣れている──)

 久御山の試合を見るのは、倉石にとっては二度目だ。

 団体戦で敗退し、ひとまずは『引退』した望とともに、荒垣との試合を観戦していた。

 その時と印象は変わらない。

(フィジカルはそれこそ、石澤や志波姫と変わらない。少し背が高い点を考慮すれば、旭が一番近いか……)

 バックハンドのストロークでも、おいそれとナターリアに強打を打たせないあたり、その精度は高い。

 荒垣戦でも見られた、時折挟む『止め』のショットがよく効いていて、相手に『立ち位置』を安定させていない。

(前後の揺さぶりは、石澤にも共通する、久御山の基本戦術だ──)

 ひとたび攻勢に回れば、高い打点からの強いドライブで、相手を押し込んでいく。

 ゆったりとしたテンポだが、ゲームを確実に前に進めているのは久御山の方だ。

 6-3。

 今一つ意図が見えない打球が目に付くのは、すでに勝敗が決まったという喪失感によるものかもしれないが、とりあえず倉石には、さほど注意を払うようなシーンは見つからなかった。

 それは、隣に座っている立花や神藤コーチ、望と旭も同じだ。

 

 

 

「久御山さんと、インターハイでやったんでしょ?」

「ん? ああ──」

 珍しく年上を『さん』付けで呼ぶあたり、まだ羽咲もアイツのことを良くわかっていないのだろう。

 あるいは単純に、関西弁が怖いのかもしれない、と荒垣は考える。

「強かったよ」

 日本一になる、という夢が霞むほどではないが、荒垣はその時対峙した久御山に、端的に『恐怖』を抱いていた。

 それまでの試合とは違い、盤石の体勢で打ったスマッシュでさえ、こともなげに拾われたことが何度も。

 最終的に勝ちはしたが、最後の最後までヒタヒタと追ってくる彼女の姿に、ここで終わるかもしれない──そう思ったのは事実だ。

「久御山さんは、すごく『奥行き』のあるプレイヤーだからね」

 松川が言う。

 椅子に座ったまま、彼女は手ぶりでその言葉の意味を説明した。

「例えば石澤さんはスイングの中でも、フォロースルーがしっかりと取れるタイプ。面を作ってからの押し込みがいいから、シャトルが良く伸びる……」

 久御山は逆に、面を作るまでの精度や速さ、パワーが優れている、と彼女は分析した。

 奥行き、とはつまりスイングの懐のことだ。

 やや大きめのサイズのわりに、荒垣の強打にも難なく対応できるボディワークからも、その片鱗は見られた。

 ショットで裏をかく、というわけではないが、そうした意味では、志波姫にも通じる。

「リストが強いね、おそらく……安易に面を前に出さない。あれならボディフェイントがなくても、コースは読みづらいわ」

 ラケットの面を作ってしまえば、そこから打球のコースを変えるのは難しくなる。

 望のように天性の肘の柔らかさがあれば、その肘を例えば前に抜くことで、ストレートに作った面を相対的に遅らせてクロスへ──といったようなことができる。

 久御山の場合はそもそも、深くシャトルをとらえて打ち返すことができるから、そうした小細工はできないとしても、もとよりその必要がない。

 ナターリアの表情にも、そうした『違和感』を覚えていることが見て取れた。

 

 

 

 強打を苦にしない──。

 久御山はそれこそ『好き勝手』にナターリアに強打を打たせている。

 しかしそのほとんどは、深く構えたラケットに絡めとられ、二の矢を放つべく体重移動したナターリアの逆をことごとく突いて、彼女のバランスを崩す。

 リセットを意図したナターリアのクリアーが少しでも甘くなれば、今度は久御山の手番だ。

 低弾道のドライブを二本左右に振り分けた後、クロスへのリバースカットを拾いに走ったナターリアがネットにかけ、前半が終わる。

 11-7。

「おっしゃ」

 強打で押し込む典型的なロシア選手のセオリーを、久御山は完全に打ち砕いていた。

 コートに入った時と同じように、ラケットを手首でこね回しながら、彼女はコートを出る。

(強い……)

 口には出さず、至って平穏を装いながら、望は彼女にタオルとドリンクを手渡した。

 ほんのわずかに水分を補給した後は、久御山はそのままタオルを被ってベンチに座る。

「……久御山」

「はん?」

 ううん、と倉石は唸る。

 試合運びは完璧だ。

 相手の意図を破壊し、こちらは最小限の労力で試合を優位に進めている。

「──いや、素晴らしい出来だ。このまま行っていい」

「ほい」

 夏の第三シードなのだし、このぐらいのポテンシャルはあってもおかしくないのだが、ここまで『自然体』で相手を圧倒するとは、倉石も想像していなかった。

 もうちょっと、自分が勝負の瀬戸際に立てない悔しさや、初の国際試合ということで浮足立ったところも──。

(まあ、そりゃあ無いに越したことはないが……石澤と違って可愛げがないな)

 苦笑しつつも、久御山に全幅の信頼を置いているというアピールを見せ、倉石は早々にノートを閉じてベンチに腰を落ち着けた。

 対面のナターリアは、その膝に巻いたサポーターの上から、冷却スプレーを吹いてもらっている。

「膝、悪いのかな……」

「あのサイズだし、見たところ強打一辺倒だ。そりゃあ膝も悪くするさ」

 全員が荒垣のようなプレイスタイルだから、同じような弱点を抱えているのは間違いない。

 そうした見た目にわかりやすい『力強さ』がロシアでは受けるのだろう。

 インターバル明けも変わらず、久御山はラケットを手でもてあそびながら、軽やかにコートに戻ってゆく。

 

 

 

「あの子、膝悪いの?」

「ん──そうみたいだね、資料には特になかったけど……」

 サポーターを巻くだけなら、それは予防の意味でも特段おかしな行為ではない。

 情熱的にプレーするタイプの選手なら──これまでのロシア選手は、おおむねそうだったが──、コートに飛び込んで膝を強打することもあるだろう。

 だが、インターバル中にスプレーでアイシングを施す、となれば少し事情は変わる。

 荒垣も、気が気でない様子だ。

 望とは違い、躊躇なくナターリアを振り回している久御山の背中に、少しだけ、あの時に感じた『恐怖』を思い出す。

 

 

 

(ん……?)

 ナターリアのサービスを返しつつ、久御山は彼女の足運びに不可解な点を見つける。

 右利きの相手が、左足一本で踏み切ったジャンピングスマッシュ。

 わずかにカットがかかっているのは、その行動があまり慣れないものだから、面がブレたせいだろう。

(膝来とんのか? もう?)

 キレのないそれを、しっかりとスイートスポットで受けて、久御山は彼女のバックサイドへクロスロブを流す。

 ナターリアはラウンドに入らず、バックハンドから同様に久御山のバック奥を狙ったロビング。

(ラウンド──)

 機敏にステップを踏み、左足を軸に身体を翻した彼女は、もう一度ナターリアの位置を確認する──ホームポジション。

(もう一本対角……はヤメや)

 落下点からさらに一歩、右足でコートを蹴り、久御山は身体全体を後ろに置きながら、コート外側に正面を開く。

「よいしょ──!」

 横薙ぎに叩かれたシャトルは、追いすがるナターリアから逃げるように、サイドラインに向かって捩れて落ちてゆく。

 ストレートへのリバースカットが決まり、14-7。

(上手い……選択肢としてはクロスへのリバースカットも、ストレートなら普通にスマッシュドライブもあった。それにしたってナターリアは追いつけなかっただろう──だがあえて一拍待って、難しいコースへの、伸びを抑えたリバースカット……)

 奥の手、というほど勿体ぶったショットではない。

 その使いこなしぶりは、教え子を上回っている──倉石は天を仰いだ。

 上背と、強靭な手首のホールドから繰り出される緩急。

 何でもないようにシャトルを受け取り、丁寧に羽根を揃える久御山からは、気負いも、彼女がその選択に込めた本当の意味も透けては見えない。

 早い間合いで打ったショートサービスに、ナターリアが前への意識を強めたとみるや、今度はボディへの強打を差し込み、食い下がる相手の上を超すクリア。

 ネットにほとんど背中を向けて返球したナターリアのロブに、久御山はわざわざ飛び上がってのスマッシュをコートに叩きつけてみせた。

(ここまで『四次元』を使いこなせるか……)

 立体空間に加えて、緩急という第四の次元を、久御山は操っている。

 これこそが日本の高校生のトップクラスなのだと、世界に示すように。

 

 

 



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20th game Digital Love

 ポイントを連取していく久御山に対し、ナターリアはさほどの抵抗も見せず、すんなりと第一ゲームは終わった。

 21-12と大きく引き離し、目じりに伝う汗を指で撥ねながら、久御山はコートを出る。

「いいぞ、久御山。体力は大丈夫か?」

「まあ……それよか、相手の方が心配やね」

「ん?」

 まるで、すでに試合が終わったかのように靴紐をほどき、タオルを腕に撫でつけている彼女の視線を追うと、ロシアのチームドクターらしき女性がベンチ前に出てきて、座り込んだナターリアの足に触れながら、何か会話をしている。

「膝か……まあ、準備は怠るな」

「ほいほい」

 久御山がゆっくりとドリンクを呷り、ほどいた靴紐を結び直している間に既定のインターバル時間は過ぎた。

 ロシア代表の監督が主審に、エクステンションを希望する。

 これは相手チームの同意がないと得られない、余分のインターバルだが、英語の不得意な倉石の代わりに主審のもとに向かった神藤コーチは、ひとまず了解の返事をして戻ってきた。

「受けたけど……別に構わないだろう?」

「ええよ、神藤はん」

「うん──豊橋の準備を急がせよう」

 こちら側が受け付けなければ、ナターリアは直ちにコートに戻るか、棄権するかの選択をしなければならない。

 ただすでに勝敗が決まっており、また久御山の『試運転』のためにも、ここはそうまで勝負に徹する必要はない、というのが倉石や神藤コーチに共通する意見だった。

 神藤コーチがアップゾーンに入って行く。

 だが結局、五分間の追加のインターバルを使い切ることなく、ナターリアは棄権を表明した。

「あらまぁ」

 ふん、と鼻を鳴らし、久御山は立ち上がる。

 ゆっくりとした足取りでコートに向かうが、すでにその右手にラケットはなかった。

 プレー中はなんとか我慢していたのだろうが、ナターリアは苦痛を顔に出しながらも、気丈に久御山と握手を交わす。

 それから、二人そろって主審に握手を求めたあと、久御山は『気にするな』とでも言うように彼女の背中を軽く叩く。

 ナターリアもなんとか笑顔を返すが、ロシアベンチに戻ってゆく足取りは重い。

 久御山がコートを出ると同時に、豊橋がアップゾーンから姿を現した。

 試合開始までは五分ある。

「豊橋──こういう形になっちまったが、落ち着いてやれ。アップ不足は向こうも同じだろう」

「はい、大丈夫です」

 久御山へのねぎらいもそこそこに、豊橋は膝を深く折り曲げてジャンプを繰り返し、それから、その場でダッシュをして、心拍数を一定のレベルに高める。

 

 

 

「棄権かぁ……」

 第一セットを戦い切ったことと、それからすぐにスタッフが出てきたことを考えれば、ナターリアはあるいは前半終了時のインターバルあたりからすでに膝の不調を訴えていたのだろう。

 もちろん、そのことはアップゾーンにあるディスプレイを通じて豊橋にも伝わっていただろうが、本当に危険をするとまでは考えていなかったはずだ。

 おそらく、先手を取られる──苦しい戦いを、松川は予想する。

 荒垣の方は、そんなことを全く気にもせず追い込んでいった久御山の怖さにも驚くが、それよりも、自分と同じように膝に不安を抱え、限界を迎えて棄権した経験のあるナターリアの状態に思いを馳せた。

「大丈夫かな……」

「なにが?」

 試合への集中はあまり強くないが、観客席をうろうろするほど退屈もしていなかった羽咲は、荒垣ほどは心配していないようだ。

「膝だよ、向こうの」

 うん、と生返事を返す羽咲をよそに、荒垣は考える。

 途中棄権のリスクがあるほど膝が悪いのなら、そもそも呼ばなければいいのに──とは、同じ立場である彼女からは言えない。

 自分だって、明日のポルトガル戦は出場予定だが、いきなり膝が悲鳴を上げる可能性も、決してゼロではないのだから。

 もしそうなったときは、今度こそ躊躇なく、はるかに前の段階で止める──立花コーチにはそう告げられているし、その処置には納得しているつもりだ。

 今度やってしまったら……という恐怖は、常に心のどこかにある。

 その扉を固く閉じて戦い続けたことで、北小町のメンバーに迷惑をかけたことも自覚している。

 コニーとの個人戦ならともかく、もう二度と自分勝手はしない。

 我を忘れてゲームにのめり込むことの代償は泉や伊勢原、海老名たち、それに『約束』をした志波姫にも、もう十分払った。

「アタシは……今度は自分から言うから」

「ん?……うん」

 才能を、いや『荒垣なぎさ』の全てを失いたくない、と言ってくれたコーチのためにも。

 

 

 

 

「欲求不満?」

「まあ、せやな……」

 狼森のストレッチを終えて、今度は久御山に手を出そうとした志波姫を軽くいなしつつ、彼女は胡坐をかいてフロアに腰を下ろした。

「しゃーないけどな。ウチかて、そこのちんちくりんに勝ち決められて、やる気ゼロやったし……」

「うるせーな、いいだろ別に」

 悪態をつく狼森も、まともにその軽口を受け取ったわけではない。

 久御山が『やる気ゼロ』には到底見えなかったし、狼森自身、今日の勝利には大きな手ごたえを感じているようだ。

 凛とした雰囲気をまとって、アップゾーンを出ていく。

「ストレッチしないの?」

「やるけど、あんたの半径五メートル以内では、絶対やらん」

「あははは」

 そんな二人の会話に割って入る意図はなかっただろうが、ボーっとディスプレイを眺めていた益子が、体勢を変えて言葉を発する。

「あいつ、『出来てない』な……」

 彼女が厳しい表情で眺めている画面の中では、豊橋の苦戦が映されていた。

 2-6とスコアはまだまだ序盤戦だが、失点の内容がよくない。

 長いラリーを身上とする豊橋が、ロシアの最後の一人、アナスタシア=コルニエンコに押し込まれている。

「また背が高いね、あれも……」

「せやなあ、百八十あるんちゃう? バレーやれや、バレー」

 かの国のバレー女子代表では、それでも小さい方だと志波姫が補足する。

 ただ、アナスタシアのプレーを見ている限り、フィジカル任せの強打一本槍のプレイヤーでないことはすぐにわかった。

 これまでのロシア選手のようにステップの足音が大きくないのは、しっかりと体幹から動けていることの証だ。

 志波姫の分析によれば、荒垣と同じようなサイズの津幡が、知る限りでは膝に故障を抱えていないのも、それが理由だという。

「みっちゃんねぇ……なんで来ぇへんかったんやろな」

 今でこそ新幹線が開通し、関東方面への遠征も徐々に増えているとは聞くが、加賀雪嶺の練習試合の遠征先といえば、決まって大阪や京都。

 久御山のいる宇治天神台とも定期的に試合をしているし、スパルタで鳴らす難波天王寺には年に何度も『道場破り』を仕掛けているらしい。

「久御山は、路と結構やった?」

 バドミントンの話やろな? と確認を入れてから、久御山は返事をする。

「勝ったこともあるで? 言うても練習試合やし、選抜は負けたけどな」

「路は単純だからな」

 益子が懐かしむように言うと、久御山もそれに同意する。

 そうした経験があったから、強打に対してのレセプションを磨こうという志向にもなったし、その結果として、デンマークからやってきた元プロにあそこまで食い下がった荒垣に、ほとんど対等の戦いができたわけだ、と久御山は自己分析をしている。

「アンタらとは結局やらんままやったから、わからんけどな……」

「いっつも反対の山だったもんね、私たち」

 トーナメントの四隅に配置される『三強』のほかに、空いた一席を埋めるのは、久御山や狼森が多かった。

 たまに長門湯谷都央の深川や、豊橋アンリの名前が出てくることもあったが、関西の高校女子バドミントン界の盟主としての役割は、ほとんど久御山が独りで担っていたようなものだ。

 そのおかげで、練習試合で戦っている津幡はともかく、益子や志波姫と戦うためには、最低限ベスト4あたりまで勝ち上がらなくてはならなかったが、決まってそれを阻んだのが、例えば埼玉栄枝の岩崎だったり、深川だったりして、結局大きな大会で彼女たちと久御山が戦うことはなかった。

「まあ、これから先あるやろ、どっかで」

「……そうだね」

『三強』と並び称された益子、志波姫、津幡の三人だが、それは必ずしも完全に抜きんでていたわけではない。

 中学時代は『一強』とされてきた益子泪はともかく、地元フレゼリシアに進学し、地道に努力を重ねてきた志波姫唯華や、これまた地元でその牙を研いできた津幡路がそこに肩を並べるようになったのは、存外最近のことだ。

 彼女たちを追いかける豊橋や狼森も、もう一息というところまで彼女たちを追い込んだこともあったし、それを幾度となく跳ね返してきたからこそ、『三強』がより鮮明に、観る者に映る。

 ただ、久御山はそれほど『三強』を意識していなかったし、そこに割って入る、ましてや上回ることを目標に高校でのバドミントン生活を送っていたわけではない。

 それこそ大阪の難波天王寺に進学していれば、猛練習でより強い選手になっていた可能性は十分にあるが、彼女はそれよりも自分のペースで、『自分らしいバドミントン』を追求できる環境を求めて、宇治天神台に進んだ。

 一歩身を引いた、野心のない選手──バドミントン記者の間ではもっぱらそのような評価で、特に誌面を賑わすこともなかった彼女だが、それでも着実に力をつけ、三年春の選抜で好成績を残した。

『三強』に最接近したその大会で優勝したのは志波姫だが、反対の山の準決勝で敗れた久御山は、珍しくその試合を観戦する。

 沸騰した心を抱えて新幹線に乗り、家に戻ったその夜、彼女はなかなか寝付けなかった。

『あんな選手と、あと少しで試合できた』──マイナスの後悔では決してないが、当てもなく大海を泳ぐ鯨のようなバドミントン人生に、一抹の疑問を覚えたのも事実だ。

 まだ、満足できない。

 志波姫、荒垣、それに、宮崎の大会で出会った石澤も──。

 いつになるかはわからないが、いつか絶対に、やらないと気が済まない。

 だが今は、思いがけず同じチームで並び立っている。

 ならば、『お前たちの知らないライバルがここにいるぞ』と、そのプレーで叫ばずにはいられないのだ。

 

 

 

 

 豊橋アンリは、いまひとつ熱の入らない身体にムチを打ち、アナスタシア=コルニエンコの強いドライブを何とか拾っている。

 スコアは劣勢だが、彼女が本調子ではないということは倉石にはすぐに分かったし、それは仕方のない事として、納得している。

(我々よりも、ナターリア=シャンキチの膝の状態についてはロシア側の方が当然、情報を持っているし、それはリアルタイムだ……少々ズルいとも思うが、前の試合が始まったぐらいから、コルニエンコに準備をさせていたのかもしれない)

 倉石には、それを殊更に咎めるつもりはない。

 ましてや抗議などする気もなかった。

 国際試合なのだ、このぐらいの『場外戦術』はあって当たり前──一年生からインターハイに出ていたほどのプレイヤーである豊橋アンリなら、将来こうした場で戦うこともあるだろうし、こういうことを経験しておくのは、間違いなく彼女のプラスになる。

 第一セット後半、ようやくキレが出てきた豊橋は、終盤の追い上げで少しコルニエンコを慌てさせたが、結局は17-21と落としてしまう。

 ただし、その表情に苛立ちや、不甲斐なさはない。

「──まぁ、こういうこともある。気にするな、豊橋」

「はいっ」

 少し距離を取り、豊橋は屈伸をしたり、足首を捏ね回したりしながら、相手のプレイスタイルについて、望と話をしている。

 短いインターバルの間では、さほど深い戦術談義とはならなかったが、豊橋の頭のデフラグには十分だったようで、第二セット序盤に連続ポイントをもぎ取り、試合をイーブンに戻そうと奮闘する。

 

 

 

(ま、でも……)

 6-1と走ったところから一点を返され、コルニエンコのショートサービスを長いロブで返球してバックステップを踏む最中、豊橋アンリは思考を巡らせた。

(普通に強いよね、この人──) 

 自分のウォームアップが不十分だったのは否めないが、ロシアベンチの裏側にも、あまり興味は沸かなかった。

 彼女の前にコートに立っていたナターリア=シャンキチが棄権したのは、紛れもない事実なのだから。

 それが本当に膝が限界だったのか、その手前で『タイミングを見計らって』の判断だったのかは知らない。

「──っ!」

 ともかく目の前の試合だ、と豊橋は集中力を一か所にまとめた。

 やや球足の長い、しかし強いスマッシュドライブはしきりに彼女のコートを掘り返そうとしていたが、持ち前のフットワークで追いつき、ラケットの面を器用にはたいて、豊橋は返球が甘くならないように細心の注意を払っている。

(こっちが攻めに回ってるのを嫌ってる……)

 ラリースポーツなのだから、手番を取り返そうとするのは当然だ。

 どうやって、自分の手番に戻すのか。

 豊橋はコルニエンコの『手筋』を、全てのパターンではないにせよ、その攻略法とともに、第一セットの間に見つけていた。

 今のところ、それをトレースすることで得点を挙げることが出来ている。

 それを見つめる倉石も、意図の濃い彼女のプレースタイルには須らく好意の目を向けていた。

(ストレートとは言え、二セットともデュース寸前まで粘った選手だ──あの羽咲を相手に……)

 しかもそれは、逃げ足の速い羽咲を息も切らさず最後まで追い回した、という展開ではない。

 深い巡目まで一進一退の攻防、なんなら終盤に前を走っていた時間帯さえあった。

 トーナメントの山を駆け上がっていく荒垣を追って、観客席をぐるぐると回る教え子と共にいた倉石だが、その試合を見ていなくても、今目の前で豊橋がやっているプレイを見れば、その理由は分かる。

(ネット前から相手を剥がすのが上手い──翻せば、自分も剥がれるのが上手い、ということだ……距離感の作り方が実にうまい──)

 本来、少なくとも今まで出てきたロシア代表選手の中では最強のパワーを持つコルニエンコに対しては、そのサイズからくる弱点を突くために、ネット前の細かい崩しを主体に組み立てるのがセオリーだと言える。

 豊橋も、ネット前を苦にしない。

 羽咲に対してイーブンで最後まで行けたのは、彼女がそうした分かりやすい弱点を持たないからだ。

 だが現状、豊橋は敢えて長いロブを主体にラリーを展開し、それを前後左右に散らしてコルニエンコのポジションを動かすことで、盤石の体勢で強打が打てる手番を極限まで減らしている。

(つまり、豊橋が最も警戒しているのは、ネット前勝負からの『逸らし』を無理やり叩かれること──あの身長とウイングスパン、それとジャンプ力なら、相当上にも手が届く……)

 コニーのロブを上からしばき下ろした荒垣と同等、あるいは単純な鉛直方向の幅ならそれ以上かと思えるほど、コルニエンコはその跳躍も含めて、背が高い。

 平均からやや小さめなフィジカルの豊橋が左右に走ってネット前勝負を仕掛けても、その半歩を彼女は腕で賄ってしまえるほどだ。

(だからネット前はそれほど重視しない──となれば、強打が甘くなったところを狙いすまして仕掛ける、これしかない)

 果たして倉石の分析通り、豊橋はごくまれにヘアピンを通してコルニエンコを釣り出すが、殊更そこでの一騎打ちに持ち込もうという意図は見せず、すぐにはたいて、対戦相手にダイアゴナルのダッシュを強要している。

 前に踏み切って、上から叩き下ろす──そうした、得点を奪うためのベクトルが綺麗に重なった『会心の一撃』は、少なくともこのセットでは打たせていない。

 とはいえ豊橋も、ロシア随一の強打に対して大雑把なレセプションでは到底、太刀打ちできないということは理解しているようだ。

 ロブ一本通すにも細心の注意を払って、コルニエンコの長い腕を回避するコースを選んでいる。

(頭を使うのが好きなタイプ──もちろん、限られたフィジカルや、天啓のセンスを持たないということもあるが、それ自体を『好き』であることが、豊橋をここまでの選手にした……)

 それはやはり、志波姫唯華というプレイヤーの存在が大きいだろう。

 高校一年生から全国の舞台を踏んだのは、もちろん豊橋が中学からの余勢を買っていた、ということでもある。

 その世代で一気に頭角を現し、後に『三強』と並び称されるうちの一人になった志波姫を、豊橋は早くから知っていた。

 お互い、益子泪とは違い人を遠ざけないタイプであり、大会で顔を合わせればささやかに会話も交わす程度の間柄だったが、豊橋は自分と同じように上背のなかった志波姫が、自分が勝てない相手──たとえば津幡や狼森たちを一蹴して勝ち上がっていくのを、不思議に思った。

 そうして、彼女の試合を観客席で見ているうちに、そのプレイスタイルを学び、自分のバドミントンに少しずつ取り入れていった。

 もちろん、完全にコピーするというわけにはいかないことも理解していたから、彼女なりの『核』もそこにしっかりと存在している。

 

 

 

 試合は徐々にコルニエンコが地力を見せつけ、豊橋を追い抜いている。

 15-18となって、豊橋は彼女がシャトルを交換している間に、少しふくらはぎを揉んだ。

(ん……ちょっと──)

 強打を上手くやり過ごしている自信はあるが、走らされているのは自分も同じ。

 少し震えている筋肉を撫でつけて、豊橋はレシーブの構えをとる。

(──ショート)

 恐る恐る、ではないが普段より少しだけ体重移動を甘くして踏み出した右足。

 コルニエンコのサービスは一貫してショートだ。

 それは、前に出させて強打が通るスペースを広げる狙いもあるだろうし、ネット前勝負に『来るなら来い』という、ロシアのナンバーワンプレイヤーとしての意地なのかもしれない。

 ともあれ、意識して腕をまっすぐ伸ばした豊橋のリターンは、サイドラインへのやや浮いたショット。

 コルニエンコは素早くサイドチェンジして、バックハンドのドライブを返した。

 裏拳のように手首を捏ねたそれは、低い角度で豊橋のバック奥を襲う。

「く──」

 ここが正念場だ。

 やや感触の軽い右足を引き、左足に載せた重心を一気に後方へ振り飛ばす。

 飛び石を飛ぶように軸を動かして、豊橋はラウンドに入り、バックステップに合わせて右足を蹴り上げ、なんとかフォア面でシャトルを捉えることに成功する。

 だが、このままではコースは限定されてしまう──。

 ネットの向こう、ターンを終えてホームポジションを突き抜けて、豊橋の正面を塞ごうとするコルニエンコが視界に映る。

(これだと、やられる──)

 馬鹿正直に打ってしまえば、逆サイドへ軽くいなされるだけだ。

 といって、この体勢から『上』を抜きにかかっても、勝算は乏しい。

(──それなら!)

