薄幸魔法使いの末路 (難民180301)
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1話

「あなたは入社後、弊社の業務にどのように貢献できますか?」

 

「えっと、御社の魔力を用いた新素材の開発業務に貢献したいと考えております。私は大学で四年間、効率的な魔力運用や術式開発などについて研究しておるゅ、おり、ましたので、新素材の開発には不可欠な術式の構築の面で、私のスキルを活かし貢献したいと思います」

 

「そうですか。弊社の開発部の方に興味があると」

 

「はい!」

 

「実は開発部を希望される方には、簡単な魔法の実演をお願いしているのですが、可能ですか?」

 

「ふぇっ?」

 

 面接会場に沈黙が満ちた。頭の中は真っ白だ。机を挟んで座る面接官が目を細めた。私の全身から冷や汗が噴き出る。

 

「出来ませんか?」

 

「……つ、杖、無しでは厳しいです。申し訳ございません」

 

「ああ、いえいえ。わかりました。杖なしでは厳しい、と。フッ……」

 

 鼻で笑いながら手元の書類に何かを書き込む面接官。私は屈辱と混乱で詰め込んだ面接対策の知識が吹っ飛ぶのを感じていた。

 

 その後、一次選考の面接は極めて事務的に進んだ。

 

 面接官にお礼を言って、立派なオフィスビルを出た私の肩は自然に丸まった。手鏡を見なくても表情に死相が出ているのが分かる。だって今真剣に死ぬ方法を考えているから。

 

 就職活動を初めて六社目の面接。おそらくこれの結果もお祈りメールだろう。面接の直後にそう確信した瞬間、私はいつも死にたくなるんだ。

 

 自己分析、企業研究、履歴書の添削、面接対策――徹底的な準備のすべてが水の泡になった徒労感。

 

 それだけ準備していても本番でうまくやれず、どこにも必要とされない自分の無価値。あれれ、鼻先が痛い。視界がにじんできた。きっと夏の日差しで湧き出た汗が、目に入ったんだろう。

 

 何のために生まれてきたのか、どうして誰も私を必要としてくれないのか。誰にも必要とされない人生なら、いっそ死んだ方が楽なんじゃないか。

 

 面接後に特有の暗い感情を誤魔化しながら、私は駅へ足を向ける。帰ろう。

 

---

 

 高校時代から私は魔法にハマった。

 

 国語、数学、英語と並んで必修の魔法。特に何か面白いと思ったわけではない。なんとなく勉強したら、座学でも実技でも学年一位をとって周囲に褒められたことが、魔法にハマった一番の理由だと思う。周りの声に従って、魔法を研究できる大学に進学し研究に没頭した。でも人間関係で失敗して地元にはいられなくなり、バイト代をはたいて大阪に出てきたんだ。

 

 在学中は研究のことしか考えてなくて、就職活動はしなかった。だから大阪についてすぐに就活を始めたのだけど――内定が遠い。

 

 自己分析でわかった自分の強み。魔法研究への熱意。魔法の実技の腕前。アピールの材料になると思っていた要素のことごとくが、何の役にも立たない。

 

 私より魔法が上手い人はいくらでもいる。魔法が好きな人だって掃いて捨てるほどいる。さっきの面接でも分かったけど、魔法を使う補助具の杖無しで魔法が使えるレベルを企業は求めている。魔法産業に携わるならそのレベルが最低条件なのかも。

 

 そんなの無理に決まってるじゃん。私は研究しかしてないって履歴書にも職務経歴書にも書いてるじゃん。研究者がなんで実技も得意なのさ! 日本文学の研究者はみんな小説家じゃないでしょーが!

 

 なんて、言い訳と文句ばかり考えるから内定がもらえないんだ。できるヤツはどんな質問が来たってウィットに富んだ鋭い返しをするだろう。私はできないヤツだ。

 

「はぁ……」

 

 真夏の太陽を見上げた。このまま暑さでどろりと溶けてしまえばどんなに楽だろう。真横の幹線道路に飛び出してみるのもいいかもしれない。駅に着いたら白線の一歩先へ踏み出してやろうか。いや、電車が止まるとみんな迷惑だからやめておこう。あーあ、どこかに拳銃でも落ちてないかな。

 

 結局、全部を終わらせる根性なんてない。そんなものがあればとっくに内定がもらえてるんだろうな。

 

 益体のない愚痴と自虐を繰り返しながら、私はとぼとぼと足を動かした。

 

---

 

 駅から徒歩五分のアパート。四畳半の狭い空間が私の城だ。敷金礼金なしで月一万五千円という好条件。入居のとき大家さんが同情するような目をしてたし、夜中に押入れの中から異音がするし、多分瑕疵物件だと思う。

 

 上等だ。

 

 こちとら生きるのに忙しいんだ。毎日本気で死にたくなるのは本気で生きてるからだ。生きてるから苦しいんだ。構ってほしけりゃ生き返って出直してこいや。

 

 と、毎日強く念じていたらポルターガイストはなくなった。今では駅チカ、格安家賃の優良物件だ。

 

「なんかもう、なんでもいいから仕事ちょうだい……水商売以外で」

 

