十三歳の天才少女は、普通の恋をした (まなぶおじさん)
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十二歳の少年は、天才少女と出会った

 きりつ、れい! さようならー!

 

 帰りの会が終了した後は、グラウンドでサッカーか、野球か、或いは友人の家に集まってゲームと決まっている。中には塾に赴くクラスメートもいるが、同じ小学六年として「すげーな」と、種村は時々思う。

 さて。

 自分の席で背筋をうんと伸ばし、独り言のように「さーて」と唸れば、どこからともなく友人たちが近づいてくる。

 

「よー種村、今日は何する?」

「っだなー、気分的にはサッカーかな」

「よし、それでいくか」

 

 友人の桜井、菊池、そして女子の松本が、やる気満々の笑みを浮かばせる。あとは、それぞれのツテを辿ってメンバーが集ってくるのを待つだけだ。

 椅子に座りながら、上機嫌そうに教室を見回す。

 相変わらずダッシュで帰宅する芝田、やっぱり難しい本を読み続けている柳澤、塾へ向かう山川、

 

「なあ」

「うん?」

 

 一ヶ月前に転校してきた、黒沢。

 これから帰ろうとしていた矢先、目と目が合ってふらりと声をかけた。

 

「お前、今日ヒマか? よかったら、一緒にサッカーやらね?」

 

 その言葉に対して、黒沢は秒も立てずに「すまんっ」と両手を合わせる。

 

「本当に悪ぃ。このあと、家の手伝いがあって……」

 

 種村は、感心したように「ほー」と声に出す。

 

「いつも誘ってくれるのは嬉しいんだけど……その、ごめんな?」

「いやいや、気にするこたぁねえよ。エラいよなーお前、俺なんていっつも母ちゃんから『掃除しなさい!』ってドヤされんのに」

「掃除なんて誰もやりたくないから、しょうがないって」

「だよなー、そうだよなー」

 

 種村と黒沢が、からっからと笑い合う。

 その間に、三人のクラスメートを捕まえてきた菊池がやってきた。

 

「ま、時間ができたらいつでも言ってくれよ。俺らは歓迎するぜ、転校生」

「サンキュー。じゃ、またな」

 

 そうして、黒沢はほんとうにクラスから出ていってしまった。

 ほんの少しの間が訪れる、放課後に浮かれるクラスメートの話し声が聞こえてくる、夏らしくセミの自己主張が届いてくる。

 

「今日も、あいつは忙しそうだな」

「らしいな。エラいよなー、家の手伝いなんてさ。お前やってるか?」

 

 やってるわけがないと、菊池が首を横に振るう。

 

「あいつが転校して少し経つけど……毎日、あんな感じだよな」

「なー、放課後になってから一緒に遊んだことねえわ」

 

 黒沢の、これまでのことを思い起こす。

 

 黒沢は、おおよそ六月頃にこの学校へ転校してきた。教師によると、黒沢はいわゆる転勤族というやつで、小1から小6にかけて転校を繰り返してきたらしい。

 それを聞いて、遊び人の種村は真っ先に思った。あいつ、友達とかどうしてるんだろうな、と。

 そんな黒沢は、実に良い笑顔とともに「好きなことは音楽を聞くことです、よろしくお願いします!」と自己紹介した。

 

 少し経って、黒沢のことを「明るいやつ」だと種村は評した。よく喋るし、よく顔に出るし、よく喜ぶし、よく体を動かすしで、非常に付き合いやすいタイプだった。

 だから、黒沢とは当然のように友人となった。体育では競い合ったり、一緒に給食をとったり、転勤族ならではのエピソードを聞かせてもらったりと、ずいぶん楽しませてもらったものだ。そして時々、「いい親だよ」としみじみ言われることもある。

 だからなのかもしれない。「家の手伝いがあるから」と言って、放課後になればすぐさま姿を消してしまうのは。

 これまで一度たりとも、黒沢とは放課後の付き合いをしたことはない。明るく活きのいい奴なだけに、少しだけ残念に思う。

 

「はいよー、連れてきたよー」

 

 菊池が、三人の女子を引き連れてやってきた。女子だからと侮るなかれ、へっへっへと笑う女子三人組は、ゴリゴリのスポーツ好きとしてクラスでは名を馳せている。

 自分を入れて七人か。もう少し誘ってみるか。

 

「誰か一緒にサッカーやんねー? 暇な奴やろーぜーッ!」

 

 そろそろ暑くなってきた、もうじき夏休みがやってくる。

 そう考えてみると、声がいつもより大きくなっている気がした。

 

 腕に自信のあるクラスメートたちが、種村の元に歩み寄ってくる。

 

 

―――

 

 

 

「はあ」

 

 放課後の夏空の下で、黒沢がため息を漏らす。

 イヤホンからご機嫌なナンバーがずっと垂れ流されているが、表情はずっと無だ。見上げてみれば、夏らしく清々しい青が目に入るが、心の内は相変わらず晴れないまま。

 

 ――俺だって、みんなとサッカーがやりてえよ

 

 けれど参加したら、クラスメートと深く仲良くなってしまう。彼らが、かけがえのないものになってしまう。

 そうした思い出が重なれば重なるほど、転勤が訪れた時のショックが大きいものに化ける。

 だから黒沢は、学校はともかく、外でクラスメートと遊んだりはしない。

 

 慣れちゃったなあ。

 

 離れたくないと願っても、いやだいやだと駄々をこねても、「親の仕事の都合」には絶対に勝てない。小3までは、「なんでだよ」と怒鳴ってきたものだ。

 ――そんな自分に対して、父は、母は、申し訳なさそうに顔を陰らせた。何度も何度も、ごめんなさいと口にした。

 親は仕事人間だが、ずっとずっと黒沢に気を遣ってくれた。なるだけ一緒に夕飯をとろうとするし、あまり仕事の話もしない。行きたい場所はあるか、欲しいものはあるか、小遣いは足りてるかと、黒沢の心をずっと守ってきた。

 そして親とは、子供のことなんてお見通しなもので――すこしでも不機嫌を露わにしてしまえば、父と母は「何かあったのかい?」と聞いてくる。それに対して、沈黙で応えようとも、

 

 ――私とお父さんは、いつでもあなたの味方だからね

 

 親のことは、尊敬はすれど嫌ったことなどはない。だからこそ、転勤がやってきたところでなんとか受け入れられる。

 家の手伝いだって、八割がたは本心によるものだ。

 

 別のクラスメートらしい、男女混合の仲良しグループが、上機嫌そうに自分を追い越していく。

 

 小4になってから、ちょっと知恵がついてきた頃になると、「仕方がないよな、忙しいしな」という諦めが自然と生じた。

 親のおかげで、自分はこうして生きていける。小遣いだって、多めに貰えている。引越し先という物珍しさにつられていくうちに、散歩という趣味も覚えた。

 だからいいのだ、これで。

 

 イヤホンを整え直し、「さて」と息を吐く。

 先日は掃除をしたばかりだし、今日は宿題もない。このまま帰ったところで、暇になってしまうだけだろう。

 だから、通ったことのない道を歩むことにした。

 そこに回り道があったから、考えなしに進むことにした。

 少し道に迷ったら、携帯でマップアプリを開けばいい。案内に従えば、すぐにでも馴染みの道に戻ることができるからだ。いい時代になったなあと黒沢は思う。

 

 ――歩いて数分後、少し大きな車道と、植林と、海を目の当たりにした。

 この土地とは数週間程度の付き合いがあるが、まだまだ未知のスポットは存在するらしい。

 車が目前を走り去って、続いて小さな地響きが足から伝わってくる。何事かと見渡してみれば、

 戦車が、車道の向こう側からゆっくり駆けてきた。

 その姿を、戦車を見て、黒沢は深く深く息をつく。

 

 まあ、いいか。

 

 自分以外に誰もいない歩道を歩み始め、潮の匂いを鼻で感じ取り、色とりどりの看板を伺う。隣に海が寄り添っているからか、どこか旅人のような気分に浸れていた。

 明るい音楽とともに、アスファルトを踏みしめていって、

 

『ボコミュージアム 500m先左折』

 

 この看板に対して、まず注目するは外見そのものだった。長らく放置されているのか、錆と色あせが随分なことになっている。

 次に見たものは、看板の内容だった。看板には「ボコミュージアム」という文字があって、ファンシーなクマが描かれてあって、500m先に左折すればボコミュージアムという施設と対面出来るのだという。

 対して黒沢は、「経営してるのかなあ」と疑う。看板のボロ具合からして、ついそんなことを考える。

 ――まあ、いいか。

 両肩をすくめる。やっていればそれでよし、やっていなくてもそれはそれで。そんな適当さを胸にしながら、黒沢は500m先まで両足を動かしていく。

 

 

 

 

 

 あった、安い入場料も払った。

 ボコミュージアムという名の大きな館に出迎えられ、物珍しさから「ほー」と声が漏れる。そうして頭の中の冷静な部分から、率直な疑問が湧いて出てきた。、

 ――大丈夫なのか? ここ

 看板がボロボロなら、施設はもっとやばい。壁は剥がれまくっているし、亀裂だって走り放題だ。看板らしいクマの飾りも、痛々しく欠けまくっている。

 修理しないのかな、と思う。予算がないのかな、と思う。

 最初は躊躇ったものだが、帰ったところで何もすることなどないし、ここまで来たのだから――

 

 

「よく来たな! オイラが相手になってやるぜ!」

 

 ミュージアムへ入った瞬間、マスコットキャラクターらしいクマから手厚い歓迎を受けた。

 どうやらロボットらしく、稼働音が僅かに聞こえてくる。それはそれとして、黒沢もカッコつけるように構えた。

 ――勝負か。いいぜ、やってやる

 不敵に笑う。

 腐ることも時折あるが、基本的にはだいたい「こう」である。明るい音楽は好きだし、笑うことも飛び跳ねることも大好きだし、祭りとあらば積極的に駆け込んだりもする。

 だから、勝負を仕掛けられたとあっては、乗る以外に考えられない。

 パンチか、キックか、それ以外か、さあ何が――

 

「うあ! やめろー!」

 

 へ。

 目も、口も、手も、間抜けに見開かれる。門番を務めているクマは、何をすることなくボコられ続け――遂には、仰向けにダウンしてしまった。

 ――そして、クマはふたたび立ち上がる。またしてもケンカを売られ、また負けた。

 何、これ。

 見渡してみても、あるのは汚れた壁と、床に放置されっぱなしのゴミだけ。客はおろか、従業員の姿すら見受けられない。あまりの寂れっぷりに、実は電気だけが走っているんじゃないのかと勘ぐってしまう。

 ――まあ、でも。

 黒沢の趣味は散歩だ。だから、未知へ歩む義務がある。

 すこし警戒心を抱きながらも、ボコミュージアムの奥へと進んでいく。途中でボコーテッドマンションとか、スペースボコンテンといったアトラクションとすれ違ったが、相変わらず人らしい人が見受けられない。途中でペンギンの着ぐるみを着た従業員と真っ向から出会ったが、

 

「おう、元気のよさそうな子供だな! よかったらボコショー、見に行ってくれよ!」

 

 そんなことを言われたので、何の抵抗もなく見に行くことにした。黒沢は、「ショー」という単語に惹かれるタイプの男だったから。

 

 

 「ボコショーはこっちだぜ」という看板に導かれるがまま、黒沢は薄暗い一室に足を踏み入れる。途端に、高揚感めいたものが腹の底から湧いてくるのを感じた。

 部屋には誰もいないらしく、長椅子はガラガラだ。半ば貸切状態だが、それでもボコショーは行うらしく、天井から『そろそろ、オイラの活躍が見られるぜ!』のアナウンスが流れ出した。

 黒沢は一番前の、真ん中に位置している長椅子へ腰掛ける。特等席めいていて実に良い気分だ。

 一体どんなものを見せてくれるのだろう。ヒーローショーか、ミュージカルか、ダンスか。

 なんでもよかった。 

 眼の前の幕と、薄暗さのおかげで、不思議な緊張感すら覚え始める。思わず、息まで大きく吐く。

 随分とここまで来てしまったが、まさかショーまで見られるとは思わなかった。やっぱり、よく歩けば色々なものが見つかるものだ。

 そうして、今か今かと開幕を待ち続けて、

 

 後ろから、足音が聞こえてきた。

 

 瞬間、腹の中で蠢いていた緊張感が大きく揺れた。

 部屋を覆う薄暗さのせいで、恐怖すらも掴み取ってしまった。

 足音は、着実に近づいてきている。「ここにいるのは俺一人」という特別感が、またたく間に不安の種として機能し始めた。

 客、客だよな。でも、ここに客が?

 足音の色が、着実に濃くなってきている。この席めがけて近づいてきているのを、感覚で把握する。

 ――ここは、ボコミュージアムなんだぞ。

 だから、変な奴なんてくるはずがない。もしそうだとしたら、受付の人が追い返してくれるはずだ。

 

 だから黒沢は、そっと、ぎちぎちと首を振り向かせた。

 

「あ」

「あ」

 

 女の子が、いた。

 

 目と目が合って、互いに硬直する。

 よく見てみれば、クラスメートの女子とそう変わらない身長をしている。同じくらいだろうか。

 だのに黒沢は、目の前の女の子のことが、まるで非現実の存在に見えた。

 目の前で固まっている女の子は、クラスメートの女子とは違う何かがある。安易に軽口を叩いてはいけないような、そう簡単に触れてなどいけないような、そんな繊細めいた雰囲気が、女の子から感じ取れたのだ。

 だから、決して口下手ではない黒沢も、沈黙するほかなかった。

 女の子もどうしていいのかわからないようで、黒沢の目をじっと見つめていた。

 ――どうしよう。そう、思った矢先に、

 

 ブザーめいた音が、一室全体に響き渡った。

 

 その瞬間、女の子は躊躇なく動き出す。

 自分と同じ特等席めがけ両足を動かし、自分とは少し離れた位置に腰掛ける。その姿勢は前のめりで、ボコショー素人である自分ですら「ああ、好きなんだな」と察せてしまう。

 そして間もなく、クマ――ボコの絵が書かれた幕が左右に開かれると同時に、ボコの軽快なテーマが流れ出す。中からはボコが、黒猫と白猫とネズミの三人組が互いに歩み寄っていて、そして、

 

「――おい! 誰だぶつかった奴は!」

「ああ?」

 

 始まって早々、ボコが早速とばかりに白猫、黒猫、ネズミの三人組にケンカを売る。確かにぶつかりはしたが、すごい肝っ玉だなと黒沢は思う。

 

「おいやんのか?」

「やっちまうかやっちまうか?」

「やっちまえ!」

 

 三人組もすっかりやる気満々らしく、腕を振り回す者がいたり、手と手を左右にぶっつける者もいる。数は明らかに不利だが、ボコは決して怯まない。むしろ、ファイティングポーズまでとっていたりする。

 ――なるほど、ヒーローショーなんだな。

 両腕を組みながら、うんうんと黒沢が頷き、

 

「ぐあっ! 何をするっ! やめろーッ!」

 

 攻撃する間もなく、ボコは三人組に集中攻撃を食らった。

 あっという間に地に伏せたボコは、引き続き攻撃を受け続けながらも「やめろ」とか「くっそ」とか「負けるか」と叫んでは、決して降参しようとはしない。だからか、三人組からの苛烈な攻撃は今もなお継続中だ。

 

「――み、みんな」

「お」

 

 ボコが、観客席めがけ腕を伸ばし始める。

 これはもしかして、ヒーローショーのお約束――

 

「オイラに力を、力を分けてくれー!」

 

 瞬間、黒沢は獰猛に笑ってみせた。あとは、勇気を出すだけ。

 カラオケもそうだが、「第一声」というものは思った以上に気恥ずかしい。叫べばおのずと慣れていくものなのだが、この、独特な緊張感は未だに慣れない。

 ましてや、黒沢はボコ素人だ。何と叫ぶのがベストなのか、見当もつかない。

 

「――ボコ! がんばれっ、ボコッ!」

 

 右耳から強く聞こえてくる、女の子の声。

 衝動的に振り向けば、女の子は立ち上がってまでボコを応援している。先程までの神秘性はどこかへ消え、今やすっかりボコショーのいち観客として戦っていた。

 黒沢は、女の子の必死な横顔を見ながら頷く。

 ――サンキュー、そう叫べばいいんだな。

 男黒沢は思った。女の子ひとりに戦わせるなんて、できやしねえと。

 だから黒沢は立ち上がり、口に両手を当てて、

 

「ボコッ! 頑張れ! ファイト! ファイトだッ!」

「あっ」

 

 強烈な視線を感じ取り、黒沢は女の子の方を見る。

 それで、十分だった。

 

「ボコ! がんばれボコー! がんばってー!」

「ボコッ! 立てッ! 立ってくれッ! スタンダーップッ!」

 

 もはや気恥ずかしさなどなく、遠慮抜きの応援が好き勝手に飛び交う。今の黒沢と女の子を止められる者は、誰もいない。

 黒沢は、最高に上機嫌だった。お祭りめいた一体感を覚えられているから、女の子の力になれたから。

 

「っしゃ―――ッ!!」

 

 そして、ボコは遂に立ち上がる。

 

「応援してくれてありがとよ! 力が湧いてきたぜぇ―――ッ!!」

「っしゃ――ッ!!! FOOOOッ!!」

 

 拳を振り上げ歓喜する。ここからが逆転タイムだ、さあ行け。

 

「うぉぉぉッ!!」

 

 ボコの渾身のパンチが、白猫の顔面めがけミサイルのように突っ込む。

 勝った、勝ったぞ――黒沢は、両手を拳にして、勝者の笑みを浮かばせていて、

 

「そんなヘナチョコパンチ、あたっかよ!」

 

 スカった。

 白猫に蹴られ、ボコが再びダウンした。

 

 黒沢が「へ?」と間抜け面を露わにする中、ボコは三人組から容赦のない攻撃を受け続ける。

 応援とは何だったのか、ボコショーとは一体何なのか、そもそも一撃も食らわせられていない現状に、黒沢は立ち尽くすほかない。

 ボコは文字通りボコボコにされて、三人組も疲れたのか「今日はこれぐらいにしといてやらぁ」とステージから立ち去っていく。ボコは何とかして立ち上がろうとするが、ダメージが大きいのか、片腕しか持ち上げられない惨状だ。

 

「ちくしょう……けど、次は必ず勝つぜーッ!」

 

 それでもボコは、懲りずに勝利を掴み取ろうとしていた。

 その姿に、男の俺は、なぜだか目が離せなかった。

 

 ――そうして幕が閉じる、部屋に電気が点く。否応なく現実世界に引き戻され、黒沢の体全体から力が抜けていって、長椅子にへたりと座りこむ。

 

 え、なに、これでおしまい?

 

 冷静になってみて、最初に出た感想がそれだった。ヒーローショーだったら、応援されて逆転勝利するはずなのに。だのにボコは、応援されようとも良いトコ無しでボコられてしまった。

 ――もしかして、ボコって名前は、ボコられるからボコなのか?

 自ら出した結論に、思わず、

 

「こ、これでいいの? ボコは」

「それがボコだから!」

 

 活発な声につられて、女の子めがけ振り向く。

 どうやら、自分が口にした言葉はビンゴだったらしい。女の子は実に嬉しそうな顔で、こぶしまで作ってみせて、前のめりでそう答えたのだから。

 

「ま、マジで? 勝てねえの?」

「うん! でもボコは、いつか勝つためにいつもボコられるの。それがボコなの!」

「へぇー……」

 

 どうやらボコは、不屈のクマであるらしい。たぶん、そういうことなのだろう。

 ――そして女の子は、「あ」の一声とともに、顔を真っ赤にする。ついにはうつむいてしまった。

 沈黙がしばらく続く。どうにかしたいという気持ちが湧いて出たものの、女の子と一対一なんてどうしていいかわからない。刻々と時間のみが過ぎていく。

 ――やがて女の子が勢い良く立ち上がって、気まずそうな足取りで、部屋から出ていってしまった。

 息が、深々と漏れる。

 誰もいない自分の隣を見つめる。ここには先程まで、どこか触れがたいような、けれども一緒になって応援した女の子が確かにいた。まるで、映画みたいだなと思う。

 長椅子に座ったまま、女の子のこと、ボコについて思い起こし――やがて、音もなく立ち上がる。

 また、ここに行こう。

 勝ち負けはともかくとして、ボコは凄い根性がある。あの精神力は、ぜひとも見習いたい。

 ――隣を見る。

 

 あの女の子と、また会えたらいいな。そうも、思う。

 

―――

 

 

 

「ただいまー」

「おかえりー」

 

 黒沢が自宅のアパートへ帰宅して数時間後、父と母が「ただいまー」の一言とともに帰ってきた。時刻はすっかり夜の八時ぐらいだが、これが黒沢家の日常である。

 

「今日も元気してた?」

「してたしてた」

「オッケ、じゃあ夕飯の準備をするわね」

「俺も俺も」

「じゃあ俺も」

 

 母が、苦笑とともに黒沢を見つめる。

 

「いつも悪いわね、夕飯の手伝いをしてもらって」

「いいって。食器を出すくらい、俺だってできる」

「将来はいい男になるな、お前」

 

 帰って早々、母が夕飯の準備をして、黒沢は食器の出し入れを行う。父も料理が出来るからと、母のアシストを行うことが多い。

 黒沢は、そんなふうに協力し合う父と母の背中を見ることが好きだった。

 

「――ところで、今日はどうだった? 楽しかったか?」

「んー、まあまあかな」

「そうか……友達と、ちゃんと遊べているかい?」

 

 複雑めいた声色とともに、父から質問が飛ぶ。

 それに対して、黒沢はなんでもないように笑う。

 

「遊べてるって、心配しなくていいから」

「そうか? ……いつも、すまないな」

「何言ってんだよ。父さんと母さんのおかげで、俺はこうして食っていけてるんだから」

「お前はまだ子供だ。そんなこと、言わなくてもいいんだぞ」

「えー?」

 

 黒沢が、テーブルの上に水入りのコップを置く。

 母が、カレーを煮込みながら「そうよ」と言い、

 

「もし、なにか辛いことがあったら、いつでも言ってもいいんだからね」

「辛いなんて」

「いいんだからな」

 

 台所で料理をしたまま、振り向かずに父と母がそんなことを言う。

 ――父も母も、わかっているのだ。親の事情というものに子供を振り回す、申し訳無さを。

 その罪滅ぼしなのか、母はたくさんの小遣いをくれる。父は、いつだって「行きたいところはあるか?」と誘ってくれる。――そんな両親だからこそ、転勤族という現実を受け入れられているのだ。

 だから黒沢は、今日も笑える。傷つきたくないから、必要以上に友達付き合いなどはしないけれど。

 だから、必然的に放課後は暇になる。早く帰宅したところで何もないから、町中を一人で散歩することも日常茶飯事になってしまった。

 ――そんなことを続けていたら、俺は、あの場所に着いた。

 それで、そこで、

 

「ねえ、父さん、母さん」

「なあに?」

「えーっと、ボコられグマのボコって知ってる?」

 

 父と母が顔を見合わせ、なんだっけ? と首をかしげ――母が、「ああ!」と顔を電球のように光らせた。

 

「懐かしいわねー。昔放送してたアニメでしょ?」

「あ、そうなんだ」

 

 母が、そうそうと二度頷いて、

 

「ボコっていうクマのキャラクターが、色々なキャラにケンカを売って、それで絶対負けちゃうのよね。いやー、いつか勝つんじゃないかなってハラハラしてたっけ」

「へー……」

 

 どうやら、女の子の言っていたことは正しかったようだ。改めてこうして説明されると、ボコミュージアムの存在が現実のものであると実感できる。

 

「ああでも、最終回はないのよね」

「なんで」

「クレームが入ったから」

「何それ」

「何度もボコられる番組なんて、教育に悪いぞーっていう」

「あー……」

 

 母が「まあ」と前置きして、

 

「たぶん、視聴率も悪かったんじゃないかしら。変化のないアニメだったし」

「あー、かもねー」

 

 思わず苦笑してしまう。あの内容がずっと続くのなら、子供向けとしてはキツいものがあるだろう。

 けれどボコは、ボコられようが負け続けようが、最後には「次は必ず勝つ」と言った。そのガッツのある一言に、黒沢は電撃めいた共感を覚えてしまったのだ。

 ――ボコは、自分よりも根性がある。諦めてしまった、俺なんかよりも。

 

「それにしても」

 

 母が、横目で黒沢のことを見つめる。

 

「よく知ってたわね、少し昔のアニメなのに」

「え? あ、ああ、この近くにボコミュージアムっていう施設があって」

「あら本当? 知らなかったわー」

「まあ、人はいなかったけど」

「あらー……まあ、昔のアニメですしね」

 

 母が苦笑する、父が「へー」と声を出す。

 そうしてしばらくして、父と母お手製のカレーが出来上がった。またたく間に、一室全体に香ばしい匂いが広がっていく。黒沢の腹の音が鳴る。

 

「うおー、やっぱり父さんと母さんのカレーは最高にうまそうだぜ」

「だろうだろう?」

「そうでしょう? では、いただきます」

「いただきます!」

「いただきます!」

 

 こうして、いつものように夕飯を口にする。そうして、いつものように雑談が飛び交うのだ。仕事の話以外で。

 学校のこと、最近聞いた音楽について、ボコの思い出に関して話を咲かせたりと、今日も黒沢家は仲睦まじくいられている。

 

 ただ、女の子の話は決してしなかった。なんだかこう、恥ずかしかったから。

 




大学選抜編、最終章です。
ご指摘、ご感想など、お気軽に送信してくだされば、本当に嬉しいです。


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十二歳の少年は、十三歳の天才少女と対話する

 きりつ、れい! さようならー!

 

 黒沢は「またなー」と挨拶をして、半ば早歩きで教室から出ていく。友人の種村も、何の疑いもせずに「また明日なー」と黒沢を見送った。

 

 あの日以来、黒沢は、時間があればボコミュージアムへ出向くようになった。

 もちろん、目的はある。バトルを繰り広げるボコを見届けること、そのボコを大声で応援しまくること、やっぱり負けるボコの一言、「次は必ず勝つぞ!」を聞くこと。

 ――そして、

 

「あ」

「やあ」

 

 あの女の子と、出会いたいから。

 最初は単なる観客同士として、応援仲間として接してきた。それはそれで構わなかったのだが、やはり同好の士という繋がりは強いものであるらしく、黒沢と女の子の間に、緩和めいた雰囲気が生じてきたのだ。

 

「おう! また来てくれたんだなお前ら! 今日こそ勝つから、オイラの活躍、見てくれよな!」

 

 ボコが腕まくりをする。そうして挑戦状を受け取ったらしい白猫、黒猫、ネズミの三人組が、「俺たちにケンカを売るたぁ、懲りない奴だぜ!」と煽りに煽る。

 数的に不利な状況だが、ボコは決して怯まない。腕をぶんぶん振り回し、「今日こそお前らに勝ってやっからなー!」と宣言する。

 ――四秒後、ボコはダウンをとられた。容赦のない足踏みを食らっていく中、ここぞとばかりに黒沢と女の子が立ち上がり、

 

「ボコ! がんばって! ボコーッ!」

「何してんだボコーッ! 根性出せーッ! スタンダッ! スタンダーップ!!」

「ぐああ! もっと力を、力を貸してくれーッ!」

「ボコ! 負けないでボコ! ボコ! すたんだっぷー!」

「立て! 立ってくれぇッ! お前はやればできるクマだろーッ!」

 

 瞬間、ボコの目が光ったと思う。

 

「っしゃぁ――――ッ!」

「やった! やった!」

「グレイトォォォッ!!」

 

 ボコが勢いよく立ち上がり、女の子がお転婆に二度跳ね、黒沢は拳を振り上げる。

 復活の流れは、いつだって良いものだ。

 

「お前らの応援のおかげで、今日は勝てそうな気がするぜ!」

「ボコ! 距離をとって、スライディングで決めるんだ!」

「スライディングだな! わかったぜー!」

 

 ここ最近は顔を覚えられたのか、黒沢のリクエストに答えてくれるようにもなった。ますますショーと一体化したようで、けっこう嬉しかったりする。

 そしてボコは、黒沢の言葉通りに距離をとる。標的にされた白猫が、やってみなと腕をくいくい動かしてみせた。

 結果はわかっているはずなのに、黒沢と女の子の前のめりが止まらない。両手を握りしめ、小声で「頼む、頼むぞボコ」と応援し、まるで西部劇のような殺意の間が生じ――遂に、

 

「うおぉぉぉあぁぁぁッ!」

「踏み込みがたりねー!」

 

 白猫が飛んだ。

 スカッた。

 隙だらけになった。

 

「見え見えなんだよー!」

「オラオラその程度かよー!」

「おっせえスライディングしやがってよー!」

「ぐああああッ! やめろっ! やめろーッ!」

 

 ボコがボコられていく。初心者だった頃は「は?」と間抜け面を晒していたものの、今となっては絶好の応援タイムに他ならない。

 黒沢が「頼むッ! 立ってくれーッ! リベンジしてくれー!」、女の子が「負けないでー! がんばってー! ボコーッ!」、黒沢が「俺はお前を信じているんだぞ! 頼む! 復活してくれーッ!」、女の子が「勝って! お願い! 立ってーッ!!」

 

「――へ、今日はこれぐらいにしといてやらぁ」

 

 結局は、ボコの敗北で終わるのである。

 ここでスライディングの一発でもキメられていれば良かったのだが、残念ながら、ボコはチャンスに恵まれないキャラクターをしているのである。

 なぜならば、

 

「く……次は必ず勝つぞー!」

「次は必ず勝てるよ、がんばってボコ!」

「また来るからな! お前が勝つまで!」

 

 それがボコだから。

 自然と女の子と顔を見合わせ、微笑一つで感想を伝え合う。

 これが、ボコミュージアムにおける日課だった。

 

 

 

 ボコショーの熱が醒めてきた頃、相変わらず閑散とした施設内で、黒沢は「どうすっかなー」とボヤいた。

 改めて見渡してみると、壁に亀裂が走りまくりだし、床にはゴミが落ち放題だ。ポスターらしきものも破れかかっていて、経営状態が本気で心配になってくる。

 ――そうだな、と思う。

 ボコミュージアムに来てからというもの、根性とは何たるかを見せてもらった。気持ちよく、大声も出させてもらった。

 そして、女の子とも出会えた。

 だから黒沢は、ポケットから財布を取り出す。いくらかのお札が入っていることを確認し、黒沢は「グッド」と呟く。

 

 次の行き先はもちろん、グッズショップだ。

 

 子供一人でどうこう出来るわけではないが、やらないよりはマシだ。そもそもボコミュージアムには、恩義もある。

 ここまで楽しませてくれたのだから、お金の一つや二つを落とすぐらいは訳がない。ボコが勝つその日まで、ボコミュージアムには生きていて欲しい。

 そんな想いを胸に秘めながら、黒沢は初めてグッズショップに足を踏み入れ、

 

 女の子が、いた。

 しかも、目が合った。

 

 どこか気恥ずかしいような、心が躍るような。そんな熱を抱きながらで、黒沢の体がぴたりと止まってしまう。

 女の子の方も、この偶発的な出来事にびっくりしてしまったのだろう。幾度ものまばたき、気まずそうに目逸らし、黒沢の「あー」とか「んー」の唸り声、

 己が頭を、軽く叩く。

 自分は単に、グッズショップへ寄っただけだ。女の子につきまとったわけじゃない。だから、何も悪いことなどしていない。

 そう強く思い、両手をぐっと握りしめる。そのまま堂々とグッズショップへ立ち寄り、なるだけ女の子とは距離を保ったままで、わざとらしく「どれどれ」と言って商品を物色する。

 ――抱きしめられるサイズのボコぬいぐるみ、ボコの目覚まし時計、手乗りサイズのボコのぬいぐるみ、白猫と黒猫とネズミのキーホルダー、ボコ名言つきカレンダー。

 へえ、と思う。どのグッズも良さげだが、特にボコ名言つきカレンダーは中々良さげだと思う。この商品はとりあえずマークしておいて、ひとまずはショップ全体を一回りする。黒沢は、商品を手に取るのは後回しにするタイプなのだ。

 そうして色とりどりのボコグッズを見渡して、時には興味を抱いて、これ買おうかなと呟いて、「残りひとつ! 激レアボコ」の見出しが目に入って、

 

 お、と声が漏れた。

 カゴの中に、ファイティングポーズをとった、手乗りサイズのボコのぬいぐるみが鎮座していた。

 

 残りひとつという宣伝通り、確かにぬいぐるみは一つしかない。その「一つしかない」というシチュエーションと、激レアという響きが、黒沢の欲求を否応に震わせる。

 ――値段も安いし、手乗りサイズというのは中々どうしてお手軽だ、かわいいし。施設内にお金を落とすのなら、これで丁度良いのかもしれない。

 よし。

 黒沢は、そっと手を伸ばし、

 

 手と手が触れ合った。

 顔を見合わせた。

 女の子の目が、これまで以上に大きく見えていた。

 

 羞恥心と申し訳無さが弾け飛び、情けない声とともに女の子から距離をとる。

 女の子も同じように動いて、「あ」、「えと」、「その」と、声が迷ってしまっている。

 少しだけ、判断が鈍った。

 けれどすぐに、黒沢の中に住まう男気が、背を叩いた。

 

「その」

「あ」

 

 激レア手乗りボコへ、そっと指差す。

 

「いいよ、どうぞ」

「え」

「君の方が早かった」

「……同じだった気がする」

「そうかな? まあ、いいからいいから」

 

 カゴから手乗りボコを抜いて、そのまま女の子へ差し出す。「あなたにあげます」という、意思表示のつもりだ。

 対して女の子は、目をすっと逸らして、ほんの少しの間はそのままで、やがては黒沢と目を合わせて、口元を緩ませながら、

 

「あり、がとう」

 

 そうして、手乗りボコをそっと受け取ってくれた。

 そして、手と手が触れ合った。

 

 体が、びりっとした。この不審なリアクションが感づかれていないか、女の子を伺い――女の子は、愛おしそうに手乗りボコを眺めている。

 よかった、バレてない。

 ――思うと、女の子と「対面」をしたのは、これが初めてだ。今の今までは、ボコショーというフィルターがあったから、二人きりとは言い難かった。

 そう実感すると、胸の内がどきりとする。

 ほんとうに嬉しそうに微笑みながら、手乗りボコを軽く握りしめる女の子を見てみると――これまで感じたことのない胸の痛みが、じわりと押し寄せてくる。

 なんだろう、これ。

 こんな感情、クラスメートの女子を見ても湧いて出てこなかったのに。だのに目の前の女の子からは、見たことも聞いたこともない熱情が降り注いでくる。

 わけがわからなかったが、不愉快ではないのは確かだった。この熱に浮いたような感覚が、何だかこう心地よかった。

 

「――じゃあ俺は、カレンダーでも買って帰ろうかな。うん」

 

 あえて口にして、すばやく女の子から距離をとる。そのままカレンダーを手に取り、それをじっと見つめたままで――ため息をつく。

 いけない。

 女の子に対して、感情移入してしまった。

 首を横に振るう。

 いつかやってくる転勤が訪れたら、深く傷つくのは自分だぞ。女の子に出会えなくなって、どうしようもなさを覚えるのは俺だぞ。

 ちらりと、女の子を見つめる。目が合ったから、そっとカレンダーに視線を戻す。

 そろそろ、潮時なのかもしれない。

 十分に楽しんだと思う。

 両肩で、息をする。

 ささやかではあるが、ボコミュージアムの力になれてよかった。

 そうしてカウンターまで歩み寄って、ペンギンの着ぐるみをした店員から「毎度あり! また来てくれよ!」と言われ、振り返らずに立ち去ろうとして、

 

「待って」

 

 決意の足踏みが、あっさりと止まった。

 

「その」

 

 音もなく、そっと振り向く。

 手乗りボコを手にしたまま、目を斜め下に逸らしていて、二度三度ほどまばたきをした後に――女の子が、黒沢のことを見た。微笑みながらで。

 

「いつも、ここにいるよね」

 

 その普通の言葉に対して、判断が少し鈍った。

 黒沢は、若干トチった調子で「あ、あ、ああ」と言い、

 

「まあ、そうだね、うん」

「応援する時、すごくのりのりだよね。なんというのか……サンダースっぽい感じ」

「サンダース……ああ、ウチの母さんの母校だったかな。うん、盛り上がるといつもこんなふうになっちゃうんだ」

 

 女の子が、くすりと笑う。

 

「そうなんだ。でも、あなたのお陰で私も盛り上がれた」

「そう、かな? ならよかった、うん」

 

 黒沢は、決して口下手ではない。同年代の女の子と話すことぐらいは、日常茶飯事だ。

 だのに、目の前の女の子に対しては慎重の姿勢をとってしまう。背筋からして同年代ぐらいであるはずなのに、なぜだか触れがたい雰囲気を感じ取ってしまうのだ。

 ――けれど女の子は、あくまで自分に対して話しかけてくれている。そうしてくれるのなら、自分もそれ相応の態度をとらなければいけないのに、なのに、ついしどろもどろになってしまう。

 

「ねえ」

「な、なに?」

「ボコ、好き?」

 

 ああ――

 その質問に対しての答えなら、二つほどある。

 一つは「好き」だ。そうでなければボコミュージアムのリピーターになどはならないし、お金を落とすこともなかっただろう。だから、「好き」という答えは正しい。

 けれど、でも、

 真っ直ぐに自分のことを見つめてくる女の子に対して、引っ張られるような熱情を抱かせてくれるこの子に対しては、自分の「すべて」を知ってもらいたかった。そうすることで、もっと仲良くなれると思ったから。

 ――転勤が怖くないのか。

 怖い。

 けれど、溢れ出るなぞの気持ちは止まらない。

 

「……好き、というか」

「うん」

「憧れ、かな」

「憧れ?」

「うん。ボコは、何度倒れても諦めない、すげえガッツの持ち主でしょ? ……俺は、そんなボコのことを、ヒーローだって思ってる」

「ヒーロー……――そう、なんだ」

 

 聞いたことのない言葉、だったのかもしれない。

 女の子は、興味深そうに頷いていた。

 ――ここで、黒沢は息を深く吸う。

 

「……俺さ」

「うん」

「俺は、まあ、転勤族ってやつなんだ」

「転勤族……いろんな場所に行くの?」

「うん。だから、友達を作っても離れ離れになっちゃうんだよね」

「……つらい?」

「正直、ね。でも、ボコを見ているとさ、腐っちゃいけないぞっていう根性が湧いて出てくるんだ」

 

 女の子が、実に意外そうな声で「そうなの?」と言う。

 

「だってボコは、勝てないのにぜんぜんへこたれないじゃない。だからさ、その……そんなボコを見ていると、おっしゃー俺もボコを見習うぜーって気になれるんだ」

「――そう、なんだ」

 

 ボコを称賛したからだろう。女の子が、嬉しそうに微笑んでくれた。

 ――心の内を言えて良かった。本当にそう思う。

 

「まあ、ボコもそうなんだけれど……俺の父さんと母さんもさ、俺のことをいつも気遣ってくれるから、だからグレずに済んでるよ。ボコにも、親にも感謝してる」

「えらいね」

「いやいや」

「ううん、えらい」

 

 ストレートな物言いをされて、ついつい表情が崩れ落ちてしまう。歓喜のやり場が抑えきれなくなって、つい頭を掻く。

 

「ねえ」

「うん?」

「その、差し支えなければでいいんだけれど……親は、どんな仕事をしているの? 気になって」

「ああ」

 

 その疑問に対して、黒沢は何でもない顔になって、いつもの声色に戻って、特に深い考えもなく、

 

「戦車道の委員、だったかな? 何か、現場の視察とかで大変らしいね」

 

 ――その瞬間、女の子から、絶句の眼差しを差し向けられた。

 黒沢の思考が乱反射し始める。何かまずいことでも言ったのか、戦車道というものに縁があるのか、戦車道のことが好きなのか、それとも嫌いなのか。

 わからなかった。だから、女の子の言葉を待つほかなかった。

 女の子がうつむく、手乗りボコを胸に抱く。延々と流れている、ボコのテーマだけが耳に届く。

 

「――あの」

 

 長い時を経た、と思った。

 

「その、あなたは……戦車道のこと、どう思ってる?」

「え? ……そっだなー……」

 

 戦車道のことはよく知らない。ただ、親がそれを生業としていることぐらいしか。

 ――確かに、小3までは「何が仕事の都合だよ」と叫んではいた。けれど今は、ちょっとは分別のついた今なら、本心を以てこう言える。

 

「どちらかといえば、好き、なのかな?」

「え」

「ほら、さっきも言ったけど、母さんと父さんってさ、いつも俺のことを気遣ってくれるんだよ。優しいし、料理も美味いし、小遣いもたくさんくれるし」

 

 小遣い云々のところは、あえておどけて言ってみせた。

 

「母さんと父さんは、職場で結ばれたらしいけど……もしそうなら、戦車道やってる人って、きっと優しい人ばっかりなんだろうなーって、そう思ってる。これはマジ」

 

 嘘と思われたくない。だから黒沢は、女の子の両目をじっと見つめ、はっきりと言葉にしてみせた。

 真正面に居る女の子は、しばらくは沈黙したままでいて、やがては小さく頷き、か細く「そう、なんだ」と呟いた。

 

「本当にそう思ってるから、戦車道のことを憎んでなんかいないから」

「……うん。……その、ありがとう」

「え、どゆこと?」

 

 女の子は、ようやく、にこりと笑って、

 

「私ね、戦車道を歩んでるんだ」

「――え、マジ?」

 

 女の子が、こくりと頷き、

 

「島田流って、知ってる?」

 

 首を横に振るう。

 

「そっか……私はね、その、島田流っていう、戦車道にまつわる流派の継承者なの」

「け、継承者ッ!? マジ!?」

「うん」

 

 継承者という単語を耳にして、盛り上がらない男など存在しない。

 

「お、俺とそう変わらなさそうなのに……す、すげえ」

「これでも飛び級してるの。十三歳だけど、大学生」

「とっ」

 

 飛び級という単語を耳にして、盛り上がらない男など存在しない。

 

「地元の大学に通っているんだけれど、私はそこの戦車隊の隊長を務めてるの」

「たっ」

 

 隊長という言葉を聞いて、盛り上がらない男なんて男じゃない。

 

「だから、その……ボコ仲間であるあなたに、戦車道を肯定してくれたことが……とても嬉しかった」

 

 本当に、ほんとうに安心したのか、女の子は深々と胸を撫で下ろす。

 その一方で、いち庶民である黒沢は、一斉に飛びかかってきた島田流継承者、飛び級、戦車隊隊長という強力単語を未だに飲み込めずにいた。

 ――マジか、ほんとうか、そうなのか。どこか遠いように見えたのは、あながち間違ってはいなかったのか。

 黒沢は、特に思考力が追いついていないままで、

 

「……すげえ」

「え?」

「すげえよ、島田さん……で、いいのかな? ほんとうに、アンビリーバブル……」

「そ、そう?」

 

 うんうんうん。黒沢は、ぶんぶんと首を三度ほど縦に振るう。

 

「凄いなあ……でも、大変そうだよね……継承者だもんね、隊長だもんね……」

「うん。でも、戦車道は私の誇りだから。だから迷ったりしない」

「……すげえわ、マジ。俺なんかより、よっぽど強い」

「――それは違うよ」

 

 え。黒沢の思考が、体が、硬直化する。

 

「あなたは、幾度もの孤独に耐えてきた。そして、道を違えずにここまで生きてきた。だからあなたも、強いよ」

「そ、それは、当然のことをしただけで、」

「その当然を全うすることは、極めて難しいの」

 

 島田から、真剣な表情と両目を差し向けられる。

 ――そうか。

 島田が言うのなら、きっとそうなのだろう。

 

「――島田さん」

「うん」

「ありがとう」

「ううん、こちらこそ。……その、すごいって言ってくれて、とても嬉しかった」

「そ、そう? それはよかったー……」

 

 間。

 黒沢は動けない、島田のことを見つめたまま。

 島田は動かない、黒沢のことを見つめたまま。

 黒沢は、悠長にも思った。クラスメートの女子とは何度もトークを交わしあったはずなのに、この瞬間がどうしようもなく嬉しくてたまらない、と。

 男黒沢は、必死になって思った。俺が、この場を切り上げないと。

 

「と、とりあえずっ」

「あ、うん」

「まずはそれ、お会計を済ませないと」

「あ! そうだった……ごめんなさい、店員さん」

 

 ペンギンの店員が、「いいってことよ」と親指を立てる。そうして島田がお金を支払い、実に幸せそうな顔で手乗りボコを持ってきた。

 

「よかったね」

「うん。その、ありがとう……えっと」

「あ、ごめんごめん。俺は黒沢、フツーの小学六年」

「わかった。私は島田愛里寿。よろしくね、黒沢」

「よろしく、島田さん。……いい時間だし、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 

 今日はいいことがあった、明日もここに行こう。

 そう思いながら、黒沢ははきはきと両足を動かして、

 

「――あの」

「うん?」

 

 振り向く。

 後ろで立ち止まっていた愛里寿が、まるで申し訳無さそうに、携帯をゆっくりと取り出していく。

 黒沢が、はてと、首をかしげる。

 

「そ、その……えっと……」

「うん」

 

 愛里寿に、そっと近寄る。

 

「えっと……わ、私と、と、とも……とも」

 

 瞬間、黒沢の思考に火が着いた。

 取り出された携帯に、「とも」という単語が出てくれば、結びつく答えは一つしかない。

 ポケットから、携帯を引っこ抜こうとして、

 

 ――また傷つきたいのか、お前は。

 

 頭の中の冷静な俺が、そう語りかけてくる。これまで自分は、転勤という抗えない出来事のせいで、たくさんの友人と離れ離れになっていった。

 メールアドレスの交換ぐらいはしているし、時たま電話だってする。けれど、顔と顔を合わせての会話には決して「かなわない」。それを知っているからこそ、自分は友情めがけ深追いをしてこなかったのだ。

 

 でも――ボコの勇敢なテーマが、耳に入ってくる。

 

 いま、おれの目の前にいるのは、なけなしの勇気をかき集めてでも俺と友達になろうとしている、俺とそう変わらない女の子だ。

 飛び級でも、天才でも、流派の継承者であろうとも――島田愛里寿は、俺と同じボコ仲間で、女の子なのだ。

 俺は男の子だ。だから、女の子を泣かせてはいけない。

 

 ――黒沢は、ポケットから携帯を引っこ抜いて、

 

「俺でよかったら、友達になるよ」

「――え」

「せっかく会えたボコ仲間、だからね」

「――黒沢」

 

 ――俺は、この時に見せてくれた愛里寿の表情を、一生忘れることはないだろう。 

 

 

 

―――

 

 

 

 ここ最近の日本戦車道は、極めて忙しい時期にある。それもこれも、世界リーグが関わっているからだ。

 島田流の家元が言うのも何だが、日本戦車道は若干ながらのマイナースポーツだ。その名を何とかして広めたいが為に、世界進出へ向けての計画が昨日も今日も明日も行われ続けている。

 正直腰が痛いが、日本戦車道の繁栄の為なら仕方がないことだ。こう見えて、暇なのはあまり好きじゃないし。

 デスクの前で、うんと背筋を伸ばす。

 窓を見てみれば、空はすっかり赤い。夏が真っ盛りだからか、虫の音色がしんと聞こえてくる。時計を見てみれば、もう午後の五時。

 ――そろそろ、あの子が帰ってくる時間か。

 よいせと立ち上がる、これも夕飯を作るためだ。

 娘は、今日はどんな話をしてくれるのだろう。戦車道における活躍か、大学における何でもないことか、それとも別の何かか――娘の話なら、なんでもよかった。

 

「ただいま」

 

 噂をすれば。

 島田千代は、足音を立てながらで玄関にまで駆け寄る。

 

「おかえりなさい、愛里寿」

「うん」

 

 愛里寿は、こくりと頷く。今日も何事もなかったようで、何よ、

 

「あら?」

 

 家元の目が、ちょっとした違和感に気づく。

 愛里寿が、胸に抱えているそれは、

 

「それは……確か、ボコだったかしら?」

 

 名前は知っている、愛里寿がよく「ボコミュージアムに行ってくる」と知らせてくれるから。

 

「かわいらしいぬいぐるみね。買ってきたの?」

「あ――なんでもない」

 

 真顔のまま、愛里寿は二階へ走っていってしまった。たぶん、自室へ向かったのだろう。

 千代は、首をかしげながらも、

 

「もう少しで夕飯ですからねー」

「はーい」

 

 ――思う。

 あの子、なんであんなに慌てた顔をしていたのかしら。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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十二歳の少年は、十三歳の天才少女の前で決意する

 種村たちと給食を共にしている最中、本当に脈絡なく、思いついたことを黒沢は口にしてみた。

 

「なあ種村、ボコって知ってる?」

 

 黒沢の質問に対して、種村と菊池、桜井が顔を見合わせる。菊池が「知らね」と答え、桜井が「何それ」と言い、種村が「んー」と唸る。

 

「ああ、あれな。確か地元にある……ああ、ボコミュージアムってとこのキャラクターだろ」

 

 なるだけ感情を控えめにしながら、黒沢が「知ってるのか」と聞く。

 種村は「おお」と答え、

 

「いくつぐらいだったかなー、俺が幼稚園の頃だったか。親につれられて、一回だけ行ったことなら」

「へー、どうだった」

 

 今日の給食はプリンだ、ソフトうどんのオマケつき。周囲からは「あのドラマ見たー?」と盛り上がる女子グループの雑談、「よーしジャンケンだ。プリンは俺がもらう」と盛り上がる男達、「もう少しで夏休みだなー、お前どっするー?」と話し合う他の面々。

 そんな喧騒の中に混ざりながら、種村は特に笑いもせず、

 

「何が面白いのか、よくわからんかった」

 

 

 

―――

 

 

「私の隊員達も、同じようなことを言ってた」

「そっかー、残念だなあ」

 

 ボコミュージアム内に設けられたベンチへ腰掛けながら、愛里寿が無表情の一言。

 ボコショーで叫びまくったからか、黒沢の喉はすっかり枯れ果てていたし、くたびれてもいた。ここへ来館するたびに、声のボリュームが上がっていっている気がする。

 それは愛里寿も同じらしく、オレンジ味のボコ缶を両手で支えながら、中身をぐびぐびと飲み干していっている。黒沢もボコ缶を買ったのだが、すっかりカラだ。

 

「ふう、おいしい」

「なー、うまいよなー」

「うん。ボコショーのあとのボコ缶は、最高だよね」

「ほんとほんと。ここ最近のボコショーも、熱くなっていってるし」

 

 愛里寿が、くすりと苦笑する。

 

「あなたの声援のお陰で、ボコが必殺技を繰り出すようになったから」

「なー、あれ嬉しいんだよなー。今日はムーンサルト決めてくれたしな、スカったけど」

「惜しかったよね。今日は勝てると思ってたんだけれど」

「えー? ほんとー?」

「ほんとうほんとう」

 

 思わず笑ってしまう。ボコの何たるかを知っている愛里寿が、何を言っているんだと。

 

「次は勝てるよね、きっと」

「勝てるんじゃないかな、きっと」

「……次は、いつここに来る?」

「俺はいつでも、島田さんは?」

「じゃあ、私も明日ここに」

「そっか」

「うん」

 

 そして、会話が途切れる。館内が、嘘みたいに静かになる。

 広々としたアミューズメント施設内には、自分と愛里寿、あとは数人のみの従業員を除いて誰もいない。従業員とすれ違えば「おう、また来てくれたんだな! ありがとな!」と派手に挨拶されるが、それまでだ。

 館内にはずっとボコのテーマが流されているが、かえってそれが静けさを演出してしまっているような気がする。人の声なんて、自分と愛里寿が何か会話しない限りは、ずっと途絶えたままだ。

 嫌でも、手入れのされていない風景が目につく。

 

「……こんなに面白い場所なのにな」

「ね、ほんとうにね。いい気晴らしになるのに」

「ほんとほんと。叫ぶのってスカっとするんだけどなぁ」

「うん。ここに来て叫ぶと、明日も戦車道をやるぞって気分になれるんだけれど」

 

 戦車道。

 それは島田愛里寿にとっての誇りであり、継がなければいけないものであり、父と母の生業でもあり、転勤の動機でもあって――

 

「あ、そうだ」

 

 物思いの沼へ片足を突っ込みそうになった瞬間、愛里寿がはっきりとした声を出した。

 

「な、なに?」

「えっと……その、あなたに見てもらいたいものが、あるの」

「え、何何?」

 

 愛里寿が携帯を取り出し、慣れた手付きで画面をタップし続ける。マナーの観点から、あまり画面は伺わないようにする。

 間もなく、愛里寿が「えっと」と控えめに呟く。そうして上目遣いになって、携帯をそっと前に出して、黒沢の体温が上がっていって、携帯がゆっくりとひっくり返されて、

 

 白い戦車から、身を乗り出している愛里寿の画像――いや、動画があった。

 

「こ、これは?」

「これ……今日撮った、練習試合の動画。分析の意味合いも兼ねて、いつもデータにしてるんだけれど……見てほしいの」

「ま、マジで?」

「うん」

 

 分析目的の動画ということは、気軽に了承してしまえば「あなたはこの動画を見て、どう思いましたか?」と聞かれてしまうのだろうか。

 確かに親は、戦車道の委員会を務めている。本当に時々だが、食卓で仕事の話をすることもあって――もちろん、理解はできていない。

 そんな無知なる自分に対して、愛里寿は意見を求めているのか。正直言ってまるで自信がないが、友達の願いとあれば断るわけにもいかない。

 胸を張る。

 覚悟を決める。

 

「俺で良かったら、俺なりのブンセキをしてみるよ」

 

 ブンセキの単語を耳にした愛里寿が、慌てたように「ちがうの」と首を横に振るう。

 

「えっと、難しく考えなくてもいいから。ただ、見て欲しいの」

「――え、いいの? それで」

「うん」

 

 なぜ、とは聞かなかった。

 友達だから。その言葉で、すべてが繋がる。

 だから黒沢は、うん、と頷いてみせて、

 

「わかった。じゃあ島田さんの活躍、じっくり拝見するよ」

「うんっ」

 

 少し頬を赤く染めながら、愛里寿が、再生ボタンをそっと押す。

 

 ――そして、愛里寿無双が始まった。

 

 まず思ったことは、「戦車って単騎で複数を相手取れるっけ?」だ。敵チームらしい桃色の戦車郡は、愛里寿の複雑怪奇な動作と、一撃必殺の砲撃により、またたく間に白旗を挙げていく。このままではマズイと相手も悟ったのか、待ち伏せを狙ったり、遠距離砲撃を仕掛けるのだが――対処法など知っているとばかりに、愛里寿は淡々と敵戦車を潰していくのだ。もちろんワンショットで。

 次に思ったことは、「隣にいる女の子って、こんなに強かったのかすげえ」だ。

 動画を視界に入れながらも、ちらりと愛里寿の横顔を見――視線を感じたらしく、瞳と瞳とが、至近距離でぱっちりと合った。「あ」「あ」

 なんだか恥ずかしくなって、逃げるように愛里寿無双の続きを拝見する。

 ――それにしても。

 自分の隣で、少し気恥ずかしそうに表情を赤らめている愛里寿と、画面の中にいる真顔の愛里寿とは、まるでイメージが合致しない。自分の知っている島田愛里寿といえば、少し照れ屋さんのボコ仲間だというのに。

 

 

『状況終了』

 

 でも、これ「も」島田愛里寿なのだ。

 戦車に乗れば、音もなく「島田流を背負う者」になる姿もまた、愛里寿なのだ。

 だから俺は、精一杯の素直な気持ちで、

 

「――かっけえ」

「え?」

「かっけえよ島田さん、すげえ……マジゴッド」

「ご、ゴッドなんて、そんな」

 

 男の子魂が炎上中の黒沢は、目をギンギラと輝かせながら、

 

「俺、戦車のことはぜんぜんわかんねーけど……スゲーことをやってるのはわかる。サイコーだぜ」

「あ、ありがとう」

 

 そうして、動画が終わる。けれども、血はちっとも冷めない。

 

「――はー……面白かった。いや、いいモン見させてもらった、ホント」

「そ、そう? いいものだった?」

 

 うんうんうん。黒沢は、本能のまま頷く。

 そして愛里寿は、控えめに、けれども確かに口元を緩ませながら、

 

「……よかったら、その、また見る?」

「え、マジで? 見る見る、超見る! 金払っても見る!」

「お、お金はいいの、お金は」

 

 愛里寿が、携帯をポケットにしまう。そうして、慎重そうに黒沢のことを見つめて、

 

「……見せてよかった。友達に、かっこいいって言われるのって、本当にその、うれしい」

 

 困ったような、けれど困っていないような。笑顔のような、けれども笑顔の一歩手前のような。そんな少女の表情を目にして、黒沢の心が痛みを発する。

 なんだこれ、と思った。

 いやだ、とは思わなかった。

 どこか心地良いような、どこか舞い上がるような、この染み渡る刺激は一体なんだろう。

 ――首を、左右に振るう。

 

「……俺でよかったら、いくらでも島田さんの活躍を見るよ。ブンセキはできねえけど」

 

 愛里寿は、首を小さく左右に振るう。

 

