ビッテンフェルト提督の麗しき結婚生活 (さんかく日記)
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【1】ビッテンフェルトの憂鬱

気の早い草花がオーディンの地面を彩り始めた頃、悶々とした表情で銀河帝国軍の官舎に向かって歩いている男がいた。

訪れていたマッテルスブルク侯爵家から官舎までの道のりは決して近いとは言えなかったが、今は一人で歩きたい──彼、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは思っていた。

 

豪快な性格で知られるビッテンフェルトだが、平素の堂々とした態度はすっかりなりを潜めてしまっている。

つい先日、設立されたばかりのローエングラム元帥府で新たな人事を賜った時とはまるで別人である。

 

ラインハルト・フォン・ローエングラムは、弱冠20歳の帝国元帥であり、中将であるビッテンフェルトより九歳も年下である。

しかし、先のアスターテ星域の会戦での勝利で史上最年少の元帥へと昇進した彼のことをビッテンフェルトは心から尊敬していた。

美しい容姿ばかりに目がいきがちなラインハルトであるが、ビッテンフェルトが心酔するのは、非凡な戦術家としての才能と清貧を旨とする性格である。

しかも、貴族であり、皇帝の寵姫の弟という恵まれた立場であるにもかかわらず、ラインハルトは平民出身の者を分け隔てすることがないのだ。

現にイゼルローン攻防戦でのビッテンフェルトの活躍を評価し、元帥府に招聘すると同時、彼の夢であった提督の地位を与えてくれた。

 

彼は、自身の乗艦を含む艦隊を黒く染め上げ、黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)と名付けた。

この時のビッテンフェルトは闘志に燃えていたし、出撃の機会を今かと待つ勇猛な武将であった。

その彼が、今は首を垂れて、頼りなげに官舎への道を歩いている。

 

 

「何かあったのですか。」

官舎の入り口をくぐったところで、声をかけられた。

ローエングラム陣営の同僚であり、軍事面以外における趣味、造詣の深さから芸術家提督と名高いメックリンガーである。

芸術肌の彼と見た目通りの猪武者であるビッテンフェルトは、本来であれば決して気の合うタイプではない。

しかし、この時ばかりは誰かに頼りたい気分であったし、自分より世間に詳しそうなメックリンガーは最適の相談相手に見えた。

 

「聞いてくれるか、メックリンガー。」

常ならぬ同僚の様子にメックリンガーも当然と頷いて請け合うと、二人連れだって士官用のラウンジに向かう。

少し早い時間ではあったがラウンジはそれなりに賑わっており、ビッテンフェルトとメックリンガーは向き合う形で椅子に腰をかけた。

 

「実はだな……。」

運ばれてきたビールを勢いよく半分ほど飲み干して、ビッテンフェルトが口を開く。

 

「み、見合いの話があるのだ。」

 

「なんと……!」

これにはメックリンガーも驚いた。

ビッテンフェルトは今年29歳の軍人で中将、しかも艦隊を率いる提督である。

立場を考えればいくらでも見合いの話くらいありそうだが、この男の容姿、性格を考慮すれば驚かずにはいられない。

筋骨隆々とした壮健な肉体に、オレンジの髪。

威風堂々を絵に描いたような容姿だが、性格も見ての通り粗暴である。

決して無能ではないし、悪い男でもないのだが、如何せん女性向きとは言いがたい。

その男に「娘をやりたい」とは、一体どんな話であろうか。

 

「めでたい話ではないですか、何をそんなに落ち込んでいるんです。」

ひとまず傍観の姿勢から入ることにしたが、メックリンガーとしてもなかなか興味深い話ではあった。

しかし、彼の同僚が発した次の一言で並々ならぬ事態であることを知る。

 

「しかし、メックリンガー!あ、相手が……!相手が、マッテルスブルク侯の娘なのだぞ!」

 

「な……マッテルスブルク侯?!」

その家名には、メックリンガーも驚きを禁じ得ない。

 

「本当にあのマッテルスブルク侯なのですか。」

 

「そ、そうだ!あの!マッテルスブルク星系のマッテルスブルク侯だ!」

マッテルスブルク星系は、惑星オーディンとフェザーン回廊の間に位置し、交易の要所として栄える惑星群の呼び名である。

その中心にある惑星マッテルスブルクを所領とするのが彼の侯爵家であり、銀河帝国でも特に富裕な一族として知られている。

オーディンにあるマッテルスブルク侯爵家の別邸にビッテンフェルトは招かれ、侯爵の一人娘であるアンジェリカ嬢との結婚を打診されたのだという。

 

「フリッツ・ヨーゼフ・フォン・マッテルスブルク、いや、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト・フォン・マッテルスブルクだろうか、長いな……。」

思わず独りごちたメックリンガーに、「そういう問題ではない!」とビッテンフェルトが声を荒げ、その大きさにラウンジにいた何人かが振り返る。

 

「それで……ローエングラム伯は何と言われてるのです。」

メックリンガーは咳払いをし、それから至極当たり前のことを聞いた。

貴族が相手の結婚となれば銀河皇帝の許可がいるし、平民であるビッテンフェルトがそれを得るためには当然ながらラインハルトの力添えが必要である。

 

「ローエングラム伯は……。」

「それは良い話だ!」と二つ返事で了承し、早速にでも皇帝陛下に申しあげようと言っているとビッテンフェルトは肩を落として言い、

 

「“マッテルスブルク星系は交通の要所、卿の所領となるならば心強い”と……。」

はあ、と彼らしからぬため息をついて頭を抱えてみせた。

それもそうだ、とメックリンガーは思う。

設立されたばかりのローエングラム元帥府にとって、重鎮の後ろ盾があることは有り難いことだし、マッテルスブルク星系が自陣に加わるということは長い目で見ても非常に有益と言える。

 

「失礼ですが、」

と頭を抱えるビッテンフェルトを見てメックリンガーはもう一度咳払いをし、あり得ないだろうと思いつつも一応は聞いた。

 

「ビッテンフェルト提督には、決まった恋人がいらっしゃるのですか。」

 

「ッ!」

ガッと勢いよく、ビッテンフェルトの顔が持ち上がる。

しかし、返ってきた答えはメックリンガーの予想通りのものであった。

 

「……いない。」

でしょうね、とはあえて言わず、「だったら悪い話ではないのでは?」と聞いたのは、本心からであった。

 

貴族相手というのは確かに気後れするかもしれないが、ヴェストパーレ男爵夫人をはじめ、幾人かの貴族と芸術を通して付き合いのあるメックリンガーとしては彼らもそう捨てたものではないと思っている。

気詰まりな者も愚鈍な者も確かに多い、しかしラインハルト自身を含め元帥府にも貴族の同僚はいるが、悪い者ばかりではない。

むしろ、この猪のような平民出の武辺者をわざわざ一人娘の夫に欲しいと言うくらいなのだから、マッテルスブルク侯という人物は余程の変わり者なのだろうと興味が沸いたほどだった。

 

恋人もいない身分でありながら何をそんなに嫌がるのかと半ば呆れながら、一つの可能性に辿り着く。

 

「もしや、アンジェリカ嬢という方は……あまり、その……お美しくないとか?」

それであれば納得もできる、とメックリンガーは思った。

ビッテンフェルトにそれ程の高望みができるとも思わないが、彼も艦隊の提督となるくらいの男ではあるのだから、女性の容姿に多少の拘りを持つ権利はあるだろうというのがメックリンガーの一応の考えだった。

しかし、

 

「それは違う。」

ビッテンフェルトが即答する。

 

「いや、本人に会ったわけではないのだが、その……写真を拝見してな、それは……すごく、うん、ものすごく……う、美しかった!」

そう告げたビッテンフェルトの顔が赤い。

困ったように置場のない手をさまよわせ、ビールグラスを掴んだものの結局またテーブルに戻して両手の指を組んだ。

 

「しかし、美人すぎるのだ!どう思う、メックリンガー!」

喘ぐように言ったビッテンフェルトは確かに困り果てており、しかし否定一色ではなく──写真で見たという美女への恋慕に近い表情が浮いては沈みを繰り返している。

 

「……なるほど。」

とメックリンガーは頷いて、それから整えられた髭をひと撫でした。

同僚として、友人として、ビッテンフェルトに言ってやれることは一つだった。

メックリンガーは一呼吸をおいてからビッテンフェルトの茶色の両目を見つめ、もう一度頷いた。

 

「断る理由も、断れる理由もないでしょう。ご結婚おめでとう、ビッテンフェルト提督。」

目を見開いたビッテンフェルトの表情は驚愕といった様子であったが、議論の余地がないことを彼も悟りつつあるようであった。

 

マッテルスブルク侯爵家は、ゴールデンバウム王朝における屈指の名家である。

しかも、娘のアンジェリカは侯爵のたった一人の子供であり、ビッテンフェルトとの結婚は彼が侯爵家の後継となることを意味している。

フェザーンへと続く要所がビッテンフェルトのものとなれば、ローエングラム陣営にとって大きな有利をもたらすことになり、ついてはラインハルトも賛成している。

 

となれば、ビッテンフェルトに選べる道は最初から一つしかない。

彼が望むと望まざるとに関わらず、アンジェリカ嬢を娶り、彼女のよき夫となって尽くすより他ないのである。

自らの運命を自分で選び取れないことに多少の同情はするが、美しく富裕な令嬢との結婚であれば悪い話ではないだろう。

これらの理由をもって祝福すると結論づけたメックリンガーにビッテンフェルトはわなわなと肩を振るわせたが、結局は彼も他の選択肢を見つけられずにまたがっくりと肩を落とすのだった。



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【2】アンジェリカの決断

都内の進学校を卒業して、すぐにアメリカへと渡った。

一年をかけて準備した願書は無事に受理され、半年後には念願だった名門大学の門をくぐっていた。

卒業後は帰国して金融機関に勤め、MBAを取得、転職してからはコンサルティングファームの一員として企業経営のサポートに当たった。

仕事は充実していて、まさにこれからという時期だったと思う。

いくつかの同業者や金融機関、外資系のIT企業から転職の誘いがあり、結婚を控えた恋人との生活に向けて、マンションの見学にも出かけるようになっていた。

 

それが──

 

「アンジェリカ、アンジェリカ!聞こえるかい、まさかまた具合が悪く……?!」

呼びかける初老の男性の声に、遠くなっていた意識が戻ってくる。

 

「アンジェリカ、大丈夫かい?」

 

「え……。」

目の前に広がるのは、ヨーロッパ風の豪奢な白壁。

いけられたまぶしいほどの春の花、美しく装飾の施された窓から差し込む日差し。

どこのホテルだっけ、というかこんなホテル都内にあったかな、と彼女は思った。

 

しかし、次の瞬間──雷に打たれたかのごとく、突如として甦った記憶。

 

あの日、マンションの内覧のための待ち合わせ時刻に「彼」は現れなかった。

内覧の後には結婚式場で進行に関する打ち合わせが予定されており、休日の予定は「彼」の名前で埋まっていたはずだった。

それなのに、「彼」はついにやってこず、電話にもでない。

一人きりで向かった結婚式場で打ち合わせを済ませ、何かあったのではと不安を感じながら家路につこうとした時。

たった一本の電話で、結婚を目前にして恋人にフラれた。

 

目眩がして、立っていられなくなって、だけど頼る人もいなくて。

どうしよう、と呆然と見つめた景色が最後の記憶だった。

そういえば、こちらに向かって走ってくる車を見たような気がする──そこまで考えて、また目眩が襲ってきた。

今度は「記憶」ではなく、現実として。

 

 

「ああ、アンジェリカ……すまなかったね、私が悪かった。おまえに幸せになって欲しいと思ってのことだったが……また負担をかけてしまったようだ。」

再び目覚めた時、心配そうに自分を覗き込む初老の男が誰なのかを彼女は理解していた。

マッテルスブルク侯爵、ゴールデンバウム王朝の有力貴族であり、富裕なマッテルスブルク星系を治める領主、そしてアンジェリカ・フォン・マッテルスブルク、彼女の父親である。

 

「……ごめんなさい、お父様。もう少し休んでもよろしいでしょうか。」

そう告げてからしばらく、自室のベッドに横になって彼女は思い出していた。

アンジェリカ・フォン・マッテルスブルクの半生を、そして遠い日の日本で恋人にフラれた末にどうやら命までなくしてしまったらしい自分のことを。

 

何はともあれ、現状の把握である。

そう考えたのは、彼女の仕事人たる所以であった。

 

アンジェリカ・フォン・マッテルスブルクは、現在22歳。

ゴールデンバウム王朝が支配する銀河帝国の有力貴族の娘である。

彼女は麗しく清廉な容姿をもっていたが、病弱であった。

このため学校にもあまり通えずに、父親の領地で過す時間が長く、極めて世間知らず。

彼女を後宮にという話もあるにはあったらしいが、あまりに病弱な身体であったため赦されてついに惑星を離れることなく今日を迎えることになった。

今日、それはアンジェリカのためにと父親が探してきた有力貴族の次男との見合いの日である。

 

今生の自分について冷静に分析を続ける中で、自身が生きる世界について気がついたことがある。

ゴールデンバウム、銀河帝国、聞き覚えのある響きだと頭の中で繰り返しているうちについに辿り着いた答え──彼女が生きるのは著名なスペースオペラ「銀河英雄伝説」の世界、そして時代は帝国歴487年、フリードリヒ四世の治世下である……!

 

「な、んで……。」

どうして、とはまず思った。

どうしようもない、と次に思った。

そして落胆した、病弱な自身の身体にも、女性であれば家を守るしかない世界であることにも。

あのまま人生を続けていれば、結婚はともかくも仕事だけは順調だったはずだ。

 

(働くこともままならないし、か弱い貴族のお嬢様なんて……この先どうやって生きていったらいいの。)

 

「銀河英雄伝説」、その長大な物語を思い出してみる。

学生時代に友人に勧められて読んだ気がする──とそこまで考えて、重大な事実に行き着いた。

 

(そういえば……最後まで読んでない……?!)

彼女は思い出していた。

文学より数字が好きだった自分、物語は特に苦手で、一ページ進むだけで強烈な眠気に襲われた自分、最初の一冊を読み終わらぬうちに諦め、友人への建前のためにネットであらすじを調べた自分……。

 

(どうしてちゃんと読まなかったの!)

過去の自分の横着を恥じた、友達を誤魔化そうとした自分を反省した、なんでもネットで片付けようとした安易さを後悔した──すべて遅かったけれど。

なんという不運!と、自分を呪いそうになった彼女だったが、一つだけ良いこともあった。

 

(あれ、なんだか……身体が軽い!気がする!)

病弱だったはずのアンジェリカの身体だが、彼女が「前世」の記憶を取り戻すと同時、体質も「前世」のほうに幾分寄せられたらしい。

仕事も生きる手段もなく、しかも病弱!と落胆した後だっただけに、これは彼女の気力をおおいに景気づけた。

 

そして──

 

(すっごい美人……いや、知ってたけど。)

ベッドから起き上がって、鏡を見る。

22年間付き合ってきたはずの容姿だが、こうして前世の記憶をもって眺めるとなんとも不思議な気持ちになる。

鏡に映るアンジェリカ・フォン・マッテルスブルクは、まさに純真可憐な乙女。

美しい髪や透き通るような肌、きらきらと輝く瞳を縁取る長い睫毛、女性であれば誰でも憧れる麗しい容姿もまた、彼女の気分をいくらか改善させた。

 

 

やがて彼女は自室を出ると、広大な屋敷の居間にいる父親のもとへと向かった。

 

「ああ、アンジェリカ!もう大丈夫なのか?見合いの最中に倒れてしまうなんて……心労をかけたね、お父様が悪かったよ。」

母親を亡くし、病弱で趣味といえば花を愛でるだけのアンジェリカを侯爵は溺愛している。

なんとか幸せな結婚をさせて、人並みの人生を歩かせてやりたいと、病弱な娘を支えてくれる相手を探して東奔西走していたことは、アンジェリカも知っていた。

 

「ええ、お父様。もう大丈夫。だけど……。」

しかし、見合いの話は受け入れるわけにはいかない。

彼女の知識が正しければ、ゴールデンバウム王朝はやがて崩壊し、同時に有力貴族たちの多くが破滅する──Wで始まるサイトに確かそう書いてあった。

 

「お見合いの話は少し待っていただけませんか。」

 

「しかし、アンジェリカ。私はおまえのことが心配で心配で……。」

父の心配はもっともだが、だからといって実家ごと滅んでしまうような相手は絶対に困る。

とにかく、貴族はいけない。

 

「確かに優しそうな方でしたけれど、わたくしはもっと……。」

言いかけて、次の言葉が見つからないことに気づく。

 

彼女がかつて過した世界──前世の恋人は自分と同じ仕事人間だった。

なんでも対等に話せるのが嬉しかったし、頼もしくもあった。

けれど、彼はそんな関係を望んではいなかったのだと最後になって知った。

別れの電話の言葉が、今更のように甦ってくる──「俺がついていてあげなきゃダメなんだ、だから彼女と一緒にいたい。おまえにはもう気持ちがないんだ、別れて欲しい。」

好きだったな、愛してた……。

思い出せば胸が苦しくて、つい涙が溢れそうになる。

けれど、「前世」で自分を捨てた相手のために、今更泣いたりはしたくない……!

 

「アンジェリカ……?」

心配そうな顔で、父親が見つめている。

その父親を見返して、彼女は言った。

 

「もっと逞しくて壮健な方……できれば、軍人の方がいいわ。」

病弱なせいか、何事も言われるがままだった娘の言葉に父親は驚かされ、普段の温厚な顔を崩して驚いた。

 

「ぐ、軍人?!」

ここが「銀河英雄伝説」の世界ならば、ゴールデンバウム王朝崩壊後に実権を握るのは、新皇帝に使える軍人たちだ。

マッテルスブルク侯爵家は有力な門閥貴族、だとすれば──何もしなければ破滅、貴族と結婚しても破滅、その可能性が極めて高い。

「その日」がいつ来るのかわからないが、とにかく自身やマッテルスブルク家を救う方法は一つ、来たるべき新帝国の有力軍人を夫とすること!

 

「お父様、ラインハルトさんという方はどなたかしら。」

 

「ラインハルト……ミューゼル、いやローエングラム元帥のことだろうか。」

父の話によれば、ラインハルトは華麗な戦歴を重ねて元帥に昇進したばかりの20歳、つい先頃に元帥府を開いて若い提督たちを招聘したばかりだという。

 

「アンジェリカ、おまえはローエングラム伯と結婚したいのかね。」

 

「いいえ、お父様。」

ラインハルトはダメだ、主人公が二人とも死ぬというのが物語最大の衝撃だったはずなのだから。

けれど、誰なら……?

 

「ローエングラム元帥府の提督のお名前を教えてくださらない?」

見違えるような娘の様子に父親は驚くばかりだが、結局はアンジェリカの質問に答えて名前を告げた。

 

「ミッターマイヤー提督、ロイエンタール提督、ケンプ提督、メックリンガー提督、ビッテンフェルト提督……それから、」

 

「ビッテンフェルト提督!」

その名前には聞き覚えがあった。

「作者が殺し損ねた人物が二人いる」、そう書かれていたまとめサイトを思い出す。

もう一人が誰なのかは結局思い出せなかったが、ビッテンフェルトの名前は覚えている。

 

「お父様、ビッテンフェルト提督はご結婚なさってるのかしら?」

 

「さ、さあ。どうだろうか……。」

平民出身の軍人であるビッテンフェルトは、アンジェリカの父親にとって積極的に許容できる相手では決してなかった。

しかし、病弱で意志薄弱だった娘が示した初めての希望を、彼は結局受け入れた。

オーディンに向かったアンジェリカの父は、早速にラインハルトのもとを訪れると、愛してやまない娘の見合い写真を差し出して言った。

 

「ぜひ、ビッテンフェルト提督をご紹介いただきたい。我が娘たっての願いなのです。」

写真を手にしたラインハルトは一瞬沈黙したようだったが、やがて喜んで申し出を受け入れた。

 

こうして、アンジェリカ・フォン・マッテルスブルクは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトとの見合いを行うこととなったのである。



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【3】美しき花嫁

「見合い」は、マッテルスブルク家のオーディンにある別邸で行われた。

美しく咲き誇る花々、手入れの行き届いた庭、白亜の支柱に支えられた玄関の天井は高く、その先のどこまで続くのかという廊下の向こうに優美な曲線を描く螺旋階段が設えられている。

 

「う、」

マッテルスブルク家の使用人たちに迎えられたビッテンフェルトは、その豪奢な玄関に立っただけで既に帰りたい気分になっていた。

一度目に訪れた時もその華麗さに圧倒されたが、改めて見ると、これからこの家の持ち主の娘と見合いなど、やはり現実とは思えない。

彼の職場であるローエングラム元帥府も十分に豪華な建物ではあるが、これが居宅、しかも別邸と言われるとビッテンフェルトには違和感しかないのだ。

とはいえ、逃げ帰ることは許されない。

 

彼の見合いは上官であるラインハルトも大いに認めるところであるし、マッテルスブルク侯爵はゴールデンバウム王朝の有力貴族。

そして、何よりも──今日この見合いのために、侯爵の一人娘であるアンジェリカがオーディンにやってきているのである。

あまり身体が丈夫でないらしい彼女が、初めて故郷の惑星を離れてオーディンにやってきた、ビッテンフェルトに会うために。

権力や世の中の仕組みについて理解する以上に、ビッテンフェルトは自分に会いに来た女性を追い返せる男ではなかった。

 

(俺が、守って差し上げるべき方なのだ。)

見合い写真の中の美しい姿を思い出し、自身の心に語りかける。

 

(しかし、あちらから断られる……という可能性もあるのではないか。)

一方で白壁の豪奢な屋敷を見れば、弱気な気持ちも沸いてくる。

この見合いがいかに不釣り合いであるかは、彼も十分に承知しているのだ。

 

(第一に、貴族の令嬢なんぞと話が合うのだろうか。)

困惑と弱気の中に期待と決意を少々、それがビッテンフェルトの心中のレシピの具合である。

それらの感情にアンジェリカを加えて出来上がるものが何なのか、それはビッテンフェルト自身にもわからなかった。

 

 

「よく来てくれました、ビッテンフェルト提督。」

陽の光の差し込む居間で、マッテルスブルク侯爵が彼を迎えた。

大貴族の名に相応しい優雅な仕草である。

 

「は!あ、ええ……本日は、ご招待いただきまして……あ、りがとうございます。」

軍人らしく直立の姿勢を取ったビッテンフェルトだが、実のところどのような仕草がマナーに適うのかよくわかっていない。

実際、服装も軍服だった。

何を着ていくべきかとメックリンガーに相談しておおいに困らせた後、話を聞きつけたロイエンタールに「軍服しかなかろう」と断言されて今にいたる。

黒地に銀の装飾が施された帝国軍中将の軍服は雄々しく壮麗なデザインで、ビッテンフェルトの鍛え上げた肉体を引き立てていた。

 

「娘はもうすぐ参りますので、どうぞお掛けください。」

椅子を勧められて座り、両足に手を乗せて背筋を伸ばす。

 

(これは軍務だ、軍務だと思うのだ……!)

胸中を吹き荒れる得体の知れない感情の嵐を納めようと、自分自身に呼びかける。

どれほど苛烈な戦場であろうと、猪突を旨とする彼の感情が揺れ動くことはない。

しかし、今は自分でも正体のつかめない様々な気持ちに複雑に揺さぶられて、荒ぶる胸の内を納めるという作業は至極困難を極めていた。

 

「失礼いたします。」

鈴の音のような声だった。

ビッテンフェルトが己の心を静めきらないうちに、その女性はやってきた。

 

柔らかそうなドレスの裾を揺らし、しかし足音さえ立てずに彼女は現れ、優美な仕草で膝を曲げて挨拶をする。

ドレスの布地を摘まむ繊細な指の仕草に見とれると、絹糸のような髪が揺れて顔が持ち上がり──何度も眺めた見合い写真の美しい女性がまっすぐにビッテンフェルトを見つめた。

 

(あの写真の通り……いや、写真以上ではないか……!)

白く透き通るような肌は上質な陶器のようで、きらきらと光を映す瞳を縁取る睫毛までが美しい。

小さな口唇が動いて、「アンジェリカ・フォン・マッテルスブルクと申します」と告げるのを聞き終えてようやく、ビッテンフェルトは自分が不躾なほど彼女を凝視していたことに気がついた。

 

「ふ、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトです。ローエングラム伯の元帥府で艦隊司令官を務めております……!」

発した声が思わずうわずってしまい、ビッテンフェルトは慌てて咳払いを一つした。

マッテルスブルク侯爵から写真を手渡されて以来、実は何度もそれを見返してきた。

アンジェリカの写真は、ある時はビッテンフェルトを憂鬱な気分にさせたし、別の時は夢を見るような心地にもさせた。

その彼女が、自分を見つめている。

 

(この人と……俺が?!)

ビッテンフェルトに「娘を娶せたい」と打診してきた時、マッテルスブルク侯爵は、「あなたのような勇壮精悍な男性にこそ、我が娘をもらってほしいのです」と言った。

だが、改めてアンジェリカを見ると、やはり信じられない気持ちになる。

 

貴族の娘なら同じ貴族を相手に望むのが普通だし、ましてアンジェリカは一人娘。

仮にマッテルスブルク侯爵が軍人の婿を望んだとしても、帝国軍にはいくらでも貴族の位を持つ者はいる。

ローエングラム元帥府に限定したとしても、ロイエンタールやオーベルシュタインは貴族であるし、他ならぬローエングラム元帥その人を望んだとしてもマッテルスブルク家であれば十分に権利はある。

 

「どうだろう、ビッテンフェルト提督。」

 

「えッ!」

マッテルスブルク侯爵の柔和な笑みが向けられる。

 

「アンジェリカはあまり丈夫ではなくてね。その分、世間知らずかもしれないが……とても心根の優しい娘だ。提督のような立派な男性が伴侶となってくれたら、父親の私としてもとても喜ばしいのだが。」

いざ二人を並べてみれば、父親が意向を変える可能性もあるのではないかと思っていたビッテンフェルトだが、マッテルスブルク侯爵にそのつもりはないらしい。

 

「そうだろう、アンジェリカ。おまえの望む通り……ビッテンフェルト提督は、壮健で頼りになる人だ。」

「おまえの望む通り」と侯爵は言った。

その言葉が、ビッテンフェルトに勇気を与えた。

 

この見合いは、アンジェリカも望んでいるのだ……!

壮健で頼りになる勇ましい軍人をと、彼女こそが望んでいる。

そう思うと心の内は勇気で溢れ、ビッテンフェルトはアンジェリカの目を見つめて告げていた。

 

「私があなたを生涯かけてお守りいたします。どうか……私の妻になってください!」

 

儚くも美しいアンジェリカ。

淡雪のように消えそうな繊細な美貌やさえずる小鳥のような可憐な声音、指先の動きまでも洗練された仕草。

そのすべてを守りたいと思った。

彼女の手を取り、慈しみ、どんな時も情熱を絶やさずに愛し抜くと誓おう。

 

彼女の前に跪いたビッテンフェルトにアンジェリカがそっと手を差し出し、小さく頷いたことで彼の願いは成就された。

こうして、アンジェリカを妻とすることが決定し、ビッテンフェルトはその日のうちにラインハルトに婚約を告げる。

この時の彼は愛と喜びに満ちあふれ、未来への希望に胸を膨らませていた。

 

しかし、秋に挙式を控えたその年、設立されたばかりのローエングラム元帥府は俄に慌ただしさを増した。

帝国歴487年8月、自由惑星同盟による銀河帝国領侵略の可能性が察知されたのである。



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【4】死なない男

ビッテンフェルトとの見合いのため、初めて故郷の惑星を出たアンジェリカは、オーディンの邸宅で彼との対面を果たした。

 

(……なるほど。)

心の声を表情の隅にさえ出さない慎重さで、アンジェリカは自分の夫となる人物を見つめていた。

見合い相手の容姿に感動する様子はいかにも単純な男だと思えたし、猛将という評判に相応しい見た目だとも思った。

筋骨隆々という表現が適当なまさしく武人タイプの見合い相手は、見た目の通り語彙力に乏しく、一方で感情に対して極めて素直だった。

繊細で可憐な美女のアンジェリカとビッテンフェルトもなかなかに不似合いだが、冷静に彼を観察する彼女とビッテンフェルトの中身も同じくらい不似合いで、つまり、何一つ「お似合い」という要素がない。

 

それでも、アンジェリカの答えは決まっている。

 

今日に至るまで、何度も「原作」のストーリーを思いだそうと試みたが、彼女の記憶にある知識では、ビッテンフェルト以外に夫に相応しい人物が誰かいるのか、結局わからなかった。

とにかく「死なない」ことを最優先にすると、彼しか選択肢がない。

アンジェリカは無感情な表情筋をおおいに活用し、静かに頷くことで結婚を承諾した──が、実のところは、いかにも気が合わなそうな目の前の男とどのように夫婦生活を営んでいくべきか、決して明るいとはいえない思案を巡らせていたのだった。

 

 

アンジェリカの憂鬱は、その後も広がりを見せた。

それは、「そもそもビッテンフェルトは本当に“死なないのか”」ということである。

見合いの日の彼を思い出してみると、そのたびに不安は増す一方だった。

いかにも猛将といえば聞こえがいいが、直情的な性格は噛ませ犬キャラによくいるタイプと思えたし、駆け引きなどとても無理そうな単純さはただただ心配だった。

 

改めて考えてみると「殺し損ねた」という表現は、そもそもかなり危うい。

要するに「作者は彼を殺そうと考えていた」、「ほんの少しの要素で死ぬ可能性がある」ということではないかとアンジェリカは思う。

それに、「原作」の世界では、ビッテンフェルトは結婚などしていなかったはずだ。

だからこそ、アンジェリカと結婚するにいたったのである。

だとすれば、この結婚こそが「死亡フラグ」になってしまうのではないか。

 

もしビッテンフェルトが戦死した場合、自分はどうなるだろうかと考える。

婚約者を失い、父は落胆するだろう。

そして、新しい見合いの話をもってくるに違いない。

そうなれば、まさしく「振り出しに戻る」である。

貴族と結婚しても破滅、結婚しなくても破滅──結局「ビッテンフェルトと結婚して、彼に生き延びてもらう」以外に有用な選択肢は見いだせなかった。

 

だとすれば、アンジェリカの成すべきことは一つ。

「とにかくビッテンフェルトを死なせない!」、それがこの世界で彼女に与えられた使命である。

アンジェリカは決意した。

 

 

そのビッテンフェルトから挙式を延期したいという申し出があったのは、夏が近づくある日のことだった。

「自由惑星同盟に不穏な動きあり」という報が帝国軍にもたらされたのだと、彼は申し訳なさそうに侯爵に説明し、アンジェリカの父はそれなりに落胆した。

病弱で故郷の惑星を出ることさえ難しいかもしれないと思われていた娘の花嫁姿を見ることは、侯爵にとって生涯の夢とも言えるものだったからだ。

しかし、マッテルスブルク侯爵の落胆は、すぐに驚きに変わった。

アンジェリカが「では、書類だけでも」と言ったからである。

 

いざ出撃となれば、軍人である夫が無事に帰ってくる保証はない。

もしビッテンフェルトが戻らなければ、アンジェリカは式も挙げぬまま未亡人になってしまうことになる。

マッテルスブルク侯爵は、必死で娘を止めた。

 

「一度決めたことです。それに、この先何があろうと、ビッテンフェルト様以外との結婚などわたくしには考えられませんわ。」

慌てる侯爵を、アンジェリカは静かに見返して告げる。

かつてなら父に従うばかりだったはずの彼女の眼差しには、今は確かな意志が込められていた。

 

アンジェリカの強い意志は父親を驚かせ、そしてビッテンフェルトを感動させた。

今まさに戦地へ向かう軍人と結婚したいという映画のラブストーリーさながらの申し出は、ビッテンフェルトのシンプルな思考に大いなる刺激を与え、まるで長年愛し合った恋人同士だというような錯覚さえ起こさせた。

ビッテンフェルトはほとんど感涙といっていいほど心を打たれ、マッテルスブルク侯爵に、彼の知る限りの言葉を使って感謝を伝えた。

「必ず帰ってくる」、「必ずアンジェリカを幸せにする」という彼の誓いはともかくも、愛する娘の願いに、父親が選べる選択肢は一つ。

マッテルスブルク侯爵は娘の願いを受け入れ、アンジェリカとビッテンフェルトの結婚を認めた。

 

そして、眩しい夏の日差しが降り注ぐ某日──二人は書類を交わして正式に夫婦となり、アンジェリカはオーディンのマッテルスブルク邸に、ビッテンフェルトはローエングラム元帥府の官舎にそれぞれ住まいながら、新しい人生のページを捲ることとなったのである。

 

 

やがて、マッテルスブルク侯爵は、ローエングラム元帥府のほど近くに新しい屋敷を買い求めた。

言うまでもなく、可愛い娘のための新居である。

戦地から戻るまでは官舎で暮らすという夫からの節度ある申し出を、アンジェリカはとくに悲しむでもなく当然のように受け入れた。

結果、主のいない「ビッテンフェルト邸」へ、妻だけが移り住んだ。

といっても、アンジェリカの場合、父が故郷から呼び寄せた昔馴染みの使用人たちに囲まれてのことである。

 

使用人たちが新しい調度品の手入れに勤しむ中、アンジェリカは一人──うずたかく積まれた書籍に囲まれていた。

父がビッテンフェルトから聞いてきた話では、近く自由惑星同盟との衝突が起こる可能性が高いらしい。

もしそうなれば、夫はしばらくオーディンには帰ってこない。

彼女はこの期間を、「猶予期間」と捉えていた。

ビッテンフェルトが戻るまでに──この世界を生き抜くための知恵を身につけなければいけない。

「作者が殺し損ねた男」であるはずのビッテンフェルトだが、アンジェリカにとってはその設定がすでに揺らぎ始めている。

学ばなければ、そして備えなければと彼女は考えていた。

 

まず何をすべきかと考える。

最初に思いついたのは、投資だ。

「前世」、社会に出て最初のキャリアが投資銀行だった彼女にとっては、一番身近なことだった。

しかし、マッテルスブルク家には有り余るほどの資産がある。

既に使いきれないほどある資産を増やしたところであまり意味があるとは思えないし、第一、近い将来ラインハルトによって貴族社会が否定されれば、財産などは意味をなさないかもしれない。

 

だとすれば、政治だろうと彼女は思った。

政治を知るには、まず基礎は歴史である。

ある時は歴史書をめくり、またある時は電子端末に向かい、彼女はこの宇宙と人類、そしてゴールデンバウム王朝の成り立ちについて紐解いていった。

関心は、現代の政治体制へと移っていく。

どのようにして国家が運営され、どこから予算が生み出されているのか、この国にはどんな産業があり、どんな思想が息づいているのか、学ばなければいけないことはあまりに多く、しかし時間は有限。

昼となく夜となくアンジェリカは真新しい書斎に籠り続け、ただひたすら知識を蓄積することに努めた。

 

いくつもの専門書や公的に提供されるデータを収集し、やがて関心の対象が夫の職業である艦隊運営に向かうと、アンジェリカは父親に頼んで艦隊戦用のシミュレーターまでもを手に入れた。

この時、彼女は大いなる不安に襲われたが、それは買い物の金額の大きさではない。

 

──この先に起こること、それは間違いなく血で血を洗う内乱だろう。

大貴族には莫大な財産があり、さらに星系を治めているとはいえ私設軍の保有を許される自由がある。

「原作」通り、ラインハルトが貴族社会を滅ぼすのだとすれば、各々の所領に私設軍を抱える貴族たちとの武力衝突が当然に起こるだろうと予見された。

マッテルスブルク家は、軍部に遠い穏健派とはいえ大身の貴族。

当主である父が内乱に巻き込まれずに済む保証はない。

果たして、自分がビッテンフェルトと結婚した程度で無事で済むだろうか。

 

考えるほどに不安は尽きないが、不安を払拭するためにはまず知識が必要──アンジェリカは一層書斎に籠りきりになり、心配する使用人たちをよそにひたすらに書類の山と格闘を続けるのだった。



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【5】君と暮らせば

後に「アムリッツァ星域会戦」と呼ばれることになるそれは、同盟軍に占領された恒星系の解放に始まり、約一ヶ月間におよぶ激しい艦隊戦の末、銀河帝国軍の大勝にて終結した。

 

この戦勝によりラインハルトは侯爵の地位を得て、宇宙艦隊司令長官へと席を進めることになる。

戦功を得た多くの幕僚が昇進し、歓喜の中にあるローエングラム陣営の中で、様子を異にする提督が一人だけいた。

フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト、その人である。

同盟軍の二艦隊を殲滅する功績を上げた彼だったが、その直後、敵方の智将、ヤン・ウェンリーの策に陥ると、一転多くの戦力を失った。

自身の命さえも危機に晒されたビッテンフェルトであったが、辛うじて自軍をまとめてラインハルトのもとへと帰還した。

多くの将が勝利を手にする中で、唯一と言っていいほどの手痛い大敗を喫したのである。

 

しかし、そんな彼にも光明は差した。

一度は自室謹慎を命じられた上、艦隊を召し上げられそうになった彼だったが、その後ラインハルトは彼を赦し、再び艦隊司令官として戦場に立つことを認めてくれたのだ。

 

いつ何時も豪胆な彼であるが、この時ばかりは深く頭を垂れ、肩を落としてオーディンへと帰りついた。

戦勝の祝賀会もそこそこに辞し、彼が向かったのは未だ一度も足を踏み入れていない我が家である。

 

オーディンの中心部に、その邸宅はある。

美しい白壁はマッテルスブルク侯爵の別邸と同じで、しかし夫婦二人のためのものである建物はアンジェリカの実家よりも幾分小さい。

幾分、である。

というのも、この新しい「ビッテンフェルト邸」には、マッテルスブルク侯爵が故郷の惑星から呼び寄せた使用人たちがアンジェリカのためにと幾人も一緒に暮らしているのだ。

 

「本当にここに住むのか……。」

平民出の彼は、改めて仰ぎ見た建物の仰々しさについため息をついた。

しかし、庭に植えられた秋の木々が色づく様子を見て、少しばかり気分を変えた。

マッテルスブルク侯爵が、「アンジェリカは花や草木を愛でるのが好きだ」と言っていたことを思い出したのだ。

 

「花を買ってくればよかった」と彼は思った。

思えば最後に彼女に会ったのはもう三ヶ月も前のこと、その時の彼女は夏の日差しに素肌が透けてしまうかというほどに儚げで、まるで夢の中で会うかのように美しかった。

その女性が今は自分の妻なのだという事実が、ビッテンフェルトを前向きな気持ちにさせた。

しかも彼女は、戦地へと赴く自分との婚姻を積極的に望んでくれた。

 

(無事帰還しただけでも、ありがたいと思うべきだ……!)