 暑さと無気力でだらけながらパソコンをいじっている。女にあるまじき呆けた姿だが、それでも水商売だけは嫌だった。なまじ見た目がいいせいか、就活を始めてからその手の連中にスカウトされたことが何度かあるのだ。知らない男相手に誰が股を開くか。

 

 求人サイトのページをどれだけスクロールしたって、いい仕事はもうない。ここから通える範囲の企業はさっきの面接で最後だった。後は電車とバスで二時間、三時間かかる勤務地ばかりだ。

 

 潮時か。

 

 なんとなく魔法産業の企業に入りたいと思っていたけど、ないものは仕方ない。というか散々その業界の面接で心をシバかれたせいでもう嫌だ。求人の検索条件を変えよう。

 

 求人の検索キーワードから「魔法」を削除し、勤務地のエリアを大阪府全域から大阪市に狭める。

 

「お、おお!」

 

 求人件数は三百以上。勤務地もよりどりみどりだ。今までは漠然と魔法産業にこだわってたからいけなかったんだ。さっそくスクロールしてよさげな求人を吟味していく。

 

 業種、職種、勤務地、給与、福利厚生、採用担当者からのコメント。「当社は人物重視の選考を」「弊社はコミュニケーション能力を」「人物重視」「コミュ力」「人柄」

 

「やかましいわ! わかってるわ!」

 

 イライラのあまりツッコミを入れてしまった。相当精神が参っているみたい。

 

 なんでこう、どこの採用担当者さんも同じことしか言わないんだろう。人物重視とかコミュニケーション能力とか、そんなの言われなくても分かるじゃん。それを見るために面接やるんだからさ。もっと面白いこと言ってよ。

 

 やっぱりどの求人も似たり寄ったり。細かいところは違うけど、みんな言ってることは同じだ。既卒未経験でもご応募していただけますよ、ただしその場合はとっても有能な人じゃないと内定は出せませんよ。

 

 そうじゃないんだ。こう、既卒未経験でコミュ障で無能な、二十二歳の女を一生雇ってくれるようなところがいいんだ。

 

「さすがに人生なめすぎかー。ん?」

 

 半ば諦念とともにスクロールしていると、一つの求人が目にとまる。黄金の枠に縁どられたそれは「急募」――つまり人手不足で今すぐにでも人員がほしい特別な求人だった。

 

 でも私が気になったのは急募だからじゃない。

 

「既卒未経験歓迎、正社員待遇、年収500万、管理系事務職――冒険者?」

 

 冒険者業務、という訳の分からない業務内容が目について離れない。この先進国日本で冒険して意味あるの? というか冒険する場所とかなくない? 海外出張がメイン? 

 

 湧き出た疑問を解消するため、私はその求人の「詳細」リンクをクリックした。

 

---

 

《急募》

 

「大学は出たけど仕事がない…」

「未経験だから自信がない…」

「やりたい仕事のイメージがわかない…」

 そんな方でも大丈夫! 当社で冒険者として働きましょう!

 

■冒険者って?

 

 簡単に言うと、モンスターの数を管理する事務職です。

 モンスターは増えすぎても減りすぎてもダメ、適正な数を保たなければ色々な悪影響が出ます。

 冒険者はそんなモンスターの数や出現地域を管理することで、世界の平和を保つとっても重要なお仕事なんです!

 

■安全、安心の研修制度!

 

 冒険者は増えすぎたモンスターを駆除します。当然戦いに発展することもありますが、大丈夫!

 新人の皆さまにはまず簡単な数の管理と、下級のモンスターをお任せします。簡単といっても、大ベテランの先輩がマンツーマンで研修しますから安心ですよ。

 その証拠に当社では過去一年間の事故件数ゼロ! 定着率は驚きの97パーセント! 新人の方も安心して取り組める環境が整っています!

 

■最高のワークライフバランス!

 

 土日祝休み、残業月平均5時間以下、年間休日130日、転勤なしなど、プライベートも充実できます! ある冒険者さんは9連休をとって海外旅行に出かけたこともあります。あなたのライフスタイルに合わせ、あなただけの働き方を見つけましょう!

 

■まずはご連絡を!

 

 履歴書の準備? 業界研究? 志望動機? そんなものはいりません! 新人の方が何も知らないのは当たり前です! 志望動機なんて「仕事がほしいから」で結構! あなたの強みは働きながら見つけましょう。業務にどう貢献するのかなんて、やっていくうちに自然と分かるものです。

 ですからまずはご連絡を! 当社は落とすための面接ではなく、あなたのいいところを一緒に探すためのものです! ありのままのあなたを見せてくださいね!

 

募集職種:管理系事務職

仕事内容:モンスターの数の管理、それに伴う書類作成など

求める人材:既卒・第二新卒・フリーター歓迎、学歴不問!業界・職種未経験、ブランクがある方も歓迎です♪

勤務地:関西圏 ※お住まいの地域や希望を考慮して決定します

勤務時間:9:00~18:00 ※案件により異なります

休日、休暇、福利厚生、給与etc...

