【短編】CREEDー吸血鬼と愚直な少年ー (HappyEndFreaks)
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Act.1 茶道部と吸血鬼

 飲み干すときに躊躇いなく音を立てられるようになったのは、いつからだろう。

 

 藤居英士は茶碗の飲み口を人指し指と親指で拭い、指先を懐紙で清める。その所作にも以前は戸惑った。郷に入れば郷に従えという。生まれ育った日本の文化と言えど、カルチャーショックを受けた。

 

 知らなかったときと今の自分はきっと別物だ。

 

 畳の縁の外に茶碗を置いて両手を着く。本来は器に向けるべき視線は、着物姿の鷺ノ宮楓で留まった。伏し目がちな目にかかるまつ毛が輝いている。

 

 藤の花を模した髪飾りが、さらりと下がる。

 

 先輩、綺麗だな

 

 そう思ってる間に何秒経ったかわからない。英士はハッと我に返り、慌てて茶碗を戻した。

 

++++++++++

 

 天窓が取り入れた光は銃痕だらけの十字架を照らす。

 

 礼拝堂に入ってきた初老の聖職者カンタービレはそのまま説教台に立った。顔の左半分をおおうケロイド状の火傷もツヤを増す。

 

 カンタービレは血の入った小瓶を弄びながら言った。

 

「伽織。吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)(B-Rain)に入ったそうだよ」

「嫌な話をするのね、カンタービレ」

 

 それまで長椅子に寝転がっていた痣野伽織(あざやかおり)が上半身を起こす。イラついた様子で彼女は髪をかきむしった。

 

「狙いは何?」

「彼らはジェリコを追ってきたらしい」

 

 革製のブーツに脚を差し込む動作がピタリと止まる。ジェリコ? と痣野は顔を上げた。うなずくカンタービレ。彼女は「はん」と鼻を鳴らしてブーツを履く。編み紐をきつく結び、立ち上がった。

 

「あの山姥が来たの。わざわざ狩人まで引き連れて。私好みの最悪ね」

 

 特注のナイフを納めたホルダーを肩から提げ、固定具をはめる。ホルダーを覆い隠すためにジャケットを羽織った。

 

 後ろ髪を纏め上げてバレッタで留める。姿なりを整え終えて痣野は身廊に歩み出た。

 

 説教台の側まで寄ると肘をかけ、頬杖をついた。挑発するように上目遣いでカンタービレへと視線を送る。

 

「まさか私にあの婆さんの護衛なんて依頼しないわよね、お優しいカンタービレ神父様」

「私が危惧しているのはジェリコ以外にも被害が及ぶことだよ。何せ、君も知っての通り、彼女の能力は猜疑心を煽るものだから」

 

 ジェリコの『ついで』で殺されたら、そりゃ浮かばれないわ。

 

 痣野は肩をすくめた。

 

 カンタービレが差し出す小瓶を痣野は黙って受けとる。

 

 瓶の中で揺れる血を眺める。這い上がろうとするようにガラスの内側を赤く染めては力なく滑り落ちていく血液。その様は痣野に地獄を彷彿とさせた。

 

 どんな人が提供したものなのか、物思いに耽っていた痣野はカンタービレの言葉に耳を疑うことになった。

 

「できることならジェリコも保護したいのだが、彼女は聞き入れる人ではないから」

「冗談! あの婆さんは血を求めて喜んで他人(ひと)を襲うわ。それも過剰にね。そういう性質なんだから」

 

 吸血鬼にはそれぞれ血の嗜好がある。

 

 女の血を好む者もいれば、嘘吐きや嫉妬深い人間の血を好む者もいる。ジェリコの嗜好は怯えている人間の血を求めていた。彼女の狩りは血の味を自分の好みに仕立てる調理に他ならない。

 

 そして食事は快楽でもある。

 

  蓋を開けて痣野は血を仰ぐ。少ししょっぱく、喉に絡んだ。彼女は顔をしかめる。ああ不味い、と思ったが勢いに任せて胃に流し込む。

 

 そう言えば私ってどんな血が好みだったっけ?

 

 保管期限の切れた献血用のものがカンタービレから定期的に支給される。そのうち、いつしか血の嗜好も忘れてしまった。それでも吸血衝動は、深淵器官(アビスオルガン)は満たされる。

 

 指で唇を拭った。空の瓶を説教台に置く。ガラスの通した光が割れて台を彩った。

 

「まあ良いわ。夜警くらいはしてあげる」

「頼んだよ伽織。私も他に何人かあたることにするから」

 

 それなら黄金卿を使えば良いのに。

 

 痣野は今このときもハンモックで揺られて寝ているであろう男のことを思い浮かべた。エルダークラスヴァンパイアと聞いているが、一度もその力を振るっているところを見たことがない。

 

 不確定要素が大きいことを鑑みて、痣野は今回も彼を戦力には数えないことにした。

 

「とりあえず現状わかる限りで良いからヴァンパイアハンターの情報を私のケータイに送っておいて」

 

 ネクサスフォンを横に振る。それから踵を返して痣野は礼拝堂の出入口に向かって歩いていく。そうだ、と彼女は途中で脚を止めた。振り返ることなく、カンタービレに問う。

 

「情報屋から何か『音』属性の能力と拳法を使う老人に関する情報は、あった?」

「すまないね。それに関しては相変わらずだ」

 

 そう、と短く応えて痣野は礼拝堂を後にした。



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Act.2 鉄と傷

 フライ返しの柄が割れたことを思い出す。早めに買い替えないと、と英士は考えていた。次は値段をケチらないでちゃんとしたものを選ぼう。

 

 (B-Rain)の中で通り魔事件があったことを帰りのホームルームで担任が告げた。

 