 豊橋は体軸を捻り、上半身の角度を地面と平行に近付けた。

 それから、倒れ込む自分の耳のあたりに落ちてくるシャトルを、まとわりつく羽虫を払うようにラケットで殴る。

「──ぐぇっ」

 視界に衝撃が走り、また左手に感じた痛みから、豊橋は自分がコートに倒れ込んでいることを理解した。

 それでも、本能で目が追いかけたシャトルは、白帯を削って姿を消す。

 16-18。

 同様に前方への慣性を制御しきれなかったらしいコルニエンコは、両手を万歳して頭からコートに滑り込む。

 手放したラケットがフロアに跳ね、軽い音を立てて転がった先で、拾いきれなかったシャトルとぶつかって止まる。

「いてて……」

 少し指を突いたようだ。

 豊橋はラケットを左手に持ち替え、浮かせた小指を右手で摩る。

 ベンチから神藤コーチが立ち上がり、一歩二歩踏み出すが、それを制するように彼女は右手を上げた。

 それは、思いがけず訪れたハードラックに対しても、あきらめず飛び込んだ対戦相手に対する称賛でもあっただろう。

 両手をついて起き上がったコルニエンコは、ラケットを拾い直し、軽い手つきでシャトルを乗せて、豊橋に投げ寄越した。

 

 

 

 

 ラッキーポイントを得て一気呵成に巻き返したい豊橋だが、そうはさせじと、コルニエンコが彼女の前に立ちはだかる。

 ここまでお互い探り合い程度で躱していたネット前に、まさに文字通りといった様子で、勝利までのわずかなポイントをしっかりとモノにしようという動きだ。

 試合前のトラブルを抜きにしても、豊橋より一枚上手と思えるアナスタシア=コルニエンコが丁寧に仕留めに掛かれば、そうそう出し抜けるものではない。

 食い下がる豊橋を、残しておいた末脚で一気に突き放し、二十一点目を挙げた彼女は、控えめにガッツポーズをした。

 それは、エクステンションを受け入れてくれた日本ベンチへの謝意もあっただろう。

 ともあれ、日本代表は二連勝を飾り、経験と課題を得て、決勝トーナメント進出を決めた。

 だが、倉石には一つ、重要な仕事が残っている。

 

 

 

「──そういうわけだから、今日の結果はそれほど気にしなくてもいい」

「はい、ありがとうございました、わざわざ……」

 豊橋アンリは、それほど今日の負けを引き摺っているようには見えなかった。

 だが倉石は、国際試合では往々にしてあることで、それに対応する準備の必要性を説き、また、結果自体は仕方ないにしても、それを『当たり前』と思うには勿体ない──と豊橋を奮い立たせる意味で、きちんとフォローを入れた。

「──それから、豊橋」

「はい?」

「すまんが、石澤と志波姫を呼んできてくれ」

 明るい返事とともに頷いて、豊橋はスリッパの足音を連れてミーティングルームを出ていく。

 それから、明日の相手であるポルトガル代表の情報をチェックしていた他のスタッフたちに、ひとまず場を外すように願う。

 松川が自分のノートパソコンを片付け、続きは部屋で、と神藤コーチを促し、立花は同室の倉石を置いて、一人先に戻っていった。

「……」

 倉石は、グラスに残った度数の低いビールを口に含み、自分が酔ってはいないことを確かめる。

 手持無沙汰にテーブルクロスで水気を拭いていると、二人分の足音が扉を開いた。

「おう、来たか」

『教え子』の方は、こういうことには慣れている。

 早出、居残り練習の前後には二人で話し合いを持つこともあるし、特に県予選以降その機会は格段に多くなった。

 身体が冷えないように厚着をしていることを確かめて、倉石は二人に、向かいの椅子に座るように促す。

「……監督、なんですか? 話って」

「うむ──まずは石澤、お前についてだ」

 それから、倉石は今日の彼女たちの試合を、ゆっくりとしたペースで振り返る。

 時にノートを開いて、ベーシックなラリーパターンと、実際の試合でのシャトルの軌跡を比較し、異なる部分について、意見のすり合わせをしていく作業。

 もっとも、ダブルスについては相手とのバランスもあるから、そこまでセオリーが色濃く出るものでもない。

「結局、お前は強打を打たなかったが……」

「あぁ──まあでも、それでよかったかな、って」

「フムン……」

 試合前に宣言した、『確実に決まるシチュエーションでの強打』は、本来望が意図したものとは異なる形で現れた。

 しかしながら残念なことに、彼女が求めていたのは、あくまでもフェイクとしての強打だった。

 そのことは倉石も理解していたし、望自身もそうした意味を持つショットを打つタイミングを窺いながらプレーしていたのだが、それが具現化していれば、もっと派手で、印象的だったはずで、今日の試合中に放ったような、実直に得点を奪いに行くという意思を込めたショットではなかった。

 もちろん、今日に限って言えばそれは、フェイクよりも有効に作用した。

 だが、戦術の幅を増やすという意味では、もっとしっかりと、自分の意図を試すことを繰り返していかないといけない。

 そういうことを滔々と説いている倉石に、望の隣に座る志波姫も、興味深げに聞き入っている。

──と。

「まあ、そんなところだ。──で、志波姫」

「……えっ?」

 きょとん、とした目を倉石に向けて、志波姫は首を傾げる。

「単刀直入に訊く──今、モチベーションはあるか?」

「っ──」

 珍しくたじろいだ志波姫を見て、倉石は少しズバリと行き過ぎたか、と後悔した。

 だが、一度口にしてしまった言葉は、巻き戻せるものでは決してない。

 もっとも彼の口調からは、そこに『叱る』という意味合いは全く感じ取れない。

 少なくとも、横で聞いている望には。

 問いかけを受けた本人である志波姫はどうかわからないが、彼女よりもずっと倉石と付き合いの長い自分が、そういう感触を受けているのだから、より繊細な機微を持つ志波姫にも、間違った響き方はしていないだろう。

「それは……どういう意味ですか?」

「──そのままだ」

 ゆっくりと間を取ってそう言った後、倉石は眼鏡を外してレンズを拭きながら、志波姫の返答を待つ。

「……わかりません」

 その言葉に、望は驚いて彼女の方を見る。

 表情は暗くはないが強張っていて、テーブルの上で組んだ指に力を込めた志波姫を見つめながら、望は倉石の言葉を待った。

「やはり、そうか……もしよければ、話してくれないか?」

「──」

 また、沈黙が流れる。

 果たして、自分はこの場に居るべきなのか、と望は不安になったが、目が合った倉石が小さく頷くのを見て、心持ち浮かせた尻を、椅子に圧し付ける。

 製氷機から氷が落ちる音をきっかけに、志波姫は少しずつ、喋り始めた。

「──私はずっと、フレゼリシアの主将として戦ってきました」

「……うむ」

 いつも飄々として、澱みなく軽口をたたく姿からは、想像もできないぐらいたどたどしい口調で。

「今はもちろん、代替わりして……なんだろう、肩の荷が下りたのは、いいんですけど。でも──なんか足りないっていうか……亘監督にも言われたんですけど、立ち止まってる──って。その通りだと思います、今の私は……」

 燃え尽き症候群、というような、単純なものではないだろう。

 望とて、役職上は同じ立場──逗子総合の主将だった。

 学校の『格』で、その軽重を違えるものだとは思っていないし、志波姫も、倉石も同じだろう。

 違うものがあるとすれば、それは『三強』という称号──。

 肩の怪我で一時期戦績を落としたということもあるだろうし、望は知らないが、倉石が聞いた『辞めた部員』の話にも、主将として志波姫は深く関係している。

「絶対誰にも言わないでほしいんですけど、……望もね?」

「ああ、約束する──」

 望も同意して頷く。

 それをしっかりと確かめて、志波姫はまた言葉を紡ぎ始めた。

「フレゼリシアに行った自分が、今の自分であることは分かってます。そのおかげで得たものは、他では得られないことも。……そのせいで『失った』ものも──」

 少し息継ぎをして、志波姫は呼吸を整えた。

 震える声を隠そうとしているのか。

「もし、泪と路と一緒に、同じ学校に行っていたら……そう考えることが、たまにあります」

「……」

『埼玉栄枝』に、と言わなかったのは、彼女のプライドであり矜持だろう。

 津幡はともかく、『益子泪』の行き先は当時誰にも見当がつかなかった。

 当然、志波姫と『同じ学校』も選択肢にあった。

「どっちがどう、なんて私にはわかりませんし、考えることはものすごく『怖い』です。でも……」

 はにかんで、目尻に浮かんだものを散らそうとしている彼女を見て、倉石はある先輩の言葉を思い出した。

──進学は生徒の人生に深く関わる大きな問題だ。まして、まだ相手は中学生。選んだ生徒の自己責任だなどと、無責任に言い切ることなど決して許されない──。

 獲る獲らないの選択権は学校側、指導者にあるとしても、最終的に『選ぶ』のは生徒の側だ。

 年端も行かない中学生──ましてや将来のポテンシャルなど、わかりっこない。

 倉石にも痛いほど、それは分かる。

 石澤望を獲ったその選択には、微塵も疑いはない。

 だが、荒垣なぎさを獲らなかった後悔は確実にあるし、それは指導者を引退するときまでずっと、心に残り続けるだろう──望が描く、急激に角度を乗じはじめた成長曲線とともに。

「なあ、志波姫」

「……?」

「お前がもし、逗子総合の監督だったとして、石澤と荒垣、どっちを獲る?」

 突拍子もない質問だと倉石は苦笑する。

 せっかくの友情にヒビが入るかもしれない、危険な質問だ。

 もちろん志波姫なら、多少揺らいだ心でも、正しい答えを導き出すと確信してのことだが。

「……どっちもです」

 当たり障りのない答え、というほど志波姫の表情は軽くなかった。

 そのことに、望は胸に熱いものを感じる。

「そうだよな──だが実際、俺は荒垣を獲らなかった。ここにいる石澤だけを獲ったんだ」

 もし獲っていれば、団体戦でフレゼリシアに勝てたかもしれない。

 同校選手はトーナメントの反対側に散らされるから、もしかすればお互い決勝で顔を合わせて、二人で全国へ、なんて夢物語も描けた。

「──後悔はあるさ。荒垣を獲らなかった、という……だが、そんな『もしも』を追いかけてどうなる? 俺には現実が待っている。毎年毎年逗子総合にやってくるヒヨッコを鍛えて、神奈川を勝ち抜き、全国大会で好成績を残す。そいつらが大学でも、そこから先もずっとバドミントンをやっていけるように──それが、俺が毎年……毎日、戦ってる現実だ」

 一言一言を諭すように発して、倉石は志波姫に笑顔で頷く。

 望には少し、違和感があった。

 彼が言ったのは職業としての指導者である自分が、ちゃんとご飯を食べていくための『切り替え』の話で、それはまだ学生である私たちには早い、と。

 志波姫も、同じ意味合いの言葉を返す。

「……私は、まだ子供ですから」

「──その言葉を、聞きたかった」

 ぽん、と手を打ち、倉石は大きく二度、三度と頷く。

「そうなんだよ、志波姫。お前は──石澤もだが、まだ子供なんだ。だから、……大人が背負うようなことを、好き好んで背負う必要はない」

 それを無責任と謗る者がいるかもしれないが、と倉石は言葉を続ける。

「少なくとも、ここにはそんな奴はいない。みんな同じように大人で、子供だからな。それは、フレゼリシアの部員もそうだろう?」

 こくりと頷いて肩を震わせる志波姫は、望が今まで見てきた『憧れ』としての志波姫唯華とは程遠い、小さな存在だった。

 年相応に弱い涙腺を持ち、それを守るために人一倍気を利かせて、たぶん、ごくわずかな人にしか、本当の姿を見せたことがないのだろう。

「……」

 しばらく、倉石は口を閉じていた。

 ふうっと息をついて、今度は志波姫が話を切り出す。

「……ありがとうございます、倉石さん」

 ぱっと顔を上げて、望に申し訳なさそうな顔を見せる志波姫。

 それはもう、いつもの彼女に戻ったように思えたが、赤くなった眼を見れば、まだ気丈に振舞っているだけなのだとわかる。

 とはいえ望には、ことさら彼女の『弱いところ』をさらけ出させようという意図はなく、少し貰ってしまった涙を抱えて頷くしかなかった。

「急には無理だと思う……なんなら、キャプテンの役を降りたっていい。少なくともこのチームじゃあ、誰がやってもそんなに悪い事にはならないだろうし……」

「いえ、それは私が続けます」

 小さなことかもしれないけれど、と志波姫は口をきゅっと結んだ。

 今までとは違う環境だからと言って、すぐに死んで浮いてしまう弱い魚じゃない。

 それを倉石もわかっていたから、今日この場に彼女を呼んだのだ。

 もっと言えば、この代表に呼んだのだろうと、望は思う。

「そう言うと思ったよ。──それじゃあ一つ、キャプテンとしての仕事をやろう」

「?」

「明日のオーダーを、お前が決めるんだ。志波姫」

「──いいんですか? 私はたぶん、『もしも』……を、追ってしまいますよ?」

 いつものいたずらっぽい笑顔で取り繕って、志波姫は濡れた瞳を光らせる。

「かまわんさ。明日の朝までに決めて、伝えてくれ」

 最後に倉石は、ひとつだけ──できれば久御山は勝負が決まる前に──と注文を付けて、二人を送り出した。

 志波姫と並んで階段を上っている間、望は、隣を歩く吹っ切れた表情の彼女を黙って楽しむ。

 きっと彼女の頭の中は、いろんな思いを整頓する作業で忙しいはずだ。

 明日のオーダーと、たぶんフレゼリシアではずっとそうだっただろう、いつだって完璧で、そして溌溂とした志波姫唯華が戻ってくることを確信しつつ、自室に戻った。

 

 



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21st game Together

 決勝トーナメント進出を決めた翌朝、望は昨日よりも少し遅い時刻に目を覚ます。

 だが、同室の二人──豊橋と益子は彼女よりもずっとゆっくりと朝の時間を過ごし、倉石からのオーダー発表を遅らせた。

「……起きてるか、益子?」

「んー……」

 大爆発している頭を掻きながら、旭の肘撃ちには身を捩って大げさに痛がる彼女に苦笑しつつ、倉石はホワイトボードに向かい、声を反射させながらペンを滑らせる。

「みんな分かってる通り、昨日で予選突破は決まった。だから、というわけじゃないが──今日のオーダーはこうだ」

 倉石が身体をずらして見えるようになったホワイトボードに、益子は小さく驚きの声を上げた。

「──監督、それ……」

 彼女が言いかけた言葉を遮るように、最前列にいた志波姫がすっと手を挙げて、倉石が頷くのに応じて立ち上がり、前に進み出る。

「泪、みんな──今日のこのオーダーは、私が決めた」

 そう言うと志波姫は深く頭を下げ、声色を低くする。

「──ごめん、完全に私の我儘……です」

 そのままの姿勢を崩さない彼女に倉石が慌てて声を掛けようとするが、まばらな拍手に、動きを止める。

 ゆっくりとした調子で手を叩いているのは、旭だった。

「いいんじゃない、志波姫」

 徐々に拍手が広がって、ようやく志波姫は顔を上げる。

 少し潤んだ目尻を薬指で拾いつつ、彼女は旭に言葉を返す。

「……ありがとう、旭」

 気恥ずかしそうに頷く旭と目線を交わして、志波姫は言った。

「──みんなも、ありがとうね。アンリとあかねも、出せなくてごめん」

 強く頷く二人にはにかむ彼女を見て、倉石もようやく落ち着きを取り戻し、自分がついさっき書き記したオーダーを見直す。

(……フムン)

 ずっと一緒に組んでいた益子と志波姫がダブルス1、そして自分はシングルス3──いろいろと想いはあるに違いないが、それでも物言わず肯定の態度を見せた旭に、倉石は心の内で大きな賛辞を送った。

 もっとも、それを今この場で殊更言うべきではないということも理解している。

(──そもそも、この日本代表はシングルスメインの選手が多すぎる。それはもちろん、旭と石澤を選ぶという条件の下でベストメンバーをチョイスした結果だが……)

 志波姫が組んだ次のオーダー、ダブルス2は望と荒垣。

 ここもまた面白い、と倉石は小さく頷きつつ、目線を滑らせる。

 面白いだけではなく、決勝トーナメントを見据えた時に、二組目のダブルスは極めて重要なポイントになるからだ。

 決勝トーナメントからは、それまでダブルス限定として可能な限り他国の偵察班から隠しておいた益子を、シングルスで使う予定でいる。

 となれば最悪、ダブルスを二つとも落とすことさえ覚悟しなければならないが、それをただ相手に譲り渡していては、その後へのつながりも悪くなるし、彼女たちとて、勝ちを計算できるほど温い相手はそう居ない。

 決勝一回戦はまだ相手が決まっていないが、イングランドかベトナムのどちらか勝った方となる。

 どちらにしても、そこはほぼ間違いなく勝ちを拾えるだろうが──そうなったとき、次はデンマークが相手だ。

(昨日もデンマークは圧勝……。コニー=クリステンセンはもとより、脇を固める『デンマーク三強』の二人、ラファエラ=ルイ=デュポールと、ミーケ=シュヴァリエも想像以上に完成度が高い……試合がまだ『生きている』段階で、おそらく最後に出てくるクリステンセンとの試合まで回すためには、悪くともダブルスで一ペア、シングルスもどちらか一人は勝たねばならない──)

 その意味で、荒垣と望が組むダブルスは、もちろん不安も大きいが、それ以上に楽しみでもある。

 何よりそれは、倉石にとっての『もしも』でもあった。

 ともあれ、シングルス1は、昨日の話し合いの最後に倉石が注文を付けた通りに、志波姫は勝負が決まる前に久御山の名前を出している。

 後に羽咲、旭と続くが、恐らくその前に試合は決まる──今度こそ、久御山の本性を見ることが出来る、と倉石はここにも期待を寄せた。

 少し湿っぽくなった空気はすぐに乾き、またいつもの調子に戻った志波姫は、皆に準備を促してその場をお開きとさせる。

 努めて意気揚々と振舞う狼森に、頼もしさを感じながら、まとまりを増した選手たちを見送って、倉石達も資料をまとめ始めた。

 

 

 

「……」

 出発までのわずかな時間に、旭は心の中に渦巻くものをなんとか鎮めようと、既に冷え切った布団に潜り込む。

 別に志波姫が何か当てつけのように、自分と益子のペアを解体したわけではないということは、解りきっていた。

 だが、それから連想される未来を、受け入れることができない自分がいて、その自分自身に納得できない感情が煙を上げている。

 荒垣は早速、望の部屋に出掛けて行き、たぶん、急遽組むことになったダブルスの打ち合わせでもしているのだろう。

 旭が独りでベッドに寝転がっていると、鍵の開いたドアが軋む音がした。

「あれ、荒垣は?」

「石澤のとこ、行ったんじゃない?」

 旭は身を起こして、少しぼやけた視界の中に志波姫を見つけた。

 少し睨み付けるような形になってやしないかと、旭は慌てて目を擦る仕草で、そのイメージを掻き消そうとする。

「……旭は、納得してくれてる?」

 いつもの不躾な距離感とは違い、少し間を開けて同じベッドに腰を下ろした志波姫に、旭はなんと答えようかと戸惑う。

「本音は、……どうだろ。一番は、ただ単純に、シングルス出るのが久々だから、不安──かな」

 旭は、益子泪と出会う前、まだシングルスプレイヤーだった頃の記憶を呼び起こす。

 中学時代はいっぱしのプレイヤーとして、栃木や、せいぜい関東ではそこそこ有名なプレイヤーではあった。

 ただし、『旭海莉』の名前が、いつまでも陽のあたる水面に浮いていられるわけではない、と言うことを周囲も本人も理解していたし、事実、より洗練された才能との戦いでは、少しずつ遅れを取っていく。

「……別に、泪と他人が組むからって、そんなの私は、気にしないよ」

 それが明らかに自分より上手いプレイヤーだとしても。

 いずれ、そうなる事は解っているから。

 自分と彼女たちの実力差を別にしても、志波姫に難癖を付けるのは間違っているし、益子の事情も、志波姫の事情もある程度は知っているから、旭にとっては尚更、受け入れやすい。

 それでも今一つ整理をつけられないのは、『その方がいいだろうな』と納得してしまう自分自身に対しての、苛立ちから来るものだ。

「みんなの前でも言ったけど……これは、私の我が儘なんだ」

「……」

 旭がシングルスに回るのはともかく、今まで組んだことの無いペアを二枚置くというオーダーは、確かに『我が儘』でなければ組むはずがない。

 予選突破が決まってるとはいえ、一番そういう事をしなさそうな志波姫が組んだオーダーだ。

 そこにある意味も、それで勝利を収める意義も、旭だけでなく、他のメンバーも良く理解できていることだろう。

「だから、旭にはちゃんと謝りたい──ごめんなさい」

「……いいよ」

 ベッドから降りてカーペットに膝を付き、旭の膝に擦り付けんばかりに頭を下げる志波姫に、旭は少し驚きながらも、心が解けるのを感じる。

「いいから、志波姫……頭、上げてよ」

「──うん……ありがと」

 今この場に荒垣が居ても、たぶん志波姫は同じ行動を取っただろうな、と旭は考える。

 ふと湿っぽくなった部屋の空気に、旭はつい志波姫の手を握ってしまう。

「……」

「──あ、ごめん……」

 それが勘違いの原因だったのか、それとも志波姫が平常運転に戻っただけのことなのかはわからないが、ともあれ彼女は一気に旭と距離を詰めて、素早く彼女を押し倒して布団にもぐりこむ。

「ちょ、ちょっと……」

「んっふふ~」

 とはいえ試合前だ。

 これからもう一度シャワーを浴びるような事態までは、志波姫も進む気はなかったらしい。

 今日の夜は、どうかわからないが。

(部屋の鍵、閉めたかな……?)

