ASEの蜘蛛男 (二不二)
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1. A Hero In ASE ~ASEのヒーロー~_上

ホームカミングがあまりに面白かったので。
また、アクションや戦闘描写にも挑戦してみたいと思います。



<登場人物>

斑鳩悟(いかるが さとる):
原作主人公。
どんな乗り物でも乗りこなすASEドライバー。

小雀雲居(こがら くもい):
オリジナル主人公。
スパイダーマンの力を持った高校生。

清水初音(しみず はつね):
ASE所属の天才メカニック。高校生。

百舌鳥創(もず はじめ):
前任のASEドライバー。斑鳩悟の師でもある。
現在は、ASE日本支部をまとめる支部長の任に就いている。



「うげっ」

 

 蛙のつぶれるような、野太くきたない声をあげて、犯罪者が倒れ伏す。

 ただ倒れているのではない。

 奇妙なことに、彼は、白く太くおおきな糸によって、地面に縫いつけられているのであった。

 触れればたちまち人を捕らえる、トリモチのような粘着質の糸。それはまさしく蜘蛛の糸そのものである。

 けれども、そうであるなら、それを吐き出したのはいったいどれだけ巨大な蜘蛛なのだろうか。きっと、人すら容易く捕食してしまえるおぞましい巨大蜘蛛であるに違いない――

 

 その想像は、いとも容易く裏切られることとなる。

 

「『ウェブ・シュート』。その蜘蛛糸は二時間経ったら勝手に溶けてなくなるから、それまでシャバの空気をたっぷり堪能しとくんだな。なにせ、それから先はしばらく塀の中なんだしね!」

 

 という言葉と共に地面に降り立った男。それこそが蜘蛛糸の主なのだった。

 

 彼は、奇妙な格好をしていた。

 蜘蛛糸模様の全身スーツ。頭部の覆面には、悪事のいっさいを見逃さぬとでもいうかのような、大きな目の模様がふたつ。赤と青の色合いは目にも鮮やかで。それが華麗にトンボを切って、手から蜘蛛糸を飛ばすものだから、見る者に強烈な印象を与えた。

 

 この怪人はいったい何者なのだろう。

 そう思って彼を見つめても、その正体を見極めるのはきわめて困難であった。

 スーツは、爪先から頭まですっぽり全身に張りついて、細身の、けれども筋肉質な肉体を詳らかにしていたし、スーツ越しに届く高い声は、声の主の幼さの証左であった。年の頃は、高校生かそれくらいか。

 その半端な情報が、かえって怪人の正体をけぶらせる。いったいこの世のどこに、大人顔負けの身体能力を披露し、果ては手から蜘蛛糸を飛ばす怪人じみた中高生がいるというのか。

 そんな蜘蛛の怪人を、人々はこう呼んだ。

 

「スパイダーマンだ。スパイダーマンが強盗を捕まえてくれたぞ!」

「ヒーローって本当にいるんだなぁ。まるでアメコミみたいなバタくさい大味のデザインだけどさ」

「ばっか。そこが格好良いんじゃないか。――ありがとう、スパイダーマン!」

 

 そうした人々の驚愕の声、賞賛の声に、当の本人は悶絶する。

 

「やめてくれよ、スパイダーマンだなんて、その名で呼ばないでくれ! ちょっとした若気の至りだったんだ。厨二病だったんだよ。もちろん、そんなのもう止めたさ。だってもう高校生なんだぜ。人間誰だって、夢から醒めて大人になるもんだろ。いつまでもネバーランドには居られないんだ。だっていうのに、黒歴史の強制続行だなんて、これが人間のすることかッ。ASEの人でなし! 百舌鳥さんの人非人! お前等人間じゃねぇ!」

 

 彼は、人々の視線から逃れるべく高層ビルの屋上へ跳び移ると、頭を抱えてもんどりうって悶え転がった。

 小雀雲居(こがらくもい)

 彼こそは、若気の至りではじめた「ヒーローごっこ」の続行を強要されている、世界唯一のスーパーヒーローである。

 

 

 ** 

 

 

 ASE(エース)という民間企業がある。

 業務内容を端的に表せば「人材派遣業」ということになるだろう。

 けれども、ASEはふつうの人材派遣会社ではない。彼らが扱うのは「超一流」の人材だけである。

 たとえば清掃人を派遣すれば、建物は新品同様の輝きを取り戻し。爆発物解体(ディフューズ)のエキスパートを派遣すれば、どんな複雑な機構を備えた爆弾であろうと過たず無力化する。諜報員(スパイ)を派遣すれば、依頼人の欲した情報を持ち帰るは必定だ。彼らの辞書に不可能の文字は存在しないかのように思われた。

 そんなASEの看板を張るのは、二人のスペシャリストである。

 一人は、原動機の付いた乗り物であれば、潜水艦からスペースシャトルまで乗りこなすスーパーマルチドライバー、斑鳩悟。

 年若い高校生でありながら、前任の伝説のドライバー百舌鳥創(もずはじめ)の跡を継ぎ、各種乗り物のスペシャリスト顔負けの操縦を披露する。

 そうは言っても、

 

「なにがASEドライバーだ。俺に言わせりゃ、まだまだ半人前の未熟者だぜ。これくらい余裕でこなせんようでは、ASEのドライバーは勤まらん。それまで日当はこれで十分だ」

 

 というのが、百舌鳥創の評である。彼は、期待を寄せる人間にたいしてとびきり厳しい。

 そのようなわけで、命を懸けた働きにはとうてい釣り合いのとれぬような薄給でこき使われ、斑鳩悟はいつも飢えていた。

 

「今日もカップ麺か……。たまにはラーメン屋で豪勢にチャーシュー麺が食いたいもんだ」

 

 などと気の抜けたマヌケ面で、今日も侘びしくカップ麺をすするのであった。

 そんな彼は、制服姿の高校生である。学生食堂でひとりカップ麺をすする奇抜な姿は、たいそう人目を引いた。

 

「やめとけ、やめとけ。ふだんジャンクばっか食べてるんだから、いきなりそんなちゃんとした”食べ物”食べたら胃が驚いて内臓ひねり出すぞ。まずは間を取りなよ。ジャンクと食べ物の間の、離乳食なんかどうだろうかね」

 

 そんな悟に軽口をたたく同級生。

 ASEのもう一枚の看板、「スーパーヒーロー」の小雀雲居(こがらくもい)である。

 

「酷いこと言うなぁ。それじゃあ俺が食ってたのは何だってんだ」

「だからジャンクだって」

 

 などと傍若無人に言ってのける雲居に、悟は心底嫌そうな顔をした。

 そんな悟をはやしたてる、にぎやかな声。悟の数少ない友人、二人の級友である。

 

「おいおい、無理言ってやるなって。離乳食も結構値が張るんだぞ。斑鳩に買えるわけないだろ」

「貧乏ここに極まれりだな。それに比べて小雀は……」

 

 彼らは、げっそりした様子で雲居を見やる。いつもにぎにぎしい雲居は、食事中もにぎやかだった。それはもう、見た目からして。

 カツ丼に牛丼、焼き肉に唐揚げ。肉、肉、肉のオンパレードである。それが、またたくうちに雲居の胃袋に収まっていく。

 

「うーむ、見てるだけで気分が悪くなってくる食べっぷりだ」

 

 悟はうんざりした様子でぼやいた。飢えている筈なのに、みるみる食欲が失せていく。

 この常軌を逸した食べっぷり。それを支える任務報酬の支給額に、悟は恨み言をこぼさずにはいられない。

 

「同じバイト先なのに、どうしてこうもバイト代が違うんだ……」

 

 そんな悟の不満を、二人の同級生は笑い飛ばす。

 

「そりゃあ仕方ない。こんなぼーっとした斑鳩(ヤツ)なんかと同じ給料なんか出された日には暴動が起きちまうだろ」

「そうそう。極めて妥当な境遇だって」

 

 などと笑い合う二人に、雲居は、唐揚げをひと呑みにしながら話題を提供する。

 

「悟のささやかな給料のことはさておき、俺の場合、常にパワハラされてるような仕事内容だからなぁ。お給金くらい弾んでくれなきゃ割に合わないってもんよー」

「うーん、パワハラに超薄給か。お前等のバイト先って、ひょっとしなくても超ブラックなんじゃないか?」

「お金を稼ぐって大変なんだなぁ」

 

 などと遠い目をする二人と、マイペースに箸を進める雲居である。そんな薄情な三人を、とくに暴食の魔神、小雀雲居を悟はねめつけた。

 

「くそう、友達甲斐のないやつらめ……」

 

 そんな悟の内心を知ってか知らずか、雲居は気前よく皿を押し出す。

 

「なんだ、物欲しそうにじっと見て。しょうがないなぁ。ほら、一皿分けてしんぜよう」

 

 その途端、悟は顔をぱっと輝かせる。

 