生きて帰った自分をアンジェリカはきっと喜んでくれると思ったし、何よりもこの家の玄関をくぐれば、ついに妻と夫としての対面を果たすことになるのだ。

心は、否応なしに昂ぶった。

 

しかし、

 

「お帰りなさいませ、旦那さま。」

ビッテンフェルトを迎えたのは、マッテルスブルク侯爵が若い夫婦のためにと故郷から連れてきた執事である。

その後ろには、他の使用人も並んでいる。

しかし、アンジェリカの姿はなかった。

 

「あ、ああ。ただいま……ええと、その……あ、アンジェリカはどこにいるのだろうか。」

慣れない出迎えに戸惑いながら、執事に向かって尋ねる。

 

「奥様は書斎にいらっしゃいます。もう数ヶ月の間、ほとんどそちらに籠もりきりで……。」

申し訳なさそうに眉を下げた執事に、ビッテンフェルトははっとなる。

出撃前の自分との結婚を望んでくれたとはいえ、アンジェリカは深窓の令嬢。

夫が戦地へと旅立ってからは、特に心細い思いをしていたに違いない。

 

「そうか……!俺は……不安にさせていたのだな。」

彼は強く頷いて、早くアンジェリカを安心させてやりたい一心で、彼女が居るという書斎へと向かった。

 

「た、ただいま。アンジェリカ……!」

夫婦とはいえ、ビッテンフェルトにとってアンジェリカは雲の上の美女である。

書斎の扉をノックする時は、緊張と興奮で胸が震えた。

 

『ああ、あなた……!無事に帰ってきてくださったのね!』

 

ビッテンフェルトの想像の中で、アンジェリカが腕を広げて彼の胸へ飛び込んできた時──ゆっくりと、書斎の扉が開く。

 

「ッ?!」

ビクリ!と剛毅なはずのビッテンフェルトが、思わず背を跳ねさせた。

 

「……フリッツ様?」

ゆらりと──白い影が薄暗い書斎で揺れている。

そこにいたのは確かにアンジェリカだったが、彼の知る天使のような女性とは少し、いや、かなり異なっていた。

まるで蝋燭のように白い肌、口唇は血の気を失っている。

腕を広げて飛び込んでくるどころか、今のアンジェリカは、ともすれば消えてしまいそうほどの現実感のなさで、かろうじてビッテンフェルトの前に存在しているという様子だった。

一瞬は驚いたビッテンフェルトだったが、その感情は彼の持ち前のシンプルさによって、すぐに逆側へと振り切れた。

 

(これほどまでに俺のことを……!)

自分の身を案じてくれる妻がいる。

それがどんなに幸せなことかを思い知った気がした。

「結婚万歳!」と叫びたい思いで彼は逞しい腕を伸ばし、戦地にいる夫を思い、憔悴しきった妻を抱きしめようとした。

 

「ああ、アンジェリカ……!」

しかし、彼の手がアンジェリカに届くことはなかった。

するり、と彼女はビッテンフェルトの脇をすり抜けて廊下に出ると、眉間を抑えて首を振る。

 

「今はいったい……何月なのでしょう。」

ビッテンフェルトを振り返った彼女の顔は確かに疲れ切ってはいたが、彼の予想した「夫の帰還を待ち望む新妻」とはやはり違っている。

 

「い、いまは……10月だが。」

 

「それで、フリッツ様がお帰りになったということは、自由惑星同盟との会戦は終結したということですのね。」

 

「あ、ああ!」

そこでようやく彼女はほっとしたように息を吐き、「ご無事でなによりでした」とビッテンフェルトに向かって言った。

 

「ああ、無事に帰ったぞ。ヤン・ウェンリーとかいう同盟軍の司令官にしてやられて随分と手こずったのだが……ローエングラム元帥はこの俺を赦されて……!」

ビッテンフェルトの心の中の大半を占めるのは、ラインハルトへの感謝と心酔、そしてアンジェリカとの再会を喜ぶ気持ちであった。

 

ビッテンフェルトの軍人としての根幹にあるのは恐れ知らずの勇気であるが、それは良くも悪くも彼の単純さによる部分が大きい。

過去の栄光に縋ったり勝利をひけらかしたりもしないが、同時に失敗も振り返らない。

常に「今」を全力で駆け抜けようとする性格こそが、ビッテンフェルトを引くことを知らない猛将とたらしめているのである。

 

「手こずる……とは?」

一方で、アンジェリカの性格はその真逆であった。

彼女はデータ分析と戦略立案のプロであり、それは常に過去を基盤とすることを意味している。

「失敗は成功の母」とは、人類史に残る著名な発明家の言葉だが、彼女の経営哲学も同じ見地に根ざしている。

 

「……え?」

ひやりとした視線がビッテンフェルトの頬を撫でる。

 

「そ、それは……配下の艦艇を損ないはしたのだが、しかしそのことはもうローエングラム元帥によって水に流されて……。」

美女の真顔というのはかなり恐ろしいものがある、とビッテンフェルトはこの時初めて知った。

その後も彼は何度も同じ思いをすることになるのだが、とにかくこの時が初回であった。

 

「なぜ?」

 

「なぜ、というと?」

 

「なぜ、艦艇を失することになったのですか。」

「これは一体何の会話だ」とビッテンフェルトは思ったし、「そもそも誰と話しているのだ」とも思った。

しかし、アンジェリカは追求の手を緩めない。

 

「理由をお聞かせ願えますか。例えば、航路の計算に不足があったとか、敵艦隊との距離を誤ったとか、あるいは戦艦同士の連携が不十分であったとか、問題点はどこにあったのですか。」

淀みない口調で彼女は言い、驚くビッテンフェルトの顔を見返した。

 

「報道によれば、銀河帝国領を侵略した同盟軍の艦隊は八個艦隊、しかし、アムリッツァ星系での戦闘では三個艦隊しか残っておらず、約三倍の兵力を投じての殲滅戦だったはずです。」

貴族令嬢の口から発せられたとはとても思えない言葉に、ビッテンフェルトは思わず動揺した。

 

「し、しかし……ヤン・ウェンリーというヤツがとんだペテン師でな、我が軍を引き込んで接近戦にもちこもうとしたのだ。」

 

「それで、そのヤン・ウェンリーの策に乗せられたと?なぜです。数的に圧倒的に有利な状況にありながら接近戦を行う理由がわかりません。戦術の常道では、数的に有利であれば距離を保って相手の消耗をはかるというのが妥当な戦法なのではないのですか。」

 

「う……。」

愛しい妻との再会を喜ぶはずであった場面は、まるで士官学校の教室にでも逆戻りしたかのようだった。

「猪突ばかりするな」、「押すだけでなく引くことも覚えよ」と学生時代に散々に教官に指摘された記憶が甦り、ビッテンフェルトは頭痛がしてくる思いだった。

力押しは彼の流儀であり、実際にそのやり方で戦果を挙げてきた。

結果として士官学校時代に学んだ戦術や軍略の類いの大半を彼は忘れてしまったが、今まさに怒濤のごとく学生時代の記憶が甦ってくる。

 

「あ、アンジェリカ。しかし、俺はもう士官学校生ではないのだから、そのような教科書通りの戦術は……。」

 

「ええ、確かに。」

繊細な睫毛で縁取られた瞳が細められ、アンジェリカはこの日初めての笑顔を見せた。

 

「ぜひ、詳しく教えてくださいませ。いったい何がいけなかったのか、わたくしも考えてみたいのです。」

可憐な花が綻ぶような微笑みをビッテンフェルトに向けてアンジェリカは言い、出てきたばかりの部屋へと踵を返す。

 

「さあ、フリッツ様。こちらへ。」

書斎に一歩足を踏み入れた瞬間──ビッテンフェルトは戦慄した。

電子端末とシミュレーターが据え置かれた室内、壁を埋める書棚には古今東西の歴史書や戦術書がびっしりと並んでいる。

 

「古い書籍は紙でしか手に入らないものも多いのですが、これらもいずれデータ化するつもりです。」

端末が発する青い明かりに照らされて、アンジェリカの笑顔が浮かび上がる。

 

「では、検証を始めましょう。」

こうして、ブルーライトに照らされた書斎で──ビッテンフェルトとアンジェリカの結婚生活は幕を開けたのである。



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【6】オーディンの誓い

冬にしては暖かい、穏やかな陽気に恵まれた日だった。

澄みわたる空はどこまでも高く、未来へと歩みだす二人を祝福するように晴れわたっている。

年明けを迎えて暫くが過ぎたその日、ローエングラム元帥府の艦隊司令官であるフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトとマッテルスブルク侯爵の娘アンジェリカの挙式が執り行われた。

娘の体調を心配したマッテルスブルク侯爵が「春まで待ってはどうか」と提案したが、アンジェリカは気に留めなかった。

 

「このところ調子が良いのです。」

微笑んで言う娘に、「もしかして本当に“壮健な軍人”との結婚が功奏したのだろうか」と侯爵は驚き、武骨さの象徴のような娘婿をまるで救世主のように感じていた。

 

しかし、当のビッテンフェルトはあまり元気がない。

アムリッツァの失敗を悔やんでいるのだろうと言う者もいたが、「あれに後悔などという感情があるとは思えぬ」と身近な提督たちに取り合う者はおらず、不調の原因は不明のまま。

ビッテンフェルトが彼らしさを欠いている実際の理由は、帰宅後に日々行われている「勉強会」にあるのだが、これを知る者はいない。

ビッテンフェルトが元帥府で職務に当たっている間、彼の妻は政治経済から艦隊の運用まで様々に検証と分析を行っているらしい。

日を追うごとに積みあがる知識と精度の高い考察はほとんど研究の域に入り、今やアンジェリカは、内政に外政、財務や金融についてだけではなく、艦隊戦術についてでさえビッテンフェルトと互角の議論を交わすまでになっていた。

 

妻が自分の仕事に関心をもってくれるというのは、世間一般で見れば望ましいことなのかもしれない。

とはいえ、ビッテンフェルトの場合、妻の知識欲は彼の想像を大きく超えたレベルであり、しかもものの数ヶ月で職業軍人たる彼の知識に追いつきつつある。

銀河帝国軍の提督が妻と軍略について会話をしているというだけでも異様だというのに、このままいけば、そう遠くない時期に教官役を取って代わられかねない。

夫としての威厳を維持するため、これまで以上に軍部内の各部署を訪ねるようになった彼は、今まではあまり寄りつかずにいた戦略計画部門や方策部門といった長期的軍略を専門とする部署や戦史資料室といったほとんど馴染みのない場所までも訪ね歩くようになり、長期に渡り休暇状態にあった脳の知識野を積極的に活動させていた。

 

 

感情の人であるビッテンフェルトにとって、知識の蓄積や論理的思考を強いられることは大変な疲労を引き起こす作業であったが、幸いなことに彼の妻は、ビッテンフェルトの感情を刺激する上で非常に有用な容姿を持っていた。

ついに訪れたその日──アンジェリカの花嫁姿は、疲れ果てたビッテンフェルトの脳に大いなる刺激を与え、なお余りあるほどの効果をもたらした。

 

純白のなめらかなシルクが、アンジェリカの細い身体を包み込んでいる。

裾を長く引いたウエディングドレスが、侯爵令嬢に相応しい高貴さと新妻らしい純真さとを際立たせていた。

 

白い薔薇にブルースターをあしらったブーケを手にした彼女が目の前に現れた時、ビッテンフェルトはあまりの感激に胸を震わせた。

アンジェリカよりも美しい女性はこの世にいないと思ったし、この清廉でしとやかな女性を妻にできる自分は宇宙一の幸せ者だと思った。

この瞬間、苦難の書斎生活は麗しい思い出へと昇華し、「美しいだけでなく聡明な妻であればなお良いではないか」と、ビッテンフェルトは自身の生活のすべてを潔く肯定した。

 

 

大神オーディンに永遠の愛を誓うと、ついに妻と夫が向き合う瞬間がやってくる。

そして──繊細なレースを捲り、そこにアンジェリカの薄紅色の口唇を見つけた時、ビッテンフェルトは確信した。

 

(アンジェリカは俺の女神なのだ……!)

遣わされた女神を生涯かけて大切にしようと太古の神々に誓い、ビッテンフェルトは万感の思いを込めて彼女の肩を引き寄せる。

初めて触れるアンジェリカの肩は、強く掴めば折れてしまいそうなほど華奢だった。

 

「ッ、アンジェリカ……。」

誓いの口付けの手前、思わず名前を呼んだビッテンフェルトに、アンジェリカの目蓋がそっと持ち上がる。

長い睫毛が間近で瞬き、思わずごくりと喉を鳴らしたビッテンフェルトを大粒の眼差しがまっすぐに見返した。

 

アンジェリカの目蓋が再び閉じられた時、ビッテンフェルトは息を止め、愛する妻に──二人にとって初めてとなる口付けを送る。

ほんの一瞬だけ触れたキスの後、聖堂は歓声に包まれ、ビッテンフェルトは歓喜のあまりつい涙ぐんだ。

宇宙中に響く声で、「アンジェリカは自分の妻なのだ」と叫びたい気分だった。

見れば、アンジェリカの父であるマッテルスブルク侯爵は涙を抑えることもせずに、何度も頷きながら笑顔で祝福を送っている。

 

なんと幸せな結婚だろうかとビッテンフェルトは思う。

何を悩んでいたのか、なぜ憂鬱になっていたのか、すべてのマイナス要素が吹き飛んで消えた気がした。

今日までは書類上の夫婦であった彼らは、この場でついに人々に認められて、一歩を踏み出すこととなったのである。

 

 

場所を移して行われたパーティーには、ビッテンフェルトの同僚であるローエングラム元帥府の提督たちも顔を出していた。

上官であるラインハルトと彼の腹心のキルヒアイス提督こそ不在であるものの、新進気鋭の提督たちの居並ぶ様子は壮観なものであった。

 

「本当に美しい方だったのですね。」

 

「どういう意味だ、メックリンガー。」

アンジェリカとの結婚について、一番はじめに相談されたメックリンガーが素直な驚きを口にする。

 

「いえ、決してビッテンフェルト提督の美的センスを疑っているわけではないのですが。」

十分に疑っているとわかる言い回しで彼は言い、

 

「美人だ美人だとあまりにおっしゃるので、逆に信じられなかったのが本音です。」

芸術家提督らしいといえばそうなのかもしれないが、遠慮なくビッテンフェルトのセンスをこき下ろすメックリンガーに周囲が苦笑する。

 

「しかし、マッテルスブルク侯爵というのは、よほどの酔狂者なのだろうな。」

誰よりも彼らの結婚を喜んでいるらしい侯爵の様子を眺めながら、ロイエンタールが言う。

 

「そう言うなよ、ロイエンタール。」

 

「何をどう考えたら、あんな猪のような男に娘をやろうと思うのか。卿はそう思わぬのか、ミッターマイヤー。」

ビッテンフェルトの横で俯きがちに座っている花嫁は、ロイエンタールの基準から見ても十分に美しく、彼としてはそれが納得できないらしい。

 

「だからといって、マッテルスブルク侯爵が卿を婿にと望んだとしたら、卿は困るのだろう。」

何度言っても身を固めるつもりのないらしい親友に向かってミッターマイヤーが言い、

 

「まあ、そうだが。」

ロイエンタールも渋々といった様子で頷く。

 

「しかし、花嫁を見ろ。俯いてばかりで、実はあまり気乗りがしないのではないか。」

ビッテンフェルトとは同期であるワーレンが、遠慮のない言葉を口にした。

 

「アンジェリカ嬢は、あまりお身体が丈夫ではないらしいからな。もしかしたら長いパーティーは身体に堪えるのかもしれない。」

ルッツが助け船を出すが、「ふん」とロイエンタールが鼻を鳴らして、

 

「ならば尚更、あの男では負担が大きかろう。」

 

「おい、ロイエンタール!」

まるで酒場にいるような物言いをミッターマイヤーが窘める。

 

「お気の毒だと言ったまでだ。」

言いながら、ロイエンタールはアンジェリカとビッテンフェルトを交互に一瞥してから視線を逸らせた。

 

「まさかとは思うが、手を出そうなどと考えるなよ。いくら卿であっても、ビッテンフェルトの拳には敵わないだろうからな。」

おとなしい様子のアンジェリカとは対照的に、豪快な笑顔やら、照れたり困ったりやら、バラエティー豊かな表情を浮かべて、ビッテンフェルトが来客の対応をしている。

平素の猛将ぶりが嘘のように浮足立った同僚の様子とミッターマイヤーの冗談に皆が笑って、やがて話題は世間話へと移っていった。

 

 

「あれだけ、おまえは来るなと言っておいたのに……ロイエンタールのやつ……。」

長いパーティーの後で屋敷に戻ってきたビッテンフェルトは、女性の心を盗んでは捨ててを特技とする同僚の名前を出して、一人毒づいた。

 

「……ロイエンタール提督?」

 

「い、いや!その名前は忘れてくれ、アンジェリカ!」

慌てるビッテンフェルトだったが、アンジェリカはそれきり何を言うでもない。

ほっとすると同時、一日分の疲れが襲ってきた。

身心壮健を誇るビッテンフェルトだが、大貴族からの挨拶が続いたパーティーでの心労はなかなかのものだったと言わざるを得ない。

 

「あ、アンジェリカも……今日は、その……疲れたよな?」

純白の衣装を脱いで平服に戻ってなお、花嫁らしい清廉さを保っている新妻に尋ねると、彼女はそっと微笑んだ。

その微笑みに──期待した。

 

夫婦となって数ヶ月、一緒に暮らしてからもそれなりの時間が経過しているが、夫婦の寝室は未だ別々のままだった。

それでも「式を挙げるまでは」とビッテンフェルトは自分に言い聞かせていたし、かなりの理性と忍耐を要するこの誓いを、彼は誠実に守った。

それが、ついに今夜……!

手に汗を握り、アンジェリカの返答を待つ。

 

「お気遣いありがとうございます、フリッツ様。確かに疲れましたので、今日はもう休ませていただきますわ。」

ふわりと背を向けて自身の寝室に去っていくアンジェリカに、ビッテンフェルトの肩ががくりと落ちる。

 

一瞬だけ触れた口唇の柔らかさや細い肩筋、覗き見た華奢なデコルテラインが夢の中でまでよみがえり、その晩はいつになく眠りの浅い夜となった。

 

「アンジェリカ……。」

愛しい妻の名前を呼ぶが応える相手はなく、やがて夜は更けていったのだった──。



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【7】赤髪の青年

ジークフリード・キルヒアイスが、ビッテンフェルトの新居を訪ねたのは、彼の挙式のすぐ後のことだった。

自身とラインハルトのパーティーへの不参加を詫びてから、彼は二人分の祝いの品をアンジェリカに差し出した。

 

「お気遣いいただき、ありがとうございます。」

当主であるビッテンフェルトは外せない軍務があり不在であったため、アンジェリカと執事とで彼を迎えることとなった。

 

実のところ、ビッテンフェルトはキルヒアイスをあまり快く思っていない。

彼の有能さを認めているものの、ラインハルトの幼なじみという特別な場所を得ている彼に対して、嫉妬に近い感情を抱えている。

そんな事情もあってか、彼は執事に「アンジェリカにあまり近づき過ぎないように見張ってくれ」と強く言い含めていたのだが、これは一応は杞憂に終わった。

しかし、アンジェリカは、ビッテンフェルトの心配とはまた違った思いをもって訪問者を迎えていた。

 

「お身体の具合はよろしいのですか。」

ルビーを溶かしたような赤毛の青年が、アンジェリカに問いかける。

ビッテンフェルトの新妻は身体が弱く、ほとんど家に籠りきりであるというのは、このところの社交界やローエングラム元帥府の提督たちの間では定説となっていた。

 

「ええ、最近はずっと……落ち着いております。」

優しい面差しの青年を前に、アンジェリカは俯きがちに答える。

 

「では、ビッテンフェルト提督も安心ですね。」

 

「ええ。とても不思議なのですけれど……夫と結婚してから、今までのように不調になることが減ったのです。」

もっともらしく答えながらアンジェリカは頷き、目の前の赤毛の青年を注意深く観察した。

「ジークフリード・キルヒアイス」、結婚祝いを持参して訪ねてくるという彼の名前を聞いた時、彼女の胸に衝撃が走った──その名前を知っている……!

 

「ビッテンフェルト提督は特に壮健な方ですから、もしかしたら良い影響があったのかもしれませんね。」

はにかむようにして答えるキルヒアイスを見ながら、アンジェリカは痛む胸を隠して微笑んだ。

 

「そうかもしれません。」

キルヒアイスは、柔和で人当たりの良い青年だった。

アンジェリカに対して紳士的であるだけでなく、女性だからとないがしろにする雰囲気もない。

ラインハルトにとって第一の腹心だということだが、軍人然とした雰囲気さえ感じないくらいだとアンジェリカは思った。

 

彼女が、「前世の記憶」として持っている知識は、そう多くない。

亡くなる登場人物について記憶しているのは、ラインハルト、ヤン・ウェンリー、そしてキルヒアイスの三名のみ。

他にも幾人もの名前をまとめサイトで見たはずなのだが、今のところ思い出せていない。

他に覚えていることと言えば、ゴールデンバウム王朝がラインハルトによって滅ぼされ、銀河帝国は新しい支配者を迎えることになるということ、その新銀河帝国が自由惑星同盟も打倒し、宇宙を統一するということだけである。

何がどうなってそれらが為されるのかという時系列も、誰がどのタイミングで亡くなるのかもかなり曖昧だが、ただ一つはっきりしていることがある。

──ジークフリード・キルヒアイスは、「早く殺し過ぎた」と作者によって評されている。

 

 

一方のキルヒアイスもまた、秘かにアンジェリカを観察していた。

ローエングラム元帥府の一員であるビッテンフェルトに娘を差し出したマッテルスブルク侯爵の意図とは一体何なのか、ラインハルトもキルヒアイスもそれをはかりかねているのだ。

フェザーン回廊へと続く要所を抑えられることは有り難く、マッテルスブルク侯爵が単純にラインハルトや彼の部下たちを評価しているのであれば問題ない。

しかし、何か深い意味があるのだとしたら、それは注意が必要なこと。

 

「キルヒアイス様は、ローエングラム侯とは長いお付き合いなのだそうですね。」

 

「ええ、もう随分と古く……ローエングラム侯とグリューネワルト伯爵夫人と知り合ったのは、まだオーディンの幼年学校に入る前のことです。」

他愛もない会話の中から、マッテルスブルク侯爵の意図を探ろうとキルヒアイスは試みた。

 

「アンジェリカ様は長く惑星マッテルスブルクにお住まいだったそうですが、お父様の勧めでビッテンフェルト提督と?」

 

「……はい。」

と俯きがちに睫毛を瞬かせて、アンジェリカが頷いた。

 

「ご親戚は驚かれたのではないですか。」

キルヒアイスの質問は、徐々に確信へと近づいていく。

そのキルヒアイスの爽やかな青い瞳を、アンジェリカがはっとなったように見つめた。

しかし、すぐに驚きの表情を消すと、彼女は小さく首を傾げた。

 

「確かに……夫が貴族ではないことをあれこれとおっしゃる方もいたようですが……。」

困ったように眉を下げて見せる彼女は、それでもなお美しく可憐で、純真さを保っていた。

しかし、彼女ははっきりと言った。

 

「父は、肩書きや家名などよりもただ壮健でお優しい方を、と思ったようですわ。」

完璧な答えだ、とキルヒアイスは思った。

政治的な意図からきれいに外れた物言いをした彼女の聡明さに感心し、そして十分な収穫があったと思った。

マッテルスブルク侯爵に、ラインハルトを害する意図はない。

むしろ侯爵は、来るべき未来を見通した上で、最も信頼できる相手としてラインハルト配下の主要提督を愛娘の伴侶に選んだのだろう。

アンジェリカからの答えにキルヒアイスは満足し、彼女に微笑みを持って応えた。

 

美しいがか弱くはかない女性というアンジェリカの印象は、キルヒアイスの中で随分と変わった。

彼女の父がそうであるように、アンジェリカ自身も広い視野をもった女性なのだろう。

貴族社会の中で育った世間知らずの令嬢ではなく、父親の意図を正しく理解し、自分の役割をきちんとこなせる女性、それがアンジェリカに対するキルヒアイスの印象だった。

 

「あの、キルヒアイス様。」

キルヒアイスが来訪の目的を遂げ、腰を上げようとしたところで、アンジェリカが口を開いた。

 

「なんでしょう。」

静かに尋ね返したキルヒアイスに、アンジェリカは不安そうな視線を向ける。

 

「その……キルヒアイス様から見て、夫はどのように見えますでしょうか。」

故郷と自身の安全を願う彼女は、今もってなおビッテンフェルトとの未来に対する不安を払拭できないでいる。

一方で、キルヒアイスはアンジェリカの質問をやや意外な気持ちで受け止めていた。

キルヒアイスが知る「世間一般の基準」では、アンジェリカとビッテンフェルトは必ずしも似合いの夫婦とは言えない。

そのアンジェリカが彼女の夫について尋ねたことを、キルヒアイスは、アンジェリカからビッテンフェルトへの深い愛情と受け取った。

 

「ビッテンフェルト提督は、ローエングラム陣営随一の勇将です。軍人を夫にもつというのはご不安もおありでしょうが、あの方に限っては安心なさってよろしいと思いますよ。」

アンジェリカはまだ何かを問いたそうにしていたが、それ以上を口にすることはなかった。

キルヒアイスとアンジェリカ──二人の考えは微妙にすれ違っていたのだが、こうしてアンジェリカとキルヒアイスは対面を終えた。

 

 

(彼のような人が……死んで良いはずがない!)

穏やかで聡明なキルヒアイスの笑顔を思い出すほどにアンジェリカはそう願い、なんとか彼の運命について思い出そうとする。

ラインハルトの腹心であるはずの彼が、一体どのような理由でその身を危険に晒すことになったのか。

戦場でのことだろうか、あるいは違う場所か、考えても答えは浮かばず、歯がゆさばかりが増した。

「作者が殺し損ねた」という自分の夫とは真逆の運命を背負った青年、その笑顔を思い出して、アンジェリカはまた胸の痛みを強くするのだった。



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【8】歴史は動いた

フリードリヒ四世の崩御以来、帝都に立ち込める暗雲は日を追うごとに厚くなっていった。

「その日」が近づいていることを、アンジェリカは今まさに感じている。

幼帝を戴くローエングラム侯、リヒテンラーデ公連合と、それに反目するブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯を中心とした貴族連合の対立は日に日に高まり、一触即発という様相を呈している。

 

もう何時間も書斎の椅子にかけたままだったアンジェリカだが、詰めていた息を大きく吐き出すと、あるデータの書かれた紙を手に立ち上がった。

重い決断ではあるが、時は差し迫っている。

迷っている暇はないのだと自分に言い聞かせ、彼女は父が預けてくれた執事を呼んだ。

 

 

その日、父を招いての夕食を終えた後で、アンジェリカは父と夫の二人を居間へと促した。

娘からの招待を喜んだマッテルスブルク侯だったが、食事中とは違うアンジェリカの深刻な雰囲気に、何事かと顔を曇らせる。

 

「お父様、大切なお話がございます……。」

紅茶をもってきたメイドを下げさせて、三人だけになった部屋。

注意深く声を低め、アンジェリカは口を開いた。

事の重大さを強調するような彼女の言い方にビッテンフェルトも眉をあげ、何事かとアンジェリカの端麗な横顔を見つめる。

 

「こちらをご覧くださいませ。」

テーブルの上に、アンジェリカが一枚の用紙を置く。

そこには、銀河帝国の財政収支、貿易収支、そして国内の貴族たちが蓄えているとされている私的財産の予測額が記載されていた。

 

「アンジェリカ、これは……。」

彼女の父も夫も、まさか彼女がこのようなものを持ち出してくるとは考えていなかった。

しかし、戸惑う彼らを前に、彼女ははっきりとした口調で告げた。

 

「銀河帝国の収支は非常に厳しい状況にあります。けれど、少なくとも……財政収支については、解決の糸口がありますわ。」

「まさか!」と言ったのは、マッテルスブルク侯爵だった。

 

「いいえ、お父様。その“まさか”はすぐそこまで近づいているのです。」

淀みない口調で彼女は言い、それからビッテンフェルトを見た。

 

「リヒテンラーデ公とローエングラム侯は……いいえ、ローエングラム侯は、敵対勢力を打倒し、それを機に貴族財産を召し上げるおつもりなのですわ。」

アンジェリカから発せられた言葉に、ビッテンフェルトは思わず声を荒げた。

 

「ばかな!アンジェリカ、何を言うんだ!ローエングラム侯は……!」

ビッテンフェルトの声は彼らしくかなり大きなものだったが、彼の視線を受けてなおアンジェリカは動じず、静かな眼差しを夫に向けて問いかけた。

 

「貴族社会の不等を正す、とローエングラム侯はおっしゃっているのではありませんか。」

 

「ッ、」

 

「不等とはこういうことですわ、フリッツ様。国民の財産は、大半が貴族に偏っていて、しかもそれらはほとんど課税されることなく積み上がり続けている、そしてご存知の通り不正も多い。」

貴族の令嬢であるアンジェリカが冷静に貴族社会を論じる様子は、彼女の父にとっても夫にとっても相当に驚くべきことだったが、突きつけられた内容の衝撃のほうが大きい。

 

「これらを国庫に納めれば、財政収支は立ちどころに改善します。」

マッテルスブルク侯爵にとって、ここもとの不穏は当然心配の種であったし、ビッテンフェルトにとって、ラインハルトの思想は身近なものだった。

その二人が、顔を見合わせる。

アンジェリカは、彼らの視線の前にもう一枚の紙を重ねて見せた。

 

「これが、昨年の軍事費。そして、これが……将来の自由惑星同盟への遠征費の試算です。」

 

「遠征……。」

ごくり、とビッテンフェルトが喉を鳴らす。

ラインハルトは腐敗した現体制には是正が必要だと言っているし、この頃は貴族社会の打倒という目標を隠す様子もない。

しかし、現体制を崩壊させ、さらには自由惑星同盟領土へ侵攻すると本当に考えているのだろうか。

 

「ビッテンフェルト提督、あなたはどう思われる。」

マッテルスブルク侯爵は、素直な疑問を彼の娘婿に向けた。

 

「私は……。」

義父の問いかけに、ビッテンフェルトは考えた。

考えても容易にはわからず、しかしラインハルトの意志の強い眼差しを思い返した時、ビッテンフェルトは確信する。

頷いたビッテンフェルトに、「ああ!」とマッテルスブルク侯爵は悲鳴のような声を上げ、自分が行き着いた答えに愕然とする婿と静かに目蓋を伏せる娘とを交互に見た。

 

「ご安心ください、お父様。」

ふと、アンジェリカの声が柔らかくなり、彼女はそっと、隣に座る夫の手に自分のそれを添えた。

ただそれだけの仕草だったが、重ねられたたおやかな手の温かさにビッテンフェルトの心臓は跳ね上がり、そうなるともうアンジェリカの白く細い指先だけしか目に入らなくなる。

動揺を瞳に映す夫を前にアンジェリカは一度深く俯いて、それから憂いを含んだ瞳でビッテンフェルトを見上げてから告げた。

 