 旭はとりあえず、自分の二の腕に頭を擦り付けてくる志波姫を撫でながら、荒垣が自分のパートナーよりも常識のある人間であることを祈った。

 ちゃんと、部屋に入る前にはノックをするように。

 

 

 

 果たして荒垣の常識性は証明され、また志波姫は小賢しくも鍵をきちんとかけていたらしく、ドアを叩く音が二人をベッドの中から引き戻す。

「ん──志波姫」

「……ちぇっ」

 少し抱き合ったぐらいでそこからの発展もなく、志波姫は怠そうに身を起こす。

 自分にとっても少し残念──と思ってしまった旭は、馬鹿なことを考えたと頭を掻く。

 そりゃあ、フレゼリシアも宇都宮学院も、『女の園』であることに変わりはないけれど。

「──はいはい、今開けるよ~」

 抑揚のないボディラインに沿って、パーカーのジッパーを引き上げながら、志波姫はドアに向かう。

 旭も、少し熱を持った下腹部を確かめつつ、ベッドから起き上がった。

「わりい、寝てた?」

 少しシップのような匂いを漂わせて、荒垣が部屋に入る。

「まあね──どこ行ってたの?」

「石澤のとこ」

 ふうん、と志波姫は頷き、部屋のドアを閉めて、今度は鍵をかけなかった。

「……実際、どう?」

 我が儘でゴメンね、のくだりを荒垣に仕掛けるつもりはないということは、たぶん彼女はそこまで益子や志波姫の事情を知らないんだろうと旭は思った。

「まあ、……やってみないと」

「だよね」

 プレイスタイルが大きく異なる二人だし、どちらも二分すれば『攻撃型』にカテゴライズされる。

 今日のポルトガルのように、格下相手でリズムよく押し込んでいけるならばそのバランスの悪さはそこまで顕在化しないだろうが、決勝トーナメントではこのペアはおそらく組まれない。

 志波姫がそんなペアを組んだのは、倉石に対する礼の意味合いが大きい。

「でも楽しみだよ。石澤とは、もしかしたら同じ高校に行ってたかもしれないし」

「そっか……」

 ふと眉尻を下げる志波姫を、まだ湿っぽさの残る目で旭は見つめた。

 その話を聞いていなかった旭には今一つ、勝利に対する追及が薄いように思えるが、ポルトガルはその程度の相手だということなのだと理解したし、また単純に望と荒垣というペアも興味深くはある。

「そろそろ、行こうか」

 志波姫の号令に従って、二人も自らの道具を確かめる。

 旭にとっても、自分が久しぶりにシングルスを戦うことは、単純な『楽しみ』も決してゼロではない。

 むしろ、これから先『益子泪』と離れ離れになってしまうのなら、そこには覚悟もあってしかるべきだ、と自分を律して、ラケットバッグを背負った。

 

 

 

 反対側の会場では、予選突破を賭けての大一番ということもあってか、フロアから聞こえてくる打球音もどこか厳しく音程が高い。

 翻って日本とポルトガルの戦うこちら側は、どちらかと言えばのんびりとした空気で、一番手の益子と志波姫はともかく、その他のメンバーはゆっくりとしたペースで準備を始めている。

 観客席も空席が目立つが、さほど強豪ではない国と、強いとは言え地球の反対側からやってきた日本との試合では、目の肥えたデンマークの競技通たちの食しを動かすほどに魅力的なカードではなかったということだろう。

 しかし、少なくとも志波姫と倉石にとっては、『新しい一歩を踏み出す』という一点において重要な試合ではあった。

 もちろん、他のメンバーもそのことは理解している。

 特に、お互い因縁もありながら今回初めてのペアを組むことになった望と荒垣は、お互いの戦術思想を絡み合わせて最適解を探るべく、身振り手振りを交えて話に熱を入れている。

「──さて、二人とも」

 それを横目に倉石は、コートでのウォームアップを終えた益子と志波姫を呼び、予選三試合の中でいちばん薄い資料の束を手にして、特に志波姫の方に向かって、諭すように言葉をかけた。

「悔いのないようにやれ──以上だ」

 予選突破を決めた後のどこかしらお気楽なムードとは裏腹に、倉石はもうこれで全てが終わってしまうかのような言葉を選んだことに少しばかり脈が速くなったが、噛み締めるように頷く志波姫の笑顔に、硬くなった気持ちを納める。

「……泪、頑張ろう」

「おう──飛ばすぞ」

 

 

 

 果たして益子泪の宣言通り、序盤から日本ペアは一気呵成に攻め立てていく。

 何もそこまで、とベンチで見ている旭もため息をつくが、スコアはあっという間に十一点を数え、益子のミスによる失点が多少あったものの、大きく引き離して第一セットの前半を終える。

 倉石も特に言うことはないという態度で、旭たちに世話をされている益子と志波姫に信頼の目を向けた。

「泪、飛ばしてない?」

「ま、ちょっとな……問題ないよ」

 高校三強に数えられる選手なのだから、この程度でスタミナが危険水域まで減るということはないはずだが、中国戦のガス欠があっただけに、志波姫も旭もやや心配がちだ。

 とはいえ、今日は相手が違う。

 ポルトガルという国を代表しているとは言え、こちらは日本のトッププレイヤー二人のペアだ。

 倉石にとっても、他のバランスを一切考慮しなければ、いつだってこのダブルスを一番手に置きたいと思えるほどの。

 ラリーの本数も少なく、失点と言えば大雑把に振り抜いた益子のスマッシュがネットにかかった時ぐらいで、志波姫は相変わらず飄々とポルトガルの二人を振り回し、──昨日までと違うのは、得点を挙げて喜ぶ時の笑顔がもっと華やいでいて、それにつられて益子も表情が豊かになっていることだ。

「よし、行くか──唯華」

「うん」

 試合に入れば、周囲への申し訳なさも一旦は覆い隠すのが、彼女なりにこの『夢』を見るための眠り方なのだろう、と旭は考える。

 それが今日限りで終わってほしいという想いと、そう願うことが益子泪と言うバドミントンプレイヤーにとって最良の未来を追い求めてはいないという、自分自身への不甲斐なさは、心をちくちくと痛めつけているものの、今はそれよりも、志波姫唯華と言う選手の果たしてきた役割に敬意を表すべきだと思い直し、真っすぐにコートを見つめ直した。

 その視線の先では、調子よくスコアをカウントアップしていく二人がいる。

 倉石はアップゾーンにいる望に少しペースを上げて準備をしておくように伝えた。

(……まあ、この二人なら大抵のペア相手ならこうなる。どうしても旭との比較になってしまうが、どちらかと言えば『様子見』から入る旭と、基本的にペアに合わせていく益子ではラリーの展開が縦長になってしまう……)

 それはもちろん、志波姫よりも背の高い二人だからこそ、ドライブで押し込んで行けるという長所を生かした戦い方でもあるし、気分屋の益子泪を従えて連戦を勝ち抜く上で、彼女の集中力が切れる要因を少しでも減らすため、できるだけ体力を温存するゲームメイクを旭が心がけていたこともある。

 ともあれ、志波姫が遠慮なく相手を振り回しているおかげで、その返球も自然に両サイドに散らばることが多く、時折コート中央に来た返球に対してのお見合いによる失点はあろうが、こともなげにそれを取り返すことが出来る二人は、あっという間に第一セットをモノにしてしまった。

 21-6。

 

 

 

「強い」

「そうだね……」

 少し汗ばんだ胸元を拭いながら、荒垣は望と顔を見合わせて苦笑する。

 この夏、あの二人はAシードにノミネートされていて、自分は二年連続とは言えノーシード──そんな事実を振り返るまでもなく、これは役者が違う、と荒垣は頭をかいた。

「──私たちは、どうしようか?」

 団体戦の合間に少しばかり会話した時のような、穏やかな表情で話す望に、荒垣は少し頼もしさを感じながら、倉石から貰った資料を開いてみる。

「相手、姉妹なんだろ?──アタシたちより、コンビは良いよなぁ、絶対……」

 ポルトガルのダブルス2は、姉のラウラと妹のアラセリスという、かの国ではちょっと名の知れた姉妹らしい。

 彼女たちの母親、セレナ=バネガスと言えば強打を武器にポルトガル代表として活躍していた名選手ではあるが、松川の調べによると、その娘たちはそれほどの身長を有してはいない。

 もちろん、日本人の高校生女子の基準で見れば、やや大型──百七十センチ内外の身長からは、例えば旭や久御山のような、バランス感覚を持ちつつも強打をしっかりと打ちこなせるプレイヤーという印象を受ける。

「とりあえず、ローテーションはあんまり気にしないで、荒垣は後ろからバカスカ打っていいよ」

「バカスカって……」

 随分乱暴な物言いだと荒垣も苦笑するが、小気味よい骨の音を鳴らしながらストレッチをしている望の横顔を見れば、そもそも今日の相手はそれほどでもないのだろう、と再確認する。

 でなければ志波姫もこんなペアを組むはずはないし──と荒垣は自分を納得させて、膝の状態を確かめようと屈伸運動をする。

「──痛む?」

「いや、痛みはないよ。こっち来てからは全然」

「そう……」

 ふと顔を伏せる望に、荒垣は少し昔の事を思い出す。

「……気にしてる?」

「ん……まぁ、ね」

 彼女の中では、その『過去』の清算は済んでいないということなのだろう。

 もちろん荒垣の中では、望のせいで膝が悪化したとは微塵も思っていないし、そのことは逗子総合での代表合宿で一緒に風呂に入った時にも伝えたのだが、生来心の優しい彼女には、そうそう振り切れる記憶ではないのかもしれない。

 もしかすると、今日一緒にペアを組むことで、そうした過去も終わりにできるのではないか──荒垣はそう思い直して、望の肩を叩く。

「大丈夫だから、アタシは」

「……うん、ありがと」

 

 

 

「唯華!」

「はいっ──」

 益子の呼ぶ声に合わせて、志波姫が一歩、二歩と大きいストライドでバックステップを踏む。

 ドライブに押し込まれたポルトガルペアは逃げの一手。

 彼女たち──前衛のミゲラ=ロジャと、後衛に回っている黒人のパスクアナ=カイルも決して下手なプレイヤーと言うわけではないのかもしれないが、志波姫が広角に放つショットに振り回されてフォーメーションが乱れたところに、今度は益子のスマッシュが飛んでくるといった塩梅で、最早戦意喪失と言った様子だ。

 それでもなんとか『サウスポー』の方だけは避けようと、後衛のカイルはしきりに高いロブを打ち上げている。

 もちろん、同じパターンのラリーが多少長引いたとて、集中力を薄める志波姫ではない。

 せっかくだからもう少し長い時間、『もしも』を追ってコートに留まればいいのに、と倉石も気を揉むところだが、最低限の責任として、勝ちに向かって最短距離を走るのが彼女なりの流儀なのだろう。

 志波姫はラウンドに入り、対角にカットスマッシュを放つ。

 反応の鈍いミゲラ=ロジャの方はもういよいよ集中力も途切れているようで、十分対応時間があったはずのそれを、簡単にネットに掛けてしまった。

「っし!」

 空いた方の手で拳を握り、志波姫とかち合わせる益子。

 残すところはあと一点。

 志波姫は少しだけ長い間合いを取って、その終わりを惜しむように高く高くサービスを放った。

(……満足した、とは言えないだろう──それでも、ほんの少しでも志波姫が、過去の『重し』を外すことができたなら、この試合にも意味はあった……)

 脇で戦況を眺めている旭も、それほど暗い表情はしていない。

 三年間一緒にやってきたパートナーが別の選手と組んで、楽しげにプレイしているのを見るのはあまりスッキリするものではないと倉石も理解しているが、それでもそんな想いを顔には出さず、なんなら時折コート上の二人に向けて声援を送っている彼女の精神力にも、彼は感服している。

(──まぁ、そのぐらいでなくては、『益子泪』の相方は務まらなかっただろうが……旭自身にとっても、今日は将来を占う一日になる……)

 

 

 

 充実の表情で、志波姫と益子が引き揚げてくる。

 旭に抱き着くならば、アップゾーンに連れて行ってからにしてくれと倉石は心の内で願っていたが、志波姫は至って平然としていて、旭とも軽く手を合わせただけに終わった。

 それはもちろん、『次』への配慮もあっただろう。

 今日の相手はちょっとした『遊び』には手頃だとしても、対戦相手への敬意を忘れないのは当たり前のことであるし、次に出て来るのは、これまたダブルスを組んだことのない荒垣と望だ。

「さて……まあ、好きに進めて良い。ただしダラけるな」

「はいっ」

 歯切れよく返事をして、望はコートに向かう。

 前を歩く荒垣の背中を頼もしく感じつつ、また彼女が右膝に着用しているサポーターの事も忘れてはいけないと自らを引き締めて、ポルトガル代表ダブルス2、バネガス姉妹に相対した。

(──流石によく似てる。双子ってほどじゃないけど……身長も同じぐらいだし、どっちが前衛、って決まりきってはいないだろうな……)

 そういう意味では、自分たちの方は取れる選択肢に限りがある、と望は考える。

 もちろん荒垣の身長はコートに立つ四人の中でも文字通り頭一つ抜けているから、彼女をネット前に立たせておくだけで、小一時間もすれば試合は終わりそうな気もしていたが、それではせっかくの機会が勿体ないし、一度敗れた荒垣にも、『あの頃の自分じゃない』と言うところをしっかりと見せてやりたいという自負も、今の望にはあった。

 

 

 

(スコア的には静かな立ち上がりだが、内幕はバタバタだ……まだお互いがお互いの距離感を、把握しきれていない──)

 もっとも、それは当然のことだと倉石は苦笑をノートで隠した。

 4-4というスコアからは、案外健闘しているとさえ言ってもいいぐらいだが、その内訳は荒垣のスマッシュドライブに対して、相手がなんとかリターンできた甘い球を『潰した』二点と、望がカットスマッシュを前に沈めてからのフォーストエラーが二本。

 つまりエースは一本もないし、結局のところ、彼女たちがこなしているのはシングルスを足し算した『1+1』でしかなかった。

 こんなものはダブルスではない──倉石はついついそう断じてしまうが、それでも今日の対戦相手であるバネガス姉妹とは五分で渡り合えているあたり、勝利が揺らぐことはなさそうだ。

「石澤」

「ん?」

 ポルトガルペアが、荒垣の強打によって羽根の折れたシャトルを交換している間に、彼女は望を呼ぶ。

「もう少し、縦に打っていい?」

「……いいよ」

 縦、というのはつまりラケットを振り下ろすこと。

 前に出て、スマッシュを一本決めたいという気持ちがあるのだろう。

 望にとっても、どちらかと言えば『懐』を広くして前後の揺さぶりをかけたいところだから、荒垣を前に置いて自分が後衛に回るのは、求める勝ち方からすればよりナチュラルだ。

「じゃ、──次は一回、前に出る」

「うん」

 真新しいシャトルをポルトガルの前衛アラセリス=バネガスから受け取り、望はサービスの構えに入る。

 少し間をとったラウラ=バネガスの準備が整うのを待って、彼女は高い軌道を描くロングサービスを放った。

 この試合初めての『ロング』だ。

 サービスには自信がある。

 望だけではない、逗子総合の選手たちに倉石が一番時間をかけて教えているのもサービスだ。

 攻撃にしろ防御にしろ、全ての起点となる一本目──。

 何万回と練習しただろうそれは、過たずレセプションエリアの隅に向かって落下して行き、羽根の揃った新品のシャトルはブレることもなく速度を増していく。

 相変わらず上手いものだ、と倉石は見ている。

 少なくとも国際大会に出場するレベルでは、やたらにシャトルをオーバーしてしまうような選手は見ないが、ことサービスにおいては、まだまだこの年代では粗削りな部分が目に付くことも多い。

 その意味では、特に今回日本代表に選んだ選手たちはみな、サービスがしっかりと身についている。

(全ての起点になるショット──もちろん、テニスのようにそれ自体を『攻め』に使うことはルール上難しいが、その精度はラリーの展開に大きな影響を与える……)

 有力選手の中ではもっともミスが少ないタイプの志波姫や、実力者の久御山や豊橋も、明らかなミスはもちろん、甘いコースに届けることもないぐらいに、サービスは安定している。

 特に、ショートサービスをずっと打っていた後、急にロングサービスを打つとどうしても深さが足りなくなりがちだが、ひとまず今回の望は、しっかりと後ろに相手を押し留めることに成功している。

 早い出足でバックステップを踏み、ラウラ=バネガスが大きくはたく。

 頭上を越えていくシャトルを睨みながら、荒垣はコート中央やや右側にポジションをとり、その背中側に望がリターンを通した。

 鏡合わせの雁行陣で、ストレートのドライブとクリアーの打ち合いが数巡続く。

(手探り、といえば手探りの状態だ。このゲーム始めて荒垣が前に張り付いている。『上』の射程に掛かれば手を出すだろうが……)

 果たしてラウラ=バネガスはリスクを冒さず、正面に位置する望の返球が甘くなる瞬間を狙う腹積もりだ。

 もちろん、望もそれは重々承知している。

 オープンクロスへの深いロブを一瞬考えるが、今はまだ、それほどラリーの優劣が定まっていない。

 通す手立てはあるにしても、通した結果がこちらにとって有利に動くかはわからないのだ。

 甘くなれば、前衛のアラセリスは荒垣のボディにドライブを差し込むだろう。

(──コートが狭い。カットスマッシュも目が慣れてくれば捉えられる……)

 慣れない国際試合、また慣れないダブルスに沸き立っていた立ち上がりの高揚感が収まってきて、望は徐々に自分が試合に深く入っていくのを感じている。

 それは荒垣も、対戦相手の二人も同じだろう。

 もっとも相手の方は、あるいは自分たちよりもずっと、こうした大きな大会の経験は豊富にあるのかもしれないが、その片鱗が見えるのはあくまでも精神的な『落ち着き』のみであって、プレイの技術や精度が、望たちを大きく上回っているようには、倉石にも、またコート内の二人にも思えなかった。

 それなりに身長が高く、また動きも決して鈍重ではないポルトガルペアを相手に、望は今一つ攻撃の糸口を掴めずにいる。

 細かく振れるメトロノームのように、お互いに意志の弱いシャトルを送り合う展開。

 しびれを切らして飛び上がった荒垣が、スマッシュをアウトにしてしまう。

「っ──悪い、石澤」

「ううん……やっぱり後ろに行く? 強打で押してけば──」

 もちろん、たった一本のミスで荒垣のスマッシュを見捨てるわけではない。

 むしろ、ここのところぐっと精度が上がってきた彼女のドライブを主体に組み立てていく方が、突破口は開けるのかもしれないと、望は考える。

「そうだなぁ」

 コートの四人の中で最も背の低い望が前衛に入るということは、相手にとっては『空中戦』がやりやすくなる。

 その不利を背負ってもなお、荒垣に『射角』を提供することが自分の仕事だと、望はひとつ目標を置いた。

 ポルトガルペアのサービスを受けて、望は対角に大きく返球する。

 前衛からダイアゴナルにバックステップを踏んだアラセリス=バネガスがロブを返し、彼女たち姉妹はやや高い位置での平行陣を選択した。

 これが要するに、彼女たちの戦い方なのだろう。

 ヨーロッパの中ではさほどフィジカルに恵まれているとは言えない彼女たちの戦法は、自然に守備的になる。

 そして荒垣が後ろに回り、強いドライブを放とうとしているのを見れば、彼女たちが万全のディフェンスを敷いてカウンターを狙う策に出るのは当然とも言えた。

 望と荒垣の狙い所は、そのカウンターの糸口になるショットを産み出さないように、厳しいコースにドライブを通し、バネガス姉妹の意図を封殺することが出来るかどうか。

 それからもう一つ、『カウンターに対してのカウンター』を仕掛けるのは、望の仕事だ。

 未だ形の定まらない試合展開の中で、強く、高くなっていく荒垣の打球音を聞きながら、望は今一度自分の神経回路に命題を入力する。

 

 

 

 試合前の適当な打ち合わせ通り、荒垣が強打で引っ掻き回す展開から、スコアは徐々に動き始める。

 しかしポルトガルペアもよく彼女の打球についていき、また意思の疎通が不十分なところでの失点を重ねてきた結果、点差はほとんど開かないままにインターバルが近づく。

(──志波姫なら、どうする……?)

 志波姫とてジャンピングスマッシュを放つ能力はあるにせよ、それを脇においても、少なくとも益子と組んでいる限り、『強打が使えない』と言う状況に陥ることはない。

 それは荒垣と望にも言えることだ。

 10-9となってなお、望にはこれといって盤石な『得点の形』は見つからない。

 もっとも、彼女が前にいるおかげで、荒垣は充分に好き放題スマッシュを打つことが出来ているし、ロブの深さとヘアピンの『寄り付き』にさえ気を付ければ、相手のバネガス姉妹にもそうそう攻め手は出させないだろうということは理解できている。

 ただ、もっと圧倒的な──。

 インターバル入りを決めた荒垣のスマッシュを脇で眺めながら望は、自分にもあれぐらいの身長があればと、半年ほど前までよりもずっと軽い気持ちで頭を悩ませる。

 もちろんあってほしいのは身長だけであって、その下のグラマラスな体型までは高望みしていないが、もうとっくに成長期の終わりに差し掛かっているこの年齢では、そんな『ないもの』をねだるよりも、『あるもの』をしっかりと備え付けてくれている遺伝子に感謝すべきだろう。

 クールダウンを終えてベンチに戻ってきた志波姫からタオルを受け取り、望は荒垣と並んで倉石の前に立つ。

「──全体として悪くはない。攻撃に手間取っているようには、見えるがな」

「……ええ、まぁ……」

 考えが一致しているとみて、倉石は望から視線を外し、志波姫に促す。

「何かないか?」

「──うん、そうですね……相手を振るって言うより、ボディを狙ってみれば?」

 二人に話しかけている志波姫だが、その言葉の意味をより早く、深く理解したのは荒垣の方だった。

「ボディ……」

 ふと、春の合宿で横目にチラチラと見ていた志波姫の試合を思い出す。

 対戦相手は、田川という大学生だった。

 いくら志波姫とは言え、強豪の神奈川体育大に進学した選手、しかも入学したての新人ではなく二年生を相手にやすやすと勝てるとは誰も思っていなかったが、彼女は田川のボディを執拗に攻め続けて相手を半ば戦意喪失させ、なし崩し的にゲームを終わりに持っていく。

「──うん、やってみるよ。石澤は?」

「そうだね……私も」

 主審の促しを受けて、二人はコートに戻る。

 荒垣の方は頭の構造が単純なおかげで、すぐに志波姫の言わんとすることを捉えたが、望の方はいまひとつピンと来ていないようだ。

(ボディを狙う、か……)

 本来ならば避けるべき手だ、と望は考える。

 それは倉石に『強打は通用しない』と言われ続けた過去の事もあるが、それを振り切った今でも彼女の身長では、荒垣のように簡単には、強打を使えない。

『刺す』にしても急所を狙わねばならないのだ。

 上背がありストロークも強いポルトガルペアを相手に、前衛に立って間合いの少ない状態でどこまでそれが可能か。

 望はそこに不安を抱いている。

 

 

 

 荒垣のスマッシュは少しずつ球足が長くなり、ポルトガルペアの上半身を狙っていることが望にも感じ取れた。

 インターバル明けにスコアが徐々に離れ始めているのは、同様にボディを狙って打ち返してくる相手のシャトルを、望が持ち前の柔軟性を生かして上手く捌けているせいだろう。

 後衛の荒垣も、差し込まれた時には決して無理をせず、いったん高いロブに逃げている。

 その瞬間だけは相手に手番を渡してしまうが、第一セット前半でポルトガルペアが守備的であることを見抜いた二人は、そう慌てることもなく丁寧にポジションを取り直し、改めて攻撃の機会を伺うことが出来ている。

(『1+1』の実力差なら、こちらの方が明らかに上だ……それに加えて、『ダブルス』の精度でも上回りつつある──)

 ポルトガル後衛のアラセリス=バネガスは幾度か前衛の望に強いドライブをぶつけるが、その全てを彼女がきちんとコントロールしてリターンしてくるのを見ると、次第に後衛の荒垣を走らせる戦術にシフトしていく。

 自然に二人は左右のサイドを行き来するようなラリーの形に組み込まれ、望と対面の前衛・ラウラ=バネガスはお互いの動きとシャトルの高さを睨みながら、様子を伺うと言った状況だ。

 ラリーは長くなりつつあるが、荒垣に焦りはない。

(これだけ後ろからじゃ、ボディは狙えない……荒垣を助けるには──)

 望は左足を引き、次いで右足を摺り寄せて、ネットから少し距離を取る。

 横幅の大きいトップアンドバックをやや守備的な平行陣に戻していく過程で、荒垣のハイクリアーが甘くなれば、ラウラ=バネガスが前への落としを仕掛けるだろうが、今のところ彼女の精度に陰りは見られない。

 コート中央付近のネット前に立つ彼女の後ろを、対角奥から望のいるサイドへ戻って来るアラセリス=バネガスが視界に入る。

(──ここだ)

 背後の打撃音を聞いて、それが自分の想定通りの打球だと確信すると、望は一気にバックステップを踏み、ロングサービスラインまで下がる。

「荒垣、前!」

「っ──」

 センターに向かってポジションを取り直していた荒垣は、望の声に反応して一気にベクトルを変える。

 左足を踏ん張り、反動を得てやや鋭角に切り返してラウラ=バネガスへの対応に回ったのを確認してから、望はポルトガルペアの返球を待つ。

 突如前後を入れ替えた日本ペアに対し、アラセリス=バネガスは荒垣の『領空』を忌避して、コート対角奥へのクロスロブを嫌う。

 つまりそれは、鋭いバックステップから直ちに盤石の体勢を整えた望のサイドに返すよりほかなく、またサイドアウトになるリスクの大きいバックハンド側へコントロールできたとしても、既に待ち構えている望はやすやすとラウンドに入り、ドライブにせよロブにせよ、フォアハンドストロークでしっかりと打ち返してくるだろう。

 苦虫をかみつぶしたような顔で、アラセリス=バネガスはせめてもの抵抗とばかりに、コントロールを極限まで無視した強いドライブを望のボディ目掛けて返す。

 体軸を傾けて、低空飛行で接近するシャトルに対してスイートスポットの高さをアジャストしながら、望はふと、ある事を思い出していた。

 

 

 

 インターハイから帰着後、数日経ったある日のこと。

 望を含む、引退した三年生のうち何人かが部活に顔を出し、後輩の実戦練習の相手をしていた。

 それは、つい先日までの『日常』を懐かしむ思いもあっただろうし、また選抜の県予選や、来年のインターハイを見据えて直ちに再始動した逗子総合バドミントン部に、何かささやかな恩返しを、と言った気持ちもあっただろう。

 ともあれ、体育館の中にさえ陽射しが透過してくるような蒸し暑い中でも、厳しくも覇気のある練習の雰囲気に、主将の座を譲った望も頼もしく思っていた。

 練習が終わり、熱心な後輩たちがトレーニングルームや、校外へのランニングに出たところで、倉石は望に声を掛ける。

 どこであれ、『大学でもバドミントンを続ける』という気持ちをインターハイ後により強くした望にとっては、引退してからもその鍛錬に緩みを挟む余地はなく、少しでも志波姫や荒垣、益子や津幡といったビッグネームに対抗する術を身に着けるべく、倉石との練習にも熱が入っていた。