「おおっ、ありがたい! 神様、仏様、雲居様っ、ありがとうとざいますっ」

「食欲が無くなったんじゃなかったのかよ……」

 

 へへーっと平伏する悟に、思わず呆れ顔になる同級生である。

 もちろん、そんな些末事にとらわれる悟ではない。彼の意識は、眼前でほくほくと湯気をたちのぼらせる肉料理の虜となっている。期待に胸をふくらませ、喜びのあまりに踊り出しそうとする脚をなんとか抑えつけ、

 

「それじゃあ、さっそくいただきます!」

 

 と箸を伸ばした、まさにそのときである。

 

「やっと見つけたわ。あんた、こんなトコに居たのね!」

 

 いかにも勝ち気な眦の、元気そうな少女が現れた。

 人の好い悟は、食事を中断して、片手を上げて応じてみせる。

 

「おー、初音じゃないか。どうしてここに居るんだ。お前の学校は、ウチじゃなかった筈だが」

 

 気の強そうな少女である。

 案の定、彼女は強い口調で言い放つ。

 

「なにバカなこと言ってるのよ。ずっと連絡してるのに出ないから、こうしてわざわざ迎えに来たんじゃない。――仕事よ。もちろんASEのね」

 

 声を潜め、そっと悟に近づく。

 その少女は、名を清水初音といった。

 初音は、高校生として学業を修める傍ら、あり余る余暇のほぼ全てをASEのメカニック業に費やし、己の腕を高めることに余念がない。

 花より団子という言葉があるが、彼女の場合、花よりレンチというべきかも知れない。化粧の代わりに機械油にまみれ、友達づきあいそっちのけでレンチを握り、言い寄る男どもには見向きもせず自動車をこそ己が恋人と定めている。

 そんな彼女がわざわざ出向いて来るなど、用件はひとつしか考えられない。

 

「げっ。俺、これから久方ぶりの肉を食うところなんだが……」

「肉ぅ? そんなことより仕事よ、仕事! そんなに肉がほしけりゃ、これでも食べてなさいな」

「いや、そもそもこれは肉じゃないし――もごぉ!」

 

 哀れ悟は、たちまち初音の虜囚となった。『うまい棒BBQ味』を口につっこまれ、うるさい口を塞がれた後は、ずるずる引きずられながら連行されていく。

 ご馳走をおあずけされた悟は、しかし、誰の同情も集めない。むしろ、好奇と嫉妬の視線ばかりが寄せられる。

 

「誰だ、あの可愛い娘は」

「あの冴えない斑鳩と、いったいどういう接点が……」

「あー、バイト先の先輩だな。きっと急なバイトが入って、悟を道連れにしに来たんだろう。……俺にとっても先輩なんだけど、どうして俺のこと無視してくれちゃってるの?」

 

 などとぼやきながらも、箸の止まらぬ雲居である。あれほど大量にあった料理がみるみるうちに消えていく。そして、最後のひと口。

 

「ごちそうさまでした」

 

 笑顔で手を合わせ、満足そうに息を吐く。

 もしこの光景を悟が目撃したなら、不公平さに恨み言のひとつでもこぼしたことだろう。食べ終わるのを待っていたかのように、雲居のポケットの内側が震えたのだ。

 

「げっ、携帯電話が鳴ってる。こんな真っ昼間から高校生に掛けてくるだなんて、見つかったらケータイ没収だって分かってる筈なのに。こんなことする連中なんて、あの人達しかいないよなぁ」

 

 雲居は、心底嫌そうに電話を受ける。

 案の定、それはASEからの秘密の連絡であった。

 

『小雀くん、仕事です。事態は一刻を争います。至急ASEビルに来てください』

「念のために聞くんですけど、それって、悟と同じ案件ですか? もしそうなら、俺、ちょっと、いやかなりショックかも……」

『えっ。申し訳ありません、なんのことか分かりませんけど、とにかく、斑鳩くんとは別件です。――猛獣です。猛獣が街に放たれそうなんです!』

 

 

 **

 

 

「猛獣が街に放たれるってのは、いったいどういうことですか。テロリストのパンダが、動物園の同胞を解放しろとでも言ってるとか」

 

 東京某所。ひときわ大きく、高く天を衝くかのようなASEビル。

 その一室に駆け込むなり、雲居はくだらない冗談を吐いた。

 もちろん、そのようなことをしている場合ではない。ASEに寄せされる依頼は、青天井の報酬金額に比例して難易度、危険度ともに天井知らずに高くなる。下らない冗談を言う暇があれば、作戦の準備にとりかかるべきである。

 それが分かっていながら、雲居は軽口をたたくのを止められない。そのようにして、自分の心を落ち着かせる必要があった。なにせ、これから噴飯ものの赤面行為を強制されるのだから。

 相対するのは、気弱そうな女性である。彼女は気の毒なくらい真面目で誠実な性質だったので、雲居の悪ふざけに取り合ってしまう。

 

「えっと、そのような事実は確認できていません。そもそも、そんな芸達者なパンダなんていないと思われますが」 

「それじゃあ、猿かな。猿なら銃くらい使いそうじゃない?」

「それは猿の範疇を逸脱しているような……」

「そのくらいにしておけ、雲居。くだらない冗談をこねくり回す脳ミソがあるなら、少しは作戦を考える方に回してみろ」

 

 雲居の軽口を制止する声。

 それは、粗野な風貌の男であった。

 逆立つ黒髪に、スーツの上からでもわかる引き締まった見事な身体。サングラスの向こうには、鷹のような鋭い眦がある。

 

「百舌鳥さん」

 

 百舌鳥創(もずはじめ)

 ASE日本支部のトップを張る男にも、雲居は馴れ馴れしい口を利く。

 

「そこは、ほら、ASEの作戦立案部門の皆さんの優秀さを信頼してるってことですよ。実際、俺なんかのできることといったら、飛んで跳ねて突っ込んで戦うくらいですし――んがっ」

 

 そんな雲居に、百舌鳥は容赦なくゲンコツを落とし、怒声を張る。サングラスの上で眉が逆立ち、怒りの形相をかたちづくる。

 

「馬鹿野郎! そうやって考え無しで無鉄砲につっこんで味方の足を引っ張るつもりか!」

 

 雲居は人並みはずれて頑丈な身体をしている。大の大人の本気のゲンコツ程度は、なんら痛痒をもたらさない。

 にも関わらず、これは大変堪えた。身体ではなく、心に響いたのだ。

 

「……すみません。俺が間違ってました」

 

 雲居は、恥ずかしそうに面を伏せる。

 彼は、言動の軽々しいアホウな少年であるが、馬鹿ではない。かつては高く伸びていた鼻も、他ならぬ百舌鳥創によってぽきりと手折られていたので、自らの心得違いを素直に認めることができた。

 

「ったく。さっさと頭にたたき込んでおけよ。失敗したら、取り返しがつかない」

 

 それじゃあ説明は任せたと一言残して、百舌鳥は、秘書を伴い会議室を後にした。

 さて、その場に残されたのは雲居と、黙ってことの成り行きを見守っていた作戦部の面々である。

 

「作戦というのはだね」

 

 こほんと咳払いをして、作戦部を代表して壮年が話を紐解いた。

 

「動物の密猟業者が、とある場所で好事家に猛獣の受け渡しをする。そこを一網打尽にするというものだ。どうだ、シンプルだろう?」

 

 気を遣ったのか、壮年は、ニヤリと笑って冗談めかす。

 たちまち雲居は調子を取り戻した。

 

「いいじゃないですか。シンプル・イズ・ザ・ベスト。馬鹿な俺にはちょうどいいです。でも、聞いてた話とちょっと違うような。猛獣が放たれそうだって聞いた覚えがあるんですが」

「ああ、それか。販売相手の好事家が特殊な主義思想をもっていてね。絶滅危惧種の動物を、生息可能そうな地域に放つ活動をしているらしいんだ。本人は活動家を自称しているらしんだがね。譲り受けたとたん、その地に猛獣をとき放ってしまう可能性が高いということが、我々ASEの調査で判明したんだ」

「なるほど。活動家と言わずに好事家と呼ぶあたり、実に皮肉がきいておもしろいです」

 

 ニヤリと悪戯っぽく笑う雲居に、壮年もまた皮肉っぽく微笑んで応える。

 

「きみは話が分かるね。噂のスーパーヒーローで、しかも正体はまだ高校生(こども)だっていうから、どんな人物かと思ったが、良い意味で予想が裏切られたよ」

 

 壮年は意地悪く笑った。

 その途端、雲居は顔をひきつらせる。

 

「やめてくださいよっ。スーパーヒーローってのは本当に無かったことにしたいくらいなんですよ。だっていうのに、またあんな格好して公然と出歩かなきゃならないだなんて、恥の上塗りじゃないですかっ。ああ、自分が恥ずかしい……」

「いや、その、すまない」

 

