未だに見えぬ朝を乞う (明科)
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序章:原作開始前編
0:柊未明の世界再誕


唐突過ぎる異世界トリップ。






その日、少年は一筋の流星を見た。

 

少年の住処は流星という名のつく街だったが、空気が澱んでいるせいか、ぼおっと夜空を見上げたことがないせいか、それまでそれらしき流星を見たことがなかった。

だが“それ”は否が応でも少年の、いや少年を含む全ての街の住人の視界に無理矢理入り込んで来る程に眩かったのだ。

夜空を見上げていた訳でもないのに、室内にいたのに、強制的に眼球に差し込んでくる光。

赤い光だと認識した次の瞬間には、強過ぎる光刺激の為に視神経が一時的にいかれてしまった。

 

何起きたのか分からず真っ白で何も見えない状態の中、次に聞こえたのは体を震わせる轟音。

これも音として認識するより先に、振動として体に伝わって来る程大きかった。

まさか、と少年は思った。

どんなものでも流れ着く街だが、星までが流れ落ちてくるなんて。

 

一般的に、空を流れる星は地上に落ちない。

地上に落ちる星のことは隕石、と呼ぶのだが学んだことのない少年には知る由もなかった。

 

 

だがともかく、少年は未だチカチカする目を押さえながら自分の住処であるトタン屋根の小屋を出た。

狭い往来には一体何が起きたのか、と首を傾げる街の住人達が溢れている。

今はまだ夜明け前。

眠りについていた人がほとんどだったのだろうが、あれだけの光と音が届けば嫌でも叩き起されるというものだ。

 

向かいに住む顔見知りの男に何が起きたのかと尋ねてみれば、何かが空から落ちてきた、そして今は屈強な男達の何人かが確認しに行っている、とのこと。

普段は口下手な男が珍しく興奮した様子で饒舌に話してくれた。

この男は昔天文学か何かを学んでいたらしいが、そのせいだろうか。

だが少年は、星についてペラペラと熱く語る男などどうでもよかった。

ただ今は、あいも変わらずつまらなかった自分の目覚めをぶち壊した“流星”に興味があった。

廃棄物から金になりそうな物を拾ってそれを売る生活している少年と、同じ様にゴミ拾いで日銭を稼いでいる周辺住民。

それ故に周りがコソコソと起き出す音で、いつも少年は微睡みから覚めるのだ。

1度でいいから違う目覚めをしてみたい、そう思っていた少年にとって先程の目覚めは深層で願うものとは幾らか違えど、それなりに満足のいくものだった。

あくまで少年が本当に願っているのは、顔も知らない母親に朝起こしてもらうことだったのだが、しっかりとは自覚出来ていなかった。

 

 

唐突に人混みの前の方でどよめきが上がる。

少年は細い体を活かして、人と人の間をするりと通り抜け最前列近くまで到達する。

人間の肉壁を押し退け、低い身長ながらも必死に背伸びをして、すぐ目の前にいる筈の“何か”を見ようと躍起になる。

何故か立ち尽くす巨体の男の背に半ばよじ登る様にして、少年はやっと前を見ることに成功した。

 

そこで少年が見たのは、白目を剥いて地面に転がされる屈強な男達と、その男達の真ん中で悠然と微笑む紫の長髪の少女だった。

ぐるん、とその少女が首を動かし、赤黒く底光りする両目を彷徨わせる。

そんなに面白いものでもあるのか、少女は辺りを鼻歌交じりに見渡している。

 

ふとこちらを向いた。

そして目が合った。

少年が視線を外せない威圧感のまま、少女は嬉しそうに笑みを深くした。

 

「ねえ、貴方」

血でも塗った様に赤い唇を開いて、少女は確かに少年に声をかけた。

少年に近付いてきて目の前で呼んだのではなくても、少年にも周りの人間にも、彼女が少年を指名したのは分かった。

「貴方なら私の質問に答えてくれるかしら」

行けよ、と後ろから誰かに背中を押され、少年は少女の前に転がり出る。

みっともなくヨダレを垂らして倒れ伏す男の隣に膝をつき、少年は自分の背中からどっと汗が溢れ出るのを感じていた。

この少女は異常である。

全身から立ち上る気配が異様に禍々しく、力自慢の男達が無惨に地面に転がっているのも彼女のせいなのだろう。

危険を早くに察知して警鐘を鳴らすブザーが頭の中で鳴り響いている。

だが少年は、蛇に睨まれた蛙の様にそれ以上動くことが許されなかった。

 

「ここはどこ?」

「······流星街」

思ったよりも少年の口は滑らかに動いた。

限界を超えた恐怖は逆に、少年の心にある種の覚悟を抱かせていた。

「そう。スラムの様なものかしら。

···変ね、やっぱりそんな名前に聞き覚えはない。」

少女は眉を寄せて、残念そうに肩を落とす。

「ところで貴方、刀っていう武器を知ってる?」

こんな風に長い奴よ、と示してくれたのだが、そもそも少年は彼女の言うカタナという物がよく分からなかった。

東国ジャポンで使われている武器らしいが、実物を見たことがないため説明も出来ない。

昔そのカタナとやらを使う強い男がこの街にいた、そう聞いたことはあったのだが。

「カタナ···?」

「刀を知らないの、そう。いいわ、大体分かった。

貴方は私に攻撃してこないのね。助かった。ありがとう」

少女は地面でまだ伸びている男達を溜め息をつきながら見下ろす。

 

 

「お姉さんは流れ星なの?」

つい、口をついて出た疑問。

まだ大人になりきれない少年は、やはり自身の好奇心には勝てなかった。

言い様のない恐怖より、全身を潰す様な威圧より、少年の好奇心は強かった。

 

「···私、流れ星なの?」

大きく目を見開いて、少女は逆に問いかける。

「さっき、流れ星が落ちてきた。

真っ赤な光と、大きな音と一緒に。

ここは、多分その流れ星が落ちた場所だから」

「······なるほどね。

ああ、そういうこと」

少女は少年の答えに驚いた様子だったが、少しして要領を得たのか小さく頷いた。

「なら仕方ないわ。

この人達が私に飛びかかってきた時は何事かと思ったけど、そう、それなら仕方ないわね。

流れ星が何かが落ちてきたと思って様子を見に来たら、私が立っていたんだもの。

きっと宇宙人か何かに見えたのね」

ごめんなさいね、と足元に転がる男達に対して小首を傾げて詫びる。

全く思ってもいないのが丸分かりの口調で。

 

「お姉さんは···何?」

自分は流れ星でも何でもない、そんな口振りの少女に対し、少年は再び疑問を投げかけた。

「──────ただの化け物よ。

何にもなれない、人間にもなれない、ただの半端者。

···あーあ、遠くまで来ちゃったなぁ」

その瞳に映るのは郷愁か哀愁か。

少女の顔はそっぽを向いてしまい、残念な事に少年には分からなかった。

 

 

「あら、日が昇るわ」

再び少年の方を振り向き、地平線から昇りゆく太陽を指さした。

「綺麗ね」

同意を求めている様な言葉の癖に、綺麗だとは露ほどにも思っていない口調で囁いた。

「ほんと、この世界でも堕としてやりたいくらいに綺麗だわ」

太陽がその姿を現すにつれ少女から消えていく威圧感に少年は安堵しながらも、何故だか先程とは違う恐怖を感じていた。

 

今少年の目の前に立っているのは、くすくすと可愛らしく笑う普通の少女である。

ただの無害な少女である。

紫がかった灰色の髪が真っ直ぐ背中に垂れ、見慣れない服装だがその短めのスカートから伸びる長く肉付きの良い足はやけに妖艶で、白い肌が朝焼けに美しく映えている。

どこを取っても文句のつけようがない洗練された美少女がそこにいた。

汚いものも、穢れたものも、何も知らないかの様な清純な顔で愛らしく笑っている。

しかし彼女の倍はあろうかという体格の男達が、丸太の様に転がっているのは他でもない彼女の仕業によるものだ。

そうは見えない、到底想像出来ない事実。

そのことが酷く少年には恐ろしかった。

 

目に見える恐怖ならば良し、本能で感じられる恐怖も良し。

だが無害にしか見えない、そうとしか思えなくさせるこの少女は、一体何なのだろう。

一体、どうすれば良いのだろう。

 

 

「そうだ、私お腹が空いてるんだった。

いい場所知らない?」

声にはっとして前を見れば、少年の鼻先には少女の整った顔があった。

「あ、えと、その、あの、」

耳年増な癖に実体験がほぼない思春期真っ只中の少年は、思わず耳まで赤くして後ずさる。

「あは、可愛い。

グレンも深夜もこの位の可愛げがあれば良かったのに」

少女はふわりと笑い、少年からゆっくり離れていく。

「あ···」

さらさらと揺れる紫の髪が美しくて、それが遠くなるのが少し残念な気がして、ついつい少年は手を伸ばしそうになる。

 

「まずは腹ごしらえしてから考えることにしようかな」

この場所の事も知りたいし、と少女は少年の隣に立つ。

案内してもらう気満々なのが丸分かりだが、少年はここで疑問が1つ。

「···お姉さん、お金持ってるの?」

「······奢ってくれたりする優しい子はいないかなぁ?」

きっかり5秒の沈黙の後、両掌を組んで顎の下に持っていき首を傾ける。

そうしてきゅるん、という可愛らしい音が聞こえそうな笑顔を弾けさせ少女は少年を見つめてくる。

 

今目の前で笑う少女に対して少年はまだ恐怖を抱いているし、そもそも流れ星の様に突然落ちてきた得体の知れない存在である。

金を貸してやる義理はどこにもないのだが、余所者も怪しい者も簒奪者にならない限り受け入れるのが流星街だ。

それに何より、どうしても嫌だと言えない程少女は魅力的だったのだ。

「···後で返して欲しいな、お姉さん」

「うん」

申し訳なさや罪悪感がまるでゼロの即答に対し、いや返す気ないでしょ、とツッコみたくなる少年であった。

 

少年は美しい少女に少し見栄を張りたくて、金の入りが良い時に使う飯屋へと少女を案内して歩き出す。

そんな普通の様子を見て、流星街の住民達は何だ新入りか、とこちらを見ながらも人混みから抜けていく。

最前列以外は少女の異常性を直接見ている訳ではない。

今柔らかな微笑みを浮かべて歩いている状態では、そんなこと想像もつかないだろう。

だから、夜明け前に人々を叩き起した眩い光と轟音の正体を知らぬまま、特に何事も無かったと思ったまま普段の生活に戻っていく。

だが今日この日から、自分の人生は少しだけ変わるであろうことを少年は予想していた。

期待ではない。

されど絶望ではない。

単調な生活という名の凪いだドブ沼に、唐突に空から投げ込まれた石は大きな波紋を描く。

 

 

赤茶けた飯屋の看板の前で、少年はふと思い出した。

そういえば名前をまだ聞いていなかったな、と。

「お姉さん、名前は?」

 

ざあっと砂埃が舞い、少女が軽く紫の髪を押さえる。

その風が止むのを待ち、それから少し迷った様に少年に薄茶色の瞳を向ける。

少年が辛抱強く待っていると、少女は諦めた風に赤い唇をはくりと開く。

 

「─────柊未明。

···ああ、この世界ではこうじゃないのね。

ミメイ=ヒイラギ。それが私の名前よ」

「ミメイ···」

少年が復唱するのをくすりと笑って、すっかり昇った太陽を見上げる。

「そう。未だ明けない夜、それが私の名前。

ちなみに私の双子の姉は真昼っていうのよ」

「マヒル?」

名前としては聞き慣れない言葉に対し首を傾ける少年。

「そう、お昼ご飯食べる真昼」

昔、遥か昔に、その双子の姉が愛する男に言われたという言葉をなぞってみる。

 

「さて、私はそろそろ朝ご飯を食べたいんだけど。

んー、さっぱりね。どれも分からない」

自身の短いスカートを気にもとめずしゃがみこんで、地面近くに貼られた適当なメニュー表を見やる。

あらわになる白い太腿からそれとなく視線を外した少年は、飯屋のドアを開けながら物知り顔で語り出す。

「そうだなー、ミメイお姉さんはどんなのが良い?

ここのおすすめはさ、」

 

 

そんな少年に続いて少女───ミメイは立ち上がる。

 

 

唐突に流星の様にしてこの街に落ちてきた彼女は、まだ何も知らない。

それでも彼女は知っている。

何も分からないからといって、ただ泣いてうずくまっているだけでは誰も助けてくれないと。

必要なのは力である。

だから彼女は立ち上がる。

何も分からなくとも、自分の力で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────これは、真っ直ぐに歪みながら破滅へと向かう物語である。

 

 

 

 




真昼さんの双子の妹ですからそれなりにお強いんでしょう?
ただしチートとは言い難い。


この後散々たかられる少年はモブです。


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1:異邦人と不審者

早くも原作キャラとの遭遇。







柊未明、改めミメイ=ヒイラギは異邦人である。

世界のゴミ捨て場、無いことにされている場所、どんな流れ者も受け入れる流星街においても紛うことなき異邦人である。

 

そもそも彼女はこの世界の住民ではない。

世界を巻き込んだ恋物語と姉妹喧嘩の末に、どこかの誰かの計画の通りに、彼女だけがこの世界に流れ星のようにして落ちてきたのである。

ミメイが生まれた世界は今頃、神様の怒りに触れて滅亡寸前であろう。

恐らくそれを引き起こした張本人が自分自身と、切っても切れない縁の知己であるが故に、責任の一端以上を感じる彼女はどうにかして元の世界に戻ろうと努力はしていた。

 

ひとまず気の良さそうな少年に目をつけて飯をたかり、彼が持っている情報を全て引き出した。

しかしこの狭い流星街しか知らない彼では、この世界の全容を知るには力不足である。

仕方なくミメイに乱暴をしようと思って近付いてきた不埒者を難なく素手で返り討ちにし、脅して洗いざらい吐かせてみたものの、少年とどっこいどっこいの情報量であった。

 

よく分からない異世界に突然落ちて早1ヶ月。

ミメイの収穫はハンター文字というらしい難解な文字を少し読める様になっただけであった。

酷環境の流星街で生きていくため時折心優しい住人達にたかったり、毎日不埒者からカツアゲしたりするのがやっとである。

一通りの尋問や拷問、薬物に耐えられる訓練を受けてきたミメイであったが、所詮は巨大呪術団体を率いる“柊様”の1人───お嬢様育ちなため、スラム街タイプの酷環境に慣れるのには時間がかかったのだ。

 

 

はてさて今日もミメイはルーチンワークと化してきたカツアゲを終えて、戦利品を手に屋根の下へと身を隠す。

周辺に呪符を張り巡らせたこの小屋は、五畳一間と余りに狭いが人間も動物も近寄らせない小さな要塞となっている。

当時の呪術科学では実現不可能と言われた鬼呪装備を完成させた柊の双子の片割れであるミメイにかかれば、オンボロ小屋の魔改造程度ちょちょいのちょいであった。

人避けの呪符も貼り付けておいたお陰で、ミメイの狭っ苦しい新しい基地には誰も訪れない。

元来人間と出来るだけ関わらない様にしている彼女にとっては好都合である。

 

小屋の隅の木の壁に寄りかかってうずくまり、ミメイは目を閉じる。

隙間風が気になる壁を直さなければ、と頭の端っこで考えながら彼女自身の心の奥へと潜っていく。

 

人は一般的にこの行為を睡眠と呼ぶのだが、心に言葉通り鬼を飼うミメイにとって睡眠は心安らぐ時間ではない。

自分の精神肉体ともに最も無防備な時であり、鬼にその隙を狙われないようにある種の緊張感を持って挑むべき時間である。

 

 

変な浮遊感を味わった瞬間、ぱっとミメイの前に広がるのは真っ白な世界。

そこに黒色の欠片さえ見受けられないことに安堵して、心の奥深くに眠らせている鬼を細心の注意を払って呼び起こす。

ここで少しでも気を抜こうものなら、鬼が未明の心を侵食してしまう。

長年鬼と付き合っていながら、今まで1度も鬼に心を喰われたことのない未明としては、これからもそうしていきたいと考えている。

完全に鬼に心を喰われ果て、壊れ切ってしまった双子の姉の様になる訳にはいかないのだ。

 

 

『貴方は駄目よ、だって私を制するのが貴方の役割だもの』

 

 

そう言って自分独りで自分だけの体を使って、実験を始めたあの馬鹿真昼は、最期にちゃんと愛する男の腕の中で死ねたのだろうか。

 

 

「“鬼宿(たまほめ)”」

鬼の名を呼ぶ。

心は清き水鏡、少しの漣も立ててはならない。

 

何も無いというのにぐわりと体に嫌な圧迫感がかかる。

それを我慢したまま、ミメイは心の深層部分から半紙に垂れた墨汁の様にじわりと現れた黒い靄を睨みつける。

世界を出来るだけ白く保ったまま、黒に侵食させないまま、それを強く意識して見守ること数秒。

黒い靄が晴れた後には、長く艶やかな金髪を靡かせ妖しい赤い目を光らせる鬼。

 

黒基調の露出高めなゴスロリ服を身にまとったその姿は、ただの無垢な愛らしい幼女にしか見えないが、そもそも幼“女”ではないしそのような可愛らしいものではない。

その証拠に、鬼の両手、両足、首には金色の鎖が巻き付き、鎖の根元は白い世界と結びついていて、余計な動きは出来ないようギチギチに拘束されている。

そうやって拘束しておかなければ、この鬼は今すぐにでもミメイに襲いかかってくることだろう。

 

『やあ未明』

鈴が転がるような声で鬼は笑った。

鎖を気にすることなく、まるで親しい友人に会ったかの様に手を挙げながら。

「おはよう、タマ。今夜の目覚めはどう?」

未明は生まれつき自身の心に棲みついていた鬼───鬼宿のことをタマと呼んでいる。

親しさ故ではなく、飼い猫の様にして呼ぶことで少しでも優位性を見せ、鬼を飼い慣らす為である。

年の離れた妹のシノアには、鬼に適当なあだ名でも付けるのが鬼制御の基本だと教えたが、彼女は実践してくれただろうか。

とはいっても、あの妹は未明は勿論真昼とも次元が違うレベルの天才である為、そんな小細工をしなくとも制御可能だろうが。

 

『悪くないよ。この鎖さえ無ければ』

邪魔だなぁ、これ、と鬼───鬼宿が首から伸びる鎖を手に取る。

「拘束を解いたら容赦なく喰う癖に」

『まあね。

長年君に蓄積された欲望はどんな味がするんだろう。

それを考えただけで······あは、ぞくぞくするなぁ』

正体はともかくいたいけな幼児がその顔を恍惚で歪めるのは、何ともコメントしがたいアンバランスさである。

 

「はいはい、味わうことはないから残念ね。

それに真昼やグレン程私の欲望は美味しくはないんじゃないかしら。

大きな野望も無いし。恋もしていないし」

人間の心に際限なく湧く欲望を鬼は好む。

欲望を糧にして鬼は力を増し、いずれは宿主である人間の心を喰らい尽くしていく。

そうすれば最早人間は人間ではなくなり、排除すべき鬼となる。

それが分かっていた未明は、人間の三大欲求程度の軽いものだけを糧として鬼に与え、それ以外の欲望は鬼に渡さない───そもそも抱かない様に調整してきた。

 

 

『そう言ってられるのも今のうちだよ。

未明、君は必ず僕を求める。

あれが欲しい、それが欲しい、だから力を寄越せ。

そう叫ぶに決まってるのさ』

「力は寄越してもらうわ、これからも。

でも貴方に私の心を喰わせるつもりはない。」

鬼宿を更に押さえつけるイメージを作り、鎖をギリギリときつくする。

しかしそれを気にもとめず、寧ろ愉しそうに鬼宿は笑う。

『あは、ほんっと未明は馬鹿だなぁ。

君はあの真昼の妹なんだ。

いつかは必ず燃える様な恋をして、その炎で身を焼くんだ。

グレンと一緒にいられる場所が欲しくて、それでも妹達を守りたくて。

そうして他にやりようが無くなった末に壊れた真昼の様に、君もなるんだよ未明』

「黙って」

 

鬼宿は止まらない。

更に強まる拘束を鼻で笑うかの様に、声音を高くする。

『仲間も守りたい、それでいて真昼も助けたい。

あまつさえ世界を救いたい、なんて願った奴もいたっけ。

馬鹿だよねぇ。

でも馬鹿みたいに可愛いから真昼も未明も、皆グレンに惹かれたんだろ?』

「タマ、黙って」

『未明だって真昼みたいにグレンみたいに、多くを求めたかったんだろ?

多くを欲しがりたかったんだろ?

でもそれは出来なかった。

君は制御役だから。皆のストッパーだから。

君だけは欲望に身を任せる訳にはいかなかったから』

「タマ、今日はやけにお喋りね」

鎖を動かして、鬼宿の小さな体をぺしゃりと地面に叩き落とした。

無様に這いつくばった鬼宿を見下ろし、その頭を踏みつけてやろうと狙いを定めるがごとく鋭く睨みつける。

「そんなに喋りたいならそろそろ私の質問に答えて。

貴方、どうして私がこの世界に来てしまったのか、知ってるんでしょ」

 

ここでは柊未明はミメイ=ヒイラギの言い方が正しいことや、そもそもここが元いた世界とは違うということをそれとなく囁いて教えたのは鬼宿である。

何らかの事情を知っているものと見て、ミメイは再三鬼宿を問い詰めたがずっとだんまりである。

鬼宿の心を覗いてみようかとも考えたのだが、それは同時にミメイの心が無防備になる。

そのリスクは避けたかった。

 

 

「貴方が知っていることを吐いて欲しいんだけど」

『嫌だよ。まだ時じゃない。

君が欲望を抑えきれなくなるまで、力を欲するまで、僕を求めるまで、僕は喋らない』

前も言っただろ、と鬼宿は溜め息をつく。

「···これだけは教えて。

私はもう、元の世界に帰れないの?」

『さあ』

大分譲歩して尋ねたというのに、それにも素っ気ない答えを返す鬼宿。

 

「······反抗的」

鬼宿の傍にしゃがみこんで、地面に流れるさらさらの金髪を撫でる。

と同時に、指通りの良さと文句無しの艶に対して軽い憎しみを覚える。

『未明が僕を虐待するからだろ?』

「人聞きが悪いわ。

私はただ、私を喰おうとする鬼から身を守ってるだけ。

人間として当たり前の本能よ」

鬼宿の長い金髪を弄って三つ編みを作る。

手先の器用なミメイはよくこうやって妹の髪を結っていた。

三つ編みを作って、後ろでまとめて、大きめのリボンで止めて。

双子の姉とミメイはストレートなのに対し、妹はふわふわした髪質で、それがとても可愛くてよく髪を弄っていた。

 

『やめときなよ。

三つ編みなんかしたら、可愛い僕が更に可愛くなっちゃうだろ?』

妹は元気だろうか、と鬼宿の髪を妹の髪に重ねて丁寧に編んでいると生意気にも抗議をしてくる。

「貴方見た目は良いんだから。

遊ぶのにはもってこいなの」

完成した綺麗な三つ編みに満足して、正面からよく見る為に鬼宿の体を起こさせる。

『なら鎖外してよ。

その方が飾り立てやすいじゃないか』

細い首をこてんと可愛らしく傾げる。

その姿はショーウィンドウに飾られた精巧な人形の様である。

 

「いやよ。

そんなに地面とキスしたい?」

『うーん、未明のスカートの中身が見れるのは悪くないけど、やっぱり座るか立つかの方が楽かな』

「あら、私のパンツの色に興味があるの?

戦闘中に真昼のパンツに気を取られた間抜けなグレンみたいね」

『色はどうでも良いけどさ紐パンはやめときなよ、脱げやすいよ、って痛い痛い!』

両頬を容赦なくビヨンビヨンと伸ばされて、鬼宿は牙がしっかり見える程口を開けて叫ぶ。

 

「これしかなかったから仕方なく履いてるの。

紐パンは私の趣味じゃない」

顔が赤くなったり早口になったりはしていないが、必死の言い訳がミメイが羞恥心を抱いていることをはっきりさせている。

『男は好きだろうけどね』

「···。」

『あれ、黙った。紐パンを見せたい男でもいるの?』

「···違うもん」

弱い否定の後、ミメイは疲れた様な吐息を1つ。

 

 

「今日こそ真面目に話そうと思ったのに。

問いただしてやろうと思ったのにな」

『無理だよ。

僕は君が大好きだし、同じ様に君も僕が大好きじゃないか。

僕を本気で虐めるなんて無理無理』

「私は嫌い」

『そんな嘘言うなよ。

16年の仲だろ?それなりに仲良しなのは自明なんだからさ』

鎖を引きずりながらするりとミメイの背中に貼り付き、耳元で優しく囁く。

「うるさい」

『あは、そう言う割にあんまり嫌がってないじゃないか』

「はあ」

じゃれつく鬼宿をそのままにして、ミメイは真っ白なままの自分の精神世界を見渡す。

何も無い。

何も無く、ただ白い。

黒の一欠片も無く、清廉な白さを誇っている。

 

それにミメイは満足し安心して瞼を閉じようとしたのだが、突然首筋にはしるピリリとした殺気に跳ね起きる。

精神世界ではない。

体がある現実世界に何か嫌なものが迫っている。

「タマ」

首に手を回している相棒を呼ぶ。

『うん、何か来たみたいだね。

早く戻った方が良い。強いよ、多分』

「言われなくても」

 

 

次の瞬間、ミメイはガタリと体のバランスを崩して睡眠から覚めた。

背中に感じるのは鬼宿ではなく、ただの冷たい木の壁。

周りは白い世界ではなく、薄暗く埃っぽい五畳一間。

鬼との語らいから、精神世界から戻ってきたのだ。

精神世界で感じた嫌な殺気は確実に近付いてきている。

ミメイを狙ってのものかどうかは知らないが、人避けの呪符がいくつか破壊されたらしい。

 

素早く人差し指を噛み切り、染み出した血を使って紙切れに幾何学模様を書きなぐる。

その紙切れを両掌で包めば、ふわりと空中に浮かび上がる。

「行け」

簡易式神と化した紙切れに命じ、それがドアの隙間から勢いよく外へ飛び出していくのを見守りながら、ミメイは新たに呪符を生成する。

ストックは十分にあるがこれらはいざという時の虎の子である。

そう簡単に使う訳にはいかないのだ。

 

しかしながら─────

「···式神が」

消えた、そう言おうとした瞬間

『来るよ!』

と、鬼宿の声が頭に響き、開き始めたドアに向かってミメイは反射的に呪符を投げる。

まともに当たれば痺れて動けなくなる様な強い呪いを込めたのだが、呆気なくはらりと切って落とされた。

 

腐っても名門柊様である。

しかも呪符に関しては、その技術で姉の婚約者の座を勝ち取った深夜と鍛錬をしていた。

実力に裏打ちされた自信はあった。

それなのに簡単に防がれるなんて、とミメイは唇を噛む。

ここまで呪符が通用しない相手にこの世界で初めて遭遇したのだ。

悔しさと焦りがミメイの思考を奪おうとする、が、既の所で踏み止まり無理矢理冷静になる。

木製のドアが土煙を上げながら床に倒れるのをチラリと見てから、その煙の向こうに薄らと人影があるのをミメイは確認する。

嫌な殺気だ。

半端なことをすれば殺される、そう本能が囁き警鐘を鳴らしている。

 

 

「お前が流星街に落ちた流星で間違いないか?」

ミメイがミメイであるか、という確認。

煙の向こうの侵入者からの問いに、ミメイの背に冷や汗が伝う。

「···そうだったとしたら?」

「さて、どうしようか」

どうしよう?そんなの決まってる癖に。

こんなに殺気を溢れさしておいてよくもまあ、とミメイは腰を落とす。

 

「おいで、鬼宿」

瞬間、ミメイの右手に禍々しい気を放つ黒い刀が現れる。

鬼呪装備をもう使う羽目になるとは、と弱音を吐きそうになるがそんな訳にもいかない。

ゆっくりと煙をかき分けて、侵入者が姿を現そうとしているのだ。

嫌な殺気を連れて。

 

「具現化系か」

聞き覚えのない言葉を発して、ついに侵入者はその全貌をミメイの前に晒した。

黒い髪に黒い目。

白いシャツに黒いズボン。

一見普通の青年に見えてミメイは拍子抜けしそうになるが、纏う殺気と異様な雰囲気に慌てて気を引き締める。

「貴方、誰?

ここは私の縄張りなんだけど」

カチャリと刀を構え、どう斬りかかるかのシュミレーションをいくつか考える。

 

「俺か?」

丸腰の青年は人懐こそうに、まるで好青年の様に微笑んでから首を傾げる。

「人に名を尋ねる時は自分から、だろう?」

「いたいけな少女の睡眠を邪魔する不埒者に名乗る名前はないわ」

「いたいけな少女は刀を構えない、そう俺は思うが」

「世の中物騒だもの。この位の自衛は必要よ。

で、貴方の名前は。

貴方が名乗るなら、私も自己紹介の1つや2つ、いたいけな少女らしく可愛らしくこなしてあげる」

目を逸らすなよ、背中を向けたら駄目だ。

そう忠告する鬼宿に従い、ミメイは余裕ぶって笑みを浮かべる。

 

「俺の名前はクロロ。

流星街に落ちた流星が気になった、ただの通りがかりだ。」

「そう、ならクーさんね。

初めましてクーさん。

私はミメイ=ヒイラギ。16歳のいたいけな美少女。

多分貴方が言う通り、流星街に落っこちた流星は私のことよ」

「クーさん?」

きょとんと不思議そうに尋ねる青年───クロロに対し、ミメイは刀を構え直して答える。

「貴方よ、クロロさん。略してクーさん」

「はは、そうか。

そんな呼ばれ方は初めてだ」

愉しそうに口角を上げるクロロ。

 

「クロさんの方が良い?

それともちゃん付け?」

余裕の無さを誤魔化す様に、他のあだ名の候補を挙げてみる。

「いや、クーさんで構わない」

「それでクーさん、私に何の用?」

返答次第では······いや返答を待たずに斬りかかるべきか、地面を割るべきか、と必死にミメイは考える。

 

 

 

が、

「言っただろう、ただの通りがかりだと」

そう、けろりとした顔で嫌な殺気を霧散させたのだった。

 

 

 

 

─────────

「カツ丼2つ」

この世界に来て、初めて食べ物を口にした───少年に奢ってもらったが───飯屋に、ミメイは足を運んでいた。

右頬に深く刻まれた傷が特徴的な強面の飯屋のオヤジに、指を2本立てて注文する。

この1ヶ月毎日1度は訪れているせいか、彼には顔を覚えられており、今やお得意様として少しサービスされることもある。

 

カウンター席の足が取れかけの椅子に注意深く腰を下ろし、ミメイはカウンターに頬杖をつく。

ヒエとアワ8割のご飯を丼に盛るオヤジの横顔をボケっとみていれば、

「ミメイ、夜中に2人分も食ったら腹壊すぞ」

と忠告される。

 

このオヤジは昔娘を亡くしているらしく、その娘が生きていればミメイの歳ぐらいだったとか。

やけに父親ぶってミメイの面倒見てるな、とこの前他の客に冷やかされていた。

それに対し何も答えないのが無口で無愛想なのが有名なオヤジである。

しかしミメイにだけは違う。

積極的とまではいかないが、ポロポロとミメイに愚痴を零したり、ミメイの話を黙って聞いてくれたりする。

柊の長たる“父上”しか知らないミメイからすれば、今の彼女とオヤジの関係が擬似親娘の様なものかどうかは判断がつかない。

だが、この感情には名前を付けない方が良いのだ、それだけは分かっていた。

名前を付けてしまえば、必ず今以上を欲するのが人間だ。

ミメイは己に欲望が湧くのを良しとはしない。

多過ぎる欲望は鬼を肥えさせ、いずれその鬼は己の心を喰い殺すのだから。

 

 

「あら、まさか私が2人分食べるとでも?

私だって歳頃の乙女なんだから、体型には気を使ってるの」

オヤジから最速で出来上がったカツ丼とスプーンを受け取り、代わりに昨日乱暴者からカツアゲした銀の腕輪を渡す。

「歳頃の乙女が夜食にカツ丼か」

その腕輪が本物の銀製であることを素早く確認したらしく、黙ってミメイの前にカツ丼をもう1つ置いた。

「ちょっと早い朝ご飯よ。

···クーさん、まだ入ってこないの?」

飯屋の隣にあった古書店に引き寄せられたままのミメイの連れ。

先程殺し合いそうになった相手と、どうして今2人で飯屋に来ているのかはミメイにもよく分からないが、カツ丼が冷めないうちにとドア越しに彼を呼んでやる。

 

何か掘り出し物でも見つけたのか、ホコリ臭い分厚い本を手にしてミメイの連れは飯屋のドアを開ける。

「俺の意見は聞かないのか」

ミメイの隣に座り、目の前に出されたカツ丼を少し恨めしげに見る男。

やはり夜中に油物は駄目だろうか。

「何でもいいって言ったのは貴方よ、クーさん。

それに私の故郷では、情報を吐かせる時にはカツ丼を出すのが定番なの」

「この場合吐かせるのはどっちなんだ」

肉が少ないカツを咀嚼しながら尋ねる。

「どっちも。

私も色々聞きたいし、貴方も私に聞きたいことがあるんでしょう。

貴方が私を本気で殺すつもりなら、最初入ってきた時にすぐ殺してるだろうし。

でも私はまだ生きていて、つまり私と仲良くお話したいのかな、そう思うのは普通もの」

どうかしら、とそこまで難しくもない推理を自慢げに披露する。

勿論自慢げなのは、相手に自分の心を読み取られない為の演技である。

 

 

 

 

─────────

十数分前、ドアが壊れて風通りが良くなった小屋の中で睨み合っていた2人だったが、侵入者───クロロの方が殺気を消したことにより

思わずミメイも警戒を緩めそうになる。

が、鬼呪装備を解かないままにする。

そんな重い沈黙が場を支配する状態で、空気を読まずに口火を切ったのはやはりクロロだった。

 

「行くか」

 

ただそれだけを口にして、ミメイに背を向ける。

ついてこい、とでも言うようなその様子にミメイは面食らい、意味が分からないと頭を混乱させていた。

そもそもこのクロロとかいう侵入者は、呪符を破って式神を潰してまでミメイの住処に入り込んできたのだから、初めから自分を殺すつもりなのだとミメイは思っていた。

実際向けられた殺気は、体が岩の様に重くなったかと錯覚するほどのもので。

恐らくこのまま殺り合えば、ミメイは半殺しにまでされただろう。

まあ半殺しになってからが鬼を飼う人間にとっては勝負であり、相応のリスクを背負って鬼の力を引き出せば可能性は無限大である。

だからミメイは自分が負けたとは一寸たりとも思っていない。

寧ろこれからだ、と冷や汗を流しながらも自分を叱咤していたのだが。

 

「え?」

拍子抜けして、とうとうミメイは鬼呪装備を解く。

鬼宿が勝手に刀状態をやめようとしたのもあるが、それだけではなくミメイの力も抜けていた。

「クーさん、貴方本当に通りがかりなの?」

冗談でしょうと言いたくなるが、感情の起伏が感じられないクロロの黒い瞳を見て、言葉に嘘はないのだと悟る。

壊したドアを踏みつけて、とっとと小屋から出て行くクロロ。

早くついていかないと見失うよ、と他人事の様に笑う鬼宿に弱冠苛つくも、彼は足が早いらしくもう路地の向こうを曲がっている。

 

状況把握がまだ出来ていないが、彼はこの世界で初めて出会ったミメイ以上の強者であることは確か。

鬼宿の様子から鑑みても、何かしらミメイの求める情報を持っているに違いない。

というより持ってなさい、これだけ呪符破壊したんだからそのツケ払え。

それが路地裏に無残に落とされた呪符を見たミメイの正直な感想である。

 

 

 

─────────

回想終了。

ひとまず足早なクロロに追いつき、それから落ち着いて話せるのは、と考えたミメイは彼と2人でこの飯屋に足を運んで今に至るのだった。

お嬢様育ちらしくカツ丼を上品にゆったりと食べながら、ミメイはクロロを観察する。

 

顔は悪くない。寧ろ良い。

無表情なのが玉に瑕だが、男がずっとニコニコ笑うのも胡散臭いような。

ああでも、深夜はいつも笑っていた。

髪質は深夜の様にサラサラストレートタイプだが、色はグレンと同じ黒髪。

グレンは少し癖毛気味だったから時々寝癖が跳ねていて可愛かった。

 

ついつい自分が知っている男達との共通点を探そうとしていることに気付き、自嘲的な笑みが漏れそうになる。

笑いを噛み殺し、肉を噛み下し、質の悪い油を飲み下し、少しだけ気持ち悪くなった胃を押さえる。

この嫌な気分をどうにかしたいが、この街に綺麗な水なんて物はない。

良くて澱んだ水、悪くて下水である。

まさか自分がそんなものを飲む羽目になるとは、前の世界にいた時ミメイは夢にも思わなかった。

当初この場所の余りの汚さにギョッとして、綺麗な水を手に入れるまでは一滴も汚れた水を飲むまいと決意したミメイだったが、それは3日で破られた。

ミメイが綺麗な水と認められるものなんて、ここには無かったからである。

それが分かって諦めるまで、どうにか飲める水はあるというのに無駄な意地を張った。

柊家で水抜き拷問に対する訓練を受けていなければ、早々に脱水症状で死んでいただろう。

 

毒入りの水は別に良いのだ、ミメイは訓練で毒慣れしている。

従って水の中で揺蕩う有害物質も、ある程度は耐えられるのだろう。

泥水など恐らく何の問題もない。

鬼宿のサポートがあれば最悪死ぬことだけはない。

だがそれでも気分的な問題で、ミメイはこの街の水を進んで飲むことは無い。

勿論料理にも濁り水が使われていることが殆どだが、飯屋のオヤジの拘りのお陰かここで使われているのは綺麗な方である。

だからそれなりに値段が張るのだが。

ミメイをか弱い少女と侮って襲いかかる乱暴者───ミメイにとってはただの良いカモ───から、毎日カツアゲをして儲けているミメイには関係の無い話である。

1人で美人局してやがるぜこの鬼女め、と顔見知りになった他の客には言われたが失礼な話だ。

ミメイがしているのは正当防衛。

か弱い少女風の容姿に勝手に引っかかる男が悪いのだ。

そして襲ってくるのが悪いのだ。

ミメイを組み伏せる人間の男など父の柊天利、兄の柊暮人、甘々な判断基準の元でのおまけでグレンと深夜ぐらいだろう。

 

 

さて、そのミメイと同じかそれ以上の力を持つ人間の男リストに、期待のニューフェイスである。

ボケっと継続したままだった観察をやめ、隣で勝手にプリンを注文する男の名を呼ぶ。

「ねえクーさん。

お腹もいっぱいになったし、そろそろ質問しても良いかしら。

あとプリンの分は払わないわよ」

空になった丼をオヤジに返却して、プリンのスプーンを咥えるクロロを睨む。

 

「プリンもう1つ」

飄々とした顔で追加注文。

その魂胆が見え見えで思わず舌打ちしたくなるが、育ちの良いミメイはそんなことはしないのだ。

「私にも食わせてついでに自分のも払わせようとしないで。

いい性格してるわ、貴方。

······オヤジさん、私はプリン要らない」

無駄な出費はしない主義のミメイは、溜め息をつきながらカウンターの向こうのオヤジに断る。

しかしガラスの器とスプーンをすっと目の前に差し出され、ミメイは眉を顰める。

「サービスだ。お前の連れの分も」

へ?と上を見れば、そこにはオヤジの仏頂面。

 

「···ありがとう」

些細なことに高鳴る胸を、湧き上がる感情を、欲を抑えながらミメイは呟いた。

甘い物最近食べてないなぁ、と前ボヤいていたのを覚えていてくれたのだろうか。

「礼は要らん」

ふいと背を向け、店の奥に姿を消すオヤジ。

それを見送ってから、ミメイは冷たい金属製のスプーンでプリンを掬う。

小さい頃当たり前の様に食べていた有名店のプリンとは比べ物にならない。

しかし昔体調を崩したミメイの為に、態々深夜が自分で買ってきてくれたプリン───コンビニの安物だった───と同じくらい、それと同じくらいおいしいのだ。

 

「あーあ、ばっかみたいね」

甘さの足りない、卵と牛乳が明らかに足りないプリンを口にして、ミメイは頬杖をつく。

「どうした、そんなにまずいか」

既に器を空にしたクロロが、憂鬱げなミメイの方を見やる。

「まずくないわ。美味しくもないけど、まずくないの。

味なんか関係ないのよ、ただ·······味が1番じゃないってだけ」

 

1番はね、きっとそういうあれなのよ、言葉にして言えないけれど。

言ってしまったら、絶対に欲しくなるから。

 

 

「お前は不思議な奴だな。

流星街に落ちてきた流星の顔がどんなものかと思って見てみれば、まさか女だったとは」

いたいけな美少女だったか?とさっきのミメイの自己紹介をなぞる。

「あら、空から落ちてくるのは美少女って相場が決まってるのよ」

中身の無くなったガラスの器にスプーンを転がし、ミメイは口角を上げた。

「親方に報告されなかったのか」

少年の様に目を光らせるクロロはどうやら、ミメイの世界でも人気だったあの話を知っているらしい。

「残念なことにお姫様抱っこで受け止めてくれる男はいなかったもの。

これじゃ天空の城は探しに行けないわね」

「俺と一緒に探してみるか」

冗談交じりにミメイに囁く。

 

が、

「口説き文句としては3点。

貴方の顔の良さでオマケの30点。

アドバイスとしてはそうね、一夜遊びの相手はもう少し選んだら?」

貴方なら幾らでも捕まえられるでしょ、と薄ら笑いを返す。

「やれやれ本気なんだが」

「どうだか。

それに戯れはここまでにしましょう。

夜明けを貴方と迎えるのなんて嫌だもの。

お互いに聞きたいことは早く聞いちゃいたいわ」

短針が真っ直ぐ上を差す壁掛け時計を横目に、ミメイはクロロの方に半分体を向ける。

 

ほんの少し鋭い視線同士を交わしてから、クロロが肩をすくめる。

 

 

ミメイが1番欲しがっているのは情報だと最初からクロロには分かっていた。

戯れに侵入してみた小屋で、聞かれた事に適当に答えてやるか、それこそミメイを戯れに殺してしまっても良かった。

それを今の今まで引き伸ばしたのは、クロロの殺気に対して一丁前に殺気を返してきたミメイという少女に興味を持ったからである。

そもそも容姿が珍しい。

この街に似合わぬほど造形が整っているのは勿論だが、何より暗闇で浮かび上がる様にして靡いていた紫の髪。

 

ついこの前狩ったクルタ族の眼球同様、世界7大美色のうちの1つなのではないかとクロロは予想した。

昔読んだ世界7大美色に関する古い文献に、ミメイの髪と特徴を同じくする髪の情報が載っていた気がしたのだ。

確証はない。

だがそうなのではないか、と思える程の妖しい輝きが彼女の髪にはある様に思えていた。

そして恐らく、本人の自覚は無いらしいが念能力に目覚めている。

凝でちゃんと見た訳ではないが、突然現れたあの刀。

それから考えると具現化系か。

また、ミメイの住む小屋までに沢山貼られていたトラップ。

紙を使っていたがそれを操ることから考えて操作系、いや変化系や放出系の片鱗も見られる。

クロロと同じく成長と共に自然に精孔が開いてしまったタイプかもしれない。

その特異な生い立ちの故の特質系の可能性も考えられる。

 

クロロの頭は恐ろしい速さで回転していた。

目の前にいるこの少女をどうするのが1番良いのかと。

念をちゃんと仕込めば、旅団のメンバーとも互角に戦えるまでになる。

ならば旅団に入れるか?

いやそれは取り敢えず後だ。

ひとまず、何故流星になって落ちてきたのかを聞いてからだ。

最初から、流星街に落ちた流星という気の利いた洒落を体現した何者かが気になっていたのだから。

 

 

ふっと笑みを浮かべ、クロロはミメイの求めに応じた。

「良いだろう。

まずは俺からだ」

「···いいわ。何を知りたいの?

ちなみにスリーサイズは有料よ」

自分が先ではないのか、と文句を言いたいのを我慢しているのが見て取れる。

案外分かりやすい女だ、しかしそれも真意を悟られない為の演技か、とクロロは思考を止めずに口を開く。

 

「スリーサイズはまたの機会に。

何故お前は流星になって落ちてきた?」

「あは、それ聞いちゃうのね。

天空の城を追い求めるム〇カ大佐から逃げてきたのよ、じゃ駄目だろうし」

紫の髪をクルクルと指に巻き付けて遊びながら、ああヤダヤダと唇をへの字にする。

「笑わない?」

んーだのあーだの、言葉未満を漏らした末にこてんと首を傾げる。

「いや笑う」

「そこで笑わない、って言うのが様式美なんだけどな」

クロロの即答に思わず笑いが腹から湧き上がる。

そういう空気を読まない所、セオリーを無視する所、グレンに少し似ている。

そんなとりとめのない事を考えて足を組む。

 

ミメイ達が通っていた第一渋谷高校の制服の灰色スカートが捲れ上がって、下の白いフリル下地部分があらわになった。

それをぼんやり見下ろして、このフリルを喜んでいた奴がいたな、と思い出す。

 

『フリルが可愛いでしょ、お姫様みたいで』

そう言って、2人並んで座った桜の木の上で無邪気に笑った真昼。

高校の入学式の前にこっそり2人で着てみて、笑い合ったあの夜。

可愛いのもお姫様みたいなのも、グレンが同じ高校だから嬉しかった癖に。

グレンがいなきゃそんなに思い入れも無かった癖に。

ああ、恋する乙女には敵わない。

 

そう、恋する乙女には敵わなかったのだ。

感情を制御したままのミメイなんかが勝てる訳が無かった。

真昼と違って欲望を押さえ、鬼の力を制御したままのミメイが勝てる筈が無かった。

最期の最期まで希望にすがろうと足掻いて、鬼に取り憑かれて壊れた恋する乙女に勝てる筈が無かった。

分かっていたことだが、自分が真昼に勝てないのは分かっていたことだが、それでも勝てなかった(救えなかった)ことが悔しかった。

 

 

「···姉妹喧嘩をしたのよ。

最初で最後の喧嘩を」

そこで1度唾を飲み込み、懺悔するかのように軽く目を瞑る。

「姉は真昼っていう名前で、見た目は瓜二つの双子なのに何もかも私の上をいっていた。

だから負けた。呆気なく。

殴られて、飛ばされて、それで私は流れ星になったの」

どう?とクロロの方を見て首を傾ける。

 

「そうか」

「笑わないの?」

少しだけ目を見開いてはいるが、ほぼ表情が動いていない彼に拍子抜けする。

「妹を流れ星にしたお前の姉に会ってみたい」

「無理よ、多分姉は死んだから」

それに世界が違うから会えやしない、という続きは言わずにミメイは捲れたスカートを戻す。

それから気を取り直して、と前置きしてから質問する。

「じゃあ次は私ね。

クーさんの強さはどこからきてるのかしら」

「逆に聞こう。お前は念を知っているか」

「ねん?」

耳慣れない言葉に首を捻ると、何故か心の奥深くで鬼宿が小さく笑った気がした。

 

「やはり知らないのか。

ならば嫌でも自覚させよう」

「え、」

ミメイは嫌な予感がした。

クロロの目が笑っていない。

いや笑ってはいるが、まるで実験動物を見るようなそれである。

鬼宿が笑っていたのはこのせいか。

笑うよりも、警告するなり何なりしろと文句を言いたいがもう遅い。

腕を掴まれた。

「死ぬことは無いだろうから安心しろ」

そう脅しの様な言葉を投げつけられた瞬間、腹に熱い衝撃がはしる。

いや腹だけではない。

体全身が熱い、熱い衝撃が身体中を回る。

「あ······」

血が沸騰したかの様な、何かが自分の中で弾けたかの様な、嫌な感じがする。

座ったままだというのに、やけに苦しい。

疲れた。息がしにくい。

血を大量に、けれど少しずつ失っている様な倦怠感。

 

「これ、何?」

声を発するのにもやけにエネルギーを消費する。

クロロが何かしたのは確かだ。

力なくカウンターに突っ伏したミメイを黙って見下ろしているのだから。

「これが念だ」

「ねん···?」

「お前の体から何か出て行くのを感じられないか」

「出血はしてないけど。傷はないし、あれはまだの筈だし。

······え、やだまさか」

鈍痛はない下腹部に手を当てて、周期的に今来る筈は無いと考えるのだが、まさかクロロはミメイの周期をいじって······

 

「そんな訳あるか」

今の所ミメイの前では初めて、クロロは大きく表情を変えた。

焦った様な呆れたような、心外だと言わんばかりの顔。

「そうよね。流石にないか。

もしそうならクーさんにはもれなく変態のレッテルが貼られてたわ」

「それよりも感じられないか。

お前から今出て行って、体の周りにある何かを」

話を強引に変える様にクロロはミメイに尋ねる。

「何か···ねえ。

何か何か······うーん、特には感じられないけど」

 

 

体を起き上がらせることが出来ず、カウンターに潰れ込むミメイに鬼宿が囁く。

『馬鹿だなぁ未明は。

イメージしてみなよ。自分の周りに何かがあるって。

呪符や鬼呪装備と同じだ。

そこには普通の人間には見えない力がある』

「イメージ、ねえ」

自分の周りに、と復唱して自分の体が何かで覆われている様なイメージをする。

ぼんやりと、ふんわりと、少し暖かくて、熱っぽくて、若々しくて、そんな······

 

「あ、これか」

ふと、自分の体がたった今思い浮かべた何かに覆われている感覚を覚える。

その暖かい何かが自分の体から少しずつ離れていくのが名残惜しく、体に留めようとイメージをすればその通りになる。

「ああ、早いな。

精孔がひとりでに開きかけていただけの事はある」

そのミメイの様子を見て、クロロはゆるりと口角を上げた。

「ミメイ、それが念だ」

「ねん?」

「ね、ん······念だ」

ミメイにとってはまだ難解なハンター文字をカウンターになぞり書き、クロロは繰り返す。

 

 

 

新たな世界に落っこちて1ヶ月、ミメイのこれからを大きく変えていく念との出会いだった。

 

 

 

 




鬼───鬼宿(男の娘)とミメイちゃんは仲良し。

ミメイちゃんの念の習得は最速です。
元のスペックは高いので。
鬼呪装備ってどこか念能力に似てるので。
あとは最強の自分をイメージするだけです。


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2:安全マージンたっぷり修行

評価やしおり、お気に入り登録ありがとうございます。



念能力。

 

それがこの世界の力だという。

あらゆる生物が持つ生命エネルギーであるオーラを自在に使いこなす力。

鬼呪装備同様、限られた人間しか使いこなす事は出来ず、努力は勿論先天性の才がものを言う所があるらしい。

普通の人間はオーラを溢れ出させる精孔とやらが閉まっており、オーラは微弱に外に垂れ流されているとのことだ。

それとは違い、オーラを使いこなす人間───念能力者は、オーラを放出する精孔が開いており、そこから出てくるオーラを思うがままに行使出来る。

 

つまり念能力者になる為の第一歩は、精孔を開けること。

座禅や瞑想等により自身のオーラを感じてゆっくり開くことが多いらしい。

 

 

と、ここまでクロロの解説と鬼宿の補足説明を頭の中で纏めていたミメイは、ふと気付いた事があった。

 

飯屋を出てから、夜中だというのに修行と称して空き地で講義を始めたクロロ。

教えて貰う立場で彼に逆らう事も出来なかったミメイは、初めての情報に戸惑いながらも、新たな力を習得していった。

彼がお節介おばさんの様にミメイに稽古をつけてくれる理由は未だ謎だが、貰えるものは貰う、奪えるものは奪う主義なのがミメイである。

それが、元の世界に戻る為に必要そうなものであれば尚更だ。

そうやって真面目にクロロ先生の授業を聞いていて、先述の様にミメイは気が付いたのだ。

精孔を開ける為に自分は座禅も瞑想もしていない、と。

 

「クーさん、私は瞑想も座禅もした覚えは無いんだけど」

精孔を閉じてオーラを全く出さない様にする“絶”。

たった今クロロに教わったそれを試しながら、近くの切り株に座って本を読んでいる彼に尋ねる。

柔い光しか発していない街灯の下でよくもまあ、本を読む気になったものだとミメイは思うのだが、クロロには明るさなど関係ないらしい。

「ああ」

とだけ、ミメイの方さえ見ないでおざなりに返す彼にカチンときながらも問いを重ねる。

「ならどうして私は精孔が開いたの?」

 

「俺がお前にオーラをぶつけたからだ」

「もしかして、飯屋で感じたあれ?」

腹に一発何か熱いものがはしったと思った瞬間、身体中の血が沸き上がりながらも、全身から少しずつ力が抜けていったあの感覚。

つまり腹に一発がクロロのオーラ、血が沸き上がった様に感じたのは精孔が開いたから、徐々に抜けていく力はオーラ。

なるほど、と飯屋でのあれに合点がいったのは良いが、クロロが嫌な含み笑いをしている様に見えるのはミメイの気の所為だろうか。

 

 

『気の所為じゃないね。

精孔を開ける方法は実は2つあるんだ。

まず1つは、さっきクロロがいった瞑想だ。

2つ目が未明、君がされたことだよ』

鬼宿がミメイの心の表面まで上がってきて、我が物顔で説明を始める。

何故主人(ミメイ)が知らない事をペット(鬼宿)が知っている、と問いただしたいがそれは後である。

やけに鬼宿がこの新世界に関して訳知りな理由は、また今度詰問してやる他ない。

ひとまず今必要なのは情報なのだから。

 

『他人にオーラをぶつけられれば、非念能力者も強制的に精孔が開くんだ。

ただそれは非常に危険なのさ。

何しろ精孔は生命エネルギー、オーラの排出口。

オーラを自分の体の周りに留めておく技術をすぐ覚えなければ、オーラがどんどん排出されて、いずれ死に至る』

「普通の鬼呪装備を、黒鬼装備にする時の手術みたいなものね」

クロロには聞こえないくらいの小声で呟く。

『そういうこと。

個人の天性の才が生死を分ける。あとは運だよ。

未明は得意だろ、そういうの』

ケラケラと馬鹿にした様な笑い。

「私は黒鬼レベルの貴方を最初から心に飼ってた。

だから手術受けてないわよ。

実際にあの手術を受けて生き残ったのは、暮人兄さんと深夜ぐらいで」

グレンは真昼に最初から黒鬼を押し付けられたから別枠、と思い返す。

『まあでもさ、ハイリスクハイリターンな人体実験は柊家の十八番じゃないか。

あは、人間は欲深いなぁ。

幾つもの命を犠牲にして、更なる力を得ようと手を伸ばす。

だから神様の罰が下るんだ』

「もう黙って。大体分かったから」

やだやだぁ、と駄々を捏ねる鬼宿を無理矢理心の奥深くに引きずり込み、新しい鎖で拘束する。

少し拘束を緩めれば、余計なことまでペラペラ喋り出すペット(鬼宿)の躾には苦労する。

 

 

気を取り直してクロロの方に向き直る。

「クーさんが私を殺すつもりだったのは不問にするわ」

「死ななかっただろう?」

悪びれる気配を見せず、クロロは読み終わった本をパタンと閉じた。

「死んだらその程度、ぐらいにしか思ってなかったんでしょ?」

切り株の前に立ち、切り株に腰掛けるクロロを見下ろす。

ミメイより背が高い相手をこうして見下ろせるのは、やはり気分が良い。

安い愉悦に片足を浸けながら、ミメイは格好つけた様に腕を組む。

 

「いや、死ぬ事はないと確信していた。

お前は最初から精孔が開きかけていた。

それに、自覚無しで念を使用している節も見受けられたからな」

「いつ?」

本当に自覚がないミメイは眉間に皺を寄せる。

「お前が俺に飛ばしてきた紙だ。

あと、1番分かりやすかったのは刀か。

俺がドアをぶち抜いた時、何か呟いた後右手に刀を具現化しただろう」

「あれは違うわ。念やオーラとは別物よ。

なんて説明したら良いのか分からないけど、違うの」

鬼呪装備のことや鬼のことを、今の時点で話す気は更々ないミメイとしては誤魔化す他ない。

 

「違うって証明する手立ては······あるじゃない。

さっきクーさんが言ってた“凝”とやらで見てみれば良いのよ。

それなら私が“隠”で誤魔化してる訳でもないってすぐに分かるわ」

勿論ミメイは、隠を使ってオーラを見えにくくしている訳ではない。

鬼呪装備はオーラから出来たものでは無い、いや確かに生命エネルギーであるオーラを纏っているかもしれないが、ミメイの念能力の一部ではない。

あくまで鬼呪装備は鬼の一部、あくまで鬼はミメイの心の一部。

嬉しくはないがミメイ自身そのものともいえるのだ。

 

「さ、今からやってみせるから準備は良い?」

「ああ」

興味深そうな目にオーラを集め、ミメイの全身に刺すような視線を向けるクロロ。

ここまで注目された状態で鬼呪装備を顕現させるのも人体実験以来か、と柊家の薄暗い地下実験室を思い出しながら瞼を下ろす。

 

 

「おいで、鬼宿」

次の瞬間ミメイの右手には黒い刀が握られる。

禍々しいまでの気と、思わず息を飲ませる様な圧力を放ちながらその刀は存在していた。

薄っぺらい街灯の光の下で映える黒さ。

同系色にも関わらず夜闇に混ざることはなく、嫌な立体感を、すぐ目の前に迫る様な圧迫感を周りに与える。

 

「触れても?」

初めて見る玩具に魅入られた子供の様に手を伸ばすが、ミメイは素早く後ろに下がる。

「駄目。

クーさんならそう簡単に壊れないだろうけど、多分死んじゃうもん。

駄目なの、これは。

人体実験を受けた私しか────私達しか、触れちゃ駄目なの」

 

 

人間は禁忌の箱を開けた。

人間の身に余る力を得た。

幾つもの命を犠牲にして。

 

その末にミメイは、ミメイ達は、鬼呪装備を完成させたのだ。

それが正解だったかは、今になっても分からない。

きっと間違いではなかったけれど、正しい答えでもなかった。

あくまで追い詰められた真昼が、そしてミメイがどうにか弾き出す事が出来た最適解だっただけなのだ。

制御不能だが強い鬼呪装備の雛形を真昼が生み出し、それを少しでも人間の力で押さえつけられる制御機能をミメイが生成した。

鬼呪装備の完成。

それこそが、たった1人の妹であるシノアを守る為の、人体実験の餌にさせない為の、真昼やミメイの様にさせない為の、唯一の逃げ道だったのだ。

 

「だから駄目」

この世界でパンドラの箱を開くつもりはミメイには更々ないのだ。

「そうか。···盗めそうにもないしな」

鬼呪装備から目を離さずにクロロは無意識的に溜め息をつく。

「盗む?冗談でしょ、クーさん。

こんなのが欲しいの?」

こんなの、と黒い刀を指差して眉をひそめる。

趣味が悪いというセリフがありありと浮かんで見えるミメイの顔を見て、こくりと頷くクロロ。

「欲しい」

迷いなく言い切る彼の目に光るのは野望か。願望か。

それとも欲望か。

きっとその全てなんだろうな、ミメイはそう簡単に結論付ける。

「···グレンみたい。

人間は欲深いなぁ。ほんと、馬鹿みたいに欲深いんだから」

ぱっと刀を手放しそれを霧散させて、ミメイは目を伏せる。

「欲しがってばっかじゃ、いつか身を滅ぼすわ。

壊れて、狂って、自分が無くなるの」

鬼に呑まれて消えた天才の後ろ姿を、愛しい男に会いたがってこぼす涙を、諦めた様に浮かべた儚い笑みを、ミメイは覚えている。

 

「だから、あげない」

手を後ろに組んで、蠱惑的な笑みを貼り付ける。

「残念だ」

そう言いながらも諦めた目をしていないクロロに若干ミメイは引いているのだが、人間の欲深さを何より知る鬼に言わせれば、そんなものだという答えが返ってきそうである。

「あは、本当に残念そう。

ね、これで分かったでしょ?念能力じゃないのよ」

「ああ。

これでお前の系統が更に分からなくなった」

クロロは切り株から腰を上げ、空き地の端に転がっていた空き缶を拾い上げる。

「系統?なぁにそれ」

またもや初めて聞く言葉に目を瞬かせる。

 

「オーラには6の系統がある。

力を強くする強化系、オーラを放つ放出系、オーラの性質を変える変化系、物質や生物を操る操作系、オーラを物質化させる具現化系、そしてそれ以外は特質系。

これらは生まれつきで、後天的に変わることは滅多にない」

「クーさんは?」

それには答えないまま、拾った空き缶を手に枯れ切った水場へと歩いていく。

干からびた蛇口の下の窪み、そこに溜まった雨水を空き缶で掬い上げて、そうして缶に溜まった水の上に落ち葉を乗せる。

クロロが何をしているのかミメイにはまるっきり分からなかったが、ずいっと缶を差し出された。

 

「この缶を両手で包んだまま“練”をしてみろ」

「良いけど···」

説明無しに要求してくるのはこれが初めてではない。

出会ってたった数時間だが、ミメイは少しずつクロロの人となりを理解してきていた。

強引な所と突然な所は真昼にそっくりで、その癖言う事を聞いてやりたくなってしまう変なカリスマ性も真昼やグレンによく似通っている。

黙って缶を受け取り、言われるままに覚えたての“練”をする。

「ん、ん······。···んー!」

鼻から抜けていく様な甘い声が思わず漏れるが、それはミメイの頑張りの証である。

何しろ精孔が完全に開いて未だ数時間も経っていない。

そんな初心者が精孔を限界まで広げて、大量にオーラを放出している。

想像以上の踏ん張りと集中力が必要なのだ。

 

 

じわりと水の色が変化する。

「変わったな」

「あ、ほんとね。赤い」

クロロに示され、ミメイも缶の中の水が赤くなっていたのに気が付いた。

「放出系か。少し意外だな。

ミメイ、練を止めるな」

「···で、これは何なのかしら?」

今にでも力を抜こうとしていたのを止められたミメイは、不機嫌そうに問いを投げつける。

「水見式だ。

オーラの系統を見る1番簡単な方法と言われている。

強化系は水量が、放出系は水の色が、変化系は水の味が変わる。

操作系は葉が動き、具現化系は不純物が混ざる。

特質系はそれ以外の反応だ」

「そう···ならクーさん、私は放出系とやらじゃないわ」

淡々と言い放ち、クロロの眼前に缶を突き出す。

「私は具現化系か、特質系ね」

「何?」

怪訝な顔をするクロロに対し、いいからよく見てと尚も缶を近付ける。

「まあ、不純物の定義によるけど。

あはは、これは不純物に入るのかしら?」

愉しそうに嬉しそうに、ミメイは缶の中の水を揺らす。

「······いや、入らない」

水の臭いを嗅いだお陰で、ミメイの主張の意味が分かったクロロは面白そうに口角を上げた。

 

「間違いない、お前は特質系だ。

俺と同じな」

「あら、クーさんと同じ?嬉しい。

にしてもこれ誰のかしら。

知らない人間のだったりしたら少し嫌ね」

赤い水面をじっと覗き込み、おもむろに人差し指を突っ込む。

それからその指を引き抜いて、赤い液体を付着させたまま唇に運ぶ。

ペロリと出した舌で指から赤い液体を舐めとり、その瞬間つまらなそうな顔をする。

そんなミメイとは対照的に、精神世界では鎖の拘束を掻い潜った鬼宿は興奮していた。

『あは、あははは、ひっさしぶりに未明の匂いがする。

いっぱいするなぁ。

あは、いい匂い。僕にくれよ、未明。

くれよ、早くくれよ······お前の血を寄越せよ!』

彼は鬼である。

つまりは元々吸血鬼である。

血を求めて当然の化け物なのだ。

 

「黙って、タマ。貴方なんかにやる血は無いの」

ガッシャンガッシャン鎖を激しく揺らして、血を口にする為にミメイの体を乗っ取ろうと精神世界で暴れる鬼宿。

彼を難なく鎖で押さえつけ、またもや心の奥深くへと放り込む。

大量の血の匂いについつい興奮してしまったお馬鹿なペットは、ないないしてしまうのが1番である。

 

心の奥深くから響く呻き声を無視して、ミメイは小さく肩をすくめる。

「私の。これ私のよ。つまらないわ」

「味で分かるのか」

ほう、とクロロがミメイを真似しようとするが、それは呆れ顔のミメイに止められた。

「私は自分のを舐め慣れてるから分かっただけよ。

クーさんにはきっと分からないだろうし、衛生上どうかと思うからやめておいたら」

練を止めて、缶をひっくり返す。

べしゃりと地面に叩きつけられ赤い水溜りを作る自身の血を見下ろして、それを学生用ローファー風のブーツで踏みつける。

 

 

「で、特質系っていうのはどんな特徴があるの?

名前からして、クーさんがそうだって所からして特別そうだけど」

クーさん変わってるし、と悪戯っぽく微笑む。

それに対しお前もな、という目を向けてクロロは口を開く。

「ああ、他とは少し違う。

他の系統の能力は修行によって身につけることが出来るが、特質系は先天性、もしくは後天的に系統が変わった人間以外は使用不可能だ。

発───つまり隠し技も特殊で、強力なことが多い」

「ふーん、そうなの。

クーさんは?えげつない能力を持ってそうね。

そう例えば······洗脳とか。他人を利用しそう。

それかそうね、本が好きみたいだしデスノートみたいな物を持つとか」

ヒントなしで近い所をついてくるミメイの勘と洞察力、それを好ましく思うクロロは目を細めて尋ねる。

 

「知りたいか?」

「やめておくわ。参考にならなそうだもの。

それに、その流れでクーさんに私の能力を教えなきゃいけなくなるのは嫌。

まだどんなものか想像がつかないけど」

自分から簡単に弱みを見せるものか、と言葉より雄弁に語る瞳。

「はは、良い勘をしているな」

「お褒めいただき光栄よ。

···感謝はしているの。

クーさんにこうして念を教えてもらえなかったら、いつまで経っても私は変わらなかったかもしれない。

でもごめんね。感謝はしても、信用は全くしてないの」

クロロの方を真っ直ぐ見上げながら、ミメイは右掌に1枚の呪符を具現化させる。

覚えたての念能力で、それもイメージ修行無しで難なく物質を具現化させたことに、少しは驚いたのかクロロは目を見開く。

それに対し、見た人間全てを魅了する様な完璧な微笑みを浮かべ、ミメイは呪符を構える。

 

ミメイにとって笑顔は武器であり凶器であり、また防御である。

柊家の干渉から少しでも逃れる為に、簡単に利用されない為に、自分の本心をひた隠す為に、顔に貼り付ける防御の壁。

姉妹3人で鏡の前で練習したのが懐かしい。

真昼とミメイは様々な種類の笑顔を習得出来たが、残念ながらシノアの表情筋は硬かったらしい。

 

 

自分の余裕の無さを微塵も見せないように注意して、更に笑みを深めていく。

実はオーラが限界だとクロロに悟らせてはならない。

そう、弱みを見せてはならないのだ。

「ねえクーさん、そろそろ教えて。

どうして私に念を教えたの?

足長おじさんにでもなったつもり?

それともどこかの慈善事業家?······ありえないわ」

返答次第ではこれを飛ばすぞ、とクロロを睨みながら呪符にオーラを込めていく。

血で文字を書いていない呪符はペランペランに弱いのだが、まあ呪術に明るくないであろうクロロには分かるまい。

呪符を無駄に赤く光らせて、大掛かりだと見せかけている術はただのはったりだなんて。

 

「慈善事業家か、時には慈善事業もするからあながち間違いじゃないな」

「嘘よ。想像出来ないわ。

私が救国の聖女ってぐらい想像出来ない」

お伽噺を読みながら真昼と2人でよく笑ったものだ。

私達には傾国の美姫ぐらいがお似合いだと。

いやそれもどうかと思うのだが、言い当て妙だとミメイは思っている。

実際国どころか世界が傾いたのだから。

 

「引き合いに出された例えがよく分からないが、本当だ。

俺達もたまには慈善事業をする」

心外だと肩をすくめるその仕草はやはり、慈善事業家というより詐欺師らしいとミメイは勝手に決めつけた。

「偽善事業の間違いでしょ。

それよりクーさん、仲間いたのね。

悲しいぼっち君だと思ってたわ」

俺“達”という言葉に目敏く反応する。

「お前、段々遠慮がなくなってきたな」

ぼっち君と小さく呟くクロロは、意外にダメージを受けている様にも見受けられるが、そんなことを気にするミメイではない。

「あら、強気な女は嫌い?」

寧ろ全力で煽りにいく。

演技と本心を織り交ぜた、他人に心を覗かれにくい状態で。

 

「いや寧ろ好ましい。

気に入った。

よしミメイ、お前俺達の仲間になれ」

「お断りよ」

間髪置かずピシャリと跳ね除ける。

「即答か」

そうなると予想していたクロロは顔色を変えない。

「私、クーさんのことよく知らないし、知る気もないし、知りたくもないし、だから貴方の仲間になるつもりはない。

そう、ああならこれは、クーさんなりの試験か何かだったのね。

私がクーさんの仲間に相応しいかどうかの。

···つまり品定めされてたのね」

不愉快よ、と吐き捨てる様に呪符を握り潰す。

 

「いいのか」

呪符を消し、体に纏うオーラ量を減らしていくミメイを見て問う。

「攻撃する気も失せたわ。

どうせ今の私程度が呪符投げたって、貴方にとっては痛くも痒くもなさそうだし」

その程度のはったりか、と見透かした様な目を向けてくるクロロを睨む。

 

 

最初からだが、恐らくクロロにはミメイの演技が殆ど通用していない。

子供っぽい感情の起伏も、貼り付けた笑顔も、強気なはったりも、全ては本心を隠す為の演技だとバレている。

今まで完全に見破った人間は数人程度で、時折真昼でさえだまくらかすことに成功している程の演技力。

自信はあった。

自惚れではなく、それ相応に見合うだけの実力はあったのだ。

 

それなのに。

念を知らなかったとはいえ、呪符と式神は呆気なく破り捨てられた。

オーラが見えなかったとはいえ、その重いオーラに気圧された。

そして今、念を覚えた今でさえ、ミメイの力はクロロに遠く及ばない。

念でも、念抜きの戦闘でも。

何もかもが追いついていないのだ。

 

念を知らなかった最初は、半殺しの目にあってからが鬼呪装備持ちであるミメイの本領発揮だと思っていた。

普通の人間を超越した再生能力。

化け物の力。

鬼の力を引き出し過ぎるというリスクを背負えば、幾らでもミメイは文字通り再生する。

それは人間相手であれば大きなアドバンテージになって然るべきだった。

 

だがその定義はミメイの中で揺るぎかけている。

一流の念能力者は100年程度余裕で生きるらしいが、それほどの生命エネルギー───オーラを操れるならば、それを一瞬で使うことも可能だろう。

つまり、ミメイ同様体は即時再生可能なのではないか、そう思い当たったのである。

他に念能力者を知らないのだから、クロロが他と比べてどの程度なのかはミメイには何とも言えない。

だがクロロが、初めて見る念能力者だからという贔屓目を抜きにしても、一流の念能力者と言われる様な人間だということは、ぽやぽやの念初心者であるミメイにも分かった。

 

この感覚は覚えがある。

敗北感だ。

負けた、何もかも負けた。

吸血鬼でもキメラでもない人間相手に、ここまで負けた気分になるとは。

かつての世界では人間の中で頂点に位置する力を有していたミメイとしては、今の状況は甚だ不満であり屈辱的である。

 

ミメイの揺れる心の隙をついた鬼宿が、さあ力を求めなよ、負けたくないんだろ、勝ちたいんだろ、なら僕の手を取って、力をやるから僕にミメイを寄越せよ、と支離滅裂気味に囁いてくる。

そんな甘言に耳を貸してはならない。身を委ねてはならない。

鬼に喰われた末路は嫌という程分かっている。

そう自分を言い聞かせ、ミメイを引きずり込む為に奈落の底から誘ってくる鬼宿を今日も無視する。

 

 

「さよなら。もう会うことも無いわ」

結局ミメイが取ったのは逃げ。

自分より強い相手と向かい合って、自分の弱さを再確認させられるのは真っ平御免である。

そんなのは柊家と真昼に対してで間に合っている。

敗北感も無力感も、ミメイには必要ない。

自分の弱さを嫌でも自覚させられたなら、次に沸いてくる感情は力が欲しい、という欲望なのだから。

欲望は要らない。切り捨てるべき悪だ。

鬼の糧となる欲望は要らない。破棄すべき悪だ。

 

くるりと背中を向けて、それから疲労で重い体を無理に引きずってミメイは走り出す。

背後への警戒をしてはいるが、どうやらクロロには追ってくる気は無さそうだ。

何よ、やっぱり私なんてその程度なの、と拗ねた子供の様な本音が漏れそうになる。

 

うわ何その振られた女みたいなセリフ。ただの負け犬だね、未明。

という小馬鹿にした様な声は黙殺した。

 

「···くそ」

今の自分が子供っぽいことは十分以上に分かっていた。

鬼宿の言う通りただの負け犬でしかない。

それに対する悔しさと恥ずかしさが、疲弊しきったミメイの体を動かすエネルギーになる。

今はただ、自分の感情からもクロロからも逃げ出して、全てをどこかに放り出して何も考えず泥の様に眠りたかった。

 

 

 

 

 




キルアと同じく自分以上の強者を見ると逃げるタイプ。
ただ、キルアと違って愛故の呪縛からの行動ではない。
ミメイのこれは、育ちきっていない未熟な精神と鬼に心を喰われたくはないという根源的な恐怖によるもの。
まあ普通に、負けず嫌いな子供の意地っ張り。それだけなのです。

天才であることは確かなので、念をマスターする速さは化け物並み。


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3:月夜でなくても鬼は嗤う

誤字報告ありがとうございます。

クロロってこんな感じ······なのかしら、と首を捻る今日この頃。




さわさわと顔に当たる風を感じ、ゆっくり瞼を開けてすぐに眼に映ったのは、殴り飛ばすのもつい躊躇うほど端正な顔だった。

「おはよう」

こんなに爽やかでないおはようがあってたまるか、やはりこの男は表情筋が死んでいる。

そう頭の片隅で思いながら、現実を受け入れたがらないミメイの頭は(まぶた)に粛々と閉店命令を出す。

 

「······おはようございません」

幻覚かな、そろそろ頭がいかれたかな、お馬鹿なペット(鬼宿)の悪戯かな。

何にせよ今目の前に広がるのは意味が分からない状況だった為、ミメイは思考を放棄してボロ布を被り直す。

 

「寝るな」

「···」

「行くぞ」

「······」

聞こえるはずのない声はことごとく無視して、安らかな寝息をたてるふりをする。

 

「···そうか分かった。お前は寝たままでいい。

そのまま連れていく」

ミメイのすぐ隣でガタリと立ち上がる音がした為、これは本気だと判断したミメイは跳ね起きる。

「おはようございました。

あはは、今起きたわ。

半覚醒状態から完全な覚醒にシフトチェンジよ」

ミメイちゃんついうっかりしちゃったー、とウインクを飛ばす。

その寝起きのミメイ渾身のウインクを物ともせずにクロロは立ち上がる。

「よし、行くぞ」

丁度今ミメイの頭からずり落ちたボロ布。

それをしっかり踏んだまま、早くしろとミメイに目線を送ってきた。

 

 

「あのね、貴方がピクニックに行く前の子供みたいにウキウキしてる理由は気になるけど、今は置いておくわ。

絶対ろくなことにならないのは分かってるもの。

そして、それに私が巻き込まれるのが確定事項ってことも」

「察しがいいな。流石だ」

パチパチパチ。

大袈裟に両掌を擦り合わせる。

「貴方が私を馬鹿にしてるのもよーく分かったわ」

踏まれたボロ布を靴の下から引き抜き、憤懣やる方なさそうに鼻を鳴らす。

「ほんと、馬鹿にしてるのね。

私、もう会わないって言ったじゃない。宣言したじゃない。

それなのにどうして、」

寝起きの乱れた髪を更にクシャクシャと掻き回して、ミメイを静かに見下ろしている男をキッと睨む。

 

「私のモーニングコールなんかしてるのかしらね。

ねえ、クーさん?」

見下ろされたままなのも癪なミメイはノロノロと腰を上げる。

しかし寝起き特有の貧血による立ちくらみでふらつくのを、それとなく手を出されて助けられたことが余計にミメイの癇に障った。

「お前が早く起きないからだ」

ミメイに手を振り払われながらも、眉一つ動かさないで問いに答える所も憎々しい。

「そうだけど、そうじゃないわ。

私が聞きたいのは、どうして貴方がまた私の前に現れるのかってこと。

···私が逃げたのに。

貴方、去る者を追うタイプじゃなさそうなのに」

「追って欲しそうな顔をしていたからだ」

「口説き文句としては赤点」

この色男が、と苦々しく吐き捨てる。

 

「つまりお前は、『子供っぽい意地で虚勢を張ってはみたものの、結局力及ばず恥ずかしさと悔しさで負け犬の様に逃げた自分をどうして追ってきたのか』

そう俺に聞きたいのか」

淡々と、またあの実験動物を見るような視線を向けられる。

「······っ、貴方ね···、」

心中をピタリと言い当てられ、うまい言葉を返して誤魔化すことも出来ない。

「顔に出ないのは流石だが、殺気が抑えきれていないな。

怒ったのか?」

「怒ってないわ。

事実だもの。悔しいけど事実だもの」

クロロからは見えないであろう靴の中で足の指にギリリと力を込める。

掌を握りしめたりはしない。

動揺を見せるなんてことはしない。

 

「子供っぽいわね、私。

大人じゃないのは分かってたの。華の16歳だもの。

でもここまで自分が負けず嫌いで意地っ張りだとは思わなかった」

鬼に心を喰われないようにと感情と欲望を抑制してきた弊害だろうか。

それとも普通の人間ごときに負けてしまったからだろうか。

とにかく、今までに無いほどミメイの感情が溢れ出し、負けたくないという子供っぽい欲望が生まれていた。

それらを鬼に糧にされてしまうのを防ぐ為クロロから逃げ出したのだ。

 

「そんなものだ。

勝ちたい、負けたくない、欲しい···。

そういう単純な感情によって、人間は更に力を求める。

そして強くなる。

流星街出身の俺と俺の仲間もそうだった」

「そうね、ここには何も無いから。

欲しくなるんでしょうね、きっと」

廃墟の窓から外を見る。

 

今日も当たり前の様な顔をして昇っている太陽。

その光が街を照らす。

何も無いこの街を、力が全てのこの街を照らす。

 

 

「私もそうできたらよかったのにな。

そんな風に、単純に、クーさんと愉快な仲間達みたいに、力を求められたら良かったのに」

心なしか萎びたようになっている紫の髪を弄りながら、ミメイは小さく呟く。

「随分弱気だな」

「そう見える?好きに笑えばいいわ」

窓のへりに手をかけて、何の目的もないがぼおっとくすんだ朝焼けを見やる。

「いや笑わない。

俺はお前を嘲笑う為にお前を追ってきた訳じゃない。

そんなことの為に、寝入ったお前を観察しながら朝まで待っていた訳じゃないからな」

どうやらミメイがクロロから逃げ、その後適当な廃墟を見つけてそこで眠りについた時からミメイの近くにいたらしい。

追われていた気も、そばにいた気もしなかったのだが、クロロの絶のせいだろうか。

それともミメイが疲れ切っていたからだろうか。

 

「ならどうして?」

目的が分からない、とミメイは緩く首を横に振る。

「俺はお前を仲間にしたい」

「本気なの?」

「ああ」

そうクロロが答えた瞬間、プツリと糸が切れた様にミメイは声を上げて笑い出す。

何がそんなにおかしい、と少し不思議そうに尋ねられたミメイは、思わずこぼれた涙を拭きながら答える。

「趣味悪い。クーさんってグレンと同じくらい、趣味が悪い。

昔ね、いたのよ。

クーさんみたいに、私を仲間として求めた男が。

私は得体が知れなくて何をするかよく分からないのに、それでも仲間になれって図々しく要求してきたお馬鹿さんがいたの」

 

 

『お前も真昼も世界も、全て救ってやる。

だからお前も、俺が真昼と世界を救うのに協力しろ。

俺に力を貸せ、未明』

できっこない絵空事を並べて、それら全てを叶えたいと叫んだ男がいた。

間違ったことを、馬鹿みたいなことを、力の限りわめいた男がいた。

 

 

「そうね、クーさんはその男に似てるけど可愛げが足りないわ。

だから駄目。

グレンは可愛かったのよ。

何でもかんでも欲しがって、その癖何も見捨てられない。

だから結局犠牲にするのは自分なの。

そんな可愛さがクーさんにはない」

グレンの面影がチラホラと見られるものの、クロロとグレンでは決定的に違うのだ。

「俺も欲しいものは欲しいままに主義だが」

分かるだろうと問われ、分かるけどと頷くミメイ。

「違うのよ。

クーさんは見捨てられるでしょ。

必要とあれば何だって、仲間だって、自分だって見捨てられるタイプだから。

そういうのは可愛くない」

困った様に瞼を閉じて、やっぱり駄目とだけ繰り返す。

 

「可愛くないか」

そもそも可愛いの定義は何だ、と聞きたそうな顔をしているがミメイはそれを華麗に無視する。

「貴方の仲間にはならないわ。

そうね、クーさんがもっと可愛らしくなったら考えてあげる。

そんな日は来ないと思うけど」

「残念だ、お前が入ればメンバーが揃うんだが」

「ごめんね。他を当たって。

私も残念よ、心から」

演技無しで、ミメイは本心からの言葉を口にする。

 

ミメイだって、クロロの仲間になることに心惹かれなかった訳ではない。

だが駄目だ。

今もう既に、ミメイはクロロに対して好ましい以上の感情を抱いている。

刷込み現象で雛鳥が初めて見たものを親を認識する様に、初めて念という新しい世界を見せてくれたクロロはミメイにとってどこか特別である。

親愛か友愛か感謝か何なのかは分からないが、それらの感情はきっとまだ大きくなる。

傍にいれば、仲間になれば尚更。

 

ミメイは欲望を抱いてはいけないのだ。

その先を望んではいけないのだ。

真昼の様になってはいけないのだ。

心を喰われないよう鬼を制御したまま、鬼の力を十二分に引き出した人間にならなければならない。

本当の意味での鬼呪装備の完成は、リスクなしで鬼の力を最大限に利用出来る武器の完成。

ミメイはそれを目指している。

 

 

「クーさん、ありがとう。

貴方の仲間にはなれない。

そして、貴方と一緒に外には行けない」

窓のへりから手を離し、しっかりとクロロを見上げてその目を見据える。

 

ミメイの1番大切な目標はグレン達がいる世界に帰ること。

それへの第一歩を示してくれたクロロには、ちゃんと感謝している。

信用はしていなくとも。

だが、その目標を目指すにあたっての絶対条件“鬼に心を喰われない”を遵守する為には、クロロの仲間になる訳にはいかない。

勿論クロロだけではない。

きっとこれから先も、ミメイは誰の仲間にもなってはいけないのだ。

必要以上に人間に関わってはいけないのだ。

 

「残念だ、本当に」

「あは。

そんなに残念に思ってくれるなんて、女冥利に尽きるわ」

セーラー服のポケットに手を突っ込み、すぐ指先に掠った呪符を引っ取り出す。

昨夜のように呪符を手にしたミメイに、クロロは少し警戒したらしいがそれは無駄である。

今のミメイには戦う気も遊ぶ気もない。

「あげるわ。

1度だけ物理攻撃から貴方を守ってくれる筈」

赤い幾何学模様が書かれた栞サイズの呪符、それを照れくささを隠す様にしてクロロの胸元に押し付ける。

「あんまり強いものじゃないから期待はしないでね。

お腹や顔を直接殴られた時とか、そういう限定的な状況じゃないと発動しないし」

「栞にでもしておこう」

良い大きさだ、と受け取ってポケットにでも入っていたらしい文庫本に挟み込む。

「落っことさないでね」

「ああ。

お前が使う呪符とやらは念能力らしいな」

凝をしなくともクロロにもミメイにも分かる。

念能力を知らない時に作った呪符だが、ちゃんとそれにはミメイのオーラが纏わりついていた。

 

「意識してなかったけどそうみたい。

ねえクーさん、人を呪わば穴二つって言葉知ってる?」

「聞いたことがあるな。ジャポンのことわざだったか?」

突然なんなんだという視線に対して、ミメイはふふんと自慢げに胸を張る。

人が知らない事を先生ぶって教えてやるのをミメイは好む方である。

ただしその行為は、親切心とか優しい気遣いとか、そのような素敵な心によるものではなく、自分の優位性を示せるからという実に人間らしい心によるものだ。

そういう所がちょっと子供っぽいよね、と昔深夜に笑われたこともあったが、ミメイだってまだ16歳。

無邪気さがあっても良いではないか。

 

「そう、でも今ピンと来なかったってことは、ちゃんとは意味を知らないのね。

私の故郷は日本······じゃなくてどこかの辺境としておくんだけど、その故郷にだけ伝わる技術があるの。

それが呪い。

私が作る呪符はね、呪いの御札···その名の通り呪いの一種。

そしてどんな小さな呪いだって、行使するには自分も呪われることが必要不可欠なのよ」

日本は無かったんだった、と適当に誤魔化した後、格好つけて人差し指を立てる。

「自分が呪われていると?」

クロロの問いに対し首を横に振り、くすくす笑いをこぼす。

 

「まさか。今まで私が使った呪全てに私が呪われてたとしたら······考えたくもないわ。

きっと3回ぐらい死ねるんじゃないかしら」

呪術科学の発展の為に、柊家の為に、年がら年中呪いの研究をしていたのだ。

鬼呪装備とて鬼を縛る呪いである。

それら全ての呪いの分、術者であるミメイが呪われたとしたら。

地獄に堕ちるだけではお釣りがくるだろう。

 

「呪われる、って言い方がまずかったわね。

確かに人に向けた瞬間、呪った術者も同じ様に呪われてしまう程強力な呪いもある。

相手を腐らせる代わりに、自分の腕が飛ぶとか。

相手の心臓を確実に潰せるけどそれを潰したが最期、自分の心臓も潰れるとか。

基本的に呪いっていうのはハイリスクハイリターン。

そのリスクが大きければ、呪いが術者に返ってきたって言われるわ」

「制約と誓約と同じだな」

「そうね、多分同じようなものよ」

昨晩説明された制約とやらを思い出して頷く。

 

「でも毎回呪う度に自分が呪われてちゃ世話ないし、そんなリスクの大きいものは技術として認められない。

だから人を呪わば穴二つ状態になる前に、自分から代償を差し出すの。

血とか髪とか、自分の体の一部を差し出して呪いに混ぜ込むのよ」

「なるほど。自分の体の一部···生命エネルギー、つまりオーラか。

お前は意識せずにオーラを呪いに混ぜていた、それだけだったのか」

オーラのことまで続けて説明しようとした所で、先にクロロに言われてしまった。

クロロが理解出来たならいいか、と思うもののやはり少し悔しい。

それを表には出さず、えへんと胸を張ってミメイは締めくくる。

 

「そういうこと。

クーさんにあげた呪符だって、何の変哲もない紙に私の血を使って呪を書いたから、立派な呪符として成立してるんだから」

「呪いか、興味深い技術だ。探してみよう」

「本には載ってないんじゃない?

私の故郷、閉鎖された特殊空間だし。

隠れ里みたいなものだから」

別世界だからある訳ないでしょ、と正直に言える筈もなく、嘘に嘘を重ねる。

いやまあ、柊家率いる帝の鬼は狂気にまみれた閉鎖的な団体だったのだから間違ってはいない様な。

百夜教よりはマシだから、まだマシだから、と誰に対する言い訳か分からないが心中で弁明しておいた。

 

 

「そうか、残念だ。

ところでミメイ、世界七大美色を知っているか?」

「知らないけど。なぁにそれ、食べ物?」

キャビアとかこの世界にもあるのかしら、キャビアは世界三大珍味の1つだけど、とキョトンと首を傾ける。

「美食じゃなくて美色だ。······本人の自覚は無しか」

益々興味深いとクロロは目を細めて頷いたが、ミメイはそれに対し寒気しか感じない。

美食であっても美色であっても、どちらにせよクロロが何を意図しているのかは分からなかったが、何かよからぬことを彼が考えているのだけは伝わってくる。

 

「ミメイ、せいぜい売り飛ばされない様に気をつけろ」

嫌な寒気を吹っ飛ばそうと自分の体を抱きしめるミメイ。

クロロはその頭にポンと手を置き、面倒見の良い兄貴のように優しく撫でた。

「捕まえてこようとする奴はいるわ。

でも全部返り討ちよ。逆に身ぐるみ剥がしてあげてるの」

突然の頭ナデナデに狼狽えながらも、満更でも無さそうな顔で自慢げに笑う。

「そうか。慢心はするな。

···お前が本当の意味でお前になって、壊れるまでは誰にも盗まれるなよ。」

「え、」

今最後なんて言ったの。

そう返そうとした瞬間、一陣の風がミメイとクロロの間を吹き抜けていく。

強い風から目を守ろうとしたミメイが軽い瞬きをして次に目を開けると、クロロの姿は目の前から消えていた。

 

「早いわね。···目で追えやしなかった」

これが今の力の差か、とミメイは唇を噛む。

「やっぱり念って、凄い。

決めた。まずは念を極めた方がいいみたいね。

私がこれ以上強くなるには、欲望をタマに与えて鬼の力を暴走させるしかなかったもの。

渡りに船よ」

念能力ならば鬼呪装備の様に鬼に心を喰われる心配はない。

強くなりたい。

そう願ったとしても鬼に力を要求するのではなく、力を自身の念能力に求めるならばローリスクハイリターンである。

「基本的なことはクーさんに教わったし、きっと大丈夫よね」

 

 

纏、絶、練、発。

周、隠、凝、堅、円、硬、流。

これらを使えて1人前の念能力者。

ミメイはまだ纏、絶、練しか使えない。

しかもまだ不慣れなせいか安定しない。

まずは纏、絶、練を特訓し、少しずつそれらを組み合わせた応用技を習得することに決めた。

個別の特質系能力はまだ考え付かない、もしくはもう持っているが気付けていない為、それに伴い発は保留である。

 

『ほんとに?僕に心を喰わせた方が早いんじゃない?

今すぐ強大な力が手に入るよ』

目を覚ましたらしい鬼宿が新興宗教の勧誘の様にねっとり囁く。

「お断りよ。

折角運良くクーさんに出会えて、色々教えて貰えたんだし。

念を使わないのは勿体なさすぎるわ」

『ちぇー。まあいいけどね。

どうせいつかは未明は僕に叫ぶんだから。

力を寄越せ、全て寄越せ、って』

だから良いんだ、とくすくす笑いを残し、機嫌を悪くしたミメイに新たな鎖を巻き付けられる前に、自主的にミメイの心の奥に戻る鬼宿。

 

「一生来ないわ。

私が鬼に心を喰わせる日なんて、来ないんだから」

早速この廃墟を新たな住処にすると決め、人避けの呪符の作成を始める。

本物の紙を使わず具現化系の念を使って半端な呪符を作り出し、指を切って出した血を使って完璧な呪符に仕上げていく。

 

良い修行になりそうだ。

そう思いながらミメイはたった今出来上がった呪符を、窓枠の向こうで既に昇りきっている太陽に翳す。

紙特有の薄っぺらさまで再現されているせいか、呪符越しでも太陽は眩しく感じられた。

 

 

 

 

─────────

────ミメイが目を覚ます前

 

 

日が昇った。

夜が明けた。

しかし夜明け前の時間───未明という名を持つこの少女にとっては、名前の通りまだ夜が明けていないことになっているらしかった。

朝までは待ってやろうと珍しく仏心を抱いたクロロは、今の今までミメイが爆睡しているのを見守っていた。

見守りというよりは観察という方が正しいのかもしれないが。

 

クロロにとっては、絶もしないで駆けていくミメイを追うことなど容易かった。

後ろに気を配っていたようだが、クロロの方が絶をしてしまえば、疲れきってオーラが残り少なくなっていたミメイは気付けない。

だからこうして、廃墟に逃げ込み、どこからか拾ってきたらしいボロ布に身を包んで眠りこけるミメイの隣にクロロは座っていられるのだった。

 

ミメイが後で言う通り、クロロは去る者は追わないタイプである。

だからまさか、クロロが自分を追いかけるだなんてミメイは夢にも思わなかった。

クロロ本人としても、まさか自分が逃げ出した女を追いかけるとは思っていなかった。

実際にミメイの後をつけるまでは。

気付いたら絶をして、ミメイのすぐ後を歩いていた。

何故そんなことをしてしまったのか今になっても分からない。

ただ、考えるよりも先に体が動いてしまったらしいのだ。

 

初めは戯れだった。

流星街に落ちた流星を見てみようと思っただけだった。

だが今は、宝としてミメイが欲しくなっていた。

髪は恐らく世界七大美色で、念を知らなかったらしいが潜在的な能力は高く天才の域に達するだろう。

そして何より、クロロが今まで見たことがないタイプの人間である。

蠱惑的な女としての側面を持ちながら、同時に存在しているのが幼い少女の様な部分。

年相応以上の打てば響く様な返しをするし、会話をしていて飽きることはない。

だが時折、駄々っ子かと思う程に変な所で変な意地を張って拗ねる。

本人は自分の子供らしい部分を隠そうと見事な演技をしているが、そのくらいで騙されるクロロではない。

子供っぽさを見抜いてそれをからかうのは、クロロにとって十分な暇つぶしになるだろう。

 

ふむ、宝として愛でるもよし、仲間として育てるもよし。

 

 

取り敢えず起こしてみてから考えよう。

そう思い立って、ボロ布に包まれて饅頭の様に丸まるミメイの肩に触れようとする。

しかし

「寝込みを襲うのは感心しないな」

という声と共に、パシリと手が拒絶される。

「起きたのか」

「起きてたよ。

未明が寝てる時にだけ僕はちゃんと起きていられるんだ」

と口は動くものの、瞼は開かない。

 

「あ、なんで目を開けないのか気になった?

そんなの簡単だ。口と手しかこの体から主導権を奪えなかったんだ。

さっすが未明だよ。完全に寝入ってる時でも僕への警戒は怠らない」

クロロの心を読んだかの様にミメイの口は動く。

ちゃんとミメイの体からミメイの声が発せられている。

だが違う。

これはミメイではない。

もっと、“何か”酷く恐ろしいものだ。

 

「お前は何だ?」

本能的な恐怖と未知のものに対する警戒心。

クロロのそれらを見透かした様に“何か”は笑う。

「僕?そりゃ、未明の後ろに這い寄る渾沌さ。

···嘘だよー、嘘だから」

何と言ったらいいのか分からない、という顔になったクロロに困ったのか、“何か”は改まった様に咳払いをする。

「ええとね、うん、真面目に話そうか。

僕は未明の心に住みついている鬼という生き物だ。

未明にはタマって呼ばれてる」

「二重人格か」

クロロの問いにまさか、と高笑いを返す。

「違うよ。分かりやすく言えば、未明に寄生してるのがこの僕ってこと。

未明はまだ人間だけど、僕は人間じゃない。

僕らは全く別の種族の生き物だ。

まあそんなことはどうでも良いんだ。

僕が何であれ、僕は僕のやりたいようにするだけだしね」

 

ミメイの閉じたままの瞼がぴくぴくと動く。

それをそっと掌で押さえながら早口で語り出す。

「おっと、もう未明が目を覚ましそうだ。

話を早く済ませなきゃ。結論から言うよ。

今の未明は本当の意味で未明じゃない。

だから、まだ未明に手を出さないのをお勧めするよ」

「何のことだ」

「あは、隠さなくたって良い。

未明を殺すにせよ、愛でるにせよ、そばに置くにせよ、今はまだ時じゃない」

すっとぼけるクロロの心中など見え見えだ、と赤い唇を上げる。

 

「今の未明は花咲く前の蕾なんだ。

押さえてるものが溢れ出して、我慢をしなくなった未明は······うん、考えただけで最高だ」

ちろりと舌を見せて唇からこぼれた涎を舐めとる。

「見たくはない?

遊び女の様な妖艶さと少女の様な愛らしさ。

残忍で冷酷で、それでいて誰より愛情深い。

殺そうか愛そうか、それを天秤にかけて思うがままに振る舞う美しい化け物。

見たくはない?

ちなみに僕は見たいんだ。

未明が何にも囚われず、好きな様に生きる姿を見たいんだ」

恍惚とした表情をミメイの顔に浮かべ、誘う様に舌舐めずりをする。

 

 

「···それは見てみたいな」

思わずクロロも口角を上げていた。

さっきまでヒシヒシと感じていた本能的な恐怖はどこかへ去っていく。

今はただ、鬼とやらが言う“ミメイ”の姿に興味が沸いていた。

今でも十分面白いが、それ以上があるというのだ。

花開く前の蕾を戯れに摘み取るよりも、見事な花を咲かせた後に摘み取った方が花としての価値も高い。

 

「君ならそう言ってくれると思ったよ。

うん、良かった。未明を宜しくね。

君がしたい様にすればする程、未明の開花は早くなる。

どうせいつかは花開くんだ。

気長に待っててよ」

「ああ」

クロロは頷き、それに安心した様にミメイの顔は徐々にとろんとしてくる。

 

「あははははっ、あははっ!

壊れなきゃ、真昼以上に壊れなきゃ、そうじゃなきゃ未明は未明じゃない。

我慢ばかりの一生なんて、ずっと縛られた一生なんて、勿体ないだろ?

あははは、は、あは、はぁ······。

···じゃ、これで僕はさよならだ。未明が起きる。

くれぐれも未明には僕との話、秘密にしてよ。

勝手に体を借りたってバレると未明が怒るんだ」

熱が冷める様にミメイの体から力が抜け、瞼を押さえていた手がぐにゃりと曲がる。

 

 

クロロは鬼だと名乗った、ミメイに寄生している生物のことなど何も知らない。

二重人格ではないと否定していたが、それが本当かも分からない。

だが鬼というおかしな存在も、ミメイが花開いた姿になればきっと分かるだろう。

何故かそんな予感がしていた。

 

「ん···」

ミメイが寝返りをうち、その拍子に意識が浮上したのか瞼がムズムズと動いている。

それをじっと覗き込む。

きっとこれで、ミメイが瞼を開いた瞬間に目に映るのは自分の姿になるだろうとクロロは確信した。

昨晩尻尾を巻いて逃げ出した相手が起きた時目の前にいるとなったら、どんな顔をするのだろうか。

クロロは楽しみでしかたがなかった。

 

ふぁ、と小さな無意識的な欠伸を漏らして、とうとうミメイの瞼が開かれる。

さてまずは、定番の朝の挨拶から。

 

 

 

「おはよう」

 

 

 




勝手に暗躍する鬼宿くん。
悪気はない。
彼なりにミメイの為にやっているのだ。

鬼宿がミメイのことを“未明”呼びしているのは誤字じゃありません。


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4:袖触れ合うも糸の途切れ目

遅くなりましたが評価ありがとうございます。






ミメイ=ヒイラギが流星街に流星として落ちて早くも半年。

 

日々カツアゲをして日銭を稼ぎながら、四大行を基本に修行を詰み、徐々に応用技に手を出し始めるまでにオーラの使い方に慣れていく。

特質系といえど、具現化系と操作系にも強い適性があったらしいミメイは、呪符や式神など柊家お得意の呪いを念能力と融合させた新しいものへと進化させた。

 

具現化系の能力はイメージ修行が大変らしいが、親の顔より見たことのある呪符を思い描くことなどミメイには容易い。

その呪符に自分の血で呪文を書き加え、紙製の呪符よりも強いものを生み出すことに成功。

式神も同様にオーラを十分込めた血を垂らすことにより、従来よりも強力なものが出来上がった。

呪符オタク(とミメイは勝手に思っている)の深夜に見せたらどんな反応をするだろうか、そんな取り留めのないことを考えながらミメイは今日も飯屋の敷居を跨ぐ。

 

 

「オヤジさん、いつもの」

年代物のコインをカウンターの向こうで洗い物をする飯屋のオヤジに放り投げ、溜め息をつきながら足が1本取れかけの椅子に座る。

「また茶漬けか」

呆れ顔のオヤジがヒエとアワ9割のご飯にお湯を注ぐ。

三食茶漬けは栄養が偏っていると言いたいのだろうか。

「資金難なのよ」

ミメイとて申し訳程度に魚の切れ端が浮いている茶漬けには飽き飽きしている。

だがこれが1番安いのだ。

最近はカツアゲが難航している為、節約生活を強いられているミメイにとっては強い味方である。

 

「そりゃミメイよ、お前が見た目通りの可愛らしい女じゃねえってことが知れたからだ」

ミメイから椅子1つ分離れた所に座った男が鼻で笑う。

彼もミメイと同じくこの飯屋の常連で、どうやって稼いでいるかは知らないがそれなりに羽振りが良さそうな格好をしている。

「毎日毎日カツアゲしてりゃあ噂も立つだろうよ。

紫の髪の女はヤバい、逆に身ぐるみ剥がされるぞ、って」

今度はテーブル席に座る一団、その中の1人がミメイの方を見て残念そうに溜め息をつく。

「顔は良いからな、お前」

「私は可愛いけど、それに惹かれて襲ってくるバカが悪いの。

でもそのバカがいなくなると、私としては商売上がったりよ。

何か割の良い仕事知らない?」

茶漬けをスプーンで掬いながら、店内の男達に見せつける様にして足を組み替える。

 

それにゴクリと息を飲みながら男達が口々に提案する。

「お前ぐらいになれば一晩で稼げるだろうさ」

「それこそ見た目は良いからな。」

「今晩どうだ?暇か?俺ならそれなりに払ってやれるぞ」

「いやミメイのことだ。

連れ込まれた後は男を殴り潰して、金目の物を奪うに決まってる」

 

好き勝手言う彼等が気に障ったミメイは、持っていた金属製のスプーンをぐにゃりと握り潰す。

そのスプーンだったものを男達の方にダーツの様に投げつけてから、ニッコリと笑う。

「あは、身ぐるみ剥がされたい?

お望みなら貴方達の言う通り、1人で美人局でも何でもやってあげるわよ」

顔に張り付いた純真な少女の様な微笑みと、ダーツの様に飛ばされて壁に突き刺さるスプーン“だった”金属片。

それらを交互に見て男達はさあっと顔色を変えた。

 

「すみませんでした」

平身低頭、ここは謝るに限る。

ミメイは若輩者だ、しかも見た目はか弱い少女だ。

だがそうだと見くびってなめてかかると、次に壁に突き刺さるのは自分達であると男達は知っている。

しかしミメイの虫の居所は悪いままの様だ。

「あは」

足りないわよ、と言わんばかりに立ち上がる。

「すみませんでした、ミメイ様」

「申し訳ないっす、ミメイお嬢様」

「すいやせん、お嬢」

ははーっ、と大袈裟に頭を下げ、腹が減って仕方ないミメイの為に親子(鶏とは明言されていない)丼を注文する。

それにひとまず満足して、座り直して親子丼を待つミメイ。

 

「ねえ、段々ヤのつく自由業みたいになってるのは気のせい?」

長い足を組み、呆れたように頬杖をつく。

そんな些細な動作が一々絵になるミメイを見て、男達は大きく頷く。

「気のせいっすよ、ミメイのお嬢」

「···当たらずも遠からずかもね」

今度からお嬢って呼ぶか、とふざける男達の笑い声を遠くに聴きながらミメイは小さく呟いた。

 

 

名門柊家がやっていたことはヤクザも真っ青のレベルである。

得意技は尋問、拷問、人体実験。

まあ、百夜教よりはマシだとミメイは思いたい。

兄の暮人もそう言っていた気がするし。

百夜教を思い出してミメイの頭に浮かぶのは、あの忌々しい“終わりのセラフ”。

百夜教が推し進めていたあの実験のせいで何人が死んだか分からない。

世界を滅ぼしてまで天使の力を得たいのか。

いや、世界を滅ぼす引き金───“終わりのセラフ”を実際に発動させた男はそんなものが欲しくてやったのではない筈だ。

世界の最期を見ることが出来なかったミメイだが、あの男が世界を滅ぼしたであろう事は確信していた。

だってあの男なら、彼なら、きっと耐えられない。

全てを願い全てを欲した彼は、仲間が死ぬのに耐えられない。

死んだ仲間のために世界だって滅ぼしてしまうだろう。

 

癖のある黒髪を風に遊ばせ、つまらなそうにポケットに手を突っ込んでいるのが分かる背中。

顔は見えないがきっと無表情で、けれどその瞳には炎が宿っていて。

瞼の裏にやけに鮮やかに映る男の姿を、終ぞ正面から見つめることは叶わなかった。

だから思い起こされるのは背中か横顔ばかり。

 

ねえグレン。

貴方は私だけを見てくれたことは無かったよね。

 

薄く目を閉じて、脳裏に浮かぶ男の姿に語りかける。

当然答えてくれはしないけれど。

彼がミメイを見ていても、その向こう側に誰がいるのか直ぐに分かってしまうのに、それなのに正面から見つめ返すなんて酷な話である。

ミメイは何度思ったか分からない。

自分を通して真昼を見、それから真昼との距離を感じて無力感を味わうくらいなら、年中安売りセールをしている自分だけを見ていれば良いのにと。

その優秀さ故に有力な当主候補と見なされていた真昼と違い、ミメイはスペアにさえなれないオマケに過ぎなかったのだから。

真昼のオマケと一瀬のネズミなら、そこまで柊家が騒ぐことも無かったかもしれないのに。

 

昔の話だ。

夢物語だ。

そんなことは分かっていた。

真昼はグレンのもので、グレンは真昼のものだった。

そこにミメイの入る隙なんて有りはしなかった。

世界を巻きこんだ2人の恋物語にも、脇役としてしか登場出来なかった。

諦めている、最初から。

望めべくもない。

 

けれど、感情を押さえつけ、捨て、殺し、無かったことにした代償がこれだ。

時折ふとどうしようもない感傷にミメイは襲われる。

別世界などというアホみたいに遠い場所に来てしまったせいか、それは緩やかに加速して。

もう二度と帰れはしない、もう二度と会えはしない、そんな嫌な直感も相まって、ミメイの心はいとも簡単に揺れる。

 

だが、その好機を見逃さず心の深層から這い出てくる鬼宿の気配を感じ取って、はっとなり感傷から抜け出すのだ。

鬼を押さえつけ、感情を押さえつけ、欲望を押さえつけ、自虐とも言える禁欲を自身に強いて。

そうして現実に戻るのだ。

今日も同じ様に鬼宿を鎖で縛るイメージを持ってして、感情を切り離す。

感情も欲望も、全てミメイにとっては毒でしかないのだから。

 

 

「ミメイ」

目の前に現れた親子丼をじっと見つめて、それから普段通りの笑顔を作る。

「ありがとう、オヤジさん」

即席だが完璧な笑顔を顔全体に浮かべ、軽やかに礼を言う。

「···何かあったか」

思春期の娘に声をかけるが如く、オヤジはミメイの向かいに座り仏頂面のまま問う。

「何も。なぁんにも、無かったのよ」

折角ミメイが捨てようとしていた感情に気付いて、それを掘り起こす様にして気遣ってくるのを、気付かなかった振りをして親子丼に手をつける。

 

きっと飯屋のオヤジは人間として出来上がっていて、彼は何も悪くないのだ。

だがそれでもその優しさが痛い。

だからミメイは、人間らしい人間が嫌なのだ。

人間と深く関わるのが嫌なのだ。

人との関わりは感情を生み、感情は欲望を生む。

それがどうしようもなく辛いのだ。

 

誰もいない。

この世界にはミメイの家族も仲間も誰もいない。

心細い、寂しい、そうミメイの心は叫んでいる。

生き残るのに精一杯だった頃より、念の修行に勤しんでいた頃より、今は色々と余裕があって。

ぼんやりと考える暇があって。

真昼、シノア、グレン、深夜、暮人兄さん、美十、雪見、花依、五士。

ついつい家族と仲間の名を呼びたくなる。

この別世界からでは届くことはないのに。

 

「ねオヤジさん、良い仕事知らない?

出来ればそうね、何も考えなくていいタイプが良いわ」

心に湧き上がる感情を次から次へと殺しながら、そんな気配を微塵も見せずにスプーンを魔法のステッキの様に可愛らしく振る。

「···ミメイ」

「私、斬った張ったは大得意よ。分かってるでしょ?」

お仕事頂戴、とわざとらしく左手をオヤジの前でヒラヒラさせる。

「···」

尚も何か言いたげにミメイを見つめる彼にスプーンを向け、目を細めながら軽い殺気を滲ませる。

「オヤジさん、私あんまり踏み込まれるのは好きじゃないの。

勿論土足厳禁、関係者でも立ち入り禁止なのよ」

全身に纏っているオーラが自然に少し膨らむ。

それを抑えずに笑みを深くして、今すぐにでも殺してやろうという意志を持ってオヤジを見つめ返す。

 

「っ、すまんな」

予想通り怯んで、1歩ミメイから遠ざかるオヤジ。

首をスプーンで切り裂かれる様なイメージが頭に浮かんだ筈なのに、尻尾を巻いて逃げ出さなかった根性は流石である。

ほんの僅かとはいえ、ミメイの殺気に当てられなかった普通の人間は久しぶりだ。

殺気を向けられても逃げないほど、自分のことを思ってくれているのかもしれない。

そんな仮説がミメイの頭に持ち上がるが、そうであるなら尚更駄目だとスプーンを置く。

さあっと殺気が霧散し、ただそこに残ったのは冷や汗を流すオヤジと微笑を浮かべるミメイだけ。

 

「物分りが良くて嬉しいわ。

で、どんなお仕事かしら」

頬杖をついた状態で可愛らしく小首を傾げる。

「マフィア経営の賭場の用心棒だ」

渋々、といった(てい)でオヤジは1枚の紙切れを差し出してきた。

それにざっと目を通し、指紋を付けないように注意を払って紙をカウンターから取り上げる。

「マフィアの名前は······知らないわ。

ま、報酬は十分だから何でも良いけど」

ゼロが幾つも並んでいるのを満足げに見て、ミメイはくっと喉を鳴らす。

 

今すぐにでもその紙を返せと言わんばかりに、そんなミメイを睨むオヤジ。

「危険だぞ。

お前が普段しているカツアゲとは段違いだ」

「ならオヤジさん。

上手くやっても下手を打っても、世界が滅びる手助けをしてしまう仕事、そんなの知ってる?」

紙をセーラー服のスカートのポケットにそっと仕舞いながらミメイは立ち上がる。

 

「何を、」

戸惑うオヤジを無視して言葉を紡ぐ。

「何をしてもどうやっても、自分の無力さ加減が露呈するだけの仕事、そんなの知ってる?」

ミメイが今持っている中で1番値打ちがあるであろう金の指輪、それをオヤジに手渡しながらミメイは目を細めた。

「あのね、私は知ってるの。

よく、知ってるのよ」

骨ばったオヤジの手、温かい手、それに指輪をしっかり握らせて、それからその熱を振り払う様にミメイは自分の手を離す。

「だから良いの。

どんな仕事だって、あれよりはマシだろうから」

真っ直ぐ腰まで垂らした紫の髪を靡かせて、ミメイはオヤジに背中を向ける。

「じゃあさよなら、オヤジさん」

今までありがとう、そんな言葉が続きそうな雰囲気でブーツのヒールを鳴らす。

 

 

「待て」

たったさっきミメイから渡された金の指輪。

それから少しずつミメイの熱が消えていくのを掌で感じ取り、飯屋のオヤジはもう一方の手を伸ばす。

「待て!」

 

ミメイの姿が、何年も前に失った小さな娘の姿に重なる。

背丈も見た目も、何もかも似ても似つかない。

そもそもミメイは16で、あの時飯屋のオヤジの娘は10そこそこだった。

だから重なる筈がないのだ。

ないのだけれど、

 

『行ってきます、おとーさん』

そう言って向けられた小さな背中。

それがオヤジの見た娘の最期の姿だった。

娘はお使いに出掛け、その出先でゴロツキの喧嘩に巻き込まれて死んだのだ。

お使いになぞ遣らなければ良かった、その背中を止めれば良かった、そう何度思ったか分からない。

 

 

「待ってくれ、アザミ!」

ミメイの背中が、飯屋から出て行こうとするミメイの背中が、かつて飯屋から出てそれから二度と帰って来なかった娘の背中に見えた。

 

「アザミ!」

 

亡き娘の名を再び叫んでからはっとする。

店内の客が何事かと自分の方を見ている。

それに頭を下げ、なんでもないのだと謝って、飯屋のオヤジは再びドアの方を見る。

だがそこには最早何も無かった。

オヤジが自分の娘と重ねた少女の姿は既に無かった。

行ってしまったのだ。

愛娘のアザミの様に、行ってしまったのだ。

そうしてきっと、アザミの様にあの少女も二度と帰っては来ない。

飯屋のオヤジには分かっていた。

生きた姿であれ死んだ姿であれ、二度と会えないと分かっていた。

第二の娘の様に思っていたあの少女は行ってしまったのだ。

 

最後に見せた突き放す様な鋭い瞳、それがオヤジの頭の中にありありと浮かび上がる。

これ以上は駄目だと言わんばかりに、踏み込んでくるなと線引きする様に、あの少女はオヤジを拒絶した。

自分の何が少女の気に障ったかは分からない。

娘扱いしたのがいけなかったのかもしれない。

今となっては分からない。

 

しかし。

「ミメイ」

せめて生きて幸せになってくれ。

そんな願いを込めて、1つ残された金の指輪を握りしめた。

それくらいしか、彼に出来ることはないのだ。

 

 

 

 

 

──────────

「···最後に呼ぶのは娘の名前だったわ。

まあそうよね」

紫の髪を指にクルクルと巻き付けながら、普段通りの微笑を浮かべているが、その瞳は心なしか暗い。

かつりかつりと夜道に響くヒールの音を止め、中天に昇った月を見上げる。

「···」

月を見ると嫌に心がざわつく。

鬼をはじめとする異形の物は皆こぞって月やら夜やら、そういうものが大好きなのだ。

 

『あの人間が好きだったの、未明?』

頭にくすくす笑いを響かせる鬼宿。

「まさか」

かぶりを振って否定し、馬鹿らしいとミメイは再び歩き出す。

『はは。ほんと未明は素直じゃないなぁ。

仕方ないから教えてあげるよ。

ああいうのが父親って奴さ。

未明にはいなかった、父親って奴だ』

僕って親切、と喜色を滲ませる声。

 

「父親はいたわよ。父上、柊天利、柊の王。

いたわよ、ちゃんと」

『あれが父親か。

あははは、馬鹿言うなよ。誰がそんなこと思ってたんだか。

真昼もシノアも暮人も、勿論養子の深夜も、誰もそんな風には思って無かっただろ。

未明だってね』

「···」

『ねえどうだった、あのオヤジさんとやらは温かかったんだろ。

クロロとは全く違った“特別”だったんだろ』

ねえねえ、と煽る様に言葉を重ねる鬼宿を無視し、ミメイはただただ足を動かす。

飯屋のオヤジ紹介の仕事、その紙に記載された仕事場に向かっていた。

 

『ねえ未明、もう我慢する必要なんてないじゃないか。

欲しいなら欲しいって言いなよ。

それで僕に力を求めなよ。

ほんとはクロロと一緒に行ってみたかった。

ほんとはオヤジさんの娘になってみたかった。

そういうのさ、少しは望んでみなよ』

「望んだら最後、貴方は私を喰う癖に」

甘言には乗らないわ、と更に歩くスピードを上げる。

指定された賭場はもう近い。

 

『そりゃ喰うさ。

欲望が僕の、鬼の糧なんだから。

でもさ未明、鬼呪装備を手にしたら遅かれ早かれ鬼に心を喰われるんだ。

喰われ具合は人それぞれだけど。

喰われ過ぎて鬼になっちゃう人間もいるよね』

「真昼みたいに、でしょ」

グレンが欲しい、シノアを守りたい。

その二つに板挟みになって、柊家に囚われたまま鬼になった真昼。

 

『そうさ。真昼は欲望に忠実に鬼を暴走させた。

でも未明はそうしなかった。

何でだろうね』

不思議でたまらないや、と分かりきっている癖に質問するのが憎たらしい。

「私は真昼みたいに鬼を暴走させちゃ駄目だった。

鬼を武器にするには暴走という欠陥があったから、どうにかして呪で鬼を縛らなきゃいけなかった。

強く強く、鬼を制御出来る呪を作らなきゃいけなかった。

完璧な鬼呪装備。それを私は作らなきゃいけなかったのよ」

鬼宿の質問に忠実に答えてしまう自分も憎たらしい。

だがどうせ心を共有しているのだ。

シノアの様に自分だけの心を閉ざしきって、鬼の侵入を完璧に防ぐことは難しい。

どう頑張っても鬼宿にはある程度筒抜けになる。

 

『ああそうだ。

鬼呪装備の雛形を作ったのは真昼だけど、適性さえあれば万人が使える武器にまで完成させたのは未明だもんね』

「そうよ」

鬼呪装備の所有者と鬼呪装備に宿る鬼。

その両者が対峙する時に鬼を拘束している呪の鎖、それら全てはミメイが普段鬼宿に嫌という程巻き付けている鎖の子分的存在である。

ミメイが数えきれない程生み出してきた鎖を研究し、解析し、結果その一部が数多の鬼呪装備に取り込まれて、そこで制御機能として確立したのだ。

 

『未明が作った制御機能、その価値が1番よく分かっていたのは暮人じゃないかな。

彼も未明と同じ様に、鬼は完全に制御して支配下に置きたいタイプだから』

「暮人兄さんは強いもの」

兄は強かった。

真昼の次に有力当主候補として名を挙げられるくらいには。

『そうだね。

でも未明、勘違いしたら駄目だよ。

暮人はどこまでいっても、後から鬼を心に棲まわせた。

初めから心に僕を棲まわせていた未明とは違うんだ。

僕達は1つなんだよ。

どれだけ君が否定しようと、拒絶しようと、制御しようと、欲を絶とうと、僕達は1つだ』

「···」

『僕は未明で、未明は僕だ。

だからね、未明がずっと否定してるのは()であり、()なんだ』

「だから何?」

もう黙って、とは言えない。

何を言おうとしているのは大体分かっている。

それを聞くのは不愉快で、気に食わなくて、何より心が痛いことだとも分かっている。

それでもミメイは何も言えない。

 

 

『未明がずっと捨ててるのは()だ。

ずっと殺してるのは()だ。

ずっと見ていないのは()だ』

 

言われなくても、改めて鬼宿(自分)に言われなくても、分かっていたことだった。

 

 

「···そうね。

そうなんだろうな。うん、そうなのよ。

知ってるわ、タマ」

何の感慨も無さそうに声を絞り出してはいるが、余計なことを言う鬼宿を拘束する気力も湧かない。

『ならもう良いだろ。

未明はもう十分頑張ったじゃないか。

もう我慢しなくて良いんだよ』

「···ほんと、口が上手いんだから」

馬鹿ね、と力無く手を垂らして、またもや月を見上げる。

『折角柊家とか、身分とか、そういう面倒臭いものが無い世界に来たんだ。

何かに囚われる必要は無いんだよ』

ね、そうしよう、何故か涙声で鬼宿はミメイの袖を引くようにして訴える。

『自由に生きようよ、もう未明の好きな様に生きよう。

じゃないと、そうじゃないと、余りに未明の人生は寂しいよ』

ミメイを喰い物にしようと狙っている筈の鬼宿が、どうしてこんなに辛そうに叫ぶのかは分からないが、ミメイは緩やかに首を横に振った。

「ほんと、油断も隙もあったものじゃないわ」

体に残っていた僅かな力をかき集め、慣れた仕草で鎖をイメージして鬼宿を心の奥で拘束する。

「おやすみ、タマ」

良い夢を、と幼い子供に言い聞かせる様に優しく呟く。

 

『······馬鹿、未明の馬鹿!

これじゃ、囚われてるのは僕じゃなくて君だ。

囚えているのは柊家とかじゃなくて君自身だ。

この重い鎖に1番縛られてるのは君じゃないか、未明!』

じゃらりじゃらり、耳障りな音を残し鬼宿の気配はフェードアウトしていく。

 

 

金色の月から目を離し、同じく金色の光を発する賭場へと足を向ける。

裏口らしきドアを叩いて、すぐに開いた向こう側へと、ミメイは傾国と謳われた姫君も裸足で逃げ出す様な笑みを投げつけた。

「こんばんは。

私、この賭場で用心棒として働かせて貰おうと思って来たの。

誤解されそうだけど冷やかしじゃないわ。

それを証明するには何人か殺して見せれば十分でしょ?

だからひとまず、一晩働かせて。

その一晩で何人だって殺してあげるわ」

 

別に誰だって良かった。

兎に角今は殺したかった。

ぐっちゃぐちゃに殺してやりたかった。

 

このぐちゃぐちゃな心ごと、殺してやりたかった。

 

 

 

 

 




所々にフラグの断片を散らしてみました。
まあ“鎖”といえば、ハンターで思い浮かぶのは···ね、1人ですから。
出さない訳にはいかないでしょう。
彼か彼女か明言されていませんが、ここでは彼でいこうと思います。

ちなみにその彼の登場は近いです。




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5:拾われたお姫様

少女ではありません。
ここでは少年設定です。
例の“鎖野郎”は性別不明キャラではありますが、話の都合上男にしています。





雨が降っている。

冷たい雨が、しとしとと降っている。

傾いたトタン屋根を伝い、連続的に地面へと落下する滴。

それらが赤茶けた地面を黒に染めるのをミメイは見下ろしていた。

 

今日も今日とて盛況な賭場、その正面玄関の壁にもたれ掛かって少しでも威圧感を出そうと腕を組む。

時折出入りする客が、そんな新しい用心棒であるミメイに物珍しげな目を向けるがそれもその筈。

ほんの少し前までは厳つい男だったというのに、後釜に収まったのはセーラー服を来た小娘である。

 

遊び女かと勘違いして声をかけてくる馬鹿共が多いのにイライラしながら、そもそも正面玄関なんぞの警備をミメイに任せた賭場の主人が悪いのだと舌打ちする。

飯屋のオヤジからの紹介状らしき紙を賭場の主人に渡したお陰か、雇われた初日にウザ絡みしてきた他の用心棒を容赦なく叩きのめしたお陰か、今やミメイは賭場の主人に信頼されきっている。

ミメイの見た目に反した実力を買われて、報酬が高めな正面玄関の警備に回されたのはいいが、ナンパまがいをしてくるアホ共の世話は仕事内容に入っていないのだ。

さっきも「あっ、困りますお客様(物理)」をスカポンタンにかます羽目になった。

加減を間違えて腹にしっかりキメて、酒臭い吐瀉物をぶちまけさせてしまった為、次からは首を狙おうと決めたミメイであった。

 

 

「寒い。」

はあ、と吐き出した息が白い。

息をする度ツンとする鼻を手で覆い、少しでも冷たい空気が肺に入らないようにしてみるが余り意味は無さそうだ。

雨のお陰で湿度は高いのが幸いである。

これで乾燥していたら、ミメイの喉から肺は冷たい乾燥した空気のせいでボロボロになっていたに違いない。

 

ミメイが着ている第一渋谷高校の制服は夏服ではないが冬服でもない。

春秋用の生地が薄い長袖にミニスカート。

みぞれ混じりの雨が降る様な寒さの中で着るのに適しているとは言い難い。

だというのにミメイが他の服を着ないのには訳がある。

 

まず金が無い。

カツアゲの分ではその日の食べ物をどうにかするのがやっとで、無事用心棒として雇われた今となってもカツカツ暮らしは変わらない。

それもこれも、先日この賭場で妖刀と名高い刀を買い叩いてしまったせいだ。

 

持ち主を呪うとか何とか曰く付きで誰も得ようとはしないが、元々業物なのとどこぞの国の王が持っていたという無駄な価値が付いてしまい、値が吊り上がっていたその刀。

鬼呪装備でないのは見て分かるが、それに近い妖気を発していたのだ。

妖刀を生み出したのは恐らく念能力者だ、そう付け加えた鬼宿の勧めもあり、ミメイは全財産をはたいて(報酬前払い)妖刀を手にした。

 

鬼宿を毎回毎回呼び出して鬼呪装備を生み出すのも手間であるし、得物を見せつけて威圧することが用心棒には必要だと賭場の主人にアドバイスされていたし、何より妖刀というのが気に入ったし、良い買い物をしたとは思っている。

今腰に差していても程良い重みが心地よく、実際に賭場で暴れた馬鹿を斬った時もその鮮やかな斬れ味に快感さえ覚えた。

 

刀の名は知らない。

妖刀という通り名の方が有名になってしまったらしい。

そんな宙ぶらりんな所も好ましい。

だから後悔はしていない。

 

が、金に関しては別問題である。

 

住と食は、賭場に住み込みのお陰である程度は補償されている。

フワフワとは程遠い硬さだが、ちゃんと足の付いたベッドで寝たのは半年ぶり以上で、新しい住処で眠りについた夜はミメイは思わず泣きそうになった。

食事は朝晩2食。

質素だが食える。ミメイがよく知る豚や鶏、名前がちゃんと分かる魚もあった。

そして何より水が綺麗だ。

流星街で名前を聞いた事のなかった弱小マフィアだが、腐ってもマフィア。

世界のゴミ捨て場とは格が違うのだ。

 

こうして人間らしい生活を送れている為、ミメイに文句はない。

文句はないのだ。

ないのだが、やはり服を買う金さえないのは辛い。

いや、流星街にいた頃より格段に生活水準は上がった。

だから満足すべきなのだ。

というよりそもそも刀を買わなければ良かったのだ。

そうすれば今、新しい服や防寒着を買えなかった為に寒さに震えていることはなかった。

 

刀の購入の際に、今月と来月の分の用心棒の報酬を前払いして貰った為、ミメイにまとまったお金が入るのは再来月。

これから先まだまだ寒くなるらしい。

だがミメイは賭場の用心棒、しかも正面玄関(屋外)の警備を止められない。

報酬を先に貰っているし、食と住がセットの素敵な職場をほいほい手放す程現在一文無しのミメイは馬鹿ではない。

 

 

「···八方塞がり。」

くしゅん、と小さなくしゃみを吐き出してから、長い紫の髪をマフラーの様に首に巻き付ける。

これで少しはマシだろう。

『まあ仕方ないよね。未明は柊のお嬢様だからさ。

これも社会勉強と思いなよ。

後先考えずに買い物すると痛い目見るってね。』

馬鹿だねー、と他人事の様に笑う鬼宿。

 

「タマだって考えてなかった癖に。」

刀買うの勧めた貴方も同罪よ、そう責める様な口調である。

『いや僕鬼だし。基本的に考えてないし。

欲望のままに生きるのが鬼だからさ。』

「···死ねばいいのに。」

お気楽な鬼宿に苛立ちながらも、寒さのせいで鼻水を垂らしかける自分が情けなくて、やけにしょっぱい鼻水を啜る。

 

『あはははは。まあ仕方ないよ。

この制服、未明特製の呪符を編み込んである魔改造セーラー服だから。

他の普通の服なんて着ない方が良いんじゃない?

魔改造のお陰で防弾防刃、呪い避け。破れにくくて汚れにくい。

長年着続けても傷まないし、おしゃれ着洗いは必要無し。

才能の無駄遣いってこういうの言うんでしょ。』

昔っから手先器用だもんね、ぬいぐるみとか作るの好きだもんね、と冷やかす。

「···正直、帝の鬼が四苦八苦して作った軍服よりも高機能だと思うわ。

こんなこと言ったら暮人兄さん怒るかしら。」

『いや?

帝の鬼の軍服も魔改造しろって言うだけでしょ、暮人なら。』

「でしょうね。」

命令だ。やれ。

そう上から目線で告げる兄暮人の姿が簡単に想像出来た。

 

結局グレン達とお揃いの帝の鬼支給の軍服に袖を通したことは無かったと回想する。

グレン、深夜、十条、五士、花依、雪見とチームを組んで、正式に暮人の部下になった時に受け取りはした。

だがミメイはグレン達と一緒に戦うよりも単独行動が多かったし、柊家率いる帝の鬼の一員に組み込まれるのが気に食わなかった。

それに何より、軍服よりもミメイが魔改造した第一渋谷高校のセーラー服の方が高機能だった。

ちなみに、ついでとばかりに真昼のセーラー服にも魔改造を施した為、真昼もそれを気に入っていたのかずっとセーラー服姿だった。

 

帝の鬼の軍服は長袖長スカートにスパッツ付きで、もしそれを今着ていたならば寒さに凍えなくて済んだのに、と過去の自分が少し恨めしい。

だが無いものは無い。

無いものは出ない。

布と糸を買って作ろうにも、それらを買うお金が無い。

 

 

貧乏は敵だ。

箱入りお嬢様育ちのミメイは惨めさを十分に味わって、生理的か感情によるものか、ほんのり涙を滲ませる。

「···寒い。」

 

みぞれ混じりだった雨に色がつき始める。

白く白く、灰色の建物ばかりの世界を染めていく。

赤茶けた部分を所々に残す地面に、ふんわりと白が覆い被さる。

地面の僅かな熱のせいですぐに透明に変わる白だが、次々に現れる仲間達のお陰で徐々に白の領土を広げていく。

 

ちらちらとミメイの視界で舞う雪の欠片達。

それをぼおっと見上げて思い出すのは、ミメイにとって1番記憶に残るクリスマス。

恐らくミメイがいた世界が滅亡した日で、恐らく深夜達が死んだ日で、間違いなくミメイがこの世界に吹っ飛ばされた日である。

 

そうそれと、可愛い妹シノアの誕生日だ。

祝えなかった、誕生日だ。

たった1人の妹に、ケーキさえ買ってやれなかった誕生日だ。

生まれてきてくれてありがとう、そう伝えてやれなかった誕生日だ。

自分の誕生日にシノアは、世界と姉2人を失ったことになる。

神の子が生まれたと伝わる日に、自分が生まれた日に、そんな悲劇が起きるだなんてやっぱり自分達双子の妹らしいな、とミメイは自嘲的な笑みを浮かべた。

 

 

雪が風に煽られて、屋根の下にいるミメイの顔の目の前でちらちら舞う。

視界を遮る冷たさを鬱陶しく思いながらも、最後のクリスマスもそうだったっけとやはり感傷的に思い出す。

 

世界を救う、真昼を救う。

その為ならば、邪魔する人間は皆殺す。

それが例え、同じ高校で学んだ元仲間であっても。

顔や名前を知っている知己であっても。

そうやって走り抜けて、斬り抜けて、それでも間に合わなくて。

亀は兎に追い付けなくて。

妹は姉に追い付けなくて。

男は女に追い付けなくて。

 

そんな窮地の中で、真昼が恋したグレンはやっぱり我儘を言ったのだ。

今更世界を救った所で、もう何も残らないと。

だから負け犬のまま、弱いまま、それでも仲間のまま、一緒に死のうと。

弱さを抱えたまま、仲間を選んで、それで一緒に死ねたら勝ちなんだと。

 

ねえグレン。

そんな貴方だから、きっと真昼は貴方に恋をしたんだね。

家族も仲間も恋人も世界も、どれかを選ぶこともどれかを捨てることも出来なくて。

そんな弱さを抱えて生きる人間だった。

 

ねえグレン。

なら私は何だったんだろう。

初めから人間として生まれてくることさえ許されなかった私は何だったんだろう。

弱さも強さも、求めちゃいけなかった私は何だったんだろう。

 

「分からないなぁ。」

流れ出した鼻水をずるりと啜りながら首を捻れば、そんなの知るか、とグレンの冷たい声が聞こえた気がした。

 

 

灰色の空から視線を外し、なんとなく賭場の向かい側の路地に目をやる。

黒いゴミ袋が幾つか積み重ねられ、痩せたカラスが飛ぶ元気もなく跳ねている。

ぽてりぽてり、そんな間抜けな音が似合う雰囲気で跳ねながら餌を探しているらしい。

そんな姿がやけに滑稽で、ミメイは近くで見てやろうと賭場の壁から背中を離した。

 

屋根から出ればすぐに雪が髪に当たって融けて、頭皮が濡れたのを感じる。

たらりと水が頭のてっぺんから頬を伝って流れ落ちる。

まるで涙の様だ、そんな風に思いながら哀れなカラスの背後に回り込む。

絶をしているせいかカラスはミメイに気付かずに、またぽてりぽてりと跳ねている。

 

「カーラースーなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ、カーカー。」

まともに習ったこともない童謡を口ずさんでも、当のカラスはミメイに気付かないままで、その上鳴くこともない。

「なぜ鳴くの、って言われても仕方ないわよね。

鳴きたいから鳴くのよ。」

 

思っていたより雪は降っていたらしい。

ミメイの髪は雪融け水でしっかり濡れてしまい、その水がミメイの白い頬を伝う。

1つ2つ、3つ。

ポタリポタリと流れ落ちて、カラスの黒い濡れ羽色の上でぴちゃんと撥ねた。

余りにもミメイに気付かないカラスの反応の薄さに飽きたミメイは、ふぅっと息をついて絶を止める。

そのお陰でカラスはミメイの存在を認識したらしいが、だからといって飛び上がって逃げることもない。

どうでもいい、そんな溜め息が聞こえてくるようだ。

カラスの癖に。

 

 

ポタリ。

またもやカラスの黒い羽の上に滴が垂れる。

カラスを上から覗き込むようにして見ていたミメイは、その艶々とした黒を観察する。

そんなミメイの耳に届くのはつたない咳。

息が苦しいのか、上手く咳をして痰を吐き出すことも難しいらしい。

おや、と咳がした方に視線を向ければ、けほっと可愛らしく咳き込んでから声が紡がれる。

 

「泣いて、いるのか。」

水に濡れたのを嫌がる様に跳ねるカラスの向こう側、路地裏の端、ゴミ袋の山の影、そこから掠れた声がしたのだ。

どんな人間か顔を見てやろうと、さっきカラスに向けた興味を今度は新たに人間に向けてみる。

「···私に聞いてるなら、答えは“いいえ”よ。」

びよんびよんと少し勢いづいたカラスを追って、ミメイは声が聞こえた方へと回り込む。

子供らしさが抜けない高い声。

少女だろうか。

シノアと同じ様な、少女だろうか。

 

「そうか奇遇だな、私も泣いていない。」

声の主は地面に座り込んで俯きながら、疲れた様に声を振り絞る。

折角ミメイがゴミ袋の影にまで回ったというのに、肝心の声の主の顔が見えない。

薄汚れた長い金髪と、どこかの国の民族衣装の様な不思議なデザインの服、そしてそこから覗く細い手足からミメイは判断する。

やはり少女だろうか。

線が細い。

痩せている。

 

「私もお前もカラスも皆、泣いていない。」

「私とカラスは泣いてないのは合ってるけど、貴方は違うわ。

泣いてるもの。」

例えどれほど小さくても、鬼呪装備持ちのミメイが近くの人間が発した音を聞き逃すことはない。

目の前の金髪少女と目線を合わせようと、汚れるスカートを気にせずしゃがみこんで、少女の顎を掴んで顔を上げさせる。

 

乱れた金髪の向こうから、深い茶の目がミメイを見据えていた。

何も見ていないようで、何かを見ている。

ミメイを見ているようで、ミメイを見ていない。

乾き切った片目とは対照的に、もう片方の目からは涙が溢れている。

凪いでいる癖に、奥に炎があるようなそんな目。

こういうの見覚えがあるなぁ、とそんなことを考えて少女の頬を拭う。

「やっぱり、泣いてる。」

嘘つきね、とミメイは姉ぶって少女を見下ろした。

 

「ああ。やっぱりお前も泣いている。」

すっと少女が細い手を伸ばし、ミメイの頬に指を掠らせた。

ミメイにそれを避ける余裕は無かった。

流れる様な動作で、ミメイが気付いた時にはもう少女はミメイの頬を触っていた。

警戒を解き気味だったとはいえ、仮にも念能力者のミメイが気付くより早く動いた少女に目を見張る。

 

「私もお前も、泣いている。奇遇だな。」

するんとミメイの頬から冷たい指が滑り落ちていく。

それを最後に茶色の瞳に瞼が被さり、血の気を無くした唇が固まった。

 

 

ぐにゃりと、そんな音を立てて突然体から力を抜く少女を咄嗟にミメイは受け止めた。

冷たい。

ミメイよりも冷たい。

小さい。

ミメイよりも小さい。

それでも、まだ生きている。

 

 

 

 

「カーカー、カー、カーカー······。」

飛ぶ元気さえなかったカラスが独り、雪に吠える様にして、泣いた。

 

 

 

 

─────────

「よいしょ。」

冷え切った少女の細い体を、舞い散る雪から庇うようにして抱きしめる。

そのまま持ち上げてみるが、鬼と同居しているミメイの力でなら易々と宙に浮かせられた。

少女がその小さな腕で大切そうに抱えていた僅かな荷物を落とさないように、ミメイは自分と少女の体をしっかり接触させた。

 

『どうするのさ、その子供。食べるの?』

食べるなら僕にも分けてよ、と言わんばかりの鬼宿に呆れる。

「貴方と一緒にしないで。

私は人間を殺しても、食べる趣味はないわ。」

『ええ?子供の血は美味しいことで有名なのに。』

グルメな吸血鬼は大体ショタロリコンさ、と知りたくもない耳寄り情報を教えてくるのを無視して、少女を抱いたまま路地裏から出る。

 

雪が酷くなっている。

灰色の空を見上げれば、無限に落ちてくる白い塵。

早く屋内に入らなければ。

生者としてはこれ以上冷えようがないと思われる程冷たい少女の体。

ミメイの僅かな熱を奪って少し温まってきたようだが、まだ足りない。

 

『でも未明。殺すのと食べるの、その2つは何が違うのさ。

未明だって豚や牛を殺して食べるじゃないか。

それなら人間を食べて何が悪いの?

ねえ、ねえ未明。ねえったら。』

ミメイが少女を今抱きしめていることが不思議でたまらないのか、不愉快なのか、どちらかは知らないが聞き分けのない幼子の様に絡んでくる鬼宿。

「違うわ。豚や牛を殺すのは私が食べる為。

人間を殺すのは···そうね、必要だからよ。」

『豚や牛だって必要だから殺すんだろ。

何が違うのか僕には分からないな。』

ミメイが言い淀んだその隙を見逃さず、気に障る嘲り笑いをミメイの頭に響かせる。

『中途半端な慈悲とか同情はやめときなよ。

後で面倒になるだけだ。

ほら、早くその子供を捨てなよ。』

「い、や。」

きっぱりと断る。

鬼宿が反対すればするほど、ミメイの心はかたくなになる。

 

鬼と人間は鏡合わせ。

同じ心を共有しているが、間に透明な壁を挟んでお互いにお互いを見ているのだ。

その壁が無くなった時、鬼と人間が完全に混ざり合った時、人間は人間をやめて狂うのだ。

 

『えー?なんで?邪魔だろ、そんな子供。

一体全体何がしたいのさ、未明は。

クロロについて行かなかった、オヤジさんの娘にもならなかった。

それなのに、この子供は欲しがるの?』

趣味悪い、と吐き捨てる鬼宿。

それを軽く受け流して、賭場の裏に建っている小さな掘っ建て小屋の鍵をポケットから取り出す。

小さな寝息を立てる少女の長い金髪に指を通しながら、ミメイは鍵を挿し込んでドアをこじ開ける。

油を随分差していないのか元々の立て付けが悪いのか、相当力を入れないと小屋のドアは開かないのだ。

 

 

ギゴーとドアを開ければ、そこは明かりがついていない薄暗い小屋の中。

七畳程の一部屋に、トイレとキッチン、簡易シャワーが付いた好物件。

流星街での暮らしと比べれば天と地である。

まあ、柊のお嬢様だったミメイからすれば、これが···家?嘘?と言いたくなるボロさなのだが、今更文句は言うまい。

廃墟じゃないぞ、万歳。言って良いのはそれだけだ。

 

窓際に置かれた簡易ベッドに少女の体をそっと置く。

ふわふわ感に欠けるマットレスな為、ギシリと嫌な音しかしなかったのが悲しい。

とにかく体を温めてやろうと、羽毛など入ってなさそうな薄っぺらい布団を少女の体に巻きつける。

 

うむ、寒そうだ。

一応熱を発する人肌から、冷え切ったベッドに移されたせいかさっきよりも寒そうである。

「他に何かあったかしら。」

白を通り越して青くなってきた少女の顔を見ながら、アタアタと申し訳程度に置かれている部屋の引き出しを開けてみる。

だが勿論何も無い。

何かあったならミメイが既に身につけている。

 

『···あのさぁ、』

困った末に自分の未使用の下着を持ち出して、それを布団の中に詰めようとするミメイに対し流石に物申したくなったのか、鬼宿が溜め息を漏らす。

確かに下着も布だが待って欲しい。

防寒具にはならない。布団の足しにはならない。

「タマは黙ってちょうだい。

布を増やせば良いのよ。とにかくそう、増やせば。」

寒さのせいで頭が回っていないのか、あるだけの下着を引っ掴んでいる。

ミメイ本人にはどれだけ自分が奇っ怪な行動をとっているのか、という自覚はない。

 

『だからさぁ、』

こういう所、やっぱり箱入りお嬢様っぽいんだよなぁ、と呆れながら本当に下着を布団に詰めだす主人(バカ)を止める。

『暖炉つけなよ。』

嘆息する鬼宿に対しミメイはなるほどと頷いて、ベッドに下着を詰めていた手を止める。

「それもそうね。

薪が勿体ないから今まで使ってなかったけど、この寒さは人間の耐えられる限界値を超えてるわ。」

今ベッドの上で震えている少女だけではない。

ミメイも限界なのである。

呪符で火を出して暖を取れば良さそうなものだが、元来あれは人を呪う用である。

効率が極端に悪いのは自明だ。

 

ここから隙間風が、と修復すべき所を見つけながらキッチン近くにある小さな暖炉に近付く。

しかしその後どうすれば良いのかと棒立ちになる。

再三述べているがミメイは箱入りお嬢様として育ったのだ。

手先は器用なくせに、家電製品でさえ扱うのは怪しい所があった。

つまり実際に見たことも使ったこともなかった暖炉なんて言うまでもない。

 

 

『まず火つけて。』

もー、しょうがないなーミメイくんはー、とふざけながら指示を飛ばす鬼宿。

「言われなくても分かってる。

···マッチを擦るんでしょ?」

とは言いつつも若干自信なさげに、暖炉脇に置かれたマッチ箱を手に取った。

『流石にマッチの擦り方ぐらい分かるよね?』

「ご馳走が見えるわ。それと暖かな暖炉も。」

芝居がかった動きでマッチを1本取り出して、顔の前に翳す。

『マッチ売りの少女か。

うんうん、未明は童話が好きだもんね。

白雪姫に灰かぶり、いばら姫に親指姫、それとラプンツェル。』

よく真昼とシノアと読んでたもんね、と懐かしそうに鬼宿は呟いた。

 

「定番だもの。

でも私が一番好きなのは輝夜姫と瓜子姫(うりこひめ)よ。」

やっぱり日本のお話が好き。

そうぽつりと漏らしながら、ミメイは手にしたマッチを箱の赤い側面に擦りつけた。

ぼっと橙の火がついたマッチを薪が少なめな暖炉に放り込んで、小さな火が安定した炎に変わるのを見守る。

 

 

ところで、輝夜姫はメジャーな日本昔話だが瓜子姫の方は違う。

“親子で読みたい日本昔話”というような本に編纂されている訳でもなく、知名度は低めだ。

それに伴い人気も低めだ。

そもそも日本昔話特有の教訓めいたものは、余り読者には伝わってはこない。

桃太郎の様に勧善懲悪を全面に押し出している訳でもない。

ただただ、瓜から生まれた瓜子姫のお馬鹿加減を察することが出来る話だ。

 

だがミメイはこれが好きだった。

瓜子姫を騙して瓜子姫に成り代わり、最終的には成り代わったのが露見して退治されてしまう鬼。

天邪鬼という名のその鬼のことが好きだったのだ。

思っているのと逆のことを言う他ないその哀れな鬼に、鬼宿(自分)を重ねていたのだ。

 

 

『何か見える?

炎の向こうに、死んでしまった大好きなお婆さんでも見える?』

ちろちろと赤く輝かく薪をぼおっと見ていれば、鬼宿が揶揄う様に尋ねてくる。

「まさか。マッチ売りの少女ネタはもう充分よ。

それに私、祖母の顔なんて知らないわ。

母の顔さえまともに分からないのに。

まあ、母の容姿が私達姉妹にきっと似てたっていうのは想像つくけど。」

 

ミメイ達は特に父である柊天利に見た目が似ているわけではない。

1番父に似ているのは兄暮人だとミメイは思っているのだが、まあそれはさておき。

ミメイ達の容姿は母譲りだということは、別段推理せずとも察することが出来る。

 

「母は、何の為に生きてたのかしらね。」

顔も知らない母を哀れむような、哀れんでいないような、それどころか少し嘲笑う様にしてミメイは呟いた。

生きながらにして幾つもの鬼と融合させられて、その状態でミメイ達姉妹を産んだ母。

ミメイ達が人体実験の末に産まれた成功例だというのならば、母が産んだ子供の中には失敗例がいたのだ。

ミメイ達にとっては兄弟姉妹達で、柊家にとっては人体実験の失敗例、尊い犠牲で、母にとっては我が子だった筈なのだ。

 

母がミメイ達含む子供をどう思っていたかは知らない。

恐らくミメイと真昼を産んだ頃には、感情が擦り切れて人格と言えるものが破壊されていただろうから。

だが初めからそうなりたくてそうなった訳ではないのだろう。

鬼と人間の混ぜ物を作る為の母胎として死んだ母にも、遥か昔には人間らしく生きていた時間があったのだと考える。

 

「柊家は、怖いわね。」

ぶるりとミメイの身が震えたのは寒さからだけではない。

自分が生まれ、育ち、囚われ続けた柊家の闇がふと浮き彫りになった為である。

『今更?』

「そうね、今更だわ。」

わざとらしく驚愕を滲ませた声を発する鬼宿に対し、素っ気なく返して暖炉から離れる。

 

 

ベッドを覗き込んでみれば、暖炉のお陰だろうか、少女の顔色が緩やかに回復していた。

唇は白から薄い桃色へ。

最早凍死することは無いだろう。

さっきまでは死人1歩手前の様な顔だったが、その面影は消え去った。

弱々しいが、一応薪を燃やしている暖炉のある部屋で寝かせておけば、回復するに違いない。

ミメイは医者ではないため確実なことはいえないが、何度も死地を潜り抜けてきた者特有の勘から、今の少女に死相は現れていないということだけは言えよう。

 

(まぶた)の上にかかる少女の金髪を払い除けてやり、少女の身動(みじろ)ぎのためにずり落ちた布団をかけ直す。

そのままベッドの隣に蹲り、少し苦しそうな少女を観察する。

『ねえ未明、どうして?

あのまま放っておけば死ぬ命だったかもしれないのに。

どうして助けたの?』

心から不思議がっているらしい鬼宿。

 

「生きてたのよ。

タマ、確かに生きてたの。この子は息をしていたの。

私の頬を触って、それから私の方に倒れてきたの。」

涙の跡が残る少女の頬を軽く拭いてやり、首辺りについている泥も拭き取る。

「そんな命を見捨てられる?」

けほりと小さな咳を吐き出した少女。

それに鬼宿が意識を向けているのをミメイは感じた。

 

『未明は見捨てられるだろ?