「いいの。あなたからの、素の言葉が聞きたい」

「……そっか、わかった。俺なんかでよければ、いつでも、」

 

 愛里寿が、音もなく首を横に振った。

 

「『なんか』、じゃないよ。友達、でしょ?」

「――そっか、だよな」

 

 改めてそう言われて、胸がすくような気分になった。

 うん、そうか。そういうことなら、これからも愛里寿の軌道を追い続けよう。

 それが、友達としての務めだ。

 

「わかった。じゃあこれからも、島田さんの最強伝説を見届けるぜ」

「うん。……でも、最強には程遠いけどね」

「またまたー」

「ほんとう。私には、西住流っていう超えなければいけない壁があるから」

 

 あ。

 へんな声が漏れた、頭の片隅から「にしずみりゅう」というキーワードが静かに芽生えてきた。

 確かそれは、食卓で何度か聞いたような――

 

「西住流って……もしかして、戦車道の流派のひとつ?」

「う、うん。知ってるの?」

「親が、何度か口にしてた。聞いただけだけど」

「……そっか。やっぱり、知名度は負けちゃってるか……」

 

 愛里寿が、首をがっくりとうつむかせてしまった。

 ――まずい、何か余計なことを言ってしまったか。

 けれどもしかし、言い訳のいの字も思いつかない。出てくる言葉はといえば「えと」だの「その」だの「うんと」だの。

 

「――あ、ごめんなさい、あなたは何も悪くないから」

「そ、そお?」

「うんうん」

 

 そう言われて、正直なところ、物凄くほっとした。

 自分のせいで愛里寿が傷ついたりするのは、物凄くイヤだったから。

 

「……あのね」

「うん」

「島田流と西住流は、昔からライバルのような関係を続けてきたの。実力はともかく、知名度は西住流の方が上なんだ」

「どして」

「分かりやすいから、かな。西住流は、『たくさんの大いなる力』をスローガンにしていて……対して島田流は、『一人で、変幻自在に勝つ』だから。派手さでいえば、西住流の方が上なの」

「えー、そうかなぁ? 一人でドンパチやる方が、よっぽどグレートだと思うけどなぁ」

 

 何気ない黒沢の意見に対して、愛里寿が嬉しそうに顔をほころばせた。

 

「私もそう思うんだけれど、世間は西住流寄りって感じ」

「っかー……」

 

 そして愛里寿は、深刻そうな真顔になって、

 

「それに最近は、西住流が全国大会で優勝したの」

「全国大会?」

「うん、高校戦車道全国大会。この前やってたんだけれど、西住流の継承者である西住みほが、強豪黒森峰に勝って、優勝してみせた」

「へえー……」

 

 黒森峰については、「入学するのが超難しい名門校」ぐらいには知っている。

 その名門に打ち勝ったという事実は、無条件に「すげえやべえ」と脳が勝手に認識した。

 

「だから、私はもっと頑張らないといけない。島田流を、日本一の戦車道流派にしたいから」

 

 そう言ってみせた愛里寿の顔は、まちがいなく、動画の中の愛里寿と同一のものだった。

 ――実感する。

 目の前に居る、たったひとつ上の女の子は、島田流という誇りを背負った戦車乗りだ。

 今日この日まで、戦車道を迷いなく歩み続けてきた、天才少女なのだ。

 リアルに考えれば、自分なんてまるで比べ物にならない。

 

 けれど、

 

「島田さん」

「うん」

「できる、なれるよ、日本一に。だって島田さんはやべえくらい強いんだから。友達の俺が保証する!」

 

 友達という関係に、壁だの何だのを考える必要はない。

 

「――黒、沢」

「ああ」

 

「……ありがとう、黒沢」

 

 

 

 

 ボコミュージアムから出てみれば、空は清々しいほど赤暗くなっていた。それほどまで、長い話をしていたらしい。

 まあ、それもそうかと思う。

 先程までは、本当に濃密な時間を過ごしきった。ムーンサルトボコショーに、愛里寿無双に、島田流の夢と、ほんとうに様々なものを見聞きしていった。

 久々に、心地良い疲れというものを感じ取っていると思う。少しばかり両肩が重たいが、これも、愛里寿と共に過ごしてきた証拠の一つだ。

 

「――っかし、ほんとうにいいものを見させてもらったぜー」

「また、撮ってくるから」

「あいよー」

 

 そうして、愛里寿がきゅっと手を握ってみせて、

 

「明日も頑張らなくちゃ」

 

 愛里寿はきっと、今日も明日も明後日も戦車道を歩み続けるのだろう。そして、自分と一緒にボコショーで叫び合ってくれるのだろう。

 大変だな、と思う。これは応援しなきゃな、と思う。友達として、愛里寿を見習わないとな、と思う。

 ――見習う、か。

 自分は何をしているのだろう。愛里寿という友達がこんなにもガッツを見せてくれているのに、自分は学校で何をやってしまっているのだろう。

 

 島田愛里寿との交流は、後の負担には繋がりにくい。愛里寿と出会う以上は、「ボコミュージアムへ行く」という選択を自分自身で決めているからだ。その時点で「覚悟」くらいはできている。

 交流時間も一時間か二時間程度と、実に程よい。

 

 しかし、学校の友達――種村たちは違う。

 学生である以上、学校へは必ず登校しなければならない。そうして教室へ顔を出せば、まずは友達から挨拶もされるし雑談だって持ちかけられる。ここでワザと愛想を悪くすれば、次第に人も離れていくのだろうが、生憎とそんな趣味はないし覚悟もない。

 そうして、その友達とは一日五時間以上も苦楽を共にしていく。それは授業や休み時間、給食に昼休み、時には学校行事と、とにかく色々だ。

 それらを一緒に経験していけば、クラスメートとの思い出はどうしても積み重なっていく。なるだけ淡々と暮らしていくつもりでも、時には笑ってしまったり、時にはケンカをしでかしたり、時には相談を持ちかけられたりして、否応なしに人間関係が色濃くなっていくのだ。

 ――だから、突如降ってくる転勤が怖い。積み重ねてきたそれらが、あっという間に白紙にされてしまうから。

 それが嫌で嫌で仕方がなかったから、黒沢は、友達とは教室でしか付き合わないという消極的な選択をし続けている。

 

 だが、こんなサイクルもそろそろ終わりを迎える。学園艦にさえ乗ってしまえば、むこう六年間は友情を育めるはずだから。

 それまでは我慢だ。友情めがけ深追いなどするな。強くいろ。

 

「――黒沢?」

 

 声をかけられて、体がびくりと震えてしまう。

 

「な、なに?」

「どうしたの? 何か、つらそうな顔をしてる」

「……そう?」

「うん。……その、何か悩みがあるなら、言って」

「いや、その、」

「言って」

「……いいよ、別に。大したことじゃないから」

「聞かせて」

 

 隣にいたはずの愛里寿が、俺の前に立った。

 

「私とボコは、あなたの味方だよ」

 

 愛里寿は、心静かに微笑んでいた。

 愛里寿が見せてくれた手乗りボコは、今も強大な何かと戦っていた。

 

 前の自分と違って、いまの自分には、島田愛里寿という友達が居る。 

 ボコのテーマが、苦境に屈しない詩が、ミュージアムから響いてくる。

 愛里寿は決して他人なんかじゃなくて、応援したい大切な人であって、自分(おれ)のことを見てもらいたい女の子だ。

 賢い部分の俺が言う。傷つきたいのか、お前は。

 本能が、訴えてくる。

 愛里寿を、喜ばせたくねえのか。

 ――俺は、当然、

 

「……なあ、島田さん」

「なに?」

「島田さんは、めっちゃ頑張ってるよな。西住流という壁を、越えようとしているんだよな」

「……うん、そうだね」

「だから俺も、島田さんを見習って、頑張らないといけないなって、そう思ったんだ。いや、この場合は……勇気を出す、かな?」

「どういう、こと?」

 

 隣にいる愛里寿のことを、じっと見つめる。

 

「この前さ、話したじゃない。俺は転勤族だから、友達と離れ離れになっちゃうって」

「うん」

「だから俺、友達と仲良くなることが……怖かったんだ。仲良くなればなるほど、別れ際になって、つらくなるから」

「――黒沢」

 

 愛里寿の目に、光が灯る。

 

「でも、島田さんと出会えて良かったって、心の底から思ってる」

「え」

「すごく、楽しかった。こんなの、久々だった」

「――あ」

 

 きっと、よく笑えていると思う。

 

「ありがとう、島田さん。俺と、友達になってくれて」

「黒沢」

「やっぱり俺、友達とたくさん遊びたい。怯えて暮らすなんて、もういやだ」

「……うん」

「だから俺、明日から……学校の友達と、目一杯遊ぶよ」

 

 愛里寿は、沈黙したまま――頷いてくれた。

 

「島田さん。一つ、答えて欲しいんだ」

「うん」

「――俺が学校で、元気よく暮らせていたら……どう、思ってくれる?」

 

 その問いに対して、

 島田愛里寿は、くしゃりと笑ってくれながら、

 

「――うれしい」

 

 もう、それで十分だった。

 

「ありがとう」

 

 うなずく。

 そして、拳を作る。

 すかさずボコミュージアムめがけ振り向き、己が逃げ道をぶっ壊すために、黒沢は深呼吸して、

 

「俺はやるぞ! たくさん遊んでたくさん笑ってやるッ! ボコ魂の名にかけてッ! ぜってー屈しね―――ッ!」

 

 叫んだ。ボコショーと同じくらい、心の底から吠えてみせた。

 

「がんばって黒沢! 勝てるよ! 黒沢なら勝てるよ! スタンダ――ップッ!!」

 

 自分の隣で、愛里寿も一緒になって叫んでくれた。ボコに対しての応援と、同じように。

 

「サンキュー島田さんッ! っしゃ―――! 明日からグレートな友情送ってやっぜ―――ッ!!!!」

「がんばれ黒沢! がんばれ――――ッ!!!」

 

 そして愛里寿は、ファイティングポーズをとった手乗りボコを、天高く掲げてくれた。

 

 ――その後は、なんだかもう感情がめちゃくちゃになってしまって、愛里寿と握手をしたあとで、家路についていった。

 

 

 

 

 きりつ、れい! さようならー!

 

 帰りの会が終わると同時に、種村が無遠慮に背筋を伸ばす。このあとは、素直に家へ帰って宿題――ではなく、友達とグラウンドでサッカーをするに決まっている。

 どうやら周囲も同じ考えだったらしく、数人の男女がこぞって種村の元へ集っていく。四の五の言わず、菊池が「やるか?」と親指を立てる。

 もちろん、やるに決まっていた。

 獰猛な笑みを浮かばせながら、種村は椅子からゆっくりと立ち上がり、

 

「なあ」

 

 後ろから声をかけられ、種村は「んー?」と振り向く。

 そして、小さく声が出た。

 黒沢だった。

 

「おお、どうした。なにか用か?」

「ああ、あのさ」

「おう」

「――俺も、サッカーに入れてくれねえかな?」

 

 その言葉を耳にした種村が、桜井が、菊池が、松本が、その他の面々が、慌てたように顔を見合わせる。

 そんな空気を察してか、黒沢が苦笑いをこぼし、

 

「今までの誘いを断ってきて、今更かもしれないけど……よかったら、俺も仲間に入れて欲しい。一緒に遊びたい」

「――えっと、家の手伝いとかは?」

「ああ、あとでメールを入れておくよ。今日は遅くなるって」

「……そうか」

 

 つまりは、そういうことだった。

 なら、言うべき言葉なんてたった一つしかない。

 

「っかそっか、お前にも時間が出来たんだな。もちろんいいぜ、やろうやろう」

「いいのかい?」

「もち。俺ら、友達だろ?」

 

 自分の言葉は、とても正しかったらしい。

 黒沢が、すごくいい顔を見せてくれたから。

 

 

―――

 

 

 今日も島田流の家元は忙しい。世界リーグへ向けての手続きなんて一向に終わらないし、海外の戦車道事情も逐一把握しなければならない。大学選抜チーム責任者としての仕事も全うしなければいけないから、休める時なんて娘と夕飯をとっている時くらいなものだ。

 娘――愛里寿といえば、ここ最近は頻繁にボコミュージアムへ遊びに行くようになった。

 この前までは、週に二回程度のペースでボコミュージアムへ遊びに行っていたはずなのに。だのにここ最近は、週に四回だ。

 もしかしたら、ボコミュージアムで何かがあったのかもしれない。

 その「何か」が気になるところだが、それを聞くのは親として野暮というものだ。愛里寿はやるべきことをやった後で、ボコミュージアムで心をケアしていっているのだから――家元としては、何の問題もなかった。

 

「ただいまー」

「あら」

 

 デスクからゆっくり立ち上がり、家の広間まで足を進めていく。

 今日は帰りが早い、ボコミュージアムへは行かなかったようだ。それはそれでと、愛里寿を出迎える。

 

「おかえりなさい、愛里寿――あら?」

「なに?」

「いえ」

 

 島田千代は、心の底から微笑んでみせる。

 

「何か、あったの?」

「ううん、なにも」

「あら、そう?」

「うん。じゃあ私は、部屋にいるから……夕飯になったら、呼んで」

「わかったわ」

 

 そうして愛里寿は、真顔のままで自室に向かっていってしまった。

 その小さな背中を見届けながらで、千代は思う。

 

 なにか、いいことがあったのかしら。

 

 

―――

 

 

 送信者:黒沢

 今日は、学校のみんなとサッカーで遊ぶよ。だから、今日はボコミュージアムへは行けない。ごめんね。

 でも明日からは、島田さんの予定に合わせるから。島田さんとボコショーを見るのは、すげえ楽しい(・(ェ)・)

 昨日は、本当にありがとう。

 

 

 送信者:愛里寿

 よかったね、黒沢。私のことは気にしないで、たくさん遊んでね!

 これからも、エクセレントな日々を送っていってね。約束だよ。

 あと、予定なんだけれども、明日でもいいかな? またあなたと、ボコショーが見たい(・(ェ)・)

 




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十二歳の少年は、十三歳の天才少女の騎士になる

 父の手で食卓の上にハヤシライスが置かれ、黒沢と父、母が喜色満面の笑みとともに椅子に着く。

 夕飯の前で、三人が両手を合わせ、

 

「いただきます」

「いただきます!」

「いただきますッ!」

 

 父と母はいつもの調子で、黒沢はいつもより上機嫌そうに礼をする。

 その理由を知っている父は、早速とばかりに黒沢へ視線を投げかけてきた。

 

「お前は今日から夏休みか。いいなー」

「いいしょー、いいしょー」

「いいなー、いいなー」

 

 つまりは、そういうことだった。

 夏休みという時点で上機嫌ポイントが重なるというのに、明日は友人とプールへ、明後日は愛里寿とボコミュージアム、明々後日も遊び呆ける予定なのだから、言動が軽くなるのも致し方がない。友人と遊ぶ、という計画を前向きな姿勢で組めるようになったのだから、なおさらだ。

 

「ああ、凄く羨ましい。あー、俺も夏休みを堪能してえよ」

「あら、夏休みならあるでしょう? なけなしの」

「一ヶ月くらい遊んでいたい」

「そうねえ、私も遊びたいわあ」

「うへー、大人になんてなりたくないなあ……で、やっぱり忙しいの? ここ最近は」

 

 父がハヤシライスをスプーンに乗せながら、苦笑いとともに「ああ」と答える。

 そんな父の心境などはつゆ知らず、開かれた窓からは虫の大合唱が伝わってきた。

 

「ほんと、ここ最近はきついんだ。世界……いやまあ、色々あってな」

 

 父が、力なく言葉をこぼす。ハヤシライスは食べる。

 途中で言葉を区切ったのは、仕事の話を持ちかけたくないが為だろう。全ては自分のためだ。別に良いのに、と思う。

 そうしてハヤシライスを一口二口と食べていって――戦車道の話が出たのであればと、黒沢は何気なさそうなフリをしながら、

 

「ねー父さん母さん」

「何だ?」

「えっと、島田流って知ってる?」

 

 父と母が、意外そうな顔をして顔を合わせる。

 疑惑めいた空気が間に生じて、黒沢は思わず口をつぐんでしまった。

 ハヤシライスすら手につけらない、沈黙の間を少し置いて――母が、黒沢へ首を傾げながら、

 

「あなたから島田流という言葉が出て来るなんて。どこで知ったの?」

「あ、いや、たまたま戦車道について調べてたんだよ。仕事の話ってさ、ほら……息子としては気になる時もあるわけさ。だから少し調べたら、島田流っていうのが出てきて、ね?」

 

 我ながら苦しい言い訳だったが、父は「おお、そうなのか」と明るく応じてくれた。母も「嬉しいわねえ」と微笑する。親の仕事が、息子に受け入れられたからだろう。

 ――親に聞こえないように、安堵のため息をつく。

 

「島田流というのは、日本戦車道における有力流派の一つだな。単騎で、変幻自在に戦うことを重視しているんだ。ワンマンアーミーってやつだな」

「へえー、かっこいいね」

「ふふ、そうね。で、変幻自在の戦術というのは、またの名をニンジャ戦法って呼ばれているのよ。目的があれば何処からでも現れる、そういう意味合いもあるらしいわね」

「ニンジャ!? かっけえ!」

 

 聞いたことのない格好良い由来を聞かされて、黒沢は男の子らしく盛り上がる。母は、にんにんと指を立てていた。

 黒沢のそんな姿に対して、父も嬉しそうに微笑みながら、

 

「だよな、格好良いよな。――で、島田流を語る上で、どうしても外せないのが、西住流の存在だな。統一された集団の力を尊ぶ、西住流っていう有力流派とは、昔から切磋琢磨しあっているんだ」

「へえー」

 

 どうやら「この手」の関係は、戦車道界隈の中では有名な話らしい。言い終えた父が、上機嫌そうにハヤシライスを頬張っていく。

 曰く、切磋琢磨し合う関係と教えてくれたが――心の中では、島田流の方が上だけどねと言っておいた。

 

「ああ、そういえば」

「どしたの母さん」

「この近くにね、その、島田流の家元が住んでいるのよ。といっても、顔を合わせたことはないんだけれど」

「……へー」

「で、」

 

 で?

 

「その師範の娘である島田愛里寿さんが、島田流の継承者でね」

「んぐふっ」

 

 心臓が爆発しそうになった。

 反射的に立ち上がった父が、喉に詰まったのかと狼狽する。母からは、「水水」と水を差し出される。俺は大丈夫だとばかりに、手のひらを左右にふるってみせた。

 

 そのあとは、島田愛里寿について色々聞かされたが――全部知っていた。

 

 

―――

 

 

 そうして、夏休みが始まった。

 休日の朝は早い。目をギンギラに輝かせながら布団から起き上がり、スパスパと服を着替える。そうしてキビキビとリビングへ降り立った後で、既に用意されていた朝食をモリモリ食べ始めた。

 スーツ姿の母が「若いっていいわねえ」と微笑み、同じく仕事着の父が「休みっていいなー」とまだ言っている。時折は大人への憧れを抱くものだが、長期休みになるたびに「やっぱり子供でいいや」と前言撤回するのも、黒沢の伝統行事の一つである。

 

 朝食を食べ終え、歯を磨いて、水着の入ったバッグを手にして、ドアを開けてみれば――暑苦しい空気と、暑苦しい日光をその身に受ける。

 

「いってらっしゃい。車に気をつけて、友達と遊ぶのよ」

「あいよー、いってきまーす」

 

 母が、実に嬉しそうな顔で手を振るう。そんな母を見て、思わず微笑してしまった。

 そりゃあそうだよな。

 そんな上機嫌を胸に抱えたまま、黒沢は市民プールまでひとっ走りする。

 

 

 □

 

 

「――まあ、昨日はこんなことがあってさ」

 

 ボコミュージアム内におけるいつもの場所(ベンチ)で、黒沢と愛里寿は今日も隣同士であれこれ語り合っていた。

 話し終えた黒沢が満足そうな顔をして、愛里寿も楽しそうに頷いている。

 

「そっか……最近は、本当に楽しく暮らせているんだね」

「うん。やっぱり、友達と遊ぶってのは最高だよ」

 

 飲み干したボコ缶を両手に、愛里寿が小さくこくりと頷いて、

 

「私も楽しいよ。今日のボコショーも熱かったし、勝てそうな感じがしたから」

「ねー、まさか真空回し蹴りまで披露してくれるなんて」

「外しちゃったけどね、惜しかったけど」

 

 オチなんてわかっているくせに。黒沢と愛里寿が、ボコミュージアム内で含み笑いをこぼしあう。

 

「次はどんな技をリクエストするの?」

「うーん、投げ技にしようかなあって思うんだけれど、多分触れもしないまま終わるよね」

「そうだね。掴んでしまったら、その時点でポイント高いもんね」

「そうそう。やっぱ打撃技中心でいくかな……今度、色々調べてみるよ」

「うん」

 

 愛里寿が、楽しみにしていますという顔で頷いてくれた。

 

 ここ最近は、本当に笑いっぱなしの日々が続いている。先日のプールにしたって、授業とは違うプールに浸るのは本当に心地良かったし、せっかくだからと滑ってみたウォータースライダーは、恐怖混じりの歓喜を覚えたものだ。

 種村はビート板サーフィンをしでかそうとして盛大にスッ転んだし、それを友人ともども指さして笑うのは最高に楽しかった。その光景を見た種村が「じゃあ黒沢、テメーやってみろよ」とビート板を渡してきたので、「俺は同じ過ちは繰り返さないんだぜ」とビート版の上に乗って、三秒もかからずに空を舞ったのは記憶に新しい。

 疲れ果てた頃にプールから出て、せっかくだからとスイーツ店で一緒に甘いものを食べ、予定も立てずに「また遊ぼうぜー」と解散。そうしてロクに髪も乾かないまま、音楽ショップへ足を運んでいって――ピンときたのは二枚、俗にいうジャケ買いをした。

 

 これが、先日までの出来事である。こんなことがあと二十日ほど続いてくれるのだから、やっぱり子供という身分は最高である。

 ――けれど、

 

「そういえば島田さんは、夏休みとかはあるの?」

「一応。ただ、ほとんどは戦車道を歩んでるかな」

「マジかー……偉いなー」

「島田流の継承者として、当然のことをしているだけ」

 

 けれど、愛里寿は微笑んでくれた。その顔を見て、黒沢の中に熱が篭もる。

 また、よく分からない感情だ。

 そっと、胸に手を当てる。確かに、胸の鼓動が高まっている。けれど、不愉快さなんて感じない。

 

「あ、どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。――そうだ、データはある?」

 

 愛里寿が、慣れた手付きで携帯を渡してくれた。

 

「見てみて」

「当然」

 

 そして、島田流の活躍劇が始まる。戦車と爆炎が、黒沢の中に眠るオトコに火をつける。

 

 

 □

 

 

『状況終了』

 

 そうして、動画が終了した。

 愛里寿の携帯を手にしたままで、黒沢が深く深く息をつく。館内で響くボコのテーマだけが、耳にそっと入る。

 けれど、沈黙はそこまでだ。

 黒沢は、愛里寿へ携帯を返して、

 

「エクセレンッ!」

 

 勢いよく、親指をぐっと立てる。

 愛里寿も、控えめな笑みとともにサムズアップしてくれた。

 

「いやー、やっぱり嘘みたいな活躍するよな島田さんはッ! いや、嘘じゃないんだけど」

「うん、ありがとう」

「つーか、前より活躍してねえ? 積極的に動いて、敵という敵をやっつけてるような」

「そ、そうかな?」

 

 黒沢が、高いテンションのまま「うんうん」と頷いて、

 

「なんつーのかな、そう見えるんだよな。言っても、データを見たのは数回程度だけれども」

「ううん。黒沢が言うのなら、きっとそうだよ」

「そうかな?」

「うん」

 

 愛里寿から肯定されたことが、とてつもなく嬉しく思う。おだった気持ちが抜けきらないまま、黒沢は両腕を組んで、

 

「ただでさえ日本一なのに、更にレベルアップなんてなあ。これは世界一も夢じゃないかな?」

「言いすぎだよ、黒沢」

「えー? 俺は本気で言ってるんだけどなー」

「まずは西住流を超えてから」

 

 けれど愛里寿は、やっぱり嬉しそうに破顔してくれるのだ。

 心の底から称賛してはいるが、この顔見たさにあれこれ言っていることも否定はできない。

 

「これは、次の試合も楽しみだな」

「うん。次は……日曜日にやる予定。その日は、社会人チームと交流試合を行うの」

「社会人チーム? 年上?」

 

 愛里寿が、小さく首を縦に振って、

 

「侮れない相手。戦車道における強豪校のOGが、多く参加してる」

「マジか。勝てそう?」

「勝つ」

 

 そう言ってみせた愛里寿の顔は、携帯越しから見える島田流継承者そのものだった。

 射抜かれたような気がして、体温が引き締まっていく。冗談の一言も言わせない空気が、瞬時に訪れた。

 

「……島田さん」

「なに?」

「勝てるよ」

「――うん」

 

 けれど、島田愛里寿とは友達だ。だから、怯む必要なんてない。

 

「……とりあえずは、しばらくは練習の日々が続くかな。だから、日曜日まではボコミュージアムへ行けない」

「いやいや、しょうがねえって。俺のことは気にしなくていいから」

「ごめんなさい。私も、楽しみにしているのに」

「いやいや、むしろ偉いなって思ってるよ。日曜日まで戦車道に励むなんてさ、本当に愛里寿はすごい」

「……うん」

 

 そうして、愛里寿がまた微笑んでくれた。

 それは黒沢の視界に広がって、確かに黒沢へ差し出されて、黒沢の胸の内がまたしても落ち着かなくなる。

 

「私も、黒沢のことは凄いって思ってるんだよ」

「え、俺が?」

「うん。あなたはずっと孤独に耐えてきて、けれども決して腐敗はしなかった。私には……それは無理」

「……そっか」

 

 黒沢と愛里寿に、差なんてものはない。

 

「島田さん」

「うん」

「これからも、よろしくな」

「うん、こちらこそ」

 

 自然と、互いに手が伸びて――固く、握りしめあった。

 

 ――思う。

 愛里寿の手は、自分の手のひらよりもやっぱり小さい。けれども愛里寿は、この身で島田流という大いなる力を体現してみせている。

 島田流という誇りを日本中に広めるために、今日も明日も愛里寿は戦い続けるのだろう。夏休みなんて関係なく、愛里寿はこれからも戦車道を歩み続けるのだろう。

 小学生の身でも、安易に想像できる。愛里寿は、毎日が忙しいはずであると。

 その姿はまるで、スーツを着た父と母だ。けれども愛里寿は、父と母とは違ってまだ子供でしかない。本来は自分と同じく、夏休みに浮かれるべき身であるはずなのに。

 大変だ、とは思う。凄い、とは思う。

 けれど、そんな他人事のように済ませたくはない。

 だって愛里寿は、まちがいなく自分の友達だから。自分を前に正してくれた、仲間だから。これからも笑ってほしい、女の子だから。

  

 だから、この人の力になりたい。

 

「――ねえ、島田さん」

「なに?」

 

 そっと、手を離す。

 

「社会人チームとは、どこで戦うの?」

「えっと、大学の敷地内」

 

 よし。

 

「わかった、それなら行ける」

「――え?」

 

 俺は、自信満々に拳を作り上げてみせた。

 

「俺も試合、見に行くよ。会場で直接、応援しまくるぜ」

「え、え? く、黒沢が? い、いいの?」

 

 愛里寿の目に、光が灯る。それが見えた瞬間に、自分は正しいことができているのだと、強く思えた。

 

「何も予定はないし、何より夏休みだからさ。ノープロブレム」

「黒沢」

「島田流、しっかりと見届けるよ。一秒も見逃さない」

「――うん」

「……島田さん」

「うん、」

 

 両拳を、しっかりと作る。

 息を、大きく吸う。

 

「――がんばれっ! 島田さんっ! がんばれっ! 俺も戦うっ!」

 

 戸惑いの色に染まっていたはずの、愛里寿は、

 

「――ありがとう黒沢! がんばるっ! がんばるっ!」

 

 ボコミュージアムで、二つの声が高らかに響いていた。

 

 

 

―――

 

 

 

 大学へ向かう途中に、次は山でも登ろうぜと提案していた小学生グループとすれ違った。

 それを見て、「ああ、夏休みだっけ」と苦笑してしまう。だのに自分は、今日も今日とて戦車道を歩む予定だ。しかも本日は、年上がたと相手取らなければいけない。

 小学生が羨ましいな、と思う。

 夏休みが恋しいなあ、と思う。

 そんなことを考えながら、パンツァージャケット姿のアズミは、なんだかんだで背筋を伸ばすのだった。

 ――さて、やるか。

 両頬を叩き、意識を戦車道履修者のものに切り替える。

 一息こぼし、キャンパスの中央に設けられた花壇を通り過ぎようとして――大学内で歩んでいく人々の中から、違和感めいたものを目で捉える。

 

 一人きりの子供が、いた。

 

 イヤホンをつけた少年が、花壇の前で視線を泳がせている。気になって数秒ほど様子見してみたが――戦車道履修者としての観察眼が、「あの子は迷子」という判断を下した。もしかしたら、親とはぐれたのかも。

 放っておくわけにはいかない。

 戦車道履修者として、このままにしてはおけない。

 戦車道とは強く、そして優しくなる為のものでもあるのだから。

 よし。

 先ほどまで真顔だった己が顔を、そっと柔らかいものにする。早すぎず遅すぎない足取りで、そっと、真正面から少年の元へ歩んでいく。

 

「君」

 

 イヤホンをつけてはいたが、視界に入れば反応もされやすい。関心を向けられていることに気づいた少年が、すぐさまイヤホンを耳から外した。

 アズミは、少年の目線まで姿勢を屈ませる。

 

「君、どうしたのかな? 道にでも、迷った?」

「あ。実は、そうなんです」

「ああ、そうなんだ……それは大変だったわね。すぐに、交番まで送り届けるわ」

「あ、違うんです。おれ――僕は、大学に用事があって」

 

 アズミの中で、色濃い疑問が生じる。

 子供が一人で大学なんて、意図が全く読めない。ここ数年は「子供」とマトモに話したことなんてなかったから、なおさらだ。

 

「なになに?」

「えっと……今日ここで、戦車道の試合が始まるんですよね? だからここに来たんですが、どこが会場かわからなくて」

 

 それを聞いて、納得した。同時に、珍しいな、とも思った。

 戦車道といえば、女性のための武芸だ。だから、どちらかといえば女性客が多いものだし、趣味として年配の方々が応援へやってきたりもする。あとは家族連れに、カップルか(羨ましい)。

 だから単独で、それもまだまだ若い男の子が、わざわざ試合を見に来る場面なんてものは初めて見た。

 ――正直、結構嬉しかった。こうして戦車道に関心を抱いてくれるのなら、アズミとしては大歓迎だ。

 

 だからアズミは、上機嫌そうに小さく頷いて、

 

「事情はわかったわ。私でよければ、ぜひ案内させて」

「あ、ありがとうございますッ!」

「いいのよ。私、こう見えて戦車道履修者だし」

 

 えいやと、パンツァージャケットを少年に見せる。対して少年は、「たしかに」と呟いた。

 ――知っているらしい。これは将来有望だ。

 

「それじゃあ責任を持って、あなたを会場まで案内するわね。……あ、私はアズミ。ここで戦車道をやっていて、このあと試合にも出るの。よかったら応援してね」

「は、はい! というか、最初から大学選抜チームのことを応援するつもりで来ましたッ!」

「まあ、ありがとう! これはお姉さん、頑張らなくちゃいけないわね!」

 

 アズミが腕まくりをする。それを見た少年が、「期待しています!」とはきはき応えてみせる。

 先ほどまでの脱力感なんて、もうどこにもない。少年と出会えただけでも、今日一日は思い出深いものとなった。

 

「じゃあ、行きましょうか。……えっと」

「あ……僕は、黒沢っていいます」

「黒沢君ね、よろしく」

 

 そうして自然と、握手が交わされた。

 

「じゃ、今度こそ行きましょうか。――あ、ところで黒沢君は、うちの隊長のことは知ってる?」

「え――あ――もちろん知っています!」

 

 む。

 今の、すこし躊躇いがちな反応はなんだろう。

 つい思考を働かせてみるが――もしかしたら黒沢少年は、愛里寿隊長のファンなのかもしれない。

 気持ちはわかる。よくわかる。

 女性の目線から見ても、愛里寿隊長は格好良いし、強いし、可愛い。ましてや男の子目線とくれば、愛里寿隊長に惚れてしまっても致し方のないことだ。

 だからこそ、余計な詮索はしない。

 子供の心とは、大人のそれよりも繊細なものであるから。

 見守ることにしよう。それがいい。

 

「そっかー、やっぱり有名なんだなあ、隊長は。うん、よかったら隊長のことも、応援してあげてね。きっと喜んでくれるわ」

「――はいッ!」

 

 ――よし。

 今日は私も、張り切らなくちゃね。

 

 

 

 

 勝った。

 

 社会人チームは確かに強かった。年上というアドバンテージはやはり伊達ではなく、必要とあれば囮になったり、時には盾になって捨て身のカウンターパンチを食らわせてきた。あれほどの強固な連携は、信頼しあっていなければ出来たものではない。

 それに比べて大学側(うちら)は、確かに連携の甘さが――ワンマンプレイが目立った。ワンマンアーミーこそ島田流という思想が、悪い方向へ動き出してしまうケースが多発してしまったのだ。

 『私がやる』という最後の通信を、今日は何度聴いたことか。

 けれど、大学選抜は勝った。その主たる原因はもちろん、全隊員の前で直立している天才少女だ。

 

「お疲れ様でした」

 

 アズミが、隊員全員が、「お疲れ様でした!」と返す。

 

「みんな、よく頑張った。みんな、島田流の本懐を成そうとしていた」

 

 しかし、隊員の間に安堵は訪れない。

 

「けれど、戦車道の基本を忘れてしまっているように見えた。――撤退はどうした」

 

 誰一人として、表情を変えない。否定もできない。

 愛里寿の背後には、回収されたばかりの、すっかりボロボロになってしまったパーシングの群がある。

 

「島田流を意識してくれているのは分かる。島田流こそ、と思ってくれているのも分かる。だからこそ、大物相手に誇りを証明しようとして……一歩も退かず、焼かれるまで戦うのは、決して勇敢なことじゃない」

 

 やはり島田愛里寿は、人のことをよく見ている。こうも言われては、ぐうの音も出ない。

 

「私とて、たった一両で三十両を相手取ることはできない。天才と持て囃されようとも、最大で五両が限界だ。それ以上は撤退する」

 

 ちなみに基準は、二、三両である。

 

「相手は確かに強かったが、私は最後まで戦えた。理由は簡単、実力を弁えているからだ。……やられる前提で奮闘するよりも、最後まで耐え忍び、生き残ることこそが島田流、真のニンジャ戦法であると、私は思っている」

 

 隊員全員が、重く静かに頷く。

 

「その点、アズミは最後まで善く戦ってくれた。あくまで冷静に、それでいて徹底的に相手の弱みを突き続けた……これにより、相手の戦術は何度崩れたことか」

 

 あくまで無表情で、心の内でびっくりする。

 「あの」隊長から、いきなり自分の名前が飛び出してきて、あまつさえ評価してくれたのだから。それはもう動揺してしまう。

 

「私を守ってくれたことも、しっかりと確認した。あの助けがなければ、私は潰されていただろう。感謝する、アズミ」

「――ありがとうございます」

 

 島田愛里寿は、大学選抜の隊長にして軸だ。だからこそ、何としてでも守り抜かなければならない。

 それは社会人チームも理解していて、あの手この手で愛里寿を撃破しようとした。突撃、迂回、狙撃、包囲、とにかく何でもありだ。これも、卒業校がバラバラであるが故の利点だろう。

 対して自分は、何度も何度も落ち着けと呼吸した。そして、「見てくれているんだから」と三度ほど呟いた。

 応援してくれている子がいるからこそ、撃破されることは、無様な姿を晒すことだけは絶対に避けたかった。だからこそ自分は、最後の最後まで冷静でいられたのだと思う。

 今度また、黒沢少年と出会ったら、ありがとうって言おう。

 

「さて、」

 

 愛里寿が、両目をつむる。

 そろそろ、話が終わる頃合いだ。

 

「今日は戦術の基本について、学び返すことにする。異論は?」

 

 隊員全員が、「ありません!」と返事をする。

 

「よし。では一時間後に、反省会を行う。何か質問は?」

 

 沈黙。

 

「それでは、時間まで体と心を休めるように」

 

 はい!

 

「では、解散」

 

 そうして、愛里寿がいずこへと立ち去っていく。瞬く間に、空気が弛緩されていくのを肌で感じた。

 とある隊員が「まだまだだねー」と苦笑し、メグミが「やるじゃん、アズミ」と肘鉄をついてくる。やめてよねーと、面倒そうに体を曲げる。

 ――そんなことをしていたら、もう遠くなっていた、愛里寿の背中が目に入った。

 

 「もう」だ。なぜなら愛里寿は、全速力でどこかへ突っ走っていたから。

 

 愛里寿と戦車道を共にして、かれこれ半年ほどが経過するが――あんな姿を見るのは、初めてだった。

 

 

 □

 

 

「黒沢っ」

 

 大学の入口付近で、愛里寿が黒沢めがけ駆け寄ってくる。早いなあと思いながら、黒沢はイヤホンを取り外し、ご機嫌なナンバーを停止させた。

 

「や、島田さん。はい、ジュース」

「――え?」

「お疲れ様。これはおごりだから、気にしなくてもいいぜ」

 

 あえてカッコつけた顔をしながら、親指を立ててみせる。

 

「く、黒沢」

「なんだい?」

「あ……ありがとうっ」

「いえいえ」

 

 パンツァージャケットを着たままの愛里寿が、いつもの調子で控えめに微笑んでくれた。

 自分の行為が正解だったことに、心の底から安堵する。

 

「――そういえば、何で大学の入り口? 観客席じゃないの?」

「あ。えっと、観客席には、選抜メンバーらしい人たちもいたでしょ?」

「うん」

「それで今は、黒沢とこうして親しくお話をしているよね? でも、そこを隊員たちに見られでもしたら、隊長としてのイメージが変わってしまうかもしれない」

「イメージ」

「うん。隊長っていうのは、とにかくそういうのが大事なの。年下だから、なおさら」

「……そっか」

「だからみんなの前では、そう、試合をしている感じで接してる」

「――なるほど」

 

 先ほど、愛里寿から『大学の入口付近で待っていてほしい』というメールがやってきたのだ。

 理由はさっぱり分からなかったが、あまり考えることもなく、黒沢は観客席から大学の入り口付近にまで移動を開始した。その途中で「あ、そうだ」とジュースを買い、愛里寿が来るまで上機嫌にご機嫌なナンバーを聴いていて、現在に至る。

 

「そっかー。やっぱりリーダーっていうのは、大変なんだな」

「少しだけ。でもね、隊長としての私も、いまの私も、私が好きなように見せている姿だから」

「あ、そうなんだ。それなら良かった」

 

 その言葉を聞けて、黒沢はシンプルにほっとした。前の自分とは違って、我慢なんてしていないことが分かったから。

 ――つまらないことを思い出して、首を左右に振るう。

 

「ああ、そうそう、そうそう、試合についてなんだけれどさ」

「あ……うん。どう、だった?」

 

 俺はもちろん、親指を立てた。

 

「サイコーだった」

 

 愛里寿の目と口が、ぱっと前向きに開く。 

 

「あんな格好良い島田さんを見せてくれて……サイコーだった、ワンダフルだったッ!」

「ほ、ほんとう?」

「マジマジ。十三両も撃破って……凄いでしょ、最高でしょ、天才でしょ!」

「……やったっ」

 

 愛里寿が、目をつむりながら両手を握りしめる。その姿はまちがいなく、普通の女の子だった。

 

「いやあ、ナマで見るとやっぱ色々違うね。迫力というか、臨場感というか……そういうのが凄い。画面越しだけれども、十分だった」

「よかった、楽しんでもらえたようで」

「ああ、マジで楽しかったよ。なんてったって、島田さんが勝てたんだから」

「うん。けっこう危なったけれど、何とかなったよ」

「さすが島田流」

「うん。……それも、あるんだけれどね」

 

 よかったよかったと黒沢が浮かれている中で――愛里寿の顔が、急に上目遣いとなる。

 息が、止まったかと思う。

 

「あ、少し飲ませて」

「い、いいぜ。どぞ」

 

 少し苦戦しながらも、愛里寿がジュースのプルタブを開ける。味はいつものオレンジジュースだ。

 愛里寿は、それを一杯口にする。喉が乾いていたのか、「ふう」と小さくため息。

 

「――黒沢が応援してくれたから、勝てたんだよ」

 

 小さなため息の次は、大いなる証明を口にした。

 試合の興奮が冷めやらぬ黒沢から、「へ?」の間抜け声が漏れた。

 

「黒沢が、友達が見てくれているからこそ、絶対負けたくない、絶対に勝ちたいって思えたの。だから、勝てた」

「……そう、なの」

「うん」

 

 愛里寿が、はっきりと頷いた。

 その姿を見て、黒沢はすぐにでも結論を出す。

 無駄な謙遜なんて必要ない。友達として、言うべきことを言うだけだ。

 

「……それならよかった。愛里寿の力になれて、マジで嬉しい」

「私も嬉しい。ありがとう黒沢、ありがとう!」

「ああ。俺でよかったら、また見に行くよ」

「ほ、ほんとうっ?」

 

 黒沢が、「ほんとほんと」と首を振る。

 

「俺、すっかり大学選抜チームのファンになっちまったもん。そのファンとして、友達として、これからも応援させてもらうぜ」

「――うん!」

 

 愛里寿が、これ以上ないくらいに明るく笑ってくれた。

 その顔は、黒沢の胸の内をまたしても刺激させる。不愉快さなんてなくて、むしろ舞い上がってしまうような、原因不明の痛みがほとばしってしまう。

 ――己が胸を、軽く叩く。

 何か口にしなければ。黙るのは危ない。何か話題は、

 

「あ、そういえばさ、さっきアズミさんっていう人と会ったんだ。花壇あたりで」

「アズミと?」

「うん。開始前に、大学まで来たのは良かったんだけれども……会場がどこか、分からなくて」

「あっ、ごめんなさい。教えるのを忘れてた」

「いやいや、いいっていいって。でさ、俺が路頭に迷ってたところを……アズミさんが声をかけて、会場まで案内してくれたんだ」

「そうなんだ。……今日のアズミは、活躍ばかりしてるなぁ」

 

 それには同意だとばかりに、黒沢も頷く。

 

「試合中のアズミさんも、格好良かったもんね。……しかも優しいんだもん、そりゃあ選抜のファンにもなりますって」

「そっか」

 

 大学選抜とは、愛里寿の一部分でもある。だからこそ、愛里寿の顔も柔らかくなったのだろう。

 

「みんな、本当に頑張ってたよね」

「うん」

「これからも沢山、活躍して欲しいな」

「私もそう思ってる。……みんな才能があるから、実現できるんじゃないかな」

「グッド」

 

 愛里寿が、オレンジジュースをもう一度飲む。

 

「まだまだ未熟な面はあるけれど、あの人たちは、その未熟さを真正面から受け止められるの。だから、日頃から成長を続けていっている」

「島田さんの教え方がいいんだね」

 

 愛里寿が、くすりと微笑む。

 

「だから、もしかしたら私を超えるかもしれない。いつかは、あの人達に負ける日が来るかもしれない」

「そう……なのかな」

「もちろん、負けるつもりはないよ。ただ、私が負けたら負けたらで、それは島田流にとって喜ばしいことなの」

「どうして?」

「あの人達もまた、島田流を学んでいるから」

 

 納得する。

 島田愛里寿は戦車隊隊長で、島田流の継承者だ。それを隊員が、島田流の門下生が乗り越えられれば、愛里寿としてはこの上なく嬉しく思うのだろう。

 だから黒沢は、「そっか」と頷く。黒沢もまた、島田流の繁栄を願っているから。

 

「……あの人達は強い。身も心も」

「そうだね」

「だから、私を超える戦車乗りが現れる可能性は、十分に高い」

「……うん」

「いつか、私は負けるかもしれない。壁にあたって、島田流継承者として苦しんでしまうかもしれない」

「島田さん」

「……その時は」

「え?」

 

 そして愛里寿は、寂しそうな顔をして、

 

「その、ときは、」

 

 黒沢のことを、真っ直ぐに見つめ、

 

「――応援して、ほしい」

 

 大学から、音が消えた。耳に入るのは、島田愛里寿の声と、自分の鼓動と、虫の鳴き声だけ。

 あまりにも生真面目で、あまりにも誠実なその一言に対して――黒沢は、

 

「もちろん」

 

 秒もかけずに、言えた。

 愛里寿の両肩に手を乗せて、力強く頷いてみせた。

 

「俺はいくらでも、島田さんの力になる。だって島田さんは、俺の友達で、ボコ仲間で、」

 

 ――私とボコは、あなたの味方だよ

 

「俺を前に正してくれた、世界でいちばん優しい戦車乗りだから」

「――黒沢」

 

 愛里寿が震えている。だから、愛里寿の肩をそっと叩く。

 

「……黒沢、黒沢」

「ああ」

 

 そして、愛里寿は、

 

「――ありが、」

 

 今まで陰りを見せていたはずの、愛里寿は、

 

「黒沢ッ! ベリーサンキューッ! サンキューッ!」

 

 この世界に広がる夏空のように、どこまでもどこまでも、笑ってくれた。

 

 

 

 

 ――ねえ黒沢

 ――うん?

 ――あの……転勤の話、出た?

 ――ああ……まだ、出てないよ。父さんが言うには、何か緊急事態でも起こらない限りは、しばらくはここに滞在するって

 ――そうなんだ。……よかった

 ――俺も俺も。まだ遊びたいし、試合も見たいし

 ――あなたなら、いつでも歓迎するよ

 ――っしゃ!

 ――ふふ。……あ、もうこんな時間

 

 腕時計を覗ってみれば、確かに四十分ほどの時間が経過していた。

 残念そうに、鼻息を出す。

 あっという間、だった気がする。

 そう思えるということは、楽しかった証拠だ。

 

「じゃあ、私はそろそろ行くね」

「分かった。戦車道、頑張って」

「うん」

 

 ここで、愛里寿とはお別れだ。

 そうして黒沢は、胸ポケットからイヤホンを取り出す。そのまま耳に取り付けて、携帯を操作して、

 

「黒沢」

 

 声をかけられて、「なに?」と黒沢が反応する。

 

「えっと……黒沢って、音楽が好きだよね。待ち合わせをしている時は、いつもイヤホンをつけてるし」

「うん、まあね」

「やっぱり、良い?」

「もち。機嫌が悪い時とか、寂しくなった時に、良い気分転換になるし」

「――そうなんだ」

 

 愛里寿が、どこか嬉しそうに口元を緩める。ここから、間が生じた。

 ――なんだろう、音楽にでも興味を持ったのかな。

 だとすれば、それは喜ばしいことだ。愛里寿にとっての気分転換が、また一つ増えてくれるのだから。

 

「……あの」

「何なに?」

 

 そして愛里寿は、すこし控えめに微笑しながら、

 

「あなたの聴いている音楽を、教えて欲しい」

 

 その質問に対して、秒以上の時間がかかった。

 何らおかしい質問ではないはずなのに、答えるのが何故だか気恥ずかしい。聴いている曲が完全に男向けだからか、内面を覗き見られるような気がしてならないからか。

 少し考えてみて、島田愛里寿という女の子のことを見て――黒沢は「そうか」と閃く。

 好みじゃない音楽を教えて、愛里寿を不機嫌にさせたくないからだ。

 これまでの愛里寿のイメージから察して、おそらくは静かな曲がベストマッチすると思う。逆に、騒がしくもご機嫌なナンバーは合わないかもしれない。

 だから黒沢は、「っだなー」と唸る。

 愛里寿は、今か今かと目を輝かせていた。

 

「島田さん」

「うん」

「……よかったら、島田さんにぴったりの曲を探してくるよ」

「――え、どうして?」

「いや、その……こん中に入ってるのって、やかましい曲ばっかりだから、島田さんには合わないと思う」

「聴きたい」

 

 そして愛里寿は、秒もかけずに返答した。

 

「あなたの聴いている曲が、聴きたい」

 

 上機嫌そうな顔で、愛里寿はクリティカルなことを口にした。

 ――なけなしの気力を振り絞って、黒沢は「どうして」と聞く。

 その問いに対して、愛里寿は頬を赤く染めて、目線を地面に逸らして、消えそうな声で「それはね」と言って、

 

「あなたのことを、もっと知りたいから」

 

 自分の顔を見て、愛里寿ははっきりと言った。

 

 

 □

 

 

 世間は夏休み日和らしいが、今の日本戦車道連盟にとっては無縁も無縁な話だ。その中核たる家元となれば、忙しさも超重力級になる。

 腰も痛くなるし、ため息も出放題になるが、これも日本戦車道の、島田流の繁栄のためだ。

 だから、仕事を投げ出す気はない。時折、娘と泳ぎに行きたくなる時はあるけれど。

 デスクの前で、腕を回す。

 娘――島田愛里寿は、今日は社会人チームと試合を行ったようだ。強豪校のOGが多く所属する、あの社会人チームと。

 愛里寿のことは、もちろん信じている。ただ相手が相手だから、つい万が一のことを考えてしまうのだ。

 

 ――もし勝ったら、ハンバーグを作って、たくさん褒めよう。

 ――もし負けたら、ハンバーグを作って、いっぱい励まそう。

 

 そうしよう、うん。

 そうして、ペンを握り直して、

 

「ただいま」

 

 島田千代は、ペンを置いて玄関に直行する。早歩きで。

 

「おかえりなさい」

「はい。――今日行われた、社会人チームとの試合ですが、無事に勝利しました」

 

 ハンバーグと、褒めまくりが確定した。

 千代は、心安らかに二度頷く。

 

「そう、勝ったのね。……凄いわ、愛里寿」

「島田流の継承者として、使命を全うしたまでです」

「偉いわ、愛里寿」

 

 そうして、そっと愛里寿の頭を撫でる。愛里寿から、「ん」の一声が漏れた。

 

「今日はハンバーグにするわね。たくさん、武勇伝を聞かせてね」

「はい」

 

 千代の緊張感が解かれ、深々と安堵の息を吐く。

 ――時間も時間だ。そろそろ夕飯にしよう。仕事なんて後でいい。

 そうして改めて、娘のことを見つめ直す。

 愛里寿はまちがいなく、成長し続けている。隊長としての威厳を保ち、年上のチームをも破り、その上で慢心したりもしない。

 いつか愛里寿は、自分を超えてしまうのかもしれない、

 それは、とても素晴らしいことだ。島田流としても、母としても。

 

「――あら?」

 

 そして千代は、今になって気づく。

 愛里寿が手にしている、黄色い買い物袋に。

 

「それは……何か、買ってきたの?」

「――食べ物を」

「そ、そうなの」

 

 愛里寿が、真顔で答える。

 ――黄色いレジ袋なんて、自分はついぞ知らない。そもそも袋には「Music World」と、青文字で堂々と印刷されているし。

 

「じゃあ、夕飯になったら呼んで」

「あ、はい」

 

 そうして愛里寿は、真顔のままで自室に向かっていってしまった。

 その小さな背中を見届けながらで、千代は思う。

 

 すごく、ウキウキしてたわね、あの子。

 

 まあ、機嫌がよさそうならそれで良い。

 千代は、キッチンへ向かう前に――テレビを点けて、夕飯の支度に取り掛かる。ラジオ代わりみたいなものだ。

 

『今日はビアガーデンということで、中央公園が大変賑わっております! ねえ、見てくださいこの客の数! いやあ、私も一緒になって飲んでみたいですねえ』

 

 ビアガーデンか。

 いいな、と思う。お祭りめいた空気は、嫌いじゃない。

 

『お、あそこにカップルがいますね……こんにちはー!』

『こんにちはー!』

『今日は賑やかですねえ。……おや? もう顔が赤い!』

『お酒を飲んで、あまり経っていないもので』

『そうなんですか!』

 

 初々しくて、思わず若い頃の自分を思い出す。

 昔の自分ときたら、お酒を飲みたての頃はすぐにでもダウンしてしまった。今はもちろん、一晩コースでもイケる口になってしまったのだけれども。

 若くないなーと、苦笑する。

 

『お酒を飲まれたきっかけなどはあるんですか?』

 

 千代の場合は、大学戦車道全国大会の優勝打ち上げ会で、勢いで飲んでみたのが原因だ。

 この子はなんだろうねと、冷蔵庫から食材を取り出しながらで耳を向けてみる。

 

『はい! その……彼氏がお酒好きで、私も飲んでみようかなと!』

 

 手が、ぴくりと止まった。

 

『そうなんですか! いや、いいですねえ!』

 

 そして、勢いよく見上げる。

 白い天井が目に入るが、見たいものはそれではない。我が娘である島田愛里寿だ。

 愛里寿は先ほど、実に珍しいことに音楽CDを買っていた。「Music World」とレジ袋に書いてあったから、たぶん間違いない。

 CDの内容は何でもいい。問題は、なぜ音楽に手を出したかだ。

 愛里寿の趣味といえば、ボコか――それぐらいなものだ。それ故に、先ほどのアレは割と衝撃的だった。

 

「……まさか、まさかね?」

 

 思わず、口にまで出てくる。

 音楽CDを購入し始めたきっかけが、私にすら秘密にしている彼氏の影響なら――深刻に考えてみて、

 

 別にいいんじゃないか、と思う。

 

 相手にもよるが、その人が愛里寿を支えてくれるのであれば――母としては、喜ばしいことだから。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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十二歳の少年と十三歳の天才少女に、嵐がやってくる

 ここ最近、うちの娘が変わり始めている。

 

 ただでさえ凄い愛里寿だが、この夏、いよいよもって戦車道を爆進中である。数字的なデータも伸びているし、大学選抜のメンバーからも「ここ最近の隊長はすごいんです」と嬉しそうに報告された。しかも、同時に相手取れる戦車の数が一両増加したらしい。

 この調子なら、いつかは自分をも超えてしまうだろう。

 それは良いのだが、愛里寿の母としてはどうしても気になってしまう点がある。

 

 何をきっかけにして、愛里寿はああも変われたのか。

 

 夕飯であるいくら丼を作りながらで、これまでの愛里寿を思い返す。

 ――ここ最近の愛里寿は、とても上機嫌でいることが多い。

 この前の戦果報告だって、ほんとうに嬉しそうな無表情を露わにしていた。ボコミュージアムから帰ってきた時なんて、だいたいは体が躍っている。ミュージアムへ行く回数だって、週二回から週四回まで増加したものだ。

 ここから推測するに、やはりボコミュージアムで何かがあったのだろう。

 ただ、それを詮索する気にはなれない。それは娘のプライベートであり、十三歳の繊細な思い出であるはずだから。親だからこそ、決して触れてはならない領域だ。

 知りたいな、と思う。

 まあいいや、とも思う。

 島田流を体現し続けているのであれば、家元としては一向に構わない。愛里寿が生き生きとしているのであれば、母としてはこのままであり続けて欲しい。

 

 さて。

 

 いくら丼を盛り付け終え、トレイの上に乗せる。味噌汁と漬物つきの、和風フルコースだ。

 そうして千代は、姿勢を若干前のめりにして口を開ける。

 

「愛里寿ー、ごはんよー、降りてきなさーい」

 

 無反応。

 

「愛里寿ー? ごはん、ごはんよー? いくら丼よー?」

 

 沈黙。

 瞬間的に、千代の中が不穏一色になる。

 おかしい、愛里寿はいくら丼が好きなはずなのに。もしかして、好みが変わったのか。それとも、愛里寿の身に何かが――

 首を右に左に振るう、両頬を軽くはたく。

 エプロン姿のままで、千代は家の中を駆ける。転倒しそうな勢いで階段を登る。愛里寿の部屋が、どこか遠く遠く見える。あと三歩二歩、「愛里寿の部屋」と書かれたボコ状のドアプレートが目に入って、

 

「愛里寿? 一緒に夕飯を食べましょう?」

 

 体温が上がりっぱなしのまま、千代はあくまで淡々とノックをする。けれどドア越しからは、何の反応も返っては来ない。

 まさか、愛里寿の身に――

 心の中で「ごめんなさい」と言うと同時に、千代は勢いよくドアを開けて、

 

 ヘドバン愛里寿がいた。

 

 千代は、本能的に真っ先にそう把握した。

 次に、「あ、ベッドの上で座ってる」と視覚的に判断した。そして、「ヘッドホンつけてるから、聞こえてなかっただけか」と冷静に結論づけた。最後に、「娘が音楽を熱心に聴いてる」と母親的にびっくりした。

 そして、娘と目が合った。

 愛里寿が、極めて焦った様子でヘッドホンを取り外す。

 

「お母さん、ノックぐらいして」

「した、けど」

「あ……ごめんなさい、聞こえていませんでした」

「いえ、いいのよ。……それより、」

 

 ひと呼吸。

 

「音楽に、興味を持ち始めたのかしら?」

「はい」

 

 この前CDを買ってたよね、とは言わない。

 

「どう?」

「グッド……じゃなくて。いいです、とても」

 

 グッド?