 どうやら地雷を踏み抜いてしまったらしい。そう悟った壮年は、咳払いをして、無理に話題を転がした。

 

「だが、覚えておいてほしい。きみの活躍で救われた人だってたくさんいるんだ。それは紛れもなく、誇るべきことだよ」

 

 ドンと少年の背中をたたく。そして、ニカと微笑んでみせるのだった。

 

「頼んだよ、ヒーロー」

「ちょっと、止めてくださいよそれホントに」

 

 

 **

 

 

「作戦開始だ」

 

 そうと決まれば話は早い。

 小雀雲居はいつも持ち歩いているバッグから、そのスーツを取り出した。

 赤と青を基調とした、蜘蛛糸模様の奇妙な全身スーツ。おおきな三白眼がふたつ、ぎょうと雲居をねめつける。

 ――気合いを入れろ。これから人命のかかった仕事が始まるんだぞ。

 そう話しかけられている気がして、雲居は重々しく頷いた。

 

「ホントはこんな格好したくないんだけど、俺にしかできない事があるっていうなら、しない理由にはならないもんな」

 

 スーツを見る度に、己の未熟を思い知らされる。天狗になっていた愚かな自分。それを恥じるばかりで、盲目になろうとしていた自分。

 そんな自分は、叩いて鍛えなければならない。

 雲居は、パンと両手で頬を張った。

 そのままスーツを身にまとう。

 

「よしっ、やってやろうじゃないか。ふぉぉおーーっ!」

 

 雄叫びをあげて、天にほど近いASEビルの屋上から飛び降りる。

 大空に身を投げた。

 膝をかかえて一回転。ふたたび身体を伸ばしたときには頭を下にして、腹で大気を滑って進路を変える。蜘蛛の怪人は、モモンガかムササビのように上空を滑空していた。

 何事かと驚いた燕が、好奇心にかられて彼の周りにまとわりつく。

 

「ちょっと、どいてどいて! 巻き込んじゃうから、離れてよっ」

 

 手足を振って、可愛らしい小鳥を追い払う。これで巻き込む心配はない。

 雲居はすっかり安心して、手を前方に掲げた。指を半端に握り込み、奇妙なポーズをかたちづくる。ちょっと昔の日本人なら「ぐわし」とでも呼んだかもしれない。

 

「『ウェブ・シュート』!」

 

 と叫んだ瞬間、手首から勢いよく白い糸が飛び出した。

 それは近くのビルに貼りつくと、ビルと怪人の手を結ぶひとすじのロープとなって、怪人を再び中空へと導いた。

 

「『ウェブ・スウィニング』だっ」

 

 ロープに引かれて、怪人は宙に円を描く。

 落下の運動エネルギーが、そのまま円運動へと変換されたのだ。落ちるときの勢いそのままに、怪人は前方へと飛び出す。

 

「もいっちょいくぞっ。ウェブ・シュート! ウェブ・スウィニング!」

 

 次々に蜘蛛糸を放ち、その度ごとに軌跡を変えていく。前方に飛び、ときには右に曲がり、それからまた前方へ。

 そんな怪人に怒声があびせられた。

 

「ちょっと、困るじゃないか! おい、お前だよ、そこの蜘蛛男!」

「えっ、俺? こんな高層ビルの間で、いったい誰が何処から……」

 

 驚いた雲居は、蜘蛛糸をひときわ強く引っ張った。その反動で空高くジャンプ。手頃なビルの屋上に着地して、あたりを見回した。

 

「おー、あんなトコに人がいる」

 

 ビル窓の清掃員である。ビルの外壁にゴンドラごと吊りさがって、そこで、窓ガラスの清掃をしていたのだ。

 彼は、ビルの外壁から鯉のぼりのようにたなびく蜘蛛糸を指さして、怒声をあげていた。

 その男めがけて、怪人は躊躇なくビルから飛び降りた。

 

「ほっと」

「うおっ!?」

 

 男の頭上に蜘蛛糸をかけると、それにぶら下がって、男の近くに身を寄せた。

 上下逆さになって、蜘蛛のようにぶら下がる怪人。覆面の三白眼が、無表情に男をねめつける。

 男は恐怖し、己が言動を悔いた。

 

「わ、悪かったよ。掃除が大変なんで、ついカッとなって怒っちまった。悪かった、だから許してくれっ」

 

 今にも泣きそうに眉をひんまげて謝意を示す大の男に、しかし、怪人はあっけらかんと頭を下げてみせた。

 

「蜘蛛の巣だらけにしてゴメンなさいね。でも大丈夫。二時間もすれば、勝手に溶けてなくなるから。それでも不都合があればASEに請求してください。これ、連絡先です。ほんと、ゴメンなさいねっ」

 

 名刺を押しつけるなり、怪人は再び宙に身を投げる。

 

「お邪魔しましたァ~ッ」

 

 と声を響かせながら遠ざかっていく怪人の姿を、男は呆然と見送る。

 

「なんだったんだ、アイツは。そういや、連絡先って言ってたけど、こりゃあ名刺か?」

 

 名刺を見れば、そこにはこう記してあった。

 

『ASE所属、世界にただ一人のスーパーヒーロー、スパイダーマン。困ったときはご用命を。依頼額:一千万円から』

 

 




8,012文字


基本的にホームカミングをベースにした能力にしていますが、ところどころ変更を加えたり、独自解釈を加えたりしています。

スパイダーハムとか、INTO THE SPIDER-VERSEのロボなアレとかありますし、そもそもレオパルドンも公式扱いですし、もう何でもアリでいいのでは……と思います。


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2. A Hero In ASE ~ASEのヒーロー~_下

<登場人物>

斑鳩悟(いかるが さとる):
どんな乗り物でも乗りこなすASEドライバー。

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生。

百舌鳥創(もず はじめ):
前任のASEドライバー。斑鳩悟の師でもある。
現在は、ASE日本支部をまとめる支部長の任に就いている。

亜鳥アキラ(あとり アキラ):
ASEのエージェント。怪力オバケ。
自然保護団体IBAMAの一員として活動する傍ら、密猟者撲滅組織の一員として世界中を飛び回っている。日系三世ブラジル人。

清水初音(しみず はつね):
ASE所属の天才メカニック。高校生。



 **

 

 

 東京二十三区は広い。

 とはいっても、緑のある場所は限られる。

 街の緑はまばらである。河川沿いの木立ちや、街路沿いの並木、あるいは建物のアウトテリアとしてわずかばかりの木々がそっと添えられているだけであるから、深い緑は望むべくもない。

 

 ――自然公園を除いては。

 

 東京都内には、実に約八万ヘクタールの自然公園が存在するのだ。

 たとえば、都立多摩丘陵自然公園。

 この豊かな自然の一画、陰深い森林のなかで、二組の男たちが対峙していた。すなわち、密猟動物の売人と、その買い手である。

 

「これが約束の品だ」

 

 売人は背後の、布を被った檻の群を、顎で示す。

 獣のうなり声に、もぞもぞと生物の動き回る音。雑多な動物の気配が、そこから伝わってくる。

 

「しかし、俺たちには理解できんな。こんな気味の悪い動物どもを愛でようだなんて」

「私は、別段、この子たちを飼おうというつもりはない。ただ、彼らに自由とチャンスを与えたいと思っているんだ」

 

 嘲う売人に、しかし、買い手の男は冷静に答える。

 

「チャンスだって?」

「そう。繁栄するチャンスだ。この子たちは、本来の生息地を人間に奪われ、今まさに滅びつつある。それは忌むべきことだが、しかし、止めることは大変難しい。だからこそ、新天地を提供しようというのだよ」

 

 男は両手を広げ、まるで自身が神の使いでもあるかのように、尊大に語ってみせる。

 

「知っているかな? 本来、大自然の断崖絶壁に住まう猛禽が、都会のビル群に住み着いている事実を。故郷よりも外の世界に、生命はひょっとしたら新たな棲家を見つけることができるかもしれないんだ。人もまた、故郷アフリカよりもっと広く、世界中を我が家とした。同様のチャンスは、動物にだって与えられるべきろう? だから、私はこの子たちにチャンスを与えることにしたのさ」

 

 それは、いささか乱暴な理論であった。

 動物は、それぞれの気候や環境に適した形態を備えるべく進化してきた。適正のない環境では、生存は難しい。

 猛禽がビル群に住み着いたのも、硬質の摩天楼が、ごつごつとした岩肌むき出しの断崖絶壁という自然環境に類似していたからである。

 それを、男は無視する。

 

「何事もやってみなければ分からない。いったい誰が、猛禽がニューヨークや東京に住み着くことを予測できた? 大切なのは実践だよ」

 

 この暴論は、しかし、売人には関係のないことだった。

 