 

未経験入社の先輩の声

Cさん:事務職に興味があって応募しました。パソコンのスキルには不安があったのですが、優しい先輩が親身になって教えてくれたのですぐに覚えられました。モンスターの数の管理も最初は分からないことだらけで、でもいつの間にか最初から最後まで一人でできるようになっていました。他社よりも圧倒的に優れた研修制度があったからだと思います。



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2話

 求人広告を見た翌日。私は冒険者になるため、面接会場にやってきていた。

 

 場所は大手企業がひしめく摩天楼の一角。天をつくビルのテナントフロアの一室が、冒険者企業の事務所の一つだ。

 

「へぇー大学では魔法の研究をしてたのね」

 

「は、はい、主に現代術式の非論理性と改善案などをけんきゅしておりました」

 

「すごいわねー、頭がいいのねーあなた」

 

「いやぁ、えへへ」

 

 面接は実に和やかな雰囲気だった。

 

 面接官の女の人は終始ニコニコして私の話を聞いてくれる。まっすぐに私のことを見てくれる。履歴書がいらないといっても一応用意して持ってきた私のことを「まあ真面目な人ね。助かるわ」とほめてくれた。魔法に打ち込んでいたことを話すと絶妙なところで相槌を打ち、持ち上げてくれる。ろれつがおかしくなっても鼻で笑わない。

 

 いい人だなぁ。こういう人がいるところで働きたいなぁ。こっちをあざ笑いながら粗を指摘してくる邪悪なおっさん連中とは大違いだ。

 

 そうか、だから面接がうまくいかなかったんだ。あんな面接官のいる企業で働きたくないから、無意識に能力を抑えていたんだ。きっと私は、本当はやればできる子なんだ。

 

 話しているうちに妙な自信をつけた私は、面接官さんに聞かれるままに口を動かしていった。面接官さんはずっとニコニコ笑っていた。

 

「なるほど、なるほど。あなたのことはよく分かったわ。ぜひウチで働いてもらいたいわね」

 

「ホントですか!?」

 

「ええ。あなたはウチが求めてる人材そのものよ。上の人もきっと賛成するわ」

 

「うう……」

 

「泣かないの。よしよし」

 

 やっと誰かが私を必要としてくれた。私は生きていてよかったんだ。生まれてきてよかったんだ。

 

 そう実感したとたん視界がにじみ、涙があふれ出た。面接官さんが優しく頭を撫でてくれる。よく見えないけど、彼女は慈愛に満ちた表情をしているんだろうな。

 

 数分間涙を流した後、赤面しつつ向き直る。

 

「落ち着いた?」

 

「はい。大変失礼いたしました」

 

「ふふ、構わないのよ。じゃあ具体的なお仕事の内容について説明したいのだけど、いいかしら?」

 

 はい、と鼻声で返事すると、彼女はスラスラ冒険者のお仕事を語った。

 

 まずはどのようにモンスターが生まれるか。世界中に満ちている魔法の源、魔素。これが不自然にたまる箇所を魔素だまりと呼ぶ。滞留した魔素は意思と形を得、モンスターに変じる。モンスターは無制限に増え続けるためある程度駆除しなければ生態系が崩れてしまう。

 

 これを防ぐため、冒険者は世界中の魔素だまりを監視し、モンスターを駆除することで調和を保つ。時に新しい魔素だまりの調査と特定も行う。

 

「ここまではいいわね? 一日の流れはこう。まずモンスターの数が多い魔素だまりに行ってもらいます。そこでモンスターをある程度駆除してもらって、事務所に帰ってくる。報告書を仕上げて終了。どう?」

 

「……その、現場がめちゃくちゃ遠いところばかり、なんてことは」

 

「ないわ。事務所から電車で一時間前後のところが多いわね」

 

「じゃあ、モンスターってどんなものですか? すごく怖かったり、強かったりしないですか?」

 

「全然。モンスターなんてこんなのばかりよ」

 

 こんなの、と言って面接官さんが資料をめくると、モンスターの写真が目に入った。

 

 青い球体のような、いかにも弱そうな見た目のモンスター。

 

「これはスライム。人のヒザくらいの高さしかないし、殺傷能力は皆無。上からぽこっと叩くだけで退治できるわ」

 

「な、なるほど。よくわかりました」

 

 ニュースでたまにモンスターのことは聞くけど、しょせんはそんなものか。ゲームや小説みたいに、大きなドラゴンとかゾンビとかいるのかと思っちゃった。そんなのが日常的に生まれるなら最初から自衛隊に仕事が行くよね。

 

「ま、これだけじゃないけど」

 

「え? すみません、今なんて?」

 

「なんでもないわ。それよりどう? お仕事のこと理解できた?」

 

 面接官さんのつぶやきが気になったけど、私は大きくうなずいた。

 

「はい。よくわかりましたし、興味が湧きました。ぜひ御社の業務に貢献したいと思います」

 

「それは良かった。じゃあ就業規則についても説明をするわね。ハンコは持ってる?」

 

「はい!」

 

 その後、分厚い就業規則の冊子を30分かけて早口で説明され、雇用契約書にサインして面接は終了した。

 

 ビルを出た私の背はしゃんと伸び、自然と胸を張っていた。

 

 真夏の太陽がまぶしい。でも今の私は太陽より熱く興奮している。やっと私を必要としてくれるところに出会えたんだから。

 

 明日から始まる社会人生活に集中したい。過去の未練はさっさと清算しておくべきだろう。

 