「今日は一つ、新しいことを教える──正確には『新しい』わけじゃないが」

 そう言って倉石は、望をコート左奥に立たせ、自らは反対側のネット前に立つ。

「まず、前提として……お前の強打は通用しない」

 何百回聞いたかわからない台詞に、望は苦笑する。

 彼の語気からして、それは昔のように、自分のセオリーで望を羽交い絞めにするような意味合いではないことは、すぐに理解できた。

 そして、その言葉の本質も少しずつ見えてきてはいる。

「バドミントンにおいて『強打が通用しない』とはどういうことか、わかるか?」

「ん……スマッシュが決まらない、あと、拾われてラリーが長くなる……ですか?」

 半分正解だ、と倉石は手に持ったラケットを振った。

「どっちかと言えば、お前が後に言った言葉の方がより正しい。つまり──」

 籠から一個のシャトルを取り、倉石は望に向けてロブを出す。

「──」

 不意を突かれはしたが、意図して甘く出されたそのシャトルを、ジャンピングスマッシュで打ち返すことは容易かった。

 コースは厳しく、仁王立ちしたままの倉石が伸ばしたラケットの先を通り過ぎて、シャトルはコート奥に着弾し、転がる。

「試合なら今のスマッシュは拾われる。もう少し前に来い。真ん中でいい」

「はい──」

 言われるまま、望は立ち位置をホームポジションまで上げて、それから更に一歩前に出る。

「うむ……この位置で、お前がこちら側ならどうする? 石澤」

「どちらかのサイドにクロスロブを──」

 望がそう言うと、倉石は頷き、先ほどと同じコースに向けてロブを出した。

「スマッシュで返せ!」

「っ!」

 軽やかながらも急いた足音を奏でながら、望は素早くバック奥まで下がり──それは今までの鍛錬のおかげだろう──過たず落下点に入って、少しだけ宙に浮きながらオーバーストロークで打ち返す。

二個目のシャトルが、一個めのシャトルよりも手前、ややコート真ん中よりに着弾する。

 甘いコースに入ってしまった、と望も自覚している。

 最初から落下点に入っていた先程のスマッシュよりも、その位置取りの精度は悪かっただろうし、時間的な余裕もなかった。

 半身を捻る時間が取れなければ、ラインぎりぎりを突くコントロールは出せない。

「──今のと、さっきのスマッシュ。厳しいのはどっちだ?」

「……さっきのヤツです」

 そうだ、と倉石はニヤリと笑った。

「本質はこれなんだよ、石澤。スマッシュが決まらないこと、拾われることそのものが悪いんじゃない。『その後の返球』に対して同等の鋭さを確保できれば、拾われたって問題ないんだ」

 もっとも、かつて倉石が教えていたセオリーによれば、前に出ている状態でコート奥にロブを上げられた時に選択するのは、対角へのリバースカット、もしくはとにかく高く打ち上げるロブのどちらかだ。

「ラリーの中で不利に入った時に、それをイーブンに戻すためには精度が必要だ。そして──『お前の強打が通用しない』という言葉の本当の意味は、そうした球種を選択した時、『不利に入りやすい』ということだ」

「……」

「不利に入ること自体は往々にしてある。荒垣のようにドライブの基本スピードが速ければ、『ライン』をキッチリ狙っていくしかないし、例えば羽咲や、……何と言ったか、あの青森高田の二年生のような、アジリティの高い相手に対しても、強打を使わないならば同じだ」

 随分と穏やかな表情で語る倉石を見て、それを理解するには、今までの自分は我儘過ぎたのだろう、と望は感じる。

 勝ちたいと駄々を捏ねるわりに、勝てない強打に固執していた、と。

 それはもちろん、高校生の間はそれでも『そこそこ』のところまでは行けたのかもしれないが、逗子総合のバドミントン部が目指しているのは『そこそこ』の位置ではなかったし、望自身も志波姫唯華に負けるような『そこそこ』の選手で終わってしまったことには、有り体に言って後悔しかない。

「……わかるか、石澤?」

「はい……『わかった』気がします」

 頼りない教え子の返事に、倉石は苦笑する。

 精神的には極めて成熟していて『バドミントン脳』が抜群に良く、またそれが活かされる十分な基礎技術があり、そこにはいくばくかのセンスが関与しているにせよ、志波姫唯華には荒垣のような身長も無ければ、望のように何か特殊な技能があるわけでもなかった。

 言ってしまえば徒手空拳だ。

 カットスマッシュと言う明らかな『獲物』を持つ望とは違うし、平たく見れば望の方が有利だったはず。

 それでも望があの試合で──今振り返ればどこかその瞬間が──、『負け』を感じ取ったあのポイントは、志波姫が仕掛けたフェイクであったにせよ、その前のラリーに比べれば紛れもなく『強打』であった。

 『持たざる者』に打てるはずがないのに、望は捉えきれなかった。

 それが、自分に打てないはずはない。

 鍛錬していたならば。

 だが、打てなかった。

 何故なら、あの試合は望が敗北したわけではなく、倉石の『セオリー』が志波姫唯華に敗北した試合だったからだ。

「俺はもう、お前たちに理不尽な後悔をさせたくない」

「……監督……」

「だから教える。これをモノにすれば、お前の強打は通用するようになる。『ライン出し』だ、やってみろ──」

 



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22nd game Angel with a shotgun

「ライン出し……」

 ラケットのネックを左手で弄りつつ思案している望を倉石は呼び寄せる。

 ネットを挟んでしゃがみ込み、ここのところめっきり開く機会が減っていたノートを見せた。

「今までお前に教えていたそれぞれのパターンも、そのベースにあるのは『ライン出し』の概念だ。即ち──」

 前後のショットの『ディスタンス』を可能な限り拡げる。

 それは距離的にも、時間的な意味でも──と倉石は語った。

「例えば荒垣戦で使おうとしたパターンC。ミドルやや前の張り合いから大きくクリアー……前へのフェイントを入れてからバックステップを踏むのは、あくまでもオプションに過ぎない。本質は『前への意識』の後に長いショットを打つ、という点だ」

 つまり、『勝てない強打』に固執した結果喰らったカウンターのスマッシュに倉石は怒ったのではなく、そのパターンの本質を理解しないままに長いショットを続けたことが原因だったと、望は悟る。

 それならそれで、試合後のレビューで教えてくれれば、とも思うが、その当時の二人ではどうしても感情的になっただろうから、ある意味、『すべてが終わった』今で良かったのかもしれない。

「だが言ったように『パターンC』はそもそも、悪いシチュエーションからの立て直しに使うものだ。荒垣に限らず、益子や久御山、津幡のような上背のある選手と戦うときには、どうしても『制空権』は奪われる……」

 その上で、それでも相手を前後に動かす、望が描いているバドミントンのスタイルに拘るとするならば、通せる『高さ』は限られてしまう。

「わかるか?」

 チンプンカンプンといった表情を浮かべている望に、倉石は苦笑しながらとりあえずプレイをしてみようと促した。

「まあ、まずは指示通りにやってみろ。何か気付いたら自分で考えて打て」

「はい」

 それから、望は立ち上がり、倉石の球出しを待つ。

「──コートミドルから最初はバック奥に出すから、好きなところに強く返せ。ただし、『次』の球よりも甘くだ。それだけは忘れるな」

「はいっ」

 倉石の合図に合わせて望はスプリットステップを踏み、呼応して打ち上げられたシャトルを追って走り出す。

(一本目は──)

 ホームポジションに移動した倉石を流し見て、望は思案した。

 練習の意図からすれば、倉石が取れないコースに打ってしまっては意味がないだろう。

 もちろん、既に壮年の域に差し掛かっている彼に本気で立ち向かえば、若い望なら十分『勝ち』は期待できるのだが、今日のテーマはそれではないし、公式戦の場で倉石と戦うことなど、今後有り得ないのだから。

 落下点に到達した望は、倉石の立つ側とは反対方向へ、僅かに飛び上がってスマッシュドライブを放つ。

 日々、逗子総合の部員たちに精力的に指導を送る倉石は、現役時代からやや体重こそ増えたものの、動きは機敏だ。

 男女の違いもあるが、それが志波姫や益子だったとしてもまだまだ、高校生程度に後れを取ることはない。

 やや甘めのコースに威力をセーブして打ち込んだとはいえ、望のスマッシュドライブも難なく受けて、彼は逆サイドに深いロブをコントロールして教え子を走らせる。

 ロングサービスラインを跨いでシャトルを追いながら、望は慣性を殺さず、斜めに飛び上がった。

「──ふッ!」

 短く息を吐いて丹田に力を込め、精一杯腕を振る。

 格好としては、憧れた『ジャンピングスマッシュ』だが、鉛直に飛べなければ、望の身長では『角度』は出せない。

 オープンストレートに弾き返したスマッシュはコースこそ厳しいが、球足の長くなったシャトルに対して、倉石は腕を伸ばしてラケットに引っ掛けるように受け、望の対角のネット前にポトリと落とした。

 なまじ打球が速かったばっかりに体制の立て直しは間に合わず、望は絶妙にコントロールされたそのクロスネットを見送るしかない。

「……」

「──結局こういうことだ。もちろん女子で俺ぐらいのウイングスパンがあって、テクニックも兼ね備えているのはコニーや益子ぐらいのもんだろうが、それでなくてもスピードが速い奴はたくさんいる……」

 そう言って、倉石はまた同じコースに球出しをした。

 一手目の望の返球は、先ほどと変わらない。

 受けて返す倉石も同様。

(……これだと同じか。じゃあクロス──)

 望は腕を後ろに置いたまま体軸を回転させ、さっきよりもなお角度のつかないクロスへのスマッシュを選んだ。

 どちらかと言えばドライブと呼ぶ方がふさわしいような、水平に近い軌道を描いて飛んでいく。

(む──)

 それはおそらく、彼女の持つ『シャトルの伸び』を活かして倉石のスイングを詰まらせる意図があったのだろうが、随分長い事望を見ている倉石は、難なくスイートスポットで捉えて打ち返した。

 もう一度、とたしなめるように同じコースへのロブ。

 だが、今度はきちんと『上』に踏み切れる。

 望は意を決して飛び上がり、シャトルを叩き落すように打ち付けた。

 一瞬彼女が期待した通り、コートに跳ね転がったシャトル。

 だが、『これは違う』とすぐに気づく。

 同時に倉石は、そのシャトルを拾い上げて望に言った。

「今は俺があえて同じリターンを打ったから、しっかりと飛ぶ時間的な余裕があった──」

 まるで、バレーボールのジャンプサーブのような格好で。

「そう、ですね……」

「確かに今のスマッシュは決まるだろうが、それではダメなんだ。試合ではそう簡単に体勢は作れない。逆を言えば、その体勢が作れたなら打ってもいい。もしくは──勝負の『アヤ』が出る瞬間を狙うとかな」

 『上』から叩かれることはない、と志波姫を見くびった羽咲のロブが甘かったせいで、彼女は鋭いジャンピングスマッシュを喰らってしまう。

 そこには羽咲の油断もあったのだろうが、その時志波姫が叩き伏せたシャトルはスピードこそあれ、明らかに深さが足りなかった。

 もっと早くにその油断を出させていればあるいは、志波姫はジャンピングスマッシュと、そのフェイクであるドロップを駆使して羽咲を抑え込むことが出来たかもしれないが、そのロブを打たせたのは、他でもない羽咲自身の、自分優位に立っているという、焦りを含んだ油断があった。

 勝負のアヤというのは得てしてそういうものだ、と倉石は乱れた羽を揃えながら語る。

「つまりその……アヤになるような場面でしか、私はスマッシュが打てないってことですか?」

「荒垣ほどには、通用しない。……が、逆を言えば、お前が強打を打った時、それが相手に何かしらの影響を与えるようなシーンを作ればいい。わかるか?」

「う~ん……」

 有り体に言えば、意外性だ。

 本質的な挽回の手立てにはならない。

「俺は今まで、お前に色んなラリーパターンを教えて来た。だがどれも、相手がそれを上回ってきた場合の対処は考慮していない」

 荒垣との試合でも、彼女が強打で押し込む戦術に転換してからは、左右に振るという倉石の指示した戦術は遂行できなくなった。

 望自身がおぼろげに考えていた『自分の形』、すなわち変化球を多用して前後に振っていく戦い方では、多少食い下がることも出来たし、むしろその事実こそが倉石の指導者としての変貌のきっかけでもあったのだが。

 誤解しないでくれよ、と倉石は前置きして言った。

「──俺の戦術では、もうお前を勝たせることは出来ない」

「……」

 それはあくまでも今以上に、と言う意味で、これから『上』で戦っていくにあたっての話だ。

 望も理解はしている。

「だからこれからは、お前が『自分のバドミントン』で勝っていくようにするんだ。そのために今、これを教えている」

 倉石は望を促し、練習を再開した。

 変わらない調子で上げられるシャトルに対して、望はいくつかのパターンを想定しながら返球するが、どれも今一つ、倉石の表情は芳しくない。

 結果としてポイントになっているショットもあるにはあったが、試合で同じように通用するかと言えば、そんなことはないというのは、望が一番理解している。

 汗の絡んだ髪が、毛先を丸めていった頃に、二人はすっかり夕闇が訪れていることに気付く。

「……まぁ、今日はこの辺にしておこう」

 籠一杯のシャトルを、三度ほど空にしただろうか。

 望も少しばかり腕にだるさを感じていたところで、集中力を保つのにも苦労していたから、ちょうどよかった。

 頭を下げ、苦笑いを浮かべながら彼女は倉石と共に、散らばったシャトルを集める。

「監督は、こういうこと練習したんですか? 現役時代」

「いや……俺は別に、『使える強打』を打てる身長があるからな」

 胸を張るがどこか申し訳なさそうな彼に笑みを返して、望はネットを外し、畳み始めた。

 反対側でロープを解き、倉石はポールを引き抜いて倉庫に片づけていく。

 

 

 

 

 散らばった羽のかけらをモップで掃き集める望の足音が、体育館に響いている。

 流石に一年生の頃のように、上手くいかないからと言って泣き出すようなことはないだろうと安心して、倉石はモップを片付けて部室に戻る望の背中を見送りつつ、二階の体育教官室に上がる。

 階段を上がって再び姿を現した彼に、シャワーを浴びてきますと彼女は告げるが、倉石はその後──つまり、今までずっとやっていたような練習終わりの反省会はひとまず無しにして、家に帰るように言った。

「現況をまず理解するんだ。ゆっくり頭と体を休めてから、もう一度考えればいい」

「はぁ……」

 

 

 

 それから数日経ったある日、いつものように後輩の練習相手をしている望の打球を見て、倉石はふと気づく。

 試合形式で彼女が対戦している一年生は、その世代の中では一番手ぐらいに有望だったはずだが、やけにミスショットが多い。

(芯を外している……?)

 よくよく見ていると、その一年生はどうもタイミングを計り切れず、打球が詰まっているようだ。

 自然にシャトルの伸びはなく、望は自分の位置を前掛かりに保ったまま後輩を押し込んでいく。

 やがて試合はあっという間に終わり、体育館の熱気もどこか涼しげに望はコートを後にした。

「──石澤、さっきやっていたのはなんだ?」

「え? ああ……」

 気を抜いていたわけではないが、自分自身でも不甲斐ないスコアに倉石のカミナリが落ちるかと戦々恐々としていた一年生は、彼が自分の方ではなく引退した先輩に声を掛けたことに少しだけほっとした。

「ちょっと間を変えてみたんです──志波姫にやられた時のこと、思い出して」

「フムン……」

 もちろん、志波姫がそのテクニックをいつから培っていたかはわからないが、少なくとも倉石は望にそのようなことを教えた覚えはなかったから、それはここ数日の間に望が思いついたのだろう。

 実際のところ彼はそうした『小手先の技術』をあまり好まず、高校生年代にはまだ早いという認識でいたからだが、志波姫唯華ほど基礎技術がしっかりしているなら、そこまでのレベルに到達するのもおかしくはないと考えている。

「なるほど──今日残れるか?」

「はい、大丈夫です」

 あくまでも倉石の『飯のタネ』は現役選手たちだ。

 そこをおろそかにしてまで、引退した選手に付き合うほどこの男は無責任ではないと、望はよく理解している。

 

 

 

(ん……?)

 アップゾーンでモニターを眺める久御山は、望のその動きに既視感を覚えた。

 低く強いドライブに対して、勢いを殺すように面を早めに立てた後──。

 アラセリス=バネガスのショットが完璧に望のボディに差し込まれていれば、彼女もそうやすやすとコントロールして返すことは出来なかっただろうが、望はわずかに軸をずらして飛び込んできたシャトルを見切り、望は傾けた体軸をほんの少し前に倒すとともに、手首を一瞬コックさせて加速度をラケットに与え、強く叩き返す。

 一瞬のフェイントに、ポルトガルペアは予測していたロブに対しての初動を開始していた。

 前衛のラウラ=バネガスがなんとかラケットをしゃくって引っ掛けるが、浮いたシャトルは荒垣の射程範囲に収まってしまう。

 16-12。

「上手いな、あいつ。相手を先に動かした」

 汗の引いた体を冷やさないようにと、久御山と揃いのジャージを羽織っている益子が呟いた。

「……ウチも宮崎でやられたわ、アレ」

「ほーん」

 久御山はその時の感触を、身振り手振りで益子に話す。

 お互いにラケットを振り切って長いシャトルで相手を走らせるラリーが少し長くなった、いわゆる『持ち持ち』の状況。

 久御山はそういう時、相手のミスを待って打開を図るが、その時望が取った選択肢はより積極的なものだった。

 自分から多少のリスクを冒して、同じように見えるスイングにどこか『モタり』『ハシり』を混ぜていく。

 彼女よりも『速い』プレイヤーならそれほど影響はないが、基本的に久御山と望は同じようなバドミントンのリズムを持つから、一度同調してしまったラリーから抜け出すには、どうしてもそうしたリズムの変化を作らないといけなかった。

 たとえば志波姫や益子のレベルになれば、そうした『テンポの変化』を自在に操る選手もいるのだろうが、久御山が現役の頃は、そうした相手と戦うことはなかったから、それに対する対策も考えていなかったし、練習もしていなかった。

 ちょくちょく戦っていた津幡も、強さでは彼女たちに引けを取らないが、彼女のバドミントンの仕組みは二人よりもよほど単純だ。

 フェイントで相手を乱したり、チェンジオブペースに長けているわけでもない。

 それは久御山も同じだ。

「益子はああいうの、練習したんか?」

 インターハイでの羽咲戦、益子は序盤は手を抜いていたものの、随所にそのセンスを光らせていた。

 中盤に追い込まれた時も彼女は一気にギアを上げ、『本気』だと周囲に知らしめるように厳しいショットを連発して、一時は羽咲を逆転する。

「いや……私は別に──『そういうモン』だと思ってたから」

 それは彼女の海外での経験や、上の世代の選手とやり合っていく中で自然に身に付いたものなのだろう。

 性格もあるのかもしれない。

 本当にそうかどうかは置いておいて、久御山は自分自身が益子ほど『ひん曲がって』はいないと思っているし、小さい頃の彼女は、相手に手心を加えることなどなく、近所の子供たちの大会でさえ、ありとあらゆる手立てを使って相手を圧倒してきた。

 久御山が戦績を上げて来たのは、どちらかといえば遅い年代──中学生になったあたりからそこそこ身長も伸び始め、幼少期からバドミントンをずっと続けている子供が案外、周りに少なかったということもあった。

 そのおかげで、あまり叩きたがらないビッグマウスに頼らないのであれば、『ライバル』と言えるプレイヤーもいない。

 豊橋か、せいぜい津幡ぐらいだろう。

「──あぁ、一セットとったな。そろそろ行くわ」

「おう」

 タオルとラケットを手に久御山はアップゾーンを出ていき、入れ替わりに旭が入ってくる。

 羽咲は益子から遠く離れた場所に座り込み、黙々とストレッチをしていた。

「あんた久御山に迷惑かけてない?」

「子供か」

 相変わらずの軽口を叩き合う二人にちらりと目線を向けつつ、羽咲はぐいと身体を寝かし込む。

 荒垣にしろ、逗子総合の石澤にしろ、彼女からすれば何があろうと『勝ちは揺らがない』レベルの選手だったはずだ。

 それでも、ハッと気づくと、ディスプレイをずっと見つめている自分がいる。

 

 

 

 望の『二本目』に、倉石のステップが澱む。

 顔をしかめながら返球するが、甘くなったそれを望は更に厳しく叩き返し、ラリーの天秤は一気に望有利に傾いた。

 そんなプレイを何度も繰り返して、珍しく息が上がっていることに気付いた倉石は、一旦練習を中断した。

「……いいな、石澤」

「えっ?」

 お前が見つけた迷路の出口は正解だ、と倉石は笑って頷く。

 しかし彼にはまた、気がかりなこともあった。

「良く掴んだな、これを──だが、『志波姫のコピー』になってはいけない」

「はい……」

 彼女が大学でも、あるいはどこかの社会人チームでもバドミントンを続けるのはほとんど確実だろうと倉石は思っているが、それでもその『完成度』が逆に彼女の将来性を損ねているのではないか、というのは亘監督とも共通する彼の指導者としての懸念だ。

 望は、そこに自分を重ねようとしている。

 ある程度のレベルまでは、それでいい。

 そう簡単に追いつける存在でもない。

「お前と志波姫は違う。基礎技術の精度はまだまだだし、逆に志波姫にはないものをお前は持っている」

「……」

 小さなコルクを切って放つカットスマッシュを、あえてリズムをずらせたスイングでどこまでシビアにコントロールできるのか。

 またもっと本質的な部分で、自分から『崩した』リズムのショットでミスを犯したとき、そのミスを引きずらずに戦えるかどうか。

 志波姫唯華の『強さ』の本質はその精神力によるものだ。

 それは、益子泪にはないし、石澤望にも今はない。

「メンタルを強く持つには、とにかく練習を積むことだ。量だけではない、質も……これからお前に残された時間は少ないが、可能な限り教える……」

「──はいっ!」

 

 

 

 第二セットが始まると、望が仕掛ける『タイミングをずらす』攻撃は、よりその振幅を増していく。

 もともと彼女は、自分のペースで戦えている時は強いタイプだ。

 それは長らく指導してきた倉石はすぐに理解したし、一戦交えた荒垣や志波姫も、ベンチに腰を下ろした久御山もなんとなく気付いている。

 ところが、そうではなくなった時──すなわち、志波姫のように完全に一枚上手の選手にいいようにやられた時など、その失点を引きずってしまうことも多く、つまりはそれが『石澤望』の大きな弱点の一つだった。

(二年半教え込んで、プレイの上で目に見える欠点はほとんどなくなった。体力的な問題はやや残っているが、それは案外リカバリーは容易い……)

 根本的には臆病な性格の望だが、『逗子総合のエース』という責任を背負った時、そうした性格は時に彼女の視野を狭め、本来丁寧に形を作っていくはずの、『自分のバドミントン』を、パワフルではあるものの、有り体に言えば雑にしてしまう。

 もっとも、今日の相手は彼女を多少追い込みこそすれ、土台が揺らぐほどには慌てさせることはないようだ。

 荒垣とダブルスの息を合わせつつ、ポルトガルペアの強打をいなして優位を手放さずに戦えている。

 そして、久御山が予測したよりも早く、その試合の終末は訪れた。

 20-10となってから、アラセリス=バネガスのロングサービスに機敏に反応した荒垣が、高く打ち返して時間を取る。

 その間に望は素早くネット前に走り込み、彼女のリターンを受ける体勢を整えた。

 アラセリスは張られた網を掻い潜るべくシャトルを打ち上げるが、今コート上にいる四人の力関係では、日本コートのすべては荒垣の支配圏に含まれている。

 久御山が席を立つと同時に、シャトルはポルトガルペアの間に叩き付けられ、最後のポイントが日本ペアの手に収まった。

「──荒垣!」

 握った左手を振りかぶり、開いて望は荒垣とハイタッチを交わす。

 受けた荒垣も手を痛そうにしておどけて見せるが、歓喜もそこそこに二人は対戦相手のバネガス姉妹と握手を交わし、主審からスコアシートを受け取りサインする。

 荒垣の方は『サイン』の練習もしていたようだが、望にはそうした経験はない。

 英語の授業でノートをとる時のような、適当な筆記体でペンを滑らせながらも、しっかりと自分の名前を記す。

 

 

 

「うむ……よくやったぞ、二人とも」

 できれば望の事をもっと褒めてやりたかったが、倉石はぐっとこらえて、努めて二人を平等に讃える。

 ダブルスの速いテンポのラリーの中で、考える時間が少なかったことが逆に、彼女がつい最近覚えたテクニックに頼らせたのかもしれない。

 合宿中に久御山と話をした時には、彼女も『その手』を喰らって負けてしまったということだが、今日望が試合で見せたそれは、その時よりもずっと洗練されていて、またリスクをいたずらに増やすことのないさり気なさで散りばめられていた。

 自分の力を存分に発揮できたという昂ぶりからか、久御山に送る声援もどこか弾んでいて──望は充実感を纏わせながらクールダウンに向かう。

 荒垣も、試合直後の表情からは膝の不安は感じられない。

「──さて、久御山」

「ほいほい?」

 首を捻って骨を鳴らし、つま先をフロアに打ち付ける。

 その仕草からはいつものように、気負いは感じられない。

「相手のイリス=フォンセカはポルトガルのエースだそうだが──やる気は出たか?」

「……心配いらんで。ちゃんとやる」

 益子のように分かりやすく斜に構えているわけではないが、久御山も相当曲者だ、と倉石は苦笑いを心の中に隠す。

 もちろん性格が悪いわけではない──これは益子もそうだが──が、いまひとつ『モチベーションの出どころ』がわかりにくいのは、短い期間しか彼女を近くで見ていないからだけではないだろう。

 ステレオタイプに人を当てはめるのは自分の悪い癖だと倉石も自覚しているが、京都の人間と言うのはそういうものなのかもしれない。

 成田に向かうバスの中で、『何を考えているかわからない』と志波姫がいじった様に。

「ほな、行ってきます」

「おう」

 バドミントンの世界においてはいまいち存在感のないポルトガルにあって、イリス=フォンセカは国内にとどまらずヨーロッパ全域でも『強豪』と目されるプレイヤーだ。

 松川や倉石の手元に詳細な資料は届かなかったが、アルファベットで綴って検索してみれば、いくつかの記事がヒットする。

 ミラノ・ジュニアオープン準優勝、BWFフューチャーズサーキットの地元リスボン大会──これには、かのコニー・クリステンセンも出場し優勝した──でのベスト4など、優勝と言う文字にはこれまで縁がないが、それでもコンスタントに上位に食い込む戦績には、非凡な才能が見え隠れする。

 惜しむらくは国内にライバルがいないことだ。

 ポルトガルにキアケゴー氏のアカデミーはまだ開設されておらず、そうした『高度な』バドミントンの教育を受けることのできる場所も、彼女の近くにはない。

(文章とわずかな写真だけの印象だが、そう言う意味では久御山と似通っている……どちらも『頂点』に立つことはこれまでなかったし、近くに本気で『ライバル』と呼べる存在が居ないのもそうだ──)

 あくまでも傍証だけからの倉石の推測だが、キアケゴー氏が言うところの、『ガス欠にあえぐロケット』なのかもしれない。

 

 

 

 ウォーミングアップを終え、サーブ権を得た久御山はいつものようにゆっくりとバックスイングをして、ロングサービスを放った。

 丁寧に芯で捉えたシャトルは、新品と言うこともあってか全くブレを見せず、糸を引くように空中に打ち上がり、やがてベクトルを変える。

 イリス=フォンセカは小刻みなステップから、体軸を極力折らないように高い打点でドライブを返球。

 サービスライン一杯まで押し込まれてしまっては、久御山の守備範囲を避けることなど無理な相談だ。

 クロスに返ってきたそれを、久御山は懐でいなしつつ、半端な伸びを与えないように手首のしなりを殺して打ち返す。

(うむ──)

 いつもながら、小憎らしいまでの落ち着きようだ。

 倉石は納得の笑みを浮かべて、ゆったりとしたラリーを見守る。

 彼女がもし、半年ほど前までの自分の教え子だったとしても、望ほどには、試合中に大声で指示を送ることもなかっただろう。

 そのぐらい、久御山のバドミントンは『力み』や『拘り』というものから遠ざかっている。

 相手をどうやりこめてやろうか、という風にはこのスポーツを捉えていないのだろう。

 それだから『優勝』には手が届かなかったのだと断じることは簡単だが、おそらくそれは本質ではない。

 無駄な力の入っていない丁寧なラケットワークで、決して弱くはないイリス=フォンセカの打球を完璧に捉え切っている。

 自分の感覚に例えれば、彼女は極上の『聞き手』なのだと羽咲は、ディスプレイの中で自在に揺蕩うプレイヤーを見つめていた。

 志波姫のように、狡猾にその会話の腰を折ってくるタイプではないにしても。

 6-4と微妙に抜け出したところで、久御山のドライブを打ち返したフォンセカのラケットが、奇妙に振動する。

(ん──ガット切れた?)

