ゴジラVSガイガン2019 (マイケル社長)
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プロローグ

「彼」にとっては、あまりにも突然の出来事だった。

 

永久に続くと思われた「主」との乖離だった。

 

果てしのない凍てつく闇において、「彼」のみでの生存は絶望的であった。

 

だがしかし、この青い惑星の引力に導かれ、「彼」を覆っていた芽胞が大気圏の摩擦熱によって崩壊し終える頃には、白い雲を突き抜け、惑星の空気層に突入していた。

 

「主」がこの惑星に引かれたのか、はたまたみずからの意思で訪れようとしたのかはわからない。

 

少なくとも「彼」は幸運だった。「主」に寄生せずとも、この惑星の環境なら充分に生存が可能だった。

 

自由落下の末、「彼」は大地に落下した。ただただ感嘆する他なかった。

 

 

この惑星は窒素と酸素で満たされており、気温は極めて温暖で、それまで「主」に憑いたまま旅していた空間よりはるかに快適で過ごしやすそうだった。

 

そして惑星が作り出したものでは到底ないであろう、幾何学的な多くの存在。どうやら知的生命体が存在しているようだ。

 

 

すると目の前にこの惑星の住人が現れた。

 

頭部に複眼、そして身体から生えた四つの足。典型的な惑星居住生物だった。

 

生物は「彼」を見るや、前足を構えてきた。どうやら威嚇されているようだ。

 

だが「彼」はその生物より小さいが、素早さではるかに勝っていた。

 

「彼」はその生物をこの惑星での生きる拠点とすることとした。

 

それまで憑いていた「主」は到底支配の及ぶ存在ではなかったが、寄生することで半永久的に生命を保つことができた。

 

だが、「主」に比べはるかに体格の劣るこの生物であれば、支配も可能なはずだ。

 

案の定、容易く生物の意識下に入り込むことができた。

 

 

 

「彼」は生物の記憶から、この惑星を学んだ。

 

どうやら支配したこの生物は、ここでは取るに足らぬ存在らしい。

 

惑星を支配するのは、自分たちでこれだけの文明を築いてきた者たちらしかった。

 

そして、その支配者たちは「彼」にとって忌々しい波長を発していた。

 

「主」に寄生した際も、その波長に長く悩まされた。

 

どうやらこれを何とかしない限り、この惑星で生きていくことは叶わぬらしい。

 

逆にいえば、支配者の波長さえ克服すれば、「彼」がこの惑星の支配者となることもできそうだ。

 

幸運なことに、「彼」が欲する気温はこの支配者たちが恒常的に発していた。

 

大気が何かによってかき回され、排出されている場所で、「彼」は耐え忍んだ。

 

 

この生物は自身の種子を、自身とよく似た存在として生み出すことで、種を保っているようだった(この生物ばかりでなく、どうやら惑星に暮らすほぼすべての生物がそういった機能を備えているらしい)。

 

なので生物の記憶に従い、同族他者と交わり、種を増やすことにした(この生物はその後、交わった相手を栄養源として捕食してしまうようだ)。

 

やがて「彼」は子孫を産み、さらに別な他者と交わることを繰り返した。

 

「彼」の卵から孵った子孫たちは、「彼」の意識に従順だった。

 

 

 

いくらか時間が経ったのだろうか、惑星の空気はさらに温暖になり、「彼」とその僕たちにとって最適ともいえる環境となった。

 

 

 

 

この惑星に暮らす者たちには、多少の差はあれ成長の限界というものがある。

 

「彼」が支配した生物は、やがて成長の限界を易々と超えるに至った。



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主な登場人物、架空の設定解説

~主要登場人物~

 

 

 

近藤 悟

 

年齢:45歳

 

ICA(イメージアクター):反町 隆史

 

フリーのジャーナリストでありユーチューバー。

元共同通信社記者。

 

 

 

緑川 杏奈

 

年齢:45歳

 

ICA:篠原 涼子

 

KGI損害保険株式会社 東京支社海損部副部長。

独身。

 

 

倉嶋 千夏

 

年齢:23歳

 

ICA:川島 海荷

 

数寄屋橋交番勤務の新人警察官。

階級:巡査。

 

 

金崎 皆実

 

年齢:28歳

 

ICA:佐藤 健

 

KGI損害保険株式会社 東京支社海損部社員。

緑川の部下。

 

 

尾形 大助

 

年齢:59歳

 

ICA:片岡 愛之助

 

京都大学大学院 生命科学研究科教授。

ゴジラ研究の第一人者。

 

 

剱崎 俊哉

 

年齢:50歳

 

ICA:香川 照之

 

京都大学大学院 生命科学研究科准教授。

昆虫分野の大家。

 

 

中村 斎

 

年齢:44歳

 

ICA:滝藤 賢一

 

数寄屋橋交番班長。

階級:巡査部長。

 

 

八田部 侑

 

年齢:50歳

 

ICA:石丸 幹二

 

神奈川県知事。

 

 

会田 宗介

 

年齢:62歳

 

ICA:利重 剛

 

千葉県知事。

 

 

侭田 功

 

年齢:61歳

 

ICA:小日向 文世

 

島根県知事。

全国知事会会長。

 

 

町田 真一

 

年齢:55歳

 

ICA:柳葉 敏郎

 

宮城県知事。

元陸上自衛隊3佐(ヘリパイロット)。

 

 

一橋 冴子

 

年齢:57歳

 

ICA:高樹 澪

 

北海道知事。

元通産官僚。

 

 

原田 信輝

 

年齢:71歳

 

ICA:綿引 勝彦

 

大阪府知事。

 

 

小林 友和

 

年齢:68歳

 

ICA:片桐 竜次

 

愛知県知事。

 

 

川名 雄一

 

年齢:54歳

 

ICA:立川 談春

 

京都府知事。

元タレント。

 

 

進藤 英作

 

年齢:45歳

 

ICA:小藪 千豊

 

KGI損害保険株式会社 大阪本社海損部部長。

緑川の同期。

 

 

ジョージ・マクギル

 

年齢:47歳

 

ICA:ジェラルド・バトラー

 

フリーのジャーナリスト。

近藤の親友。

 

 

望月 馨

 

年齢:72歳

 

ICA:志賀 廣太郎

 

内閣官房長官。

 

 

瀬戸 周一朗

 

年齢:71歳

 

ICA:渡 哲也

 

内閣総理大臣。

 

 

 

 

 

 

 

 

~架空の設定解説~

 

 

・ボーフヂェーティ島

 

 

クリル列島(千島列島)に浮かぶ島。

 

旧日本名は「神子島」。

 

海流と大陸からの風により、夏場でも最高気温が10℃前後であり、一年の大半は雪と凍土に覆われている無人島。

 

1955年、大阪を襲ったゴジラが現れ、航空自衛隊の戦闘機部隊と対決。

 

 

 

・KGI損害保険株式会社

 

 

KG(海洋漁業)ホールディングス傘下企業。

 

主に国内外の船舶保険、自動車保険を取り扱う日本有数の損保会社。

 

英国の損保大手「ランスロット生命保険」との合併交渉中。

 

社訓は「窮すれば通ず」。

 

 

 

 

・KGホールディングス

 

 

創業1947年。本社は大阪府。

 

元は「海洋漁業」という遠洋漁業と食品加工を核とした会社。

 

1955年のゴジラ大阪襲撃時、本社社屋を含め多大な損害を被るも、創業者・山路耕平の「必ず立て直す」との言葉通り復興。

 

1957年、本業に加え、船舶保険や金融業へも参入。

 

現在は中核企業である大手都市銀行「日本海洋銀行」を中心に、「KGI損保」「KG食品」等関西を中心にグループ企業を展開。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・ゴジラ

 

水爆実験によって恐竜の生き残りである水棲生物が突如変化した怪獣。

 

1954年、太平洋上で多数の船舶を襲った後、小笠原諸島・大戸島を経て首都・東京を襲撃。

 

その後東京湾に潜伏するも、或る科学者が開発した「水爆以上の兵器」で葬り去られる。

 

 

翌1955年、東京を襲ったものとは別のゴジラが出現。

 

同じく水爆実験により変異したアンキロサウルス=通称アンギラスと激しく争いつつ、大阪に上陸。

 

大阪でアンギラスを屠ると北方海域へ進行、当時日本領であった千島列島・神子島へ上陸(この際海洋漁業北海道支社の船舶を沈没させる等猛威を奮う)。

 

神子島で航空自衛隊・海上自衛隊と対決、人工的に引き起こされた雪崩に巻き込まれ、完全に沈黙する。

 

 

千島列島を治めるソビエトの調査団による幾度かの調査の末、1967年、凍土の下で生命活動を停止していることが確認された。

 

現在はその遺骸が掘り起こされることなく、神子島の厚い氷の中に埋もれている。

 

 

 

 

東京・大阪に出現した個体はいずれも推定身長50m、体重2万トン。

 

水爆実験の影響で全身から強い放射能を発し、口からは強烈な放射能を含んだ超高熱の息、白熱光を出す。

 

また強い光を見ると怒り出す習性があり、大阪上陸時には徹底した灯火管制が敷かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

1955年以降、ゴジラ、アンギラスのような生物(怪獣と呼称)の出現記録はなく、各国の度重なる調査でも存在は確認されていない。



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―予兆―

2019年 5月6日

 

 

フィリピン・ルソン島沖300キロの太平洋上に隕石落下。

 

隕石の大きさは推定30メートル。

 

落下に伴う直接被害なし。

 

フィリピン、台湾、南西諸島に50cm~2メートルの津波。

 

 

 

  5月11日

 

 

台湾南部で地震。M7.4.

 

台南市、花蓮市で震度5強。

 

建造物倒壊等187軒。死者73名。

 

 

 

  5月14日

 

 

鹿児島県、薩摩硫黄島で噴火。

 

 

 

  5月20日

 

鹿児島県、新燃岳で噴火。

 

火砕流が繰り返し発生、死者21名。

 

 

 

  5月21日

 

鹿児島県、桜島で噴火。

 

規模は21世紀に入り最大。噴煙のため、鹿児島空港閉鎖。

 

鹿児島市内一帯で三日間にわたり20cmの降灰。

 

 

 

  5月24日

 

鳥取県東部を震源とする地震。M6.7。

 

死者2名。

 

 

 

  5月26日

 

北海道、十勝岳、北方領土・国後島の爺爺岳で爆発的噴火。

 

 

 

  5月27日

 

北海道、釧路沖200キロを震源とするM7.2の地震。

 

太平洋東岸に1メートル前後の津波。

 

死者5名。

 

 

 

  5月29日

 

小笠原諸島・父島西方200キロを震源とするM8.4の地震。

 

すわ南海トラフ地震かと警戒されるが、震源が極めて深く、大きな被害なし。

 

 

 

  5月30日

 

新潟県、妙高山系焼山で噴火。

 

噴石と火砕流により山麓に大きな被害。

 

倒壊家屋74軒、死者127名。

 

 

 

 

前後して5月10日、気象庁より高温注意情報が日本全国に発令。

 

GW後より東京都内の最高気温が連日30℃超え。

 

広島市、和歌山市で最高気温37℃を記録。

 

連続して20日以上降雨なく、各地で水源が枯渇し始め水不足が大いに懸念される。

 

5月18日。北海道小樽市で最高気温38℃。

 

同日、岩手県久慈市、北海道釧路市で最高気温36℃(いずれも観測史上最高)。

 

全国で熱中症等健康被害が相次ぐ。

 

 

 

  5月31日

 

佐賀県、長崎県で1時間当たり240ミリの豪雨。

 

浸水、洪水被害により死者230名。

 

長崎市内で観測史上最大の降雨。

 

各所で土砂崩れが発生し、国道202号、499号が破断。

 

倒壊家屋180軒。

 

避難所で43年ぶりに日本脳炎が流行。

 

 

 

同日、東京都で最高気温40℃、埼玉県熊谷市で41℃を記録(いずれも5月の観測史上最大)。

 

秋田県、山形県庄内地方に記録的なやませ。最高気温14℃。

 

前日との激しい気温差により積乱雲が発生。

 

豪雨により山形県鳥海山で大規模な山体崩壊が起こり、倒壊家屋112軒。死者88名。

 

 

 

 

 

 

2019年 6月1日

 

沖縄県、九州南部に史上初の「梅雨入りなし」を気象庁が宣言。

 

政府より、各所の災害において激甚災害指定。

 

 

 

   6月2日

 

北方領土・択捉島ベルタルベ山噴火。

 

噴煙が成層圏まで達し、オホーツク海上空の航空機飛行が制限される。

 

同日、東京で夜間気温34℃を記録。

 

群馬県白根山で連続降雨により山体崩壊が発生。国道120号線が破断。

 

 

 

   6月3日

 

東京都内で原因不明の停電、通信通話障害が相次いで報告される。



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ー予兆Ⅱー

・6月4日 月曜日 11:27 新潟県妙高市池の平地区

 

「えー、妙高市池の平の公民館です。避難者が多数集まってますが、ゆったりできないとのことで、駐車場の車で夜を明かす人も数多くいます」

 

近藤は自身のiPhoneで駐車場に並んだ車両を撮りながら、避難場所の様子を語りかける。

 

「さっき、住人のおじいちゃんに話を聞けました。4日前からまともに風呂に入っておらず、公民館に異臭が漂っている、この暑さで男は公民館の水道で水浴びできるが、女の人は大変だ、自分も車に寝泊まりしてて、節々痛い、そう話してました」

 

近藤が撮影している様子は、自身のチャンネルを通してYouTube上でライブ配信されている。

 

「昨日訪れた、山形の鳥海山では、地元の旅館や国民宿舎が自治体と協定結んで、避難者の収容にもある程度の個室とプライバシーが与えられてました。まあ、こういうところにも自治体の災害への取り組みが顕著に現れてきます」

 

近くを通った行政関係者らしき男性が、近藤を怪訝な目で見ている。

 

額に浮かぶ汗を拭うと、今度は未だ噴煙を上げ続ける焼山へiPhoneを向けた。

 

「昨夜、また小さな火砕流が観測されたそうです。妙高杉ノ原、黒姫といったスキー場は完全に飲み込まれ、飲み込まれた近くの旅館・ホテル跡では救助作業が夜を徹して続けられてます。さっきね、火砕流の現場まで近づいたら、おまわりさんに叱られて戻ってきました。やっぱダメなんだね、そういうの」

 

『復旧の邪魔』『おまわりさんコイツです』『逮捕しろよこんなヤツ』

 

YouTubeのコメント欄に辛辣な言葉が投げかけられる。

 

「もう一か所、避難場所を取材したら東京戻りまーす。上信越道が通行止めになってるから関越まわりで帰りまーす」

 

一度撮影を止め、あふれ出る汗を水飲み場で洗い流す。

 

なるほど、さっきの老人の言う通り、公民館の中から何とも言えぬ臭いが漂ってきた。

 

ただでさえここ最近の水不足で給水制限されている上、同時多発的に発生した災害のため自衛隊や行政のサービスも満足に行き届いているとは言い難い。

 

熱中症やいわゆるエコノミークラス症候群での災害関連死も出始めているが、噴火が沈静化する気配は今のところない。

 

近藤は自家用車のパジェロに乗り込むと、冷房を全開にして車を発進させた。

 

あまり褒められたものではないが、これから避難場所となってる妙高市役所を訪れ、災害支援の進捗を(アポなしで)取材するのだ。

 

スマホホルダーのiPhoneには、Yahoo!ニュースの号外が続々と流れてくる。

 

『避難長期化、相次ぐ災害』

『速報 石川県能登半島で震度4』

『猛暑で蜃気楼? 東京で“お化けカマキリ”目撃情報』

 



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ー予兆Ⅲー

・6月4日 月曜日 11:37 北海道網走市 網走漁港

 

 

「はい、残念ですが実地調査は困難です。海保からの情報だと、北方領土での噴火で周辺海域は航行が制限されているとのことで・・・。はい、承知しました。いまから聴取します。はい、はい・・・はい、失礼します」

 

電話を切ると、緑川杏奈はフッとため息をついた。

 

「どうでしたか?」

 

部下の金崎がハンカチで額を拭いながら訊いてきた。

 

「どうもこうもないでしょ、船が出せないから関係者聴取のみで報告書仕上げるしかないって。まあ、慌てて出張したのに現地調査もできないなら出張費出さないぞ、て石頭の心の声は聞こえたけどね」

 

緑川の言うように、KGI損害保険東京支社の2人が、今朝一番の便で網走へ飛んだ意味がなくなったようなものだ。

 

昨夜20時過ぎ、網走漁協所属のカニ漁船「第二伸盛丸」が択捉島沖20キロのオホーツク海上で座礁、転覆する海難事故が発生したのだ。

 

第二伸盛丸の船舶保険はKGI損保が担当しているため、海損部から急遽調査員の派遣が必要となったのだ(船舶事故の調査担当部署は大阪本社と東京支社に置かれている)。

 

「あのう、よろしいでしょうか」

 

海洋漁業網走営業所の韮崎所長が遠慮がちに声をかけてきた。

 

「ああ、すみません。お願いします」

 

韮崎の案内で漁協内の事務室へ通される。漁協独特の魚臭さが、この地域に似つかわしくない気温と湿度に増幅され緑川の鼻孔を突く。正直、ハンカチで鼻を覆いたいくらいだったが、この暑さにも負けず作業する漁協のみなさんに失礼のないよう気を配る必要がある。

 

「まったく、運の良い限りです。船が完全に沈没したのに、たまたま近海で漁をしてた別の船に救助されて、乗員12名全員無事だったワケですから」

 

「救助要請が迅速だったんですね」

 

「ええ、まあ、それもありますが・・・・」

 

言葉を濁すと、韮崎は応接間を開けた。中には作業着姿の小太りの男性と、ババシャツに作業ズボンという姿の男が待ち構えていた。ババシャツの男は頭の包帯が痛々しい。

 

「ああ、どうも御足労おかけしまして。網走漁協副組合長の本田です」

 

小太りの男性が恭しく名刺を差し出した。

 

「大変なときに貴重なお時間をありがとうございます、KGI損保緑川です」

 

「金崎です」

 

互いに名刺交換をすると、緑川はババシャツの男に向き直った。

 

「この度はご災難でした。阪木さん、お怪我の様子はいかがですか?」

 

ババシャツの男・・・阪木は憔悴しきった表情で「ああ、痛みはだいぶ引きました」とだけ答えた。

 

「お疲れのところ、大変恐れ入ります。改めて、事故当時の様子をお尋ねしたいのですが」

 

またか、といった憮然とした表情で阪木は緑川を見る。

 

「阪木さんすまんねぇ、こちら様も仕事なもんだからさ」

 

本田に促され、阪木は「ああ」とだけ返した。緑川は軽く会釈すると、

 

「では、事実確認からうかがいます。事故日時は昨日、6月3日午後8:17、事故現場は択捉島から北東へ約20キロの地点。第二伸盛丸の乗組員は12名。事故状況としては船体座礁からの転覆、沈没。乗組員は沈没前に救命具を身に付け洋上にて救助待機。午後9:38、近くを航行していた蝦夷備後丸に救助される。乗組員は重軽傷、低体温症を負うも全員命に別状なし。ここまではよろしいですか」

 

「ああ」

 

何度同じこと喋るんだ、阪木の苛立ちが伝わってきた。

 

「ありがとうございます。それで、座礁ということですが、現場海域は水深が100メートルを超えるとのことですが、具体的にどのような物に乗り上げたのですか?」

 

「・・・それが、わからんだ」

 

「わからない・・・?ええと、阪木さんは網引きを担当なさっていたそうですが、操舵室から警告などは?」

 

「いいや、なかった」

 

緑川と金崎は顔を見合わせた。こんな呑気な話があるか―。

 

韮崎が横から口を出した。

 

「あの、現時点で一番怪我の程度が軽いのは阪木さんですし、船長や操舵士の榎並さんの回復待って海保が事情聴取しますんで」

 

「あんたら、オレたちが危険に気がつかんかったボンクラとでも思ってんだろ」

 

苛ついた阪木が口を尖らせた。

 

「オレはよくあの辺で漁をやるからわかるが、あんなトコで船が座礁するなんざ聞いたことがねぇよ。岩礁なんてないし、漂流環礁もねぇ。第一そんなのがあるならとっくに榎並が見っけてるよ。居眠りしながら船動かすバカはいねぇ。少なくとも、船のレーダーにはひっかからない何かに乗り上げたことはたしかなんだ」

 

「うちの漁協でも、だいぶ前ですがね、4月にカニ漁に出たときに季節外れの流氷に乗っかったってことはありましたよ。でもね、いま6月ですよ。しかも網走で32℃だなんて聞いたことない温度だ」

 

本田が補足するように口を出した。

 

「副組合長は、どんな見解ですか?」

 

金崎が訊いた。阪木は面白くなさそうな顔で金崎を見る。

 

「んー、答えようがないですが、早いところ船を引き揚げて船体の傷をたしかめてみたい気分ですねぇ。でもあの辺はホラ、ただでさえやかましい上にこの噴火騒ぎだ、ロシアの連中も殺気立ってましてね」

 

「副組合長、オレ傷見たぞ」

 

「傷って、船のかい?」

 

「おう。死ぬ思いで沈む船から這い出てな、真っ逆さまになった船底見たよ。いいか、ありゃひっかかれたんだよ、熊に」

 

「はあ?」と声を上げた金崎を、緑川はヒールの先で突いた。

 

「オレなあ、こっからだいぶ山上がった糠別ってとこの生まれでなあ、昔、ヒグマに背中ひっかかれたことあんだよ。ホレ、この背中のこいつがそうだ」

 

阪木はシャツを脱ぐと、背中を見せた。腰の左上あたりに、三本の爪痕がくっきり残っている。

 

「船底にな、これとそっくりなでっかい傷がついてたんだよ。見間違いなんかねぇぞ。たしかに夜中で灯りもなかったが、きのうは月が昇っててな、船の様子くらいは見えた」

 

 

 

 

阪木から訊くべきは聞けたが、応接間から漁師詰所と一緒になってる漁協事務所に移った緑川は途中まで書きかけたレポートを眺めていた。向かい合って座る金崎が訊いてきた。

 

「副部長、どうします?」

 

「他の船員から聴取できない以上、いまの段階ではこのままレポート上げるしかないでしょ。第一、座礁の原因が判然としないんだもの。彼の証言がすなわち全てよ」

 

「あのう、阪木さんはだいぶぶっきらぼうですが、嘘をつくような男じゃあ・・・」

 

本田がフォローに入り、「いえ、疑ってるわけではないんです」

 

「ただ、熊にひっかかれたような傷が船底にできる状況というのが、どうにも想像できなくて」

 

周りで弁当をパクついてた漁師たちも「保険屋さんなあ、オレたち事故の聴取で嘘なんかつかねぇよ」「好きこのんで嘘ついて保険金ふんだくろっていうんなら、漁師なんかやらねーで詐欺師になってるよ」と囃し立ててきた。

 

「やっぱり・・・・・」

 

ふいに、年配の漁師が口を出してきた。

 

「ゴジラかもしれねぇ」

 

漁師たちはシンと静まり返り、緑川は息を呑んだ。

 

「ゴジラ?ええと、昔東京と大阪を破壊したっていう?」

 

「おいアンチャン、あんたゴジラ知らねぇのか?」

 

一番手前に陣取る漁師が金崎の無防備な発言を窘めるように尋ねた。

 

「はい。まあ、教科書とかで勉強しましたけど・・・」

 

一人だけ異なる空気を醸してしまい、金崎は恐縮気味に答えた。

 

「ヒロ爺ィ、あんたも余計なこと言うなよ」

 

するとヒロ爺ィと呼ばれた年配の漁師は、やや気色ばんだ。

 

「おめぇら若いから知らねぇかもしんねがな、オレはよーく覚えてる。あんときは、そうだ、海洋漁業の船だな。ゴジラに沈められたのを、オレが乗った船が助けに行ったんだ。たった一人しか助けらんねかったがな、いまでも忘れねぇ。歯ァガチガチ震わせて『ゴジラ・・・ゴジラ・・・』て呟くあの漁師の血まみれの顔」

 

「だけどさあ、ヒロ爺ィ、ゴジラはとっくの昔に死んだっていってたじゃないか」

 

本田が口をはさんだ。

 

「だいたいなあ、もしも伸盛丸沈めたのがゴジラだとして、そんなものとっくにレーダーに映ってなきゃおかしいじゃねぇか」

 

他の漁師も口々に「いまどきゴジラなんてなあ」「年寄りの昔話じゃねぇか」とぼやく。

 

「おめぇら、そうそう馬鹿にするもんでもねぇ。その沈められた船なあ、春になってようやく引き上げたんだが、そしたら船底がな、きれいに切り裂かれてたんだよ。オレは阪木の話きいて、やっぱりかってそう思ったよ」

 

ヒロ爺ィが強い口調でしゃべった。

 

ちょうどそのとき、その場にあるスマホが一斉に通知音を出した。

 

「なんだよ、またどっかで地震か噴火か大雨かよ」

 

誰かが言いながらスマホを見た。緑川と金崎もスマホを見た。

 

 

 

【速報 択捉島ベルタルベ山噴火が活発化】

 

【ロシア非常事態省、極東地域に非常事態を宣言】



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ー異変ー

・6月4日 月曜日 12:04 東京都千代田区永田町2丁目 総理大臣官邸 4階 

 

 

「ではこれにて、閣議を終わります」

 

望月 馨官房長官の閉幕宣言後、詰めの官僚と打ち合わせる大臣、大きく背伸びをする大臣、急ぎ地下1階の危機管理センターへ足を向ける担当者や閣僚。

 

やがて閣僚や官僚が部屋を去ると、警護のSP以外は瀬戸 周一朗首相と望月官房長官のみとなった。

 

「総理、昼食の用意が整いましたので、どうぞ執務室へ」

 

望月の促しにも、瀬戸は黙って頷くのみだった。

 

それ以上の催促は無用とばかりに、望月も黙った。

 

定例の閣議が終わると、数分その場を離れない総理は珍しくない。

 

だが現在の情勢では、殊更無理もないことであった。

 

10時から始まった閣議は、ここ一ヶ月国内で続発する災害の報告、並びに対応で大きく時間を割かれた。

 

総務省からは三つの噴火山を抱える鹿児島県へのさらなる増援の要請、財務省からは一連の災害による被害総額が、本日時点でとうとう1兆円を上回ったという報告、及び本年度補正予算の見直し、国交省からは多発する噴火による航空規制への対応、文科省及び経産省からは、来年に控えた東京五輪の見直し(かかる事態に至り、中止を求める世論が圧倒的だが、林五輪会長を始め実行論も根強い)、厚労省からは避難生活での二次被害、災害関連死への対応(特に、ネット上に公開された新潟県の避難場所の不備が物議を醸した)。

 

加えて野党への対応、本日午後からの衆議院臨時国会対策・・・。

 

トドメとばかりに、閉会直前に飛び込んできた、択捉島ベルタルベ山大規模噴火の報せ―。

 

瀬戸は目をつむり、しばし闇の中を見据えた。

 

昨年は西日本豪雨災害や台風、北海道胆振地震に南北朝鮮情勢の変移、米国との貿易協定交渉や消費税率引き上げ等、それなりに難問もあったが、今年は比較的穏やかに、このまま来年秋の総裁任期満了まで勤め上げられると踏んでいたが・・・。

 

「不運なものだな」

 

立場上、私的な感情は慎みたいところだが、そう言わずにはいられなかった。

 

「心中、お察しいたします」

 

改めて資料に目を通していた望月が顔を上げて言った。

 

「午後の臨時国会も荒れそうだな」

 

「国民行動党や共産党は特に、例の避難所問題を徹底的に突いてくるでしょうなあ」

 

「うむ・・・さて、望月君、食事にしよう。あまり時間がないはずだ」

 

半ば自身に言い聞かせるようにして、瀬戸は席を立った。望月も倣い、総理執務室へ向かう。

 

「ところで、東証のシステム障害はどうなったかな」

 

エレベーターの中で、瀬戸は望月に訊いた。今朝9時、普段通り始まろうとした東京証券取引所で、ほぼすべてのコンピュータが起動しないトラブルが報じられたのだ。

 

本来なら財務大臣なり経産大臣から説明があるはずだが、本日はそれよりも議論すべき大きな問題が山積だった。

 

「復旧した、というニュースがありませんから、おそらくは・・・・」

 

「そうか。一段と株価への影響が高まるな、今日は」

 

先月から続く災害により、日経平均株価は14000円を割った。昨年のバブル期以上の値上がりはともかくとして、今年初めから20000円弱をベースとしていたことを考えると、想像もしたくない下げ幅だった。

 

だがさらに恐ろしいのは、5月以降急激な円高が進行し、4月まで平均して1ドル110円だったところが、昨日はとうとう1ドル93円まで上昇した事実だ。

 

輸出関連企業はこの一ヶ月で今年上半期の収益を大幅に見直すこととなり、主に対外資産を多く抱える銀行や証券・保険会社は多額の為替損を計上することとなる。

 

「この騒ぎが落ち着く頃には、金融庁も銀行再編に本腰入れることになるかな」

 

「必然的にそうなりますねぇ」

 

そんなことを話していると、執務室の前で長瀬行政改革担当首相補佐官が待ち構えていた。

 

「総理、長官、よろしいですか」

 

「すまない、食事を摂りながらになるが」

 

「結構です」

 

長瀬はそのまま望月の後に続き、待ちきれないとばかりに動きながらしゃべった。

 

「さきほど東電より、都内西部に電力が供給されていない、という報告がありました」

 

「また停電かね。しかし都内西部というのはまた、ずいぶん広いねぇ」

 

始めに玉露に口をつけ、望月が応じた。

 

「はあ。ですが、本日は昨日よりさらに深刻です」

 

瀬戸と望月が手を止め、長瀬に注目する。

 

「昨日は新宿区、渋谷区で散発的に停電があり、原因不明のまましばらくして復旧しました。ところが今日は、新宿、渋谷に加え、目黒、港区西部、世田谷、太田で12時過ぎから現在に至り、まったく復旧しないそうです」

 

「おいおい、そうしたら、電車も羽田も・・・」

 

「はい。ただいま詳細を問い合わせてますが、JR及び私鉄各線は運行停止、羽田空港とも連絡がつきません」

 

瀬戸と望月は顔を見合わせた。

 

「総理、これは食事どころではありませんな」

 

「原因は何だね?」

 

「それが、まったくわからないと・・・」

 

そのとき、勢いよく執務室の扉が開き、「総理!」と挨拶もそこそこに倉持内閣副官房長官と高城総務大臣が入ってきた。

 

「失礼します。さきほどから都内西部を中心に、大規模な通信障害が発生しているそうです」

 

「通常の固定電話はもちろん、携帯電話も緊急回線はおろか、ネット通信も不通とのことです」

 

刹那、今度は執務室の内線が鳴った。首相秘書官の米沢が対応する。

 

「総理、地下の菊池管理官です」

 

この状況で、菊池内閣危機管理官から連絡が来るのは自然な流れだった。

 

「瀬戸だが」

 

「総理、お食事中失礼します。おそらく、倉持副長官からお聞きになってるとは思いますが・・・」

 

「うん、わかっている。いまから官房長官と4階に降りる」

 

電話を切ると、瀬戸は深くため息をついた。倉持はどこかからかかってきた電話に対応している。

 

「官房長官、午後の臨時国会までにどのくらい閣議ができるかね?」

 

「そうですな・・・ざっと20分でしょうか」

 

「急ごう」

 

瀬戸は歩き出した。そこに望月、米沢、長瀬が続く。

 

「総理、梅田幹事長からですが」

 

電話を切った倉持が話しかけた。

 

「ああ、後にしてくれ。どうせ、明日の党首会談のことだろ」

 

「いえ、臨時国会の開催を後ろ倒ししたいと」

 

「何?」

 

「都内で交通渋滞が激しく、間に合わない議員が与野党問わずいるそうです」

 

「そうか、停電の影響か」

 

「おそらくは・・・ですが、国民行動党の小森副代表が交通事故に遭ったとの情報も入ってます。走行中の車が突然急停止したとかで・・・」

 

瀬戸は足を止めた。

 

いい加減にしてくれ、そうつぶやきたくなった。



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ー異変Ⅱー

・6月4 月曜日 12:22 東京都中央区銀座4丁目

 警視庁築地警察署 数寄屋橋交番

 

 

「倉嶋ァ、お前なんだこの日報は!?」

 

つい机でウトウトしていると、交番班長の中村が雷を落としてきた。

 

「昼食う前に書き直せ」

 

叩きつけるように日報を渡され、倉嶋 千夏は寝ぼけ声で謝罪した。

 

改めて見返すと、我ながらひどすぎる。昨夜の臨場案件の途中で『焼き鳥 食べたい 背中かゆい うまい』などと意味不明なことが書かれてる上、書道2段の腕前も泣いて悲しむ、ひどく汚い字だ。

 

16時から翌日13時までの第二当番(夜勤)ともなると、疲労と睡魔によって日報を書き直しさせられるのが新人警官の常だ。交番の立地にもよるが、首都中枢に位置する数寄屋橋交番では、ホッとひと息つけて日報書ける時間が明け方だったということも多い。したがってこのような事態に至る。

 

とはいえ昨日はいつになく臨場、交通事故取扱案件が多かったこともたしかだ。

 

それも『走行中、車が急停止してしまい、後続車が衝突』『信号機が消える』など、よくわからない事故案件が7件あった。

 

極めつけは、昨日18時ころに『エアコン室外機に不審人物がいる』という近所のオフィスから受けた通報の臨場だ。

 

中村班長と駆け付けたところ、室外機群にへばりつくようにしている男性がいたので職務質問の上、不審者ということで交番へ連行。本人曰く『珍しい生態のカマキリがいたので現地調査にきた』らしく、本人の身分証明を照会したところ、京都大学の准教授で間違いなく、厳重注意後解放した。

 

当該案件の解決だけで3時間以上要してしまった上、夜になっても下がらない気温のため普段以上に泥酔者の保護に振り回されてしまったのだ。

 

(あたしのしたかった仕事って、こんなものなのかなあ・・・)

 

泣きたい気分で日報を書き直しながら、倉嶋はため息をついた。

 

中学校の頃、学校の夏休み課外体験で老人ホームのボランティア活動にのめり込み、高校のとき、オーストラリアへ短期留学したことで、自分の人生に指針ができた。

 

『英語を勉強して、人の役に立ちたい』

 

いま思えばあまりにも漠然とした夢だが、高校卒業後、地元和歌山の短期大学にある外国語学科へ進学、1年生のときに『日々国際化する東京では、警察官も英語が必須になる』というドキュメンタリー番組を観て、『人の役に立てて、英語も活かせる』と考え進路を決めた。

 

だが両親と進路について話し合ったところ、「約束が違う!」と叱られた。

 

ひとり娘ということもあり、両親は実家から通える地元の信用金庫か公務員になるものだと考えていたという(そもそも地元に残るなどという約束はしていない)。

 

半ば喧嘩別れのような形で2年生からキャンパス近くにアパートを借り、コールセンターのアルバイトで資金を貯めて警視庁採用試験を受けた。

 

英検2級、TOEIC880点という大学時代の努力が報われたのか、晴れて警視庁警察官として採用された。だが両親とは最後まで意見が分かれたまま、上京することになったのだった。

 

警察官として勤め、2年が経過した。

 

初任は万世橋警察署の内勤だったが、やはり英語力がモノを言わせたか、本年4月より晴れて築地警察署勤務、数寄屋橋交番配属となった。

 

だが実際のところ、庁内で云われる『数寄屋橋は公用語が英語』などという噂とは、まるでかけ離れていた。

 

たしかに土地柄、外国人の姿は多いが、思ったほど交番に立ち寄らないのだ。中村いわく「彼らは警官は恐ろしい連中だと思ってるから近寄らない」のだそうだ(どうやらそれは事実らしく、短期留学していたホストファミリーのパパに訊いたところ、警官はとてもフレンドリーに話しかけられる存在ではないと断言した)。

 

加えて最近はGoogleマップという文明の利器があるため、倉嶋が期待するほど英語力を活かせるチャンスはなかったのだ。

 

来る日も来る日も日本語を話す日本人を相手にし(日本人なのになぜか日本語が通じない場合も多いのだ)、週2回の夜勤をこなすごとに班長からどやされ、挙句趣味のメイクもがんじがらめの服務規程と、尋常でない暑さで約に立たない始末・・・。

 

(進路、間違えたかなあ・・・)。

 

気が付くと、完全に筆が止まっていた。早く仕上げないと、また班長からカミナリを落とされてしまう。

 

「ほれ」

 

脇から、中村がポカリスエットを差し出した。

 

「疲れたときは糖分取れ」

 

倉嶋がポカンとしていると、「さっきは怒鳴って悪かったな。どうもこの暑さで、オレも脳髄が溶けてきたらしい」

 

「ありがとうございます」少し嬉しかったが、それ以上に倉嶋は警戒を強めた。

 

なんだかんだ言って中村は優しいのだが、こういうときは決まって無理難題をふっかけてくるのだ。

 

「倉嶋、それ書いたらメシ食って少し休め。オレとお前、今日も夜勤だ」

 

疲れも嬉しさも一撃で吹き飛ばされ、絶望が彼女の視界を覆った。

 

「すまんな、本署からの交代が来ないんだ」

 

「あの、なんで・・・・」

 

「よくわからんが、あっちこっちで車の衝突起きて人手が足らんらしい。それに昼になってから、無線も電話も本署につながりにくいんだよ」

 

暑さでアンテナ焼けたかな~、と言いながら、中村はいつも懇意にしている近所の蕎麦屋に電話をかけた。

 

「やっぱり、立会軒も通じない。交代くるまで頑張るぞ」

 

せっかく出てきたやる気が萎えてしまった。

 



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ー異変Ⅲー

「6月4日月曜日、時刻は午後3時になりましたー、キャピタルFM『キミ―のhappy Monday!』みなさまいかがお過ごしでしょうか、キミ―こと吉住紀美子です。今日も東京半蔵門にあるCFMスタジオから生放送~!」

 

関越自動車道沼田ICに差し掛かるあたりで、近藤は毎週聴いているラジオ番組にチューニングを合わせていた(番組のファンということもあるが、パーソナリティーが中学時代の同級生という理由も大きい)。

 

「今日も東京は最高気温が39℃、暑いですね~。さて、午前中のニュースでもお伝えしたように、本日都内西部で大規模な停電がありましたが、さきほど復旧したと、東京電力から発表がありました。ねー、昨日もありましたけどね、連日の暑さで電力消費が間に合わないんでしょうかね。でもエアコンかけないと暮らしていけない暑さですよねー。さあ、今日も番組スタートです!さてさて、今日のお題は、『真夏じゃないのに肝試し!ドキッとしたたこと』真夏じゃないって、もう真夏じゃんね・・・」

 

まったくだ、と近藤は心の中でつぶやいた。

 

「日常の中でドキッ!としたこと、肝を冷やしたこと、教えてください~。FAXの方は東京03-・・・・。Twitterの方はハッシュタグ“ハピマン”。番組サイトのメッセージフォームでも受け付けてますよ~。今日も夕方5時まで生放送~!」

 

明るく快活な彼女の声としゃべりは、学生時代から変わっていないが、ここ最近は「メイクのノリが悪くなった」だの「スタジオまでの坂で息切れするようになった」など、年齢の進化を感じされることも多い。

 

お互い年をとったモンだな、と自嘲した。それにしても小腹が空いてきた。そういえば取材中は暑さで食欲が湧かず、昼食をとっていなかったのだ。

 

道路標識を見ると、赤城高原SAまで7キロと書かれていた。ちょうどいい、腹ごしらえしてくか。この調子だと、夜7時には月島にある自宅へ戻れるだろう。

 

「早速メッセージが届いてます~。新宿区にお住いのラジオネーム『はんぺん大臣』さん。“キミ―さんこんにちはー、今日の停電には参りました”ホントですよねぇ・・・。えー、“今日のテーマですが、僕は自動販売機の管理をしているのですが、午前中最初の現場で自販機を開けたところ、いきなりカマキリが飛び出してきて、思わず『ウヒャ!』て悲鳴上げちゃいました”・・・。あー、こういうのビックリしますよねぇ~。私も今年の冬に、久しぶりに掃こうとしたブーツからゴキブリが出てきて、腰抜かしました。続いては、杉並区の会社員『飲んだくれOL1号』さん。キミ―さんきいてください、さっき得意先回りしてたら、赤い洗面器を頭に乗せた男が・・・」

 

続きが気になるが、近藤はパジェロをSAに進め、指定の場所に駐車した。

 

車を降りると、うだるような空気が近藤を包んだ。だが幾分標高が高いためか、東京よりは心地よい。

 

フードコートに入り、きつねうどんを啜ってコーヒーを買おうとした時、ポケットに入れたiPhoneが鳴った。

 

『ようサリー、元気か』

 

独特のブルックリン訛りが耳に飛び込んできた。フリーのジャーナリストでアメリカ人のジョージ・マクギルだった。

 

「ジョージ、久しぶりだな。どうしたんだ?」

 

『いや実はな、いま取材でイトゥルップ島・・・えーと、日本ではエトロフだっけ?そこに来てるんだ』

 

「なんだって?水臭いな、早く教えてくれよ」

 

『いや、今回はロシア極東地域の取材でな、サハリンからクリル諸島入りしたんだよ。でもこれが終われば、日本へ寄ろうと思ってな。それでお前に声かけたんだ』

 

「ほう、いつごろこっちに?」

 

『来週、と言いたいが、こっち噴火のせいで空港が閉鎖されててな、いつ帰れるかわからないんだよ』

 

「あ、そういえば・・・。大丈夫なのか?」

 

『オレがいるところは影響ないけど、さっき噴煙が高く上がったのは見えたよ。まあ、足止め喰らった分、じっくり取材させてもらうがな』

 

「おいおい気をつけろよ」

 

『ああ。また詳しいこと決まったら連絡する』

 

「うん、じゃあな」

 

電話を切ると、近藤はパジェロに向かった。親友との邂逅は楽しみだが、相変わらずキナ臭いとこばかりにいる男だ。

 

(オレも、人のこと言えないか・・・)

 

車に乗り込むと、再び東京方面を目指してアクセルをふかした。

 

だがトンネルでも山岳部でもないのに、ラジオが途切れ途切れにしか聴こえてこない。

 

前方には、広大な関東平野が見えてきた。だが空の上には真っ黒な雲が広がっていた。

 

(こりゃ途中で降られるかな・・・)

 

全国的に水不足だが、北関東は連日激しい夕立が降ると聞いた。関東地区の水源は比較的心配なさそうだが、一度に降る量がおかしいのだ。

 

ふと、近藤は妙な胸騒ぎをおぼえた。夕立のせいだろうか・・・。先に浮かぶ厚い黒雲が先行きを不安にさせるだけなのだろうか・・・。

 



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ー疑念ー

・6月4日 月曜日 16:37 イトゥルップ島クリリスク

※日本名:択捉島(北海道紗那郡紗那村)日本より1時間進んでいる点に留意

 

 

日本の友人と通話を終え、ジョージ・マクギルは空港から集落まで仰げる高台から北を臨んだ。

 

ここから北東へ約50キロに位置するベルタルベ山は、天空へ向けて黒い煙を吐き続けている。

 

ジョージはフリージャーナリストだが、択捉にいるのはまったくの偶然だった。

 

そもそも今回の取材は、ロシア極東地域の産業と生活に迫るという、ニューヨークの相当物好きな出版社からの依頼だったのだ。

 

とはいえフィラデルフィア・ドレクセル大学でロシア語とロシア史を学び、エクソンモービルに勤めていたころも頻繁にシベリアへ飛んでいた事実を鑑みると、ジョージへの依頼は至極まっとうといえた。

 

今回はシアトルから中国・北京を経由し、ユジノサハリンスクで水産業、足を延ばし国後・択捉島の再開発事業に密着するという行程だった。

 

幸か不幸か、択捉島着の翌日、ベルタルベ山が噴火してしまい、数少ない定期旅客便が運航停止に追い込まれていた。

 

そのぶん詳しく取材することができたが、同時に行政を管轄するクリル管区、及びロシア連邦軍の災害対応に違和感を強めていった。

 

2日前のことだ。

 

ベルタルベ山噴火後、ロシア連邦軍が調査ということで航空機と調査船をウラジオストクから派遣してきた。

 

だがクリリスク港に短時間停泊したのは、調査船とはまるでかけ離れた海軍駆逐艦3隻であった。

 

さらにクリリスク空港へ飛んできたのは、空対地、空対艦能力を備えたスホーイ30が数機・・・。

 

最初は調査とはまったく別の名目で、オホーツク海で海空合同実弾演習でもするものかと思った。

 

ところが昨日になり、駆逐艦・スホーイ30共に姿を消した。給油のみの停泊にしては奇妙だった。通常、実弾訓練といえど日中、陽が昇るのを待って行動するものだ。夜が明けないうちにいなくなるというのは不可解だし、そもそも島の上空は噴火により飛行が制限されているのだ。

 

もうひとつ、本日昼にベルタルベ山の噴火が強まったとして、クリル列島すべてに非常事態が宣言された。たしかに、『ドンっ』という爆発音の後、ひときわ大きな黒煙が北から上がったのは確認できた。

 

それでも、南北およそ1000キロに及ぶクリル列島と、サハリンからウラジオストクにかけてのロシア太平洋岸すべてに非常事態が出されたというのは解せない。

 

ジョージ自身、これより強い噴火を経験したことがあった。

 

2010年、アイスランドのエイヤフィヤトラ・ヨークトル噴火の際、ジョージはスコットランドで氷河跡の取材中だった。そのときは300キロ離れたアイスランドから噴き上げられた噴煙がはっきりと確認できた。それから10日間、欧州全域で航空機の運用が制限され、物流に大混乱を引き起こした。

 

今回はどうだ。ベルタルベ山からの噴煙は明らかにアイスランドのそれに劣っていた。

 

この規模であれば、せいぜい北方4島とウルップ島辺りへの警戒で充分なはずだった。

 

「マクギルさん、もう良いですか?」

 

運転手兼ガイドの現地人、レオニドが車の中から声をかけてきた。

 

「おお、そうだな。もう行くか」

 

ジョージは助手席に乗り込むと、ベルトを締めて座椅子にもたれかかった。どうも左側が助手席というのは慣れない。この車も、おおかた日本の北海道あたりから流れてきた中古車だろう。

 

旅客便が再開される見通しはつかず、まだしばらく外見だけ新しいカビ臭いホテルと、色だけ立派でイギリスの料理よりもマズイボルシチの厄介になりそうだ。

 

「マクギルさん、明日はどの辺りを巡りますか?」

 

通行量はそれなりだが、信号機がひとつもない極東ロシアの典型的道路を飛ばしながら、レオニドが訊いてきた。

 

「ああ、今朝宿のイワンが紹介してくれた漁師を訪ねてみよう。アポ取れるか?」

 

「着いたらやってみますよ。もう陸に上がったはずだ」

 

しっかり頼むぞ、高い給料払ってるんだからな・・・アメリカならそんなジョークのひとつでも飛ばしてやるが、融通の利かないロシア人にはただのイヤミになってしまう。

 

7年前、やはり択捉島に降りた際、まだ10代だったレオニドへ支払う日当は1500ルーブル(約25ドル)だった。それが今回は1日で10000ルーブル(約150ドル)にまで高騰していた。

 

ここ数年、国家の中枢からはるか遠く、辺境の地だったクリル列島にも、資本主義の洗礼が訪れたのだ。砂利道でもまともだった島内の道路も、アスファルトできれいに舗装され、軍と大型船の停泊を見越して、クリリスクの港は粗末な木造施設からコンクリートの最前線設備に成り代わっていた。

 

アメリカ人のジョージには、この島が日本のものかロシアのものか、わからないし審判する権利もない。少なくとも既成事実としてロシア領なのは違いないし、今後ますますその傾向は強まるだろう。

 

「おかしいな、また噴火かな」

 

運転しながら、レオニドはつぶやいた。

 

「噴火?あっちのベルタルベか?」

 

「いえいえ、あれですよ、ホラ。海の先」

 

レオニドが指さす方角―オホーツク海上から、うっすらとだが黒煙が上がっていた。

 

「あっちに陸地なんかあったか?」

 

「サハリン・・・いえ遠いですよね?」

 

「・・・レオニド、お前ここの漁師の頭目にコネあるか?」

 

「ええ?まあ・・・母の同級ですから」

 

「これから話聞けるか?」

 

「きいてみますけどね・・・なんだってそんなこと?」

 

ジョージは答えなかった。

 

おそらくは、疑念の回答があの黒煙だろう。

 

こんなこと軍に正面切って訊けない。こんな田舎では、地元のことなら何でも詳しい顔役に突撃取材してみるに限る。

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

・6月4日 月曜日 17:07 ロシア連邦 ウラジオストク

ロシア海軍太平洋艦隊司令部 ※日本より1時間進んでいる

 

 

『ソナー感、接近・・・急速に接近中!本艦に衝突します!』

 

ほぼ悲鳴のような報告の後、鉄が折れ曲がる耳障りな高音がつんざいた。

 

「・・・・いまから30分ほど前、イトゥルップ島沖合30キロです」

 

駆逐艦との交信記録を持ってきた通信担当副官は、顔面が真っ青のまま力なく言った。

 

両手を組んだまま、太平洋艦隊司令のレニング・シルパトキン海軍准将は顔を上げた。

 

「駆逐艦ボエヴォイとの通信はそこまでかね?」

 

「はい・・・交信途絶の6分後、2キロ先沖合を航行中の駆逐艦ブールヌイが、ボエヴォイの沈没・・・もとい、轟沈を確認しました」

 

轟沈・・・そこまでの表現を用いるにしかるべき状況だった。

 

「駆逐艦ボエヴォイは艦体を2つに折り、断裂部から出火。搭載火器に引火し爆発を繰り返しながら沈んだとの報告です」

 

「して、ブールヌイは?」

 

「は、ボエヴォイの轟沈直後から、現場海域を捜索。レーダーに反応なく、威嚇用爆雷散布の用意に入ったところ、1キロ離れた僚艦ベズボヤーズネンヌイが突然爆破・・・ブールヌイの救助へ向かうと報せあり。ブールヌイとの交信記録です」

 

副官はラップトップのキーを叩いた。

 

『ベズボヤーズネンヌイ、激しく炎上。ただいまより消火、救援・・・あれは!?あれは・・・目標浮上、繰り返す、目標、浮上!!』

 

『ブールヌイ、どうした?状況、しらせ』

 

『我、目標と邂逅!艦長より交戦許可!』

 

ブールヌイの通信担当の声から、驚愕以上に恐怖が痺れるほど伝わってきた。

 

『我、目標へ砲撃開始、繰り返す、砲撃開始!!』

 

報告の声は、腹にドンと響く砲撃音に負けぬ大きさだった。

 

『艦隊司令部、近接航空支援を要請!砲撃、効果なし!繰り返す、砲撃、効果なし!近接航空支援を要請、至急!至急!』

 

(あれはなんだ!?)(背びれが光ってるぞ!)

 

『艦隊司令部、我、目標からあああああああーーーー!!??』

 

「・・・・その後は?」

 

「イトゥルップの噴火を避け、ユジノサハリンスクに駐機していたスホーイ30の5機編隊が、通信途絶後10分で現場海域に到達。目標姿なく、炎上するブールヌイを確認したとのことです・・・。現在、当司令部所属の救助船マシュークが現場へ向かっております。また、ニコラエフカ対潜哨戒機編隊が継続して捜索中です」

 

シルパトキンは沈みゆく気を奮い立たせ、まずは頭の中で状況を整理した。

 

「モスクワの国防大臣宛に至急連絡。作戦、失敗。ただちに別命指示を請う」

 

副官は頷くと、敬礼して司令執務室を後にした。

 

もはや、コトは当司令部のみで収まることではなくなった。

 

貴重な駆逐艦を3隻も失ったこと以上に、“ヤツ”には現代の最精鋭兵器がまったく通用

しないこと、そもそも事前に発見することが不可能である、という事実には暗澹たる思いだった。

 

昨日、得撫島の駐屯部隊から報告を受け、「可及的速やかに撃滅せよ、無用の混乱を招くな・・・」モスクワの海軍総司令の命令には愕然とした。

 

領海内での実弾演習、並びにクナシル・イトゥルップの噴火警戒。とにかく適当なお題目で攻撃艦隊を編成。哨戒に当たらせ、目標発見後、速やかに撃滅すべし・・・そう命じた当初は、ごく簡単に発見・駆除が可能と考えていた。

 

だが期せずして、海上警報が届くかどうかのタイミングで日本の漁船が沈没させられた。当艦隊の索敵能力に疑義はない。相手は最新の索敵機器を易々とくぐり抜けられる・・・その頃から、歯車が狂い出した。

 

一昼夜かけても発見には至らず、結局、撃滅のため出港した駆逐艦が撃沈された段階で、ようやく発見。肉眼でようやく会敵できたということは、すなわち会敵後即攻撃を意味した。そして、攻撃は通用しなかった・・・。

 

シルパトキンは受話器を上げ、緊急回線のボタンを押した。

 

モスクワのくそったれ総司令を恨むことはいくらでもできる。駆逐艦喪失の責任を取らされ、艦隊司令の職を解任させられる覚悟もできている。

 

せめて、不本意とはいえ事態を混乱、悪化させた罪滅ぼしをしよう。それがおそらく、自分の艦隊司令として最後の仕事だ―。

 

「シルパトキン准将だ。まず、市長につないでくれ」

 

受話器を持ったまま、シルパトキンは駆逐艦撃沈地点を指でなぞった。

 

「それから、ウラジオストク日本総領事も頼む」

 

 

 



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ー始動ー

「彼」が待ち望んでいた刻が訪れた。

 

この生物の本能に従い、頻繁に生殖活動を繰り返し、子孫を増やしていた。

 

だが「彼」が憑いた生物は、種の特性として産まれた存在すべてが活動可能とは決してならなかった。

 

同じ種族同士で喰らい合うもの、この惑星の支配者に捕獲されてしまうもの。あるいは別の生物に栄養素として取り込まれてしまうもの。

 

※自身で栄養素を生成可能な「彼」にとっては当初非効率極まりないものであったが、なるほど他の生物を喰らうということは、自身で生成するより高い栄養素を得られるものだった。

 

そして「彼」から産まれた生物は、「彼」と同様支配者の波長を拒む能力を得ることはできたものの、元々保有していなかった能力の負担が大きく、波長の阻害に活動力の多くを費やしてしまうのだった。

 

だが、時と進化がそれを克服していった。

 

直近に産まれた種は、新たな能力をごくごく当然な存在として受け入れ、種の活動力を妨げるものではなくなっていた。

 

そして「彼」自身にも変化が訪れた。

 

かつて「主」と共生したとき、「主」の波長を拒む力を得ていたが、この惑星に降りてしばらくすると、「彼」を悩ませた支配者の波長を拒むどころか、相手の波長そのものに浸食、発生を妨害する能力を得るに至ったのだ。

 

支配者は自身が作り上げた波長が機能しないと、驚くほど脆弱なようだった。

 

支配者が築いたものはこの惑星に住む他の生物にとって重大な脅威だったが、それらは波長によってその機能を全うしており、波長を阻害してしまうと、その機能を停止してしまうのだった。

 

この事実は「彼」に新たな欲望を産んだ。「彼」が降りた地は、惑星でも有数の支配者たちの営巣だった。ここを自身の拠点として支配者を追いやり、「彼」が新たな支配者となれば・・・。

 

惑星降下直後こそ「彼」とその容器となった生物は支配者に比べ大きく見劣りしたが、いまや「彼」はその巨体を隠すことに苦労するようにすらなっていた。

 

直近の種が孵化し、波長妨害能力を基本に据えたものたちが現れたことによって、いよいよ「彼」は、支配者たちを巣から追い出すことにした。

 

動き出した「彼」に、たまたま近くにいた支配者の一人が気が付いた。「彼」も同じだった。

 

その二足歩行の支配者は地に崩れ落ち、驚愕の表情で「彼」を凝視する。もはや「彼」の体格は支配者を見下ろすに十分な大きさだった。

 

「彼」は支配者の一人に近寄ると、左前足を振り下ろした。

 

支配者は真っ二つになり、大量の体液を噴き出しつつ、動かなくなった。

 

なるほど、物理的なダメージを与えると活動を停止するのか。

 

「彼」はそのまま、動かなくなった支配者を捕食した。栄養素が豊富だ。

 

この惑星で新たに得た能力『食事』を愉しむと、「彼」は自身の思念が及ぶ子孫たちに伝えた。

 

―動け、喰らえ―

 

「彼」の子孫たちはその命に忠実に行動するのだ。



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ー襲来ー

・6月4日 月曜日 16:49 東京都千代田区麹町1丁目

キャピタルFM 第一スタジオ

 

 

「それではこの時間のCFMニュース。報道情報センターの神崎さんです。お願いします」

 

パーソナリティ・吉住紀美子の快活な口調に促され、神崎はニュースを読み上げる。

 

「お伝えします。さきほど入りましたニュースですが、ロシア・インタータクス通信は、ロシア海軍太平洋艦隊司令のレニング・シルパトキン准将が拳銃で自殺したと報じました。ロシア海軍のスポークスマンによると、シルパトキン准将は、択捉島・ベルタルベ山の噴火対応で精神が極めて不安定だったと伝え―」

 

そのときだった。スタジオのすべての電源が一斉に落ちた。報じていたアナウンサーも、パーソナリティの吉住も、控えている番組ディレクターも構成作家も突然の出来事に戸惑った。

 

「おい、予備電源」

 

その中でもディレクターは冷静にアシスタントに命じた。アシスタントの1人が機械設備室に走っていった。

 

「また停電だね」

 

パーソナリティの吉住は、灯りの消えた天井の蛍光灯を見つめて、誰にともなくつぶやいた。

 

「参ったなあ、放送事故だよ」

 

ディレクターは頭を抱えた。彼は放送局の設備に何らかのトラブルが起きた程度に考えていたのだ。よもや放送局のスタジオはおろか、東京の広範囲が一斉に停電したという事実を知るのは、だいぶ後になってからだった。

 

「ちょっと、見て。あっちのビルの壁」

 

吉住が指さす方を見ると、隣のビルの壁に緑色の何かが多くうごめいている。

 

「ありゃカマキリだよ。あんなにたくさん気味が悪いな」

 

構成作家が言うと、そのうち何匹かが飛んできて、放送局のガラス窓にへばりついた。

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都中央区八重洲1丁目

大倉百貨店 地下1階 食料品売り場

 

 

「マネージャー、バックヤードにネズミが・・・・」

 

パート従業員から小声でささやかれ、総菜マネージャーの伊藤順平は店頭商品チェックの手を止め、バックヤードに向かった。

 

都内でも有数の規模・伝統を誇る大倉百貨店とはいえど、ここ食料品売り場を中心に建物の裏や隙間に潜むネズミとの戦いは避けて通れなかった。

 

せめてお客様がいらっしゃる売り場まで出すことなく、バックヤードで処理しなければならない。

 

「ネズミはどこ?」

 

「それが、壁際で死んでるんです」

 

なあんだ、伊藤はそう言いそうになった。

 

生きているネズミは非常にすばしっこく、食品を取り扱う現場としては厄介な相手だが、死んでいるのなら話は簡単だ。

 

ちりとりで亡骸をすくい上げ、生ごみとして処理すれば良いだけだ。その後はネズミが侵入したとおぼしき穴を見つけ、修繕伺いを総務に提出すれば、提携の施工業者が何とかしてくれるだろう。

 

死体を片付けるのは正直ありがたくない仕事だが、大倉百貨店に入社して早15年、最初はネズミを見ると青い猫型ロボットばりに悲鳴を上げていた伊藤だったが、いまではすっかり処理にも慣れたものだった。

 

だがパートに案内された伊藤は、30分ほど前にようやく摂れた昼食の中華弁当を吐き出しそうになった。

 

ネズミは自然死や病気によるものではなく、全身を何かに齧られたような痕があったのだ。

 

(これは猫が入ってきたのか?いやネズミは共食いするんだっけかな?)