 私はスマホを取り出し、無料のチャットアプリを半年ぶりに立ち上げた。新着メッセージの通知は「99+」になっている。

 

「先輩、今どこですか?」

 

「みんな心配してます」

 

「なんでもいいから返事をください」

 

「ウチに来てください。みんな先輩の味方です」

 

「あんなことの後に、誰かを信じるなんて難しいかもしれません」

 

「でも世界中が敵に回ったって、私たちだけは先輩を裏切りません」

 

「力になりたいんです」

 

「お願い」

 

 めちゃくちゃ心配をかけていたようだ。いつまでもいじけてないでもっと早くメッセージを読んでおくべきだったかも。

 

 後輩ちゃんのいうあんなこととは、私の親友が私の卒業論文をまるっと親友名義で論文コンペに提出したことだ。その親友はコンペの賞金と名声を得、大手企業の開発部にスカウトされたらしい。おかげで卒論は一から作り直しになって苦労した。親友とは連絡がつかなくなった。

 

 卒業後、私は嫉妬と失望のダブルパンチで軽い人間不信になり、誰にも告げず地元を去った。そのせいで仲のいい後輩ちゃんたちに心配をかけてしまったらしい。

 

 申し訳なさで歯噛みしながら、どんどん下へスクロール。日付が新しくなっていく。

 

「今度みんなで集まろうって話になったんですよ」

 

「先輩も来てください。みんな会いたがってます」

 

「先輩は今どこで、何をしてますか? つらいことはないですか?」

 

「またいろんなこと話しましょうよ」

 

「ねえ先輩」

 

「いつまでも待ってますから」

 

 うれしいことを言ってくれる。

 

 傷心だったころの私がこれを見ていれば、すぐに後輩ちゃんの家へ押しかけて慰めてもらっていただろう。あの頃はすっかり拗ねていたからなぁ。

 

 でも今は違う。私には内定がある。就活中の内定とは、この世の何よりもうれしいものだ。十年来の親友に裏切られ深く傷ついた心を癒すくらいは訳ない。

 

 私は素早く返信のメッセージをタップする。

 

「心配かけてごめん。今は大阪で就活中」

 

「さっきようやくひと段落ついた」

 

 送信した瞬間に「既読」がつき、スマホが振動する。後輩ちゃんからの着信だ。

 

「先輩! 大丈夫ですか!? 生きてますか!?」

 

「あー、うん。生きてるよ。心配かけて悪かった」

 

 懐かしい声だ。

 

 二つ年下の後輩ちゃん。高校のころ部活がきっかけで知り合ったんだ。魔法の成績が悪くてよく勉強を見てたけど、大学で再会したときは対等に魔法談義ができるくらい賢くなってた。メガネの似合う長身美女だ。

 

「ホントですよ……もう」

 

「な、泣くことないじゃん」

 

「泣きますよ! 卒業式にも出ないで、アパートはもぬけのカラで、ご両親は何も知らないの一点張りで……! どれだけ心配したと思ってるんですか!?」

 

「ごめん……」

 

 まさかこんなに言われるとは思ってなかった。慟哭に近い後輩ちゃんのお叱りを甘んじて受ける。

 

「あっ、ごめんなさい、一番辛いのは先輩なのに……」

 

「ううん、全然だよ。もうすっかり平気だから」

 

「先輩……」

 

「それよりさ、聞いてよ。明日から会社員になるんだ。あんだけ研究者、研究者って言ってた私が社会人だよ。すごいでしょ?」

 

「社会人!?」

 

 耳がキーンとした。すさまじい驚きっぷりである。

 

「そんなに驚く?」

 

「いやだって……だ、大丈夫ですか? ブラック企業とかじゃないですよね?」

 

「ちがうよー、面接官の人優しかったし、福利厚生もすごくしっかりしてるんだよ」

 

「はあ。いえすみません、先輩、ちょっと世間知らずなところがあるから心配で」

 

「ふふん、先輩をなめちゃいけないよ。って、だーれが世間知らずだって~?」

 

「ふふ、すみません……」

 

 その後、大学の思い出や後輩ちゃんの近況報告をネタに、小一時間盛り上がった。

 

 後輩ちゃんとのおしゃべりは楽しく、終わり際に贈られた「お仕事、がんばってください」という言葉は、社会人生活の門出を祝うには十分すぎるほどのお祝いとなったのだった。

 

---

 

 同日、夜。面接官さんから電話がかかってきた。

 

「こんばんは。今、時間大丈夫?」

 

「はいっ、大丈夫です!」

 

「じゃ、明日の流れを説明しとくわね。さっき渡した書類にある事務所に、朝五時に行ってください。後は行けば分かるから」

 

「はいっ、朝の五時……えっ!? 実働は八時からなんじゃ……」

 

「実働はね。現場への移動に結構かかるのよ。一時間『前後』くらい。ほら、初めてだから打ち合わせもあるでしょ?」

 

「は、はあ」

 

「遅刻厳禁ね。じゃ、そういうことで」

 

 ブツっと切られた。なんだか口調も投げやりだったし声色も冷たかったような……いや、きっと一日中働いて疲れてたんだ。

 

 朝早いのはたぶん、入念に打ち合わせ? とかいうのをやるためだ。新人の間だけの辛抱だ。

 