「ハッ。アンタの主張も、コイツ等の生き死にも、俺たちにはどうでもいいことだ。金さえもらえればな」

「拝金主義者め。嘆かわしいことだな。だが、まぁ、それでいい。おまえたちの仕事はこの子たちをここまで連れてくることで、この子たちを解放するのは私の使命だ」

「おいおい、コイツ等をどこに放とうがアンタの勝手だが、今すぐは勘弁してくれよ。猛獣だっているんだ。巻き添えは御免だぜ」

「ならばさっさと去るんだな。私は、急いでこの子達を放たなければならないんでね」

 

 金の詰まったバッグを投げ渡し、そして、動物たちを解き放とうと檻に手を伸ばした、まさにそのときである。

 

「ヘイ、悪党。そこまでにしときな。アンタのしてることはワシントン条約違反だぜ。ああ、動物の糞もそこいらに転がるから、迷惑防止条例違反も加わるかな」

 

 どこからか降ってきた軽口が、その手を止めさせた。

 正体不明の声の主を求めて、男たちはあたりを見回す。

 

「どこだっ」

「いたぞ、木の上だッ」

 

 背の高い杉の木。

 その天辺に、赤と青の奇抜な全身スーツ姿の怪人が立っていた。

 

「誰だ、お前はっ」

「ASEのス、スーパーヒーローっ。おまえ等を捕まえる者だっ」

 

 どういうわけか――もちろん恥ずかしさで――震える声で名乗りを上げる男。小雀雲居である。

 高層ビルの間を飛び回り、電車の天井に”無賃乗車”して、ここまで駆けつけるまでおよそ三十分。

 自動車を飛ばすよりなお早く、ヘリコプターとは比べるべくもないほど静かに、雲居はその現場に駆けつけることができたのだ。

 

「知ってるぞ、こいつはスパイダーマンだっ。ASEのスーパーヒーローの!」

「ちょっとっ、その呼び方止めてくれないかなッ。『ASEのヤツ』でいいんだよ、『ASEのヤツ』で」

「なんでだよ。テレビで見たぜ。お前、ノリノリでスパイダーマンでございって名乗ってたじゃないか」

「ほぁっ!?」

 

 黒歴史をほじくり返されて、雲居は悶えた。

 目眩でもしたのか、頭を抱えて身体をひねり――

 バランスを崩して、木の天辺から落下した。

 

「あっ、おいっ」

 

 敵であるのも忘れて、男達は悲鳴をあげた。

 木は、見上げると首が痛くなるくらい、高い。その天辺から落ちれば、ただですは済むまい。

 誰もがグロテスクな光景を覚悟したその瞬間、

 

「よっと」

 

 怪人は四肢を着き、まるで蜘蛛のような姿勢で、音もなく地面に降り立った。

 しなやかなその動き、人間離れした所作に、誰もが目を剥く。ただ一人、蜘蛛の怪人だけが平常運転である。

 彼は、ヤケクソになって叫んだ。

 

「本当はこんなのしたくないんだけど……でも、呼ばれたからには仕方ない。そう、俺こそは正義の使者スパイダーマン!」

 

 四つん這いのままポーズを決め、次の瞬間には、何かに追い立てられるかのように軽口をたたいていた。

 

「ありがとね、心配してくれてっ。でも、せっかく心配してくれたところ悪いんだけど、キミたち皆捕まえちゃうから。動物とキミらの確保が、俺の仕事でねっ」

 

 言うなり、怪人は跳んだ。

 四肢をいっせいに駆動させ、地面から跳ね上がる。初速がすなわち最高速の、蜘蛛じみた異形の動き。それは、人間の反応速度をたやすく凌駕する。

 

「うげっ」

「ふごぉ」

 

 腹を蹴られ、顎を殴られ、瞬くうちに数名の男が地面に倒れ伏す。

 

「この野郎ッ」

「うわっ、ちょっと、あんたら動物販売業者(ペットショッパー)だろっ。どうして銃なんか持ってるのさっ」

 

 密輸業者の男達は、いっせいに拳銃を撃ちはじめる。

 それを、蜘蛛の怪人は飛び跳ね、トンボをきって後退し、左右に跳び回って回避する。

 

「ちくしょう、バケモノめ!」

 

 男達は泣きそうになった。

 人間離れした、スーパーヒーローかそうでなければバケモノとでも言うべき挙動だったのだ。

 そんな誹謗中傷などどこ吹く風で、雲居は叫ぶ。

 

「きたない、さすが密輸業者、きたない。それならこっちも飛び道具だッ。ウェブ・シュート!」

「あひぃっ」

「うげぇ、なんだこりゃっ」

 

 手首から飛び出した蜘蛛糸が、拳銃ごと男の手首にからみつく。のみならず、男の身体を吹き飛ばし、後ろの男ごと檻に縫いつけた。

 その拍子に、檻から布がはらりと滑り落ちる。

 そこから現れたのは、牙もつ獣。

 思わず雲居は、

 

「うーん、猛獣だなぁ」

 

 と唸った。

 おおきな犬歯に、するどい爪。身体を支える四肢は太く、力強い。強靱な顎は、それが獰猛な肉食獣であることを物語っていた。

 その獣は、檻に縫いつけられた男たちに興味を示したのか、濡れそぼった鼻先をすんすんと突きつけた。

 

「ひぃぃっ、獣の鼻息が当たるぅ」

「たっ、助けてくれぇえ」

「大丈夫、大丈夫。蜘蛛糸は二時間で勝手に溶けるから、それまで生きてれば大丈夫だって」

 

 泣きわめく男達に、怪人は無責任な台詞を投げかける。

 

「くそっ、ふざけやがって。あんなヤツに捕まってたまるかっ。おい、お前等、獣を放てッ」

 

 檻はひとつだけではない。大小さまざまな檻が、その場には用意されていた。

 販売業者の男たちは、手当たり次第に檻を開け放つ。

 もちろん止めようとする雲居であるが、男達は一人ではない。一人を止める間に、他は檻の陰に回りこんで攻撃や蜘蛛糸を避けるよう立ち回り、檻を開け放ってしまった。

 一目散に逃げ出す動物の数々。豹のような動物に、犬とハイエナを混ぜたような動物、奇妙な猿。爬虫類もいれば、色鮮やかな蛙や蛇さえいた。

 

「ちょっとタンマ、ストップ! 止めてくれよ、これ捕まえるの俺なんだぞっ」

「だから開けてるんだっての。――よし、蜘蛛野郎が動物に夢中になってる間に逃げるぞ」

「誰が逃すかッ。あっ、でも動物も逃げるし……ちょっと待てってば!」

 

 

 **

 

 

「で、言い訳はあるか」

「ありません……」

 

 それから一時間後。

 件の自然公園には、サングラスの粗野で精悍な男、百舌鳥創と、うなだれる蜘蛛の怪人の姿があった。

 怪人は、覆面を脱いでその素顔を晒け出している。頬は丸みを帯びて幼く、顔をしゅんと頷かせる様は、彼がまだ年若い中高生にすぎないのだということを、見る者に否応なしに思い出させた。

 そんな彼に同情を寄せたのか、動物や犯人の捕縛にあたっていたASE職員の代表者が、気遣わしげに報告をした。

 

「幸い、密輸入業者一味のうち主要な人物は捕らえています。彼らから得た情報によれば、やっかいな動物――ちいさく毒性の強い動物はすべて、彼の蜘蛛糸に捕らえられているようですね。つまり、目立つ中型の動物を捕縛すれば、任務は達成です。主義者の男も逃走していますが、こちらは放っておいても問題ないでしょう。住所も割れていますし」

 

 厄介な、ちいさく危険な動物を優先して捕らえたこと。この的確な判断は手柄であると、ASE職員は言外に誉めた。

 

「そうか、良かったぁ……」

「良い筈があるかっ。逃げた動物には、人間を襲うものもいる。住民に被害が出れば、その時点で依頼は失敗だ」

 

 ほっと息をつく雲居に、百舌鳥は容赦なくゲンコツを落とした。

 もちろん雲居には堪えていないので、百舌鳥は、脅し文句を追加した。

 

「依頼人が依頼人だ。その場合、おまえの命もあやしいことになるぞ」

「ぶっそうな依頼人ですね。なんですか、マフィアか何かですか」

 

 雲居は頑丈な身体をしていたが、中身はそんじゅそこらの高校生である。思わず腰が引けたところに、

 

「まったく、ASEともあろうものが、なんという体たらくだ」

 

 不機嫌な声が掛けられた。

 その声に向かって、雲居は勢いよく頭を下げる。ぶっそうな前情報に肝を冷やしたというのもある。だが、それ以上に、そこには誠意が宿っていた。

 彼は、軽々しい言動を友としてはいたけれども、己の果たすべき責任について向き合う程度には良識を備えていたのだ。

 

「あなたが依頼人ですか? すいません、俺のミスで動物を逃してしまいました。でも少しだけ、カップ麺を作る寸間だけ待ってください! 麺が延びきるまでには、絶対に捕獲しますか……ら……」

 

 声は、途中でとぎれてしまった。

 顔を上げた雲居は、見とれてしまったのだ。その美女に。

 

