迷者不問 (お米太郎)
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公安刑事、トリップする

公安刑事の女主人公です。オリ主ですのでご注意ください。


まだ、太陽も照り付ける時刻であった。

じりじりと全てを焼き尽くそうとする太陽に、染井菊花は目を手で覆った。

 

 

「あっつい…」

「さっきアイスコーヒー2杯も頼んでたろ。あれで冷えたんじゃあないのか?」

「そんなわけないですよ。暑い。原さんまだ着かないんですか?」

「もうちょっとだ」

 

原と呼ばれた男は、菊花を一瞥するだけである。

 

菊花は汗でべたつく前髪を2本の指で払いのけ、

 

「早く冷房に当たりたいです。あっつい!!!!」

「あー、喋るな。よけいに暑く感じるだろ。足だけ動かせ」

 

とにかく、その店に着かなければ、彼らの汗はとどまることを知らないだろう。菊花と原は、少し言葉を交わしながら、件の店へと向かっていった。【コロラド】…件の店とはここらしい。洒落ている店構えだ。

 

「いらっしゃいませ…おや、原さんではないですか」

 

原はドアに付いていたベルが数回鳴らした。若い店員が二人を出迎えてくれた。

 

「よっ。さらちゃん。個室空いてる?」

「ええ。他のお客様はお見えになっておられませんから。それと原さん」

「何だ?」

「ちゃん付けしないでくださいね。これでも成人男性ですから」

「はいはい。じゃあいつものところに」

 

「かしこまりました」

 

出迎えてくれた店員は原と軽口を叩き合う。2人は親しい間柄なのだと菊花に感じさせた。店員は一番奥にある個室に2人を通した。

 

 

「原さんいつものやつ、あとでお通ししますね」

「了解」

「それでは」

 

店員はそれだけ言うと、影のように立ち去った。

 

 

「うわ、広い」

「んで、染井」

「はい」

 

「どうだった?」

 

たった一言。

それだけを聞いて、菊花は今回、誘われたのが【仕事】に関する内容も含まれているのだと認識した。

 

「幹部と一部の警察官による癒着、人身売買、また信者に対する洗脳などを確認できました。中々尻尾を出してくれなくて苦労しましたけど」

 

何故客がいないのに声を潜める必要があるのか。それは彼女たちの職業が関係しているためである。

彼らの職業は警察官。その中でも所属は公安部総務課に所属している刑事だ。総務部と言うのは、カルト方面の仕事が多い。菊花がこの仕事に決めたきっかけは、単純に「警察官ってかっこいいな」と思ったためである。テレビや小説が影響されたといっても過言ではないだろう。

 

大学を卒業後、警察採用試験を受験し、見事合格した彼女は、警察学校で自分の腕と知識を磨いていった。警察学校で「公安になりたいんだ」と目標を言ってみれば、揶揄されることも少なくない。同期の親友はただ笑わずに応援してくれた。

 

負けず嫌いな彼女は不言実行を表現するように、成績上位者のリストに名前を連ね続けていった。休日でも、走り込み・座学の復習を欠かさず鍛えた。努力を見ているのは神様だけではない。

 

警察学校を卒業し警察官になって8年経った。その成績を、今の上司である原に見込まれて公安部へと移動した。2年と半年経った日の出来事である。現在の理事官に某宗教団体への潜入捜査を命じられた。日本には宗教の自由があるが、公安ににらまれる団体は良く無い輩も多い。

 

菊花は続ける。

 

「中には幼い子供を虐げていることも確認が取れました」

「外道が」

 

吐き捨てるような原の言葉に菊花は頷く。子供は可愛いと思うし守らなくてはいけない存在だ。人権を踏みにじられるなど許されることじゃない。この宗教団体は公安が監視している中でも新しく、最近になって、活発化してきたことを菊花は理事官たちに伝えていた。また、元信者たちの被害報告が上がってきたり、違法行為も耳に入ってきたのだ。

 

一言でいえば地獄である。宗教というものは時に人を狂気の淵へと陥れる。原はメモを取りながら、ほかの同僚の名を出した。

 

「先に潜入してた網谷は?」

「櫻原理事官に提出しに行っているかと」

「仕事が早いな」

「期待のエースと言われてますから。彼」

 

網谷と言うのは菊花の後に、宗教団体へと潜入してきた公安の一人である。1つ下の彼と既知の関係であったので、公安部で再会し、互いに驚いたこともあった。日本人特有の黒ではない、アメジスト色の瞳は、甘いマスクの彼によく似合っていた。派手な見た目をしているが、れっきとした純日本人である。

 

 

「お前と同期だというのが信じられん」

「彼、童顔が凄いので大学生と間違えられるみたいです。おかげで潜入もしやすいと言ってました」

「原さんお持ちしました」

「ああ、悪い」

「また何かあればそちらのボタンでお呼びください」

「おう、ありがとな」

「いえ」

 

先ほどの店員が数種類の酒を持って立っていた。お猪口1杯程度の日本酒、軽めの焼酎など。度数の低いカクテルもある。またいくつかの軽食も持ってきていた。いくら非番といえど、沢山のお酒を飲むことはなかなか叶わない。店員は一礼して、個室から去った。

 

待ってましたと目を輝かせた菊花に、原は苦笑していた。

 

「続きは飲みながらでいいか」

「そうしましょう」

 

『それじゃあ乾杯!』

 

お猪口に注いだ酒がこぼれぬよう、交わす。口当たりがいい。まるで水のようだ。

 

「めちゃくちゃいい銘柄ですね、これ?」

「柏盛」

「……大事に呑みます」

「理事官には?」

「明日の午前1番で」

「そうか」

「あの店員さんと親しいんですね」

「知り合いの弟だよ。更科だからさらちゃん」

なるほど。苗字を軽く略して"さらちゃん"ということか。

 

菊花は納得したが、はたと気づいたことがあり、

「バレてますよね、私たちの職業」

「ああ。さらちゃんは俺の協力者でもあるからな」

「いつのまに…」

「ちょっと前からだよ」

原はニヒルな笑みを浮かべた。

 

目付きが鋭い原が笑うとまるで悪役の如し。網谷が言っていた気がする。ちなみに協力者というのは公安刑事が独自に使役する一般市民を指すことが多い。謝礼の多くは刑事のポケットマネーが殆どだ。

 

「ここは色々な情報が流れてくるらしいからな。事情を話したら手伝ってくれるようになったのさ」

「はあ。…それで原さんの方は」

「ようやく逮捕まで漕ぎ着けた。まあ手柄は捜査一課に譲ることになったがな」

 

原は肩をすくめた。表立って動いてしまった場合、顔が割れることもあり得る。マイナスで考え、成功してもそれが当たり前。同僚の言葉のように愛国心がないとやってられない仕事かもしれない。菊花はこの国を守る仕事を、自分が担っていると思うと誇らしく感じていた。

 

「よし、仕事の話はここまでだ。今日は奢ってやるよ」

「やったーありがとうございまーす‼」

この際だから高い日本酒をばかすか飲もうと思った菊花だが、原には見抜かれてしまい、「料理限定だからな。酒は自分で払えよ」と釘を刺されてしまい、思わず口をとがらせた。

 

 

そのあと2人は、21時近くに店を出た。今宵の空は雲もなく、月の光が二人を照らす。【コロラド】は閑静な住宅街に近い立地に立てられているため、菊花達の足音が響くだけである。都心部とは信じられない静かさだな、と菊花は思った。

 

「ご馳走様でした。また奢ってください」

「馬鹿言え。こんな休みほとんどねえから」

軽口を叩き合う2人にただの上司と部下の姿だけだ。

 

「家まで送ってく」

「えぇいいんですか?」

「お前は女だ。何かあったら親御さんに申し訳が立たん」

 

女だから。その言葉は何度聴いたか検討つかない。しかし、原の言葉にはそういった意味合いはなく、ただの心配を含んでいただけであった。菊花は有難く好意を受け取ろうと思った。

 

思ったのだが、くらりと意識が沈む感覚が菊花を襲った。

 

「あ」

「大丈夫か‼」

原の焦った声が菊花の頭に響く。

 

「軽い立ちくらみだと思い、ます」

「その様子じゃあそれだけじゃなさそうだぞ?今タクシー呼ぶからその椅子を使え」

「はい…」

店の前にある椅子にもたれる。

 

(いつもこんなことないのに…)

 

非番だというのに不運だ。これが潜入中に起きていたら大変だと、菊花は背筋が寒くなりそうだった。

 

「体調悪いの隠してたんだったら早く言えよな」

「一時的なものだと思います。すみません。ご迷惑をかけて」

「迷惑でもねえさ」

「う、」

「おい…おい?!染井どうした!」

 

痛みはぶり返し始めた。

すぐには収まらぬ痛みに、耐えきれなかった。菊花は意識を手放した。

 

 

 

 

 

ーー哀君。彼女の容態はどうかの?

ーーまだ起きないわね。…博士。この人の傷、尋常じゃないわ。

 

ーーそうカリカリするもんでもないと思うがのう。普通のお嬢さんのようじゃぞ。

ーーでももしかしたらという可能性もあり得るわ。万が一も考えなきゃ。

 

声が聞こえる。原のものではない。あそこでブラックアウトした後、誰かに助けてもらったのだろうか。菊花がうっすらと目を開けていくと、最初に天井が見えた。そして、次に人間らしきものが2つ。小さい少女と髭をたくわえた男性だ。少女の方は、大きく目を見開き、「博士!」と傍らの男性に声をかけた。男性も同じように驚きを表情に現れていた。

 

菊花は視線を彷徨わせた。椅子に座っていた時と全く違っている。勢いよく起き上がろうとすると、体に雷のような衝撃が走った。

 

 

「いっ!!!」

「ちょっと!!動いちゃダメ!」

「安静にしないと駄目じゃぞ!!お嬢さん」

 

少女に支えられて、もう一度体を起こした。今度はゆっくりと注意深く。

 

「ここ、は?」

「博士の家よ」

 

菊花の呟きに続く形で少女は言葉を返した。少女は先ほどと似た表情で、

 

「家の前で倒れていたわ、貴方」

「え…」

「知り合いの医者に手当をお願いしたんじゃ。お嬢さんの傷が酷すぎたんでな」

 

 

菊花は自身をまじまじと見た。

 

熱を帯びた腕は芽しょうがのような赤みを帯びて厚ぼったい。新しい皮膚が作られているみたいだが、痛みの方が強い。腕だけではない。胸の方も確認してみればそちらも同じような症状があった。絹糸のように細い切り傷がついている。

 

 

「意識を失う前爆風に巻き込まれたようだけど……」

「あ、えと…、自分は立ちくらみがひどくて椅子で休んでいたのですが」

「記憶が混濁しているのかしら…名前は分かる?」

「楠です。楠よしの」

 

菊花は偽名を答えた。

見たところ一般市民のようだが、念のためである。

 

「楠さんね。私は灰原哀。こっちは阿笠博士」

「阿笠です」

 

原にどやされそうだ。

 

 

「すみません。けがの手当てまでして頂いて」

「いやいや。楠さんが目を覚ましてくれて良かった。目を覚まさんから心配していたんじゃ」

「それと、これあなたのよね?」

 

「それ!!」

 

灰原に手渡されたのは、いつも仕事で使用している鞄だ。あわてて受け取り、中身を確認する。何も盗られていないようだ。

 

「良かった。大事なものが入っているのでなくしたのかと思いました」

 

ふと菊花はここがどこなのか気になり、2人に尋ねた。

 

「ちなみにこちらのお宅はどこに立っているんですか?」

「米花町よ」

「べいかちょう?」

 

菊花は一瞬どこにいるのか見当つかなくなった。『べいかちょう』という名前の町は見た記憶がない。

 

「首都は東京都ですよね?」

「東都に決まってるじゃない」

「東都なんて聞いたことがない…」

「何を言ってるの?日本人なら誰でも知っているわよ」

 

灰原は菊花を訝しげに見つめた。常識がないだとか思われたのかもしれないが、菊花にしてみれば、馴染みのない名称ばかりであった。

 

 

「そんなはずは…東京タワーとはないんですか?」

「東都タワーやベルツリーはあるけど貴方の言う建物はないわ」

「そんな!」

 

菊花は背中に冷や水をかけられたようだった。30年近く生きてきて、自分の知っているものが誰一人して覚えていない。鞄の中の携帯電話を探る。赤い携帯が見えた。彼女が個人的に使用しているガラパゴスケータイである。

 

菊花は驚愕した。

 

「2018年?!え?!」

 

2018年。何回確認しても、画面にはその4ケタが写っている。

菊花が生きていたのは2006年。12年も前であったのだ。



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公安刑事、出会う

オリ主(染井菊花)は公安総務課に所属する刑事である。意識がブラックアウトして、2018年の日本にやってきてしまった。
楠よしの :菊花の偽名の一つです。




頭が痛い。いや、精神的な方で。

 

痛みを主張する脳みそに気付かないふりをし、菊花は言った。

 

「今の日本の首相はどなたですか」

「芦川茂首相じゃ」

「この人よ」

 

灰原が手元にあったスマートフォンで首相のファイスブックのページを見せた。菊花の世界と相違ない。ようやく見知った者を見つけたと同時に灰原の見せたスマートフォンに驚いた。

 

「パソコン、随分と小さくなっているんですね」

「? ただのスマートフォンよ。それよりもそっちの方があんまり見ないわ」

 

灰原は菊花の持つ携帯電話を指差した。1年前に出た最新機種の一つである。だが、スマートフォンの発達したこちらでは、ほとんど使っている人が見られない。

 

それもそのはず、灰原のようにスマートフォンを使用する人々の割合が多いからだ。勿論、菊花の世界でもスマートフォンは発売されている。しかしながら、一般市民の認知度は約20パーセントであった。端末の値段も高く、まだ普及が進んでいなかったのだ。

 

菊花がスマートフォンを知らず、パソコンと表現したのはそのためである。

 

「スマートフォン…え!!それ携帯電話!?」

「スマホ知らないの?」

 

「私の周りにそんな携帯電話を使っている人いないんです」と菊花が言えば、灰原は面食らったような表情になった。

 

この時代の人間としては珍しいと物語っている。

 

菊花は自身の携帯電話を見た。携帯電話の液晶画面には【2018/5/20】という数字。

 

オカルトに抵抗がないと言えど、12年後の日本に自分がいるというのは信じられない気持ちでいっぱいであった。タイムマシンがあるはずないし、未来に行ったことがあるという人など絶対にいない。

 

『私、過去から来たんです』

 

そんなことを言い出す人がいたら精神状態を疑われるだろう。私ならそうする。と菊花は思った。

 

しかし、現実に起きてしまった。

この世界の自分が総務課に所属しているかも不明である。最悪殉職している可能性もありうる。その場合、上司に電話するのも望ましくない。死んだ人間が電話してきたら誰だって怖いはずだ。……親友は動じずに返事を返してくれそうだが。

 

菊花は阿笠と灰原を見つめた。

灰原は何を考えているのか読み取れないが、阿笠の方は眉を下げている。信じてもらえるかどうか分からないが、話すほか方法がない。菊花は「阿笠さん、灰原さん」と2人を呼んだ。

 

「何かしら」

「お二人に信じていただけるか自信がないんですけど……」

「どんな話かね?」

 

「あの……私、過去の日本から来たみたいなんです」

 

灰原と阿笠は目を一瞬白黒させた。が、すぐに灰原は眉の間を微かに曇らせて、

「貴方ね、私達を馬鹿にしているの?」

「そんなわけないですよ!!でも、スマートフォンなんて全く聞いたことがないし、東都タワーが私の世界にないのはおかしいはず」

 

菊花は2人の反応を元に、例を上げた。

これほどスマートフォンが有名な日本で全く知らないという成人女性はいないはず。これは説得力があるのではないかと思った。

 

菊花の予想通り、阿笠は「過去から来た人間なら納得するのぅ」とひとつ頷いた。

灰原が阿笠の反応に「博士!」と声を上げ、「楠さんの言葉を信じるの?」と言う。

 

本人を目の前にしてなかなか辛辣である。しかし、いきなり「過去から来た人間だ。信じろ」と言われて「はい、信じましょう」とはならない。小説ならば都合よくいくが、現実ならそう上手くいくまい。灰原が菊花を警戒するのも無理ない。

 

阿笠は続けて、

「哀君。ワシには楠さんが本当のことを言っているように見える」

「でも……」

 

真剣な声音の阿笠に、灰原は口ごもる。

 

「哀君。すぐに信じろと楠さんは言っておらんよ」

「ええ。こんな傷だらけの人間をすぐ信用しちゃうのは問題です」

 

堂々と言いのけた菊花に、灰原は少しして言った。

 

「……確かに博士のいうことも一理あるかも。悪い人だったらこんなに堂々としてないわね」

 

灰原の言葉に菊花は目を瞬かせた。

 

「ええ?そこで信じてくださるんですか」

「あら、全く信用して欲しくないっていう顔じゃない」

「いや、でもこんなに簡単に言われてしまうと…なんというか」

 

菊花は決まり悪そうに顔をかいた。まさかのあっさりとした答えである。

 

「少しでも信じてくださると聞いただけでも嬉しい限りです」

「ほんの少しだけだけどね。それより……」

 

灰原はそこで言葉を止めた。彼女の視線は菊花の腕に注がれている。

 

「その傷を治すことを第一に考えたほうがいいわ」

 

菊花は自分の腕を見た。見れば見るほどひどい。

 

「ええ。私と博士で応急手当を行ったけど素人目で見てもひどいわ。博士と一緒に病院に行くべきよ」

「い、いえ!!この通りぴんぴんしてますから、すぐに出ていきますよ!!」

 

菊花は慌てた。保険証があるので病院にかかるのは構わない。偽名の【楠よしの】と本名の【染井菊花】の2枚の保険証がバッグの隠しポケットに入っているのだ。阿笠に見られる可能性も高くなってしまう。

 

行かなくてもいい、むしろ大丈夫だと強がる彼女に、灰原は少し考える素振りをした。ややあって、菊花に近寄った。

 

「ちょっといいかしら」

「何を…いッ!!!」

「全然大丈夫と言えないわね」

 

灰原が軽く肩を触れる。先ほどの痛みが襲ってきた。全身を酷使した痛みは筋肉痛に近かったので腕を上げるのさえぎこちない。嘘を言うのはやめときなさいと、彼女の顔が語った。

 

「いいわね?」

「……はい」

「博士、お願いね」

 

「わしは構わんよ」

 

この場での菊花と灰原の立場は逆転していた。

 

 

 

 

 

 

日が昇り始め、灰原、阿笠は病院に行く準備をしていた。

 

本来ならば救急外来に行くべきだと灰原は思っていたが、菊花が「痛みはそこまでひどくないので大丈夫です」としきりに言うので、朝一番で向かうことにしたのだ。

 

「哀君、楠さんを起こしてくれんか?」

「分かったわ」

 

灰原が菊花の部屋に向かう。すでに、灰原は整っており、阿笠と菊花の支度が終われば、すぐに病院へ向かうことができる。

 

ノックをすると、中から返事が返ってきた。

 

「はーい」

「私よ。入っていいかしら」

「大丈夫ですよ」

 

部屋に入ると、菊花がテレビを見ていた。本日の天気についてだ。今日も夏日になる可能性があると、お天気キャスターがわかりやすく伝えている。菊花を手当をした時、阿笠のパジャマを着せたので、体にあっておらずブカブカの状態だ。このまま歩けばずり落ちる可能性が高いので、髪ゴムを手渡した。

 

あとで彼女のためのパジャマを購入しておいた方がいいわね。灰原は思った。そして、菊花に声をかけた。

 

「楠さん、もう少ししたら博士が車を出してくれるわ。なにか飲みたいものある?」

「ありがとうございます。お水をお願いしてもいいですか?」

「分かったわ。ちょっと待ってて」

 

灰原が部屋から出てゆき、菊花は引き続きテレビに視線を移した。元いた世界と比べて殺人事件が多い。昨日だけでも30件も起きたらしいく同じ日本にいるのかと思えなかった。また驚くことに、殺人事件が起きたら、探偵が犯人を当てて逮捕するらしい。

 

12年後の世界には探偵という職業がしっかりと社会的地位を築いているのか……。

 

他チャンネルを回していると、北海道物産展のニュースが耳に入ってきた。美味しそうな海鮮丼が映っている。菊花は、お腹をしきりにさすった。

 