 

「あら、よかったわね……それで、何を聴いていたの? お母さん、知りたいな」

 

 間、

 

「流行りの曲です」

「あ、あら、そう」

 

 愛里寿は、真顔で答えた。

 

「うん、うん、そうね。音楽を聴くのはいいことよ、うんうん」

「はい、私もそう思います」

「ね。……そうそう、夕飯ができているから、音楽は後で、ね?」

「はい。ありがとうございます、お母さん」

 

 そうして愛里寿が、携帯からヘッドホンの端子を引き抜き、そのままポケットにしまいこむ。あとはそのまま、愛里寿は千代とともに一階のリビングまで移動し、いただきますの一礼とともに夕飯を口にしていった。

 

「今日は、練習試合があったのよね?」

「はい。今回は――」

 

 今日も無事平穏に、一日が終わろうとしている。

 いくら丼を食べ合いながらで、愛里寿がよかったところ悪かったところを報告し、千代は満足げにうんうんと頷いていく。いよいよもって進歩の止まらない愛里寿の武勇伝を聞いて、千代の機嫌も食も進んでいった。

 

 ――けれど、

 

 聴いている曲について質問した時、どうして愛里寿はあんなにも焦っていたのだろう。あんな愛里寿を見るのは、今年で初めてな気がする。

 少し考えてみて、否応なくフラッシュバックする――彼氏の影響で、お酒を飲み始めたんです。

 

 自分の目の前で、喜色満面な真顔を浮かばせている愛里寿を見つめる。

 まさか、まさか、ひょっとして?

 

 

―――

 

 

 午後18時。

 帰宅して早々、死んだような声でただいまーと呟き、死んだような足取りでアパート内を這いずり回り、半ば本能的に自室まで向かっていって、黒沢は我先にとベッドへ横たわった。

 ――つかれた。

 部屋に設けられた蛍光灯を見つめながら、ほんとうにそう思う。

 

 

 今日は種村達と一緒に遊ぶことになったのだが、計画などは特になく、とにかく思いつく限りの娯楽に手を伸ばそうぜということになった。

 最初にやったのは、映画鑑賞だ。いまは海外のヒーロー映画が放映されているから、じゃあそれでと赴き――「今は応援上映ですよ」と受付から言われたものだから、黒沢は、当初は控え目に応援した。種村達は、体を使ってまで感情表現をしてみせた。

 

 映画もそろそろ終盤に差し掛かった頃、ヒーロー達は、強敵ヴィランに対して必死に抗っていた。それでもヴィランはあざ笑い、車すら吹っ飛ばせる戦車級パンチでヒーロー達を苦しめ、ダメ押しとばかりに戦車を一撃で破壊するビームを乱射、五人いたはずのヒーロー達も一人きりになってしまった。

 ヴィランが諦めろと言う、ヒーローは「お前がな」と苦笑し、立ち上がる。

 絶対に屈しないその姿を見て、フラッシュバック。気恥ずかしさなど一瞬のうちに消え失せて、

 

 ――がんばれ――ッ! 負けるなッ! 頑張れ――ッ! リベンジしてくれッ! 立ってくれッ! スタンダ――プッ!

 

 ヴィランをぶっ飛ばし、映画が沈黙する中で、松本から「あんたの応援、アツかったよ」と言われた。対して黒沢は「そうか?」と淡々と答える。表面上は。

 ――本音なんて言えるはずがない。ここまで応援スキルが上がったのは、ボコと、そして――

 

 一発目から喉を枯らし、叫びすぎたせいで体も少し痛かったが、空はまだ明るい。ということで、次に何をしようかと思案していたところ、種村が山を見つめ、

 

「山か……」

 

 そういうことになった。

 黒沢と種村達は、休む暇もなく山を登ることにした。

 近所に佇むこの山は、「近隣山」という。登校中によく見かけるロケーションであったのだが、少しながら「どうなってんのかな」と思ってはいたのだ。

 いざこうして足を踏み入れてみると、何だか未知への冒険めいた感覚を覚えた。ひとたび森の中へ入ってしまえば、密林のジャングルと何ら変わりはない。

 幸いにしてコースは整っていたから、道に迷うことはなかった。途中で山頂を知らせる立て看板を見つけて、種村が「山頂を目指そうぜ」と意気込んで――その結果、我ら登山隊はヒーコラ言いながら山を登っていった。

 途中で虫に襲われたり、体に悪そうな色をしたキノコを発見したり、菊池が「食ってみる?」と言い放ったり、種村が「食ってみるか?」と手を伸ばしたり、黒沢が「ストップ!」と阻止したりと、体力的にも精神的にも消耗が激しかった。でもあのキノコのことは、正直けっこう気になってはいる。

 そうして激戦をくぐり抜け、ついに登山隊は山頂へたどり着いた。穏やかなコースではあったものの、思い出作りとしては十分といえよう。

 小さい町並みを見下ろしながら、誰もが一斉に「やっほーッ!」と叫ぶ。声は、返っては来なかった。

 

 そうして無事に下山を果たしてみれば、まだ空は明るかった。

 山登りをした直後ということで、黒沢と種村たちの達成感が、テンションは未だ高い。最後にどこか寄るかーと桜井が言い、黒沢が何も考えずにそうすっかーと応答して、種村が建物に指さして「あそこで祝おうぜ」と提案して、そういうことになった。

 ジャンクフード店だったが、この手の店で飲み食いすることは滅多にない。松本も「来るのはじめてー」とコメントしていた。

 それぞれの注文をし終え、トレイを受け取り、総勢五人のグループが一つの席についていく。うまそうな匂いが漂う中で、誰もが疲れ果てたような目を漂わせていたし、体だって危なげに左右に揺れている。応援上映に山登りまでしたのだから、そうなるのも仕方がない。

 

「……つかれたな」

「ああ」

「でも、まあ、すげえ楽しかったよな」

 

 種村の一言で、ほかの全員がにやりと笑う。

 

「な。今日はスゲー遊んだ気がする」

「私もー」

「俺も」

 

 そして、黒沢がバニラ味のシェイクを少し飲み、

 

「まだ、夏休みは続くんだよな」

「だろうな、始まったばっかだぜ」

「っかそっか、これは序の口ってことか、嬉しいぜ」

 

 松本が、「ねー」と笑い、

 

「どうしよっか。山は制覇したし、プールへは行ったし、次は海にでも行ってみる? 日帰りで」

「海か、いいなー。菊池、お前はどーよ」

「いいぜ、行こう」

「いつにする?」

 

 そこで種村が、若干曇った顔つきになる。

 

「……少し宿題を終わらせてから」

「あー」

 

 菊池と松本が、露骨につまらなさそうな顔をする。

 

「そーだったよそれがあったよもう。終わらせねーとかーちゃんにドヤされる」

「んもー、宿題ってなんだよもう。自由研究もしなきゃいけないし、やーだー」

 

 菊池と松本が嘆く中で、黒沢は平然とした素振りでハンバーガーを噛んでいく。ハンバーグ特有の弾力が、ソースが、舌に甘く染み込んでいった。

 

「黒沢クン、余裕そうだねえ?」

「毎日、少しずつやってるしな」

「まじでー? エラくない黒沢」

「フツーだよフツー」

 

 そして松本が、「よし!!」と手を打つ。嫌な予感を察した黒沢が、イヤそうな顔を見せつける。

 

「明日、黒沢ん家で宿題をしよう!」

「やだよ」

 

 明日は、練習試合を見に行かなきゃいけないというのに。

 松本は、実に不満そうに口元を曲げる。

 

「なんでー? 友達を見捨てるというの!?」

「自分でやれ、メドイ」

 

 あしらった次の瞬間、松本の両目が器用に輝き出す。

 

「松本、」

「助けて……?」

 

 至近距離から、誠心誠意が込められた少女の眼差しを真正面から受ける。

 対して男黒沢は、すこしの沈黙を以て、心穏やかに微笑んでみせて、松本の肩に手を載せて、

 

「がんばれ」

「なんで――!?」

 

 効くものか。

 相手が松本で良かったと、本気で思う。

 これがもし、あの子だったら――

 

「オメー強ぇーな」

「ブレねーな」

「メンドイだけだよ。ほら、宿題くらい自分でやれ」

「へーい」

「はーい」

 

 松本が唇を尖らせ、ふてくされ顔でフライドポテトを少しずつ噛んでいく。他の面々も「やだなー」とか「めんでー」とか言うが、黒沢は「やっときゃ、後は遊び放題だからな」とフォロー。松本は、やる気なく「へいへーい」。

 食べ終えた後は、またなーとお別れをした。

 

 

 ――そうして、現在に至る。

 こんなの、クタクタになるに決まっていた。楽しいに決まっていた。

 親は、まだ帰ってきてはいない。夕飯になるまで少し眠っちまおうか。黒沢は、ベッドの上で大の字になりながら、そっと目をつむっていって、

 

 トランスミュージックが、部屋中に鳴り響いた。

 

 どうやら、誰かが電話をかけてきたらしい。こんな時に一体誰だよと、待受画面を見てみて、

 考える前に、黒沢の指が受信ボタンをプッシュしていた。

 

「もしもし?」

『あ、こんばんは、黒沢。いま、だいじょうぶ?』

「おお、ぜんぜんヘーキヘーキ。どしたの?」

 

 ベッドの上からのろのろと起き上がり、あぐらをかき始める。

 島田愛里寿から電話がかかってきたおかげで、もやもやめいた眠気なんぞはすっかり吹き飛んでいた。

 

『うん。黒沢は……日曜日に、何か予定はある?』

「ない」

『あっ。じゃあ、よかったらボコミュージアムへ行かない?』

 

 愛里寿からの明るい声。黒沢は当然、

 

「もち、行こうぜ行こうぜ。何時から行く?」

『十時』

「十時? スピーディだね」

『……もう少し遅めがいい?』

 

 黒沢は、首を左右に振るう。

 

「んなことない。島田さんと早く会えるんなら、いつでもいいぜ」

『……そっか……』

 

 携帯越しから、心の底からの安堵が聞こえてくる。それを耳にして、黒沢の口元も緩くなる。

 

「じゃあ日曜、十時ね。ボコミュージアム前で待ち合わせってことで」

『あ、待って。待ち合わせ場所についてなんだけれど』

「うん」

 

 ここで初めて、愛里寿と黒沢の合間に間が生じる。

 黒沢が、これまで以上に携帯を耳に押し当てる。一句たりとも聞き逃さないようにと、意識を集中させる。

 

『その』

「うん」

『よかったら、中央公園で待ち合わせをしない?』

「え、別に良いけど……何で?」

 

 珍しいな、と思う。

 いつもはボコミュージアム入口前で待ち合わせをするというのに、どうして愛里寿は遠回りの選択をしたのだろう。自分はともかく、愛里寿に手間がかからないのだろうか。

 

『……その』

「あ、言いたくなかったら別にいいんだぜ?」

『ううん。その、あのね』

 

 電話越しから伝わってくる、愛里寿の緊張。

 愛里寿と知り合って二十日ほどが経過したが、声色で愛里寿の調子が何となくわかるようになった。少しくぐもったような、躊躇が生じた言動が愛里寿から発せられた時は――待つのが一番正しい。急かしてはいけない。

 

『その、』

「うんうん」

 

 そして、愛里寿は、

 

『黒沢と、たくさんお話がしたくて』

 

 すごいことを、言われた。

 そして、心臓が痛くなる。愛里寿のただの一言で、驚きとか、嬉しさとか、鼓舞とかが芽生えてきた。そこに、不愉快さなどは一切生じていない。

 

「そ、そうなんだ」

『う、うん』

「……だな。俺も島田さんの話、たくさん聞きたい」

『あ――うんっ。練習のこととか、音楽とか、話したい事がたくさんあるの』

「そっかそか、それは聞きたいな。――えーと、俺からの話題は……あ、ちょうどよかった。今日さ、色々遊んできてさ」

『どんな?』

「ああ。映画館に行ったり、山へ登ったり、ジャンクフード店で食べたり、宿題を見てくれとせがまれたりした」

『たのしそう』

 

 黒沢が、けっけと笑う。

 

「おかげでクタクタだよ。今日はメシ食って、風呂入って、ちょっと宿題したら寝ちまうんじゃないかな」

『偉いね、黒沢は』

「普通だよ普通」

 

 とは口で言うものの、内心はおっしゃあと喜んでいたりする。これが松本相手なら、「だろー」と返していただろう。

 ――やっぱり島田愛里寿に対しては、他の女子とは「違う」対応をしてしまう。自分が喜ばせたいとか、自分が励ましたいとか、自分が笑わせたいとか、俺が守りたいとか、そんなことばかり。

 もちろん、他の友人に対してもそういう感情はある。ただ愛里寿になると、それが色濃くなるというか、常にそう意識してしまうとか、そんな感じなのだ。

 これを、息苦しいと思ったことはない。むしろ、ずっと続いて欲しいとすら想う。

 なぜだろう。愛里寿とは友達で、ボコ仲間で、前に正してくれた人だからだろうか。

 わからなかった。

 

『……そっか、映画館に山か……いいな』

「じゃあ、今度一緒に行ってみる? 山は……疲れるけど」

『ほんとう!?』

 

 朗らかな声を耳元で聞いて、まずは体が傾いた。そして、思わず笑ってしまった。

 

「いいよ。でも山はマジで疲れるから、止めたほうがいいかも」

『いい、絶対に楽しい』

「そうかなあ?」

『うん。黒沢と一緒に登るんだから、楽しい』

「……え、ええー? そお? なんで?」

 

 愛里寿の言葉に照れが生じて、苦し紛れに理由を聞いてしまう。

 ――そして愛里寿は、『えっと』と言葉を詰まらせた。待つ。

 

『その……なんでだろう。ただ、黒沢と一緒にいると、楽しくなるっていうか、そんな感じになるの』

「へー……俺とおんなじだね」

『そうなの?』

「うん。俺も、島田さんと一緒にいるとさ……こう、気合が入るんだ。なんでだろうね?」

『……なんでだろうね』

 

 黒沢と愛里寿が、小さく含み笑いをこぼしあう。

 

「まあ、」

 

 窓から、虫の音が聞こえてくる。

 

「島田さんの気晴らしになれているのなら、俺は嬉しいよ。島田さんには、大きすぎる恩もあるしさ」

『ううん。私の方こそ、黒沢にたくさんの力をもらってる』

「え、どんな?」

『戦車道。時間があったら、いつでも見に来てくれるでしょ?』

「ああ、そだね」

『……私にとってはね、それが力になってるんだよ。だから、調子が良いんだ』

 

 どこか遠くで、バイクの走る音が響く。

 

「……そっか。もしそうなら、俺はこれからも応援し続けなきゃな」

『やったっ。あ、でも、無理しちゃだめだよ?』

「んなわきゃない。試合は見てて楽しいし、島田さんの活躍を見るのはもっと楽しいから」

『――さ、さんきゅー』

 

 窓から、弾けたような音が鳴った。見てみると、コガネムシが張り付いている。

 

『あ、あのね。これまでは五両ほど相手にできたんだけれど』

「おお」

『六両、相手にできるようになりました』

「――マジで!?」

『うん』

「すっげえ! あ、普通はどんくらいが限界だっけ?」

『三両』

「アメイジング……」

 

 ドア越しから、ただいまーの声が聞こえてきた。

 

「これは日本一の戦車乗り決定っしょ」

『まだまだだと思う。世界には、優れた戦車乗りがたくさんいるから』

「偉いなあ島田さんは。俺だったら、ぜったいに調子に乗っちゃう」

『黒沢は、もっとはしゃいでもいいんだよ。ずっと、我慢し続けてきたんだから』

「……サンキュ」

 

 携帯に熱が籠もってきた。

 何となく画面を見てみれば、もう三十分ほどの時間が経過していた。

 

「あ、島田さん。けっこう時間が経つよ。電話代もあるし、そろそろ切ったほうが」

『あ……ほんとうだ。その、ごめんなさい、長く付き合わせてしまって』

「いいっていいって。楽しい時間はあっという間っていうだろ? それとおんなじさ」

『――うん。そうだね』

 

 電話の向こう側に居る愛里寿は、どうやら笑ってくれたらしい。

 よかったよかったと、心の底から思う。

 

「じゃあ、日曜で」

『うん』

 

 それじゃあね。そう言おうとして、

 

「またね」

『うん。またね』

 

 電話を、切った。

 

 

―――

 

 

 愛里寿が、一階へ降りてきた。

 千代はコンロの火を消して、熱く香ばしいカレールーを白米の上にかけていく。水だって忘れない。

 

「おいしそう」

「味見したけど、バッチリよ」

 

 千代が、親指を立てる。愛里寿は、無表情でこくりと頷いてくれた。

 

「最近の愛里寿はよく頑張ってくれているから……奮発したのよー」

「ありがとう、お母様」

「ふふ」

 

 そうして、愛里寿がテーブルにつく。千代もテーブルの上にカレーライスとコップを置いて、夕飯の準備を完了させた。

 ――そうして、両手を合わせあって、

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 そうして、家族団らんの時間が始まった。

 まずは愛里寿がカレーライスをスプーンで掬い、そのまま口の中に入れて、ゆっくりゆっくりと噛んでいって、

 

「おいしい」

「でしょう?」

 

 うんうんと頷きながら、愛里寿は次々と母お手製カレーを食べていく。いつもより量は多めだが、これぐらいなら完食出来ることも千代は知っている。

 

「お代わりもありますからね」

「うん」

「……データを見せてもらったけれど、ほんとうに大活躍してるわね。とても、誇らしく思うわ」

「ありがとう」

「ええ。そんな愛里寿には、母として何かしてあげたいなって思ってるの」

「ううん、大丈夫」

「そう? お休みとか、お小遣いは?」

「大丈夫」

 

 愛里寿は、耳元に手を当てて、

 

「私にはボコと、音楽があるから。それで十分」

 

 千代の、スプーンの手が少しだけ止まった。

 だっていまの愛里寿は、口元が少し緩んでいたから。

 

「――そう」

 

 だから千代も、心から微笑むのだ。

 ありがとう。娘に音楽を教えてくれた、誰かさん。

 

「愛里寿」

「はい」

「これからも誇らしく、楽しく道を歩んでいってね」

「――うん」

 

 強く、妥協せず、道を歩んでいく。それは、島田流としては正しいことだ。

 強く、妥協せず、心を弾ませながら道を歩んでいく。それは、母として何よりも嬉しいこと。

 ――言うべきことを言い終え、食卓が静かになる。音が欲しくなったので、リモコンを操作してテレビを点けた。

 

『――日本ドラッグレース協会、これからも活躍して欲しいですね。それでは、次のニュースです』

 

 愛里寿が、水を飲む。

 

『本日、文部省から正式に、大洗学園艦の廃艦決定が下されました』

 

 食卓に、爆発的な硬直が訪れる。

 

『文部省によりますと、少子化による影響と、学園艦の維持費と、実績を鑑みて……十分に思索した結果、大洗学園艦の廃艦を決定したとのことです』

「――お母様」

「ええ」

 

 視線はテレビのまま。しかし、愛里寿の言いたいことは理解している。

 

『実績についてですが、大洗学園艦は今年の高校戦車道全国大会で優勝を果たしており、それに伴って廃艦を免除された経歴がありました』

 

 ニュースキャスターの言う通りだ。大洗学園艦という世界は、戦車道という力を以てして守り通された。

 ――大会のVTRが映し出される。

 

『これまで不参加続きだった大洗学園艦ですが、廃艦を免除する為に、今年の高校戦車道全国大会に参加。そして見事、優勝を果たし、廃艦計画を撤回させました。

……専門家によりますと、当時は無名だった大洗学園艦が優勝できたのは、日本戦車道最大流派の一つ、西住流の後継者である西住みほ選手の指導力があってのもの、と指摘しています』

 

 これは日本戦車道界隈では極めて有名な話で、大番狂わせとか、西住流恐るべしとか、戦車道は奥深いとか、とにもかくにも驚愕と歓喜の声が飛び交ったものだ。戦車道ニュースWEBも、このことは大々的に報道された。

 

『こうした実績があるにも関わらず、文部省は、廃艦は確定事項だと発表しています』

 

 不義理な話だ。

 戦車道で掴んだ結果を、オトナの事情で撤廃するというのか。無駄だとは思うが、自分も抗議してみることにする。戦車道流派の家元として、こんな茶番は見過ごしてはおけない。

 

「お母様」

「あ」

 

 娘が、怯えた顔をしている。

 ――両頬を、軽くはたく。

 

「ごめんなさい、いやな顔をしてしまって」

「ううん。私も、不愉快に思ってた」

「そう、そうよね」

 

 チャンネルを変える。何かいい番組は無いか、何か――

 

『オイラはボコ! 今日はぜったいに勝つぞ!』

 

 瞬間、愛里寿めがけ視線をスライドさせた。愛里寿が、真顔で前のめりになっていた。

 

「さ、食べましょう、愛里寿」

「うん」

 

 ――さて、どんな文面をぶつけてやろうか。

 

 

 

―――

 

 

 

 日曜日、午前九時。

 朝飯を食べ終え、丹念に歯磨きをして、服がぴっちりしているかどうかを確認し、「よし」と黒沢は声に出す。

 そろそろ出かけようかと、食器を洗っている母の背に顔を向けて、

 

「母さん。今日も遊びに行くよ」

「あら、そう? いいわよ、車に気をつけて……お小遣いは足りてる?」

「よゆーよゆー」

「ふふ、そう」

「じゃ、そういうことで」

 

 手で挨拶して、玄関の前に向かう。そのまま外靴を履いて、靴紐を整えているところ、

 

「ねえ」

「うん?」

「今日は、何だかとっても嬉しそうね」

「え……そ、そお?」

 

 どきりとする。全てを見透かされているような気がして、目ん玉が丸くなる。

 

「最近は、あなたはよく笑うようになったけれど……今日は特に、そんな気がするわ」

「いつも通りだよ」

「そお? わかったわ。じゃあ、いってらっしゃい」

「いってきます」

 

 そして黒沢は、いつも以上の勢いでアパートから出ていってしまった。これ以上話しかけられると、色々とバレてしまうような気がしたから。

 母には、島田愛里寿とのやりとりを話したことはない。よく分からないのだけれど、口にするのがとても恥ずかしいからだ。友人の話は頻繁にするくせに。

 なんなんだろう、この気持ち。

 両肩で、ため息をつく。

 今日も活きが良い日光を、その身に浴びる。

 ――まあ、いいか。

 イヤホンをつける、夏にぴったりの音楽を流す。そして、待ち合わせ場所まで歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 日曜日の朝九時。

 朝食を食べ終え、食器を片付けながら、「文部省からの返答はまだかしら」と面倒そうに思考する。日曜だろうと、考えることは多いのだ。

 無論、休むつもりはない。これも日本戦車道の、島田流の繁栄の為なのだから。

 

「お母様」

「なあに?」

 

 皿を洗いながら、千代が応える。

 

「これからちょっと、ボコミュージアムへ出かけてきます」

「あら」

 

 思わず、驚いた声を上げてしまう。

 

「今日は早いのね。まだ、九時よ?」

「そんな気分なので」

 

 見逃さない。愛里寿は明らかに、目をそらした。

 

「そう、わかったわ」

 

 けれど、言及などはしない。

 

「行ってらっしゃい、愛里寿。車には気をつけるのよ?」

「はい。それでは、いってきます」

 

 そうして愛里寿が、ボコのロゴマークつきのヘッドホンを耳にかける。玄関で靴を履いて、そのまま母の前から姿を消してしまった。

 ――ふたたび、皿を洗い始める。

 最近の愛里寿は、ほんとうによく笑うようになったわね。

 

 自然と、千代も微笑む。

 

 

 

 

 

 

 時刻は九時二十分ほど。黒沢は「これなら、島田さんを待たせることはないだろう」と思いながらで、中央公園前まで差し掛かり、

 

「あ、黒沢っ」

 

 ヘッドホンをつけていた愛里寿が、いた。

 黒沢はイヤホンを、愛里寿はヘッドホンを取り外し、手で挨拶を交わし合う。

 

「やあ。一番乗りとは、やるねー」

「うんっ。なんだか、待ちきれなくて」

「そうなの?」

 

 愛里寿が、こくりと頷いて、

 

「黒沢も、どうして早くから来てくれたの?」

「あー……その、俺も待ちきれなくて」

 

 愛里寿が、含み笑いをこぼす。

 

「私と、おんなじだね」

「そうだなあー……ま、それだけ楽しみにしてたんだろうな」

「うん」

 

 つまりは、そういうことだった。

 気を取り直して、横断歩道に目を向ける。

 

「じゃ、行こうか」

「うん」

 

 赤信号とともに横断歩道を渡って、ほんの少しの沈黙が訪れる。気まずいとは違う、気恥ずかしさめいた躊躇が黒沢の口に覆いかぶさっていた。

 何を話をしよう。映画のことか、山のことか、それとも戦車道についてか、それとも、

 

「黒沢」

 

 先に沈黙を打ち破ったのは、愛里寿だった。

 

「この前聴いた音楽なんだけれも、すっごくよかった。心が躍った」

「お、マジで?」

「うん。つい、体が動いちゃう」

「わかるわかる。俺もそうだよ」

 

 愛里寿が、手を口元に当てながらで笑う。

 

「黒沢もなんだ」

「そうそう。機嫌が良い時なんて、エアドラムとかしちゃうなあ」

「エアドラム……こう?」

 

 愛里寿が両手でエアドラムスティックを手にして、軽やかなリズムとともに音楽を奏でていく。

 黒沢は機嫌よく「うんうんそうそう」と声に出した。

 

「うん、これはいい。次に音楽を聞く時、やってみようかな」

「いいんじゃないかな。気分転換にもなるしね」

「うん」

 

 愛里寿が、人差し指をくるくると回す。ドラムスティックを回転させているのだろう。

 ――歩いている最中に、近隣山の入り口を横切ろうとする。黒沢は、思わず「あ」が漏れて、

 

「ここ、ここ。昨日、ここでてんやわんやと登ったんだよ」

「ここを? すごい……大変だった?」

「大変だったよ。虫には襲われるし、変な色をしたキノコが生えてるし。でも、コースは整ってあるから俺らでも登れた」

「そうなんだ」

 

 愛里寿の顔は、とても明るい。

 何やかんやで大変ではあったが、何だかんだで面白かったのも事実だ。

 

「山頂に登った時の爽快感は、間違いなくエクセレントだね」

「そうなんだ。今度、一緒に登ってみたいな」

 

 一緒に。

 その言葉に対して、黒沢はどきりとする。

 

「……いいの?」

「うん、いいよ」

 

 愛里寿はきっぱりと、笑っていた。

 

 

 □

 

 

 近隣山を通り過ぎていって、ようやく海辺が見える歩道にまでたどり着く。ここを数十分ほど歩けば、ボコミュージアムに到着だ。

 その間に、黒沢は映画館のこと、そしてジャンクフード店での出来事について語っていく。その中でも、とびっきりの話の種といえば――

 

「――でさあ、松本ってやつがさ、すげー厄介だったんだよ」

「どういうふうに?」

「宿題を見せてくれってせがまれた」

 

 愛里寿が、なるほどと頷く。

 

「宿題なんて毎日やっときゃ、簡単に終わらせられるってのにな」

「うん。私も、そうやって毎年クリアしてきた」

「さすが。あーあ、松本のやつも島田さんを見習えっての」

 

 愛里寿が、おかしそうに微笑する。

 

「しかもさ、松本のやつ、目をキラキラさせて『宿題を見て』ってお願いしてきやがったんだよ。漫画とかで何度か見たことあるけど、リアルで初めて見た、面白かった」

「すごい」

「なー、すごいよなー。女の子っていう立場をああも使うなんて、デンジャラスだよなー」

 

 そこで愛里寿が、二度三度ほどまばたきをする。

 

「あの」

「うん?」

「松本って、女の子?」

「ん? そだよ」

「そ、そうなんだ。……えっと、普通の友達?」

 

 愛里寿の質問に対して、黒沢は特に考えもせず、

 

「うん、友達。よく一緒に遊ぶ仲かな」

「……そうなんだ」

 

 愛里寿が、ほっと胸をなでおろす。

 ――その反応に、なぜだか目が離せない。意味はわからなかったけれども。

 

 

 歩き慣れた道を辿っていって、そろそろボコミュージアムが見えてきた。ここまでだいぶ歩いてきたはずなのだが、むしろあっという間と思う。

 それも、愛里寿のお陰だろう。愛里寿に話すことも、愛里寿から話を聞くことも、黒沢からすれば十分に楽しいものであるから。

 時計を見てみる。時刻は十時頃。

 三十分も歩いてきたのか、実感はないけれど。

 

「もう、着いちゃったね」

「そうだね、あっという間だったね」

 

 愛里寿が、こくりと小さく頷く。

 

「じゃあ、入ろう」

「ああ、そうだな」

 

 そうしていつもの調子で、愛里寿と二人きりでボコミュージアムの門まで歩んでいく。そこを越えれば、自分に勇気と出会いをくれたヒーローが待ってくれていて、

 黒沢と愛里寿の両足が、門の前でぴたりと止まった。

 錆びついた門に、新品同様の白いプレートが貼り付けられてある。それは愛里寿はもちろん、黒沢にだって読める文字列で――

 

『8月31日にて、ボコミュージアムは閉館します。長い間のご愛顧、本当にありがとうございました』

 

 

 □

 

 

 ボコショーの特等席に、黒沢と愛里寿が黙って腰掛ける。

 ここまで来るのに、黒沢と愛里寿は一言も喋らずにいた。途中で従業員と出会ったが、「いつもありがとうな! 楽しかったぜッ!」と言ってくれたきり――声らしい声なんて、それだけだった。

 仕方がない、と思う。

 ここで気休めを口にしたところで、こればかりは何も解決しない。何を言えばいいのかも、正直わからなかった。

 席に座りながらで、そっと愛里寿の横顔を見つめる。

 ――不機嫌とは違う、愛里寿の無気力な無表情。

 たぶん、自分も同じような顔をしているはずだ。愛里寿も自分も、ボコミュージアムという施設のことを愛しているのだから。

 もっと、入場していれば良かったのだろうか。

 もっと、グッズを買っておけば良かったのか。

 もっと、友達に面白さを宣言すれば良かった。

 ――わかってはいる。そんなことをしても、きっと無駄だってことに。

 うつむく。ため息までこぼれる。

 

「黒沢」

 

 びくりと、体が震える。

 

「大丈夫?」

「……ああ」

 

 自分は、何をしているのだろう。

 愛里寿を守ると決めたのに、この体たらくはなんだ。

 

「ごめん」

「ううん。私も、すごくショックを受けてる」

「だよな、そうだよな」

「うん」

 

 愛里寿も予感していたはずだ。

 客は二人だけで、修理もままならず。おまけにボコのブームなんてとうの昔に過ぎ去ってしまっている。子供の自分にすら、「経営がやばい」と分かりきっていたはずなのに。

 それでも、やっぱり消えて欲しくはなかった。

 ここで、ヒーローと出会えたから。

 ここで、愛里寿と出会えたのだから。

 

「――あ、ここかな? ボコショー」

 

 聞いたことのない声が、耳に飛び込んできた。

 粘ついていたはずの意識が、瞬く間に固まる。一体誰が来たのかと、黒沢も愛里寿も一斉に振り向いて、

 

 五人組の、女の子のグループがいた。

 

 漠然と、へえ、と思う。

 どういういきさつかは知らないけれど、客が増えてくれて良かった。もう、遅かったのだけれど。

 会場が少し活気づいてきて、自然と表情がほころんでいく。ショートヘアの子が「ここでボコが見られるんだ!」と叫んでいるあたり、ショートヘアの子もボコファンの一人なのだろう。

 愛里寿はいま、どんな顔をしているのかな。黒沢は、多少の舞い上がりながらも愛里寿の横顔を見て、

 

 愛里寿は、張り付けられたような無表情を露わにしていた。

 

「……島田さん?」

「あ、う、ううん。なんでもないよ、なんでも」

「そう?」

 

 何でもないように、愛里寿は言う。

 けれども、その視線はずっと、五人組のグループを気にしてばかりだ。

 知り合いでもいるのかなと、思考する。かといって、ここで聞き出すのはまずいと、男のカンが必死に叫ぶ。

 ――ブザー音が鳴る。幕が開かれる。

 

「よう! お前らまた……おっと! 新しい人も来てくれたんだな! こりゃあ張り切らないといけないな!」

「ボコだーッ!」

 

 ショートヘアの子から、黄色い声が飛び出す。反応からして、ショートヘアの子はやっぱりボコファンだ。

 ――そうして、ボコがその場でシャドーボクシングを始める。見た感じだと軽やかだし、パンチのキレも良いのだが、頭の中では「でもやっぱり?」とか思ってしまうのだ。

 そして、会場の隅からネズミ、白猫、黒猫の三人組(いつもの)がやってくる。間もなくしてボコがシャドーボクシングを止め、三人組の前めがけジャンプで飛び込む。

 

「ようよう! 待ってたぜ!」

「ああ? またお前か! ボコられてえのかよ!」

「今日こそは勝つ! そのために、猛特訓を仕込んできたんだ!」

「へー、やってみるかー?」

 

 黒沢の両拳が、ぐっと握りしめられる。結果なんてわかっているくせに、「頼むぜ、頼むぜ」と小さく呟いてしまう。

 そして、隣で座っている愛里寿のことを見てみて――愛里寿は、隣のグループに対して何度も目配せしている。気になって気になって、ボコショーに集中できていないようだ。

 

「無駄だってこと、わからせてやらぁ!」

 

 やはり、あの五人組に何らかの縁があるのだろう。愛里寿は未だに、声の一つも出してはいない。

 何の事情があるのかは、自分は知らない。

 

「おうおう、やってやるぜ! オイラは、絶対に諦めないクマなんだぜ!」

 

 けれど自分は、愛里寿の力になるって決めたんだ。

 だから、黒沢は立ち上がる。愛里寿が驚いて、自分のことを見つめる中――黒沢は、愛里寿を中心に左側から右側へと席を入れ替える。五人組が、よく見えるようになった。

 

「あ――」

 

 意味はないのかもしれない。こんなことをしても、グループのことは気になってしまうかもしれない。

 けれど、何かをしたくてしょうがなかったんだ。

 愛里寿という女の子を、守りたかったんだ。

 だから俺は、盾になった。

 ――そして、

 

「!」

 

 愛里寿が、びくりと体を震わせる。

 当たり前だ。俺はいま、愛里寿の手を握りしめているのだから。

 嫌われたくはないけれど、何を言われるのかが怖かったけれど、どうしても愛里寿を安心させたかった。仲間はここにいるよ、そう伝えたかった。

 

「――黒、沢」

 

 たぶん、笑えたと思う。

 

「行くぜ行くぜ! おらぁッ!」

 

 ボコは、勇猛果敢に三人組めがけパンチを繰り出す。けれどやっぱりかわされて、白猫の足払いで派手にすっ転ぶ。

 

「ああっ! ボコーッ!」

 

 ショートヘアの子が、悲観の声を上げる。

 

「ぐああ……こ、このままじゃ立てねえ……みんな、オイラに力を、力を分けてくれ!」

「ああ……がんばれっがんばれ、ボコッ」

 

 ショートヘアの子が、控え目に応援する。

 

「もっと、もっとオイラに力をッ!」

「がんばれっ、がんばれっ」

 

 よし、俺が先導する。俺は、大きく大きく息を吸い込んで、

 手に、強い熱がこもった。

 

「がんばれっ! ボコッ! がんばれッ! スタンダ――――ップッ!!!」

 

 愛里寿が勢いよく立ち上がっていた。俺の手を、ぎゅっと握りしめながら。

 ――熱気が、出来上がった。

 

「何してるんだボコッ! 立てッ! 立ってくれ――ッ!」

「あ……がんばってボコ! がんばれ――ッ!」

 

 黒沢も、ショートヘアの子も、直立してまで叫ぶ。他の女の子たちも、「がんばれー」「がんばってくださーい!」「頑張って! ファイトですー!」「が、がんばれ~~ッ!」

 

「っしゃ―――ッ!!!」

 

 そして、ボコは野獣のように立ち上がる。体全身で吠え猛り、三人組が気圧されるように後ずさりした。

 

「ありがとよみんな! パワーが湧いてきたぜッ!」

「FOOOOッ!!」

「エクセレント! エクセレントッ!」

「すごいよボコ――ッ!!」

 

 ボコが、腕をぐるんぐるんと回す。

 

「っしゃあ! 何か技のリクエストはねえか? 全力で応えるぜ!」

 

 きた。それを注文するのは、大抵は自分の役目なのだが、

 

「お姉さん、お姉さん」

 

 小声で声をかける。それに気づいたショートヘアの子が、「あ、うん!」と頷いてみせて、

 

「ボコ! 相手の後ろに回り込んでパンチして!」

「わかったぜ―――ッ!!」

 

 指令を受けたボコは、白猫めがけ突っ走り、通り過ぎると同時に体を捻って、拳を振り上げ、

 コケた。

 

「……なに失敗してんだよオメー!」

「だっせえ! だっせえぞ!」

「踏み込みが足りすぎたなーッ!」

「ぐあああ、やめろ――ッ!」

 

 うつ伏せにダウンしているボコめがけ、情け容赦のない足蹴りが次々と降りかかる。諦めんとばかりにボコが腕を上げるものの、もはや立ち上がる気力すら残っていないだろう。

 

「ああっ……頑張れボコッ! 頼む! お前はやるクマだろーッ!」

「ボコー! がんばれ! がんばれーっ!」

「ボコ! お願い! がんばってーッ!」

 

 何度も応援されても、ボコは結局立ち上がれない。三人組も満足したのか、ぞろぞろと会場から立ち去っていく。

 ボコはそのままスポットライトを浴び、「ぐぐ」と唸って、

 

「次は、必ず勝つぞーッ!」

 

 そうして、幕が閉じられる。

 

「――なにこれ、勝てないの?」

 

 ロングヘアーの女の子が、唖然とした口ぶりで呟く。

 その真っ当な疑問に対して、ショートヘアの子が、愛里寿が、俺は、にこりと笑って、

 

「それがボコだから!」

「それがボコだから!」

「それがボコだから!」

 

 

 □

 

 

「さっきはありがとう! 凄く楽しかったよ!」

 

 会場からグッズショップめがけ歩きながら、ショートヘアの子が元気いっぱいにお礼を言ってくれた。黒沢は今更ながら、ノリにノってしまったことを恥じらいつつ、

 

「い、いえ、俺も楽しかったです」

「うん。私も」

「よかったぁ。……えっと、二人はよく、ここに来るの?」

「まあ、とりあえずは」

 

 黒沢が苦笑して、愛里寿がこくりと頷く。

 見たところ、五人組は中学生か高校生ぐらいだろうか。自分よりも背が高い。

 けれども今は、こうして平然と話が出来ている。それもこれも、「それがボコだから」のお陰だ。

 

「そうなんだ……残念だね。閉館、だなんて」

「うん」

「でも、俺達はずっとボコのファンです」

「――うん、そうだね。ボコは、絶対にめげないもんね」

 

 ロングヘアーの子が、「あれでいいのかなあ」と呟く。穏やそうな女性が、「いいんじゃないでしょうか」と頬に手を添えて一言。

 

「まあ、その日が来るまで……俺はずっと、ここに行きます」

「そうなんだ。偉いね……真のボコファンだね」

「いえ。……あ、あそこです、グッズショップ」

 

 瞬間、ショートヘアの子の目がきらりと光る。早歩きしてまでグッスショップに駆け込むあたり、「さすが」と呟かざるを得ない。

 

「わあ~! ボコグッズがこんなに!」

「可愛いですねえ」

「うーん、このストラップは女の子らしさを表現できるかも」

「ぬいぐるみですか。そういえば、一つも持っていませんねえ……」

「目覚ましもあるのか」

 

 グループが、それぞれの商品を手にとって感想を言い合っている。ボコグッズがこれほど注目されていることに、ボコファンとしては思わず破顔してしまう。

 

「すごいな、すごいな……わ、レアボコだー!」

 

 ショートヘアの子が、何の迷いもなく手乗りボコを手に取る。確か売れ残りの一つであったはずだが、こうして手に取られていく様を見ると、何だか感慨深い。

 ――そして、ショートヘアの子と目が合った。黒沢とショートヘアの子が、同時に「あ」と言った。

 

「そういえば、私の名前を言っていなかったね。私は西住みほっていうの。……良かったら、その、君の名前を教えて欲しいな」

「あ。俺は黒沢っていいます」

「黒沢君っていうんだね。うん、同じボコファンとして仲良くなりたいな」

「もちろん、俺もです」

 

 そうして、みほと黒沢が握手を交わし合う。これで、ボコ仲間が増えた。

 さて、

 黒沢は、後ろに視線を向けて――愛里寿が、気まずそうに視線を逸らしている。

 

「……大丈夫か?」

「あ、うん……その、ごめんなさい」

「いや、いいよ。……そろそろ帰ろうか?」

「う、ううん。私もその、西住さんと、仲良くなりたい……けど」

 

 けど?

 黒沢が、首をかしげる。

 

「えっと。何か私、やっちゃったのかな? その、ごめんなさい」

「ううん、西住さんは何もしてない。ただ、その、えっと」

 

 ――ちょっと待て。

 このショートヘアの子は、西住みほと名乗った。西住、と言った。

 最初に聞いた時は、「へえ」と思った。そして愛里寿は、その西住みほに対してどこか遠慮しているような、怯んでいるような、そんな態度を取り続けている。

 ――ここまで見てしまえば、島田流フォロワーのカンが、否応なく冴え渡ってしまう。

 この子はひょっとして、あの西住流の関係者か何かなのか。後継者なのだろうか。

 だとしたら、愛里寿の態度にも納得がいく。互いにライバル同士だというのに、こうも至近距離から出会ってしまっては、どうしていいかまるで分からないはずだ。ましてや、照れ屋さんである愛里寿ならば尚更だろう。

 よし。

 

「しま……愛里寿さん」

「――黒沢」

「大丈夫、俺がずっと見守るよ。それに、俺たちは……ボコ仲間だろ? きっかけなんて、それでいいと思う」

「黒沢」

 

ボコのテーマが、館内で高らかに響き渡る。

 

「まずかったら、一緒に帰ろう。それでもいい」

 

 みほは、愛里寿の決意を待ってくれている。優しい人なんだなと、本能的に思う。

 そうして、数秒程度の沈黙の後で、愛里寿はみほの目を真正面から見据える。

 

「――あの」

「うん」

 

 そうして黒沢は、愛里寿の背中に手を当てた。愛里寿は、小さく小さく、うん、と頷いた。

 

「西住さん」

「うん」

「私は島田愛里寿。島田流の後継者の、島田愛里寿」

 

 みほが、「島田流?」と静かに呟き――すぐに、目と口を丸くした。

 

「本当に? あの島田流の?」

「うん。近くの大学で、戦車道を歩んでいるの」

「――すごい!」

 

 まるで自分のことのように、みほが大喜びする。ロングヘアーの子が「どしたのー?」と駆け寄ってきた。

 

「あのね、沙織さん。この子は、島田流っていう凄い流派の後継者なの!」

「しまだりゅう……?」

「うん。ワンマンアーミーを重点に置いていて、変幻自在の戦術を得意としているの。またの名を、ニンジャ戦法って呼ばれているんだよ」

「はえー……」

 

 ロングヘアーの女性が、あっけにとられたような様子で愛里寿のことを見つめている。どうしたどうしたとグループ全員が集まってきて、沙織と呼ばれた女性があれこれと説明し始める。

 凄いと言われてくすぐったさを覚えたのか、愛里寿は目を逸らしっぱなしだ。黒沢は、苦笑することしか出来ない。

 

「そういえば、大学って言ってたけれど……もしかして、先輩?」

「ううん、私は十三歳。だから、西住さんが先輩だよ」

「え――な、なんで大学に?」

「飛び級してるから」

「とっ……飛び級ゥッ!?」

 

 みほと、ロングヘアーの女性と、ショートボブの女性が驚愕する。穏やかな女性は「まあ!」と感嘆し、猫背の女性は「すごいな」と一言。

 そりゃそんな反応もするよな、と思う。出会った頃が、とても懐かしい。

 

「うわあ、凄いなぁ……すごいよ、島田さん!」

「ありがとう。でも知名度は、西住流の方が上だから……だからいつかは、追い越してみせる」

「そっか……うん、がんばって――と言うのは、おかしいかな? あはは」

 

 みほが、困ったように苦笑する。

 愛里寿は、首を左右に振るい、

 

「――確かに、私達は切磋琢磨しあう仲だけれども」

「うん」

 

 愛里寿が、そっと、

 

「今の私は、戦車には乗ってない。ここはボコミュージアムで、一緒に応援しあった仲だから……その……」

 

 そっと、

 

「ボコ仲間に、友達になって、ほしい」

 

 みほに、手を差し伸べた。

 ほんの少しだけの沈黙が訪れたが、すぐにでもみほは嬉しそうな笑顔になって、

 

「うん! 私でよかったら! これからもよろしくね、島田さん!」

 

 固くかたく、愛里寿とみほが握手を交わし合った。

 ――思う。

 やっぱりボコには、人を結びつける力がある。

 

 

 □

 

 

 ――またね、島田さん!

 ――うん、またね

 

 今日は、沢山の人と知り合えたと思う。西住流の後継者である西住みほに、大学選抜チームの戦力をあれこれ聞いてきた秋山優花里、逞しい声でしたと称賛してくれた五十鈴華、愛里寿と暗算勝負をした冷泉麻子に、

 

 ――仲いいよね、ふたりとも。もしかして、お付き合いしてる?

 ――お付き合い?

 ――まあ、ボコ仲間として付き合ってますけど

 ――ああ……なんて若いの……

 

 そんな質問を投げかけてきた、武部沙織だ。

 これでも真面目に返答したつもりだが、沙織はどこか遠くを見るような目で、意味深なことを言うばかり。華曰く、「気にしなくてもいいですよ」とのことだが。

 

 そんなことがありながらも、黒沢と愛里寿はボコミュージアムから出ていって、二人してため息をつく。

 今日はほんとう、色々なことがあったと思う。閉館決定にライバル登場、そのライバルと友達になったりと、実にアンビリーバブルなことばかりだった。今でも、鮮明にそれらを思い起こせる。

 時計を見てみれば、まだ十二時ほどだ。

 けれど、これ以上長居しても仕方がない。悔しいが、ボコミュージアムから離れるしかない。

 

「行こう、島田さ、」

 

 そこで、黒沢は「あ」と思い出す。

 

「さ、さっきは気安く呼んでごめん! あ、あれはその、えーっと」

「う、ううんっ、いいの」

 

 愛里寿は、必死に首をぶんぶんと振るい、

 

「その……愛里寿でも、いいんだよ?」

 

 上目遣いで、予想外のことを言われた。

 思わず、つばを飲む。すがるような愛里寿の瞳を見て、心臓が熱く痛くなっていく。

 

「え、と」

 

 愛里寿の頼みなら、聞くしかない。断ることなどはできない。

 だから黒沢は、なけなしの勇気をかき集め、繊細なものに手を触れるような態度で、「あ」と言い、「あ」と口にして、

 

「……愛里寿、さん」

「うん。黒沢」

 

 言えた。

 ジャイアントステップを踏んだ、心の底からそう思う。

 

「――黒沢」

「な、なに?」

「さっきはその、本当にありがとう。黒沢がいなかったら、私は西住さんと友達になれなかったと思う」

「そっか。……力になれて、よかった」

 

 愛里寿は、こくりと首を振るう。

 

「黒沢」

「うん?」

「その……黒沢の手、すごく暖かかった。優しかった」

「い、いや、普通の手だよ」

 

 自分の手のひらを様子見してみるが、やっぱり普通にしか見えない。爪伸びてるなと、何となしに思う。

 けれど愛里寿は、穏やかに首を横に振る。

 

「優しいよ、とても」

「そう、かな」

「うん」

「そっか……うん、じゃあそう思うことにする」

 

 愛里寿からそう言われて、黒沢の気分はすっかり清々しくなっている。唸りながら背筋を伸ばして、「さて」と一声つけて、

 

「帰ろうか」

「うん」

 

 そうして一歩二歩ほど歩いていって、振り返っては半壊気味のボコミュージアムを見る。

 8月31日まで、しばらくの猶予があるが――きっと、それもあっという間に訪れてしまうのだろう。

 

「――ねえ、黒沢」

「うん?」

 

 愛里寿の両足が、ぴたりと止まる。

 黒沢も、同じように止めた。

 

「あの、その」

「うん」

「……ここがなくなってしまっても、黒沢は、私の友達でいてくれるよね?」

 

 愛里寿は言った。自分にとって、最も簡単な質問を。

 だからこそ、黒沢は愛里寿の目を見て、はっきりと言う。

 

「当たり前だ。俺と愛里寿さんとは、ずっと友達で、ボコ仲間だ」

「ずっと、友達……」

「ああ、ずっとずっと友達だ」

「ずっと、」

 

 黒沢の答えを聞いた愛里寿は――自分の胸を、そっと抑えた。

 その顔はどこか曇っていて、悔しそうにうつむいている。未知の反応を前にして、黒沢の声が出るのに数秒ほどかかった。

 

「……あ、えと、大丈夫? 何かやばいこと言った?」

「う、ううんっ、すごく嬉しい、嬉しいの。……でもね、なんだかこう、胸が痛いの」

 

 その言葉を聞いて、デジャブが生じた。

 自分も、愛里寿を見ていると胸が痛くなることがある。そのきっかけは決まって、愛里寿の笑顔によるものだ。

 けれど、その痛みに不愉快を感じたことはない。熱くて、躍るような気分になれて、なぜか手放したくないとすら思えるほどの、前向きな感慨しか残らない発作だ。

 その発作を、今度は愛里寿が受けているというのか。

 自分はともかく、愛里寿には苦しい目に遭ってほしくない。

 

「愛里寿さん、本当に大丈夫? 支えようか?」

「う、ううん! ほんとうに大丈夫」

 

 愛里寿が、深呼吸を繰り返す。

 それが三度ほど続いた後で、愛里寿はようやく心安らいだのか、「ふう」と一息ついた。

 

「ごめんね、迷惑をかけて」

「いや、俺はぜんぜん。ノープロブレム」

 

 黒沢らしい返答を聞いたからか、愛里寿はにこりと微笑む。

 

「よかった。黒沢が、そう言ってくれて」

「いやいや。じゃ、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 

 そうして、門を潜り抜ける。そこで何となく振り向いて、改めて閉館のお知らせを見直した。

 ――見間違えじゃないんだな。

 見なかったことにするかのように、帰路を視界に入れる。

 

「じゃあ、そろそろお別れだね」

「だね」

「私でよかったら……いつでも、連絡をいれてね。なるべく、予定を合わせるから」

「いやいや。愛里寿さんには戦車道もあるからさ、俺のことは二の次でいいよ」

 

 愛里寿が、首を左右に振って、

 

「それは、嫌」

 

 愛里寿から、はっきりとした声で否定された。

 そして黒沢は、申し訳なさそうに「そっか」と呟いて、

 

「ごめん。友達なのに、何だか余計なことを言ってしまって」

「ううん。でも、忘れないで。あなたは私の友達で、私の力そのものだから」

「……俺も、愛里寿さんのことを、そう思ってるよ」

「――そう、だよね」

 

 そして、愛里寿は、

 

「よかった――」

 

 青空の下で、精一杯に笑ってくれた。

 ――自分の心に、また、離れ難い痛みがやってきた。

 

 

 ――またね

 ――うん、またね

 

 そうして愛里寿は、ヘッドホンをつけて家に帰っていく。

 その背中を見送った後で、自分もイヤホンをつける。今日は、静かな曲でも流しながら帰ろう。

 

ずっと、愛里寿の友達か。

なぜだろう。なぜ、その誓いに、どこか不満めいたものを覚えてしまうのだろう。

 

 

 

―――

 

 

 

 文部省から返答が来た。曰く、『考え抜いた結果なのです。家元には、どうかご理解いただけたらと』。

 ――少し考えてみれば、まるでスジが通っていないと理解出来るはずだろう。

 ため息をつく。

 実に不愉快だ。このまま流されてしまっては、戦車道という道が極めて脆いものであると誤解されてしまう。誓いを守ることこそ、礼の基本であるというのに。

 抗議は断固として続ける。これも全ては、戦車道の繁栄のためだ。

 ――その時、ドアの開く音がした。

 もしかしたら、愛里寿が帰ってきたのかもしれない。

 両頬を軽く叩いて、表情を柔らかく整える。

 デスクから立ち上がって、居間までぱたぱたと駆けつけていく。

 

「おかえりなさい、愛里、」

「ただいま戻りました、お母様」

「……どうしたの? 何か、あったの?」

 

 愛里寿は、真顔で首を左右に振るう。

 

「特に、何もありません」

「そうなの? 本当に?」

「はい。……少し、部屋で休ませてください」

「……うん」

 

 まるで、何事もなかったかのような足取りで、愛里寿は自室へと戻っていく。

 

 落胆しきった顔を、抱えたまま。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
ニュースキャスターの台詞に、苦戦しました。

ご指摘、ご感想があれば、お気軽に送信してくだされば嬉しいです。


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十三歳の天才少女は、普通の恋をした

 

 ここ最近になって、島田愛里寿はけっこう変わってきたと、アズミは思う。

 

 まずは戦車道についてだが、愛里寿の成績はいよいよもって伸びに伸びきっている。同時に六両を相手取り、しかも勝利せしめた時は、敵味方とも「すごい」と感嘆したものだ。

 その上で、愛里寿は絶対に撃破されないようにうまく立ち回る。そりゃまあ愛里寿が撃破されるなんてことは滅多にないが、ここ最近は無傷で生還することが多い。無傷でだ。

 お陰で、ほとんど何もしないで試合が終了することもしょっちゅう。「今日は何もできなかったなー」と苦笑してしまうことも、珍しくなくなってしまった。

 副官としては、これではいけないなと思う。

 愛里寿が活躍してくれるのなら、とも思う。

 愛里寿の順調っぷりは、確かに凄い。ただ、恐れ多くも「愛里寿にとってはありえる事」だとは思う。これらのことは、戦車道の事柄で収まりきっているから。

 ――注目すべきは、試合が終了した後。

 

「一時間後に、ミーティングを行う。それまで、体と心を癒やすように」

 

 そうして、愛里寿は全速力でどこかへ消えていってしまうのだ。

 もちろん、このことは隊員たちの話題の種になった。何かの限定品が欲しくてダッシュしているのか、ヒミツの何かを成すために急ぎ足になっているのか、誰かと待ち合わせしているのか――どの説も捨てがたいだけに、隊員達はうんうんと唸るばかり。

 じゃあ追跡すればいいじゃん、と進言する者はもちろんいない。隊長を追いかけ回した時点でフクロだし、バレたら家元にドヤされるのは確実だ。そして何より、愛里寿のプライベート面はそっとさせておきたい、という意見が圧倒的に主流であるから。

 島田愛里寿はまだ十三歳だ。なのに島田流の後継者で、大学選抜チームの隊長で、隊員達の面倒も見てもらっている。これは大変だと、副官であるアズミは常々思っている。

 せめて、戦車道以外のことは口出ししないようにしたい。ただ、見守るだけ。

 それが、年上に出来ることだ。

 

 ――そして、話はこれで終わりではない。

 自由時間になれば、アズミもメグミもルミも、そして愛里寿も、大学内を気ままに歩んでいることが多い。座っているよりも、動き回っている方が落ち着くというか。

 そうして時折、愛里寿とぱったり遭遇することがあるのだ。以前なら「こんにちは、隊長」と気軽に挨拶を交わし、愛里寿も「こんにちは」とうなずき返してくれて。

 ところが最近は、挨拶を交わす難易度が高くなった。

 なぜなら愛里寿は、自由時間となると必ずヘッドホンをつけるようになったから。

 しかもノリのいいやつを聴いているらしく、軽くヘッドバンキングを繰り返していることが多い。正直かわいいので、挨拶ができなくてもまあいいやと思っている自分もいる。

 

 ――話は、実はあとひとつだけ残っている。

 昼休みになると、愛里寿、メグミ、ルミとは食堂で昼食を共にすることが多い。ルミは笑いながら近況を、メグミは笑顔で噂話を、自分も気軽に雑談をしている中で、愛里寿は真顔のまま「うん」とか「なるほど」とか「そうなんだ」と、よく相づちを打ってくれる。

 最初こそ「楽しいのかな」と不安になったりもしたが、本人曰く「おもしろい」とのことだ。

 だから愛里寿のことは、なるだけ積極的に昼食へ誘うようにしている。普段から隊長は大変なのだから、せめて面白い話くらいは聞かせたい、

 とはいうものの、昼食時にも携帯は鳴る。たいていは友人からのメールだったり、時には親からの電話だったり。前者はともかく、後者は「また後で!」とすぐに切ることが多い。メールにしたって、内容によっては後回しだ。これはルミもメグミも変わらない。

 愛里寿の携帯事情に関しても、以前は自分たちとあまり代わり映えはしなかった。無表情でメールを受け取り、時折やってくる電話には「またあとで」と短く切る。そうして無事平穏に昼食の続きを再開していたのだが、

 

「あっ」

 