今までだって幾つも見捨ててきたしね。』

何を言ってるんだ、そう憤慨した口調で鬼宿は声を荒らげた。

「でも私は、シノアを見捨てられなかったのよ。

真昼だって無理だったのに、私が出来ると思う?」

憂いを浮かべた瞳を少女に向ける。

『そりゃシノアは未明達にとっては妹だったから。』

「なら、あの妹みたいな子を見捨てられない。」

安定した寝息を立てる少女を見つめていれば、その顔に妹の面影が重なる。

顔立ちは全く違うのに、何故か少女の向こうに妹が見え隠れする。

 

 

『未明姉さんは私が死んだら悲しんでくれますか。』

 

そう突然問いかけてきた妹に対し、曖昧な笑みを浮かべながら抱きしめてやることしか出来なかった愚かな姉だった。

言うべきことも言いたいことも沢山あったのに、多くを求め過ぎてはいけなかったが故に、言葉に出来ず仕舞だった。

言葉にしてしまったら、それ以上を求めてしまうから。

 

 

「だから、見捨てられないの。

シノアを見捨てられなかったのと同じ様に、私はこの子を見捨てられない。」

シノアと違って癖のない少女の金髪に指を通す。

妹に出来なかったことは恐らくこの少女にも出来はしない。

ミメイに出来るのは見捨てないことだけ。

それ以上は何も出来ない。

欲しい言葉も、欲しいものも、きっとあげられはしない。

欲望を抑制しなければならないミメイが“それ以上”を望む訳にはいかないのだ。

 

『自分から遠ざけるものの方が多い癖によく言うよ。

グレンや深夜も、未明を助けようと手を伸ばしてくれてた。

でも未明はそれから逃げた。

中途半端に手を繋ごうとしてまた離れて。そんなのを繰り返した。

クロロやオヤジさんだってそうだ。

そうしたかったのにそうしないで、欲望を押さえ込んで我慢した。』

ふん、と拗ねたように漏らす。

「これはただの自己満足よ。分かってるの。

シノアみたいな子がいて、その子が私に手を伸ばしたから、だから私もつい手を伸ばしかけた。

それだけ。」

『繋いではあげないんだ?』

中途半端なのは1番残酷だよ、とせせら笑う。

しかしそれを気にもとめず、ミメイはふと心に浮かんだことを呟いた。

 

「この子、少しタマに似てるのよ。

だから余計、見捨てる気になれなかったのね。」

ああ、と納得したように手を打つミメイだが鬼宿の方は心外らしい。

『は?その子供と僕のどこが似てるって?』

不機嫌さを前面に押し出して、ミメイの拘束から逃れようとしている。

「金髪、華奢な体つき、中性的な綺麗な顔立ち。」

暴れる鬼宿を押さえつけ、少女と鬼宿の共通点を列挙していく。

『いや確かに僕は綺麗だけど、人間なんかと同じにしないでよ。

髪の長さとか違うし。それに僕の方が小さくて可愛い。

誰もが見惚れる完璧な幼女じゃないか。』

「誰が幼女?」

貴方男でしょ、何百年生きてるか分からないレベルでしょ、と首を傾げながら立ち上がるミメイ。

 

「さて、仕事に戻らなきゃね。」

腰に巻いたベルトに刀を下げ直し、ポケットから人型の紙を2枚取り出して言葉通り息を吹き込む。

『ねえ聞いてる?

僕は幼女だからね。

よく考えてみてよ、この白い陶磁器みたいな肌とかさ。

人形よりも人形らしい美幼女、それが僕だから。』

 

式神を作るのは案外集中しなければいけない作業だというのに、それを分かっていて喚く鬼宿に苛立つ。

いかに自分が美幼女かをつらつらと述べるのに我慢ならなかったミメイは、強制的に鎖で黙らせた。

「うるさい。」

『···ぎゃふん。』

可愛らしい捨て台詞を残し、ミメイの心の奥に落ちていく鬼宿を可哀想とは思わない。

見た目は可愛らしく哀れみを誘う雰囲気を漂わせているが、本性はえげつない鬼なのだ。

 

 

「よし。」

自身のオーラを少し込めた式神2体。

それらがペラペラの体を頼りなさげに揺らしながら、掌の上でミメイの命を待つかの様に敬礼している。

「この女の子の面倒を見てあげてね。」

簡潔な命だったが、張り切って頷きミメイの手から飛び出していく式神達。

 

面倒を見る、とはいってもミメイが出来うる事しか式神は出来ないだろう。

式神は術者の血肉と魂を分けて作り上げた小さな分身体の様なもの。

あくまで術者の一部であるために、術者を超えることは出来ない。

術者が出来ることは出来るが、術者が出来ないことは出来ない。

つまり、粥やら饂飩やら、料理を作ってやることは出来ない。

術者たるミメイに出来ないのだから。

電子レンジさえあれば、見事な電子レンジのボタンさばきを見せられるのに。

幾つも年下の妹と同レベルのことを考える、お嬢様育ちあるあるの料理音痴なミメイは、少女の眠りを邪魔しないようそっとドアを開ける。

 

冷気を部屋の中に入れないようにと手早く閉めたドアの隙間から、甲斐甲斐しく少女の体を拭いてやる式神達が見えた。

うん、体を拭いてあげるくらいは私にも出来るもの。

まったくもって大したことではないのだが、そう満足げにミメイは頷いて鍵を閉める。

カチャン、と響いた子気味良い音で掛金が落ちたのを確認する。

 

それから小屋に背中を向けて、雪の降りしきる仕事場へと足を運ぶ。

寒い、ただ寒い。

耳と鼻を赤くして、ミメイは薄く積もった雪をシャクシャクと踏みつけていく。

足先から伝わる冷たさにくしゃみがこぼれ、止まっていた鼻水がまた流れ出す。

自身の情けなさに溜め息が漏れたミメイは、赤々と輝く炎が、暖炉から感じた暖かさが、どうしようもなく恋しかった。

 

 

 

 

 

 




ご存知ですか、瓜子姫。
昔話の中ではマイナーな方だと思いますが、幼少期の私はこればかり読む程好きだったそうで。
特に何も学べない、子供の教育の足しになるか微妙なあの話が今も好きなんですけれど。
ご興味がありましたら是非調べてみて下さい。



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6:鏡の向こうで笑う君

ミメイは少女だと勘違いしている“彼”視点です。






自分の咳の音で目が覚めた。

喉がやすりで削られた様にヒリヒリと痛む。

その喉をさすっていれば、未だぼんやりしている視界に浮かび上がるのは薄茶けた天井。

知らない天井だ。

そう、知らない······──────

 

 

体の重さなど、どこかへ行ってしまったかの様に跳ね起きた。

 

まず素早く自分の体の状況を確認する。

鎖や縄で縛られてはいない。

毒か何かを盛られた様な感覚もない。

体の怠さは恐らく寝起き特有のものだろう。

だがまだ油断は出来ない。

 

次に周りを見渡す。

何の変哲もない部屋だ。

今自分が体を起こしたベッド、部屋の真ん中には簡素なテーブルと椅子2脚、その奥にはキッチン。

出入り出来そうなドアはキッチン横のドアと、ベッドの近くのドア。

見た所キッチン横のドアが外と繋がっている出入り口だろう。

錆びついてはいるもののちゃんと鍵穴があることが確認出来る。

 

まだぼんやりする頭を叩き起し、記憶を辿っていく。

最後に残っている記憶は、冷たい赤茶けた土の上で座り込んでいたものだ。

何日もまともに食べていないせいか、陽炎の様に揺らめいてきた視界の中に白い雪の欠片が見えて。

寒さが痛さに変わり、その痛ささえも少しずつ感じなくなりそうになっていて。

そうだ、そこに誰かが来たのだ。

黒く光るカラスと共に現れた人影。

紫がかった人影だったのを薄ら覚えている。

何か話したような話していないような、そしてその後の記憶が無い。

時折暖かさを体全身や、額や頬に感じていた様な気もするが、それはその人影が触れたからだろうか。

分からない。

思い出せない。

 

だが悩んでいても仕方がない。

再び自身の体に拘束の類がないことを判断し、掛けられていた布団から足を出す。

床に足先を着ければ途端そこから冷たさが全身に回り、暖かい布団の中に逆戻りしたい気持ちが湧き上がる。

しかし今は我慢である。

一思いに布団を引き剥がしながら、ベッドの縁に手をついて立ち上がる。

 

 

パサリ。

そんな音が足元から聞こえた。

勢いよくベッドに叩きつけた掛け布団がずり落ちたのかと見てみれば、そこに鎮座ましましていたのは女性用の下着だった。

恐らく掛け布団の下にあったのだろうが、下着の持ち主の見当違いな気遣いを知る筈もないのだから、それをどうして良いか分からず立ち尽くす。

何故布団の中にと不思議に思いながらも、かぁっと頭の方に血が上っていくのを感じた。

 

下着を見てしまったことに対する衝撃も相まって、ふらりと目眩が襲ってくるが、無理をしてベッドから手を離して壁伝いに歩く。

覚束無い足取りで暖炉前を通り過ぎ、キッチンを覗き込む。

人影は無い。

人気のない部屋から恐らく自分以外は誰もいないだろうと思っていたが、その通りで良かったと胸を撫で下ろす。

起きてすぐ、ベッドの横に木刀含む自分の荷物が無造作に置いてあったのは確認していた。

しかし唯一の武器たる木刀を手に取らず、この狭い部屋の探索をしていたのにも訳がある。

今の自分の掌には、木刀を握る力も残っていまい。

何日もまともに食べていなかったこと、想定以上の刺すような寒さだったこと、それらが力を奪っているのだ。

ともかく回復するまでは戦う気はない。

そして、そもそもろくに戦えないと分かっていた。

 

 

「···、······!」

ふと足元に何か感じた。

小さな声の様な超音波の様な、はっきりと音として聞こえはしないが何かが足元から耳に届いたのだ。

先程事故のようにして見てしまった下着が歩いてきたのでは、そんなオカルトじみた考えが浮かぶがすぐに打ち消す。

 

気のせいだろう、そう自分を安心させるように呟きながら下を見る。

何も無い、何も無い、何も······無い筈だったのだ。

信じていた何かに裏切られた、そんなセンチメンタルな気分だ。

 

軽く現実逃避をしかけながらも、自分のズボンの裾を必死に引っ張っているらしい白い紙切れを視覚は認識している。

人型に切られている小さな紙切れ。

踏んでしまえばぐしゃりと破れてしまいそうな弱さだが───現にズボンの裾を引っ張っているのだろうがその感覚はほぼない───仕草から必死さが漂ってくること、いざ踏んでみるかと思い起こせば考えが伝わったのか、捨てられた子犬のような目───目はなく、ただペラリとした白い表面だが───を向けてくることから、踏むに踏めない。

 

1匹、と呼んで良いのか分からないが取り敢えずその1枚の紙切れをじっと見つめていると、もう1匹がテケテケと駆けてくる。

先程まで寝ていた布団に潜んでいたのか、ベッドから墜落してべチャリと潰れかけながらも、フラフラ立ち上がって懸命に駆けてくる。

それからズボンの裾を引っ張っている仲間の背中(ということにする)に張り付いて、うんうんと仲間を引っ張る動作をする。

2匹で協力しようとしているらしいが、申し訳ないことに全く引き止められている感覚はない。

特に力を込めずとも、紙切れ2枚程度振り切ってしまえるだろう。

 

 

「···すまない。」

哀れみを誘う紙切れ達の姿についつい絆されて、得体の知れない物体だということも忘れて身をかがめる。

「······!!···!」

またもや超音波のような声なき声を発している。

「お前達が何と言いたいのか私には分からない。」

「···、······。」

心なしか悲しそうに紙が萎んだ気がした。

「だがお前達が私にどうして欲しいのかは分かる。

私に出て行って欲しくないのだろう?」

「···!」

ぱああ、そんな擬態語と共に紙切れ2枚の周りに花が飛ぶ幻覚が見えた。

存外分かりやすい紙達だ。

顔が無いため顔色を見ることさえ出来ないというのに。

 

「それは、お前達の主人にあたる人物の望みか?」

問いを重ねる。

闇雲に部屋をあさるよりも情報を得られそうだと判断したからだ。

紙達は迷ったのか、2匹でチラチラと顔(ということにした)を見合わせている。

「······。···!」

だが少し経ってから、頷く様に僅かに首(と考えたい)を縦に振った。

「そうか。

お前達は何だ?」

「···!」

胸を張られた。

えっへん、と堂々胸を張られた。

全く分からない。

何故かは知らないが自慢げなのは伝わってきた。

 

「質問を変えよう。

お前達の主人は何だ?」

「···?······?···!」

質問の意図は分かったらしいが、どう説明して良いものか、そんな様子でバタバタ両手を振る紙2匹。

「分かった。はいかいいえで答えてくれ。

頷くか首を横に振るかで頼む。」

「······!」

薄っぺらい頭部分が取れるのでは、と心配になるほど勢いよく首が縦に振られた。

 

「お前達の主人は男か。」

性別は大事である。

性別によって対応を変えるつもりであるし、男であるならば力負けしないようにする為の対策が必要であるからだ。

「······。」

首がブンブンと横に振られる。

「よし。若いか?」

こくんと可愛らしく2つの首が縦に動く。

「若い女か···、奴隷商人をしている若い女がいるだろうか。

いや、そうでないと決めつけるのは良くない。

人は見かけに寄らないのだから。」

伸びた金髪を邪魔に思いながら、今まで遭遇した人間達のことを思い出す。

人の良さそうな笑みを浮かべて、保護してやると言った若い男は奴隷商人だった。

温かなスープを恵んでくれた妙齢の婦人は、美しい少年少女をいたぶって殺すのが趣味の異常者だった。

誰も信じられない。

誰も、人間は信じられない。

 

 

嫌なことを思い出して少し俯いていれば、紙切れ達が心配そうに首を傾げる。

大丈夫?そんな声を発しているのだろうか、床についた手をチョコチョコ撫でてくる。

「ああ、大丈夫だ。心配ない。

次の質問をしても良いだろうか。」

「···!」

2匹が交互に頷く。

 

「お前達の主人は悪人か?」

「···?······?······。」

微妙な所らしい。

小さな手を頬辺りに当てて固まっている。

顔があるならば渋い顔をしていたのだろう。

「奴隷商人か?」

「···!」

勢いよく首を横に振り回す。

 

「ならばどこかの金持ちの愛人か何かか?」

今度は手も一緒に振って、全身で否定してくる。

富豪の愛人である若い女の道楽として、見目好い少年を家畜の様にして飼うことがここ最近流行っていると耳にしていた。

その線が強いと思っていたのだが、宛が外れて少し肩を落とす。

「そうか、違うのか。

······一体お前達の主人は何者なのだ。

善人なのか?」

「···?······!」

まっさかー、そんな笑いを漏らすかの様に緩慢に手を振る。

 

「悪人でもなければ善人でもない···?

益々分からない。」

質問に答えたのだから褒めてくれ、というかの様に掌に頭を押し付けてくる紙切れ達。

「まるで犬の様だ。そもそもお前達は何なのだ。

さっぱり分からない。」

仕方なくペラペラの頭を撫でてやり、それから溜め息を吐き出す。

 

 

 

 

 

 

「───────知りたいの?」

 

突然、ぞわりと背筋が凍る。

優しく柔らかい、全てを蕩けさせる様な甘い声。

聞こえたのはそんな女の声だった筈だ。

だというのに、首の後ろが引きつってピリピリする。

 

「知りたいんでしょう?教えてあげましょうか?」

後ろから声が少しずつ近付いてくる。

だが振り向けない。

お前は誰だ、そう聞いてやりたいが声が出ない。

糊でぴったり貼り付けられたかの様に喉が開かない。

 

「あらあら、手懐けちゃったのね。

その子達は弱いとはいえ、そんな風に人に引っ付いたりしないのよ。」

コツリコツリと足音が響いて、ピタリと目の前で止まった黒いブーツが見える。

黒いブーツから伸びる白い足が少し見える。

今や声の主は目の前にいた。

 

 

何だ、これは何だ。

何か分からない。

全く分からない。

だがそれでも、得体の知れないものだ。

これは人間か?

分からない。

人間よりもっと、触れてはいけないような存在なのではないか?

恐ろしい。

ただ、恐ろしい。

 

感じるのは本能的な恐怖。

 

 

ひょいと紙切れ達に手が伸びて、その小さな姿が視界から消えた。

「ねえ、私のこと悪人じゃないとか善人じゃないとか、好き勝手言ってたみたいだけど。

何か弁明したいことは?」

ございません、そんな震え混じりの声なき声が聞こえた気がした。

「ご主人様がいないからって好き勝手したら駄目よ。

私、怒ると怖いの。知ってるでしょ?」

体が硬直して顔を上げられない為、紙切れ達がどうなっているかは見えないが、あの薄っぺらい頭を必死に縦に振っていることは容易に想像出来た。

 

「改めてこんにちは。」

唐突にすっと身がかがめられ、声の主の顔が視界の中に入る。

うずくまったまま動けないのに合わせたのか、しゃがみこんでにっこり目を合わせてくる。

「私の名前はミメイ、ミメイ=ヒイラギ。

“昨日未明、渋谷区のアパートで女性の遺体が発見されました”、のミメイよ。」

シブヤク、と聞き慣れない言葉を口にした声の主───灰色がかった紫の髪を首に巻き付けた女は、澄んだ茶の瞳で見つめてきた。

 

 

得体の知れない不気味な気を漂わせた女は笑う。

鬼か悪魔か堕天使か、はたまた神の御使いか。

見た目は普通の少女だというのに、どこか人間味を感じられない。

いや人間なのだ。

見て分かる。得体の知れなさはあるが紛れもなく人間だ。

だが何だこれは。

向こう側に“何か”がいる。

向こう側から“何か”が見ている。

向こう側で“何か”が笑っている!

 

女の姿を通して、小さな黒い人影が見える。

2つの赤い目が光っている。

ギラギラと獣じみた、鋭い目が笑っている。

 

 

「貴方の名前は?」

 

女に問われ、はっと意識が覚醒する。

白昼夢だったのだろうか、何か嫌なものを見た気がした。

気のせいだ、気のせいだったのだ。

そう自分に言い聞かせる。

その様子を、女の両肩の上にそれぞれ乗っかる紙切れ達と同じ様に、キョトンと可愛らしく首を傾げながら見つめてくる。

 

「···。」

「あは、緊張しちゃった?

まあそうよね、突然拉致された様なものだもの。

警戒して当然よ。」

「···ら、ち?」

不穏な言葉に警戒心が燃え上がり、掠れた声が口をついて出る。

「誤解しないで頂戴。

私は体の冷え切った状態で道端に座り込んでいた貴方を保護してあげたのよ。

雪が降り始めてたし、ここに連れてこなかったら貴方死んでたかもしれないわ。」

ああ寒い寒い、そんなことを呟きながら、女は首にマフラーの様に巻き付けていた髪を解く。

珍しい色の長い髪がパサリと床にも少し広がった。

 

「あのね、私には貴方をどうこうしようって気は無いの。

ただ死にかけの貴方を拾っただけ。

別に感謝なんてしなくて結構よ。

これは私の自己満足だから。」

「信用出来ない。」

ピシャリと跳ね除ける様に言う。

「あは、警戒心強いなぁ。そんなとこもシノアにちょっと似てる。」

眦を緩やかに下げて、女は懐かしそうに笑う。

「シノアっていうのは私の妹。

無表情が多めで、貼り付けた様な笑顔も得意とは言い難くて。

色んな事情のせいで感情表現が薄めなの。

でもね、私の妹なの。

捨てられなかった、これからも捨てられない妹なのよ。」

聞いてもいないことをペラペラと話す。

 

「だからね、貴方も捨てられなかったの。

私の方に倒れてきた貴方を、捨てられなかったのよ。」

女は手を伸ばす。

簡単に避けられそうな程、ゆっくり手を伸ばしてくる。

 

だが避けられなかった。

まだ体が硬直気味なのも理由の1つだ。

しかし1番は、女の顔全体は柔らかな笑みを浮かべているのにも関わらず、瞳が頼りなさげに揺れていたからであった。

恐らく自分よりも歳上の女が、この様に僅かながらでも弱さを見せる姿を見るのは初めてだったのだ。

その様が余りに危うく、儚く、美しく、どうしようもなく目を離せない。

何故感じるのかさえ分からない恐怖をずっと抱いてはいる。

だがそれ以上に、引き寄せられる。

 

 

「逃げないの?

私、貴方にとっては得体の知れない不審者よ?」

雪の様に冷たい掌が片頬を包み込む。

抵抗しないのに安心したのか、不思議に思ったのか、興味深そうに尋ねながら女はもう片方の手をも伸ばしてくる。

「自分で言うのか、それを。」

逃げない。

逃げられない。

ただ女の掌が頬に触れるのを待ち、通常時の自分と似通った色の瞳を見つめ返す。

 

「うん。ちゃんと自覚あるのよ、私。

······あは、あったかぁい。」

ついに女の両の掌が頬を包み込んだ。

「私は冷たい。」

「知ってる。わざとだもん。」

悪戯っ子の様な笑みを漏らし、抗議をやんわりと躱す。

 

「ねえ、貴方の名前はなぁに?

そろそろ教えて欲しいの。」

無条件に浮かべているかのような無邪気さを含んだ瞳を向けられ、溜め息混じりの答えを返す。

「···クラピカだ。」

「クラピカ。」

白い肌との対比でやけに目立つ赤い唇を開いて、女は名を呟いた。

それが何故だか、少しくすぐったい。

人に名を呼ばれたのが久しぶりだからだろうか。

 

 

「クーちゃんだとクーさんと被るわね。

決めた、貴方はクラピカ呼びにするわ。

ね、クラピカ。」

女は頬から手を離し、そのまま強引にクラピカの手を引いて立ち上がらせる。

突然のことに体は追いつかずゆらりと体が傾くが、女───ミメイにそっと支えられた。

正面から抱きしめられている様な自分の状況に気恥ずかしさを感じて、ミメイの腕から抜け出そうとするが抵抗は許されない。

薄ら寒さが見え隠れするのに、何故か甘ったるさを含んだ笑顔で黙らせられる。

 

「好きにしてくれ。」

最早どうにでもなれ、そんな思いを込めてどこか投げやりに呟いた。

「クラピカ、かぁ。初めて聞く響き。新鮮だわ。」

「そうだろうか。

私はミメイという名の方が新鮮だが。」

正直な感想を口にすれば、微苦笑をたたえる。

「あらそう?

ちなみに私の双子の姉の名前は真昼っていうのよ。」

「マヒル?朝昼晩の?」

「そう、お昼ご飯食べる真昼。」

再び郷愁の色がミメイの瞳に映る。

 

「不思議な名の姉妹だな。」

「でしょ?

名前の由来なんか知らないけど、何か意味でもあったのかしら。」

そう言いながらも余り興味は無さそうな様子であるのは見て取れた。

「さあ。私も特に、自分の名に関して由来を聞いたことは無い。」

「そんなものよね。

さ、まずは遅いお夕飯にしましょうか。」

くうくう、そんな頼りない音がタイミングよくクラピカの腹から響いた。

思わず顔を赤くするのを見て、ミメイはくすりと笑いを漏らす。

「硬いパンと粉末スープしかないけど、我慢して頂戴。

私料理出来ないの。」

クラピカを椅子に座らせた後、そんなことを言いながらこちら側と壁で仕切られていないキッチンに入るミメイ。

 

 

 

シュコーと蒸気機関車の様に煙を上げだす、シンクに唯一鎮座する旧式の湯沸かし電気ポット。

それから溢れだしたほわほわ壁まで昇って消える白い湯気と、それを見あげないまま質素な夕飯の用意をするミメイの後ろ姿を、クラピカはただぼんやり見ていた。

 

 

 

 




白い紙切れ2匹───式神さんは、皆様ご想像通りのあれです。
いわゆる、という感じのあれです。



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7:私の語る明日

前回から時間が空いてしまい申し訳ありません。






「おいしい?」

テーブルの向こう側で、可愛らしく頬杖をつくミメイという名の女。

お湯を注ぐだけで簡単に出来上がるスープを口にしていれば、ニコニコ笑ってこちらを見てくる。

何の感情も読み取れない視線に居心地の悪さを感じながらも、何日ぶりかの食事は正直ありがたい。

この得体の知れない女に見られながらの食事は色々な意味で素敵とは言い難いが、クラピカは仕方なく硬いパンに手を伸ばしながら頷いた。

 

「ああ。温かいスープが体に染み渡る。」

これで殴れば人を殺せるのではなかろうか、そんな硬さを誇るパンをスープにつけて少しほぐす。

その過程を通過すれば、どうにか歯で噛み切れる程度のパンになるのだった。

「あは、なら良かった。」

ガリガリとそのままのパンを齧るミメイの歯はどうなっているのだろうか。

相当頑丈に違いない。

 

そんな取り留めのないことを考えるクラピカは、自分と向かい合って座るミメイの前にはスープ皿がないことにふと気がついた。

「スープは、ないのか。」

「貴方の分で終わりだったの。」

と言いつつ、リスの様にパンを齧る。

やはり硬さは気にならないらしい。

だが自分ばかりが具は少ないとはいえ温かいスープを啜るのはどうなのか。

すぐ気に病んでしまうお人好しな所のあるクラピカは、すっとスープ皿をミメイの方に押し出す。

「私のを、」

「結構よ。

ここで貴方からスープを奪ったせいで、貴方に餓死されちゃたまらないもの。

私が態々拾った命なんだから、それなりに図々しく生きてくれなくちゃ。」

スープ皿をクラピカの方に戻したミメイは、最後の一欠片を飲み込んでから立ち上がる。

 

「私、今夜の仕事が無い代わりに明日の朝早いの。

早く食べちゃって。じゃないと片付けられないのよ。」

素っ気なく自分の事情を押し付けてくるミメイは、美しい容姿とも相まってどことなく冷たさを感じる。

寒色系の紫の髪は見ているだけで冷え冷えした気分になりがちだ。

茶色の瞳には光が少なく、感情が読み取りにくい。

先程は手に取るように分かった、感情の揺らぎはなりを潜めている。

 

式神というらしい紙切れ2匹を引き連れてベッドを整えているその背中を見つめながら、

「ああ···。」

とだけ返して最後の一口を胃に流し込んだ。

「食べ終わったらシンクに置いといて。

その後こっちに来て頂戴。」

背を向けたままだが食べ終わった気配を感じ取ったらしいミメイは、テキパキと式神達に命を下すのと同じ様にクラピカにも指示を出す。

 

 

逆らっても仕方あるまいと既に諦観していた為、シンクに皿を置いてから手招きをするミメイの傍に行く。

「座って。」

ベッドに軽く腰掛けた状態で、自分の隣をトントンと叩くミメイ。

それに従いながらも彼女と微妙に体を離して座れば、ぐいっと彼女の方に背中を向けさせられる。

「なにを、」

強引な手に警戒して勢いよく振り返れば、そこにいたのは穏やかに微笑むミメイだけである。

その手にあるのはナイフでも縄でもない。

何の変哲もない櫛だ。

 

「何も悪いことはしないわ。

式神が拭いてくれたお陰で貴方の体は綺麗だけど、髪の乱れはそのままだもの。

梳かしてあげようと思ったのよ。」

クラピカの不信感を拭おうと、クラピカの背の真ん中まで垂れる金髪にミメイはそっと触れた。

「必要ない。私は人に触れられるのは好きではない。」

顔全体は静かに笑っているが、感情の起伏が殆ど感じられない瞳。

それを睨みつけながらクラピカは吐き捨てる。

 

 

この1年弱で結構な人間嫌いになってしまったクラピカにとって、自分の体に他人が触れるのは余り嬉しいことではなかった。

人間は醜く、卑しく、そしてどうしようもない。

そんな奴等ばかり見てきた。

人間は誰も信用出来ない。

好意で自分に触れようとしていた人間が、次の瞬間には自分を食い物にしようと考える下衆に変わるのだ。

そんなことが何度もあった。

 

 

「奇遇ね。私もあんまり好きじゃないわ。」

警戒心丸出しの手負いの猫の様なクラピカの睨みを軽く躱し、ミメイは乱れた金髪に櫛を当てる。

「触るな。」

「あは、今更警戒しても遅いわよ。

私に拾われて、寝かされたベッドでのうのうと寝こけて、出された食事までたいらげて。

本当に警戒するんだったら、せめて食事はやめておくべきだったわね。」

クラピカの首をごきりと前に向かせ、立ち上がらせないよう肩を掴む。

 

「何か盛ったのか。」

櫛で髪が後ろに優しく引っ張られる。

肩を掴んでいる力強さとは対照的に、意外と繊細な手つきに戸惑いながらもクラピカは問いかけた。

「まさか。そんな無駄なことすると思う?

毒なんか盛らなくても、1秒あれば私は貴方を殺せるもの。」

しないけどね、と呟いてミメイはクラピカの金糸の様な髪に櫛を通す。

絡まっていた髪がやんわりと解かれて、背中でさらさらと揺れる。

 

 

「···よくこうしてたなぁ。」

むっつり押し黙って櫛を持つ手だけを動かしていたミメイだったが、ポツリと溜め息混じりに吐き出した。

ミメイの優しい櫛使いのせいか、胃に食べ物が入ったせいか、徐々に眠くなっていたクラピカは、ミメイの言葉に再びはっとして立ち上がろうとする。

すぐに気が緩んでしまうが、されるがままになっているが、未だここは敵地なのだ。

警戒を緩める訳にはいかないのだ。

それを思い出しての抵抗だったが、なけなしのそれはミメイの人間離れした怪力によっていとも容易く阻まれる。

 

「いい加減無駄な抵抗はやめたら?」

左手のみでクラピカの動きを止めて、髪を梳かす為に変わらず動く右手。

「っ、」

「警戒したと思ったら気を緩めるし、また抵抗したと思ったら今度は寝そうになってるし、でもやっぱり逆らおうとして。

まるで気まぐれな猫みたいね。」

クラピカの背中で垂れる艶を放つ金髪。

それを満足そうに見てからミメイは櫛を置いた。

 

「貴方が私をどう思うのかは勝手よ。

それをどうこうする気はないの。

でも私の言うことを聞いてくれない子は嫌い。

無駄な抵抗だってすぐ分からないお馬鹿さんは嫌い。」

唯我独尊なお姫様の様なことを言っているという自覚なしで、ミメイはクラピカの顔を自分の方に向けさせた。

暫し茶色の瞳同士が見つめ合う。

 

「私が貴方を拾って助けてたのは、ひとえに貴方が私の妹に重なったから。ただそれだけよ。

それ以上でもそれ以下でもない。

貴方を売ろうとか飼おうとか、そんな些事の為じゃないわ。」

梳かしたての金髪に手を当て、柔らかな手つきでクラピカの頭を撫でる。

 

 

遥か昔の様に感じてしまう、一族皆で暮らしていた頃の記憶がクラピカの頭に甦る。

こうして母に頭を撫でられたこともあったな、と。

記憶の向こうの優しい母の笑顔が、慈愛らしきものが揺れるミメイの茶の瞳に収束する。

 

「いも、うと?」

だが待て、妹?

聞き捨てならない単語が聞こえた気がしたクラピカは、まさかと思いながら反復する。

 

「そうよ。

シノアっていうの。8歳下の可愛い妹。

私達によく似ている、きっと将来は私達と同じ様に美人になる妹。

ふわふわの癖毛を編み込んで、それからリボンでまとめるのがよく似合ってて可愛くて。」

語り出したら止まらない、そんな雰囲気である。

得体の知れなさなどどこかに吹っ飛ばして、そこにいたのは妹が大好きな1人の姉だった。

少なくともクラピカにはそう見えた。

その妹と自分が重ねられている事実には思う所しか無かったのだが、あまりに普通の人間らしく妹語りをするミメイのせいで、クラピカはつい思ったことを口にする。

 

「好きなのだな。」

「すき?」

きょとん。

そんな表現が似つかわしい仕草でミメイは首を傾げた。

「ああ、好きでは足りないのか。

お前は妹を愛しているのだな。深く、深く愛しているのだな。」

「まさか。そんな筈ないわよ。

好きとか愛とか、そういう欲望は私は抱いたことないわ。」

ピタリとクラピカの頭を撫でていた手を止めて、ゆっくり首を横に振る。

 

「妹のことが好きではないのか?」

不思議でたまらない。

顔にはしっかりと“妹大好き”、そう書いてあるというのにきっぱり否定するミメイの様な人間にクラピカは初めて出会った。

 

「さぁ?考えちゃいけないの、そういうのは。

名前をつけて口に出したらいけないの。

“それ以上”が欲しくなるのは駄目なのよ。」

自分に言い聞かせる様に呟いてから、ミメイはベッドから立ち上がる。

スプリングもへったくれもないベッドパットが、ギシリと哀れな悲鳴を上げた。

 

 

「よく分からないな。」

クラピカの背中に貼り付いていたミメイの熱が、徐々に室内の冷たい空気に奪われていく。

それに肌寒さを感じて、無意識的に薄っぺらい掛け布団を体に巻き付けるクラピカ。

「分からないでしょうね。貴方の心に鬼は棲んでないもの。

さ、貴方は先に寝てて頂戴。

もう限界みたいだし。」

それを見下ろしたミメイは、クラピカの体をそっとベッドに横たえさせる。

冷え冷えしたベッドパットのせいで思わず咳が漏れたのを、ミメイの肩に乗ったままの式神達が心配そうにじっと見つめる。

大丈夫だ、そんな気持ちを込めて軽く手を振れば、式神達もその薄い手がちぎれそうな勢いで振り返してくる。

 

「ほんとに貴方には懐いてるのね。

もう消そうかと思ってたけど止めておくわ。」

舌打ち混じりに式神達をつまみ上げ、ポイッとクラピカが寝ているベッド目掛けて放り投げるミメイ。

式神達の軽い体はクルクルと宙を舞い、それからぺしゃりと掛け布団の上に着地した。

「何かあったらその子達に言って。

それなりにどうにかしてくれるわ。」

クラピカの手に擦り寄る式神達から視線を外し、今度はクラピカの方を見つめて薄い笑みを浮かべる。

 

 

「おやすみ、クラピカ。」

ゆるりと口角を上げてから、ベッドに背を向けるミメイ。

その背中を見送りながら、また名前を呼ばれたことに変なくすぐったさを覚えたクラピカはゴソゴソと掛け布団に顔を埋める。

 

パチリと電気を消して、出入り口ではない方のドアの向こうにミメイが姿を消した後、静まり返った部屋に浮かび上がるのは暖炉の弱い炎。

火影が灰色の壁や天井に描かれるのをぼんやりと見上げ、すーすーと寝息を立てる様に丸まる式神達をクラピカはそっと撫でた。

考えなければいけないことも、聞かなければならないことも、話さなければならないことも、沢山ある筈なのだが、今はただ眠かった。

数日ぶりに胃に入った食べ物。

硬いとはいえまともなベッド、薄いとはいえ使える掛け布団。

暖炉のお陰で外よりは格段に暖かい部屋。

そしてその部屋が暗くなったとなれば、1度引っ込みかけていた睡魔がまた現れるのは必然であった。

 

 

「おやすみ。」

特に誰に対してではなく、重い瞼を閉じながら小さく呟いた。

 

 

それから少しして、部屋にはささやかな寝息と薪が弾ける音だけが響き始めた。

 

 

 

 

──────────────

『これからどうするのさ。』

お湯の出が悪いシャワーヘッドを振るミメイの脳内に響く、幼子特有の甲高い声。

白い湯気に覆われた狭いシャワールームで、腰近くまで伸びた髪の水気を切りながらミメイはシャワーヘッドを壁に引っかけた。

 

「どうするもこうするも、あの子が回復したら出て行って貰うわ。

当たり前じゃない。」

あの子、というのは勿論今は隣室で寝ているクラピカのことである。

指通りの良いさらさらの金髪を思い出しながら、自分の髪を全て首筋まで上げそれを軽くピンで止めて、再びシャワーヘッドを振り回す。

どうにかチョロチョロ出始めたお湯を体に掛けながら、泡まみれのタオルを体に擦り付けて今日一日の汚れを落とす。

 

 

雪の様に白い肌をツルツル流れていく水滴と、その肌に負けない清廉な白さを誇る柔らかな泡。

濡れてペっちゃりとした髪からぽたぽた垂れる水滴も、首筋や背に貼り付いた後れ毛も、その一つ一つが妖艶である。

 

この光景を撮って、その写真を売るだけでバカ儲けだろうな、と鬼宿(下僕)ミメイ(主人)に対して不敬極まりないことを考えていた。

 

 

『なら良いけどさ。

大丈夫かな、ほんとに出来るの?』

「何が?」

体中に貼り付いた泡を洗い落とし、最後の仕上げとして頭から一等熱い湯を被る。

シャワーヘッドから溢れた湯の勢いで、止めていたピンが滑り落ちて長い髪がべシャリと背に垂れる。

水を含んで重くなったそれを適当に払いながら、床に投げ捨てられたピンを拾い上げたミメイはシャワールームのドアを開ける。

それから、棚に畳んで置かれた下着と賭場の主人に譲って貰った古いTシャツを素早く身につけた。

 

密閉されたシャワールームは湯気に満ち溢れていたお陰で暖かかったが、脱衣所兼洗面所はそうはいかない。

寒い、ただ寒かった。

 

 

『出て行って貰うってことは、あの子供を捨てるってことと同義だ。

シノアを捨てきれなかった未明にそれが出来るの?』

濡れた髪をグシャグシャとタオルで拭きながら、ミメイは鬼宿の問いに答える。

「私が出ていけって言わなくても、あの子は自分から出ていくわ。

そういうタイプよ。」

警戒心丸出しの怪我をした猫の子、その表現が1番うってつけな少女。

彼女は人に上手く頼ることが出来ない不器用な子だ、ミメイはそう考えていた。

 

ミメイへの警戒を解いたとしても、元来の人の良さによる遠慮と拭いされない人間への不信感のために、ミメイに頼りきることは決して出来まい。

見た所13、4ぐらいの歳だろうから、それなりに自立心も芽生えている。

ミメイに頼ることを良しとはせず、近いうちに自分から出て行くだろう。

 

『ほんとかなぁ。』

えー、と抗議の声を上げる鬼宿。

「そうよ。まあ、あの子が自分から出て行くまでは面倒を見るつもり。

多分そこまで長くないわね。」

『···ほんとかなぁ。』

「女の子だもの。

同じ女に頼りっぱなしっていうのも癪になる時がすぐ来るわ。

良い男を見つけて、そいつから金をふんだくった方が効率良いって気付くだろうしね。」

クラピカは美少女だもの、男が放って置かないわ、そんなことを呟きながらシャワールームの電気を消した。

 

『······だからそこが違うんだってば。』

ボソリと吐き出された鬼宿の言葉に、ミメイは怪訝な顔をする。

「は?」

『何でもないよ。黙ってた方が面白そうだからね。

うん、特に僕から言うことはないや。』

色々考えた末にこのままの方が後々愉快だと気付いた鬼宿は、くすくす笑いを返す。

「あら、さっきまではクラピカを早く追い出せって感じだったのに。

どういう風の吹き回し?」

『まあね。僕にも色々あるんだよ。』

 

 

そう、僕にも色々あるんだ。

あの子供が女なら、未明にとって足枷にしかならなかった。

だから早く追い出したかった。

でもあの子供は男だ。未明は勘違いしてるけど。

男と女、拾われた方と拾った方、助けられた方と助けた方。

何が起こるかは大体予想がつく。

ああ、最高だよ未明。

欲望を膨らませて、暴走させる1番の原因は恋情なのさ。

真昼だってグレンに恋をしていたから壊れたんだ。

 

 

鎖で拘束された体のまま、ちろりと赤い舌を唇から覗かせて鬼宿は笑った。

 

 

さあ、見せてくれよ未明。

君の欲望を僕に見せてくれ!

押さえつけて殺してきた欲望を溢れさせて、僕の力を求めてくれ!

きっとあの子供は、未明の欲望を押さえている枷を揺らしてくれる。

あは、偶然って怖いなぁ。

ほんとはクロロにどうにかしてもらおうと思ってたけど予定変更だ。

いやクロロも捨て難いしなぁ、どっちもいけるかなぁ。

あはははは!最高だ、最高だよ未明。

君が本当の姿を取り戻すのも近いよ、期待して待っててくれよ!

 

 

 

 

鬼宿の陰謀など知る由もないミメイは、くすくす笑いを続ける鬼宿に首を傾げながら洗面所を出る。

暗い部屋にそっと足を踏み入れて、柔い光を放つ暖炉に新たな薪を放り投げた。

これで一晩は持つだろうとの目算を頭の中に弾き出してから、自身の得物である刀をベッド脇に立て掛ける。

 

式神達と一緒に、すやすやと安らかな寝息を立てるクラピカ。

ゆらゆら揺れる火影にその頬が照らされて、やけに白い肌がなまめかしい。

唇の上に落ちた長い前髪をそっと払ってやり、あらわになったその額に手を当てるミメイ。

少し熱っぽい様な気もするが、一晩寝れば大丈夫だろうと判断出来る温かさだった。

 

それに安心して、クラピカを起こさないようにそっと掛け布団の端を引っ張ってその隙間に滑り込む。

密閉されていた掛け布団の内側に冷気が入り込んで寒かったのか、クラピカはううんと寝言未満を漏らす。

「やっぱりベッドが狭いわね。」

クラピカの背中に貼りつく様にしてベッドに侵入したミメイだったが、背中は掛け布団に覆われていない。

ベッドも掛け布団も、2人用ではなくあくまで1人用なのだ。

いくら片方が小柄な少女(とミメイは思っている)とはいえ、もう片方が成人に近いミメイでは無理があった様だ。

 

「···こうすれば良いのかしら。」

クラピカの軽い体をころりと自分側に転がして、その正面から背中にかけて静かに手を回す。

自分の腕の中にすっぽり収まったクラピカを見やり、ミメイは満足げに頷く。

接着面を増やせば掛け布団を2人で分け合いやすい上に、熱の相乗効果でより暖かい。

 

 

クラピカの可愛らしい寝息を聞いていれば、シノアにも同じことをやろうとして、やめてください未明姉さんと抵抗されたのを思い出した。

結局ミメイは真昼とくっついて寝て(ちなみに真昼はミメイと一緒に寝るのにノリノリだった)、それを無表情で見ていたシノアだったが真昼と2人手をこまねいてやると、ほんのり顔を赤らめてミメイと真昼の間に滑り込んできた。

シノアはまだ幼くて、真昼もミメイも幼くて、もしかするとミメイ以外はもう忘却の彼方に飛ばしてしまったかもしれない。

 

だがミメイは忘れない。

母は亡く、父は父ではなく、他に頼れる人もなく、姉妹3人で身を寄せあっていたあの時を。

あの時を守りたくて、あの暖かさを守りたくて、そしてそこに真昼の恋人やいつかシノアが愛するであろう人を加えて、そんな世界の中だけにいたかった。

ただ、家族を守りたかった。

ただ、仲間を守りたかった。

それだけだった。

ミメイは“それ以上”を望まなかった。

今自分の手にある暖かさだけを守って、そこでずっと生きていきたかっただけだった。

 

けれどそれは許されず。

自身の恋と柊の枷に板挟みになって、崩壊という運命を予め敷かれたレール通りに辿っていく真昼。

何の罪もないというのに生まれてすぐ柊の闇に巻き込まれ、そこから遠ざけたとしてもいつかは柊に取り込まれるであろうシノア。

その家族を守りきれなかった。

世界の滅びは確定し、それでも抗おうとする仲間達の手を取りきれず、かといって真昼の味方になりきることも出来なかった。

柊への抵抗もまともに出来たか分からない。

全て中途半端のまま、ミメイはあの世界から放り出されてしまったのだ。

帰る術は未だに見つからない。

 

 

 

「帰れないのかなぁ。」

身じろぐクラピカの背を優しく叩きながら、ミメイの口はひとりでに動いていた。

『帰りたいの?』

目敏く鬼宿がミメイの心を揺さぶってくる。

「そうね、帰りたいのかしら。分からないのよ。

今更私が帰った所で世界の滅びが止まる訳じゃあるまいし、もしかしたら私は邪魔者かもね。」

自嘲的な笑みが浮かぶ。

 

『さあねぇ、僕は知ったこっちゃないよ。

でも1つ教えてあげる。世界を渡るにはそれ相応の対価が必要だ。

いや、対価というより滅多に訪れない好機を待つしかないんだよ。』

珍しく饒舌である。

それこそこの好機を逃すまいとミメイは鬼宿に問いかける。

「対価は、その好機は何?」

『あは、教えなーい。今の未明には教えなーい。

いやなこったー。』

そう簡単に教えてあげる訳ないだろ?と嘲笑混じりのけたけた笑いが癇に障る。

 

「···そう。もう黙って。」

うるさい鬼宿を心の深層部という名の牢屋にぶち込み、鎖できつく縛って口をきけない様にする。

酷いよ、と哀れを誘う声で泣き真似をしていたが無視である。

 

 

うーん、と掛け布団に頭を埋めていくクラピカの背に手を回したまま、ミメイはそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

夜は未だ明けない。

 

 

 




シャワーシーンでラッキースケベなんて起こらないのだ。
ミメイのクラピカ性別勘違いは、まだ現在進行形なのだ。




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8:誰が為の予定調和

評価バーに色がつきました。
皆様ありがとうございます。






目を開けたのはなんとなくだった。

鼻先に何かが触れている様な、そんなくすぐったさを覚えたが故に瞼を開けたのだった。

だが視界が開けて今現在自分が置かれている状況を把握してすぐ、目を開けてしまったことを後悔した。

「···っ、」

余りの驚きに声も出ない。

それもその筈目の前には、ばいーんと表現するのが似つかわしい胸部。

それが自分の顔面に接触していたという事実に、かぁっと頭に血が上る。

 

兎にも角にもこの状況をどうにかしなければと、首を捻ってみるが体自体を動かすことは不可能らしい。

白いTシャツから伸びる細腕のせいで。

その細腕の持ち主は言わずと知れた、昨晩邂逅を果たした命の恩人たるミメイ=ヒイラギという女だった。

 

己の頭頂部に顔を押し付ける様にして瞳を閉じ、どこからそんな力がと不思議に思うほど細い腕で己の体を抱きしめて寝息をたてるミメイ。

クラピカは紙の様に無表情な彼女の寝顔を盗み見て、まだまだ起きそうにないと溜め息をつく。

所詮女の力だ、そう高を括ってこの拘束から抜け出そうとの目論見は尽く失敗に終わりそうである。

というより既に失敗した。

動かせるのは首から上と足先のみである。

そこを除いてクラピカの体には自由は与えられていない。

首を動かしてミメイの胸部と自分の顔面を引き離すことには成功したが、今の所それだけだ。

これ以上動くのは正に徒労。

昨晩味わった諦観の念が再び心に湧き上がる。

 

抱き枕である。

自分は今、ただの抱き枕なのである。

深い眠りについているらしいミメイの抱き枕なのである。

そう形容するのが相応しい。

 

 

「少し賢くなったのね。

そう、無駄な抵抗はしない方が良いわ。」

背中に回されていた手がすっと離れ、頭上から密やかな笑いが降ってくる。

「起きていたのか。」

顔の火照りはきっともう収まった、筈だ。

何故か上ずりそうになる声を抑えて、ミメイの顔の方に首を捻る。

「さっきね。」

まだ眠いわ、そう欠伸混じりに呟いたミメイはクラピカの視線を感じて、柔らかに口角を上げた。

「おはよう。体調は良さそうね。

顔色がまともだもの。」

「お陰様でな。それはともかく起きたのなら離れてくれないだろうか。」

がっちりホールドしていたミメイの手は緩んでいるが、僅かに足が絡まっているせいで体を起こせそうにない。

 

「はいはい。」

仕方ないわね、と呟きながらミメイは上半身を起こす。

その拍子に彼女が身に纏うTシャツがずり落ちて鎖骨まであらわになるのだが、クラピカの視線を気にした様子は全くない。

その上信じられないことに、ベッドから這い出た後迷いなくそのTシャツを脱ぎ捨てる。

 

 

クラピカは確信した。

寝惚けた頭でも分かってしまった。

この女は本当に自分のことを女だと思っているのだと。

昨晩の妹に似ている発言からしてまさかと思っていたが、本当にそのまさかだったとは。

もしクラピカが男だと認識していたなら、いくらミメイにとってクラピカが歳下だとしても、流石に同じベッドで寝たり目の前で着替えたりすることはないだろう。

 

性別を自分から偽った訳でもないのだが、今の状況に少なからず罪悪感を覚えてしまうクラピカ。

彼は真面目な質である。そして少し頭が硬い。

そして少し、ミメイのことを誤解している。

 

ミメイという女は目の前に男がいようと、それが何人であろうと、着替えやその他の理由により必要であるならば脱ぐ。

躊躇うことなく脱ぐ。

隠すとか隠れるとか、そのようなことは考えない。

柊家による教育、特にそっち系の拷問に対する耐性を付けるための教育の賜物である。

まあそれでも、実は案外気に入っている紐パンのことを指摘された時だけは顔を赤くするのだが。

変な所で乙女らしさの残滓が見受けられるのだ。

 

 

 

「クラピカ、私はもう行くわ。」

あまり見かけない珍しい服───教えて貰った所によるとセーラー服というらしい───に手早く着替えたミメイは脱ぎ捨てたTシャツを拾い上げながら、未だベッドの上に行儀良く座っているクラピカに声を掛けた。

「あ、ああ。」

ミメイの生着替えからそれとなく視線を外していたクラピカは、もう良いかと彼女の方に首を向ける。

 

「シャワーとトイレはこっちにあるわ。

寒かったら暖炉もばんばん使って構わない。

分からなかったらその式神に聞いて。」

ミメイはクラピカの両肩によじ登る2匹の式神を一瞥する。

式神を撫でているクラピカは預かり知らぬことだが、実の所彼等を顕現させておくのはミメイとしてはとても面倒なのだ。

彼等も元は只の紙とはいえど立派な式“神”である。

維持費としてミメイのオーラを容赦なく食い潰していく。

だがクラピカが彼等を気に入っているし、彼等もクラピカを気に入っているし、何より有事の際にはクラピカを庇う盾ぐらいにはなるだろう。

まだクラピカはミメイの保護下にある。

それならばミメイが彼(女)を守る為に己の労力を割くのは仕方のないことなのだ。

 

「そうだ、お腹が空いたならキッチンに行ってね。

パンぐらいはあるからお好きにどうぞ。」

壁に立て掛けてあった刀を手に取り、ミメイは自身の長い髪をマフラーの様に首に巻き付ける。

今日は一段と寒そうなのである。

窓から見えた景色は、昨晩降り続いた雪のせいで一面の銀世界。

薄い長袖セーラー服のみを身に纏った体で出てはいけない世界だ。

そんなことはミメイも分かっている。

それ故にクラピカに遠慮せず薪を使うよう言ったのだから。

だが防寒具を持っていないミメイは耐え忍ぶしかないのだ。屋外で。

 

「お前は食べないのか。」

鍵を手にしてドアノブに手を掛けたミメイをクラピカが呼び止める。

「あんまり時間が無いのよ。誰かさんのせいで寝坊したから。」

そう言いつつも焦っているようには全く見えないが、とクラピカは首を傾げながら、心外だと言う様に少し声を荒らげた。

「わ、私は何もしてないぞ?」

「そうね、貴方は何もしてないし貴方は悪くない。

ただいつもより暖かくて、眠りが深くなっちゃったのよ。」

それだけ、と言い残しクラピカの方を振り返ることなくミメイは出て行った。

 

 

 

 

がちゃんとドアが閉まる無機質な音が響き、部屋に残されたのはクラピカと2匹の式神。

ミメイが出て行って少ししてから布団から抜け出し、部屋を見渡すクラピカの腹からくぅと情けない音が漏れた。

「パンがあると言っていたな。」

恐らく昨晩食べたあの硬いパンだろうが、無いよりはマシである。

有難いことである。

 

式神達を肩に乗せたまま、狭いキッチンに足を踏み入れる。

シンクには旧式の電気ポットのみ。

食器などは小さな戸棚の中だろう。

ならばパンは、とシンク脇の引き出しを開ければ袋詰めのパンと僅かな保存食。

どれもこれも一昔前らしさプンプンのパッケージということから、店の在庫整理時にでも安価で買い叩いたものだと推測出来る。

 

やはりミメイは金銭的に余裕がある訳では無さそうである。

結局何を生業にしているのか聞いていないが、どうせ後ろ暗い仕事だろう。

だというのに何故、自分を助けたのだろうか。

クラピカはそれが不思議だった。

妹に似ているから、と曖昧な様な本気の様な理由を話されたが、果たしてそれは真実なのだろうか。

クルタ族が滅ぼされ、知らない世界に1人放り出され、人間の汚い所ばかり見てきたクラピカは疑心暗鬼気味である。

ただミメイに昨晩指摘された通り、警戒している様な振りをしているがその実全く出来ていないことも自覚していた。

敵か味方かも分からない人間から与えられた食べ物を口にし、共に寝ていたことに気付くことさえ出来ず。

この1年程度で研ぎ澄まされた野生の勘の様な警戒心はすっかりなりを潜めている。

 

「···本当に何なんだあの女は。」

いとも簡単にクラピカの警戒心を粉砕し、恐怖の様な何かを抱かせながら、それでいて嫌に心惹かれるミメイという女。

未だに素性不明の女。

今の所妹のことが大好きらしいということ、怪力で恐らく戦闘能力は高めであるということしか分からない。

 

戸棚の中に鍋をはじめとする使われた形跡のない調理器具があるのを発見し、ミメイは料理をしない(出来ない)という(どうでもいい)情報を入手したクラピカは、沸かしたお湯の入った湯呑みと一欠片のパン、それから小さな干し肉を手に暖炉の前に立つ。

気を利かせた式神達が暖炉に薪を投入し、2匹がかりでマッチに火をつけた。

ぼわぁと上がった火の様子を見ながら、湯呑みに浸して柔らかくしたパンに干し肉を挟んだ。

それを口に運んで噛みちぎれば、まあ悪くは無い。

昨晩の具なしスープと硬いパンとどっこいどっこいである。

 

 

「お前達の主人はどんな人間なんだ。」

答えられはしないと分かっていたが、暖炉近くで猫の子の様に丸まる式神達に問いを投げかける。

「悪人でも善人でもない、ミメイ=ヒイラギという名の女。

奴隷商人でも金持ちの愛人でもなく、生活は困窮している。

見た所私と余り歳は変わらないだろうが、家族はいないのだろうか。

話していた妹はどこにいるのだろうか。

···分からないな。全く分からない。」

そんな溜め息を漏らしながら暖炉前に蹲るクラピカに、のっぺらぼうの顔を向けてうんうん唸っていた式神達は徐に飛び上がって、ベッド横の棚から1枚の紙を2匹がかりで運んでくる。

 

これでどうだ、そう言うかの様に胸を張る2匹が運んできた紙をクラピカは手に取った。

「ハンター文字、か?見た所文字表の様だが。

ああなるほど、お前達は文字が分かるのか。」

合点がいったクラピカに早速答える為、式神達は文字表の“は”と“い”をペシペシ叩いた。

 

この紙はミメイが昔入手した文字表なのだが、未だにハンター文字が怪しくなることがあるミメイはこれを捨てるに捨てられないのだ。

そんな事情を知らないクラピカはこれは便利だと次の問いを口にする。

 

「あの女に家族はいるのか。」

「いる。」

ぺたぺたと床に敷かれた紙の上を歩き、文字の上で跳ねる2匹。

「どこに?」

「とおい。」

「ならば故郷は?家族は故郷にいるのか?」

「こきょうかぞくいる。とおい。あえない。」

式神達は残念そうに首を横に振る。

 

「仕事は?」

「ようじんぼ。ばかなぐる。」

「なるほど、用心棒か。どこのだ?」

「まふぃあのとばくじょう。ばかたおす。」

「マフィアの用心棒か···。相当良い腕をしているのだな。」

確かカタナというらしい業物の武器を持っていたが、得物負けしている訳ではなさそうだ。

まあ怪力といい、雰囲気といい、見た目通りの可愛らしい少女でないことはクラピカとて分かっていたのだが。

 

「歳はいくつだ?」

「じゅうなな。」

多分ね、そんなニュアンスを含ませた様に式神達は紙を叩く。

「私より4歳上か。」

にしては大人びている気もしたのだが。

だがしかし、まだ少女と呼んで差し支えない年齢内らしい。

 

「くらぴか。」

褒めて褒めて、と顔を擦り寄せながら順番に文字を示す。

「なんだ。」

そんな彼等が可愛らしく、クラピカは犬にやるように頭を撫でてやる。

そうしていれば2匹は顔を見合わせてから、長い文を紡ぐ為に協力して紙上の文字を叩き始めた。

「みめい、さみしい。ひとり。みんないない。さみしい。

だからくらぴかいる、うれしい。」

「···。」

「くらぴか、ばいばいだめ。」

「···あの女も1人なのか。」

故郷は遠く、家族には会えず、いつからかは知らないが1人でいたらしいミメイ。

確かにそれは寂しいことだ。

同族を皆殺しにされたクラピカにもよく分かる。

廃墟となった故郷は遠く、一族は死に絶え、1人で命からがら生きてきた。

 

「だがあの女は孤独を寂しいと感じる様な女か?」

そんな可愛らしい雰囲気···ではあるが、見た目はそれらしいが、どうにも信じきれない。

「ほんとはさみしい。すなおくない。」

「すなおくない···素直ではないのか。」

「いじぱり。まけずきらい。」

「意地っ張りで負けず嫌い、か。

それは本当か?」

「ほんと。」

ペラペラな頭が取れそうな勢いで頷く。

「そう、なのか。」

信用しきることは出来ない。

心を許しきることは出来ない。

だがもう少し話をしてみたいと、クラピカはそう思った。

 

 

 

 

────────

「寒かったけど、今日は客自体が少なかったから楽だったわ。」

白い息を吐き出して、暗い夜道の中職場から帰途につくミメイ。

今日も今日とて、朝からずっと住処である小屋に帰ることなく用心棒業に勤しんでいた。

寝坊気味だったせいで朝ご飯を抜いての勤務だったが、途中客からクッキーを貰った為、深夜を回った今の今まで腹はどうにかもっている。

とはいえ柊家での教育のお陰で、何日か飯抜きでもどうにかなるのだが。

 

「ツナ缶も貰えたし、今夜はこれをツマミに1杯やろうかしら。」

夜空を見あげれば、灰色の雲の切れ間に金の丸。

ふむ、冬の月というのもなかなかどうして乙なものである。

『酒ないよ。』

「気分よ、気分。」

容赦なく水を差してくる鬼宿に、貴方は雅ってものが分からないのね、とせせら笑いを返した。

 

 

「よい、しょ。」

賭場の主人に施しとして貰ったツナ缶、それが幾つか突っ込まれたビニール袋を左手に提げて、右手で鍵穴に鍵を差し込んだ。

錠前が錆びているのか、やはり鍵を回すのに結構な力が必要である。

直した方が良いんだろうか、そんなことを考えながらボロい掘っ建て小屋のドアを開けた。

「ただいま。」

さっき賭場で見た時計が示していた時刻は深夜。

どうせクラピカは既に寝てしまっているだろう、そう予想していたのだが、ドアを開けた向こう側は明るい。

 

「あれ?」

後ろ手でドアを閉め、部屋の中の音を聞き漏らさないよう耳をすませる。

ガチャガチャとキッチンの方が騒がしく、どうやらクラピカはそこにいるらしい。

一体全体何をしているのだろうとひょこりと顔を覗かせれば、クラピカはコンロの火を見て顔を顰めている真っ最中だった。

 

「何してるの?」

音もなく背後に近付いて耳元でそっと囁く。

クラピカはビクリと肩を揺らし、振り返った顔には驚きで見開かれた目があるが、ミメイが見るにクラピカの反応は悪くない。

ミメイが声を掛けるほんの少し前、何かが近付いていると無意識的に感じていたのは確かだろう。

 

「い、いたのか···。」

「いたわよ。で、何してるの?」

コンロにかけられているのは、賭場の主人から貰ったもののミメイは触れてもいなかった小さな鍋。

「何か作ってみようと意気込んだ···のだが、大したものは出来なかった。」

「へえ、料理出来るのね。」

クラピカを押しのけて鍋の蓋をパカリと開ける。

その途端キッチンにほんのり溢れ出すのは、塩と砂糖と野菜と肉、それらが入り交じった料理らしい香り。

「スープ、かしら。」

味噌もコンソメもなく、調味料として使えるのは砂糖と塩ぐらいだった筈である。

その為スープの色は無色透明に近い。

恐らく材料として使用したのは干し肉と塩漬けの野菜だろう。

半分程煮崩れて原形を保っていない具から想像出来た。

 

「湯を沸かして、そこに干し肉や野菜を入れて放置しただけだ。」

恥ずかしいからあまりジロジロ見るな、とミメイを押しのけて鍋に蓋をするクラピカ。

「それでも凄いわよ。クラピカ貴方、料理出来るのね。」

心做しかミメイの目に尊敬の念らしき色が浮かんでいる様にクラピカには見えた。

「母がしていたのを思い出しながら真似ただけだ。」

幼い頃、台所に立つ母の背に纏わりついて、これをやってみたいとまな板に手を出して怒られた思い出。

クラピカにとってもう遠い、遥か遠くにある優しい思い出だ。

 

「ふぅん、やっぱりそういうものなのかしら。」

ツナ缶の入ったビニール袋をシンクに置きながら、ミメイは興味無さそうに吐き出した。

「そういうもの、とは?」

「······私達が料理出来ないのはやっぱり料理している姿を見たことがないからなのね、って。そう思ったのよ。

やる機会も無かったし、やる必要も無かったからっていうのも勿論でしょうけど。」

手を洗ってから深皿を取り出すミメイの背中。

それが小さく、寂しそうに見えた。今のクラピカにはそう見えた。

昼間に式神達に言われた言葉のせいかもしれない。

一時的な気の迷いかもしれない。

だが確かにミメイの背中は寂しそうに見えたのだ。

そしてそのことが、何故かクラピカにとっても寂しかった。

 

 

「ミメイ。」

今まで1度も呼んだことのない、彼女の名を口にした。

「なぁに?」

振り返って2枚の深皿をクラピカに差し出してくる。

その顔は無表情に近く、取ってつけたように口角が上がっているのみである。

 

「おかえり。」

どうという訳でもない。

この小さな小屋の持ち主であるミメイが帰ってきた。

そこにクラピカは居合わせた。

だから言っただけなのだ。

何も考えず、自然に口にしただけなのだ。

この言葉に特に意味は無かった。

 

だがこのちっぽけな言葉に、ミメイの瞳は揺らいだ。

昨晩見た儚さやら何やらが入り交じった、目を離せなくなるあの色が瞳に映る。

「···た、だいま。」

そうよね、自然なことよね、そんな言い訳じみたことを呟いて、ミメイは困った様に眉を下げる。

「ああ。」

そんな彼女を安心させる様に、クラピカは小さく頷いた。

「そう···。」

目を伏せて、深皿をクラピカに押し付けて、ミメイはそっぽを向く。

どんな顔をすれば良いのか、というより自分はどんな顔をしているのか、そもそもこの感情は何だ、そんな疑問を隠す様にそっぽを向く。

 

深皿にスープを盛り付けるクラピカの傍で1人視線を彷徨わせ、無意識的にツナ缶入りのビニール袋を弄る。

久しぶりだったのだ。

ミメイは久しぶりだったのだ。

おかえり、なんて言われたのは。

この世界に来てからは誰にも言われたことは無かったし、真昼やシノアとは半同居生活だった為帰宅時に会う機会も少なく。

だから少し、不思議な気分になったのだ。

 

『単純。』

小馬鹿にした様な鬼宿の声を振り払い、ミメイはツナ缶を1つ掴んだ。

冷たい。

冷気で冷えきった金属は手が切れそうな程冷たい。

「うるさい。」

『ほんと、単純。』

「···うるさい。」

冷たさを振り払うようにツナ缶を棚に押し込めて、同様に鬼宿も心の奥底に詰め込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『面白くなってきたなぁ。

まさかこんなに早く兆候が見られるなんて。

やっぱり僕ってあったまいーいっ!』

鎖で雁字搦めにされながらも、鬼は独り嗤った。

 

 

 

 




即落ち2コマならぬ即落ち1話。


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9:哀愁は雪の中

前回から引き続き、今回も急展開で本当に申し訳ないです。
このままズルズルしていると、いつまでたっても原作に入れないから無理したとかそういうアレでは無いんです。
無いんです···。(半分は正しい)






「クラピカ、私今夜はシチューがいい。」

今朝もミメイは髪の毛をマフラー替わりにして、仕事に行く準備をする。

そんな彼女を横目に、クラピカは食器を水に浸けて洗い始めた。

「またそれか。」

2枚の皿についた汚れを洗剤の泡で落としながら溜め息をつく。

「だって美味しいんだもの。

ま、貴方の料理はどれも美味しいけど。」

「そうか。」

手放しに褒められてほんのり綻ぶクラピカの顔。

それを確認したミメイはしてやったり、と先程のお願いを重ねるのだ。

「だからシチューよろしくね。」

「···考えてはおく。」

クラピカがこう返すのならば今夜はシチューに違いない、そう確信したミメイは足取り軽やかに小屋を出て行った。

 

 

 

ミメイがクラピカを拾って早3週間。

ぎこちなく「おかえり」と「ただいま」を繰り返しているうちに、氷がぬるま湯に解ける様に2人は馴染んでいった。

お互いの詳しい身の上話も無しの状態での共同生活だったが、多くを語らずとも同族意識の様な何かは芽生えたらしく案外上手くやっている。

ミメイは外で用心棒、クラピカは式神達と一緒に中で家事、見事な分業制が出来上がっていた。

 

長々と面倒を見るつもりは更々無かったミメイなのだが、勿論今も無いのだが、まだクラピカが本調子ではないから、まだ熱っぽい日があるから、そんな言い訳をしてズルズルこの生活を続けている。

全てを“成り行き”という言葉で済ませてしまうのは簡単である。

ミメイも例にも漏れずそう自己に言い聞かせているのだった。

妹のシノアに似ているから、自分の心に棲む鬼宿に似ているから、だから見捨てられない、そう自己に刻みつけているのだった。

 

ミメイが自身に言い聞かせていることは全て正しい。

だが彼女はそれだけが正しいのだと思い込んでいる。

いや、思い込まずにはいられない。

“それ以上”はなく、正しいのはそれだけで。

だから彼女はまだ気付けない。

鬼宿からすれば馬鹿みたいに可愛過ぎる自己矛盾を抱えていることにミメイは気付けない。

何かの拍子に気付くことがあったとしても、見なかった振りをして封殺する。

 

 

けれども、そんな優しい猶予期間(モラトリアム)が永く続く筈もなかったのだ。

 

 

 

 

───────

「ようミメイ、最近どうよ。」

いつもの様に賭場の入り口に立っていれば、同僚の男が声をかけてくる。

彼はミメイより弱いのだが、距離感を間違えないミメイ的に“良い”男である為今の所ミメイにぶちのめされた事はない。

賭場の主人と彼、そして客だけが職場でミメイに声をかける人間である。

あとは大体ミメイに心身を滅多打ちにされた恐怖に怯える弱者の為、ミメイに話しかけることはこれから先も無いだろう。

 

「ぼちぼちって所ね。」

マフラー替わりにした長い髪の中に顔を埋めて暖を取りながら素っ気なく返す。

「お前の借金ももうそろそろで終わりか。

次の給金が入ったら、まずは防寒具を買えよ。」

「言われなくてもそのつもりよ。」

今ミメイの腰に下げられている刀は、用心棒としての報酬2ヶ月分を先払いで貰って買い叩いた業物である。

つまりその2ヶ月間は実質タダ働きという地獄と引き換えだった。

だがその地獄ももう終わる。

賭場での仕事が報酬以上だと賭場の主人に認められ、残り1ヶ月弱分の借金は帳消しになった。

来週からは通常通りの給金がミメイにも支払われることになる。

 

「そういえば聞いたか?」

「何を。」

コートを買おう裏起毛のコートを、と防寒具に思いを馳せていれば、まだ話したいことがあったらしく同僚の男はミメイとの距離を詰めてくる。

「一攫千金だよ。1人捕まえれば相当な値になるってさ。」

同僚は夢みたいだよな、と笑っているがミメイには何のことか分からない。

お尋ね者のことだろうか。

今は情報が殆ど無い幻影旅団とかいう盗賊が旬らしいが。

 

「何の話?」

「知らないのか?あれだよ、クルタ族。

去年あたりに幻影旅団に滅ぼされた一族だ。

そいつらの目は興奮すると赤くなるらしくてな、その美しさに惹かれた金持ち達が生き残りを血眼になって探してるんだと。

少数民族だったからか流通量が少なかったらしい。」

「目を抉り出して飾るの?それとも体丸ごと?」

良い趣味ね、とミメイは鼻で笑う。

「さあ。目単品でも価値は高いだろうが、生きてる状態で捕まえられたならもっと値は上がるんじゃないか?」

「ふぅん。」

「あ、興味無さそうだな。」

セーラー服の袖を弄り始めたミメイの様子から、同僚は敏感に感じ取ったらしくケラケラと笑った。

 

「だってねぇ。捕まえるのなんて面倒じゃない。

生け捕りとか無理よ。抵抗されたら殺すに決まってるもの。」

「目単品でも良いらしいぞ。」

どうやら同僚は、ミメイがクルタ族の生き残り狩りに参加することを望んでいるらしい。

ミメイが狩りに成功して得たおこぼれにでも与かろうと考えているのだろうか。

だがミメイには、その狩りに参加する気は更々ない。

元々物探しは得意ではないのだ。

 

「貴方1人でやったら?」

もう話は終わりだとミメイはヒラヒラ手を振って同僚を追い返そうとする。

「つれないやつだな。」

尚も食い下がる同僚に溜め息を返し、そもそもの疑問を投げかける。

「まず本当に生き残りなんているの?

それ自体デマなんじゃない?」

 

素性不明の幻影旅団だが、やることなすこと全て徹底しきっていることは有名である。

尻尾を全く掴ませない原因である情報の隠蔽から、旅団が生業とする盗みまで。

その旅団が1つの少数民族を滅ぼして、その目を奪って売り払おうと決めたなら、容赦なく皆殺しにするに違いない。

生き残りは後々旅団に対して怨恨を抱く面倒な存在になるからだ。

柊家も、敵対勢力を潰すと決めたなら完膚なきまでに断絶させるか、ほんの少しだけ残して厳しい監視下で飼い殺しにしていた。

 

 

「いや、生き残りがいるってのは本当だよ。

目撃情報があるんだ。

突然目が赤くなったガキがいたってな。」

「ガキ?へえ、その生き残りは子供なのね。」

意外だわ、と少しだけ目を見開く。

「興味が出たか?」

「全く。」

すげなく返答したミメイだが、同僚はそんなことを気にせず口を動かす。

「この前来た客が言ってたんだがな、多分女らしい。」

「ねえ、興味ないって言ってるんだけど。」

仕方のない同僚から距離を取ろうと、ミメイは彼に背を向けて歩きだした。

のだが、次に同僚の口から飛び出た言葉にピタリと足を止めた。

 

「細っこくて小柄で···ああそうだ、長い金髪だとか。

まあ髪の毛はなぁ、染めたりカツラを被ったりすれば分からなくなるからなぁ。」

「金髪?」

 

 

嫌がられようとも逃げられようとも、とっ捕まえて毎晩強制的にミメイが櫛を入れている金の髪。

サラサラとあの子の背中で揺れる金の髪。

埃っぽい小屋の中でやけに光って見える、眩しい金の髪。

 

 

「ああ、噂では。

女の子らしく胸辺りまで伸びた長い髪だってさ。」

足を止めたミメイにこれ幸いと同僚はペラペラ話す。

「···ねえ、その情報誰から聞いたの?」

胸辺りまで伸びた金の髪。

そろそろ切ろうかとボヤいていたのをこの前耳にした。

 

「あ?さっきも言ったろ、客の1人だよ。

何でも最近、この近くでまた目撃情報があったとかでな。

ま、本当かは知らねえが。」

「そう。」

地面にぺたりと付けていた足を再び動かす。

そのまま動かす速さを上げて、地面を蹴りあげて。

気付けばミメイは走り出していた。

「おい、どこ行くんだ?」

「馬鹿ね、トイレに決まってるでしょ。」

後ろからぶつけられた問いには、相手が何も言えなくなる様な答えを返し、ミメイは足の腱をしならせて駆ける。

 

 

 

変な予感がした。

嫌という訳でも好きという訳でもない。

ただ、変な予感がした。

今ここで動かなければいけないという形容しがたい使命感。

それに突き動かされてミメイは走る。

白い雪が赤茶けた土を覆い、所々が凍って滑りやすくなっている道を難なく蹴っていく。

 

住処である小屋までの正規ルートは雪の積もった一本道のみ。

だから分かる。

今朝小屋を出たミメイの足跡以外がついているのはおかしいのだ。

くっきりくっきり、大きな足跡が幾つも刻まれているのはおかしいのだ。

その足跡を上から踏み潰しながらミメイは緩やかな坂を駆け上がる。

 

クラピカは外に出ない。

まともな防寒具が無い状態で寒空の下に出れば、また体調を崩すのが分かりきっているからである。

 

 

腰の刀を右掌に握らせて、小屋の入り口の向かいに生えた木の陰に身を隠す。

ちらりと小屋に視線を走らせれば、キィキィと情けない音を立てて風に揺れるみすぼらしいドア。

その下にはぐにゃりと歪んだ蝶番。

どう見ても、何者かが無理矢理小屋に押し入った様にしか見えない。

 

聴覚に意識を集中させれば、小屋からは何の音もしないとすぐに判明した。

風の通る音からしてベッド近くの窓が開いている。

そして恐らく風呂場の窓も開いているのだろう。

小屋の中を通り抜ける風の音が大きい為きっとそうだ。

風呂場の窓は子供一人がやっと通れるかという小ささである。

聡明なあの子は式神達と共にそこから這い出たに違いない。

そうすれば少しは逃亡成功確率が上がると信じて。

 

念の為窓の外から小屋を覗いておこうとそちら側に足を向けた丁度その時、ミメイの体を小さな衝撃が襲う。

この世界に来て早々、クロロに式神を消された時と同じ衝撃が。

式神とミメイは微弱なオーラで結ばれており、自動的にエネルギーが送り込まれている。

だが今、その繋がりが切れた。

パチンと切れた。

つまりはエネルギーを送る対象であった式神が消滅したということだ。

 

適当に作った式神とはいえ、一応はミメイのオーラと息を吹き込んである。

高い所から落下したり、水の中にぼちゃんしたりしたくらいでは消滅することはない。

ならば答えはただ一つ。

それ以上の非常事態が起きたということだ。

 

 

 

「鬼宿。」

心の奥で鎖で拘束されたシエスタを優雅に楽しんでいるだろう鬼を叩き起す。

『なぁに?』

ミメイの聞きたいことなどもう分かりきっているだろうに、このいやらしい鬼は態々尋ねるのだ。

「どっち?」

あの子が、クラピカが逃げたのはどっち?

『あは、知りたい?』

きゃはははは、と嬌声をミメイの頭に響かせる。

「勿体ぶらずに教えて。」

『ねぇねぇ、なんで知りたいの?なんで?

あの子供のことなんて放っておけば良い。

いつかは自分から出て行くだろう、そう予想したのは未明だろ?』

「教えて。」

『教えてよ、どうして?

理由を僕に教えてよ。どうしてあの子供1人に必死になってるのか。』

オウム返しの様にしてミメイの心に漣を立てる。

 

『未明、君が必死になったことなんて数えるくらいしかない。

1度目は君が拐かされた時、2度目はシノアが拐かされそうになった時、3度目は世界が滅亡の向こうへと駆け出したあの時。

たったのこれだけだ。

君は僕に心を喰われたくないから、鬼になりたくないから、欲望を押さえて感情を殺して、外にも中にも決して出そうとしなかった。

それが当たり前だった

薄っぺらい安っぽい感情ばかり適当に表に出して、例え何かを望んだとしてもすぐに無かったことにした。』

「だから?」

今聞きたいのはそんなことじゃない、とミメイは鬼宿の鎖を締め上げる。

と同時に小屋の裏に広がる林に意識を向けた。

真っ白な雪に刻まれた足の形が丸分かりの小さな足跡は、その奥へと続いている。

そして、その上からは大きな靴の跡が押し付けられている。

 

『それなのにどうして君は、今そんなに必死なのさ。

あの子供は妹のシノアじゃない。

そして、君の家族でも仲間でも何でも無いんだよ。』

「···。」

幾つもの足跡を押し潰して、ミメイも林に足を踏み入れる。

 

『ねえ、どうしてなの。』

「そんなの分からないわ。

どうしてかは私にも分からない。

ただ、こうしなければいけないと私は今思ったの。」

ナイフでつけられたと見受けられる鋭い傷が木の幹に刻まれているのを発見する。

その傷を軽く指先でなぞりながら、血痕がまだ見当たらないことに小さく胸をなで下ろした。

 

『···どうして、ねえどうして?

未明、今君は安心しただろ。

流血の痕が無いのに安心しただろ。』

何故か喜色を隠しきれていない震える声。

「そうね、安心したわ。

どうしてかは分からない。

どうしてあの子を探しているのかも分からない。

理由も言い訳も、言おうと思えば言えるんでしょうね。」

でも、とミメイは唇を噛む。

右掌に握らせたままの刀を掴み直して、乱れた足跡の上を走る。

 

 

 

足跡が途絶えた先、木々が伐採されて開けている狭い場所、そこでミメイの視界に入り込んできたのはナイフを振り上げる男。

その周りで下卑た笑みを浮かべる5人。

そして地面に転がり、男が振り上げるナイフを腕で受けようとしている小さな体。

既に1度ナイフは振り下ろされたのだろう。

金糸の様な明るい髪がバラバラと雪の上に散らばっている。

切り離された沢山の金の房の一部が、何本かが、ふわりふわりと風に舞い上がっている。

柔らかな陽の光を集めて輝くそれ目掛けて、ミメイは大きく踏み込む。

 

 

 

 

 

一閃。

鋭い白刃が空間を斬り裂いたかと思えば、何よりも早く赤が白い雪を染め上げる。

6人分の血は十分温かかったらしく、赤くなった雪がじわりとその姿を崩して地面に消えていく。

 

 

「ミメイ···?」

自分の目の前にすらりと立つ見慣れた人影に、地面に転がったままのクラピカが恐る恐る声をかければ、紫の髪を靡かせて振り向いたのは勿論ミメイである。

その周りで沢山の重い体が雪にのめり込んでいく音がドサリと響くが、ミメイはそれを微塵も気にとめず、右手の刀の刃先を伝う赤を自然に払った。

またピシャリと雪の白が赤に侵された。

 

「無事ね。」

たった今1度で6人の命を奪った刀を鞘にしまって、クラピカの前にしゃがみ込む。

そして逡巡した様子の後、袖を引き伸ばしたセーラー服から覗く掌をクラピカに向けた。

「···あ、あ。」

掠れた声と共に、ミメイの手をそっと掴む冷えた掌。

それを握り返して、ミメイはクラピカの背を支えてやる。

 

「ミメイ、」

無残に切られてしまった金の髪を振り乱し、クラピカはミメイに縋り付く様にして哭いた。

「どうしたの?」

「すまない。」

「どうして?」

「すまない。巻き込んでしまってすまない。」

申し訳なさそうに肩を震わせるクラピカを見て、ミメイは小さく首を傾げる。

「私がこの人達を殺したことを気に病んでるの?

それなら気にしないで。別にこれが初めてじゃないわ。

顔も名前も知らない人間なだけマシよ。」

周りに転がる男達の方に目を向けることもなく、さもどうでも良いことの様にミメイは呟いた。

 

世界の終わりの直前には、かつて同じ学び舎で学んだ友と呼ぶべき人間を沢山殺した。

真昼を救う為、世界を救う為、一刀の元に斬り伏せた。

今でもまざまざと思い出すことが出来る。

グレンの、深夜の、十条の、花依の、雪見の、五士の、同じ様に人間を殺めた彼等の顔を。

もうこうするしかない、それは分かっている、けれども理解したくない。

そんな感情がありありと浮かんでいた顔を。

 

 

「そんなことは分かっている。

お前が用心棒をやっていることも、過去に何か血なまぐさいことがあったのも、式神達から聞いて知っている。」

今やただの紙切れとなって白い雪の中に紛れている元式神達。

どうやら彼等はちゃんと、クラピカの盾としての役目を全うして消えたらしい。

物言わぬ紙から視線を外し、ミメイは自分の腕を掴むクラピカの背をそっとさする。

 

「それでも、すまない。」

か細く震える声。

「どうして貴方が罪悪感を抱いてるの?

貴方が殺したんじゃない、貴方は殺されかけた側なのよ。

何も気に病む必要なんてない。」

ミメイは不思議でたまらない。

たかが6人殺したくらいで、しかもクラピカに害をなそうとした人間を殺しただけだというのに、何故そんなにもクラピカが罪悪感を抱いているのか。

 

「私の為に、お前に人を殺させてしまった。

私の為に、私がやらなければいけないことをお前にさせてしまった。」

絞り出す様にして告げられた言葉は、一瞬だけミメイの動きを止める。

「···馬鹿ね。貴方には無理だったでしょ。」

私が間に入らなければ殺されたのは貴方だったのよ、そんなニュアンスを持たせてミメイは緩く笑う。

「それでもだ。」

ミメイのセーラー服の裾を引っ掻くように掴み、キッと睨み上げてくるクラピカの目は美しいまでに赤かった。

理屈では分かっていても心が従えない、目は口ほどに物を言うとはこのことだろう。

そして、こんな頑固者をミメイは嫌という程知っている。

 

「馬鹿だなぁ。クラピカって、ほんと馬鹿。」

白い首辺りで無残にナイフで切られた金髪に指を通す。

ああこんなにバサバサになってしまった、しっかり櫛で梳かさなければ、そんなことを思いながら、血の様に炎の様にギラギラと燃え上がるクラピカの瞳を覗き込む。

「綺麗ね。」

無意識的にこぼれ落ちたミメイの言葉にビクリと肩を揺らすが、ミメイにその目をどうこうする気が全く無いのは分かりきっているのか、クラピカは自嘲的に口角を上げる。

「感情が昂るとこうなる···これがクルタ族特有の体質だ。

緋の目といってな、世界7大美色の1つにも数えられている。」

「世界7大美色ね···。あら?どこかで聞いた様な言葉。」

どこで誰に聞いたのだったか、賭場に訪れた客の1人に聞いたのだったか、よく思い出せない。

一応後で大体の記憶を共有する鬼宿にも確認してみようと心にとめておく。

 

 

「この目の為に同胞は皆殺しにされ、その亡骸には1つの目も残っていなかった。

だから私は決めたのだ。

必ず同胞を辱め、殺した幻影旅団を捕まえるのだと。

死んで尚晒される同胞の目を全て集めるのだと。」

目の赤みが更に濃くなる。

「それが貴方の願いなのね、クラピカ。」

「ああ。」

何を言われようとも自分の意見を曲げる気はないという強い赤い目。

それに既視感を覚えながらミメイは微笑んだ。

ここで微笑むのは見当違いではなかろうか、そんな自覚はあったのだがただ微笑んだ。

 

「復讐は無駄じゃないわ。意味のあることだと私は思う。」

「···そうか。」

拍子抜けした様にクラピカは少し肩の力を抜く。

「意外?まあそうよね、普通復讐なんてやめなさいって諭すのが歳上の役目だもの。

でも諭したって貴方は聞くタイプじゃないでしょ?

そういう馬鹿を私は知ってるの。

世界を救いたい、愛する女を救いたい、仲間を救いたい、全てを救いたい、そう叫んだ馬鹿を知ってるのよ。」

そして結局、自分を犠牲にして人間をやめた馬鹿を。

 

「だから復讐でも何でもすれば良い。

それが貴方の生きる意味だというのなら、その意志は間違いなく貴方を強くする。」

「ミメイ、」

それは本当か、そう言葉を続けようとした唇を人差し指で押さえ込む。

「でもね、これだけは覚えていて。

犠牲無くして力は得られないのよ。

犠牲を重ねれば重ねる程、沢山得られるのが力なの。

どんな願いも叶える為には力が要るわ。

そしてその力を手にするには、多くを犠牲にするしかないのよ。」

心に棲む鬼のことを思う。

いつでも望めば簡単に得られる力を所有する鬼のことを。

 

「まともな人間として生きて、まともな人間として死にたいのなら、人の手に余るものには手を出しちゃ駄目よ。」

クラピカの白い頬に指を添え、赤みが段々と薄くなっていくその瞳を見つめる。

「ミメイ?」

少し様子のおかしい、何故か悲壮感を滲ませるミメイに戸惑って、赤い瞳を揺らす。

 

「約束なんか要らないから忘れないで。

私が言いたいのは、言えるのはそれだけよ。」

己が身を裂く様な衝動に突き動かされて、ミメイはクラピカの背に手を回した。

雪の上に転がされていたからか少し冷たい。

それを暖めてやる様に、ミメイはきつくクラピカをかき抱いた。

 

 

 

ああ駄目ね。

認めたくないけれど、私はこの子にグレンを重ねている。

クーさんに感じたものとはまた違う。

この子の悲惨なまでに追い詰められた生に、強い願いを秘めた心に、意志の堅さを映す瞳に、グレンを重ねている。

年齢に似合わない大人らしさはシノアにも確かに似ている。

けれどそれ以上に、私はこの子にグレンを見出してしまった。

 

気付いてしまった。

出来ることなら気付きたくなかった事実に気付いてしまった。

 

 

 

「クラピカ。」

「何だ、ミメイ。」

「帰ろう。ここは寒いわ。」

「ああ。」

手を取り合って立ち上がる。

雪を踏みしめ、血に濡れた雪を踏みしめ、物言わぬ幾つもの亡骸を越えて、ただの紙となった2枚を残して、2人は林の中を歩く。

沢山の足跡に踏み固められた木と木の間の道を歩く。

ただ、来た道を帰るのだ。

 

2人が暮らすあの家へ帰るのだ。

本当の意味で、ミメイが家だと認めたあの家へ。

 

 

 




ここまで来て、まだクラピカちゃん(女)だと思っている主人公。
もう作者にもバラすタイミングが掴めないです。


しおりやお気に入り、評価等本当にありがとうございます。
12月23日の日間ランキングに入れたのも皆様のお陰です。
ありがとうございます。


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10:貴方に願う夢浮橋

今回は過去編です。
終わりのセラフの小説「一瀬グレン、16歳の破滅」のネタバレを含みます。
特に1巻と6巻部分です。

性別バレは次回に期待です。たぶん···。




ああこれは夢だ。

まず始めにそう思った。

次にどうしてこんな夢を見るのかを考えた。

自ずと、すぐに答えは出た。

ああそうか、グレンとクラピカを重ねたから。

だからこんな夢を見る羽目になるのだ。

 

でも今だけはそれも悪くない。

夢と現実の狭間で、今夜も隣で寝息を立てるクラピカの暖かさを薄ぼんやりと感じながら、ミメイは夢に身を委ねた。

 

 

 

 

──────────

いつから自覚したのかは未明にも分からない。

気付けば真っ白な世界で未明は、長い金髪を川の様に地面に垂らしている幼子と向かい合っていた。

「あなた、だれ?」

舌っ足らずの口調で未明が問えば、俯いていた幼子は顔を上げた。

『君まだこんなに小さいのにね。もう僕を認識するんだぁ。』

乱れた金の髪の向こうに覗くのは2つの赤い目。

最近の訓練ではもう見慣れてしまった血の色である。

 

「?」

『あは、まだ分からないよねぇ。

うーん、今の君を食べたって美味しくなさそうだ。まだ欲望が育ってないからね。

仕方ない、若紫を育てた光源氏に倣って僕も君を僕好みに育てよう。』

「そだてる?」

『そうさ。まだ君は小さいから。

もっと大きくなって僕の素敵なご飯になって貰わなくっちゃ。

じゃないと、別世界にまで召喚された上に赤子に混ざって生まれてきた甲斐がないからね。』

開かれた赤い唇の隙間に見えるのは白い牙。

それをじっと見ていれば、赤い目を光らせる金髪の幼子は未明の小さな掌を握った。

『またおいで。僕の可愛い宿主ちゃん。』

 

 

言った意味も分からないまま未明は白い世界から追い出され、次に目を開けた時に見えたのは、頬を膨らませた双子の姉である真昼だった。

「もう未明、寝ないでよ。

今夜は一緒に行こうって言ったじゃない。」

早く早く、と手を引く真昼に急かされてふわふわ夢見心地で部屋を出る。

「ねえ真昼、もう深夜だよ。やっぱりやめない?

見つかったら怒られるのは私なんだから。」

コソコソ声で真昼に耳打ちするが彼女は聞く耳持たずであり、足は止まることなく動き続け、遂には暗い森の中に2人揃って足を踏み入れてしまった。

 

「真昼ってば。」

訓練で暗闇は慣れている。

それでもこの森は想像以上の暗さである。

恐れを誤魔化す様に真昼の手をギュッと握った。

「グレンに会いたいって言ったのは未明だもん。

それに、1人より2人の方が柊が嫌がるでしょ?」

「そうだけど···。」

無邪気に森の中を進む真昼とは対照的に、未明の顔は晴れない。

 

今未明達が過ごしている屋敷の近くに一瀬家が所有する施設があると聞いて、柊家に殺された母の仇として一瀬の子に近付いてやろうと最初に提案したのは未明である。

母を殺した柊家を真昼と未明は嫌っていた。

その柊家を率いる現当主柊天利、父のことも嫌っていた。

だがそれを堂々と叫ぶことは許されない。

だから小さな抵抗として、柊家が嫌い父が嫌うクズの一瀬の子に近付いて、柊家の面子を潰してやろうと考えたのだ。

真昼はその考えをいたく気に入ってこの前実行し、そして今度は未明も誘っている。

というより現在進行形で実行されている。

 

未明だって、真昼が何度かコソコソ会いに行っている一瀬の子が気にならない訳ではない。

双子の妹である自分以外に心を開かない質だというのに、あっさりとその一瀬の子を気に入ってしまった。

いつも隣にいる大事な半身を取られた様な気がして、未明はなんとなく一瀬の子が気に入らない。

会ってその面を拝んでやろうか、だが会ったら負けな気もするし······、とそんな葛藤を繰り返している。

 

 

「ほら未明、あれがグレン。」

木立の向こうに小さな人影を見つけた途端ぱあっと華やぐ真昼の顔。

こういうのを“恋する乙女”、そう呼ぶのだとおマセな未明は知っている。

「やっぱりいや。私会いたくない。」

「そんなこと言わないで。もうここまで来たんだから。」

グイグイ未明の手を引っ張る真昼。

ほんの数時間早く生まれただけだというのに、未明より真昼の方が身体能力は高い。

結局未明の体はズルズル引き摺られてしまう。

 

「やだ。だって真昼、私が隣にいても一瀬の子とばっかり話すでしょ。

それなら私、最初からいない方が良いもん。

そんな真昼、見たくないもん。」

あー、と最後まで抵抗して一瀬の子から顔を背けるが、逆にその一瀬の子に顔を覗き込まれてしまう。

一瀬の子の癖毛がふわりと揺れて、そのキラキラと輝く黒い瞳と目が合った。

「グレン、これが双子の妹の未明。いい名前でしょ?」

「そっくりだね。」

予想通り親しげに声を交わす2人を邪魔してやりたくて、不機嫌さを隠さない声で未明は自己紹介をする。

「······『昨日未明、渋谷区のマンションで遺体が発見されました』の未明よ。

よろしくしたくないけど、よろしくね。」

「未明って、変わってる。」

キョトンと首を傾げて一瀬の子が可愛く笑った。

「未明は真昼のことが好きなんだ。」

「当たり前よ。」

一瀬の子に問われて、未明は真昼の手を強く握りしめる。

「だから一瀬の子なんかにはあげないんだから。

真昼は私のなんだから!」

バーンと宣言して真昼の腕に自分の腕を絡ませる。

「···わあ。」

少し引いた目を向けてきた一瀬の子────グレン、困った様に笑う真昼、そして私未明の3人が一堂に会した、初めての夜だった。

 

 

 

それから数ヶ月。

真昼と未明は毎日大人達がいない時間を選んで毎日グレンの元に足を運び、色々な話をした。

 

「ねぇグレン。」

「ん?」

「グレンは何色が好き?」

「未明は?」

「なんでそこで私に聞くの?ええっと、紫とか赤とかかな。

グレンは?」

「さぁ。」

 

「ねぇグレン。」

「なに?」

「訓練が嫌になることってない?」

「それは、ないかな。みんなに期待されてるし。」

「私はあるよ。真昼と離れなきゃいけない訓練が嫌。」

「私も未明と離れるのは嫌よ。」

 

「ねぇグレン。」

「ん?」

「グレンは恋したことある?好きな女の子とかいないの?」

「それは······」

「じゃあ未明は?」

「······どうだろ。でもね、私は真昼が好きだよ、大好き。」

 

「ねぇグレン。」

「······。」

「ねえねえグレン。」

「ねえグレンってば。私と真昼、どっちも無視して楽しい?」

「···なに、真昼、未明。」

「グレンは将来どんな男の子になりたいの?」

「やっぱり強くなりたいの?」

「あー、まあ未明の言う通りだけど。」

「強くなったらどうなるの?」

「え?うーん、どうだろ。何でも出来るんじゃないかな。」

「そうだねグレン。私もそう思う。」

「えー、そうかな未明。

だって、今ケーキ出してって言ったら、出せるようになるの?」

「それはたぶん、出来ないけど。」

「「じゃあ全然なにも出来ないじゃーん。」」

「おい未明、君な···。」

 

「ねえ、真昼と未明は将来どうなりたいの?

2人とも俺に聞いてばかりだから。」

「私はねー。そうだなー。まず可愛いお嫁さんになりたいでしょ?」

「真昼をお嫁さんに貰うのは私。」

「姉妹じゃ結婚出来ないよ、未明。未明のことは大好きだけど。」

「そんなの嘘だもん···。」

「だからグレン、私を可愛いお嫁さんにしてね。」

「「え」」

「グレンの可愛いお嫁さん。それが私が将来なりたいものだもん。」

「···今すぐ辞退してよグレン。

私のお嫁さんになる方が真昼は可愛い。絶対に。」

「待って未明、話せば分かる。」

「問答無用。」

「こら、未明!グレンに馬乗りになっちゃ駄目でしょ!」

「止めないで真昼。今グレンを消さなきゃ。」

「落ち着いて未明、話せば分かるから!」

 

 

けれどもそんな穏やかな日々は永くは続かない。

毎晩毎晩抜け出していた真昼と未明は、行方不明扱いされて血眼になった帝の鬼に探された。

その余波は一瀬家にも、まだ幼いグレンにも及び。

帝の鬼の人間に尋問されて蹴られるグレンから離れたがらない真昼の手を無理矢理引いて、未明は自分達2人の痕跡を消して逃げ出した。

そうするしかなかった。

今2人がグレンの前に出て行けば、きっともう会えなくなるから。

 

 

未明は夜に抜けだそうとする真昼を止め、数日後の昼間大人達の目が離れた隙に真昼を送り出した。

「未明は?」

「私が囮になるから。今のうちに真昼が行ってきて。」

たぶん、グレンも私より真昼に会いたいから。

そんな言葉は飲み込んで、未明は真昼を見送った。

 

未明にとって1番大切なのは真昼だ。

それは今も変わらない。

けれど次に大切なのは、いや同じくらい大切なのは今やグレンなのだろう。

同年代の子供を、自分にかしこまった態度を取らない子供を、他に未明は知らなかった。

だから、唯一絶対だった真昼以外に大切な存在が出来てしまった。

どちらも大切だ、そんなことは分かっている。

出来ることならば今のままでいたい、そんなことも分かっている。

けれどそれは許されない。

真昼はグレンが好きで、グレンは真昼が好きで。

きっと未明は、2人にとっては次点なのだ。

未明はどちらのことも大切で、真昼の言葉を借りるならどちらとも結婚したいくらいに大好きで。

そして大好きな2人が想い合うのなら、きっとそれは素敵だと分かっていて。

でもこれは、本で読んだ通りに名前をつけるのなら、“失恋”というのだろう。

 

「あーあ。未明ちゃん、6歳にして失恋かぁ。」

『諦めちゃうの?』

グレンに会うようになってから頻繁に夢の中で出会うようになり、起きている時でも時折話かけてくる金髪の幼子、その子のクスクス笑いが頭に響く。

「だって真昼とグレンは、お話の中のお姫様と王子様なんだもの。

囚われのお姫様は強くなった王子様に助けられなきゃいけないんだよ。」

『じゃあ未明は?』

「···私は、お姫様を助ける魔法使いで十分だよ。

お姫様と王子様が結ばれるのを手助けするの。」

今頃森の中を駆けているであろう真昼の気配を術で隠し、柊家の式神に感知されないよう誤魔化した。

ほら、魔法使いみたい。

 

『嘘つき。ほんとは自分もお姫様になりたいくせに。

同時に王子様にもなりたいくせに。』

嫌な笑い声、とても嫌な笑い声だ。

未明の全てを見透かした様に笑っていて、心がザワザワしてしまう。

「なんで貴方はそんなこと言うの?」

『僕は鬼だからね。君の心に湧き始めた欲望を育てるのさ。

真昼が欲しいグレンが欲しい、だから力を寄越せ。

そう君が言うのを待ってるんだよ。』

「意味が、分からないよ。」

愉しそうに笑う声は理解不能で恐怖さえ感じる。

けれども何故かその声に惹かれている自分がいることにも未明は気付いるのだった。

 

 

 

そしてあの日がやってくる。

 

夢の中で揺蕩うミメイは、ぐるりと反転した景色に小さな笑いを漏らす。

 

あの日が来る少し前までは、どんな夢でも叶うと思っていた。

好きな人達と一緒にいて、欲しいものを手に入れ、毎日を笑って生きる。

この腐った柊家の中でも真昼と一緒にいれば、グレンと一緒にいれば、きっと叶う、叶う筈だと自分に言い聞かせていた。

簡単ではない。

とても難しい。

でもきっとどうにかなると信じたかった。

今のまま、生きていけると信じたかった。

自分の想いは散り散りになっても、せめて真昼とグレンは一緒になれると信じたかった。

 

「ねぇグレン。」

「グレン···。」

「······」

「ねぇ、一瀬グレン。」

「聞いてる?」

「うん?」

「あの···私達さ···」

「······」

「大人になったら···その、私達、結婚出来るかな···?」

「真昼とグレンは結婚出来る。私、結婚式で愛を確かめる神父役やるつもりなんだから。」

「未明···。」

「出来るよ、きっと。せめて真昼とグレンは一緒になって欲しいよ。」

「·····。」

「ありがとう、未明。

それで今みたいにさ、3人でずっと一緒に、いられるよね?」

「そうだね真昼、······一緒に、いたいね。」

青い芝生の上。

雲のない、抜けるような空の下。

真昼を真ん中にして3人で手を繋ぐ。

 

「無理だよ。」

グレンが突き放す様に、それでいて泣きそうな声で呟いた。

「どうして?」

真昼の声が震える。

「分かってるだろ?」

「私の···家のせい?」

「柊家の、せいなんだね。」

悔しい、悔しくてたまらない。

「俺は分家で、お前達は本家。しかも真昼は当主候補だ。

未明だって、真昼の双子の妹なんだ。これから当主候補になるかもしれない。

とても釣り合わない。」

「でも、でもそんなの関係···」

「あるよ。」

遮る様にしてグレンは言う。

真昼は黙り込み、ポロポロと涙をこぼす。

未明はなんと言って良いのか分からず、ただ強く真昼の手を握りしめた。

真昼の息遣いが乱れ、未明の手をきつく握り返してくる。

きっと真昼のもう片方の手でも同じことが起こっているのだろう。

 

皆分かっていた。

無理だと分かっていた。

それでもまだ、信じていたかったのだ。

 

「いたぞ!真昼様と未明様だ!」

「また一瀬のところのガキが、お二人を連れ出したのか!」

遠くから声が聞こえた。

これが最後だ。

現場を直接押さえられてしまったら、もう二度とこんな風にグレンに会うことは許されない。

「お迎えだ。」

「私···グレンと離れたくないよ。」

「······。」

「グレンと未明と、3人でいたい。」

「真昼、」

「私···わたし······」

また真昼が涙をこぼして、その真昼が何故かボヤけて見えて、ただ真昼の手を強く握った途端、グレンの小さな体が吹っ飛んだ。

真昼と未明を迎えに来た大人達が、グレンを殴り飛ばしたのだ。

 

「やめてぇえええええ!」

「お願いだから、やめて!お願い···。」

叫んでも叫んでも、目の前でいとも容易く行われる行為は止まらない。

小さなグレンの体は抵抗する余地を与えられず、ぐたりと地面に転がって大人達に殴られ続ける。

ぼんやりと、焦点の合っていない虚ろなグレンの目が真昼と未明の方を見て。

それに何かを返す暇もなく、2人は大人達に腕を引かれる。

「グレン、グレン、ごめんなさい、ごめんね、ああ···ごめんなさい······!どうして?やめて、いや······。ごめんなさい、ごめんなさい!」

「いや、だ、やめて、真昼とグレンを引き離さないで、ごめん真昼ごめんグレン。ごめんなさい···、ごめんなさい······。」

声が枯れる程に泣いても哭いても、それは大人達には届かない。

 

 

 

その晩、グレンと引き離された日の晩、未明は再び白い世界にいた。

座り込む未明の前には、同じ様に座り込む金髪の幼子。

『やあ未明。今何が欲しい?』

「···。」

『正直に言ってごらんよ。僕は何でも、君の望みなら何でも叶えてあげるよ。』

未明を誘う優しい甘い声。

「私は、3人でいたい。真昼とグレンに一緒にいて欲しい。

そこに私がいればいい。」

『謙虚だねぇ。もっと正直に言っていいのにさ。』

幼子の手が未明の頬にそっと触れ、柔く撫でた。

 

『ねえ未明、言ってごらん。何が欲しい?』

「私は、」

白い世界に墨汁が垂れる。

ポタリポタリ、一滴二滴。

 

『ほら、思うがままに言ってみて。』

「私、」

墨汁よりももっと濃い、黒いどろりとした何かが白い世界を侵食していく。

それがどうしようもなく恐ろしいのに、変な恍惚感に上り詰めてしまい待ち望んでいる自分がいる。

 

「欲しい、の。」

『何が?』

「真昼もグレンも、どっちも。

私達が3人でいられる場所が欲しい。柊家が邪魔しない場所が欲しい。

3人で幸せになりたい。笑いたい。

痛い訓練なんかしたくない。

血も死体も、本当は嫌だ。

当主候補の真昼はしてないのに、どうして私だけがする訓練があるの?もう嫌だ。

だから3人で、3人だけでいられる場所が欲しい。

他に何も要らない、他は皆、死んでしまえば良い!」

叫んだ途端ぶわっと首の後ろの毛が逆立って、嫌な汗が流れだす。

未明の視界は黒くなる。

白など欠片も残さずに、真っ黒に染まっていく。

 

『いいよ、いいよぉ未明!元々素質は十分なんだ。

あとは僕を受け入れるだけ。

さ、僕に全てを委ねてよ。何も心配しないで。

だからその血を僕にくれよ、未明!』

金髪の幼子が未明の細い首を掴み、そんな細腕のどこに力があるのか、という強い力をもってして未明の体を捻り上げる。

「あ、あ、ああっ····」

苦しい。苦しくてたまらない。息が出来ない。

 

『痛い、痛いよね。でも大丈夫、もうすぐ終わるから。

さあ、今からその細い首に牙を突き立ててあげるよ。

ああ君の血はとっても美味しいんだろうな。

何せまだ6歳だ。けど幼いくせに強欲だ。

その小さな体に秘められた欲望はきっともう、ああ······たまらない!

ゾクゾクするよ!』

「いた、い···はなし、て···」

バタバタと抵抗する。

本能的に感じる恐怖に突き動かされて、手から逃れようと足掻く。

『もう遅い。』

ニタリと長い金髪の向こうに覗く赤い唇が、いやらしい弧を描いた。

 

『今から君は、僕にその身を捧げるんだ。

その血を捧げるんだ。

そうすれば君はめでたく人間をやめて、強大な力を得るだろう。

誰もついてこれない、神だって殺せるかもしれない力をね。』

「いや、いや、いや······」

怖い。怖い。怖い。

先程まで感じていた恍惚感はとっくに消え失せた。

今あるのは本能的な恐怖。

自分が喰われてしまう、喰われて消えてしまうことに対する恐怖だ。

首をがっしり掴んでギリギリ締め付けている、この金髪の幼子は、いや得体の知れない化け物は、(未明)を食べる気だ!

 

 

「いや、だ、いやぁああああああっ······!」

未明は吼えた。

吼えた。そして吼えた。

何かが自分の体の中で持ち上がる感覚を覚えながらも、その何かが自分から勢いよく出て行ったと認識しながらも、吼えるのをやめなかった。

『っ、は、え···嘘だろ?!

ちょ、は?この鎖どこから、な、なんで。

どうして?!

やめて、待ってよ!あと少しだったのに!

どうして、いやだ!なに、この鎖!

やだぁ、やだよ、痛い、力が抜け······』

 

未明の首から手が離れ、その小さな体はごろりと転がされる。

黒い世界は白い世界に。

全てが漂白されて、元の白さを取り戻していく。

その中心にいたのは、どこからか現れた白の様な金の様な鎖に雁字搦めにされた金髪の化け物だった。

『ど、して。どうして···。』

意味が分からない、その赤い目はそう語っていた。

鎖に拘束され、全身を震わせて、自分の力で立つ力もないらしく、ただ鎖のされるがままになっていた。

 

「わたし、私は、食べられたくない。

だってそしたら、私は消えてしまうから。」

締められた首をさすりながら、未明は金髪の化け物の前によろよろ座り込む。

『っくそ!恐怖を与え過ぎたのが逆効果だった···!

失敗した、失敗したなぁ···。ああ······、くそ。

未明、ねえ未明、君は力が欲しいんだろ?

ならこの鎖を解いてくれよ。』

媚びたように未明の方に頭を突き出してくる。

「···貴方に、名前はあるの?」

『は、名前?』

キョトンと首を傾げる。

その姿だけ見れば、普通の幼子の様で可愛らしい。

 

「そう、貴方の。」

『そんなもの無いよ。

鬼とか化け物とか、そんな風に呼ばれるだけだからね。

ああ昔は神様って呼ばれたこともあったっけ、まあ違うけど。』

「鬼、貴方は鬼なんだ。」

この前人間を遥かに超える力を持つ存在だと習った鬼、それに直面して未明はぶるりと身を震わせた。

『そう、僕は鬼だ。

君の中に宿る、君の欲望を糧にする鬼さ。』

きゃは、と嬌声を上げた。

乱れた金髪を振り乱し、血のように赤い目を光らせるその姿は確かに鬼の様だった。

 

「なら“鬼宿(たまほめ)”。貴方の名前は鬼宿にする。」

『はあ?』

「私に宿る鬼。だから鬼宿。」

『いや、は?なんで?意味が分からないよ。』

赤い目を見開いて、真っ直ぐ見つめてくる未明の目から逃げる様に視線を彷徨わせる。

「貴方が私に宿るなら、私は貴方のご主人様なんだから。

ペットには名前をつけなくちゃ。それがご主人様の役目なんだから。」

『は、はぁ?!』

「よろしくね、タマ。」

『タマ?!僕を犬猫みたいにそんな···この僕を······?!』

ぎゃあぎゃあと騒ぐ鬼───鬼宿を無視して、未明は胸あたりまで伸びた長い髪を弄る。

 

この鬼とやらの手を取れば、抵抗せずに喰われていれば、未明が望む通りに強大な力を手に入れられた。

それは教えられて知っていた。

だがもしそうしていたなら、未明はいなくなっていた。

未明は喰われ、犯され、潰され、殺され、どこかに消えてしまっただろう。

自分がいなくなるのは怖い。

自分が消えるのは怖い。

ならば抑えなければ。

この鬼とやらを自分の支配下に置かなければ。

 

力は欲しい。

だが、鬼に与えられた力は間違っている。

いや正否は分からない。

分からないけれど、どれだけ心惹かれようとも手を出してはいけないのだと本能的に分かってしまった。

1度鬼に喰われかけたからこそ、分かってしまった。

あの感覚は、痛くて苦しくて辛い。

快感は一瞬で、その後はただ自分がズタズタにされていくのを待つだけだ。

そんなのはもう嫌だった。

 

 

鬼宿から視線を外し、未明は真っ白な世界を見上げる。

とても綺麗な世界だった。

 

 

 

 

 

─────────

「ほら夢だった。」

目を開けて真上に広がるのはどこまでも白い世界、ではなく灰色の天井。

ボヤけて見えるのは覚醒したばかりだからだろう。

しかし、寝た気が全くしないのはやはり夢のせいなのだろうか。

夢と現実の狭間で思った通り、あんな過去の夢を見てしまったのは、クラピカの中にグレンを見出したからだろうか。

だからなのだろうか。

 

「ミメイ···起きたのか···?」

隣から聞こえる寝惚けた声。

どうやら起こしてしまったらしい。

「今起きたのよ。でももう1回眠るわ。

まだ夜明け前みたいだし。」

窓の外はまだ暗い。

「そ、うか。」

ふわぁ、と息を吐き出す音の後、聞こえてくるのは安らかな寝息。

 

「···次は夢なんか見ませんように。」

寝る前に手早く切り揃えてやったクラピカの金髪を撫でながら、ミメイは再び目を閉じた。

 

 

 

 




未明(過去回想、夢部分)とミメイ(現実部分)、書き分けたんですけどね。
どこかでミスってないことを祈ります。

主人公は真昼のこともグレンのことも大好きだったのです。
どちらも選べずどちらも捨てれず、2人がくっつけば良いじゃないという結論に達した後、結局はこじらせます。
グニョグニョにこじらせます。
そしてそこには深夜も投入されてさあ大変。


それとシノアちゃん、誕生日おめでとう。


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11:私の偶然、貴方の必然

あけましておめでとうございます。
どうぞ今年も宜しくお願い致します。






「ミメイ、これからどうするんだ。」

一月余りを過ごした小屋の方をチラチラと振り返りながら、隣で嬉しそうにコートをはためかせるミメイにクラピカは問いかけた。

「賭場の主人に紹介状みたいなのを書いてもらったわ。

それを使ってもっと良い条件で雇ってくれる職場を探すの。

クラピカ、貴方もちゃんとコートは着るのよ。」

2人お揃いのポンチョタイプの黒いコート。

ミメイの退職金を使って購入したものである。

「わ、分かっている。」

ちゃんと外に出たのは久しぶりなクラピカは、身を切る様な寒さにくしゃみを漏らしながらコートの襟に顔を埋めた。

 

足が埋まる程に積もった雪の中をサクサク進むミメイと、その1m後ろを歩くクラピカ。

2人とも最低限の防寒をしてはいるものの寒い事に変わりはない。

出来ることならば小屋から出たくはない、こもってしまいたい、それが本心なのだがそうもいかない。

理由は簡単、ミメイが職場を追われたからである。

何故そんなことになったかというと、数日前の事件がそもそものきっかけだ。

 

 

クラピカが噂のクルタ族ではないかと疑ったならず者達は、ミメイがいない隙に小屋に強襲をかけた。

小屋のドアが破られるほんの少し前、式神達の警告により自身の危機に気付いたクラピカは、ならず者達の裏をかいて風呂場の小さい窓から脱出。

狭い小屋でなすがままに捕まるのは避けられたが、林に逃げ込むクラピカにすぐ気付いたならず者達は彼を追う。

その激しい逃亡劇の末にクラピカの目は赤く染まり、ならず者達に彼がクルタ族だということが露見してしまい、目を抉られそうになった丁度その時、ミメイがならず者達を皆殺しにしたことで事件は収束した。

 

金髪の子供がクルタ族であるという噂が真実だと知る人間はミメイの手によって始末された。

依然として噂は流れるだろうが、そんな訳がないと一蹴すれば良いことだ。

元々噂は噂程度で、本気にする馬鹿の方が少ないのだから。

 

だが問題が発生した。

クラピカの当面の安全は保証されたが、どうやらミメイが殺したならず者達はミメイの職場である賭場のお得意様の関係者だったらしい。

襲ってきたのはそちらだ、正当防衛だ、とクラピカの出自の事は誤魔化しながらミメイは弁明した。

しかし、すったもんだの末にミメイは賭場の用心棒という職を失うことになる。

賭場の主人は腕の良いミメイを手放したくなかった様だが、お得意様にゴネられては仕方ない。

今までの働き分だという退職金を奮発されては、申し訳なさそうに言われては、ミメイとしても辞めるしかなかった。

食と住が保証された良い職場だったのだが。

 

 

 

そんなこんなで、職場提供の小屋を今朝出ることになった2人だったのだ。

 

いくら賭場の主人に紹介状を貰ったとはいえ、退職金があるとはいえ、次の住処と職を見つけるのは先になる。

それを見越したミメイはクラピカとの共同生活も潮時かと考えたのだが、今クラピカを1人にするのは危険極まりないと思い直した。

噂に踊らせる馬鹿共の中に1人いるよりも、安定しないとはいえミメイと共にいた方がマシだろう。

 

 

ミメイは最早クラピカを見捨てることは出来ない。

妹のシノアを見捨てられなかった様に、グレンの手を振り払いきれなかった様に。

これに何と名前をつければ良いのかは考えない。

ミメイに新たな世界を見せてくれたクロロや、“父親”になろうとしてくれた飯屋のオヤジと同じ様に、クラピカが特別な存在になりかけているのは分かっていたとしても。

だから後々決断を迫られるというのも、初めから嫌という程知っている。

それでも今は、今だけは、このままでいたいと思うのだ。

 

 

 

「取り敢えず大きな街に行ってみようかしら。」

元職場である賭場を通り抜け、人の足で雪が踏み固められた街道へ出る。

「大都市か。···。」

ミメイの隣に並んだクラピカは人の行き交う街道をじっと見つめる。

「人が多いのが心配?」

「ああ。噂を知る人間も多いだろうから。」

金髪の子供がクルタ族の生き残りだという噂は、恐らく巨大マフィアが根城にしている大都市から流れてきたものだ。

クラピカはその大都市に足を踏み入れるのを警戒している。

 

「人が多い分、その中に紛れるのは容易いわ。

それに貴方、髪切られたから男の子っぽいもの。

金髪の女の子が生き残りだっていう噂とは違うから、誤魔化しやすいんじゃない?」

胸あたりまで伸びていた美しい金髪は、誘拐未遂事件の際にならず者達によって肩上まで切られてしまった。

それをミメイがせっせと整えて、クラピカの髪は今やスッキリとしたショートカットである。

年齢以下の細身な体の為性別不明感は拭いきれないが、男だと思ってみれば13、4歳程の少年だと判断出来る外見になっていた。

クラピカとしては村を出た時と同じ長さの髪になったお陰で悪い気分ではないのだが、他人の長い髪を弄るのが好きなミメイは少し不満らしい。

 

「···そうだな。」

この機会に自分が男だと申告すべきか否か迷ったクラピカだが、どうにも言い出しにくい。

妹と重ねられて可愛がられることに不快感を抱いていたのは初めだけで、ふとした時にミメイが見せる慈愛の目はくすぐったくも心地好い。

しかしそれはクラピカが妹に似通った部分を持つ妹だからで。

実は男だと申告した場合、ミメイがどんな反応をするのかが少し恐ろしい。

そもそも勝手に女だと決めつけたのはミメイの方であり、クラピカに責はない。

性別詐称を積極的に行った訳ではない。

だが人の良いクラピカは、年頃の女(らしくはないが)であるミメイに対し罪悪感を感じているのだった。

 

 

「クラピカ?」

俯いていたのに気付いたのか、クラピカの短い髪に指を通しながらミメイが首を傾げた。

「いや、大丈夫だ。」

なんでもないのだと首を横に振り、性別申告は取り敢えず後回しにする。

今は兎に角、次の住処を探さなければいけないのだから。

 

 

 

「それじゃあ行きましょうか。

目指すはマフィア蔓延る大都市。好条件な職場が私を待ってるわ。」

腰に下げた刀をポンと叩き、ミメイは広々とした街道を歩き出す。

その後を追いかけて、今度は隣にぴったりとくっついて足を動かすクラピカ。

背中に括りつけた木刀の重みを感じながら歩いていれば、ふとミメイの刀が目に入る。

 

数日前はこの刀を抜き放って一度に6人を斬り殺していたが、ミメイの強さを目の当たりにしたのはクラピカにとってあれが初めてであった。

女だてらに賭場の用心棒をしているのだから、それなりに強いのだろうと予想はしていた。

だがあれほどまでとは。

返り血1つ浴びずに、顔色1つ変えずに、ならず者達を一刀のもとに斬り捨てたミメイに僅かな恐怖を感じながらも、それ以上に抱いたのは尊敬と憧れ。

クラピカも年齢相応の少年である。

自分以上の強さを、力を見せつけられて何も感じない筈がない。

力無ければ成し遂げられぬ復讐という悲願を持つのならば尚更である。

 

「ミメイ、お前はその刀を使いこなしていた様だが、その技はどこで身につけたのだ。」

「技って程のものを教えられた覚えはないわ。

家の方針で一通りの武器は扱える様な訓練は受けたけど、それだけ。

何派とか何流とか、そういうものは一切無しよ。」

一体全体どんな家だ、という疑問は胸にしまう。

クラピカをならず者達から守る為に盾になって消えた式神達から、ミメイの生まれた家が特殊だということは聞いていた為、詳しく踏み込むのは後回しである。

 

「独学に近いのか。」

「基本のきは仕込まれたけど、その後は専ら実戦よ。

殺さなければ殺される。

なら殺す為に、この武器を使いこなさなきゃいけない。

···そうね、人を殺す為だけに編み出されたミメイ流って所かしら。」

格好つけてる訳じゃないわよ、と苦笑を漏らす。

 

「そうなのか。

···ミメイ、私に稽古をつけてくれないだろうか。」

「話聞いてた?私、まともな稽古らしきものを受けてないのよ。

そんな人間が人にものを教えられると思う?」

やれやれとミメイが首を振るが、クラピカは尚も食い下がる。

「殺す為の力なのだろう。それは私にうってつけだ。

幻影旅団は強い。

彼等全てを殺せる程の力を持たなければ、私の復讐は達成出来ない。

私は力が欲しい。力が、欲しいのだ。」

 

ならず者達から逃げることしか出来ず、抵抗もまともに出来ず、地面に転がされるしかなかった自分が嫌だった。

自分を狙っての行為だったのだから、自分が始末しなければならなかったのに、ミメイにやらせてしまった自分が嫌だった。

弱い自分が嫌だった。

悔しくて情けなくて、嫌だった。

こんな弱い自分が復讐を成し遂げられる筈もない。

だからクラピカは力が欲しいのだ。

自分を狙ってきた愚か者に対処出来る力が欲しい。

ミメイに役目を押し付けなくて済む力が欲しい。

そして何より、復讐を達成する為の力が欲しい。

 

 

「···クラピカ。」

ミメイを睨む様にして見上げていれば、すっと白い手が両瞼に当てられる。

溜め息混じりに名前を呼ばれたことから、また感情の昂りにより自分の目が赤くなったのだとクラピカは悟った。

そのままミメイに手を掴まれて道端に連れて行かれ、街道に面していない方に顔を向けさせられる。

「少しは気を付けて。」

クラピカの体を人の行き交う街道からさりげなく庇いながら、依然として瞼の上に掌を重ねるミメイ。

「すまない。」

人通りの多い所で緋の目を見せるなんて、自殺行為そのものだと痛い程分かっている。

 

「感情が昂るとすぐに赤くなるのは危ないわね。」

ミメイが責める口調ではないことが、余計にクラピカの気持ちを沈ませる。

お陰で感情の昂りは収まって、頭に上っていた血もすっと冷えていく。

「···すまない。」

そろそろ良いだろうとクラピカから手を離したミメイに頭を下げる。

「感情が激しいのは悪いことじゃないわ。

感情は欲望を、欲望は目的の達成を導くもの。

感情が激しければ欲望も強くなる。

強い欲望は強い力を与える。

強い力があれば、どんな願いだって叶えられるでしょ?」

 

 

励ます様に口にした言葉だったが、クラピカにはミメイが自身に言い聞かせている様にも見えた。

そして言い聞かせながらも、その言葉を拒否する様に瞳を揺らしているのも見てとれた。

いつもと変わらぬ柔い微笑を浮かべたままだったが、目は口ほどに物を言う。

 

まだ短い付き合いだが、ミメイの感情が表面に現れている微笑だけではないということにクラピカは気付いている。

貼り付けた様な慇懃無礼な笑み、裏表を感じさせない無邪気な笑み、どうにも胡散臭い笑み、完璧な美しさを誇る笑み、儚さを抱かせる透明な笑み······様々な種類の笑みを、微笑を使い分けている。

その笑みが本心からなのか、作り出されたものなのか、それを完全に見抜くことは出来ないが、どこまでも美しい笑顔のみがミメイの感情表現ではない。

よくよく彼女を観察してみればそれらに気付くことが出来た。

 

何故そこまでして自分の感情を隠そうとするのかは知らない。

いやそもそも隠そうとしているのではなく、何か他の意図があるのかもしれない。

だがクラピカは、笑顔の向こう側に僅かに見えるミメイの感情を見逃さない。見逃したくはないと思った。

口では、顔では、笑顔では、“そう”言っていたとしても、瞳の揺れ方や些細な仕草などから導き出された“そう”ではない彼女の本心を汲み取りたいと思った。

その本心を汲み取って、本当はこうしたいのだろうと言ってやった瞬間にミメイが浮かべる驚いた色を。

その後彼女が浮かべる、花が咲く様な酷く優しい笑顔を。

それらを見たいと思った。

 

 

「自分にも言い聞かせている様に聞こえるが。」

だからクラピカはまた、ミメイの隠された感情を暴こうと言葉の矢を放つ。

「気のせいじゃないかしら。

ねえクラピカ、貴方が本当に心から願うのは復讐?」

一瞬虚をつかれた顔をしたのを誤魔化す様に、ミメイは歩を進めながらクラピカに問いをぶつける。

「ああ。同族を辱めた幻影旅団に復讐すること。

それが私の願いであり、目的であり、意味だ。」

再び目が赤くならないよう、細心の注意を払って感情を抑制しながら答えた。

「そう。それだけ?本当にそれだけで良いの?」

「どういう意味だ?」

大通りに戻り、2人並んで大都市への街道を歩く。

 

「ううん。貴方がそれで良いなら私には関係無いもの。

勝手にすれば良いわ。

ただ、それだけを願っていたつもりでも、他の願いを抱いてしまうのが人間なの。

愚かで可愛い人間なのよ。」

「私が成すべきは復讐のみ。

それ以外は無い。

その為ならば死も怖くはない。

1番恐ろしいのはこの怒りが風化してしまうこと、それだけだ。」

爪が掌に深く食い込む程強く拳を握りしめる。

ミメイが何もしないことから恐らく緋の目になってはいないのだろう。

そう判断しながらもクラピカは昂りを抑える為に息を深く吸い込んで、それからゆっくりと吐き出した。

 

「禁欲的ね。それでいてドロドロの欲望が渦巻いてる。

あーあ、これだから目が離せないのよ。

グレンみたいに愚かで、可愛くて、馬鹿で、人間らしい。」

紫がかった灰の髪を揺らして、雪景色の中で保護色の様になりながらも嫌に目を引くその髪を揺らして、ミメイは小さく笑った。

「前々から思っていたのだが、グレンとは誰だ。

何度か耳にした覚えがある。」

「あは、言ってなかったっけ。

双子の姉の恋人よ。

ロミオとジュリエットの様な悲劇そのものだったわ、あの2人の恋は。

まあ、たとえ悲劇であったとしても恋の物語だった。

素敵とは言い難くても確かに恋の物語だった。

私はそれを、見ていたの。」

今にも雪が落ちてきそうな灰色の空を見上げて、ミメイは白い息を吐き出した。

その横顔はまっさらで、感情の一欠片さえも浮かんではいない。

とてもわざとらしく。

 

 

「ただ見ていたわ。

2人を結びつけるキューピットにもなりきれず、何にもなりきれず、ただの脇役として見ていた。

優柔不断で中途半端で出来損ないの私にはそれがお似合いだった。」

「ミメイは出来損ないなどではない。」

あんな強さを誇るお前がそれを言うか、と抗議の声を上げるクラピカ。

「あはは、ありがとう。

でも私の故郷では、精々私なんて人間にしては強いって程度だったわ。

人間の中では頂点に位置する強さを持っていたとしても、それじゃあ足りなかったの。」

 

それはまるで自分は人間で、自分以上の強者は人間ではないかの様だ。

その言葉を飲み込んで、クラピカは代わりの質問を口にする。

「それで、私に稽古をつけてくれるのか?」

「あら、それまだ続いてたの?

改めて言うけど嫌よ。

私、人にものなんか教えられないわ。」

素っ気なく先程と同じことを繰り返す。

「どうしても駄目か。」

「駄目。でもそうね、貴方がもう少し強くなったら良いわよ。」

「どの位だ?」

「貴方が私に、」

キョトンと首を傾げるクラピカの額にミメイは手を伸ばす。

目を狙われているのではと反射的に身構えるが、そんな筈はあるまいと力を抜いたのと同時に、クラピカの額にペチンと間抜けな音が響いた。

 

「何を、」

間抜けな音にしては痛みがジンジンと額から頭全体に伝わる。

その患部を擦りながら恨めしげにミメイを睨めば、してやったりと緩く口角を上げる。

「デコピン出来たらね。」

たった今クラピカの額を弾いた人差し指で、自分の額をトントンと叩くミメイ。

「頑張って私の額を狙いなさい。」

「な、」

馬鹿にしているのか、と声を張り上げようとする前にミメイが被せる。

「馬鹿にしてる訳じゃないわ。

デコピンみたいな簡単なことでも今の貴方には出来やしないもの。

弱い貴方には、ね。

ほら、もう1発。」

「な···ミメイ···!」

怒りで顔を赤らめるクラピカに再びデコピンをかます。

馬鹿にされたことに更に怒りを燃やすクラピカから逃げる様に、ミメイは軽やかに駆け出した。

 

「待て!」

背中に括りつけた木刀をカラカラと揺らしながらクラピカはミメイの後を追う。

「嫌よ。」

踏み固められているとはいえ走るには適さない雪道を、優雅に踊る様に跳ねるミメイ。

「取り敢えず額を出せ、馬鹿者!」

「馬鹿は貴方でしょ。せめて闇討ちぐらいしたら?

正面から向かってくるなんて余りにお、ば、か、さ、ん。」

余裕そうに振り向いて、投げキッスを送ってくることが更にクラピカの怒りを煽る。

まあミメイはそれを狙ってやっているのだろうが。

 

「何だと···?!」

「あははは。クラピカ顔こわーい。」

「誰のせいだと思っている?!」

「てへぺろ。」

「可愛くないぞ。」

「やだ、ツッコミは冷静なのね。」

 

街道を行く人々───とはいってもまばらだ───の間をするりと駆け抜けながら笑うミメイ。

その後を必死の形相で追い掛けるクラピカ。

似てはいないがこの2人は姉弟か何かだろうか、と旅人達の目は生暖かい。

 

彼等に見守られながら、2人は街道を走り行く。

そのせいかクラピカが思っていたよりずっと早く、ミメイにとっては予想通りの早さで、目的地である大都市に到着してしまうのだった。

 

 

 

 

─────────

「あは、人がゴミの様だわ。」

高台から大都市を見下ろして、眼下で蠢く人の群れを笑う。

それから錆びついた手すりに頬杖をついて、風で捲れ上がるスカートも気にせずに景色を見渡す。

「それを言いたいが為にこの高台に登ったのか。」

息を切らしたクラピカが坂を登りきってやってきた。

それとなくミメイの捲れたスカートからは視線を外して、彼女の後ろによろよろと立つ。

そちらを振り向かずに長い髪を風に遊ばせながら、中天を過ぎた日の光に照らされるビルにミメイは目を細めた。

 

「ほら、これが都会よ。

クラピカ貴方、こういうのを見るのも初めてでしょう。

1度離れた所から見ておくのも良いかと思って。」

街道をそのまま下れば目的地に足を踏み入れられるというのに、態々登り坂を駆け上がってこの高台までやってきたミメイ。

彼女の意図が分かったクラピカは、今まで走りっぱなしだったせいで疲労しきった体を引き摺る様にして手すりに手をついた。

 

「とても壮大だな。」

数多のビルが立ち並ぶ大都会。

今まで見てきた街とは比べ物にならない程の圧迫感を感じる。

「気を抜いちゃ駄目よ。

今までとは人間の数が桁違いでしょうから。

貴方の常識をひっくり返す様なことが幾つも起こるかもしれないわ。」

「ああ···肝に銘じておく。

······隙あり、だ···!」

黄昏ているミメイの額目掛けて指を伸ばすが、容易くその手は掴まれてしまう。

「甘いわよ。

そもそもこの程度のランニングで息をきらす様だとまだまだね。」

「くっ···。」

ミメイに片手を掴まれたまま唇を噛む。

 

「強くなりたいなら、力が欲しいなら、まずは基礎体力をつけなさい。

それから筋肉。

女の子でも頑張れば筋肉はつくわよ。

しなやかで上質な筋肉がね。」

「···ああ。」

そうだった、誤解されたままだった。

思い出した途端クラピカの頭が痛くなる。

 

「なぁに、その気の抜けた返事は。

女の子だってゴリラになれるのよ。

復讐したいんだったら、ゴリラになりたくないとか筋肉は可愛くないとか、そんな文句は言ってられないわ。

まあ、貴方はそんな馬鹿みたいなこと言うタイプじゃないけどね。」

「···そうだな。」

今は否定する元気も湧かない。

何がこの程度のランニングだ。

10km、いや15kmは走ったぞ。

それを息一つきらさずに走りきるとは、恐ろしい奴だ。

 

今目の前で穏やかに笑うミメイという女は底が知れないと改めて思ったクラピカであった。

 

 

「さ、行きましょう。

取り敢えず幾つか適当に賭場をあたろうかしら。」

よいしょ、と手すりから勢いよく離れて坂を下る。

「殴り込みはやめておけ。」

「そんなことしないわよ、失礼ね。」

お揃いの黒いコートをはためかせて、2人は並んで大都会へと足を踏み入れた。

 

 

 




早く原作に突っ込みたいのに何故だろう、まだ3年前だ。
蛞蝓並の筆の遅さのせいですな。




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12:空は回り、星は回り、そして反転す

お待たせしました。
今度こそ、今度こそ、その時がやって来たのです。

共同生活を何ヶ月もしておいて、今の今まで気付かないうっかり()系主人公なんです(´・ω・`)






「覚悟しろ、ミメイ!」

今朝もクラピカは木刀を手に、玄関で服装を整えるミメイに飛びかかる。

鏡を見たまま、セーラー服のリボンを結び直しているまま、横から突っ込んでくる木刀の斬撃を避ける。

そのままミメイは木刀を掴んで、クラピカの体ごと木刀を軽く放り投げる。

完全に飛ばされないまでもミメイの力により体のバランスを崩しかけるが、どうにか持ちこたえて床に着地する。

それから木刀を構え直した所で、クラピカはふぅと一息ついた。

 

「どうだ?」

前に垂れ下がってきた前髪を払いながら、既に支度を終えたミメイに問いかけた。

「体幹トレーニングが足りないわ。

空中であっても、無理な姿勢であっても、自分の体は自分で支えられるくらいになりなさい。

まあ、木刀に引き摺られて完全に飛ばされなかったこと、木刀を離さなかったことは鍛錬の成果でしょうね。

でもまだまだよ。

木刀を掴まれたとしても、逆に掴んだ相手を振り回してやるくらいの力をつけなさい。」

「ああ。」

木刀をシュッと振り、クラピカはミメイの助言を脳内で反復する。

 

「それと貴方、また背伸びたんじゃない?」

刀を腰に差し直し、ミメイは玄関のドアを開けながらクラピカの方を振り返る。

「そうかもしれない。」

「背が高いのは色々と有利よ。良かったわね。」

ミメイの身長は162と主張する実際160だが、クラピカはもうすぐそれに届きそうである。

数ヶ月前───ミメイとクラピカが初めて会った頃───は150少し程度だったが、ニョキニョキと伸びている。

クラピカはまだ15歳になったばかり。

もうすぐ18歳になるミメイとは違って成長期が来るのだ。

 

「それじゃあ今日も気をつけてね。」

「それはミメイもだ。

相変わらず賭場は荒れているんだろう。」

「それなりにね。

そうだクラピカ、ナンパしてきた馬鹿はちゃんとカツアゲするのよ。」

「そんな卑劣ことはしない。」

「もう、潔癖なんだから。」

 

軽口を叩き合い、ミメイはドアの敷居を跨いで出て行く。

それを見送った後、クラピカは家具の一切を置いていない広い居間で木刀を振る。

居間の隣にはもう1つ小さな部屋があるが、そちらが寝食を担う部屋になっている。

むしろその部屋を居間と呼ぶ方が正しいのかもしれない。

広い居間は本来の用途で使われることなく、専らクラピカの鍛錬場となっているのだから。

 

 

 

ミメイとクラピカがこの大都会に来たのは約数ヶ月前。

来てすぐはホテル暮らしも多かったが、マフィア主催の賭け試合でミメイが見事優勝を勝ち取ったお陰で、マンションの一室を購入出来たのだった。

そして、その賭け試合を見ていたそれなりに大きいマフィアの幹部に声をかけられたミメイは、この都市1番の賭場での用心棒の職を与えられた。

当初は女と侮られることも多かった様だが、そんなものは全て腕1本で黙らせていた。

 

ミメイには敵わないと判断した愚か者達は、次にミメイが連れているクラピカに目をつけた。

鬼の居ぬ間にとミメイの目が届かない時を狙われて、クラピカ1人では対処しきれず、結局すっ飛んで来たミメイが刀を抜くなんてことが何度もあった。

その状態にやきもきしていたクラピカは再度ミメイに教えを乞うた。

自分なりに基本的な鍛錬を積んではいるがやはり足りない。

身体作りは上手くいっているがやはり実戦が必要なのだ。

 

しかし彼女は笑いながら「私にデコピン出来たらね」と返すだけで。

何度も何度も半笑いのミメイにおちょくられ、とうとう堪忍袋の緒が切れたクラピカは木刀を手にミメイに斬りかかった。

デコピン程度では足りない。

そんな可愛らしいもので済ませてやるものか、と本気で挑んだのだ。

だがクラピカが疲労困憊になるまで、ミメイはクラピカの攻撃を易々と避け続け、結局一太刀も浴びせることは叶わなかった。

 

 

それからである。

クラピカが隙あらばミメイに攻撃を仕掛ける様になったのは。

必要最低限のプライベートな時間以外はいつでもミメイを観察し、少しでも隙を見つけたならば逃がさない。

そんなクラピカを鬱陶しく思いはしないのか、ミメイは薄い笑みを浮かべて軽く攻撃をいなすのみ。

その態度が悔しくて悔しくてたまらなかったのだが、ある時ふいにミメイが呟いた。

 

「相手に向かって木刀を振る時に警戒を緩めるのは馬鹿のすることよ。

どんな時でもどんな事態にでも対処出来る様にしなさい。

そして周りにもっと気を配ること。

貴方観察眼が鋭いんだから、コツを掴めばすぐに出来る様になるわ。」

 

ちゃんとした助言らしきものを初めてしたのだ。

その後、言うつもり無かったのに、とミメイがボヤいていたことから、ついつい口を出したということ、そしてこれからもまともな稽古をつけてくれる気は更々ないということもクラピカは悟った。

しかしそれでも構わない。

一方的にクラピカが攻撃を仕掛け、それにミメイが対処してから適当な助言を下す。

それだけで自身の力が着実に伸びているということをクラピカは感じられたからである。

具体的にはミメイ絡みの因縁をクラピカにつけてくる馬鹿を、1人で撃退出来る様になった。

動きの速さといい、察知力といい、腕力といい、全てが規格外なミメイを毎日相手にしていれば、ナイフや銃だけに頼りっぱなしの馬鹿程度クラピカにも対処可能になるのは当たり前と言えよう。

 

だが、ミメイの用心棒としての容赦ない所業がこの都市中に広まろうとも、その彼女を相手にしているが故に急成長したクラピカがゴロツキを倒そうとも、まだ因縁をつけてくる阿呆はいるのだ。

そういう輩との争いが回避しきれないと判断した場合、クラピカは良い腕試しと考えて戦闘に臨んでいる。

ミメイに助言を貰う様になってからは今の所負け無しである。

 

ミメイは自分に絡んできた向こう見ずの馬鹿から時折カツアゲしているらしい。

追い打ちをかけるのはやめてやれ、とたしなめてはみたが言う事を聞く筈がない。

寧ろクラピカにもカツアゲを勧めている。

 

 

 

まあそんなこんなで、大都会での暮らしは概ね上手くいっていた。

ミメイは用心棒業とその美しい容姿故についたパトロン(マフィアのお偉方らしい)からのお小遣いで荒稼ぎし、クラピカは鍛錬と家事を繰り返しながら、単発の物探しや買い物代理業によって細々自分の財産を貯めている。

ミメイが予想した通り、初めはそれまでのクラピカの常識をひっくり返す様なことが幾つも起こり戸惑ったが、今はもう慣れた。

数少ない同族達とひっそり暮らしていた頃がふと思い起こされて、故郷への郷愁を抱くが、それは復讐という悲願の火を燃え上がらせる糧となる。

 

心配していたよりはクルタ族の生き残りに関する噂は広まっておらず、あくまで都市伝説の様なものでしかなかった。

お陰でクラピカが生き残りではないかと疑われ、その目を狙われるという事件は発生していない。

ミメイがそれとなく“クルタ族の生き残りは××××”という適当な特徴の偽の噂を流して、情報を撹乱しているお陰でもあるのだろうが。

 

今のクラピカは、まだ細身ではあるが鍛錬の成果で段々と体つきがしっかりしてきている。

また食事と睡眠を十分に取っているからか、夜中に膝が痛くなる程勢いよく背が伸びている。

間違っても“小柄な女の子”には当てはまらない容姿である。

どう見ても、男の子っぽい女の子というより、中性的な男の子である。

 

しかし未だにミメイは、クラピカが女の子だと信じて疑わない。

見れば気付く、せめて疑問には思うだろう、いや思え、とクラピカは半ばやけくそだが、残念なことにミメイは気付く気配が無い。

どうにも出会った当初の華奢で弱々しいイメージを、クラピカから払拭しきれないらしい。

伸ばさなくなったクラピカの髪を見て、時折「女の子なんだから長くても良いじゃない」と漏らしていることからも分かる。

クラピカが本来の性別らしく振る舞うのも、“生き残りは女の子”という噂を欺く為なのだと思っている節がある。

というよりそうだ。

だから余計に質が悪い。

人目がある場所ではクラピカをちゃんと男の子扱いするのだが、2人になった途端女の子扱いをしてくる。

私は男だぞと抵抗したとしても、生返事をするばかりで、その上「もう男の子の振りしなくても良いのよ。まあそんな所も可愛いけど。」と笑いながら返してくる。

 

この事態をどうすれば良いのか最早クラピカには分からない。

ミメイの目の前で裸にでもなれば良いのだろうか、いやしかしそれは問題だらけだ。

ああ、もうどうすれば良いのか。

相変わらずミメイには一太刀どころかデコピンの1つも浴びせられていない。

クラピカがデコピンするのを失敗する度に、小さな女の子を慰める様に励ますのが気に入らない。

それでいてその後、まともな助言をすることがあるのも気に入らない。

 

私は男だ、小さい女の子扱いされる謂れはないのだ、馬鹿にするな、と苛立ちながら、クラピカは必死に木刀を振る。

目の前にニヤニヤ笑いを浮かべたミメイがいるとイメージして、怒りをぶつける様に木刀を振り続ける。

 

柄の部分につけた紐で結びつけた2本の木刀は、1つにまとめて1本の太い木刀にすることも、二刀流にすることも、ヌンチャクの様にすることも出来る為変幻自在である。

その特異性を活かして自分の戦闘スタイルに取り入れなさい、とのミメイの助言を反復しながら、無茶苦茶な避け方をするクラピカのイメージ上のミメイに木刀を向ける。

「次こそは···!」

そうやって強い意志を胸に抱き、試行錯誤を重ねて少しずつ強くなるクラピカであった。

 

 

 

 

──────────

クラピカが鍛錬に勤しんでいる丁度その時ミメイはといえば、真っ昼間から賭場に入り浸った末にボロ負けして暴れだした馬鹿を、刀も抜かずに蹴りだけで路地裏に転がしていた。

「はい、残念。

私に勝ちたいなら取り敢えず人間をやめて出直したら?」

「く、くそぉ······。」

「それと賭け事は程々にね。

まあ、貴方みたいなのがいるからマフィアが儲けてるんだろうけど。」

懐もすっからかんな上に鳩尾にミメイの重い蹴りを入れられた哀れな男は、力尽きたのかばたりと倒れ伏した。

 

それに背を向けて、ミメイは足早に持ち場へ戻る。

途中命知らずがミメイの容姿に惹かれてナンパしてきたが、丁重にお断りし、それでも尚しつこかった為説得(物理)するなんてこともあったが、いつものことである。

ミメイの力を嫌という程知っているマフィア経営の賭場に入り浸るその筋者達は、またミメイがやってらぁとゲラゲラ笑っていた。

 

 

今日も賑わう賭場内の持ち場に戻り、煌びやかな格好をした男女の中で1人壁の花となるミメイ。

段々と暖かくなってきた為黒いコートは羽織らずに、第一渋谷高校のセーラー服のみを身につけている。

学生服ということもあり余り目立たないタイプの簡素な服だ。

しかし、短いスカートからすらりと伸びた足とその大部分を覆う黒いニーハイ、そして陶磁器の様な滑らかそうな白さを誇る絶対領域のせいで嫌でも男達の下卑た視線を引き寄せてしまう。

中々お目にかかれない髪色や、恐ろしく整いながらも甘さと儚さを感じさせる顔立ちも、男だけでなく女の嫉妬と羨望混じりの視線を集めるのに一役買っている。

 

ミメイはそれらに気付きながらも、さもどうでも良さそうに壁にもたれかかって突っ立っている。

違法賭博紛いのことをしているマフィア経営の賭場に、セーラー服とはね、R18も何もあったものじゃないわ、と少しズレたことを考えていた。

無表情がベースだが、少しシナモンの味がしそうな笑顔で。

 

 

そんなミメイに声をかけようとする男が1人。

彼がミメイに近付けば、彼女に不躾な目線を送っていた輩がそれとなく離れていく。

それもその筈だ。

男はこの裏社会ではやんごとなきお方なのだから。

「ミメイ。」

一目見て質が良いと分かる上等なスーツをパリッと着こなし、髪を色っぽく後ろに撫でつけた中年手前の男が、ミメイに親しげに手を上げる。

 

「あら、十老頭のお1人ともあろう方が私なんかに構っている暇があるのかしら。」

スカートのポケットからライターを取り出し、隣でミメイと同じ様に壁にもたれ掛かる男にそれを差し出す。

「君は気が利くな。親父から引き継いだ部下とは大違いだよ。」

葉巻を胸ポケットから抜き取り、それをミメイが点けた火に押し当てて旨そうに一服する。

 

「亡くなったお父上に仕えていた部下と上手くいってないのは相変わらず?」

「ああ。(ファミリー)のボス、並びに十老頭という役の跡を継いで、もうすぐ3年だってのに。

偉大な親父を持つと苦労する。

ま、俺が親父の可愛がっていた弟を殺したせいだがな。」

煙を燻らしながら、ゆるりと口角を上げる。

その様はやはり巨大マフィアのボスらしいとミメイは思う。

 

十老頭の1人であり、この大陸全体を勢力範囲内にしている巨大マフィアのボス。

彼とはこの賭場で知り合った。

ミメイを用心棒にスカウトしたマフィアは彼の直系だったらしく、よくここに顔を出しており、新しい用心棒に興味を持った彼がポーカーにミメイを誘ったのをきっかけに、それからよく話す様になった。

女だてらに用心棒業を易々とこなし、ポーカーでは文句無しの勝利を修めたことを気に入られたらしい。

 

「あは、巨大組織に跡目争いは必需品よね。

柊家(うち)も兄弟で骨肉の争いを繰り広げてたわ。

しかも兄弟皆、大体母親が違うから質が悪いのよね。

種は同じでも畑が違うと、少しは馴れ合ってやろうっていう余裕が生まれないのよ。

兄弟意識も、勿論家族意識も薄いし。」

ミメイが(暴力団的な)柊家のお嬢様であり、色々と苦労しているボスの話に付き合えたのも気に入られた一因だろう。

「はは、種も畑も同じなのはそれはそれで面倒だぞ。

なまじ血が近くて似てるせいで、同族嫌悪が激しいからな。」

「ふぅん。」

血は水よりも濃いのね、と他人事の様に呟いた。

 

 

「さてミメイ、そろそろ(うち)に来ないか。」

ここからが本題だ、とミメイを見下ろす。

「またそれ?何度誘われてもお断りよ。

私は誰かの下につく気はないわ。」

「俺は金払いが良いことで有名なんだがな。

俺の側近になれ。不自由はさせない。」

「いやよ。貴方の妾なんて真っ平ごめんだわ。」

マフィアのボスらしく氷の様に冷たい視線を向けてくる。

組を率いるボスとしてミメイの腕が欲しいのだろう。

が、その中に熱い劣情の色が潜んでいることをミメイは見抜いている。

人間の欲望が大好物な鬼を心に飼っているのだ。

鬼宿に教えられずとも、どれだけ隠されようとも、ミメイは敏感に感じ取る。

 

「麗しのミメイ様は本妻の座をお望みか?」

欲深いなと笑う男を、欲深いのはどっちよと半眼で睨む。

「冗談でしょ。

兎に角、私は貴方の部下になる気はないわ。勿論妾にもね。」

「それは残念だ。

まあ良い。身持ちの固いお姫様は気長に口説くことにしよう。」

「尻軽じゃなくてごめんあそばせ。」

慇懃無礼に返しながら交差にしていた足を組み直す。

 

「なら次だ。お姫様はポーカーはお好きかな?」

ミメイに向かって優雅に頭を下げてから、拳銃だこの目立つ無骨な手を恭しく差し出してくる。

「好きよ。稼げるもの。」

たまには男の遊戯につきあってやろうと、クスクス笑いながら彼の手に自分の手を重ねた。

「いやはや、お姫様ならそう言うと思ったよ。

負け無しのミメイ姫なら。

ああそうだ、今日俺に負けたら俺の言う事を1つ聞いてもらおう。」

慣れた手つきでミメイを賭場の中央にエスコートする。

「貴方の部下や妾になるっていうお願い以外なら構わないわよ。

出血大サービスで暗殺も引き受けてあげる。」

悪戯っぽい砂糖混じりの笑みを浮かべ、ミメイは自分の腰にさりげなく回ってくる男の手からするりと逃れた。

 

「ははは、久し振りに燃えてきたな。」

避けるなよ、と目は言っているが、それを大人しく聞き入れるミメイではないのだ。

「あは、それは重畳だわ。」

男が恭しく引いた椅子にさっさと座り、長い足を官能的に組み合わせる。

ディーラーが用意する白と黒と赤のみで彩られるトランプに視線を向けて、ポーカーにうってつけの胡散臭くも美しい“ポーカーフェイス”を貼り付ける。

 

 

さあ、遊戯(化かし合い)を始めよう。

 

 

 

 

 

─────────

1時間後、テーブルに恨みがましく突っ伏すミメイの姿があった。

「ハートのストレートフラッシュの何が不満なのよ。

良いじゃないの、真っ赤で。」

たった今、ミメイの負けが決まった役───Kから9のハートのストレートフラッシュ───をなじる。

やけに切れ味の良いトランプカードをディーラー側に押し退けて、ギリギリと扇情的な赤さの唇を噛む。

 

「残念だったな。」

ミメイの隣で、先程ミメイを負かしたトランプカードを大袈裟にひけらかす巨大マフィアのボス。

その手にあるのはAから10のスペードのカード、つまり俗に言うロイヤルストレートフラッシュの役である。

ロイヤルストレートフラッシュだ、とざわめく観客に色っぽいウインクを飛ばしながら、ミメイの肩を優しく叩く。

 

「絶対に勝ったと思ったのに。まさか貴方が、」

「ロイヤルストレートフラッシュだとは思わなかった?」

愉しそうに笑い、新しい葉巻に火を点ける。

「···イカサマしてる様子も無かったから。」

旨そうに勝負の後の一服をする男を、テーブルに頬をつけたままジト目で見上げる。

「俺の日頃の行いがカードを引き寄せたのさ。」

 

格好良く言っていたとしてもミメイは知っている。

その言葉にディーラーが苦笑したのを。

勝負相手にもディーラーにも気を配り注意深く観察していたつもりだったのだが、ミメイには気付けなくともディーラーには分かるイカサマがあったのだろう。

いくらミメイが人間の欲望を読み取るのが上手いとはいえ、この道で食ってきたその筋の人間の本気にはやはり敵わない。

「うわー、わざとらしーい。」

ぶつくさボヤいてはいるもののディーラーにもポンと優しく肩を叩かれ、イカサマに気付けなかったのが敗因ね、と自分の甘さを反省するミメイ。

 

「さてと、俺のお願いを聞いてもらおうか。」

絵になる程見事に指を鳴らし、彼の部下らしき黒服を呼び寄せる。

「はいはい、どうぞ。焼くなり煮るなり勝手にすれば良いわ。

賭け金の代わりだものね、何でもご自由に。」

「暗殺なんて無粋なことをお姫様に頼む訳にはいかないからな。

簡単なことだ。」

男の指示に従った黒服達が恭しく大きめの箱をミメイに差し出す。

それを受け取り、そこそこの重さであることに眉をひそめるミメイ。

「···なぁにこれ。」

まさか首ではなかろうな、と半笑いを浮かべる。

(うち)で扱っているものだ。

是非君に試して欲しくてね、こうしてプレゼントした次第だ。」

「試す······?」

開けてびっくり玉手箱はやめてくれ、と念じながら箱の蓋を持ち上げる。

そして中を覗き込んですぐ、意気揚々と宣言した。

 

「チェンジで。」

「チェンジは不可だ。」

「返品するわ。」

「返品も不可だ。」

「クーリングオフ」

「無効だ。」

「悪徳商法じゃないの。」

べしべしと箱を叩きながらミメイは口を尖らせる。

「どこがだ?何でも言う事を聞くと言ったのは君だろう。」

「そうだけど。

······ねえ参考までに聞くけど、スリットはどの程度?」

「とても扇情的になるくらい。」

晴れ渡るかの様な良い笑顔で答える男に見送られ、ミメイは嫌々奥の部屋へと向かうのだった。

 

 

 

 

──────────

「ただいま···。」

疲弊した体を引き摺る様にしてやっと着いた玄関の中に滑り込むミメイ。

腰に下げる訳にもいかず、仕方なくずっと手に持っていた刀を壁に立てかけて、黒のロングブーツを脱ぎ捨てる。

巨大マフィアのボス───あの男に付き合わされて、強い酒を入れられた為にミメイの頭は酷く痛む。

毒物に対する耐性同様酒にも強い彼女だが、流石に飲まされ過ぎたらしい。

あちらはミメイを酔い潰してあわよくば、なんてことを考えていたのだろう。

だが残念だな、ミメイはそこまで柔でもないし簡単でもないのだ。

最後は自爆気味に酒を入れていた哀れな男を思い出し、ミメイは薄く笑う。

 

「風呂···そうだわ、取り敢えず熱いお湯を被ろうかしら。」

そして寝よう。

まだ日付は変わっていないがとっとと寝てしまおう。

運の良いことに明日ミメイは非番である。

 

後頭部の綺麗なお団子を支えている簪を無理に引き抜き、長い髪を無造作に下ろす。

これでいつも通りの髪型に戻った。

妖しい光を放ちながらミメイの背で揺れる紫の髪は、藤の花と讃えられる程の美しさである。

 

風呂場に繋がる洗面所のドアを開け、そこで初めて風呂場の電気が煌々と点いていることに気が付いた。

居間は冷え冷えとした暗さを孕んでいたことから、居間ではなく隣室にいると予想していたのだが、どうやらそれもハズレだった様だ。

今日はハズレ続きだな、と今こんなふざけた格好をする羽目になっている原因の負けを思い出す。

溜め息をつきながら簪を洗面台に置き、そこに貼り付けられた三面鏡に映る自分の姿を睨む。

 

悪くは無い。

というより寧ろ良い。

見慣れたセーラー服姿ではないという新鮮さを差し引いたとしても、良いという評価を下せる。

女に使う金をケチらない主義のマフィアらしく、生地が上等なだけでなく、最近は機械縫いが主流にも関わらず精巧な刺繍は全て手縫いである。

ひと針ひと針丁寧に施されたのだと、人並みに手芸を嗜むミメイには分かる。

気に入らない筈がないのだ。

素敵だ、本当に素敵だ。

お嬢様育ちで目が肥えているミメイには、賭場にいる着飾った女達のものよりもシンプルなこの服が、とても素晴らしいものだとちゃんと分かる。

だがしかし。

鏡にくっきりはっきり映る白い足、ロングブーツを脱いだ為余計に目立つ足が良くないとミメイは思うのだ。

 

箱を開けた瞬間、扇情的な方向に走りやすい“あの”民族衣装だとすぐに分かった。

ミニではなかったのが救いだが、胸元の露出が無いのが救いだが、この防御力皆無な下半身はどうにかならないものなのだろうか。

良い笑顔でスリットにこだわったんだと語っていたマフィアのボスを殴りたい。

それでも服に罪は無いのだ。

細心の注意を払って上半身のチャックを引き下げて、そっと腕を袖から抜いていく。

 

 

唐突に、ミメイの後ろの風呂場と繋がるドアが開く。

モワッとした柔らかな湯気がミメイの露出された足に当たり、熱い湯を被りたいという欲を掻き立てる。

「ただいま、クラピカ。」

次私お風呂ね、とクラピカの方を振り返ってから続けようとした所で、はたとミメイの動きが止まる。

 

「···。」

湯気に所々覆い隠されていたにも関わらず、ちゃんとその場所はミメイの視界に入ってしまった。

無言のまま、視線を下ろしたまま、こてんとミメイが首を傾げる。

「両性類?」

ごめんなさい知らなかったわ、と珍しく若干申し訳なさそうにするミメイに対し、突然の事態に体も思考も固まりきっていたクラピカは反射的にツッコミを入れる。

 

「んなわけあるかあぁあああっ!」

こんなに乱れた言葉使いで、こんなに大きな声でクラピカが叫んだのは初めてである。

それに少し驚きながらもミメイはこくりと頷いた。

「そう、男の娘だったのね。」

大丈夫私は理解がある方よ、と良い笑顔で指でOKマークを作る。

「それもちがーう!」

前を隠すことも忘れて、はぁはぁと息切れするまでに大声で否定する。

 

「あら、違うの。」

「どうしてそうなるのか私は不思議だ。

普通に考えてくれ。」

顔1つ赤らめず冷静にクラピカに体拭き用のタオルを投げるミメイを見て、クラピカの興奮もさっと冷めたらしい。

そして、幾ら湯気がもくもくしているとはいえ女の前でこれはちょっと······ということに気付けるくらいの冷静さを取り戻した。

状況把握の速さは悪くないな、とその様子をぼんやり観察していたミメイは思った。

 

「クラピカは女の子じゃなくて男の子だったのね。

気付かなかった。早く言ってくれれば良かったのに。

そしたら無理矢理女装させたのにね。」

残念、と至極当然のことの様にボヤく。

「何故女はこう、男に女装をさせたがるんだ?!」

この前なんとなく読んだ小説の主人公も姉に女装させられていたことを思い出す。

 

「あ、そうだ、そうすれば良いんだわ。

クラピカ、この服着てみない?」

ほら、とミメイが示した時初めて、クラピカはミメイがいつものセーラー服を着ていないのに気が付いた。

そして微妙に脱ぎかけだということに気が付いた。

上半身は色々と見えている。

クラピカはそれらからバッと視線を外した。

 

私が男だと本当に分かったのか、この女は?!