「お腹減ったなぁ……ご飯食べたい……」

 

その言葉に呼応するように、お腹の虫が小さく鳴った。

 

 

灰原が台所に戻ると、阿笠が声をかけてきた。阿笠はいつもの白衣姿ではなく出かける時の格好に着替えてある。

 

「準備できたぞい」

「楠さんに水を渡すから待ってて」

「楠さんは起きてるかの?」

「ええ」

 

灰原は阿笠にビートルのエンジンを付けておくよう頼んだ。何回かに分けて、水を汲みに行くのは面倒なので、かなり大きいグラスに水を注ぐ。

 

「どうぞ」

 

部屋に戻ってきた灰原は菊花に水を渡した。水は、菊花の体の中に吸い込まれていく。半分ほど飲み干したところで、菊花は息を吐いた。

 

「ふう……ありがとうございます」

「博士の準備が出来たわ。立てる?」

 

「はい」

 

ゆっくりと灰原に支えてもらいながら身を起こし立つ。やはり、痛みは引いておらず火傷した箇所は熱を帯びている。筋肉痛も全身に起きており、まるで菊花の体はロボットのようだった。

 

「ゆっくりでいいから博士のところまで行きましょう」

「はい」

 

灰原に支えてもらい、ゆっくりとビートルのところまで向かった。阿笠が後部座席の扉を開けてくれたので、そのまま中に入る。

 

「楠さん、振動が辛かったら言っておくれ」

「わかりました」

「隣座るわね」

 

灰原が菊花の隣を座る。多分怪しい行動をするかもしれないという監視のためだろうと菊花は読み取った。ロボットのような体の菊花がどうこうする自信は全くないが好きなようにさせておく。

 

「それじゃ病院までフルスロットルじゃ!!」

「安全運転よ?博士」

「分かっとるぞ~」

 

排気音は軽やかに流れ、黄色いビートルは阿笠邸を出ていく。隣の工藤邸では、二階の窓から一人の男がそれを見つめていた。

 

「おや……? こんな早い時間からお出かけなんて珍しい……」

 

男は手にしていたコーヒーに口をつける。腕時計に反射した光が男の目に入り薄目になり、瞳が見えた。男は、鷹のような目つきでビートルを見つめた。

 

 

 

 

ビートルの目的地は杯戸中央病院である。米花町には色々な病院が多かったが、7時台から診察を開始している病院が少なかったのだ。周辺で営業している病院を探していたら、杯戸中央病院が当てはまった。

 

ここは朝の7時から診察を行っている。渋滞に少し巻き込まれ、到着したのは9時を少し過ぎた頃であった。

 

「受付はこっちよ」

 

怪我などを負った時は警察病院で診察を受けることが多かったので、一般人の多い病院に訪れるのは、菊花にとって久しぶりであった。受付に長蛇の列はなくスムーズだった。

 

「初診でしょうか?」

「はい」

「保険証をお見せください」

 

偽名の方の保険証を見せた。【楠よしの】という人間が、本当にいるように作られている。生年月日は本名と3か月ほど遅い。原からこれを渡された時、菊花は心臓が飛び出そうだった。違法じゃないかと尋ねれば、「公安だから」と素知らぬ顔で返された。公安。便利な言葉だと呆れて口をつぐんだ。

 

その、偽の保険証を使い続けて3年になるが全くバレたことはない。本名の載った保険証は警察病院で用いることが多く、一般病院では偽名の保険証の出番が多かった。

 

「ではこちらにご記入をお願いします」

「ありがとうございます」

 

受付の看護師に渡された用紙を持って、席に戻った。平日の時間帯は高齢者が多いため、やや暗めの雰囲気がある。息が詰まりそうだ。

 

菊花は灰原を見た。大人びているといっても子供である。病院なんかにいてもつまらないだろうと思い、菊花は「阿笠さんと一緒に車の中で待ってて大丈夫ですよ?」と言った。

 

しかし、灰原は「いいわよ」と一言返した。灰原の意見を無下にできず、菊花は「そうですか」と言うだけだった。診療用紙に必要事項を記入し、受付に戻して、近くにあった雑誌を読む。灰原はしばらく菊花の様子を観察していた。

 

「楠さーん、楠よしのさん。お入りくださーい」

 

10分ほど経ち、菊花の偽名が呼ばれた。

 

「多分長くなると思うので阿笠さんに伝えておいて下さい」

「ええ」

 

診察室に通してもらうと、女性医師が担当だった。仕事のできそうな見目の良い女性である。医師は榊と名乗った。

 

「今日は火傷をしたということだけど、見せてくれる?」

「はい」

 

菊花が腕や上半身を見せると、榊の顔が一気に険しくなった。

 

「楠さん。何であなた早く来なかったの」

「すみません……」

 

申し訳なさそうな顔をした菊花を見て、榊は言葉を止めた。

 

「この傷がついたのはいつですか?」

「多分1日前くらいです」

「この火傷だと……爆風に晒されたのかもしれないね。まったく、なんで東都周辺は事件や事故が多いのかなぁ」

 

榊が手を当てて診察画面を見やった。カチカチと記入事項を埋めていっている。

 

この町は事件がよく起きるのだと口ぶりから察した。テレビを見ていて気づいたが、米花町周辺では殺人事件が頻繁に起きている。

自分の守る日本がグレてしまったと菊花は思った。地震が多いのもそのせいだろうか?日本だってグレたくなることあるかもしれない。

 

榊からは、処方箋について、また薬の使い方についての説明があった。

 

「塗り薬と湿布、あと痛み止め用の飲み薬を出しておきますね。塗り薬は寝る前1回、飲み薬は朝と夜の食後2回。湿布も寝る前に貼ること。痛みがひどかったら湿布を貼っても構いません。今は3週間分を出しておきますから、薬が切れそうになったらまた来てください」

 

「はい」

「お大事に。次の方どうぞー」

 

診察室から出ていくと、阿笠と灰原が菊花に近寄った。

 

「全治何か月って?」

「2ヶ月だそうです」

「2ヶ月……傷が残ると心配じゃ」

 

菊花は苦笑した。こんな自分の心配をされるのは何だか照れくさい。火傷ではなく、骨折だとか腕の傷などは、潜入捜査以外で作っても、あまり心配されることが少ない。日常茶飯事だった。

 

「見た目ひどいですけど綺麗に治るって言われました」

「良かったのぅ」

「はは……。良かったです。お医者さんに怒られてしまいました」

 

阿笠の笑みにつられて、菊花も笑った。会計の列に並ぶと、受付の職員から「30分ほど待っていただきます」と伝えられた。

 

「飲み物買ってくるわ。博士、楠さんと待っていてくれる?」

「灰原さん、お一人で大丈夫ですか?」

「ここは来たことがあるから大丈夫。何がいいかしら」

 

「お茶をお願いします。あとこれで」

 

菊花が渡したのは500円玉であった。灰原はそれを握りしめて、自販機のあるフロアに向かった。2人の様子が確認できる。菊花と阿笠は何かの話題で盛り上がっているよう見えた。

 

灰原はそれを横目で一瞥し、飲み物を買いながら思案していた。

 

彼女の傷は尋常ではない。彼女の火傷を水で冷やす時、彼女の二の腕には銃創痕がついていた。あの傷はここ数日で付けられたものではないだろう。

 

東都では事件や事故がしょっちゅう起きているが、ここ数日爆発を伴う事故は起きていない。いいとこ港の方で起きた、ガス爆発事故くらい。

 

菊花が本当に12年前からやってきたなら、戸籍を調べてみれば分かるかもしれない。灰原は、阿笠邸に戻ってからやることを頭の隅に置いておいた。

 

両手に購入した3本のペットボトルを持ち直した途端、誰かとぶつかった。

 

「あっごめんなさーい!!」

「こっちこそごめんなさい、ぶつかっ……」

 

聞いたことのある声に、灰原の耳が反応した。

 

「ん?灰原じゃねーか」

「江戸川君」

 

灰原のクラスメイトである江戸川コナンであった。

 

「悪ぃ。ペットボトル落としちまった」

「別にいいわよ」

 

1本だけコナンに拾われる。

 

コナンは言った。

「そういや、なんで灰原が病院に……?もしかして博士の健康診断?」

「違うわよ。けが人を連れてきただけ」

 

「けが人ン?」

 

コナンは眉をひそめる。彼女の性格からして、親しい人以外を助けるなんて珍しいと思ったのだ。

 

「何?私が人助けだなんて珍しいって顔ね」

「いや、そういう訳じゃねぇけど…けが人って?どこにいるんだ?」

「博士と話してる。あの人」

 

灰原が指差した方向には菊花と阿笠の2人だ。コナンはそれを見て「あの女の人が?」と不思議そうに言った。

 

「家の前に倒れていたの。ひどい火傷を負ってたからそれで病院に来たの」

「! まさか…」

「それより、あなたこそ何でこの病院に?」

 

今度は灰原がコナンに尋ねた。彼の方こそ病院という一番似合わない場所にいる方が珍しい。

 

「蘭の母さんが入院してんだ。虫垂炎だったみたいでさ。今手術中」

「お大事にね」

「ああ。それより灰原、その人ってどんな人なんだ?」

「かなり変わってる人」

 

「変わってる人……ねぇ」

 

変わっている人といえば色々いるが、灰原にそう評されるなら少し気になる。探偵の血が騒いだ。

 

「話しかけてみっか」

「あら?気になったの?」

「バーロー。そんなんじゃねぇよ。ただ、博士と盛り上がれる内容が気になっただけだ」

 

阿笠の専門分野は工学系だが、多岐に渡る趣味があり、そんな彼と盛り上がれる人を見かけるのは珍しく、どんな女性なのか気になったのだ。決して組織の仲間かと思ったわけではない。

 

灰原はそんな探偵を見て、フッと笑った。

 

「来るなら1本持ってちょうだい。この体じゃ結構重いから」

「わーったよ」

 

残ったお金をポケットにしまい込み、菊花達の所に戻った。

 

 

 

 

菊花と阿笠が盛り上がっていたのは、今年度のレースについてだ。今年も鈴鹿でF1グランプリを行うらしく、阿笠イチオシの選手が出場するらしい。仕事の延長で、車について覚えている時にF1グランプリに足を運んだ菊花としては面白く、楽しかった。

 

今期注目の選手について教えて貰っているところに、灰原が戻ってきた。

 

「哀君遅かったんじゃの」

「江戸川君がついてきたから」

「江戸川……?」

 

はて、そんな人はいただろうか。と菊花は疑問を持った。江戸川という知り合いは全く知らない。

 

「はい、お茶」

「ありがとうございます。あの、後ろにいるのは……」

 

菊花は灰原の後ろにいたコナンに気づいた。コナンは、灰原の後ろから出て、小学生らしい笑みを浮かべた。

 

「ボク江戸川コナンって言うの!!哀ちゃんの友達なんだ」

 

「そうなんだね。灰原さん、江戸川君と仲良いんですか?」

「そうでもないわ」

 

灰原は言った。クラスメイトだというのに、この塩対応。

いや、いささかクールを通り越していた。

 

「阿笠さん、この子のことは?」

「哀君のクラスメイトじゃからよく知っとるよ」

 

灰原のクラスメイトという事だが、阿笠が知っているというのは、阿笠邸によく来る子なのだろうな。と、菊花は思った。

 

「お姉さん、名前なんて言うの?」

 

コナンが首をかしげて尋ねる。灰原は興味が無いのか、近くの雑誌を取りに行ってしまった。

 

菊花は少し身を屈めて言った。

 

「私は楠よしのです」

「よしのお姉さんって呼んでもいい?」

「うん」

 

菊花が頷くと、可愛らしい人懐こそうな笑顔になった。

 

「お姉さんの隣座ってもいい?」

「いいよ」

 

菊花が肯定すると隣に座ってきた。そして、菊花について質問をし始めた。

 

「よしのお姉さんはどこか具合悪いの?」

「んー。ちょっと怪我しちゃったんだ」

「そっかー。でも、お姉さん、パジャマのままなんだね」

 

菊花は少しだけ冷や汗をかいた。『ちょっと怪我した』というだけなのに、パジャマで着ている人は少ない。母数からは外れている。

 

「それに、お姉さん、ちょっと怪我したって言ってたけど、すごく動き方がぎこちないね。筋肉痛?」

 

「あ、うん…そうかもね」

「不思議ぃ〜」

 

ニコニコと笑うコナンに、菊花は少しだけ冷や汗をかいた。グイグイ来る子だが、何か知りたいのだろうか。

 

 

「コナン君、携帯が鳴っとるみたいじゃぞ」

「え……?あ、本当だー!!じゃあまたねー。よしのお姉さん」

「あ、じゃあね」

 

阿笠が指摘すると、コナンが震える携帯に気がついた。電話の主をを確認するとたちまち目を開き、慌てて小走りで上の階へと向かっていった。

 

阿笠が助け舟を出してくれた。

 

「あ、すいません。有難う御座いました」

「いや、いいんじゃ。コナン君は知りたがりじゃからな。楠さんの傷を見たら気になるからの」

「はは……」

 

「江戸川君、いつもあんな感じなの。気分を害したようならごめんなさいね」

 

「あ、灰原さん」

 

灰原が戻ってきた。

手に持っているのは糖尿病患者向けの料理本だ。

 

「いえ、そうでもないですよ。それ、糖尿病患者向けのレシピ本ですか?」

「参考になるかと思って」

 

「わしは味濃いの食べたい……」

「駄目よ。高血圧に入りそうなんだから。我慢なさい」

 

「とほほ…」

 

 

 

 

 

会計がやっと回ってきたので、手早く支払い、処方箋も貰っておいた。

これで、阿笠邸に戻れるが、先程から騒々しい。

 

「どうしたんですかね」

「……事件かしら」

 

江戸川くんがいるし。 ポツリと灰原が零した。

 

「阿笠さん確認してきてくれませんか」

「お安い御用じゃ」

 

胸騒ぎを覚えた。菊花は阿笠に騒々しさの原因を、阿笠にお願いした。

5分ほどして戻ってきたが、険しい顔つきだ。

 

「どうでした?」

「殺人事件が起きておったよ」

 

「それはまた……」

 

病院で殺人事件だなんて、不吉すぎる。菊花は両目を手で覆い隠した。

 



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公安刑事、隣人と知り合う

お気に入り追加、しおり、感想ありがとうございます。ここまでは書き溜めていたので連日投稿が出来ましたが、次の話のプロットができるまで今しばらくお待ちくださいませ。


院内はあわただしい雰囲気だった。看護師たちがフロア内を行き来していているのを菊花は眺めていた。

 

近くに座っている患者たちは、「殺人事件ですってよ」「病院でまで起きるだなんてねぇ」「さすが東都と言うべきか……」「私これで3回目。笑っちゃうわ」とおしゃべりをしている。

 

しかし、話題を耳にすれば笑えない話である。3回も事件に出会ったと言ったご婦人は、殺人事件が3回なのか、それとも事件・事故を含めて3回なのか気になったが、聞き耳を立てるほかない。

 

ご婦人方の話に耳を傾けつつ、菊花は出入り口の方に目を向けた。

警察官が数人立っており、誰も通り抜けできなくなっている。

 

犯人を逃さないためであろう。もし通るとしたら、綿密な持ち物検査をされるだろうし、そんな迷惑受けたくない。

 

「物々しい…」と、菊花は言って、本日2度目の溜息を吐いた。

 

「仕方ないんじゃない?犯人が、この病院から逃走したら周囲はパニックになるわよ」

「いつ解除されるんでしょうかね」

「多分1時間もしないうちに」

 

1時間もしないうちに?、と、菊花が思わずおうむ返しに呟いた。

殺人事件が起きても、その日のうちに解決することはあり得ない。殺人事件などが起きた場合、被疑者を捕まえるのに数か月はかかることもある。

 

それなのに、灰原はなぜそう断言できるのだろうか。

 

「釈然としない顔ね」

「まあ、そう言われたら誰だってこんな顔しますよ」

「江戸川君がいるからっていう意味もあったのだけれど」

「江戸川君…さっきの男の子ですか」

 

菊花は先ほどの男の子を思い浮かべた。ニコニコと笑うかわいらしい男の子だった。守りたい、あの笑顔。

 

決して、菊花に少年趣味があるわけではない。健全な精神を持つ、歴とした公安刑事だ。子どもの笑顔は国の宝と言うべきである。しかし、あの子はあまり見たことのないタイプである。

普通の人が気にしないようなところに興味を持ち、弓矢のような鋭さで、相手に質問する。

 

その様子は、ただの知りたがりのようで、よく他人を観察しているのが分かった。

 

「保護者もついているだろうから大丈夫よ」

「そう言ってもねぇ…」

 

菊花は思わず渋い顔になる。

 

先ほど、灰原が『謎を解くのが好き』と表現していたが、そこが問題なのではない。現場には遺体があるはずだし、その遺体を直接見るとなると、精神的によくない。

あの背丈を見ると、まだ小学校低学年だろう。そんな小さい年齢の子どもが現場に出入りしているとなれば、何故警察は出入りを許可するのか。

 

保護者がついているならば、なるべく現場から遠ざけてくれていることを願う。

 

処方箋を鞄に仕舞い込む。何でも入る便利な代物だが、処方箋を3週間分も渡されたので、鞄はパンパンに膨れてしまった。

 

現場に踏み込む一般人を止めるのができないのは残念だが、現在の自分の立場は警察官ではない。この病院に患者として来院しているだけだ。やけどの酷い一般人女性(楠よしの)として。

 

何もやることがない菊花は、灰原にならって雑誌を取りに行き、パラパラと雑誌を流し読みし始めることにした。

 

数ページほどめくると、今月のおすすめカフェ特集というものがあり、【喫茶店ポアロ】というお店が紹介されていた。女性店員とマスターが出ていた。一緒に紹介されているメニューもひどく食欲を刺激させる。

昨日から、何も食べていない菊花には拷問となるほどのダメージだ。空腹は腹痛となった。シクシク痛む。

 

帰りの道で阿笠にコンビニを寄ってもらえないか相談してみようか。

菊花が少し考えていると、阿笠が「美味しそうじゃのぅ!!」と声を上げた。

 

「何を見ているんですか?阿笠さん」

「ああ、これなんじゃよ」

 

阿笠が菊花に見せてきたのはとんかつについての特集記事だった。ダイエットをしている人にもおすすめなとんかつメニュー。豆腐を肉の代わりに使用し、かつ煮を作るのだという。実際にそのような出しているお店も紹介され、とても美味しそうだ。

 

「美味しそうですね」

「哀君、ワシこれが食べてみたいんじゃが…」

「却下。最近油こいものをせっかく控えているんだし、焼き物で我慢して」

「ええ~!!」

 

阿笠は続けて、「とんかつ……」と呟いた。何とも涙を誘う声音だ。菊花自身も、最近こってりとしたものを連日食べてると、胃もたれが登場し始めてきた。

 

20代ではそんなものを吹き飛ばせた。菊花のフレッシュな胃は消化速度も早かった。連日の日本酒、揚げ物、悪魔のトリプルコンボにも負けなかった。

 

しかし、最近になってお腹周りが気になり、控え始めた。改めて、菊花は阿笠の体型を短く見た。

 

言っては悪いが、彼は肥満体型である。しかも灰原に揚げ物を止められているのだろう。菊花には彼の気持ちが痛いほどわかった。

 

「阿笠さん、分かりますよ。その気持ち」

「楠さん…!」

「揚げ物最高ですよね…。私も最近お腹周りがヤバいんで控えているんです。しかし揚げ物は悪魔の魅力…。白いご飯…指2本分ものの幅がある、とんかつにかぶりつきたい」

 

菊花は網谷と共に訪れたカフェレストランに思いを馳せた。

その店は、警視庁内にあり、当然、警察官の姿が多かった。警察官は男性の割合が多いため、料理の量もすごく多いのだ。女性向けも勿論展開しているが、あまり食べている人が少なかった。

 

胃袋が比較的に丈夫な菊花は、大盛りのカツカレーを頼むことが多かった。

同伴した網谷は、ギガ盛かつ丼と呼ばれるものをよく食べていた。顔に似合わず健啖家であり、それを平らげた上で、またさらにドリアなどを食べていた。

 