 

必死に吐き気を我慢して、伊藤は無残な屍をちりとりで片付けた。生々しい血痕が床にこびりついていた。

 

ふと足元を見ると、別なネズミが猛スピードで段ボール箱の中にもぐり込んだ。

 

生きてるヤツを相手にするのか・・・と思った刹那、まるでネズミを追いかけるように数匹のカマキリが段ボール箱に侵入した。

 

ネズミの甲高い悲痛な鳴き声がしたかと思うと、段ボール箱から異様な音が聞こえてきた。

 

バリバリ、バリバリ・・・・・。

 

中がどうなっているのか、恐る恐る段ボール箱を開けようとしたとき、バックヤードの照明が落ちた。

 

(ネズミが配線齧ったかな?)

 

だが表を見ると、売り場の照明も落ちていた。しかも奇妙なことに、非常灯すら消えてしまっている。

 

お客と従業員から悲鳴とどよめきが上がった。

 

やや混乱しながらも、スマホのライトをつけて足場を照らし出す。

 

伊藤もそれにならって自分のスマホをポケットから取り出した。

 

そのとき、左足首に鋭い痛みが走った。

 

 

 

 

・同時刻 東京都目黒区三田1丁目 JR山手線外回り電車内。

 

 

乗車率80%の退勤ラッシュ前の車内。熱された外気のせいで冷房も満足に効かない中、大牟田美樹はあくびをしながら、友人の寺田淳美とLINEでやり取りをしていた。

 

『また来たよ、あのクレーマー』

 

『おつかれー。マジ?』

 

『うん。品揃え悪いだの、あいさつの声が小さいだの』

 

『あのじいさんもう出禁で良いんじゃない?』

 

『ホントだよね。店長気きかせろよって』

 

そんな他愛もないやり取りをしていると、左横から聞き覚えのある声が聞こえた。

 

「おい、席を譲れ」

 

席に座っているサラリーマン風の若い男性はキョトンとしている。

 

美樹の左隣にいる老人・・・まさしく、いま淳美とのLINEに登場したクレーマーだった。

 

見られてはマズイと、美樹は右側に顔を背けた。

 

「若い者が座りやがって」

 

(なんで仕事終わってなおコイツの毒つき耳にしなきゃいけないの・・・)

 

間もなく恵比寿だ。まったく予定にないが、美樹は次の駅で電車を降りることにした。

 

座っていたサラリーマンが渋々席を立ったときだった。突然電車が急ブレーキをかけた。いや、正確には急ブレーキがかかったのだ。

 

立っている者の何人かは積み木が崩れるようにバランスを崩し、床に転倒、または隣の乗客にぶつかった。

 

美樹は辛うじて吊革にしがみついたが、立とうとしていたサラリーマンは哀れ派手に床へ転がった。

 

電車は完全に停止した。車内の電気も消えてしまった。

 

乗客がざわつく中、(電車って電気消えるとこんなに薄暗いんだ)と自分でも思うほどに美樹は冷静だった。

 

「また停電かよ」「ちょっと、どーなってるの」

 

乗客たちは驚きが困惑と怒りに変わる。

 

「まったく、高い金払って乗ってるというのに」

 

例のクレーマーはちゃっかり席に座っていた。電車が急停車したことより、美樹は如何にして早くこのクレーマーから遠ざかれるかを気にしていた。

 

やがて乗客の何人かが、電車の中にも関わらず外に電話をかけようとしてスマホをいじり出した。

 

「あれ?繋がらない」「また通信障害かよ、こんなときに」

 

昨日から断続的に通信障害が発生しているとは聞いていたが、運が悪いんだな、程度にしか美樹は感じなかった。それよりも早く動いて、恵比寿駅に止まってくれないかな・・・?

 

ゴン、ゴン、ゴン・・・・。

 

電車の外から、何かを叩くような音がした。

 

「ひゃあああ!」

 

それと同時に、入り口近くの女性が叫んだ。ガラス窓に数匹のカマキリがへばりついてきたのだ。

 

「やかましい!」

 

悲鳴を上げた女性を罵ったのは、例のクレーマーだった。

 

(地獄に落ちればいい・・・)

 

美樹がそう思ったまさにそのときだった。

 

クレーマーの背後でガラスが割れた。皆の注目が集まったが、さらに大きな悲鳴が上がった。

 

緑色ののこぎり・・・もとい、大きなカマキリの鎌が、クレーマーの脳天を文字通り割っていた。

 

「ア・・・・アア・・・・アあ」

 

口をパクパクさせながら、クレーマーは前のめりに倒れた。ピンク色の物体が脳天からあふれ出してきた。

 

脳天を割ったカマキリは、大型犬ほどもある身体を窓から侵入させた。

 

「ぎゃあああああ!!」

 

皆絶叫しながら、車内後方に殺到した。足がもつれて転んだ中年の男性が床に倒れ、そこをかまわず踏みつけて逃げる乗客。

 

呆気にとられていたサラリーマンを、カマキリは右の鎌で払った。

 

サラリーマンは腹部を割かれ、悶絶しながら大量の血液をまき散らした。

 

どうにか車内後方まで逃げた乗客は、急ぎ戸を開けてさらに後方へ向かおうとした。

 

だが、先頭を走っていた男性はそこで足を止めた。

 

後方の車内には、既に4匹の巨大カマキリが居座っていた。

 

一気に異様な臭いが漂ってきた。

 

カマキリたちは、既に数名の乗客を屠り、そして食べ始めていた。

 

呆然とする乗客たちの背後から、さらに別なカマキリが襲い掛かった。

 

血の海にへたり込んだ美樹は、いつの間にか自分の左手首から先が失われていることに気がついた。

 

激痛と驚愕に耐え切れず叫ぶ美樹。次に激痛が走ったのは、左こめかみ辺りだった。

 



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―襲来Ⅱ―

・6月4日 月曜日 17:22 東京都中央区銀座4丁目

警視庁築地警察署 数寄屋橋交番

 

 

少し休め―上司の中村に言われ、交番奥の休憩室で倉嶋が休めたのは本当にごくわずかであった。

 

先ほどから交番が面する都道304号線、通称晴海通りで信号機の異常が多発、追突事故が相次いでいるのだ。

 

そのため激しい渋滞が発生、まったく動かない道路に業を煮やしたドライバーたちが、倉嶋や中村ら対応に当たる警察官たちに陳情、あるいは八つ当たりをしてくる始末であった。

 

その中で倉嶋が対応した案件は、ただの信号機トラブルによるものではなさそうだった。

 

持ち主であるプリウスの運転手によると、何もしていないのに急に車が止まり、あとはキーを回してもウンともスンともいわなくなったそうだ。

 

聴取しているわきから、苛立ち気味なドライバーたちが倉嶋に詰め寄る。

 

「おい、ケータイ通じないぞ」「この辺どうなってるんだ!?」

 

(そんなこと私に言われても・・・)

 

原因がわからない以上、とにかくなだめすかすしかなかった。

 

信号機は完全に停止、状況を報告すべく無線で署に呼びかけても返事がない。いま何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。

 

喧噪、怒号が飛び交う数寄屋橋に、やがて妙な音が鳴りだした。

 

ブーン、ブーン・・・・ハエが飛ぶ音に似ていた。だがここまで大きいものが聞こえるだろうか・・・。

 

「うわっ」

 

倉嶋に食ってかかっていたドライバーが空を見上げた。倉嶋は彼の視線を追った。

 

数寄屋橋の空に、無数のカマキリが飛び交っていた。壮絶な光景だった。ビルの壁にビッシリと張り付き、看板にもたくさんの群がうごめいている。他の警官やドライバーもそれに気づき、空を見上げてポカンとするしかなかった。

 

「ぎゃあ!」

 

すぐ近くで悲鳴が上がった。スマホがアスファルトの道路に転がり、1人の中年男性が右足首を押さえてうずくまっている。

 

「大丈夫ですか?どうしまし・・・」

 

思わず倉嶋は息を呑んだ。男性の傍らに、猫ほどはあるカマキリが両手の鎌をもたげていた。

 

カマキリは振り上げた鎌を男性の臀部に降ろした。「いっでぇ!」信じられないが、革製のベルトごと男性の皮膚を切り裂いた。

 

「うぎゃあ!」「いでで」

 

するとあちこちでドライバーが崩れ落ちだした。倉嶋のそばに停まっているアルファードのボンネットに、倉嶋の上半身ほどはあるカマキリが舞い降りた。

 

容赦なくカマキリは鎌を振るった。すんでのところでかわし、倉嶋は足と臀部を怪我した男性をかかえあげた。とにかく、どこか建物に入らないと・・・・。

 

倉嶋は身を低くし、車列の隙間を縫ってとにかく交番を目指した。晴海通りは大混乱となり、慌てて車に戻り、カギをかけてすくだまる者、近くの銀座ルミネやZARAに逃げ込む者―。

 

ボンっ!という音が倉嶋のすぐ近くで聞こえた。目と鼻の先、BMWのボンネットに現れたカマキリは、人間ほどの大きさだった。威嚇のため持ち上げた鎌から、鮮血がしたたっていた。

 

さっぱりワケがわからず、とにかく現場を離れようとした。フッ、と空を切る音がして、男性を抱えていた左肩が急に軽くなった。違和感に左を向くと、倉嶋の髪の毛にべったりと血がついていた。男性は右手を倉嶋に預けたままー右手が断裂した状態で、地面をのたうち回っている―。

 

「いやあああああ!!」

 

たまらず倉嶋は悲鳴を上げた。腰を抜かした倉嶋に、その大きなカマキリは飛び上がって襲い掛かった。

 

パン!パン!

 

乾いた音がすると、カマキリはドサッと倒れこんだ。透明な体液が倉嶋の靴元に広がった。

 

「倉嶋、逃げろ!」

 

同じ交番に勤務する高田だった。手には警視庁制式拳銃、SAKURAが握られている。

 

高田は果敢にも、近くで女性を追いかけ回しているカマキリに銃弾を撃ち込んだ。さらに伸縮式の警棒を引き抜き、飛び交う小型のカマキリをバッタバッタと払いのけるように叩き始めた。

 

「ほれ、みんな逃げろ!倉嶋ぁ、誘導しろぉ!」

 

恐怖に立ちすくむ人々に声をかけ、さらに高田は快進撃を続ける。どうにか倉嶋は立ち上がると、警察官としての自身の職務を思い出した。

 

「みなさん、建物の中へ!」

 

怒号と悲鳴の中、必死に声を振り絞った。近くにいた者たちを中心に、倉嶋の誘導の元銀座ルミネになだれ込む。

 

周りを見ると、班長の中村と同僚の寺田巡査長もルミネへと人々を誘導していた。

 

ひとり、高田は怪気炎を上げ、どんどんカマキリを倒していく。勇敢、というよりも、半ば狂っているようにも見えた―。

 

「高田ァー、うしろだー!」

 

班長の中村が叫んだ。汗まみれの顔を後ろに向けた高田は全身が硬直した。4トントラックほどはあるカマキリが頭上で高田を凝視していた。

 

「ひいいぃー!」

 

恐怖とも怒りともつかないおたけびを上げ、高田はなお警棒を振り上げた。だが、高田の身長よりも大きい鎌で身体を袈裟斬りにされた。

 

「あかッ・・・・」

 

口からドッと血があふれ、なぜか自分の足元が視界に飛び込んできたところで、高田は意識が遠のいた。

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都千代田区永田町2丁目 総理大臣官邸

 

 

国内で相次ぐ災害への質疑で、紛糾した国会を後にした瀬戸と望月一行は、休む間もなく執務室から地下1階の危機管理センターへと向かうべくエレベーターに乗り込んだ。

 

正直、国会で野次だらけの時間を過ごすより、現在の状況把握と対応を協議する時間でありたかった。

 

疲労ばかり募る国会から戻ると、都内各地で停電、さらにカマキリの群れが人々を襲っているというよくわからない状況報告を受けた。

 

「駒場警察庁長官によると、カマキリは人を襲う上、捕食するとのことです」

 

望月からの報告にも、頭を抱えるばかりだった。あんな小さな生物がなぜ、どうやってそんな芸当を?

 

「停電と何か関係があるのか?」

 

「現在のところ、不明です」

 

瀬戸は目をつむった。原因はともかく、事実として都内各地でカマキリが人を襲う上、停電で激しい混乱。総理大臣としてやるべきことは、早急に自衛隊に出動を命じ、警察、消防と協力して対応に当たらせること、及び一刻も早い停電の復旧を目指すことだろう。

 

「要件としては、これは災害派遣かね?」

 

瀬戸は望月に尋ねた。彼は在職8年。戦後最長期間を官房長官として勤めてきた内閣の“先輩”でもあるのだ。

 

「むしろ、治安出動が妥当でしょうなあ。カマキリだけでなく、混乱した都民の保護―場合によっては鎮圧も想定しなくてはならん状況です」

 

治安出動―また野党に突っ込まれるだろうが、現状それしか為すべきことはない。

 

(肚をくくらねばならんな)

 

瀬戸は1人頷いた。そのとき、ガクン、という音がして、エレベーターが上下に揺れた。

 

「どうした?」

 

瀬戸は誰ともなく訊いた。SPがインカムに手を当て、外部に呼びかける。

 

「インカムが聞こえません」

 

SPの中でも若手と思われる男が焦りを見せた。

 

年長のSPがエレベーターの緊急通話ボタンを押したが、待てども返事がこない。

 

「まさか、ここも停電したのか?」

 

頭上を見上げながら瀬戸がつぶやいた。自身でもそれはあり得ないと認識していた。外部電源が途絶えたとしても、首相官邸は自家発電でその機能を失うことはない・・・はずだった。

 

 

 

 

 

・同日 17:51 千葉県君津市君津1番地 新日鉄住金君津工場

 

 

「おい、あれなんだ?」

 

これからの夜勤に向けて、早めの夕食を取ろうとしていた工員が、社員食堂から窓の外を指さした。

 

東京湾を挟んでのぞむ夕暮れの東京。いつもなら、都内にそびえるビル群の航空灯がともる時間だが、ただただオレンジ色に染まるのみ。人工の灯りがまったく確認できなかった。

 

それもおかしなことに、あちこちで黒い煙が上がっているのだ。

 

「火事にしちゃ数が多いな」

 

「ここで線香くらいの煙に見えるってことは、ありゃよっぽど大きいぞ」

 

食堂にいる全員が窓の外に遠く広がる東京へ注目していた。

 

やがて彼らは、視線の先にひときわ大きな黒煙、もとい爆炎が上がるのを目撃した。

 

「お、おいい、あれ・・・!」

 

「飛行機だ・・・」

 

「はあ?」

 

「見たぞオレ、さっき飛行機が落ちてくの・・・・」



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ー彷徨ー

・6月4日 月曜日 18:07 神奈川県横浜市中区日本大通1番地

神奈川県庁 第二分庁舎内 安全防災局 危機管理センター

 

 

「ええ、ただいま県警と消防から詳しい情報を取得してる最中です」

 

「外務省もフランス大使館も連絡がつきません、情報は京都の在日フランス総領事館へよこしてください」

 

浮足立った職員たちの緊張を含んだ声と、あちこちで鳴り続ける電話で騒然とする神奈川県庁危機管理センターだったが、清水安全防災局局長に続いて八田部 侑神奈川県知事が入室すると、緊急回線番以外の全員が起立し、一礼した。

 

八田部は局長の案内で「対策本部長」と書かれた札のある席についた。先に到着していた富井神奈川県警副本部長が90度のお辞儀をし、八田部のために椅子を引いた。

 

「おつかれのところ、誠にもうしわけありません」

 

緊張のためかやや上擦った声で、富井は労いの言葉を出した。

 

「いえ」

 

八田部は短く返し、「移動の車内で簡単な報告は受けましたが、いま一度詳細を教えてください」と正面のモニターを正視したまま言った。

 

モニターにはもうもうと噴きあがる黒煙と、その下で勢いよく燃える炎が映し出されている。別なカメラで撮っているのだろう、突然の出来事を眺める人、スマホをかざす人、続々到着するパトカーや消防車が見てとれる。

 

「はあ、20分ほど前です。パリ・シャルル・ド・ゴール空港発羽田空港行のエールフランス275便が、羽田空港着陸前に制御不能との通報あり、その直後に羽田空港管制塔との連絡も断絶しました。それから、15分前、飛行コースを大きく逸れたエールフランス機が、東京都世田谷区、二子玉川付近に墜落しました。現在、正確な墜落地点を確認中ですが・・・この様子では、川崎市高津区にも被害が発生していると思われ・・・」

 

「東京で発生している停電や通信障害との関連は?」

 

「はあ、なんとも」

 

この富井副本部長は勉強のみをがんばってきたタイプなのだろう。この手の役人にありがちな、なんとも歯切れの悪い言い回しだ。

 

「こちらも現在確認中ですが、川崎市東部で原因不明の停電、及び通信通話障害が発生していると、川崎市役所の危機管理課から連絡があったところです」

 

清水局長が補足してくれた。

 

「霞が関との連絡は?」

 

「17:30頃から、まったくもって不通です」

 

八田部は大きくため息をついた。

 

「失礼します、遅くなりました」

 

県議会から抜け出してきた谷口副知事がやってきた。

 

「八田部知事、保土谷と座間の駐屯地ではすでに準備を整えているそうです」

 

「そうか、わかった。ただちに公安委員会を招集してくれ」

 

八田部が県庁へ戻るまでの間、県議会の合間を縫って谷口は県内の自衛隊駐屯地と連絡を取っていた。

 

「清水局長、今回の航空機墜落事故対応のため、県知事として、自衛隊に災害派遣を要請する。至急要員を集め、準備に当たってくれ」

 

短く頷くと、清水は控えていた関係者に矢継ぎ早に指示を出し始めた。

 

「谷口さん、この状況で、大沼都知事は災派要請を出せるものかな?」

 

やや私的な会話となるため、八田部は声のボリュームを一段落とした。

 

「おそらくは、難しいでしょう。うちに出向してる総務省の人間から聞きましたが、都内の停電と通信障害は、渋谷と新宿がもっともひどいらしいです」

 

「都庁も霞が関も機能せず、か・・・」

 

八田部はふうっと息を吐くと、用意されていた水を一口飲んだ。用意してずいぶん時間が経ってたのか、まったく冷えていなかった。

 

どうやら、ここ神奈川県が半身不随となりつつある東京に代わって危機対応を迫られることになりそうだ。

 

そういえば・・・午前中まで開催されていた全国知事会で一緒だった、会田千葉県知事と房川埼玉県知事はもう戻ったろうか?

 

デスクの受話器を上げ、交換台に告げた。

 

「千葉県庁と埼玉県庁に連絡をとってくれ、各県知事と話をしたい」

 

言いながら、電話線を経由する東京が停電していることを思い出した。うまく繋がるだろうか・・・。

 

 

 

 

 

・同日 18:41 大阪府大阪市中央区大手前2丁目 大阪府庁舎 政策企画会議室

 

 

「やあ、また来ましたよ」

 

改めて出迎えた原田大阪府知事に、やや横柄な口調で小林愛知県知事が声をかけた。

 

昨日から本日午前中まで、年一回の全国知事会定例会議が、ここ大阪で開催されていた。本来は47都道府県知事すべてが集うことになっているのだが、北海道や新潟、長崎や鹿児島など、現在進行形で災害対応に当たっている各知事の欠席が相次ぎ(大沼東京都知事は都内停電への対処と、東京五輪準備のため欠席)、出席者数が過去最低の知事会となってしまった。

 

ホストとして数か月前から準備を重ねていた原田にとっては面目丸つぶれだったが、今回は事が事であるだけに、致し方なかった。

 

知事会の内容も、当初予定されていた議題とはかけ離れ、ここ一ヶ月国内で発生が続いた災害のことばかり話された。

 

大抵の知事は午前中で予定を終え、各地元へと帰途についたが、大阪で地元のPR活動や行政機関等の視察のため、大阪ないしは近畿圏内に残っていた知事も少なくなかった。そのため、急遽招集に比較的融通の利いた知事が大阪府庁に集ったのだ。

 

その中には、2年1期で知事会長を務める侭田島根県知事の姿もあった。臨時も臨時とはいえ知事会に使用するにしてはやや殺風景な会議室だったが、とりあえず即席の会議として体裁は整った。

 

コの字に並べられたテーブルには、以後必要に応じてこの場に不在の各知事とリアルタイムで会話できるよう、スカイプを立ち上げた状態のパソコンが設置されていた。

 

「えー、それでは、お忙しい中みなさんまた御集りいただき、ええー感謝します」

 

知事会長である侭田が口上を述べたが、侭田は県議会でも知事会でもたびたび指摘されるほど、とにかくしゃべりが苦手だった。このような事態にも関わらず、つっかえながら会議を回そうとする侭田に苛立つ列席者も多かった。

 

「侭田さん、事態は急を要するんだ。さっさと議題からいこう」

 

小林が苛立ちを隠そうともせず、侭田につっかかった。

 

「ああ、はい。えーそれでは、さきほど八田部神奈川県知事と、会田千葉県知事から要請と、さて、提案がありまして」

 

煽られた侭田は伏し目がちに、慌てて作られたであろう次第を読み上げた。まったく変わらないテンポに、今度はあちこちから失望気味に嘆息が漏れた。

 

(持ち回りとはいえ誰だ、こんな男を会長に推薦したのは)

 

進まない事態にうんざりとばかりに、小林は目を手で覆う。

 

(なんで私なんかが会長にされたのかなあ・・・)

 

当の侭田も、ほとほと弱っていた。

 

 

 

 

 

・同日 18:58 東京都中央区新富1丁目 首都高速都心環状線 京橋ランプ付近

 

 

まったく映らなくなったカーナビを恨めし気に見つめつつ、近藤はパジェロの中で大きくあくびをした。

 

関越道を進み、東京外環道に入ったまでは車の流れも順調だった。本来はそのまま環状線を湾岸線まで進め、有明から月島の自宅があるオンボロ賃貸マンションへと戻るつもりでいたのだ。

 

ところが夕刻頃、どういうわけか首都高が尋常でなく混み始め、少しでも渋滞のなさそうだった駒形~箱崎ルートを進もうとした。その折、新宿にそびえるビル群の向こうに黒煙が上がり、職業柄向かおうとテレビ、ラジオをつけたが、どこも停波したのか何も聞こえない。

 

やがてカーナビも更新されなくなるころには、多少車が動いていた銀座方面へ活路を求めて車線を変えた。そこが運の尽きだった。

 

京橋ランプがほんの数十メートル先だというのに、車はさきほどから1センチも進まない。いくら渋滞が名物なのと、時間的要素があるとはいえ、このままでは夜が明けても動かないのではないか・・・。

 

もういっそのこと車を乗り捨てて、高架の下に見えるファミリーマートでおにぎりでも買ってくるべきか・・・。

 

空腹と暑さにうんざりしていると、ふと気がついた。

 

先に見える汐留の高層ビル群、夜に差し掛かっているのに真っ暗なのだ。

 

はて、汐留でもひときわ目立つ電通に倣って、みんなで残業すっぽかしでもしたのだろうか・・・?

 

そんなバカな、だがそんなバカなことが目の前で起こった。

 

高速道路の外壁の向こうにあるオフィスビルやマンションが、一斉に電気を消した。いや消したというより―停電したのだろうか。

 

それどころか、渋滞の車列から放たれるヘッドライトもテールランプも消えてしまった。

 

溢れんばかりの光に満ちた東京が、一気に真夜中になってしまったようだ。

 

無論、近藤のパジェロも同様だった。

 

(まさか噂のEMP兵器ってやつかな?)

 

自分でもまさかとは思ったが、近藤の発想はあながち間違えていなかった。

 

ドン!

 

真上から震動と共に音が聞こえた。誰かが天井に乗っかりでもしたのか?

 

ドアを開けて確認しようとしたとき、フロントガラスが派手に割れ、何かが飛び込んできた。

 

ギョロっとした大きな二つの目、三角形の顔に、おちょぼ口だが鋭い口・・・カマキリ?

 

だがそれは、近藤の知るカマキリにしてはずいぶんと大きかった。目玉ひとつとってもおにぎりくらいあるだろうか・・・?

 

恐怖と本能でドアを蹴り開け、慌てて走り出したのは、そんな冷静でバカバカしい考察をしてる刹那であった。周りの車からも、人々が飛び出してくる。危うく目の前で開いたドアに少し身体をぶつけながらも、近藤は京橋ランプを目指して走った。

 

どうやら大きなカマキリは一匹だけではなさそうだった。すっかり暗くなった空を見ると、人工的な明かりが失われて月光に照らされる面以外は漆黒となったビルの上から何匹かカマキリが飛び降りてきた。

 

不快な羽音を響かせながら、近藤のすぐわきをカマキリが飛び去ると、数メートル先を走る男性に密着し、両手で男性の頭を刺した。

 

(ウソだろ・・・・)

 

大きいとはいえ、カマキリの鎌が人間の皮膚はおろか骨まで突き破るなんて・・・。近藤は明確に悟った。自分は今、生命の危機に晒されている。

 

とにかくランプを走り下り、息が上がるのもかまわず建物に避難しようとしたとき、目の前を走る男性が転び、近藤も巻き添えを食ってしまった。

 

さきほどおにぎりを買おうかと思ったファミリーマートの自動ドアに激突し、左肋骨辺りに鈍く強い痛みが走った。

 

自動ドアは半開きのまま止まっていて、怪我の功名、とばかりにはいつくばって店の中に入った。

 

だが、動きが鈍った近藤は恰好の獲物だったのか、一匹が背中に乗ってきた。

 

「うおおおー!」

 

怒声を上げて近藤は床を転げまわった。無我夢中で気がつかなかったが、振り落とされたカマキリは近藤の背丈ほどはある大型の一匹だった。

 

尻を引きずりながら、近藤は店の奥にあるトイレへ隠れようとした。だがカマキリはそれを許さず、近藤に詰め寄る。

 

近藤は棚に陳列されている商品―マスクや石鹸やらを手当たり次第に投げつけた。大型化したカマキリは比例して頑丈らしく、攻撃に意も返さず近藤を追い詰める。

 

(南無三・・・!)

 

亡くなった両親の顔を思い浮かべたそのとき、近藤の右手に何かが当たった。

 

閃きと同時に、近藤はそれをひっつかみ、カマキリの顔に思い切り噴射した。

 

近藤がつかんだもの―殺虫剤をまともに浴びたカマキリは、大きく身を仰け反らせ、そのままひっくり返ってしまった。

 

イチかバチかの賭けに競り勝った近藤は、苦しみもがく大カマキリをそばにあった傘で滅多打ちにした。さすがに頭部への集中攻撃にはかなわなかったのか、しばらくすると大カマキリは動かなくなった。

 

大きく上がった息を整えると、近藤は手近の殺虫剤を何個か持ち、店の奥に身を潜めた。

 

そしてポケットからスマホを取り出し、110番をタップした。

 

だが、何の反応もない。話し中音もしない。確認すると、電波はちゃんと立っているし、充電も少なくない。

 

そういえば、都内で通信障害が起きていると、新潟をでるときニュースでやっていたことを思い出した。いや通信障害だけではない。スマホがメニュー画面のまま、フリーズしてしまった。

 

ひとまず座り込み、近藤は身体と心を落ち着けることにした。

 

外は停電、明かりはなく(月は出ているが)、警察もつながらない。パジェロは高架の上にあり、手元の武器は殺虫剤と傘くらい・・・。

 

ガサゴソと音がして、そっと外を見ると、猫ほどのカマキリが2匹、店に侵入してきた。見ていると、さっき近藤に逆襲され動かなくなった個体に群がり出した。

 

バリバリ、バリバリ・・・同族同士が喰らい合う、気味の悪い音が店内にこだまする。



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ー出現ー

・6月4日 月曜日 19:20 北海道網走市南3条東1丁目 居酒屋「大漁集団」

 

 

「副部長、飲み過ぎですよ?」

 

既に10杯目に至った生ビールのグラスを空けたところで、金崎は緑川を窘めた。

 

「飲まなきゃやってらんらいでしょー、ホンット、アホな会社!」

 

回ってない呂律でグダを巻く緑川を、本田と韮崎は苦笑いで呆れをごまかしている。

 

本来、沈没した海域への現地調査を行うはずが、ロシア側の海上封鎖により断念。事故の被害者へ聴き取りを行った後、本日中に戻るはずが、羽田空港の停電により登場予定の航空機が欠航してしまったのだ。やむなく明日の女満別空港発名古屋中部国際空港行きの便で大阪本社へ来るように、との指示を受けたのだ。

 

緑川が所属する東京本社とも連絡が取れず、大阪の本社からの指示だったのだが、電話してきたのが緑川の天敵である十村保障部長だったことで、すっかりご機嫌が斜めになってしまったのだ。

 

「だいったいさあ、あんなおバカさんが出世できるんだもん、うちも質が落ちたもんだっつーの、ねえ」

 

据わった目を向けられた韮崎は、ただただ苦笑いして頷くしかなかった。

 

帰るのが明日ならば、と、本田と韮崎が一席設けてくれたのだが、これはちと失敗だったかな、と2人は思い始めていた。

 

「ねー金崎、あんたも気をつけなさいよ。あいっつホンっと!ダメだから」

 

店員を捕まえてさらにお代わりを頼むと、今度は部下に絡み出した。

 

「ねぇ金崎、女が出世しちゃいけないですかー?」

 

「い、いえ、そんなこと・・・」

 

「そりゃあさあ、酔ってこんななるしぃ、いい歳して独り身だしぃ、足も臭いしぃ、部下には鬼って言われますけどぉ?・・・・・」

 

グダを巻きながら下を向いたと思ったら、なんとそのまま眠りこけてしまった。

 

「副部長、もうホテル行きましょ。すみません、ホント、こんなことになって」

 

上司の背中をさすりながら、金崎は向かいに座る2人に頭を下げた。

 

「いやいや、まあー、昼間一緒にいたけど、あれだけしっかりお仕事なさるんだ。きっとお疲れなんでしょう」

 

自分自身を納得させるように、本田はフォローした。

 

「副部長さんも、きっと大変なんですよ」

 

冷酒を呷り、韮崎も笑顔だ。

 

「ええ。・・・実は、うちの副部長、今月いっぱいで転勤なんです」

 

「へえー、この時期に?」

 

「はい。母親の介護で退職したうちの名古屋支社副支社長の後任人事で、急遽」

 

「ほーう、栄転じゃないですか、副部長さん」

 

「それが・・・会社の、女性管理職を増やしてますアピール広告塔だって、本社で噂になってるのが本人の耳に入っちゃって・・・。ここのとこ、荒れるんです」

 

「難しいですなあ」

 

ふと、緑川が顔を上げた。いまの会話を聞いてて気分害したか、と一瞬身構えたが、スマホが振動していたのだった。

 

「うわ、本社だ・・・」

 

苦虫を噛み潰したような顔で、緑川は応答ボタンをタップした。

 

『おう緑川、オレや。進藤や』

 

緑川の同期入社だった、本社海損部部長の進藤 英作だった。

 

「なアーんだ進ちゃんじゃーん!ひさしぶり〜。アホの十村だと思って身構えちゃった〜」

 

『はあ?』

 

「ねぇ〜進ちゃんも網走きなよ〜。一緒に飲もう」

 

『ちょお前、だいぶ酔ってるっちゅうか、オイ!お前いくら同期でもな、オレ上司やぞ。口の利き方ちゃんとせえ』

 

「ごめーん、で、何?」

 

『いやさっきあげてもらった報告書で確認したいとこあったんやけど、もう明日でエエ。酔い醒まし」

 

「酔っ払いでぇーす、ゴメ〜ん」

 

最後の方はテーブルに顔をつけたまま、電話を切るとまた寝てしまった。

 

「金崎さん、タクシー呼ぼう。ホテルすぐだけど」

 

「すみません、ホント・・・」

 

本田は支払いがてら店にタクシーを頼み、金崎は韮崎と2人がかりで緑川の肩に手をかけ、やや無理矢理に立ち上がらせた。

 

「うわっ・・・・」

 

外に出た金崎は、入店時の光景と打って変わった風景に目を丸くした。

 

「日中、すごく暑かったでしょ?夜冷え込むと、こんなふうに霧で真っ白になるんですよ」

 

本田が説明してくれた。10メートルほど先もぼやけるほどの濃い霧だったが、街の灯りがボンヤリと浮かぶ幻想的な光景に、金崎は思わずスマホで撮影した。

 

これで、一緒にいるのが酔い潰れた上司でなければなあ・・・金崎は心の中で己の不運を嘆いた。

 

 

 

 

 

同日 20:22 北海道網走市南5条東7丁目

第一管区海上保安本部。網走海上保安署

 

 

日中の酷暑がウソのように引いてきたので、当直の飯井はコンビニのざるそばではなく、戸棚にストックしていたカップ麺に湯を注いだ。

 

実はこれが、今日の昼食でもあった。今日の朝、ロシア沿岸警備隊より、択捉島、ベルタルベ山噴火に伴うオホーツク海一帯の無期限海上封鎖を通達されてからこっち、海上封鎖対応に加えて沈没事故を起こした第二伸盛丸の事情聴取調書作成で、食事はおろか用便も満足に足せないほどだった。

 

だが海上封鎖後、航行船舶はなくなったのでいつもより平穏な当直を迎えられそうだった。

 

休憩室の窓を開けると、湿気をふんだんに含んだ冷たい空気がなだれてきた。季節外れの猛暑が続いたが、今夜はだいぶ過ごしやすくなりそうだ。

 

闇と霧の中、時折防波堤に設置された灯台の灯りが霧を裂いて視界に飛び込んでくる。まあ、海上封鎖されているのだから、今夜は灯りを頼る船舶もなかろう。

 

のんびりスマホゲームでもやるか、そのとき、防波堤の向こうから微かにズン、という鈍い音が聴こえてきた。

 

沖合の国後島でまた噴火でもしたか、飯井は大して気にも止めず、カップ麺を手に取ろうとした。

 

ズン・・・・

 

テーブルの上のカップ麺が揺れた。

 

ズン・・・!

 

地震にしてはおかしい。こんな小刻みに揺れるものだろうか?

 

ズン!

 

今度はよりはっきりと聞こえた。

 

(また爺爺岳が爆発したのかな)

 

ここから国後島北部、爺爺岳までは直線距離で100キロ程度だ。1週間の噴火では、日中でもごく僅かだが噴火の爆発音が網走でも観測できた。

 

飯井は防波堤の向こう、オホーツク海を仰いだ。といっても、夜であり濃霧見えはしないだろうが。

 

ドン!

 

今度はだいぶ強い音と揺れだった。それでも、規則正しく廻る灯台の灯り以外、何も見えないはずだった。

 

だがよく目を凝らすと、灯台の少しばかり沖合に、岩のようなゴツゴツとしたものが見えた。灯りが一巡すると、そのゴツゴツはより大きくなっているようにも思えるが・・・。

 

ドンッ!

 

サッシ窓が揺れ、テーブルからカップ麺が床に落ちたが、飯井の注意はかまうことなく灯台の向こうにあった。

 

隣のアパートから住人たちが出てきて、海の方を注視しているのが見えた。

 

ドーン!

 

一瞬だが飯井の身体が宙に飛び、サッシ窓が割れた。外からは住人たちの悲鳴が耳に入ってきた。

 

バアーン!!

 

何かが爆発するような音がして、灯台は灯りを失った。飯井は保安署の屋上へ行き、サーチライトをつけた。

 

灯台が瓦礫と化していた。そして岩はより近くに見えた。

 

飯井はサーチライトを上へ向けていった。岩、というか、ワニの皮膚のようなヒダヒダと言った方がしっくりくるような・・・。

 

さらにサーチライトを辿らせると、白と黒の目玉が見えた。

 

(目玉?)

 

飯井が異常を理解するより早く、一帯にものすごい音が轟いた。

 

思わず両耳を塞いだ。うるさい、というより、音そのものが鼓膜を叩いてくるような咆哮・・・そう、咆哮だった。

 

何かが激しく崩れる音がして、ひときわ大きな揺れが飯井と保安署の建物を襲った。

 

身を起こすと、飯井は天を仰いだ。はるか頭上で、先ほどの目玉が自分を見下ろしているように感じた。

 

アパートの住人たちも、目の前に存在しているものが何なのか、わからぬまま立ち尽くしていた。もとい、正しくはわかっていた。とてつもなく恐ろしい何かがすぐそばにいる・・・本能は察知しているが、察知するのみで全神経が用いられ、逃げ出す、という判断にまったく至らなかったのだ。

 

次に轟音が鳴り響いたとき、一帯は瞬く間に瓦解し、瓦礫の山となった。

 

 

 

 

ドン! メリメリメリ・・・!

 

どこかから聴こえてきた激しい音は、過剰なアルコールの作用で深い眠りについていた緑川の意識すら覚醒させた。

 

いつの間にか、ホテルのベッドでスーツのまま寝ている・・・まず自分が置かれた状況を理解するより前に、さらなる轟音が緑川を揺らした。音すら物理的な衝撃だった。

 

ふらつく足も気にせず、緑川は窓のカーテンを開けた。

 

夕方、時間が空いたので見て回った流氷船発着場、通称海の駅。この部屋から見えるはずだった。

 

だが窓の外には、不可解に赤く染められた街が見える。そして、昔、住宅保険を担当しているときに聞いたことがある、ブルドーザーが住宅を潰す音・・・あれと同じような、いやさらに大きな音が聞こえる。

 

ベッドでスマホが振動していた。

 

「副部長、副部長!」

 

「金崎、いったいこれ・・・」

 

「いますぐ部屋行きますから、逃げましょう!」

 

いつになく怒鳴り声で、金崎は電話を切った。

 

緑川は再度窓の外を見た。ブルドーザーではない、街を、家をなぎ倒しながら進む何かが、確認できた。

 

 

 

 

 

「ヒロ爺ー!」

 

緑川らと別れ、漁協事務所に泊まることにした本田は、異常な音と揺れで微睡みから目を醒まし、早朝作業のため泊まり込んでいた漁師や作業員たちの安否に走った。

 

その中でヒロ爺・・・この漁協の生き字引ともいえる、谷津広重爺さんの姿が見えないことに気づき、他の要員を待機させると、漁協施設を駆け回った。

 

すると、積み上げられたパレットのところに佇むヒロ爺を発見した。

 

「ヒロ爺、中に入って!」

 

だがヒロ爺は、網走川を挟む対岸を見つめたまま、岩のように動かなかった。

 

家や電柱が小石のように巻き上がる様子は、停電で暗くなった中でもはっきりわかった。

 

一瞬、引きちぎられた電線から派手に火花が散り、引きちぎった張本人の下半身が照らされた。

 

ガス管でも破ったか、炎が上がると、その全容がヒロ爺と本田の目にも飛び込んできた。

 

ヒロ爺がガタガタと震え出した。

 

「ゴジラ・・・・・」

 

炎に照らされるその姿、紛れもなかった。



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―猛威ー

・6月4日 月曜日 20:38 北海道札幌市中央区北3条西6丁目

北海道庁 本庁舎3階 知事執務室

 

 

「オホーツク振興局から、新たな情報です」

 

福田副知事が、焦りを隠せない上擦った口調で伝えてきた。

 

「網走市第一漁港付近から出現した巨大生物は、市内中心部を横断し天都山付近で方向を南へ転進。現在地は網走市と大空町の境付近を進行中と思われます」

 

「道警からです」今度は危機対策局の副局長からだ。

 

「20:35現在、網走市内各所で複数の火災発生を確認。市内中心部は国道39号線、同244号線付近を中心に、壊滅状態とのことです」

 

次々と上がってくる深刻な状況に、北海道知事 一橋 冴子はそれでも冷静さを欠くことはなかった。

 

「もう一度確認するけど、本当なの?」

 

「はい・・・現場消防からの情報だと、姿かたちから見るに、間違いなく、ゴジラだと」

 

ゴジラ・・・いまでは歴史の教科書か、災害・有事対応の会議で時折にしか触れられることはないが、いまから65年前、東京及び大阪という日本の二大都市を灰燼に帰し、ようやく戦災から復興し始めた日本を恐怖と混乱のどん底に叩き込んだ、恐るべき怪物、怪獣。そのゴジラが再び現れたとは、にわかには信じがたかった。

 

だが、現実にゴジラ出現となれば、知事としてやることは決まっている。決まってはいるのだが・・・。

 

「官邸への連絡は?」

 

「3時間前から、一切の連絡も応答不能です。同様に警察庁、市ヶ谷の防衛省にも連絡が取れないと・・・」

 

かつての二度にわたるゴジラ、及びアンギラスの襲撃を受け、1956年に改正された自衛隊法第76条には、「巨大生物に対する武力行使及び自衛隊の行動」という条項が付け加えられた。

 

すなわち、もし今後ゴジラ、アンギラスまたはそれに匹敵する存在が日本国内に出現した場合、内閣総理大臣は自衛隊に防衛出動を命じ、それに則り、自衛隊は必要な武力を巨大生物―いわゆる、怪獣に行使することができる―。

 

だが、幸いにも以降一度も怪獣対処を含め、防衛出動が発せられることはなかった。今日このいままでは。そしていざ、防衛出動を命じる張本人である首相に連絡が取れないという状況までは、自衛隊法及び関連法では想定していなかった。

 

「通常、首相官邸及び中央官庁は都内が大規模に停電した場合でも、独立した発電と回線を確保して危機に対応可能なはずだけど?」

 

何を隠そう、一橋自身、かつて経済産業省官僚時代、東京電力及びNTTと連携して有事における中央官庁の回線・電力確保を手がけたのだ。

 

「はい。そのはずなんですが・・・」

 

こんなことは考えられなかった。非常電力及び回線すらも失われる事態・・・そんなことはあり得ない。否、当時の検討会で一度だけ、議題に上がった懸念材料及び今後の検討課題としたことがあった。

 

(EMP・・・電磁パルス?)

 

当時、高高度核爆発等、強烈な電磁パルスを伴う攻撃を受けた場合、独自回線を確保したとしても、官邸並びに官庁の停電・機能喪失は免れない。今後は電磁パルスへの防御を段階的に進めていく―そんな結論だったことを思い出した。

 

一橋は右手で頭を押さえた。

 

(まさか、いや、ありえない)

 

そう、ありえない。もし高高度核爆発が起きた場合、電磁パルスによる電子機器の著しい障害は東京だけにとどまらない。少なくともさらに広範囲―関東・東海・東北へ影響が及ぶはずだ。

 

だが、現実は東京、その中でも23区中西部に限られているというではないか。

 

「・・・引き続き、官邸へのコンタクトを取って。それから、至急公安委員会を呼び出してちょうだい。ゴジラに対し、道知事として災害派遣・・・治安出動を要請します」

 

要請による治安出動・・・道知事として、現状でき得る最大限の対応だった。

 

 

 

 

同日 20:43 神奈川県横浜市 神奈川県庁

 

 

八田部神奈川県知事は、怒涛の如く押し寄せる悪い報せに滅入りそうになる意識をなんとか奮い立たせ、対応を検討・指示することを繰り返していた。

 

墜落した航空機は東京・二子玉川だけでなく、川崎市高津区にも延焼火災を広げていた。それだけでなく、数分前、川崎市ほぼ全域が停電したと報告が入った。信号機停止により交通障害が生じ、消防・救助活動に深刻な遅延を引き起こしていた。

 

加えて、18時過ぎ頃から、東京都内より徒歩で避難してきた多くの都民受け入れにも苦慮していた。

 

さしあたり、通常川崎市が定めた指定避難先―学校や公共施設への収容を行ったが、市の想定避難者を軽く上回る都民が押し寄せ、避難所不足が露呈した上、停電により避難者支援もままならず―。

 

そして、県警から上がった報告には耳を疑うしかなかった。

 

『都民の証言では、人間ほどはあるカマキリに襲われ、都内で負傷者多数』

 

『消防も病院もまったく機能せず』

 

八田部は、この大規模停電を当初「質の悪すぎる送電・通信障害」と捉えていた。今夜中には復旧し、厄介な事後対応が明日明後日の急務となる―だが現状、復旧どころか停電の範囲が広がるばかり。それも、大きなカマキリが闊歩し人間を襲うなど、まるで昔見た宇宙昆虫が地球を襲うハリウッド映画ではないか・・・。

 

幸い、墜落したエールフランス機以外の航空機は、成田・中部・茨城といった近隣空港へ緊急着陸したため、それ以上の犠牲は避けられたのだが。

 

「八田部知事、東京電力によると、現在都内停電への復旧作業に当たるも、原因不明さらに東電本社とも連絡が取れず、復旧の見通しはまるで立たないそうです。また、NTT並びに主要携帯電話キャリア3社も同様の状態です」

 

清水の報告は、さらに気が滅入るものだった。

 

「事実上、東京はすべての都市機能を失ったということだな・・・」

 

誰にともなく八田部はつぶやいたが、清水を始め、周囲の職員はその言葉に戦慄した。

 

八田部は机の右側に置かれたパソコンで、スカイプを起動させた。

 

さきほど、八田部の呼びかけで参集された臨時の全国知事会―それほど大げさなものではなく、あくまで状況が落ち着くまでなるべく多くの知事と意思疎通を図れれば、程度の発想だったのだが―の会議室とつながった。

 

『八田部さん、大変な中もうしわけない。どうされました?』

 

真っ先に八田部を労った原田大阪府知事始め他の知事たちに対し、八田部は首都にもっとも近い現場の知事として集まっただけの情報をすべて伝えた。みるみる相手側の会議室も雰囲気が強張っていくのがわかった。

 

『文字通り、首都機能が麻痺するとは・・・』

 

情報の深刻さに、疲れ切った様子で原田はぼやいた。

 

『しかし、原因はこれ何でしょうか?』

 

本来開催された知事会後、帰路についていたところを呼び出され、急遽逆戻りした会田千葉県知事がいつものようにぼんやりとした口調で皆につぶやいた。

 

『断定はできませんが・・・EMP兵器による攻撃を受けた状況と似通っています』

 

元自衛隊3佐で、知事会後は県産食材のPRで大阪に残っていた町田宮城県知事が発言した。

 

『何ですね、その、EMPとかいうのは?』

 

ふてぶてしく座っていた小林愛知県知事が、苛立ちと緊張を滲ませている。

 

『簡単に申し上げれば、電磁パルスを利用した攻撃です。殺傷能力こそないが、普段我々が目にしている大抵の電子機器―パソコン、携帯はもちろん、ありとあらゆる電子機器を機能停止に追い込み、混乱させる・・・。もし使用された場合、現代では、核攻撃・生物化学兵器に並ぶ脅威とされています』

 

『そんなバカな・・・じゃあ、中国なり北朝鮮なり、とにかく、外国による攻撃だということか』

 

『ですが、その状況を作り出すには、成層圏での高高度核爆発を起こす必要があります。確認は必要ですが、その線とも言い難いでしょう。もし高高度核爆発であれば、東京だけでなく日本の広範囲に影響が出るはずだ』

 

「町田さん、あるいはサイバー攻撃という可能性は考えられますか?」

 

画面の向こうへ八田部は問いかけた。

 

『それも何とも・・・。いずれにせよ、原因の追究をしないことには、対処のしようがありません』

 

『だいたいこんなときに、政府は何をやって・・・』

 

言いかけて、小林は口をつぐんだ。

 

『八田部さん、それと、その、何ですか・・・カマキリが人を襲うというのは?』

 

原田が空気を変えた。

 

「こちらも詳細を確認中です。都内にはまだ、多数の負傷者が残されているとの情報もあります」

 

画面先の全員が、程度はあれ八田部の話に疑問を持った。

 

『すみません、実はそのカマキリの件で、京都大学から情報提供があったそうです』

 

右手を挙げ、川名京都府知事が発言した。

 

『どうやら数日前から、都内でカマキリを研究なさってた先生が戻ってこられて、詳しい分析の最中だったそうです』

 

『そんなこと何の関係が?』

 

小林は川名を睨みつけた。

 

『はっきりとはわかりませんが、その先生が言うには、どうもカマキリの異常発生と都内の停電には、何らかの関係があるとか・・・』

 

バカバカしい、小林を筆頭にかぶりを振る列席者もいた。

 

『川名さんどうでしょう、その先生をお呼び立てするのは?』

 

『ええ、早速当たってみましょう』

 

そのとき、画面の左端から大阪府の職員と思われる男性が室内に駆け込んできた。

 

八田部がいる危機管理センターのテレビ画面にも速報が入っていた。

 

【速報 北海道網走市で大規模火災発生。市内壊滅状態】

 

 

 

 

同日 21:03 北海道網走市上空

 

 

真っ先に網走市へ駆けつけたのは、先月来噴火を続ける十勝岳の様子を撮影に来ていた北海道STVテレビのヘリコプターだった。

 

東京の停電は報道にも深刻なダメージを与えていた。NHKはもちろんのこと、主要4局に加えテレビ東京、各独立局もすべて停波してしまい、後に「史上最大の放送事故」と称された最大5分間の停波時間を経て、現在は大阪のテレビ局から全国へ向けて放送が為されていた。

 

「御覧いただいてますのは、現在の北海道網走市の様子です!えー市内あちこちから、炎と煙が上がっているのが確認できますでしょうか!」

 

STVテレビレポーターの佐藤は、マイクを握ったまま身を乗り出して眼下の市内を仰いだ。操縦席から「あぶないから下がって」と注意を受ける。

 

「目撃証言、その他情報によると、いまから40分ほど前、網走港より巨大生物・・・怪獣が上陸し、わずか20分弱で市内を蹂躙したとのことです!えー、救助活動でしょうか、消防車と救急車が炎上する建物に集まっているのがわかりますでしょうか!」

 

『佐藤さーん、その巨大生物なんですが、一部情報では、ゴジラではないかと言われているんですが、いかがでしょうか?』

 

ヘルメットをかぶった大阪・読売テレビのアナウンサーが呼びかける。

 

「ええ、現在確認中ですが、かつて東京・大阪を襲った怪獣、ゴジラに類似した怪獣だったとの情報も得られてます、はい!」

 

ヘリは市内上空を旋回すると、改めて、眼下の惨禍を映し出すべく方向を戻した。

 

「オホーツクの主要都市であり、観光都市でもある網走は、完全に蹂躙され、無残にも瓦礫の山となっております!これほどの被害・・・・あっ!あれ・・・背びれです!背びれです!」

 

『佐藤さん、どうしました?背びれですか?』

 

「いま私たちの真下でしょうか、背びれが見えまして!」

 

「危ない危ない!」

 

ヘリは左に旋回した。パイロットは後方の佐藤とカメラマン以上に、その姿を目撃した。

 

夜の闇の中でもはっきりとわかる、黒く蠢く影。そして波打つような背びれが、ヘリのライトを照らしたのだ。

 

パイロットの旋回はほとんど本能的なものだった。あんな怪物と、目を合わせたくない、目を合わせるわけにはいかない・・・。

 

 

 

 

同日 21:08 大阪府庁舎

 

 

列席の知事たちは一様に息を呑むほかなかった。

 

テレビに映し出された網走市の光景、そして中継が捉えた、巨大な黒い影―。

 

「北海道の一橋知事より、自衛隊に治安出動要請が出されたそうです。現在、北部方面隊が部隊を展開、警戒に当たるそうです」

 

「予想進路に当たる大空・弟子屈・釧路・厚岸の各自治体に避難指示が出されたそうです」

 

会議室には、即席の情報センターが設けられ、府の職員が各自治体と連絡を保ちながら、集まった知事たちに情報を上げる仕組みが整えられていた。

 

「ゴジラは死んだんじゃなかったのか」

 

テレビの光景を見て、目を丸くしながら小林がぼやいた。

 

「東京だけでも、非常に厄介な話だがなあ」

 

終止うんざりしたように、原田がつぶやいた。

 

「しかし治安出動とは・・・北海道は陸自の精鋭部隊が駐屯してるだろ。ならさっさと武力行使に移ったらどうだ」

 

小林は半ば元自衛隊員だった町田を意識して、檄を飛ばした。反応するかのように町田が応える。

 

「残念ながら、現行法では各都道府県知事の権限では治安出動が限界です。巨大生物相手への武力行使を伴う防衛出動は、内閣総理大臣の命令によって為されるものです」

 

「こればかりは、国政の最高責任者による発動だ」

 

そんなことも知らないのか、そう言いたげな原田の窘めだった。

 

「じゃあ、自衛隊はこのまま指をくわえて見てろということか。治安出動でも、警察官職務執行法が適用できるだろ。緊急避難として、武器を使ったら良いじゃないか」

 

なおも食い下がり反発する小林に、町田は冷静だ。

 

「警察官職務執行法では、あくまで警察が想定する武器使用―すなわち拳銃、せいぜい小銃やライフル弾までしか規定しておりません。あくまで武器使用の対象を人間としか定めていないからです」

 

「しかし被害の拡大を防ぐために、何か策はないのですか?」

 

遠慮がちな会田には珍しく、町田に食ってかかった。

 

「無論、自衛隊内でも具体的方策を検討はするでしょうが・・・せいぜい威嚇、あるいはいずこかへ誘導程度のことしか不可能でしょう」

 

誰もが、法治国家の弊害を呪わずにはいられなかった。

 

「東京ではカマキリの大群、北海道ではゴジラ。頼みの政府とは連絡つかず・・・いったいどうなってるんだ、この国は」

吐き捨てるように小林は言った。

 

「ひとつ、憂うべきことがあります」

 

町田が口を開いた。

 

「首都が機能しないばかりでなく、国政の中心たる内閣及び国会とコンタクトが取れず、且つ現況として武力行使が必要と思われる事態に関わらず、軍・・・すなわち我が国では自衛隊による活動が事実上不可能。現在の日本が置かれた状況は、国家主権の重大な危機に直面していると考えられます」

 

相変わらず小難しいことを、という目で小林は町田を睨み、他の知事は町田の真意が測りかねていた。

 

「国家というのは、他国から国家と承認される政治機能があり、国家を維持するためには必要に応じて相応の軍事力を所有する。すなわち政治と軍事が担保されてこそ、国家たりえるのです。翻って現在の日本はどうですか?」

 

皆、押し黙ってしまった。

 

「たしかに・・・政治も、軍事も、適切に機能していない」

 

それまで黙っていた侭田が口にした。

 

「そうです。国家の中枢たる内閣の安否すらわからず、故に軍事行動に移せない現在の日本は、国家主権を失ってしまったといっても過言ではないでしょう」

 

「国家主権を失った、となれば、すなわち?」

 

原田はなんとなく町田が言わんとしていることが理解できたが、敢えて尋ねた。

 

「日本は無政府状態、日本という国家そのものが消失するということです」

 

「そんな・・・」

 

小林は「我々は生きて存在しているじゃないか」と言いかけたが、黙った。自身を含め幾多の日本人が生存していることと、国家の存亡は関係ない―そう理解したのだ。

 

「これは極端な比喩になりますが、たとえば、他国の軍隊が東京に侵攻し、政府首脳を始め国会議員を全員殺害、中央官庁をすべて爆破した―現在は、そんな状況と酷似しています。国家主権成立の三要素である『国民』『領土』『統治の仕組み』、このうち『統治の仕組み』が欠落した状態ですから、最悪なケース、日本は無政府状態と見做され、外国勢力の侵入、干渉すら拒むことができない状況も考えられます」

 

「なんということだ・・・」

 

「国土のごく一部、東京が停電しただけでこんなことになるとは・・・」

 

「これはあくまで、最悪のケースです。ですが、『今そこにある危機』でもあるのです」

 

「存立危機事態、というやつか・・・」

 

知事会の会議室は重苦しい沈黙に包まれた。

 

「あのう、なんとか打開策を見出すことは、できませんかねえ?」

 

侭田は遠慮がちに、だが彼なりに精一杯言葉を発した。

 

「ですな。この現状で何ができるか、検討する他ないでしょう」

 

原田は大きく頷き、控えている側近に「府庁職員の応援をもっとよこしてくれ」と命じた。

 

 

 

 

 

6月5日 火曜日 2:48 北海道厚岸郡厚岸町宮園1丁目

セイコーマート厚岸店 駐車場

 

 

厚岸町消防団第一分団第三部長・立山 啓介は、消防無線機から流れる最新情報に耳を傾け続けていた。

『繰り返す、団本部から全分団へ。ゴジラの予想進路上にある避難場所の撤退を速やかに行うように』

 

「部長、ゴジラってこっち来てるんですかね?」

 

消防車両から若手の団員が降りてきた。

 

「はっきりとはわかんねーけど、夜見た予想進路だと釧路方面へ抜けるとか言ってたけどなあ」

 

だいたい、昨夜は非常に慌ただしく、出がけにチラっとテレビを観れた程度だったが。

 

厚岸町で父の代から工務店を営む立山は、昨日は5月の地震で津波被害を受けた隣町の住宅補修工事を終えると、18時過ぎに自宅へ戻り、幼稚園児の娘と息子を風呂に入れ、食事とビールで一日を終えて床につくはずだった。

 

「お父さん、テレビテレビ!」

 

妻の理香がベッドに入った立山を血相変えて呼びに来て、テレビを観ると、網走が壊滅したとか流れているではないか。

 

最初は地震か火山噴火かとも思ったが、ヘリによる空撮で映されたのは、かつて戦闘機乗りであり、神子島爆撃を敢行したと武勇伝を語る祖父からさんざん聴かされてきた、60年以上前に日本に現れた怪獣の姿だった。

 

町の防災無線も鳴り、町内の全消防団員に出動命令が下りた。災害時避難場所へ住民を避難誘導するためだ。

 

多少の混乱もあったが、それでも日付が変わるころには、町内の公共施設や学校、国民宿舎などに避難を終えていた。そのときの情報ではゴジラは釧路方面へ抜けるとされ、ホッと胸を撫でおろした。このままいけば、明け方にはゴジラは太平洋に到達し、町内の避難指示は解除されるだろう。

 

(海に入ったら、さっさと自衛隊が片付けてくれるだろう)

 

今回は避難のみで、朝になればいつも通りの日常が戻るだろうと考えていた。だが15分前に流れた防災無線によると、ゴジラは進路を東へ向け、厚岸方面へ向かっているというのだ。

 

そのとき、防災無線のチャイムが鳴った。

 

『こちらは、防災厚岸広報です。2:50分現在、ゴジラは中茶安別付近を通過、進路をさらに東へ向け、町内への侵入が確実となりました。これにより、太田地区、白浜地区、宮園地区に避難されている町民のみなさまは、ただいまより避難場所の移動を開始してください。避難場所は―』

 

『団本部より全団員へ。ゴジラが厚岸町内に侵入。ゴジラが厚岸町内に侵入。太田、白浜、宮園各地区は、住民を東部の水鳥観察館へ至急移動するよう通達。繰り返し、団本部より―』

 

立山たちのいる宮園地区も、該当していた。

 

「おい、車両出すぞ」

 

車両を出発させると、近くにある町立真龍中学校へ向かった。ここには宮園・白浜地区の住民が避難していて、校庭にはビッシリと車が駐車されていた。

 

防災無線を聴いて、早くも自家用車で出発する人もいたが、立山は団員数名を体育館と校舎へ向かわせ、自身はマイクを握った。

 

『ただいま、団本部より避難が指示されました。みなさん、サンヌシ地区の水鳥観察館へ移動を開始してください。水鳥観察館へ移動してください』

 

最初こそスムーズに動いたが、やがて校門前で出口渋滞が起き始め、数分後には国道44号線も渋滞が始まった。

 

上空にはヘリコプターが飛び交い、けたたましく未明の空を賑わせている。

 

北海道東部は日本でもっとも夜明けが早く、午前3時くらいには東の空がだいぶ明るくなってくる。

 

『こちらは、防災厚岸広報です。ただいま・・・ゴジ・・・速度を・・・』

 

防災無線が何やらしゃべっているが、上空のヘリがやかましく、よく聴き取れない。

 

『団本部より全団員へ!現・・・ゴジ・・・太田・・・』

 

消防無線も聴き取れない。上空では自衛隊と警察、それに報道のヘリだろうか。見たこともないくらい多くのヘリが飛んでいる。

 

「おーい!」

 

渋滞車列から運転手が声を上げた。近所のケーキ屋の店主だった。

 

「ラジオでやってた!ゴジラ太田まできたってよ!」

 

「なに!?」

 

「だから!太田まできたって!」

 

とにかくヘリがうるさく、普通の会話も怒鳴りあいだ。

 

「部長!なんか地震じゃないですか!?」

 

車両から団員が声をかけてきた。

 

ズン・・・ズン・・・ズン・・・!