 清虚嶺蘭女学園の生徒が襲われたことは既に知れ渡っている。ネット上では未確認の情報だと前置きをしているが、保護当時の女子生徒は貧血状態でこれは吸血鬼による犯行であると出回っていた。

 

 通り魔事件として扱われているのは吸血鬼に対する配慮だとわかっている。

 

 赤黒き写本(ヴァンパイア)

 

 誰かが大昔に構築した、能力者のみに感染するアルターポーテンス。人間の血液を定期的に接種しなければいけない体に作り替えてしまうという厄介な能力。それ故に忌避され、差別されてきた者たちが吸血鬼と呼ばれている。

 

 いくつかの諸注意が伝えられてホームルームが終わる。担任がいなくなると教室は吸血鬼の話題で持ちきりになった。

 

 血を飲むとか気持ち悪い、吸血鬼狩り(ハンター)を支持しちゃうな、でも吸血鬼って年を取らないんだろ? 最高じゃん、何考えてるかわかんないよな急に豹変して襲ってくるんだろ?

 

 氾濫する言葉の中で英士は逐一、本当にそうだろうか、と心の中で繰り返す。潜望鏡で海底から様子を覗くような心持で周りを窺う。話題に乗らない級友がいるとそれだけで安堵した。

 

「避妊しなきゃ性病みたいに感染したりすんのかね」

 

 声高に笑うサッカー部の連中を英士は横目で見た。通りの良い声で発せられた浅慮な言葉は、そのままクラス中に蔓延していくような気がして不快だった。

 

 なに? と気付いた一人が英士に声をかける。火種を注ぐことは良しとせず、英士はそっぽを向いた。

 

「いや、何でもない」

 

 一瞬、場が静まった。しかし一際目立つ生徒が「そりゃお前、藤居だって聞き耳立てるって。だって避妊の話は大事だろ?」と言うなり、「夜はお前の方が吸血鬼より上手(うわて)だろ!」と取り巻きの仲間がすかさず囃し立てた。藤居のことはとっくに蚊帳の外になっている。級友の何人かは白けた顔をしていた。とりわけ女子生徒の表情は厳しく、軽蔑しているようにさえ見えた。

 

 冷めた視線に気付かず、先ほどの盛り上がりを取り戻すべく手を叩いて笑う運動部を中心とするクラスメイトたち。彼らを後目に一足先に英士は席を立つ。

 

 何だか逃げ出すみたいだ。後ろ髪を引かれるような思いだったが、その場にいたくなかった。

 

 抱えてしまった不快感を飲み溶かそうと思い、遠回りをして下駄箱に向かう。

 

 藤居は能力を起動し、両手の間に納まるサイズの無骨な黒い鉄の塊を具現化させた。

 

アルターポーテンス、深層心理鉱脈(ディープブルー)

 

 光の加減によって青系統の色味を帯びるそれは、次第に波打つように変形していく。

 

 大小の棘が四方へと飛び出した。幾重にも分岐しては縮小を繰り返す。かと思えば、四角いブロック状の突起が重なり合って嵩を増し、ある程度の高さになると内側に向かって自壊する。形状がまるで安定していない。無神経な同級生たちに少しイラついていることはわかっている。けれど分身であるディープブルーがここまで反応すると、否応なく自分の未熟さを痛感せざるをえない。

 

 集中することを言い聞かせて正四角形を作ろうと試みる。けれど雑念が脳裏を過った。四隅がそのまま鋭角を伸ばし、また形は歪なものになってしまう。

 

 あの場で自分は何を言えばよかったのだろう。

 

 ディープブルーに意識を向けていたため周囲のことがおろそかになっていた。階段に差し掛かったところで駆け降りて来た生徒とぶつかる。きゃっ、という短い悲鳴が聞こえた。英士は尻餅を着く。そこに覆い被さるように倒れ込んだのが鷺ノ宮楓だった。

 

 倒れた直後、楓は目を閉じていて事態に気付いていない。しかし英士はどぎまぎしている。

 

 先輩顔近い!

 

 英士は吐息をかけまいと呼吸を止めた。楓の(しだ)れた髪の毛が英士の頬にかかり、香のような匂いが鼻腔をくすぐる。密着した柔い胸に圧迫されて英士は身動きがとれない。その感触に頭に血がのぼるのがわかった。

 

 最優先させたのは英士の心理と同期しているディープブルーの解除だった。

 

「英士君?」

 

 目を開けた楓も瞬く間に紅潮する。楓は弾かれたように起き上がった。「ごめんなさい!」と言う声も裏返っている。

 

「怪我はない?」

 

 楓の言葉に英士は冷静になる。彼女に痛み分けの聖者(アタッチメント)を使わせることは避けたい。

 

「大丈夫です。どこも怪我はしていません。俺の方こそすいません。ずっとディープブルーばかり見ていて、周りのこと見えてませんでした」

「私も部活の準備しなきゃって慌てて何も見えてなかったの」

 

 英士は一瞬きょとんとして、それから「先輩」と声をかけた。「何?」と首をかしげる楓。

 

「通り魔事件があったので今日の部活は全面停止です」



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Act.3 通り魔事件と正四角形

 普段から英士は楓と一緒に下校する。今日は鳥がやけに多いなと英士は空を見て思った。

 

 ゲームセンターの前を横切ったとき、体を使う筐体の前に妙見院学園の生徒がいるのを見かける。

 

 サイドテールの背の低い女の子が「キリク殿、いざ尋常に勝負!」と威勢良く宣言する。キリクと呼ばれた華奢な男子は「僕を蒼華ちゃんとフィジカル面で競わせるのは酷だと思うんだ……」と及び腰だ。その後、勝負、勝負とせがむ蒼華を眉根を下げて困ったようにキリクが見ている。やがて彼は折れたようで「一回だけだよ」とキリク。