今分かった筈だというのに何故こう···こうなんだ?!

 

「身長も同じくらいだしきっと似合うわよ。

足の露出がアレだけど。」

クラピカの気持ちなどお構い無しに、ヒラヒラとロングスカートを揺らすミメイ。

その隙間、派手にスリットが入っている為馬鹿デカい隙間から覗く白い足。

それに一瞬ドキリとしながらも、クラピカは取り敢えず叫んだ。

今自分がすべきことは、この混沌とした状況を少しでもどうにかする為にツッコむことだと分かっていたからである。

そしてその冷静さは、ミメイの無神経さと無頓着さを見てきたからこそ発揮出来るのだ。

 

さて、ツッコんでやろう。

すうっと息を吸い込んでから口を大きく開けて。

 

 

 

「何故お前はチャイナ服なんかを着ているんだ?!」

自分がそれを着るとか、自分の正しい性別が露見したとか、色々ミメイが際どいとか、自分が全裸に近い格好だとか、そういうことは吹っ飛んでしまっている。

クラピカは冷静そうに見えて、いやちゃんと冷静そのものなのだが、混乱はしていた。

なんかもう色々訳が分からなくなった為である。

混沌としたこの状況のせいである。

無理もない。

 

 

「あら、似合ってない?」

「似合っている!······だからそうではなくてだな!」

「えー、話すと長いんだけどなぁ。

うーん、そうね、この服は貢ぎ物みたいな何かかしら。」

「は?」

「マフィアのボスから貰ったのよ。

貰ったというより無理に着せられたというか。」

「は?」

「クラピカ、どうしてそんなに顔が怖いの?」

 

 

 

 

 

 

 

もしこの状況を第三者が見ていたとしたら、取り敢えずこう助言するだろう。

「お前ら、服を着ろ。」

と。

 

 

 

 

 




主人公が着てるチャイナ服は、
・胸元露出なし、首まで襟あり
・掌の方になればなるほど広がる長袖
・スリットが物凄いロングスカート
・デザインはシンプルめ
です。
色とかは必要であれば後々。


そのチャイナ服をプレゼントしたマフィアのボスさんですが、勿論作者の捏造です。
十老頭の1人設定ですが、あんまり公式に情報が無かったので捏造しました。
かっちょいいスーツを着こなしたイケおじなんです。
そして賭け事に強いんです。
イカサマをしたかしていないか、分からないくらい上手くやるんです。


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13:君が為 血脈にいでて 命摘む

私の筆の遅さをどうにかして下さいと神様に祈ってみましたが、きっとあまり効果はありませんね(´・ω・`)
残念ながら。






クラピカの正しい性別が発覚した夜を越え、非番のミメイは朝日が昇る前のビル街を自由気ままに歩いていた。

昨晩早く寝たせいか、あっさり目が覚めてしまったのである。

いつも通りミメイと同じベッドを使っていたクラピカはまだ寝ている。

何も気にしないミメイが微睡み始めても尚、クラピカは同衾することにバタバタ抵抗していた為、ミメイと違いクラピカの就寝時間は遅かったのだろう。

 

「まさかクラピカが男の子だとは思わなかったわ。」

最近はしっかりした体つきになってきていたとはいえ、出会った時は華奢で小柄で髪が長くて。

そのせいで女の子だと疑いもしなかった。

とは言っても、クラピカの性別などミメイにはあまり関係ない。

男の子ならまだまだ背が伸びるんだろうな、と自分より背が高かったグレン達を思い出す程度である。

 

『気付くの遅過ぎでしょ。』

呆れを滲ませて鼻で笑う鬼宿。

「え、タマ貴方···」

『僕は最初から分かってたよ。』

「教えてくれれば良かったのに。」

やけに自慢げな鬼宿をなじってはみるものの、中々ミメイの言いなりにならないのがこの鬼である。

言っても仕方あるまい。

どうせ、いつまでたってもクラピカの性別に気付かないミメイの間抜けさを笑っていたのだろう。

 

 

「クラピカは男の子かぁ、そっかぁ。」

人っ子一人いない寂れた公園に足を踏み入れ、一蹴りでジャングルジムのてっぺんまで飛び上がる。

桜に似ている様で微妙に違う春の花が散り、青葉が目立ち始めた木の枝が頭のすぐ上にある。

茶色い枝の上をにょきにょき必死に這っている芋虫を戯れにつついてから、ビル群の隙間から丁度見える地平線を見つめた。

 

『日が昇るね。』

橙の丸が眩い光を放ちながら地平線から顔を出す。

「今朝もやっぱり、堕としてやりたいくらいに綺麗だわ。」

『あはは、ミメイは太陽を敵視してるよね。

どうしてそんなに嫌うんだか。』

「真昼が言ってたのよ。

自分の存在を否定されてる気分になるって。」

『そりゃあれだよ、真昼は吸血鬼になったから。そのせいだろ?

紫外線を弾くリングをつけたとしても、吸血鬼が陽の光に拒絶された様に感じるのは仕方ないよ。』

 

 

 

世界が終わる直前に、地下に住まう吸血鬼の女王クルル・ツェペシに拘束され、彼女との取引の末に血を貰って吸血鬼になった真昼。

真昼が地下に拘束されていた時、ミメイは自身の体を鬼呪装備のサンプルとして差し出し、鬼を縛り制御する呪───ミメイお得意の鎖───の研究に暮人の元で携わっていた。

真昼が吸血鬼に連れて行かれるのも、柊家に父を人質に取られたグレンが苦悩するのも、結局グレンの父が処刑されるのも、ただ黙って見ていた。

 

そして、真昼がやっと吸血鬼の住処から解放されるとの情報を掴んだ斎藤という男と共に真昼を迎えに行ったのだ。

ミメイを監視していた暮人には適当な理由を突きつけて、追ってきたお目付役は始末して、柊家には秘密で彼女と接触したのだ。

既に人間ではなくなっていた真昼は、赤い目を光らせていた真昼は、我慢出来ない渇きの為に路地裏に適当な人間を引き込んで、その人間が死ぬまで血を啜っていた。

グレンの血はどんな味なんだろう、と笑っていた彼女は次にミメイの首に目をつけた。

まだ足りないと真昼が小さく呟いたのが耳に届いた瞬間、ブツリと首に激しい痛みがはしった。

けれど痛いのは最初だけで、痺れる様な甘い快感が徐々にミメイの頭を揺らした。

 

自分が被食者になるあの感覚は忌避すべきなのだ。

世界をその手に収めた人間様ならば、被食者になんて甘んじてはいけないのだ。

自分は被食者ではない、家畜ではない、餌ではない、という最低限のプライドが吸血されるのを拒否する。

けれどもそれにどうしようもないほどの快感を感じたのは確かだった。

真昼に血を吸われる度に震える程の快感と、立っていられなくなりそうな恍惚感を押し付けられた。

 

 

出来ればあの感覚は二度と味わいたくはないとミメイは切に思う。

鬼を心に飼っているせいで、普通の人間なら死に至る量の血を吸われたとしてもミメイは死ねない。

痛みと快感と、そして背徳感と、とにかく形容し難い感覚を味わい続けなければいけない。

飢えた真昼に血を吸われた時には、いっそ死ねたらと思う程に脳髄から痺れた。

ついでに腰が抜けかけた。

 

血を吸うと物凄い快感を得られる、と牙をミメイの血で濡らした真昼は満足げに言っていたが、色々疲弊したミメイは吸血される側の気持ちにもなれよ、と思っていた。

 

 

うん、吸血鬼はもっと人間(家畜)のことを考えるべきだ。

そんなことを言った所で吸血鬼は聞く耳持たずだろうが。

まあ、鬼宿が言うにはこの世界───少なくとも人間の生活区域内にはミメイの知る吸血鬼は居ないらしいから、ミメイとしては万々歳である。

 

 

 

「真昼云々を抜きにしても、私は太陽が嫌いなんだけどね。

特に朝日は。清らかな夜と優しい夢を終わらせる朝日は。」

吸血鬼でなくても、眩い光を放つ朝日からは目を背けたくなる。

『やっぱり“未明”だね。

未だ明かりは見えず、未だ夜は明けない、それが君だからね。』

「馬鹿にしてるの?」

『まさか。未明らしくて最高じゃないか。』

ケラケラ笑う鬼宿の声から意識を外そうと、身を焦がす様な朝日も視界にいれまいと、公園の外の歩道を見やる。

丁度そこには朝の鍛錬としてランニングをしているのであろうクラピカがいた。

 

「クラピカ〜。」

おーいと気の抜けた声で呼ぶと、ジャングルジムのてっぺんで仁王立ちのミメイをすぐ視界に収めたらしく、足早にその下までやってきた。

「おはよう。」

「おはよう、と言いたい所だが······ミメイ、お前はまず自分の格好を気にしろ。」

何故彼が呆れ顔なのか分からずに、ミメイはキョトンと首を傾げる。

ちなみにミメイの格好はチャイナ服ではなく、いつものセーラー服である。

勿論ミニスカートである。

 

「そんな格好で高い所に登るんじゃない。

大体お前は婦女子としての自覚が無さ過ぎる。」

「えー、別に良いじゃない。」

憤慨するクラピカにブーブー文句を垂れてみる。

「良くない。」

「朝早くて誰もいないもの。

だから見る人なんていないわ。」

「私がいるだろうが!」

「え、クラピカ私のスカートの中覗いてるの?えっちだなぁ。」

きゃあ、とわざとらしくスカートの裾を押さえる。

 

「······そんな訳があるかぁああっ!」

蝋の様に白い顔に朱をはしらせながら全力で否定する。

それから勢いよくジャングルジムをよじ登り、ミメイの隣に立つ。

細いジャングルジムの棒の上でも難なくバランスを取り、揺れることなく仁王立ちをしているのは鍛錬の成果なのだろうな、と婦女子としての心得について説教するクラピカを見ながら思うミメイである。

勿論彼のありがたーいお説教は聞いてもいない。

クラピカは男の子なのに女子力高いなぁ、料理出来るし、と感心し、やっぱり女の子なのではと疑うばかりである。

 

「クラピカ最近元気ね。よく叫んでるけど。」

ついつい他人事の様にミメイが呟いた言葉は、クラピカの眉間に皺を寄せさせる。

「誰のせいだと思っている?誰のせいだと。」

「?」

男の子はやっぱり元気ね、と取り敢えず笑ってみるミメイ。

「すっとぼけた顔をするんじゃない!」

 

 

 

 

なんてことない雪の日の出会いから約半年、元気に言い合いが出来る程、(ミメイは)楽しいふざけあいが出来る程、順調に仲を深めたミメイとクラピカ。

お互いの過去の傷には触れなくとも、深い所には踏み込まずとも、明確な名前をつけにくい関係性が続いている。

 

ミメイとの稽古(未満)は自分が強くなる為に必要であると確信しているクラピカは、ミメイのことを師匠の様に思っている。

そして、自分の命を助け、その後もなんだかんだと世話をしているミメイに感謝をしている。

まだ分からないことが多過ぎる女だが、その身に纏った孤独の色はクラピカと似通っている。

当初の警戒心はどこへやら、今やミメイに深い親近感を抱き、心を開いているのだろう。

 

ミメイはミメイで、妹のシノアと重ねていたせいか初めからクラピカに対する悪感情は無い。

好きでも嫌いでもない、というよりそう思わないようにミメイは感情を抑制している。

“その先”を求めないように、欲望に取り憑かれないように。

けれども、無関心にはなりきれない。

シノアの面影を重ねて愛でるだけでは足りず、クラピカの追い詰められた生の中にグレンを見た。

幼いミメイが大好きだった可愛いグレン、姉の真昼のものになってしまったあの可愛いグレンを見出したのだ。

 

 

 

『いつ芽吹くのかなぁ、未明の欲望は。

どれだけ抑えても、どれだけ殺しても、収拾つかないぐらいに水面下では欲望が育ってるのに。』

談笑するミメイとクラピカをミメイの心象世界から見つめながら、鬼宿は自分の周りに果てしなく広がる白い世界に触れる。

そしてその下で何かがドクンドクンと激しい鼓動をたてていることに、愉悦感と期待感を抱く。

 

『きっともうすぐだ。

感情と欲望を抑えきれずにとうとう暴走させて、その欲望が僕の口に入るのももうすぐだ。』

じゃらりじゃらりと金の鎖を鳴らしながら、鬼宿はゆらりと立ち上がる。

『あはは、はは、もうすぐだ。

未明が力を欲しがって、僕を求めるのも。

絶対に喰ってやる。未明を喰い尽くしてやる。

蝕んで、殺して、犯して、消してやる。

そして未明······君を、』

心象世界の向こう側に見えるミメイに、重い鎖が巻き付いた手を伸ばす。

 

 

喰ってあげる(救ってあげる)

 

 

 

鬼はずっと、1人の女の子を喰らう(救う)為だけに動いてきた。

感情を抑え、欲望を殺し、鬼宿(未明)を縛る哀れな女の子の為に。

真昼を諦め、グレンを諦め、その2人が結ばれる未来も奪われ、グレンに代わる存在となり得た深夜も義兄となり、せめてもの姉妹3人での安らぎも許されず、姉の“抑制者(ストッパー)”、また影であることを柊家には強いられ続けた哀れな女の子の為に。

自分を殺し続けた女の子の為に。

そんな人生を恨むことも憎むことも、抗うことも許されなかった哀れな女の子の為に。

 

躊躇わずに感情を爆発させ、欲深に願っていた頃の女の子の笑顔を取り戻したいと。

本来の姿───無垢な少女の様に、清廉な戦乙女の様に、神々しい女王の様に、美しい妖婦の様に感情豊かな女の子の姿を見てみたいと。

感情を抑えること、欲望を殺すこと、自分を縛ることを忘れた自由な女の子にしてあげたいと思うのである。

元々女の子に眠る狂気を解き放ち、好きな様に生きて良いと言ってあげたいのだ。

初めから壊れているのに、壊れることを許されなかった女の子を、“壊れ直させて”あげたいのだ。

 

鬼はただ、女の子を喰らいたい(幸せにしたい)だけなのだ。

 

 

 

 

 

─────────

暑い日だった。

コンクリートは容赦なく太陽光線を反射していた。

それでなくとも焼ける様な熱線は頭上から降ってくるというのに。

地平線には陽炎が見え、ミンミンジージーと蝉の声がエコーをかけている。

 

「今日も暑いわね。」

『なのにどうしてベランダなんかに出てるのさ、未明は。』

クーラーの効いた居間から出てベランダの欄干にもたれ掛かるミメイに対し、Mなの?ドMなの?ああドMかー。と鬼宿は自己完結してしまう。

「違うわよ。」

ミメイ達が住むマンションの一室は15階。

そこから悠々と、うだる様な暑さのせいか昼間だというのに人がまばらな繁華街を見下ろす。

 

「クラピカが見えるかな、って思ったのよ。

あの子今日仕事でしょう。」

『ああ、人探しだっけ。暑いのによくやるよ。』

時折探偵の様なことをやって細々稼いでいたクラピカだが、今回はちゃんとした探偵社からの依頼らしい。

物でも人でもしっかり見つけてくるとの評判を聞きつけた探偵社からの直々のものだったそうだ。

幻影旅団や緋の目の行方に関する情報をそれとなく集められる、と意気揚々と仕事に向かうクラピカを非番のミメイは今朝見送った。

 

「一般人がそうそう幻影旅団に関する情報を持ってるとは思えないけど。」

『裏社会を支配するマフィアでさえ全貌が分かってないからね。』

懇意にしている十老頭の1人に探りを入れてみたが、彼も詳しくは知らないらしい。

分かっているのは、名だたる賞金首ハンターが旅団討伐に挑み、尽く返り討ちになっているということくらいで。

誰にも止められず、誰にもその姿を認められず、ただ目を背けたくなる様な犯罪行為が積み重なるばかり。

クルタ族惨殺もその1つだろう。

 

ミメイがクーさんと呼ぶあの(見た目は)好青年が、幻影旅団を率いるリーダーだとは夢にも思わないミメイである。

大体何でも知っている鬼宿でさえ知る由もないことであった。

 

 

「あー、暇だわ。」

最近は賭場の用心棒業よりも、裏社会の大物達からの依頼である暗殺や彼等の護衛に勤しんでいる。

やはり十老頭の1人と懇意にしていたのは正解だったらしい。

お陰で少ない仕事で大金を稼げる様になった。

こうして時間が有り余ってしまうのは考え物だが。

暇潰しにクラピカの鍛錬を見てあげようかと気まぐれを起こすが、彼はいない。

ベランダから彼の姿が見えないものかと思ってみたが、いくら常人以上の視力を持つミメイであっても見つけられなかった。

 

頭が欄干の向こう側に出てしまうのも気にせずに、欄干に体重をかけ続ける。

『落ちるよ。』

警告というより淡々と事実を告げる鬼宿。

「落ちても死なないじゃない。」

グレンも真昼と一緒に高層マンションから落ちたことがあったが勿論死ななかった。

鬼をその身に飼った人間は、常人の何倍もの力を有するのだ。

 

 

プルルル、プルルルルル······

 

ミメイのスカートのポケットから無機質な音が響く。

億劫そうにポケットに手を突っ込み、十老頭の1人からこの前貰ったばかりの携帯を取り出す。

仕事上必要だと無理に持たされたものだが、それが鳴ったということは依頼だろうか。

 

「はーい、もしもし。」

面倒で電話帳に登録していないが、恐らく懇意にしている彼からの電話に違いない。

『依頼だ。最近うちの組のシマでちょろちょろしている組のトップの首、それを全て取ってきてくれないか。』

ミメイの予想通りである。

巨大マフィアのボスらしく地を這うような重低音だ。

 

「弱小マフィアくらい貴方の所の構成員でどうにかしてよ。」

『俺もそうしたい所なんだがな、どうも奴等は腕の良い用心棒を雇っているらしい。

うちの組でも腕っ節に自信がある奴が突っ込んで行ったんだが、全員返り討ちだ。

しかもその傷が普通じゃない。

銃や爆弾なんかを使ったとは考えられない程のものなのさ。

見事に全員、破裂した風船になっちまった。』

「へえ。」

人間の体を内側から爆発させる念能力者だろうか。

自分より強いと思える念能力者は今の所クロロしかいないが、中々骨のある念能力者が最近の標的だった。

鬼呪装備を使うこともなく、勿論鬼宿の憑依もすることなく、普通の刀で応戦出来た程度だ。

しかし体の周りに纏うオーラ量を増やす必要はあった。

 

「良いわよ、暇だし。引き受けるわ。

前金は要らないから、成功報酬ははずんでね。」

少しは楽しめそうね、とミメイは緩く口角を上げる。

弱い人間ばかりと殺り合っても暇潰しにさえならない。

それくらいなら、まだまだ発展途上だが伸びしろが大きいクラピカの鍛錬にちょっかいを出す方が余っ程楽しい。

だが彼は今いない。

今回の人探しは少し長くなるだろう。数日は帰ってこない筈だ。

 

『ああ。必要な情報は後で送る。』

「ええ。」

小さく頷いてから通話終了ボタンに指を伸ばした所で、ああ待てと電話の向こうから引き止められた。

「何かしら。」

切って良い?と圧力をかける。

だが不機嫌なミメイを宥めて男は続けた。

『ミメイ、君確か誰かと同居していたな。』

「···だから?」

クラピカの素性が知れたのでは、と密かにミメイは警戒度を引き上げる。

 

『金髪の少年だろう。』

「···それがどうしたの?」

思っていたより冷たい声が出た。

電話の向こうなのだから斬れやしないのに、ひとりでに手が刀に伸びる。

『幻影旅団のことを色々嗅ぎ回っているらしいが、やめさせた方が良い。

最近ここらで、幻影旅団と名乗る一味が暴れている。

そいつらが本物かは確証がない。虎の威を借る騙りが多いからな。』

「私が言ってもやめないわよ、あの子。

ま、止める気も更々無いけど。

あの子がどうなろうとそれはあの子の自己責任だわ。」

『うちの組が少年を始末したとしても、君はそう言えるのか?』

明日の天気はどうですか?

そんな雰囲気で問いかけてくる。

 

「···どういうこと。」

腰の刀を掴む手の圧が上がる。

『薮をつついて蛇を出したくないんだよ。

その幻影旅団が本物であれ偽物であれ、うちのシマでの面倒事は勘弁して貰いたい。

少年が幻影旅団に殺されようが、少年が幻影旅団を殺そうが、面倒な事に変わりはないだろう?

特に少年が幻影旅団のメンバーの一部を殺した場合、それが1番嫌なんだよ、俺からしたらな。』

「生き残った旅団員が報復合戦に乗り出すから、そうでしょう?」

生き残った彼等がなりふり構わなくなった時、間違いなくこの街は荒れるだろう。

裏社会を巨大マフィアが牛耳ることで栄えていた街は酷い被害を受ける。

それはマフィアも避けたいのだ。

 

『ああ。関わり合いになりたくない、それが俺の本音だ。』

「話は分かったわ。」

ベランダと居間を遮断していた窓を開けて、クーラーが生み出した冷気を全身に感じながら、ミメイは殺風景な部屋の端に置かれたPCの方に足を向ける。

『そりゃ良かった。

こっちとしても、君が可愛がっている少年を始末したくはないからな。

正直君の報復が怖い。』

「そう。」

素っ気なく返し、たった今添付ファイルで送られてきた殺すべき標的の情報にざっと目を通す。

 

 

「心配しないで。私が全て上手くやってあげる。」

PCを乱暴に閉じ、携帯を肩と耳の間に挟みながら身支度を整える。

『そうか。少年を止める気になったか。』

「まさか。私には、あの子のやる事に口出しする権利も義務もない。」

当然でしょう、と小馬鹿にした笑いをオマケにつけておく。

『···どういうことだ。』

ミメイの意図が分からないのか、緊張した声がスピーカーから漏れる。

 

「要は幻影旅団が中途半端に残るのが面倒なんでしょう。

そして出来ることなら、世間一般的に一般人と言われる人間の被害を出したくない。」

『ああ、この街で無駄な犠牲は出したくない。』

昔からこの街を根城にしているマフィアだ。

愛着もあるのだろう。一般市民との仲も悪くないと聞いている。

 

「なら簡単よ。皆殺してしまえば良いの。

幻影旅団なんて名前が残らないくらいに徹底的に。

生き残りなんて出さないわ。

勿論一般市民を巻き込まずにね。」

脱ぎ散らかしていた靴下を拾い上げ、膝の上まで勢いよく上げる。

これでミメイの準備は終わった。

あとはこの部屋を出るだけである。

 

『そんなことが本当に···?』

あの幻影旅団だぞ、と唾を飲む音がミメイの鼓膜を揺らす。

「私なら可能だわ。

あの子がどうにかなる前に、幻影旅団や貴方達マフィアに殺される前に、私が全てを終わらせる。

それなら文句無いでしょう。」

ローファー風のショートブーツに両足を滑り入れて、玄関前の鏡で最終確認。

 

『そりゃ勿論、一般市民に被害を出さずに幻影旅団が消えてくれるのが1番良いが。』

「だからそうしてあげるって言ってるのよ。

ねえ、もう切って良い?私忙しいの。」

携帯を耳から離して通話終了ボタンに人差し指を置きながら、部屋の鍵を閉める。

『勝手にしろ。たださっきの依頼は終わらせてからにしてくれ。

その後、君や君の可愛がっている少年がどうなろうとこっちは知ったことじゃない。』

「はいはい。」

ヤケになっている男の声を遠くに聞いて、今度こそ通話を切ろうとした所でふとミメイは動きをとめた。

 

「言い忘れてたけど、無駄なちょっかいは出さないでね。

幻影旅団にも、あの子にも、私にも。

今言った誰かに対して戦意を持つ貴方の組の構成員が居合わせたら、彼等も殺すわよ。旅団員と同じ様に殺すわ。」

『······肝に命じておこう。』

「そうして頂戴。」

念押しはした。

珍しく先に警告をしてあげた。

それでも余計なことをする様ならば、あのボスはただの愚か者である。

自分の組の構成員を無駄死にさせることになるのだから。

 

 

 

『で、どこから行くのさ。』

携帯をポケットに適当に突っ込めば、声を弾ませた鬼宿がミメイの脳内に語りかけてくる。

「まずは依頼を済ませるわ。

標的が居そうな場所は絞られてる。早く終わらせましょう。」

先程見たデータによれば、標的は繁華街の中心にある風俗店の経営に力を入れているらしい。

まだ真っ昼間だが、そこで欲望を爆発させている可能性が高い。

人間を中から爆発させる様な力を持つ念能力者なだけに。

爆発させるのも、するのもお好きだろう。

『爆弾魔かぁ、どんなのだろう。』

「あんまり期待しない方が良いわ、よっと。」

久々に骨があるかも、と声にキラキラを振り撒く鬼宿にそう返しながら、自然な動作でマンションの共用通路の柵を乗り越える。

ポンッと深く考えずに空中に身を踊らせ、地面に向かって勢いよく落ち始める自分の体に動じることはない。

 

エレベーターが来るのを待つのも階段を駆け下りるのも面倒だから、と最もらしい理由をつけているが、一般人からすればこれはただの自殺行為である。

目撃者がいなかったからいいものの、高層マンションから飛び降りるのは問題行動でしかない。

だがそんな余計なことは考えず、ミメイは極当たり前の様に、寧ろ楽しそうに自由落下を続け、地面が目の前になった瞬間くるりと一回転してから優雅に着地した。

少しばかりコンクリートの地面が凹んでしまったが、まあそんなこともあるだろう。

 

特に痺れていない足を普通に踏み出し、自身の脚力を最大限に利用してフリーランニングを始める。

ビルの屋上家の屋根、木や電柱、それら全てを活用した場合の目的地までの最短経路を脳内に弾き出し、その通りに足を動かす。

自身が一陣の風となるように、常人には到底考えられないような速度でミメイは駆ける。

 

 

『未明はクラピカのことになると必死だねぇ。』

この前もそうだった、と煽る鬼宿。

「······うるさい。」

『否定出来ないんだ、あはは。

まあ良い傾向だと思うよ。

少なくとも今の未明はクラピカの生を望んでいる。

彼を死なせまいと自分から動いている。

それってさ、願いだろ······そして欲望だろ?』

「うるさいわよ。」

『ほらもっと願え、求めろ、欲しろ!

僕に君の欲望を寄越せ。代わりに力をあげるからさ。』

甘美な誘いをかけてくるが、使い古されたその手には乗らない。

 

「貴方に私を喰わせる気は無いの。

タマ、貴方は黙って私に力を寄越しなさい。」

『その程度じゃ()の力の半分も活かせないの、君はよく知ってるだろ?

誰かの生を願うなら、誰かを助けたいと願うなら、そんな欲望を抱くなら、僕に心を渡さなきゃね。

真昼の様に、グレンの様に、早くちゃんと人間をやめなきゃね。』

きゃははははっと甲高い笑い声を最後に、ブチ切れたミメイに鎖を追加される前に心の奥へと潜る鬼宿。

小賢しいことに鬼宿は、最近ミメイの鎖と上手く付き合える様になっているようだ。

 

 

「私は鬼に心を喰わせない。

私の心は一片だって犯させない。

私は、完全に人間をやめる気はない。」

 

『だって貴方は、抑制者(ストッパー)でいてくれるんでしょう?

私がおかしくなったとしても、貴方だけはまともな人間でいてくれるんでしょう?

約束よ、未明。お姉ちゃんとの約束。お願いでも良いけど。』

 

かつて双子の姉に言われた言葉(呪詛)自分に繰り返す(縛り付ける)

 

 

そんなミメイを、夏の無慈悲な太陽が見下ろしていた。

 

 

 

 

 




次回、ミメイちゃん覚醒す(るかもしれない)?!





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14:我が衣手は 赤く濡れつつ

今回はグロいです。暴力表現が多いです。
クラピカがだいぶ悲惨な目に遭っています。
不快に思われる方は回避をお願い致します。






「ここ、か。」

ひぐらしの哀愁を誘う鳴き声が聞こえる。

バブル景気によりトントン建てたはいいが、その後すぐ経営不振に陥って廃墟となってしまったビル街。

ひっそりと人気のないそこを橙の夕日が照らしている。

ビルとビルの隙間から射し込むその光の中で埃がチラチラと舞う。

それを煩わしく思いながらも、クラピカは1人歩を進める。

 

探偵社からの依頼であった人探しは予想より早くに終わっていた。

だからこれは仕事ではない。

だがすべきことなのだ。

クラピカがしなければならないことなのだ。

探偵社からの依頼をこなす内に、今いる廃墟をならず者達が拠点にしているとの噂を聞きつけた。

近隣住人の話によると奴等は幻影旅団らしい。

旅団メンバーの特徴である蜘蛛の刺青を見たとのことだから本当だろう。

 

木刀を固く握りしめ、一歩一歩刻み付けるように荒れた地面に足跡をつける。

必ず成し遂げてみせる。

クルタ族と思われ、追われ、逃げていただけの自分とはもう違うのだ。

ミメイはまともに稽古をつけてはくれなかったが、彼女の助言は十分役に立っている。

最近はミメイに一太刀浴びせられる様になってきた。

 

もう機能していない筈のビルから声が聞こえる。

間違いない、ここだ。

開きっぱなしになっている自動ドアを通過して、音を立てない様非常階段を登る。

徐々に近付く話し声に、全身を震わす鼓動が重なる。

ドクンドクンと、血が燃える。

恐らく目は赤くなっているのだろうが、コンタクトレンズを装着して誤魔化しているクラピカはあまりに気にしない。

 

感情の昂りをそのままに、静かに非常ドアを開けて中にいるであろう奴等の様子を伺う。

どいつもこいつもよく鍛えた体をしている。

弱っちい偽物ではなく、やはり本物だろう。

この時を待っていた。

復讐するこの時を。

談笑する奴等を見て燃え上がる怒りが際限ない熱を生み出すが、まだ飛び込むには早い。

待っていれば必ず機は来る筈なのだから。

 

 

 

クラピカは慎重で冷静である。

本人もそう思っているし、周りもそう思っている。

だがまだ彼は若かった。

決して思い上がっている訳では無いが、怒りに我を忘れていた。

本物の幻影旅団に、自分の一族を滅ぼした犯罪組織に、今の自分が太刀打ち出来るのかということを現実的に考えられなかった。

強くなった、確かに強くなった。

だがまだ足りないのだ。

 

そしてその判断ミスは、油断を誘い、命取りになる。

 

 

 

「なんだこいつ。」

突然クラピカの後ろから低い声が聞こえ、反射的に振り向こうとする前に彼の体に衝撃がはしる。

何が起こったのか分からないまま吹っ飛ばされて体は宙を舞う。

咄嗟に木刀で防いだとはいえ、衝撃が大き過ぎたらしい。

相殺しきれなかった。

 

腹に力を入れてコンクリートの床に着地するが、衝撃を受け止めた木刀を持つ手が少し痺れている。

それをおくびにも出さず素早く状況把握をしようと見渡せば、周りにいたのはざっと10人程度の男達。

クラピカという乱入者を見下ろして、各々得物を手にしている。

その中から1人が進み出る。

 

「おいお前ら、このガキはなんだ。

覗いてやがったから取り敢えず殴ったが。」

そう言って、拳をもう片方の掌に打ちつける。

恐らくこの男がクラピカの背後から近付き攻撃してきたのだろう。

全く気配に気付けなかったとクラピカは唇を噛む。

 

「知らねえよ。まあ覗いてたってことは、俺らに喧嘩ふっかけに来たんだろ?」

「こんなガキがか?」

「ほら坊ちゃん、早くママの所に帰りな。」

「今なら見逃してやるからよ。」

見下すような目と馬鹿にしきった口調。

逸る心を抑えて、クラピカは出来るだけ静かに問いかける。

 

 

「お前達が幻影旅団か。」

「ああ。そうだぜ、“俺達”が幻影旅団だ。」

「そうか。」

木刀を両手に構え、ゆらりと立ち上がる。

予定は狂ってしまったが仕方あるまい。

どうせ全員殺るつもりだったのだ。

それが少し早くなっただけのこと。

垂れ下がる前髪を払うことなく、熱を孕んだ目で男達を睨みつける。

 

「2年程前、お前達がしたことを覚えているか?」

「さあ、沢山あるから忘れちまったなぁ。」

ぎゃははと下品な笑いを上げる。

「クルタ族を、私の同胞達を死後も辱める様な今に追いやったのはお前達だ。

忘れたとは言わせない。

いや、たとえお前達が忘れようとも私は忘れない。

何年経とうとも。」

目がカッと熱くなる。

痛みさえ感じる。

それでも睨み続ける。

憎い仇を。

 

 

「なるほどな、お前はクルタ族の生き残りか。」

「それで俺達に復讐しに来たのか。」

「ははは、ははははっ!」

「ぎゃはははは、あー、これだからやめられねえんだよ!」

「本当のことも知らずに立ち向かってくる馬鹿が、ホイホイ来るからな。

おいお前ら、今回はクルタ族の生き残りだ。

目を奪え。極限まで赤くなった目を抉り取れ!」

奥で座ったままのリーダーらしき男が、頬に鋭くはしる古傷を下卑た笑顔で歪めながら指示を出す。

 

「幻影旅団様々だぜ。名前を借りるだけで簡単に釣れるからなぁ!」

先程クラピカを殴った男が、その拳を繰り出してくる。

避けられない速さではない。

目でしっかり追える程度だ。

しかし1発1発が相当重いのだろう。

顔を掠めた拳の風圧で、クラピカの頬がピッと切れる。

それよりも気になるのは、今男が言ったことだ。

 

「名前を借りるとはどういうことだ!答えろ!」

「そのまんまだよ、お坊ちゃん。俺達はクルタ族を殺しちゃいねぇ。」

シュッと拳が木刀に当たり、その衝撃で体が簡単に宙を舞う。

空中で必死にバランスを取るが、後ろから新手が襲いかかる。

今や拳をふるう男だけではない。

リーダーらしき男以外全て、クラピカに向かってきているのだ。

多勢に無勢、避けるのが精一杯である。

 

「俺達は幻影旅団の名を借りているだけなんだよ。」

「そうすりゃ怯えた連中からは金を巻き上げられるし、お前みたいな馬鹿を釣れるからなぁ!」

銃弾が左肩を貫通する。

焼けた鉄を押し付けられた様な痛みがはしるが、どうにか木刀を取り落とさずに済んだ。

ニヤニヤ笑う男達に取り囲まれながら、クラピカは声を絞り出す。

今奴等はなんと言った?

 

「な、んだと!?」

「つまり、俺達はお前の復讐相手じゃないってことだよぉ!」

「残念だったな。復讐も出来ずにお前は同族と同じ様に目を抉り取られる。」

クラピカという滑稽な玩具をいたぶるのを相当楽しんでいるのだろう。

皆一様に下品な笑みを浮かべている。

クラピカがまな板の上で必死に抵抗をするのを散々弄んで、それから殺すつもりなのだ。

本物の幻影旅団でなくとも、十分最低なクズ共だ。

 

「下衆め······!」

痛む左肩を庇いながら木刀を構え直して男に飛びかかる。

加速させた木刀は男の鳩尾にしっかり入った筈なのだが、男はなんともなさそうである。

逆に攻撃をしかけたクラピカの手が痺れている。

男がオーラを纏っていたせいなのだが、念を知らないクラピカは訳も分からず唇を噛むばかり。

 

「拘束しろ。そんで拷問にかけろ。

そうすりゃ、それはそれは綺麗な緋の目が出来るだろうさ。」

「いくらで売れるんだろうなぁ?」

「そりゃ何年かは遊んで暮らせるくらいよ。」

リーダーの指示通り、音もなく近付いた男はクラピカの体を蹴り飛ばす。

抵抗する暇もなく、酷い痛みを訴えだす腹を庇うことも出来ず、クラピカは髪を鷲掴みにされる。

 

「は、なせ!」

髪を掴まれ地面を引きずられ、それから振り回されて壁に激突する体。

クラピカはずるりと地面に崩れ落ち、遠くに飛んだ木刀も男達に踏み壊された。

それでも戦意は喪失しない。

こんな所で終わってなるものか、その執念と怒りだけで重い体を無理に起こす。

「元気だな、お前。まだ抵抗すんのかよ。」

「が、はっ······!」

しかし背中を容赦なく踏みつけられ、再び勢いよく地面に打ちつけられる。

内臓が傷ついたのだろう。

灰色の冷たい地面に赤い花が咲いた。

 

 

視界が歪む。

頭を殴られたせいなのか、溢れ出した血が睫毛を濡らすせいなのか、それとも涙が溜まっているせいなのか、クラピカにはもう分からない。

どこが痛いのかももう分からない。

どれだけの時間が経ったのかももう分からない。

ただ、自分が失敗したことだけはよく分かっていた。

 

男達の下品な笑い声が遠い。

ああ、何も成せずに終わるのか。

とっくのとうに目から飛び出していたコンタクトレンズが、ひしゃげて地面の上で震えているのが視界に入る。

今の自分はあのコンタクトレンズと同じだ。

殴られ蹴られ、為す術もなく地面に転がされている。

 

「···すま、ない。」

目を抉り取られた同胞達の虚の眼孔が脳裏に映る。

必ず仇をとると、復讐を成し遂げると、そう誓ったというのに。

 

「すまない······。」

苦悶の表情で血溜まりに顔を浸らせた同胞達の背中が脳裏に映る。

その無念の思いを晴らしてみせると、そう誓ったというのに。

 

 

「もう良いだろ。取っちまえ。」

髪を掴まれてグイッと顔を上げさせられる。

今度は地面ではなく灰色の天井が見え、それを背景に男の手が迫る。

ああ、これで終わりか。

終わりなんだろうか。

······嫌だ。

そんなのは嫌だ。

まだ何も成し遂げていないのだ、まだ何も!

 

熱を失いかけていた目に再び力が宿り、体が力を振り絞っているのを感じる。

顔だけをどうにか動かし、近付いてきた手を思いっきり噛みちぎる。

不味い肉と血の味を吐き出すと同時に、頬に酷い衝撃がはしる。

殴られたのだろう。

ジンジンとした痛みと男達の怒号が頭を揺らす。

 

「押さえつけろ、遊びは終わりだ!」

クラピカの最後の抵抗に苛立ったのか、低い鋭い声が響いたと同時に男達が一斉にクラピカの体を押し潰す。

血で妙に温かい床に押し付けられ、手足も全て引っ掴まれて、頭を動かすことさえ許されない。

再び手が近付いてくるが、今度は瞼をギュッと閉じてやる。

まだ終わらせてなるものか······!

 

 

 

「遊びは終わり、ね。

ふぅん、そうなの。なら今度は私と遊びましょう?」

 

聞き慣れた声が、鈴を転がした様な声が、目を閉じて真っ暗な筈のクラピカの視界を照らし出す様に彼の鼓膜を酷く揺らす。

ガラスが所々割れて気密性があまり無い廃墟の筈だが、やけにその声は響き渡った。

突然の乱入者に男達の動きも止まっているらしい。

それを肌で感じ取ったクラピカはそっと目を開ける。

 

殆ど沈んでしまった太陽のせいで薄暗い中でも、ミメイの紫の髪は淡く輝く。

その光の方をぼんやり見やれば、いつもの様に微笑を浮かべた彼女と目が合った。

「······ふぅん?」

小首を傾げながらクラピカの全身にさっと目を通し、それからクラピカを取り囲む男達の顔を見渡した。

それから小さな赤い唇をパカリと開く。

「貴方達が幻影旅団」

「ああそうだ。お嬢ちゃん、こんな所に何しに来たんだ?」

舐め回す様にミメイの全身を見て、ねっとりとした声で男が問いかける、が、

「の、偽物さん?」

続いたミメイの言葉に、男の顔色が変わる。

 

「貴方のその刺青、確かに幻影旅団の特徴の蜘蛛ね。」

何を、と戸惑いと驚きで目を見開く男達の1人の二の腕に描かれた蜘蛛。

一瞬でミメイは目敏く発見したらしい。

「でもね、その蜘蛛には番号が無いの。

本物は蜘蛛の部分に団員ナンバーを刻んでいるらしいわ。」

例のボスから頼まれた標的を軽く拷問してみた所、思いがけない情報を得られたのである。

私って運が良い、とクスクス可愛らしく笑いながら、軽い足取りでミメイはクラピカ達の方に近付いてくる。

途端男達が弾かれた様に警戒を始め、得物を構えるがミメイは動じない。

 

 

「それなりにやるみたいね。」

ミメイの体からぶわりと何かが溢れ出し、それに呼応する様に男達の周りの空気も膨らむ。

クラピカには何が起こっているのかよく分からず、ただなんとなく感覚的に捉えていた。

しかし偽幻影旅団は幻影旅団の名を借りるだけあって、皆それなりに鍛えた念能力者である。

先程ミメイが拷問の後呆気なく首をはねた、暗殺の標的だった爆弾系の念能力者(笑)とは大違いだ。

「久し振りに骨がありそう。」

ペロリと舌を覗かせて、ミメイは腰の刀に手を当てる。

それを合図に、今までとは少し様子が違う男達がミメイに飛びかかる。

 

美しい女であるミメイに向けていた下品な目線は最早無い。

目の前にいる(ミメイ)を見て、目を血走らせている。

寄って集っていたぶるようなことはせず、前衛役と後衛役、見事に分担してミメイに一糸乱れぬ攻撃を仕掛けている。

まあそれら全てを刀でいなすミメイの方が化け物だが、とクラピカはこの状況下に似合わない笑みを浮かべた。

 

クラピカの体を寄って集って滅多打ちにしていた屈強な男達が、ミメイ1人に翻弄されている。

拳も蹴りもナイフも銃弾も、クラピカを傷つけた全てはミメイにはさほど効いていない。

10人程を同時に相手にしたとしても、その顔からいつもの笑顔は失われない。

また助けられてしまったな、と血の味しかしない口からクラピカは笑いを漏らした。

 

 

「なるほどな。そういうことかよ。」

戦闘に参加していなかったリーダーと、クラピカの頭を掴んだままの男は、どこか落ち着いたクラピカの表情から感じ取ったらしい。

「あの女、お前の何だ?」

容赦なく頬を張られ、また新しい傷が口の中に出来る。

「···関係ない。彼女と私には何の関係もない。」

掠れながらもはっきりと口に出す。

せめてミメイの足枷にはなるまいと思い、何を言っているんだと小馬鹿にした演技を交えながら否定した。

 

「演技が下手だな、お坊ちゃん。」

「嘘ではない。私は彼女を知らない。何の関係もない。」

「何の関係もない女が、単身ここに乗り込んでくると思ってんのか?

はっ、もしそうならどんな気狂いだよ。」

クラピカの言葉を信じる気は更々無いらしいリーダーの男はナイフを取り出して、その鈍く光る刃先をクラピカの首に当てる。

「どんな関係かは知らないが、お前には人質の価値があるってことだろ?」

「流石リーダー!

緋の目だけじゃなく、あの女も売り払ったら金になりそうだしな!」

他はそうでもないようだが、リーダーはそれなりに頭がきれるらしい。

くっと奥歯を噛みしめて、男達を睨みつける。

 

「喜ぶのはまだ早いぞ。

あの女、もしかしたら緋の目と同じ価値を持つかもしれねぇからな。」

「どういうことだ?」

リーダーの言葉に首を傾げたまま、クラピカの頬をもう1発殴る男。

それに声を出さないのをせめてもの抵抗としているクラピカは、リーダーの視線の先を探る。

「髪だ、あの女の髪。

緋の目と同じく世界七大美色だろうよ。」

薄暗闇の中で淡い光を集める紫の髪。

戦うミメイと共に、華麗に空中で舞っている。

 

「古い文献でしか見たことが無かったんだがな、ありゃあ本物だ。

秘境にコソコソ隠れ住んでたが、クルタ族よりずっと昔に滅んだ民族、そいつらの中でも女だけがあの紫の髪を持っていたらしい。

世界七大美色でしかも女、見つかった途端乱獲されただろうさ。

だからもう、生き残ってる筈がないと思ってたぜ。」

そんなまさか、と動きそうになる唇をクラピカは必死に歯で押さえ込んだ。

クルタ族以外にも世界七大美色を持つ民族がいて、しかも同じ様に滅ぼされたと?

そしてその民族の系譜を持つのがミメイだと?

 

 

「リーダー、あの女が生き残りだって?

そんな都合の良いことが有り得るのか?」

クラピカと同じ様に疑問を抱いた男が問う。

「俺は1回博物館に飾ってあった鑑定書付きの本物を見たことがあんだよ。

緋の目程目立たないが、他とは違うあの妖しい輝き。

灰色がかった紫だとよく表現されるが、他の色の名前を付けたくなる不思議な曖昧さ。

パッと目を惹く訳じゃねえが、視界に入ったら何故か目でついつい追いたくなる。」

そう言いながら、3人がかりで押さえつけようとした男達をまとめて投げ飛ばすミメイをじっと見ているリーダー。

 

「分かるぜ、リーダー。俺にもあの髪が変に綺麗なのは分かる。

んじゃ、この坊ちゃんを人質にあの女を捕まえりゃ良いんだな。」

リーダーがクラピカに当てているナイフを受け取り、ニタニタ笑いながらクラピカの頸動脈辺りに刃先を添わせる男。

少しでも動けば切れそうである。

隙があればと赤い目を光らせるクラピカだが、床にうつ伏せにさせられて腕を捻り上げられた為まともな抵抗が出来ない。

その上背中に筋肉隆々な男に乗られてしまえば、もうどうしようもない。

クラピカに出来るのは自分のことは捨て置け、とミメイに願うのみである。

 

 

「ああ。あの女は相当強い。

このままやり合っても平行線だろうからな。

とっとと終わらせるぞ。」

リーダーは懐から拳銃を取り出し、間髪置かずにミメイに向かって3発撃つ。

ミメイに殴りかかっていた男達は、リーダーとの長年の付き合いのお陰かは知らないが、先に打ち合わせでもしていたかの様に上手く銃弾を避ける。

ミメイもリーダーが自分に狙いを定めた時発した殺気を感じ取り、1発目は咄嗟に体を捻って避けきった。

2発目は足を狙っていたが、その弾はわざと避けず、脳天目掛けて飛んでいた3発目を刀で叩き斬るのにエネルギーを割いた。

 

もし2発目に対処していたなら、致命傷となりうる3発目を捌ききれなかった。

直前まで多くの手練の相手をしながら、僅かな殺気を感じ取ってから一瞬で弾丸の軌道を読み、致命傷だけは避けるようにしたミメイの対応は最善だっただろう。

 

 

「邪魔するの?猿山の大将さん?」

銃弾を斬る為に下に振り下ろし、勢い余って地面に軽く突き刺さった刀を引っこ抜きながらミメイは煽る様に口角を上げた。

髪が乱れようとも服が乱れようとも、体の所々に傷をこさえようとも、ミメイの姿は変わらず美しい。

いや、だからこそ美しい。

獰猛な獣の様に、狂った鬼女の様に、ミメイは両方の目を光らせる。

 

誰かを斬ったのだろう。

刀に付いたその血を払えば、灰色の地面に飛び散る赤。

それをグリグリ踏みつけながら、笑うミメイは実に蠱惑的だった。

 

「私は楽しいの。とっても楽しいの。

久し振りに強い人間と殺し合えてるの。

私、そういうの大好きなんだから。

あはは、今ならクーさんと本気で殺り合っても良いかな。」

宵闇の中で薄く、ミメイの目に紅が映ったような気がクラピカにはしたが、瞬きをすればぽっかり浮かんでいるのは普通の茶色い瞳のみ。

 

「ねえ邪魔しないで?」

白刃に自身の指を滑らせて、その薄く切れた指から漏れた血を舐めとる。

ミメイは血に飢えていた。

吸血鬼の吸血衝動とは違う。

鬼を心に宿す故の狂気、それが命をかけた戦闘により呼び戻されているのである。

鬼に心を喰われようが、喰われまいが、ミメイの精神構造は既にぶっ飛んでいる。

本人の自覚があまりないだけで。

 

「取引だ。刀を捨てろ。」

「遊びましょう?もっともっと遊びましょう?」

話が通じない。

リーダーの勧告にも耳を傾けず、無垢な少女の様に刀を二三度振って構え直す。

 

「女、お前が刀を捨てて投降しねぇなら、こいつを殺す。

今殺す。

お前の目の前で殺す。」

そこで初めて、ミメイはクラピカに気付いたらしい。

床にうつ伏せになり、髪を掴まれて頭を上げさせられ、首筋にはナイフを当てられ。

抵抗のしようがないクラピカがいることに。

何の反応もしてくれるなよ、とクラピカが目で訴えかければ、それに対しミメイはニッコリと笑う。

 

「あら、あらあらあらあら。

ふぅん、そんなことしちゃうんだ。へぇ。」

おもむろに刀を投げ捨てる。

次いで腰に下げていた鞘も放り投げる。

すっかり丸腰になったミメイは、空の手を男達の方に見せつける。

どうかしら?と言わんばかりのその行動に、思わずクラピカは叫んだ。

「お前は馬鹿か···、馬鹿なのか?!」

知り合いではないと否定していたのも忘れ、ただクラピカは枯れた声を吐き出した。

 

「馬鹿とは失礼ね。

にしても最近貴方、私に対して容赦ないわよね。

馬鹿とか阿呆とか、よく言われてる気がするわ。」

悲しいわ、と嘘くさい泣き真似をする。

「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い?!」

「馬鹿って言った方が馬鹿なのよ、ばーかばーか。」

「子供か!」

今がどんな状況かも、正直絶体絶命なのもどこかに吹っ飛ばした様に、軽口を叩き合う2人。

知らずとクラピカの張り詰めた様な緊張感は少し解けていた。

 

 

「仲良い姉弟だ。

坊ちゃん、良い姉ちゃんを持ったなぁ。

姉ちゃんに感謝しねえとなぁ。」

クラピカにナイフを突き付けている男がねっとりとした猫撫で声で言った。

「あれは姉じゃない!」

「同感。妹は好きだけど、私男兄弟にあんまり良い印象無いのよね。

だから弟は要らないの。

馬鹿な兄さん達で間に合ってるわ。」

口々に不平を漏らす。

 

ミメイとクラピカが会話を始めた瞬間、この空間がすっかり緩んでしまっている。

これには男達も戸惑いながらも大いに苛立ち、特に冷静沈着タイプのリーダーは特に気に障ったらしい。

ミメイを睨んでいるクラピカの背中をげしりと踏みつける。

虫でも踏み潰すかの様に念入りに。

 

途端ゴポリと唇から赤い血を漏らし、酷く咳き込むクラピカ。

咳の度に赤が散り、灰色の地面に鮮やかな花が咲く。

内臓が損傷している上に呼吸を阻害されれば一溜りもない。

苦悶の声さえ上げられず弱々しく血を吐くその姿に、ミメイの目が険しくなる。

それを見てリーダーは満足げに笑みを深めた。

「それだよ、その顔だ。

俺はそれが見たかったのさ。

この坊ちゃんを人質に取られて、お前が悲壮感を滲ませた顔をするのを。

そんでそんなお前の前で、人質を殺すのが最高に楽しみでたまんねぇよ。」

グリグリと背中を踏みつける。

 

さあさあさあ、更に悲しめ苦しめ!

そんな奴の前で人質を殺せば、もっと悲惨な表情になるからな。

俺はそれが1番大好きなんだ。

ガキは殺しても構わねえ。

目だけ取れれば後はどうでも良いんだからな。

さあ女、俺に今の顔を見せてみろ!

ガキの命乞いでもしてみろよ!

 

リーダーは先程までの冷静さを失い、きゃははははと若い女の様な高笑いをする。

それほどまでにミメイの悲しみで歪んだ顔を、苦悶の表情を見たいらしい。

確かに普通の女なら、ここで心を折られて泣き叫ぶだろう。

命乞いでも何でもするだろう。

武器は既に捨て去った。最早なす術はないのだから。

 

だがリーダー含む男達は皆一様に失念していた。

そんな普通の女がそもそも単身乗り込んできて、狂った様に刀を振るうだろうか。

いや、そんな筈はない。

ミメイは普通の女ではないのだ。

刀を捨てたのだって、鞘まで捨てたのだって、単に邪魔だったからである。

これから本気で遊ぶのに、殺し合いをやめて殺すのに、クラピカの命を救うのに、邪魔だったからなのだ。

恭順の意を示したつもりは毛頭ない。

 

 

「······そう。それで終わり?」

可愛らしく小首を傾げて、ミメイはふふふと笑いだす。

「貴方達の最期の言葉はそれで大丈夫かしら?」

「は?」

目の前の女が何を言っているのか全く分からない。

ぽかんとした男達の前でミメイは笑う。

とても追い込まれた人間には見えない。

 

「嫌だったんだけどなぁ、鬼呪使うの。

使えば使う程、タマの鎖が緩んでいくし。

けどこの状況じゃ、憑依させないとどうしようもないし。」

あーやだやだ、と楽しそうに悲しそうに文句を垂れる。

「でもでもでも、仕方ないのよね。

だって私、とっても怒ってるの。

折角殺し合い程度にしておいてあげたのに、貴方達がクラピカを人質なんかにして脅すから。

あーあ、もう殺るしかないじゃない。」

歌う様に、小鳥が歌う様に、ミメイはその涼やかな声を響かせる。

 

ミメイが全身から放つ異様な雰囲気に男達は圧されている。

動くことも出来ず、何を言うことも出来ず、今やこの場所はミメイの独壇場だった。

それほどまでに、今のミメイは異様だ。

いや今までも十分だったのだがそれとは比べ物にならない。

クラピカは出会った当初ミメイの向こう側に見た赤い目の“何か”を思い出した。

 

 

 

そしてミメイは口にする。

既に人間をやめかけて化け物の方に足を突っ込んでいるミメイが、ちゃんと化け物に引きずり込まれる魔法の言葉を。

 

 

「おいで、“鬼宿”。

私の体をあげるから、私の心をあげるから、私の血をあげるから、だから私に力を寄越せ。

さあ、私に宿れ······“鬼宿”!」

 

途端、嫌な気がミメイから放たれる。

念能力者である男達は、これがオーラとは全く違う触れてはならないものだと直感的に理解する。

 

彼等の揺れる視線の先には、ぽっかりと赤い目が2つ。

滴る血潮の様に鮮やかに禍々しい赤が浮かんでいた。

そしてその下の唇が、半月の弧を描いた。

 

 

 

 

 




ミメイちゃん覚醒。
鬼宿は特殊な鬼ですが、暫定黒鬼シリーズの憑依タイプです。
具現化的なことも条件が揃えば出来ないことはありません。

戦闘描写中にに念能力とオーラについてのことがほぼ書かれていませんが、ミメイも偽幻影旅団さんもちゃんと念を使っています。
偽旅団さんは四大行はしっかり出来ますし、必殺技なんかも使っています。
ミメイの方はそもそも鬼の力で人間の何倍もの力を持つ為、あまり念に頼っていません。
ちょいちょいなんとなく使ってるかなー、という程度です。
絶は大得意で大好きなミメイちゃんですが。






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15:破滅の鐘を鳴らせ、終わりの道を示せ

誤字報告ありがとうございます。





ミメイは怒っていた。

何にかは分からない。

 

楽しい殺し合いを邪魔されたから?

足を撃たれたから?

お腹が空いたから?

分からない。

けれど、クラピカが地に倒れ伏し力なく血を吐く姿を見た瞬間に、それが昔のグレンに重なった。

 

真昼とミメイとグレン、3人での密会が白昼の元に晒され、柊家の人間に殴られるグレン。

真昼とミメイは何も出来ず、ごめんなさいと謝るしか出来ず、暗い瞳をしたグレンの前から連れ去られた。

 

ただ、力が欲しいと思った。

グレンが殴られず、真昼が泣かない為の力が。

真昼とグレンと自分が自由に生きていける場所を手にする力が。

そのミメイの欲望を見逃さない鬼宿に喰われかけたのは良い思い出である。

そう、ミメイは力を簡単に手にする手段を目の前にぶら下げられながらも、鬼に自分が喰われて殺されてしまうという恐怖から、その手段を拒絶し鬼の制御を始めたのだ。

 

最低限の欲望のみを与えて鬼を飼い殺し、その範囲内で得られる力のみを行使していた。

だから、欲望を抑えず鬼を暴走させた真昼には最後まで力及ばなかった。

全てを救いたいという夢物語を本気で叶えようとしたグレンも、その巨大過ぎる欲望故に鬼の力だけで見ればミメイの上をいってしまった。

 

 

昔、鬼呪の研究に協力していた時に兄の暮人と話したことがある。

鬼を完全に制御し、その力全てを行使することは可能なのだろうかと。

ミメイはやんわりそれを否定した。

長年鬼と付き合ってきた自分であっても、いくら鎖で縛ろうとも、少し気を抜けば鬼に喰われてしまうから。

しかし暮人は可能だと断言した。いや、してみせると宣言した。

それに対して優柔不断で怖がりな私と違って、暮人兄さんは雷の様な強さを持っているからそんなことを言えるのね、と笑った記憶がある。

 

ミメイは真昼やグレンの様に鬼を暴走させるという間違った(正しい)道を選べなかった。

かといって暮人の様に圧倒的な力で鬼を制御しきるという正しい(正しい)道も選べなかった。

優柔不断で怖がりだから、どちらも選べず誰も選べず何も選べない。

だから誰も救えない。

自分()ばかり縛って、結局掌に残っているのは虚しさだけ。

 

そんな虚しさが、少しずつ安らいでいたのは何故だろう。

最近少し、この世界が楽しいと思えるのは何故だろう。

吸血鬼になって感覚が鋭敏になった訳でもないのに、世界を鮮やかで賑やかに感じるのは何故だろう。

 

 

自身の心を映し出す白い世界の中、ミメイは地面を踏みつけて波紋を描き出す。

その波紋の間からゆらゆらと現れるのは忌々しい鬼の姿。

ミメイの心が乱れているこの時を、激しい怒りを感じているこの時を鬼宿が見逃す筈がない。

 

『ねえ未明、人間はそれを××と呼ぶんだ。』

 

ジャラジャラと鎖を引き摺る音を引き連れて、鬼宿がミメイの背後から抱きついてくる。

しかし鬼宿が言っていることがよく聞こえない。

こんなに近くにいるのに。

鬼の制御に差し障りが出る鬼からの誘惑には、鎖の効果で自動的に消音されることがある。

実際にそうされたのは初めてに近い気がするのだけれど。

 

『君がそう思うのはどうして?

世界が色鮮やかに見えるのはどうして?』

 

分からない。

私には分からない。

いや、分かりたくない。

分かってはいけないのだと警報が鳴り響いている。

けれど、もう限界なのだとなんとなく分かった。

 

『思い出して。君が忘れてしまったことを。

君は誰が××だった?君は誰に××していた?君は誰を××していた?』

 

私は、真昼とグレンと、深夜と、シノアと、仲間達と、それから暮人兄さんが大切だった。

皆を守りたかった、皆を救いたかった、皆を助けたかった。

真昼の王子様になりたかった。

グレンのお姫様になりたかった。

深夜が義兄なんてポジションにいるのは嫌だった。

シノアの良いお姉ちゃんでいたかった。

仲間達とゲームして、ご飯食べて、そんなのをもっとしたかった。

暮人兄さんとはもっと話してみたかった。

 

『ごめんね未明、多分もうそれは叶わないんだ。』

 

知っている。

真昼は鬼に喰われて死んだ。

グレンもきっと、世界を滅ぼした罪の重さに消えていく。

深夜や仲間達は1度ちゃんと死んでしまったし。

シノアはどうしたって柊家の檻からは逃げきれない。

暮人兄さんはまあ、頑張り続けるんだろう。

そして何より、私は彼等の生きる世界から1人放り出されてしまったから。

 

『じゃあ未明、君は今どうしたい?正直に言ってごらん?

今言わないと後悔するよ。後からじゃもう遅いんだ。

嫌という程分かっただろう?』

 

······クラピカを助けたい。

 

『その為には?』

 

······力が要る。

 

『そっかぁ。なら分かるでしょ?』

 

きゃはははははははっと甲高い声を響かせて、鬼宿はミメイの首筋に舌を這わす。

どこにしようかと品定めしているのだ。

どこから血を啜ろうかと、どこからミメイを喰おうかと思案しているのだ。

 

『抵抗しないんだね。』

 

貴方から力を奪ってから抵抗してあげる。

貴方に喰われたとしても、鬼に喰われたとしても、一度に全てをくれてやるつもりなんか更々ない。

真昼やグレンの様に鬼の力を最大限に行使して、暮人兄さんの様に制御下に置いてみせる。きっと。

せめてそう意気込んでおきたい。

 

『あはは、出来るのかなぁ。

でも未明、僕はそんな馬鹿な君が大好きだよ。

真昼っていう前例を嫌という程知ってるのに、それでも力を求めた君が。

ま、真昼ほど早く僕に喰われきりはしないだろうけどさ。』

 

 

かぷり。

じゅるじゅる。

痛みはあまり無い。

可愛らしくも生々しい音が頭に響くのみ。

真昼に直接吸われたのとは違う。

鬼の吸血行為は宿主である人間の欲望を喰い、心を蝕むものである。

痛みは無い。

ただ、自分が遠くなる。

一瞬で視界が真っ暗に染まっていき、変な浮遊感に襲われる。

昼から夜へ。

二度とあけない夜へと世界がくるんと回転する。

 

今の今まで必死に拒んでいたというのに呆気ないものだ。

自分の中に鬼を自覚して十数年。

喰われかけても、暴走させかけても、鎖で押さえつけてきた。

それはこれからも変わらない。

変わらないけれど、1度開けてしまったパンドラの箱を再び閉じることは出来ない。

いくら鎖で鬼を縛ろうとも、じわりじわりと心を侵食されて、きっといつかは私という存在は消えゆくのだろう。

 

鬼と混ざり合い鬼となった私は、私なんだろうか。

それは私なんだろうか。

ああ、ああ、私が消えていく。

白は黒に犯されて、殺されていく。

ああ、でも。

 

 

鬼宿が深く穿っていた牙を抜き取る。

今や純粋な白さを誇っていた世界はどこにもない。

あるのは黒よりも深い黒のみ。

それが嫌だったのに。

何よりも嫌だったのに。

何が何でも白を保たなければならなかったのに。

 

でもきっと、今力を求めなければ後でずっと後悔する。

それだけは分かるのだ。

シノアを見捨てないのと同じ様に、クラピカを見捨てられないと前言った。

けれど結局、私はシノアを見捨てたのだ。

あの可愛い妹を柊家から守りきれずに、私は1人あの子の前から消えたのだ。

力が無いばかりに。

柊家に抵抗する力が無いばかりに。

真昼でさえ抗えなかった強大な柊家を、私がどうこう出来たとは思えない。

運命には抗えないと分かりきっていた。

けれども、私はどうもしなかった。

どうもしようとしなかった。

それが今になって、痛みを孕む後悔になっている。

 

だから私は、今度こそは本当の意味で見捨てたくない。

クラピカを見捨てたくない。

誰の為でもなく、シノアへの償いでもクラピカへの義務でもなく、ただ私は助けたい。

そして私は、どうしてこんなにも貴方を助けたいと望むのか、そんな貴方は私にとって何なのか、知りたいのよクラピカ。

 

 

『うわあ熱烈。

ま、クラピカの為なら僕に喰われるくらいだもんね。

ね、これが××だと思うんだけどなぁ。』

 

鬼宿の言葉にノイズが混じる。

いや混じっていなければならない。

このノイズが消えた時、この感情の名前が分かった時、きっと私は鬼になる。

真昼と同じ道を辿るのみになる。

だから必死に欲望が渦巻く自分自身を押さえつけ、鬼宿を鎖で縛りつける。

 

殺せ殺せ殺せ殺せ!

全て殺せ!皆殺せ!

犯せ、全てを犯しつくせ!

蹂躙して斬って、侵食して斬って。

壊せ壊せ壊せ壊せ!

目に入ったもの全て、壊してしまえ!

 

純粋な破壊衝動を、脳髄に甘い痺れ薬を散布したらしい欲望を捻じ曲げて。

表面に出てこようとする鬼を押し込めて。

新しく得た鬼の力を憑依させて、瞬きをする。

何度も何度も。

頭を割る激流の様な欲望は無視して、真っ黒になってしまった心象世界を剥がしていく。

少しずつ現実へと引き戻される慣れきった感覚を覚えながら、力を顕現する為の魔法の言葉を口にする。

 

 

 

「おいで、“鬼宿”。」

その言葉を鍵に、右掌に禍々しい黒を集めた刀が現れる。

そしてそれを空気を薙ぎ払うに横に振る。

たったのその一動作だけで、歪んだ空気をぶつけられた床が割れる。

ひぃと声にならない声が、視線の向こう側にいる男達から聞こえる。

それに対してミメイはニッコリと心から笑い、今度は雷を落とす様に刀を床に突き刺した。

途端刀を中心にパキパキと子気味良い音が発生し、もう一押し刀を押し込めば床に大きな亀裂が入る。

 

鬼の力は強大だ。

普通の人間の何倍もの力を発揮出来る様になる。

勢いよく床に刀を突き刺しただけでビル1つ程度簡単に壊せそうだ。

そうして人工的に地割れを起こしてやれば、足元に亀裂が入ったことに気付いた男達は這う這うの体でこの部屋から出て行く。

その中でもヤケクソの様に飛びかかってきた何人かを邪魔だと言わんばかりに斬り捨てて。

勢い余って首以外も色々斬り離してしまったらしく、ベチャベチャと嫌な音が床を汚す。

 

 

殺せ殺せと叫ぶ欲望に従えば逃げだした男達を追って始末するのが先だがその欲望を抑え、既に崩れ始めている床に転がったままのクラピカの体を小脇に抱える。

痛い所を掴まないようにとの配慮は出来なかった為呻き声が聞こえるが、ひとまず階下へと落ちていく床の残りを蹴ってこの部屋から脱出する。

 

非常階段を駆け下りていれば、ガラガラガシャンと派手な音がビルの中から聞こえてくる。

元々廃ビルだったのだ。

それ以上壊しても問題あるまい。

投げ捨てた刀と鞘のことをふと思い出したが、今更取りに行く必要もないだろう。

今のミメイの手には、それ以上の名刀であり妖刀である“鬼宿”があるのだから。

 

階段の途中で腰を抜かしている男を発見した為、刀をひと振りしてその首をはねる。

ゴロンゴロンとその生首が階段を転がり落ちていくのを乗り越えて四段飛ばしで駆け下りる。

 

偽幻影旅団には、クラピカがされたことを倍にして返してやりたいくらいだ。

酷い破壊衝動もそうしろと訴えかけてくる。

だが今はそんな暇はない。

力加減を色々と間違ったせいか、ミメイが地割れを作った階だけではなくこのビル自体が崩れていっている。

ミメイだけならばビル崩壊に巻き込まれても痛くはあっても痒くはない。

カサブタを作る暇もなく全て治るのだ。

しかしただでさえ満身創痍のクラピカはそうもいかない。

折角助けたというのに、ミメイのせいで死に追いやってはなんの意味も無い。

 

 

無事ビルから脱出してそこから少し距離を取れば、まとまって逃げている偽幻影旅団の残党を遠くに見つける。

ミメイの足ならばすぐに追いついて、瞬きの間に彼等の命を奪えるだろう。

たとえその姿が見えなくなったとしても、驚異的な聴力のお陰で即発見は可能だ。

 

小脇に抱えたままのクラピカの体を、崩壊しているビルから離れた安全な場所に横たえさせる。

どうやら意識は辛うじてあるらしい。

ミメイが覗き込むと、顔を歪めながらも薄く笑った。

その笑みが何の笑みかは分からない。

どうして彼が笑ったのかも分からない。

それでもその笑顔を見て、何故か鼻の奥がつんとする。

 

と同時に、目の前で横たわるこの少年を殺してしまいたいという激しい欲望が湧き上がる。

酷いものだ、鬼のせいで犯された心というのは。

誰彼構わず壊して、殺して、犯して、潰して······そんな風にしてしまいたくなる。

そんな自分が嫌で嫌で、でもその衝動は甘美な誘いで。

迷わず舌で舐め取り味わいたくなる上等な砂糖菓子の様な誘惑なのだ。

 

「···ミメイ、」

「クラピカ。」

掠れた声で名前を呼ばれたからそれに返して。

その瞬間心を埋め尽くし、頭の中でグルグルと渦巻く欲望に見ないふりをして、右掌に握りしめた刀を更に強く縛るように引っ掴む。

 

「目が、赤いな。私と同じだ···。」

そう言ってミメイの方に手を伸ばすクラピカの目も赤い。

激しく燃えながらも、今にも絶えてしまいそうな炎。

その消える直前の苛烈さを滲ませた色だ。

世界七大美色として求められ、狩り尽くされるのも分かる儚くも強く、どこまでも美しい輝きだ。

 

虚空を掴むクラピカの手をミメイの空の左手が受け止める。

掌越しに伝わるクラピカの鼓動は、止まる気配がないと判断出来るくらいに規則正しい。

 

「私の目、赤くなっちゃったのね。」

恐らく赤くなっているのは、赤い目を持つ鬼宿を身に憑依させているからだろう。

憑依を解けば元の茶色に戻るのだろうが、それでは余計にクルタ族の特徴と似通ることになる。

いっそのこと、クルタ族の生き残りが紫の髪を持つ女だという噂を流してやろうか。

そうすればきっと、クラピカを狙う馬鹿の数もグッと減る筈だ。

ああでもそうする前に取り敢えず、命知らずの馬鹿を始末しなければ。

 

耳をすませば荒々しい足音が後ろから迫ってきているのが分かる。

1度ミメイから離れたせいか、鬼から離れたせいか、本能的に感じた恐怖がどこかへ行ってしまい、代わりにやらかしてくれたミメイに対する怒りが湧いてきたのだろう。

怯えて逃げ続ける程弱い人間ではなかったらしい。

やはり念を覚えている人間はそれなりに骨がある。

ミメイが追わずとも自分達から来てくれて手間が省けたというものだ。

 

 

「クラピカ、私は今から私の為に殺すから。

誰の為でもなく貴方の為でもなく、私は私の為に彼等を殺す。」

彼等を殺しさえすれば、この酷い欲望も少しは収まる筈だ。

そしてそれをクラピカに向ける危険を回避出来る筈だ。

「偽幻影旅団は貴方の仇じゃないもの。

だから私が好きに殺しても良いでしょう?」

「···ああ。」

苦悩を滲ませた色を見せ、前回緋の目を狙うならず者をミメイが始末した後の様に唇を噛みしめる。

ついついそんな彼の左手に軽く爪を立て、薄ら滲み出る赤に欲望が湧き上がる。

 

「私が殺したいから殺すのよ。

貴方を殺したくないから殺すのよ。

私の意思で奴等を殺す。

だから貴方は何も気に病むことは無い。」

クラピカの左掌に食い込ませた人差し指で、たった今彼の皮膚に付けた傷を優しくなぞる。

彼の目と同じ美しい血の赤が、ミメイの視覚を、嗅覚を、全ての感覚をグラグラと揺らす。

自分は吸血鬼ではない筈だが、彼等が抱くのであろう興奮と同種のそれが腹の底から体全体を痺れさせる。

 

「うふふふ、あは、あはははは······!」

興奮が嬌声として口から吐き出される。

どうしたら良いのか分からない破壊衝動が体を支配して。

目の前で横たわる無防備なクラピカを今にもぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。

しかしそれは駄目だと叫ぶ無けなしの理性に従い、ミメイは彼の手を離して立ち上がる。

 

 

「“鬼宿”。」

右手の黒い刀を構え直し、四方八方から飛びかかってくる男達を見据える。

『みんな殺しちゃえ。早く殺しちゃえ。

みんなみんな、ぜんぶぜんぶ、君の好きなようにするんだ。』

甘い声がミメイの全身を纏い、血が燃え上がる様な感覚を覚えた瞬間力が溢れ出す。

呪詛が全身に回っているのだろう。

そして小さく深呼吸して。

さっきまでクラピカの手を握っていた左手で胸を押さえ、1度、2度、3度、呼吸を整えて。

 

「みんなみんな、ぐちゃぐちゃにしてあげる。」

おもむろに刀を振り下ろし、それにより生まれた風圧のみで宙を飛んでいた矢を払い落とす。

それから勇敢にも素手でミメイに殴りかかってくる男に視線を向けた瞬間、独りでに体が動き刀が男の心臓を貫いていた。

どくん、と生命の音を紡ぐその振動が刀からミメイに届く。

 

男は既に絶命しているようだが、持ち主とは違って心臓はまだ少し動いている。

その命の音色が心地好く、ついつい男の体を刀で貫いたままその刀を振り回す。

男の巨体で飛び道具や飛びかかる男達を払い除け、砲丸投げの様に遠距離攻撃をしかけている敵目掛けて巨大な死体を吹っ飛ばす。

遠くから悲鳴と蛙が潰れた時の様な可愛らしい音が聞こえた。

 

「あはは、ほら。ほらほらほら、もう2人死んじゃった!」

情欲を誘うような赤い唇から笑いを漏らしながら、一方的な蹂躙を続ける。

途中再度クラピカを人質にしようとした男もいたが、クラピカに伸ばしたその手を斬り落としてやってから脳天に刀を貫通させた。

クラピカが汚い血を浴びないようにした代わりに、ミメイの白基調のセーラー服は赤に染まる。

 

すっかり日は沈んでしまった。

ぼんやりちかちか光る街灯の下では、瑞々しく艶々した赤色が目立つ。

血。臓物。血。臓物。

そしてミメイの両の目。

陶器の様にしっとりとした白さを誇るミメイの肌が、余計にそれらの赤を引き立てる。

 

 

「あとは貴方だけね。」

ほんの数分の虐殺の後、たった1人残された偽幻影旅団のリーダーの首を掴み上げる。

流石はリーダー、巧妙に逃げ回りながらメンバーに指示を飛ばしていたが、ミメイの前ではただの捕食される側である。

その怯えきった目を、恐怖で筋肉が麻痺した顔を、微笑みを浮かべて見つめるミメイ。

ともすれば愛しいものを見る時の慈愛のこもった表情の様にも見えることだろう。

いや、事実ミメイは今自分に生殺与奪権を握られているこの男が愛しい。

自分の破壊衝動をぶつけられる為に生きていてくれてありがとう。

そんな優しい愛情を抱いている。

 

「あはは、ばいばい。」

首を掴んでいた手をその上にずらし、頭を鷲掴みにする。

時には意識的にオーラを操作しておくかと思い立ち、頭を掴んでいる手にオーラを集める。

鬼呪で強化された身体能力をオーラで底上げすれば、ストレス解消になるあのプチプチを潰すよりも簡単に男の頭は潰れるだろう。

それこそプチッと。

 

そしてオーラを集めた手にキュッと力を込め、掌の中がぐちゃっとしたのを存分に味わってから、そのぐちゃぐちゃを地面に叩き捨てる。

頭が潰れたその体を乗り越えて、血と臓物と人間の残骸を踏みつけて、ミメイはクラピカの元へ向かう。

一歩一歩足を進めれば、少しずつ破壊衝動が収まってくる。

これだけ派手にやったのだ、少しは満足出来ただろう。

刀を霧散させ、ほぼ解いていた鬼宿の鎖を再びきつくする。

全身を巡る呪詛が心の中に巻き戻り、すっと体が冷えていく。

 

 

「終わったわ。」

すっかり落ち着いたミメイはクラピカの顔を覗き込むが、彼の瞼は閉じている。

安らかではないにしろ呼吸が聞こえることから、いつからかは分からないが気絶してしまったのだろう。

ホラーもスプラッタも真っ青な衝撃映像は、重傷者には酷だったのかもしれない。

 

ミメイはぐったりした彼の体を易々持ち上げ、血濡れの紫の髪を靡かせながら暗い廃墟を歩きだした。

鼻腔を擽るのは芳醇な血臭。

さわさわと前髪を揺らす風に乗って運ばれてくるのだ。

ミメイがぐちゃぐちゃにした偽幻影旅団のものに混ざる、甘く瑞々しい血の香り。

誰のかは分かっていた。

だが敢えて気付かないふりをする。

 

「前もこうやって運んだわね。」

腕の中の少年は答えない。

ミメイに横抱きにされ、僅かな振動に呻き声を漏らすものの目は閉じたままである。

「あの時とは色々違うけど。」

クラピカは女の子ではなく男の子だった。

ミメイは人間ではなく化け物だった。

 

 

初めから人間ではなかった。

鬼と混ぜられて生まれてきたミメイは純粋な人間ではなかった。

だがそれと同様鬼でもなかった。

化け物にもなりきれていなかった。

しかし今日、ミメイは人間をやめた。

鬼にならずとも、確実に人間をやめたのだ。

鬼でも人間でもない化け物。

それにミメイはなったのだ。

 

犠牲なくして得られる力はない。

そんな簡単で残酷な最低限のルールを、契約を呪詛を呪縛を、ミメイは知っている。

だから仕方がないことなのだ。

誰かの命を救うことを欲し、その為の力を求めたならば、人間くらいやめるのは必要経費未満だろう。

それでも決して、鬼にだけはならないとミメイは心に刻み込む。

鬼に取り憑かれ、乗っ取られようとも完全な鬼にはなるまいと誓うのだった。

 

 

だって鬼になったら、(ミメイ)はいなくなってしまうから。

 

 

 

 



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16:柊未明、16歳の破滅(一)

ミメイちゃんの過去編に突入します。
小説「一瀬グレン、16歳の破滅」のネタバレあり。
特に1、3巻です。
捏造設定、独自解釈注意です。

度々誤字報告ありがとうございます。
本当に有難いです。





「お大事に。」

そう告げてから玄関から出て行く医者。

その背中を見送ったミメイは、お見舞いの林檎を掌の上で転がす。

「全治3週間。ベッドで要安静は3日。

ま、人間はそんなものよね。」

ねえクラピカ、とベッドに横たわる彼を見下ろす。

 

偽幻影旅団を始末した後満身創痍のクラピカを連れて病院に駆け込んだ、ということはなく、懇意にしているマフィアのボス紹介の医者をマンションに呼びつけた。

医者がクラピカの処置をしている間に、旅団は偽物だったが全て殺したとそのボスに連絡すれば、呆れ声で少しの休みを言い渡された。

ミメイが勝手にやったことである為報酬は出せないが、代わりに有象無象供の面倒な依頼は断ってくれるらしい。

ミメイとしてもクラピカの看病をすべきだろうかと迷っていた所だった為、渡りに船だった。

 

「···。」

クラピカはムスッとして、ミメイを睨むように見上げてくる。

包帯だらけの体は痛々しいが、元気ではあるらしい。

「あら御機嫌斜めね。」

「体がなまる。」

「治ったら少し見てあげるわ。

分かったでしょう?今の貴方じゃまだまだ駄目だって。」

「···ああ。」

偽幻影旅団に手も足も出なかった自分を恥じているらしい。

ミメイから視線を外し、すごすご布団の中に潜ろうとしている。

 

「寝るのは栄養とってからにしたら?

早く治すのには栄養が1番よ。」

ほら、と遊んでいた林檎をクラピカに放り投げる。

「他にもっと無いのか?」

喉の乾きと空腹をどうにかしようと、ガツガツ林檎を丸齧りしながらクラピカは尋ねた。

「今こそ私の料理スキルが発揮される時かしら。」

「やめてくれ。」

箱入りお嬢様であるミメイの料理の腕はお察しである。

傷ついた内臓が更にボロボロになる様な破壊兵器を生み出されては困る。

 

「ま、缶詰とか果物とかで我慢した方がマシだと思うわよ。

私が作るより。」

ごめんなさいと全く思っていない笑顔で、ミメイはお見舞いの籠から新たな果物を取り出す。

今度はバナナだ。

「ああ、そうだな。」

ミメイからバナナを1本受け取り、その皮を剥いて神妙な顔をしながら咀嚼する。

 

そんな彼の隣の椅子に座り、破れたセーラー服の繕いを始めるミメイ。

料理は出来ないくせに裁縫は出来るのかとクラピカは不思議に思うのだった。

スムーズに進むミメイの縫い針を見ながらバナナを食べ終えれば、最早クラピカにはすることがない。

オレンジも食べる?とミメイには示されたが、もう腹は膨れている。

 

どうしようもなく暇である。

普段ならば家事と仕事と鍛錬に勤しんでいる為、こんなにも暇だと思うことがない。

だから娯楽の類は特に必要無かったのだが、本ぐらいは持っていれば良かったとクラピカは少し後悔している。

 

 

「暇なの?」

クラピカの様子に気付いたらしいミメイが、作業をする手元から視線を外さないまま問いかける。

「ああ。」

「寝てたら?」

「それが全く眠くない。」

睡眠は十分にとったばかりである。

1日程意識を失ったままだったのだから。

 

「しりとりでもする?」

「無駄に疲れそうだな。」

「でもクラピカ、今の貴方は口を動かすくらいしか出来ることはないのよ。

何か読もうにも、今の貴方の腕じゃ読みにくいでしょ?」

確かにそうだ、右腕の骨はポッキリ折れている。

ものを食べる時には片手でどうにかなったが、本は片手では読みにくい。

それこそ疲労の原因となる。

 

「ならお喋りでもしましょうか。

一般的に女の子はお喋りが好きなのよ。」

噛み切ったしつけ糸をクルクルと長い指に巻きつけるミメイ。

その糸が彼女の白い指を鬱血させ桜色を落とす。

何でもないようなその所作が、その状態が、何故か絵になるタイプの女だとクラピカは分かっている。

だがミメイが“女の子”···か。

そのような可愛らしいものだとは到底思えないのである。

 

「···私は女ではない。」

「言葉ではそう言ってるけど、貴方の目は『お前が女の子···?』って言ってる様に見えるのは、私の気のせいかしら。

気のせいよね?」

「気のせいだ。」

しれっと躱し、ベッド脇の小さな棚に置かれた針山に手を伸ばす。

丁寧に使われているのだと見てとれるが、ミシン針まで適当に刺してあるのに苦笑が漏れる。

こういう細かい所が問題だな、と姑の様な文句が頭に浮かぶ。

 

「まぁ確かに偽幻影旅団を惨殺せしめる私なんて、女の子なんて可愛らしいものじゃないかもしれないわね。」

指に針を刺すなんてヘマはせず、手慣れた動作で針を進めながら自虐的に呟くミメイ。

「···。」

「途中気絶したとはいえ見たんでしょ?私が暴れてるの。」

血と臓物が飛び散った悲惨な現場の真ん中で見せたミメイの笑顔。

慈愛さえ感じられる、今までで1番人間味に溢れた感情豊かな笑顔。

しっかりとクラピカの瞼の裏側に焼き付いている。

 

「引いた?」

からからと笑う。

「いや。」

「本当?」

ピタリと手を止めて、クラピカの方に視線を向ける。

その赤くはない目を見つめて、クラピカはこくりと頷く。

「ああ。」

「そう。別に良いのよ、引いても。

人間をやめた私なんか人間社会の中では弾かれるのが道理だもの。」

当たり前のことの様に言葉を紡ぐ。

「お前は人間だろう。少なくとも私にはそう見える。」

何を言っている、と若干非難がましい目をミメイに向けるが、当の彼女はいつもの微笑みを浮かべるだけである。

 

 

「ねえクラピカ、少し昔話をしましょうか。」

糸が通ったままの針を針山に突き刺してから、ミメイはその長い睫毛を揺らして虚空を見つめる。

「昔話?」

「ええ。思えば私達、自分自身のことを話したことがなかったでしょう?それなりに長い付き合いなのに。」

「ああ。」

「でも私は、不可抗力で貴方の事情を知ってしまった。

それって不公平よね。

だから私、貴方に私の話をしようと思うの。」

ミメイが連れていた式神達に少しばかり事情を教えて貰ったことはあったが、いかんせんミメイの事情に関して要領を得ないままであった。

 

「何の気まぐれだ?」

今までそんな殊勝なことを言った試しがあっただろうかとクラピカは首を傾げる。

「気まぐれじゃないわよ。

気まぐれなんかで人間やめたりしないわ。

貴方の命を救うことを欲したりしないわ。」

その茶色の目に優しい感情が映る。

その頬に慈愛混じりの笑みが浮かぶ。

その赤い唇がはくりと動く。

そうして歌を紡ぐ様に軽やかに、氷上を滑る様に優雅に、ミメイは昔話を始めるのだった。

 

 

「むかーしむかし、と言っても18年くらい昔、ここからとっても遠い所で可愛い双子の女の子が生まれました──────」

 

 

 

 

 

**********

柊未明は、呪術世界で一二を争う勢力を持つ柊家当主たる柊天利の娘として生まれた。

多くの女に子を生ませる父は父ではなく、別段未明は娘として扱われたことはなかった。

鬼を混ぜた人間の子を作る人体実験の末に生まれたもの。

ただそれだけである。

当主の子である為いずれは当主になる可能性があるのかもしれないが、取り上げられた当初からそんなことは露ほどにも望まれていなかった。

 

元々未明は母の胎内で真昼に喰われる筈だった。

母の胎を舞台に自然と行われた蠱毒により、未明は真昼の糧となる筈だった。

事実未明以外の命も生まれる可能性があったのだろうが、その命を食った真昼は生まれた時から優秀な個体だと認識されていた。

その残りかす、真昼に喰われきらなかった残り物、どうしようもないオマケ、それが未明だった。

自分の力で息も出来ない脆弱で劣った個体、それが未明だった。

 

人工呼吸器をつけられて甲斐甲斐しく世話をされたとしても、1年と経たずに死ぬだろうとの診断。

だが未明は生き残った。

無意識的にその心に宿る鬼宿を叩き起し、死にたくない死にたくないと願ったのかもしれない。

真相は未明にも鬼宿にもよく分からないが、長くは生きられないとの予想を裏切って、未明は人工呼吸器から解放された。

 

それから先はよく未明も覚えていない。

言葉通り血の滲む様な訓練を強いられ、虐待の様な教育を受け、その中でも片割れである真昼が唯一の救いだった。

真昼もそうだったのだろう。

幼い双子の姉妹は身を寄せ合う様にして柊家の中で生きていた。

当主の娘として不自由のない生活を送りながらも、柊という名の鳥籠に閉じ込められていると分かったのはいつだっただろうか。

しっかりそれに気付いたのは、グレンと出会い、引き離され、自分の無力さ加減を思い知った時だっただろうか。

 

鬼宿を拒絶したとはいえ、未明は強くなりたいと思っていた。

真昼とグレンと自分、3人で笑える場所が欲しかったから。

せめて真昼とグレンには幸せになって欲しかったから。

そうすることでしか、不毛な初恋を処理出来なかった。

 

 

当主候補として台頭し始めた真昼と同じ時間を過ごすことは少なくなった。

というより、真昼がいない時を宛てがう様に未明は生活していた。

まるで真昼の様に。

簡単な話、未明は真昼の影に仕立て上げられていたのだ。

有力な当主候補である真昼は敵に狙われる可能性が高い。

もしかするとその襲撃で死んでしまうかもしれない。

ならば身代わりとしてよく似た双子の妹を置いておけば良い。

姉ほど優秀ではない妹ならば死んでも構わない。

 

その事実に気付いたのは案外早かったように思う。

どちらがどちらだか判別がつかない程に瓜二つにされていたのだから、まあなんとなく察することは出来た。

敵味方入り乱れる表舞台で見せつける様に“真昼様”と呼ばれた時、自分は姉真昼の身代わりなのだと確信した。

別段、それに関して何も思わなかった。

未明が真昼より劣っているのは周知の事実であるし、未明としては真昼の為になるのならばと考えていたからだ。

 

 

 

未明達が8歳の時、同じ母を持つ妹が生まれた。

未明達を生んだ後廃人になってしまったと聞いていたが、まだ母は生きていたのかという驚きの方が、妹が生まれたという喜びより先だった。

まあ妹を生んで、今度こそ死んでしまったらしいのだが。

 

そのシノアと名付けられた妹を見た時、その小さな手を握った時、真昼と未明は同じ気持ちだっただろう。

この妹を守りたい、柊家の魔の手が伸びないようにしてやりたい。

真昼は、未明が自分の身代わりとして影の様な生活を強いられているのを知っていた。

そしてそれを悔いていた。

 

だから真昼は、柊家の期待を一身に受ける道化師になることを決めたのだ。

シノアを守る為、優秀な姉の妹という単純なレッテルを貼られることでシノアが目立たない様にする為、真昼は道化師の仮面をつけた。

未明はそんな真昼の負担を少しでも減らそうと、背中合わせの戦友として真昼を支えた。

だってお姉ちゃんだから。

真昼と未明は、シノアのお姉ちゃんだから。

 

真昼に笑って欲しい、その隣にグレンがいて欲しい。

そしてシノアと手を繋いで4人で緩やかな時を過ごしたい。

柊家なんか気にせずに自由になりたい。

その為に未明は力を求め続けた。

訓練に訓練を積み、血反吐を吐く様な思いをしても足掻いていた。

 

『僕なら君にもっと力をあげるよ、今すぐに。』

鬼宿のその誘惑は無視し続けた。

必死に鎖で縛りつけ、縛りつけ、縛りつけて······!

鬼宿を縛る度にギシギシと心が痛むのなんか気にしないで。

 

 

 

そうして未明達は無事10歳になった。

真昼は兄の暮人───顔はよく知らない───に並び立つ程の実力を有し、立派な当主候補になっていた。

しかし未明は知っている。

真昼は柊家内での権力闘争になんか興味はない。

本当に欲しいのはグレンだけ。

グレンと一緒にいられる場所が欲しいだけ。

柊家という鳥籠の中で、まだまっさらなシノアを守りたいだけ。

 

真昼の許嫁が決まったとの報を受け、その許嫁の元へ向かう車中で、隣に座った真昼は未明の手をそっと握りしめていた。

言葉はない。

言葉には出来ない。

未明はただ真昼の手を握り返して、大丈夫だよと囁くしかなかった。

真昼の影たる未明に、それ以上のことは許されなかった。

 

許嫁に会いたいと言ったのは真昼だったが、それはひとえに彼を受け入れる気はないのだと宣言する為である。

だって真昼はグレンが好きなのだ。

真昼にはグレンしかいないのだ。

真昼が望むならばその許嫁とやらを殺してしまえば良いとまで未明は思っていた。

真昼の為に、グレンの為に、未明にはそのくらいしか出来ることは無い。

 

 

真昼の許嫁とやらがいるという修練場に足を踏み入れる。

向かい合う少年少女、その少女の背後に隠れる様にして未明は立っていた。

「それで、貴方が、私に種をつけるために生き残った人ですか?」

冷たい声だ。

興味なんか何1つないと訴える真昼の冷たい声。

 

未明も別段真昼の許嫁に興味はない。

ただもしかすると真昼に何かあった場合、その許嫁と結ばれるのは未明になるというだけで。

未明には許嫁が紹介されない、そしてこの先も恐らくないことからも、未明は真昼の影として一生を過ごせと命じられているのだと確信していた。

もしかすると未明にも種をつけるかもしれない種馬が、どんなものだろうが未明には関係ない。

未明はただ、真昼の為に影として生きるだけなのだから。

 

けれども深夜と名乗ったその許嫁が、太陽の様に光り輝く真昼の陰に棲む者として自分の名前は相応しいと口にした瞬間、未明は弾かれた様に少年の方を見た。

深夜というらしい少年の物言いが気に食わなかったのか、真昼は嫌悪感を滲ませている。

そんな真昼の陰から見るに、深夜とやらはニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべてはいるが中身は空である、いや空にならざるを得なかったのだろうと、未明は彼に薄い同情を抱いた。

そして、彼は少し自分に似ているとの直感が働いた。

 

「私には既に想い人がいます。ですから貴方を受け入れることが出来ません。今日はそれを言いにきました。

···未明にもきっと、受け入れる気はないでしょう。」

真昼の言葉で唐突に話に巻き込まれ、深夜の視線が未明の方に向く。

先程から真昼に向けていたのと全く同じ、柊様の機嫌を損ねないようと警戒しながらも、それを笑顔で隠した顔。

深夜と未明の視線が交差してから、珍しい白髪だなと思いながら未明は口を開く。

 

「真昼、私は別にどっちでも構わないんだけど。

誰が私に種をつけようが私にとってはどうでも良いもの。」

ま、顔は良い方だから嫌ではないわ、と真昼の耳元で囁く。

「あは、誰にも監視されないように手配したお陰?

貴方が包み隠さず言ってくれるの、ちょっと久し振りだわ。」

くすくす笑った真昼は、表情を変えないまま真昼と未明を注意深く観察している深夜に対し、

「ああ、安心して発言して下さい。

ここは誰にも監視されないよう手配してあります。」

と、警戒を続ける深夜の考えを見透かすように言った。

 

「······そんなの信用出来ないね。」

丁寧語が外れて深夜の素が出る。

真昼が深夜を好きになることは無いのだと、そんなチャンスは無いのだと真昼に切り捨てられて、残念そうに笑う深夜。

素の方が好みだな、と未明はぼんやり思う。

 

それから真昼と深夜が軽く戦って、簡単に真昼が勝利を収めて、今の深夜のレベルだったら自分でも勝てるだろうなと考えて。

グレンのことを深夜に話す真昼の嬉しそうな笑顔を未明は見つめた。

1番可愛くて1番輝いていて、1番素敵な恋する乙女の顔。

この心からの笑顔を守りたい、グレンにも見せてあげたいと、キシキシする心を無視しながら思うのだった。

 

 

小競り合い未満の後、真昼の隠れ蓑をすると、グレンと真昼が一緒になるまでの身代わりをすると決めたらしい深夜は、真昼に対しこれからよろしくと爽やかに返した。

それを聞いて穏やかに微笑む真昼の美しい顔に、深夜が少し目を奪われているのを感じ取り、邪魔してやろうとの悪戯心が働いた未明はたおやかな笑顔を貼りつけて言葉を吐き出す。

「よろしくね、義兄さん。」

 

「···そうか、未明様は真昼の双子の妹だから、僕は未明様にとって義兄になるのか。」

はっとしたように深夜は微笑む。

「ご不満?ああそれと、私も呼び捨てで構わないわ。

それにしても未明と深夜ね······似たり寄ったりな名前。」

「立ち位置も似てるって?」

お互いに真昼の影として仲良くしよう、そんなニュアンスが込められた言葉である。

 

「貴方、真昼に対しては遠慮気味だったのに、私には容赦無いわね。」

「嫌?」

「別に。どうでも良いもの。」

それは本心だった。

未明にとって大切なのは、真昼とシノア、それとグレンの3人だけで。

たとえ自分と結ばれる可能性がある男であっても、真昼の許嫁というだけで敵意を抱くに十分値する人間であった。

まあそれ以上にどうでも良いというのが本当なのだが。

 

けれどもグレン一筋の真昼と違い、未明の心に深夜に対して興味が湧いたのも事実である。

少し見ただけで、少し言葉を交わしただけで、似た者同士なのではないかと感じ取ったからだ。

自由に生きられない日陰者。そしてそれを受け入れた敗者。

環境も半生も全く違えど、同族の匂いには敏感なのである。

 

「···貴方なんてどうでも良いわ。

でも仲良く出来そうだし仲良くしましょう、義兄さん。」

深夜に向かって手を差し出し、それをあまり迷わず深夜も掴んだ。

お互いに手は冷たかった。

「その義兄さんっていうのやめない?」

ヘラヘラと笑う深夜に対し、未明も薄っぺらい笑顔を向けて爆弾を投下する。

「お義兄ちゃん♡」

語尾に♡マークは必須なのだ。

ちなみに未明の全身全霊での媚びた声に、真昼は腹を押さえて笑っている。

 

「義兄さんに戻して欲しいかな、やっぱり。」

「未明、お義兄ちゃんのことだーいすき♡」

深夜の引き攣った笑顔をものともせず、未明は頬の所で可愛らしく両掌を組み合わせる。

きゅるんと音が出そうな夢見る乙女ポーズである。

「やめて未明······やめて···。」

お腹が捩れそうだと真昼が訴えた為、未明はすっと真顔に戻る。

「···よろしくね、深夜義兄さん。」

「結局そう落ち着くんだ。」

肩を竦めてから、深夜はヘラヘラ笑いに戻った。

 

 

と、まあ深夜と未明の初対面は悪くは無かった。

良いスタートを切れたと言っても良い。

そのお陰か深夜は真昼ではなく未明と話すことが多かった。

真昼が2人とは違う当主候補としての訓練に追われているせいもあり、自然と2人きりになる時間があったのである。

呪符の研究の時も手合わせの時も、よく2人で過ごしていた。

 

人間観察が得意な深夜は真昼と未明を間違えることもなかった。

双子といえど成長するにつれ少しずつ性格の違いが現れてきていたのを誤魔化し、真昼の身代わりとして完璧になりきろうとしていた未明としては少し不本意ではあった。

だが深夜にだけはちゃんと未明と呼ばれるのは悪く無かったし、似てるけど似てないねと言われるのも擽ったかった。

似た者同士の2人は相性が良かったのだろう。

正直な所真昼と深夜より、未明と深夜の方が許嫁らしかったに違いない。

 

けれど、深夜は真昼の許嫁(もの)なのだ。

真昼にはグレンしかいなくとも、柊家の決定は絶対で。

それをひっくり返そうと真昼は足掻いていたし、未明もそんな彼女を支えていた。

しかしやはり、深夜が未明の許嫁(もの)になるなんてことは有り得ない。

未明はあくまで、真昼の影でしかないのだから。

真昼のおまけでしかないのだから。

そうしていつしか諦めた様に、未明は深夜を義兄と呼ぶのをやめた。

諦めながらも未練がましく、義兄と呼ぶのをやめた。

 

『深夜が欲しいんだろ?なら力を求めなよ。

僕なら君に力をあげられる。深夜を手に入れる力をあげる。』

そう甘い声で囁く鬼宿は無視して、縛りつけて。

初めから何もありはしなかったのだと封じ込めた。

何も欲さず、求めず、願わず。

 

グレンに代わる相手となりうる深夜を諦めた時から、未明の心は狂いだしたのだろう。

鬼の暴走を抑えなければ。

その為に欲望を制さなければ。

その為に感情を殺さなければ。

欲しいものなど何も無い。

恋情も愛情も欲情も抱かない。

抱いたとしてもすぐに押し潰す。

この身は、姉真昼の影として果てなければならないのだから。

真昼の笑顔の為に、グレンと真昼が結ばれる為に、シノアを守る為に、柊家という檻の中で生きなければならないのだから。

 

そうして未明は、(自分)を殺した。

芽生えつつあった可愛らしい恋心は踏み潰した。

初めから何も無かったことにして、完璧な笑顔の仮面をつけた。

 

 

 

次の未明の転機はきっと、第二次性徴期を迎えた頃だったのだろう。

具体的に言えば、子供を生む準備が出来たとの報せが訪れる直前。

その頃、夜嫌な夢に魘されるのだと真昼は未明に訴えていた。

未明は特筆すべきほどの悪夢を見ることは無かった。

時折夢の中で鬼がじゃれついてくるものの、それはとうの昔からあった為未明にとっては最早日常だった。

未明が起きている時であっても、鬼宿はお構い無しに話しかけてくるのだから。

しかしよくよく真昼の話を聞いてみた所、また幼いシノアにも聞いてみた所、姉妹3人は皆同じなのではないかという結論に至る。

 

3人の姉妹は、同じ母から生まれた未明達は、鬼とやらを混ぜられた実験体。

鬼を閉じ込めた鬼呪という武器を実用化する為の、柊家の研究者によって作り出された実験体。

しかし3人とも普通の人間で。

未明に至っては生まれた瞬間から今にも死にそうであったが、普通の人間で。

そうして実験は失敗したと考えられ、研究者達は実験を打ち切った。

だが実験はそれで終わってはくれなかった。

未明とシノアはごく幼い頃から、真昼は成長するにつれ鬼の声を聞くようになったのだ。

 

その事実を共有した時、真昼と未明は愕然とした。

鬼が語りかけている、しかも未明は鬼に喰われかけたことがあり拙いながらもどうにか制御している。

そんなことが当主に、柊家にバレれば、再び研究は始まってしまう。

今度こそ人間として生きていけなくなってしまう。

ならば欲望に我を失って壊れてしまう前に、狂ってしまう前に、鬼を制御しなければ。

 

そう決めて、真昼と未明が密かに鬼に関する情報を集め始めた矢先だった。

未明が柊家に与えられた役割の通り、真昼の身代わりになって誘拐されたのは。

 

 

 

最有力の当主候補になっていた真昼は、柊家と敵対する勢力に狙われることが増えていた。

大抵は護衛や真昼自身、また未明や深夜が撃退していた為大事にはならなかった。

しかしその時は運が悪かった。

真昼にくっついていた護衛が離れた為、がら空きになっていた未明は格好の獲物でしかなかった。

しかも未明は未明で、調べ物に追われていたせいで睡眠時間が足りず注意力散漫で。

しめしめと思った敵方に、柊真昼だと勘違いされた柊未明はあっさりと誘拐されてしまったのだった。

 

身代金だの何だのを柊家に要求する誘拐犯の声を遠くに聞きながら、未明はされるがままになっていた。

というよりそもそも、運の悪いことに耐性が薄い薬を嗅がされていて、体の自由が利かなかったのだ。

真昼が無事なのかも分からない今の状況で、自分が真昼ではないと申告するのは愚策中の愚策。

今はとにかく弱々しいお嬢様を演じていようと、呪符で拘束されたまま冷たい地面に転がされていた。

 

しかし未明はふと思い当たってしまった。

当主候補の真昼は無事なのだ。

柊家にとって大事な真昼は無事なのだ。

その状態下で、真昼の身代わりとしてちゃんと誘拐されただけの未明なんかを助けに来るのだろうか。

誰が、来てくれるのだろうか。

 

心臓に氷を押し付けられた様に、すっと体温が低下する。

それから口をついて笑いが漏れた。

柊家にとって何の価値も無い自分に気付いてしまった。

真昼がいなければ、何にもなれない自分に気付いてしまった。

別に柊家に認められたかった訳ではない。

けれどもそんな自分がどうしようもなく哀れで憐れで、薄い笑いが溢れ出す。

 

未明はお姫様にはなれない。

運命の王子様に助けて貰える囚われのお姫様にはなれない。

助けてと言った所で誰も助けに来てはくれない。

グレンは遠い。

真昼やシノア、深夜が未明を助けようと思ってくれたとしても、柊家に阻まれてしまうに違いない。

あら?それなら誰も私を助けてはくれないんじゃないかしら。

あらあら?それなら私はどうなるのかしら。

 

怯えた様子など捨て去って、誘拐犯を嘲笑うかの様に笑い声を立てる未明に苛立ったらしい誘拐犯は、未明の髪を掴んで頭を上げさせて、それから容赦なく頬を張った。

未明はぐにゃりと再び地面に倒れ伏したが、それでも笑いは止まらなかった。

頬からジンジンと全身に痛みさえも哀れで仕方なかった。

どうせ訓練で痛みには慣れきっている。

痛くても別段顔には出ない。

 

それが更に癇に障ったのか、誘拐犯は寄って集って未明に暴行を加えた。

殴られ蹴られ肌を切り裂かれようとも、幼い体を凌辱されようとも、未明は狂った様に笑い続けた。

声が枯れても掠れても、あははははと笑い続けた。

心身共に酷く深く傷つけられても、体が未発達の少女の時点で奪われるのは悲劇でしかなくても。

涙なんか流す暇がないくらいに笑い続けた。

 

 

しかしその狂った悲劇は唐突に終わりを告げる。

出来うる限りの凌辱を加えられ死んだ様に倒れていた未明は、何の返事もしない柊家に痺れをきらした誘拐犯達が当主の子供を更に攫って来ようと相談しているのを耳にした。

そして狙いが定まったのは柊シノア。

誘拐犯達が攫ったと思っている柊真昼───実際は未明だが───の幼い妹である。

幼いシノアならば簡単に拐かせると思ったのだろう。

だがそんなこと、そんな酷いこと、お姉ちゃんが許す訳がないのである。

 

シノアの名前が誘拐犯の口から出た瞬間、未明は腕に巻きついていた呪符を破り捨てていた。

長きに渡る拘束のお陰で薬の効果はきれていた。

途中で再度薬を嗅がせておけば良いものの、誘拐犯は未明をいたぶるのに夢中でうっかり忘れていたらしい。

ギョッとする誘拐犯に優しく笑いかけてから、未明は誘拐犯の1人の頭を蹴り飛ばした。

ごきりと嫌な音がした。

 

狂気的な閉鎖空間の中、心身ともに摩耗していた未明は、恐らく無意識的に鬼宿の力を使っていた。

半憑依といった所だろうか。

鬼の力を引き出さなければ、簡単に成人男子の首をへし折ることなんて出来やしない。

一気に混乱状態に陥った誘拐犯のアジトで、未明は端に転がっていた小さなナイフを拾い上げる。

それから後はお察しの通りだ。

ナイフ1本、拳1つ、足1本で、満身創痍の未明は誘拐犯を制圧せしめたのである。

 

 

まだ息がある誘拐犯の頭を踏みつけて、未明は重いドアを全身の体重をかけるようにして開ける。

ふらふらと酷い空間から這い出て、真っ白だった筈なのに今や美しい赤色のワンピースの破れた裾を弱々しく掴んで、それから糸が切れた人形の様に地面に崩れ落ちる。

 

あの酷い部屋からは脱出出来たが、まだアジトの中である。

他に仲間がいるかもしれない。

早く立ち上がって外に出なければと力を振り絞ろうとするが、もう1歩も動けない。

気力も体力も使い果たしてしまい、鬼の力を借りることも出来そうにない。

ギャーギャー泣き喚く鬼宿をうざったく思いながら、未明はひんやりとした地面に火照った体を預けた。

そしてゆっくり瞼を下ろす。

馬鹿馬鹿馬鹿、未明の馬鹿と必死になる鬼宿の声も遠い。

それから意識は遠くなり、視界は暗くなり·············

 

 

「起きろ。」

冷たい声が投げつけられると同時に、乱暴に体を起こされる。

何が起きたのだろうとぼんやりぐるぐるする視界のど真ん中に映るのは、知らない少年の顔。

グレンではないかと一瞬変な期待を抱いたのが馬鹿らしい。

全く見覚えの無い顔だ。

誰かは知らない。

厳しそうな目と、凛々しい顔立ちが印象的である。

 

「お前が未明だな。」

真昼ではなく未明と呼ばれた為、ひとまず誘拐犯の仲間ではないと判断した未明はこくりと頷く。

「奴等は···お前が始末したのか。」

傍らに転がる血染めのナイフを見て、未明を無理矢理立ち上がらせる少年は悟ったらしい。

「真昼に隠れてばかりの愚者だと思っていたが、お前も悪くないじゃないか。」

真昼のことも知っているらしいこの少年は誰だ、と未明は眉をひそめる。

 

そんな未明を鼻で笑う少年は、彼の後ろからやってきた未明にも見覚えのある柊家の人間に未明を引き渡す。

ポイッと乱暴に投げ捨てられるように飛ばされたが、あまり痛くはなかった。

思いやってはくれたのだろうか、と瞼に垂れてくる血をゴシゴシ拭いてから、続々現れる柊家の人間に慣れた様子で指示を出す少年を未明はじっと見た。

見覚えは無かったが、全く知らない顔だが、よくよく見ればその面影は未明の記憶の端に引っかかっている。

 

もしかして、と浮かび上がった可能性を自分で打ち消した後、未明はごくりと唾を飲み込む。

それからヒリヒリする喉に無理をいわせて、少年に対しての質問を紡ぐ。

「······柊暮人様···ですか?」

まさかまさか、というか否定してくれとの念を込めるようにして尋ねた。

 

「なんだその他人行儀な呼び方は。」

しかし否定しない。

寧ろ不満げである。

他人行儀も何も、今まで1度も会ったことがない気がするのだから仕方あるまい。

そんな文句を飲み込んで、歳に似合わない威圧感を放つ少年───柊暮人を再度呼ぶ。

「···暮人、お兄様?」

「どうした、愚妹。」

高圧的に見下ろしてくる彼は間違いない、間違いようがない、真昼と同じ最有力当主候補の兄柊暮人である。

 

「······父上様に、似すぎなのでは······?」

そんな間抜けな言葉を最後に吐き出して、未明の緊張の糸はとうとうプッツリといき、今度こそ意識は飛んでしまった。

 

 

ちなみに未明が気絶した後、当の暮人は未明の言葉に珍しくケラケラ笑っていたとか何とか。

真相は闇の中である。

 

 

 

 

 




クラピカに対しては、色々説明を加えたり面倒な部分を端折ったりしながら、話しているということでお願いします。
ミメイちゃんがずっと語り手状態で書くのも悪くはなかったのですが、色々疲れたのでやめました。
ご了承下さい。
キャラ崩壊してない···筈。




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17:柊未明、16歳の破滅(二)

お久しぶりです。






「やっぱり駄目。未明みたいには上手く出来ない。」

薄暗い地下研究室で、実験器具を前にして溜め息をつく少女。

そんな少女を慰める様に紅茶を差し出す、その少女と瓜二つの少女。

 

遠くから見ればどちらがどちらだか分からないのだが、近くから見れば親しい人間ならばなんとなく見分けがつく。

幼い頃はコピーした様にそっくりだった。

しかし今や異なる性格が顔に出る様になり、2人の纏う雰囲気は微妙に違うのだ。

何しろ2人────真昼と未明はもう15歳。

帝の鬼の信者の中でも選りすぐりの実力者達が集められる第一渋谷高校への入学を、次の春に控えているのである。

 

 

 

第二次性徴が目立つ様になった頃、真昼と未明は自分達姉妹の心に棲む鬼の存在を、また自分達が実験体だと認識した。

人間として生き続ける為には、柊家にバレる前に鬼の力を制御する必要があった。

初潮を迎えると同時に、真昼も未明も鬼からの接触が急激に増え、鬼に乗っ取られかけることがあった。

 

未明は元々鬼を鎖で縛る方法を編み出していた為、欲望や感情を殺す術を覚えていた為、我を失うことはあまりなかった。

しかし真昼は違う。

先に色々失い、色々諦めた未明よりも、欲望は熱く感情は豊かである。

しかも未明に相談することなくシノアの鬼を回収し、真昼自身を実験体にして勝手に研究を始めてしまっていた。

孤独な戦いを始めてしまっていた。

 

未明はキレた。

真昼が独りでしたことにキレた。

恐らく真昼に対して初めて怒りを覚えた。

どうして自分に相談しなかったのかと本気で怒った。

実は未明の鬼も回収しようとしていたことも聞いて、更に怒り狂った。

怒り心頭の未明は、真昼に対しもっと自分を大事にしろとの盛大なブーメランである説教をし、それから押し掛け女房の様にして研究に加わった。

 

真昼は初め未明が研究に加わるのを嫌がっていたが、シノアを守る為にも、自分達が人間として生き続ける為にも、実験体は多い方が良いと思い当たってからは、研究の全てを共有するようになっていった。

柊家にバレないよう細心の注意を払って、2人は実験を繰り返した。

未明の方は感情と欲望を殺しきることによって鬼の暴走を止めたが、真昼の方はそうもいかない。

しかしその真昼は鬼の力を多く引き出すことが出来る。

未明の鬼の力などみそっかすに思える程の。

 

強大な力を得るには犠牲───自分の心を鬼に喰わせるしかない。

力を積極的に得ようとしなくとも、完全に鬼を制御下に置くのは不可能に近い。

どうしても人間は欲望を抱くのだから。

 

 

厳しい実験を繰り返す中、真昼は徐々に壊れていった。

2匹の鬼にぐちゃぐちゃに心を喰われながらも、グレンへの想いを胸に必死に足掻いた。

人間の真昼の時間は少なくなり、鬼の真昼が真昼の体を支配する時が多くなる。

人間なのか鬼なのか、どちらでもない化け物か。

 

こんな体じゃ、グレンには会えない。もう私人間じゃないもの。

と嘆く真昼の背中を何度も未明はさすった。

大丈夫、大丈夫だよ。グレンなら大丈夫。

だから一緒に少し、頑張ってみようと励ました。

そうやって真昼に鬼の制御の術を伝えたのだが、中々上手くいかないらしい。

今日も真昼は悲しげに笑う。

そんな真昼の隣で、未明も哀惜を滲ませて笑う。

 

 

 

「百夜教との会合は?」

未明が淹れた紅茶を啜りながら、机に無造作に置かれた卓上カレンダーを見やる真昼。

「明後日。」

斎藤と名乗る胡散臭い男と情報交換をする約束の日だ。

 

鬼呪を完成させるのに必要な研究資金や知識を得る為に、柊家と敵対する百夜教に柊の情報を2人は売り渡している。

言うまでもなく裏切り行為だ。

当主候補である真昼がそんなことをしているとは誰も思わないだろうが、立派な裏切り者である。

バレればただでは済まない。

しかし柊家と組むことだけは出来なかった。

すぐに妹のシノアが研究に巻き込まれてしまうから。

まだ幼いシノアに、悲惨な人体実験の犠牲にはなって欲しくはなかったから。

 

 

「暮人兄さんとはどう?何か良い話聞けた?」

「ぼちぼちって所。そこまで信頼されてる訳じゃないもの。」

真昼の問いに肩をすくめる。

この前も、事前報告なしで強制的に手合わせをさせられた。

正直死ぬかと思った。

単純な筋力や腕力の類は暮人が少しばかり上である。

鬼の力を引き出さなければ未明が勝つのは難しい。

 

未明が真昼の身代わりになって誘拐された事件の際、偶然誘拐犯の潜伏場所の近くにいた兄暮人が未明を保護しに来たのは3年程前のこと。

酷い凌辱を受けながらも誘拐犯を自力で始末した未明を気に入ったらしい暮人は、その後から時折未明に話しかける様になった。

未明は、暮人が次の当主の座を争う真昼の双子の妹である。

しかも未明は真昼の影となり、隠れる様にして生きていた。

それまで全く関わりが無かったのも当たり前であるし、周りの思惑的にもあまり関わるべきではない者同士である。

 

しかしそんなことお構い無しの暮人は彼なりに未明を妹として可愛がっているらしい。

暮人の従者である三宮葵もそんなことを言っていたが、未明としては勘弁して欲しいというのが正直な気持ちだ。

関わりが深いもう1人の義兄である深夜───義兄と呼ぶことは少ないが───に泣き言を言った所でどうしようもない。

深夜はあくまで養子なのだから。

 

けれど暮人にちょっかいを出されて良かったことも1つだけある。

あまりに暮人が未明に関わるものだから、未明が真昼の影としての役割をまともに果たせなくなったのである。

それに伴い未明の地位が上昇したような気がしなくもなかったが、まあそんなことはどうでも良い。

シノアが誘拐されかけた時に、暮人の威を存分に借りた未明の指示を柊家に仕える人間があっさり聞いてくれたのは良かったけれども。

前だったらそうもいかなかったかもしれない。

真昼という強大過ぎる太陽の影である未明は、外ではそこまでではなくとも柊家の中では微妙な立ち位置だったのだ。

 

 

「それより真昼、本当にやらなきゃいけないの?」

かちゃんと乾いた音を立てるカップ。

陶器越しに感じる紅茶の熱を指でなぞりながら、真昼の方に顔を向ける。

「うん。やらなきゃ駄目。」

いつもの微笑みを浮かべる真昼に直接拒絶された訳でもないのに、心がつきんと痛む。

 

「仕方ないわ。私と未明が過度な接触をしてると後々面倒だもの。

ほら私、柊家に宣戦布告するから。」

「でも、」

私は真昼の敵になんかなりたくない。

そう続けようとした唇をそっと指先で押さえられる。

「未明は私についてこないで。そのまま柊家にいて。

あわよくば暮人兄さんの近くにいて。

それで色々と撹乱して欲しいの。」

「スパイをしろってことでしょう?私そんなに器用じゃないのに。」

「暮人兄さんは未明を気に入ってるわ、きっと大丈夫。」

未明のボヤきを真昼は優しくあしらう。

 

 

世界は滅びる。

来年のクリスマス、世界は滅びる。

百夜教が秘密裏に進めていたという実験「終わりのセラフ」によって。

鬼呪の研究の為に百夜教と技術提携をしている未明達は、その実験にも関わるようになっていた。

「終わりのセラフ」関係のことを担っているのは真昼であるが故に、未明はあまり実験内容を詳しくは知らない。

しかし世界が滅びるというのは本当らしい。定められた運命らしい。

その運命に少しでも抗う為に、鬼呪の実用化を急ぐのだとか。

 

未明は全容を知らない。

真昼が未明を関わらせようとしないからである。

知りたくない訳ではない。

けれどまだ知りたくないという気持ちの方が勝る。

嫌な予感がするのだ。

世界滅亡がかかっているのだから嫌な予感がするのは当たり前なのだろうが、それ以上に本能的な回避行動をとってしまうのだ。

知ってしまったら、全てを知ってしまったら、自分の生きている意味さえ分からなくなりそうな、そんな予感がして仕方ない。

「終わりのセラフ」実験を進める百夜教だけでなく、いやそれよりもっと圧倒的な何か。

その強大な存在の良からぬ思惑が働いているような気がしてならないのだ。

 

その直感が当たらずも遠からずだったと未明が知り、唐突に足場が崩れ落ちてしまったかの様な絶望を味わうのはまだ先である。

 

 

まあそんな残酷な未来はさておき。

これから先、百夜教や柊家率いる帝ノ鬼を巻き込んだ派手な戦争が繰り広げられることだろう。

真昼が百夜教と組んで柊家に反旗を翻すからである。

後々その百夜教さえも裏切るつもりなのだが。

それら全ても、「終わりのセラフ」と関わっているとか何とか。

そしてそれら全ても、何者かの掌の上で転がされているが故に引き起こされる予定調和なのであって。

 

未明は何も分からない。

自分の立ち位置も、未来も、今やよく分からない。

それでも血を分けた片割れである真昼の望むことならば、出来うる限り叶えたいと思っている。

真昼がグレンとずっと一緒にいられる場所を望むなら叶えてやりたい。

真昼とグレンが結ばれる未来を、シノアが人間のまま大人になれる未来を、この穏やかなモラトリアムが続いている未来を。

そんなもの来ないと分かっていても、必死に真昼に手を伸ばしている。

鬼に飲み込まれ、壊れていく彼女の手を離してはいけないと思っている。

 

だから未明は真昼のそばにいる。

真昼の全てを理解出来なくても、全てを教えて貰えなくても、未明は真昼のそばにいる。

それだけが未明に出来ることだから。

 

なのに真昼は、自分と仲違いした振りをするようにと言うのだ。

表向きは決裂したかの様に見せかけて距離を取り、未明は暮人に接近しろと。

勿論今までの様に研究の為にこっそり会うのは続ける。

しかし表立っての接触はやめなければならなくなる。

 

確かにこの先、柊家から離反する真昼は柊家の情報を掴みにくくなる。

だから柊家の情報を真昼に流す信用のおける人間が必要なのだ。

今現在柊家の中で真昼と秘密を共有するのは、シノアを除けば未明のみ。

自然とスパイの役目は未明に回ってくるのだ。

しかしその情報提供者は、決して真昼に与している訳では無いと明らかである人間でなければならない。

よって真昼が柊家から離れる前から、真昼は未明と袂を分かっていたと柊家に示す必要がある。

 

 

「···何重にもスパイをやることになりそうだし、振りでも真昼と仲違いなんて私は嫌。」

「そう言わないで。未明は私以上にポーカーフェイスが得意じゃない。」

未明の頬をツンツンつつく真昼。

「···真昼がそう言うならするしかないけど。でも嫌だわ。

全部欺かなくちゃいけないなんて。」

 

柊家も百夜教も、暮人や深夜やシノアといった関係の深い兄弟も、来年から始まる学校生活で関わるであろうグレンさえも。

自分が何なのか分からなくなりそうだ。

元から鬼に蝕まれたこの体では、ただでさえ自分を失いやすいのに。

 

「でも真昼が言うなら。真昼がそう言うなら、私は貴方に従う。」

座っていた椅子を寄せて、真昼の肩に軽く持たれかかる。

「あらあら、従順過ぎる妹も可愛い。」

「妹は姉に逆らえないの。知ってるでしょ?」

「そうね。」

楽しそうに笑いながら、真昼は未明の頭を撫でる。

 

お互いがお互いに秘めている感情や事実があるのも知っていて、その上で絶対的な信頼関係をこの双子は築いている。

生まれた時からずっと運命共同体なのだ。

ただしそれは、どちらも人間であった場合の話だ。

鬼の真昼の方も未明のことをある程度は想ってくれている様だが、やはり感情が希薄である。

どちらの真昼に対しても未明は深い想いを抱いているのだが。

 

 

「ねえ真昼。」

「なあに未明。」

寒空の下温め合う鳥の番の様に、体を寄せ合う2人。

「真昼はね、どんな姿になったって、たとえ人間をやめたって、グレンと結ばれなくちゃいけないんだよ。」

「うん。」

「だからね、諦めないで。私はずっと真昼のことを想ってる。」

未明の胸に顔をうずめている真昼から、細い啜り泣きが聞こえてくる。

 

「大丈夫、グレンだもの。グレンは強いもの。

強くなって、真昼を迎えにきてくれる。

この世界がこれからどうなったって、その事実は変わらない。」

「うん。」

「私は2人が結ばれて、幸せそうに笑う姿を見たいの。」

「うん。」

「お姫様と王子様は結ばれるのが決まりなんだから。」

でないと、同時に諦めざるを得なかった未明の初恋が報われない。

お姫様にも王子様にもなれなかった未明の思いが報われない。

 

「未明。」

「なあに?」

「なら未明は、最期まで見ていてね。

人間のまま、ちゃんと人間のまま、私を見ていてね。」

薄ら寒い地下実験室で、星空なんか見えない夜の中、真昼は未明の指に自分の指を絡ませる。

こんな穏やかな時間も、もう残り少ないと分かっていたから。

「うん、約束する。真昼がそれを望むなら。」

未明は首を縦に緩く動かし、ひんやりとした真昼の手を握りしめる。

 

 

得体の知れない終わりの足音が、少しずつ近付いてきていると分かっていた。

この優しい時間が、嵐の前の静けさが、ずっと続けば良いのにと未明は切に願う。

そして力が無ければどうしようもなくなる地獄が訪れるにも関わらず、未明はまだ鬼に喰われていなかった(力を得ていなかった)

 

 

 

 

 

──────────

柊家率いる巨大呪術団体帝ノ鬼、その敬虔なる信徒達の中でも選りすぐりのエリート達が通う第一渋谷高校。

一般的には普通の学校と認識されているが、その実態は帝ノ鬼の為の呪術師養成学校だ。

そのとっても素敵な学校の上空はピンク色に染まっている。

入学式日和の青空を覆い尽くすように、沢山の花びらが舞っている。

 

未明はそれを興味無さげに睨み上げて、胸の下まで垂らした髪を自分の指に巻きつける。

くるくるくるくると何回か巻きつけて、またしゅるんと解いて。

そんな意味のない行為を何度も繰り返していれば、ふと目を向けた遠くに見慣れた後ろ姿を発見する。

 

珍しい白い髪に仕立てたばかりの詰め襟の制服。

間違いなく義兄の深夜である。

彼は校門近くに1人で立っていた。

見事な桜並木のうちの1本、その幹に腰掛けている未明が言うことでないが、何をしているのだろうと不思議に思う。

だが首を傾げたすぐ後で、通学路の向こうから歩いてくる人物が視界に入ったことで未明は合点がいった。

 

 

可愛らしいくせっ毛の黒髪は昔と変わっていない。

ツンと澄ました顔と少しの冷たさを孕む瞳は、思春期男子特有の成長の印なのだろうか。

何にせよ10年前、未明の初恋を二重の意味でぶちこわしてくれた一瀬グレン君がそこにいた。

今でも瞼の裏側でキラキラと輝いて見える幼き日の彼を、そのまま大きくさせたような姿でそこにいた。

 

真昼真昼、グレンだよ。ほらグレンだよ。

可愛いグレンがそこにいるよ。

最近は表立って接触することがゼロに等しい真昼に対し、心の中で話しかける。

相変わらず可愛いなぁ。

あらあら、一丁前に女の子2人も連れちゃって。

グレンも立派な男の子だね、真昼。

 

なんてことをイマジナリー真昼に愚痴っていれば、グレンが深夜の呪符によって吹っ飛んでいた。

簡単に避けれた癖にわざと避けなかったのだろう。

深夜もそんなこと見抜いていたに違いない、薄い笑みを浮かべたまま踵を返し校舎に入っていく。

今のはちょっとした小手調べに過ぎない。

深夜はグレンに対し色々思う所があるらしい為、これから先もグレンにちょっかいをかけることだろう。

 

それはさておき。

グレンを含む生徒達はみんな校舎に吸い込まれてしまい、人気のない桜並木に未明は1人残された。

これからホームルームで長ったらしい入学式の説明、その後は面倒臭い入学式がある。

腐っても柊様の未明は有象無象共に媚びられることだろう。

真昼と未明が絶縁状態にあるというガセネタを信じている彼等は、真昼が入学式の代表挨拶をすることもあり、より一層腫れ物に触るように未明に媚びるに違いない。

 

ああ、鬱陶しい。

何も知らないくせに未明のご機嫌取りの為に真昼の悪口まがいのことを言う奴も、馬鹿の一つ覚えの様に真昼を崇拝する奴も、みんなみんな黙れば良い。

その汚い口で真昼の名を呼ぶな、真昼のことを語るな。

その汚い目で真昼の姿を見るな。

その汚い耳で真昼の声を聞くな。

真昼が穢れる。

真昼が誰より可愛いくて美しいのは私がよく知っている。

 

ぶっちゃけてしまえば、未明は強烈な真昼至上主義(シスコン)である。

それなのに人目があるこの状況下───敵味方入り交じる学園生活───では、その迸る衝動のままに行動出来ないのが早くも酷いストレスになっている。

察しの良いグレンにも、真昼と未明の仲の悪さを演技だとバレる訳にはいかない。

ストレスは蓄積されるばかりだ。

 

だから未明は、入学初日を丸々サボることにした。

柊様の1人である未明は、教師に怒られるということもない。

真新しいセーラー服を身につけ、高校の敷地内に足を踏み入れていながらも、心置きなくサボることにした。

 

 

ちなみにその晩、百夜教の木島真と名乗ることもある得体の知れない斎藤という協力者(未満)に、

『貴方達の言った通り一瀬グレンは強いですねぇ』

という一言だけの悪戯電話の様な嫌がらせをされて、未明のストレスは高層ビルレベルにまで積み上がった。

 

 

 

入学式の次の日からは未明もちゃんと登校した。

グレンと深夜、兄暮人の従者である三宮葵、なんとなく顔は知っている十条と五士の子女。

ここまで固まったクラスで良いものかと思いながら、1年九組のドアの敷居を跨ぐ。

未明が教室に入った瞬間、学校らしく賑わっていたのが水を打った様に静かになる。

失礼にならないようにと配慮しながらも、チラチラ向けてくる媚びた視線が鬱陶しくて仕方ない。

 

「おはよう、未明。」

ヒラヒラと手を振る深夜。

その隣には窓の向こうをぼうっと見ているグレン。

どうやらそのグレンの前が未明の席らしい。

親切なことに深夜が示してくれている。

「おはよう、深夜。」

そう返しながらストンと椅子に座り、そのまま体を後ろに反転させてグレンの机に頬杖をつく。

昨日は遠目からだったが、近くで見るとより楽しい。

ニコニコ笑ってグレンの観察をしていれば、かしこまった声と態度で

「···どうか致しましたか未明様。」

そうグレンは未明に尋ねたのだった。

 

「あは、10年振りの再会がそれ?」

「他に言える言葉を持っておりませんので。」

グレンは相変わらず無表情である。

この馬鹿みたいな環境で頑張って居るんだなぁと未明はくすくす笑いを漏らす。

「私になら別に良いけどね。

真昼に対してはもう少し考えてあげて。」

「······申し訳ありません。お気に障られましたでしょうか。」

「ううん、お気に召しました。何にせよグレンは可愛いもの。」

そろそろクラス中からの視線が痛い。

特に深夜の笑顔の胡散臭さが増している。

だから嫌なのだ。

このふざけた世界が。

 

 

未明の思っていた通り柊様である深夜と未明に対する媚は激しく、それとは対照的にグレンへの仕打ちは目に余る。

しかし全ての教科で負け続け、暴行に抵抗はせず、無表情かヘラヘラ笑うだけの“一瀬のクズ”を見事に演じているグレンの邪魔をする気はない。

未明1人がグレンを庇った所でどうしようもないし、能ある鷹は爪を隠すという言葉もあることだ。

グレンにちょっかいを出す深夜や十条や五士の声を遠くに聞きながら、未明はやけに興奮して騒ぎ立てる鬼宿の拘束に勤しんでいた。

 

 

父たる柊天利がどこぞの女に産ませた異母兄弟の柊征志郎が廊下で騒ぐなんて日もあったが、その征志郎に深夜とグレンが暴行を受けていたが、未明は目を向けることさえしなかった。

それよりも約束の日は近い。

実戦トーナメント形式で行われる選抜術式試験2日目、予定通り百夜教はこの学校を襲撃する。

そして真昼は百夜教に連れ去られる演技をすることになっている。

とうとう戦争が始まるのだ。

からからからと、軽い音を立てて運命の歯車は回りだす。

 

ふと、2人の従者に甲斐甲斐しく世話を焼かれるグレンが目に入った。

征志郎に蹴られた頬は赤くなっている。

視線を感じたのか、グレンも未明の方を見る。

周りにはグレンと彼の従者、それと未明以外誰もいない。

深夜も既に去ってしまったらしい。

未明はぱちくりと瞬きをして、それから小首を傾げてにこりと笑った。

一瞬グレンの動きが止まるが、その後すぐ何事も無かったかの様に彼は未明に背を向けた。

 

 

 

そしてその背中を、百夜教の襲撃により煙で覆い尽くされた校庭でも、ただじっと見ていた。

斎藤と接触し、鬼に乗っとられた真昼に抱きしめられ、彼等が去った後に深夜達と話すグレンの背中を、校舎の屋上から未明は見ていた。

それから盗聴の可能性がない携帯電話を2つ取り出し、まず片方の電話帳を開いて“真昼”を選ぶ。

1コールの後、

『ごめんね未明、クリスマスのことグレンに喋っちゃった。』

と陽気な声が電話の向こうから聞こえてくる。

「クリスマスデートの約束はとれた?」

『ふられちゃった。でも良いの。

グレンはきっと、私を欲しがってくれるもの。』

茶化す様に言ってやれば、悲しそうに真昼は返してきた。

「さて、私は予定通りで良いのね?」

『うん。後は暮人兄さんの言う通りになってれば大丈夫。

そうすれば柊家も程々に情報を得られるだろうから。』

「分かったわ。また後でね真昼。」

『ばいばい。』

プツンと通話が切れる。

 

 

使っていた携帯をポケットに忍び込ませた丁度その時、もう片方の電話が鳴り響く。

少し時間を置いた後通話ボタンをポチリと押した。

「はい。」

『愚妹、裏切り者はお前か?』

未明が応答するや否や冷淡な声がスピーカーから飛び出してくる。

「まさか。なんのことですか、暮人兄さん。」

言ってる意味が分からない、という感情を本当らしく全面に押し出しながらくすくす笑う。

 

『この学校のことを、柊の情報を売った裏切り者はお前か?』

「私じゃありません。少なくとも今の私じゃない。」

暮人相手に完全な嘘は通用しない。

真実と嘘を織り交ぜて、それらしく装わなければならない。

「にしてもこの襲撃の全容も分かってないでしょうに、すぐに私に電話してきたのはどうしてですか?

初めから私を疑っていた?」

『お前は真昼の妹だ。理由はそれだけで足りるだろう?』

「あら酷い。私は暮人兄さんについたのに。

私と真昼が随分長いこと会ってないのは、暮人兄さんも知ってるでしょう?」

『どうだかな。

まあいい。今すぐ俺の所に来い。』

いつも通り一方的な命令。

暮人は未明を駒として見ているから当たり前なのだが。

「尋問されるって分かってて行く馬鹿がどこにいるっていうの······切られた。」

 

ツーツーと無機質な音を吐き出す携帯をポケットにしまい、代わりにさっき真昼と通話していた携帯を取り出す。

そしてそれに起爆の呪符を貼り付けて、証拠隠滅の為念入りに粉々にする。

力を使い果たして塵になって散る呪符と、折れたチョークの破片の様になった元携帯。

風に飛ばされきらずに少しだけ床に落ちたそれらの残骸を足で払ってから、未明は暮人がいそうな場所を考える。

 

ここで素直に暮人の元に向かい、尋問を受けて、嫌々という演技をしながら少しばかり情報を吐けば、ひとまず未明は裏切り者ではないと判断されるだろう。

真昼と繋がっていないという証明は出来ないだろうが、そこは暮人もさらりと流すに決まっている。

今後真昼と接触する可能性のある未明を泳がせておきたい筈だ。

ああ、面倒な化かし合いが始まる。

冷酷非情で刀より切れ味の良い暮人相手にどこまで戦えるだろうか。

 

未明は最後にうんと背伸びをし、一陣の風だけを残して屋上から姿を消した。

 

 

 

 

──────────

結論から言えば尋問で済まなかった。

あれは普通に拷問だった。

ビタミン剤を服用するかの様な気安さで、自白剤などを口に突っ込まれるのは想定内だったが、何日にも渡って拘束され続けるのは体にこたえる。

暮人は氷の様な無表情のまま未明を見下ろし、何度も同じ問いを重ねてきた。

薬の耐性が無駄にある為意識を失って逃げることも出来ず、ニコニコ笑いながら同じ言葉を返すしかなかった。

 

1年程前から真昼とは疎遠である。

真昼が何者かと手を組んで何かしていたのは知っていたが、詳しくは知らない。

真昼と袂を分かった理由?痴情のもつれとでも考えて貰って結構。

あああと、鬼呪ってご存知?真昼が研究してたらしいけど。

 

そんな内容を延々繰り返していれば、暮人の側も独自に情報を集めていたのだろう。

ひとまずは未明が黒に近いグレーであるという裏付けが取れたらしく、拷問からは解放された。

正しい情報も幾つか吐いたのが役立ったらしい。

しかし拷問が終わっても未明は自由放免とはいかない。

監視をされながら暮人の駒として使われている。

中々真昼に接触するのは難しい。

だがここまでは想定内だ。予定通りである。

未明はこのまま柊家───暮人の側につき、裏切り者である真昼を始末する為に動くことになる。

と同時に柊家の動向を探り、真昼にそれを伝える。

が、きっとそんなこと暮人には薄々分かっているのだろうし。

 

あくまで未明は誰の味方なのか分からない、何を考えているのかも分からない、そういうトリッキーな存在としているつもりである。

実際は真昼の為に、彼女の幸せな未来の為に、そしてシノアを守る為に動いているのだが。

未明が1番大切なのは、自分とおなじように鬼と混ざって生まれてきた姉と妹である。

それは変わらない。

だがこれは······

 

 

「ちょっと予定外かな。」

なんでこうなるかな、と愚痴る未明の前には見覚えのある面々。

ご立派な生徒会長である暮人に朝っぱらから学校の生徒会室に呼びつけられて、遅刻気味だとは思いながらも悪びれずにドアを開けてみれば、予定外でそこにいたのはグレンとその従者2人、深夜、十条と五士の子女であった。

突然未明が入ってきたことに驚いている様子はあまりない。

まあ世間様は、数年前から未明と真昼が断絶状態であり、未明は後継者争いで暮人側についたと考えられているのだから、それもそうだろう。

 

だが未明としては彼等に会いたくなかった。

他はさておき、特にグレンには会いたくなかった。

暮人の軍門に下った状態でグレンを前にすると、何だか彼に責められているような気分になる。

真昼はどうした、そう言われている気がして仕方ない。

ただの被害妄想に過ぎないのだが。

 

「暮人兄さん、次は私に何をさせたいの?

百夜教の上野の実験場?まさか私にも潜入しろとでも?彼等と一緒に?」

冗談でしょう、とグレン達の後ろから暮人に問う。

「そのまさかだ。

俺からの話はもう済んだ。後はグレン達に聞け。」

ヒラヒラと手を振る暮人には気遣いの欠片もない。

「拒否権を発動したいですねぇ。」

「あるわけないだろう、そんなもの。

お前がいれば作戦成功率が上がる。

少なくともお前が死なせたくない思っている奴は死なないだろうな。」

「あら、別に私は誰が死のうとどうでも良いんですが。」

暮人からの任務を承ったらしい面子をチラリと見、心底興味なさそうに肩をすくめる。

 

「そんな態度が許されると思っているのか?」

「暮人兄さんだって別に気にしない癖に。

使えそうな駒が減った程度にしか思わないでしょう?」

「俺だって残念には思うだろう。そのくらいの心はある。

問題はお前の本当の飼い主の方だろう?」

冷淡な笑みを浮かべる暮人。

その重い圧が部屋全体を押し潰すまでに膨らむが、未明は動じない。

「なんのことですか?」

ただにこやかな笑顔を返す。

そう簡単に尻尾を出してやるものか。

だがここは大人しく従うのが得策だろう。

暮人の視線を振り払う様にして、先に出ていくグレン達の後を未明も追った。

 

 

暮人に提供されたという302会議室にて。

飲み物などを買い揃え、実家への電話をする人間はそれを済ませて、一心地ついた所で、グレン達の目線が未明に突き刺さる。

暫くの重い沈黙の後、口火を切ったのは深夜だった。

「ねえ未明、君も僕達と一緒に任務にあたるってことで良いのかな。」

「そうね。暮人兄さんがそう命じたもの。

そうするしか私に道はないわ。」

会議室の机に半ば腰かけて、未明は素っ気なく返す。

 

「未明ってそんなに暮人兄さんと仲良かったっけ。

君は真昼にべったりだっただろ?」

「いつの話?······ああ、グレンが真昼と付き合ってた頃?

それとも深夜が真昼に一目惚れした頃?

そうね、確かにそのくらいまでなら私は真昼にべったりだった。」

途端視線が厳しくなる。

特にグレンの従者からは殺気が飛ばされる。

わざわざ彼女達の癇に障るように言ったつもりだ。

グレンと深夜の表情があまり動かなかったのは残念だったが。

 

「で、今は暮人の狗か。」

吐き捨てるように、とまではいかないがつまらなそうにグレンが口を開く。

「それを貴方が言うの、グレン?

好きな子1人守れなかった貴方が。そして今だって守れない貴方が。

そんな弱くて弱くて、可愛い貴方が。」

奥に炎が宿るグレンの瞳。

未明と正面から向き合ってはいるが、彼がその向こう側に見ているのは真昼だろう。

真昼だけなのだろう。

それが悲しくて、悔しくて、口惜しくて、それなのにとても嬉しい。

グレンがまだ真昼を想っていると分かるから。

「あは、やっぱりグレンは相変わらず可愛いなぁ。」

「お前は······変わったな。」

感慨も何も感じられない声で、淡々と事実を述べる。

「そう?」

恐らく真昼よりも冷たさを人に与えるのであろう微笑みを貼り付ける。

 

ああ、グレン。ねえ、グレン。

本当はね、昔みたいに話したいんだよ。色々聞きたいんだよ。

好きなものはなぁに?嫌いなものはなぁに?