 そう――

 ここ最近の島田隊長は、時折、ものすごく嬉しそうな顔をしてメールを受け取ることがあるのだ。

 そう、「時折」だ。すべてのメールに対してではない。

 ルミとメグミと自分は、目配せして「誰?」と心の中でつぶやき合う。そうしている最中に、愛里寿はいそいそと必ず返信する。これがまたかわいい。

 そうして、返信し終えれば――愛里寿は微笑みを隠しきれないままで、

 

「すまない。迷惑をかけた」

「い、いえっ、そんな。とんでもありません」

「そうですそうです」

「うんうん」

 

 これは本当だ。楽しそうな愛里寿なんて、そう滅多に見られるものじゃないから。

 そうして何事もなかったかのように、昼食が再開される。どんなメール相手なのかなと、ほんの少しだけ推測してみて――「まあいいや」とすぐに締めるまでがお決まりのパターンだ。

 

 ここ最近になって、島田愛里寿は活き活きとし始めている。アズミはそう思う。

 

 

―――

 

 

 

 文部省の方から直接電話がかかってきたかと思えば、いきなり『すみませんが、そちらの大学強化チームと大洗女子学園との試合が決まりそうなのです』だ。何故だと聞けば、『話の流れでそうなりまして』ときて、『試合のルールは殲滅戦です』で、極めつけには『あ、この試合に大洗女子学園が負ければ、大洗学園艦は廃艦となる決まりです。こちらの件もご了承いただければ』だ。契約書も書かされたせいで、断れる選択肢はないのだという。

 自分は家元で、教育者で、文部省とは協力関係で、分別を弁えた大人であるから、もちろん「わかりました」と言っておいた。

 

 ――電話を切った後は、もちろん真っ先に「はあ?」と口に出した。

 なぜ自分たちが、島田流が、大洗学園艦潰しに加担しなければならない。どうして戦車道で掴み取った未来を、同じ戦車道でぶち壊さなければならない。

 だいたい、文部省の言い回しも気に食わない。最初から相手側の負けを期待するなど、戦車道の礼節に反している。シンプルに言うなら、ナメてるのか。

 ――まったく、不義理な話だ。

 試合内容が公開されれば、大洗女子学園側には同情の声が集まるだろう。安易に想像がつく。

 そして大学選抜側は、何はともあれ非難の対象とされるだろう。もっと、安易に想像がつく。

 どちらも可哀想だ。オトナの都合に振り回されるなんて。

 ため息。

 けれど、そうなってしまったのなら、やるしかないのだ。

 戦車道とは、そういうものでもあるから。

 

 携帯を取り出し、メールを打つ。『これから部屋に向かいます』。

 こうして事前に連絡することで、愛里寿の自由時間をやんわりと中断させるのだ。今頃は、ヘッドホンを外してくれているだろう。

 ――ごめんね、愛里寿。

 こんなつまらないことで、あなたの音楽を止めてしまうなんて。

 もう一度だけため息をついて、島田千代は、愛里寿の部屋へ向かった。

 

 

 □

 

 

 ベッドに座ったまま、愛里寿は千代の話を黙って聞いていた。そんな愛里寿を前にして、千代はあえて淡々と、事務的に、大洗との試合内容について語っていく。

 

「――そういうわけで、来週の日曜日に、北海道にて大洗女子学園との試合が行われます。良いわね?」

「はい」

 

 全くもってメリットの無い話を、愛里寿は黙って聞き、そして頷いてくれた。

 今の愛里寿は、戦車に乗っている時の、島田流後継者としての顔をしている。

 

「大洗と試合を行うということは……あの西住みほと、西住流と直接対決をすることになるわ」

「はい。島田流後継者として、必ず西住流に勝ってみせます」

 

 決意する愛里寿を前に、千代は心の中で安堵する。

 なんて、しっかりした子なんだろう。

 

「――愛里寿」

「はい」

「……ごめんなさい。こんな試合に、付き合わせてしまって」

「いえ。試合は試合です。私は、私達は、これに全力で応えるのみです」

 

 これが十三歳の言葉なのか。こんなことを、十三歳の女の子に背負わせて良いのか。

 けれど、流れには逆らえない。オトナの都合というやつには、家元であろうと覆せない。戦車道の繁栄を考えた結果が、これだとは。

 

「愛里寿」

「はい」

「偉いわ」

「いえ」

 

 窓から、夕暮れが差し込んでくる。虫たちの鳴き声が、静かに伝わってくる。こんな状況だからか、そんな夏の風景がどこか愛しい。

 

「それじゃあ、夕飯を作ってくるわね。……今日は、ハンバーグにするわ」

「ありがとう、お母さん」

 

 話し終えて、千代は愛里寿に背を向けようとし、

 

「お母さん」

「――なに?」

 

 ぴくりと、千代の体が止まる。

 

「質問があります」

「なに?」

 

 ふたたび、愛里寿と向き合う。

 

「西住流に勝てば、島田流の名はどれほどのものになりますか?」

「そうね……ええ。あの西住流に勝てた時点で、大金星は確実。そして、島田流の名も以前より広まるでしょう」

「つまり、西住流に勝つ意味合いは大きい、ということですね?」

「ええ、もちろん」

「……大いなる名誉に繋がると、そう解釈しても良いのですね?」

「ええ」

 

 あれ、と思う。

 愛里寿の質問は、島田流としては正しい。ただ、こんなにもメリットを確認されたのは初めてのことだ。

 愛里寿は無言で、「勝てればそれでいい、負ければ精進する」を地でいく子なのに。

 

「……お母さん」

「なに?」

「――あの、その」

 

 千代の目が、本能的にぴくりと動く。

 愛里寿が、言葉の躊躇を覚えたから。目を、逸らし始めたから。

 

「なに? どうしたの? 何か、あった?」

「……いえ、なんでもありません」

「言って。我慢は、試合へのモチベーションにも関わってしまうわ」

「……でも、これは、島田流には、」

 

 そうして、愛里寿は言葉を打ち切った。

 ――察する。

 島田流には何の関係もない何かを、愛里寿は口にしようとしたのだろう。けれど愛里寿は真面目だから、わがままを一つも言わない良い子だから、私情を発するなんて怖くてできなかったのだろう。

 だから千代は、ショートグローブを脱いで、愛里寿の頭をそっと撫でる。

 

「言って」

「……大丈夫です」

「娘の言葉を聞くのは、親の役目です」

 

 絶対に、娘を受け入れよう。千代は本気でそう思った。

 だって愛里寿は、私の娘は、これから不義理な戦いに出向かなければならないのだ。それに報わずして、何が親だ。

 うまく、笑えているはず。

 うまく、娘に触れられているはず。

 ――けれど、

 

「いえ、なんでもありません」

 

 愛里寿は、あくまでもそう言うのだ。こちらを見つめながら、いつもの無表情で。

 

「――そうですか」

 

 私は、鈍く立ち上がる。

 

「それじゃあ、夕飯の準備をするわね。できたら、メールするわね」

「うん。ありがとう、お母さん」

「……お母さんに相談事があったら、いつでも言ってね」

「はい」

 

 そうして、千代は愛里寿の部屋から出て、後ろ手でドアを閉める。

 しばらくはそのままでいて、胸に手を当て、体の中に溜まった淀みを吐き出すように深呼吸する。

 ――ドアの向こう側にいる愛里寿に向けて、千代は思う。

 

 どうして、あんなにも苦しそうな顔をしていたの、愛里寿。

 

 

―――

 

 

 夕飯を食べ終え、ひとっ風呂浴び、宿題もある程度片した後で、ご機嫌なナンバーを聞きながらでベッドに横たわっていた。今日は暑いから、扇風機のおまけつきだ。

 全てをやり終えた後の音楽は、最高だぜ――

 大の字になりながらで、黒沢はつくづくそう思う。保証された安心感ほど、心地良いものはない。

 そんな気分に浸りながら、黒沢は無表情で、天井をじっと見つめる。そうぼんやりと過ごすうちに、理性がゆっくりと回りだす。

 

 最初は音楽のことを、次に友達のことを、そして愛里寿のことを考え始める。

 

 ここ最近の自分は、愛里寿からのメールを、電話を心待ちにしている。遊びに行こうと提案されれば、迷わず二つ返事だ。

 黒沢からも「ミュージアムへ遊びに行こう」と伝えることがあるが、愛里寿は決まって『行く(・(ェ)・)』と返信してくれる。それが、とてつもなく嬉しい。

 ――けれど、

 愛里寿と出会い、笑顔を目にするたびに、自分の心がずきりと痛み出す。熱いような、焦れったいような、そんな前向きな感情が溢れ出んばかりになる。

 わからないな、と思う。どうなっているんだろう、と思う。けれど心地良い、と想う。

 ――今度、親にでも聞いてみようかな。

 次の音楽が流れ出す。ノリの良いイントロが流れ出して、思わず鼻歌が交じり、ベッドの上で軽くヘッドバンキングを繰り返して、

 

 音楽が消え、着信音がイヤホンから流れ出した。

 

 ベッドの上で放置していた携帯を、すばやく手にとる。画面を確認してみれば、着信:島田愛里寿の文字。

 反射的にベッドから起き上がり、あぐらをかいては「受信」ボタンを押す。

 

「――もしもし?」

『あ、黒沢。いま、大丈夫?』

「ああ、大丈夫大丈夫。何?」

 

 愛里寿が、安堵したように息をつく。

 

『あの……来週の日曜日にね、北海道で、大事な試合をすることになったの』

「お、マジで? 相手は?」

『……大洗女子学園』

「大洗?」

『うん。あのね――』

 

 そうして、愛里寿から詳しい話を聞かされた。

 大洗女子学園――もとい大洗学園艦は、元々は廃艦予定であったこと。その未来は、今年の高校戦車道全国大会優勝によって覆されたこと。そして、その結果は白紙にされたこと。今度こそ廃艦になるかどうかは、この試合で決まってしまうこと。

 ――そして、

 

「それで、西住さんと、戦うことになったの?」

『……うん』

「友達、なのに?」

『……うん』

「……そっか」

『……西住さんが本土に、ボコミュージアムに居たのは……たぶん、廃艦の手続き上、学園艦から追い出されていたせいなんだと思う』

 

 情報量が多すぎて、頭の中が熱くなってくる。思わず、左手で額を支えてしまう。

 ざっとわかることは、「廃艦にしない」という約束が破られたこと。そのせいで、愛里寿がみほと戦わなくてはいけないこと。みほが住んでいる学園艦の命運は、来週の試合によって決まってしまうこと。

 ――愛里寿を、助けなければいけないこと。

 

「愛里寿さん」

『なに?』

「……戦える?」

 

 ほんの少しの、間。

 

『うん、戦う。それが、戦車道への礼節だから』

「そっか。さすが、愛里寿さんだ」

『……ありがとう』

 

 そう言った愛里寿の声は、ほんとうに穏やかだった。

 安心しきったような、そんな気持ちが携帯ごしから伝わってくる。

 

「愛里寿さん。俺でよければ力になる。応援でも何でもする」

『――それで十分だよ。黒沢の応援は、私にとっての、かけがえのない力だから』

「そっか……ああ、そういえば、試合会場はどこ?」

『えっと、北海道』

「うへ、遠いなー……」

『だいじょうぶ。あなたの気持ちは、たしかに伝わったから』

「そう?」

『うん。隊員も、私についていくって言ってくれた。お母さんも、応援してくれてる。私は平気だよ』

「――そっか」

 

 愛里寿は一人じゃない。それを知れただけで、心の底からほっとする。次第に、機嫌が盛り上がっていく。

 

「愛里寿さん」

『なに?』

「……頑張れっ! グレートな戦いをやってくれ! 武勇伝を聞かせてくれ!」

『――うん! ……その、こんな話を聞いてくれて、ほんとうにありがとう。すっきりした』

「いいっていいって」

 

 黒沢は、半ば本能的に、

 

「俺たち、友達だろ?」

 

 正しいと思ったことを、口にした。

 なのに、言い終えた後で、

 

『……うん、友達、だよね、うん』

 

 胸が、ずきり。

 

『――あ、ごめんね、なんでもないの。……じゃあ、そろそろ切るね。今日は本当にありがとう』

「俺の方こそ、話を聞かせてくれてありがとう」

『うん。またね』

 

 電話が切れる。愛里寿の声は、もう聞こえない。

 無音のイヤホンをつけたまま、黒沢は再び横たわる。

 ――なんだか、大変なことになっているな。

 ちらりと、手にしている携帯に視線を向ける。体を横向きに寝かせ、携帯に火をつけ、「大洗学園艦 廃艦」と検索して、戦車道ニュースWEBというサイトが引っかかって――大洗学園艦の廃艦ニュースが、大々的にアップされていた。

 約束を破った政府への批判。学園艦の住民によるネガティブなコメント。本土で仮住まい中の住民の写真。第六十三回高校戦車道全国大会の簡単な解説、

 

「……あ」

 

 力なく、声が漏れた。

 スクロールしていった先には、夕暮れを背に、優勝記念の旗を持った西住みほが、嬉しそうに笑う武部沙織が、五十鈴華が、冷泉麻子が、秋山優花里が、仲間達の集合写真が、サイト上に刻まれていたから。

 

 

―――

 

 

 数日ほど経過してみれば、来週に行われるらしい試合の詳細が、戦車道ニュースWEBにてでかでかと記載されていた。

 愛里寿の言った通り、この試合には大洗学園艦の存続がかかっているらしい。それだけでも一大事だというのに、大洗側の戦力はたった八両、大学選抜側は三十両。しかも殲滅戦という、いわゆる「みんなやっつけたモン勝ち」というルールが適応されるようだ。

 素人目から見ても、とってもひどい条件だと思う。これでは、大学選抜側が非難されてしまうではないか。

 実際、この記事を書いている記者も「戦力差、経験からして、圧倒的に不平等」と書いているし、専門家に至っては「これほど酷い公式試合は初めて見た」とコメントしている。

 外部の戦車道サイトにしたって、「これは酷い」とか、「大学選抜は空気を読むべき」だとか「大洗が可哀想」だとか言っている。戦力的には大学選抜が有利だが、世論的には圧倒的に不利といってもいい。

 

 ――辛いだろうな。大学のみんなも、愛里寿も、みほも。

 部屋の中で、寝転がりながらでそう思う。

 

 黒沢はこれまで、大学選抜チームの活躍を何度か見届けてきた。そうしていけば、レギュラーメンバーの顔や名前も自然と覚えていく。特に会場を案内してくれたアズミに対しては、重点的に応援していったものだ。

 だから、大学選抜チームには思い入れがある。みほにも、大洗にも色々と事情はあるだろうけれど、自分は大学選抜に、愛里寿の側についていくつもりだ。

 次々とサイトを見る。

 やはり大洗側には同情の声が、大学側には消極的な非難が、当たり前のように目に入っていく。中には、辞退をしろと言う者もいた。

 ――簡単に言うなよ。大学側だって、こんなのイヤに決まってるだろ。

 特に、愛里寿は。西住みほの友達である、彼女は。

 

 愛里寿の顔を思い浮かべる。いまごろ愛里寿は何をしているのだろう、大洗と戦うために色々と準備しているのだろうか。

 試合が始まれば、愛里寿は誠心誠意を持って大洗と戦うだろう。戦車道のスジを通すために、手加減なんてしないはずだ。

 けれど、でも、みほとは友達で、ボコ仲間だ。そんな人と不平等な条件で戦い、あまつさえ帰るべき場所さえも奪う形になってしまっている。

 そんなの、俺だって辛い。愛里寿は、もっと苦しいはずだ。

 そう思うと、いてもたってもいられなくなって――黒沢は、愛里寿に電話を入れる。時刻は午後の十八時、たぶん大丈夫なラインであるはずだ。

 1コール、2、

 

『はい、愛里寿です』

「あ、愛里寿さん。今、大丈夫?」

『うん、大丈夫だよ。どうしたの? 何か、あった?』

「あ、その……特に用事はないんだけれど、愛里寿のことが気になって」

『そう、なの?』

「うん。今さ、大学選抜のみんなさ、けっこう大変らしいから……その、なんていうか、そう! 楽しい話でもしようかなって思って」

 

 めちゃくちゃな言い分になってしまった。

 後先考えずに、感情任せに電話をかけた結果がこれだ。一応は自分なりに「休憩時間」を提案してみたものの、愛里寿からしてみれば余計なお世話としか思われないかもしれない。

 今は体力的にも、精神的にも大変であるはずなのに――今更になって、少しばかり後悔する。もっと、ちゃんと考えてから電話すればよかった。

 

『……黒沢』

「は、はい」

 

 思わず敬語が飛び出る。完全にビビっていた。

 

『――ベリーサンキュー、黒沢』

「え」

『嬉しい、ほんとうに嬉しい。やっぱり黒沢は、優しい人だね』

「そんなこと、ない」

『そんなことあるよ。黒沢はいつだって、私の傍にいてくれた』

「……愛里寿さんとは友達で、ボコ仲間、だから」

『うん。それでも私は、黒沢のことを、頼れる人だって思ってる』

「……そっか」

 

 愛里寿はきっと、笑ってくれているのだろう。声でわかる。

 また胸が痛くなる。今となっては、この反応すらも当然のものとして受け入れられる。

 

「じゃあ、とっておきの話をするよ。この間さ、種村達と、またプールに行ったんだけれど――」

 

 この後は、ほんとうに他愛のない時間が過ぎていった。

 種村達とのバカなやりとりとか、ビート板サーフィンリベンジで大コケした出来事とか、奮発してパフェ食ったこととか、その際に幽霊はいるかいないかで議論したりとか、そんなことを笑いながらで語っていって、愛里寿も「幽霊はいないと思う。見たことがないから」と真剣にコメントしてくれた。

 本当、戦車道とは何ら関係のない話ばかりをした。

 それでも愛里寿は、沢山の反応を、いっぱいの感情を示してくれた。

 それがとてつもなく嬉しくて、心の中で達成感が広がっていって、やっぱり電話をかけてよかったと思う。

 

「ごはんよー。今日はあなたの好きなカレーよー」

 

 ドア越しから、母の声。

 気がつけば、もう六十分ほどが経過していた。やはり、楽しい時間というものはあっという間に過ぎ去ってしまうものらしい。

 

「――っと。母さんに呼ばれたし、そろそろ切り上げていいかな?」

『うん。今日は、本当にありがとう。すごくすっきりできた』

「それは良かった。また今度、面白い話を仕入れるよ」

『うん。……よかったら、私も何か話したい』

「え、マジで? どんな話?」

『えっと……戦車道ばっかりになるかもしれないけど……』

「マジで? OK!」

 

 電話の向こう側から、愛里寿の含み笑いが聞こえてきた。

 戦車道に関しては、ここ最近になって興味が湧いてきたのだ。だからこそ、愛里寿の提案は大歓迎だった。

 

「……じゃあ、また今度聞かせて」

『うん。それじゃあ、』

 

 またね――そう言おうとして、今になって、「もっと、愛里寿のために何とかしたい」という義憤にかられ始める。

 もしかしたら、これが「最後」の電話になるかもしれない。ここで切ってしまえば、しばらくは愛里寿と通じ合うことが出来なくなるかもしれない。そんな予感めいたものを覚えてしまったから、黒沢はどうしても通話を切ることが出来ない。

 胸が痛くなる。熱が、体の内から溢れ出てくる。

 俺の手で、愛里寿をもっと助けたい。

 俺の手で、愛里寿をもっと笑わせたい。

 俺の手で、愛里寿を絶対に幸せにしたい。

 こんな独占的な感情を抱くなんて、生まれて初めてだ。最初は気のせいだと思っていたそれも、今となっては「ある」ものとして受け入れられる。

 この発作は、未だに正体不明だ。けれどこの病のお陰で、俺は以前よりも「生きている」とすら思う。不貞腐れていた頃とは、比べ物にならないくらい。

 ――考える。

 何かやり残していないか、何か――

 

「……愛里寿さん」

『なに?』

 

 そして俺は、あっさりと閃いた。

 

「時間がある時で、いいんだけどさ」

『うん』

「俺と一緒に、ボコミュージアムへ出かけない? ボコショーを見て、パワーをチャージしよう!」

 

『――うん! 行こうっ!』

 

 

―――

 

 

 ここ最近は、試合に関する手続きや運搬、対西住流の戦術構築などでずいぶんと忙しい。その為、黒沢と合流出来るのは十六時ほどだ。

 それでも黒沢は、「もちろん行く」と言ってくれた。その言葉を聞けただけで、島田愛里寿の口元はずいぶんと緩んだ。

 ――時刻は十五時半。黒沢と合流するために、愛里寿は中央公園まで足を運んでいく。

 この季節になると、暗くなるのはもう少し後だ。夕暮れは未だ見えない。

 人気のない静かな住宅地を歩みながら、愛里寿は――ヘッドホンを耳にしながらで、テンポの良い音楽をずっと流し続けている。これも、黒沢が教えてくれた曲だ。

 最初は正直、「少しうるさいかも」と思った。けれども音楽という激流は、そんな自分をも巻き込んでいって――気がつけば自分の首は、上下にぶんぶんと振りかざされていた。

 なるほど、これが音楽の力か。

 やっぱり、黒沢に教えてもらって正解だった。

 

 横断歩道の前で、ぴたりと止まる。

 

 黒沢と出会ってから、数週間ほどが経過する。

 黒沢とは、最初は観客同士という関係に過ぎなかった。そうして友人になれて、ボコ仲間になって――黒沢は、私の戦車道の力になりたいと、そう言ってくれた。

 その時に、自分は正体不明の発作を覚えた。最初は、ほんのちょっとした体調不良かと思ったのだが、それは黒沢と出会うたびに、日に日に色濃くなっていく。

 そう、黒沢と出会うたびに、だ。

 黒沢はいつだって、至近距離から応援してくれた。ずっと友達だと、力になると、確固たる意思を以てして宣言し続けてくれた。

 それはもちろん、嬉しい。

 

 赤信号になる。横断歩道を渡る。

 

 けれど最近は、どうも気持ちの様子がおかしいのだ。

 黒沢から「友達」と言われた時、胸が決まって痛みだす。しかも不思議なことに、焦燥感めいた感覚に陥るのだ。

 友達と言われて、何が不満なんだろう。けれど、友達と言われて不満に思う自分がいる。

 よくわからない。けれどこの病については、何だか気軽に聞いてはいけないような気がする。表にした時点で、黒沢との二人きりの時間が暴かれてしまうような気がしたから。

 黒沢と出逢えば、また胸が痛くなるのだろう。

 けれど、その刺激がなぜだか待ち遠しく思う。

 こんな感情を抱くなんて、生まれて初めてだ。

 ため息をつく。

 ――そろそろ、中央公園だ。時刻は十五時四十分、十分に間に合っ、

 

「あ」

 

 中央公園前に、黒沢がいた。

 まだ、二十分も猶予があるのに――愛里寿の顔が、緩んでしまう。

 

「ハロー」

「ハロー、黒沢」

 

 愛里寿がヘッドホンを、黒沢がイヤホンを外す。

 

「何日ぶりだっけ、四日?」

「それくらいだよね」

「そっかー……まあ、しょうがないよね。今、すごく忙しいんでしょ?」

「うん。機材の運搬から、対西住流に対しての訓練まで、色々やってる」

「っかー……いやホント、いいのかい? 俺の誘いなんかに乗って」

 

 その言葉に対して、愛里寿はきっぱりと首を横に振るう。

 

「なんか、じゃないよ。私も、黒沢と一緒にボコミュージアムへ行きたかったから」

「そ、っか」

「うん。……8月31日まで、だし」

 

 黒沢が、どこか遠い目になる。愛里寿も、小さくため息が出る。

 予想できていた結末だけれども、やっぱり、イヤだと思う。何とか出来ないものかと、愛里寿は必死になって思考を回してみて、島田流という大きな組織が思い当たって、

 

 ――娘の言葉を聞くのは、親の役目です

 

 言えなかった。

 西住流を越えるということは、島田流にとっての目標であり、夢といってもいい。それが実現した時は、らしくもなく三日三晩だけは浮かれるだろう。

 だからこそ、愛里寿は思ったのだ。来週の試合で西住みほに勝てば、少しのわがままは通じるのではないのかと。「西住流に勝てました。その見返りとして、ボコミュージアムに資金援助をしてください。島田流の財力なら可能なはずです」すらも言い通せるのではないかと。

 けれど、愛里寿は言えなかった。なぜならボコミュージアムは、島田流とは何の関連性もないから。ほんとうに単なるワガママでしかないから。だから、口に出来る糸口が見つからなかったのだ。

 それに、それに――来週の試合は、あまりにも不平等すぎる。

 たとえ勝ったとしても、おそらくは納得などは出来まい。手を抜くつもりはないが、達成感なんて抱けるはずもないだろう。

 そう思うと、口に出来なくてよかったと思う。

 これでよかったのだと、無理やり納得することにした。

 

「――愛里寿さん」

「うん」

「行こうか」

「うん」

 

 愛里寿と黒沢は、ボコミュージアムまでゆっくりと歩んでいく。その間に黒沢から、何でもない近況とか、励ましの言葉を伝えられていく。

 とても、嬉しかった。

 

 

 □

 

 

 いつの間にかボコミュージアムまでたどり着いて、「8月31日に閉館します」の門を潜り抜け、そのままボコショー会場にまで足を進めていく。人気らしいものは、相変わらず見受けられなかった。

 館内を歩んでいる最中でも、黒沢との雑談は止まらない。今日はどんな技をリクエストしようかな、今回こそ勝てるかな、何かグッズでも買っていこうかな。黒沢は楽しそうに笑い、愛里寿の顔も綻ぶ。

 ――思うと、この人と会ってからよく笑うようになったな。

 それは、いいことだ。間違いなくそう思う。

 

「じゃあ、入ろうか」

「うん」

 

 ボコショー会場に続くドアを、ややぎこちなく開ける。この軋む音も、すっかり馴染み深いものになった。

 そうして、真っ先に特等席へ向かおうとして、

 

「あ」

 

 七つの「あ」が、会場内で静かに反響した。

 だって特等席には、西住みほが、武部沙織が、五十鈴華が、秋山優花里が、冷泉麻子が座っていたから。

 

 口元が硬直し始める、血が冷えていくのを感じる、腹が重くなる、頭の中が氷漬けになる。

 どうしてここに――そう思いかけて、すぐに思い当たる。みほは、ボコ仲間だからじゃないか。

 こうして視線と視線が合ったままなのは、予想外を前にして硬直しているだけじゃないだろう。試合相手だからだとか、廃艦の命運がかかっているとか、そういった気まずさもあって、双方とも動けないでいるに違いない。

 ――どうしよう。

 口元を、ぎゅっと閉じる。

 このまま、帰ってしまおうかと思う。けれど、8月31日にここは閉館してしまう。何より、せっかく黒沢が誘ってくれたのに帰るだなんて。

 

「愛里寿さん」

「あ」

「……どうする?」

 

 また、手を握ってくれた。

 ――また、自分の力になってくれている。

 

「……見る」

「わかった」

 

 そうして愛里寿は、黒沢は、右側の席に腰を下ろす。隣を見れば、みほを中心とした五人組が座っている。

 ボコショーはまだ始まらないのか、会場内は恐ろしいくらいに静かだ。誰一人として、口を開かない。

 どうしよう、何か言ったほうがいいんだろうか。このまま沈黙を引きずったままでは、何ともいえない気持ちのままでボコショーを見る羽目になる。

 それは嫌だ。けれど勇気が沸き立たない、気まずさという重力が口を閉ざす。

 

「――西住さん」

 

 愛里寿の両目が、びっくりするくらい開いた。

 

「なに? 黒沢君」

「えっと、偶然ですね。今日はどうしたんですか? 俺らはまあ……ボコからパワーを貰おうとしてるんですけど」

 

 そしてみほが、くすりと苦笑した。

 

「実は私も、ボコからパワーを貰おうとして、ここに来たんだ」

「そうだったんですか。ですよね、ボコを見ると前向きになれますよね」

「うん。……えっと、今日も一緒に、ボコを応援しようね!」

 

 みほが黒沢に、そして愛里寿に対して笑顔を振りまく。

 ――思う。

 どうしてそんなに、あなたは強いの。こんな圧倒的不利な状況で、あなたはどうして友達でいてくれるの。

 でも、思う。

 逆の立場でも、自分は同じことをしていただろう。なぜなら、自分の隣には黒沢がいるから、自分の心を保証してくれる人がいるから。

 みほがああいう風に振る舞えるのも、四人の仲間がいるからこそ、なのだろう。仲間がいなければ、世界はうまく回ってくれはしない。

 改めて、みほを見る。

 この気まずさを、未練のような気持ちを、もやもやを、試合が始まる前に何とかして払拭したい。だってみほは敵なんかじゃなくて、友達だから、ボコ仲間だから。

 何もしないで、ただ試合を迎えるなんて嫌だ。

 みほの笑顔を見てしまったからこそ、そう思う。

 

「あ、愛里寿さん?」

 

 黒沢の手を、そっと離す。そうして愛里寿は、みほへ歩み寄り、前に立った。

 

「――何、かな?」

「……あの」

 

 みほの、沙織の、華の、優花里の、麻子の視線を至近距離から受けて、頭の中が真っ白になりかけた。

 勢いのまま、立ち上がったのは良い。堂々と、前向きに試合を行いたいという目的を持つのも良い。ただ、それらをどう言葉にして良いのか、今の愛里寿には判断がつけずにいる。

 どう決意表明すれば、みほに嫌われずに済むのだろう。何と言えば、嫌な気持ちを吹っ飛ばせるのだろう。

 慰めなんて論外だ。激励は何か違う。手加減しないで戦う――圧倒的有利な状況で、それを言うのか。

 難しい。命令ではなく、自分の意思で言葉を紡ぐのは、ほんとうに困難なことだ。

 

 五人の無表情な視線が、とにかく恐ろしい。何とかして言葉を口にしようとするも、間違いを言ってしまうのが怖い。

 助けて、お母さん。助けて、みんな。助け、

 

 その時、手に、強い熱がこもった。

 

 手を、そして隣を見る。

 わたしの隣には――やっぱり、黒沢がいた。

 試合には何も関わらないはずの黒沢が、わたしの近くにいて、わたしの手を強く握りしめていて、一緒になってみほを見つめていた。

 

「――黒、沢」

 

 黒沢が、わたしに振り向く。

 そして黒沢は、にこりと笑った。小さく、けれども力強く頷いてくれて。

 黒沢は、あくまで無言だった。けれども彼からは、言葉にする以上の応援が聞こえてくる。

 

 ――ああ、

 

 冷え切っていたはずの血が、どうしようもなく熱くなっていく。「言ってみよう」という獰猛な勇気が、芽生えてくる。

 黒沢はいつだって、大事な時にわたしのところへ駆けつけてくれた。言葉で、触れ合うことで、わたしに力をくれた。

 そうされるたびに、胸がずきりと痛くなって、黒沢のことをよく想うようになって――

 黒沢のいない世界なんて、もう考えられない。

 今、はっきりと、そう思う。

 だからわたしは、息を大きく吸う。黒沢の期待に応えたいから、後悔なんてしたくないから、西住みほと全力で戦いたいから。

 

「西住さん」

「何?」

「来週の試合は、私は全力で戦う。戦力差や、経験の差は把握しているけれど、私はあなたと、堂々と戦いたい。それが戦車道履修者としての、義務だと思っているから」

「――島田、さん」

 

 みほの瞳が、揺れ動いている。

 

「だから西住さん、あなたも私にぶつかってきて。私達は妥協せずに、それを迎え入れる」

 

 沙織が、まばたきをする。

 

「あなた達にのしかかった責務や、重みはよくわかってる。けれど恐れずに、私達と戦って欲しい」

 

 華が、わたしをじっと見つめている。

 

「私は誓う。お互いに悔いのないような戦いをすると、絶対に誓う」

 

 優花里が、真剣な表情でわたしを見据えている。

 

「だから、私に見せて欲しい。西住流を、廃艦を阻止した大洗の戦い方を。それを、島田流ニンジャ戦法で抗いたい」

 

 麻子が鋭く、わたしを捉える。

 

「こんな決意表明は、あなた達には何のためにもならないことはわかってる。自己満足だということは、理解してる」

 

 繋がれた手を、ぎゅっと握りしめる。

 

「でも、私は、堂々とあなた達と戦いたかった。友達として、ボコ仲間として、礼を尽くす戦車道履修者として、本心本音を打ち明けたかった」

 

 最後に、息を思い切り吸い込む。

 

「――来週の試合は、どうかよろしくお願いします」

 

 一礼。

 

「――島田さん」

「はい」

「ありがとう。島田さんの言葉は、たしかに伝わったよ」

 

 頭を上げる。

 

「うん。私も全力を以て、あなた達と戦います」

「――私も、戦います」

 

 黒沢と紡がれたままで、みほと握手を交わす。強く強く強く。

 

「絶対に、」

 

 みほが、ポケットから、

 

「絶対に、」

 

 わたしは、ポケットから、

 

「勝ちます!」

「勝ちます!」

 

 勇気の印(ボコ)を、互いに見せあった。

 

 

 

 

 何事もなくボコショーが始まった後は、一同揃って頑張れ負けるなそこだやられちまったーと叫び、倒れたボコが「オイラに力をくれ」と腕を伸ばす。そうして黒沢は、愛里寿は、みほは、沙織は、優花里は、華は、麻子から、色とりどりの応援が発射されて、ボコがおっしゃあと立ち上がった。

 そうして黒沢からのリクエスト、「正拳突き」をお見舞いしようとして――もちろんスカって、ボコられて、「次は必ず勝つぞ!」の一言でボコショーの幕は閉じられる。

 

「……やっぱり、勝てないの?」

 

 沙織が、脱力気味に言う。

 その言葉に対して、答えなんてものは一つしかない。

 

「それがボコだから!」

「それがボコだから!」

「それがボコだから!」

 

 

 ――いくらか買い物を済ませた後で、そのまま外に出てみれば、空はいつの間にか赤色に染まっていた。

 先ほどの件もあってか、この風景がどこか清々しく見える。機嫌だって、最高潮といってもいい。

 それほどまで、先ほどの決意表明はエクセレントだった。愛里寿が救われて、心の底から良かったと思える。

 

「――黒沢」

「うん?」

「その、あなたを巻き込んでしまってごめんなさい。さっきのあれは、びっくりしちゃったよね?」

「いや。力になれてよかった、最高に格好良かった」

「……そっか」

 

 そして黒沢は、照れ隠しをするように頭を掻いて、

 

「むしろ、俺の方が悪いっていうか……いきなり手を握って、悪い」

「う、ううん! そんなことない! 黒沢のおかげで、私は勇気を振り絞れた!」

 

 改めて、黒沢は内心でびっくりする。

 ここまで勢いよく、力説する愛里寿は珍しかったから。

 

「――そっか。うん、それはよかった」

「……うん」

 

 五人組は、もう少しだけボコミュージアムで遊んでいくという。だから今は、愛里寿と二人きりだ。

 たったそれだけのことなのに、胸がぎりぎりと痛みだす。発作が、頻繁になり始めている。

 

「愛里寿さん」

「うん」

「来週、頑張って」

「うん、ありがとう」

「幸運を、祈ってる」

「うん」

 

 気づけば、もう門の前だった。

 愛里寿とのひとときは、これでおしまい。

 

「じゃあ、今日はこのへんで。俺でよかったら、いつでも相手になるから」

「うん」

「またね」

 

 手を振るい、愛里寿を背に帰路へついていく。一歩二歩、三歩と踏んでいって、

 

「黒沢っ」

 

 片足が、宙に浮いたままで止まる。

 

「なに?」

 

 振り向いてみれば、

 そこには、目を逸らしっぱなしの愛里寿がいた。

 

「あ、あの」

「うん」

 

 何だろう。そう思いながら、愛里寿の言葉を待つ。

 

「その」

「うん」

「……黒沢はこれから、急いで帰る?」

「? いや、特になにもないけど?」

 

 それを聞いた愛里寿が、黒沢めがけちらりと目配りする。

 ――そんな些細な仕草に対して、心がびくりと動く。

 

「えっと、じゃあ」

「うん」

「――よかったら、一緒に、帰って欲しい」

 

 黒沢は、すぐには返事をすることができなかった。だって、初めて言われたことだから。

 愛里寿は恐る恐る、黒沢のことだけを見つめている。夕暮れのせいか、いつもより顔が赤い。そんな愛里寿を前にして、黒沢の呼吸が少しだけ止まる。

 けれど、でも、答えなんて一つしか考えられなかった。

 

「愛里寿さん」

「うん」

「もちろん。俺でよければ」

「あ――ありがとう、黒沢っ」

「いやいや、俺のほうこそ」

 

 微妙にとんちんかんなことを言ってしまう。けれども、本音なのだから仕方がない。

 愛里寿は嬉しそうに微笑み、足音を立てて近づいてきて、黒沢の隣に立ってみせた。

 

 そして愛里寿は、黒沢におそるおそる手を伸ばして、けれども引っ込めてしまって――それでもなんとか、手を差し出した。

 

「――え」

「……えっ、と。だめ?」

 

 首を、小さく横に振るう。

 

「愛里寿さん」

「うん」

 

 黒沢は、その小さな手をそっと掴む。それは、夏よりも熱い手だった。

 

「行こう、か」

「うん。……黒沢」

「なに?」

 

 愛里寿の目に、自分の顔が映っている。そう見えるくらい、愛里寿とはこれっぽっちも離れていない。

 

「私のことは」

「うん」

「私の、ことは、」

「うん」

 

「――愛里寿って、呼んで」

 

 

 ――家に帰ったら、この原因不明の病について、親に聞いてみよう。

 

 

―――

 

 

 来週の試合に向けての準備、訓練等はだいぶ整ってきた。当日まではまだ時間があるが、早すぎて悪いことはない。

 そして、何よりの問題である「参加する意思」は――誰一人として、断りなどはしなかった。曰く、試合があるなら受けて立つまで。手加減などはしません。島田流の誇りにかけて。

 みんな、良い選手に育ってくれたと思う。だからこそ、申し訳無さが止まらない。

 若いみんなを、娘を、こんな下らないオトナの事情に巻き込みたくなどなかった。礼節に則った、規則正しい戦車道を歩んでいってほしかった。

 大学選抜チームの責任者として、家元として、大人として、母として、心の底からそう思う。

 デスクの前で、ため息をつく。

 ざっとネットを調べてみても、やはり政府に対しての、大学選抜に対しての批判は多い。廃艦を撤回しろとか、大学側は辞退しろとか、空気を読めとか、可哀想だとは思わないのかとか――どれも否定できない。ちくしょう、と思う。

 かといって、試合を放棄することなどはできない。そんなことをしてしまえば、文部省からの信頼関係にほころびが生じてしまうからだ。

 戦車道の繁栄の為に、これからも政府とは関係を保っていく――組織とはなんと、面倒なものか。

 

 書類から目を逸らし、椅子にもたれかかる。

 窓から赤い夕暮れが射し込まれ、緩い風が白いカーテンを揺らす。朝から今まで、虫の音が鳴り響き続けている。

 たまには外に出て、何も考えずに散歩でもしてみようか。余裕があれば、愛里寿と一緒に遊んだりしたい。

 

「ただいま」

 

 噂をすれば。

 島田千代は「よいしょ」と椅子から立ち上がり、そのまま玄関へぱたぱた移動する。

 

「おかえりなさい、愛里寿。今日もボコミュージアムへ行ってきたの?」

「はい」

 

 そして愛里寿は、リビングに立ったままで一歩も動かない。

 対して千代は、二度ほどまばたきをする。そのまま自室へ向かっていって、音楽を聴くものとばかり思っていたから。

 

「……愛里寿?」

 

 そして愛里寿は、明確にうつむいた。

 その、あまりにも「珍しい」行動に、声が出ない。

 そして、そのままの時間が、音もなく過ぎていった。

 ――何があった、とは言わない。だって愛里寿は、何かを言おうとしているから。決意を固めようと、必死になって頑張っているから。だから、余計なことは一切口に出さない。

 外から、戦車の走る音が響いてきた。

 愛里寿は、ほんとうにそっと、そっと首を上げて――私の両目を、はっきりと見据えた。

 戦車隊隊長の顔をしていた。

 

お母さん(・・・・)

「なに?」

「一つ、わがままを聞いてほしいの」

 

 生まれて初めて、そんな言葉を愛里寿の口から聞いたと思う。

 その四文字に反して、愛里寿の顔は、瞳は、意思は固い。

 

「……言ってみて」

「はい。――近くに、ボコミュージアムがあることは知っているよね?」

「ええ」

「そこがね、廃館になりそうなの」

「……まあ」

 

 思い出す。あの時の、愛里寿の浮かない顔を。

 ボコについて詳しくはないが、愛里寿にとっての、かけがえのない存在だということは知っている。

 

「だから、その――その、そのっ」

 

 愛里寿の右手が、ぎゅっと握りしめられる。

 

「ボコミュージアムのスポンサーになってほしい、資金援助をして欲しい」

 

 気圧された。

 だって、あまりにも感情的な声だったから。

 

「もちろん、ただでとは言わない。来週の試合に勝ったら、西住流に勝てたらでいいから。だから、このわがままを聞いて欲しいの」

 

 ――西住流に勝つ意味合いは大きい、ということですね?

 

 だから愛里寿は、改めて、打倒西住流の重みを確認したのか。わがままに釣り合うだけの理由を、探していたのか。

 愛里寿は無表情の眼差しで、けれども千代の目をじっとじっと見つめている。人見知りの愛里寿が、真剣に人と向き合っている。

 はぐらかしなんて一切許されない。「はい」か「いいえ」か、聞き入れるか聞き捨てるか、それしか通じ合えない瞬間。

 

 だから千代は、こう答えた。

 

「わかったわ」

 

 愛里寿の目と口が、丸く開いた。

 

「よく、言ってくれたわ。そうよね、愛里寿にとっては……あそこは、とっても大切な場所だものね。いいわ、約束する」

「お母、さん」

「愛里寿はいつも、頑張っているもの。お母さんとして、これぐらいのことはしてあげたい」

 

 そうして、愛里寿の頭をそっと撫でた。愛里寿は、顔を赤くしながらでうつむいていく。

 

「勇気を出してくれて、本当にありがとう」

「――うん」

 

 ボコミュージアムへ行ったことはない。

 けれど、愛里寿がボコミュージアムのことが好きなのも、ボコミュージアムで「誰か」と出会えたことも、千代は知っている。

 だから、わかるのだ。失いたくないという、愛里寿の願いが。

 

「……ねえ、愛里寿」

「なに?」

「ボコミュージアムのこと、どれくらい好き?」

 

 その、何気ない質問に対して――愛里寿は、首をそっと上げて、

 

「大好き! 大好きだよ!」

 

 私に対して、ありったけの笑顔を見せてくれた。

 

 

―――

 

 

 今日の夕飯は、黒沢の大好きなカレーライスだ。父も母も嬉しそうな顔をして、「さあ食べて」と言ってくれた。

 その黒沢はといえば、機械的な手付きでカレーライスを掬い続けていて、そのくせ味覚もあまり働いていない。愛里寿のことばかりを考えているせいで、ロクに食欲が働いていないのだ。

 そして、親はそれを見逃さない。父と母は顔を見合わせ、示し合わせたように「うん」と頷きあって、母がにこりと笑う。

 

「ねえ」

「うん?」

「どうしたの? 何か、嫌なことでもあったの?」

「……いや、そういうわけじゃないよ」

「ほんとう? 相談なら、乗るわよ」

 

 苦し紛れの嘘をついたわけじゃない。むしろ、良いことがありすぎたくらいだ。

 少しでも頭を働かせてしまえば、ボコミュージアムでの出来事が、愛里寿と手を繋ぎあったことが、おそるおそる「愛里寿」と呼んだことが、鮮明にフラッシュバックしてしまう。

 胸の痛みは、今も続いている。

 末期症状というやつなのかもしれない。

 もう潮時だ。親に、この正体不明について聞いてみようと思う。

 

「……じゃあ一つ、聞きたいことがあるんだけれど」

「ええ」

「言ってみろ」

 

 母も父も、食事の手を止める。

 

「その、俺――俺の友人からさ、ある相談を受けたんだ」

「友人から?」

「うん。俺の友人がさ……そいつは男なんだけれど、こう言ったんだ。ある女の子の笑顔を見ていると、胸が苦しくなる、けれども全然不愉快なんかじゃない。どうしていいかわからないって」

 

 少し遠回りな言い方になってしまったのは、直接伝えるのが何だか恥ずかしかったから、愛里寿との交流が見透かされてしまうような気がしたからだ。

 それを聞いて、父と母は再び顔を合わせる。そうして、ほんとうに嬉しそうな顔を浮かばせ合って――父が、母が、自分のことを見据える。

 

「それは、私にも覚えがあるわ」

「あるの?」

「ええ。……そのお友達には、こう教えてあげて」

「う、うん」

 

 父と母は、まるで自分のことのように、上機嫌そうに微笑んでいる。その表情から、黒沢は逃れることができない。

 

「その、大切な感情の名前はね――」

 

 

―――

 

 

 ――じゃあ、夕飯を作るから。できたらメールで呼ぶわね。

 

 自室に入って、ドアを閉めて、そのままベッドに寝転がって――ヘッドホンをつける。

 言いたいことは全て言えた。だからこそ、ほんとうに疲れてしまった。このまま戦車に乗れと言われても、たぶんノーサンキューと答えると思う。

 ため息。

 よく、わがままが言えたなと思う。

 それを口にできたのも、すべては、黒沢のぬくもりが手に残っていたからだ。

 

 家に帰るまで、黒沢とはずっと手を繋ぎっぱなしでいた。口数は少なかったけれども、笑い合ったりするだけで心が満たされた。家にたどり着いた時なんて、ため息まで漏れちゃったっけ。

 ――胸の痛みは、今も続いている。

 静かな部屋の中で、愛里寿は、音の無いヘッドホンを身に着けたままで携帯を真正面に添える。パスワードを入力して、画面に光が灯って、検索サイトに文字を入力する。

 

 胸の痛み 異性に対して

 恋愛に関するサイトが引っかかる

 

 異性に対して どきどきする

 恋愛感情か否かの、確認サイトが引っかかる

 

 あの人と一緒にいたい

 もしかして? 恋

 

 画面を切る。

 携帯を胸の上に置いて、両目をそっとつむる。抑えきれない鼓動を、抱えたまま。

 

 笑みが、そっとこぼれ落ちてきた。

 

 

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

ご指摘、ご感想などがあれば、お気軽に送信してくださると嬉しいです。


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十二歳の少年に、宿命が訪れる

 ――それはね、恋っていうのよ

 母は言った、父も頷いた。黒沢は、あくまで他人事のように「へえ」と言った。

 夕飯を食べ終え、自室のベッドに横たわり、イヤホンを耳につける。音楽はつけないまま。

 

「恋、か」

 

 それぐらいは知っている。テレビドラマとか、漫画とか、ゲームとかでよく見かけるモノだ。

 ただ、知っていることはそれだけ。恋というものを抱いたことがなかったから、親に聞かれるまで自覚することができなかった。

 ――恋なんて、遠い未来の話だと思っていた。

 けれど今は、確かに恋を抱いている。島田愛里寿という女の子に対して。

 そして、必然的に考えてしまう。愛里寿は、自分のことをどう思っているのか。

 ただの友達か、それとも両想いか――考えれば考えるほど胸が痛みだす、これまで以上に。

 こりゃあ病だ、と思う。

 恋の病だ、と思う。

 

 胸の上に置いたままの、携帯を手に取る。

 さっきまで一緒だったのに、今すぐにでも電話をかけるのは迷惑だろうか。声が聞きたかったから、それだけの理由で通話をするのは迷惑だろうか。

 愛里寿はいま、とても大変な時期に入っている。来週の試合の為に、体も知恵も使いまくっているはずだ。

 そんな愛里寿に対して、自分勝手な理由で電話をかけるなんて。

 煩悩を振り払うように、頭をぶんぶんと振るう。

 駄目だ駄目だ。音楽でも聞いて、気を紛らわすとし、

 

 その時、部屋の中でトランスミュージックが鳴り響いた。

 

 考えるよりも先に、携帯の画面を目にする。画面には「着信:島田愛里寿」の文字、「マジかよ」と思考にウェイトがかかって、

 通話ボタンを、押した。

 おそるおそる、携帯を口元に近づけた。イヤホンがあるから、耳に当てる必要はない。

 

「……はい」

『あ、黒沢。いま、平気?』

 

 愛里寿の声。それを耳にするだけで、緊張感めいたものが湧いて出る。

 

「俺ならへーき。どったの?」

『あ……えっとね、うん。今度、試合があるでしょう?』

「うんうん」

『その試合に勝てたら、私の母が、ボコミュージアムのスポンサーになってくれるんだって』

「んマジで!?」

『うん』

 

 愛里寿が、極めて真剣な声で返事をする。

 

「で、でもさ、マジでなれんのかな? スポンサーに」

『なれると思う。一応、お金だけは持っているから』

「お金――」

 

 思い出す。

 自分は数時間前に、愛里寿と手をつなぎ、愛里寿を家まで送っていった。その時に見た愛里寿の家ときたら、まるで城かといわんばかりにとにかくデカかったものだ。声にまで出た。

 どうやら自分の気持ちを察したのか、愛里寿は「一応、ここが家」と口にした。呆けていた自分ときたら、間抜けな声で「グレート」。やっぱり島田流はスゴイ、改めてそう思った瞬間だった。

 でも、まあ、

 そのスゴさが、ミュージアムの継続に繋がるのであれば、それは実に良いことだ。

 

「そっか……良かったね、愛里寿」

『うん』

「こりゃあ、来週の試合は負けられないね」

『うん。絶対に勝つ』

 

 迷いのない、確固たる声。それを聞けて、黒沢はほっとする。

 

「なあ、愛里寿」

『なに?』

「俺、何か出来ることはないかな?」

『え』

「だって相手は、あの西住さんだからね。絶対に強いでしょ? だから……何とか、愛里寿の力になりたいなって思って」

 

 数の差だとか、戦車の性能だとか、それらはあえて口にしない。

 愛里寿の為に、好きな人のために。それらだけを念じながら、黒沢はやりたいことを言葉にする。

 

『――その言葉だけで、十分だよ』

「え?」

『黒沢がそう言ってくれただけで、わたしは嬉しい。心も、士気も、何もかもがマックスパワーになった』

 

 愛里寿からの、それはもう明るい声。

 

「そっか、それなら良かった。……ありがとう、愛里寿、ボコミュージアムの為に戦ってくれて」

『ううん、私もボコミュージアムのことは助けたかったから。……それにね、お礼を言いたいのは、私もなの』

「え?」

 

 この時に、間が生まれたと思う。

 

『あのとき、あなたは私に勇気を与えてくれたよね? だから私にも、お母さんにお願いする勇気が生まれたの』

 

 息が、止まったと思う。

 携帯からイヤホンを引き抜き、そのまま携帯めがけ耳を当てる。

 

『ありがとう、黒沢。黒沢のお陰で、私は私のやりたいことができた』

「――それは、」

 

 愛里寿の力があったから、

 言いかけて、首を横に振るう。

 

「どういたしまして」

『うんっ』

 

 そうして黒沢の、愛里寿の言葉はすべて終わってしまった。

 ただただ、気まずくない沈黙だけが過ぎ去っていく。満足感と、使命感めいた高揚感のみが、黒沢の中でゆっくりと漂っている。

 ――どうしようかな。

 こういう時は、男の自分から切り出すべきだ。

 決意するために、わざとらしく咳をつく。

 

「ありがとう、伝えてくれて。……じゃあ、そろそろ切るかい? いい時間だし」

『あっ、待ってっ』

 

 愛里寿に、言葉で掴まれた。

 

「ん、なんだい?」

『あ、えっと……その……』

「うん」

 

 待つ。

 

『その……黒沢は、夕飯は何を食べたの?」

「え? えっとー、カレー」

『カレー……いいね、うん』

 

 黒沢は「いいよー」と答え。

 

「父さんと母さんの合作カレーは、最高にウマいんだよ。愛情たっぷりでさ」

『あ、そういうのいいな……私も食べてみたい』

「じゃあ、今度家に来る?」

 

 勢いで言った後で、黒沢の舌が硬直する。

 友達を家に誘う、それは別にいい。小学三年生まではそうしていた。ノリで寝泊まりをしたこともある。

 けれど、愛里寿は違う。好きな人を家に、しかも一緒に夕飯をとって、しかもしかも自分の部屋で一緒に泊まって、

 

「うわー! ごめんっ、いまのナシっ!」

『えっ? どうして?』

「い、いやその、なんというか……気安すぎたっていうか」

『……いいよ?』

「え」

 

 え。

 

『いいよ? 黒沢の家なら、い、行く』

 

 聞き逃さなかった。黒沢の家「なら」、という言葉を。

 

「ま、マジで?」

『う、うん。試合が終わった後なら……いつでも、行く』

「……部屋、汚いよ?」

『それでも、いい。私の部屋だって、ボコだらけ』

「そ、そうなん」

 

 乾いた笑いが漏れる。嬉しいやら恥ずかしいやらの感情を、そうやって発散させるつもりでいた。

 

『そ、それにね?』

「お、おお」

『――黒沢がよかったら、だけど。私の家で、お母さんのハンバーグを食べていっても、いいんだよ?』

 

 溢れ出んばかりの感情なんて、制御できそうにもなかった。

 今の愛里寿の言葉を「曲解」するならば、つまりは、愛里寿の家に泊まっていってもいいということなのか。それで夜更けまで愛里寿とおしゃべりして、眠くなったら愛里寿と一緒に、

 己が頭をばしばし叩く。

 

『ど、どうしたのっ? すごい音がしたけれど』

「あ、いやなんでもないなんでもない! へ、へえ、お母さんのハンバーグか……俺も食べてみたいな」

『うん。お母さんの夕飯はね、世界一おいしいんだよ』

「マジか。俺の夕飯も負けてられねえなあ」

『うん』

 

 愛里寿が、含み笑いをこぼす。

 

「これは、試合終了後が楽しみだな」

『うん。必ず行く、あなたの家に』

「父さんも母さんも、きっと喜ぶよ。だって、」

 

 友達だから。

 そう言おうとして、自動的に言葉が途切れる。

 

「……愛里寿、だから」

 

 友達。そう言ってしまったら、それまでの関係になってしまうと思ったから。

 だから、こんな言い回しになってしまった。

 けれども愛里寿は、「そうなんだ」と言ってくれて、

 

『……必ず行くね、あなたの家に』

「うん、待ってる」

『ありがとう』

 

 そして、また沈黙が訪れる。達成感に満ち満ちた、余韻のある空白が生じた。

 いつまでも、このままでいたかったと思う。

 けれども、時を進めなければ試合はやってこない、ボコミュージアムも救えない、お泊まり会だってできない。

 だから、ひとまずは愛里寿と別れよう。次に会うために。

 

「……じゃあ時間だし、そろそろ切るよ」

『うん。……あ、最後に一つだけ、いい?』

「なんだい?」

『その、あの』

「うん」

 

 聞きにくい質問らしく、愛里寿の言葉がしばらく右往左往する。

 黒沢は待った。いつものように、待ち望んだ。

 ――そして、

 

『その、転勤の話は、出てきたり、した?』

 

 その言葉からは、限りない気遣いが感じられて。その声色からは、不安めいたものが伝わってきた。

 思う。

 転勤の話が出てきたら、自分はどんなふうになってしまうのだろう。聞き分けよく従うのか、前みたく駄々をこねてしまうのか――わからなかった。

 けれど今は、はっきりとこう言える。

 

「いや、ないね。まだまだ、愛里寿と会えるよ」

『そう、なんだ』

 

 そして、愛里寿の吐息が聞こえてきて、

 

『――よかった』

 

 その静かな反応に、黒沢の心は大きく揺れ動いた。

 だって、自分の好きな人が、自分の為に安堵してくれたから。

 

『黒沢』

「な、なに?」

 

 そして愛里寿は、まるで、当然であるかのように、

 

『――試合が終わったら、絶対に会いに行くね。一緒に、ふたりで遊ぼうね!』

 

 ――誓う。

 俺は、この人に一生を捧げようと思う。

 命を賭けてもいい。これ以上に好きになる人なんて、もう現れないと思う。

 両想いでなくたっていい、片思いのままでもいい。好きという感情で結ばれていること事態が、もう奇跡みたいなものだ。

 島田愛里寿の力になりたい、どんなことをしてでも。

 俺は、携帯をぎゅっと握りしめる。

 

「愛里寿」

『なに?』

「俺、会場まで行くよ」

『――え?』

「北海道まで行って、大学のみんなを、愛里寿を応援する!」

 

 抑えきれない使命感に捕まったまま、思いつきの誓いを口にした。

 北海道は遠い、それはわかっている。そこまで行くなんて、そう簡単な事にはいかない。

 けれども黒沢は、どうしても愛里寿の傍にいてあげたかった。大学選抜チームの盾になりたかった。

 十二歳ごときが、多大な影響力なんて及ぼせるはずがない。けれど、でも、自分はどうしようもなく愛里寿のことが好きなのだ。

 だから、言う。北海道に、行く。

 

『黒沢』

「うん」

『黒沢っ』

「うんっ」

『……待ってる』

「ああ」

 

『あなたを、待ってるっ!』

 

 

 □

 

 

 愛里寿との通話を終え、余韻を引きずったままでひとまず深呼吸。そのまま携帯をポケットにしまい、リビングへ通じるドアめがけ一歩ずつ歩み、ドアノブに手をかけて、

 いったん、動きを止めた。

 覚悟の充填をする。誓ったんだぞと己に責め立てる。愛里寿との約束を守るためなら、ワガママの一つや二つを言うくらいどうってことはない。

 そう思い込んだ。

 その思い込みを背負ったままで、ドアを開けた。

 

「父さん、母さん」

 

 ソファに座りながら、雑誌のクロスワードを解きあっていた父と母が、驚いたように黒沢へ目を向ける。

 邪魔をしてごめん。心の中で、謝りつつ、

 

「今週の日曜まで、行きたい場所があるんだ」

 

 父と母が、顔を見合わせる。

 

「北海道へ行きたい、絶対に」

 

 後先考えずに、言えた。

 点けっぱなしのテレビから、笑い声が聞こえてくる。窓から、控えめの虫の音が響いてきた。

 

「何か、あるのか? 北海道に」

 

 ただのお出かけ話ではない、ということを察したのだろう。

 父が、生真面目な真顔で問うてくる。母からも、真剣な眼差しを向けられた。

 わがままを口にするのが、とても怖い。断られることが、すごく恐ろしい。

 ――でも、

 左手を、ぎゅっと握りしめる。

 

「そこで、俺の好きな人が、戦車道の試合をする。応援に行きたいんだ」

 

 再び、父と母が顔を見合わせる。小さな声で「試合?」「もしかして、大洗と大学の?」「ああ、北海道といえばそれだな」、そう言い合い、

 ――父と母と、ふたたび向き合う。

 

「聞きたいことがある」

「うん」

「……大洗の子、なのか?」

 

 予想外の言葉だったが、冷静に考えてみて「そう予想するよな」と思う。年齢の差なんて、だいたい四つくらいしか離れていないし。

 ――でも、違うんだ。父さん。

 首を、横に振るう。

 

「まあ……もしかして、大学?」

 

 首を、縦に。

 これには驚いたのか、父も母も「おお、おお」「まあ、まあ」と動揺した。

 

「だれ……なんだ?」

「島田愛里寿」

 

 よどみ無く、まっすぐに言った。

 その名前を耳にした瞬間、日本戦車道委員の父は、母は、声を出さずに大きく驚く。

 

「……もしかして、会ったのか?」

「会った。俺の、かけがえのない友達で、俺の好きな――いや、大好きな人だ」

「――まあ」

 

 母が口に手を当てて、とても嬉しそうに微笑む。

 

「そう。島田さんと、仲良しなのね」

「うん」

「島田さんのことが、ほんとうに好きなんだな?」

「好きだ!」

「――そうか」

 

 父と母が、同時に頷いて、

 

「じゃあ、北海道に行くか」

「え」

「どんな旅行になるのかしら。楽しみねえ」

「え」

 

 あっさりとプランが決まってしまい、詰めた覚悟が腰砕けになってしまった。

 父と母を交互に見やる、ふたりとも気楽そうに笑い合っている。

 

「い、いいの? ホワイ?」

「おお、いいぞ。せっかくの夏休みだからな、旅行の一つや二つはしたかったし」

「ええ。それに、好きな人が頑張るんでしょう? それなら応援しに行かないと、絶対に」

「……本当に、いいんだね?」

 

 信じられないがあまり、改めて確認してしまう。

 そんな息子に対して、父はあくまでも優しく笑いながら、

 

「当たり前だろ。……お前には、たくさん迷惑をかけてしまったからな。これぐらいはやってあげたい」

「ええ。……それにね、私はとっても嬉しいのよ。あなたにとっての大切な人が、見つけられたことに」

「父さん、母さん」

 

 父がソファから立ち上がり、黒沢へ歩み寄って――肩に、手を乗せた。

 

「後は、俺達に任せろ」

 

 その言葉は、あまりにも大きすぎた。

 父と母の元に生まれて良かったと、本心から思う。

 

「ありがとう。父さん、母さん」

 

 

 送信者:黒沢

 北海道へ行くことが決まった! 土曜に出発するから、日曜までには絶対に間に合う。

 会場まで行って、愛里寿のことを、大学のみんなを応援する! 絶対に!