 

町のお祭りのとき、立山は太鼓頭なのだが、その太鼓を叩くときの音に似ていた。あの五臓に直接響く音。だが威勢よく鳴る太鼓のそれとは違い、そこはかとなく気味の悪い響きだった。

 

ズン・・・!

 

今度はヘリの音にも負けず、聞こえてきた。

 

ズン・・!!

 

渋滞中の車にいてもわかるくらいの震動だった。

 

「ああ!部長!!」

 

団員が北にある真栄の丘付近を指さした。

 

山の陰から、ヌウっと顔を出した。大きく丸い目は、はるか高くから自分たちを見下ろし、睨みつけているようにも思えた。

 

立山は全身が硬直した。顔を上げないと全体像が見えない、そんな生物などいるものか。

 

車両では、同じく団員が窓の外を仰いだまま固まっていた。いやな汗が流れた。

 

このまま永遠に固まってしまう身体を無理やり動かすように、立山は全身から声を張り上げた。

 

「逃げろー!!!」

 

おそらく住民も同様だったのだろう、固まっていた身体が、立山の叫びでようやく反応した。

 

慌てて車を進めようとするが、渋滞でそれもままならない。やがてあちこちで車がこぜり合い、衝突する音がした。

 

立山は咄嗟に車両へ戻り、マイクを握った。

 

『ただいまゴジラが現れました!車を捨てて、避難してください!!』

 

声のかぎりをマイクに叩きつけた。団員たちに誘導棒を握らせ、東へ、とにかく東へと避難させる。

 

悲鳴を上げながらも、住民たちは誘導に従い、国道の歩道にあふれ出した。立山は体育館・校舎から出てくる住民をとにかく敷地の外へ誘導する。

 

「車両はダメだ!走って避難させろ!!」

 

団員に怒鳴り指示すると、誘導棒をブンブン回し、住民を誘導する。

 

おそらく最後尾と思われる、老人や足の悪い人たちに付くと、背中に手を当てながら立山も一緒に歩いた。

 

だが、走るにせよ歩くにせよ限界があった。国道44号線は宮園交差点を過ぎると、のぼり坂となるのだ。先を急ぐ住民たちも走り足が歩き足になり、比較的若く元気のある住民たちが乗り捨てられた車列を縫うように先を目指す。

 

「道の駅だ、道の駅に入ってー!道の駅―!」

 

やむなく、立山は坂の上にある道の駅厚岸に誘導することにした。一緒に歩いている老人たちも息が上がり、これ以上歩き続けることは困難だった。

 

やがて町を遥かに見下ろせる道の駅駐車場にたどり着く頃には、轟音が聞こえ、土煙が舞ってきた。

 

さきほどまで立山たちがいた辺り―宮園交差点にゴジラは達していた。住宅をなぎ倒し、やがて厚岸湾に足を踏み入れた。

 

住民たちは上がった息も整わず、ただただ目の前に広がる信じられない光景をあおぐしかなかった。

 

「牡蠣の養殖場が・・・」

 

隣の老人がワナワナ震えていた。町が誇る特産物―湾内に仕立てられた牡蠣の養殖棚が、完全に踏みつぶされてしまった。

 

ゴジラは顔を左に向けた。湾の先に突き出た半島に、厚岸町中心部が広がっている。

 

夜明けとはいえ、町内の灯りはまだ点されていた。ゴジラは灯りに吸い寄せられるように、町の中心部に上陸した。

 

立山がいままでよく耳にした、重機で住宅やビルを壊し、造成する音・・・入り江の向こうから聞こえてきた。だがその音の規模は、立山が聞いてきた何倍も激しく、無秩序なものだった。

 

破片や瓦礫が舞い上がり、土煙が爆発的に広がっている。

 

やがてゴジラの背びれが青白く光った。

 

まるで眼下に広がる、人間が作り出した灯りを憎むかのように咆哮すると、白い煙を吐き出した。不可思議にも煙そのものが光っているようにも見えた。

 

たちまち町の中心部が燃え上がり、ゴジラほどはある丈の炎が広がった。

 

ゴジラはさらに背びれを光らせると、続けて白い煙を吐いた。

 

町役場から中央公民館、高校や中央商店街がある一角が完全に炎に包まれた。火災は猛烈な勢いで、町の南側に広がっていき、やがて町営森林公園がある森へ燃え移った。

 

ここまであっという間に炎が広がる様を、立山はもちろん、道の駅に避難していた住民誰も見たことがなかった。

 

町の灯りを完全に炎に包んだゴジラは、大きく咆哮すると、そのまま進んで海へと没していった。自衛隊のヘリだろうか、飛沫を上げて海面を切り裂く背びれを追いかけた。

 

(何で攻撃しないんだ・・・!)

 

立山だけでなく、誰もが思ったことだった。

 

「こりゃあ町は、全滅だ・・・・」

 

隣に佇む老人が、もうもうと上がる黒煙を呆然と眺めつつ、つぶやいた。

 

立山は消防無線をひっつかみ、怒声ともいえる声でしゃべった。

 

「第一分団第三部長より団本部へ、これより第三部は町内の火災消火へ動きます。使用可能水利等、指示を願います!」

 



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―爪痕ー

・6月5日 火曜日 6:08 北海道札幌市中央区北3条西6丁目

 

北海道庁 本庁舎3階 知事執務室

 

 

一橋以下職員は、オホーツク地方の自治体から上がる情報とテレビの中継を注視し、状況把握に努めていた。

 

夜が明けて道警、STVを先駆けに各放送局がヘリを飛ばしたことで、被害状況がより明らかになってきた。

 

網走市内は市街地を中心に、ゴジラの侵攻ルートが瓦礫の山と化していた。

 

特に手ひどいのが、JR網走駅付近の繁華街・商業地区だ。

 

碁盤の目状に綺麗に整備された市街地はもはや無法地帯、瓦礫やガラスが散乱し、市の一角はもはや車両での侵入は望むべくもなく、民間の土木工事会社による重機の導入を待つほかなかった。

 

さらに、もっとも被害が顕著だったのは、太平洋岸の厚岸町だった。

 

厚岸湾に突き出た半島の先、厚岸町中心部はゴジラの白熱光によって焼き尽くされ、町役場、高校、町営住宅といったコンクリート造りの建物が炎上―場所によっては高熱による融解―するため、消防車の放水ではまるで消火が間に合わない。これ以上の延焼を防ぐべく破壊消防に切り替えるも、文字通り焼石に水、消防署長と町の消防団長は撤退を命じる他術がなかった。

 

「弟子屈、大空町といった他の侵攻地域は比較的被害が軽微です。単に通過しただけにとどまったのが一因です」

 

副知事から矢継ぎ早に繰り出される深刻な報告にも、一橋は気丈に精神を保つべく努力していた。

 

「ただ、ゴジラ由来の放射能汚染は大変な問題です。網走、厚岸では消火・救助に向かった警察・消防に多数の被曝者が出てしまったものと見られます」

 

建物はまた建造すれば何とかなる。火災も、消火にせよ鎮火にせよ収束すれば活路はある。だが、ゴジラの被害でもっとも頭を悩ませるのが、高線量の放射能汚染だった。

 

「こちら、避難所となっている厚岸町小谷地区公民館前です」

 

テレビでは、NHKが厚岸町の様子を放映している。

 

「ここから見える厚岸町中心部は、現在でも激しく炎上しているのが確認できます。当初は消防による放水が行われましたが、高濃度の放射能が観測されたため、現在は消防・警察も立ち入り禁止。現在、放射能汚染に対応可能な釧路広域消防本部、及び陸上自衛隊化学科NBC部隊の到着が待たれます」

 

カメラは憔悴しきった町民を映し、控えていた初老の男性にマイクを向けた。

 

「公民館長の樋村さんです。樋村さん、昨夜の様子をお話いただきたいのですが」

 

「はい。えー、明け方でしたか。町の防災無線で」

 

すると背後から、煤だらけの消防服に身を包んだ男性が声を上げた。

 

「離せよ!おい、なんで自衛隊は来てくれなかったんだ!?」

 

「あの、すみません・・・」レポーターを完全無視し、男性が息巻く。

 

「せめてゴジラに攻撃を加えていれば、もしかしたら倒せたか、少なくとも進路は変わっていたかもしんねーぞ!なんで出動しねーんだよ!」

 

「やめろって!」「立山さん下がってください!」

 

取り巻きの制止にもかまわず、カメラに近寄る。

 

「おまけにこっちが必死に消火しようとしたら、放射能とかふざけんじゃねーよ!最前線に立ったうちの若い団員どうしてくれんだよ!?」

 

「以上、厚岸町の現場からでした」

 

無理やり中継を終わらせようとしてもなお、「このままで済むと思うなよ、オレは出るとこ出てやるからな!!」と叫んでいた。

 

一橋は頭を抱えた。あの男性の怒号はすべて、自分に向けられたも同然だった。

 

「ゴジラの状況は?」

 

なんとか気力を保ち、副知事に尋ねた。

 

「太平洋へ抜けた後、下北沖100キロの地点までは自衛隊も把握してましたが、現在見失ったそうです。海上自衛隊による探索が続けられています」

 

言葉を発せず頷いた。

 

 

 

 

 

同日 6:12 大阪府庁舎

 

 

ゴジラによる惨禍は、庁舎会議室に集まった各府県知事も確認していた。

 

あの消防団と思われる男性の怒号は、誰の耳にも強く残った。

 

「ゴジラは現在、海上自衛隊の監視下にあるそうですが、正確な居場所は把握できていないそうです」

 

大阪府の職員から報告があった。

 

「仮に把握できたとして、現況、どう対処すればいいのやら・・・」

 

原田はとっくに出されたお茶を飲み干すと、噴飯やるかたなくつぶやいた。

 

「次、どこに現れるかわかったモンじゃありませんね」

 

ぼんやりとした会田の言葉に、誰もがやや苛立つと同時に、次の事態を想像した。

 

「失礼します」

 

どうにもならない空気を打ち破るかのように、職員が入ってきた。

 

「例のカマキリ事案に関して、京都大学から先生がいらしてます」

 

通してくれ、と原田が頷くと、無造作にうちわをあおぎながら、ポロシャツに薄汚いチノパン、洗髪してないのか、髪の毛がべったりとした小柄の男性が入ってきた。

 

「呼ばれたから来ました、京都大学大学院、生命科学研究科の剱崎です」



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ー探究ー

・6月5日 火曜日 6:15 大阪府庁舎

 

 

早朝にも関わらず、少しの休憩だけでほぼ徹夜状態の知事たちは、夜も容赦なく続いた暑さと極度の緊張状態に、多かれ少なかれ体調が万全とはいえない状態であった。

 

そこへきて、日本最高学府である京都大学からやってきたというこの剱崎という准教授はしかし、およそ最高学府らしい知性と品格からは大きく離れた人間だった。

 

何より、彼から強烈に漂う汗と脂の臭い。

 

小林は露骨にハンカチを鼻にあて、会田と侭田はこみあげてくる胃液を抑え込むことに難儀した。

 

「昨日お話しました、京都大学の准教授で、昆虫研究分野においては我が国の大家です」

 

川名は列席のメンバーに補足説明した。さすがに自身の提案で呼んだだけあって剱崎に対し無礼な振る舞いはしないが、内心では川名も剱崎をこの場へ呼んだことに若干後悔し始めていた。

 

「あの、それで私は何を話せばいいんですか?川名さん、私できれば論文で発表したかったんだけど、ここでしゃべらなきゃいけませんか?」

 

臭いといい、この男はとにかく面喰うことばかりだな―誰もが思った。

 

「剱崎准教授、もうしわけない。危機管理上、いまここでお話をしていただきたいんです」

 

とんでもないヤツを呼んだものだ―小林を筆頭に、自身に突き刺さる厳しい目線を必死に挽回しようと、川名は頭を下げた。

 

「・・・では、スクリーンを用いて説明しましょう」

 

府の職員が用意したスクリーンに投影されたものは、A4紙にビッシリと打たれた細かい文字だった。

 

いい加減にしろよ、怒りと失笑が知事たちから漏れた。この先生、図やグラフで表すなど、もうちょっと見やすい資料を用意してくれても良さそうなものだが・・・。

 

「ではこれから、カマキラスに関して私がここ数日調査をまとめたものを、時系列で説明していきます」

 

剱崎がスクリーンに身体を向けたとき、町田が声を上げた。

 

「失礼します、その、カマキラス、というのは?」

 

鋭い視線を、剱崎は町田に向けた。純粋な怒りが込められた目線だった。

 

「まあ、これから説明するカマキリに対して、私が名付けた名前ですな。不可解な能力を持つ上に、自然界の法則を無視した成長と人間すら襲う凶暴性、獰猛さ・・・以上を含めて考慮の上名づけたんです。昔、アンキロサウルスが変異したアンギラスという怪獣が現れたでしょう?そのアンギラスと同じです。ただの昆虫ではなく、もはや怪獣といえる存在だ。このアンギラスの末尾から、“ラス”とつけてみたんです。我ながら、安直だとは思いましたがねえ、ええ」

 

しゃべるのが苦手なのかと思いきや、剱崎は一気にまくし立てた。聴く者を考えない圧倒的な速さと情報量が混在する。

 

「名前なんかどうだっていいだろう。我々が議論すべきはそこではない」

 

小林は邪険にハンカチを押さえ続ける。

 

「いや、名前はいずれ必要になってくる。その、カマキラスについて先生の考察をお願いいしたい」

 

何とも絡み難い剱崎だったが、原田はとにかくいま聞きたいことを聞くべく空気を回そうとした。

 

「では改めて。発端は先月の22日、水曜日。東京で最高気温が12日連続で30℃を上回ったという日ですな。うちの学生から“カマキリがツイッターのトレンド入りした”と聞いたんです。私はね、あまりツイッターだのインスタだのといったものはさっぱり詳しくないが、東京都内でカマキリが多く見られる、という話が上がってると学生たちは言うんですよ。生存環境に適さない東京でずいぶん珍しいな~と思った程度だったんです、そのときは」

 

レーザーポインタで、文字がビッシリ打ち込まれたスライドを照らしながら説明する。誰もスライドを見る気にはなれず、とにかく剱崎の解説を聞くことに徹する。

 

「それから一週間後の29日、水曜日です。やはり学生から妙な写真を見せられましてね。ああ、写真をスライドに起こしていたんだ」

 

剱崎は袂のパソコンをいじった。キーボードを叩く力が強すぎるのか、けっこうな音がする。

 

「この写真を見てください。うちの学生が友人のインスタグラムに掲載されたものを、私に見せてきたんですがね。ここ、ビルのエアコン室外機群ですな。御覧の通りここに、カマキリの卵がくっついている」

 

室外機のファンのそば、あるいはビルの壁面に、スズメバチの巣のようなものがいくつか付着している。

 

「これはね、卵鞘といいます。産卵直後は、小さな泡の集合体です。その小さな泡ひとつひとつが、カマキリの卵なんですな。ひとつの卵鞘はおよそ、200~300の卵で形成されているんです。やがて泡が固まっていき、このような固形卵鞘とおして完成される。見た目だけでなく実際に泡でしてね、スポンジのような構造をしております。たとえば外敵の攻撃など、物理的な衝撃を軽減する効果がある。種の生存が進化の末図られてきた結果です。カマキリの生命の神秘ですな」

 

「早く本題に入ってくれんかな」ボソッとつぶやいた小林を、剱崎は睨みつける。

 

「続けましょう。ここで不思議な点がある。カマキリは通常、外気温が20℃前後という日が一ヶ月続いて孵化します。人間がもっとも心地よいと感じる気温は、カマキリにとっても同じです。産みつけられたものはオオカマキリの卵ですが、たいていは草叢ですとか、木の枝、それも直射日光に当たらないところが選ばれます。ひるがえってこの写真はいかがですか?」

 

ポインタで照らされた卵鞘を見ると、たしかに直射日光に晒されている上、室外機のファンから排出される風がまともに当たるように見える。

 

「通常はこんな場所に産卵するなど考えられない。日差しもですが、何より室外機の近くというこの環境。常時激しく風が生じている上、気温は50℃前後になる。これでは孵化が促進されるどころか、卵鞘そのものが乾燥して孵化の前に幼虫が全滅してしまう。それ以前に、産卵する親だってこんなとこ、10分といられない環境のはずなんです」

 

「すると、なぜこのような場所に産卵したのか、そこがカギとなるのですか?」

 

町田が訊いた。剱崎の目線は、先ほどより幾分か穏やかなものだった。

 

「その通り。この写真を見て、私は何としても現場へ行き調査をしないことには気が済まなくなった。なので、6月1日から3日まで私のゼミを休講としてもらい、一路東京へと足を運んだんです。インスタグラムを見せてきた学生の友人には、ぜひとも逐一様子を写真に収めてもらいたい、とも頼みましてね」

 

寡黙で気難しいタイプかと思ったが、とにかくこの剱崎という准教授、自身の研究事項に関しては口がよくまわる。彼の口から飛ぶ泡に、小林は不快感も露わに顔を背けた。

 

「東京へは自分の車で行きました。学生の友人から該当の場所―銀座数寄屋橋近くでしたが―へ赴くと、間違いなくありました。室外機にあえて産み付けたと思われる、この卵鞘の数々がね」

 

スライドが変わった。

 

「これは私が撮影したものです。この卵鞘に注目してもらいたい。もうすっかり乾燥して崩れかけてますね。そりゃあ、こんな温風サウナみたいな場所にあればこうもなります。ところがこの卵鞘をよく観察すると、泡がね、潰れているんですよ」

 

示されたところを見ると、たしかにスポンジ状の卵は見受けられず、鼈甲飴が固まったような状態になっている。

 

「これは卵から、元気にカマキリが孵った証拠です。この過酷な環境にも負けず、孵化したんです。そこからはもう、ええ、大発見ですよ。室外機群の暑さと我慢くらべしながら辺りを探すと、いるんです、カマキリが」

 

別な写真には、壁の隅や室外機の内側など、比較的目につきにくい場所に群がるカマキリたちが写っている。

 

「手元の温度計では52℃あるんです。こんなとこでカマキリが生息できるはずがない。この辺りから、私はひとつの仮説を導き出しました。突然変異です」

 

たしかに、常識的に考えれば、それほどの高温下ではカマキリはもちろん、地球上のどんな生物も生命を保つことは困難だ。

 

「とはいえね、先生。そんな簡単に突然変異など起こるものですかねえ?」

 

なんだかんだいって真面目に聞き入っていた小林が訊いた。

 

「突然変異という事象そのものは、いつどんな生物に起こっても不思議はないんです。環境の変化、それに起因する遺伝子情報の変異、あるいは染色体異常・・・。不思議に思うなら、かつて現れたゴジラやアンギラスといった巨大生物。彼らはどうですか?ええ、そりゃあ生物学的には、地球上どんな生物も強い放射線を浴びれば生命の危機となる。実際はどうでしたか?放射線を浴びて死に至るどころか著しく変異した生物に、我々は二度もひどい目に遭わされた」

 

「じゃあ、今回のカマキラスなるカマキリも、放射線が原因で変化したっていうんですか?」

 

会田が手を挙げて質問した。

 

「変異の原因は不明です。だがどうも、放射線によるものだとは考え難い。50年前と違って、昨今は核実験など実行されていないし、かつてと比べて地球全体の空間放射線量も低下している。もしカマキラスが放射線による変異の結果だとした場合、福島第一原発付近で確認されて然るべきだ」

 

喉が渇いた、水、と、剱崎は自身で用意したタンブラーで喉を潤した。

 

「本題に戻ると、私は実験すべく、持ってきた大きめの虫カゴに卵鞘をいくつか採集し、京都まで持ち帰ることにした。前後しまして、学生からさらなる情報提供があったんです。東京都内で、自動販売機の商品交換をしようとして、中にカマキリが多数蠢いていたですとか、猫ほどはあるカマキリを目撃したとか。いずれもツイッターやインスタグラムといったSNSからの情報でしたので、それらは学生に調査を依頼しました。私は―ビルの谷間をうろついて警察の職務質問受けたこともありましたが―車に乗り、京都まで戻ろうとしました。東名高速の浜名湖まで来たときでしたか、尿意を催したのでSAに立ち寄ったんです。ついでに腹ごしらえにと、うどん食べて車へ戻ると、なぜかエンジンがかからない。バッテリー上がったかとJAFに電話したら、携帯もつながらない。おかしいなと思っていると、採集した虫カゴでね、カマキリが孵っていたんです」

 

ここにきて、最初は変人である剱崎を疎ましく思っていた知事たちも、興味津々に聞き入っていた。特に、エンジンがかからない、携帯もつながらない、といった事象には、誰もが注目した。

 

「通常、カマキリは20℃で一ヶ月、孵化まで時間をかけると申したが、少なくとも私が採集して2時間で孵ってしまったのは面喰いました。で、だいたい一度に200~300匹孵ると言ったが、そこから成虫まで残るのは多く見積もっても2割なんです。病気だったり、孵ってすぐ外敵に襲われたりしてね。ところが、このカマキリ―そのときには、カマキラスと名付けようと決めてましたが―、どんどん孵っていって、籠の中でそれぞれが大暴れしている。やがて、共食いを始めたんです。カマキリは元々共食いをするものですが、ここまで積極的に同族を喰らうなんて見たことがない。しばらく観察していると、共食いに競り勝った個体が、みるみるうちに大きくなっていったんです。そりゃ栄養を摂取すれば成長もしますが、見ているうちに身体も育つなんて、これはどうかしている・・・携帯で撮影しようにも携帯は動かないし、どうしたものかと考えていて、やがて閃いたんです」

 

スライドが変わった。ただの氷の写真だった。

 

「突然変異種と思われるカマキラスは、高温下で積極的に活動する。高温に適してる。ならば冷やしてやったらどうだと思いつきまして、SAの売店からロックアイスと保冷剤買って、無理言って厨房から発砲スチロールをもらったんです。で、虫カゴを発砲スチロールに入れ、ロックアイスと保冷剤を投入した。どうなったか」

 

次の写真は、発砲スチロールで固まっているカマキリの写真だった。写真で見てもわかるくらい、一般的なカマキリの倍近く大きい個体が確認できた。

 

「私はどうも人工的な温度変化が苦手でね、どんなに暑くても車のエアコンはかけないもんですが、それが、カマキラスにとっては好環境だったんでしょうなあ。このように冷却してやると、たちまち動きが鈍ってしまったんです。そのときですよ、学生から電話があったのは。カマキラスの動きが鈍った途端、携帯が復活したんです。まさかと思ってキーを回すと、何事もなかったかのようにエンジンがかかった。確信しました。こいつら、原理は不明だが電子機器に何らかの障害を起こす能力があるのか、とね」

 

一気にしゃべり終えると、剱崎は首筋をボリボリ搔いた。解説が終わったら、風呂を勧めよう・・・誰もがそう思った。



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ー探究Ⅱ―

6月5日 火曜日 6:42 神奈川県庁庁舎

 

 

圧倒的な情報量と言葉で説明する剱崎を、八田部はパソコン画面越しに眺めていた。

 

いささか荒唐無稽とも思える話ではあったが、例のカマキリ騒ぎの裏付けとしては非常に興味深い内容だった。

 

常識云々の議論を差し置いても、現在の状況は剱崎の説明に齟齬が感じられないのだ。

 

「えー、剱崎先生」

 

モニターへ向けて、八田部は声をかけた。

 

「神奈川県知事を務める八田部と申します。私からいくつか、質問をさせていただきたい。よろしいですか?」

 

剱崎は画面の向こうにいる八田部にやや不満げに顔をすぼめつつ、縦に首を振った。

 

「まずひとつ。川崎へ避難してきている都民の証言によると、件のカマキリ―カマキラスでしたね―が、人間に襲い掛かってきて、負傷者も多数出ているそうです。人間を積極的に襲うのは何か理由があるとお考えですか?あるいは凶暴性が増していると考えられますか?」

 

剱崎は水を一口煽ると、『いまから話そうと思ってたことですが』と先置きし、話し出した。

 

『急成長を遂げたこの個体について、摂氏5℃の状況下でいくつか検証を行いました。まず、従来のカマキリに比べて両手、すなわち鎌ですな。この部分が異常に硬くなっている。従来ですと、カマキリの鎌など人間にとって恐れるに足らぬものですが、私が指先で触ってみたとき、鎌を振ったんです。そうしたら、ゴム手袋がパックリ切り裂かれました。もしやと思い、今度は研究室にあったこぶし大のプラスチック片を与えると、これも真っ二つにしてしまった。正確な強度は算出されてませんがね、この事実を以て考えると、人間の皮膚を切り裂くなど造作もないと申して良いでしょう』

 

さらに、と剱崎は続けた。

 

『なぜここまで鎌が硬質化する必要があるのか。私は、浜名湖の車内で共食いを盛んに行った事実を思い起こし、折の中にマウス、成長したカマキラスより小さいハツカネズミですな。こちらを放ってみた。映像を用意してあります』

 

剱崎はパソコン越しの各県知事にも見えるよう、スクリーンを移動させ、パソコンの動画ファイルを開いた。

 

鉄製の虫カゴを開け、麻酔を打たれて伸びているマウスが放られる。そこから先は、まともな感覚を持つ人間ならとても直視できない光景だった。

 

『もう、もういい、たくさんだ!』

 

ただでさえ剱崎の体臭で参っていた小林が、吐き気を込めた声で怒鳴った。

 

『おわかりですかね。カマキラスは鎌だけではなく、顎も強化されている。最初の一口でマウスの皮膚を容易く食い破ったということは、人間の皮膚も例外ではないということですな。ええっと、八田部さん、でしたか。人が襲われたと証言があったと聞きましたが、カマキラスが何のためにここまで鎌と顎を進化させたか?なぜ人を襲うのか?これ以上は、申し上げる必要がありますかな?』

 

肝心なところで勿体ぶりおって、小林の悪態が聞こえた。

 

「カマキラス、でしたか。都内では人間ほどの大きさになった個体もいたという証言があります。これは・・・申し上げにくいのですが、捕食した結果、ということですか?」

 

自分でも想像したくない、常識外れなことだとは思うが、そう考えるしかないのかと八田部は問う。

 

『でしょうな。ハッキリ申し上げましょう、カマキラスは人間を絶好の餌と見做していると考えられる』

 

八田部は額に脂汗が噴き出すのがわかった。胃が持ち上げられたような浮遊感があり、口が乾いていく。

 

「では剱崎先生、重ねて質問します」

 

ハンカチで額と首筋を拭き、乾きでかすれ気味に上擦った声で八田部は言った。

 

「どうすれば、カマキラスの駆除、あるいは活動が収束しますか?我々で対処できることは何だとお考えですか?」

 

『もっとも有効なのは、低温下の環境となることです』

 

事も無げに剱崎は答えた。

 

『先述の生育状態から、カマキラスにとっては摂氏30℃以上の環境で活発に行動します。これを下回ると運動機能に差し障りあるのか動きが鈍り、摂氏10℃未満ですと歩行ができず、先ほどの映像通り捕食くらいしかできなくなる』

 

『では、このまま秋、冬を迎えれば、自然と活動が収束していきますね』

 

会田の発言に『バカな!いまは6月だぞ!都内の気温が下がる9月までこのまま指をくわえられるか!』と小林が金切り声を上げた。参集した誰もが思ったことだった。

 

「剱崎先生、小林知事のおっしゃる通りです」

 

相も変らぬ会田の呑気さにうんざりしながら、八田部は言った。

 

「停電により首都機能が停止してから半日、これだけで経済的にはもちろん、政治的にも日本は甚大な損害を被っています。季節の変化に頼るだけの余裕などどこにもありません。他に、対策はありませんか?」

 

現在、停電は川崎市全域に広がっている。すなわちカマキラスは、じわじわと神奈川へ侵攻しているということだ。八田部にとっても喫緊の課題であった。

 

『そうですな・・・単純なことですがね、殺虫剤が有効でしょう』

 

聞いていた知事全員の目が丸くなった。

 

『いちいちカマキリを見つけては、キンチョールを噴きかけて回れっていうのか』

 

苦々しく小林が言った。

 

『町田さん、どうでしょう?自衛隊で対処は可能だと思われますか?』

 

原田が難しい顔をする町田に訊いた。

 

『純粋に考えて、自衛隊のみでは対処は困難であると考えます。範囲が広すぎますし、どれだけの数のカマキリが存在するのか、通信が遮断された状況では判断しかねます。そもそも、自衛隊には害虫駆除を目的とした殺虫剤の装備がありません。新たに用意をする必要があります』

 

「機能している害虫駆除の企業に問い合わせてはいかがでしょうか」

 

口にするのもバカバカしいところだが、八田部にとってはそれほど切迫した状況だった。

 

もしこのまま、例のカマキラスとやらが川崎を越え、横浜まで侵攻し、都市機能を失ったら・・・。

 

何としても、ここで食い止めなくてはいけない。

 

「それと剱崎先生、もうひとつ」

 

手元に差し出された資料を見て、八田部は画面に話しかける。

 

「たったいま入った情報によれば、東京23区のうち都心3区、渋谷、新宿など城西地域との連絡は途絶えたままですが、隅田川より東・・・台東や足立、荒川などの区とは連絡が可能な状況です。これはいったいどういう事由によるとお考えですか?」

 

『ふーむ』口元に手を当ててしばらく、剱崎は答えた。

 

『断言はできないが、カマキラスは渋谷、新宿付近でまず繁殖が始まり、それがじわじわと活動域を拡げてきた。ところが都内を流れる河川を越えるのは、さすがに簡単にはいかんのでしょうなあ。憶測でしかないが、数的に渋谷・新宿地域より西に流れた群れが多かった。川崎の停電はそのためでしょう』

 

「では、いずれ城東地域も停電していくと?」

 

『おそらくは』

「連絡のついた城東の区役所と連絡を密にしてくれ」

 

隣に控える清水に、八田部はささやいた。

 

『あのー』

 

画面越しに会田が挙手した。

 

『今回ゴジラが出現したことと、何か関係があるんでしょうか?』

 

『知りません』

 

小馬鹿にしたように鼻先で笑い、剱崎は視線を外した。

 

『失礼、みなさん』

 

ちょうど付帯の府職員から報告を受けていた川名が立ち上がった。

 

『もうひとつの懸案事項であるゴジラに関してですが、こちらも専門家を招集しました』

 

『専門家って、まさか』

 

原田が目を見開き、川名に注目した。

 

『はい。京都大学大学院の、尾形大助教授です』

 

全員が得心したように首を縦に振った。

 

『たまたま、先日から北海道大学での学会に出席なさってるそうですが、自衛隊協力の下、こちらへ昼前には到着できるよう、手配をしております』

 

それまでに具体的な対処を、と話し出した知事たちの中で、剱崎はフン、と斜めに俯いた。

 

 

 

 

 

同日 7:02 北海道網走市南10条西3丁目付近

 

 

「まさか、こんなことが実際に起きるなんて・・・」

 

引きちぎられ、鋼線が剥き出しになった電線、飴細工のように曲がりくねった信号機、路面に散乱する、それまで家屋の屋根や壁だった破片に囲まれ、金崎はつぶやいた。

 

「金崎、いまは感傷に浸るより、早く仕事済ませなさい」

 

昨夜、なんとか部屋から持ち出したiPadで周辺を撮影しながら、緑川は金崎を促した。

 

ゴジラが網走に上陸してから、間もなく11時間が経とうとしていた。

 

網走駅前のホテルに入った緑川は、部下の金崎に起こされ、二人で網走川の北側へと避難した。幸いにもゴジラは川を越えることなく南下したため、二人はケガもなく無事だったが、滞在していたホテルはゴジラが振った尻尾の一撃で破壊され、大した荷物もなく二人は漁協施設に身を寄せ、夜明けを待った。

 

東京支社とはまったく連絡が取れず、未明に大阪本社の進藤海損部長と連絡はついたものの、「交通機関が運行再開するまで待機、市内で被害を受けた企業や契約している住宅の様子をできる限り写真に撮ってこい」という指示を忠実に実行した。する他なかった。

 

「こんなときに・・・うちってすげぇブラックだったんですね」

 

そう苦言を吐く部下を「気持ちはわかるけど、これも大事な仕事なの。時には非情に徹して状況把握をしなくてはいけないのよ」と窘めた。

 

だが緑川自身、「どうせ電車も道路もアカンならやることやってきてや」とのたまった同期の上司に怒りを覚えていた。

 

メールで添付された契約物件のうち、まだ3割程度しか現認できていなかった。そのうちかなりの物件が、ゴジラ由来の高放射線に汚染され立ち入りが固く禁じられている。状況現認も大事だが、自分と部下の安全も考慮する必要がある。

 

この調子では、できる限りの現認を終えるのはあと30分もかかるまい。あとはいつ動くかわからぬ鉄道なり空路なりの再開を、途方に暮れながら待つだけだ。

 

所属する東京支社は連絡がつかないどころか、支社と従業員の安否すら不明の状態だ。聞けば東京も大変なことになっているらしい。進藤の指示は「どうにかこうにかして、大阪本社へ来い」という、あまりにも無茶なものだったが、事実そうするより仕方がなかった。

 

「すみません」

 

少し離れた場所から声をかけられた。白い放射能防護服に身を包んだ一団がいて、先頭が立ち入り禁止の黄色い帯をあたりに引いている。

 

「この辺りは放射線量が高いんです、速やかに退去してください」

 

どうやら警官らしい。状況が状況だけに、もっと写真を、と粘るわけにもいかない。「すみません」と言い、緑川は金崎を連れて離れようとした。

 

「ちょっと、失礼」

 

防護服の一団の中から、輪の中心にいた男性が声をかけてきた。

 

「突然お声がけして失礼、あなた方はなぜ、こちらの様子を写真に撮られていたのですか?」

 

「ああ、私どもはこういう者です」

 

緑川と金崎はスーツのポケットから名刺を差し出した。損害保険の文字を読み、男性は納得したようだった。

 

「突然でもうしわけない、あなた方の撮られた写真データ、頂戴することはできませんか?」

 

「えっと、失礼ですが警察の方ですか?」

 

写真は保険金支払いの証拠となる物証であると同時に、保険会社にとっては大切な顧客の個人情報にもなり得る。公的機関といえど、おいそれとデータを提供することは憚られるのだ。

 

「これは失礼。私は京都大学大学院の、尾形と申します」

 

防護マスク越しに、その男性は答えた。

 

「京都大学の尾形さんって・・・あの、ゴジラ博士ですか?」

 

しまった、言ってしまってから、緑川は口を押さえた。

 

「ええ、そうです。巷ではそう呼ばれているようですね」

 

公的な名称でないにも関わらず、尾形は嫌な顔もせず頷いた。

 

「やっぱり・・・。よく雑誌やテレビでお見掛けしてます。今回も調査でこちらへいらしたのですか?」

 

「ええ。いえ、昨日北大で学会がありまして、出席して札幌に滞在していたのです。そうしたらゴジラが網走に現れたというので、未明にこちらへ参ったのです。ですが、大阪の知事会に呼ばれてしまいましてね、現地調査もそこそこに、大阪へ戻らなくてはならないんです。そこで、お二人の撮影された写真でもって調査の補完をさせていただきたいな、と思いまして」

 

テレビで見る通り、尾形は穏やかで、よく通るバリトンが耳に心地よい。

 

「それでしたら」緑川は傍らの金崎を促した。

 

「昨日、僕が避難しながら撮影したこの写真はどうですかね?」

 

金崎は自らのスマホを、尾形に差し出した。興味深そうに写真を眺めた後、「この写真も含めて、ぜひともデータをいただきたいです。それは可能ですか?」と訊いてきた。

 

「わかりました、提供します」

 

あっさりと言い放った緑川に、「副部長、いいんですか?」と金崎は目を丸めた。

 

「公的なものだもの、OKでしょ。然るべき手続きは後で処理できるよ」

 

「ありがとうございます」

 

尾形は頭を下げると、いいから早くこの場を去りましょう、と目で訴えかけていた警官に「恐れ入りますが、速やかに女満別空港へ向かいましょう。このまま大阪へ」と言った。

 

「えっ?すみません尾形先生、大阪へ向かわれるんですか?」

 

「そうですが・・・?」

 

それを聞いた緑川は、ニッコリと笑みを浮かべた。金崎はそんな上司の顔を、いままで幾度か目にしてきた。

 

「あのう、でしたら、交換条件というのはいかがでしょうか?」

 

 

 

 

それから40分後、尾形と随行の調査団数名、そして緑川と金崎という突然の乗客を乗せた陸上自衛隊固定翼機、LR-2は、大阪伊丹空港へ向けて女満別空港を離陸した。

 

『ホンッとちゃっかりしとんのう、お前は』

 

離陸前、緑川は大阪本社の進藤に経緯を話すと、こう言われた。

 

「でもいいでしょ?予想より早く大阪いけるし、あたしたちのデータがゴジラ対策に使われるんだもん、お国のためでしょ」

 

行きがかり上、大阪到着後に緑川と金崎も、ゴジラ襲来の目撃者として知事会に同席することとなった。

 

通常の旅客便に比べて乗り心地はあまり良くなく、緑川は若干の二日酔いが先鋭化しているとはいえ、願ってもないことになった。

 

 

 

 

 

同日 8:05 東京都千代田区永田町 首相官邸

 

 

「いやあ、参りましたな」

 

エレベーターの上板から、さらに最寄りの扉へとなんとかよじ登った首相一行は、汗をしきりに拭いながら廊下にへたり込んだ。第一声が望月だった。

 

昨日夕刻、エレベーターが停止した後、どの非常回線も携帯電話も繋がらず、やがてエレベーター内が蒸し風呂状態となった。

 

元体操選手だったというSPの1人が、他のSP2人の手を借りて上板を外し、その板を使って少しずつ、階の扉をこじあけたのだ。

 

たまたま4階扉が手の届く範囲にあったのは幸運だった。もし最寄りの扉が手の届かない範囲であれば、エレベーター内で飢え死に、または酸欠を待つばかりという状況に陥っていたはずだ。

 

老齢の瀬戸と望月もだが、身体を張って宰相とその女房を助け出したSP3人の体力はもはや限界だった。とにかく4階のトイレに入り、手洗い場の水を飲んで渇きを癒し、体力がある程度戻ると他のスタッフを探した。

 

だが4階には誰もおらず、たとえ停電でも動くはずの緊急回線も不通だった。

 

「これは妙ですなあ。非常事態でも、官邸の回線は常時確保されているはずなのですが」

 

望月が首をかしげていると、SPの1人が廊下にうずくまってしまった。汗が止まらないのに唇が青く、肩で息をしている。

 

「いかんな、熱中症だ」

 

瀬戸はSPの上着を脱がし、他のSPに水を持ってこさせた。常時快適な温度に保たれているはずの官邸だが、エアコンも停止しているらしい。

 

「これは、停電のレベルが尋常ではありませんな」

 

横になり、申し訳なさそうなSPを近くにあったファイルで扇ぎながら、望月がぼやいた。

 

「うむ。とにかく、彼が落ち着いたら他の階を探索してみよう。我々もいまは、あまり派手に動かない方がいい」

 

瀬戸自身、身体中の毛穴から汗が湧き出る不快な感覚を堪えていた。このまま動いたら、このSPの二の舞になってしまう。

 

後に、このとき動かなかったことが自分たちの運命を分けたのだと瀬戸たちが思い知らされるのは、しばしの時間が経過してからだった。

 



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ー合流ー

6月5日 火曜日 8:17 東京都千代田区有楽町2丁目 ルミネ有楽町地下一階

 

 

赤ん坊の泣く声で、うつらうつらとまどろんでいた倉嶋は目を覚ました。

 

しばしの間、自分が置かれた状況が把握できなかったが、ほとんど闇の店内と蒸し風呂のような淀んだ空気、そしてそこに身を固めてうずくまる50名ほどの人々を見て、昨日からの出来事を思い出した。

 

あれから、とにかく逃げ込めるだけの人々をルミネに詰め込み、店舗の地下一階、なるべく気密性の高そうなカフェに避難したのだ。

 

最初こそ優に100名はいたと思われる避難者も、フロアを替えたり隙を見計らって脱出を計るなどしてカフェを出て行った(外へ逃げ延びた者たちがどうなったかはわからない)。

 

どうやら外にのさばるカマキリたちは建物への侵入はいまのところ確認されず、あとは匂いや音などに反応するかもわからないため、非常扉をしめ、扉という扉にバリケードを敷いた。

 

カフェということである程度の食料やボトル詰めの飲料などは用意されており、当初は籠城戦も上手くいくものと思われていた。

 

だが空調の止まったビルの中はただでさえ猛烈な熱波に加え、人々の呼気や熱などで瞬く間にうだるような暑さとなり、飲料は予想より早く底を突きつつあった。また暑さと極度の緊張のため、体調を崩したり歯の痛みを訴える避難者が続出した。

 

数寄屋橋交番の班長・中村を始め、寺田巡査長、倉嶋の3名は、この状況下でも法の執行者、番人としての職務を果たしていた。

 

高齢者や女性、子どもを中心に飲食料を配布したり、体調不良の者を献身的に介抱した。やがてビルの警備員も加わり、少なくとも異常な環境下、秩序は辛うじて保たれていた。

 

だが、過酷な環境に耐えられないのか、赤ん坊は明け方頃からむずかるようになり、母親に対し辛らつに当たる避難者を諫めるのに難儀していた。

 

いつ、皆の不満や不安が暴発してもおかしくはない状態だった。

 

かくいう倉嶋自身も、ストレスのたまる暑さ、いつまでこのままなのかという先の見えない不安、何より、カマキリにやられた高田を始めとする人々の悲鳴が耳にこびりつき、理性が崩壊する懸念は大きかった。

 

願わくば、すぐにでも救援が来てくれないだろうか。無線も携帯電話も繋がり、照明も復旧し、人々が安心できないだろうか。警視庁のSATでも自衛隊でもなんでもいい、外にいるカマキリのお化けたちを退治してくれてはいないだろうか・・・。

 

「倉嶋」

 

班長の中村が、コップ半分の水を差し出した。

 

「班長、すみません。少しボーっとしてしまって」

 

「いいんだ。こういうときでも、交代して少し休もう。幸い、ここの警備員たちも協力してくれてる」

 

倉嶋自身も何度か経験あるが、警察官、または警備員の制服を着ている者は、こういうときとても頼られるのだ。

 

オレたちの仕事なのかな・・・そんな顔をしながらも、警備員たちは避難者の要望に何とか応えようとしてくれる。ありがたいが、なお率先して自分たち警察官が行動しようということになったのだ。

 

「班長、このままいつまで、こうしていますか?」

 

不安な気持ちを少しでも掃き出したかった。

 

「何ともわからんが・・・。さっき寺田と話してな、少し外に出て、状況が変わってないか、救援や避難の糸口がないか、探ってみようかって」

 

「危険、ではないですか?」

 

「まあな。だがもう一晩明けた。相変わらず電気も無線も使えないが、政府が動いて、カマキリ排除の方策を打ってるかもしれん」

 

そう言うと、中村は自身の拳銃、S&Wエアーウェイトの弾倉をたしかめた。

 

「昨日避難するとき、オレは2発、寺田は3発カマキリにお見舞いした。倉嶋は?」

 

「私は、まだ全弾残ってます。発砲してません」

 

「とはいえ3人合わせても10発、予備もない。築地か丸の内署まで行ければ、武器の補充ができるものだがな」

 

そのとき、避難者の男性が奥からやってきた。

 

「すみません、あっちの階段下から物音がします」

 

指さす先は、地下鉄有楽町駅の出口だった。

 

中村と倉嶋は様子をうかがいに向かう。

 

「わずかに、音がしますね」

 

「ああ。地下鉄も停止してるらしいんだが・・・」

 

中村は寺田を呼びにいった。

 

「様子を見てきます。なるべく階段から離れててください」

 

倉嶋は警備員にそう伝えると、中村の後に続いて少しずつ階段を降り始めた(寺田は避難者をなるべくフロア中央に集めている)。

 

中村に倣い、倉嶋も拳銃・S&WM37を抜いた。必要とあらばいつでも発砲できるように、右手で拳銃を掲げる。

 

とはいえ射撃訓練以外、拳銃を扱ったことはなかった。警察学校での射撃成績は中の上だったが、「現場での発砲はこうはいかないからな」という教官の言葉がいまさらながら理解できた。

 

この緊張下、まともに当てることなどできるだろうか。

 

中村は左手でペンライトを照らしつつ、地下鉄ホームを探索した。スマホや無線は使えないが、懐中電灯など簡易な電子機器は使用できた。どうやら、電波が出てるか否かで異なるようだ。

 

建物内に避難したとき、地下鉄ホームへの立ち入りは避けるようにした。都内を網の目の如く結ぶ地下鉄のほうが、例のカマキリが入り込みやすいと想定したためだ。

 

中村と倉嶋は足を止め、耳をすました。

 

なるほど、銀座一丁目駅方向からざわざわと音が聞こえる。中村はペンライトを消し、壁に背を当てて様子をうかがった。

 

聞こえてきたのは、線路を歩いているのだろうか。枕木を叩くような音だ。

 

「人かどうかわからない。オレがまず声あげるから、お前ここでバックアップしろ」

 

倉嶋は無言で頷いた。顔に汗が浮かび、口の中が乾くのがわかる。

 

(やだ、あとで口臭ケアしなきゃ)

 

こんなときでもそんなことを気にした自分が、妙に可笑しかった。

 

音はだいぶ近くなっている。漆黒の闇の向こう、少しの灯りが見えた。

 

「人か!」

 

思い切ったように中村が大声をあげた。「うをっ!?」という素っ頓狂な声が返事だった。

 

中村はペンライトをつけ、先に見える灯りに向けた。20メートルほど先だろうか、ズボンとベルトが見えた。

 

「おーい、人だ人!」

 

ライトを当てられた先頭の男が声を上げた。「あんまり大声出さないほうが」隣からやや年配らしき女性の声がした。

 

「警察だ、警視庁数寄屋橋交番の中村だあ!」

 

声を張り上げ、中村は近寄っていく。緊張によるだけでなかった。過酷な緊張状態の中、生存者と会えた喜びも含んだ声だった。

 

「警視庁数寄屋橋交番の倉嶋です」

 

近寄ってから倉嶋も名乗った。10名強だろうか、手にバールや鉄パイプなどを持った一団だった。

 

通常なら職務質問対象だが、なぜ武装しているのか、訊くまでもなかった。

 

「良かった、おまわりさんだ」

 

先頭の背後にいる青年が安心したように言った。高校生だろうか、制服に身を包んでいる。

 

「みんな、どこかから逃げてきたのか?」

 

そのころには、中村の声のトーンもいくらか落ち着いてきた。

 

「ええ。オレたち京橋辺りからきたんです」

 

先頭の男性が答えた。

 

「おっきいカマキリに追いかけまわされて、ビルの地下に逃げてたんです」

 

隣の中年女性も答える。

 

「明け方まで、ビルの地下にいたんだけど、信じられますか、カマキリが溢れ出してきて・・・」

 

先頭の男性は額に汗を浮かべていた。「と、とにかく線路から上がっていいか?」

 

どうにか全員がホームに上がり、その場にへたり込んだ。

 

「少し休ませてくれよ。もう、いつ電気復旧して線路に電気流れるかハラハラしながらきたんだよ。もう胃がこみ上げてきそうで」

 

大きく息を吐き、男性は苦笑いした。

 

「おまわりさんたちも、カマキリ見ましたか?」

 

高校生の少年が訊いてきた。

 

「ああ。我々も見たよ。同じように、ここの地下に避難してたところだ」

 

やっぱり、と少年は頷いた。

 

「警察なら、情報わかる?いったいどうなっているの?」

 

中年女性が立ち上がり、訊いてきた。

 

「すみません、我々も詳しいことはわからないんです。警察無線も、携帯電話も通じない」

 

安心から一転、嘆息が一団に立ち込めた。

 

「でも、オレたちだけじゃなくあっちこっちでカマキリ騒ぎになってるってことだよな」

 

先頭の男性が息を整え、立ち上がった。

 

「正確な範囲はわからんが、君ら、京橋と、こっち有楽町は、少なくともそういうことだね」

 

「おまわりさん、すまん。余裕があれば、オレたちも一緒にいさせてくれないか。みんな喉が渇いて干からびそうなんだ」

 

先頭の男性には十分な説得力があった。顔はもちろん、服も汗でビシャビシャだったからだ。

 

「ああ。なんとかなるだろう。とにかく上へ。ここじゃいつカマキリが来るかわからないからな。みんな、動けますか?」

 

だいぶ疲れてはいるが、一団は全員立ち上がった。

 

「おい、それはいったい?」

 

先頭の男性が手に持っているのを不審に思った中村が訊いた。

 

「殺虫剤。これでカマキリを何匹かやっつけたんだ」

 

「そんなものが効くのか?」

 

「それがけっこう効いたんだ。小さいのはもちろんだけど、昨日なんかオレの背丈くらいはあるヤツがくたばった」

 

感心したように頷く中村に、倉嶋は声をかけた。

 

「班長、1階にマツモトキヨシがあります。あそこに殺虫剤あると思いますけど」

 

「・・・そうだな。あとで行ってみるか。何本使ったか、きちんと把握しておこう」

 

こんなときでも、中村は律儀だ。

 

「まあ、みんなとにかく上へ」

 

中村が促す。ふと踵を返し、先頭の男性に声をかけた。

 

「殺虫剤のことを含めて、あとでいろいろ話を訊きたい。あなた、名前は?」

 

「近藤です。近藤悟」

 

「職務上訊くけど、身分を証明するものは?」

 

近藤と名乗る男性は頷くと、運転免許証と名刺を出してきた。名刺には何の肩書もなかった。

 

「これ、名前だけしか書かれてないけど、近藤さん、職業は?」

 

「フリーのジャーナリストで、まあ、警察の厄介になりかねない取材ばっかりだから後ろめたくてさ」

 

中村と倉嶋は顔を見合わせた。犯罪ジャーナリストでもしてるのだろうか。

 

だが、飄々としてつかみどころのない辺り、案外その通りかもしれない。



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ー合流Ⅱー

6月5日 火曜日 11:12 大阪府庁舎

 

 

事実上、日本の臨時政府となった全国知事会の面々は、自分たちの権限で可能な限りゴジラとカマキラスへの対処方針を模索、実行を指示していた。

 

差し当たり、東京から西へ拡大するカマキラス由来と思われる停電に関しては八田部以下神奈川県庁及び県内自治体、神奈川県警・消防本部が対応に当たり、北海道東はるか沖合にて消息を絶ったゴジラに関しては、海上ならびに航空自衛隊が警戒に当たっていた。

 

だが早くも手詰まりを感じさせる事態が起きた。

 

京都にある在日フランス総領事館(都内のフランス大使館とは連絡が途絶えている)より、再三に渡り昨日のエールフランス機墜落の調査報告をするよう催促されていた。

 

墜落現場となった東京都二子玉川、川崎市高津区へは渋滞と避難者の殺到で近寄ることすらできていない。第一、航空事故調査委員会を組織しなければならないが、官邸や所轄官庁である国土交通省と連絡すら取れない。事故調査を求めるフランス総領事の声は次第に焦りと怒気に満ちていった。

 

また東京の機能損失とゴジラ出現により、関東圏を中心に不穏な空気が漂い始めていた。

 

東京東部及び隣県にて、物資の買いだめや自主避難等が起こり、一部では略奪、暴行など刑事事件が急増していた。

 

東京から放射状に伸びる列車や道路では、自主避難による深刻な渋滞・混雑が生じ始めていた。

 

さらに間の悪いことに、午前9時過ぎ、高知県沖を震源とするマグニチュード6.9の地震が発生、高知県・徳島県沿岸に津波警報が発令され、9:47、高知県沿岸部に高さ2メートルの津波が押し寄せたことも、混乱に拍車をかけた。これにより、四国4県の知事たちはスカイプでの知事会参加すら困難となった。

 

午前10時を以て、参集された知事の面々にて現況の確認、指針協議を行ったが、知事会とはいえ地方自治体の寄り合いでは到底この問題に対処できないことばかり増えつつあった。

 

北海道から尾形教授が到着されました、どん詰まりの空気を換えるように、職員が会議室に駆け込んできた。

 

ここはひとまず、と、知事たちは抱える頭を振り払い、やがて入室してきた男性に注目した。

 

ブルーのYシャツをめくり、麻のスラックス姿と、爽やかさと育ちの良さを漂わせる男性―尾形大助教授は入るなり一礼し、案内に従ってテーブル中央に立った。

 

京都大学で生命科学分野での教鞭を取りつつ、ゴジラ研究の第一人者として活動。よくテレビや雑誌にも登場する上、各県の防災会議にも怪獣災害の識者として参加することも多く、この部屋で尾形を知らぬ者は誰もいなかった。

 

「尾形先生、ご無沙汰しております」

 

「先日の防災会議ではお世話になりました」

 

尾形が挨拶するより早く、列席の知事たちが頭を垂れた。

 

「お忙しいところ恐縮です。手短にお話をさせていただきます」

 

知事たちのデスクに積まれた資料やファイルを見て、尾形は何が起きているか察した。

 

「尾形先生、当たり前のことを訊くようですが、昨日北海道に現れたのは、間違いなくゴジラですよねえ?」

 

原田が自分でも言うほど、当たり前の質問だったが、誰もが心のどこかで、ゴジラでない似た怪獣・・・放射能を帯びた熱戦を吐き散らし、砲弾も高圧電流も通じない化け物ではないと尾形が断言してくれることを祈っていた。