「フリッツ様がわたくし達をお守りくださいますわ。」

 

「!」

娘の言葉の意味を察したのは、やはり彼女の父親のほうだった。

新妻の指先に集中するビッテンフェルトの意識を置き去りにして、マッテルスブルク侯爵は俄かに思案顔になると、しばらくの沈黙の後でついに頷く。

 

「……そうだな、アンジェリカ。」

マッテルスブルク侯爵とアンジェリカ、父と娘の瞳が同じ意志をもってビッテンフェルトを見つめる。

 

「え……。」

真剣な父娘の様子にようやく気が付いたビッテンフェルトだったが、彼の気づかぬ間にどうやら議論は終結してしまっているらしい。

マッテルスブルク侯爵は、商人に近い感覚をもった貴族である。

交易の拠点となる星系を治め、彼の領土の多くはフェザーンとの貿易網で網のようにつながっているのだ。

温厚な人物であったが、決断は早かった。

 

「ビッテンフェルト提督。」

侯爵は、若く、力強く、そして頼りになる彼の娘婿に言った。

 

「あなたに爵位を譲ろう。」

 

「なッ……!」

ビッテンフェルトは、確かに侯爵令嬢と結婚した。

しかし、爵位を継ぐとか、領地を相続するとかそういう話はずっと先のことだと思っていたし、それどころか現実として想像したことがなかったほどだった。

それが、突然降って湧いたのである。

 

「な、なぜです……!」

思考の追い付かない彼だったが、マッテルスブルク侯爵の考えは変わりそうにない。

ラインハルトが門閥貴族を滅ぼし、財産を召し上げるというなら、マッテルスブルク侯爵家も無事では済まされない。

国内の収支改善をはかった上で、さらに自由惑星同盟への遠征を行うというのなら、資金はいくらあっても多すぎるということはないのだ。

しかし、ラインハルトの幕僚であるビッテンフェルトが当主となればどうだろうか。

 

「ローエングラム侯はいまや新皇帝の守護者。この意向、どうか提督よりお伝え願いたい。」

 

その日、銀河の歴史が一つ──確かに変わった。

銀河帝国の大貴族提督、侯爵ビッテンフェルトが誕生したのである。



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【9】犬と男

※9話以降、独自設定により「特殊な事情により改変された原作キャラクター」が登場します。
読まれる方によって「地雷要素」を含む設定、展開の可能性がありますので、くれぐれもご自衛くださいますようお願いいたします。


ラインハルトの仲介の元、晴れて「侯爵」の地位を継いだビッテンフェルトだったが、彼は決してこのことを喜んではいなかった。

平民生まれで貴族社会とは縁遠かったことに加え、彼の性格も貴族らしいそれとはかけ離れている。

領地や財産の管理は、引き続き優秀な家令が行ってくれており、実際は彼の肩書きに爵位が加わったに過ぎないのだが、それだけでもう堅苦しい気分になっていた。

 

しかし、目下、彼には別の悩みがある。

元帥府を出て帰宅しようとした彼の前に、「それ」は立ちはだかっていた。

 

「こ、こら!おまえ!そこをどけ!」

シッシと追い払おうとしてみるが、「それ」が動く気配はない。

ビッテンフェルトの顔を真っ直ぐに見上げ、もの言いたげにじっと座している。

「それ」は、年老いた犬であった。

 

「提督、いかがされたのですか?」

 

「いかがされたのですかではないわ!この犬が、俺から離れようとせんのだ!」

追い払えないなら避けるだけだと思った彼だったが、犬はビッテンフェルトが移動しようとするとついてきて、そこでまた座り込んでしまう。

 

「失礼ながら、閣下の犬ではございませんので?」

 

「なにぃ!そんなわけがあるか!なぜ俺が犬など飼わねばならんのだッ!」

衛兵はビッテンフェルトの犬と勘違いしているようだが、勿論彼の犬ではない。

ビッテンフェルトは犬を飼ったことは一度もないし、それどころか犬が苦手だった。

これには、遠き日のフリッツ少年に関する深い逸話が関係しているのだが、それはまた別のお話……。

とにかく、彼は犬が苦手である。

しかし、「苦手だ」などと言えば沽券にかかわる。

 

「こら、犬!ついてくるな!」

そんな彼の心情を知ってか知らずか、犬は相変わらずビッテンフェルトにつきまとい、ついに彼の家の前まで来てしまった。

 

「頼む、この犬をどうにかしてくれ。」

彼を出迎えた執事が犬を見て驚くが、ビッテンフェルトの大声を聞きつけたのかアンジェリカが表に出てきた。

 

「まあ、わんちゃん。フリッツ様、この子はどなたかの飼い犬ですの?」

 

「し、知らん。なぜだかわからないが、元帥府からずっと俺の後をついてきて離れんのだ……!」

犬が苦手だということを、アンジェリカにだけは知られたくない。

そう思いながらも犬からの距離を保つビッテンフェルトだったが、アンジェリカは彼の希望と真逆の行動をとった。

 

「よほどフリッツ様のことが好きなのね。これほど人に懐いているということは飼い犬だったのでしょうし、放っておくのは可哀想ですわ。」

慈愛に満ちた表情で犬を見た彼女が、慣れた手つきで犬の首筋を撫でる。

 

「クゥン。」

甘えて喉を鳴らす犬にビッテンフェルトのストレスはいよいよ増したが、

 

「いい子ね、わんちゃん。行くところがないのなら、うちにいらっしゃい。」

 

「なッ、はああッ?えええッ……?!」

甘えて手を舐める犬を、アンジェリカが家に入れると言い出したのだ。

「いけませんか」と上目づかいで聞かれれば、ビッテンフェルトは嫌とは言えない。

第一、こんな風にアンジェリカから何かを強請られたり頼まれたりしたことは、ビッテンフェルトにとって初めてだった。

 

「ダルマチアンでございますね。随分と年を取っているようですが。」

アンジェリカの横から犬を覗きこんだ執事が言い、「では、世話は私がいたしましょう」と名乗り出た。

 

「年をとって捨てられてしまったのかしら。だとしたら、本当に可哀想だわ……フリッツ様に会えてよかったわね、あなた。」

黒と白の斑柄をした犬の背中を撫でてやりながらアンジェリカが言い、ビッテンフェルトに笑みを向けた。

 

「この子には、フリッツ様の優しさがわかるのですわ。」

ダメ押しの一言に、ビッテンフェルトは彼の意思と裏腹に笑って、「アンジェリカが言うなら、そうだろうな!」と犬を避けながら頷いた。

こうして、ビッテンフェルト家に新たな住人が加わったのである。

 

 

しかし、彼の想像を超えて、犬の存在はさらなる不幸を呼び込んだ。

「フリッツ様に名前を決めていただきましょう」と言われて以来、命名保留となっている年老いたダルマチアンはアンジェリカによく懐き、なかなか彼女のそばを離れようとしないのだ。

二人きりの場所であるはずの寝室に入り込もうとするダルマチアンから部屋を防衛することが、ビッテンフェルトの日課となっていった。

 

そんなある日のことである。

その日、ビッテンフェルトは、ローエングラム元帥府にてこれから起こるであろう出来事についてラインハルトから直々に指示を受けた。

それは、ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯を筆頭とする貴族連合はどうやら密約を交わし、軍事行動に出る可能性が高いということ、もしことが起こった際には、軍務尚書エーレンベルク元帥を拘禁する役目をビッテンフェルトに任せたいというものだった。

 

彼と彼の部下たちは、早速この準備に取り掛かることとなった。

日を追うごとに増す緊張感に、今かと身構えていたビッテンフェルトだったが、その彼に思いがけないことを告げたのはアンジェリカだった。

 

 

「この頃は遅くなるばかりですまない。」

遅い夕食を一人でとるビッテンフェルトの正面に、アンジェリカは座っている。

今日の彼女も大層美しく、憂いを秘めた眼差しでビッテンフェルトを見る様子は彼の庇護欲をおおいに刺激した。

 

「だが、心配するな。アンジェリカに害が及ぶようなことは絶対にない、この俺が必ず守ってやるからな。」

夫婦としての理想には遠い部分も確かにあるが、誰が何と言おうと彼女はビッテンフェルトの妻なのだ。

何かきっかけがあればもっと打ち解けられるはずとか、いや、犬さえいなくなればとか、心の中で言い訳をしつつ過ごす日々が終わる見込みは今のところないのだが、それでもビッテンフェルトの「愛する妻を守りたい」という気持ちは変わらなかった。

 

「ええ……。」

しかし、ビッテンフェルトの力強い言葉にもアンジェリカの憂いが晴れる様子はない。

 

「何かほかに心配があるのか。」

尋ねれば、彼女は少し思案してから口を開いた。

 

「ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯は大貴族中の大貴族。大軍を抱えているあの方たちにまさかそんな考えはないだろうとは思いますが……もしも、テロや暗殺によって事態を変えようという者がいたとしたら……。」

 

「そ、それはどういうことだ……。」

古今東西の歴史上、身内を味方の人質として差し出したり、逆に敵方の妻子を奪ったりということは幾度となく繰り返されている。

 

「いえ、過剰な心配かもしれません……けれど、もしローエングラム侯やそのお身内を直接手にかけようとする者がいたら……。」

不吉にも思えるアンジェリカの言葉だったが、忠義心の厚いビッテンフェルトの使命感はこれに強く刺激された。

反射的に椅子を蹴って立ち上がると、ビッテンフェルトはすぐさま彼の部下に連絡を取り、ラインハルトと彼の姉、グリューネワルト伯爵夫人の居宅の警備を命じた。

まずは御身を守ることが肝要と考えてそれらの処置を取った後、ビッテンフェルトはラインハルトに状況を報告するために家を出る。

 

その彼に、もたらされた部下からの連絡。

シュワルツェンの館に不審者の影があるという報告を聞き、ビッテンフェルトは深夜の街を駆けた。

 

「ローエングラム侯をお守りするのだ!不審者を逃がすな、必ず捕らえろ……!」

衛兵たちさえも蹴散らすほどの勢いで、ビッテンフェルトは猛進する。

彼の自慢の部下たちも同様だった。

 

実は、シュワルツェンの館はキルヒアイスとその部下五千名によって厳重に警備されていたのだが、ビッテンフェルトはこれを知らず、しかし知らずにいたゆえの行動が期待以上の戦果を生み出した。

 

この襲撃事件の犯人を捕らえたのである。

キルヒアイスによる厳重な警備をもくぐりぬけようかという巧妙な作戦であったようだが、リーダー格の男がビッテンフェルトに捕らえられたと知ると、あとはバラバラになって逃げだしていった。

狩猟の成果を誇る猛獣のごとき猛々しさで、ビッテンフェルトはラインハルトの前に捕らえた男を引きずり出した。

大恩のある上官を殺そうとした男はあまりに許しがたい存在であり、ラインハルト自身の手でこそ処断されるべきだと彼は思った。

 

「この暗殺計画の首謀者は卿か。」

 

「……はい、私です。」

若い白皙の青年の前に膝をついた男は、潔く罪を認めて首を垂れる。

 

「ですがこれは私の独断であり、ブラウンシュヴァイク公とは関係ございません。」

 

「ほう、主君を庇うのか。」

潔い姿勢と主君の命だと言わない忠誠心にラインハルトは感心するが、男は違うと首を振る。

 

「あの方は、大身であるご自身たちが決してあなたに負けるはずがないと大手を振って出ていかれました。しかし私は……帝国を二分する大戦となった場合、惨禍はあまりにも大きく、勝者も傷つくに違いないと考えました。」

ラインハルトは破壊と再生を目指す立場だが、門閥貴族たちはその逆。

だとすれば、被害が最小限に済むほうを選ぶべきだと考えたと男は言う。

命の瀬戸際に立たされていることを感じさせないほどの大胆さで、立て板に水を流すがごとく男は喋り、再び身を低くした。

男の言い分は既に十分過ぎるほど大胆不遜なものであったが、もっと普通でなかったのはその先だ。

 

「これを上申して私はブラウンシュヴァイク公に見放されましたが、私のほうも気持ちは同じです。」

ビッテンフェルトの拳で痣のできた頬を床につくほどに低くして、男は言った。

 

「つきましては、ローエングラム侯の部下として、私の居場所を賜ることはできないでしょうか。」

男は、暗殺計画をあっさりと認めたどころか、自分の意見を受け入れない主君のことはもう見限ったからローエングラム陣営に加えてくれと堂々と言い放ったのだ。

これにはさすがのラインハルトも驚き、不快というより呆れ果てたという顔で男を見下ろす。

 

「……卿に忠誠心はないのか。」

 

「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物に対して捧げられるものでしょう。人を見る目のない主君に忠誠を尽くすなど、宝石を泥の中に放り込むようなものです。」

呆れるラインハルトを前に、彼はそう言い切って「自分を部下にしてくれ」と再度頭を下げる。

 

「ぬけぬけと言うやつだな。」

いっそ清々しいほどの割り切りの良さに感心したラインハルトは、苦々しく笑いながらも男の発言に陰湿さがないことを認めた。

 

「それほどまでに言うならば、良いだろう。」

彼は、男が自らの配下に加わることを許可し、大佐の地位を保証した。

そして、言った。

 

「ビッテンフェルト。」

 

「は!」

男を連れてきた猛将に向かってラインハルトは頷いて、

 

「卿のところで使ってやれ。」

 

「は、え……ええ?!は、はい……!」

こうして暗殺者から幕僚として取り立てられるという奇妙な変遷を辿った男が、ビッテンフェルトの配下に加わった。

男の名前は、アントン・フェルナーといった。



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【10】運命の階段

アントン・フェルナーという異分子は、当然ながら黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)では白眼視された。

異分子を押し付けられたビッテンフェルト自身も当然扱いに困ったし、ラインハルトを暗殺しようとした人間を感情的に受け入れられないでいた。

しかし、フェルナーのほうは自分の立場と役割を心得え、ビッテンフェルトと彼の艦隊のために献身的に働いていた。

 

「閣下、ご心配されていたワルキューレのメンテナンスの件ですが、他部隊の余剰人員を調達することができましたので、明日中には終えられそうです。」

 

「失礼ながら閣下、奥様へのお土産ならあまり大袈裟でない花束のほうが却って好まれるでしょう。」

公私に渡りよく尽くす部下は、ビッテンフェルトの反感とは裏腹にいつの間にかなくてはならない彼の手足へと変わっていった。

 

そして、ついに──彼らの艦隊は貴族連合と雌雄を決するために、宇宙港から大空へと飛び立つこととなる。

フェルナーの助言でアンジェリカに花束と手紙を送ったビッテンフェルトであったが、一度艦上の人となれば、もうオーディンを振り返ることはない。

前だけを見つめ、来るべき戦いに胸を昂らせていた。

 

 

先鋒を務めたのは、ミッターマイヤーである。

彼は、貴族連合のシュターデンが率いる艦隊を巧みな戦術で引き付けるとともに、ことごとくこれを破壊した。

大貴族の身分があろうとなかろうと、それがどれほどにこの場に関わりのないことかを、ミッターマイヤー艦隊は苛烈なほどの砲撃で示してみせた。

勇気のみが逸り、戦術と戦略、そして信頼を欠いた艦隊は、ミッターマイヤーの戦術の前に藻屑と消え去り、シュターデン自身こそ辛くも逃げ帰ったものの、多大な損害を出して大敗した。

 

レンデンベルク要塞での戦闘は、両軍にとって最も過酷を極めたものとなった。

内部にて、通路を塞いだ装甲擲弾兵総監のオフレッサーが、ローエングラム陣営の前に立ちはだかったからである。

巨大な戦斧を傑出した腕力で振るい、大男は次々とローエングラム侯配下の兵たちを葬っていく。

オフレッサーの攻略にあたったのは、ロイエンタールとミッターマイヤーであったが、この猛獣を再び敵の陣営に帰せと進言したのが、オーベルシュタインである。

 

オーベルシュタインは、ラインハルトが自身の参謀として元帥府に迎えている男だった。

白髪交じりの黒っぽい髪をした痩せ型の男で、背が高い。

しかし、その痩身以上に彼を不気味に見せているのが、両眼で光る義眼だ。

光コンピューターを組み込んだそれが、時折名状しがたい光を放つさまは、青白い彼の皮膚と相まってなんともいえない情態を醸し出している。

 

自由惑星同盟軍に襲撃されたイゼルローンに駐在していたこの男が、上官であるゼークト提督を見限って逃げ出した末に生き残ったという話はあまりに有名で、それを恥じるどころか手土産のようにしてローエングラム元帥府に入り込んだことを他の幕僚たちは快く思っていない。

しかし、有能である。

恐ろしいほどに研ぎ澄まされた彼の理性は、はるか高みから見下ろしたがごとく現状を判断し、必要な決断を瞬時に下す。

 

その男が、オフレッサーを逃がした。

貴族連合の本拠地であるガイエスブルクに帰陣した太古の猛畜が、上官の猜疑心によって処断されたことで、ラインハルトは最愛の人である姉を侮辱された憎しみをようやく晴らした。

さらにこのことは、ブラウンシュヴァイク公らの相互不信を煽るという効果をもたらしたのだが、それこそがオーベルシュタインの真の狙いだったのである。

 

ローエングラム陣営勝利の報告は、その後も次々ともたらされた。

辺境の平定にあたったキルヒアイスは、貴族軍を殲滅するとともに現地の治安維持に努めた。

キルヒアイスの進軍に対抗したのはリッテンハイム侯だったが、キフォイザー星域の会戦でついに自らも命を失った。

シャンタウ星域でこそ貴族軍に勝利を譲ったものの、敵方の本陣であるガイエスブルクでもローエングラム陣営は戦局を有利に進めていた。

 

やがて、ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトに諸提督が集結する。

各星系で勝利を収めた提督たちが次々と凱旋し、ブリュンヒルトの艦内は一層の士気に満ちあふれた。

ガイエスブルク要塞に陣を置くブラウンシュヴァイク公との直接対決は、いよいよ近い。

最終決戦を目の前に幕僚たちに指示を与えるため、ラインハルトが彼らを呼び寄せたのである。

 

「やつらは所詮烏合の衆だ。戦意だけは見上げたものだが、戦術というものがまるでなっていない。」

巧みな戦術で大勝を飾ったミッターマイヤーが言う。

 

「あれだけの大軍を率いていながらむざむざ部下を死なせるとは、愚かとしかいいようがありませんね。」

死にゆく兵士たちへの哀悼を声音に乗せて、メックリンガーが渋面をつくる。

 

「俺に同情してくれるのか、メックリンガー。」

皮肉屋の笑みでそう言ったのは、少し遅れてシャンタウ星域から帰還してきたロイエンタールだった。

 

「いえ、そういう意味では……。」

唯一の敗戦となった星域から退却してきた自分のことを指していのだが、言っているロイエンタール自身もさほど気にしていない。

それゆえの軽口だった。

 

「メルカッツが相手では仕方あるまい。同数の兵力であるならともかく少数で戦ってはそれこそいたずらに兵を失するだけだ。」

メックリンガーの言葉を受けて口を開いた同僚を、ロイエンタールは意外さをもって見返した。

 

「まあ、もっとも俺であればメルカッツと戦うことにこそ喜びを感じて突撃していたかもしれんがな。さすがはローエングラム侯、その辺りも考えての布陣だったのであろう。」

ロイエンタールの知る限り、彼は血気盛んな猛将であり、「退却」という言葉を知らないのではないかと思うほどに猛々しく、決して引くことをしない。

その男が見せた俯瞰的な視野に、秘かな驚きをロイエンタールは感じている。

 

「卿がそう言うとは意外だな、ビッテンフェルト。」

力押しばかりが能と思っていた相手に素直な感嘆を伝えると、

 

「わかってはいるのだが、いざ戦場に立つとなかなか難しい。」

一層理知的な答えが返ってきて、今度こそ面食らった。

 

「ほう、卿に褒められるとはますます貴重だ。さて、感謝の印にワインでも馳走すべきか。」

からかうようにして言ったロイエンタールに、「別に褒めてなどおらんわ!」と彼らしい直情さでビッテンフェルトが答え、ようやくロイエンタールも納得する。

それからしばらくの時間、若い幕僚たちは互いをたたえ合い、そして戦術にして思案を巡らし、議論を戦わせ合った。

 

そして、彼らの戦意を向ける先が、ラインハルトによってついに決定した。

高速通信によってブラウンシュヴァイク公を挑発したラインハルトは、ついに貴族連合最大の軍勢であるブラウンシュヴァイク公本隊を戦場へと引き出すことに成功したのである。

若き諸将の率いる艦隊は、ラインハルトの希望を形にすべく各戦区へと出発していった。



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【11】雷鳴

悲劇が起こったのは、最終決戦の場となったガイエスブルク要塞の攻防戦の最中のことだった。

 

「なんということだ……。」

監視衛星から帝国全土に向けて放映された映像に、ビッテンフェルトは括目する。

俄かには信じられない光景が、目の前のスクリーンに広がっていた。

 

ブラウンシュヴァイク公の領地であるヴェスターラントが、公爵自身の手によって核攻撃されたのである。

ローエングラム陣営対貴族連合の対立は、帝国領土全体において、貴族に対する反抗の機運を伝播させていた。

この中で、ブラウンシュヴァイク公の甥であるシャイド男爵が人民によって殺害され、激怒した公爵は自身の領土の民を核によって虐殺したのである。

 

「あの……悪魔どもめッ!」

ビッテンフェルトは額に青筋を浮かべて激怒し、スクリーンを睨んだまま目の前のパネルに拳を打ち付けた。

一方で、後ろに控えていた彼の幕僚、フェルナーは顔を青くして俯いていた。

 

「ヴェスターラント……。」

ほとんど紫になった口唇でその名を口にする部下を、ビッテンフェルトが振り返る。

 

「なんだ、卿の知り合いがいるのか。」

この時ばかりはビッテンフェルトにフェルナーを疎む気持ちはなく、心配そうに部下の顔を眺めて眉を寄せている。

 

「いえ、小官は……しかし……ああ、ついに……ヴェスターラントが……。」

怯えた様子のフェルナーに、ビッテンフェルトが繰り返し問うが、彼は顔を青ざめさせるだけだ。

 

「だから、ヴェスターラントがなんだというのだッ?!」

痺れをきらして、ほとんど掴みかかるようにして聞いたビッテンフェルトだったが、部下の顔はいよいよ青ざめるばかり。

あまりの凄惨な光景に気分を悪くし、嘔吐する部下も中にはいた。

しかし、フェルナーの様子は目の前の惨状に対する怯えとは明らかに様子が違っている。

 

「閣下……。」

喘ぐようにしてフェルナーは言い、絶望と苦悩とを集めたような目で彼の上官を見た。

 

「お、お気をつけください、閣下。」

 

「なに?!」

 

「ブラウンシュヴァイク公、アンスバッハ……指輪……ああ、閣下、私は……ですが、どうか閣下……指輪を……。」

論理を重視する冷静な軍人であれば取り合うはずもないうわごとのような台詞だが、彼の部下の様子はあまりにも平素の彼とかけ離れており、剛胆なはずのフェルナーが明らかに普段の平静さを失っている。

ほとんど意味をなさない言葉ではあったが、そのことが逆に不気味さを強く印象づけた。

 

それからしばらくしてフェルナーは落ち着きを取り戻したが、彼の不思議な「予言」はビッテンフェルトの脳裏に漠然と焼き付いた。

 

 

──そして、「予言」は、現実のものとなる。

 

ラインハルトは、ついにガイエスブルク要塞を陥落させ、敵地へと乗り込んだ。

ビッテンフェルトやその他の諸提督も、次々とガイエスブルクに旗艦を入港させる。

そして、捕虜となった貴族たちとの謁見式の時である。

ビッテンフェルトは見た。

「アンスバッハ」と、フェルナーが告げた名前の男が目の前に現れたのだ。

 

(ブラウンシュヴァイク公……アンスバッハ、あの男がなんだというのだ。それに……指輪とはいったい何のことだ。)

アンスバッハは、ブラウンシュヴァイク公の遺体の入った棺を携えて、ラインハルトの前に進み出た。

事が起こったのは、まさにその時である。

轟音とともに凄まじい風が巻き起こり、ビッテンフェルトは思わず手で眼前を覆った。

 

その手の向こう、アンスバッハに飛び掛かる赤い髪を見た。

ブラウンシュヴァイク公の遺体にハンドキャノンを隠していたらしいアンスバッハが、それをラインハルトに向けて放ったのだ。

赤毛の青年が駆け寄る瞬間を捉えると同時、ビッテンフェルトも彼と同じ方向に飛び出していた。

ほとんど本能的な動きの中で、不逞の輩に飛びかかる。

キルヒアイスが飛びついたアンスバッハの身体に自分も飛び掛かり、目の端に彼の「指輪」を捕らえた時、ビッテンフェルトはそれを手首ごと床に押しつけようとした。

ゴキリと骨の折れる音がする。

アンスバッハの手首の音らしい、しかし、次の瞬間──

 

「お、のれぇ……ッ!」

目の端で光る閃光を見た瞬間、ビッテンフェルトの全身がカッと熱くなる。

アンスバッハの指に嵌められた「指輪」が火を噴いて、彼の身体目掛けて光線を発射したのだ。

 

目の前で飛び散った血が誰のものなのか、ビッテンフェルトははじめわからなかった。

急に周りの声が大きくなり、今度は遠くなった。

二人がかりで抑え込んでいたアンスバッハが毒を噛んで自殺したのだと遠くなる意識でそれを確認し、彼は思った。

 

ローエングラム侯が無事で良かった。

フェルナーの「予言」のおかげだ。

ああ、「指輪」に気が付いて良かった。

 

そして、

 

(アンジェリカ、もう一度会いたい……。)

遠く離れたオーディンで自分を待っているであろう妻の姿を、暗くなっていく目蓋の裏で見つめていた。



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【12】秘密

「フリッツ様、ご無理をなさらないでください。お着替えはわたくしが手伝いますから。」

ベッドから身を起こしたビッテンフェルトに、妻の手が触れる。

細く美しい指先は少し冷たく、しかし羽根で撫でるような優しさでビッテンフェルトの肌に触れていた。

 

「う、うん……。」

子どもっぽく頷いてしまった自分に気が付いて顔を赤らめるが、アンジェリカは気にする様子もない。

アンジェリカの白い手指や桜色の爪先は、ビッテンフェルトにとって長く思うようにならない攻略対象であったが、そんな過去が嘘のように、今は何度も往復したりくすぐるように触れたりして、ビッテンフェルトの肌を撫でている。

重症といえる怪我を負った彼にとって、貴重な光明だった。

 

ガイエスブルクでの捕虜謁見式で、ブラウンシュヴァイク公の臣下であるアンスバッハ准将が、ラインハルトを襲撃しようとした。

キルヒアイスとビッテンフェルトによって防がれたが、それぞれが大きな怪我を負ってしまった。

キルヒアイスは右腕を、ビッテンフェルトは肩を負傷し、互いに療養生活に入ることとなったのだ。

 

この功績をもってビッテンフェルトは二階級特進し、上級大将の肩書きを賜っているが、実はそれ以上に彼が喜ばしいと思っているのは、自宅で療養にあたる自分を献身的に看護してくれる妻のことである。

ビッテンフェルトと彼の妻、アンジェリカは、長く奇妙な夫婦関係を続けてきた。

書類を交わして共に暮らすようになっても、式を挙げてからも、それからもずっと──薄暗い書斎と書類の山、そして犬にまで邪魔されて、睦まじい夫婦と言い切るにはやや無理のある状況だった。

 

もしかして妻は自分を嫌っているのではないだろうか。

それは、ビッテンフェルトにつきまとっていた不安だ。

心の奥が見えないという点を除いては、アンジェリカは申し分のない妻だった。

美しく、折り目正しい。

家はいつも居心地よく整えられているし、使用人たちも皆アンジェリカを慕っている。

父親の前では夫を立ててくれるし、ふとした時に見せるアンジェリカの笑顔に出会えた時は、それだけで心が和む思いだった。

夫の仕事に対して興味関心を抱きすぎているきらいはあるが、それだって決して疎ましいわけではない。

 

身分の違いだろうか、あるいは別の原因かと──今一つ遠く感じるアンジェリカとの距離はビッテンフェルトに苦しい時間を課してきた。

しかし、それももう終わりだと彼は思っている。

怪我をした自分のことをアンジェリカは心から心配してくれ、一日とあけずに見舞いに通い、病院から自宅へと移ってからはほとんど付きっきりで看護をしてくれている。

ビッテンフェルトが負傷したと聞いた時などは、普段表情の乏しいアンジェリカが、誰が見ても明らかなほど激しく動揺して周囲を驚かせたと執事から聞かされていた。

 

「痛むようでしたら、お薬をお持ちしますわ。」

悩まし気に眉を寄せ、自分の顔を覗きこむアンジェリカに、胸が熱くなる。

妻のためにも早く怪我を治さなければと思いながら、ビッテンフェルトは愛しい恋人の手を取った。

触れた手を優しく握り返す指の動きを見れば、怪我が治ったあかつきには、美しい夫婦となれることは間違いないと思えた。

 

「大丈夫だ、アンジェリカ。君がいてくれれば、それだけで十分だよ。」

かつての彼であればとても言えなかったであろう台詞も、今ならば言えた。

怪我を負って軍務から遠ざからなければいけないのは辛いことだが、こうして妻との時間が取れたのだから悪いことばかりではない。

そう思い、愛しさを深くする。

 

その時だった。

 

「失礼いたします、旦那さま。」

扉をノックする音がして、執事が顔を覗かせた。

 

「キルヒアイス提督がお見えです。」

 

「なに、キルヒアイスが?!」

彼も同様に怪我を負ったが、ビッテンフェルトよりも少しばかり早く退院していた。

そのキルヒアイスが、ビッテンフェルトの見舞いに来たのだという。

 

「わかった、通してくれ。」

やってきたキルヒアイスは、アンジェリカに白い花弁の清楚な花束を手渡して、彼女に案内された椅子に腰かける。

ベッドの脇に置かれた椅子に座ると、彼はまず感謝の言葉を口にした。

 

「ビッテンフェルト提督がいなければ、私は生きていなかった。どうしても感謝の気持ちを伝えたく、ご自宅まで伺わせていただきました。」

かつては気に食わないと思ったこともある相手だが、殊勝に言われれば悪い気はしない。

 

「気にすることではない、キルヒアイス。卿も俺も無事で……とにかくローエングラム侯にお怪我がなかったのだからそれで良いではないか。」

ビッテンフェルトは彼らしい豪気さで答えて、自由になるほうの手をキルヒアイスに差し出した。

 

「そうおっしゃっていただけると……。」

キルヒアイスが手を握り返し、彼も微笑んだ。

そこまでは良かった。

問題は、部屋を出ていったアンジェリカがティーセットの載ったトレイを携えて戻ってきた時だった。

 

「紅茶でよろしいでしょうか。」

伏し目がちにキルヒアイスを見るアンジェリカの視線と、謝礼を述べて見返したキルヒアイスの視線とがぶつかった。

先に視線を逸らしたのはアンジェリカで、キルヒアイスの温かみのある青い瞳がそれを追いかける。

それを、ビッテンフェルトは見てしまった。

 

まさか、とは思った。

確かにキルヒアイスは以前にもアンジェリカと会ってはいる。

しかし、彼らの口からお互いの名前が出ることはなかったし、それに──近頃のアンジェリカは思いやり深い優しい態度でビッテンフェルトに接してくれていた。

頭に浮かんだ質の悪い妄想を振り払って、ビッテンフェルトはキルヒアイスと向き合う。

 

彼は、その後の出来事についてラインハルトから聞いた内容をビッテンフェルトに仔細に伝え、誠実な態度を崩す気配は微塵もない。

そうなれば、先ほどの出来事はやはり気のせいだと思えてくる。

キルヒアイスの話によれば、リヒテンラーデ公をラインハルト暗殺の首謀者として血祭にあげたオーベルシュタインは、彼の一族を含む門閥貴族の大部分を謀反人として処罰し、服毒死や流刑へと追いやったのだという。

オーベルシュタインの名前に嫌悪感を露わにしたビッテンフェルトだったが、キルヒアイスのとりなしで当主以外の者は助命され、流刑に処せられたと聞き、ほっと安堵の息をついた。

時として苛烈さの目立つ若き宰相の穏健な判断を聞き、ビッテンフェルトはそれが嬉しかった。

ローエングラム陣営随一の猛将と名高い彼だが、こういった篤実さが部下に慕われる要因にもなっている。

 

新体制の今後について等、ラインハルトからの伝言をいくつか済ませると、キルヒアイスは再び礼を言って屋敷を辞した。

アンジェリカが、彼を見送って玄関へ出る。

 

二人並んだ後ろ姿に一瞬ドキリとなったビッテンフェルトだったが、再び頭をもたげた弱気な妄想を頭から追い出そうと首を振って、ベッドにもぐりこんだ。

そんな彼のもとに、二人目の訪問者が現れたのは、そのすぐ後のことだった。

 

「お加減はいかがですか、閣下。」

やってきたのは、先の戦役の前にビッテンフェルトの部下となった男である。

 

「……何の用だ、フェルナー。」

膨らみかけた不安を振り払うためにも、ビッテンフェルトはアンジェリカと過ごしたかった。

もう一度彼女の手に触れれば、こんな誤解は吹き飛ぶはずなのにと思っていた。

ところがやってきたのはいけ好かない部下で、しかし彼は珍しく申し訳なさそうな顔を浮かべている。

 

「いえ、閣下がお怪我をなさったのはどうも小官のせいのような気がして……お詫びに伺わねばと思っていたのです。」

確かに、ビッテンフェルトが怪我をしたのはこの男が予言めいたことを言ったせいかもしれないが、逆に言えばこの男の妄言がラインハルトを救ったとも言える。

ビッテンフェルトに彼を責める理由はなかった。

それを伝えると「なるほど、よかった」とあっさりと変心していつもの顔に戻ったフェルナーだが、ビッテンフェルトがあの言葉の理由を尋ねても首を傾げるだけだ。

 

「正直なところ、自分でもよく覚えていないのです。一体何を言ったのか……あの時はどうかしていたとしか思えません。」

 

「なんだ、はっきりせん話だな。」

言いながら、ビッテンフェルトはさほど気にしていない。

ただでさえこの図々しい部下とはどうにも馬が合わないのである、この上予言者などといううさんくさい属性が加わったら余計に苦手になりかねない。

 

「まあ、いい。俺はこの程度の怪我でどうこうなる人間ではないし、気にしてなどいない。それよりも俺の艦隊はどうなのだ。」

 

「ええ、それはもう滞りなく。いつ閣下が戻られても大丈夫なように、総員万全の備えでお待ちしております。」

フェルナーからの報告に、ビッテンフェルトは満足げに頷いた。

 

「あら、いけないわ。わんちゃん、待ちなさい……!」

彼の自慢の妻の声がしたのはその時で、彼女が開こうとした扉を押し開けてダルマチアンが入ってきた。

慌てたアンジェリカがティーセットをテーブルに置いて、主人のベッドへ向かおうとする老犬に向かって手を差し伸べる。

 