 明日はがんばろう。

 

---

 

 仕事辞めたい。

 

 翌日の朝五時、早くも私の心はくじけた。

 

 事務所は駅前の雑居ビルの狭苦しい一室にあった。昨日の面接会場と比べると天と地の差だけど、そこまでは別によかった。事務所の所長さんも恰幅のいい柔和なおじさんだ。貸し出された作業服も、デザインはともかくスーツより動きやすくていい感じ。

 

 私の心をくじいたのは研修の間お世話になる先輩だった。

 

「なんやガキ、じろじろ見おってからに」

 

「な、なんでもないです、すみません!」

 

 その先輩は、二メートル近い長身のハゲたおっさんだった。一五〇センチの私が近くにいると威圧感でつぶれそうになる。その上人相もすさまじい。東大寺の南大門とかに飾られてそうな、修羅めいた人相をしている。低い声も相まってめっちゃ怖い。

 

「チッ、何が研修じゃアホくさい……」

 

「あ、ま、待ってください!」

 

 私を無視して出て行ってしまった。現場の場所さえ知らされてないのではぐれたら終わりだ。慌てて追いかける。

 

 横に並んで歩いても、歩幅の違いからついていくのが辛い。もうちょっと気を使ってくれてもいいのに。でも仕事をもらえるだけでありがたいし、文句は言えないか。

 

「これやるわ」

 

 おもむろに渡されたのは今日行く現場への地図だった。電車で一時間十分、バスで二十分、徒歩で三十分。計二時間の片道。……二時間!?

 

「と、遠くないですか?」

 

「どこがや。普通やろ」

 

「だって二時間って。しかも場所だってこれ、山の中ですよ?」

 

「当たり前やろ。街中にモンスターは出えへん。人が魔素を吹き散らすからな。せやから魔素だまりは人のほとんどおらん山に出るんや。面接で聞いたやろが」

 

「初めて聞きました……」

 

「……はぁ。応募する前に調べへんかったんか? ろくに調べもせんと、高給と正社員の待遇に釣られたクチか?」

 

「はい……」

 

「頭わっるいなぁ自分。もう黙ってついこいや。はぐれたら知らんからな」

 

 それきり私たちは無言で現場へ向かった。先輩のおっさんが電車の中で爆睡している間、私はスマホで冒険者のことを調べた。

 

 キツイ仕事ランキング十年連続一位。需要に対して供給が足りず、若い人材を甘い宣伝文句で釣って使い捨てにする、恒常的にブラックな業界らしい。

 

 使い捨てとは文字通りの意味で、モンスター駆除の際の事故で多くの新人が死ぬという。しかし人事は意図的にモンスター駆除の危険性を隠す。そんなことを伝えては誰も応募しないからだ。肉体労働であることを誤魔化すため、職種は管理系事務職とされることが多いらしい。管理は分かるけど事務はどこから……報告書作成とか?

 

「そんな……!? これ法律とかどうなってるの? 厚生労働省? とかは何もしないの?」

 

 死亡事故が前提の職業なんてあまりにもブラックすぎる。そう思って調べてみると、冒険者がいなければ生態系が無茶苦茶になるのは確実なため、法律のスキマを縫ってギリギリ合法として認められているらしい。

 

 ……。

 

 いやいや、前向きに考えよう。死亡事故多発の危険な仕事といっても、みんな死んじゃうわけじゃないはず。現に私の隣でいびきをかいてる先輩だって、四十は超えてそうなベテランだ。うまいこと立ち回れば死ぬことはない、と思う。

 

 それに、どっちにしろこのまま就職活動を続けても、仕事が見つかる前に貯蓄が尽きてホームレスになるだけだ。家無し、金なしになるくらいなら死んだ方がマシ。

 

 どうにかなるさ。ならなくっても死ぬだけさ。

 

 私はすっかり開き直った。

 

---

 

 バスを降り、雑草と亀裂だらけの酷道を通って、「この先魔素だまり」の看板を通過し道なき道を行くこと三十分。ようやく現場に到着した。

 

 人っ子一人いない山間の原っぱだ。パッと見小学校のグラウンド程度の面積はあるだろうそこに、今回の標的であるモンスターがたむろしていた。

 

 でもなんだかおかしい。話と違う。

 

「な、何ですかあの恐ろしい泥人形みたいなの」

 

「モンスターに決まっとるやろ。アメーバとヒト型の」

 

「嘘ォ!? 資料で見たのと全然違うんですけど!?」

 

「自分ほんま、なんも知らへんねんな」

 

 先輩は腕まくりしつつ、嘆息して教えてくれた。

 

「あんなおどろおどろしいもん新人に見せたら応募激減するやん。写真は加工、言葉は濁して契約結ばせるんが、人事のねーちゃんの仕事や。ちなみにゲームのスライムみたいなんはアメーバ型いうんやで」

 

 そういうことか。あの面接官さんは私のことなんか見てなかった。とにかく契約を結んで使い捨ての人材にするのが目的だった。私じゃない、かけがえのある安い人間としか見られてなかったんだ。

 