「気持ち悪くならないの?」と菊花が尋ねれば、「これくらい食べないと腹にたまらないんだよ」と返された。実に気持ちの良い食べっぷりは菊花たちや他の警察官にも伝染し、警察官になりたての頃よりも、胃が大きくなった。

具体的に言えば、スパゲッティ200g、白米1合が余裕で食べられるようになった。男性顔負けの食いっぷり。

 

確実に、エンゲル係数が上がった。

 

閑話休題。阿笠は菊花の言い方に頷きを何回か続けた。どうやら気持ちが通じたようだ。

 

「楠さんは分かっておる」

「揚げ物は正義ですね」

 

【美味しいものは脂肪でできている】……とは的を得ているフレーズであった。

ここに、揚げ物大好き同盟が誕生した。

 

灰原は冷めた目で、2人を一瞥し、また雑誌に目を落とした。

 

 

 

 

 

現在11時32分。上階で殺人事件が起きてから1時間と3分が経つ。

 

灰原の言葉通り、殺人事件はきれいに幕を下げたらしい。うなだれている女性が警察官と共に階段を降り、出入り口に向かっている。

あれが事件の犯人だろうなと、菊花は推測した。殺人を犯してしまうほどの激情を持つのは人間らしくもある。

 

受付で見かけた職員が「出入り口が解除されました。大変お待たせいたしました」と通る声で言った。

 

菊花は妙な姿勢をとり、「やっと帰れるみたいですね」と言った。彼女が取ったのは、両腕を90度に折り曲げ、バンザイの姿勢というもの。腕を普通にあげれば、火傷と鈍痛が響いてつらいためである。

 

「すごい人ね…」

 

灰原の言うとおり、出入り口には事件を聞きつけた野次馬と、帰ろうとする者たちで入り乱れ、なかなか外に出られる兆しが見えない。

 

「他に入り口がないか確認してみますか」

「そうした方がいいかもしれないのぅ」

 

菊花は院内図を確認しようと立ち上がった。

ちょうどタイミングよく3人の腹の虫が鳴った。一番大きく鳴いたのは菊花であった。

 

「コンビニ、近くにありましたっけ」

「イレブンストアがあった気がするのぅ。哀君、調べてくれんか?」

「ええ。分かっ……、ごめんなさい、電話が……」

 

スマートフォンが細かく振動した。灰原は2人から少し離れた所で電話を取った。

 

「もしもし」

《もしもし》

「あら、江戸川君。さっきはどうも」

《今、電話平気か?》

 

電話の主は、先ほどの少年・江戸川コナンだった。

菊花と話した時よりも、大分ぶっきらぼうで、子供らしからぬ口調である。それもそのはず、江戸川コナンは、工藤新一と言う有名な高校生探偵が中身なのだ。毒薬を飲まされて、なぜか体が縮んでしまっている。

 

灰原も同じく、中身は宮野志保と言う少女だ。彼女の場合は毒薬を自ら飲んで縮んでいる。お互いの正体を知っていて、ともにその毒薬を扱った組織を探っている。

 

灰原は言った。

 

「ええ。あなた、私をちゃん付けなんてするから寒気がしたわよ。槍でも降るかしら」

《バーロー!!あの女の人がいたから仕方なく、だよ!仕方なく!!あんなの俺のキャラじゃないって。…実は、お前に伝えておいた方が良いと思ってな》

 

コナンがやや強く言い返し、真剣な声音に変わった。

 

「メールで良かったんじゃないの?」

《いや、直接電話の方が早く伝わるからな。メールだと、これ聞いた時に顔に出るぞ。博士の近くにいるあの人に伝わったらマズいだろ?》

「まあ、それもそうね…それで?要件は?」

《バーボンがこの病院に来てんだ》

「バーボン、?!」

 

灰原の声色に焦りが入る。

バーボンといえば、以前ミステリートレインで対峙した男だ。まさかこんなところに来るなんて。

 

「どうして組織の人間が…?」

《楠田陸道という男を探してるんだと。お金を貸してたとか言ってたんだが組織絡みだよな、多分》

「ちょっと、江戸川君」

 

半ば、制するように、灰原は声を潜めた。

 

「組織の人間がいるかもしれないのに何を言ってるの!?」

 

《一応お前に伝えておこうって思って蘭たちに見つからないように抜け出してきたんだ》

 

ふくれるようにコナンが返したが、彼には少し心配の感情が、灰原には伝わった。

 

「そう……。見つからないうちに博士たちと病院を出るわ」

《ああ、じゃあな》

「あ、ちょっと!」

 

コナンはすぐに電話を切ってしまい、礼を言いそびれてしまった。待ち受け画面に、自分の顔が映し出され、灰原は顔色が悪いことに気が付いた。

 

脳裏に、胡散臭い笑みをたたえるバーボンが浮かぶ。あの件で、シェリーを殺したと思っているのを、コナン達から聞いているし、彼がアルバイトしている時間帯のポアロには行ったことがないので、自分とシェリーを結びつける可能性は低い。

 

しかし、ここで出くわせば面倒なことが起きることは灰原にとっても明確だ。どこか別の出入り口を早く見つけて出た方が良い。

 

 

 

 

 

菊花は先ほどの雑誌の続きを読んでいた。駅近くには美味しいお店が数多くあるらしく、行きたくなった。しかし、それを叶えるには、まず自分の怪我を整える方が先決である。

 

さっさと火傷を治して、阿笠達の元から離れようと思った。居候の身で物見遊山をするのは、2人に迷惑な行動であると、菊花は判断した。

 

 

「ごめんなさい、電話が来てしまって」

 

灰原が電話を終えたらしく、戻ってきた。彼女の頬はほんのりと紅潮していた。

 

「構わんよ。それじゃあ哀君も戻ってきたことだし帰ろうか」

「そうですね。あ、コンビニってどこにあるのかわかります?」

「ワシはあんまり覚えてないのぅ…。哀君チョチョイと調べてくれんか?」

手のひらの上で指を滑らせる動作をすると、灰原は、阿笠のお願いに了承しかけるが、目がいきなり大きく見開かれ、そして、顔色が変わった。

 

「灰原さん?」

「哀君、どうしたんじゃ」

「あ。何でも…、何でもないわ。コンビニだったわね」

 

一瞬でさっきまでの表情に変えたが、顔色は青いままだ。指先が白くなっており、震えが起きている。菊花は灰原の視線の原因を辿っていく。

 

すると、その視線の先には、子供が2人、大人が2人。子どもはコナンらしき少年と高校生くらいの少女、大人の方は色素の薄い髪色の男性とがっしりとした体型の男性だった。

4人とも、前を向いていて、顔を判別できないが、人のよさそうな雰囲気があり、灰原を怖がらせる原因は見つからなかった。

 

しかし、顔をこわばらせるということは、何か彼女との間にあったのかもしれない。そんな彼らと灰原を近づけるのは些かいただけない。

 

菊花は何かアイデアはないか考え、阿笠に言った。

 

「阿笠さん、ここって正面の玄関以外に出入り口ってありますかね?」

「このフロアのまっすぐ進んで右に曲がって、そのまま歩いた所にあるみたいじゃ」

「じゃあそちらの方を使いましょう。あのままでは通るに通れませんから」

 

菊花がそう促せば、2人とも反対せず頷いた。

 

 

 

別の出入り口の方は、菊花達と同じく使っている人が多かった。玄関の野次馬たちに辟易しているのだろう。大多数が疲れているような顔色だった。

 

野次馬に出会うことなく、すんなりとビートルを停めたパーキングエリアに戻ってこれた。体がロボットのような菊花が歩いても、なかなかの速さで到着できた。そして、精算機に駐車券を差し込み、退場した。

 

道路に出て信号待ちをし、阿笠が息をつく。

 

「すごい人じゃったのぅ」

「あんなにいるの初めて見ました」

菊花は相槌を打った。

 

「事件が起きていましたしね…。灰原さん、コンビニどうですか?」

「見つかったわ。イレブンストアがまっすぐ行ったところにあるみたい。大きい店舗だからビートルも停められるわ」

 

行きと同じく、灰原と菊花は後部座席に座った。スマートフォンに覗き込む形で、地図を見ればコンビニらしきマークが点在している。

 

「昼食代、私が支払いますね」

「楠さんに悪いわ」「さっき診療代払ってたじゃないの」

「病院まで送って下さったし、そのお礼をできていません」

 

手当などがちょくちょくついたお給料をもらっているし、そこまで散財をするような人間ではない。コンビニで沢山購入しても、懐がダメージが入るなんて微々たるものだ。

 

菊花が譲らないとみると、阿笠が「哀君、楠さんのお言葉に甘えよう」と言った。

 

「遠慮しないでどーんと買っちゃって大丈夫です」

「そう?」

「ええ!!」

 

菊花は、それこそ大船に乗ったつもりでと言いたげな顔であった。

コンビニに到着し、本当に菊花が宣言通りおごってくれたので、灰原はしっかりとおごられることにした。ちょっぴり高めのアイスクリームも一緒に。

阿笠は、ヘルシーさを銘打った弁当を。

 

菊花も思い切って、胸やけのことは気にせず揚げ物がたくさん入ったお弁当と、おにぎり2つ、パスタサラダを購入した。

 

コンビニで大人買いするのは結構楽しいのである。

 

 

 

 

 

阿笠邸に到着した。お昼を過ぎて、13時ごろに到着した。菊花は、ゆっくりと立ち上がり、ビートルから出た。車を降りると、アスファルトが反射してまぶしい。

 

「買い物したもの先に持っていくわね」

「あ、お願いします」

「楠さんはゆっくりでいいからの」

 

先ほど買った袋にはアイスクリームなども入っているので、ありがたい。車のカギをかけ、忘れ物がないか確認した後、すこしだけ遅い足取りで阿笠邸に入った。

 

玄関を開けると、扇風機のファンの音が聞こえてきた。2人はお弁当を温めたり、飲み物の準備などと、準備をしていた。菊花もお手伝いをしようとしたが、灰原の「そのまま休んでて」と言われてしまい、手伝いそびれてしまった。

 

「すみません。あの、手を洗いたいんですけど、洗面所はどちらに?」

「こっちにあるから案内するわ」

「有難うございます」

 

灰原に案内されるまま、洗面所に到着した。「手を洗い終わったらそちらに行きますね」と述べ、菊花は灰原の足音を聞きながら、手を洗った。

 

腕をまくると、赤い熱傷のあとは浮き出ていて、グロテスクな様相だった。

しっかり治ると聞いても、少し不安である。グルグルと腕を回す。痛さと熱さがまざって不快感が強い。菊花は考えていた。

なぜ、自分はこんな怪我を負ってしまっているのか。椅子に座っているとき、あの時はどこかで爆発音が聞こえていない。じゃあ未来の日本に来たときにできたものか?もし殉職していなかったら、12年後の自分は過去のあの時に行ってしまったのか?それとも。

 

「死んだらどこにゆくんだろうね」

 

菊花の呟き、その答えを知っているのは神様だけだ。ふわふわのタオルで水を取り、キッチンに戻る。

 

すでに、お弁当のにおいが漂っていて、一層大きくお腹が鳴ってしまった。

 

 

 

 

 

食べ終えると、火傷の箇所が疼く。

最近は怪我をしていなかったので、包帯を巻くのは久しぶりで、慣れておらず、何回も失敗する。

 

見かねた灰原がきれいに巻くのを手伝ってくれた。

 

「ありがとうございます」と菊花が礼を言うと、「別に」と横を向かれてしまった。耳の端がややオレンジ色に染まっている。

 

言葉が淡々としていて分かりにくい子だと思ったけれど、人のいい子なのだな、と菊花は笑った。

 

 

 

 

 

玄関のチャイムが鳴った。

 

「ワシが見てくるよ」

 

阿笠がインターホンを確認し、少ししてからこちらに戻ってくる。

 

「沖矢君じゃ」

「絶対また肉じゃがだわ」

 

灰原は口を一文字に結び、何とも言えない表情をした。おきや。どのように書くのか。珍しい苗字だ。沖屋かな?

灰原のことを「哀君」と呼んでいる例があるので女性かもしれない。

 

「あの、おきやさんって…?」

「隣の家に居候中の院生よ。家が燃えたんですって」

 

うさんくさい、と言う彼女は、あまりその"おきや"という人物を好んでいないらしいようだ。

 

隣人に挨拶すべきか迷っていたが、灰原がさっと立ち上がり、

「楠さん、私と一緒に上の階に避難しておきましょ」

と、言って、菊花が休んでいる部屋に向かった。

 

菊花は、少し驚いて、「え?私挨拶した方がいいのでは……?」と言った。

 

 

しかし、灰原は「あとでいやと言うほど話すから」と言った。

 

さあ、と家の住人に催促されたなら仕方ない。どんな人物なのか気になるが、ここは2階に上がっておく。

 

「博士、彼が帰ったらメールして」

「分かったぞ」

 

灰原と菊花が上階に上がったのを見届けてから、阿笠が沖矢を招き入れた。灰原の予測通り、圧力鍋を持って立っていた。

 

 

「阿笠さん、こんにちは。また肉じゃがを作り過ぎちゃったのでおすそ分けに伺いました」

「哀君の予想通りじゃったな…」

「どういうことです?」

「いやいや、こっちの話じゃ。気にせんでくれ」

「そうですか。中に入ってもよろしいですか?」

「構わんぞ」

 

阿笠に了承を得られたので、いつものように、沖矢が靴を脱いだ。しかし、「おや?」と何かを見つけたようなことを呟いた。

 

「どうしたかね」

 

 

沖矢が目ざとく見つけたのは、女性もののパンプスだ。阿笠の家には、家主の阿笠と灰原という少女だけ。仮に、灰原がパンプスを使うにしても、大きすぎる。誰かがこの家に来ているのだろうか?

 

なんとなく気になってしまい、阿笠に声をかけた。「阿笠さん、お客様でもいらっしゃるんですか?」

「い、いやここにはおらんぞ」

「ここにはいない?」

「あ、今出かけてるんじゃよ!!買い物をお願いしておってのぅ〜」

 

 

明らかにうろたえていた。それは分かりやすく。

 

「それに哀さんもいらっしゃらないとは……」

「2人で買い物に出かけておるよ」

「買い物に出かけてるとのことですが、こちらのパンプスは?」

 

 

沖矢は阿笠に笑いかけた。

 

阿笠と灰原にしてみれば、沖矢が来ることなど頭の中から抜けていて、菊花の履いていたパンプスをしまい忘れていたのだ。

 

「もし戻って来られるのなら、ご挨拶した方がいいですね。哀さんと連絡取れますか?」

「あ、ああ。携帯を持たせているから可能じゃよ」

 

今、連絡するわい。阿笠はそう言って、携帯電話を起動して、メールを打ち始めた。その間、沖矢は女性がどのような人物なのか考えていた。

 

……ローヒールなのにかかと辺りが結構削られている。外勤が多い?営業の仕事をしている?汚れはあまり目立っていない。手入れをよくしているのか。結構高めの革靴……。これ、7万以上するやつか。以前ジョディが欲しいと叫んでいたメーカーだ。

ともすれば、この持ち主は靴にお金をかける人間。

 

……プレゼント?それとも自分で購入した?日本で、靴にお金をかける女性は珍しい。どんな仕事に就いているのか。

 

沖矢の疑問は少しずつ膨れた。

 

 

 

 

 

 

 

部屋に戻ったあと、少しだけ話の話題として、灰原に身の上を聞かれ、菊花は、【楠よしの】の今までを答えた。

 

楠よしの。

名前はひらがなで≪よしの≫。両親が植物を育てるのが趣味で、また2人とも桜が好きだったので、ソメイヨシノから拝借。一人っ子。神奈川県出身・東京都在住のOL。

 

大学時代は、現代アジアについて学んでいた。新卒採用された会社で3年働いて家具メーカーに転職。現在は課長職に就いている。

好きな食べ物は高菜とんこつラーメンと、スフレパンケーキ。

 

 

「営業と言ってもセールスをするわけじゃないんですよ。顧客になにか困っていることありませんかーって聞いたり、橋渡しをしたり」

「1番やりがいがあったのは?」

「大企業さんの相手をした時かなぁ。成功したら上司が高級寿司屋に連れて行ってくれるって言うから頑張りました」

 

これはすべて菊花の経験ではなく、【楠よしの】の経験だ。よしのの設定を練る時に、原には随分と助けてもらった。「花の名前使おう」「そこはツメが甘い」「一人っ子ならこういう関係だろう」「大学時代の専攻はお前がやってたことの方が真実味がある」「営業だったら御園に声をかけてみ? 面白い経験を教えてくれるぞ」…など。

 

重箱の隅をつつくようなことを言われまくったが、その細かすぎるアドバイスは、架空の人間のリアリティをもたらした。また、同僚にも、原と同じく細かい指摘を受けた。みな平等に多忙であったのだが、この作業は、なかなかに楽しい。設定を盛りすぎて理事官に「この設定は……小説にでも使うのかい?」と苦笑されたりなどという出来事も起きた。

 

灰原は、【よしの】の話を静かに聞いていた。時折相槌なども打つが、あまり菊花の話の邪魔をしない。とても聞き上手だ。

 

「食べ物で釣られる割合が高いのね」

「!! 言われてみれば」

 

「……」

 

 

無言の空間と化した時、携帯電話が軽く震えた。

灰原が確認をすると、メッセージか何かを読む度に険しくなっていくのが見えた。

 

どうしたんですか?灰原さん。

 

「……また来たのね」

 

はぁ、と、灰原は深いため息をつく。菊花が見せてもらったのはチャット形式のものだった。

阿笠から、『沖矢さんが帰ってくれん。楠さんのことを気にしておる』と、可愛らしい顔文字と共に書かれていた。おきやってこんな漢字なのか。惜しかった。普通に沖屋だとか置屋系だと疑わなかったんだけども。

 

「しかも、私達が買い物に行っているとか言ったみたいなの」

 

灰原は口を一文字に結んだ。病院で見せた時とは違っていたが、こちらは心底面倒くさそうな顔だ。

灰原は自分の感情を読み取られにくいと自負しているようだが、感情の機微に聡い菊花にしてみれば、難易度は高くない。

 

「顔だした方がいいみたいですね」

 

菊花は【楠よしの】らしい笑顔で応えた。

 

 

 

 

 

沖矢という男性は、テレビの前に置かれているソファーに座っていて、2階から降りてくる2人を見ると、阿笠の隣に立とうと近づいてきた。そして、人の良い笑みを浮かべた。

 

「こんにちは、哀さん」

「どうも」

 

挨拶を返されたが、灰原は至ってクールな調子のままだ。ぶっきらぼうに返答したともいう。しかし、沖矢は気に留めていない。

 

菊花の方にも顔を向け、

「はじめまして。私は沖矢昴と申します」

「楠よしのと申します」

 

菊花は恭しくお辞儀をして、沖矢と握手をした。すると、沖矢は言った。

 

 

「あなたは武道がお得意のようですね」

「へ?一体どうしてそれを?」

 

と、菊花は返した。

 

「楠さんは怪我をされているようですが、重心のかけ方や、少しだけ相手と距離を置いて、相手を短く一瞥してから、私と握手をされていましたから。憶測で言ってみたんです」

「はー、なるほど」

 

大いに当てられて驚かされた。憶測なのにバッチリと正解している。観察眼が恐ろしくある男性だ。

 

「まるで探偵みたい」

 

 

沖矢は照れくさそうに頬を掻き、

「シャーロックホームズが好きなだけですよ。探偵だなんて恐れ多い…」

「沖矢さん、悪いけどなんの御用?」

 

灰原が二人の会話に割り込み、質問をぶつけた。

 

「肉じゃがを作りすぎてしまったので、それをおすそ分けに」

「おすそ分け。最近多いわね」

 

灰原は台所にあった鍋に目を向けた。

 

いつも沖矢が、こちらに持ってくる鍋だ。1番最初に持ってきたものはひどく複雑な味であったが、最近色々と料理スキルが上がってきたらしく、結構普通の美味しい肉じゃがに変化してきた。

 

灰原は、あまり賞賛を送るということをしないので、彼の料理を美味しいと確実に言ったことはない。

 

「今日は料理研究家の方が出していたレシピですから美味しいと思いますよ」

「最初の頃に比べたら結構まともそうだわ」

 

灰原は鍋をのぞき込んで言った。

 

「沖矢さんって料理をするのがご趣味なんですか?」

 

菊花が問いかけた。

 