趣味は?特技は?

好きな女の子のタイプは?

まさか誰かと付き合ったりしてないよね?

真昼のこと好き?大好き?愛してる?

深夜とは友達なの?

従者の子達はもう抱いた?ああでも、そんなことしてたって真昼が知ったら泣いちゃうかな。

 

「ちょっと未明、少しはその喧嘩腰どうにかする気ない?」

「喧嘩腰?どこが?」

深夜がたしなめてくるのを適当にあしらい、未明は優雅に足を組む。

感情を読み取られてはならない。

本心を嗅ぎ取られてはならない。

真昼とシノアと練習した完璧な笑顔を今こそ存分に使わなければ。

本当は今にでも抱きついてしまいたいなんて、昔みたいに接したいなんて、絶対に悟られる訳にはいかない。

けれどそんな未明の自己中心的な葛藤とストレスに巻き込まれて、はけ口にされるグレン達に同情している。少し。

 

「ま、私のことなんてどうでも良いじゃない。

チームとして任務にあたる限りは、私も勝手な行動をする気はないわ。

出来ることなら死者は出したくないもの。

折角暮人兄さんの駒が増えたのに、また減るなんて残念だし。」

全てそちら側に従うわ、と降参した様に手を上げる。

そんな未明の様子を見て、これ以上は時間の無駄だと判断したらしいグレンは任務の内容を話し始めた。

 

百夜教の実験場があるとされる上野動物園。

キメラを研究していると聞いていたが、何か事故でも起きたのだろうか。

それなりに研究に関わっていながらも、事故とされる一連の出来事の大体の内容を知っていながらも、未明は他人事の様に欠伸をした。

 

 

 

───────

上野。

東京の北の玄関口という役割を請け負っているこの場所は、普段ならば多くの人間で賑わっている場所である。

しかし柊家による情報統制並びに操作により一般人は立ち入り禁止状態だ。

「未明は着替えないの?」

十条の娘とグレンの従者たちが木陰で柊家支給の軍服に着替えているらしいが、深夜の問いに対して未明は首を静かに振るのみ。

「私、この制服が好きなの。それにね、帝の鬼の軍服なんて着たくないもの。」

嘘しか吐けないこの口からでも、絞り出せた真実の言葉。

帝の鬼支給の軍服よりも未明が魔改造した制服の方が高機能なのは事実なのだ。

それに真昼も未明と同じ魔改造制服を着続けている筈だ。

だから未明はこの制服を脱がない。

「暮人兄さんに怒られるんじゃない?」

「あは、だからどうしたっていうのよ。」

服装一つで暮人が怒るとは考えにくいし、暮人の怒り程度どうということはない。

建物の一つや二つ破壊しながら殺し合いをすれば済む話だ。

 

「ねえ未明、君は本当に暮人兄さんについたの?」

着替えを終えてグレンと戯れている少女たちをぼんやり観察している未明の顔を覗き込みながらヘラヘラ笑う深夜。

いつも通りの笑顔だ。

真昼の影武者としてだけ生きていた頃の未明と同じ虚ろな笑顔。

その癖して目が笑っていないのは相変わらずだ。

「あら貴方だって暮人兄さんについたんじゃない、真昼の許嫁の深夜義兄さん?」

「ついたも何も、真昼が柊家を裏切ったんだろ?別に僕がどうこうしたわけじゃない。」

「そうね。」

真昼と同じ紫がかった灰色の髪が微かな風で揺れる。

そうして頬に貼りついた髪を払い、小さい笑いを漏らす。

怪訝な顔の深夜に背を向けて、未明ははくりと唇を開く。

「私が大切だと思うものはね、昔から何も変わらないの。

変わっていくのは周りと私自身だけよ。」

「どういう意味?」

「教えない。」

これ以上情報を漏らすわけにはいかない。

だから未明は口を真一文字に引き結ぶ。

 

ザワザワと木の葉が揺れる音だけが妖しく響くこの大都会のど真ん中。

霧でも出ればより一層人気の無い魔都の雰囲気が出るだろうにと、そんなくだらないことを考えながらキャンキャンと馴れ合っている同行者達を見やる。

もう全員の準備が済んだ。

それに対し、やんごとない姫君が箱入りの我が身を哀れむかの様に嘆息した未明は、そういえば真昼は今日この近くにいるのではないかとふと思い出した。

もし真昼と遭遇したならば面倒なことになりそうである。

グレンを前にした真昼は前もっての段取りも計画も、全て吹っ飛ばして欲望のままに動いてしまうのだから。

何重にもスパイをやっている可哀想な妹の未明のことなんて、それこそ忘れてしまうに違いない。

「ほんと、グレンって罪な男よね。」

 

 

 

 

そう、ほんとグレンって罪な男だ。

ほんの少し前───任務開始前にひとりでに呟いていた言葉を、再び脳内で反芻する未明。

彼女は今、硬くて冷たいコンクリート地面の上にだらりと横たわっていた。

視線を少し横に動かせば生気を感じさせない銀髪が見える。

まあ真昼に首をしめられて地面に落ちた時の様子からして死んではいないだろう。

深夜だけではない。

今回の任務の同行者達は皆揃って突然現れた真昼によって気絶させられ、未明と同じ様に地面をベッドにしている。

未明も、真昼との数秒の目配せの後真昼の攻撃をちゃんと食らって気絶させられた振りをした。

真昼が何をしに来たのかは未明には分かりきっていたし、真昼とグレンの逢瀬を邪魔する気は無かった為何の抵抗もせずに弱々しく地面に転がった。

そして今に至る。

 

目の前にはボロボロと涙をこぼす真昼と、仲間を殺そうとした自分を止める為己の腕を斬り落としたグレン。

真昼がグレンに渡した鬼呪により、彼の心は食われたに違いない。

全てを殺し、全てを犯し、全てを殺せと、欲望のままに振舞えと言われたに違いない。

しがらみも常識も全て関係ない。

あるのはただ、力と欲望と快楽のみ。

そんな自分自身に飲み込まれたに違いない。

事実グレンは未明達を殺そうとした。

真昼の誘いに乗って、一線を越えようとした。

だがそうはしなかった。

そんな自分を止めようと、彼は鬼呪を持った腕をもう片方の手の刀で斬り落としたのだった。

 

真昼は泣く。

斬り落とされたグレンの腕を掴んで、それを切断面に押し付けて、ボロボロボロボロ昔の様に泣く。

最近はもうこんな風に人間らしい表情を未明の前でも見せることはないというのに。

やはりグレンは特別なんだと分かりきっていた事実に、未明の指はピクリと動く。

ピクリ。

ピクリ、ピクリ。

不規則に指がはねる。

ひとりでに指がはねる。

 

『ねえ未明、なんだかすっごく、僕とおんなじ匂いがするんだ。

近くからプンプンするよ。あ、また近付いて来た。』

誰かな誰かなー、とわざとらしさたっぷりの嬉色を添えて、鬼宿が囁く。

そのせいか、体が勝手に動くのは。

興奮した鬼宿が未明の支配下から抜け出そうと、一時的に部分的に未明の体の支配権を奪い取ることがある。

まあ微々たるものなのだが、それが気に食わない未明はちっと舌打ちをしたくなる。

しかし今は真昼とグレンの逢瀬を邪魔する訳にはいかない。

静かに気絶した振りを続けながら、鬼宿の力を使いながら辺りの気配を探る。

きっと同族だと手を叩く鬼宿から察するに、どうやらこちらに近付いてくる招かれざる客は吸血鬼らしい。

 

これはまた面倒なことに、といつでも動ける様体を準備したのだが少し遅かったようだ。

真昼が気付き、グレンが気付き、そしてその吸血鬼はいとも簡単に真昼を蹴りそれからグレンを真昼に向かって投げつけた。

2人揃って吹っ飛んでいくのを横目に、未明はゆらりと立ち上がる。

砂埃の中、たった今顕現させた刀をその手に握りしめて未明は1人立ち上がる。

静かに見据え、禍々しい刀の切っ先を向けるのはただ銀髪の吸血鬼のみ。

そんな彼女に気付いたらしい吸血鬼───フェリド・バートリーは僅かに首を傾げる。

「あれ、まだいたんだ。」

「人間にはもう飽きちゃった?」

虚勢を貼り付けて茶化す様に笑う。

 

「うーん、まあ······って言いたい所だけど、君人間じゃないよね。

僕の剣を喰らって生きてるさっきの2人もどうかと思うけど。

まあ、それはどうでも良いかな。

でも君は違う。元々君は僕ら側だろ?」

フェリドが未明を見て機嫌良さそうに、わざとらしく人間の様ににっこり笑う。

「なんのこと?」

「しらばっくれなくても良いよ。

鬼を扱う技術は人間が発展させたみたいだけど、その中でも君は異質だ。

人間の匂いがする癖に、僕らと同じ様な匂いもする。」

「さあ、なんのこと?」

「まあいいや。人間やめたら地下においでよ。

君なら上手くやっていけるだろうし。」

よいしょとキメラの死体を担ぎ上げて、ヒラヒラ未明に手を振りながら背を向ける。

あっさりと背を向けて去っていく。

未明はその背から刀の切っ先を外し、それを空気に融かす様に体の中にしまった。

背後から斬りかかっても勝てる可能性は薄い。

それが分かっているのであろう真昼も動かないのだ。

未明1人が特攻を掛けても無駄死ににしかならないだろう。

 

ヘリの音がする。

未明達が研究施設を荒らしたのが百夜教に知られたらしい。

グレンに今度こそ撤退の指示を仰ごうとそちらを向けば、彼の背後で身を起こすのは深夜。

「あら、いつから目を覚ましていたの?深夜。」

「いやぁ、婚約者が元彼と仲良くしてるのに眠ったり出来ないよ。

未明もそうだろ?」

真昼の問いにヘラヘラした笑いを返しながら、未明の方を見る。

それには答えずグレンと深夜を黙って見てから、真昼に視線を走らせる。

真昼が小さく頷く。

なるほど、演技は続行か。

未明と真昼のことをバラしてはいけないとのお達しだ。

 

心底嫌そうな顔を作り、ため息交じりの声を真昼に向かって吐き捨てる。

「うん最初から起きてたよ、真昼。」

「気絶は演技?」

「貴方とグレンの逢瀬を1番良いところで邪魔してあげようと思って。」

心にも無いことを言ってみれば、楽しそうに笑う真昼。

可愛いなぁ、ああ可愛い。

グレンに恋をする真昼が1番可愛い。

とろけそうになる顔を必死に筋肉でしめつけて、未明は真昼を憎々しげに睨む振りをする。

 

「あら横恋慕?見苦しいわよ、未明。」

「そう見える?」

「うん、見える。」

くすくすくすくす、鏡合わせの様にそっくりな2人の美少女が笑い合うその光景はとても可愛らしい。

世の男子諸君にとっては眼福に違いない。

だがそんなものが通用しない朴念仁が1人。

「ねえ未明、君そんなにグレンのことが好きなの?」

真昼と2人だけの世界を構築しようとしていたのを深夜にぶち壊され、不機嫌さを顔に出しそうになるがまたもや未明は必死に耐える。

「うん好きよ、大好き。」

嘘ではない。

未明はグレンのことが大好きだ。

真昼と同じくらい大好きだ。

けれども真昼のものである彼を奪い取りたいとは露ほどにも思っていない。

 

「なら深夜、貴方はそんなに真昼のことが好き?

真昼を放っておけないくらいに、好きなの?」

「さあ、ねぇ。どうなのかな。

僕はその為だけに育てられた人形だから······グレンは?」

そこで何故グレンに聞くのよと未明は憤慨するが、今この場にいる4人は、間に様々な矢印が行き交う様な関係だったことを思い出す。

複雑怪奇な四角関係。

解けることのない関係の絡み合った糸。

 

「とっくに忘れた女だ。」

そんなグレンの冷たい言葉1つに、真昼は不満そうに口を尖らせる。

「ねえ聞いた、未明?」

「聞いたよ、真昼。」

「ほんと、グレンって可愛いんだから。」

「うんほんと、グレンって罪な男。」

くすくすくすくす。

くすくす。

ガキン。

くすくすくすくす。

ガギリ。

くすくす。

ギリギリギリ。

 

少女達の可愛らしい囁く様な笑い声の合間に響くのは、2本の刀が鍔迫り合う鈍い音。

真昼は鬼呪装備として完成に近い、先程グレンに押し付けた“ノ夜”を。

未明は鬼を無理に刀の形に落としこんだ鬼呪装備としては未完成な“鬼宿”を。

辺りを片っ端から汚染する様な禍々しさを発する2本の刀は、互いに纏った闇を喰い合う様に戦っていた。

その隙を縫う様にして、グレンが真昼の背後に迫る。

一瞬彼に気を取られた真昼の動きが止まり、丁度その時深夜の呪符が真昼の足に絡みつく。

だが真昼は呪符なんて気にせずに、容易く体を宙に舞わせて後ろに下がろうとする。

だがグレンが狙っていたのは初めから真昼ではなかった。

彼は真昼と斬り合っても勝てないことなど分かっていた。

未明を上手く使えば可能性はあったが、真昼と本気で殺り合う気が未明には無いことも見抜いていたのかもしれない。

だからグレンの刀は、真昼が手に持ったままだったキメラの半身を捉えた。

一部分がすっぱりと切断されて、その勢いでひゅんと吹っ飛んでいくキメラの欠片。

 

「ああ、そっちが欲しかったの。」

未明から離れた場所で刀を鞘にしまい、残念そうに笑う真昼。

そんな彼女に演技ではない溜め息を向け、未明も刀を霧散させた。

「姉妹喧嘩はまた今度ね、未明。」

「今度があるの?もう遠慮したいところなんだけど。」

ついつい本心を口にしてしまうが、もう知ったことではない。

真昼と戦うなんてやはり気持ちの良いものではない。

そんな未明とは対照的に真昼は上機嫌なのだが。

「あは、それは駄目。

貴方もそう思わない、グレン?」

「良い気になるなよ。そんなのは今だけだ。

すぐにお前に追いつくぞ。」

真昼をじっと見据えてグレンが言う。

すると真昼は酷く嬉しそうに笑って答える。

「うん、待ってるね。」

それからスキップをする様な軽さで未明達の前から走り去る。

 

「おい未明。」

残されたグレンは霧の中に消えていく真昼の背中から視線を外し、隣にたたずんでいる未明を見つめる。

「なに、グレン。」

正面から彼と目が合ったことに甘い喜びを感じながら、未明はにっこり笑う。

「お前は、変わったか?」

「うーん、変わったのは周りの方。

私は昔からずっと、大好きだもの。」

誰とは言わない。

グレンとも真昼とも言わない。

口には出せないから。

グレンには、未明と真昼の関係が凡そ露見している様な気もするが彼に確信を与える訳にはいかないから。

「···そうか。」

「うん。」

素っ気ない返事を返せば、グレンは自分が斬り飛ばしたキメラの欠片を回収しようと、そちらに足を向けてしまう。

その段々小さくなっていく背中を見つめて、戦闘の余波で抉れてしまったアスファルトを靴の端でつつく。

 

 

口に出せない願いがあるの。

言葉に出来ない願いがあるの。

伝えられない願いがあるの。

 

真昼が望むなら、未明は何だってするつもりだ。

真昼の為なら、未明は何だってするつもりだ。

けれども······やはり、真昼と刀を交えるのだけはどうしても嫌な気持ちになる。

一太刀一太刀、刀身同士をを当てる度に心がざわめいてしまう。

鬼が、ざわめいてしまう。

 

「なんでかなぁ。」

『なんでだろうねぇ。』

1人と1匹は曇天の下で、その向こう側にあるであろう太陽をそっと見上げる。

空は厚い雲に覆われており太陽は見えないはずなのに、何故だか空は酷く眩しかった。

 

 

 

 

 



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18:柊未明、16歳の破滅(三)

終わりのセラフ小説版のネタバレ過多です。
また多くの独自解釈を含みます。







八月二十日。

普通の学校ならば夏休みの真っ最中らしいが、この学校にそんなものはない。

穏やかな学園生活の裏で、百夜教との戦争は緩やかに激しく進んでいる。

戦争の最前線に指示を飛ばす暮人の駒として日々忙しく働いている未明だったが、今日は久し振りに登校していた。

別段変わった所のない、クーラーがキンキンに効いた教室では、さわさわとグレンのことが噂されている。

当然だ、あの一瀬の人間が暮人の部下になったのだから。

 

「グレン。」

後ろでぼおっとしているに違いないグレンに対する悪戯心が、ふと未明の心中で首をもたげた。

「······。」

無視である。

深夜のことも無視していたし、柊様への演技はもうやめたらしい。

「グレン。」

深夜様だけでなく未明様まで無視するなんて!と憤慨する十条の娘の高い声をBGMに、机に半分突っ伏しているグレンの頭の隣に自分の頭を横たえる。

「今何を考えてるの?」

「···昔のことを。」

「昔?グレンの背がこのくらーい小さかった頃?」

緩慢に腕を動かし、机の高さ程度の所で手を止めて、小さなグレンの背を示す。

まあここまで小さかったかどうかは分からないのだが。

 

「五百年前の馬鹿な話だ。」

「ああ、あれかぁ。」

五百年前と言われて、未明はピンとくる。

一瀬が柊と袂を分かち、帝ノ月という別の宗派を作った時のこと。

当時の詳しい状況等の情報は柊によって消されている為、グレンもあまり多くは知らない筈なのだが理由は皆知っている。

なんということはない、ただの悲しい恋物語だ。

かつて一瀬の長女として生まれた美しい少女を巡って、柊の長男と次男が争ったお話。

結局は次男が少女の恋心を勝ち取ったのだが、それを許さない長男は少女を無理矢理犯し孕ませ、更に次男を去勢してしまったのだ。

そして長男は、次男と少女と少女に宿った自分の子供を、家から放逐したという。

その次男達が作ったのが帝ノ月なのだが、その跡を継ぐのは長男に犯された時に少女が孕んだ子供しかいない。

去勢された次男の子供ができることは無いのだから、最早長男の子供しかいない。

長男に───柊に逆らった愚かな人間を馬鹿にし、嘲笑い、辱め、生き恥をさらし、その為だけに柊家に見逃されたのが一瀬───帝ノ月なのだ。

 

「なぁに、自分と重ねてるの?」

「違う。」

「あらそう?男女が逆だけどあながち外れてはないんじゃない?

柊の2人の兄弟が、一瀬の長子を取り合って争うの。

真昼と私が、グレンを取り合って争うの。」

今更グレンのことで真昼と争う気は更々無いのだが。

というよりはじめから無いのだが。

だって未明は、グレンも真昼も、どちらも大好きなのだから。

 

目の前に見えるのはつんつん跳ねるグレンの癖毛。

ほんのあと数センチ。

手を伸ばせばその柔らかい黒髪に触れることが出来る。

あともう少し顔を動かせば、キスでも出来そうな数センチ。

その数センチが遠い。

その数センチが厚い。

こうしてクラスメイトとして傍にいるのに、昔よりも離れてしまったような錯覚を覚える。

いや錯覚ではなく、事実なのだが。

今や未明は、何も知らない無垢な少女ではない。

混じりっけのない純粋な人間でもない。

鬼にもなりきれず、真昼の絶対的な仲間にもなりきれず、フワフワと雲の様に漂うだけのよく分からない何か。

それが今の未明だ。

 

「ねえグレン。」

「なんだ。」

「なんでもない。」

何かを言う気は無かった。

喧騒の中とはいえ、誰が聞いているか分からないこの教室で不用意なことは言えやしない。

最近暮人からの拘束がきつい。

どうやら真昼のやらかしたことがどんどん明らかになっているらしく、それに比例して未明への監視の目も強まっている。

妹のシノアからも自由は奪われているようで、2人揃って真昼のことで拷問を受けるのも時間の問題だろう。

未明にもシノアにも、真昼からの連絡は無い。

シノアはともかく、せめて自分には指示の1つくらいして欲しいものだと思う未明だったが、愚痴を言っても詮無いことだ。

 

「ねえグレン。」

「なんだ。」

さっきと同じような素っ気ない返事に、自然と苦笑が顔に浮かぶ。

上を見れば白い天井。

横を見れば仏頂面のグレン。その反対側には青い空。

これが私の青春だ。

「嘘つきだね、貴方は。」

嘘つきな、青春だ。

「······。」

「貴方だけじゃない。皆、嘘つき。」

グレンは答えない。

彼が今何を画策しているかなんて知らない。

どうせろくなことをしていないのだろうが、彼のその道が真昼に繋がっていると未明は信じている。

自分の身がどうなろうとも、世界がどうなろうとも、真昼とグレンが幸せになれる未来があると信じている。

今や信じるしかない。

それしかない。

未明にはそれしかない。

2人の幸せな未来が、未明にとっての夢であり希望であり、願いなのだから。

 

「ああ、呼び出しだ。」

制服のスカートの右ポケットが鈍いバイブレーションのせいで震える。

「グレン、またね。」

椅子からするりと立ち上がり、震える携帯をそのままにグレンの後ろに回ってから出口を目指す。

「暮人兄さん?」

「うん。」

途中で深夜に問われたのに小さく頷いて、未明はクーラーの効きが悪い廊下へと足を踏み出していく。

モワッと暑苦しい熱気を全身に感じながら、引き戸を後ろ手で閉める。

その瞬間戸にもたれかかってずるりと崩れ落ちそうになる体を理性で支え、揺れる視界の中で無理矢理足を動かす。

「疲れたなぁ。」

『この鎖、取ってくれれば僕が助けてあげるけど。』

「余計なお世話。」

小さな呟きを目敏く拾った鬼宿が未明の隙に付け入ろうとするが、いつもの通り無視するのだった。

 

 

 

───────

「で、暮人兄さん、一体何の用ですか?」

暮人に呼び出された拷問室は血の匂いが漂っていた。

狭い部屋の中央に置かれた椅子には見慣れた顔。

可愛い可愛い妹のシノアである。

爪を剥がされた様にも殴られた様にも見えるが、恐らくそれはメイクだろう。

嗅覚の鋭い未明は、部屋に充満する血臭がシノアのものではないと分かった時点で、拷問されたシノアの姿を見た未明の反応を見ようとの暮人の画策に感づいていた。

 

「つまらないなお前は。」

壁にもたれかかって、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せている暮人。

「つまらない妹でごめんなさい。

シノア、元気?」

ぴちゃりと血溜まりを踏み越えて、シノアの前で腰を屈めて彼女と目を合わせる。

「元気ですよ、未明姉さん。」

「なら良かった。」

そんな風にキャッキャと笑い合う姉妹を見下ろす暮人が淡々と口を開く。

「裏切り者は真昼だな。」

「今更?前から分かってたことでしょう?

だから私を泳がせていた癖に。真昼と接触する可能性のある私を。」

「お前だけじゃない、シノアもだ。」

「それで?何か分かりましたか?」

「何も。お前に言えるようなことは何も。」

軽い音をたてて、暮人の腰に下がっていた刀が抜かれる。

そしてその切っ先は未明の首元にピタリと当てられる。

「あは。」

しかし未明は動じない。

変わらぬ笑みを浮かべるだけだ。

 

「真昼に伝えろ。柊は敵じゃないとな。」

「無理ですよ。真昼はもう止まらない。誰にも止められない。」

「ならお前も裏切り者だ。真昼の仲間だ。」

「きゃー理不尽。そう思わない、シノア?」

鋭い切っ先を気にせずに首を動かして、シノアの方に向き直る。

チリリと首元が痛むが、薄皮が切れた程度だ。

未明は何も気にしない。

「ええー、ここで私に振りますか未明姉さん。」

「だって私達運命共同体じゃない。」

「どちらかと言えば、未明姉さんの運命共同体は真昼姉様でしょう。」

「前から気になってたけど、真昼は姉様呼びで私は姉さん呼びなのなんで?」

「未明姉さんは軽いじゃないですか。」

「やだ、妹に軽く見られてたなんて。

おねーちゃんショックで心臓止まりそう。」

和気あいあいと微妙に噛み合っていない様な会話をする姉妹。

 

「未明、お前が真昼を止められないならシノアを殺そう。」

刀の切っ先が未明からシノアに移る。

勿論シノアも表情を変えない。

「無駄ですよ?そんなことしても真昼は止まらない。

暮人兄さんだって分かってるでしょう。」

「そうか。なら大切なものを奪おう。

シノアはまだ8歳だ。恋も知らない少女だ。」

暮人の意図していることは分かる。

だが未明は表情を変えない。

「8歳は確かに少し早いかもしれません。

でも私が真昼と間違われて攫われて、処女を散らされたのは11?12歳ぐらいでした。

暮人兄さんが私を回収しに来たでしょう。」

「そうだったな。」

「だから別に、ねぇ。

というか暮人兄さん、シノアの貞操をどうこう出来る人間なんて、ここには暮人兄さんしか······まさか暮人兄さんが···?」

シノアを庇う様にして未明が前に出る。

ピッと彼女の白い頬に鋭い赤い線がはしる。

 

「こういうのをロリコンって言うんですか、未明姉さん。」

自分の置かれた状況をしっかり理解しているのだが、まるで何も分かっていないかの様にキョトンと可愛らしく首を傾げながら、シノアは暮人を見上げている。

「違うわ、ぺドフィリアよ。」

「ふーむ、シノアちゃん絶体絶命貞操の危機。

初めてが近親相姦というのは中々に衝撃的です。」

「そんなものよ。」

「そんなものですか。」

「うん。」

「柊の次期当主候補がロリコンで、その対象に妹を選ぶとは世も末ですね。」

「とっくのとうに世界なんて終わってる様なものよ。」

事実今年のクリスマスには世界が滅びるのだし。

 

「話にならんな。」

刀を鞘に収めて、つまらなそうに未明を見下ろす暮人。

「する気がないからですよ。」

「グレンを使うか。」

「良いんじゃないですか。グレンの言葉なら真昼も小指くらい止めてくれるかもしれません。

完全に止まることはないでしょうけど。」

もう遅いのだ。

真昼はもう止まらない。

他に道は無かった。

自分達が柊家に利用される前に、シノアが実験体になる前に、何としてでも鬼の制御方法と鬼呪装備を完成させなければいけなかったのだ。

その為に真昼はその身を犠牲にし、鬼に喰われてしまった。

 

「あのバケモノの制御はやはり難しいか。」

「真昼がバケモノなら私もバケモノ。

なら、そんな私を御している暮人兄さんが真昼も押さえ込めば良いでしょう。」

「お前は真昼の様なバケモノにはなれない。」

「どうして?」

「お前は、あまりに人間らしいからだ。

人間以上に人間らしい人間。

人間が得た理性という技能を、誰よりも人間らしく使いこなしている。」

「···褒めてるんですか?」

「さあな。」

 

ふいっと未明から視線を外し、暮人は拷問室の外へ出て行く。

シノアの拘束を解いてからそれに続こうとした未明だが、どこからともなく出てきた暮人の部下らしき人間にその手を掴まれる。

「あら?」

どうして自分が拘束されなければならないのか、そう不思議に思って首を傾げれば、はめ殺しの拷問室のドアの向こうで暮人が冷淡な眼差しでこちらを見ている。

「さっき言っただろう、グレンを使うと。」

「それと私の拘束に何の関係が?」

「シノアだけでは心もとないだろう?

グレンの為の餌は多い方が良い。」

暮人はそれだけ残して、暗い地下通路の奥に姿を消す。

暫くの間はカツンカツンという足音が聞こえていたのだが、それも徐々に小さくなり最後には何も聞こえなくなる。

暮人の冗談では無さそうだ、と諦めた未明は暮人の部下にされるがままになる。

壁から鎖で吊るされた2つの手錠に両手を差し入れ、パチンと金具を止められ。

足は拘束されないらしいが、両手をバンザイにした状態で拘束されては何も出来ない。

ついでとばかりに首に何らかの薬剤を打たれたせいか、体から軽く力が抜けていくのも相まって今の未明は抵抗する術を奪われた。

 

「めでたく未明姉さんも拷問室の住人の仲間入りですね。」

暮人の部下も姿を消し、薄暗い拷問室には未明とシノアだけになる。

椅子に拘束されたままのシノアはあはは、と乾いた笑いを上げていた。

「1日くらいで勘弁して欲しいわね。」

「どうなん···でし···よう······」

突然シノアの声が遠くに聞こえ出す。

口の動きを見るに、彼女はちゃんと話しているのだと分かる。

だが未明の耳は正しい音をはっきりと拾えなくなった。

仕方なくシノアの唇を見て言葉を汲み取ろうとするが、何故かゆらりゆらりと視界が揺れ始める。

ぐらりときてすぐに、シノアの口どころか全身の姿も朧げになる。

折角の姉妹水入らずなのだから、くだらないお喋りぐらいしようと思っていたというのに。

「······。」

「みめ···い···ね···えさん······?」

駄目だ。

シノアの声がどんどん遠くなっていく。

キョトンと首を傾げてこちらを見てくるシノアに対し、何でも良いから返そうと必死に唇を動かしても声帯が震えない。

急速に体から力が抜けていっている。

閉店のシャッターが閉められたかの様に暗くなる思考の中で、どうにか弾き出した答えは、拘束されてすぐ首に打たれた薬剤のせいだということのみ。

あの時は少し力が抜けるくらいだったが、徐々に効いたのか何なのかは知らないが、現に未明はしっかりと封じ込まれた。

耐性がない薬だったのか、運が無いな、そんな恨み言未満を最後に未明の意識は奈落の底に落ちた。

 

 

 

 

 

────────

未明は目を開けた。

どこかでポコリと、泡が水面で弾けた音がした。

真っ白い世界。

黒一つない世界。

その中心にはいつもの様に鬼がいた。

ゴスロリ服を身にまとった、とても美しい少女の姿。

真っ白の肌。

赤の瞳。

金の髪。

いくら幼児は性別の境界が希薄とはいえ、これで本当は少年だというのは詐欺でしかない。

 

『やあ。』

全身を鎖に絡め取られ、地面に這いつくばっていながらも、悪戯に笑う鬼宿。

それを暫く見下ろしていれば、ふと気付く。

コポリコポリと、水がどこかからか漏れだしているような音がする。

何だろうか、そう不思議に思って改めて周りを見渡してみても変わりはない。

何の変哲もない、いつもの白い世界だ。

 

「ねえタマ。」

『なに、未明?』

「貴方、また何かした?」

足元に転がる鬼宿の傍にしゃがんで、絹糸の様なその金髪に指を通す。

『僕は何もしてないよ。

悪いのは僕じゃない。』

「···じゃあ何なの、この違和感は。」

ほらまただ。

コポリコポリ。

何かが溢れだす音。

 

『よく見てみなよ、自分をね。』

「私···?」

鬼宿に示されて、未明は自分の体を見やる。

パッと見た所何も変わりはない。

怪訝な顔を鬼宿に向ければ、首をフリフリ呆れ顔を浮かべる。

『馬鹿だなぁ未明は。よーく見てみなよ。

ちゃんと見ようと思って見てみなよ。』

再び自分の体を観察する。

爪先、膝、太腿、腹、胸、腕、掌。

自分の視界に収まる所は全て確認した。

だが分からない。

何も見えない。

どういうことだと、ついつい冷たい視線を鬼宿に突き刺してしまう。

 

『ああもう、ここにまで薬が効いてくるなんて話は聞いてないよ。

よし分かった。

未明、もう少し屈んで。』

珍しく鬼宿が未明に直接的に命令をしている。

普段ならば遠回しに誘ったり、操ろうとしたりするばかりだというのに。

これは何かあるのだろうとの勘が働き、未明は大人しく鬼宿の前に小さくうずくまる。

するとすぐに、鬼宿は未明の目の前の空を掴む様な動きをする。

そこには何も無いというのに。

『ほらこれだよ、これ。』

しかし鬼宿がぐいぐいと、その何かを掴んだかの様に見える掌を軽く動かせば、未明の首もその動きに合わせて揺れる。

鬼宿は何かを持っている。

未明と繋がった何かを持っている。

そう何か、紐の様な·······!

 

途端視界が開けた。

いや別段この白い世界が変わった訳ではない。

見え方が変わった訳ではない。

だがパアッと何かモヤの様なものが晴れていく感覚だ。

そしてその新たな視界の中で、すぐに目に飛び込んできたのは紐······ではなくチューブ。

実験でお馴染みのチューブ。

薬や点滴、そのような類のものを体に直接注入する為のあれだ。

それから鬼宿が手を離したとしても、今の未明にはちゃんと全て見える。

鬼宿が引っ掴んでいた首に繋がるものだけでなく、両腕、両脚に深々と突き刺さる針とくっついたチューブ達を見失うことはない。

 

コポリ。

未明の腕から何かが湧き上がり、泡となってチューブの細い管の中を通って消えていく。

未明に突き刺さっているのと反対側のチューブの端は、この世界に融けて合体するようになっている為、その泡がどこにいくのかは分からない。

「これは?」

腕のそれを軽く摘んで、ゴム特有の弾力性を確かめながら未明は鬼宿に問いかけた。

『取られてるんだよ。

鬼呪の研究を進める為の材料として、僕らの体が使われてるんだ。』

事も無げに返すが、少しばかり憂鬱そうにそう鬼宿はこぼした。

「私達の体が?」

『柊家は鬼呪装備を完成させると決めたらしいんだ。

だから未明、最高の実験体(サンプル)の君に目をつけたのさ。

真昼の様に鬼に喰われることもなく、鎖で鬼を押さえつけて制御下においている君にね。』

「柊家が、どうして?」

鬼呪のことは柊家にバレていない筈だった。

真昼と未明が百夜教を利用して密かに進めていた研究の筈だった。

それなのに何故。

 

『どこかから漏れたんでしょ。』

眉間に皺を寄せて思案する未明に対し、事も無げに言い放つ鬼宿。

「どこかってそんなの···」

『まあ真昼だろうね。

百夜教がわざわざ(柊家)に塩を送るような真似すると思う?

ありえないだろ?』

「真昼が、どうしてそんなことを?」

真昼が柊家を離れた今となっては自爆行為にはならず、ただ残された未明とシノアを売ったことにしかならない。

一体どうしてそんなことをしたのか。

 

真昼に売られたとは思っていない。

真昼に捨てられたとは思っていない。

いや別にそうであっても構わない。

真昼も未明と同じく、家族(柊家)の情報を売り払うのに躊躇しなかった。

全ては力を得る為に、未来を掴む為の力を得る為に、人間として生きる為に、シノアを守る為に、好きな人の隣にいる為に、その為に柊家を裏切って百夜教を利用した。

だから今度は、売られて利用されるのが未明だったというだけで。

別にそれは良いのだ。

だがどこまで情報が漏れたのか。

シノアを守ろうとしていた真昼のことだ、きっとシノアを実験に巻き込まないようには取り計らってくれた筈。

だが本当にそうだろうか。

人間の真昼はともかく、鬼の真昼は本当にそうしてくれるだろうか。

 

······いや駄目だ。

 

思考の海から浮かび上がってきて脳を埋め尽くす疑いの心を振り払い、未明は胸の前で強く自分の手を握りしめる。

 

周りの全てが敵になったとしても、未明だけは真昼の手を離してはいけないのだ。

何も出来ないからこそ、真昼の傍にいなくてはいけないのだ。

物理的距離ではなく心的距離の話だが。

未明だけは真昼を信じなければ。

 

 

「ねえタマ、“終わりのセラフ”って知ってる?」

『あれだろ、百夜教がしてる怪しい研究。

それのせいでクリスマスに世界は滅ぶんだろ?』

未明が真昼から聞いた話をなぞるだけである。

意味ありげなニヤニヤ笑いを浮かべて、何か知っている様に口角を上げて、鼻歌を歌って。

残念なことに、嘘ばかりつくこの鬼の今の言動が演技かどうか判断出来ない。

「私も真昼から詳しく聞いた訳じゃない。

でも、その“終わりのセラフ” に真昼は···」

『踊らされてるって?操られてるって?』

「分からない、何も分からないの。

私は“終わりのセラフ”にあんまり関わっていないから。」

でも、と言葉を区切ってから視線を落とす。

 

「それって偶然?

私は鬼呪の研究ばかりしていた、それってたまたま?

“終わりのセラフ”に関わらないように、それとなく真昼に誘導されていたんじゃないかしら。」

『そうなの?』

「そうじゃないの?」

『さあ?』

はぐらかす様に鬼宿はせせら笑う。

それさえもわざとらしい。

 

「真昼と鬼呪と柊家と百夜教、世界滅亡、そして“終わりのセラフ”······。

何か···何か繋がりがある筈なのよ。

今思えば真昼の行動に不可解な所があるもの。」

『あはは、疑うのは嫌だって言ってた癖に。

いいの?

そうやって考えるってことはさ、真昼を信じてないって···そういうことだろ?』

「真昼のことは信じてる。

真昼の全てを信じてる。

真昼の望む未来を信じてる。

でも、このままじゃ何か取り返しのつかないことをした気がするの。

ううん、してしまったんじゃないかしら。

もう既に、してしまったんじゃないかしら。」

言いようのない不安が未明の心を襲う。

 

何も説明されていなかった。

鬼呪のことを柊家にバラすなんて予定、聞かされていなかった。

柊家に実験体にされるなんてこと、予測していなかった。

今までは大体真昼の計画通りに、真昼の言う通りに動いてきた。

真昼が音信不通になることはあれど、真昼と未明はちゃんと情報を共有出来ていた。

それなのに突然のこの事態だ。

真昼からの手酷い裏切りのようにも考えられるこの状況下。

未明は不安で仕方なかった。

自分の身は勿論大事だが、それ以上に今真昼がどうしているのか、何を考えているのか知りたかった。

シノアは無事なのか、実験体にされていないだろうか、心配で仕方なかった。

 

真昼のおまけ、残りかす、影、抑制者······称号をつければキリがない。

未明はその全ての称号を自分のものとして受け入れていた。

柊家に押し付けられたり、自分でレッテルを貼ったり、そんな風にして得た数々の称号だったが、その全てを受け入れていた。

何故なら、その称号は皆、前に“真昼の”とつけなければ成立しないものだったからだ。

未明は真昼のものでいたかった。

未明は真昼の“何か”でいたかった。

どんな形であっても、真昼にとっての“何か”でいたかった。

別にそれが、“王子様”でなくても最早構わなかった。

未明は真昼を救えない。

未明は真昼を守れない。

だから未明は“王子様”には、グレンにはなれない。

でも良かった。

真昼とグレンが結ばれることは未明の希望でもあったから。

きっといつか、グレンは真昼を救い出す。

幼い日に、真昼と2人で読んだ童話の様に、颯爽とグレンは真昼を救い出す。

そう信じているから。

 

「真昼。」

大切な姉の名を呼ぶ。

いつもいつも、後をついて回っていた姉の名を呼ぶ。

「大丈夫だよね。諦めてないよね。

真昼、貴方は諦めてないよね。

幸せな未来を、グレンとの未来を、諦めてないよね。」

誰も大丈夫だと励ましてくれはしない。

確信なんて持てはしない。

それでも自分に言い聞かせる。

そうでもしないと、何か嫌な仮説が頭の中で組み立てられてしまいそうで。

全てを掌の上で転がしていた真昼でさえ、強大な何かにとっての一歯車だったのではないかと、そんな絶望の音が聞こえてきそうで。

 

「真昼、まひる、まひる······」

魔法の言葉の様に何度もその名を口にして。

三日月の様に細められた鬼宿の目に不安を掻き立てられて。

そしてまた未明は、真昼の名を繰り返す。

 

 

 

 

────────

揺れている。

くらりくらり、ぐらりぐらり、緩やかに揺れている。

そうまるで、ぬるま湯に浸かって鼻歌を歌って体を揺らしているかの様な。

母胎の羊水の海で眠っているかの様な。

優しく暖かい子守唄を聞きながら、揺蕩っているかの様な。

 

「······まひる?」

心象世界の中で何度も呼んでいた様にまた、その名が自然に口をついて出る。

「···俺は真昼じゃない。」

不機嫌な声だ。

ムスッとした声だ。

でも聞き覚えがある、大好きな声。

 

目を閉じたまま、その声がした方に頬を寄せる。

温かい。

人肌の柔らかさを感じる。

するりするりとその肌に自分の頬を擦り付ければ、鼻先に何か触れた気がして、そのくすぐったさに薄ら目を開ける。

ピンぼけした写真の様な視界の中で、ぼんやり見えるのは赤茶けたもの。

少しずつ瞼を開いていくと、その赤茶けたものが地面だと分かる。

 

「起きたか。」

「···まひる?」

「だから真昼じゃない。」

やっぱりというか何というか不機嫌な声。

ここで未明はやっと、今自分と密着しているのがグレンだと認識した。

「······なんだ、グレンかぁ。」

ゆらりゆらり、揺れている。

その優しい揺れと、柔らかな体温。

これで眠くならなかったら人間ではない。

ああでも、私って人間じゃないんだっけ。まだ人間なんだっけ。

そんな取り留めのないことを考えながら、眠気をどうにか覚まそうと瞬きをする。

 

「どういう状況?」

「暮人にやっと解放されたお前を、俺がおぶって運んでいる。そんな所だ。」

「記憶が無いの。

暮人兄さんに拷問室に呼びつけられて、シノアに会って、そこで私は気を失って。

それが最後。」

「シノアが言っていたのと相違は無いな。」

「あれシノアに会ったんだ。

まあ暮人兄さん、グレンを使うって言ってたし。

脅された?」

「ああ。真昼をどうにかしないなら、シノアとお前を殺すってな。」

「それで?グレンはどうしたの?

私が今生きてるってことは、グレンは真昼をどうにかすることに決めたの?」

「······ああ。」

間があった。

嫌な間があった。

 

「ねえグレン、何があったの?

真昼は、どうなったの?」

「······。」

グレンは答えない。

伸びた黒髪がぴょこんと跳ねている首筋が目の前にある。

顔は見えない。

だがグレンが耐える様に唇を噛んでいるのはなんとなく分かった。

 

「鬼呪。」

グレンは答えない。

しかし未明のその言葉に、ほんの少し足が止まる。

「柊家が研究を始めたんでしょ?」

「ああ。」

「ねえグレン、教えて。」

未明は乞う。

甘さを感じさせないながらも、ゆったりとした優しい声で乞う。

「···鬼呪は完成した。

強大な力を得る武器として完成した。」

「やっぱり真昼が情報を漏らしたの?」

「俺だ。」

「ふうん、真昼がグレンに喋ったんだ。」

真昼が直接柊家にリークした訳では無いのであれば仕方ない。

元々柊家は真昼の動向を探るのに躍起になっていたのだ。

よくよく考えれば、鬼呪のことがバレるのは時間の問題だったのかもしれない。

 

「それで?どうやって鬼呪は完成したの?

真昼と私が作った“ノ夜”じゃ、グレンに押し付けたあれじゃ、万人受けするものじゃない筈。

あれは力が強過ぎるもの。

鬼が強過ぎて、すぐに喰われてしまうもの。」

「柊家───暮人は、鬼を制御する術を研究し、そしてそれを開発した。

それで鬼呪はお前の言う通り万人受けする武器になった。

真昼に言わせれば安全マージンたっぷりの武器らしい。」

「真昼らしいなぁ。」

力が必要だった。

誰にも邪魔されない力が必要だった。

人間として生きていたかった。

だから危険な方法と分かっていても手を出した。

リスクは冒して当たり前だった。

そんな真昼からすれば、慎重派の暮人が作った鬼呪は甘っちょろいものに思えるだろう。

 

「その為に、鬼呪を完成させる為に、お前が使われたらしい。」

吐き出す様に絞り出す様に、グレンは前を向いたまま言った。

「私?······ああなるほど。」

心象世界で鬼宿が言っていたことだと未明はすぐに思い当たる。

柊家お得意の人体実験。その実験体になったようだ。

「具体的にはどんな?私の血でも取って分析した?

でもそんなものでどうにかなったのかしら。」

「お前の血を培養して、そこに色々加えて鬼呪に混ぜたらしい。

それのお陰で、安全に鬼を使う為の呪い───鎖が出来た。

暮人がそう言っていた。」

「わあ、私の血にそんな力があったなんてね。吃驚(びっくり)よ。

因みに血はどのくらい取られたのかしら。」

「知りたいか?」

「やめとくわ。」

グレンの口振りから、口に出すのもはばかられる量だということがよく分かった。

輸血のお陰で死にはしなかったが、人間が何度か失血死を起こせるくらいだとは見当がつく。

 

 

「真昼は?」

前座は終わりだ。本題に入ろう。

グレンの首に回された腕に無意識的に力が入る。

彼の首を絞めないようにと注意していれば、ふと赤茶けた地面以外のものが目に入る。

同じ赤だ。

しかし違う赤だ。

赤い赤い夕日。

河川敷に沈みゆく夕日と、少女をおぶって歩く少年。

あら、なんだかとても青春っぽい。

そんなことを思いながらグレンの背から伝わる規則的な揺れに身を預け、未明は大きく息を吸う。

鼻腔をくすぐるその香り。

ああ、やはり勘違いではなかった。

 

「グレン貴方、真昼を抱いたでしょう。」

「···。」

「無言は肯定ととるわ。」

女の勘をなめるな。

「···お前には関係ない。」

「あるわよ。可愛い可愛いグレンが大人になったんだから、関係大ありよ。

お赤飯炊かなきゃ。」

「お前なぁ······。」

グレンが深い深い溜め息をつく。

ここで初めて、グレンの雰囲気が目に見えて緩んだ。

高校入学から今までずっと、グレンは未明を警戒していた。

気を張っていた。

つまり未明を敵と認識していた。

けれど今この瞬間、彼は未明を敵と見なすのをやめたのだ。

真昼とのことを口にして、それを茶化しながらも祝ってやれば、気が緩むなんてやはりグレンはグレンだと、そう未明は微笑む。

昔から何も変わっていない、可愛いグレン。

昔未明が恋をした、今も真昼が恋をする、可愛いグレン。

 

「どうだった?」

「感想を求めるな。」

「ええー、良いじゃない。

私の真昼を寝取ったのよ、少しは申し訳ないと思って。」

ポカポカとグレンの肩を叩く。

「深夜と同じ様なことを言うんだな。」

「あは、私と深夜は似てるもの。

ふうん、にしてもね、本当にグレンと真昼がね······。」

思わず腕に力が入り、グレンの首が軽く絞まる。

「どうした、怒ってるのか?」

「ううん、違うの。」

違うのよ。

未明はグレンの首に腕を巻きつけたまま、彼の首筋に頬をうずめた。

「···良かった。真昼はちゃんと、初めてが好きな人とで良かった。

月並みな言葉だけど、心からそう思うの。」

 

ピタリとグレンが足を止める。

「グレン?」

「···。」

「犬の糞でも踏んだ?」

「お前は、違ったんだな。」

ふざける未明とは対照的にグレンの纏う雰囲気は重めだ。

そして何故か苦しそうにグレンは言った。

「うん、そうだよ。バレちゃった?

あーあ、グレンの前では清純派でいたかったのに。」

ふふ、と乾いた笑いが漏れた。

「前、お前が変わったって俺は言った。」

「そうだね。」

「取り消す。お前は変わってない。昔と何も変わってない。」

 

動きを止めたのは、今度は未明の方だった。

ブランブランと揺らしていた足をピタリと止め、金縛りにでもあったかの様に硬直する。

それからどうして良いのか分からず視線を彷徨わせ、グレンが見つめている夕日の方に目を向ける。

「······そういうのは、真昼に言ってよ。」

「ああ。」

「これだからグレンは、これだから···。

ほんとにもう、酷いね。」

グレンが好きなのは真昼の癖に、昔からこうだ。

どうしようもない人たらし。

無意識か意識的かは知らないが、時折未明の心にハートの矢をぶっ刺したり、鷲掴みにしたりする。

そんなことをされたら恋をするに決まっている。

いや決まっていたのだ。

未明の初恋がグレンになるのは至極当然のことだった。

真昼の初恋がグレンになり、未明の初恋が二重の意味でぶち壊されるのも仕方のないことだった。

 

「でも、ありがとう。」

こんなことしか言えない。

こんな普通の言葉を返すことしか出来ない。

想いは全て過去のものだ。

今に続くものではない。

駄目なのだ、望むのも欲するのも駄目なのだ。

言葉にしてはいけない。

言葉という形にして吐き出してしまえば、すぐさま鬼宿が未明の心に付け入るだろう。

今だって既にグラグラしているのだから。

恋に取り憑かれ、欲望に取り憑かれ、鬼に喰われ、その最後に待っているのは真昼だ。

未明が真昼と同じになる訳にはいかない。

真昼と約束した。

未明は最後まで、人間のまま真昼を見ていると。

だから未明は、想いを殺して欲望を捨てて鬼宿を縛る。

 

 

「そうだグレン、今日何日?

その、もうすぐ大事な予定があって。

準備をしたかったりしたくなかったりするの。」

再び歩きだすグレンの背の上で、雰囲気を変えようと明るい声で未明が尋ねる。

「8月28日。」

「え。」

「8月28日。因みにお前の記憶が止まったのは8月20日。」

「1週間以上寝てたの、そうなの。···どうしよう。」

困った様にあうあうあうと呻く。

「どうした。」

「ごめんね。」

「どうした。」

「真昼と違って、私は何も用意出来なかった。

真昼は前倒しの“プレゼントはわ、た、し♡”をしたみたいだけど、私はそれをする訳にはいかないもん。」

そこでようやくグレンは合点がいったらしく、小さく笑った。

「そんなことか。」

「そんなことじゃないの。そんなことで済ませちゃ駄目なの。

だってグレンの誕生日なんだから。」

一瀬グレンの16歳の誕生日。

それが未明の大切な予定だった。

何をあげようか、何をしようか、そんな具体的な計画があった訳では無い。

でもどうしても、未明は何かしたかったのだ。

それなのに、

「まさか目を覚ました今日が8月28日なんて、ついてないなぁ。」

「気にするな。」

「やっぱりお赤飯炊かなきゃ。」

「なんでそうなる。」

「まあ私、お米炊いたことないんだけど。

電子レンジでチンするタイプで良い?」

「······お前といるのは疲れるな。」

「ありがとう。」

「褒めてない。」

「あはは。

······ねえグレン、16歳の誕生日おめでとう。」

「ああ。」

素っ気なく返すグレンは、1つのマンションに足を踏み入れる。

ここがきっとグレンの家なのだろう。

一瀬の家が持っているマンション。

確か従者の子達も同じ場所に住んでいる筈だ。

 

グレンの背に乗ったままエントランスを通り、エレベーターに乗って25階で降りて。

がちゃんと鍵を回せばそこはグレンの家。

未明は高揚する気持ちを押さえつけ、静かに深呼吸をする。

グレンの家グレンの家······もしかしたらまだ真昼も足を踏み入れていないグレンの家···。

いやいや、ごく普通のマンションの玄関だ。

興奮する要素は特に無い筈だ。

落ち着け、もう一度深呼吸。

そう息を吸った瞬間、

「あれ、未明だ。暮人兄さんの虐めは終わったの?」

そう言いながら、何故か廊下の向こうから姿を現すのは深夜。

「どうして深夜が?」

「僕だけじゃないよ。」

ほら、とリビングへと続くドアを開ければ、確かにそこには前未明がチームを組んだ面々が揃っていた。

十条と五士の子供とグレンの従者達。

未明が入ってきた途端、彼等の表情は目に見えて固まった。

女子3人組は、おんぶ、おんぶ、何故おんぶ···と何かの呪詛の様に呟いている。

まあそれは置いておくとして、何にせよ変な緊張がリビングを支配する。

 

しかしそれをすぐに破ったのは、他でもないグレンだった。

「小百合、時雨、包帯あるか。救急箱も。」

「ほ、包帯ですか?グレン様、どこかお怪我を」

「してない。してるのは未明だ。」

そう言いながら、ソファの上に無造作に置いてあった雑誌をどかし、そこに未明を下ろす。

それからあたあたする小百合を制し、言葉に忠実に従った時雨から包帯と救急箱を受け取る。

「グレン、私怪我なんてしてないわ。」

「適当な手当しか受けてないんだろ、腕も足も首も。」

グレンにそう言われて、未明は初めて自分の全身に注射跡があるのに気がついた。

血が止まっている所もあるが、まだ薄らと滲んでいる所もある。

「でも、どうせすぐに治ると思う。」

だってこの身には鬼が宿っているから。

斬り落とした腕でさえ患部にくっつければ完全に治るのだと、グレンは身を以て知っている筈だ。

一般的な人間が必要とする手当ては、鬼を宿した未明には必要ないと分かりきっている筈だ。

「部屋に血を垂らされても困る。」

「ええー、怪我人にその言い草は無いでしょう。」

未明の腕を取り、適当にマキロンを振りかけてから包帯を巻いていくグレン。

その動きは手慣れている。

だが乱暴だ。

だが丁寧だ。

 

「あ、え、やっぱり未明様ですよね。真昼様じゃなくて。」

十条が恐る恐る、といった風に未明に話しかける。

「うん。真昼じゃないわ。

真昼が良かった?」

自分では巻きにくい腕に包帯を巻いた後、グレンは残りは自分でやれと言わんばかりに救急箱ごと包帯を未明に押し付けた。

それを放り投げようとして、軽くグレンに睨まれた為大人しく足に包帯を巻き始めた未明は笑いながら尋ねた。

「いえ、」

「でもごめんね。私も真昼の居場所は知らないの。」

「いえ、その」

未明から視線を外しながら慌てて首を横に振る十条。

「安心して。すぐにここを出ていくから。

だからグレンの従者ちゃん達もそんなに警戒しないで。」

包帯止めをペチリと付けた後、少し違和感の残る首を触る。

血を触った時特有のぬるりとした感覚はない。

首には巻かなくて良いだろう。

 

「えー、ご飯くらい食べていきなよ。」

「深夜の家じゃないでしょう、ここは。」

我が物顔で振る舞う深夜に呆れた声を返す。

「まあまあ。

でもご飯を食べていって欲しいっていうのは僕だけの希望じゃないよ。

でしょ、グレン。」

キッチンの方のグレンに呼びかければ、ああ、と素っ気ない返答がある。

「ここにいる理由が私には無いわ。」

「僕らにはある。真昼のことも聞きたいしね。」

だろうと思った。

今や未明と真昼が繋がっていたこと、2人で鬼呪の研究をしていたことやその他諸々がバレてしまったのだ。

未明にとって聞かれたくないことは、深夜やグレン達にとって聞きたいことに違いない。

「話すことなんて何も。」

「未明だって現状把握出来てない癖に。」

「うるさい、深夜の癖に。」

 

深夜から顔を背け、ベランダからでも良いからここを出て行こうと立ち上がろうとする。

しかし足に力を入れた瞬間ぐらりと未明の体は傾いて、倒れ込む様にしてソファに逆戻りした。

「暮人が言うには、重度の貧血の上に薬の副作用で暫く体に力が入らないらしい。」

キッチンから戻ってきたグレンが冷めた目で未明を見下ろす。

その彼の視線と、この部屋にいる他の人から向けられた視線により、未明はたった今晒した自身の醜態を思い返して羞恥心を抱き、すごすご小さくなる。

貧血のせいであまり顔は赤くならなかったが。

「先に言ってよ。」

そう文句を言うが、グレンはそれを無視してまた姿を消した。

代わりに未明に答えたのはまたもや深夜である。

「じゃ、未明は僕らと一緒に夕ご飯を食べるってことで。」

「···。」

「僕を睨んでも仕方ないでしょ。未明が今動けないのは事実なんだし。」

だからグレンにおんぶされてたんでしょ?と揶揄うように笑う。

 

「そういえば今日の夕ご飯は何ですか、小百合さん。」

「カレーです。」

十条の問いにエプロン姿の花依小百合が答えた。

「良かったね、未明。カレー好きでしょ。」

「···だから?」

好きだけれども、好きだけれども······!

エプロン姿の花依小百合と雪見時雨が連れ立ってキッチンに向かうのを見送りながら未明は溜め息をつく。

作っているのがグレンの従者達だという点が気になる。

未明は真昼の妹だ。

そして真昼はグレンの恋人だ。

つまり彼女達にとって未明は、大切な主を誑かして振り回している女の妹なのだ。

未明は彼女達にとっての敵なのだ。

前会った時も殺意を向けられていたし、今だって警戒したようにこちらを見ている。

未明の方も、グレンに近しい女には敵意を向けがちだ。

グレンは真昼のものなの、それなのに近付かないでよ、と殺意を抱きがちだ。

総じて言えば犬猿の仲。水と油。相容れない。

そもそも帝ノ鬼を率いる柊家の人間と、一瀬家率いる帝ノ月に属する人間だ。

相容れないのは仕方のないことだろう。

 

「あの、未明様。」

「なにかしら、十条美十さん。」

「ええと、なんて言ったらいいんでしょう、えっと···その、」

少し顔を赤らめて、躊躇いながらも十条は言葉を紡ぐ。

「私は未明様に感謝しているんです。」

「どうして?」

まさか十条の口から感謝なんて言葉が出るとは。

柊様の未明に対して言うのは現実的ではないが、恨み言や罵詈雑言なら飛んできてもおかしくはない筈なのに。

それだけのことを未明はやった。

未明と真昼はやった。

柊家を、帝ノ鬼を裏切って、百夜教と組んだ。

帝ノ鬼と百夜教が争うように仕向けた。

何人も死んだ。何十人何百人も死んだ。

未明達が原因で死んだ人間は少なくない。

もしかしたら十条の家族や友人が命を落としたかもしれない。

それなのに何故。

十条だけではない。五士も未明に対して悪感情を抱いてないらしい。

目で分かる。

 

「未明様のお陰で、グレンを助けられたからです。

グレンを人間に留めておけた。」

「私のお陰?逆じゃない?

私のせいで、真昼と私のせいで、グレンは人間をやめる羽目になったんだから。

そういう計画だった。

グレンには強くなって貰わなきゃいけなかった。

だから人間をやめて貰わなきゃいけなかった。

鬼を宿して貰わなきゃいけなかった。」

「それでも未明様のお陰でグレンを助けられたんです。

未明様の血のお陰でグレンは助かった。」

腕に巻かれた未明の包帯。

それを痛ましそうに見つめながら十条は言う。

「未明様の血を使って鬼呪が完成したと、鬼を抑え込む札が生み出されたと、そう聞きました。

だから未明様のお陰です。

鬼呪が無ければ私は、私達はグレンを助けられなかった。」

「ねえ十条美十さん、その口振りだとグレンに何かあったってことなの?

グレンを助ける為に、貴方達が鬼呪を持たなくてはいけない程の何かが。」

この部屋に入った時から、もっと言えばこのマンションの前に着いた時から気付いてはいた。

鬼を身に宿した、鬼呪を手にした────禁忌を犯した人間がいると。

 

「あ······」

未明の鋭い視線に狼狽える十条が逡巡した後、口を開く。

が、

「そこら辺は食べながらにしようか。

カレーが出来たみたいだよ。」

そこで深夜が割り込んでくる。

「深夜。」

「あーはいはい、そんなに睨まないでよ未明。

ほら手貸すから。何ならおんぶでもしようか。」

「自分で歩けるわ。···でも手は貸して。」

「我儘だなぁ。」

「うるさいわよ、深夜お義兄ちゃん。」

「その呼び方やめてよね〜。別に良いけど。」

「うるさい。」

悪態をつきながら深夜に体重の殆どをかけて歩き、それからズルズルと椅子に座り込む。

グレンの向かい側だ。

グレンのことが大好きな深夜お義兄ちゃんは、グレンの隣に座るに違いないと未明は思っていたが、予想は外れて深夜は未明の隣に腰を下ろす。

これから始まる晩餐(尋問)の途中で未明を逃がさない為に。

ただの被害妄想かもしれないが、未明にはそんな気がした。

 

 

「未明、手に力入る?」

「問題ないわよ。」

そう深夜に答えて、前に並べられたカレーにスプーンを刺し入れる。

多少手は震えるがスプーンを握るくらいならば大丈夫そうだ。

「優しいお義兄さんが食べさせてあげようか。」

「御免こうむるわ。」

馬鹿にして、とテーブル下の深夜の足を踏みつけようとするがスルリと逃げられる。

「遠慮しなくて良いよ。」

「姉妹以外にそんなことされたくない。」

「さっすがシスコン。でも僕も君のお義兄ちゃんなんだけど。」

「男はいらない。」

「暮人兄さんは?」

「暮人兄さんの食事介助とか···」

想像出来ない。

いや想像したくない。

やめよう、何だか地獄を見る気がする。

 

頭を軽く振って、スプーンではなく刀をこちらに向けてくる暮人のイメージ画像を思考の海から追放し、未明はテーブルを見渡す。

グレンは黙々と食べている。だが警戒を怠っていない。

腰に差したままの刀がその証拠だ。

そんな彼を気にしながらも、時折コソコソ未明を睨む2人の従者。

本人達はこっそりやっているつもりなのかもしれないが、未明からすれば普通にバレバレだ。

そして、この微妙に緊迫感のある晩餐に気を病んでいるらしい十条美十と五士典人。

と全く気に病んだ様子の無い深夜。

 

ああもう仕方ない。

やれやれと嘆息する。

未明は元々息の詰まる食事は苦手だ。

というかそもそも食事という行為自体があまり好きではない。

お腹も空くし、好物もあるし、拒食症でも過食症でもないのだが、あまり食事が好きではない。

だから早く終わらせてしまおう。

「先にちゃんと言っておくわ。

私は真昼の居場所を知らない。」

ピリリと部屋に更なる緊張が走る。

未明が真昼の名前を呼んで、真昼のことを話しただけでこれだ。

 

「じゃあ無関係?」

「まさか。

私は真昼と一緒に行動していた。

真昼のしたことは私のしたこと。

ただ真昼の全てを私は知らないだけ。」

「柊家を裏切って百夜教についたのは?」

「真昼がそうしたから、私も倣ったわ。」

「仲悪いっていう噂は?」

「意図的に流したわ。情報の為に真昼がそうしろって言ったから。」

深夜の問いにスラスラ答える。

 

「グレンが人間をやめそうになったのは?」

「真昼と···間違いなく私の意志でもある。

だってグレンには力が必要でしょう。

真昼を救い出す為の力が。

今度こそ、2人が幸せになれる未来を掴む為の力が。」

違う?と可愛らしく首を傾げれば、グレンの従者達がガタンと立ち上がる。

「···っ、勝手なことを!」

「グレン様は、グレン様は、あの女のせいで······!」

片方は沢山の涙を目尻に溜め、もう片方は袖から出した暗器を構えている。

 

「怒ってるの?ねえ、どうして怒ってるの?」

「っ···!」

怒りで顔を赤くする従者達を煽るように問えば、彼女達の怒りは更に燃え上がったらしい。

暗器が未明の頬を掠め、後ろの壁に深々と突き刺さる。

「あは、怒ってるのね。

私を殺したいくらいに怒ってるのね。

それはどうして、どうしてかしら?」

「あの女は、グレン様を······大切な主を···!」

どうやら言葉にならないらしい。

まあその後に続くのは恨み言だと分かりきっていた為、未明はクスリと笑う。

可愛い従者達だ。

とても、可愛い。

とても、弱い。

柊から支給されたらしい鬼呪を手にしたとしても、彼女達は弱くて可愛い。

可愛くて弱い。

 

「だから?」

だから何、と未明は嗤う。

「ふざけるなっ······!」

「ふざけてなんかないわよ。

だから何、だからなんだっていうの?

貴方達はグレンの為にとその身を砕くんでしょう。

私は、貴方達と同じ様に真昼の為にこの身を捧げている。

分かるわよ、同じだもの。」

「分かるわけが···!」

「分かるわ。」

断言する。

従者達はグレンの為なら死ぬだろう。

そして未明も、真昼の為なら死ぬだろう。

だから分かるのだ。痛いほどに。

それ故に未明は、この可愛くて弱い従者達をどうこうする気はなかった。

たとえ殺気を向けられても暗器を投げられても、未明は怒らない。

鼻で笑って軽くいなすだけだ。

それなのに、

 

「···あの女の···化け物の妹が、私達のことを分かった······?」

「よくも、そんなことが、」

 

化け物。

その言葉が未明の耳に勢い良く飛び込んでくる。

そして未明の脳を焼く様にして、その意味を弾き出す。

バケモノ、バケモノ、バケモノ。

暮人が真昼のことをそう呼んだこともあった。

だがそこには何の感情も込められていなかった。

ただ事実として淡々と、彼は真昼をバケモノと呼んだ。

だが今彼女達は、侮蔑と憎しみと怒りと、何かそういうものをたっぷり含ませて、真昼を化け物と呼んだ。

そのバケモノ()は、この部屋に沢山いるのに。

彼女達自身も、彼女達が慕うグレンも、皆そのバケモノを体に飼っているのに。

人間をやめているのに。

 

「あは、あはははははっ!」

おかしくてたまらない。

口をついて笑いが出る。

「化け物?そうね、真昼は化け物だわ。

私もそうなんでしょうね。

ならグレンは?貴方達の愛する主は化け物じゃないの?」

「そんな、わ、け···」

断言出来ない。

グレンは化け物ではないと断言したいのに、そうすることが出来ない。

従者達にも思う所があるのだろう。

今でこそグレンの中の鬼は小康状態を保っているが、暴走したことが無かった筈がない。

グレンはグレンでなくなり、人間をやめ、化け物になり、そして鬼の破壊衝動に従って従者達を殺そうとしたに違いない。

 

「ほら。

そもそもここに、人間がいるの?

なんの混ざりっけもない、純粋な人間が?

冗談でしょう。

ここにいるのは揃いも揃って鬼呪装備持ち。

鬼を宿した元人間。

化け物じゃないの。」

「···違う!」

「違わないわ。

構わないでしょう、化け物で。

人間をやめたからって何も変わらない。

人間と化け物の境界線って何?はっきりとは分からないでしょう?

だから良いじゃない。」

歌うように未明は口を動かした。

仕草は少しばかり芝居がかっている。

 

 

「私は、生まれた時から人間じゃなかったわ。

化け物として生まれたわ。

でも、どうだった?

学校で私は化け物だったかしら。

人間には見えなかったかしら。

違うわね。私は普通の人間に見えた筈よ。

ほら、違いなんて無いのよ。」

「未明は人間だろ?」

深夜が問う。

未明の右手を、刀を顕現させようとしていた右手を掴んで、彼女に刻み込むように問う。

「話聞いてたの、深夜?

私は真昼と同じなの。

生まれながらにして化け物なの。

後天的にそうなった貴方達とは違う。」

そう、違うのだ。

だからやはり、未明はここにはいられない。

未明は真昼と同じだから。

元人間の化け物が生まれながらの化け物を厭うなら、生まれながらの化け物同士が身を寄せ合うしかないだろう。

真昼のいる場所が未明のいたい場所。

捨てられても裏切られても利用されても、未明は真昼のそばにいたいから。

 

「なら未明はさ、目的の為ならどこまで捨てられる?

どこまで殺せる?」

未明の手首を掴んだまま、深夜はにへらと笑った。

きっと真昼が柊家を売り飛ばしたことを言っているのだろうと未明には分かった。

真昼は捨てた。

家族だってなんだって、きっと未明やシノアだって最終的には捨ててしまえる。

彼女が捨てられないのはグレンだけだ。

 

「全てを。真昼の為ならば私は全てを、捨てることが出来るわ。」

深夜に掴まれた手首から拘束の呪いが流れ込んでくるが未明は気にしない。

体が万全でなくても関係ない。

鬼の力を引き出せば、深夜の呪いも体の不調もあまり問題無い。

「ここにいる人間でも?」

「お望みなら今すぐそうしてあげるわよ。」

ぶわりと未明の全身から禍々しい気が立ち上る。

すぐに反応出来たのは、未明に拘束の呪いを流していた深夜と刀を腰に下げたままだったグレンのみ。

他は未明の気に圧されて顔を青白くしている。

 

「酷いな、未明は。

僕は未明の義兄なのに、僕のことも捨てるんだ。」

どうせ大して傷ついてはいない癖に悲しそうに言う深夜を見ながら、未明は彼の拘束を破る。

早く、ここから出ていかなければ。

真昼のそばに、いかなければ。

 

「ええ。真昼の為なら。」

「暮人兄さんは?」

「捨てるわ。」

鬼宿、と名を呼んで右掌に黒い刀を握らせる。

それからその切っ先を深夜に向ける。

彼はいつもの様に笑うばかりだ。

脅しているのはこちらの筈なのに、何故それほどまでに余裕ぶっているのか。

ああでもどうでも良い。

早く行かなくちゃ。

 

「家族なのに?」

「家族?私の家族は初めから真昼とシノアだけ。」

おかしなことを、と未明は小さく呟いた。

耳障りな鬼宿の笑い声を振り払う様に、刀を深夜の首筋に当ててみる。

あと少しだ、あと少し動かせば深夜は死ぬだろう。

それなのに何故、深夜はニヤニヤ笑っているのか。

未明には分からなかった。

ああでも本当にどうでも良いの。

早く出て行かなきゃ。

 

「ならシノアは?」

「······シノアを守ることが、私の目的だもの。

真昼の目的でもある···から。」

「へえ、じゃあグレンは?」

「······グレンは真昼のものだから。だから、そう、だから」

悪足掻きの様にして、矢継ぎ早に未明に問いをぶつけてくる。

そんな深夜のせいで、未明の刃が曇る。

ほんの少し前までここを出ていく為ならば、邪魔する深夜を殺そうと思っていたというのに。

そう、早く出て行かなきゃいけないのに。

 

そっと首を動かせば、静かに刀を抜いたグレンがそこにはいた。

その切っ先は未明に向けられていて。

つまりグレンも、未明の邪魔をしようとしていて。

ならばグレンも、殺さなければならなくて。

 

「······嫌だ、なぁ···それは。」

真昼が1番の筈なのに。

真昼の為ならば、真昼のそばにいる為ならば、なんだって出来る筈なのに。

柊家は勿論、深夜も暮人も、多分皆殺せる筈なのに。

グレンを殺さなくてはならないと分かった瞬間、彼を殺したくないという気持ちが溢れてくる。

と同時に未明が深夜を殺したら、優しいグレンはきっと未明を殺そうとするだろうな、そう気付いてしまった。

そうなれば殺し合いの中で、未明はグレンを殺してしまうだろう。

未明が嫌でも、体は、鬼宿は嫌がらない。

グレンに宿る鬼の再生力を上回って、未明の中にいる鬼は彼を再起不能にするだろう。

未明は真昼より弱い。

でもグレンよりは、強いのだ。

未明は生まれた頃から鬼と付き合ってきた。

鬼を宿して数ヶ月程度の人間とは訳が違う。

 

「嫌、だな。」

殺したくない。

グレンを殺したくない。

真昼が悲しくなってしまうから?真昼が泣いてしまうから?

それもある。

でもそれだけではない。

未明が、悲しくなってしまうから。未明が、泣いてしまうから。

だから未明は、グレンを殺せない。

 

鬼宿は静かだ。

こんな時にこそ茶々を入れてきそうなものだが何も言わない。

うんともすんとも言わない。

未明がグレンを殺す為の力を、鬼宿は与えてはくれないらしい。

未明が彼を殺すことを欲していないから。

鬼宿の好む欲望にはならないから。

そんなこと1番、鬼宿(自分)が分かっている。

 

「あーあ、だから、早く出て行きたかったのに。

だから、早く出て行かなきゃいけなかったのに。」

戻って良いわよ、と掴んでいた刀に告げて、鬼の力を再びしまい込む。

未明が禍々しい圧を消したことにより、グレンも刀を下ろして鞘に戻した。

深夜はやれやれといった風に椅子に座った。

他の面々は自然に止まっていた呼吸を再開する様に、苦しそうに咳き込んだり喉を鳴らしたりしている。

 

 

「未明。」

鬼呪を解いてやる方無く立ち尽くし下を向く未明の前に、フローリングしか映らない彼女の視界の中に、グレンの足が入り込んだ。

「···なぁに、グレン。」

「もう俺から離れるな。」

「···無理よ、もう遅いもの。」

もう遅い。

もう遅いのだ。

真昼とグレンと未明と、3人で笑える時間はもう来ないのだ。

真昼は壊れてしまった。人間をやめてしまった。

未明だって、グレン達に比べればどうしようもないくらい手遅れだ。

いくら鬼を縛り付けた所で、抑えきれない時が来るかもしれない。

いやそれどころか、必死に縛り付けたせいで鬼と自然に一体化している傾向がある。

真昼の様に鬼に喰われ二重人格的になって壊れるのではなく、未明は鬼宿、鬼宿は未明、という風に嫌な親和をしてしまった。

融け合ってしまった。

 

「手遅れなんてことはない。」

「嘘つき。」

「俺がやる。お前を助ける。」

「あは、その台詞だってどうせ使い回しでしょう?

真昼には通じなかったから今度は私?

私なら簡単に籠絡出来ると思った?」

どうせそうだ。

優しいグレンが、真昼を抱いた時に彼女に優しくて残酷な言葉を投げかけない筈がない。

いつもそうだ。

未明は真昼の後。おまけ。ついで。

知っている、そんなこと。

それでも良かった。構わなかった。

未明には真昼がいたから。

真昼の“何か”でいられたから。

でも今、真昼はいない。

何にせよ未明は真昼に売り飛ばされた。柊家の実験体として売られた。

つまり捨てられた。

真昼になら捨てられても裏切られても構わない。

それは本心だ。

真昼に愛される為に、真昼を愛したのではない。

未明が真昼を愛したいから、愛しているから、真昼を愛したのだ。

見返りなんて要らなかった。

望んだことはあっても、願ったことはあっても、それでもきっと、要らなかった。

 

「嘘つき、グレンの嘘つき。」

目の前にいる優しい男をなじる。

なじってみる。

「嘘つき、最低、口だけ男。」

グレンの足が近付いてくる。

怒ったのだろうか。

怒ってくれたら、いいな。

自分の発した言葉でグレンの感情が揺れていれば、それだけは真実だから。

その時だけは自分のことを見てくれるかもしれないから。

だからそう未明は思う。

そう思って、顔を上げる。

 

「俺が助ける。」

グレンの黒い目と未明の目が合う。

残念なことに青い電流も桃色のハートも生まれない。

ああやっぱり、貴方が見ているのは真昼なんだね、グレン。

分かっていたことだと、未明は小さく笑った。

ひりつく喉を小さく鳴らした。

静かに燃える様な目が未明を見ている。見てくれている。

けれども、向こう側に真昼を見ているのが丸分かりだ。

どうしたって未明は真昼に勝てない。

胸の辺りが痛い。

酷く痛い。

ずきりずきりと甘さなんて存在しない容赦のない痛み。

問い:真昼には捨てられて、グレンには見てもらえなくて、こんな私はどうしたら良いのかしら?

答え:いつもの様にキューピット役に徹しなさい。

最後の夢に、希望に、それに縋りなさい。

 

「なら助けて、真昼を助けて。」

真昼ともグレンとも、どちらともどうにもなれないのなら、未明はこうするしかない。

今までだってずっとこうしてきた。

大切な人同士が結ばれるの。それって素敵なことでしょう?

とっても、素敵なことでしょう?

愛しい人達の幸せを望むのは、願うのは、とっても素敵なことでしょう?

「···。」

「私よりも、真昼を助けてよ。

真昼を、助けて。

私の大切な人を、愛しい人を、たった1人の姉さんを、助けてよ。」

グレンの肩を掴んで、力が入らなくて、ずるりと手を滑らせて、そのままグレンのズボンの裾まで手を下ろしてしまうのにつられて体が崩れ落ちる。

 

「···。」

「真昼は泣いてたの、ずっと泣いてたの。」

グレンは答えない。

今グレンのズボンの裾を力無く掴んでいる様に、最後の夢と希望に縋り付く未明に何も言ってくれない。

「こんな体じゃ、人間をやめた体じゃ、グレンに嫌われちゃうって。

でもグレンは真昼を抱いた。

化け物でも良いって、真昼を受け入れた。

それならグレン、真昼を助けて。

貴方が愛する真昼を助けて。

何とも思ってない私なんか助けないで。

貴方は貴方の愛する人を助けて。

真昼を···助けて。」

「···すまない、未明。」

「謝らないでよ、謝らないでよ、謝らないでよ!」

そんな辛そうな顔しないで。

そんな痛そうな声絞り出さないで。

「助けてよ、真昼を、助けて。」

「すまない。」

手が触れた。

未明の頭に、手が。グレンの手が。

温かくて優しくて。

そっと頭の上に置かれたその手が、柔らかくて。

それなのに棘の様な痛みを未明の心に運んでくる。

 

「助けてよ、助けて。」

「すまない。」

「···グレン、酷いよ。酷いな、貴方は本当に酷い。」

その謝罪は誰に向けたもの?

願いを却下するしかない未明に?

それとも助けられない真昼に?

「助けて、お願い、助けてよ。

真昼を助けて、真昼だけを助けて。

真昼だけを見て。真昼の為だけに生きて。

だから今、皆殺して。貴方の仲間や部下を全部殺してよ。

そしたら貴方は真昼だけを見るでしょう?」

「できない。」

「···そうだよね、グレンは優しいもん。

そんなの、できないよね。」

だから貴方を好きになったんだもん。

 

「お前もできないだろう、未明。」

「······そうだね。」

真昼の為なら何でもできると思っていた。

けれども無理だった。

グレンを殺せない。シノアを殺せない。

グレンが大切に思う部下や仲間もきっと殺せない。

未明はまだ人間でいなければならない。

人間でいようと努力しなければならない。

目的の為に全てを捨てられる、全てを殺せる化け物にはなれない。

真昼がそれを望んでいたから。

 

 

「そっか、もう駄目なんだ。」

あは、と乾いた唇から空虚な笑いが漏れる。

真っ直ぐに保つ力を失った首がかくんと折れて、伸びた前髪が垂れ下がる。

ぐしゃぐしゃに乱れた、真昼と同じ紫色のその髪と薄茶のフローリングとのコントラスト。

それが綺麗だなぁなんて心にも無いことを思って。

最後の砦である涙は流さずに、いつもの微笑を貼りつけて。

そうしていれば分かってしまった。

もう無理なんだと。

もう遅いのだと。

夢も希望も、もう無いのだと。

真昼とグレンが結ばれる未来、そんなもの来ないのだと。

そして真昼は、最初からそれが分かっていたのだろうと。

 

「駄目じゃない。」

グレンの手が未明の肩を強く掴む。

痛い。

「さっきと違うこと言ってる。

グレンはやっぱり嘘つきだね。」

ごく自然に口角を上げてグレンの方を見上げれば、彼は唇を噛みしめて耐える様な顔をする。

それが辛くて悲しくて、それなのに少し嬉しい。

 

「俺は、守りたい。」

一言一言、噛みしめる様に、刻みつける様に、針山の上を歩く様に、グレンは吐き出した。

「誰を?仲間を?」

「ここにいる仲間も部下も家族も、お前も、真昼も。」

「無理よ。」

「うるさい。黙って守られろ。」

「貴方は弱いのに?力が無いのに?

それなのにそんなこと言うの?」

「ああ。」

「なら、貴方が大切にしている仲間を殺せば良いわ。

そうすれば貴方は強くなれる。」

「俺は仲間を殺せない。」

「なら、真昼を殺せるの?

貴方の大切な仲間を守る為に、真昼を殺せるの?」

「···。」

グレンは答えない。

未明から少し視線を外しながらも、未明の肩を掴む手に力を入れる。

「殺せないんでしょう?」

「···。」

グレンはやはり答えない。

でも、それが答えだ。

グレンは真昼を愛している。だから殺せない。だから守りたい。

ならばその為の力を得るのか。その為に仲間を殺せるのか。

だがグレンは仲間を殺せない。何が何でも守りたい。

そうしてグレンは、どちらも選べない。

どちらも選べない、弱い人間。

目的の為ならば何でもするという気概が足りない、弱い人間。

でもだからこそ、真昼はグレンに恋をしている。

そしてきっと、未明も────

 

薄く瞼を閉じて、肩を掴むグレンの手の上に自分の手を重ねる。

そっと、重ねる。

胸の前で腕を交差させて、グレンの手だけを抱きしめる様にして未明は静かに瞬きをする。

 

真昼を救い出す王子様にはなれない。

グレンに助けてもらうお姫様にもなれない。

お姫様と王子様が結ばれる幸せな未来も来ない。

夢も希望も、何も無い。

けれどまだ、ここには願いがある。

 

真昼は未明に願った。

「人間のまま見届けて」と。

グレンは未明に願った。

「黙って守られろ」と。

鬼宿は未明に願った。

「人間をやめなよ」と。

未明は鬼宿に願った。

「人間でいたい」と。

 

 

「良いよ、グレン。

貴方の好きにすれば良い。貴方は貴方のしたいようにすれば良い。」

グレンの手を掴んで押し戻し、未明は前髪をかき上げる。

「守られてあげる。貴方にちゃんと、守られてあげる。」

真昼には拒否された願いを、未明は受け入れた。

そのことが嬉しいのか自己満足を得たのか、グレンの心はハッキリとは分からない。

でもほんの少しだけ、彼の顔が緩む。

「私も人間をやめられない。

真昼が願ったから。貴方が願ったから。

私は全てを殺すことなんかできない、弱い人間でいようと思う。

でもね、」

人間をやめちゃえよ、欲しいものは全部手に入れようよ、そう囁く鬼宿を鎖で縛りつけて封印する。

これで良い。

けれどこれでは悪いのだ。足りないのだ。

そんなことは分かっている。

それでも、

 

「私が真昼を殺すわ。」

その言葉で、グレンが弾かれた様に未明の方を見る。

水面に石が投げ込まれた様に、ゆらゆら広がる波紋の様に、グレンの心が揺れている。

それはなんとなく分かった。

そしてそれが嬉しかった。

今だけはグレンは未明を見ずにはいられないから。

 

「私が、真昼を殺す。」

鬼宿が叫んでいる。

じっとりとした奈落の底から鬼宿が叫んでいる。

そんなことを望んではない癖にと。

殺せる訳ない癖にと。

うん、確かにそうだ。

けれど未明は嘘でも虚構でもはったりでも虚勢でも、そうでもしないともう立ってはいられない。

だから未明は、再び唇をはくりと開く。

 

「最初で最後の姉妹喧嘩よ。

全てを掛けた殺し合い。

ふふ、それくらい許されるわよね。」

────だって私、真昼とグレンのことを愛しているんだもの。

 

そう言って、桜が散りゆく様を連想させる微笑を浮かべた。

 

 

 

 

 

 




ついつい長くなりました。
過去編はあと2話程でまとめたいですが、その分1つの話が長くなりそうです。






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19:柊未明、16歳の破滅(四)

······お久しぶりです|ω・)

ネタバレだらけです。
もうどこが、とかは言いません。
全てが「終わりのセラフ」のネタバレです。
また今回少々BのL的表現がありますが、そこは原作通りなので悪しからず。









明滅するテレビ画面。

ピコピコという間抜けな電子音。

爆弾を持ったひょうきんなキャラクターが2体。

それを画面上で動かす男2人。

グレンのマンションの居間で丑三つ時さえ越えた夜中に、不毛なことをやっているなと、未明はぼんやり思った。

ゲーム外の現実世界で姑息なことをしてまで勝とうとする男2人───グレンと深夜がいるが、彼等の後ろで小さく体育座りをしている未明は別段ゲームに興味は無い。

ゲームの達人である十条美十にも、ズルばかりする深夜にも再三誘われはした。

しかし未明がコントローラーを取ることはない。

ただじっと後ろから見ているだけ。

 

「引き分け?」

だがどうにも勝敗は気になってしまう質である。

騙し合いに騙し合いを重ねた結果相討ちになった2人に小さく尋ねた。

「未明ー、グレンがズルするんだけど、どう思う?」

「別に。」

グレンだけじゃないでしょう、と立ち上がった深夜を睨む。

「次は未明もやってみる?」

「やらない。」

「そう言わずにさ。」

「興味ない。」

キッチンの方へ歩く深夜から視線を外し、肘掛けでスヤスヤ寝ている十条美十の為にグレンがブランケットを持ってきている様を見つめる。

「後ろから突き刺す様な視線感じたんだけど。」

「気の所為。」

「ふーん。未明は何飲む?」

キッチンの向こうから問いが飛んでくる。

それに答えようとした瞬間グレンがブランケットを五士典人に投げつけ、ふんわり埃が舞う。

そのせいかこほりと咳き込む。

するとすぐに大丈夫かと気遣う様な視線がグレンから向けられた。

最近グレンはずっとこうだ。

暮人による鬼呪の開発実験から一時解放され、グレンのマンションに運び込まれ、真昼を殺す宣言をしてからずっとこうだ。

実験の後遺症で未明の体がかつて無いほどに弱り、熱まで出して寝込んだからかもしれないが、それだけが理由ではない気もする。

 

とにかく過保護だ、とても。

真昼の目撃情報を掴めばすぐさま飛び出していくグレン。

だがその時未明を連れて行くことはない。

寝ろ、と手刀を入れてこようとしたし、真昼がこのマンションを訪れた時もお前は出てくるなと無理矢理ベッドに押し込んできた。

 

グレンだけではない。

深夜もお義兄ちゃんに頼りなよ、と笑いながら病人状態の未明にプリンを買ってきてくれた。

やっすいコンビニのプリン。ちなみにスプーンはプラスチック製。

大して美味しくない筈なのに、美味しいでしょとベッド脇に座った深夜に問われれば、ひとりでに首が縦に動いていた。

十条美十や五士典人も、未明様未明様、と甲斐甲斐しく世話を焼く。

まあ彼女達は柊に仕える家柄だからまだ理解出来る。

だが1番不可解なのはグレンの従者達である。

食欲のない未明の為に、少しでも食べやすい様にとお粥やうどんを作ってくれた。

体も拭いてくれたし、氷枕も替えてくれた。

未明は彼女達にとって憎い女の筈なのだが、最近は態度が柔らかくなってきている。

何故かは分からない。

 

 

「ほら、未明は白湯でしょ?」

グレン達が騒いだせいか十条美十が目を覚まし、眠っていた従者達も自室から顔を出していた。

花依小百合の癖のある髪がピョコンとはねているのに気付き、同じ様なふわふわ癖毛を持つシノアのことを思っていれば、深夜が横に座ってきた。

左手に自分のコップを持っている彼が差し出してきたマグカップを受け取る。

ぬるい。だが飲むには丁度良い。

 

「ありがとう。わざわざ沸かしてくれたの?」

「可愛い義妹の為だから。」

「嘘っぽい。」

「嘘じゃないって。」

「うん、知ってる。」

陶器特有の滑らかさに指を這わせ、両手で包み込む様にしてマグカップを口元に運びながら未明は小さく笑った。

「ねえ、未明もゲームやってみない?」

目の前に転がるコントローラーを手に取り、おもむろに未明の方に投げる。

軽々半身で避ければ、呆気なく後ろのソファに墜落するコントローラー。

それに向き直ることもなく未明は淡々と答える。

「やらない。」

「なんで?」

「不毛だから。」

澄まし顔のままフローリングの上で広がっている長い髪を摘んで、くるくると白い指に巻きつける。

不満だったり不安だったりすると髪を指に巻いて遊んでしまうのが未明の癖なのだが、本人の自覚はない。

しかし付き合いの長い深夜はそんな事とうに見抜いていて。

ふうん、と興味無さそうに呟きながらも、ニヤニヤと口角を上げる。

 

「ゲームも訓練だよ。

くだらない時間を過ごせば過ごす程、鬼をコントロールしやすいらしいし。

未明の言う、不毛な事こそがね。」

「そんなことをしなくても私は鬼をコントロール出来る。

今までもこれからも、それは変わらないもの。」

感情を抑え、欲望を殺せば、鬼に喰われてしまうことはない。

欲することもない。

求めることもない。

欲望を抱いたとしても、口にはせずにすぐ捨ててしまえば良いのだから。

 

「ストイックだねー。

だから未明は暮人兄さんに可愛がられるんだろうけど。」

ソファの上に転がるコントローラーを取り、未明に押し付けてくる。

「暮人兄さんはそういうのじゃないわ。

暮人兄さんはただ、私を駒にしてるだけ。

より良い鬼呪を作る為の材料としか思ってない。

······ちょっと深夜、ねえ、」

コントローラーをセーラー服の襟と胸元の間に突っ込もうと躍起になる深夜。

いくら義妹とはいえ、これはセクハラというやつではなかろうか。

肉体的魅力を持つ女性の胸元にこう、札束を詰めていく昔ながらのそういう類のもののようだ。

楽しそうにふざけている深夜の腕を取り敢えず片手で掴んで止め、マグカップを脇に置いてから自由になった両手で彼の体を軽く放り投げる。

その拍子に彼の手からコントローラーが離れ、カランカランと乾いた音をたてて床に落ちた。

そのコントローラーを拾い上げてから、ソファにぐにゃりと身を横たえる深夜を見下ろす。

一応ソファ目掛けて優しく投げてあげたお陰か、あまりダメージは無いらしい。

ケラケラ笑っている。

 

「未明様······凄いです。」

「大丈夫ですか、深夜様。」

大の男を軽々投げ飛ばした未明に称賛の目を向ける十条美十と、あちゃぁという顔をする五士典人。

そんな彼等の方をちらりと見てから、手に持っていたコントローラーと一緒に溜め息も深夜に投げつける。

「ゲームなんかやらないわ。」

「そう言わずに未明もやろうよ。」

未明が投げつけたコントローラーをプラプラ振りつつソファから身を起こす。

「そうですよ、未明様。今なら私が手取り足取り0から100までゲームの手解きを···」

十条美十が寝起きとは思えない勢いで、いきいきと未明に迫ってくる。

その爛々と輝く目から視線を逸らして少し後退しながら、未明は胸を張って宣言する。

「やらないったらやらないの!」

「ムキになってるし。」

「なってない。」

「ほんとはやりたい癖に、ゲーム。」

はい、とコントローラーを手渡され、ついでに粘着テープの様な呪をかけられて。

流石は呪術オタクの深夜の呪だ。

即興で作ったものの筈だが、効果は抜群だ。

コントローラーが掌から剥がれない。

 

「違うから。取り敢えず深夜、これ剥がしてよ。」

「素直に言えば良いのに。」

「素直とかそういうことじゃなくて、」

呪を無理矢理解こうとしていると、十条美十がコントローラーごと未明の手を引っ掴み、そのままテレビ前に連行する。

「大丈夫ですよ未明様。私に任せて下さい!」

「だから私は······ちょ、え、十条美十さん?」

尚も深夜に文句を言おうとしていたのだが、それを途中で邪魔された未明は今までに無いほど強引な十条美十に目を白黒させる。

「美十と呼んで下さい!」

「え···え?」

「美十です。」

「美十。」

十条美十改め美十の剣幕に圧されて、こくりと頷きながら復唱する未明。

未明の周りにはここまで強引な人間───特に女はいなかった。

柊家の人間ということで皆腫れ物扱いだったのだから仕方ない。

ちなみに真昼は強引というより、振り回すタイプである。

美十の様に一緒にやりましょう!とはならず、私はそうするけど貴方は?という様にはいorYESで訊いてくるのが真昼だ。

だから未明は、まるで台風かと思ってしまう勢いで迫ってくるが中身は善意100%の美十の様な人間───特に女への対処が分からない。

男ならば半殺しにしてでも振り切れるのだが、女にはそんな無体なことをしたくない未明なのである。

 

「はい!さぁ、未明様、まずはそのボタンをですね、」

「ええと、これ?」

「そうです。流石です未明様!」

グレン達がゲームをしているのをずっと後ろから見ていたのだから簡単な操作くらいは分かる。

しかし、まだ自分は教えてもいないのに、と未明への純粋な憧れで輝く美十の瞳。

それも悪くないなぁ、と調子に乗りやすい子供らしさを残す未明は少し頬を緩ませる。

「···別に、そんなに、その···」

「流石は未明様です!」

「···あ、りがとう···。」

歯切れが悪いながらも俯きながらも、未明は頬をほんのり赤らめながら感謝の言葉を口にする。

 

 

未明は苦手だ。

不毛な時間が苦手だ。

意味があると同時に効率の良い時間を過ごすべきだという柊家での教育のせいか、未明は無意味で不毛な馬鹿騒ぎも苦手だ。

ゲームなんか、苦手だ。

やったこともなかった。

そもそも遊ぶのは苦手だ。

一緒に遊ぶ人間も、遊びに誘ってくれる人間もいなかった。

そういう友達なんかいなかった。

仲間なんかいなかった。

でもきっと今この時は、美十とゲームをする今は、深夜が茶々を入れる今は、五士典人が歓声を上げる今は、グレンが微妙に役に立たないアドバイスをする今は、花依小百合と雪見時雨がささやかな夜食を運んでくる今は、不毛だけれども楽しい時間だ。

苦手だけれど楽しい、そんな矛盾を抱えた時間だ。

 

こうやって皆で楽しく遊んで、笑って、ゲームをして、もしもそれだけで終われるなら、それだけで良かったのなら、それはとても幸せな物語だと思えるだろう。

そう思えるくらいに既に未明はこの場所に馴染んでいた。

こういうものが友達だとか仲間だとか、今まで知る機会の無かった幸せの形だと分かっていた。

 

強くなりたいなら、力を得たいなら、人間をやめて鬼になるのなら、捨てなければならないものだ。

そして真昼は友達や仲間を知らないままに、それらを得られたかもしれない可能性を切り捨てた。

だから未明もそうしなければならない筈なのに。

真昼と同じ場所にいたいなら、真昼と同じことをしなければならないのに。

それなのに。

何にもなれない弱い未明は、どっちつかずの未明は──────

 

 

 

 

──────────

日付けが変わる。

電子時計が九月二十九日という数字を光らせている。

そうだ、グレンの家に居候し始めて約1ヶ月になるのか。

そんな取り留めのないことを考えながら、未明は花依小百合と風呂に入っていた。

何故お互い天敵とも言うべき間柄の2人が仲良く風呂に入っているのか、それにはマリアナ海溝よりは浅い理由がある。

 

 

今日の人体実験で、未明は左腕が取れたのだった。

柊家お抱えの研究者によって、スパーンと勢いよく切り落とされた。

鬼の力のお陰ですぐに左腕は繋がった。

研究者もその様を観察したかったのだろう。

未明も真昼と一緒に同じ様な人体実験をしていた為、研究者の気持ちは分かる。

しかし何も言わずに切り落とすのはいただけない。

少し左腕に違和感が残ってしまった。

いくら利き腕ではないとはいえ、日常生活に支障があるような無いような···。

そう首を傾げていた時に、今日の実験室が同じだった為未明の腕が落ちる様をばっちり見てしまったらしい花依小百合が、顔を白くしながら手伝いを申し出たのだった。

食事だって風呂だってトイレだって、出来る範囲で手伝います、と。

 

未明は断った。

いくら最近は花依小百合含むグレンの従者達の態度が軟化しているとはいえ、流石に色々気が引ける。

私よりグレンの世話をしたら、と提案すれば顔をリンゴの様に真っ赤にして慌てていた。

一体何を想像したのやら。

まあともかく、そこで1度未明の世話の話は無くなった筈だった。

しかし未明が左手で持ったコップを落としかける様を見ていたせいか、花依小百合は未明の風呂の介助に押しかけたのだ。

そして今に至る。

仲良く風呂に入っている。

どことは言わないが花依小百合はデカい。

真昼と未明もそれなりの筈なのだが、彼女はそれ以上かもしれない。

湯に薄ピンクのメロンが2つ浮いて······

 

やめよう。

未明は首を振って下世話な想像を振り払い、目の前でキョトンと首を傾げる花依小百合に苦笑いを返した。

そして、既に逆上せてきている彼女に湯船から上がる様に勧める。

すると、小さく頷きながらほわぁと上気した体を湯船から引き上げて、風呂場の外へと出て行く。

温まり過ぎてぽわぽわしていた様だったが、先に上がっている雪見時雨がケアしてくれることだろう。

未明は湯が減った寂しい湯船の中で、大きく伸びをして体を湯に沈めていく。

 

「良い子なんだもん、花依も雪見も。」

真昼のものであるグレンのそばにいる女達。

ただそれだけで敵視していたのだが、こうして一緒に過ごしていれば分かる。

あの2人は良い子だ。

グレンの為に、唯一の為に、その命を捧げることを厭わない従者の鏡だ。

あれが本当の献身だ。

尊敬している、本当に。

今や唯一である筈の真昼のそばにいることも出来ない弱い未明なんかと違って、あの2人は立派に初志貫徹だ。

弱くて可愛い人間なのに。

友達とか仲間とか、そんな弱くて甘いものを信じている人間なのに。

 

深夜だって、美十だって、五士だって、友達や仲間という関係で彼女達と結ばれていて、皆揃って弱いのに。

可愛くて弱い人間なのに。

真昼が切り捨てた様な人間なのに。

けれども未明は、彼等の手を振り払えない。

真昼の双子の妹である未明に手を伸ばし、共にいることを許してくれた彼等を、未明という存在を許容してくれた彼等を切り捨てることなんて出来ない。

今更、出来ない。

今更、殺せない。

1度馴れ合ってしまえば、その温かさを捨てることなんて出来やしない。

その馴れ合いの中心にグレンがいるなら尚更だ。

 

「真昼、貴方は今どうしてるの?」

この前はグレンと一緒にマンションから落ちて、元気に心中を図っていたが、彼女の視線と未明の視線が交わることはなかった。

グレンの家に居座っているから嫉妬してしまったのだろうか。

真昼は嫉妬深いから。

それでも別に良いか、と揺らめく水面に両手を差し込んで湯を掬い上げる。

どれだけ懸命に指と指の間を閉じようとも、さらさら流れ落ちていく沢山の湯。

結局両掌に残ったのはほんの少しだけ。

ほんの、少しだけ。

この手に包んでおけるものは、ほんの少しだけ。

この手で守っていけるものは、ほんの少しだけ。

 

真昼は、そのほんの少しだけのものにグレンを選んだ。

残念なことに未明とシノア───姉妹達は落選してしまったらしい。

ある程度思ってはくれているのかもしれないが、やはり1番はグレンなのだ。

真昼は未明やシノアの為に生きてはくれない。

けれど多分、グレンの為なら死ねるのだ。

 

なら私はどうなのか。

水面に映る、情けない苦笑いを浮かべた真昼によく似た顔を覗き込む。

昔笑顔の練習をした様に意識的に口角を上げてみれば、愚かな大人に馬鹿受けした優雅で可憐な笑みが完成する。

それに疲れて一息つけば、また情けない顔に戻ってしまう。

 

真昼のそばにいたいなら、このぬるま湯から出ていかなくてはならない。

弱い人間達が馴れ合う為に結ぶ関係性────仲間や友達なんか捨てなければならない。

でも出来ない。

もう出来ない。

だから未明は決めたのだ。

この手で真昼を殺すと。

 

優しいグレンは真昼と仲間を天秤にかけて、それでも多分選びきれない。

最後まで迷って迷って、どちらも欲しがった末に自分の身を滅ぼすに違いない。

自分を犠牲にするに違いない。

そんなことは許さない。

グレンが死ぬなんて、許さない。

グレンに真昼を殺させるなんて、許さない。

もうこれ以上グレンが苦しむなんて、許さない。

真昼の大好きなグレンが苦しむなんて、許さない。

 

現実的に考えて、未明が真昼を殺せるかどうかは分からない。

未知数だ。

不可能に近いけれども、まだ未知数。

実際にやっていないのだから。

今まで1度も、真昼と喧嘩をしたことはなかったのだから。

 

でも本当に────本当に真昼を殺せるの?

そもそも刀を向けることができるの?

敵意を向けることができるの?

真昼に斬られる覚悟はある癖に、真昼を斬る覚悟は無いんじゃ本末転倒。

だって真昼は、私のたった1人の大切な姉さん。

愛や恋や、そんな陳腐な言葉を超越した想い。

それなのに、真昼を殺せるの?

 

 

······ああ駄目だ、こんなのじゃ。

ばしゃりと水面に波を立てて、愚かで弱そうな自分を掻き消して。

そのまま未明は体を湯船から引き上げた。

 

 

 

着慣れたセーラー服を見につけて居間に出れば、グレン親衛隊の皆様が顔を揃えていた。

何やら真面目で面白い話をしていた様だが、未明が姿を現した瞬間黙り込む。

いつかの様な変な緊張感が漂うものの、そんなことを一々気にする未明ではない。

どうせ真昼の悪口に近い様な話を未明の前でするのを躊躇っているのだろう。

お優しいことだ。馬鹿みたいに。

だから弱いのだ。

 

テーブルの端にもたれ掛かりながら、濡れた髪をタオルでクシャクシャ包んで乾かしているとグレンが未明の名を呼んだ。

それに生返事を返していると、今度は幾分か強い口調で再度名を呼ばれる。

「なぁに、グレン。」

「鬼を拘束している呪詛の鎖、お前は緩められるか?」

「無理よ。

きつくすることはまだ出来ても、緩めることは無理じゃないかしら。

そういう細かいことは暮人兄さんの担当だもの。」

髪の毛にへばりついていた血はちゃんととれていた。

それが嬉しくて、湿り気を帯びて艶々光っている髪に手櫛を入れる。

 

「力が欲しいのね。」

「ああ。」

タオルをグレンの隣の肘掛けにかける。

そしてその肘掛けを少し引いて、ちょこんと腰掛けて。

緩慢に足を組んでからグレンの方に向き直る。

「真昼を殺す為に?」

否定して欲しいと思いながらも、そんな奇跡は最早来ないと分かっていた。

問いを口にした瞬間グレンの喉がこくりと動き、それから残酷な答えが返ってくる。

「···ああ。時間が無い。」

「貴方のお父さんが殺されるから?」

「知っていたのか。」

「まあね。」

僅かに目を見開いて驚いてみせるグレンに苦笑を返す。

暮人から聞いてはいた。

1番真昼を殺せる可能性があるグレンに彼女を殺させる為に、グレンの父を人質にとったと。

愛しい男の為にお前も真昼を殺して良いぞと、そう暮人は笑っていた。

 

「グレン、真昼から何か預かってるものがあるでしょう。

それを見せて。何か分かるかもしれない。」

「やっぱり真昼は君だけには情報を漏らしてた訳だ。

あいつはそういう女だから。」

深夜の言葉に色々と文句を言ってやりたい気持ちはあるが、それを我慢してグレンに視線を向ける。

「お前には、お前達には?」

「私?駄目よ。真昼は多分、肝心な所は私に隠してた。

だから今真昼の所にいないで、ここにいるの。」

「なんで真昼が僕に情報を残すんだよ。」

「お前達だって妹と許嫁だろ。」

未明と深夜が口々に抗議するのに対し、グレンは肩をすくめる。

「あはは、なめんなよ。なら人の許嫁寝取るなよ。」

「こればっかりは深夜に同意。」

だから、と血は繋がっていないが本当の兄妹だと錯覚しそうになるほど揃った動きで、未明と深夜はテーブルを叩く。

「「情報、あるんでしょ?見せてよ。」」

「ぴったり···。」

美十が驚いた顔をしている。

だがそれほど珍しいことではない。

未明と深夜はそれなりに思考回路が似ている。

同族嫌悪を起こしてしまう程で無かったのが幸いだ。

 

 

グレンが黙って席を立つ。

それから自室に姿を消してすぐに戻ってくる。

手には紙束。

あれが真昼からのラブレターらしい。

テーブルに広げられたそれを、まずは深夜が手に取る。

それから未明とグレン以外の全員が回し読みをして、結局意味が分からないという顔で資料をテーブルに戻してしまう。

全てがテーブルに戻ったことを確認した未明は、それらをまとめて手に取りパラパラと捲っていく。

目を通してすぐ、見覚えのある言葉が視界に入り込んでくる。

 

クリスマス。

世界滅亡。

ヨハネの四騎士。

黙示録のラッパ吹き。

ウイルス。

終わりのセラフ。

 

やはり未明があまり関わっていなかった実験のことで間違いない。

真昼が百夜教を利用して進めていた、世界を滅ぼす実験。

そしてたった今グレンは何と言った?

京都の吸血鬼の女王?

真昼は吸血鬼達によって、その女王の元に連れて行かれた?

 

頭が痛い。

ガンガンガンガン、頭の内側から殴られている様だ。

訳が分からなくて、ショートして、想像もつかなくて、そのせいで感じる痛みではない。

何かが分かってしまうそうな、何かが繋がってしまいそうな、嫌な仮説を立ててしまいそうな、そんな予感がして頭が酷く痛む。

 

「未明?」

「どうした、何か分かったか。」

 

深夜とグレンの声さえ遠い。

全員の視線が、資料を握りしめたまま黙りこくる未明に集まっている。

その自覚はあった。

けれど未明はそれに応えてやることは出来ない。

何と言ったら良いのか分からないから。

 

 

『ねえ未明、良いことを教えてあげる。

世界を滅ぼすにはね、鍵が3つ必要なのよ。』

いつだったか忘れてしまった遠い日に、真昼が囁いていた戯言。

 

『沢山の鬼の命と沢山の人間の命、それからね、』

あともう1つは、最後の1つは何だった?

意外なものだった。確か呆れさえ覚えた。

そんなものどうやったら手に入るのかと、そう首を傾げざるを得ない代物だった。

 

さっきグレンは何と言った?

真昼は連れ去られた。

誰に?

吸血鬼に。

どうして?

真昼は吸血鬼の女王に会いに行った。

どうして?

···そう、どうして?

思い出せ思い出せ、思い出せ!

駄目だ思い出すな。

思い出したらきっと···!

 

嫌な予感が未明の思考に夜の帳を下ろそうとしてくれるがもう遅い。

もう止まらない。

1度考え始めてしまったら、必要な情報が揃ってしまったら、それこそ鍵穴に鍵がぴったりはまってドアが開いたかの様に、無駄に優秀な未明の頭は答えを弾き出してしまう。

 

 

『······そう、吸血鬼の貴族の命。

この3つがあれば、終わりのセラフは始まるの。

終わりなのに始まるなんて、変な話よね。』

戯言だったら良かったのに。

本当に、真昼の戯言だったら良かったのに。

けれどこれは全て真昼の計画だ。戯言なんかではない。

真昼が何を思ってこんなことをしているのかは分からない。

それでも真昼が何をしようとしているのかは分かってしまった。

 

資料を持つ手が震える。

かたかたかたかた。

指先から冷えていく。

かたかたかたかた。

全身を寒気が襲う。

かたかたかたかた。

震えが止まらない。

 

いつから?いつから真昼はこんなことを考えていた?

鬼呪装備の開発を始めた頃か、もしかしてそれより前のグレンと別れた頃?

何故?何故真昼はこんなことを考えた?

そんなに許せなかった?

グレンと結ばれないこの世界が憎かった?

 

 

「未明、貸せ。」

揺蕩う思考の海を切り裂く様に、グレンが資料を奪い取る。

「グレン?」

弾き出された仮説のせいでまだ茫然自失状態の未明は、ぼんやりと首を傾げる。

「誰かが来た。」

そう冷静に小声で答えるグレンは、資料をソファの下に隠す。

その様子を全員が見守る中、未明の頭に浮かぶのはこれから先真昼が取るであろう一手。

 

真昼の計画の手助けをしている胡散臭い男───斎藤が来たならば、それは真昼の計画の範囲内。

だがそれ以外なら?

いや駄目だ。

それ以外であったとしても、もう遅い。

真昼の計画は殆ど終わっている。完成している。

あとは仕上げだけ。

今更弱い人間が足掻いたところで手遅れだ。

手遅れなのだ。

 

堂々土足で乗り込んできた暮人がどれだけ理性的に頑張ったとしても、最早手遅れだ。

グレンを暮人を害した柊の裏切り者に仕立て上げて、そうして窮地に陥ったグレンを使って、真昼をおびき出そうとしているがそんなもの意味が無い。

真昼は今は来ない。

だから真昼を今は殺せない。

だからグレンの父親は絶対に死ぬ。

 

「暮人兄さん、やっぱり兄さんも真昼には勝てないよ。」

たった今グレンに斬られた癖に、放つ威圧感は変わらない暮人に押し潰されそうになっている美十と五士を庇うようにして、未明は立ち上がる。

「どうした未明。真昼は人間じゃない。化け物だ。

だから人の痛みが分からない。そんな奴は柊の長にはなれない。」

いくらグレンが手加減したとはいえ、暮人の出血は派手だ。

彼の帝ノ鬼の軍服から血が滴り落ちて、フローリングを赤く染める。

「違うのよ、暮人兄さん。

真昼は当主なんか見てない。真昼の目的はたった1つ。」

「グレンだろう?」

息も絶え絶えだというのに、顔色1つ変えずに会話をする暮人には恐れ入る。

だが彼でも役者不足なのだろう。

真昼の計画を邪魔することなんて出来ない。

ましてや壊すことなんて。

 

「そう、ね。うん、真昼はグレンしか見てない。

でも違う。真昼は、真昼は······」

「話は終わりだ。屋上へ行くぞ。」

未明の目の前から暮人が連れ去られる。

誘拐犯も真っ青な素早さで暮人の襟首を掴んだまま、玄関から飛び出ていったのはグレンだ。

それにリュックを背負った花依小百合と雪見時雨が続き、その後をさっきまで硬直していた筈の美十と五士が駆けていく。

グレンが前を走るから。

だから彼女達は皆、走っていけるのだ。

 

「未明、これ!」

深夜がさっきソファの下に隠した資料を押しつける。

具体的に言えば、前ゲームのコントローラーをねじ込もうとしていた胸元に。

丸められた紙束はぐしゃりと潰れながらも、未明の胸元にすっぽり収まっている。

未明が抗議の声を上げる前に、未明の横を走り過ぎる途中で手を掴んでいく深夜。

その力に引っ張られて未明も走るしかなくなる。

手を振りほどこうにも、きつく結ばれた片手は解けそうにない。

半ば引き摺られながらグレンの家を出て、廊下を転がる様に駆けて。

ヘリポートがある屋上に続く階段に差し掛かった時、深夜は未明の方を振り向かないまま小さく呟いた。

「真昼のことで何か分かったんでしょ。京都までの道中で話してくれるよね。」

だから行くよ、と未明の手を掴む力を強める。

 

深夜も────家族や仲間や友達や、そういう温かなものを知らなかった深夜も、今走っている。

グレンが前を走るから。

だから深夜も走っている。

そしてきっと、未明も同じだ。

真昼の計画の恐ろしさに震えていた足も、凍りついてしまった様に冷たいままだがどうにか動いている。

 

柊の兵士達が散らばる屋上を走り抜けて、先にヘリに飛び乗った深夜に手を引かれて未明も狭い機内に転がり込む。

花依小百合が運転席に座りヘリを動かし始め、途端けたたましいローターの音が屋上を支配する。

そうして少しだけ機体が浮く。

空気を割いて浮かび上がっている。

斜め下を見れば血まみれの暮人とオロオロしている柊の兵士達。

そしてヘリに向かって走ってくるグレン。

「グレン!」

開け放したままのドアの1番近くにいた未明は、思いっきり手を伸ばす。

体が半分以上機体からはみ出てしまっているが気にしない。

深夜が未明の下半身を掴んでくれると信じていたし、事実そうしてくれている。

グレンも手を伸ばす。

2人の手が重なり合って強く繋いだ瞬間ヘリのローター音が一気に大きくなり、グレンの足が屋上から離れる。

ふわり。

機体から伝わる慣れない浮遊感。

ヘリにぷらりとぶら下がった状態のグレンを繋ぎとめている手に大きな負担がかかるが、それをものともせず未明は彼の体を機内に引きずり込む。

 

そしてヘリは飛翔を始める。

向かうは京都。

真昼がいる場所の、少しでも近くへ。

そこを目指して未明達は飛んだ。

 

 

 

─────────

朝5時半。

京都の山中にヘリを無理矢理下ろして、急いで下山すること数時間。

もう少し下ればコンビニくらいありそうなものだが、コンビニには監視カメラがある為入れない。

だから未明達は山の中で用を足すことになった。

男と女で自然に分かれてから、未明達女性陣は顔を見合わせた後散り散りになる。

男の様に横に一直線に並んで用を足すのは少し、いやそれなりに気恥ずかしいものがある。

そのくらいの羞恥心は未明にも残っている。

 

各々すべきことを済ませた後で、また自然に集まり土で汚れた膝やスカートを払いながら男共がいるであろう場所に戻る。

これからのことを話し合いながら歩き出す。

今はとにかくこの場所を離れなければならない。

いくらこの地域一帯が吸血鬼のお膝元で、柊家も手出ししにくい場所とはいえ追手と鉢合わせるのは避けたい。

 

視界が開けて森から農道に出る。

その農道脇に幌付きの軽トラック。

一般市民の人影はなく、柊からの追手の姿もない。

渡りに船、いや渡りに軽トラック。

盗むしかなかった。

1番老け顔の五士が運転席に、京都の地形を頭に叩きこんできた深夜が助手席に。

それ以外は息を殺す様にして荷台に座った。

車が走り出すと、信じられない程の揺れと振動と騒音で体が酷く痛むが、未明は静かに目を閉じる。

眠ろう。

取り敢えず眠って、眠りながら考えよう。

最近やけに静かな鬼宿と1度話し合う必要もありそうだし、今は眠るべきだろう。

 

そうしてグレンと美十が何か言っていると認識したのを最後に、未明の意識は真っ黒に塗り潰された。

 

 

 

 

次に目を開ければ、目の前に広がるのは真っ白な世界。

意識は真っ黒に塗り潰された筈なのだが、未明の心象世界は今日も変わらず真っ白だ。

その中央には見飽きた金髪の幼子。

鎖で雁字搦めになって転がる、その鬼を見下ろして名を呼ぶ。

「タマ。」

『久し振り、未明。』

「そうね。ほんと、久し振り。」

ここ最近────特にグレンの家に居候してからは夢で鬼宿に会ったことはなかった。

起きている時もあまり話しかけてこなかった。

時折変な笑い声が聞こえてくる位で。

 

「真昼のこと、貴方は知ってた?」

さっき紡ぎ上げた仮説。

仮説に過ぎないと信じたいのに、真実であるという確信を持ててしまう自分の冷静さが憎い。

『何のこと?』

「知ってたんじゃないの、貴方は。

真昼の計画のことだって、全部。」

血が出そうなほど拳を握りしめて、既に鉄の味がする唇も噛みしめる。

『どうしてそう思うのさ。酷い言いがかりだなぁ。』

「嘘をつかないで。」

『嘘、ね。僕は君にだけは嘘はつかない。

未明、君が僕のことを疑うならそれは全て真実だ。

僕への疑いは、全て君に返るもの。

結局、未明は僕と同一存在なんだから。

そう、自問自答にしかならないよ。』

「っ、どうして、ならどうして?

言ってくれなかったの?」

知っていたなら何故、と憤りを隠せない。

 

『聞かれなかったから。

それに、僕が未明に言った所で何になるのさ。

未明に何が出来たっていうのさ。

馴れ合ってる弱い人間───仲間を殺して真昼の所に行ける訳でもない。

何よりもまず仲間を優先する為に真昼を殺すっていう覚悟も足りない。

だからって、真昼と仲間どっちも選びきれない愚かな君は、そのどちらともを欲しがろうとはしないよね。

僕の全てを受け入れて、僕に全てを喰われれば、君はどちらも守れるかもしれないのにさ。

君にはそのくらいの力があるんだよ。』

「···。」

反論出来ない。

理路整然と言われて、未明は何も言えない。

 

『欲しいなら欲しいってはっきり言いなよ。

グレンが欲しい、真昼が欲しい、シノアが欲しい、仲間が欲しい、友達が欲しい、家族が欲しい。

皆欲しい、だから守りたいって。

その為の、誰にも負けない力が欲しいって。』

自然と足から力が抜け、未明はぐにゃりと座り込む。

その膝の上に力なく転がる未明の手に、鬼宿が小さな掌を這わせる。

とても優しい手つきだ。縋りたくなる程に。

けれども未明は、ふるふると首を横に動かした。

 

「鬼に、喰われる訳にはいかないの。

真昼はそれを望んでない。

約束なの。最後まで人間のまま見ていてねって、言ってたの。」

『それは真昼の願いでしょ。君の願いは何?』

「鬼に、なりたくない。

でも、力も欲しい。皆を守れる力が欲しい。」

欲しいと言いながらも、心底望みながらも、鬼宿を縛る鎖を強固なものに塗り替えていく。

そうでもしなければ、きっとこの欲望が爆発してしまう。

欲望を殺し、感情を殺し、鬼宿(自分)を殺し、痛みを伴う殺人を重ねて、未明は自分の体をかき抱いた。

 

「真昼とシノア、それとグレンさえいれば私、大丈夫だと思ってた。

でも駄目だった。

仲間を知ってしまったの。友達を知ってしまったの。

ねぇ知ってた?友達ってね、一緒にゲームをして遊ぶのよ。

私は知らなかった。知る機会も無かった。

無くて良かった。必要なかった。

今だって後悔してる。知らなければ良かったって。

でも不思議よね、知りたかったのよ、私。

友達との馬鹿騒ぎってものを知りたかったの。

普通の女の子みたいに生きてみたかったのよ。」

 

痛い。体が痛い。

痛い。心が痛い。

痛い。感情が痛い。

痛い。愛が痛い。

痛い。全てが痛い。

それでも1つ2つと鎖を増やして、鬼宿の華奢な体には似つかわしくない装飾として巻き付けていく。

 

『···馬鹿だね、未明は。

君は何も悪くない。

真昼も悪くない。

悪いのは僕なのかもしれないけど、でも1番悪いのはこの世界だ。』

顔をぐちゃぐちゃに歪めながらも、感情吐露の1番の手段である涙は流すまいと努める未明の膝を優しく撫でる鬼宿。

肘まで鎖で雁字搦めになっているせいで覚束無い手つきだが、幼子の頭を撫でるように優しく撫でる。

 

「貴方もそう思う?

真昼みたいに、世界を滅ぼしてしまおうって思う?」

 

真昼から少しだけ聞いていたこと、グレンに見せてもらった資料、現在の状況。

それらから未明が構築した仮説は、“真昼による終わりのセラフを使った世界滅亡計画”。

断片的な情報をバラバラなパズルを組み合わせる様にして繋ぎ合わせれば、1枚の絵という名の仮説が出来上がってしまった。

 

今年のクリスマスに世界が滅びるとは聞いていた。

何故かは知らない。

だがどこか漠然的で、比喩的なものだと思っていた。

だが違った。

元々は百夜教が躍起になっていた研究に真昼が介入し、百夜教を利用する様にして“終わりのセラフ”計画は進められていたのだ。

そしてその“終わりのセラフ”こそが世界を滅ぼすトリガーであり、“終わりのセラフ”を発動する為に必要なものが沢山の人間の命、沢山の鬼の命、そして吸血鬼の貴族の命。

世界を滅ぼす為の代償にするにはうってつけの禍々しさを誇るラインナップである。

 

人間と鬼の命は、鬼呪開発中にいくらでも得ることは可能だ。

しかし吸血鬼の貴族の命は?

そもそも吸血鬼の情報はあまり明らかにされていない。

吸血鬼が表に出てこないからだ。

だから彼等と遭遇すること自体が難しい。

たとえ遭遇したとしても、生きて帰れる確率はとても低い。

吸血鬼は人間を家畜としか思っていない。

歯向かえば殺され、歯向かわなければ血を貪られる。

百夜教の実験場があった上野で吸血鬼に遭遇しながらも、生きて帰れたのは紛れもない奇跡だ。

あの銀髪の吸血鬼───フェリドが(未明基準で)変わり者だからかもしれないが。

未明が人間ではない?吸血鬼に近い?

そんな冗談を言う吸血鬼なんてとても珍しい、希少種だ。

吸血鬼の中ではハブられているに違いない。

まあともかく閑話休題。

 

そんな遭遇率の低い危険な化け物───吸血鬼の貴族の命の入手というミッションの難易度はトップクラス。

人間の中では1番化け物に近く、1番強いであろう真昼であっても、吸血鬼の貴族、しかも複数と戦って勝つのは不可能だろう。

だから真昼は正面から戦いを挑むのではなく、吸血鬼に交渉を持ちかけたのだ。

京都の吸血鬼の女王に。

そして彼女が治める吸血鬼の巣に連れて行かれたのだ。

一体どんな交渉を持ちかけたのかは分からない。

何を差し出したのかは分からない。

でもきっと、真昼は吸血鬼の命を手にして帰ってくる。

それを使ってクリスマスに世界を滅ぼすのだ。

 

真昼は、世界を滅ぼす為に動いていた。

全ては世界を滅ぼす最終装置“終わりのセラフ”を発動させ、計画を完成させる為。

鬼呪の開発だって、沢山の人間と鬼の命を得る為で。

人間として生きる為だとか、シノアの為だとか、そんなのはまやかしだったのだろうか?

いやもう、それでも構わない。

元々真昼は人間を駒に、この世界を盤に見立てて遊ぶタイプなのだから。

天才過ぎるが故に、人間の痛みが分からないのだから。

鬼と混ざり合ってからはその傾向が強くなっている。

 

ただ1つ真昼に聞きたいのは、世界を滅ぼすのは何の為?ということだけ。

グレンと一緒に生きる未来を認めないこの世界が憎かった?

だから滅ぼそうと決めた?

ならばその滅んだ世界の向こう側で、2人は幸せになれるのか?

もうそれしか手段が無かったのか?

世界を滅ぼすなんて、そんな神様みたいな行為を振りかざすことでしかもう、真昼は幸せになれなかった?

いやそもそも、それは幸せなのか。

真昼は何になりたいの。グレンのお嫁さん?人間?化け物?神様?

ああでもそれだって、結局の所どうだって良いのだろう。

 

 

「弱くて、ごめんね。

一緒に世界を滅ぼして、って貴方が言えるくらいの力を持てない私で、ごめんね。

強くなれなくて、ごめん、真昼。」

助けてと、一緒にやってと、1人は嫌だと、そう真昼が吐き出せる場所になれなくてごめんね。

真昼と同じものを見れる力を持てなくてごめんね。

弱くて情けなくて頼りない妹でごめんね。

 

未明が悪いのだ。

何も出来ない弱い未明が悪いのだ。

真昼に頼って貰えるほど強くない未明が。

たとえ頼られても、真昼の全てを受け入れて抱きしめて守れる力がない未明が。

 

 

『思ったことはあるよ、世界を滅ぼしちゃおうかなって。

ただの気まぐれだ。

昔は僕もそれが出来るくらいの力があったし、なんとなく滅ぼしかけたこともあった。

でもね、真昼は違うよ。

いくら真昼が人間離れした天才でも、人間をやめて化け物になっても、それでも真昼は気まぐれで世界を滅ぼさないよ。』

重い鎖をジャラジャラ鳴らして、鬼宿は首を横に振る。

「どうして?」

どうして、そんなことが言えるのか。

血の様に赤い目を光らせる鬼宿を見下ろして、未明は乾いた唇を動かした。

 

『人間は神にはなれないから。

良い神でも悪い神でも、神になったなら全てを平等に見なくちゃいけないんだ。

ある程度の贔屓はあってもね。

でも、真昼はそれが出来ない“人間”だ。

欲するままに生きる、愚かな矮小な人間だ。

人間という枠を外れても、せいぜいが化け物程度。

僕にとっては人間も化け物も同じだけどさ。』

知った様な口をきく鬼宿に対する苛立ちは湧かない。

そんな元気もない。

ただ呆れるだけ。

 

「意味が分からないわ。

貴方、神様か何か?

ただの鬼のくせにそれらしいことを言うのね。」

『今はね。僕は君に宿るしがない鬼でしかない。

ま、昔はやんちゃだったってことさ。

それよりさ、分からない?

真昼は神にはなれない。

真昼の本質はちゃんと人間だ。』

「···だから?」

だから何だ、今更それがどうだというのだ。

真昼は人間だ。化け物だ。

正直どちらでも構わない。

真昼は未明の片割れで、姉だという事実は変わらない。揺るがない。

 

『馬鹿だなぁ、まだ駄目なの?

真昼の人間としての本質を構成するのはさ、これまた人間なんだよ。

真昼が愛する、鬼に心を喰われた真昼がまだ愛していられる、人間。』

「グレンね。」

『わあ即答。』

何が面白いのかくすくす笑う。

しかしその目に滲むのは暗い色。

とても悲しい、色。

 

『勿論グレンはそうだ。

彼への想いこそが、鬼に心を喰いつくされた真昼に残った人間らしさ。

でもグレンだけじゃない。

血を分けた姉妹、生まれながらに鬼を宿した同士、唯一同じ境遇の家族。』

鬼宿が言わんとすることは分かる。

要は真昼は未明とシノアを思ってくれていると言いたいのだろう。

だがそんな慰めは必要ない。

 

「そんなの、」

『そんなのだなんて言うなよ!

未明は真昼を愛してる。同じ様に真昼も未明を愛してる!

シノアもそうだ!

形は違っても歪でも、残ったのはほんの少しでも、それでも真昼は未明を、シノアを、君達を思ってるんだ!』

鎖を引きちぎるかの様な勢いで鬼宿が吠える。

癇に障る笑い声以外で鬼宿が大声を出すのは滅多にない。

大抵は囁き声だ。

しかし今、鬼宿は叫んでいた。激昂していた。

精巧な蝋人形の様な人間離れした白を誇る、その滑らかな肌に僅かに朱をはしらせて、鬼宿は声を荒らげていた。

 

「どうして、貴方がそんなに怒ってるの?

貴方には関係ないじゃない。」

『あるんだよ!

君は僕で、僕は君。

何度も言っただろ?僕らは鏡合わせの同一存在。

だからこの感情は僕のものだけど、君のものなんだよ、未明。

君が真昼に愛されたいと願い、愛されていると信じているこの気持ちは、虚構なんかじゃない。

“それ以上”を望んでいるのは他でもない君だ。』

ちゃんと、この気持ちは君のものなんだ。

そう絞り出す様に言いながら鬼宿はべそをかく。

その姿は見た目通りの可憐な幼子の様で。

何の力もない、弱い幼子の様で。

 

「私の···私の?

そんなの、駄目でしょう。

私は感情なんて、そんな風に泣くなんて。」

白い心象世界に垂れて、ゆらりと融けていく鬼宿の涙。

とめどなく溢れる涙を手の甲で拭い、しゃくり上げるのを我慢する姿は見覚えがあった。

誰かに似ていた。

遠い昔に見た、誰かによく似ていた。

 

『君がそういう考えだから、僕がこうなるんだよ!

この僕が、涙なんて枯れ果てた筈の鬼の僕が、泣いてるんだよ!

君の代わりに、泣いてるんだ!』

「っ······!」

その言葉が弾丸の様に耳に飛び込んできた瞬間、未明は何も巻きついていないのにやけに重い腕を振り下ろした。

そしてその腕を心象世界の中にずぷりと突っ込み、震える鬼宿の体を心の奥底に閉じ込める様操作する。

反射的にそうしていた。

何かを考える前にそうしていた。

これ以上は駄目だと、警鐘が聞こえていた。

 

『未明······!』

体がずぷりずぷりと沈みながらも、鬼宿は懇願する様に未明の足に縋る。

その姿も見覚えがあった。

ついこの前、見た。

グレンのズボンの裾を掴んで、引っ張った。

お願いだから、と縋った。

でも本当はあの時、今の鬼宿の様に泣いてしまいたかったのだと、

思────────わない·······!

駄目だ、思ってはいけない。

思って良い訳がない。

そう、思うな、思うな、思うなあぁああっ······!

 

「うるさい、黙って。」

未明は噛みしめ過ぎて血を垂らし始めた唇から歯を離し、代わりにギリギリと奥歯を食いしばる。

『未明、お願いだから。もう良いでしょ。

もう十分だよ。未明は頑張った。頑張り過ぎた。

だからさ、もう素直になってよ。

欲望に身を任せて、感情を解き放って、好きな様に振る舞ってよ。

我慢なんかしないでよ。

人間らしい理性なんか捨ててよ。』

「うるさい、うるさい、うるさい。」

『未明、ねえ、未明ってば。』

じゃらりじゃらりと鈍い音を上げながら、鬼宿の下半身が水没する様に心の奥に飲み込まれていく。

 

「うるさい。」

『未明はさ、どんな大人になりたいの?

どんな夢を描いてるの?どんな未来を願ってるの?』

馬鹿らしい問いなんか無視すれば良い。

どうせ悪足掻きだ。

閉じ込められたくないからと、未明の心を惑わそうとしているのだ。

その手には乗らない。乗るものか。

しかしその覚悟を嘲笑うかの様に、鬼宿の声は心を刺す。

ブスリブスリと柔らかい所ばかりを狙って突き刺していく。

 

「違う違う違う、違う。

私はそんなもの······私はただ、真昼が笑ってグレンが笑って、シノアも笑って、そんな幸せな未来があれば······“それ以上”なんか望まない。」

『君の願いは、何?』

「そんなもの、」

『家族は、仲間は、友達は、好きな人は、』

「うるさい、うるさい······!」

最後は叫んでいた。

声にならない、変な呻き声を吐き出していた。

その勢いで鬼宿の体を心の奥底に押し込めた。

奈落の底に突き落として、その上から封印の札を貼り付けるイメージで鬼宿を縛りつけていく。

その間も鬼宿の啜り泣きと嘆き声が聞こえてきたが、無視して大きな蓋をした。

 

 

 

 

 

「······あ、未明も起きた。」

鬼宿を封印した穴にドカンと1発巨大な岩を叩きつける様なイメージをした瞬間、急速に意識が闇から引き上げられた未明が目を開けて初めに見たのは深夜の顔だった。

薄暗い軽トラックの荷台の幌の中でも、薄らと輝く銀髪がチカチカする。

「今、何時?ここはどこ?」

声が掠れていた。まるでついさっきまで泣いていたかの様に。

 

「14時。7時間以上の睡眠はどうだった?

ちなみにここは街道沿いのラブホテル。

グレンもだけど、こんな状況でよく寝れるよね。」

その言葉で斜め向かいにグレンがうずくまっていたことに気が付いた。

なるほど、グレンも寝ていたのか。

スッキリした顔をしつつもどこか憮然とした表情なのは、やはり未明と同じ様に鬼と会話していたからに違いない。

きっと何か良からぬことを言われたのだ。

 

「部屋に行こう。着替えの準備もしてある。

あ、未明は女子部屋ね。」

そう言いながら荷台から静かに飛び降りる深夜にグレンが続き、未明も幌を捲り上げて荷台から出た。

駐車場を抜け、並んで歩く男2人を先にラブホテルに入らせて、未明はその後ろからそろりそろりと続いた。

しかしエレベーターは3人で乗らなければならないようで。

狭い密室の中、未明は押し黙りながら、誰にも会わなければ良いなとぼんやり思っていたのだが、そううまくはいかないらしい。

 

到着したエレベーターのドアが開き、そこにはねっとりとキスをする恋人らしき学生2人組。

彼等は扉のすぐそばに立っていたグレンと深夜に目がいったらしく、え?え?と戸惑いの声を上げる。

グレン達の後ろにいた未明には気付かなかった。

いや気付いていたのかもしれないが、未明が男2人組の同行者だとは思わなかったのだろう。

そう思われないように、未明もわざとらしく顔を背けていたし。

そのせいでまあなんというか、グレンと深夜がそういう関係だと勘違いされたらしく。

未明達がエレベーターを降りて、学生カップルがエレベーターに乗って、チンと扉が閉まりきる直前で爆笑と「まっじかよあいつら!」という声が聞こえてきた。

 

「ひゅーひゅー。ラブラブねー。」

「···。」

棒読みで囃したてれば、グレンに半眼で睨まれた。

しかし何も言われなかった。

深夜にも無言で1つ奥の扉を示されるだけだった。

これ以上はやめておこうと賢明な判断をした未明は、深夜の指示に従い女部屋の扉を開けた。

 

「あ、未明様!もしかしてグレンも目を覚ましましたか?」

ピンクのワンピースを身につけた美十が、未明の方に寄ってくる。

「隣にいるわ。」

「ちょっと私、様子を見てきます!」

今はやめておいたら、と言う前に美十は扉を開けて飛び出していってしまう。

部屋に残されたのはグレンの従者達と未明。

一瞬緊張がはしるが、パーカーとハーフパンツに着替えた雪見時雨が無表情のまま未明に白い塊を差し出してくる。

「これは?」

「貴方の服です。」

「ありがとう。」

「選んだのは小百合です。礼なら小百合に。」

淡々としている。

雪見時雨の表情筋はグレンと花依小百合の前でしか動かない。

まあ未明の前では比較的動いている気もするが。主に怒りのせいで。

 

「ありがとう、花依。」

「いえ、あったのを適当に取っただけなので、その、」

花依小百合がモゴモゴしていると、さっき飛び出していったばかりの美十が顔を真っ赤にした状態で勢いよく扉を開けた。

それからその顔に両手を当てて、扉の内側に座り込む様にして扉を閉めた。

「ふ、ふ、不潔ですっ、不潔·······!ううう···。」

「美十?」

セーラー服を投げ捨てて、雪見時雨から受け取った服───白いワンピースを被りながら彼女に何があったのか尋ねた。

錯乱した様子の彼女から少しずつ話を聞く所に、どうやらグレン達はいかがわしいビデオを見ていたらしい。

なるほど。

まあグレン達も年頃なのだから見てもおかしくはないのだろうが。

 

恥ずかしさやら何やらが混ざって、さっきまでの勢いはどこへやらと尻込みする美十を誘導しながら、動きやすいスウェットを着た花依小百合の後に続いて男部屋の前に立つ。

「あの、男の子の時間は終わりましたでしょうか?」

控えめなノックの後、ぴょこりと顔を覗かせる花依小百合。

その姿はまるで小動物、具体的に言えばリスの様だ。

 

例のテレビ画面の方を見れば、アダルトな映像が流れたのは一瞬だけで、すぐにグレンがチャンネルを変えていた。

それに安心した様に美十が溜め息をつく。

雪見時雨が扉を閉めれば、女4人と男3人がこの狭い部屋に密集したことになる。

普通の思春期真っ盛りの男女なら、おっぱじめてしまいそうなものだがそんな場合ではない。

グレンはちらりと時計を見ていた。

彼の父親が処刑されるまであと34時間。

それを確認したグレンはバスルームに姿を消し、すぐにラフな格好に着替えて戻ってきた。

 

 

「で、これからどうする?」

だが、その深夜の問いに対する答えを誰も持っていない。

一同から僅かな期待が未明に向けられるが、未明は何も答えない。

真昼が本気で世界を滅ぼすつもりだなんて、今それを言って何になる?

その為に吸血鬼の元へ行ったのだと言って、何が変わる?

何も変わりはしないのだ。

未明も吸血鬼の王国の場所を知らないのだから、どうしたって真昼を見つけることは出来ない。

 

重い沈黙が場を支配する。

が、そこで、急にグレンの足元でゴトンッという鈍い音が響いた。

何か重いものを取り落とした様な音。

だがグレンは何も持っていない筈だ。

ラフな格好になったばかりだ。

それなのに今明らかに、何かが落ちた音がした。

 

未明はパッとグレンの足元に目を向け、そして息を呑む。

鞘に入った一振の刀が立つようにして落ちていた。

真昼の鬼呪装備、真昼の刀、真昼の鬼───未明の鬼宿と同じ様に生まれながらに真昼の心に棲んでいた阿朱羅丸。

何故それがこんな所に?

よりにもよって今?

 

阿朱羅丸の入った刀がゆっくりグレンの方へ倒れ、美十が触らないでと叫ぶが、間に合わない。

グレンの足に刀が触れようとする。

しかしそこで深夜が腰の刀を抜き、と同時に未明も刀が素肌には触れない様に靴を刀に向かって振り上げる。

深夜の刀と未明の靴の裏、それらによって弾き飛ばされた刀は、グルグル回転しながら鞘から抜けた。

抜けた瞬間、鼓膜を割くような甲高い音が狭い部屋に響く。

それから鬼宿と同じような漆黒の刀身が鈍く光り、とすんっと天井に突き刺さる。

それを皆、見上げた。

そんな不気味な光景をぽかんと見上げた。

 

混乱の中で、ピリリと未明の首筋に嫌な気配がはしる。

これは上野で感じたものと同じ。

銀髪の吸血鬼───フェリドが近付いてきた時と同じ!

誰よりも早く、何よりも早く、未明は刀をその右手に顕現させる。

鬼宿は拘束力の強い鎖で雁字搦めにしたまま、無理に鬼の力を引き出した。

その瞬間、攻撃が始まった。

ラブホテルの窓が窓枠ごと破壊される。

そこに現れたのは1人の女。

金色の長い髪に、赤い瞳に、追随を許さない人間離れした美しさ。

どこか鬼宿と似た見た目のその女────吸血鬼は軽く首を傾げる。

そんな吸血鬼に向かって叫びながら、グレンは会心の一刀を放つ。

が、足りない。

それでは足りない。

吸血鬼はいとも簡単にグレンの刀を、牙の生えた口でくわえて止めてしまう。

 

吸血鬼は、人が決して近付いてはいけない圧倒的な捕食者。

そのことを肌で感じたグレンは、1人を囮にして残りが逃げ切る為の陣形である「捨王の陣」で撤退する様に叫んだ。

未明も深夜達と同じ様に1歩下がって、鬼呪を全身に纏わせる。

しかし「捨王の陣」は帝ノ鬼───柊家系列で使われる言葉であり、帝ノ月───一瀬家系列ではまた別の呼び方がある。

そのせいで帝ノ月の言葉しか知らない花依小百合と雪見時雨は、グレンの背後から吸血鬼に向かって刀を突き出して。

その動きは速い。

鬼呪によって加速した、人間離れした動きだ。

けれども吸血鬼はあっさり剣先を摘んで止めてしまう。

そのまま吸血鬼は2人の刀をグイッと引っ張り、簡単に2人の体が引き摺られ、吸血鬼に咥えられたままの自分の鬼呪から手を離してでも、それを止めようとするグレン。

しかし遅い。

瞬きのうちに、吸血鬼は花依小百合を刀ごと壁まで投げ飛ばしてしまう。

 

花依小百合がどうなったかは分からない。

刀が心臓を貫通しているかもしれない。

今後ろを向く余裕はない。

彼女の状況を確認しているうちに、次に吹っ飛ばされるのはグレンや雪見時雨、もしかすると未明自身かもしれないのだから。

 

雪見時雨は刀を吸血鬼に奪われた。

そして雪見時雨の刀が今、グレンに向かって投げられようとしている。

しかしグレンは刀を持たない。

刀は吸血鬼の口に囚われたままなのだ。

つまりグレンは飛んでくる刀を打ち払う武器を持たない。

他の仲間達は後退しているか、満身創痍で動けないかでグレンの盾になることは出来ない。

 

だから未明は床を蹴った。

助走無しの一蹴りのせいで直前まで立っていた部分にピシリとヒビが入るが、それを気にせず上体を屈めたまま、流星の様に飛び出していく。

鬼呪の力を使った、人間を超えてしまった加速度で、未明は刀を振り上げる。

 

「グレンに、触るなぁああっ······!」

喉を大きく開いて吠え、その勢いに任せて、グレンと雪見時雨の刀の間に体を滑り込ませる。

予備動作無しで無理に腕の筋肉を動かし、矢の様に落ちてくる雪見時雨の刀を鬼呪で薙ぎ払う。

刀の刃同士が激しくぶつかり合う嫌な音が未明の目の前で弾け、その数秒後に雪見時雨の刀が壁に激突する。

と同時に、吸血鬼の口からグレンの刀が離れた。

どうやらグレンの鬼はグレンの元へ飛んでいったらしい。

 

「っ、はあっ!」

未明は刀を、振るった。

さっきより加速したグレンの刀が、吸血鬼のレイピアにぶつかるその瞬間を狙って吸血鬼の体目がけ、刀を振るった。

しかし足りない。

届かない。

二人がかりでも一太刀も入れることが出来ない。

 

何回か打ち合っていると、吸血鬼のレイピアにグレンの刀が大きく弾かれて彼が1歩引いてしまう。

それを庇う様に美十────ではない、五士によって作られた美十の幻覚が姿を見せる。

その幻覚は吸血鬼のレイピアを心臓に受け、ぐにゃりと息絶えようとしている。

悦に入ったらしい吸血鬼は、その姿を嘲笑いながら更にレイピアを心臓に刺し込んだ。

 

今だ、そう未明は思った。

吸血鬼は油断している。

今ならば虚をつける。

 

音を殺して刀を振り上げながら走り出せば、グレンも幻覚だと気付いたらしく刀を加速させる。

そのまま2人の刀は美十の胴体を斬り裂いて、吸血鬼の体が刀の軌道上に乗る様に腕を動かした。

雪見時雨の呪符のサポートもあり、グレンの刀は吸血鬼の首を、未明の刀は心臓を貫いた。

血が噴き出す。

どす黒い血が、床を染めていく。

 

吸血鬼が未明とグレンに報復しようとレイピアを上げるが、深夜がその腕を斬り飛ばす。

未明とグレンはあくまで囮。

1番の本命は吸血鬼の武器───レイピアだ。

ぐるぐる宙を舞う吸血鬼の腕を、美十が回し蹴りで後方へ吹っ飛ばし、それを受け止めた花依小百合が外へ出ていく。

これで吸血鬼から武器は剥ぎ取られ、大きく弱体化した。

 

憤怒の表情を浮かべて花依小百合を追おうとする吸血鬼の腕を、その爪を尖らせたもう一本の腕を未明は斬り落とす。

逃がすものか、とその一心で未明は逃げようとする吸血鬼の前に回り込む。

そして深夜が足を斬り飛ばし、グレンが胸に刀を突き刺し、とうとう吸血鬼の顔に恐怖の色が浮かぶ。

それを淡々と見下ろしながら、未明は拘束の呪を吸血鬼の体に纏わせて完全に無力化する。

 

両手片足が斬り落とされ、拘束の呪で雁字搦めにされた吸血鬼。

その吸血鬼から情報を聞き出すと、未明達は決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




まーだまだ続くーよ、どーこまーでっもー。
野を越え山越えー、かーわ越えてー。





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20:柊未明、16歳の破滅(五)

不定期更新にも程がある作者です。ごめんなさい。

ネタバレ捏造自己解釈等、大量発生ですので皆様ご自身で回避をお願い致します。






十月二日。

抵抗の余地なくあっさりと、グレンの父親が処刑された。

 

未明達と共に、グレンは吸血鬼を捕らえた。

未知の能力を持った真昼の鬼呪、阿朱羅丸も手に入れた。

真昼を殺すことは出来なくても、十分過ぎる成果だった筈だ。

そして現に暮人はそれを評価した。

だが柊の当主である王、柊天利の赦しは下らない。

グレンの出した成果をそのまま認めてしまうと、一瀬家率いる帝ノ月の人間が増長する可能性があるから。

立場の違いを知らしめ、バランスを取らなければならないから。

 

未明には出来ることが無かった。

グレンの父親の処刑に異を唱えることなど出来ない。

暮人でさえ無理だったのだ。

偉大なる“父上様”に認識されていない未明の言葉など、蝿の羽音よりも矮小なものだろう。

 

帝ノ鬼の重鎮から下っ端まで、そして今から主君を失うことになる帝ノ月の人間。

そんな観客達がぐるりと取り囲む処刑場に引き摺り出されたグレンの父親。

その首が柊家お抱えの処刑人に刎ね飛ばされ、暗い目をしたグレンがたった今息絶えた実父を抱きかかえて運んでいくのを、ただ見ていた。

見ていることしか出来なかった。

 

 

処刑という名の見せしめのショーが終われば、すぐさま未明は実験室に放り込まれ、グレンはおろか深夜達に会うことも許されなかった。

今回グレン達と行動を共にしたお陰で、今や未明が真昼と繋がっていないことは知らしめられたらしい。

まあ前々から仲違い設定を演じていたせいか、疑われることの方が少なかったのだが。

 

監禁された地下室にて孤独を抱きしめて眠る日々。

真昼の元協力者として、元共同研究者として、双子の妹として、知っていることを洗いざらい吐くように強要される。

だが、未明が吐けることはもう無い。

百夜教が研究している“終わりのセラフ”によって世界が滅亡するということ、それに真昼が協力していることは、柊家も別筋で情報を得ていたらしい。

未明の供述はただの裏付けにしかならなかった。

 

阿朱羅丸のことだって、未明の鬼宿と同じ様に生まれた時から真昼の心に棲みついている鬼だということくらいで。

何かしら特別らしいが、それは鬼宿も同じようなものだ。

そのお陰か、名実ともに鬼呪開発の第一人者である未明が阿朱羅丸の解析をしつつ、と同時に研究者達に鬼宿の宿る体を弄られている。

 

毎日が灰色だ。

実験、研究、睡眠を繰り返し、単調に毎日が終わっていく。

グレン達と、仲間達と、遊んでいたのが懐かしい。

ほんの数週間前の筈なのに最早遠過ぎて、思い出になって霞んでしまう。

 

真昼はいない。

そばに真昼はいない。

未明を、鬼呪開発の為のモルモットとして柊家に売り飛ばした真昼はいない。

いや売り飛ばすつもりは無かったのかもしれない。

真昼の真意は分からない。

だが未明が今、独りだという事実は紛れもない真実だった。

真昼からの連絡はない。音沙汰無しだ。

時折未明の元へ訪れる暮人によれば、シノアにも連絡はないそうだ。

まあシノアが未明の様に実験体にならず、いつも通りの生活を送れていることは不幸中の幸いなのだろう。

 

 

カチリ。

迫っ苦しい閉鎖的な実験室の中で無機質な白いベッドに座り込んだ未明は、小さなボイスレコーダーのスイッチを入れた。

 

「元気ですか。」

 

誰かに宛てたメッセージではない。

ただなんとなく実験室の隅に落ちていたものを拾い上げ、気紛れに言ってみただけだ。

仲間達とやっていた様なゲームを手にする機会もない未明には、今娯楽の類が存在しない。

鬼を制御するにはある程度の娯楽が有効なのだが、それ無しでどの位未明が耐えられるのかという楽しい実験の途中なのだ。

結果は最初から分かり切っている。

他の鬼呪を装備した人間ならいざ知らず、鎖による完全な制御法を物にしている未明は幾らでも耐えられるだろう。

だが研究者達は、無知な子供の様な好奇心を発揮して未明にこの実験を強いた。

 

「元気、ですか。私は元気。」

何を馬鹿なことを言っているのだろうと、乾いた笑いが漏れる。

駄目だ。上手く笑えない。

いや上手くは笑えている筈だ。

けれど、何も感じないのだ。

長い間地下室に監禁されている上に、狂気的な実験ばかりしているせいか、徐々に感情が薄くなっている。

昔の様に、真昼の影武者として生きていた時の様に。

我慢して我慢して我慢して、“私”を無くしていた時の様に。

 

喜ばしいことだ。

感情の死は欲望の死。

つまり鬼宿に与える糧が無くなるということ。

なんて素晴らしい。

素晴らしいのに、素晴らしい筈なのに、

 

「······どうして。」

どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。

鬼宿が何かしている?いやそんな筈が無い。

強く強く、心象世界にさえ上って来れないほど強く、鎖で縛りつけているのだから。

ならば未明自身?

人体実験の影響だろうか。

しかしそれは考えにくい。

柊家はピュアでクリーンでエコな実験を行っている。

有用な実験体である未明を害することはあるまい。

 

「······分からないよ。分からない。」

誰も答えない。

この狭い灰色の実験室には未明しかいない。

監視カメラはあるが、研究者に届けられるのは映像のみだ。

音声が───未明の訴えが届く事は無い。

「誰かが教えてくれたら、楽なのに。」

だって未明には分からない。

考えたって分からない。

分かってはいけない。

 

「どうしてこんなに、苦しいんだろう。

どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。

真昼がそばにいないこと。

シノアがそばにいないこと。

グレンも深夜も、皆がそばにいないこと。

私が独りなこと。

どうしてそれが、苦しいんだろう。」

 

今泣けてしまったら少しは楽なんだろうか?