 それなのに私は、この企業さんだけが私を本当に必要としてくれると勘違いして。とんだ間抜けじゃないか。かけがえのない人材として自分を売り込むのが就活だ。その就活に嫌気がさして、広告の甘い言葉にコロっとだまされ契約してしまった。よりにもよって死ぬ可能性すらあるブラックな職場に。辛い就活から逃げた罰なんだろう。

 

 目の前の原っぱには、ヘドロのような色合いのアメーバと重油を固めたような見た目の人型が無数にうごめいている。ゲームのモンスターのような優れたデザイン性なんて欠片もない、ただただ醜いだけの化け物だ。

 

「おい、死人みたいな目ェしとるとこ悪いけど、お前は何ができるんや」

 

「え?」

 

「モンスターを殴るくらいはできるんかって聞いとる」

 

 ハッと我に返る。

 

 自分の浅はかさに絶望している暇はない。一度引き受けた以上きちんとやらなきゃ。

 

 先輩はスポーツバッグの中から古びた金属バットを取り出し、構えている。モンスターは基本的に脆い。殴って駆除するのが彼のやり方なんだろう。

 

 私もリュックから愛用の杖を取り出した。伸ばした折り畳み傘程度のこれは、中学から使い続けている相棒だ。

 

「魔法が使えます!」

 

「マホウ? なんやそれ? 強いんか?」

 

「た、たぶん、強いと思います、はい」

 

 魔法は様々な産業、娯楽の面で利用されているが、みんながみんな知っているわけじゃない。それは分かっていたけど、本当に知らない人に出会ったのは初めてだった。

 

 先輩は怪訝な顔をしつつ、こちらへ徐々に接近しているモンスターたちを指さした。

 

「なんか使ってみい」

 

「はい! ○○、××、▽▽、火矢!」

 

 呪文とともに杖を振るう。すると――原っぱが爆発した。

 

 正確には、爆発と見紛うほどの強烈な閃光と爆風が吹き荒れた。先輩が「おお!?」と驚きの声をあげている。私は「ひゃああ!?」と情けない悲鳴を上げて尻もちをついた。なんじゃこれ。

 

 火矢はもっとも初級の魔法だ。その名の通り火の矢を飛ばす。矢といっても殺傷力はなく、人肌にあたってもチクリとする程度の威力だ。私が使ったのは独自の術式で威力を底上げした改良版だったが、爆発はしないはす。この威力はどういうことか?

 

 爆風と煙が収まった後の原っぱからは、モンスターが一匹残らず消滅していた。

 

「ただのアホなガキか思ったけど、めっちゃ使えるやん自分! かなり楽やぞ!」

 

「……いえいえ。まだ残党もいるみたいですし」

 

「新人としちゃ十二分やわ! よっしゃ、残りは俺がやっとくからここで休んどき。あんだけデカイことしたら疲れたやろ」

 

「すみません、そうさせてもらいます」

 

 朝の態度はどこへやら、一転上機嫌になった先輩に言われるがまま、私は休むことにした。先輩は金属バット片手に鼻歌を歌いながらモンスターの残党に駆け寄っていく。そうして人型のモンスターをなぎ倒し始めた。

 

 この間に考えよう。さっきの爆発は何か?

 

 術式には問題なかった。何万回と繰り返してきた改良型の術式だ。杖の補助もある中で間違えるはずがない。第一、間違えたなら発動さえしないはずだ。であれば呪文の詠唱に問題があった? 初めての仕事で緊張しすぎて変な抑揚がついて、それが偶然威力向上につながった? いやいや、そんなご都合主義あるわけが――

 

 不意に体が重くなった。

 

「えっ、何々?」

 

「新入り! 後ろや!」

 

 何かにのしかかられているようだ。手足が生暖かいものに抑えられ身動きできない。

 

 先輩の言葉を聞いてどうにか首を後ろに向けると――真黒なアメーバが私の体を呑み込んでいるのが見えた。

 

「きゃあああ!?」

 

 叫んだとたん、呑み込まれた右手の杖から閃光が瞬く。次の瞬間にはアメーバは消滅していた。

 

 何が起こった?

 

「おおー、やるやん」

 

「え、え?」

 

「普通、アメーバにあんだけ呑まれたらもう助からんねんけど。ほんまに期待の新人や」

 

 どうやらまた意図せず魔法が発動したらしい。ていうか何気に今死にかけた――ん、呑まれた? そういえばやけに背中がスースーしてるような。

 

「もうやだ……」

 

 アメーバに乗られていた部分の作業着が下着ごとばっさりなくなっていた。背中からお尻まで丸見えだ。なんでこんな恥ずかしい恰好しなきゃいけないんだ。作業着は貸出だから弁償じゃないか。

 

「泣くことないやろ。ほら、これ貸すわ」

 

「ありがとうございます……」

 

 

 投げ渡された先輩の上着が温かい。涙もちょっとは引っ込んだ。

 

 案外使える新人と思ったからか、それとも醜態をさらしたことへの哀れみか、帰りの道中での先輩は歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれた。

 

---

 

 いい話風に区切っても、世の中そんなに甘くなくて。

 

「初日お疲れさま。作業服代は今日のお給料から天引きしておくね」

 

「あっ、はい、すみません」

 

 事務所に戻ったとたん、所長からそう告げられたのだった。



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3話

 ほっぺたの痛みで目が覚めた。

 