「一人暮らしだと外食で済ませがちなので……。健康のために始めたんですよ」

 

「あとで夕食として頂くとするかの」

「あ、私ちょっと頂きたいです。よそっていいですか?」

 

菊花が手を上げる。

火傷を負っているため奇妙な上げ方になった。

 

「お腹痛くない?」

「まだ余裕ありますよ。沖矢さん頂きますね」

 

阿笠に食器の位置や場所を一通り教えてもらったあと、沖矢の肉じゃがを少しだけもらった。

 

レシピは流石研究家というべきだった。誰が作っても具材はしっかりと染み込んでいて、美味しいタイプのやつである。

ジャガイモのほくほく加減がちょうど良く、ほろりと口の中で崩れていった。

 

ひとしきり食べ終えたところで、菊花が言った。

 

「汁なしの肉じゃが、初めて食べました」

「美味しく作れたようでよかったです」

 

沖矢は破顔した。

小さな探偵たちからは、なかなか手厳しい評価を貰うので、菊花のように素直に褒めてくれる人は久しぶりである。

 

「昴さん、そろそろ戻ってくれる?」

 

少しだけブリザードが吹きそうな声量で、灰原は沖矢に阿笠邸から退出するように促した。

 

「ああ、すみません。長居してしまいましたね」

「お鍋はこっちで持ってゆくから大丈夫じゃ」

「ありがとうございます。ではまた」

 

沖矢の足音が遠のいたのを聞くと、灰原はしかめ面で言った。

 

「…博士、なんで私たちが買い物に行ったとか嘘を言ったのよ」

「だってのぅ、哀君。沖矢君が肉じゃがおすそ分けに来るとは思わんじゃろ?」

 

「迂闊だった……」

 

灰原はため息をついた。そして「博士、コーヒー淹れてくる」と言って、

 

肉じゃがが美味しかったというのが1番の感想になるが、

 

 

 

灰原さんはお疲れの様子である。

 

「私もお手伝いしますよ」

 

灰原がコーヒーミルを取り出し、豆を黙々と挽いた。少しの会話と無言が交わるお茶会であった。

 

 

 

 

 

 

 

沖矢はアメリカーノを入れた。このコーヒーのレシピはFBIに入局して間もないころに、同僚に教えてもらったものである。それに口をつけながら、先ほどの風景を思い浮かべた。

 

思ったより普通の一般人だった、というのが沖矢の初見であった。身なりが貧しいとかではなく、本当にそこらの道を歩いていそうな、印象があまり残らない女性だった。

 

彼女は怪我をしているのか体の動きがぎこちなかった。しかしながら、見た目からは連想できなかったが、武術に明るいようで、相手をよく観察しているように見えた。

 

かなりあてずっぽうではあったが、武術に心得があるのかと問えば驚いた顔もしていた。その武術が、自身と関わりの深い截拳道であるのか、はたまた古武道のようなものなのか。

 

沖矢は気になるが、小さな少女の行動によって、それは聞かずじまいであった。

 

沖矢は、阿笠邸を見やった。

邸宅の中の様子を確認できないが、先ほどの彼女の怪我の状態を見るに、直ぐにでも治癒できる状態であるが、いくらでも接触する機会もある。その間、今日みたいに会える確率も高い。探偵と言われたならば、遺憾なく発揮させてみようじゃないか。

 

沖矢…もとい、赤井秀一は思った。



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公安刑事、第一発見者となる

更新が大変遅くなってしまってすみません。拙作のお気に入り追加、しおり、感想ありがとうございます。

オリ主(染井菊花、別名は楠よしの)は公安総務課に所属する刑事である。意識がブラックアウトして、2018年の日本にやってきてしまった。自分を拾ってくれた阿笠博士と灰原哀の家にて、お世話になっている。最近、スマートフォンを触ってみるものの、多機能すぎてついてゆけないらしい。


休日が瞬く間に終わり、一週間が始まってゆく。

 

社会人は勿論、学生諸君も気分が下降気味。どこかの団体が調べた情報によれば、月曜日はブルーマンデーと呼ばれ、精神衛生上最も良くない曜日なのだという。

 

時刻は午前6時10分。菊花は目を覚ました。見覚えのないものが多く、一瞬、どこに自分がいるのかという考えが浮かんだが、すぐにそれは消え、自分が未来の日本に来たことを思い出す。

 

そうだ、昨日、寝かせてもらっていた部屋と同じ部屋だった。

 

彼女は大抵この時間帯に起きてしまう。無意識のうちに彼女の脳がインプットしているのだ。

不規則な生活を送っていても、それが習慣づいてしまえば変わることはない。

筋肉痛は和らいでいるようだった。医者に処方された薬と睡眠が効果を表したらしい。しかしながら、腕を回す時にヒリヒリとした感覚が残っている。

 

菊花はベットから身を起こして、天気予報をやっている番組はないか、テレビの電源を入れた。ちょうど、つけたばかりの番組で天気予報のコーナーが放送していた。

 

『首都圏の天気です。本日は雲ひとつない晴れ晴れとした空が見えるでしょう。気温も19度と高いところが多いようです。続いて、紫外線情報です。本日は……』

 

 

「楠さん、起きてる?」

「おはようございます。灰原さん早いですね」

 

壁にかけられた時計の長針は、6時40分を指していた。

 

「今週は朝の日直なの。体はどう?」

「こんな感じです」

「良くなってるみたいね。朝ごはん作ったけど食べるかしら」

「空いてます」と即座に反応を返した。

 

昨日、あれだけ食べたが、やはり生きていると腹は減る。

胃もたれを心配していたが杞陽だった。食欲は、人間の大事な生命のサインだ。

そのまま、菊花は灰原の手を借りて立ち上がった。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

2人は階下に降り、菊花はそのままテーブルに座らせられた。

 

「コーヒーでいいかしら」

「あ、すみません。こちらでお世話になってるのに…」

 

「気にしないで。昨日も言ったことだけど」 と、灰原は一呼吸おいてから、「楠さんは怪我を治すべきなんだから」と続けた。

 

灰原の言い分は最もだ。怪我をしている人間が手伝うと言ってきても、どの仕事を振れば良いのか悩んでしまう。しかも相手は火傷の激しい人間。何をするにもスローペースかもしれない。

 

「そうですね……。すみません、阿笠さんはまだ起きていらしてはないんですか?」

 

菊花はやや気恥ずかしくなり、姿の見えない阿笠についての話題に変えた。

 

「寝てるわ」

「そうでしたか」

「朝方まで夜更かししていたみたい」

 

そのまま、灰原は菊花の手元に食パンやコーヒーを置いた。コーヒーのいい香りが漂っている。目玉焼き、ベーコン、サラダ、トースト。どこでも見かける朝食の基本セットであった。

 

「珈琲入れちゃったんだけど平気?」

「平気ですよ」

 

渡されたコーヒーのカップに、砂糖をいくつか流し入れ、ゆっくりとかき混ぜた。

牛乳と混ざり合い、綺麗な色合いのカフェオレに変身してゆく。

 

『いただきます』

 

社会人となり、一人暮らしを始めて数年。誰かと朝食を食べるのは久しぶりだ。

張り込み、潜入、その他の事件を担当していた時は飲み込むように手早く終わらせて、職務に戻る割合が多かった。

 

「遅刻されると言っていましたけど、灰原さんは何年生なんです?」

「小1」

「へ、いち!?あ、えええ?!」

 

思わず咳き込んだ菊花に、灰原は水を手渡し「そんなに驚く?」

 

「だっ、だって!!は、灰原さんの話し方が大人っぽいですもん」

 

菊花は、灰原を小学校三年生または四年生あたりだと思い込んでいた。灰原の落ち着いている雰囲気も思い込みを加速させた一因だった。

 

「灰原さん、よく大人っぽいと言われないんですか?」

 

「よく言われる」

「は、はぁ……」

 

灰原は冷静だった。彼女の、意にも介さないところがまた大人びて見えた。

ふと、灰原と同じ年齢だった時の自分を少し思い出してみる。どんな自分だったろうか。

 

自分は野山を駆け回る野生児のような生活をしていた。

 

菊花に、田舎に住んでいたのかと尋ねれば、答えは否という返事が返ってくるだろう。

当時まだ、都市開発が進んでいなかったのだ。そのため、友人達と用水路でザリガニを釣ってたり、蛍の鑑賞会をすることが可能であった。菊花が高校に上がる頃には、それらの風景は少なくなった。

 

「もしや都会育ち…」

「普通の町で生まれ育ってる。あと敬語はいらないわ。私の方が年下なんだし」

 

クールな灰原の声で、現実に意識を戻す。

 

「あー、了解です……間違えた。わかったよ」

「よろしく」

 

菊花は、常時敬語を崩す機会が少ない。周囲にいるのが自分よりも二回りも離れた男性たちが多く、同い年や年下の友人・部下がいないからだ。しかしながら、彼女のようにフランクに話してくれと頼まれれば、素直に応じる。

 

以前、網谷にも言われたことがあり、彼にも同年代のような気持ちで対応をとっている。当然、上司である原にそのような言葉遣いであったら、「社会人らしい言葉遣いに直せ」と言葉が飛んでくるに違いない。

 

 

朝食を食べ終え、菊花が何杯目かのコーヒーを飲むと、阿笠が顔を見せた。

 

「おはよう二人とも」

 

阿笠が私服で現れた。本日は明るめの緑色のTシャツ、ジーンズ、スリッパを着用している。

 

「おはようございます」

「おはよ。博士、起きてくるの遅すぎ。ご飯冷めちゃったわよ」

「すまんすまん。徹夜で発明品を仕上げておったんじゃ」

「まったく……」

 

灰原は呆れ顔だ。

 

「私、身支度をしないといけないから自分であっためてね」

「了解じゃ」

 

阿笠は朝食を温めながら、「哀君、よく起きたわい」

「日直らしいそうですよ」

「なるほどのう」

 

コーヒーを一口含み、

「うまい」

「私も先程頂きましたけど、淹れるのがお上手ですね、灰原さん」

「わしが教えたわけじゃないんじゃよ」

「へぇ、そうなんですか!」

「哀君はまだまだ子供じゃ」

 

ゆるりと、阿笠は首を横に振った。

 

「雰囲気は小学生というよりも中学生に近いですよ、彼女。小1だと知って、喉にパン詰まりかけましたもん」

「そこまで驚くかの」

「存分に驚きましたね」

 

菊花は笑った。

 

「楠さん、ワシの服じゃとデカすぎないかね?」

「髪ゴムで結んでいるので丈は普通なんですけど」

「哀君と一緒行った方がいいかもしれんな」

 

阿笠から借りたシャツはぶかついてしまっている。

洋服を買うとなれば、肌着やその他の凡庸的な服も必要になるだろう。

 

「そのときはお願いします」

 

「もう出るわねー二人とも」

 

玄関で灰原の声が聞こえ、菊花がドアからそちらに顔を出した。ランドセルは、彼女よりも大きく、ややアンバランスであった。

 

「車などに気をつけるんじゃぞ」

「分かってるわよ」

 

阿笠と菊花が玄関で見送る。

 

「部屋に戻ろうか」

「はい」

 

医者から処方された薬は、台所のフックに置かせてもらってある。

 

朝の分を飲み終え、菊花は思案した。

この時間のテレビはニュースよりもワイドショーが多く流れる。あまりあてにはならない。

それならば、新聞や雑誌で集めるのが妥当だろう。

 

「阿笠さん、新聞ってとっています?」

「日売新聞を取っておるよ。持ってこよう」

「ありがとうございます」

 

阿笠は、玄関のボックスの中にあった新聞を持ち、菊花に渡した。

 

「何かあれば声をかけとくれ。ワシは自分の部屋におるから」

「はい」

 

朝刊の一面には政治関係のものが多く、全体を軽く目を通すと、見覚えのある名前を見つけた。

 

「!!」

 

 

【神々の道本部にて発砲事件が発生】

 

 

それは、菊花が潜入していた宗教団体に関する記事であった。

 

発砲した犯人は、幹部リストに名前を連ねる女の名前が載っている。幸い死者は出ていない。記事の内容では、女が事件を起こした後、不祥事がいくつか見つかったようで、強制捜査がすでに行われたらしい。

 

続いて、昨日見た男性のインタビュー記事が乗っていた。

 

なるほど、この男性は毛利小五郎と言われる有名な探偵らしい。オールバックとちょび髭がトレードマークのようである。毛利の顔つきから、スマートな印象を見受けた。

探偵といえば、菊花のいた頃の日本では、退職した警察官や警備官が運営しているケースがあった。

 

この毛利という男性も、警察官を退職してからであったら。

何か手がかりなどを手に入れられる可能性は?

 

(いや、それは早計だわ。今の日本の状態を知ってからにしよう)

 

みなが知っている情報を知らないとなれば、それだけで痛手だ。

原や網谷と同程度の記憶力は持っていないが、いち公安刑事としての能力は有しているし、短期記憶であれば、彼らよりは優れている…と思いたい。

 

 

 

 

 

 

数時間後、帝丹小学校にて。

 

クラスメイト達の甲高い声が、江戸川コナンの耳に響く。それが原因とは思いたくないが、脳内に鈍痛が広がっていた。たぶん、睡眠が足りなかったのだろう。

 

「じゃあ今日はここからここまでの範囲を解いてきてね~」

『はあーい』

 

 

『きりーつ、れい!!』

 

 

いつもと変わらぬ諸注意を言い渡されたり、どの宿題が出されたのかをメモしておく。担任の小林先生から、絡帳を渡されたが、それに書き込むよりも、大学ノートなどに書いておいたほうが見やすい。

 

幸運なことに、今週の掃除当番は担当ではなかったので、ホームルームが終わり次第、コナンと灰原は廊下を歩いていた。

 

 

いつもよりも眠そうにしつつも、機嫌の良いコナンを見て、灰原が口を開く。

 

「眠そうね」

「んー、ああ。気になってた推理小説がようやく発売されたから読むのが止まらなくてさ」

「夜更かししてしまったと。まったく、貴方らしいわね」

 

「待ってぇぇ!!」

「ん……?」

「この声、吉田さんね」

 

振り返れば、そちらには、友人の吉田歩美と、後ろには円谷光彦、小嶋元太がいた。

 

「二人とも、早く歩きすぎですよー」

 

彼女達はコナンを少年探偵団に誘った子供達である。元太は汗を拭い、呼吸を整えた。

 

「はあ……はあ、はぁ!!!やあっと追いついたぜー」

 

じろりと灰原はコナンを睨む。

 

「江戸川君の足が速いから歩美ちゃん達を置いてっちゃったじゃないの」

「そんなに睨むなよ、灰原。ったく……歩美ちゃん、光彦、元太。置いてってごめん」

 

「哀ちゃん達に追いつけたからいいよ! それより、今日博士んちに遊びに行ってもいい?最新のゲーム機ができたって言ってたよね!」

「(そういえばそんなこと言ってたわね……)ごめんなさい、ちょっと今日は難しいかも」

 

「えー!!そんなぁ…」

「ずりーぞ!!コナン達だけで楽しむんのかよぉ?」

「バーロー。俺も初耳だっての」

 

「珍しいですねぇ……博士にお客様でも来ているんですか?」

「まあそんなところ」

「博士にお客さんとか来んだな!」

 

灰原の言葉に、コナンはあの女性……楠よしのを思い浮かんだ。灰原は、彼女と一緒にいたが、預かっているのだろうか?

 

「なあ、灰原……」

「いくら江戸川君でも御遠慮願うわ。博士に用事があるならまた今度ね」

「ちえっ、バレたか……」

 

コナンの考えは、灰原にお見通しである。

 

 

 

 

犬の散歩をしている人や母親と見られる女性達がお喋りをしていて、街にはゆったりとした時間が流れている。コナンたち少年探偵団は、人通りの多い商店街の中を下校していた。

 

歩美達が珍しく、灰原の言葉を素直に聞き、自分の家に帰ることにしたのである。いつも皆が分かれる交差点まで到着すると、歩美が左の道へ向かった。

 

「じゃあまたねーコナン君、哀ちゃん」

「ええ、また明日」

「車に気をつけろよな、オメーら」

「分かってますよコナン君!!」

「またな!!」

「おう、またなー」

 

三人の姿が遠くなるにつれ、コナンが言った。

 

「……灰原、やっぱ博士んちに入るのダメか?」

「さっきも言ったでしょ。ダメなものはダメ、なの」

 

「そうは言ったってよー」と、コナンは不満げな声を上げた。

「絶対に入れないから」

 

コナンは見知った人物が阿笠邸にいるのが見えた。

 

「へいへい……ん?おい、灰原」

「何よ」

「あそこにいるの、よしのさんと沖矢さんじゃねーの?……あ、おい!!」

 

突如、灰原はコナンを置きざり、阿笠邸の門をすばやく開け、玄関まで一走りをしてゆく。彼女の行動に、コナンは目を丸くさせ、自身も灰原を追いかけるように小走りで駆ける。

 

「いきなりどうしたんだよ、お前」

「昴さんがいたから、ついね。工藤君も入っていいわ」

 

コナンは玄関の扉から顔を覗かせて、

「おい、俺のこと入れないって言ってたんじゃねーの?」

「ああ。それ前言撤回するわ。もう面倒くさいし」

「はは……」

 

コナンは半笑いを浮かべ、自分も靴を脱ぎ、阿笠邸に上がった。

強くドアを開くと、同時に、紅茶の香りが鼻についた。蛇がカエルを睨むような、糸を張りつめた緊迫感は感じられない。

 

「おかえりなさい。灰原さん」

「おお、哀君おかえり」

「お早いお帰りですね」

「た、ただいま……」

 

阿笠・菊花・沖矢は、それぞれお菓子をつまみながら何かを話していたようである。灰原は、自身の予想が外れたことに安堵しながらも、彼らの元に歩み寄った。

 

「いつ通りだと思うけど。それより、昴さん、何でまたうちに……」

「偶然、伺っただけですよ。あとは新作の本を阿笠さんにお渡しにきたんです」

「新作の?」

 

灰原の眉が、ぴくりと上がる。

 

「ワシが頼んでいた発明関係の本じゃよ」

「あと、沖矢さんがおすすめの本を教えてくれてた」

 

ほら、と、菊花が手元の本を掲げた。

『シャーロック・ホームズの冒険』『恐怖の谷』『クリスマスのフロスト』……ほとんどが推理物ばかりである。他ジャンルの小説もあるが、そちらは不気味で妙ちくりんな挿絵が入っている。ハワード・フィリップス・ラヴクラフト著『クトゥルフ神話』。

 

「読み終えられるのがすごく早いですよ、楠さん」

 

沖矢はそう言って、セイロンティーを飲み干した。偶然という言葉が似合わぬ男だ。大方、工藤邸(あちら)から見ていてタイミングでも計っていたんでしょ。と、灰原は思った。

 

「今読んでたのって『緋色の研究』?」

「君は昨日の。えーと、江戸何君だっけ」

「江戸川コナンだよ。こんにちはー」

「こんにちは」

 

江戸川か。江戸までは思い出せたが惜しかった。珍しい名字だ。

 

「よしのお姉さん、怪我は平気?昨日は、すごく辛そうだったから心配してたんだ」

「だいぶ良くなったんですよ。お医者さんのおかげですねぇ。ご心配ありがとうございます」

 

菊花の言葉と裏腹に、彼女の胸中には、波が立っていた。コナンとは少ししか話さなかったのだが、あの時の空気感から、何やらあまり関わらない方が良い、と脳みそが語りかけているような気がしてならない。やばい案件に突っ込まれるぞ、と。

 

残念ながら、今、灰原や阿笠に助けてもらうのは難しい。とりあえず、『菊花』としてではなく、『よしの』としての自分で応対をする。

 

「江戸川君はシャーロック・ホームズ、お好きなんです?」

「うん!!すっごく大好き。お姉さんはどの作品が好きなの?」

「私はまだ読み始めたばかりですから。選ぶのがちょっと難しいかな」

「ええっ!?お姉さん、読んだことなかったの?!」と、コナンは大きく驚いた。彼にとって、コナン・ドイル作品を読まないというのは衝撃だった。

 

彼の頭の中には、探偵=シャーロック・ホームズの図式が出来上がっている。

 

「現代ものばかり読んでいましたから。最近だと……そうだなぁ、……鉄鼠の檻、だったかも」

「京極夏彦氏の作品ですか」

 

沖矢も入ってきた。

 

「ええ」

「分厚いってどれくらいなの?」

「ちょうどこれぐらいですよ」と、菊花は親指と人差し指で示した。

 

「それって高さ?」

「コナン君、違いますよ。楠さんは横の長さを言ったんです」

「え?!」

「そんな分厚いと製本するのが大変そうじゃのう」

 

京極夏彦氏が執筆する『百鬼夜行』シリーズはページ数が極めて多いのが特徴である。特に、先ほど、菊花が読んだという『鉄鼠の檻』は、1000ページを超える。主に本格ミステリーに籍を置くが、オカルト的要素も交えた推理が展開されていく。中々斬新で、読むのが止まらない。

 

「随分楽しそうね」

 

灰原がコーヒーカップを持ち、立っていた。

 

「昴さんのおすすめの本は?」

「私もコナンくんと同じくシャーロック・ホームズですが……。どれがお勧めかと言われると悩みますけれどやはりホームズがおすすめしたい」

「ワシはブラウン神父シリーズじゃ」

「今度読もうかな…」

 

「沖矢君。そろそろ、あれを出すかね」

「ええ」

 

沖矢はそれまで開いていた文庫本を椅子に置き、阿笠と共に台所へ向かって、何かを取り出す。こちらに戻ってくる際、沖矢はホーローの容器を持っていた。

 

「なあにそれ」

 

「ティラミスです。上手くできたので、皆さんに食べていただきたかったんですよ。阿笠さんも食べられるようにヘルシーに豆腐を使った生クリームです。哀さん、ご心配なく」

「お気遣いどうも。博士、食べるスピードは抑えてね」

「分かっておるよ。あとは、コナン君も手を洗ってきたら皆で食べようか」

「いいの?博士」

「探偵団の皆は残念じゃが、偶然、来たからの」

「わーい!!やったぁ!!」

 

コナンが手を洗いに行っている間、沖矢はティラミスを分け、阿笠と灰原は皆の分の飲み物を用意する。菊花は、小説を読み進めた。

 

コナンが直ぐに戻ってくる。

 

「じゃあ揃ったということで……いただきます」

 

「いただきます」

 

ティラミスにかかったココアの香りがとても良い。菊花がスプーンで小さく取り、口にした。さて、いかほどのレベルであろうか?