 

「はい。写真とテレビ映像を何度も確認しましたが、間違いありません。ゴジラです」

 

「しかし先生、ゴジラは厚い氷に閉ざされた後死亡したと、昭和42年に旧ソ連が発表してます。あれはまた、新たな個体でしょうか?」

 

資料に目を通しながら、町田が訊いた。

 

「いえ、今回現れたゴジラは、身体的特徴を鑑みますと、昭和30年・・・いまから64年前に出現したゴジラと同一個体であると考えられます。あ、ここでその、写真を撮影した方に同席を願っております」

 

尾形はドアの外へ「お願いします」と声をかけた。府庁職員に案内され、スーツ姿の男女二人が入ってきた。

 

「KGI損保株式会社の、緑川です」女性が挨拶したのに続き「金崎です」と男性が頭を下げた。

 

「お二人は海難事故調査のため、昨日から網走に滞在されていたところ、昨晩ゴジラの上陸を目撃、その後被害物件調査のため市内にいらした際、私が様子を尋ねたことから、こちらへお招きしたのです」

 

尾形の説明に「それにしてもなんだって保険屋が?」と小林がぼやいた。

 

「こちらの、金崎さんが撮影した写真です」

 

尾形はパソコンを操作し、スクリーンに投影させた。テレビ報道やネットニュースに挙げられたものより、はるかに鮮明に写されているゴジラの姿に、皆が息を飲んだ。

 

「ちょうど、ガソリンスタンドを破壊したところだったようで、燃え上がった火柱によって地肌まで確認できます。併せて・・・」

 

尾形は画面を分割させ、別な写真を投影させた。白黒写真だが、やはり炎上する建物を背にしたゴジラ、そしていままさにゴジラに襲い掛からんとしているアンギラスの様子を捉えていた。

 

「こちらは64年前、ゴジラとアンギラスが大阪に上陸した際、偶然取られた報道写真です。いずれも注目していただきたいのは、こちらです」

 

レーザーポインタを当てながら、尾形は説明していく。

 

「大阪に現れ、ボーフヂェーディ島・・・旧神子島の雪崩に沈んだこのゴジラ―便宜上2代目と呼びます―は、昭和29年に東京へ上陸し東京湾で没したゴジラに比べ、首が長く、身が引き締まっています。そして昨夜、網走に出現したゴジラは・・・御覧の通り、2代目ゴジラと形態が酷似しています。というか、異なる部分の方が見当たらない。何より、この腹部の紋様です」

 

2枚の写真が拡大され、ゴジラの腹部が浮かび上がる。

 

「人間の指紋が各人異なるのと同じで、ゴジラは腹部の紋様が個体ごとに異なると考えられます。現在までのところ、確認されたゴジラは2体だけですから、比較対象には議論の余地はあります。ですが、2代目と今回のゴジラは紋様が完全に一致しています。長くなりましたが、この事実に基づき、私はこの2体は同一のものであると結論づけたのです」

 

「それじゃあ、ゴジラは死んでなかったということですか?」

 

呆れたように口を大きく開けて、原田は訊いた。

 

「言うなれば、ゴジラは仮死状態のまま冬眠していた、と考えるのが妥当です。当時のソ連科学アカデミーは、爬虫類がゴジラ並の大きさとなったと仮定し、ゴジラの身長・推定体重と低温状態の期間を基に、何日でゴジラが死に至るかという仮説を以てしてゴジラが死亡したと発表したのです」

 

「どえらいたわけた話だ」

 

吐き捨てるように、小林がつぶやく。

 

「では、ゴジラはなぜ目を醒ましたのでしょうか?」

 

町田が興奮気味に訊いた。

 

「原因については憶測の域を出ませんが・・・ここ一カ月に及ぶ日本列島の異常高温、または択捉島の火山噴火が有力です。ぜひ、神子島の現地調査をしたいところですが・・・昨晩の様子から、もうひとつ、仮説を立ててあります」

 

さておき、と、尾形は網走の写真を全面に投影させた。

 

「2代目のゴジラと同一の個体と申し上げましたが、64年前と異なっている点がありるのです。緑川さん、お願いします」

 

緑川は軽く頷き、やはりレーザーポインタでゴジラの手前に写るビルを照らした。

 

「この建物に注目してください。こちらは当社の建造物損害保険に加入いただいている物件です。地上6階建て、高さ34メートルです」

 

穏やかな声で話す尾形と違い、緑川は臆することなくハキハキとしゃべる。よほどプレゼンテーションやらで鍛えたのだな、と列席の知事たちは思った。

 

「2代目のゴジラは身長が50メートルでした。ですが昨晩現れたゴジラは、このビルの高さとビルとの距離、ゴジラの頭部をまとめて計算すると、身長が90メートル。また足跡のくぼみ、鉄筋コンクリートの破壊具合から、体重はおよそ4万トンと考えられます」

 

「大きくなってるんですか、ゴジラは」

 

会田がびっくりしたような顔で訊いた。

 

「おっしゃる通りです。氷の中、仮死状態にありながらも、ゴジラは成長を続けた。それによって氷の封印を破ったのではないか、とも考えられます。ここで不可解なのは、旧ソ連時代から監視を続けていたロシアがなぜ、ゴジラに気がつかなかったのか、という部分です」

 

それは誰もが疑問に思っていたことだった。

 

「択捉島の噴火が原因で発見、探索が遅れたのか、はたまた別の理由があるのか、この辺りは外務省の復旧を願うとして・・・昨晩、海上自衛隊及び海上保安庁でも、網走沖に存在したはずのゴジラを捕捉できなかったとうかがいました」

 

それも事実だった。北海道知事の一橋から受けた報告では、網走と根室の海上保安本部も、青森県大湊の海上自衛隊基地も、ゴジラの網走接近を事前に察知できなかったというのだ。

 

「極めて厄介なことに、ゴジラには我々のレーダー探知が通用しないということも充分考えられます」

 

知事たちは色めきだった。

 

「じゃあ、いまどこにいるのか、これからどこへ向かうのか、見当もつかないと?」

 

原田の問いに、「その可能性があります」とだけ尾形は答えた。

 

「本来であれば、怪獣に対する防衛出動が適用され、自衛隊によるゴジラ駆除作戦が実施されて然るべきなのですが・・・。現時点でゴジラに対しては、沿岸部の夜間灯火管制、出現した場合の照明弾投下による誘導しか方法が考えられません」

 

「そういえば」と、ただただ黙って聴いていた侭田が手を挙げた。

 

「ゴジラは夜行性ときいたことがあります。夜間のみ警戒して、常時照明弾を搭載したヘリやら軍用機を飛ばせば・・・・・・」

 

言いながら、自分でも無茶なことを言っていると気が付いて、侭田は口を閉ざした。しょうのないことを、と言わんばかりに小林は含み笑いをする。

 

「残念ですが、ゴジラが夜行性である、という確たる証拠は存在しないのです」

 

「しかし・・・東京でも大阪でも、ゴジラは夜になってから上陸しましたよ?」

 

「いえ。旧千島列島の岩島で最初に2代目ゴジラが確認されたときは、昼間だったそうです。夜にしか活動しない、とは言い切れないでしょう」

 

「・・・とにかく、尾形先生。東日本太平洋側の自治体には、警戒情報を発令して上陸に備える他ありませんかな?」

 

「おっしゃる通りです」

 

早速町田は自分のスマホを握り、自身の県庁に電話を始めた。

 

スカイプで話をきいていた各県知事も倣った。

 

 

 

 

 



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ー合流Ⅲ―

6月5日 火曜日 11:32 大阪府庁舎 

 

 

列席の知事たちと尾形が議論を重ねる中、緑川は失礼します、と頭を下げ、金崎を伴って廊下へ出た。

 

緑川はスマホを出し、昨日から何度も発着信ある相手に発信した。

 

『おう、どうした?』

 

3コールで進藤が出た。

 

「知事会への情報提供は概ね役を果たしたから、お昼過ぎまでにはそっちへ行けると思う。それで、ちょっと気になる情報が尾形教授からもたらされたんだけど・・・」

 

『どないな?』

 

「あたしたちが調査してた、網走の第二伸盛丸。沈没原因が不明って報告書上げたでしょ?」

 

『ああ。こっちの審査委員会もだいぶ難色示しとったで。調査ほかして網走で寿司でも食うてたんやないか!て』

 

「うん・・・一番は沈没船の引き上げを実施してからだけど、状況的に、ゴジラによって沈没させられた可能性が浮上してきたの」

 

『どういうこっちゃ?』

 

進藤は毒を混ぜつつ、関西人特有の軽い口調を崩さない男だが、ここで声を低くした。

 

「はっきりとした実証がない、という教授による仮説だけどね、ゴジラはどうも、レーダーやソナーに感知されない身体を持っているのではないか、って」

 

『んなアホな。ゴジラは何かい、幻や幽霊みたいな存在なんか?』

 

「私も信じがたいって思ったけど・・・昨日の報告書にも載せたでしょ?第二伸盛丸が沈没する寸前、レーダーやソナーに障害物などの存在は確認されなかったと証言しているっていう部分」

 

『・・・・・』

 

「それに、証言の取れた船員によれば、反転した船底に爪痕のような傷が走っていたっていうでしょ。本人は熊にひっかかれた傷に酷似してるって話してたけど、ゴジラによって沈没させられたと仮定した場合、船底の傷に関しても説明がついてしまうの」

 

『・・・仮にゴジラによる沈没だとすれば、保険金支払いの扱いはどないなるんかな』

 

「第二伸盛丸は『包括的特約』も契約に織り込んでるでしょ?契約に則れば、保険金満額支払いになると解釈してたけど・・・。」

 

『まさか60年経って、またゴジラ絡みの保険金支払いに頭抱えるとはなあ~』

 

進藤も緑川も、64年前にグループ本社である海洋漁業の船が、ゴジラによって沈没させられたことはよく知っている。あの後、船舶保険を契約していたスペインの保険会社が『ゴジラによる沈没は天災か事故扱いか』でだいぶ議論されたらしい。天災か事故かで保険金支払いの金額が変動する契約だったからだ。

 

幾度の海難審判と保険会社の調査の末、天災によるものと認定され、保険金が支払われたのは沈没から8年も経過したときだった。このとき船舶保険の必要性を会社が強く認識したのが、KGI損保設立のきっかけとなったと云われている。

 

『まあでもわかった。早速調査委員会に話すわ。もし落ち着いたんなら、こっち戻りぃや』

 

「うん。そうする。ところで・・・東京支社は?連絡ついた?」

 

『あかん。それどころか、東京アカンのとちゃうか、って話になっとるぞ』

 

「どうして?」

 

『停電に加えて、何やら人喰いカマキリがぎょうさん出て人を喰らうって話でな、こっちもゴジラとカマキリのおかげで保険金発生案件増えて、てんてこ舞いや。とりあえず、お前ら本社へ来てもらえばエエが・・・』

 

間もなく向かうと告げて電話を切った。緑川は暗澹とする気分を払うように、顔を上げた。

 

最初は程度の悪すぎる停電くらいに思っていたが、北海道から大阪へ飛んでる間、都内の状況は思ったより深刻で、東京支社のある五反田付近で多数の死者が出ている、という未確認情報も耳にしていた。

 

「副部長、やっぱりダメです」

 

緑川が進藤と連絡をとっている間、金崎は支社や同僚に電話をかけ続けていた。

 

「・・・とにかく、あたしたちも本社へ向かおう。こっちはもう大丈夫だと思うから」

 

そういって再度会議室へ入ろうとしたとき、ニュースの通知があった。

 

【速報 国連安保理を緊急招集】

 

同時に、知事たちのいる会議室から「核攻撃!?」という声が聞こえた。

 

 

 

 

 

同日 11:40 大阪府庁舎 小会議室二

 

 

知事たちの集う会議室の隣、長テーブルが長方形に組まれただけのこの部屋は、職員たちの休憩所となっていた。

 

知事会にもたらされた情報で話題はゴジラではなくなったタイミングで、尾形は席を外しこの休憩所へと案内された。

 

積み上げられた仕出弁当と、限られた時間でそれをかきこむ職員に混じり、剱崎がパソコンに向かい眉をしかめていた。

 

部屋へ入ってきた尾形に気が付くと、剱崎は立ち上がり軽く頭を下げながら「これはこれは、真打の登場ですな」と近寄ってきた。

 

尾形は言葉を発せず、椅子に座った。

 

「どうです、ご自身が待ち望んだ状況が訪れて」

 

皮肉たっぷりに笑みを浮かべながら、なおも剱崎が絡んでくる。

 

「こういう状況は、訪れてほしくはなかったのですがね」

 

やや憮然と答える尾形に「それは嘘だ」と剱崎が被せてきた。

 

「絶滅危惧種、あるいは希少種への研究・接触の機会が訪れて、心が躍らない研究者はいません」

 

「剱崎先生、いまは心の躍る状況ではない」

 

「それは本心ですかな、尾形先生」

 

立ち上がったまま、剱崎は尾形を見下ろすかっこうとなった。一気に険悪な空気となったのを察し、弁当をかき込んでいた職員は弁当箱を抱えて席を外した。

 

「尾形先生、何も気後れすることないでしょう。もし本当はゴジラが現れて喜ばしく思うんならそう素直におっしゃれば良い。僕だって研究者の端くれだ、お気持ちは充分理解できますよ、ええ。もし本心からそう思ってるなら、人道を第一に考える尾形先生らしくて素晴らしく模範的回答だ。研究者としては、僕は軽蔑しますがね」

 

底意地の悪そうに剱崎はにやりと嗤う。

 

「剱崎先生、私の言動をどう解釈しようと私は関知しないが、いまは目の前の危機事態をどう乗り越えるか、そこに注力していくべきではないかと思います」

 

議論を打ち切るべく尾形は断言したが、剱崎はフン、と鼻で笑った。

 

「先生がお書きになった論文に、ゴジラに関する対策はたっぷり盛り込まれてますな。そして国家の中枢や行政機関はみんなその中身を知っている。おかげで先生はいつも以上にひっぱりだこだ。研究検体が現れた上でも、先生はさらなる研究に時間を割くのか、政治や行政への提言を行って国家を動かす快感に浸るのか、僕はそこも注目していますよ」

 

フフ、と笑い、剱崎は席に戻り、パソコンに向き合った。

 

「東京に繁殖しているカマキリ、先生に倣ってカマキラスと呼びますが、新しいことはわかりましたか?」

 

剱崎の挑発には乗らず、尾形は訊いた。

 

「うちの研究室から実験結果が届きましてねえ、やはりカマキラスには、市販の殺虫剤成分が有効のようです。知事会の要請に従って具体的な有効成分を分析してますよ。尾形先生の真似事ですな、行政の御用聞きとなるのは」

 

剱崎の厭味に意を介さず、尾形は供されたお茶をふくんだ。

 

「さきほど情報がありました。ロシアの呼びかけで国連安保理が招集され、カマキラスが繁殖している東京に核攻撃実施の是非を議論することが決まったそうです」

 

「ほう、ずいぶん思い切りましたなあ」

 

「瀬戸総理以下、閣僚誰とも連絡がつかない以上、日本には外交的に対応する術がありません。剱崎先生の研究成果次第では、カマキラスの駆除も可能性は残されています」

 

「僕は亡国の救世主か何かですかな。ですがね尾形先生、このままいくと計算上、カマキラスの繁殖は東京に留まらない。早ければ今夜にも、カマキラスは首都圏一円に生息圏を拡げていくでしょう」

 

剱崎はパソコン画面を尾形に見せた。4段にも及ぶ計算式が示された。

 

「カマキリがここまでの繁殖力を持つとは思えませんが・・・」

 

「尾形先生、もはやこれはカマキラスという完全な別種です。産卵数と繁殖数がほぼイコールと考えると、こうなる。国連安保理ですか、結論が出るまでには事態は東京だけでは済まなくなる可能性がありますよ。果たして東京だけ核攻撃して鎮静化するかどうか、ねえ」

 

笑みを浮かべる剱崎。

 

「剱崎先生、あなたは東京がどうなっても良いとお考えなのですか?」

 

半ば答えはわかっているが、尾形は敢えて訊いた。

 

「僕はね、尾形先生。今回のカマキラス出現は地球における支配者の変遷となると考えてます。事はやれ東京だ、日本だといった議論に収まらない。人類種の絶滅すら充分想定される。だってそうでしょう、繁殖拡大に従って人間が生活を営む上で必要不可欠な電気エネルギーが使えなくなっていく。こりゃ少なくとも文明は崩壊しますね。あとは石と棒を握って、カマキラスと生存競争を仕掛けるしかない」

 

あまりしたくはなかったが、尾形はキッと剱崎を睨みつけた。

 

「このまま座して、滅びを待てとおっしゃいますか?」

 

「どうでしょうな。まあ人間にも生存本能がある。当然僕にもね。現実的議論をしましょう、カマキラスの繁殖スピードを上回る対処を人間ができるかどうか、武力でも殺虫剤でも核攻撃でも、遅くとも半日のうちに有効的な決定打を放てるかどうか、そこがカギでしょうな」

 

ちょうど川名京都府知事が剱崎を呼びにきた。

 

「ほらね。いまから先生と話した内容をそっくり、知事の方々にもお話してきますよ」

 

不敵な笑みを浮かべたまま、剱崎はパソコンを持ち隣室へ向かった。

 

「すみませんでした、尾形先生。別室にするなど配慮をすべきでしたね」

 

小声で川名が謝ってきた。

 

「いえ、いつものことです」

 

「・・・しかし、困ったものですなあ。相も変わらず、尾形先生をお許しになりませんか、あの人は」

 

おそらく終生、自分を許しはしないだろう、尾形はそう考えている。

 

 

 

 

 



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ー暗転ー

・6月5日 火曜日 12:07 東京都千代田区永田町 首相官邸

 

 

4階廊下にある液晶温度計は、36℃を示していた。

 

うだるような空気の中、どうにか熱中症の症状が緩和されたSPを起こし、瀬戸と望月、3人のSPは4階の閣議室、執務室を探索して回った。

 

だが、通常職員の詰めているはずの執務室はおろか、どこにも職員の姿は見受けられなかった。

 

異様なのは、慌ててどこかへ逃げ出したような形跡があることだ。床には書類が散乱し、呑みかけの湯飲み茶わんがそのままにされている。

 

「どうだろう、他の階を探索してみては」

 

瀬戸の提案に「そうですな・・・」と浮かない顔で応える望月。

 

実は、SPを安静にさせつつ、自分たちも休息を取っていたとき、下の3階から何やら物音がしていた。そのときに確認しに行っても良かったのだが、SPの容態が不安定だったことに加え、状況が皆を尻込みさせた。官邸に何者かが侵入したことが充分想定されたからだ。

 

ふと、閣議室から物音がした。何かを削るような、ガリ、ガリという音が不気味にこだまする。

 

3人のSPは瀬戸と望月を囲み、三角形の陣形を組んだ。ホルスターから拳銃、H&KP2000を引き抜き、様子をうかがった。

 

先頭のSPが手で瀬戸たちを制し、ゆっくりと閣議室に近づいた。ドアをノックし、「誰か、いますか」と声をかけた。

 

返事はない。相変わらず奇妙な音が聞こえてくるばかりだ。

 

意を決したようにドアノブを回し、銃口を部屋の中へ向けた。それと同時に、派手にガラスが割れる音がして、突入せんと身構えていたSPは「はひゃ!」と甲高い悲鳴を上げた。

 

「どうした?」

 

瀬戸が訊くまでもなかった。腰を抜かして尻餅をついたSPを仰ぐように、中からカマキリが姿を現した。だがその大きさは、大柄なSPを上回っていた。廊下に頭を突き出したその大きさは、2メートルは優にあるだろうか・・・。

 

「ああああ!」

 

どうにか態勢を立て直して背を向けたSPに、カマキリは右手の鎌を降るった。黒のジャケットが切り裂かれ、鮮血がワイシャツを染め上げる。

 

瀬戸を塞ぐように若いSPが立ち、躊躇なく拳銃を放った。一発目は腹部をかすめただけだったが、二発目は腹部の真ん中を撃ち抜いた。

 

苦しみのけ反るカマキリに、もう一人のSPも引き金を引いた。腹部に頭に銃弾を撃ち込まれ、やがてカマキリは動かなくなった。透明な液体があふれ出て、床にじわりと広がる。

 

「大丈夫ですか?」

 

負傷したSPに駆け寄った若いSPは、開け放たれた閣議室の中を見て目を見張った。割れた窓ガラスから、先ほどより小さいカマキリがわらわらと侵入してきている。

 

「しっかり!」

 

瀬戸は負傷したSPを起こし、肩に手を回した。閣議室のドアを乱暴に閉め、「とにかく、離れよう」と階段へ向かった。

 

2人のSPが両側に立ち、周囲を見渡しながら階段を目指す。背後からバタン、という音がする。先ほど倒したカマキリと同じくらいの大きさの個体がドアをなぎ倒し、廊下に侵入してきたのだ。続くように、小さいカマキリの群れがあふれ出した。

 

「下へ!」

 

望月が叫んだ。地下1階の危機管理センターなら、扉も頑丈なことを思い出したからだ。

 

幸いカマキリの群れは、動かなくなっている個体に群がり始め、瀬戸たちに興味は示していないようだった。

 

「うわっ!」

 

先導していた若いSPが、3階廊下に達したときに叫んだ。何事かとSPの視線を追った瀬戸と望月もわが目を疑った。

 

3階の廊下が文字通り血で染め上げられ、官邸の職員が何人か倒れていた。だがその姿、およそ人間の姿を保っておらず、剥き出しの筋組織から、血に染まった骨が飛び出している。

 

その職員たちに、子犬ほどのカマキリが数匹群がり、残った肉体を貪っていた。

 

先ほど3階から聞こえていた物音の正体に戦慄しつつ、断腸の思いで瀬戸は先を進むべく皆をうながした。

 

「あ、あれを」

 

今度は望月が、階段から見える窓の外を指さした。

 

ガラスの向こうにそびえる国会議事堂の尖塔に、カマキリが2匹、張り付いていた。

 

だが問題はその大きさだ。国会議事堂の尖塔はおよそ10メートルと聞いている。ということは、あのカマキリは10メートルはあるということに・・・。

 

瀬戸は自衛隊の行動要件を頭の中で思い起こしていた。だが即座に、どことも連絡が取れない状態なのを思い出した。

 

度重なるショッキングな光景に心折られそうになるが、とにかく地下一階を目指した。

 

危機管理センターの自動ドアは完全に停止していた。鉄製のため、中の様子はうかがえない。

 

それでもSPがドアを叩いた。誰か出てきてほしい、ここにいるのが我々だけだなんてごめんだ―彼だけでなく、5人全員が願っていることだった。

 

ガチャリ。壁際のドアが開いた。官邸の職員が驚いたようにこちらを見ている。やがて「総理です!総理です!」と中に駆け込んだ。

 

ややあって、ドアから菊池内閣危機管理監が顔をのぞかせた。

 

「総理、よくぞご無事で!」

 

「菊池君、とにかく中へいいかな?彼が負傷している」

 

大きく頷くと、瀬戸たちは中へ通された。照明が機能せず薄暗いが、乾電池使用の非常灯で確認できる人員は20名ほどだろうか、各省庁から出向している職員を中心とした面々は瀬戸と望月を見るなり、全員が起立して頭を下げた。

 

背中を切り裂かれたSPに、何人かが駆け寄った。

 

「みんな、よく無事でいてくれた」

 

全員に聞き渡る声で瀬戸が言った。

 

「菊池さん、状況はいかがですかな?」

 

望月が訊いた。

 

「はあ。現在に至るまで、官邸のあらゆる通信機能は断絶状態です。残念ながら、状況把握すらできていません」

 

「警視庁、防衛省は、どうかね?」

 

今度は瀬戸が訊いた。状況が可能なら、そのまま自衛隊の出動を命じるためだ。

 

「防衛省とも連絡がつきません。今朝7時、警視庁から出向している職員が直接連絡を取るべく出ていき、先ほど戻って参りました。ですが・・・警視庁でも、我々と似た状況で、都内の情報収集すらままならないようです」

 

「・・・3階で職員が犠牲になっていましたが・・・」

 

沈痛な面持ちで望月が口を開くと、菊池は目を伏せた。

 

「昨日の夕方です、官邸の全電力が落ちてしまい、確認のため奔走していたときに飛び込んできたのです、私は直接目撃しておりませんが、数十匹はいたそうです。総理、まったく信じられないかもしれませんが・・・」

 

「いや、私も同じだ。カマキリに襲われた」

 

瀬戸は応急手当てを受けているSPを見やった。タオルで止血すべく背中を圧迫され、顔をしかめている。

 

「慌てて地下への避難を呼びかけましたが、時すでに遅く、確認できただけで10数名の職員がやられました」

 

菊池はうなだれたまま、しぼり出すように言った。

 

「国会は?閣僚や議員との連絡は?」

 

「議事堂とも、連絡がつきません。やはり午前のうちに人員を派遣しようとしましたが、国会前に大型のカマキリが数匹、確認されたため・・・」

 

「いや、それでいい。無理に動くことはない」

 

情報が乏しすぎるのは歯がゆいが、なお瀬戸はそう言って菊池の肩に手を置いた。

 

「総理」

 

望月が近寄り、ややトーンを落とした声で説明を始めた。

 

「状況から、我々は消息不明、安否不明、ということになっていると考えられます。まあいわば、権力の空白が日本に生じている状態ですな」

 

瀬戸も密かに考えていたことだった。

 

「都内のどこまでこの状態が広がっているかは不明ですが、日本政府としての意思が存在しない以上、我が国は・・・・」

 

望月は静かに口をつぐみ、目をつむった。

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪府 大阪府庁舎

 

 

「わかりました、よろしくお願いします」

 

電話を切ると、町田は知事の面々に向き直った。

 

「練馬の東部方面隊とコンセンサスが取れました。ただちに作戦内容を立案、遅くとも本日中に実行に移すとのことです」

 

知事の面々は神妙に頷いた。

 

「確認するが、そこまでは知事による“要請による出動”の範囲なのですね?」

 

原田が念を押すように訊いた。

 

「正直申し上げて、解釈次第です。現状では、越権行為スレスレです」

 

町田は頭を下げた。まるで自衛隊代表だな、という小林のぼやきが聞こえた。

 

「さておき、諸外国へはどうやって説明すれば良いのやら・・・」

 

原田は顔をしかめた。先ほど、大阪にある在日本米国総領事館より、「国連安保理による東京への核攻撃実行」に関する説明の電話があったばかりなのだ。

 

「あのう、やはり、大阪の総領事に伝えるのが一番では・・・」

 

相変わらず遠慮がちに侭田が口を開いた。

 

「でしょうなあ。事実上、あそこがアメリカとの外交的窓口だ」

 

小林が腕組みをしたまま、天井を仰いで言った。

 

「とにかく、いまは自衛隊に頼る他ありません。危険な作戦になると思いますが・・・」

 

原田は町田を仰ぎ見た。

 

「やるほかないんです。状況が見えない中で、正確な判断は下せません」

 

町田が言い切る姿は、知事というより自衛隊員のようだった。

 

FAXが届きました、と府の職員が入ってきた。陸上自衛隊東部方面総監部からだった。知事たちに渡されたコピーには『都内停電に対する状況把握及び情報収集の為の第一空挺団による東京降下作戦』と銘打たれていた。

 

 

 



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ー禍害ー

・6月5日 火曜日 13:07 茨城県ひたちなか市磯崎町 割烹旅館 『藤波』

 

 

「左様ですか、いえいえ、また、お待ちしております」

 

受話器を置くと、内田はふうっと息を吐いた。

 

「旦那さん、また予約キャンセルですかあ?」

 

仲居頭の檜山がのぞき込むように帳場から声をかけた。

 

「うん。もうこれで7件目だ」

 

大正時代から続く『藤波』は、数寄屋造りで総客室数が18部屋。いずれも12~15畳の広さを持つ。時期と曜日にもよるが平均して毎日10部屋ほどが稼働していた。

 

だが、先月始めから日本各地で発生し続ける災害の影響か、ここのところ良くて7部屋程度の稼働に落ち着いていた。

 

旅行・レジャー産業は平和産業と云われる。天下泰平、安穏とした世の中でこそ繁栄する。昨今の不穏な雰囲気は、『藤波』に限らず業界に深刻な影響を及ぼしていた。

 

加えて、昨日からの東京大停電、未明のゴジラ北海道上陸がダメ押しとなった。今朝から今日明日の宿泊予約を取り消してほしい、という電話が相次いでいた。

 

旅館業はお客が宿泊してくれてナンボの商売だ。こうも客室が稼働しないと、経営の先細りが目に見えてくる。

 

したがって今月に入り、10名いる仲居のうち、半分を自宅待機とした。いずれも住まいが比較的遠隔地であったり、同居家族の介護、子育てなどの事情を抱える者たちだった。そして今朝、檜山を除いて全員を出勤停止とした。

 

今日は昨日から連泊している部屋を含めて3部屋の稼働。自分と両親と檜山で充分だろう・・・そう考えた。

 

仲居たちに説明して頭を下げると、「旦那さん、むしろ助かります」と言われた。

 

聞くところによれば、ゴジラの出現により、市内の小中学校は休校、または半日授業の措置が取られ、子どもの送迎するのにちょうどいい、そう返事された。

 

内田の妻は市内の養護学校で教諭を務めている。昼前に電話すると、養護学校も午前中で休校とし、これから保護者へ迎えの依頼をする、ということだった。

 

「それにしても、ただゴジラが出ただけで、大げさ過ぎやしないですか」

 

手ぬぐいをたたみながら、檜山が声をかけてきた。

 

「うーん、そうだなあ。ゴジラが出たっていっても北海道だしねえ」

 

「磯崎は沿岸部だから、ていう理由らしいですけどね。何だか騒ぎ過ぎじゃないですかねえー。まったく最近は、台風だ大雨だですぐ学校休みにするんだから」

 

「時代が変わったんだよねえ。ま、でも、ゴジラがこっちにくるんなら、自衛隊なり海上保安庁なりから警報出るでしょ。そうそうやってきたりはしないって」

 

内田は窓の外へ目を向けた。今日はいくぶんか海風が強く、毎日続く酷暑をいくらか和らげてくれていた。

 

はるか先まで続く太平洋は、凪もなくきれいに広がっていた。旅館の前を走る県道6号線を、中学生たちが談笑しながら歩いている。休校になってよほど嬉しいのだろう。

 

机の上で充電していたスマホが鳴った。父の利三だった。今日は寺の念仏で、母の組子と一緒に出掛けているのだ。

 

「はい。うん、そう。もう7件キャンセル。ああ。取消料はもらえないよなあ、やっぱり。お父ちゃんたちも何時に戻るの?」

 

電話しながら、再び海を見る。さきほどより波が高くなったような気がする。

 

「わかった。そしたら、ぼちぼち夕食の支度しとく。今日は刺身盛りね、ハイハイ」

 

『藤波』では、伝統的に内田一家が旅館で供される食事を作ることになっている。それなりに勉強したとはいえ我流の会席料理だったが、魚介類の新鮮さは大きなウリだった。

 

半纏を脱ぎ、板場へ行って水がなみなみと入った鍋に火をかけた。

 

「檜山さーん、昆布持ってきてー!」

 

火加減を見ながら、内田は大声を出した。鍋がカタカタと揺れている。

 

「檜山さーん、聞こえたかーい?」

 

板場からであれば、帳場まで充分声が聞こえるはずだ。いつもならすぐに返事があるはずなのだが。

 

「檜山さーん!」

 

なおも声をかけるが、相変わらず返事がない。

 

「便所でもいったかな」

 

独り言をつぶやきながら帳場をのぞいた。檜山の気配がない。

 

ふいに、引き戸がガタガタと揺れだした。火がかかる鍋からは水が波打ってこぼれている。

 

慌てて火を止め、辺りの様子をうかがった。

 

「地震かあ?檜山さーん!?」

 

茨城は地震が多く、このくらいは慣れっこだ。この揺れだと、震度4くらいだろうか。

 

外から甲高い悲鳴が上がった。県道の方から聞こえた。さきほどの中学生たちだろうが、このくらいの揺れで悲鳴を上げるものか・・・?

 

「旦那さーん!」

 

今度は檜山の声がした。外にいるらしい。

 

そのとき、ズズズズズ、という、何かを引きずるような音がした。揺れも激しくなり、板場の棚にあった茶碗が床に散らばる。

 

「旦那さーん!」

 

さっきより大きな声で檜山が叫んだ。

 

「どおしたー!?」

 

内田も板場の窓から大声で返事をしたとき、何かが雪崩打つように落ちてきた。屋根瓦だった。アスファルトに叩きつけられ、次々に割れていく。

 

慌てて板場に引っ込んだ内田に「旦那さーん!逃げて―!」と檜山が絶叫する。

 

屋根が剥がれるような、激しい音がした。板場の天井板がいくつか外れ、ほこりをまき散らしながら落ちてきた。

 

目に入ったほこりを拭い、どうにか板場から這い出た。屋根の柱が折れるような音が聞こえてきた。地震にしてはおかしい。揺れは地面ではなく、天井の方から伝わってくるのだ。

 

廊下に出たところで、旅館全体が激しく揺れ、引き戸のガラスが一斉に割れた。身体が床に叩きつけられ、降ってきたガラスが額を切り裂いた。強い痛みに歯を食いしばり、帳場の手ぬぐいで止血しながらようやく外へ出られた。

 

足元がふらつき、散らばる瓦につまづいてしまった。顔を上げると、すっかり瓦が落ちた屋根の土台から、白く垂れさがる筋がいくつか見えた。筋には規則的に丸い模様のようなものが見える。

 

額からの血を拭って目を凝らした。模様と思えたものは吸盤だった。

 

四つん這いで瓦と木材が散乱する玄関先を離れると、檜山が走ってきた。

 

「旦那さん、しっかり!」

 

檜山に抱え起こされ、もう一度旅館を仰ぎ見る。大きな目玉と目が合った。

 

旅館の屋根いっぱいに広がる足、三角形の頭・・・巨大なイカが、旅館の屋根に乗り上げたのだ。

 

「こりゃあ・・・」

 

言いかけて絶句した。数年前、磯崎の海岸にダイオウイカが打ち上げられたことがあった。近隣の大洗水族館職員によれば、大きさは7メートル。一番大きくて15メートルほどになると聞いたことがあった。

 

だが旅館に乗り上げたイカは、15メートルではとても足りない大きさだった。旅館全体にのしかかれるということは、最低でも20メートルはあるはずだった。

 

近所の人たちも集まってきて、呆気に取られながらも内田と檜山を促し、とにかくここを離れようとした。

 

ズン・・・!

 

地の底から響くような音がした。

 

ズン・・・ズン・・・ズン・・・!

 

やがて地面が、音に合わせるかのように揺れだした。今度は地面から揺れが伝わってきた。

 

あの巨大なイカだろうか?いや、もっと遠くから聞こえてくる。

 

「おおい!あれ」

 

住人の男性が海を指さした。波打つ海面が割れ、山のようなものが姿を見せた。

 

「背びれ・・・?」

 

檜山が呆然とつぶやく。海を割った背びれは垂直になり、大きな黒い塊のようなものになった。

 

全員が言葉を失い、海に現れた存在を凝視した。重苦しく、それでいてつんざくような咆哮が放たれた。

 

「ゴジラ・・・?・・・!」

 

口に出した言葉を自身の脳が処理したとき、そちらこちらで悲鳴が上がった。県道から中学生の一団が駆け上がってきた。

 

人間たちの喧騒をよそに、ゴジラは海面を激しく波打たせながら迫ってきた。旅館の屋根に上がったままのイカは、ズリズリと身体を引きずりながらさらに陸へ上がってくる。まるでゴジラから逃れるかのように。

 

海岸から上陸したゴジラは、半壊した『藤波』を蹴散らすと、住宅街を超え田圃をのたうちまわるイカを見据え、雄叫びを上げた。

 

背びれが発光し、ゴジラは口を開けた。内田は瞬間的に「逃げろ、逃げろー!」と叫んだ。

 

朝、ワイドショーの緊急特番でやっていた、ゴジラの習性を思い出したのだ。背びれが発光するのは、凄まじい放射能を帯びた高熱の息を吐きだすときだと。

 

ゴジラの口から白熱光が放たれた。巨大なイカは一瞬皮膚が泡立つように膨れ上がり、間髪入れず燃え上がった。田圃に引かれた水が瞬時に蒸発し、地を這う白熱光は周辺の住宅や電柱に降りかかった。

 

ゴジラの周囲は一気に炎に包まれた。巨大なイカはあっという間に燃え上がると、黒い炭のようになって崩れ落ちはじめた。

 

天に向かって咆哮すると、ゴジラは向きを変え、海へと歩み出した。直線上の住宅を踏み潰し、太平洋に進むと、やがて水平線の向こうへ消えていった。

 

もうもうと上がる炎と煙、そして踏み荒らされた住宅を、住民たちはただただ眺めるほかなかった。思い出したようにサイレンが鳴り、那珂川を越えてパトカーと消防車がやって来るのが見えた。

 

「旅館が・・・旅館が・・・」

 

手で口を押さえ、ワナワナと震える檜山に、内田は「大丈夫」と声をかけた。

 

「大丈夫。命は助かった。旅館は、また建てる。大丈夫だ・・・」

 

呆けた自分の口から、自身に言い聞かせるように、内田はつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ー混乱ー

・6月5日 火曜日 14:13 神奈川県横浜市 神奈川県庁庁舎

 

 

『県民にどう説明すっぺって話だぞ!』

 

画面の向こうから、泉崎茨城県知事の怒声がこだまする。相手もスカイプを利用しているというのに、さらに画面を経た八田部にも聞こえるくらいの声で、さきほどからまくし立てている。

 

『うちの百里の基地にも海上保安本部にも聞いたがなあ、ちっとも要領得ねぇこどばーりしゃべんだ!』

 

泉崎はよほど興奮しているのか、地元言葉を隠そうともしなかった。

 

『やはりゴジラは、こちらの探知能力を上回る行動が可能ということ、でしょうか』

 

苦々しげに、画面先の町田が顔を上げた。一時間前にゴジラが茨城に上陸して以降、泉崎を筆頭に『自衛隊は何をやっていたんだ!』と責められ続けていた。

 

『事実上、疑いようがありません』

 

怒気を帯びる空気の中、説明に招かれた尾形は努めて冷静に答えた。

 

『先生なあ、おめぇさんゴジラは夜行性だって論文で発表していねがったか!?』

 

泉崎は怒りの矛先を、尾形に向けてきた。

 

『あれは過去、ゴジラが夜間に出現したケースばかりだったという事実に基づいて対策を講じたに過ぎず、夜行性と断じたわけではありません。今回はゴジラが白昼の日本本土に、初めて上陸したケースです。さらなる研究の余地があります』

 

『ほだごどおめぇ、研究してる間に日本焼かれっちまうべ!』

 

泉崎の剣幕に、尾形はそれ以上反論するのをやめ、目をつむった。

 

しばし画面向こうの騒ぎに注目していた八田部に、清水が寄ってきた。

 

「横須賀からです。準備が整い次第、実行に移すそうです」

 

黙ったまま頷くと、八田部はスカイプに向かって話した。

 

「失礼、たったいま横須賀の海上自衛隊総監部より通達がありました。ゴジラの南下を受け、観音崎から館山までの東京湾上に護衛艦隊を展開、ゴジラの行動を警戒するとのことです」

 

大阪の知事たちが一斉にこちらを向いたのがわかった。

 

「これはゴジラの首都侵入を防衛、警戒のための行動であり、出動及び作戦展開の根拠として、海上警備行動を適用するとのことです」

 

『それじゃ海上封鎖じゃないか』

 

原田が身を乗り出した。

 

『日本経済の生命線がまたひとつ、絶たれたな』

 

対して小林は皮肉っぽく、背もたれたままだった。

 

「残念ながら、すでに絶たれた状況です。東京の海運は事実上不可能、横浜港も今朝から機能を完全に停止しています。従って湾内の航行船舶は存在していません。こちらとしては、なにを今さら、といったところです」

 

『ちょっと待ってください、千葉と木更津は港湾機能を停止したとはきいていませんよ』

 

「会田さん、一度そちらの県庁に問い合わせてごらんなさい。港湾の閉鎖は湾内全域に及んでいるのですよ」

 

それを聞いた会田は、唖然とした表情を浮かべたまま、自身の携帯電話を取り出してどこかへ連絡を取り始めた。

 

会田自身の性格もあるが、やはり中央政府の機能が失われたことによる情報伝達の阻害が影響する部分が大きい。増してや、会田は地元ではなく大阪にいるのだ。

 

『しかし、東京に上陸するとも限らないのでは・・・』

 

侭田が手を挙げて発言する。

 

「たしかに。ですが、現状はどうあれ、自衛隊は平常通り首都防衛を最優先する構えのようです。それに、もしこのまま都内の連絡網が寸断された状態で、ゴジラが東京に上陸した場合、どうなるか・・・」

 

『どうなりますか?・・・あ、いや。これは大変なことだな・・・』

 

『侭田会長、ひとりで納得しないでもらいたい』

 

小林の苦言を受けて、侭田は全員に向き直った。

 

『だって考えてみてください。たとえば台風なんかは、事前にある程度進行方向の予測が可能で、直撃する地域には警報、避難の呼びかけをします。ゴジラについても同様だとして、ゴジラが来るから避難を呼びかけますね。いまの東京で、どうやって・・・』

 

『そんなもの、全国瞬時警報システムがあるじゃないか。なんのために防災無線・・・』

 

全員に視線を向けられた小林が押し黙った。

 

「ゴジラが来るとわからないまま、ゴジラが東京に上陸した場合、避難準備すらできていない都民はどうなりますか?」

 

八田部のダメ押しで、しばし沈黙が訪れた後、『自衛隊は、ゴジラを阻止できるんでしょうか?』と会田がつぶやいた。

 

『あくまで海自の事案なので専門外ですが、横須賀の艦隊をすべて動員し、観音崎から安房までのおよそ10キロの海上に展開したと仮定すると、東京湾の水深から考えても、接近するゴジラを漏らすなどということは考え難いですね』

 

町田が答えた。

 

『レーダーに探知されないんじゃないのか?』

 

すかさず、小林が突っ込む。

 

『たしかに、レーダーには探知されなくとも、ソナーや潜水カメラ等を用いれば、比較的早期に発見が可能だと考えられます』

 

『しかし攻撃ができんのじゃないか?』

 

「それについては、横須賀の方面総監による見解では、災害派遣による武器使用実績に基づいて、必要な行動を起こすことは可能である、とのことです」

 

『どういうことだ?』という小林の言葉通り、知事たちの表情が腑に落ちてない中、『あっ』と町田が声を上げた。

 

『横須賀の総監は、第十雄洋丸のことをおっしゃっているのですね』

 

「えーと・・・そうです。昭和49年、東京湾上で爆発物を搭載したタンカーが炎上した際、延焼を防ぐ目的で海自が艦砲射撃を行ったという事実があるそうです。この前例に則って行動することができる、と」

 

『文民統制の原則はどこへいった?』

 

小林は目をつむり、天を仰いだ。

 

『うーむ、文民統制にこだわりみすみすゴジラを東京に上陸させるか、ここで肚をくくるか・・・』

 

原田も腕組みをしてつぶやく。

 

『国家レベルの判断を、我々が下していいものかどうか、どうでしょうねえ』

 

侭田も腕組みが伝染した。

 

『雁首そろえて!ここでやるしかねえべ!』

 

曖昧な空気を、泉崎が一喝した。

 

『ひとまずですが』と、町田が重苦しい空気を破った。

 

『ゴジラ出現によって混乱はありましたが、第一空挺団による都内降下作戦は15時より開始されます。降下ポイントのうち、千代田区の霞が関、永田町へ降下する隊員が無事降り立ち、総理以下閣僚の生存が確認されれば、国家としての意思を得られたものと判断されると考えられます』

 

「しかし、通信が断絶しているのですよ。どうやって伝達されるのですか?」

 

『都内に降下した部隊は、遅くともまた何があろうとも、19時に練馬の駐屯地ないしは東京湾に設けられた海ほたる臨時指揮所へたどりつき、偵察の結果を報告します』

 

『人力に頼るとはなあ・・・』

 

ため息をつく小林に『第一空挺団なら可能です。そのために訓練を重ねてきたのです』

と町田が食ってかかった。

 

『既に部隊は、習志野の駐屯地からヘリでの移動を終え、入間で離陸待ちの状態です』

 

『それまで、ゴジラが東京にこないことを祈るばかりですが、もし間に合わぬ場合は、やはり攻撃でしょうかなあ』

 

原田が深刻な表情を浮かべた。

 

『やっちまえやっちまえ!』と、泉崎はなおもヒートアップしている。

 

『ところで、みなさん』

 

しばしモニターに見入っていた尾形が声を発した。

 

『さきほどから、茨城に上陸したゴジラの行動を追っていたのですが、行動を見る限り、ゴジラはこの巨大なイカを屠るために上陸したと判断して良いでしょう』

 

『たかだかダイオウイカを追いかけた挙句、とんでもない災難だな』

 

『ひとごとみてぇに言うな!』

 

ぼやく小林に、泉崎が怒鳴った。

 

『あのイカがダイオウイカと判断するのも良いですが、ダイオウイカにしては大きすぎます。それに、危機に瀕していたとはいえ上陸までしている。従来のダイオウイカにすれば不可解なことばかりです。惜しむことにゴジラの白熱光に焼かれてしまいましたが、詳細に研究すべき存在です』

 

『尾形先生、学者としての興味は後回しにしてもらいたい』

 

小林の苦言に『いえ、ゴジラがなぜ茨城に上陸したか。その謎を解く鍵となる存在です。現に、イカを葬ったゴジラは、それ以上内陸に侵攻せず海へと帰っている。少なくとも、ゴジラは巨大イカを攻撃する明確な意思があったことはたしかなのです。64年前のアンギラス戦とも状況が似ています。あのときもゴジラは、大阪城でアンギラスを倒した後、それ以上の町の破壊を行わず海へ戻った。その行動形態を解明するのが・・・』

 

尾形の話に聞き入っていた八田部に、清水が慌てた様子で駆け寄った。

 

「たったいま、東京足立区の区役所から連絡がありました。文京区から北区にかけて、数分前から連絡が途絶えたそうです」

 

 

 

 

・同日 14:46 大阪市中央区城見 大阪ビジネスパーク内 KGI損保本社12階

 

 

隣室で電話が鳴りやまない中、緑川と金崎は急遽作られた応接スペースのデスク上で向こう一週間の海運計画書の山と格闘していた。

 

 

「副部長、とりあえず横浜港の分はまとまりました。それにしても、これ全部補償対象になるんですか?」

 

東京湾内の港が機能を停止したことによる損害額は、横浜へ出入港する船舶の分だけでもかつてない規模に上っていた。

 

「まさか。特約あっても一部補償にとどまるのみ。金崎は当時学生だったんだよね、8年前311のときはうちの東北支社でも似たようなことが起こったの。あたしも手伝いにいったなあ。あのときは3日徹夜しても終わらなかった」

 

じゃあ、今回は何日徹夜ですか、そう言いかけて金崎は唾を呑み込んだ。

 

「でもね、あれ以来ケース別での補償対象有無の判断が理解できるようになったし、イヤってくらい契約書の山に目を通したおかげで、海損判断に役立てられるようになったの。おかげ、なんて言ったら怒られるか」

 

書類に目を通しつつ、緑川は微笑んだ。この上司と接していてときに思うが、どこか激務を楽しんでいる部分がある。

 

「副部長って、仕事に前向きですよね」

 

若干の皮肉はこもったが、金崎の率直な感想だった。

 

「仕事でもなんでも前向いていこ。ほら、手が止まってる」

 

すいません、と書類をめくったとき、スマホが鳴った。

 

「・・・副部長、石川主任です!」

 

東京支社海損部で金崎のチームの上司であり、緑川の部下である石川からの着信だった。

 

『やっとつながった。金崎お前大丈夫か?』

 

あいさつ抜きに、興奮した様子で石川が出た。

 

「はい、いま大阪の本社です!主任はいまどこですか?大丈夫なんですか!?」

 

金崎も興奮が止まらない。

 

『ああ。出先の大崎から歩いて逃げてな、いま横浜の避難所だ。スマホ充電してもらってかけたんだけど、うちの誰かと連絡ついたか?みんな大丈夫なのか?』

 

「いえ、うちのメンバーでは石川主任が最初です!支社とは連絡がつきません・・・」

 

「替わって」と緑川は金崎のスマホを手にした。

 

「石川、大丈夫?怪我はない?」

 

『ああ、副部長!オレは大丈夫です。だいぶ暑くて、さっき倒れかけましたけど、いま避難所です。横浜です』

 

「良かった・・・他のみんなは?誰か一緒にいないの?」

 

『わからないです。吉田や絵美ちゃんにも連絡したんですが、誰とも連絡はつきませんでした』

 

「会社は?カマキリにやられてない?」

 

『それもわかりません。副部長、警察とか、自衛隊はどうなってますか?東京に入れないんですか?』

 

「わからない。カマキリの群れに効く殺虫剤を用意してるってニュースはやってたけど」

 

『カマキリ・・・そんなモンじゃなくて、別な・・・あいつは・・・』

 

ふいに、通話に雑音が入るようになってきた。

 

「ちょっと、石川?」

 

『はい・・・聞き取・・・れ・・・ですか?』

 

「ええ?」

 

『ですから、あいつの存在は誰も知らないんですか?』

 

石川の声が明瞭になってきた。だいぶ苛立っている。

 

「あいつって、なに?カマキリのことでしょ」

 

『カマキリ・・・いや似てるけど違いますよ!大崎から大井に抜けるときに見たんです。もしかして警察も消防も知らないの・・・あんなの、カマキリじゃ・・・大き・・・もしもし?』

 

「もしもし?ちょっと、どうしたの?」

 

『通話・・・・聞こ・・・あいt・・・ヤバいですよ・・・』

 

通話が切れてしまった。リダイヤルしたが、通話が切れる音がするばかりだ。

 

「どうしたんですか?」

 

興奮の冷めないまま、金崎が訊いてきた。

 

「わからない。切れちゃってからつながらないの」

 

 

 

 

 

・同日 15:02 神奈川県横浜市 神奈川県庁

 

 

昨日、都内で異常事態が発生してからというもの、県庁の危機管理センターは上へ下への騒ぎとなっていたが、騒ぎはほんの数分前から際立ってきた。

 

職員が首都圏の地図を持ってきた。連絡不通エリアは赤く塗られているが、30分前から文京区から北区まで塗られたかと思っていた矢先、さらに23区から西側、武蔵野から国分寺まで塗られた地図が用意され、たったいま用意された地図によると、赤いエリアはさいたま市、所沢市、入間市まで広がっていた。

 

「おかしいんです、急速に広がっています」

 

赤く塗られた地図を持ったまま、青い顔をした清水が報告してきた。隣では、富井県警副本部長が汗をぬぐいながら電話をかけ続けている。

 

「練馬の東部方面総監部、空自の入間基地とも連絡ができないそうです」

 

「第一空挺団は、飛び立ったのか?」

 

「わかりません、確認ができません」

 

八田部は視界が狭くなるのを感じた。

 

「富井さん、何かわかりましたか?」

 

電話を切り、汗でびっしょりの富井に訊いた。

 

「それが、まったく・・・第一、埼玉県警本部に電話がつながらないんです」

 

「知事、これは、カマキラスが急速に勢力を拡大しているとしか思えないですよ」

 

清水の言葉が、八田部の視界をさらに狭くした。軽く眩暈がするほどだった。

 

「なにィ!?」

 

近くで電話している危機管理センターの職員が声を張り上げた。

 

「飛んでる!?」

 

センター中の注目を浴びたまま、職員はひときわ大きく言った。ふいに、別な職員が新たに地図を持ち、清水に手渡してきた。

 

「・・・八田部知事・・・。鶴見、港北の一部で、連絡が取れなくなっているそうです・・・」

 

 

 



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ー混迷ー

6月5日 火曜日 15:52 東京都千代田区有楽町2丁目 ルミネ有楽町

 

 

額に衝撃が走り、まどろみから倉嶋は目を醒ました。

 

少し休もうと体育座りをしたところ、舟を漕いでしまい、自分の膝に額をぶつけてしまったようだ。

 

電気もなく外の様子もうかがえない廊下の踊り場には、おおよそ50名ほどの人々がただただじっと座っていた。

 

時折、暑さと空腹で泣く赤ちゃんの声以外、何をしゃべることもなく。

 

ふと、近くに座り込んでいる男性―午前中に地下鉄伝いに避難してきた近藤というジャーナリストを見やった。

 

この極度の緊張状態にありながら、彼はいびきをかいて眠りこけていた。

 

「シリアやパレスチナいた頃に戦場でも眠る必要性を痛感したから」とうそぶいていたが、この度胸、あながちはったりでもなさそうだ。

 

うっすらと差し込む陽の光に照らされた非常扉では、やはり午前中避難してきた高校生の男子が下を向いたままうずくまっている。

 

さきほど「きっと、助けがきますよね」と期待半分、不安半分の眼差しで話しかけてきた。

 

答えに窮していたところ、「本署でも対応協議中、きっと救援にきてくれる」と中村が励ました。

 

実際のところ、どうなんだろう・・・。

 

「倉嶋、倉嶋」

 

少し離れたコスメ用品店の前で、中村が手招きしてきた。寺田もいる。

 

「いま話し合ってたんだけどな、午前中にも話したように、16時半になったらオレが地下鉄線路通って、築地署まで行ってみる」

 

「え・・・班長、独りでですか?」

 

「まあな、単独行動禁止の原則には反するが・・・この場を独りきりにするわけにもいかんだろう。とにかく、本署まで行けば、何か状況が掴めるだろうし、避難の目処もつかもしれん」

 

「危険じゃないですか?」

 

「それはそうだが、ずっとこのままってワケにもいくまい」

 

言いながら、中村は寺田から殺虫スプレーを2本受け取っていた。

 

「拳銃の弾は残り2発、警棒とこいつで、なんとか行ってくる」

 

「あたし、まだ一発も撃ってないですけど、どうしますか?」

 

「おいおい、こっちがいざとなったときどうするんだ?それにな、お前のとオレのエアーウェイトじゃ口径が違って撃てないんだぞ」

 

「倉嶋、その辺よく理解しておけ」

 

中村に続いて寺田にも注意された。

 

(・・・こんなんで、これから大丈夫かなあ)

 

経験不足も多分にあるが、この非常時に自身の知識のなさを嘆いた。

 

「ちょっと、あの」

 

倉嶋たちの話をきいていたのだろう、年配の警備員が声をかけてきた。

 

「そういうことなら、オレが一緒行こうか?」

 

「いやあ、気持ちは嬉しいが・・・」

 

「いやいや、やっぱりいくら本職といえど単独行動はやめた方がいい。オレみたいな棺桶に片足突っ込んだじいさんでも、いないよりマシだろ」

 

しばし思案すると、「じゃあ、よろしく頼む」と中村は答えた。

 

ふと、避難者が詰めているカフェの奥で赤ちゃんの泣き声が響いた。抱いている母親が必死にあやすが、なかなか泣き止まない。

 

「おい、大声出すな!」

 

座っていた初老の男性が、我慢ならず怒鳴った。

 

「あいつらに気づかれたどうするんだ!」

 

「いい加減にしろ!」

 

「追い出すぞ!」

 

暑さと緊張で気が立っているのだろう、何人かが続けて詰った。

 

泣き止まない赤ちゃんを必死に抱きしめ、母親は下を向いたままだ。

 

「まあまあ、みなさん」と、中村と年配の警備員が仲裁に入ろうとしたとき、非常扉がドンドンと叩かれた。

 

皆驚いて非常扉を注視した。非常扉にもたれていた高校生が跳ね起き、扉から後ずさった。

 

「開けろー、開けてくれー!」

 

扉を叩きながら、男性の叫び声がした。かなり切迫した様子だった。

 

「警官だ、どうしたあ!?」

 

中村は扉に近づき、声を張り上げた。

 

「助けて、助けてくれ!!」

 

必死な様子から、どういう状態かある程度理解できた。だが下手に扉を開けた場合、ここに避難している全員に危険が及ぶ。

 

中村は顔じゅうに広がる汗をぬぐい、「いいか、一瞬だけ開けるぞ!すぐ閉めるから飛び込んでこい!」と怒鳴った。

 

だが扉の向こうの男性は理解不能なことを叫び、やがて動物のような悲鳴が上がった。

 

赤ちゃんの泣き声以外、誰もがシンと静まり返った。

 

「扉から離れろ、離れて」

 

中村が拳銃を握り、注目して集まってきた避難者たちを手で制した。

 

再び扉が叩かれた。いや、叩かれたというより、金属を切り裂くような鋭い音が響いた。

 

次に扉が叩かれたかと思いきや、鉄製の扉が外れ、口元から血をしたたらせた大きなカマキリが侵入してきた。人間の背丈をやや上回るほどだ。続けて、大小さまざまなカマキリが、沸き立つように侵入してきた。

 

避難者から悲鳴があがり、我先にとカフェから走り出した。

 

中村はためらうことなく、最初に入ってきたカマキリに銃弾を浴びせた。たまらず崩れ落ちるカマキリに、小さなカマキリが群がり、ボリボリと貪り始めた。

 

合間を縫うように、人間大のカマキリが中村に襲い掛かってきた。間一髪、今度は寺田が発砲しカマキリを屠ったが、さらに後ろから別な大カマキリが飛び掛かり、避けようとした中村の右肩に鎌を振り下ろした。

 

たまらず顔を歪めながらも、中村は鎌をつかみ、背負い投げの要領でカマキリを投げ飛ばした。床に叩きつけられたカマキリに、寺田が殺虫剤を噴きかける。

 

今度は足元から大量の小型カマキリが襲い掛かり、腰を抜かして逃げ遅れた男性の足元に喰らいついた。

 

絶叫を上げる男性を助けようとした初老の男性にも、小型カマキリが群がり、やがて全身をカマキリにかじられ出した。

 

寺田が警棒で群がるカマキリを叩くが、多勢に無勢、やがてカマキリたちは寺田の足元に喰らいついた。

 

呆然とする倉嶋に、「倉嶋ァ!」と中村が怒鳴りつける。

 

恐怖と事態に支配されていた倉嶋はかぶりを振り、自身が為すべきを考えようとしたが、思考がまとまらない。

 

「倉嶋!みんなを避難させろぉ!」

 

なおも迫るカマキリを左手に握った警棒で叩きつけながら、中村は声を張り上げた。

 

ようやく我に返った倉嶋は「み、みなさん、早く・・・」と言いかけて再び絶句した。

 

小型のカマキリたちが羽根を拡げ、一斉に逃げる人々に襲い掛かったのだ。赤ちゃんを抱いていた母親の背中にカマキリが飛びつき、白いカーディガンがまたたく間に鮮血に染まる。

 

ほぼ無意識のうちに、倉嶋は駆け出した。だが動きの止まった母親にカマキリは容赦なく群がり、たどりついた倉嶋は剥き出しになった肋骨に慄然とした。

 

だが母親は精一杯手を伸ばし、泣き叫ぶわが子を倉嶋に託してきた。赤ちゃんは無傷だった。倉嶋はしっかりと赤ちゃんを両手で抱き、胸元に抱き寄せた。母親は安心したように手が下がり、そのまま動かなくなった。

 

飛び回るカマキリに他の避難者も喰われ始めたが、その中でも果敢に殺虫スプレーや鉄の棒で立ち向かう者もいた。カフェの入り口では、両足に喰らいつかれ悶絶する男子高校生をなんとか助けようと、数人がカマキリを踏みつけていた。

 

だが、後から入り込んだ大型のカマキリが迫ってきた。慌てて殺虫スプレーを噴きかけるが、うまく顔に届かない。背を向けて逃げようとした男性に、カマキリは逆襲とばかりに鎌を振り下ろし、袈裟斬りにされた男性は血を噴きだしながら倒れた。

 

倉嶋は赤ちゃんを抱いたまま、大カマキリに右手で拳銃を向けた。警察官を拝命した大勢がそうであるように、警察学校の射撃訓練以外で発砲するのは初めてだった。

 

思い切って引き金を引くが、大カマキリには当たらず、逆に注意を引くことになってしまった。猛然と迫る大カマキリに次弾を発射する。大カマキリの左腹が弾け飛んだが、勢いよく飛び掛かってくる。

 

倉嶋は目をつむり、赤ちゃんを庇うようにしゃがみ込んだ。そのとき、誰かが自分のそばに立ったのがわかった。顔を上げると、さっきまでいびきをかいていたジャーナリストの近藤だった。手に持った鉄パイプで、大カマキリを強かに叩きつけたのだ。頭部への一撃が効いたのか、床でのたうち回る大カマキリに、近藤はとどめを刺した。

 

「おい、しっかり!」

 

近藤は倉嶋を抱き起し、カフェの奥にある非常階段を指さした。

 

「何人かあそこから上の階へ逃げた。あっちだ」

 

倉嶋は無言で頷いた。緊張で喉がカラカラに渇き、うまく言葉が出てこない。

 

改めて周囲を確認すると、最初こそ大量に出てきたカマキリたちも、多くの獲物に散り散りに襲い掛かっており、当初の勢いが削がれていた。避難者たちも手持ちの武器で逆襲を始め、床には大小多くのカマキリの死骸が転がっていた。動かなくなった同胞を共食いすることが、人間側への被害が軽減される結果になっていた。

 

近藤は他の避難者と、足を喰われ苦しんでいる高校生を助け起こし、階段を目指した。倉嶋も続いていると、中村が後を追ってきた。

 

「倉嶋、お前怪我はないか?」

 

「はい、大丈夫で・・・」

 

倉嶋は二の句が継げなかった。中村は右肩から血があふれ、制服が真っ赤になっていた。

 

「オレはいい、なんとか動ける」

 

そう言うが、かなり痛むのだろう、息は荒く、じっとりとした汗を浮かべている。

 

「班長、早く上で手当てを」

 

倉嶋の言葉に頷いた中村が、その場に崩れ落ちた。足元に子犬ほどのカマキリがいて、中村の左ふくらはぎを切り裂いたのだ。

 

「こんの・・・!」

 

おかえしとばかりに、中村は左拳でカマキリを叩きつぶした。そこに、不快な羽音を立てながら大きなカマキリが舞い降りた。床に転がった中村に目をつけたのだ。

 

倉嶋は咄嗟に赤ちゃんを近藤に預け、腰の警棒を握ると、中村を狙うカマキリを叩いた。今度は倉嶋に狙いを定め、威嚇するように両手の鎌を持ち上げてきた。

 

倉嶋は歯を食いしばり、警棒を力いっぱい握った。大丈夫、大丈夫・・・何のために警察学校で剣道2段まで取ったんだ、しっかり・・・!