「ほら、いらっしゃい。お客さまのお邪魔をしてはダメでしょう。」

これに驚いた表情を見せたのが、フェルナーだった。

 

「閣下は……犬を飼っておいででしたか。」

 

「別に好き好んで飼っているわけではない。こいつが元帥府から俺の後をついてきて、住み着いてしまったのだ。」

その言い方がまずかったらしい。

聞いていたアンジェリカが悲し気に眉を寄せ、ダルマチアンの頭を撫でる。

 

「まあ、フリッツ様。そんな風に思っていらしたなんて……だから、未だに名前をお決めになってくださらないのですか。」

責めるように言われて、ビッテンフェルトが顔色を悪くする。

 

「ち、違うのだ。アンジェリカ、そういう意味ではなく……ただ、そいつはどうにも食も細いようだし、我が家に馴染んでいないのではないかと思ってだな……。」

ついしどろもどろになって言いかけるが、横で聞いていたフェルナーがなぜか訳知り顔で頷いた。

 

「……柔らかく煮た鶏肉を食べさせてやるといいですよ、奥様。」

老犬にはそれがいいのだと彼はもっともらしく言ったが、なるほどと首を振るビッテンフェルトと対照的に、何か不審なものを見るような目でアンジェリカはフェルナーを見ている。

 

「それにしてもお美しい方だと評判はお聞きしていましたが、なるほど閣下は大変な幸せ者でいらっしゃる。」

 

「そうだろう!わかるか、フェルナー。」

 

「ええ、こんなにお似合いのご夫婦はそういらっしゃいません。」

機嫌をよくして鼻をふくらませるビッテンフェルトと対照的に、アンジェリカは表情を曇らせたままだった。

甘いデザートを大皿に積み上げるがごとく盛大にお世辞を述べた後で、フェルナーは「身体に障るといけない」と席を立って挨拶を述べた。

 

 

「すみません、奥様。突然押しかけてしまって。」

 

「いいえ。こちらこそ、お気遣い感謝いたしますわ。」

 

「………。」

玄関まで見送りに出たアンジェリカを、碧色の視線がじっと見る。

 

「おかしいなあ、銀英伝の世界では……ビッテンフェルト提督は結婚なんてしてなかったはず。」

 

「!」

ぱっとアンジェリカの目が開き、二人はしばらく沈黙した。

 

「それでは、小官はこれで。」

 

「ッ、待って……!」

珍しく感情を表に出したアンジェリカに使用人たちが驚くが、それに構う余裕は彼女にはない。

 

「フェルナーさん、あなたは……。」

玄関を飛び出してきたアンジェリカの瞳を、フェルナーの両眼が意味を込めて見返した。

 

彼は予言者でもなければ、老犬に詳しいわけでもない、ただし──ある特殊な事情を抱えている。

それが自分と同じだということをアンジェリカは知り、フェルナーもまた彼女が何者なのかを確信したのだった。



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【13】転生者たち

ビッテンフェルト家の執事は、その日の珍客をはらはらした思いで迎えていた。

その日の客が、当主であるビッテンフェルトが知れば激怒するに違いない人物だからである。

その人物は、客間でアンジェリカと何やら話し込んでいるようだが、絶対に立ち入らないようにと使用人たちはアンジェリカから強く頼まれていた。

来客──つまり、ビッテンフェルトの部下であるアントン・フェルナーがアンジェリカを訪ねて来たのは、軍務に復帰したビッテンフェルトから、「提督以上の者による会議と会食で帰りが遅くなる」と告げられた日の午後であった。

 

使用人たちのどこか不審そうな反応はアンジェリカも気付いていたが、彼女はかまわずにフェルナーを客間に迎えた。

外聞を気にするよりも重要なことが、彼女にはある。

 

「フェルナーさん、あなたは……。」

長い沈黙の後で、アンジェリカが慎重に口を開く。

しかし、フェルナーのほうはとっくに承知していたとばかりの大胆さで事実を告げた。

 

「銀河英雄伝説……あなたもそれをご存じということですね、フラウ・ビッテンフェルト。」

愛読書だったという作品についてフェルナーはどこか嬉しそうに話し、自分が「前世の知識」を思い出したのはアンジェリカよりもずっと昔だと告げた。

 

「だけど、自分がフェルナーになってるなんて……どうせなら、ヤン・ウェンリーが良かったよ。」

飄々とした様子で話す彼は、「この世界」についてかなり詳しいらしい。

 

「そりゃあそうだよ、これほどの名作を読まずに返しちゃうなんて随分もったいないことをしたものだね。」

学生時代に友人に借りた本を、ほとんど読まずに返してしまったというアンジェリカに嘆息して、それから彼はまっすぐに聞いた。

 

「で、どうしてビッテンフェルト提督と結婚してるわけ?」

「原作」をよく知る彼からすれば、なぜわざわざビッテンフェルトを夫に選んだのかがわからないというのだ。

女性が好む登場人物は他にたくさんいるし、アンジェリカとビッテンフェルトでは見るからに不釣り合いだと彼は笑った。

「お似合いだ」と散々にお世辞を言っていたくせに、実はまったく思ってはいなかったらしい彼の割り切りの良さに呆れながらも、アンジェリカも仕方なく動機を告げた。

 

「あはは……!え、本当に?!それは知ってたんだ?!いや、面白いなあ。確かに、ビッテンフェルト提督は“作者が殺し損ねた男”って有名だけど。」

キルヒアイスの悲劇もロイエンタールの終幕も知らないのに、それだけは知っていたのかと、フェルナーはいかにも可笑しそうに腹を抱えて笑った。

しかし、ひとしきり笑い終えると、彼はふと真顔になる。

 

「だけど……どういう偶然かな、”歴史”は少しずつ変わっているみたいだ。」

ガイエスブルクでキルヒアイスが命を取り留めたことに触れ、フェルナーは首を傾げる。

 

「それに俺だけじゃなく、犬までビッテンフェルト提督のところにいるなんて……。」

 

「犬?」

ビッテンフェルトが連れてきたダルマチアンの老犬のことらしい。

未だ名前のない愛犬のことを思い、アンジェリカは寂しそうに目を伏せるが、フェルナーが言うには、ダルマチアンがビッテンフェルト家にいるのは「原作との大きな相違」らしい。

「原作」では、ダルマチアンはラインハルトの参謀であるオーベルシュタインに拾われ、彼の人間性を示す貴重なアイテムになっているらしいのだ。

そしてまた、フェルナー自身も、本来ならばオーベルシュタインの部下になるはずだったのだと言う。

 

「あの時は、君の旦那さんに思いっきり殴られて大変だったんだよ……。」

今でも痛みを思い出すくらいだと頬をさすってみせて、フェルナーは思案顔をつくる。

アンジェリカは、気になっていたことを素直に聞いた。

 

「あなたは……アントン・フェルナーとしてどう身を処すつもりだったの。」

フェルナー自身の説明では、彼はラインハルトの暗殺未遂をきっかけにオーベルシュタインの部下となり、やがて物語の「結末」を迎えるのが本来なのだという。

しかし、そこに至るまでの過程はまさに戦乱と権謀の連続であり、話を聞くだけでぞっとするとアンジェリカは思う。

それを受け入れるつもりだったというのだろうか。

 

「いいや、もちろん違うよ。」

彼女の疑問に、フェルナーはあっさりと首を振る。

 

「俺としては、ローエングラム公を暗殺して……そのまま自由惑星同盟に亡命するつもりだったんだ。だから、「原作」よりも人数を増やして工作したし、作戦も綿密に練った。」

「君のご主人に邪魔されて頓挫したけどね」と悪びれずに言う彼の発言内容の過激さに、アンジェリカは思わず青ざめた。

 

「あ、んさつ……。」

明らかに慣れない言葉で、口にするだけでもおぞましい。

けれど、フェルナーはあくまでも自身の安全のための措置なのだと主張する。

 

「ローエングラム公が亡くなれば、銀河帝国はもとの貴族中心社会に戻るだけだ。俺は前世では銀行員だったし、自由惑星同盟のほうが断然に水が合う。だから亡命してあっちで仕事でも探してのんびりと過したいと思ってたわけ。」

戦争に巻き込まれるのもオーベルシュタインの配下で権謀に腐心するのも、あげく暴動で負傷するのもまっぴらごめんだと彼は言って、しかし皮肉に口唇を歪めて見せた。

 

「まあ、今となっては……亡命どころじゃなくなっちゃったけどね。」

ラインハルトの権力は、リップシュタットの戦役とリヒテンラーデ公の排斥によって盤石となり、彼の右腕であるキルヒアイスも存命している。

銀河帝国が自由惑星同盟を滅ぼすことはまず間違いないだろうと彼は述べ、

 

「もっともその先はまったくの未定だよね。ローエングラム公の寿命も、キルヒアイス提督との関係も、オーベルシュタインやロイエンタール提督がどんな運命を辿るのかも、さ。」

自身やアンジェリカの存在が、微妙に「歴史」を変化させつつあるようだとフェルナーは推察してみせる。

彼の言葉は、アンジェリカを不安にもしたし勇気づけもした。

戦争や権謀という暴力的な世界など、アンジェリカにとっては恐ろしいだけだ。

ビッテンフェルトの「死なない」という未来を信じて家に籠もっていればあるいはいいのかもしれないが、キルヒアイスやその他の提督たち、顔を知る人々が悲劇をたどるのかと思うとそれも苦しい。

一方で、「歴史」が変化しつつあるのだとすれば、また違う未来があるのではないかとも思うのだ。

 

「誰かが死ぬのが辛いって……思ってる?」

フェルナーに尋ねられて、アンジェリカは伏せていた顔を上げた。

人を食ったような態度と潔いほどの割り切りの良さで、先ほどまではつらつらと淀みなく話していたはずの男が、気がつけば顔を曇らせている。

 

「……わかるよ。」

重い口調で言って、彼はため息をついた。

 

「ヴェスターラントの映像を見た時……ぞっとした、いや、ぞっとしたなんてものじゃないな。恐ろしくて恐ろしくて、立っていられないんじゃないかってくらい……とにかく怖くて全身が冷たくなっていくような思いだった。」

人民が虐殺される光景に恐れおののき、この後でキルヒアイスがブラスターに貫かれて死ぬのだという差し迫った現実に震えが止まらなくなったと彼は言う。

 

「人が……死ぬところなんて見たくないよ、そりゃあね。」

ラインハルトを暗殺しようとしたという人間の台詞とも思えないが、彼の目は確かに暗い影を落とし、「読むのと見るのじゃ大違いだ」と苦しそうに声を絞り出して、アンジェリカに向かって口唇を歪めて見せた。

二人はただ沈黙し、持て余した行き場のない感情をため息に変えるしかできない。

物語の世界といっても、宇宙はあまりに広く、自分たちはほんの小さな存在に過ぎないのだ。

現実は重苦しくのしかかり、救いを求めたところで容易に拓けそうな道はどこにもない。

 

 

「ねえ、」

長い沈黙の後で、フェルナーが声の調子を変えて言った。

どうやら話題を変えることで、気分を紛らわせようとしているようだった。

 

「俺は銀行員だったわけだけど、君は一体どんな人だったの?」

昔話でもするような口調にアンジェリカの心もいくらかほぐれ、なんとか口唇に微笑みを浮かべて言葉を返す。

 

「私も銀行で働いたことがあるよ。日系じゃないし、MBAを取った後すぐにコンサルに転職しちゃったんだけど。」

 

「えー。」

じとっとしたフェルナーの目線がアンジェリカに向けられる。

 

「なんか聞きたくなかったかも。じゃあ、大学は?」

 

「えっと、アメリカの……。」

 

「ああ、もう!自慢かよ!全然敵わないじゃないか!」

華やかなキャリアに「やっぱり聞きたくなかった」と大げさに喘いで見せて、しかしすぐに何かを懐かしむような眼差しに変わる。

 

「だけど、良かったのかな。一人じゃ心細かったし、それに……。」

言いかけて、フェルナーは何か思いついたとでもいうようにはっと目を見開いた。

 

「頭、いいんだよね?!」

 

「え、どうかなあ。」

 

「いや、いいよ!多分、というか少なくとも俺よりは優秀だろ?!」

まさか肯定するわけにもいかずアンジェリカは眉を下げるが、フェルナーはまったく気にしていないらしい。

腰掛けていた椅子から立ち上がると、膝の上に置かれていたアンジェリカの手を両手でぐっと掴んだ。

 

「俺の知識と君の頭脳とで……もしかしたら、未来を変えられるかもしれないじゃないか!どう?やってみないか?!」

 

「え……。」

アンジェリカは思い出していた。

夫と出会ってからのこと、書斎に籠もってひたすらに学んだ日々、すべては生きるためだった。

それで何かが叶ったわけではない、守ってくれたのはいつも夫だった。

そんな自分に、一体何ができるというのか。

──けれど、もしこれまでに学んだ知識が、誰かを救うことに役立つのだとしたら……。

 

「だけど……そんなこと、できるのかな……。」

 

「やってみなければわからない!前進、力戦、敢闘、奮励!それが黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)のモットーだッ……!」

勢いよく告げられた言葉は、アンジェリカの心にも勇気を与えた。

「前進、力戦、敢闘、奮励」それが夫のモットーであることをこの時初めて知ったアンジェリカだったが、いかにも彼らしいなと微笑ましくその言葉を受け止める。

そして、彼女も頷いた。

 

「そうだね、考えてみる……!」

誰かの命を救うなんて、そんな大それたことが簡単にできるとは思わない。

けれど、生きて欲しいと思った。

夫にも、ローエングラム公にも、ロイエンタール提督やルッツ提督、会ったことのないヤン・ウェンリーにも──そして、辛くも命を繋ぎ止めたキルヒアイス提督にも。

 

「それじゃあ、まずはお互いの知識を共有しましょう。」

そう言って立ち上がったアンジェリカが、フェルナーを自らの書斎へと案内した。

うずたかく積まれた書類の山と天井に届くほどの巨大な書棚、そしてブルーライトを放つ複数の端末。

 

「う、わあ……。」

書斎を見たフェルナーは、初めてその場所を訪れたビッテンフェルトと同じ顔をしていたが、アンジェリカはそれをまったく気にとめなかった。

不安に揺れる胸を決意と希望でなんとか支え、彼女は薄暗い私室の扉を閉める。

そして、銀河の歴史に対する挑戦が始まった。



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【14】義眼の参謀

アンジェリカは、心に立ちこめる暗雲を振り払えないでいた。

夫であるビッテンフェルトは軍務に復帰し、宰相となったローエングラム公を中心として着実に新しい社会制度が整えられつつある。

幼帝を守護するラインハルトと彼の部下たちによって新しい時代が拓かれようとしていることを、帝国全土が感じていた。

そんな状況下にあって、アンジェリカが不安を濃くする理由──それは、フェルナーと自身で幾度となく知識の摺り合わせとシミュレーションとを繰り返しているものの、今後起こるであろう戦乱を止める方法が何一つ見つけられないでいるためだ。

 

フェルナーの知識によれば、この年は「ガイエスブルク要塞のワープアウトによるイゼルローン攻略」と「幼帝ヨーゼフ二世の誘拐事件」が発生する。

そして、その後は怒濤のごとき大戦へとなだれ込むというのである。

キルヒアイスの生存により回避されるのではと期待していたガイエスブルクのワープ作戦は既に認可が出てしまっていると聞いているし、幼帝の誘拐事件を密告したところでラインハルトが黙認するという筋書きは変えようがない。

フェルナーとアンジェリカの考えでは、「原作」でヤン・ウェンリーが模索していた「講和条約の締結によるとりあえずの平和」を妥当な行き先としているのだが、道筋をつけたくとも糸口が見えない。

フェルナーはあくまでビッテンフェルトの部下であるし、アンジェリカは家から出ることもままならない女性の身なのである。

どれほど知識を捏ね回してみたところで現実に抗うほどの力はないのかと、日々絶望は濃くなるばかりだった。

世界は広く、自分はいかに小さな存在かと思い知らされる。

それでも、諦められない──希望と絶望とを繰り返す毎日に、アンジェリカの心身は疲労していった。

 

「奥様、気分転換に散歩に出てみてはいかがですか。」

塞ぎ込むアンジェリカに言ったのは、彼女の家の執事である。

 

「散歩?」

 

「ええ。犬の散歩はいつもわたくしがしておりますが、よろしければご一緒に歩いてみてはいかがでしょう。もうすぐ春も近いですし、外を歩くときっと気分も変わりますよ。」

 

「そうね、そうしようかしら。」

気鬱に押しつぶされそうになっていたアンジェリカだったが、思いやりある執事の言葉に素直に従うことにした。

外の空気を吸えば気分もすっきりするし、どこまでいっても行き止まりの思考にも少しは光が差すかもしれない。

外出のための服に着替えると、アンジェリカは年老いたダルマチアンと執事と共に屋敷を出た。

 

「もうネモフィラが……。」

街の花壇に植えられた青い花に、アンジェリカが足を止める。

 

「春はすぐそこでございますよ、奥様。」

ふと、ビッテンフェルトと出会った頃を思い出す。

草花がみずみずしい季節だった。

あの日、緊張した面持ちを隠そうともせずに父の別邸を訪れた夫が、自身の顔を見て頬を紅く染めたこと。

それが、昨日のことのように思い出される。

自身とマッテルスブルク家の保全のために結婚を選んでからもうすぐ二年、彼と出会った季節がまた巡ってくる。

あの日以来、アンジェリカが望む通りの逞しさで、ビッテンフェルトは生き抜いてくれている。

アムリッツァ星域の会戦でも、その後のリップシュタットの戦役でも、彼は生きて帰ってきてくれた。

アンジェリカの希望は叶えられ、それだけでもどれだけ有り難いことかわかっている。

 

(彼は……私のこと、どう思ってるんだろう。)

一つ屋根の下で暮らし、世間にも認められた夫婦である。

雄々しく逞しい夫だが、意外なほどの優しさでアンジェリカに接してくれている。

自分はそれに──応えられているだろうか。

だったらどうしたいのかと聞かれてもうまく答えられる自信のないアンジェリカだが、それでもビッテンフェルトのことを思うと複雑に胸の奥が揺れる。

 

「どうりで暖かいはずね。春の庭を眺めるのが、楽しみだわ。」

曖昧に揺れる心の波から目を逸らすようにして、アンジェリカはまた前を向き、犬を連れた執事と並んでまた歩き出す。

 

しかし、ある屋敷の前まで来た時だった──

 

「ほら、わんちゃん。どうしたの、行きましょう。」

 

「困りましたね、いつもはこんなことはないのですが……。」

散歩コースだという道の途中で、ダルマチアンが足を止めて座り込んでしまったのだ。

アンジェリカが諭しても、執事がリードを引いても、犬はその場を離れようとしない。

 

その二人の前に、現れた人影。

春が近いというのに、凛烈と言えるほど寒々とした冷気を感じた。

実際に気温が下がったわけではもちろんないのだが、まるでそう感じるような存在感だった。

 

「……そこで何をしておいでか。」

丁寧だが、有無を言わせない口調だった。

低く、聞き取りづらい声であったが、アンジェリカの耳には感情のない彼の声がはっきりと届いた。

そして飼い犬に向けていた顔を上げた時、目の前に立っている男の視線に射すくめられ、アンジェリカは息をのむ。

彼が誰なのか、尋ねなくてもわかった気がした。

 

節張った手指、薄い喉元と無表情で見下ろす瞳。

感情を宿さない彼の瞳は、それが義眼ゆえなのか。

 

「あ、わたくしは……。」

パウル・フォン・オーベルシュタイン──夫からもフェルナーからも何度となく名前を聞かされた人物、きっと彼がその人なのだと、アンジェリカはほとんど第六感で確信する。

怜悧冷徹なローエングラム公の懐刀。

ラインハルトのためにこれまでも様々な策謀を巡らせてきた彼は、「この後」も恐るべき頭脳と一切の感情を介さない研ぎ澄まされたナイフの如き判断力で、政権の基礎を築き上げていくことになる。

それらのすべてが脳裏を巡り、アンジェリカは言葉をうまく発することができない。

 

「申し訳ありません……こちらのお宅の方でしょうか……。」

彼の視線から逃れるように瞳をそらせ、アンジェリカはなんとか告げた。

 

「いかにも。あなたは?」

助けを求めるように犬の頭を撫でるが、年老いたダルマチアンは変わらずその場を動こうとしない。

アンジェリカは家名を名乗り、家の前で立ち往生する非礼を詫びた。

 

「もしかして、こちらで飼われていたわんちゃんでしょうか。ちょうど一年前に迷い犬を夫が保護してそれ以来、我が家にいる子なのですけれど……。」

名乗り返さない相手に対し、慎重に言葉を選びながらアンジェリカは邸宅の立派な門を見る。

彼が誰でどんな人物なのか知っている、アンジェリカの中でそれはいつの間にかほとんど確かな事実へと変わっている。

 

「……私の犬に見えますかな。」

静かな口調で彼が尋ねた時だった。

 

「クゥン。」

甘く鼻を鳴らして、老犬が立ち上がる。

 

「あッ……。」

慌ててリードを引こうとした執事の手を逃れるようにして犬は男に向かって歩き、「くう」と小さくまた鳴いて彼の足下に身体を擦りつけたのだ。

 

「も、申し訳ございません!」

これに慌てた執事が、いよいよ強くリードを引こうとする。

しかし、それを止めたのは、彼だった。

 

「良い、好きにさせてやりなさい。」

甘えるように男に擦り寄って鼻を鳴らした犬が、尻尾を振って彼の足下にまとわりつく。

自分にとって恐怖の対象である男に老犬が懐く様は、アンジェリカには驚くべき光景に映った。

 

「あ、あの……。」

アンジェリカは戸惑うが、それで態度を変えるような相手ではないらしい。

じゃれつく老犬に構うことはせず、しかし好きなように甘えさせていた男だったが、やがて再び口を開く。

 

「私の犬に見えるのであれば、置いていかれるがいい。」

 

「えっ……。」

どういう意味かと聞き返そうとするが、青白い皮膚を張った無表情に見つめられるとつい萎縮してしまう。

そんなアンジェリカに向かって、彼が言った。

 

「あなたのご夫君は犬が苦手なのだ。だから尚更、置いていかれるといい。」

まさかと思っていた夫の犬嫌いを彼が指摘したことに驚かされ、アンジェリカはまた言葉を見失う。

この人は一体何者なのか、どれほどの世界を見通しているのかと畏敬と恐怖がない交ぜになって彼女を襲い、アンジェリカは目の前の男の表情のない顔を見返すしかできなかった。

 

「奥様、よろしいのですか。」

それでも、執事に尋ねられれば、アンジェリカの答えは自ずと導かれる。

この人のもとに居るべき犬なのだと、知っている。

「彼の人間性を示す貴重な存在だ」と、フェルナーは確かに言っていた。

今日この日の巡り合わせは、きっとそれが正しいことを示しているのだろうとアンジェリカは思う。

 

「ええ、どうか……可愛がってあげてくださいませ。」

なんとか告げた彼女に、男の目がわずかに細められた。

 

「私は、パウル・フォン・オーベルシュタイン。ご夫君には私からも伝えよう。」

ようやく彼の名前を聞いた瞬間、ひやりとした感覚がアンジェリカの背筋を走る。

悪寒に似た感覚だったが、果たして彼の迫力だけに由来するものだろうか。

 

「ありがとうございます、オーベルシュタイン様。」

静かに視線を下げたアンジェリカの前で、オーベルシュタインの手が犬の頭をそっと撫でる。

その動きの意外な優しさにはっとなるが、アンジェリカが顔を上げた時にはもう、オーベルシュタインはその場を立ち去った後だった。



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【15】犬、帰る

犬がオーベルシュタインの家に貰われていったことを聞いたビッテンフェルトは、なんとも複雑な表情をしてこれを受け止めた。

犬が苦手な彼としてはダルマチアンが出ていったことを有り難いと思ったが、自分の家の犬が貰われていったということは、改めてオーベルシュタインに犬の世話を頼まなければならないのではないかということが、とにかく嫌なのである。

ビッテンフェルトとオーベルシュタインは、水と油のような存在と言える。

猛る思いのままに剣を振るうビッテンフェルトと感情の一切を廃した絶対零度の剃刀、意見が合致するということのほとんどない組み合わせだ。

徹頭徹尾正論推しの権謀家であるオーベルシュタインがなんの理由もなく犬を引き受けるとも思えず、ビッテンフェルトの苦痛は増した。

 

しかし、このところ塞ぎがちだった妻がさらに肩を落として、「あの子のためにはそれが一番なのですわ」と犬の使っていた食器やら毛布やらを整理する様子を見ると、結局彼は難題を引き受けるより他なかった。

翌日、ビッテンフェルトは犬が愛用していたあれこれを袋に詰めて、渋々も渋々といった態度で、オーベルシュタインの執務室を訪れた。

 

「あの犬のことだが、」

単刀直入に切り出すと、電子の光を宿した義眼がひたりとビッテンフェルトを見返した。

まず外見が気に入らないのだとビッテンフェルトは思ったが、他ならぬ妻の頼みである。

 

「卿の家がよほど居心地がいいのだろう。もともと行き場をなくしていたようであるし、引き取ってもらえて助かった。」

絶対に何か言い返してくる、とビッテンフェルトは思った。

しかし、違っていた。

 

「そのことであれば、私から奥方に申し出たことだ。」

 

「なに?!」

犬を引き取る代わりに何事か厄介ごとを押しつけられてもおかしくないと身構えていたビッテンフェルトは、つい間の抜けた声を出してしまったことに慌てて、咳払いをして取り繕った。

 

「そ、それだけか。オーベルシュタイン……。」

そんな馬鹿なという思いが強すぎて、つい疑心暗鬼になる。

 

「何か企みがあるのではないだろうな?!」

怒っているのか怯えているのかわからない態度になりながら、手にした袋を握りしめてビッテンフェルトは聞くが、

 

「取引が望みなら、何事か考えてはみるが。」

オーベルシュタインは表情なく視線を滑らせただけで、執務机から腰を上げようともしない。

「取引」などとオーベルシュタインが言い出せば、もちろん悪い予感しかしない。

そんなものは当然お断りだった。

 

「ふざけるな、そんなもの誰が受けるか!」

反射的に嫌悪感を露わにし、しかしビッテンフェルトは持っていた袋をオーベルシュタインの机の上にどさりと置く。

犬用の毛布、犬用の皿、遊ぶということをあまりしない老犬が、それでも気に入っていた玩具。

 

「あの犬には、鶏肉を煮て食わせてやれ……!」

そう告げて部屋を出ていったビッテンフェルトを、オーベルシュタインの冷えた視線が見つめていた。

オーベルシュタインは多くを語る人間ではなく、巨大なコンピューターのような脳の容量とは裏腹に、必要最低限のことしか口にしない。

感情を持たない機械のようだとか、陰湿な策謀を巡らせる死に神だとか、多くの者が嫌悪する通りの印象と、実際の彼はそう違わない。

しかし、それが彼のすべてというわけではないらしい。

このことを知る人間が、この世界に三人だけいる。

 

ビッテンフェルト、フェルナー、アンジェリカ。

彼ら自身でさえ、オーベルシュタインの意外な一面が何か重要な意味をもつのかそうでないのか、そのことについて判断することはできなかった。

しかし、まず事実として、年老いたダルマチアンはビッテンフェルトのもとからオーベルシュタインの家へと移り住んだ。

そして、ことごとく交わらないビッテンフェルトとオーベルシュタインだが、ビッテンフェルトの犬嫌いに対して、オーベルシュタインはどうやら逆の属性を持っているらしい。

 

自身の執務室まで戻ってきたところでビッテンフェルトは大きく息を吐き出し、陰気な男との望まぬ面談を忘れようと一つ伸びをする。

ここまで来て犬にはまだ名前がないということを思い出したのだが、それを言うためにオーベルシュタインの執務室まで戻るというのはあまりにも気鬱であった。

 

(名前くらい、奴が好きにつけるだろう……!)

潔く判断し、彼は自身の軍務へと戻ることにした。

あのオーベルシュタインが一体どんな名前を愛犬につけるというのか、ビッテンフェルトとしてもまったく興味のない話ではなかったが、それはまた別のお話……。



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【16】春を待ちながら

ガイエスブルク要塞がついにワープアウトに成功し、イゼルローンの攻略作戦が始まる頃、アンジェリカは以前にも増して書斎に籠もるようになっていた。

やがてミュラーの艦隊が後援のために出撃すると、ビッテンフェルトの職務も忙しさを増した。

彼自身は出撃を命じられてはいないものの、近づく自由惑星同盟との決着に向けて、艦隊の調整やら作戦の立案やらで帰宅が遅くなることもしばしばだった。

 

そんな中、もともと身体が丈夫ではないらしいアンジェリカが一層塞ぎ込んでいる様子は、ビッテンフェルトの心配の種だった。

落ち込むアンジェリカを見るたび、苦手な犬を譲渡してしまったことさえ後悔するようになっていたビッテンフェルトだが、まさか返してくれとも言えない。

使用人たちが言うには、アンジェリカは一日のほとんどを書斎で過しているそうだし、あまり眠れないのか、夜になってもなかなか寝室に戻ろうとしない。

塞ぎ込む妻の側についていてやりたいとは思うのだが、艦隊司令官である彼にとってそれはとても許されることではなかった。

夜遅く帰っては花や紅茶や菓子などを手渡すのが精一杯なのだが、翌朝にまた顔を合わせると、日ごとに白さを増すアンジェリカの肌が今にも消える淡雪のように見えて心配で仕方ない。

 

「アンジェリカ、辛いなら横になっていたほうがいい。」

 

「ありがとうございます、フリッツ様。わたくしは大丈夫ですわ。ですから、フリッツ様……今日もどうかご無事で。」

青ざめた表情で我が身を案じてくれるアンジェリカが愛おしい。

妻のためならばなんだってしてやりたいのにと思うビッテンフェルトだが、アンジェリカは「どうかご無事で」と繰り返すだけだった。

 

いつも通りの豪毅さをもって職務に当たりながら、しかし時々顔を曇らせるビッテンフェルトに声をかけてきた人物である。

ウォルフガング・ミッターマイヤーは、ローエングラム元帥府の中では珍しい妻帯者である。

この点においてビッテンフェルトと共通点のある彼が、ビッテンフェルトの様子がいつもと違う理由に気がついたのだ。

 

「ビッテンフェルト。もしかして、卿は奥方のことで何か悩みがあるのではないか。」

問われて驚いたのは、ビッテンフェルトだ。

 

「な、なぜわかったのだ!ミッターマイヤー?!」

相手の洞察力の鋭さに驚くが、ミッターマイヤーは照れたように笑って、

 

「なに、俺もエヴァと何かあると……まあ、ちょうど今の卿のような感じになるのだ。」

同じ妻帯者同士、夫婦間に問題を抱えている時の顔は職務におけるそれと違うとすぐにわかると言う。

 

「そ、そういうものか。」

ビッテンフェルトも照れるが、生憎とミッターマイヤー夫妻の悩みとは異なっている。

とはいえ妻をもつ身である彼の言葉はありがたく、ビッテンフェルトは素直に悩みを打ち明けた。

 

「アンジェリカのことなのだが……最近ずっと落ち込んでいるし、あまり体調もよくないようなのだ。」

何も出来ない歯がゆさと心配な気持ちとをミッターマイヤーに告げると、少し予想外だったらしい彼は言葉を飲んで腕を組んだ。

 

「もともと身体が丈夫ではないからな、あまり無理をさせたくないのだが……原因もわからぬし、困り切っているのだ。」

豪快な男らしさで知られる彼が肩を落とす様子に、相談を受けたミッターマイヤーも思案顔になる。

 

「失礼を承知で伺うが、何か病気というわけではないのだな。」

 

「あ、ああ。それは医者にも診てもらった。」

 

「となると、やはり気分のせいも大きいのではないか。」

ミッターマイヤーに言われると、ビッテンフェルトの不安は大きくなる。

軍人の妻になどなったばかりに心労をかけているのではないかとか、自分に不足があるのではないかと、後ろ向きなことばかりが浮かんでくる。

そんなビッテンフェルトに向かって、ミッターマイヤーは意外な提案をして寄越した。

 

「そうだ、女には女の気分転換があるらしいぞ。」

 

「なに?」

ミッターマイヤーいわく、彼の妻、エヴァンゼリンは明るい性格だが、それでも女性特有の気鬱で落ち込むことがまれにあるらしい。

そんな時、彼の妻は好きな菓子作りに没頭したり、一日中買い物にでかけたりして気分を紛らわせるらしい。

身体が丈夫でないなら買い物は億劫だろうから、「妻を紹介するから、エヴァンゼリンと一緒に菓子でも作ったらどうか」というのがミッターマイヤーの提案だった。

 

「確かに……それはいい提案かもしれんな!」

気分転換という言葉に、ビッテンフェルトは惹かれた。

深窓の令嬢であるアンジェリカは、普段料理をしない。

しかし、女性なら料理には興味があっても不思議ではないし、ミッターマイヤーの妻となら気楽に楽しむことができるのではないかと思ったのだ。

 

「さっそくアンジェリカに提案してみよう……!」

我が意を得たりとビッテンフェルトは気持ちを明るくして、次の日の朝早々にアンジェリカに切り出した。

 

「ミッターマイヤーからの提案なのだが。」

嬉しそうに告げた夫に、アンジェリカは素直に頷いて、「ありがたいお話ですわ」と小さく微笑んだ。

アンジェリカの反応を喜んだビッテンフェルトは早速にミッターマイヤーのもとを訪ね、彼の妻がビッテンフェルト家に菓子作りの指導に訪れることになった。

 

 

「火は強めにして、そのまま……少ししんなりするまで炒めてくださいね。」

ビッテンフェルト家の広いキッチンで、アンジェリカはミッターマイヤーの妻、エヴァンゼリンとパイ作りにいそしんでいた。

薄く切った林檎をバターで炒め、砂糖で甘みをつけていく。

甘い香りのただよう鍋が一段落すると、今度は小麦粉に牛乳と水を混ぜてこね、薄く伸ばして生地をつくった。

アンジェリカにとっても「かつての彼女」にとっても初めてのパイ作りである。

 

(こんなに手間がかかるなんて、買ったほうがよほど早いのに……。)

職人のような手際の良さでカスタードクリームを混ぜるクリームと同じ色の髪を眺める。

 

「アンジェリカ様……!大丈夫ですか、お具合が悪いようでしたら……。」

 

「あ、いいえ……!そうじゃないの、ただまるでプロのようだから感心してしまって……。」

実際、エヴァンゼリンの技術は素晴らしかった。

さすが毎日主婦業に勤しむ女性は違うと感心させられたし、こんなにも愛らしく料理上手の妻がいるミッターマイヤーは幸せものだと素直に思う。

 

(買ったほうが楽だなんていう発想自体が、女として終わってるのかも……。)

そっと、彼女の目から逃れるようにしてアンジェリカはため息をついた。

思えば、前の世から決して家庭的な自分ではなかった。

外食が多かったし、平日の夜であれば体型維持のためにヨーグルトやサラダだけということもしょっちゅうだったと思う。

そんな自分だから──といらぬ記憶が甦ってきて、アンジェリカは首を振った。

 