 クールダウンをしながらでも、望はすぐに気が付いた。

 物理法則の限界を攻める男子のパワープレイヤーならば頻繁に、と言ってもいいぐらいありふれた現象。

 彼女はテンションを失った面を必死にシャトルに合わせていくが、伸びを失った打球はすぐに久御山に叩き落される。

(でも、さっきから打球にしては『音』が良くない……低いというか、響きが悪いというか)

 スイートスポットを外しているようには、望には見えなかった。

 おそらく長い事張りっぱなしのガットだから、緩みや『打ち疲れ』が出ているのだろう。

 国を代表する選手なのだから、ラケットはともかくガットぐらいは新調して大会に臨むものじゃないのかとも思うが、ポルトガルと言う国の『熱』はそのあたりなのかもしれない。

 中国は、国策メーカー製の全く同じ仕様のラケットを求められるままに、地方の一番手レベルの選手にさえ潤沢に供給している。

 日本では流石にこの世代では、そこまで手厚い支援はないが、それでも志波姫や益子、津幡のレベルになれば、各メーカーの担当者がこぞって彼女たちのもとを訪れ、新型のラケットを置いていく。

 よもやオリンピックでメダルでも取ろうものなら、その時使っていたモデルをシグネチャーとして売り出す──そうした商業システムの中に否応なく取り込まれていく入り口が、この世代だ。

 久御山も、同じモデルのラケットを三本持ち込んでいる。

 そのうち二本はデンマーク入りしてから張り替えたもので、それが例えば量販店であまり手慣れていないスタッフの張ったものなら、時たま『初期不良』的に張りたてのガットが切れる、ということもなくはないが、大会本部に併設されたデンマークの熟練職人の手によるものならば、その心配もない。

 ラリーが終わった後、フォンセカはコート脇の荷物置きに向かい、バッグから別のラケットを取り出す。

 それから彼女は、試し打ちにと久御山が出したロブをゆっくりと数度返して、ラケットを握ったまま右手を挙げて謝意を示した。

 少しの休憩を挟んでもなお、久御山の『エンジン』はゆっくりとした加速を止めない。

 強く、高くなる打球音に少し聞き惚れつつ、望は彼女のプレイから何か一つでも『学び』を得ようと、ディスプレイにのめり込んだ。

(私と身長はそんなに変わらないけど、上手く強打を使ってる……)

 技術の一つとして『打てる』ことは打てるのだが、少なくともポルトガルのエース相手に決めきれる自信は、今の望にはない。

 チャンスボールを沈める、という形だけではなく、穏やかな流れの中に突然、相手が一歩届かないスマッシュドライブを、久御山はここぞというところで打ち抜いていた。

 ラリーの組み立てに何か秘密があるのかと、望は膝を抱え、体育座りで見つめる。

 しかし、その核心に迫るには、『今』の久御山久世だけを見ていては不可能だ。 

 

 

 表情を変えず、淡々とゲームを進めてゆく久御山を、望と共に荒垣は見守っている。

 ふと、今年の春にフレゼリシア女子とともに行った合宿で見た、志波姫と大学生の試合を思い出した。

 もちろん彼女はそれ以前から志波姫唯華と言う名前はよく知っていて、できれば対戦した雄勝ではなく彼女との手合わせを望んではいたのだが、残念ながらそれは叶わず、志波姫は荒垣がちらちらと視線を送る先で、田川と言う大学生を軽く退ける。

 『相手の嫌がることをする』のがバドミントン、というよりも多くのスポーツのセオリーであって、荒垣自身も望にそうした戦術を使われたこともあった。

 それはよく理解しているし、志波姫がそれに極めて長けているのも聞き及んでいた。

 実のところ荒垣は、そういうプレイヤーの事は──誤解を恐れずに言えば──嫌いだった。

 当時の彼女は今よりもずっとやんちゃで、対戦相手をバチバチに叩き潰してやろうという気持ちがどんどん前に出ていくタイプ。

 もう一年以上前、当時中学生だった神藤綾乃にスコンクでの負けを喫したことによる『八つ当たり』の面も無きにしも非ずだが、生来勝気な彼女はその時見ていた志波姫のような、あるいは今日の久御山のような、常にマイペースで相手の攻めをいなしつつ、淡々と『仕事をしている』バドミントンは嫌いだったのだ。

 今でも、好きではない。

 もっともそれは人間的な事ではなくて、志波姫は得体の知れない妖しさがあって少し恐ろしいが、久御山には本も借りているし、荒垣が良く知らない関西のプレイヤーの話もまた興味深く、彼女は聴いている。

 あっけらかんとして、表情豊かで、良く喋るのだ──コートの外では。

「羽咲ほどじゃないけど、ちょっと性格変わるよな、久御山」

「そうだね……」

 

 

 

 14-8と点差が開きながら終わりに向かう第一ゲームをなんとかしようと、イリス=フォンセカはその体躯を加速させ、スピードを乗せたドライブを差し込み、ネット前に飛び出す。

(お?)

 大会の戦績だけで、そのプレイ映像などは手に入らなかったから、彼女がネット前をどれほど得意としているのかなどは、久御山は知らない。

 だが、今の前への詰めを見た限りでは、『馬力』はともかく、フォンセカのエンジンは『ツキ』がいいようだ。

 素早く回転数を高めて、ペースを瞬時に持ち上げることが出来る。

(──ちっと、差し込まれるか……)

 急激に鋭さを増したドライブに、久御山は差し込まれたと判断し、フォンセカの位置を確かめてから、カットを掛けて球足を抑えた返球。

 白帯を越えてすぐに沈み込んでいくシャトルに、彼女はサイドステップで追いつき、久御山の足音を聞きながらも、仕方なくヘアピンを返す。

 自分が前に張ったことでフォンセカは、久御山の短い羽根を遠くへ叩き返すスペースを消してしまった。

 小技勝負になれば、ラケットワークの精緻さがポイントの行方を決める──。

(……と考えがちだ。確かに事実だが、久御山の場合は同じ位置でも『懐』の深さが違う)

 倉石は代表合宿からずっと各選手と、特に彼女については多く、望との比較をしている。

 志波姫のようになりたい、という彼女の『憧れ』への道筋を少しでも見つけてやるためでもあるが、それ以上に彼女自身のバドミントンの未来形を探すことが重要だった。

(このヘアピン勝負、フォンセカも決して小技が下手ではない……久御山の方が深く捉えている分だけ、コントロールも楽になる)

 仮にコートにいるのが望なら、彼女は懐が浅い分の時間的な狭窄を、肘をくねらせてラケットの面を合わせることで補填するだろう。

 飛翔距離が長くなるぶんだけ、フォンセカも立ち遅れることはないが、ヘアピンの質は明らかに久御山が上だ。

 そして、久御山はラケットで掬い上げるように、シャトルをフォンセカの頭上へ打ち上げた。

 ラウンドザヘッドで無理やり叩き返したが、これも先手でバックステップを踏んだ久御山の『射点』に吸い込まれてしまい、ジャンピングスマッシュをクロスに決め返される。

 15-8。

(ふぅ……ネット前もそんなに上手ないな)

 久御山はそんなふうに考えているが、倉石の考えはまた別だ。

 いくらなんでも、コニーのように恵まれたフィジカルを持っているわけでもないのに、ヨーロッパのジュニア大会で上位に食い込む選手が、基礎的な技術の一つを『下手』なままにしているはずはない。

(上手いことは上手い。その『上手さ』を発揮する余裕が久御山よりも少ないだけのことだが、それが試合では勝敗を分ける)

 スピードに優れる狼森や羽咲のような選手なら、単純に速く身体とラケットを操作することで多少の破綻もなかったことにしてしまえる。

 志波姫は予測と精度でスピードをカバーしているし、久御山や望は、自分の持ち合わせた身体的特徴を発揮して補っているのだ、と。

(二人とも、……いや、志波姫でさえ根本的には『持たざる者』だ──)

 だからこそ望は益子泪ではなく、志波姫唯華の方に憧れを抱いているのだろう。

 

 

 

「なんで、あんなに深いんだろう」

 懐が、とは言わなくても周囲の人間には理解できた。

 待ちぼうけを食っている羽咲の気を紛らわせようとしているのか、彼女と他愛もない話をしている志波姫はこちらをちらりと見たが、望のその問いかけに応えたのは益子の方だった。

「ステップかな……」

「え?」

「ちょっと違う。あいつ『利き脚』がないよ」

 前に落とされたシャトルを拾いに行くとき、当然利き腕と同じ方の脚を前に出さなければ、身体の構造からしてラケットは前いっぱいに出せない。

 自然にその一歩前の『踏み切り』は利き脚と逆になるはずだが、久御山はまれに、利き脚から踏み切ってもなお、フォンセカのヘアピンを難なく拾い上げていた。

「普通はやらない……よね?」

「だな──あえてそうしてるか、何かの条件があるんだろ」

 もちろん、益子と望は同じディスプレイを見ているが、その『解像度』は自分よりずっと高いのだろうと望は思った。

 荒垣によれば、羽咲は彼女との神奈川の決勝で右にラケットを持ちかえた時、ステップまでも器用に入れ替えていたと言う。

 両手を使うことだけでもおいそれとできるものではないし、それを試合中にスイッチすることなど自分には出来ない。

 それは荒垣も益子も同意する。

 旭にしたって、宮崎では多少左打ちをやってはいたが、そのクオリティはハッキリ言って『遊び』程度のものだったし、シングルスをしばらくやっていなかったのに自分と引き分けた彼女のレベルからすれば、そもそもそんな必要はないだろうとさえ思えた。

 ともかく望は、『どうしてそれが出来るのか』よりも、『どうしてそうするのか』を知りたかった。

「メリットはあるの?」

「知らん。やったことない」

 益子は首を振る。

 彼女の親は人間的に出来がいいとは言えないかもしれないが、ことバドミントンに関しては一端のプレイヤーだった。

 小学生から頭角を現していた益子がそういう『遊び』の中でバドミントンをする時間はごく短かっただろうし、無意識にそうした引き出しを補おうとして、今のように時折挑発的な行動も見せる、言ってしまえば『唯我独尊』というような印象を周囲に与える風に装っているのかもしれない。

 望はもう少し、益子や志波姫、そしてここにはいないが津幡の『三強』と、最後の夏にそこに割って入った久御山の話を聞いてみたいと思った。

 

 

「益子は、久御山とは……?」

「やったことない──アイツは最近だよ、上に出てくるようになったの」

 志波姫が割り込んできて、望の疑問を解消しようとする。

 久御山久世と言う名前が高校のトーナメントで上位に食い込むには、三年生に進級するまで待たなくてはならなかった。

 中学生時代から抜きん出たプレイヤーであったことは間違いないが、それは例えば豊橋や、場合によっては橋詰や荒垣でさえひとくくりにされるような──つまりはそうした、『ちょっとバドミントンが出来る子供』のレベルの話で、後の『三強』と称されるメンバーと同等に評価されているわけではなかった。

 キアケゴー氏がハイレベルと評した日本の高校生年代で、最後だけとは言えあの『益子泪』よりも上位でエントリーされるほどのプレイヤーなのだから、基礎技術は整っているし、それを活かすだけの頭の良さもある。

 ただ、『三強』を脅かすほどの選手ではない──なかった。

 決して楽には勝てないけれど、負けを覚悟するようなシーンは今までの手合わせの中で、中学までさかのぼっても記憶にはない。

 そんなことをつらつらと語って、志波姫は再び羽咲のもとへ戻ってゆく。

「……まあ、唯華の言った通りだよ、だいたい」

「ふうん」

 宮崎では大差で勝ったとはいえ、今の彼女はどう見てもそんな弱いプレイヤーではない。

 そのあたりが少し、望には腑に落ちないようだ。

「別に、アイツを悪く言ってるわけじゃねーぞ?」

「あ、うん。それは分かるよ」

 もちろん久御山とて、『三強』に並び立ち、打ち勝つというモチベーションは常に持っていたに違いない。

 そのために工夫を凝らした結果が、今のプレイスタイルなのだとしたら。

 そこには絶対に、『志波姫唯華のバドミントン』につながる何か、小さな欠片一つでもあるはずだ。

 望は再び、ディスプレイをじっと見つめる。

 

 

 

 第一セットを首尾よく手に入れ、久御山はベンチに戻る。

 ドリンクとタオルを旭から受け取り、帯で結んだ長い後ろ髪を漉きながら、彼女はベンチに腰を下ろした。

 その姿を観客席で見つめる狼森と豊橋も、満足げな表情をしている。

 寝食を共にし、同じチームで戦うのはこれが初めてだが、お互いになんとなくシンパシーを感じている同士。

 久御山はふと二人を見上げ、手を振り交わした。

「──久御山、体調は万全か?」

「まあ……」

 狼森のように枕が変わると眠れない、ということもなさそうだ。

「第二セット、フォンセカはムキになって取り返しに来るかもしれんが……」

「いや、第三セットまで行ったらめんどくさいし、──次で潰すわ」

「……そうか」

 言葉は穏やかではないが、その顔はいつものように涼し気だ。

 第一セットを見れば、仮にフォンセカが躍起になって第二セットを奪おうとしたところで、そうやすやすと久御山が許すはずもないだろう。

 倉石はうんと頷いて、旭にウォームアップをしてくるようにと告げる。



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23rd game What I Go To School For

「お、旭~」

「……泪、ベンチ行って。誰も居ないよもう」

「へいへい」

 旭にはずいぶんと素直に従い、益子は胡坐を解いて腰を上げた。

 石澤と荒垣も続く。

 志波姫はまだ、羽咲の話し相手から逃げられないようだ。

 ウォームアップと言っても、観客席下の通路をランニングして、あとは軽くストレッチをすればおおよそ準備は完了になる。

 それほど時間はかからないだろう。

 ロシア対中国戦が行われている反対側のコートでは、同じサイドを使っているらしいロシアのプレイヤーが、通路の壁にもたれて靴紐を結び直していた。

 ロシア語どころか英語でさえあまり得意ではない旭は、できるだけ存在感を出さないように、軽いジョグからいつものメニューを始める。

 開けっ放しの扉からは、アップゾーンの向こうに、ベンチに座るロシアの監督や選手たちの背中が見える。

(……昨日の選手、大丈夫だったのかな……)

 ナターリア=シャンキチ──国際大会に出てきて、試合途中で棄権せざるを得なくなった彼女の事は、同じ競技者として心配はしている。

 足元に目を落としているロシア選手の背中の文字は、おそらくシャンキチとは綴っていない。

 歓声が近くで、また遠くで起こっている。

 予選突破をかけて戦うこちら側の試合は、随分と白熱しているようだ。

 それに対して、旭たち日本代表は既に予選突破を決めていて、ポルトガルにその可能性は既にない。

 二国間の実力差からしても勝敗は見えているし、また同じヨーロッパとは言え大西洋沿岸のかの国からは、そう多くのファンは訪れないのだろう。

 中国とロシアなら、まあ十中八九中国が勝つのだろうが、いずれにしても決勝トーナメントの山の向こうにエントリーされることになる。

 日本代表の決勝一回戦の相手は、早々と首位突破を決めたタイを追って、イギリスかベトナムに可能性があり、それも今日別会場の試合で決まると、倉石監督はミーティングで言っていた。

 どちらの国が強いかは、旭にはわからない。

 バドミントンの競技熱が世界で一番高いのは、日本を含む東南アジア諸国だと言うが、ベトナムに例えばコニー・クリステンセンのような抜きん出たプレイヤーがいるとは聞かないし、旭の知識の中では、スポーツにおけるイギリスに、バドミントンのイメージはなかった。

 数往復したところでジョグを切り上げ、今度は軽いダッシュやクロスステップをこなし、少し汗がにじんできたあたりでようやく、旭は日本のアップゾーンに戻る。

 

 

(ん──)

 イリス=フォンセカの放ったショートサービスに、久御山は機敏に反応するが、すぐにブレーキを掛けた。

 シャトルはサービスラインのわずかに手前に落ちる。

 16-8。

(……痛いなぁ今の、な)

 試合を通じて初めて選択したショートサービスだが、それをエラーしてしまう。

 フォンセカもショックが大きいようで、あと五ポイントを久御山が奪い取るのにさほどの抵抗はなかった。

 次第に冷えていく試合の熱を感じ取りつつ、彼女は最後のポイントを簡単にその手に収める。

「──よし、よくやった久御山」

「ほいほい」

 既に予選突破は決まっているが、それでもこの三回戦を全勝して決勝トーナメントに臨むことができれば、チームの雰囲気もまた高まる。

 しかしそれよりも、倉石の胸の内ではもちろん勝つことは読めてはいたが、それでも志波姫にこの試合のオーダーを託した中で、どこかに『ケチ』が付くようなことがあれば、他のメンバーはともかく彼女自身がそれを気に病んでしまうかもしれないという不安があった。

「お、綾乃ちゃん。頼んだで」

「え? うん」

 さっきのフォンセカがポルトガルのエースだということは当然羽咲も知っている。

 だから次に出て来るのはそれより下──どれくらいの実力かは知らないが、羽咲が後れを取るほどのプレイヤーだとは思えない。

 それは見守っている神藤有千夏も同じだ。

「綾乃──しっかり勝つんだよ。甘いところを見せないで、ね」

「わかってるよ、お母さん」

 この大会では初めてのシングルスだ。

 うれしさを感じているのか、その小さな身体を弾ませ、羽咲はコートへと歩く。

 待ち受けるのはポルトガルのシングルス2、アレクサンドラ=オルティス。

「神藤コーチ、羽咲には……」

「ああ、私がマネージメントするよ」

 そう言うと神藤コーチは倉石からファイルを受け取り、松川がまとめた資料をめくる。

「……っても、なんにもないね、情報」

 とりあえず目立った戦績はない。

 肉付きが良く、やや色の濃い褐色の肢体は強靭なバネを予感させ、その体格からも繰り出す強打はある程度のものが見てとれるが、ウォーミングアップでさえミスが多い。

 全体的に球がアウト気味で、試合中なら羽咲は全て見送るところだろう。

 

 

 

「お、久御山。おつかれ」

 微妙に距離の近い志波姫と旭が、アップゾーンに戻ってきた彼女に声を掛ける。

「随分ヒマそうやな……はよアップしたほうがええで、旭」

「もうしたよ」

 汗をかいているのはいちゃついていたからではなかったのかと、久御山は認識を改めた。

 ふだんの志波姫はできるだけベンチにいるようにしているが、今日は少し特別な感情があるのだろう。

 なるたけ遠くで、みんなを見守るようにしている。

「──志波姫、今日は楽しかったか?」

「え?」

 驚いた顔を見せる彼女の隣に、久御山はすとん、と腰を落ち着け、足が冷えないようにと、大きなタオルをひざ掛け代わりにした。

 頷く志波姫。

「……ありがとうね」

「ええねん」

 やがて羽咲の試合が始まり、志波姫と久御山、そして旭が見守る。

「まあ勝つやろ。一瞬で終わるわ、たぶん」

 久御山自身が、ポルトガルのエースだと言われたイリス=フォンセカを十本そこそこで軽く退けたのだ。

 仲良しの豊橋に限らず、志波姫や、あの益子泪までもが敗れた羽咲綾乃が、それ以下の選手に手こずることなど考えられない。

「そうだねぇ……綾乃ちゃんには悪いことしたかな」

「いや旭やろ」

 水を向けられた旭は、怪訝な表情で首を傾げた。

「そもそもシングルス出来るん? 旭は」

「まあ、泪と会う前はシングルスメインだったし」

 何年前やねん、と久御山は独りツッコミを入れる。

「あ、でも──『次』は泪がシングルスだから」

「次?」

 久御山が問う。

 旭は手を振り、彼女が意味するところの『次』とは、どちらが勝ち上がってくるにしてもおそらくは負けることのないであろう決勝トーナメント一回戦ではなく、その次の二回戦──すなわちデンマーク戦のことだと訂正した。

 もちろん、そのデンマークと一回戦を戦うアメリカにも全く勝ち目がないわけではない──通常の年なら。

 今年は『デンマーク三強』と呼ばれる三人がいて、もうほとんど優勝は決まったとまで言われているらしい。

 もっとも旭がそう決めたわけではないし、それは昨晩の志波姫と倉石監督の話し合いの中で出て来た彼の思惑だというだけのことだが。

「まあ……今のチームでコニーに勝てる選手を考えたら、やっぱ泪かなって」

「ほーん」

 羽咲ではないのかと久御山は考えたが、確かに彼女よりも益子の方が、『一度も対戦していない』という点で大きなアドバンテージを持っている。

 プロとして活躍している選手がそう何度も、言ってしまえばアマチュアの選手に同じやられ方をするとは思えないし、そう言う意味では益子をクリステンセンにぶつけられれば、勝てる公算も出て来るのだろう。

「久御山はどうするの?」

「ん……別に、なんでもええけどな。出やんでもええし」

「いや、そりゃ無理でしょ。絶対必要だよ」

 志波姫の言葉に旭も頷いた。

「そやけど、シングルスはアンタと益子と、あと一人誰や? ウチやないやろ」

「綾乃ちゃんかな。一番いいのは、スピードタイプのミーケ=シュヴァリエにぶつけて、私がラファエラ=デュポールとやる……そうすれば悪くても二つは取れると思うよ」

 これはあくまで、自分が考えているだけだと志波姫は補足する。

 とはいえ彼女の組むオーダーで今日は問題なく全勝できそうだし、倉石監督もそういう『機会』として彼女にその権利を与えはしたが、よほど無茶ならレコメンドを入れたはずだ。

「それやったらウチ、望ちゃんと組むわ」

「石澤と?」

「荒垣は一回戦出たらまた一日休みやろ? そしたらアンリと狼森組ませて、どっちかで一勝や。まあ旭でもええけど……」

 旭は、さすがに慣れないペアでデンマークの代表選手に勝てる気はしないと苦笑した。

 志波姫の方は、久御山の描いたオーダーに少し驚いたような顔を見せる。

「倉石監督と同じだね」

「ホンマか……」

 久御山はともかく、京都で有望なジュニア世代はみんな大阪の強豪に流れていってしまう。

 大阪出身で順当に大阪の強豪校に進学できるのは、それこそ『トップ集団』だけだから、そのやや劣る選手たちが、たとえば地方に行ったり、親元を離れるのが嫌ならば、多少長い通学時間を承知で久御山のいる京都に来たりする。