 頑張れ愛里寿! 俺も一緒に戦う! がんばれ!(・(ェ)・)

 

 

 ――それからすぐに、愛里寿から電話がかかってきた。

 

 

―――

 

 

 そうと決まれば話は早い。

 父と母はすぐにでも北海道行きを予約し、当日になってキャリーケース片手にいざ飛行機へ。その際に『これから北海道へ行くよ』とメールで送ったところ、間も置かずに『やった。でも、会えないのが寂しいな(・(ェ)・)』といったやりとりを交わした。

 

 そうして十五時あたりに北海道へ到着したのだが、家族揃ってまずはホテルへチェックイン、部屋へキャリーケースを置いた後は「せっかくだし、何か食いに行くぞ!」という父の提案のもと、我々黒沢家は早速とばかりにラーメン広場へ突撃し、父と母は醤油を、黒沢はみそを注文して、うまいうまいとラーメンを完食する。

 続いて本場のイクラ丼も平らげ、後はソフトクリームも口にして、その際に父が「ついてるぞ」と母の口元を指先で拭い、それをぺろり。母はきゃーと盛り上がっていた。

 そんなグレートな光景を前にして、最初は「やるねえ」と思い、後に「いいなあ」と思う。愛里寿にあんなことが出来たら、自分は生きていられるのだろうか。

 

 そうして北海道の町並みを歩んでいって、しばらくしてホテルへ戻ってはひとっ風呂浴びる。今回は恋愛感情が主軸になっているせいか、裸の父からは「数年前になー、母さんを見た時から惚れてなー」とか惚気話を聞かされた。

 ある意味、自分もそんな感じだ。血は、順調に継いでいるのかもしれない。

 

 そうして部屋に戻り、浴衣姿に着替えては意味もなくベランダに出る。温泉帰りの体に、夏の空気がとても心地よい。

 空はすっかり暗い。明日には試合があるというのに、星々がのんびりと輝き続けている。ベランダから見下ろしてみれば、光を灯った光や戦車が、いくつも通り過ぎていく。

 ベランダに用意された椅子に、なんとなく腰かける。

 今頃愛里寿は、何をしているのだろう。明日の準備で、これまで以上に忙しなくやっているのだろうか。

 通話は、もちろんしたい。けれど、邪魔になったりはしないだろうか。

 時計を見る、二十時。

 ふつうなら、かけてもいい時間帯だ。けれども今日は例外だから、一日ぐらいは我慢しないと。

 ――そう思っているのに、アドレス帳から愛里寿の携帯番号を引っ張り出してしまう。

 だめだな、どれだけ愛里寿に飢えているんだか。確かに自分は、マジモノの病にかかっているのかも。

 鼻息をつく、椅子にもたれかかる。イヤホンを耳にして、気を紛らわすとでもし、

 

 夜空いっぱいに、トランスミュージックが鳴り響いた。

 

 息を吸う暇もなく、携帯を真正面に捉える。「着信:島田愛里寿」の文字、を目にしたと同時に着信ボタンを押して大急ぎで耳に当てて、「もしもし?」、と言うと同時に慌ててイヤホンを引っこ抜く。

 

『あ――何か凄い音したけれど、大丈夫?』

「あ、あーヘーキヘーキ、ノープロブレム」

 

 いつもの言い回しに、愛里寿が小さく笑う。

 

『よかった……今、何をしてたの?』

「ああ、今はホテルで夜風に当たってたよ。いいものだね、北海道も」

『うん、ご飯がおいしかった』

「何食った? 俺はラーメンにイクラ丼」

『豚丼』

「ほおー、いいねえ。俺も食ってみようかな」

『うん、おすすめ』

「そっか……いや、愛里寿が元気そうでよかったよ」

『私は大丈夫。西住さんには選手宣誓ができたし……黒沢が、いてくれるから』

 

 自分の名前を出されて、緊張感めいたものが一気に湧いて出てくる。

 そして、部屋の方を見る。親に聞かれていたらとても恥ずかしいから――ほっと一息つく、父と母はボードゲームに興じていた。

 改めて、携帯に集中する。

 

「そう言ってくれて、すげえ嬉しいよ。ここに来たかいがあった」

『うん。私は島田流の為に、隊員のみんなのために……黒沢のために、がんばる』

「俺も、愛里寿のことを応援するよ。いまも、これからも」

『……サンキュー、黒沢』

 

 ひと息つく。

 愛里寿の声色からして、追い詰められたような雰囲気は感じられない。いつもの調子で話しかけてくれることが、とても嬉しく思う。

 

「……えっと、ほかに何か、伝えたいことはあるかな? なかったら、俺の方から切るよ」

 

 通話とは、思った以上に締めを切り出しにくいものだ。まだ話したいことがあるのではないのかと、ついつい読み合いになってしまう。

 だからこそ、黒沢の方から終了「してもいい」合図を示した。明日は大変だろうから、尚更だ。

 

『……えっと、あの』

 

 まばたきをする。

 

『その、黒沢は……どうして、ここまでしてくれるの?』

 

 この世で最も簡単な質問を問われ、この世で最も答えづらい質問を聞き出された。

 それはもちろん――それを口にしようとして、重圧に近い恥じらいが、ビビリが生じる。

 正直に本心本音を口にして、嫌われてしまったらどうしよう。かといって、友達止まりなんて絶対に言いたくない。

 他人事のように過ぎ去っていく、バイクの駆け抜ける音。

 両肩で思い切り深呼吸。

 

「それは、愛里寿が……大切な、人だから」

 

 なんとか、答えを引きずり出す。今の自分には、これが精一杯だった。

 

『……そうなんだ』

 

 愛里寿の、少し驚いたような声。

 

『――そうなんだ』

 

 愛里寿の、安堵しきった声。

 それを耳にして、自分は、正しいことが言えたのだと確信する。

 

『……ねえ、黒沢』

「う、うん」

『そ、その……』

「うん」

 

 待つ。

 

『わ、私ね、その、黒沢に聞いて欲しいことがあるの』

「聞くよ」

 

 つばを飲み込む、熱くなった携帯をもっと近づける。

 

『私は、黒沢のこと、』

 

 愛里寿から、深い深い深呼吸が聞こえてきた。

 そして、

 

『私ねっ! 黒沢のことっ! す、すきっ』

 

 死ぬかと思、

 

『――な戦車って、何かな!?』

「ん゛ッ!?」

 

 心臓が転倒するところだった。

 

「え、あー……えー……センチュリオン」

『そ、そうなんだ……そうなんだ』

 

 好きな理由はもちろん、愛里寿の愛車だからだ。

 二番目に好きなのはパーシング、応援していくうちに愛着を抱いた。

 

「ま、まあ、そんな感じ?」

『なるほど、うん、なるほど……』

 

 沈黙が降ってくる。

 とてもでないが、ここで締めを切り出せるような勇気なんて湧いてこない。せっかく愛里寿が質問してくれたのだから、自分も何か気の利いたことを聞かなければ、そんな強迫観念に陥る。

 ――考えて、考え抜いて、思う。

 愛里寿はいま、「すき」と言った。それは、今の自分にとっては一番大切な言葉だ。

 なぜなら自分は、いつかは、愛里寿に告白したいから。あわよくば、愛里寿と両想いであるかどうかを確かめたいから。

 改めて、両親に目配せする。母は「勝ったー!」と両腕を上げていて、父は大げさに背筋を丸めている。よほど悔しかったに違いない。

 たぶん、盗聴はされていない。

 言うなら、今しかない。

 覚悟を、決めろ。

 

「あ、愛里寿」

『なに?』

「え、えーっと、その……俺さ、愛里寿に伝えたいことがあって」

『う、うん』

 

 言え。言えなかったら、死ぬと思え。

 

「俺さ、実はさ、あ、愛里寿のことがさっ」

『! う、うんっ』

「愛里寿のことがっ、す、すきっ」

『あっ――』

「――焼きが食べたいんだけどっ、どうかなっ?」

 

 ヘタれた。

 死ねばいいのに、と思う。

 

『え、えっと……それは、その、黒沢の家で?』

「え? あ、あー、いいんじゃないかなあ? みんなですき焼きってのも、いいと思う」

『……うん、いいよ』

「え、いいの?」

『うん、私でよかったら。黒沢と一緒に、すき焼きを食べたい』

「……泊まり込みになるかもしれないよ?」

『……いいよ』

 

 感極まって、星空を見上げる。

 怪我の功名とは、まさにこのことかもしれない。結局肝心なことは言えなかったが、信頼されていると知れただけでも十分だ。

 

「わかった。じゃあ試合が終わったら、ね」

『うん、必ず行く』

 

 時計を見る、二十時半。楽しい時間というものは、やっぱりあっという間に過ぎていく。

 

「じゃあそろそろ、切ろうか。明日は早いだろうしね」

『うん。今日は話せてよかった、ありがとう』

「俺の方こそ、とっても楽しかった。じゃあ明日、頑張ってね、必ず応援しに行くから」

『うん』

 

 通話が切れる。

 父と母の方を見てみれば、ボードゲームのリベンジ戦が行われていた。

 ――しばらくは、二人きりにさせようかな。

 そんな生意気なことを考えながら、星空のことをただただ見つめる。

 

 

―――

 

 

 夜が過ぎ、意味もなく早起きして、気づけばもう十一時半にまで差し掛かっていた。

 

 今日に限って言えば、タダの十一時半ではない。あと三十分もすれば、大洗との試合が始まってしまうのだ。

 広々とした会場の中で、アズミは力なく周囲を見渡す。

 誰一人として浮かれることなく、血気盛んに笑うこともなく、ただただ無表情を晒す隊員達がいるだけ。副官としては見過ごせない場面ではあるが、仕方がないとも思う。

 学園艦の命運を勝手に背負わされて、あまつさえひどい戦力差で戦うことになって、どうやって士気を上げろっていうんだ。

 切り込み隊長であるメグミですら、パーシングに寄りかかってそれきり。ルミに至っては、ぼうっと青空を見つめている。肝心の愛里寿だって、淡々とタブレットを操作するのみだ。

 ――やるからには、やる。隊長についていく。

 みんな、そうは思っているだろう。

 けれど、ぜんぜん楽しくない。そうも思っているだろう。

 うんざりするように、首をひねった。

 今のうちに携帯を引っこ抜いて、SNSまわりを確認し始める。

 ――ひどい試合になりそうだ。大学側は本気でやるのか。大洗の子達が可哀想。これが戦車道なのかよ。辞退した方がまだいいのに――

 前日と全く変わらない反応を見て、ため息が出る。何が悲しいかって、自分もそう思っているところだ。

 忌々しげに、鼻息をつく。

 試合が終わったら、何か呑もう。

 自分はそれでいい、これでも酸いも甘いも知る二十一歳だ。

 けれど隊長は、まだ若い。こんなどうしようもなさを背負うなんて、いくらでも早すぎる。

 これまでの愛里寿は、島田流の正しさを教えてきてくれた。それなのにいきなり「ワルモノ」にされるなんて、いくらなんでもあんまりだ。是非とも、責任者の顔をひっぱたいてやりたい。

 

 ――そうして、十一時五十分になった。

 そろそろ、選手宣誓の時間か。

 携帯を胸ポケットにしまう。未だタブレットを操作している隊長に対して、何か声でもかけようとして、そっと近づいて、

 愛里寿の表情が、驚きのものに変わった。

 アズミの両足がぴたりと止まる。これまで緩慢だったはずの愛里寿が、機敏な手付きで、私物の携帯をポケットから取り出して――

 

 私は、初めて見た。隊長の、泣いてしまいそうな笑顔を。

 

 そして愛里寿は、携帯を胸に抱いた。とても愛おしそうに。

 誰かが見ているなんて、いまの愛里寿は気づいていないのだろう。だからこそアズミは、愛里寿の「次」を待った。

 愛里寿の幸せは、アズミの幸せでもあるから。

 

「――みんな、聞いて欲しい」

 

 そして、愛里寿は「いつもの顔」になる。

 履修者全員が、素早く列を作る。

 

「もう一度だけ、みんなに聞きたい。この試合に、参加する意思はあるか?」

 

 はい!

 

「この試合に礼節を見い出せないのなら、体調不良等で棄権しても構わない。正当な選択として、私は受け入れる。戦車隊隊長として、その選択を保証する」

 

 ――沈黙。

 

「みんな」

 

 はい。

 

「ありがとう。私と一緒に、戦おう」

 

 148人の大学強化選手が、一斉に敬礼する。

 

「行こう」

 

 そうして、審判の元へ向かい、

 

『待った―――――――――ッ!!!!』

 

 咆哮。

 あまりにも突然すぎて、全員の足が止まった。

 

 

 □

 

 

 すげえことになった。

 戦車道素人の自分でも、それぐらいは理解できる。何せ大洗側から、ありとあらゆる戦車が加勢しに来たのだから。

 父も母も、「どうなってるんだ」と右往左往する。観客からも、どよめきが止まらない。

 特設モニター越しからは、「転校手続きは済ませた」の一声が聞こえてくる。そうして間もなく、大洗側の戦力にティーガーとか、KVとか、チャーチルとか、とにもかくにも色々な戦車がカウントされていった。

 これまでは沈黙気味だった観客達が、瞬く間に大声を張り上げていく。中には、三人で抱きしめ合うおっさん達の姿も見受けられた。

 事情は、正直よく飲み込めてはいない。

 けれど、黒沢の口元は獰猛に曲がりくねっていた。

 ――丁度いい試合になるってことじゃねえか。

 高揚を胸に秘めたまま、いま一度携帯を取り出す。

 

送信者:黒沢

『いま、会場に着いたよ。あと数分もしたら、試合が始まるんだね。

愛里寿。いまはとても、苦しい状況にいると思う。それは、俺にもわかる。

でも俺は、そんな愛里寿の力になりたい。父さんも母さんも、愛里寿の力になるって言ってた!

頑張れ愛里寿! 負けるな愛里寿! 俺は大学選抜チームの、愛里寿の味方だ!

これが終わったら、ボコミュージアムへ一緒に行こう! 待ってる!(・(ェ)・)』

 

送信者:愛里寿

『Thank you! 黒沢!(・(ェ)・)』

 

 携帯をしまう。

 西住さん。いい試合を見せてくれ。

 愛里寿。俺も、一緒に戦うよ。

 

 

 □

 

 

 大洗側の戦力が整った時、文部省の役人が勢いよく抗議を口にした。対して千代は、「手続きは済ませているみたいですし」と返答する。

 未だ不満たらたらな役人を尻目に、千代はすぐにでも扇を口に当てる。なぜかと言われれば、そりゃあ愉快な笑みが止まらないからだ。

 ――見ろ、戦車道とはとても誠実だろう。政府の決定に対して、戦車を以てして「ナメるな」を体現してみせた。

 不意な増援に対し、愛里寿は当然のように「受けて立ちます」と言い放った。経験の差はともかく、これで戦況はイーブンになったはずだ。

 

「――あ!」

「なにか?」

「あ、あれはどうしたんですか!? あの秘密兵器は」

 

 千代は、扇子をひらひらと泳がせる。

 

「あれなら、『使い慣れていないので、返品します』とのことです」

「は、はあッ!?」

「使い慣れたモノの方が、勝つ見込みはあるでしょう?」

 

 役人が顔を真っ赤にしながら、もういいとばかりにモニターを注視する。

 ――まったく、笑いが止まらない。

 見ろ、この光景を。スジを通すためなら、戦車は無茶だって踏み越えてみせる。回り続ける無限軌道に不可能なんてものはない。

 戦車道の不義理なんて、戦車道履修者は絶対に許しはしないのだ。輝く勝利も、煤にまみれた敗北も、すべては戦車道履修者のものなのだから。

 ちらりと、右を見る。

 西住しほは、少し嬉しそうな顔をしてこの場を見守り続けている。

 ちらりと、左を見る。

 役人は、歯を食いしばりながらで、それ以上取り乱したりはしなかった。

 上機嫌な顔を隠さないまま、扇子をぱちんと閉じる。

 この試合が終わったら、居酒屋にでも行ってドンジャラホイしたい気分だ。それくらい最高だ。

 ――さて、

 

 存分に戦いなさい、愛里寿。私はずっと、あなたを見守ります。

 

 

 □

 

 

 試合が始まって、一時間ほどが経った。

 前半戦までは、確かに大学選抜チームが有利だった。的確な動きに、一騎当千を意識した立ち回りは、間違いなく大洗側を苦戦させたものだ。

 それに比例して、観客側からは悲観めいた反応が漏れる。大洗はここまでなのか、まだ希望はある、大学に負けるな。

 ――大洗の事情は、わかっているつもりだ。

 ここに座っている観客のほとんどは、大洗学園艦の住民か、或いは大洗に同情している人たちなのだろう。学園艦という世界の命運がかかっているのだから、大学選抜チームのことを良く思えないのは当然のことだ。

 そんな重苦しい雰囲気の中で、力いっぱいに応援する決意が湧いて出てこない。ヘタに激励しようものなら、敵意を向けられてしまうかも。

 ビビっていた。だから、控え目に「頑張れ」としか言いようがなかった。

 

「あ! やったぞ! 大洗が押してるぞ!」

「おお! さすが!」

「頑張れ! 負けるなッ! 大学に負けるなーッ!」

 

 みんな、大洗を応援している。大学の敗北を、期待している。

 気持ちはわかる。けれど自分は、大学のほうが、愛里寿のことが好きなのだ。

 

「また一両撃破だ! すげえな今どきの高校生はッ!」

「俺たちの希望だ!」

 

 がんばれ、がんばれ。

 周囲の応援に打ち消されながらも、黒沢は応援し続ける。アズミが狙われているのを目にして、声にならない声が漏れる。

 

「――お。あいつら、大将に向かっていくぞ!」

 

 何――

 モニターを見る。確かに、三両の戦車群が愛里寿めがけ突っ込んでいる。その動きに躊躇なんて感じられない。

 応援しなきゃ、愛里寿の力になるって決めたんだろう。

 息を吸う、沈殿しきっていた勇気をかき集める。周囲なんて見ないフリして、黒沢は口を開ける。

 

「頑張れ愛里寿! 負けるなッ! ニンジャ戦法でやっつけてくれ――――ッ!!!」

 

 その瞬間、周囲から猛烈な視線を浴びた。

 その無言の批判は、あまりにも強力で、あまりにも正しくて、それ故に声が出せなくなる。背すら縮みこんでしまって、歯を食いしばることしか出来ない。

 ――ごめん、愛里寿。俺は臆病野郎だ。こんなんじゃ、告白なんて出来るはずがないよな。

 情けなくなって、両目をつむる。このまま消えてしまってもいいと、そう強く念じて、

 

「大丈夫だ」

 

 右肩に、熱が籠もった。

 

「俺達が、お前を守る。一緒に島田さんを、大学のみんなを応援しよう」

「と、父さん」

「島田さんのこと、好きなんでしょう? なら、応援してあげないと、ね?」

「母さん。……いいの?」

 

 母が、頷く。

 

「当たり前じゃない。あなたが好きなら、私たちもそれを好きになるわ」

「そうだ。こうして見てみれば、大学のみんなは、こんなにも凛々しくて格好良いじゃないか。お前が好きになるのも、よく分かるぞ」

 

 母が、黒沢の左肩に手を乗せる

 

「さあ、島田さんに力を与えて。好きな人の為に、応援してあげて」

 

 父が、背中を軽く叩いて、

 

「父さんは、母さんは、お前の味方だ」

 

 その言葉に、勇気が装填された。

 だから黒沢は、勢いのまま立ち上がれた。

 

「ッ! がんばれ! 大学のみんな! 愛里寿! がんばれっがんばれっ! グレートな戦いを見せてくれ―――ッ!!」

 

 モニターに映るセンチュリオンが、三両のうち一両を一撃、

 

「FOOOO! サイコーだぜぇぇぇぇッ!!!」

 

 二両目を撃破。

 

「愛里寿! パンチだ!」

 

 センチュリオンが、三両目めがけ体当たりをぶちかまし――至近距離から、一撃をかます。

 

「やるなあ! 凄いもんだ島田さんはッ!!」

「エクセレントッ! さすがはあなたの恋人ねッ!」

「片思いだって!」

 

 その時、周囲から猛烈な視線が降り注いできた。

 立ち上がったままで、それらを見る。無表情で抗議する青年、気まずそうな顔をするおじさん、頭を掻いている老人。

 容赦のない年上からの注目を浴び、腰が引けそうになる。けれど歯を食いしばり、手を握りしめて、屈しないよう踏ん張る。

 

「――あら、なにか?」

 

 あらゆる目が、母に集中した。

 

「私達は、応援しているだけですよ?」

 

 そして母は、遠慮なく笑顔を振りまいた。

 それはあまりにも眩しかったのだろう、観客が慌てて目を逸らす。

 ――正直、チビるかと思った。

 

「さ、さて、応援するぞっ」

「お、おうよ!」

「がんばって島田さん! そこのパーシング! いいわ! スタイリッシュよ―――ッ!!!」

 

 いてもたってもいられず、母がその場でジャンピングする。さすがは、サンダース卒業生だった。

 

 

 □

 

 

 試合も終盤に差し掛かり、何の因果か愛里寿と西住みほが一騎打ちになった。

 こうなっちまうのか、と思う。ボコ仲間なのに、何で――

 ああ、

 ボコには、人と人とを繋げる力がある。だからこそ、こうなってしまうのは必然だったのかもしれない。

 

 そしてセンチュリオンは、みほの戦車は、絶対に撃たれまいと動き回る。その間にも砲撃は止まらない、当たったところで白旗判定には至らない。

 黒沢も、父も、母も、そして観客も、応援の声なんて上がらない。誰もが試合に見入り、誰よりも勝利を望んでいるのだろう。

 黒沢は、右手だけを握りしめる。どうか愛里寿に勝利を、島田流に日本一の座を、ボコミュージアムの存続を、俺の好きな人に幸せを――

 その時、みほの戦車にスキが生じた。

 砲身が明後日の方向に、センチュリオンはみほの戦車を捉えていて、

 

 その間に、クマの乗り物が、静かに通り過ぎていった。

 

 ――島田愛里寿のことを知っている黒沢は、小さく頷くしかなかった。

 だよな、そうだよな。愛里寿

 

 

 □

 

 

 ――島田愛里寿のことを理解している千代は、小さく頷いていた。

 わかる、わかるわ、愛里寿

 

 

 □

 

 

 そして試合は、大洗側の勝利に終わった。

 

 ほんの一息だけの沈黙の後で、自分以外の観客が一斉に大爆発を起こす。青年はガッツポーズをとり、三人組のおじさんは抱き付き合い、どこかの兄ちゃんは躍りに踊っていて、カップルらしい二人組がハイタッチ。間違いなく、幸せというものが溢れ出ていた。

 ――うつむく。

 愛里寿は、最後の最後まで格好良かった、持てる全てを出し切った。正しく戦い抜いた。

 これに文句のある奴は今すぐ出てこい、ぶっ飛ばしてやる。

 愛里寿はまちがいなく、この試合のMVPだ。

 

「……素晴らしい試合だったな」

 

 父が、肩を抱いてくれる。

 

「ええ。島田さんも、大学のみんなも、とても格好良かったわ」

 

 この時ほど、父と母の役職に感謝したことはない。

 戦車道の委員が、こう言ったんだ。愛里寿が最高なのは、絶対のものになった。

 

「父さん、母さん」

「うん?」

 

 自然と、笑えた。

 

「ありがとう」

 

 

 □

 

 

 先ほどから役人の声が途絶えているが、まあ疲れているんでしょうと軽く受け流しつつ、視線を西住流家元殿へ向ける。

 目は笑っておらず、けれども口元は小さく緩んでいて、千代は「へえ」と笑う。それに気づいたしほが、威嚇するように咳をこぼした。

 

「……どちらも、素晴らしい戦いぶりでした」

「ええ、それは認めます」

「だからこそ、次は正々堂々と戦いたいものですね」

「ええ」

 

 モニターには、西住みほと握手しあっている愛里寿が映し出されている。その横顔は、とても清々しい。

 

「さて、これから忙しくなりますね。この番狂わせは、戦車道界隈で大きく騒がれるでしょう」

「でしょうね」

 

 つまりは、そういうことになる。

 大学強化選手が、高校生に負けた。この事実をもとに、日本戦車道連盟は、島田流家元である千代は、西住流家元であるしほは、マスコミからインタビューを受けることになるだろう。試合に関しての評論文も書かなければいけない。

 廃艦の撤回も、文部省まわりに多大な影響力を及ぼすはずだ。しばらくはロクに眠れない日々が続くだろうが、それも組織ならではの宿命みたいなものだ。役人にはせいぜい強く生きて欲しい。

 うんと、背筋を伸ばす。

 自分には、ボコミュージアムのスポンサーになるという義務もある。慣れない仕事になりそうだが、きっと、なんとかなるだろう。

 

 

 □

 

 

 会場を後にして、黒沢家は真っ先にホテルへ帰還した。夕飯なんて後で良いと思えるくらい、疲れ切っていたのだ。

 黒沢も父も母も、ベッドの上で「あー」と横になる。こうしていると、先ほどまでの激闘が嘘のように思えてきた。

 けれど、黒沢は覚えている。家族総出で応援しまくったことも、愛里寿が必死に戦い抜いたことも、大学の皆が最後まで抗ったことも、最後に愛里寿とみほが握手しあったことも、ぜんぶ覚えている。

 ろくに声も出ない、油断すればすぐに眠ってしまいそうになる。父も母も「あー」とか「うー」とか言っていて、完全に疲弊しきっているようだ。

 ――すこし、眠っちまおうかな。

 そう思って、目をつむって、

 

 ホテルの一室で、トランスミュージックが鳴り響いた。

 

 眠気が木っ端微塵になる、けだるさなんてどこかへ飛んでいく。嘘みたいな速度で携帯を取り出し、画面を見てみれば、

 

「はい、もしもし!」

 

 すぐさまベランダへ向かい、そのまま戸を閉める。聞かれたら恥ずかしいからだ。

 

『あ、黒沢。今、だいじょうぶ?』

「よゆーよゆー元気元気。愛里寿の方こそ、大丈夫?」

『うん。今は休憩中』

「そうなんだ、良かった。……いや本当、よかったよ、試合」

『うん、頑張った』

「最高に格好良かった。これまで以上に、応援できたと思う」

『ありがとう。……なんだろうね、黒沢の応援が聞こえてきた気がしたんだ』

 

 その言い回しに、黒沢は気恥ずかしく頬を掻いてしまう。

 

「っかそか、力になれてよかったよ」

『うん。……黒沢がいてくれたから、私はあそこまで戦えたんだよ』

「マジで?」

『うん』

 

 ベランダの椅子に座る。

 その、愛里寿の言葉に全てが報われたような気がして――黒沢は、赤色に染まった夏空をじっと見つめる。

 

「……よかった、本当によかった。愛里寿が、後悔なく戦えて、ほんとうによかった」

『うん。……あ、あのね、黒沢』

「うん?」

『ボコミュージアムの件なんだけれども、お母さんがスポンサーになってくれるって』

 

 ぼんやりとした頭で、「へー」と思考し、

 

「マジで!?」

『うん。最高に立派だったから、だって』

「そっかー……よかった、本当によかったねぇ」

『ね、本当に良かった……やっぱり黒沢には、感謝してもしきれない』

「俺は何も……いや、そうか、そうだな、うん」

 

 黒沢と愛里寿が、笑い合う。

 

「なんというか、今日は本当にお疲れ様。ゆっくり休んでね」

『うん』

「じゃ、そろそろ、」

『待って』

 

 食い気味に止められた。黒沢は、少し驚いてしまう。

 

『え、えっと、あの……もしよかったら、なんだけれど』

「うん」

 

 愛里寿の小さな呼吸が、携帯の向こう側から聞こえてくる。これまで以上の緊迫感に、黒沢は深く深く耳をすまし始める。

 沈黙の時間が、五秒、十秒と過ぎて、そして、

 

『今度、私と一緒に、ふたりで遊ぼうっ』

 

 その言葉を耳にして、音もなくまばたきをする。そうした後で、言葉の意味をちょっと考えて、

 

「マジ、で?」

『う、うん。だめ、かな?』

「マジで? いいの!? 俺ならいつでもいいぜ!」

『ほんとう!?』

「ほんとほんと! 今すぐにでも愛里寿と遊びたい!」

『黒沢……うん! 私も遊びた――ああ、でも色々と準備しないと』

「っあーそうか、だよね、うん。都合は愛里寿に任せるから」

『あ、ありがとう。――そ、それで、遊ぶのはいいんだけれど』

「うん」

 

 再び、沈黙。

 戸の向こうを見てみれば、何やら母が電話で話し合いをしている。バイクの走る音が、地上から轟いてきた。空から何かが飛んできたかと思えば、それは赤トンボ。

 

『そ、その』

「うん」

『……あなたに、あなたにね、絶対に伝えたいことがあるの』

「え? そうなの?」

『……うん。でも、ちょっと言うのが難しくて……でもぜったいに、あなたとふたりで遊ぶ日に、言うからっ』

 

 黒沢は確かに聞いた。あまりにも脆く、消えてしまいそうな愛里寿の声を。

 伝えたいことって、何。その疑問が、容赦なく膨らんでいく。口にまで出そうになる。

 それを何とかして、首ごと振り払う。無理矢理聞き出して、愛里寿を困らせたくはない。

 

「わかった。じゃあ、その時になったら、聞かせて欲しい」

『――うんっ! 絶対に伝えるね!』

「ああ。じゃあ、そろそろ、」

 

 ――思う。

 愛里寿は、島田流後継者としてとにかく頑張ってみせた。その頑張りは、ボコミュージアムすらも救ってみせた。

 そんな愛里寿のことを、黒沢はとにかく格好良いと思った。試合後にわざわざ電話をかけてくれて、一緒に遊ぶ約束まで取り付けてくれた愛里寿のことが、とても愛おしいと想う。

 愛里寿は、やるべき全てのことをやり終えた。この空白の時期ならば、デカいことを言ってしまっても、愛里寿には何の支障も出ないはず。

 ――言うべきか。恋する男として、絶対に口にしなければいけないことを。

 

『……黒沢?』

「……愛里寿。最後にひとつ、いいかな?」

『うん、なに?』

 

 覚悟を、決めよう。

 逃げ道を、ぶっ壊そう。

 

「俺も愛里寿に、絶対に伝えたいことがあるんだ」

『――え? そう、なの?』

「うん。ただこればかりは、面と向かって言いたくて……でも、絶対に伝えるよ。二人で遊ぶ日に、必ず」

 

 愛里寿は、

 

『わかった。楽しみにしてるね』

 

 心穏やかに、笑ってくれた。

 

「うん。……じゃ、そろそろ切るね」

『うん。黒沢、今日はほんとうにありがとう、さんきゅー』

「こっちこそ、電話をくれてありがとう。またね」

『またね』

 

 通話が切れる。

 そうして、大きく大きく息を吐く。

 それは安堵によるものか、達成感のせいか、或いは全部か。なんでもよかった。

 言葉にできない余韻に浸ったまま、椅子の背もたれに身を預ける。夕暮れのことを、ただただ見つめていく。ついこの先のことを考えてしまって、思わず鼻で笑ってしまう。

 たぶんこれが、最高にいい気分、というやつなのだろう。

 このまま眠ってしまうのも悪くはない。目が覚めたら、自宅に着いていないかな――

 

 その時、戸の開く音がした。

 黒沢は、「んあ?」と戸に目を向ける。そこには、片手に携帯を握りしめたままの母。

 

「どったの、母さん」

「……落ち着いて、落ち着いて聞いてね?」

 

 母の、あまりにも真剣な無表情を目の当たりにして、ぼんやりとした感覚が全て抜け落ちていく。

 

「……あのね、あのね」

 

 声にならない声が、黒沢の喉から漏れた。

 「何度も見た母の顔」を見て、「何度も聞いた母の声」を耳にして、決して遠い過去ではない思い出たちがフラッシュバックする。

 血が冷めていく、ひどいくらいに冷静さを覚える。

 

「――母さん」

「……うん」

「どうにか、ならないのかい?」

 

 それは、小学三年生以来から封じてきた言葉。

 それは、あまりにも意地の悪い質問。

 

「――ごめんなさい。この試合の処理が、どうしても大きなものになりそうで……」

「そっか」

 

 いつかやって来るものだと、今までは覚悟していたはずなのに。なのにどうして、いつの間にか「来るはずがない」などと思い込んでいたのか。

 原因なんて、考えなくともわかる。

 かけがえのない人と、出会えたから。

 

「……いつぐらいに、転勤するの?」

 

 母は、ほんとうに申し訳なさそうにうつむいて、両肩で大きく大きくため息をついて、おそるおそる黒沢と目を合わせて、

 

「8月、31日」

「……わかった」

 

 なんて、話が早いんだ。

 全身の力を抜かしながら、背もたれに寄りかかる。

 

「母さん」

「うん」

「ごめん、バカなことを言った」

「……ううん」

 

 父と母は、いつまでもいつまでも、俺のことを抱きしめてくれた。

 

 

 




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少年少女は、誓いあう

 疲れた。

 いや、それとは違うのかもしれない。途方にくれているというか、無気力に陥っているというか。とにかく、動くことも考えることもしたくはなかった。

 北海道から帰って早々、黒沢はベッドで横になる。イヤホンすらも耳にかけないまま、目をつぶることもせず、死んだように動かない。

 自分の心境を察してか、親からは何の声もかかってこない。それがひどく、ありがたい。

 現在は十五時ほど。空は未だに青くて、虫たちは他人事のように鳴き続けている。夏は、これからも続く。

 ――そう、続くはずだったのだ。

 愛里寿と出会えた夏は、もう少しで終わりを迎えようとしている。これからという時に限って、転勤というやつがやってきたせいだ。

 覚悟は、していたはずだったのだ。

 しかし自分は、出会ってしまった。そして、恋してしまえた。戦車道の達人で、けれども少し照れ屋さんで、ボコのことになると無我夢中になれて、自分のことを前に正してくれた、十三歳の天才少女に。

 そんなかけがえのない人と出会えてしまえば、転勤なんて他人事だと思いたくもなるだろう。

 初めてだった。ここまで、離れたくないと思うなんて。

 

 ――ため息。

 携帯を、前にする。

 一刻も早く、このことを愛里寿に伝えなければ。正直に「転勤します」と告げなければ、愛里寿を傷つけてしまう。自分が、どうにかなってしまいそうになる。

 こんなこと、慣れているじゃないか。自分は何度も、友達とお別れ宣言をしたじゃないか。

 アドレス帳をタップして、愛里寿の電話番号を引っ張り出す。通話ボタンを押そうとして、

 気持ちを、落ち着かせる。

 愛里寿は友達じゃない、初恋の人だ。そんな人にお別れを告げるなんて、つらすぎる。

 愛里寿と沢山遊びたいのに。

 愛里寿に告白してもいないのに。

 愛里寿のことが、好きなのに。

 愛里寿のことが好きだと思うたびに、もっと好きになってしまうのに。

 

 ――だからこそ、伝えないと。

 愛里寿(すきなひと)に、隠し事なんてできない。

 通話ボタンを、押す。おそるおそる、携帯を耳に当てる。呼び出しコールが一巡し、二巡し、三、

 

『もしもし?』

 

 かかって、しまった。

 

「……ああ、愛里寿。いま、時間ある? 忙しかったら、後でも、」

『大丈夫、ノープロブレム。どうしたの?』

 

 愛里寿の明るい声が、耳に突き刺さる。

 それがとても愛おしくて、悔しさめいた感情を覚える。

 

「あ、えっと……その」

『うん』

「その、」

『うん』

 

 待ってくれている。愛里寿は、自分の言葉をいつまでも待ち続けてくれている。

 なんて優しいんだ。

 なんて、情けないんだ。

 横になったままで、首を横に振るう。

 愛里寿には、すべてを話さないと。いきなりお別れなんて、ひどすぎるから。

 

「愛里寿。その、落ち着いて、聞いて欲しいんだ」

『うん』

「俺さ、俺さ」

 

 両目を、思い切りつぶる。

 

「8月31日に、転勤することになった」

 

 言えてしまった。当たり前のように、沈黙が生じた。

 愛里寿はいま、どんな顔をしてしまっているのだろう。驚いた顔か、真顔か、それ以外か。笑顔などありえないという事実が、ひどく悲しい。

 

『――そう、なんだ』

「……ごめん」

『ううん、いいの。黒沢の親が、頼られている証拠だよ』

「そう、だね」

『うん』

 

 大きく、息を吸う。

 近い内に、愛里寿とは二人きりで遊ぶ予定だ。そうすることで自分の、愛里寿の思い出は積み重なっていく。

 自分はいい、よくないけどいい。けれど愛里寿はどうだ、このまま出会いを増やしたところで傷つけるだけじゃないか。

 ――だから、

 

「愛里寿」

『なに?』

「その、近い内に遊ぶ約束だけど……どうする? 俺は、どっちでもいい」

『する』

 

 即答だった。

 即答すぎて、思わず身を起き上がらせてしまった。

 

『私は、あなたと二人で遊びたい。ちゃんと、大切なことを伝えたい』

「……俺が、いなくなるのに?」

『あなたとの思い出は、消えたりなんかしない』

「あ、」

『黒沢は、私の友……ううん。私にとっての黒沢は、とても大切な人で、かけがえのないボコ仲間だよ。これは、ずっとずっと続いていくから。だから、そんなことを言わないで』

 

 ――実感する。

 この子はまちがいなく、島田流後継者という使命を背負える人だ。

 こんな状況になっても、愛里寿は泣き言の一つも漏らさない。ただただ、正しいことを貫き通していく。

 

「……愛里寿」

『うん』

「君と出会えて、俺は本当によかった」

『……私も、黒沢と出会えて、ほんとうに嬉しかった』

 

 そうだ。

 自分には、愛里寿に対して絶対に伝えなければならないことがある。それを言わないなんて、野郎失格だ。

 笑みが漏れる。

 心が、すっとする。

 8月31日なんて、まだ遠い未来だ。そんなものに、どうして怯えなければならない。

 それよりも、目先のことを考えよう。愛里寿と遊び倒すことだけを、目標にしよう。

 

「愛里寿」

『黒沢』

 

 精一杯、笑ってみせる。

 

「ありがとう」

『ありがとう』

 

 

―――

 

 

 久々の休日日和ということで、アズミは未だにベッドで横になっていた。

 時刻は朝の七時だが、生き返る気はさらさら無い。ほんとうは昼ぐらいに覚醒したかったのだが、戦車道履修者の習慣かな、このように早起きしてしまったのである。

 もう少しだけ、眠らせてちょうだい。

 ここ最近は、本当に忙しかったのだ。試合もそうだが、その後の反省会ミーティングとか、猛暑の中での特訓だとかで、休む暇なんて一時もありはしなかった。

 ――それでも、逃げる隊員なんて一人もいなかった。みんな、後輩に負けた事による危機感を抱いていたのだろう。

 かくいう自分もそうだ。ルミもメグミも、ひーこら言いながら愛里寿についていってみせた。

 だから、この時ばかりは。

 遠い虫の音を耳にしながら、アズミはふたたび眠りに落ちて、

 

 携帯が、けたたましく震えだした。

 

 あー? そんな声が漏れる。実に面倒臭そうに身を起こし、実に緩慢そうに足を動かして、充電器に繋ぎっぱなしの携帯にまで何とかありつく。寝ぼけ眼で「誰よもー」とベシャり、画面を見てみて、

 アズミの眠気が、ぶっ飛んだ。

 

「はいっ、もしもし」

『あ、アズミ? いま、大丈夫?』

「はい、大丈夫ですっ。どうしました?」

 

 思わず、その場で正座してしまう。

 

『えっと。アズミは、服を買うのが趣味だったりする? よく、色々な服を着こなしているから』

「そう、ですね。好きですね、はい」

 

 珍しい質問だな、と思う。よく見ているんだな、と感心する。

 アズミは子供の頃から、ファッションに興味があった。テレビの芸能人を見てみて、「あれを着てみたい!」と指さしたのが全ての始まりだ。

 幸い、実家は割とお金持ちだったものだから、アズミはありとあらゆる服を着こなすチャンスに恵まれた。ある一種の変身願望も満たされたし、周囲の反応も悪くなかったりして、いよいよファッション趣味への熱が深まっていったものだ。

 その趣味はBC自由学園で更に洗練されていって、気づけば月刊戦車道の表紙まで飾ることになった。このことは己が自慢と思っているし、胸を張って誇りとすら言える。

 

『そうなんだ……じゃあ、お願いがあるんだけれど』

「はい、なんでしょう?」

『――アズミの都合に合わせるから、服の買い物に付き合って欲しい』

 

 瞬間、アズミの体内が蒸血したと思う。

 

「いつでも構いません。何なら、今日でも」

『ほんとう?』

「はい。今日は休日ですから、時間なんていくらでもあります」

『そっか……うん、わかった』

「隊長に似合う服を、必ずや選んでみせます」

『あ、それなんだけれど』

「はい?」

 

 その時、愛里寿の言葉に躊躇らしきものが生じた。

 アズミの首が傾く。携帯を、深々と耳に当てる、

 

『動きやすくて、それでいて魅力的な服……なんてあるかな?』

「え」

 

 思わず、生の声が漏れた。

 動きやすい、これはいい。効率を求めるのは、島田流らしいともいえる。

 ただ、隊長の口から「魅力的」――なんて言葉が、出てくるとは思いもしなかった。

 

「た、隊長は魅力的ですから、何を着てもばっちりですよ」

 

 本音のままを口にする。

 隊長としての魅力はもちろんのこと、愛里寿は女の子としても一級品の可愛さを秘めていると思う。

 もちろんこんなこと、本人の前で言えるはずがないのだが。

 

『ありがとう、アズミ。でも私は、しっかりと服を選びたいの』

「さすが隊長。わかりました、ぜひ協力させてください」

『感謝する』

「はい。……それで、動きやすいとはどういう意図で? 走り込みでもするのですか?」

 

 間。

 あれ。

 何か、聞いてはいけないことでも聞いてしまったのだろうか。よりにもよって、愛里寿相手にポカをやらかしてしまったのか。

 冷や汗が流れる。蒸し暑いはずなのに、心の底から冷えてきた。けれど出した言葉は引っ込められない、愛里寿からの返答を待つしかなかった。

 

『――それは』

「それは?」

『……山、山に登ろうと思って』

「――まあ、山、ですか?」

『うん。気分転換をしようと』

「なるほど。それはいいアイデアだと思います」

『うん』

「ですが、一人で山登りは危ないと思います。同行でもしましょうか?」

 

 間。

 あれ。

 何か、聞いてはいけないことで、

 

『その気遣いには感謝する。けれど、登山仲間がいるから大丈夫だ』

 

 うんうん。

 アズミはすかさず、

 

「仲間ですか。登山好きの選抜メンバーとか?」

『…………うん、まあ』

 

 あ、これ嘘だ。

 副官アズミは、否応なくそう察せてしまう。

 明らかな躊躇いといい、くぐもった「うん、まあ」といい、愛里寿は間違いなく、とっさに嘘をついた。副官の座を賭けてもいい。

 そもそも愛里寿は、これまで「一度も」嘘をついたことがない。やれることは「やれる」と言うし、できないことは「できない」と口にするタイプだ。根が真面目だからこそ、といえる。

 だからこそ、愛里寿はぎこちない嘘しかつけない。けれどアズミからしてみれば、それはそれで美点だとは思う。

 ――話を戻す。

 愛里寿はいま、「選抜メンバーと山へ登りに行く」という嘘をついた。ということは、アズミの預かり知らぬ「誰かさん」と、愛里寿は休日を満喫する気でいるのだろう。 

 是非問いたい。その誰かさんって、誰。

 めちゃくちゃ心配だからこそ、ストレートにそう質問したいが――愛里寿のプライベートに、数少ない休息に口を挟めるほど、自分は愚かでも若くもない。

 だから、せめて、これだけは確認しようと思う。

 

「あの」

『なに?』

「そのメンバーは、とても信頼できますか?」

『できるっ』

 

 即答だった。

 正座が崩れた。

 

『あ……すまない』

「い、いえ、いいんです。……そうですか、それはよかった」

 

 愛里寿は戦車隊隊長だ。大きな間違いはしないし、人を見る目もある。即答レベルということは、安心しても良いのだろう。

 ひと息吹く。

 

「わかりました。不肖アズミ、隊長を魅力的にコーディネイトしてみせます」

『さんきゅ、』

 

 ?

 

『……感謝する、アズミ』

「あ、はい」

『では十二時、大学の入口前で』

「はい。では、後ほど」

『ああ。それじゃあ、また』

 

 通話が切れる。

 しばらくは携帯を耳に当てたままで、両肩で深く息をついて、携帯をそっと床に置く。

 ――誰なんだろう。隊長の登山仲間って。

 少なくとも、自分たちには絶対にバレたくない誰か。その上で、隊長が絶対に信頼している誰か。

 

 ――彼氏かな?