 それは、健康的な女性だった。

 上背も高く、スポーツか格闘技でもしているのか、むきだしの手足は健康的な筋肉をそなえている。髪は女性らしい長髪で、生来の癖毛がなだらかなウェーブを描いていた。

 ギリシャ彫刻のような、たくましい躍動的な姿。

 それは、しかし、彼女の女性らしさを何一つ損ねてはいない。腰はほっそりとしているし、髪はしっとり艶やかで、眦は長い睫をたくわえて色気がある。手足の筋肉も、女性らしい柔らかさ、しなやかさを併せ持っていた。

 なにより、顔立ちが強烈に美しかった。

 おおきな瞳は男の視線を吸いこむ黒曜石で。

 それを飾り付ける睫は艶やかだ。

 頬は柔らかく、形の良い唇は薔薇の花弁のようである。

 化粧気など欠片もないにも関わらず、思わず言葉を失ってしまうほどの、それは匂い立つような美女だったのだ。

 

「そうか、お前がASEのエージェントか」

 

 女性にしては低く、頼もしい声。

 それさえ「ああ、この女性にはぴったりだ」と思ってしまうほど、雲居はこの女性に参ってしまった。

 一目惚れである。

 

 この女性をどう形容したものか――

 きっと、大輪の薔薇が似つかわしい。それも、鉄でできた、鉄壁の薔薇。手折ろうとすれば、逆にこちらの指が折れかねない。

 などという雲居の恋心は、すぐさま粉砕されることとなる。

 

「――ふんっ!」

 

 腹の底からひねり出したかのような、たくましい声。

 それを耳にしたときには、雲居の身は宙を舞っていた。

 

「うげぇっ!?」

 

 身体を貫く衝撃。

 胃からこみあげてくる、熱いなにか。

 

(ウソだろ、こんな高くまで殴り飛ばされるなんて。あの腕の一体どこにこんな怪力が……)

 

 遠退きかけた意識を強引にたぐり寄せ、なんとか地面に足から着地する。

 美女が微かに目を丸くする。しかし、それはすぐに鋭く細められた。

 

「頑丈なヤツだな。平然と着地するとは生意気な。まだ殴られ足りないか」

「ちょっと待った、そんなに殴られたら死んじゃうよっ。ってか殺す気で殴ったでしょ! 俺以外なら死んでたよッ」

 

 腕を引き絞る女性に、雲居は諸手をあげて降参の意を示す。

 

「その辺にしておけ、アキラ」

(はじめ)か……」

 

 百舌鳥が間に入って取りなす。どうやら、二人は旧知の仲であるらしい。

 ようやく腕を下ろした女性を、百舌鳥は紹介する。

 

「亜取アキラ。日系ブラジル人三世。IBAMAに所属し、アマゾンの動植物の保護を行っている。と同時に、密猟者撲滅組織の一員であり、ASEのメンバーでもある。そして、今回の依頼主だ」

「亜取アキラだ。ヤツラが絶滅危惧種の動物を拐かし、ここ日本に放とうとしているのを突き止めたは良いものの、既に現地を発った後だった。そこで密猟者撲滅組織の一員として、ASEに依頼したのだ」

 

 アキラは腕組みをし、蜘蛛糸に囚われた男達を鋭い眦で示す。

 かと思えば、その眦は、そのまま雲居に向けられた。

 

「ASEなら間違いないと思ったのだが、このザマとはな」

「うっ……」

「こら、依頼人の前で頼りない姿を見せるな。それでもASEの一員か」

 

 威圧を受けて腰の引けた雲居を、百舌鳥のゲンコツが叱咤した。

 そのままグリグリと頭を小突きながら、アキラに向き直る。

 

「こっちは小雀雲居。『スーパーヒーロー』のエージェントだ。見ての通りひよっこだが、こいつには最後まで仕事をさせる。――アキラ、ASEとしてのお前に仕事だ。雲居のサポートをして、この東京に放たれた動物を回収しろ」

「正気か、創。私がこいつのサポートなど」

 

 じろりとねめつけるアキラ。

 けれども、百舌鳥は口の端をつり上げて、涼しく受け流す。これは決定事項だと、無言で訴える。

 そんな百舌鳥を、アキラは訝しげに見やるのだった。

 

「こいつは使えるのか?」

「なぁに、使えないと思ったら殴って躾てやってくれ。そうすりゃ物覚えの悪いコイツでも、死ぬまでには覚えるだろう。なんなら、動物のエサにでもしてくれれば良い。頑丈だから、そのつもりでこき使ってやれ」

「……チッ。貸しひとつだぞ」

 

 

 **

 

 

 それから間もなく、二人は動物の追跡を開始した。

 居たたまれないのは雲居である。

 彼は、短気でとびきり手の早い、不機嫌な女ジャイアンと二人にされたのである。

 

「えっと、亜取さんは動物達の行き先が分かるんですか」

「まあな。動物と植物が私の専門だ」

 

 マスク越しに届けられる脳天気そうな声に、アキラはぶっきらぼうに答える。

 その声音をどうにか変えてやろうと、雲居は言葉を重ねた。

 

「そうですか。俺はてっきり、格闘術や撲殺術とかが専門かと」

「ほう、どうやら殴られ足りないみたいだな」

「滅相もない!」

 

 口より早く殴りかかってくるのを、雲居はひらりとかわす。

 

「おっかない人だなぁ。軽い冗談なのに、愛想笑いも苦笑いもしやしない」

 

 機嫌を損なうとすぐに手が出る。戦闘力も桁外れに高い、暴れ牛のような女。

 それが百舌鳥創による人物評であった。実際、彼女はアマゾネスクイーンやドゥルガ(「近づき難い者」を意味する、インドのおっかない女神)などと渾名され、密猟者の間ではひどく恐れられている。対話による迂遠な解決より、実力行使による率直な解決を好む性質であるらしい。

 だが、それは、彼女が浅学浅慮であるということを意味しない。

 

「見ろ」

 

 と指さす先には、大地に刻まれた動物の痕跡がある。

 

「特徴的な足跡としっぽの跡。コヨーテだ」

 

 常人が見れば、そこらの犬のそれと見分けが付かない。それをアキラはするすると読み解いていく。

 

「こっちの糞と木の幹のひっかき傷は、ジャガーのものだ。やつらは二十平方メートルもの広大な縄張りを、こうして主張する」

「さっそく縄張り宣言か。野生動物ってのはくらい逞しいもんだなぁ」

 

 雲居は感心のため息をこぼす。

 

「彼らも生きるのに一生懸命なんだ。こんな植生も気候もなにもかも違う場所であっても、生きようとしている。一刻も早く故郷へ帰してやらねばな」

「亜取さん……」

 

 雲居はアキラの横顔にすっかり見惚れていた。

 それというのは、黒曜石の瞳が、あたたかな慈しみの色を浮かべていたからである。

 なにもかも異なる異国の土地に放り込まれて、それでも懸命に生きようとする動物たちへの深い慈しみ、母性のようなものが、そこにはありありと浮かんでいた。

 優しげな瞳は、しかし、次の瞬間にはきりりと鋭くすがめられていた。

 

「どうやら近いらしいな。さて、ここからは観察力と経験が全てだ。目を皿のようにして、あたりを探れ。動物を探し出すんだ」

 

 そう言って唇をひき結ぶアキラに、雲井は力強く頷きをかえす。

 

「それなら任せてくださいよ。俺の得意分野だ。さっそく返上して、挽回してみせましょう。汚名と名誉を」

「軽く言っていくれるがな、これはそんなに簡単な話じゃないぞ」

「ま、見ててくださいよ」

 

 雲居は五感を研ぎ澄ませた。

 景色は陰影を濃くし、風は形を備え、音はその発信源を指さす。

 スパイダーセンスと名付けたその異能――人間種をはるかに超越した鋭敏な五感でもって、雲居は気配を探る。

 木々をめぐる風の流れ。葉々のこすれる音。そして、動物の息づかい。

 

「そこかっ」

 

 雲居は跳びあがって、手首から蜘蛛糸を飛ばす。それは過たず、下生えに身を潜めていた犬のような動物――コヨーテを捉えた。

 

「どうどうどう、落ち着けー。それは単なる蜘蛛糸だからねー。なんなら食べれるよー。――ちょっと、俺を噛むんじゃない! 噛むのは蜘蛛糸のほうにしてよっ」

 

 暴れれば暴れるほど蜘蛛糸にからまり、ますます身動きが封じられる。そんな獣を、雲居は宥めようとしているのか、それともからかっているのか、どうどうと声を掛ける。

 鼻息荒くもがく獣に噛みつかれそうになっている雲居に、アキラは呆れの目を向ける。

 

「おい、びっくり人間。どうして其処に潜んでいるのが分かった」

「なんでも俺は、突然変異っていうのらしくてですね。生まれつき身体は頑丈だし、五感は鋭くて、手首から蜘蛛糸のようなものも出せるんですよ。くわしい仕組みは、ASEの研究部門でも分からないようなんだけどね」