 宇治天神台も決して、その年代で京都のベストメンバーがこぞって通うような名門ではなかった。

 指導者はどちらかと言えば放任主義で、なんなら団体戦のオーダーも主将である久御山の意見がそのまま通るようなことも多く、また彼女自身周囲をよく観察するタイプでもあった。

 だからこそ、倉石監督と同じようなイメージでオーダーを組めるのだろう。

 益子の事ばかり見ていて、周囲も、自分自身も疎かになってしまっていたのかもしれないと、旭は頭をかいた。

「──バタバタやんけ、向こう……」

 久御山が呆れたように、ディスプレイの中の試合を見上げる。

 試合前のウォーミングアップと同様に、羽咲と対戦しているオルティスはエラーが多く、今しがたロングサービスをアウトにしたところだ。

「まあ、あんなもんじゃない? 綾乃ちゃんだと……」

 二桁に近い連続ポイントの合間にようやく手にしたサービス権をあっさりと譲り渡し、第一セットは大差で終了する。

 21-5。

 

 

 

 

 普段あまりやっていないダブルスをこなしたせいか、それともここにきて海外での戦いの疲れが出てきているのか。

 望はつい欠伸をしそうになり、あわてて口を手で覆う。

 もっとも、それは荒垣も、倉石でさえ同じようだ。

 こういう時一番に寝そうな益子が、意外と食い入るように試合を──というよりも羽咲を見つめているのが、望にはなんだか面白く感じられる。

「羽咲、一本!」

 緩んだ空気を引き締めるべく、望は今しがた、第二セットで初めて失点したばかりの羽咲の背中に声を掛ける。

 返事はなかったが、軽く頷いたのは見えた。

 スコアは既にインターバルに近づいていて、全く焦る必要もないし、その兆候もなかったが、まだ彼女には、『逗子総合のキャプテン』としての責任感は染み付いているらしい。

 同じ左利きだから、というだけではないぐらい真剣な表情で試合を見ている益子は、時折首を傾げるようなしぐさをして、望の興味を引く。

「……益子、どうしたの?」

「ん? いや──上手いなぁと思ってさ」

 呑気な口調だが、かの益子泪がそう言うならば、羽咲は確かに『上手い』のだろう。

 それも、群を抜いて素晴らしく。

「どのへんが?」

 安直な質問だったか、と望は恥じる。

 益子はまた首を傾げて、彼女に何かを伝えようと思案しているのか、開いた膝の間で手を組んだ。

「どのへん……難しいな。また今日夜教えるよ、移動の時に」

「うん──」

 そういえば、今日は試合が終わってそのまま寝るわけにはいかないのだった。

 予選が終わると、各グループの決勝進出チームは全て、デンマークオープンの会場でもあるオーデンセに集結することになっている。

 チャーターバスで二時間ほどということだが、試合終了後にホテルに戻り、荷物をまとめてからの移動となると、到着した時には日付が変わっているだろう。

 翌朝にはまた『検査』があるらしく、その次の日にはもう、決勝一回戦が始まる。

 予選からオーデンセの会場を使っているグループAのオランダやアメリカは少し有利なのかもしれないが、バドミントンでそこまで存在感を発揮しているわけではない両国に加えて、あまり熱のないオーストラリアや台湾との予選リーグでは、集客に不安があったのかもしれない。

(羽咲は完全にタイプが違うし、そもそも左利きだからなぁ……)

 ただ単純に、彼女の学年が二つ下であったことに安堵している自分がいる。

 荒垣だけではなく、こんな怪物まで神奈川の同期に居たら、望の絶望はもっとずっと早い時期に訪れていたに違いない。

 高校で伸び悩んだとはいえ、中学時代はそれなりに強かったはずの橋詰を、あっさりと十本そこそこで退けたほどの『一年生』なのだ。

 相手のミスが多いのもあって、なおさらプレイの質は高く思えるし、時折挟んでいくクロスファイアもキレが鋭く、あの志波姫でさえ初見は空振ったのも頷ける。

「私があのぐらいの身長だったら、もっと苦労しただろうな……」

「ん?」

 実際のところ、望は中学時代から有名選手だったわけではない。

 荒垣の方がよほど、ジュニア世代から頭角を現していた──というよりそもそも、自分は『頭角を現す』ほどの戦績はまだ収めていないと、望自身は捉えている。

 宇都宮学院と逗子総合の間には定期的な練習試合などの交流もなく、彼女が『益子泪』を知ったのは、中学時代に友達と回し読みしていたバドミントン雑誌のページが初めてだった。

 益子と同じ空間を共有したのはつい最近の事で、それまでの『三強』ないしは『一強』だった彼女のことを、望は良く知らない。

「益子は、一年からインターハイに──」

「出たけど……同じ高校生でも、アイツとか豊橋みたいに背が小さいと、かなり不利だから」

 それは、望にもわかる。

『三強』の中では一番小さい志波姫でも、羽咲のようには小柄ではない。

 益子は左利きに加えて、その高身長が選手としての大きな特長と言えるし、津幡にしても、高校生最強と自負するパワーの根源はその体躯にある。

「でも、益子は中学の頃から背は高かったんでしょ?」

「まあ……」

 望はもっと彼女の話を聞きたいと思ったが、第二セットがインターバルに入り、羽咲が戻って来たことで、その会話は途切れた。

「羽咲、お疲れ」

 荒垣が立ち上がり、傍に置いてあったボトルとタオルを手に、羽咲を迎え入れる。

「ありがと、なぎさちゃん」

 大きく開いた点差にもかかわらず、表情はあまり冴えない。

 単純に、この試合が面白くないのだろう。

 ポルトガルのオルティスも、必死に彼女の打球に食らい付いてはいるのだが、そのリターンはしばしば面食らうほど甘く、羽咲の『熱』を高めるほどのクオリティはなかった。

 それでも雑になることはなく、見守る神藤コーチもほのかに満足げだ。

「最後まで緩まないよ、綾乃」

「わかってる……」

 立花の方は、特に言うこともないと見えて、最後に軽く羽咲と会話をして、彼女を送り出す。

 

 

 

「──もう行くよ、唯華」

「うん」

 試合の終わりが近いと察して、旭と志波姫はアップゾーンを出て来る。

 後に続いて久御山も現れ、ベンチは久しぶりに人口密度が高まった。

「どう? 綾乃ちゃん」

「まぁ……勝つだろ、普通に」

 私に勝ったぐらいだから、こんな相手に手こずることもないはずだと、益子は浮かした腰を下ろす。

(そう言えば……)

 二人とも、この羽咲綾乃に敗れた選手だったなと、望は夏を思い出した。

 それも、壮絶な──試合が終わった時には、二人とも泣いていて。

 自分が『終わった』時は、どうだったかな──と彼女は速いペースで試合を閉じていく羽咲の背中を見つつ、独り考える。

 志波姫唯華に敗れた試合の、その直後は涙は出なかった。

 彼女の、どこか美しさすら感じさせるような細やかなバドミントンに触れて、これから先もこの競技を続けていくという決意を新たにし、むしろ明るいものすら感じていた。

 どちらかと言えばその後、倉石のもとに集まった団体戦メンバーがみな涙しているのを見て、もらい泣きしてしまったというのが本当のところだろう。

「なあ、旭」

 首筋の汗を手の甲で拭き、タオルに撫で付けている彼女に、益子は呟く。

「……なに」

「──勝てよ、今日」

 照れ隠しなのか、益子はずっとコートを見つめたまま、旭の返事を待った。

「うん……」

 旭にとっても、今日は『特別』な日だ。

 中学時代はシングルスプレイヤーとしてそれなりの実力を発揮していたが、宇都宮学院に進学してからは益子と組むダブルスに専念した。

 そのころの自分は、どんな選手だっただろう──旭は擦れた記憶を掘り起こす。

 昔から、そこそこの身長はあった。

 もっとも、パートナーのように『天賦の才』とまではいかなかったし、旭にはそれを活かしきるだけの才能には恵まれなかった。

 そのおかげで早くから、体格に頼らない戦術眼を養ってきた──と言えば聞こえはいいが、特段優れた指導者の下で研鑽を積んだわけでもない。

 言ってしまえば器用貧乏。

 今日の相手には勝てるとしても、果たしてこれから先バドミントンを続けていったとして、『表彰台』になど上がれるものだろうか、と旭は最近ふと考えることがある。

 負けたって全力を出せばバドミントンは楽しいし、何も頂点に立つことだけが競技を続ける意味でもないのだが、自分はともかく『益子泪』は──特に後者に関しては──そうではない。

 マッチポイントの表示を見て、荒垣がベンチから声を出す。

「羽咲! 最後決めろよ!」

 頷いて後ろ髪を揺らし、羽咲はロングサービスを放った。

 益子との試合で見せたような、やたらに長い滞空時間。

 面食らったアレクサンドラ=オルティスはしかし、バックステップからお得意の強打を羽咲に浴びせる。

 一本目はこともなげに返し、彼女はもっと打ってみろと言わんばかりに二本目を甘いロブで返球。

 アジリティとコントロールに劣るオルティスのこと、それでなくてもバックスイングの大きいスマッシュドライブだ。

 羽咲は難なく追い付き、前へのヘアピンで相手を釣り出す。

「……完全にラインに入れてるね」

 その単語に、望はハッとした。

 言葉の主は志波姫だ。

 今の、ラインって──そう聞こうとする前に、ささやかな歓声がスタンドに広がった。

 第二セットも大差で勝ち切った羽咲は、何でもないようなしぐさでオルティスと握手を交わし、主審からスコアシートを受け取ってサインをしている。

 望が問い掛けをする間もなく、志波姫と益子が旭の世話をして回った。

 意気消沈のポルトガルベンチも、早く『最後の試合』を終わらせたいという空気が滲んでいる。

 慌ただしくコートに入ったシングルス3・ベアトリス=メイ=ドゥアルテは、日本人が抱くヨーロッパ人のイメージとは異なり、旭よりも背が小さかった。

 神藤コーチとともにアップゾーンに下がっていく羽咲を見送り、倉石は旭に声を掛ける。

「最後になってしまったが、まあ……楽にやればいい。エキシビションとは言わないが、色々試しながらやっていけ」

「はい」

 低いが歯切れのよい声で返事をして、旭はコートに向かって歩き出した。

 白線を跨いで、足元の色はインコートのブルーに変わる。

 実際のところ旭の中には、不安もあった。

 監督はああ言っていたけれど、それでも『勝ちたい』という気持ちはラケットを握っていれば常にあるし、まあ、勝てる気もする。

(でも……広いなぁ)

 数年ぶりに一人で立つ『試合』のコートは、違和感を覚えるほど広大だった。

 ラインをよく見ながらウォームアップをこなす。

 不思議なもので、相手が二人いればどこに打てばいいかはすぐ判断できるのに、一人になると相手のコートも広すぎて、どこに打っていいかわからなくなる。

 そういう不安だ。

『益子泪』と自分の将来を考えるほどの余裕はないし、なるようになるとさえ思っている。

 泪がこの手から離れていくのなら、それはきっと運命だろう、とも。

 

 

 

 4-3。

 シングルスの違和感にアジャストしていく旭が、サービスの構えに入ろうとしたところで、会場の反対側で大きな歓声が上がった。

 勝者のコールアップを聞いて倉石は、中国が勝ったのだと悟る。

(……どちらにせよ、トーナメントの山の反対側──オランダには勝てまい)

 日本は既に一位通過を決めている。

 対戦相手は別会場のイギリス対ベトナムの結果を待たなければならないが、いずれも日本よりは格下。

 正念場はその後──デンマーク戦だ。

 もちろん彼女たちとて、決勝一回戦を戦わねばならないが、自国開催というアドバンテージを除いても、この世代の充実ぶりは日本に比肩する。

 歓声が収まるのを待って、主審のプレイがかかると、旭は改めてスタンスを取り、サービスを放った。

(まぁ……それなりに上手くやれている。今日のような相手なら、別段苦労することも無いだろうが──)

 失点の過半数はサイドアウトだ。

 久方ぶりのシングルスだし、これはある程度仕方がない。

『待ち疲れ』もゼロではないだろう。

 細かくコースを狙っていっては、どうしてもミスが先行して無駄に手こずってしまうと思ったのか、旭は割り切って強打を主体に攻めていく戦法を取っている。

 倉石の手元の資料によれば、相手のベアトリス=メイ=ドゥアルテはまだ十五歳だという。

 スカウトの時に見た橋詰や荒垣、あるいは彼女たちよりも『出来がよさそう』に見えた望にも、現時点での能力は引けを取らないが、彼女の年齢からすれば三つ上の旭などは百戦錬磨の強者。

 それは半分、益子のおかげでもある。

 小難しい策を使わず、旭は単純なパワー差で押し込んでいく。

「昔の路みたい」

 志波姫が懐かしそうに笑った。

 ずば抜けて背が高いわけではないが、彼女も、また旭もその体躯を上手く使いきることに長けている。

 プレイの『効率』がすこぶる良いのだ。

 ダブルスとシングルスのどちらがより疲れるかは、人によって感じ方の違いはあるだろうが、平たく言えば普段自分より『上』のプレイヤーと一緒に組んでいる旭は、自分のスタミナを出来るだけ消耗しないようにと、早め早めの仕掛けでポイントを奪っていく。

 相手がもう少し上手ければ、そう簡単には成立しない戦術だが、ひとまず今日のところはそれでも勝ち切れそうだ。

 見た目には、快調に相手を翻弄しているように見える。

 その裏にあるのはしかし、旭の『焦り』だと、倉石も、志波姫も益子も気づいていた。

 

 

 

 十五歳で代表に選ばれたドゥアルテの、ポテンシャルは高い。

 中盤にかけてエンジンが温まってきたのか、徐々に盛り返す彼女をなんとか出し抜いて、旭はインターバルに逃げ込む。

(『圧』が強くなってきたな……)

 あれこれ指示を細かく出したところで、ここ数年シングルスの経験値がない旭には、むしろ逆効果かも知れない。

 メンタルは全く問題ないから、ひとまずじっくり見ていよう──倉石はそう考えて、言葉を選びながら旭に語り掛ける。

「相手も『代表』だ。今日のお前が、不慣れな戦いをしているのは分かっている」

「ええ、まぁ」

 旭は──神藤コーチの言葉を借りれば、『センス』がない。

 棘がある言い方にも聞こえるが、その本質を考えれば、なるほどと倉石も頷けるものだった。

 よほどの才能が思いがけず入り込んでこない限り、倉石は『三年の夏』にその選手がどういった形で試合に出ているのかを想像しながら、スカウトをしている。

 旭の中学時代は実際その目で見たわけではないし、『栃木にちょっといい選手がいる』と言う話を、横浜翔栄の木叢から聞いた程度。

 荒垣と、彼女を見に行った時にたまたま見つけた望、その二人を天秤にかけている時間が長かったし、益子に関しては才能だけ見れば欲しいに違いなかったが、彼女が抱える事情は確証が持てるものではないにしろ単純に『家が遠い』という点でリストからは除かれる。

 橋詰もその当時は東京でいっぱしの選手ではあったので、都内の強豪からも誘いがある中、まさか横浜翔栄への越境入学を選択したことは、倉石も想定外だった。

 環境の整わない公立高に行った荒垣はともかく、橋詰英美という大きな才能を得た翔栄が、また毎年決勝戦の相手になるだろう、と倉石は考えていた。

 そんな中でも逗子総合は、望の代で神奈川の団体戦代表を奪い返し、インターハイに出場する。

『センス』とは、倉石が考えるに、その言葉通り『感覚』だ。

 もっと言えば、競技における『感覚器官』──望はそれを持っていた。

 そういう意味で『センス』があるのは羽咲がダントツだろうが、益子も負けないぐらいに鋭敏であるし、久御山や豊橋など、持たざる者がある一定の地位を築き上げたのも、その感覚器官を十分に使いこなしているという要素が大きい。

 次にどんな『仕掛け』をしてくるか? という嗅覚。

 相手の挙動から、フェイントを『出したがっている』ことを見切る視覚。

 いくつもある。

 羽咲はそれこそ『第六感』的なセンスで相手の行動を察知し、先回りすることでそのスピードを生み出しているし、久御山も生来生まれ持った強靭なリストからくる『懐の深さ』を、相手が打ちたいコースを見定めることで補強して、荒垣の強打さえいなしてみせた。

 そういう意味では、荒垣にも確かにあの当時、『センス』はなかった。

 良くも悪くも上背頼りの『固い』プレイヤーで、その才能はもちろん間違いなく逗子総合に欲しかったが、倉石が『重量級』と呼ぶところの豊満な体型はともかく、荒垣はそれ以外にも、基本的に『見てから動く』あるいは『考えて動く』タイプだから常に後手を踏む。

 多少の立ち遅れはその強打でなかったことにしてしまえるとしても、それではなおさら故障のリスクは高い。

 小技を一から教え込み、そこに自分のエッセンスを加えて、頭を使えるプレイヤーに育て上げればもっとずっと、それこそ『三強』に割って入るようなポテンシャルを秘めてはいたが、壊れてしまえばすべてが台無しになってしまう。

 故障した選手は当然退部することになるが、そうなれば特待ではなく一般生に戻り、学費も満額納めることになる。

 家は貧乏ではない、むしろ父親がパイロットと言うこともあってどちらかと言えば裕福だというのはスカウトの基礎情報として押さえてはいたが、それよりも、あまり言うことを聞かなさそうな彼女が、倉石の見ていないところで勝手にオーバーワークに陥ってケガをし、途中でバドミントンを辞めてしまうという事態も十分考えられた。

『常勝』の逗子総合では、それは許されない事であるし、倉石も木叢と同じく、『獲るだけ獲ってあとは知らんぷり』など絶対に許されないという矜持を持っていたから、荒垣の才能と、そのリスクと『石澤望』と言うプレイヤーを天秤にかけた時、結局は後者に傾いたというだけのことだ。

 別に何か意趣あって、一旦は決めた彼女の特待を取り消したわけではない。

 彼の見込み通り、また危惧した通り荒垣は故障を抱えたまま最後の夏に臨み、クリステンセンとの試合では棄権と言う形でその現役生活を終えた。

 今となっては、まあ、いつか遠い未来で、立花と望と、四人で一緒に酒でも飲むことがあれば話をしようと思う程度のものだ。

 もっともその頃には、教え子はもっと別の、面白い話をたくさん持ってきてくれるだろう、と倉石は期待している。

 

 

 

 存外熱を帯びているコート上の戦いに、益子も前のめりで注目する。

 長い事連れ添ったパートナーが、自分も負けた羽咲を連想させる小柄な年下の少女──ドゥアルテは右利きだが、それがまたなおさら、自身が一瞬本気で切り結んだ『あの時』の羽咲に被る──に押されつつある様は、なんとも歯痒いものだ。

 16-16と深いタイスコアで、旭は大きく肩を上下させて深呼吸をした。

『猛獣使い』としてのダブルスの経験値はこの数年ずいぶんと溜め込んできたが、シングルスはご無沙汰だし、何より試合のテンポが旭に染み付いたリズムに合わない。

 仕方なく、バドミントンを初めてしばらくの頃から順番に引き出しを開けて、それでもドゥアルテを引き離せずに終盤まで来てしまった。

 ここからは、ワンミスが命取りになる。

 そして今日の旭は、ふだんよりずっとミスが多かった。

(たった五十センチなのに……)

 いつものダブルスでは、前後はともかく、左右をそれほど厳しいコースを狙うことは少ない。

 それなのに、今日はやけにそのエリアにシャトルが飛んでいく。

 もちろんシングルスではアウトだ。

 身長差に頼って相手を後ろに押し込もうとしても、初手のロングサービスが甘くなってしまうものだから、『手番』を安定して保持できない。

「旭! 自信もってけ!」

 パートナーからの声に小さく頷き、旭はドゥアルテのショートサービスを掬い上げる。

 向こうはずっとシングルスプレイヤーでやって来ているし、十五歳で代表入りするぐらいの才能なら、これからもそのつもりなのだろう。

 日本でこそ旭は背の高い方に入るが、ヨーロッパではせいぜい普通だ。

 そんな選手に対するセオリーなど、ドゥアルテはとうに会得している。

 旭は旭で、歩幅とウイングスパンの短い相手なら、走らせ続ければいいと理解してはいるが、肝心要のサイドを突くショットの精度が悪く、そうした『原因』がはっきり見えるだけになおさら、自信を持つことは難しくなってしまっていた。

 神藤コーチは、中国戦の前夜に益子から受けた相談を思い出す。

(旭はセンスがない……いや、センスと言う言葉を使うと、誤解しやすいかな)

 益子にはその意味合いを懇切丁寧に諭したが、例えばこのセットを落とすにしろ拾うにしろ、いやむしろ、もっと遠い未来においても、旭に面と向かって『アンタはセンスがないよ』などと言うつもりはなかった。

 曖昧なもの、根拠のないものに頼っては、一瞬のオーバーレブを引き出すことが出来ない。

 旭海莉という高校三年生の少女が、コートの外ではどうだか知らないが、少なくとも試合中は、感情的になることはない選手だ。

 それはそれで美徳だし、『上』で戦う上での必要条件でもある。

(けれど、今欲しいのは『振り切り』──志波姫が綾乃との試合で見せたジャンピングスマッシュのような大技……)

 体格を考えれば、志波姫にできて、旭にできないわけはない。

 しかし彼女はあくまでも、丁寧なラリーからどうにかポイントをもぎ取り、マッチポイントに漕ぎ付ける。

 だが、随所に光るドゥアルテのクレバーさを考えれば、これはもしや、体力を削る目的を兼ねた『様子見』であるかもしれない。

 シングルスが不得手なのは、サイドアウトが多いことや、長いサービスに伸びが足りないことを見ればすぐに判断できる。

 それが遠く離れた極東の高校生であっても、だ。

 一度のデュースを挟み、またしても旭がマッチポイントを得る。

 彼女とて、あの益子泪の隣に立ち続けたプレイヤーだ。

 単純な能力でいけば、流石に三つも下の選手に後れを取ることはない。

 自分だってそうだった。

 大学時代から全日本総合には出ていても、社会人チームの一線級が出て来るトーナメントの中盤以降では全く歯が立たなかった。

(でも、ただ単に勝つだけじゃ、旭はこの試合で何も得られない……)

 勝ち負けではない何かを掴み取りたいから、シングルスで出ることを承諾したのだ。

 そうでなければ、別のパートナーと組む益子をベンチで見ることなどせず、今スタンドにいる狼森か豊橋にでも、出番を譲っていただろう。

 冷静に立ち位置と重心を見切って放たれたヘアピンに飛び込んだドゥアルテは、その頭上高くに打ち返されたシャトルを見送る。

 22-20。

 

 

 

「旭」

 ベンチ前に戻ってきて、タオルで汗を拭いている旭に、益子が声を掛けた。

「ん?」

 あまり見ることのない表情だ。

 不満そうな顔はよく見るが、こういった、何かを心配しているような顔は──。

 だから旭も、それにどうやって返すのが正解なのか、判断をしかねている。

 無理もない。

 少なくとも益子にとっては、コートに独りで立ち、戦う旭を出迎えることなど今までほとんどなかったのだから。

 つなぐ言葉を見つけられないでいる二人を慮って、志波姫が旭の肩を揉む。

「ちょ、ちょっと……」

「んふふ──力入ってるよ、旭」

 首を傾げて逃げつつ、旭は少しだけ表情を崩す。

 色づいた空気の隙間を縫いつつ、倉石は必要最低限の指示だけを旭に伝えて、すごすごと引き下がった。

「行ってくるよ、泪、唯華」

「……おう」

 

 

 

(さて──)

 空気の入れ替えをしようと、倉石は大きく手を叩く。

 インターバルの短い時間の中では、それほど具体的な指示を与えることはできなかったが、今日のところはまあそれでもいいだろう。

(第一セットの結果を見れば薄氷も薄氷……インターハイの上位に食い込むようなプレイヤーが、普通なら『高校一年生』に後れを取るようなことはない、が──)

 現時点ではシングルスプレイヤーではないということを除いても、今日の旭の調子は悪かった。

 待ち疲れもあるだろうし、精神的にも平静を装ってはいるが、いざコートに立てば否応なく『一人きり』という現実はのしかかってくる。

 単純な実力差で勝つことが目的ではない。

 シングルスとダブルスの兼業は、高校生レベルでこそ一般的だが、『上』に行けば行くほど困難になる。

 例えば埼玉栄枝の岩崎・田中ペアやフレゼリシア女子の白石・美里ペアは同世代ということもあって、直接A代表枠を争うライバルになるだろうし、芹ヶ谷と笹下にしても二年後は、どれほどの成長を遂げているかわからない。

 そういう強敵と、代表の枠を争っていくならば、ダブルスとしてのコンビネーションはもちろん、一人一人の能力を高めていかなければならない。

 そういう意味で、今日は旭海莉に対する『基礎教養試験』の意味合いがある──倉石はそう考えていた。

(旭が自分でこの状況を打開することができるかどうか……それはダブルスでも有用な素質だ)

『益子泪』が抜きん出て強かったのは、倉石たち指導者から見ればもう随分昔の話だ。

 日本中で、無数の才能がそれこそ泡のように、浮かんでは消えていった。

 ようやく志波姫がその影を踏めるようになったあと、今度は益子泪を打ち破った羽咲綾乃という超新星が現れる。

 だがそれでも、たった一度の敗戦で、すぐさま世代交代とはいかないのが競技の世界だ。

 素人に毛が生えた程度のお粗末な三文記事ならともかく、松川や倉石達はまだ──と言う言葉を使うのも不適切なぐらいに──益子の実力を疑ってはいない。

 なにしろ、彼女たちの年齢差はたった二つだ。

 組み合わせ次第だが、来年の全日本選手権では同じカードが見られることだろう。

 もちろん例えば豊橋にも、益子泪を倒すチャンスはまだまだ多くあるし、津幡が彼女から一ゲームを奪うのも、そう遠くない未来の出来事かもしれない。

 世代の中心は益子泪に違いないが、一番近いところで『伝説』の第一章を共に過ごした旭海莉が、また次のページも共に名前を記していくことが出来るかどうかは、少なからず今日の試合にかかっている。

 再開した試合は、倉石の予想通り、ドゥアルテが序盤を走る展開で動き出した。

 5-2から一本取返し、旭はサービスの構えに入る前に、羽根を整える指の動きを止める。

(ん──?)