 

 アズミ二十一歳は、真っ先に思う。思ってみて、「えー?」と声に出す。

 愛里寿はいつだって戦車道一筋の、特に異性とは何ら接点がない女の子だ。この範囲から、逸脱したことなんて、

 

「――あ」

 

 気づいた。

 ここ最近の愛里寿は、よくよく変わってきているじゃないか。

 練習試合後の全力ダッシュ、ヘドバン混じりの音楽視聴、笑顔込みのメール受信、試合前に見せてくれた幸せそうな笑顔――

 

 つまりは、そういうことなのかもしれない。

 よし。

 年上として、愛里寿をばっちり可愛くしなくては。

 うん、と立ち上がる。その場で背筋を伸ばし、両手でカーテンを広げ、真正面から日光を浴びる。なんだか清々しい気分になってしまって、思わず窓も開けてみせた。

 あ、

 

 ヘリが、遠い向こう側の空でゆっくり飛んでいる。

 最近乗ってないなあと、なんとなく思う。

 

 

―――

 

 

 日曜日になろうとも、家元の忙しさはやっぱり変わらない。

 例の試合のインタビューは受けたし、若干「厳しめ」の評論文も書いた。かといって山積みの仕事が軽くなるなんてことはなく、今日も今日とてバリバリ仕事をこなすのだ。

 これも全ては、戦車道の繁栄の為。ひいては、島田流のため。

 

 凝った肩を自分で揉みながら、なんとなく腕時計を見る。時刻は十一時ほど、愛しい夕飯まであと五時間以上もある。

 思わず、口元がへの字に曲がった。

 しょうがないなと、腕をぐるぐる回して、

 ノックが鳴った。

 特に動揺することもなく、千代は「どうぞ」と声を掛ける。事務室に入ってきたのは、予想通り、

 

「失礼します」

 

 愛里寿、だった。

 帽子をかぶり、白色でまとめた軽装を着こなし、大きめのバックパックを背負った、明らかに山へ登る気満々の愛娘が、いた。

 

「これから、すこし出かけてきます。夕方までには戻ります」

「待って愛里寿」

 

 母の問いかけは早い。愛里寿は、平然とした顔で「なんですか?」と聞き返す。

 

「……その、山へ登る気、なの?」

「はい。何か問題でも?」

「いえ、特には。ただその、一人で登るの? 山に?」

 

 その時、愛里寿は目を逸らした。千代は、それを見逃しはしなかった。

 

「――友達、とです」

「友達。それは、大学の?」

「はい」

 

 嘘だ。今の愛里寿は、少しだけうつむいてしまっているから。

 千代は、大急ぎで推測する。これまでの過程から察して、おそらくはボコミュージアムで出会った「誰かさん」と山へ登るつもりでいるのだろう。

 どんな人かは分からない、性別すらも不明だ。かといって、それを追求するのは親としてはばかれる。

 愛里寿の上目遣いと、目が合う。

 ――この際、誰かさんの正体なんてどうでもいい。重要なのは、愛里寿との信頼関係だ。

 

「……愛里寿」

 

 深々と、息をつく。

 

「ひとつ、聞かせて」

「はい」

 

 愛里寿は真顔のまま、焦りきっていた。

 対して、千代は、

 

「その友達のことは、どう思ってるの?」

 

 にこりと、微笑む。

 そんな千代の質問に対して、愛里寿は無表情のままでいて、

 けれども、あっという間に、

 

「――大好きです」

 

 愛里寿は、これまで見たことのない微笑みを浮かばせていた。頬を赤く染め、それに手を添えて、どこかくすぐったそうに目をそらしながら。

 それで、もう十分だった。

 

「じゃあ、心配いらないわね。それじゃあいってらっしゃい、友達と楽しんでいってね」

「はい」

「車と戦車には気をつけるのよ」

「うん。それでは、いってきます」

 

 愛里寿は一礼して、そのまま事務室から出ていく。間もなくして、玄関のドアが開かれる音が響いた。

 椅子ごと振り向き、窓越しから愛里寿の後ろ姿を確認する。その足取りはほんとうに速くて、とても嬉しそうで、まるで遊園地へ向かう子供のようだった。

 椅子を、デスクの前に向ける。

 ――けれど、でも、子供の背はいつか伸びてしまうものだ。

 

 あの時の愛里寿の笑顔は、どこか大人っぽくて、恋する乙女そのものだった。

 

 口元が緩む。

 わかるわよ、愛里寿。私にも、そういう時期があったもの。

 

 今日は、ハンバーグを作ろう。それがいい、うん。

 

 

―――

 

 

 今日はデートだ。集合場所はいつもの中央公園前、集合時間は十二時ちょうど。

 だから黒沢は、イヤホンを耳にかけつつ、十一時に家を出た。ここで一番乗りをしておかないと、何だかこう「悔しい」気がしたからだ。

 だから黒沢は、登山用の荷物を背負いながらで一生懸命に走った。暑いし、正直重いしで、けっこうキツかったが――俺は言いたい、「今きたところ」を。

 多少息切れしながらも、黒沢は走り続ける。そうして見慣れた曲がり角にまで差し掛かり、遂に、

 

「あ、黒沢」

 

 ヘッドホンをつけた愛里寿が、手をひらひらさせながらで挨拶をした。

 現在は十一時十分ほど、だのに愛里寿は集合場所にいる。いくらなんでも早すぎると思ったが、愛里寿はあの島田流後継者で、ニンジャなのだ。迅速な動きくらいは、朝飯前なのかもしれない。

 互いに、耳につけているものを取り外す。

 

「お、おはよう。早いね」

「待ちきれなくて、つい」

「そっかー……何かこう、うれしーな」

「私も嬉しい。こんなにも早く、きてくれたから」

 

 どうやら、考えることは同じだったらしい。思わず笑みがこぼれあう。

 ――それにしても、

 

「愛里寿」

「なに?」

「その登山服、なんだけど」

「う、うん。どう、かな?」

 

 愛里寿が上目遣いで、けれども微笑みを隠さないままで聞いてくる。

 ――答えなんて、愛里寿が見えた瞬間から決まりきっていた。

 

「グレートに可愛い」

「えっ」

「かわいい、すごい良いよ。いい、すごくいい」

「あ、ありがとう、黒沢」

 

 白でまとめられた登山服は、実に愛里寿「らしい」と思う。まずそこがいい。

 そして自分なんかと違って、上から下まで実用的なウェアを着こなしている。これもいい。

 しっかりと帽子をかぶり、大きめなバックパックを背負っているあたりに、愛里寿の生真面目さが感じられる。最高だ。

 

「それに比べて俺は、とりあえずまあ、動きやすくしましたって感じの服だしなあ」

「そんなことないよ、それで十分だと思う。それに黒沢は、一度山を攻略できたんだよね? ならオッケーだよ」

「っかー、そかー」

 

 何だか気恥ずかしくなって、頭を適当に掻いてしまう。愛里寿の方も、にこりと笑ってくれる。

 ――うん。

 

「じゃあ、そろそろ行こうか。近隣山へ」

「うん、行こう」

 

 そして、愛里寿が黒沢の隣に立つ。もしかしてと思ったが、やっぱり愛里寿は手を差し伸べてくれた。

 

「うん」

 

 だから黒沢は、その手を軽く握る。いよいよもって、体が熱くなっていく。

 

 そうして黒沢と愛里寿は、近隣山までゆっくり、ゆっくりと歩いていく。最初は沈黙気味だったけれども、黒沢の「ねえ」で雑談が始まる。

 

 

 □

 

 

 近隣山までたどり着いた後は、一旦手を離し、同時に「ゴー!」と叫んでは山道めがけ足を踏み入れた。その姿はまるで、戦地へ向かう戦士だ。

 といえども、近隣山はそこまでヤバい山ではない。コースは整っているし、数十分ほど歩けば山頂にはたどり着ける。しかもこの前は、半ば思いつきで近隣山を攻略してしまった。

 この本格装備ならば、確実にてっぺんまで歩けるだろう。

 ――ただ、

 

「あー、あちー……愛里寿、大丈夫ー?」

「うん。黒沢は……あ、少し休む?」

「い、いや、俺はヘーキ」

「無理しないで。ほら、丁度いいところに座れそうな木があるから、そこで座って何か飲もう?」

 

 それでも、疲れるものは疲れる。今日は暑いし、もちろん斜面を歩きっぱなしでいるから、やはりどうしても息が荒んでしまうのだ。

 対して愛里寿は、無傷だった。息は整っているし、表情だって崩れていない。重たそうなバックパックを背負っているだろうに、愛里寿はぜんぜん堪えていないのだった。

 

「……わり、気を使わせて」

「だいじょうぶ。さ、座ろう?」

 

 愛里寿が黒沢の手を掴み、そのまま倒木まで連れていってくれる。

 そうして腰掛けた途端、黒沢の口から「あー」が出た。

 

「お疲れ様、黒沢」

「愛里寿こそ。いやしかし、凄いね。ぜんぜん疲れてないように見える」

「一応、鍛えてるから」

 

 愛里寿が力強く微笑みながら、腕をL字に曲げた。余分な筋肉なんて、ぜんぜんついていないように見える。

 

「スゲー」

「ふふ。あ、何か飲む?」

「ああ、飲み物なら持ってきてるよ」

 

 そうして黒沢は、水筒を取り出す。ちなみに中身は緑茶だ。

 ――その時、黒沢は確かに見た。残念そうに眉をへこませている、愛里寿の顔を。

 

「……愛里寿?」

「あ、ううん、なんでもないよ、なんでも」

 

 考えろ。愛里寿がどうして、あんな顔をしたのか。

 ――意外なことに、答えはすぐにでも出せた。たぶん、愛里寿のことを喜ばせたい一心だったからかもしれない。

 

「あ、あー、あーっしまった」

「え?」

 

 下ろしたバックパックを、わざとらしく漁りながら、

 

「俺としたことが、食べ物を忘れてきちまった」

 

 わざとらしい苦笑いをする。こんな下手な嘘、愛里寿なら一発で見抜いてしまうはずだ。

 

「あ――うん。じゃあ、よかったら、私の持ってきた食料、食べてみる?」

 

 けれども、愛里寿はとても嬉しそうに微笑んでくれた。

 黒沢はもちろん「うん」と答えて、愛里寿は鼻歌交じりで――聞き覚えのあるメロディを奏でながら――バックパックに、手を入れて、

 

「これ、お気に入りのレーション」

「れーしょん?」

 

 英語が書かれたパッケージを手にとりながら、愛里寿がこくこくと頷く。

 

「うん。保存食みたいなものなんだけれど、すごくおいしいよ」

「保存食……食ったことねえな、そういうの」

「じゃあ、食べてたべてっ」

 

 愛里寿が、ぐいぐいとレーションを前に出す。それはもう嬉しそうな顔をしながら。

 けっこうプッシュしてくるなあと思い、改めてレーションのパッケージを見てみる。メインを飾るTOMATO SAUCEの文字、賞味期限らしい数字の羅列、右下に書かれたSHIMADAの、

 脳ミソが震えた、

 スイッチ入った。

 

「これはうまそう!」

「うんっ」

「ありがとう。しっかり、味の感想も言うからね」

「え? ――あ」

 

 愛里寿は、少し驚いたような顔を浮かばせて――とても恥ずかしそうに目を逸らして、

 けれども、嬉しそうに微笑んでくれた。

 

 

「エクセレント!」

「サンキュー!」

 

 

 □

 

 

 休憩をし終えてみれば、山頂まではほぼ一直線だった。それほど険しい山でもないから、一旦インターバルをとってしまえば案外いけるものだ。

 その途中で奇妙な色をしたキノコを見つけたが、黒沢は「あの時のか!」と声を上げた。話を覚えていたらしい愛里寿も、「これが」と距離をとる。

 よく見てみると、キノコの色が赤から紫に変色しているような――だから黒沢は、興味本位でキノコに接近しようとしたが、愛里寿が「だめー!」と腕を引っ張ったので調査は打ち切りに。それでよかったのかもしれない。

 

 そうして黒沢と愛里寿は、何事もなく山頂にまで辿り着いた。

 ほぼ同時に、ふたりで深呼吸する。

 無言のままで、街を見下ろしてみる。

 見覚えの無い家、背の高いマンション、自分が通っている小学校、

 

「あ、あれかな? 愛里寿の家」

 

 思わず指をさす。愛里寿も気づいたらしく、「見える見える!」と大はしゃぎ。

 

「すげえでけえ……やっぱ城みてえだ」

「目立つね……」

「写真とっとこ」

「私も」

 

 携帯を取り出し、風景をメモリに焼き付ける。

 

「うし。じゃあ、少し休んだら降りるかい?」

「うん。……あ、待って、黒沢」

「うん?」

 

 隣にいた愛里寿が、自分めがけもっと近づいてきた。一歩の隙間もない距離感に、胸の内が急に痛みだす。

 

「あ、愛里寿」

「記念写真、撮ろう?」

 

 ああ、そういうことか。

 愛里寿の意図を把握できたことによって、少しばかりの冷静さを取り戻す。刺激は止まらないけれど。

 

「じゃあ、撮るね」

 

 小さな街を背景に、愛里寿が携帯を空高く掲げる。黒沢は黒沢なりに笑ってみせて、愛里寿も微笑んで――愛里寿に、思い出ができた。

 

「うん」

 

 一緒に携帯を確認してみれば、画面には文句なしのベストショットが写り込んでいた。

 愛里寿と顔を見合わせる。思わず嬉しくなって、「えへへ」と笑い合ってしまった。

 ――それにしても、ほんとうにいい写真だな。

 ――俺も、欲しくなってきたな。

 

「ねえ、愛里寿」

「うん?」

「俺も、撮ってもいいかな? 愛里寿と一緒に」

 

 そして、愛里寿は当たり前のように微笑んでくれるのだ。

 黒沢は、そっと愛里寿に寄り添う。目が合って、愛里寿は「こくり」と小さく頷く。その顔は、どこか赤い。

 そうして携帯を掲げて、黒沢は精一杯に笑う。愛里寿とここまで通いあえたことが、とてもとても幸せだから。

 

 弾けるようなシャッター音とともに、愛里寿との思い出が携帯の中に刻まれる。

 とてもいい一枚が、撮れた。

 

「……じゃ、少し休むか」

「うん」

 

 草むらの上に、腰を下ろしながら、

 

「あ。喉、乾いたなー……何かない?」

「あっ――うん、あるよ。よかったら飲んで」

 

 夏空の下で、愛里寿は静かに微笑んでくれた。

 

 

 □

 

 

 無事に下山した後でも、黒沢と愛里寿のテンションは留まることを知らない。

 まずはハイタッチを交わし合い、愛里寿が「次はどこへ行こう?」と聞いてきて、黒沢は「じゃあ、CD屋へ行こう」と提案する。それを聞いた愛里寿は、とても嬉しそうな顔をして「うん! レッツゴー!」とはりきってくれた。

 そうして、CD屋「Music World」までゆっくり歩んでいく。手と手を繋ぎ合いながら。

 

 

 ――店内。

 

「それにしてもさ」

「うん?」

 

 トランスミュージックの棚から、適当にCDを引っ張り出しつつ、

 

「愛里寿って、すげーセンスいいよね。時折おすすめを教えてくれるけど、どれも俺の好みにベストマッチしてるもん」

「え。そ、そうかな? く、黒沢のセンスもいいよ」

「そ、そお? ……まあ、なんていうのかな。愛里寿ってけっこう色々なジャンルを教えてくれるけど、どれもこれも良い感じに聴けるんだよね。ポップスからトランス、インストゥルメンタルまで」

「いまは、ネットで試聴できるから」

「それでも、色々なジャンルに手を出せるっていうのは、立派な能力だよ。俺なんて、曲調が早いやつばっかり」

 

 隣でCDを引っ張り出しながら、愛里寿がくすりと微笑む。

 

「一つの音楽を極められるのも、立派な才能だよ」

「そうかな。……そうだね」

 

 ここ最近になって、愛里寿はメールで「わたしのおすすめ」を教えてくれるようになった。トランスミュージックはもちろん、ポップスからロック、民族系まで。

 初めて耳にするジャンルも含まれていたのだが、いざ試聴してみると、イントロから「!」となることが多かった。そうしてフルが聴きたくて聴きたくて仕方がなくなり、そのままダウンロード購入することもしょっちゅう。

 そのたびに『愛里寿の紹介してくれた曲、すげえ良かった!』と送信するのだが、愛里寿もきまって『良かった。音楽っていいよね』と返信してくれるのだ。

 だからここ最近は、「聴ける」曲が多くなった。人生というやつが、ますます豊かになったと思う。

 

「俺でよかったら、いくらでもオススメを紹介するよ。ただやっぱり、似たようなのが多くなるかも」

「そんなことないよ。黒沢が教えてくれる激しい音楽たちには、様々な熱があった。明るいものから激しいもの、クールなものまで。だから、まったく同じなんてことはない」

「――だね、うん」

「あなたが教えてくれた音楽のおかげで、私の空白に色が生まれた。だから、戦車道ももっと楽しくなった」

「……そっか」

「だから、」

 

 愛里寿の声色が変わった。

 半ば反射的に、愛里寿の方に顔を向ける。

 

「私はこれからも聴いていきたい、あなたの好きな音楽を」

 

 愛里寿もこっちを見て、にこりと笑ってくれた。

 

「だから、ずっとずっと、あなたのおすすめを教えてほしい」

 

 そんなことを、そんな表情で言われてしまったら、

 

「――わかった。これからも一緒に、曲を聴いていこう」

「うんっ」

 

 ――数十分後、黒沢と愛里寿は満足げに店から出た。

 二人が手にしたレジ袋には、もちろん同じCDが入っている。

 

 

 □

 

 

 ――次は、あそこに行きたい。

 愛里寿の指差しで、次は見覚えのあるスイーツ店へ足を運ぶことにした。黒沢の「ここのパフェは絶品だぜ」の一言で、愛里寿の顔が明るくなる。

 

 店内にはいくらか人がいたが、座れる箇所はいくつかある。そのまま窓際の席にまで案内されて、バックパックを足元に置いてはそのまま着席。メニューを取り出しては「何を食べる? 俺はチョコパフェ」と言い、愛里寿が「じゃあわたしも」。

 注文を確認した店員は、「しばらくお待ち下さい」の一言ともに、場から去っていった。

 数十分ぶりに足を休めたお陰で、思わず息が漏れる。

 とりあえずは水を一杯飲んで、気分を整える。

 そして愛里寿はといえば、店内を興味深そうな目で観察していた。

 

「こういう店は、初めて?」

「うん。外食は、あまりしたことがなくて」

「そっか……うん。ここのパフェは本当にエクセレントだから、ゆっくり食べていこうぜ」

「うんっ」

 

 戦車道をひたむきに歩む愛里寿のことは、もちろん大好きだ。

 だからこそ、ちょっとの遊びをして欲しいと、黒沢は切実に思う。

 ――今日の愛里寿は、やりたいことをやり続けている。それがとてつもなく嬉しい。

 

 しばらくして、二人分のチョコパフェが運ばれてくる。途端に食欲が刺激され、愛里寿なんて両目がキンキラキンに輝いている。

 ごとり。

 パフェがテーブルの上に置かれる、互いに言葉が止まる。店員の「ごゆっくりお召し上がりください」が、どこか遠く聞こえた。

 

「では、」

 

 手を合わせ、

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 スプーンを手に取り、そっと、チョコ混じりのクリームをすくい取る。それをゆっくり口元にまで運んでいって、愛里寿とほぼ同じタイミングで口に含んで、

 

「うまいっ」

「あまいっ」

 

 その後は、もう喜色満面の笑みでパフェを味わっていった。黒沢は無我夢中でクリームの甘みを堪能し、愛里寿は始終笑顔でパフェを味わっていく。

 今だけは、言葉はいらない。愛里寿と一緒に食べるパフェの味は、いつもよりも舌に染み込み続けた。

 

「――ふー食べた食べた」

「うん。ほんとうに、おいしかった」

 

 甘い物と、楽しい時間というものは、あっという間に溶けて消えてしまう。

 ――と思いきや、時計を見てみれば、食べ終えるまでそれほど時間がかかっていなかった。すっかり虜にされていたんだなあと、頷いてしまう。

 

「ふう、ごちそうさま」

「ごちそうさま。……どうだった? パフェ」

「グレート、オールイェイっ」

 

 愛里寿が、実にいい笑みで親指を立ててみせる。だよなあと、黒沢も同意した。

 

「また、ここに行きたいな」

「いいんじゃないかな。今度は、大学のみんなと一緒に行ってみるのはどうかな?」

「うん。それもいいんだけれど、」

 

 愛里寿が、ちらりと床に目をそらす。

 

「黒沢と、またふたりで行きたいな」

 

 愛里寿は、黒沢の目を見て、真正面からこう言った。

 体が痛い。

 思考が走る。

 愛里寿は、どういう意味で今の言葉を言ったのだろう。

 友達として、一緒にパフェを食べたいのか。黒沢という男と、ふたりきりでパフェを味わいたいのか――前者はいい、すこし残念だけれど。けれどもし、後者だとしたら、

 知りたいという気持ちが、容赦なく溢れ出てくる。恋する男として、気になって仕方がなくなる。転勤という迫りくる影が、脳裏を横切っていく。

 ――絶対に、気持ちを伝えなきゃ。

 ぐっと、口元を噛み締める。

 

「あ、黒沢」

「なに?」

「口にクリーム、ついてるよ」

 

 そうして愛里寿は、ナプキンを手にして、黒沢の口元を柔らかく撫でてくれた。

 

「あ――ありがとう」

「うん」

 

 愛里寿は微笑んでいる。どこか、嬉しそうに。

 

 

 スイーツ店から出て、なんとなく空を見上げる。

 青い。ちぎれた雲がまばらに浮いているからこそ、より一層とそう見える。

 愛里寿と歩いてだいぶ経った気がするが、空はまだ明るい。つまりは、もっと遊んでもいいということだ。

 愛里寿へ、視線を向ける。愛里寿がにこりとして、「次はどこへ行く?」と聞いてきた。

 そうだなあと考え込み、二人して遊べる場所を脳内で検索して――

 あ、

 

「じゃあ、あそこへ行こうか」

「どこ?」

 

 この時の自分は、きっとうまく笑えていたと思う。

 

「愛里寿が救ってくれた、あの場所へ」

 

 それを聞いた愛里寿は――明るく元気よく、「うん!」と頷いた。

 

 

 

 

「よく来てくれたな、お前ら! ここも綺麗になって、オイラはますます絶好調だぜ!」

 

 ボコが、勢いよく腕を振り回す。左側の席で、黒沢と愛里寿が「ホッホー!」と歓喜した。数人の観客も、「おー」と声を上げる。

 ――ボコの言う通り、ミュージアムは見違えるほど綺麗になった。

 よく目立っていた建物の欠損も、見慣れた壁のヒビも、散らかり放題だったパンフレットも、今となってはどこにもない。

 

「おうお前ら! よく来たな! ビビって来ないものかと思ってたぜ!」

「まだ凝りねえのか!」

「オイラは今日、絶好調なんだよ! 負ける気がしねえッ!」

 

 通りがかったグッズショップには、一組の家族連れがいた。

 

「でけえ口叩くじゃねえか! お前ら、やっちまえ!」

 

 アトラクションは、新品同様にピカピカだった。

 

「んだこのっこらー! ぐあああ! やめろーッ!」

 

 勇ましいボコのテーマも、いつもよりクリアに聴こえた。

 いつもの席(特等席)にも、家族連れが先に腰かけていた。

 ――ボコミュージアムがそうなれたのも、ぜんぶ、

 

「ああっ……ボコ、がんばれっがんばれっ、すたんだ―――っぷッ!」

 

 島田愛里寿という女の子が、頑張ってくれたからだ。

 ボコが三人組にボコられる中、数人の観客が、控え目に「がんばれ」と口にする。愛里寿は、応援を決して止めない。

 

「ぐあーッ! ……み、みんな……」

「ああっ」

「オイラに力を、力をくれッ」

「ぼ、ボコッ。がんばれ、がんばれっ」

 

 愛里寿が声を上げる。観客にも熱が入り始めたのか、がんばれ、がんばれ、立ってくれと、数々のエールが静かに発せられていく。

 

「もっと、オイラに力を!」

「! ボコッ! 頑張れッ! 立って――――ッ!」

「立ってくれボコ――ッ! お前はやれるクマだろ―――ッ!!」

 

 黒沢が、愛里寿が、立ち上がってまで絶叫する。エンジンがかった観客達も、立ってくれと一斉に咆哮した。

 

「っしゃ―――ッ!」

 

 ボコが立ち上がる。三人組が怯む。

 

「お前らありがとな! これで負ける気がしねえぜ!」

「やったぜ!」

「かっこいいよ! ボコッ!」

「すごいぜボコ!」

「がんばってーッ!」

 

 ――寂しさを覚える。

 だってボコはもう、自分と愛里寿がいなくてもやっていけるだろうから。

 

「よーし、あいつらに一発カマしてやっから、何かいい技を教えてくれ!」

 

 そして、黒沢と愛里寿はあえて何も言わない。

 ボコが腕を回し続ける中、ほんのすこしだけの間が生じて、

 

「――ボコ! 真空回し蹴りだ!」

「わかったぜ―――ッ!!」

 

 父と母に連れられた、名前も知らない子供がボコに助言する。

 ボコはその場で二度ほどジャンプ、ネズミめがけ飛びかかり――

 

「あ」

 

 うまく一回転できず、そのまま墜落した。

 床でヘバっているボコに対して、三人組は容赦なく蹴りを食らわす。ボコは抵抗を続けるものの、やはり数の差には勝てず、もともとポテンシャルも低く、あっけなく完敗してしまうのだ。

 満足した三人組は、会場から立ち去っていく。あとに残されたのは、地に伏せるボコだけ。

 一発も食らわせることができず、何のいいところを見せることも出来ず、ふつうなら心が折れてしまいそうなシチュエーションの中でも、

 

「――次は必ず勝つぞッ!」

 

 それでもボコは、次に賭けるのだ。

 ――ショーが閉幕して、会場内に明かりが点き、冷えた空気が一斉に漂い始める。親からは苦笑い、子供は不満そうに「えー?」の声。

 

「……なんだよ。ボコ、負けちまうのー?」

 

 その言葉を聞いて、強烈な懐かしさを覚える。

 後ろ向きだった頃に、たまたまボコミュージアムを見つけたあの日。ボコショーを見て、力が抜けたあの感覚。思わず、「勝てねえの?」と口にしたあの瞬間。ぜんぶ思い出せる。

 愛里寿と目が合う、何だか笑い合ってしまう。

 そしてそのまま、至極真っ当な感想を言った子供に対して、二人で言うのだ。

 

「それがボコだから!」

「それがボコだから!」

 

 

 ボコミュージアムから出てみれば、空はすっかり夕暮れ模様だった。

 まあ、そりゃそうかと思う。グッズショップを漁って、アトラクションも遊び倒して、ボコショーでめちゃくちゃ叫んで、最新愛里寿無双動画に盛り上がっていれば、それはもう時間なんて過ぎていくだろう。

 ボコミュージアムの入り口で、深呼吸する。

 手と手を繋ぎあったままで、愛里寿の横顔を覗う。

 愛里寿は無表情で、真正面を見つめている。その先にあるのは、現実世界へ戻してくれる大きな門だ。

 あそこをくぐり抜ければ、今日という日が終わりへ向かっていくのだろう。空も徐々に暗くなっていって、親もほんの少し心配しだすはず。

 ――そう、

 良い子は、帰る時間だ。

 

「愛里寿」

「うん」

「……帰ろうか」

「うん」

「家まで、送っていくよ」

 

 迫る明日に対しての、ほんのささやかな抗いを行い始める。

 その間に自分は、愛里寿にすべてのことを伝えなければならない。

 

「……黒沢」

「うん?」

 

 愛里寿が、黒沢の方へ顔を向ける。

 

「今日は、あなたの家の前まで連れて行って欲しい」

「え? ……ふつうのアパートだよ? いいの?」

「いい」

 

 愛里寿は、音もなく微笑んで、

 

「あなたの家を、見てみたいの」

 

 

 □

 

 

 帰路についている間、愛里寿とはこれまでの事で振り返り合っていた。

 

 山でへばったこと、島田お手製の保存食が美味かったこと、一緒になって記念撮影をしたこと。立ち止まり、その画像を一緒に見る黒沢と愛里寿。

 音楽についても語り合った。次は新しいジャンルを開拓してみようかな、私も探してみる、最近はフリー音楽も凄いクオリティだよな、見つけたらすぐ教えるね。足を止めて、CDを見せあいっこする黒沢と愛里寿。

 パフェの話もした。やっぱり甘い物は良いと黒沢が力説して、愛里寿もうんうんと同調する。次は何を食べようかなと黒沢が聞いて、愛里寿はホットケーキを所望する。そうしているうちに先ほどのスイーツ店が目に入って、黒沢と愛里寿がウィンドウ越しで店内を見つめる。

 そして、ボコミュージアムについて語り合おうとして、

 

「あ」

 

 家に、見慣れたアパートの前に着いてしまった。

 まだ、話したいことがたくさんあるのに。これからについて、語り合いたかったのに。

 

「……着いちゃった、ね」

「うん」

 

 それでも、手と手は離れない。愛里寿が、憂いを帯びているような顔をにじませている。

 夕日に照らされた愛里寿が、どこか儚く見える。このまま手を離してしまったら、音もなく消えてしまうような気がする。

 目と目が、じっと合い続ける。そのままの時間が、少しずつ刻まれていく。手と手が、段々と熱くなっていく気がした。

 

「愛里寿」

「うん」

「今日は、その、ありがとう。楽しかったよ」

「私の方こそ、本当に楽しかった。今日という日は、ぜったいに忘れない」

「俺も忘れない」

 

 けれど、手と手は離れない。

 愛里寿が握りしめて――ちがう、俺が力を入れているせいだ。伝えなければいけないことを口にしていないから、俺は未練がましいことをしている。

 あと少しで、空は暗くなってしまう。そんな世界に、女の子を一人にするわけにはいかない。はやく、お姫様を城に返さないといけない。

 両思いか、それとも友達か。それは未だに、わからなかった。

 けれども愛里寿は、自分のことだけを見つめている。まばたきをしながら、上目遣いぎみになりながら。

 そんな、夕日に溶け込んでいる愛里寿を見て、じっと見つめて、

 

 なんて、なんて可愛らしい人なんだろう。

 

 そんな人と、自分は結ばれたい。

 勇気の補充なんて、それで十分だった。

 想いが、もう止まらなかった。

 だから黒沢は、手をそっと離す。

 

「あ――」

「愛里寿」

 

 黒沢は、愛里寿の前に立つ。

 

「君に、伝えたいことがあるんだ」

「あ――うん。なに?」

 

 右手を、ぎゅっと握りしめる。

 

「俺、俺、」

 

 恐れるな、屈するな、言いたいことを言え。

 「彼」は、それを教えてくれただろう。

 

 ――頷く。

 

「俺は、愛里寿のことが好きだ」

 

 愛里寿の両目が、見開かれる。

 

「きっと、前から好きだった。愛里寿の笑顔を見ていると、胸が苦しくなって。でも、それが嬉しくて」

 

 愛里寿は、驚いていた。

 けれども言う、言える。

 

「それが恋だって気づいた時に、決めたんだ。ぜったいに、愛里寿に告白しようって」

 

 風が、愛里寿の髪を揺らす。

 

「強くて、優しい愛里寿のことが、愛里寿のことが、大好きだ」

 

 ぜんぶ、言えた。

 だから、何を言われてもいい。

 このまま、死んでしまってもいい。よくないけれど。

 ――そんなことを思いながら、黒沢はずっと愛里寿から目を離さなかった。

 

「あ」

 

 なのに、見逃してしまった、

 

「わたしも、わたしもねっ、同じだった。あなたのことを考えると、胸が苦しくなった」

 

 愛里寿から、抱きしめられたことに。

 

「最初はわからなかった、わからなかったの。でも、ようやくわかった。私は、あなたに恋をしていることに」

 

 感じる。

 愛里寿の髪の匂いが、仄かに伝わってくる。肩に愛里寿の顔が添えられて、呼吸すらも感じ取れる。体と体があまりにも近くて、鼓動すらも聞き取れる。

 

「ありがとう、ありがとう。私のこと、好きになってくれて。……嬉しいよ、黒沢ぁっ」

 

 実感する。

 島田愛里寿という少女は、俺よりも少しだけ小さい。

 天才と呼ばれようとも、後継者と謳われようとも、戦車隊隊長として生き抜いていようとも、愛里寿はやっぱり、普通の女の子だ。

 だから、傷つけないようにそっと抱きしめる。

 手に、愛里寿の髪が交わっていく。愛里寿から、もっともっと力がこめられる。

 

「黒沢」

「うん」

「好き、好きだよ、大好きだよ。黒沢のおかげで、わたしはたくさん笑えた、楽しい音楽も聴けた」

 

 服が、ぎゅっと握り締められる。

 

「ありがとう、たくさんのものをくれて」

 

 愛里寿の髪を、撫でる。

 

「俺の方こそ、本当に楽しかった。ありがとう愛里寿、俺を明るくしてくれて」

「よかった、ほんとうによかった。――黒沢」

「うん」

「これからもずっと、二人で道を歩んでいこうね。いつか、いつか、一緒に暮らそうね」

「うん!」

 

 言葉は、それで終わった。

 肌で感じたいものを感じあって、結ばれたことに喜びあって、頭を無であって、胸の苦しみを分かち合って、

 そっと、名残惜しそうに体を離す。

 目と目が合う。

 黒沢は、愛里寿は、そっと、互いの瞳に吸い込まれていって、

 

 やっぱり恥ずかしくなって、またねとお別れした。

 

 

 □

 

 

 十八時。腕時計で現時刻を確認しては、大丈夫かなと千代は呟く。

 最初は電話をしようと思ったのだが、愛里寿はいま「デート」中だ。親からの電話ほど、興ざめするものはない。

 ならばメールを――これもある意味、現実に引き戻してしまうような行為だ。だから、未だに出来ずじまい。

 もちろん、心配はしている。親として、焦らなくてはいけないこともわかってはいる。

 ――けれど、今日ぐらいは自由でいさせたい。

 愛里寿は、日頃から頑張り続けている。戦車道の繁栄の為に、ひいては島田流のために。

 だからこそ、親としては何とかしてあげたかった。

 けれど自分は、常日頃から忙しい家元の身だ。そんな自分に出来ることはといえば、愛里寿の好きな食べ物を作り、食卓で話し相手になる事ぐらい。

 そう、これだけだ。

 だからこそ、愛里寿を笑わせているらしい「誰か」については、支援するつもりでいる。

 そして願わくば、愛里寿のことを末永く幸せにして欲しいと、母として願っている。

 

 ちらりと、腕時計を見る。

 十八時十分。さすがに遅い、空も薄暗くなってきた。

 はやる動揺を抱えながらも、千代は携帯を取り出して、アドレス帳を展開し、通、

 

「ただいま」

 

 獣のような速さで椅子から立ち上がり、駆け込んだままで事務室のドアを開ける。そのままリビングまで足を踏み入れ、愛里寿の姿を目にした途端、

 

「愛里寿っ、大丈夫だった?」

「あ……うん、大丈夫。……ごめんなさい、遅くなってしまいました」

「ううん、いいのよ。あなたが無事なら、それで」

 

 愛里寿が、ほっと胸をなでおろす。どうやら、怒られないものかと心配していたらしい。

 ちょっとだけ、空気が気まずくなる。

 だから千代は、にこりと笑う。

 

「愛里寿」

「はい」

「今日は、どうだった? 楽しかった?」

「はい、とても」

「そう、それは良かったわ。うん、今日はハンバーグにするわね」

 

 どんなデートになったのか、母としては是非とも聞いてみたい。

 けれども、デートだ。そう簡単に話したくない話題であることも、母として分かっているつもりだ。

 少なくとも、真顔の娘はとても機嫌が良さそうだ。それが見られただけでもいいかなと、キッチンへ振り向こうとして、

 

「お母さん」

 

 ぴたりと、体が止まった。

 

「なに?」

「……あ、あの、その」

 

 察する。愛里寿が、何らかの決意を掘り起こそうとしていることを。

 だから千代は、待った。

 

「その……っ、」

 

 そのとき、愛里寿は左手だけを握りしめた。

 うつむきがちだった愛里寿が、私の目を見据えた。

 

「私ね、好きな人ができた」

「……まあ」

 

 そして、

 

「――結婚したいひとが、できたよ」

 

 愛里寿は、笑ってくれた。心の底から

 

「そう」

 

 千代は、そっと、愛里寿の頭を撫でる。

 

「よかったわね、愛里寿」

「うんっ」

 

 

 食卓で、愛里寿はこれまでのことを全て話してくれた。黒沢という恋人が、近いうちに転勤してしまうことも、ぜんぶ。

 

 それでも愛里寿は、黒沢のことが大好きだと言った。

 私はもちろん、心の底から喜んだ。

 

 

―――

 

 

 愛里寿と遊んで、数日が過ぎていった。

 

 夏休みが終わる日、8月31日まであと数日。その間にも黒沢は、着々と宿題を片付けていったり、種村の家でお別れお泊まり会を決行したりした。

 友人がこぞって参加してくれたのだが、桜井は「また会おうな」と言ってくれたし、菊池は「元気でな」と笑ってくれて、松本に至っては「なんでだよー!」と大声で泣かれた。あまりにもガン泣きするものだから、全員で「まあまあ落ち着いて」となだめたのは記憶に新しい。

 そうして種村の家で飲み食いしたり、一緒に花火大会で盛り上がったり、夜中になって皆で散歩したりもした。その時に聞いた虫の音は、とても印象的だった。

 

 種村の家に戻って、一緒に眠る際に、

 

「お前とは、これからもずっと友達だからな。楽しかったぜ」

 

 種村が、こんなことを言ってくれた。

 そのときに、胸が苦しくなったのをよく覚えている。きっとこれは、かけがえのない痛みだったのだろう。

 

「俺も、楽しかった。また会おう」

 

 黒沢と種村は、拳をぶつけあった。

 

 

 そうやって夏休みを堪能していれば、いつの間にか8月30日に、転勤前夜まで日にちが経過していた。

 

 風呂から上がり、夕飯を済ませた後で、黒沢は自分の部屋にあるベッドで横になる。

 濡れた髪に扇風機の風があたって、とても気持ちが良い。上機嫌もあいまって、特にそう思う。

 その時、ベッドの上にある携帯が震えた。

 のんびりとした手付きで携帯を拾い上げ、画面を見てみる――やっぱり、愛里寿からだ。

 内容は、『いま、何してるの?』だ。黒沢は口元を曲げながら、『夕飯食べてのんびりしてた』と打ち込む。

 今日は、朝から晩まで家にこもりつつ、愛里寿とメールを交わしあっていた。愛里寿も同じように暮らしていたらしく、『あついね』とか『何聴いてるの?』とか、他愛のないメッセージを送り合うばかり。

 スキあらば、『好き』とか『大好き』とか語尾につけたりしているのだけれど。

 

 いい気になって、ベッドの上で大の字になる。

 

 今日は8月30日、転勤の前日だ。

 だからといって、特別なことは何もしていない。やるべきことは、もう全部やり終えてしまったから。

 愛里寿と遊ぶことも、告白することも、種村達にお別れを告げることも、愛里寿の親と自分の親に関係を祝福してもらうことも、ぜんぶ。

 

 ――そう。愛里寿との仲は、無事に親からも認められた。

 というのも、愛里寿が電話で『お母さんがね、とっても喜んでた。こんど会ってみたいって』と伝えてくれたからだ。

 もちろん黒沢も、『俺の親なんて大はしゃぎでさ』と返事をした。あまりに嬉しかったものだから、二人して「やった」を連呼したものだ。

 

 携帯の時計を見る。

 気づけばもう二十時だった。あと少し経過すれば、自分はこの土地から旅立つ。

 これまで何度かの転勤を経験してきたが、これほど悔いなんてなくて、清々しい気持ちのままでいられたのは、これが初めてだった。

 これもぜんぶ、愛里寿と出会えたからだ。

 そうに決まっている。そう確信できる。

 

 その時、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。

 

 本能的に携帯を手にして、もしかしてと思って、画面を見てみればやはり予想通り。

 着信を押して、携帯を耳に当てる。

 

「――はい」

『あ、もしもし? 今、大丈夫?』

 

 愛里寿の声を聞いただけで、顔が柔らかくなっていくのを感じる。

 黒沢は、答える前に頷いて、

 

「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

『えっと、明日は何時くらいに引っ越すのかなって』

「ああ、十五時くらいだって聞いた」

『そうなんだ。……邪魔じゃなかったら、見送りに行きたいなって思って』

 

 聞いた瞬間、頭の中で返答が飛び出る。

 

「いいよ、ノープロブレム。ああ、やったー、やったなーおい」

『良かった』

「親も喜んでくれると思う」

『うん。……ねえ、黒沢』

「うん?」

 

 愛里寿が、少しだけ間を置いて、

 

『あなたは私の為に、北海道へ来てくれたことがあったよね?』

「うん」

『すごく、嬉しかった。その時にもらった応援メールは、今もときどき見てる』

「そっかぁ」

『ほんとうに嬉しかった、ほんとうに』

「そっか、そっか」

 

 愛里寿は、小さく咳をして、

 

『だから、西住さんに負けちゃった時は……正直、悔しかった。あなたに晴れ姿を見せたかった』

「……そっか」

 

 慰めの言葉を口にしようとして、ぎりぎりのところで踏みとどまる。

 悔しさだって、大切な感情だから。

 

『私だけじゃない。みんなが、選抜のみんなが負けちゃったことも、ほんとうに悔しかったんだ』

「うん」

『だから、私は誓ったの。必ずみんなを、私を越えられるように育てるって』

「さすが」

『時間はかかるかもしれない。けれど、あの人達は強いから、いつかはそうなれる』

「だね。――やっぱり愛里寿は、世界で一番優しい戦車乗りだ」

 

 愛里寿が、くすぐったそうに笑う。

 

『もし、それが出来たら、それを成し得たら』

 

 愛里寿が、小さく息を吸う。

 

『今度は私から、あなたに会いにいく』

 

 その声は、あまりにもまっすぐだった。

 電話ごしから、強い意思のようなものが伝わってきた。

 ほんとうに、実現させる気なのだろう。島田流後継者である島田愛里寿は、そういう女の子だ。

 ――だから、

 

「わかった」

 

 だから、待てる。

 

「楽しみにしてるよ、愛里寿」

『うん。選抜のみんなが島田流を体現出来るようになったら、お母さんもわがままを聞いてくれると思う』

「だね、俺もそう思う。もしこっちに来たら、武勇伝を聞かせてくれよ」

『うん。――それまでは、あなたを待たせてしまうと思う。でも、でも、待っててほしい』

「待つよ」

 

 即答に決まっていた。

 

「大学のみんなも好きだし、愛里寿のことも大好きだから。だから、ずっと待つよ」

『黒沢』

 

 携帯を、ぎゅっと握りしめる。

 

「がんばれっ」

 

 笑う。

 

「がんばれ愛里寿! できるよ! 愛里寿ならできるよ! ファイト、ファイト!」

 

 あまりにも嬉しくて、あまりにも待ち遠しいから、大声を上げる。

 

『サンキュー黒沢ッ! ぜったいにグレートなチームを作るよッ!』

 

 愛里寿からも、でかい声が飛び出した。

 それが愛おしいとすら思う、みんなが幸せになって欲しいと願う。

 

 

 その後は、音楽の話とか、友人の話題をして、そのまま眠りについた。

 

 

―――

 

 

 何事もなく、8月31日がやってきた。

 

 引越し業者が荷物を整理して、自宅の中はすっかりもぬけの殻だ。なにもなくなったお陰で、窓から差す日光がいつもより眩しく見える。

 部屋から出る前に、最後に一度だけ部屋を見る。

 寂しい、と思う。

 楽しかった、と呟く。

 いつもなら気まずそうにする父と母も、今は静かに笑っている。

 

 ドアノブをしっかり掴み、自宅への扉をしっかり閉じた。

 

 アパートを降りていって、父が車のエンジンをかける。トラックに積む荷物も、そろそろ少なくなってきた。

 腕時計を見る。時刻は十四時ちょっと。

 思った以上に早い。荷物が少ない分、スムーズに事が運んでいってしまったらしい。

 かといって、十五時まで待って欲しいというのも、それはそれで――

 

「黒沢―――ッ!」

 

 考える前に、振り向いたと思う。

 黒沢からほんの離れた場所に、会いたかった人が駆け寄ってくる。それから間もなく、ヘッドホンを首にかけた島田愛里寿が、黒沢の近くで危なげに立ち止まった。

 愛里寿と、無言で向き合う。

 愛里寿の両肩が、ゆっくりと上下に動いている。小さく、呼吸が聴こえてきた。

 父も母も、引越し業者も、誰もが沈黙する中で、愛里寿は、「はあっ」と息を漏らす。

 

「黒沢。よかった、間に合った」

「愛里寿」

「早く来てみたんだけれど、今日はそれが良かったみたいだね」

「……うん」

 

 少し気まずそうに、笑ってしまう。

 

「――あ」

 

 愛里寿が、父と母に首を向けて、

 

「初めまして。私は黒沢の友達……いえ、恋人の、島田愛里寿です」

「これは、これは」

 

 母が、一歩前に出る。

 

「こうして、顔を合わせるのは初めてですね。はじめまして、息子がいつもお世話になっています。ご令嬢の活躍は、息子からいつも、」

「待ってください」

 

 愛里寿が、首を左右に振るう。

 

「そんな堅苦しく、しないでください。いまの私は、黒沢の恋人です。それだけです」

「――そうですか」

 

 母が、嬉しそうに声を出す。

 

「島田さんのことは、息子からいつも聞かせてもらっています。あなたのおかげで、息子はよく笑うようになりました」

「そう、ですか」

「母として、これ以上の喜びはありません。ほんとうに、ありがとう」

 

 ちらりと、母の方を見る。

 母も、そして父も、頭を下げていた。

 

「――私も、黒沢のおかげでたくさん笑えるようになりました。楽しいことも、教えてくれました」

 

 ヘッドホンが、太陽に照らされている。

 

「こんなにも、誰かを好きになったのは、はじめてです」

「……そうですか。それは、良かった」

 

 愛里寿が、はっきりと頷く。

 ――よかった。

 ほんとうに、そう思う。

 

「黒沢」

「うん」

「そろそろ、行っちゃうんだね」

「うん。……向こうに行っても、俺は楽しくやるよ」

「そう」

 

 愛里寿が、安心するように微笑んでくれた。

 引越し先では、どんな出会いが待っているのだろう。転校初日は、どんな風に揉まれるのだろう。

 それが今から、楽しみで仕方がない。

 

「黒沢。その」

「うん?」

 

 愛里寿が、ポケットに手を入れて、

 

「――これ」

「うん。これを、黒沢に渡そうと思って」

 

 愛里寿の手のひらの上には、激レアの、ファイティングポーズをとった小さなボコのぬいぐるみがあった。

 

「これは、愛里寿の、」

「ううん」

 

 愛里寿が、そっと首を振るう。

 

「これは私と、あなたのものだよ」

「え」

「このボコのお陰で、私は、あなたにめぐり会えたから。だからこれは、二人だけのものだよ」

 

 鮮明に思い出す。

 お金を落とすつもりで、グッズショップに入って、

 そこで、愛里寿と会って、

 そして、ファイティングポーズをとったボコを見つけて、

 一つしかないというシチュエーションと、激レアという言葉に引かれて、

 愛里寿と、はじめて触れ合ったあの日のことを。

 

「本当に、いいのかい?」

「うん」

 

 愛里寿が、小さく頷いて、

 

「これがあったら、黒沢は私のことを忘れないはずだから」

 

 その言葉を口にした愛里寿の瞳は、海のように揺れている。不安そうに、けれども不安にさせないように笑っている。

 ――そうか。

 黒沢は、両肩で息をした。

 

「愛里寿」

「うん」

「絶対に忘れない、毎日君のことを想い続ける。信じてくれ」

「――うん!」

「ありがとう。大切にするよ」

 

 手と手が触れ合った。

 顔を見合わせた。

 愛里寿の目が、これまで以上に大きく輝いていた。

 

「愛里寿」

「なに?」

「俺、向こうで待ち続けるよ。その間に、たくさん友達を作って、エンジョイするよ」

「うんっ」

「また、こうして会うのに、時間はかかるかもしれない。でも、でもね」

「うん」

 

 この場には父と母が、引越し業者の人がいる。

 でも、何を恐れることもなく、自分はこう言える。

 

「俺はこれからも、君だけしか好きにならない」

 

 愛里寿の目が、口が、大きく見開かれる。

 

「大好きだ、大好きだよ!」

 

 そして俺は、愛里寿から抱きしめられた。

 今度は、見逃さなかった。

 

「私も黒沢が好き! 大好き! これからもずっと、黒沢のことだけを好きでい続ける!」

「待ってる、ずっと待ってる! 命を賭けてもいい!」

「死んじゃだめだよ黒沢! だって黒沢は、私とずっと、これからも一緒にいるんだから!」

「ああ、ありがとう、ありがとう!」

 

 考えることなんて、もうやめていた。

 いまはただ、好きな人と、好きなように抱きしめ合いたかった。髪を撫でたかった。大好きと叫びたかった。

 愛里寿も、ただただ俺のことを求め続けてくれる。

 嬉しい、大好き、愛してる、結婚したい――

 

 

 □

 

 

 息子と一緒に、夫の車に乗り込む。いつもなら助手席に腰かけるのだが、今日は後部座席で息子と共にいる。

 転勤の際は、いつもこうしていた。

 

「良かったわね。うん、ほんとうに良かったわね」

「うん」

「私達は、心の底から応援するから。何かあったら、いつでも声をかけてね」

「うん」

 

 引越し業者のトラックが、ゆっくりと走り出していく。それを追う形で、夫の車も動き出す。

 一区切りがついて、胸をなでおろす。

 あの時の息子は、ほんとうに幸せそうだった。目の前で愛し愛されて、母として――夫も、これ以上の幸福はないだろう。

 ここに来て良かったと、心の底から思う。

 

 あのあと、島田さんから「母が、あなたがたと会いたがっていました」と告げてくれた。

 つまりは、二人の関係は心から祝福されている、ということだ。

 良かった。土下座する必要はないらしい。

 ――私は、隣で座っている、息子を見て、

 

「あ、」

「うん?」

 

 声が出た。

 だって息子が、我慢強い息子が、数年ぶりに、

 

「あ、ああ、だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」

 

 そっと、息子を抱き寄せた。

 嫌なことがあっても、転勤を告げられても、息子は強くあり続けた。当然の文句すら言わなくなった。

 だからこそ、今の息子の顔を見て――私はどうしようもないまま、息子にすがった。

 

「……ごめんね」

「……ううん。いい、いいんだ」

「ごめんなさい」

「あやまらないで」

「う、うん」

「……とうさん、かあさん」

「うん」

 

 くまの、小さなぬいぐるみを手にしながら、息子は、

 

「ありがとう。ここに、つれてきてくれて」

 

 

―――

 

 

 机の上には、目を通すべき書類が山ほど積まれている。嫌でもやらなければいけないことは、家元として分かっているつもりだ。

 けれど、仕事に手がつかない。

 だって今日は、愛里寿の恋人が、黒沢が遠いところへ行ってしまうらしいから。

 

 聞くところによると、黒沢の親は日本戦車道の委員を務めているらしい。少し調べてみたが、確かに黒沢夫婦の名前があった。

 ということは――愛里寿と黒沢は、戦車道のせいで離れ離れになってしまうのか。

 まるで自分と同じだ、と思う。家元という立場に就いているせいで、愛里寿とはロクに遊べなかったのだから。

 そういえば西住しほ(ライバル)も、戦車道のせいで家族問題を抱えていたはずだ。いまは、和解したらしいけれど。

 ため息。

 戦車道とは、善き道であるはずなんだけどなあ。

 頬杖をつかせながら、千代はそう思う。そのままの時間が、数分ほど経つ。

 脈絡もなく、千代は腕時計を見る。時刻は十四時四十分、今頃愛里寿は、黒沢は何をしているのだろう。

 愛里寿には、これからも末永く幸せでいて欲しい。黒沢にはどうか、この先も愛里寿を笑わせてほしかった。

 

 そのとき、玄関のドアの開く音がした。

 目がさめたように、椅子から立ち上がる。

 

「ただいま」

 

 半ば走り込んだまま、事務室のドアを開ける。

 リビングには、愛里寿が、

 

「愛里寿、」

「なに?」

 

 気がついた時には、私は愛里寿へ駆け寄っていた。

 だって、愛里寿の顔が、

 

「なに、何かあったのっ?」

「あ――ちがう、ちがうの、ちがうのっ」

 

 愛里寿は、必死に首を横に振るう。

 

「うれしいだけ、うれしいだけだから。だからしんぱい、しないで」

 

 その言葉を、私はすぐに信じた。

 だって愛里寿は、島田流の重荷を背負おうとも、失敗をしてしまっても、あの時の試合に負けてしまっても、決してこんなふうにはならなかったから。

 だから、どうしようもないまま、強く抱きしめた。

 

「――愛里寿」

「はい」

「今日は、今日は、あなたの好きなハンバーグにするからね」

「はい」

「あなたはたくさん、がんばってきたんだから。だから、なんでも私に言ってね」

「はい」

 

 久しぶりだった、こんなふうに触れ合うのは。

 なのに愛里寿は、まだ、こんなにも小さかった。

 娘の頭を撫でながら、わたしは、心の底から言う。

 

「お母さんはいつでも、あなたの味方だからね」

「――うんっ」

 

 

 愛里寿は、すべてを話してくれた。

 わたしはもちろん、祝福した。

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次で、最終回です。

ご指摘、ご感想などがあれば、お気軽に送信してください。


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それが、ボコだから

 九月も、半ばを過ぎた。

 

 すっかり涼しくなったし、空はすぐに暗くなるし、虫の音も聞こえなくなったけれども、戦車道は今日も続いていく。そしてまた、メグミは島田愛里寿にコテンパンにされてしまうのだ。

 ほんとう、愛里寿は強い。しかもやっつけるだけじゃなくて、良かった箇所とか、見直すべきところとか、そういったものもしっかり指摘してくれる。

 さすが隊長だ、と思う。これが天才か、と思う。

 何度も敗北して、そのたびに愛里寿の言葉を聞き入れ、そうやって悪かった点を潰していくうちに、自分も段々と強くなってきた。そう実感できるようになった。

 

 戦車道における愛里寿の生き様は、以前と変わらない。

 けれどもそれ以外は、何だか少しずつ変わっていっているような気がする。

 

 まず気がついたのは、練習試合後の流れだ。

 以前の愛里寿は、一時間後の休憩を宣言した後に、決まってどこかへ消えていってしまったのだ。それも全速力で。

 もちろん、このことは選抜メンバーの話題の種になった。

 そうして真っ先に出た「結論」はといえば、誰かとこっそり会っているということ。そして、その誰かとは愛里寿の友達――或いは、彼氏なんじゃないか、ということ。

 愛里寿のいないところで、きゃーきゃーぐらいは言う。けれども、愛里寿の背を追ったりはしない。隊長のプライベートを覗き見しようものなら、家元からヤキが入るだろうし、他の選抜メンバーからも「反省会」を強いられるだろう。

 みんな、隊長のことが好きなのだ。

 みんな、隊長の楽しみを邪魔したくないのだ。

 だから、噂程度に留めておくという暗黙の協定が仕上がっていた。

 

 ――けれど、

 

「よし。では一時間後に、反省会を行う。何か質問は?」

 

 沈黙。

 

「それでは、時間まで体と心を休めるように」 

 

 はい! 

 

「では、解散」

 

 そうして愛里寿は、その場でタブレットを操作し始めた。いつもの真顔のまま、走ることもなく。

 

 そんな愛里寿を数回ほど見て、メグミは何となく思うのだ。

 ――夏が過ぎ去って、愛里寿にとっての何かが終わってしまったのではないのかと。

 淡々とタブレットを操作する愛里寿を見て、メグミは根拠もなく、寂しそうだなと感じる。

 けれども、メグミには「何かありましたか」と聞く権利はない、そんな勇気もない。愛里寿の秘密を暴くなんて、隊員だからこそしてはいけない。

 

「メグミ」

 

 聞き覚えのある声に、メグミは振り向く。

 アズミがいた。

 

「どうしたの? 隊長に用事?」

「あ、う、ううん。そういうわけじゃないんだけれども」

「そ。じゃあ、隊長から少し離れましょう。邪魔しちゃ悪いわ」

「うん、そだね」

 

 気のせい、だろうか。

 アズミがどこか、陰りのある表情をしていたのは。

 

 ――その時、あたり一面に賑やかな音楽が響き出した。

 

 トランスミュージックだ、サンダースでは馴染み深かったジャンル。

 そしてこの曲は、「この大学で」何度か聴いたことがある。

 

「あっ」

 

 その発信源は島田愛里寿、の携帯、の着信音だ。

 それだけでも驚きだというのに、この着メロを受信した後の愛里寿ときたら、

 

「あ、もしもし? うん、うん、大丈夫。どうしたの?」

 

 とても嬉しそうな顔をしながら、通話をし始めるのだ。

 そしてそのまま、戦車の陰にまで駆け込んでいく。

 それを見てしまって、もういない愛里寿へ釘付けとなる。誰なんだろう、そんな憶測が頭の中で湧いて出て、

 

「メグミ」

 

 肩の上に、手を置かれた。

 

「行きましょう。邪魔しちゃ悪いわ」

 

 アズミが、軽やかに笑った。

 メグミも、「そだね」と頷く。

 

 ――愛里寿は、まちがいなく変わった。

 音楽を聞くようになって、特定のメールや通話に対して顔を明るくするようになって、メグミは心の中で「いい人と出会えたのかな」と、そう推測している。口には出さないけれども。

 もしも、この憶測が正しければ、自分は全面的に愛里寿の応援をするつもりだ。

 心臓を、軽く抑える。

 自分はいま、とても幸せだ。だから愛里寿にも、幸せになってほしい。

 

 

―――

 

 

 秋になって、ずいぶんと寒くなった。

 

 それでも戦車道は止まらない。そして、今日も今日とてルミは島田愛里寿に負けてしまった――以前よりは、割といいセンはいっていたのだけれども。

 愛里寿の尊敬出来るところは、やはり惜しみなく「対処法」を教えてくれることだと思う。具体的なだけあって、次はこうしてみよう。こうすれば裏をかけるのではないのかと、そんな気にさせてくれるのだ。

 やはり愛里寿は、天才にして最高の戦車隊隊長だ。いつか自分が愛里寿に勝とうとも、この価値観だけは不変のままであり続けるだろう。

 

 けれど、そんな愛里寿にも変化したところがある。

 その最もはといえば、やはり音楽に目覚めた点だろう。本当に突然だったものだから、選抜メンバーも少々動揺して「なぜ音楽を?」という疑問が乱立した。気まぐれによるものか、誰かの影響か、隊長のお眼鏡に叶う音楽と出会えたのか――答えは見つからなかったが、結論としては「趣味が増えるのはいいことだ」で落ち着いた。気分転換は重要なのだ。

 

 そうして愛里寿は、暇さえあればヘッドホンを身につけ、音楽の世界に浸るようになった。

 ノリのいい音楽を聴くことが多いのか、小さくヘッドバンキングをすることもしょっちゅう。それがめちゃくちゃ可愛いと、隊員の中では評判になっている。

 時には嬉しそうな顔をして、時には両目をつぶって、時には小さく歌ってみせて、

 ときどき、寂しそうな顔をすることがある。

 

 ――ほんとう、たまたまだったのだ。

 

 大学内の渡り廊下を歩いていたところで、壁に背を預けていた愛里寿を見つけた。音楽を視聴中らしく、ヘッドホンを身に着けていて――ルミの眼鏡が、はっきりと捉えてしまった。愛里寿の、陰りのある横顔を。

 声なんて、かけられなかった。身も心も、硬直してしまっていた。どうしたらいいのかと、無言で狼狽していたところで、

 

「あ、ルミ」

 

 何事もなかったかのように、無表情で声をかけられた。ヘッドホンを取り外して、わざわざルミの方にまでやってきて。

 

「――こんにちは、隊長。音楽を、聞いていたのですか?」

 

 取り繕うように、平然とした顔で質問する。

 愛里寿は、こくりと頷いて、

 

「うん。お気に入りの曲」

「へえ、どんな?」

「激しくて、身も心も躍れるトランスミュージック」

「へえ」

 

 その言葉に、ルミは強い違和感を覚えた。

 身も心も躍れるのなら、あの時どうして、愛里寿はあんな顔をしてしまっていたのだろう。

 わからなかった。

 考えてみても、わからなかった。

 だからルミは、平然と頷くことしかできない。

 

「トランスミュージック、ですか。そういえば、ここ最近の着信音もトランス系ですよね」

「――うん」

 

 聞き逃がせなかった。

 愛里寿の、重い返事を。

 

「あ……すみませんっ、何か無礼を、」

「ううん。ルミはなにも悪くない」

 

 愛里寿は、申し訳なさそうに苦笑いする。

 息が漏れた。そんな表情、いままで見たこともなかったから。

 

「ねえ」

「はい」

「ルミは、どんな音楽を聴くの?」

「私ですか。私は……あれですね、民族系を聴きます」

「民族系……いいね。どんな?」

「有名どころで、サッキヤルヴェンポルッカとか」

「そうなんだ」

 

 愛里寿は、いいことを聞いたとばかりに微笑んで、

 

「後で、教えておこう」

 

 ルミは、純粋に首を傾ける。

 

「――教える? 誰にですか?」

 

 ルミの疑問に対して、愛里寿が「あ」と小声を漏らす。

 そうして愛里寿は、焦ったように首を横に振るい、

 

「……いや、なんでもない。気にしないで」

「は、はい」

 

 なにも見なかったかのように、ルミは返事をした。

 

「ルミ」

「はい」

「いい音楽があったら、何でもいいから教えて」

「はい、もちろんです。今度、色々とチェックしてみますね」

 

 それじゃあ――そうして、愛里寿とはそのまま別れていった。

 愛里寿の意外性から解放された瞬間に、大学内から音が生き返った。そこかしこからの他愛のないお喋り、階段の上り下り、理由がわからない笑い声、外から響く無限軌道。

 緊張感が抜けて、一人で深呼吸する。いなくなってしまった愛里寿のことを、ようやく冷静になって思い返す。

 

 ――誰に、おすすめの音楽を教えようとしたんだろう。

 ――誰。そう聞いて、どうして隊長は焦ったんだろう。

 

 わからなかった。

 わからなかったけれども、なんとなく推測は出来る。その「誰か」も、忘れられない隊長の横顔も、すべて音楽が関係していた。いまの愛里寿にとって、音楽には何らかの思い出があるのかも、

 ――指を鳴らす。

 連鎖的に発想した。ここ最近の、愛里寿の着信音について。

 例のトランスミュージックが流れると、愛里寿は「必ず」嬉しそうな顔になる。そしてそのまま、携帯を耳に当てながらでどこかへ歩み去ってしまうのだ。

 もしかしたら、その「誰か」とは、愛里寿に音楽を教えた人で、愛里寿にとっての大切なひとなのかもしれない。

 口元が、緩む。

 そうだ、そうに決まっている。大切な――好きな人という存在は、いつでもどこでも笑顔をもたらしてくれる。その人の話をされると、つい感情的になってしまう。

 だから愛里寿は、「誰に」という質問に対して、つい焦ってしまったのだ。

 なるほど、そういうことか。

 ならば、自分はこう誓おう。 

 

「――見守ろっと」

 

 もしも愛里寿が、相談なりを持ちかけてきたら、自分はそれに是非とも応えよう。

 それでいい、それで。

 

 腕時計を見る。こんな時間かと呟きながら、ルミは花壇へと向かっていった。

 

 

―――

 

 

 11月が訪れて、雪が降ってきた頃。

 

 今日も今日とて、家元が処理するべき仕事は沢山ある。選抜チームの評価、世界大会への意見、無限軌道杯に関しての手続きと、量は決して少なくはない。

 ただ、前の状況よりはだいぶ落ち着いた。相変わらず大変ではあるが、忙しくはない、ということだ。

 ――だから、

 

「お母さん」

「何? 愛里寿」

「ちょっと、ミュージアムへ行ってくるね」

「ええ、わかったわ。……ああ、愛里寿」

「なに?」

「あと少しすれば、冬休みがやってくるわよね」

「そうですね」

「……だから、旅行の一つでもしてみたらどうかしら。大丈夫、時間はあるから」

 

 だから、愛里寿の願いを聞く時間はある。なかったとしても、無理矢理作るつもりではあるけれど。

 ――でも、愛里寿はあくまでも、ほんとうの真顔のままで、

 

「いえ。私には、大学のみんなを育てるという役目がありますから」

「でも」

「お母さ、お母様には、ボコミュージアムのスポンサーになってもらうというお願いを聞いてもらいました。私はそれに応えるまで、島田流に心身を尽くします」

 

 愛里寿は、「正論」を口にしてしまえた。

 愛里寿は、真面目に自覚しているのだろう。ボコミュージアムという、島田流とは何の関係もない施設を援助してもらうというのは、単なる私情でしかないということに。

 

「……それは、愛里寿が頑張ったから」

「お母様が気遣ってくれていることは、よくわかります。ですが私は、彼に誓ったんです」

 