 

「……美味しい」

 

ぽつりとコナンが言った。

 

口の中で、生クリームがゆっくりと溶けていく。さっぱりと、しかし、濃厚さもある。溜まっていた疲れがゆっくりと流れていくようだ。

 

「コーヒー、しっかり染みてますね。良かった」

「久しぶりの甘いものじゃ……染みるのう」

「まあまあね」

 

阿笠は嬉しそうにしていた。灰原はそっけないが、顔が緩んでいる。

 

全員が、無言で食べ進めてゆく。

1番早く食べ終えたのは菊花だ。2杯目を所望すると、沖矢がお代わりを載せてくれた。

 

うまい。甘い。

いくらでも食べられる。ティラミスは大きくて食べごたえがあるも、すぐに菊花の胃袋に消える。

 

「まだまだ残りはありますから、ご安心ください。皆さん」

 

沖矢はホーローのバットに残るティラミスを見せた。全員で食べたにも関わらず、半分以上残っている。数十秒前にも、また、菊花が食べ終えた。じっと、ホーローを見つめる。

 

「……もう少し頂いても?」

「私は構いませんが」

「灰原さん……」

 

菊花は灰原の方に視線を向ける。

 

「夕飯入る程度にしといたら」

 

「やっぱり食べます!!」と、菊花は4杯目のティラミスを堪能し始めた。

 

灰原はやや呆れ気味、コナンは顔をひきつらせ、また、阿笠は羨ましそうに、そして、沖矢は表情を読み取れないながらも、口元に微笑みをたたえて、菊花を見た。

 

「よしのお姉さん、よくお腹に入るね」

「甘い物は別腹ですから」

 

菊花の顔も、例に漏れず緩んでいる。

 

「無理はしてないですか?楠さん」と、紅茶のお代わりを持ってきた沖矢に言われた。

 

「いえ全然!!沖矢さん、初めて作ったと仰っているのにすごくお上手ですよ」

「やっぱりレシピ通りに作る方が成功しやすいみたいね。どのサイトのやつ見た?」

「クオーコというサイトです」

「海外のサイトなの?それ」

「イタリアの料理サイトですよ。やはり本場のものが使いたかったもので」

 

灰原と沖矢がレシピの話を進める中、ほかの3人はティラミスを堪能した。

 

阿笠が「楠さんは中々大食漢じゃな」と言ったので、菊花は「同期の影響もあります」と返した。コナンからは、灰原と同じく、敬語を使うのは辞めてくれと頼まれ、「よしの」に近い「菊花」として。

 

「よしのお姉さんは甘いもの好きなんだ?」

「特別甘いものがすきってよりも食べること自体が大好きと言うかなんというか」

「そうなんだね。僕も今度、よしのお姉さんにお勧めの本渡すよ」

「できればそこまでグロテスクなやつじゃないとうれしいかも。ありがとね」

 

中々読み応えがありそうだ。

 

 

 

 

夕方、阿笠邸での読書会は閉会した。開催中、お勧めにされた本は、そのまま沖矢が貸してくれた。彼が居候している家の主人は、本を貸すのも快く承諾してくれるという。菊花の食べっぷりを見て、沖矢が「楠さんが召し上がってください」と言い、冷蔵庫にしまっていった。

 

「また作って持っていきます」

「今度は普通の生クリームで作ってくれんかの」

「博士、もう少し体重落としたらいいわよ。普通のやつ」

「ひええ……哀君、そんな殺生な」

 

そんなやり取りをしたのち、2人は自分たちの住処へ帰っていった。ゴミなどをまとめる係は菊花が担当しておく。

 

「まだ早い気もするんじゃが二人とも、今日の夕飯はどうするかの?」

「私はさっきのでおなかいっぱいだしやめとくわ」

「私も遠慮しておきます」

「2人がそうならわしもやめておくよ。しかし沖矢君のティラミスうまかったのう」

「意外な才能よね」

「凄くお料理上手で……」

「彼、元々あまりしない人間だったと思うんだけど」

 

「へ、そうなんですか?」

「レシピ通りに作ることが少なかったよ。あの肉じゃがも進化したもんじゃ」

「意外」

 

沖矢は通常レシピに自身の謎のアレンジをぶっ込みがちなのか。そうだとしたら、今美味しく食べることが出来ている状態に感謝しておこう。

 

 

 

 

「これも違う……これも違う……見つからない」

 

画面に映し出されるのは[検索結果:0件]というフレーズばかりが、無機質に示す。

 

目的は一つ。菊花の戸籍を調べるためだ。

昨日は少し立て込んでいて、作業に着手することが難しかった。今日は早帰り登校日だったこともあり、こうして調べられる。

 

戸籍を調べる方法として、対象者が住んでいる土地の役所に出向くのが一番確実な方法である。

 

しかしながら、彼女にとって、それはあまり向かいたくない場所。そこで、インターネットから彼女の戸籍について調べることにした。不正アクセス・ハッキングは、お手の物。バレたら、一巻の終わりであるが、痕跡を残さないで調べる程度の能力は保有してある。

 

結果として、全国全ての役所のデータにアクセスをして、調べたものの、菊花の情報は全く記録されていなかった。それどころか、楠よしのという存在も見当たらなかったのである。

 

それならば、と、80年代、90年代、00年代の個人情報のデータの照合、事件、加害者・被害者の照合を試みるも、全く手応えがない。誰かが元々あったデータを故意に消したのではなく、元から存在していなかったかのようであった。

 

(楠さん……あなたは何者なの?)

 

まさか、彼女は戸籍を持たない人間なのだろうか?それはありえない。彼女の保険証を見たが、あれはまさしく本物であった。我々が使っているものと全く同じ形式で、紙の色が違えどそれを複製するのは難しい代物。しかも一年ごとに更新される。

 

メッセージアプリを開き、阿笠にメッセージを打ち、数分ほど待つ。阿笠が返事の代わりに、灰原の部屋を訪れた。

 

「哀君、わしじゃよ」

「どうぞ。博士、これを見てくれる?」

 

灰原が手元のPCの画面を見せた。阿笠が近寄る。

 

「0件じゃの」

「過去から来たって言う彼女に信じる材料探そうと思ってね。その結果よ」

「全国のデータを調べたのかね?」

「そうよ。いちいち県庁にアクセスするのも面倒だから。それっぽいやつを、片っ端からあててみたんだけどね」

「1件も引っかからないってのを変じゃのう」

「そうなのよ。仮に彼女が過去からきたなら何かしら欠片の1つでも引っかかる。特に現代のインターネット社会だったら尚更よね……」

 

 

「楠さんから何か話は聞けたのかい?」と、阿笠が尋ねるも、灰原は首を横に振った。

 

「神奈川県出身のOLで東京の家具メーカーで働いてるってことくらいね」

「なんとも言えないのう」

「だから、用心に越したことはないと思うわ。博士も、私がいない時は楠さんについて注意しておいて」

 

 

グラスに入った氷が、音を立てて溶けた。

 

 

 

 

年齢を重ねるにつれ、時間が過ぎる感覚は段々と加速してゆく。

最近購入したものに着替えて、菊花は、阿笠邸を出た。買い物などは既に済ませている。目的は少し遠くにある森林公園だ。

 

何故出かけるのか。理由は単純で、自身の鈍った体を元に戻すためだ。まず、こちらの日本に来て、生活リズムが変わった。精神を張り詰めるようなこともなく、阿笠邸で三食をきっちり食べる日々であった。運動らしい運動もなく、菊花としては大変珍しく、呑気であった。

 

 

結果として、体重が4kgほど増えた。ギリギリ55kg圏内。ああ、無常。総務部内では若い部類に入る菊花ではあるが、若いといえど、四捨五入をすれば30代に手が届く。

 

 

お腹周りには油断を怠っていないつもりだったが、体全体が重く感じる。これは由々しき事態だ。

 

阿笠も一緒に始めたが、数日後に発表があるためお休み中だ。灰原が「楠さんと歩いた方が気も紛れるわよ」と勧めていたが、耳には届いていない。

 

先程、家を出る時にも、「ひえー!!」「駄目じゃ駄目じゃこれじゃあ提出なんてできん!!」という叫び声もあった。

 

研究者って大変だな。 菊花は思った。

 

 

いつも阿笠邸から出発して、徒歩15分程歩いた先にある森林公園で一休みし、筋トレなりなんなりのトレーニングを少し行う。そこから、米花駅方面から阿笠邸に戻るのが彼女のコースだ。

 

 

最近では、公園内に設置された器具を使ったトレーニングもやり始めた。二の腕近くが、実によく効く。

 

「38……39……40……っし、懸垂終わり。次はあれの確認もだな」

 

今日はそれらに加えて、逮捕術・シラットの確認も兼ねて体を動かしていた。

 

 

腰をやや低く下ろし、何かを確認する動きを続けたかと思いきや、常人が目で追うには難しい速度で足を空中に蹴り上げた。その動きは逮捕術、柔道、截拳道とも異なっている。

 

警察官に必ず必要な技術として、実技を2つ取得しなくてはならない。一つは逮捕術、もう一つは、剣道または柔道である。

 

二つ目の実技はどちらを選んでも構わない。

 

菊花は剣道を選び、段位も取得しているが、主にシラットの方を重点的に訓練を重ねている。シラットに出会ったのは、警察官になって三年目に出会った事件がきっかけだった。

 

菊花は、ベンチに腰掛けた。拭いきれなかった汗が雫となって、地面に落ちる。

 

(キレが悪すぎる……明日からはもう少し回数を増やさないとな)

 

風が通り抜け、菊花の体を冷まそうとする。このベンチはちょうど、木陰ができており、太陽が直で当たらない。

 

「なーう」

「あ、また来たの」

 

ここのベンチは、大抵、野良猫や鳥などが利用していたようだった。突然現れた来訪者に、彼らは驚いていたが、何もしないとわかると、少しずつ近くに寄ってくれた。特に、今、菊花の足元に近寄ってきた猫は顕著だ。

 

よくある三毛猫の模様だ。首元にリードが付けられ、野良とは思えぬ毛並みをしている。恐らく、この猫は飼い猫であろう。

 

人懐こさもあり、愛嬌もある。つぶらな瞳で見つめられると、なにかおやつでもあげたくなるが、アレルギーでもあったら心配だからだ。

猫にアレルギーがあるのか、菊花には分からなかったが、飼い猫である以上、余計なことはしないでおこうと思っていた。その代わり、○ツゴロウさんのように、毛並みを撫でてあげるのを怠らないようにした。

 

「んー」

「お前は人懐こいねぇ」

 

猫は、目を細めて喉を鳴らしている。尻尾の付け根を優しく触ってやれば、喜んで喉をグルグル鳴らした。

 

うむ、可愛い。

ふわふわの毛並みは、絨毯のような滑らかさで、いつまでも触っていたくなる。

 

猫は一鳴きした。

 

「満足したの?」

「なーん」

 

 

猫は立ちあがり、左の道に向かっていった。いつものように、どこかへと去るのかと思った。しかし、菊花を見つめて、立ち止まっている。

 

(……?)

 

猫に近寄ると、「なー」と鳴いて、前を歩いた。

ついてこいというサインだったのだろう。どちらに連れていってくれるのだろうか。

 

先ほどよりも道は細くなり、やや石が多くなっていった。昼間だというのに暗く感じる。

 

「なー」

 

猫は何かの前で立ちどまり、菊花に振り返った。まるで、これを見ろというかのように。

 

「お前、何を教えに……、!!」

 

上から見下ろす形で、そちらをのぞき込む。

 

そこには、男があった。しかし、少しも胸元が動いていない。男の目は閉じられており、トレーニングウェアは赤黒く変色している。流れ出した血液が、何者かの足跡を形どって、点々と向こうへ続いている。

 

残念だが助からない。そう判断し、警察への連絡を繋げた。

 

 

「もしもし、警察でしょうか?あの、公園にいるんですけども、遺体を見つけてしまいまして……ええ、ええ。はい、xx森林公園です。至急、お願いいたします」

 

電話を切り、周囲の状況を確認する。男の他に、人が通った気配はない。警察官が来るまで、菊花と猫とこの遺体のみで過ごすことになるだろう。

 

「お前は動じないね」

「なーう?」

 

猫は首を傾げる。またその表情が可愛らしい。

 

 

菊花は、遺体から数メートル離れたところに立った。近くにいれば、自分の指紋か何かを付けてしまいそうで、面倒であったためだ。猫も遺体のそばに行かぬよう、抱っこをした。どこかに消える様子もなかったので、素直にさせてくれた。

 

思ったよりも、パトカーは早かった。サイレンの音が近くに聞え、前の方向からガタイのいいトレンチコートを着た男の姿が見える。

 

「貴方が楠よしのさんですかな」

「ええ、はい。私が楠です」菊花はうなづいた。「現場は少し先にあります。あの、案内した方が……」

「いえ、遺体を発見されたということですし、ご気分が優れないでしょう。こちらでお待ち頂いて結構です」

「分かりました」

 

「こちらで代わりの者をつけておきます」

「刑事の佐藤です。楠さんが落ち着いてからで構いません」

「お気遣いありがとうございます」

 

菊花は小さく笑みを浮かべた。久しぶりに遺体を見てびっくりしたが、そこまで気分が優れないほどではない。それに笑顔を作るのは朝飯前だ。

 

「聞かれて嫌な質問でしたら拒否してください」

「分かりました」

「それでは始めますね。そこまで緊張なさらず自然体でお答えください。発見されたのはいつ頃ですか?」

「つい先程でしたので……確か、午前11時18分です。通報したのがその3分後です」

「なるほど……」

 

 

佐藤は、いくつかの質問をしては菊花の言葉を手帳に書き込んでいく。

 

「こちらの公園にはよく来られるんですか?」

「つい最近です」

「そうなんですね……あら、この猫」佐藤が、抱っこする猫に目を止めた。

 

「ご存知なんですか?」

「ポアロという喫茶店があるんですけど、そこによく来る子なんですよ。こんなところまで来るなんて」 と、佐藤は目を丸くしていた。

 

話ぶりから察するに、その喫茶店からこちらの公園まではかなりの道のりなのだろう。

 

「(ポアロってどっかで聞いたことあるなぁ……)じゃあそこで飼われてるんですね。良かった」

「ええ、あずささんに連絡しなくちゃ……。あらやだ、私ったら事情聴取をしてたのに」

 

脱線したものの、先程話したことでもう何も持っていない。

 

「ええと、どこまでだったかしらね。……ああ、そうだった。被害者の方とはお知り合い?」

「いえ。今回が初対面です」

「そう。それじゃ、ここで事情聴取を終えます。現場のものに確認をとり次第、解放します」

「お願いします」

 

佐藤は、現場の方へ早足で向かい、それを、(懐かしいなぁ)と、感じた。ああやって表立って動けていた時が懐かしい。

 

(ああ、早く戻りたいな。仕事が恋しい)

 

腕の中にいる猫は、目を閉じて、見知らぬ人間(撫でるやつと言っても)に、ここまで心を許してくれるのはちょっと嬉しかったりする。

 

 

15分ほどして、佐藤がこちらに戻ってきた。「許可が出ました。ただ、この事件について証言していただきたい時に、楠さんをお呼び立てするかもしれませんのでお電話を頂いてもよろしいですか?」

「分かりました。電話番号がですね、090……です」

「090……ですね。了解しました。また何かありましたら、よろしくお願いいたします」

 

 

 

 

現場を出ると、パトカーは三台止まっていた。昼間ということもあり、野次馬はない。ほっとして、帰宅できそうだ。菊花は、猫を足元に下ろした。

 

 

「なうーん」

「私も帰るからね。また会おうね」

「にゃー」

 

まるで、返事でもするように、猫は菊花に返して、反対方向に歩いていった。なんとも賢い猫だなぁ。菊花は思った。

 



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公安刑事とにゃんことコーヒー

原作を見ると、マスターはかなり年上のような気がするけれど、そこは二次創作ということで。名前はポアロをもじっています。


翌日、電話は菊花の携帯にかかってきた。

 

「はい、楠です」

《おはようございます、佐藤です。少々お伝えしたいことがあるのですが、楠さん、今お時間よろしいでしょうか?》

「大丈夫ですよ」

《ありがとうございます。昨日の事件のことなんですが、被害者の身元が判明しました》

「あら」

 

なかなか迅速である。

被害者の身元が分かる技術も十年も経てば進歩しているようだ。

 

「そうでしたか」

《もう少し情報が欲しいので、事情聴取をお願いしたいんです。場所は米花警察署で時間は11時頃に》

「あ、大丈夫です。何も予定もありませんし」

《ありがとうございます。それでは署の入り口でお待ちしますね。失礼いたします》

「失礼いたします」

 

電話を切り上げ、部屋にあるテレビをつける。何かのバラエティ番組がやっており、10代あたりの少女が登場していた。

 

『5月29日!!ぽよ双子ちゃんの〜占いコーナー!!』

『本日の最下位は!?いやーん!!うお座のあなた!!』

『お出かけ先で何かピンチに巻き込まれるかも……!?でも大丈夫になっちゃう方法があるよ!!』

『ラッキーアイテムのツバキの髪留めを付けておけばそのピンチを回避出来ちゃいます!!』

 

『それをすれば〜?うお座のあなたもラッキーに!!』

 

「まじか」

 

不運なことに、【楠よしの】は魚座の女であった。普段、占いなどは全く信じない彼女である。しかしながら、昨日の自分の不運さに何かを感じたのか、携帯の待受画面をラッキーアイテムに似ているものへ変更した。

 

 

 

佐藤に指定された時間よりも20分も前に到着することが出来たため、菊花は駅前のカフェに立ち寄った。

 

いらっしゃいませー。空いているお席、ご自由にどうぞー。店員の声が響く。

 

入り口近くの席に腰掛け、ブレンドコーヒーを一つ頼んでから、菊花は、店内の雑誌を入り口から何冊か持って席に戻った。

 

(やっぱり変わっているところは変わってるな。……今はインスタナンチャラが人気か)

 

ぱらぱらと、何冊かの雑誌を軽く読む。こちらの未来でも紙媒体の書籍物が刊行されているのを知り、アナログタイプの自分には有難い。

 