いや駄目だ。

泣くなんて、そんなことは出来ない。

感情を溢れさせてはいけない。

 

 

ボイスレコーダーのスイッチを押した。

カチンと乾いた音がして、録音が終わる。

何を言ったのかよく覚えていない。

何も意識していなかったから、それもそうだろう。

 

用無しになったボイスレコーダーを制服のポケットに忍び込ませ、ベッドの上で体育座り。

今度こそやることがなくなった。

阿朱羅丸に関する実験データも暮人率いる研究者の手に渡ってしまった。

今や見るものさえ無い。

未明はただのモルモット。

鬼呪を制御する装置───鎖の雛形を生み出す材料。

今日だって、血液パック4つ分の血が奪われた。

きっと明日も。

 

 

 

だがその明日は来ないのかもしれない。

ふとそんな予感がした。

ガチャリとドアを開けて、当たり前の様な顔をして入って来た男の顔を見た瞬間、ぼんやりとそう思った。

 

「やあ。」

ヒラヒラと男は胡散臭い笑顔を浮かべたまま手を振る。

未明はそれに対し、何も答えない。

ただ黙って、実験室の天井に貼り付いている監視カメラを指さした。

「壊したよ、当たり前だろ。」

未明の前に立ち、ご親切に手を差し伸べてくれる。

一体全体どういうつもりなのか。

「······で、だから何。

今更何の用、斉藤。」

呼ばれてもいない侵入者────斉藤は肩をすくめる。

残念だなぁ、なんて心にもないことを言いながら。

 

正直斉藤のことはすっかり忘れていた。

柊家にも言っていない気がする。

わざとではない。ただ勘定に入れていなかったのだ。

つまり忘れていたのだ。

百夜教側の協力者───ただし斉藤は百夜教を裏切っている───とはいえ、斉藤は真昼と話すことが多かった。

“終わりのセラフ”関係のことで。

今思えば真昼は、未明と斉藤があまり話さない様に誘導していた様な気もする。

未明は胡散臭い斉藤と必要以上に話す気は無かったのだが、よく斉藤がちょっかいを出してきた。

まあそれはさておき。

 

「雪見時雨、だっけ。」

「雪見?」

グレンの従者の片方。

冷静沈着な暗器使い。

なんだかんだツンデレ。

そんな彼女の名前だ。

どうしてその名前が、斉藤の口から出る?

俯いていた顔をむくりと上げて、目の前に立つ斉藤を見据える。

 

「興味出た?」

斉藤の笑う顔が、少し鬼宿に似ていた。

そして少し、恐ろしい。

「···少し。」

色んな意味を込めて、そう小さく呟いた。

「未明さんは素直じゃないなぁ。」

「黙って。」

「その雪見時雨───グレン君の従者の子、グレン君に腕を斬り落とされてねぇ。」

「貴方が仕組んだんでしょう?」

どうせ従者を人質に取られながらの戦闘の中で、グレンが雪見時雨を斬るしかない状況に追い込んだのだろう。

 

「まあそんなことはどうでも良くて。

未明さん、真昼さんに会いたいだろう?」

「···別に。」

心臓がばくんと高鳴った。

だが表情には出なかった筈だ。

平静を装って、偽りの笑顔を貼り付ける。

「会わせてあげるよ。丁度私も真昼さんに会う用があるんだ。」

「真昼は吸血鬼の女王の所にいるんでしょう?

吸血鬼の巣に行くなんて真っ平御免だわ。」

「真昼さんは欲しいものを手にしたからね、出てくるよ。」

「吸血鬼の貴族の命?」

「そう。」

斉藤は否定しない。

未明が“終わりのセラフ”のことを知った所で焦ることはない。

未明経由で柊家が知ったとしても、特に影響は無いのだろう。

つまりもう、どうしようもなく手遅れで。

やっぱりね、と世界滅亡という予定調和を、何の感慨もなく頭の中でリピートする。

 

「吸血鬼の女王は案外太っ腹ね。

吸血鬼の貴族、自分の部下の命を人間にくれるんだから。」

皮肉っぽく笑ってから、未明は斉藤の手を振り払い自力で立ち上がる。

「なるほど、未明さんは1つ勘違いをしてるよ。」

「勘違い?」

何が違うのか。

真昼が何を代償にしたかは知らないが、吸血鬼の貴族の命を手にしたのは事実の筈だ。

「真昼さんに会えば分かるよ。」

怪訝な顔をする未明に斉藤は笑うだけ。

チェシャ猫の様にいやらしく笑うだけ。

 

たった今入ってきたドアの敷居を乗り越えて、斉藤は廊下に出る。

それに続いて未明も実験室を出ると、薄暗い廊下の真ん中に何かが落ちていた。

目を凝らさずともそれが何か分かった。

廊下の警備をしていた帝ノ鬼の人間だ。

事切れた、斉藤によって殺された哀れな兵士。

残念なことに、その死を見ても未明は何も思わなかった。

柊家に生まれた人間は、そうなるように育てられるから。

 

 

未明は歩く。

冷たい廊下に足音を響かせて、紫がかった灰色の髪を靡かせて、未明は進む。

感情が死のうとも、欲望が死のうとも、真昼のことを聞けば未明の体には血が巡る。

血が巡っているのだと実感出来る。

 

それに腕を斬り落とされたという雪見時雨やグレン───仲間達のことも気になる。

彼等はどうしているのだろうか。

世界滅亡が目の前の今、彼等はどうしているのだろうか。

暮人の話によれば“終わりのセラフ”を進める百夜教を滅ぼす為に日々鬼呪の訓練をしているらしいが、最早そんなものは無駄なのだと彼等は知っているのだろうか。

 

百夜教が無くなっても、“終わりのセラフ”は発動する。

世界は滅亡する。

これは予定調和だ。定められた終わりだ。運命だ。黙示録だ。

 

グレンと結ばれないこの世界を憎んだ真昼が、世界を滅ぼすというならそれも良い。きっと悪くない。

諸共に消えてしまえば、それは幸せな終わり方かもしれない。

無欲な子供達と、強い大人達だけが生き残る新しい世界。

案外きっと、悪くない。

真昼とグレンは強いから、きっと新しい世界で生きていけるに違いない。

もしかしたら2人の仲を引き裂く帝ノ鬼の弱っちい人間は、皆死ぬかもしれない。

そうすれば2人は幸せな未来を掴めるだろう。

どっちつかずで弱い未明は死んでしまうだろうが、それも悪くない。

傷一つ無い美しい世界で2人には幸せになって欲しかったのだが、荒廃してしまった新世界を立て直すアダムとイヴというのもロマンチックだ。

 

世界を滅すこと、それが真昼の目的だと分かり1度は思考が停止した。

真昼はこの世界を憎み、要らないと叫んだ。

そしてそれは、未明のことも要らないのだと真昼に突き放された様に思ってしまった。

真昼に必要とされていない。

世界を滅ぼすという大きな目的がありながら、それについてあまり語ってくれなかった、頼ってくれなかった。

それが辛かった。

だがそれは間違いだ。

未明が悪いのだ。

弱い未明が悪いのだ。

真昼の全てを受け入れて抱きしめてあげられる強さを持たない未明が悪い。

未明が真昼を愛する様に無償の愛を捧げる様に、真昼も未明を愛してくれたらなんて、そんな“それ以上”を望んだ未明が悪いのだ。

未明自身の幸せなんかを望んでしまった、未明が悪いのだ。

望みは弱さだ、夢は弱さだ。

その弱さを捨てきれない未明が悪い。

未明は所詮影に過ぎないのだ。

 

 

だからもう、世界が滅びるというのなら、真昼がそれを望むというのなら、甘んじて受け入れようとしていたのに。

父親を処刑されたグレンにはもう真昼を殺す理由は無いから、2人は新世界で未来を掴めると思っていたのに。

 

 

 

 

「どうして貴方が吸血鬼になってるの、真昼。」

 

 

 

 

斉藤に連れて行かれた京都にて、吸血鬼の王国から解放された真昼は赤い目をしていた。

上野で遭遇したフェリド=バートリー、京都のラブホテルで捕獲した吸血鬼と同じ赤い目をしていた。

血の様に赤い目をしていた。

夕焼けの様に赤い目をしていた。

 

まさかそんな、と自分の目を疑った。

けれども斉藤と戯れに戦い、つまらなそうに首を傾げる真昼は、元々人間離れしていたのを遥かに上回る、大きく加速した身体能力を有していた。

ああこれは、見間違いでも幻覚でもない。

真実で現実だ。

未明がそれを静かに受け入れる頃には、既に斉藤は去り、真昼は斉藤から受け取った紫外線中和リングを引きちぎっていた。

 

真昼、と声をかける前に真昼は動いた。

1人で歩いている女を捕まえ、路地の暗闇に引き込んで、その首に牙を突き立てた。

そして、血を、吸った。

ギュル、ギュルルと、血を吸った。

そしてどさりと、女だったモノが地面に打ち捨てられた。

 

夕焼け色に染まった京都の街の喧騒が遠い。

今目の前で起きている事態をちゃんと理解しているのに、認識しているのに、齟齬が発生している。

あれ?おかしいな。

 

 

「真昼。」

薄暗い路地裏から空を見上げる彼女に声をかける。

何を言ったら良いのかなど分からない。

けれど完全に人間ではない化け物───吸血鬼になってしまった真昼を引き止めたくて。

こちら側にいて欲しくて。

行かないでと伝えたくて、未明は真昼に近付いた。

 

「未明、」

名を呼ばれた。

自分と全く同じ声色で、それでいて自分より甘さを感じさせる声で、名を紡がれた。

それを脳が認識した時にはもう遅かった。

 

かぷり。

牙が刺さった、とても可愛い音で。

それからすぐ、ず、ず、ずずっと、自分の中の命の様な何かが首から吸い出されていく。

微かな痛みを感じているのに、自分の体を無理矢理征服されて嫌なのに、血を啜る音が鼓膜を揺らす度に甘い痺れが首から全身へと伝わっていく。

徐々に快感の波が押し寄せてきて、そのことに奇妙な屈辱を感じてしまう。

立って、いられない。

腰から力が抜けていく。

がくんと腰が落ちる。

けれど真昼に強く肩を掴まれたままのせいで、蹲ることも出来ない。

動けない。

抵抗出来ない。

 

「ぷはぁ。」

真昼が顔を上げた。

赤い唇から、これまた真っ赤な血が垂れている。

その唇の奥には鋭い牙。

獲物である人間を捕食する為の、牙。

 

「真昼、ど、うして?」

体が熱い。

血を奪われて重度の貧血だ、つまり体は冷えていく筈だ。

それなのに熱い。

欲情している?快感にのぼせている?

ああ、舌が上手く回らない。

そんな未明を優しく見下ろして、真昼は唇の端についた血を舐めとって言った。

「力が必要なの。」

「世界を滅ぼすんで、しょう?

その為に吸血鬼の、貴族のいの、ちが、」

真昼の両腕を掴む。

お揃いのセーラー服越しに、真昼の体温を感じる。

 

「うん。」

真昼は笑った。

「真昼は、その命に、なるの?」

「···うん。」

真昼は笑った。

「どうして。どうして、真昼が死ななきゃいけないの?

私がなるから、私が吸血鬼になる。

私を使って。私の命を、使って。

そしたら真昼は生きていける。

終わった世界の後で、グレンと2人幸せな未来を生きていけるでしょ?」

引っ張る。

真昼の腕を引っ張る。

この提案を受け入れて欲しくて。必死に。

 

「未明、」

「私なら、私の命なら、好きにして。

だから真昼は、グレンと生きてよ。

未来を生きてよ。

その為なら私は死んでも構わないの。」

「未明、」

「私は貴方に、貴方達に幸せになって貰いたい。

その為なら私の命だって世界だって、何だって、捧げるの。」

ねえお願い、と真昼の肩に額をぶつける。

 

けれど真昼は笑った。

「ありがとう。」

そう言って、笑った。

ひどく優しく、ひどく儚く、ひどく残酷に笑った。

「でもね未明、こうすれば私はずっとグレンと生きていけるの。

世界が滅びた後も、グレンと2人でいられるの。」

「······ほんとうに?」

「うん。」

真昼は笑った。

 

嘘だと言いたかった。

今度こそ頼ってと言いたかった。

死なないでと言いたかった。

行かないでと言いたかった。

でも真昼は、行ってしまう。

 

 

地面を蹴り、飛び上がり、更に1度壁を蹴ってビルの屋上へと上がる。

その真昼の姿が霞む。

貧血のせいで路地裏に倒れ伏す未明から、屋上に立つ真昼までの距離は数十メートル。

物理的にそれなりに遠い。

しかしそれ以上に、地を這う弱い人間と天を往く強い化け物という違いが大きいのかもしれない。

 

視界が揺らめいて、その中から独特な紫色が姿を消したのを見て、真昼が行ってしまったのだと未明は悟った。

行ってしまった、手の届かない場所へ。

世界滅亡という死地へ。

 

途端プツンと何かが切れる音がしたと同時に、未明の視界が赤黒く染まる。

それから意識は、甘く優しく奈落の底に突き落とされた。

 

 

 

 

 

────────────

瞼を上げた。

見えるのは知っている天井だ。

見慣れた実験室の灰色の天井。

いつも見上げていた、懐かしさも何も感じない、ただの天井。

 

「起きたか、愚妹。」

左斜め上から降ってくる低い声。

そちらに首を動かそうとすると、グイッと何かに引っ張られて思うように動かすことが出来ない。

恐らく首からチューブが伸びているのだろう。

首の皮膚に何か針の様なものが突き刺さっている感覚がある。

少しずつ全身の感覚が戻ってくれば分かる。

首だけではない。

両腕にも針が刺さっている。点滴か何かだろうか。

パック詰めになった栄養液らしき透明な液体が、ポタンポタンと未明に繋がるチューブの方に垂れていく音。

 

「暮人、兄さん。」

声は少しだけ掠れていた。

喉が痛い。

「今、何日ですか?」

だがその痛みを我慢して強ばった唇を動かす。

クリスマスまであと何日なのだろう。

真昼を救う為に使える時間は、あとどのくらい残っているのだろう。

その強い使命感により、意識が覚醒させられる。

「12月10日だ。」

「10······」

斎藤に連れられて、真昼に会いに京都まで行ったのが2日。

未明はかれこれ1週間も寝ていたらしい。

だがその実感は無い。

真昼に血を吸われて地に伏してから今目覚めるまで、その間の記憶は何も無いからだ。

珍しいことに鬼宿とも話していない。

 

「何があった。」

暮人が未明を静かに見下ろしている。

静かに、鬼呪の切っ先を未明に向けて、見下ろしている。

「······。」

「斎藤とやらがお前を連れて行ったことは分かっている。

あの男はどこの所属だ。」

監視カメラ、全部壊しきれてないじゃないかと未明は心の中で斎藤をなじる。

意識が戻って即これだと頭が痛くて仕方がない。

 

「私も知りませんよ。真昼と組んでたのは知ってますけど。

ただ真昼とも···協力というよりは利害関係が一致してたってだけでしょう。」

「所属は?」

「百夜教の人間、の筈ですよ。

まあ百夜教も裏切ってるみたいでしたから、結局の所何なんでしょうね。」

私も知りたいです、と苦笑いを浮かべてみる。

「グレンからの情報によると吸血鬼らしい。

今の鬼呪の力では太刀打ち出来ない、強い吸血鬼。」

「うわ、暮人兄さんの方が物知りじゃないですか。

それで?私に聞いて新しいこと分かりました?」

はは道理で、と吸血鬼になった真昼とじゃれあっていた斎藤の姿を思い出して、笑いを舌で転がした。

吸血鬼と遊べるのは吸血鬼だけ。

人間程度が太刀打ち出来る筈もない。

 

「いいや。」

「なら刀退けて下さい。」

「良いだろう。」

緩慢な動作で暮人が鬼呪を鞘にしまう。

「お前の疑いは取り敢えず晴れたが尋問の続きだ。

未明、京都で何があった。」

「何を疑ってたんですか?今更私に何を期待して?」

鋭い視線を、自分自身に向けた嘲笑を交えた苦笑で躱す。

「真昼との繋がりだ。」

「······ほんと、暮人兄さんって用心深いですね。

私は真昼に捨てられた。

暮人兄さんの様に事情を知る人間からすれば、それが真実でしょう。

それなのに何故。

私と真昼の間にまだ何かあるとでも?」

真昼と未明が仲違いしていたのは虚構であったとしても、その後未明が真昼に見放されて柊家に売られたのは真実だ。

それなのに。

未明だってそう思って、絶望の淵を彷徨いかけたのに。

 

「実際にあっただろう。

京都で会ったのは真昼だな?」

監視カメラか式神か。

どちらかは知らないが、未明と真昼の邂逅の様子はバッチリ見られていたらしい。

「京都は吸血鬼の縄張りです。監視の目を広げ過ぎるのもどうかと思いますよ。」

やれやれ、と未明は困った顔をしてみるが暮人は更に問う。

「真昼は何だ。いや、何になった?」

「大体分かっているんでしょう?

頭の良い暮人兄さんなら、もう答えは出ている筈です。」

「······。」

赤い目をした圧倒的な化け物。

さてそんなもの、吸血鬼以外にいただろうか?

 

「暮人兄さん、ごめんなさい。

私には全てを話す気なんて、毛頭無いんです。

暮人兄さんにも、グレンにも、仲間達にも、シノアにも。

誰にも話す気はありません。

遅かれ早かれ、あと2週間もすれば皆知る。」

栄養剤を未明の体に入れてくれるチューブを引き抜く。

だいぶ体の感覚が戻ってきた。もう動けそうだ。

グーパーグーパー、軽く掌の動きを確認して、真っ白な天井を見上げる。

 

「クリスマスの世界滅亡の話か。」

「ええ。百夜教が進める実験である、忌々しい“終わりのセラフ”。

世界を滅ぼしうる最終兵器。

神が怒り、天使がラッパを吹いて、ウイルスがばらまかれる。」

「······。」

暮人は黙っている。

拘束から無理矢理に体を引き抜く未明の動向を注意深く見ているようだ。

未明には変な事をする気は毛頭ない為、ただの徒労でしかない。

 

「私にはやらなくちゃいけないことがあるの。

だから暮人兄さんの話を聞いてる暇は無い。」

「そうか、なら真昼のことはもう良いんだな。」

「良くなんてありませんよ。

私は真昼のことが気になって気になって仕方ないんですから。

今までもこれからも。」

何を馬鹿なことをと未明は笑った。

そうくすくす可愛らしく笑いながら、ベッドから立ち上がる。

 

「そんなお前に朗報だ。

真昼が来たぞ。」

「···どこに?」

「第一渋谷高校だ。

恐らくグレンとも────」

 

その後は聞こえなかった。

聞かなかった。

暮人の言葉が終わるより早く、未明は実験室のドアを蹴破り、薄暗い廊下を駆け抜けていた。

真昼が何故今更高校に現れたのか。

そんなことはどうでも良い。

今はただ、真昼に会わなければならない。

そして何か、何でも良いから、真昼を救う方法を思いつく材料を引き出さなければ。

 

世界なんてどうでも良い。

今更未明が何をしようと、恐らく世界は滅んでしまう。

あの真昼を掌の上で転がしていた何者かの計画なのだ。

失敗する筈もない。

予定外も予想外も、恐らくその何者かにとっては予想の範疇に過ぎないのだろう。

ならばせめて、真昼を救わなければ。

そうでなければ、今まで未明が生きてきた意味はどこにある?

真昼を世界滅亡の為の生贄などにさせはしない。

たとえ真昼がそれを望んでいたとしても、未明はそんな未来望まない。

グレンと真昼が結ばれて、ささやかな幸せが溢れる未来しか欲しくない。

たとえそこに未明がいなかったとしても、もうそれで構わない。

 

 

 

校門を抜ける。

鬼を取り込んだこの体は聴覚も強化されていて、校舎のあちこちで上がる悲鳴や怒号も正確に聞き分けてくれる。

そしてその中に、誰より澄んだ笑い声があるのもすぐに分かる。

未明は更に加速する。

とっくのとうに人間から乖離してしまった力で、大きく跳ねる。

それでもまだ真昼には追いつけない。

いくら跳んでも、遥か先を飛ぶ兎には追いつけない。

 

でも、まだこの手が届くならば、まだこの刀が届くならば。

「おいで、鬼宿······!」

黒い鬼呪を右手に顕現させ、真昼の声がした教室の窓を斬り裂く。

柔らかいガラスだけでなく、結界の様なものも一緒に斬り捨てた様な感覚が刀越しに伝わるが、未明は気にせずガラスが砕け散った後の窓枠を乗り越えて、教室に転がり込んだ。

 

そこにいたのは真昼とグレン、それから未明の仲間達。

グレンは地面に転がされ、その上に真昼が覆いかぶさっていて。

状況把握をする前に、濃厚なグレンの血の香りが未明の鼻を擽り、即座に何が起きているのかを理解した。

 

「ぷはぁっ。」

真昼が顔を上げた。

妖しく輝くその目と同じ色をした、唇から垂れるグレンの血。

そして唇の奥に見える、鋭い牙。

未明の血を吸った様に、真昼はグレンの血も吸ったのだ。

生々しくも甘い血の香りが、未明の頭を揺らす。

未明は別に、吸血鬼ではない筈なのに。

変な欲望が胸の中で濁って、ぐるぐるぐちゃぐちゃ渦巻いている。

 

「あ、未明。」

「真昼。」

「わあ未明、凄い顔。

どうしてそんなに、欲望にまみれた顔してるの?

欲情したの?まさかグレンの血に?」

「···違う、と思うんだけど。」

否定しきれない。

五士の幻覚に守られながら撤退していくグレン達の背中を守る様に、真昼の前に立ちながらも未明は体を蝕む何かに苦しんでいた。

 

「私よりも未明の方が吸血鬼みたいね。」

「まさか···。」

笑ってはみるものの、この教室に充満する血臭の中で、どれがグレンのものかだけは分かってしまう自分には笑えない。

「まあ鬼と吸血鬼は似て非なるものだけど、そうね、未明の(それ)は特殊だから。

吸血鬼に寄っちゃうのも仕方ないのかな。」

「真昼、貴方は鬼宿のことを知ってるの?

私が知らない何かを知ってるの?」

「さあ?

私の用事はもう終わっちゃったから、ばいばい未明。」

踵を返す真昼に手を伸ばそうと、未明は鬼呪を消して彼女の背を追う。

 

「シノアのこと、大切でしょ?」

しかし、その一言に足はいとも簡単に床に縫い付けられる。

「守りたいんでしょ?なら、私を追うのはやめておいたら?」

「真昼、」

「素直で分かりやすいそんな貴方が好きよ、未明。」

激しい風が未明の前を通り抜け、それに思わず目を瞑り、次に目を開けた時にはやはり、真昼の姿はもう無かった。

 

 

「···無駄足、かな。」

そう小さく呟いてしまう自分を内心で未明は叱咤する。

いや悲観するな。

真昼が今ここで、態々シノアの名前を口にしたのは何か意味がある筈だ。

それに真昼が言うには、未明は吸血鬼に寄っているらしい。

恐らく鬼宿が原因なのだろうが、詳しいことは分からない。

だが少し、希望が見えた。

未明は吸血鬼に近い。

人間だったかつての真昼よりも。

 

「近いってことは、なれるのかしら。」

────私も、吸血鬼に。

 

 

 

 

 

それからふわりと一陣の風が吹き、血まみれの教室は只のがらんどうへと変わった。

 

 

 

 




やはり1万字が丁度良いのかもしれませんね。
ついつい書きすぎて2万を超える時があるのは、大変申し訳なく思っております。





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21:柊未明、16歳の破滅(六)

また長いです。
···1話ずつの字数を統一出来なくてすみません。






十二月二十三日。

ここ数週間と同じ様に、この日も未明はシノアのマンションに入り浸っていた。

ここ数週間と言っても、未明が吸血鬼化した真昼に吸血されて気絶し、目覚め、また真昼と会った時からなのだが。

その間には色々あった。

 

まずは吸血鬼について調べ──結局収穫は余りなかったのだが──次に真昼の隠れ家を徹底的に洗い出し、彼女が残した断片を拾い集めた。

時折暮人から百夜教潰しの前線に出てくるようにとの要請があったが全て無視した。

代わりに鬼呪について新しく分かったことをまとめて送り、暮人からの追っ手は適当に撒いた。

まあ暮人が本気で未明を手元に置いておく気があるのなら、とっくに未明は実験室に拘束されているだろう。

しかしそうはなっていないということは、未明はある程度自由を許されていて。

 

百夜教が柊家の手によってあっさり滅びたお陰だろう。

百夜教様々である。嘘である。

何はともあれ色々奇妙な点もあったらしいが“終わりのセラフ”計画は頓挫、世界滅亡は阻止された。

世界は救われた。大団円。

今更未明がちょこまかした所で何の意味もない。

そう暮人は思っていたのだろう。

が、

 

 

まあそう簡単にハッピーエンドが来てくれる筈もなく。

 

 

 

 

「あ、グレンだ。ほらシノア、やっぱり来たでしょう?」

インターフォンを押さずに扉を開いて部屋の中に入ってくるグレン。

そんな彼を見て、ソファに座った未明は軽く手を振る。

「それより勝手に入らないでくれます?」

その未明の膝の上に乗るシノアは、大して嫌そうではないのだが定型文的に呟いた。

しかしそれらを無視して、グレンはソファの前のテーブルに小さなスティック────四鎌童子を置く。

シノアは訝しげだが、未明はこれが何だかよく知っている。

元々シノアの中にいた鬼、真昼が引き取った鬼だ。

 

「未明姉さん、これは。」

「悪いものじゃないわ。貰えるものは貰っておいたら?」

えー、と顔をしかめながら四鎌童子を眺めるシノアを抱きしめたまま、未明は全身に鬼呪を回す。

向かいのグレンを見れば、彼はもう刀を抜いていた。

次の瞬間、玄関と窓、両方から帝ノ鬼の戦闘服を着た敵が襲いかかってくる。

グレンが刀を振りかぶり、その一振りで3人の胴体を斬り飛ばす。

部屋中が赤黒く染まる。

シノアと未明もそれを頭から被る。

 

「シノア、それを取って。」

「これですか?」

躊躇いがちにテーブルの上の四鎌童子を指さすシノア。

そんな可愛い妹を抱きしめて、優しく言いきかせる。

「それの名前は“四鎌童子”。

変なあだ名でも付けてあげてね。

自分は鬼より優位だと見せつけなさい。」

「はあ。」

困った顔のまま、シノアは四鎌童子を手にする。

瞬間、未明の腕に女児一人分の重みがかかる。

シノアが気絶したのだ。

意識を失った彼女の体を左腕に抱えて、未明は右手に刀を顕現する。

 

グレンが玄関から入ってきた男の首を刎ねる。

未明はそんな彼の後ろに迫る男の脳幹に刀を貫通させる。

それからグレンのポケットの携帯から響く仲間達の声を聞きながら、未明とグレンは僅かな目配せの後、シノアの部屋の窓から勢いよく飛び出した。

体がマンションの外へと投げ出され、ビュンビュンと下に落ちていく。

未明はシノアを強く抱きしめ、刀を壁に突き立てて落下速度を殺して地面に着地する。

 

大通りに出る。

全身血まみれで日本刀を持っているグレンと未明(withシノア)を見て、通行人は驚いた顔をする。

が、それを無視して2人は車道を走る。

先行するグレンが信号の1番前にいたバイクの運転手を引きずり下ろし、バイクに跨る。

アクセルを吹かし始めたそれの後ろに未明が飛び乗った瞬間、バイクが一気に加速する。

車と車の間を縫う様にして、赤信号を無視して、仲間達がいる筈のグレンの家へと向かう。

 

しかし横に追いついてきたミニバンが急に幅寄せしてきた。

ミニバンの側面がグレンにぶつかり、途端バイクはバランスを崩して倒れてしまう。

宙を舞うグレンの胴体を両足で挟み、左手でシノアを抱き、1度鬼呪を仕舞ったことで空いた右手のみで地面に着地する。

これでグレンとシノアを庇えた筈だ。

凄まじい衝撃を受け止めた右手から、骨と筋肉がギリギリ軋む音がするが折れはしない。

鬼呪を回して保護しきる。

 

 

「グレン、無事?」

「ああ。」

未明の足の間から這い出たグレンはすぐに立ち上がり、刀を構える。

それと相対するのは、力が弱い一般鬼呪ではなく個別に鬼と契約した強い鬼呪を持つ、帝ノ鬼の兵隊達。

気絶したシノアを庇ったままどれだけ戦えるのかと、未明が目算しながら鬼呪を再び引っ張り出した瞬間、更に兵隊達の乗っているミニバンの遠く背後から、巨大な虎の様な形の弾丸が数発飛んできた。

それが兵隊達ごとミニバンを呑み込んで、強烈な爆発とともに一瞬で塵になる。

 

そしてそれから数秒かけて、虎の弾丸を吐き出す銃を手にした深夜が、乗ってきたバイクを2人の横に止める。

その後すぐに、五士達がミニバンに乗ってやってくる。

それに飛び乗れば、グレンを心配する美十、花依、雪見がいて。

急いで車が走り出す。

「どこへ向かったら良いですかね?」

と、車を運転する五士が助手席に座った深夜に言う。

だが彼は答えられず、こちらに振り返ってくる。

だがグレンは答えられない。

未明も答えられない。

真昼のいる所、と言いたいけれど彼女がいるのがどこなのか分からない。

世界滅亡前のパニックが始まる前に、“終わりのセラフ”発動に目を向けさせない為の囮である反乱が起きる前に、何とかして真昼の居場所を探り当てようとしたのだが、全て失敗に終わった。

シノアと一緒にいれば、真昼からの連絡が来るのではないかと期待したが無駄だった。

いや、シノアと一緒にいられる最後の時間を穏やかに過ごせたのは無駄では無かったのだが。

 

 

車が赤信号で止まる。

すると道沿いにコンビニがあった。

そこにはクリスマスケーキ、なんて書かれたのぼりが立てられている。

「······今年のクリスマスは、ケーキが喰いたいな。」

そんな場違いなことを、グレンは言った。

グレンとケーキ、それから真昼。

ずっと幼い頃に森の中で、2人でケーキを食べたという、真昼から聞いた遠い思い出。

幸せな頃の優しい思い出。

未明は思わず微笑んだ。

 

「チョコケーキだろ?」

五士が笑う。

それに美十が、

「ショートケーキに決まってます。イチゴが沢山のってるやつ。」

花依が言う、

「あ、わたくし、両方作りますね!」

深夜が笑って、

「で、プレゼントでも交換するわけ?」

「プレゼント······そうね。この子、誕生日だから。

ちなみに私はレアチーズケーキが好きよ。」

腕の中で目を閉じたままのシノアの頭を撫でながら、未明は言った。

するとそこで、雪見が遠慮がちに、

「あの······もしもそれが、人生最後のケーキということなら、私は、マロンケーキが良いのですが。」

なんて珍しく主張をしてきて、それに皆で笑った。

だがもしも2日後に迫ったクリスマスに世界が滅びるのであれば、そんなケーキの話は、夢のまた夢だ。

未明は夢で構わなかった。

けれどグレンには、シノアには、仲間達には、夢で終わって欲しくないと心から思った。

 

だから未明は足掻くと決めた。

京都で吸血鬼になった真昼に血を吸われて気絶し、次に目を覚ました時に決めたのだ。

真昼を生贄になどしない。

世界を滅ぼす“終わりのセラフ”の生贄になどしない。

真昼がそうせざるを得ない状況に陥らせた黒幕が誰かは分からない。

斉藤なのか、百夜教なのか、それとも柊の王たる父上様なのか。

誰であっても強大な黒幕だ。

全てを掌で転がしていた真昼でさえ、その黒幕の駒でしかなかったのではないかと、その非情な運命に絶望した。

信じていたもの全てに裏切られるかの様な、足場が崩れ落ちていくかの様な悲壮感を味わった。

皆運命に犯されてしまう。

けれども未明は、まだ足掻く。

感情も欲望も死んだ。殺した。

鬼もきつく縛り付けた。

それでもまだここには、願いがあるから。

だから未明は足掻くのだ。

 

 

世界が終わるまで、あと残り2日。

タイムリミットはもう、殆どなかった。

終わりの世界へ。

血脈の世界へ。

これはその、人類滅亡に抗う人間の物語。

最後の最期まで必死に足掻いた、人間達の物語だ。

 

 

 

 

 

───────────

待っている。

ずっと待っている。

真昼からの連絡を。

クリスマスまであと数時間になった所で、未明達は待っていた。

 

世界を救う為に真昼と連絡を取り、協力を申し出たのが数十時間前。

柊家を裏切ったと判断され抹殺命令が下り、その追手を殺しながら逃げ込んだのはここ、渋谷のラブホテルの一室。

仲間達は皆、身も心も疲れ果てて眠っている。

グレンと未明を除いて。

 

無理もない。

同じ高校で過ごしたクラスメイト達顔見知りを斬り殺し、家族も敵に回し、幾つもの屍を乗り越えて、血を被って、今ここにいるのだ。

世界を救う為に。

それを望む、グレンについていく為に。

仲間の為に。

 

 

ベッドには女子が倒れ込む様にして眠っているが、未明はベッドの端にちょこんと座ってボイスレコーダーを握りしめていた。

実験室の端に落ちていた、娯楽を与えられなかった未明の玩具。

だが今は玩具ではなく、ちゃんとしたプレゼントになりそうである。

いや、こんなのがプレゼントというのも有り難迷惑以外の何物でもあるまい。

 

少し前に別れた妹のシノアのことを思う。

あの子には何も言えなかった。

世界滅亡の日とか、クリスマスとか、そんな些事以前に、十二月二十五日はシノアの誕生日だ。

だから素敵なプレゼントをあげて、目一杯祝ってあげたかったのだが、どうもそれは無理らしい。

この数週間、今までの疎遠振りをリセットするかの様にシノアにべったりしたが、嫌がられてはいなかっただろうか。

後になって、思い出してくれるだろうか。

未明だけでなく、真昼のことも思い出してくれたら良いのだが。

 

そんなことを思いながらボイスレコーダーのスイッチを入れる。

「シノア、25日になったら言えないだろうから先に言っておくね。

お誕生日おめでとう。何歳になったんだっけ。7?8?

···うん、ごめんね、頭が働いてないの。

とにかくお誕生日おめでとう。

きっと次の誕生日か、そのまた次の誕生日くらいには私達の背を抜いてるんじゃない?

で、胸はばいんばいんなの。

走ると痛いぐらいのメロンが育ってる筈よ。

······それは言い過ぎかしら。

期待させたらごめんね。

貴方のお姉ちゃん達────真昼と未明より。」

と、そこで録音を終了しようとボタンに伸びていた指を止めた。

 

「グレンも何か言ってみる?」

向かいのソファにぎゅうぎゅうに押し込まれている男3人。

その中の1人であるグレンにボイスレコーダーを差し出してみる。

「いや、いい。」

「そう。じゃあ深夜は?義兄でしょう。」

グレンの隣で寝たふりを続けていた深夜にも差し出す。

「んー、僕はシノアちゃんとそんなに話したことないし。」

パチリと目を開けて、小さく笑う。

「まあこういうのは気持ちよ。そう、気持ちで良いの。」

「五士のいびきでも入れとけ。」

だらしなく口を開けて、ぐーぐーと眠る五士を見ながらグレンが言った。

 

「グレン······私達の可愛い妹になんてことしようとしてるの。

ごめんねシノア、センスの欠片もない男達で。

こんなのが兄達とか信じられる?

まだ暮人兄さんの方がマシね。」

「兄?」

溜息混じりの未明の言葉に、グレンが首を傾げる。

「深夜は真昼の許嫁で、グレンは真昼の恋人じゃない。

シノアにとってはどっちも兄よ、深夜お義兄ちゃん、グレンお義兄ちゃん。」

「えー、グレンは間男でしょ。

人の許嫁寝取ったんだからさ。」

「······。」

「シノアにそういうこと聞かせないでよ。」

プツン。

ボイスレコーダーのボタンを押して、録音を停止する。

その小さな機械をスカートのポケットに突っ込んだ拍子に、短めのスカートが上がって未明の白い太ももがあらわになる。

と同時にベッドで爆睡している雪見が寝返りをうち、彼女の細い太もももあらわになった。

 

「···このスケベ。」

「むっつり。」

グレンの視線が2人の乙女の太ももを行き来したことを感じ取った深夜と未明は、素早くグレンを囃し立てる。

「散々だな、お前らは。」

呆れた様にグレンが息を吐き出した。

「太もも見る暇があるなら寝たら?」

「そうだよグレン。」

「俺は太ももを見るのに忙しい。お前らは寝てろ。」

「なんだよ、開き直って見るのか。

じゃあまあ、僕も仲良く一緒に見ようかな。

未明は寝なよ。」

けだるい顔で薄く目を開いた深夜が、目だけを未明の方に向ける。

酷く疲れた顔をしている彼の方が寝るべきだと思うのだが、雪見がまた寝返りを打った拍子に上手い具合に彼女の手が花依の大きな胸に乗っかったのを見て、確かにこれは目を覚ました価値がある光景だというのには同意できる。

花依の柔らかなメロンがいやらしい感じに変形しているのだから。

 

「私の太ももには興味ないの?」

ほらほら、と際どいラインでスカートをパタパタする。

「いや〜未明は一応義妹だし。」

「いいから寝ろ。まだもう少し、戦闘は続く。」

しかし深夜もグレンも興味が無さそうだ。

いやそんな気力が無いからかもしれないが。

 

 

「なあ深夜、お前はなんで俺と一緒にいる?」

ふと思い立った様にグレンが尋ねた。

それに対し少し考え込むような素振りをしてから、お決まりの軽薄な笑みを浮かべて深夜は答える。

「ついていってるつもりは無いよ。

僕の横に、たまたま君がいるだけだ。」

「真昼を追いかけて?」

「······ああ、う〜ん。」

今度は視線を下げて本気で考えているのか少しうめいてから、

「真昼はもう、追いかけてないなぁ。」

そう返した。

 

「婚約者だろ。」

「だってあいつ、他の男と寝たんだぜ?」

「それくらいで諦めるなよ。」

「······未明、僕は不思議だよ。

真昼もなんでこんな男と寝たんだか。」

「ほんとね。当事者が何言ってるのよ、真昼を寝取ったグレン君?」

「真昼も趣味が悪いよな。」

「え、趣味は悪くないと思うんだけど。」

「え。」

「だって、」

真昼の趣味は私と同じだから。

そう言いかけた言葉を、未明はこくんと呑み込んだ。

だがその先の言葉を、男2人は大体察したらしい。

「······」

奇妙な沈黙がこの場を支配する。

そして少ししてから、同時に溜め息をついて笑う。

クリスマスイブに、ラブホテルで、愛憎渦巻く関係性の男2人と女1人で、自分を振り回す困った女について話し合って溜め息をついて。

 

 

「疲れたなぁ。」

「確かに。でもまぁ、ラスト25時間の辛抱だ。」

「世界の破滅を食い止めて、か?」

「出来たら僕ら、ヒーローだね。」

「出来ると思うか?」

茶化すように笑う深夜に聞き返しながら、視線を未明の方に向けるグレン。

それに微笑んで、

「相手は真昼だから。」

と答えにならない様で、その実明確な答えになる言葉を返す。

 

「それなのにお前はどうして俺達についてくる、未明。」

「叶えたい願いがあるの。

その為にはグレンが必要なのよ。

···ああ、グレンだけじゃないわ。

仲間の力が、必要なの。」

グレンの視線を受け止めて、未明は自然な笑みを浮かべた。

「そうか。」

「うん。まだ足掻きたいの。まだ頑張りたいの。

今ここにいる仲間達と、頑張りたいのよ。

グレン、貴方は前言ったでしょ?

黙って守られてろって。

だから私、貴方についていく。」

「ああ。」

「仲間って楽しいから、素敵だから、私はここで頑張りたい。」

 

本心だった、全て。

未明は真昼を救いたい。世界滅亡の生贄になりゆく彼女を救いたい。

それはきっと、世界を救うのと同義であって。

世界を救う為に足掻くグレンのそばにいるのは悪くない判断だ。

しかしそれ以上に、最期までこの仲間達と一緒にいてみたいと思っていた。

彼等も救いたいと、この先世界がどうなろうとも彼等には生きていて欲しいと、願っていた。

“それ以上”は望まない。

真昼とグレンの未来、シノアの未来、仲間達の未来───それらしか望まない。

未明自身の未来なんか、望まない。

最期の最期、残された時間を仲間達と過ごしたい。

出来ればまたゲームをしたかったし、ケーキも食べたかった。

でも、もう良い。

“それ以上”は望まない。

 

「そうだね、先のことは分からない。

でもさ、今一緒に頑張ってる仲間は、少なくともその先の世界にいるんじゃないの?」

未明の言う通りだよ、と深夜は手を前に差し出す。

ベッドの方、未明の後ろの方。

そこにいる美十も雪見も花依も、深夜の隣にいる五士も、いつの間にか目を覚ましていた。

全員が、こちらを見ている。

未明と深夜が、仲間と呼んだ連中がこちらを見ている。

 

後悔はするかもしれない。

いや、するだろう。

他の仲間達はしないようだが、未明は恐らくするだろう。

人間のままで足掻いたことを、鬼を暴走させなかったことを、真昼の様にならなかったことを。

でも良いのだ。

その選択肢は既に捨てた。

仲間を見つけてしまった時点で、そんな選択肢は無くなってしまった。

未明は人間のままでいたい。

仲間と共に歩む、弱っちい人間のままでいたい。

その結果は散々かもしれないし、あの時鬼を暴走させていればと後悔するだろう。

でも良いのだ。

後悔は後にするものだから。

未明にはもう後が無いから。

 

 

グレンの携帯が鳴る。

十中八九真昼からだ。

やっとかかってきた。

破滅は明日。最大でも残り25時間。

グレンが通話ボタンを押せば、その最期の歯車が回り始める。

このラブホテルに、未明達が隠れているのがバレる。

そして、真昼と繋がったことがバレる。

柊家はずっとグレンの携帯を盗聴している為、誤魔化しようがない。

だから静かで穏やかな時間はこれで終わりだ。

最期だ。

 

「おい皆、心の準備は出来てるか?」

そんなもの出来ている者はいない。

訊いてきたグレンもそんなこと分かっているし、彼自身も出来ていない。

けれど皆、黙ってグレンを見つめた。

「馬鹿だなお前ら。

やり方は知らない、でも俺達で世界を救う。

だからいいか、残り25時間だけ、お前らの命を貰う。」

夢物語でしかない、寝ぼけた様な、馬鹿みたいなグレンの言葉に誰も異を唱えない。

「お前らに俺の命を預ける。」

それにも誰も抗弁しなかった。

「だから頼む。それまで全員死ぬな。

全員で、1人も欠けずに世界の破滅を止めて、26日を迎えよう。

で、売れ残りの割引になったクリスマスケーキを皆で喰う。

それでいいか?」

皆頷いた。

未明も頷いた。

未明の分のクリスマスケーキは、きっと真昼とシノアが分け合って食べてくれることだろう。

仲間達と真昼とシノアと───未明の大切な人達が幸せに生きる未来を、掴みに行こう。

そこに未明がいなくても、それで構わない。

始まるのだ。その為の最期の戦いが。

 

グレンが通話ボタンを押す。

瞬間、爆発音がホテルの1階から響く。

一般客の悲鳴。

もうバレたのだ。

敵が侵入してくる足音と、彼等にとりついている鬼の気配。

それを全身で感じながら、未明は入り口前に1人で立つ。

敵の入り口の突破チームが強かった場合、他の仲間達では即死する可能性がある。

黒鬼持ちのグレンと深夜ならばどうにかなるだろうが、グレンは真昼と大切なお電話中で、深夜は遠距離が得意なタイプ。

だから未明が立つ。

近接戦闘能力が1番高い未明が立つのだ。

鬼宿の拘束を緩めないまま鬼呪を全身に回し、禍々しい刀を顕現して構える。

 

入り口付近に貼り付けていた足止めの呪符が爆発し、敵が雪崩込む。

1人2人3人······途中で数えるのをやめた。

今はとにかく、この敵が部屋の中に入ってくるのを防がなければ。

その一心で刀を振るう。

一気に何人もの胴体が吹き飛んで、その後ろから姿を現した新たな敵を虎の形の弾丸が薙ぎ払う。

「援護するよ!」

未明の後ろで深夜が銃を構えていた。

遠距離の援護は有難い。

「ありがとう、深夜お義兄ちゃん!」

そう笑いながら、近付く敵を蹴り飛ばしてからその体を踏みつける。

それを足掛かりに前へ飛び出し、また刀を振るう。

今度は首が飛んだ。

鮮血がぱあっと舞い散る。案外綺麗だ。

「それやめてってば。」

ズドン。

死体ごとドアが吹き飛んで、ついでに新たな敵の姿も煙まみれにする。

 

後ろは見ない。

分かりきっているからだ。

部屋の真ん中ではグレンが電話をしていて、そこに敵が向かわないように他の仲間達も全身全霊戦っている。

窓の方も敵だらけ。

悲鳴と怒号と体が斬れる音、それから血飛沫が上がる軽やかな音。

全てが血まみれだ。

仲間達も、部屋も、全て。

 

「深夜、1人······」

始末しそこねた!

そう言う前に敵の1人が未明の横を走り去り、そのままグレンに向かって刀を振りかぶる。

駄目だ、間に合わない。

未明は今目の前にいる敵を斬り殺すのに手一杯だ。

彼等から目を離せば、すぐにこのギリギリな戦線は崩壊するだろう。

深夜が弾を放つ音が響くが、それも間に合わない。

真っ直ぐグレンに向かって刀が振り下ろされて─────

 

グシャリと、嫌な音がした。

深夜の肩が砕けた音。

グレンを狙った敵の刀が、深夜の肩を貫通した音。

深夜はグレンを守る様にして敵の攻撃を受けたのだ。

だがそれでは終わらない。

深夜を刺した敵に引き続き、新たな敵がグレン達に襲いかかる。

 

 

「···っあああああぁあっ······!」

更に鬼呪を全身に回して。

体中の血が沸騰したかの様に熱い。

熱くて、そして痛い。

心も痛い。

鬼の力を引き出し過ぎて、動けないくらいにきつく拘束していた筈の鬼宿が暴れだしたのだ。

拘束が緩み始めたのだ。

今ここでこの拘束を解き、鬼の力を暴走させてしまえば一瞬で敵を一掃出来るだろう。

だがそれは許されない。

人間と化け物の境界線を、その一線を越える訳にはいかない!

 

「······死ねぇえええええ······!」

恨み言の様な何かを吐き出しながら、無理矢理鬼の力を引きずりだして刀を振りかぶる。

グレン達を狙っていた敵の首が吹っ飛ぶ。

続いて襲いかかる敵も、勢いに任せて斬り殺して。

暴れる鬼を抑える鎖が未明の心さえも縛っているのだろうか。

痛い。

とても痛い。

溢れてしまいそうな何かを必死に押さえつけながら、それを無視して動けば動く程痛みは酷くなる。

 

「出るぞ!」

真昼との通話を一旦終えたグレンが、どうにか確保された退路である窓から飛び出した。

仲間達が続く。

未明は殿だ。

窓の外に体を出した瞬間、起爆の呪符を部屋に投げ込んで一気に敵を吹き飛ばす。

その衝撃で未明の体もホテルの外壁から離れそうになるが、咄嗟に雪見と花依が未明の手を掴んでくれる。

 

下には降りない。

窓枠を上り、屋上へとあがる。

上から見ればよく分かる。

ホテルの周りはもう帝ノ鬼の軍用車に取り囲まれ、周辺は閉鎖されている。

上空には6機のヘリ。

地上も空も、どちらも塞がれている。

退路なんて見当たらない。

けれども未明は走り出す。

足に鬼呪を回した状態での短い助走の後、ぐっと足に力を入れて跳ねる。

いや、飛ぶ。

飛べない人間の癖に、化け物の力を引き出して飛んでしまう。

そしてヘリを蹴り飛ばす。

 

ガツン。

鈍い音が響くが、最早痛みは感じない。

空中で傾いた機体に刀を突き刺して、そのまま機体をすっぱり真っ二つ。

爆発四散。

未明の体も簡単に空中を舞う。

だが鬼呪で守られた体では、その程度致命傷になりはしない。

その勢いのまま新たなヘリの上に乗り移り、好き勝手に刀を振り回す。

炎と煙が耳をつんざくような音と共に弾けて、またもや酷い爆発が巻き起こる。

粉々になったヘリの欠片が地上へと落ち、下にいた敵をべちゃりと潰す。

足場を失って自由落下する未明が、そこに爆破の呪符を投げ込めば更に事態は悪化して。

地上は地獄絵図と変わった。

幾つものヘリが2次、3次の爆発を起こす。

恐らくグレン達も同じ様なことをしているのだろう。

息絶えた敵が転がる地上に未明が着地した瞬間、グレンも爆発の煤を被ったまま隣に着地した。

 

花依と雪見が合流する。

弾丸を放ちながら派手に宙を舞っていた深夜も、地面に転がる様にして落ちてくる。

五士が幻術を使いながら走ってくる。

美十がそんな彼に近付く敵を殴り飛ばしつつ駆けてくる。

 

仲間達が揃った。

真昼との待ち合わせ場所はどうやら池袋らしい。

ここ渋谷から池袋までのルートを瞬時に弾き出した未明は、仲間達の顔を見る。

皆血まみれで、疲れた顔をしていた。

しかしここで止まる訳にはいかない。

ここまでしておいて、これだけ殺しておいて、止まる訳にはいかない。

だから走り出す。

未明は仲間達と共に走り出す。

世界の破滅に追いつこうと、先ばかり往く姉に追いつこうと、必死に走り始めた。

 

 

 

 

 

─────────

十二月二十五日。

クリスマス。

シノアの誕生日。

19時20分。

 

夕方から降り始めた雪が積もり始めている。

渋谷から池袋への道のり。

車で移動すれば30分、電車を使えば15分程度の距離が今日は遥か遠く感じられた。

戦い始めてから既に21時間。

未だ、未明達は池袋どころか中間地点の新宿にいた。

追っ手と戦い、逃げ、隠れ、見つかり、隠れ、見つかり───なんとか辿り着いた新宿のとある交差点。

一体ここに来るまでで、何人殺しただろうか。

自分達は何故、まだ生き残れているのだろうか。

 

血まみれの仲間達は皆、自らが犯した殺人に苛まれているらしい。

未明とは違って。

未明は遥か昔に真昼と鬼呪の実験を始めた時点で、人の命は尊くて、それ以上に軽いのだと知ってしまった。

進む為ならば、大切な人間以外ならば、殺すしかないのだと分かってしまった。

そんな訳で精神的疲労は仲間達よりは薄い。心象世界でずっと鬼宿が暴れているのを除けば。

しかし未明の身体的疲労は積み重なっていた。

誰より速く、風より速く、音より速く、未明は刀を振るう必要がある。

このチームの中で1番強いのは未明だ。

もう1番壊れてしまっているから。

1番鬼呪の力を使いこなせているのは未明だ。

だから誰より戦闘に立って、敵陣を斬り裂いていく役目を担わなければならない。

 

交差点の真ん中で、未明は1度足を止めた。

息が苦しい。肺が痛い。

今や鬼呪を全身に回して、無理に体を動かしている。

未明が立ち止まれば深夜も足を止め、それに倣う様に仲間達が立ちつくして、敵が待ち伏せしている交差点の向こう側を見つめる。

数が多い。

恐らく全員揃っての突破は難しいだろう。

あの敵陣を抜けきる時には何人かが脱落している。

ならば迂回するかと問われれば、それも不可能。

もう時間が無い。

クリスマスが終わるまで、残り5時間を切った。

この状況を打開するには─────

 

 

「······もう仕方ないよ。囮作戦にしよう。」

「誰が囮だ?俺か?」

深夜の提案に、肩を上下させながらグレンが問う。

「いや僕だよ。五士に仲間がいるように幻術を使ってもらって、僕はグレン役をやって逃げる。

その間に君らは新宿を突っ切る。」

そんなことをすれば深夜と五士はすぐに殺されるだろう。

何より基本後衛タイプの2人では近距離接近された時に、為す術がない。

 

「···私が、」

「俺がやる。」

囮をやると、そう未明が絞り出した言葉を消す様にグレンが重ねてくる。

「囮の方が死にやすい。俺がやる。」

「死ぬにしたってどうせ1時間ぐらいの差でしょ。

でもやらなきゃ誰も池袋に辿り着けない。

そして世界は破滅する。違う?」

深夜が言っていることは正論だ。

しかしグレンは納得しない。いや、出来ない。

「ならお前が真昼の所に、」

今度は未明がグレンの言葉を止めた。

彼の肩を強く引いて、無理矢理彼と目を合わせる。

「駄目。貴方は必ず真昼の所へ行って。

真昼は貴方を待ってるのよ、グレン。」

お姫様は王子様を待っている。

だからまだ、世界は滅亡していない。

この物語は、まだENDを迎えていない。

 

「お前は」

「私なら大丈夫。1人でもやれるわ。

後で追いつける。」

鬼呪を回す。回して回して回して。

暴れる鬼宿を抑える為の鎖が心象世界を突き破り、とうとう実感を持った肉体的な痛みに変わる。

体の奥から針山が突き破ろうとしているような、そんな痛み。

冷や汗が出てきた。

視界が暗い上にチカチカする。

しかしそれを押し退けて、刀を握る掌から手首にかけて現れた鬼呪の紋章をさする。

金色のぐにゃぐにゃとした幾何学模様。

よく見れば鎖らしき形を描いている。

なるほど、鬼が精神体から手を伸ばし、その結果肉体を突き破ろうとしてきた場合、鬼がこれ以上出てこない様直接肉体に防御壁───鎖が現れるようだ。

逆に言えば、鬼の力が増しているということ。

未明の体の主導権を完全に奪おうと牙を剥いているということだ。

まあこれだけ好き勝手に鬼の力を引き出していれば、鬼が暴走するのは仕方ないだろう。

力は奪う癖に、鎖で雁字搦めの上に糧である欲望はあまり与えられない。

だから怒っているのだ。

 

 

「未明、真昼は君も待ってるよ。

今日の主役はグレンだけじゃない、未明もだ。」

深夜が未明の肩を軽く押す。

いつもの様にへらへら笑いながら。

「深夜。」

「君が、君らが行くんだ。

世界を救えよ。」

「私には世界なんて救う気は無いの。

正直世界なんてどうでも良い。

私は真昼を救いたい。」

「未明はグレンについて行くんだろ?

それなら世界を救えるよ。

僕らのヒーローグレン君は、世界を救える。それについていく未明も世界を救ったことになる。

君らならそれが出来るって信じて、ここで死ぬから。」

ヒラヒラ手を振って、囮役を始める深夜。

五士もあっさり幻術を使い始めてしまう。

 

「そんな信頼要らない!

私は、私は······!」

咄嗟に深夜の腕を掴む。

何なんだこれは、まるで未練がましい女の様だ。

こんな風に誰かを引き留めたことがあっただろうか。

真昼はいつだって引き留める前に飛んでいってしまうし、他の人間にはそもそも積極的に関わっていなかった。

だからこれは初めてだ。

仲間なんか作ってしまったせいで、せざるを得なくなった初めてだ。

 

 

「未明、」

「私は真昼が1番よ。真昼の為なら死ぬわ。いくらでも死んでやる。

前まではそうだった。

ううん、今も勿論そうなんだけど。

でもそれだけじゃない。

責任取ってよ。仲間とか友達とか、そういうものを教えたのは貴方でしょ、深夜。」

一瞬虚をつかれた様な顔をする深夜に畳み掛ける。

 

「私達は似た者同士だった。

同じ日陰者で、諦めた敗者で、真昼の影。

でも貴方は足掻くことを決めた。

仲間や友達と一緒に走ることを決めた。

同じ柊家の癖に、同じ影の癖に、貴方は諦めることを諦めた。

だから私も、足掻こうと思った。

仲間や友達と足掻こうと思った。

グレンについて行こうと思った。」

「···うん。」

「京都にいる真昼を追うって決めた時、私の手を引いたのは貴方でしょ。

その責任を取って。

仲間に死んで欲しくないと、私がそう願ってしまう様になった責任を取ってよ!」

 

大切なのが本当に真昼だけならば、そしてグレンだけならば、きっとこれより前の時点で、未明はグレンだけを連れて真昼のいそうな場所を虱潰しに探し始めただろう。

仲間を捨てて、友達を捨てて。

今まで殺してきた敵と同じように斬り捨てた筈だ。

けれどそうしなかった。出来なかった。

仲間や友達、そういうものを知ってしまったから。

楽しさを、幸せを、知ってしまったから。

だから死なせない。大切な仲間は死なせない。

グレン、深夜、美十、五士、花依、雪見。

皆死なせない。

勿論真昼も、そしてシノアも。

犠牲になるのは、死ぬのは、未明だけで充分だ。

彼等と共に笑う未来なんて望まない。

“それ以上”は望まない。

 

「皆、死なせない。ここにいる仲間も、家族も。」

誓うように呟く。

「世界が滅びても?」

「滅びても。」

刀を握る手に更に力をこめて。

「それ、矛盾してるって気付いてる?

世界が滅んだら僕ら多分、死ぬんだよ。

それでも?」

泣きそうな顔で、深夜は未明の肩を掴む。

「大丈夫、死なせない。」

「その自信はどこから来るのさ?」

目の端に涙を溜めているせいで、へらりと笑おうとするも失敗してしまう深夜。

珍しいものを見た。

珍しい上に面白くて、未明は自然に口角を上げていた。

 

 

「仲間が、いるから。

グレンが、深夜が、美十が、五士が、花依が、雪見が───仲間がいるから。」

 

 

未明本人は知らずとも、その笑顔は暴力的だった。

長年の付き合いがある深夜でも見たことがない笑顔。

しがらみの少なかった幼少期を知るグレンならば、なんとなく覚えがある懐かしい笑顔。

作り物ではない、冷たくもない、心からの笑顔。

静謐でありながら輝く様な魅力を放つ美貌によって紡がれる、花のような笑顔。

 

 

「···それは、卑怯だろ。

ああもう、仕方ないな。分かったよ、皆で行こう。

馴れ合って、弱い人間同士馴れ合って······分かったよ。」

くそ、と深夜が吐き捨てるように髪を搔き上げる。

「素直で可愛い未明はどこに行ったんだか。

恨むぞグレン、君の影響だ。」

「俺は悪くない。俺達は多分、弱かったから出会った。

なら仲間を見捨てられない弱さを捨てたら、もう何も残らないだろう。

だから俺は仲間を捨てたくない。未明と同じだ。」

「でも悪いよ。僕の義妹を誑かして、熱血漢にしちゃったんだからさ。

友達は選ぶべきだった、僕も未明も。」

馬鹿みたいだ、と笑って深夜は未明の頭に手を置く。

義兄らしいその行為に、未明は思わず目を細めた。

 

「はっ。それならお前も俺の友達になった責任を取れよ、深夜。」

「意味が分からないんだけど。」

「いやいや良い感じじゃないですか、これ。

今日世界がこれで終わったって、ラストでこんなにクサイ台詞が飛び出すなんて······こんな熱い高校生活、好きですよ俺!

青春じゃないですか。」

五士が笑う。

「悪くは、ないです。」

「百歩譲って、許して良いですよ。」

花依と雪見が笑う。

「こんな風に言うのは恥ずかしいですが、私もこういうの憧れてましたから。

こんな人間関係に。地位や名誉や、そんなものが関係ない仲間と出逢うことに。」

美十が笑う。

 

「貴方達に出逢えて良かった。

教えてくれてありがとう。

仲間とか友達とか、そういうものを教えてくれてありがとう。」

未明が笑う。

そんな彼女の頭を深夜が再び撫でて、美十が掌を握る。

その温かみにまた笑みがこぼれ、未明は目尻をゆるりと下げた。

 

 

 

 

 

─────────

12月25日。

クリスマス。

シノアの誕生日。

20時10分。

 

柊の兵隊の波を切り抜けてやっと辿り着いた、かつて百夜教の研究所があった地下。

今は誰もいない筈なのだが、研究所全体に明かりが煌々とついていた。

明るい、不気味なほどに静かな廊下を未明達は走る。

聞こえるのは自分達の足音と、何か巨大なモーターの様なものの稼動音のみ。

幾つかロックがかかっている分厚い封鎖扉があったが、その全てを刀で斬り開いた。

腕全体に広がった金色の鬼呪の模様がジリジリ痛む。

しかしそんなこと気にしてはいられない。

 

階段を降りる。

一番下の階は儀式階になっている筈だった。

長い廊下と、その先に大きな儀式場だけがある階。

その階に足を下ろした所で、未明達は立ち止まる。

動きを止めるとそれぞれが肩で息をしているのが分かる。

だが全員で生きて、ここまで辿り着くことが出来た。

「私が、前に出る。

真昼の速さについていけるのは私とギリギリでグレンだけだから。」

グレンと軽く目を合わせ、2人揃って先にある扉を見据える。

「いや未明とグレンを除けば、近接能力も黒鬼の僕が強い。

だから前が3人、後ろが4人だ。」

深夜がそう言って、一歩前に出る。

「ってことでよろしく。最後の戦いだ。」

「最後にしない為の戦いだ。」

「いちいち格好良いなぁ、グレンは。」

「生まれつきだ。」

「ダサ格好良い方ね。」

そんな馬鹿な話を3人でしていれば、後衛の並びが決まったようだった。

 

「よし、行こう。」

グレンが走り出すのと同時に未明も飛び出す。

その長く真っ直ぐ伸びた廊下を駆け抜けて、閉ざされた扉の前で未明とグレンは刀を大きく振りかぶる。

2人ならば恐らく分厚い扉も一瞬で斬れる。

その2人の隙を補う為に深夜が呪詛を膨らませ、雪見がクナイを投げて扉を室内の方へ吹き飛ばす。

そうして扉は開かれた。

予想していたより広い儀式場。体育館が2つばかり入りそうだ。

白い壁に白い床。

その儀式場の中央に7つの棺。

そしてその更に向こう側には、未明と同じ制服を着た酷く美しい女。

紫の長い髪を靡かせ、赤い瞳を光らせ、白い牙を尖らせ、真昼は誰かの首に喰らいついて、その血を吸っている。

真昼の周りだけ白い床が真っ赤に染まり、バラバラの死体が幾つも転がっていた。

 

未明達は走る。

真昼を隙を突けるとは思えないが、彼女はもうこちらに気付いてうっとり笑っているが、背後を狙って未明は刀を振り上げる。

「来たぞ真昼!お前の救い方を教えろ!」

グレンが吠える。

「貴方に私は救えない。」

しかし真昼は緩く笑いながら、グレンと未明の刀をするりと躱すだけ。

「救う!」

「観念してよ真昼、グレンは頑張ったんだから。」

口々に言いながら2人は再び刀を振りかぶり、その横から深夜が銃剣で真昼を狙う。

真昼はそれら全てをかわす。

美十と花依が呪符を飛ばすが、今度は彼女はそれを避けない。

代わりに、雪見が無数に張った罠の糸を1つ引っ張り、雪見の体を軽々引きずり出す。

そして急に未明達の前に、真昼に髪を掴まれた雪見が現れる。

丁度グレンが振り下ろそうとしている刀に向かって、雪見の首が押し出される。

しかしもうグレンの刀は加速していて。

「止まれ!」

「止まって!」

深夜と未明が叫ぶ。

2つの刃先でグレンの刀をどうにか逸らし、なんとか雪見が斬られるのを回避する。

 

だがこれで前衛は動けない。

雪見という盾を取られてしまっては真昼に攻撃をしかけられない。

それを嘲笑うかの様に真昼はゆっくり雪見の体を振り上げて、そして投げつけてくる。

未明は咄嗟に足に鬼呪を回し、体を逸らしたことでそれを避けることが出来たが、雪見の体はグレンと深夜にぶつかってしまう。

そして団子状になった3人は後衛の3人にも追突し、全員後方へ吹っ飛ばされる。

そちらをじっくり見ることは出来ないが、恐らく全員ダメージを受けた。

回復に時間が要るだろう。

 

 

「真昼。」

「未明。」

鏡合わせの様な瓜二つの姉妹は向かい合う。

片方は刀を持ち、片方は手ぶらで。

「私じゃ、駄目かな。」

刀を握り直す。

「駄目よ。」

クスリと笑う。

「私じゃ、生贄にはなれない?」

「駄目、未明じゃ役不足。」

「私の命なら幾らでもあげるのに?」

「貴方の命は要らないわ。私だけで良い。」

「私はね、真昼、貴方の命があれば良いの。

私は死んでも良いんだよ、だからね、吸血鬼にしてよ。」

「だぁめ。」

しかし真昼は赤い唇を緩く上げるだけ。

「残念だなぁ。貴方を捕まえて言うことを聞かせるしかなくなっちゃった。」

「貴方に出来るの?」

赤い目をキラキラと妖しく光らせて、真昼は無垢な子供の様に尋ねる。

「出来るよ。」

それに未明は強く返した。

 

背後でグレンと深夜が立ち上がる気配を感じる。

彼等が回復する分の時間は稼げた。

あとは他の仲間達の分の時間も稼がなければ。

 

「未明、時間稼ぎなんてしなくて良いよ。

貴方のだーいすきな仲間が回復できるだけの時間は待ってあげるよ?」

全てを見透かして真昼は笑う。

「でも回復したところで意味があるの?

弱い仲間とお手々をつないで私に追いつける?

貴方1人なら私に追いつけたかもしれないのに。」

「そうだね、真昼。

仲間とか家族とか、全てを捨てて、貴方みたいに化け物になることを決めたなら、私は貴方に追いつけた。

貴方の居る場所に立っていられた。」

そして今真昼の隣に立って、グレン達に刀を向けていただろう。

 

「今からでも遅くないのよ?

皆殺したら?」

「駄目だよ。私は化け物になれないし、なっちゃいけないの。

私には人間でいて欲しいって言ったのは貴方でしょ、真昼。」

刀を掴む腕が熱い。

鬼呪の鎖が今にも肌を突き破りそうな感覚。

痛い痛い痛い、痛くてたまらない。

すぐそこまで鬼が迫ってきている。

少し意識を飛ばせば、鬼に喰われてしまいそうになる。

だが駄目だ。

鬼に身を任せればきっと楽だろう。

きっと幾らか楽に真昼を救えるだろう。

だがそれでは駄目なのだ。

誰かの為に誰かを犠牲にはしたくない。

犠牲にするのは未明だけで良いのだから。

 

「仲間を殺さなきゃ私を救えなくても?

私の為に仲間を殺してはくれないの?」

「殺さないよ。」

「酷いなぁ、未明は。私が1番じゃなかったの?」

「1番よ。

貴方のことを死んだ後も愛してるわ。」

「なにそれ?」

意味が分からないと笑う真昼。

「言葉通り。これが私の覚悟なの。

これが私の生きる意味。

貴方を愛してる、仲間を愛してる、家族を愛してる。

死んだ後も、ずっと。」

もうどうせ終わりだ。

どうせ死ぬのだ。

それならば最期くらい、本心を吐いても良いだろう。

そう、未明は笑った。

困った様に笑った。

 

鬼が活性化するのを防ぐ為、本心は口にすまいと心がけてきた。

想いなんて口にしなかった。

言葉になんかしなかった。

でももう、今更そんなことを心がけても何の意味もない。

鬼は活性化どころの話ではない。

暴走だ。心象世界を突き破り、肉体を乗っ取ろうと暴れている。

だがそれでもまだ未明は鬼に喰われない。

あと少し、あと少しで良いから。

 

「生きる意味ってなに?ねえ、なにそれ。

グレンなら分かる?生きる意味ってなんなの?」

「······。」

グレンは答えない。

回復した仲間達の手を引いて立ち上がらせているらしい音が聞こえるのみ。

代わりに深夜が閃光の陣────火力の強い1人を残して、全員捨て身で攻撃する陣形を提案する。

勝つにはそれしかない。いやそれでも足りないかもしれない。

だがこの真昼をどうにかするには、それしかないことも事実。

 

 

「あは、それ、凄く正しい選択。

深夜はいつも正しい道を選べる。

じゃあそれでもう一度やってみて?」

しかしそれに深夜はへらへら笑った。

いつもみたいに笑って、

「っていう提案が正しいのは僕も分かってるんだけど、グレンは馬鹿だから全然それ採用してくれないんだよねぇ。

したらしたで、駄々っ子の未明が嫌がるし。」

「誰が駄々っ子よ。」

すかさずつっこむのだが、深夜は気にもとめずに言葉を続ける。

「で、僕らは戸惑う。明らかに正しくない道へ進もうとする馬鹿過ぎる彼の選択に戸惑い、狼狽えて、どうしようもなく惹かれる。

僕らも、未明も、そして真昼···君もだろ?

グレンを好きな理由は、彼が正しくないからだろう?」

「······。」

真昼は黙る。

艶かしい微笑を浮かべたまま、黙り込む。

 

「君が選択してないんだ。

どっちも取ろうとするなよ、正しい道しか走ってない君がそんなことするな。

正しい道か、グレンか、先にちゃんと選べよ。」

「で、偉そうに言う貴方は選んだの?深夜。」

小首を傾げて真昼は問う。

「ああ、グレンを選んだ。馬鹿だろ?笑えよ。

でも、それが君は羨ましい。違う?」

それに深夜が答えた時、ほんの少しだけ真昼の眉が動く。

緩やかな曲線を描いていた眉がぐにゃりと顰められた。

「···そうね。」

そして小さく笑った。

もう良いでしょ、とそんな囁きが聞こえてきそうな雰囲気で。

 

その違和感に本能的危機感を覚え、気付いた時には足を動かしていた。

今多分、真昼は怒っている。

深夜の言葉に少なからず心が動いた。

本当のことを言われたから。

貼り付けた微笑の仮面のお陰で周りは皆気付かないのだろうが、未明だけは分かる。

長年運命を共に生きてきた、片割れだからこそ分かる。

真昼の殺意が静かに膨らんでいることに。

 

 

「まだ間に合う。まだクリスマスは終わってない。

正しい道を外れて、君も弱さを受け入れることが───」

深夜の言葉が続き、未明が駆けている途中、やはりそこで真昼が動いた。

瞬きのうちに真昼は動いていた。

そんな一瞬の風になった真昼を、未明は正面から受け止めた。

「もう黙って、深ゃ──────え?」

囁くような小さな声。

いくら鬼の力で強化された聴覚と言えどはっきり聞こえはしないくらいの、小さな声。

なのにそれが、すぐそばで聞こえる。

 

未明の前に真昼がいる。

真昼の腕が、未明の胸の真ん中に突き刺さっている。

胸の方を見なくても分かった。

ずくりずくりと胸の真ん中から力が抜けていく。

全てが溢れ出ていく。

 

「み、めい?」

真昼の赤い瞳が揺れている。

自分の腕が貫通したのが何故深夜の体では無いのかと、未明の後ろに無傷で立ち尽くしたままの深夜と血を吐き出す未明を見比べて。

ゆらりゆらりと揺れている。

「捕まえた。」

そんな真昼にニタリと笑い、呆然としているせいか未明の体に突き刺さったままの彼女の腕をがしりと両手で掴む。

刀を持っていた方の腕も既に空いていた。

真昼の腕を体で受け止めた衝撃で、刀は未明の手を離れて悠々空中を舞っていた。

丁度、未明の正面────真昼を間に挟んだ状態での未明の正面、つまり真昼の背後を飛んでいた。

つまり、この上ない絶好の機会。

つまり、最期。

 

これから始まる終わりに、自分の手で選び取った終わりに、未明の頬はひとりでに笑みを描く。

その笑顔に警戒したらしい真昼が、離れる為に腕を未明の胸から引き抜こうとするが、それ以上の力で未明は彼女の腕を掴む。

掴んで、捕まえる。

捕まえて、逃がさない。

 

 

「鬼宿。」

何度も呼んだその忌々しい名前を口にする。

ヌメリと赤く染まった唇を開いて、血と一緒に吐き出す様に。

 

「おいで。」

何度も下したその慣れ親しんだ命令を口にする。

真昼は未明が何をしようとしているか分かったらしく酷く抵抗するが、暴れる彼女の腕を金色の鬼呪が表面に出てきた腕で押さえつける。

吸血鬼の真昼には、鬼呪がよく効くのだろう。

してやったり、と微笑む。

そしてその微笑みのまま、主人の元に帰ろうと飛んできた刀に貫かれて、未明の華奢な体は地面に縫い付けられる。

紙を画鋲でコルクボードに留める様に軽い音を立てて、胸の真ん中を留められた十字架刑状態の未明が完成する。

 

 

白いセーラー服、紫の髪、そしてそこから溢れ出す赤い血。

鮮やかな赤が未明の体を真ん中に、じわじわ白い床に広がっていく。

まるで赤い大輪の花の様。

地面に落ちた赤い花。

木から離れた赤い花。

残された時間は残り少ない。

血と一緒に命が溢れ出していくのを、未明は自分の鼓動を遠くに聞きながら感じていた。

 

そんな未明を見下ろすのは、左腕1本と左側の髪をばっさり持っていかれた真昼。

真昼が肩を外してでも未明の腕から逃げたせいで、刀が奪えたのは左腕だけだったが、まあ及第点だろう。

これで彼女を殺せるとは思っていなかったし、それが目的ではない。

 

左腕から出た血で真昼は顔を赤く染めているが、その中でも1番目を引くのはやはり赤い目だ。

同じ赤の筈なのだが、目が1番目立つのは何故だろうか。

 

 

「まひる。」

その赤い目を見つめて、未明はふらりと手を伸ばす。

「なんで、貴方が···」

斬り落とされて地面に転がる左腕を拾い上げて、傷口にそれを当てる真昼。

だが対吸血鬼属性を持つ武器である鬼呪で斬られた傷口は中々治らないのだ。

その腕を庇いながら、真昼は僅かに顔を歪める。

「深夜を、庇ったこと?

それと、も、私諸共、鬼呪で貫いたこと?」

自分が原因で真昼が表情を変えてくれた。

その事実が嬉しくて、未明は血と笑いをコポリとこぼす。

 

「どっちもよ!なんで、どうして、貴方が?

そんなつもりじゃなかったのに······!」

どうしてどうして、と取り乱している。

グレンの腕が落ちた時の様に取り乱している。

「あは、は、そんなつもりじゃ、ないって、言ってくれるの?」

「当たり前よ!計画は、こんなんじゃなかった。

貴方だけは必ず、必ず···」

「私だけは、何?」

何だろう。その先は何だろう。

未明だけというのは何だろう。

グレンだけでもシノアだけでもなく、未明だけ。

ついつい期待してしまう。

「貴方だけは······」

 

 

しかし、その後に続く言葉は聞けなかった。

一瞬のうちに、真昼が深夜の胸に腕を通してしまったからだ。

取り乱す真昼の、その隙を狙った仲間達は力を振り絞って真昼に攻撃をしかけたのだ。

しかし結果は目に見えていた。

そして今、目の前でよく見えている。

止めてと言う前に、未明がそう叫ぶ前に、あっさり真昼の腕に貫かれた深夜の体はドサリと地面に崩れ落ちた。

次は美十、次は雪見、次は花依。

皆、おもちゃの人形の首かの様に、簡単に刎ねられた。

コロンコロンと転がる彼女達の頭の、その目と目が合って、その現実を頭が受け入れる前に、そこに五士の頭も加わった。

 

心が凍る。

頭が凍る。

全身が凍る。

凍りついているのに、胸の真ん中からは熱い血とめどなく溢れていく。

今にも死にそうな、いや既に死んでいてもおかしくないその傷口に鬼呪が回り、表面だけは修復していく気配がある。

だが何の意味もない。

血は止まらない。

真昼に貫かれた分と、刀に貫かれた分と2つ合わせて、内臓は間違いなく致命傷だ。

それでも鬼宿は未明の傷を治そうと躍起になっている。

さっきまで今にも未明を喰ってやろうと暴れていた癖に、今は慌てて泣き叫んでいる。

落差の激しい奴、やはり見た目通りの幼児か。

そんな戯れが思考の海に浮かび、どうにか今目の前で起こっている悲劇からの逃避を図ろうとする未明の脳。

 

しかしそんな未明の意識を現実に引き戻すのはグレンの吠える声。

真昼の手によって次々仲間が死んだことに耐えられず、彼は怒りを、憎しみを、悲しみを、殺意を吐き出している。

だがそれでは駄目なのだ。

それではきっと、鬼に喰われてしまう。

弱っちい人間をやめてしまう。

弱い自分達は弱いから出会って、仲間になったのに、グレンがそれをやめてしまったら──────

 

 

「がはっ、がはっ、がぁあああ?!」

未明のすぐそばで、声がした。

仲間の声。

まだ生き残っている、仲間の声。

深夜の声。

「······深夜っ!」

予想通りグレンは深夜の方に駆けて来る。

転びそうになりながら、顔を白くしながら、彼は倒れている深夜の所へ全力で走る。

「いま、いま助ける!お前もだ、未明!」

深夜の体を抱き寄せながら、まだ目を開けている未明にも気付いたらしいグレンは未明の胸に刺さったままの刀を抜いて投げ捨てる。

それから未明のことも抱き寄せてくれる。

未明と深夜は2人共揃って胸に穴を開け、血を溢れさせていた。

その穴を塞ごうと必死に手で押さえてくれるのだが、如何せん血が止まらない。

 

「止まれ、止まれ、止まれ、止まってくれ!頼む!」

グレンが叫ぶ。血を吐くように叫ぶ。

実際に血を吐いているのは未明と深夜だというのに。

「······これで、ゲーム、オーバーか。」

「喋るな!」

深夜がポツリと呟いた言葉を、涙を流しながらグレンが遮る。

「···グレン、聞いてくれ。」

「黙れって!」

「······僕は死ぬ。でも、楽し、かった。

グレン、君と、君たちと会えて」

とそこで、深夜が未明の方を見る。

にへらと笑って。

心から今が1番楽しいと、そう思っている様な良い笑顔を向けて。

 

「···生きる意味が、あっただろ?僕ら、あっただろ?」

「あったね、深夜。·····私達でも、あったよ。」

先の方から感覚が無くなっていく手を深夜の方に伸ばす。

すると深夜も未明の方に手を伸ばしてきて。

手が薄ら触れ合って。

「グレンに会えて、逃げずに、甘ちゃんのまま、弱いまま、死ぬ。

これ、一周回って僕らの勝ちだ。」

「ごめん、ね、深夜······私、やっぱり力が足りなくて。」

やはり真昼に敵わず、仲間は皆殺されてしまった。

未明の本来の目的を達成する前に、仲間は皆死んでしまった。

真昼とグレンと仲間達と、皆が生きていける未来を求めたが、それは過ぎた願いだったのだろうか。

 

「良いよ、未明。さっき、庇ってくれた、だろ?

まあ、君が自分を犠牲に、して······真昼を倒そうとしたことは、怒ってるけど。」

皆で生き残るって決めただろ、と深夜は笑う。

「そうだね、ごめっ···あがっ·····はぁ·····。」

クスクス笑おうとすれば、胸と口から血がこぼれてしまう。

苦しい。

 

「なあグレン、泣くなよ。」

未明と触れ合っていない方の手を深夜がグレンに伸ばす。

それから指をグレンの涙で濡れた頬に当てて、また笑う。

「で、怒るな。

僕が死んだとしても、僕ら甘ちゃんのまま···弱虫のまま一緒に死のう。

それが出来れば僕らの勝ちだ。そう決めた。

だから人間をやめるな、鬼に取り込まれる、な·····」

そこで、深夜の声が、止まった。

未明の掌に触れて僅かに動いていた指先が、止まった。

 

「深夜!

深夜?!なあ、深夜······!」

グレンの体が震える。

その震えが未明に伝わる。

深夜の名を呼ぶ力さえ無くなりつつある、未明に伝わる。

しかし最期の力を振り絞って、未明は真昼の方を見上げる。

涙の跡が残る頬と凪いだ赤い瞳。

それに笑いかけ、未明は血の味がする唇を開く。

 

 

「···真昼、私は死ぬよ。」

「······。」

「だから吸血鬼にして。

私を、吸血鬼にして。

真昼の血────吸血鬼の貴族の血は、刀を通じて、わたし、の体に入ったから。」

未明自身ごと真昼を刀で貫いたのは、刀を通じて真昼の血を未明に取り込む為だった。

吸血鬼の血があれば、人間は吸血鬼になれるのではないか。

そんな仮説を立てた未明は、真昼の血を手に入れる為に丸ごと串刺し作戦を実行したのだが、真昼が未明の動きを警戒し、それを何とか防ごうとした事から考えても、仮説は事実だと証明された様なものだ。

つまり、今未明は吸血鬼になれる。

真昼の代わりに、生贄になれる。

 

「駄目。私がならなきゃ。私がやらなきゃ。」

ふるりと首を横に振り、真昼は断ってしまう。

「ええー、駄々こねないでよ。

······最後の手段、取るしかないじゃない。」

力なんてもうどこにも残っていない。

けれど必死に、言葉通り必死に、未明は真昼に手を伸ばす。

鬼宿によってつけられた傷で、血で、確かに繋がった唯一の片割れに手を伸ばす。

そして、引き寄せる。

 

「未明、やめ、未明······!」

絹を裂く様な悲鳴。いや怒号なのだろうか。

真昼はすぐに、自分に何が起きつつあるのか分かったらしい。

「生贄は私がなる、よ。だから真昼は、グレンと生きて。

未来を、生きて。滅びた世界の向こう側を、生きて。

私の願いを、叶えて。」

頭が揺れる。視界が揺れる。

それでも真昼との繋がりは切らさない。

無理矢理、真昼の中にいる吸血鬼性を引き抜いてしまうまでは離さない。

 

真昼が素直に未明を吸血鬼にしてくれないのなら、未明が勝手になるだけだ。

真昼を人間に、未明を吸血鬼に。

ただそれだけで良い。

くるんと黒を白に引っくり返すだけで。

それだけで事足りる。

未明が真昼の吸血鬼性だけを取り込んでしまえば事足りるのだ。

鬼宿に密かに刻んでいた呪いが生み出した繋がりを頼りに、未明は真昼の吸血鬼性を引き寄せる。

ドロドロとした、嫌なもの。

綺麗な真昼には、要らないもの。

幸せな未来には、無くて良いもの。

そんな汚いものは全部、未明が食べてしまうから。

飲み込んでしまうから。

だからね────

 

 

グレンの声が遠い。

しっかりしろ、死ぬな、とそうグレンが言ってくれているのに。

「駄目よ。貴方だけは駄目なのに。

未明、離して!」

「いや、だよ。」

息も絶え絶え、唇を動かす。

もう真昼の姿が見えない。

暗い。ぼんやりとしてくる。

ああ、繋がりを離しては駄目なのに。

まだ全部、真昼の吸血鬼性を食べてはいないのに。

もう、何も見えなくなってしまいそうだ。

 

 

「未明、貴方だけは───────」

 

 

 

プツン。

どこかで糸が切れる音がした。

何も見えず、何も聞こえない。

ゆらりゆらり、何か波の中に揺蕩っている様な優しい感覚を最後に、未明の意識は完全に途絶えた。

 

 

 

 

次に自分というものを未明が確認出来たのは、知らない空の下───流星になって真っ逆さまに落ちていく時だったのだが、その先は割愛だ。

そこから始まるのは世界滅亡の中足掻く人間達の物語ではなく、真っ直ぐに歪んでいくミメイ=ヒイラギの物語なのだから。

 

 

 

 

 

 

*********

「───────そして、流星街にマジモンの流星になって落ちたのでした。おしまい。めでたしめでたし。」

パタンと絵本を閉じる様に、ミメイは両の掌を互いに打ちつけた。

 

「どうだった?」

ベッドに横たわるクラピカを見て、ミメイは微笑みながら尋ねる。

「······いや正直どこから何を言えば良いのか分からないのだが。」

そう言う彼はやはり微妙な顔をしている。

「あー、まあそうよね。」

鬼呪とか世界滅亡とか、そもそも世界観が全く違うから。

そんな言葉は口の中で転がすのみに留め、ミメイは苦笑を浮かべた。

 

「いや、そういう意味ではない。

お前の思っていることと、私の思っていることは恐らく違う。」

緩く頭を振るクラピカにミメイは首を傾げる。

「どういうこと?」

「正直に言おう。お前の話はよく分からない。

お前の故郷の常識やその他何もかもは、私の常識と違うのだろう。

1つの物語の様にしか思えない。」

「ああ······。」

まあ分からなくもない。

ミメイだって世界滅亡なんて馬鹿みたいなこと、夢物語だと思いたかった。

しかし鬼宿が言うには、ミメイが意識を失った後しっかり世界は滅亡したらしい。

予定通り真昼が生贄になり、死んだ仲間を蘇らせる為にグレンが“終わりのセラフ”を発動し、神からの天罰は下って世界は滅んだ。

グレンは独りで罪人になり、独りで十字架を背負う選択をした。

 

「だが、」

そうクラピカは言葉を続ける。

必死さを感じさせる顔で、ミメイの方を見てくる。

そしてミメイの手を引き寄せ、そっと躊躇いがちに握る。

 

「前言っていたな、好きとか愛とか、そんなものは抱いていないと。

妹のことも、別に何とも思わないと。」

「···それが?」

 

この世界に落ちた時、鬼宿はなりを顰めていた。

ミメイの体を突き破ろうと暴走していた片鱗は無く、大人しく鎖に雁字搦めになっていた。

勿論鬼呪の鎖が、ミメイの体の表面に現れていることもなかった。

理由は知らない。

だが不幸中の幸いだった。

鬼宿があのまま暴走状態にあれば、ミメイはこの世界ですぐに喰われていただろう。

だから今度こそは決して鬼を暴走させまいと、始めから鎖で押さえ込んだ。

真昼の影として生きるだけの、仲間を知る前までの様に。

関わる人間も少なく、感情も生まれにくく、欲望も湧きにくかった。

だが結局の所、人間というものは人間と出会い、そして感情を取り戻してしまう。

1度覚えてしまっているからこそ、すぐに蘇らせてしまう。

そうしてとうとう、今度は後悔しない為に鬼に喰われて力を得ることを選んだのだ。

誰かを救う為に人間をやめることを選んだのだ。

今度こそは、死なせない為に。守る為に。救う為に。

 

 

「だがそれは嘘だ。

お前はちゃんと、愛を知っている。

だからお前は人間だ。

家族や仲間や、そんな大切な誰かを想うお前は、間違いなく人間だ。」

 

 

心臓が止まった様な気がした。

普通の人間にそんなことを言われたのは初めてだったから、つい息を呑み込んでしまった。

クラピカが言った言葉の意味をゆっくり噛み砕いて、それが体に染み渡る頃には、彼が握ってくれる手の温かさがツンと鼻にきた。

真昼に貫かれて薄ら残った古傷が、ちくんと傷んだ気がした。

しかし胸が痛いのは恐らく古傷のせいではないのだと、なんとなくミメイは分かっていた。

 

 

「お前は人間だ。

誰かを愛すべく、また誰かに愛されるべくして生まれた人間だ。

お前の想いや愛は、間違いなんかではないと私は思う。」

 

 

きっとずっと、待っていた。

人間だと言われるのを。

誰かを愛して良い人間だと、誰かに愛されて良い人間だと。

半端者である自分の想いや愛は、間違いなんかではないと。

それは胸に抱いて良いものなのだと。

人間らしく自由に想い自由に愛し、自由に振舞って良いのだと。

“それ以上”を求めても良いのだと。

 

真昼を、シノアを、グレンを、仲間を愛している。

それだけで良い。

それだけで充分だ。

それだけの為にミメイは死ねる。

“それ以上”が無くとも────彼等に愛されなくとも、何も返ってこなくとも。

 

けれど。

“それ以上”を求めても良いのだ。

そして既に、きっとミメイは“それ以上”に愛されていた。

いや実際は分からない。

分からないのだが、そうであったらと求めることは間違いではない。

誰かを愛し、愛されることを望むのは決して間違いなんかではない。

 

 

「ああ······そっか。

私は求めても良いのね。」

目の奥が熱い。

こんなに熱くなったのは何年ぶりだろう。

生理的なもの以外で、この目から涙がこぼれるなんて何年ぶりだろう。

感情を爆発させる為の手段として、泣くなんて何年ぶりだろう。

前に泣いたのはいつだったか、もう覚えていない。

枯れ果てていた涙腺の筈だった。

 

けれど。

 

「ありがとう。」

他でもない貴方に言われて私は救われた。

目尻からこぼれる涙が床に落ちるより早く、ミメイは目の前の少年に抱きついた。

本当はいつか誰かにしてみたかったことを、今度は後悔の無いように。

 

 

「貴方に出逢えて良かった、クラピカ。」

雪の降りしきるクリスマスに仲間達に言った言葉を繰り返しつつ、あの時よりも鮮やかな感情を溢れさせて、ミメイはクラピカの体を抱きしめる。

彼の背に手を回し、彼の肩に顔を埋め、彼のサラサラの髪が頬に当たる擽ったさに少し笑い。

ミメイはまた、涙をひとしずくこぼした。

 

「私もお前に出逢えて良かったと思っている。」

おずおずと躊躇いながらも、しっかりとした手つきでクラピカもミメイの背に手を回す。

初めて見るミメイの涙に驚いていたが、それ以上にこの温かさに身を委ねたいと彼自身も思っていた。

 

 

 

 

けれど、夜は未だ明けない。

 

 

 

 

 

 

─────これは、真っ直ぐに歪みながら破滅へと向かう物語だ。

 

 

 

 



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22:あの子の知らない世界滅亡

未明が異世界トリップ(気絶)してからの、他の人目線の後日談です。
グレン以外の仲間達の間では、未明は死体も残さずに消えてしまった(恐らく死亡)と認識されています。

この投稿分で長ったらしい過去編は終わりです。






『────これを聞いているのが誰かなんて私には知る由もない。

でも、これを貴方が聞いている時既に私はいないでしょう。

···そんなお決まりの台詞を言ってみたけど、これって微妙よね。

そう思わない?』

 

ピッと無機質な音を押し込める様にボタンを押す。

 

『私が生贄になれば、真昼は助かるの。

真昼は生きられるの。』

 

またボタンを押す。

 

『真昼も、シノアも、仲間達も、皆大事よ。家族なんだもの。

だからね私、思ったの。

私が、私だけが犠牲になることができればって。』

 

もう一度。

 

『後悔はするわ、きっとね。

でも嫌悪感なんて微塵も抱いてないの。

追い詰められた鼠ほど強いってこういうことかしら。』

 

もう、一度。

 

『大好きよ。』

 

 

ガシャンと、掌から滑り落ちたボイスレコーダーが床に転がった。

けれども少年少女の泣き声に、その哀れな音は掻き消されていく。

ゴシゴシ、ゴシゴシ、消しゴムで消すように無くなっていく。

この世界から、1人の少女がいた跡も無くなっていく。

 

仲間達に傷痕だけを遺して。

そうして少女は跡形もなく消え去った。

 

 

 

────────

五士典人にとって、柊未明はある種の憧れだった。

 

名門五士家の長男として生まれながらも、幾つか下の優秀な弟ばかりに集まる期待に辟易としていた頃、何度か見かけた。

優秀な柊家次期当主候補の双子の妹である未明を。

初めは親近感だった。

自分と同じ様に優秀な兄弟を持つ未明のことを、彼女は尊い柊様だった為勿論口には出来なかったが、内心似た者同士だと思っていた。

しかしその認識が覆ったのは、とある日の夕方のこと。

帝ノ鬼配下の名家が集まる定期的な会合では、大人達は真面目な話をし、子供達は子供達で一室に集められていた。

けれど不出来な長男というのは居場所が無いに等しくて。

五士はふらりと太陽が沈みゆく外へ出た。

それから行く宛もなくさまよっていれば、小さな訓練場に行き当たった。

金属同士がぶつかり合う鈍い音に少し怯えながら、それが聞こえてくる訓練場を覗き込んだ。

そこにあったのは、“あの”柊暮人とほぼ互角に戦う未明の姿だった。

五士はひとりでに息を呑んだ。

夕陽に照らされて、未明の紫の髪がじわりと輝いて。

彼女の持つ白刃が閃いて。

風が巻き起こり、火花が弾け。

何より柊暮人と刀を交える彼女は僅かに笑っていて。

その光景はまるで1つの絵の様で。

 

きっとその日、五士はちょっとした恋を、そしてちょっとした失恋を経験したのだろう。

 

 

 

だから今、あの紫の髪が二度と見られないと知って、力がふっと抜けてしまいそうになった。

 

 

 

 

────────

十条美十にとって、柊未明は柊様の1人、というよりは“真昼様の妹”という認識だった。

強く美しい真昼に憧れていた美十からすれば、真昼の後ろに隠れてばかりの未明は少し、物足りない存在だった。

いや勿論、真昼と同じ美貌には心惹かれていたのだが。

だが真昼の慈愛のこもった笑みと違い、未明の笑みは軽薄で。

冷たくて、暗くて、濁っている様に思えた。

少なくとも幼い美十はそう思っていた。

 

のだが、あの日あの姿を見たことで、全てがくるりと反転した。

 

透明な液体で満たされた巨大なビーカーの中に浮かぶ白い体。

その白い体に繋がれた無数のチューブ。

生々しい血の匂い。

コポリコポリと水面に上がっては消える泡。

一瞬、“それ”が何なのか、美十には分からなかった。

実験動物の様に生かされている“それ”が何なのか、分からなかった。

偶然見かけてしまった“それ”は余りに衝撃的で。

鬼呪装備の調整の為に柊家の研究所に一緒に来たグレンが、「未明」と血を吐き出すかの様な痛々しい声でその名を口にしなければ、“それ”が柊未明だとは分からなかった。

柊家の研究者から話を聞いて、鬼呪装備の要である鬼を抑える為の鎖に未明の血が使われていると知れば、腰に提げた鬼呪装備がズンと重くなった気がした。

あんな方法で、人権も何もかも奪われて、それで······ああ···、そんなのって···。

 

次に美十が見たのは、グレンにおんぶをされる真っ白な顔の未明。

儚く笑う彼女に、真昼のことで怒る彼女に、グレンに縋る彼女に、美十は泣きたくなった。

未明は柊様なんかではない。

1人の女の子で、美十と同じ女の子で。

好きな人だって、守りたい人だって、家族だって、美十と同じ様にいて。

それなのにどうして、未明はあんな目に合わなければならないのだろう。

ビーカー漬けになって、全てを奪われなければならないのだろう。

だから美十は、未明の手を取った。

冷たくなんかない、ちゃんと美十と同じ血が流れている温かい手を。

仲間だから、友達だから、大切だから。

そして未明が握り返してくれたことがまた嬉しくて。

 

 

 

なのにどうして、私の友達(未明)はいないんだろう。

どうして、私達(仲間)の中に彼女だけいないんだろう。

美十は小さく首を傾げて、それからポタリと涙を垂らした。

 

 

 

 

────────

花依小百合と雪見時雨にとって、柊未明は憎い女だった。

大切な主人を振り回し、傷つける柊真昼の双子の妹。

敵。唯一無二の敵。

憎んでも憎んでもまだ足りない。

そう思っていた。

いや、今もそう思っている。

今だって多分、憎くてたまらない。

大切な主人に最期まで傷を遺していくあの女が、憎くてたまらない。

同じ人を想い、同じ様に想い、そうして散ったあの女が、憎くてたまらない。

 

でもどうして、どうして。

目の奥が痛いのだろう。

泣きじゃくる花依小百合を抱きしめて、雪見時雨は思う。

真昼と違って自分達を1人の人間として扱い、仲間と呼び、その命を賭して守ろうとしたあの憎い女のことを。

自分達が作った食事に顔を綻ばせていたあの憎い女のことを。

 

 

 

自分達に今涙を流させる、憎い女のことを。

 

 

 

 

────────

柊深夜は柊未明の義理の兄である。

血の繋がりは全くない。

だが恐らく性格はよく似ていた。

何故か同族嫌悪を起こさない、絶妙な加減だった。

だからだろうか、許嫁である真昼よりも未明と一緒にいる方が心地好かったのは。

だからだろうか、幼い頃隣にいればなんとなく手を重ねていたのは。

だからだろうか、お義兄ちゃんと呼ばれるのが嫌だったのは。

 

義妹が唯一遺していった、ボイスレコーダーを友達(グレン)から受け取って、その聞き慣れた声を再生してみる。

皮肉っぽくて、回りくどくて、芝居がかっているその話し方は健在で。

けれども、もうこの声しか遺っていないのだと思うと変な笑いが口元に浮かんでしまう。

 

結局の所、あの義妹は何がしたかったのだろうか。

たった独りだけどこかへ消えてしまったらしい彼女の真意などもう分からない。

いや、今目の前に彼女がいた所で分かりはしなかったに違いない。

けれど、

「死なないって言ってたのにさ。

僕らが生きて、君だけ死ぬのは、約束破りだろ。」

なあ未明、とボイスレコーダーを握りしめる。

 

人は、人を声から忘れていく。

そうやって忘れて、過去に出来る筈なのに、そうやって生きていくしかない筈なのに、こんなものを遺されてしまったら忘れられやしないのだ。

深夜が20歳になっても、24歳になっても、それよりもっと歳をとっても、きっと鼓膜には16歳の未明がこびりついたままなのだ。

セーラー服を身につけて、紫の髪を靡かせて、薄く笑う少女が居るままなのだ。

 

 

『深夜。』

多分まだ、声が消えない。

 

 

 

 

────────

「未明姉さん。」

そう呼んでみる。

目立たない方の姉の名を。

シノアが思うに、軽い方の姉の名を。

どちらかといえば、人間らしかった姉の名を。

 

勿論誰も答えない。

シンとした静寂が支配するこの広い部屋に、シノアはたった1人だ。

ほんの少しの間、姉と二人暮らしなんかしていたからか、静寂をやけに重く感じる。

 

シノアは姉のことをよく知らない。

姉達のことをよく知らない。

美人で、強くて、一見優しいが、その実何を考えているか分からなくて、怖い。

シノアの前で感情を表に出す方である未明は真昼よりマシの様に思えるが、本当の所シノアにとっては未明の方がよく分からなかった。

どうしてそんなに、シノアを見ているのか。

どうしてそんなに、シノアに興味をもつのか。

自分が死んだら悲しんでくれますか、と冗談めかして訊いた時に、ただ黙ってシノアを抱きしめたのは何故だろう。

やはり理由が分からない。

 

自分に宿る鬼───四鎌童子によれば、姉達はシノアを守ろうとしていたらしいが。

上の姉はシノアの鬼まで体に取り込んで、その末に狂ってしまって。

下の姉は鬼呪装備の完成の為に搾取されて、その身は消えてしまって。

跡形もなく融けた氷の様に、どろりといなくなってしまった2人の姉。

彼女達のことを思うと、鬼の好む欲望が湧いてしまう。

だから心に壁を建てる。

感情も欲望も、全てを遠くにして。静かに蓋をして。

 

 

 

「真昼姉様。」

今度は目立つ方の姉の名を。

ピエロとして踊り狂った姉の名を。

下の姉───未明のことさえも守ろうとしていたらしい、姉の名を。

もっと呼んでみても良かったその名を、小さく吐き出した。

 

 

 

 

────────

「いやだよ。」

それが最期の言葉だった。

未明の。

愛した女の妹の。

懐かしい幼馴染の。

大切な仲間の。

 

未明は真昼に何かをしていたらしく、それに真昼が抵抗して、その懇願を囁く様に笑って拒否して。

それからゆっくり目を閉じた。

グレンがいくら体を揺すっても、彼女はもう目を開けない。

深夜と同じ様な微笑を浮かべて、彼女は命を失っていく。

 

周りには仲間達の体が転がっている。

世界滅亡を止める為、生き残る為、真昼を助ける為、ここまで来たというのに、全ては泡の様に消えてしまった。

あっさり皆死んで、グレンは独り、取り残されてしまった。

 

 

「ああああああああああ··········!」

体が震える。

涙が溢れて止まらない。

怒りが、憎悪が、悲しみが震え上がって止まらない。

目の前の現実から逃げて、正気を失ってしまいたい。

だがそれは駄目なのだという。

皆で弱いまま、人間のまま死ぬと決めたから。

仲間達との約束だから。

この現実から逃げたいのに、逃げ出したいのに。

人間をやめて、弱さなんか捨てて、狂ってしまいたいのに。

震えながら、命の火を消した2人の体を床に置いた。

落ちていた刀を拾って、立ち上がる。

けれどこの武器ではどうせ、真昼に勝てはしない。

軽く刀を投げ捨てて、投げた先で床にストンと突き立つそれを見て。

そうして、真昼に問いかける。

 

「皆死んだ。お前の望み通りだろ?

お前を救う方法があるなら教えてくれ。」

真昼は優しく微笑む。

「ううん。もう私は救われたよ。

最期に貴方が来てくれたから、私はもう、救われた。」

「意味が分からない。」

すると彼女は焦った様に携帯の画面を見て、ゆっくりグレンの方に歩いてくる。

 

「何を焦る?」

「分かってるでしょ?世界が破滅するの。」

「お前がさせるのか?」

しかしその問いには答えずに、真昼はグレンの斜め前に立つ。

「人間の中でも、吸血鬼の中でも、禁止されている呪術実験、知ってる?」

「終わりのセラフだろう。鬼呪を超える、世界を終わらせる大規模破壊呪術兵器。

お前の資料にそう書いてあった。」

そう言うと、真昼は肩をすくめる。

「発動の仕方は?」

「知らない。」

「ふうん、未明は貴方に話さなかったんだ。」

ちらりと床に転がる血まみれの妹を見やる真昼。

 

「未明は知っていたのか。」

「私は未明にちゃんとは教えてないよ。

でもきっと未明なら私が残した資料から、おおよその答えを導き出した筈。」

真昼の資料にあった情報。

まるで預言者の様な言葉。

世界中の13歳以上の人間が皆死に、欲深い大人が皆死に、大地は腐り、魔物が徘徊し、空から毒が降る。

終わりの天使(セラフ)がラッパを吹き鳴らし、この世界は崩壊する。

か弱い人間は生き残れない。

傲慢な人間を罰する為に、神が下す罰。

それが世界を壊すのだ。

そんな預言が、今日成就するのだという。

クリスマスに、世界に破滅が訪れるのだという。

 

「いったい、終わりのセラフとは何なんだ?」

「神の罰───天罰のコントロール。それが終わりのセラフの正体。」

真昼は躊躇わずに答える。

馬鹿みたいな答えを笑わずに。

「なんだそれは。神なんかいない。」

もしいるなら、何故こんな世界を創る?

こんな酷い世界を創る?

 

 

「あはは、それがさぁ、神って奴はいるんだよ。

残念なことにね。」

聞こえる筈の無い声が、鼓膜を揺らす。

反射的に振り向く。

仲間達が、深夜が、未明が倒れている方を。

けれど、そこにいる筈の人間が、1人いなかった。

1人足りなかった。

 

「あら未明、起きたのね。良かったわ。

今更貴方に死なれたら困るもの。」

なんてことない様に、真昼は足りない1人の名を呼んで。

グレンに近付いてくる足音の主に笑いかけている。

「真昼、僕を未明って呼ぶのはやめてくれないかな。」

僕。未明はそんな一人称を使っていただろうか。

いや、そんな覚えグレンにはない。

 

「あらごめんなさい。ならタマ。」

タマ、と呼ばれた“未明”の体は鼻で笑う。

そして未明とはうって違う、冷たさと禍々しさしか感じられない声音で真昼に返す。

「それは未明専用なんだ。」

「相変わらず注文が多い鬼ね。」

「はは、そうかな。

それにしても今の今まで僕を待たせるなんてね。

僕にしては珍しく、よく辛抱したと思うよ。

ま、それは君のせいじゃないってことくらい、僕だって分かってる。

全てはあいつのせいさ。

シカ·マドゥ───四鎌童子のね。」

吐き捨てる様に、シノアの中にいる鬼の名を呟く。

 

「やっぱり貴方は四鎌童子が嫌い?」

「大嫌いだよ。

未明は僕のものなのに、ちょっかい出そうとしてたから。」

拗ねた幼子の様に上擦る声。

「貴方は未明のことが好きなのね、昔から。

だから、未明だけは救ってくれるんでしょう?」

「勿論さ。未明だけは、連れて行く。」

グレンの横を颯爽と通り過ぎて行く“未明”の体。

揺れる紫の髪。

翻るセーラー服のスカート。

後ろ姿はただの未明だ。

グレンのよく知る未明にしか見えない。

 

 

「ああ···良かった。未明だけは、柊から逃げられる。

この鳥籠から逃げられる。

私達が知らない世界を見ることが出来る。」

心から安心した様に、愛しそうに、真昼は相好を崩す。

「今の台詞、未明に聞かせてあげたかったよ。」

そう言いながら、“未明”はさっきグレンが放り投げた刀を引き抜く。

そしてそれを二三回戯れの様に振ってから、夜の雨を思わせるじっとりさで笑った。

 

「駄目よ。そんなことしたらあの子、鳥籠の鳥のままになるでしょ。

あの子だけは自由に広げられる翼があるんだから、飛んでくれなくちゃ。

私達の分まで、飛んでくれなくちゃ駄目なのよ。」

向かい合う双子の姉妹。

どちらもグレンなんか眼中に無いらしい。

真昼はともかく、“未明”は一度もグレンの方を見ない。

 

「ふうん。ま、どうでも良いけどさ。

僕は未明を救いたい。だから未明を連れて行く。

それだけだ。

盟約は今果たされる。

そうだろ?」

“未明”がグレンの刀を真昼に差し出す。

“未明”の顔はグレンからは見えないが、真昼の顔はよく見えた。

やはり愛しそうに、とても愛しそうに真昼は笑って、刀───ノ夜を受け取る。

「ああ、お帰り、ノ夜。

たくさんたくさん、人と鬼を殺してきたわねぇ。」

グレンを無視したまま、真昼はそう言って。

 

グレンは言った。

「真昼。」

「なあに、グレン。」

真昼は小さく瞬きをして、小首を傾げながらグレンと目を合わせる。

と同時に“未明”も緩慢に振り返り、グレンの方を見る。

その“未明”の目は赤かった。

真昼と同じ様に赤かった。

そのせいか、双子の姉妹は本当に鏡合わせの様で。

もっと言ってしまえば、真昼も“未明”もどこか人間らしくない薄っぺらい微笑を浮かべていた。

それが余計に、鏡の国にでも迷い込んでしまったかの様な思いをグレンに抱かせる。

 

「お前は、何だ。」

乾ききった喉を鳴らしながら、グレンは“未明”に尋ねる。

「僕?僕はねぇ、未明だよ。

君が最後まで見てくれなかった、可哀想な未明だ。

君が愛した女の妹、ただのスペア、ただのおまけ。」

きゃははははっと愉しそうに手を叩く。

「なら何故、お前は目が赤い。」

「そりゃあ僕が未明の体を乗っ取ったからさ。」

クルクルとバレリーナの様にその場で回転し、にたりと口角を上げる“未明”。

 

「やっぱりお前は鬼か。」

「うん、そうだよ。

かつてはナニカ、かつては神、かつては吸血鬼、そして今はただの鬼。

それが僕であり、未明でもある。」

キラキラと妖しげに赤い目を光らせる。

 

「未明は、どこにいった。」

一言一言を刻む様に、グレンは尋ねる。

「君の言う未明はねぇ、今は寝てるよ。

まあだから僕が出てこれたんだしね。」

「生きてるんだな。」

「生きてるよ。」

「なら、」

早く未明を返せよと、仲間を返せよと、鬼に言おうとした。

が、その前に嘲笑が重ねられる。

「でも駄目だ。もう未明はこの世界で死んだんだ。

もう二度と、この世界で未明が目を開けることは無い。」

「何故だ。」

「何故何故何故、訊いてばっかりだね一瀬グレン。

僕は答えないよ。

真昼にでも訊いてみたらどう?」

「真昼。」

双子のもう片割れの方を見る。

「未明だけはね、救われるの。

鳥籠を飛び出して、飛んで行くの。」

答えになっていない様な夢見がちな返答。

この双子の姉妹にはよくあることだ。

最早そのはぐらかし方には慣れているグレンは、躊躇わずに踏み込んでいく。

 

 

「なら真昼、俺はお前を救えるか?」

すると彼女はそれに、美しい、それでいて泣きそうな顔で、

「ごめんね。今日は無理。貴方に私は救えない。」

と言った。

それから突然、グレンの刀をくるんっと翻し、それを自分の胸に刺してしまう。

刀が刺さったのは心臓の位置で。

さっき未明が真昼ごと自分を貫いたのと全く同じ様に、刀が真昼の華奢な体に突き刺さって。

 

「かぷっ」

という可愛らしい、空気の抜ける様な音が真昼の喉からして、膝からがくんと崩れ落ちようと────

「真昼っ!」

グレンは走り、倒れゆく彼女の体を支えた。

グレンの胸の中で、彼女はぐったりと力を失う。

「これは、どういうことだ。」

腕の中の真昼と、黙ったままグレン達を見下ろしている“未明”に尋ねる。

 

真昼はそれに、嬉しそうに笑う。

「···········ああ、グレンの体、温かいな。」

グレンはその胸に刺さった刀を引き抜こうとするが、

「駄目だ。」

白い冷たい手がグレンの手に重なる。

「何故止める、鬼。」

邪魔をするなと吠える。

今にも死にそうな真昼が目の前にいる。

さっきの未明と同じ様になっている真昼が。

 

「抜いたら真昼はすぐに死ぬよ。」

「なっ···。」

「君の鬼呪は真昼の心臓と一体化した。」

その“未明”の言葉で、真昼の胸でグレンの鬼呪───ノ夜が脈打っていることに気付く。

呪詛が、彼女の体を汚染していくのが見てとれる。

はあ、はぁ、はあと、真昼は苦しそうに吐息を漏らす。

あれほど絶対的な強さを誇る真昼が、みるみる弱っていく。

その細い体を抱きしめる。

抱きしめるグレンの手は、血に汚れている。

深夜と未明の血だ。

五士も、美十も、小百合も、時雨も、深夜も、皆皆死んで、さらに真昼も、グレンの腕の中で死のうとしていて。

 

 

「これはいったい、なんだ。お前はいったい、何がしたい。

鬼、お前は何を知っている。」

「僕は大体知ってるよ。真昼がしたいことだって、何だって。」

グレンの真横に立つ“未明”は静かに答えた。

「真昼、なあ、真昼。」

腕の中の真昼に縋る。抱きしめて、縋る。

どうして良いか分からなくて、正しい答えを求める様に縋る。

 

「あは、グレン、私を呼んでくれるの?」

「お前の望みは、何だ。」

「···普通の女の子になること、かな。」

昔の様に、小さな白いワンピースを着ていた何年も前の様に、真昼は笑う。

「好きな人と恋をして、抱かれて、子供とか産んで···ああ、でも、欲張り過ぎか。

グレンが今、抱いてくれてるのに。」

呪詛が広がる。黒く黒く、黒く。

 

そうやって弱っていく真昼を見つめて、聞く。

「死ぬのか?今日、お前は、死ぬつもりだったのか?」

その答えは酷いものだった。

「だって、生まれた時から、そう決められてたから。」

そういう計画なのだ。

結局これはそういう計画なのだ。

真昼はずっとそれを知っていた。

自分の運命を知っていた。

グレンの仲間達を殺したのも全部計画通りで、真昼は絶望の檻に住んでいて。

 

「神の罰をコントロールする実験───終わりのセラフの為に私は生まれた。

鬼呪はその為の実験。

私はその為だけに、その計画の為だけに、生まれた。」

「ならこれも全部、計画通りか。」

「······。」

真昼は答えない。

「俺はどうすれば良い。俺はいったい、なんなんだ。

お前も仲間も、何も救えないで······」

「でも、全部が計画通りな訳じゃないの。

今日貴方が来てくれたから、世界を、救える。」

呪詛は、真昼の白い喉を越え、頬まで到達した。

 

「貴方が今日ここにいるのは、計画の外。

未明がここにいるのも、計画の外。」

「ま、僕達の場合は、生きてここにいるか、死んでここにいるかの違いだけだったろうけど。」

今まで黙っていた“未明”が口を開く。

「鬼、答えろ。

未明も、計画の中にいたのか。ずっと。」

真昼を抱きしめたまま、彼女を見つめたまま問いをぶつける。

 

 

「···勿論、と言いたい所だけど違う。

未明はそもそも生まれる筈がなかった。

けど生まれた。

そもそも未明は最初から計画外なんだ。

だから未明は計画を知らない。

計画の外にいたから、外の檻に囚われていたから、何も知らない。」

「本当はね、未明は私の一部になる筈だったの。

でも未明は、私の双子の妹として生まれてきた。」

真昼が苦しそうに喘ぎながら、“未明”の言葉を継ぐ。

 

「だから未明だけは救われる。

計画の外だから、鳥籠から飛び立てる翼を持っているから、未明だけは僕が救うんだ。」

「ならお前のことは、誰が救ってくれるんだ、真昼。」

双子の妹のは救われて、双子の姉は救われないなんてそんな話がどこにある。

「···。」

真昼は答えない。

苦しそうに嬉しそうに笑うだけ。

 

「俺はどうしたら、お前を救えるんだ。」

「私はもう、救われたよ。貴方が来てくれたから。

······ねえグレン、終わりのセラフは人間を蘇生しようとすると、始まるの。」

「なっ······」

突拍子もないことで言葉にならない。

「でも神様がそれを許さない。蘇生をしたら、滅びが始まる。天罰が下る。

今の人間の技術ではまだ、その天罰を少ししかコントロール出来ない。

世界は滅ぶ。生き残るのは鬼と子供だけ。

生き返った人間も、10年しか生きられない不完全体になる。

でも今日、実験は行われる。」

「なんの為に。」

「神に近づく為に。」

狂っているとしか思えない。

グレンには到底理解出来ない。

 

 

「グレン、貴方が言いたいことは分かるわ。

そうね、狂ってる。でもそういう場所に私達は生まれた。」

と言ってから、真昼は儀式場の中央にある棺へと目を向ける。

「棺の中に死体が入ってる。その中心に刀を差し込む場所がある。

この実験───終わりのセラフに必要なのは沢山の鬼の命と、沢山の人の命と、そして吸血鬼の貴族の命。

この3つが揃わないと人間の蘇生は始まらない。」

「でも既に、十分血を吸った武器はある。」

そう言いながら、真昼の胸に刺さっている刀を更に差し込む様にその柄を握る“未明”。

確かにグレンの刀は鬼呪を持った人間を沢山殺していた。

 

「そして吸血鬼の貴族も、ここにいる。」

刀の柄を握る力を強くする“未明”。

その口元に浮かぶのは微笑。

しかし真昼と同じ赤い目は深海の様に虚ろである。

「真昼、お前がその吸血鬼の貴族役か?」

「未明がね、なろうとしてたの。

私の代わりに生け贄になって死のうとしてたの。」

未明が死に際に何かしていたのはそれかと、グレンはすぐに理解した。

「何も知らないのに、私を救おうとして。

······本当に馬鹿な妹。」

呪詛が真昼の頬を、目を、頭を、呪い侵していく。

その呪いに這い巡られても未だ美しい、真昼の顔を見つめてグレンは言う。

 

「お前は今日、生け贄になって死ぬと決まっていたのか。」

「ううん、違う。

きっと、王子様に抱かれて死ぬって決まってた。

それが私の運命。

神様に体は取られても、魂は取られないの。

次に生まれ変わった時は普通の女の子になれるようにって。

······普通の姉妹になれるようにって。」

“未明”は黙っている。

黙って、刀から手を離した。

 

「王子様がね、私を強く抱きしめて······口づけを。

醜い、汚れた鬼の私に、口づけを────」

真昼は泣いていた。

赤く美しかった瞳もとうとう呪いで真っ黒に染まってしまった。

がくがくと、彼女の体が痙攣するように震え始める。

それを抑えようと、グレンはその体を抱く。

「真昼。」

「·········。」

彼女はもう、答えない。

彼女がどうなるのかも、分からない。

 

 

ず、ずずずずと、刀が音を立て始める。

真昼の胸を、体を、刀の中に引きずり込もうとしている。

「やめろ、やめてくれ。」

真昼の体を抱きしめる。

連れて行かないでくれと、強く掻き抱く。

しかし、

「無理だよ、一瀬グレン。真昼の中には呪いがかけられてる。

君の刀に宿る鬼を取り込んで鬼になる呪いがね。」

“未明”は淡々とグレンにそう告げた。

 

「···何故。」

真昼の望みは普通の女の子になることなのに、普通に生きることなのに、まだ彼女は運命に犯される。

「どうすれば────」

そこで真昼の言葉をグレンは思い出す。

お姫様の魂を王子様が救うのだ。

抱きしめ、口づけして────

それで、本当に彼女が救われるなら、

「いくな、真昼。」

とグレンは、彼女の細い体を抱きしめた。

灰色がかった紫の髪に手を回し、もう呪いで黒くなってしまった唇に自らの唇を合わせて────

 

 

「······。」

そして、それで終わりだ。

ずっと意地悪されていた可哀想なシンデレラは王子様に見初められて、救われ、皆で幸せに暮らしましたとさ。

 

「······。」

お伽噺ならそう終わる。

真昼と未明が好きなお伽噺ならそう終わる。

きっとどんな物語だって、最後はハッピーエンドの筈だ。

だが、これはお伽噺ではなかった。

お姫様は不幸で。生まれた時から死ぬ迄ずっと不幸なままで。

普通の女の子に憧れたまま、お姫様───真昼は消えた。

王子様───グレンの腕の中から、その姿を消して、刀だけが残る。

カランッと軽い音を立てて床に落ちる黒い刀だけが。

 

 

「真昼。」

 

 

返事はない。

誰からの返事もない。

“未明”はグレンの隣で黙って立っているだけ。

残されたのは仲間達の死体と、救われないお姫様が入った黒い刀と、力のないノロマな亀と、死体の様な鬼だけ。

 

その重い静寂を切り裂く様に、アラームが鳴る。

真昼が床に落とした携帯のアラーム。

時刻は20時30分。

小さな液晶には予定:滅亡の時間という文字。

 

 

「さあ一瀬グレン。君はどうするんだ。」

“未明”が平坦な口調で、グレンの正面に回る。

そして床に転がるグレンの刀を手に取り、その柄を彼の方に突き出してくる。

「俺は、どうしてまだ、生きている?」

「君にはやるべきことがあるからさ。」

「仲間も死んだ。真昼も死んだ。それで何をすれば良い?

俺に出来ることなんかあるのか?」

「あるさ。」

“未明”はいやらしく笑う。

その血化粧を施された赤い唇をニタリと上げて、グレンに刀を握らせる。

 

「未明を救ってくれよ。」

刀を力無く掴むグレンの拳に、その掌を重ねる“未明”。

「どうやって?」

「世界を滅ぼして。」

「何故?」

「この世界の滅びは、この世界の綻びと同義だ。

その小さな綻びが通り道になる。

未明を連れて行く為の通り道に。」

「どこに行くんだ。未明まで、どこに。」

まだ生きているのは未明しかいない。

それなのに何故。

未明まで、グレンから離れてしまう。

 

「この世界の向こう側へ。

僕が元いた世界へ。」

「違う、世界?」

「そうさ。君達人間が使う式神だって使い魔だって、この世界とは違う場所から来ていることの方が多い。

俗に言う異世界からね。

僕はその異世界からこの世界に鬼として召喚された。

そして未明達の母親の体に混ぜられて、偶然か必然か分からないけど未明と巡り逢った。

僕は未明と混ざり合い、僕は未明に、未明は僕になった。」

「······。」

グレンは何と言えば良いのか分からなかった。

世界滅亡に異世界。

まるで夢物語のようだ。

 

 

「僕はずっと、未明を救いたかった。

この世界に未明の救いはない。

だから僕の世界(故郷)に連れて行く。」

これは決定事項だと、柔らかさの欠片も無い声で“未明”は言う。

「未明だけなのか。」

刀になってしまった、救われなかったお姫様───真昼のことを思い、グレンは掠れた声を絞り出す。

「未明だけだ。

僕と混ざった未明だけがこの世界の綻びを抜けて、世界を越えられる。」

「どうして···。」

「どうして、か。

君がそれを言うのか、一瀬グレン。

未明は真昼を愛してた。未明は君を愛してた。

でも結ばれたのは君達だった。

幸せだと言ったよ、未明は。

好きな人達同士が結ばれて、幸せになってくれるならそれで十分だと。

だからその為に、その為だけに未明は生きた。

真昼と君が笑って生きられる未来を、可愛い妹のシノアが、大切な仲間が、笑って生きられる未来を。」

「······。」

 

そこで“未明”は顔を歪めた。

心底嫌そうに、苦しそうに、言葉を吐き出した。

「でもそんなの、ありえないだろ。

未明だって1人の人間だ。

未明だって自分の為に生きて良い筈だ。

でも未明はその欲望を我慢し続けた。

自分の幸せなんか悪だって思い込んでね。」

「······。」

「そうでもしなきゃ、未明は狂ってしまいそうだったから。

()に全てを委ねて、鬼になってしまいそうだったから。

そしてこの世界にいる限り、君達がいる限り、未明は我慢をし続ける。

君達の幸せを願い続ける。

自分の感情も欲望も何もかもを殺して。

ほんと、気持ち悪いくらいの自己犠牲だよ。」

馬鹿みたいだろ、と舌打ちする。

 

「未明が他者愛に依存するなら、()は究極の自己愛になってやる。

(未明)だけを愛してやる。

ただのエゴイストになってやる。」

グレンの手を強く握りしめる“未明”。

その顔は下を向いている。

その肩は震えている。

その姿にグレンは妙な既視感を覚え、すぐに何ヶ月か前の未明の姿を思い出した。

真昼を救ってと、そうグレンに縋った未明の姿。

 

真昼は救えなかった。

仲間も皆死んだ。

あの時確かに、グレンは未明に約束した筈だった。

真昼を救う、仲間も守る、そして未明も救ってみせると。

それがこのザマだ。

もう皆いない。

生きているのは未明だけ。救えるのは未明だけ。

 

 

「未明はそれで、救われるんだな。」

グレンの手に貼りつく“未明”の指を解き、グレンはふらりと立ち上がる。

「勿論だ。」

「未明だけは、俺が、救えるんだな。」

「ああ、君は未明を救える。だから世界を滅ぼせよ。

人間の蘇生に手を出せよ。

ほら、丁度良く君の仲間達が死んでるんだ。」

「あいつらも、救えるのか。」

床に打ち捨てられたままの仲間達。

彼等を見てから、次に真昼が言っていた棺に視線を移す。

 

「君は仲間を救い、未明を救う為に、この世界を滅ぼす。」

「······。」

そうだ、こんな世界なら、こんな狂った醜い世界ならいっそ滅びてしまった方が良い。

それで未明が救われて、仲間達がまた目を開けるなら、十分じゃないか。

この世界で皆が泣いていた。

苦しい悲しいと泣き叫んでいた。

最早執着する必要なんてない。

 

 

グレンは棺の中を覗く。

見知らぬ男の死体がある。

それを棺から引きずり出す。

それから仲間達の所へ行く。

五士の千切れた頭と体を、小百合の千切れた頭と体を、時雨の千切れた頭と体を、美十の千切れた頭と体を、全て一人一人拾い上げて、棺の中へと入れる。

そして深夜を拾う。

彼も死んでいる。

その彼を生き返らせれば、世界中の人間が死ぬらしい。

全く関係のない、罪のない人達が、神の罰を受けて死ぬ。

エゴだ。

ただのエゴだ。

世界を売る様な、裏切り行為。

未明に宿る鬼がエゴイストなら、グレンだって相当酷いエゴイストだ。

 

だが。

グレンは棺まで深夜を大切に、大切に抱えて移動して中に入れた。

そして棺の中央に位置する、刀が差し込めそうな場所を見下ろす。

グレンは黙って、さっき“未明”が手渡してきた刀をその場所の上に翳す。

 

 

“未明”はグレンから少し離れて立っていた。

そしていつの間にか、その隣に銀髪の長い髪を持った吸血鬼が増えていた。

数ヶ月前、上野動物園で真昼と共に戦った男だ。

名前は確かフェリド·バートリー。

何を考えているか分からない、吸血鬼の貴族。

 

「盛り上がってるねぇ。

僕はこれ、普通に考えたらやめといた方が良いと思うけど。」

パチパチと軽快な拍手をしながら、フェリドはグレンの方を見てくる。

「邪魔しに来た訳、吸血鬼。」

“未明”がフェリドを睨む様に見上げ、その目を赤く光らせる。

「同胞に向かって酷い言い草だなぁ。

それにしても、やっぱり君はこちら側だったじゃないか。

真昼ちゃんは君を隠したがってたみたいだけどね。」

「お前と僕を同じにするなよ。」

「それは失礼。異世界の“第一位始祖”様。」

「···ちっ。」

“未明”はフェリドの言葉に小さな舌打ちを返し、それからグレンを射貫く様に見つめる。

 

「一瀬グレン。」

“未明”が、未明と同じ顔で、儚げに笑った。

「俺は、」

「救えよ。お前のやりたい様にやれよ。」

一見グレンに選択を委ねている様でいて、グレンがどちらを選ぶか確信しているらしい強い口調。

けれど顔は未明なのだ。

未明らしくない口調のくせに、表情だけは未明だ。

今にも泣きそうなのをこらえるかの様に、唇を歪めていた。

 

「······。」

音がした。

カチリカチリと音がした。

絶望の音。

滅亡の足音。

世界が終わるまで、あと3秒。

終わりの世界へ。

血脈の世界へ。

カチリ、カチリ、カチリ。

 

カチン───と軽い音を鳴らして、グレンは刀を穴に差し込んだ。

「分かったよ。俺は罪を背負う。」

 

 

するとその瞬間。

一斉に世界崩壊が始まった。

 

 

 

カツン───と軽い音を鳴らして、何かが床に転がった。

さっきまで未明がいた場所に、ぽつんと残されたボイスレコーダー。

未明が声を吹き込んでいたボイスレコーダー。

それだけが寂しそうに残っていた。

未明の姿は、欠片も煙も何も遺さずに消え去っていた。

さよならも遺さずに、未明はこの世界からいなくなっていた。

 

 

 

 

──────────

「あーあ、終わっちゃうと馬鹿みたいだ。」

鬼宿は自分の宿主である少女を抱きしめながら、少女と出会った世界に召喚された時と同じ様な浮遊感を味わっていた。

 

世界を越えるのは案外簡単だ。

鬼は勿論、その他色々なものが召喚という形でそれなりに世界を跨いでいる。

まあ再び元いた世界で召喚されなければ、そこにはいつまでも帰れないのだが。

しかしそもそもの話、召喚される存在にはなれない人間にとっては、世界を越えることは不可能だ。

だが鬼宿はやり遂げた。

人間であった筈の少女───未明を連れて、今世界を越えている。

 

「今まで長かったなぁ。」

かたく目を閉じたままの未明の冷たい頬を撫でる。

鬼という奴は元来気長ではない。

欲望のままに動くのが本能なのだから、我慢という言葉がその頭に入っている筈もない。

だが鬼宿は待った。

待ち続けた。

人間以外ならば何でも世界を越える事が許される、世界の崩壊まで。

世界に綻びができるまで。

 

昔真昼がシノアの中の鬼を引き受けた様に、未明の鬼も取り込もうとした時、鬼宿は真昼に接触した。

そして鬼宿は、世界滅亡へのカウントダウンをこっそり数える側になった。

カウントの数字を早められる様に協力したこともあった。

全ては世界を越える為。

 

しかしそれだけではまだ足りない。

人間は世界を越えられない。

世界を滅ぼすことは出来ても、世界を越えることは出来ない。

だから仕方なく、鬼宿は未明に人間をやめさせることを決めた。

未明が寝ている間にその体を乗っ取って真昼と相談した後、まずは鬼呪装備の研究という形で未明に近付くのが1番という答えを、鬼宿は弾き出した。

それから未明の感情が溢れる様に仕向け、鬼宿の力が必要になる状況に追い込み、そうして未明と鬼宿は深く混ざり合った。

未明は鬼宿に、鬼宿は未明に。

その後はあっという間だ。

世界滅亡まで超特急。

真昼の計画通り、鬼宿の計画通り、誰かの計画通り、世界は滅び、未明は世界の狭間に落ちた。

 

 

そもそも、未明を人外に変えてまで、彼女を連れて世界を越えようとしたのには鬼宿なりの理由がある。

未明の気持ち悪い自己犠牲の精神、それが1番の理由だ。

 

未明は真昼の為ならば何でもやってしまう。

危険だろうが何だろうが、死に近付こうが、未明は真昼の為だという大義名分を得てしまえば動き続けてしまう。

未明には真昼しかいなかった。

だからひたむきに真昼を愛し続け、被虐趣味としか言い様がない献身に走った。

その対象にグレンやシノアが増えてしまっても、未明のスタンスは変わらない。

自分の欲望は遠くにやって、ただひたすらその身を犠牲にする。

 

それが昔の鬼宿は理解出来なかった。

何故他人ばかりを愛するのか。

何故自分を愛さないのか。

鬼宿が今まで見てきた人間は、自分だけを愛し、そして他人を蹴落とし利用する醜い生き物だった。

他の動物と違って理性という得難い進化をした筈なのに、その片鱗もない愚か者。

統制の取れた群れを組む動物の方が、余程理性的と言えるだろうに。

鬼宿はそんな呆れと諦観と愉悦を胸に、人間を観察していた。

それなのに、何故未明はそうしない?

 

不思議に思った。

だから知りたくなった。

しかし未明は教えてくれない。

だから食べた。

未明がゴミ箱に放り投げた、感情という奴を食べてみた。

未明が要らないものだと切り捨てたものを、もぐもぐむしゃむしゃ食べてみた。

食べてみれば、未明の感情が少しは分かると思ったからだ。

 

 

ぱくりと齧る。

苦い。舌いっぱいに広がるのは錆びた金属の様な苦さだけ。

鬼の主食である人間の欲望の様には甘くない。

変な味だなぁと思いながら歯を動かして、それからごくりと飲み込んだ。

また1つ、未明が捨てた感情を口に放り込む。

今度はよく噛んでみる。

舌の上で転がして、口全体で味わう様に。

するとどうだろう。

錆びついた苦さの中に、舌が痺れる様な甘さを見つけられた。

気持ち悪い、甘さ。

全身を襲う、甘さ。

 

ひとりでに鬼宿の口角が上がる。

今間違いなく愉悦に浸っていた。

人間の欲望を口にした時以上に、悦んでいた。

おいしい、おいしい。

もっと、食べたい。

食べたい、食べたい、タベタイ。

だから食べた。

沢山、食べた。

感情を食べた。

未明が捨てた感情を、鬼は初めから持たない感情を、食べた。

食べ過ぎて、気付いたら感情が鬼宿の一部になってしまうまで、食べた。

 

 

そうして鬼宿は感情を知った。

愛を知った。

持つ筈のなかった、感情を手に入れた。

と同時に、未明の奥底に眠る心も知った。

鬼宿でさえ呆れた無茶苦茶な精神構造を。

まあそうしてしまったのは、柊家という異常空間と鬼宿のせいなのだろうが。

 

だが未明はきっと、最初から半分以上壊れていた。

真昼の様に仕方なく壊れたのではなく、未明は初めから壊れきっていた。

だから鬼宿という狂気をその身に宿しても、壊れようがなかったのだ。

 

 

未明という少女の人生は、他者愛に依存し、不器用ながらも聖女たらんとし、哀れな無能でありながらその身を削って愛を捧げるばかりだった。

愚かで弱くて、可哀想な不幸な女の子。

それが未明だ。

それが皆の思う未明だ。

崩壊した世界に残してきた仲間達の思う未明だ。

 

それも確かに未明である。

間違いなく未明である。

しかしそれは一面に過ぎない。

醜悪な中身を隠す為の、巧妙な仮面。

本人も無視してしまいたくなる───実際“まだ”気付いていない───ほど狂気にまみれた内面を隠す為の、大切な仮面。

初めから壊れていた本性は鬼宿の戯れによって更に荒らされ、今や真昼以上の天災級になっている。

だが未明は自分のその本質に気付かない。

その歪な心も含めた数多の感情も、それと鬼宿も、全て一緒くたにして鎖で縛って封印しているからだ。

 

 

鬼宿以外は誰も知らない。

いや真昼は薄々気付いていたのかもしれないが、彼女はあくまで姉だった。

妹の中身がどれほど倒錯的な魔女の様であったとしても、姉は妹を妹として認識した。

気付かないふりをしたのだろう。

 

 

 

「ねえ未明、僕は君の対極だ。

だから君が狂気を隠したいと願うなら、僕はその狂気を暴きたいと思う。

君が他人を愛することに依存して、それに逃げてばかりなら、僕は(未明)だけを愛そうと思う。

隠された狂気も全て愛そうと思う。

だからさ、未明、もう隠さなくて良いんだよ。

本当に望んでいることを、もう口にして良いんだよ。

救ってあげる。

“掬って”あげるよ、全部。」

世界の狭間を落ちながら、鬼宿は自分の膝の上に頭を乗せて目を閉じたまま───俗に言う膝枕───の未明の両頬を、小さな掌で包み込む。

 

「君の奥に隠されている本性は、鬼だって吃驚の醜悪さだ。

ある意味1番人間らしいけど、1番人間から乖離してるよ。

矛盾しかないのに、道理は通ってる。

気持ち悪い、狂気的な、本性だ。」

未明のことを静かに見下ろして、その白い額を見つめる鬼宿。

「君の献身と愛に、違う意味が隠されてたなんて誰が気付くんだろうね。

真昼やグレン、シノアや仲間······彼等への思いは嘘じゃない。

真実だ。

でもその裏に眠っているものが、余りに常軌を逸してる。」

 

微睡む幼子に言い聞かせる様に言葉を繋ぐ。

「考えてもみてよ。

未明、どうして君はそんなにも自己犠牲に拘ったんだろうね。

どうして君はあんなに派手に死のうとしたんだろうね。

刀で十字架刑だなんて、皆忘れられないよ。

グレンは忘れられないよ、絶対に。

心の奥底に傷となって残り続ける。

だから皆君を語り継ぐ。

『むかーしむかし不幸な女の子がいました。

でも女の子は、不幸なりに頑張って、その身を削って、皆を助けようとしました。

でもやっぱり女の子は1人だけ死んでしまいました。』って。

それで皆思うんだ。

なんて可哀想なんだろう、って。」

 

 

「良かったねえ、未明。

それこそが、君が本当に望んでいたことだろ?

君は本当に、生まれながらにして人を傷つける天才だ。

いや天災かなぁ。

何をすれば1番人が傷つくのか、本能で分かってしまっている。

だから人を傷つける為ならば、君は自分の身だって簡単に犠牲にしちゃうのさ。

真昼が人の痛みが分からない天才なら、君はそれを分かり過ぎている天災だね。」

 

鬼宿は嗤う。

愉しそうに、嬉しそうに、未明の中にいる狂気に嗤いかける。

早く出ておいでよ、と誘う様に。

 

「君は好きな様に愛して良いんだ。

君の中に眠る狂気のまま、衝動のまま、愛して良い。

そしてそんな君を愛してくれる人間が必ずいる。

君の狂気ごと受け入れてくれる人間が。

真昼にグレンがいたように。

シノアの前にも誰かが現れるように。

運命っていうのは存在するのさ。

人間を好き勝手に犯す癖に、調子の良い時は幸運の青い鳥になる気分屋だけど。」

 

だから、さぁ、我慢なんかやめて理性なんか捨てて本性に気付いて、それを叫ぼうよ。

鬼の手を取って、狂気とワルツを踊ろうよ。

鎖は斬り刻んで、檻は捻じ壊して、自由に羽ばたいてみようよ。

それを真昼も望んでたよ。

 

「欲しいものは欲しがって、要らないものは殺しちゃって。

全ては君の思うがままだ。

まずは僕の手を取って、もっと人間をやめようよ。

それが君を救う唯一の方法だから。」

その為にはああ···何から始めよう。

出来ることならば未明が苦しんで悲しんで、鬼に苛まれて、自分の中の狂気に蝕まれて、そうして限界に達して“壊れ直す”のが1番だろう。

それが1番愉しい筈だ。

鬼宿も、未明も。

 

 

 

「ああ、新しい世界(僕の故郷)が見える。

見なよ、未明、あれが君の世界再誕(リザレクション)だ。」

鬼宿は赤い目を瞬かせて、金の髪を溢れさせて、やはり幸せそうに嗤った。

 

 

 

 

 

 

 

──────その日その世界は滅び、

──────その日その世界には凶星が落ちた。

 

 

 

 




人が他人の為に尽くすことはあると思います。
自己犠牲も献身も。
それもまた愛だと私は認識しています。

しかしながら、当作品の主人公である未明の言動はあまりに常軌を逸していると思うのです。
他者愛の為に自己愛を殺し過ぎなのです。
それを当たり前の事と思って、自然に為す人もいるでしょう。
けれどそういう人達は皆それぞれ、ある種の強さを持っている。
彼等と比べれば、あまりに未明は弱過ぎる。
不安定過ぎる上に幼い。
筋が通っている様でいて、揺れに揺れている。
だから未明は本当の所、自己犠牲を素でやってしまう“聖女様”ではないのです。

皆がその姿を可哀想だと思わずにはいられない悲劇のヒロイン。
皆の心に深い傷として残る、不幸で愚かな悲劇のヒロイン。
そんな女の子、本当にいるのでしょうか。
あまりに作為的、あまりにご都合主義、あまりにドラマチック。
全部全部、無意識下で計算されたことだったとしたら·······ゾッとしますねぇ。


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23:踊るなら、白い靴で、貴方と

難産でした······。






「さて、と。」

キュッとセーラー服のリボンを結ぶ。

それから鏡の前でくるりと1周。

 

髪はいつものサラサラロング。

解けないように美しく結んだリボン。

セーラー服の襟は立たない様に整えて。

勿論スカートのプリーツに乱れはない。

ニーハイやニーソ、生足よりも黒タイツ派のミメイは、今日も40デニールを履いている。

気分が乗れば、たまにはニーソやニーハイも履くのだが。

まあそんなこんなで、どこぞのセーラー戦士の様に決めポーズでもしてみようかと思ったり思わなかったり。

 

ともかく、真昼と同じ顔の美少女───つまり自分───に満足げに頷いて、ローファー風ブーツに足を差し入れる。

と、そこで音も無く飛んでくるのは1本の木刀。

それを易々と左手で掴み、続く第二の斬撃も軽く受け流し、木刀と攻撃してきた人間をポイと放り投げる。

何もおかしな所はない。

これが(まだ年齢的にギリギリ)華の女子高生であるミメイの玄関での一連の流れだ。

 

 

「クラピカ、攻撃が単調過ぎるわよ。」

「まずは木刀を使っての鍛錬に専念しろ、そう言ったのはお前だろう、ミメイ。」

吹っ飛ばされながらも、滑りやすい廊下のフローリングの上で綺麗な受け身を取ったクラピカ。

間髪置かず、2本の木刀を両手に持って再びミメイに飛びかかる。

「甘い。」

しかしミメイは半身でその攻撃も避け、飛び上がっている彼の片足を掴み、砲丸投げの容量で投げ飛ばそうと画策する。

 

「させるか!」

クラピカは咄嗟にまだ自由な方の足でミメイの肩を蹴り、拘束されていた足から無理矢理彼女の手を引き剥がす。

「もう、乱暴なんだから。」

痛い痛い、と肩を軽く押さえながら、再び廊下に着地して距離を取るクラピカを見下ろす。

「お前がそれを言うか。」

「えー、私は女の子だもーん。

でもクラピカは男の子でしょ?女の子に乱暴は駄目なんだよ?」

「女の子···そう、か······。」

「せめて否定して。諦めた顔しないでよ。」

もう何も言うまい、とミメイと目を合わせないクラピカ。

そんな彼に膨れるミメイ。

 

 

偽幻影旅団によって傷ついた体を、クラピカが回復させてから1ヶ月。

その間ミメイはめでたく18歳になった。

とはいっても、あっちの世界とこちら側では月も日にちもズレていた為、正確かと問われれば微妙なのだが。

ミメイらしく細かいことは考えず、7月26日という日が来れば1つ歳を重ねるというマイルールを定めていた。

 

3つ歳の離れたミメイとクラピカは、あまり似ていない姉弟の様に見えていた。少し前までは。

しかし今や同年代にしか見えなくなっていた。

成長期真っ只中のクラピカの背がぐんぐん伸び、とうとうミメイに並んでしまったのだ。

つまりこのままいけば、今は同じ高さであっても、いずれクラピカの身長はミメイを超えてしまうのだろう。

お姫様抱っこしやすいサイズの可愛いクラピカはどこにいったのかしら、と実は不満なミメイである。

まあ鬼と混ざっているミメイならば、彼がどれだけ成長しようとも軽々お姫様抱っこどころか肩車も出来るのだが。

 

 

 

「それじゃ私はもう行くわ。」

ミメイはパンパン、と軽くセーラー服の裾を払い、玄関のドアを開ける。

「待て、私も行く。」

クラピカは素早く木刀を背に括りつけ、ミメイの後に続いて靴を履く。

「えー、また?

あの賭博場で得られるものはもう無いんじゃない?」

「この前の客と今日の客が同じとは限らないだろう。」

玄関のドアを開け放つミメイの横を通り抜け、先に外に出て腕を組む。

 

「確かにそうだけど。

···ねえクラピカ、A級首の幻影旅団についての情報を握ってる人なんか、そう見つからないわ。

賭博場程度じゃ限界よ。」

カチャンと家の鍵をかけてから、先に歩き出しているクラピカの横にミメイは一瞬で移動する。

さながら“瞬歩”といった所か。

 

「···分かっている。」

ミメイの人間離れした加速度に慣れきっているクラピカは今更それには驚かず、難しい顔をして唇を噛む。

「やっぱりこの前聞いた、ハンターっていうその道のプロを見つけた方が良いんじゃない?」

「ああ、客が口にしていた賞金首ハンターのことか。

だが彼等も尽く返り討ちにあったと聞いた。」

「プロがそれかぁ······。」

 

 

ミメイが用心棒をしている賭博場の客が言っていたことだ。

この世界で最強の名を欲しいままにするハンターという人間達。

彼等の中にも色々と専門があり、その中でも戦闘に自信がある者がなるという賞金首ハンター。

多種多様な犯罪者を捕らえ、時には処理することを生業にしているその道のプロ。

そんな彼等でも幻影旅団には負けてしまったという。

 

その為悲しいことに、未だに幻影旅団についての情報は雀の涙ほど。

皆死んでしまったからだ。

幻影旅団のメンバーの顔を知った人間は皆。

結局メンバーには蜘蛛の刺青、また少なくともメンバーは10人以上、という程度のことしか分からない。

世に出回っているのもこの程度だ。

ミメイが得た情報としては、蜘蛛の刺青の真ん中には団員ナンバーが刻まれているということ。

どこかからかクラピカが入手してきたのは、彼等の中心には団長と呼ばれる頭がいて、それから幻影旅団と少しばかり関わりがある闇の世界の住人達は彼等のことを“クモ”と呼ぶということ。

 

世に出回っていない情報を得ていることから、日々のクラピカの努力が伺える。

だがまだ届かない。

手も伸ばせない。

そもそもどちらに手を伸ばせば良いのかも分からない。

幻影の名を冠するに相応しく、全ては霧がかった闇の中。

八方塞がりに近いだろう。

 

しかしその間も幻影旅団の犯罪は積み重なる。

どれもこれも凄惨で、耳を塞ぎたくなる様なものばかり。

その犯罪についての情報を、一言一句聞き漏らさない様、少しの見落としも無い様、頭に叩き込んでいたクラピカ。

カラー入りのコンタクトレンズで誤魔化していなければ、すぐに正体が露見してしまうほどにその両の目を赤く光らせていた姿は、ミメイの記憶にも新しい。

唇を噛みしめて、拳を握りしめて、肩を強ばらせて、強い憎しみと怒りを隠そうと努力して失敗していた彼を、ミメイは隣で見ていた。

 

グレンによく似た、彼をじっと見ていた。

 

 

 

「取り敢えずハンターを探してみるのが、今の最善策だと思うけど。」

階段を2人並んで降りながら、ミメイは人差し指を上げて提案する。

「いや、一流のハンターであればあるほど、その情報は霧がかるらしい。

つまり幻影旅団をどうにか出来るくらい腕の良い人間ほど、私達が見つけられる可能性は低くなる。」

残念なことにな、とクラピカは顔を曇らせた。

「情報戦はどうしようもないわね。

効率良く正確な情報を集める手段を私は持ってないもの。」

「お前が前私に付けてくれていた、あれでは駄目なのか?」

白いあれだ、と典型的な式神の形を空中に指で描く。

「ああ式神?駄目ね。

私と離れ過ぎても上手く働かないし、基本的に簡単な命令しか下せない。

正確な情報を世界各地から集めてこいなんて······不可能よ。」

「そうか···。」

ずーんと音が出そうな程、暗い顔をして俯くクラピカ。

 

「幻影旅団は闇の世界の住人だもの。

一応表世界に住んでる私達じゃ、手に入れられる情報には限界がある。」

「お前が懇意にしているマフィアでも駄目か。」

「うーん、マフィアは闇の世界と癒着してはいるけど別物だと思うのよ。

ほら、十老頭の1人の顔、貴方でも知ってるでしょ。

つまり完全な闇の世界の人間じゃないってこと。

本当の闇の世界の住人は、顔が分からないし、名前だって分からないものなのよ。

表に出ないから。」

あの人とはこの前賭博場で会ったでしょ、とミメイが言えば、何故かクラピカは渋い顔をする。

 

「どうしたの?あの人、そこまで性格悪くないと思うけど。」

クラピカに先んじて階段を降り、彼を見上げる様な格好になるミメイ。

「ああ、悪くはないだろうな。······。」

ミメイを見下ろして、ミメイの紫の髪を見下ろして、その一房を黙って手に取る。

「クラピカ?」

茶色の瞳を伏せる彼の顔を覗き込む。

「お前は、知っているのか。」

苦々しい思いを吐き出す様に、クラピカは言葉を紡いだ。

気晴らしか無意識かは分からないが、手に取ったミメイの髪を軽く指で弄びながら。

 

「何を?」

「あの男はお前を、」

「あ、妾にしようとしてるんでしょ。やだ、そんなの前からよ。」

ころころと笑い飛ばすミメイ。

クラピカはそんな彼女を見、心配した自分が馬鹿だったと顔に書いた状態で、手にしていたミメイの髪束を彼女に投げ返す。

「知っているならもう少し警戒心を持て!」

「えー、ちゃんと妾にされてないんだから良いじゃない。」

クラピカに投げつけられた髪が顔面にヒットし、某ホラー映画の貞○状態になったミメイは、そんな自分がおかしくて更に笑い声を高くする。

 

「というかあの人、自分の組に私を取り込みたいだけなのよ。

組員にするより愛人にしちゃった方が手っ取り早いから、再三私を誘ってるの。」

ほら私って強いから、と前に垂れ下がる髪を後ろに払いながら事も無げに言う。

「お前の腕だけを狙っている訳では無いと思うが。」

先日その十老頭の1人に会った時、少しばかり彼に牽制されたクラピカとしては気が気ではない。

どう考えてもあの男が狙っているのは······と嫁入り前の娘を持った父親の様に憤慨している。

 

「まあ私は可愛いから。」

顎に手を当てて、こてんと首を傾げて笑うミメイは確かに可愛い。

いつも通り心のこもった笑顔ではないが、それでも充分絵になっている。

年頃の少年らしく、自分の顔に血が上っているのをクラピカは感じていた。

そんな彼に気付いたミメイは満足そうに笑みを深め、ドーンとわざとらしくその胸を張る。

「だって可愛いでしょう。真昼と同じ顔なんだもの。

私が可愛くないって仮定した場合、同じ顔の真昼も可愛くないってことになる。

でも真昼は可愛い。誰よりも。

つまり仮定は間違っている。

従って私は可愛い。勿論真昼も可愛い。」

「変な証明を成立させるな。」

頭が痛い、と若干赤いままの顔を隠す様に額に手を当てるクラピカ。

 

「でも私は強いの。

そこらの男が私をどうこう出来る訳がない。

······ああ、グレンは別か。深夜は微妙かなぁ。」

クラピカはミメイ経由の話でしか知らない、彼女の遠い故郷の人間の名前。

その名を口にした時のミメイの声色は幾分か柔らかく、目には淡い哀愁が宿っていた。

それが何故か少しばかり気に食わなくて、クラピカはミメイを追い抜き、先に階段を降りるのを終えた。

すぐ後ろの、トントンと階段を蹴る軽やかな音を聞きながら。

 

 

「ミメイ、お前の髪は私と同じ様に世界七大美色の1つだ。

気を付けた方が良い。

お前が思っているよりずっと、お前は狙われやすい。」

周りに注意しながら、休日の朝のせいか人っ子一人いない通りを、2人は並んで歩く。

ミメイが認識阻害の呪符を使っている為、2人の会話を他人が耳にすることは無いのだが。

念には念を入れよ、というやつである。

 

「私ってば人気者。」

不思議な光を放つ紫の髪を揺らしながら、きゃらきゃらと笑うミメイ。

「ふざけている場合ではない。」

そんな彼女にお灸をすえようと、背中の木刀を引き抜いて攻撃を仕掛けるが、案の定ひらりと躱されてしまう。

「私の髪、本当に世界七大美色の1つなの?