 食卓で、愛里寿が語ってくれたこと。

 

「大学のみんなが、私をも越える島田流を体現できるようになったら……その時こそ、黒沢に会うと」

「――そう」

「その日が来るまで、私は戦車道とともにあります」

「わかったわ」

 

 愛里寿は、無表情で、

 

「話は、以上です」

「うん。……じゃあ、ミュージアムでたくさん遊んでね。遅くなりそうだったら、連絡をちょうだい」

「はい」

「車と戦車には、気をつけるのよ」

「はい。では、行ってきます」

 

 愛里寿は一礼して、そのまま事務室から出ていく。間もなくして、玄関のドアが開かれる音が響いた。

 椅子ごと振り向き、窓越しから愛里寿の後ろ姿を確認する。その足取りはとてもゆっくりで、どこか無機質に思えて、仕事へ行く大人のようだった。

 椅子を、デスクの前に向ける。

 ――ほんとうに、背が伸びてしまっていた。 

 

 あの時の愛里寿の表情は、まちがいなく大人で、戦車隊隊長そのものだった。

 

 前からも、今も、愛里寿は本当に頑張りすぎていると思う。十三歳にして戦車道の、島田流の繁栄を背負いながら、決して少なくない大学選抜チームの育成を担っている。

 愛里寿はまだ、十三歳だ。恋する女の子だ。

 それなのに愛里寿は、彼に会いたいとは決して言わない。島田流に心身を尽くすと、そう言えてしまった。

 愛里寿はまちがいなく――天才少女だ。

 ため息をつく。

 もしも、愛里寿が「当然」の権利を口にする日が来たら――自分は、それに何としてでも応えるつもりだ。戦車を使ってでも、いざとなれば空だって飛んでみせる。

 

 それが、母というものだ。

 

 

―――

 

 

 黒沢の顔を見なくなって、数週間も経った。

 

 ここ最近の大学選抜チームは、かなりレベルが上がっていっている。一両に三両は当たり前、いざとなれば四両を相手取ったりと、目覚ましい進歩を遂げているのだ。

 ある隊員は言う、「隊長のお陰です」。ある隊員は言う、「一生ついていきます」。ルミは言う、「教えた通りにしつつ、自分なりにアレンジしてみました。上手くいきました」。メグミは言う、「今なら西住流に勝てそうな気がします」。アズミは言う、「いつもありがとうございます。お疲れ様です」。

 

 ――うん。

 

 歩き慣れた道路を歩み、渡り慣れた通学路を進んでいく。

 母は、自分に気遣ってくれている。大学のみんなは、着実に腕を上げていっている。やる気も十分で、脱落者なんて一人もいない。このまま世界へ進出しても、特に問題は無いと思う。

 

 けれどまだ、私は負けたことがない。

 

 戦車乗りとしては十分だが、島田流としては「これから」だ。だからこそ、戦車隊隊長としては「その域に達していない」と思うし、誓いを果たしていないと自覚もできる。

 ――誰かが否定しようとも、自由になることを許してくれようとも、自分は役目を全うし続けるだろう。

 なぜなら、

 

 その時、ヘッドホンごしからトランスミュージックが流れ出した。

 愛里寿はすぐさま携帯を取り出し、それを口元に近づける。

 

「もしもし?」

『あ、愛里寿? いま、大丈夫?』

「うん、大丈夫大丈夫。どうしたの?」

『あー、いやー、その、愛里寿と話がしたくなって』

 

 愛里寿の顔が、冬空の下で明るくなる。

 

「そ、そう。ありがとう」

『いやあ……あ、そうそう。この間さ、友人達と雪合戦したんだよ。その中に野球好きな奴がいて、実にクレイジーな豪速球を投げつけられちまった』

「ええ……大丈夫だった?」

『すげー痛かった。あそこまで速いと、逆にもう笑っちまうね』

「あ、それはわかる。すごすぎると、こう、呆然としちゃうっていうのかな」

『そうそうそんな感じ。まあこっちもやり返したし、超楽しかったけどね』

「……そっか。よかったね」

 

 歩道は雪に染まっていて、踏みしめるたびに鈍い音がする。

 

『愛里寿はどう? 調子とか』

「あ、うん。すごくいい、みんな成長してる」

『そっかー。もう少しで武勇伝が聞けるのかな?』

「そうかも、しれない」

『わかった。……俺はずっと、愛里寿のことを待ってるから。絶対に忘れないから』

「ありがとう……サンキュー!」

『いやいや。じゃあ、そろそろ切るけれど、他に何かあったりする?』

「ううん、ないよ」

『わかった』

 

 愛里寿から電話をかけても、電話がかかってきても、いつだって最後の言葉は、

 

『大好きだよ、愛里寿』

「私も大好きだよ、黒沢」

 

 通話が切れた。

 立ち止まって、安堵したように微笑む。名残惜しそうに携帯を胸に抱いて、しばらくはそのまま。

 やがて愛里寿は、携帯を操作し始める。黒沢が勧めてくれた、ご機嫌なナンバーを流しながらで――愛里寿は、前に歩み始めた。

 

 黒沢はきっと、このまま会いに行ったとしても失望したりはしないだろう。思いつく限りの言葉を、ありったけ投げかけてくれるだろう。

 これは自惚れなんかじゃない、確信だ。だって黒沢とは、何日もの付き合いがあるのだから。

 ――それでも自分は、使命を全うし続ける。

 なぜなら、

 

「着いた」

 

 愛里寿の目の前には、(島田流)が建て直してくれたボコミュージアムがある。

 そこは自分にとっての居場所で、心の癒やしで、黒沢と出会えた世界だ。ここがなくなってしまうなんて、心の底から嫌だった。

 母には、スポンサーになってくれた島田流には、感謝してもしきれない。

 それに報いるためにも、自分は島田流に尽くさなければならないのだ。

 きっと黒沢も、それを望んでくれている。はやく、武勇伝を聞かせてあげたい。

 

 胸をなでおろす。ヘッドホンを首にかける。

 愛里寿は、ボコミュージアムへ続く門を潜り抜けていく。

 

 

 □

 

 

 新生ボコミュージアムには、今日も数人の客が、選抜メンバーがそこかしこに居た。

 家族連れはともかく、選抜メンバーが何故ここにいるかというと、はっきり言ってしまえば「他でもない島田流がスポンサーをやっているから」である。島田流公式サイトにも、ボコミュージアムが大々的に宣伝されているし。

 そんな情報が流れれば、島田流を汲んでいる隊員の中にも、興味を持ち始める者が現れる。いわゆる取っ掛かりというやつだ。

 そんな中で、「わからん」と離脱する者はいた。そんな中で、

 

「よく来たなお前ら! 今日こそ生意気なあいつらをボコボコにしてやっから、楽しみにしてくれよなーッ!」

「ボコ! 今日もイカしたアクション見せてくれよなーッ!」

「うーん、かわいいやつ」

「今日こそ勝って! ヒーローになって!」

 

 こんな風に、盛り上がれる者もいる。

 ある隊員は豪快に叫んで、ある隊員はボコを愛でて、ある隊員は前のめりになる。そんな中で、愛里寿は一人で席につく。

 

「――おいお前! ぶつかったぞ気をつけろ!」

「んあー?」

 

 ボコとペンギンの肩がぶつかりあって、真っ先にボコがケンカを売る。それを気に入らなさそうに、ペンギンが振り向いた。

 

「なんだてめえ、俺のことを誰だと思ってんだ?」

「知るか! なんだなんだぁ? やんのかぁ?」

「おーやってやるよ。へ、こいつは面白そうだ」

 

 愛里寿が拳を作る。ボコとペンギンが、タイマンでにらみ合う。

 

「――おらぁぁぁッ!」

「なんだそのヘナチョコパンチ!」

 

 ペンギンが姿勢を低くし、足払いを食らわせてボコを転倒させる。観客から次々と悲鳴が上がった。

 

「ボコ―――ッ!」

「んー、倒れてもかわいいやつ」

「なんで先に攻撃しちゃうの! 先手を取るのはフラグなのよ!」

「ボコッ! がんばれっ、がんばれっ」

 

 家族連れからも、悲観の声が漏れ始める。それでもペンギンは追い打ちをやめず、ボコはただただ倒れているだけ。

 

「み、みんな……!」

「お?」

「お」

「あ」

「うんっ」

「オイラに、力を……!」

 

 隊員達の目が、ぎらりと光ったと思う。

 

「オイラに、力をくれーッ!」

「っしゃ―――ッ! いくらでもくれてやらぁッ! 頑張れボコ! 負けんな――ッ!」

「後でぬいぐるみ買うから、立ってー!」

「ハザードオン! ハザードオン! ボコーッ!」

「頑張れボコ! がんばれがんばれっ、スタンダ――――ップ!!!」

 

 ボコが、びくりと体を震わせ、

 

「っしゃ――――ッ!!」

 

 獣のように立ち上がり、観客全員が歓喜の声を叫び始める。

 

「みんなのお陰だぜ! よーし、何か技のリクエストをしてくれよ。絶対にあいつをボコボコにしてやるからよ!」

 

 観客全員が、その言葉を耳にした瞬間――愛里寿に、期待の眼差しが重なった。たぶん、一番声がでかかった子供だからだろう。

 慣れたシチュエーションだったし、芯から火照っていたから、愛里寿は決して怯まない。好戦的な笑みすらも生じてくる。

 みんな、期待してくれているのは分かっている。けれど、技のセレクトが一番上手いのは、

 

「くろさ、」

 

 、

 

「――ボコ! かかと落としを決めてッ!」

「わかったぜ―――ッ!!」

 

 そうしてボコは、いい感じに足を振り上げてみせて、当然のように後ろへすっ転んだ。かかと落としは難易度の高い技だから、実現できる時点で「いいところポイント」が加算されてしまう。

 ダウンしたボコの腹めがけ、ペンギンが正拳突きをお見舞いする。隊員達は負けるな負けるなと叫び、家族連れも「終わった」と諦め、肝心のボコはいいトコ無しで完敗する。

 普通なら、ここで心が折れるだろう。

 ――けれども、ボコは言う。

 

「ぐ……次は必ず勝つぞーッ!」

 

 ボコショーが完結し、幕が閉じられる。

 

「ああー……よし、いいモン見た。明日も戦車道、がんばっか!」

「あーかわいかった。買お買お」

「がんばれボコ、私もいつかヒーローになるからっ」

 

 それでも、隊員たちの興奮は冷めない。その熱意を引きずったままで、次々と会場を後にしていく。

 一人取り残された愛里寿は、そっと呼吸をする。

 

 そうだ。ボコは、何度負けてもくじけたりいじけたりしない。私も、ぜったいに諦めない。

 

 

―――

 

 

 冬はまだ続く。

 

 愛里寿は今日も、無傷で勝利した。相手は上手いところを突いてきたのだが、「なるほど」と対処できてしまった。

 

 

―――

 

 

 今日は、雪が降っていない。それでも寒い。

 

 メグミとルミとアズミがバミューダアタックを仕掛けてきたが、先頭車両を真っ先に撃破し、戦法を潰した。

 もちろん全滅させた。

 

 

―――

 

 

 今日は休日。

 家の中で、愛里寿はずっと音楽を聴いている。それをBGMにしながら、ボコのぬいぐるみで遊んでいたのだが――音楽がふっと暗転すると同時に、愛里寿は反射的に携帯を手にとった。

 着信音のイントロが流れ出すと同時に、画面を確認する。通話してきた相手はもちろん、

 

「もしもし?」

『あ、愛里寿? 今、大丈夫?』

「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

『ああいや、丁度暇でさ。愛里寿とこうして、話がしたくなって』

「あ――うんうん、いいよ。あのね、今ね、あなたにすすめられた音楽を聴いてて――」

 

 

「大好きだよ、黒沢」

『大好きだよ、愛里寿』

 

 

―――

 

 

 雪が激しく降り注ぐ中でも、戦車道は続いていく。

 

 五両同時に一斉に飛びかかられたが、相打ちを誘い、これを対処。勝ててしまった。

 

 

―――

 

 

 日差しが暖かい一日、絶好の戦車道日和。

 

 今日も今日とて、愛里寿は試合で勝ってみせた。敵チームはありとあらゆる手で愛里寿に攻めてきたのだが、愛里寿は、これを見切れてしまったのだ。

 隊員からは「前に利いた戦法が通じないとは」と驚愕され、「隊長はほんとうに天才ですね」と評価された。

 天才、か。

 たしかに自分は、天才なのだろう。どんな状況の中だろうと、いやでも勝ち筋を分析できるのだから。

 そのお陰で、一番の実力を維持し続けられている。

 そのお陰で、一番たいせつな人が遠ざかっていく。

 

 ヘッドホンを身につける。音楽を流しながら、彼になんでもないメールを送り始める。

 

 

―――

 

 

 大学も、あと少しで冬休みに入る。

 

 今日は敵チームからのラッシュが激しかったが、これを撃退。決して簡単なことではなかったが、愛里寿は確かに迎撃してみせた。

 成長、してしまっているのだろう。だからこそ、未だに愛里寿は負けていない。

 ――わがままを聞いてくれた島田流に、恩返しがしたいのに。

 けれど、でも、できてしまうのだ。困難を、越えてしまえるのだ。

 

 タブレットで今日の試合をまとめている最中に、ポケットの中の携帯が震えた。いったいなんだろうと見てみれば、スケートを行ったらしい黒沢から、記念写真が送られてきた。

 黒沢の隣には、友達であろう女の子が元気よくピースしている――それは良いことであるはずなのに、実に微笑ましいはずなのに、試合以上の不安と胸の痛みが、同時に降り掛かってきた。

 

「――隊長?」

「あ、アズミ。なに?」

「あ、いえ。その……お疲れですか?」

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」

 

 

 黒沢に電話をしてみて、黒沢からはからっと『友達の梅沢、いい奴だよ』と紹介された。

 心の底から安堵しながら、スケートのこと、試合についておしゃべりして、再会を誓っては、いつもの言葉とともに通話を切った。

 黒沢の声が聞こえなくなってから、冷たい不安が胸の内に芽生えてくる。それを振り払う為に、黒沢との思い出に浸り始める。

 だめだ、

 会いたい、会いたいよ。

 けれどわたしは、恩返しをしないとだめなんだ。

 みんなを、グレートなチームにする義務があるんだ。

 

 

―――

 

 

 今日も無事平穏に、一日が過ぎていく。

 

 

―――

 

 

 黒沢と最後の電話をして、三日ほどが経過した。

 

 試合を終えて、やっぱり勝って、昼食もとり終えた後に、愛里寿はふらふらと外に出かけた。

 一人に、なりたかったのだ。

 ヘッドホンをかけ、音楽をシャッフルしつつ、愛里寿はただただ外を歩き回る。花壇を横切り、見覚えのある老夫婦をちらりと見て、カップルらしい二人組を少しだけ注目し、上の空で三羽の小鳥が横切っていく。そうして気づけば、戦車の格納庫を一瞥できる白いベンチの前にいた。

 ――意識したつもりは、ないんだけれど。

 そのまま愛里寿は、ベンチへ腰かける。視界に入るのは、格納庫の中のパーシング、センチュリオン、T-28――

 何も考えないでいるつもりだったのに、つい選抜チームのことを考察してしまう。

 

 みんなよく頑張っているし、これまで以上に成長を遂げていると思う。実際のところ、何度か危ない目にも遭った。

 けれどやっぱり、愛里寿は危険を乗り越えてしまう。大抵は無傷で、悪くても一つ二つだけの傷を負いながら、五両の敵戦車を撃退してしまえるのだ。

 手心を加える気など、一切ない。

 戦車道に関しては、常に誠心誠意を込めて歩み続ける。

 そんな当たり前をこなしているからこそ、愛里寿も常日頃から成長を遂げる。だから、未だに愛里寿を越える隊員が現れない。

 ――みんな、悪くない。

 大きくうつむく、ため息がこぼれる。これでは島田流の繁栄に繋げられない、わがままへの恩返しをすることができない、黒沢との誓いを果たせない。

 妥協なんて、とても出来そうにない。そんなことをしたら、自分が絶対に許せなくなる――黒沢にも、きっと嫌われてしまう。

 天才って、めんどくさいな。

 大きく、大きく息を吐く。

 

 ――そのとき、前方から人気のようなものが伝わってきた。

 

 黒沢、

 

「あ」

 

 とっさに、ヘッドホンを外す。

 

「隊長。……どうしました? 何か、ありましたか」

 

 心配そうな顔をしたアズミが、愛里寿の目の前で立っていた。

 愛里寿はただただ、何も考えずに息を吐いてしまう。

 

「いや、その、」

 

 なんでもない。その一言を、口にすることができない。

 

「……あ、アズミはどうして、ここに?」

「あ、私ですか? えっと、外の空気でも吸おうかなって思って、ついでに散歩でもしようかなと。そのときに小鳥が横切っていって、それをなんとなく追ってたら……うつむいていた隊長を、見つけました」

「そう、なんだ」

「はい」

 

 そうして、ただただアズミと見つめ合う時間だけが過ぎていく。

 なんでもない、それじゃあ。その一言さえ言えてしまえば、この場なんて切り抜けられるのに。

 ――けれど、理性が止めるのだ。

 

「隊長」

「なに?」

「その……差し出がましいようですが、話し相手ぐらいにはなれますよ」

 

 お前はもう限界だ。

 

「……やっぱり、普通じゃないように見える?」

「……時折、隊長のつらそうな顔を目にすることがあります」

「そっか、そうなんだ。……そうだよね……よく、見てるね」

 

 だから、誰かに、

 

「隣、いいですか?」

 

 一人ではどうしようもない、この苦しみを打ち明けろ。

 

 ――隊長としての我慢なんて、アズミ(年上)からの気遣いで、微笑みで、一気に崩れ落ちた。

 そうだ。アズミはいつだって、どんな相談にも乗ってくれた。アズミのお陰で、山でふたりきりの写真を撮ることができた。

 アズミとこうして出会えたのも、れっきとした縁なのだろう。

 だから愛里寿は、アズミの申し出に対して、精一杯に頷く。

 

「わかりました。では、失礼します」

 

 アズミが、音もなく腰掛ける。

 

「言える範囲で構いません。もちろん、秘密にしますから」

 

 愛里寿は、首を横に振るう。

 

「ぜんぶ言う。――ううん、聞いて欲しい」

「はい」

「……あのね」

「はい」

「私には、私には」

「はい」

 

 

 深呼吸する。体が、上下に揺れる。

 

「好きな人が、できたの」

 

「――はい」

 

「でも、その人は遠くに引っ越してしまって。でもいつか、絶対に、再会するって誓いあったの」

「そうですか。いいですね」

 

 そこで、言葉が行き詰まる。

 それでもアズミは、ずっとずっと自分のことを見守り続けてくれた。不安にさせないように、口元を柔らかくしながら。

 ほんとう、大人って凄いと思う。

 だから愛里寿は、じっくりと勇気を構築できた。

 

「……あの」

「はい」

「ボコミュージアムって、行ったことはあるよね」

「はい。隊長におすすめされて、行ってみたのですが……すみません、よくわかりませんでした」

 

 アズミが、苦笑いする。愛里寿は、「ううん」と首を振るう。

 

「あそこね、あと少しで閉館する予定だったんだ。でも、私のわがままで、お母さんにスポンサーになってもらったの」

「まあ、よかったですね」

「うん。あそこで、好きな人……黒沢と会えたから。だから絶対に、あの場所を失いたくなかった」

 

 アズミが「黒沢?」と呟き、顎に手を当てて「黒沢、黒沢」と何度か口にして、

 

「黒沢君って、もしかして」

「うん。アズミが会場まで連れて行った、あの人のこと。あなたのファンだって言ってた」

「そう、そうですか」

「うん。格好良くて、優しいって」

「あらら、嬉しいな」

 

 アズミが、にこりと笑う。

 それを見て、愛里寿の息の根が少しだけ止まった。あまりにも眩しかったから、やさしいお姉さんという顔をしていたから。

 アズミは間違いなく、月刊戦車道の看板娘だ。

 小さく、咳をつく。

 

「そ、それでね」

「あ、はい」

「私は、スポンサーになってくれたお母さんに、島田流に尽くすことにしたの。わがままを聞いてもらったから」

「はい」

「それで、何をどうすれば、島田流へ尽くしたことになるのか……私なりに考えて、戦車隊隊長として結論を出した」

「それは?」

「――私を越える隊員を、生み出すこと」

 

 アズミから、沈黙の返事が返ってきた。

 

「そうすればきっと、お母さんへの恩返しができる。いつか就くであろう家元の器にもなれる。島田流の繁栄にだって繋がる」

 

 アズミが、黙って頷く。

 

「黒沢にも誓った。選抜のみんなを、西住流に負けないような、グレートなチームに仕上げるって」

「そうでしたか」

「うん。だから、黒沢とはまだ会えない。お母さんとの、黒沢との約束を果たしてから、私は黒沢のところへ行くつもり」

「……隊長はやっぱり、素晴らしい人ですね」

「ありがとう。……みんな、みんなよく頑張ってくれてるよね、成長だってしてる。この調子でいけば、いつかは私を負かす人も現れる。いつかは」

 

 言葉にするたびに、焦りめいた感情が生じる。黒沢に対する欲求が、痛みとして肥大化していく。

 抑えつけるために、胸を掴む。けれども激痛は、少しも収まらない。目頭が、熱を帯びる。

 

 そのとき、体に暖かさが芽生えた。

 突然過ぎて、最初は何が起こったのか、わからなかった。

 

「あ――」

「隊長」

 

 雪が、降ってきた。

 アズミが、肩を抱き寄せてくれていた。

 

「会いたいですか? 黒沢君に」

「え――?」

「言ってください。隊長としてではなく、あなた(・・・)として」

 

 心の底から、思う。

 わたしは今、天使のような人から慈しみを受けている。大げさでもなんでもなく、ほんとうにそう想う。

 アズミは、どこまでも静かに微笑んでいる。雪が体にかかろうとも、ずっとわたしのことを見守り続けている。

 まるで、黒沢だ。

 西住みほと向き合った時に、どこまでも一緒にいてくれた黒沢だ。

 その連想とともに、黒沢との思い出が溢れ出てくる。涙まで、こぼれ落ちてくる。本心が、もうとまらない。

 

「……会いたい」

「……はい」

「会いたい、会いたいよ。黒沢に会いたい!」

「はい」

「黒沢と一緒に遊びたい、抱きしめたい!」

「わかります、わかりますよ、隊長」

 

 とても寂しいから、もう待てそうにない。

 これからも黒沢と、新しい思い出を積み重ねていきたかった。顔と顔を合わせて、好きと、大好きと言いあいたかった。心地よい恥ずかしさを、体験していきたかった。

 ――アズミが、私の背中を撫でる。

 

「隊長。黒沢君と会いに行きましょう」

 

 え。

 目を腫らしたまま、アズミの顔を見る。

 

「協力します」

「え――で、でも、遠くにいて」

 

「大丈夫、免許ならありますから」

 

 

 アズミが、人差し指をぴんと立てる。

 ――可能性が生じた途端に、唐突な義務感にとらわれて、

 

「で、でも、私のわがままで、周りに迷惑はかけられ、」

 

「隊長」

 

 はじめて、私の言葉が遮られた。

 

「好きな人に会いたいという気持ちは、わがままでもなんでもありませんよ」

 

 わたしがいくら考えたところで、きっと、この結論は導き出せなかったと思う。

 疑いなんてしなかった。だってアズミは、年上のお姉さんだから。

 

「隊長」

 

 頷く。

 

「いままで本当に、ありがとうございました」

 

 アズミが、一礼する。

 

「私達を育てる為に、ここまで頑張ってくださって……感謝してもしきれません。お疲れ様です、隊長」

 

 頷く。

 

「しばらく、お休みになってください。隊長がいない間に、私達なりに頑張ってみせますから」

「――いい、の?」

「はい」

 

 もっとも欲しかった言葉に対して、ひびの入った責務が力なく抵抗する。

 けれどアズミは、いつまでも微笑みながら、

 

「だって隊長は、まだ十三歳の女の子じゃないですか」 

 

 わたしは、泣きじゃくっていた。

 だって嬉しかったから、許されたから、認めてくれたから、また会えるから、隊員が大きく見えたから。

 ――アズミが、わたしを抱きしめてくれる。

 

「隊長は、まだまだお若いんです。せっかく見つけられた恋に、無我夢中になっても、誰も咎めはしません」

 

 アズミの髪の匂いが、ふわりと伝わってくる。アズミの胸に顔がうずまり、暖かさが染み込んでくる。体と体があまりにも近くて、鼓動すらも聞き取れる。

 アズミが、頭を撫でてくれた。

 

「とやかく言う人がいたら、私が――ルミもメグミも、バミューダアタックでやっつけますよ」

「……そっか、そうだね」

「はい」

 

 信じられる。だってルミもメグミも、アズミも、恋する乙女だから。

 

「アズミ」

「はい」

 

 止まらない涙を抑えないまま、わたしはアズミと目を合わせる。

 

「――冬休みになったらでいい。黒沢に会いたい、会わせて」

 

 アズミは嬉しそうな顔で、「はい」と返事をして、

 

「喜んで」

 

 

 

―――

 

 

『はい、もしもし?』

「あ、黒沢? いま、大丈夫?」

『ああ、大丈夫大丈夫。どしたの?』

「ああ、えっとね……その、冬休みになったら、黒沢に会いに行くことにしたの」

『ま、マジで? 本当に!?』

「うん。あ、でも……伝えなければいけないことがあるの」

『なに?』

「その……まだ、あなたとの誓いを果たせていないの」

『誓い……ああ、愛里寿を越えられるような隊員を育てるっていう?』

「ああ……うん。覚えていて、くれてたんだね」

『当たり前だよ。どんな凄い人が、大学から出てくるのかなって、けっこうワクワクしてた』

「そうなんだ。……それで、その、それについてなんだけどね」

『うん』

「……まだ、私を打ち負かしたメンバーは現れていないの」

『……そうなの?』

「うん。だから、その、約束を、破っちゃう」

 

「黒沢?」

『すげえ』

「え?」

『愛里寿はまだ、大学のナンバー1なんだね。すげえよ愛里寿、かっけえよ!』

「黒沢、」

『愛里寿……ぜひ武勇伝を、聞かせてくれよ! ああ、楽しみだなあ!』

「黒沢……」

 

「――大好き!」

 

 

―――

 

 

 ――お母さんが、あなたの家族と顔を合わせたいって言ってた。だから、一緒にいてくれると嬉しいな。

 

 雪が降りしきる河川敷で、黒沢一家は三人並んで立ち尽くしていた。

 愛里寿曰く、ここが「集合地点」らしい。

 父は何となく左右を見渡し、母は黒沢の手を繋いだままでいる。黒沢も無言のままで、愛里寿の到着を待ち続けていた。

 ――長かったな、と思う。

 転勤先でも、黒沢は決して少なくない思い出を積み重ねてきた。転校初日から質問攻めを食らったり、そうして友達が出来上がったり、沢山のバカ話をしたり、時には口論に発展してしまったり、何やかんやで仲良くなったりして、ほんとうに充実した毎日を送ってきた。

 

 ヘリの音が聞こえてくる。

 だからこそ、愛里寿と別れてずいぶんと長く経ったような気がする。

 これまでの黒沢は、意味もなくメールを送った。声が聞きたくなって、通話を始めたりもした。暇があれば、愛里寿がすすめてくれたナンバーを耳にしていた。

 ――枕元に置いてある、ファイティングポーズをとったボコのことを、毎日見つめていた。

 愛里寿のことは、一日たりとも忘れたことはない。だからこそ、恋しいという気持ちが容赦なく膨れ上がっていく。前よりも、愛里寿のことが好きになっていた。

 

 ヘリの音が、大きく聞こえてくる。

 息を吐いてみれば、白いもやが口から出てくる。すっかり冬なんだなと、夏は過ぎ去ってしまったんだなと、つくづく思う。

 なんとなく、母の顔を見つめてみる。それに気づいたのか、母がにこりと笑い返してくれた。

 父に、声をかけてみる。父も嬉しそうな顔で、いまかいまかと愛里寿を待ち続けているようだった。

 

 ヘリの音が、耳をつんざく。

 さっきからいったいなんだと、家族総出で空を見上げてみせて、

 ヘリが、黒沢の真上でホバリングしていた。よく見ると、ヘリの姿がだんだんと鮮明になってきて――つまるところ、下降していた。

 これには黒沢も父も母もビビって、全力でその場から逃げ出した。母に至っては「ムーブ! ムーブ!」と大声で警告している。母に腕を引っ張られているせいで、正直関節が痛い。コケそうにもなった。

 十分に距離をとった後で、黒沢はヘリを睨む。父が前に出て、余波から黒沢と母を守ってくれている。母から、しっかりと抱きしめられる。

 ひどい突風の中で――「あ」が漏れた。

 だってヘリには、日本戦車道連盟という言葉が刻まれていたから。

 

「ど、どういうことだ?」

 

 日本戦車道委員の父が、狼狽する。母も「ホワイ?」と首をかしげている。

 ヘリが、いよいよ着陸する。回転しているプロペラに触ったらどうなるのかなと、なんとなく思う。

 数秒、或いは数分が経っただろうか。ヘリは河川敷の一部に足をつかせ、プロペラも力なく止まっていって――ヘリの胴体部分に備え付けられたドアが、ゆっくりと開く。

 

「あ!」

 

 家族総出で、そう叫んだ。

 ――だって、ヘリからは、

 

「黒沢!」

 

 愛里寿が、

 

「こんにちは。どうも、はじめまして」

 

 見知らぬ女性が、

 

「こんにちは。ご迷惑をおかけしました」

 

 アズミが、出てきたから。

 驚きはした、足なんて呆然と立ち尽くしている。けれど、自分の目の前にいるのは、他でもない島田愛里寿だ。ただ一人の恋人、愛里寿だ。

 

「――愛里寿!」

 

 衝動のまま、愛里寿へ駆け寄る。愛里寿も黒沢へ走ってきて、求め合うようにして抱きしめあい、勢いのままぐるぐる回る。

 

「……会いたかった、会いたかったよ、愛里寿」

「うん! わたしも、黒沢に会いたかった、抱きしめたかった!」

「俺もだよ! 俺も愛里寿を抱きしめたかった! デートしたかった!」

「私も、私もだよ! 黒沢!」

 

 言いたいことを全部言い終える。しばらくは、愛里寿の鼓動を感じるままでいた。

 愛里寿の頭を撫でる、愛里寿が背中をさすってくれる。すきとささやく、すきとつぶやいてくれる。もっと抱きしめた、もっともっと抱きしめてくれた。

 

「よかったわね、愛里寿」

「……はい」

 

 声をかけられて、黒沢は反射的にその人のことを見上げる。

 大人の、赤い服を着た女性だった。

 けれども、どこか他人という気がしない。

 

「はじめまして、黒沢君。愛里寿の母である、島田千代といいます」

 

 母と聞いて、びくりと体が震える。

 ――愛里寿と、そっと身を離していく。

 

「は、初めまして! えっと、黒沢といいます! 愛里寿の恋人してます!」

 

 千代が、くすりと笑う。

 

「黒沢君のことは、愛里寿から全て聞かせていただきました。……あなたのおかげで、愛里寿はよく笑うようになりました」

 

 愛里寿が、恥ずかしげにうつむく。

 

「母として、これ以上の喜びはありません。ほんとうに、ありがとう」

 

 千代が、頭を下げた。

 黒沢も、一礼する。

 

「これからもどうか、愛里寿のことを、末永く幸せにしてください」

「はいッ!」

 

 はっきりと返事をした。命を賭けてでも、千代の言葉を守り通すと心に誓う。

 ――千代の目線が、黒沢から両親へと移る。

 

「……あなたがたが、黒沢君のお父様と、お母様ですね?」

 

 父と母が、一斉に気をつけをする。

 

「はい! はるばる遠くから、本日はようこそおいでくださいました!」

「待ってください」

 

 千代が、首を左右に振るう。

 

「そんな、堅苦しくしないでください。今の私は家元としてではなく、島田愛里寿の母として……ただのおばさんとして、ここにいます」

 

 父と母の表情が、硬直する。

 

「それに島田流とは、目的があればどこへでも駆けつけるものです。これくらいは、お手の物ですよ」

 

 千代が、おどけるようにして「にんにん」と指を立てる。

 それを見て、母はぷっと吹き出してしまった。

 

「――さすがです、島田さん」

「いえいえ」

 

 千代も、母も、そして父も、好きなように笑い合う。

 

「……よろしければ、これからも親睦を深めていただければと。私は全面的に、愛里寿と黒沢君の関係を応援するつもりです」

「こちらこそ、願ってもないことです。私達も、息子と愛里寿さんの仲を支え続けます」

 

 大人三人が、深々と頭を下げあった。

 ――よかった。

 気持ちに余裕が生まれる。再び、愛里寿の方へ視線を向けてみて――後ろにいたアズミが、視界に入った。目と目があって、アズミがにこりと笑い返す。

 

「どうも。また会えて嬉しいわ、黒沢君」

「あ……は、はい! いつも、アズミさんを応援してました! バミューダアタックはいつ見てもグレートです!」

 

 アズミが、くすぐったそうに微笑み、

 

「ありがとう、嬉しいなあ……。うん、これはもっと頑張らないとね」

「はい! 期待してます!」

 

 この人がいなかったら、自分は一生、試合を観戦することなんてできなかったと思う。

 アズミがいたからこそ、愛里寿の生き様を見届けられた。戦車道とは、こうやって縁が回り続けているんだなと実感する。

 

「あ、そうだ」

「はい、なんでしょう?」

 

 アズミが、黒沢へ近づいて、

 

「君を送り届けたあの日……社会人チームとの試合の時ね。私、いつもより上手くやれたんだ」

「そうなんですか?」

 

 アズミが、こくりと頷く。

 

「君に応援されてるって思うと、こう、張り切っちゃって」

 

 愛里寿が、含み笑いをこぼした。

 黒沢は、恥ずかしげに頭を掻く。

 ――アズミが、姿勢を低くしてきて、

 

「――ありがとう、黒沢君」

 

 笑顔で、そう言われた。

 息の根が、止まったかと思う。だって、あまりにもきれいだったから。

 

「隊長のこと、よろしくお願いします」

「――はい!」

 

 はっきりと頷き、アズミも「うん」と首を縦に振る。

 アズミがそっと立ち上がり、ヘリへ戻っていく。

 

 

 アズミが、ヘリから見覚えのあるバックパックを持ち出してくる。そしてそれを、愛里寿へ手渡した。

 登山――ではない。今日は、愛里寿とお泊まり会をする予定だ。バックパックの中には、その為の荷物が詰まっている。

 もちろん父と母は、笑顔で承諾済み。

 

「――それでは、私達はそろそろ戻ります」

「わかりました、航空機にお気をつけて。……愛里寿さんのことは、責任を持ってお預かりします」

「はい、よろしくお願いいたします」

 

 千代が、愛里寿にちらりと目を向けて、

 

「なに? お母さん」

「帰ろうかなと思ったら、連絡をちょうだい。迎えに行くから」

「うん、わかった」

「迷惑をかけないようにね」

「うん」

 

 千代の隣にいたアズミが、一歩前に出る。

 

「隊長がいない間に、私達なりに切磋琢磨しあいます。帰った時は、ぜひ相手をしてください」

「うん、期待してる」

 

 アズミが一礼する。

 そうして千代とアズミは、ヘリに乗っていって、コクピットごしから「ばいばい」と手を振るって――あっという間に、空の彼方へ消えてしまった。

 

 黒沢も、愛里寿も、父も、母も、しばらくは空を見上げたままでいる。プロペラの音が遠くになっても、誰一人として言葉を発しない。

 それからしばらくして、誰かが「はあ」と息をした。

 雪が、顔にぴたりとくっついた。

 夢から醒めたように、空から地上へ目を落とし、愛里寿と向き合う。

 

「愛里寿」

「うん」

「えっと、すこしタイミングに迷っちゃったけど、これ」

 

 ジャンバーのポケットから、ファイティングポーズをとったボコのぬいぐるみを取り出す。かけがえのない勇気の印を、愛里寿へそっと差し出した。

 驚いているらしい愛里寿は、両手で口元を覆っている。

 

「このボコのおかげで、愛里寿とはずっと繋がれてるんだって、そう思えてた。もちろん、愛里寿のことは一瞬たりとも忘れていなかったけどね」

 

 大真面目に言う。大袈裟に聞こえるかもしれないが、嘘を口にしているつもりはない。

 愛里寿の目が赤くなっていく、目頭から雫が溢れそうになって――愛里寿は、首を振るった。

 

「黒沢」

「うん」

 

 愛里寿は、太陽のような笑顔を見せながら、

 

「――愛してる」

 

 愛里寿は、ボコを受け取ってくれた。

 そうして、お互いに息を吐く。ここで、やるべきことは全てやり終えた。

 ――あとは、

 

「父さん、母さん」

「ああ。……それじゃあ、そろそろ帰ろうか」

「はい。よろしく、お願いします」

「こちらこそよろしくね、愛里寿さん」

 

 家に、戻るだけだ。

 愛里寿と手を繋ぎ、駐車場まで「家族」一同で歩んでいく。最初こそ無言だったものの、母が「あ」と声を出して、

 

「そういえば、今日の夕飯を決めてなかったわね。……何にする? 好きなのを、決めていいわよ」

「え? んー、そっだなー」

 

 自然と、愛里寿に目が寄る。愛里寿もどうしようかなと考え込んでいて、「好きなのねえ」と黒沢が何気なく呟き、

 

「あ」

 

 愛里寿の目と口が、丸く開かれる。

 

「何? どしたの?」

「えっと。大洗との試合前に、黒沢の家で食べたいものがあるっていう話をしてたよね」

「試合前?」

「うん。黒沢の家でお泊まり会を計画してた時に、一緒に決めてた」

 

 思い起こす。

 お泊り会をする時は、愛里寿と何を食べようとしてたんだっけ――

 

 あ。

 

「母さん」

「なに?」

「決まったよ、今晩の夕飯」

「それは?」

 

 愛里寿と黒沢が、顔を見合わせる。何だか笑ってしまってしまいながら、二人同時に、

 

「すき焼き!」

「すき焼き!」

 

 

―――

 

 

 ――それじゃあ、すき焼きの準備をするから。それまで一緒に遊んでてね

 

 俺は、自分の部屋に通じるドアを開けようとして、そこで少しばかり決意がつまづく。振り向いてみれば、はやくはやくと目を輝かせる愛里寿がいた。

 えー? と苦笑しようとも、愛里寿はちっとも意に介さない。仕方がないなあと思いながら、覚悟を飲み込んで、俺の部屋を愛里寿へさらけ出す。

 ――特に、何の特徴もない部屋だ。マンションらしく、少しばかり狭い感じの。

 けれども愛里寿は、珍しいものでも見ているかのように、部屋中を歩き回っている。CDが詰まった棚を、冬休みの宿題が置かれっぱなしのテーブルを、テレビを、DVDレコーダーを覗き見て、愛里寿が「うん」と頷く。

 

「これなら、ボコのDVDが見られるね」

「お、持ってきたの?」

「うん。全部」

 

 愛里寿が、バックパックをどすんと置く。

 俺も愛里寿も、一緒になって床に座った。

 

「へー、何巻?」

「八巻、それぞれ五話収録」

 

 ということは、四十話くらいか。けっこう息が長かったんだなと、今更になって思う。

 

「黒沢と、一緒に見たかったんだ」

「そっか……うん、一緒に見よう、愛里寿」

「うん」

「全部見たら、CDショップへ行って、甘いものでも食べて、友達と一緒に雪合戦でもして……色々やろう!」

「うん!」

 

 そうして、愛里寿がボコのDVDを一つずつ取り出していく。勇ましいポーズをとったボコのジャケットを目にしながら、「ほお」と手にとって、

 

「愛里寿」

「なに?」

「これ、四十話くらいあるんだよな」

「うん」

「ってことは、けっこう長いよね」

「うん」

「……でも、それでも?」

 

 前フリに気づいたのだろう。DVDを回収し終えた愛里寿は、そっと黒沢に振り向く。

 

「うん。これから長い戦いが始まるけれど……それでもボコは、ボコはね」

 

 俺は、苦笑いをしてしまう。愛里寿も、同じようにくすりと微笑む。

 

「ああー……やっぱり?」

「うん」

 

 やっぱりだ。ボコは、いつまでたってもボコられグマなのだ。

 

「……でもさ」

「うん?」

 

 ――だからこそ、ボコには人に勇気を与える力がある。人と人とを、繋げることができる能力もある。

 

「あいつはさ、ボコはさ」

「うん」

 

 テーブルの上に置かれた、激レアの、ファイティングポーズをとったボコのぬいぐるみを見る。

 

「あいつは、やれるクマなんだよな」

「うん。何度も負けちゃうけど、ぜったいにまけないの」

「な。すげえ根性、してるよな」

「うん。……ボコのおかげで、私は何度も立ち上がることができた」

 

 愛里寿の手が、黒沢の手と重なる。

 

「そして、あなたとめぐり会えた」

 

 ボコは、人を幸せにすることもできる。

 俺は、愛里寿の手を握り返す。

 

「……ボコは、これからも戦い続けるんだな。俺たちのような人を、増やすために」

「うん。この先もずっとボコボコにされるし、絶対に勝てない。でも、ボコは絶対に諦めない、何度でも立ち上がってくれる」

 

 そんな偉大なクマなのに、やはりどうしても良いところを見せつけることができない。ケンカっ早いくせに、いつまで経ってもライバルに勝てやしない。

 それでもボコは、戦い続ける。絶対に、くじけたりなんかしない。

 ――だって、

 

「それが、ボコだから?」

「それが、ボコだから」

 

 言い終えた後で、俺と愛里寿は静かに笑いあう。ボコ仲間としてわかりあえたのが、なんだか嬉しかったからかもしれない。

 そうして俺と愛里寿は、ただただ見つめあう。まちがいなく目の前にいる愛里寿のことが、だんだん愛おしくなって、終えることのない想いを伝えたくなって――

 

 そっと、愛里寿の両肩を掴む。震える愛里寿は、ふっと両目を閉じて、そのまま――

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
天才少女と転勤少年の、メタルな恋愛を書くことが出来ました。

この話をもって、大学選抜チームは全て書き終えました。
ガルパンSSを執筆し始めて二年ほどが経過しますが、これで一区切りがついた気がします。
こう、文字で表現すると、冷静に見えるかもしれませんが……逆です、一人で凄く盛り上がっています。

よくここまで書けたなと、やっぱり俺はガルパンおじさんだなと、アルフィーのエルドラドをEDにしながら、このあとがきを書いています。

ここまでSSを書けたのも、全ては応援してくれる読者様のお陰です。
最後までお付き合いくださり、本当にほんとうにありがとうございました。

ご指摘、ご感想などがあれば、お気軽に送信してくださると嬉しいです。

それでは、最後に、

ガルパンはいいぞ、
愛里寿は、凄く可愛いぞ。





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誕生日企画
エンディング


我慢できずに書きました。


 

 ほんとう、幸せだった。

 

――

 

 サンダース中等部に入学して、いやでもわかったことがある。

 サンダース大学附属は、とにもかくにもビッグだ。

 

 学園艦がただでさえデカいし、核を担うサンダース大学も高等部も中等部ももちろんデカい。グラウンドも必然的にデカいから体育祭の規模もデカいし、それに比例して熱気もデカい。

 

『1-Aのアンカーは黒沢勝だッ! 趣味はトランスミュージック! 頼むぜ! ホワイトチームの命運は君にかかってるんだからな!』

「「「「「ファイトー黒沢! レッツゴー黒沢ッ!!!!!」」」」」

 

 やめろよ。

 黒沢勝は、未だ走り慣れないビッググラウンドを必死こいて駆け抜ける。その間にもチア部からは嵐のように応援され、観客席の親御さん達からは注目を浴び、頭上には撮影用ドローンが宙を待っていた。

 

 ――ほんとう、サンダースはすごいな。

 

 サンダース大学付属学園艦といえば、ビッグで、お金持ちで、戦車道の強豪校で、何よりパーリー大好きとしてよく知れ渡っている。

 だからサンダースにかかれば、単なる体育祭も一大フェスティバル(サンダース・スポーツフェスティバル)へ早変わり。人数も規模も予算も、小学校の頃とはまるで比べ物にならなかった。

 

「がんばれ黒沢く――んッ! 君こそAクラスのスターだ―――ッ!」

「ホワイトチームのブラックスター! ブルーチームに負けないで!」

「ノンノン! レッドチームこそヒーローに相応しいのよ!」

「なぜッ!?」

「レッドだしッ!」

 

 サンダース・スポーツフェスティバルは、AとBクラスから成るホワイトチームと、CとDで構成されたブルーチーム、EとFが組むイエローチームにGとHが協力し合うレッドチームの四組でスコアを競い合うルールとなっている。それ故に、こうした対抗心があちらこちらで発生しがちだ。

 だからこそ、アンカーという立場はとても重い。参加人数が多いだけに、のしかかって来るプレッシャーも半端がなかった。

 ――ちくしょうくじ引きめ、もう一生引いてやらないからな。

 舌打ちする。

 そうして全力疾走の末に、お代カードが乗っかった長机にまで到達し、半ばひったくるようにカードをめくって、

 

『大切な存在』

 

 変な叫び声が出た。

 ゴシックフォントで大真面目に書かれていた。

 

『おっと―! 黒沢君が、大切な存在カードをドローしたッ! アンカーに相応しいカードだ! ファイト!』

「「「「「ファイトー黒沢! レッツゴー黒沢ッ!!!!!」」」」」

 

 やめろよ。

 黒沢は忙しなく、グラウンド全体を見渡す。小学校とは比べ物にならない広さを前に、「ああもう」が漏れた。

 大切な存在――父と母を見つけ出そうにも、客の数があまりに多すぎて見当もつかない。響き渡る歓声が、カードを拾い上げるライバルの存在が、なけなしの平常心を崩していく。

 どこだ、どこにいる。黒沢は、あてもなく観客席へ駆け寄って、

 

「がんばれ――――! 勝――――ッ!!」

 

 瞬間、頭の中が冴え渡った。

 よく通った、聞き慣れた声を耳にしながら、黒沢は狙撃手の目つきで観客席を見通す。

 そしてもちろん、その人はすぐに見つかった。

 誰かに奪われてしまう前に。両足をばたつかせてまで、黒沢は駆ける。

 

「――愛里寿!」

「勝ッ!」

 

 島田愛里寿が、とても嬉しそうな顔をして自分を迎えてくれた。

 

 まさか愛里寿が、サンダース・スポーツフェスティバルに来てくれていたなんて。

 ――首を横に振るう。

 話したいことはたくさんあるが、それは勝負の後だ。

 母である島田千代と目が合い、無言でサムズアップを受ける。「許可」を受けた黒沢も、同じく親指を立てた。

 

「愛里寿」

「うん」

 

 両手を差し出す、愛里寿が首をかしげる。

 

「ぷ、プリンセスハグをするから!」

「? ……え、え!? そ、そんな、一緒に走るから!」

 

 首をぶんぶん横に振るう。

 

「君に負担はかけさせない!」

「……勝……」

 

 カメラのフラッシュが殺到する、客が歓喜する。千代がビデオカメラを構える。

 

「愛里寿」

 

 愛里寿が、千代に振り向く。

 

「彼のかっこいいところ、みたいでしょう?」

「――うん!」

 

 そうして愛里寿は、靴を履いてグラウンドに立つ。

 その表情は、戦車隊隊長のものと何ら変わりがなかった。

 

「勝」

「愛里寿」

 

 そして黒沢は、愛里寿のことをお姫様抱っこした。人生において、はじめての経験だった。

 顔と顔とが間近になる。

 しかし愛里寿は、淡々と「重い?」と質問する。対して黒沢は、「いいや」と答えた。

 ――やっぱり、小さいんだな。

 愛里寿はこの身で、日本戦車道を世界へ導こうとしている。愛里寿はこの体で、島田流という伝統を背負っている。

 それは決して、簡単なことなんかじゃない。

 だから自分が、島田愛里寿を支えてみせる。

 

「行くぞぉ!」

「ゴーゴー!」

 

 駆ける、歓声が沸き立つ、ライバルを追い抜いていく。さっきよりも足が速いのは、きっと気のせいなんかじゃない。

 

「勝! あと5歩走ったら超信地旋回!」

「わかった!」

 

 男は、女の子にかっこいいところを見せたい生き物なんだ。

 ――サンキューくじ引き、アンカーは最高だぜ。

 

『速い! 速すぎる! あの女の子は知り合いか!? おっとヤボなことは聞かないぜ!』

 

 サンキュー。

 ゴールが目に見えた、もうライバルなんて確認できない。もしかしたら眼中にないだけなのかも。

 そのとき、愛里寿がゴールへ指差した。

 そして黒沢は、全力を振り絞ってビッググラウンドを駆け抜けた。

 

 ――あっという間に、ゴールラインを越えたと思う。

 黄色い歓声が、学園艦全体に反響する。ホワイトチーム所属の司会者が、ひいき丸出しの称賛を浴びせてきた。ちらりと見渡してみれば、ビデオカメラを回していた父と母と目が合う。

 

 そして腕の中の愛里寿と、視線が重なり合う。

 自分と愛里寿は、なんだかもう、笑ってしまっていた。

 

 □

 

 午前のプログラムが終了して、休憩時間がやってきた。

 運動をこなし、腹をすかせたサンダース生徒達は、こぞって親の居る観客席へと足を運んでいく。もちろん黒沢も例外ではない。

 ――ピクセル迷彩が刻まれた敷物の上に、黒沢の父と母が、そして島田千代と島田愛里寿が団らんを組んでいた。いくらなんでも動きが速すぎるが、これもニンジャ戦法の一つなのだろう。

 よっこいせと、敷居の上に腰を下ろす。

 

「わざわざありがとうございます。お忙しい中、息子のために来てくださるなんて」

「いえ。他でもない勝君のご活躍を見ないわけにはいきません、愛里寿も望んだことです」

 

 母と千代が頭を下げ合い、父もまた「ありがとうございます」と一礼する。

 

「勝君はサンダースに入学したのですね。やはり、戦車道委員になるために?」

「はい。それにサンダースは、グレートに楽しい学園艦ですから」

「わかります。この熱気、たまりませんね」

 

 かたや戦車道委員、かたや島田流家元という組み合わせではあるが、

 

「お父様、最近の調子はどうです? 何かレパートリーは増えましたか?」

「最近はシチュー作りに凝っています。カレーとはまた違う味がたまりませんね」

「まあ! 今度、ぜひ食べさせてもらっても?」

「もちろんです! これは腕が鳴りますねえ」

 

 傍から見れば、単なるご近所同士の付き合いにしか見えない。

 しかして実際のところ、両親も千代もそうした「対等の」関係を望んでいる。何せ実の息子と娘が望んで交際しあっているから、双方ともめでたい気分に浸りたいのだ。

 それに近頃の戦車道といえば、何かと忙しいし気疲れもする。だからこそ黒沢家と島田家は、安らぎのひと時を求めてよく笑いあい、よく料理をプレゼンし、スキあらば息子と娘を対面させようとする。

 これが親なんだなあと、どこか遠い目をしながらでうさぎさんりんごを口にする。

 

「勝」

「うん?」

 

 対面で座っている愛里寿が、弁当箱の中に入っているパイナップルを箸ですくう。

 

「すごく、かっこよかった」

「あ、あー……ありがとう」

 

 えへへと、かゆくもない後頭部をぽりぽり掻く。

 ビッググラウンドでは、サンダースが誇るチア部がダンスをお披露目している。男子達は、思い思いの歓喜を声に出していた。

 

「……王子様、だった、よ?」

 

 そして愛里寿の言葉だけが、黒沢の耳にすっと入ってきた。

 上目遣いでそんなことを言われてしまって、愛里寿から目をそらされて、だから考える前に体が動いて、

 

「あっ」

 

 どうしていいかわからなかったから、愛里寿の頭をそっと撫でた。

 何の品性も無い手つきだったけれども、愛里寿はじっとしたままで動かない。見てわかるぐらい、その顔は赤い。

 

「……愛里寿」

「……うん」

「今日はほんとうに、その、わざわざ見に来てくれてありがとう」

「う、ううん。わたしが望んで、あなたのもとへ来ただけだから」

 

 愛里寿はうつむいたまま、けれども言いたいことを口にしている。

 

「……ベリーサンキュー、愛里寿。君のお陰で、借り物競走ではトップになれた。二人で掴んだ勝利だ」

「う、ううん。勝のバイタリティが溢れていたから、勝てたんだよ」

「いいや、愛里寿がいたからこその勝利だ。これだけは譲れない」

 

 今もなお、ビッググラウンドではチア部が踊りに踊っている。賑やかなBGMが、男子達の熱気を掴み取っては離さない。

 そして黒沢は、そっと、愛里寿の頭から手を離した。

 愛里寿はうつむいたままで、けれども何か言いたそうな気配が感じ取れる。だから黒沢は待った、体を強張らせつつ。

 

「――勝」

「は、はい」

 

 そして、愛里寿は言った。

 

「……やっぱり、大好き」

 

 愛里寿は、そう言ってくれた。

 

「俺も、大好き」

 

 だから黒沢も、言い返した。

 ――何回も口にしたけれど、やっぱり慣れなくて、いくら言っても言い足りない気がする。それが、とてつもなく心地良い。

 

「勝」

「愛里寿」

 

 じっと見つめ続け、顔と顔とが知らずに寄り添っていって、

 ――気づいた。ここは部屋の中じゃなくて、サンダース・スポーツフェスティバルのど真ん中だ。

 見渡す。

 父と母が、千代が、黒沢と愛里寿の動向をガン見している。黒沢と愛里寿が「あ」と呟くと同時に、大人たちは定番の料理について談笑し始めた。何事もなかったかのように。

 

「……大人って、すごいね……」

「……うん……」

 

 がっくりしてしまったけれど、愛里寿はくすりと笑っていた。黒沢も、つられるように苦笑い。

 

 晴れて中学生に進級したが、黒沢と愛里寿の関係は何も変わってはいない。今日もいつも通りに、嬉し恥ずかしい交際を続けている。

 

―――

 

 ほんとう、楽しかった。

 

―――

 

 サンダース高等部に進級してはや半年。それなりの高校ライフと充実した夏休みの宿題に追われつつ、今日も今日とて実家のシチューを真顔で堪能していた。

 母いわく「無理してリターンしなくてもいいのよ?」とのことだが、黒沢は毎回「いいっていいって」と返している。愛里寿と両親がいなくて何が人生だ。

 ――ところで「真顔」と書いたが、これには深い事情がある。それは、

 

『島田選手が、強豪ドイツを追い込んでいく! ドイツチーム、リーダーを護衛しようにも魔のバミューダに捕らわれているッ!』

 

 女性アナウンサーが、熱気を隠さないままで戦車道世界大会を実況し続ける。黒沢一家も、スプーンだけは動かしてひたすらにテレビを凝視していた。

 会場は海外の都市をまるまる一個、保険金がかけられているが故の贅沢なフィールドだ。会場席も大きいし、席もめちゃくちゃ埋まっている。特設モニターだってエグいくらい大きい。

 

『島田選手が走る! ここでぼうが……撃破! 速すぎるッ!』

 

 センチュリオンが、ドイツ戦車を軽やかそうに打ち破っていく。しかして実際は、強烈な圧を背負いながらで強豪相手に一太刀食らわせているのだろう。

 あの車内は、きっと熱い。

 自分には、愛里寿の勝利を願うことしかできない。

 

『ついに追い詰めた! リーダーのハイデ選手、焦らずに照準を向けるッ!』

 

 頼む――

 その時、そのときだった。両肩から熱が生じたのは。

 左右を見る。

 父が、母が、黒沢の肩をしっかり掴んでいた。

 そうだ。島田愛里寿は、ひとりなんかじゃない。

 

 シュポッ

 

『―――決めたぁぁぁッ! リーダーを討ち取ったぁぁぁッ! タイムは5秒! 速すぎる! これが島田流かッ!』

 

 そしてドイツチームは、瞬く間に総崩れとなった。

 強いのは、何も愛里寿だけではない。アズミも、ルミも、メグミも、他の選手も、日本戦車道連盟から選抜されるほどのバッドアス揃いなのだ。得意のタイマンに引きずり込んでは、必殺の刃を急所に突き立てて、そうして何事もなかったかのように次のフィールドへと駆けていく。こんなことを、日本チームの全員がやってのけてしまう。

 だから強豪にも勝てる。戦車道にまぐれなんてない。

 

『最後のパンターが、白旗を挙げましたッ! 勝者は――』

 

 テレビの向こう側では、絶え間のない歓声が会場を震わせている。実況者も感情的な声で、日本チームの活躍を称賛し続けている。終始冷静だった解説は、涙まで流していた。

 そして黒沢達は、沈黙を貫いていた。けれどもスプーンは少しも動かない、三人の視線はダイジェスト映像にずっと釘付けにされている。

 そんな時間が、ばかみたいに過ぎていって――海の向こう側に居る、パンツァージャケットを着た愛里寿が、ヒーローインタビューのマイクを握りしめた。

 