 調子よくラリーポイントで取り合っていては埒が明かないと判断したのか。

 あるいは単純に、不揃いな羽根が気になったのか。

 ともかく、旭はドゥアルテを焦らす様にゆっくりとサービスジャッジの方へ歩いて行き、シャトルを取り変えて戻る。

 高校の試合ではあまりのんびりしていると審判に急かされることもあるが、これはユースとは言え国際大会だ。

(合わせようとしている……世界大会の空気に)

 そこに気付いたか、と倉石はノートで隠した口角を吊り上げた。

 ふと横を見ると、益子も納得顔で頷いている。

 ジュニアの国際大会でも勝ち進んだ彼女ならば、そうした所作は身に着けているに違いないが、少なくとも倉石の知る限り、旭と益子がともに国際大会に出たことはなかったはずだ。

 慣れない異国の会場と審判、試合前のセレモニーも独特で、場慣れしている志波姫や益子はともかく、豊橋や狼森には、ここまでの予選では少し気後れしたような瞬間も見られた。

 久御山や荒垣はいい意味でマイペースだし、望も今はある種の確変状態に入っている。

 もっとも彼女の場合は、まだ『怖いもの知らず』の面が強いだろう。

 冷静沈着で、大局観に優れる旭がとった行動の意味を、倉石はよく咀嚼しようと心がける。

(シャトルを交換するという事には、相手にテンポよくプレイさせない、という意図も往々にしてある……)

 その他にも、乱れた呼吸を整えたりだとか、考えを整理したりと色々な事に使える時間だ。

 今のタイミングでは、一気呵成に巻き返しを図るよりは、じっくりと追い上げていく方がいいと、旭は考えたらしい。

 わざと羽根を打って散らすようなカットスマッシュを幾度か挟み、ドゥアルテの手元に強打を差し込んで旭はポイントを連取する。

 そしてまた、旭はシャトルを交換した。

 もちろん対戦相手の同意が必要だが、折れて抜けた羽根を見れば、ドゥアルテにも拒否する理由はない。

 身長が低いために、旭の守備範囲を突き抜けていくパワーのない彼女にとって、シャトルが妙によじれてコントロールが甘くなることは命取りだからだ。

 三連続ポイントで、旭はスコアをイーブンに戻す。

 序盤を走って第二セットを獲り返すというドゥアルテの目論見は、ひとまずは外れた。

 ダブルスならば、パートナーとの会話の中で勝ち筋を見つけることも出来るが、今は旭が一人で戦っている。

 インターバル以外で何か戦術的な指示を送ることはルール上できないし、倉石もまさかシングルスの経験値がこれほど浅い選手を、この代表戦で見るとは思っていなかったから、どこから手を付けていいかも判断が付きかねていた。

 旭がある程度盤外戦術に長けているのは、中国戦でのわざと羽根を折るカットスマッシュからもわかる。

 だが本来の、ラリーの組み立てと言う面で言えば、ただ『来た球を打っているだけ』に限りなく近い。

 対戦相手も同じ代表選手とはいえ三つも年下で、旭自身望よりも上背があるから単純なドライブの連打が通用しているだけのこと。

(……まぁ、大学に行って二年後ぐらいなら、シングルスでもそれなりの選手にはなっているだろうが──)

 基礎体力や各種のショットの精度は文句をつけるところはないし、宮崎の大会を望と共に優勝したのも、じゅうぶん納得できる。

『益子泪』という才能を一番近くで見ていたおかげだ。

 お手本のレベルがとことん高いものだから、自然に旭が自分に求めるラインも高くなっていく。

 大したことのなさそうな相手に苦戦しているのは、至極単純な理由でしかない。

(コートの大きさ、ラリーのセオリー。ダブルスとシングルスは、全く違う競技とさえ言っていい……)

 もちろん、まだまだ現役生活は長いだろうし、大学から改めてシングルスに専念というのも、旭のポテンシャルを考えれば悪くない未来が見えるところだ。

 しかしそれは、旭と益子の両者ともに、望んではいない。

 アスリートの人生として考えても、旭が大学でシングルスに再転向したならば、高校からずっとシングルスプレイヤーだった選手には当然後れを取る。

 それが一年か、二年か。

 あるいはもっと短いか、長いかは分からないが、いずれにしても、旭にとっては勿体ない時間だ。

 益子にも同じことが言える。

 彼女はそもそも、全日本ジュニア優勝経験者だ。

(シングルスに専念していれば、インターハイだって優勝できただろうが、そうはしなかった……他でもない益子泪自身がそれを望んだからだ──)

 部活動の大会ではすこぶる低空飛行を続けていた彼女が、全日本ジュニアでは人が変わったように猛々しく戦い優勝したのは、彼女なりに旭に『筋を通した』のかもしれない。

 私は、『旭海莉』を言い訳にはしない、と──。

 

 

 

 徐々に息を吹き返した旭は、一セット目よりも開いたアドバンテージを拵えて、インターバルに入る。

 満足げな顔で出迎える益子の肩を軽く叩き、旭はベンチに腰を落ち着けた。

「悪くないぞ。もう少し、色々混ぜていってもいいとは思うが……」

 技術的には、全てのショットを使いこなせてはいる。

 だが、その組み合わせは単純だ。

 どうしたいのかという意図は良く見えるし、それは倉石の好きなプレイスタイルでもあるが、対戦相手がたとえば志波姫のように、もっと狡賢いプレイヤーだったならば、おそらく旭は劣勢に立たされっぱなしだろう。

 しかし、今ここでノートを開いて一から戦術を教えている時間はない。

「いや……難しいですね、意外と。ダブルスの方が『速い』のに──」

 怒ってはいないが仏頂面で、旭は息を吐いた。

 倉石はふと、自分が現役だった頃の、最後の数年間を思い出す。

 実業団を引退する少し前のことだ。

 下からは若い才能がどんどん入ってくるし、自分の身体もあちこち痛みが出ている中で、彼はなんとなく『引き際』の淵に目を向ける機会が多くなっていた。

 現役を終えて、そのまま会社に残って社業に専念するというのも、まぁ規模や知名度はそこそこだが、不況の中でもバドミントン部を維持し続けられるぐらいには堅調な企業だから、悪くはない選択だった。

 けれど、純粋に競技に携わって生きていきたいという気持ちも、確かに持っていて、要するに『心』が燃え尽きる前に、身体が言うことを聞かなくなってきていたのだ。

 選手としては終わりが近い。

 そんな中で倉石は、指導者を志すようになる。

 古い世代のコーチングを受けて来た最後の世代と言っていい彼は、持ち前の細やかさを発揮して、アスリートの心技体に関わるあらゆる知識を吸収していく。

 練習の中では兼任コーチのような役割も担っていたし、その延長から始まって、戦術、練習方法、コンディショニングなどを勉強していった。

 最後の花道にとチームが用意してくれた、ある大会を終えて、ひとまず現役に区切りをつけたその年が明ける頃、彼は会社を退職する。

 そして、『もし実業団からの誘いが無かったら……』と大学時代に取っておいた教職の免許を活かして、逗子総合のコーチとして着任した。

 今では神奈川きっての強豪を率いる名監督として、その名は知れ渡っている──やや煩いところが目立つのも含めての話だが。

 ともあれ、彼がそんなふうに現役最後の数年間を過ごしていたころ、チーム事情で『空き枠』を埋めるために、ダブルスにも出場していたことがあった。

(シングルスでは、ある程度『パターン化』して相手を抑え込むことが可能だ。だがダブルスは常に、シャトルを打たない側の選手は不確定要素になる。カバーリングが甘いか、丁寧か……そうしたものを読み取る『センス』は当然旭にもあるが──)

 ことシングルスにおいては、望でさえそうだったように、自分が打つシャトルの事で手一杯になってしまうプレイヤーも多い。

 志波姫のように、ラリー中に相手ベンチの指導者を流し見て、対戦相手の意図を見切るような芸当は、そうそう出来るものではない。

 そもそもがダブルスプレイヤーの旭にそれを要求するのは、酷と言うものだろう。

「……まあ、今日の試合は『いい経験』になるはずだ。ダブルスでは出来るのに、シングルスでは出来ないこと。それを知れるだけでも、意味がある。だろう?」

「──はい」

 少しだけ眉間の皺を解いて、旭はベンチを後にする。

「……旭」

「ん?」

 その背中に、益子が声を掛ける。

 が、続く言葉はなく、彼女は口をぱくぱくと動かして、小さな声で『頑張れ』と言うだけにとどまった。

 もうずいぶん、見た景色だ。

 頭をかきながら苦笑いを向ける益子に、旭はふんと鼻を鳴らし、笑みを返す。

「……あとでね」

 



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24th game Sunshine

 インターバルが明けて、少しだけ縮まった点差を、旭はすぐに広げ直す。

 試合のサイズ感にアジャストしてきたのか、旭の所作は先程までのようにどこか急いていて強打に固執するようなことはなく、対面のドゥアルテが体勢を崩し、彼女の放つシャトルを追いきれないようなシーンも幾度か見られた。

 チェンジオブペースの上手さ──それは益子とのダブルスで培ったものだろう。

 望はともかく、彼女とともに宮崎の大会に参加していた久御山と豊橋は、試合の頭から最後までではないにせよ、『益子泪』のパートナーだった旭海莉の独りでの戦いに注目していた時間帯もあった。

 初戦の松江愛鹿・馬野山との試合や、望との最終戦の一つ前、雲海の有川との試合でも、それまで二日間で都合五試合をこなしていた疲れと上手く付き合いながら、巧みにゲームのリズムを操っていた姿は、望や久御山たちの記憶にはよく残っていた。

 県予選や地区大会を経て、少なくともイ!)ンターハイに出場しているとなれば、その実力は確かなものがある。

 それでも益子泪は、同じ三強の津幡と共に石川県を勝ち上がってきた大島を、十本も持たせないほど圧倒的に、退けて見せた。

 抜きん出た力を持ちながらも、飽きっぽく、熱しやすく冷めやすく、気分屋で──要するにそういう不安定な気質のパートナーと、ずっと一緒にいたのだ、旭海莉は。

 ただ単に、世代の最強選手の従者としてコートに立っていたわけではない。

 益子泪がインターハイ個人戦で羽咲に敗れた夜に彼女が自称したように、その関係はまさしく『対等』だった──と、益子は旭の背中を見て、今更ながら理解した。

 どこかの時点で、気付いてはいたのだ。

 県内では名門とされる宇都宮学院で、旭海莉は一年生から有望株として期待されてはいたが、それは益子を上回るものでは決してなかった。

 矢板監督の心中では、どうすれば『益子泪』を腐らせずに居させられるかが、最大の懸案事項だった。

 アスリートの成長に不可欠なものはいくつもある。

 たとえば日々のトレーニングや、プレッシャーのかかるゲームにおける、良質の負荷。

 そうしたものをタイムリーに提供できる、優れた指導者も間違いなく必要だ。

 しかし、とりわけこの若い世代のアスリートにとっては、物理的な距離はどうあれ、常に意識し合い高め合うライバルの存在が、最も重要なものになる。 

 益子本人がどう思っていたかはわからないが、少なくとも周囲からは彼女に比肩するプレイヤーと目されていた志波姫は、地元宮城のフレゼリシア女子に進学した。

 それはそれで、順当な進路だろう。

 数年前に彼女たちが経験した出来事を思えば、地元への愛着が日本有数の強豪校の魅力に勝っても、決しておかしくはない。

 ともあれ、埼玉栄枝から志波姫に誘いがあったことは、さほど県外の選手に手を出さない矢板監督の耳にも入っていた。

 二人に次ぐ存在として名前が挙がっていた津幡にも、志波姫と共に栄枝からの勧誘があったらしいが、結局彼女もその誘いを断る──だからと言って、遠く北陸から栃木になど来るはずもなかった。

 結局、県内ではそこそこに名の知れている、せいぜいちょっと人よりバドミントンが出来る程度の、普通の少女たち──その中では一番手だったかもしれないが、旭海莉も当然そこに含まれる──の中に、突如混じり込んだ異物ともいえる存在が、益子泪だったのだ。

 競技を続けていく上でのモチベーションになるようなライバルなど、そこにはいない。

 

 

 

 背中にパートナーの視線を受けながら、旭はコートの中を忙しなく立ち回る。

 ここが正念場と見てペースを上げたドゥアルテのショットはいずれも厳しく、なるほど若くして国の代表に選ばれているだけのことはあると、松川や倉石達を納得させるだけのクオリティを発揮していた。

 しかし、第三セットにもつれ込むという危惧を生じさせるほどではない。

 国旗の入ったユニフォームで戦うことなど、旭にはこの大会が初めてだ。

 ましてや、今戦っているのは不得手なシングルス。

(『旭海莉』と言うプレイヤーが非凡であることは認めざるを得ない……いやまあ、認めたくない理由などないが)

 それでも倉石は、ここまでの善戦、むしろほとんど優勢を手放さず、盤石の戦いを繰り広げるとは思っていなかった。

 お互いへとへとの状態で、しかもたったの半ゲームとは言え、自分が手塩にかけて育て、そして覚醒のきっかけを完全に掴んでいた教え子と引き分けたのだから、それなりにベースは高いところにあるのだろう──とは考えていたが。

 ドゥアルテが点数を稼いでいく中で、旭もここぞの甘いショットを逃さずに反攻を仕掛けている。

 相手の息切れを見逃さずにラッシュを仕掛けてポイントをもぎ取り、二点のリードを得てマッチポイントに辿り着いた彼女は、前髪に絡む汗を指で跳ね除け、少し間をおいてからサービスを放つ。

(フムン……こういうところは、一気に攻め落としたくなるものだが……)

 ドゥアルテはまだ末脚を残している、という判断なのだろうか。

 いずれにせよ倉石が好む、慎重な、というよりはきちんと『筋書きを作っている』試合運びだ。

 彼らからすれば、例えば自分のスタイルに固執し続けることでもちろん得られるアドバンテージもあるが、ロスも決して小さくないあたり、豊橋や狼森はまだまだ『甘ちゃん』で、久御山や志波姫ぐらいでようやく『シビアに戦える』という評価になる。

 その点で言えば、望や荒垣はまだまだ『子供のバドミントン』だ。

 そして、才能や実績と言う点では彼女たちをはるかに上回る羽咲や益子が、どういうわけだか猶更『子供』なのは、どこかおかしくも感じられる。

 もっとも益子については、あえて『子供』であることを選択しているような場面も、これまでの予選では見られたが、羽咲に関しては絶対的にセルフコントロール能力が足りていない。

 フィジカルに恵まれなかったという事よりもむしろ、そちらの方が倉石には、その『将来性』にどこかしら陰りを感じる原因であった。

 今現在世界ランキングの上位に位置している日本人女子のプレイヤーで、一七〇センチを超えている選手はどちらかと言えば少数派だし、そういう意味では、低い身長と言うのは決して打ち破れない壁ではない。

 荒垣や益子ならば、今まで日本人に居なかったタイプのプレイヤーになれる可能性がある、というだけのことで、数年後に世界ランキングの一位に教え子の名前があったとしても、倉石は喜びこそすれ驚きはしない。

 ここにいる誰かが、『東京』はともかくその次では表彰台に上り、ともすれば一番いい色のメダルを首からかけていてもおかしくはないとさえ考えている。

(だが、旭は──恐らくこの先も、『独り』では戦えない……)

 高校三年間をダブルスに専念したことによる、絶対的な経験値の不足はずっと後まで尾を引くだろうし、彼女のプレイそのものは、基本に忠実と言えば聞こえはいいが、須らく凡庸だ。

 何か大きな弱点と引き換えに、圧倒的な武器を手にしているわけでもないし、当たり前のショットを当たり前に打っているだけで、志波姫のようにミスが異常に少ないということもない。

 その破綻の影響を最小限にとどめる大局観にこそ、旭海莉の非凡さが垣間見えるにせよ、『特別な何か』を授けられた──ギフテッドには、決して分類されないタイプのプレイヤーだ。

(それでも……)

 数巡の探り合いの後旭は、上背を活かして強打を叩き込み、浮いたシャトルをクロスに沈める。

 21-18。

 

 

 

「ねえ、旭」

「なに?」

 決勝トーナメント会場のオーデンセに向かうバスの中。

 ロスキレを出た時から、二人一団から離れた位置に座っていた。

 唯華がそれを咎めなかったのは、今日のことが、二人にとってとても特別なことだと、ちゃんと理解してくれているから。

 暗闇をすれ違っていく車のヘッドライトをぼんやりと眺めながら、海莉は首の骨を鳴らす。

 声をかけて来たのだから、何か言いたいことがあるのだろう。

「いや、……今日、がんばってたな」

 負けたわけでもないのに慰めるような泪の口調に、旭は思わず吹き出してしまった。

「なあに、それ」

 私はいつだって頑張ってるよ、と言いたいところだが、そんなことはもう、流石にこいつも分かっているだろう。

「ありがと」

「うん」

 素直に顔を見れない悔しさが、心の中に募る。

 自分と違ってシングルスも出場していたパートナーの試合を、ずっと、負けてしまえばいいのに──と思って見ていたから。

「……応援してた? 私のこと」

「はぁ?」

 当たり前だろ、と泪は呆れたように言う。

 ま、でも──わかってたんだろうな。

『外』にいるときはずうっと、私がそういう目で、泪を見ていたことを。

「泪、ごめんね」

「な──なに、急に」

「……なんでも」

 こんなに、しんどかったんだ。

 予選突破も決まって、試合の勝ち負けも決まっていて、それなのに。

 唯華のためでもあったけど、『負けられない』って思って試合をするのが、こんなに大変だったなんて。

 負けてしまえばいい、と泪に言ったことはなかった。

 でも、心の中ではずっとずっと、そう望んでいて。

「ねえ、泪は──」

「ん?」

「──『負けたかった』の?」

 昨日今日の事を言っているのではない、と泪もすぐに気付く。

 それは、二人が心を少しだけ重ねた日の言葉と同じだった。

 周囲の期待も勿論あるけれど、負けるたびに傷ついていったのは、原始の『益子泪』そのもの。

 羽咲との試合は、そうじゃなかったかもしれないけど。

「今は、ちがうよ」

「……」

 一人ぼっちの『益子泪』は、羽咲に壊してもらえた。

 私がそれを出来なかったのは、バドミントンが下手だったからじゃない。

 知らなかったんだ。

 泪がいつも、どんな気持ちでコートに立っていたのかを。

「あのさ……」

「?」

「私、少しは上手くなった? バドミントン」

「ん~……」

 難しげな益子の唸りに、そこで初めて、私は彼女の方を振り返った。

「……ま、あと四年は組もうや」

 

 

 

 

 オーデンセに到着したのは、随分夜も遅い時間帯だった。

 いつものミーティングはとりあえず翌朝、ということになり、望たちはそれぞれに割り当てられた部屋へと散らばる。

 三人部屋がひとつに、二人部屋が三つ。

 今度ばかりはと強い要求を出した益子と、旭は同部屋になった。 

 そうなるとバリエーションも限られてしまい、結局は逗子総合で合宿をしていた時と同じ部屋割りになる。

 つまり、望は志波姫と同室だ。

 備え付けのシャワーから彼女が出てくると、志波姫はベッドの上で柔軟体操をしていた。

「──ねぇ、志波姫」

「……」

 聞こえていないはずはない。

 言葉の分からないテレビなど付けてはいないし、彼女は益子のようにイヤホンと旭だけが友達というわけではないのだから。

「……志波姫?」

 まだ、返事はなかった。

 開いた脚の間に、年相応に薄い胸をぐっと沈めて、志波姫はそのまま動かないでいる。

「──唯華」

 ふっ、と笑い声が漏れた。

「あははは……ごめんごめん、望。なに?」

 名前で呼ぶことがそれほど重要なのかと思いながらも、望はさっきまで頭の中に作り上げていた質問を探し出す。

「あのさ、ラインって──」

「あ、教えてなかったっけ?」

 そっちじゃないよ、と望は自分の領土であるベッドに腰を下ろし、敷布団の上に畳まれていた、薄いタオルケットを肩に被った。

 スマートフォンを手にきょとんとした顔の志波姫に、はぐらかされているのではないかと望は不安になったが、またいつものいたずらっぽい笑顔で隣に座ってくる彼女を見て、望も少し、心が解れる。

「ライン出し、だよね」

「ん~……ああ、綾乃ちゃんの試合のこと?」

 望が頷くと、志波姫は身振り手振りを交えつつ、その中身を教えてくれた。

 要約するならば、『相手の守備範囲と、自分がコントロールできる攻撃範囲の差』──だと、志波姫は説く。

 通常なら、その二つの領域に大きな差は出ない。

 望や志波姫のように、抜群の強打を持っているわけでもないならば、猶更だ。

 だからこそ彼女たちは苦心して、相手の重心の逆を突いたり、前後に振り回したりして、その差分領域を可能な限り拡げていく。

 今回の代表では最も背の低い羽咲は、誰よりも『速く打ち返す』ことが出来るという長所で、その不利を補っている。

 しかし、望たちよりもずっとアジリティは高いにしても、打球速度そのものは速くないから、そう簡単に相手を『抜く』ことはできない。

 今日見ていたあの試合で──もっと言えば、彼女が試合をしている時はいつも──、羽咲はテクニックとスピードによって絞り出した、その『ライン』にキッチリとシャトルを届けることで、ラリーの中の優位を掴んでいったのだ。

「……フムン」

 簪が抜かれて長く垂れた髪を解きほぐしながら、望は羽咲のプレイを反芻し、また、部活引退後に倉石と共に練習した『ライン出し』の記憶も引っ張り出して、志波姫の説明を理解しようと試みる。

「志波姫も、そういうこと考えて試合してる?」

「ん、いや……私は、絶対ポイント欲しい時だけ、かな」

 試合の中で『落とせない』場面。

 全てがそうだとも言えるが、例えば志波姫が勝つのに苦労する相手──益子泪と対戦するときなどは、彼女の体調やモチベーションを見極めながら試合の序盤をゆったりとこなし、リスクを追わずに極限までミスを避けて少しずつ優位を稼ぐ。

 そうして、あと一点突き放せば益子が『折れる』、という瞬間に、リスクを背負って『ライン』にシャトルを打ち込んでいくのだという。

『絶対に欲しい』時にこそリスクを冒す、というのは、望にはなんだか矛盾しているようにも思えたが、流石の志波姫も、益子相手に『順当』に戦っていては勝てないのだろう。

「でも、それって……相手の力を把握しないと」

「そりゃね。だから序盤はやっぱ見るし、相手に先行されることがほとんど」

 私は『後半に強い』んじゃなくて、『前半に弱い』んだよ、と笑ってみせる志波姫。

 そこで慌てずにいられる、確固たる自信が彼女の強さの一端でもある。

「……私も?」

「もちろん」

 今の時代、そこそこの有名校になれば、家庭用ビデオでその戦いぶりを撮影し、動画サイトに投稿する物好きは居るものだ。

 望だって、昨年のインターハイの荒垣の試合を、そうした『有志』の映像で見ていた。

 それでなくても、そもそも逗子総合はフレゼリシア女子と当たる前、既に団体一回戦を戦っている。

 正体までは掴めなかったにしても、羽咲の『五つ目のクロスファイア』の存在に気付いた志波姫なら、『逗子総合の石澤』の実力を正確に把握することなど容易かっただろう。

「ま、だから二セット目はもっと、十本ぐらいで勝てると思ってたよ。ぜんぜん粘られた」

「あはは……」

 望は、数か月たった今も、その試合をよく覚えている。

 第二セットで彼女が頼ったのは、倉石に押し付けられただけのはずだった、各種の『パターン』。

 ただそれをなぞっていっただけなのに、どうしてか志波姫を圧す場面もあって──。

「なんか、益子には『組み立てがクソ』って言われたけど……」

 志波姫は肩を竦めて笑った後、泪はホント口悪いなぁ、とあきれて言う。

「言い方は間違ってるかもしれないけど、確かに、『強い人のやるラリー』じゃなかったかな」

「あぁ……」

 そりゃそうだ、と望は頷く。

 私は決して『強い人』じゃないのだから。

 自分のやりたいバドミントンで戦った第一セットは、志波姫の『様子見』にさえ全く歯が立たなかった。

 前への落とし──望が唯一、人より上手だったものが、通用しない。

 倉石が何も言わず、見守っていてくれていただけに余計に、望は悔しさと焦りを強めてしまう。

 序盤から点差の開き具合はともかく、基本的に先手で試合を進められていたのだから、一セット目のインターバルで彼に頼ることも出来たのに。

 そうしなかったのは、自分の弱さだ。

「最初から、ああいう攻め方で行ってたら?」

「まあ読むよね。望の点数が逆になって、ちょっと増えるぐらいだと思うよ」

「あぁ、そっか……」

 と、急に志波姫は望の手を握り、ごめん、と言った。

「えっ?」

「今キツイ事言ったと思う。──私、バドミントンのとき、こうなっちゃう」

 ぽつぽつと呟くような、たどたどしい口調。

 つい昨日の夜、見た表情だ。

「ああ、いいよ全然。気にしてない」

 もちろん望にだって、今の言葉は多少『刺さる』部分もあったのだが、そこに動揺したというよりもむしろ、急に手をぎゅっと握られたことの方がよほど、彼女の心拍を速めていた。