菊花の目が止まった。それは、喫茶店の特集記事であった。住所から見るに、店は米花町内にあるらしく、メニューのハムサンドが評判だそうだ。写真も一緒に掲載されていた。

病院で見かけた雑誌の記事よりも、かなり詳しく書かれてあった。

 

 

米花警察署は、都会にあるビルと似ていた。入り口を覗くと、背の高い女性が菊花に気づき、声をかけた。多分あれが佐藤だろう。

 

「こんにちは。楠よしのさんでしょうか?」

「はい」

「お電話を致しました、佐藤美和子と申します。本日はお越しいただきありがとうございます」

 

佐藤は笑みを浮かべ、慇懃に挨拶をした。佐藤の服装は、菊花のような一般人を威圧させないよう、パステル系統の色合いでまとまっている。身長が高い分、3センチ程度のヒールを使用しており、話しかけにくい雰囲気をなくしていた。

 

「5階で行う予定ですので、一緒にエレベーターを利用しましょう」

「了解です」

 

 

 

事情聴取で使用する部屋は、来客をもてなすような雰囲気に近かった。壁には有名な作家の絵画や時計、小さな観葉植物が置かれており、机の下にも暖色系のラグが敷かれている。どこか落ち着く配置となっていた。

 

「ずいぶん印象が違いますね」

「お堅い雰囲気でやるわけではありませんから」

 

被疑者などに事情聴取を行う際、この部屋よりも更に狭く、もっと無機質だからだ。こんなに明るい部屋では通常行わない。

 

佐藤は言った。

 

「そちらにおかけになってください、今用意しますから」

「ええ、はい」

 

促され、奥に位置する椅子に、菊花は腰掛ける。

同時に、扉が3回ノックされた。

 

「失礼します。お茶をお持ちしました」と入ってきたのは、大柄な男であった。

 

「あら、阪本君ありがとう」

 

阪本と呼ばれた男は、佐藤に会釈をし、お盆に載った湯呑を二人の前に置いた。

 

「それでは」

 

阪本は、そのまま静かに退出をした。準備を終えた佐藤が椅子に腰掛ける。

 

「まあ、昨日お聞きしたことと殆ど似てしまうんですけれど、発見当時の状況と、被害者の方との関係についてお願いします」

「そうですねぇ」

 

菊花は昨夜の出来事を細かく思い出した。

 

「たいてい、あの公園で体を動かしてるんです。ひと汗流すのと森林浴も兼ねて。私が彼を見つけた場所は昼間でも暗い場所で、ハトや猫が集まるような場所ですから、人通りもあまりありませんね。私以外で人が通った気配などはなかったです」

 

「なるほど。被害者の方は桶川伸二(おけがわ しんじ)さんというんですけど生前の彼とは話したことはありました?」

「いえ、まったくないですねぇ」

「そうですか……」

「あの、佐藤さん。ちょっと私と関係ないんですけど、気になることがあるんです」

「気になることですか?」

「はい」 菊花がうなづいた。

 

 

警察が到着するまでの短い間ではあるが、桶川の遺体にいくつか気になることがあった。

 

「彼の刺された箇所、土が少し混ざっていたんです。普通、殺害する場合でしたら手袋などをはめていると思うんですよ。ドラマとかでもあるみたいに。あそこが公園ということもあって土が付着するのは不自然なことではないんですけど、なんか引っかかってて」

 

そうなのである。菊花が気になったのは、刺された箇所に土が付着していたためだ。というのも、目に見えるかどうかという、微妙なラインで、迅速な働きをする彼らには分かっているのでは?と思い、伝えづらかった。

まばらに付着していた土は、森林公園の土とは色合いが異なっていた。

 

「混ざった土……」

 

 

それから、いくつかの質問を投げかけられた。たわいもない雑談に近かった。佐藤からは、親しみのある雰囲気のみ感じ取れた。

 

 

 

事情聴取は14時に終わった。佐藤が「そうだ。忘れていたんですけど、猫ちゃん、もう少し先のポアロでよく見かけるんですよ」と、言葉遣いが少し砕けた。こちらが彼女にとって話しやすいのかもしれない。

 

「駅前のカフェで特集記事見ました。あの猫ちゃん、お店で、ですかね?」

「ええ。なかなか珍しい子みたいで。オスの三毛猫ですって」

「へえそうなんですか」

 

佐藤は玄関手前で立ち止まる。

 

「それでは、私はここでお見送りさせていただきます。お話ありがとうございました」

「いえいえ、あまり参考にならなかったかもしれないです」

「とんでもない。楠さんからお話を伺っていて良かったですよ」

「そうだといいんですけど」

「解決したらご連絡できそうなときにしますね」

 

「分かりました」

 

それから、佐藤に見送られ、菊花は喫茶店ポアロへと向かった。目的はもちろん、彼女もおすすめしていたハムサンドである。

 

 

 

「あ、すいません~。米花町方面ってどっちに行けばいいですかね~」

「あの、私……米花町詳しくないんで…」

「そうなんですか?でもかなり慣れている感じしてますよねえ。お姉さん、どのあたりでよくいるんですかぁ。服可愛いですね!!」

 

 

見知らぬ男に呼び止められ、矢継ぎ早にナンパの文句のようなものを言い始めた。面倒である。こういった輩は、おとなしい見目の女性にばかり声をかけてくるのだ。

 

「答えたくないんで失礼します」

「あ、お姉さぁん、待ってくださいよぉ」

 

男を振り切ろうと、菊花は歩く速度を変え、まっすぐ向かう。しかしながら、男は菊花の態度にめげずに声をかけてくる。

 

「ちょっと教えてくれるだけでいいじゃないですか~。減るもんじゃないでしょ~~?ねねね、そこのカフェでちょっとしゃべるだけでいいんでぇ」

「結構ですって」

「そんなこと言ってぇ~、ほんとは僕みたいに声をかけてきた人、嬉しいでしょ?」

「はあ?」

「ほら、返事をしてくれるってことはそういうことじゃん~?僕、自信がなかったんですけどぉ、あなたみたいな子と話せるんだなぁって」

 

男の笑った顔を見た瞬間、背筋に冷たいものが流れた。

思った以上にやばい。普通の人間に見えるのに、こちらに返してくる言葉は全く違う。菊花が目だけ動かし、周囲を見渡す。助けを求めようにも、この通りに交番はなく、店も開いている様子もない。

 

ここまで距離を詰められてしまっている以上、逃げても捕まる可能性が高い。フル回転で考えを巡らせ、知恵を絞る。男は一般人のようであるし、自分が何か手を加えて、警察に連れて行って、逆恨みでもされたら困る。どうすべきか。

 

「あれ、なっちゃんだ」

「え?」

 

神は菊花を見捨てなかった。振り返るとやや年齢が高い男性だ。青いYシャツを身にまとい、落ち着いた色合いの靴を着用している。どこかでみたことのある顔つきで、しかし、関わりを持った覚えはない。

 

男性は菊花に対し、親し気に話かけた。

 

「うわあ、大きくなったねぇ。横浜の方にいたんじゃないっけ?」

「え…!」

 

訳も分からぬ菊花であったが、すぐに、この男性が助けてくれようとしていることに気づいた。菊花も、知り合いに会って驚いているといった表情を作り、言葉を返す。

 

「うっそ、宮間さん!?いつの間に米花町に…?」

「10年位前からこの町で喫茶店をしているんだよ。親父の跡を継いだ。いやあ、しかし驚いたな」

「私の方こそ。宮間さんとまた会えるなんてびっくりしたから……」

「急で申し訳ないんだけど、この先のスーパーで卵の特売がやっているからついてきてくれない?今日忘れていたんだけど一人1パックだけの限定販売なんだ」

「そういうことだったら喜んで」

「じゃあ行こうか。茶髪君、悪いけど、この子はちょっとお手伝いしてもらいたいからじゃあねぇ~」

「あ、うん……」

 

菊花の知人とは思いもよらず、男もあっけにとられたようであった。男性がもたらした状況は大変有難い。相手にあっけに取らせて、2人はそこから退散した。

 

そのまま男が見えなくなるまで、二人は走り、米花町商店街の入り口にたどり着いたのち、男性が立ち止まった。

 

男性がぜいぜいと息を切らして言った。

 

「ここまで、来れ、れば、あの男も君を追ってこないと思うよ」

「助けて、くださって、あ、ありがとうございます」

「礼には……及ばないよ。はあ……でも、こんなに、走り、続けたのは久しぶりだよ。僕も年取った、かなあ。こんな距離で息が切れる、なんて」

 

男性は胸ポケットから厚手のハンカチを取り出し、汗を拭った。

 

「本当に助けていただきありがとうございます。この近くのお店でお礼をしたいです」

 

そんなことを言い、自分の方が先ほどの人間と同じようなことをしているなと、菊花はふと思った。男性は何を言われたのかといった様子であったが、彼女の言葉を理解したのち、自身の手を左右に振った。

 

「ええ?!いいよ、僕が助けたいと思って助けただけだし」

「させてください」

「ええ?そんないいよ、いいよ」

「絶対にさせてください!!」

 

お礼させて。

大丈夫だから。

私が納得いかないんです。

それ言ったらただ助けただけの自分にしてもらえる自信がないよ。

 

 

二人の間で言葉を使わぬ、静かな攻防が起き、言葉を先に出したのは男性であった。彼は簡単なことを代わりに提示した。

 

「……さっき言った卵の特売のお手伝いをしてくれると有難いかな」

「それでいいんですか?」と、今度は、菊花が目を丸くした。

「そっちのほうが、受け取る側としても気が楽だよ。一人1パックだけの限定だからね」

「はあ」

「それじゃあ行こうか。あ、名前を言ってなかったね。僕は暮栖平良(くれす ひらよし)と言います。この街で喫茶店を営んでるんだ」

「暮栖さんですね。私は楠よしのと申します」

 

 

 

幸運なことに、菊花には人を引きつけられるような話の引き出しを多く持っていたため、暮栖との雑談はスムーズに行うことができた。そしてスーパーでの死闘を終え、彼が営んでいる喫茶店へ向かってゆく。

卵のお手伝いもできたので、そのまま阿笠邸へ戻ろうとした菊花であったが、暮栖から「自慢のコーヒーを飲んでくれないかな?」と誘われてしまったので、半ば流されるようについてきたのだ。

 

途中、菊花が暮栖に尋ねた。

 

「もしかして暮栖さん、喫茶店ポアロの方ですか?」

「正解。最近、有難いことに雑誌の取材を受けることがあるからね」

 

暮栖がウインクを打つ。どおりで、写真の彼と顔が似ていると思ったのだ。その割に、彼から煙草の匂いはあまりなく、コーヒーのにおいが強くついていた。

 

「喫茶店といえば煙草を吸う人がすごく多いですよね」

「今の時代だと女性のお客様も多いからね、うちでは分煙にしてるかな。あと、ちょっと前から新しくバイトの子を入れたんだけど、その子がなかなか若い子達に人気でさぁ。僕としては料理やコーヒーにも目を向けて欲しいもんだよ」

 

暮栖が小さくため息をついた。若い子には、その『新しいバイトの子』というのが一番の目当てとなって、さらに人気に火がついたのかもしれない。

 

「分煙ですか。喫茶店といえば喫煙者の煙があるのが当たり前だったのに」

「煙草を吸いたい人も、苦手な人も居心地のいい空間を作りたかったからね。分煙タイプにすればどちらも満足していただけるだろうから」

 

暮栖と菊花の目の前に喫茶店が佇んでいた。窓には『COFFEE ポアロ』というステッカーが張られてあり、また、上に目を向ければ、『毛利探偵事務所』という文字も見受けられた。探偵が多く活躍しているというのは現実のようだ。

 

「おや、大尉だ」

大尉と呼ばれたのは、昨日、菊花に遺体を見つけさせた三毛猫だった。こちらにやってきて、菊花や暮栖の足にまとわりつく。彼女は、大尉の毛並みを撫でてやった。

 

「ポアロの猫って、お前だったんだね」

「んなぁーお」

 

「楠さん、大尉を知ってるのかい?」暮栖が不思議そうに言った。

 

「ええ、最近よく行く場所に現れるんです」

「ぐるぐる……」

 

存分に撫でると、大尉は店の前でのんびりし始めた。香箱座りをして、日光浴を楽しんでいる。

 

「扉開けますね」

「ああ、ありがとう」

「マスターおかえりなさい!!あら?その方……」

 

カウンターの奥から、女性が顔を出した。

 

「ただいま、梓ちゃん。お客様の楠さん。お冷お願い」

「楠よしのです。すみません。まだ営業していらっしゃらないときに……」

「はあい、了解です!!いいえ。今さっき営業をし始めたところですから。空いている席にどうぞ」

「あ、はい」

 

お客さんらしい人は見られない。せっかくなら……と、菊花はカウンター席に座った。

 

「お冷どうぞ」

「ありがとうございます」

 

女性の店員がコースターのようなものを敷いて、お冷を置いてくれた。それを手に取り、喉に流し込む。

とても冷えていて、飲みやすい。口当たりもまろやかで、少しミントの風味を感じる。2杯目のお冷を入れてもらっている途中、彼女から強い視線を感じた。目線を上げる。女性がこちらを真剣に見つめていた。

 

「あの、差し支えなければでいいんですけど……」

「はい」

「楠さんって、うちのマスターの……その……親しい方なんですか?」

「へ?」

 

思わぬ問いに素っ頓狂な声が出てしまった。

 

「ちょっと、梓ちゃん!!楠さんは全然そういう方じゃないよ!!」

 

奥に引っ込んでいた暮栖がこちらに向かって声を上げた。

 

「ええ?本当ですか?さっき、お店の前で親し気に話してませんでした?」

 

「違う違う」

 

暮栖が首を横に振る。

 

「さっき、特売に向かう途中で、彼女が変な人に絡まれていたから助けたんだよ」

「暮栖さんに助けていただいたんです。あの時、チャンスがなければその人から逃げるの難しかったので」

 

菊花と暮栖。どちらも今日初めて会った者同士である。親し気に見えたのは、大尉を話題にしていたためであろう。

 

仮に、暮栖のような人物がいたとする。

女性がそんな目に遭っていても勇気を奮って助けようとするのは中々に難しい問題である。自分が間違えられたらと考えたり、事なかれ主義で、助けようと思えども行動を移しにくいだろう。

 

「あらっ!!マスターがナンパから、ですか」

顔には、これは面白いと書かれているように見えた。

 

「全く梓ちゃんたら……コーヒー入ったから取りに来て」

 

「はーいっ!!あとでお話もう少し聞かせてくださいっ。私、榎本梓って言います!!」

「あ、はい。いいですよ。私は楠よしのです」

 

流れるように、お互いの名前を言い合う。

 

榎本がカウンターから消えた後、菊花は店内をぐるりと見渡した。なかなか、自分だけがいるフロアというのはあまりない。こういった場面に出くわすと、ついつい見渡してしまう。公安に異動してから身についたものではなく、幼少期からの癖である。

 

 

しかし、よく清掃が行き届いた店だ。床もつるつるした材質を使っているものの、中華料理店のような床には至っていない。客が転んで頭をぶつける心配もない。あの店員達の空気感だけでも読み取るに、長居していても文句を言われなそうである。

入り口近くの壁、目の前のカウンターの壁に貼り紙があった。入り口近くは、今年度の花火大会や近くの高校のポスター、カウンターにはメニュー表がきれいに貼られてある。

 

喫茶店らしく、メニュー表もあるが、ここの席からであれば、壁を見たほうが一目瞭然だ。コーヒーだけでも10から15種類ほど揃えてある。パスタのメニューでは、特にナポリタンがおすすめ!とのこと。手元にある携帯電話を見ればお昼を少し回った時刻だ。しかし、まだ、自分以外のお客さんは見えない。

 

「お待たせしました~。当店自慢のブレンドコーヒーです」

 

榎本がコーヒーを持ってきた。とてもいい香りだ。

 

「お砂糖はお手元にある瓶をお使いくださいね。ミルクもどうぞ」

「ありがとうございます」

 

砂糖を入れぬまま一口飲み、味に驚かされた。

 

香りは濃厚なのに、全く苦味がやってこない。ミルクのおかげだろうか?いや、それは関係ないだろう。阿笠邸でよく飲むコーヒーは、そのままで飲んでも、ミルクを入れても、苦味がないということはなかった。

 

「美味しい……こういった、苦味がないやつ初めてです」

「ポアロで一番長い歴史を持つコーヒーだよ」

 

暮栖が奥から戻ってきた。

「飲みやすいようにかなり改良を加えているからね」

 

「マスターが淹れるコーヒーで、ブレンドが私一番好きです」

「はは、梓ちゃんに褒めてもらえて光栄だな」

「お二人、とても仲がいいんですね」

「そりゃあ梓ちゃんのことは小さい時からよく知っているからね」

「マスター!!そのことは言わないでくださいよ!!」

 

今度は、暮栖が榎本にやり返し、彼女があたふたとする事態となった。

 

「彼女にはお兄さんがいるんだけど、彼と僕が同年代で梓ちゃんとも三人でよく遊んでたんだ。可愛い妹分さ」

「あら、それはそれは……」

「マスター!!楠さんがついてこれなくなっちゃっているじゃないですか!! 楠さんも乗らないでくださいよ〜! んもう。ほら、お店もオープンしていることですから、さっさと準備してくださいよ〜」

 

慌ただしく、榎本は奥に引っ込んでいってしまった。

 

「暮栖さん面白がってますね……」

「ええ、そうかな〜?」

 

暮栖がニヤニヤと笑う。本当に面白がっているだけらしい。この短時間でしか知り合わなかったのに、二人の人柄がよく感じ取ることが出来た。なんとも仲がいいこと。

 

「こんにちはぁ」

「あ、いらっしゃい」

 

扉についたベルが鳴り、扉が開けられる。

小さな身丈の子供たちがやってきた。ランドセルを背負っているので小学生だろう。その中に見た顔があった。菊花は『よしの』らしい笑顔を浮かべて挨拶をした。

 

「よしのお姉さんだ!!こんにちは」

「こんにちは。食べに来たの?」

 

 

「ううん。蘭姉ちゃんに鍵かかっているからポアロで待っててねって言われたの」

「そっか」

 

「コナン君知り合いなの?」と、カチューシャをつけた少女が言った。

「この間ホームズのおすすめ本を紹介したんだ」

「コナン君とホームズ談義ができる女性なんですか!?」と、そばかすの聡明そうな男の子が言った。

「んなことよりもよぉ、俺腹減った……」と、大柄な男の子が言う。

「元太君、さっき給食を食べたじゃない」

「うな重じゃないから足りねぇ」

 

「うな重好きとは何とも渋いね、君」

 

コナンと同じ年齢だと思うと、小1でうな重好きか。渋い子だ。お姉さんなんて数える程度しか食べてないぞ。勿論、ポケットマネー&提供者に奢る時。

 

「君たちはコナン君のお友達?」

菊花は子供たちの目線に合わせて言った。

 

「そうですよ!僕は円谷光彦と言います」と、そばかすの子が言い、「私は吉田歩美でーすっ」と女の子が元気よく言う。そして、大柄な男の子も

「俺は小嶋元太!うな重が好きだぜ」と、これまたパワフルな返事が返ってきた。

 

「そして!」

「僕達!!」

「私たち!」

 

「少年!探偵団!」

 

タイミングよく、光彦・歩美・元太が決めポーズをした。どうやら、子供にも探偵というのは憧れらしい。

 

「おお〜かっこいい。まるでヒーローみたいだ」

見事な連携に手を叩く。

「へへん。姉ちゃんも探偵団に入れさせてもいいぞ」

 

元太は自慢げに言った。

 

「お姉さんは名前、なんて言うの?」

「楠よしのだよ。お母さん達が桜が好きで、ソメイヨシノという桜の種類から付けられたんだ」

「わぁすてき!歩美も桜、好きだよ。よしのお姉さんって呼んでもいい?」

「うん。呼びやすいようにどうぞ」

「姉ちゃんはうな重好きか?」

「うーん、嫌いではないかな」

 

彼女はどこに行ったのだろう。紹介を聞いていて思ったが、灰原の姿が見当たらなかった。

 

「ねえ、コナン君」

「なあに」

「灰原さんと一緒に帰らないの?」

「何か昼寝したいから先帰ってるって言ってたよ」

 