 

面打ちの要領で、倉嶋は警棒を思い切り振り下ろした。カマキリの鼻先を切り裂き、こけおどしにはなったが、すぐにカマキリは迫ってきた。

 

「うあああーーー!!!」

 

恐怖と怒りで意図せず叫び、倉嶋は警棒を振り続けた。そのうち数発がそれなりのダメージになったのか、たまらず後退するカマキリ。

 

無我夢中で警棒を振るっていると、カマキリは再度両手を持ち上げてきた。柔らかそうな腹が倉嶋の視界に広がった。

 

剣道の突きで、倉嶋は腹めがけて警棒を突き刺した。その一撃が致命傷だったのだろう、透明なねっとりとした体液をぶちまけながら、カマキリはピクピク動きながら床に崩れ落ちてしまった。

 

大きく息を吐くと、後ろから声がした。年配の警備員が中村に肩を貸し、「おい、あんたも早く!」と階段から声をかけていた。

 

顔中にあふれた汗を腕で拭い、階段へ向けて駆け出す。ふと、通路の先に目をやると、避難者を守りながら奮闘する寺田の姿があった。

 

「寺田さん!」

 

「オレはいいから!早くこの人たちを逃がしてくれ!」

 

寺田は負傷した男性を庇いながら、必死に警棒を振り回している。数匹のカマキリが寺田に詰め寄り、寺田の下半身を切り裂いている。

 

「倉嶋、早くしろ!」

 

助けようと近寄る倉嶋に、鬼のような形相で怒鳴る寺田。なおも逡巡する倉嶋に「オレが引き付けてるから、急げよ!」と肩を突いた。

 

「お姉さん、ほら!」

 

階段から、中村を介抱する警備員が声を上げた。倉嶋は迷いを振り切るようにかぶりを振ると、数名の避難者を階段へ誘導した。

 

昇りがけに寺田を見ると、全身にカマキリがたかり、顔は血で真っ赤になっている。

 

「行けー!扉閉めろー!」

 

痛みの苦しさに任せたような、悲痛な声を上げ、寺田は膝をついた。次々にカマキリが群がっていくのが見えた。

 

断腸の思いで倉嶋は扉を閉め、左足の複数個所を噛みちぎられた男性を抱えながら上を目指した。

 

「おい、大丈夫か!」

 

近藤が上階から顔を出し、避難者の引き揚げを手伝ってくれた。そこは地下一階から一階の間に設けられたスペースで、テナントがひしめく他の階と違い、殺風景で閉鎖的だった。だがカマキリの侵入は比較的難しそうな空間であった。

 

あまり広くない廊下には、10名ほどの負傷者が横たわり、うめき声を上げていた。一人の男性が左上腕を切り裂かれた女性の手当てをしていて、女性の絶叫に近いうめき声が傷の痛みを物語っていた。

 

「失礼、あなたは警官ですね?」

 

女性の手当てをしている、黒い肌の男性が英語で倉嶋に話しかけた。一目で南アジア出身とわかる風貌だった。

 

「英語は理解できますか?この人たちに治療の説明をする必要があるのだが、私は日本語ができなくて・・・」

 

男性は独特のイントネーションはあるものの、滑らかなクイーンズイングリッシュで話してきた。

 

「大丈夫です、私が翻訳してこの人たちに説明します」

 

倉嶋が答えると、男性は安心したように口元に笑みが浮かんだ。

 

「わかりました、頼みます。あ、私はモデ・ガンガダールといいます。インドで医師をしています」

 

「千夏です、倉嶋千夏」

 

モデ医師が足を喰われた高校生の服を剥ぐのを手伝いながら、倉嶋も名乗った。

 

 

 

 

 

6月5日 火曜日 17:00 イトゥルップ島クリリスク

※日本名:択捉島(北海道紗那郡紗那村)日本より1時間進んでいる点に留意

 

 

昨日アプローチしたクリリスクの漁師たちを束ねる、ゴーゴリじいさんからレオニドに電話があったのは、15分ほど前だった。

 

ジョージは話をきくとレオニドをけしかけ、ゴーゴリじいさんから指定された集落の診療所を目指した。

 

ロシア非常事態省から火山噴火による非常事態宣言が発令されているクリリスクだが、空は透き通るほど青く、また火山灰もそれほど観測されていない。

 

風向きがオホーツク海へ向いているため、というのがロシア気象委員会の発表だが、少なくともジョージはまったく信じていなかった。

 

昨日の夜、日本の北海道にボーフジェーディ島に封じられているはずのゴジラが上陸したことと、おそらく無関係ではないだろう―そう思っていた矢先の情報提供だった。

 

通訳兼運転手のレオニドが殺風景なアパート群の一角にある診療所に車を滑り込ませると、ジョージは待ってられないとばかりにドアを開け、診療所の中へと入った。疑いの眼差ししかない年配の看護師が怪訝な顔をするが、待合室にいたゴーゴリじいさんの出迎えを見ると奥へと引っ込んでしまった。

 

「さすが、早いな」

 

長年、北方の冷たい風に鍛えられたであろうダミ声のゴーゴリじいさんは、北方4島の漁師たちの指導者的立場にあるばかりでなく、イトゥルップ島のもう一人の村長、島の顔役などとも呼ばれ、「裏の世界にも通じている」という噂もまんざらではなさそうな雰囲気を漂わせている。

 

昨日の取材協力要請にあたり、ジョージはロシア人の多くが好物のウォッカ(それも最高級種であるヴェルヴェデール)を15本といくばくかのドル札を手土産にしたところ、快く話を聞いてくれた(地元の青年レオニドの存在も大きかった。

 

ゴーゴリじいさんの後ろから、赤ら顔の四角い顔をした男が出てきた。村にただ一人の医師であるグナイェフと名乗った。

 

グナイェフは3つある病室の一番手前を開けた。全身を痛々しく包帯に包まれた男がこちらに目をよこしてきた。

 

「今日の昼過ぎ、警報を無視したうちの活きのいい漁師が、カニ採ってたときに助けてきてなあ、ここへ担ぎ込んですぐ、あんたに電話したって次第だよ」

 

ゴーゴリじいさんの説明にジョージは笑みをうかべて頷き、ベッドの上のけが人に歩み寄り、ベッド脇の椅子に腰かけた。

 

「こんにちは。ジャーナリストのジョージ・マクギル、アメリカ人です。こちらの、ゴーゴリじいさんの好意でここに招かれました」

 

ジョージの英語を、レオニドは忠実にロシア語に訳す。

 

見たところようやく20歳になったかならないかといったところか、まだ少年の面影を残す青年は苦し気に口を開いた。

 

「ロシア海軍太平洋艦隊所属、ウマール・アジェダンスキー水兵であります」

 

ジョージは弱弱しい声をいたわるように頷いた。

 

「大変なところもうしわけない、なぜあなたがそのような怪我をしたのか、なぜあなたの艦が非常事態を宣言されている北方海域にいらしたのか、どうかあなたの口から聞かせてほしいのです」

 

ウマールは包帯の下でもわかるくらい、困惑した表情を浮かべた。この真面目な青年は、どこまでこの得体の知れぬ軽薄なアメリカ人に話して良いものか、考えあぐねているのだろう。

 

「ウマ―ル、この男は嘘を平気で流すモスクワの連中と違って、真実しか書かない。お前の話したことが、やがてはきっとお前の名誉を回復させて郷里の両親を安心させてくれることにしてくれるだろうよ」

 

ゴーゴリじいさんが助け舟を出してくれた。なおも逡巡するウマールだったが、やがて意を決して口を開いた。

 

「一昨日、6月3日のことです。自分が所属する太平洋艦隊、ブールヌイに出動命令が出されました」

 

ジョージは大きく頷き、続きを促した。

 

「激しく噴火を続けるベルタルベ山への近接と命じられ、最初は意味がわかりませんでした。なぜ火山噴火を続ける海域に我々が急行するのか、駆逐艦ではなく調査船の仕事ではないか・・・ですが、出航前に艦内の営巣に集められたとき、艦長閣下が命じたのは、火山噴火への対処ではなく・・・ゴジラ掃討でした」

 

ジョージは息を飲んだ。ウマールは激しく咳こみ、苦しそうに左胸に手をあてながら続けた。

 

「自分はゴジラは、海軍に入隊したときの座学で聞いていた程度で、よもや昔日本を壊滅状態にさせた怪物と戦うことになるとは思っておらず・・・激しく困惑したまま、現場海域へと向かいました。といっても、閣下の説明では、我が軍の砲撃で確実にゴジラを仕留められる、とのことだったので、巨大なヒグマ退治くらいにしか認識しておりませんでした」

 

「確認しますが、出航前のブリーフィングで、艦長ははっきりとゴジラの名前を告げたのですね?」

 

ジョージの問いに、ウマールは頷いた。首を動かすのも辛いのだろう、再び咳きこみ、両目から涙を流した。

 

「・・・昨日の昼です、何の前触れもなく、一緒に出航した駆逐艦ボエヴォイが突然轟沈し、救助に向かったベヤボヤーズネンヌイも爆発したまま沈没しました。さっぱりわけがわからないまま、仲間のザイツェフと慌てていたところ、艦首から10時の方向に、黒く大きなものがヌッと姿を現しました。大きなヒグマかと思いました」

 

ジョージは話に聞き入りながら、遮るように訊いた。

 

「艦のソナーやレーダーには察知されなかったのですか?それほど大きな存在が」

 

「・・・わかりません。自分は甲板担当でしたから。ですが、我が軍の探知能力に疑いはありません」

 

やや怒気を含んだ口調だった。

 

「やがて黒い怪物に向けて、砲撃を開始しました。ですが、当たってもまったく損傷が認められず、気がついたら白くて熱いガスが降り注ぎ、甲板にいたザイツェフたちが一瞬で炭のようになったと思ったら・・・気がついたら、漁船の上でした。その間に何があったのか、自分はまったく、わかりません・・・」

 

「ありがとうございました。最後に、あなたの故郷は、どちらですか?」

 

ウマールは意外そうな目を向けてきた。なぜそんなことを訊いてくるのだ、と言いたそうな目だった。

 

「シベリアのオレニョークって、田舎です」

 

「オレニョークか。永久凍土の取材で行ったことがある。あの川沿いに拓けた町ですね」

 

ウマールはびっくりした目を向けてきた。

 

「自分の故郷を知ってるんですか?」

 

「ええ。私はアメリカ人の誰よりも、シベリアを歩いたと自負しています。きっとオレニョークのご両親へも、あなたの名前が届くはずです」

 

両親、という言葉を聞き、ウマールは泣き出した。きっと自分でも、故郷の両親に一目会うことが二度とないことを悟っているのだろう。

 

「大変な中、ありがとうございました。あなたから聞いたことは、決して無駄にはしません」

 

ジョージはウマールと握手した。泣きながらも、ウマールは笑顔を向けてきた。

 

部屋を出ると、早速ゴーゴリじいさんに呼び止められた。

 

「ここまで聞いたからにはあんた、さっさとこの島を出た方がいい。いや無論、ロシアからもな」

 

「そうしたいが、ベルタルベ山のせいで空港が閉鎖されてて・・・」

 

ジョージは笑みを浮かべて言った。わかっておる、とばかりにゴーゴリじいさんは頷いた。

 

「あんたも知ってるんだろ、この国は建前と本音に大きく乖離がある。シャナにある民間飛行場から、韓国企業の貨物便が今夜飛び立つ。あんたの分のチケットくらい、もう3つほどドル札もらえれば手配できるんだがの」

 

「そうこなくちゃ。戻ったら、土産にウォッカをまた送るよ」

 

 

 



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ー混迷Ⅱ-

・6月5日 16:22 神奈川県横浜市港北区 JR新横浜駅

 

 

改札に殺到しつつある乗客を整理しながら、新横浜駅長、上山光郎はメガホン越しに、喧騒に負けず、且つ落ち着いたゆっくりした声を出していた。

 

「ただいま改札は省略しております!また皆様の安全確保のため、新幹線ホームまでのご案内は駅員の指示に従い、順番が来るまで慌てずお待ちください!」

 

繰り返し案内を続ける上山に、スーツ姿の男性が詰め寄ってきた。

 

「おい改札省略てなんだよ!オレ切符買ったぞ?」

 

「誠に恐れ入ります、後日、払い戻しをさせていただきます」

 

上山はメガホンから口元を離し、やはり落ち着いたトーンで答えた。

 

「おいふざけるなよ、いまやってくれよ!」

 

「もうしわけありません、こちらでは対応ができかねますので、お降りになった駅にて・・・」

 

「なんだよ、それ!」

 

スーツの男性は上山の胸倉をつかんできた。

 

「適当なこと言って、結局ウヤムヤにすんじゃねぇだろうな!いまやれって言ってんだよ!」

 

怒り剥き出しに顔を近づける男性に、

 

「こんなときに!」

 

「おい、後にしろよ!」

 

と、周りから野次が飛ばされた。

 

「おい、なんだとコノヤロー」

 

スーツの男性は怒りの矛先を変え、注意した若い男性のジャケットをつかんだ。

 

「オレは新大阪までの片道分買ってるんだよ、安くねぇんだぞ!」

 

「んだよ、やんのか!」

 

いまにも殴りあいになりそうだったところを、上山は部下の駅員たちと収めた。

 

「どうか、どうか落ち着いてください」

 

なおもゆっくりと、またはっきりしたトーンを務めて出した。

 

「おい駅員さん、いつ乗れるんだ!?」

 

今度は頭の白い、年配の男性が唾を飛ばしながら向かってきた。

 

「現在、新横浜~静岡まで順次往復運行、静岡から先へはさらに多くの車両で運行させております。どうか、順番を守ってお待ちください」

 

「そんなこといって、いまにカマキラスの餌にでもなったらどうするんだ!」

 

「子供がいるんです、早く乗せてくれませんか!?」

 

「なんのために新幹線車両のストック持ってるんだよ!」

 

皆、不安が爆発した様子で言いたいことを口にしてくる。思わず怒鳴り散らしてやりたくなる衝動を必死に抑え、上山は「どうか、どうか落ち着いて、お待ちください!」と返事を続ける。

 

実際のところ、静岡から先はどうなっているのか、上山にもわかりかねていた。

 

1時間ほど前、八田部神奈川県知事から、神奈川県全域に避難指示が発令された。発令に伴い、神奈川県庁から避難協力を依頼された。一応、災害発生時のマニュアルに従い、JR東海本社と協議の上運行を実施する、と返答したが、県庁からはかまわずとにかく西へ向けて新幹線を走らせてほしい、と強く要請された。

 

JR東海本社、及び新横浜以西にある新幹線停車駅とまともに協議することすらままならず、元々昨日からの東京の混乱により新横浜発着となっていた東海道新幹線を、全車両順次発車させ、静岡にて避難者を降車させた後、即座に新横浜へ折り返すように、との運行指令を出すこととなった。

 

通常であれば運行を管理する国土交通省との連絡協議も必要になるが、通信が途絶した状態の上、「もし協力できかねると言うなら、今後、神奈川県内の新幹線運行及びJRによる借地利用を一切認可しない」という、脅迫じみた神奈川県知事からの通達により、今回の異例措置に立ち至った。

 

実際のところ、上山自身も神奈川県からの避難には賛成だった。昨日からの騒ぎは充分身に染みていた上、被害の拡大が明らかとなる状況では、避難すべしという理屈は理解できた。

 

だが問題は、1千万人近い神奈川県民を全員避難させるなどということが、果たして可能なのか、ということだった・・・。

 

「駅長、小田原、熱海で入れ替えの車両が、間もなく到着するそうです」

 

「小田原のホームで待ち合わせを行うそうです」

 

駅事務室から、部下が何名か出てきた。

 

「みなさん、ただいまの情報によると、現在迎えの車両が小田原を出発、あと20分弱でこちらへ到着するとのことでした!引き続き、お待ちください!」

 

再びメガホンを介して案内をするが、新幹線待ちの行列は先ほどより目に見えて伸びていた。現在最高出力で運転している冷房も効かぬほどの熱気が、改札階を包んでいた。

 

この状況を以てしてなお、上山は落ち着いた声色を崩すことはしなかった。人間は極限状態のパニックに陥れば陥るほど、理性を失い、秩序を無くした行動を取ってしまいがちだ。

 

だからこそ、上山は駅員として秩序を守るべく心がけることにした。だが次々と押し寄せる避難者を前にして、どこまで秩序が保てるのか、上山は自信が持てないでいた。

 

そのとき、改札階の照明が一斉に消えた。避難者はどよめき、上山は原因を探るべく部下に配電盤の点検を指示した。

 

「おおい、あれ・・・!」

 

避難者の1人が窓の向こうを指さした。暑さで霞んだ空に、黒い波がうねりながら広がっていくのが見えた。

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪府大阪市 大阪府庁舎

 

 

列席の知事たちは、息を飲んで剱崎の説明に全神経を集中させていた。もはや彼の発する汗や汚れの臭いなど、気にならないほどであった。

 

「先生、カマキリが飛ぶって・・・元々、カマキリは飛ぶもんじゃありませんでしたか?」

 

原田が沈黙を破った。

 

「まあね、たしかにカマキリは飛ぶことができます。ですがそれは、極めて限定的だ。カマキリの羽根というのは、天敵に遭遇したとき即座に逃げ出せるよう、ほんの2~3メートル飛べるに過ぎない上、飛び方も不安定だ。放物線を描くようにしか飛べないんです。増してや、渡り鳥や羽蟻のように群れとなり飛翔するなどできないんです。すなわちこれは、進化したんですな」

 

相変わらずまくし立てる剱崎は、乾いた口を潤すのにペットボトルの水をあおった。

 

「カマキラスは、その驚異的な進化能力によって、飛行能力を得て、餌場を拡大しているんでしょうな。ご覧なさい、この一時間で東京東部から、埼玉県全域、千葉県東部にまで通信断絶地域が広がっている。この飛翔した群れが、地上へ降下を始めたら、どうなるかは・・・」

 

話をずっと聞いていた会田は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「すると八田部さんの、全県民への即時避難呼びかけは正しい、と?」

 

原田はゴクゴクと水を飲み続ける剱崎に訊いた。

 

「まあ、正しいんでしょうね。避難が間に合うかどうかは別として」

 

『冗談ではないですよ』

 

画面越しに突っかかってきたのは、杉浦静岡県知事だった。

 

『たしかに我が県は、東海地震ないしは富士山噴火を想定した避難計画を策定してます。そのための避難訓練も行ってます。ですが他県民の受け入れなど実績はありませんし、第一、4百万の静岡県民の避難だけでも困難だというのに、1千万人の神奈川県民の避難受け入れなど・・・!』

 

『杉浦さん、お困りなのは充分理解できますが、既に横浜市の一部にも通信断絶が広がっています。カマキラスが勢いを増しているのは明白なんです。物理的に、神奈川県民は西へ逃げるしかないんです。どうか、ご協力いただきたい!』

 

画面を介して、八田部が切羽詰まった感を出しながら頭を下げた。

 

『八田部さん、あなたの判断は稚拙すぎます。避難先も確定せずとにかく西へ逃げろ、などと、無責任も甚だしい!』

 

『杉浦さん、こちらはすぐそばにカマキラスがいるんです!カマキラスに喰われた者もいるんです!全員とは言いません、どうか、一人でも多く、ご協力いただくことはできませんか!』

 

「ああー、まあまあ」

 

画面越しでも迫真の両知事を制するように、小林が手を挙げた。

 

「八田部さん、愛知県で、神奈川県民の受け入れ協力をしましょう。早速うちの県庁と協議を始めます」

 

『小林さん、本当ですか!』

 

「ええ。うちもねえ、東海地震を前提とした訓練を行ってますし、長久手の万博跡地や長島など、一時的な避難に役立ちそうな土地は多い」

 

やり取りを聞いていた杉浦は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、意に介さず小林は携帯電話を取り出した。

 

「ええっ!?・・・・」

 

他方、会田が携帯電話を握りしめたまま、表情も身も何もかもを固まらせた。

 

「・・・会田さん?」

 

立ち上がった原田が、立ち尽くすばかりの会田に声をかけた。

 

「・・・松戸、船橋、流山で、死者が出たとの報告ですが・・・」

 

呆けたように、会田は乾いた声を出した。知事一同、思わず下を向くか、嘆息を出すしかなかった。

 

「会田さん、さきほどは避難指示を躊躇なさったようだが、もはやかまっていられない。八田部さんと同じく、やはり避難を指示すべきでは?」

 

原田は会田の正面に向き直り、言葉を選びながら口にした。いますぐにでも、電話をかわって避難指示を出せと怒鳴ってやりたいのを堪えていた。

 

会田は顔中に汗を滴らせ、焦点の合わない視線を泳がせながら電話口に向かった。

 

「室長・・・現場に任せて。各自治体に、対応に当たるよう、各自治体に・・・」

 

「会田さん!そりゃあないでしょう!!」

 

とうとう原田が爆発した。

 

「あんたの口から避難を指示しなくてどうするんだ!しっかりしろ!しっかりしなさい!」

 

震えながら腰を曲げ、目をつむる会田に「会田さん、あなたの指示で助かる県民も多いはずです。避難を、指示してください」と、町田が声をかけた。

 

一連の様子をあおぎ、フン、と鼻を鳴らした小林の隣で、侭田がパソコン画面を見たまま声を上げた。

 

「あれ?誰か、八田部さんの回線切りましたか?」

 

全員がスカイプに目を向けた。異変を察知した町田が、テレビの音量を上げた。

 

『繰り返します、新たな情報です。停電域が神奈川県西部にまで及んだとの情報です。繰り返しお伝えします、つい先ほど―』

 

 

 

 

 



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ー混迷Ⅲー

6月5日 火曜日 16:40 大阪府庁舎 小会議室二

 

 

この期に及んで右往左往する各知事たちに、呆れたような薄笑いを浮かべながら剱崎が部屋に入ってきたのは、ちょうど尾形が妻の靖子に「今日は戻れないから夕飯はいらない」と電話を終えたところだった。

 

くたびれた顔でスマホをいじっていた休憩中の府庁職員たちは、尾形と剱崎が同室になった途端に咳ばらいをして席を外していった。

 

「この国はいったいどうなってるんでしょうなあ。あんな意気地なしを知事に選ぶだなんて」

 

剱崎のぼやきを、尾形は無視した。

 

「まあ、そんな国だ、これを期にいっそのことイチからガラガラポンした方が良いのかもしれませんなあ」

 

関わり合いを絶つように卓上の書類に目を落とす尾形に、剱崎はなおも近寄った。

 

「尾形先生、相変わらずゴジラにご執心のようだが、このままいくとゴジラより早く、カマキラスに日本は滅ぼされるでしょうな。今後のゴジラ研究を考えるより、早いところ避難をした方が良さそうだ」

 

剱崎は挑発的にテーブルに腰かけ、尾形を見下ろした。

 

「・・・先ほどのお話では、この分だと明日の午後にはカマキラスの群れが関西に到達する、ということでしたか?」

 

ここにきてようやく、尾形は顔を上げた。

 

「ええ、ええ。さっき知事会で話した通りだ。一同みんなビビッてしまって、未だマスコミには発表してませんがね」

 

底意地の悪そうに、剱崎は笑った。

 

「仕方がありませんよ。中央と違い、非常事態時のマスコミ対応に長けた部署もノウハウも存在しない。第一、むやみに避難を呼びかけたところで、収拾のつかない混乱が生じるばかりです。そんな中でも、知事のみなさんは現状でしっかりやってらっしゃると思います」

 

「さすが、お偉いさんとお付き合いのある尾形先生はおっしゃることが違う。忖度がお上手ですな。ま、いずれさらなる被害は免れない。もはや諦めの境地に達する方が賢いでしょうな」

 

無造作に伸びてきたあごの髭を指でなぞりながら、剱崎はいやらしく笑顔を見せた。ヤニと汚れで黄ばんだ歯が、いやらしさを助長していた。

 

「現在、自衛隊西部方面隊を中心に対応を協議しているとのことです。東京と違ってこちらにはまだ時間的にも距離的にも余裕がある。座して死を待つようなことなど・・・」

 

剱崎は口を閉じ、悪意ある笑った目を向けてきた。

 

「だがあれほどまで繁殖し行動力も急成長した存在に、打つ手などありますかな?尾形先生、私は常々、人類がいつまでも地球の支配者であると思うな、そう学生たちに説いてきましたよ。我々はね、こうして存在している以上、緩やかながら確実に滅びへと向かっているんです。今回はその速度が一気に上がったに過ぎない」

 

クックックッ、と鳩のように笑う剱崎に、尾形は我慢ならぬとばかりに立ち上がった。

 

「剱崎先生、おふざけも大概にしましょう」

 

「おふざけなどではありませんよ。もう良いじゃないですか。人類は充分、この地球上で贅沢してきた。支配者がシフトする自然の摂理に任せましょう」

 

「・・・あなたという人は!!」

 

一段と声を荒げ、尾形は剱崎に詰め寄った。剱崎は薄ら笑いをやめ、垂れていた目じりを上げた。

 

「私はね、尾形先生。とうに人間への愛想は尽きてるんですよ。何故か?それは訊くまでもないでしょう。ええ、あなたのせいですよ!」

 

尾形は唇を噛み、反論を押しとどめた。

 

「20年以上も前になりますね、私があなたの下で研究員を務めていたときだ。あなたの研究にいたく共感した私は、あなたの学術論文作成に基礎から携わった。ちょうどあのときも、今年のように猛暑でしたなあ」

 

剱崎は窓の外に身体を向けた。うだるような空気に包まれた大阪市街が仰げた。

 

「あなたがずっと提唱していた、ゴジラの生命力への探究、及びゴジラとの共存可能性。私も生物学を修めてきた身として、一も二もなく乗っかりたくなった。そりゃあ、昆虫研究分野へ進もうとしていたのに、大事な時期になぜゴジラ研究などに乗り換える?そう、当時のお偉方から言われましたなあ。ええ、いまでも『不運な奴だ、あのとき浮気しなければ、今ごろお前も名誉教授の座でもおかしくない』とは言われます。ですがね、私は自分の役職なんざどうでもいいんだ。尾形先生、あなたと芯が通った研究をしたかったんですよ」

 

尾形は目を瞑り、椅子に座り込んだ。もう幾度と聞かされた話だったが、遮ることもしなかった。できなかった。

 

「論文発表の一週間前でしたねえ、あなたが急に、仕上がりかけた論文を破棄し、こちらの論文を世に出す、などとのたまっってきたのは。ええ、世間は許さないかもしれません。ようやく戦後からの脱却を果たそうとした日本を2度も壊滅の危機に晒し、新たに出現した場合、今尚我が国最大の脅威であるゴジラとの共存を謳った論文など。ですがあなたは、それでも生物学者としてゴジラの抹殺ではなく研究を望んでいた。私は嬉しかった。生物の神秘を解き明かそうとする、あなたの姿勢が。だのに・・・・」

 

意気消沈した尾形に、剱崎は向き直った。

 

「誰に唆されたのか、そんなことはどうでもいい。あなたは『ゴジラとの共存可能性』ではなく『ゴジラ再出現時の対応及び対抗方法』などと、生物学からおよそかけ離れた論文を送り出してきた。大学や文科省の軍門に降り生物学者としての、いや、いち研究者としての魂をドブに捨てたあなたは、見事に名誉教授の座を約束され、マスコミにもちやほやされ、我が世の春を謳歌した。さぞかし痛快だったでしょうなあ、あなたの進言通りに政府や自衛隊が動き、膨大な予算が組まれ、ゴジラの厚い皮膚突貫を目的とした0式特殊徹甲弾(通称フルメタルミサイル)や3式回転型徹甲弾(通称D03削岩弾)といった兵器が配備され、新たな商品開発に成功した三菱重工から見返りに多額の研究費用が寄付されるといった流れは。言うことを良く聞く良い子に育てば、甘いお菓子がもらえるんだ。先生は、生きるのがお上手だ」

 

聞き慣れた皮肉ではあったが、やはり剱崎に言われるといまでも堪えきれず胸が苦しくなった。

 

「世の空気に流され、本当に研究すべき事象は軽視する。人間の浅ましさ、ここに極まれり。今回の件はね、きっとそんな浅ましくて無知な人間への罰ですよ。尾形先生、いくら名誉が手に入り、研究資金が潤沢でも、人間みな死んだらなあんにも残りませんな」

 

ふいに、気配がして会議室へのドアを見た。憤怒の表情を浮かべた川名が仁王立ちしていた。

 

「これはこれは川名さん、聞いてらっしゃったのですか」

 

剱崎は笑顔で川名に顔を向けた。その笑顔も、お愛想や後ろめたさのない、純粋なものだった。

 

「まあ、あなたたちも仕事だ。カマキラス退治の参考になることなら、もっとお話しましょう。だがさっきも言いましたね、時間も準備も間に合わないかもしれない」

 

「剱崎先生、よろしくお願いします」

 

怒りで歯をくいしばる顔とは正反対の、ゆっくりした丁寧な物言いだった。

 

再び1人になった尾形は、目を閉じたまま天を仰いだ。

 

 

 

 

 

同時刻  大阪市中央区城見 大阪ビジネスパーク内 KGI損保本社12階 喫煙所

 

 

『われは逃げねぇのきゃ?』

 

電話口から、母の美津子がいつも通りキンキン声で話しかけてきて、緑川は懐かしさのあまり笑いと涙が同時に出た。

 

「仕事あんもん、めったに思わねよ」

 

『仕事仕事って、われはまあず、このいっこくもんがあ』

 

カマキラス騒ぎが北関東にまで及んだと聞き、緑川は群馬にある実家に電話をかけたのだ。テレビでは事態が切迫した様子を報じていたが、美津子は相も変わらず、たまに電話をかけては結婚といつ帰るかを訊いてくるいつもの調子そのままだった。

 

「お母ちゃん、そっちは世話ねえ?テレビで関東の方、なっから騒いでっけど?」

 

『なーん、隣の昭夫さんなんかとんましてさっきわげさ来たども、あんじゃぁねえっておっぺしてやった。まったぐ、肝のちっとんべえこと!」

 

上州のカカア天下を地でいく美津子らしかった。

 

『だいたい、逃げっぺども122号渋滞してんべえ。せっちょなことしねで、デンとしてんべえ』

 

緑川は思わず笑った。『美津子さんは赤城が噴火してもたまげね』と近所でよく言われたが、歳を取ってもまったく変わらず豪気なものだ。

 

『まっとな、町うちのお菓子屋の若夫婦よ。ほれ、われの同級生の美沙ちゃん。まあだややっ子いっからって、かかどんらと片品さ逃げたんだがね。あれはおやげねえ。かかどん泣いてだぞお』

 

同級生の名前が出たところで『われも、はぁ結婚しんなん?』と、結局いつものパターンとなった。

 

ため息をついたところに、金崎がやってきたのが見えた。

 

『ごめん母ちゃん。仕事しねど。おだいじな』

 

電話を切ると、緑川はタバコに火をつけた。喫煙所に入ってきた金崎は、珍しそうにこちらを見てきた。

 

「やめようって思ってるんだけど、なかなかやめらんないんだ」

 

「いえ、副部長・・・涙が出てますよ?」

 

金崎に指摘されて、緑川は慌てて鏡を見た。

 

「うわ、化粧落ちちゃう・・・」

 

照れ隠しのつもりでメイク道具を出したが、金崎はずっとこちらを注視してくる。

 

「なに?そんなにおかしい?」

 

「いえ、副部長涙流したの、初めてみました・・・」

 

どうやら自分が思ってた以上に、つい涙が出てしまっていたようだ。

 

「ごめ、実家に電話してたから・・・」

 

「副部長でも、泣くときあるんですね」

 

緑川は照れと苦笑いが混ざった。

 

「そりゃあ、あるよ。みんなの前で見せないけどね」

 

化粧が終わると、金崎はなんとも言い難い顔をしていた。

 

「ちょっと、あたしが少し弱気になったからって、やめてよね」

 

「い、いえ・・・」

 

今度は金崎が照れ笑いを浮かべた。

 

「それより、進藤部長が探してました。急いで来てくれ、って」

 

「ロンドンの件?」

 

タバコを揉み消しながら、緑川は訊いた。

 

「いいえ。何かはわかりませんが、深刻な様子でした。財務部長とケンカに近いやりとりしてましたから・・・」

 

なんとなく、見当がついた。

 

「わかった。行こ」

 

金崎を促し、緑川は歩き出した。

 

「ねえ金崎、これからちょっと覚悟決めないといけないかもよ、あなたの人生」

 

「え・・・・僕、何かやらかしましたか!?」

 

「あなただけじゃない。あたしも、みんなも」



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ー漆黒ー

・6月5日 火曜日 19:40

 

 

東京から灯りが消えて、2日目の夜を迎えた。

 

普段は煌々たる灯りが夜を照らし、多くの人が行き交う東京の街は、無数の建造物が不気味にそびえる異様な空間となっていた。

 

時折、カマキラスによる混乱で各所にて火災が確認できる程度で、ビルの中でじっとしている人々はいつ終わるとも知れぬ暗闇の中、恐怖と心細さに葛藤しながら、あてもなくまた灯りがつくことを祈っていた。

 

後に供された衛星写真では、東京を中心とした川崎〜平塚、松戸〜八街、川口〜蓮田までの首都圏一帯が綺麗に暗闇と化しているのがはっきりと確認できるほどだった。

 

東京から放射状に伸びている東名、中央、関越、東北、常磐といった高速道路、並びに主要国道は、果てしない光の筋がはるか遠くまで伸びていた。いずれも100キロ以上と過去最大級の渋滞となり、且つ収束の目処はまったく立たず、1ミリも動かない車両の中で皆気を揉み続けるしかなかった。

 

やがて車の排熱と排気ガスで道路上の気温が50℃を突破し、渋滞中の車内でもエアコンが適切に機能せず、熱中症、脱水症状や一酸化炭素中毒に見舞われる人々が増え始めた。業を煮やし、車を捨てて高速道路外へと徒歩で避難する人々が、渋滞と混乱に拍車をかけていた。

 

そして暗闇はなお広がっていた。カマキラスの勢力拡大だけではなく、千葉、茨城、静岡の沿岸部では光に強く反応するゴジラ警戒のため、厳重な灯火管制が敷かれていた。灯火管制下では避難もままならず、各所で避難しようとする住民と警察の間で激しい対立が起きた。

 

避難ができない、あるいは諦めた人々は、いつ襲いくるかも知れぬカマキラス、そしてゴジラに怯え、家の中で震える他なかった。

 

本来、適切な処置をすべし政府が機能を停止している上、地方自治体では法律上どうにも対処できぬ事象が溢れ、人心の動揺はやがて東日本全体に拡大していった。

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪市中央区 大阪府庁舎

 

 

「貴国で発生している災厄に対し、国連決議を根拠とした軍事作戦で以って対処する。米国を中心とした多国籍部隊による軍事作戦を日本時間明朝7時、決行する。いまから10分ほど前です、在日米国大阪総領事より、このような報せを受けました」

 

皆に配布されたA4判用紙と同じものを、逸田は読み上げた。

 

列席の知事は、逸田の先まで目を通していた。

 

「核戦力ではなく、通常戦力を用い、静岡県天竜川を防衛線とした作戦を敢行・・・まあ、核が使われぬだけマシと言えますかな」

 

すっかり力の抜けた原田に、「いえ、事態は変わらず深刻と言えます」と、即座に町田が否定に入った。

 

「敵方の能力、及び兵站を考慮すると、陸上部隊による作戦展開は考えられません。おそらく、カマキラスの影響がない高高度からの攻撃が適当でしょう。問題は、使用兵器です。核戦力は使用せずとも、核に匹敵する威力の爆弾が用いられると考えられます。具体的には、BLUー82、通称デイジーカッター、あるいは燃料気化爆弾が投入される可能性が高い」

 

「わかるように言ってもらえないか」

 

皆を代弁するように、小林が声をあげた。

 

「いずれも、2001年のアフガニスタン戦争時、米軍による使用実績があります。周囲約3平方キロが完全に爆破され、俗に『村ひとつまるごと爆撃した』と言われた爆弾です」

 

町田はすかさず釈明した。

 

「そんなものを使おうなどと・・・」

 

原田は歯噛みしたまま二の句が告げられなかった。

 

「当然、使用前には住民の避難が必要になりますが、防衛線とされる静岡県はまだしも、連絡が途絶えた首都圏での使用も辞さないとなると・・・。しかも、国連安保理ではロシアを中心に、核戦力投入を推す声も依然として大きい」

 

一様に深いため息が吐き出された。スカイプ画面の向こうでは、杉浦静岡知事を筆頭に、動きが慌ただしくなる知事が見られた。

 

「ここまで他国に好き放題やられるとなると、仮に事態が収束したとしても、事後の問題が大きすぎやしませんかな?」

 

小林が皆に問うと、何人かが目を瞑り黙り込んでしまった。

 

「やむを得ない状況とはいえ、事実上、立派な主権侵害ですからな」

 

深刻な事態を口にしつつ、小林にはどこか含みを持たせたような余裕が見られた。

 

「日本の政府機能が復活したとして、払う犠牲が多過ぎる」

 

原田が吐き棄てるように強く言った。

 

「増して、もしカマキラスによって総理を始めとする閣僚、国会議員の先生方が犠牲となっていた場合、この国は・・・」

 

「現実的な話として、日本は米国がイニシアチブを取りつつ、国連管理下にしばし置かれることとなるでしょう」

 

自分でも言うのが心苦しかったが、町田は腰を下ろしつつ言った。

 

「この国は、もう一度戦後からやり直すことになるのだろうな・・・」

 

椅子に深く背を委ね、原田は漆黒が広がる外をぼおっと見やりながら言った。

 

 

 

 

同時刻 大阪府大阪市中央区 大阪ビジネスパーク KGI損保本社

 

 

必要人員を残し、社内の人間には帰宅が命じられた。どうあっても東京と連絡がつかない上、首都圏の混乱が中部日本にまで広がりつつあるためだ。

 

「そんなワケで、必要部署以外、明日はみんな自宅待機や。まあ、オレ出社せなあかんし、お前らも家に帰ろうにも帰られへんなら、悪いが明日も一緒にここおってくれ」

 

進藤は両手を合わせて懇願した。

 

「いいよ。どの道、東京には戻れないし。仕事も多いんでしょ?」

 

緑川が訊くと、「まあな、多いっちゃ多いが・・・」と、進藤は後頭部を掻いた。

 

「いずれにしてもな、明後日になれば、場合によっちゃみんなヒマになるやもしれんぞ。さっき榎木取締役と話したらな、そうなればみんな、東京行けばいい、復興需要で人手不足なるでーとか呑気にアホのたもうたったで」

 

進藤は意地汚く笑い、卓上のお茶を呷った。

 

「それにしても・・・」

 

未だ事態を理解しきれていない金崎は、うなだれて拳を握った。

 

「なあ、せっかく大企業に入社したのにこないなことなってもうて、すまんな。日本海洋銀行の融資決裁が、こないに紛糾するとは思わなんだ」

 

カマキラス出現による首都機能喪失は、日本経済に深刻な影響を与えていた。ロンドン、ニューヨークの為替市場において日本円は暴落、1ドル169円とわずか1日で70円以上下落してしまった。

 

通常であれば為替差益によって日経平均株価は上昇するわけだが、世界経済の中枢である東京が機能しないため、下落幅が差益をはるかに上回ってしまっていた。

 

何より、東京はおろか日本国家の存亡まで危険視される状態に至り、日本国債の価値が毀損されかねず、既にアジアでは日本発の金融危機が取り沙汰されていた。緑川や進藤ら民間には正確な発表はまだ為されていないが、国連介入による日本統治ともなれば膨大な日本国債はただの紙切れになる懸念もあった。

 

KGI損保は、同業他社と比較しても日本国債がポートフォリオの大部分を占めており、良くも悪くも日本経済、国勢に影響を受けやすい財務体質であった。かかる事態に至り、日本円そのものが価値毀損ともなれば、会社の資産がほぼ吹き飛び、即死しかねない状況であった。

 

グループ企業である日本海洋銀行への融資を申し入れたが、在京メガバンクが軒並み半身不随となっている中、在阪である日本海洋銀行に緊急融資依頼が殺到、決裁処理が破綻しつつあったのだ。

 

「せっかく、ランスロット生命買収まであともう一息ってとこまで漕ぎ着けたんやけどなあ」

 

進藤は背伸びをして、あくびと一緒に言った。買収交渉を進めていた東京本社のプロジェクトチームと連絡が途絶した上、会社の資産が吹き飛びかねない状況では、交渉推進どころではなかった。

 

「なあ緑川、お前どっかエエ勤め先知らんか?こういう状態や、多少給料下がるんはしゃあないけど」

 

「こっちが紹介してほしいくらいよ。ここの仕事に追われて、転職なんて考えもしなかったもの」

 

「せやな、オレもそうや」

 

努めて明るく振る舞うが、本当は縁川も進藤も、不安を隠しきれず俯く金崎と同じ気分だった。この歳で再就職はかなり厳しくなるだろう。

 

「なんや、外が騒がしいのう」

 

進藤は窓の向こうにそびえる大阪城に目をくれた。64年前にゴジラ、アンギラスによって破壊されたが、不死鳥の如く蘇った大阪城は、かつてにも増して大阪府民の誇りであった。

 

「ああ、関東からの避難者がぎょうさんおるで。まったく、この熱帯夜にあれほどどないすんのやろ」

 

「そういえば、大阪城公園に臨時の一時避難所設けるって、ニュースでやってた」

 

言いながら、緑川はあの中に東京本社の誰かが紛れていないか、期待を向けていた。先ほど電話が繋がった石川のことが特に気になっていた。避難先の横浜も停電したというが、無事に避難できただろうか。

 

何より、石川が断片的に話していた「カマキリよりも恐ろしい存在」なるものが耳に残ってしまっていた。

 

 

 

 



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ー漆黒IIー

・6月5日 火曜日 21:05 イトゥルップ島クリリスク

※日本名 択捉島紗那村 日本より1時間進んでいることに留意

 

 

ゴーゴリじいさんの手引きで韓国籍の貨物機を紹介され、ジョージはレオニドを伴ってクリリスクの外れにある寂れた空港へやってきた。

 

誘導路や照明はお世辞にも機能しているとは言い難く、離陸にはいささか不安もつきまとうが、韓国人の乗組員たちは慣れているのか淡々と荷物の積み込みや離陸の準備を進めていた。

 

離陸までの間、先ほどウマールに取材した際のメモをまとめていた。

 

ウマールの話を総合すると、ロシアはゴジラの出現をいち早く察知し、これを国際社会へ警告する前に自国で対処しようと軍を動員、ところがゴジラを探知することが叶わず、出現の折に駆逐艦が撃沈、そして砲撃も通じることなく、動員された太平洋艦隊は全滅・・・。

 

「なぜロシアは安保理で日本に現れたカマキリの群れに核攻撃を主張しているか、よくわかったな」

 

ジョージは隣のレオニドに向けて言うでもなく、独り言のように喋った。

 

「日本に向けて警告することなく、自国で対処しようとして失敗しました、なんて言えないからな。東京と通信が断絶したこの状況は願っても無い好機ってワケだ」

 

レオニドは複雑な顔をして、ジョージを見つめてきた。

 

「レオニド、君も自国の恥を晒されるのは辛いだろうが、ウマールの無念を白日の下に明らかにするのが僕の仕事だ。付き合わせてすまなかったな」

 

「い、いえ、それは大丈夫です」

 

そうは言うが、レオニドはジョージから目を逸らし、車のエンジンを止めた。ちょうど韓国人の乗組員が近づいてきて、出発の合図をしてきたのだ。

 

「ありがとう、レオニド。おかげで良い取材ができた」

 

言いながら、ジョージはポケットから20ドル札の束を出してきた。

 

「これは・・・」

 

多過ぎますよ、と言いたいレオニドを、ジョージは手で制した。

 

「チップ込みだ。取っておいてくれ」

 

暗に口止め料だと匂わせつつ、ジョージはドアを開け、バッグを後部座席から取り出した。

 

「レオニド、今回の件で僕は今後、ロシアへの入国が不可能になるだろう。だがな、また必ず、イトゥルップに来るよ。ここの空気は最高だ」

 

ジョージは満天の星空を指差して、笑った。ここ数年、韓国企業の進出著しいイトゥルップ島だが、次に来るときには、北方のリゾートと化しているのかもしれない。快適になるのは良いことだが、この寂れた雰囲気が損なわれるのもまた残念だ・・・そう思っていたとき、いつの間にか両脇に男が2人現れた。

 

「ジョージ・マクギルだな。連邦保安局だ。お前を連行する」

 

右の男がロシア語で言った。有無を言わせぬ、静かで強い口調だった。

 

「おいおい、英語で頼むよ。なんだって?」

 

ジョージはおどけたように笑い、英語で話しかけた。2人の男は険しい顔を崩すこともせず、ジョージを睨みつけたままだ。

 

「なんだ、あんたら英語できないのか?なあレオニド、ちょっと通訳してくれるか?」

 

運転席から降りてきたレオニドは、暗がりでもはっきりわかるくらい、ただでさえ白い顔を蒼白にしていた。

 

「おいおい、政府機関のクセに英語できないのかあんたらは。おいレオニド、フォローしてくれよ」

 

だがレオニドはオロオロするばかりだった。無理もない、ジョージと一緒にいる時点で、レオニドも連行されるのは間違いなかった。

 

「君たちを連行する。一緒に来てもらおう」

 

ジョージとレオニドのやり取りにはまったく興味がないのか、男はジョージの両脇を掴んだ。

 

「痛いじゃないか。なんだ、ロシアの政府機関はだいぶ紳士的になったと聞いたが、これじゃソ連時代と変わらないな」

 

英語で悪態をついても、男たちはピクリとも表情を崩さない。貨物機の方では、乗組員たちがこちらを不審そうに見ている。

 

「抵抗するな。来い」

 

脇を抱えたまま歩き出そうとする男に、ジョージはヘラヘラした顔を一変させた。

 

「いいのか、そんなことをして」

 

男たちは初めて、冷徹な表情を崩した。ジョージが突然ロシア語を喋ったからだ。

 

「君たちが職務熱心なのはよくわかるが、今回取材した原稿は全て仕上げた上、アメリカのニュースサイトに既に送信を済ませている。僕が帰国して最終チェックする手筈だったが、もし僕が定められた日にちに帰国しなかった場合、チェックを経ることなくニュースを発信しろと話してある」

 

男たちの顔には、明らかに動揺が浮かんでいた。

 

「そうなった場合、君たちがひた隠しにしたい不都合な真実が世界中に知れ渡り、祖国ロシアの権威は失墜する。君たちは祖国の権威を守ろうとして僕を拘束した場合、皮肉にも最悪の結果を招いてしまうというわけだ」

 

男たちはジョージから手を離した。拘束対象が言葉を理解できるため、自分たちで秘密の会話をすることもできず、目を見合わせるばかりだった。

 

「それでも僕を拘束して、拷問にかけるなりシベリアで強制労働に当てたいと言うなら、僕に拒否権はないだろう。だが国益を考えた場合、どうすれば良いか、いまここで結論を出すべきだと思うんだが、どうだろうか」

 

「アメリカ人め・・・」

 

忌々しげに左の男が言うが、「悪口は聞こえるように言うもんじゃないな」とジョージは負けずに言った。

 

「・・・祖国の重大な脅威であるアメリカ人ジャーナリスト、ジョージ・マクギルは、通告のあった貨物機に乗っておらず、カニ漁船に紛れて出国してしまっていた、そう報告書を仕上げる」

 

右の男が言うと、左の男は怒りで目をギョロリと見開いた。

 

「出国を手引きした者たちは、政権中枢に関与しているドルゴルキイ・マフィアの一味であり、出入国法違反で逮捕した場合、政権への損害も大きく、ここは黙って、下を向く・・・それでどうかな?」

 

「君はロシア人にしては物分かりが良いな。よし、素敵なシナリオライターの君に敬意を表し、アメリカへ戻ってから僕も鉛筆を舐めることを約束しよう」

 

ジョージの提案に、男は黙って頷いた。左の男はなおも何か言いたげだったが、拳を握りつけるに留めた。

 

「それから、このレオニドは本当に何も知らない、ただの運転手であり、ゴーゴリじいさんの友人だ」

 

「よろしい、この男の身柄も保証しよう」

 

「さすが、隠蔽が得意なお国はこういうとき心強い」

 

ジョージの皮肉に、男は顔をしかめた。「お近づきの印に、これで一杯やると良い」と、ジョージは20ドル札の束を男の手にポンと渡した。

 

2人の男は口を真一文字に結び、しかめ面のまま場を離れていった。

 

「・・・ジョージさん、ロシア語、話せたんですか?」

 

汗を浮かべながら、レオニドが訊いてきた。

 

「敵を欺く前に、まず、だ。驚いたかね」

 

流暢にロシア語が話せるならどうして僕を、と言いかけたレオニドに先回りするように「偉大なるロシアの友と一緒にいたかったのさ」とだけ言うと、ジョージは振り向きざまに手を挙げ、貨物機へと向かった。

 

こちらの様子を注視していた韓国の乗組員たちに「ほら、定刻通りの出発を心掛けよう」と、韓国語で話しかけた。怪訝な顔をしながらも、理解不能な珍客を機内に収容した。

 

やがて貨物機は離陸し、星空の輝く宙に浮いた。乗り心地はエコノミークラスにすらはるかに及ばないが、この際贅沢は言うまい。ジョージはタブレットを開くと、早速今回の取材結果を記事にしたため始めた。

 

 

 

 

 

 

6月5日 火曜日 20:07 東京都千代田区有楽町2丁目 ルミネ有楽町

 

 

いまや懐中電灯と時計程度の機能しか果たさないiPhoneをポケットにしまい、近藤は深く息を吐いた。

 

最初にこのビルへ避難したときには50名ほどの人が身を寄せていたが、数時間前にカマキリが侵入してから散り散りとなり、いまは20名程度がこの狭い廊下に固まっていた。コンクリートに囲まれて圧迫感は強いが、それだけカマキリから身の安全を図れるのも間違いなさそうだった。

 

怪我人も多いが、インドから来たモデという医者の応急処置により、どうにか落ち着いていた。怪我をしてない者は近藤も含め、時折痛みに苦しむ怪我人を介抱したり励ましたりを繰り返した。

 

1階のドラッグストアにあった薬剤なども残り少なくなり、努めて冷静に処置に当たっていたモデ医師にも焦りの表情が浮かんでいた。それでも夜ということもあるのと、コンクリートの空間は店舗フロアに比べてだいぶ涼しく、大抵の怪我人は寝息を立て始めたのは救いと言えた。

 

どこかから見つけ出してきた非常用電灯に照らされた薄暗い空間の隅で、さきほどまで避難者の介抱やモデ医師への通訳に奮闘していた若い女性警官が体育座りで俯いていた。疲れて元気がないのだろうか。

 

近藤は横たわる怪我人に気を遣いながら移動し、壁にもたれるように女性警官の隣に座った。たしか、倉嶋と名乗っていたはずだ・・・。

 

「倉嶋さん、ご苦労様」

 

言いながら、近藤はポケットに潜ませていたキャンディを差し出した。少し眠っていたのか、倉嶋はびっくりしたような顔を向けてきた。

 

(しまった、起こしちまったかな・・・)

 

近藤は心の中で舌を出した。

 

「す、すみません、ありがとうございます」

 

恥ずかしそうに顔を背け、倉嶋はキャンディを受け取った。

 

「大変だったもんな、眠くもなるよ」

 

近藤は微笑みつつ、様子を伺った。疲れもあるだろうが、浮かない顔も気になる。

 

「一人で奮闘してたよな。すごかったよ」

 

最初は3人いた警官も、1人は負傷し、もう1人は避難路確保して囮になり・・・このフロアに来てからというもの、倉嶋1人で負傷者のケアや避難者の相談に駆けずり回っていたのだ。随行してる警備員や近藤ら有志の民間人もサポートしたが、どうしても制服を着た公務員への期待と負担がかかる状況なのだ。

 

「倉嶋さんは英語も堪能なんだね。オレみたいななんちゃって英語じゃなくて、どこかできちんと教育を受けた英語でしょ?」

 

倉嶋は近藤に向き直った。

 

「あたしなんて、全然です・・・」

 

モデ医師の通訳として治療に当たったが、専門用語の多さと、英語的方言の壁でうまくコミュニケーションが取れないこともあり、何度か治療が滞ることがあったのだ。

 

「いやあ、さっきもモデ先生、君のこと褒めてたよ。優秀な警官だねって。倉嶋さん、オーストラリアにでも留学してたの?オージーイングリッシュでしょ、話してたの」

 

倉嶋はびっくりしたように目を剥いてきた。

 

「なんでわかったんですか?」

 

「はは」と、近藤は照れ笑いしてから言った。

 

「オレ、いまはフリーだけど、前は共同通信社に勤めててね。海外回されることも多かったからな。いやあ、もっと英語勉強しとけばっていまでも後悔してるよ」

 

「・・・・・でも、さっきもあたしが通訳しきれないときに助言してくださったじゃないですか」

 