 インターハイで全国制覇を遂げた学校のキャプテンなのだ、彼女は。

 フレゼリシア女子の監督は倉石と違い、服が赤ければサンタクロースと間違えそうな優しいおじいちゃんだった。

 彼がどんな指導をして、志波姫を始めとしたあのメンバーを成長させてきたのかは知らないが、たぶん『うちの』よりは自主性に任せる部分が大きいだろうな、と望は考えている。

 そうした中で、キャプテンは常に先頭に立たなければならない。

 望はどちらかと言えば、『立たされている』ような感覚もあった。

 そういうところが、鉄火場での弱さに繋がっているのかもしれない。

「私ってやっぱ、人の気持ち考えるの下手なのかな」

「え?」

 志波姫の疑問は、望には全く腑に落ちなかった。

 短い付き合いではあるけれども、彼女ほど周囲に気を配れる人は、少なくとも同世代でこれほどバドミントンが上手い人の中では知らない。

 そんな、慰めているのか何なのかよくわからないことを望は言ってみたが、志波姫はどうもそう言うつもりで発言したわけではなさそうだった。

「気持ちを考えるのと、気を配るのは、ちがうもん」

「……まぁ、うん」

 泣き出しそうなほどではないが、眉尻を下げている志波姫の手を、望は強く握り返すしかなかった。

 それはそれで、彼女の術中に嵌まっているような気がしなくもなかったが、まあそれでも、今日のところはいいかなと望が予想したとおりに、志波姫はがっつくでもなく、また回避する時間を与えない絶妙なテンポで彼女を押し倒し、器用に掛布団とタオルケットを操って、二人分の暖を取るに充分な体勢を築き上げる。

「……もう」

「ふふ──望は優しいね。私のまわり、優しい人ばっかりだ」

 

 

 

 

 胸元に絡む、志波姫の甘ったるい鼻息をいなしつつ、望は彼女の首元に腕を回して抱いたまま考える。

 もっとも志波姫の動きは、やたら擦り付けるようにして、本格的に事に及ぼうという意図を見せるほどではないにしても、本来なら『危機的状況』と言っても差し支えないような状態だ。

 そんな中でも冷静に回転を続けてくれている頭脳に、望は感謝しつつもまた、ここのところ世話になっているデンマークの食事が美味しいうえに、日本では──などという表現を頭の中に浮かべるごとに、彼女はつい顔がにやけてしまう──毎日のルーティンだった早朝のランニングも、こちらに来てからは行っていないものだから、神経が図太くなるのはいいにしても、体重もまた増えてしまっているのではないかという心配してもいる。

(みんな、大変なんだなぁ……)

 望が三年間苦しんだのは、自分との戦いがほとんどだった。

 意識的に他人を遠ざけるようなことはなかったが、必要以上に深く関わることもなく、望は『逗子総合のエース』であるために足りないものを、ずっと追いかけていた。

 志波姫に比べれば、背負っていた荷物は軽かったに違いない。

 思考の合間に、彼女の動きが徐々に弱まってきて、まさかこのまま息絶えるわけではないだろうが、今日のところは抱いたまま寝てもいいかと思ってきたころに、望はふと、先ほどの志波姫の話を反芻する。

(ライン出し……相手の守備範囲と、こっちの攻撃範囲の差──)

 言葉にすれば簡単な話だ。

 ポイントを奪うための『原理』と言ってもいい。

 そこにさえ打っておけば、相手は有効なリターンを打てないのだから。

 望だって、狙ったところにシャトルを打ち込む技術には長けている方だ。

 志波姫の目論見を潰し、ゲームをひっくり返せはしないまでも、慌てさせるには十分なほど。

(──でも、どうやって『そこ』を見極める?)

 いくらプレイスメントに秀でていても、狙うべき『的』がわからないのではどうしようもない。

 望はどちらかと言えば、相手が触れないエースショットの割合が多いプレイヤーではあった。

 上背がないわりに伸びのあるドライブに、時折抜群のキレを誇るカットを挟んでいけば、例えば神奈川の準決勝では、荒垣を完全に翻弄できていた。

 大柄な体格はウイングスパンの広さという長所を与えてくれるが、同時にウェイトの重さと言う短所も押し付けてくる。

 それでも足を使って拾い回ることのできる荒垣を相手にしてなお、望はエースを奪ってみせた。

 しかし、彼女よりもっと『拾える』プレイヤー、例えばコニー・クリステンセンや津幡路のような強敵を相手にその優位を保てるかと言えば、望にはそこまでの自信はない。

 倉石から教わってきた各種のラリーパターンが、あるいはその助けをしてくれるのかもしれないが、彼が自分で言っていた通り、あれは全部『自分が風上に立つ』ためのものだ。

 相手がその上を行くプレイを発揮してきたら、通用しなくなる。

 パターンのすべてを倍速でこなせるようになれば、別なのだろうが。

(そりゃ無理だよな……身長も、これからはそんなに伸びないだろうし。打球速度を高めるのには限界がある)

 そもそも、それが通用しなかったから、パターンの色々を倉石に教わったのだ。

 じゃあそれ以外の『スピード』はどうだろう、と望は考えを一歩進める。

(狼森とか、羽咲とか……そういう速さは、私にはないな)

 これから先、モノにできる『長所』でもなさそうだ。

 羽咲のプレイスタイルから着想を得たクイックモーションにしても、それ自体が付け焼刃である以前に、常用するようなショットではない。

 ずっとあのペースで打っていればミスも増えるし、それは望が自分の進化系と信じてやまない『志波姫唯華』とは真逆だ。

 だいたいそれでは、クイックの意味がない。

(要所要所で使っていくのはいい、けど……いや、やっぱり志波姫みたいに『絶対取るところ』で、ギアを上げていくのがいいのかな)

 もちろん、相手にサービスオーバーをくれてやったならば、『一本』と気合を入れて取り返そうとするのは望にとっても当たり前のことだった。

 それをもっと、一試合の中での大きな『波』を制御していくことができればいい。

(そうなるとやっぱ、旭が上手いんだよなぁ……)

 志波姫の言った『もしもを追いかける』ではないが、望も少しの間だけ、『もしも』の未来を考える。

 今にして思えば、京都や名古屋はともかくとして、宇都宮学院に進学してみたかったし、フレゼリシア女子にだって入ってみたかった。

 もちろんそれは、『益子泪』と『旭海莉』が宇都宮学院に居るというのが分かっている今だからこそ浮かんだ憧憬であるし、来るもの拒まずのフレゼリシア女子とはいっても、特待扱いもなく当たり前に学費や寮費を負担してもらう両親の事を考えれば、仮にずっと昔から志波姫と親交があって、一緒にやろうと誘われていたとしても望は、二の足を踏んだに違いない。

 特待生として扱ってくれて、身の丈に少しだけ合っていないぐらいの逗子総合が、いちばんいい選択だったのだろう──倉石と言う良き指導者にも巡り合えたことだし。

 と、そういうふうに彼女は理解している。

 それに、自分なりに頑張ってきた結果の『今』を捨てるのも忍びないのだ。

(……どっちかと言えば、志波姫よりも神藤コーチとか、松川さんに訊く方がいいかも)

 彼女たちの方が、よほど経験は積んでいる。

 何と言っても、『日本代表』の先輩なのだから。

 

 

 

「いや、ここまで来るかね、しかし……」

 そう言って、度数の低いビールを呷る有千夏を見て、明美は少しはにかんだ。

 今回の大会の記事を乗せてもらう予定の出版社にメールを送ってから、彼女はノートパソコンを閉じる。

「よくやってるよ。あの子たちも、有千夏もね」

「はは……」

 壁に向かった長いデスクの脇には、ここまでの全グループの予選の結果がプリントアウトされた紙束が置いてあった。

 有千夏はそれを拾い上げて、首の骨を鳴らしながらぼんやりと眺める。

「あの子、勝ったのか」

「コニーちゃん? 負けるような相手なんて……」

 と、明美はあるマレーシア人の選手に思い当たる。

 ミナチ=イスマイール。

 法令で決まっているわけではないが、バドミントンを『国技』とするかの国でも、世代での傑出度は益子やクリステンセンに匹敵するプレイヤー。

 歴史的な事情から多種多様な遺伝子が混ざり合う国民の中で、『純マレーシア風』の顔立ちは彼女の人気に拍車をかけている。

「でも、一回戦からタイか……辛いね、あっちは」

「そうだね」

 予選に振り分けられた国を見れば、オランダとアメリカ、本来は日本の代わりに参戦するはずだったインドネシアと中国、マレーシアとデンマークなど、強国同士の『潰し合い』が組まれているはずだった。

 ただし、タイの入ったDポットには、めぼしい強敵はいない。

 スウェーデンは北欧のよしみで枠を貰っているようなものだし、そもそも経験の浅いベトナムと、発祥国とは言えぱっとしないイギリスでは、東南アジアで確たる地位を保持しているタイを脅かすには力不足だ。

 事実、予選のスコアは圧倒もいいところで、一つの負けも喰らわずにパーフェクトでの決勝トーナメント進出を決めている。

 タイトな大会日程の中で、移動も考慮して明日は全チームが休みとなっているものの、予選の蓄積疲労が一番軽いことは間違いない。

「明日、公式練習だけど……」

「ああ──倉石さんも気にしてた」

 決勝トーナメントからは、国際大会でも使用されるオーデンセのメイン会場を使用する。

 日本の学生大会とは比べ物にならないぐらい設備は整っているし、ホークアイシステムも無論あるから、『チャレンジ』もOKだ。

「試合で使えるかな?」

「さぁ……日本の子供は基本、『審判は絶対』だからね。私も使ったことないけど」

 そりゃそうだ、と明美は笑う。

 自分たちが現役の頃に、そんなテクノロジーは存在しなかったのだから。

 今ならば中学生でもスマホを持っているのが当たり前だが、有千夏や明美がジュニアの頃は、電卓のようなボタンが付いた『携帯電話』が主流で、それさえ子供が持っているのは珍しいものだった。

 今はSNSだって身近なもので、衛星放送で見たらしく、この大会についてコメントをしている人も多くいる。

「まあ、今は全日本総合だって使ってるんだ。チャレンジを上手く使う練習も、ジュニアの世代から必要になってくると思うよ」

 有千夏の言葉に、明美はうんと頷いて、自分のぶんの缶ビールを開けた。

 当然だが、チャレンジを申告して結果が出るまでは、プレイは中断される。

 その時間を有効に使えれば、判定が覆った時の『仕切り直し』もスムーズにいくだろうし、荒れた呼吸を整え、ダブルスならばパートナーと意思の疎通を確認するのにも好都合だ。

 

 

 

 

「荒垣が言ってきたよ」

「え?」

 廊下を歩きながら、立花はそう言葉を発した倉石の横顔を見た。

 周囲の部屋から話し声が聞こえないのは、壁が厚いからだけではないだろう。

 楽勝とは言わないまでも盤石の予選突破を決めたが、三日連続で慣れない時間帯の試合をこなした選手たちには、それなりの疲労が蓄積しているはずだ。

「一回戦と、決勝に出る──とな」

「決勝……」

 つまり彼女は、自分抜きでデンマークと戦うことを了承したのだ。

 もちろん向こうも一回戦を戦わなければならないが、その相手はアメリカ。

 言うまでもなく世界をリードする超大国であるが、ことバドミントンにおいては、存在感は極めて小さい。

 コニー・クリステンセンを筆頭に、テクニックとフィジカルを兼ね備えたスーパージュニアが居並ぶデンマークが、特にバドミントンが人気でもない国に不覚をとることはない。

「荒垣はベトナム戦、シングルス1に出す。それでいいか?」

「はい」

 日本とベトナムを天秤にかけても、同じようなものだ。

 ひとつふたつ上の世代なら軽く喰ってしまえる逸材は、なにも『三強』だけではないのだから。

「デンマーク戦、どうなりますかね」

 怪我をしてからどうも、後ろ向きな思考になりがちだと自覚している立花だが、今抱えている心配事は、全く倉石と共有できるものだ。

「フムン……少し整理したい。付き合ってくれ」

 そう言いながら、たっぷりと缶ビールを詰め込んだビニール袋を倉石は掲げた。

 やけに多く買い込んだな、とは思っていたが──と立花は頷く。

 

 

 

「単純に立花君の、今までの『感想』はどうだ?」

「ん──そりゃ……」

 羽咲はともかく、荒垣については『出来過ぎ』と言ってもよかった。

 予選一試合目のシングルス1、張蒼華との試合。

 序盤こそ競り合いになり、多少慌てるところもあったが、第二セットからはしっかりと地に足を付けて戦えていた。

 ロシア戦を休んで、最後のポルトガル戦も、相手がそれほどでもなかったにしろ、初めて組む石澤とのコンビもどうにか合わせていって、総括すればきちんと実力を発揮できている、という印象だ。

「アイツに関しては俺も同感だ。プレイヤーとしてのスケールには、すごく夢があるな」

「ええ、まあ」

 そういう、『力のぶつけ合い』──ここで言う力とは、物理的なものだけを指すのではない──をして、観るものを楽しませてくれる。

 その点では狼森もなかなかワクワクさせてくれる選手ではあるが、見た目にわかりやすいのはやはりあの豪快なスマッシュだ。

 もう少しだけクレバーさも持ち合わせてくれれば、より彼女の『スケール』に見合った舞台が頻繁に訪れるようになることだろう。

「チーム全体としては?」

「……『場慣れ』していると感じたのはやっぱり、益子と志波姫ですかね」

 うん、と倉石も頷き、一本目の缶ビールを空にした。

「まあ確かにウチの石澤は、そういう意味では『場慣れ』はしてないな」

 苦笑しつつも彼は、早くも二本目に手を伸ばす。

 度数も低いものだし、明日はせっかくのオフだから、少々の深酒も許容範囲と言うことなのだろう。

 益子、志波姫の二人と、それ以外の選手に関して、基礎となる技術においては、そこまで大きな差はない。

 もちろん異常なほどミスが少ない志波姫だとか、一瞬の閃きを野生的に表現してみせる益子のセンスには、倉石達でさえ舌を巻くほどの驚きを感じさせることも多いのだが、むしろそうしたことよりも、『試合運び』をきちんと出来るか否か、というところに違いがあった。

「そういう意味では、豊橋は上手く羽咲を引っ張っていたと思います」

「だな。ペアのフォローアップは抜群に上手い。今だけでなくこの先も、誰と組んでもやれるだろう」

 むずがる羽咲を宥めつつ、最後まで制御しきった豊橋の試合運びは、予選を勝ち抜く上で絶対に必要な『勢い』を最初の一試合で生んでくれた。

 自分だって緊張しているだろうし、羽咲と組むのは初めてだったにも関わらず、だ。

 長いラリーに相手を引きずり込むのが得意な豊橋だからこそ、味方に付ければ献身的にパートナーを支えてくれる。

「旭はまた少し違うな。あいつは包容力もありながら、ムチを入れるのが上手い」

 全日本ジュニアの優勝者ともなれば、青天井の自信家か、世間知らずでもない限り、多少は気後れするものだ。

 旭はそのどちらでもないが、それにしては実にバランスよく『益子泪』を操縦している。

「ストライカーと司令塔だな」

 サッカーに例えて、倉石は二人の関係性を評した。

 絶妙なパスを供給してやらなければ、フォワードがいくら走り込もうとも、いたずらに体力を消耗させるだけだ。

 おまけにそいつは大概な気分屋と来ているから、パスを出す方も気苦労が多い。

 旭がその身長も相まって、線の細い身体つきをしているのは、別に矢板監督がそれほどウェイトトレーニングに注力していないだけではないだろう。

『教え子』の方は、器具を使うのはほどほどにさせているが、自重を活かしたトレーニングは欠かさず行っているし、倉石から見ても──本人の前では言わないが──入学当初の細っこい体格からすれば、脚も『ちゃんと』太くなってきていた。

「パワーはついている。あくまでも『そこそこ』だがな」

「ええ……」

 ウェイトマシンは逗子総合にだってあるし、教え子をそこに半年ぐらい閉じ込めておけばそれこそ荒垣のようなスマッシュが打てるようになっていたかもしれないが、それは倉石の指導方針とは全く異なるものだし、望にとっても、別に荒垣のようになりたいわけではなく、荒垣に『勝つ』ためのプロセスとして、強打で負けたくない、上回りたい、というのが本当のところだった。

 何よりそんなことをしてしまえば、彼女の関節は柔軟性を失い、また増えた荷重によって故障のリスクも増大する。

 荒垣が下半身の鍛錬を怠っていたわけでは決してないが、事実として『壊れた』のだ。

「久御山は──」

「うむ……ちょっと質が違う。石澤よりもずっと具体的に『志波姫』に近づこうとしている──益子や津幡に対してもそうだろう」

 憧憬ではなく、いかほどの距離かは知らないが、射程に捉えているのだ──『三強』を。

 基礎技術は極めて高いレベルにあるし、それを一試合通じて発揮することが出来る。

 自動車レースに例えれば、タイヤやマシンの状態がどうであれ、安定してラップタイムを刻むことが出来る選手、と言う印象を倉石達は抱いている。

 しかしコーチ陣が最も感じているのは、コートの内外で全く人柄が変わってしまう、という点だ。

 悪いことではない。

 最近は出ていないが、益子泪が昔見せていた『多重人格』とは意味合いが違うし、羽咲に比べればその振幅はずっと穏やかなものだ。

 決して『悪人』になるわけではないし、狼森ほど切羽詰まった感じは持たせない。

 それが彼女なりの、コート外も含めた試合運びなのだろうし、技術に加えてこうした世界大会でさえも序盤から順応し、『アウトラップで立ち遅れない』強さがある。

 フロックで第三シードに入ったわけではない、というのは、立花も一目見て理解した。

 神藤達『日本代表』の先輩から見ても、主役を張るほどの傑出度はないにしても、必ずどこかしらに『出番』を貰えるプレイヤーだという。

「だが、『一発の速さ』はどうかな……コースレコードは作れないタイプだと、俺は思うよ」

 例えばノーシードから勝ち上がって、あれよあれよという間に表彰台に上ってしまうような選手ではない。

 倉石は、そういう意味ではよほど狼森の方が『爆発力』はある、と見ている。

 おそらく中国代表でエース格だった劉知栞から二十六本も奪って、てんてこ舞いさせたほどに。

 だがその試合も結局は敗れた。

 狼森あかねに必要なのは『結果』だ──。

 志波姫唯華を追いかけることで成長してきたのは事実だが、これからはそうではなく、『自分の形』を見据えていくために、自分を信じることができる勲章を、彼女に与えなければならない。

「……苦労するな」

「?」

「いや、実はな。俺は少し逗子総合で、特待で獲る選手を増やそうと思っていたんだ。だが正直見きれん、この九人でさえ──」

「……わかります」

 彼に比べて飲むペースは遅いが、立花もようやく一本目を空ける。

 少しばかり、辛味の利いたつまみがあればなお進むのだが、やたらに大ぶりなチョリソーを腹に入れるには時間も遅すぎて、デンマークでちょうどよいものを見つけるのは難しかった。

 ともあれ、倉石の苦悩は立花にもわかる。

 年齢もそうだが、コーチとしても遥かに若輩者の彼は、男女合わせて十人にも満たない部を見渡すにも苦労していた。

 逗子総合はそこまでの大所帯ではないが、それでも多彩な才能が体育館いっぱいに広がり練習をこなしている中で、それぞれに的確な、そして濃密な指導を送る倉石に対しては、有り体に言って尊敬する部分が大きい。

 夏のインターハイ、立花は選手と同じぐらい、その指導者にも注目していた。

 例えばフレゼリシア女子や、加賀雪嶺にしてもそうだが、インターバルごとにどんな言葉を選手と交わし、彼女たちのポテンシャルを引き出していたのか。

 自分は結局、最後の最後で『止める』しか出来なかった。

 それが──そのタイミングも、もっと言えば止めること自体──正しかったのかどうかさえ、今でも確信は掴めていないし、もちろん荒垣は『感謝している』とは言ってくれたが、まだ『選手』を上書きしきれていないと自覚する一端にもなった。

 それを感じ取ったからこそ、倉石もあのような事を言ったのだろう。

「頼りないな、俺達は」

「いや、そんな……」

 倉石の自嘲にあわてて立花は否定を入れるが、その後の彼の言葉には、頷くしかなかった。

「志波姫が居てくれて、助かってるよ。本当に」

 生まれも育ちも違って、その実力も絶対値はともかく、得手不得手はバラバラな選手たちを短期間でまとめるのに、彼女ほどふさわしい人物はいない。

 年相応にお調子者の一面も、あえてそうしているかと思うほど、真面目な時の志波姫の言葉は、同世代の選手たちに澱みなく浸透していく。

 もちろん彼女だけでなく益子も、言葉は拙いがその『戦い方』で、大いにメンバーを引っ張ってくれている。

 時として言葉にする方が残酷なこともあるし、本質が覆い隠されてしまうこともある。

 それでもきちんと距離を近づけて、誰とでも鍔迫り合いに持ち込むことが出来るのは、倉石達にとっては、バドミントンの実力も当然ながら、志波姫がいることの効果は大きい。

 

 

 

「泪、電気消すよ?」

「お~ん」

 眠そうな返事のあと、泪はだるそうに起き上がって、手にしていたスマートフォンを卓上の充電ケーブルに繋いだ。

 それからまた元のベッドに戻り、布団をかぶって──つまり、寝床を間違えている相方の尻を、海莉はあきれ顔ではたいてから、ため息をつく。

「いてっ」

「……なに、一緒に寝るの?」

「ダメ?」

 相変わらず寂しげな顔が上手いものだと、旭はもう一度、今度はより大きくため息をついた。

「もっと寄せて」

「ん~?」

 別に泪のことは嫌いじゃない──むしろ、ちょっと早めに咲いた金木犀ぐらい好きだ──が、単純に体積の大きい物体が同じベッドに存在していることで、自由気ままな寝相を妨げられるのは億劫だ。

 おかげで布団の被りが薄くなって寒いのはお互い様だが、間違っても風邪を引いては困ると思い、海莉は使っていないもう一方のベッド──何故かメイキングは乱されている。アリバイ作りのためか?──から毛布を引き抜いた。

「ほら」

「お、あったかい」

 まるでミノムシか何かのように毛布にくるまって、泪はできるだけベッドの隅の方に体を寄せた。

「……ったく」

 海莉にとっても、いくら壁が厚かろうと、デンマークに来てまで石膏像を泪と取り違える気はない。

 だいたい泪にしても自分にしても、そんなに声は出さないし──ではなくて、もう二度と、そんなつもりはなかった。

 どこの誰が叩き壊したのか知らないが、ここのところまるで、出て来ていないのだから。

「──泪」

「ん……?」

 返事なのか、鼻を鳴らしただけなのかわからず、海莉はそのまま黙りこんでしまった。

(……志波姫とダブルス、楽しかった?──なんて……)

 まあそれ以外にもいろいろ言いたいことはあるけれど、どれも無粋だ。

 それに、答えを聞くのも怖い。

「旭?」

 どうやらさっきのは、返事だったらしい。

 ただ、海莉の方も今改めて言葉にしようとすると、どうしても声が震えそうで。

「……旭」

 ミノムシから手が伸びてきて、旭の心臓のあたりに収まる。

「っ、ちょっと……」

 まさぐるわけではないが、少しだけ敏感なところに触れた。

 そういうのじゃない、と言わんばかりに泪は手を引っ込めて、もう一度強く海莉を呼んだ。

「旭、ねぇ──決勝戦、頑張ろうよ」

 最初、聞き間違いだと思った。

 でも泪は確かに、『決勝戦』と言ったんだと気付く。

「……決勝? なんで?」

「絶対そこまで連れてく。だから待ってて」 

 まだ、明後日からのオーダーも聞かされていないのに。

 泪には分かっているのだろう。

 ベトナム戦はともかく、デンマークに勝つには──そのことにどれほどの意味があるのか、海莉には理解できなかったが──、自分がシングルスで出場して、あちらの『三強』の誰かを打ち破らねばならない、と。

「泪──それが、あんたの『答え』?」

「そう」

 どこかでそう思ったんだ。

 今日の試合で?──じゃない。

 泪はずっと昔、初めて彼女出会った頃のことを思い出す。

 田舎の部活の寮に押し込まれて──それ自体は、別に納得していたけど──、まあ控えめに言ったって『へたっぴ』しかいなかった。

 こいつもそんな中の一人だったはずなのに。

 今日の試合中、『唯華に頼れない』と思った自分がいた。

 なんだかんだあった中でもずっと、友達として接してくれた彼女だからこそ、頼っちゃいけないと、そう感じたのかもしれない。

 そこにいるのが旭じゃなかったからかもしれないけれど、なんだか『ダブルス』じゃない気がした。

 少しだけ鼓動が速くなっている海莉の心臓に、改めて泪は手を置いた。

 こいつ、いつも勘違いしがち。

「──私の『答え』だよ。旭と組んで、世界一になる」

「……うん」

 



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