 

 楓がその光景を見て苦笑する。

 

「仲が良いね、あの子たち」

 

 英士は、そうですねと気のない返事をした。

 

 あの二人の姿が楓の求めている『仲の良さ』だとすると、やはり楓と英士の関係は部活の先輩と後輩でしかないのだろう。内心、英士は肩を落とした。当時は違う部活に所属していたとは言え、これでも二人は中学校からの付き合いだった。

 

「さっきディープブルーを見ながら何を考えていたの?」

 

 虚を突かれた英士は、えっ? と聞き返す。ビル風が楓の髪を撫でる。乱れさせまいと押さえて、彼女は言った。

 

「英士君は考え事をするとき、ディープブルーに訊くでしょ。英士君の分身として。何を考えていたのかなって」

 

 夕陽を背に受けて間延びした影を英士は見る。

 

「通り魔事件の犯人が吸血鬼だっていう噂があるのを知ってますか?」

 

 楓が頷く。

 

「そしたらクラスメイトが吸血鬼を異物のように扱っているのが、すごくもやもやとして」

 

 少し考えてから楓は「でも私もちょっと怖いかな」と言った。英士は、やっぱり自分が変なのかとうなだれる。

 

 すると楓は、たぶんね、たぶんだけど、と自信のなさから予防線を張る。

 

「私もその人たちも吸血鬼のことを何も知らないから怖いんじゃないかな」

 

 坂道を上る。徐々に人気(ひとけ)が無くなっていく。代わりに護岸工事が行われたコンクリートの上から覆い被さるように枝葉を伸ばす木々が増えてきた。

 

「昔見たテレビのドキュメンタリーで密林に暮らす原住民を特集していたの。現地の人が掘り出した幼虫や芋虫を食べるのを視て、私もうわぁって思ったけど、彼らからすればそれは貴重なタンパク源なんだって」

 

 話がまだ読めないが、英士は昔飼っていたカブトムシや小学生のとき授業の一環で配られたカイコの幼虫を思い浮かべる。食べろと差し出されても食べられる気がしない。

 

「でも日本人が生魚や生卵をそのまま食べるのも海外の人からは奇異の目で見られていたでしょ? 戦時中に捕らえられた兵士がゴボウを出されて『木の根を食べされられた』って訴えたり。一歩下がって見ると自分の当たり前は他人の当たり前じゃないんだって気付いたの」

 

 知らないことは、それだけで怖いんだ。英士はそう思った。

 

「でも今は和食も文化として少しずつ受け入れられてきた。食文化に限らず、理解できないけど受容や許容できることは少なくないと思う。相手も自分も同じ人間だから」

 

 坂道はまだ続く。

 

「今回のことも吸血鬼だからじゃなく、危害を加える人間が怖いんだよね。生卵を食べる人も、幼虫を食べる人も他者(ひと)の悪意が怖いのは同じ筈。だけど今回は皆わからないものを怖がるために憶測で物を言いたいんだと思う。憶測で言えることは予測ができる状態に落とし込むための前段階だから」

 拓けた場所に出る。平屋の日本家屋が楓の家だ。家屋に明かりは着いていない。両親を事故で喪った彼女はここで一人暮らしをしている。

 

「英士君は何もわからないまま、ただ吸血鬼ってだけで怖がったり、奇異の目で見ることが嫌なんだよね。英士君は優しいから」

 

 送ってくれてありがとう。楓はそう言って笑い、錆びついた音を立てる門扉をくぐった。道路間際の石畳で彼女は振り返り、次は英士を見送る立場に回る。否応なく音が立つ門扉を閉ざすと閉め出したかのような印象を相手に与えかねない。だから彼女はその場にたたずむ。人の心を完璧に知る術をもたない彼女は、他者に配慮するに越したことはないと考えている。

 

 英士も彼女を外に長居させないため、早々と別れの挨拶を交わす。

 

 ホームセンターに寄ってフライ返しを買って、それから夕食の食材も揃えよう。

 

 坂道を一人で下りながら英士は深層心理鉱脈(ディープブルー)を起動する。

 

 妙見院学園の生徒と言えば、と英士はふと思い出す。四月に起きたブライアン・ウォードの脱走事件のとき、彼を打倒した一年生がいるという話だ。

 

 噂では襲い来るブライアンを千切っては投げ、千切っては投げの大立ち回りを演じたと聞いている。きっと自分とは違い、偉丈夫で頼りがいのある男に違いない。

 

 かばんには中学生の頃、楓がくれた手製のお守りが下がっている。

 

 自分も楓先輩を守れる力がほしい。

 

 英士の分身(ディープブルー)は正四角形を形作って揺るぎない。



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Act.4 ナイフと釘

 手がかりを求めて痣野は交差点に立つ。

 

 児童公園があるためか拓けた印象を受ける。その公園が清虚嶺蘭女学園の生徒が襲われた現場とのことだった。

 

 トラックが掻き分けた空気が痣野の髪を乱す。交通量も多い。タバコの煙がなびいて止まない。

 

 夕暮れ時の空には忙しなく鳥が行き交い、不穏な雰囲気をかもし出す。やけに鳥が多いのが気にかかった。

 

 横断歩道を渡り、公園側へ。何でこんな人目につくところであの狡猾な老婆が通り魔などという大それたことをしたのか、痣野は疑問を持つ。

 

 見回してみても、なんの変徹もない道路だ。ジェリコが関わったとされる吸血事件は必ず十字路で起きている。何か、それこそジェリコにしかわからないこだわりがある筈だと痣野は考える。

 

 住宅街の十字路、ビルの谷間の交差点、郊外の畦道。何枚もの現場の画像や航空写真をプリントしたものを見比べても何も共通点が読み取れない。

 

 ただ道が交われば良い……? 条件は本当にそれだけ?