「…………」

「ま、天命ってやつですかねっ。スーパーヒーローになるべく天から遣わされた正義の使者、スパイダーマンッ」

 

 アキラが表情を固くするので、雲居はおどけてみせた。トンボを切ってそれらしいポーズを取ってみせる。

 その頭に、ゲンコツが降ってくる。

 

「馬鹿者。茶化す暇があったら、次へ行くぞ。さっさとASEに檻をもって動物を保護するよう連絡しろ」

「痛いッ。せっかく恥ずかしいポーズまで決めたのに、あんまりじゃないですかっ」

 

 雲居がこのようなひょうげた態度を取るのには、理由がある。

 人は、あまりに異質な者を拒むらしい。たとえば主義、思想、宗教。たとえば肌の色、髪の色などの見た目。違いの数だけ争いが生じ得る。そのことを雲居は心得ていた。

 生まれ持った肉体的特徴は、もうどうしようもない。醜いアヒルの子は、一生その姿で過ごすより他にない。

 けれども、行動は変えることができる。おちゃらけて単純で分かりやすい、愛すべき隣人になれるかもしれない。

 そのようなわけで、雲居は、努めて明るくひょうげているのだ。

 

「そんなに恥ずかしいのなら、どうしてそんな格好をしている」

「それが、恥ずかしながら若気の至りで、こんな格好してヒーローごっこしてるところをASEにスカウトされてですね。その頃には、もうこんなこと辞めるつもりだったんですけど、百舌鳥さんが」

 

 ――せっかくだから、その目立つ格好で敵意(ヘイト)を引きつけろ。恨みを買いやすいASE職員の盾になれ。なに、お前は頑丈さだけが取り柄だし、素顔も隠れているから丁度都合が良いだろう。

 そのような無茶を仰せつかったのだった。

 

「本当に、あの人は鬼畜ですよ。実力はあるから余計に性質が悪い」

「そうだな。あいつは無茶苦茶なやつだ。腕だけは確かなのだが」

 

 二人は苦々しく息を吐き、そして、ふと視線が交差する。

 共感が芽生えた瞬間だった。

 雲居はニヤリと微笑み、アキラは鼻を鳴らして前を向いた。そこにはもう、先ほどまでの刺々しい沈黙はわだかまっていなかった。

 

「どうやら、お前も少しは使えるようだな。行くぞ、雲居。これまでのミスを挽回させてやる」

 

 アキラは、はじめて雲居の名前を呼ぶ。

 

「ちょっと、任務中は本名は隠してくださいよ。『ASEのヤツ』とか、あるいは『スパイダーマン』と呼んでください。後者は大変不本意ですが」

 

 

 **

 

 

 それから二人は、逃げた動物を追ってかけずり回った。

 まずは疾走する犬ともキツネともつかぬ足長の動物である。

 

「ちょっと待ってよ、可愛いワンちゃん!」

「犬ではない。タテガミオオカミだ。時速九十キロで疾走する、犬科最速の動物だ」

 

 人並み外れたどころか、人外の身体能力を有する雲居である。オリンピックのアスリートよりも速く走ることができるが、それでも、走ることに特化した四つ足の動物には適うべくもない。

 懸命に走って走って、なんとか距離を開けられまいとしたところ、

 

「もっとも、少し走るとすぐに立ち止まってしまうがな。そんな臆病な性格が災いして、乱獲されたんだ」

「うわっと、行きすぎたっ」

 

 急に立ち止まってきょろきょろするタテガミオオカミを、勢い余って追い抜いてしまう。

 

「でも大丈夫。振り向いてからのウェブ・シュート!」

「よし。よく捕らえたぞ、雲居」

 

 その次は、長耳の猫科の獣である。

 じっと獲物を待っているのか、下生えに身を伏せて隠れる獣を、二人は木の上からこっそり窺っていた。

 

「変わった猫ちゃんですね。耳が長くて黒い。ひょっとしてコイツ、エジプトで神様とかしてません?」

「カラカルだ。アフリカの絶滅危惧種だな。エジプトは関係ない。ちなみに、猫科でもっとも優れた跳躍力を持つ。三メートルも飛び上がって、空飛ぶ鳥を捕らえることができるんだ」

「うわぁっ、俺は鳥じゃないってば!?」

 

 蜘蛛糸にぶらさがって接近を試みていた雲居は、悲鳴をあげた。カラカルが飛びついてきたのだ。

 牙を剥き、するどい爪をふるって、雲居を捕らえようとする。それを、雲居は身をひねってかわし、地面に降り立った。

 

「ふむ。空からぶら下がっているから、鳥に見えたのかもしれないな」

「亜取さんッ、冷静に考察してる暇があったら助けてよっ」

 

 後を追って着地したカラカルを取り押さえながら、悲鳴をあげる雲居であった。

 

 

 **

 

 

 こうして二人は動物を捕らえてまわった。

 かすかな動物の痕跡を捉え、確実に追跡するアキラ。

 いよいよ接近すれば、そこからは雲居の出番である。超感覚と呼ぶべき鋭い五感で以て、動物の居場所をたちまちあばき、蜘蛛糸を飛ばして取り押さえる。

 雲居がぎゃあぎゃあ騒ぎながら正面きって動物と対峙すれば、アキラはそっと後ろに回って逃走を阻止し、隙あらば自らも捕獲を試みる。

 二人は、なかなか優れたコンビであると言えた。

 

「これで残りは僅かだ」

「あとはたしか……」

 

 目を皿のようにして地面を調べるアキラの隣で、雲居はメモを取り出した。

 そこには動物の名前が書かれている。たいていは聞いたことのないような名前だが、なかには有名なものもある。

 

「コヨーテ」

「それは最初に捕獲した」

「ホエザル」

「それはさっき捕まえた」

「それじゃあ……おっ、これは俺もよく知ってますよ。超有名人じゃん、”ジャガー”って!」

 

 よく知る名前を見て、単純な雲居は喜びの声をあげた。それは、しかし、すぐさま悲鳴に変じることとなる。

 

「ぎゃあっ! ジャガーって、凶暴な肉食獣じゃないですか。それも人を補食する」

「そうだな。目の前のヤツがそうだ。ついでに言えば、我々を狙っているらしい」

 

 黄色い毛皮は、ところどころ斑の装飾をあしらって美しい。こちらを見据える瞳は、琥珀の宝玉である。

 豹によく似た外見の、美しい獣。

 けれども、手足はより太く頑丈で、顎もひとまわり大きかったから、より凶暴で攻撃な性格が推して知れた。

 天性の狩人は、しなやかに身体を前傾させ、獲物に跳びかかるべく力を蓄えている。

 

「来ますっ。亜取さんは下がってッ」

 

 すかさず前に出た雲居を、獲物と定めたと見える。獣は、前足から後足まで余すことなく全身のバネを駆動させ、黄色い閃光となって、雲居に跳びかかった。

 

「ほいっと」

 

 それを横っ飛びでかわし、すれ違い様に蹴りを見舞う。

 

「ぎゃうっ」

 

 と悲鳴をあげて、獣は地面に倒れ込んだ。

 ふたたび起きあがった時には、琥珀の瞳は怒りを宿し、まっすぐに雲居をにらみつけていた。

 

「そうだ。お前の相手は俺だ。さぁ、かかってきな。すぐに捕まえてやるぜ。こんなふうにな」

 

 雲居は手首から蜘蛛糸を飛ばす。

 攻撃の気配を読んでいたのだろうか。獣は、拳を向けられた瞬間には横に跳んで、恐るべき粘着の糸を避けていた。

 そのまま、お返しとばかりに跳びかかる。

 

「素早いなァ。でも、お前の攻撃は俺には通用しないぞ」

 

 雲居はトンボを切って回避する。

 そうなることは、獣も十分承知していた。一合交えたとき、目の前の怪人が容易ならざる強敵であると悟っていたのだ。

 彼の狙いは別にあった。飛びかかった先にある、太くおおきな木の幹。それを新たな足場として、三角跳びに雲居に襲いかかった。

 

「うっそぉ、ジャガーってこんな動きするのぉ!?」

 

 雲居の身は、身動きの取れぬ空中にある。

 この千載一遇のチャンスを、ジャガーは見逃さない。ぬるりと鈍色に光る牙を、その首筋に突き立てようと身を伸ばす。

 けれども、

 

「よっと」

 

 蜘蛛糸を地面に放ち、手繰って身体を無理矢理に動かす。

 猛獣の牙は、むなしく虚空に噛みつくこととなった。

 

 ――これでは埒が明かぬ。

 

 とでも思ったのか、ジャガーは標的を変えた。

 すなわち、一歩下がって成り行きを見守っていたアキラへと、跳びかかったのだ。

 

「しまった、油断したっ。亜取さんッ」

 