「もう、林檎の熱が取れたかしら。」

アンジェリカの目の前にある鍋を、エヴァンゼリンがのぞき込む。

 

「ちょうど良さそうね。あとは包んで焼くだけですから、もう少しですよ。」

 

「ええ、楽しみ……。」

微笑んでみせながら、愛らしい春の燕のような彼女と自分を見比べる。

温かみのある笑顔を向けられると、いよいよ自分には妻としての資質がないような気がして落ち込むが、それを振り切るようにしてアンジェリカはエヴァンゼリンに倣ってパイ作りを続けた。

 

 

翌朝、食卓に昨日につくったアップルパイを添えると、ビッテンフェルトはそれを大いに喜んだ。

 

「アンジェリカが作ったのか……?!」

 

「ええ、ミッターマイヤー様の奥様と一緒に。」

身体を動かしたせいかアンジェリカの顔色もいつもよりよく見えて、それが嬉しかった。

頬を綻ばせる夫の様子にアンジェリカも胸が温かくなり、素直な微笑みが零れる。

 

「食べてしまうのがもったいないな。」

 

「そんなに喜んでくださるなら、また何か挑戦してみますわ。」

 

「本当か?!」

エヴァンゼリン直伝のアップルパイはとても美味しく、沈んでばかりだった妻の笑顔も見られた。

しかも、また料理をしてもいいと言ってくれている。

ミッターマイヤーの助言に従って良かったとビッテンフェルトは心から思ったし、何があっても変わらずに妻を支え続けようと誓う気持ちを強くした。

 

「では、行ってくる……!」

決心したようにビッテンフェルトは立ち上がり、ずっとしてみたかったことを行動に起こした。

アンジェリカの笑顔には、それだけの勇気を与える効果があった。

彼はまっすぐに腕を伸ばすと、逞しい胸に愛する妻を抱きとめて、「アンジェリカ」と愛しさを込めて彼女の名前を呼んだ。

 

「何も心配しなくていい。アンジェリカはこの俺の妻なのだから、俺だけを信じていればいいんだ。」

腕の中にいる妻の顔を見る瞬間は、どうしても照れた。

もう二年近く一緒にいるというのに、アンジェリカの姿を間近に見ると未だに胸が高鳴って落ち着かない。

しかし、ビッテンフェルトは夫らしく彼女の頬に触れ、精一杯の優しい仕草で陶器のような肌を撫でた。

 

そして、

 

「それじゃあ行ってくるよ、アンジェリカ。」

彼の理想通りのシナリオで、ビッテンフェルトは妻の頬にそっと口付ける。

いかにも夫婦らしいやりとりに緊張と興奮とでどうにかなるのではないかと思ったが、アンジェリカが黙ってそれを受け入れたことで、ビッテンフェルトはなんとか平静を装うことができた。

 

「いってらっしゃいませ、フリッツ様。」

しかし、アンジェリカの思いは、ビッテンフェルトの期待するものとは少し違っていた。

彼女は思っていた、彼を守らなければと。

夫を、そして死にゆく定めが迫る彼の戦友たちを、この世界で生きる人々を一人でも救いたいと──そう願いながら、アンジェリカは静かに瞳を閉じるのだった。



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【17】彼女について

「どう、何か進展があった?」

上官の妻に対するとは思えない気軽さでフェルナーが話しかけるが、アンジェリカがそれを問題にする様子はない。

書斎の中にいる間、彼らは共通の「事情」を抱えた冒険者であり、最大の協力者なのだ。

 

「残念だけど……。」

彼女の書斎には、今後起こるであろう出来事のシミュレーションや対策について記されたファイルが新しく積み上げられている。

「キルヒアイス提督生存ルートにおける各事項の変化に関する予測」、「オーベルシュタイン総参謀長による謀略とその結果」、「自由惑星同盟との各戦役と結果について」といった様々にラベルの貼られたファイルがあるが、そのどれも未だ有効活用にいたっていない。

特に、「地球教とテロリズムについて」というファイルには、ほとんど新しい情報さえ加えられないままだった。

 

「そっか、なかなか難しいものだね。イゼルローン攻略の後援部隊としてミュラー提督が出撃したし、”原作”通りならロイエンタール提督とミッターマイヤー提督の援軍がもうすぐ派遣される。となると……。」

ローエングラム元帥府の主要提督のうち、最初の犠牲者となるのは、「原作」通りであればケンプ提督である。

二人の子をもつ父でもある彼を救う方法はないものかとこれまでもフェルナーと二人で議論を重ねてきたが、ガイエスブルクのワープアウト実験を差し止める方法は思いつかないまま、作戦はついに実行に移っている。

 

ため息をついてファイルをめくっていたフェルナーが、ふと脇の書棚に押し込まれた書類の束を見つけた。

ファイリングされていないそれを手にとって、彼は目を丸くした。

 

「“戦前、戦後のインフレ率予測”、“税制改革に関する素案”、“社会保険制度の導入に関する試算”って……何これ?いつの間にこんなもの……。」

 

「ああ、それは息抜きに少し……。」

 

「い、息抜き?!どういう頭してんの?!」

わずかの期間にアンジェリカがつくりあげたらしい「趣味の作品」に絶句して頭を振り、フェルナーはしばらくの間、それらの書類をぱらぱらと眺めていた。

 

「ああ、これは俺も思ってたやつだ。“産業育成と銀行制度改革について”、“証券取引所の設立に関する法整備について”。専制政治だからなのかな、昔あったはずのものが当たり前にないのが不思議だよね。」

ラインハルトのもとには、カール・ブラッケやオイゲン・リヒターといった財務顧問がおり、あるいは彼らもこういった施策を模索しているかもしれないとフェルナーは言う。

しかし、今のところラインハルトは軍事行動に重きをおいており、経済問題などはこの財務顧問二人が中心となってあたっているらしい。

 

「新法なんかもできてるけどね、まあ優先順位ってやつなのかな。個人的には、ローエングラム公は内政に集中してもいい時期に来てると思うけど、あくまで自由惑星同盟の制圧にこだわってるっていうところは“原作”通りだね。」

「原作」通りであればいずれ皇帝となるラインハルトだが、軍人皇帝というより皇帝軍人といったほうがイメージに近いのだとフェルナーは言い、軍事力による解決と宇宙全土の制圧にこだわること、そして、自らの手で「ヤン・ウェンリー」を打倒することを目標にしている点が彼の「原作」における特徴なのだという。

 

「親友であるキルヒアイスが生き残ってくれたわけだから、そのあたりの攻撃的な部分が変わってくれてるって期待したいんだけど、どうなんだろうな……。」

「原作」における最大の分岐点を過ぎたはずなのにあまり違いがないように感じるとフェルナーは思案顔で言って、それから手にしていた書類を棚に戻さずに揃え始める。

 

「こういうのもさ、ファイルしておいたらいいんじゃないかな。社会保険とか医療制度改革とか、いつか世に出せたら役に立つかもって思うし。」

フェルナーの言葉に、思い詰めた様子だったアンジェリカも頬を緩める。

 

「そうね。自分が貴族の身分だからあまり気づかずにいたんだけど、フリッツ様……ええと、ビッテンフェルト提督が辺境とか平民の暮らしがもっとよくなったらいいのにってよく言ってて……。」

マッテルスブルク家の所領を受け継いだビッテンフェルトは、当初こそ自分の立場に戸惑いを見せていたものの、今では領地、領民に心を砕く良き為政者と所領の民にも随分と慕われているらしい。

そのビッテンフェルトの影響を受け気になって調べたのだと告げたアンジェリカの微笑みに、フェルナーが意外そうに眉を跳ねさせた。

 

「へえ。」

 

「なに?」

 

「いや、ほら。なんか……君と旦那さんってあんまり合わなそうだなって思ってたけど、案外そうでもないんだなって。」

 

「ッ、」

アンジェリカの顔が赤い。

それは、フェルナーから見てもかなり珍しいことと言えた。

ビッテンフェルトのほうはいかにもアンジェリカを溺愛しているが、アンジェリカからはあまりそういう要素を感じたことがないと思っていた彼としては、なんとなく彼女の反応が嬉しくもあった。

 

「でも、あの人ってそういうところあるよね。艦隊の運用でもさ、攻撃一辺倒かっていうとそうでもなくて、案外、後援の補給部隊とか病院船なんかに気を配ってるんだよね。」

ビッテンフェルトに対する援護射撃のつもりでそう言ってみると、アンジェリカは曖昧に視線を揺らしたが、結局「そうなんだ」と小さく呟いただけだった。

しかし、ここで引いてしまってはせっかくの「ワイヤーロープの神経」が泣く!と彼は思った。

 

「いい旦那さんだと思うけどねえ。それとも……誰か他に気になる人でもいるの?!」

彼らしい思い切りの良さで、あっさりと尋ねてみせる。

「原作」の女性人気なら、キルヒアイスかロイエンタールあたりだろうかと興味半分で問いかけるが、

 

「はあ?!」

およそ貴族令嬢とはほど遠い反応を返した後で、「いないから、そんなの」とアンジェリカは憮然として沈黙してしまった。

 

「ふうん。」

聞いたフェルナーのほうとしてもさほど重要と思って尋ねていないので、それきり深追いはしなかった。

 

一方のアンジェリカは、元のファイルに戻り、改めて前途多難な状況にため息をつく。

その脳裏に、一人の青年の姿が浮かぶ。

その人は、体調が優れないと噂になっているらしいアンジェリカ宛てに、つい先日も花束を送ってくれていた。

一度目は結婚の祝いに、二度目は負傷した夫を訪ねてやってきたその人のことを思い出し、「もしかして彼ならば」とアンジェリカは思う。

ラインハルトに最も近い人物であり、「原作」と最も違う未来を歩んでいる人──ジークフリード・キルヒアイスならばあるいは……。

 

キルヒアイスから届けられた花はディーライトの白い花弁の花束で、今は玄関の花瓶に活けられている。

その人の穏やかな笑顔と眼差しを記憶の中にたどりながら、アンジェリカはまた書類へと目を戻した。



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【18】明日への願い

ジークフリード・キルヒアイスは、ラインハルトの一番の腹心である。

しかし、「もはや“だった”と過去形にすべきではないか」とキルヒアイス自身は思っている。

今や全宇宙の半分を手にしたラインハルトに対し、「キルヒアイス提督の特別扱いをやめるように」と参謀役であるオーベルシュタインが進言したことは、彼自身も知っていた。

もはや過去のラインハルトとキルヒアイスではない、ラインハルトは宇宙最高の権力を手に入れつつあるのであり、だとすれば誰か一人の部下を特別待遇するべきではなく、忠臣たちを等しく扱うことでこそ、彼らの力を引き出し、万事が成せるというのである。

寂しいとただ純粋に思いつつも、それが必要なことだとキルヒアイスも理解している。

 

「キルヒアイス提督。」

見るともなしに空を眺め、ラインハルトやアンネローゼと出会った頃に思いをはせていたキルヒアイスに、背後から声がかけられた。

振り返れば、くすんだ金色の髪を短く切りそろえた女性、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフが立っていた。

 

「フロイライン・マリーンドルフ。」

ラインハルトの首席秘書官である彼女の名前をキルヒアイスは呼び返し、「なにか」と問いかけた。

 

「いえ、」

独立心あふれ、闊達な彼女にしては珍しくふと視線をそらして、

 

「申し訳ありません。考えもなしに話しかけてしまって……。」

そう言って口ごもる。

 

「私のほうこそ、職務中にこのような態度ではいけませんね。頼りない有様では、ローエングラム公や提督がたの足を引っ張ってしまう。」

ラインハルトに並ぶほどとも言える意志の強さをもった彼にしては弱気な発言だった。

その言葉の微妙な機微を、ヒルダはすかさず捉えた。

 

「何か……お悩みがあるのではないですか。」

冷静な観察眼をもつ彼女の一言にキルヒアイスは苦笑し、しかしそれを言うべきかと迷う。

迷い、やはり口にすべきではないと、彼らしい微笑みでやり過ごそうとした時だった。

 

「お待ちください……!」

ヒルダのほうが慌てた様子で彼を呼び止めた。

 

「キルヒアイス提督のお悩みは……もしかして、わたくしと同じものではないでしょうか。」

いつもは活き活きと輝くブルーグリーンが、今はわずかに憂いを帯びている。

その瞳の中に、キルヒアイスも確かに同じものを見た。

彼らが案じていること──それは、これから始まるであろう大きな戦いとその後に待っている広大な未来。

はかり知れないほど広大なその未来の予想図を、美しく描ききれないでいることへの戸惑いだった。

 

ラインハルトの視線の先には、自らの手によって統一された宇宙が見えているはずだ。

そして、それは現実のものに近づきつつある。

それなのになぜ、自分たちは輝かしい未来を描けずにいるのか。

それは、彼ら自身こそが感じている不可思議な戸惑いだった。

不正を廃し、公明で正大な治世を、それがラインハルトの嘱望するところである。

彼の人ならば成し得るはずと彼らは思い、ラインハルトのためならばどれほどの知力でも尽くそうと決めている。

不安を口にすることは、彼の臣下として相応しくないとわかっている。

しかし、言えないままの不安を心の奥に仕舞い込んでいることを、彼らは互いの視線で理解した。

 

ラインハルトは破壊と再生を宇宙にもたらす創造主であるが、果たして彼は安定と成長を促す導き手となり得るのだろうか。

そうであって欲しいと願い、きっと彼ならばと望み、それでも不安を捨てきれない理由──それは、とりわけ軍事行動を好む若き征服者の性質と、彼がオーベルシュタインという劇薬を腹に飼っていることにある。

実際に、ヴェスターラントでの事件について、キルヒアイスはラインハルトと意見を対立させたことがあった。

臣下である自分がラインハルトに従うのは当然のことで、意見したことを咎められれば結局は引き下がるしかなかった。

それに──いつかはわかってくださる、ラインハルト様であれば。

誰よりもキルヒアイスこそがそう願っている。

 

「……平和を選ぶ道はないのでしょうか。」

女性らしく平和と安定を願う気持ちを前面に出して、ヒルダが問う。

しかし、それを口に出すこと自体が危険をはらむものであることは疑いようがない。

危うい問いかけにキルヒアイスも思わず緊張し、慎重に言葉を選んで答えた。

 

「覇道に犠牲はつきものと思いますが、それが多すぎるということがあって良いとは思いません。」

彼は知っていた、講和の道を選ぶつもりなどラインハルトは毛頭ないこと、そして、自由惑星同盟征服に向けた本格交戦の号砲の用意がオーベルシュタインの手によって着々と進みつつあることを。

ヴェスターラントの一件でラインハルトとキルヒアイスの間に生じた溝は、その後の親交をもっても埋めきれたとは言い難い。

その隙間にオーベルシュタインという存在が入り込んでいる現状は、キルヒアイスにとって苦々しく歯がゆいものだった。

 

「これからも、我々はすべてをもってローエングラム公をお支えしていかなければなりません。」

これ以上の議論は危険であるとキルヒアイスは判断し、ヒルダも彼の言葉に従った。

ラインハルトの側を離れるつもりも、まして彼を裏切るつもりなどない。

 

けれど──創造のための破壊がもたらすものは、本当に彼の人の望む光なのか。

戦いの先に待っているものは、果たして真実の平和なのか。

若き英雄の苛烈さと彼に付き従う影、そこから生み出される世界を彼らは信じきれないでいる。

そして、偉大なる王のために自分たちが果たせる何事かはないのかと、ラインハルトを慕う彼らだからこそ迷い佇む気持ちを抱えているのだった。

 

 

「ところで」と、キルヒアイスは話題を転じた。

彼がアンジェリカの名前を出したのは、今後もヒルダと会話をする自然な理由づけを求めてのことだった。

 

「ビッテンフェルト提督の奥様は、あまり具合がよろしくないとか。」

 

「まあ、そうですの。」

初耳というようにヒルダは驚いて、随分と妻を溺愛していると噂に聞くビッテンフェルトのことを思い浮かべる。

 

「ええ、ミッターマイヤー提督の奥様がご自宅に伺ったりもしているようですが。ビッテンフェルト提督は特に奥様を大切にしていらっしゃいますから、心配なことですね。」

ヒルダもまた、キルヒアイスの意図を正確に汲み取った。

 

「では、わたくしもお見舞いに伺おうかしら。女性同士でお話しすれば、気が紛れることもあるかもしれません。」

 

「ええ、是非そうして差し上げると……ビッテンフェルト提督も喜ばれるでしょう。」

彼らはアンジェリカとビッテンフェルトについていくつか言葉を交わし、そして別れた。

キルヒアイスはビッテンフェルトにアンジェリカの様子を尋ね、ヒルダはラインハルトにビッテンフェルトの妻が病気で伏せっているらしいとさりげなく伝えた。

 

そして、その週の半ばに、ヒルダは見舞いの花束を抱えて、ビッテンフェルトの私邸を訪れたのである。



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【19】巡りあう時

ヒルダの印象では、ビッテンフェルトの妻は儚げな雰囲気の美人といったところである。

猪武者のビッテンフェルトと淡雪のような妻という組み合わせは意外であったが、ビッテンフェルトが溺愛するというのも確かに頷ける美貌であった。

故郷の惑星に籠もったままの病弱な令嬢と聞いていたヒルダは、アンジェリカを哀れにこそ思うものの、自身とは別の世界の住人というように割り切って考えていた。

 

「過ごしにくい季節が近づいてきましたわね。お具合はいかがですか。」

折り目正しく気候を話題に出して、ヒルダはアンジェリカの具合を尋ねる。

 

「夏の日差しはどうも苦手で……でも、夫は夏が好きだと申していますから、美点も多い季節なのでしょうね。」

当たり障りなく言葉を返しながら、アンジェリカもヒルダを観察する。

若く、聡明な秘書官である彼女は、「原作」中で非常に大きな役割を果たす人物である。

「原作」の彼女は、キルヒアイスを失ったラインハルトを支え、控えめでありつつも、時には諫言を辞さない意志の強さを持ち合わせている。

 

彼女がキーマンなのだと、アンジェリカは思っている。

愛が世界を変えるなどと感傷的な言葉で言い切るつもりもないが、それでも人に「情」を教えるのは恋や愛であるというのも事実だとアンジェリカは思う。

歴史上の偉大な為政者たちを親愛や情が動かした例は、実際に多くある。

ラインハルトの行動の原点が幼い日の憧憬や姉への思慕であるとするならば、尚更にチャンスはあると思えた。

 

一通りの世間話の後で、アンジェリカはそれとなく告げた。

 

「ヒルデガルド様は、ローエングラム公のお側にいて……恐ろしくなることはありませんか。」

ティーカップを間において座る相手を見れば、直接的な表現がヒルダの関心を引いたようだと見て取れた。

 

「恐ろしく?」

 

「ええ、わたくしなどは……夫が無事に帰ってきてくれるかといつも不安で。このようなことでは軍人の妻は務まらないのかもしれませんが、つい気弱になってしまうのです。」

言いながら、ヒルダの瞳の中を観察する。

まずは彼女に、ラインハルトへの感情を自覚してもらうことが肝要なのだ。

「原作」では自分の感情に鈍感という設定らしいが、それをどう引き出すべきかと思案しながら、アンジェリカは彼女の反応を待った。

 

「ご夫婦であればこそ、そう思われるのでしょうね。」

まるで他人事だと割り切って微笑みを返すヒルダは、なるほど「原作」通りの鈍感さらしい。

 

「でも、ローエングラム公はとてもお美しい方ですし、お人柄も素晴らしく……女性なら憧れる気持ちになるのではありませんか。」

アンジェリカのほうも決して駆け引きが得意なタイプとは言えない。

露骨な表現かと思ったが、ヒルダはそれを気にとめない代わりに、恋情とはほど遠い答えを言って返した。

 

「あの方ほどすべてをもってお生まれになった方はいらっしゃらないでしょう。お姉様のグリューネワルト伯爵夫人と並ばれると本当に絵画のようで……。」

 

「ヒルデガルド様も十分にお美しくていらっしゃいますけど……!」

ラインハルトにとって、ヒルダは運命の相手なのだ。

少なくともフェルナーの解釈ではそうなっている。

若き皇帝の苛烈さと孤独、そして不器用ささえも受け入れて、彼を愛することのできる唯一の女性、それが彼女のはず。

しかし、アンジェリカの願いが届く気配はない。

 

「ローエングラム公には……その、決まった方がいらっしゃるのでしょうか。」

 

「さあ、どうでしょう。」

 

「公爵ほどの方であれば、女性がほうっておかないかもしれませんわね。」

 

「ふふ、確かにそうかもしれませんね。」

所詮は社交場の無駄話と思っているのか、まったく取り合おうとしないヒルダにアンジェリカは焦れた。

「前世」の彼女は仕事人であり、他人に恋愛を語れるほどの経験があると思ってはいない。

しかし、一応は婚約をしたこともあるし、彼女なりに愛しさや幸福感、ほろ苦さや切なさを知っているはずと考えてはいる。

それに、今だって……。

 

「……素晴らしい方とただ仰ぎ見るだけなのは、無責任ではありませんか。」

議論の矛先を変えようと発したはずの声は、アンジェリカ自身が考えていたよりも険のあるものとなってしまった。

はっとなって慌てるが、それ以上に驚いた様子を見せたのがヒルダだった。

 

「無責任、とおっしゃったのですか。」

十分に批判ととれる発言だ、言うべきでなかったのは確かだし、女性とはいえ自分はローエングラム元帥府の提督の妻、許されないことを言ってしまったかもしれないとアンジェリカは思った。

しかし、一度発してしまった言葉を取り消すことは今更できない、だとすれば進むだけ──アンジェリカは膝においた手を握りしめる。

 

「古代、アレクサンドロス大王はエジプトからアジアまでを制しましたが、彼の死後、世は乱れました。ヨーロッパを制した皇帝ナポレオンは、一度の敗戦をきっかけに体制崩壊にいたり、混乱の後、血で血を洗う革命の時代を招きました。」

ブルーグリーンの知性ある瞳が、大きく見開かれている。

 

「どんなに立派な方であっても、意志を継ぐ者と仕組みがなければ、体制は壊れてしまう。英雄の築いた世の中を継続するために必要なことは……共に考え、時に諫めることができる臣下と、ともに未来を見据えた仕組みを作っていくことなのではないでしょうか。」

覇道を成し、さらに持続可能な社会をつくるために必要なのは──より多数の視点であり、多くの担い手であり、覇者の意思を継いでいくための仕組みなはずだ。

偉大な創造主は、確かに現れた。

しかし、それを支える臣下たちは、自分たちの果たすべき未来の役割を理解しているだろうか。

 

「どれほど偉大な方でも、たった一人ですべてが成せるわけではないのです。だからこそ、ただ崇めるのではなく、周囲が支えていかなければいけない。偉大な英雄の治世を次の世に引き継いでいくためにも、たったお一人にすべてを背負わせるようなことはあってはならないはずです。」

 

「アンジェリカ様、あなたは……。」

何者なのです、という言葉を飲み込んでヒルダはアンジェリカをじっと見た。

可憐で病弱な人妻であるはずの彼女は、今確かに知性の光を宿してヒルダを見返している。

偶然のこととはいえ、自身やキルヒアイスが感じていた「臣下としての真の役割」という疑問に対する答えを言い当てたかのようなアンジェリカの言葉に、ヒルダも驚きを隠せずにいた。

 

「ヒルデガルド様。」

アンジェリカは、本音でもってこのプレゼンを締め括った。

 

「わたくしは夫に死んで欲しくありません。ローエングラム公も、他の提督方も、この世界に暮らす誰にも……理不尽に死んで欲しくない。わたくしにできる何事かがあるなら、どんなことだってしたい。そう願うのは、おかしなことですか。」

果たしてアンジェリカの思いは、ヒルダに届いたのだろうか。

彼女は言葉を返さなかったが、意志を宿すブルーグリーンの輝きにアンジェリカは確かに希望を感じた。

 

キルヒアイスやヒルダならば、心優しく聡明な彼らであれば、来たるべき破滅を防いでくれるのではないか。

 

しかし──アンジェリカの願いは、虚しく途切れることとなる。

ローエングラム公ラインハルトは、彼の目的を遂げるための開戦をついに選択する。

イゼルローンの攻略の失敗とほぼ同時期に起こった幼帝の誘拐事件が、銀河帝国と自由惑星同盟の本格交戦の幕を切って落とし、ビッテンフェルトやキルヒアイス、そしてヒルダを乗せた銀河帝国軍の艦隊は、ついに覇道を極めるための旅路へと飛び立っていったのである。



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【20】群星の分岐

それは、怒濤のごときエネルギーの波動であった。

漆黒に染め上げられた艦隊は、同盟軍参謀長チュン・ウー・チェンの計算外の方向から姿を現した。

 

同盟軍艦隊の前に広がるエネルギーの大河。

破壊された戦艦や宇宙空間によって命の終末を強要された兵士たちの屍が、揺らめく波間をごうごうと漂っている。

同盟軍の参謀長は、敵軍はこの奔流を強行突破して進軍してくるはずだと予想していた。

それは、この宙域に進軍してきているのが、勇猛で知られるビッテンフェルト提督の黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)だという情報を得ていたためだった。

実際にビッテンフェルトはそう動いていたし、同盟軍のレーダーは彼らの動きをとらえてもいた。

だからこそ、彼らは帝国軍の動きを計算し、艦隊が流れを渡りきるポイントで彼らを叩こうと待ち構えていたのだ。

予想が狂ったのは、川の流れを迂回するよう動いた別働隊が太陽風を利用してスピードを上げ、彼らの左翼に現れたからである。

突如現れた黒色の艦隊に慌てて砲門を開くが、敵の光子弾が彼らを叩くほうが早かった。

整然と居並ぶ同盟軍の艦隊は、血に飢えた猛獣の格好の餌食となる。

 

崩れかけた艦隊群をなんとか立て直そうとする同盟軍に、彼らが計算しきった通りのタイミングでビッテンフェルトの本隊が現れた。

左翼に向けられていた砲門を正面に向けようとするが、一度崩れた連携を立て直すことは難しい。

容赦なく打ち込まれる閃光は、同盟軍の艦隊を爆破し、四散させ、光年の彼方へと次々と葬り去っていく。

同盟軍の老将、アレクサンドル・ビュコックは残った艦隊をまとめて辛くも退却したが、その惨状はほとんど殲滅といっていいほどだった。

ビッテンフェルトとビュコック、この二将によるランテマリオ星域での戦いは、銀河帝国軍の勝利を決定づけるものとなったのである。

 

その後、ヤン・ウェンリーによる後続軍へ襲撃により一時は混乱した帝国軍ではあったものの、やがてラインハルトの一声に鋭気を取り戻し、整然さを取り戻して順次ウルヴァシーに集結していく。

それは、戦勝と呼ぶのに十分な状況であった。

 

一方で、予定外の刃こぼれもあった。

ヤン・ウェンリーの謀略と思われるゲリラ攻撃によって、補給線を叩かれたのである。

あげく、「目には目を」と敵の補給基地を叩く作戦を逆手に取られ、圧倒的軍事力の差を有しながら、帝国軍は心理的抑圧を強いられる事態を招いたのである。

このことに、苛立ちを募らせたのは他ならぬラインハルト自身だった。

彼は輸送艦隊を全滅させたゾンバルト少将を厳しく処断し、ワーレン艦隊の作戦失敗こそ赦したものの、次第に苛烈さを際立たせていった。

 

当然、ラインハルトの剣である諸提督の間にも彼の感情の昂ぶりは伝播していく。

ウルヴァシーに作られた急ごしらえの士官用のラウンジで、貴重な補給品の酒でグラスを満たしながら、主要な提督たちが苦り顔を突き合わせていた。

 

「いっそ、八四カ所の補給基地をことごとく破壊すれば良い。」

ファーレンハイトは言ったが、ロイエンタールはこれを「机上の空論」と一蹴した。

「奴らのパターンを分析してこれに当たってはどうか」と若いトゥルナイゼンが提案したが、「馬鹿か」とあからさまに否定したのがビッテンフェルトだった。

 

「パターンが読み取れるまで待っていたら、何年かかるか知れたものではない。」

彼はそう言ってからトゥルナイゼンを無視して他の提督たちに向き直り、最もシンプルな作戦案を告げた。

 

「ヤン・ウェンリーがどう動き回ろうと、そんなものはほうっておいて敵の首都を直撃すればいいのだ。」

これに反論したのが、ミッターマイヤーだった。

 

「そして、我々は本国へ引き揚げる。すると無傷のヤン・ウェンリーがいずこかの補給基地から出てきて首都を奪還し、同盟を再建するだろう。それを倒すために、また遠征しなくてはならん。」

ミッターマイヤーの意見はもっともなもので、誰もが彼に同意して頷いた。

かつてのビッテンフェルトであれば、ミッターマイヤーの冷静さに刺激を受け、却って攻撃的な姿勢を顕著にしただろう。

しかし、彼の発言は違っていた。

 

「同盟からヤン・ウェンリーを奪ってしまえば良いではないか。」

 

「なに?」

ビッテンフェルトの意見はこうだ。

ハイネセンを占領した上で講和し、自由惑星同盟と銀河帝国の間に互いに弁務官を置き合う形にすれば良い。

その弁務官にヤン・ウェンリーを望めば、彼は同盟のために戦うことはできなくなる。

 

「だが、それでは……。」

同盟領を完全に制圧したとはいえず、ただの一時的な講和に過ぎないだろうとミッターマイヤーが言おうとした時だった。

 

「私も、ビッテンフェルト提督の案がよろしいように感じます。」

発言をしたのは、かつてであれば必ずラインハルトの側にいたはずのキルヒアイスである。

今、ラインハルトの近くにいるのはオーベルシュタインか、あるいはヒルダであることが多い。

その分、確かにキルヒアイスは諸提督と共に在ることが増えてはいた。

だからといって、ラインハルトに最も近いはずのキルヒアイスが「宇宙を統一する」というラインハルトの目標と異なる発言をしたことに誰もが驚いた。

 

「キルヒアイス?!」

 

「宇宙の統一はローエングラム公の最大の目標。しかし、公は彼の土地のどの指導者よりもずっとお若い。だとすれば、今すぐにそれを成し遂げる必要は必ずしもないのではないでしょうか。」

 

「確かに、国内は内乱の影響もあって疲弊している。我ら軍属としては遺憾なことではあるが、名誉ある選択と言えないこともない。」

キルヒアイスの発言にロイエンタールが頷く。

 

「しかし、どうだろう……ローエングラム公はその選択をなさるだろうか。」

問いかけながら、ミッターマイヤーの気持ちも停戦へと傾きつつあった。

補給線を叩かれ、長期間の戦闘は難しい。

オーディンに戻るか、敵の首都へ乗り込むか、あるいはヤン・ウェンリーを葬り去るか。

三つの選択肢を比較した時、「敵の首都を奪取し、外交によって最大の邪魔者であるヤン・ウェンリーをハイネセンから引き離す」という当座の案はもっとも現実的かつ有用に思えたのである。

 

しかし、彼らの考えは、ラインハルト自身によってあっさりと否定された。

彼自身の手でヤン・ウェンリーを打ち破ることを、ラインハルトが求めたためである。

すでに宇宙の覇者となりつつあるラインハルト自身を危険に晒すべきではないと秘書官であるヒルダは諫めたが、ラインハルトは取り合わなかった。

ラインハルトにとってヤン・ウェンリーは宿敵であり、運命の好敵手とも言える存在である。

軍人としての集大成として、偉大なる王はヤン・ウェンリーの命をこそ望んだ。

 

やがて、銀河帝国軍の諸提督は各星域へと出立し、ラインハルト自身もオーベルシュタインを伴ってガンダルヴァ星域を出発する。

 

「おそらくバーミリオン星域あたりで敵と接触することになりましょうな。」

彼の参謀がそれを告げた頃、同盟軍の司令官、ヤン・ウェンリーは彼の幕僚たちとともに苦手なコーヒーを啜っていた。

彼らの運命は今まさに「歴史」通りのルートを描き、在るべき場所へと進もうとしていたのである。



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【21】歯車の音

アントン・フェルナーは失意の中にいた。

ビッテンフェルトの幕僚として王虎(ケーニヒス・ティーゲル)に乗り込んだ彼は、「歴史」の通りに動き出そうとする歯車の音を一人聞いている。

 

「ダメだったのか……。」

はからずもラインハルトの秘書官ヒルダと巡り会ったアンジェリカから、「英雄の苛烈さを諫める存在も時には必要だ」という考えを彼女に伝えることができたとは聞いていた。

しかし、それが十分とは言えないことは彼も承知している。

ラインハルトとヒルダの間に主君と臣下以上の関係が生まれれば、この先に待つヤン・ウェンリーとの直接対決や多くの犠牲を強いることになる同盟領征服作戦を止めることができるのではないかと期待していたのだが、どうやらそれは叶わなかったらしい。

 

フェルナー自身の考えでは、アンジェリカと出会ったことでビッテンフェルトの性格や思考はやや変わったと感じていたし、自分が仕えている相手もオーベルシュタインではなくビッテンフェルトになった。

何よりもキルヒアイスが救われたのだ。

だとすれば、もっとラインハルトにも大きな変化があってもいいのではないかと彼は願っていた。

しかし、「歴史」は、彼の記憶の通りの方向に確実に進んでいる。

ヒルダでもキルヒアイスでもこの遠征を止めることができないのだとすれば、後はもう「原作」通りの道を進むだけなのかもしれない。

そうなれば──また多くの人が死ぬ。

 

 

──「歴史」が、再び異なる方向に舵を切ったことを知ったのは、担当星域に進軍しているはずのキルヒアイスの艦隊から送られた通信を、王虎(ケーニヒス・ティーゲル)の司令官室で聞いた時である。

作戦では、同盟領各地に諸提督を派遣してラインハルト自身が囮となり、ヤン・ウェンリーをおびき出す。

この上で、幾重にも重ねた防護壁で同盟軍の消耗をはかり、やがてヤン・ウェンリーを討ち果たした後に、ラインハルト自身がハイネセンを急襲することになっていた。

 

自らの戦域へ向かうビッテンフェルトやフェルナーがそれを知ることはなかったが、ヤン・ウェンリーがこの策を見破り、疑似艦隊をつかってブリュンヒルトと各艦隊の分断をはかったところまでは、「原作」通りに事が運んだ。

キルヒアイスの生存により「原作」以上の機動力を有していた帝国軍であったが、ブリュンヒルトの孤立化とヤン・ウェンリーによる集中砲火までは、ほとんど「原作」通りの流れを辿ったのである。

 

しかし、

「閣下、キルヒアイス提督から通信です。」

キルヒアイスからの通信を上官に告げながら、フェルナーは言葉にできないほどの高揚と安堵を感じていた。

 

「ビッテンフェルト提督。ローエングラム公の旗艦は未だ通信状況が不安定であるため、代行として私からご連絡いたします。」

キルヒアイスの赤い髪が、モニターの中に鮮やかに映し出されている。

 