実感が湧かないんだけど。」

珍しいけど普通じゃない?と髪で筆を作って、クラピカの目の前で猫じゃらしの様にそれを振る。

「幻影旅団の紛い物が確かだと言っていた。」

「でも偽幻影旅団さんでしょう?

信じるに足る情報とは思えないわ。」

邪魔だ、と髪で作った即席の筆をクラピカに跳ね除けられて楽しそうなミメイは、スカートの裾を遊ばせる様にクルクル回った。

 

元々この世界の住人ではないミメイからすれば、自分の髪が世界七大美色だなんて馬鹿馬鹿しいとしか思えない。

ただの勘違いに決まっている。

たまたま似通っていただけだろう。

ずっと前に滅びたらしい少数民族が持っていた、不思議な色の髪と。

 

 

「いや、金になる話には敏感なのが悪党というものだろう。

真実として断定は出来ないが、情報としては疑ってかからない方が良い。」

しかしミメイが閉ざされた辺境の生まれだと思っているクラピカは、そんな彼女の生い立ちさえも裏付けにして、「ミメイは世界七大美色の紫持ち」説を信じている節がある。

まあ情報というのは取り敢えず入手しておいて損は無いのだし、この髪に思いがけない付加価値が付いたのをミメイは邪魔とは思わない。

寧ろ使える手札の数が増えたと考えていた。

 

「そうね。嘘か誠か分からなくても、取り敢えず情報は手にしておいて損は無いもの。

貴方みたいに目的がはっきりしている場合は別だけど。」

隣のクラピカを見て、困った様に眉を下げる。

「私は正確な情報だけが欲しい。

ガセを掴まされて時間を無駄にするなんてことは、私には許されない。

一刻も早く奴等をこの手で捕らえなければならないのだから。」

何度噛みしめたか分からない赤い唇をまた噛んで、拳をきつく握ったまま足早に歩く。

そんなクラピカの半歩後ろを、踊る様についていくミメイ。

 

「貴方のそういう所、私は好きよ。

絶対に己を甘やかさない癖に、己の目的の為に欲望を昂らせるの。

そう、欲望を自分の快楽の為に行使しようとしない貴方が。」

「···。」

「だから私は、貴方がその生き方を貫く限り貴方に力を貸してあげる。

出来なかったと後悔した全てを、貴方にはしたいの。」

そこでなんとなくクラピカが足を止めたのに合わせ、ミメイも彼と向かい合う様に立ち止まる。

 

 

今日もいつもと変わりない顔をして昇ってきた太陽を背にしたミメイの、その細い紫の髪が光に透けて揺らめく。

そんな彼女を、悪戯っ子の様に口角を上げる彼女を、クラピカは凪いだ目で眩しそうに見つめる。

それから、

「困ってるなら、このミメイちゃんが助けてあげましょー。」

魔法少女か何かの様に指をクルクル回して、そのままクラピカの額を弾いてくるのに呻いて。

 

「何をするんだ。」

少し怒った様に抗議の声を上げれば、更に笑みを深くするミメイ。

「困ってるんでしょう。」

道の整備の犠牲になって切られたばかりらしい切り株を見つけ、その上にすっくと立ち、少しだけクラピカを見下ろしてミメイは安い悦に浸る。

ニヤニヤとチェシャ猫の様な笑みを浮かべ、彼の頬を両掌で包む。

「手詰まりなだけだ。」

「それ困ってるって言うのよ。

もー、素直じゃないなー、クラピカは。」

びよーんとクラピカの両頬を伸ばしてみる。

しかし肌の張りが良いのか無駄な贅肉が無いのか、何故なのかは知らないがミメイの予想に反し、彼の頬はあまり伸びなかった。

 

「つまんない。」

口をへの字にして不満を吐き出し、切り株から飛び下りる。

そして、その勢いのまま道を軽やかに歩き出す。

そんな我儘で気分屋な彼女の後を、呆れた目をしたクラピカがついて行く。

「まったく、私で散々遊んでおいてつまらないとは何なのだ。」

「あは、遊ばれてた自覚はあるんだ。」

ふうん、と愉しそうに目を細めるミメイにクラピカは溜め息を返す。

 

 

 

最近ミメイの表情が豊かだとクラピカは感じていた。

分かりやすくて良いし、笑っている彼女を見るのは悪くない。

普段は無表情に近い微笑を浮かべているが、時折ぱあっと花が綻ぶ様に笑う様になった。

しかしそれと同様、時折、いや度々ミメイは嗜虐的な笑みを描く様になっていた。

その笑顔は主に敵────つまりミメイやクラピカに危害を加えようとした者や、ミメイが始末するよう依頼された標的────に向けられる。

斬り刻んだ敵の血を浴び、泣いて命乞いをする敵の首を一息に刎ね、時にはそれ以上に苦しめて、苦悶と怨嗟の嘆きを嬉しそうに聞きながら命を刈り取る。

笑顔で。

ともすれば慈愛に溢れた女神の様な、恋人に愛でも囁いているかの様な、どこか恍惚とした笑顔で。

美しいのに、愛らしいのに、それ以上に恐ろしい。

 

何度も何度も、クラピカはその現場に遭遇した。

ミメイの仕事場である賭博場についていったり、標的の始末の手伝いをしたりすれば、嫌でも目に入ってくる地獄。

初めはそれ以上はやめてやれ、と止めに入った。

ミメイはキョトンと首を傾げ、それから地面に転がる人間としての原形を失った“モノ”とクラピカを見比べて、どうしてと笑いを返した。

「この人、貴方を攫って飼おうとしてたのよ。殺さないと酷い目に遭うのは貴方。」

と至極当然のことの様に、“ソレ”の首をぐりっと捻り、そのまま踏み潰した。

 

クラピカだって分かっている。

殺らなければ殺られる。

だから殺られる前に殺らなければならない。

そんなことは分かっている。

家族を失い、独りで生き始めた頃はそれが分からずに、何度も酷い目にあった。

そうして、人間は信じてはいけないと学んだ。

だから元々戦いを好む質ではないクラピカだって、自分の身を守る為に木刀を手にした。

殺すまではいかなくとも、再起不能になりそうな位やり返したことはある。

 

 

この世界は残酷だ。

優しくて弱い人間から死んでいく。

だから優しくなくて強いミメイは正しい。

生きているから正しい。

殺される前に殺しているから正しい。

 

それなのに。

何かがズレているとクラピカは感じてしまう。

殺られる前に殺ることに間違いは無い。

正当な理由がある。

だが、ミメイのあの行為に理由はあるのだろうか。

命を刈り取ることを愉しみ、花の様な笑顔を浮かべ、遊んでいるかの様に凄惨な現場を作る。

あれに理由はあるのだろうか。

 

前は違った。

粗末な小屋に住んでいた頃に、ならず者達が自分を狙ったあの時は、ミメイが一刀のもとに彼らを斬り捨てたあの時は、少なくとも彼女は笑っていなかった。

淡々と、いつも通りの無表情で、当たり前のことの様に終わらせた。

人の死の赤黒さに触れ、自分が成し遂げるべき復讐もその闇色を纏っていると知り、人の命を奪うという行為の異常性を十分理解した今のクラピカからすれば、何の感情も抱かずに殺人行為を終わらせていたあの時のミメイも相当おかしいのだと分かる。

 

同じ人間を殺したのに、特に何とも思わない。

それを異常と呼ばずに何と呼ぶ?

クラピカはその異常を責めたい訳でも、問いただしたい訳でも無い。

ミメイの特殊な生い立ちからすれば仕方ないのだろうと思っている。

 

だが、あの残虐性は仕方ないものなのだろうか。

無表情どころか蕩ける様な笑みを浮かべて、人の命と感情を弄ぶあの嗜虐性は。

快楽殺人鬼か、その類なのか。

無差別殺人鬼か、その類なのか。

しかし見れば見るほど、ミメイはそのどちらでもない。

人の命を奪う時も笑ってはいるのだが、愉しそうではあるのだが、終わった瞬間つまらなそうな顔にくるりと変わってしまう。

己の手で生み出した死体を、自身の芸術か勲章かの様に愛でたり観賞したりすることが多い快楽殺人鬼とは違い、ミメイは全く死体に興味が無い。

また、無差別に人を殺めて回っているという訳ではないのだ。

マフィアからの依頼や、殺られる前に殺れ精神、先手必勝法、それらに忠実に従って、ミメイは殺人を為す。

 

 

だからクラピカは余計に分からない。

ミメイは間違いなく異常な筈なのに、本能的に触れてはいけない何かだと分かるのに、それなのに彼女は正しいのだ。

間違ってなどいないのだ。

鬼か何かの様な残虐性だって何だって、普段は全く見せはしない。

時折人間離れした冷たさ、恐ろしさを感じることもあるがそれは今に始まったことではない。

そもそもそれは、ミメイの整い過ぎた怜悧な美貌のせいで生まれているのだろう。

 

だからクラピカはミメイから離れられない。

彼女はおかしいのに、恐ろしいのに、本能的に逃げた方が良いとも思うのに、体が動かない。

美しく、儚く、今にも朝日の中に融けそうな鋭い氷柱の様な彼女。

誰より赤い血が似合う、狂った鬼の様な彼女。

それでもやはり、じっとりとした孤独を抱えた帰り道を忘れた幼子の様な彼女から離れられない。

無表情の裏に隠された、無邪気で愛らしい笑顔を浮かべる彼女から。

同じような孤独を抱え、何度も自分の命を助け、一応師の役割をしてくれているミメイから逃げられない。

 

彼女に抱くこの感情は何なのか、クラピカには分からない。

いや、分からなくても良いのかもしれない。

結局の所、彼女に向ける感情の中で多くを占めているのは、色々な意味を混ぜ込んだ恐怖なのだろうから。

 

 

だからクラピカは今日も──────

 

 

 

「塀の上を歩くなと言っているだろう!」

好き勝手に彼を振り回すミメイに叫ぶのだった。

 

普通に道を歩くのに飽きたのか、民家の周りを囲んでいる塀の上を器用に歩くミメイ。

クラピカの声など聞こえないかの様に、その短いスカートをはためかせてスキップしている。

地上1m以上、幅10cmの上で。

「何度目だと思っている?」

塀が途切れたとしても、ひょいと飛び跳ねて次の塀へと乗り移る彼女に追い付く為にクラピカは自然と早足になる。

なりながら、今日もお説教を始める。

 

「んー、3回目ぐらいかしら。」

「もっとだ、馬鹿者。」

降りろ、と言ってはみるものの、馬の耳に念仏である。

街路樹を足場にしたりと、よりダイナミックになっていくばかりだ。

「クラピカってお母さんみたい。

よく知らないけど、こうやってお小言ばっかりくれるのがお母さんなんでしょ?」

「誰がお母さんだ。」

「じゃあ姑?あ、それとも小姑?」

「私は男だ。」

「えー、料理出来るし可愛いし、やっぱり女の子なんじゃないの?」

「······。」

静かにクラピカは木刀を構える。

そして音も無く塀の上に飛び乗って、無言のままミメイの後を追い始める。

 

「怒った?」

クラピカの方を振り返り、後ろ歩きのまま塀の上を進むミメイ。

全速力で追っているのだが、まだまだ彼女は余裕のようだ。

それが悔しいクラピカは、口を動かす分のエネルギーも足に回し、更に加速する。

「······。」

「怒ってるじゃない。

駄目よ、クラピカ。そんな風にすぐ感情を動かすのは。

弱みを見せてるのと同じよ?」

よいしょ、と軽々空中に飛び上がり、そこからバク転をする様に一回転、そうして華麗に地上に降り立つ。

何も持たない手を後ろに組んで、長い両脚をピンと伸ばして、綺麗に微笑んでいる。

クラピカがやってくるのを待っている。

 

 

「······そんなことは嫌という程分かっている。

だが私を女扱いするのは、お前に女扱いされるのだけは気に食わない。」

まったく、と本日何度目かの溜め息の後、木刀を再び背に括りつけながら、澄まし顔のミメイの隣に立つ。

「あら、可愛いこと言うのね。」

摘み取ったばかりの綿花の様な笑みを浮かべて、おもむろにクラピカの額に手を伸ばす。

しかし完璧に音が消されたその動きに、少し彼女から目を逸らしている彼は気付けない。

今日もやはり気付けずに、避けれずに、

「だからそうやって私を女扱いするのはやめろと······ぃった、い······やめろ。」

ただ痛む額を押さえて、臍を噛むことしか出来ない。

 

「いつなのかしらね、貴方が私にデコピン出来るのは。

今の所私の全勝なんだけど。」

たった今クラピカにデコピンを放った指をゆるりと動かし、手で狐を作る。

そして小馬鹿にした様に、狐の口部分をパカパカ開閉する。

「っ、少しは手加減をだな。」

「して欲しいの?」

ふーんクラピカよわーい、という副音声が聞こえそうな雰囲気で笑う。

「···必要ない。」

これ以上馬鹿にされてたまるものかと、クラピカはまだ痛む額から手を離し、そっぽを向いて歩き出す。

 

「もう拗ねないでよ、クラピカ。」

ほら仲直り、と一瞬でクラピカの前に先回りし、手で作った狐の口部分───つまり指の端───をクラピカの額に押し当てる。

今度は痛みを与えずに、柔く優しく触れる。

「拗ねてなどいない。」

突然の近距離、しかも真正面に反射的に顔を薄く赤らめる彼の心中を知ってか知らないでか、するりと頬を滑り落ちてきた髪の房をミメイは、長い白い指で耳上に掻き上げる。

その何気なくも色っぽい動作に、クラピカは視線を僅かに彷徨わせた。

 

「まあミメイちゃんは優しいので?

今日も朝からミメイちゃんにおちょくられて傷心中のクラピカちゃんの為に、耳寄り情報を教えてあげましょー。」

コンコン、と狐の安っぽい鳴き真似をしながら、狐を形作っていた指を戻し、今度は普通に人差し指を1本立てた。

「貴方が知りたいのは幻影旅団についてよね?

それで、今までずっと幻影旅団の情報を手に入れようと努力してきた。

でもめぼしいものは全く手に入らない。

ならそろそろ、少し別のアプローチをしてみるべきだわ。」

 

 

ふざけた雰囲気を消したミメイに、クラピカの顔も自然と引きしまる。

「別のアプローチか。···具体的にはどんなものがある?」

「折角マフィアとの繋がりがあるんだもの。

使わない手は無いでしょう?」

「だがそれはあまり意味が無いと」

「ええ、さっき私はそう言った。

でもそれは、幻影旅団の情報入手の手段としては、ってこと。

見方を変えてみて。

貴方が会った十老頭の1人は比較的性格が良いし、趣味も良いの。

だから彼の管理下にある賭博場は、あんまりその色を纏ってない。

······人身売買のね。」

クラピカはその言葉に弾かれた様に目を見開き、それから苦しそうに吐き出した。

 

「人体収集家、か。

確かにマフィア───裏社会の金持ちともなれば、さぞ素敵な趣味を持っていることだろう。

金にものを言わせて珍品を買い集め、己の懐に入れて愛でている下衆共め。」

カラーコンタクトレンズ越しでも赤くなっていると分かるほど強く、クラピカはその瞳を燃え上がらせる。

「ええ、その中にはきっと緋の眼を持っている人間がいる。

もしくは緋の眼を持っている人間を知る人間、緋の眼やその他珍品を取り扱う闇オークション、その闇オークションに商品を卸す人間······辿ればいくらでも情報は得られるわ。

そしていつかは、緋の眼を闇オークションに卸した幻影旅団に行きつく筈よ。」

貴方の目的にね、とミメイは小さく頷いた。

 

「しかし人体収集が趣味の人間は大抵、そのことをひた隠しにする。

いくらその素敵な趣味が許容されうる裏社会の中でも、そう易々と自分達の趣味をひけらかしはしないと思うが。」

「それでも人体収集家は、自分と同じ様に自分の宝物の価値を理解してくれる同胞を求めるわ。

そして口の固い、信用出来る、良い品物を扱う売り手と繋がりたいと思うに決まっている。

決して1人では人体収集という趣味を愉しめない。」

既に指を立てている方の手はそのままにして、もう片方の手の人差し指もピンと伸ばす。

そして、その2本の指を肩幅以上開いてから、ゆっくり両手を動かして近付けていく。

 

「そう、1人じゃないなら必ずどこかにルートはある筈なの。

見えにくくても、巧妙に隠されていても、必ず幻影旅団まで繋がっている糸がある。」

こんな風にね、と腹同士がくっついた2本の人差し指をクラピカに見せて微笑む。

「どう?試してみる価値はあるでしょう。」

「ああ。

私も人体収集家と噂されている金持ちの名前には心当たりがある。」

ミメイの言葉に大きく頷き、新たな手がかりになりそうな情報を頭の中で整理しながら指を折る。

 

「あら良いじゃない。そんなものどこで知ったの?」

むにぃと人差し指でクラピカの頬を押し、その弾力にミメイは楽しそうに笑う。

「探偵の真似事をしていれば少しはな。

あとは噂話だ。

信憑性の低いくだらないものもあるが、確かめる価値のあるものも無いことはない。」

クラピカはミメイの手を払うことはせず、彼女のしたい様にさせたままにしておく。

何をした所であまり意味が無いのはとうに知っていたし、無邪気に笑っている彼女を見ているのは案外良い気分だったのだ。

 

「そう。でもそれはそれで、地道な作業になりそうね。」

早くも飽きたのかクラピカの頬から指を離し、小さな溜め息をつく。

「だが幻影旅団の姿を捉える為には、今はこれしかないだろう。

それならば私はやる。やり遂げてみせる。必ず。」

端正な顔の真ん中で、赤々と輝く瞳。

誤魔化す為のコンタクトレンズの色が全く機能していないその強い目に、ミメイは嬉しそうに、それなのにどこか寂しそうに微笑んだ。

 

 

「どうかしたのか?」

訝しげにミメイを見つめるその目が、その強い意志を秘めた目が、ミメイの身を、心を、燃やすのだ。

ジリジリと燃やし尽くして、痛みを生んで、少し治ったならまた焦がしていく。

“これ”が何なのか、ミメイはもう知っていた。

知ってしまっていた。

抑えなければならないもの。

口にしてしまえば終わってしまうもの。

触れた瞬間その手で壊してしまうもの。

違うのだと否定し続けなければならないもの。

真昼に向け、グレンに向け、深夜に向けかけた、儚い何か。

 

「ううん、何でもないの。

ただ、ただね、」

何となく分かっていた。

真昼がその感情故に鬼に堕ち、世界を滅ぼす歯車を回した様に、恐らくミメイも同じ道を辿る。

破滅という道を歩いていく。

どんな形かは分からない。

それでも訪れるのだ、終わりの足音は。

血と硝煙と、そんな生臭い臭いを引き連れた足音がヒタヒタやってくる。

 

どうしてクラピカにここまで執着し、助けたいと願うのか、それを知りたいとミメイは欲した。

今度こそ後悔をしたくないのだとミメイは欲した。

だから鬼はミメイを喰らい、そうしてミメイは力を得た。

真昼が力を得た様に。

 

それならば答えは明白だ。

問うまでもない、解答を見るまでもない。

分かりきった答えが目の前にある。

だがミメイはそれを手に取ることは出来ない。

手にしたが最期、全てを握りしめて壊してしまうと分かっている。

真昼の様に、壊れてしまう。

人間でいたいと思うことを放棄して、欲望を糧にして生きる鬼に堕ちるだけ。

 

かつて真昼は、ミメイに人間でいて欲しいと願った。

だからミメイは、彼女と約束した。

この前クラピカは、ミメイを人間だと言った。

だからミメイは、人間でいたいと思う。

彼が言う様に、彼が望む様に人間でいたいと。

体がたとえ人間でなくなっても、人間らしさを忘れてしまっても、人間でいたいと願うのだ。

 

 

「クラピカ、今日の私は人間に見える?」

だから今朝も昇ってきた憎々しい太陽を背にして、愚かな問いを口にする。

「何を当たり前のことを言っている。

お前は人間だろう。」

一瞬キョトンとして、それから当たり前の様に溜め息混じりに返してくれる。

それが嬉しくて、哀しくて、愛しくて、苦しくて、ミメイは仕方なく笑ってみる。

いつか訪れる終わりで、彼がこの笑顔を思い出してくれる様に。

この心の焦げつきごと刻みつける様に。

 

「そう、なら良かった。」

くるくるくると髪を指に巻き付けて、すぐにしゅるんと解いて。

そんな意味のない動作を繰り返しながらも、笑い続ける。

「大丈夫か?」

「心配してくれるの?優しいのね。」

「いや頭は大丈夫かと思ってな。」

「あら、もうとっくにネジは外れたし、多分どこかに落としちゃったの。

だからもう手遅れよ。」

そう、手遅れなのだ。

茶化して誤魔化して、笑い飛ばしてみても、手遅れな事実は変わらない。

多分生まれた時から手遅れだった。

鬼なんかと混ざって、あんな狂った世界に生まれてしまったのだから。

始めから終わっていたし、もうどうしようもなく手遅れだった。

真昼はそれを、最初から知っていた。

ミメイも知っていた癖に、知らないふりをしていた。

 

 

「それは残念だ。」

「あんまり思ってないでしょう。

そんな悪い子には耳寄り情報を教えてあげられないわ。」

笑い話に融かして、おふざけに変えて、嘘の上に虚構の骨組みを立てていく。

何も無いのだと、終わりも始まりも無いのだと、せめて彼にだけは気付かれない様にと笑ってみる。

自分が1番よく分かっているのに、その自分を欺く為に鎖の様な嘘をついて。

忍んで忍んで、水をかけても何の意味もない焼け石の様な心を抱えて。

 

「何だ、まだあるのか。」

「万能系サポートキャラのミメイちゃんは無敵なの。

何の手段も無しに案だけを提示するなんてありえないのよ。」

勿体ぶるな、と目で語ってくるクラピカを揶揄う様に軽く手を叩いて、からから笑う。

ほらこうして誤魔化してしまえば、誰にも分からない。

誰かに分かる筈がない。

 

 

─────本当に?

─────本当は分かって欲しい癖に?

─────自分はよく分かってるのに?

 

 

鬼宿の囁きは無視して、ミメイは1歩踏み込んでからクラピカの手を取った。

それからくるりと彼の体を回転させて、ミメイ主導のふざけたワルツのステップを踏んでみて。

突然のことに戸惑う彼に漣の様な笑いを落として、助けてあげましょーとまた適当な言葉を転がして。

123、123、123。

決まりきった三拍子を頭に響かせながら、優雅にターンを決めてみる。

 

「そう、こんな風に踊ってみるの。

愚か者達が作り上げた汚い舞台で、ステップを踏むの。」

「······私としては往来で踊っている暇があるなら、早くはっきり言って欲しいのだが。」

憮然とした顔のままミメイのリードに合わせて緩やかに足を動かす。

日々の修行のお陰か、その動きから一切の無駄は省かれている。

「えー、クラピカってばノリわるーい。

遊び心って奴が全く分かってないのね。」

ほら、ここでターン、とクラピカの体を多少乱暴に振り回し、鈴を転がす様な声を上げて笑う。

 

「血溜まりの上でも、針山の上でも、茨の上でも、貴方と踊るなら楽しそうね。」

「私は全く楽しくない。」

「うん、私が楽しければ良いの。

貴方が一緒に踊ってくれるなら、それで良いのよ。」

終わりまで。

いつか必ず訪れる終わりまで。

 

 

「だから踊ってみましょうか。

愚か者達が作ってくれた機会を逃さないで。

幸い私は絶好のターゲットだから、あっちが逃がしてくれないんだけど。」

低めのヒールを軽く鳴らして、一回転。

それから可憐なお辞儀をして、そっとクラピカの手を離す。

「あっち······まさかあのマフィアの」

ミメイが懇意にしているボスを思い浮かべたらしい。

「ぶっぶー。違いまーす。

闇オークションよ、アングラなものが集まる闇オークション。

丁度依頼も入ってるのよ。潜入して来いって。」

「ミメイ、お前まさか、」

ついさっきミメイが口にしたターゲットという言葉を思い出したのか、クラピカが眉を顰める。

 

「そうよ、私が商品になるの。

闇オークションに出品されて、私を買った人間の懐に潜り込んで、情報を貰うのよ。

時と場合によっては命もね。

幾つかキープしたままの依頼もあるし。」

あれとあれと、と闇オークションの常連客であるターゲット達を指折り数える。

「危険だ。お前がやる必要は無い。私がやれば良い話だ。」

眉間に皺を寄せて、ミメイに噛み付く。

 

「貴方が商品になったら、本末転倒でしょう。

その眼を取られて、はいおしまい。違う?」

「だが、」

「確かに貴方は、闇オークションに出す商品としてうってつけだわ。

若いし、綺麗だし、見た目は申し分無いもの。

でも貴方、絶対にその目の色を変えるでしょう?

それこそ危険なのよ。」

冗談言わないで、と一笑に付す。

「そもそもこれは私の問題だ。お前には関係無い。

私が成し遂げなければならないことだ。」

目をまたもや赤く光らせて、ミメイに詰め寄り強い口調で宣言する。

が、ミメイは子猫がじゃれついてきたかの様に目を細めるだけである。

 

「ふうん、そう。

じゃあ貴方、今のままで自分一人でどうにか出来るの?」

「···。」

赤い唇をくっと結び、悔しそうに拳を握りしめるクラピカに、ミメイは更に畳み掛ける。

「可愛くて、弱くて、力の無い貴方が?

失えば失うほど人は力を得るものだけど、失うものさえ持たない今の貴方が?

どうやって復讐を成し遂げるのかしら。」

「私は、」

俯きそうになりながらも、その目だけは逸らさずにミメイを睨んでくる。

 

「どうするの?何を私に見せてくれるの?」

楽しみね、と手を後ろで組んでくすりと笑う。

「······私は、けれど私は、」

ミメイの胸倉を掴もうとしたものの、そこまでの気力は湧かなかったのか、僅かに震える手で彼女の胸下のセーラー生地を掴んでから、拒絶しようと力を抜く。

が、結局離せずにミメイに縋る様になってしまい、クラピカは唇を噛みしめる。

 

「ああクラピカ、貴方のそういう所が好きよ。

誰にも頼れない、誰にも頼りたくない。

頼ってしまったら、自分で自分を許せない。

だから貴方は1人でやろうとする。

孤独でいようとする。」

そう甘い優しい声で囁いて。

その形の良い顎に手をかけて、下向きがちな視線を無理に自分に向けさせて。

睨み上げてくるその赤い瞳に、ミメイの口角は独りでに上がっていた。

 

ミメイに頼れば、復讐に1歩近づくと分かっている。

自分1人よりも遥かに早く、旅団に近づくと分かっている。

目的の為なら手段は選ばない。そうすべきだとも分かっている。

しかしミメイの助けをそう易々とは受け入れたくはない。

そんなクラピカの葛藤が手に取る様に分かるミメイは、より彼を苦しませる様に悩ませる様に言葉を選んでいた。

全くの無意識で。

 

 

「大丈夫よ、貴方のことはついでだから。

最優先事項はあくまで依頼。

そうよ、貴方の復讐なんて私には関係無いもの。

これはただの気まぐれ、たまたま、なんとなく。」

ふふ、と輝く様な微笑を浮かべて、クラピカの顔を覗き込む。

ついでと言われて、少しだけ傷ついたのか陽炎の様に瞳を揺らす彼に、胸がジリジリ痛み、と同時に甘い痺れが湧き上がる。

「だから貴方は何にも心配しなくて良いのよ。

可愛くて弱い貴方は。」

「······っ!」

いい子いい子、と撫でてあげようと額に伸ばした手は乾いた音で振り払われる。

 

「もう、乱暴なんだから。」

あら怖い怖い、と赤みを帯びた手の甲を唇に当て、クラピカに妖しく笑いかけるが彼は昏い目で睨みつけてくるだけ。

「······先に行く。」

それからミメイに背を向けて、人通りのない道を早足で歩いていってしまう。

その背中をミメイは追わない。

笑って、見ていた。

怒りや情けなさで震えるその細い肩を、見ていた。

 

 

『虐め過ぎじゃない?』

鬼宿がミメイの頭に声を響かせる。

くすくすくすと面白そうに笑っている。

「あらそうかしら。」

もうクラピカの姿は見えない。

角を曲がって行ってしまった様だ。

 

『うん、未明にしてはね。

ほんと、クラピカにだけは不思議なくらい君は容赦ないなぁ。』

クラピカがミメイの言葉に怒り、2人の距離が開くのは今回が初めてではない。

ミメイが鬼に喰われてから増加傾向にあるが、前からあったことだ。

地雷だらけの土の上でワルツを踊る女、それがミメイなのだから。

そのワルツを1人で踊るのではなく、クラピカも巻き込むからより質が悪い。

ミメイが言葉の刃で甘く優しくクラピカを傷つけるだけではなく、彼も自分の言葉を針にして心に刺してしまう。

気付かないうちに。

 

「可愛い子ほど虐めたいって言うでしょう?」

赤い舌を少しだけ見せて、最近やけに尖ってきた犬歯の具合を確かめる。

親知らずでも生えてくるのだろうか。

その影響で犬歯が外に押し出されているのだろうか。

 

『はは、好きな子ほど虐めたいって言うんだろ?』

「······。」

鬼宿の言葉に黙って唇を閉じる。

『まあ何にせよ、悪趣味だと思うけど。

僕はそういうの好きだけどさ。』

「貴方の嗜好は聞いてない。」

『何言ってるのさ。君の嗜好だろ?

僕と君は同一存在なんだから。』

「うるさい。」

手近にあったガードレールの端を掴み、なんとなく力を入れてみる。

しかし予想通り、メキョリと可愛らしい音を立てて、一瞬で原型をとどめぬ哀れな姿に変わってしまう。

 

『まあ気をつけなよ。

虐め過ぎたら逃げられちゃうかもよ?』

「···。」

『うわ、凄い顔。怖いなぁ。』

欲望まみれじゃないか、と嬌声を上げる。

「黙って。」

『はいはい、鎖が追加される前に僕は退散するよ。』

「そもそも必要以上に出てこないで。」

『やだね。』

あっかんべーと笑いながら、鬼宿は心の奥底に潜っていく。

 

 

「そんなに虐めてなんか、いないのに。

いない筈なのに。

少しからかって遊んだだけなのに。」

さっきクラピカが掴んでいたせいで出来た、セーラー服の皺を指でなぞる。

それからくうくうと哀れな泣き声を上げる、その凹んだ腹に手を当てて、じんわり熱い衝動が渦巻いているのを掌で感じる。

腹から胸へ、それから口へ手へ足へ、全身へ。

 

傷ついて揺れる瞳。痛そうに歪める顔。

ミメイの言葉に、一挙一動に、可哀想なくらい振り回されて。

そんな彼を目にして確かに苦しかったのに、ミメイだってちゃんと傷ついたのに。

可愛い可愛いクラピカに、拒絶されて悲しかったのに。

それなのに。

 

「どうして私、笑ってるのかしら。」

血化粧を施した様な唇を扇情的に開き、その唇の熱に薬指を這わせ、小首を傾げる。

 

 

 

人っ子一人居ない大通りで、胸を踊らせる鬼が2匹いた。

 

 

 

 




被虐趣味と加虐趣味って、表裏一体だと思う今日この頃。



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24:千夜も一夜も君の中

ご無沙汰しております。
···不定期更新が常なんです。
それでも読んで下さることに感謝しています。






「さあ、お次は燃えるような赤髪の少女!

目の色は茶色と平凡ですが、髪の色をより一層鮮やかに魅せる白磁の肌は絹の様な触り心地!

それでは100万ジェニーから!」

迫っ苦しい地下の闇オークション会場の舞台の上。

殆どレースで出来ている防御力ゼロな黒のミニワンピースの少女が、その白い細い肩を揺らしている。

怯えた様に縄で縛られた両手首を胸の前に持っていき、少しでも舐め回す様な視線から自分の身を守ろうとするが、その行為に意味は無い。

泣き出したいのを必死にこらえているのか、その目元を桃色に染めている健気な姿が、余計に客の下卑た欲を昂らせている。

 

「150万!」

「200万!」

「225万出そう!」

オークショニアに呼応する様に、暗闇から幾つも手が上がる。

その手の多さにオークショニアが満面の笑みを浮かべるのとは対照的に、少女はとうとう耐えきれずに自分の掌に顔を埋めてしまう。

 

汚らしい熱気がこもるその暗闇に上手く紛れているのは、黒基調の給仕服を身にまとった金髪の少年。

客の1人にワインを差し出し、その仕事を終えてからおもむろに胸ポケットからペンライトを取り出す。

カチカチ。

ムーディな光が覆う舞台に向けて、小さな青い光を2回点滅させる。

これがあらかじめ決めてあった、2人の合図だった。

 

 

「さあさあ、もういらっしゃいませんか?

それならば500万ジェニーで落札ということになりますが、皆様いかがでございましょう。

焔の様なこの鮮やかな赤い髪。

なかなかお目にかかれるものではありませんよ!」

オークショニアが客を焚きつける様に腕を大きく広げる。

だから気が付かなかった。

客は皆、存在感のあるオークショニアの方に一瞬目をやったから。

そして彼女には、その一瞬で充分だったから。

 

気付いた時にはもう、笑顔のままのオークショニアの体がぐらりと(かし)ぎ、舞台から転がり落ちていた。

その場にいた誰もが目の前で起きたことを上手く認識出来ず、一瞬の静寂が会場を支配する。

しかしすぐ次に彼等の鼻を襲ったのは、紛れもない鮮血の香り。

最前列にいたご婦人が、床に倒れ伏したオークショニアの体から赤いものがゆっくり広がっているのを目にし、甲高い悲鳴を上げる。

それがよーいドンの合図になったのか、パニック状態に陥った客が一目散に出口を目指す。

 

しかし出口は開かない。

大人の男が何人かで突進したとしても、観音開きの扉はビクともしない。

それもその筈だ。

あらかじめ給仕に身を扮した金髪の少年が、外から何重にも鎖を巻き付けて鍵をかけておいたのだから。

 

そしてその金髪の少年は懐からスプレー缶を引き出して、開かない扉付近に密集した客に向かって噴射する。

自分の口元はしっかり袖で覆い隠し、体の大きい男を中心に煙を振りかけていく。

そうすれば昏倒した体格の良い彼等に押し潰されて、連鎖的に気絶する人間が出るからである。

暗闇に、人死にに、煙。

パニックは悪化の一途を辿り、狭い地下室は地獄絵図へと変貌を遂げた。

 

その中を流星の様に駆け、跳んで行く人影が1つ。

足元が良く見えない暗闇も、視界を阻む煙をも物ともせず、赤い髪を靡かせて人混みに紛れ込む。

それから小さく呟いて、その掌に黒い刀を顕現させて、正確無比に幾人かの命を刈り取っていく。

流血が増えたことで悲鳴と怒号は更に大きくなるかと思いきや、今度は体が倒れ伏すバタリバタリという音が会場を支配する。

そうして数秒もすれば、殆どの音は消えた。

血溜まりの上を裸足で歩く少女の、ピチャリピチャリという足音だけが響いている。

 

 

「あーあ、ちょっと汚れちゃった。」

黒い刀を空気に融かし、空いた手で赤く染まったワンピースの裾をえーいと呟きながら引っ張る。

「早く着ろ。風邪を引くぞ。」

空になったスプレー缶を再び懐にしまう金髪の少年は、身につけていた黒いジャケットを少女に投げ与える。

「はいはーい。ほんと、クラピカってばお母さんみたい。」

透けてばかりの黒いミニワンピースの上からジャケットを羽織りながら、少女は舞台の方へ歩いていく。

 

「どう?」

舞台の下に転がるオークショニアの懐を調べる少年に近寄り、上から覗き込む。

「外れだ。連絡機器の類は持っていない。」

「残念。折角変装までして潜入したのに。」

つまんない、と唇を曲げながら、少女は自身の赤い髪を下に引きずる。

引きずって、床に落とす。

 

「にしても案外似合ってたと思わない?赤い髪。」

ふわりと広がるのは、夜闇に浮かぶ星の様な輝き。

セイレーンの歌の様に人々を魅了し離さない、妖しい色合い。

いつものラベンダーグレーの髪。

それを無造作に背に流した少女────ミメイは赤髪のカツラを拾い上げる。

床に放置していきたかったが、几帳面で潔癖症な少年────クラピカがそれを許さない。

ポイ捨てするとは何事か、と冷たい目を向けてくるのだ。

 

「私はそれよりもお前の演技に驚いた。

あそこまでやる必要があったのか?」

「怯えてるふりでもしないと笑っちゃいそうで。

最前列の人見た?カツラだったのよ。

見事な金髪サラサラのカツラ。

それがちょっとズレてて、ツルツルの頭皮が見えてたの。

王子様か貴公子かを気取ってる雰囲気だったし、顔は悪くなかった分残念よね。」

「···。」

いくら仕事とはいえ、囚われオークションにかけられていることに対しなんの焦りも危機感も抱かない、余裕のよっちゃん状態のミメイに呆れてものも言えなくなる。

 

「ま、そんな可哀想な似非王子様もめでたく天使に連れて行かれましたとさ。

自分の体を捧げた末に倒れ伏した幸福の王子様みたいにね。

めでたしめでたし。」

はい、と赤いカツラをクラピカの頭に被せて、足の裏にぺったり張り付いた血をオークショニアの死体で綺麗に落とそうとする。

が、クラピカからの非難の目に肩を竦め、血で汚れた足は仕方なくそのままにすることに決めるミメイだった。

 

「ターゲットだったのか。その男も。」

「ええ。死人は私の標的だった3人と、必要経費だった不幸なオークショニア。

合計4人ね。文句無いでしょう。」

もうこの場所に用は無いと言う様にミメイはステージ上に上がって、そのまま裏口を目指す。

「オークショニアを殺す必要はあったのか?」

そんな彼女の後を追いながら、クラピカは押し付けられたカツラをポケットにしまった。

「さっきオークショニアの懐を探ってた貴方が言うこと?」

「気絶させるだけでも十分だっただろう。」

 

 

薄暗いステージ裏で、ピタリとミメイが足を止める。

それから真後ろにいたクラピカの細い首を、片手だけで正確に捉える。

「あんまり勘違いしないで欲しいわね。

ここにいた人間全員殺しても良かったの。

どうせ碌でもない奴等よ。

今回怖い思いをしたからって、闇オークションに出るのを止めたりなんかしない。

人身売買の買い手になり続ける屑のまま。

貴方だって本当はそう思ってるんでしょう?」

こくりと鳴る彼の喉元に人差し指を当て、それから華奢な鎖骨の上までつーっと動かしていく。

とくんとくんと規則正しい彼の鼓動に、不思議と胸が高鳴る。

指越しに伝わる命の音。

たったそれだけで、ミメイの体の中心は熱くなる。

 

「ああ、反吐が出そうな屑の集まりだ。」

「でも貴方はその死を望まない。

無駄な殺しは必要ないと私に言うばかり。

どうして?

わざわざ高い催眠ガスを買い込んで、眠らせたのはどうして?」

クラピカの鼓動が頭を揺らす。

痺れさせる。

血が熱くなる。

「私だって理由があるなら戦うだろうし、理由があるなら殺すこともあるだろう。

だがお前の殺しに理由はあるのか?」

「依頼だもの、仕方ないじゃない。」

「だがオークショニアは」

 

尚も食ってかかるクラピカの左胸に手を当てて、掌の真下にある心臓を掴む様な、潰す様な、そんな殺気を彼に浴びせる。

ヒュッと声にならない声が漏れ、その可愛らしさにミメイは笑い、すぐに殺気を掻き消した。

「ああクラピカ、貴方のその潔癖さは嫌いじゃないわ。

でもね、貴方がやろうとしているのはこういうことよ。

復讐ってこういうことよ。

人を殺めるってこういうことよ。」

「···ぁ」

鬼に喉を潰された金糸雀は、弱い吐息を唇から溢れさせる。

そのこぼれた息を拾う様に金糸雀の唇に親指を当てて圧迫し、その赤みが白くなるのを見つめた。

鬼は嗤いながら見つめた。

 

「分かったならもう文句を言わないわよね。

貴方は聞き分けの良い可愛い子だもの。」

するりとクラピカの頬を掌で包み、生々しい拍動を刻む白い肌に、血管に、首に、ミメイは顔を寄せる。

何をするでもないが、あーん、と当たり前の様に口を開く。

胸の奥底から湧き上がる熱にのぼせ上がりそうになるのを、ペロリと舌で唇を舐める行為に変えて。

融かして。

誤魔化して。

今自分は何をしようとしていたのだろうか、とはたと動きを止めるミメイ。

あら?と首を傾げたり、んん?と困った様に笑ったり、そんな風にしていれば当然のことだが、クラピカは彼女の手を強引に引き剥がす。

 

「ああ、逃げられちゃった。」

ざぁんねん、と赤い口内を見せて笑みを作る。

「···誰のせいだと。」

そんなミメイを一睨みし、それから彼女を追い抜いていく。

細い背中だ。

それを後ろからこうやって見ているのも何度目だろう。

ミメイは黙って、体の中心に渦巻く己の欲望を抑える様に胸を掻き毟る。

 

 

苦しい、苦しい、苦しい。

これは何だろう。

何もかも滅茶苦茶にしてしまいたいと願うこれは何だろう。

殺して、犯して、壊して、潰して、泣かせて。

 

白い頬に己の爪を立てたい。

怒りを浮かべた赤い目に己を映して欲しい。

噛み締めた唇に己の吐息を重ねたい。

白い細い首に己の牙を穿ちたい。

熱い、甘い、血が欲しい。

 

喉が渇いた。

酷く、渇いた。

だから血が欲しい。

 

······おかしいことは何も無い?

いいやそんな筈はない。

 

 

思わずミメイは掌で口を覆う。

どうしようもなく気持ちが悪かった。

甘い欲望に酔ってしまっていた。

酷い衝動が今にも体の中心から溢れ出てしまいそうだった。

そして嘔吐きそうになる胸に手をやって、ふと思い返す。

 

······私、さっき何を思った?

 

───血が欲しい、君はそう思ったよ。

 

鬼宿の甲高い笑い声と彼の答えが脳を揺らす。

これ以上考えるべきではないと警鐘が鳴る。

 

────我慢する必要はないよ。ほら、好きなようにやりなよ。

丁度美味しそうなのが目の前にいるし。

 

「違う。」

思わず声になって溢れ出す。

乾いた唇が水分を求めるように、乾きを癒すように、はくりと動く。

少し前を歩くクラピカの白い首を、その皮の下を流れる血潮を······違う、違う、違う。

違わなければ。

違う筈なんだ。

 

────何が違うのさ。

 

「私じゃない。私は血なんか要らない。

欲しがってるのは貴方でしょ、タマ。」

 

────僕は君、君は僕。何度言ったら分かるのかなぁ。

 

「違う。」

今度は少し大きな声で。

否定するように、拒絶するように吐き捨てる。

それに気付いたらしいクラピカが、不思議そうな顔をして振り返る。

「ミメイ?」

暗闇の中で金糸のような髪が揺れた。

その一本一本が、ミメイの目には酷く輝いて見えた。

地獄に差し伸べられた、救いの糸のように。

何か尊いもののように、煌めいていた。

 

「ねえクラピカ、」

ペタペタと、裸足の足が赤い足跡を残しながら進む。

名を呼んだ少年の元へ真っ直ぐと。

ミメイはその歩を進めた。

 

「私は、人間に見えるかしら。

私はちゃんと、人間かしら。」

さっきクラピカに貰ったジャケットの端を握りしめながら、いつも通りの自然な笑みを浮かべる。

そんな彼女を見て少しばかり怪訝な表情をするが、クラピカは溜め息混じりに返答する。

「何を馬鹿なことを。当たり前だろう。」

またこれか、と最近増えてきたこの問いに決まった答えを返しながらミメイに背を向けて足を早めた。

「急ぐぞ。外が騒がしくなってきた。」

「ええ。」

すっかり普段の微笑に戻ったミメイは、クラピカの隣に並んで歩き出す。

 

 

彼女の後ろに伸びる黒い影は、足の裏に付着した血のせいで所々赤く染まっている。

その影がニヤリと赤い目を光らせて笑うように動いたことには誰も気付かないままだった。

 

 

 

 

──────────

「めぼしい収穫が無いわね。」

マフィアからの依頼をこなしながら闇オークション荒らしを繰り返すミメイは、隣のベッドの上に座り込むクラピカを見やった。

ずん、と闇を孕んだ雰囲気を漂わせる彼は無言のままだ。

ベッド脇の灯り以外点っていないこの部屋は薄暗い。

その暗さとクラピカの雰囲気が混ざり合って、更なる闇を生み出している。

そして、彼の顔には深い疲労。

何日も何日も、手を替え品を替え闇オークションに潜入していればそうなるのも仕方ない。

人間の醜さに、深い闇に、素手で触れているのだから。

そんな精神も肉体もすり減るようなことをしても、緋の眼や幻影旅団に関する情報は手に入らない。

やっと落ち着ける場所───宿に辿り着き、食事と風呂にありついた後もその瞳は暗い。

 

「クラピカ。」

ミメイは自分のベッドから立ち上がり、隣のベッドに膝を乗せる。

そして端の方で蹲る彼に、じりじりと近付いていく。

すぐに、ミメイの吐息がクラピカの頬に当たりそうなまでになる。

普段ならば、少し不機嫌になったクラピカがミメイを遠ざけるのだが、今日ばかりは何の反応も示さない。

 

「クラピカ。」

再度彼の名を呼ぶ。

しかしミメイの方を見ることなく、ただじっと膝を抱えて黙っている。

今ならば何をしても抵抗しないのではないか、と悪戯心が湧いたミメイは、セーラー服のリボンを胸元から引き抜く。

それを使ってクラピカの髪を高めに結い上げてみる。

予想通り、何の抵抗もないお陰で完璧なポニーテールが出来上がる。

自分で作り上げた最高傑作に満足げに頷き、サラサラの髪からそっと手を離した。

髪が揺れて、クラピカのうなじにさらりと落ちる。

その僅かな風により、ふわりと彼から立ち上るのは甘い薫り。

同じ宿で同じ風呂に入ったのだから、ミメイと同じ匂いの筈なのだ。

同じ柑橘系の石鹸の薫りがする筈なのだ。

それなのに。

 

何故だか酷く、ミメイの理性を揺らす甘い薫りがする。

扇情的な赤い唇からチラチラ覗く白い歯。

最近やけに長くなってきた気がする尖った歯を親指の腹で押しながら、ミメイはパリパリと乾いてくる喉にゴクリと唾液を送る。

ついついうなじに目が向かい、じっとその白さを見ていればくうくうと腹が鳴いたような感覚を覚える。

夕食は十分にとった筈だというのに。

これ以上何を求めるというのだろう。

 

 

セーラー服のスカートが皺になるのも気にせずに、クラピカの首に後ろから手を回す。

体育座りで蹲る彼の背中にピタリと張り付いて、彼の体を包むように抱きしめる。

途端に濃くなる甘い薫りに自然に鼻が鳴る。

何も考えず、ポニーテールにしたお陰であらわになっている首筋に口を寄せる。

肩と首の境界に顔をうずめる。

ミメイの髪が顔や首に当たって擽ったかったせいか、やっとクラピカが反応を示す。

だがもう遅い。

ミメイの腕の中に閉じ込められたようになった彼は、それ以上身動きが取れなくなっていた。

 

「ミメイ?」

甘えた様に自分の首筋に額をグリグリ押し付けるミメイに驚き、戸惑いながらクラピカは彼女の名を口にした。

「······。」

返答がない。

ただクラピカを抱きしめる腕に力がこもっただけである。

こんなミメイは初めてで、甘えてくるミメイは初めてで、その衝撃のせいで徐々にクラピカの目に光が戻ってくる。

 

「···盲目の女の子。」

クラピカの肩に顔をうずめたまま、ミメイがポツリと呟いた。

その言葉にクラピカの肩が小さく跳ねる。

今日潜入した闇オークションで競売にかけられていた少女のことだと、すぐに思い当たった彼はゆっくり瞼を閉じる。

瞼の裏に映るのは、共に競売にかけられている友人を守ろうと矢面に立っていた小さな体。

何も見えなくても、後ろにいる友人の存在だけは認識していようと、縄で縛られた友人の指を掴んでいた掌。

 

「あの子を見た時貴方が狼狽しているのが手に取る様に分かったわ。」

「そうか。」

「顔を見られたから盲目じゃない方だけを殺そうと思ったのに、盲目の子が庇ったから。

仕方ないからどちらも殺そうと思ったのに、貴方が盲目の子を庇ったから。」

そうだ、ミメイは2人まとめて斬ろうとした。

闇オークションで標的を殺し、情報を吐かせる為に何人かを拷問した末に絶命させたミメイの顔を見てしまった哀れな少女と、少女を庇った子も殺そうとした。

他に目撃者はいなかった。

今日の標的は、闇オークションにいた全ての客と全てのオークショニアだったから。

仕方なく、口封じをしようとしたのだ。

けれどもクラピカに止められた。

盲目の少女を庇うようにしてミメイと少女の間に割り込んできた彼に、止められた。

 

「どうして?」

その問いは、クラピカとミメイ自身のどちらにも向けられていた。

どうしてクラピカは、盲目の少女を庇ったのか。

どうしてミメイは、そんなクラピカごと少女達を斬ってしまえなかったのか。

顔をクラピカの肩に乗せたまま、呻くように呟いた。

 

 

「······私には友人がいた。」

「そう。」

初めてかもしれない、とミメイはクラピカの胸元で組み合わせた掌に力を込める。

彼自身のことを詳しく聞くのは初めてかもしれない、と。

ミメイはクラピカに過去を語った。

話せるだけの全てを吐き出した。

けれどクラピカの過去を聞いたことはない。

彼は話そうとしなかった、だからミメイも聞き出そうとはしなかった。

そうやって、微妙な距離感を保っていた。

どんな関係性かと問われれば、困ってしまう2人は。

ずるずると、そうやって今までやってきたのだ。

 

「目が見えない友人がいたんだ。名をパイロという。」

「過去形なのね。クルタ族なの?」

「ああ。」

「そう。どんな子?」

思わず、という風にミメイは自然に問いを口にしていた。

そんな自分がおかしくて、クラピカの肩の上で自嘲的な笑みを浮かべた。

 

一方クラピカの方も少しばかり驚いていた。

ミメイは今まで、クラピカのことを訊いてはこなかった。

興味がないのか、気を使っていたのか、どちらかは分からないが踏み込んでこようとはしなかった。

わざとクラピカの地雷の上で踊る癖に。

クラピカはミメイの過去を知っている。

しかしミメイはクラピカの過去を知らない。

不公平と言えばそれまでだが、それでどうにか距離を置いていたような気がする。

そして今クラピカがミメイの問いに答えなければ、拒絶してしまえば、その距離はそのままだ。

そのままでいられる。

何も変わらない2人でいられる。

 

けれど。

 

 

「とても優しくて、とても強い。

温厚で物静かで、いつも落ち着いていた。

私には出来ないことを自然にやってしまう、そんな友人だった。

同じ夢を見ていた、大切な友人だった。」

「そう。」

きっと素敵な子なのね、とクラピカの首の方から声がこぼれた。

「ミメイの友人は、どんな人だったんだ。

前に少し聞いたが···。」

「友人というより、仲間と言う方が正解かしら。

ええと、老け顔で幻術が得意な五士でしょう?

赤い髪で怪力な美十に、ツンデレ暗器使いの雪見と、爆乳で小動物みたいな花依。

あと、深夜とグレンと。」

「···。」

ミメイの紹介に思う所はあったが、クラピカは黙って聞くことにした。

 

「深夜は私の双子の姉の許嫁で義理の兄、グレンはその姉の恋人。

胡散臭い笑顔の白髪頭に、夢見る少年のままだったお馬鹿さん。

それでも、大切な人達だったの。

それでも、愛してしまったの。」

泣いているんじゃないかと思う程、弱く震える声だった。

「ミメイ···。」

ミメイは大切だとか好きだとか愛だとか、そういう類の言葉を滅多に口にしない。

出会ってすぐの頃、妹への想いも否定していた。

それが本心でないことなど、クラピカはとうの昔に気付いていた。

ミメイの過去を聞く前からずっと。

嘘と微笑と、そんなもので巧妙に隠されていたとしても、短くはない同居生活の中で気が付いていた。

ミメイはちゃんと、生きている。

冷たくなどない。

人間らしい温かみを持って生きている。

だからいつも、クラピカはミメイを人間だと肯定するのだ。

 

自分の胸元の前で組まれたミメイの手を包む。

そうするとミメイの手同士が解け、代わりにクラピカの指に彼女の指が絡んだ。

ミメイの顔は見えない。

どんな表情かも分からない。

けれど重なった掌の熱と頼りなげに震える指先から、ミメイの言葉が紛れもない真実で、彼女の素顔があらわになっているのだと気付いた。

 

 

「私、恋をしていたの。」

そのミメイの言葉に息が止まった。

ついでに時が止まった。

ような気がした。

実際はクラピカの気の所為だったのだが、確かにそれくらいの衝撃だった。

「恋、か。」

そんな可愛らしい言葉がミメイから発せられるとは。

ただただ彼女の言葉を反復し、得体のしれないその言葉を理解しようとした。

クラピカには分からない、本を通してか、他人の話でしか知らないその概念を。

 

「グレンも深夜も、真昼の───双子の姉のものだった。

だから駄目だって。意味が無いって。

欲しがった所で手に入らないって分かってた。

でもね、私、恋をしていたんだわ。」

「今は?」

勝手に口が動いていた。

ミメイの掌に指を這わせながら、クラピカの唇は独りでに動いていた。

 

「好きよ、深夜もグレンも好き。

仲間と同じように大切で、好きよ。

でも恋する時間は終わったの。

とっくの昔に終わっていたの。

私、失恋していたんだわ。」

「そう、か。」

その言葉のお陰で、なんとなく感じていた息苦しさが少しずつ薄くなる。

一体何だったのだろう、と早まっていた拍動を全身でドクンドクンと感じながら、クラピカはゆっくり目を閉じる。

 

「クラピカ、眠いの?」

「···ああ。」

何故か安心したからか、全身の力がゆったりと抜けていく。

「酷い。私は傷ついてるのに。こんな私を放って寝ようとするなんて。」

普段のふざけた口調が戻ってきたミメイと指を絡めたまま、襲い来る睡魔に身を委ねる。

ねえねえ、とまとわりついてくるミメイの声を無視して、ずるりと彼女を引きずり込むようにして体を横たえる。

「傷心中の私を慰めっ、あ、クラピカ······ぇえ嘘でしょう······。」

呆れたような困ったような、けれどどこか喜色が混じったような声が近くでしたと認識したのを最後に、クラピカの意識は闇にずぷりと飲み込まれる。

そうして温かで、安らかな、睡眠の波に攫われていく。

 

 

 

 

──────────

「······生殺し?」

目の前でスヤスヤと眠るクラピカの顔を見つめて、ミメイはそんなことを呟いた。

指は絡み合ったまま、掌は重なったまま、距離は近いまま。

鮮血の脈動を感じられる白い首筋があらわになっている。

 

「普通、逆なんじゃないかしら。」

おかしいわ、とクラピカと繋いでいない自由な方の手で彼の頬をつつく。

反応はない。

呻きもしない。

起きそうにもない。

 

「今の私の目の前でこんなに無防備に寝るなんて。

警戒心が足りないんじゃないかしら。」

食べちゃいそう。

と、その言葉は必死に飲み込む。

二重の意味でね、という鬼宿の笑い声は黙殺し、牢獄にぶち込むイメージをする。

そうすればうるさいペットの声は聞こえなくなる。

今度こそ2人きりだ。

夜、密室、同じベッド。

世の男子諸君がドキドキワクワクする筈のシチュエーション。

なのに、

「どうしてかしら。どうして私が悶々とする羽目になっているの?」

やるせなさに、クラピカの頬をつつく。

ツンツンとつついてから、その頬を包み込むように掌をそっと広げる。

傷つけないように、壊さないように。

 

「ねえクラピカ。」

返事は無い。

「どうして私がグレンと深夜に恋をしていたって気付けたか分かる?」

親指の腹で、閉じられたクラピカの唇を軽く押してみる。

「どうして私が失恋していたことに気付けたか分かる?」

つぅっと、口紅を塗るように親指の腹を滑らせる。

「女の子が失恋を認めるのはね、次の恋に向かう為なのよ。

失恋してその恋を終わらせないと、次の恋を始められないから。

次の恋をする時には、これが初恋なんだって、そんな顔をして恋をしたいから。」

 

分かっている。

痛いほど分かっている。

この想いは間違いではない。けれど正しくもない。

真昼が溺れて壊れたように、ミメイも人間をやめてしまう原因になる。

鬼は欲望が好きだ。

人間のドロドロとした欲望が好きだ。

食欲、睡眠欲、そんなありきたりの欲も好きだ。

けれど、結局の所1番好きなのは性欲なのだろう。

誰かを想い、好きになり、恋をし、愛して、その先にある欲望が大好物だ。

人間の根源的なものだから。

その欲望がなければ、人間は産まれてくることさえできないのだから。

 

 

「···っぐ、ぁあ······。」

艶かしい吐息がミメイの口から漏れる。

欲望が膨れ上がる。

欲しい、欲しい。

全てが欲しい。

思うままにめちゃくちゃにしたい。

壊したい。

潰したい。

犯したい。

血が欲しい。

牙を突き立てたい。

死なない程度に殺したい。

 

そんな支離滅裂な欲望が熱となって全身を駆け巡る。

必死にその熱を抑えようと、クラピカの唇に押し付けていた指を離して、その手を胸にやる。

心拍数が上昇している。

拍動が自分のものでは無いかのように遠くに聞こえる。

 

 

どうして恋なんてものがあるのだろう。

どうして恋なんてするのだろう。

どうしてこんな恋なのだろう。

もっときっと、綺麗な恋が出来る筈なのに。

少なくとも、血が欲しいとか、壊したいとか、そんな酷い欲望は抱かなくて良い筈なのに。

好きな人は、恋心を抱く相手は、大切にしないといけないのに。

鬼と混ざって産まれてきてしまったから。

ミメイはこんな恋しか出来ない。

 

今はまだ我慢出来る。

鬼宿のせいにして、自分自身から逃げ続けて。

ミメイの体が変わってきていることも無視して。

鬼と人間と、鬼宿とミメイと、その境界が消えていっていることなんか気付かない振りで。

そうしていれば、きっと大丈夫。

 

けれどそれはいつまでなのだろう。

いつまでミメイは、こうやっていられるのだろう。

 

 

「ねえ真昼、貴方はずっと、こんな気持ちだったのね。

ずっとこうやって、恋をしていたのね。

自分が自分でなくなっていく恐怖と、狂気と恋情と、殺意と愛情と。

そんなものの板挟みになって、壊れていくの。

······真昼、私、今なら分かる。

私じゃ貴方を救えなかった。

だって今の私を誰も救えない。

救え、ないもの······!」

救えるのは1人だけなのだ。

その1人が救ってくれるかは別にして。

 

「······どうして私は私なの?」

シェイクスピアの悲劇に出てくるヒロインのセリフになぞらえて、陳腐な言葉を吐いてみる。

答えなんて出やしない。

馬鹿げた問いだった。

 

 

重ねたままの掌を引き寄せる。

皺になるシーツは気にせずに、クラピカの手を自分の顔近くまで持ってくる。

静かな寝息を立てたまま起きる気配がない彼に安心して、その手首をじっと見つめた。

細くて白くて、何より薄らと血管が見える。

さっき顔をうずめていた首のような、生命力を感じるその部位に、ミメイは静かに唇を寄せた。

痛みを与えたいという欲望を、牙を突き立てたいという衝動を、必死に押さえつけて。

ミメイは我慢が得意だから。

だから······でも、それでも······だからこそ、溢れ出してしまう欲望があって。

 

そうしてそっと、手首に口づけを落とした。

 

 

 

 




ちゅーはする場所によって意味が違うみたいなの、前流行りましたよね。
え、今も流行ってる?
そんなー。


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25:いつかはこんな日が来ることを

2週間に1度の投稿にしたいです。
···ストックが切れたらその予定もパァなんですが。






「ふと思いついたんだけど────」

ミメイのそんな軽い言葉から、その作戦は決行された。

 

今となっては後悔している。

深く深く後悔している。

後ろ手に縛られた状態でミメイと身を寄せ合い、怯えて泣きそうになっている演技をしながらクラピカは─────絶賛女装中のクラピカは心中で呟いた。

 

 

 

遡ること3日前─────

 

(残念なことに)特に何も無かった同衾を済ませてしまった2人だったが、それ以降も目立った変化はない。

ほんの少し、距離が縮まったような縮まないような。

その程度だった。

 

丁度マフィアからの依頼が途切れ、暫くの間は自由が許されて、闇オークション荒らしも無しになったその日。

少し高めのジャポン風旅館に止まった2人は、畳の上で思い思いに過ごしていた。

ミメイは久しぶりに式神を引っ張り出して、紙相撲ならぬ(式)神相撲をやらせていた。

クラピカはクラピカで本を読みながら、時折ミメイの横暴さに耐えられなくなって逃げてきた式神の保護に勤しんでいた。

そうして、そろそろ夕食時かという時突然ミメイが口を開いた。

 

「ふと思いついたんだけど、緋の眼を売ってみるっていうのはどうかしら。」

「そうか緋の眼か、それは考えつかなか······今なんと言った?」

あまりにさらっと言われた為に、クラピカは初めは意味が理解出来なかった。

1度そのまま口に出してみて、それから違和感に気付く。

緋の眼を売る?

ヒノメ、ひのめ、緋の眼···間違いなくクルタ族特有の赤い目のことであり、幻影旅団に同胞が惨殺された理由だ。

 

 

「クラピカ、貴方が誤解する前に言っておくけど、私は本物を売る気はないわ。

そもそも持っていないし、流石に私だって貴方の前でそんなことをする気はないわ。

その位の分別はあるもの。」

だからこの手を離して頂戴、と落ち着き払った声が真下から聞こえる。

そう、真下から。

考える間もなく体が勝手に動いていたせいで気付かなかったが、ミメイの冷たい掌が頬に触れたことでクラピカは我に返る。

自分がミメイの肩を掴んで畳の上に押し倒し、その首に手を伸ばそうとしていたこと。

自分がミメイの上に覆いかぶさっているということ。

それに気が付いて、慌てて手を離す。

手を離した時に、すこしだけミメイの唇が歪んだ。

 

「す、まない。痛かったか。」

その僅かな表情の変化を見て、ミメイの痛みに気付いたクラピカは彼女が体を起こすのを手伝いながら謝罪した。

「大丈夫。大丈夫だから、そんな顔しないで。

今のは私が悪かったの。

貴方が緋の眼と同胞と幻影旅団のことになると、本能のままに動くのを忘れてたわ。」

「すまない。」

座り直したミメイの前に顔を俯かせて正座する。

「また目が赤くなっちゃってたし。

もう少し感情を制御しなくちゃ駄目よ。」

見せて、とクラピカの顎の下に人差し指を入れて、顔を上向きにさせるミメイ。

そんな彼女と目が合ったクラピカは、彼女の瞳の中に映る赤い目の自分を見つけた。

 

「落ち着いたかしら。」

向かい合って座り、クラピカの両手を握っていたミメイは穏やかに尋ねる。

「ああ。」

「情けない顔しないの。

大丈夫よ。痛くない。」

「······そうではなくて、いや痛くなかったのなら良かった···いや痛かった筈だ。

ああ違う、そうではない。

そうではないんだ。

······なんと言ったら良いんだ。」

もどかしい。

言いたいことが上手く言えない。

いやそもそも自分は何が言いたいのだろうか。

 

そんなクラピカの逡巡を読み取り、彼の心配事に思い当たったミメイは微笑を浮かべた。

「クラピカ、大丈夫。

私はこの程度のことで、貴方を嫌いになったり憎んだりしないから。」

「···そ、うか。」

クラピカの安堵した様子に、ミメイも穏やかに笑う。

1人残された幼子のような、帰り道を無くした迷い子のような、泣きそうな顔は崩れていく。

拒絶されることを恐れていた強ばった表情は解けていく。

「殺そうとしてきたならまだしもね。」

「だが私は、お前の首に手を、」

「その程度で私を殺せると思う方が大間違いよ。

貴方なんかにそう易々と殺される私じゃないもの。」

ふふん、と茶化すようにミメイは自慢げに胸を張る。

それからぺちーんと子気味良い音で、クラピカの額を弾く。

「これでお相子、よっ。」

いつも通りのデコピンだった。

 

 

「で、話を戻すけど、緋の眼を闇オークションに出品しようと思うの。

勿論本物じゃないわ、偽物よ。

ただし、本物か偽物かが見分けがつかない偽物。」

「そんなものがあるのか?

いや、そもそも何のためにそんなことをする?」

「偽物の心当たりについてはひとまず置いておく。

先に目的と理由を話すわ。

目的は緋の眼を求めるコレクター、並びに幻影旅団を釣り上げること。

本人達までいかなくとも、彼等に近しい人物を炙り出すことよ。

理由としては、そうね、このままだと何も変わらないから。

あっちが動かないなら、こっちが動いてあっちを無理矢理動かすしかないの。」

「それは分かるが···釣れるのか?」

実際手詰まりだった。

探せども探せども、幻影旅団や緋の眼に繋がる情報は見当たらない。

 

「釣れるわよ、餌が餌だもの。」

「餌というのは偽物のことだな。」

「ええ。」

「一体どうやって偽物を用意する気だ。

式神でどうにかするのか?」

クラピカは畳の上でダラダラしている式神を見やり、それからミメイに視線を戻す。

「そんな面倒なことしない。

簡単よ、私が餌になれば良いの。」

「······は?」

きっかり10秒、クラピカはぽかんと口を開けていた。

 

「私はクルタ族じゃないけど、目が赤くなる特異体質だもの。

売ってつけでしょう。」

「そんなこと、」

お前にさせる訳には、と続けようとした言葉はミメイの冷たい目に呑み込まれた。

「じゃあ貴方が売られる?

同胞の無念を晴らすことなく、幻影旅団に復讐することなく、あっさり目を抉られて、この世からばいばいする?」

「······っ、私は、」

「今の貴方じゃ、餌として売られた所で簡単に喰い尽くされるのがオチよ。

弱いもの。

弱くて可愛い貴方じゃ、どうしようもないの。」

分かるでしょう、とその形の良い赤い唇が動く。

 

「······少し虐め過ぎた。ごめんね。

でも事実なの。今の貴方じゃ駄目よ。」

黙ったまま唇を噛みしめるクラピカを見ていたミメイは、心に沸き立つ薄暗い喜びを隠しながら最もらしいことを口にした。

ミメイの言葉に酷く傷ついて、自分の弱さに苦しんで、逃げだすことを許さない事実に悔しがって。

そんな彼が可愛くて愛おしいだなんて、そんな────そんな酷いこと、誰が思うだろうか。

 

 

「緋の眼自体は売りに出されることもあるでしょう。

でもその目の持ち主は?

いる訳がないわ。

幻影旅団が皆殺してしまったんだもの。

誰だってそんなことは知っている。

勿論当事者の幻影旅団は嫌という程ね。」

そこで一度口を動かすのをやめて、目を伏せて唇を強く噛みしめるクラピカに視線を移す。

そしていつかの夜のように、ミメイしか知らない夜のように、彼女はクラピカの唇に自分の親指を押し付けた。

 

「血が、出てるわよ。」

じわり、とミメイの親指の腹に赤色が移る。

その鮮やかさにクラクラしそうになるのを必死に隠し、いつかの夜をなぞるように、その親指をクラピカの唇に滑らせた。

薄らと血化粧が施され、顔色の悪くなっているクラピカの儚さと美しさが際立つ。

そんな彼を見つめていると、良からぬ気持ちが首をもたげてくる。

全く困ったものだ、と他人事のようにミメイは嘆息した。

 

「もし私という生きた緋の眼の持ち主が売りに出されたとしたらどうなると思う?

運良く生き残っていたんだ、ふーん良かったね、だなんてことにはならないわ。

幻影旅団は十中八九、その緋の眼に手を伸ばす。

あのクルタ族の惨殺を生き延びていたのであれば、幻影旅団の目撃者かもしれないと考えるに決まっている。

まあ、目撃者の疑いがある人間を生かしておく気はないでしょうね。

それに······いいわ、これはやめておく。

言っても仕方ないことだから。」

死体蹴りは趣味じゃないの、とミメイにしては珍しく自重する。

 

「いや、言ってくれ。

どんな些細なことでも構わない。

気付いたことがあるなら、言ってくれ。」

傷つきながらも前に進もうと足掻くクラピカ。

目の奥に激しい炎を飼っている彼を見て、ミメイは小さく頷いた。

「···そう。

噂や数少ない情報から私なりに考えられる幻影旅団の像は、冷酷非道で残虐で、救いようのない犯罪者······なんて単純なものじゃないと思う。

そうだったらどれほど良かったか。」

「どういうことだ。」

「幻影旅団はただの無法者じゃない。

恐らく彼等には彼等なりのルールがあるわ。

そしてこれもまた推測だけど、流星街の出身者がいるでしょうね。

分かるのよ、私だってあの街で暮らしたから。

なんて言うのかしら。

何も無いから、欲しくなる。

棄てられたから、奪いたくなる。

そういう世界が滅びる直前の秩序っていうのかしら······その顔は分からないっていう顔ね。」

あれは実際に体験しないと分からないもの、と首を横に振った。

 

 

「仕方ないから、貴方にも分かることを言うわ。

貴方の同胞───クルタ族の遺体からは、酷い拷問の痕や激しい戦闘の痕が見つかったそうね。

これはクルタ族の感情を燃え上がらせて、目をより鮮やかにする為だったんでしょう。

でもきっとそれだけじゃない。

幻影旅団は愉しんでいたのよ。

拷問、戦闘、虐殺、蹂躙、その類をね。

その行為自体を愉しんでいた。

クルタ族が戦うことに関して天賦の才を持っていたから余計に。

だから幻影旅団は、クルタ族の生き残りの話を聞いたら興味を持つでしょう。

また愉しみたいと思って。」

「···。」

「強かったのね、貴方の同胞は皆。

心も体も。

でなければ拷問なんてされないわ。

強い心を、芯のある心を折ることがね、拷問の本当の目的なのよ。」

何度も折られたから分かるわ、と事も無げに吐き出した。

 

「でもそれ以上に、幻影旅団は強かった。

強者で、蹂躙者だった。

だからクラピカ、貴方は強くならなくちゃいけないわ。

彼等に復讐したいなら、彼等より強く。

これはその一歩よ。」

手を差し出す。

白い掌を。

人を殺める為に刀を握り、数えきれないほどの血を浴びてきたとは思えないほど、清廉に見える掌を。

 

「前は出来なかったことを、貴方にはしてあげたいの。

私がしたいと思うから、勝手に貴方に手を貸すわ。

もう後悔したくないから、勝手に貴方を導くわ。

これはただの私の自己満足。

それでも良いと言うのなら、この手を取って、クラピカ。」

今更だな、と諦めたようにクラピカはミメイの手を取った。

迷いはあった。

それでも、目的の為なら。

それでも、ミメイがそう言うのなら。

何度でもクラピカはミメイの手を取るだろう。

 

「何故私の為にそこまでするのか、訊いても良いだろうか。」

「私がそうしたいからよ。」

それだけ、と表情を変えないまま言った。

「それは、何故。」

「あら、それを訊くの。

貴方もまだまだ子供ね、クラピカ。」

再びクラピカの額で軽い音が鳴り、ジンジンとした痛みに彼は額を押さえた。

 

 

「それなら準備を始めましょうか。

大丈夫、任せて頂戴。

たとえ何が釣れたとしても、貴方のことは必ず守りきるから。」

にっこり笑って、クラピカの指に自分の指を絡ませるミメイ。

そんな彼女のことも守ってみせるだなんて、まだそんなことは言えないけれど。

まだまだ自分は弱いのだと、自覚しているけれど。

「私はいつか、お前のことも守りきってみせる。」

それでもきっと、いつかは出来ると信じている。

いや、やり遂げると決めている。

そのクラピカの言葉に一瞬驚いて目を見開き、それから心底嬉しそうにミメイは笑った。

「期待して待ってるわ。約束よ。」

ふわり、と花が綻ぶように笑った。

 

 

 

─────そして冒頭に戻る。

裏社会にクルタ族の生き残りの噂をまことしやかに流し、変装した状態でわざと奴隷商に捕まり、今は闇オークションにかけられるのを地下競売場で今か今かと待っている。

見張りの意識がこちらに向いていない隙に、クラピカはミメイの耳元に顔を寄せる。

 

「何故、私まで!」

「貴方自身が闇オークションにかけられることで見えるものもあると思ったのよ。」

コソコソ話す2人を見張りが気にしている様子はない。

さっきまでのミメイの意気消沈した演技を信じ込んでいるらしい。

 

「それはそうだが、何故こんな格好を!」

「変装。」

「女装だろうが!」

ミメイプロデュースの見事な女装。

どこからどう見ても女の子。

ゆるふわな茶髪の鬘、水色の可愛らしいフリルワンピース、リボンがポイントの綺麗な靴。

違和感が仕事をしていない。

 

「しーっ。声が大きい。」

クラピカを宥めるミメイはといえば、長い黒髪の鬘をつけてはいるものの、それ以外は普段通りである。

セーラー服を身につけるか否かは迷ったが、不測の事態に備えることにした。

ミメイが魔改造したセーラー服は防御力が高いのだ。

 

「それよりも設定の確認よ。

ここまで来たのに、ぼろを出してバレるなんて馬鹿みたいでしょう。

私はミツキ、あの惨劇を運良く生き延びたクルタ族の生き残り。

で、貴方は」

「···ミツキの異母妹。クルタ族の血は引いていないし、緋の眼の持ち主でもない。」

「名前は?」

「······クララ。」

心底嫌そうにその偽名を口にした。

そんな彼を見て、ミメイはニヤニヤ笑いながら思ったことを口にする。

「やっぱり私の名前、ハイジにするべきだったかしら。」

「クララとハイジの組み合わせなど、偽名と疑えと言っているようなものだろうが!」

「冗談よ。」

 

 

薄暗い檻の中で、2人は背中合わせに座り直した。

後ろ手に縛られている状態だと、その体勢が1番楽だと気付いたからである。

ちなみにミメイの方は念には念を入れられて、足も拘束されていた。

見張りは2人の方を見ていない。

弱々しく見える異母姉妹など、警戒に値しないのだろう。

2人とも抵抗らしい抵抗をせず、怯えきった振りをしたことも一役買っているに違いない。

 

「釣れるだろうか。」

「釣れるわ。

幻影旅団は分からないけれど、彼等に繋がる何かは掴める筈。

あとは貴方が、どんな些細なことも見落とさないようにすることね。

貴方だからこそ気付けることもある。」

「ああ。」

「それと、もしもの時は逃げること。」

守りきる、という約束の通りにミメイはクラピカを守り通すつもりである。

 

「···分かっている。」

「いつかで良いから。

言ったでしょ、期待して待ってるって。」

背中越しに感じる熱に、平坦な声に、ミメイの心を感じ取る。

嘘偽り無く、彼女はクラピカのことを待っている。

いつかクラピカが彼女を越えて、彼女より強くなることを。

信じて、待っている。

「ああ。」

そのことに、じんわりとクラピカの心が暖かくなる。

 

「ちゃんと私を捨てて、逃げるのよ。」

「捨てていくのはお前の方だろう。」

遥か先を往くミメイは、本当はクラピカのことなど見えない筈だ。

遠い場所に生きている、別の生き物なのだろう。

それでもミメイは、クラピカの隣で彼に手を伸ばした。

だからクラピカは彼女の手を取った。

そうして2人は大切なものを既になくしてしまった者同士、身を寄せ合っている。

 

クラピカは怖いのだ。

ミメイがどこか遠くへと往ってしまうのではないかと。

自分の手を振り払い、彼女のいるべき場所へと帰ってしまうのではないかと。

これ以上失いたくはなかった。

もう十分なまでに失ってきた。

だからせめて、この時間だけは。

誰にも奪われたくはないと切に願う。

 

 

「···そうね、捨てていくのは私の方かもしれないわ。」

一方ミメイも、クラピカの言葉に哀愁を滲ませる。

真昼が家族を捨てたように、ミメイ達姉妹を捨てたように、ミメイも何かを捨てていくのだろう。

真昼がグレンを唯一と定めたように、ミメイももう決めてしまったのだから。

手の中に掬っておける水はほんの僅か。

殆どは指の隙間からこぼれ落ちてしまう。

ああならば、ミメイは何を捨てるのだろうか。

何を捨てられるだろうか。

故郷、家族、仲間、初恋、人間性。

いくつかはもう捨てつつある。

あとどれだけ、捨てられるだろう。

そして捨て終えた時、ミメイはミメイでいられるのだろうか。

真昼が真昼でいられなくなったように、ミメイも壊れてしまうのだろうか。

 

それでも尚。

この恋だけは本物だと分かっているから。

身に宿る鬼が暴走するような想いに、嘘偽りなどないと気付いているから。

 

口には出来ない。

進めはしない。

想いを告げることも考えられない。

時計の針が少しでも進んでしまえば、ミメイはこの恋ごと全てを壊してしまうから。

鬼の狂気と殺意が淡い恋心を丸呑みして、もう元には戻れなくなる。

だから今だけは、刹那的快楽主義に堕ちていよう。

 

 

 

 

─────────

「皆様長らくお待たせ致しました。

本日の主役の登場です。」

陽気なオークショニアの声を合図にして、ミメイの体が引き摺られる。

彼女は檻から引き出される時に、黒い目隠しをされたせいで周りの状況は見えなくなっている。

しかし鋭い嗅覚と聴覚、触覚で大体の空間把握は出来ていたし、どのくらいの人間がどこにいるのかも感じ取っていた。

ここは恐らくステージの上だ。

 

クラピカはミメイの少し後ろにいるらしい。

恐らくこれから、ミメイの緋の眼発現の為に使われることになるのだろう。

クルタ族の怒りを引き出す為の餌として。

一応クラピカは高価なコンタクトをはめているため、彼の緋の眼が露見するということはない筈だ。

たとえ赤くなったとしても、気付かれない程度だろう。

 

目隠し越しでも、人工の光をなんとなく感じる程に眩しいスポットライト。

四方八方から向けられ、全身を這い回る視線。

目隠しの結び目がある後頭部に、骨ばった手が置かれる。

ミメイの体を引き摺ってきた男のものだ。

 

「世界七大美色の1つ、緋の眼の持ち主です。

あの惨劇を生き延びたクルタ族の生き残りこそが、この少女。

早速その美しい眼を皆様のご覧に入れましょう。」

オークショニアのその声と同時に上がるのはクラピカの呻き声。

そこまで痛めつけられている気配は無いが、彼は哀れみを誘う苦しそうな声を漏らしている。

クラピカも結構な演技派ね、と思いながらミメイも悲壮感を滲ませた声をこぼす。

 

「妹に、何をしているの!?

離して。クララを離しなさい!

妹は関係ないわ。」

目が見えないせいで妹がどこにいるのか分からない、しかし妹が苦しんでいるのは分かる、そんな必死な姉の演技をする。

「ねえ、さん···。」

「どこ?クララはどこにいるの?!

その子を離して!

離しなさい!」

妹の弱々しい声に激昂したかのようにミメイは語気を強める。

 

と、そのタイミングで目隠しが解かれる。

ミメイの閉じた瞼の上から布が去っていく感覚の後、その瞼に人々の視線が集中するのを嫌という程感じ取る。

 

────鬼宿。

────はいはい、分かったよ。

 

心の奥底からどろりと闇が持ち上がり、ミメイの心を侵食していく。

鬼の狂気が心から、腹から、体の中心から、血を介して全身へ。

鬼呪がミメイの体を蝕んでいく。

今すぐ周りのもの全てを壊したいという衝動を抑え込み、拘束など簡単にちぎってしまう程湧き上がる力を制御して。

ミメイはゆっくりとその瞼を上げていく。

長い睫毛が縁取る大きな赤い瞳を見開いて、様々な欲望が絡みついた視線を受け止める。

 

────おお、これは。素晴らしい。欲しい。本物だ。美しい。欲しい、欲しい。欲しい。なんとしてでも手に入れたい。欲しい。

 

欲望が、人間の欲望が渦巻いている。

声なき声がざわめきの中から聞こえてくる。

人間の欲望を何より好む鬼が反応を示しているせいか、ミメイも全身で欲望を感じ取る。

こんなに汚いものをクラピカは浴びてきたのかと溜め息が出そうになる。

初めて出会った時に手負いの獣状態だったのも仕方のないことだろう。

いや寧ろ、あの程度で済んでいたことが奇跡だ。

これだけの汚い欲望に晒されていながら、素直さと清廉さを失わなかったクラピカ。

きっと彼は心根が誰より真っ直ぐで、家族や同胞に愛されて育ったのだろう。

 

 

「妹を離しなさい。」

緋の眼のようになっている赤い目を見開いて、ミメイは斜めに後ろにいるクラピカの方に向き直る。

男に首を絞められて苦しそうにしている彼だが、上手く力を逃がしているため見た目ほど苦しんでいないのがミメイには見て取れた。

普段ミメイに投げ飛ばされる方が、よっぽど痛いことだろう。

「姉さん···。」

痛みに喘ぐ演技を継続するクラピカに倣い、ミメイも怒り任せに叫ぶ振りをする。

「っ、妹を解放して!」

しかし屈強な男に肩を掴まれ、ミメイは無理矢理前───客の方を向かされる。

 

オークショニアがミメイの顎を上向かせ、客によく瞳が見えるようにしながら競売を続ける。

「ええ、そうです。

皆様ならばお分かりでしょう。

もしかしたらこの中には、実際にご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。

本物です。正真正銘、世界七大美色に数えられる緋の眼です。

しかしながら生きた緋の眼をご覧になるのは初めてでしょう。

ですから、皆様ご自身の手で目を抉るも良し。

目をそのままにして愛でるも良し。

孕ませて、次代の緋の眼を産ませるも良し。

全ては皆様のお好きなように!

今ならば、緋の眼ではありませんが見目の良い妹もオマケでおつけましょう!

それでは、3000万ジェニーから!」

「3200万!」

「5000万出そう!」

「5500万だ!」

 

度々商品の振りをして捕まり、競売にかけられているミメイだが、今までにない値の上がり方に苦笑が漏れそうになる。

これが緋の眼か。

これがクラピカの背負うものか。

狂気の檻そのものである柊家とどちらがマシだろうかと、とりとめのないことを考える。

恐らく今クラピカは、競売に参加している人間の顔と特徴を頭に叩き込んでいる。

少しでも彼の悲願に繋げるために。

得られる全てを得ようとしている。

 

 

このオークションはマフィアの影響下にはなく、素敵な趣味をお持ちな金持ちの道楽の1つだと先に調べておいてある。

最終的に商品を競り落とした人間に商品を引き渡す時、その主催者である金持ち本人が姿を見せるらしい。

引渡しをその目で確認しなければ気が済まない、ある意味では用心深い性格なのだろう。

また、生きた人間やそのパーツを扱う金持ちであれば、本物の緋の眼に関わったこともある筈だ。

緋の眼を所持している可能性もある。

だからミメイ達は事前に決めていた。

競り落とした人間、商品であるミメイとクラピカ、何人かの警備、主催者である金持ちだけになったその時がチャンスだと。

警備は一瞬で戦闘不能にし、競り落とした人間と主催者を尋問して情報を絞り出すのは。

 

たとえどれだけ縛られていたとしても、ミメイにとっては何の障害にもならない。

容易く目的を達成出来るに違いない。

情報を聞き出した後は漏れなく全員口封じ、という所にクラピカが引っかかっていた以外は、その作戦はあっさり決まった。

 

 

そうして、その作戦は今もつつがなく進行中なのだが─────

 

ミメイとクラピカ、2人の値が1億を越えた所で、唐突にミメイの首筋にピリリと嫌な気配がはしる。

クラピカも本能的に何かを感じ取ったのか、苦しむ素振りを一瞬止めてしまう。

オークショニアも客も警備も、2人以外は誰も気が付いていない。

競売は更なる高鳴りを見せ、熱い欲望は渦巻き、最高潮へ到達しようとしていた。

 

しかしその中で、ミメイの背中にたらりと冷や汗が伝っていく。

何かが来る。

何かが来ている。

随分前に、味わったことのある何かが。

まずい、まずいまずい。

今すぐここから、逃げなければ!

 

心臓に氷を押し当てられたようにミメイの体が冷えていく。

それに相反するように鬼の興奮が高まって、鬼呪の回りが激しくなる。

鬼宿の甲高い声が頭に響く。

 

───来る、来る、来るよ!

君がもっと壊れないと、もっと僕を求めないと、闘えない相手が!

 

 

混乱している自分をどこか客観的に見ている思考に従って、手と足の拘束を一瞬で引きちぎる。

誰かが気付く前に、誰かがミメイを見る前に、鬼呪装備である刀を掌を顕現させ、ステージ裏にある照明の大元────全照明の制御装置目がけて投げつける。

すぐに全ての灯りが落ち、人々がそれに対して戸惑いの声を上げ出すより速く、ミメイは拘束されたままのクラピカを小脇に抱えて走り出す。

さっき投げた鬼呪が自動的にミメイの体の中に戻ってくるのを感じながら、真っ暗闇の中を走り抜ける。

ステージ裏を駆け、商品を捕らえている檻を飛び越え、事前に確認しておいた裏口────ではなく、地上に直接抜けられる小窓を目指す。

 

「手枷は外せた?」

小脇に抱えたままのクラピカに尋ねる。

「あ、ああ。」

「作戦は中止。···逃げるわよ。」

小窓の前に到着し、先に入るようにクラピカに小窓を示した。

そのミメイの指示に大人しく従った彼は、するりと小窓の向こう側に顔を覗かせ、周りに人の気配が無いことを確認してから脱出した。

「何が、来ている。一体何が、」

「分からない。

分からないけれど、駄目よ。これは駄目だわ。」

先に外に出たクラピカの手を借りて、脱出を完了し、小窓を元通りにしたミメイは声を震わせた。

 

クラピカにとって初めてだった。

怯えのような恐怖のような、そんな類のものを見せるミメイの姿は。

何故かは分からないが変な興奮を覚えているらしく、赤く染まった目は爛々と輝き、口角は妖艶に上がっている。

闘う前の、残虐な殺しをする前の、いやしている最中の表情だった。

しかしその表情の中に、確かに恐怖が混じっているのが見て取れる。

「ミメイ、お前、」

「······っくそ!気付かれた!」

ただならぬミメイの様子にクラピカが何か言おうとする前に、ミメイは彼の手を引いて走り出す。

 

町外れの郊外に点在する家を通り過ぎ、深い林の中へと一心不乱に駆けていく。

夜明け前の薄暗がりの中を、霧がかった木々の合間を、斬り裂くように進んでいく。

「ミメイ!」

クラピカにだって分かる。

遥か後方からだが、何者かがこちら側を見ている。

殺気のこもった視線は、クラピカの首筋をチリチリ焼くかのように鋭い。

「分かってる!」

ミメイも叫んだ。

嫌という程感じる圧迫感に、叫びながら逃げるしかなかった。

 

そうして必死に息を乱して走っていれば、徐々に思い出してきていた。

この世界に落ちてすぐ、流星街の潜伏場所を強襲してきた、招かれざる客のことを。

結界も式神も簡単に破り捨てられて、無けなしのプライドをへし折られ、得体の知れない存在に冷や汗を流したことを。

それと同じだった。

今、ミメイ達を追い始めた何者かは、それと同じ重量感を持っていた。

つまり、念能力者。

今までミメイが簡単に斬り伏せてきた念能力者(仮)とは段違いの、紛れもない本物である。

 

 

ふと、ミメイの足が止まる。

それに追従して、クラピカの足も止まる。

何故突然、とクラピカが息を整えながら前を見れば、そこには星が薄くなり始めた紺碧の夜空。

徐々に橙混じりの白に変えられていく美しい空が広がっていた。

そう、その先は空しか道がない、ただの断崖絶壁だった。

 

「ミメイ。」

後方からの威圧感は更に重くなる。

うなじの毛が逆立っていく。

早く早く、と退避を急かすように警鐘が頭に響いている。

「クラピカ。」

ゆらりとミメイが振り返る。

朝日に照らされたその白い顔が、口角を上げたままの顔がクラピカの方に向く。

 

「クラピカ。」

その存在を確かめるように、輪郭をなぞるように、ミメイは再びその名を口にする。

そうして、繋いでいない方の手をゆっくりと上げて。

ガラスに触れるかのように、クラピカの頬に指を這わせた。

「ミメイ?」

クラピカがそう問えば、ミメイは目尻をゆるりと下げて笑う。

赤く妖しく輝く瞳には、もう恐怖の色は無く。

いつも通り凪いだ水面があるだけだった。

 

頬に這うミメイの指は冷たかった。

ひんやりと、柔らかな冷たさを帯びていた。

その冷たさに心地良さを覚え、今この時この場所だけ世界から切り離されたかのように錯覚していたクラピカは、最近自分の目線より下にいるミメイを見つめて、瞬きをして─────

 

 

 

 

気付いた時には宙を舞っていた。

 

慣れきった痛みが額を襲う。

そのことから、またミメイにデコピンを食らったのだと理解する。

しかし何故自分の体が浮いているのか、地面が遠くなっているのか、崖の向こう側の朝日が近付いているように見えるのか、分からなかった。

 

上を見上げる。

セーラー服のスカートが、リボンが靡いている。

黒い鬘が地面に落ちている。

灰がかった紫の髪がたなびいている。

橙色の朝日に照らされて、キラキラと淡い輝きを放っている。

 

血のような赤い瞳が、射抜くように見ている。

誰を。

私を。

断崖絶壁の向こう側に飛ばされ、重力のままに落ちていこうとしている私を。

 

そんなことを纏まらない思考の中でなんとか絞り出しながら、自分を見下ろしている女の名をクラピカは叫ぶ。

 

「ミメイ······!」

それに対し女────ミメイは、赤い唇を閉じたまま困ったように笑うだけだった。

何も言わず、何も語らず、静かに笑うだけ。

何度も見た微笑を、浮かべるだけだった。

 

 

 

 

 

 

────────

『これで良かったの?』

「······。」

鬼の問いには何も返さず、黙ったまま黒い刀を掌に生み出す。

『やっぱり捨てるのは君の方だったし。』

言葉には耳を貸さずに、式神を作って息を吹き込み、崖下に姿を消した少年の後を追わせる。

『確かに気配遮断の式神でクラピカを隠して、君が追跡者と闘えば、クラピカは無事逃げ切れるだろうけど。』

上手く木に引っかかった少年に、式神が張り付いたのを確認してから、それらことは意識の外に追いやった。

 

 

「鬼宿。」

もうすぐ現れる。

桁違いな威圧感を放つ追跡者が。

じっと木々の向こう側を見やり、ミメイは自分に宿る鬼の名を呼んだ。

『なぁに、未明。』

きゃはははっ、と愛らしい笑いが転がる。

「私に力を、寄越せ。」

『あは、そう来ると思ったよ。

じゃあ未明。僕に君の全てを、差し出してくれる?』

その言葉に逆らう術などミメイは持たないのだから。

諦めたように、待ち望んでいたかのように、はくりと口を開いた。

 

「あげるわ。」

 

 

情欲を煽るような赤色の口の中から、尖った白い歯がちろりと覗いていた。

 

 




次は随分久しぶりの戦闘回です。



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26:歌わぬ戦場、踊れぬ私

黒い刀の切っ先を、殺気がやって来る方に向けて待つ。

もうすぐそこまで手練は迫っている。

逃げてしまいたい、今すぐ背を向けて走り出したい。

そうしなければ、力が必要になったミメイは更に鬼に喰われてしまう。もっと壊れてしまう。

けれどそうやって逃走すれば、逃がしたクラピカの安全は保証出来ない。

 

「···もっと、もっと力を。」

体が熱い。

体中で鬼呪に穢された血が暴れているように感じる。

世界の終わりを走り抜けた時と同じ、いやそれ以上。

すぐそこまで鬼が迫っている。

自我をしっかり保っていなければ、発狂してしまいそうな混沌が口を開けている。

 

 

「ほう。」

待ち望んでなどいなかった敵が木の陰から姿を現す。

纏う威圧感はやはりクロロと同様のもの。

間違いなく、手練の念能力者。

揺れる着流しに一振の刀と、どことなく和の雰囲気を感じさせる男だった。

侍のようなその格好は、日本生まれのミメイにとってはどこか懐かしい。

「1人か。」

男は面白そうに瞼を上げ、それからミメイが構えている刀に視線を動かす。

「ええ、何か問題が?」

「いいや、何も。

オレはタイマンの方が得意だからなァ。」

「そう。刀を使うもの同士、楽しみましょう?」

禍々しい気を放つ鬼呪を構え直し、男の目を見据える。

 

「お前、鞘はどうした。」

腰を軽く落とし、左の腰に刀を持っていく男が問う。

「ふふ、どこかに落としてきてしまったのかしら。

忘れちゃったわ。」

その動きから、男は居合術を得意としているのだろうとの見当がついた。

ミメイの鞘を気にしたことからも、恐らくそれで合っている。

 

いつどんな時でも自由に顕現させられる鬼呪装備を使うようになって長いミメイは、居合術や抜刀術に精通している訳ではない。

居合術は初太刀に重きを置く、ある種究極の技。

人間相手には高い効果を発揮し、初手決めという鮮やかさを持つ。

しかしいくら初太刀で致命傷を負わせようが、吸血鬼やキメラ相手には何の意味もない。

人間であれば致命傷でも、奴等は一瞬のうちに再生する。

だから柊家も居合術で短期決戦というよりは、様々な手を使って長期戦に持ち込み、確実に削り取りながら隙を窺うことに比重を傾けていた。

 

 

「先に言っとくが、オレの間合いに入ったら斬るぜ。」

男はそう言いつつ、腰を深く落として抜刀の構えをとる。

予想通りだったことに少し安堵しながらも、ごく自然な構えをとりながら常人離れした威圧に、ミメイのうなじの毛が逆立つ。

どこから攻めてよいものか躊躇するほど、隙のない完璧な構え。

綺麗に完成されていながらも、自由に飛びかかってきそうな猛々しさを感じる。

統制のとれ過ぎた道場剣術でも、決まった型のない剣技でもなく。

達人、と誰もが口を揃えて言う剣技に違いない。

 

やりにくい相手である。

ミメイにとっては、とてもやりにくい相手ではあるが、それでもやりようが無い訳ではない。

ミメイのアドバンテージは特別大きくもないが、小さくはない。

鬼の力を引き出して、常人離れした再生力を上手く使えば必ず勝機は見えてくる。

いくら相手がクロロと同レベルの念能力者であろうと、あの時のようにはならない。

ミメイだって念能力は充分に習得している。

あの時以上の力を得たのは確かである。

 

「なら······」

初手を迷う必要はない。

見事な居合術を披露してくれるというのなら、見せて貰おうではないか。

 

 

搦手や罠の類は使わずに、真っ直ぐ男に向かって走り出す。

後ろに回り込んで背後を取るのでもなく、頭上から斬り掛かるのでもなく、ただ愚直なまでに真っ直ぐ。

一歩、二歩、三歩。

そうして男の間合いの外から中へ。

間合いが狭いミメイの刀はまだ男の体に届かない。

しかし男の腕は滑らかに動き出し、その刀は音も無く空気を斬り裂き始める。

 

頭に、目に、血を回す。

視神経に鬼呪が集まってくるのを強く意識する。

1秒を何コマにも分けて、少しでもスローモーションに見えるように動体視力を一時的に上昇させる。

それでも、男の刀の速さには完全に追いつくことは出来ない。

鬼の力をもってしてでも、その程度しか追えない居合術にミメイは感嘆する。

感嘆しながら、その刃が自分の首を捉えたことを認識した瞬間、反射的に膝が軽く折れる。

体勢を崩すことによって、完全に刀を避ける為に体が勝手に動いている。

 

しかしながら相手も手練。

ミメイが刀の動きを見切ったことに気付き、彼女が予想していたよりも低く刃が滑ってくる。

このままでは何の問題も無かったかのように、男の初太刀はミメイの首に致命傷を与える。

ミメイは無傷で回避することを諦め、致命傷を避けることに専念し始める。

少しだけでも刀の軌道を逸らすことが出来れば、致命傷は免れる。

 

これ以上刀の動きを変えられないよう、男の刃がミメイの首筋に触れるか触れないか、その直前まで待つ。

そして、その一瞬────ミメイの首が迫り来る刃の風圧を感じた瞬間、彼女は鬼呪を振るう。

男の刀の刃に鬼呪を正面衝突させて、男の力を押し返すように刀の柄に力を込める。

流石に力を相殺しきることには失敗し、分散した力のせいで、男の刀が勢いよくミメイの首より上に跳ね上がる。

 

「···っい······。」

白刃が目の脇を通り過ぎていったと脳が認識した瞬間、ミメイの頬から耳にかけて焼けるような痛みがはしる。

どうにか初太刀での致命傷を防いで、顔を斬られるだけにとどめることが出来たらしい。

痛み程度で体が止まるということは勿論なく、ミメイは鬼呪装備を強く握り直す。

そして膝を軽く折って体を低くしていたことを利用し、その勢いで刀の切っ先を前に押し出す。

男の方へ。

抜刀直後の為、無防備になっている男の体の方へ。

 

男の目が見開かれる。

しかしその目に恐怖の色は無く。

代わりに口髭の下の唇がニヤリと引き上がる。

笑っていた。

男は愉しそうに、好戦的な目を光らせて、笑っていた。

 

そして恐らくミメイも笑っていた。

鬼が憑依し鬼呪が全身に回ったことで赤くなった目を輝かせて。

鬼の力を好きなだけ振るえることに、狂気混じりの悦びを抱いていた。

 

 

「っぉ、らぁあっ······!」

唐突に男の足が動き出す。

咆哮とともに鋭い足技が繰り出され、ミメイの胸目がけて飛んでくる。

ミメイもすぐさま男の心臓を狙っていた刀を手放し、自由になった両腕を胸の前に持っていく。

胸の前で腕を交差し、そこにオーラを凝集させた瞬間、衝撃が襲ってくる。

腕に纏わせたオーラのお陰で腕も折れず、内臓にダメージもない。

無理に力に逆らわず宙を舞ってから、ストンと地面に足を着ける。

そして数メートル離れた場所で男が刀を構えるのを見て、ミメイも鬼呪を顕現させる準備をする。

 

「はっ、たいしたもんだ。」

左胸付近が裂けた着流しを見、それから愉しそうにミメイに視線を向ける男。

ミメイもその視線を受けとめ、頬から首筋へと伝う血の量を確認する。

頬から耳と長く斬られはしたようだが、そこまで深い傷ではないらしい。

掌に付着した血は、予想よりも少なかった。

まあすぐに塞がるため、はなから心配はしていないのだが。

 

「初太刀で決めたと思ったんだがなァ。」

「それはこっちのセリフよ。

心臓、貰えると思ったのに。」

好戦的な視線がぶつかり合い、自然と両方の笑みが深くなる。

「こいつは愉しめそうだ。」

「奇遇ね、私もそう思っていた所。」

ミメイは朝霧の中から得物を取り出すように、その掌に刀を握らせる。

「それじゃあ、」

「続きといきましょう。」

 

地面を蹴り上げる音と煙が同時に2地点から上がり、その刹那風圧が真ん中で衝突し、次の瞬間には刃同士がぶつかって火花が上がろうかという時───────

 

 

「おいおい、楽しそうなことしてんじゃねェか。

オレも交ぜてくれよ!」

解き放たれた獣の咆哮が、落ちてきた。

ミメイと男の刃が衝突する筈だった場所に。

轟音を連れて。

「ウボォー!」

そう男に呼ばれた大男は、ニタァと大きな歯を見せて笑った。

 

ここで新手か、とミメイの緊張感が跳ね上がる。

すぐさま地面を蹴り上げて後退し、2人の男から充分な距離を取る。

居合の達人だけが相手ならば、長期戦に持ち込んでジワジワ追い込むつもりだったのだが、その考えは今や修正した方が賢明だった。

突然現れた大男の肉体は鍛え抜かれている。

その手が、足が、力を入れてミメイの体を殴れば、内臓へのダメージは確実。

卓越した刀の腕を持つ男に対処しながら、大男の攻撃全てを避けきることは難しいだろう。

致命傷を防ぐことを第一に、当たること自体はある程度覚悟しなければならない。

しかしいくら鬼の力ですぐに再生するとはいえ、内臓に蓄積され過ぎたダメージは徐々に体の動きを鈍くしていく。

つまりもし長期戦になれば、苦しくなるのは寧ろミメイの方になる。

 

何やら話し込んでいる2人の男への警戒を続けたまま、両手の全ての指と指の間に呪符を生み出し、そのうちの数枚を正面の男達に向かって放つ。

途端弾けるのは炎と熱線と爆風。

普通の人間ならばこれでお釈迦になってくれるのだが。

「うおっ。」

小さな子供がぶつかってきた時のような声が聞こえてくることから、大男の強靭な肉体にはこの程度どうということはないらしいと分かる。

 

素早く残りの呪符を発動させて自分自身の幻覚を作り出し、間髪置かずに絶状態に入る。

かつての仲間である五士が鬼呪で作ったものには劣るが、ミメイは腐っても柊家。

目くらましのつもりだった爆発の呪符の効果もあり、幻術は上手くいったらしい。

男達は2人とも、幻術で作られた偽物のミメイと闘い始めた。

その陰に隠れて、ミメイは音も無く黒い刀を自分の体内から引きずり出すようにして、掌に握らせる。

 

どうにか上手く避けてはいるものの、徐々に追い詰められて苦しそうな顔をする偽ミメイ。

それに更なる攻撃を加える男達の背後から走り込み、地面を蹴り上げて、彼等の頭上からその死角を狙って刀を振り下ろす──────

 

 

「ノブナガ、ウボー、上だ!」

霧がかった森林の中に、唐突に響き渡るミメイの斜め後ろからの声。

「あァ?」

すぐに男達は首をぐるりと動かし、そこにミメイの姿があることを確認すると、心底嬉しそうに口角を上げた。

視線が交差する。

交差して、それと同時に下から上へと風が走り抜け、ミメイの腹に熱が襲いかかる。

「え、」

殴られた、とミメイの頭が認識する前に、彼女の華奢な体は易々と宙を舞い、木の幹に激突する。

 

そこからずるりと体が地上に落ちる前に、今度は脳が激しい揺れを感知する。

ああ頬を殴られたのか、と乖離しそうな意識の中でミメイはぼんやりそう思う。

頭は働いていない。

不意打ちを腹に喰らい、間髪置かずに頭を揺らされた。

思考が飛んでしまうのも仕方のないことだった。

 

しかし、この程度のことは柊家での教育の範囲内である。

だから幼い頃から慣らされたミメイの体は勝手に動き、次の攻撃を避ける為に爆発の呪符を放つ。

その爆発の力を利用して体を飛ばし、強制的に敵から距離を取る。

体が覚えているお陰で、考えなくても出来ることだった。

 

 

「···ぐ、ごほっ···。」

口の中に溜まっていた血を吐き出しながら木の上に着地して、少しばかり遠くにいる男達を見下ろす。

居合の達人である男と、筋骨隆々の大男、それから可愛らしい顔をした金髪の男。

いつの間にか3人に増えていた。

恐らく最後に挙げた男が、ミメイの幻術を見破り、本物のミメイの場所を口にした人間だろう。

 

「助かったぜ、シャルナーク。」

「2人とも何も無い場所を攻撃してるから驚いたよ。」

ニコニコ人当たりの良い笑みを浮かべる男は、ミメイが幻術を使った後に現れたのだろう。

そのせいで幻術にかからなかった。

これ以上の新手は無いだろうと、どこかで決めつけていた自分の油断にミメイは歯噛みする。

そしてまた内臓の方から溢れてきて、口に溜まった血を吐き出す。

 

攻撃する時に気を抜くなとクラピカに注意しておいてこのザマか、と自嘲的な引き攣った笑みを浮かべながら、ミメイは自分の腹を見下ろす。

絶状態で無防備な所に大男の拳を食らったせいで、セーラー服は無惨に破け、皮膚は裂け、脇腹の肉が大きく抉れていた。

圧力で内臓が押し出されてこないように、掌で傷を押さえる。

ごぽり、べちゃり。

血が勢いよく溢れていることが、液体にぶつかって軽やかな音を奏でる掌からよく分かる。

ぽたりぽたりと、留めておけなかった血が指の隙間から垂れていく。

セーラー服のスカートが赤く染まる。

急激な大量失血に、くらりと視界が揺れる。

 

鬼呪を回す。

腹へ、大きく抉れた脇腹へ。

出来るだけ早く再生するように念じる。

早く早く早く、と強く念じる。

代わりに鬼宿を縛っていた鎖が徐々に解け、混沌が心を蝕んでいく。

鬼宿の鈴を転がすような笑い声が脳に響く。

体を乗っ取ろうと、その白い手を伸ばしてくる。

赤い目を血走らせて、金の髪を触手のように動かして。

ミメイに迫ってきている。

 

「あ、あ···あ、」

嫌だ嫌だ嫌だ、鬼にはなりたくない。

私は人間だ。私は人間だ。私は人間だ。

人間でいると決めた。

約束した。

だから駄目だ。駄目なんだ。

 

少しずつ塞がっていく脇腹の穴に手を突っ込む。

折角出来始めていた薄皮が破れて、ジンジンと痛む。

更に手を差し入れて、グチャグチャと軽く掻き回す。

 

痛い痛い痛い、いたい、イタイ、イたイ。

目の前で白い火花が散る。

弾ける。

思考も再び弾けていく。

 

ミメイは痛みには慣れている。訓練で慣れきっている。

けれどそれは、痛みを感じないということと同義ではない。

それでも、常人なら耐えきれない痛みで頭がおかしくなる程に、ミメイは容赦なく自傷行為を続けた。

痛みによって無理矢理に理性を引き戻し、欲望を引き離し、鬼を封じる為に。

 

 

「ふーっ、ふぅ······うっ······。」

手負いの獣が近付くもの全てを威嚇するように、ミメイは目を爛々と光らせる。

血で濡れた唇の端から涎がこぼれ出し、血と涎が混ざり合って地面に広がる。

だらしなく広がった口からチラチラと覗くのはまだ小さな白い牙。

その牙の存在を否定するかのように、ギリギリと歯軋りをする。

 

今すぐ理性を吹き飛ばして、鬼に喰われて、欲望のままに暴れ回る方が楽なのは分かりきっていた。

きっと我慢など必要ない。

痛くない。

苦しくない。

何よりも今目の前にいる敵を、始末出来るに違いない。

一線を越えて人間をやめてしまえば。

真昼のようになってしまえば。

 

「私は、人間だ。人間なんだ······!」

化け物じみた紅の目に決意の炎が灯る。

今にも消えてしまいそうな淡い炎が。

そしてとっくのとうに人間を超えてしまった力で、ミメイは空を駆ける。

実際に空を飛んでいる訳ではないが、常人離れした脚力で木の幹を蹴り上げたことにより、真っ直ぐ3人の男の方へ向かっていくミメイの体。

 

 

「おいで、鬼宿!」

鬼を拘束する鎖は緩んだままである。

今にも喰われそうな状況は何も変わらない。

それでも綱渡り状態で、限界を超えて、ミメイは鬼呪を引きずり出す。

擦り切れた理性と、ちっぽけな約束。

世界が滅びるその時まで走り続けたあの時のように、それらに縋り付いて、何よりも禍々しい気を放つ黒刀を振るう。

 

ミメイの初太刀は簡単に居合の達人に受け流される。

続いて彼女の胸目がけて襲いかかってくる刀を左手で受け止め、掌が斬れるのも気にせずに刃を掴んで、その刀ごと着流しの男を振り回す。

振り回した男を、大男から飛んでくる鋭い拳にぶつけるように投げる。

味方同士で衝突が起きそうになるが、双方の素早い判断により相打ちは防いでしまう。

しかしミメイが刀を持つ男を思いっきり振り回したお陰か、大男でも男がぶつかってきたその衝撃は殺しきれずに、2人ともミメイから少し離れた所に飛んでいく。

 

その隙を狙ってミメイの後方から飛んできた針のようなものを鬼呪で叩き落とし、お返しとばかりに刀から手を離してダーツのように放つ。

針を飛ばしてきた男はミメイの投げた刀をバク転で避けるが、体勢が崩れたその瞬間にミメイは男の目の前に移動して、その顔に蹴りを叩き込む。

が、すんでのところで地面に転がることによって男はミメイの足技を回避する。

逆に今度はミメイの足に手刀を入れ、彼女の体勢を崩そうとする。

 

地面から勢いよく立ち上がる男がかけようとする関節技を見切っていなし、急上昇している視覚により一瞬で周囲を見渡す。

さっき投げた鬼呪は木の幹に深く深く突き刺さり、敵の刀と拳が斜め後ろから恐ろしい速さで迫ってきている。

「お、いで!」

鬼呪が突き立てられた木の方に手を伸ばす。

丁度木とミメイの間には、針のような何かを飛ばしてきた男がいる。

絶好の機会だった。

 

「鬼宿!」

再度、その鬼の名を呼ぶ。

忌まわしいその名を、人間ごときが触れてはならぬ存在の名を。

 

 

木の幹を引き裂いていた闇色の刀は一瞬で空気に融けて靄に変わり、ミメイを中心にするように3人の男の周りに広がる。

突然現れた黒い禍々しい靄に男達が警戒して、1度の瞬きの間だけ動きを止めたその時、ミメイは右腕を素早く振り抜いていく。

彼女の腕が動き始め、その掌から鎖が伸びた途端、ただの靄の姿が固まっていく。

金属特有の鈍い光を放ち始める。

三日月のような鋭い刃が、その姿を靄の中から現して、男達の腹を斬り裂こうと風を起こす。

しかしこれまた上手く避けられて、致命傷を与えるには至らない。

3人ともにそこそこ深い傷を与えられたようだが、ミメイの脇腹が流した血の量には至らない。

まあそれは、ミメイが自分の傷に手を突っ込んだせいで出血量が増えたからなのだが。

 

じゃらん、と金属にしては比較的軽めな音がミメイの掌から響く。

強風に靡く枝のように腕をしならせると、手から伸びる鎖もそれに倣って動く。

そうして男達の体を斬り裂いた三日月のような刃を手元に回収する。

主人の元に帰った、赤い血でてらてらと光る黒い刃。

それを見た着流しの男は、興味深そうに眉を上げる。

「鎖鎌か?」

「そうね。ただし鎌の柄と分銅は無し、っていう適当なものよ。」

即席なの、と笑いながら鎌の刃の血を払う。

 

 

 

ミメイに宿る鬼は、黒鬼シリーズの憑依化タイプということになっている。

鬼呪装備は基本、鬼をその身に直接宿す憑依化タイプか、鬼を具現化して特殊能力を使わせる具現化タイプの2つに分けられる。

ミメイや真昼が秘密裏に研究していた時はまだまだ曖昧なものだったが、兄の暮人の元で大規模な実験が行われだしてからは、2つのタイプが明確に分けられるようになっていった。

ミメイの鬼は、元々彼女に混ぜられて生まれてきた特殊なもの。

憑依や具現化、そのような人間が勝手に作った分類に収まるものではなかった。

しかしミメイは鬼を少しでも自分の制御下におくために、鬼を先述の肩書きに落とし込んだ。

人間が作った分類に、ルールに、鎖に、鬼を縛っておくために。

 

だが今、鬼の鎖は解かれていっている。

人間が定めたルールなんてぶち壊され、本来の鬼宿の力が解放されていく。

ミメイが嵌め込んでいた、刀という形態の縛りも取り払われた。

だからもう、ミメイはどのような形ででも鬼を顕現させることが出来るのだ。

お馴染みの刀でも、深夜のような銃剣でも、槍や薙刀、弓矢、双剣────そして今手にしている鎖鎌のようなものでも、自由自在である。

武器ならばどんなものであれ、ミメイの思った通りに現れる。

その武器をどれだけ上手く使いこなせるかは別にしてだが。

いくら柊家で一通りの訓練は受けているとはいえ、刀を使ってきた年数は他のものと段違いなのだ。

 

 

 

「でも駄目ね。慣れない武器は上手く使えない。

やっぱり刀が1番。」

鎖鎌を握り潰すようにして黒い靄に戻し、そこからまた一振の刀を作り出す。

「そうは見えなかったけどな。

ほら、オレ達皆さっきの鎌にやられたし。」

金髪の男────確かシャルナークと呼ばれていた────が、斬り裂かれた幾つかの箇所を見ながら、そう言った。

「それは不意打ちだったから。

もう一度同じことをした所で、そんな風に傷を負わせることは出来ないでしょう。」

違うかしら、と不敵な笑みを浮かべる。

その瞳は熱い血潮の色のまま。

 

「確かに。

でもどうしよう。

君を殺さずに連れていかなくちゃいけないんだ。」

「そう言われて、私が貴方達にノコノコ着いて行くとでも?」

「うん、そう言うだろうとは思ったよ。」

困ったな、と全く困っていなさそうな顔で首を振る。

そんな“シャルナーク”に対し、刀を鞘にしまった状態の男────恐らくノブナガという名前───が事も無げに言い放つ。

「腕の1つや2つ斬り落とせば良いだろうが。

無傷とは言われてねェんだ。」

「そうだけど。」

「こいつをここで逃がす方が、よっぽど問題だろう。」

尚も渋る態度に、好戦的な笑顔のまま大男────ウボォーと呼ばれていた────が言葉を重ねた。

 

「団長はすごく気に入ってたからなぁ、緋の眼。

売り払うまでに結構時間かかったし。」

仕方ないか、と“シャルナーク”は肩をすくめる。

その口振りにミメイの勘が働いた。

「···まさか。」

虚を突かれたように、真っ赤に染まった目を見開く。

と同時に脳裏に映るのは、つい先程崖下に突き落とした少年の顔。

同胞の仇が憎いと吠えていた彼のこと。

必ず復讐すると叫んでいた彼のこと。

危うい輝きを放つ炎のようなその瞳────緋の眼を発現させた彼のこと。

 

「貴方達は、」

何度もクラピカから聞いたその名を紡ごうとして─────

「少し、眠っててくれ。」

とん、と首の後ろで、軽い割にやけに頭に響く音がした。

「あ」

いつの間に背後を、と沈み往く意識の中で思う。

警戒はしていた筈だというのに。

確かに一瞬、一瞬だけ思考が止まったけれど。

クラピカのことを考えてしまったけれど。

 

たったその一瞬で、と敵の力量に呆れさえ覚えながら、前のめりに倒れていく自分の体が受け止められたと感じたのを最後に、ミメイの意識は真っ黒に塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

──────────

「······っ、くそ!」

ミメイによってデコピンで崖下に突き落とされ、運良く木の枝に引っかかってから地上に転がり落ちたクラピカは、1人拳で地面を叩いた。

大した打撲はなさそうだが、体には所々擦り傷や切り傷の類が出来ていた。

それらは時間が経つに連れてピリピリと痛み始める。

しかしそんな傷よりも、何よりも心が痛かった。

 

上を見上げる。

徐々に青くなってきた朝の空が広がっていた。

後を追ってミメイが降って来ないかと僅かな期待を抱くが、そんなことはなかった。

どこまでも続く空と、遥か高くまで伸びている崖があるだけだった。

 

ミメイが何故自分を突き落としたかは分かりきっている。

逃がすためだ、クラピカを逃がすためだ。

クラピカを崖下に逃がして、今頃ミメイは追っ手と戦っているのだろう。

あのミメイでさえ恐怖の色を滲ませていた敵と。

それが何者かは分からない。

いや、分かった所で仕方がなかった。

今の自分では戦う彼女の邪魔にしかならない、足でまといにしかならないと、クラピカは悟っていたからである。

 

「捨てるのはやはり、お前の方だった。

お前の方ではないか、ミメイ!」

やるせなさに、ミメイをなじってしまう。

彼女は今も自分を逃がすために戦っているというのに。

再三彼女に言われた、弱い、可愛い、という言葉がクラピカを蝕む。

本当にその通りだった。

クラピカは弱かった。

結局の所弱くて、また何も出来なかった。

逃がしてもらうことしか、守ってもらうことしか、出来なかった。

 

「また、私は······!」

何も言わずに、普段通りの笑みを浮かべて自分を見送ったミメイの姿が瞼の裏に映る。

そこからページを遡るようにして過去へ。

彼女の姿を思い出す。

 

 

その得体の知れなさのせいで、常に言葉に出来ない恐怖の対象だった。

微笑は完璧で、所作は洗練されており、一つ一つが絵になって。

そんな美しさが余計に、恐れを掻き立てていたのかもしれない。

それでも徐々に、彼女の性質を理解出来るようになり始めた。

共に暮らせば暮らすほど、その深い孤独に触れる機会が増えて。

気付いたら身を寄せていた。

人間を紙のように斬り裂いて、赤い血を浴びて嗤っている鬼のような女だと分かっても。

どこか壊れてしまったその姿を、見ていられなかったから。

彼女自身が1番、そんな自分を嫌がっているようだったから。

 

自分のことをミメイは掌で転がし、言葉で嬲り、時には手を出してきていた。

そうして自分が彼女の言葉に反抗したり、何も言えなくなったりすると、どこか嬉しそうにしていた。

嬉しそうに、心底嬉しそうに笑いながらも、その瞳には幸福の色が映らない。

(ほしいまま)に振舞って、愉悦を味わって、それでも尚彼女は何かを求めて彷徨っていた。

声無き声を上げていた。

 

助けて、と1人の弱々しい少女のように泣いていた。

 

 

「あ、あ、ああああ······!」

きっと、そうだった。

助けを求めていたのはミメイの方だった。

助けてあげる、と差し出された掌は誰よりも助けを欲しがっていた。

彼女にしか分からない地獄の中から、必死に手を伸ばしていたのだ。

 

ミメイは決して弱くはない。

クラピカよりも圧倒的に強くて、この世界にいる人間の中でも一握りの強者の中に入るだろう。

彼女もそれを自覚していた。

自覚して、そのこと自体には愉悦を感じて、その上で絶望していた。

1人の人間を救えるのは、その人間よりも強い人間だけ。

そもそも同じ土俵に立たなければ何も始まらない。

だからミメイを救える人間はいなかった。

 

ミメイは我慢していた。

耐え忍んでいた。

ずっとずっと、絶望したまま、生きていた。

そんな中で何故彼女がクラピカを拾ったのかは分からない。

気まぐれだったのかもしれない。

それでも彼女はあの雪の中からクラピカを拾い上げて、救いの手を差し伸べた。

「助けてあげる」と笑いながら、「助けて」と泣いていた。

 

クラピカの知らない地獄で、クラピカには分からない痛みで、ミメイは確かに泣いていた。

その涙が、外に流せなかった涙が、彼女の儚さであり、脆さであり、迷い子のように揺れる瞳に表れていた。

ミメイ本人は自覚していなかったのかもしれない。

彼女は他人の弱さを愛しながらも、自分の弱さを嫌っていたから。

気付きたくなかったのかもしれない。

目を背けていたのかもしれない。

 

でも。

クラピカはそれに気付いていたのに。

何も出来なかった。

何もしようとしなかった。

弱いから、弱くて可愛いから。

ミメイが大好きな、弱くて可愛い人間だから。

彼女に遊ばれて、蹂躙されて、振り回されるしかないから。

 

 

「待っていろ。

待っていると言ったからには待っていろ、ミメイ。」

いつかは守りきってみせるとクラピカが言った時、心から嬉しそうに安心したように笑った彼女。

「私は強くなる。1人で戦える力を手にする。

幻影旅団を捕らえられる力を。

お前を守りきることが出来る力を。

だから、待っていてくれ。

今はお前を置いて逃げる。

······逃げるしかないが、それでも、」

ミメイのいる場所まで、彼女と同じものを見られる場所まで。

彼女の地獄を、絶望の檻を、痛みを知ることが出来る場所まで、必ず追い付いてみせるから。

それがたとえ、混沌渦巻く世界の闇そのものであったとしても。

 

ミメイの纏う闇色と血の薫は、恐らく幻影旅団と同じもの。

どちらを目指したとしても、結局の所クラピカはその奈落に辿り着く。

 

 

 

ミメイが最後に飛ばしてきたらしい式神に導かれ、クラピカは立ち上がる。

他の誰でもない自分の足で、まずは一歩踏み出していく。

 

ミメイと出会った時よりも大きくなったその背中を、朝日が優しく照らしていた。

 

 

 




いやー、次回は一体誰が出てくるんでしょうね(すっとぼけ)



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27:殺された救難信号

誤字報告ありがとうございました。






「─────い、おーい、起きてよ。」

目を開いた瞬間、視界が揺れた。

いや、視界だけでなく頭も揺れた。

後から襲い来る頬の痛みに、殴られたのだと気付いた。

ぼやけていた視界に少しずつ鮮明さが戻ってくる。

最初に目に入ってきたのは、自分の膝。

血で汚れたセーラー服のスカート。

ああ、洗わなきゃなぁ、と薄ぼんやり考えながらミメイは顔を上げる。

 

「こんにちは。」

口角をゆっくり上げて、目を細める。

まずは挨拶からだ。

それがたとえ、ついさっきまで戦っていた相手であっても。

「オレ達が何か気付いててその態度か。

肝が据わってるね。」

確かシャルナークという名前だった筈、と思い出しながら金髪の男に視線を向ける。

「私には関係ないことだもの、当然でしょう?」

「···驚いたなぁ。君がそれを言うなんて。」

僅かに表情を動かすシャルナークに、ミメイも楽しくなってくすりと笑った。

 

「ところでこれ、解いてくれないの?」

後ろ手に縛られた状態で椅子に縛りつけられているミメイは、体を捩りながら質問する。

「解いたら暴れるだろ。」

「そんなまさか。暴れるなんて無駄なことはしないわ。

ただ貴方を殺すだけよ。

幸運なことに今はこの部屋には貴方しかいないし。

にしてもこの縄、解けないわね。

凄腕の拷問師でもお仲間の中にいるのかしら。」

「へえ、縄の縛り方だけでそんなことまで分かるのか。」

「生憎だけど、こういう悪意100%の拘束には覚えがあるの。」

「それはやる方に?」

「敢えて言うなら、どっちもかしら。」

その言葉は本当だった。

拷問するのもされるのも、どちらにも慣れて上手くなるように柊家で教育されていた。

 

 

今ミメイがいる部屋は、どことなく柊家の訓練室に似ていた。

足元の蛍光灯が1つあるだけのせいで薄暗い室内。

手が届かない高い所にある、鉄格子のはまった小窓。

その部屋に縛られた状態で座っていると嫌でも思い出す。

教育係の大人達が寄って集って、ミメイに訓練という名の虐待を加えたことを。

真昼も、グレンもいない。

深夜もいない。

シノアもいない。

ミメイの周りには誰もいない。

助けてくれる人は誰もいない。

 

「やだなぁ、この状況。」

弱音のようなものを吐き出したミメイに対し、シャルナークはくすくす笑いながら近付いていく。

「それは、拷問されそうだから?」

「出来ればされたくはないもの。

慣れてるとはいえ、痛みは普通に感じるし。」

「それなら尋問で済むようにしたら良いよ。

君がその目を赤くすれば終わることだから。」

今は茶色に戻ってるなぁ、とミメイの目を覗き込みながら言った。

 

「緋の眼を見せれば良いってこと?」

「勿論。さっき戦ってた時みたいにね。」

「ふーん、やっぱりそうなの。

あなた達は────幻影旅団は、緋の眼を狙ってあのオークションに来たのね。」

「噂の真偽を確かめるつもりだったんだ。

緋の眼は世界七大美色だけあって偽情報が多いし。」

「っふふふふ。」

こんなに簡単に幻影旅団が釣れてしまうとは。

自分の立てた杜撰な計画が上手くいってしまうとは。

ついつい面白くなってしまう。

 

「お手数をお掛けしたみたいね。

でも、ざぁんねんでした。

私の目は緋の眼じゃない。クルタ族でもない。

世界七大美色ってそんなに魅力的なものなの?

ついつい偽情報に踊らされちゃうくらいに?

あの幻影旅団サマでさえ?」

シャルナークを煽りながら、こっそりとミメイは胸を撫で下ろす。

ここにいるのがクラピカでなくて良かった。

本物ではなくて、偽物で良かった。

ミメイで良かった。

 

「ほら、早く目でも抉れば?

抉り出したって何の価値も無い私の目を。」

さあ早く、と至って普通な茶色の目を見開いて、シャルナークの方に顔を突き出す。

そんな彼女を見たシャルナークは薄い笑顔のまま肩をすくめ、隣の部屋に繋がるドアを開ける。

「嘘では無さそうな所が困るな。

あ、団長。帰ってきたばかりの所で悪いんだけど少し見てよ。

例の奴、緋の眼じゃないかもしれない。」

「団長?」

早くもボスのご登場か、とドアの方に首をゆっくり動かしていく。

 

 

「生きているのか。」

低くて、落ち着き払った声だった。

言い方はおかしいが、団長に相応しい声だった。

人を纏め、統べ、そして従わせる、そんな声。

兄の暮人と似たような雰囲気を感じさせる。

「殺さずにって言われたから。

ノブナガとウボーは本気で戦ってたから、あともう少し殺り合ってたら危なかっただろうけど。」

ドアの向こうに半身を入れたまま話すシャルナークの方に、団長とやらも近付いてきているのか、徐々に声が大きく聞こえ始める。

「あの2人に本気を出させて尚生きているのか。興味深い。」

 

その言い方に心臓が小さく跳ねる。

どこかで聞いたような、どこかで言われたような。

変な既視感(見てはいないが)がミメイを襲う。

 

「取り敢えず来てよ、団長。」

「ああ。」

足音が近付いて、シャルナークがミメイのいる部屋に戻ってきて。

その後に続いて、闇より深い黒衣がドアを越えて。

黒を纏うその人は、その人の顔は─────

 

 

「······そうか、なるほど。」

唇を引き結んだまま何も言えないミメイとは対照的に、黒衣の団長は楽しそうに呟きながら彼女の方に歩いていく。

「久し振りだな。」

「······どちら、さま?

誰か他の人とお間違えなんじゃないかしら。」

「ミメイ。」

名を呼ばれても、何の反応も返さない。

瞼も動かさず肩も跳ねさせず、虚ろな目のままそっと男を見上げる。

肯定の意を見せたくはないから。

 

「相変わらず感情の機微を読み取らせないな、お前は。

しかしその癖は治っていないらしい。」

す、とミメイの足元を指さす。

外からは見えない筈の靴の中で、足の指に力を入れていたことを看破された彼女は思わず舌打ちをしそうになる。

そもそも前回の時点で、足の指の癖まで見抜いていたことが気に入らない。

誤魔化すのは誰よりも得意だというのに。

 

「団長、知り合い?」

「前に話しただろう。入団させようかと思っていた女だ。」

シャルナークの問いに答えながら、ミメイの顎の下に手を入れる。

その指の感触からの抵抗を図るミメイだが、いかんせん体が動かせないため、首を捻って逃げようとしただけの頭は簡単に捕らえられる。

「あの“流星街に落ちた星”?それがこの女?」

「ああ。」

「···ご愁傷さま。」

ちら、とミメイに視線を向けてから、背を向けてこの部屋から出て行ってしまうシャルナーク。

 

「そのご愁傷さま、の意味を聞きたい所なんだけどなぁ。」

無情にも閉じられてしまったドアを恨めしげに睨むも、顎の下の手によって、ぐいと顔を引き戻される。

「貴方は答えてくれなさそうなんだもの。

ねえ、クーさん。」

頸動脈の場所を探るような指使いに唇を歪めながら、ミメイは眼前の男────クロロを半眼で()めつける。

 

「貴方、幻影旅団の団長だったのね。

知らなかったわ。」

「訊かれなかったからな。俺も言わなかった。」

「訊いた所で答えなかった癖に。

ああ、違うか。

貴方が答えて私がそれを聞いた時点で私を殺したんでしょうね。

私が幻影旅団に入らない限り。」

「どうだろうな。」

クロロはミメイの首から手を離し、次に血で汚れたミメイの脇腹に視線を落とす。

 

「完全に傷が塞がっているな。」

セーラー服はビリビリに破け生地は真っ赤に染まってはいるものの、晒されている脇腹は踏み荒らされていない雪原のように真っ白である。

「有難いことに治りが早いのよ。」

「お前は強化系ではなかった筈だが。」

「私が強化系じゃないことと、私の体質は別でしょう。

昔から早いの、傷の治りは。」

鬼を体に飼っていたから、生まれた時からそうだった。

鬼の力を引き出して使えば使うほど、傷が治るのは早くなっていく。

どんどん人間をやめていく。

 

 

「そうか。」

そんな素っ気ない言葉を口にしながら、再びミメイの首筋に指を這わせる。

「クーさん?」

また頸動脈かしら、とふざけようとした瞬間、クロロの右掌がミメイの首を柔く掴む。

「俺はあの時、わざとお前を手放した。

お前が花開いて、その真価を見せるまでは好きなようにさせようと思っていた。」

じわりじわりと、首筋に置かれた指に力が入っていく。

本気で絞められている、と明確な殺意を感じ取ったミメイは呼吸を確保しようと肩を捩る。

しかしその肩さえも、クロロの左手によって椅子に縫い付けられて動かせなくなる。

 

「クー、さ」

「答えろ、ミメイ。

お前を咲かせたのは誰だ。」

「な、にそれ、意味が分からない。」

胸が苦しい。

息が出来ない。

ろくな抵抗も出来ないまま地上で溺死してしまいそうである。

「俺が知るお前は、欲望の捌け口を求めて世界全体に叫び散らしていた。

それでいながら全てを拒絶して我慢して、何かを酷く恐れていた。

欲望の塊のようでありながら、それを無視して何も望まぬ聖人ぶっていた。」

ミメイの首の薄皮が切れて、クロロの爪の端を赤く汚す。

 

「しかし今はどうだ。

お前は最早耐え忍んでいない。

己の欲望を自覚して、その刃を振るうことを躊躇していない。

見つけたな、欲望の捌け口を。」

酸素が足りなくなって暗くなる視界の中、ミメイの瞼に映るのは弱くて可愛い金糸雀。

その小さな体に余るほどの憎悪と欲望を抱えて、力を渇望し、自身の運命に翻弄されている彼のこと。

 

「貴方に、は、かんけい、ない。」

「ある。鬼宿、という名に心当たりは。」

「······!」

ガタン、と椅子が音を立てるほどにミメイの肩が跳ねる。

その拍子に椅子に彼女を押さえ付けていたクロロの手が離れる。

依然として首は絞められたままだが。

「驚いているな。そんなに予想外か。」

「どうし、て。」

「あちらから俺に接触してきた。

お前に寄生している鬼という生き物は、いつかお前が恣に振る舞う化け物になると言った。

お前はまだ、花開く前の蕾だと。

だから俺はお前を逃がした。」

 

あのクソ鬼め余計なことを、と心中で口汚く罵るが鬼宿は出てくる気配がない。

ミメイの心の奥底に戻ってニヤニヤ笑っているに違いない。

自分が撒いておいた種が育ち、収穫できそうなことを喜びながら。

 

 

「一度手放して好きにさせれば、お前は徐々に花開くと考えていた。

欲望と理性がせめぎ合うギリギリを歩いていたお前は、少しずつ欲望に呑み込まれていくと。

理性が堅固な壁となってはいるものの、その壁は内側から欲望の名を冠した白蟻に崩されて。

俺は、そうしてほんの少しだけ残った理性を押してやろうと思っていた。

最後の引導を渡してやろうと。」

「しゅみ、わる······っは、」

ぐり、と太い血管を押し潰される。

視界が暗転する。

意識が奈落の底に落ちていく。

 

しかし突然首から手が離れ、肺に酸素が勢いよく入り込み、その意識を無理矢理引き戻される。

「何故、俺の知らない所で“そう”なっている。」

「クーさんには関係ないでしょ。」

ごほごほと咳き込みながら、生理的に出た涙を目尻に溜めてクロロを睨みつける。

「お前に念を教えたのは?」

「貴方だけど。」

「お前を見出したのは?」

「···それも貴方だけど。」

この見知らぬ世界にミメイが1人だった時、道を示してくれたのは間違いなくクロロである。

彼に出会わなければ、そのまま流星街でつまらない日常を過ごしていたに違いない。

 

「でも私、貴方に言ったわ。

感謝はすれど、信用はしていないって。」

ミメイは背中に回された両手を少し擦り合わせる。

その感触から判断する所によると、関節を外しても抜け出しにくい縛り方である。

力任せに無理に引きちぎるしかないだろう。

「そうだったな。

けれどお前は俺という存在を完全に拒否することは出来ない。

雛鳥も同然だったお前に、世界を見せたのは俺だ。」

「刷り込みってこと?···確かにそれは否定出来ないわ。

だからって、私のことに貴方が口出しする権利は無いでしょう?」

馬鹿みたいね、と嘲笑うように口角を吊り上げながら視界の端にドアを捉える。

その向こう側には何人かの気配。

間違いなくさっきのシャルナークという男と、他の幻影旅団員だろう。

まともに殺り合うのは愚の骨頂。

いくら鬼の力を使おうともミメイにだって限界がある。

完全に鬼の暴走を許し、鬼となってしまうボーダーラインはかなり近い。

幻影旅団員3人との本気の戦いを強いられたからである。

 

「権利か。そんなものに価値があると?」

「あるわよ。少なくとも私にとって。」

「俺には無いな。」

「ああ、そう。それは残念、ね!」

クロロの瞼が下に下がったその刹那、1度の瞬きの間に、ミメイは手首の縄を無理矢理引きちぎる。

そして自由になった手に鬼呪を顕現させる。

その使い慣れた刀を、小窓の鉄格子の間を通すように放つ。

どうやらここは地上6階か7階ぐらいだったらしく、刀が地面に突き刺さるまで予想以上に時間がかかってしまう。

案の定クロロのナイフがミメイの頬を掠めて、目を真っ赤に染め上げた彼女の髪を一束持っていく。

 

「ひどーい。か弱い女相手に刃物使うなんて。」

地上にある刀をそのままに、その地点から鎖を引き伸ばすようなイメージで黒い靄を生み出す。

すぐにミメイの掌には、外に繋がる長い鎖の端が現れる。

鬼呪装備は、さっき作ったばかりの鎖鎌のような姿に変わったのだ。

「素手だとお前を逃がしそうだからな。」

「逃がしてよ。」

ナイフの猛攻を紙一重で躱しながら、手にした鎖を操ってクロロを牽制する。

「2度も逃がすとでも?」

「あは、そう言うと思った。」

 

 

「団長!」

隣の部屋に繋がるドアが開いて、人影がなだれ込む。

シャルナークと、知らない男女が1人ずつ。

何にせよ幻影旅団の人間に間違いない。

さっき戦った着流しの男と大男はいないのが幸いだ。

 

「団長、これは。」

「手出しするな。」

オーラを膨らませる女をクロロが淡々と下がらせる。

「あは、そんなこと言っちゃって良いのかしら。

お仲間と仲良くおてて繋がなくて良いの?

そのくらいの時間は待ってあげるよ?」

裾の短い着物のようなものを着たその女をチラリと見て、扇情的な赤い唇を開いて笑う。

その上には今にも滴り落ちそうな鮮血色の瞳。

緋の眼とよく似ているが、じっと見ていると美しさへの賛美よりも恐れを感じる、どこか禍々しい瞳。

 

昔真昼が吐き捨てた台詞と同じだと気付かないミメイは、あの時の真昼と同じ顔で立っていた。

 

「何にせよ、ばいばい。」

地上に突き刺さっている刃部分に鎖を巻き付けていくイメージをし、鎖を手にしている体がぐいと下に引っ張られるのを感じながら、ミメイは壁を一蹴りで破壊する。

そして大きく空いた穴の方へ体を踊らせ、巻取られていく鎖の力に従って、地上へと落ちていく。

上手く着地することは考えずに、そのままの不安定な体勢で落ちていく。

 

数秒後大きな土煙が上がるが、その煙の中ですぐにミメイは立ち上がる。

立ち上がれてしまう。

全身の骨が所々折れていたが、ベキベキという鈍い音の短いハーモニーの後完治してしまったからだ。

人間をやめてしまった回復速度。

勿論身に宿る鬼の力によるものである。

「っと、流石クーさん。はやーい。」

もくもくと立ち上る土煙に隠れて、背後からナイフが迫ってくる。

一瞬だけ放たれた殺気に気付き、ミメイはひらりと斬撃を躱す。

「土煙に隠れてチクチク狙うとか陰湿じゃないかしら。」

酷い酷い、と軽い泣き言を吐きながら鬼呪を刀の形に変えて、それを大袈裟に横に振るう。

その最中、何故か鬼宿の『あ、馬鹿。』という呟きが聞こえてきたが気にしない。

何にせよ刀の一振りで生まれた風により、一瞬にして土煙が払われて見通しが良くなった。

どうやら幻影旅団の潜伏場所は昔街だった廃墟だったらしく、ミメイが脱出した建物と同じようなものが周りに乱立している。

その廃墟群の真ん中にある広場、そこにミメイは墜落したようだった。

 

太陽が中天に位置し、さんさんと光を降り注いでいるのがよく分かる。

深い土煙に覆われていた太陽が急に姿を見せたせいか、やけにその光が眩しくて、意識せざるを得なかった。

 

 

「もう諦めて私を逃がしてよ。

私は緋の眼を持ってないし、クルタ族じゃない。

クーさんなら分かってるでしょ。」

クロロのナイフを刀で受け止めて、思いっきり弾きながら彼から距離をとる。

「ああ、見ていれば分かる。

その目は緋の眼とは異なるものだ。

お前は同じ世界七大美色でも、髪の方がそうだからな。」

「ああ、この髪?そうらしいのよね、私も知らなかったけど。

髪くらいなら切ってあげるわよ。それじゃ駄目?」

再び迫り来るナイフを軽やかなバク転で避けきってから、風にそよぐ自分の髪を一房手にするミメイ。

「足りないな。」

そんなミメイを突き刺すような目で見つめるクロロは、一瞬で彼女の背後に回り込む。

 

「欲張りだなぁ、もう。」

決して遅くはない、いや寧ろとても速いクロロのナイフに軽々ついていける反応速度で、ミメイは胸を逸らして避ける。

避ける。

そう、避けられた筈だった。

いつもの様に体を動かした筈だった。

だから当たり前のように避けられた筈なのに。

「あ、れ?」

頬に鋭い痛み。

視界の端に鈍い輝き。

超近距離に迫ったクロロの体。

「なんで?」

避けられてないの?

戸惑いながらも2度目の刺突攻撃を刀で止めようとするが、頭はその命を下しているが、何故か体がコンマ1秒遅れて動いている。

その遅れは、クロロほどの手練相手では命取り。

またもやナイフがミメイの柔肌を傷つける。

 

腕の動きが悪いのだろうかと考えたミメイは鬼呪を消して足技を繰り出すが、やはり遅れている。

彼女が想定していたより、普段より、少しだけ遅い。

クロロのナイフを飛ばす筈だった足が、そのズレのせいで易々と彼に掴まれる。

掴まれた足首を起点にぐいと引き込まれ、不安定になっていたミメイの体は簡単にクロロの方に倒れてしまう。

思っていたより勢いがあったせいか、彼を引き倒すようにしてミメイの顔面は地面に近付いていく。

 

 

とん、と軽い音を立ててミメイの鼻先が適度に硬いものにぶつかる。

すぐにその衝突した物体からの回避行動を取ろうとするミメイだったが、立ち上がろうとして地面につけた右手を捕らえられる。

自由を模索しようとする左手も大きな掌に左手首を掴まれたことにより動きを止める。

そのまま両手首が1つの掌によって纏めて掴まれ、ミメイの体の自由は奪われる。

無理に引き抜こうにも何故か思ったように力が出ない。

鬼の力を引き出しているというのに何故。

念の修行をしても、鬼の力をもってしてもクロロには勝てないのか、と信じたくない疑惑がミメイの頭を支配する。

「クーさん、取り敢えずこの体勢をどうにかしない?

今こっちに向かってきてる貴方のお仲間に勘違いされそうだし。」

現在進行形でクロロを地面に押し倒しているミメイは、手首を掴まれたままそう言った。

クロロの体に上乗りになって顔面を彼の肩口にダイブさせているこの状態は、ミメイの望むところではない。

クロロの頸動脈が予想外に近く、その血が力強く脈打つ音が蠱惑的にミメイの心を揺らすのだ。

 

「照れるような可愛らしい生娘でもないだろう、お前は。」

「そうだけど。

あ、でも私がヤられたのって1回だけだわ。

小さい頃の拷問尋問まがいの凌辱だけ。

あれはノーカンで良いと思うのよね。

全然()くなかったし。」

クラピカ相手には絶対しない物言い。

クロロなら構わないだろう、と謎の開き直りを見せてはっちゃけてしまうミメイである。

クラピカがミメイより歳下で、クロロがミメイよりも歳上であることも開き直りの理由の一つなのだろうが。

 

「そうか。」

しかし何よりミメイの言葉に対してクロロが表情を変えず、特に何の反応も見せない所が、理由の大部分を占めるのだろう。

こういうあけすけな物言いに反応しまいと努力しながら、自分のことのように辛そうに顔を少し顰めるのがグレンとクラピカ。

ふーん、と表面上は軽く流しながらも、その後暫く気を使ってくるのが深夜。

ミメイの自虐ネタによって彼等が少なからず傷つき、ミメイを見てくれるのは勿論嬉しい。

けれど“そう”ではない。

ミメイが真に望んでいることは“そう”ではないのだ。

その程度で終わって貰っては困るのだ。

 

ちなみに、そもそも人の話を聞かないのが真昼と暮人、それからシノアである。

ミメイはクロロもこのタイプではないかと思っていたがそうでもないらしい。

彼は人の話をよく聞いている、ゾッとするくらいに。

 

 

「ところで今日暑くないかしら。

陽の光が突き刺さってくるように感じるんだけど。」

赤いままの目で空を見上げて、巨大な燃える火の玉を捉える。

不思議なほどよく見えた。

いつもより、光の波長の僅かな差を感じ取っている気がした。

酷く眩しかった。

イカロスが目指したのも納得の美しさが、ミメイの全身を刺していた。

「この地方はそろそろ冬だが。」

「あれ?私の勘違い?でも凄く、眩しいのよ。」

太陽をよく見つめる為に上半身を少し上げる。

「その割には太陽を直視している気がするが。」

「うん、そうみたい。何だか見ておかなきゃいけない気がして。」

こんなふうに太陽を見ることが出来る時間は、あまり残っていないんじゃないかって。

分かりたくない、分かろうともしたくない。

しかし予感でも予測でもなく、ただ運命のようなものがある気がした。

 

「さて。」

「クーさんったら、らんぼーう。」

耳を掴まれて為す術がなくなった兎のように、クロロに手首を掴まれたままミメイの足は地上から離れてしまう。

ぶらーんと持ち上げられて、最後の抵抗として蹴りを飛ばすが軽くクロロにいなされる。

それでも尚バタつくミメイと、それを気にもとめずに歩き出すクロロ。

そんな2人の元に近寄ってくるのは、さっきの3つの人影。

「捕まえた?」

「見ての通りよ。」

シャルナークのクロロへの問いに対する解答権を、少しむくれたミメイが奪い取る。

「団長、部屋変えた方が良いと思うよ。

こいつの蹴りでビルの支柱がやられたみたい。」

「いつ倒れてもおかしくないね。」

着物の女と口元を隠した黒ずくめの男が、ミメイと彼女が脱出したばかりのビルを見ながら言った。

 

「ビルを壊すつもりは無かったんだけどなぁ。」

流石私、と自分の現状を棚上げして、普段通り口だけは達者なミメイである。

「で、こいつどうするね。」

「緋の眼じゃなかったって聞いたけど。」

「殺すか。」

「駄目だよ。この子団長のお気に入りみたいだから。」

そうだよね、とシャルナークが訊くのに対してクロロは何も言わない。

肯定もしないが否定もしない。

 

「ねえクーさん、私お邪魔虫だと思うの。

仲良しこよしのお仲間さんの中で、私浮いてると思うの。

だからもう良いじゃない。離してよ。」

ね、とほぼ同じ高さになっているクロロの顔を見つめてヘラヘラ笑う。

「次はあのビルにするか。

確か地下があった筈だ。」

「了解。」

しかしミメイの意見など完全に無視され、クロロ含む幻影旅団員4人からの容赦のない威圧に、諦めたように息を吐き出した。

何故かミメイは上手く力を入れることが出来ず、クロロからは逃げられない。

たとえ拘束から抜け出したとしても、この4人相手では逃げきれるかどうか。

現状は取り敢えず様子見か、と渋々無駄な力を抜いたのだった。

 

 

 

─────────

幻影旅団の新たなアジトに引きずり込まれた後、窓のない地下室に1人転がされたミメイ。

今度は縄ではなく重そうな鎖で手首と足首を拘束されている。

埃っぽい床についた頬をずらして、少しでも床に顔面がつかないように芋虫のように動いた。

どうにか上手くごろりと転がると、床の冷たさが背中に広がってミメイの体の熱を奪っていく。

 

陽の光が全く届かない室内に暫くいれば、さっきまでの身が焼けてしまいそうな変な感覚はいつの間にか消え去っていた。

「······。」

ミメイは鬼宿を呼び出そうとして、やめた。

呼び出すまでもないことだと分かっていたし、あの無神経な鬼からの最終宣告など聞きたくなかった。

 

牙のように尖ってきた犬歯。

鬼宿の力をそこまで引き出さずとも、簡単に赤くなる瞳。

太陽の光を直接浴びた瞬間、抜けていった力。

心当たりは山ほどあった。

 

鬼は昔、吸血鬼だったという。

真昼と研究していた頃に知った事実だった。

鬼呪装備を手にし鬼の力を使い過ぎた者は鬼に喰われて狂い、やがて鬼そのものになるという。

これは、真昼の身をもって証明されている。

ならばミメイは。

ミメイは今どうなっている?