 

 視覚に頼った次は、匂いを探る。吸血鬼の体に変換されてから嗅覚が上がっていた。二ヶ所から肉の腐った、すえた臭いがする。道路のその位置をカラスがしきりにつついていた。

 

 もう一ヶ所の臭いを辿って公園の中を痣野は見た。

 

 カラスが占拠している樹木の下にブランコが設置されている。そこに腰かけた男性が爪先で地面を掻いて小刻みに揺らしている。キィ……、キィ……と余韻のない音が立つ。男が着ている黒衣の肩にはマスケット銃と杭のシルエットを組み合わせた十字架の刺繍が見えた。彼もまた痣野を見ている。

 

 痣野は歩み寄る。

 

「あっちにベンチが空いているわよ、釘打ちトバイアス」

「揺れる分、得した気にはならないかい吸血鬼」

 

 目眩に見舞われたかのような動きで、ゆらりと立ち上がるトバイアス。痣野はタバコを金属製の携帯灰皿に納めた。

 

「ジェリコを追ってきたのでしょう。言っておくけど私は何も関係ないわよ」

「農夫は野菜をいっぺんに刈り取るものだ。君もジェリコも私からすれば大して違いはないのだよ。けれど収穫量が多ければ嬉しいだろう? 豊作って奴さ」

 

 それに、とトバイアスは不適に笑う。

 

 互いに懐から得物を抜く。間髪いれずにトバイアスが片手につき四本の釘を放った。

 

「君がジェリコではないという確証がない!」

 

 痣野は己の手首をナイフで横に切る。それから飛び交う羽虫を払うように血の滴る手首を素早く動かした。

 

アルターポーテンス、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

 

 弧を描いて広がった流血は紅蓮の炎を噴いて爆ぜる。

 

 爆風を受けて釘は直線軌道を外れて四方に散らばった。熱線を受け、凹凸がはっきりとしたトバイアスの顔は赤く染まる。

 

「血液を起爆させる能力か」

 

アルターポーテンス、のたうち回る標本(タンブルキャタピラー)

 

 木材に負荷がかかる音がした。ベンチが音源だった。一本の脚は腐敗していたらしい。脆くも崩れて既にぶらついている。また一本、弓形にしなっていた脚が土をどかして根本から引き抜かれた。直後、片側に残っていた一列が同時に折れた。

 

 束縛するものがなくなったベンチは回転し始める。遠心力で土を撒き散らす。ベンチは痣野を目掛けて飛んできた。すかさずナイフを突き出すが、レコード盤に弾かれた針のように切っ先は拒まれた。左腕を盾にするが、直撃を受けて抉れる。

 

 回転は止まらない。指示を待つ従者のようにベンチはトバイアスの側に控える。

 

「ベンチが回ることはお得なの?」

「君の致死率が上げられるならそれは得に違いない」



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Act.5 ジャングルジムと針金

 「当たってしまった」

 

 英士はエドニーガーデンのペアチケットをまじまじと見つめた。三千円以上の買い物をしたところ、福引券をもらった。いざ、挑戦したところ特賞が英士の元に転がり込んできた。英士自身、未だに信じられない。だがせっかく引き当てたからにはこの幸運を活かしたい。

 

 楓先輩を誘おう。出来ることなら。

 

 公園に差し掛かったとき、英士は爆発音を聞いた。

 

 ビニール袋が手に食い込むことも省みず、音がする方に駆け寄る。そこで英士は高速で回転するベンチを操作するトバイアスとナイフを構える痣野の戦いを目の当たりにした。

 

 何が原因で勃発したものなのか英士にはわからない。ただ、二人から目を離せなくなった。

 

 痣野がナイフを構えて間合いを詰める。ベンチを目の前に配置し、盾とするトバイアス。直後ベンチに付着していた痣野の血が起爆する。

 

 駆け寄って来たのは攻撃ではなく起爆の射程圏内に入るためか。トバイアスは下唇を噛んだ。トバイアスがベンチでガードすることを見込んでの策だった。

 

木片が飛び散り、折れた椅子の脚がトバイアスの肩を打つ。怯むことなくトバイアスは釘を乱れ撃ちにした。

 

 痣野はことごとく手首からの出血を散らして迎撃。しかし爆炎で一瞬トバイアスを見失う。ふたたびトバイアスの姿を目で捉えたとき、間合いにズレが生じていた。

 

 歩幅が合わない!

 

 痣野はナイフではなく、左手でトバイアスの顔面を殴り付ける。それでも吸血鬼の膂力で繰り出された一撃は軽くない。吹き飛ばされたトバイアスはジャングルジムに体を打ち付けられた。

 

 トバイアスはジャングルジムに釘を突き立てる。

 

 ジャングルジムが軋み、金属同士が擦れ合う音がした。歪みと共に摩擦音は次第に大きくなっていく。錆と劣化した塗料がジャングルジムから剥がれ落ちる。

 

 痣野は目を見開く。

 

「何をしているの?」

「見ての通りだよ吸血鬼。私のタンブルキャタピラーは釘で刺したものを強制的に回転させる。しっかり固定されていたら捻れ切れるまで変形する。それだけだ」

 

 涼しい顔で鉄の棒を針金みたいに曲げやがって。

 

 冷や汗が痣野の頬を伝う

 

 遊具のカラフルな色合いも痣野には今となっては毒々しいものに感じられた。螺旋状にネジ曲がったジャングルジムは歪な槍と化す。

 