 上体を起こし、自分の状態を確認する。服装は作業着、場所は自宅アパートの玄関先。どうやら昨夜、扉を開けた瞬間に眠りに落ちたらしい。床にほっぺたをついて寝ていたんだから痛いのは当たり前か。

 

 腕時計を見ると、四時ちょうどを指している。また五時に事務所に行くので、今から急いでお風呂、身支度、朝ご飯をすませなきゃ。今日は現場を六つ回るよう言われてるんだから、力の付くものにしよう。夜食に買ってきた焼きそばパンでいいだろう。どっこいしょ、と起き上がる。

 

 風呂場への道のりが長い。体が重い。頭が痛い。目がシパシパする。

 

「働きたくない……」

 

 就職してから一か月。私はもう労働意欲を失っていた。

 

---

 

 初出勤の日に経験した魔法火力大幅アップの謎は翌日には解決した。私の隠れた魔法使いの才能が開花したから――だったら良かったのだけど、実際は魔素だまりの魔素と私の魔法が共鳴していただけだった。

 

 人間が魔法を使う上で燃料にしているのが魔力。魔力の原料となるのが世界中に満ちている魔素だ。人間は魔素を空気と一緒に取り込むことで魔力に変換する。モンスターが発生するほど濃厚な魔素が滞留している魔素だまりは魔法使いにとって、空気中に気化した爆薬が充満していることと同じだ。私の魔法が起爆剤となって大火力が生じる、というわけだ。

 

 この検証結果には失望した。人の近づかない山奥の魔素だまりでだけ最強の魔法使いになったって、誰もほめてくれない。いや、先輩方はほめてくれるか。でも一週間で研修期間が終わったせいで、今は誰もほめてくれない。

 

 そう、研修がもう終わったのだ。私が一人でモンスターを焼き払える最強魔法使いだと勘違いした所長やハゲの先輩が持ち上げたせいで、一人で現場を回らされている。一番多いときで一日に八つの現場に行かされる。どこもかしこも人手が足りてないようで、大阪府全域だけでなく北は京都、滋賀、南は和歌山まで行った。

 

 所長は私が一つの現場にかける時間を把握しているらしく、移動と作業にかかる時間を計算して秒単位のスケジュールを組んでいる。バスを一本逃したり、道を間違えたりしてスケジュールを守れないと、事務所に戻ったときネチネチと説教されてしまう。「こっちは君が動きやすいように長い時間かけて予定を組んでるの。君だって大変だろうけど、人の苦労も考えてよ」って。たしかに秒単位のスケジュールはすごいと思うけどさぁ……。

 

 何が不満かって、現場を八つ回ってる私の給料が、現場を一日一つしか回らない人と同じことだ。なんでよ。こちとらやり手営業マンより一日の移動距離長いのに。魔法だって一回使うのに結構精神力いるんだぞ。

 

 なんて、不満を言う度胸はない。

 

 だって初めて私を必要としてくれたところだから。ふとした拍子に不満ならやめていいよ、と言われるのが怖い。粛々と言われた通りの仕事をこなすしか選択肢はなかった。

 

 でも体力的にしんどいのは事実で、毎日帰宅するたびにつぶやくのだ。「仕事辞めたい」って。

 

---

 

 山奥の廃倉庫。そこかしこに黒いヘドロのようなモンスターが見える。私の存在を認めたらしく、人型、アメーバ型のヘドロが光に集う虫のように集まってきた。

 

「……」

 

 特に何を言うでもなく、私は魔法を発動させた。敷地内全域を覆う火柱が発生し、倉庫ごとヘドロたちを焼却していく。光のない真っ暗な夜の山々が、昼間のように明るくなった。

 

 目の前の大火力のなんとむなしいことか。見た目だけはゲームやアニメに出てもそん色ない派手さだけど、魔素だまりのあるような人気のない場所でしか使えない。誰も感心してくれない。

 

 杖や呪文の補助なしで魔法を使えるようになった。杖なしで魔法を使うのは実用魔法検定一級の技術だ。呪文の省略に至ってはプロでも難しいとされている。それだけの技術が使えるのも、魔素だまりという局所的な強みがあるからだ。それに、どうせ作業効率が上がっても給料は上がらない。むしろもっとスケジュールが過密にされるだけ。

 

 大好きだった魔法にも、英雄のような大魔法を使えている自分にも、何の感慨も抱けなかった。

 

「残党なし。魔素の濃度、正常。七つ目の現場、終了……」

 

 現場の写真を撮り、機械で魔素の濃度を記録し、報告書に書き記す。

 

 時刻は午後七時。本日最後の現場が終了した。

 

 後は一時間半かけて事務所に戻り、写真と報告書をパソコンで仕上げてから提出し、帰宅する。もちろん移動にかかる時間は勤務時間に含まれない。

 

 魔法の使い過ぎで頭が重いし、十四連勤で体が重いけど、あとひと踏ん張りだ。明日は待ちに待った休暇なんだから。

 

 久しぶりに魔法研究をしてみよう。あの学者さんが気になる理論を公開していたし、PDFで落として――学生時代に思いついた現代術式と古代魔法の比較研究も――あれ?