「よしのお姉さんは哀ちゃんと仲良しさんなの?」

「ちょっとね」

 

クールな小1は先に帰ってしまったらしい。

 

「よしのさんはお仕事はお休み中なんですか?」

「いいや違うよ」

 

菊花はかぶりを払った。

 

「実は有給を全消化中なんだ」

「ゆうきゅう?」

「うな重よりうめえのか?」

「元太君違いますよ。よしのさんが言った『ゆうきゅう』は、有給休暇。つまり、会社からお金を支払ってもらえる休日のことです。全部消化ということですが、いくつあったんですか?」

「確か……あー、30日」

「30日、ということは1ヶ月丸々ですか!?すごくホワイトな会社ですね……」

「すっごーい!!夏休みみたい」

「光彦の言う通りだな」

 

コナンがうなづいた。

 

「1ヶ月休ませて貰える企業なんて珍しいね、お姉さんの会社」

「上の偉い人達に『働き詰めはよくないし、この際全部使っちゃって!!』と言われたもんで」

 

全くの嘘である。有給は確かにあるが、公安部の人間に必要のない休日と言って良い。それを使う時があるとすれば、公安を抜けてからだ。悲しいかな、日数ばかりが溜まってゆく。

 

「中々ないお休みだからコナン君に借りた本を消化してるんだよ」

「そういえばどこまで読んだ?」

「今この辺り」

 

菊花は鞄から文庫本を取り出した。短編集のそれは、全くホームズを知らない自分でも楽しく読めるものであった。ちょうど、ボヘミアの醜聞、技師の親指、独身の貴族の3編を読み終えた。

 

「ホームズ作品って面白いねぇ」

「でしょー!!ホームズは面白いのもちろんだけど、すごくカッコイイんだっ」と、コナンは目を輝かせ、胸を張る。

 

「短編集だと一話一話シンプルにまとまったものになっているからコンパクトでいいものだよ」

「よしのお姉さん、今度こっちね」

 

コナンがランドセルから一冊の本を取り出した。

シャーロックホームズ大全。帯には、『これで貴方もシャーロキアン!!シャーロックホームズシリーズの登場人物が全てわかる!』という、出版社も自信たっぷりと言いたげなアオリだ。

 

「これも読んどくと、どの話でシャーロックがどんな事件を解決したかとか、全ての登場人物の名前と地名が丸分かりだよ!!」

「す、すごいね…」

 

「コナン君の悪い癖が出ましたね……」

「あんな勧められても、俺、興味持てねえ。姉ちゃんよく聞いてるぜ」

「歩美もちょっと読みたくなくなるかも」

 

「元太はともかく、光彦と歩美ちゃんまでひどいぜ……」

「コナン君のホームズ愛がすごく感じられたよ。好きなものの前ではそういうことしちゃうよね……分かる」

 

しょんぼりしているコナンを、菊花はそっと肩に手を置いた。

ただ、彼のように自分の熱中しているものを、友人などの相手に布教しようとするのは、いいことなのではないだろうか。嫌がっていたり強制していなければ、菊花も止めはしない。

 

「小さな探偵のみんなー。おやつだよー」

「安室さんのケーキだぁ!!」

「安室君の考案したレシピをアレンジしたやつだよ。今日のは生地をラズベリーにしてみた」

「暮栖さんも探求熱心だね」

「まあ、安室君ばかりにレシピを考案されてしまったら僕の立つ瀬がないからさ。楠さんも良かったら召し上がってね」

「いっただきまーす!!!」

「いただきまーす」

「ありがとうございます。いただきます」

 

ケーキと思っていたが、それと異なった形をしていた。丸くふわふわとしていて、口に入れると、ベリーの風味がふわりと口の中で膨み、そして溶けていった。

 

「みんなどうかな?」

「スッゲーうめえ!!」

「あのケーキよりも更にもっと美味しくなってますっ!!!」

「とっても美味しい~。食べ終わりたくない~」

「喜んでくれているみたいですね。マスター」

「良かった~。実は結構ドキドキしてたんだ。楠さんどう?」

「すっごく美味しいです……。歩美ちゃんと同じ意見なんですけど、食べ終えたくないですね……」

 

甘さがちょうどよいため、コーヒーとの相性も抜群だ。なんと美味しいポアロの食事。絶対にもう1回来とかなくちゃ。時間もちょうどいい頃合いで、そろそろここらで帰ることにしようと、菊花は席を離れた。

 

「あの。暮栖さん。明細……」

「ん?あー気にしないで。また来てくれたらいいよ。そん時にケーキとか頼んで払ってくれればいいし」

「あ、はい」

 

「よしのお姉さんもう行っちゃうの?」

「姉ちゃんもうちょっといりゃいいじゃねーか?」

「そろそろ帰らないと。また来週かどこかで来る予定だから、皆と会えるかもしれないね。じゃあ私はこれで。ケーキとコーヒーごちそうさまでした」

 

「またお越しくださいね~」

「またねえーよしのお姉さーん!!」

 

榎本と暮栖に声をかけ、探偵団に手を振ってやり、菊花はポアロを出ていった。彼女が視界の端から消えると、歩美が寂しそうに言った。

 

「もう少し、よしのお姉さんとお話したかったなぁ……」

「また来るって言ってましたから多分また会えますよ」

「うん……」

「暮栖の兄ちゃん!!!ケーキのお代わりねえの?」

「あー、ごめん。他の人の分を残しているから、君たちの分はそれだけで終わっちゃった」

「ちぇ!! つまんねえーの」

 

今度は、元太がいじけてしまった。

 

「ごめんごめん。そんなに気に入ってくれるなんてね。また今度作ってあげるから」

「兄ちゃんぜってえだぞ!!」

「おい元太。そんなに食ったら夜ごはんが入らなくなっちまうぞ」

「そうですよ元太君。これ以上食べたらご飯食べれなくなっちゃいます」

「う……」

 

口々に、元太を思いやっての会話がなされる。当の本人も「そうかぁ?」と不審げであるが、【ごはん】という単語を出せば、素直に断念した。

 

ちょうどまたポアロのドアが開かれた。

 

「あ、蘭姉ちゃんだ」

「良かった。ちゃんとポアロにいてくれてたのね」

 

蘭と呼ばれた少女の他に、2人続いて入ってきた。

 

「なんだかすごーくいい匂いがする」

「あーほんとだ!!ちょっとガキンチョ達、なーに美味しそうなもの食べてんのよ~?」

 

カチューシャの少女がコナン達に近寄った。きれいな顔立ちをしているため、迫力がある。

 

「暮栖さんが作ってくれたケーキだよ」

「すっごく美味しいです!!」

「園子お姉さんにも一口上げるー」

「あら、歩美ちゃんありがと。……何このやばすぎる美味しさ」

 

クマのある少女も子供たちを覗き込む。

 

「へえ。ボクも食べたいな」

「園子ちゃん達も食べる?この前のケーキの味を試しに変えてみたやつなんだ。試作品だしお代はいらないよ。今用意するね」

「いいんですかっ?!やったー」

「ラッキー♪」

 

(元気なやつだぜ。はは……)

 

コナンは半笑いし、オレンジジュースを啜った。

 

 

 

「ただいま戻りましたー」

 

阿笠邸のドアを開けた途端、「遅かったわね」と灰原の声が響いた。

 

「どこ行ってたの?」

「警察署と喫茶店」

「警察署?なんの用事で行ったのどういうことよ。私と博士にそんなこと言ってなかったじゃないの。事件にでも巻き込まれたの?あなた」

「正解。遺体の第一発見者になっちゃったもんで私」

「は……はああああ!?」

 

灰原の声が邸宅に響き渡った。

 

「楠さんそれどういうことか説明してくれる?」

 

あ。これ怒られるやつ。菊花は瞬時に上司を前にしたような気持ちに陥った。

 



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公安刑事と瓜二つ

二月ですが、あけましておめでとうございます。今年も「迷者不問」をよろしくお願いします。なかなか長いのが書けないよ~~~。


灰原に怒られる前に言わせてくれと、菊花が両手で『待った』のポーズをとる。

 

「ちょっと待って。最近、近くの森林公園にリハビリも兼ねて、よく訪れるんだけど、そこで運悪く遺体と出くわしちゃって。探したくて見つけたわけじゃないから。不可抗力だよ」

 

 

灰原は、事件に巻き込まれたと聞いて、どういうことかと思ったが、一通り、菊花の言い分を聞いて、それから忠告をした。

 

「故意ではなかったのはわかったわよ。でも、この街は成人していても危ないから。楠さん、気をつけて」

「うん」

「哀君、大きな声が聞こえてきたんじゃが」

「楠さんが殺人事件の第一発見者って聞いたのよ。それに変な人に絡まれたって」

 

「そりゃなんと……気の毒じゃったな」

 

二階から阿笠が降りてきた。

二人があまり動じていないことから、殺人事件というものがこの街では本当に頻発しているのだと見て取れた。

 

「最近だと、不審者も多いみたいじゃからな。用心に越したことはない」

「本当、変な輩が多いんだから。楠さん、ご飯は?」

「出先の喫茶店で食べてきた。ポアロという喫茶店でパンケーキを食べたんだけど、コナン君のお友達とちょっと話してたよ。ちょうど、コナン君の保護者っぽい人が来るみたいだったみたいだね。あと、そこのマスターに絡まれたのも助けてもらったんだ」

「ポアロのご主人はあまり見かけないから、楠さんは貴重な体験じゃったな」

「その人ってどんな人だった?」

「30代半ばの男性で、優しそうな、人のよさそうな雰囲気」

「安室君がまだいなくて良かったのう。彼がいる時の店内は凄く混んでおるからな」

「あむろくん?」

「最近ポアロでアルバイトをしている男の人。博士の言うとおり、安室さんって凄く高校生に人気だから、彼がいる時間帯は満員で座れないらしいわ」

「売上も伸びるぐらいのイケメンとかいるんですね。凄い」

「私は聞いていて、苦手そうな人だと思っているから会ったことはないんだけれどね。楠さん、そろそろ火傷の具合はどうかしら」

「だいぶ良くなった。薬と健康的な生活のおかげだと思う。そろそろ、洋服を買いに行けそうだよ。阿笠さんの服を借りてばかりいるのは申し訳ないから」

 

今、菊花が身に着けているのは、ブラウンのセーターである。中は、菊花の持っていたYシャツを着用している。下は汚れていないので、スラックスを変わらず着用している。

 

 

「そうね。大きさはまずまずかもしれないけど、ここでの生活が長くなるだろうし、買い足したほうがいいかもしれないわ。博士、車出してくれない?今度の日曜日」

「構わんよ。わしも欲しい書物があるからな」

「お願いね」

 

菊花の服については枚数が少なすぎると、灰原も思っていた。現時点で、着回しが難しくなっており、あと何枚かあれば心強い。数日後に、米花町内のショッピングモールへ行く約束を取り付けた。

 

 

 

 

 

何事も心配することもなく、土曜日はやって来た。米花町のショッピングモールへ訪れ、モール全体が見れる地図の前に菊花たち三人は立っていた。

 

「私、楠さんと一緒に服を見てるわね。博士は?」

「ワシは上の本屋におるから、終わったら連絡をよろしくの」

「分かったわ。……それじゃ、楠さん行きましょ。何から見てく?」

「外着から見たいな。今の枚数だと回すのが大変だから」

「それだったら、あの辺りにあるわ」

 

灰原が指さした先に、低価格帯の全年齢向けのファストファッションの店があり、マネキンが様々なテーマでコーディネートを組まれてあった。一人で買い物をしている女性や、自分の子供に服を合わせている男性の姿がある。

 

「レディースはこっちの右側ね。これなんか楠さんの身長に合いそうだけど」

 

手に取ったのは、これからの季節に良さそうなカーディガンだった。灰原に相談をし、試着室と行ったり来たりを繰り返して一時間。

 

服は全て揃えられ買うことができた。お会計をしている時に、灰原は阿笠へスマートフォンで連絡を入れる。すぐに本屋の科学雑誌があるコーナーにいるという返信がきていた。

 

「灰原さんアドバイスありがとう。この分だと何回も買いに行かなくて済みそうだよ」

「こちらこそ」

 

現在の服装は、紺のチノパンと白のカラーシャツ。先ほどまで白のYシャツと黒のスラックスで、かなり堅苦しかったので購入したものをそのまま着る。その事を灰原に言われ、このように菊花は返した。

 

「こだわりがあまりないからね。着れたらいいかなって思うから。学生の頃よりも私服でいる時間が少ないし。あ、阿笠さんいた」

「一番奥ね」

 

二人がフロアを見渡す。

 

「すいません。お待たせしました」

「随分と早かったのう」

「博士、本はもう買った?」

「もう目当てのものは買っておいた。ただ立ち読みしとっただけじゃよ」

「阿笠さん、何を購入されたんです?」

「この棚にあったものを数冊じゃ。今度提出する論文に必要じゃからな。実験も行き詰まって来ておったから運良く良い資料に出逢えて良かったわい」

「そろそろいい時間だしご飯にしちゃわない?」

「そうしましょうか」

 

三人はその店へ向かい、それぞれ食べやすそうなものを選んだ。店はかなり広々としていて、人があまり入っておらず、頼んだものが素早く到着した。菊花は月見うどんと天ぷらのセットを頼み、天ぷらに舌を打った。灰原が甘味を食べ終えたのち、一階の北海道物産展のエリアまでエレベーターで下った。

 

お菓子を主とした物産展であったため、女性たちが商品を楽しげに見ている。

 

「お菓子いっぱいありますね」

「珍しいお菓子もあるわ。これ見たことない」

「哀君。チョコレートのかかったポテトチップスじゃって」

「塩分量は……ちょっとあるわね」

「我慢しとったしこれくらいなら……」

「そうね。たまにはいいかもしれない」

「じゃ、買っちゃいましょうか」

 

どれも美味しそうで目移りしてしまう。色々悩んで、その商品を三箱購入。味は三つあったが無難にミルクチョコレート味にした。二箱はいつも本を貸してくれるシャーロキアン達へのお礼の品として購入し、のこり一箱は自分たち用に。

 

自宅に戻って、そのポテトチップスを食べてみたが、チョコレートとポテトチップスの組み合わせは大変美味しく、三人は無言で食べていた。すぐになくなってしまい、きっちり量を測ったものの、今日は無礼講だと言って、ペロリとひと箱空けてしまった。

 

また買おうという菊花の言葉に、灰原は強くうなづいた。かなりお気に召したようだ。

 

ちなみに本を貸してくれる沖矢にお礼として渡したところ、その翌日に食べ終え、どこで購入したのかと言われたのであった。物産展のことを話すと、彼はその日のうちに異なる味全てを購入していた。同じく、コナンや彼の居候先にも好評であったとのことである。

 

 

 

 

「前よりも良くなってきているみたいだね」

「水ぶくれを潰さないよう気をつけていてもたまに小さいやつを割れちゃったんですが。傷痕残りそうですかね」

「うーん。見た感じ傷周りが少し赤くなっているけど皮膚かいちゃってます?」

 

本日、菊花は杯戸中央病院へ来ていた。

処方箋を全て使い終わり、傷の経過の確認も兼ねて、医者に診察してもらっていた。以前、担当してくれた榊が診たほうが望ましいのだが、彼女はある患者の手術が入ってしまったらしく、代わりに眼鏡をかけた男性医師に診察してもらっていた。

 

「かゆみの方が強いのでちょっと掻きむしってしまって」

「ああ、それはいけない。治りかけてきている証拠ですからね。我慢できない時は描かずに軽く叩いてみてください。トントンとこれぐらい。水ぶくれを潰してしまうと、色素が沈着したりします。今回も以前と同じ処方にしておきます。塗り薬は忘れず。お大事になさってください」

「ありがとうございました」

 

診察室を出て、自分の名前が呼ばれるまで受付近くのソファに座った。今日はかなり人が多く来院していて、大分混雑していた。お会計は待ち始めてから一時間が経った後だった。処方箋を受け取る時にはお昼をだいぶ過ぎていて、腹の虫も鳴くのを繰り返している。

 

どこか食べる場所はと考えて、真っ先に浮かんだのは喫茶店ポアロ。今日はそこで取ろう。

 

 

そう思い立って、菊花はポアロへやってきた。大尉は、今日も香箱座りで、入口に座っている。菊花が撫でてやると、実に気持ちよさそうに喉を鳴らす。

 

「グルグル」

「よしよし。大尉、君は今日も可愛いね~」

「なー……グルグル……」

「いらっしゃいませ。……あら、楠さん」

「こんにちは、榎本さん」

 

彼女は記憶力がいいらしい。梓が、そのまま空いている席に、と菊花に勧めたので少し奥の方にある席に座った。

 

「榎本さん、サンドイッチってまだありますか?」

「ちょうどいま在庫が切れちゃったんですけど、他の者に、買い出しに行ってもらっているので、二十分くらいお待ちいただけたらお出しすることが可能です」

 

 

待つのは菊花の得意分野だ。

ただ、少し腹ごなしをしたい。

以前メニューを見てナポリタンがおすすめとあったし、ナポリタンと本日のコーヒーを頼んでしまおう。

 

「じゃ、先にこのナポリタンと本日のコーヒーをお願いします。それと、サンドイッチをお願いします。大盛りで、ナポリタンのあと、少ししたらお願いします」

「かしこまりました」

 

榎本へ注文を頼み終え、菊花は新聞を二紙、テーブルに持ってきた。地域面に事件がかなり多く載っていた。特に、米花町においては、地域面が二枚のページに渡り、様々な事件が掲載していた。一面から五面を早々と読み終え、邪魔にならぬよう、読み終えた方は片隅に追いやる。

 

「よしのお姉さん?」と、聞いたことのある声がした。高校生くらいの少女二人とコナンである。

 

 

「やっぱりよしのお姉さんだ」

「こんにちは。よく分かったね」

「うん。声がお姉さんに似ている人がいるなぁ〜って思ったから。この間のお菓子とっても美味しかった!ありがとう、よしのお姉さん」

「どういたしまして。口にあったなら良かった」

「コナン君、そちらのお姉さんと知り合い?」

 

髪の長い女の子がコナンに尋ねた。

 

「うん。僕のホームズ友達の、よしのお姉さん」

「楠です。いつもコナン君からシャーロックホームズの本などを借りている友人です」

「私は毛利蘭です。コナン君を預かっている家の者です。この間はお菓子までいただいてしまって」

「蘭の友達の鈴木園子です!」

「毛利さんに鈴木さんですね。はじめまして。いえいえ、こちらこそ。

いつもコナン君から本を貸してもらっていてお礼をしたかったところですし」

 

コナンからいつも本を借りてばかりで申し訳なく思っており、謝礼品を買えたのがいいタイミングであった。

 

「コナン君、ホームズの話ができる友達ができたって喜んでたんです」

「ら、蘭姉ちゃん!」

 

コナンが蘭の言葉に慌てる。

 

「ああ、でも、私はコナン君ほど詳しくないんですよ。まだまだ、シャーロックホームズについては、教えてもらってばかりで」

「よしのお姉さん、僕がホームズの話をしてもついてきてくれるんだ。沖矢さんと同じくらいだよ」

「そこまで言われると嫌な気はしないね」

 

思わず口が緩む。

 

「楠さん、私たちの方が年下ですし、敬語は結構ですよ」

「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えて」

 

「お待たせいたしましたー。ナポリタンとアイスティーです」

 

ちょうど、榎本がナポリタンとアイスティーを運んできた。

「熱いのでやけどにご注意くださいね」

 

「いただきます」

「今日の昼ごはん?」

「ん、そうそう。ちょうど空腹だったし」

「あー、ナポリタンも美味しそう……。やっぱりそっちにしておけば良かったかしら」

「今日、安室さんのサンドイッチを食べるぞって息巻いてたじゃない。園子」

「そうなんだけどー!ほら、楠さんのナポリタンを見ていたらすごく美味しそうじゃない?何だか心が揺れちゃった。ポアロのサンドイッチはよく特集が組まれることもあるんですけど、やっぱりイケメンが作ると味が違うような気がするんですよねー」

「安室の兄ちゃん目当てのお客さんも多いんだよ。今日は男性のお客さんばっかだけど」

「なるほどね」

 

うっとりと園子が言い、コナンが補足する。菊花は頷きで返しながら、熱々のナポリタンを口にした。

 