 接地していた鉄の棒が全て引き千切れた。楔を解かれ、原形を失ったジャングルジムが回転する。色彩豊かな竜巻のようだ。

 

 あんなの食らったら一たまりもない。

 

「存在するだけで罪深い生物よ。地に伏せて許しを乞え」

 

 トバイアスの言葉は痣野に火を着けた。痣野には死ねない理由がある。

 

「生きることが罪だと言うのなら背負って立つだけよ」

 

 とは言え、真正面から受けるのは得策ではない。痣野が回避を試みたとき、視界の端に入ったのが英士だった。その不運に痣野は奥歯を噛みしめる。それでも彼女は覚悟を決めた。

 

 痣野の手首には横一文字に傷が走っている。さらに加えて、血管に沿って縦に裂いた。ボタボタと垂れた血が地面に染み込む。

 

「ならば痛みにのたうち回ると良い。タンブルキャタピラーッ!」

 

 変形したジャングルジムの槍が痣野に向けて放たれる。迎え撃つべく痣野はおびただしい量の流血に干渉し、球体状に操作・圧縮した。

 

 目が合ったと感じたのは英士も同じだった。痣野がそれを期に回避を止めたこともわかった。

 

 俺の所為だ。

 

 英士はレジ袋も鞄もその場に投げ出した。トバイアスと痣野、どちらに非がある戦いなのかはわからない。けれど英士は深層心理鉱脈(ディープブルー)を起動し、今まさに自分の盾となろうとしている痣野のそばに駆け寄る。

 

 迫りくる槍の勢いは一向に衰えない。

 

++++++++++

 

 猫の鳴き声が止まないことに楓は気付いた。なぜだか無性に気になり、様子を見に表に出る。

 

 交差点の付近に猫が横たわっている。自動車の影はない。楓は慌てて猫に駆け寄った。怪我をしているものかと思っていた。しかし楓が目の当たりにしたのは針金で四肢を封じられている姿だった。彼女は猫を抱えて歩道に戻る。

 

 ひどいと思った。巻き付けられた針金が肉に食い込んでいる。猫は嫌がり、もがいたのだろう。食い込んだ針金と擦れて肉が裂けている。

 

 猫の痛ましい姿に一切の情けもかけず、犯人はこれを強行した。何かしらの途方もない意思を持ち、路上に放置したのだ。今はその怖さより、憤りが勝っている。

 

 楓は懸命になって針金を外そうとした。しかし執拗なまでに固く締められていてほどけそうにない。父が生前使っていた工具のことを思い出し、猫を連れて家に入る。

 

 ごめんね、ごめんね。そう謝罪を重ねてペンチでネジを緩めるように締め付けを解く。前肢が自由になると猫は途端に暴れて楓に爪を立てた。それでも彼女は猫を押さえつけ、何度も詫びの言葉を口にする。今だけだから我慢して。そう心を締め付けられながら、後ろ足の針金もようやく外した。

 

 興奮する猫を抱き、最後に能力を起動する。

 

アルターポーテンス、痛み分けの聖者(アタッチメント)

 

 彼女の能力は他者の傷を引き取る。猫の四肢の擦り傷は楓の手足に転写された。

 

 これで良し。

 

 安堵したのもつかの間、猫は足掻き、楓の腕をすり抜けて姿を隠した。

 

 傷を治せても、心に負ったものを請け負うことは出来ない。楓の能力の限界だった。

 

 家の中に他に人はいないし、外に出すとまだ犯人がうろついているかもしれない。これで良かったんだと楓は思い、自らの手当てをするために救護箱に手を伸ばした。



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Act.6 赤い矛と青い盾

 深層心理鉱脈(ディープブルー)は同期した者の心理を読み取り、自在に変形する金属の能力。

 

 英士は巨大な盾を作り、ジャングルジムの槍を受け止めた。接触したとき、火花が散った。ぶつかり合う衝撃は凄まじく、気を抜けば弾き飛ばされてしまいそうになる。回転の振動が腕に伝わり、腕が縄のようにしなった。

 

 地面まで装甲の長さを伸ばし、支柱で後ろから盾を補助することで何とか耐えている。

 

「邪魔よ! 退きなさい!」

「嫌です。水を指してすいません。でも、嫌なんです!」

「何が!」

「こんな決着はあなたの強さじゃないから。俺がいなければ、きっと……」

 

 黙りなさい。痣野はそう英士の言葉を遮った。

 

「そんな仮定はいらない。私は迎え撃てると判断したからここにいるの。勝手に私の意志を背負って余計なことをしないで」

 

 何も言えなくなった英士に痣野が呟く。「穴は開けられる?」。英士が見た痣野はもう真っ直ぐに盾の先の敵を見据えていた。

 

「槍の回転軸は釘よ。その位置で盾に穴を開けられる? 大きすぎると槍が入り込むから、釘のサイズで」

「出来ます!」

 

 腕に刻んだ十字傷からの出血を振り払う痣野。それから彼女は先に支配下に置いてあった血の弾を構える。「すぐやって」。

 

 釘の位置はわかっている。英士は支柱を増やして地面に固定し、痣野のために少しスペースを空けた。

 

「いきます」

 

 一声かけてから盾に穴を作る。鈍い衝撃があり、槍の先端が潜り込んできたのがわかった。槍先が盾の厚みから飛び出すことはない。しかし槍の形が均一ではないから、振動が不規則で英士の渾身の力でも長く持ちそうになかった。

 

 刺し込まれた先端の釘が穴の中で取り乱したように躍り狂う様がわずかに見える。それでも潰れたり、曲ることはない。頑丈なのではなくトバイアスの支配力で補強されているからだ。

 

「念のため、手を離した方が良いわ」

 