 雲井は、我が身をアキラの盾とするべく身体を踊らせる。

 それこそが獣の狙いだった。

 雲居がアキラを庇って前に出たことを、彼は忘れていなかった。このオスは、必ずメスを守るに違いない。そう思って一計を案じたのであった。

 強靱な鉤爪が身体をとらえ、鋭い牙が首筋に噛みつかんとしたその瞬間。

 

「どけ」

 

 トン、とアキラは雲居を軽く押した。

 それだけで、雲居の身体は宙を飛んでいく。

 

「え?」

 

 と驚きに目を丸くしたのは、雲居だけではない。

 ジャガーもまた、突然獲物の姿がかき消え、代わりに眼前に現れた、拳を構えた恐るべき”敵”の姿を目の当たりにして、驚きに目を見開いた。

 しかしそこは過酷な野生を生き抜いてきた、経験豊富な狩人である。

 

 ――計算が狂ってしまったが、問題ない。新たに現れた”敵”に攻撃のタイミングを合わせるだけだ。

 

 その判断は一瞬のうちに成された。再び顎を開き、アキラへ向けて致死の一撃を見舞う。

 それは、しかし、”アマゾネスクイーン”にとっては遅すぎた。

 

「――ふんっ」

 

 と力強い吐息とともに、頭上から振り下ろす一撃。

 ジャガーは「ぎゃん」と悲鳴をあげ、地面に叩きつけられて気を失った。目を回し、だらりと口元から涎まみれの舌を伸ばして、だらしなく四肢を伸ばしていた。

 

「あのっ、これ殺してないよね!?」

 

 ぶくぶくと泡を飛ばす哀れな動物に、雲居はあわてて駆け寄る。

 

「大丈夫だ。最近は手加減も上手くなってな、うっかり殺めることはすっかりなくなったんだ。密猟者どものおかげでな」

「……うっかり殺されたのは、動物じゃなくって密猟者の方ですよね。あっ、いや、いいです答えなくてっ。答えなくても分かるんで」

 

 口から牙をのぞかせる猛獣さながらの笑みに、雲居はすべてを悟るのだった。

 

「そもそも、お前に守られるほど、私はか弱くはないぞ。お前も突然変異らしいが、私も生まれながらの特異体質でな。そこいらの獣に負けるような、やわな身体はしていない。だから、そう気負うな」

 

 アキラは涼しげに微笑んでみせる。

 低く頼もしい声も相まって、頼り甲斐があり男らしい。

 けれども、やはりそれは、彼女の女性らしさを損なってはいない。

 微笑みをうかべた頬は、ふっくや柔らかで女性らしく。瞳をふちどる睫は長く、艶やかであったし。なにより、瞳はあたたかな母性を宿して、優しく雲居を見つめているのだった。

 

「――っ」

 

 思わず雲居は胸を抑える。

 

「どうした。私の顔に何かついているか」

「いや、その、暴れ牛みたいな亜取さんが、とても優しげで綺麗だったので――」

 

 息の詰まるような、胸を鷲掴みにされるような、その衝動。

 その正体を考えるより先に、それは、言葉となって口から飛び出していた。

 

「――つい惚れてしまいました」

 

 アキラは目を丸くした。

 どういうわけか、感情豊かな声音もこのときばかりは平坦で、少年の本意をうかがうことはできない。表情もまた、覆面に隠されてしまっていたから、彼の感情を読みとることは不可能だった。

 もっとも、もし覆面をはぎ取ったところで、いっそう困惑は深まったに違いない。雲居は、ぽかんと呆けた表情をしていたのだ。

 

 それは、ひょっとしたら、小雀雲居という少年の、飾らぬ本当の姿なのかもしれない。いつもおどけてばかりで言動の軽々しい少年の、珍しく純朴な姿。彼のことをよく知る者なら、そこから彼の”本気”を察したかもしれない。

 けれども、顔を会わせて間もないアキラには、それが分からない。

 だから、冗談の類だと判断して拳をふり上げたのも、無理からぬ話である。

 

「馬鹿者、大人をからかうなっ。何より、私のどこか暴れ牛だっ」

「痛いっ。そういうトコですよっ、人間はそんなすぐに他人を殴ったりしませんって!」

 

 などと喚く雲居は、内心ほっと安堵の息を吐いていた。

 

(うっわぁ……。初対面の人にいきなり告白するだなんて、どうかしてるわ、俺。冗談だと流してくれて助かったな。これが大人の余裕ってやつか)

 

 なにはともあれ、いち段落。これで全ては丸く収まった。

 そう思った矢先である。アキラの携帯電話に、ASEから緊急の連絡が入ったのは。

 

『大変です、動物を奪われました!』

 

 通話を受けたアキラの耳に、男のあわてた声が響く。

 

『主義者の男が、捕獲した獣を乗せたトレーラーを奪って逃走中! 東京の街に動物をばらまくつもりです!』

「なんということだ、ASEともあろうものが!」

 

 怒髪天を衝くとはこのことか。思わず握り込んだ拳のなかで、携帯電話がぐしゃりと潰れて火花を散らした。

 電話をかけたASE職員にとっては幸運だったに違いない。面と向かって報告していれば、そうなっていたのは自分だったのだから。

 

「どうする雲居、何か策はあるか」

 

 とアキラが振り向いたとき、ヒーローの姿はすでに空にあった。木の天辺に蜘蛛糸をかけ、それを手繰って宙を跳んでいたのだ。

 

「お先に行ってます。後は任せてくださいよ、このスーパーヒーローに」

 

 軽々しい台詞に反して、声音はどっしりと頼もしい。

 

「……調子に乗りおって。馬鹿者め」

 

 そんなヒーローの頼もしい後ろ姿に、アキラは微笑みを投げかけるのだった。

 

 

 **

 

 

「と啖呵を切ったは良いものの、どうしたものかなぁ。亜取さんたら携帯電話壊しちゃうもんだから、やっこさんの向かった先も分からないし」

 

 などとぼやきつつも、蜘蛛糸を手繰る手は決して止めない。

 その向かう先は、公園の出入り口である。

 優秀なASEのことである。連絡が途切れたとなれば、こちらの向かいそうな場所に先回りしてくれるに違いない――

 そんな雲居の期待を裏切るASEではなかった。

 

「おーい、こっちだー」

 

 と大きな声で呼ばわる人物。

 二輪自動車(バイク)の傍に立ち、緊張感のないマヌケな笑顔で、その人物は手を振っていた。

 

「悟!」

 

 公園の出入り口の、路面端。

 その単車のすぐ隣に、雲居は音もなく降り立った。

 

「悟じゃないか。ひょっとして、俺の手助けに来てくれたのか?」

「そういうことになるな。いやー、百舌鳥さんから連絡を受けて駆けつけたんだけど、間に合って良かった! それもこれもコイツのおかげだよ。ありがとうな、CBR1100XX(スーパーブラックバード)。そして、また頼むぞ」

 

 悟は、頼もしい相棒を愛しそうにひと撫でして、するりと跨がった。

 

 ――その途端、悟は変貌する。

 ふにゃりとした間抜けな面構えは、陽炎のように消え去り。

 代わりに現れたのは、ひとりの戦士である。

 眦は、熱を宿して鋭く。キリリと口元を引き結び。それは、なかなか精悍な顔つきだった。

 

「雲居――じゃなくてスパイダーマン。今回は俺がお前のサポートをする。早速だが現状確認だ。犯人は現在、東京市街へ向けてトレーラーで逃走中だそうだ。それを、これからCBR1100XX(コイツ)で追いかける」

「把握した。それなら、トレーラーの隣に寄せてほしい。そしたら、あとは俺が始末をつけちゃうから。……出来るかな、ASEドライバー?」

 

 雲居はニヤリと笑みを浮かべて、尋ねる。

 ASE職員からもたらされた情報によれば、トレーラーは遙か彼方に走り去っている。常識に則れば、その差を縮めることは不可能に思われた。

 けれども、ASEのスーパーマルチドライバーの実力は、それこそ常識の外にある。そのことを、雲居はよく心得ていたのである。

 悟は、何でもないかのように、この困難な仕事を請け負った。

 

「了解。ちょっと飛ばすから、しっかり掴まってろよ」

「ああ、頼んだぜ」

 

 雲居が後ろに飛び乗るや否や、単車は轟音を響かせる。後輪が超高速で回転し、単車は、弾かれたように飛び出した。

 けれども、間の悪いこともあるもので。

 

「赤信号か。ガーンだな、出鼻をくじかれた……」

 

 幾らも行かないうちに、赤信号に捕まってしまう。

 夕暮れの交差点である。

 道路は、家を目指す車の群れが止めどなく流れていて、まるで嵐の日の濁流のようである。

 そんな交差点めがけて、単車は暴れ馬のように一目散につっこんでいく。

 一分一秒が惜しい――

 そんな声が形を備えたかのような、無謀な運転。

 思わず雲居は悲鳴を上げる。

 