「ローエングラム公はたった今……自由惑星同盟に停戦の申し出をされ、これは受理されました。」

ミッターマイヤーとロイエンタールによるハイネセン急襲ではなく、他ならぬラインハルト自身によって停戦が申し込まれ、自由惑星同盟にも受理されたという。

 

「停戦……?!」

驚きを露わにしたビッテンフェルトだったが、すぐに居住まいを正すと「承知した、追って指示を待つ」と短くキルヒアイスに連絡を返す。

彼はまだ知らないが、ラインハルトが停戦を決意したのには大きな理由があった。

それは──乗艦を押しとどめるも聞かず、彼のブリュンヒルトに乗り込んだ一人の女性の存在だった。

ヒルダを乗せていなければ、ラインハルトはたとえ命を賭けた決戦であっても矛を収めることをしなかっただろう。

しかし、彼はその苛烈なる剣を収めた。

ヒルダという一人の女性のために。

 

 

『自由惑星同盟政府は、銀河帝国からの講和の申し込みを受け入れる……!』

終始に渡り戦況を優位に進めていた銀河帝国からの停戦申し入れを、自由惑星同盟の政治家たちは受け入れた。

ラインハルトを打ち破ろうとしていたヤン・ウェンリーの善戦よりも黄金の獅子からの停戦の申し出が甘美であったいう点は、首都襲撃を経ずともどうやら「原作」と同じだったらしい。

 

やがてハイネセンより通達がなされ、ラインハルトとヒルダ、そしてキルヒアイスが自由惑星同盟の首都へと向かうこととなった。

地上からの通信を聞きながら、フェルナーはひそかに隣に立つ上官の顔を盗み見る。

そこにあったのは──誰も見たことのない表情を浮かべた猛将の姿。

彼が知る「原作」の中のビッテンフェルトであれば、きっとそんな顔はしていなかっただろう。

しかし、彼は今、フェルナーと同じように安堵の表情を浮かべている。

「あの」ビッテンフェルトが、安堵の表情をもって停戦を受け止めているのだ。

 

──「歴史」は、変わろうとしている。

ビッテンフェルトやキルヒアイス、ヒルダが少しずつ未来を変化させているように、ラインハルトもまた、苛烈な軍人皇帝ではない未来を選ぶことになるのかもしれない。

そうなれば、きっと平和は近いはずだ。

 

講和条約の締結のためにハイネセンへと向かったラインハルトをキルヒアイスが迎え、手を握り合う様子を、フェルナーは未だ宙域にとどまった王虎(ケーニヒス・ティーゲル)の中で見ていた。

高速通信を通じて送られてきた映像の中、黄金の髪を揺らすラインハルトはどこまでも神々しく、その隣にはキルヒアイスの赤い髪が寄り添っている。

ラインハルトの隣にキルヒアイス、それは彼が最も強く求めていた「歴史」の形でもあった。

なんと感動的な光景だろうかと、フェルナーは今日までの日々を振り返って思う。

 

「これで閣下もご自宅に帰れますね。」

ハイネセンの街へと降り立つラインハルトを感動の眼差しで見つめる上官に告げると、「余計なことを」というねめつける視線が返ってくる。

だが、それが嬉しかった。

心地いいと思った。

 

「フェザーンで奥様に土産を買われては?」

軽い調子でそう言って、不機嫌と上機嫌を行ったり来たりする上官の顔を見る。

これ以上何か言えば、短気なビッテンフェルトに悪態をつかれるのは目に見えている。

だが、それも悪くないと思えた。

 

未来は今、彼の望む通りに動き出したのだから。



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【22】この時よ永遠に

自由惑星同盟との停戦を機に、ラインハルトは幼い女帝を退位させ、自ら皇帝の冠を戴いた。

新銀河帝国発祥の元年である。

アンネローゼはグリューネワルト大公妃の称号を贈られ、キルヒアイス、オーベルシュタイン、ロイエンタール、ミッターマイヤー、そしてビッテンフェルトの五名が帝国元帥へと席を進めることとなった。

 

しかし、未だ解決していない問題もある。

新銀河帝国の人事と同盟から帝国に派遣される弁務官の人選である。

長きに渡り敵対してきた両国にとって、互いに派遣される弁務官はいわば人質のような存在、当然のことながら協議は難航した。

戦局を有利に進めていた新銀河帝国はこれにヤン・ウェンリーを求めたが、未だ調整がついておらず、一方で誰を同盟領に派遣すべきかということも非常に難しい課題であった。

 

 

その頃──

実に七ヶ月ぶりとなるオーディン帰還を果たしたビッテンフェルトは、愛する妻の待つ我が家へと真っ先に向かっていた。

アンジェリカと夫婦となって三年目の夏はすぐそこだが、そのうち一年近くの日々を彼は遠征で留守にしている。

オーディンにいる間は少しでも妻と過したいとビッテンフェルトは思ったし、これほどの間離れていたことは初めてであったから、特に逸る気持ちもあった。

図々しい部下に言われた通り、彼は中継地のフェザーンで土産を買った。

オーディンで花を買い、服装の乱れがないことを確認し、そしてついにアンジェリカの待つ邸宅の門を潜る。

 

「フリッツ様……!」

少女のような身軽さで自分の胸に飛び込んできたアンジェリカに、ビッテンフェルトは目を見張った。

果たしてこれは本当にアンジェリカだろうかとさえ、彼は思った。

彼の妻は美しく可憐な容姿を持っているが、どちらかというと引きこもりがちであったはずだ。

国内外の不穏が高まる中では特に気鬱さを増し、ほとんど体調不良という様子であるにもかかわらず何かに追われるように薄暗い書斎に籠もり続けていた。

そのアンジェリカが、今は陽の光を浴びてビッテンフェルトの腕の中にいる。

 

「あ、アンジェリカ……。」

「ただいま」と照れながら告げた彼に、蕩けるように微笑んで「お帰りなさいませ」とアンジェリカが長い睫毛を瞬かせる。

薄暗い室内で表情を曇らせるアンジェリカばかりを見慣れていたせいで、素直な彼女の微笑みというのがどうにも現実感がない。

 

「どうかなさいましたか。」

ビッテンフェルトの逞しい腕に身を委ねたままでアンジェリカが言い、形のいい大粒の瞳が彼を見上げる。

別人のような明るい笑顔を向ける彼女は新鮮で、ずっと妻であったはずのアンジェリカに、今また恋に落ちるような気分をビッテンフェルトは感じていた。

 

「い、いや。だが、少し……痩せたのではないか。」

 

「そうでしょうか。」

 

「ああ、きっと痩せた……!もっとしっかり食わないといかんぞ、アンジェリカ。長く心配をかけたが、これからは情勢も落ち着くだろう。」

側にいられる時間も増えるはずだと華奢な身体を抱きしめれば、背中にまわされた腕がそっとビッテンフェルトを抱き返す。

夢の中の存在のような儚い美女であったアンジェリカも美しくはあったが、今のほうがずっといいと改めて思う。

アンジェリカもこんな風に笑えるのだ、こんなにも素直に言葉を返して、こんなにも愛情深く自分を思ってくれている。

長きに渡った戦禍は終わりが与えた奇跡に、自然と心が軽くなる。

 

「フリッツ様がご無事でいてくださることが、わたくしにとって一番大切なことなのです。」

 

「こうして笑っていてくれれば、俺はそれが一番いい。」

思えば長い間、すれ違うことの多い夫婦だった。

祝福され、世間に認められた二人であるにもかかわらず、アンジェリカはどこか内に籠もりきりであったし、ビッテンフェルトも妻に対して自信を持ちきれずにいた。

だが、それはもう過去のこと。

 

手を取り合い、寄り添い合って、歩いていけばいい。

決して遅すぎるということはない、二人は夫婦なのだから。

愛とは力であり、未来への希望である。

ビッテンフェルトの心は、かつてないほどの喜びに満ちていた。

 

それからしばらくの間は、ビッテンフェルトとアンジェリカにとって結婚以来もっとも穏やかな時間となった。

戦後処理で多忙なビッテンフェルトではあったが、ひとまずの講和によって出撃準備に追われることはない。

朝食も夕食もアンジェリカとともに過ごすことができたし、夜になれば互いに一日の出来事を報告しあって寄り添った。

 

「要職と弁務官さえ決まってしまえば、時勢も落ち着くだろう。」

 

「皇帝陛下もお悩みになっていらっしゃるのですね……。」

時代は確実に新たな段階へと入っており、これまでの軍事中心から内政中心へとラインハルトも視線を移さざるを得ない。

言うまでもなく傑出した英雄であるラインハルトだが、本当の意味で皇帝としての真価が問われる時期はこれからだとも言えるだろう。

 

「本人の才もあるし、これまでの武功へ報いる必要もある。難しい采配だが、あの方ならばきっと良い案をおつくりになる。」

なかなか定まらない人事案はそれが今後の銀河帝国にとっていかに重要なものかを示しており、ラインハルトの熟慮の様子が伺われた。

 

「そうですね。特に国務尚書や財務尚書は、戦後の政治運営の要……難しい選択ですわね。」

そう言ってから帝国領土内の不均衡にアンジェリカは触れると、貴族社会が崩壊したとはいえ未だ軌道修正の道筋が見えたとは思えないという不安を遠慮がちに口にする。

 

「自らが恵まれた立場にあるのに、このようなことを申すのはおかしなことかもしれません。けれど……辺境の生活や身分制度による就労の壁についてなどは、調べるほどに課題が多いと感じざるを得ません。」

自分と出会った頃は政治経済からそれこそ軍事軍略まで幅広いことに興味を示していたアンジェリカであったが、このところは行政改革の行方について特に強い関心を抱いているようだった。

 

「平時であればこそ行政、財政は国の要。辺境や庶民の生活にも目を配ってくださるような方を選んでいただきたいと願っておりますわ。」

何不自由のない暮らしをしてきたアンジェリカが人々を思う様にビッテンフェルトも感心するが、「フリッツ様が教えてくださったのです」とアンジェリカははにかむようにして頬を染める。

 

「わたくしがいかに世間知らずであったか、今は恥じ入る思いです。」

 

「そんな風に思う必要はないと思うぞ。一人一人が国を思うことが大事なのだ、それぞれができることをすれば、国は今よりもずっと良くなるはずだからな。」

アンジェリカの博識はビッテンフェルトも認めることであったし、何よりもそれが自分の影響だと言われれば嬉しくもある。

 

「財務尚書はカール・ブラッケかオイゲン・リヒター辺りだろう。皇帝陛下の腹心とは言えない分不安はあるが、この道においては第一人者だからな。」

ラインハルトのもとに社会制度の改革にあたってきた二人の貴族は、名前からあえて「フォン」を外している急進派である。

彼らの有能さはビッテンフェルトも聞き及んでいたが、一方で不安があるのも事実だった。

ともすれば急進的すぎる考えに傾く可能性をはらんだ思想家でもあり、発足したばかりのローエングラム王朝にとっては、あるいは諸刃の剣となりかねない。

 

「国務尚書は、マリーンドルフ伯であろう。フロイライン・マリーンドルフの父親だが、早い段階から皇帝陛下に賛同を示され、お支えしてきた立場であるし、経験としても申し分ない。」

 

「ヒルデガルド様のお父様……。」

アンジェリカは、一度ヒルダと会ったことがある。

体調を崩したアンジェリカを見舞いに、ヒルダがビッテンフェルトの家を訪れたのだ。

 

「マリーンドルフ伯のことは存じ上げませんが、ヒルデガルド様のお父様であればきっとご立派な方なのでしょうね。」

安心したように目を細めるアンジェリカの頬に、ビッテンフェルトは触れた。

 

「俺は軍人だからな、平時であれば暇になる。だが、それも悪いことではないだろう。」

ローエングラム元帥府で旗艦を賜って以来、彼は激動とも言える日々を駆け抜けてきた。

今やそれも一段落ついたと思うと、猛将であるはずのビッテンフェルトも別の時間を欲しいと思う気持ちが湧いてきている。

 

「アンジェリカ……。」

陶器のように滑らかな頬がうっすらと色付く様に、愛しさが募る。

胸に浮かんだ言葉を発そうとするビッテンフェルトだったが、まっすぐにアンジェリカに見つめられるとつい照れて言い淀んでしまう。

 

「その、ああと……あれだ。いや、その……なんというか……。」

そっと向けられた眼差しに映る自分の姿を見れば、心臓の音が大きくなる気がした。

アンジェリカの透明度の高い澄んだ瞳が、今は夫である自分だけを見つめているのだ。

 

「こ、子どもが……ッ、できたら良いなと、思うのだが。」

 

「子ども……。」

夫婦となってしばらく経つが、未だ二人に子はいない。

結婚当初にはすれ違う時期もあったし、戦時のビッテンフェルトは多忙を極めていたため、それも仕方なかったのかもしれない。

しかし、平時となった今、できれば家族をというのがビッテンフェルトの願いだった。

それを告げた。

 

「まあ、フリッツ様。」

顔を赤らめさせた夫の言葉に、アンジェリカも頬を染める。

 

「ええ、わたくしも……そうなったらいいなと思っておりましたの。」

 

「そ、そうか……!アンジェリカもそう思うか!」

言いながらまた照れくさくなってビッテンフェルトは視線をそらすが、アンジェリカのあたたかな眼差しが彼を追いかける。

 

「フリッツ様……?」

 

「い、いや……なんだか暑いな、今日は!」

苦し紛れの一言にアンジェリカは「ふふ」と小さく笑って、ビッテンフェルトの胸に細い身体を預ける。

紛れもなく彼だけのものである妻の身体を抱き寄せれば、甘く花のような香りがしてビッテンフェルトの思考をゆらりと溶かしていく。

 

「アンジェリカ……。」

名前を呼んで口付けると、柔らかな妻の口唇がそれに応えるように細く吐息を吐き出して──。

 

この時が永遠に続けば良いと、彼らは願っていた。

そして、願いは今まさに身を結ぼうとしていた。

ようやく許された穏やかな時間の中で、大神オーディンの前に誓った愛を彼らはまた──確かめる。



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【23】未来の皇妃

その日のビッテンフェルト家は、高貴な客人を迎えていた。

ラインハルトからの求婚を受け入れ、皇帝の婚約者となったヒルダである。

一度見舞いに訪れて以来、アンジェリカに対して親しみを感じているらしい彼女が、「正式に結婚した後では自由に訪ねることもできなくなるから」と夫妻のもとを訪れたのである。

 

「このたびはおめでとうございます。」

微笑みを向けて祝いを述べたアンジェリカに、ヒルダが頬を染めた。

 

「アンジェリカ様に言われなければ、わたくしは……気付かなかったかもしれません。」

いつの間にこんな関係になったのだろうかと隣で聞いているビッテンフェルトも驚くが、過ごした時間よりも重要なことを二人の女性はどうやら共有しているようだった。

 

「臣下として、とはじめは思っていたのです。」

決戦へと向かうブリュンヒルトにヒルダが乗艦することを、ラインハルトは否定した。

彼女がそれを押し切ったのは、「ただ仰ぎ見るだけでなく、時に諫言さえも辞さず支えるべきだ」というアンジェリカの言葉を思い出したからなのだという。

危険だと言われるほど余計に側にいなければと思った理由を、純粋な忠誠心であるとはじめは考えていた。

しかし、ヤン・ウェンリーの攻勢の中で苛烈さを際立たせる彼を目の当たりにした時、自身の思いが別のところに根差していることに気付かされたのだと彼女は言う。

 

「離れたくない、離れてはいけないと……それに……。」

偉大な英雄としてだけではなく、一人の男性として彼を愛していたからこそ、危険に逸ることを押しとどめたいと彼女は願った。

彼の英雄から同じだけの思いを返された彼女は晴れて婚約し、このことは若き皇帝だけでなく銀河帝国全土にとっても新たな安定と輝かしい未来をもたらすだろうと誰もが感じていた。

 

「ヒルデガルド様なら、きっと素晴らしい皇妃様になられますよ。」

幸せを瞳に映すヒルダに、ビッテンフェルトも請け合った。

美しく聡明な女性であるヒルダならばラインハルトの知見にも応えることができるだろうし、彼女の冷静さと意志の強さは時に皇帝の苛烈さを諫める存在にもなってくれるだろう。

 

「努力いたしますわ。それに……。」

ブルーグリーンの視線が、ビッテンフェルトとアンジェリカを交互に見る。

 

「ビッテンフェルト提督とアンジェリカ様のような睦まじい夫婦になれるといいと思っております。」

この物言いには、ビッテンフェルトもおおいに照れた。

 

「い、いや……その、なんというか……。」

美しいだけでなく意外な逞しさをもった妻は、今や確かにビッテンフェルトの人生の一部であった。

身分違いの結婚で、当初こそ何から何まですれ違っているような時期も実際にあったのだが、それを乗り越えたからこそ今の二人がある。

 

「私には足りない部分が多くありますが、それを補ってくれるのが妻なのです。」

武辺者と呼ばれることこそ誇りと思っていた彼だが、今は勇気あるだけでなく柔軟な戦略を駆使する銀河帝国の勇将と評されているし、情に厚い一方で鋭い政治感覚があるという本人でさえ意外と思う評判さえ賜っている。

地位を上げるごとに視野も広がったと周囲は言うが、それが妻の影響であるということをビッテンフェルトは自覚していた。

質問攻めの妻に請われて軍事軍略やら戦史やらも随分と学び直したし、マッテルスブルクの大領を預かることで行政に関する知識も増えた、何よりも軍務以外の国家運営について関心をもつようになったのは議論好きの妻の影響が大きいと彼は言った。

 

「まあ、それではまるでわたくしが口やかましい妻のようではないですか。」

反感の言葉を口にするアンジェリカだが、その表情は穏やかなものだ。

 

「実際口やかましかっただろう。世間知らずな娘だと義父上は言うのに、まるで違うと俺は焦ったのだぞ。」

答えながらビッテンフェルトも笑うと、二人のやりとりを眺めていたヒルダも微笑んで言う。

 

「本当に仲がよろしいのですね。」

再び照れたように笑ったビッテンフェルトだが、彼自身も今の自分たちのことをその通りだと考えていた。

結婚とは幸せなことだとはっきりと思ったし、過去の戸惑いさえも今や愛しく感じている。

 

「皇帝陛下とヒルデガルド様はどんなご夫婦になられるのか、我々も楽しみですよ。」

明るい未来を思い浮かべ、誰もが心を和ませた時だった。

 

「失礼いたします、旦那さま。」

不意の来客を執事が告げた。

 

訪問者の名前を聞いたビッテンフェルトは、それを目の前の二人に告げるべきかどうか迷った。

しかし、約束もなしにやってきたということは余程の急用であることが推察され、無下に追い返すこともできない。

それでも迷うだけの人物だった。

 

「どなたかいらっしゃったのですか。」

ヒルダに問われてなお、ビッテンフェルトは躊躇った。

しかし、結局はそれを告げた。

 

「それが、ヒルデガルド様。キルヒアイスとオーベルシュタインだというのです。」



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【24】彼らの行方

地上車を降りたところで鉢合わせしてしまった相手に、キルヒアイスは思わず一歩退いた。

それほどに意外な相手だったからだ。

 

「卿もここに用事とは、なかなかに興味深い。」

そう言ってキルヒアイスを見た男は、その視線を一ミリもそらそうとはしなかった。

 

「いえ、お約束をしているわけではないのですが……。」

言葉を濁して言いながら、相手の出方を待つ。

「卿も」という言い方から察するに、目の前の彼もまた同じ人物との面会を目的としているらしい。

あまり喜ぶべきことではないとキルヒアイスは思ったし、一方で彼の来訪の目的が知りたいとも思った。

 

「そうか、私も似たようなものであるが。」

表情のない顔でキルヒアイスを眺めたまま、男が言った。

 

「我々の目的は、おそらく同じ種類のものだろう。」

 

「!」

ラインハルトの参謀であるこの男は、はめこんだ義眼の範囲とは比べ物にならないほど広い世界を瞬時に見通す能力をもっている。

ドライアイスとも剃刀とも呼ばれる男であるが、その彼が「同じ」と告げた来訪の目的。

そのことに、「まさか」と洞察の鋭さ以上に驚かされる。

 

「では、あなたは……。」

キルヒアイスがそこにやってきたのは、「ある目的」のためである。

その目的とは銀河帝国の人事に関する重要な依頼であり、だとすれば男の考えをこそ知りたいとキルヒアイスは思った。

 

「平時になってから彼の男の力を借りるなど想像もしていなかったが、必要である以上仕方あるまい。」

視線をそらさないままで言ってから、オーベルシュタインはビッテンフェルト家の門に向き直った。

 

 

ビッテンフェルト、アンジェリカ、ヒルダ。

そこに、キルヒアイスとオーベルシュタイン。

これ以上ないくらい奇妙な取り合わせとなった居間の景色に、ビッテンフェルトは秘かな頭痛を感じていた。

彼にとってこの家は妻と暮らすための愛の巣であり、決して銀河帝国の未来を占う会議室などではない。

そこに未来の皇妃と皇帝の腹心、そして権謀の塊とが顔を突き合わせているのである。

 

「一体なんだというのだ、卿らは。今日はヒルデガルド様が我が妻を訪ねて来てくださっているというのに……。」

嘆息しつつ仕方なく訪問者に向き合うが、当の彼らはいたって真面目な様子である。

 

「「ビッテンフェルト提督。」」

と二人の訪問者の声が重なった。

まるで似合わない取り合わせの二人の声が揃うさまにビッテンフェルトは瞠目し、「一緒に喋るな、どちらか先に言え」と半ば苛立ちを滲ませて言う。

 

「では、私から。」

そう言ったのはオーベルシュタインだったが、彼の次の発言はビッテンフェルトにさらなる驚きを与えるものだった。

 

「ハイネセンの弁務官にはこの私を、と皇帝陛下に申し上げて欲しい。」

 

「はあッ?!」

どういう意味か、なぜそんなことを言い出したのか、そもそもなぜ自分に言うのかと複数の疑問が一息に押し寄せたビッテンフェルトだったが、彼が発することができたのはただ驚きの一声だけであった。

 

「お待ちください。それは……私も申し上げようと思っていたことです!」

キルヒアイスの声が重なる。

 

「な、なに……。」

ただ驚くばかりのビッテンフェルトだが、目の前で聞いているヒルダも事態の意外さに目を見張っている。

 

「ヒルデガルド様がおられるというのは予想外だったが、いずれはわかること。」

オーベルシュタインにとってもどうやらヒルダの存在は想定外だったらしい。

しかし、彼は構わずに言葉を続け、

 

「自由惑星同盟からヤン・ウェンリーを奪えと最初に言ったのは、卿だそうだな。」

まるでキルヒアイスの声など聞こえないというように、ビッテンフェルトをまっすぐに見た。

 

「ならば、責任をもって卿がヤン・ウェンリーを殺せ。当然ハイネセンの弁務官も殺されるだろうが、そうなれば再侵攻の理由付けになる。再び同盟領に侵攻した後は卿ら提督方の好きに攻めるが良い。」

 

「な、何を言ってるんだ……!」

驚き、戸惑うビッテンフェルトだが、これに反論を唱えたのはビッテンフェルトではなくキルヒアイスだった。

 

「ヤン・ウェンリーを謀殺するという意見に私は反対です。弁務官には私が参ります。そうすることが、ラインハルト様……いえ、皇帝陛下にとっても今後の銀河帝国にとっても一番良いことだと思います。」

勝手に議論を始めた二人の男に、ビッテンフェルトは勿論のこと、ヒルダもアンジェリカも呆気にとられている。

そこで、ビッテンフェルトはまず一番初めに感じた疑問について聞くことにした。

 

「待て待て待て。そもそもだ、なぜ卿らはそれを俺に言うのだ!」

この疑問に答えたのは、キルヒアイスだった。

 

「あなたを国務尚書にと皇帝陛下がお決めになったからです。」

 

「???!!」

ビッテンフェルトの予想では国務尚書はマリーンドルフ伯が担うと思われた職責だったのだが、キルヒアイスが言うには、娘が皇妃となると決まったことを理由に、「自らは権力と距離を置くべき」とマリーンドルフ伯はこれを辞退したらしい。

仮にマリーンドルフ伯が辞退したにせよ政治に明るい者は他にも多くいるし、元のローエングラム元帥府から選ぶにしてもなぜ自分なのだというのがビッテンフェルトの意見である。

しかし、新皇帝の意向は彼自身の考えとはまったく違うものらしい。

 

「見識が広く知略に優れ、既に自身の領地を立派に治められている。新しい時代のため、広く庶民にまで心を砕ける者と言えば我が陣営ならビッテンフェルト提督、あなただろうというのが皇帝陛下のお考えです。」

 

「なッ……?!」

承知していたのかとヒルダを見るが、彼女も曖昧な表情をしていて判別できない。

 

「そのあなたからの意見であれば、皇帝陛下もお聞きくださるかもしれない。だからぜひ、弁務官には私をと申し上げて欲しいのです。」

 

「私は反対だ。皇帝陛下から遠ざかることがお互いのためだと考えているのかもしれないが、いざ再戦となれば陛下にとって一番必要となるのは卿だ。ハイネセンには私が参り、そしてヤン・ウェンリーを……。」

 

「オーベルシュタイン!」

自らの死を利用した謀略を易々と口にするオーベルシュタインを、ビッテンフェルトはまず止めた。

 

「少し落ち着かんか、二人とも。」

そして、彼は考える。

キルアイスとオーベルシュタイン、二人の意見について思考することとし、国務尚書云々のことはひとまず脇に置いた。

 

そして、

 

「まず、オーベルシュタイン!」

彼が最初に向き合うと決めたのは、オーベルシュタインだった。

 

「貴様はその何事も謀略で解決しようとするのをやめろ。ヤン・ウェンリーを殺せば同盟の力を削ぐことはできるかもしれんが、そんなことをしてやつらを征服したところで、皇帝陛下が良き為政者として迎えられるとはとても思えん。」

それに、と彼は言葉を切って、咳払いをした。

 

「いいか、俺の話をしてやる。」

ビッテンフェルトの意見を黙って聞いていたオーベルシュタインだったが、次の言葉は桁違いの知略を備えた彼にとっても予想外だったらしい。

 

「俺は子どもの頃に犬を拾ったことがある。まだほんの子どもだったから、弱った犬も看病すればきっと良くなると信じていた。だから、名前も付けた。」

道端で鳴いていた子犬を拾ったフリッツ少年は、弱り切った子犬を家族のもとに連れ帰り、なんとか飼わせてくれと懇願した。

彼の両親はこれを受け入れたが、既に命の限界だったらしい子犬は名前をつけた数日後にあっさりと死んでしまった。

 

「俺は犬が嫌いだ、あんな思いは二度としたくない。名前なんかつけるんじゃなかったと何度も思った。」

何日も泣き明かしたフリッツ少年は犬嫌いを自称し、それ以来二度と犬を飼うことをしなかった。

 

「だが、オーベルシュタイン!貴様は犬に名前をつけて、可愛がって、そいつを看取ってよく考えろ!それが俺の意見だ……!」

以上!とテーブルを叩く勢いでビッテンフェルトは弁を結び、それからキルヒアイスに向き直った。

 

「キルヒアイス……。」

キルヒアイスと皇帝ラインハルトの長きにわたる友誼は、ローエングラム陣営に所属していた者ならば誰もが知るところであった。

オーベルシュタインによって引き離された彼らはいくらかの気まずさを共有して今日までいたっているが、それでも友情の火は簡単に消えるものではないとビッテンフェルトは信じている。

しかし、ラインハルトが皇帝として即位した今、オーベルシュタインの言うナンバーツー不要論はいよいよ認めざるを得ないものであることも承知していた。

 

「反対を唱えたい気持ちはあるが……卿の意見はおそらく正しいのであろう。」

同盟にヤン・ウェンリーを差し出させるには、帝国からも相応の弁務官を向かわせる必要がある。

皇帝の一番の腹心であるキルヒアイスであれば十分にその役割を果たすと思えるし、キルヒアイスの柔軟な思考や人当たりの良さは長い間敵対関係にあった自由惑星同盟との外交においてより良い結果をもたらすだろうと推測される。

 

「そうおっしゃっていただけると……。」

胸を撫でおろすキルヒアイスとはらはらしながら様子を見守るヒルダ、そして不服とも納得しているとも判別のつかないオーベルシュタインであったが、彼らの会話を受けてここで口を開いたのはもっとも意外な人物であった。

 

「あの、」

ビッテンフェルトの妻にすぎないアンジェリカが口をはさむ様子を誰もが意外だと思ったが、彼女の瞳には今、はっきりと意志の光が宿っている。

 

「わたくしに一つ、ご提案がございます。」

彼女は静かに告げると、ビッテンフェルトに向かって言った。

 

「フリッツ様、フェルナーさんをお呼びくださいませ。」



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【25】続・彼らの行方

「フェルナァァアァァ……!!なぜ!なぜ貴様がアンジェリカと親しくしているのだッ?!」

沸点に差し掛かろうという上官の怒りに身震いしながら、フェルナーは通されたビッテンフェルト家の居間に辛うじて腰を落ち着ける。

奇妙な取り合わせの五人が居並ぶ様子にさすがに驚くが、アンジェリカの落ち着いた様子を見ると呼ばれたことが何の目的であれ、決して悪い意味ではないだろうという気持ちになった。

アンジェリカとはもう随分と長いこと会ってはいないが、上機嫌の上官の様子を見ればなかなかにうまくいっているのだろうと推察されたし、時折漏れ聞こえてくる盛大な惚気話はこそばゆいながらも彼を楽しい気分にさせた。

 

そのアンジェリカが、オーベルシュタインと向き合っている様子に驚かされる。

犬を「返した」時の出来事を語った際には、義眼の参謀がどれほど恐ろしかったかと熱心に話していたはずなのに、今は落ち着いた様子で同じ男と向き合っている。

 

「大変差し出がましいことではありますが、ご提案というのは先ほどから皆さまがお話になっている人事についてです。」

皆一様に驚いた表情を見せたが、騒ぎ立てるでもない様子を見ると、アンジェリカの理知的な性格や知性は彼らにも伝わっているらしい。

 

「国家権力として強大な影響力を持ちながら、同時に権力から国民を保護すべき立場でもある政務。それは、財務と金融です。この点において、財務担当は必ずしも皇帝陛下の腹心である必要はないのかもしれません。しかしながら、皇帝陛下の財務顧問であるブラッケ氏とリヒター氏の思想はともすれば急進的に偏りかねない。彼らが大学に寄稿した論文をお読みいただければ、誰でもそう感じるはずです。」

すらすらと語るアンジェリカにキルヒアイスやヒルダは驚いた様子を見せているが、彼女の素性を知るフェルナーからすれば彼女が大学の論文を読んでいたところで特に意外なことではない。

アンジェリカの性質を理解しているからだろう、ビッテンフェルトが黙ってそれを聞いている様子に夫婦関係の良好さを感じる。

 

「だとすれば、皇帝陛下に近いどなたかが財務尚書の席につかれ、彼らの上に立たれることが国家の安定のために一番よろしいことかと存じます。」

アンジェリカが「前世」で暮らした世界では、司法と中央銀行は権力と距離を置いて存在していたが、銀河帝国において司法は皇帝のものであり、中央銀行は財務分野に組み込まれている。

専制主義において司法が皇帝のものであることは当然かもしれないが、財政と金融については必ずしもそうではないというのが彼女の考えだった。

権力の源でありながら権力との距離を適正に保つ必要がある職務──その神聖な場所を守る人間には当然、鉄の意志が求められる。

一方で、急進的すぎる思想は、産声をあげたばかりのローエングラム王朝にはそぐわない。

 

「国家を想う気持ちをお持ちで、冷静な判断力と鉄の意志を兼ね備えた方、その方こそが財務尚書の任に相応しいと考えるのですが、いかがでしょうか。」

彼女が示す相手が誰なのかということを、その場にいる全員が理解した。

 

「なるほど。」

とキルヒアイスが言い、

 

「確かに。」

とヒルダが言った。

 

「だ、そうだが。」

とビッテンフェルトが視線を送る先で薄い目蓋を一度閉じ、オーベルシュタインが言う。

 

「お決めになるのは、もちろん皇帝陛下だが……。」

言いながら、ラインハルトがこの案を受け入れる可能性が高いであろうことを彼自身も承知している。

カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターの処遇についてラインハルトが決断をしきれていないことは事実であり、キルヒアイスが皇帝から距離を置こうという今、自身にもその時が近付いていることを彼も感じていた。

 

「何事であっても陛下より賜ったものであれば、私はそれに従うのみ。」

自分も殺されることを承知しているからヤン・ウェンリーを葬ってしまえと剣呑なことを言っていた男の穏便な反応に、誰もが胸を撫でおろす。

 

一人、予感を感じていたのはフェルナーである。

 

「こちらを。」

一度部屋を出たアンジェリカが抱えてきた紙と電子データの束を受け取りながら、「やってくれたね」と小声で返す。

“産業育成と銀行制度改革について”、“証券取引所の設立に関する法整備について”と様々にラベルが貼られたそれらは、「かつて」金融マンだった彼がアンジェリカの書斎で一時期熱心に取り組んでいたものである。

 

「こちらをつくられたのが、フェルナーさんなのです。」

これに一番驚いた様子を見せているのがビッテンフェルトで、神経逞しい自身の部下が意外な特技を隠していたことに目を丸くしている。

 

「本当なのか、フェルナー。」

 

「ええ、まあ……なんというか、それはそれで専門というか、専門だったというべきか。」

言葉を濁しながらも彼はアンジェリカの言うことを否定はせず、おとなしくファイルの束を受け取った。

 

「まあ、人事であれば従うよりほかないっていうのはいつの時代も一緒みたいだし。」

そう独りごちてから、彼は上官であるビッテンフェルトに向き直った。

 

「閣下のもとで働かせていただいたことは小官にとって何事にも代えがたき名誉であります。しかし、新しい時代に求められる場所が他にあるならば、喜んで奉仕いたします。」

キルヒアイスが災難を逃れ、自由惑星同盟と講和が成された。

彼の希望は叶えられたのだ。

だとすれば、「戻るべき場所」に戻る日が来たとしても不思議ではない。

それを、受け入れている。

 

残る気がかりは、乱世の中で辛くも命をつないだ皇帝の親友の「想い」の行方。

アンジェリカも同様に思うのか、安堵の中にわずかに表情を曇らせてキルヒアイスを見ている。

そして、そのアンジェリカの視線の行く先に気付いたらしいもう一人の人物、自身の上官のことである。

 

(おかしな勘違い、しなきゃいいけど……。)

そばにいることができるなら、「奥様は閣下一筋ですよ!」といくらでも励ましてやれるのだが、きっとこれからはそうもいかない。

 

物語は今、彼の「知識」を超えて進行している。

美しく、輝かしい明日は、きっともうすぐそこなのだ。

そう思えばこそ、この世界で知り合ったアンジェリカと彼女の夫の未来も幸多いものであれと彼は願う。

美しき世界の創造主に、どうか人生の祝福を──。



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【26】新たなる日々

三年半という月日は、ビッテンフェルトを本人さえ思いもよらない場所へと連れてきた。

旧暦487年の春、その頃のビッテンフェルトは、ローエングラム元帥府にて初めて提督の地位を与えられた中将だった。

彼が仕えることとなった彼よりももっと若い元帥は、ついに旧体制を崩壊させ、長く対立関係にあった叛徒──今は自由惑星同盟と呼ぶのが適切だろう──との戦いを講和という形で終結させた。