 

鬼の力を引き出して、使うことに段々躊躇いがなくなっている。

完全に喰われまいと理性を保っているが、欲望は湧いてくるばかり。

その欲望を人に向けることを我慢せず、寧ろ進んでやっている。

人間と鬼との境界線が曖昧になっているのだ。

 

 

ミメイの鬼は特別製。

真昼や、胡散臭い吸血鬼のフェリド·バートリーにも言われたことだった。

鬼を飼う人間の癖に、吸血鬼に近付いていると。

その真意はどこにあるのだろう。

ミメイは産まれた時はちゃんと人間だった筈だ。

鬼が混ざっていたとはいえ、真昼と同じ様に人間だった。

それならばいつ、ミメイは吸血鬼に近付いたのだろう。

そのきっかけはいつなのだろう。

 

「鬼宿···貴方一体、何なの?」

この身に宿る鬼の存在が分からない。

今まで分かろうとしてこなかった。

近付きたくもなかった。

多くを知りたくはなかった。

「貴方、鬼なの?吸血鬼なの?それとも他の何かなの?」

心の奥底から手を伸ばすように、鬼宿がミメイに答えを返す。

『馬鹿な未明。

今更そんなこと訊いたって遅いのに。

かつてはナニカ、かつては神、かつては吸血鬼、そして今はただの鬼。

それが僕だって、何度も言ったじゃないか。』

「···。」

『僕は今は鬼だよ。でもそれは呼び方が変わったに過ぎない。

僕は不変で普遍なんだから。』

 

「それなら私は何なの。

そんな貴方を飼っている私は、何?」

『人間でいたいんだろ。』

「···うん。」

真昼と約束したことだ。

クラピカが肯定してくれたことだ。

だからミメイは、人間であることに縋りつく。

 

『でも残念、君はもう人間をやめてしまっている。

人間をやめて、美しい化け物になりつつある。』

「それは、吸血鬼?」

『可哀想な未明。

これは運命だったんだ。ただの予定調和だったんだ。』

鬼宿は答えない。

ミメイの心を抱きしめて包み込んで閉じ込めるように、その金髪を触手のように伸ばしているようだ。

 

「···いや、だ。」

『うん、そうだね、嫌だろうね。

でも駄目だ。もう遅い。』

「私は、人間。

人間でいなきゃ、皆私のこと、」

『大丈夫だよ、未明。

たとえ未明が人間をやめても、そんな君を受け入れてくれる人がいる。』

慈悲深い母親のように優しく言い聞かせる鬼宿。

「嘘。」

『嘘じゃない。』

「嘘、嘘ばっかり。」

誰も聞いていないのを良いことに、駄々っ子のように反論する。

 

『もしも受け入れてくれないなら、殺せば良い。

全ては君の思うまま。

欲しいものを好きなだけ、好きなものを欲しいまま。

君はそれで良いんだよ。

君のやり方で、愛しいものを愛してあげれば良い。』

「そんなの、絶対おかしい。」

『そりゃおかしくて当たり前だよ。

狂ってるんだから。』

「·······───────。」

 

 

声にならない声だった。

声に出来ない声だった。

言葉の形を取れない、ただの絶叫。

空を切り裂くような、悲痛に塗れた獣の叫び。

人間だと肯定して欲しくて、存在を認めて欲しくて、吼えていた。

 

血色に染まった夕焼け空のような瞳から、ぽろりと星がこぼれ落ちる。

滅多に見ることが出来ない流れ星。

透明なその星は血の気を失った頬を伝い、床に広がる紫の髪を濡らす。

 

 

 

 

────────助けて。

 

 

 

 

夕焼け色の目にシャッターを下ろす瞼の裏に映るのは、拗ねたように小さな口を突き出す1人の少年。

いつも少しツンとした様子で、ミメイの傍を歩いていた少年。

しかしその姿は瞬く間に涙色で塗り潰され、何も見えなくなってしまう。

 

 

 

 

─────────助けて。

 

 

 

 

ズズ、と鬼宿がミメイの意識を闇に引きずり込む音が聞こえたのが、自我を保っていられる最後だった。

そうしてミメイは目を閉じた。

 

 

 



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28:はないちもんめは罪ですか

今回少しばかり百合百合しいです。
ご注意を。






どれくらいの時が経ったのだろう。

ふと、ミメイはそんなことを考えた。

考えた所で意味が無いのに。

 

今度はどうしてそんな思考に行ってしまったのかを考える。

ああそうか、急に意識が浮上したから。

だからついつい、そんなことを考えてしまったのだ。

 

俯いていた顔をゆるゆると上げれば、冷たくて鋭い視線を直接浴びる。

その目に映るのは愉悦の色。

ああこの人は愉しいんだなぁ、とミメイは他人事のように思った。

「爪全部剥がされてやっと起きるなんて、お前つまらない奴ね。」

目の前に立つ黒衣の男の言葉で、掌の先がジリジリ痛むのに気が付いた。

そしてやけにスースーする。

守られているべき所が空気に直接触れているような、そんな感覚。

また爪を剥がされたのか、と精一杯の困り顔を取り繕えば、男は気に食わなさそうに舌打ちした。

 

「···あは、そんなに褒められても何も出ないわよ、フェイたん。」

「そのおかしな抑揚やめるね。イラつく。」

ミメイ曰くフェイたん────幻影旅団の1人であるフェイタンは床に散らばったミメイの爪を踏み潰す。

「私が楽しいからやめない。

それともフーちゃんが良かった?

可愛い路線は嫌だろうから、少しは慮った結果だったんだけど。

失敗だったかしら。」

「チッ。」

さっきより露骨な舌打ちが聞こえたかと思うと、ミメイの腹を熱が襲ってきた。

「ひどーい、いたーい、やめてよー、フェイたーん。」

椅子に縛り付けられているミメイの無防備な腹に、突き立てられたのはフェイタンが手にしていた刀。

既に赤黒くなっていたミメイのセーラー服に、鮮血がじわぁと広がる。

「思ってもないこと言うのやめるね。」

「私だって痛みは感じるのに。顔に出ないだけで。」

「何度やっても拷問し甲斐のない奴。」

「それならやめて欲しいんだけど。」

胡散臭い義兄のようにミメイがヘラヘラ笑えば、フェイタンはとうとう彼女に背を向けた。

 

 

パタン、と静かな音で閉まったドアから視線を外し、地下室特有の低い天井を見上げた。

「あーあ、また放置プレイか。」

足首に枷がはめられてはいるが、少しは自由が許されている足を動かす。

手と同じ様にスースーする足先を床に滑らせれば、ピチャリピチャリと響く水音。

それから鼻の奥に貼り着くような血の匂い。

どうやらミメイが気絶している間に、爪剥がしフルコースを2、3回振舞ってくれたらしい。

「フェイたんは容赦ないなぁ。」

やれやれ、と赤い汚い水溜まりから足の裏を引き上げる。

他にやることもない為その足をブラブラ振りながら、ミメイを何度も拷問している男────フェイタンのことを考えることにした。

 

 

幻影旅団のアジトからの逃亡未遂の後、ミメイはこの地下室に監禁された。

恐らく何日かはそのまま放置(水、飯抜き)され、忘れられているのではなかろうかと彼女が思い始めた時、現れたのがフェイタンだった。

柊家での教育のお陰で水も食料も無しでそこそこ生きていけるミメイだが、流石にキツくなっていた頃。

やっと配膳係が来たと安堵の息を吐き出したのも束の間、ミメイに与えられたのは水は水でも、直接顔面にぶつけられた水だった。

気絶した人間を無理矢理起こす為のアレである。

 

ミメイが抗議の声を上げる間も無く、その後はフェイタンによる拷問フルコース。

どんな傷もすぐ治ってしまうせいで、延々と与えられる責め苦。

例を挙げるなら、綺麗に剥がされた爪は何分かすれば元通りなのだが、その爪を間髪置かずに剥がされたことだろうか。

ミメイの体が普通の人間より遥かに頑丈で、よっぽどのことがない限り死なないと悟ったフェイタンは、嬉々としてミメイを拷問した。

ミメイは情報を隠し持っている訳でもないのに。

フェイタンの方もそれは分かっているようで、仕事というよりただの遊びのように彼女を痛めつけた。

どこまでやったらどうなるのか、そんな純粋な好奇心で目を鈍く輝かせて。

 

餓死だけはしないように水と食料は補給されたが、その時に受けさせられた辱めは割愛である。

大体のことは柊家の訓練で経験済みで、結構慣れているミメイだったがアレはいただけない。

ミメイを拷問した、柊家の教育係は義務でやっていただけだった。

しかしフェイタンは違う。拷問が趣味であろう彼は違う。

考え方が根本から違うのだ。

 

 

「痛いなぁ。」

腹の刀傷から、命がボタボタこぼれ落ちていく。

洗うことを許されないセーラー服は既に綺麗な赤色で。

虚ろな目をして狭い天井を見上げれば、まるで死んでしまったように見えることだろう。

けれどミメイは死なない。

死ねない。

人間をやめてしまった再生速度で、体が元通りになってしまうから。

 

「お腹······空いた。」

くうくうと腹が悲しそうに鳴る。

一般的な食欲ではなく、唾棄すべき欲望が宿っている。

絶望の叫びを上げた所で、助けてと吠えた所でどうしようもない。

ミメイはミメイでなくなっていく。

人間でなくなっていく。

 

「会いたいなぁ。」

逃げきれただろうか、あの子は。

ミメイを人間だと肯定してくれたあの子は。

 

彼のことを考えると、体がジリジリ燃えるように痛む。

澱んだ欲望が身を焦がし、心の奥底から鬼が手を伸ばしてくる。

そしてお腹が空いてくる。

唇の下に隠された白い犬歯が、何かを求めるように痛む。

酷く乾いた喉元が、何かを求めるように鳴る。

 

「会いたい、会いたい、会いたいよ。

でも会ったらきっと」

─────死なない程度に殺しちゃうんだろうな。

 

 

 

ガチャン。

重いドアが開いて、再び閉まる音。

それによってミメイの意識は現実に引き戻され、一時的な貧血による目眩で歪む世界を目に映した。

「生きてる?」

揺らめく視界の中に、鋭い目の女が入ってくる。

椅子に座らされたまま天井を見上げているミメイを見下ろしている。

その女───マチと目が合って、ミメイはにっこり笑いながら唇を開いた。

「あ、マチさんだ。」

「パンならあるけど食べる?」

硬そうな黒パンをミメイの顔の前に見せるマチ。

そのパンに視線を移すミメイは、さながらパン食い競走の選手であった。

 

「え、くれるの?やっぱマチさんは優しいなぁ、誰かと違って。」

「ほら。」

「ありがとう。」

もご、と少々雑に口に突っ込まれたパンを咀嚼しながら礼を言った。

「手当てしようか?」

真っ赤に染まったミメイの腹を見て、マチが呟く。

拷問中にミメイが腕を切り飛ばされた時、マチは彼女の腕を縫い合わせていた。

どうせすぐにくっつくからとミメイは遠慮したのだが、何やらミメイにシンパシーを感じているマチは親切にしてくれたのだ。

 

「ううん、大丈夫よ。もう治ってきたから。」

その言葉通りミメイの腹の傷は既に塞がっている。

「じゃあ服縫ってやろうか。」

「ううん、やっぱり自分で縫う方が好きだし。

気持ちだけ貰っておくわ。」

「確かにね。」

納得したように頷くマチを見て、裁縫が好きな者同士だからだろうか、とミメイは不思議に思う。

そして、パンを飲み込んだ代わりにその疑問を吐き出した。

 

「マチさんはどうして私に親切なの?」

その問いに対し、少しだけ眉間に皺を寄せるマチ。

「アタシが親切だと思うんだね、アンタは。」

「だって殺そうとしないし、拷問しないし。

ご飯くれるし、手当てしてくれたし。

充分親切だと思うけど。」

「···アタシにはアンタをどうこうする理由が無いからね。」

懐から手拭いを取り出し、水が張った盥にそれを浸けながらマチは答えた。

「ふぅん。でもだからって私を逃がしてはくれないのね。」

「団長の命令だから。」

ほら口閉じな、という言葉と同時に濡れた手拭いがミメイの顔面に押し付けられる。

ゴシゴシと顔についた血を拭き取られながら、ミメイは瞬きを繰り返しながらマチを見上げる。

 

 

「クーさんかぁ。

······どうしてクーさんは私を監禁したままなんだろう。

殺したいなら早く殺せば良いのに。」

血を拭き取られて少しすっきりしたミメイは、手拭いを洗っているマチの背に問いをぶつけた。

「団長はアンタを殺す気、無いと思うよ。」

「知ってる。殺すんだったら最初に殺されてるもの。

流星街で初めて会った時に。」

まあ実際死ぬなら死ぬで良かったんだろうけど、とオーラをぶつけられて強制的に精孔を開けられたことをミメイは思い出す。

 

「団長はその時からアンタに執着してたから。

手に入れ損なったって、珍しくボヤいてた。」

「へぇ······クーさんの執着とか嫌だなぁ。ゾッとする。」

研究者にとっての実験用のモルモット、飽きっぽい幼い少女にとっての人形、そんな類の執着に違いない。

そんなものは勘弁である。

心底遠慮するミメイだった。

「それには同意するよ。」

ミメイよりもクロロとの付き合いが長いであろうマチも肩をすくめた。

「同情してくれても良いのよ?」

「ああ、してあげるさ。」

マチもクロロがどういう人間か理解しているが故に、ミメイに同情している。

マチだけではなく、ご愁傷さまと言っていたシャルナークも。

「ついでに逃がしてくれても良いのよ?」

「それはナシだね。」

「あは、知ってた。」

これだけ長い間幻影旅団の巣にいれば、この組織がどういう性格なのかが分かってくる。

秩序が適用されない無法者の集まりでは決してなく、彼等には彼等なりのルールが存在する。

その1つが「団長の命令は絶対」。

つまりクロロの命令は絶対。

 

ミメイに対して比較的好意的なマチを懐柔しようが、拷問好きなフェイタンにミメイという存在に飽きてもらおうが、ミメイが解放されることはない。

恐らく他の旅団員も同様だろう。

闘った後1度も顔を見ていないノブナガもウボォーギンも。

偶にミメイを観察しているシャルナークも。

顔も名前も知らない、他の団員も。

 

 

「結局クーさんをどうにかしないと、私の自由は戻ってこない。

でも最近クーさんはいないみたいだし。

どうしようかな。」

「···アンタはどうしたい?」

ミメイの向かい側に椅子を置いて、そこに座るマチが問う。

最近はマチがミメイの話し相手になることが多いのだ。

拷問中以外暇なミメイとしては願ったり叶ったりである。

「それを訊くってことは私を逃がしてくれるってこと?」

「いや、ただの興味。」

スラリとした足を組み替えながらマチは言った。

「なぁんだ、つまんない。

でもマチさんの質問には答えるわ。親切にして貰ってるお礼。

···そうね、取り敢えず拘束は嫌。

特別自由が好きって訳じゃないけど、縛られたままでいるのも趣味じゃないの。

出来れば拷問もされたくないし。」

「慣れてるんだろ?

フェイタンが舌打ちするくらいには。」

「まあそうだけど。

フェイたんが望む反応はしてあげられないのが残念。」

フェイタンがミメイに苛つく姿を思い出して、クスリと笑いを漏らした。

 

「アンタ、やっぱり旅団(ウチ)に入りなよ。」

マチが目を細めながらミメイを勧誘する。

「いや。」

「向いてると思う。」

「···そう、ね。」

向いていないとは言えなかった。

恣に奪い、殺し、蹂躙する旅団という組織の性質は、今のミメイの嗜好と似通っている。

ミメイは否定しているが、嫌がっているが、それでも鬼からは逃げられない。

ミメイだって、それは承知していた。

承知した上で絶望し、諦めながら足掻いている。

矛盾の海で独り泳いでいる。

 

「でもね、違うのよ。私にだって好みはあるから。」

「へえ、どんなのが好き?」

「雛鳥みたいに可愛くて弱い癖に、誰より欲張りで。

目的の為なら自分の身だって犠牲にする。

自分以外も犠牲にするつもりでいる。

でもね、結局の所弱さを捨てられないせいで、自分以外は差し出せない······そういうタイプが好きよ。」

「特定の誰かを思い浮かべて言った気がするね。」

「ふふ、どうかしら。」

こうして言語化してみれば、ミメイと真昼はやはり似ていたとよく分かる。

流石双子と言う他ない。

男の趣味が近過ぎる。

まあだから実際、ミメイの初恋はグレンだったのだが。

 

「無差別に食い散らかすつもりは無いの。

どうでも良いものを手にした所で、なんの腹の足しにもならないから。

だから私に泥棒は無理よ。」

だって泥棒の守備範囲は凄く広いでしょう、とミメイは微笑んだ。

「欲しがってるものを全て手にしたら、その後アンタはどうする?」

「そもそもね、私は自分のものにする気は無いわ。

したいけど、したくて堪らないけど、しちゃいけないの。」

「やりたきゃやれば良いじゃないか。

なんで躊躇うんだか。」

自然に生まれたマチのその問いに、ミメイの体がピシリと硬直する。

その後すぐにミメイの顔にはしっていた緊張は解け、代わりにベトリとした笑みが浮かぶ。

 

 

「だって、殺しちゃうもの。」

その静かな声は、抑揚の無い軽い声は、血の色だった。

「大切にしたいのよ、大切にしなくちゃいけないのよ。

でも私は、殺してしまう。

欲望のままに自分のものにしたら、ぐっちゃぐちゃに(ころ)してしまう。

でも死なれたら困るから。

死なない程度に殺し続けるの。」

たとえどんな手を使っても。

たとえ誰が許さなくても。

 

真昼はどうしてグレンを殺さずに済んだのだろう。

今となってはそれが不思議なミメイだった。

しかしすぐにいや違う、と否定する。

真昼だってグレンを滅茶苦茶にしてしまいたかった筈だ。

それが鬼の本質だ。

強い鬼を取り込んだ人間は皆そうやって狂うのだ。

そうであったとしても────殺したい程恋していても、殺したくない程愛しているから。

だから「死なない程度に殺したい」が答えになる。

命を奪わずとも、その目に自分だけを映させて。

恐怖や戸惑いで強ばる頬に爪を立てて。

その唇が血を流すまで噛み付いて。

生を訴える血管が通う首筋に牙を突き立てて。

 

(ミメイ)の全てで貴方(クラピカ)の全てを傷つけたい。

 

 

「······酷いなぁ、ほんと。」

体も心もズタズタにグチャグチャに、私の手で傷ついて欲しい。

そんな最低な欲望しか生めない恋なのだ、これは。

馬鹿みたい、とミメイは目尻を下げて笑う。

さっきまで浮かべていた血色の不気味な笑顔は霧散して。

哀しそうな、困ったような笑顔を形取るミメイの顔を、マチは静かに見つめていた。

 

 

好きならば大切にしなければいけない。

恋が纏う雰囲気は優しくてあたたかな方が良い。

愛は与え合い、分け合うものだ。

そうだと分かっていて、そうしたいと願っていて、ミメイには出来そうにもない絵空事だった。

世界滅亡を巻き込んだ真昼の恋の方が、まだ素敵に思えてしまう。

 

 

「ねえマチさん。」

正面のマチの方を見ないまま、ミメイは口を開く。

「マチさんは、恋をしたことがある?」

「·····さあ、どうだろうね。」

「私ね、最近よく思うの。

普通の女の子に生まれたかったなぁ、って。

普通に生まれて、普通に成長して、普通に恋をして、それで、」

そこで1度唇を止めて、知らず知らずのうちに強ばっていた肩から力を抜いた。

 

「結ばれて、家族になれたら···幸せなんだろうな、って。」

「······。」

「あ、別にね、そう出来ない私が幸せじゃないとは言わないわ。

今私そこそこ幸せだから。」

「そう。」

「それでもね、夢を見ちゃうの。

血の匂いも色も知らないまま生きている私を。」

馬鹿みたいでしょ、と紅色に変わった瞳に瞼を下ろす。

そこに映るのは、綺麗なワンピースを着て白百合のように笑う少女。

そしてその少女の手が赤く染まり、ワンピースも破れて穢れ、闇を引き連れて嗤う変わり様。

 

「生まれた瞬間に私の運命って奴は決まってたのね。

うん、知ってた。昔っから。」

真昼がそうだったから、嫌というほど。

柊に生まれ、鬼と混ざって生まれた時点でミメイの“人”生はいつか終わる運命だった。

絶望なんてとっくにしていた。

助けを求めた所で意味は無い。

 

ああそれならば────────

 

 

 

 

「あは。」

パキン、と乾いた音が響く。

それがマチの鼓膜を揺らすより早く、ミメイは金属製の枷を壊して自由になった体を動かす。

枷の赤い跡が残っている手を、向かいで少し腰を浮かしただけのマチに伸ばし、そのまま力任せに床に押し倒す。

太陽の光が届かない地下で鬼の力を引き出したミメイは、少しだけ気を抜いていたマチを凌駕する。

してしまう。

念能力をまともに使いこなせていないと幻影旅団員達に評されたミメイでも、鬼の力だけでその壁を飛び越える。

 

「思ってたことがあるの。

マチさんがこの部屋に来てから、ずっと。」

マチの体の中心を片方の掌で押さえることにより、彼女の抵抗を完全に殺したミメイは赤い口内を見せて笑う。

「今日のマチさんはすっごく良い匂いがするって。」

マチに覆い被さったまま、空いている方の手を彼女の頬に這わせる。

そして頬から顎の下、顎の下から首筋へ。

つ、と薄ら浮き上がった血管をミメイは白い人差し指でなぞる。

「肩の所、怪我してたのね。

服の下だから見えないし、ちゃあんと手当してるから傷も塞がってる。

でも分かる。

これが足とかならまだしも首近くの肩だもん。」

血色の目を妖艶に細め、包帯か何かで少し膨らんでいるマチの肩に視線を落とす。

それから首筋をなぞっていた指を布の下に差し入れて、肩の傷にそっと触れた。

 

ピクリとマチの指が跳ねる。

その反応を見て笑みを深めたミメイは、親指で傷口をグリグリ捩る。

引き攣っていた肌を解すように、繋がっていた肌を離すように。

「アンタ、」

ミメイの腕1本、それが丹田を押さえているだけで起き上がれないままのマチはミメイを睨みつける。

「なぁに、マチさん。」

その鋭い視線をゆったり受け止めるミメイの口は、はくりと動く。

白い牙を覗かせて。

「何がしたいの。」

鈍い音がして、傷口がゆっくり開いていく。

繋がり始めていた繊維が千切れて、じわりと血が滲んでいく。

肩に感じる柔い痛みに、マチは表情を動かさないままミメイに訊いた。

「さぁ?私にもよく分からない。

分からないけど、仕方ないじゃない。

空きっ腹の私の前に、血の匂いを漂わせて来る方が悪いでしょう?」

マチの傷口が開いた途端濃くなった血の匂いを味わうように、小さな赤い舌を出すミメイ。

その様は獲物を定めた獣のようで。

喰らい尽くすことを得意とする捕食者のようで。

マチが今までに感じたことのない異質で禍々しい殺気を放っている。

 

床に押し付けられた背中を冷たい汗が滑っているのを感じて、初めてマチは自分が緊張しているのに気が付いた。

恐怖とまではいかない。

しかしどこか畏怖に近い。

近付いてはならない、見てはならない、触れてはならない。

そんな禁忌を前にしているような。

強い人間を相手取っている時とは違う、異常な緊張感。

心臓を直接撫でられているかような不快感。

 

 

「ねえマチさん、私マチさんのその顔好きよ。

私が“何”か分からなくても本能的に危機を嗅ぎ取って。

表情は変えまいと感情を抑えてるけど、目だけはどうしても揺らしてしまう。」

肩の傷口に爪を立て、ほんの少し傷口に指を差し入れて嬲るように掻き混ぜる。

流石に顔を歪めたマチを見下ろして、ミメイは血の香りを胸いっぱいに吸い込み、恍惚とした笑みを浮かべた。

「もっと傷つけたくなる。

もっともっと、傷ついて欲しくなるの。

私の為に傷ついて、私のせいで傷ついて。

消えない傷を刻みたくなる。」

にぃ、といやらしい弧を描く赤い唇。

そこからチラリと覗く白い牙。

人間らしさを失って爛々と輝く赤い瞳。

強烈な狂気と混沌がマチの目の前にあった。

 

人当たりのよい薄っぺらい笑みを浮かべていた少女はいない。

世話をされて少し照れ臭そうに笑っていた少女はいない。

困り顔で夢と幸せを語る哀しそうな少女はいない。

“これ”は一体、何だ?

 

 

「ちょっと遊ぶだけのつもりだったのに。

マチさんが思ってたより良い反応するから、私も愉しくなってきちゃった。」

人間らしくない尖った犬歯を見せて、ミメイはマチを見下ろしている。

傷口をまさぐっていた指を首に持っていき、マチの肌の薄い所を探るように撫でる。

「うーん、ここかな。」

トントン、と優しく首のある一点を叩き、再び何かを確かめるように指を動かす。

 

「実は私ね、処女じゃないんだ。

でも童貞喪失はまだなの。

だからマチさんが貰ってくれる?」

「は?」

「やだマチさんのえっち。私の下半身をそんなに見つめないで。」

「いやだって、アンタ···。」

「違うよ、そういう意味の童貞じゃないよ。

はえてないよ。私は正真正銘女の子だもん。」

少し拗ねたような口調。

おませな女の子らしい抑揚。

それらに一瞬マチの気が緩むが、ミメイの顔を見てすぐ表情を凍らせた。

 

「人間を殺したことはあってもね、まだ食べたことはないのよ、私。

私は女の子だから処女って言い方でも良いんだけど、貫くのは私だからやっぱり童貞かなぁ、って。」

混沌が口を開けていた。

ゾッとするほど赤い中身を見せて、鋭い牙をチラつかせて、ぽかりと口を開けていた。

グルグルと欲望が渦巻く赤い目が、そうしてマチを見下ろしていた。

 

「お腹が空いたらご飯を食べる。

当たり前のことでしょう?

だから貰ってくれるよね、吸血童貞。」

マチの首を触っていた指を動かして、ミメイはマチの顎に手をかける。

ぐいと顎を上向かせて固定し、首に顔を近付けやすくする。

そしてミメイは口を開けたまま、マチの無防備な首筋に鼻先をくっつけた。

あと少し、あと少しで、と誰のものか分からないが逸る心のままに、ミメイは舌で牙の感触を確かめる。

今からこの牙を首に突き立てて、それで、

 

 

────────それで?

 

 

 

 

ポタリと疑問が落ちてくる。

まだ血は炎のように熱いまま。

高揚感と恍惚感で心は満たされている。

それなのに何故か、不安で堪らなくなってしまう。

シャツのボタンを掛け違えてしまった気がしてしまう。

 

「あ、れ?」

おかしい、何かがおかしい。

絶対に何かが間違っている。

どこがおかしいのさ、さあ早く、さあ今すぐ、と鬼宿が叫んでいる時点でミメイは間違えてしまっている。

ミメイと鬼宿は鏡合わせ。

ミメイが望まないことを鬼宿は望むから。

 

 

力が抜けていくミメイを引き剥がし、マチはミメイの下から抜け出して距離を取る。

警戒は最大限。

目の前の得体の知れないものが接近した時すぐにでも殺せるように。

そんな彼女をぼぉっと見つめて、ミメイも体を起こしてぺたりと座り込む。

グルグル、ぐるぐる、混乱しきった思考が回っている。

「私今、何をしようとしてたんだろう。」

半開きの唇に手を持っていき、親指の腹を尖った犬歯に当てる。

そっと当てた筈なのに、プツリと可愛らしい音がして皮膚がちぎれてしまう。

人間の歯はいくら尖っていたとしても、触れたぐらいでは皮膚を割けない。

ならばこれは犬歯ではなく、ただの牙だ。

人間の歯ではなく、正真正銘化け物の牙。

 

「嘘。」

親指の腹に出来た、ぷっくりとした赤い玉。

自分のものだからか全く美味しそうに見えない。

これでは食欲を満たされない。

そんな思考が頭を支配していく。

更なる欲望が心を侵食していく。

そして、その全てを否定する理性が叫んでいる。

化け物、人間をやめた化け物、吸血鬼紛い、と。

 

「いや···どうして···?

私は人間だもん。

真昼と約束したの。私だけは人間をやめちゃいけないの。」

幼子のように喚き散らす。

拙い言葉で訴える。

それでも慈悲の心を持たない鬼は、ミメイに優しく囁くのだ。

早くおいでよ、こっち側の壊れた世界へ、と。

「私、人間なのに。

人間なんて食べたくない。

血なんて欲しくない。

お腹なんて空いてない。

空いてないのに、どうして。······どうして、こうなるの?」

 

 

いつの間にかマチの姿は無く、代わりにクロロがミメイの前に立っていた。

そしてミメイは、彼の首に飛びついていた。

首の皮膚の下に流れる赤い血潮。

それを狙って口を開いてしまっていた。

今にも首に突き立ててしまいそうな牙を自分の舌で止めて、唇の端から血を漏らしながらミメイはクロロの肩にしがみつく。

「クーさん、私今ね、おかしいの。

おかしくなっちゃってるの。

だから早く私を拒絶して。

殴ってでも蹴り飛ばしてでも良いから、私を貴方から引き剥がして。」

その言葉とは裏腹に、クロロの肩の上の指に力が入る。

 

「縋りついているのはお前の方だと思うが。」

「うん、そうだね。

だからお願い。私の理性が勝ってるうちに、私を引き剥がして。」

自分の舌に牙を突き立てて必死に牙を押し留める。

舌から溢れて顎を濡らす血を気にもとめず、ただ必死に。

「お前の願いを聞き入れてやる義務は無いな。」

「権利も義務も、貴方にとっては塵芥にすぎないのね。

そんなことだろうとは思ったけど。」

 

欲しい、欲しい、血が欲しい。

熱い血が欲しい。

首に噛みついて、牙を突き立てて、好きなだけ貪って。

そんな甲高い鬼宿の声にノイズが混じる。

年頃の女らしい、聞き慣れた声が。

真昼と全く同じ声が。

 

ミメイは鬼宿で、鬼宿はミメイで。

深い深い所で混ざり合って融け合って1つになる。

これではもう、どちらが鬼か分からない。

いや結局の所ミメイも人間ではなかったということなのだ。

どれだけ否定しようとも、同じ穴の狢という言葉を真実は紡ぐ。

 

 

「俺は言った。

お前が恣に振る舞う化け物になるのを見たいと。」

「···。」

クロロの鎖骨付近に顔面を埋めたまま、ミメイは理性の泣き声を聞いていた。

今にも欲望に呑まれて消えそうな、その叫びを。

「今ここでお前を拒絶すれば、お前は踏みとどまる。

それだと俺の欲しいものは手に入らない。」

クロロはミメイに触れない。

ミメイには好きなようにさせておきながら、何もしない。

ただ静かにその時を待っている。

何をしてもしなくても、ミメイが化け物になることは予定調和だと感づいているからである。

 

「ほんと、趣味悪い。

趣味が悪いわよ、クーさん。

可愛い女の子がお願いしてるのよ、それなのに。

それなのに貴方は私の嫌がることを望むんだ。」

ミメイだって分かっている。

目の前の男がミメイを拒絶することはないと。

肯定もせず、否定もしない。

ただ自分の欲しいものの為に、価値を見出したものの為に動くだけなのだ。

そういう類の人間だと嫌という程分かっていた。

分かっていながら、縋りつく。

縋りつかずにはいられない。

人間でいたいが故に、人間に縋りつかずにはいられないのだ。

 

「変なの。

誰だって自分が喰われそうだって気付いたら、逃げようとするのに。

クーさんは逃げてくれないなんて、酷いね。」

ミメイは化け物で、捕食者で、人間を犯す存在で。

けれどこれでは、どちらが捕らわれているのか分からない。

「酷い、酷いよ、貴方は本当に酷い人。

···でも本当に酷いのは、私なんだろうな。」

真昼との約束も破って、弱い人間のまま死のうと誓った仲間達も捨てて。

ミメイは独り、化け物になる。

これが幸せな物語なら、きっと優しい王子様が助けに来てくれた。

化け物に呪われて化け物になる運命だったお姫様を、愛の力で救い出してくれる王子様が。

けれどもこれは悲しい現実で。

真昼とグレンでも駄目だったものを、ミメイがどうしようというのだろう。

 

 

そっと顔を上げてみる。

すぐ近くで暗い昏い目が2つ、ミメイを見下ろしていた。

不気味なほど凪いだ目が。

熱を感じさせないその目に映るのは、赤い目の化け物だった。

血に欲情して顔を赤らめる、ただの人でなし。

鬼宿と真昼と吸血鬼と同じ類の、人間としての枠を外れてしまった存在。

 

「ねえクーさん、私を人間だと肯定してよ。

私は人間だって、人間に見えるって。」

クロロは何も答えない。

助けを乞うような、救いを求めるようなミメイの手を振り払うこともなく、ただ黙っている。

「私は人間だよね?」

「お前が人間かどうかなんて、俺にとっては関係のないことだ。

俺はお前が欲しい。

化け物として目覚めたお前が。」

淡々と紡がれたその言葉に、ミメイは瞳孔の開ききった目で瞬きをする。

恋人達が交わす素敵な睦言よりも直接的で、真っ直ぐに歪んだその言葉に、ミメイの心は一際大きな鼓動を奏でる。

 

「そう、私が欲しいんだ。私を欲しがってくれるんだ。

人間をやめちゃった私を欲しがってくれるのね、クーさんは。」

嬉しい、と血に濡れた唇を動かして、ミメイは舌から牙を引き抜いた。

欲望を何よりも好む鬼と混ざっているから分かる。

クロロの言葉に何一つ嘘は無いと。

彼は間違いなくミメイを欲しがっている。

恐らく鬼のように、真昼のように、吸血鬼のように、壊れてしまったミメイを。

この世に生きる人間の中でも特に欲深いであろうクロロは、そんなミメイまでを欲するらしい。

混沌の底、深淵の向こう側、世界の破れ目、それらを見ようと、手にしようとする人間のなんと欲深いことか。

その先には何も無いというのに。

柊家も百夜教もそんなくだらないものを欲しがって、その末に世界を滅ぼした。

そのとばっちりを食ったミメイの家族と仲間は運命に轢き殺された。

ああどうしようもなく救えない、馬鹿みたいなお話だ。

 

世界は救えない。

お姫様は救えない。

王子様は救えない。

これはそんな、くだらない御伽噺。

 

鬼宿の言葉は本当だった。

どんなミメイでも、人間をやめたミメイでも愛してくれる人間がいると。

欲しがってくれる人間がきっといると。

だからもう、壊れてしまって良いのだと。

我慢なんてしなくて良い。

苦しいのも痛いのも辛いのも、何も無い場所へ行こう。

欲しいものを好きなだけ、好きなものを欲しいまま。

 

 

「······ごめんね。」

珍しく嘘が混じらない謝罪を口にした。

これから傷つけると決めた男に対し、心からの笑みを浮かべて。

欲しがってごめんね。

でもどうしても、貴方が欲しいの。

 

 

 

 

 

──────ブツリ。

戻れなくなる音が、世界を揺らした。

 

 

 

 



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29:いいえ、もしも罪だというのなら

キャラ崩壊していないことを祈ります。






「驚いたな。」

「······。」

クロロの声にミメイは答えない。

答えられない。

ミメイが言葉を紡ぐべき唇は、自身の手首に埋まっているからである。

 

「抵抗のつもりか?」

「···違うわ。」

薄い皮膚を突き破っていた牙を引き抜いて鮮血をパッと辺りに飛ばす。

唇についた血を舐めとってから、手首に残った2つの丸い噛み跡にも舌を這わせる。

もう血は止まり傷は塞がりつつあった。

あともう少しすれば元通り。

人間ではなく化け物の回復速度。

 

そうだ、ミメイはもう化け物だ。

人間でいたい、いつまでも人間でいたいのに。

けれどそれは叶わない。

昔から分かっていたことだ、いつかは化け物に堕ちるのだと。

何度も何度もそんな自問自答を繰り返してきた。

矛盾と言い訳と現実逃避と、そんなものと共に生きてきた。

しかしその全てを捨てると決めたのだ。

今すぐではない。

いつか訪れる最高の終わりの為にミメイは人間のままでいることをやめるのだ。

 

 

「クーさんは私を欲しがってくれたよね。

嬉しいよ、それはとっても嬉しい。

でも駄目なの。貴方じゃ駄目。」

完全に塞がった手首の皮膚をなぞってから、再びクロロの首に手を回す。

仲睦まじい恋人がするように彼に寄り添うミメイだが、2人の間にあるのは張り詰めた欲望だけである。

甘さなど微塵も感じられない。

「それで俺が引き下がるとでも?」

その言葉を待っていた、とミメイは目をゆったり細める。

「思わないわ。でもそんなもの、私には関係ないでしょう?

確かに貴方は私の特別よ。この世界を教えてくれた最初の人だから。

でもね、それがどうしたの?

私は貴方じゃ満足出来ない、私で傷ついてくれない貴方なんかじゃ。

だから嫌。」

殆ど動かないクロロの頬に指を這わせて、その肌が傷つかない程度に爪を立てる。

「お前の事情なんか俺には関係ないな。」

ミメイの好きなようにさせたまま、相変わらず表情の色が薄い目でクロロは彼女を見下ろす。

 

「あら、貴方の事情だって私にとっては塵芥に等しいのに。

こういう私が欲しかったんでしょう、クーさんは。

欲しいものを好きなだけ、好きなものを欲しいまま。

妖精のように、女王のように、娼婦のように。

そんな無邪気で残酷で妖艶な化け物が欲しいんでしょう?」

赤い瞳を三日月のように変えて、ミメイは指に力をこめる。

プツリと肌がちぎれる。

たらりと血が流れる。

その様を嬉しそうに見守って、真っ赤な血を愛しそうに見つめて。

そうしてクロロの顔を見上げてから、何の変化もないことにつまらなそうに眉を下げる。

 

「ああ、欲しいな。」

「うふふ、正直ね。貴方のその声音は好きよ。

欲望剥き出しの獰猛な獣みたいな声。

でも駄目よ。何しても貴方は傷つかないんだもの。

私の言葉でも、行為でも、存在でも、全く傷ついてくれない。

そんなもの私は欲しくない。」

クロロの首からするりと腕を外して彼から離れ、血溜まりを素足で踏む。

「それがお前の本性か、ミメイ。

他者を害することに悦を覚える享楽主義者。」

血溜まりの上で踊るように、軽やかなステップを踏むミメイ。

薄暗い地下室で紅玉のような目と紫水晶のような髪が淡く輝いている。

人間を誘惑するようにチラチラ揺れている。

エデンの林檎、パンドラの匣───1度手にすれば後戻りは出来ない人智を超えた存在。

 

「あは、クーさんは言葉選びが上手ね。

正解よ、大正解。

私の本質は生まれた瞬間からこうだった。

でも私は嫌だった。だってそんなの、あまりにも酷過ぎる。非人道的だもの。

私は人間らしい人間でいたいのに。」

ぴちゃりぴちゃりといやらしい水音を響かせて、ミメイは赤と白のコントラストが目立つ足を動かす。

目の前にいる男の欲深さに呆れ、と同時に愛しさを感じて彼女は笑った。

人間の欲をこよなく愛する鬼のように、獲物を見つけた吸血鬼のように。

 

 

そう、ミメイは生まれた時から壊れてしまっていた。

この世に生を受けた時点で世間一般的に必要とされる人間として欠陥品だった。

鬼の有無に関係なく始めから終わっている。

たとえ鬼がいなくとも、その性質は酷いものだったに違いない。

嗜好を実行に移す手段()と、理性を吹き飛ばす引き金()がないから今のようにはならなかったのだろうが。

しかし実際は鬼がミメイの心に侵食したせいで、その生来の異常性が加速した。

眠ったまま、無視したままにしておけた本質を叩き起こしてしまった。

ミメイを狂わせたのは鬼だ。壊したのは鬼だ。

その事実に間違いはない。

けれどミメイが人間には似合わない歪みを持って、世界へ転がり出たことも真実なのである。

 

他者の傷や痛みを愛し、自分の手で他者を傷つけることに愉悦を感じる加虐趣味の人でなし。

身体的でも精神的でも他者をズタズタに傷つけて一生消えない傷を刻みつけて、自分という存在を他者の心にこびりつかせたい構ってちゃん。

痛みによって他者を愛する筋金入りの変態さん。

その為ならば手段は選ばない。

たとえ自分自身を投げ打ってでも、その結果自分が死んでしまっても。

相手の心を見通して、相手が1番傷つく方法で傷つける。

好きな人だからこそ、恋しい人だからこそ、愛しい人だからこそ。

ミメイは傷つけずにはいられない。

真昼が人の痛みが分からない天才ならば、ミメイはそれを分かり過ぎている天災なのである。

 

けれど彼女は人間でいたかった。

隣にいる片割れは人間だったから。

自分同様鬼と混ざっているにせよ、綺麗なものに心を弾ませて花のように笑う真昼は紛うことなき人間で、とても美しかったから。

美しかったから憧れた。

だから自分の本質を奥底に眠らせて、分厚い仮面をつけて、自分自身もその存在を忘れてしまうようにして。

欲望の塊である鬼さえ呆れさせる自分の本質を殺して我慢して耐えて忍んで。

そうする位に真昼に憧れて、焦がれていたのだ。

その真昼に乞われたから鬼に堕ちたくなかった。

ミメイが人間でいようと必死になる姿を見て、間違いなく真昼は傷ついていた。

可哀想に、苦しいでしょう、可愛い未明、でも貴方はそうでなきゃ、と嬉しそうにしながらも傷ついていた。

人間らしさと鬼の本能の間で板挟みになって泣いていた。

未明の本質はそんな真昼が大好きだったし、ミメイだって愛しく思っている。

 

しかしもう、その真昼はいない。

言葉通り命を捨ててでも傷つけたかった家族も仲間も、ここにはいないのだ。

この世界で鬼はミメイの欲望を煽り、肥大させ、溢れさせた。

傷つけたいのは1人だけ、恋しいのは1人だけ、愛したいのは1人だけ。

勿論他の人間の傷だって、塩を塗りこみたい位に大好きである。

けれどそんなものでは物足りない。

欲しい、欲しい、あの子が欲しい。

あの子(クラピカ)だけが欲しいのだ。

自分のものにしたら、手に入れたら、握り潰してしまうと分かっていても欲しくて堪らない。

自分の全てで傷ついて欲しいのだ。

 

だからミメイはクロロの血を吸わなかった。

今吸ってしまえば、貪ってしまえば、ミメイは押しも押されぬ化け物になれる。

クロロが望み鬼宿が望みミメイが望んだ化け物に。

しかしそれでは口寂しい。

化け物になったミメイを見てクラピカは傷つくだろう。

優しい彼はどうしてと嘆くだろう。

責任感の強い彼は逃げた自分自身を責めるだろう。

彼は何も悪くないというのに。

ミメイに執着されてしまっただけで、彼は自分の運命以上に背負い込む。

その様がどうしようもなく愛しいのだ。

故にミメイはまだ化け物にならない。

彼が1番傷つく時に1番傷つく方法で、ミメイは化け物になろうと決めた。

どうせ訪れる終わりなら何よりも美しく激しく熱烈に刻みつけようと。

 

こんな自分を最低だと、嫌だと咽び泣く自我があるのも分かっている。

人間らしさが残っているのも分かっている。

もしも王子様が愛を囁いてくれたなら、きっと今のミメイは人間のまま踏みとどまれる。

やっぱりこんなの酷過ぎる、と欲望を封じ込められたに違いない。

そしてそのまま王子様の手を取って、幸せな世界に走って行けただろうに。

しかし救い出してくれる王子様なんていないのだ。

結局自分を救えるのは自分だけだと、大人になったミメイは知っている。

 

欲しかった。

ミメイだけを救い出してくれる王子様が。

心から欲しかったのだ。

でも今はそれ以上に欲しいものがある。

夢や希望さえも、全てがどうでも良くなるほどに欲しいものが。

欲することはそんなにも罪だろうか。

いいやそんな筈はない。

欲深い人間は何もかもを求め、世界を滅ぼすことさえも可能にしてしまったのだから。

そんな世界(地獄)で生まれたミメイが、欲しがってはいけないという道理がどこにある?

 

でも、でもね、と幼い涙をこぼす自我。

ごめんね、と謝罪を吐露する弱い自我。

そんなものを易々と握り潰して、粉々に散らせてしまう。

 

 

踊ろう、踊ろう。

白い靴は捨ててしまったけれど。

足元は真っ赤で、この先には茨しかないけれど。

あの日のように一緒に踊ってくれる人はいないけれど。

それでも踊り続けよう、いつか掴む終わりまで。

 

 

蝶のようにひらひらふわふわ、ミメイはステップを踏む。

「もしも貴方が私で傷ついてくれる人だったとしたら、私は貴方に執着したわ。

今以上に好きになった。

でも貴方は誰より欲深いから、普通の人間ほど感情の方に心を割けてないみたい。

何かを犠牲にすることにそこまでの躊躇いを抱けない。

大切な欠片をどこかで落としてきたまま大人になっちゃったのね、クーさんは。」

私も人のこと言えないけど、と手を後ろで組みながら唇を歪めて笑う。

「私を欲しがってくれてありがとう。

本当に嬉しかった。」

何も知らない無垢な乙女のように、ミメイは柔らかい笑みをこぼす。

「クーさんが私を欲しがってくれたから、私は私の欲しいものの為に往くと決めることが出来た。

貴方のその純粋な欲望にあてられたのね、きっと。

そのお礼に貴方の願いを叶えてあげる。

さあ矮小な人間よ、貴方は何が欲しいのかしら。」

ふざけたような口調の中に人間には似合わない重さがあった。

誰かの何かの面影が、ミメイの中に混ざり込んでいく。

可愛らしくにっこり笑ったまま、ミメイはクロロを見据える。

 

「そうだな、取り敢えずはお前が欲しい。」

「貴方は本当に正直ね。

あは、良いよ。その願いを叶えてあげる。」

血溜まりを広げながらクロロに近付いて、その腕の中に引き込まれても抵抗らしい抵抗を見せない。

クロロの血の香りに目を赤く光らせて、牙を見せて笑うだけ。

戯れのように首を絞められかけてもクスクス笑うだけ。

「あれだけ抵抗していた割にあっさりとしているな。」

「貴方の傍にいればいるほど、私は自分の欲を自覚するの。

貴方の欲深さに煽られて、私も欲しがりになる。

だから嫌だった。

“こう”なりたくないから嫌だったのよ。」

欲情して蕩けた瞳を細めてミメイは全身で血の香りを堪能する。

彼女の頭から足の先まで、人間離れして傾いたような美しさが包んでいる。

その様は混沌を愛する淫靡な女王そのものだった。

 

「なるほど。

今の顔は良いな、俺好みだ。」

クロロはミメイの腰に手を回し、破れたままのセーラー服の隙間に手を滑り込ませる。

「あは、趣味わるーい。あと手つきがえろーい。」

さっきまで穴が開いていた腹を撫でられて、擽ったさにミメイは声を漏らす。

こんな風に誰かに触れられたのは久し振りで、ついつい体が喜んでしまっているのが分かる。

人間同士のあたたかな触れ合いというものに飢えていたと気付いてしまう。

クラピカのせいで、クラピカがミメイの傍にいてくれたせいで、彼女にはまだ人間らしさが残るのだ。どうしても。

化け物になると決めたとしても、人間としての熱はそのままになる。

 

 

「私は貴方じゃ満足出来ない。

私が1番欲しいのは貴方じゃないもの。

でもね、貴方が私を欲しいって言うなら私は貴方のものになってあげる。

私の欲しいものの為だから。」

少し際どい所に伸び始めたクロロの手を叩き落とし、また伸ばされて追い返しという攻防を繰り返しながらミメイは血色の唇を動かした。

「俺の前で他の男の話か。」

「わあ、ここまで感情がこもらない嫉妬の言葉があったかしら。

貴方は反応が薄くて本当に愉しくない。

拗ねたり当たり散らしたりとか、そうやって私を傷つけてくれないし。

その後で私を傷つけたことに対して罪悪感を抱いてくれるなんてこと、勿論ないし。」

誰かと違って、と蕩けた笑みを浮かべる。

「俺では不満か?」

「うん。足りないの。

足りないけど、貴方は幻影旅団のリーダーだから。

それだけで私にとっては意味がある。」

きっともっと、彼を傷つけることが出来るから。

「お前が執着する男は俺達に恨みでもあるのか。」

クロロの相変わらずの察しの良さに思わず笑ってしまう。

「ふふ、どうかしら。そもそも私、男だなんて言ってないのに。

可愛い可愛い女の子かもしれないわよ?」

「女なのか。」

「さあ。可愛いことに間違いはないけど。」

「お前の口振りから考えて暫定で男としておくが、彼も哀れだな。」

涼しい顔で太腿に手を伸ばしてくるクロロを退けるも、腕の中に拘束されたままになっているミメイ。

その頬は薔薇色に染まり、赤い瞳は欲で潤んでいる。

もしこの状況をクラピカが見たらどう思うだろうか、そんな想像をして

激しくなる自分の拍動の音を聞いていた。

 

「私もそう思う。本当に可哀想で可愛いの。

何にも悪くないのに、何でもかんでも背負い込んで。

自分の運命に遊ばれて、世界の全てに振り回されて。

悲しいほどに哀れだわ。」

だから好きよ、大好きよ。

恋しくて愛しくて、今すぐにでも傷つけてあげたい。

「だからね、クーさん。

私は貴方のものになってあげるけど、代わりに貴方を利用させてね。

私の欲しいものの為に。」

クロロの顔の方に向き直り、その肩に爪を食い込ませて笑いかける。

「良いだろう。」

ミメイの髪を一房取って手慰みに遊んでから、好青年の面を被った顔で笑みを深くした。

「あは、交渉成立ね。誓いのキスでもしましょうか?」

「噛みちぎられそうだからな、やめておこう。」

ミメイの髪をゆっくり手放し、彼女を静かに見下ろす。

「それもそうね。」

そう素っ気なく呟いて、クロロの背後にある出口のドアノブに手をかける。

 

「止めないの?」

ドアに背をもたれかからせた状態で小首を傾げる。

「止めて欲しいのか。」

「いいえ、全く。でも良いの?

私は幻影旅団員の顔と名前を知っちゃったのに。」

「既に手は打った。」

パタンと乾いた音を立てて本が閉じた。

クロロの手の上にある見慣れない本が。

そして次の瞬間には空気の中に融けて消えていく。

間違いなく念能力によるものだと分かる。

「···そんなもの、貴方持ってた?」

訝しげに目を細め、空になったクロロの手を見つめる。

「ああ。お前が俺のされるがままになっていた時から。」

「あれはただのセクハラじゃなかったのね。

気付かなかったなぁ。」

「念を使いこなせていないからだろう。」

「···悪かったわね。」

少し頬を膨らませたミメイは髪を指にクルクルと巻き付けた。

鬼の力を引き出して半人間半化け物になったとしても、念能力に関して言えばミメイは幻影旅団員に圧倒的に負けている。

まともな指導は受けないままで、修行らしい修行もしていない。

なんとなく、で念を使っているだけではある程度までは行っても、それ以上の上達はないのである。

そしてそもそも、ミメイは必殺技にあたる発の個別能力を編み出していない。

 

「どこへなりとも行けば良い。」

「なぁにその余裕、私を縄で繋いでおかなくて良いの?」

「縄程度だとすぐにお前は引きちぎるだろう。

だから首輪にしておいた。」

そのクロロの言葉につられて、自分の首に手を伸ばす。

触っても何か変な所は見つけられない。

「目に見える首輪は無いのね。」

「ああ。」

「さっき念能力で出してた本に関係あるの?」

「ある。」

クロロの返答を聞いて少し考えてから、ミメイは溜め息を吐きながら顔を顰める。

「ふぅん、そう。

じゃあ念能力による何かで、私は制限されるってこと。

···1度かけられた念って大体は解除出来ない気がしたんだけど、私の思い違いかしら。」

「さあ、どうだろうな。」

「その顔、確信犯ね。

あーあ、やられちゃった。

念能力、もうちょっと使いこなせるようにならなきゃいけないみたい。

かけられたのに全く気付けないのは問題だもの。

このままじゃ貴方が死ぬまで良いようにされそう。」

暗い地下室に溶け込んでいる黒衣の男を見据え、憂いを帯びた表情を浮かべる。

 

「俺を殺すか。」

ミメイの言葉に敏感に反応したクロロが殺気をゆらりと立ち上らせるが、彼女は赤い唇で三日月を作るだけ。

「そう易々と殺されてくれない癖に。

でもね、殺さないよ。

貴方を殺しちゃったら意味ないもん。

貴方が貴方自身の運命に殺されるまで私は貴方のものでいてあげる。

貴方という人間が、その欲望のままに何を手にするのか見ていてあげる。

どこまで欲しがるのか普通に気になるもの。」

ミメイはクロロを気に入っている。

目的の為の有効な手段となりうるからというのは勿論だが、単純に彼の欲深さを好いているのだ。

クラピカやグレンとはまた違う、清々しくも底の見えない闇色を纏う欲望を持つ彼を。

見た目だけならば珍品だが、中身のせいで返品不可避なミメイを欲しがる時点でその守備範囲は幅広いと分かる。

だから、彼がどこまで欲しがるのかが気になってたまらない。

人間が触れるべきではないとされる禁忌でさえも、通常通り手を伸ばしそうで。

 

「どこまで、か。」

「そう、どこまで。

金銀財宝に女に珍品。そういうもので終わるのか、その先まで手を伸ばすのか。」

この地下室からは見えない太陽。

今のミメイにとっては憎々しくて、未来のミメイが焦がれるであろう存在。

それを掴もうとするイカロスのように、力なく天井に手を伸ばすミメイ。

「お前はその先を知っているのか。

そもそも先なんてものがあるのか。」

「どうだろ。何にもない、が答えだと私は思う。

結局のところ何にもないの、なくなっちゃうの。

でもきっと、それは捉え方次第なんでしょうね。」

鬼宿から聞いた話によると、グレンは禁忌に手を伸ばして世界を滅ぼした末に仲間の命を拾い上げたという。

吸血鬼になった真昼の命を捧げて、人間を甦らせる儀式である“終わりのセラフ”を発動させたらしい。

一体それで、グレンは何を得られたのだろう。

仲間の命?世界を滅ぼした罪悪感?真昼を犠牲にしたことへの後悔?

ミメイには分からない。

ミメイはグレンではないのだから、結局彼が何を得たのかは分からない。

でも彼が何を得たかったかは知っている。

ミメイも欲しくてたまらないものだったから。

グレンもミメイも、それを手に入れられないままあの地獄を走るしかなかったから。

 

「貴方は···どうなんだろう。

貴方は(グレン)の立った場所まで往くのかな。

往き着いたとして何を選びとって、その先に何を得るんだろう。」

くったりと折れた肘に従って、腕を元の場所に戻す。

その掌は勿論空のまま。

「さよなら、クーさん。

私の当面の目的を達成する時にまた会いましょう。」

「いつになるんだろうな、それは。」

「さあ、分からない。

でも絶対にその時は来るから安心してくれて良いのよ。」

クラピカは強くなって、力を得て、私の元まで来てくれる。

グレンは真昼の元まで辿り着いた。

追いつけはしなかった、助けられはしなかった。

それでも真昼の元まで走り抜いた。

だから必ずあの子も来てくれる。

だからその時に私は私の幕を引こう。

そんなことを思いながら、ミメイは今度こそドアを開けて地下室から脱出した。

 

紫の髪を揺らしながら暗い廊下を歩む。

廊下に響くぺたぺたという足音に、自分が裸足であったことをミメイは思い出す。

けれど振り返らない。

靴を取りには帰らない。

クロロの元へは戻らない。

ここで彼の血を吸えばミメイは今すぐ化け物になれる。

きっとその方が幸せだ。

ミメイだってこの酷い渇きを癒せるし、どんなものも簡単に捩じ伏せられる力を得られる。

クロロのかけた念能力だって、人間の体では難しい荒療治でどうにか出来るかもしれない。

そして何より、これ以上クラピカを苦しめなくて済む。

責任感の強い彼は、再会した時ミメイが化け物になった姿を見て自分を責めるだろう。

別に彼が気に病む必要はないというのに。

ミメイとクラピカはどこまでも他人である。

友人でも仲間でもない。師弟関係なんてものを結んだ覚えもない。

それでもクラピカはミメイのことで傷つくだろう。

失うことを何より恐れる彼は、間違いなくミメイに依存していたから。

 

だがそれだけで済む。

目の前でミメイが人間から化け物に変わっていく様を見ることもない。

ミメイの影にいるのが幻影旅団だと知ってしまうこともない。

ミメイが化け物になってしまうのは仕方のないことだ。

この恋を始めてしまった時点で、いつか終わりが来ることは痛いほど分かっていた。

だからそのことでクラピカを傷つけるのは避けられないことである。

しかしそれ以上に傷つけたいと思ってしまったのは、欲してしまったのはミメイのエゴだ。

クラピカが1番傷つく時に1番傷つく方法で傷つけたいだなんて。

 

 

「···あは、酷いね。」

自分自身の醜さを、非人道的な望みを嘲笑いながら歩いていれば、月光が降り注ぐ砂漠へと足を踏み入れていた。

満月の光と星の光だけが頼りのこの夜の砂漠に、ミメイは独り立っていた。

冷えた砂の中に裸足を突っ込めば、その感触の心地好さに思わず笑みがこぼれる。

足の裏に僅かに残っていた血が砂を赤く汚せば、その香に誘われた蠍のようなものがミメイの足元に現れる。

この世界の毒の耐性はまだ未確認なものも多い。

鬼のお陰で死にかけても死なないとはいえ、まだ完全な化け物になってはいない。

こんな所で蠍に刺されて死ぬなんて笑えないと思うミメイは、まずは血を洗い流すことに決めた。

傷口はとっくのとうに塞がっている為手当は必要ないが全身血だらけである。

砂漠なのだからオアシスは無いだろうかと周りを見渡せば、遠くの方に緑が見えた。

聴神経に意識を持っていって感度を引き上げれば、僅かに聞こえるのは水の音。

オアシスがあるのは間違いないだろう。

 

ミメイを刺すでもなく、まだ足元を彷徨っていた蠍を無視してオアシスに向かって歩き出す。

人っ子一人いないこの砂漠は夜の冷たさに支配されており、ある種の神秘的な雰囲気であった。

それこそ美しい月の女神様でも舞い降りてきそうな。

実際にいるのは人間と化け物の間の何かだが。

 

 

予想通り存在したオアシスで、ミメイは勢いよくセーラー服を脱ぎ捨てる。

下着類も乱暴に体から引き剥がし、それらにべったり貼り付いた派手な赤色に溜め息をつく。

セーラー服は特別性だから問題ないとして、下着類についた血は洗って取れるのだろうかと心配になる。

それもこれも幻影旅団の人間に手酷くやられたせいである。

ノブナガという居合の達人に大男のウボォーギン、情報集めが得意らしいシャルナーク。

彼等がミメイを捕獲しようとしなければ、腹に穴は開かなかった。

ミメイがフェイたんと呼ぶ彼の拷問が無ければ、ここまで血まみれにはならなかった。

いくらマチが見える部分だけは拭いてくれていたとはいえ、情け容赦もデリカシーもない男共のせいで下着が駄目になったと憤慨するミメイである。

クロロと色々あったせいで靴も置いてきてしまったし。

全く幻影旅団と関わるとろくな目に合わない。

クロロ以外はこれが初めての邂逅だというのに既に嫌になっている。

団長であるクロロと契約した以上、彼のものになった以上、これから幻影旅団に関わることもあるのかもしれないが、その時には替えの下着を用意するとミメイは決めた。

血気盛んな彼等と会えば死合になるのは想像に難くない。

 

何も身につけていない裸体を綺麗な水に沈め、1度頭まで水中に潜らせる。

じわりじわりと透明な水に広がる血を掌でかき混ぜながら、顔を水面にゆっくり上げていく。

水滴が弾け、艶を取り戻した紫の髪がミメイの背にべたりと垂れる。

それを少々疎ましく思いながら、金色の月を見上げればついつい笑いがあふれてしまう。

美しい金色。

可愛い金糸雀。

単純で簡単な連想ゲームだった。

ここまで自分は恋に狂ったかと、自嘲的な笑い声が喉を鳴らす。

「ああ、やっぱりクラピカが良い。クラピカが1番可愛い。

···会いたいなぁ。」

届かぬ月から目を離し、眼下に広がる水面を見つめる。

そこにいるのは赤目の化け物。

1度瞬きをすれば瞳は生まれ持った茶色に戻るが、またすぐに赤に変わっていく。

クラピカの緋の眼と同じように美しいとは思う。

赤は血の色、生命の色、美しいことに変わりはない。

けれど彼のものと違って感じるのは禍々しさ。

触れるべきでないと一目で分かる、忌むべき何か。

 

たぷりという水音を大袈裟に響かせるように水中で腕を動かしてから、その手を自らの頬に這わせる。

茶色の目に戻ると、赤色の目に変わると言えるのはいつまでなのだろうか。

赤色から戻らなくなって、赤だけがミメイの色になってしまうのはいつなのだろうか。

答えは分かっている。

ミメイがクラピカを傷つける時。

完全な化け物になる時。

人間を捕食者と看做した時。

その首筋に牙を突き立てて、血を啜った時。

 

「···選んだのは私なのに。

今だって後悔なんかしていないのに。

クラピカを傷つけられることに悦びさえ感じているのに。」

それなのにどうして。

「泣かなくちゃいけないの?」

もう人間じゃないと泣いていた真昼のように、何故今涙を流しているのだろう。

「泣かなくちゃいけない理由なんてない筈なのに。

だって私は生まれた時から鬼と混ざってて。

その本性は初めから酷くて。

人を痛めつけることでしか人を愛せないのに、満足できないのに。

そんな人でなしなのに。

どうして今更、私は悲しんでいるの。」

水面に映る頬に伝うのは冷たい涙。

 

「泣いたって、悲しんだって何も変わらないのに。

誰も助けてなんかくれないのに。

私はもう、化け物になるしかないんだから。

今じゃないから、その時までの辛抱だからって言い聞かせてるから、まだ踏みとどまれてるだけなのに。

もう無理なのに。」

クロロの前での言葉も全て真実だ。

ミメイは自ら鬼を受け入れて化け物になると決めた。

目を背けていた自身の本質も飲み込んだ。

そして欲望のままに往く生を享受しようと悦びを抱いた。

それが本当で、それだけが本当であったなら。

ミメイは今泣かなかっただろう。

 

大切にしたい。壊したい。

守りたい。傷つけたい。

その背反した感情達がミメイの涙となって溢れ出す。

これが真実の恋や愛だというのなら、神様は人間の創り方を間違えたに違いない。

どうせなら美しくて優しいものだけで満たされるものを恋や愛と呼ばせて欲しかった。

少なくとも夢見がちな少女であったミメイはそうしたかった。

 

「好きなの、貴方が好きなの。

この気持ちだけは本物なのに、そう断言できるのに。

どうしてこんなに複雑になっちゃうのかな。

どうしてごちゃごちゃ絡まっちゃうんだろう。」

ねえ真昼、恋って難しいね。

そんなことを呟きながら水中に潜れば、そうね、という姉の悲しそうな肯定が聞こえた気がした。

冷たい水に体を包ませて、浮こうとする気を無くして、ミメイはゆらりゆらり沈んでいく。

水面で揺れる月は遠い。

ぽかりと口からこぼれた泡を追うように手を伸ばしても、月には到底届かない。

ええそうね、でも素敵な月夜です。

何よりも月が綺麗です。

先人達の遠回しの愛の告白を嘲笑うように、そう心中で繰り返してゆっくり目を閉じる。

睫毛に貼り付いていた泡がパチンと弾ける気配を感じながら、周りが暗くなっていくのを受け入れる。

どうせこの程度では死ねないと分かりきっていても、この底が見えない泉に沈むように全てを隠せたらと思わずにはいられない。

 

 

と、そこで唐突に手首を掴まれたような感覚が襲ってくる。

水草でも絡まったかと億劫そうにミメイが瞼を開けば、目の前にいたのは見知らぬ男。

だ、れ、と唇を動かして泡を生み出しながら、その男の手から逃れようとすれば更に強く掴まれる。

それからぐいと引き寄せられて、無理に水面へと引き上げられる。

「······こんな砂漠の真ん中で不審者に会うなんて。」

空気中に晒された首から上で滴る水滴をそのままに、混ざりっけのない本心を口にしながら男を睨めつける。

「お節介だったか?」

ミメイの手首を掴んだまま、男は飄々としている。

ミメイの殺気を浴びても尚これだ。

ただの身汚い男ではないらしい。

「そうね、割と。」

「お前みたいな若い女に目の前で死なれるのは俺の寝覚めが悪いんだよ。」

「わあ、自分勝手。」

「当たり前だろ。」

「やだ、ここまで清々しい人初めてかも。」

クロロといいこの男といい、見ていて面白い人間がこの世界には多くて困る。

 

「ちなみに私は死ぬつもりなんて毛頭なかったんだよ、おにいさん。」

手首を逆回転させて男の手から逃れ、足がつく浅瀬まで泳いでいく。

「そうか?死相が見えたけどな。」

男は濡れた服を重そうに引きずるようにして水から上がった。

そしてミメイの前に歩いてきて、その手を差し出してくる。

「···ああ、なるほど。おにいさんの言うこと、あながち間違ってないかも。」

人間としての“私”の死を私は自分で定めたから。

男の言葉を反芻すれば、そこで1つ疑問が生じてくる。

「ところでおにいさん、死相が見えたって言ったけど、一体いつから私を見てたのかしら。」

そうミメイが言えば、やっべぇという顔でさりげなく目を逸らす男。

「·······おまわりさーん!ストーカーがいるんですけどー。」

わざとらしく声を張り上げる。

「砂漠に警察がいる訳ねぇだろ。」

「助けてー。手篭めにされるー。」

棒読みで可愛らしく叫んでみても、男は自分の服の水を絞りながらニヤリと笑うだけ。

「なんだ、ふざけるだけの元気は戻ったか。」

「お陰様で。···覗き魔のおにいさん?」

「覗き魔はやめろ。」

そう言いながらも、ミメイの方に再び手を差し伸べてくるこの男は随分自己本位的に人が良いらしい。

 

「えー、どうしようかしら。おじさん呼びじゃないだけ私の優しさに感謝すべきよ、おにいさん。」

ミメイは男の手を取って水の中から体を上げた。

一糸まとわぬ体のまま、ミメイは放置していたセーラー服と下着を回収する。

そしてこの変な男との会話を試みようと思いながら、それらの洗濯を始めるのだった。

「そのおにいさんもやめろ。むず痒い。」

「でもおにいさんは、まだギリギリおじさんって歳じゃなさそうだから。

一応配慮したのに、私。」

「俺はこれでも息子がいるんだよ。」

「···ふぅん。おにいさんの家族事情とかどうでも良いけど、確かにそれならおにいさん呼びはきついのかしら。」

柔い月の光を全身に浴びながら、ミメイはニヤニヤ面白そうに笑った。

しかしその顔面に布が投げつけられ、ミメイは一旦洗濯の手を止めざるをえなかった。

「着てろ。」

「汚いから遠慮するわ。」

だってさっきまでおにいさんが着てたやつじゃないの、と言外に訴えれば

「じゃあ洗ってから着ろ。」

「それ意味ないの分かってるの、おにいさん。

というより、私の仕事が増えただけな気がするんだけど気のせいかしら。」

 

 

 

 

 

─────初対面ながらもぎゃあぎゃあと仲良く騒ぐ男とミメイが後に師弟関係のようなものを結ぶことになるとは、今はまだ2人とも知る由もなかった。

 

 

 




最後に駆け込みで出てきたこの人は一体誰なんだろうなぁ。


ちなみにこの小説は
ミメイ→→→→→→→→(←)クラピカ
ぐらいの思いの差がある設定で書いています、一応。
ミメイちゃんがクソデカ感情持ってるからね、仕方ないね。


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30:僕が僕として1番幸せな日

投稿の予約日を間違えて設定していたみたいですね。
気付いたのが遅かったので、素知らぬ顔で火曜に出してます。
そのせいで2週に1回投稿がズレましたが、(きっと)次回はちゃんと月曜日に出ます。

終わりのセラフ最新刊付近のネタバレ注意。




「──────という訳なの、おにいさん。」

「お前話上手いな。最初は何の人生相談かと思ったのに、全部聞いちまった。結構面白かったしな。

ほら、蛇焼けたぞ。」

「ありがとう。」

男から木の枝で串焼き状態になった蛇を受け取り、迷わずそれにかぶりつく。

鋭い牙が生えてきたお陰か引きちぎることが容易く感じられたが、そこそこ硬くて程良い弾力のある肉だった。

血抜き処理をしていたのは見ていたが、まだまだ野生の香りが残っていて新鮮な味わいである。

それに何より鼻を擽る鮮血の香りが心地好かった。

そんなごく普通の食レポをしながら、ミメイは目の前で弾ける炎を見つめていた。

焦点の合わない目で炎の向かい側に視線をずらせば、ミメイが今口にしたのと同じものをガツガツ喰らっている男がいる。

何故こんな夜の砂漠の真ん中で、見知らぬ男と2人で焚き火を囲んで蛇を食べているのかミメイには分からなかった。

そして男に不本意ながらも助けられた後、服を乾かし体を暖める為の焚き火を2人で囲んだ瞬間堰を切ったように、洗いざらい身の上話をしてしまった理由も分からなかった。

お互いに名乗らないまま、半裸のまま、こうして座っていることさえも不思議でたまらない。

 

「なんでかな。」

役目を終えた串を手の上で転がしてから、その串でサラサラした砂漠の砂に適当な図形を描いてみる。

三角四角、丸、六芒星、楕円、五芒星、ハート、五角形。

何の規則性もなく、なんとなく思いついたものをミメイは片っ端から描いていく。

「俺が知るかよ。」

2本目の串に手を伸ばしながら、男は素っ気なくミメイに返した。

「私のことをなぁんにも知らない赤の他人だからかもしれないね。

それか貴方がお人好しだから。」

「お人好し、ねぇ。」

「だって私の話、全部聞いてくれたでしょう。」

「お前の話は面白かった。それだけだ、俺がお前の話を聞いた理由なんてもんは。」

「そっか。」

今度こそ役目を終えた枝を焚き火の中に捨てて空になった手を膝の上で組んで、体を丸めるように体育座りをする。

焚き火に照らされて橙色を帯びる腕に顔を埋めれば光は見えなくなる。

パチパチと、さっきミメイが焚き火に放り込んだ枝が弾ける音だけが響いていた。

 

「お前は自分に興味が無いんだな。」

「変なこと言うのね、おにいさん。」

「自分に興味を持たないように、無関心であるように、そうやってきたんだろ。」

「私は普通に私に興味を持ってるわ。好きなものも嫌いなものも知ってるし、長所短所も自覚してる。」

「じゃあお前、自分が好きか。」

「─────。」

虚をつかれた。つかれてしまった。

明らかに瞠目したミメイを見逃さず、男は矢継ぎ早に問いを重ねた。

「自分のことは嫌いか。」

「······。」

「ほらな。」

鼻で笑うように言われて苛立ちくらい覚えても良い筈なのに、何も言えなかった。何も感じられなかった。

唇さえ噛めなかった。

ただ、とても驚いていた。

 

「一応人並みの自己愛も自己嫌悪も持ってはいるんだろうな。

けどな、お前はそれさえもどうでも良いものにしたんだろ。

どうでも良いものなら見なくて良いから。

お前はどんな自分自身であっても見たくなかったから。」

「···でも私は、私はちゃんと私自身を分析してた。私は私を理解してた。」

声を絞り出す。

枯れて干からびた花の汁を搾るように、結局は何も出てこないと知りながら声帯を震わせる。

「人間か化け物かって奴か?

んなのどうでも良いだろうが。

結局お前が面白いか、面白くないかなんだよ。

必要なのはそれだけで、それだけで生きてんだよ。」

「意味が分からないよ、おにいさん。全然分からない。」

本当に分からない、分からない。分かりたくない。

分かったら進まなければいけないことが薄々理解できるから、何も分かりたくない。

 

「人間だろうが化け物だろうが、屑だろうが善人だろうが、それでお前が楽しいなら良いんだよ。

自分自身をちゃんと目に映して、認識して、好きになるなり嫌いになるなり勝手にすれば良い。

そっからだろうが。」

「何それ。おにいさんの言うことは難しくて分からないよ。」

「んじゃまあ、分かってこいよ。

寝てる時に会えるんだろ、お前の“鬼”って奴とは。」

その言葉が鼓膜を揺らした時にはもう、ミメイの首の後ろに手刀が決まっていた。

またこれか、と油断の多い自分に呆れながらも、自然と落ちてくる瞼には逆らえずに体が奈落の底に落ちていくような感覚をゆっくり味わう。砂の上に長い紫の髪が広がるのを目に映したのを最後に、ミメイの意識は真っ黒になった。

 

 

 

 

─────────────

夢を見ていた。

自分の体が少しずつ融けて、足元に広がる血に混ざっていく夢を。

ドロドロと汚い液体になっていく体を保とうと、とろけた掌で肩を抱くがその肩さえ形を無くす。

きっともう顔も融けていると直感するが、まだ視界ははっきりしていて。

自分の体の惨状をまざまざと見せつけられたミメイは狂いそうになる。

 

『君は僕を受け入れると決めた。

たった1人を傷つける(愛する)為に、化け物になることを肯定した。

だから今こそ君に真実を話そう。』

聞き慣れた幼子の声の筈だった。

それなのに何故か、少し低くなり女性的な色を帯びているように感じた。

そんな声が融けた全身に纏わりつき、と同時に赤黒い泥のような血の中から白い手が伸ばされた。

 

『君も薄々気が付いているみたいだけど、僕は元々この世界で生まれた存在だ。

初めに光は無かった。

あったのはただの混沌だけ。

僕はその中から吐き出されたナニカだった。

生命体でもなく現象や概念ともまた違う、よく分からない存在。

それが僕。

その時はまだ、“僕”という自我も無かったけどね。』

ミメイの融けた腕を掬い上げるように、鬼宿の細くて白い手が動く。

『暫く何も無い混沌を彷徨っていれば、気付いた時には世界というものが出来上がっていた。

そして僕も体らしきものを得ていた。

まだまだ混沌の塊と呼ぶに相応しい見た目だった。

生命体と言うには気持ち悪い姿をしていた。

でも僕を取り巻く世界というものを認識して初めて、僕は“僕”という自我と体を得たんだと思う。

···そうだね、色んな生命体がいたよ。

生き残る為に、他の生命体に勝つ為に特化した奴が多かったから、今の人間から見たら歪な姿の奴が殆どだった。

勿論僕もそうさ。

でもこのままでは生存競争で負けると僕は本能的に感じ取った。

だからゆっくり進化していった。

僕が生まれた世界で勝ち残っている奴等の特徴を上手く盗みながら、僕が生き残れる方法を模索した。』

白い手が伸びていた赤黒い泥の中から美しい金髪が浮かび上がる。

次に出てくるのは赤い目を爛々と光らせ、人間離れした美貌を貼り付けた白い顔。

その化け物は牙を見せて嬉しそうに笑いながら、ドロドロにとろけたミメイの首辺りに抱き着いてきた。

 

 

『どんな生命体も欲望を持たずには生きられない。

そもそも生存という行為自体が欲望そのものだろ?

だから僕はそれを利用した。

生命体に取り憑いて、絡みついて、その欲望を引き出すんだ。

そうして僕が引き出した殆どが力を渇望するものだった。

だから僕は与えたよ、皆が欲しがる力をね。

宿主が抱いた欲望を糧に願いを叶えてやったのさ。

後は分かるだろ?皆僕に依存したよ。

欲しい、欲しい、もっと欲しいって。

あれが欲しい、それが欲しい、全てが欲しい。

人間ほどじゃないけど、みぃんな欲深かった。

僕はそれを叶えたさ。望まれるがまま全てを叶えてやったのさ。

でも馬鹿だよね、僕が無償で何でも叶えてやる訳がないだろ?

少し考えれば分かるだろうに、力を与えれば皆それに目が眩む。

馬鹿だなぁ、愚かだなぁ、そう笑いながら僕は取り憑いた生命体の魂を啜っていた。

欲望を引き出して、望みを叶えてやってドロドロに甘やかして、その代償として僕は精を得ていた。

僕が精を吸い尽くせば僕の宿主だった生命体は死に絶える。

そうしたら次の宿主を探して、また干からびさせて。

そんなことを繰り返していれば、僕は1番効率の良い生命体を見つけた。

人間だよ、分かりきってるだろ?』

きゃはははっと甲高い笑い声を上げながら、ミメイの顔付近に頬を寄せて来る美しい化け物。

 

『欲深い人間の精を啜っているうちに、僕は人間に受けが良い、騙しやすい姿を取ることが増えていった。

それまで僕の体は不定形に近かったけど、人間という美味い餌を安定して得る為ならば適応する価値があると判断したのさ。

それがこの姿だ。人間の幼子を象った姿。

この姿を見た人間は皆一瞬油断する。

僕が弱そうだから。僕を通して自分の幼少期を思い出すから。理由は色々あるんだろうね。まあ僕には関係無かったけど。

この姿は便利だったよ。人間の中で美しいと持て囃されている女の姿形を参考にしたからか、永く生きていた僕なりの美醜の価値観を混ぜ込んだからか、何よりも美しい存在として生まれ出ることが出来た。

······ああ、未明にとっては不愉快だったかな。

そうだね、1番美しいのは人間の苦悩だ。うん、よく分かるよ。

傷ついて痛みに顔を歪める人間の様、それは何より美しい。』

違うと言いたかった。

けれど違うと言えなかった。

この融けた体の全てが、その言葉の全てを肯定していた。

 

『この体を得た僕は人間に取り憑くのをやめることにした。

魂から精を啜るのも良かったけど、戯れに作ってみた牙が人間の捕食に向いていたことが分かったからだ。

そうさ、僕は生き血を啜って精を得るようになった。

味の薄い魂よりも血の方が美味しかったしね。

何より選り好みが出来るようになったのが良かったよ。

女、男、老人、若者、子供。

みんな違ってみんな良いって奴だ。

まあ1番美味いのは子供だったけど、大人になる手前の少年少女も良かった。あれはハズレがない。』

未明も普通に美味しそうだよと囁かれ、心臓がありそうな胸の中心がドクンと弾む。

 

『人間の願いを叶える代わりにその生き血を啜る僕は、いつしか神として崇められ始めた。

僕に惹かれて擦り寄ってくる珍しい人間もいたから、戯れに眷属にしてやったこともあったなぁ。

僕と同じ、人間の血を吸う化け物にしてやった。

そうそう、生贄とか持ってくる人間もいたっけ。

まあ生贄を喰った所で願いを叶えてやるとは限らなかったけど。

その頃の僕は結構強くなっていて、好き勝手に人間を喰えたから。

そもそも僕が捕食対象の欲望を糧に願いを叶えてやっていたのは、そいつの油断を誘う為だ。

直接捕食行動に出たら最後、逆に喰われるくらいかつて僕は弱かったからね。

取り憑いてじわじわ嬲るように精を啜って殺すしかなかった。

でも数多の生命体を喰らった僕は強くなっていた。

だから油断なんてさせる必要は無かった。

ただ掴んで、噛み付いて、血を啜って、殺して────そんな風に蹂躙するだけで良かったんだ。

弱い人間相手は勿論、かつては格上だった存在さえも僕には適わなくなっていたし。

うんそうだ、きっとあの頃僕は神だった。

強い自分自身に酔っていたからね、間違いない。

自分を神だと思っていたし、周りも神だと信じていたし、僕は神になっていた。

戯れに世界を滅ぼそうとしたのもこの時だ。

いつからこの世界に存在していたのかは知らないけど、そこにはただ滅びをもたらす装置があった。』

その口振りに覚えがあった。

真昼の運命を犯し、グレンに十字架を背負わせた、あの忌まわしい実験。

愚かな人間達が始めた愚かな実験。

世界を滅亡へと誘う“終わりのセラフ”。

ミメイの心にその名が浮かんだ瞬間、美しい化け物の口元は酷薄さを極めたような笑みを描いた。

 

『そう、君達の世界では“終わりのセラフ”と名付けられていたそれに近しい何かが存在していた。

面白そうだったから僕はなんとなく触れてみた。

深く考えてなかったよ。

だって僕は神だから、そんな根拠のある自信があったんだ。

今となっては反省してるよ、後悔はしてないけどね。

結論から言うと、僕は神でなくなった。

いや、自分は神ではないと気付いたって言うのが正しいのかな。

僕が真実神であったなら、あれを支配下における筈だろ?

でも無理だった。

この世界丸ごと平等に滅ぼすなんて僕の手には余る。

僕は人間共でさえ平等に見れなかったんだから。

勿論どいつもこいつも平等に醜くて、生き汚くて、欲深い。

でも面白い奴と面白くない奴、血が美味い奴と不味い奴、色々いるのは知っていた。

だから平等に見るなんて無理だった。

僕は神ではない、神にはなれない存在だと気付いたのさ。

負け惜しみみたいだけど、それで良かったんだと思うよ。

僕はこの世界に生まれた一生命体で、それ以上でもそれ以下でもない。

この世界を支配し、僕達生命体を生み出した存在を神と定義するのなら、それに比べれば僕はちっぽけなナニカに過ぎない。

その事実に落胆して、と同時に酷く安心したよ。

感情のない当時の僕でさえそう思ったんだから、グレンは大変だろうなぁ。

自分が神であるかのように世界を滅ぼして、代わりに自分の仲間達の命を甦らせた。

それは余りに重過ぎる。

十字架として背負うには重過ぎる。

矮小な人間ごときが背負うには重過ぎるだろう。』

そしてそんなグレンだから、真昼は彼に恋をした。

世界を巻き込んで、家族を捨てて、未来を殺してでも良いと思えるほどの恋を。

ミメイが今しているのもそんな恋なのだろう。

故郷を捨てる。

故郷に残した家族を、仲間を捨てる。

人間としての生を捨てる。

それでも構わないと思えるほどの激情だ。

 

 

『自分が神でないと気付いた僕は、取り敢えず鬼と名乗ることにした。

神として崇められるのはもう飽きてたし。

作った眷属達を連れてこの世界を巡って好き勝手に生きていれば、僕と眷属達は血を吸う鬼────吸血鬼として恐れられるようになった。

そして僕は全ての吸血鬼の親である始祖と呼ばれたよ。

この世界の吸血鬼の第一始祖様、それが僕だったのさ。

そうやってブイブイいわせてた僕だったけど、気付いた時には異世界の柊家に鬼として呼ばれてた。

それで偶然君に混ざったって訳。

ちなみに未明が生まれた世界の第一始祖はね、シカ·マドゥって名前でね。今は一応シノアの中にいるんじゃないかな。

そう、四鎌童子だ。シノアに混ざって生まれてきた鬼で、一時期真昼が飼っていたあいつ。

四鎌童子、しかまどうじ、シカ·マドゥ······あいつらしいクソみたいなセンスだろ?』

小馬鹿にしたように笑う鬼宿に対し、ふと疑問が湧き上がる。

ミメイの中にいた鬼宿が、シノアや真昼の中にいた四鎌童子と面識がある様子なのは何故だろうかと。

吸血鬼の第一始祖同士、特別な何かがあるのだろうかとミメイは思う。

『ああそれはね、シカ·マドゥ────四鎌童子が真昼の中にいた時に未明の体を乗っ取った僕があいつに接触しているからだ。

シカ·マドゥは碌なことを考えてなかった。

それに未明が巻き込まれちゃ堪らないから、僕から牽制しようと思ったのさ。』

 

「···ねえ、それってまるで私を守ってるみたいね。」

融けていた筈の唇がいつのまにか形成されて、勝手に喉が震えていた。

『さあ、どうだろう。僕は君を守りたかった訳じゃない。

でも、君に幸せになって欲しかったんだ。

他者愛に依存することで、生来の狂気から逃げようとする君に。

我慢してばかりで、欲しいものに手を伸ばそうともしない君に。

僕はただ、君に幸せになって欲しかった。』

そう言って、鬼宿は残酷な悪魔のようにわざとらしく笑った。

「どうしてそこまでして私を?」

『初めは鬼と人間で、僕らは別々の存在だった。

だから普通なら鬼である僕が人間としての未明を喰い尽くす、そんな終わりが来る筈だった。真昼みたいにね。

でもそうはならなかった。そうはしたくなかった。』

「···ねえ、どうして。どうして、どうしてなの。」

泥の中から頬が作られたことが分かる。

血の中から瞳が作られたことが分かる。

自分の体が再形成されていくことがミメイに分かる。

熱い透明な血が頬を伝っていると感じるから。

 

『前にも言っただろ。

君が僕に問いかける時はいつだって、既に君自身は答えを得ている。

自問自答にしかならないって。』

「分かってる、そんなこと分かってる。」

分かっているよ、でも。

どうしても言葉にするには難しくて、代わりに目の前にいる鬼宿の小さな肩を掴む。

幼子の形を取っているものらしく柔くて、弱くて、折れてしまいそうだった。

『僕は君の感情を食べた。僕は君の感情を貰った。

何も持たない筈だった化け物は、君の心を得たんだよ。』

「美味しかった?」

『うん、凄く。君の心は凄く美味しかったよ。』

不条理な契約の末に魂を奪っていく悪魔のように、鬼宿は目を細めていた。

ミメイが泣けているのと対照的に鬼宿は笑っていた。

白々しく、馬鹿みたいに白々しくニタニタと。

 

「貴方はそうやって、私が落としてきた心を守ってくれていたのね。

貴方は私の最後の自己愛になってくれたのね。」

『うん。』

幼子の姿をとる化け物は、愛らしい笑みを浮かべた。

その様は親に愛されて、その愛を存分に享受できることを信じきっている子供のようだった。

「どうしてなってくれたの?

かつてはナニカで、神で、吸血鬼だった貴方が、ただ1匹の鬼として私と一緒にいてくれたの?」

『要らないと求められたから。

不必要であることを望まれたから。

僕なんか要らないと、力なんか要らないと、君が僕を拒絶してくれたから。

僕に何も願わずに、ただ名前をくれたから。

対価無しに何かを与えられたのは初めてだったから。』

「“鬼宿”?」

『そう、それだよ。その名前を貰ったからだ。

君の心をなんとなく喰らって感情を得たその瞬間に、僕は初めての喜びというものを名前に対して抱いていたと理解したから。

そしてその喜びという奴が美しかったから。

美しかったから憧れて。

それで、僕はその為だけにいようと思えたんだ。』

ああそうだった、そうだったんだよと他人事のように事も無げに呟いて、鬼宿はまた笑った。

 

「······馬鹿ね、鬼宿。貴方は本当に馬鹿なのね。」

この美しい化け物には、何も無かったのだ。

何も持てなかったのだ。

何にもなれなかったのだ。

自分は神かもしれないと錯覚するほどの力を得ながらも、何も与えては貰えなかった。

この悲しい化け物を満たしてくれるものは、この世界のどこにも無かったのだ。

きっと永い時間を生きた筈だ。

永い時間を、様々なものと共に生きていた筈なのだ。

それでもこの化け物は、ちっぽけなものさえ一度たりとも与えては貰えなかった。

自分でも欲しいものが分からないまま、ただただ彷徨っていた。

そのことがどれほど哀れで、悲しいことなのかミメイには分からない。

けれども飴か何かを貰った子供のように無邪気に笑う鬼宿を見て、余計に泣きたくなってしまう。

 

『うん。でも僕は嬉しかったよ。

何者でもない僕が何かになれた気がしたから。

僕は鬼宿だ。未明に宿る鬼の、鬼宿だ。

どうしてかな、それだけで酷く気持ちが良かった。』

「馬鹿だなぁ、貴方は本当に馬鹿だ。」

いつも鬼宿がミメイに言うのとよく似た調子で、ミメイも口角を引き上げながら呟いた。

頬から唇へと、塩辛くて熱いものが通っていったのをそのままにして、ニタリと笑いながらまた口を開く。

「私は、」

『うん。』

鬼宿は頷いた。良い子にしてるのよと親に言いつけられた子供のように。

「貴方を恨んでる。貴方なんかが私に混ざらなければ、私はちゃんと人間だったのに。」

鬼宿の赤い目の中に、赤い目の少女が映っていた。

ミメイはそれを食い入るように見つめながら、鬼宿の細い肩に置いた手に力を込める。

 

『そうだね。』

「貴方を憎んでる。貴方が私を狂わせなければ、私は醜悪な私自身に蓋をしたままで良かったのに。」

『だろうね。』

「私は、貴方(わたし)が大嫌いよ。」

『知ってるよ。』

その答えに鬼宿は満足気に笑う。

その笑顔が憎々しい、切り刻んでしまいたいくらいに憎くてたまらない。

今までミメイはこんなにも何かを憎いと思ったことはなかった。

憎しみを抱いたことはある。

恨みを抱いたこともある。

きっと恋しいクラピカのことだって、憎いと思ってしまうくらいに愛している。

それでもそれらの感情にはいつだって、べたべたと欲望が付き纏っていた。

けれどこれは違う。

ただの純粋な憎しみである。

憎くて憎くて、大嫌いで────ただそれだけなのだ。

 

「でも私は貴方(わたし)を好きになりたかった。」

鬼宿の肩に食い込ませた指を解いて、そっとその細い首に這わせてみる。

首に指を回して一息に締めてやろうかと本気で思いながらも、ミメイの口は好意を吐き出していた。

『うん。』

「痛みで人を愛することしか、傷つけることでしか満足できない私でも、私はそんな貴方(わたし)を好きになりたかったの。」

指を首から離す代わりに腕を伸ばす。

伸ばしてから、鬼宿の小さな体をかき抱いた。

今にもミメイの腕から滑り落ちていきそうなその体を、全てから閉じ込めるように抱く。

『うん。』

鬼宿の小さな掌も、ミメイの背にそっと回される。

温かいのか冷たいのかもう分からない。

前までは鬼宿の体は、血の通わない化け物らしく酷く冷たいと感じていたというのに。

どうしてだろうか、何も感じられない。

自分の腕を抱いた時のように、よく分からない気持ちの悪い温さだけがそこにある。

 

 

「だからもう、私は貴方(わたし)を見ても良いのかな。」

 

 

口にしてしまえばなんて簡単な言葉だろうか。

けれどそれが難しかったのだ。

きっと何より難しかったのだ、ミメイにとって。

それを誰より知っている鬼宿は唇で柔い弧を描いて微笑んだ。

『うん良いんだよ、もう。君はやっと君になれる。

君が望まないかもしれない、君が求めていたかもしれない君になる。

それで良いんだ、多分それが生きるってことだから。』

「化け物として?」

『そうだね、そうかもしれない。でもどんな生命体だって生きている。

人間も、化け物も、生きているんだ。

死んでいないなら生きている。

そして君は死にたいと望んだことは無い筈だ。

死んでも良いと思ったとしても、死を願ったことは無い筈だ。

君は生きることに絶望しているかもしれない。

でもね、死ぬことに希望を見出してはないんだよ。』

死は救いにはならない。希望なんか生み出しはしない。

死んだ本人にとっても、死なれた周りにとっても。

「···生きているだけで、たったそれだけで私達は簡単に絶望してしまう。

希望なんてどこにもないの。死だって希望になってはくれないの。

でもだからこそ」

『─────生きることは美しい。』

「素晴らしいとは思えない。素晴らしくなんてない。

それでもきっと、私達が生きていることは美しい。」

真昼の生は美しかった。

グレンや深夜、美十、五士に雪見と花依の生だって美しかった。

暮人兄さんも。シノアだって。

名も知らぬ母だってそうであった筈だ。

そうであったとせめて信じていたい。

意味も価値も無かったと言われてしまうような生だったとしても、ただそれ自体が美しかったと思っていたい。

この地獄で、この絶望の中で、せめて生きることだけは美しいと思わせて欲しいのだ。

 

 

『だから未明、君は生きろ。

君は君として、ちゃんと君になって生きるんだ。

他の誰でもない君の生を歩んでいくんだ。』

「うん。」

鬼宿の金髪に顎を乗せ、その額を自分の心臓に押し付けながらミメイは頷いた。

『ああ、君は生きてるよ。君の心臓は動いている。

たとえ吸血鬼になってこれが止まったとしても、君は生きている。

君は“君”を生きている。』

「そうね。」

『ああ。』

「······私は、貴方(わたし)を愛して、私を愛するわ。

憎みながら、愛しながら、私は“私”を生きていく。」

誓いをここに。

自分自身を憎み、愛し、自分というものを受け入れるという誓いを。

どんなに醜い自我でも、どんなに美しい自我でも、それが自分であると。

 

『うん、そっか。そっかぁ。

やっと君は(きみ)を見た。

今まで棄ててきた(きみ)を見つけたんだね。』

心底嬉しそうに鬼宿は笑った。

唇の向こう側の牙を見せ、目尻を下げてくしゃりと笑った。

「私は多分、これから先も迷うわ。

人間でいたいとごねて、化け物になりたくないと叫んで、それでいて他人を傷つけたいと思うのよ。

そんな自分が大嫌いで、憎くて···それでもきっと愛したいの。」

『そうだよ、皆そうだ。

綺麗なだけの存在はない。醜いだけの存在もない。

どんな奴も、自分を愛しながら憎んでいる。

どうしようもない矛盾を抱えて絶望しながら足掻いている。

でも、それを生きることだと呼ぶんだろ。』

僕達は。

と小さく呟いたのを最後に、今度は鬼宿の体が融けていく。

どろりどろりと、ミメイの腕の隙間から落ちていく。

 

「鬼宿。」

掬えない。ミメイの腕では何も掬えない。

とろとろと血色の泥に混ざって鬼宿の体は消えていく。

『そんな顔するなよ。元にあった場所にあるべきものが帰るだけだ。』

どこか嬉しそうに笑ったまま、鬼宿は目を閉じてミメイの胸に頬を押し付けた。

「それは私の心の話でしょう。貴方は、貴方はどうなるの?

どこにいくの?」

いかないでなんて言えなくて、ただただこのままでいて欲しいと融けていく鬼宿を抱きしめる。

『君の中に。』

「ねえそれなら、今までと変わらないんだよね。

今まで通り私の傍で私に話しかけて、ちょっかい出してくるんでしょ?」

ミメイの声は涙で濁っていた。

そんな彼女の様子に鬼宿は笑みを深め、その胸に自分の頬を寄せて緩い熱を感じる。

そのことに酷く安心しきったように、指の形を取れなくなった掌をミメイの腹に当てた。

 

『夢を見ていたんだ。』

「夢?」

この悲しくて愚かな化け物にはかつては似合わなかった、今は案外似合うようになった素敵な言葉をミメイは繰り返した。

『親も兄弟もいない僕だけど、人間みたいに母親って奴の腹に宿ってさ。

その優しい羊水の海の中に帰って、浸かってみたかったって。

そういうことに、少し興味があったよ。』

「タマ、貴方······。」

ミメイは母を知らない。

今更知ろうとは思わない。

そうしてミメイがどうでも良いと諦めたものを、本当にこの鬼は全て拾い上げていたのだ。

心の欠片。

ミメイがミメイになる為の大切なピース。

母親を知らないということへのミメイの根源的な喪失感さえも、守り抜いていたのだ。

守り抜いて、その末に夢を抱いた。

ミメイだけのものではない、鬼宿のものでもある大切な夢。

 

『だから、うん、なんていうのかな。

君の中に融けるのは割と嫌じゃない。寧ろ多分、嬉しいんだと思う。』

「良い、夢ね。本当に。」

心からそう思った。

『うん。』

満足そうに鬼宿も微笑んだ。ような気がした。

もう鬼宿の顔がどこか分からないミメイはなんとなくだがそう感じた。

「鬼宿。」

『なに?』

もう殆どただの泥になってしまった鬼宿の声が、直接ミメイの頭に響く。

「全部、貰うね。貴方の全部、私が貰うから。

貴方が守っていた私の心だけじゃなくて、貴方の全てを私が貰ってあげる。」

泥を自分の元へ集めるようにかき抱いて、それらが自分の体に混ざっていくのを感じながらミメイは穏やかな微笑を浮かべた。

『そっか。』

「ええ。」

『それは凄く嬉しいんだろうな、多分。

だって僕』

──────笑ってるだろ。

 

 

 

もう声は聞こえなかった。

幼子のような────小さな時のミメイのような、またどこか今のミメイのように女性的な声はプツリと途絶えてしまった。

 

「─────あ、ああああっ!」

失った筈だ。

憎い鬼を、愛しい自我を失った筈だった。

それなのに、何かが満たされたような気がした。

何かが帰ってきたような気がした。

無くしていたパズルのピースをやっと見つけて、それをピタリと嵌めて完成させた時のように満足していた。

具体的に何とは言えない。

心と言ったところで、かつてミメイが棄て去ったものの寄せ集めである。

それらを棄てた後である今のミメイではよく分からないのは当たり前なのだ。

自分が何を棄てたかさえもう、覚えていないのだから。

 

「···おかえり。」

唇がひとりでに動いていた。

それ以外に適切な言葉を知らないかのように、不思議な確信を持って呟いていた。

ただいまの声は聞こえない。

しかしミメイはこの静寂の中を生きていく。

化け物と人間との狭間を彷徨いながら、いつか化け物になる日を嫌々夢見て生きていく。

それからも、その先も。

そうやって生きることは美しいと信じていたいから。

 

 

 

 

 

─────────────

「お、良い顔になったな。」

目を開けてすぐ見えたのは、ミメイがさっき洗ったものの年季が入っているせいで小汚いままだった服を身につけた男の顔だった。

「···おにいさん。」

「しっかしお前見た目に依らず寝相悪いんだな。好き勝手暴れやがって。あまりに暴れるから肩外しちまった。」

全く悪びれずにさらっと言われたことにミメイは少し苛立ちながら、確かに違和感のある右肩に左手を伸ばしてみれば言葉通りだと分かる。

地面に横たわっているのと寝起き特有の寝惚けのお陰で今は痛みがないが、起き上がったら面倒だと察しが着いた。

「ごめんね、おにいさん。」

「おい、顔とセリフが合ってねーぞ。」

男は童顔気味な顔を顰めながら、ミメイの額を指でグリグリしてくる。

こんなふうにクラピカの額にデコピンを食らわせていたことを思い出し、小さく吹き出してから頬を緩める。

 

「ならありがとう、おにいさん。」

そう言うと、ミメイを覗き込んでいる男は彼女から視線を外しながらぶっきらぼうに呟く。

「···ジンだ。」

「······何が?」

いや本当に何が?と訝しげな顔をすれば、ガリガリ頭を掻きながら男はミメイに向き直る。

「察しが悪いな。その『おにいさん』って奴やめろっつってんだよ。」

「あ、おにいさんの名前?ごめん、突然だったから。

宜しくね、ジンおにいさん。」

「変わってねーだろ、それ。」

額に再びゴツンと指が降ってくる。

「痛いよ、ジンおにいちゃーん。」

「馬鹿なこと言ってねーで肩見せろ、戻してやる。」

「ううん、大丈夫。もう戻すし。」

と言いながら肩を無理に動かせば、嫌な音と痛みと共に肩が元の位置に戻っていく。

「随分な荒療治だな。」

「それ、貴方が言うの?」

「でもどうにかなったんだろ?良い顔になってるからな。」

「······ほんとだ。良い顔、してる。」

湖を覗き込めばそこには、ぼたぼたと大粒の涙を落として満面の笑みを浮かべている顔があった。

幼い頃のような、感情のままに生きていたあの頃のような輝く夢の形。

棄ててきたピースを嵌め込んで、やっと出来上がった“私”の心。

生まれた時から何かが欠けていた、不完全な心が完成したのだ。

心から憎むべき、心から愛すべき“私”がここにいた。

 

 

「お前の名前は?」

水辺に座り込むミメイに、すっかり乾いたセーラー服を差し出しながら男───ジンは尋ねた。

「ミメイ、ミメイ=ヒイラギ。

私の名前、ミメイっていうの、ジンさん。」

セーラー服を受け取って、それを胸に抱きしめながらまた涙をこぼして笑う。

「じゃあおはよう、ミメイ。」

「おはよう、ジンさん。」

いつも通り昇ってきた太陽の光を浴びるミメイは、独りになったミメイは、今をちゃんと生きていた。

生き始めていた。

 

 

 

 

 

───────これは真っ直ぐに歪みながら破滅に向かっていく、ミメイの物語である。

 

 

 




もう少しミメイちゃんをウダウダさせても良かったんですが、色々考えて無しにしました。
ウダウダうじうじ系ヒロインターンは程々にしたい作者です。
そういう女の子も可愛くて好きなんですけどね。
それにミメイちゃんみたいなタイプはジンに会ったら、良い意味でも悪い意味でも変わるだろうなと思いました。

余談なんですが、この話書いていて不思議な既視感があったんですよね。
後書きまでかいて分かりました。
羽川さんだわ、これ。特に猫物語の時の羽川さんだ。


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31:孤蝶の暮、胡蝶の夢

胡蝶って打つと、心臓がバクバクする病気に去年くらいからかかっている作者です。


あ、不整脈か。





「ジンさんジンさん、あれは何?」

さんさんと日光が降り注ぐ砂漠の真ん中で、湖に浮かんでいた大きな蓮の葉のようなものを日傘代わりにしたミメイは少し先を歩く男に尋ねた。

その茶色の目はキラキラと光り、男────ジンが億劫そうにミメイを振り向くと、茶色は軽く弾んでから紅色に染まっていく。

ミメイの目はまだ茶色がベースである。

しかし彼女の感情の僅かな変化や昂りで、前以上にすぐ赤に変わるようになっていた。

 

そう、ミメイは感情を抑えることをやめていた。

やめてよくなっていた。

どんな小さなことであっても心が動く。動く心がある。

人をいたぶっている時や、心的距離の近い極わずかな人間の傍にいる時だけではない。

ミメイの感情は心から溢れ出す。

まだ表情筋は硬いが何年かすればきっとそれさえも柔らかくなる。

以前のミメイを知る人間からすれば信じられないほど、彼女は上っ面だけは人間らしくなるだろう。

そうしてその人間らしさが頂点に達した時、自らその人間性を放棄すると決めていた。

化け物を身に宿し融かし込んだ人間未満から、押しも押されぬ化け物に。

吸血鬼という名の化け物になる。

ミメイの生まれた世界での吸血鬼とは、鬼宿はまた違うものだったようだが凡そ同じものになるだろう。

それに近付いている証拠として、直射日光がなんとなく苦手になっているミメイは葉っぱの傘を差している。

 

幼い頃にできなかったことをなぞるように、ミメイは好奇心のままに行動していた。

今こうしてジンの後をついていっているのも、知らないものの名を尋ねるのもその為である。

そもそもジンは夜の砂漠での一件の後、さっさとミメイを置いて歩き出した。

彼としてはもうミメイに用は無かったのだろうが、ミメイの方がそれでは満足できなかったのだ。

有り体に言ってしまえば懐いてしまったのである。

単純な好奇心が彼に向いてしまったのである。

鬼宿を取り込んでからは余計に、マタタビを嗅がされた猫のようにジンに飛びかかりたくなる。

そして構って貰いたいと、遊んで貰いたいと思ってしまうのだ。

動物的な本能と言うのだろうか、不思議な感覚だと思っているミメイは最早自重しない。

だから自分のやりたいように、ジンの後を追っかけている。

 

 

「毒持ちのサソリだ。刺されると三日三晩笑いが止まらなくなるぞ。」

ジンの方もそんなミメイを初めは鬱陶しく思っていたようだが、数週間経った今となっては諦めたらしい。

ジンがどれだけ引き離そうとしても、どれだけ置いて行こうとしても、ミメイはその人間離れした身体能力で彼についていく。

彼としてもここまで粘着質に張りつかれたことは余り無いらしく、一応ミメイが若い女ということもあってか説教じみたことをしていたが、それは余計彼女を煽るだけだった。

「ならこれは?」

足元に擦り寄ってくる手のひら大の蛇を指差して問う。

「この前お前が格闘した蛇のガキだな。」

ちなみにその巨大蛇は、ジンがミメイを引き剥がす為にけしかけた障害物役だったが、数秒のうちにミメイによって尻尾を切り落とされ恐慌状態に陥って戦闘不能になった。

「へえ、子供の時はこんなに小さいのね。一口でいけそう。

成体になるまでどのくらいかかるのかしら。」

物騒な言葉を口にしたミメイに怯えてか、子蛇はスタコラサッサと逃げていく。

砂に描かれたその退避跡を見送ってから、ミメイは日傘を肩に置いて周りを見渡した。

子蛇の親かもしれない巨大蛇の姿は無い。

その事実に少しガッカリしたミメイは蛇の肉の味に結構ハマっていた。

血抜き処理を程々にして、こんがり外側を焼き上げたものが特にお気に入りである。

ちなみに、先述した巨大蛇の尻尾はミメイとジンのオヤツとして彼等の腹に収まっていた。

尻尾の性質がトカゲタイプだったらしい巨大蛇はミメイが尻尾を食べている間に、切り落とされた痕が目立つ体を引き摺って逃げ去ってしまったが、今度は丸ごと食べてやろうと画策しているミメイである。

 

以前はこれほどまでにミメイの食い意地は張っていなかった筈だった。

そもそも食べること自体があまり好きではなかった。

好物はあったが、それを好んで食べたいとは思わなかった。

それが今はどうだろうか。

生臭い血の滴る蛇の肉を求めてやまない。

本能的に欲しがっている人間の血を吸わない為に、体が代わりを求めている結果だとミメイは推測していた。

だから食べても食べても満たされない。

血の香りに心は弾み、一時的な飢えは凌げるが根本的解決にはならない。

結局の所、ミメイの際限のない飢えと渇きを潤すには吸血童貞を失う他ないのである。

人間の首筋に噛みついて、牙を突き立てて、薄皮の下を流れる血潮を啜るしかないのである。

その事実を受け入れている自分自身をミメイは嫌っている。憎んでいる。

人間を殺すだけなら慣れている。

しかし食べたことはない、食べたいなんて思ってはいけない。自分と同じ人間なのだから。

しかしそう訴える自分自身を嘲笑している自我があることも自覚している。

そうやって矛盾に矛盾を重ねて、とっちらかった自我と感情を束ねて、ミメイは今を生きていた。

生きているのだと実感していた。

 

「成体になってもまだ成長するからな、お前が遊んでたあれもまだ若い方だ。」

「すごーい。あんな大きいの、キメラでしか見たことなかったのに。

この世界には普通に生き物として存在するんだ。」

人工的なものに限るなら、ミメイの何十倍もの体躯を持つ生き物は百夜教が研究していた。

柊家も興味を持っていた。

だから巨大な蛇を目にしてもそこまで驚きはしなかったが、それが自然の中で生まれたものと知って軽いカルチャーショックを覚えたミメイである。

「外にはもっとデカいのがいるぞ。」

「外かぁ。鬼宿はきっと、その“外”で生まれたんだろうな。」

頭に巻いたボロ布の端を風にたなびかせながら歩くジンの隣に走り寄り、ミメイは傘代わりの葉の茎部分をクルクルと回す。

「だろうな。お前からは外の匂いがする。」

そう言うジンから、この世界の“外”のことをミメイが聞いたのは昨日のこと。

通称暗黒大陸と言うらしいその場所には、人間が触れるべきではないパンドラの匣がうじゃうじゃしているという。

人間が手を加えた加えないに関係なく、禁忌がゴロゴロ転がっているらしいこの世界の真実に驚きながら、少し納得した自分がいたことにミメイは気付いていた。

異常な化け物として鬼宿が生まれたのはそこだったのだろうと。

 

「その口振りからすると、ジンさんは“外”に行ったことがあるの?」

「さあな。」

口角を軽く上げて、少年のままの瞳を遠くに向けるその姿にミメイは溜め息をつく。

「あ、またはぐらかした。ジンさんはそればっかり。

そんなんだから親権取られるのよ。」

傘を少し傾けてジンの顔を下から覗き込めば、

「うるせぇ。」

という声と共に蹴りが飛んでくるが、それをひらりと躱しながらミメイはクスクス笑う。

「私自身父親ってものがよく分からないから上手いことは言えないけど、多分貴方がしてるのは育児放棄でしょ。」

「んなこと分かってんだよ。」

「ふぅん。分かってて、貴方は育児放棄したままでいるんだ。

やっぱり色々あるのね、皆。色々考えて、考えた末に選択してる。」

「······。」

皮肉っぽく揶揄するミメイをまた蹴り飛ばそうかと思いついたジンだったが、彼女の顔から笑みが消えているのに気付いて何もしなかった。

 

「なら父上様も、考えた末に私達の母を孕ませたのかな。

人格を破壊して実験動物のようにした母に、私達を産ませることを選び取ったのかな。

······なんていうかそれって、凄く馬鹿みたい。

馬鹿みたいに滑稽だと思わない?ジンさん。」

「さあ、どうだろうな。俺の知ったことじゃねーよ。」

目を血色に染めて、また嘘臭い微笑を薄ら浮かべているミメイに素っ気なく返すジン。

彼は、ミメイが父親や母親というものに焦がれていると気付いていた。

ミメイの出生だけ聞いても彼女がそうなるのは仕方ないと思っていた。

だからといってジンがミメイにできることはない。

自分の息子にさえできないことを、赤の他人にどうやってできるだろうか。

だがミメイの心に深く根付いた喪失感に触れる度、迷い子のように揺れる赤い瞳を見る度、一瞬息が止まりそうになる。

ミメイを通して、赤子の姿しか知らない自分の息子がこっちを静かに見ているような錯覚を覚えて、ジンはどうして良いのか分からなくなる。

夏の終わりにふと抱く特別な寂寥感や焦燥感のような、全身を駆け昇る何かがあった。

そんなほんの一瞬の蜃気楼。それがミメイだった。

 

 

「名前くらい知りたかったな。」

日傘の下から太陽を見上げ、その光に赤い目を細めながらミメイは小さく呟いた。

取り込んだ鬼宿の記憶を遡ったとしても、母親の名前は一欠片も出てこなかった。

大体何でも知っている鬼宿でさえ知らなかったのだ。

つまり、そういうこと。取るに足らないことだった。

けれどもミメイは思うのだ。

柊家に囚われ続けその恋を運命に潰されながらも、ミメイ達妹のことを守ろうとしていた真昼のことを。

せめてミメイだけはと柊家の檻から逃がしてくれた姉のことを。

他の全てが枷を嵌められたままであっても、ミメイだけは飛び立てるようにと祈ってくれた片割れのことを。

あの愛しい人は、きっと今でも柊家に囚われ続けている。

妹のシノアだって、たった1人で膝を抱えて小さくなっていることだろう。

彼女達と同じ様に、母親もずっと独りで誰にも知られないまま囚われている。

死んで尚、孤独という名の地獄で牢に繋がれている。

死んで尚、その名は真っ黒に塗り潰されている。

だからせめて名前だけでも闇の中から引き摺り出してみたかった。

1人自由になったミメイが、姉妹達の分まで母親というものを心に収めてみたかった。

 

「良いじゃねーか、名前を知らなくても。

呼んでやれよ。」

簡単なことだろうが、とジンは言った。

「なんて呼べば良いのかな。」

その彼の言葉に戸惑いながらも、少し気恥ずかしそうにミメイは頬を緩ませた。

「顔も名前も知らなくてもお前の母親なんだろ。なら呼んでやれ。

何も考えなくて良い。」

素っ気なくもあたたかな言葉に後押しされて、ミメイはガラス細工に触れるように恐る恐る口を開いた。

「···母上──────ああ違う、これは違う。

父上様みたいになっちゃうもの。

······そうね、母さん。母さんって呼びたいな、私。」

妹のシノアはミメイを『未明姉さん』と呼んでいた。

その時の調子を軽く真似て、ミメイは母さんと呼んでみた。

「母さん。」

この世界には勿論いない。

ミメイが生まれた世界にも、もういない。

呼んだ所で意味ありげに風なんて吹いてはくれない。

それでも良かった。

ミメイは母親を『母さん』と呼べたことに満足していた。

 

「ジンさんは不思議な人ね。」

ボロ布を靴代わりに足に巻き付けているミメイは、その足を白い砂に踏み入れながらヒラヒラ歩く。

軽快な足取りでジンを追い越してから少し先で立ち止まり、彼が歩いてくるのをじっと見つめる。

「なんだ、貶してんのか?」

「いいえ違うの。ああでも、もしかしたらそうかもしれない。」

「どっちだよ。」

何言ってんだこいつは、という視線にクスクス笑いを返しながらミメイは日傘を後ろに傾ける。

「どっちも。

貴方のその性質はきっと多くの人を惹き寄せる。魅了する。

人間だけじゃない。動物や私のような紛い物でさえ、貴方に惹かれずにはいられない。

貴方なら何かをしてくれるんじゃないかって無意識に期待する。

それ自体は素敵なことなんでしょうね。」

日傘代わりの葉の、その真ん丸な影をジンの影が追い抜いてすぐ彼女もまた歩き出す。

 

「でもそれって少し残酷ね。

貴方はその魅力をもってして、多くの人間の生の歯車を回しちゃうの。

貴方はただやりたいようにやっただけ、自分が好きなように動いただけ。

それなのに、その影響がジワジワ色んな場所まで広がってしまう。

貴方の知らないうちに。貴方が知ろうとも思わないうちに。」

明るい欲望というのだろうか、そういう類の光で満ち溢れたジンの瞳を見上げるミメイは赤い目を細めた。

酷く眩しそうに。

中天より少し西側に位置する太陽よりも近い場所にあるその小さな光を、直視できないかのように。

「誰もが思うのよ。貴方に見て欲しいって。

貴方の視界に入れて欲しいって。

構って欲しい、遊んで欲しい。貴方の心に一瞬でも映りたい。

けど貴方は貴方が興味を持ったものにしか興味が無い。

だから結局、皆貴方に見て貰えずに不貞腐れて貴方を嫌になるのかもしれないわ。」

「それっぽいことを言うのが得意なんだな、お前は。」

ガシガシ頭を掻きながら、ジンはミメイのニヤニヤ顔を砂に押し付けようと手を伸ばすが、華麗なステップでミメイは逃げていく。

 

「言葉遊びは得意なの、昔から。」

嘘も虚言も、自分を守る為の武器だったから。

「そういう所も似てるよ、お前ら。」

「『ら』?私みたいな知り合いがいるの?」

「いるよ。自分が楽しけりゃそれでいいって奴がな。

ま、あいつはお前より無差別でタチが悪いけどな。

あれは完全アウトだ。」

自分勝手にお人好しなこの男がこうも断言する存在に、俄然興味が湧いてくる。

と同時に少し面白くない気分になるミメイだった。

「私は?」

「ギリギリアウトだな。」

「良いの、それで?」

「俺が知るかよ。お前の話は面白いし、お前と遊んでやるのも俺がそこそこ楽しいから良いんじゃねーの。」

「そっか。」

クラピカへの倒錯した感情さえも、ジンにとっては完全アウトではないらしい。

あくまでギリギリアウトであって、そんなミメイの生はジンにとって面白いものらしい。

そのことがミメイは嬉しかった。

クロロにそのままのミメイを求められた時と同じくらい嬉しかった。

 

 

「ジンさんは───────」

どこまで欲しがるの。

そう問おうとして、ジンの横顔を盗み見たミメイは静かに唇を引き結ぶ。

答えを聞くことも野暮だと思ったからである。

視界がどこまでも広いこの男にとって、見えるものは全て手にしたと同然に違いない。

ならばきっとまだ見えない、まだ知らないものに手を伸ばしているのだろう。

見える世界が狭いミメイには、狭いままで構わないと思っている節のあるミメイには何故そこまでするのかが分からないが、そんな彼の姿は純粋に見ていたくなる。

意味もなく期待している。

この空の果て、世界の裏側、禁忌の匣の底、狭間から見える混沌。

彼はそれらを欲し手を伸ばすのだろうが、彼ならば“何か”が変わるのではないかと根拠もなく思っている。

クロロとはまた違う、まっさらで広い欲望がジンの体からは溢れているから。

 

「ジンさんは、観賞用ね。」

「どういう意味だこら。」

「そのままよ。観賞用の欲望だわ、貴方が持っているのは。

糧にするには眩し過ぎる上に熱過ぎるから、私は見るだけにしておくの。

そうね、やっぱりクラピカが1番ってことね。」

だって彼はミメイで傷ついてくれる。

クロロやジンと違って、ミメイの全てで傷ついてしまう。

それでも力を求めずにはいられなくて、傷だらけの足を引き摺ってでもミメイに追いついてくれる。

その姿が何より愛しいのだ。

んふふ、と顔を桃色に染めて笑うミメイの赤い瞳は欲望で潤む。

自分の世界に浸るだけでなく、べっとり甘ったるい空気を排出してくる彼女ごとその空気を蹴り飛ばそうと、ジンの足がブンと振られる。

「惚気けてんじゃねーぞ、恋愛脳(スイーツ)娘。」

「あら、惚気に聞こえた?」

だがミメイはカラカラ笑いながら、半身で軽々避けていく。

「恋愛相談ならお断りだ。面白くもねーからな。」

「育児放棄してるような人にする気はないわ。」

「お前には関係ないだろうが。」

「そうよ、関係ないから好き勝手言えるの。」

「そうかよ。」

その言葉をミメイの脳が理解した瞬間大きな砂埃が上がり、その向こう側へとジンが姿を消す。

 

「やだジンさん、跳んでいかないで。

そのスピードの貴方についていくの疲れるのに。」

「疲れるならついてくんな!」

「嫌よ。まだ念の修行つけて貰ってないもの。」

「俺が使ってんの見るだけで殆どマスターしてんだろうが。」

念の扱いが不安定だったミメイだったが、全力逃亡するジンを追うことによって自然とこなせるようになっていた。

ジンが全く意図していない所で、彼はある意味ミメイの師匠になっていたのである。

「そうだけど、何だったかしら···そう、除念師?についてまだ教えて貰ってないから。」

ミメイにかけられた念の存在に気付いたジンがうっかり口走った言葉にしつこくしがみつく。

 

「かけられた念は、除念師っていう特別な念能力を持ってる奴にしか解除できねーんだよ。

ほら、もう話しただろうが。

とっとと除念師でも探しに行け。」

シッシッと手を振るジンの隣に追いついたミメイはニコニコ笑い、走りながら彼に回し蹴りを食らわせようとする。

「ふぅん、そうなんだ。

あ、別に念はかけられたままで良いの。」

「良いのかよ。」

猫の子がじゃれついてくるのをいなすように、ミメイの足を軽く払うジンは肩をすくめた。

「うん。寧ろかけられたままの方が良いかしら、今は。」

幻影旅団についての情報を話そうとすると舌が痺れたり、書こうとすると腕が痺れたりするだけだと確認は済んでいた。

あのクロロの言う首輪にしては少々お粗末な気もするが、それ以上の効果を見つけられない為現状の生活に支障はない。

そんなことより幻影旅団の長に念をかけられた自分を見て、クラピカがどんな反応をみせるのかミメイは今から楽しみでたまらない。

だから時が来るまで放っておくと決めたのである。

 

「顔。」

どろりと蕩けたミメイの顔を、再び砂に落とそうとジンは画策する。

「女の子の顔にケチつけるなんてひどーい。」

しかしそう易々とやられるミメイではない。

ジンの掌を腕で受け止めてその力を殺し、また何事もなかったかのようにジンの隣を走る。

「恋愛馬鹿は黙ってろ。」

「あは、ジンさんの目に私はどんな風に見えてるの?

恋愛脳(スイーツ)だとか恋愛馬鹿だとか、そんなに私は恋に溺れてる?」

真昼だってここまで言われたことはなかっただろうと思い返し、ミメイはおかしくなって笑いを漏らす。

「あ?んなの決まってんだろ。

お前はただの恋する乙女って奴なんじゃねーの。」

一瞬の沈黙の後茶色に戻っていたミメイの目がポカリと開かれ、星の瞬きのように紅色に光ってからまた茶色に変わる。

ぱちぱちと睫毛を何度か上下に動かして、目の前にいる男が発したのだと再確認する。

「······わあ、ジンさんが言ったとは思えない言葉ね。」

「お前は言い回しが一々うざったいな。」

「でもそれ、素敵ね。

人間だとか化け物だとか、そういうの全部遠くに投げちゃえるもの。」

「そりゃ良かった。」

「うん。普通の女の子みたいで、凄く好き。」

何気ない言葉だった。

聞き逃してしまいそうなほど軽い言葉だった。

けれどミメイにとっては何より意味のある言葉で。

それが分かるジンはまた変な寂寥感と焦燥感に襲われる。

 

「もう女の子って歳でもない気がするけど、でもジンさんのその言葉は好きよ。

だからね、ありがとう。」

少女は目尻を緩やかに下げ、月が翳るように笑った。

笑って、どこか遠くを見るような目をしてジンから視線を外す。

その横顔が女の子と呼ぶには不似合いな艶を帯びていて、本人が言っていた通りもう少女は女の子ではなかった。

少女は、女になっていた。

一瞬の羽化を経て、蛹を喰い破り飛び立っていった蝶のように。

 

「······女って奴はこれだから怖いんだよ。」

ボソリとジンが呟いた言葉も、聴覚が異常発達したミメイは一言一句間違えずに拾ってしまう。

「あは、見惚れちゃった?」

にぱ、と音が出そうな笑顔を作れば幼い少女のような無邪気さが漂う。

女の色香はたちまち霧散して、ともすれば実年齢以下に見えそうである。

「ほざけ。」

「もう、乱暴なんだから。」

大量のオーラを纏わせた拳同士がぶつかり、相殺しきれなかった力が風圧となって砂埃を起こす。

大量の砂塵が巻き上がり、砂の下に隠れていたサソリや蛇が突然日光に晒されてオロオロ足掻くのを他所に、2人のじゃれ合いは日が暮れるまで続いた。

 

 

 

 

────────────

「ねえ、ジンさんの発はどんな感じなの?」

砂漠を通り抜けた先の湖沼地帯で遭遇し、ミメイとジンによって狩られた巨大スッポンの尻尾を焼きながらミメイは尋ねた。

「言う訳ねーだろ、怪力娘。

ったく、俺の腕を綺麗に折りやがって。」

ミメイの蹴りを食らって折れた左腕の袖を捲り上げ、その具合を確認するジンは舌打ちする。

ミメイの方もジンの拳のせいで肋骨にヒビを入れられていたが、化け物混じりの彼女はとっくのとうに治っていた。

自分はまだ手負いだというのに、ミメイはピンピンしている所が気に食わないジンは舌打ちを繰り返す。

「寝てる間に私の肩外したお返し。」

「暴れるてめーを止めてやる為だったんだよ。」

「知ってる。あ、良い感じに焼けたよジンさん。」

湖沼地帯の大木の下に作った焚き火。

そこでこんがり焼いた尻尾をミメイは半分に裂き、片方を咥えながらもう片方をジンに投げつける。

 

「どうしようかな、発の能力。1度決めたらもう変えられないんでしょう?」

もっもっ、と肉を咀嚼して飲み込んでから1度口を動かすのを止め、焚き火に肉を当てているジンの方を見る。

「そうだよ。だからよく考えろ。

···というかちゃんと焼けよ。流石は箱入りお嬢様。

料理なんてしたことないってか。」

ジンの判断ではまだ生焼け状態だったらしく、ミメイの焼き方に彼は文句をつける。

「確かに無いけど。血の匂いが濃い方が美味しいのに。」

「これは濃過ぎだアホ。血抜きも適当にやりやがったな。」

「そんなことより。」

「おいこら、話聞け。」

「私の発よ。問題は私の発の能力なの。

何にも思いつかなくて困っちゃう。」

ジンの抗議は聞こえない振り、そこそこ大きかった肉を全て食べ尽くしたミメイは掌に顎を乗せて考え込む。

「お前確か特質系だろ。何かねーのかよ。」

「···何か─────ああ、これとか。」

体から引き摺り出すようにして黒い刀を右手に顕現させる。

もう鬼の宿らない、鬼宿のいない、ただの鬼呪装備の殻。

禍々しさが幾分か薄っぺらくなった刀身を見ているとふと悪戯心が働いて、ミメイはその刃をするりと左手首に滑らせる。

一瞬遅れてピリリとした痛みが手首にはしり、傷口から肉の奥までゆっくりと焼けていく。

鬼を、吸血鬼を、化け物を、殺す為だけに作り出された呪いが体を焼いていく。

 

「ああ、やっぱりすぐには治らないんだ。

ちゃんとまだ鬼呪の力は残ってる。」

薄く切ったつもりだったが、鬼呪のせいで血が止まらずに傷口からボタボタ赤が垂れ始める。

暮人が量産していた弱い鬼呪装備程度の力しかなくても、呪いはしっかりミメイの体を蝕む。

「動脈まで切ってねーだろうな。」

地面を赤く濡らすその出血量から、そう予想せずにはいられないジンは布をミメイに投げてやる。

「うん、大丈夫。ただ血が止まらないだけ。

普通の人間の回復速度以下になっちゃっただけ。」

刀を消して布を受け取りながらミメイは左手首の傷口に舌を這わせる。

呪いに触れた舌もピリピリ痛むが、それを無視して体を蝕む鬼呪ごと血を啜る。

ズルズルと淡白な味の血を吸い、口に溜まったそれを地面に向かって吐き出す。

そうやって粗方鬼呪を吸い出せば、斬り傷は見る見るうちに塞がって元の白い皮膚を形成していく。

 

「···私を殺す為の武器が私の中にあるの。

あは、ほんと私は矛盾だらけ。でも、だからこそ私は私なんでしょうね。」

生きていれば誰だって持ち合わせている自我の矛盾。

ミメイはそれが少し強めなだけ。

未明と鬼宿、心が2つに分かたれていたせいで余計に矛盾が加速していただけ。

右手の指の腹に残った血に鼻を近付けてその匂いを嗅ぐ。

何も満たされそうにない、ただの血の匂い。

やはり自分のものでは駄目らしい、と冷静にミメイは判断した。

寧ろ血を失ったせいで腹が空いてくるばかりである。

紙に押し付ければ赤い指紋が取れそうなほど汚れている人差し指の腹を、真っ白な親指の腹に貼り付ける。

するとペタリ、ネチャリと血が糊のようになって人差し指と親指の腹が離れなくなる。

ぐにぐにと血を擦り付けるように人差し指を親指に押し付けてから、ミメイはそれを無理に引き剥がした。

その拍子に親指の爪が人差し指の腹を引っ掻いて、ピッと小さな傷が出来る。

鬼呪装備による傷と違いすぐ治るだろうとその傷を親指で乱暴に押してやれば、突然指の間の血が浮き上がる。

 

初めは小さなうねりだった。

勘違いかと思ってしまうほどの小さな力。

しかしそれは瞬く間に倍増し、遂にはミメイの指の間から勢いよく血が飛び出していく。

指先の小さな引っ掻き傷はもう塞がっていた。

だからこれ以上の出血は無い筈だった。

それなのに、何かに押され出るようにして血が生き生きと動いている。

「え──────」

突然の事態に言葉を失うミメイを置いてけぼりにしたまま、血は彼女の指先から勝手に離れて空中に飛び散る。

たった今酷く斬られたかのように飛び散って、バラバラだった筈の滴はプクリと大きく膨らんでいく。

 

 

突然の事態に混乱気味のミメイの前で、赤い物体が楽しそうにクルクル回る。

「操作系の能力だな。」

ふよふよと空中を漂う血の玉を見上げるジンは冷静に分析する。

「これ、やっぱり発なの?」

「特質系は操作系との相性が良いからな。大丈夫だろ。」

「なにが大丈夫なのよ。こんな変なの、私の趣味じゃないのに。

1回能力が出来ちゃったらリセット不可なんでしょ?」

「ま、諦めろ。」

「······。」

ちゃんちゃん、という副静音がつきそうな雰囲気で素っ気なく答えたジンを静かに見据えるミメイ。

彼女の目は血の玉と同じ色に染まり上がり、と同時にさっき彼女が地面に吐き出した血がざわめき始める。

地面から血だけ剥がされてむくりと起き上がり、ジンの前に浮いたままの玉に吸い込まれる。

その玉とオーラで繋がったままの指に更にオーラを回して、ミメイは赤い玉の形をぐにゃぐにゃと変えていく。

赤い風船のようにパンパンになった血の塊はミメイが百夜教の研究施設で見たキメラの形を描き、ジンの頭を地面に張り倒そうとその前足を伸ばした。

 

「おい待てやめろ、気色悪い物体を生成するな。」

地面に転がって赤い前足の攻撃を避けながら、ミメイに文句を飛ばすジン。

「力の扱いを覚えなきゃいけないと思って。

実験台になってよ、ジンさん。」

そんな彼を見たミメイの頬には柔らかな微笑が浮かび、赤い瞳も綺麗な三日月を描く。

「もう十分好き勝手出来てんじゃねーか!」

「ううん、そうでもない。この血の塊を操作するのは···結構キツくて。

私が形を変えようとするとこいつの方が抵抗してくるの。」

赤色のキメラの形を保ち、それを無理矢理操ってジンと遊ばせるミメイの額には大粒の汗。

デフォルトの微笑も引き攣り、ギリギリと歯を食いしばる始末。

オーラを纏わせた血を操るのが初めてとはいえ、オーラの扱いに関して天才的な才を持っているミメイにしては疲弊し過ぎである。

そう判断したジンはふと思いついたことを口にしてみる。

「抵抗?······おいミメイ、1回力抜いてみろ。

この気色悪い奴にもオーラを流すな。」

「良いけど。」

息が上がるほど疲れていたミメイは、素直にキメラと繋がっていたオーラを断ち切ってそれを操ることをやめる。

その途端、制御を失った赤いキメラは弾けて散り散りになり、幾つもの小さな赤い塊として空中を漂い始める。

暗闇に浮かぶ赤い玉は焚き火に照らされてチロチロ光り、どこか幻想的な気味の悪い雰囲気を醸し出していた。

そのおかしな光景を映したのを最後にミメイの目の上に瞼が落ちる。

彼女の体は疲弊しきっていた。

今すぐ眠ってしまいそうなほどに体が重くなっていた。

冷たい地面に頭を乗せて縮こまり、そのまま眠ってしまおうかとミメイが全身の力を抜き始めた頃、ジンの声が彼女の意識を引き戻す。

 

「ミメイ、見ろ。」

「ジンさん、私今凄く疲れてるの。寝かせて。」

もったりと億劫そうに唇を動かして抗議しても、ジンの声は尚もミメイを叩き起こそうとする。

「目開けてみろ。すげーぞ、これ。」

「···。」

嫌々ミメイは目を開く。

取り敢えず言うことを聞いておけば、その後は自由だと思ったからである。

そうしてゆるゆる瞼を上げて、茶色に戻った瞳に世界を映した。

ゆっくり映して、ミメイは息を止める。

薄ら開いていただけの目がぽかりと花開く。

 

 

そこは、一面の花畑でも何でもなかった。

ただの暗い湿原地帯。

細い木々と背の低い草がまばらに生えているジメジメとした場所。

その筈だった。

その筈だったというのに、ここは花畑か何かだったろうかと錯覚する。

そう錯覚させる原因がミメイの周りにふわりと寄ってきて、その指に留まり静かに羽を休める。

「どうして、蝶が。」

血色の羽を休めているそれから目を離し、ミメイは再び視線を上に上げてみる。

そこに広がるのは何匹もの蝶がその赤い羽を使ってふわふわ飛んでいる光景。

さっきまでどこにもいなかった蝶が突然現れて世界を赤く染めている。

赤、紅、緋色─────血色。

その何より慣れ親しんだ色で、忌まわしくて美しい生命の色でいっぱいの視界。

「これがお前の能力なんだろ。」

「私の?じゃあこれはさっきの血?」

「そうだ。この蝶がお前の力の本当の姿なんだろう。

だからそれ以外の姿にしようとしたお前は必要以上に疲弊した。」

「そっか。」

蝶の形をした赤い塊が留まっている指を眼前に持っていき、その匂いを嗅いでみる。

予想通り自身の血の匂いがしたことにミメイは少しの落胆と安堵を覚えながら、指から蝶が羽ばたいていくのを黙って見守った。

 

「操作はしてねーんだな。」

「全く。」

「じゃお前の意思とは関係なく勝手に動いてんのか、こいつら。」

ジンの言葉を契機にミメイはそっと腕をもたげ、舞い踊る赤い蝶達の方に手を伸ばしてみる。

すると幾つかの蝶はミメイの方へ向かってゆらゆら飛び、彼女の手に留まろうと羽を動かし始める。

今や一滴も血が残っていない、真っ白なミメイの掌を再び赤く染めようと集まってくる。

「ある程度は意思疎通ができるみたい。

感覚的には式神と同じね。」

「式神ねぇ······お前の故郷特有の技術だったよな。」

「うん。」

「なるほどな──────。」

そこでプツリとジンの言葉が途切れる。

また何か考え込み始めて自分だけの世界に突入したのかと思ったミメイ顔を動かせば、空気をひらひら掻き混ぜている赤い蝶達を見上げた状態でジンが固まっているのを見ることができた。

やはり自分の世界に行ってしまったのかと呆れながら彼に声をかける。

「ジンさん?」

しかし答えない。

何も答えない。

またもや無視されているのかと思いかけるが、あまりに何の反応もないことにミメイの頭で警鐘が鳴る。

ミメイの声は勿論外界の音全てが聞こえていないかのように、ジンはぴしりと固まっている。

プロハンターだという彼がそこまで周りに注意を払わないことがあるだろうか。

いや有り得ない。ある筈がない。

 

「ジンさん、ジンさん!」

疲労で重い体をどうにか動かしてジンに駆け寄り彼の肩を揺らす。

肩に触れてすぐ、その異常な強ばりに気付いたミメイの顔が白くなる。

「まさか···。」

ジンとミメイを取り囲むように優雅に飛ぶ蝶。

ミメイの血から作られたという蝶。

小さい時から毒と薬に漬けられて育ったミメイの血から作られた蝶。

「毒、なの。」

物言わぬ蝶はミメイの問いに対する答えを持たない。

変わらない顔で、ひらりふわりと夜の闇の中を舞うのみで。

鱗粉に毒があるのか、そもそも鱗粉なんてものを持ち合わせているのかさえ分からない。

「ジンさん。」

見開かれたまま硬直しているジンの目を覗き込んで、その瞳孔が開いていることを確認する。

次に首筋に指を伸ばせば平常通りの脈を感じることができる。

生きている。死んでなどいない。

それでも今のジンの状態は異常だった。

彼だけ時間が止まったかのように静かに固まっている。

その姿はまるで、意識を彼方へ飛ばしてしまった拷問中の人間のようで。

紙のように白くなったミメイの顔に不安が貼り付く。

 

「私に耐性があって、ジンさんにないもの······やっぱりあっちの世界の毒なのかな。」

この世界の毒であればプロハンターであるジンならある程度の耐性を持っていそうなものだが、ミメイの故郷のもの─────特に科学技術と呪術を混ぜ込んで作り出したような毒物はどうしようもないのかもしれない。

「取り敢えず吐かせた方が良いかしら。

衝撃で意識が戻るかもしれないし。」

そう言いながらミメイは拳を握り、無防備なジンの鳩尾を見下ろして狙いを定める。

容赦なくオーラを集めた拳を彼の鳩尾に向かって振り上げたその時、ピクリとジンの指が跳ねる。

虚空を見つめて光を失っていた瞳にぼんやり光が戻ってくる。

「ジンさん。」

ミメイはすぐに拳を下ろし、戻りかけているのであろうジンの意識を引き摺り上げようと彼の目の前で手を叩く。

その甲斐あってかジンの目には完全に意思が戻り、虚空ではなくミメイを捉え始める。

「良かった、戻ってきた。」

ほっとミメイは胸を撫で下ろし、ジンの顔の前から手を離す。

体調に異常はないかと尋ねようと彼を見て、その目に射られて、思わずミメイは唇を凍らせる。

撫で下ろしていた胸が緊張で跳ね上がり心拍数が急上昇する。

今すぐジンの目から逃れようと、この場を離れようとするが足が地面に縫いつけられたようになって動かない。

 

 

「お前は、()()か。」

ジンの口が動くのがやけにゆっくりと見えた。

緊張でミメイの視神経は過敏になり、戦闘時のような動体視力に引き上げられてしまったからである。

うなじの毛が逆立っているのを感じながら、辺りを飛び回る蝶がざわめいているのに気付きながら、ミメイはカラリと乾いた口を開く。

()を?」

ここで間違えたら、求められていない答えを返そうものならどうなるのか。

それが分からないミメイではない。

だから茶化すことも揶揄うこともなく、ただ正直に事実のみを述べた。

そうして少し見つめ合えば、

「···いや、見てねーんなら良い。」

というジンの言葉で、その場の緊張が霧散する。

ミメイもジンも自然に息を吐き出して、全身で膨らませていたオーラをゆっくり緩めていく。

「ジンさん、体は大丈夫なの。」

「問題ねーよ。お前は。」

パチパチと火の粉が跳ねる焚き火の前に2人並んで座り込む。

「私は大丈夫。

やっぱりこの蝶の毒か何か?そのせいで硬直状態になってたの?」

「硬直状態か。お前から見た俺はそうなってたんだな。」

「ジンさんとしては違うのね。」

そうミメイが言えば、ジンは胡座をかいた足に頬杖をついて剣呑な目付きをする。

その視線の先に赤い蝶の群れがあることに気付き、自然とミメイも夜空を背景に飛んでいる蝶を見上げた。

 

「······夢を見てたんだよ。」

不機嫌さを隠さない声だった。

「夢?」

しかし夢という言葉からそれほどまでに不機嫌になるような要素を見つけられず、ミメイはきょとりと首を傾げた。

「夢だ。夢だと気付けない、気付きたくないような夢。

残酷な幻。掴めない蜃気楼。」

「なるほど、神経毒かしら。」

柊家の教育の中でそういう類の幻覚を何度も見せられたミメイはそう見当をつけるが、ジンは首を振って否定する。

「違うな。あれは違う。間違いなくお前の────こいつの能力だ。」

ふよふよジンの方に寄り、彼の伸ばした手の甲に留まった赤い蝶。

「私はこの蝶が毒を振り撒いたのかと思ったけど、違うのね。」

「多分俺は、お前の血が蝶の形を取った時から念にかけられてたんだろうな。

お前の意思とは関係なく、こいつらは誰かれ構わず周りの人間に念をかけている。」

「それが夢?ジンさんはこの蝶に夢を見せられたの?」

「ああ。」

「聞いても良い?その夢は、ジンさんの欲望そのままだった?