 痣野は手のひらで穴を隠すようにして血の弾を押し込める。すかさず英士は盾から離れた。

 

アルターポーテンス、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

 

赫灼煉華(かくしゃくれんげ)・一輪挿し」

 

 途端に盾が爆風で押され、支柱が地面を掻きむしる。ディープブルーの途切れた箇所に火の手が上がっているのが見えた。

 

「能力を解いて」

 

 英士は言われるがままにディープブルーを解除した。

 

 ひしゃげたジャングルジムが横たわっている。トバイアスは被害こそ受けてはいないが、唖然としていた。

 

「追撃がなかったようだけど、天気予報でも見ていたのかしら?」

 

 痣野がいけしゃあしゃあと宣う。

 

「強かだな吸血鬼。釘の投擲は弾かれるし、かと言って君が地面に溢した血は言わば地雷だ。直接釘を刺しにかかって踏み込めば私だけが損をする」

 

 英士は足元を見た。血の円陣が出来ている。先ほどまで立っていたところは土が掘り起こされてしまっているが、確かに直前まで彼女は周囲に血を撒いていた。

 

 抜け目がない戦い方というのは、英士には出来ない。痣野の機転に感嘆するばかりだった。

 

「君を殺すのに準備がいるらしい。ここいらでお暇させていただくよ」

「逃げるの? 農夫さん」

「収穫の先送りだよ。天気と相談でもするさ。だが必ず刈り取る。お前ら吸血鬼をのさばらせても、土壌を汚すだけだからね」

 

 いつの間にかトバイアスの傍らに小柄な少女が立っている。彼女がトバイアスの裾を掴む。そして次の瞬間にはその場から二人ともいなくなった。



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Act.7 境界線と挫折

 痣野は残り火がないかを確認し、「じゃっ」と片手をひらつかせて颯爽と立ち去る。英士は荷物を拾いに戻り、それから痣野のことを追いかけた。

 

 公園を出て周囲を見渡して痣野の姿を探す。

 

 もうあんなところに!

 

 息を切らせてようやく追い付いた英士を痣野は一瞥した。そのまま気にかける様子はなく、彼女は歩調を緩めない。

 

「待ってください!」

「何故?」

「お願いがあります。俺に戦い方を教えて欲しいんです」

「私忙しいの。他を当たって。師水館学園のOBでも紹介してもらえば良いでしょ」

 

 女性が使うには渋い革巻きのシガレットケースを懐から取り出し、タバコを一本くわえる。喋らない理由を作りたかった。ケースに替えてライターを探してポケットを漁る。

 

「あなたに教わりたいんです」

「何で?」

「俺には地面に染み込ませた血を地雷に使うような、そういうズルさはありません。だから、あなたから学んで取り入れたいんです」

 

 真面目か。

 

 オイルライターを取り出し、せせら笑う。それからタバコに火を点した。一口飲んでから、紫煙を吐き出す。無視するつもりだったが、英士がいやに真剣で邪険には扱えない。

 

「ズルい奴なんてその辺にごまんといるでしょ。選り取りみどりじゃない」

 

 回避行動を止めた痣野の勇姿を思い出す。迫り来るジャングルジムの槍に立ち向かう小さな背中。地面を踏み締め、一歩も退かないという強い覚悟を感じさせられた。

 

「ただズルいだけの人間なら、俺は教えを乞うようなことはしません」

 

 私に何を期待してんだか。

 

 痣野は英士の荷物を何気無く覗き込む。食材と新品のフライ返しがエコバッグに入ってる。フライ返しを見て選んできたって感じか。エコバッグを持ち歩いてるのは普段から買う習慣を身に付けている? そう、彼女は当たりを付けた。

 

 戦いと縁の無さそうな子なのに、と痣野は英士の荷物から視線を外す。

 

「何で強くなりたいのさ」

 

 鞄に揺れる楓の手製の御守りを英士は見た。いつ切れるかわからない、心許ない紐でぶら下がっている。

 

他者(ひと)を守れる人間になりたいからです」

 

 英士の言葉は痣野にとってあまりに軽く思えた。

 

 守られる人間(がわ)の方が辛いこともある。

 

 脳裏を(よぎ)ったのは痣野を庇い、血まみれとなったタタラの姿だった。あのときタタラ一人なら逃げられたかも知れない。そう思うと悔やみきれなかった。『すまないなあ。どうしても欲しくなってしまったんだ』。貪欲なあの老人は耳障りな声が甦る。

 

 同時に己の無力を呪った。後悔は澱のように溜まり、ふと何かの拍子に浮き立つものだ。

 

 横目で見ると英士の眼は真っ直ぐに痣野を見ていた。遅かれ早かれ人間(ひと)は大小の挫折を重ねる。例外はない。擦れたところがない英士の顔付きは疳に障った。過酷な現実に上限はない。それを知らない者の表情だった。

 

 痣野はタバコの根元を噛む。いつか必ず、非常な現実に直面する日が来る。挫折する彼の姿を見る覚悟は出来そうになかった。だから彼女は逃げることにした。

 

 修復したばかりの手首に再び切り傷を入れる。滴る血で地面に境界線を引く。

 

アルターポーテンス、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

 

「この線を越えたら、敵と見なす」

 

 英士は蛇行する赤い点線を眺める。

 隙間が多いにも関わらず如何なる検問より強く拒絶の意思を感じた。踏み越えてほしくない。そういう祈りにも似たものだ、と。

 

 けれど英士にはここが水分嶺に他ならなかった。今退けば二度と決心が付かなくなるかもしれない。それに痣野が怯えた眼をしていることに気付いてしまった。

 

 英士はその心許ない横線をただ跨いだ。

 