彼はついに自ら王冠を戴き、ラインハルトの背を追いかけてきたビッテンフェルト自身もかつては想像さえしていなかったような場所に立っている。

今や彼は帝国元帥の地位にあり、ついに国務尚書という大任までも預かることとなったのだ。

一方で、私生活も一変した。

マッテルスブルク侯爵から請われた縁談で、彼の娘であるアンジェリカと結婚した。

侯爵から譲り受けた広大な領土と爵位は、ビッテンフェルトを気鋭の青年提督から大領を守護する為政者に変えた。

振り返ればまさに怒涛の日々だったはずなのだが、それを思い返す暇もない程、ただ必死で駆け抜けた時間だったように思う。

 

「この俺が……。」

責任は重くのしかかるが、しかしやらねばならないという気概を感じている。

ラインハルトの夢は今やビッテンフェルトの夢でもあり、辺境や身分の格差を正し、新しい世界を作るという目標は、ただ遠く困難なだけでなく、果たす価値のあることと思えるからだ。

 

その日、まだ新しい元帥用の軍服に引き締まった肉体を包んで、ビッテンフェルトは自身の執務室から新帝国建国の祝賀会が開かれる会場へと向かっていた。

旧体制から新体制への移行を祝うためのパーティーで、その場で新帝国の新しい人事も発表されることになっている。

軍事の要である軍務尚書、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官にロイエンタール、ミッターマイヤー、そして最年少の上級大将であるミュラーを据え、カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターを部下にもつ財務尚書にオーベルシュタインを迎える。

そして──尚書たちの要である国務尚書に自らも大領を治めるビッテンフェルトをというのが、新皇帝の定めた人事である。

 

軍人、貴族、そして財界の重鎮と多くの者たちが顔を揃えるその場に、今日は彼の妻も訪れることになっていた。

長く病弱で故郷の惑星を出たことすらなかったアンジェリカにとって、オーディンの社交場はほとんど馴染みのない場所である。

ビッテンフェルト自身も決して派手な場が得意なわけではなかったが、できれば妻をエスコートしたいと望んでいた。

それが叶わなかったのは、新人事の発表に関する対応にかからなければならなかったせいなのだが、それでも彼は妻への気遣いを忘れはしなかった。

 

「もうすぐパーティーだが、アンジェリカは大丈夫だろうか。」

電子端末で執事に連絡を取ると、彼女はもう会場に到着しているはずだという。

宮廷に知り合いのいないアンジェリカを案じるが、聞けばミッターマイヤーの夫人と一緒にいるらしい。

それであればと安心し、端末の電源を切った。

 

「ビッテンフェルト元帥。」

パーティー会場からについた彼に声をかけてきた者がいた。

誰だっただろうかとここに来て大量に増えた「知人」のリストを頭の中で捲るが、どうにも思い出せない。

 

「このたびはおめでとうございます。先日、バーデン氏にご紹介いただいて一度お会いしているのですが、覚えておいででしょうか。」

仲介者の名前さえ、「そんな者がいたような……」という程度の記憶だったが、聞けば男は貿易会社を経営している財界人らしい。

 

今までのようにただ軍人という立場であれば軽くあしらってしまっても問題にならなかったのかもしれないが、今は立場が違う。

それに、今回の人事については既に世間にも情報を得ている者がいるらしく、こうしてビッテンフェルトと知り合いになろうと近づいて来る者は決して珍しくはなかった。

しかし、今回の場合、男が近付いてきた目的は、これまでの者たちとは種類が違っていた。

いくつかの雑談を交わした後で、ビッテンフェルトに一歩近付いた男が声を潜める。

 

「大変失礼ですが、閣下。」

男の声には、媚びるというよりも妙に秘密めいた響きがあった。

 

「なんだ。」

 

「いえ、その……私の娘のことなのですが、」

そう言われて、思わず「はあ?」と聞き返しそうになる。

まだ30代もまだ半ばというのに娘の相手探しを頼まれるのかと思うと、やはり国務尚書など厄介なだけだとため息をつきたくなった。

しかし、男の発言は、ビッテンフェルトの憂鬱になりかけた気分をはるかに通り越すものだった。

 

「我が娘ながらなかなかに出来が良く、オーディンの大学を昨年卒業し、今は料理とマナーとを学んでおります。貴族のご令嬢にも劣らぬようにと十分に教育をしておりますし……どうでしょう、一度お会いいただけませんか。」

見合いならば写真の一枚でも預かればそれで良い、あとは当人同士の問題ではないかとビッテンフェルトは思う。

首を傾げるビッテンフェルトに気付かないのか、男は意味深な表情を浮かべて続けた。

 

「手前みそではございますが、要職につかれる方の妻としても不足のない娘だと考えております。」

「待て」とビッテンフェルトは話を止めた。

ようやく話の先行きを理解はしたが、どうやら相手は多大な勘違いをしているらしい。

 

「そう宣伝されても卿の娘をもらうことはできん、俺には既に妻がいるのだ。」

とんだ無駄骨だったなと呆れてみせたビッテンフェルトだったが、「存じております」と男が言ったから驚いた。

 

「もちろん存じ上げておりますが、国務尚書閣下の妻となれば、知性も社交性も必要でしょう。失礼ながら、マッテルスブルク元侯爵のお嬢様はほとんど家から出られないほどご病弱とか……。」

 

「ッふざけるな!」

ビッテンフェルトの大声に、周囲にいた者が振り返る。

しかし、怒りを抑えることは難しかった。

 

「よくもそんなことが言えたものだな。貴様は自分の娘を、俺の妻を、なんだと思っているのだ!それに商人であるならば、義父とは既知の仲ではないのか?!」

殴り倒さないだけの理性があったのは、近年の鍛錬の成果だっただろう。

ほとんど恫喝という勢いでビッテンフェルトは声を荒げ、驚いた男は逃げるように去っていった。

 

「どうされました、閣下。」

心配した部下が尋ねるが、「どうでもいいこと」と言えないほどに腹の立つ内容だった。

 

「どうもこうも……ッ、あのようなヤツらが蔓延る新体制であってはならん。絶対に、絶対にあのようなこと、二度と……!」

義父と妻とを侮辱され、怒りに肩を震わせる。

結婚とは神聖なものであり、自分はアンジェリカを生涯守ると誓っている。

それを、「国務尚書に相応しい妻に乗り換えろ」とはあまりの言い草だとビッテンフェルトは思った。

 

しかし、その後も彼は忍耐を試され続けることとなった。

先ほどの男ほどあからさまではないものの、貴族やら商人やらが次々と彼に声をかけ、その内の何人かは「ぜひ家を訪ねて欲しい」と熱心に誘い、さらにその内の何人かは「年頃の娘がいる」と暗に示して寄越したのだ。

 

「少しは忍耐強くなったかと思えば……。その赤い顔をどうにかせよ、ビッテンフェルト。」

スピーチを控えた彼を窘めたのは、ビッテンフェルトと対照的にいつ何時であっても顔色を変えるということがない同僚である。

 

「ッ、これが平静でいられるか。俺は貴様とは違うのだ、オーベルシュタイン!」

強い影響力をもちながら権力との距離を保ち、冷静さと鉄の意志が求められる職務──財政と金融の要である財務尚書を担うことになっている彼が、彼としてはいつも通りの無表情な視線でビッテンフェルトの赤い顔を眺めている。

 

「……おおかた娘を遣りたいと言われたのだろう。」

 

「ッ、」

なぜそれを、とビッテンフェルトの顔に書かれた疑問を正確に読み取って、オーベルシュタインが言う。

 

「私のところにでさえ、似たような話が届いているほどだ。ロイエンタールやミュラーなどはそれこそ新しい書架が必要なほどだと聞いているし、話がないのは愛妻家で知られているミッターマイヤーくらいのものだろう。」

 

「俺だって愛妻家だぞ!」

さらりと言ってのけるオーベルシュタインにビッテンフェルトは反論するが、どこで聞きつけてくるのか恐ろしいほど耳の早いこの男は「果たしてそうか」と言う。

 

「卿のような猛獣と病弱な妻ではいかにも取り合わせが悪い、取って代わろうと思う者がいても不思議ではなかろう。」

猛獣と病弱とどちらを先に否定すべきかと一瞬言いよどんだビッテンフェルトに、オーベルシュタインが畳みかける。

 

「マッテルスブルク殿は爵位を譲られ、今は隠居の身。所領はすべて卿のものであるし、今更たいした影響力はない。加えて病弱で満足に学も積んでいないような令嬢では、要人の妻はとても務まるまい。身体が弱ければ子ができるかもわからぬ。」

 

「貴様、オーベルシュタイン……!」

慌てた部下が彼を止めなければ、ビッテンフェルトはオーベルシュタインを殴っていたかもしれない。

それどころか、止められたかも怪しいほどの勢いであった。

その彼の拳を防いだのは、他ならぬオーベルシュタインの言葉であった。

 

「実際は違うのだから、一言違うと言えば良いだけだろう。」

 

「!」

ビッテンフェルトの生涯において、もっとも納得のできる「オーベルシュタインの正論」であった。

 

「そうだ、アンジェリカは……!」

学などなくともその辺りの娘よりもずっと優秀で、夫である自分の知識不足を補ってくれる。

アンジェリカと話していると、決して明るいとは言えない政治についてでさえ、ああしてはどうかこうしてはどうかと考えが浮かんでくるし、義父に譲られた領地の管理について話し合う相手も家令よりも妻のほうが多いほどだった。

アンジェリカと共に歩む中で多くのものを得た、だからこそ国務尚書を引き受けようと思えたのだとビッテンフェルトは考えている。

それに、ひどく心配性で思い詰めるくせがあるが、決して身体が弱いわけではない。

確かに過去はそうだったのかもしれないが、ビッテンフェルトと結婚して体質が変わったのだとアンジェリカと義父はいつも言ってくれていた。

彼女こそが最良の伴侶であり、他に妻を娶れなど、たとえ皇帝陛下の命令であっても決して承服できない。

 

「率直に言えば、マッテルスブルク殿は欲のない男であるし、美しく献身的であれば、皇帝陛下の妻であっても良いくらいだ。」

 

「なにッ!」

オーベルシュタインの一言は、実際余計であった。

しかし、これは彼も承知していたらしく、

 

「もっとも卿の奥方はいくらなんでも弁が立ちすぎる。卿でなければつり合いが取れないであろう。」

この男にしてはかなり珍しいことに、片頬を上げてそう言った。

 

「オーベルシュタイン、おまえ……。」

ビッテンフェルトとアンジェリカを似合いだと告げる口ぶりに、「一体どんな駆け引きをするつもりだ」と思わず身構えるが、そういうわけでもないらしい。

家族が犬だけというのはあまりに気の毒な気がしてきて、ビッテンフェルトは口を開きかけるが、「いらん世話だ」と元通りの無表情に戻って、稀代の権謀家である男はそれきり口をつぐんだ。

 

オーベルシュタインの話が事実なら、これからも下衆な見合い話をもった輩が寄ってくることは続くのだろう。

けれど、自分さえしっかりしていればそれでいいのだとビッテンフェルトは胸を張る。

いっそロイエンタールに全部振ってしまえば、面白いものが見られるかもしれないとも思う。

 

しかし、彼の想像を超えて、事態は秘かに進展していた。

悪意を知らない彼は、悪意が向けられる理由やその手口について思い及ばずにいた。

しかし、宮廷に蠢く様々な思惑がつくりだすさざ波は、やがて穏やかな日々を脅かす荒波となって彼の足下に迫ることとなるのである。



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【27】あなたのいない世界

新しい職務を新皇帝より賜って以来、多忙を極める夫を待ちながら、アンジェリカは一人居間のソファーに腰を下ろしていた。

 

三年前に父が夫に爵位を譲ると決めたのも、訪ねてきたヒルダやキルヒアイスと未来への思いを語り合ったのもこの居間だった。

どこか気詰まりな夫婦であった頃、打ち解けてからの日々、その人を支えたいと願った時間、寂しさも幸福も、多くのものが詰まった場所だとアンジェリカは思う。

 

今日夫が帰ったら、一日の疲れを労おう。

「お帰りなさいませ、お食事はお済みでいらっしゃいますか」、きっと夫は済ませてきたと答えるだろうから、入浴をすすめて寝室で待とう。

その日一日の出来事を、夫はいつも寝物語に聞かせてくれる。

 

『アンジェリカ、聞いてくれ。今日はロイエンタールのヤツがな……。』

決して折り合いが良いとはいえない元帥府出身の三人の尚書は、その距離が却って良いバランスを作り出しているらしく、頻繁に言い争いながらも順調に国を導いているらしい。

誰よりも大きな声で、誰よりも裏表のない真心を語る夫の姿を思い浮かべる時、アンジェリカの胸は温かくなる。

 

──かつては、そうだった。

今はそのすべてが悲しみに満たされて、明るい夫の声も、優しい指先もどこか遠い。

残された時間は決して多くはないのだという思いが、アンジェリカの心を重くしていた。

 

 

遠く離れた惑星にいる父親からアンジェリカに連絡があったのは、ほんの少し前のことだった。

アンジェリカは久しぶりに父親の顔を見たいと思ったが、「顔を見てはとても話せない」と父は言う。

何事かと問いかけたアンジェリカに、彼女の父は何度も言い淀みながら、告げた。

 

『ああ、アンジェリカ。この先どんなことがあろうとも、お父様はおまえの味方だよ。』

それは、彼女の夫であるビッテンフェルトに、フェザーンの有力者の娘との縁談が持ち上がっているというものだった。

ローエングラム王朝はフェザーンを支配下においているが、未だ情勢が安定してるとは言い難い。

そこで、有力者との間にいくつかの閨閥を築くことで、その支配を安定させたいと考えているらしいと父は言う。

 

『でも、お父様。フリッツ様はそのようなことは何も……。』

衝撃に胸を貫かれ、アンジェリカは声を震わせる。

 

『そうだね、アンジェリカ。きっとそうだと思った。あの方はとても優しい方だ、だから……きっとおまえに言えるはずがないと思ったよ。』

父にとってもビッテンフェルトはマッテルスブルク領を守り続けてくれた恩人であり、何よりも病弱であった娘を娶り、慈しんでくれた大切な婿である。

 

『聞いた話では、彼は縁談を承知したわけではないらしい。それが必要なことだとわかっていても言えぬのだろう……なぜだかは、わかるね。』

貴族の娘として生まれたからには、アンジェリカにも閨閥の何たるかは理解できる。

実際に、アンジェリカとビッテンフェルトの結婚も当初は貴族社会の崩壊から身を守るために結ばれた関係だった。

それどころか、アンジェリカは自ら望んで──彼を利用したのだ。

 

新進気鋭の艦隊司令官であった夫は、今は広大な領土を守るべき国務尚書である。

アンジェリカは夫に対して、「とにかく無事でいてさえくれればいい」と願っていた。

しかし、アンジェリカが望んだよりもずっと遠く、そして高い位置に彼は今立っているのだ。

自分で選んだことに、自分で幕を引く。

それは自然なことだと思えた。

彼女の選択は、彼女にとって、暗く、冷え冷えとして、あまりに苦しいものであったが、それが戦禍の中で自分を守ってくれた夫に対する恩返しではないかと思えるものでもあった。

 

利用価値のない自分が、彼のそばにいていいはずがない。

今や公人となった夫に対しアンジェリカは秘かな決断をし、それを父に伝えた。

 

『本当に……お優しい方でしたわ、お父様。いつでも、どんな時でも、わたくしたちのことを案じてくださった。けれど、いつまでもご負担をおかけすることはきっと……罪深きことですわね。』

「罪」、その言葉はアンジェリカの胸にすっと落ちていった。

あの日、生きるために夫の愛情を利用した自分が、ついに裁かれる時が来たのだと──彼女は思った。



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【28】告白

その日、アンジェリカはいつもの通り夫よりも早く起きて身支度を整えていた。

いつもの通り美しい絹を纏い、美しく髪を整えて朝食の席で彼女の夫を待っていた。

 

「おはようございます、フリッツ様。」

いつもの通り食事を終えて、いつも通りのコーヒーを飲み、そしていつもの通りに妻の頬に口付けて、いってきますの挨拶をする。

それが、ビッテンフェルトが予定していたその朝のスケジュールだった。

 

しかし、その日は何かが違っていた。

一緒に食事をするはずのアンジェリカの前には、空の皿が置かれているだけだったのだ。

食欲がないのだと彼女は言って、「フリッツ様の召し上がるところを見ていたいのです」と恥ずかしそうに言った。

そんな妻を愛らしいと思ったし、けれど少しばかり心配ではあった。

それが「少し」で済まないと知ったのは、朝食を終えた後のことだった。

 

「少しだけ、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか。」

 

「あ、ああ。うん、どうした、アンジェリカ。」

膝の上に乗せた両手を重ねて、アンジェリカはビッテンフェルトをじっと見た。

時間が欲しいと言ったのに何も言い出そうとしないアンジェリカに戸惑うが、息を詰めた彼女は何度も顔を上げては言い淀みを繰り返している。

それを、待った。

 

「あの、」

やっぱり夜の方がと彼女は言い、一度立ち上がろうとした。

それを引き留めたのは、ビッテンフェルトのほうだった。

けれど、やはり引き留めなければよかったと直後に後悔することになった。

 

「フリッツ様、わたくしは……。」

ビッテンフェルトの見たことのない表情をしたアンジェリカの眼差しが彼を見ている。

思い詰めた様子で、けれど戦乱に憂いでいたかつての彼女とは違う、決意をはらんだ瞳だった。

 

「わたくしは……お暇を頂戴したく存じます。」

何を言われたのか、最初はわからなかった。

「暇を取る」とはどういう意味だったかと、頭の中で辞書を引いたほどだ。

 

「馬鹿なッ……!何を言うんだ、アンジェリカ!」

反射的に飛び出した言葉は半ば叫び声のようでもあったが、アンジェリカは固い表情を崩さずにビッテンフェルトを見ている。

 

「父のもとに……わたくしは戻らねばなりません。」

アンジェリカの父である元侯爵は、現在マッテルスブルク星系の別の惑星に居宅を構えて隠居生活を送っている。

その義父のもとに、彼女は戻りたいと言う。

 

「義父上に……何かあったのか。」

所領をビッテンフェルトに譲ってからしばらくの間は家令とともに領地の管理の引き継ぎに尽力していた義父だったが、それを終えると同時、いっそ潔いほどの引き際で隠居を決めてしまっていた。

「婿殿のおかげで早々に引退できたし、これからは余生を楽しませてもらうよ」と朗らかに笑っていた義父だったが、それが新時代を担おうというビッテンフェルトに対する遠慮であることは彼も承知していた。

 

「……実は、父の具合があまり良くないのです。」

移り住んだ惑星で新しく事業を始めたらしいと聞いてはいたが、まさか体調を崩しているとは知らなかった。

 

「そうなのか?すまない、アンジェリカ……そんなこととは知らず俺は……。」

政務の多忙に紛れて義父への礼を失していたのではないかと慌てるが、アンジェリカは首を振る。

 

「フリッツ様のご活躍をいつも喜んでおりましたもの。どこを探してもこんなに立派な方はいないと……ええ、父は誇らしそうにしておりましたわ。」

アンジェリカの口唇が微笑みを浮かべてみせるが、その眼差しには悲しみの色が浮かんでいる。

 

「だが、アンジェリカ。」

義父の不調はわかった。

それについては自分も勿論心配であるし、アンジェリカが父親を見舞うのを止めるつもりはない。

しかし、だからといって自分のもとを去るというのは飛躍しすぎだとビッテンフェルトは思う。

彼がそれを告げようとした時、アンジェリカは視線をそらして俯いた。

 

「どれほど身勝手なことかはわかっております。けれど、父はわたくしに自分のもとに戻ってほしいと申しておりますし、わたくしも父に応えたいのです。」

娘を溺愛していた義父がアンジェリカに会いたがるのは当然のことだと思えたが、それにしてもやはり納得のいく話ではない。

 

「オーディンにはいつ戻れるかわかりません。ですから……。」

父親の看病で夫のもとを離れるからそのまま別れてくれなどとは、いくらなんでも突飛な申し出で、わかりましたと容易に言えるようなことではない。

 

「アンジェリカ、無茶を言うな。どんなことがあっても夫婦であると俺たちは誓ったのではなかったか……?!」

 

「それは……。」

語気を強めるビッテンフェルトにアンジェリカは顔を上げるが、それでも首を縦に振ろうとはしなかった。

 

「フリッツ様、わたくしは……。」

嘆きの色に声を染め、視線を彷徨わせながら、アンジェリカが言葉を探している。

戸惑いを滲ませるアンジェリカの様子に、「ゆっくり義父を見舞えばいい。たとえ長引いたとしても自分は必ず待っているし、政務が落ち着けば自分も義父のもとを訪ねよう」、そうと言えば済むことだとビッテンフェルトは思った。

政務で多忙な自分のそばにいられないことをアンジェリカは気に病んでいるのかもしれないが、義父の身を案じる妻に、そんなことは気にするなと言ってやりたかった。

 

思いやり深く妻を見つめたビッテンフェルトだったが、彼女が告げた言葉は彼の求めるものとはまったく異なるものだった。

それは、彼女をこそ最愛の妻だと思い続けていたビッテンフェルトに鉄槌を打ち下ろすごとき衝撃を与えた。

 

「わたくしは……フリッツ様を利用したのです。」

 

「な、に……。」

寄越された言葉の意味をはかろうとするビッテンフェルトの前で、アンジェリカの眼差しは様々に色を変える。

不安、悲哀、そして決意──彼女の意志がどこにあるのか、見つめるほどに混乱した。

アンジェリカの繊細な睫毛が、小さく瞬きを繰り返す。

 

「わたくしは知っていたのです、フリッツ様。貴族社会の終焉が近いこと、ゴールデンバウム王朝さえいずれ崩壊するであろうこと。そうなればマッテルスブルク家も無事では済まない、だから……わたくしは自らの保身のため、あなたと結婚したいとお父様にお願いしたのです。」

蒼白な頬のままビッテンフェルトを見つめ、アンジェリカは言葉を続ける。

 

──自分を利用した、自分との結婚をアンジェリカは保身のために利用した。

冷たい水を流し込まれたように、胸が冷えていく感覚をビッテンフェルトは感じていた。

 

四年分の出来事を、記憶の中に振り返る。

壮健で頼りになる夫をと義父は言った、戦地へ向かう自分と一刻も早く夫婦になりたいと望んだのは他ならぬアンジェリカだった、怪我を負った自分を懸命に看護してくれた、帰還した自分を心から喜んでくれた──そのすべてが偽りであったというのだろうか。

「ローエングラム陣営の一員であるから」、ただそれだけのために自分の妻でいたというのだろうか。

オーディンから遠い惑星で暮らしていたアンジェリカが、なぜ貴族社会の終わりや新王朝の出現を予見していたのかはわからない。

しかし結果としてマッテルスブルク家は時代の風雲から逃れ、領地と平穏とを勝ち得たのは揺るぎようのない事実だった。

 

「邪知深い女だと……お思いになったでしょう。」

可憐な乙女と思っていた妻が政治判断のもとに自身に嫁いできたという話はビッテンフェルトの心に冷え冷えとした感情を呼び起こし、熱く抱いていた想いさえ揺らいでいくような気分にさせた。

それでも愛しいと慟哭する胸に、激しい憤りが去来する。

 

「アンジェリカ、俺を……謀っていたのか。」

否定して欲しいと思った。

たとえ侯爵家のための結婚であったとしても、自分たちには重ねてきた絆があるはずだと信じたかった。

 

「フリッツ様、どうか……どうかお許しくださいませ。」

今や消え入りそうなアンジェリカの声は、それでも頑なにビッテンフェルトを拒絶する。

 

「わたくしは、フリッツ様には相応しくない妻なのです。」

こんな時であってさえ彼の妻は変わらずに美しく、自分に向けられていたはずの微笑みや触れた頬の体温が記憶の中によみがえり、ビッテンフェルトの苦痛は増した。

 

「計算高く狡猾なばかりで……可愛げのひとつもない、それがわたくしです。貴族の生まれというのに社交界の何たるかを知らず、いたずらに知識を積み上げたところで活かすべき世知もない……そんなわたくしにフリッツ様をお支えできるとは思えません。」

過した日々のすべてを否定するように告げて、アンジェリカは俯いた。

その姿は悲しみを溢れさせているように見えたが、決して道を譲ろうとはしない頑なさがあった。

 

「なぜ……。」

なぜこんなにも自分と夫婦であることを拒絶するのかと問いかけようとして、思い当たった答えに愕然とする。

 

(ま、さか……。)

行く先を探して惑うビッテンフェルトの脳裏を過ぎったのは──ルビー色の鮮やかな髪。

 

(他に……想う相手がいるということか……!)

赤い髪の僚友、キルヒアイスはもうすぐ彼の希望した通りにハイネセンへと旅立つことになっている。

ハイネセンにラインハルトの腹心であるキルヒアイスを、オーディンにヤン・ウェンリーを、それが二国に交わされた講和の一文である。

 

(ずっと……キルヒアイスのことを?!)

つい言葉を失った。

もしかしたらアンジェリカはキルヒアイスのことを想っているのではないか、これまでに何度か描いたことのある想像ではある。

自分たちへの結婚祝いを持参してきた日、見舞いに訪れた日、そして、オーベルシュタインとともにやってきたあの時──気になるたびに質の悪い妄想に過ぎないと頭から追いやってきたそれが、悲しみの中によみがえる。

 

義父の病状は確かに重いのかもしれない、アンジェリカが望んでビッテンフェルトを利用したというのもあるいは事実かもしれない。

しかし、それ以上にアンジェリカを頑なにさせる理由があるとしたら……。

自分を愛していないのかとは、ついに尋ねられなかった。

それを聞くための勇気は、歴戦の猛将であるはずの彼が持ち合わせていない種類のものだった。

 

「フリッツ様……こんなわたくしをそばにおいてくださり、本当にありがとうございました。」

柔らかな朝日の差し込む部屋。

二人して幾度も食事をしたその場所が、今は絶望だけを詰め込んだ死刑台のごとき場所に変わる。

 

「アンジェリカ、俺は……。」

大切な妻だと思っていた。

生涯をかけて守り抜きたいと思っていた。

その妻から告げられた言葉はビッテンフェルトの心と脳の両方を支配し、一層深い絶望へと彼を誘い込んだ。

 

「フリッツ様は人の心を理解できる方、きっと良い国務尚書におなりです。だからどうか、邪魔なものは今日ここに、捨て置いてくださいませ。」

それは、積年の絆をきっぱりと断ち切る言葉だった。



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【29】父と娘

「まずは私が病気ということにしてオーディンを離れ、しばらくしたら父親である自分から離縁の申し込みをしよう。」

マッテルスブルク元侯爵はそう言って、運命を決断した娘の背中を押した。

長く貴族社会で重責についてきた彼は、娘以上に閨閥の何たるかを理解している。

今や彼の婿は国家の重鎮であり、自分やアンジェリカの気持ち一つでつなぎ止めておける相手ではない。

物わかりよく夫との離別を受け入れた娘を哀れには思うものの、どうしてやれるものではないと娘よりも早くに父親はそれを受け入れていた。

 

気鋭の艦隊司令官であったビッテンフェルトと結婚したいと娘が言い出してからの日々を思い出せば、それでも目頭が熱くなる。

見た目の通り気ざっぱりとした彼の婿は、猛々しい猛将という評判とは対照的に、妻となった愛娘に心優しく接してくれた。

爵位を譲ることで保全されたマッテルスブルク家の大領は、今や名実ともにビッテンフェルトのものとなっている。

初めの頃こそ不慣れな領地の管理に戸惑っていたようであったが、家令の言うことによく耳を傾け、領民たちに心を配る様子は、広大な所領の主として相応しい姿であった。

 

私財をまとめて近隣の惑星に移り住んでからも、ビッテンフェルトの評判は元侯爵の耳によく届いた。

帝国元帥へと上り詰め、多忙でありながらも所領への配慮を忘れない領主のことを、領民たちが慕い、誇りに感じている様子が実によく伝わってくる。

ついに国家の重鎮へと駒を進めたと知った時の喜びは、言葉では言い表せない。

「娘にとって良き夫であってくれたらそれでいい」、そう思っていたはずだったが、同じ男であればこそ逞しい婿の立身出世は我がことのように嬉しく、頼もしくあったのだ。

 

銀河帝国に訪れた久方の平和が、自分の娘にとっては別のものになってしまったことを聞かされたのは、新しい土地で始めた事業がようやく軌道に乗り始めた頃のことである。

国務尚書という高位にあると同時、ビッテンフェルトが治める所領はフェザーンとの交易の拠点に位置している。

その彼に、未だ支配の安定しないフェザーンとの間に閨閥をという話が持ち上がっているらしいと人づてに聞いたのだ。

最初にそれを聞いたのはフェザーンの商人たちの噂話の中だったが、慌てて連絡を取ったマッテルスブルク領の家令も同じ話を耳にしたという。

いよいよ困惑し、かねてより親交のあったフェザーンの有力商人にこれを打ち明けた。

銀河皇帝その人の意向らしいという証言に愕然とした彼だったが、呆然としているだけの時間は許されないと同時に思った。

新皇帝の意思であるならば、その道は違えようがない。

未だ縁談を承諾していないらしいという婿の気概を有り難いと思うほどに、彼の将来を守らなければと強く思った。

 

ビッテンフェルトは、娘にとって常によき夫であった。

マッテルスブルクの領民にとってよき領主であった。

「ただの男であったなら」と、もはや手の届かないほど高位にある娘婿に向けられた一瞬の割り切れなさを、しかし彼は断ち切った。

 

「ああ、アンジェリカ。決してあの方を恨んではいけないよ。マッテルスブルクの土地が戦禍に巻き込まれずに済んだのはあの方のおかげだ……我々は国務尚書に感謝しなければいけないのだからね。」

別離の言葉は自分から告げたいと申し出た娘の、夫に向ける深い愛情を知ってなお、彼は決断を変えることをしなかった。

一刻も早く愛しい娘を抱きしめてやりたいと、ただそれだけを願っていた。

 

 

一方で、父への申し出の通り、夫に別離を告げたアンジェリカは、オーディンの邸宅を出て行くための準備を整えていた。

去ると言った自分に対し、「マッテルスブルクの領地はどうするのか」、「本当に生活は困らないのか」と夫は最後まで親身な言葉を向けてくれた。

 

アンジェリカの父のものであった爵位と領土は既にビッテンフェルトのものであり、離婚したからと言って彼女の父に返されるわけではない。

彼女の父もそれは承知している。

ビッテンフェルトとアンジェリカの結婚から四年、彼女の予見通りに貴族社会は崩壊し、銀河帝国はその姿を大きく変えた。

領地は戦禍を免れ、二人で暮らすには十分な私財もある。

「何も心配いらないから、早くお父様のもとに帰っておいで」と鼻をすすりながら告げた父親の言葉を伝えると、夫は「そうか」と言ったきり黙り込んでしまった。

 

泣いて縋ってしまいたい。

すべてを打ち明けて、そばにいたいと伝えたい。

けれど、それが許されないということは十分に承知している。

 

今や国家の重鎮となった夫である。

彼の身の処し方ひとつで政治が動き、時勢が変わるのだ。

離れたくないと言えば、心優しい夫は自分を守ってくれるだろう。

しかし、それを口に出してはいけないということは父親に言われずとも理解していた。

 

 

老いたダルマチアンはオーベルシュタインのもとに、そしてフェルナーも彼のもとに。

あるべき場所へと戻っていった物語を思う。

だとしたら自分は──、

 

(私は……もともと彼のもとにいた人間ではなかった……。)

だから自分もあるべき場所へ帰るのだと、自分自身に言い聞かせる。

 

離別へと踏み出すアンジェリカの脳裏に、ふと、結婚を控えて準備に追われていたいつか、恋人に別れを告げられた「前世」の記憶がよみがえる。

今はもう遠く霞む記憶──それを辿る中で思い出したことがある。

 

──もしも生まれ変わるなら……。

守ってあげたいと誰しもに思われるような女になりたいと、あの日確かに願った。

病弱でか弱く可憐な乙女であったアンジェリカ、それが神から与えられたものだとすれば、彼女の願いは叶えられたことになる。

けれど、自分を守ろうという夫に対して自分は何かを返せただろうか。

愛らしく素直で可憐な妻、それをこそ夫は望んでいたはずだ。

それなのに自分は……。

罪の意識はより一層重くのし掛かり、「夫に相応しくない」という言葉は、深くアンジェリカの心へと落ちていった。

 

(もしも……。)

もう一度生まれ変わることがあればと考えかけて、首を振る。

そんなことはもう考えたくないと思った。

たとえ離れてしまったとしても、夫と出会えたこの世をこそ大切に生きたい。

共にあれた時間を抱きしめて、明日からの日々も夫への感謝とともに生きたい。

 

見送りはいらないと使用人たちに告げて家を出て、そっと背後を振り返る。

二人、暮らした家だった。

丁寧に磨かれた白い壁は、それでも以前よりくすんでいて、夫と暮らした時間と思い出とが、アンジェリカの胸に迫る。

 

幾度も振り返り、ようやく地上車に乗り込んだ。

向かう先は、宇宙港。

父の暮らす惑星へと飛び立てば、もうオーディンに戻ることさえないだろう。



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【30】この星の果てまでも

「卿は馬鹿か。」

「馬鹿」などという極めて非論理的かつシンプルな言葉が、目の前の男から飛び出したことに驚いた。

今、ビッテンフェルトの前にいるのは、彼が知る限り最も陰気で、最も侮りがたい男である。

しかし、一方で最も論理的かつ正論を述べる男だということもビッテンフェルトは知っている。

その男に「馬鹿」と言われたということは、つまり自分は真実阿呆なのかなどと思いかけ、危うく思考の迷路に入り込みそうだったビッテンフェルトだったが、「そもそも何を話していたのか」を思い出し、はっとなって首を振る。

 

「どういう意味だ、オーベルシュタイン!」

とりあえず、素直に意味を問うてみる。

侮蔑されたというのに疑問でしか返せない己が憎いが、今の彼が求めているのは剣呑なやりとりではない。

 

「……二度、同じことを言わせるのか。」

じとりと感情のこもらない視線を向けて、オーベルシュタインが嘆息した。

たとえ嘆息だけでも彼にとっては十分に人間らしい動作であったのだが、生憎と彼の数十倍豊かな感情をもつビッテンフェルトには、オーベルシュタインの嘆きは簡単には伝わらないらしい。

 

そもそも、反りの合わない二人がどうしてわざわざ顔を突き合わせているのかというのには、のっぴきならない事情がある。

離縁状を置いて出て行ってしまったアンジェリカについて、ビッテンフェルトは途方に暮れた。

悲しみも怒りも憤りも、あらゆる感情が彼の中にはあったが、どれを取り出してどれを我慢すれば良いのか、それさえもよくわからない。

妻に出ていかれたからなどという理由で出仕しないわけには行かず、彼はいつも通り職場へと向かった。

なんとか自由な時間を見つけた彼が、最初に頼ったのは同じ妻帯者であるミッターマイヤーだった。

泣きついたビッテンフェルトだったが、「俺に色恋はわからん」と彼に匙を投げられ、次にロイエンタールに押し付けられた。

彼は無言でビッテンフェルトをオーベルシュタインのもとに引っ張って行き、「うるさいから預かってくれ」とだけ言った。

せめてミュラーはいないのかと思ったが、要職を賜る最年少の同僚は彼らしい機智で見事にビッテンフェルトに見つからない場所へと雲隠れしてしまっているらしい。

要するにたらい回しにされた結果、最も相応しくない相談相手のところに巡ってきてしまったわけだが、今や国家の重鎮である彼にとって平等に悩みを打ち明けられるのは彼らよりほかにいなかった。

 

「くそう。ミッターマイヤーにロイエンタールめ……。」

オーベルシュタインなどに相談して夫婦問題が解決するわけがないとビッテンフェルトは憤り、ならば自分で考えたほうがマシだと踵を返そうとした。

 

「離縁状をもっていると言ったな。」

 

「なに?!」

背後からかけられた声に振り返ると、オーベルシュタインが表情を変えぬままでビッテンフェルトを見ている。

 

「ならばそれを置いていけ。私が最大限有効に使ってやる。」

 

「なッ……んだと?!」

アドバイスとはまるで真逆の言葉に、ビッテンフェルトの青筋が濃くなる。

長い間忌々しい相手だと思っていたが、ついに殴ってやる時が来たかと彼は思った。

 

「卿を利用した、と奥方は言ったのだろう。」

今にも殴り掛かりそうなビッテンフェルトであったが、オーベルシュタインはそれを意に介する様子もない。

 

「そんなことは貴族の結婚では当たり前だ。それを正しく理解しているというのだから、卿の奥方はやはり賢い。賢く、美しく献身的。ヒルデガルド皇妃にこの先何もないとは限らぬ、だとしたら保険をかけておくのも悪くない。」

 

「な……!」

以前、新王朝発足の祝賀パーティーで、オーベルシュタインは言った。

「美しく献身的で、政治から遠い父親がいるのなら、皇帝の后として調度良い」と。

ラインハルトの妻はもちろんヒルデガルド皇妃であるが、オーベルシュタインは「万が一の保険」としてアンジェリカの身を預かりたいなどと言う。

当然、ビッテンフェルトは怒った。

しかし、彼の怒りがいよいよ沸点へと差し掛かろうかという時だった。

 

「世の中には利用しがいなどない人間のほうが多い。だというのに、マッテルスブルク侯爵家の大領と一人娘の身柄と、それだけのものを賭けてもらっても卿は足りぬというのか。」

 

「ッ、」

貴族にとって結婚は閨閥を築くための手段であり、マッテルスブルク家はその所領の未来をビッテンフェルトに託した。

アンジェリカ自身もまた──自らの人生をビッテンフェルトに賭けた。

それだけの価値がある男だと思ったからこそそうしたのだろうと、オーベルシュタインは言う。

その何が不足かと。

 

そして、

 

「それからもう一つ。」

一体どこからそれだけの情報を得ているのかと空恐ろしくなるが、とにかくビッテンフェルトの犬嫌いまで把握していたオーベルシュタインである。

 

「卿に来た縁談のうちいくつかは、ほとんど真実のように形を変えて……マッテルスブルク殿に伝わったようだ。自分の夫が国家のための婚姻を勧められていると言われたら、賢い貴族の女性なら果たしてどうするだろうか。」

 

「!」

そこまで言ってやらねばわからぬのかと、ついにオーベルシュタインの表情が崩れた。

ビッテンフェルトの人生にとって、おそらく最初で最後であろうオーベルシュタインの呆れ顔であった。

 

「アンジェリカ……!」

ほとんど反射的に駆け出していたビッテンフェルトは、オーベルシュタインの財務尚書室の扉を勢いよく開け放ち、廊下へと飛び出した。

国務尚書の肩書きは、今は忘れた。

どれほどの重責だろうと立場だろうと、今この瞬間だけはアンジェリカ以外に優先すべきものはないと思った。

 

なぜもっと話さなかった、なぜちゃんと尋ねなかった。

なぜアンジェリカを引き留めなかった。

他に想う男がいるかなど、関係あるものか──!