 

 そんなことして何になるの? どうせ魔法が上手くなっても仕事がしんどくなるだけなのに。どんなに頭をひねっても社会には認められないのに。なんで貴重な休みを意味のない魔法研究なんかに使うの? 

 

「私は魔法が趣味だから、魔法が好きだから……え、なんで好きなの? こんな中途半端な力のせいで、仕事はつらいし、就活も半端で、……それなのに好き? いや、嫌い。大嫌い……」

 

 口が勝手に動いている。何を言っているのか分からない。自分が誰で、どこにいて、今がいつなのか、何もかもがあいまいになっていく。

 

 感覚が戻ったのは、山のふもとのバス停に到着した頃だった。

 

---

 

 二日後。今日も今日とて労働だ。休日は布団にくるまっていたらいつの間にか終わってた。

 

 申し訳程度に身だしなみを整え重い足取りで家を出る。客とのやり取りは一切ないから外見に気を遣う必要のないことは、この仕事の数少ないいいところだ。

 

 最寄駅から二駅、徒歩で五分の雑居ビル。目をつぶっていてもたどり着けるほど通いなれた愛しの事務所がそこにある。実際、電車の座席で居眠りして気づけば事務所、ということも何度かあった。

 

 ビルの前に見慣れない車が置いてあるのを横目に、ビルへ入っていく。

 

「おはようございます……」

 

「おはよう」

 

「おはようさん」

 

 事務所には所長以外にももう何人かやってきていた。見慣れた顔ぶれだけど、名前と顔は誰一人一致しない。普通は研修期間が終わっても二人以上で現場に向かうのだが、私の場合は例の大火力と過密スケジュールがあるため、誰とも組んだことがないのだ。まあ、下手に魔法に巻き込んで殺人罪を問われる方が厄介なので別にいい。

 

 所長のデスクのプリンターには、今日ぶんの私のスケジュールと現場への地図が印刷しておいてあった。確認してみると現場は四つ。いつもと比べれば少ないし、距離もそう遠くない。ついに供給が需要を上回ったのかな?

 

 なんにせよ、これなら今日は早く帰れそうだ。早く帰ってもやることないけど。

 

「行ってきまーす」

 

「待って待って! 君は車の免許持ってたよね?」

 

 さっさと出発しようとすると、所長に呼び止められる。なんだか嫌な予感がする。

 

「はい、持ってますけど……」

 

「助かるよ! 実は今日、彼らを現場まで送ってってほしいんだ」 

 

「……は?」

 

「魔力だまりってどこもかしこもアクセスが悪いだろ? 電車やバスだと時間がかかるし交通費もかさむ。で、よそに掛け合って業務用の車を一台貸してもらったんだ。今日は彼らを送って、君は車で現場を回ってくれ。じゃあそういうことだから」

 

「ま、待ってください! 免許っていってもほとんどペーパーで――」

 

「だーいじょうぶさ、オートマなんてしょせんアクセルとブレーキだけ踏んでりゃいいんだから。マ●オカートやる感覚でいいのよ。分かったら行った、行った!」

 

「ちょ、まだ私は納得してませんって!」

 

 ダメだ。所長はデスクについてパソコンとにらめっこを始めた。一切の不平不満をシャットアウトする貝殻モードだ。こうなると、いくら食い下がっても意味はない。

 

 同僚の人たちが胡乱気に私を見ている。早く送ってくれよ、遅れるだろ、という心の声をひしひし感じる。

 

「あの、皆さんの中に免許をお持ちの方は」

 

「更新忘れてそれっきりや」

 

「自分はまだ高校生なので」

 

「とっくに返納したわい」

 

「仮免で落ちて挫折したッス」

 

 どいつもこいつも。そんなだからこんな最底辺の仕事させられるんだよ。一瞬の油断で死ぬような作業を時給換算1000円以下で何時間もさあ。

 

 私は無言でビルを出て、一年ぶりに車のハンドルを握った。

 

---

 

 幸いにも車に最新のナビがついていたので、それぞれの現場の住所を近い順に入力すれば後は簡単だった。だってナビに従って運転すればいいだけだもの。

 

 なんて思ってた時期が私にもありました。

 

「右折……今!」

 

「アホ、止まれ人渡っとるやろ!」

 

 右折のタイミングが分からない。

 

「は、入れないよ~」

 

「車線変更くらいパッとせぇや!」

 

 車線が変えられない。

 

『まもなく、斜め左方向です』

 

「斜め左!? 斜めってどれ、ここ!?」

 

「道なりでええねん、そこ曲がったら一方通行やろが!」

 

 ナビの指示に混乱する。

 

 同僚を全員どうにか現場に送り届け、自分の現場に着いたときにはもうグロッキーだった。頭が痛い。体に力が入らない。

 

 これが、身分証明書欲しさにとりあえずで免許を取得したペーパードライバーの実力である。事故を起こさなかったのは奇跡に近い。

 

 こんな精神状態で魔法なんて使える気がしないけれど、使わなければスケジュールに遅れる。遅れると怒られ、怒られすぎると首になるだろう。そうしてまた、自分を必要としてくれる誰かを求め、ゾンビみたいに会社間をさまようことになる。それだけは死んでも嫌だ。

 

 嗚呼。

 

 働きたくない。



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