 痣野の前に英士が立つ。直後に彼女は英士の腕を取り、力強く引いた。痣野の背中を介して英士の体は宙を舞う。気付いたときには路上に横たわっていた。

 

「あんたの眼に私がどう見えたかは知らないけど、誰かに何かを指南するような余裕、私にはないの」

 

 悪いけど、と痣野が言いかけたところで英士は立ち上がった。理不尽な仕打ちに対して憤りの様相を見せるわけでもなく、変わらず英士は真っ直ぐに痣野を見据える。彼女は眼を背けたくなった。

 

「諦めは悪い質?」

「そんなことはありません。俺だって色んなことを投げ出してきました」

 

 中学のとき英士は陸上部だった。体育会系の陰湿な人間関係に嫌気が差し、運動部そのものを見限った。

 

「ただ、今はまだ諦める理由がありません」

「呆れた。私の事情や意見は無視しても構わないってわけ?」

「い、いえ。そういうわけではなくて」

「ねえ、あんた、本当に他人(ひと)を守りたいって思ってる? 私からズルさを獲られたら、どんな人間でも守れると思う?」

 

 英士が言葉に詰まる。

 

「私は弟子をとらない。この手も足も出ない現実が、生温いとは言え本当の挫折なの。思い知ると良いわ。どうしようもないことはあるのだと。説得も論破も意味を為さない、聞き分けのない理不尽はありふれているものよ」

 

 英士にはそれ以上、痣野の背中を追うことはできなかった。



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Act.8 押し花とアヤメ

 《山姥》とあだ名された『彼女』は交差点に立つ。

 

 あまり血の臭いがしないね。

 

 いぶかしみながら周囲を窺う。気が付いた誰かが保護したのだろうか。また話題になると厄介だと眉をひそめた。

 

 『彼女』には狩りの前に供物を捧げる習慣がある。場所は交差点。それも決まって猫の死体を目の当たりにした十字路を狩り場に定める。そのために時には猫の四肢を針金で縛り上げ、あらかじめ設置しておくことさえあった。それが『彼女』の食前の儀式(ルーティーン)だった。

 

 しかし現状、昨日の夕方に放置しておいた猫が影も形もない。死体を片付けられたわけではなさそうだ。

 

 歩道に砂をかぶり黒ずんだ血痕を見つけた。滴り落ちてできた斑点の大きさを考えると、ある程度高い位置から血液はこぼれたものだと推測できた。やはり人間(ひと)の手によって運ばれている。

 

 僅かに残る血の臭いと痕跡を注意深く辿ると民家に続いていた。『彼女』は躊躇いなく庭先に這入る。ガラスに顔を近付け、中を覗き見ると猫が闊歩しているのが見えた。

 

 いた!

 

 声を挙げて『彼女』は驚喜した。『彼女』に気付いた猫が走り去る。昨日、用意した猫に間違いない。けれど脚の怪我はどうした。今の俊敏な動きも傷を庇うような仕草は一才見えなかった。

 

 ガラスが木枠の中で揺れる音がした。玄関の引き戸が開いて、両手首に包帯を巻いた少女が出てくる。

 

 ああ、この(アマ)能力(アルターポーテンス)か。

 

 納得した『彼女』は醜悪な笑みを浮かべた。

 

++++++++++

 

 猫のことを気にかけながら楓は玄関の鍵を締める。曇り空を見上げて、鳥がたくさんいるなと思った。庭先から土鳩が飛び立ち、空の交差点に加わる。

 

 痛み分けの聖者(アタッチメント)で猫から引き取った手足の擦り傷がズキズキと痛む。猫の四肢に巻き付いた針金のことを思い出すと気分が重くなった。

 

 誰がどんな理由で……、ううん、例え理由があってもあんなことして良いわけがない。

 

 受容も許容も出来そうになかった。理解ができないことは、それだけで怖い。家に押し入って猫に危害を加えたりはしないかな、と不安だった。

 

 部活やりたいな、と楓は思った。

けれど家を長く空けるのも気が気でない。悶々としながら坂を下る。

 

 見覚えのある背中が前を歩いていた。小さく揺れる御守りを見て楓は眼を細める。中学のとき、彼女が作ったものだった。

 

++++++++++

 

 あ、またあの子だ。

 

 中学の頃、グラウンドの見通せる渡り廊下を歩いていると英士が独りで自主練習をしているのをよく見かけた。ジャージの色を見て彼が一年生だとわかる。

 

 すごいな、今日も頑張ってる。

 

 夕暮れ時のトラックを英士は走り続ける。学校生活で見慣れた校庭を周回し続けるのは辛くないのだろうかと楓は思っていた。

 

 秋に差し掛かった頃にようやく『見えているもの』と『見据えているもの』は違うのだと気付いた。見えているものはいつもと変わらない景色かも知れない。けれど英士が見据えているのは昨日の自分より少しでも早く走ることだ。

 

 彼が毎日ひた向きに走って変えたいのは彼自身なんだ。

 

 頑張っている英士に『頑張れ』というのは何か違う気がして、それに代わる言葉を探しながら心の中で応援し続けた。

 

 英士との距離は、校舎と校庭から縮まることはなかった。

 

 二年生になっても英士がやることは変わらない。楓もまた、同じだった。受験を控えていた彼女にとって、英士の姿は背中を押してくれるものでさえあった。

 

 県大会出場が決まった陸上部の壮行会が開かれ、壇上に登った中に英士の姿があった。彼の一年間の努力を知っている楓は自分のことのように嬉しかった。ずっと努力していたんだから、きっと上手くいく。そう思えた。

 