「ん、まあ、あの単語だけまぐれでわかってたくらいで。倉嶋さんの方がしっかり喋れてたと思うよ。たくさん勉強したんだろうね」

 

倉嶋は再び俯いた。

 

「あたし、警察官になって得意の英語を役立てたいとずっと思ってたんです。でも、実際使う場面になると、通じないし、こんなときに役に立たなかったし。警察官としても、なんにもできてないなって。あたしが一番頑張らないとダメなのに・・・」

 

少し涙を浮かべ、「ごめんなさい」と拭った。

 

「そんなことないよ。たった1人でもすごく良くやってたと思うよ。腕噛まれたあそこのお姉さん、君に感謝してたよ。こんな状況なのに頑張ってるって」

 

言うと、倉嶋が拭う涙が多くなってしまった。

 

「オレも大したことできないけど、助かるまで一緒に頑張るぞ。それにしても、いつ助け来るのかなあ。早く風呂入って安心して一杯やりてーなあ」

 

呑気な近藤に、倉嶋はようやく微笑んだ。

 

「倉嶋さん、まだ若いでしょ?お父さんお母さんも心配してるんじゃないか?終わったら、連絡取らないとな」

 

少し陰が射したような表情を、倉嶋は浮かべた。

 

「・・・そうですね。心配してくれてるかなあ」

 

「子どものこと心配しない親はいないよ。倉嶋さん、故郷はどこなの?」

 

「和歌山です。もう、ずっと戻ってないけど」

 

「そっか。警察官の仕事忙しいよな」

 

「忙しいのもあるけど・・・ちょっと、折り合い悪くて、両親と」

 

近藤は倉嶋に向き直った。やはり、そうだったか。

 

「両親、あたしが地元に残って、地元で仕事してくれることを期待してたんです。制止をきかないで、こっちに飛び出してきちゃったから、それからずっと、気まずいんです」

 

「連絡もしてないの?」

 

ややあって、倉嶋は頷いた。

 

「最初は話すのもイヤで、電話も出なかったんです。ずっとそんなことしてたら、いまさら電話で話したりするのもなんか・・・。お母さんとは、メールやLINEで短文やり取りするくらい。お父さんとはそれすらしてません」

 

「そっか・・・」

 

しばし沈黙してから、近藤は顔を上げた。

 

「お節介なのは承知の上で、これが終わったら連絡してみたらどうだろ?いやあ、実は恥ずかしい話、オレ昔やんちゃしててさ。親ときちんと話さないままずっと反抗期でいたら、両親とも早くに亡くしちゃってな。いまになって、もっと話しとけば良かったって後悔してんだ。やっぱりな、きっかけだと思う。大丈夫だよ、ご両親だって、こんなに立派になった倉嶋さんを見たら、きっと嬉しく思うだろうよ」

 

俯きがちだった倉嶋に、微妙な表情の変化が見てとれた。

 

「ほんの少しでいい、勇気出してみようぜ」

 

近藤につられるように、倉嶋は笑顔になった。

 

「さっさとあのカマキリ退治して、いまいるみんな助け出してからだけどな。でもきっと助かる。大丈夫だ」

 

近藤自身、何の根拠もなかったが、絶望に呑まれることは決してしないというつもりの元、倉嶋に言った。

 

廊下の奥でうめき声が上がり、仮眠していたモデ医師が目を覚ました。

 

「倉嶋サン、ちょっと手を貸してほしい」

 

そう言われて立ち上がった倉嶋の顔は、警察官のそれに戻っていた。

 

「オレも手伝う」

 

近藤も立ち上がった。

 

 

 

 

 

「彼」は瓦礫の中、次々とやってくる僕たちを貪っていた。この惑星の支配者を捕食して成長した個体たちを貪ることにより、「彼」は群体の主に恥じぬ身体になっていた。

 

支配者にはまだその数ではるかに及ばないが、支配者の力を封じることにより、さらに勢力を拡大することに成功していた。

 

惑星全体を支配するまでの時間も、「彼」は計算できるまでになっていた。

 

少なくとも、次にまた漆黒の時間を迎える前には、この大地を埋め尽くすことができるだろう。あとは環境次第だが、過酷な環境下では支配者たちも存在できないだろう。

 

「彼」はこの惑星に降りたであろう「主」に感謝した。惑星を支配せんとする歓びが、これほど大きいものだとは、いままでの「彼」であれば到底理解できなかったであろう。

 

足元を這いつくばっていた支配者に、群体が喰らいついた。それらを捕食し、さらに大きな身体へとなっていく。

 

もはや、「彼」よりも大きな存在はこの惑星に存在しないだろう。

 

「彼」は嗤った。

 

 

 



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ー上陸ー

・6月6日 水曜日 5:07 神奈川県三浦半島城ヶ島沖合3キロ地点 海上自衛隊護衛艦「たちかぜ」

 

 

「艦長、少しお休みになられては・・・」

 

副艦長の榎並二等海佐に促されても、「たちかぜ」艦長の大 秀明一等海佐は口を真一文字に結び、かぶりを振った。

 

昨日午後、茨城県に上陸したゴジラのさらなる南下、首都侵入防衛のため、海上自衛隊横須賀基地所属の護衛艦隊が文字通り東京湾を封鎖するかのごとく三浦半島沖合に展開、レーダーやソナーに反応しないとされるゴジラを駆逐すべく、艦の全感知能力を駆使して警戒に当たれ・・・そうしているうち、横須賀基地との連絡が途絶えた。

 

やがて空いっぱいに黒い波が広がり、そのまま護衛艦隊へと降下してくる群れ、かまわず対岸の千葉県へ向かおうとする群れにわかれた。

 

緊急避難措置として各艦は20ミリ対空機関砲で応戦したが、圧倒的な数のカマキラスには威嚇程度にしかならず、降下してきた群れとの白兵戦となり、いまは艦内の中央司令室に残存人員を集め、息を潜めているほかない状況であった。

 

カマキラスによって艦隊の通信機能は沈黙し、最新鋭の探知能力も兵装も稼働しない、大きな木のいかだと何ら変わらず湾内を漂流する以外何もできなかった。

 

「米軍との連絡は?」

 

大 は通信担当に訊いた。

 

「如何なる通信も不能です」

 

大 は黙って頷いた。

 

「各員、兵装を再度確認の上、待機」

 

意気消沈する部下たちに声をかけ、大 は再び東京湾の先、太平洋を仰いだ。この期に及んでなお、たとえ目視でも湾の先から侵入する可能性のある敵への警戒任務を愚直に守らんとしていた。

 

度重なる敗戦に沈んでいた隊員たちも、そんな艦長の背中を見ると、個別の兵装ー89式小銃の残弾確認や点検に取り掛かり始めた。

 

「副長、波が高いな」

 

言われてみれば・・・榎並は艦長の視線を追った。

 

「計測はできませんが、それほど風が強いとは思えません」

 

榎並の言葉に、大 は黙っていた。

 

「かつての記録に目を通したが、彼(か)の潜航波は船を転覆させるに充分であるとされる。よもやとは思うが・・・」

 

「艦長、まさか・・・」

 

「よしんばそうだとして、対戦も警告もできぬが・・・」

 

艦の揺れが強くなった。海面には、明らかな白波が目立つようになっていた。

 

 

 

 

 

・同日 5:19 東京都江東区若洲 東京港臨海道路 東京ゲートブリッジ

 

 

肌を心地よく撫でる海風にいくらか心を癒されたが、警視庁湾岸警察署刑事課の赤川巡査部長は早くも昇った太陽に目を窄めつつも、ゾロゾロと歩く避難者たちに目を光らせていた。

 

東京都内の大規模な停電も、今日で3日目を迎えた。相変わらず本庁との連絡はできないままだが、それでも東京臨海部は比較的通信手段が残されていた。

 

本署との無線通信は健在であり、また携帯電話も時折通じる状況が続いていた(東京都以外への通話のみ)。

 

何より、都内で発生しているとされるカマキリによる人的被害は、現在のところ湾岸部では報告されておらず、また広大な敷地(東京都臨海防災施設そなエリア、中央防波堤等)は、都内からの避難者を受け入れるのに絶好の場所となっていた。

 

本庁との指揮系統は寸断されているが、それでも湾岸署は現場判断で避難場所の確保及び誘導、警備に当たっていた。水上警備部隊も健在で、わずかな数ではあるが都内から押し寄せる避難者の輸送に役立てていた。

 

だがいつ、カマキリたちが襲い来るともわからず、また食糧、水、医療品もまったく不足しており、不安と緊張から避難者間でトラブルが頻発していた。人員は限られてはいるが、避難者の移動手段である橋の警戒には刑事課が当たっていた。

 

心地よい海風に神経が安らいだか、睡眠不足のせいか、赤川は足元が揺れるような感覚が続いていた。

 

両手で頬を叩き、意識を覚醒させる。だがほどなくして、また足元が揺れるのだ。

 

「赤川さん?」

 

おかしな動きをする赤川を見かねて、パトカーから部下の里中が顔を覗かせた。

 

「ああ。どうも寝不足のせいか、身体がフラつくんだよ」

 

頭をトントンと叩き、意識を正確に保つよう努める。だが足元の揺れは、さらに大きくなっていた。

 

「里中、なんか揺れてないか?」

 

「えー?」

 

怪訝な顔をしながら、里中はドアを開け、アスファルトに立った。

 

「あれ?たしかに・・・揺れてるような?」

 

赤川は首を傾げた。ゲートブリッジもレインボーブリッジも、風が強い日などは揺れが生じることがある。だが風速が1メートルもなさそうな様子で揺れるのは、どうにも解せなかった。

 

一瞬、地震のように橋が揺れた。赤川と里中だけではなかった。橋を渡っている避難者たちも揺れに気づいたようで、足を止め辺りを見回した。

 

「え、地震?」「人が多くて橋が揺れてるんじゃないか?」

 

あちこちで声が上がった。だが吊り橋であるレインボーブリッジならいざ知らず、トラス橋であるゲートブリッジは、構造的に人や車の量で揺れることなど考えられない。

 

ズン・・・・!

 

今度は明らかに揺れた。だが地震と違い、揺れは一瞬だった。

 

ズン・・・!

 

まるで大砲を撃つかのような、低くそれでいて強く響くような音だ。

 

ズン!

 

足元がふらつき、避難者たちから小さな悲鳴が上がった。

 

「おい、地震じゃないぞ・・・?」

 

よろめいて転んだ女性を助け起こしながら、赤川は里中に言った。

 

「変ですね」

 

里中が言いかけたとき、ズン!!という激しい音が響き、一瞬だが立っていられない揺れがゲートブリッジを襲った。

 

避難者たちは道路にしがみつくようにしゃがみ込み、赤川は辺りを警戒しながら膝を立てた。

 

「気をつけろ、大型のカマキリかもしれん」

 

イヤな汗が額に浮かんだ。状況を考慮し、署長判断で各員に拳銃携行命令が出されていたが、聞くところによる4トントラック並のカマキリが現れた場合、果たして太刀打ちできるだろうか・・・・。

 

ズズズズズ・・・・何かを引き摺るような音がした。音が続き、橋の揺れは小刻みになった。

 

「里中、発砲用意」

 

里中は緊張の面持ちで頷き、ホルスターからジークザウエル・P230を引き抜いた。

 

「みんな真ん中に!センターラインに寄って!」

 

赤川は声を張り上げた。指示に従い、避難者の一団は道路中央に寄り始めた。

 

引き摺るような音がより大きくなり、橋の鉄骨部分が鋭い音を発した。大型のカマキリにしては様子がおかしい。この揺れは、まるで海の底から響いてくるような感じがする。

 

「あ!」

 

避難者の1人が東京湾の海面を指差した。赤川が視線を向けると、海面が泡立ち始め、何かが海を割った。

 

鋭い剣山のようなものが、地を揺らしながらヌウっと浮き上がってきた。

 

「カマキリじゃないか?」

 

恐怖に震える声を誰かが上げた。だがカマキリにしてはどう見てもおかしい。鎌や脚などではない。

 

「背鰭・・・?」

 

隣で里中が呆けたようにつぶやいた。それだ!赤川は声に出しそうなくらい得心した。背鰭が海面をモーセのように割ってきたのだ。

 

立っていられないほどの揺れが橋全体を包み、赤川たちは思わず身を伏せた。暴風雨のような水しぶきが飛んできたと思うと、辺りが暗くなったように感じた。何かの日陰に入ったように、陽光が届かなくなった。

 

揺れがやや治まり、赤川はゆっくりと顔を上げた。既に身を起こしていた何人かの動きが止まっていた。時間でも止まったのかとありえぬことを考えた。

 

次の瞬間、赤川も身体が硬直した。目が合った。

 

その目は凄まじく大きく、天から見下ろされているように思えた。

 

カシャ、カシャ・・・避難者の中には、呆然としたままスマホで撮影する者がいた。被写体は画面をはみ出すほど大きかった。

 

口の中がねっとりとしてきた。隣の里中は無表情のまま歯を鳴らしている。

 

ものすごい揺れが橋を襲い、皆思い出したように悲鳴を上げた。誰ともなく橋の左右へと走り出し、赤川は誘導しようとしたが、うまく声が出ない。

 

里中を含む何人かは完全に腰が抜けたように座り込み、あんぐりと口が開きっぱなしだった。

 

「離れろ、離れろ」

 

精一杯声をしぼり出すが、掠れた声しか出てこない。それでも這いつくばるようにして皆が橋の中央から逃れたとき、大きな黒い影は橋を咥え上げた。

 

押し込むように避難者を走らせる赤川の耳に、鋭く激しい音がつんざき、思わず鼓膜を守ろうと耳を覆った。

 

恐る恐る振り向くと、大きな影は咥えた橋を噛み砕いていた。強靭な橋がウエハースのようにボロボロと砕け散り、海面に落下していく。

 

どうにか橋の袂にたどり着いた赤川は、ようやくその黒い影を見上げた。そうだ、前に学校で習ったことがある。中学校の日本史、大学の防災学、警察学校の避難警備で・・・。

 

「ゴジラ・・・」

 

誰にともなく言葉にした。

 

海面上の橋頭は完全に崩れ去り、ゴジラはその巨体を揺らしつつ、有明・国際展示場付近に上陸した。

 

国際展示場、そなエリアに避難していた人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。轟音が上がり、ゴジラはゆりかもめ、国立がん研究センターを突き崩すと、首都高速湾岸線を踏み抜いた。動かなくなっていた車列に火がついたのか、爆炎と黒煙が膨れ上がり、朝の空を黒く染め上げた。

 

震えながら、里中が寄ってきた。顔面が蒼白で、呼吸が荒い。

 

再びゴジラに目を向けた。有明運河を渡り、昨年開業したばかりの東京豊洲市場に達していた。署からの連絡によれば、豊洲市場にも大勢の人が避難していたはずだ。人間の悲鳴なのか、建物が崩壊する音なのか、判別がつかない。最新の工法と健在で作り上げられた東京の新拠点は、無惨にも瓦礫の海と化した。

 

 

 

 

 

 

「彼」は突然鼻っ柱を叩かれたかの如く、身が跳ね上がった。

 

この惑星の支配者が発し、「彼」が無効化した波長とはまったく異なる、禍々しく恐ろしい波長を感じたのだ。

 

はるか遠い昔、大いなる虚空の中で「彼」が「主」に出逢ったときのようだった。

 

この惑星に、これほどまでに恐ろしい存在があったとは・・・。

 

「彼」は食事を止め、惑星に拡がらんとしていた僕たちを喚んだ。

 

支配者の出す波長どころではない。この存在そのものが、「彼」にとってとてつもない脅威に感じられた。

 

しかも、この恐ろしい存在が目指す先は明らかに自身であろうと「彼」は痛感した。

 

確証はまったくないが、波長のすべてを自身に向けられている気がしてならないのだ。

 

「彼」の喚びに応じた僕たちが、空を舐めるように恐ろしい存在へと向かっていくのが見えた。

 

この惑星の支配は後だ。ただちに、あの恐ろしい存在を屠らなくては・・・。

 

「彼」は羽根を広げた。

 

 

 

 

 

 



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ー奈落ー

・6月6日 水曜日 5:42 神奈川県横浜市中区日本大通1番地

 

神奈川県庁 第二分庁舎内 安全防災局 危機管理センター

 

 

県庁への電話が殺到して10分ほど経過した。ついさきほど、永遠に続くと思われていた停電が突如として復旧、重苦しい沈滞の空気が一気に取り払われ、あちこちで色めきだっていた。

 

昨日夕刻、カマキラスの行動拡大による停電によって横浜市全域が停電してからも、八田部は恐怖に怯える職員や幹部たちを叱咤し、1人でも多くの命を救うべく県庁舎を開放させ、近隣にいた市民たちをとにかく庁舎・県議会議事堂に避難させ、近隣のビルへも協力を仰ぎ、建物へ収容の後、厳重に封鎖を指示した。

 

幸いカマキラスの侵入は報告されてないが、冷房のないコンクリート庁舎内は一気に気温が上がり、熱中症・脱水症状で体調不良を訴える避難者が続出した。

 

それでも、屋外にいてカマキラスに襲われる危険性はいくらか回避できているのは事実であることもあり、混乱もあったが比較的落ち着いた統制が取られていた(収容された避難者に県知事である八田部自身が説明、指示を行ったことも大きかった)。

 

それが朝になり、さすがの八田部も疲労をにじませ、危機管理センターの本部長席にかけたまま仮眠を取ろうとしていた矢先、庁内の電源が復旧し、照明と冷房機能が働き出した。

 

ややあって県の関連施設、県内各自治体、警察や消防などから電話が矢継ぎ早にかかってきた。県内でも早くからカマキラスの影響を受けていた川崎市との回線も回復したこともあり、八田部は眠気も忘れるほど職員からの報告聴取に追われていた。

 

急なこととはいえ事態が一斉に良い方向へ動き出したこともあり、電話に追われる職員にも活気が出てきたが、やがてその活気も不可解な現実が醸しだす不穏な空気へと変質していった。

 

「局長、間違いないんだな?」

 

眉間に皺を寄せ、八田部は清水に訊いた。

 

「はい。横浜、川崎いずれの市危機管理課からの連絡です」

 

「県内の警察署からも、同じ報告が相次いでます」

 

相変わらず額に汗を浮かべている富井も、後ろから声をかけた。八田部は無言で頷くと、スカイプ画面に向き直った。

 

回線復旧に喜んでいた大阪の各府県知事たちも、八田部の表情からただならぬ雰囲気を読み取っていた。

 

『八田部さん、何か、ありましたね?』

 

画面から、原田がうかがうような顔をしてきた。

 

「はい・・・。まったく不可解なのですが、県内各地からの報告ですと、カマキラスの群れが一斉に東へ飛び去っていったそうです。それにより県内の電力も復旧してますが、いまも続々と同様の報告がもたらされています」

 

列席の知事たちも、ただただ怪訝な顔をするばかりだった。

 

「剱崎先生、何か考えられることは・・・?」

 

『わかりませんなあ』

 

剱崎も不思議そうな顔をかしげるばかりだった。

 

各所から、警察・消防の手が圧倒的に足りていないと報告があり、八田部は難しい顔を崩さない杉浦静岡県知事へ応援要請を出すべく清水と打ち合わせているときだった。

 

「八田部知事、横須賀の海自総監部との回線が回復しました」

 

谷口副知事がわきから声をかけてきた。

 

「東京有明付近で爆発的火災が確認された上、四方からカマキラスの大群が有明を目指すように飛んで行った、との報せが入っています・・・」

 

八田部は慄然とした。誰も想定できない、新たな事態に突入したということか・・・。

 

「また未確認情報ですが」と、谷口が前置きして言った。

 

「護衛艦『たちかぜ』を始めとする艦隊が、原因不明の高波により大きく損傷を受けたとのことです」

 

谷口は言葉にはしていないが、原因と思われる存在を目力に込めているのがわかった。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都中央区勝どき2丁目 浄土宗知恩院派 光然院

 

 

「お父さん、早く!」

 

「ご隠居、しっかり!」

 

息子の條然と衆徒の博に大声で促されても、梨然和尚は爆発的な土煙が広がる晴海通りの先へ向けて、ただひたすら阿弥陀仏を念じていた。

 

65年前と、まったく同じだった。

 

当時、戦災に焼かれた東京の復興に伴い、星空が見えなくなることを憂う論調もあったが、それでも明日のより良い生活に向けてみんなが一生懸命働き、まだまだ修行の身であった自身も世の安寧を祈念していたときだった。

 

あの日も、星空が見えなくなった。9年前の東京大空襲と同様、いやそれ以上に、東京の空が紅く染め上げられていた。

 

隅田川の水面も燃えさかる炎を映し出し、やがて炎の中を大きく黒い影が割って現れ、隅田川に足を踏み入れた。

 

「ちくしょう・・・ちくしょう・・・!」

 

呆然とする群衆の中、梨然の前にいた少年が、歯ぎしりしながらつぶやくのを聞きながら、梨然はそのときも阿弥陀仏を唱えていた。

 

まったく以て不可思議ではあるが、復興しつつあった帝都を焼き尽くした悪鬼の如きあの黒い影は、人智をはるかに超えた存在に思えてならなかった。極楽浄土とはまったく正反対の、火焔地獄からの遣いに対しても、梨然は念仏以外、かける言葉が見当たらなかったのだ。

 

65年を経て、いま自身の目の前にまた、大きく黒い影が現れ、梨然は恐怖におののくことも怒りにみなぎることもなく、あのときとまったく同じだった。

 

大勢の人々が晴海通りからこちらへ逃れてくる。それを追うように、粉塵となったコンクリートの煙がなだれ込んでくる。

 

大地が揺れ、寺院の瓦屋根がいくつか落ちてきた。この世の終わりを示すように、タワーマンションが砕かれながら倒れてきた。

 

粉塵の中から、ひときわ大きな影が身を現した。梨然はより一層、合わせた手に力を入れ、念仏を強く唱えた。

 

 

 

 

 

 

揺れが次第に収まっていき、惚けたように念仏を繰り返す父を抱き起すと、條然は辺りを見回した。

 

道路は街灯が倒れ、すべての建物・車両がコンクリート色に染め上げられている。生死に関わらず、人々も例外ではなかった。

 

ズン・・・ズン・・・ズン・・・!

 

不気味な音は地を揺らしながら、まだ続いていた。

 

瓦屋根に注意しつつ、條然は寺院の外に出た。いつも目にしていた建物のうち、いくつかがなくなっていた。その代わりに、見たこともないようなコンクリートと瓦礫の山が連なっていた。

 

鉄がひしゃげるような大きな音がした。高層ビルがなくなり、視界がいつもより開けていた。山のように大きな黒い背鰭を揺らし、図太い尻尾が勝鬨橋を強かに打ち付けていたのだ。

 

冷たい汗が一気に身体を湿らせた。條然は父と同じく、手を合わせ阿弥陀仏を唱えだした。涙も叫びも怒号も出なかった。ただ自身の信仰に従うしかなかった。

 

返す尾で築地大橋を一撃で隅田川に沈めると、ゴジラは築地市場跡地へと上陸した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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ー邂逅ー

6月6日 水曜日 5:54 東京都中央区築地5丁目 築地市場跡

 

 

ゴジラは低く重たいうなり声をあげながら、ほとんど雲のない空に頭を向けた。

 

黒い波のような幾多もの筋が、四方から一斉にゴジラへ向かってきたのだ。

 

慌てふためく人々も、空を埋めんばかりのカマキリに思わず足を止め、天を向いた。

 

黒い筋は高度を下げ、狙いすましてゴジラの身体にまとわりつき始めた。

 

大きさこそ所謂普通のカマキリと何ら変わらないが、その凶暴性、群衆での集団戦法はカマキリにはない習性、能力であった。

 

ものの数秒でゴジラの身体はカマキラスに纏われ、ゴジラの皮膚に鎌、顎が各々突き立てられだした。

 

この時点で数千匹のカマキラスに集られるもしかし、ゴジラは意に介さずうなり声を上げるばかりであった。

 

強力な鎌も顎もゴジラには文字通り歯が立たず、ゴジラが尻尾を振るだけで何匹もが遠心力に耐えきれず、隅田川の藻屑と化したり、あるいはビルや地面に叩きつけられた。

 

しばらくすると、ゴジラに纏わりついていたカマキラスたちは、続々と力を失い地へと落下し始めた。ゴジラが全身から発する激烈な放射線に抵抗する術がなく、ゴジラはやがて苦もなくカマキラスたちを振り払った。

 

 

 

 

様子をうかがっていた「彼」は驚愕するしかなかった。自身の手により、それまでより大幅に強力となった僕たちが、為すすべなく倒されていくなどとは・・・。

 

「彼」は新たに命じた。

 

 

 

 

 

 

最初にゴジラへ向かった筋より、さらに多くのカマキラスがゴジラに纏わりついてきた。

 

全身はおろか、ゴジラの口を介して体内から喰い荒らすべくゴジラの口内へ侵入する群れもあった。

 

だがやはり数の上で優位なだけで、何ら状況は変わらなかった。生命活動を停止し、ボロボロと落下するばかり。体内に侵入した群れは二度と戻ってこなかった。

 

さしものゴジラも、さらに迫りくる群れに対し敵意を剥き出しに唸った。

 

ゴジラの背鰭が沸騰するように発光し―それだけで多くのカマキラスが炎上した―1拍置いて白熱光を噴き出した。

 

ゴジラの頭上いっぱいに集まっていたカマキラスたちは容赦なく焼かれた。ひとたまりもなく、灰にも塵にもならず一瞬で蒸散してしまった。

 

左右交互に首を回し、一帯を嘗め尽くすように白熱光を放つゴジラ。

 

迫りつつあった後発の群れは、二の足を踏んでいた。

 

やがてカマキラス同士で捕食を始めた。

 

元々共喰いをするカマキリの習性以上に、自分たちを支配する者から命じられるままであった。

 

そこへ、いままでよりやや大型のカマキラスたちが合流した。人間や同族をより多く捕食したことで、急速に身体が大型化した個体群であり、小さくとも体高3メートル、大きいもので20メートル近くに達する個体もあった。

 

ここへ至り、カマキラスはゴジラに滅されたことと共喰いの結果その数をかなり減らしていたが、大型化の結果鎌も顎も応ずるように強化された。

 

しばらく静止し、様子をうかがっていたゴジラは、怒りを示すかのように大きく啼いた。

 

何もかもが比べ物にならなかったゴジラとカマキラスだったが、唯一カマキラスはその数において勝っていた。一気に成長した個体群はゴジラが発する放射線に抵抗を得たのか躊躇なく突進していった。ゴジラの皮膚を穿つまで鎌が鋭く強くなり、ゴジラはカマキラス相手に初めて怯んだ。

 

全身を鎌と顎で突かれ、たまらず後ずさりしたゴジラは転倒し、隅田川に仰向けに倒れ込んだ。

 

大型のカマキラスたちは水を恐れることなく、もがくゴジラを追撃した。

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都千代田区有楽町2丁目 ルミネ有楽町

 

 

皆が疲れ切り、朝だというのに清々しさもなく重苦しい空気が漂っていた時間帯だったが、さきほどから異変が相次いでいた。

 

地震とも異なる揺れが建物を襲い、かすかだが轟音が聞こえてきて、やがて大きく聞こえるようになってきた。

 

そして外から聞こえる、不快な羽根の音。

 

寝付いていた赤ちゃんが驚いて泣き声をあげ、周りの大人たちがなんとかあやしていた。不思議と倉嶋が抱いたところ、泣くのをやめた。

 

赤ちゃんをしっかりと抱きながら、倉嶋は外の様子をうかがおうとした。

 

「おいおい、赤ちゃん守れって」

 

近藤は倉嶋を留め、外を仰いだ。

 

「オレが様子を見てくるから」

 

「えっ、でも・・・」

 

躊躇する倉嶋を、「そうだ、お前はその子を守れ」と、負傷により横たわったまま中村が言った。

 

「近藤さん、悪いがお願いできるか?」

 

モデ医師の処置は適切だったのだが、いかんせん深い傷が痛むのか、片方の顔を歪めながらも中村は少し顔を上げた。

 

「ああ、大丈夫」

 

近藤は頷き、慎重に外へとつながるドアを開けた。皆が息を飲んだが、幸いにもカマキリが飛び出してくることはなかった。

 

壁に背をこすりつけるように移動し、外の様子がわかる場所まできた。

 

近藤は目を見開いた。数寄屋橋交差点は大勢の人で溢れていた。それは日常が戻ったからではなかった。

 

皆、何かから必死に逃げてきたようだった。皆目的に従ってあちらこちらへ行き交う普段と異なるのは、全員が築地から丸の内方向へとなだれていることだった。

 

カマキリの姿は少なかった。時折逃げる人々に向かっていくカマキリもいたが、それすら気にも留めることのない必死な様子が伝わってきた。

 

視界の上部で何かが動くのがわかり、近藤は視線を空へと向けた。空いっぱいにカマキリが飛んでいた。だがパジェロを乗り捨てたときのように無秩序なものではなく、秩序だったように人々が逃げてきた方向、築地方面へ流れるように飛んでいた。

 

これだけ人が表に出ているのなら襲い掛かってもおかしくないが、そんな様子もなかった。

 

近藤は驚愕しつつ困惑した。奴らが向かう先に、何かがあるのだろうか・・・。

 

またビルが揺れた。地震にしては単発的で短いものだった。それが何度も続く上、揺れがひどくなってきていた。

 

ひとまず皆に報せようと戻った時、懐かしい音がした。スマホの通知音がなったのだ。急ぎスマホを取り出すと、いくつか通知が来ていた。

 

近藤は走り出した。この事実を皆に早く知ってもらいたかった。よほど嬉々とした顔をしていたのか、飛び込んできた近藤に一同怪訝な顔をした。

 

「い、いまスマホが動いた」

 

自分でも驚くほど急いだせいか、息が切れていた。言われてスマホを取り出したが、特段変わりないのか皆首をかしげるばかりだ。

 

『警視・・庁・・・本局・・・報告せよ』

 

そのとき、中村と倉嶋の警察無線が鳴った。中村は負傷した身体を跳ね起こし、血液で汚れた無線機を手にした。

 

「こちら数寄屋橋1、現状有楽町ルミネにて避難者十数名と待機中。至急救援を要請」

 

無線機から雑音がする。通信状況は不安定らしきことがうかがえた。

 

「いま外を見てきたが、築地の方から大勢の人たちがこっちへ走ってきてる」

 

近藤の言葉に、皆が注目した。

 

「外に人が出てるのか?カマキリは・・・?」

 

「それが人々には目を向けないで、築地方向へ群れで飛んでる」

 

皆、首をかしげた。何を話してるのかと訊いてきたモデ医師に、倉嶋が通訳して状況を伝えていた。

 

「はっきりとはわからんが、築地で何かあって、みんなそこから逃れてるんだ、きっと。カマキリの動きも気になるが・・・」

 

近藤の推論に、誰も異を唱えられなかった。

 

「我々もここを離れた方がいいのか、って、モデ先生が訊いてます」

 

倉嶋がモデ医師の話を通訳した。

 

「まだ何とも言えない。外の様子を把握しないことには」

 

近藤は通訳を介することなく、モデ医師に言った。

 

「中村さん、ひとつ提案だけど・・・」

 

近藤は横たわる中村に向き直った。

 

「オレ、様子を見てきたいんだ」

 

「・・・危険じゃないのか?」

 

身体さえ問題ないならオレがいくのに、そう言いたげに中村は半身を起こした。

 

「なんとかするよ。通信も回復してるようだし、状況わかったら連絡できるかもしれない。もし逃げなきゃいけないようなら、最悪這ってでも急いで戻ってくる」

 

そうは言っても・・・と、中村は躊躇気味に目を伏せた。近藤は充電を確認し、自身のYouTubeチャンネルを確認した。時間はかかったが、チャンネルに接続できた。

 

「それに、現場の様子を隠さず伝えるのがオレの仕事だ。中村さん、頼む」

 

近藤はしゃがみ込み、頭を下げた。倉嶋が心配の眼差しを向けてきた。

 

「・・・わかった。職務上あんたを静止しなきゃならんのはやまやまだが、頼む。そのかわり、絶対に無理はしないでくれよ」

 

「ああ」

 

近藤は頷くと、予備のバッテリーを確認した。ふたつあるが、どこまで持つか。そもそも、通信状況がより回復する保証もないのだが。

 

「倉嶋さん、LINE、交換してくれ。ああ、無事助かったら、食事行こう」

 

 

 

 

 

身を起こしたゴジラは、再度築地に足を踏み入れた。成長を遂げたカマキラスだったが、皮膚を切り裂くことまではできたが、ゴジラの皮下組織まで鎌が到達せず、却ってゴジラに逆襲された。

 

飛び込んできたカマキラスを振り払うと、目を突き刺すべく顔を昇ってきた個体をわしづかみ、握り潰した。

 

もっとも大型の個体が飛び掛かったが、間髪入れず白熱光を吐くと、一瞬で火だるまとなり築地市場跡の倉庫に落ちていった。

 

足元の個体群を踏み潰し、ゴジラは怒りの咆哮を上げた。これほど攻撃を浴びせても起き上がるゴジラにたじろぐことなく、カマキラスたちはさらに攻撃を仕掛けていく。だが死体の山が出来上がるばかりだった。

 

甲高い音がして、ゴジラは歌舞伎座付近を睨みつけた。共喰いの結果、体高が30メートルほどまで達した個体が5匹、現れた。

 

咆哮を上げるゴジラの顔をめがけ、一体が襲い掛かった。鎌が皮膚に突き刺さるより早くゴジラの牙がカマキラスの胴体を貫き、透明な体液があふれ出た。だがゴジラの注意はそちらばかりに向けられ、下半身目掛けて飛んできた二体への反応が遅れた。

 

下腹部に突き立てられた鎌にゴジラは呻き、身をよじらせた。それでも、咥えたカマキラスを離さず、下腹部を狙う二体に突進を仕掛けた。

 

その隙に背後からもう二体が忍び寄り、背鰭に飛びついた。新たな苦痛にゴジラは大きく吼えた。ふらつくゴジラによって解体中の築地市場は崩れ落ち、体重を支えんと大地に振り下ろした尾が築地場外市場を直撃した。

 

咥えていた個体が動かなくなると、ゴジラは歯を食いしばった。背鰭が発光し、しがみついていた二体のカマキラスが熱に耐えきれず身を投げた。

 

怒りの白熱光は下腹部を狙う二体に降りかかった。わずかな時間で放射線への耐性を獲得したカマキラスであったが、超高温のガスには赤子も同然だった。周囲の瓦礫ごと燃え上がり、消し炭となった。

 

背鰭の放熱で焼かれた二体は左右からゴジラの顔にしがみついた。うち一体をつかみあげ、鎌と頭を握り潰し、もう一体は腹部をつかまれ、力いっぱい放り投げられた。築地本願寺が瓦解し、カマキラスはそのまま動かなくなった。

 

頭を潰されてもがく一体を踏みつけ、ゴジラはなお様子をうかがった。さらに大型化した、50メートルにも達する個体が三体、汐留のビル群に立ちゴジラを見下ろしていた。

 

 

 

 

 

有楽町ルミネを飛び出した近藤は、人々の流れに逆らって晴海通りを南へ走った。道路上には、カマキリに襲われたと思われる人たちが横たわっていた。本来なら介抱するところだが、近藤は無念さをにじませながら走った。

 

ネットへの接続は不安定だが、だいぶつながりやすくなっている。近藤は自身のチャンネルを開いたまま、動画撮影を開始した。

 

「いま、なにがどうなってるのか・・・とにかく、カマキリの姿がなくみんな何かから逃げてます。詳しくはわかりませんが、カマキリのせいで、ネットも電話も電気も止まってました。いま、ここは銀座通りです・・・!?」

 

近藤は足を止めた。道路いっぱいに走ってくる人々、銀座の街の向こうに、ひときわ大きく黒い物体がうごめいていた。それが動く度に強く鈍い音が響き、アスファルトが揺れた。

 

「あれは・・・」

 

言いながら、カメラをその黒い物体に向けた。

 

「ゴジラ・・・まさか、ゴジラ・・・!!」

 

呆気に取られているうち、さらに激しい振動が近藤を襲った。ゴジラの下半身ほどはある巨大なカマキリが三体、ゴジラに襲い掛かったのだ。ゴジラが立ち回るたび、大地が波打ち、先のビル群では窓ガラスが散乱している。逃げてきたうちの何名かはガラスや落下物で身体を切り裂かれ、地面に倒れていた。

 

ゴジラは噛みついたまま離れない三体を振りほどこうと、激しく動きまわった。下腹部から赤黒い液体が滴り落ちている。

 

ガラスに気をつけつつ、近藤は慌ててルミネにいる倉嶋にLINEを飛ばした。だがゴジラがいるなどと信じるだろうか・・・そう疑念を持ったとき、空が一瞬暗くなり、強風が吹き荒れた。

 

思わず閉じた目を開けると、近藤はさらに呆気に取られることとなった。

 

銀座クレストンビルの屋上に、ゴジラとは違う黒い物体が鎮座していた。だがカマキリともまた違った。いや、カマキリに違いはないのかもしれないが、近藤が知っているどのカマキリにも似つかない異質な存在だった。

 

全身が黒ずんでおり、カマキリにはありえない黄色い鱗が胴体に確認できる。何よりも異質なのは、カマキリ特有の複眼などではなく、細いサングラスのような真っ赤の単眼なのだ。近藤自身昆虫に詳しいわけではないのだが、少なくとも大きさはともかく、見たことも聞いたこともない姿だった。

 

その存在はただじっと、ゴジラとカマキリの争いを観察しているように見えた。近藤は恐怖を押し殺してスマホを向けた。先ほどより、ネットへの接続が良好になっているらしく、動画へのリプライが矢継ぎ早に表示されてきた。

 



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ー進化ー

・6月6日 水曜日 6:07 東京都千代田区永田町 首相官邸地下一階 危機管理センター

 

 

一斉に室内の電気、モニター、空調が動き出し、瀬戸と望月、職員やSPたちは驚嘆の声を上げた。

 

しばし戸惑いながらも、職員たちは今までやるべきはずが通信の断絶に伴い出来なかった他機関との連絡を始めた。

 

「電気が通じたのか?一体、どうして・・・?」

 

喜びよりも戸惑いの方が上回ったが、それでも事態は大きく進みそうだ、瀬戸は心の中で確信した。

 

望月は職員たちに担当ごとの状況把握を命じ、菊池内閣危機管理監は古巣である警視庁からの出向者たちと短く打ち合わせ、警視庁への電話連絡を試みていた。

 

やがてセンター内の様々な電話が鳴り出し、職員たちが応対に駆り出された。気が早るのか、メモを取るペンが恐ろしく達筆だ。

 

電話に向かう職員たちが顔を曇らせ始めたとき、望月が瀬戸の元へ走ってきた。

 

「総理、大阪からです。たまたま開催されていた、全国知事会の面々がいろいろと頑張ってくれていたそうで」

 

瀬戸は短く頷き、電話を代わった。

 

『総理、全国知事会長、島根県知事の侭田です』

 

「ああ、ご心配をおかけした。いろいろ尽力してくれたそうで」

 

『総理、すみませんが、いま緊急事態です。そちらではまだ情報が上がりませんか?大変な・・・』

 

ちょうど隣に来た菊池が、瀬戸に話をしたくて我慢ならない顔をしているのがわかった。

 

望月に職員が耳打ちし、顔色がサッと変わっていた。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪府大阪市 大阪府庁舎

 

 

侭田が電話をしている間、列席の知事たちは食い入るようにモニターへと視線を注いでいた。

 

八田部知事から不穏な情報をもたらされてからしばらくして、職員の1人が東京でYouTubeの生放送をしている人がいる、と報告があり、知事たちは東京の様子をリアルタイムで把握できていた。

 

3匹の巨大なカマキラスが群がる対象に、皆愕然としていた。現地は争いで地面が揺れるのだろう、手ブレが激しく、お世辞にも観やすいとはいえなかった。

 

「総理は何と?」

 

八田部から都内への連絡ができるようになっていると報告があり、官邸への電話を終えた侭田に、原田が訊いた。

 

「まだ混乱してるご様子でしたが、然るべき処置を、とは申し上げました」

 

ただでさえ問題は山積だった。国連安保理との折衝、カマキラス及び停電への対応など、最優先課題ばかりな上、日本にとって最大の脅威が知らぬ間に、首都中枢に現れている・・・日本は喉元に刃を突き付けられているに等しかった。

 

「恐れていた事態だが、その前に官邸との連絡ができたのは幸いと言えるのか・・・」

 

原田はふうっと息を吐いた。あまり褒められた話ではないのかもしれないが、国の最高責任者が健在とわかり、荷が軽くなったように感じるのは原田だけではなかった。

 

「しかしなぜ、停電から復旧できたんでしょうか?」

 

川名は隣に座る劔崎に訊いた。

 

「ふうむ、この映像で判断する限りでは、カマキラスはおそらく相当数がゴジラによって殲滅されたんでしょうなあ。この映像を撮ってる人は、洪水のようなカマキラスが空を飛んでいたと語っているし・・・この極端な大型化も、ゴジラに対抗せんとした?これほどに知能が発達しているとは」

 

しきりに感心する劔崎の隣で、尾形はただただ映像に見入っていた。まるでゴジラの到来を待ち望んでいるようにも思え、知事たちは不思議だったが、訊くことはしなかった。

 

「八田部さんによれば、座間・厚木の陸上部隊が即応態勢に入ったそうです。総理からの防衛出動命令が下されれば、ただちに動くと思われます。都民の避難が効率良く働いてくれることを祈るばかりですが・・・」

 

町田の言葉に「バカな」と、小林が釘を刺した。

 

「現場はいまやっと状況把握できたところだぞ。こんな状態では、自主避難が関の山だろう」

 

「ところで」と、侭田が言った。

 

「この戦い、どっちが勝つんでしょうか?」

 

画面には、取っ組み合うゴジラとカマキラスが映し出されたままだ。

 

「ひとつだけ申し上げられるのは」と、町田が言った。

 

「勝った方が、我々の敵になるでしょう」

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都千代田区有楽町 ルミネ有楽町

 

 

近藤からのLINEに続き、完全に機能を回復したスマホで倉嶋は近藤のyoutubeチャンネルを観ていた。

 

「これが、ゴジラ・・・」

 

ただでさえ大きな目をいっぱいに開き、モデ医師はつぶやいた。

 

「どうしましょう、避難すべきですか?」

 

倉嶋はどうにか起き上がった中村に訊いた。

 

「そうすべきだが、ケガがひどくて動けない人も多い」

 

この廊下にいるのは18名、うち11名がケガで満足に身動きが取れない人々だった。だがここにいるのも賢明とは言えない。

 

「倉嶋、元気な人を連れて、逃げろ」

 

「そ、そんな・・・」

 

「怪我のない人たちを道連れにできん。それにその赤ちゃん、お前が抱いてやらないと泣き止まないんだぞ」

 

戸惑う倉嶋に、「おまわりさん、いいよ。オレ一緒に残るよ」「死ぬときはみんな一緒だよ」と、怪我のない人たちが声をかけた。

 

「いやダメだ」

 

中村は譲らなかった。

 

「これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない。みんな、大丈夫なら逃げてくれ」

 

全員が顔を見合わせた。倉嶋はどう言って良いかわからず、不安げに下を向いた。それが伝わったのか、赤ちゃんが泣き出した。

 

「倉嶋サン、私は医者だ。この人たちには私が付き添うから、みんなを連れて避難しなさい。大丈夫だから」

 

モデ医師が諭してきても、倉嶋は踏み切れず俯いた。

 

「倉嶋!」

 

中村の雷が落ちた。よほど痛みが走ったか、中村は膝から崩れ落ちた。

 

倉嶋は唇を噛んだ。泣き止まない赤ちゃんをグッと抱きしめると、首を縦に振った。

 

「私が誘導します、みなさん続いてください」

 

意を決した倉嶋に気圧され、怪我のない人々は戸惑いつつも頷いた。

 

「必ず迎えに来ます」

 

中村に言うと、安心したように微笑んだ。

 

「頼むぞ、いいか、交差点は混乱してるはずだ。大通りを避けて、とにかく逃げろ。ここからだと、靖国方面を目指せ」

 

こんなときにも律儀な中村のアドバイスに、倉嶋は思わず涙が滲んだ。

 

(いけない、しっかりしなくちゃ!)

 

倉嶋は迷いを振り切るように涙を拭うと、赤ちゃんを胸元に寄せた。安心したのか、泣く声が小さくなった。

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都中央区築地1丁目 銀座松竹スクエア付近

 

 

近藤は争う怪獣たちの発する振動震に足を踏ん張りながら、実況を続けていた。

 

驚くべきことに、巨大なカマキリ3匹に身を刻まれても、あるいは皮膚を齧られても、ゴジラは倒れることなく否してした。

 

当初こそ劣勢だったゴジラだが、無尽蔵とも思えるスタミナでカマキリに歯向い、さらに皮膚を抉ろうとする1匹の鎌をつかむと、猛烈な力で引きちぎった。

 

不快な高音の啼き声を上げる相手の首を掴み、絞め上げた。

 

他の2匹が背後から飛びかかったが、片方は持ち上がった尻尾に打ち付けられ、もう片方は振り向きざまにゴジラが手にした個体の頭に鎌を突き刺してしまった。

 

目から薄黄色い液体を撒き散らし、もがくたびに鎌が深く刺さる。鎌が抜けず慌てる2匹に、ゴジラは白熱光をお見舞いした。

 

皮膚が弾け飛び、激しく燃え上がった2匹を足蹴にすると、重たい尻尾の一撃でもがく最後の1匹に何度も尻尾を浴びせた。

 

動かなくなったのを見届け、ゴジラは天を仰ぎ、勝利を叫ぶように吼えた。

 

決した勝負の後、ゴジラがどう動くか身構える近藤だったが、ゴジラは低く唸り声を上げ続けたまま、辺りを見回している。

 

ハッとして銀座クレストンビルを見上げた。さっきまで鎮座していた赤い目の巨大カマキリは姿を消していた。もしかしてゴジラは、あいつを探しているのだろうか・・・。

 

メチャメチャに崩れた場外市場の辺りで何かが動いた。

 

 

 

 

 

巨大化して対抗すべく数を減らした僕が全滅し、「彼」はいよいよ動き出した。この存在が出す波長から、僕が束になっても敵わないのはわかっていた。

 

それでも相当なダメージを与えることはできた上、本来の目的が果たされる機会を待ち望んでいたのだ。

 

動かなくなった僕を喰らい、「彼」は全身が感じたことのない躍動に包まれるのを理解した。

 

この僕はあの存在に強く喰らいついていた。案の定、この惑星の支配者にもない強烈な刺激を得られた。間違いなく、「彼」がいままで以上に強力に変化する要素を、この存在が持っていることがわかっていた。

 

こちらに気づいたのか、怒号のように吼え、こちらへと向かってきた。この存在に見下ろされていたのだが、まるで立場が等しくなるように、目線が上がっていく・・・。

 

 

 

 

 

 

「なんだこれ・・・」

 

思わず近藤は口にした。

 

赤い目のカマキリが倒れている巨大カマキリに噛り付いた。あっと言う間に貪った刹那、異様な音が響いた。断続して骨折するような、重く乾いた音がする。カマキリはカマキリの姿を急激に変化させつつある。

 

「まさか・・・ゴジラを食った奴を食って、自分を進化させた・・・・」

 

自分でもあまりに荒唐無稽だと思ったが、近藤は撮影しながら思ったままを口にした。目に飛び込んでくる光景は、そう説明せざるを得なかったのだ。近藤自身は知る由もなかったが、この実況を観ている大阪の劔崎と尾形は息をするのも忘れて映像を見入っていた。

 

一層強く膨れ上がるような音がして、やがて圧力鍋の蒸気が抜けるような音がして、猛烈な白煙が上がった。

 

思わず近藤は口を塞いだ。よもや人体に有害なガスなのかとも思ったが、煙混じりの水蒸気らしかった。

 

白煙が落ち着き、何かがゆっくりと身を起こした。近藤はその様子を動画に収めた数少ない人になった。

 

カマキリではない、二足歩行の何かがそこにいた。

 

頭と口の周り、首から腹部に突起があり、両手の鎌は極限まで研がれた日本刀のように鋭く光っている。また腹部は黄色、全身は緑色の鱗に覆われている。そしてもっとも特徴的なあの赤い単眼は健在だった。およそ生物的ではないその目は血のように赤い。そして背中には半透明の翼のようなものが生え、尻尾は尖鋭的に天へ向かっている。

 

進化によるものか、全身の関節から白煙が立ち昇り、その生物は完全に頭を上げた。その大きさは今までとはさらに異なり、ゴジラと寸分違わぬほどになっていた。

 

甲高い咆哮と共に、生物は銀色の鎌を振り上げた。全身が鋭い凶器を思わせ、近藤はまるで自分がナイフを突きつけられたように感じた。

 

あまりのことにゴジラも怯んだように身を反らせたが、やがて威嚇するように大きく吼え、突進していった。

 

恐怖を我慢しながら、近藤は衝突した二大怪獣をもっと映すべく、築地二丁目交差点まで足を進めた。

 

逃げ遅れていたのか何人か走ってきて、近藤は足がもつれて転んだ白人男性の巻き添えを食った。

 

「おい、大丈夫か?」

 

腰をさすりながら、近藤は白人男性に声をかけたが、怯えた顔で男性は叫ぶようにつぶやいた。

 

「GIGANTIS!!」

 

走り去った白人男性の言葉が、近藤の頭に反芻した。

 

(巨人・・・・gigantis・・・・)

 

近藤はゴジラとぶつかるあの進化したカマキリを強く眼差した。奴の名前・・・。

 

(gigantis・・・ジャイガンティス・・・ギガン・・・・)

 

「・・・・ガイガン」

 



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ー決戦ー

6月6日 水曜日 6:20 東京都千代田区永田町 首相官邸

 

 

地下一階、危機管理センターに急遽仕付けられた総理執務室にて、瀬戸は続々と押し寄せる職員からの報告に聞き入っていた。

 

総務省からは東京大停電前から発生していた日本各地の災害状況、財務省からは40時間東京の経済が沈黙したことによる悪影響の説明、外務省からはエールフランス機墜落に関するフランス政府からの説明要求と国連安保理による日本国内での武力行使作戦、関連して国土交通省からはエールフランス機墜落のレクチャーと、停滞していた問題が破裂したような有様であった。

 

だが目下、日本政府の最優先課題は東京に出現したゴジラと、カマキラスが進化したと思われる怪獣への対応であった。

 

瀬戸はゴジラ及びカマキラス関連案件以外は後回しにするとし、官邸危機管理室、国家安全保障局、防衛省、警察・消防の要職を執務室に集めた。

 

「すると、事態対処への準備は整っているんだね?」

 

報告を聞き終え、瀬戸は仲川国家安全保障局長に訊いた(混乱により、浦野防衛大臣とは連絡つかず)。

 

「はい、元よりカマキラス・・・例の、カマキリのことですが、八田部神奈川県知事による治安出動要請を請け、その対応に当たるべく用意をしていたところでした」

 

瀬戸は頷き、望月に向き直った。

 

「では、あとは発令のみだな?」

 

「おっしゃる通りです。自衛隊法第76条、並びに怪獣対策基本法第18条に基づき、内閣総理大臣命による、怪獣掃討のための防衛出動発令要件は整っています」

 

瀬戸は軽く息を吐くと、正面を見据えた。

 

「わかった。実行に移してくれ」

 

神妙な面持ちで頷き、防衛省の職員は席を立った。

 

「とはいえ・・・」

 

瀬戸は渋い顔をした。

 

「都民の避難が進んでいるとは思えんが・・・」

 

誰もが顔を背け、視線を泳がせた。

 

「しかし総理、これ以上の被害拡大を防ぐためには・・・」

 

菊池の言葉に、瀬戸も視線を逸らせた。

 

「第一、ゴジラとあの怪獣―映像ではガイガンと呼ばれてますが―に対して、自衛隊の兵器がどれだけ有効となるか、実証がありません」

 

米沢首相補佐官が脇から口を出した。

 

「最善を願うとすれば」

 

隣の望月が瀬戸に耳打ちする。

 

「自衛隊の武力行使前に、双方、共倒れになってくれることですなあ」

 

瀬戸は唇を結び、大きく頷くばかりだった。

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都中央区築地五丁目 

 

 

築地界隈を破壊しながら、ゴジラとガイガンは組み合ったまま力比べをするように力を圧し合っていた。

 

ゴジラが幾度か放った拳はガイガンの硬い皮膚と鱗に弾かれ、カマキラスの鎌をいとも簡単に引き抜いた怪力もガイガンには歯が立たなかった。

 

ガイガンの喉笛を狙い、首に喰らいつこうとするゴジラに、ガイガンは敢えて自身の胸部を張り出した。胴体の中央に生えた刃のような突起に顔が刺さり、苦痛の咆哮を上げるゴジラを捕らえ、鎌を頭に振り下ろした。

 

ゴジラの脳天から赤黒い血が噴き出し、顔に刺さった突起がさらに喰い込んだ。

 

無理やり顔を引き抜き、ゴジラは角度を変え斜めからガイガンの喉笛を狙った。だがガイガンは素早く鎌を横に払い、突進するゴジラを切り裂いた。

 

首を裂かれ、さらに多くの血が溢れた。苦悶に唸るゴジラに、ガイガンは続けざまに鎌を振るった。

 

これまでのカマキラスとは比べ物にならないほど鋭利かつ硬く強化されたガイガンの鎌は、ゴジラの皮下組織まで難なく到達、厚い皮膚に保護されていた血を流させることもたやすいことだった。

 

呻き声を上げるゴジラは完全に攻撃の手が止まり、ガイガンに決定的な好機を与えた。

 

その巨大さからは想像もつかぬ速度で身体をひねり回し、空を切って尻尾が真一文字にゴジラの腹部を切り裂いた。

 

より激しく出血し、ゴジラは勢いよく朝日新聞東京本社に倒れ込んだ。立ち上げるのに苦しむゴジラに近寄り、ガイガンは何度も足蹴にした上、やはりナイフのように尖った足でゴジラの傷口を抉った。

 

苦痛に唸り、ゴジラは瓦礫の中でもがく。もっとも大きい腹部の傷口を、ガイガンは容赦なく踏みつけた。血しぶきが飛び、周囲を赤黒く染めた。

 

腹部を踏まれつつ、ゴジラは渾身の力で身を起こし、ガイガンはバランスを崩し転倒した。ふらつきながらもガイガンを睨みつけ、口を閉じ歯を固く噛んだ。

 

ゴジラの背鰭が沸騰するように熱を発し、全身に力をためる。

 

やがてゴジラは大きく口を開き、起き上がったガイガンに正面から白熱光を浴びせた。鋭い咆哮が上がり、ガイガンは後ずさる。

 

白熱光を吐き出したままゴジラは距離をつめ、近距離から吐き続けた。

 

高熱に触れた部分から白煙が上がり、ガイガンは叫んだまま仰向けに倒れた。東京国税局が倒壊し、白熱光の余波でコンクリートの瓦礫が融解、発火した。灼熱のガスをなおも吐き出し、ゴジラは地面に屈したガイガンを蹴飛ばした。

 

重量級のゴジラの脚は、硬質化したガイガンの皮膚をも砕いた。浜離宮朝日ホールに頭から突っ込んだガイガンは、瓦礫を払いながら立ち上がった。

 

二匹は睨み合いつつ、間合いを保ち様子をうかがった。

 

ゴジラは首と腹部から出血が止まらず、白と黒がはっきり見て取れた眼は血で染まっていた。相対するガイガンも、ゴジラに蹴られた脇腹にヒビが入り、黄緑の液体が流れだしている。また白熱光を浴びた背中と腹部は黒ずみ、うっすらと煙が上がっている。

 

勢いよく吼えると、ゴジラは力を込めて踏み出し、素早くガイガンの首に牙を突き立てようとした。先ほどより身を低くし、振るわれたガイガンの鎌が背鰭をかすった。

 

だが牙が到達する直前でガイガンは身を引き、中途半端に頭突きした程度になった。詰められた間合いを見逃さず、今度はガイガンが両手をゴジラの背中に突き刺した。痛みで口を開いたゴジラは、その勢いでガイガンの肩に喰らいついた。

 

絶叫しつつも、ガイガンはぐいぐいと鎌を喰い込ませていく。呼応するように、ゴジラの牙もガイガンの皮膚を貫いていく。

 

膠着状態のまま、二匹はもがき、足が環二通りを踏み外して浜離宮の堀に突っ込み、バランスを崩した拍子にゴジラは思わず口を放した。それに引っ張られ、鎌が抜けないままガイガンもゴジラと共に浜離宮恩賜庭園に倒れ、堀をのたうち回った。堀の水はゴジラの血とガイガンの体液でグロテスクに染まり、美しい緑の庭園を汚した。

 

先に立ち上がったガイガンから逃れるように、ゴジラは転げまわって距離を作った。態勢が整わないゴジラに猛然と向かうガイガンだったが、ゴジラは敢えて身を起こさず、身をよじって尻尾を振り上げた。

 

強烈な一撃が顔面を直撃し、ガイガンは勢い削がれふらついたが、転倒までには至らず、足を踏ん張った。

 

怒りに吼え、ガイガンは右の鎌を振りかざした。そのままゴジラの左目を抉るかと思いきや、ゴジラは口いっぱい開いて鎌を牙で受け止めた。

 

鋼鉄同士がこすれ合うような音を立てながら、ゴジラはより牙に力を込めた。ガイガンの鎌はヒビが走ったのち砕け落ち始め、さらに力が込められると、完全に崩壊した。ガイガンの鎌を、バリバリと噛み砕くゴジラ。

 

怯んだガイガンは残った左の鎌でゴジラを攻撃するが、決定打にはならずゴジラはより間合いを詰めた。

 