『私達は、世界大会に向けてひたすらに練習を重ねてきました。だからこそ断言します、この勝利は奇跡でも何でもないと』

 

 愛里寿が、後ろに控えているチームメイトを、傷だらけの戦車群を見渡す。

 

『戦車道にまぐれなし、それを体現してみせました。だからこそ、次もおごることなく、戦車道を歩み続けます』

『ありがとうございましたッ!』

 

 はあ。

 椅子の背もたれに、身を預ける。一区切りがついて、体から力が抜けていくのを感じた。

 

「……うれしいわ」

 

 そっと、母を見る。

 ――言葉通りの顔を、してくれていた。

 

 □

 

 夕飯を済ませ、自室に戻り、ベッドめがけその身を投げ出す。

 そうして体を大の字にして、部屋を白く照らすシーリングライトをぼうっと眺める。一呼吸、ついた。

 

 ――やったんだ、ほんとうに

 

 無表情で、そう思う。

 感慨深く、ため息をつく。

 余韻に浸っていた思考が、瞬く間に動き始める。

 愛里寿は、これからもっと忙しくなるだろう。何せ彼女は世界大会の覇者で、プロ最年少で、島田流の体現者なのだ。もはやアイドルといっても過言ではない。

 だから、テレビ出演も多くなるはずだ。明日からは新聞のチェックをかかさず行わないと――何もしなくても、父が勝手に録画してくれるとは思うが。

 寝転がる。

 しばらくは会えないだろうな。

 けれど、これでいい。

 愛里寿が幸せなら、それでいい、

 

 そのとき、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。

 

 意識と体が同時に飛び上がる。枕元に放置中だった携帯へ手を伸ばし、「着信:島田愛里寿」の画面をすぐ確認して受信ボタンを押す。

 

「はい!」

『あ。愛里寿だけど、いま大丈夫かな?』

「へーきへーき。愛里寿こそ、大丈夫?」

 

 まだ会場内に居るのだろう。戦車の走る音や、大人の話し声がよく聞こえてくる。

 

『うん、だいじょうぶ。私のことは気にしないで』

「そっか……ああ、見てた、しっかり見てたよ、愛里寿の大活躍を」

 

 そのとき、確かに聞こえた。愛里寿からの、朗らかな声を。

 

「最高だった、グレートだった」

『あ……ありがとう』

 

 そして、愛里寿はひと息ついて、

 

『ありがとう……ううん、ベリーサンキュー! 勝の言葉で、ぜんぶぜんぶ報われた』

 

 声が出ない。

 ただの自分の言葉を、この子はどれほど待ち望んでいてくれたのだろう――

 首を、横に振るう。

 卑屈になるな馬鹿野郎。だって、自分は、

 

「おめでとう、愛里寿。愛里寿の友達として、ボコ仲間として、恋人として、心の底から嬉しい、祝福する……えーと、その、パーフェクトだった!」

『やった、やった!』

 

 ろくな言葉なんて思いつかない、盛り上がりすぎて蒸血しそうになる。携帯なんて両手で構えてしまって、じっとじっと愛里寿からの言葉を求めるばかり。

 体の奥底まで、恋の病に浸っていた。

 

「ほんと、やったね、やった……」

『うん……』

「……うん」

『……あ、あの、勝』

「うん?」

 

 そのとき、戦車が近くを横切っていった。それはあまりに大きくて、地響きすら伝わってくるような。

 ――否応のない間が、通り過ぎていって、

 

『明後日の土曜日、空いてる?』

「――え、マジで? 忙しくないの?」

『大丈夫、何とかする。お母さんもそうしなさいって言ってくれた』

 

 笑いが出てしまった。母は強い。

 

「愛里寿」

『なに?』

「今度の土曜日は、全部俺がおごる!」

『――え? だ、だめ! こういうのはちゃんと平等に』

「愛里寿」

 

 強く、名前を言った。

 

「愛里寿は最高に頑張った。だから俺は、そんな愛里寿のことを癒やしたい、気楽にさせたい!」

『ま、勝』

「……それにオトコは、かっこつけてナンボだからさ! 今回は俺にエスコートさせてくれ! HAHAHA!」

 

 サンダース笑いをして、堅苦しい空気を払拭させる。

 ――戦い抜いた乙女には、休息が必要だ。甘いものを食べて心身を満たし、音楽を聴いて気分を最高にして、そしてボコショーを見届けてガックリしなければならないのだ。

 それが、勝の願いだった。

 そして愛里寿は、うん、と言って、

 

『勝』

「なに?」

 

『――あなたと会えて、ほんとうによかった』

 

 ――ああ。

 

「君と出会えたことが、本当に嬉しい。君のいないこれからなんて、考えられない」

『……私も』

 

 いまは、このやりとりで十分だった。

 キスは、土曜日までお預けだ。

 

『……じゃあ、そろそろ切るね』

「うん。愛里寿の出る番組、全部見るから」

『え、えへへ……がんばるね』

「オッケ」

『じゃあ土曜日に、絶対会おうね。何がなんでも来るからね』

「もちろん。お金は任せてくれ」

 

 愛里寿が、くすりと笑い、

 

『楽しいPARTYになりそうだね』

「そこまで言う?」

『言う言う。――それじゃあ、またね。勝』

「またね、愛里寿」

 

 愛里寿の声が、聞こえなくなった。

 うんと、背筋を伸ばす。

 念の為に、机の上にある財布を確認した。三万円、よし。

 デートまであと50時間ちょいか、待ち遠しいな。

 

―――

 

 土曜日――

 ロクに眠れなかった前夜を乗り越えて、まずは軽く朝食を、次に鏡の前で髪のチェック、最後にサンダース仕込みのラフスタイルを決め込んで、念のために財布の中身を確認する。

 六万円入っていた。

 よし。

 

「父さん! 母さん!」

 

 リビングへ駆け込む。母は食器を洗っていて、父は録画機をセットしている真っ最中。

 

「なあに?」

「どうした勝」

 

 財布の口をぱっくり開けて、

 

「三万入れたでしょ! いいからそういうの!」

「……勝」

 

 録画のセッティングを完了した父が、深刻そうな顔で黒沢に歩み寄ってくる。

 ――身長差はそれほどでもなくなってきたが、やはり父は大きい。

 

「お前、島田さんのことを祝福しようとしているんだろう?」

「う……まあ」

「あれ以来、島田さんは忙しくなっているだろう。そんな島田さんを支えられるのは、お前と千代さんしかいない」

 

 頷く。

 

「全力で島田さんのことを幸せにしてこい、好きなことをしていけ」

 

 頷く。

 

「それに、だ。カッコつけたいだろ? な?」

 

 父が、あざとく笑った。

 ――やっぱり自分は、この人の血を継いでいる。

 

「いいか勝」

「はい!」

「今日ばかりは、島田さんに一円も金を使わせるな!」

「イエッサー!」

「幸せになれよ!」

「はいッ!」

 

 母が、にこりと笑って、

 

「ゴーゴー! 振り返らないで、勝!」

「ラジャー! いってきますッ!」

 

 あとはもう、外に出るだけだった。

 愛里寿との待ち合わせ場所は、電車さえ使えばすぐにでも到着できる位置にある。「今回」は、アズミの手を煩わせる必要はない。

 

 今日の天気は晴れ、夏休みらしくずいぶんと暑い、ところ狭しとセミが鳴いている。

 今回のデートは、幸先が良さそうだ。

 ――イヤホンをつける。ダンスミュージックを流す。

 早く愛里寿に会えるように、黒沢は全力で駅に向かう。

 

 □

 

 二駅ほど乗り越したあと、黒沢は改札口を通って駅前広場に出た。

 

 はじめて見る駅前広場には、戦車のオブジェだとか、砲弾の銅像などがいくつか建っている。ずいぶんと精巧にできているからか、感嘆の声が軽く漏れた。

 ――さて。

 待ち合わせ場所は、駅前広場にあるボコ銅像の前。少し見渡してみれば、ボコ銅像の後ろ姿をすぐにでも発見できた。

 あそこの物陰に、愛里寿がいるのか、或いはまだ来ていないのか。

 荒ぶる高揚感のせいで、ヘンに緊張してしまう。愛里寿とは何度もデートしているはずなのに、どうも慣れない。

 いや、慣れないほうがいいや。

 ボコ銅像まであと三歩、二歩、一歩愛里寿の顔がひょっこり、

 

「うわぁッ!」

「ひゃぁッ!」

 

 本気で声が出た、驚いた。通行人からも注目された。

 顔を真っ赤にしたままの、ヘッドホンをつけた愛里寿と、しばらくお見合い状態に陥る。

 気が動転してしまっているのだろう、愛里寿の目と口がまん丸く開いていた。自分も、同じようなツラを晒していた。

 ――いかん。

 最初に動いたのは、黒沢の方だった。カッコつけ精神が活を入れてくれたのだ。

 

「愛里寿」

「あ……う、うん、勝」

 

 麦わら帽子をかぶった、水色のシフォンパンツを身にまとった愛里寿が、くすぐったそうに苦笑いする。

 そんな私服姿の愛里寿に、黒沢は小さくうなずいて、

 

「似合ってる」

「あ、ありがとう。勝も、涼しげですごくいい」

「サンキュ。……この前はほんとう、頑張ったね」

「うん」

「本当に頑張った、グレートだった」

「うんっ」

 

 黒沢は、心の底から笑う。

 

「だから今日は、楽しくデートしよう」

「……うん!」

 

 そのやりとりだけで、もう十分だった。

 

 互いに、いつまでも慣れない小さなキスを交わし合う。

 目の前にいる、夏服を着た愛里寿が、黒沢の手をしっかり握り締めてくれた。

 

―――

 

 ほんとう、最高だった。

 

―――

 

 サンダース大学へ通学するようになって、はや一年。

 

 黒沢は戦車道委員会を目指すべく、日々戦車道科(本当にある)の単位を取り続けている。父からは「望んだことなのかい?」と聞かれたが、自分は「愛里寿と両親が築いた戦車道を、これからも築き上げたい」とだけ。父と母と、そして愛里寿は喜んでくれた。

 ――そうして今日も大学の門をくぐり抜け、やや早足で教室へ向かう。これも一番前の席に腰掛けるためだ。

 

「うわ、結構埋まってんな」

 

 一番前はもちろん、二番の列も三番の列もすべて先客に埋め尽くされていた。それは見慣れたクラスメートから、初めて見る男女まで、とにかく様々だ。

 絶え間のないざわめきが、憶測が、耳によく入ってくる。まるで本番前のライブ会場だが、そうも外れていないたとえだと黒沢は思う。

 ――なぜなら、

 

「今日は特別講師として、島田愛里寿さんをお招きいただきました。皆様、拍手でお迎えください」

 

 瞬間、弾け飛ぶような音が教室全体に反響した。

 そりゃそうだよなと、五番列の席に座りながらで思う。そして、パンツァージャケットを着込んだ愛里寿が教室に入ってきた。

 いよいよもって盛り上がる拍手、マイクを持って一礼しあう女性教師と愛里寿。

 

「おはようございます。戦車道を歩ませてもらっています、島田愛里寿です。今日はサンダースにお招きいただいて、心より感謝しています」

「こちらこそ、今を輝く島田さんを招待することが出来て、光栄です」

 

 教師も愛里寿も、にこやかに微笑んでいる。

 

「それでは我がサンダース戦車道について、忌憚のないご意見をお聞かせください」

 

 サンダース戦車道といえば、派手好きなサンダースの華であり、強豪とよくカテゴライズされている。

 物資も豊富、戦車も沢山、人材も充実しているはずなのだが、今の今まで優勝を飾ったことがない。どうしても、惜しいどころどまりで負けてしまうのだ。

 だからこそ、どうにかしなければとサンダースの教師陣が苦悩し――こうして、島田愛里寿を呼ぶに至ったわけである。

 

「はい。……ではその前に、サンダースそのものについての印象を述べさせてください」

 

 愛里寿の言葉とともに、拍手がかき消える。愛里寿の声には、「そうもなる」魔力が確かに秘められているのだ。

 教師も黙って、愛里寿の言葉に耳を傾ける。

 

「すこしサンダースを歩きましたが、とても賑やかで、施設も充実していて、学生の気運が高まりやすい場所だと感じました」

 

 数人の生徒が、こくりと頷く。

 

「サンダースのキャッチフレーズは、『無限の可能性』。まさにその通りで、あらゆる学科が充実していると思います。スポーツ、文学、音楽……数え切れませんね」

 

 先生が、にっこりと頷く。

 

「そして特に注目すべきは、やはりサンダース戦車道ですね」

 

 本題に入り、僅かながらのざわめきが生じる。

 

「まず注目すべきは、使用する戦車がシャーマン一択という点です。これは良い選択だと思います、部品の共通化も図りやすいですからね――」

 

 そうして愛里寿は、次から次へとサンダース戦車道について評価し始める。事前に調べておいたのだろう、その語り口にはよどみがない。

 すごい、と思う。

 デートの時とはまるで違う、と思う。

 だからこそ日本チームの隊長なんだ、と実感する。

 

「……サンダース戦車道の欠点は、二つほどあります」

 

 教室から、音が消えた。

 しかし愛里寿は無表情で、続きを述べる。

 

「狙撃手が足りないと、私は踏んでいます」

 

 スクリーンに、ファイアフライの画像が映し出される。

 

「豊富なチームワーク、物量で攻めることは、戦車道の……王道ではありますが」

 

 一瞬、愛里寿の言葉が詰まった。

 特に誰も気にしていないようだが、黒沢は「ああ」と思う。西住流のスローガンを肯定してしまうからだろう。

 ちなみに自分は島田流派だ。

 

「遠くから撃つことができれば、それだけ相手の数を減らせる機会に恵まれます。優勝を望む場合は、遠距離攻撃を視野にいれてみてはいかがでしょうか」

 

 反論はない。戦車道履修者達は、その通りだと首を縦に振った。

 ほんとう、よく見てるなと思う。サンダースの利点はもちろん、弱点まで知り尽くしているなんて。

 

「次ですが、これはサンダース戦車道の流儀に関わることは承知して、」

 

 そのとき、愛里寿と目が合った。気がした。

 固まる愛里寿を前にして、客が疑問の声を漏らし始める。顔を見合わせる者もいた。教師もどうしていいかわからず、まばたきをするだけ。

 

「――失礼しました」

 

 気のせい、だよな。

 

「サンダースは、フェアプレイを重んじる傾向があります。これこそサンダース戦車道の基盤であり、戦車道のもっとも大切なことを体現していると、私はそう考えているつもりです」

 

 恐らく、言いづらいことを口にするのだろう。教室の空気も、どこか変化してきた気がする。

 けれど愛里寿は、あくまで無表情を貫いたままで言うのだ。

 

「ですがそのフェアプレイが、優勝を何度も逃してしまっている最大の要因です。道に沿っている限り、豊富な火力で相手を押し潰すこともまた、戦車道なのです」

 

 その通りだ、そう思う。

 サンダースは、とにかく不必要な攻撃というものを嫌う傾向にある。時にはタイマン上等だったり、時には相手に数に合わせたりと、良くも悪くも清廉潔白なのだ。

 それはきっと、校風も影響しているのだろう。「明るく元気よく、笑って楽しめたくさん泣け」、どれもが共感できるフレーズばかりだ。

 だからこそ、サンダースはその逆をとことん嫌う。共感できなければ自分が、誰かが傷つくだけ、そういった意識が本当に根強い。

 

「サンダース戦車道は、物資や士気、そして履修者がとても充実しています。これは努力の賜物であり、決してタダでは実現できない事実なのです」

 

 数人の履修者が、うつむく。

 

「長い道のりの末に得られた、圧倒的な力とは、決して誰にも否定ができないものです。それを振りかざすことを恐れないでください、これがサンダースの強さなのだと誇ってください」

 

 そして愛里寿は、この場にいる全員の目を見た。 

 

「皆さんは、正々堂々を選びますか? 名誉ある優勝を勝ち取りますか? そのどちらも、戦車道は否定しません」

 

 スクリーンに、これまでの愛里寿の言葉が表示される。

 フェアプレイを望むか、サンダースの強さを選択するか。

 

「私からの意見は、これで以上です。何か質問があれば、お答えします」

 

 音が出るほど、あちこちから手が上がった。

 そりゃあそうなるよなと、黒沢は無表情で思う。

 ――ノートを広げ、ペンを取り出す。

 愛里寿から教えてもらったことを、まとめることにしよう。

 

「それでは……ああ、戦車隊副隊長のミラさんですね。どうぞ」

「覚えていてくださり、光栄です。では、一つお聞きたいのですが……」

 

 □

 

「いやー、愛里寿さん美人だったなー!」

「だよね」

 

 昼休みに入って、いつもの友人といつものデカい食堂でいつものボリューミー溢れるランチを口にしていく。量が多すぎてカロリーが心配になってくるが、今のところ腹は出ていない。

 

「ああ、可愛かったなあ愛里寿さん。年下なのに、すげえ魅力あるよ」

「だなあ」

「喋り方も知性も俺よかしっかりしてるし、マジクールビューティー。モテるだろうなー」

「そだね」

「あの人とお付き合いできたら、きっと毎日がハッピーだろうなあ」

「お前ガールフレンドいるだろ」

「おう、だから毎日幸せだ!」

 

 こいつ。

 

「にしても黒沢」

「うん?」

「なんか、さっきからソルトな対応だなー。もしかして、興味がない系?」

「……んや、そういうわけじゃないよ」

 

 気遣ってくれる友人に対し、黒沢はなるだけの無表情を保たせる。ここでボロを吐いて、無益な騒ぎは起こしたくはない。

 

「そか。……にしても、本当にズバズバ答えていったなー、マジでジーニアスなんだなあの人」

「さすが、島田流継承者だよね」

「なー、ほんとなー」

 

 友人が、容赦のないペースでフライドポテトをかっ食らっていく。

 最近になって体重を気にし始めたが、本人曰く「もうヘルシーには戻れねえ!」とのことだ。どうかなるだけ長生きして欲しい。

 

「しかしまあ、ほんとまあ、島田さんはすげえよな」

「ん」

「俺より年下なのに、島田流とか世界選手とかになってるんだぜ? 俺にゃムリムリ、絶対投げてるね」

「……だよな、やっぱそう思うよな」

「黒沢はどうだ」

「無理」

 

 友人が、だよなーとフライドポテトを完食する。

 世界選手である愛里寿は、普段は食事内容すらも管理しているのだろうか。思いつきでカレーやシチューすらも口に出来ないのかもしれない。

 戦車道とは武芸で、スポーツだ。十分にありえる話だと思う。

 少なくとも、自分には歩めそうにもない道だ。

 

「――でも、まあ」

「うん?」

「そんな彼女を、フォローぐらいはしたいね。戦車道委員として」

「……ほお」

「んだよ」

「お前、意外とヒートなところがあるのな」

 

 口に出したかったことを口にしたのだ。こうも言われはする。

 なかなか悪くない気分になりながら、黒沢はハンバーグの一切れを何度も何度も味わっていって、

 ポケットの中の携帯が、震えた。

 食器を皿の上に置いて、メールかなと電源を入れてみれば、

 

「――すまん。今日は早く帰るわ」

「ん? おお、別にいいけど」

「サンキュ、今度一緒に遊ぼうな。あとガールフレンドは大切にするんだぞ」

「お、かっけー。いきなりどした? いいことでもあったか?」

 

 素早くメールの返信を行い、何事もなかったかのように携帯をポケットにしまい込む。

 そして、緩みきった口元を隠しもしないで、

 

「まあな」

 

 □

 

「ハロー」

「はろー」

 

 サンダース大学の出入り口付近で、黒沢と愛里寿が手で挨拶を交わし合う。

 これだけならいつものやり取りで済まされるのだが、今回の愛里寿は青いキャップをかぶり、迷彩がかったシャツを纏い、デニムパンツをはいてはポニーテールスタイルで髪をまとめあげ、仕上げにグラサンを着けるという変装スタイルを決め込んでいた。

 

「似合うなー」

「そ、そうかなあ?」

 

 愛里寿が、くすぐったそうに頬をかく。

 

「ほんとう、スポーティーっぽい。あれかな、背が伸びたからそう見えるのかな」

「そうかも……ああ、やっぱり背って伸びるものなんだね」

「ね」

 

 時おり通行人から目を向けられるが、すぐに素通りされる。恐らく、気づかれていないのだろう。

 一般的な愛里寿イメージはといえば、大抵はサイドテールにパンツァージャケットの組み合わせだ。特別講師を務めた時も、イメージカラーで通していた。

 だからこそ、唐突にイメージカラーを引っこ抜かれてしまえば、有名人であろうと誰が誰かがわからなくなってしまう。特に髪型の変更は、効果がとても大きい。

 

「ここじゃ目立つから、とりあえず歩こう」

「うん」

 

 愛里寿が黒沢の隣に立って、そのまま指を絡め取る。こうなったらもう離れない、離すつもりもない。

 顔を見やり、上機嫌に笑う。愛里寿も、サングラス越しから微笑んでくれた。

 

「――勝」

「うん?」

 

 どこまでも広いサンダースを、あてもなく歩んでいく。

 今は夏だからか、放課後になっても空はまだ青かった。

 

「今日、びっくりしちゃった。教室に勝がいるなんて」

「まあ、戦車道科だしね」

「そっか……ほんとうに、戦車道委員を目指しているんだね」

「うん。愛里寿が築き上げてくれた、日本戦車道を支えていきたい」

 

 愛里寿から、手をぎゅっとされる。

 

「……そう、なんだ」

「うん。もっと言うなら島田流の、愛里寿の力になりたい」

「……ベリーサンキュー、勝」

 

 愛里寿が、そっとうつむく。そんな愛里寿を見て、黒沢は小さく頷いた。

 

「……そ、そういえば」

「ん?」

 

 愛里寿は、そっと視線を向けてきて、

 

「どうだった、かな? 何度か特別講師をしたことは、あるんだけれど……分かりづらかったとか、あった?」

「ないない」

 

 即答するほかなかった。

 

「すごくわかりやすかったし、興味深かった。なんというか、分析力が半端ないよね……」

「う、うん。調査は、戦車道の基本だから」

「グレート」

 

 真正面から褒められて、愛里寿がまたまたうつむいてしまった。

 教室を賑わせた特別講師は、今はもうどこにもいない。ここに居るのは、全てをやり遂げた二十歳のガールフレンドだ。

 

「……あ」

「うん?」

 

 そのとき、愛里寿が首を横に曲げた。

 釣られるがまま、愛里寿と同じものを目にして、

 

「……ジャンクフード店、か」

 

 何てことはない。サンダースでは、コンビニよりも目につく施設だ。

 サンダースの学生連中は、良くも悪くもとにかく動き回る。だから消費カロリーも激しいし、腹だってよく鳴らすのだ。

 そうした面々の強い味方といえば、ジャンクフード以外に他ならない。量は多いし安いしウマいしエネルギッシュだしと、まさにTHE若者向けといえよう。

 そんな事情があって、サンダースにおけるジャンクフード需要は極めて高い。現在は三支店ほどがシノギを削り合っているが、どこも拮抗していて未だ決着がついていないようだ。

 ――摂取したカロリーはどうするのかって? 食った分だけ運動して、かき消してしまえばいい。

 

 そして愛里寿は、そのジャンクフード店をじっと見つめていた。明らかに、食べたそうな空気を発しながら。

 だから黒沢は、真っ先にこう聞いたのだ。

 

「食べる?」

「え、えっと……その……」

「もしかして、アレルギーとか?」

「う、ううん! トマトとチーズが苦手なだけで、その……」

「うん」

 

 少し考える。

 アレルギーはない、食欲はある、けれど食べられない事情持ち。

 ほんの少し考えて――アタマの電球が光った。

 

「もしかして、食事制限?」

「えっ!? す、すごい、どうしてわかったの……?」

「あ、あー……ほら、プロスポーツ選手って、そういうのが多いじゃない?」

「……うん」

 

 なるほど、やっぱり戦車道も例外じゃなかったわけだ。

 戦車道は体力勝負的な面もあるだろうから、栄養バランスはさぞ重要視されていることだろう。特に装填手は、食事面に関してはめちゃくちゃ厳しそうではある。

 

「あ、でも、一応、週末は自由にものを食べているんだよ」

「そうなんだ」

「うん。平日は、バランスに気を遣ってるけどね」

 

 愛里寿が、気まずそうに苦笑する。

 

「ごめんね。じゃあ、そろそろ行こう?」

「……ふ――――む」

 

 愛里寿の顔を、じいっと見つめる。愛里寿は首をかしげて、「なに?」。

 次に、ジャンクフード店をじっくり眺める。窓越しからは、フライドポテトをつまみながらで談笑しあっているお嬢様っぽい女性と、彼氏っぽい男性の姿が見受けられた。

 ――よし。

 

「愛里寿」

「なに?」

「ここで待ってて」

「う、うん」

 

 長考の末に、黒沢はついにジャンクフード店の自動ドアをくぐり抜けていった。だいたい15回目くらいの入店である。

 ――そうして数分後、

 

「アイシャルリターン」

「おかえりなさい。お持ち帰りにしたの?」

「そう、お持ち帰り」

 

 黒沢は、ポテトとシェイク入りの袋を右手左手にぶら下げていた。

 愛里寿はじっと眺めて、「!?」な顔つきになる。ポテトとシェイク入りの袋が、黒沢の右手左手にぶら下がっていたから。

 

「え、え!? そ、それって……」

「え? あ、シット……二人分食べられるかなーと思ったら、急に腹が……」

 

 右手の袋を、愛里寿めがけさりげなく差し出す。

 

「よかったら……俺が勝手に買ったジャンクフードを食ってくれ。俺が買ったモノだから、罪はぜんぶ俺が背負う」

「え、いや、その」

「せっかくサンダースまで来たんだ、ジャンクフードくらい食べてもバチは当たらないって」

「で、でも……いいの、かな?」

 

 黒沢は、口元をあざとく曲げて、

 

「愛里寿はさ、さっき特別講師を務めたよね?」

「う、うん」

「たくさん喋って、たくさんものを考えたよね?」

 

 愛里寿が、こくりと頷く。

 

「だからさ、その分だけエネルギーを燃やしたと思うんだよ。考えるのってマジで疲れるからね」

「え――あ、う……」

 

 意図を読んでくれたのだろう。反論しようとした愛里寿は、けれどもやっぱり一袋を受け取ってくれた。

 

「……いいにおい」

「でしょ? んじゃ、あそこのベンチで食べよっか」

「……うん!」

 

 歩いてすぐそこなのに、愛里寿は黒沢の指を再び絡め取ってしまった。

 それがとてもくすぐったくて、うれしくて、黒沢の口元なんて緩みっぱなし。

 

「――さてさて」

 

 歩道に設けられたベンチに、二人して腰かける。そうして早速とばかりに、袋の口を開けてみせた。

 ほのかに漂っていたフライドポテトの匂いが、鼻腔を刺激し食欲を促し始める。ストローの刺さったバニラシェイクを見て、なんだか喉まで乾いてきた。

 

「じゃ、いっただっき、」

「勝」

 

 なに?

 黒沢は、目で返事をして――愛里寿の顔が、目一杯に飛び込んできた。あまりに一瞬で、けれども唇が染み付くように熱くなっていって、愛里寿の両肩をいつの間にか掴んでいて、

 ――いつしかそっと、愛里寿から離れる。

 愛里寿はサングラスごしから、名残惜しそうに笑ってくれていた。

 

「いつも、ありがとう。大好き」

 

 よかった。

 

「俺も大好きだよ、愛里寿」

 

 また、愛里寿を支えることができて。

 

―――

 

 ほんとう、満たされた。

 

―――

 

 今年の冬のことは、ぜったいに忘れない。

 だって、だって――

 

「試験に合格したんだな。本当に、本当におめでとう勝! お前は黒沢家一番の男だッ!」

「最高よ! スパークリングよッ! 戦車道委員として……親として、あなたを誇りに思うッ!」

「サンキューベリマッチッ!」

 

 実家のマンションで、黒沢家が遠慮なく叫び合った。

 

 大学へ通って四年、ついに日本戦車道連盟への切符を手にすることができた。本当に本当に長くて、あっという間だったと思う。

 そう思うと、なんだか力が抜けてきた。ルンタッタしている父と母を横目に、黒沢は死んだようにソファへ腰掛ける。

 ――あ、そうだ。

 ポケットから携帯を抜き取り、愛里寿へ合格メールを送信する。近ごろはCMだの撮影だので忙しいから、うかつに電話もかけられないのだ。

 口元が、歪む。

 だからといって、不満を抱いているわけではない。むしろ時の人になってくれて嬉しいと、心から思っている。

 最近は島田流人気も高まっているようで、お硬い番組からバラエティ番組にまで顔を出すことが多くなった。最初はたどたどしい喋り方だったが、飲み込みの早い天才乙女はすぐにでも芸能界の勝手を掴み、いつしか天才戦車道アイドルと呼ばれるようになった。

 アイドルの称号を否定していないあたり、本気で日本戦車道を、島田流を盛り上げようとしているのだろう。ほんとう、グレートだ。

 

 そのとき、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。

 

 意識をぶっ叩かれ、わたわたと画面を確認する。着信:島田愛里、

 

「はいっ」

『勝! 合格おめでとう!』

 

 耳元でシャウトされたものだから、うひーと苦笑いしてしまう。

 

「……まあ、その、本当に合格しました。これで日本戦車道を、愛里寿を支えられるよ」

『やった、本当にやってくれたんだね。うれしい、うれしいよっ』

「ありがとう。これも愛里寿が、戦車道について色々教えてくれたからだ」

 

 ちらりと、父と母を見る。空気を読んで沈黙を保っているが、その表情はなまら明るい。

 もちろん親からも、たくさんの事を教えてもらった。感謝してもしきれない。

 

『……わたしは、ただ手を貸しただけだよ』

「いや、二人で掴み取った勝利だ」

『……そっか』

 

 目に見える。愛里寿の笑顔が。

 

『あ、ごめんなさい。そろそろ番組の収録があって』

「あ、そうなの? 悪いね、邪魔した」

『ううん! 私も試験の結果は気になってたから……うん、今日ははきはき喋られる気がするっ』

「オッケ! 録画しとくよ!」

『が、がんばるねっ』

 

 かわいい。

 

「愛里寿も頑張って。それじゃあ、また」

『うん。……本当におめでとう、愛してる』

「愛してる」

 

 切る。

 ――親の方を見てみれば、既にどこかの部屋へ退散済みだった。大人は貫禄が違う。

 電話も終わったことだし、お知らせしないと。ソファから、のろのろと立ち上がって、

 

 部屋じゅうにトランスミュージッ、

 まさかと思い、携帯の画面を確認する。瞬間、盛大な「ホワイ!?」が吐き出た。

 ああはやくしないと、受信ボタンを押して耳元に携帯を押し付ける。通話したばかりで熱い――

 

「もしもし?」

『こんばんは勝君! 戦車道連盟の試験、合格したのよね!?』

「あ、しましたしました!」

『愛里寿からメールが届いたの! もうね、もう、仕事が手につかなくなるぐらい喜んじゃったッ!』

「ありがとうございます!」

『これから仕事だけどね……』

「察します」

『……あ、ところで勝君』

「はい」

『そろそろ、冬休みよね?』

「はい」

『よかったら、家に来てみない? まだ、訪れたことがなかったでしょう?』

「ええ、」

 

 そういえば、何だかんだで訪れる機会が、

 

「え?」

 

 □

 

「うん」

 

 そんなわけで、島田家の門前にまでトラベルしたのである。時刻は昼過ぎ、冬にしては珍しく温かい。

 

 あとはピンポンを押すだけなのだが、こと島田家に限ってはそれすらも難しい。ほんとうに難しい。

 ――だって、デカいんだぜ?

 一見すると何らかの記念館に見えなくもないが、実際は「単なる」島田さんの家だ。だからこそ「差」を感じざるを得ないし、それに伴って場違い感も生じてくる。島田家と黒沢家の関係は確かに良好だが、やっぱりリッチは恐ろしいのだった。

 メールを見る。『お着替えを持ってきてください、今晩はあなたのお祝いをします! 絶対に来てね! カモン!(^o^)』

 ――ここの主から、たしかに招待状は貰っている。

 

「……俺は愛里寿の恋人だぞっ」

 

 つまりは、いつかはここで暮らすことになるんだ。

 だから意を決して、ピンポンを人差し指で押す。

 ぴーんぽーん……

 あ、庶民的な音だ。

 あ、ドアがすぐに開いた。

 あ、愛里寿と千代だ。

 

「勝―ッ!」

 

 愛里寿が駆け寄ってきて、同時に門が内側へと開き出す。

 やっぱりここは、豪邸だ。すごい。

 

「勝! 来てくれたんだ!」

「ああ、来た来た。……やー、すごい場所だよね、ここは」

「うん……やっぱり大きいよね、ここ」

 

 愛里寿とともに、洋館を見上げる。

 窓なんて無数にあるし、大きな庭だってところどころに生い茂っている。部屋はどれくらいあるのだろう、開かずの部屋とかはあるのかな。

 

「勝君」

 

 千代から声をかけられる。

 

「ここはあなたの家だから、気楽にくつろいでね」

 

 はあ、

 

「は?」

「え?」

 

 千代は、笑顔で首をかしげ、

 

「いつか、ここで住むのでしょう?」

 

 かーっ。

 

「……ずっと、一緒にいてくれるよね?」

 

 愛里寿から、弱々しい声が漏れる。

 

「わたしは、ずっと一緒にいたい」

 

 愛里寿から、強いことを言われた。

 

「――わかりました。ここを、第二のマイホームと思います」

 

 千代が拍手をする、愛里寿がやったやったと連呼した。

 本当、まったく、愛里寿と出会ってから楽しいことばかりだ。そう思う。

 

 □

 

 それからは、本当にのんべんだらりと過ごしたと思う。

 そりゃあ最初こそは、赤いカーペットだのシャンデリアだのに圧倒はされた。テレビでかいなーと目を張った。

 けれども千代は、そんな自分に温かい緑茶を出してくれた。更に新聞紙を手渡されては「何か見る?」とテレビ欄を見せてくれて――赤い枠でマーキングされた番組を、笑って指差した。午後七時までお預けなのが非常に残念だ。

 

 そうして緑茶を飲み終えた後は、愛里寿の提案で家デートをすることになった。そうと決まるや、千代は「ごゆっくりー」とともに部屋へ閉じこもり、おまけに鍵までかけてしまった。ほんとう、ニンジャのように行動が速い人だと思う。

 

「じゃあ、案内するね」

「うん」

 

 そうして、指と指とが自然と絡み合う。恥じらいは覚えるが躊躇はもう無い。

 やがて、黒沢と愛里寿の足が動き出す。これから、念願の家デートがはじまる。

 

 ――洋館を歩いて、かれこれ一時間半ほどは経過したと思う。

 見かけたものはといえば、先ずは空き部屋。顔を真っ赤にした愛里寿から「すぐにでも暮らせるよ?」と言われたが、テンパった黒沢は「まあまあまあ」と愛里寿を落ち着かせる。

 次に、資料室。本棚がところ狭しと並んでいて、本の背中にはどれもこれも戦車の二文字が記されている。ふと「全部読んだ?」と愛里寿に質問してみたが、愛里寿は「うん」と頷いた。なんてことのない顔で。

 

 そうして色々な部屋を回ってみたが、どこも清掃が行き届いているのがスゴイと思った。島田千代は本当に抜かりがないというか、生真面目な人なんだなあと実感したものだ。

 試しに窓枠を指で擦ってみたが、ホコリは一切なし。それを見ていた愛里寿が、「きれいでしょ?」と微笑した。

 だから黒沢も、「綺麗だ」と一言返した。愛里寿の目を見つめながら、

 ――あ、

 互いに顔を真っ赤にしながら、次の部屋へと黙って歩んでいく。もちろん手と手は離さない。

 

 探索も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。

 一階も二階も、そして地下も覗き見させてもらって、黒沢はいい感じに疲れていた。それは愛里寿も同じらしく、うんと背筋を伸ばしていた。

 

「どうする? ちょっと、昼寝でもする?」

「……待って」

「うん?」

 

 ふと、愛里寿から目を逸らされて、

 

「……まだ、わたしの部屋を、見てもらってない」

 

 疲れなんてまたたく間にぶっ飛んだ。

 そういえば、愛里寿の部屋を見たことは一度もない。小さい頃に予定を立ててはいたが、転勤でお流れになってそれきりだった。

 

「……いいの?」

「いい」

 

 愛里寿が、そっと、けれどもはっきりと黒沢を見て、

 

「勝だから、いいの」

 

 ――そこまで、言われてしまったら。

 

「わかった」

 

 力強く、頷く。

 

「愛里寿の部屋を、見せて欲しい」

「うん」

 

 ――そうして難なく、本当にあっさりと、愛里寿の部屋の前に着いた。

 「愛里寿の部屋」と書かれたボコ状のドアプレートが、よけいに真実味を物語る。

 

「ど、どうぞ」

「あ、はい」

 

 愛里寿から、手を離す。

 そうしてドアノブを握り締め、ひと呼吸して、やがて繊細な手つきでドアを開けていく。

 ――そして、愛里寿の部屋が目いっぱいに広がった。

 まずは新生ボコミュージアムのポスターが、視界に飛び込んでくる。次に壁掛け棚に飾られた、色とりどりのボココレクションに声が漏れた。そしてベッドの上には、愛里寿お気に入りのヘッドホンがちょこんと置かれている。

 愛里寿を見る。にこりと笑ってくれた。

 よし。

 笑顔を見て、ようやく決意の火が灯った。

 黒沢はおっかなびっくりの足取りで、赤色のカーペットの上を歩んでいく。愛里寿は無言で、けれども後ろから黒沢についてきている。

 

「――お」

 

 学習机を目の当たりにした瞬間、思わず声が出た。

 ファイティングポーズをとっているボコのぬいぐるみが、机の隅を陣取っていたから。

 三枚ほどの新作CDが、机の上に重ねてあったから。

 

「愛里寿」

「うん」

「……懐かしいな」

「うん」

 

 そっと、ボコに手を伸ばす。愛里寿は、「いいよ」と言ってくれた。

 ――レアボコを、そっと、つまみとる。

 

「お前のおかげで、俺は」

 

 涙が、溢れ出てきそうになる。まったく、なにもかもがほんとうに懐かしくて愛おしくてたまらない。

 そのとき、体が強く火照りだした。

 どうしたんだろう、最初はそう思った。

 

「愛里寿」

「うん」

 

 後ろから、愛里寿にしっかりと抱きしめられていた。

 ボコをひと撫でして、それを机の上に置いて、愛里寿の小さな手に自分の手のひらを添えて、

 

「離さないで、愛里寿」

「離さないよ、ずっとずっと」

「もっと愛里寿を支えられるように、がんばるから」

「――もう、十分だよ」

 

 しばらくは、そのままでいた。ずっと、このままでいたかった。

 でも、それはだめだ。だって午後七時が訪れたら、愛里寿と千代とともに、愛里寿が出演する番組を見なければいけないから。

 

 □

 

「いただきます」

「めしあがれ」

 

 冬空もすっかり暗くなった頃、愛里寿の携帯に『夕飯ですよー』のメールが送信されてきた。電話でないあたり流石というか、何だか恥ずかしいというか。

 ――そんないきさつがあって、黒沢と愛里寿と千代はリビングに集い、テーブルを囲んで夕飯を味わい始める。今日のメニューはシチューにハンバーグ、そしてコーンスープだ。

 そして黒沢は、やや遠慮がちにスプーンを動かす。隣に座る愛里寿から、正面に居る千代からじいっと見つめられる。いかにも「さあ感想を」と言いたげな微笑をされて、緊張感が湧いて出た。

 ひと呼吸する。

 スプーンでシチューを掬い、慎重に口まで運んでいく。

 

「うまい」

 

 思わず言葉が出た。シチュー特有の滲み出る甘みと、熱みがかった香ばしさが、黒沢の食欲をまたたく間に促していく。感覚が温かさで満たされる。

 スプーンの動きなんて、もう止めようがなかった。

 

「満足いただけたようね」

「はい。最高です」

「あなたのお父さん仕込みなのよ」

「へえ、父さんが……やるな」

 

 千代がくすりと笑い、

 

「もっと腕を上げて、いつかはおふくろの味として仕上げてみせるわね」

「そうでん゛ッ!」

 

 むせた。愛里寿が背中をさすってくれた。

 

「お、おふくろって……」

「あら。将来はここで暮らしてくれるのでしょう?」

 

 千代がシチューをはむはむしながら、にこにこと言う。

 ――それはそうなのだが、頷くことすら何だか恥ずかしい。だから無言になって、カップに入ったコーンスープを少しずつ飲んでいく。

 熱かった。

 

「あら、そろそろ時間ね」

 

 午後六時五十九分。千代はリモコンを手にとり、テレビの電源を点ける。

 一瞬だけニュース番組が映し出されたあと、間もなく戦車道バラエティ番組「あなたの隣の戦車道」が放送された。

 千代がにこりと微笑む、黒沢が「きたきた」と呟く、愛里寿は「うう」と照れる。テレビには女性司会者と、その隣に座るパンツァージャケット姿の愛里寿、拍手を賑やかに重ねる観客たちの姿が映し出されていた。

 そして画面右上に、「世界大会覇者 島田愛里寿。その人の顔がいま語られます!」のテロップが表示される。プライベートについて、あれこれと質問する流れになるのだろう。

 隣に座る、愛里寿を見る。

 愛里寿がちらりと、黒沢に目配せしていた。頬を赤く染めながら。

 

『今晩は。この番組は戦車道に関わる人に対して、戦車道に対する意気込み、戦車道への意見、そしてこの番組でしか聞けないマル秘情報などを語っていただく内容となっています』

 

 日本戦車道が世界大会で優勝したことにより、戦車道関連の番組に対する需要は今も今も上がっている。

 もちろん、戦車道の熱狂に飲まれた者もいるだろう。純粋な戦車道ファンも沢山視聴しているだろう。しかしやはり、最大の理由は、

 

『今日はゲストなんと! 今を輝く島田流の後継者で、飛び級までした天才で、最年少でプロ入りを果たして、日本戦車道を優勝にまで導いてくれた日本チームの隊長、島田愛里寿さんです!』

 

 選手その人を見たいから、それに尽きる。

 それにしても、なんだかものすごい情報量が通り過ぎていった。それを噛まずに言える司会者はさすがだと思う。

 テレビの向こう側にいる愛里寿が、無言で一礼する。『日本チーム隊長 島田流後継者 搭乗戦車:センチュリオン 島田愛里寿(24)』というテロップが表示された。

 盛大な拍手がまき起こる、黄色い声も飛ぶ、司会者の表情もかなりウキウキだ。しかしそれでも、愛里寿はごくごく冷静な無表情を崩さない。

 

『お忙しい中、ようこそおいでくださいました。今日はよろしくお願いいたします』

『はい。こちらこそ、この人気番組に出ることが出来て光栄です』

 

 司会者が、嬉しそうにうなずき返す。

 

『それでは愛里寿さん。早速ではありますが、いまの日本戦車道についてどう思っていますか?』

『はい。いまの日本戦車道は、とても優れた構造になっていると思います』

『どういうことですか?』

『ひと昔の戦車道は、勝つところだけが勝つ、という展開が多かったのです。それ故に盛り上がりに欠けた印象もありましたし、何より初心者のモチベーションが上がりづらかった』

 

 司会者が、うんうんと頷く。

 

『勝ち負けが固定化しやすいのも、やはり戦車の質こそが第一の理由です。いくら選手が優れていても、戦車の性能が、数が揃っていなければ不利になるほかありません。これは揺るぎない事実です』

『そうですね。いくら磨かれた選手といえども、やはり器である戦車にどうしても左右されてしまいますからね……せっかくの腕を活かしきれない、そういったことも多々あったでしょう』』

『はい。そして戦車道とは、大量の資金がどうしてもかかってしまいます。だからこそチーム戦力の増強が難しく、特に戦車道履修者のモチベーション維持がとても大変でした』

 

 はっきり言うんだな、と思う。

 ほんとうに戦車道を見ているんだな、と思う。

 

『だからこそ、世界大会出場への動きは、とても良い流れでした。戦車道履修者を増やすために、日本全体の強化を図るために、いくつかの戦車を提供する展開になりましたから』

 

 提供される戦車はシャーマン、整備性も性能にもクセがない一品だ。

 サンダースの方も、「競い合える相手が増える? ワンダホー!」と歓迎の姿勢を示している。

 

『これからの日本戦車道は、よくなっていくと思います。足場さえ整っていれば、とりあえずやってみよう、という動機が生じやすいものですから』

『なるほど……ありがとうございます。流石島田さん、鋭い意見が多かったですね』

 

 千代が笑顔で、「素晴らしいわ、愛里寿」と感想を口にした。

 愛里寿は微笑しながら、「いえ」とだけ。

 

『それでは次は、戦車道の意気込みについてお願いします』

『はい』

 

 テレビの向こう側にいる愛里寿が、こくりと頷いた。

 

『私は産まれた時から、島田流を背負っていくと、戦車道を歩んでいくと、心から誓っていました』

 

 赤ん坊だった頃の愛里寿が、画面いっぱいに映し出される。客席から、「かわいい」の声が漏れた。

 

『それは長く、そして険しい道でした。決して簡単なことではありませんでしたが、辞めようと思った事は一度もありません』

 

 画面が切り替わる。

 小学生になった愛里寿が、髪をなびかせながらでシャーマンを駆っている。どこかの高校チームと、試合を行っているらしかった。

 

『私は島田流が好きです、島田流のスタイルも体に馴染んでくれました』

 

 そして愛里寿のシャーマンは、ニ両の戦車をあの手この手で撃破していく。敵戦車と対峙することもあったが、純粋な判断速度の差で撃ち勝った。

 ――島田チームの勝利、この文字が画面に刻まれる。

 

『島田流を体現するたびに、私の母は喜んでくれました。それが、大いなる力になったことは言うまでもありません』

 

 千代の写真が表示される。『島田千代 島田流家元。現在は世界大会の委員としても活躍中』

 

『そして私は飛び級し、大学を通うことになりました。確かに環境は大きく変わりましたが、チームの皆は、私の言葉をよく聞いてくれました』

 

 アズミ、ルミ、メグミの顔写真が表示される。映し出される場面は、もちろんバミューダアタックだ。

 三人とも世界大会に出場していて、今もなお愛里寿の副官を立派に務めている。

 

『母がいてくれたからこそ、仲間たちが隣に居てくれたからこそ、私はいまも健全な精神を宿せています。島田流への意思も、変わっていません』

 

 そうか、それはよかった。

 司会者も、微笑みながらで『なるほど』と応える。

 

『――ですが』

 

 司会者が、真顔になる。

 

『私も人間です。時には疲れたり、時には寂しいと思うこともありました。私は口下手ですから、友達も少なかったですし』

 

 テレビの向こう側にいる愛里寿が、無表情な呼吸を置いた。

 

『そういう時は、ボコミュージアムへ行って気分転換をしていました。負けても何度も立ち上がるその姿に、私は憧れを覚えていました』

 

 島田流がスポンサーを務める、新生ボコミュージアムの資料映像が画面いっぱいに表示された。

 世界大会で島田流が大活躍したからか、客の数はぐんぐん伸びている。お陰様で、アトラクションへ乗るのに数十分ほどかかるのはザラだ。

 

『ボコを応援することこそが、私の楽しみであり趣味でもありました。精一杯叫ぶと、良い気分転換になるんです』

 

 ワイプに表示されている司会者が、しみじみと頷く。何かあったんだろうなと黒沢は察した。

 ボコミュージアムの資料映像がうっすら消えていって、再びスタジオが映し出される。

 

『そうすることで私は満足だと、満たされていると、そう思っていた時期がありました』

『と、いいますと?』

 

 司会者が、興味津々そうに質問する。

 黒沢は少し考えて、「あ」と声が出て、

 

『その……ですね、その……』

 

 愛里寿はやはり無表情だった。けれども言葉に、ためらいが混ざり始める。

 司会者が待つ、黒沢も黙る、千代はシチューを味わっている。

 

『――ボコミュージアムで、わたしは、大切な人と出会えたんです』

 

 スタジオがどよめき始める。黒沢の身と心が強ばる。司会者がすかさず「と、いうと?」。

 

『その人は、私よりひとつ下の男の子でした』

 

 「この手」の雰囲気を感じ取った観客が、きゃあきゃあと盛り上がり始めた。

 

『その人は、私と一緒にボコを応援してくれました。ファンタスティックな技すらも、リクエストしてくれました』

 

 サンダースじみた言動に、司会者が目を丸くする。

 

『ショーを見た後で、私とその人は、このボコのぬいぐるみを買おうと手を伸ばしたんです』

 

 声が出そうになった。

 愛里寿の胸ポケットから、ファイティングポーズをとった激レアボコがひょこっと取り出されたから。

 

『私よりもその人のほうが、手は速かったのに……けれどその人は、私にこのボコを譲ってくれたんです』

 

 司会者が、まあまあと頬に手を当てる。観客が、きゃあきゃあと声を上げる。

 

『いつしかその人と仲良くなって、友達になって……それで、たくさんの音楽を教えてもらったんです。時間がある時は、いつも聴いています』

『なるほど。では、好きなジャンルは?』

『ダンスミュージックです』

『いいですね! 盛り上がりますよね』

 

 愛里寿が真顔で、こくりと頷いた。

 

『その人も色々と悩みを抱えているのに、いつも私のことを支えてくれました。試合だって、応援してくれました』

『おお……』

 

 感嘆する司会者に対し、愛里寿は小さく頷いて、

 

『……十一年前に、あったじゃないですか。大洗連合と、大学選抜との試合が』

『――ああ、ありましたね』

 

 資料映像が表示される。テロップには『大洗学園艦の廃艦を巡った戦い。当時は戦力や練度の差、大洗女子の境遇を理由に大学選抜は大きなバッシングを受けた』と書かれてある。

 

『私は島田流後継者として、いち戦車道履修者として、堂々と戦うことを決意していました』

 

 愛里寿の表情はまるで変わらない。当時の心境を、ごく淡々と告げていく。

 

『……でも、』

 

 淡々と、

 

『誰かに応援されるのって、ほんとうに、こう、ものすごいパワーになるんですよ』

 

 淡々と、そしてストレートな言葉を口にした。

 黒沢の胸の内から、音が鳴り出す。

 

『だからこそ私は、最後まで堂々と戦えました。試合の後でその人に褒められて、ああ、私は正しいことをしたんだなって確信できました』

 

 画面の向こう側にいる愛里寿は、ただただ本当のことを告げていく。

 

『そして私は、その人に恋をしました。その人も私に想いを告げてくれて、今もお付き合いをさせてもらっています』

 

 観客から黄色い声が飛ぶ。司会者の顔なんてもう大喜びだ。

 

『私は天才と呼ばれてはいます。いますが、母や仲間、そして恋人がいてくれたからこそ、私は世界チームと戦い抜けられて、そして優勝できました。これは決して、私だけが出した結果ではありません』

 

 愛里寿が真正面から、そして本気の気持ちを訴えていく。

 

『私は島田流後継者としての義務を、果たすことができました。私の全てが、成し遂げられたと思います』

 

 ですが。

 愛里寿は、そう前置きする。

 それは?

 司会者が、観客が、黒沢が、千代が、愛里寿を注視した。

 

『――こんなにもグレートに、幸せだと思えるのは、あの人がいてくれたからです』

 

 会場がどよめいた。

 島田愛里寿が、はじめて、笑ったから。

 

『私はこれからも、島田流を体現する者として、世界選手として、そして一人の乙女として、今を歩み続けます』

 

 愛里寿は堂々と、一人の戦車道履修者として、女性らしく笑顔いっぱいに、

 

『これが私の、戦車道です』

 

 大きな拍手、司会者の惜しみない賞賛。

 

 テレビの向こう側にいる愛里寿は、CMに入るまでずっとずっと笑いながらボコを摘んでゆらしていて、

 俺の隣にいる愛里寿も、テレビと同じような笑顔でおれのことを見つめていた。

 ――なんて、返せばいいんだろう。

 愛してる、陳腐すぎる。これからも支えていく、なんども言った。

 考えれば考えるたびに、世界がにじんでいく。感情に胸が押しつぶされそうになって、呼吸すら定まらない。

 

 そんな俺に対して、愛里寿は、ハンカチで目を拭ってくれた。

 いつも愛里寿は、俺のことをずっとこんな風に支えてくれた。

 

 一緒にいたい、求められたい。そんな願いを、一言で表現できる言葉を思い付く。

 

「……愛里寿」

「うん」

「これからもずっと、君を愛していくよ」

「うん」

「これからも、君を支えていくから」

「うん」

 

 それはずっとずっと、いつか言おうと思っていた言葉。

 

「だから、俺と、おれとっ、けっこん、してくださいっ」

 

 大事なことなのに、すこしもうまく言えなかった。

 けれども愛里寿は、ずっと笑ったままで、俺のことだけを見て、

 

「――はい!」

 

 そして俺は、ずっとずっと愛里寿のことだけを見つめていた。

 すべてが愛おしい、彼女の頬を伝う涙すらも美しい。

 

「……あ。ご、ごめんなさい、愛里寿、勝君」

 

 そのとき、千代の声が耳に入った。

 

「ちょっとおかあさん、顔を洗ってくるわね」

 

 目を赤く濡らしている千代お義母さんに、俺は、「はい」と答えた。

 

―――

 

「――ほんとう、あっという間だったな」

「うん」

 

 一緒に昼寝をしよう。

 島田勝と島田愛里寿が、二人してそう言った。そして迷うことなく、ゆっくりと、一つのベッドで横になり始めた。

 それでなんとなく、過去の思い出について話しはじめたんだ。自分からか愛里寿からか、それは忘れてしまったけれど。

 

「楽しい時間って、ほんとうに早く過ぎちゃう」

「もっと遊びたかったけど、まあ、これ以上は贅沢だな」

「うん。私達の娘も、立派な後継者になってくれたし」

「……とても聡明で、凛々しくて、負け無しの戦車乗りになってくれたね。愛里寿に似たんだなあ」

「それでいて話好きで、友達も多くて、ダンスミュージックばかり聴くようになって……勝に似たよね、とても」

「そうだな、本当にそう思う。これからも島田流は、この世で輝き続けるだろう」

「うん。もう教えることはないし、悔いなんてないよ」

「そっか。……あとは何か、あったかな?」

「そうだね……勝が、委員会から戦車道テーマソングを作れって無茶振りされたこととか?」

「聴くことと作ることはてんで違うんだけどな……。まあ、愛里寿の協力もあって完成できたけどね、戦車道ダンスミュージック」

「楽しかったよね」

「楽しかった。……あとは何か、あったかな?」

「そうだね……あ、みほさんとまほさんに勝ったこと、かな?」

「ああ、そうだね。あれは本当に盛り上がった、盛り上がりすぎて泣いちゃった」

「みほさんとまほさんとも、この試合を通じて仲良くなれたしね。ほんとうにいい思い出だった」

「本当に良かった、ほんとうに」

「うん」

 

 ――、

 

「愛里寿?」

「あ、ああ、ごめんね」

「……眠るかい?」

「ううん、大丈夫。ああ、あと何か、あったかな?」

「あとは……そうそう、メグミさんの彼氏さんが完治した時。あれはマジで嬉しかった」

「うん、うん。メグミの彼氏、心臓が危なかったもんね……ほんとう、よかった」

 

 ――、

 

「勝?」

「ああ、ごめん、ごめんよ、愛里寿」

「ううん、いいの。もう、こんな時間だからね」

「そうだなあ、本当に長く長く生きてきたもんなあ」

「うん。正直もう、やれることなんてなくなっちゃった気がする」

「そうかな。……そうかもな、ほんとうに」

 

 愛里寿は、にこりと笑って、

 

「……どうして私達の大切な人達が、笑顔で遠い所へ旅立っていったのか……いまならわかる」

「ああ、わかる、俺もわかるよ」

「幸せだったから、だよね」

「ああ」

「勝は、幸せ?」

「もちろんだよ」

「良かった――」

 

 愛里寿の目が、段々と閉じ始める。

 

「勝」

「うん」

「すこし離れ離れになるけど、ぜったいにぜったいに、また会おうね」

「……絶対に会えるよ。だってこいつが、俺たちをいつまでも繋ぎ止めてくれたんだから」

 

 枕の真ん中には、ファイティングポーズをとった激レアのボコがちょこんと寝転がっている。すっかり色あせてしまったけれど、ずっとずっと旅路を共にしてくれた。

 

「そうだね、そうだったね」

 

 そして愛里寿は、そっと、ゆっくりと、勝へ顔を近づけて、

 

「ほんとう、ベリーハッピーだったよ」

 

 唇が一つに重なって――愛里寿は、安らかに眠りはじめた。

 

 勝は、心の底から微笑む。

 この人と出会えて良かったと、いつまでも想う。

 また出会えたら、前よりも幸せにしようと誓う。

 そして一緒に、ボコのことを応援しようと思う。

 だから自分も、愛里寿と一緒に眠ろう。

 

「ほんとう、ほんとう――」

 

 

 

 ――こ、これでいいの? ボコは

 ――それがボコだから!

 ――ま、マジで? 勝てねえの?

 ――うん! でもボコは、いつか勝つためにいつもボコられるの。それがボコなの!

 

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


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