 

 

「ビッテンフェルト提督……!」

激情に任せて皇宮を飛び出そうとしたビッテンフェルトを古い呼び名で呼んだ者がいた。

 

「失礼、国務尚書。けれど、それほど慌ててどちらに行かれるのですか。」

知的な光を宿すブルーグリーン、今や皇妃となったヒルダである。

 

「ヒルデガルド皇妃、失礼を……!」

重い立場であるにもかかわらず、以前のように身軽に立ち歩く様が彼女らしい。

その彼女相手とあっては、国務尚書であるビッテンフェルトもさすがに足を止めて直立せざるを得ない。

 

「は、実は……その、妻を……む、迎えに……。」

出ていかれたとはさすがに言えず、冷や汗を拭って彼は答える。

 

「まあ、どちらに。」

いつの間にかアンジェリカと親しい関係になっていたらしい彼女が、目を細めて尋ねる。

 

「宇宙港……なのですが。」

なぜと聞かれれば困る答えをビッテンフェルトが述べると、ヒルダはその明るい瞳を輝かせて言った。

 

「それではキルヒアイス様にもお会いになるかもしれませんわね。あの方も今日、宇宙港から発たれるのですよ。」

ハイネセン駐在の弁務官となるキルヒアイスの出立は、確かに今日であった。

けれど、それを改めて突きつけられるとビッテンフェルトの苦しみは増した。

もしかしてアンジェリカはキルヒアイスと一緒にいるのではないか、最悪の想像が頭を過ぎり、彼は思わず沈黙した。

 

「それにしてもおめでたいことですわね。」

 

「な、何がです……。」

なんとか絞り出したビッテンフェルトの声は、苦しみのあまり歪んで掠れてしまっていた。

 

しかし、

 

「本日はグリューネワルト大公妃がキルヒアイス様のお見送りに立たれているのですよ。大公妃様のお相手として、皇帝陛下がキルヒアイス様をお認めになる日も近いと皆申しておりますわ。ご存知ありませんでしたか。」

 

「?!!!」

すべての疑問と出来事が、一箇所に集まり、ぶつかり合い、氷解した。

 

「ヒルデガルド皇妃、失礼いたします……!」

彼はもう、目の前にいる皇妃にすら構っていられなくなった。

 

急がなくては、急いで追いかけなくては。

アンジェリカを探し出して、その手を取って、抱きしめて──そして、伝えなければ。

どうか、これからも自分の妻でいてくれと……!



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【31】宇宙港の中心で【完結】

その日、宇宙港を全力疾走で駆け抜ける国務尚書の姿を見た者は、まさに青天の霹靂と誰もが驚きを口にしたという。

国家の重鎮たる男が人の目も憚らずひたすらに走り、大声で妻の名を呼んだ。

後の世に語り継がれることとなる珍事件である。

 

しかし、漆黒の宇宙への船出を控えた船を求めて駆けるビッテンフェルトには、振り返る人々の好奇の眼差しも驚きの声も意に介する余裕などなかった。

船の行き先はわかっているが、果たして何時の便なのか知る術がない。

どんなに急いだところでアンジェリカを乗せた船が出航してしまえば、彼女を取り戻すことは一段と困難になるだろう。

だから、駆けた。

それでも、駆けた。

会わなければ、たとえ会えるかわからなくても、必ず会わなくては。

矛盾を振り切るようにして、彼はただ走っていた。

 

アンジェリカが去ると言ったのは、裏切りでも不実でもなかった。

国家の重責を担うことになった夫に相応しい縁談があると聞き、自ら身を引くことを選んだ末の決断だった。

なぜ彼女の想いを疑ったりしたのだろうと、過去の自分が悔やまれる。

自身の無事を願ってくれた妻、愛しさを声に乗せて自分の名前を呼んだ妻、柔らかな光の中で微笑みを浮かべて自分を見つめた妻、なぜその彼女を信じられなかったのだろう。

過去を責める気持ちが沸いてくると、長い距離を走り続けていることもあってか胸がギシギシと締め付けられるように痛んだ。

 

身分も財産も要らないと去っていったアンジェリカを思う。

それが自身に向けられた深い愛情ゆえだったということくらい、今ならばわかる。

彼女を引き留めていれば、自分の思いを伝えていればと考えて──ビッテンフェルトは気がついた。

長い時間を一緒に過してきた妻である。

アンジェリカの儚げな美しさも存外気の強い性格もすべてが愛しいと思っていたはずなのに、果たしてそれを告げたことがあっただろうかと。

想えばこそ告げるべき言葉があったはずなのに一度もそれを言ったことがないような気がして、急に冷や汗が滲んでくる。

 

その彼が、ついに見つけたもの。

自宅にいる時に身につけていた裾の長いドレスではなく、膝丈で揺れるスカートを彼女は身にまとっていた。

はじめて見る服装だったが、それがなぜか馴染んで見える。

また新しい一面を見せられた気がして、不安を抱えているはずなのにどこかふわふわとした気持ちも浮かんでくるから不思議だった。

 

「アンジェリカ……!」

ありったけの声で、彼は叫んだ。

今や国政の要を担うまでになった男の大声が呼んだのは、彼の妻の名前であった。

 

「アンジェリカ!俺だ、待ってくれ!アンジェリカ、行くな!どうか行かないでくれ……!」

星空を背にした出発ゲートの前、名前を呼ばれた女性が上方にある通路を見上げる。

階下にいる妻の姿を見留めて名前を呼んだ男はまた走り出し、転げ落ちんばかりのスピードで彼女の元へと駆け寄った。

 

「よかった、まだ発っていなかったのだな……!」

駆けてきた勢いそのままに彼女の手を取ると、息を弾ませる夫の姿をアンジェリカの瞳が驚きの表情で見上げる。

 

「アンジェリカ……俺は、ああ……アンジェリカ、よかった……。」

決して離すまいと掴んだ彼女の両手を、ビッテンフェルトは自身の胸へと引き寄せた。

言いたいことは山ほどあったし、伝えなければいけないこともいくらでもある。

胸いっぱいに溢れる想いの中から言葉を探して、彼は──最も大切な一つを選びだした。

 

「アンジェリカ。」

口にするだけで、愛しいと思える妻の名前だ。

その名前を呼んで、彼女の瞳を見つめ、想いと願いとを込めて彼は言った。

 

「愛している、アンジェリカ……。」

 

彼らは、長く夫婦としての関係を続けてきた。

不釣り合いを絵に描いたような時期から睦まじく手を取り合った日々まで、たくさんの時間を夫婦として過してきた。

しかし、振り返れば一度も──ビッテンフェルトはその言葉を形にしたことがなかったのだ。

愛しいと思えばこそ優しく触れたかったし、名前を呼ぶだけで胸がときめいた。

それなのになぜ肝心な一言を告げなかったのだろうかと不思議に思う。

そんな自分を不甲斐なく思いながらも、決して今更だとは思わなかった。

何事も遅すぎることなどない、「前進、力戦、敢闘、奮励」!それが黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)のモットーであり、彼の人生にとって躊躇うということなど決してあってはならないのだ。

 

「フリッツ様……。」

透き通るように輝くアンジェリカの瞳が戦慄いて、ビッテンフェルトを見つめる。

その眼差しは苦悩や悲しみを映してはいたが、決してそれだけではないとビッテンフェルトは彼女の手を握りながら思う。

 

「けれど、わたくしは……。」

けれど、でも、と繰り返し、視線をそらせては俯いて、アンジェリカが戸惑う。

その戸惑いを、彼女の夫は彼らしい逞しさで正面から受け止めた。

 

「アンジェリカ、色々と思い悩むことがあったと思うが、それらはすべて誤解だ。俺はアンジェリカを手放すつもりはないし、この気持ちも揺らぐことはない。」

縁談などすべて断っているし、最初から考慮にさえ入れていないとはっきり言えば、アンジェリカの緊張したままだった身体がビッテンフェルトの腕の中でいくらかほぐれる。

 

「たとえ何事があろうとも俺はアンジェリカの夫だし、アンジェリカは俺の妻なのだ。それともアンジェリカは……俺ではない誰かの妻になりたいと思うのか。」

ほんの少しだけ残っていた赤髪の僚友に対する疑問だったが、アンジェリカがあっさりと首を振ったことでそれは解決した。

 

「フリッツ様、わたくしにとって他の誰かを想うなどあり得ないことですわ……。」

アンジェリカは確かに、キルヒアイスを気に懸けてはいた。

しかし、それはつなぎとめた命を良き人生へと繋げてほしいという純粋な願いからである。

「原作」で描かれたキルヒアイスからアンネローゼに向けられた淡い想いの描写は、物語の序盤しか読んでいない彼女もよく知っていた。

だからこそ、新しい世界を生きる彼の想いが愛する人に通じればいいと、そう願っていたのだ。

 

「アンジェリカ、俺は……初めて会った見合いの日から、ずっとアンジェリカだけを愛おしいと思ってきた。美しい姿に惹かれたのは事実だが、勉学に勤しむアンジェリカも少しばかり気が強いところも、弁が立ちすぎるところも全部……どんなアンジェリカも俺の愛しい妻だと思っている。」

可愛げがないなどと自分を卑下してくれるなとビッテンフェルトは言って、妻の身体を抱き留めると、アンジェリカの柔らかな髪に触れる。

それは彼らにとって、これまでで一番自然で、これまでで一番あたたかな抱擁だった。

 

「本当に……?」

 

「ああ。本当だとも、アンジェリカ。俺には少々気の強い女のほうが合っているのだ、そう思わないか。」

ようやくアンジェリカも微笑んだ。

その瞳に、光るものがある。

 

「泣くな、アンジェリカ。」

思えば、出会って以来一度も彼女の涙を見ていない。

それは彼女が芯の強い女性だからだけではなく、戦禍の中で夫を待ち続け、不安と緊張にずっと心をこわばらせてきたからだろうと今ならば理解できる。

 

「いや、泣いてくれていい。だが、あまり他の誰かには見せたくないな。」

抱きしめる腕に力を込めれば、その腕の中でアンジェリカが笑う気配がした。

 

「フリッツ様……。」

涙をぬぐった顔をあげて、アンジェリカがビッテンフェルトを見上げる。

彼女の瞳は生まれたての雫でまだ濡れていたが、その口唇に浮かぶのは晴れやかさと愛しさを滲ませた微笑みだった。

 

「わたくしもお伝えしなければ。」

そう言って彼女は頬を染める。

 

「ずっと……お慕いしておりました。もうずっと前から、ええ、ずっと……。」

頬を染めて目を細める妻をビッテンフェルトは美しいと思ったし、こんなにも幸せな気分を味わえる男はこの世にそうはいないと誇らしく思った。

そして、ずっと聞いてみたかったことを彼は聞いた。

 

「その、アンジェリカ。気持ちは非常に嬉しいのだが……いったい、アンジェリカはいつから俺のことを……?」

相容れない夫婦であった時期を乗り越えてきたという自信はもちろんあるが、さていつから妻は自分を受け入れてくれていたのだろうかとは、彼にとって知りたくないようでやはり知りたい長年の疑問であった。

 

「……気になるのですか。」

 

「あ、ああ……気になるが、実は最近だと言われても反応に困るような気もするな。」

「いつから自分を好いていたのか」と思春期の若者のような夫の問いかけに、アンジェリカも少女のように笑った。

 

「結婚式の晩、」

 

「えっ……!」

 

「あの夜、フリッツ様はわたくしに“疲れていないか”と聞いてくださったでしょう。」

そうだったかと振り返ったビッテンフェルトの脳裏に、苦々しい出来事がじわりとよみがえる。

晴れて夫婦となったその晩、期待に胸を膨らませる彼に背を向けてアンジェリカが自身の寝室へと籠もってしまったことを思い出したのだ。

 

「あ、あれは……。」

彼にとって相当にショックだった出来事であるが、アンジェリカは真逆の思いをもって出来事を受け止めていたらしい。

 

「望んでフリッツ様との結婚を選んだわたくしですが……自分は間違ったことをしているのではないかと……本当は不安だったのです。」

愛し合っているわけでもない相手と家の保全のための結婚を選んだことへの後ろめたさと、果たしてこの先、愛し愛されることができるのかという不安を感じていたのだと彼女は言う。

しかも夫は見た目も猛々しき歴戦の軍人、恐ろしくも思ったのだと恥じらいながら言われると、さすがにむず痒い気分になる。

 

「けれど、フリッツ様はわたくしを気遣ってくださった。そんなお優しい方ならば、きっと思い合っていけると……そう思ったのです。」

気恥ずかしさと後ろめたさで自室に逃げ込んだという思いもよらない告白は、結婚の誓いを交わした晩に忍耐を強いられたビッテンフェルトの思い出を、昨日までとは違うものに変えた。

苦々しい思い出であったそれも、今振り返れば懐かしい。

 

「アンジェリカ、俺は思うのだが……。」

腕の中で自分を見上げる愛しい妻を見つめ返し、ビッテンフェルトはその無骨さを感じさせない柔らかな仕草で彼女の両頬を包み込んだ。

 

「これからはもっと、お互いの気持ちについて話をするべきではないだろうか。」

 

「ええ、フリッツ様。そうかもしれません、きっとそうですわね……。」

この日にいたるまで、幾度すれ違いと勘違いを繰り返して来ただろう。

そのほとんどが、口にすればたちどころに解決することではなかったかとビッテンフェルトは思う。

不安や疑問、あるいは喜び、そして愛しさを口にすればきっと──もっと良い夫婦でいられるはずだ。

 

「さあ、アンジェリカ。俺たちの家に帰ろう。」

 

「フリッツ様……。」

繊細なほどの優しさで妻に口づけた国務尚書については、その晩以降のメディアをおおいに賑わせることになる。

引きも切らない取材依頼は彼の部下たちを辟易させ、顔を見るだけで口いっぱいにケーキを詰め込まれたようで目眩がすると僚友たちを呆れさせた。

そんな彼らについて、「国民の良き見本」と新皇帝が言ったとか言わないとか、こればかりは真偽の確かめようがない。

 

──病めるときも健やかなるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、これを愛し、敬い、慰め、助け、命あるかぎり真心を尽くすことを誓う。

それは、遠い日に滅んだ宗教の言葉であるが、神の御名をこえて受け継がれている美しき祝福の言葉でもある。

妻と夫となりし日から数年、新王朝の黎明同様に波乱の出来事を重ねた彼らであるが、今また新しい日々へと一歩を踏み出した。

輝かしい未来へ、美しく愛に満ちた日々へ、麗しき結婚生活は明日もつづいていく──!

 




【あとがき】
複雑なキャラクターが多い銀英伝の中で、終始シンプルな生き様を貫くビッテンフェルトがとても好きです。
彼をメインキャラクターにラブストーリーを書きたいなと着想した時、「ビッテンフェルトをひたすらインフレさせること」と「ヒロインのスペックを彼と真逆にすること」を最初に決めました。
筋骨隆々←→病弱、武闘派←→頭脳派、猪突猛進←→考えすぎ、言葉足らず……と設定していった結果、とんだぽんこつヒロインが出来上がってしまい、物語の構成を組む段階が一番苦労したように思います。
しかし、いざ文章を書き始めると極端な性格のキャラクターというのは意外と書きやすく、上下左右に振れる二人の感情を楽しく書くことができました。

改めまして、私の拙いお話に最後までお付き合いいただいた皆さまに感謝申し上げます。
読んでいただき本当にありがとうございました。
また、誤字脱字の校閲をしてくださった方、本当に助かりました。ありがとうございます!

※「活動報告」に執筆者コメントとアンケートを載せていますので、よろしければご覧くださいませ。


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【番外編】ビッテンフェルト提督の”もう少しで麗しくなりそうな”結婚生活【挿話】

大輪の薔薇より純潔を表す白い百合。

いや、それよりも春の終わりに咲く鈴蘭のような魅力が我が妻にはある、とビッテンフェルトは感じている。

光に透けてしまいそうな白い肌や可憐でありながら楚々とした澄んだ美貌、夏の暑さの前に萎れてしまう儚さもよく似ていると思うのだ。

 

(可愛らしく見えて、根や茎に毒があるというところまであるいは……。)

書籍の山とコンピューターの仄暗い光の中に埋もれて一日を過している妻の様子を思い出すと頭痛がする気もしてくるのだが、それでも不快だとは思えない。

 

「フリッツ様」と名を呼ぶ鈴のような声を思い出すと、胸が熱くなる。

恒星輝く漆黒の銀河を駆ける時や居並ぶ敵艦隊を前に激情を高ぶらせる瞬間とはまた違う、甘く胸を締め付けられるような高揚、それは紛れもなくアンジェリカだけがもたらしうるものなのだ。

 

その妻との関係は、いよいよ進退窮まった状況に置かれている。

戦場においては、「攻勢あるのみ」と猪突猛進で知られるビッテンフェルトであるが、風にも耐えぬというような妻を前に完全に攻め手を欠いてしまっていた。

夫婦のために設えられた寝室に、ビッテンフェルトは未だ一人。

私室から移る様子のないアンジェリカをどうにかして呼び寄せたいと思うのだが、ひたすらに武門の人であるビッテンフェルトに深窓の令嬢との交際歴などあるはずもなく、いかんせん方法が思いつかないでいる。

 

振り返るほどに、婚儀の夜が悔やまれる。

「疲れているか」などと尋ねずに、そのまま抱きすくめてしまえばそれで良かったではないかと思うのだ。

けれど、病がちで世間知らずという彼女の性質と触れればたちまち溶けてしまいそうな白い肌を思えば、とても強引に迫る気にはなれなかった。

それ以上に、いかにも世慣れない様子の妻に無理を強いた結果、もしも嫌われてしまったら──。

とにもかくにもそれだけは絶対に避けたいという思いが、今もって強くある。

 

 

だが、ここにきて夫婦にとって新たな問題がついに発生した。

別々の部屋で過す夜を幾晩と重ね、もはやこれが普通になってしまうのではとビッテンフェルトが危惧し始めた矢先、アンジェリカの様子が変質した。

所作がおかしいというのではない。

彼女にとってはありがちなこととも言えるのだが、ひどく塞ぎがちになって顔を曇らせることが多くなり、ビッテンフェルトの顔を見ると狼狽えるように顔を青ざめさせるようになった。

彼女の性格について、ビッテンフェルトの知るところでは、「ひどく心配性」というものがある。

有力貴族の娘として生まれながら社交界すら縁遠く、故郷の惑星で引き籠もるような暮らしをしていたのだから、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。

世俗を知らぬ令嬢から艦艇を率いて戦線に立つ帝国軍人の妻となったことで、その明晰な頭脳も手伝い、彼女の頭は不安や心配で埋め尽くされてしまっているらしい。

 

一方で、銀河帝国内部の政治対立も深まりつつある。

第36代皇帝、フリードリヒ四世が崩御したのだ。

漁色を好み、複数の女性との間に13人の子をもうけたが、生き延びたのはわずか二人の皇女と幼い孫一人のみ。

宮廷を牛耳るリヒテンラーデ侯と皇女の外戚であるブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯の対立は深まり、ビッテンフェルトの上官であるラインハルトもこれに深く関わろうとしていた。

 

執務のため遅い帰宅が続く中、アンジェリカと顔を合わせる時間は減っている。

どんなに戻りが遅くなろうと必ず自分を待ち、夫の無事を確かめるように安堵の視線を寄越すアンジェリカを健気とも思い、もどかしくも感じていた。

 

その晩も、ビッテンフェルトの帰宅は遅かった。

いつものように使用人たちに出迎えられ、奥の居間へと向かう。

そこでアンジェリカの青白い顔が夫の帰りを迎えるのも、平素の通りだった。

 

「アンジェリカ。身体が辛いなら、先に休んでいても良いのだぞ。」

心細そうに視線を揺らして自分を見るアンジェリカについそう告げた。

はっとなったように妻の目が見開かれ、「いえ」と小さく言うのだが、その声はほとんど消えそうなほどである。

傷ついたような表情をしてアンジェリカが顔を伏せたのと、「しまった」とビッテンフェルトが自分の失言を悔いたのはほとんど同時だった。

 

「ち、違うのだ。アンジェリカ、俺が言ったのは……待っていなくてもいいという意味ではなく……!」

慌てて言い繕いながら、彼女に土産を買っていたことを思い出した。

滋養に良いと評判の質の高い蜂蜜で、彼の副官が多忙な上官に代わって街で手に入れてきたものだった。

花や菓子などあらゆるものをビッテンフェルトは妻に贈っていたが、何がアンジェリカの心に響くのかは実のところよくわかっていない。

有り体に言えば早くもプレゼントのネタ切れというところだったのだが、「奥様はお身体が弱いということですから、蜂蜜などいかがですか」という幕僚のアドバイスによってその一品にたどり着いたのである。

 

「疲れが取れて、身体にもいいらしいのだ。これはオイゲンが……。」

言いかけてまたはっとなる。

「副参謀長に選んでもらった」など、やはり余計な一言である気がした。

 

「ありがとうございます、フリッツ様。」

弱り切ったと眉を寄せるビッテンフェルトの手から蜂蜜の小瓶を受け取って、アンジェリカは礼を述べた。

微笑もうと口角を上げて見つめる仕草は不器用で、それでもなお美しい。

 

いつもの通り自室へと引き上げていった妻の後ろ姿を見送って、途方に暮れた。

なんという女性を妻にもらってしまったのだと、畏れとも後悔ともつかぬ感情がつい湧いてきている。

美術品に生命を吹き込んだかという美女である。

そのような女と自分のような武辺者が釣り合うはずがなかったのではないか、生まれも育ちも違う者同士が添うということがこれほど難しいことだとはと、勇壮な武人で知られる彼らしからぬ考えに囚われそうになった。

 

「旦那さま。」

肩を落としたビッテンフェルトに声をかけたのは、執事の男である。

アンジェリカの父であるマッテルスブルク侯が故郷の惑星から呼び寄せた、老年の紳士だった。

過保護の上に過保護を重ねたようなマッテルスブルク侯が、「娘の家を任せられる」と太鼓判を押す、いわば侯爵の腹心とも言える人物である。

 

「な、なんだ。」

夫婦関係の不調を侯爵に報告されでもしたらと身構えたビッテンフェルトだったが、執事の発言は彼の疑いとはまるで真逆のものだった。

 

「出過ぎたこととは思いますが、奥様……いえ、お嬢様のことでございます。」

幼い頃からのアンジェリカをよく知るという執事は、その篤実そうな顔に若者を諭すような優しげな表情を浮かべて言った。

 

「私はお嬢様が幼少の頃よりお仕えしておりますが……旦那さまもご存じの通り、お嬢様は世知というものにお詳しくございません。ですが、その分だけ素直で心優しい方なのです。」

 

「……うむ。」

アンジェリカに邪な部分があるとは、勿論思っていない。

そんなことはわかっていると執事の意図をはかりかねるが、老年の男はなおも言い聞かせるような表情でビッテンフェルトを見ている。

 

「お嬢様のご心配は、きっと旦那さまと同じものだと思うのですが。」

 

「!!」

瞬間、全身の毛穴が開いたようになり、冷や汗が吹き出してきた。

恥ずかしさで火照る顔を隠せずに、ビッテンフェルトは慌てた。

 

「そ、それは……!それは、俺とて男だ。妻に触れたいと思わないはずがない。だが、アンジェリカは身体が弱いと聞くし、それに俺はこのような男であるから、そのつまり……つまりだな……ああ、くそッ!」

開いた口が自然に喋り出し、ますます慌てる。

むず痒いような決まりの悪さと言い訳がましい自分への羞恥で、ビッテンフェルトの勇ましい顔は真っ赤に染まった。

 

「同じでございますよ。」

宥めるように笑みを浮かべて、執事が言う。

 

「お嬢様もきっと同じでございます。旦那さまに嫌われているのではとご心配なさっておいでなのです。」

 

「な、アンジェリカが……?!」

「嫌われるのが怖い」という惰弱を見抜かれたことは、気にしないことにした。

そんなことよりも、アンジェリカの気鬱の原因が、自分自身にあるのだとしたら……?!

 

「旦那さまからお声をお掛けくださいませ。」

 

「う、うむ……。」

執事の言葉は、慣れぬ恋に臆病になっていた男を十分に勇気づけるものだった。

勇猛にして果敢、精錬にして豪毅、退くことをこそ卑とするのが、ビッテンフェルトという男である。

猛将の呼び名に相応しく、彼は前進を決めた。

全速前進、全艦集中、一気呵成、彼が取るべき戦術は、常に前を向くことと定まっている。

 

 

「あ、アンジェリカ……!」

新妻の私室の扉を叩く声は、緊張と興奮で高く上擦ってしまった。

発した声の気まずさを「んん」と喉を慣らして整えて、もう一度妻の名を呼ぶ。

 

「アンジェリカ、まだ起きているか。」

今度は、優しく呼びかけることに成功した。

 

緊張で身体が強ばり、脂のような汗がじわりと滲む。

どれほど困難な戦局であっても恐れを知らぬ勇将の胸は、今、期待と不安という二種類の感情に激しく揺さぶられている。

呼びかけた部屋から返る言葉はなく、けれど中で人の動く気配がする。

 

「今日買ってきた蜂蜜なのだがな、何やら高級な花から集めた珍しいものらしい。そのような嗜好品に俺はあまり詳しくないが、その……とても美味いと聞いているし……。」

カタリ、と何かが当たる音がして、それからゆっくり扉が開く。

顔を覗かせたのは、未だ青白い顔をした彼の妻だった。

 

「フリッツ様……。」

けれど、その妻の表情が、ビッテンフェルトを見つめた途端にほんのりと朱を滲ませて染まる。

帝国軍随一の猛将は、進撃を告げた。

 

「ワインに入れてもいいらしい。だから、どうだろう。明日の夜は出来るだけ早く帰るから……二人で少し……話さないか。」

涼やかな湖面を染める太陽のように、アンジェリカの頬をまばゆい光が横切った。

 

「では、良いワインを……用意しておきますわ。」

花が綻ぶように微笑んで、勇気ある夫の申し出を彼女は素直に受け入れた。

思わずほっと息を吐いたビッテンフェルトに少しだけ驚いたような表情をしてから、彼女は小さく頷いたのだった。

 

 

そして、翌日の晩──

落ち着かない気持ちで一日を過し、駆けるようにして帰宅したビッテンフェルトは妻と久方ぶりの食卓を囲み、そして蜂蜜を垂らしたワインを手に向き合った。

 

「あ、アンジェリカ……?」

淡く色づく頬と葡萄酒の色に染まった口唇。

何も知らぬ清らかな乙女という風情だった妻の表情は、まるで別人のように変わっている。

 

「どうなさったのですか、フリッツ様……?」

青白く透けてしまいそうだった手の甲までが生気を帯びて輝き、細い指先がほんの少し動くだけでも艶やかに感じるほどだった。

瞳の縁を酒精に染めて夫を見る妻の表情は、その涼やかな美貌と相まってこの世の存在とは思えぬほど美しく、そして蠱惑的だった。

 

手を取ってやると、いつもは冷たいほどの指先が熱く燃えるようだ。

このまま抱き締めて口付けたいという衝動が激しく胸を突くが、きっと礼儀に反するだろう。

それに、何も急がずとも美しい妻のすべては夫である自分のものと定められているではないかと己に強く言い聞かせる。

今宵、ついに名実ともに夫婦となるのだと思えば、心震えずにはいられない。

 

「少し横になるといい。アンジェリカ、寝室に行こう。」

新妻の夫らしく、極めて紳士的に声をかけ、身体中で暴れる熱を押しとどめる。

夫に手を引かれ、アンジェリカも立ち上がった。

 

縋るように絡みつく指先の強さや甘く漏れるため息、そのすべてに感動しつつ、妻の新しい一面を知ったことに驚かされている。

美しいながらどこか人形のようだとも感じていたアンジェリカに対し、生身の女としての情熱をはっきりと感じていた。

 

「あっ……。」

立ち上がったアンジェリカの身体がよろめいて、ビッテンフェルトの逞しい胸へと倒れ込む。

「オーディンよ!」と思わず叫びそうになった彼だったが、これを耐えて細い身体を抱き留めた。

 

強く抱けば折れてしまいそうなほど華奢な、愛しい妻の身体。

襟元から覗く肌は淡い桃色に染まり、夫に触れられることを望むように色づいている。

視線は、釘付けになった。

ごくり、とビッテンフェルトの喉が大きく上下し、口に溜まった唾液を嚥下する。

 

「フリッツ様……。」

それを感じ取ったようにアンジェリカの顔が持ち上がり、勇ましい夫の顔をじっと見つめた。

 

「フリッツ様、わたくし……。」

濡れて艶めく紅い口唇に、引き寄せられる。

吐息がかかるほどの距離になり、ついに二つが触れ合うかという瞬間──

形のいいアンジェリカの口唇が「すう」と息を吐き出し、そのまま目蓋が閉じられた。

 

「あ、アンジェリカ……?」

 

今やすっかり脱力したアンジェリカの身体が、ビッテンフェルトの腕の中にある。

アルコールで火照り、そして相変わらず完璧な容貌をしていたが、彼女は確かに──眠っていた。

 

「アンジェリカ?おい、大丈夫か、アンジェリカ……!」

慌てて両腕で抱きかかえ、瞳を閉じた新妻の顔を覗き込む。

その表情は安らかで、彼女が穏やかな眠りの中にいることをはっきりと示していた。

名を呼べば、「うんん」と返事ともつかぬ反応が返ってくるが、幾度声をかけても目を開ける様子はない。

 

「なんということだっ……!」

「世間知らず」の妻は当然に酒とも縁遠いという事実を、見落としていた。

そのことに今、気づかされている。

愛しい妻は夫の腕の中にあり、しかし穏やかな眠りの世界の住人となっていた。

 

 

こうして、決意のもとにその日を迎えた二人にとって、麗しき夜となるはずの時間は、思いもよらぬ結末で幕を閉じた。

けれど、ともかくもビッテンフェルトはこの晩、夫婦の寝室に妻を迎えるということに成功した。

それは、この一組の夫婦にとって間違いなく大いなる一歩だった。

生まれも育ちも、容姿も性格も、あまりにも共通点のない歪な二人だが、どうやら生来の真っ直ぐさだけは似た性質をもっているらしい。

 

いつかきっと、心重ねるその日まで。

オーディンよ、どうか彼らの行く末をあたたかく見守ってほしい──。

 




四年に一度のビッテンフェルト提督のお誕生日に、提督とアンジェリカの結婚生活の「挿話」を投稿いたします。二人が結婚して少し経った頃……というイメージで書いています。
楽しんでいただけたら幸いです!


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