その夢で、願いが叶った気分になった?」

舌打ちをしてから、手に留まる蝶の羽を軽くつつきながらジンは答える。

「······気持ち悪いくらいに。」

 

湿った地面につかないように胸の前に持ってきた髪をミメイは一房取って、くるくる指に巻きつける。

赤い糸ならぬ紫の糸を小指に結んでみて、馬鹿らしいと笑ってすぐに解く。

「そっか。ああ、そういうこと。そういうことだったんだ。

だから私は、今の今まで発の能力を作れなかった。

作ろうとも思えなかった。

だってその力は私だけのものじゃない。

鬼宿のものでもあるから、鬼宿を飲み込んだ私じゃないと使えなかった。」

願いを叶えてやった、と鬼宿は言っていた。

獲物の願いを叶えてやって、十分油断した所でその命を喰らったと。

鬼宿は純粋な力ならば無尽蔵に与えることができただろう。

筋力、回復力、体力、そんな平凡な力ならば、宿主の精神の崩壊と引き換えに幾らでも。

力さえあれば叶う願いならば、それで十分だったに違いない。

けれど力だけではどうにもできない願いは、それが叶った素敵な夢を見せることで達成したことにしていたのだろう。

夢だと気付きたくないほど素晴らしくて、現実感のある生々しい幻覚を。

そんな醒めない夢を見せていたのだ。

 

「ジンさんは、それが夢だと気付けたのね。

だから戻ってこれたんだ。」

「だろうな。」

「どんな夢だった······のかは訊かない方が良さそうね。」

ジンの体からぶわりとオーラが膨らんだのを見て、ミメイは肩をすくめる。

見せられた夢とやらは相当彼の気に障るものだったらしい。

きっと鬼宿の─────ミメイの蝶の力は、本人も知らない願いや欲望を暴いてしまうようなものなのだろう。

それを本人が好むも好まないも別の話で、ただ無差別に夢を見せる。

理性などない化け物の鬼宿らしい、人を傷つけることが大好きなミメイらしいタチの悪い能力である。

「大丈夫よ。私の(あずか)り知らぬ所で働いた力みたいだから、私はジンさんの見せられた夢なんか知らない。」

「そうかよ。」

「ちゃんと制御の方法覚えなくちゃ駄目ね。」

視界いっぱいに広がる蝶の赤い大群が見えないように掌を眼前に翳し、瞬きを何度かしてから手を離せば、蝶の姿は跡形もなく消えていた。

「あ、消せた。」

体の中に血が戻ってきた感覚は特になく、本当に忽然と蝶は消えた。

念能力は不思議だなぁとミメイは他人事のように思いながら、血で汚れていない、傷など残っていない手を見つめた。

 

「1匹残ってんぞ。」

ジンの手の甲で大人しく休んだままの蝶。

彼に言われてそれを見れば、ふわりと羽ばたいてミメイの周りを旋回し始める。

「ならこの1匹は制御の練習用にするわ。」

「そうか。」

「式神みたいで案外可愛いし。」

自我らしきものは無さそうな蝶だったが、そのミメイの言葉を聞いた瞬間ぶるぶると震え出す。

「あら?どうしてそんなに怯えた感じになるのかしら。」

ミメイが笑みを深めれば、余計に恐怖を抱いたのか彼女から離れてジンの肩に飛びつく蝶。

式神の性質をこの蝶が何かしら受け継いでいるのなら、ミメイの式神使いの荒さを察知して蝶が彼女を嫌がるのは道理である。

それに気付いたミメイはより一層、性質の歪みが滲み出た微笑を濃くする。

「あは。」

言うことを聞かないのであればどうなるかは分かっているだろうと、じっとりと目で語りかければ蝶はヨロヨロとジンから離れ、ミメイの周りで羽ばたくようになる。

「もう制御下においてんだろ。」

「さあ、どうかしら。」

呆れ混じりのジンの視線を躱し、小刻みに震えたまま飛んでいる蝶の軌跡を追う。

 

醒めない夢に、願いが叶う素敵な夢に導くというこの赤い蝶は、一体自分をどこに連れて行ってくれるのだろう。

夢のような地獄だろうか、それとも現実のような天国だろうか。

ああ、どちらにせよ救いようのない地獄だな、とそんなとりとめのないことを考えて、ミメイは薄ら笑いを浮かべた。

 

 

 

 




何故か今回尻尾食べてばっかりですね。

···しっぽ···カレー···共食い······うっ頭が······。



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32:欲は底無し、恋せよ乙女

可愛さが足りない。
クラピカも鬼宿もいないせいで、最近可愛さが足りない。
そんな訳で名前ありオリキャラ出ます。






「こんなものかしら。」

表の賑わいとは打って変わって不気味な静けさが支配する路地裏。

そこにドサリと倒れ伏した体を冷たく見下ろして、ミメイは緩慢に人差し指を伸ばす。

優雅にそこに舞い降りるのは1匹の血色の蝶。

ミメイの発の能力である。

この力が目覚めてすぐは制御出来ずに、ジンに念をかけてしまったのは今や良い思い出。

ジンが適当ではあるが助言をしてくれたこともあり、ミメイは蝶の形をとるこの念能力を使いこなせるようになっていた。

ジンと共に立ち寄った港町でナンパをしてきた男達を、醒めない夢の中に引き摺りこめる程度には。

 

「夢だって気付けたら戻ってこれるだろうけど、この調子じゃ無理そうね。」

金と女に囲まれてよろしくやっている夢でも見ているのであろう男達は、すっかり夢に取り憑かれてしまって起きる気配がない。

ミメイは夢の内容を見ることが出来ない為予想でしかないが、このような単純な男達の欲望など決まりきっている。

どこまでも範疇外をいくジンは一体何を見せられたのか、つい気になってしまうミメイだが態々虎の尾を踏みに行くつもりもなかった。

ミメイの念能力で見せられた幻覚で、ミメイのせいで、ジンともあろう人があそこまで心乱されているのを見ることが出来ただけで重畳である。

そう思いながら、いつも出したままにしている蝶を再度隠で隠して路地裏を出る。

 

ふよりふよりとミメイの肩付近を飛んでいる赤い蝶。

ミメイはこの力のことを『胡蝶之夢』と名付けていた。

夢の中で蝶になって遊び、自分と蝶との区別を忘れてしまったという古人の言い伝えに因んだ名前だったが、これほどピッタリなものもない。

ミメイの血から生み出された蝶は、人間の心を見通して欲望を看破し、逃れられない夢を見せるのである。

夢だと気付きたくない、気付かせない素敵な夢を。

その生々しい幻が夢だと悟らなければ夢は醒めることがない。

つまりミメイの蝶がかけた念は解けることがない。

1度念がかけられた人間はそれが解けるまで昏睡状態と半覚醒を繰り返し、夢に囚われて廃人まっしぐら。

ただ殺されるよりも、ある意味残酷な終わりを迎えるのである。

 

念にかかりたくないのなら蝶を見なければいいのだろうが、どうやらそうもいかないらしい。

普段は隠で蝶を隠しているが隠をやめてその姿を晒したが最後、人間は皆赤い蝶を追わずにはいられない。

ひらりふわりと高雅に羽ばたくその姿に目を奪われて、魅せられて、夢の中に連れて行かれる。

ジン曰く、この赤い蝶は酷く美しいらしい。

触れるべきではない、見るべきではないと頭の端で鳴る警鐘に気付きながらも目を離せない。

そんな不思議な力があるという。

恐らくその美しさとやらも能力の一部なのだろうと、ミメイは考察していた。

事実彼女はそこまでこの蝶に惹かれはしないし、1度夢に連れ込まれて戻ってきたジンは耐性ができたのか、蝶を見ていても念にはかけられない。

隠状態にした蝶を凝で見破って視界に入れたとしても、恐らく念にはかからないということも判明している。

 

 

「使えるか、って言われたら微妙な力ね。」

買い物をする人々で賑わう市の中を歩きながら、ミメイは小さく呟いた。

すると捨てないでくれと訴えるように蝶がミメイの肩に貼りつくが、彼女はそれに無視を決め込む。

確かに雑に使っていた式神や呪符よりは、この蝶の汎用性は高い。

どんな手練相手でも必ず1度は夢に引き摺り込めるであろう能力は悪くはない。

蝶を十分標的に近付かせることが出来れば、夢に連れ込める対象人数は無制限だというのもお得である。

円の範囲は丁度半径2mと狭めなミメイだが、偵察代わりに多くの蝶を飛ばせば広い範囲を蝶を通して肌で感じられ、円の代わりにすることも可能だった。

 

しかし蝶を生み出すにはミメイの血が必要なのである。

しかも溜めておいた血ではなく、たった今出血したばかりの新鮮なもの。

ただでさえ血に飢えているというのに、血を失わなければならないのである。

蝶の力を使った後一々それを消し、使う時にはまた指を切って────と暫くは繰り返していたが、体から血が失われることに我慢ならなかったミメイは、1匹だけは消さずに残しておくことに決めたのだ。

蝶を一定期間以上維持しておくには、蝶とミメイとの間をオーラで繋いでおく必要があったが、背に腹はかえられないと判断してそうしているのが今肩に貼りついている1匹である。

 

「そもそも私、直接攻撃の方が得意なのよね。

搦手も後方支援も、あんまりやったことないの。

人間をやめかけてるから普通に身体能力も高いし。」

グレン同様ミメイも考えることは苦手ではないし、どちらかといえば得意なのだろう。

しかし2人ともどちらかと言えば現場の人間だった。

後方で色々指示を出してくる真昼や暮人と違い、いつも前線に立っていることが向いている人間。

まあ真昼は前も後ろも関係なく、結局自分が行きたい場所に行ってしまう、全て自分だけでやってしまうタイプだったが。

暮人だって柊家の跡取り候補らしく、闘うことにかけて遅れをとることはなかったが。

それでもあの2人ならば、ミメイが今手にした力を上手く使ってくれたことだろう。

「ちょっと、手に余る。」

ミメイ1人ではこの力を使いこなせる気がしなかった。

「···でも、私は1人だもん。もう1人なんだから。

私だけでやらなくちゃ。」

口出ししてくる鬼宿は既にミメイの腹の中。

指示出しをしてくれる人間もこの世界にはいない。

そんな世界で、ミメイは1人生きている。

取り敢えずはいつか化け物になる為に、たった1人を酷く傷つける(愛する)為にこの世界を生きている。

 

 

潮風が香る港町の端に立って、遥か先まで続いている青を見つめる。

キラキラ光る海と、澄み切った空と、微妙に色合いの違う2つの青色の間を泳ぐ海鳥の白。

眩い太陽の光から隠れるように日傘代わりの蓮の葉を差しながら、ミメイは赤く染まった目を見開く。

美しかった。

この世界はどうしようもなく美しかった。

人間離れした目は光の波長の違いをよく感じることが出来た。

どの感覚も鋭いお陰で、空気の流れや湿度、気温などの全てを実感出来る。

全てが美しい。美しくて、とても重要に思える。

 

ミメイは海を見たことがなかった。

こんな風に穏やかで、賑やかな海を見たことがなかった。

地下にある訓練場と研究室を行き来して、コンクリートに閉ざされた都会にいて、こんな光景を見ることなど出来やしない。

けれどそれがあの世界では、柊家という地獄では当たり前のことだった。

ミメイが置き去りにしてきた家族や仲間にとっては、まだ当たり前のことなのだろう。

 

息を吸い込む。

肺いっぱいに広がるのは、初めて嗅いだに等しい海の香り。

爽やかながらも、どこかべっとり停滞しているような不思議な風がミメイの髪と首の間を通り抜けていく。

「ミメイ。」

背後からかけられた声に緩慢に首を回し、ミメイは茶色に戻った瞳を瞬かせる。

「何か掘り出し物はあった、ジンさん?」

「ほらよ。」

ぽいと紙袋を投げつけられて、それをミメイは片手で受け取る。

「くれるの?」

紙袋の中を覗き込み、入っていたものが間違いなく自分宛だと分かって首を傾げた。

「布巻いただけってのも貧相だからな。安物だが無いよりマシだろ。」

ジンは、ボロ布を巻きつけて保護しているだけのミメイの足を見下ろして言った。

 

「ありがとう。あ、でもサイズは大丈夫かしら。」

「多分大丈夫だろ。」

紙袋から早速靴を取り出して足を入れたミメイは、ジンのその言葉通りだったことに微笑を深める。

「どうしてジンさんが、私の足のサイズをここまで正確に知ってるのかは考えないでおくわ。」

「俺からの餞別にもう少し感謝しろ。」

「してるわ。十分してる。」

ミメイを湖から引っ張り上げた時のように仏頂面気味の童顔を、ミメイは軽く見上げた。

「靴だけじゃない。ちゃんと貴方には感謝してるもの。

何だかんだ面倒見てくれた貴方に。」

「見た覚えはねーよ。

お前が勝手についてきただけだ。」

素っ気ないその言葉の中に、人の良さが滲み出ていることにミメイはくすりと笑う。

 

「どうした。」

「ううん、別に。初めから貴方に会ってたとしたら何か変わったのかなって思っただけ。」

流星街でクロロと出会うのではなく、砂漠でジンと出会っていたとしら。

ミメイの見える世界は違ったのだろうか。

そんな馬鹿なことを考えてからすぐに否定する。

ただ順番がひっくり返っただけで、きっと何も変わらなかった。

ミメイは結局人間をやめて、化け物になることを選び取って、そうやって生きると決めただろう。

ジン曰く恋愛馬鹿であることに変わりはなかっただろう。

偶然であろうとなかろうとクラピカに出会って恋をすることだけは揺るがない。

変わることのない普遍事項。

 

 

「楽しかったよ、貴方と一緒にいるのは。」

おろしたての靴を鳴らし、ミメイはくるりと回って再び海を見つめる。

セーラー服のスカートが海風で揺れ、軽いリボンが簡単にはためいて舞い上がる。

「俺もだよ。」

何度かミメイが頭から引き剥がして強制的に洗ったお陰で、少し小綺麗になった布がジンの後頭部で揺れた。

「あは、私達気が合うね。」

「それには半分だけ同意してやる。」

「えぇ、何それ。やっぱりジンさんは不思議なことばっかり言うのね。」

面白そうに笑うミメイを見下ろして、少し迷ってからジンは口を開く。

「ミメイ。」

「なぁに。」

「ハンターになれ。」

呼びかけられて僅かに傾げていたミメイの首は更に折れ、その目は大きく見開かれる。

 

「ジンさんと同じ?」

冗談だろうと顔を顰めるミメイに対し、本気の顔でジンは言葉を重ねる。

「ああ。向いてるよ、お前は。」

「そう?私は割と無茶苦茶だと思うんだけど。

性格はそこまで悪くなくても、性質は間違いなく悪いし。

ハンターなんていう高潔なものになれるの?」

「やりたいことがあるんだろ?」

「ジンさん曰く恋愛脳(スイーツ)娘の私がやりたいことなんて分かりきってるでしょ?」

質問を質問で返し合う状況に終止符を打ったのは、これまたジンだった。

「行きたいんだろ、“外”に。」

“外”。

その短い単語だけで、ミメイの目は一瞬赤く光る。

「······まあ、ね。1度行ってみるべきだとは思ってる。」

鬼宿の生まれたであろう“外”。

“終わりのセラフ”によく似た装置が存在するであろう“外”。

そこで何をするか、したいかなどは分からない。

けれども鬼宿の全てを取り込んだ今、ミメイが“外”に結びつけられるのは仕方のないことでもあった。

夜な夜な垣間見る鬼宿の記憶の中で、“外”関連で少し気になることもある為余計そうなっているミメイである。

 

「ならなれよ。」

「ハンターになることと、“外”に行くことが関係あるとは思えないんだけど。」

「じゃ逆に訊くけど、ハンターになりたくない理由でもあんのかよ。」

「それは無いけど···ジンさんの言う通りにするのが嫌っていうか、気に食わないっていうか······そんな感じなの。」

「反抗的な奴だな。

ったく、何を不安がってんのかは知らねーが、大丈夫だろお前なら。」

「何が─────」

大丈夫なの、と文句を吐き出そうとしたミメイの喉は硬直する。

頭から足の指の先までカッチンコッチンに固まって、心臓が激しく跳ねる音が脳を揺らす。

「なれるよ。お前ならなれる。」

そのいつも通り素っ気ない声が上から降ってくるだけなら、ミメイはこうはならなかった。

恐らくハンターらしいのであろうその立派な手を頭にポンと置かれたり、その手で頭を軽く撫でられたりしなければ、ミメイは普段通りの微笑を保っていられた。

 

「お前が昔どうだったかなんてどうでも良いんだよ。

大事なのはどう生きたいかだろ。」

ミメイの状態などお構い無しに、ジンは乱暴にミメイの頭を撫でる。

撫でられれば撫でられるほどミメイの口がパクパク動き、その顔が赤くなっていることに彼はまだ気付かない。

「あ、」

どうにかこうにか絞り出した細い声。

ミメイらしくないそれに顔を顰め、彼女の顔を覗き込んだジンは一瞬の戸惑いの後言葉を失った。

「あ、あ······ありがとう······。」

もごもごと今にも消え入りそうな声を発するミメイの顔は、かつてないほどに赤かった。

そこに普段の微笑はなく、唇を軽く噛みながらそっぽを向いて照れていた。

ミメイは照れに照れていた。

腐れ縁であるグレンや深夜以外に頭を撫でられるなんてこと初めてで、父性のようなものに触れるのも初めてで、どうして良いのか分からなかった。

分からなくてもとにかく嬉しくて、それが少し恥ずかしくて、カッチコチに固まって顔を赤くするしかなかった。

 

「······そういやお前、父親慣れしてないんだったな。」

父親と変わらないくらい歳上の男に頭を撫でられただけで、ミメイがここまで茹でダコになる理由に思い当たり、思わず額に手をやるジン。

最後の最後に予想だにしない不意打ちを食らい、このいたたまれなさをどうしようかと困り果てる。

「···まあ、そういうことだからなれよ、ハンター。」

この場所が港町の端で、人目が無かったことに感謝しながらジンは取り敢えず適当にまとめた。

「···ジンさん、息子さんに会いに行った方が良いよ。」

頭からジンの手が離れた後も、耳まで真っ赤にしたままのミメイはボソリと呟いた。

「気が向いたらな。」

「その、なんていうか······父性的なものに関わらないで成長するとこうなります。

こうなっちゃうと思います。

でも、ジンさんがそれで良いなら良いと思います。」

熱い顔を冷やそうと、太陽の光を遮ろうと、蓮の葉の傘に頭を埋めるようにしてミメイは小さくなる。

「なんで敬語になってんだよ。」

「いやほんと、ジンさんがそれで良いなら私は別に何にも気にしません。

き、気になんてしてないので!」

それを捨て台詞に、ミメイは蓮の葉を揺らして走り出す。

 

 

「ミメイ!お前ならハンターになれるから、とっととなれよ!」

陽の光に照らされて煌めく紫の髪を揺らして、物凄い速さで飛んでいく小さな背中にジンは叫ぶ。

「なる、なってやるわよ!」

するとミメイは少しだけ振り返りながら、ムキになったせいで張り気味の声をジンに投げつけてくる。

「おー、その意気だ!」

蓮の葉の端からちらりと見えたその耳がまだ赤いことに微笑ましさを覚えて、ひとりでにジンの口角が上がる。

 

「じゃあまたね、ジンさ───────師匠。」

「おいこら待て最後なんて言いやがった。

俺はお前みたいなアホを弟子にした覚えはねーぞ!」

またもや爆弾を落としていく彼女は、もう振り向かない。

海に面した道を1人で走っていく。

けらけら笑いながら、ジンに背を向けて一目散に去っていく。

ジンもそれを見守ることなく踵を返して歩きだす。

奇縁で巡り会った変な娘が、人間らしくない匂いを纏う娘が、精々元気に生きることを願いながら。

 

 

 

 

 

───────────

ジンと過ごした1ヶ月は、短いながらもミメイにとってはかけがえのないものだった。

念能力をまともに扱えるようになったからというのも勿論だったが、何より彼の言葉で世界が広がったような気がしていたからである。

クロロによってこの世界というものを教えられた時以上に、ミメイの視界は急速に開けていった。

その新しい世界を見てみようとふと思いついたミメイは、ジンと別れて一人旅を始めることにしたのである。

 

飛行船と船を駆使して幾つもの大陸を股にかけ、様々なものを見た。

この世界というものを見た。

戻ってきた心を弾ませて、すぐに赤くなる目を光らせて、全身でこの世界を感じた。

旅の途中で金髪の子供の噂を耳にして、その噂を追いかけたことで旅の予定がズレることは多々あったが、ミメイは半年かけて世界一周を大体終えたのだった。

結局クラピカは見つからず、ついでに幻影旅団にも見つからず、ミメイは用心棒として荒稼ぎしていた大都市に1人戻ったのであった。

 

鬼宿に喰われてでも力を手にして、その力でクラピカを助けたいと思ったあの夏の日から1年の時を経て、19歳になったミメイはビルの屋上に立っていた。

表向き平穏な街の喧騒は変わらない。

裏をマフィアが支配しているお陰で、均衡が保たれているこの街は変わらない。

ミメイだって変わらない。

ほんの少しだけ背が伸びたような気もするが、それはきっと成長期の残りカスでしかなくこれ以上は変わらないことだろう。

何より人の血を飲めば、ミメイの体は完全に成長というものが止まるのだから。

人間らしい生を放棄して、不変の化け物になるのだから。

旅の途中でクラピカには出会えなかった為、“その時”の訪れは気長に待つしかないらしいとミメイは笑う。

旅を始めてすぐに手に入れた折り畳みの黒い日傘を傾けて、太陽を直接見ないように気をつけながら夏の終わりの青空を見上げる。

 

ミメイは青が好きだ。

赤よりも青が好きだ。

自然の動植物はあまり持たない色だというのに、海も空も当たり前の顔をしてその色を有しているから好きだ。

どこまでも透き通っていて、何よりも生き生きとしていて、それでいて静謐さを抱えているから好きだ。

そう、真っ赤に染めてやりたくなるくらい大好きなのである。

 

 

「ここにいたのか、ミメイ。」

屋上のドアが開き、良い仕立てのスーツを身につけた男がミメイの背後に立つ。

かつてミメイが世話になり、今はミメイの上司にあたる巨大マフィアのボスである。

十老頭の1人である彼はこの1年で家の中のゴタゴタを鎮圧し、裏社会で更なる権力を手にしていた。

そんな彼相手に直接就職活動をし、見事雇われ懐刀のような地位に落ち着いたミメイは毎日せっせと暗殺に勤しんでいた。

「また仕事?

今度は誰を殺れば良いのかしら。」

日傘の柄をクルクル回して遊びながら、ミメイはゆっくり振り返る。

裏社会の人間らしく黒いスーツを身につけた彼女は、後頭部で1つに括った髪を揺らしてニコリと笑う。

仕事用の格好を、仕事用の笑顔を覚えたミメイは少女と呼ぶには相応しくなく、既に女性になっていた。

今日も肩付近を飛んでいる隠で隠した赤い蝶のように、彼女は羽化を終えていた。

 

「いや、今回は護衛任務だ。」

「あら、珍しい。誰を守れば良いの?」

「詳細は君の携帯に送っておいた。前金も既に振込済みだ。」

「あは、気が利く人は好きよ。」

ミメイはズボンのポケットから携帯を取り出し、メールが届いているのを確認してからその画面を暗くする。

「じゃあこの仕事が終わったら一緒にディナーでもどうだ。」

「ごめんね、私浮気はしない主義なの。」

仮にも上司の誘いを即座に断ることが出来るミメイの心臓には毛が生えている。

「あの少年か。」

「彼以外にいると思う?」

携帯が入っていない方のポケットから黒い手袋を取り出し、それを両手にはめてから日傘を畳む。

 

今のミメイは太陽が苦手なだけであり、直射日光を浴びても体が焼けたり融けたりすることはない。

とはいえ吸血鬼時代の鬼宿も、今のミメイ同様直射日光に当たると動きが鈍くなる程度であったらしい。

ミメイの生まれた世界にいた吸血鬼にとって太陽は天敵だが、この世界の吸血鬼にとってはそこまでのものではないのだろう。

そう、ミメイの知る吸血鬼と、鬼宿の知る吸血鬼は違った。

あくまでも似て非なるものであった。

だからこの世界に落ちて間も無い頃、鬼宿はこう言ったのだ。

『ミメイの知る吸血鬼はこの世界にはいない』と。

 

「逃げられたんじゃないのか?」

ボスの揶揄うような言葉に軽く眉を上げながら、ミメイは腰のベルトに折り畳み傘を括りつける。

刀のように腰に差すのではなく、地面と平行に体の後ろに身につければ肉弾戦が多い戦闘でも支障は生じない。

得物であった鬼呪装備が今や自らを害する武器となってしまった為、ミメイは得物無しで直接相手の首をへし折りにいく戦闘スタイルに変わっていた。

だからこそ身につけるようになった黒手袋の手首のベルトをしめ、ミメイはボスの方を見ないまま口を開く。

 

「違うわ、逃がしたのよ。私はあの子を逃がしたの。」

クロロが自分にしたことと、今自分がクラピカにしていることの大きな違いが見つからず、ミメイの腹の底からおかしさが込み上げる。

「だから良いの。」

「全く、君は不思議だな。」

「理解されたいとは思わないわ。」

だって貴方は最期まで絶対人間のままだもの。

そう心中で呟いて、ミメイは屋上の向こう側へと1歩踏み出す。

屋上を蹴り上げてから道の無い空中へと歩き出し、次のビルへと飛び移る。

サーカスの軽業師より見事な身のこなしで、ミメイは青空の下を進んだ。

 

 

 

 

────────────

「貴方がアリサ=レンフィールドさん?」

閑静な高級住宅街に建っている1つの屋敷。

その2階の窓から中に侵入したミメイは、落ち着いた様子で椅子に座って本を読んでいる少女に問いかけた。

「ええ、間違いなく(わたくし)です。

では貴方が私を守って下さる方ですのね。」

突然夜の闇の中から現れたミメイに大して驚かず、パタリと本を閉じた少女は随分肝が据わっているらしい。

「中にお入りになったら?

紅茶くらいしかご用意出来ませんが、それで宜しくて?」

赤い巻き毛を耳の上で2つ結びにしている可愛らしい少女は、テーブルを挟んで向かいの椅子をミメイに示す。

「ありがとう。」

少女の所作の一つ一つにお育ちの良さが滲み出ていることに親近感を覚えながら、何だかんだお嬢様育ちのミメイは椅子に座る。

 

「依頼内容の確認をしても良い?」

「ええ、構いませんわ。」

所謂お嬢様という感じのドレスを身につけた品の良い少女は、一目で高価だと分かるカップを用意しながら答えた。

「貴方は誰かに命を狙われている。

だから昔から懇意にしているうちのボスに護衛の依頼をした。

あってるかしら。」

「ええ。」

「敵に心当たりは?」

(わたくし)の家は何代も続いてきた資産家ですの。

数年前に両親が亡くなってからは、私が当主として事業を運営してきましたわ。

ですから敵の心当たりなどあり過ぎて困りますのよ。」

頬に手を当てて優雅に微笑む少女は嘆息する。

長い睫毛が縁取る青灰色の大きな目がパチンと輝く。

「ふぅん、凄いね。まだ15、6くらいでしょ、貴方。」

少女の淹れた紅茶の香りを楽しむミメイは、興味深そうに少女を見やる。

恐らくクラピカと同じくらいだろうとミメイは見当をつけていた。

「あらまあ、そう仰る貴方も同じくらいではなくて?

貴方のような女性の護衛の方なんて、私初めて見ましたわ。」

少女の方もミメイの視線をしっかり受け止め、うふふと可愛らしく笑った。

 

「残念ながら私は来年20なの。だから貴方よりは少し上ね。」

空になったカップをテーブルに置いてから、少しよれた手袋を直しながら言った。

「あら、そうなんですの。それは失礼致しましたわ。」

「所でお嬢様。」

「アリサとお呼び下さいな。

そして貴方のお名前も教えて下さいまし。」

「ミメイよ。宜しくね、アリサお嬢様。」

ウインクでも飛ばしそうな笑顔を浮かべ、ミメイは少女────アリサに挨拶をした。

「はい。」

アリサもこくりと頷いて、営業用のミメイの笑顔を受け取った。

 

「貴方の依頼の中で少し気になることがあったの。

訊いても良い?」

「何なりと。」

「『今夜刺客に襲われるだろうから守って欲しい』ってあったけど、今夜だと分かっているのはどうして?

敵は沢山いるんでしょう?それならいつ狙われてもおかしくないわよね。

けど貴方は今夜を指定した。今夜、腕の立つ護衛を寄越せと依頼した。

どうしてかしら。」

メールで送られてきた依頼内容を読んだ時から気になっていたことだった。

そしてこの屋敷に侵入してからもミメイの違和感は強まっていた。

豪奢な屋敷だというのに門番も執事も給仕も誰一人いない。

感じられる気配からして、今この屋敷には依頼人である少女しかいない。

まるで今夜これから何かが起こることを想定しているかのように、この屋敷は静まり返っている。

 

(わたくし)、占い師のお友達がおりますの。

沢山お客様を抱えている売れっ子なんですのよ。

けれどお友達の私は、特別に無料で彼女に占って貰っているんですわ。」

「占い······ね。それで?

貴方はそのお友達の占いを信じて、今夜殺されない為に護衛の依頼をしたの?」

「ええ、その通りですわ。」

「ふぅん、そう。」

金持ち御用達のよく当たる占いという奴には心当たりがあった。

確かミメイの上司であるボスも時折依頼していた筈である。

その占いのお陰で、ここ数年で急成長したマフィアがあったとも聞いたことがある。

「確かノストラードだったかしら。」

ミメイがそのマフィアの名を呟けば、アリサはパアッと顔を綻ばせて年相応の笑顔を浮かべる。

「まあ、ご存知でしたのね。」

「裏社会では有名な話でしょ?」

「それもそうですわ。

このお仕事が終わりましたら、私の伝で彼女に占って貰えるように図りましょうか?」

「ううん、要らないわ。」

そう素っ気なく断ると、見る見るうちにアリサの頬が不満そうに膨らんでいく。

アリサは年齢以上の大人らしさを兼ね備えてはいるようだが、感情を表に出してしまう所は普通の女の子らしいと微笑ましさを感じるミメイである。

 

「彼女の────ネオンの占いは本物ですのよ。

1度占われたら分かりますのに。」

友達の力を信じて貰えずに怒るアリサを見て、シノアもこんな風になれるのだろうかと表情筋と感情が死んでいた妹に意識を飛ばしながら、ミメイは首を横に振る。

「ああ、別に占いの腕を疑ってる訳じゃないの。

彼女の占いは本物だろうなって私も思ってる。」

恐らく念能力によるものだろうとミメイは予想していた。

この世界の一見摩訶不思議な事象は、殆ど念能力によるものだと彼女は既に気付いていたからである。

「でも必要ないの。私の生は私のものだから。

誰にも見せない、誰にもあげない。

命でも何でも捧げても良いと思える唯一の人以外には、あげたくないの。」

これはそんな激しい恋だ。

たった1人の為ならば世界だって滅ぼせる、真昼と全く同じ恋心。

そのたった1人に想いを馳せながら、ミメイは目を蕩けさせて笑った。

 

「命でも···何でも···。」

ミメイのどろりとした色気にあてられて顔を赤らめながら、アリサはミメイの言葉をモゴモゴ繰り返す。

その様子を見てすぐに思い当たったミメイは目を細め、なるほどねと小さく呟いた。

「あら、もしかして貴方もそんな人がいるのかしら。」

「な、ど、どうしてそれを······!」

途端カッと燃え上がるように、見事な赤毛と同じくらいに耳まで赤くしたアリサを見るミメイは、楽しそうにクスクス笑う。

「分かりやすいね、貴方。

まあ、恋愛馬鹿って言われた私が言えることじゃないけど。

どんな人なの?貴方の想い人は。」

「······(わたくし)の従兄弟ですわ。

烏の濡れ羽色の髪と瞳を持った素敵な男性ですの。

幼い頃からお慕いしております。」

咳払いをしてから恥ずかしそうに話すアリサは、正に恋する乙女という奴で。

ミメイの恋愛モードのゲージもキュンキュン上昇してしまう。

「黒髪かぁ。うん、良いよね黒髪。」

グレンの癖毛を思い出したミメイは頷いた。

「ミメイお姉様の想い人も黒髪ですの?」

「おねえさま······まあ良いけど。

黒髪なのはあくまで私の初恋の人。

あの子は綺麗な金髪よ。」

急にお姉様呼びになり、グイグイ距離感を縮めてくるアリサに妙な既視感を覚えながらミメイは答えた。

 

 

「······ミメイお姉様、やはり初恋は叶わないのでしょうか。」

ふっと、アリサの顔が翳る。

さっきまでのキラキラ乙女モードは影を潜め、切なそうな微笑を浮かべてしまう。

「私が今好きな人が初恋じゃないことを気にしてるの?」

「お気に障ったのなら申し訳ありません。」

「良いわよ、別に。

初恋っていっても、私のものはどうしようもなかったから。」

「伺っても?」

「んー、簡単な話よ。

私の初恋の人は、私の大好きな双子の姉と相思相愛だったの。

それだけ。」

紅茶の入っていたカップを指で弾き、軽やかな音が鳴ったことに笑みを深めてアリサを見れば、彼女は目を潤ませた上にギュッと唇を噛んでいた。

 

「どうして貴方が泣きそうになってるの?」

「だって、お姉様、そんなの辛過ぎますわ!

(わたくし)そんなの、耐えられません!」

「辛くなかったと言えば嘘になるわ。

でもね、私は姉のことも大好きなの。それこそ初恋と同じくらい。

だから良かったの。あの2人が幸せになってくれれば、それで。

そうなってくれたら······良かったのに、ね。」

鬼宿の記憶を辿って分かった真実を思い返しながら、ミメイは赤い唇をぐしゃりと歪めた。

真昼はグレンの鬼呪と一体になって世界滅亡の生贄として捧げられ、グレンはその真昼の命を使って世界を滅ぼした。

ハッピーエンドなんてどこにもない。

生まれた時から不幸せだったお姫様は、王子様に抱かれて不幸せなまま化け物になって死んでいきましたとさ。

そんなバッドエンドでしか締めくくれなかった淡い現実。

 

「ねえアリサ、もしかして貴方の好きな人は貴方の命を狙ってる?

だから貴方は初恋は叶わないと、そんな悲しそうな顔をしてるのかしら。」

図星をつかれたアリサは瞠目し、その後辛そうに力無く頷いた。

「エド────従兄弟()()ありませんわ。

従兄弟の父、つまり(わたくし)の叔父ですの。

私を狙っている人間は沢山います。

けれどその中で1番執念深いのは、私が死んで1番得をするのは叔父なんですのよ。」

「よくあるお家騒動かぁ。どこも大変ね。」

「ミメイお姉様も?」

「さっき言った双子の姉と、私達姉妹とは腹違いの兄が後継者争いをしてたのよ。

有力候補はこの2人に絞られてはいたけど、それ以外にも腹違いの兄妹が選り取りみどりで、もう無茶苦茶だった。」

「まあ······悲惨ですわ。

やはり身内が1番の敵というのは正しいんですのね。」

「多分あながち間違ってないよ、それ。」

良い所のお嬢様として育った者同士感じ入るものがあったのか、ミメイとアリサは心の底からの笑顔を浮かべ合った。

 

「なら今夜貴方を狙うのも?」

「叔父だと思いますわ。

脅しだけならまだしも、実力行使にまで移せる行動力と財力を持つのは叔父くらいですもの。

実際、叔父が多額の金を動かしたことは調べがついておりますわ。」

自分を殺そうとしている人間のことを淡々と語りながら、紅茶のお代わりを用意するアリサも相当数修羅場は潜ってきているらしい。

そう考察したミメイは、カップに紅茶を注いで貰いながら彼女に問う。

「どこにかは分かる?」

「用心深く色々な口座を経由していましたが、パドキア共和国のもので最後でした。」

「パドキア共和国······それ本当?」

裏社会で仕事をしていれば、その国の名前はどうしても引っかかってしまう。

それほどまでにその国は、その国のとある山にいる暗殺一家は有名なのであった。

 

(わたくし)も報告を受けた時は信じられませんでしたわ。

パドキア共和国といえばククルーマウンテン、ククルーマウンテンといえばゾルディックですもの。」

「あの暗殺一家のターゲットになってるかもしれないのに落ち着いてるのね、貴方。」

出涸らしとはいえまだ十分良い香りを漂わせる紅茶を口に運びながら、ミメイはクスリと笑う。

「あら、だってお姉様がいらっしゃいますもの。

私を守って下さるんでしょう?」

「······あは、良いわね貴方。

好きよ、貴方みたいな子は。」

当然のことのように笑って断言したアリサの顔を見て、ミメイも口角を引き上げる。

チカリと一瞬目を赤く輝かせ、その目でいやらしい三日月を作りながらカップをテーブルに置いた。

 

「光栄ですわ。」

「美味しい紅茶も貰ったことだし、そろそろ私も働かなくちゃね。」

「あらお姉様、まだ淹れて差し上げますのに。」

「うーん、そうして貰いたいところなんだけどそうもいかないみたいなのよ。」

少し前から窓の外を漂っていた小さな紙切れに赤い蝶を差し向ける。

気付かない振りをしていれば油断した刺客が現れるだろうかと泳がせてみたが、あちらも手練らしくそう簡単には姿を見せてはこない。

しかしその刺客の見当がついた今となっては、仕掛けられるのを待つより仕掛ける方が早いと判断したミメイである。

紙切れごと飲み込んでから爆発するように蝶に命令しながら、ミメイはアリサの体を床に伏せさせる。

「お、ねえさま?」

突然床に押し倒されたことにドギマギしたアリサは顔を赤らめていたが、窓の外で小さな爆発が起きたことで顔色を変える。

「叔父さんの居場所は分かる?」

「え、え。今も密偵に探らせていますから大体は。」

「それで充分よ。」

ヒソヒソ話を素早く打ち切ったミメイは、爆発から庇うように押し倒していたアリサを抱え上げて部屋のドアを蹴破る。

 

 

「おねえさま、どこへ···?」

「少しお散歩しましょうか。」

完璧なお姫様抱っこでアリサを運びながら、ミメイは豪奢な屋敷の廊下をひた走る。

爆発の余波で割れた窓ガラスはミメイの背を少し傷つけており、そこから滲み出た血を使って隠で隠した蝶と、隠していない蝶を作り出す。

隠しているものを殺気が飛んできていない方向へと偵察に向かわせ、隠していないものを特攻兼足止めとして殺気が飛んでくる方向へと飛ばす。

「ええ、はい、構いませんけれど······っきゃ!」

ミメイが2階の廊下の窓から飛び降りた衝撃に、思わずアリサが小さな悲鳴を上げる。

「少し口を閉じていた方が良いわ。じゃないと舌噛むわよ。」

「はい、分かりましたわ。」

ミメイの言葉に従ってキリリと唇を引き結び、彼女の首にしっかり手を回して掴まるアリサは、正に騎士に守られるお姫様であった。

ミメイが普段のセーラー服ではなく、仕事用のかっこいい黒スーツを着て髪を結んでいるから余計である。

 

「あら、あっちも本気みたいね。」

足止め用に向かわせた蝶が、刺客の元に辿り着く前に粉々に散らされたことに気付いたミメイはほくそ笑む。

窓の外を飛んでいた紙切れといい、この突破力といい、間違いなく念能力者だろう。

流石はゾルディック(仮定)というべきか。

久し振りに骨のありそうな敵につい笑みを浮かべてしまうミメイは、十分戦闘狂の気がある。

幻影旅団と闘った時よりも着実に力を蓄えている為、余裕を持って楽しめそうだと無意識下で考えているミメイは、人気のない夜の住宅街を疾走する。

その速度に目を白黒させながらもアリサは必死にミメイにしがみつく。

アリサも分かっているのであろう。

遥か後方から、既に遠い場所に位置する屋敷から、さっきまでいた部屋から、嫌な気が飛んできていることを。

その証拠に彼女のうなじの毛は本能的恐怖を感じて逆立っていた。

 

「さてアリサ、貴方の叔父さんがいるのはどこかしら。」

住宅街を抜けてすぐの場所にあるビルの屋上まで飛び上がったミメイは、夜でも賑わう市街地を見下ろしながらアリサに尋ねる。

「電話をしてみなければ流石に細かい所までは、分かりませんわ。」

ゼェハァとどうにか呼吸を落ち着けながらアリサは声を絞り出した。

「電話かぁ、盗聴されてる可能性があるわね。

でも良いよ、電話して密偵から詳しく聞いて。」

「い、良いんですの?」

ミメイの言葉の中に良いと判断できる要素は1つもなく、アリサは戸惑いながらも自分の携帯を取り出す。

「うん。その代わり、さっきみたいに私が走ってる状態で電話してね。」

さっきは舌を噛まないように口を閉じていろと言っていた人間が、同じ口で無茶を言っている。

しかしこの無茶を言う人間の言う通りにしなければ、きっと自分は死ぬだろうという予感がしている、実際死の予言を貰っているアリサは涙目になりながらも頷いた。

「······頑張りますわ!」

「よろしく。」

アリサを抱え直したミメイは先に市街地へと向かわせている蝶達から情報を得ながら、ふぅと一息吐き出した。

 

「そう、ええ、(わたくし)です。

······まだ貴方はそ········っきゃあああっ!」

ミメイがビルの屋上から足を離し、真っ逆さまに地面へと落下する。

いくらミメイにしっかり抱えられているとはいえ、いくら肝が据わっているとはいえ、突然の紐無しバンジーに大きな悲鳴を上げてしまうアリサ。

「な、何でもありませんわ!大丈夫ですわ!

そ、それより、“あの方”は?」

電話先に心配されながらも必死に誤魔化して普段通りを装うアリサの姿には涙ぐましいものがある。

しかし紐無しバンジー()()のことで悲鳴を上げてしまうアリサの可愛らしさに、思わずニコニコしてしまうミメイに人の心は無かった。

「ええ、っきゃ·······はい、そうですの。

あ、い、やぁっ······きゃあぁあああ!

だ、だ、大丈夫ですわ!問題ありませんの!

B地点の16ですのね、分かりましたわぁああぁああっ!」

ミメイは容赦なく飛んだり落ちたり登ったりを繰り返し、夜の市街地を縦横無尽に跳ね回る。

その間も悲鳴を飲み込む努力を続けるアリサはどうにか叔父の居場所を密偵から聞き、やっとのことで通話を切った。

 

「おね、え、さま、ダイヤモンドパレスビルの32階ですわ。

叔父の持ち家の、1つです。」

「密偵の教育もちゃんとしてるのね。」

簡単なものとはいえ盗聴対策の暗号を使っていることにミメイは満足げに笑いながら、真っ直ぐ市街地の中心へと走り出す。

人で賑わう街中を縦横無尽に動き回ったことと、オーラをたっぷり纏わせた蝶を市街地中に飛ばしたことは、撹乱するには大正解だったらしい。

刺客の殺気が分散していることを肌で感じるミメイは、もう寄り道せずにアリサに示されたビルへと疾走する。

「でも、どうして叔父の場所へ?」

「ん、殺られる前に殺る方が手っ取り早いかなって。」

本当に刺客がゾルディックだというのなら、いくらミメイとはいえアリサ(ハンデ)を抱いて逃げきるのは至難の業である。

いや逃げきることはできても、その時のアリサの生死は定かではない。

それでは依頼失敗、ミメイの信用度はガタ落ちである。

だから刺客の依頼主を殺して、さっさと刺客を止めてしまえばよいとミメイは考えた。

ゾルディックほどの名うての暗殺者であるならば、依頼以外の人間は無闇に殺さない筈だとある種の信頼を抱いているが故の発想である。

 

「···お姉様。」

ミメイの首に回した手に力を入れ、その胸に顔を埋め、アリサは彼女に訴えるように小さく呟いた。

その様子を見て、やはりこの子のことは簡単に死んで欲しくないくらいに好きだな、と心底思ったミメイはニッコリ笑う。

人の心に隠れている欲望を見抜くミメイは、自分と同じ恋する乙女であるアリサの本当の想いを知っているからこそ、彼女を安心させるように優しく言った。

「大丈夫よ。貴方の恋を勝手に壊したり殺したりはしないから。

貴方が本当に欲しいものも、ちゃあんと手に入れに行きましょう?」

あはは、とミメイが少し壊れたオモチャのような声を上げれば、アリサもドロリと目を輝かせて無垢な少女らしくキャラキャラ笑う。

「お姉様!」

素敵だわ、本当に素敵ですわ!と興奮で頬を薔薇色に染めるアリサは、ミメイにギュッとしがみつく。

「飛ばすわよ、掴まってて。」

「はい!」

 

 

 

 

『好きだから』を免罪符にどこまでも暴走できる乙女達は、そうして今夜も街を駆けていく。

 

 

 




アリサ=レンフィールド
・くるくる赤毛のツインテールを持つハイスペックお嬢様
・マフィアとの繋がりはあるものの、表向きは普通の資産家であるレンフィールド家の当主
・可愛い
・ネオンの友達


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33:ちぐはぐサーカス団結成秘話

セーラー〇ーンで1番好きなのは、ほたるちゃんです。
純真無垢な12歳姿も、えっちな美女姿も、転生してロリロリになった姿も全部好きです。


それはさておき、前の方の話の再編集に伴っていくつか話が統合されているのでご注意下さい。
しおりの位置がズレているかもしれませんが、これが最新話です。
2020/08/10時点ではこれが最新話です。






「アリサ、この男が貴方の叔父さんで良いのね?」

一等地に建つ高級マンションらしく大量に配置されていた警備を薙ぎ倒して、アリサの叔父が所有している階へと侵入したミメイは口髭を蓄えた男の喉を掴み上げる。

「はい、そうですわ。」

叔父がさっきまで座っていた肘掛け椅子に座るアリサは、緩慢に足を組みながら頷いた。

「アリ、サ···貴様···!」

ミメイに首を締め上げられて尚ギラギラとした目でアリサを睨む男は確かに少しアリサに似ていて、2人の血の繋がりを感じるミメイだった。

 

「御機嫌よう、叔父様。

(わたくし)に刺客を差し向けて下さったのでしょう?

うふふ、素敵なプレゼントでしたわ。」

叔父の豪奢な自室の肘掛けに我が物顔でもたれかかるアリサは、可憐なお姫様を通り越して女王様然としている。

やはり見込み通りだった、と満足したミメイも愉悦混じりの笑みを浮かべた。

「ゾルディック···使えん奴らめ···!」

「あ、やっぱりゾルディックだったの。

ならまあ、ついた護衛が私じゃなければ今頃アリサは殺されてたでしょうね。」

アリサの叔父の恨み言に肩をすくめ、彼の首筋を掴む指に更に力を込めるミメイ。

そんな彼女に憤慨したのか、アリサはプクリと頬を膨らませる。

「酷いですわ、お姉様。」

「良いじゃない、生きてるんだから。

で、まだ殺しちゃ駄目なのよね?」

生かさぬように殺さぬようにという状態を保ちながら、ミメイはアリサの方を振り返る。

 

「はい、少し待って頂きたいのです。」

ドアの向こうが騒がしいのに気付いたアリサは桃色の唇で弧を描きながら、すらりと足を組み替える。

「ああなるほど、王子様の御登場ね。」

「ええ、そうですの。

ご紹介致します、(わたくし)の従兄弟のエドガー────エドですわ。」

タイミング良くドアが開き、人の良さそうな顔をした黒髪の青年が姿を現す。

「ご無事ですか、父さん!」

拳銃を構えながら勇ましく入ってきた青年は、部屋の中心でミメイに締め上げられて宙に浮いている父親を目にして怒りのあまり手を震わせた。

「エ、ドガー···!」

父親の方も息子の登場に期待で目を輝かせ、バタバタと無駄な抵抗を始める。

「暴れないでくれる?

間違って指を貫通させそうだから。」

「父さんを離せ!」

ミメイが困った困った、と呟きながらアリサの叔父の首に指をめり込ませれば、その息子────エドガーとやらがミメイに拳銃を向ける。

 

「あは、オモチャみたいな拳銃ね。

触っただけで壊れちゃいそう。

さてどうするの、お姫様?これでキャストは揃ったんでしょ?」

アリサの叔父が無駄な言葉を撒き散らさないように強く締め上げて、ミメイは舌を見せながら笑う。

「ええ、ありがとうございますお姉様。」

肘掛け椅子にゆったり腰掛けたアリサが口を開いて初めて、アリサの従兄弟は彼女の存在に気付いたらしく瞠目する。

「アリサ、どうして君がここに?」

「あらエド、今の今まで(わたくし)に気が付いて下さらないなんて酷い方。」

肘掛けに片肘を置き、そうして立てた方の腕を愛しの従兄弟に伸ばす。

「いや、それはごめん···ってそうじゃないだろ?!

どうして君がここにいるんだ?!」

「······そんなこともお分かりになりませんの?

ああ、分かりたくないんですのね。

エド、貴方はいつもそうですわ。

貴方は叔父様が1番で、叔父様しか見えなくて、叔父様が世界の中心だから。

私のことなんて、弱々しくて可愛い妹程度にしか思えないんですの。」

目を白黒させる従兄弟に華のような笑顔を向け、アリサはすっくと立ち上がる。

 

「ねえエド、(わたくし)今日とても怖い思いをしましたの。

私を殺したいと思っているどなたかの依頼を受けた刺客が私を襲ったのです。」

「刺客だって?······まさか。」

裾にフリルがあしらわれたドレスを見せつけるように美しいターンを決めるアリサと、ニヤニヤ笑うミメイと、そのミメイに首を絞められている父親を順に見て、アリサの従兄弟は絶句する。

「やっとお分かりになりまして?

ええそうですわ。

叔父様が私を殺す為に暗殺者を雇われたのです。

私は死にたくなかった。

だからそこにいらっしゃるお姉様に守られて、私はここまで来ましたわ。」

「待ってくれ、アリサ。」

拳銃を握る手に力が入らなくなったのか、拳銃を取り落とした青年は可哀想なくらいに顔を青くする。

「もうこれ以上待ちませんわ。3年前からずっと待っていたんですの。

両親が死んだあの日から、叔父様に殺されたあの日から、ずっとこの日を待っていましたわ!」

綺麗なリボンで結われたツインテールを揺らしながら、アリサは思いの丈を吐き出すように力いっぱい叫んだ。

 

「そんな、父さんが···伯父さんと伯母さんを···?

アリサのことも殺そうとして······嘘だと言って下さい、父さん!」

父親に縋るような目を向けるアリサの従兄弟を嘲笑うように見下ろして、ミメイは掴んでいる首に指を突き立てる。

ブチュリという生々しい音が広い部屋に響き渡り、鮮やかな赤色がミメイの顔に飛び散る。

「さあどうするの?まだ間に合うわよ?

一応急所は外しているもの。」

アリサとエドガーを交互に見てから、ミメイは(アリサ)の手下らしく正義の味方(エドガー)に優しく笑いかける。

「ミメイお姉様。」

ギュッと拳を握りしめて、桃色の唇を震わせて、アリサはミメイを呼んだ。

「なぁに、アリサ。」

くるんとアリサに向き直りながら、首からポタポタ血を垂らす男の体をその息子に見せつけるように軽く振る。

「殺して下さい、叔父様を。

······その憎い男を殺して下さいまし!」

青灰色の瞳に激しい怒りを走らせて、アリサは咆哮した。

 

「喜んで。」

そう言い終わるか終わらないかのうちにミメイの掌に大量のオーラが集められ、そのまま拳を作るように優しく指を折る。

肉が裂ける音も骨が砕ける音も悲鳴にさえならない断末魔も、全て一緒くたに纏められて真っ赤に汚される。

そしてその汚れは、金糸がふんだんに使われた絨毯にコロリと転がった。

「父さん、父さん、ああああああっ!」

馬鹿の一つ覚えのように、頭を失った父親の体に縋りつく青年を興味無さそうに見下ろしたミメイは、血痕を踏み潰しながら部屋を後にした。

アリサが想い人を手に入れる所を邪魔しないようにと気を使い、高そうな絵画が飾られた廊下で待つことにしたミメイであった。

 

 

「アリサの演技、良かったなぁ。

やっぱり恋する乙女は最強ってことね。」

愛しの従兄弟であるエドガーが入ってきた瞬間アリサの演技は始まっていた。

彼女の両親が死んだのは間違いなく叔父のせい。

けれど彼女がそのことで叔父を憎んでいたかと問えば、答えは勿論Noである。

憎んで憎んで、憎むほどに復讐の機会を望んでいたかという問いの答えも恐らくNoである。

アリサは両親の死を悲しんでいる。

彼女の部屋に飾られていた両親の写真と、その隣の綺麗な花が活けられた花瓶から察するに、彼女は両親が死んだこと自体は悲しんでいる。

けれど若いながらも資産家として成功している彼女のことだ、感情よりも効率を優先する冷徹さを持っているだろう。

利益の追求に繋がるのであれば、親の仇とも手を組むくらいはしたに違いない。

しかしアリサはそうしなかった。

叔父の懐柔策や折衷案を全て無視して切り捨てた末に、叔父から刺客を差し向けられると予想出来ても、彼女は叔父の手を取る選択はしなかった。

愛しの従兄弟を手に入れたいから。

ただそれだけで、彼女は危ない橋を渡ると決めたのである。

 

アリサや彼女の叔父、従兄弟の言動から察するに、彼女の従兄弟は随分父親に心酔していたのだろう。

そして父親の方も自分の息子を猫可愛がりしていたと考えられる。

アリサはそれが面白くなかった。

アリサは好きな人の全てが欲しかった。

自分だけを見る、自分だけに従う、自分だけを愛する、自分だけを憎む従兄弟(エドガー)が欲しかった。

そんな素敵な彼を手にするには彼の父親が1番の邪魔者だった。

だからアリサはその邪魔者を殺した上で、愛しのダーリンを手中に収めようと画策していたのである。

「調教+洗脳かぁ。

可愛いお嬢様の顔してえげつないなぁ、アリサ。」

ドアの向こう側から男の狂ったような叫び声が聞こえてくるが、それも少しずつ落ち着いて悲痛そうな啜り泣きに変わっていく。

今頃はどうせ従兄弟の憎しみを全身で浴びて笑いながら、それでいて辛そうに涙を流す演技をしながら、アリサは従兄弟を慰めている。

 

アリサの両親を殺し、アリサをも殺そうとしたのは自分の大切な父親。

その父親を、ミメイという護衛を使って殺したのは妹のように可愛がっていたアリサ。

そうして申し訳なさと、憎しみと、やるせなさと、悲しみとがぐちゃぐちゃになって狂いそうになったアリサの従兄弟は、世を儚んで自殺でもしようとしたに違いない。

しかしそれをアリサは止める。

死ぬ気は更々無い癖に、自分の体を犠牲にしてでも止めようとする。

そんないたいけなアリサに、親の仇であるアリサに心打たれた彼女の従兄弟は、泣きながら拳銃を取り落とすのだ。

そうしてお互いに憎しみ合いながら、お互いに仇でありながら、深い傷を負った2人は手を取り合い慰め合いながら生きていく。

そんなお涙頂戴物語の完成だ。

アリサの従兄弟が信じる、アリサが彼にそう信じさせる物語が。

 

 

さて、どこからが偶然だろう。

どこまでがアリサの掌の上だろう。

彼女と同じような思考回路に走りがちなミメイは、赤く汚れた手袋を手から引き剥がしながら鼻で笑う。

「何にせよ、恋する乙女は好きな人を手に入れた。

自分だけを見て、自分だけを憎んで、自分だけを愛してくれる───そんな共依存の関係に嵌れる人を手に入れた。

はい、これでお終いよ?」

後頭部の高い所で結い上げた髪を揺らしながら、ミメイは廊下の端に立っている着物姿の子供にそう言った。

「残念ながら、貴方達ゾルディックに暗殺の依頼をした男はもう死んだわ。

思ったよりここまで来るのが遅かったわね。

陽動が上手くいき過ぎたのかしら。」

街に流していた何体もの蝶が犠牲になったと気付いていたミメイは、汚れた手袋を廊下に捨てようとして、脳内でクラピカが咎めてきたことにより渋々ズボンのポケットにしまう。

「······。」

子供は何も言わない。

何も言わないまま、廊下の端からじっとミメイを見つめている。

 

サラサラの黒髪おかっぱに、生地の良さそうな着物、そして整い過ぎた無表情。

その独特な雰囲気故に、ゾルディックの暗殺者らしき子供が妖怪の類のようにも思えるミメイであった。

「流石はゾルディック家ってことかしら。

貴方みたいな小さな子供にも仕事を請け負わせるんだもの。

でもそうね、物心がつかないくらいから殺していた方が後々楽よね。

なぁんにも考えなくて済む。

実際私がそうだから言えることだけど。」

有象無象を好きに殺めて良い場所だった。

いや、殺めなければいけない場所だった。

殺めなければ苦しい訓練が追加される場所だった。

そんな狂った(柊家)の中でミメイは生まれた。

だから心臓の重さを知りながら、命の軽さを知っていた。

 

「ところで貴方、女の子?それとも男の子?

普通に気になるから教えてくれないかしら。」

いくら鼻が利くとはいえ性差の小さい子供の性別までは判定できないミメイは、血なまぐさい座敷童子にそう尋ねた。

しかしながら座敷童子は何も答えないまま踵を返し、一陣の風を残してミメイの前から去ってしまう。

「あーあ、逃げられちゃった。」

蝶を生成して後を追わせても良かったが、自分から離れ過ぎると消えてしまう蝶ではもう追いつかないとすぐに察することが出来た為、ミメイは大人しくしていることにした。

大人しく、すっかり静かになったドアの向こうの気配を嗅ぎ取る。

「アリサ、終わった?」

「はい、たった今。」

ドアが内側から開き、ミメイの目の前にやけに頬をツヤツヤさせたアリサが現れる。

 

「···手が早いなぁ。」

この僅かな時間にどこまでヤりやがったのかと邪推しながら、ミメイは自分の携帯を取り出して任務完了の報告を上司サマ(ボス)に送信する。

「嫌ですわお姉様、少し味見しただけですのに。」

「あ、そう。」

「叔父様の面影がベッタリ貼り付いたこの部屋を、初めての場所にするほど(わたくし)の趣味は悪くありませんわ。」

「お幸せに。」

ドロドロとしたピンクのハートを飛ばすアリサの圧を振り払いながら、ミメイは肩をすくめる。

「うふふ、ええ。私幸せです。

そしてこれからもっと幸せになりますわ。」

「ところで貴方の従兄弟(王子様)は?」

「エドは眠ってしまいましたの。······強過ぎましたわ。」

「最初は軽めの薬にしておいた方が良いよ。

薬漬けにするなら徐々に慣らしていった方が色々楽しめるでしょ?」

柊家での経験値がものを言うミメイは、危ない薬の存在を仄めかすアリサに先輩らしく助言した。

「ええ、今度からはそう致しますわ。」

アリサもキラキラと青灰色の目を輝かせ、更なる欲望を夢を見て可憐に笑う。

 

「じゃあ私の仕事はもう終わりね。」

後はお熱い若人達で、とババくさいことを思いながらヒラヒラ手を振って歩き出すミメイ。

そんな彼女の背中に躊躇いがちなアリサの声がぶつかる。

「あの、ミメイお姉様!」

「なぁに?」

そうして足を止めて振り返れば、花も恥じらう可憐な顔を赤らめたアリサがミメイに向かって紙切れを差し出していた。

「また···(わたくし)と会って頂けますか?」

恐らく携帯の電話番号とメールアドレスが書かれているであろうそれを受け取りながら、ミメイはニタリと笑った。

「良いよ。貴方みたいな子は好きだもの。」

「嬉しいです!私、お姉様にお電話しますわ、メールも差し上げますわ!」

「程々にしておいてね。」

「はい!」

アリサが背後で可愛らしく手を振っているのを感じたミメイは廊下の端にあった窓を開け放つ。

そしてその隙間に身を滑らせ、自然な動作で32階から落ちていく。

地上から吹き上げる夜風を全身で受けながら、ミメイは髪を結んでいたゴムを引きちぎる。

途端にぶわりと広がった自分の髪が強い風に煽られるのを十二分に楽しんでから、人気のない路地裏のゴミ箱の上に華麗に着地する。

そうして普段通り紫の髪を後ろに流したミメイは、夜の闇の中に消えていった。

 

 

 

 

───────────

夏が終わり秋を越え冬がやってこようかという頃、ミメイはハンター試験について調べていた。

ジンにハンターになれと言われた時正直とても驚き、反抗心のようなものを見せていたミメイ。

最も高潔だと言われる職業が、殺した人間の数を覚えていないような自分に向いているとは到底彼女は思えなかったのだ。

しかし冷静になって考えてみれば、ハンター試験を受けることで生まれるデメリットは皆無である。

過酷な試験との噂だが自分とっては児戯に等しいと考えているミメイだった。

 

そもそもの話、流星街に墜落したミメイは戸籍を持っていない。

今はミメイを「お姉様」と慕うアリサから貰った、社会から消された誰かの身分証明書で表向き真っ当な生活を送っているが、戸籍に代わるハンターライセンスを得る意味はある。

ジン曰く、ハンターにしか入ることを許されない場所がこの世界には多数あるという。

恐らく“外”に関係する場所もそうなのではないかと推察すれば、この先きっと必要になるだろうという予想が簡単にできる。

そして何より、力を求めるクラピカはハンター試験を受けるのではないかと考え付いたのだ。

情報も力も権限も金も、幻影旅団を潰す為に必要な全てはハンターになることで得られる。

ならばきっと、彼はハンターになることを決意するだろう。

 

かつてクラピカと住んでいたマンションの一室で、自分で集めたハンター試験に関する情報を見て考え込んでから、ミメイは携帯の電話帳を開いて電話をかける。

相手は勿論、護衛任務をしてから早数ヶ月が経った今でも連絡を取り合う、いつでも頼れるハイスペックお嬢様のアリサである。

「もしもしアリサ。」

「まあお姉様、丁度良かったですわ。

ジャポンの上質な絹を使った着物が手に入りましたの。

トップクラスの品質を誇るキョウユーゼンというブランドのものですのよ。

(わたくし)、是非ミメイお姉様に着て頂きたいんです。」

今日もワンコールで繋がったことに呆れを覚えながら、ミメイにまた服をゴリ押してくるアリサを軽くいなす。

 

「はいはい、京友禅ね。

着物は嫌いじゃないけど、足の可動範囲が狭くなるのが駄目なの。」

あとどちらかと言えば、ミメイは加賀友禅の方が好きだった。

しかしそんなことを口にすれば大量の着物がアリサの屋敷に運び込まれ、次に遊びに行った時にミメイはリカちゃん人形になること間違いなしである。

実際、昔チャイナ服を貰ったことを口にした時には、何十着というチャイナ服を着せられてからその全てを貢がれそうになった。

マフィア支給の仕事用の黒スーツ、プライベートで着るセーラー服、パジャマであるTシャツ短パンと、服を3セットしか持っていないミメイだったが、それで事足りているのである。

 

「お仕事の時ではなくてプライベートで着て下さいまし。

私とデートする時などに。」

「アリサ、貴方とのデートでいつも私がしていることって何か分かるかしら?」

「まあ、何でしょう?」

分かりませんわとコロコロ鈴を転がしたようにアリサは笑う。

「ボディガードを外した貴方をこれ幸いと狙う刺客の処理よ。

いつも殺しても殺しても、またすぐ湧いてくるんだもの。

そうね、デートで貴方がボディガードをつけるなら着物を着てあげても良いわ。」

「ミメイお姉様と私のデートを邪魔するボディガードなんて要りませんわ。」

幾つもの企業を所有し、多くの事業を手がけるレンフィールド家の御当主様が買う恨みは尋常な量ではないのだ。

そう、いつだってアリサはその命を狙われている。

「そう、なら着物は無しね。これでこの話はおしまい。」

「···残念ですわ。

それでミメイお姉様、本題は何ですの?

お姉様の方から私に電話を下さることなんて殆どありませんでしたのに。

何か大切なお話でも?」

少し畏まって声のトーンを下げたアリサに倣い、ミメイも携帯電話の通話口を自分の唇に近付ける。

 

「今年のハンター試験の試験会場、どこか分かるかしら?」

「あら、それを御自分で調べるのもハンター試験の内ではありませんの?」

ハンター試験の会場は大雑把にしか公開されていない為、正確な試験会場に連れて行ってくれる案内人を見つけ、その案内人が出す試練を突破して試験会場に辿り着かなければならないのである。

この仕組みのお陰で、大量の受験者をふるい落とすことができているのだ。

「だから貴方に訊いたのよ、アリサ。

ハンター協会とのパイプを持つ貴方にね。

どうせ何かしらの情報が横流しされてるんでしょ?」

ミメイはその案内人としてアリサを────アリサの持つ情報を使おうと考えていた。

 

「お姉様、ハンター協会も一枚岩ではありませんのよ。

(わたくし)が個人的に取引している、“お金が大好きなネズミさん”が知り得ないことを私が知れる筈もありませんわ。

とは言っても、あの“ネズミさん”も私に流す情報は選んでいるようですの。

ですから金に物を言わせれば恐らく出来ないことはありませんわ。」

アリサと()()()のネズミさんとやらは随分金が好きらしい。

それを少し蔑むように笑うアリサは、そのネズミのことが好きではないのだろう。

しかしながら『類は友を呼ぶ』という素敵な言葉がある。

“ネズミさん”がどんな人間なのかが凡そ想像できたミメイは、控えめな笑みを浮かべながら話を纏めることにした。

「なら貴方の口座に振り込んでおくね。」

「ビジネスですのね、それならば承ります。

どこまで情報を探れるかは未知数ですし後払いで結構ですの。

入手できた情報に応じて値を付けさせて頂きますわ。」

「よろしく。」

 

 

通話が切れた携帯電話をベッドに放り投げてからその隣に体を横たえる。

部屋の中をふよふよ自由に飛んでいる赤い蝶に視線を向ければ、迷わずミメイの方にやってくる。

その羽ばたきを見つめ、心を落ち着けるように深呼吸を繰り返せば少しずつ重くなる瞼。

トロリトロリと漣のように襲い来る睡魔に身を委ねながら、ミメイは全身の力を抜いていく。

 

当初はこの蝶の念にミメイはかけられなかった。

しかしながら時間をかけた上で念にかかりたい、夢の中に堕ちたいと思えば、ミメイも眠って夢を見ることができる。

望んだ通りの夢を見ることができる。

そうやって自分の欲望を満たす夢を見ることで、ミメイはどうにか吸血衝動を抑え込んでいた。

誤魔化しに誤魔化しを重ね、焼け石に水と知りながら自分で自分を騙し続ける。

 

そうだ、何度も何度も、あの白い首筋に噛みつく夢を見る。

あの赤い瞳には憎悪、端正な顔には羞恥による朱がはしっていて。

襲ってきたミメイを引き離そうとクラピカは暴れるも、それさえミメイは易々押さえつけて。

その上で彼の血を啜り、彼の命を喰い荒らし、そうして満足するのだ。

満足している筈なのにミメイの頬には涙が伝い、それを見た彼が目を見開いてから何か言う。

言ってくれる。

化け物になったミメイに何か言葉をかけてくれる。

それなのにいつも、そこで目が覚めてしまう。

夢だと気付いて、不快感と満足感と空虚感を抱えながら目を開ける。

そんな無意味なことを幾度となく繰り返して、ミメイは今生きていた。

その心臓を動かして人間として生きていた。

 

「あは。」

空っぽの笑みを最後に浮かべて、ミメイは今日も夢に堕ちていく。

 

 

 

 

────────────

───────ハンター試験当日

 

「お前さんは本当に強かった。

うむ、その強さに惚れたわい。

お前さんなら来年も案内しようぞ。」

アリサから教えられたハンター試験の案内人の元へ直行し、その試練(花札)を早々と達成したミメイは案内人である老人に導かれて、古本屋の前に立っていた。

「ありがとう。」

「おや、そうならないようにするとは言わんのか。

1年目の新人さんは皆そう言って、意気揚々と向かうんじゃが。」

面白そうに眉を上げる老人に対し、ミメイはクスリと笑ってから折り畳みの日傘を閉じた。

「そうね、全ての目的を達成出来れば今年で終われるんだけど。」

「お前さんの目的とやらは、ハンターになるだけではないんじゃな?」

折り畳み傘を腰の後ろに付けているミメイを興味深そうに老人は見た。

 

「······会いたい人がいるの。

きっと彼ならハンター試験を受けに来る。

だから私も、ハンター試験を受けに来たの。」

古本屋の中に入る老人に続くミメイはそう小さく呟いた。

「ほっほっほ、青春じゃな。

ワシも若い頃は婆さんとこっそり逢い引きをしたものじゃった。

おお店主さん、本を探しているんじゃが。」

老人のその言葉に、古本屋のカウンターにいる店主らしき男が眼鏡の奥の目をキラリと光らせる。

「···何をお探しで?」

「『ニジイロオオトカゲとセイタカゴウラガメの美味しい食べ方』。」

「奥へどうぞ。」

老人が口にした本の題名は合言葉だったようで、店主がカウンター奥のドアを開けた。

 

「え、ちょっと待ってその本普通に気になるんだけど。」

血に飢えた時は野生の動物を狩って食べているミメイの興味を引く本だった。

しかし本の題名に入っている2種類の動物は食用には向かないことで有名なゲテモノらしく、老人も店主も若干引いた目でミメイを見る。

「お前さん、そんな可愛い顔してゲテモノ好きなんじゃの···。

まあ取り敢えずこれを持っていけ、餞別じゃ。」

花札の布教活動に勤しむ老人は、花札が1セット入った箱をミメイに手渡す。

「ありがとう、おじいさん。」

試験が終わった後アリサと遊んでみるのも良いな、とぼんやり思うミメイであった。

「気をつけるんじゃよ。」

「ふふ、ありがとう。」

見送る老人に手を振りながら、ミメイは店主に(いざな)われて奥の部屋へと足を踏み入れた。

重い音を立てながらドアが閉まり、薄暗い廊下を歩く店主の後をミメイはついていく。

「たった今受験者を案内したばかりでしてね、申し訳ありませんが地下の会場に向かうエレベーターはその受験者と乗り合わせになります。」

「構わないわ。」

「···。」

申し訳なさそうにペコペコ頭を下げながら、ミメイからそっと視線を外す店主の様子にミメイは疑問を覚える。

 

「どうしたの?」

「いやあの、貴方のようなお嬢さんをあの受験者と引き合わせて良いものかと思いまして。」

やけに歯切れの悪い店主に首を傾げながら、廊下を抜けてエレベーターホールに辿り着くミメイ。

「どうせ試験で関わるかもしれないんだもの、問題ないわよ。」

「それなら良いのですが···。しかしあの男は少し、いやかなりマズいですよ。

私でさえ見て分かります、異常だと。関わるべきではないと。」

「ふぅん?」

どんな人かしら、と続けようとした唇が固まる。

エレベーター前で佇んでいた男が、奇抜な格好をした男が、ゆっくり振り返ってその目がミメイを捉えた瞬間ミメイは総毛立つ。

男のオーラの流れから彼が念能力者だと判断した頭より早く体が反応して、ミメイの全身から分厚いオーラが溢れ出す。

男を過度に警戒しているせいか暴れ気味なオーラを制御し、均一になるように全身に纏わせていく。

 

 

「······いいね、君♥」

奇妙なピエロのメイクを施した男はそう言って、ニチャリと笑う。

ミメイと店主がすすす、と理由も無しにその下半身に目をやれば、なんとまぁ立派なテントが張られていて。

 

「─────チェンジィィイ!」

間髪置かずにミメイは大声で叫んだ。

普段あまり大声を出さない彼女だったが、流石に堪らず悲鳴混じりの咆哮を上げる。

「無理です、無理なんですよ!」

店主も怯えたようにミメイの背に隠れながら、ブルブル首を横に振る。

「だってあれ、変態じゃない。間違いなく変態じゃない!」

人前で、しかもうら若き乙女の前で、ご立派なブツが天を突こうかという程に元気になっていることが、自身の理解の範囲内を超えてしまったミメイは男を指差しながら叫ぶ。

「無理無理無理ぃ!」

そう泣き咽ぶ店主は顔を白くしたミメイを置いて、来た道を走り去ってしまう。

「ちょっと待って流石に私の貞操が危ないっていうか······。」

恐る恐る振り返れば、全くもって治まる気配のない男がミメイをじっと見つめていて。

そのチャシャ猫のように細められた目と、動揺を隠しきれないミメイの赤い目が合って。

 

「·······えへへ。」

そうして何かが色々決壊してしまったミメイは、自分の掌を爪で切り裂いて大量の蝶を生成する。

突然現れた赤い蝶の大群に男が反応する前に、蝶の力でその意識を塗り潰して強制的に夢に引き摺り込む。

グラリと体を傾けてから冷たい床に男が倒れ伏す重い音と、エレベーターが到着したことを知らせる涼やかな音が重なって初めて、ミメイは大きく息を吐き出せた。

上昇した心拍数を抑えようと胸に手を当てながら、視界いっぱいに広がる蝶を全て消す。

1つだけ残すというコントロールをする余裕もなく、全て纏めて消してしまう。

普段通り周りに飛ばしていた1匹さえも虚空に葬り去ってしまう。

「······取り敢えずひっくり返そうかしら。」

肉や煎餅の類を焼いている時のようなことを呟いたミメイは、下半身がやけに立体的な状態で仰向けに倒れている男の足首を掴んで裏返しにした。

その足首を掴んだまま、男の顔面が床に擦れていることも気にせず彼を引き摺ってエレベーターに乗り込む。

流石に男をこのまま放置するのは気が引けるくらいには、最低限の慈悲の心を持っているミメイであった。

 

ゆっくり動き出したエレベーターの中で、少し離れた場所にうつ伏せの状態で配置した男をミメイは見下ろす。

直接視界に入らなければ何ともなかった。

セーラー服の長袖の下いっぱいに広がっていた鳥肌も既に治まっている。

「···びっくりした······。」

それがミメイの正直な気持ちだった。

ミメイは柊家で性的拷問に対する訓練も一通り受けているからか、普通の可憐な乙女よりも耐性がある。

幼少期にあった諸々のせいで、悲しいことにブツを見たこともある。

そのお陰で、ストーカー紛いの露出狂に恥部を見せられた時にも鼻で笑った後に鳩尾を蹴り飛ばすことができた。

その時は驚きもしなかった。特に何も感じなかった。

ただ、邪魔なものが目の前に存在する。だから排除する。それだけで。

ミメイにとってどうでも良い上に、いつでもその命を奪える圧倒的に弱い存在に対してどうやって驚けば良いというのだろう。

 

けれどこの奇妙な男は違う。

見た目から変態性が滲み出ていたからというのも勿論だが、男が間違いなく強者だと分かったからこそミメイは貞操の危機を感じたのである。

念能力の相性によってはどうこうされそうな程、クロロと同等の力を持っていそうな程の強者の気配。

勝利条件を殺されないことに設定すれば、戦いの中でそうそうミメイは負けはしない。

しかしそれ以外を勝利条件に置いた場合、強者相手では勝ち逃げられるかは未知数である。

だから今回は、貞操を守らなければという本能的防御反応により先制攻撃をしたのだった。

エレベーターという密室を良いことに、搦め手か何かを使われて「あ〜れ〜」なんて展開は御免蒙るミメイである。

セーラー服がコスプレになりそうな歳であったとしても、立派な恋する乙女である。

一途で健気で可愛い女の子なのである。

 

 

鈍い機械音が支配する狭いエレベーターの中、閉塞感を味わいながらミメイは蛍光灯を見上げる。

四方の壁は灰色に塗り潰されており、地上のビルのように窓から外が見えるということもない。

そもそもこのエレベーターはゆっくり地下に降りていて、見ることができる景色などないと分かりきってはいた。

気を紛らわすものさえないこの密室であとどのくらい過ごさなければならないのかと考えながら、チカチカ目を刺す人工的な光を見ては柊家の実験室を思い出す。

そんな短くて昏い安寧をぶち壊す声が、少しばかり黄昏ていたミメイの隣から放出される。

「過激なコだね♥」

「······。」

ミメイは今度は驚かなかった。いかなる声も上げなかった。

声の主である男がべっとりとしたオーラを全身に纏わせ、やる気満々状態であったとしても特に反応しなかった。

僅かに眉を上げながら、男のピエロメイクを静かに見据えるのみ。

 

「生憎そろそろ『()』って歳じゃないの。」

この世界での成人が幾つか知らないミメイだが、故郷では立派な大人として認定される歳まであと半年程。

まだ子供でいたいとも、早く大人になりたいとも、どちらも願ったことのないミメイはその節目自体は何とも思わない。

自分に貼られるレッテルが子供であろうが大人であろうが関係ない。

昔からただ強くなりたかっただけで、結局人間をやめて強くなってしまうミメイにとってそれらは些事であった。

しかしこの男に『子供』扱いされるという事実に、言いようのない寒気を覚えたのである。

子供だからというだけで、大人に良いようにされる存在として見られることにゾッとしたのである。

「でも君、まだ15くらいだよね♠」

「······もう少しで20なんだけど、私。」

いくら高校入学時とほぼ変わらない服装とはいえ、成長が緩やかとはいえ、その見解には首を傾げてしまうミメイ。

「若く見えるんだね♣︎」

「なんでかな、褒められてる気がしなーい。」

割と本気でそう思いながら、ミメイは隣に立っている男を見上げる。

 

そのニンマリ細められた目を見ていると、変な既視感を覚えていた理由が判明する。

「ああ、貴方似てるんだ。」

男の顔を覗き込んで、ポンと軽く手を叩きながらミメイは呟いた。

「誰にだい?」

「欲しいと少しでも思ったら躊躇いがなくなる、守備範囲が広めの犯罪者。」

死神然とした黒衣の男を思い出して言う。

一応ミメイをその手に収めた、ある意味ではミメイのご主人様。

念という首輪もついていることであるし、あながちその表現は間違っていないことにミメイが笑いを漏らせば男も喉を鳴らす。

「くっくっく♥」

「でもあの人はそんな笑い方はしなかったかな。

結構好青年の面被ってたし。」

「彼と君は“そういう”関係かい?」

「まさか。」

冗談でもそんなものは御免なミメイは、鼻で笑いながら即座に否定する。

いつだって1人に向かってまっしぐらな彼女にとって、他の人間との深い関係を邪推されることは単純に不愉快であった。

 

「でも彼の方は君に随分執着してるように見えたけど、ボクには♣︎」

「······知り合い?」

クロロの(首輪)のせいで核心的なことは何一つ言えなかったというのに、ミメイの示している人間が誰か明確に把握しているかのように話す男。

世間は狭いものだと改めて思いながら、ミメイは溜め息をついた。

「ん〜、どうかな♦」

「貴方も愉快な仲間たちの一味なの?」

「大正解♥」

ニマニマ笑う男の観察を続ければ、彼とクロロが1番似ているのは匂い、もしくは雰囲気や気配の類だと分かる。

クロロと色形は違えど、血の匂いが濃い上に底が見えない欲望を男も持っているとミメイは全身で感じ取る。

「ふぅん。幻影旅団ってほんと、色々いるのね。

マチさんみたいに親切な人から、貴方みたいな変態さんまで。」

目の前にいる男が幻影旅団だと認識したミメイの喉は、通常通り言葉を発することができた。

ミメイは預かり知らない所だが、クロロのかけた念───幻影旅団に関する全ての情報を他者に伝えられないようにする\ただし団員の前では無効───はあくまでミメイの認識依存である。

たとえ目の前に団員がいたとしても、彼女がその人間を団員だと知らないのであれば旅団に関することは何も伝えられない。

口に出そうとすれば舌が痺れ、文字に起こそうとすれば腕が痺れるのだ。

 

 

「変態、か♦それは君の方じゃないかな♠」

「女の子に向かって変態は無いと思うんだけど。」

まだ名前さえ知らない男に好き勝手言われていることにミメイの心はささくれ立ち、綺麗な曲線を描いている眉がピクリと上がる。

性癖が捻じ曲がっている自覚はあれど、それを赤の他人に言われる筋合いは無いのだから。

「君の念、好かったよ♥

ボクでもついつい嵌りかけたぐらいだ、普通の人間だったら永遠に囚われるレベルだね♣︎」

「数分で復活した人に何言われても、あんまり褒められてる気がしないなぁ。

で?私の念と変態性がどう結びつくの?

私の念なんて、人間の欲望を虚ろで満たしてあげる程度の代物よ。

結局貴方みたいに自我を保つことが出来れば、すぐに夢から醒めちゃうし。」

夢だけで生命体の命を枯らしていた鬼宿には遠く及ばない。

鬼宿の力を飲み込んだ今の状態で吸血鬼(化け物)の体を得たとして、彼ほどになれるのかはミメイには分からない。

 

「君、人間は好きかい?」

「好きよ。」

藪から棒に飛んできた問いに小首を傾げながらも、ミメイは素直に答えた。

「何の面識もない人間や、すれ違っただけの人間も?」

「普通に好きよ。」

得体の知れないもので澱みきった水のような笑顔。

何か嫌なものがべっとりと喉に張り付いてくるような緊張感。

クロロと似ているようでいて、彼よりもいやらしくて粘着質な気配。

そんなものを纏わせた道化師は、ミメイの答えを聞いて更に笑みを深くする。

「くっくっく······どんな博愛主義者だって今の君みたいな顔ではそのセリフを吐かないだろうなぁ♠」

「あら、私は一体どんな顔をしてるのかしら。」

男が自分の頬に向けて伸ばしてきた指を、ミメイは乾いた音を立てて弾き返す。

 

「心底どうでも良さそうに嘲笑(わら)ってるよ♥」

ミメイによって与えられた痛みに、どこか恍惚とした笑顔を浮かべながら男はそう言った。

「だってどうでも良いでしょう?

私が興味のある人間以外はみぃんな、私にとっては似たようなものだし。

結局人間は皆愚かで矮小で、それでいて欲望に支配されてるの。

でも、それこそが生きていることだと私達は言うんでしょう?

だから私は人間が好き。

欲望の為なら何だってする人間が。

今を精一杯生きている人間が。」

この好意が全ての人間に対して平等であったなら、ミメイは神にでもなれただろう。

鬼宿も神になれた筈なのだろう。

けれどもミメイは恋をしている。

行く末を見届けてみたい人間もいる。

全てを平等に見ることなんて出来る筈もない。

生まれながらに混沌であった鬼宿だって、何かを求めて彷徨っていた。

その永い旅路の中で人間を知り、彼等が持つ心というものに幻想を抱いていた。

恋をした神は堕ちる。

幻想を抱いた神も堕ちる。

だからミメイも鬼宿も、神にはなれないちっぽけなナニカでしかない。

 

「ぐっちゃぐちゃに穢して壊して堕として、そうやって傷つけてやりたいくらいに人間のことが好きよ。」

尖った牙をちらりと見せて、濃艶な舌を唇の隙間から覗かせて、ミメイは表面だけは楚々とした微笑を浮かべる。

その大きな赤い目に映るのは欲望の色。

深い深い混沌の切れ端。

愛くるしい少女らしさを失わないままの細い体の内側から、見た目に似合わぬ澱んだオーラが溢れ出す。

色を付けてみるならば、紛れもない赤、紅、緋、朱。

本能的恐怖を掻き立てる禍々しい色。

どこか人間らしくない雰囲気を湛えたそのオーラを全身で感じる男は、悩ましげな呻きを上げてから今にも蕩けそうな微笑を浮かべた。

 

「···本当に君はいいね♥クロロが君に執着するのも分かるよ♠」

「そういう貴方は、随分クーさんにご執心みたいね。

クーさんの名前を出す度に下半身が反応してるの、見て見ぬ振りしてあげてるだけなんだから。

······だから、見て見ぬ振り出来ないくらいに興奮するのやめてくれる?」

男からそれとなく距離を取り、イヤイヤと可愛らしく首を振るミメイ。

生理的拒絶により彼女は顔を顰め、その瞳には最大限の呆れが浮かぶ。

その姿が余計に琴線に触れたらしい男はジリジリとミメイに近寄るも、彼女の派手な回し蹴りを避ける為にすぐに飛び退く。

ちなみに今日のミメイは黒タイツを穿いていたからこそ、セーラー服のスカートの中身を気にせずに足を振り回せたのである。

 

「そんなにボクの下半身が気になるの?好奇心旺盛だね♦

何なら今夜じっくり見てくれても良いよ♥」

「どうしてクーさんといい貴方といい、口説き文句は赤点なのよ。

···ああ、分かった。顔の良さだけで押し切ってきたんだ。」

「クロロにも口説かれたのかい?」

「天空の城を一緒に探さないか、って。」

「······。」

微妙な顔になった男を無視して、この前アリサと一緒にジ〇リ作品を全制覇したミメイは熱く語る。

「私はどちらかと言えば、動いてる城の方が好きなのに。」

「あ、そう♣︎」

そこなんだね、という男の小さな呟きは聞こえなかった振りをしたミメイは、エレベーターが一番下まで降りたのを感じてドアの方を向いた。

 

 

「同じ受験生同士仲良くしようよ♥」

重い音を立てて開いたドアの向こうへ足を踏み出すミメイの隣に、楽しそうにトランプを切る男が並ぶ。

「貴方といるのは飽きなさそうだからまあ良いけど、もう少し自重してくれないかしら。」

「気が向いたら♠」

「それ、しない人間のセリフ〜。」

99という受験番号が書かれたプレートを試験官らしき存在から受け取りながら、ミメイは溜め息をついた。

「一応貴方の方が早かったし、交換する?」

ミメイの後に100と書かれたプレートを受け取った男に、99番のプレートを見せながらミメイは言った。

「別に構わないよ♣︎」

「そう。ところで貴方、名前は?」

周りの受験者の視線を集めていることを物ともせず、ミメイはにっこり笑って要求する。

「ヒソカ♥」

男────ヒソカの方もにったり笑って名を口にした。

「私はミメイ。あ、携帯の番号も交換する?」

「急にグイグイ来るね、君♦

積極的な子は嫌いじゃないから良いけど♥」

お互いに携帯を取り出して連絡先を交換する2人は、この殺伐とした試験会場で浮きまくっていた。

そこだけクラス替え直後の学生の雰囲気を漂わせているのだから、それも当たり前である。

 

「さっきまでボクへの警戒を解いてなかったのに、突然どうしたんだい?

女心は秋の空って本当だ♠」

連絡先の交換を終え、受験者達がまだ集まっていない壁際に辿り着いた2人は楽しいお喋りを始めた。

「やだ、貴方への警戒を解いた訳じゃないわ。

でもね、貴方の言う通り仲良くはしようかなって思っただけ。」

「それはどうして?」

「使えるものは使う主義なの。例えそれが変態であっても。」

携帯をポケットにしまったミメイは受験者の群れをつまらなそうに一瞥してから、胸の前で腕を組んで下を向く。

「切れるカードは多い方が良い。

貴方は愉快な仲間たちの一味ってだけで価値のあるカードだもの。

自分の手札に加えておいて損は無いでしょう?」

「さしずめ僕はジョーカーかい?」

パラパラとトランプを切りながら、ヒソカは面白そうに目を細める。

「ううん、『桐に鳳凰』ってとこかしら。」

ついさっきの試練が花札(こいこい)だったせいか、思考が花札色に寄っているミメイであった。

 

「ボク、花札のルールは知らないんだ♣︎」

ミメイがポケットから取り出した花札を見ながら、引き続きトランプを切るヒソカ。

そんな彼を見上げるミメイは、少し考えてから花札の箱を仕舞い直す。

「実は私、ポーカー以外のトランプ遊びやったことないのよね。」

幼少期に子供らしく遊ぶ暇が少なかったミメイと姉妹達は、夜寝る前に絵本を読む程度のことを娯楽としていた。

グレン達仲間と遊んだ時も、学生らしくテレビゲームが主流だったためテーブルゲームの類はしていない。

では何故花札は知っているのかと問うならば、答えはたった1つである。

柊家は殆ど扱わないものの、花札を媒体として使用する呪術が存在していたから。

しかし、そうではないトランプ遊びは人生初に近いのではないだろうかと思い当たったミメイは、流れ星のように光る赤い目に好奇心を浮かばせる。

「ババ抜きでもするかい?

試験が始まるまでまだ時間がありそうだし♥」

「やりたい。

······ところで、ババがジョーカーで合ってるかしら。

で、ジョーカーが最後まで残ってた人が負けで良いのよね。」

徐々に人が増え始めた試験会場中の視線の的になりながら、ヒソカとミメイはトランプの二等分を始める。

薄暗い壁際で道化師姿の男とセーラー服姿の女が、せっせとトランプを広げている光景は異様という言葉以外に似合うものが見つからない。

 

「ほんとにトランプやったことないんだね、ミメイは♦」

「家庭環境が斯々然々。」

なんとなく知っているだけのルールを思い起こし、自分の手札の中から同じ数字のカードを目敏く発見するミメイ。

既にゲームに夢中な彼女は、全くもってヒソカの話を聞いていない。

「説明する気がゼロの説明をありがとう♥」

「あっ、ジョーカー。」

大量の手札の中に紛れ込んでいる、奇妙な道化師が描かれたカードを見てミメイは声を上げる。

「······君、マイペースだってよく言われない?」

ボク、どちらかと言えば他人を振り回す方だと思ってたんだけど、というボヤきも勿論ミメイは聞き流している。

「あんまり。あ、私が先攻ね。」

同じ数字だったカードをポイポイ投げ捨て、そう勝手に宣言するミメイは間違いなく傍若無人な女王様であった。

 

 

 

 




♥や♣︎を使うのが思っていたより面倒で萎びそうな作者です。



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34:灰被り猫は夢を喰む

思いつきで作ったオリキャラのアリサちゃんが案外良い仕事するんですよね〜。
(遥か先の)ヨークシン編とかではキーマンになるかもしれません。






とある街のとあるバーは今日も今日とて、しっとり落ち着いた雰囲気である。

橙色の照明は店内を薄らと照らし、数人の客が談笑したり酒に口をつけたりしている音だけを浮き彫りにする。

妖艶な影が支配するカウンター席の端には、やはりというべきか一組の男女が座っていて。

どちらも夜更けのバーには似合わない格好をしてはいるものの、不思議とこの穏やかな空気の中に混ざり込んでいた。

 

「そんなにむくれなくても良いじゃないか♥」

男の方が、不貞腐れている女の頬をつつこうとする。

「誰のせいだと思ってるの?」

しかし女は伸びてきた指を容赦なくへし折って、自分から遠ざける。

「まあまあ、落ち着いて♠」

「試験官で遊んでたのはヒソカ君だけなのに。

どうして私まで落とされるのよ······。

マスター、お代わりお願いします!」

それでも尚めげずにちょっかいを出してくる男の足を踏んずけながら、女は空になったグラスを滑らせた。

 

 

何故ミメイが夜のバーにヒソカと連れ立ってやってきて、仲良く酒なんか飲んでいるのかという問いに答えるには、今もまだ進行中であろうハンター試験にまで話を遡らなければならない。

1次試験、2次試験と順調にクリアしていたミメイとヒソカだったが、3次試験で2人は見事失格になってしまったのだ。

理由は簡単、ヒソカが気に入らない試験官を半殺しにしたから。

そしてミメイはそのとばっちり。

と本人は思っているが、ヒソカにボロ雑巾のようにされて助けを求めた試験官に精神的トドメを刺したのは他でもないミメイである。

試験官が再三送ってくる秋波を鬱陶しいと思っていたため、ついつい容赦なく叩き潰してしまったのだが、ミメイはそれに微塵も罪悪感を抱いていない。

何をしたのかは割愛するが、きっとあの試験官は色々な意味で再起不能になることだろう。

つまり、ミメイがハンター試験に落ちたのは至極真っ当と言えば真っ当でもあった。

しかし本人はヒソカのとばっちりを食らったと信じ込んでいるため、文句タラタラ膨れっ面。

果てには「ヒソカ君の奢りね。」と堂々宣言しながら彼をバーに引き摺っていったのである。

 

「ミメイだって受験生で遊んでたじゃないか♦」

心外だなぁ、と笑いながらヒソカは酒の香を楽しむ。

「それはヒソカ君もでしょ。何人殺したの?」

「ん〜、3人だったかな♥」

「絶対もう少し多かった。」

新しいもので満たされたグラスを手に取るミメイは、隣に座る男を睨み上げる。

「ならミメイは覚えてる?殺った人数♣︎」

「覚えてるわけないじゃない。

私を女と侮って、いかがわしいことをしようとした奴等のことなんて一々数えてないもの。」

まだ半分くらいが残っているグラスをカウンターに叩きつけるように置いたミメイは、嘲りの色を赤い瞳に浮かばせる。

 

「ほらね♥」

「ほらね、じゃなくて。ああもう、これじゃ私が貴方と同類みたい。」

「同類じゃないか♦2人ともハンター試験で失格になったし♠」

「ハンター試験に落ちたことはさておき、私は貴方とは同類じゃないよ。

共通項は多かったとしても、決して同類にはなり得ない。

私は貴方とは違って、強者との戦いはあんまり好きじゃないもの。」

グラスの外側を伝う水滴を指先でなぞり、潤んだ爪でグラスを軽く弾くミメイ。

「確かに君はどちらかと言えば、弱い者虐めの方が得意そうだ♦」

「そうね、弱い人間をいたぶるのは得意よ。

特別好きというわけでもないけど。」

弱い者虐めが得意になってしまったのは、柊家での教育の賜物なのだろう。

あの呪術世界において圧倒的上位に君臨する柊家の人間として生まれたミメイは、自分より弱い他者とは屈服させて従わせるものだと教えられた。

それこそが自然の摂理で、柊家に生まれたからには当たり前の原理として受け入れるしかなかった。

 

「なら君は何が好きなんだい?」

「言ったでしょ、私はたった1人でしか満たされない。

他の人間を代用して憂さ晴らしをしたとしても、結局お腹がすくばかり。

そこそこ楽しかったとしても、それは一時しのぎにしかならないの。」

そうだ、ミメイには1人しかいない。

クラピカしかいないのだ。

グラスを両手で握りしめ、その中身に映る自分自身と見つめ合う。

今にも蕩け落ちそうな赤い目は欲望で染まり、唇から覗く牙は何かを求めるように鈍い輝きを称えている。

そんな自分を飲み込むように、ミメイはグラスに口をつけた。

「一途だね♣︎」

「私の恋はそういうものだもの、当然よ。

······だからあんまり私に近付かないでくれる、変態ヒソカ君。」

クロロといいヒソカといい、どうしてこうもセクハラしてくるのかと苛立つミメイであった。

 

「欲求不満なんだ、ボク♠」

「どこかで適当な女でも引っ掛けてきたら?」

「ハンター志望の人間が沢山集まる試験でなら、良いオモチャを見つけられるって期待してたんだ♦

でも駄目だね、今回はミメイだけだ♣︎

だからボクは君とヤりたいんだよ♥」

ヒソカはにまりと目を細め、カウンターに置かれたミメイの手の甲をなぞる。

その感触と仕草にゾクッとしたミメイは、彼の手の甲をつねり上げて自分から引き剥がす。

「どちらにせよ却下。

私は貴方と寝る気もない。勿論殺し合う気もないもの。」

 

今ヒソカと殺り合ったところでミメイには何のメリットもない。

クラピカを傷つける(愛する)ために必要となれば渋々戦うのだろうが、そうでないならばヒソカとの戦闘は避けたいミメイであった。

既に一度蝶の力は使ってしまっている上に、ヒソカの念能力の全貌を知らないからである。

ヒソカに強制的に引き寄せられるという嫌がらせを何度か受けたことから、彼がオーラを粘着質なゴムのようなものに変えているのだろうということには気付けた。

しかしそれ以上は推測のしようがない。

きっと何かしらの奥の手を持っている筈であり、それを受けた時に対処しきることが出来るのか不安なミメイであった。

実際ヒソカのゴムのような念を引きちぎろうとしてみるも、手応えはあったが結局失敗した。

つまり、今のミメイはヒソカに対する決定打を持っていないのである。

恐らくそれは、ミメイに首輪をつけてくれたクロロにも言えることで。

ミメイが気侭に生きる為に必要な駒を掌の上で転がすのには、やはり力が必要なのだと思い知る。

人間としての限界を越えて、化け物になるしかないと再確認する。

 

 

「君に手を出したらクロロは怒るかな♦」

不機嫌そうなミメイの横顔を見つめながら、ヒソカはそう呟いた。

「別に何にも思わないんじゃない?

······ああでも待って、私の首を絞めるくらいはするかも。」

「絞められたのかい?」

「うん、割と本気で。

私ね、クーさんと一番最初に出会った時は我慢ばっかりしてる子だったんだって。

溢れ出しそうな欲望を抱えてる癖に、何も望まない聖人ぶってたんだって。

クーさんはそれが気に入らなかったらしいの。

だから私が自分の欲望に呑まれて壊れ始めるまでは好きなようにさせて、1番良い時にクーさんの手で最後の引導を渡して自分のものにするつもりだった。」

空になったグラスをカウンターに置いてから、頬杖をついたミメイは淡々と語り出す。

 

「でもそうはならなかった♣」

「私はクーさんの見ていないところで、勝手に欲望の捌け口を見つけちゃった。

たった1人を好きになって、恋をして、愛してしまって、それから自分の欲望に正直になったの。

クーさんはそれも気に食わなかっんだって。」

「歪んだ独占欲だね♥」

「どうせアレよ、オモチャを奪い取られた子供とか実験体(モルモット)を勝手に殺された研究者の癇癪みたいなものでしょ。

そんなものに巻き込まれる私、本当に可哀想。」

やれやれ、と呟きながら嘆息するミメイだったがその顔に嫌悪の色は浮かんでいない。

 

「でも君は今クロロのものなんだろう?

『自分のもの(ペット)にはちゃんと首輪をつけている。』

そう彼も言っていたしね♠」

「そうね、素敵な首輪がついてるもの。

さしずめ私は犬かしら?」

「猫じゃないかな♦君、結構我儘で気まぐれだし♠」

「私、猫好きじゃないんだけど。」

元々主に対する忠誠心が高めの犬と違って、猫を従順な僕になるよう調教するのには時間を要するからである。

そうやってすぐに恐怖政治を敷こうとする自分本位なところが、式神達を怯えさせていた根本原因だと気付かないミメイであった。

しかし柊家を始めとした呪術師達は、そうやって多くの存在を屈服させることを至高と考える節がある。

その中で価値観を植え付けられてしまったのだから、仕方ない部分もあるのだ。

 

「同族嫌悪だね♥」

「······まあ、クーさんに飼い慣らされてるわけじゃないって意味では猫でも良いのかな。

あくまでこれは取引だもの。

私はクーさんのものになる代わりに、クーさんを利用する。

それ以上でもそれ以下でもない。

だから安心してね。

ヒソカ君がクーさんと殺り合うのも止めたりなんかしないから。」

自分がクラピカにするように、ヒソカがクロロに執着しているのを知っているミメイはヒラヒラ手を振って笑う。

「残念だなぁ、クロロを殺ったら君もボクと殺り合ってくれると思ったのに♣」

ヒソカは心底残念そうにそう言った。

「するわけないでしょ、そんなこと。

でもヒソカ君、クーさんと殺し合いなんて現実的じゃないと思うよ。

貴方一応、旅団のメンバーでしょ。

つまりクーさんの部下ってことになる。

それに私が見た限りでもメンバーは皆クーさんと仲良しで、貴方との殺し合いを容認しそうにもないけど?」

カウンター奥のマスターから新たなグラスを受け取ったミメイは、その中の氷でカラカラと遊びながら尋ねた。

 

「そう、だから困ってるんだよね♦

旅団に入ってクロロに近付いたのは良いものの、彼はいつも警戒を怠らない♣

必ずメンバーの誰かしらを傍に置いているし、一度仕事が終わればすぐに行方を眩ませる♠」

「つまりヒソカ君としては同僚(他のメンバー)が邪魔なんだ?」

ふぅんと素っ気なく呟きながらも、ヒソカというカードの価値を更に上げるミメイであった。

使いようによってはクラピカをもっと苦しめることができる。

一手先、二手先、三出先、と様々なパターンをぼんやり考えるミメイは、想定よりも辛めの酒に舌鼓を打ちながらヒソカの話に耳を傾ける。

「クロロと戦う上ではね♦

勿論彼等も皆、ボクの大切なオモチャだから殺り合うのは大歓迎♥」

「わぁ、歪みない。流石戦闘狂。」

「ミメイだって人を殺してる時愉しそうじゃないか♣

戦闘狂いの気は君にもあるよ♦」

「貴方みたいに戦うこと自体を愉しんでるわけじゃないもん。

単に私は、私より弱い人間を蹂躙するのが好きなだけだもん。

それに何度も言うけど、そんなものじゃ私は満たされないんだから。

復讐の為なら何だって利用する決意をしてる癖に、誰より優しくて弱くて甘いせいで、結局自分しか差し出せないあの子が1番なんだから!」

バーンと派手な効果音がつきそうな勢いで熱く語るミメイ。

その手には既に空のグラスが握られている。

 

「くっくっく、言葉の端々から君の変態性が感じられるね♥」

「うるさいよド変態ピエロ。」

「もしかして酔ってる?」

「そうなれたら良いなって思って、多めに飲んでるんだけど全然酔えない。

毒とか薬に耐性があるせいね、やっぱり。」

そうぼやくミメイの顔は確かに赤くなってもいないし、目も潤んでいない。

いつも通り、クラピカに対する欲望で表情が歪んでいるだけだった。

 

 

「ねえヒソカ君、貴方は来年もハンター試験受けるの?」

「ボクの趣味を楽に愉しむ為には便利だからね、ハンターライセンスは♥」

「ふぅん、そう。ちなみに私も受けるつもり。

今年の試験だと私の目的は半分しか達成されなかったから、来年に期待ね。

来年こそは受けに来ると良いんだけど。」

今年のハンター試験にクラピカは現れなかった。

だから実はクラピカがいない時点で、ミメイは適当なところで今年の試験に落ちるつもりではあった。

それが自分の意志とは関係なく起きたことに少しの苛立ちを感じていたミメイだったが、来年の試験への期待でそれらは上書きされていく。

「君の大好きな“彼”かい?」

「勿論。」

空のグラスをカウンターに置きながら、ミメイは椅子を引いて立ち上がる。

薄暗いバーでも仄かな光を失わない紫の髪を靡かせながら、彼女はヒソカの後ろを通り過ぎようとする。

と、そこでふとやるべきことを思い出して立ち止まり、彼の首に指を当てる。

 

「······ヒソカ君、分かってるよね?」

頸動脈が皮膚近くで流れている部分を、トントンと軽く叩きながらミメイは囁いた。

その様はまるで別れ際に睦み合う恋人同士のようで、この良い雰囲気のバーでは違和感のない光景である。

だからミメイとヒソカに対して誰も特別視線を向けないのを良いことに、彼女はじわりとオーラを膨らませる。

「くっくっく♦」

途端に濃くなった背後からの血の香りを愉しむヒソカの口角がゆっくり上がる。

「手、勝手に出したら怒るから。」

つ、とヒソカの頸動脈をなぞるミメイの言葉に熱は無い。

ただ淡々と決定事項を告げるのみ。

 

「ん〜、あまりに美味しそうだったらどうだろう♠

約束は出来ないな♥

君が執着している“彼”がどんな人間なのかボクは知らないし、気付かないうちに手を出しちゃうかもね♣」

こうやって煽るようなことを言えば、今すぐミメイが遊んでくれるかもしれないと思ってのヒソカの言葉だったが、流石にミメイも簡単には乗りはしない。

「ふぅん、そんなこと言っちゃうんだ。

···まあ良いけど。

その時はその時で、私もちゃあんと対処するから。」

ヒソカの首筋から指を離し、彼に背を向けて去っていく。

「つれないなぁ♥」

その背中にヒソカは声をかけるも、ミメイは軽く手を振りながらこう言い残すだけだった。

「貴方の欲望処理に付き合う気はないの。

ばいばい、ヒソカ君。

あ、そうだ。来年までに花札のルール覚えてきてくれたら私は嬉しいな。」

 

バーのドアが静かに閉まり、ミメイの気配が徐々に遠ざかっていくのを感じながらヒソカは呟く。

「······最後まで我儘だね、君は♠」

クロロと同じ特質系なんだろうなぁ、とそんなことを考えながらミメイが残していったグラスを軽く弾くヒソカだった。

 

 

 

 

────────────

残念ながらハンター試験に落ちてしまったミメイは、任務に勤しんだりアリサに連れ出されて遊んだりと、代わり映えのない日々を過ごしていた。

そして今日も、窓から薫る秋風を頬で感じながらアリサの屋敷でお茶を飲んでいる。

気付けば前回のハンター試験から10ヶ月もの時間が経過しており、次のハンター試験まであと数ヶ月。

今度こそはクラピカに会えるだろうかと希望に胸を高鳴らせて、ミメイはじっと待っている。

 

「ヨークシンはいかがでしたか、お姉様。」

かたりと音を立たせてティーカップを置きながら、アリサは向かいに座るミメイに尋ねた。

「マフィアと公的権力の癒着が感じられた。」

「うふふ、あの街はマフィアが実効支配していると言っても過言ではありませんもの。

それよりミメイお姉様、陰獣になられたというのは本当ですの?」

「うん。」

アリサが紅茶を注いでくれたティーカップを持ち、胸近くでその手を止めたままミメイは答えた。

「陰獣としてのお名前は何でしたか?」

「『灰猫』。」

「あら、確か猫はお嫌いでは?」

「うん、嫌いよ。」

クロロにはペット扱い、ヒソカには猫呼びされるミメイは若干不機嫌そうに唇をひん曲げる。

 

十老頭の1人である上司にヨークシンのオークションに連れて行かれたと思ったら、十老頭のお偉方が揃い踏みする前で顔も名前も知らない男と戦わされて。

見世物のようにされたことが不快で、ミメイを執拗に殺そうとしてくる男の頭をすぐに蹴り潰した。

そこでお偉方皆のスタンディングオベーションである。

ミメイが殺した男は彼女の上司お抱えの陰獣だったらしく、最近やらかしたとか何とかで処分することが決まっていたそうだ。

知らぬ間にその処分役を仰せつかり、あれよあれよと言う内に陰獣になったミメイであった。

その腕一つで陰獣という地位まで成り上がった美しい灰被り(シンデレラ)

十老頭達はそんなからかいの意味を込めて『灰猫』と名付けたのだが、その意図にミメイは全く気付いていない。

彼女には成り上がったという意識が皆無だからである。

 

 

「ミメイお姉様の所のボス様は、少しばかり見栄っ張りですもの。

きっと十老頭の皆様にお姉様を自慢したかったのですわ。」

20になってもまだ子供っぽい膨れっ面をしているミメイを見たアリサはくすりと笑いながら、代々レンフィールド家に仕える執事が焼いたクッキーを口にする。

「みたいね。」

ミメイも紅茶を飲んでからクッキーを手にし、それを指で半分に砕いてから口に運ぶ。

そもそも陰獣とは、世界中のマフィアを牛耳っている十老頭お抱えの実行部隊であり、それぞれの長が組織最強の武闘派を選出することで結成されている。

ミメイとしては雇われ懐刀という地位に収まっていたかったのだが、騙されるように陰獣の名を貰ってしまっては仕方がない。

いつどう使えるかは分からないが、手札が増えたと思っておくことにしている。

使えないと判断したならばすぐに捨てても良いのだから、取り敢えず貰えるものは貰うという適応力を備えているミメイであった。

 

「仕方ありませんわ、お姉様はお綺麗ですから。

その御髪(おぐし)は世界七大美色の1つに数えられますし、目だって時折緋の眼のように輝くんですもの。

その上誰よりもお強くて······もしもエドがいなかったら(わたくし)、お姉様に恋をしていましたわ。」

「そう?」

「はい。最近特にお綺麗になられましたから、余計にそう思いますの。」

「そっか。」

ミメイはティーカップを静かにテーブルに置き、窓の向こうに広がる青空を仰ぎ見る。

見事な秋晴れで雲一つない。

真夏よりは弱くなったとはいえ、眩しい太陽の光がミメイの目を灼く。

 

「···アリサはさ、従兄弟と結婚しないの?」

澄み切った青を見上げたままミメイは小さく呟く。

「エドとですか?勿論するつもりですわ。

けれど(わたくし)はまだ16歳ですから。

私とエドの祖国では、男女共に17歳からしか結婚が認められておりませんの。」

「ふぅん。じゃあドレスとかはまだ?」

「はい。私の背が伸びていることもあって、仮縫いもまだ先になりそうです。」

「そっか。きっと、似合うよ。アリサには白が似合う。」

赤い髪と青灰色の瞳には純白のドレスがよく映えることだろう。

軽く瞼を閉じて、ウェディングドレスを身につけたアリサの姿を想像してみるミメイ。

「ありがとうございます。けれど白はお姉様にも合う色ですわ。」

「······。」

瞼をゆっくり上げて、青い空を再び目に映す。

今日も真っ赤に穢してやりたいくらいに綺麗で、憎たらしいくらいに綺麗で、見ているだけで涙がこぼれそうになるのは何故だろうか。

陽の光をこうやって僅かでも浴びていれば、どうしようもなく気だるくなって頭にもモヤがかかってしまう。

そうして変なことを考え出してしまう。

 

 

「···お姉様、何かありましたの?」

ミメイの目尻から1滴雫が流れ落ちたのを見て、アリサは新品のハンカチをミメイに差し出しながら心配そうに訪ねた。

「夢を見たんだ。」

アリサからハンカチを受け取ることなく、ミメイはただ空を見つめ続ける。

「夢、ですか?」

「真昼とグレン────私の双子の姉とその恋人の結婚式。

私がそれに出席してる夢。

壊れてない真昼がグレンの手を取って、綺麗に微笑みながら光の中を歩いてた。」

少し前まで、蝶の力で見る夢はクラピカの血を啜るものばかりだった。

ミメイが今1番望んでいることなのだから当たり前である。

けれど最近はそれだけではなく、遠い故郷(生まれた世界)に残してきた人達の夢を見る。

大切なあの人達がミメイの周りにいて、皆で笑っていて、間違いなく幸せだと感じられる夢を。

 

「私は仲間や家族と一緒に、真昼とグレンを祝福するの。

暖かな春の日差しの中で沢山の花を降らせて、おめでとうって口々に言って。

もう、誰も殺さないの。もう、誰も殺されないの。

檻なんてどこにもない。籠も牢も何にもない。

皆生きていて、皆自由に生きていて、そこにあるのは幸せだけ。」

「素敵ですわね。」

優しく穏やかなミメイの声音に、アリサも素直に相槌を打つ。

 

「それでね、気付いたら皆殺しちゃってた。」

幸せな夢を語っていたのと同じくらい平坦な熱量で、そう言葉は続いていく。

淡々とした、いや寧ろどこか柔らかさを孕んだミメイの声に対して、アリサが返せたのは息を呑む音だけ。

ごくり、という音が部屋に木霊する中、身動ぎさえ出来ずに固まるアリサを他所に、ミメイは緩慢に唇を動かす。

「みんなみんな、ぐちゃぐちゃの血の海に沈めてね。

私はそこに1人足を浸して、笑ってた。」

酷い話でしょ、と呟いてからアリサの方を向いたミメイの目は真っ赤に染まっていた。

その赤から涙は流れない。

けれど。

見る者を思わず絶句させてしまうほど壮絶な笑みを浮かべていて。

苦悩と憂いと悲しみと、そんなものを嫌というほど味わった末に最早笑うしかないと絶望しきった色を帯びていて。

感受性豊かなアリサの瞳から涙がつぅと伝って、軽やかな音を立ててテーブルに落ちる。

 

 

「今日はもう帰るね。紅茶ありがとう。」

そっと立ち上がったミメイは、何も言えずにただ唇を震わせるアリサの横を通り過ぎる。

そしてそのまま窓を開け、その隙間に体を踊らせて下へ降りてしまう。

目の前からミメイが消えたことでやっと我に帰ったアリサは、弾かれたように窓に駆け寄って身を乗り出す。

窓の真下にミメイの姿は無かったが、少し離れた所をゆっくり歩いている後ろ姿がアリサの視界に入って。

「でも···ミメイお姉様の恋は本物でしょう?!

貴方がどんな苦しみを抱えていて一体何に悲しんでいるのか、(わたくし)には分かりませんわ。

でもお姉様、貴方のその気持ちだけは殺してはいけませんの。

絶対にそれだけは駄目なんですの。

恋を叶えて幸せになる未来を諦めてしまうことだけはしないで下さいまし!」

 

その言葉が聞こえたのであろうミメイの手がひらりと上がるも、アリサの方を振り向くことはない。

「一度恋を始めたならば、どんな方法を使ってでも私達は幸せにならなくてはなりませんのよ。

それが恋する乙女なんですもの!

それが、恋の為だけに様々なものを犠牲にした私達に課せられた義務であり、奪い取った権利なんですもの!」

ミメイの後ろ姿があまりに陰を帯び、暗い昏い闇を孕んでいたことに更に涙をこぼしながら、アリサは必死に声を上げた。

しかしアリサが瞬きをした隙に、ミメイは一陣の風となって姿を消してしまう。

 

「······お姉様は(わたくし)を助けて下さったのに、私はお姉様に何も出来ないんですのね。

分かってますわ、分かってますの。

私では何もかも足りませんもの。」

────だからお願い。

どうか、あの美しい(ひと)を救って下さい。

どうか、あの(ひと)が愛する“誰か”が救って下さい。

窓枠を強く握りしめながら、アリサはそう心から願う。

“誰か”がミメイを救ってくれるように。

かつて愛する従兄弟がアリサを救ってくれたように、陳腐だが意味のある愛の力で救ってくれるようにと。

 

 

 

 

 

──────────

腹が空いていた。

喉が乾いていた。

足りない、足りない、と全身が騒いでいた。

見える世界は真っ赤に歪み、聞こえるのは幸せそうな笑い声や悲痛な叫びだけになり、鼻は血の香りのみを嗅ぎ分ける。

 

だから殺した。

殺してしまった。

ミメイは沢山殺してしまった。

 

人気のない薄暗い路地裏でこの体を落ち着けようとしていたのに、軽々しく声をかけてきたナンパ男達を殺してしまった。

首を捻じ切って、心臓を奪い取って、内臓を引きずり出して、手足を踏み潰して、頭を掻き回して。

そうやって心のおもむくままに殺してしまった。

 

誰も殺さないように。

誰も喰わないように。

夢だけで我慢できるように。

そうやって必死に自分を抑えていた所にズカズカと踏み込まれて、気付いた時には血の池地獄。

 

「···あは。」

掌からとろりと滑り落ちていく血液が、路地裏の黒い地面を赤く汚す。

それを勿体ないと思いながら、口腔内を支配する大量の唾を飲み込もうとする。

しかし随分立派になった牙が邪魔で、なかなか唾液を腹に下せない。

周りに転がるのはガラクタではなく元人間だった肉塊達。

建物の壁から地面まで、乱暴に塗りたくられているのは赤いペンキではなく血。

ここまで派手にやってしまっては余計に腹がすくばかり。

沢山の食べ物を目の前にぶちまけられて、食欲は更に高まってしまう。

アリサを殺したくないが為に、欲を抑える為に彼女の元を辞したというのに、これでは何の意味もない。

 

 

「─────っ!」

背後でカサリと音がしたのと同時に、可愛らしい悲鳴未満がミメイの鼓膜を揺らす。

ぐるんと首を回して、返り血で汚れているであろう顔を声の主に向ける。

そこにいたのは幼い少女と彼女よりも大きいであろう少年。

運悪く災害(ミメイ)に遭遇してしまった哀れな子供達。

少年は少女の兄なのだろうか。

この惨状を見て体が竦み、泣くことしかできなくなっている少女を庇うように強く抱きしめていた。

そして少女よりも幾分か勇敢だったらしい少年は、今すぐミメイから逃げようとして音を立ててしまったらしい。

 

「妹を守ってるの?良い子ね。」

赤黒く染まった手を少年少女に伸ばせば、少年は恐怖で顔を強ばらせながらも少女を守ったまま必死に下がる。

しかしミメイには為す術もなく、哀れな子供達は壁際に追い詰められてしまう。

「その子を私に差し出すなら、貴方の命は助けてあげる。」

ブルブル震える少年の腕の中の幼い少女を指差して、ミメイは赤い舌を見せて笑う。

その様は正に不条理な取引を持ちかける悪魔であった。

子供達にもそう見えたのだろう。

2人とも大きな澄んだ瞳から、ぼたぼたと涙をこぼしてしまう。

「お、れを···」

少年が声を絞り出す。

ミメイと少女を交互に見てから、恐怖で真っ青になりながら必死に細い声を紡ぎ始める。

「うふふ、なぁに?」

優しい悪魔はにっこり笑って、小さな少年の話を聞いてやる。

「おれに、してください。いもうとはだめです。

だからおれを、おれならいいんです。」

涙がいっぱい溜まった目で、しっかりミメイを見上げて少年は宣言する。

震えながらも、今にも崩れ落ちそうになりながらも、妹を守る為に自分を差し出す選択をした。

 

「······あはは。」

羽虫を振り払うようにミメイが軽く手を動かせば、少女の華奢な体が地面に転がる。

「おに、いちゃ···!」

嗚咽と悲鳴が入り交じった小さな嘆きがミメイの脳を揺らしたが、彼女はもう止まらない。

どこまでも無防備で弱々しい少年の体を組み伏せて、その肩を地面に縫いつける。

妹ではなく自分を狙ってきたことに安堵したように小さく笑いながらも、これから訪れるであろう死に怯えを隠せない少年の首に手を伸ばす。

細い細い、首。

真っ白で、柔らかそうで、熱い血が通っている首筋。

そこに指を這わせて、激しく脈打つ頸動脈に愉悦を感じるミメイは大きく口を開ける。

真っ赤な口内と、真っ赤な舌と、真っ白な牙。

混沌の入口が、ぽかりとその裂け目を開く。

 

諦めたように涙を流す少年の顔をじっとり見つめてから、ミメイは開いたままの口をその首筋に寄せる。

お腹がすいているのだ。

喉が乾いているのだ。

どうしようもなく足りないのだ。

体の中心から湧き上がる空虚感を埋めるには、きっともうこれしかない。

血が、血が、血が欲しい。

血だけが欲しい。

欲しい欲しい欲しい欲しい、欲しい!

 

 

「おにいちゃんをはなしてぇっ!」

鋭い牙が少年の首に穿たれる寸前、可愛らしい衝撃がミメイの背を襲う。

「やだやだやだ、おにいちゃんはだめ!

だめだよぉ!」

ミメイがたった今少年から引き剥がした少女が、ミメイを止めようと彼女に飛びかかったのである。

さっきまで泣くことしかできなかった少女が、兄を助ける為に必死に声を上げたのだ。

息ができなくなりそうなくらいにしゃくりあげながら、ミメイの服を引っ張るのだ。

「マオ、だめだ!はなれろ!」

ミメイに拘束されている少年が首を振り回しながら妹の名を叫ぶ。

「やだぁ、やだよぉ!

おにいちゃんはだめだよ!」

しかし少女は更に泣くばかりで、ミメイからその小さな手を離そうとはしない。

「マオ!」

少年が再度妹の名を叫ぶ。

このままでは妹の命まで危険に晒されてしまうと分かっている少年は、血を吐き出しそうな勢いで喉を震わせる。

その剣幕に怯えてしまったのか、少女は余計に引っ込みつかなくなってミメイのセーラー服を引く。

 

「はなれてよ、はなれてよぉ。

おにいちゃんをかえしてよ、このバケモノ······!」

 

「······。」

ずるりと力が抜ける。

くたりと力が抜ける。

何もかもが滑り落ちてしまったように、体がゆっくり歪んでいく。

バケモノと呼んだその存在が黙ったまま突然崩れた隙に、少年はいとも簡単に拘束から抜け出して。

泣きじゃくる少女の手を引いて、この地獄から逃げる為に足を動かす。

後ろは振り向かずに、バケモノという言葉を聞いた瞬間に何故か泣きそうになっていた女になど気を払わずに、一目散に逃げていく。

その小さな足音が離れていくのをどこか遠くで聞いているようになっていたミメイは、ガラクタで埋め尽くされた地面の隙間に座り込む。

血の海の中、たった独りで力なく座り込む。

 

 

薄暗い路地裏に射し込む僅かな月明かり。

それは平等にミメイの体も照らし、彼女は血溜まりに映る自分自身と目を合わせてしまう。

獲物を捕えたという悦に染まっていた血色の目、獲物を喰いちぎろうとしていた白い牙、辺りに一面に広がる血と獲物の血に欲情しきった薔薇色の頬。

これのどこが人間だと言えるのだろうかと、血溜まりの中のミメイ(バケモノ)は嗤っていた。

 

「······馬鹿みたい。」

馬鹿みたいだ、本当に。

ミメイは今生きている。

心臓を動かして生きている。

けれどこれが生きていると、人間として生きていると果たして言えるのか。

言って貰えるのだろうか。

お前は人間だ、とあの日と変わらぬ声音で言ってくれるのだろうか。

クラピカはミメイにそう言ってくれるのだろうか。

 

「お腹、すいた。」

喉が悲しい鳴き声を上げる。

ぽかりと開いたままの唇から、口内に留まれなかった涎が垂れる。

無色透明の滴は真っ白なミメイの手首に落ちて。

それに吸い寄せられるように手首に口元を持っていって。

思考を放棄したまま、手首に己の牙を突き刺した。

薄い皮や肉を貫通し、その奥でゆったり眠る血管を目指して牙は進む。

そうしていればすぐ、ぶちりと血管を破く音が身体中に響き渡る。

血が溢れる。

牙が赤く汚れる。

ミメイの口内は血で満たされる。

ごくりとそれらを飲み下す。

けれど。

 

「意味なかったなぁ。

何にも意味なかった。

余計にお腹すいちゃった。」

たった今自分が噛みついた手首から赤い蝶が飛び立つのを見送り、ミメイは諦めたように笑ってみる。

唇の端に残った自分の血を舌でペロリと舐めとって、やはり何の味もしないことを心から残念だと思う。

自分の血では味がしない。

全くもって美味しくない。

この自傷行為は無駄な流血であった。

ただ、牙の使い方が少し上手くなっただけ。

“いつか”の為に牙の扱い方を覚えただけ。

 

「─────好きだよ。」

金色の月光の下で、紅の代わりに血を引いた唇を動かす。

ああ、そうだとも。今日も今日とて月は美しい。

唯一無二の光として、今夜も化け物を照らしてくれている。

どれだけ手を伸ばしても届かない遠い場所で静かに微笑んでいる。

だからこそ堕としたい。

人間(ひと)の血で穢れきったこの手で。

美しい玉には(きず)を与えたい。

綺麗な花には棘を刺したい。

 

 

·············ああ、あああ、ああ、違うそうじゃない。

そんなのはおかしい。

人間として間違っている。

好きならば大切にしたい。

恋はもっと優しくあるべきだ。

愛するという行為は心を寄り添わせる尊いもの。

そうだと知っている。

ミメイはそうだと知っている。

知っている筈なのに、その可愛らしい定義を嘲笑ってしまう自分がいると気付いている。

そうだ、これが生きるということだ。

矛盾を抱えて生きるということだ。

 

「知ってるよ。

私はもう知ってる。

だからこそ、この世界は美しい。

生きることは美しい。

美しいから、私は好きになったんだもん。

優しく(激しく)愛したい(傷つけたい)くらいに、好きになった。」

折れていた膝に力を入れる。

ピチャリと血溜まりが撥ねて、タイツの黒色が更に濃くなる。

それでもミメイは立ち上がる。

真っ赤を蝶を陽炎のように従えて、たった1人で歩き出す。

 

まだ悩む。

この先後悔は山ほどする。

運命なんてものがあるのなら、今すぐ殺してやりたいくらいに憎い。

それでもこの手に答えは得た。

だから往こう、いつか出会える貴方の元へ。

 

 

 

 




長かった。
本当に長かった。
原作までいくのにここまでかかるとは夢にも思いませんでした。
作者の妄想だけで構成された話を、今まで読んで下さり本当にありがとうございます。
そして!これからも!よろしくお願い致します!




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ハンター試験編
35:「会いたかった」


原作開始なのです!
新アニメと漫画の良いとこ取りと、私のフィーリングによって構成されますのでご注意下さい。





「また君か。」

鬼宿の記憶を追体験する夢の中で、かつての鬼宿が呆れた顔をしている。

していると我が事のように感じられる。

それもその筈だ。

鬼宿、ではなくまだただの吸血鬼であったその存在の中にミメイが入り込んでいるのだから。

ミメイは鬼宿の全てを取り込んだのだから。

 

「これで何回目だったっけ。

獲物にありつけなくて小さくなってる君を見るのは。」

鬼宿はそう溜め息をつきながら、腰まで伸びた金髪が地面に着くのも気にせずにしゃがみ込む。

それから掌を自身の爪で切り裂き、勢い良く溢れ出した血で真っ赤に染まった掌を伸ばす。

何に?

“ナニカ”に。

よく分からない“ナニカ”に、黒い靄のような何かにその血を差し出した。

 

「ほら、喰えよ。少しは腹の足しになるだろ?」

「···。」

“ナニカ”は答えない。

果たしてこの生命体らしきものに答えることの出来る口があるのかミメイには分からなかったが、ともかく“ナニカ”は黙ったまま鬼宿の手を取った。

いや包むと言う方が正解か。

黒い靄を広げて、鬼宿の小さな白い手をその中に隠す。

そうして血やらエネルギーを回収するのかと思えば、黒い靄は一瞬白く瞬いてから更に萎む。

「あのさぁ、ほんと君懲りないよね。

誰が治せって言ったんだよ。

そうやって力を使い果たしてさ、馬鹿なの?」

黒い靄が力無く剥がれていった鬼宿の掌は傷一つ無い綺麗なままで。

いくら吸血鬼の回復力が凄まじいとはいえ、これは少し早過ぎる。

だから恐らくこの傷の治癒は、黒い靄の力によるものなのだろうとミメイは判断する。

 

「···少しは舐めたって?

あっそ。で?

その分のエネルギーを僕の傷を治すのに使っちゃ意味ないだろ。」

“ナニカ”の声はミメイには聞こえない。

しかし当時の鬼宿には“ナニカ”の言いたいことが分かるらしい。

「君は死にたい訳じゃないんだろ?

それならさ、ちゃんと喰えよ。

他の奴等みたいに寄生するのも良いし、僕みたいに体を作っても良い。

どっちにしたって獲物を喰う為の進化だし。

君はどうしたいのさ?どうなりたいのさ?」

「······あい。」

そこで初めて黒い靄は言葉を発した。

ミメイはそう認識した。

「にんげん、たのしい?」

ノイズ混じりではあるが、一応人の言葉らしいものが黒い靄から吐き出される。

いや、本当に人間の言葉なのだろうか。

分からない、もう普通の人間ではないミメイには分からない。

ミメイだからこそ、鬼宿だったからこそ、理解しているだけなのかもしれない。

 

「ああ、あいつらで遊ぶのは愉しいよ。

愚かな人間共は簡単に僕に騙されて、壊れた人形みたいに踊るんだ。

今度は君も一緒に来る?」

随分小さくなった黒い靄を見下ろしながら、鬼宿は酷薄な笑みを浮かべる。

この時の鬼宿は人型の体を得たばかりで、人間達が生きている世界で好き勝手やっていたらしい。

「······。」

「あっそ。あっち側に興味がある癖に僕の誘いは断るんだよな、君は。」

「あい。」

「······『あい』、か。

君は知ってる?

人間共は“(あい)”ってやつを抱くらしいよ。」

「あい···?」

「そ。いつからか僕達が口にしていたそいつさ。

僕みたいに体を作らなければ、基本的にそれ以外に発することを許されない鳴き声。

まあ僕が言葉を教えた君は例外だけど。」

そう言って鬼宿は肩を竦めた。

 

「その“(あい)”ってやつは人間共にとってとても大切らしい。

その為に生死を決めたり、ちゃちな人生の中で添い遂げる相手を見つけたりするんだってさ。

まあつまりあれだよ、繁殖の為に必要なものなんだろう。」

鬼宿の解釈にミメイは笑ってしまいそうになる。

確かに間違ってはいないのだが、それだけで済ませられてしまうと色々問題が生じそうである。

親子愛や兄弟愛など、愛にも色々な種類があるからだ。

「······でもなんだろうな。

よく分からないけど、それだけじゃない気がするんだ。

(あい)”とやらを語る人間共は、それはそれは楽しそうだった。

ああ違うな、楽しそうってやつともまた違う。

······全く人間は面倒な生き物だよ。

何よりも愚かで矮小な癖に、色々変なものを持ってる。」

そう呟いた鬼宿の顔はぐにゃりと歪み、少しばかり泣き出しそうにも見えた。

 

「あい。」

黒い靄が鬼宿の手にそっと触れる。柔らかく包み込む。

「別に、傷が出来た訳じゃない。

別に、どこか痛い訳じゃない。

だから治そうとしなくて良いよ。

ただ、なんだろうな。足りないんだ、多分。

何かが足りないんだ。

分かるだろ、君も。

僕達は皆何かを失くしている。

欠落させたまま、この世界で生きている。

それが何かは分からない。

だけど足りないんだ、どうしても。

だから僕達は片っ端から取り憑いて、寄生して、喰らって、吸い上げて。

そうやったら欠けている何かを手に入れられるんじゃないかって。」

 

鬼宿はガラス細工に触れるように“ナニカ”に手を置き、その輪郭をなぞる。

「でも君なら手に入れられるかもしれないな。

君は他と違う。

僕とも違う。

君は何よりも強大な力を持っている。

条件を満たせばどんな願いだって叶えてしまう、そんな神みたいな力を持っている。

だから願ってみろよ。ねだってみろよ。

そしたらいつか、君には分かるかもしれない。」

「あ、い···。」

「あはは、不思議そうだね。

良いんだ、それで。

僕には分からないことだから、僕とは違う君に押し付けてみただけだ。」

黒い靄を撫でる手を止め、鬼宿は下手な笑顔を作った。

 

「いっしょ、いい。」

「···ほんと、君は馬鹿だな。

君が手に入れたものは君だけのものなのにね。

何だよ、僕にも一緒にいて欲しいの?

それを僕にも分けてくれるの?」

「あい。」

“ナニカ”は恐らく嬉しそうに、そう鳴いた。

「じゃあ、約束だ。

約束ってやつをしよう。

僕か君のどちらかが足りない何かを手に入れた時は、それの分け前は半分だ。」

「あい。」

「僕達だけの、約束だ。」

そうしてまた、鬼宿はヘタクソな笑みを浮かべて──────

 

 

 

 

──────ミメイは目を開けた。

蝶の力を使わずに眠りについてから数時間。

どうやらミメイはまた、鬼宿の記憶を見ていたらしい。

これまで何度か垣間見ることはあったが、ここまで質感のある夢に入り込むのは初めてである。

恐らくそれは、この記憶が鬼宿の中で多くを占めていたからなのだろう。

暗黒大陸らしき“外”での出来事。

きっと鬼宿と同種に近い“ナニカ”との約束。

 

「······。」

寝返りを打つ。

段々明るくなってくるカーテンの隙間から逃れるように小さくなって、布団を頭から被る。

密閉された布団の中で掌を軽く握りしめ、膝を臍の上まで持ってきて。

胎児のように丸まってみる。

こんなことをした所で鬼宿の夢は叶わないのに。

「······約束、か。」

掌を広げる。

ついさっきまで実際に黒い靄に触れていた感覚のようなものがある掌を。

鬼宿(ミメイ)は撫でていた。

柔らかな眼差しを向けながら、優しく触れていた。

「···それが愛よ。

愛って言うのよ、鬼宿。

私達はそれを愛と呼ぶの。」

貴方達は失くしてなんかいなかった。

ただ、感じる為の心を持っていなかっただけ。

 

心というものが存在するとよく言われる心臓。

それが脈打つ胸に手を当てる。

規則正しい脈拍に体を預けながら、ミメイは再び目を閉じる。

次は夢なんか見ないようにと、そうぼんやり願いながら。

 

 

 

 

 

──────────

起きてすぐシャワーを浴びた後、何も身につけていない体のまま洗面所から出る。

湿った裸足でフローリングを踏み、中身が乏しいクローゼットを開ける。

そこからセーラー服を取り出しそれをベッドの上に投げて、小さな箪笥の中を覗き込む。

目に映るのは色とりどりの上下セットの下着達。

この中からその日の下着を選ぶことが、出かける前のミメイにとって1番大事なことである。

特に今日はハンター試験を受けに行く日。

クラピカに出会えるかもしれない日。

これはもう気合いを入れて選ぶ他ない。

 

黒の総レースにチラリと目をやった後、紺と白のシマシマを左の手で取る。

と同時に黒いリボンがアクセントのピンク色を右手で掴む。

爽やかなペールグリーンも良いと思って右手に握らせながら、ミメイが持っている下着達の中では珍しいフロントホックの橙色を左手で摘んでみる。

真面目な顔で少し考え込み、

「······勝負パンツはやっぱり紐パンでしょ!」

両手に持っているものを全てしまい直してから、奥にあった白色を引っ張り出す。

薄水色の繊細なレースが所々に散りばめられ、清楚さとあざとさを両立した素晴らしい一品。

何の文句もつけようがなかった。

 

下着を身につけた後は普段通りのセーラー服を着て、デニールが低めの黒ストッキングを腰まで引き上げる。

仕事が入っていない時は基本自由行動が許されている陰獣だが、面が割れるのはまずいと主張する親愛なる上司(ボス)の言い付けで購入した黒いパーカーを無造作に羽織る。

それから前をしめてフードを被り、下を向いてしまえば顔を認識されにくい。

長い裾のお陰でスカートもすっかり隠れ、ゆったりとした作りのため立派な胸部装甲も曖昧になり、性別さえも分かりにくくなる。

日傘を腰のベルトに常備しているとはいえ、一々開くのが面倒な時には日除けとしても役立つこのパーカーをミメイは案外気に入っていた。

 

鼻歌を歌いながら玄関前の鏡で自分の格好を確認し、かつてジンから貰った靴に足を突っ込む。

特別丈夫な皮が使われているこの靴は、ジンと別れた港町付近の名産らしい。

1年以上使っていても痛むどころか更に足に馴染んでくる優れ物。

一体これのどこが安物だったと言うのだろう。

「まあ、ジンさんのことだから値切りに値切ったのかもしれないけど。」

なんだよ、と顔を顰めながらミメイを追い払おうとするジンを思い出してクスリと笑う。

外の陽光に目を細め、眩い陽射しから逃れるように日傘を差してミメイは歩き出す。

1匹の紅い蝶を従えて。

 

 

 

 

──────────

去年同様アリサの伝で知った案内人の居場所へ向かったミメイだったが、前回世話になった花札好きの老人に捕まって何回か勝負する羽目になった。

既に老人に気に入られていたミメイには試練は必要ない。

しかし老人がもの欲しそうな顔で花札を出してくるため、最近は花札から遠ざかっていたミメイは勝負を受け入れた。

あと1回、あと1回、と繰り返しているうちに時間は経ち、試験会場へと繋がっている店の奥のエレベーターに乗ったのはミメイの想定よりずっと遅くなっていた。

前回の試験では99、正確には100番だったが今回はそこまで早くないだろう。

きっとヒソカは既に試験会場に着いている。

出来ることならば彼より早く試験会場に着いて、彼に気付かれないよう絶状態のまま試験開始を待ちたかった。

クラピカがいるかもしれない今回の試験でヒソカに無駄に絡まれるのは嫌だった。

 

しかしこうなってしまっては仕方がない。

体に伝わる振動からエレベーターがそろそろ最下層に到着するのを感じ取り、ミメイは溜め息をつきながらフードを深く被り直す。

こんなことをしてもヒソカにはバレてしまうかもしれないが、何もしないよりはマシだった。

会場に降り立った瞬間幾つもの視線が飛んでくるが、真っ黒くろすけ状態のミメイには特に興味をそそられなかったようで、すぐに注目は外れていく。

去年ヒソカ共々やらかしているミメイである。

正体を隠していなければ無駄に絡まれたかもしれない。

まあ、どこかの変態ピエロは問答無用で絡んできそうだが。

今日も今日とてネットリとしているオーラを視界に入れないようにしながら、番号札を受け取ったミメイは人口密度が低めの壁際に寄る。

 

今回の番号は361。

やはり遅い。

早いからといって有利になる訳でも遅いせいで不利になることもないのだが、前回がそこそこ早かったせいか少し気になってしまう。

首までチャックを上げたパーカーに口元を埋め、灰色の地面だけを見ているとポケットの携帯から振動が伝わってくる。

このタイミングで連絡してくる人間など1人に絞られる。

携帯を取り出しながら伸びをする振りをして会場にさっと視線を走らせれば、いた。

今年もいた。

半径2、3メートルくらいの円のなかにポツンと1人。

その奇抜な見た目と異様な雰囲気と去年の所業のせいで誰も近寄ろうとしない男が。

 

その男と目が合いそうになる寸前で、ミメイは自然に携帯の画面に見入る動きを演じる。

そうして新着メールを開き、差出人が思った通りの人間であったことを確認してから文面を読む。

短くも、とても面白そうなことが書いてあった。

一体どんな意図があって彼がこのメールを送ってきたのかは知らないが、いやあまり考えたくないだけなのだがミメイの口角はゆるりと上がる。

 

 

『これは運命?』

『運命にする為に協力してよ♥』

『条件次第かな。』

『どんな条件?』

『まだ未確定。』

『ああ、君の好きな“彼”絡みか♠』

『お互い良いデートになると良いね。

今回逃したら次いつ会えるか分からないんでしょ、貴方の場合。』

『うん♦だから協力して欲しいんだけど♠』

 

 

そこまでメールのやり取りをしてミメイはふと顔を上げる。

多くの受験者が入り乱れるこの広い会場で、意識せざるを得ない視線がミメイの体に絡みつく。

距離は十分離れているというのに、トランプを切る音だけが彼女の鼓膜をピリピリ揺らす。

あの禍々しいオーラがすぐ真横に迫り来るようで、ついつい全身の血が熱くなってしまう。

一旦携帯を閉じ、ねっとりとした視線から逃れるように下を向く。

そうだ、向こうとして首を曲げて。

視線を下に動かそうとして。

ミメイはそう出来なかった。

 

それは光明。

それは希望。

それは意義。

 

その影を、気配を、姿を認識した瞬間ミメイの目は赤く染まり上がる。

枯れた葉が時間を巻き戻して紅葉したようになったその目を見開いて、ミメイは口に手を当てる。

そうしなければ今すぐにでも声をかけてしまいそうだったから。

心の中ではもう何回も『クラピカ』と呼んでしまっていたから。

唾を飲み込みながら激しい鼓動を落ち着かせようと胸に手を当てて、ゆっくり視線をずらす。

唯一の光の延長線上で、奇術師(ヒソカ)がニタリと笑っていた。

その表情からバレてしまったのだと判断出来る。

締切間近になっていた為今年も来ないのだろうかと気を抜いていた所に、転がり込んできた衝撃はミメイを酷く動揺させるのに十分だった。

失敗したと軽く唇を噛んでいれば、もう用は済んだのかヒソカは人混みに紛れて姿を消していた。

ミメイの執着している人間に大体の当たりを付けられたことに満足したのだろう。

 

そう、大体の当たりである。

幸運なことにクラピカは1人ではなかった。

彼も含めて3人が一斉に会場に降り立った。

いくらヒソカといえど、近い位置にいたあの3人のうちの誰にミメイの視線が向けられていたのか明確には分からない。筈だ。

そう信じたいミメイは、被り直したフードの下からクラピカを目で追う。

共に試験会場にやってきた人間と話している彼をじっと見つめる。

その視線が交わらないように細心の注意を払いながら、隅から隅まで観察する。

 

大きくなっていた。

きっともう、ミメイよりも背が高い。

崖下に突き落としてから2年。

月日が流れるのも、青少年が成長するのも早いものだとミメイは嘆息する。

何も変わらない、変わることが出来なくなりつつある彼女と違い、彼はこれからも変わっていく。

出会った当初は可愛らしい少女にしか見えなかったというのに、今では立派な(女顔の)少年だ。

月の光のような金髪はさらりと揺れて、感情が昂れば赤くなるのであろう大きな目は澄んでいて。

細めの手足に白い肌。

薄ら血脈が透けて見える綺麗な首筋。

 

見れば見るほど、恋する乙女にはクリティカルヒットである。

「······ばか。」

もっと好きになっちゃうでしょ。

もっと恋しくなっちゃうでしょ。

もっと愛したくなっちゃうでしょ。

そんなに魅力的になられたら、私どうして良いか分からないのに。

 

 

頬を小さく膨らませて、グイッとフードを前に持っていく。

顔を赤らめているだけの腑抜け状態になっていると自覚しているミメイは、そんな自分を隠そうと縮こまる。

パーカーの長い裾に足をしまって、そのまま体育座りで小さくなる。

黒い壁と一体化するように息を潜めて顔を伏せる。

「好きだなぁ。やっぱり凄く、好き。

あーあ、ジンさんの言う通り私って恋愛馬鹿なんだ。

だって今馬鹿だもん。馬鹿みたいだもん。」

分厚いパーカーに音を吸わせるようにして小さく呟いてしまう。

自分の胸だけにしまっておけずにポロポロこぼしてしまう。

「クラピカだ。

本物のクラピカだ。

夢じゃない。幻でもない。

ちゃんと本物。」

そう繰り返せば頬がゆるゆると綻んで。

えへへ、とだらしない笑いが漏れる。

 

「どうしよう、どうしようかな。

いきなり抱き着いちゃおうかな。

驚いてくれるかな。

それとも斬りかかってくれるかな。

それなら避けたくないなぁ。

避けないで、怪我しちゃおうかな。

そしたら心配してくれるもん。謝ってくれるもん。

でもやっぱりお説教されるんだろうな。

クラピカのお説教。

お説教···その時は私だけを見てくれる。

本気で怒ってくれる。

嬉しい、嬉しいよ。嬉しくてたまらない。」

他に聞こえないような囁き声を袖に吸わせるミメイ。

今の彼女に、周りの状況に注意を払っている余裕などなかった。

ずっと追っていたい気配のみを全身で感じ、その唯一のみに意識を傾ける。

だからこそクラピカが自分から離れていくのに気が付いて、その為だけにミメイはゆっくり顔を上げた。

 

クラピカはいなかった。

それどころか辺りには誰もいなかった。

だがミメイは焦らない。

足音の束が徐々にミメイから遠ざかっていくのを察知し、試験が既に始まっているのだと冷静に判断する。

試験官の言葉さえ耳に入らないとは、全くもって腑抜けたものだと自嘲しながらミメイは立ち上がる。

埃や砂で薄汚れたパーカーを払ってから足音に向かって暗い地下道を歩き出せば、その足音が聞こえる方から1つの人影が現れる。

その姿には見覚えがあった。

確か去年もミメイに声を掛けてきた、自称ハンター試験のベテラン。

そう、新人潰しという素敵な趣味を持っているトンパという名の男である。

今回ミメイが正体を隠しているせいで、どうやら彼はミメイを新人だと勘違いしたらしい。

そして試験が始まっても尚、固まったままの可哀想な新人を徹底的に潰そうと目論んでいるのだろう。

 

「おーい、大丈夫か?

具合でも悪いのか?」

人の良さそうな笑みを貼り付けて、手を上げながら小走りにミメイの元へやって来る。

「ご親切にありがとう。」

「いやいや、お互い様だからな。

お前さん、今回が初めてだろう?緊張するのも無理ねぇな。」

顔も体も隠した状態では声を出しても気付かれない。

「あはは。去年と同じ様なセリフを吐くのね。」

「······え?」

ミメイの言葉にポカーンと口を開ける間抜けなトンパに対し、彼女はくすくす笑いながらフードを後ろに払う。

「ざぁんねん。貴方が引いたのは外れよ。」

フードに押さえられていた紫の髪がふわりと溢れ、薄暗い地下道の中で仄かな明かりとなる。

 

「お、お前······!」

鯉のように口をパクパクしながら後ずさるトンパの横を通り過ぎ、ミメイは優雅に歩き出す。

「無駄な時間だったわね。

一次試験はあれでしょう、持久力走か何か。

こんなことに無駄な体力使っちゃって、ほんとご苦労様。」

「ミメイ、お前···今年もいやがったのか!」

「なぁにその反応、失礼ね。」

背後から走って追ってくるトンパとの距離を離そうと、ミメイは軽やかに走り始める。

「ヒソカだけでもアレだってのに、お前までいるなんて今回の試験も散々になりそうだ!」

「そう、良かったわね。」

これ以上この男の戯言を聞いていても無意味だと思ったミメイは、足を動かす速度を上げて受験生の大群の中に滑り込む。

疾風で舞い上がる紫の髪に一瞬受験生達は目を奪われ、それから我に返る。

去年も試験を受けに来ていた人間は皆、黒衣を纏ったその後ろ姿に様々な感情を抱く。

何人もの受験生に惨い死を与え、試験官さえも弄んだ悪魔のような女に。

ある者は憤怒を、ある者は憎悪を、ある者は驚嘆を、ある者は歓喜を、ある者は恐怖を。

それら全ての匂いを嗅ぎ分けながら、ミメイは人混みを縫うようにして駆ける。

前方にいるクラピカの背中が見えるか見えないかくらいまで走り抜け、と同時にヒソカと近くなり過ぎない距離を保ちつつミメイは走るペースを調整する。

 

 

「······えへへ。」

試験会場まで共にやってきていた黒髪の少年と青年、たった今一行に加わった銀髪の少年。

彼等と仲良く走るクラピカを後ろから見て、ミメイの頬は緩む。

クラピカにも友達が、仲間が出来るのだろうか。

グレンのように、守りたい存在を作ってしまうのだろうか。

そうしたらきっと、もっと素敵だ。

 

「にしてもあの男の子、どうしてか見覚えがあるなぁ。」

大きな目をキラキラと輝かせて、元気な笑顔を浮かべている黒髪の少年の姿に既視感を覚える。

「······どこで見たんだろう。」

子供は得てして人間特有のドロリとした欲望が少ないのだが、それにしてもその匂いが極端に薄い少年。

その隣にいる、やけに血の匂いが濃い銀髪の少年も気にならない訳ではないが、それ以上に黒髪の少年は異常だった。

野生の獣のような、研ぎ澄まされた本能のみで構成されているかのような、人間としては珍しい雰囲気を纏っている。

そしてミメイに熱い視線を向けられていること自体には気付かなかったようだが、何かしらの違和感を覚えたらしく黒髪の少年は走る速度を上げる。

銀髪の少年の方も警戒心を引き上げたのか、辺りに視線を走らせながら足を早く動かす。

 

「ふぅん?」

いくら腑抜け状態になっているとはいえ、ちゃんと身を隠したミメイの視線に反応するとは良い感覚を持っている。

今回の試験は楽しめそうだなぁ、とどこかの奇術師と同じようなことを考えながら、ミメイはゆるりと口角を上げた。

真っ赤に染まったままの瞳を鈍く光らせて。

 

 

 

 

 

──────────

ゴンとレオリオと共にハンター試験の会場に到着したクラピカは、胡散臭いトンパという男の話を聞いていた。

「今年はあいつはいないみたいだな。」

「あいつ?」

「あのヒソカと同じくらいヤバい奴さ。」

レオリオの怪訝そうな顔に対し、チラチラ周りを見ながらトンパは答える。

「ヒソカの女かどうかは知らねえが、去年の試験ではヒソカとずっと一緒にいたよ。」

「女の人なの?」

キョトンと首を傾げるゴンに頷くトンパ。

「ああ。綺麗な華には棘があるってのはああいうのを言うんだろうな。」

「へえ、美女か。一度お目にかかりたいね。」

「レオリオ、お前という奴は···。」

鼻の下をだらしなく伸ばすレオリオに呆れた目を向けながら、クラピカは溜め息をつく。

このトンパとやらはどうしようもなく胡散臭いが、彼が言う女が危険だというのは間違いないのだろう。

彼の目に浮かぶのが怯えに他ならなかったため、クラピカはそう判断した。

 

トンパとゴン達が話すのに耳を傾けるクラピカの頭に、ふと浮かんだのはミメイの笑顔。

容赦なく人々を屠っている時のあの完璧な笑み。

あれこそが『綺麗な華には棘がある』という言葉を体現したものに違いない。

クラピカ、と弾むような笑顔で自分の手を引く無邪気さも持ち合わせながらも、一度闇色を纏えば禍々しい生き物に変わってしまう女。

一体今はどこで何をしているのだろうか。

別れてから数年間、ミメイに巡り合わないどころか彼女に関する情報の一欠片さえも手に入らない。

きっと生きてはいるのだろう。

自分を逃がした後、普段通りその力を奮って生き延びた筈だ。

そう、信じている。

信じることしか出来ない。

彼女のことを考え始めると思考の海にどっぷり浸かってしまうと自覚しているクラピカは、軽く首を振って意識を元に戻す。

今はハンター試験に集中しなければいけないのだ。

 

「やめとけ。あの女は駄目だ、ありゃ駄目だ。

毒にしかなんねえよ。」

会ってみたいと主張しているレオリオに若干うんざりしているらしいトンパは、顰めっ面で首を横に振る。

「ねえねえトンパさん、その人なんて名前なの?」

純粋なゴンの質問にはどうしてか答えざるを得ないらしいトンパは、再度周りを見渡しながら口を開く。

「ミメイだよ。」

 

 

瞬間、クラピカの世界の音が止まった。

 

 

「ミメイ?へぇー、不思議な名前だね。」

「確かに珍しい響きだな。」

「じゃ、先輩の俺からのアドバイスは以上だ。頑張れよ。」

「うん、ありがとうトンパさん!」

「色々助かったぜ。······おいクラピカ、どうした?」

3人の声はクラピカにとってはどこか遠くに聞こえた。

今はただ、耳にした『ミメイ』という言葉を頭の中で繰り返すのみ。

何故か震えだす掌を押さえつけるように握りしめながら、カラカラに乾いた口を動かす。

「···その、ミメイという女は」

「クラピカ?」

心配しているゴンやレオリオにも答えない。

答える余裕がない。

全身の血がカッと熱くなるのを感じつつ、その衝動のまま問いを吐き出す。

「その女は、灰がかった紫の髪ではなかったか。」

「そうだけどよ、なんでそれを知ってんだ?」

驚きを滲ませたトンパが尋ねてくるが、クラピカは得た答えに心を傾けていて。

「いや、何でもない。構わないでくれ。

返答に感謝する。」

カラーコンタクトレンズを入れていなければ、緋色に染まっていることが一発で看破されてしまうであろう目を隠すようにクラピカは下を向く。

 

トンパが去った後、ゴンもレオリオも様子のおかしいクラピカを気遣うように声をかける。

「クラピカ、どうしたの?」

「いや、何でもない。」

「それが何でもないって顔かよ。

もしかしてお前、ミメイって女と知り合いなのか?」

「ああ···いや、そうなのだろうか。

そう言って良いのだろうか。」

尚も震える手を瞼の上に置き、上昇した心拍数を抑えるようにクラピカは息をゆっくり吐き出した。

「おいおい、お前ほんとにどうしたんだ。

すげー顔だぞ。」

「私は今、どんな顔をしているんだ?」

「笑ってる、とも違うしよ。なんて言うんだろうな。」

うーんと首を捻るレオリオと、閃いたのか顔を輝かせるゴン。

「分かった、安心してる顔。」

「それだよそれ。

どこかで落とした物を必死に探してる最中、誰かがそれを見つけて届けてくれた時みたいな顔だな。」

「何故そこまで具体的なんだ。

しかしなるほど、確かにそうだ。

私は恐らくずっと不安だったのだろう。

彼女は生きていると信じていた。

簡単に死ぬような人間ではないと知っていた。

だが······そうか。私は安心したのだな。

彼女が生きていると分かって。」

ゴンとレオリオにとって、困ったように目尻を下げるクラピカの表情は初めて見るもので。

2人とも顔を見合わせてから、ニッと歯を見せて笑う。

 

「良かったね、クラピカ。」

「お前にとって大切なんだろ、そのミメイって女は。

生きてるって分かって良かったじゃねぇか。

あれか、もしかして恋人とか言わねえだろうな。」

「私とミメイはそんな関係ではない。」

「じゃあ友達?」

「いや、私達は友人関係にはない。

······何なのだろうな、一体。

私にもよく分からない。

ただ、私の恩人であることは確かだ。不本意ながら。」

雪の降りしきるあの日クラピカを拾い上げて、それからも何度も助けてくれたミメイは間違いなくクラピカの恩人だった。

助けられてばかりなのがどうにも気に食わないだけで、その事実自体は変わらない。

 

「そっか、じゃあ惜しかったね。

去年ハンター試験を受けてたら、その人に会えてたんだから。」

「そうだな。

しかしゴン、私は今年ハンター試験を受けて良かったと思っている。

お前に出会えたからな。」

「俺もだよ、クラピカ!」

「光栄だ。」

楽しそうに笑い合うゴンとクラピカ。

 

 

「······いや、俺は?」

どうしてか置いてけぼりになったレオリオであった。

 

 

 

 

 

 

と、そんなことを試験が始まる前に話していたからだろうか、クラピカはまたもやミメイの名を聞く羽目になっていた。

霧で辺りの状況が判断出来ない湿原で、先頭集団とはぐれた時点で不運は重なっていたのだろう。

しかしヒソカの受験生惨殺現場に偶然居合わせてしまっては、最早不運極まれりとしか言い様がない。

しかもどうやら、クラピカはそのヒソカに興味を向けられているようで。

 

「ん〜、君だね♠

あとの2人も良いけど、ミメイの好みじゃないだろうし♣︎」

血で濡れたトランプを向けられて、クラピカは一歩後ずさる。

しかし心は引かない。

引けない。

ここは譲れない。

やっと掴みかけたのだから。

行方知れずのミメイの情報を、やっと。

「お前は、ミメイとどんな関係だ。」

「秘密♥」

「昨年の試験でお前とミメイが一緒だったことは既に知っている。

今の彼女の居場所をお前は知っているのか。」

「知ってるよ♦」

「ならば、」

背中の木刀に手が伸びる。

それを抜き放ってヒソカに向けようとした瞬間、隣にいるレオリオの焦った声が飛んでくる。

「待てクラピカ、冷静になれ!お前らしくねぇぞ!」

「······。」

レオリオの言葉に引き戻され、クラピカは手を下ろす。

警戒心を引き上げたまま、人を殺めている時のミメイと同じような笑みを浮かべるヒソカを睨みつけたまま、クラピカは唇を噛む。

 

「······くっくっく、確かにミメイが好きそうな子だ♣

味見は駄目だって言われたんだけど、こんなに美味しそうな青い果実を目の前にして放っておくっていうのも難しいよね♠」

そう言ってからヒソカはニタリと笑う。

笑って、それで。

気付いた時には、もう目の前で。

クラピカの目には、やけに全てがゆっくり見えた。

 

「クラピカ!」

レオリオの声が聞こえる。

血を吐くような叫び声が聞こえる。

その警戒を促す声は聞こえていて、だから木刀を引き抜こうとして。

それなのにもう遅い。

遅過ぎる。

スロー再生を見ているのかと錯覚するほどゆっくりと、そう頭の端で他人事のように観察してしまいながら、何人もを葬り去ったトランプがクラピカの視界いっぱいに広がる。

覚悟して目を閉じる暇もなく、最早ただ無防備な体を晒しているだけ。

それから──────

 

 

 

 

 

 

「──────触らないで。」

かくして救世主は現れた。

クラピカの後ろからすっと手が伸びる。

トランプを手にしたヒソカを拒絶するように軽く腕を払い、クラピカを背後から抱きしめてその身を庇う。

「クラピカに触らないで。」

蕩けるような甘い声がクラピカの耳元で響いている。

柔らかな体がクラピカの体を包んでいる。

懐かしい香りがクラピカの鼻腔をくすぐっている。

後ろから抱きしめられているせいで顔は見えない。

けれど分かった。すぐに分かった。

「···ミ、メイ?」

だからクラピカはその名を呼んだ。

かつてのように。

 

「クラピカ。」

細く震える声がクラピカの耳朶を打ち、彼の体に回された手に力が込められる。

「会いたかった。」

紫の髪がクラピカの肩に掛かり、そこに重みが乗せられる。

そう、いつかのように。

いつかのように、クラピカの肩にミメイは顔を埋めている。

そうしてすぐ近くに感じられる熱に、クラピカの唇も緩やかな弧を描く。

 

 

「······ああ、私もだ。」

 

 

 

 




ストックが切れかけな上に(海外艦の練度上げに忙しかったり某ソシャゲのイベ周回に追われていたり)リアルが割と多忙なため、不定期更新に入ります。
すみません。


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