昔ながらの、喫茶店で出されるナポリタンだ。ケチャップは濃いめで、よくよく見ると、トマトのソースと一緒に湯むきがされたカットトマトも一緒に絡められている。男性でも満足ができそうな量であった。

 

アイスティーで休みを入れるのも忘れない。火傷しそうになっていた口内が少しばかり冷やされた。甘さとミルクの量がちょうど良い。

 

ナポリタンを楽しんでいる間に、三人の話題は安室へと移った。

 

「でも、安室さんってなんでも出来るのに、なんでうちのお父さんの助手をやってるのかしら。不思議」

「言えてる。安室さんぐらいの推理力があったら『安室探偵事務所』とか看板を出して独立してそうなのにねー」

 

話の内容から推測すると、安室はかなりのイケメンで女性人気が高い。蘭の父親の助手をしており、推理力が高いという。彼は探偵でもやっているのだろうか。もしかしたら、この店の上にある「毛利探偵事務所」の所長が彼女の父親で、その助手として働いているのかもしれない。それで、料理が上手く、特にサンドイッチが絶品。料理上手なイケメンはかなりの好物件だ。同期は殆ど料理下手ばかりなので羨ましい。

 

「あ、ほら、楠さん。あの人が安室さんですよ」と蘭が言った。

 

彼女の指さす方向に、菊花は目をやる。そして、彼の姿を見るなり、菊花は驚いたあまり、強く咳き込んだ。

 

「あー、あのひ……んぐっ……!!!!ゴホッ!!ゴッホゴホゴホッ!!ゴホッッッ」

 

鼻がツンとする。無論、ナポリタンにはかかっていない。セーフだ。

 

「だ、だいじょうぶ?よしのお姉さん」

「大丈夫……大丈夫。……ちょっと、変なところに入っちゃっただけだから……ゴホッ」

 

コナンから紙ナプキンを受け取って、鼻と口に当てる。なぜ、菊花は安室を見ただけで驚いたのか。それは、同期の健啖家と瓜二つであったためである。

 

金髪、褐色、高身長。

 

同期と全く同じ見た目なのだ。世界には、自分と同じ容姿をした人間が二人いると言われているが、うち一人が、この日本にその同期と同じ顔を持つ者がいたとは。危うくあいつの名前を言いそうだった。

 

「安室の兄ちゃんを見て吹き出した人、初めてだよ」

「いや……、知り合いにすごく似ていたからビックリしてしてしまって」

「安室さん似のイケメンがもう一人?!そんな人いるんですか!?」

 

園子が菊花の言葉に食いつく。

 

「見た目は完璧そっくり。声は…………あいつの方が低めだったかな」

 

少しおぼろげな健啖家の顔を脳内から手繰り寄せる。顔はそっくりだが、目の色と声質は違っていたと記憶する。

 

「楠さん、その人の連絡先とか知っていたら……」

「もう、園子ったらー。またイケメン好きが発動した。その姿、京極さんが悲しむよ〜」

「違うから!安室さんみたいなイケメンと知り合いたいなって言うのは、そう!鑑賞したいだけなの。ほら、最近ネットとかで観賞用とか言うことあるじゃない!?それよ、それ」

「園子姉ちゃん……」

コナンがやや呆れたような目線で、園子を見る。こう見えて、園子は日本でも指折りの財閥の令嬢なのだが「らしさ」がない。

 

さて、その安室は、器用にふたつのお盆にサンドイッチ四皿を持ってこちらにやって来た。大皿が一つ、一人前のお皿が三つ。

 

「お待たせいたしました。サンドイッチです。大盛りの方は蘭さんたちでよろしいですか?」

「あ、すみません、そっちは私です」

「え、……あ、失礼いたしました」

 

安室は、菊花の方を見て少し驚いた様子であったが、キッチンへ戻っていった。蘭や園子が、安室と同じように菊花の目の前にある大盛りのサンドイッチを見つめる。

 

「大盛りって……かなりあるんですね」

「私たちのやつよりも多いわよね……」

「まあ大丈夫」

 

サラリと菊花は言い、ほぼなかったナポリタンを食べ終え、一つめのサンドイッチを手に取った。特集を組まれるだけあって、かなり美味しい。雑誌を見た時はハムサンドだけだったが、大盛りということでたまご、ハムチーズ、BLTといった種類で組み合わさっている。

 

「楠さん、どうですか。安室さんのサンドイッチ」

「期待以上だったよ。これは特集が組まれるのも分かるな。めちゃくちゃ美味しいね。うん、手が止まらない」

「やっぱり安室さんのサンドイッチが一番よね。あー幸せ…」

 

「お気に召して頂いているみたいですね」

「!」

 

いきなり声をかけられた。安室である。先程はこちらに来るのがわかったが、今のは全くわからなかった。

 

「あ、安室さん!ちょっとびっくりするじゃないですかー」

「ああ、園子さん、驚かせてしまってすみません。どうも僕の作ったサンドイッチが好評みたいですから」

「安室さん、今バイト中なんじゃないの?」

「休憩中なんだ。今の時間帯は余裕があるみたいだからマスターに許可もらってね」

「ふーん、そう」

 

素っ気なく、コナンが返す。

 

「あの、安室さん、これ、どうやって作られているんですか?うちで再現させてみても、なかなか出来なくて」

「そうですねぇ……。今度機会があればお伝えしますよ」

「くぅ!今知りたかった……」

「園子、安室さんに無理言っちゃダメだよ。今休憩中なんだし」

「実演の方がわかりやすいと思いますよ。今度、時間を取っておきますから、お見せします」

「えっいいんですかぁ!?」

 

「ごちそうさまでした」

 

隣がワイワイとしている合間に、菊花は食べ終えていた。

 

「え、よしのお姉さん早くない?!僕たちよりも、量がかなりあったよね」

「おいしいなって食べてたらもう終わってた」

「えええ……」

 

そう言った菊花に対し、コナンはまじかよこの人、とでも言いたげな目線を送った。どんだけ入るんだとでも言いたげである。

 

「先程はお品物を間違えてしまって申し訳ありません」

「いえ、お気になさらず。あの量でしたら毛利さんたちが食べるのだろうと思われても仕方ないですよ」

 

菊花は苦笑した。確かにあの量は一人で食べるとしてもかなりあった。このあと夕食が入るかわからない。

 

「とても美味しくって、すぐ食べ終えてしまいました。ごちそうさまでした」

「ありがとうございます。そう言ってくださると作り手冥利につきますね。失礼かもしれませんが、お客様は蘭さんたちのお知り合いですか?」

 

菊花の返答を待つ前に、コナンが代わりに答えた。

 

「よしのお姉さんは僕のホームズ友達だよ、安室さん」

「ホームズ友達だって?」

 

その時、安室の目が少しばかり細くなる。だが、すぐに戻されたため、菊花は気づくことはなかった。

 

安室が言った。

 

「それは是非とも、僕にもお聞かせ願いたいものですね。僕もホームズ、好きなんですよ。あなたとはいい話ができそうだ」

「機会があれば……。また来た時にでも」

と言って、菊花は荷物をまとめ、立ち上がった。

 

「ごちそうさまでした。またね、コナン君」

「うん、じゃあねー。よしのお姉さん」

 

菊花は蘭たちに笑いかけ、お会計を済ませて、ポアロをあとにする。彼女の姿が遠くなっていくのをコナンは見つめていた。

 

「あんたと話が合うなんて、どんな人かと思ってたけど案外普通だったわね」

「コナン君は楠さんとどこで知り合ったの?」

「初めて会ったのは病院だよ。前、英理さんが入院していたときあったでしょ?その時に知り合ったの。今は元気になったみたいでよかった」

「病院?僕とコナンくんがいた時のかい?」

「うん。そのとき初めて会ったの。見た目は普通だったけど」

「あの時か……」

「楠さんたら忘れ物されているわ!」

 

安室がその時のことを少し聞こうとしたが、梓の言葉で止められてしまった。

 

「コナン君、楠さんの連絡先わかる?」

「うん。連絡ならわかるよ。梓さん、どうしたの?」

「何か落し物をされたみたいで。電話して教えて欲しいのよ」

 

彼女は何かを拾い、コナン達に見せた。シンプルな見た目の黒いカードケースだ。少し分厚く、何枚かメモが入っているようだ。

 

「これ、お姉さんのなのかな。女性向けのケースっぽくないけど」

「確認したけど、何も落ちていなかったから、多分そうだわ」

「彼女のものかどうか確認しておこうか。連絡先が分かるなら教えた方がいい」

 

安室はそう言って、ケースを開く。連絡先のようなメモはなかった。代わりに一枚の写真が、はらりと、足元に落ちる。

 

「なんか落ちたよ……これは、え?」

「コナン君、なにか映ってたかい?……!」

 

写真が置かれる。今度は、コナン達が驚くこととなった。

その写真には。

 

「安室さんと楠さん?」

「僕だよな……これ」

 

 

 

どこかで撮られたらしい、安室と菊花の姿が、そこの写真には収められていた。

 

 



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公安刑事とある写真

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
更新が大変遅くなってしまってすみません。拙作のお気に入り追加、しおり、感想ありがとうございます。
ちょっと文字数少なめです。


写真には一組の男女が写っていた。男性はこちらに向かって大きくピースサインをし明朗さが感じられた。今この場にいる安室がしないような、珍しい表情だった。

隣に立つ菊花は、緊張しているのか硬い表情だ。二人の背景には大小様々なバラが咲いていた。コナンが写真と現実の彼を交互に見る。

 

「安室さんもこんな顔できるんだ」

「……これ僕じゃないな。自分かと思ったけれど違うね」

「えぇ!」

 

信じられない言葉が出た。写真の男は自分ではないと言った。

しかし、何回見比べても、違いというものが見つけられない。何が違うのかと口々に言う女性陣に、安室がある箇所に指で丸するように囲う。

 

「確かに一見すると僕が写っているようにも見えますが、ここをよく見比べてください」

「ええと……あっ!この人紫色だわ」

 

蘭が抱き上げて、コナンにも見やすいようにする。確かに、安室が指摘したとおり、写真の彼の瞳の色は、異なっていた。安室の場合、瞳はアイスブルーなどに近い色である。対して、写真の安室はアメジスト色であった。もう一度見てみる。すると、既に同じ人物と認識せず、別人にしか見えない。脳みその認識する力は不思議だ。

 

「本当に楠さんと面識ないんですか?」

「うん。学生時代のことを思い出しても、こんな写真を撮った覚えはないかなぁ。世界には自分を入れて、同じ顔をした人が三人いるというし、他人の空似かな」

 

園子からの問いかけに、安室はウインクをして返答をする。キザな動作だ。

 

「安室さんが三人も存在したら世の女性がハンティングしまくるわね」

「後ろになにか書いてあるよ」

 

写真を裏返してみると、達筆な字で「植物園にて。」と書かれている。日付は不明だが、少なくとも、数年前あたりに撮ったのだろうか。

 

入口のドアが開き、女性が入ってきた。慌ただしく、コナンたちの元にやってくる。先ほど出ていった、菊花本人である。たいそう急いで戻ってきたらしく、息をどうにか整えようとしていた。

 

「あの、榎本さん。落とし物を見ていませんか?黒いカードケースで、内側に写真が入っているんですけど」

「これだよね、お姉さんの探し物」

「ああ、それそれ!よかった、ここにあったか」

 

梓にケースを渡され、菊花はほっとしているように見えた。

 

「ごめんなさい。楠さん。そのケースの中、見ちゃいました。連絡先とかあるかなと思って」

「謝らなくとも大丈夫ですよ」

「ねえ、よしのお姉さん。安室さんと仲良いの?この写真、安室さんと写っているし」

 

先ほどの驚きぶりをみたための言葉からか。菊花はその問いに対して、返答する直前、ほんの一瞬であるものの、動揺があった。それに気づけたのは、コナンだけだ。

 

「え?あ。その人は同僚の一人なんだよ。垂水くんっていうんだ。店員さんと瓜二つで、ここに転職したのかと思っちゃったんだよね。いやもう、お恥ずかしい。こういった所は直したと思っていたんだけれど。お騒がせしてすみません」

「いえいえ、誰だって、自分の知っている人に似ていたら驚きたくなるでしょうから」

 

安室が微笑んで言った。なぜだろう。ただ微笑んでいるだけなのに、菊花はコナンと出会った時の予感を、安室に対して抱いた。彼がどうも、ただのアルバイターとかではないような気がしてならない。

 

「おーい、梓ちゃんと安室君。そろそろ休憩を終えてくれるかい。団体様がやってくるみたいで忙しくなりそうだからね。楽しいおしゃべりはまた今度にしてくれよ」

「マスター、了解です。それじゃあ、楠さん、またのご来店お待ちしてます」

「また来ますね、ごちそうさまでした」

 

待たずして、暮栖のいうとおり、菊花と団体客と思われるような人々が入れ替わりで入店し、一気に店内はにぎやかさが増した。時間もだいぶ過ぎたらしく、既に十六時を回った。

 

これ以上、お店の席を占領するわけにもいかないということで、三人は自宅へ帰宅するという運びとなった。

 

お会計を済ませ、外に出ると、じめりと汗が吹き出るような風が吹いている。

今朝、コナンが確認した天気予報では、梅雨前線はもう数日もしないうちにやってくるということだったが、それが当てはまらないかのように、この時間帯でも、体感気温が高くなっているようだった。

 

顔をしかめ、園子は天を仰ぐ。

 

「うっわ、最近の天気予報は宛てにならないわ。今日だって雨が降るかもーなんて言っていたから折り畳みの傘を持ってきちゃったし」

「雨が降るよりかはましだよ。湿気で髪の毛がやられちゃうから困るもの」

「まあ、一番大敵だものね。じゃあね!蘭。あと、コナン君。アンタは私達よりも地面が近いからちゃんと水分補給すんのよ。喉が渇いていなくても取りなさいよね。このぐらいのぬるさでもなめちゃいけないわよ」

「はーい、わかった!」

 

コナンにとっては何を当たり前にと思ったのだが、近頃は凄く暑い気温でなくとも、命を落としてしまう、悲しい出来事が後を絶たない。園口は悪いが、他人を思いやれる女性であるので、そのように言ったのだろう。

 

 

三階に上がり、コナンは自室でランドセルと荷物を床に置いた。小さくなる前に経験した小学生時代を思い出すに、もっと重量があったと記憶している。時代が変わったからであろうか。置き勉もしてよいと許可も出た。

 

リビングから蘭の声が聞こえてきた。明るい声音で楽しそうに話している。園子、と名前が出ていたので、アプリを利用した通話を始めたようだ。

 

蘭の父親であり、コナンの保護者である毛利小五郎が珍しくパチンコで大勝ちし、ご機嫌に帰宅してきたのは二時間後になった。

 

 

 

 

「店長、お先に失礼します」

「お先です!」

「はい、お疲れ様。最近、変な人が多いから、二人とも気をつけて帰るんだよ」

「梓さん、駅まで送っていきますよ。女性の夜道は危ないですし」

「ありがとうございます。今日は兄と外食をするので迎えに来てくれるんです。お気持ちだけ頂いておきますね」

「そうでしたか。ご家族の方が来られるなら安心ですね」

 

梓の言葉通り、一般的で比較的人気のある、軽自動車が少し遠くのところで停まった。梓によく似た顔つきの男性が運転をしていた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。また今度のバイトで」

「はい」

 

扉が閉まる直前、梓が手をこちらに手を振るので、こちらも返し、車が走っていった。上着に突っ込んでいたスマートフォンが振動した。指を滑らせ、相手の電話に応答する。

 

「もしもし」

《古原でございます》

「ああ、お前か」

《連絡を頂きましたので取り急ぎお回ししました。いつもの場所だそうです》

「分かった。今から向かうよ」

 

 

無機質な機械音がして電話を切った。ぐっと安室はスマートフォンを固く握りしめる。彼の瞳が、電灯によって照らされ、明るい青が現れる。

 

降谷は三つの顔を持つ「トリプルフェイス」だ。

警察庁警備局警備企画課……通称ゼロに所属する「降谷零」の顔。

国際的組織・黒の組織の幹部の「バーボン」の顔。

そして、アルバイター「安室透」の顔。

 

先ほどの電話は、「ゼロ」のほうに関連する。

このところ、潜入先の黒の組織でも、団体についての話題が上がっていた。どうにも、組織の末端が薬物や重火器を横流しているようで、探り屋のお前を頼りたいといって、ウォッカが降谷に頼んで来た。珍しいこともあるなと調べてみると、横流し先が件の宗教団体だったのだ。急遽、公安部全体で扱うべしと重要案件に変更された。

 

 

 

都内でも知る人が少ないであろう駐車場にて、同僚の神木順平(かみきじゅんぺい)は立っていた。

 

「お!いいね。早いじゃん!」

 

 

静かにドアを開け、神木が乗り込む。一気に車内が狭くなった。

 

「今日はアルバイターの日かい」

「そうだけど」

「降ちゃんはイケメンだから、さぞ黄色い声が飛んでいそうだなぁ」

 

にやにやと愉快そうに言う。降谷は、軽薄な雰囲気がある、この男が苦手であった。仕事はもちろんこなすのだが、へらへらとした調子が続くし、時たま(ふる)ちゃんという愛称で呼ばれる。

 

「おい」

「えー降ちゃんだめ?」

 

神木の手をつかんで、降谷はじろりとにらみつけた。

 

「車内はやめてくれ。知り合いの子供を乗せることがあるんだ」

「ケチだなぁ」

「ふん、ケチで結構。それより頼んでいた作業はどうなった」

「三人送り込んだところ。二週間立った。現在、聞き込みと信者に接触中。教祖の男はかなり用心深い。倉庫の中を覗いてみたが、流しのものが置かれていなかったね」

「やはりか。別の場所にプールしているな」

備企(びき)のリサーチでもそうなるか。手ごわいね」

「本当に腹の立つ」

「それと、あの団体は気味の悪いこともしているみたいだ。一部の幹部たちが怪しげな儀式をしているとのことだ。夜な夜な何かを崇めて(まじな)っているとか」

 

神木がダッシュボードの上に数枚の写真を置かれた。広いスペースで、白い服装を着て、祭壇に熱心に祈りを捧げているようだった。その祈りの先には、不気味な人形がいくつか置いてあり、手前に座る男の顔には刺青が彫られている。服装も、周囲の信者と異なるように奇妙な刺繍があった。

 

「よくここまで撮れたな」

「田村のおかげだよ。接近しているのが女信者だからね。中堅のくせして口の軽いこと。それとなく見たいとねだったら、喜んでここから見ることができると教えてくれたんだと。儀式なんてして、何頼むんだろうな?」

「馬鹿馬鹿しい。願いは自分で叶えるもんだろ」

「まあ。叶えて欲しい〜って神様にすがるのが人間だよ、降ちゃん」

「はっ。神なんているわけない」

 

降谷は吐き捨てるようにして言った。久方ぶりに見る不機嫌な感情だった。

 

「とりあえず今の段階だとこんなもんだな。また連絡する」

「よろしく頼む」

 

 

 

神木はタクシーを拾って帰っていった。降谷は愛車を米花町のセーフハウスまで飛ばす。すでに午前を回っており、自分以外の車が通っている様子もない。市内の信号機でつかまっているとき、ふと、昼間のあの出来事が思い出された。

サンドイッチを運びに行く際、己を見て酷くむせていた、あの女性。たしか名前は楠よしの。酷い顔立ちではないと降谷は自覚しているため、なにが原因で驚いていたのか見当つかなかった。

楠は、こちらを見て、あみやと唇が動いていた。コナンたちに教えた「たるみ」というのは偽名で、「あみや」が本名だろう。

 

ただ、引っかかるのが、なぜ偽名なんかを使うのかということだった。見たところ、一般人で必要ないはず。仮に、偽名が必要な職業とするならば、己とおなじ職業か。あの短時間では、楠の人となりを掴みきれなかった。また、来店するだろう。焦らず観察すればよい。

 

仮に、楠が日本を脅かすような人間ならば。

 

 

「許しはしないさ」

 

 

ぎらりと獣のように鋭く、降谷は前を見据えた。

 




備企(びき):警察庁警備局警備企画課の略称。


原作・アニメともに、風見さんが降谷さんと連絡をとっているようなのですが、この作品内では、神木さんが担当していた案件と、降谷さんが潜入している「黒の組織」の人間がかかわっているようだということで、彼も直接お話しできるような設定にしています。


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