今度こそ首元に噛みつこうとした刹那、ガイガンの目が紅く光り、まるで火の粉を凝縮したような炎を口から吐いた。

 

ゴジラの白熱光には及ばぬ熱と威力だったが、ゴジラの勢いを止めるには充分だった。

 

身を引き、警戒しながら唸るゴジラに、ガイガンは炎を放った。射程距離においてもゴジラのそれに劣っていたが、ゴジラの皮膚が軽く焦げた。

 

思わぬ飛び道具に、ゴジラは距離を保ち、隙を窺い始めた。下手に突進すれば胴体の突起、背後からにせよ鞭のように鋭利な尻尾、そして片方を失いこそしたが、散々自身を切り裂いた鎌に、炎まで出してくる。

 

これまでゴジラの方が白熱光という武器があるため、やや優勢と思われたが、潮目が変わりつつあった。

 

ガイガンは短く吼えると、赤い目を光らせ、ゴジラを睨んだ。

 

下手に動かず、ゴジラはじっと様子をうかがう。

 

ガイガンの背中に生えた半透明の羽根に電気が走り、ひときわ強く目が光る。空気を切り裂くような音と共に、目からの光が線のように伸びた。

 

ゴジラの右肩口に当てられた光は、ゴジラの皮膚を焼き切った。その熱で瞬時に傷口が塞がれ出血こそしなかったが、右肩を穿たれたゴジラは悲鳴のような怒号を発し、築地から汐留交差点に横倒しになった。

 

地下を走る首都高に頭が喰い込み、動かない車列が爆発した。

 

黒煙で視界を確保できないゴジラに、ガイガンはもう一度光を発した。

 

一直線に走る赤い光はゴジラの尻尾に命中、激しく火花が散り、赤い光の線はそのままゴジラの背鰭を直撃した。

 

ゴジラの背中が爆発的に黒煙を噴き出し、うめき声を上げながらゴジラは転げ回った。

 

しばらくするとゴジラは動かなくなった。目はギョロギョロと動くが、もはや身を起こすほどの力もないのか、粗く唸りながら突っ伏してしまった。

 

背中の放電がより激しさを増し、ガイガンはゴジラを見下ろす恰好のまま啼いた。

 

黒煙が晴れ、ゴジラの首元が露わになった。ガイガンの眼光が強くなり、眼下のゴジラ目掛けて発射された。

 

 

 



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ー決戦Ⅱー

・6月6日 木曜日 6:43

 

 

「「あぶない!」」

 

東京でゴジラとガイガンの争いを中継している近藤、そしてリアルタイムで映像を見ている大阪の尾形が同時に叫んだ。

 

身を乗り出した尾形に、列席の知事たちは驚きと奇異の視線を集中させた。

 

近藤自身、どこかでゴジラについ肩入れしたことを不思議には思った。

 

どちらの怪獣が勝つかわからぬし、いずれも重大な脅威には違いないのだが、あのガイガンの容姿は、人間が到底感情移入できるものではなかった。

 

あれなら、まだゴジラの方が・・・否、近藤は頭を振った。ゴジラの恐ろしさは一般的なものしか知らないが、ゴジラがもたらした被害を考えれば、こちらも感情移入などできるはずもなかったのだが・・・。

 

近藤は息を呑み、推移を見守った。ガイガンが勝つかもしれないー。

 

ガイガンの目がひときわ輝き、いま光の鉄槌をゴジラに注がんとしたときだった。

 

呻きながらも振るったゴジラの尻尾がガイガンの足を打ち付け、ガイガンはバランスを崩し身体が横倒しになった。

 

間一髪、放たれた赤い光の線はゴジラを大きく外れた。勢い斜め上方向へと伸びた先の日本テレビタワー27階付近に直撃し、破裂するように切断された上層階が落下、汐留界隈に降り注いだ。

 

粉砕されたガラスと土煙が膨れ上がり、近藤は慌ててビルの影に走り込んだ。細かい破片が頭や肩に当たり、その場にうずくまる。

 

地震のような揺れが走り、近藤は顔を上げた。もうもうと立ち込める土煙の向こうで、ゴジラが瓦礫を振り払いながら立ち上がったのだ。体勢を整えたガイガンを睨み、吼えながら突進する。

 

ガイガンの腹部中央にある突起を避け、脇腹に激しく頭突きするゴジラ。仰け反ったガイガンを押し込み、さらに足を踏ん張る。

 

ゴジラの必死の勢いにガイガンは後ずさり、コンラッド東京に背中をのめり込ませた。ガラスや瓦礫が洪水のように降り注ぎ、もがくガイガンはゴジラの背中に右の鎌を打ち込む。

 

血が噴き出すもかまわず、ゴジラは突進の勢いを緩めなかった。争う2匹に向かってコンラッド東京が倒れ、瓦礫に呑み込まれた。

 

飛び散るガラスや瓦礫から逃れ、近藤は瓦礫の中を窺った。瓦礫を弾き飛ばしつつ、なおも2匹は組み争っていた。

 

ガイガンの鎌がゴジラの背中を切り裂くが、ゴジラは頭に続いて手の爪をガイガンの腹部に食い込ませた。

 

ゴジラは赤黒い血を、ガイガンは黄緑色の体液を撒き散らしながら、激しく押し合う。日本通運ビル、東京ツインパークス両ビル、首都高速都心環状線を叩き壊し2匹は揉み合う。やがてゴジラは頭を上げ、ガイガンの首筋を狙い澄ました。猛然と牙を突き立て、トドメを刺さんとする。

 

ところが、ガイガンはひと啼きすると、口を閉じて力を込めた。身体中心に生えた鋭い突起群が破裂するような音を立てた。ミサイルのように勢いよく放出された突起は、ゴジラの顔に首、腕や胴体にすべて突き刺さった。

 

うち左脇腹に撃ち込まれた突起は、反対側の背中から飛び出した。ゴジラの身体を貫通したのだ。追うように大量の血液が噴き出し、ゴジラは前のめりに倒れた。

 

みずから流す血液だまりで苦しむゴジラを見下ろし、ガイガンは嗤うように啼くと、身を素早く回転させた。尾の先端がゴジラの背鰭を斬り落とし、返す尾はゴジラの右脚から腹部に大きな傷を作った。

 

切断された背鰭から白煙が上がり、ゴジラは苦し紛れに白熱光を吐き出す。周囲の瓦礫やアスファルトが融解し、煮えたぎった。四つん這いで逃れようとするゴジラを、ガイガンは足で踏みつける。背鰭の痕から出血し、そこを執拗に狙う。ガイガンの足はゴジラの皮膚を突き破り、ゴジラが激しく呻いた。

 

怒りに満ちた目を向けたゴジラの顔を蹴り上げ、ガイガンは勝ち誇ったように吼えた。右手の鎌を振り上げ、ゴジラの背中へ刺す。白煙混じりの血を噴き出し、苦しみの咆哮がこだました。

 

息を呑みながら撮影する近藤の動画に、首相官邸、大阪府庁舎で観ている政府・自治体首脳たちは驚きの声を上げた。

 

「ゴジラがやられる!」

 

大阪の原田が声を上げた。

 

白熱光を吐こうとしたゴジラは、放出時の放熱器官である背鰭が大きく損傷したことで、ガス欠の車のように息切れた。最大の武器が出せなくなったことを確認し、ガイガンは追って背中を斬り裂く。

 

足元を狙うべく、最後の力を振り絞って動かした尻尾を、ガイガンは左足で踏みつけた。反撃の手段を失ったゴジラは、なおも一矢報うべく白熱光を吐かんとするが、エネルギーが放出されず苦しげに唸った。

 

勝負は決着の刻を迎えようとしていた。近藤も、そして映像を観ている誰もが、ゴジラが負けることを確信していた。

 

だが近藤は、後頭部付近にわずかに残ったゴジラの背鰭が帯電するように青く発光していることに気づいた。

 

ゴジラの断末魔だろうか。だがその帯電光は徐々に大きくなっていった。それは伝播するように、ゴジラの背中を包み始めた。ゴジラの口から白煙が上がり始め、やがてそれは発光するような青色の煙となった。ゴジラは大きく息を吐くと、青い煙は周囲の瓦礫や鉄骨を飴細工のように溶かした。

 

異変に気付いたガイガンは、トドメを刺すべく傷つけたゴジラの背中に向けて鎌を振り下ろした。

 

誰もが、ゴジラの死を直感した。

 

次の瞬間、凄まじい青き爆発が起こり、近藤は思わず目を閉じた。目の前でカメラのフラッシュを焚かれたような強烈な光が近藤の網膜に焼きつき、刹那、近藤の身体が一瞬浮き、猛烈な風が起こった。

 

何かの破片やガラスが当たり、目の衝撃と大轟音、身体の痛みで近藤はスマホを落とした。

 

映像が途絶え、誰もが撮影者といま起きた事を案じた。

 

 

 

 

 

 

全身の痛みに、近藤は意識を覚醒させた。短時間だが失神したらしい。

 

耳鳴りが続き、近藤は頭を振った。

 

いまだ目には先ほど炸裂した閃光の残滓が浮かぶが、どうにか見えるようになってきた。

 

辺りを見回し、近藤はガラスに埋まったスマホを見つけた。

 

幸いにもスマホは無事で、近藤は再びゴジラとガイガンの方へスマホを向けた。

 

瓦礫の先に、右腕を失ったガイガンが絶叫を上げていた。その向こうで、何かがゆっくりと起き上がった。

 

全身を青く帯電させ、口から件の青い煙を立ち昇らせたゴジラだった。

 

怒りをあらわすように大きく吼え、一層青い光がゴジラを包んだ。ガイガンが最後に抉ったであろう背中の傷口からは、おびただしい血液と共に口から昇るのと同じような青い煙が噴き出していた。

 

ゴジラはガイガンを見据え、息を吸い込んだ。無いはずの背鰭を包むように背中が発光し、大きく口を開けた。

 

白熱光ではなく、濁流のような青い煙がガイガンを襲った。ガスのように空気に伝播する白熱光とは違い、不安定ながらも一直線にガイガンへ放たれていた。

 

ガイガンは腹部から爆発的に白煙を上げ、甲高く啼いた。

 

もう一度息を吸い込み、ゴジラは口を開けた。

 

青い煙はより直線的にガイガンへ向かった。当てられたガイガンの肩口が爆発し、火柱が上がった。

 

苦しむガイガンに、ゴジラは容赦せずもう一度放った。もはや青い煙や白熱光などではなかった。超高熱の吐息が太い一直線となってガイガンを焼く。超高熱の直線・・・熱線と表現するのがもっとも当てはまった。

 

ゴジラは歯ぎしりし、怒りの唸り声を上げながらガイガンと距離を詰めた。再び背中が発光し、より強度を増した熱線が放たれた。

 

爆発的にガイガンは弾き飛ばされ、電通本社ビルに激突した。ガイガンの胴体が発火し、熱線の煽りを受けて電通ビルのガラスがひしゃげた。

 

電通ビルはガイガンへ向けてゆっくりと傾き、建物中央付近で折れた。凄まじい質量の瓦礫がガイガンを襲い、身を伏せるように身体を曲げる。

 

大きく吼えると、ゴジラは渾身の熱線を放った。瓦礫と燃え上がる身体に喘ぐガイガンに直撃し、大質量の瓦礫が吹き飛び、次いで猛烈な火球が膨れ上がった。火山の噴火を思わせるその爆発はガイガンと電通ビル、周囲のロイヤルパークホテル、カレッタ汐留を飲み込み、やがて大爆発した。

 

 

 



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ー決着ー

・6月6日 木曜日 6:57 東京都千代田区九段南二丁目 九段下交差点

 

 

有楽町ルミネを出てから、倉嶋は動ける避難者と赤ちゃんを誘導して九段下まで逃れていた。

 

中村の言う通り、大通りは築地方面から逃れてきた避難者で目一杯だったが、裏通り伝いではそれほど動き難いこともなく、大手町で自然と分散されると、移動に苦を感じることはなかった。

 

それでも、朝の通勤時間以上の人混みは逃れる者たちの体力を奪うには充分だった。加えて酷暑は続いているようで、朝からうだるような空気が漂っていた。

 

時折地面が揺れ、築地方面から爆発音や衝撃音が聞こえる。それに混じり、明らかに巨大な獣のような咆哮、そして鋭い叫びが耳をつく。

 

高台になりつつある九段付近から銀座方面を仰ぐと、もうもうと黒煙が上がっていた。ついさきほど聞こえた、雷のような爆発音も気になった。

 

近藤のことが気になったが、赤ちゃんを抱いているためスマホを見れない。他の避難者も暑さと急な運動で息も絶え絶え、歩みが鈍くなっていた。

 

「みんながんばって、もう少しで靖国神社ですから。そこまで行ったら広場もあります。そこで休みましょう」

 

倉嶋はカラカラの喉を絞り切るように、避難者たちに声をかけた。数寄屋橋交番に配属されて以降、都内主要3区の地理を徹底的に頭に叩き込んだことが役に立った。

 

靖国公園まで行けば、水道もある。飲料水の確保もできるはずだ。この暑さでこれ以上、渋谷スクランブル交差点以上の混雑を進むのは自殺行為だ。皆、長引いた避難で身体が弱っている上、倉嶋は赤ちゃんを連れている。

 

日本武道館前の歩道陸橋まで来た時、靖国公園入り口に自分と同じ制服を身につけた者たち・・・警察官が数名見えた。続々と押し寄せる避難者たちを、公園へと誘導していたのだ。

 

地獄で仏に会えた気分だった。あちらも倉嶋の存在に気づき、年配の警官が寄ってきた。

 

「丸の内署の大原だ!君は?」

 

「築地署の倉嶋です!有楽町から避難してきました!」

 

大原と名乗った警官は頷くと、誘導棒で公園を指した。

 

「中に簡易の救護所がある、飲料水もふだにあるはずだから、そちらへ」

 

刹那、地響きがして、周囲の避難者たちが悲鳴を上げて膝を折った。

 

何かが倒壊する音に続き、打ち上げ花火のような破裂音がつんざいた。驚いた赤ちゃんが泣き出し、倉嶋は赤ちゃんを守るようにしゃがんだ。

 

落ち着いたのか、地響きが弱くなった。倉嶋は恐る恐る顔を上げると、驚いた音がした方を仰いだ。

 

天に達するほどの爆炎と黒煙が、銀座の先、汐留付近から立ち昇っていた。

 

「ありゃあ、噴火でもしたのか?」

 

制帽を直しながら、大原がぼやいた。

 

壮絶な光景に皆が息を呑む中、倉嶋は近藤の身を案じた。撮影のため、かなり接近していたはずだ。

 

目を閉じ口を結び、祈るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

「彼」はいうことをきかなくなった容れ物を、どうにか動かすべく働き掛けた。

 

存在が永遠に近い「彼」にとって、命が尽きるということは理解できないことだった。

 

何をしても無駄であった。この容れ物はあくまで「彼」が憑いたため、ここまで身体を大きなものにしたに過ぎなかった。

 

一心同体でありながら、思考も存在も別個なものであったのだ。

 

業を煮やした「彼」は、活動を停止したこの容れ物の神経系統にまで侵食、完全に融合することとした。このままでは、何もできぬまま動けなくなるのみであったのだ。

 

融合する行為そのものは容易いことだったが、「彼」にとっては最後の手段だった。

 

そうまでしてでも、あの恐るべき存在を屠る必要があった。

 

「彼」は完全に同一体となった。

 

 

 

 

 

 

大火災と膨大な瓦礫の中で、ガイガンは完全に活動を停止していた。

 

身体中焼け焦げ、ところどころから炎上していた。傍目から見ても、死亡したのは明らかだった。

 

近藤は呆けたように、足を止めてスマホを向けていた。

 

強烈な攻撃の余波なのか、背鰭痕が放電している。ゴジラはじっと、燃え盛るガイガンを睨みつけていた。

 

全身、特に腹部から足にかけての裂け口と、背中から大量に出血しながらも、ゴジラは崩れ落ちることなく立ち竦んでいる。傷の大きさもさることながら、まるでガイガンがまた動き出すことを警戒しているように見えた。

 

いくらなんでも、と、近藤は軽く首を振った。誰が見ても、ガイガンが動き出すようには見えなかった。勝負は着いたのだ。

 

近藤はスマホをゴジラに向けた。この後は、どうなるのだろうか。

 

また海へ還るのか(できればそうであってほしかった)、このまま都内へ進撃するのか、あるいは傷が致命傷となって、そのまま倒れるのか・・・。

 

だが、ゴジラはいずれの行動も取らない様子だった。唸り声を立てつつ、ガイガンに注意を向けたままだ。

 

怪訝に思った近藤がもっと近づこうとしたとき、地面が大きく音を立てた。瓦礫を吹き飛ばし、ガイガンがゴジラに飛び込んだ。

 

全身が焼かれながらも、ガイガンは頭部の角をゴジラの喉元に突き刺した。ゴジラは悲鳴を上げながらも、ガイガンを引き離そうと両腕に力を入れる。

 

だがガイガンの力はいままでとは異なっていた。ヤケクソ気味に前傾へ力を込めているのがわかった。先ほどの爆発で砕かれた左腕をゴジラに叩きつける。

 

押されたゴジラは足がもつれ、ガイガンが刺さったままJR新橋駅になだれ込んだ。横倒しのままもみ合い、新橋駅と西口のビル群が次々と犠牲になっていった。千切れた線路と送電線が激しくスパークし、雨のように火花が注ぐ中、ガイガンは狂ったようにゴジラを叩く。これまでとは違い、残忍さも冷酷さも感じさせない、力任せ、怒り任せのような攻撃だった。

 

 

 

 

 

 

「彼」に襲いかかったのは、これまで経験したことのない凄まじい苦痛だった。

 

容れ物と神経系統まで融合していなかったため、ここまで痛めつけられれば当然感じるはずの「痛み」という感覚に縁がなかったのだ。当然、「主」に寄生していたときも、このような感覚はなかった。存在してからこの方、初めて感じることだった。

 

容れ物の生命が尽きるほどの激痛に、「彼」はもがき苦しんだ。だが融合を分離することは、もはや適わなかった。「彼」は容れ物にはなれたが、また離れることはできなかったのだ。

 

想像を絶する苦しみと怒りを、ただこの存在にぶつけてやることしかできなかった。いやこの存在を屠ったところで、この苦痛から逃れる術があるのだろうか・・・。

 

 

 

 

 

狂い絶叫するガイガンに、ゴジラは怒りの咆哮を上げた。刺さる角を引き剥がし、今度こそガイガンの喉笛に喰らいついた。

 

これまで以上の絶叫を上げ、ガイガンはのたうち回った。

 

ギリギリ倒壊を免れた新橋駅北側の高架下をくぐり、近藤は第一京浜まで走った。数百メートル先でゴジラがガイガンに喰らいつき、激しく動いている。

 

ゴジラの背中が青く沸騰し始めた。近藤は身の危険を感じ、カメラを向けたまま第一京浜を大手町方面へ走った。明らかに理解できた。今度こそ、ゴジラは終わらせるつもりなのだろう。

 

噛み付いているガイガンの喉元が発火し、ガイガンの悲鳴が止まった。ゴジラは熱線を打つというよりも、ガイガンの体内へ直接熱線を送り込んでいるようだった。

 

ガイガンの目が赤く光った。反撃しようとしているのか。

 

直後、目が赤から青に変わった。全身が青く発光し、ゴジラが発したような青い煙を上げる。

 

ゴジラの背中が一段と強く光り、一瞬口から青い熱線が噴き出した。

 

一気に爆炎が四方へ走り、近藤はその場に伏せた。

 

 

 

 

 

 

ややあって、近藤は身を起こした。もうもうと煙が上がり、その向こうには炎上する何かがはっきりと見えた。

 

燃え盛る火炎のわきで、立ち上がったゴジラが吼えていた。

 

近藤はガイガンを見やった。一目でガイガンとわかるものが確認できなかった。

 

炎の中に、ガイガンの頭部と、下半身らしきものがバラバラになっているのがわかった。

 

周囲は広範囲に穿たれ、西新橋から愛宕山付近までのビル群は倒壊、あるいは炎上していた。ゴジラによる火災どころではなかった。おそらく、小型の戦術核兵器でも用いればこうもなるであろうか・・・・。

 

勝利の悦びか、倒れまいと意識覚醒のためか、ゴジラは何度も吠えていた。

 

やがて口を閉じると、ゴジラは身体を180度向きを変えた。あのまま浜松町、品川方面へむかうのかと思われたが、全身を引きずるように歩く先は、東京湾だった。

 

勝利に満足したのか、傷が深いためか、それとも単にカマキリやガイガンを倒しに東京へ上陸したに過ぎないのか、判然としなかった。

 

だが、ゴジラの目を一瞬把えた近藤は、おそらくそのいずれも異なるのだろうと確信した。

 

満身創痍、いますぐ倒れてもおかしくないほどの傷を負ってもなお、ゴジラの目には憤然たる闘志と怒りがみなぎっていたのだ。

 

依然として出血が止まらない背中には、わずかだが背鰭が生えているように思えた。まさか、この短時間で回復、また生えてくるとでもいうのだろうか。

 

ゴジラは新橋五丁目から第一京浜、汐留イタリア街を蹂躙。建物をなぎ倒しながら竹芝桟橋に達すると、東京湾へ前のめりに潜り込んだ。激しい水しぶきには、ゴジラの赤黒い血液が混じっていた。潜航の泡も赤く染め上げ、そのまま赤い導線が東京湾はるか先まで向かっていくのが見えた。

 

近藤は撮影を止め、周囲を見回した。新橋から汐留、築地はその様子をまったく違うものに変えていた。

 

忘れていたかのように、あちこちでけたたましくサイレンが鳴り出した。沈黙の東京は明けたのだ。

 

近藤はいやな夢を振り払うように、首を振った。

 

 

 

 

 

 

薄れゆく意識の中、「彼」は最後に自身を睨みつけたあの存在の目に戦慄していた。

 

あれは、自分を倒しにきたのは間違いなかった。

 

だが、最後のあの目は物語っていた。

 

あの存在と理解しあえぬし、はっきり認識したのではない。

 

それでも、あの存在はこう言ったのだ。

 

「違う」

 

と。

 

「彼」は自身が憑いていた存在を連想した。

 

物見えぬはずが、目の前がより暗くなった。

 

そのとき「彼」は理解した。

 

命が尽きる、ということを。

 

自身の存在が、無くなるということを。

 

「主」の元にいれば、決してあり得ないことだった。

 

離れたことにより、この惑星を支配する悦びを知ったが、いまこうして自身の生命が潰えることも知ってしまった。

 

最後に「彼」は、一番最初に屠ったこの惑星の支配者の、驚愕の表情を思い起こした。

 

あの驚愕は、自身の生命が失われることへの恐怖だったのだ。

 

この惑星になど、来なければよかった・・・・・。

 

すうっと、目の前が暗くなった。

 



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ー爾後ー

 

 

東京大停電、そしてカマキラス、ガイガン、ゴジラの東京襲撃からおよそ1か月が経過した。

 

本格的な混乱が始まってから40時間に過ぎないとはいえ、曲がりなりにも日本の首都・東京が機能を喪失したという前代未聞の事態は、政治的・経済的には当然として、復旧後もさまざまな混乱と騒動を巻き起こした。

 

やむを得ない事態であったとはいえ、日本の国家中枢で権力の空白が生まれたという事実は、国家体制を揺るがす議論に直結した。

 

与党では今回の事態を鑑み、有事法制の見直しを図る専門部会が立ち上がったが、野党はもちろん与党内においても、権力の置き場、行使に関する議論が紛糾した。

 

外交面では、自国機墜落後調査や追求が遅々として進まないことにフランス政府が抗議したことへの対応、未遂とはいえ一時国連による日本統治まで検討されたことの後処理に追われ、珍しく闇に包まれていた霞ヶ関はこれまで以上に夜を照らすこととなった。

 

経済的混乱も激しかった。文字通り都内の物流が停止したことによる損失はもちろん、ゴジラが豊洲市場を物理的に破壊したことで日本の食糧供給体制すら崩壊の懸念が生じた(こちらについては千葉、横浜、埼玉など、近郊市場への暫定的機能移転によって幾分か混乱は収束した)。

 

また停電復帰後も、そのままエンジンが故障してしまった車両や、持ち主が現れない車両も数多く発生。修理、あるいはレッカー移動の手続きにも手間取ったこともあり、6月中旬まで都内の道路は深刻な渋滞に悩まされた。従って物流の完全な復旧にも時間を要し、ヤマト、日通といった物流各社が通常営業に復帰できたのは6月も下旬になってからのことだった。

 

鉄道各線は、電気さえ通じれば運行再開できたため道路交通ほどの支障はきたさなかったが、ゴジラやガイガンに破壊されたゆりかもめ、りんかい線、JR新橋駅界隈は運行再開の目処が立たず、山手線もそれぞれ浜松町、有楽町にて当面折り返し運転をすることとなった。

 

金融市場においては、日本国債の暴落は避けられ、また金融モラトリアム発動により官民併せて債務不履行に陥る危険性はなくなった。

 

とはいえ、復興需要から円高が急激に加速、6月21日には戦後最高値となる1ドル71円を記録。7月に入っても下落の兆しはなく、日経平均株価は戦後最安値に接近した。

 

だが極端な円高は救いの神ともなった。7月に入り、1リットル当たりのガソリン価格が約20年ぶりに100円を切ったため、復興需要に貢献する結果となった。海外からの資材費も下落し、経産省が試算した当初予想よりも復興は促進されるという見通しが立った。

 

事件発生から4週間後の7月1日、政府は間接的損害も含めた今回の被害総額が述べ60兆円に達すると発表。7月中に復興予算、経済対策を含めた臨時予算委員会が開催されることとなり、与野党はさらなる対応に追われた。

 

また警察庁は、一連の怪獣災害による犠牲者が12万7000名に及ぶと発表。昭和29年のゴジラ東京上陸、翌年のゴジラ、アンギラスによる大阪襲撃に匹敵する、戦後最悪の災害となったと談話を発表した。

 

遺体がまったく無い犠牲者も多く、遺族への対応も難航。葬儀会社も寺院も圧倒的に足りず、自治体や企業などが合同の葬儀をあげざるを得ず、遺族もそれで納得する他ないケースが多発した。

 

事態の収束に伴うかのように、5月から日本各地で頻発していた地震、火山噴火が収まりつつあった。全国的な異常高温も低下し、四国〜東日本には例年通り梅雨入りが宣言された。

 

例外的な異常事態が、6月20日に台湾南部の台南市に発生した。

 

体長が10メートルほどの巨大な蟹と亀が突如台南市の漁港に出現。争いながら陸地へ上がってきたのだ。

 

台湾空軍の爆撃によって蟹と亀は駆除されたが、ゴジラやカマキラス、ガイガンとの関連も不明なままだった(6月5日に、日本の茨城県に上陸しゴジラに焼き殺された巨大なイカとの関係を指摘する声もあったが、確証はなかった)。

 

そして、最大の脅威であるゴジラであるが、ガイガンとの戦いを終えて東京湾から太平洋へ逃れて以降、行方が分からなくなっていた。

 

海上自衛隊横須賀基地所属の潜水艦、ずいりゅう、そうりゅうによる追跡、探索がただちに実施されたが、レーダー、ソナーいずれにも反応がなかった。

 

ただ、ゴジラが流す赤黒い血液を追跡したところ、小笠原諸島から日本海溝へ伸びており、潜水艦はおろか人類が到達できぬ深い海の底へ逃れたことは明らかだった。

 

流出した血液量から推定して、ゴジラは致死的なダメージを負っていることは疑いのないことであり、日本海溝へ沈んだまま死亡した、あるいは二度と浮き上がれぬことが出来ないのではないか、という論調が強まりつつあった。

 

海上自衛隊はそれでも、小笠原諸島沖の警戒を緩めなかったが、ゴジラ死亡説、そして結果的にゴジラが首都機能喪失という事態を打開したこともあり、ネット上ではゴジラ救世主論なることまで語られ出した。

 

いずれにせよ、日本に深刻な損害をもたらした事件ではあったが、徐々に復興の兆しが見えてきたこと、少なくとも直近の怪獣上陸は考えられないこともあり、世間も人々も日常として、事件後を歩み始めていた。

 



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ー爾後IIー

・7月4日 木曜日 10:43 東京都千代田区永田町1丁目 中央合同庁舎第8号館

内閣府会議室2

 

 

東京大停電から1カ月が経過したこの日、当時の関係者である者たちが内閣府に召集され、改めて事件及び前後の経過、分析を行う有識者を交えた会議が執り行われた。

 

官房長官である望月を座長とし、総理大臣の瀬戸を始めとする主要閣僚、各省庁の事務次官・局長級、そして事件当時実質日本の代理政府機能を果たした全国の各都道府県知事(災害対応などの事由で欠席者あり)、及び危機管理、生物学等の有識者が一堂に会した。

 

有識者の中には、ゴジラ研究の筆頭である尾形と、カマキラスの生態を解明した剱崎、及びゴジラとガイガンの争う様子を収めた近藤も含まれていた。

 

人的被害状況を総務省と警察庁、交通、物流の混乱状況を国交省、復興の模様を内閣府からそれぞれレクチャーした後、ここ1カ月、日本はおろか世界でもっとも再生されたであろう、近藤が収めた動画が公開された。時間にして1時間程度だが、敢えて編集することなく放映された。

 

皆、一様に出来の良い映画を観るようにスクリーンに見入り、やがて部屋が明るくなると、

溜めていたものを一気に吐き出すかのような吐息が一斉に漏れた。

 

「近藤さん、でしたか。いやよくぞ、ご無事でいらした」

 

近くに座っていた大阪府知事の原田が頭を下げてきたので、近藤は慌てて会釈した。

 

「それにしても、ああも早く生物が進化するとは」

 

腕組みをしたまま、高城総務大臣がつぶやいた。

 

「ガイガンだけじゃない。ゴジラもですよ。まるで、呼応するかのように強くなっていってる」

 

長谷川厚労大臣の言葉に、尾形は力強く頷いた。

 

「その、ガイガンとはいったい何だったのか」

 

大島警察庁長官の誰にともつかない疑問に、剱崎が挙手した。

 

「それについては、配布資料にあるように、信じ難い仮説ですがまとめをさせていただいてますがね」

 

そこまで資料に目を通していなかった何名かが、慌ててページをめくった。

 

「今夜の便で調査のため現地へ飛びますがね、先に台湾に出現した巨大な蟹と亀が答えの鍵を握っているのでしょう。解剖の結果、いずれも脳に不可思議なアメーバ状の物質が侵食していたとのことです。既に死体はないが、茨城に現れた巨大イカもアメーバに頭脳を侵されていた可能性が非常に高い。そしてそのアメーバは、少なくとも地球に存在する生物、あるいは細菌の類でもなさそうだ」

 

「では、先生はそのアメーバだかが、地球外から降ってきた存在だとおっしゃいますか?」

 

宮崎文科大臣の問いに、剱崎はニヤつきながら頷いた。

 

「まあ、そんな三文SF映画のようなことがあるのか、書いた当人も疑問でしたがね。裏付けとして、都内で死亡したカマキラスの遺骸を解剖したところ、アメーバの類こそ見受けられなかったが、肉の芽のような、見たこともない突起が脳から生えていました。まるで、何者からの命令を受信するアンテナのようでした」

 

「すると、カマキラスの始祖がガイガンであると?」

 

総理大臣である瀬戸の問いにも、剱崎は怖気づくことはなかった。

 

「厳密にはガイガンも最初からガイガンではなかった。ただ、一番最初にアメーバが取り憑いた存在だったことは充分に考えられますな。そのアメーバは驚異的な速度で地球環境に馴染み、人類に取って代わって地球の霊長にならんとした。どうでしょう、これをくだらんSF小説だと鼻で笑いますかな」

 

バカげた話だ、そう言いたげに笑う小林をはじめ、数人は首を傾げながら苦笑した。だが真剣に聞き入る者も多かった。

 

「先生、ガイガン、カマキラスの脅威は完全に去ったのでしょうか」

 

菊池内閣危機管理監が挙手した。

 

「あれから1カ月、幸いにして、停電の報告もなく、またカマキリが人を襲う事象は確認されていませんが、今後また発生する可能性はあるのでしょうか?」

 

「どうでしょうなあ」

 

剱崎は顎に手を当てた。

 

「少なくとも、ゴジラによって相当数が駆逐されたのは間違いない。それに共食いすることで巨大化を図り、ゴジラに対抗せんとしたことで、結果的に数が大幅に減少したこともたしかですからな。完全に鎮静化したのかどうか、確証はできませんが・・・。まあ、昆虫学に身を置く立場としては、カマキリを見かけたら駆除してしまっている風評被害の方を如何にするか、そちらも気になりますな」

 

そんなこと言っても・・・というぼやきが聞こえた。

 

「すみません、これは尾形先生に伺いたいのですが」

 

町田が挙手した。

 

「ゴジラは死亡したと考えて間違いないでしょうか」

 

その質問を待ってました、とばかりに尾形は席を立った。

 

「いえ、私は生存していると考えます」

 

座がどよめいた。

 

「しかし先生、ゴジラが流した血液量を測定したところ、体重比で全体の4割以上は流出したとの報告がありますよ。増して、海に入っては止血もままならんはずだ」

 

「海自からも、日本海溝付近まで追跡をしましたが、海底のクレバスへ向けてゴジラの血液が絶えることなく続いていたと報告されてます」

 

仲川防衛大臣も気色ばんだ。

 

「ええ、ゴジラは全体の5割に及ぶ血液を失ったと見積もって差し支えないでしょう。通常であれば、その状態で生命を存続できる生物などはありえない。ですが、ゴジラに対して通常や常識を当てはめて良いものでしょうか」

 

淡々と答える尾形に、「先生、確証がお有りなのでしょうな?」と小林が口をはさんできた。

 

「たしかにゴジラには過去砲弾も通用しませんでしたし、アンギラスと戦った際にも流血までは至らなかった。今回は相当なダメージを負ってます。これまでとは事情が異なるのですよ?」

 

仲川の追撃にも、尾形は顔色を変えなかった。

 

「確証はありませんが、確信はあります」

 

そちらこちらで小声話が始まった。特に1カ月前から対策を共に練ってきた知事会の面々は困惑するばかりだった。もしかすると、尾形は剱崎以上の変わり者なのではないだろうか・・・。

 

「皆さまのお話は、伺いました。政府としては、引き続きカマキラスの活動が復活するか注視しつつ、ゴジラに対しても、万が一生存の可能性を捨てることなく、警戒を続けるようにして参ります」

 

場を締めるように、瀬戸が宣言した。

 

「みなさん、少し早いですが食事の用意があります。隣の第四会議室へどうぞ。引き続き午後2時からも審議をおこないますので、よろしくお願い致します」

 

瀬戸の言葉が合図となり、望月が声を上げた。

 

「なお午後は、政府関係者、並びに知事の皆さまのみご出席ください。有識者の皆様、本日はお忙しい中ありがとうございました。6階の応接室にてお食事をどうぞ。以上をもちまして、この場を解散させていただきます」

 

三々五々、一行が立ち上がった。

 

 

 

 

 

・同日 11:22 東京都千代田区永田町1丁目 中央合同庁舎8号館 6階応接室

 

 

お手洗いを済ませて部屋に入ると、奥にいた剱崎と目が合った。

 

「これは尾形先生、最近よくお目にかかりますな」

 

尾形は黙って会釈した。

 

剱崎の他には、動画撮影をして召喚された近藤というジャーナリストが食事に夢中になっている。

 

「お互い、ここのところ学問に打ち込めず困ったものですなあ」

 

ニヤつきながら、剱崎が寄ってきた。

 

「まあこれも仕事ですから」

 

素っ気なく答えた尾形に、剱崎はなお笑みを浮かべた。

 

「しかし、皮肉なものですなあ。先生があの論文を発表さえ出来ていれば、今日のように歯切れの悪い断定などすることなかったでしょうに」

 

早速剱崎の厭味が始まったが、尾形は動じなかった。

 

「その場合、今日より早く私が変人だと思われてたでしょうから」

 

剱崎は黙って頷いた。笑みを崩すことはなかった。

 

「でしょうな。ゴジラの保護・研究を訴えたことに加え、ゴジラの生態が生きた原子炉とも言うべき核分裂反応によって半永久的に活動可能なものである、などといった仮説でしたからな。誰がどう聞いても耳を疑う話でしょうが。ま、私はあながち間違いだとも思いませんでしたが」

 

言いながら剱崎は座った。尾形も席に着いたが、用意された松花堂弁当に手をつけようとはしなかった。

 

「今回のことで、それが証明されたんではないですか?あれほどの出血にも関わらずゴジラは活動を止めなかった。地球上のどんな生物とも、生体組織が根本から異なっていることの立証になったでしょう。そしてその仮説が正しければ、ゴジラは出血多量程度では死亡しないすなわち、まだ生きていることになる」

 

尾形はチラリと、弁当をパクつく近藤に目を向けた。視線こそおかずに向かっているが、耳がダンボのようになっているのがわかった。

 

たしかジャーナリストだったはずだ。尾形は自制するよう、剱崎に強い視線を向けた。珍しく空気を読んだ剱崎は咳払いをし、話題を変えた。

 

「尾形先生、やはりゴジラは、ガイガン・カマキラスを察知して復活、日本へ向かってきた。そうお考えですか?」

 

「ええ。かつてアンギラスと激しく争ったことから、ゴジラは自分以外の種族に強い敵対心を持つ傾向があると考えられます。問題は、あのカマキラスに寄生したアメーバがどこから来たのか、そしてまだ存在しているのか、といったことです。寄生した対象を劇的に進化させてしまう、恐るべき作用があるとすれば・・・」

 

「ですな。アメーバそのものは、まだ地球に存在しているかもしれない。そして、それを察知したゴジラは復活し、茨城、そして東京で進化した存在を屠った。さながら、ゴジラは地球のパニッシャー、掃除屋ですかな。これは私の立てた仮説ですがね、尾形先生。2ヶ月前、フィリピン沖に落下した隕石が話題になりましたな。もしかしたら、その隕石にくっついてきたのが、そのアメーバなんではないでしょうかね?」

 

「たしかに。実は私もそう考えてました。あの隕石落下後から、一連の事件が起きてますからね」

 

「そうですか」

 

妙なところで気が合うものだと、剱崎は笑った。

 

「当初私は、カマキリの異常進化説を採ってましたがね、他の生物由来による進化が作用したとなれば、今後はその生物、すなわちアメーバと人類の、いや地球生物との覇権争いになるというのは、飛躍した考えでしょうかねえ。そしてアメーバ由来の生物に関し、ゴジラが闘争本能で駆逐を仕掛ける。ゴジラ救世主説なるものが話題になってますが、案外、的を得た議論かもしれませんなあ」

 

「剱崎先生、私はそうは思いません。結果的にゴジラによって東京は機能を復活させたのは事実ですが、救世主などとはまた別な次元でしょう。あれは、人間の思惑で説明のつく存在ではない。だからこそ、さらなるゴジラの研究を必要とするのです」

 

「さすが、先生はゴジラとなるとお熱くなりますな。ゴジラ生存説は、果たして先生のお立てになった仮説に立脚したものばかりでもなさそうだ。尾形先生、あなたはまるで、ゴジラにまた会いたがっているかのようだ」

 

剱崎は笑みを消し、尾形をじっと見据えた。返答こそなかったが、唇を噛む尾形の表情には否定の要素はうかがえなかった。

 

「そしてね、尾形先生。あの映像見ると、ゴジラはガイガンを倒した後東京湾へ去りましたが、あれはなぜでしょうかね?あのまま東京を再び火の海にしていたかもしれないし、深手こそ負ったが、そればかりでしょうか?いやよしんばそうであったとしてもね、私はこう思うんですよ。ゴジラはまだ、敵となる対象を認識してたんじゃないのか、とね。だってそうでしょう、アメーバが宇宙由来の存在として、完全に殲滅したという保証がどこにありますかな?」

 

そのとき、2人の背後から「あのう」という声がかかった。食事を終えた近藤が席を立っていた。

 

「すみません口を挟んで。実は、オレもそう感じたんです」

 

「ほう。それは、なぜですかな?」

 

剱崎は口を窄めて訊いた。

 

「なんていうか・・・オレは間近でゴジラの目を見ましたけど、終わったって目をしてなかったんです。全身、ボロボロでしたよ、あの通り。でも、目だけは違って見えました。何かに向けて、怒りを燃やしているような・・・それこそ、尾形先生のお言葉を借りるなら、確証はないけど、確信があるんです。オレはあの目を見て、まだ終わってないんじゃないのか、まだ何か起きるんじゃないのか、そんな不安にかられました」

 

剱崎と尾形は黙った。もっとも近くでゴジラを見た男の言葉には、妙な説得力があった。

 

「尾形先生、ゴジラがそこまで敵意を剥き出しにする対象はいったい何でしょうな。アメーバによる新生物なのか、もしくは」

 

「人類、ということも考えられますね」

 

剱崎が言わんとしたことを、尾形は言い放った。近藤は唾を飲んだ。

 

「傷が癒えたら、ゴジラは人類を滅ぼしにまたやって来るんでしょうか?」

 

近藤の問いに、尾形は黙って目を閉じた。

 

 



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ー終局ー

・7月4日 木曜日 11:42 東京都千代田区永田町1丁目 首相官邸5階 総理執務室

 

 

総務省から戻った瀬戸と望月は、午後の会議に向けて早めの昼食を取ることにした。

 

この1ヶ月、食事をする時間が満足になかったり、あるいは党内外の要人、経団連幹部などとの会食続きで、2人での昼食はかなり久しぶりであった。

 

「あれは、ちと強引であったかもしれんね」

 

鰻を口に運びながら、瀬戸は望月に言った。

 

「いえ、あれでよろしかったでしょう。あれ以上時間を設ければ、尾形先生はお話になっていた可能性があります。まあ、勘の良い関係者は悟ったかもしれませんが」

 

「うん、先生には申し訳ないが、あの論文だけは白日の下に晒すわけにはいかない。ゴジラが不死の存在であるなどと、公表するわけにはいかないからな」

 

望月は瀬戸の言葉に黙って頷いた。何を隠そう、かつて文科省政務次官として、尾形が発表しようとした論文の内容を察知、今後の研究要職への昇進と研究費用増額を条件に、論文差し替えを指示したのは、他ならぬ瀬戸だったのだ。

 

「あの論文、発表されていた場合、我が国の防衛政策、安全保障が根底から覆されかねませんからな」

 

赤味噌の汁を一口つけてから、望月が言った。

 

「ところで総理、昨夜の幹事長との懇談ですが・・・」

 

「ああ。正式に決まった。来週月曜日に、野党連合が一連の件への政府対応が粗末だったとして、内閣不信任決議を国会に提出する。取るべき道は、解散総選挙だ」

 

「なるほど。私も賛成です。するとロシアとの北方領土協議再開発表は、今月末まで控えた方がよろしいでしょうな」

 

瀬戸は頷いた。6月末、ゴジラ復活を事前に感知しておきながら周辺国に通知せず、結果的に今回の始末を招いたのではないかという疑惑をロシアは強く否定した。

 

だが7月に入り、極秘のうちにロシア政府の特使が来日。北方領土開発を日本と共同で行う方針を伝えてきた。その際も先の疑惑こそ否定したが、半ば口止め料も同然の政府間取引を持ち掛けてきたのだ。

 

衆議院解散後、この事実を公表すれば、総選挙の風向きは強力な追い風を得られることとなる。歴代の内閣がどうあってもなし得なかった、北方領土返還への足掛かりにもなるのだ。引き続き瀬戸は内閣の長に就き、政権運営をしていくことができる。

 

瀬戸の目的はそこにある。自身の手で、この災いからの復興を担っていくのだ。北方領土開発に携わることで、日本には少なくとも2兆円以上の経済効果が期待できるという試算が経産省と国交省からもたらされた。一連の件で日本が失った60兆円には遠く及ばないが、領土返還という悲願を達することによる政権への恩恵は計り知れない。

 

「総理、今夜から根回しですな」

 

望月の言葉に、瀬戸は頷いた。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都千代田区霞ヶ関一丁目 中央合同庁舎8号館 5階第四会議室

 

 

集められた各府県知事たちは、さながら同窓会のような雰囲気となっていた。

 

用意された海鮮丼定食を頬張りながら、1ヶ月間のことを懐かしんだ。

 

「ところで八田部さん、やはり、お辞めになるんですか?」

 

原田が隣に座る八田部に訊いた。

 

「ええ。今月中には、川崎と横浜の復興補正予算が決定します。そのタイミングで、辞任しますよ」

 

「しかしねえ、辞任はやりすぎなんじゃありませんか?会田さんと違って、県民からの支持も厚いじゃありませんか」

 

川名が向かいから口を出した。千葉県知事だった会田は、カマキラス襲来の際県民への避難指示発令を躊躇したことで、後になって県民および県議会から厳しい追及を受けた。6月末に、千葉県議会は会田に対する問責決議を提出。会田は追われるように職を辞した。

 

翻って、JRを半ば脅迫してまで県民の避難を推し進めた八田部は、県民からの支持も多く次の知事選も安泰とまで言われていた。

 

「いえ、県民の支持はありがたいことですが、JRと国交省から睨まれてしまって・・・。それに、議員の中には知事による横暴として問責決議案提出を検討するグループもあります。ですが一番は、我が県は今回の災害の当事者となったんです。誰かが辞めなきゃ、収集がつかないんです」

 

「それで良いのでしょうかねえ」

 

逸田がぼやいた。

 

「知事は辞めれば責任をとったことになる。県民と議会はその後も残る。辞めることが果たして賢明なのでしょうかねえ」

 

八田部はムッとした顔で、逸田を見据えた。

 

「ん、まあまあ。それにしても、尾形先生はあんなお方だったのですかなあ」

 

険悪な雰囲気を宥めた原田がぼやいた。

 

「私も同感です。実証に基づいて、理路整然と論理的にお話なさる方だと考えてました。しかし、今日のアレは・・・」

 

丼を平らげた町田が言った。

 

「総理も官房長官も、困り果てて会議打ち切ってしまいましたからな」

 

原田が満腹になった腹をさすりながら言った。

 

「それにしては、不自然な終わり方じゃありませんでしたか?」

 

逸田が言うと、何名が首を傾げた。

 

「まあ、剱崎先生にせよ尾形先生にせよ、実績のある優秀な教授なのは間違いないんですが、学内でも度々、お二人の変わり者っぷりは話題に上がるようですよ」

 

京都大学を擁する川名が言った。

 

「あんなにまでしてゴジラに生きててほしいんですかねえ。私は、さっさと死んでほしいんですが」

 

原田が言うと、「仮に我が県に上陸した場合、被害が計り知れませんからね」と、町田が同調した。

 

「ところで、小林さんはお帰りになったんでしょうか?」

 

お茶を啜って、逸田が訊いた。

 

「ええ。なんでも、午後から議会評議員との懇談があるとかで」

 

 

 

 

 

 

・同時刻 東京都千代田区永田町二丁目 ザ・キャピタルホテル東急 日本料理「萬寿」

 

 

「ご足労くださり、感謝の念に堪えません」

 

小林が深々と頭を下げる相手は、元衆議院議員、5つの閣僚と幹事長、最終的に与党顧問まで務めた、大澤蔵三郎であった。

 

「いや、良い」

 

今年95歳になる大澤は、小柄だがまったく背中が曲がらず、穏やかな目元の奥に鋭い光を湛える容貌である。

 

先付を運んできた仲居に「以降こちらから声を掛けるまで料理は運ぶな」と、大澤の付き人が釘を刺した。

 

「いやなに、君は私がかつて唱えていた政策を実行したいそうだと聞いたもんでな、ひとつどんな具合か、肚の中見せてもらおうかとな」

 

冷酒を舐め、大澤が言った。

 

「は。単刀直入に申し上げますが、首都機能を愛知に移転する構想を持ち上げようと考えておりまして」

 

カッカッカ、と、大澤は笑った。

 

「これは懐かしい。今から、20年も前になるかな。首都機能を全国に分散させ、首都直下地震等、東京都の非常事態にも対応可能な状態とすることを骨子とする。あのとき選挙で負けてなければ、充分通せた話だったんだがな」

 

大澤は気分良く、冷酒のお代わりを注ごうとした。すかさず小林が酌をし、恭しく返盃を受けた。

 

「はい。実は私も、政治機能、経済機能とも東京への一極集中是正が元からの持論でして」

 

「なるほど」

 

一拍の間を置き、「それで、君は今回の災害を契機に、その方向へ動こうというのかな」

 

「はい。この度の東京大停電で、よもや国家滅亡すら考えられる事態にまでなりました。その上でなお、東京を首都とする理由は何でありましょうか」

 

下を向き、冷酒を舐めるばかりの大澤に、小林は畳み掛けた。

 

「我が愛知であれば、長久手の万博跡地も、小牧整備場跡地もあります。用地は充分である上、地形学的に、ゴジラやアンギラスといった怪獣に比較的襲われ難いことは、歴史が証明しております」

 

「東京も、大阪も、ゴジラとアンギラスによる被害から完全に復旧するまで10年余り費やした。その点名古屋は、再興に苦しむ東京・大阪を尻目に、トヨタを中心とした経済発展をここ60年積み重ねてこれたからの」

 

「はい。それに、かかる事態に至ってなお、林五輪会長は来年の東京五輪開催をゴリ押ししようとしております。そのリソースを、首都機能移転議論へと尽くすべきであります」

 

朗らかな大澤の顔が曇った。かつて自身に牙を剥き、派閥を寝返らせた林の名前は、小林が想像していた以上に効果があったようだ。

 

「前段は理解した。して君は、私にどうしろと?」

 

小林は頭を下げた。

 

「願わくは先生のお力で、与野党の議員をまとめてくださればと」

 

大澤は目を閉じた。

 

「そこまでいうからには、饅頭はもう用意してあるんだろうな」

 

「は。先生の後継者である大澤城介議員の再選をお約束します」

 

「あやつを、どうやって?」

 

大澤は目を開けた。子どものいない大澤にとって、甥である大澤城介に地盤を任せたのだが、絵に描いたような放蕩者であったため、先の選挙で落選してしまっていたのだ。

 

「最近、千葉県知事を辞した会田という男がおります。これまた、優柔不断でおよそ頂点に立つには力無い男ですが、全国社団法人連盟の会計庶務を長年務めた実績は伊達ではありません。彼の力を使い、まずは城介議員に、主要法人の理事となっていただきます。そこで地盤を固め、次の次に控える選挙において、実績も地盤も申し分のない状態にしてから、返り咲きを狙うのです。もちろん、それとは別に、大澤先生には饅頭包みをお渡しいたします」

 

「出どころは、その法人連盟の裏金か」

 

大澤はにやつき、付き人に「料理を出すように」と話した。

 

「話はわかった。小林くん、これから良き関係を紡ぐよう、いまから食事を共にしよう」

 



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ー終局Ⅱー

・7月4日木曜日 13:30 東京都中央区京橋二丁目 セレモニーホール「観洋」

 

 

この日、先月に発生したカマキラス東京襲撃の際殉職した23名の築地警察署員の合同警察葬が執り行われた。署長以下署員全員、及び警視庁からは警視総監、警察庁からは警察庁次長が参列、犠牲となった警察官たちの写真が大きく掲げられた。

 

警視庁管内で200名に及ぶ殉職者が出たため、警察署単位で合同の葬儀を行う他なく、6月下旬からはほぼ毎日、合同葬が順次行われることとなった。

 

倉嶋が所属する数寄屋橋交番では、交代要員含め7名中2名が犠牲となった。写真の中でにこやかに微笑んでいる高田と寺田を見て、倉嶋は悲しみを新たにし、涙を流した。

 

僧侶による読経、そして警察庁次長、警視総監、警察署長による弔辞が読み上げられ、署員全員の敬礼で以って、合同葬儀は終了した。

 

倉嶋は車椅子に乗る中村を押し、専用のボックスカーへと向かう。

 

「中村君」

 

築地警察署長の渡部が声をかけてきた。

 

「やはり、考えは変わらんか?」

 

中村は言葉を発することなく、頷いた。

 

カマキラスに穿たれた右肩の傷は想像以上に深く、中村は右手が満足に機能しなくなってしまった。神経が断裂したらしく、指先の細かい動作に支障を来たしているのだ。

 

6月下旬、中村は怪我を理由に辞職を申し出た。責任感の強い中村は、警察官としての職務を果たせそうにないと、上役の慰留もリハビリ中の休職扱い保証も固辞した。

 

人事再編成まで署内勤務となっていた倉嶋は、話を聞きつけて入院中の中村に直談判した。だが中村は倉嶋の説得に嬉し涙を見せつつも、頑として首を振らなかった。

 

「人間万事塞翁が馬、倉嶋、覚えておけ」

 

そう言って微笑むばかりだった。中村の決意にそれ以上、上役も倉嶋もどうすることもできず、7月末で退職が決定した。

 

「中村君、いまならまだ撤回もできる。今回の悲劇によって、警察も深刻な人手不足だ。なんとか、考え直してもらうことはできないか?」

 

「署長、申し訳ありません」

 

中村は首を垂れた。倉嶋は無言で車椅子を押す力を込め、渡部に会釈すると、ワンボックスに乗り込んだ。

 

車椅子を電動で車内に引き上げ、動き出した車内でしばし無言の時間が流れた。

 

「倉嶋、お前は、この仕事好きか?」

 

「・・・・・はい」

 

戸惑いながらも、倉嶋は力を込めた。

 

「そうか。オレが言うのも無責任だが、大事にしろよ、その気持ち」

 

倉嶋は頷いた。

 

明日、明後日の二日間、倉嶋は拝命以来始めて有給休暇を取った。

 

上京してから距離を置いていた和歌山の実家に戻るのだ。

 

1ヶ月前、有楽町マリオンに避難した際、ジャーナリストの近藤から言われた「子どもを心配しない親はいない」という言葉に触発されたこと、警察官を志した動機を見つめ直したこと、そして何よりもうひとつ、親というものを理解する体験があった。

 

今夜、勤務が上がってから、訪れる場所がある。倉嶋はフロントガラス越しに、空を仰いだ。

 

 

 

 

・同日 14:36 大韓民国 仁川広域市 ロッテシティホテル仁川国際空港

※日本との時差は無し

 

 

チェックインを済ませ、部屋に入るなりスマホが鳴った。

 

「もしもしー?金崎?」

 

『副支社長、お疲れ様です』

 

懐かしい声だ。緑川はソファーに腰を落ち着け、ミネラルウォーターのキャップを外した。

 

「久しぶりだねー、どうしたの?」

 

東京大停電が解消されてから、KGI損保では全社規模で大規模な人員配置変更が行われた。

 

元々7月1日から緑川は名古屋支社副支社長への異動が決まってはいたが、東京支社の機能が復旧できない6月第1週、急遽イギリスにあるランスロット生命保険買収の緊急プロジェクトチームに召集された。

 

元々は東京支社にランスロット生命買収対応のチームが置かれていたのだが、支社の機能復旧が7月になること、事件収束後の急激な円高で、かねてからKGI損保が保有する円資産の価値が跳ね上がったことから、上層部はランスロット生命の買収を最優先で行うことを決定、全社から対応可能な社員を本社に集めたのだ。

 

その緊急対応チームのボスに、緑川が選ばれたのだ。東京支社の復旧、そしてかねてから担当していた北海道の「第二伸盛丸」沈没事故に関する調査を投げ打ってまで、緑川は6月半ばよりロンドンへ渡りおよそ2週間、買収交渉に尽力した。

 

そして一昨日7月2日、ランスロット生命は日本円でおよそ3,000億円でのKGI損保傘下入りを決定。現地支社と祝杯を挙げた後、ロンドンから韓国・仁川経由で日本への帰途にあった(乗り継ぎ便の関係で同日中の帰国は不可能であるため、本日は仁川に宿泊し、明日新たな職場となる名古屋へ向かう手筈となっている)。

 

一時は保有資産の劣化に伴い倒産も囁かれたKGI損保だったが、急激な為替反動による円高で日本円の価値が上昇したため、ここ一番で保有している日本国債の一部を売却。それにより入手した現金でランスロット生命を買収するという、まさしく社是である「窮すれば通ず」を地で行く結果となった。

 

『副支社長、実は今日から僕、名古屋支社へ出張してるんです』

 

「え、そうなの!?」

 

『はい。それで、明後日までこっちにいるので、ぜひ副支社長と一杯ご一緒したいんです』

 

「あらあら、あたしとのデートは高くつくよ?」

 

『ボーナス出ましたから大丈夫です』

 

電話越しに2人は笑った。

 

『それにしても、副支社長すごいですね。社内で話題になってますよ。困難な案件だったランスロット生命買収を成功させたって』

 

「あはは、ありがと。金崎、第二伸盛丸の方は、どうなった?」

 

急にシリアスな口調になった緑川に、金崎はややたじろいた様子だった。

 

『あ、はい。6月末、ロシア側の許可が得られたので沈没した船体の引き揚げを行いました。やはり証言通り、船底に切り裂かれたような傷が大きく走り、微量ですが放射能を検出しました。海保の海洋事故調査部も、やはりゴジラによって沈没させられたって結論を出し、事故扱いで満額の保険金支払いになる方向で、調整してます』

 

「そっか・・・・いろいろ、勉強になったでしょ?」

 

『はい・・・副支社長とご一緒できましたから、おかげさまで』

 

「ちょっと、あんまり褒めても、明日は奢らないからね?」

 

そうは言ったが、緑川は嬉しげな笑みを含んだ。

 

『はい。副支社長、明日お気をつけて』

 

「うん、ありがと。明日、楽しみにしてるね」

 

金崎との電話を切るとほぼ同時に、また電話が鳴った。大阪の進藤だった。

 

『おうオレや。今回は大活躍やったなあ』

 

「ありがとう」

 

『お前、持ち前の語学力と迫力でランスロットのお偉方タジタジにさしたそうやないか。やっぱ、デキる女はちゃうわなあ』

 

「ちょっと、やめてよ進ちゃんまで」

 