 楓が初めて英士に話しかけたのは県大会の前日だった。グラウンドの端で英士がしゃがんで立ち上がらないのを見たことがきっかけだった。

 上履きのままグラウンドに降り、駆け寄った。英士は足首を押さえて脂汗をかいている。

 

 脚をひねったらしく腫れ上がっていた。

 

 立てる? という楓の問いかけに英士は大丈夫ですからと繰り返した。自力で立ち上がろうと試みるが彼は立てない。痛みに屈するたびに、英士の焦燥と失望が読み取れた。崩れ落ちて誰も立ち上がれなかった。

 

 あんなに一生懸命に積み重ねたのに。

 

 たった一度の怪我で英士の一年が水泡に帰すのを楓は納得出来なかった。ひた向きに努力した人間がスタートラインにさえ立てないなんてあんまりだと思った。例え結果に結び付かなくても、何かしら報われて良い筈だ。

 

 だから楓は、怪我を引き取ることにした。

 

アルターポーテンス、痛み分けの聖者(アタッチメント)

 

 突如脚の痛みが引いたことで英士は困惑する。それから楓を見た。口角を無理矢理吊り上げて彼女は笑う。誤魔化し切れていない。英士は何か代償を伴う能力を彼女が使ったのだと察した。

 

 捻挫がどう処理されたか、英士にはわからない。ただの治癒能力ではないらしい。それを解除すれば、英士の怪我が元通りになるのかさえ不明だ。けれど、楓が何かしら背負う理由はない。

 

「やめてください。俺の代わりになんてならないでください!」

「良いの」

「良くないです!」

 

 見ず知らずの、という言葉を楓は遮る。

 

「見ず知らずじゃないよ。頑張ってるの、時々見てたから」

 

 英士は少し怖かった。何のためらいもなく自分を犠牲にできる人間を初めて見たから。

 

「明日は大事な日だから」

 

 それでも英士は、天秤にかけてしまった。

 

「あなたを見てると私も頑張らなきゃって思えたの。ずっと勇気をもらってたんだと思う。だからあなたがここで挫折すると、やっぱり努力は人を裏切るんだって気になっちゃうかも知れない。あなたのためじゃなく、私が自分のためにやったことだから」

 

アルターポーテンス、深層心理鉱脈(ディープブルー)

 

 真偽を判断できるようプログラムする。これでディープブルーは楓の心理を感知して真実なら四角、偽りなら三角に変形する。

 

 何か楓に裏があるのではといぶかしんでいるのではなく、隠されることが嫌だった。

 

「俺の捻挫はどこに行ったんですか?」

「私が引き取ったの」

 

 四角。

 

「痛い、ですよね」

「ううん、思ったより痛くないよ」

 

 三角。

 

「肩を貸します」

「ありがとう」

 

 保健室に向かい歩き出す。楓を抱え上げる力は英士にはない。情けなくて仕方なかった。

 

 楓を庇って歩きながら、英士は考える。

 

 誰かを犠牲にして県大会に出ても自分が納得できるとは思えなかった。ましてや彼女はチームメイトでも競争相手でもない。それまで彼女とは話したことさえなかった。

 

 けれど一年間の努力も否定できずにいた。思うような結果が出なくてもそれは仕方がないことだ。だが大会に出れないことは、ただ無下にすることに他ならなかった。

 

 落としどころを英士は探す。他の誰でもない自分を騙すための作業だった。

 

 色々な声が内側から聞こえてくる。自分の気質、うしろめたさ、逼迫した状況、ぐちゃぐちゃの感情、可能性を次から次に提示する思考と少しの甘言。それらが答えを英士から遠ざけた。保健室に行き着くまでに何かしら案を出さないといけない。

 

 ベストはどこだ。

 

 楓のことをこのままにするという選択肢はない。さっきまでは自分の痛みだったから脚の辛さは知っている。

 

 けれど間抜けな自分を呪いながら、次があると潔く降りられるほど英士は成熟した人間ではない。英雄には程遠い、どこにでもいる普通の中学生だった。

 

「その痛みを俺に返してもらうことはできますか」

 

 楓はわずかに考えた。

 

「できるよ」

 

 四角。

 

「県大会が終わったら、捻挫を俺に返してください。それまで預かっていただけますか」

「うん。大会の、良い報せを待ってるね」

 

 楓は『頑張れ』に代わる言葉をそのとき見つけた。

 

 大会が終わってから英士は捻挫を受け取り、引き換えに貯金を下ろして買った高級な菓子折りを楓に手渡した。丁重に。楓は若干引いた。

 

 それから英士は廊下で楓の姿が見につくことが多くなった。少しずつ話すようになると、自分が楓に惹かれていくことに気付いた。

 

 その後、楓は師水館学園に進学することになった。

 

「来年は英士君の受験だね」

「そうですね」

 

 深鏡神(みかがみ)の妙見院学園、逢勾宮(おうまがみや)の清上明陰学園、護剣寺(ごけんじ)の師水館学園、女子校の清虚嶺蘭女学園は除いても能力者は基本的にどこかに入学することになる。英士は一般家庭なので三家の傘下ではないから先祖の(しがらみ)もコネもない。

 

 できれば師水館学園に入りたいと思った。

 

「それでね、これ作ったの」

 

 楓が取り出したのは、手縫いの御守りだった。

 

 ありがとうございます、と受け取る。肌触りの良い布地だった。気になるのは、妙に薄い。少し力を加えると折れるが、すぐに弾性が生じて元に戻る。

 

「これ中身はなんですか?」

「開けてみて」

 

 中に入っていたのは形の良いアヤメの押し花を透明なフィルムで閉じたものだった。

 

「アヤメの花言葉は『良い便り』。『良い報せが聞けますように』って」

 

 紫の花弁が光に透ける。



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