『まあでもな、急しのぎやったし人事もムチャブリやったもんな。ホンマ世辞抜きで、ようやったわ、お前』

 

緑川は返事をせず、黙った。察したように進藤は言った。

 

『あんま浮かへんようやなあ?』

 

「うん・・・進ちゃんには言うけど、あたし今回言われるほど活躍なんかしてないよ。あたしが交渉まとめたみたいになってるけど、あたしじゃない。全部、元々のプロジェクトチームが、段取りしっかりさせてただけだからね」

 

『なんや、謙虚やなあ』

 

「だってホントだよ。今回呼ばれなかったら、あたし買収交渉のことなんかちっとも頭になかったし、円高のおかげで買収資金調達が簡単にできた、それだけのことだよ?」

 

『まあ、なあ・・・・お前、聞いたら怒るやもしれんから黙ってたけど、お偉いサンたちの「うちの会社女性幹部メッチャ活躍してます〜ハッハー!」てなプロパガンダやないかって声も上がってるのもまた事実や』

 

「怒んない。それが正解だろうし」

 

『ま、そんだけ普段から注目されてるからそうなるってこっちゃ。そこはエエやないか』

 

緑川は微笑み、それ以上は語らなかった。

 

『そうそう、お前、来週本社来るやろ。遅うなったけど今回の祝杯とお前の昇進祝いや。一杯やらへんか?』

 

「ありがとう・・・でも、ごめん。ちょっと仕事も心も落ち着いてからが良いな。あたしこの1ヶ月、全然落ち着いてないもん」

 

『おう、さよか・・・ほな、9月の支社長会議んときはどないや?』

 

「そのときに落ち着いてれば、ね。ごめん進ちゃん、またね」

 

緑川は電話を切ると、ルームサービスを頼み、シャワー室に入った。自分でも話したように、この1ヶ月まともに落ち着く時間などなかった。今日この乗り継ぎまでの長い時間だけが、前後1ヶ月のうち唯一の自分だけの時間になるだろう。

 

 

 

 

 

一方、大阪のKGI損保本社では、スマホから通話終了音が聞こえてもしばし耳から離さない進藤の姿があった。

 

「ニブいやっちゃでえ、ホンマ」

 

ため息混じりに、進藤はぼやいた。

 

 

 

 



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ー終局Ⅲー

・7月4日 木曜日 18:11 静岡県浜松市北区三ヶ日町佐久米 三ヶ日温泉「湖畔の宿 柳明」

 

 

「それでは、再会を祝って」

 

「乾杯」

 

遠州灘で採れた魚介類を用いた料理が自慢の宿で、近藤は親友であるジョージ・マクギルと盃を交わしていた。

 

国後島で保安局による逮捕を逃げ延びたジョージは、輸送機で韓国・水原に到着後、東京の混乱が落ち着くと即座に日本へ渡った。

 

「しばらく身を隠していた方がいい」

 

ロシアの裏社会に通じる国後島のゴーゴリじいさんのアドバイスに従い、6月末まで静岡県の伊豆に潜伏。「政府の方で動きがあった。もう大丈夫そうだ」という電話を受け、故郷であるアメリカへ戻る手筈を整えた。

 

その前に、親友であり、お互い知らずのうちにゴジラに関係する分野に携わったこともあり、情報交換も兼ねてジョージの帰国前に一献傾けることにしたのだ。

 

官邸を出た近藤は、東名を西へ走らせ沼津でジョージを拾い、料理と温泉が絶品と話題の隠れ家的温泉旅館に入った。ひと風呂浴び、これから料理と地酒に舌鼓を打たんとしていた。

 

「サリー、今回は大活躍だったな。君の撮影した動画、全世界で3億回以上も再生されたらしいじゃないか」

 

地酒で口を潤したジョージは、先付けに箸をつけながら言った。

 

「君こそ、TIME誌とNewsweekに寄稿したルポルタージュ、大きな反響だったようだな。『ゴジラに立ち向かった勇敢なロシアの若き兵士』、よく取材したよな」

 

近藤に言われ、ジョージは照れたような、含みをもたせたような笑みを浮かべた。

 

「でもあれ、君が本当に取材しよとしてた内容とは程遠いだろ?」

 

「ああ、御察しの通りだよ。よくある話さ。書いてる途中で、テーマが変わってしまったってのはなあ」

 

「変わったというより、変えざるを得なかったんじゃないかと、オレは見てるが?」

 

一気に地酒を飲み干した近藤は、酒の勢いもあり鋭い語調になった。

 

「その通り。見たままを書いたら、オレの命が危うかったんでね。いやオレの命は良いが、クナシルの好青年まで危険に晒してしまうのは避けたかったのだ」

 

刺身を口に運ぶと、地酒で口内を含み流したジョージが言った。

 

「命には替えられないのはわかるが、悪い言い方をしてしまえば、バイアスがかった大手マスコミと変わらんぞ」

 

近藤の言葉に、ジョージはフフンと笑った。

 

「それを言うならサリー、たしかに君の報道は常にリアルタイムで真実を映し出してくれる。忖度も配慮もない。真のジャーナリストとは君のような人間を言うのだろうな。だがな、サリー。君のやり方は必要以上に敵を作るし、命がいくつあっても足りなくなる。今回の撮影、君はいったい何回死にかけた?」

 

「さあな。死と隣り合わせだから、いちいち数えちゃいない」

 

「危険な現場にも臆せず立ち向かう。スクープをモノにするなら必要なことだ。だが、死んだらスクープも報道もできなくなる」

 

「承知の上だ。お互い、どこに重きを置くかだろう」

 

近藤は淡々と話し、運ばれてきた天ぷらを口につけた。

 

「オレは天ぷらが好きだが、ここの天ぷらみたいにサックリとイケる天ぷらは希少価値だ。あくまで希少価値を追求するか、味も質も多少落ちたとしても、無理をしないか、その違いだ」

 

近藤の言葉に、ジョージも倣って天ぷらを口にした。言う通り、衣が上質のポテトチップスかの如くサクッとしている。中身のエビはしっとり、ほっこりだった。

 

「オレは君ほど天ぷらオタクじゃないし、正直どこで食べても一緒だと思うが、まあ、そうだな。一番美味い天ぷらを知ることも大事だな」

 

ジョージが言うと、近藤はジョージに酌をし、自身は地酒に粗塩を入れた。

 

「オレも、常に一番を追求はしてるが、妥協して食べる天ぷらが良い時もある」

 

そう言うと、近藤は粗塩を入れた地酒をジョージに差し出した。

 

「ほう、こんな味わいも悪くないな」

 

満足げに微笑むジョージに、近藤はニヤリと笑った。

 

「ところでサリー。もしゴジラが生きていてまた日本に現れた場合、君はまた最前線へ行こうとするのか?」

 

「ああ。そうするだろうな」

 

ふむ、と頷くと、ジョージは煮物椀の蓋を開け、里芋の炊き合わせを箸で崩し出した。

 

「ゴジラは生きてると思うか?」

 

ジョージの問いに、近藤は大きく首を縦に振った。

 

「あれだけの傷を負って生きてるというのは、考えられんがなあ?」

 

「ジョージ、奴は我々の常識を超えた生物だ。オレはその様子を間近で見たから、そう言える。いつかまた、必ず現れるよ」

 

「オレたちを滅ぼしにか、それとも救いに、か?」

 

「前者、だろうな」

 

ジョージは黙り込み、顎ヒゲに手を当てた。

 

「あれほど騒いだ火山噴火や地震が、ここ最近急に鎮静化したが、ゴジラの沈黙と何か関係あるんだろうか?」

 

「わからない。この間のニュースで、ユーラシアプレートとフィリピンプレートの境目付近に、地下深くのマグマが四方から流入した形跡があり、それが極東地域の地殻変動を巻き起こしたんじゃないかって仮説が唱えられた。ゴジラがマグマを飲んだから、とか珍説もtwitterで囁かれたがな」

 

「バカな。ゴジラが出たのは北方海域だろ。第一、ゴジラはマグマをスープにして飲むってのか?」

 

「あくまで俗説だよ。だがオレは、ゴジラじゃなくても、マグマを補給したんじゃないかって部分は気にかかってる」

 

「さっき車で話してた、ガイガンがもう一匹いるかもって話に通じるのか。参ったな、口から火を噴いたりマグマをがぶ飲みしたり、とんだ怪物だらけになっちまったものだ」

 

ちょうど仲居が徳利のお代わりと、焼き魚にミニステーキを持ってきた。

 

改めて乾杯すると、大きくアルコールを含んだ息を吐き出したジョージが言った。

 

「なあサリー、お互い命知らずなことしてるが、もう10年になるな。ウイグルで立てた誓い。覚えてるか?」

 

だいぶ酔いが廻った近藤だったが、素面に戻ったように顔を引き締めた。

 

「仲間が死んでも、仕事をしよう。それが餞になるーだろ?そういえば、ウォンの死から、もう10年だな」

 

近藤は遠い目をした。10年前、当時勤めていた共同通信社の仕事で、中国・ウイグルの弾圧を取材したときのことだった。

 

暴徒鎮圧との発表とはおよそ程遠い、虐殺とも云うべき光景の中、たまたま出くわした3人のジャーナリストたちで立てた誓いだった。その直後、悲劇が起こり、近藤は共同通信社を、ジョージはCNNを退職した。忌まわしき、且つ常に心に在る誓いだった。

 

「ま、お互い戦争でも犯罪でも怪獣の取材でも、死なないようにしなきゃな。それが一番だよ、やっぱり」

 

塩焼きを頬張りながら、ジョージが言う。近藤が頷いたとき、iPhoneの通知音が鳴った。

 

倉嶋からのLINEだった。

 

『こんばんは。明日、和歌山へ一度帰ります』

 

笑顔の絵文字と共に送られてきていた。近藤は微笑むと、『気をつけてね。きっと、お父さんもお母さんも嬉しいと思う。戻ってきたら、美味しいお店一緒にいこう』と返した。

 

「おい、彼女か?」

 

ジョージがニヤつきながら訊いてきた。

 

 

 

 

 

 

・同日 18:47 東京都杉並区下高井戸5丁目 児童養護施設 「沢田縁」

 

 

近藤にLINEを返すと、倉嶋はスマホをしまい、建物の受付に備え付けられたブザーを押した。

 

「はーい・・・・・あらあ、倉嶋さん。いらっしゃい」

 

すっかり顔なじみになった中年の職員が笑顔で迎えてくれた。

 

「どうぞ。龍樹くん待ってますよ」

 

靴を脱いでスリッパに履き替え、倉嶋は案内の通り二階へ上がった。

 

今回の件で、東京都内だけでも推定2万人弱の孤児ができてしまったと言われている。この施設では2歳以下の乳幼児を中心に、50名の孤児を保護していた。

 

倉嶋が面会に訪れた、堂山龍樹くんは、有楽町マリオンで母親が命をかけて倉嶋に託してきた赤ちゃんだった。

 

カマキラスとガイガンがゴジラに倒され、ゴジラが血を流しながら東京湾へ去っていったあの日、倉嶋は有楽町マリオンに残る負傷者救援を丸の内署に依頼して、一緒に逃れた避難者と共に龍樹くんを守りながら、北の丸公園に臨時で設けられた児童保護施設に託した。

 

だが倉嶋の腕から離れた途端、龍樹くんは火がついたように泣き出した。泣き止むまで倉嶋はそばに付き、それから正式な保護施設への入所まで手続きを行った。

 

倉嶋が警察官の制服を着ているというのに、途上で知り合った人から「お子さんですか?」と尋ねられる始末だった。

 

あれから1ヶ月。倉嶋も多忙を極めたが、時折様子を聞くために施設へ電話を続けていた。そして休暇の前に、龍樹くんにまた会うことにしていたのだ。

 

倉嶋とさして歳の変わらない、メガネをかけた職員が龍樹くんを抱いて現れた。

 

「龍樹くん」

 

倉嶋が呼びかけて抱くと、キャッキャっと笑った。

 

「やっぱり倉嶋さんに抱かれるのが一番嬉しいんですよ」

 

メガネの職員が言うと、周囲の職員も笑顔で頷いた。

 

龍樹くんの母親、美嘉さんは有楽町マリオンでカマキラスの犠牲となり、父親の武司さんも大崎の職場で勤務しているところを、カマキラスに襲われて亡くなった。

 

両親を亡くしたことも理解できない龍樹くんは、よく笑った。その笑顔を見るたび、倉嶋は愛くるしさにキュンとなるだけでなく、両親がいないことを悟る年齢を迎えた時の龍樹くんを想うと、涙が止まらなかった。

 

泣き顔を龍樹くんに見られないように、倉嶋はギュッと抱き寄せた。せめて、私の泣き顔は見せないようにしようと決めたのだ。

 

涙を拭うと、倉嶋は龍樹くんの柔らかなほっぺを撫でた。まるでお礼をするように龍樹くんは手を挙げ、同じように倉嶋の頬に手を当ててきた。

 

できることなら、龍樹くんを引き取り、育てていきたかった。だがいまの倉嶋には不可能だった。せめて、時折にでもこうして、会いにくることしかできないのがもどかしくて仕方がなかった。

 

そして、倉嶋は決まってしばらく距離を置いていた両親のことを思い出した。

 

実家の柱に掲げられた、産まれたばかりの倉嶋を囲む父と母の写真。いままで強く意識したことはなかったが、龍樹くんを抱くと、なぜあの写真がずっと変わらず大事に飾ってあるのか、わかるような気がしてならなかった。

 

時間が来た。寮の門限は厳格だった。

 

倉嶋は龍樹くんを最後に抱き寄せると、職員に託した。

 

「あら、今日は泣かないねえ」

 

倉嶋の手を離れても、龍樹くんは笑顔で倉嶋を見つめていた。

 

「またね、龍樹くん」

 

倉嶋が手を振ると、龍樹くんも手を振って返した。初めて見せる反応だった。

 

(おっきくなったんだな)

 

そう感じた。

 

施設の玄関を閉めたとき、火がついたように泣き声がした。壁越し、ドア越しにでも、聴こえてきた。

 

たまらず、倉嶋は泣き出した。

 

我慢できるようになったのだ。

 

泣き腫らした目で、夜空を仰いだ。父と母の顔が浮かんだような気がした。

 

スマホの通知音が鳴った。航空会社からだった。

 

『ご搭乗最終のご案内 倉嶋 千夏 様 搭乗日 7月5日金曜日 10:40 東京羽田空港→11:50 南紀白浜空港 日本航空 5906便』

 

初めての帰省だった。それまでの両親へのわだかまり、負い目などまるでなかった。

 

綺麗な月が上がっていた。涙を拭うと、倉嶋は前を向いて歩き出した。

 

 

 

 



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―焦慮ー

・7月5日 金曜日 3:02 京都府京都市左京区 岩倉西河原町

 

 

それほど熱帯夜ということもなく、またエアコンの設定は適度でもあるのに、尾形は汗をかき、まんじりともせず起き上がった。

 

昨日、官邸での総理レク後、文科省、防衛省にて官僚・研究者へ向けて引き続いての講演・懇談。それが終わると、東京主要大学の教授らとの会合を経て、京都の自宅に戻ったのは昨夜22時を回っていた。

 

熱いシャワーを浴び、普段であればそのままベッドで寝付くところ、あれから一睡もすることができなかった。

 

昨日、官邸で昼食を取っていた際、近藤というジャーナリストが話していたことがどうにも気になってならないのだ。

 

『でも、目だけは違って見えました。何かに向けて、怒りを燃やしているような・・・』

 

その言葉がひっかかり、帰路の新幹線の中で、いま一度近藤が撮影した動画を見直してみた。

 

激しいゴジラとガイガンの争い。崩れ、炎を上げるビル群。

 

混沌とした激闘の後、ゴジラがガイガンを焼き尽くし、東京湾へ去らんとする場面を繰り返し再生した。

 

近藤の言うことは正しかった。立ち歩くこともやっとに見えるゴジラだったが、その目だけは猛り狂うようにギラついてた。

 

この道に入り、幾千と見てきた映像。64年前、大阪においてゴジラがアンギラスに向けた、あの闘志に盛る凄まじい目。モノクロで粗い映像だったが、それでもはっきりと認識できた。

 

あのときの目と、まったく同じだった。

 

解せないのは、なぜガイガンを倒してなお、その目をしていたのか、その点だ。

 

確たる証拠こそないが、ゴジラ復活も東京上陸も、カマキラスそしてガイガンを目指したものであることは状況的にも行動生態的にも間違いないと考えていい。

 

であるならばなぜ、目的を果たしても目に怒りを宿しているのか・・・。

 

東京の教授らと会食した際、この疑問をぶつけてみた。しかし返ってきたのは

 

「傷の痛みではないか」

 

「すぐに怒りが鎮静化しないのだろう」

 

「案外、引きずるタイプだな、ゴジラって」

 

などという言葉ばかりだった。

 

元より、ゴジラの思考を読み解こうなどと考えることがおかしいのだ、そう真面目くさる者もいた。

 

大きくため息をつき、尾形は起き上がった。リビングに降り、山﨑シングルモルトを開けると、氷を入れたグラスに入れて半分を一気にあおった。

 

喉から胸が焼けるような快感に包まれ、また大きくため息をついた。

 

普段から好んで酒を飲むタイプではなかったが、論文作成に行き詰ったとき、考えがまとまらないとき、今日のように眠れず、深夜にこうして祖父が好んだ酒を飲むことが、尾形の十八番であった。

 

尾形はグラスを持ったまま立ち上がり、リビングに置かれた写真に目を向けた。

 

まだ3歳だった尾形を、父と母、そして自身の後ろに祖父が立ち、囲んでいる写真だ。

 

写真の中で、尾形の祖父であり、ゴジラ研究の師でもある、山根恭平博士が優し気に微笑んでいた。

 

いつも尾形を眼差してくれた、穏やかで、知性溢れる目。尾形は目をつむり、グラスを傾けた。

 

「大助、研究、探究は、誠実であるべきだ」

 

小学校5年になり、将来は祖父を継いで学者の道を志した尾形に、祖父が向けた言葉を思い出した。

 

翻って、自身がずっと継続してきた研究を反故にし、政府・学会の求めるままの論文を発表したのは、出世欲でも名誉欲でもなかった。

 

予算拡充による、さらなる研究が目的だったのだ。

 

たとえ京都大学の教授職にあろうと、ゴジラのように存在も行動も大きすぎる対象を詳しく研究するとなれば、多額の予算増が不可欠だ。事実、文科省・学会が要求する軍門に下ったからこそ、より規模が大きく、広範な行動を取ることができたため、研究が進められたのは疑いようがないのだ。

 

それでも、こうして祖父を前にして、自身の行動が正しかったのか、誠実だったのか、そう自問すると、祖父に頭を下げなくてはならない。

 

いまでは、子どもの頃から敬愛する祖父の目を、まともに見ることももうしわけなくなってしまった。

 

新たにグラスを用意し、尾形は祖父に捧げた。

 

ふと、リビングの入り口に気配がした。妻の靖子が起きてきたのだ。

 

「何か、用意しますか?」

 

「ああ。ありがとう」

 

夜中眠れずこうして酒に頼ることもある尾形にとって、靖子は慣れたものでこうして夜食や軽食を用意してくれるのだ。

 

 

しばし経ち、アボカドのサラダが供された。尾形は箸でつまみながら、テレビをつけた。ひと仕事終えた靖子が、ミルクティを淹れて一緒に座った。

 

NHKではちょうど早朝ニュースをやっており、破壊されたJR新橋駅の復旧再開が早くとも9月になる見通しだと報じていた。

 

尾形も、通常東京駅から乗り換えなしで帰れる普段と異なり、東京から一度新宿まで抜け、湘南新宿ラインを利用して小田原まで行って新幹線に乗るという、不便極まりない帰宅ルートを選ばざるをえなかったところだ。

 

「今回は、疲れたよ」

 

そう言ってお代わりを嗜む尾形に、靖子は微笑みかけた。

 

「あら、田所先生出てますよ」

 

靖子がチャンネルをNHK・Eテレに替えると、尾形の友人であり、地質学の権威である田所教授が熱弁を奮っていた。

 

「田所先生、マグマがプレートに逆行した流れをしているとおっしゃってますけれど、そんなことあるのかしら?」

 

「どうだろうね。僕は地質学は専門外だが、田所先生のおっしゃることだ、あながち荒唐無稽とも思えないんだがなあ」

 

言いながら、尾形は田所が画面の先で解説している地図に注目した。フィリピン・ユーラシアプレートを逆行するマントルの流れが、フィリピン沖に集まる構図だった。

 

グラスを置き、しばらくじっと画面を凝視した。

 

「あなた?」

 

不審に思った靖子が声をかけ、尾形はハッとした。

 

「何か、気になったのでしょう?」

 

うかがうように目を向けてくる靖子に、尾形は首を縦に振った。

 

「昨夜からずっと眠れないんだが、どうも嫌な予感がするんだ。気のせいだといいが・・・」

 

自分でそうは言うが、どことなく、不安の対象が見えてきたような感じもするのだ。

 

もしかすると、ゴジラがガイガンを倒しても崩さなかった、恐ろしいまでに闘志をみなぎらせた目の向かうべき対象かもしれない。

 

ガイガンやカマキラスがそうであったように、地球上の生物に隕石と共に飛来したアメーバが憑依し、常識では考えられない手段でエネルギーを得ているのだろうか。

 

だとすれば、どんな生物に憑依したというのか。海洋生物なのか、陸上生物なのか。

 

はたまた、もしも件のアメーバが、人間に取り憑いたとなれば・・・。

 

いやな想像を振り払うように、尾形はグラスを飲み干した。

 

トンデモ理論をぶち上げて場の空気を白けさせた田所の解説が終わり、司会のアナウンサーが軽蔑したような苦笑いをしつつ、番組をまとめた。そのタイミングで、靖子はチャンネルをNHK総合に戻した。

 

「やだ、また台風だそうですよ」

 

フィリピン沖に、台風7号が発生したというニュースだった。

 

「先月なんか、カマキラス騒ぎの後、ひと月に4回も発生したのに」

 

靖子の言う通りだった。いずれも日本への上陸は避けられたが、どういうわけか発生の回数を追うごとに、勢力が強まる傾向があるのだ。

 

尾形は微動だにせず、また画面を凝視した。

 

自身の言いようのない懸念・疑念・不安が、一気に形づくられてこの世に現れたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 



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ー破局ー

・7月5日 金曜日 11:17 東京都千代田区大手町1丁目 気象庁3階 予報部

 

 

週末に行われる、気象庁各部局の上級職員級会議の途中で呼び出され、予報課長横山新二はエレベーターを降りると、3階にある予報課の部屋へ急いだ。

 

通常、マグニチュード4以上の地震、もしくはいわゆる突発的なゲリラ豪雨などの緊急事態発生でもない限り、会議を抜け出すなどということはない。

 

始めに部下からもたらされた情報には、驚くというより首をかしげるばかりだった。

 

『今朝フィリピン沖に発生した台風7号が、速度を増して日本に接近している』

 

ここまでは、特段何の違和感もなかったが、続けて書かれたメモには『台風の中心点が観測できない、極めて特異な現象』というのは、理解に苦しんだ、。

 

予報課へ戻ると、大型のモニターにはフィリピンから台湾南部に近づきつつある台風が映し出され、その下で部下である職員たちがパソコンや電話に向けて口泡を飛ばしていた。

 

「おつかれさまです。会議中にもうしわけありません」

 

主任予報士の島崎が寄ってきた。

 

「うん。状況は?」

 

「はい。台風7号、通称‛シェンロン’は、10時現在で台湾島沖合350キロ地点を北西へ時速50キロで移動中。中心気圧の観測不能、なお周囲の気圧のみでー」

 

「ちょっとまて」と、横山は島崎の報告を遮った。

 

「さきほどのメモも気になったが、中心気圧の観測ができないなどということがあるのか?」

 

「はい・・・気象情報課に何度もたしかめましたが、気象衛星からはっきりとその姿が確認できているにも関わらず、中心の特定が困難であるため、中心気圧の測定ができかねる状態だと・・・」

 

「はて・・・?」と首をかしげる横山に、島崎は報告の続きを読み上げた。

 

「続けます、周囲の気圧のみで897hPa(ヘクトパスカル)、勢力を保ったまま日本への上陸が考えられます」

 

「おい、897hPaだって?」

 

「僕も間違いだと思いましたが、事実なのです。日本近海に発生した台風では、少なくとも21世紀に入り最大、記録が残る上での比較でも歴代最大級の台風です」

 

「バカな。この経度で900を下回る勢力など考えられない」

 

黙った島崎の目は、同意するが理由がわからないと訴えていた。

 

「課長、30分前に、米海軍の気象観測機が、フィリピンのドゥテルテ基地を発進しています。間もなく連絡があると思いますが、より詳細が判明するものと思われます」

 

デスクを立った島田が、メモを読み上げながら勢いよく寄ってきた。

 

「岩田、国交省と官邸に連絡だ。それから相笠、急いで予想進路をはじき出せ」

 

部下たちに指示をして、横山は顎に手をやった。この勢力では、最大瞬間風速は60メートルにも達し、1時間当たりの雨量も300を上回ることは必至だ。5月末に長崎を襲った観測史上最大の豪雨すら軽く飛び越えてしまう。その場合の被害は如何ばかりとなるか・・・。

 

「米軍ドゥテルテ基地からです!」

 

席に戻った島田が声高らかに言った。

 

「観測機、台湾沖470キロの海上で消息を絶ちました!」

 

横山を始めとする全職員が色めきだった。

 

「まさか、暴風域に巻き込まれたのか・・・?」

 

「それは考えられません。暴風域から200キロ近く離れた地点からの観測です、いくらなんでも・・・」

 

口々に、職員たちが意見を言い出した。突発的なダウンバースト、あるいは単に機器の故障では・・・喧騒の中、横山は大画面のモニターに注目した。

 

「おい、誰だ?こんなときに過去の台風の動きなんか表示させた奴は」

 

台風が渦を激しく巻き込みながら、台湾沖から一気に本州はるか南方へと移動する様子が映し出された。

 

「・・・課長、これは過去の映像ではありません」

 

言葉を発せず、横山は顔を向けた。

 

「現実、リアルタイムの様子です」

 

「台風7号、速度を急速に上げて本州へ接近・・・ありえない、時速800キロを上回ってます」

 

冷たい汗が背筋を流れていくのを、横山は感じた。

 

 

 

 

 

 

・同日 11:24 愛知県常滑市セントレア1丁目 中部国際空港

 

 

浜名湖の旅館を出て、1時間ほどで空港へ到着した。

 

またの再会を近藤と誓い、ジョージはパジェロを降りた。

 

ここからデルタ航空のデトロイト行きへ搭乗、デトロイトで乗り継ぎ、自宅のあるニューヨークへ戻るのだ。

 

実に3カ月ぶりの帰宅だった。これまでもシベリアの取材は短くとも1カ月はかかるものだが、今回はシベリアから国後へ渡った上、ひと悶着の末伊豆に身を隠していたこともあり、余計に長引いてしまったのだ。

 

ロシア、特にシベリアには愛着があったが、今回の件で、再入国は不可能になったことだろう。そもそも、非合法的に出国したため、入国記録のみしかデータにないはずだ。次回入国時に身柄拘束は免れまい。

 

こうなると、またゴーゴリじいさんの筋を使って『静かに』お邪魔する以外にないかもしれない。

 

ジャガイモのコンテナの底、もしくはシベリア鉄道の機関室に閉じこもって入国・・・まあ、悪くないかとひとり笑い、ジョージはデルタ航空のカウンターへ向かった。

 

浜名湖を出た際はよく晴れていたが、何やら雲が湧き出てきた。灰色の空はいまにも泣き出しそうだ。離陸の際、いつも以上に耳を傷めてしまうだろう。

 

出発まで時間はあったが、早めに出国し、搭乗制限区域内にあるデルタ航空のラウンジで過ごすことにした。ここのラウンジのうどんは、なかなかイケると近藤の太鼓判が押されているのだ。

 

搭乗手続きを済ませて外をうかがうと、雨粒がガラスにへばりつき始めた。どうやら降り出したらしい。それも横殴りの雨だ。

 

さっきまでよく見えていた滑走路もかすみがかり、熱い湿気がガラスを曇らせた。

 

『ご案内いたします。ただいま、上空の天候が不安定なため、すべての発着便の運航を一時停止させていただきます。お客様のご理解とご協力を・・・』

 

日本語に続いて、英語、中国語、韓国語のガイダンスが流れる。

 

やれやれ、とジョージはかぶりを振った。どうやら日本は自分を帰したくないらしい。

 

まあ、いざ欠航となれば、また今夜近藤と飲みに行けば良いだけだ。

 

だがそんな楽観的観測は即座に打ち砕かれた。雨脚が一層激しくなり、おまけに小石大の雹が雨に混じって降ってきた。ものすごい音がフロア内に響き、皆ガラスの向こうを凝視した。

 

雹はガラスを割らんとするような勢いで、横から叩きつけられる。

 

一瞬フロア内に閃光が走った。ざわめきが上がり、空港内の誰もが足を止めた。

 

雷だろうか、豪雨と雹が降る先に、まぶしい光が走る。

 

風が強くなってきた。これは、今日中の出発はもう無理だが、連絡しても近藤は来てくれるだろうか、いまのうちに空港内のホテルを押さえてしまうべきか・・・などと考えていると、4階でガラスが割れた。

 

風の勢いでフロアにガラスが散らばり、猛烈な風が吹き込んできた。

 

悲鳴を上げ、強風から逃れる人たちが階段の下へ駆け出していた。

 

滑走路では地吹雪のように水が巻き上げられ、雷がより激しく雲から放たれてきた。

 

そのとき、ジョージは異変に気が付いた。激しい稲妻が天から落ちてくるものと思ったが、どこかから放たれた稲妻は横、斜めにも突き刺すように走るのだ。

 

はるか上空の雷雲でならわかるが、こんな地表近くでこれほどの現象がみられるのは考えられない。しかも稲妻が落ちた海面は、まるで水が吸い上がるように天へと飛沫を上げている。

 

再び閃光が空港を包み、まぶしさに皆目を覆った。

 

直後に轟音が響いた。ガラスの向こう、滑走路上で停止していた機体が爆発したのだ。しかもその破片が、空に落下するように天へと昇っていく。

 

稲妻が滑走路を舐め、路面が爆発的に引き剥がされた。

 

やがて雲の中から、何かが姿を現した。絶え間なく稲妻を発し、そのうちの一筋が空港ターミナルビルへと這ってきた。

 

ジョージは全身が、そして周囲が黄金に包まれたように感じた。神々しさと恐怖が綯い交ぜになった。

 

稲妻ばかりではなかった。それを発する存在が、黄金に輝いていた。まぶしく美しい輝きはしかし、死神や悪魔の光に思えた。

 

甲高い咆哮が空港を震わせた。全身像が露わになり、一気に近づいてきた。

 

「神様・・・」

 

無意識にジョージはつぶやいた。足場と共に、身体が浮き上がるのがわかった。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 愛知県名古屋市中区三の丸3丁目 愛知県庁舎7階 知事室

 

 

午後の県議会に関して秘書から説明を受けると、少し休憩させろと、小林は皆を部屋から出した。

 

ついさきほど、東京から戻ったばかりだった。

 

大澤に首都機能移転を持ち掛けたところトントン拍子に話が進み、愛知県選出の議員連盟と懇談の時間を急遽設けられた。

 

議員連盟にも反対者はいなかった。

 

「一度は都市機能が半身不随になった東京でも大阪でもない、愛知にこそ首都機能を移すべきだ」

 

「地元への経済波及効果、雇用創出の観点からも、誘致に向けて議論を深めよう」

 

まあ、大澤の名前を出した刹那の議員連中の乗り出し具合は見事であった。

 

これで首都機能の愛知移転が現実化すれば、今後も知事職に就こうが就くまいが小林の名声は100年先まで残ることだろう。

 

増してや知事から国政進出ともなれば、表裏ともに小林へ流れつく利権は莫大なものになること請け合いだ。

 

そのときを想像して含み笑うと、小林はテレビをつけ、メーテレにチャンネルを合わせた。ちょうどローカルの情報番組が天気予報を伝えていた。

 

『それでは、お天気コーナーです。須田さーん!』

 

『はーい松井さん!こちらメーテレ屋上ライブカメラでーす!』

 

元気のよい女子アナウンサーから、天気図に映り替わった。

 

『まずは台風情報からです。昨夜発生した台風7号は、勢力を強めながら北西へ移動しています。気象庁からの情報によれば―』

 

相変わらず、元気よく呑気に深刻なニュースを読むものだ、小林は天井をあおぎ、目を閉じた。

 

『えっ・・と、ここで新たな情報です。台風7号が急速に発達し、日本へ向かうとの情報が寄せられました』

 

屋上の女子アナに原稿が手渡され、口元から笑顔が失せた。

 

『この台風は、つい先ほど猛烈な速さで北上を開始、このコースを辿った場合、日本の本州を直撃する可能性があります。進路予想上の地域では、厳重な警戒を―』

 

読み上げる脇が何やらやかましくなり、突如テロップが切り替わった。

 

【国民保護に関する情報】

 

小林がテロップに釘付けになったと同時に、スタジオのアナウンサーが強張った声でしゃべり出した。

 

『えーここで、国民保護に関する情報が政府より発令されました。愛知県、三重県、静岡県にお住いの方は、身の安全を最優先に、落ち着いて行動してください!』

 

併せて、【正体不明の飛翔体接近】というテロップがかぶさった。

 

ふと、空が暗くなり、小林は外を仰ぎ見た。空に墨を垂らしたように一気に黒雲が広がり、南の方角では激しく雷が四方に走っていた。

 

部屋が小刻みに揺れ出した。

 

『えー、ここメーテレのスタジオも揺れています。地震でしょうか、ただいまスタジオが揺れています』

 

アナウンサーの声が上ずり出した。南の方角では、地面から何かが舞い上がっている。そして波のように、こちらへ向かいつつあるのがわかった。

 

『松井さーん、こちら屋上の須田です!たったいまこちらから、南区に爆発的火災が広がっていくのが見えます!火災・・・火災が空に昇っていきます!』

 

カメラが切り替わり、メーテレの屋上から様子を映した。無秩序に稲妻が走り、直撃した部分が砕け、舞い上がっていく。そしてその絶え間ない稲妻が、猛烈な速度でカメラに迫ってきている。

 

『稲妻が!稲妻が名古屋を!』

 

アナウンサーがカメラを向いたとき、画面いっぱい黄金にかがやき、画面がブレた。悲鳴が上がり、カメラが回転しながらも、一瞬はるか遠くの地表と、黄金の光の中を吹き飛ばされていくアナウンサーを捉えた後、画面が切り替わった。

 

『えー、スタジオも揺れています!ただいまメーテレは』

 

直後、一瞬で中継が途絶え、『停波中』のメッセージが流れた。

 

小林は慌てて外を見た。数秒でバケツをひっくり返したような雨が降り、その向こうで炎と瓦礫が吹き飛ばされるのが見えた。黄金の光に照らされ、名古屋テレビ塔が根元から空に巻き上がり、空中分解していく。

 

恐怖と不可解さで小林は大口を開けたままその様子を見つめていた。横殴りの雨が県庁舎に叩きつけられ、その向こうの空に何かが見えた。

 

天を覆わんばかりの巨大な翼、二本の足に、二本の尻尾。腕がなく、首が三本。その三本の首、もとい口から続けざまに稲妻が吐き出されている。

 

周囲が黄金に照らされ、県庁通りの車両も街灯も樹木も人も、地面から引き剥がされている。

 

小林の眼前に、稲妻が飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 静岡県浜松市南区江の島町 サーファーショップ「M-SURF」

 

 

「お前ら気をつけていけよー!」

 

今日は休講だからとやってきた地元の大学生たちを送り出すと、店長の槙島は淹れたてのコーヒーをカップに注いだ。

 

今日は朝から快晴で波も穏やかなためか、平日にも関わらず客足が多かった。8時開店は名ばかり、たいていこういうときは顔見知りのサーファーに6時頃から電話でたたき起こされ、店を開けてしまうことはしばしばだった。

 

それでも昼前には客足がようやく落ち着いた。おそらく12時頃に食事を摂りに戻る最初の波乗りたちのボード回収があるだろう。その間の貴重な休憩時間だ。

 

槙島はカップに口をつけ、雑誌を手にした。どの媒体も、猫も杓子も1カ月前のゴジラ、ガイガン騒ぎの記事ばかりだ。

 

来月には、ここ浜松でサーファーの競技大会が開催される。市の商工会の一員としても、こちらの方を大々的に報じてほしかったのだが、いい加減うんざりだ。

 

地元紙である静岡新聞のスポーツ部に同級生がいる。そろそろ電話して、こっちの話題を取り扱ってくれるように頼んでみるか―。

 

「すみませーん」

 

女子二人組が入ってきた。

 

「あのう、ここの常連で、圭大くんてコの紹介で来たんですけど」

 

休憩時間がなくなったのは惜しいが、なかなかかわいいコたちだ。槙島は顔がほころんだ。

 

「いらっしゃい!サーフィンは初めて?」

 

「はい」

 

早速二人に合いそうなボードを手に取ろうとしたとき、ボードが小刻みに揺れた。同時にスマホが妙な音を出した。

 

気のせいかと思ったが、再び揺れた。今度はボードだけではない。店全体が揺れたのがわかった。

 

「ちょっとこれ」

 

「台風?」

 

女子二人の会話にピンときた。

 

「なに台風?」

 

「なんか、こっち来てるって」

 

槙島は舌打ちした。あわよくば、このカワイ子ちゃんたちに午後は特別レッスンしようかと思っていたのに・・・。

 

ここから見える沖合も、波が高くなりつつあった。何人か海から上がって来るのが見える。

 

また地面が揺れた。続いて、地面が何かを引きずるような音がした。

 

「なんか、さっきから変じゃない?」

 

女子の片割れがつぶやいた。揺れが強まり、遠くの海面が割れるように揺れるのが見えた。

 

「ねえ、国民保護情報ってなに?」

 

そんな女子の声も、槙島には聞こえなかった。大きな横揺れの後、海面が盛り上がった。

 

怒号が響いた。動物の鳴き声だろうか。槙島が耳にしたどの鳴き声よりも大きかった。

 

大きな波が四方に立ち、ゆっくりと盛り上がる何かが見えた。

 

槙島も、女子も、完全に固まっていた。

 

波打ち際で、何人かのサーファーが波に呑まれたのが見えても、身体が動かなかった。

 

「・・・ゴジラ?」

 

女子がつぶやいた。大きな黒い獣が、再び咆哮を上げて、こちらへ向かい始めた。

 

波から逃れたサーファーが、絶叫しながら走ってきた。

 

「あれ、ゴジラって、神様だよね?」

 

「はあ?」

 

「救世主?だっけ?Twitterで言ってたよ」

 

女子の会話が耳に入ってきた。言葉こそ出なかったが、槙島はとてもそうは思えなかった。

 

閉じた口から、剥き出しの歯が見える。そして憤怒に燃えるような、猛り狂う目。

 

背中が青く光り、ゴジラの目と口が青く輝いた。脳の奥に寒気が走った。

 

 

 

 

11:30 1カ月ぶりに姿を現したゴジラは浜松市・中田島砂丘に上陸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーエピローグー

・7月5日 金曜日 11:52 京都府京都市左京区吉田本町 京都大学吉田キャンパス

 

 

(これか・・・・・!)

 

キャンパス内にある自身の研究室に設置されたテレビに映し出された存在を見て、尾形は強く確信した。ガイガンを倒してもゴジラが敵意と闘志を露わにしていた相手は、この形容しがたい黄金の生物だったのだ。

 

テレビで観た限りでも、およそ地球上の生物にはあり得ない生体であった。首が三本あり、腕がない上、口から破壊的な稲妻を放出するなど、どんな進化過程をたどったとしても説明がまったくつかない。

 

驚愕と怒りにも似た表情を浮かべる尾形と、ただただ唖然とする学生、不安気に実家や友人に電話をする学生たち。

 

尾形のスマホが鳴った。まさかこの男が、自身に電話をしてくるとは。

 

『尾形先生、ご覧になってますか?』

 

台湾で先月出現した巨大蟹と亀の調査に参加している劔崎だった。

 

「はい。先生もそちらでテレビを?」

 

『ええ。どうやら、こちらが脅威の本命だったようですな』

 

「おっしゃる通りだと思います。これは・・・カマキラスやガイガン、果てはゴジラとも格が違いすぎるように感じます」

 

『尾形先生、この怪獣、どうお考えですかな?』

 

いつもの挑発的な問い掛けの雰囲気はなかった。ただ純粋に、劔崎は自身に見解を訊いてみたい雰囲気だった。

 

「形態から察して、これは地球の環境下で進化した生物ではないと思います。明らかに、宇宙からやってきたものでしょう。如何に巨体を誇っても、地球の重力と空気環境内でこれほどの速度で飛行できるなど、まったく考えられない」

 

しばし沈黙があった。

 

『尾形先生、突拍子もない話ですがね、先から地質学者の田所博士が提唱している説をご存知ですかな?ホラ、地脈を無視して、地殻内のマグマがフィリピン沖に集まったことが昨今の極東地域における地震、火山噴火の原因だと。私も眉唾だったが、5月の隕石落下地点、フィリピン海溝でしたな?すなわち』

 

「すなわち、この怪獣がマグマを欲したというか、エネルギーとして吸い上げてしまったということですか」

 

『それです。隕石飛来説で仮定すると、隕石の状態で地球に飛来したのは、生物で例えると卵、ないしは蛹の形態だったと考えられます。そしてどのような手段でマグマを吸い上げたかは不明ですがね・・・いや、こいつの、この口から吐かれる稲妻。ただの雷撃ではないでしょう』

 

普段飛躍しすぎな理論、仮説を展開することの多い劔崎だが、殊今回の事象については核心を突いているように思えた。

 

『この雷撃、直撃した対象をただ破壊するにとどまらない。見てください、まるで瓦礫を引っ張り上げてるようだ。強力な引力を発しているんでしょうな。この方法を応用して、地下からマグマを吸い上げてた・・・』

 

「劔崎先生の言う通りかもしれません。その前提に立った場合、田所博士の説も説明がつきます」

 

『ふむ。まあ、そうしてこのおよそ2か月、地球の養分を吸い上げ、満を持して現れた。私はそう考えてます。降り立った惑星のエネルギーを喰らうなど、恐ろしい話ですな、言うなれば、此奴は“星を喰うもの”だ』

 

「しかもこの怪獣は、恐るべきことにたったの10分程度で名古屋を壊滅させた上、行動速度と範囲が広すぎる。国家、いえ・・・人類存続の危機ともいえます」

 

電話の向こうで劔崎が笑い声を上げた。

 

『常々、私は地球における支配者の変遷を説いてきました。それがこうもあからさまに、そして急激に起こるというのは、やはり気味の良い話ではありませんなあ』

 

「・・・これもご存知かと思いますが、ゴジラが遠州灘に出現し、浜松に上陸しました。この怪獣を目指していることは明らかです」

 

『そうですね、やはり、ゴジラはこの怪獣に向かってるんでしょうなあ。ガイガン、カマキラスではなくて、ね』

 

「ガイガンといえば、劔崎先生、なぜガイガンはカマキリから進化した存在なのに鱗があるのか、ずっとひっかかってましたが、もしかすると・・・」

 

『ええ。この怪獣に影響を受けたんでしょうね。件のアメーバが此奴から発生したのか、あるいは寄生していたのかは知らないが、ガイガンの腹部に存在した金色の鱗。いま思えば、此奴の持つ鱗にそっくりだ』

 

電話に夢中になっていたが、研究室の職員がメモを持ってきた。

 

“安全保障会議招集。連絡を。内閣官房・国家安全保障局、宮澤審議官宛”

 

「劔崎先生、もうしわけないが別な電話が入りました。どうかお気をつけて」

 

『ええ。こっちも、此奴が持ってきた台風の余波か急に前線が発達しましてね、天地ひっくり返るような大雨だ。なんにも出来やしない。ま、尾形先生も、ご注意を』

 

通話を終えると、尾形は急ぎ自宅へ電話をかけた。

 

「靖子か、僕だ。ニュースは見たか?そうか。いいかい、今すぐ、京都を離れなさい。避難が本格化して混乱が起きる前に、だ。そう、福知山の明叔父の家が良い。僕の方はなんとかするから。良いね?」

 

性急に話をして、電話を切った。テレビでは、定点カメラで観測された怪獣の様子が映されていた。

 

地上建造物を対比した上でのラフな計算だが、この黄金の怪獣は身長が150メートル程度、翼を広げた最大値は200メートルを上回る。ゴジラの倍近い巨体が高速で飛翔する事で発生する強風、というより衝撃波は、風速100メートルにも達することだろう。

 

NHKのアナウンサーが焦りと不安を隠さぬ口調で喋っている。

 

『繰り返しお伝えします。愛知県、岐阜県、静岡県、長野県全域に、特別警戒態勢が発令されました!当該区域のみなさんは防災無線、テレビ、ラジオの情報に従い、今すぐ!最寄りの避難所へ避難を開始してください!命を守る行動を、取ってください!』

 

果たして避難所へ逃れた程度で、無事が確保できるだろうかー。

 

この圧倒的な破壊力を持つ怪獣には、何をしても無駄ではなかろうかー。

 

唯一、ゴジラこそがこの怪獣に対抗できる存在かもしれないー。

 

尾形はメモを持ち、踵を返した。

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪府大阪市中央区 大阪ビジネスパーク内 KGI損保本社

 

 

『この時間は、通常の放送を中断して、報道特別番組をお送りしております。いま、入りましたニュースです。愛知県日進市、並びにみよし市消防本部によれば、名古屋市緑区、千草区、名東区、南区、瑞穂区、中区、天白区が壊滅的被害を受け、また愛知県長久手市、尾張旭市から<市内被害甚大、消防・救急至急要請>という通報を受けている、とのことです。えー、ただいま、愛知県みよし市防災管理課との電話がつながったようですー』

 

デスク上のテレビに視線を集中させながら、進藤は外出中の部下に対して矢継ぎ早に電話をかけていた。

 

「ええか、こっちゃかまわへん!いますぐ自宅帰りや!ええな、自宅待機や!戻ってくるんやないぞ!」

 

黄金の怪獣が出現してから30分あまり、大阪は現時点で行政からの指示こそ発令されていないものの、KGI損保では先の怪獣被害を受け、次にまた怪獣が現れた場合、必要最小限人員以外の全社員に帰宅を命じることとしていた。

 

社内に居る者たちで外出している社員に連絡をし、ある程度目処がつけば社内の人間も早急に帰宅する手はずとなっている。1か月前のカマキラス事件の際も、大阪市内の交通機関は避難者でごった返した。そうなる前に帰宅、避難をする必要がある。

 

特に、今回は事態がより深刻と思われた。わずか10分ほどで、名古屋都市圏が壊滅など、これまでのゴジラやアンギラス、ガイガン出現時とは規模が違っている。

 

受話器を置いた進藤は、テレビに映る怪獣を凝視した。

 

全身が黄金の鱗に覆われ、龍のような顔を持つ首が三本。直後、カメラが激しくひっくり返り、スタジオにカメラが戻った。

 

『え、ここで、新たな情報です。ただいまから瀬戸内閣総理大臣より、緊急の会見が行われるとの情報が入りました。テレビをご覧の皆様、できるだけ周囲の方に声を掛け、会見をご覧いただくよう、ご協力をお願いいたします。え、ただいまから、瀬戸内閣総理大臣より有事特別会見が行われます。今回の総理会見は、現在中部地方を蹂躙している黄金の怪獣、並びに11時30分、静岡県浜松市に上陸したゴジラに関する内容と思われますが・・・・え、官邸と繋がりましたでしょうか?』

 

カメラが首相官邸に切り替わり、画面中央に向けて瀬戸内閣総理大臣が歩む様子が映し出される。

 

テレビを追いつつ、進藤はスマホのボタンをタップした。今日午前、中部国際空港に到着したはずの緑川へと電話しているのだが、<おかけになった番号は、電源を切るか、または電波の届かないところへー>というガイダンスが繰り返されるばかりだ。

 

そして名古屋支社の電話も、どの回線もまったく通じない。電話が殺到して回線がパンクしているためか、あるいは、支社が吹き飛ばされたか・・・近鉄名古屋駅から近くに、支社はある。報道によれば、名古屋駅周辺は甚大な被害を受けたそうだ。

 

焦りのあまり、額から汗が浮かび上がる。

 

「えらいこっちゃ、いったいどないなんねん?」

 

スマホには、次々と号外通知が表示された。

 

【総理緊急会見。自衛隊に防衛出動を命令】

 

【首相会見“かつてない危機。自衛隊に対し総力を挙げての対応を指示”】

 

【愛知県名古屋市、都市機能喪失。死者数十万人規模か】

 

【浜松市で爆発的火災発生。市内混乱し避難に支障】

 

【号外 岐阜県中津川市で大規模な山体崩壊。土砂崩れで市街地埋没か】

 

【岐阜県・愛知県境付近で山林火災。極めて広範囲に延焼】

 

【日本航空5906便 羽田空港発南紀白浜空港行き 三重県上空で消息を絶つ】

 

 

 

 

 

・同時刻 愛知県常滑市多屋町三丁目交差点付近

 

 

額にズキンとした痛みが走り、近藤は顔を上げた。ジョージを空港に送り届け、東京へ帰る前に眠気覚ましのコーヒーでも買おうと、ファミリーマートに入ったところまでは覚えている。急に雨脚が強くなったかと思うが早く、暴風が店舗を直撃したらしきことを思い出した。

 

様子をうかがうと、レジカウンターわきの陳列棚が倒れ、自身の額にぶつかったらしかった。額には瘤が出来ていて、うっすら血が滲んでいる。

 

立ち上がると、店舗のガラスがすべて吹き飛んで、店内に散らばっていた。商品はごちゃ混ぜに床に転がり、店員と客がその下でうめき声をあげていた。

 

「おい、しっかり」

 

若い女性の店員を助け起すと、顔中に細かいガラス片が刺さっている。近藤は思わず仰け反った。

 

「あ、お客さん、大丈夫ですか!」

 

レジの奥から別な店員が顔中に汗を滴らせた顔を覗かせた。

 

「救急車呼んでるんですが、電話がつながらなくて・・・」

 

「何があったんだよ、これ?」

 

「わかりません、何が何だか・・・」

 

倒れている客と店員を2人で介抱してから、近藤は駐車場に出た。愛車のパジェロはガラスがすべて吹き飛んでいたが、エンジンは正常にかかった。

 

外に出て唖然とした。先程まで走行していた空港接続道路、通称セントレアラインの高架が横倒しになっており、隣の倉庫には横転したトラックが覆いかぶさっている。

 

もし、思いつきでコンビニ寄ろうとしなかったら・・・近藤は自身の悪運に感謝すると同時に、これがどういう事態を招いているか考え、暗澹とした。

 

鉛色の空に、ドス黒い煙が流れ込んでいる。近藤は瓦礫を乗り越え、対岸の中部国際空港を仰ぎ見た。ところが見えなかった。

 

さっきジョージを降ろした空港が、きれいさっぱりなくなっていた。海面が侵食したわずかな地面から、もうもうと上がる炎と煙が飛び込んできた。

 

近藤は息を呑み、立ち尽くすばかりだった。目から涙が溢れてきた。あれは、ダメだ。直感的にそう思った。

 

隣では、中年の女性が誰かの名前を泣き叫んでいた。また近くでは無表情に空港だった海面を見つめる老人。

 

さっきまで、友と話していたのだ。

 

こんなにもあっさり、別れの刻が訪れてしまうとは・・・。

 

近藤は目を瞑り、俯いた。とめどなく涙が溢れた。

 

ー仲間が死んでも、仕事をしよう。それが餞になるー

 

真っ暗な視界に、ぼうっとジョージが現れた気がした。そして、10年前に死に別れたウォンも現れたように思えた。

 

しばし、近藤は涙を拭うことなく、黒煙上り荒れる海を見ていた。ポケットからスマホを出し、撮影を始めた。

 

ーそうだ、サリー。伝えろ、報じるんだ、ありのままをー

 

ジョージがそう言った気がした。

 

近藤はファミリーマートへ戻った。怪我をした店員と客は、会話が出来るくらいまで回復していた。

 

「店員さん、すまん。オレ行かなきゃいけないが、途中で消防や警察いたら、ここに救援寄越すよう伝える。必ず伝える」

 

店員は頷き、店にある消毒液で応急処置を始めた。

 

近藤はパジェロに乗り込み、瓦礫やガラスが散乱する道路を走り出した。下手に踏むとタイヤがパンクするため、慎重に運転する必要があり、必然的に速度は出せない。

 

セントレアラインは倒壊したが、海沿いの産業道路は比較的走行しやすかった。それでも、動ける車がその道路に集中し、混雑が始まった。

 

北には、大木のように図太い黒煙が何本も立ち昇っている。あの方向は、名古屋市街地のはずだ。ありのままを、動画で報じるー近藤はいつもの仕事に戻ろうとしていた。

 

途中で激しい渋滞が始まった。先を見ると、名鉄空港線が脱線し、白煙を上げながら集合渋滞にのめり込んでいた。

 

運転していた何人かが車を降り、乗客を救助しているため車列が動かないのだ。近藤もそれに倣い、車を降りて車両に走った。

 

既に事切れた乗客が道路上に寝かされ、中途半端だが衣服などで覆われている。怪我の程度にもよるが、どうにか這い出てくる乗客、助け出される乗客も多かった。

 

近藤も他の人たちと協力して、ガラスやひしゃげて鋭利な凶器と化した車体に注意しながら取り残された乗客を救い出す。

 

どうにか目処がつき、渋滞が解消されつつあった。

 

「119番つながんねーよ!」

 

「警察呼べ警察!」

 

「誰か!医者はいないかー!」

 

そちらこちらで怒号が上がる中、「すみません」と近藤に声をかけた女性がいた。

 

紺色のスーツに身を包んだ女性だった。列車に乗っていたのだろう、全身埃まみれだが、怪我は大したことがなさそうだ。

 

「本当にすみません、スマホを貸してくれませんか?」

 

「ああ、いいですよ」

 

近藤は自身のスマホを渡した。どこかへ架けたようだが、しばらくして「繋がらない・・・」と電話を切った。

 

「あの、もうしわけありませんが、これからどちらへ行かれますか?」

 

女性が訊いてきた。

 

「名古屋方面ですけど」

 

「図々しいのは承知ですが・・・途中まででも結構です。同乗させていただけませんか?」

 

女性は懇願するような目を向けてきた。特に断る理由もない。近藤は承諾し、助手席に女性を乗せてパジェロを発進させた。

 

渋滞は断続的に連なり、もどかしくも低速で進める。傍らでは、何度も何度も電話をかける女性が、もどかしさと切なさを綯交ぜにしたような表情をしている。

 

「金崎・・・」

 

女性がつぶやいた。未だ、繋がらない様子だ。

 

「会社の方ですか?それとも、彼氏?」

 

近藤が訊くと、びっくりするような目を向けてきた。

 

「い、いえ、部下です。それに、会社も繋がらないんです」

 

よほど焦っているのだろう、女性は涙声になっていた。

 

「しっかりして、きっと、大丈夫です」

 

根拠はまるでないが、近藤は言った。

 

「ありがとうございます」

 

少しは安心してくれたのだろうか、女性は表情が綻んだ。

 

「この際だ、貴女の目指すとこまで行きますよ。どちらへ行けば良いですか?」

 

「近鉄名古屋駅近くの、KGI損保名古屋支社です。あ、申し遅れました、あたしはKGI損保の緑川です、緑川杏奈といいます」

 

「オレは近藤です、近藤悟」

 

互いに自己紹介したとき、道路が海沿いに差し掛かり、より視界がひらけた。

 

名古屋方面はあちこちで炎が上がり、猛烈な黒煙が天に届いていた。何かが焦げるような臭いが鼻をつき、湿気った風が吹き始めた。先ほどから止んでいた雨も降り出してきた。煤を吸ったらしい、黒い雨だった。

 

 

 

 

 

・同時刻 静岡県浜松市中区砂山町 JR浜松駅付近

 

 

アクトシティ浜松が倒壊し、浜松駅前にごった返していた市民たちが阿鼻叫喚を上げた。

 

ゴジラ上陸後、ただちに市内全域に避難指示が発令されたが、市内主要交差点あちこちで一斉に動き出した群衆の流れが合流、場所によっては群衆雪崩が発生し、避難が進まないところにゴジラが進撃をしてきた。

 

途轍もない土煙が落ち着くと、瓦礫を蹴散らしながらドス黒い影が現れた。

 

自身よりも高いビルを突き倒した黒い影に、1か月前に負ったはずの傷はどこにも見受けられなかった。損傷し失われたはずの背鰭は綺麗に生え揃い、斬り裂かれたはずの腹部や脚部は何事もなかったかのように元に戻っている。

 

全容がはっきりし、叫びながら駅前大通りを駆けていく市民には目もくれず、ゴジラははるか先、ここから北にそびえる、赤石・木曽山脈方面を睨みつけた。

 

晴れ間の覗く浜松市に、灰色の雲が北の方から急速に広がってきた。その勢いに、我先にと走る市民たちも足を止めた。

 

膨れ上がる雲からは、絶え間なく雷光がほとばしる。

 

ゴジラは歯軋りを始めた。猛獣のように唸り声を上げ、やがて大きく吼えた。

 

憤怒、憎悪、敵意、およそ考えられる表現すべて込められたような、憎しみ溢れた叫びだった。

 

さらに吼えると、怒りに震える尻尾がJR浜松駅を直撃した。

 

灰色の雲はさらに近寄りつつあった。さらに大きく吼えたゴジラは口を閉じた。

 

憤怒に満ちた燃え上がるような目は、射るように灰色の雲を向いていた。

 

これから襲い来る存在を、獰猛に威嚇するかのようだった。

 

 

 

 



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