「悟っ。何してんのさ、赤信号だって! いやさ、お前の腕は知ってるけど、いくらなんでもこれは通り抜けれないって!」

「大丈夫。しっかり掴まっててくれ」

 

 何も心配することはないと、悟は軽く聞き流す。聞く耳持たぬとはこのことである。

 果たして、単車は走る。車道と歩道を分ける石垣、すなわち縁石へと。

 縁石の端は、スロープのように傾斜している。そこをジャンプ台に見立てて、悟は全速力で単車をつっこませた。

 

「合わせてくれ、スパイディ」

「合わせろって、お前まさか……うぎゃあ!」

 

 前輪を器用に持ち上げて、加速。後輪が縁石を踏んだその瞬間、全身のバネを用いて車体ごと跳躍する。雲居もまた、咄嗟にこの動きを手伝った。

 

 大跳躍。

 橙に染まった空に、ぽつねんと二人の影はあった。

 遙か眼下に車の流れを見下ろして、それから、単車はふたたび地面に車輪を着ける。

 みごと交差点を飛び越した単車は、何事も無かったかのように再び走り出した。

 

「うひー、事故るかと思った……。お前ね、せめて事前に何するか教えてくれよな」

 

 とわめく雲居そっちのけで、悟は暢気に独白する。

 

「今が夕方の帰宅ラッシュで良かった。この調子なら、例のトレーラーも渋滞やら信号やらに捕まってるだろ。そして、筐体のちいさなこっちは有利だ。車の間をすりぬけて、全速力で走り続けることができる」

「丁度、今みたいな無茶な運転をしながらってことだろ。……俺、ちびりそうになったよ。運転手さん、もうちょっとだけ安全運転できない?」

「げっ、勘弁してくれよ。お前が漏らしたら、俺まで被害を被るんだぞ! ほんと、我慢してくれよ。どのみち飛ばさなきゃ、トレーラーには追いつけないんだから」

「でっすよねぇ……。分かった、OKだ。悟、やってくれよ。おっきい方は出さないよう、しっかり括約筋を活躍させるからさ」

「本当に頼んだぞ……」

 

 果たして、雲居の括約筋は酷使されることとなった。

 ときにサイドミラーを擦らせながら車の間をすり抜け、ときに縁石の上を走り、ときに川に架かった水道管の上を綱渡りしてと、曲芸のような走行に付き合わされたのだ。

 その度ごとに悲鳴をあげ、下半身にぎゅっと力を入れて何かと戦う雲居の苦労の甲斐あって、

 

「見えたっ。あれが目標だ」

 

 ようやく件のトレーラーに追いつくことができたのである。

 

「ここでいいか? それとも下に降りようか」

 

 眼下を(・・・)のろのろ走るトレーラーを見ながら、悟が尋ねる。

 二人を乗せた単車は、一般車道のさらに上、高架の壁面の上を器用に走っていた。

 そこから遙か下の車道を見下ろして、雲居はふるふる首を振った。

 

「いやいや、結構だよ! バイクで飛び降りようなんて、正気の沙汰じゃない。運転手さん、ここで結構だ。料金はASEにツケといてね」

「うーん。俺としちゃあ、生身で飛び降りる方がどうかしてると思うが」

 

 などという悟のボヤキを背に受けて雲居は――スパイダーマンは飛び降りた。

 風を切って、ぐんぐんトレーラーめがけて落下していく。

 

「これで終わりだ、ウェブ・シュート!」

 

 手を前方に突き出し、指を半端に折り曲げ、奇妙なポーズを形作る。

 その瞬間、手首から白い粘液が飛び出した。

 空中で長く延び、一端は車両をとらえ、もう一端は地面に貼りつく。瞬くうちに、それは、獲物を捕らえた蜘蛛糸へと姿を変じるのだった。

 

「何処へ行こうというのかね。お前はもう、鎖に繋がれた子犬も同然だぜ」

 

 車は、蜘蛛糸から逃れようと唸りをあげるが、虚しくタイヤは空転するばかり。

 

「下手くそな運転だな。悟なら見事にかわして、それどころか反撃してくるところだぜ」

 

 誰に聞かせるわけでもあるまいに、無駄に軽口を叩きながら、雲居は車の側に降り立つ。

 それを認めた男が、運転席からまろび出てきた。

 

「ASEが追いかけてきたのかっ。くそぉっ! こうなったら、今この場で解き放ってやるッ」

「残念。そうはいかないんだなァ」

 

 荷台(トレーラー)の檻へと伸ばした手を、雲居が無慈悲に掴む。そのまま顔をのぞき込み、低い声で言い放った。

 

「なぁアンタ。よくもまぁ、これだけかき回してくれたな」

 

 覆面の三白眼が、無表情に男をねめつける。

 

「ひぃっ」

 

 男が悲鳴をあげる。表情など分からぬはずなのに、そこにはたしかに、怒りの色がわだかまっているのが見て取れたのだ。

 蜘蛛の怪人が、拳をおおきく振り上げる。

 

「これは恥ずかしい格好をさせられた俺の分。これは無理矢理連れてこられた動物達の分。それから動物を憂う亜取さんの分。そんな亜取さんに殴られた俺の分。それからこれも、これも、これも、これも俺の分。全部まとめて正義の鉄拳だぁぁ!」

 雲居は、滅茶苦茶に左右の拳を放つ。常人を超越した怪力が、男の身体を打ちのめす。

 

「あばぁぁぁあっ!?」

 

 と悲鳴をあげて、男は宙を舞った。

 どしゃりと地面に転がる男を指さして、蜘蛛のスーパーヒーローはニヤリと笑った。

 

「これからは、動物のことを心配する必要がなくなるぜ。なにせ、自分のリハビリで忙しくなるんだからな」

 

 

 **

 

 

 そして一夜明けて、学校の食堂である。

 

「美味い。美味いっ、美味いぞぉー!」

 

 と幸せそうに学食に舌鼓を打つのは、斑鳩悟。

 安価な食事を天上の馳走のようにがっつく姿を見て、いったい誰が想像できよう。彼こそが、あの超一流の人材だけを取り扱うASEの、それも切り札とも言うべきスーパーマルチドライバーその人であると。

 

「昨日は二件も仕事が入ったからなぁ。おかげで、しばらく豪勢な食事ができそうだ」

「それで小雀の真似ってわけか」

「どうだ、すごいだろ」

 

 悟は、純粋無垢な童のような、幸せそうな笑みを浮かべた。

 

「学食程度でこの喜びよう。どんだけ支払いの渋いバイトなんだ……」

 

 テーブルに群れる料理の数々。驚くべきことに、それは、あの極貧高校生、斑鳩悟が注文したものである。

 まとまった収入を得て気持ちがおおきくなった悟は、雲居に倣って「学食バイキング」に挑戦したのであった。

 その冒涜的な食べ方を編み出した小雀雲居もまた、悟に負けじと肉料理の数々をがっついていた。

 

「小雀も小雀で、ずっと寝てたと思ったら、昼飯だけは元気に食うのな」

「むぐ……昨日のバイトも大変だったんだ。走り回って動物捕まえて……もぐもぐ……しまいにゃジャガーの相手とかさせられたんだぜ。んぐ……身がいくつあっても足りないよ」

「なんだそりゃ、動物園か何かで働いてるのか」

「よく分からんが、お前等のバイト先って、ほんとブラックなんだな。よくそんなの続けようと思うよな」

 

 同情の視線を寄せる同級生たちに、雲居はドヤァと厭らしい笑みを返す。

 

「ふっふー。それが、悪いことばかりじゃないのさ」

 

 と掲げてみせた携帯電話には、なんと、亜取アキラとツーショットを決める雲居の姿があった。

 事件を解決した雲居は、依頼達成記念としてアキラと写真を撮ったのだ。

 

「動物達を無事保護した記念かつ、初めて依頼を一緒にこなした記念に、一枚パシャりましょうよ」

「馬鹿馬鹿しい。写真など撮って何になる」

「だから記念になるんですって! いいじゃないですか、ASEの仲間なんだから。俺、一緒に依頼こなした同僚とは、毎回記念チェキするんですよね」

「……どこまでも締まらないのだな、お前というやつは」

 

 というやり取りを経て、雲居は同級生に自慢する材料を手に入れたのだ。

 阿呆な男ども――食事に夢中な悟を除く――は、たちまち色めき立つ。

 

「うおっ、誰だこの滅茶苦茶美人なお姉さんはッ」

「斑鳩を連行した謎の女の子といい、おまえ達のバイト先はどうなってんだ?」

「なぁ。俺もここでバイトしたいんだけど、口利いてくれないかな」

「あっ、ズルいぞ!」

 

 雲居は、悪辣な笑みを胸に隠して、神妙な顔で答えてみせた。

 

「そうだなぁ。無茶ぶりの結果バイト中に死んだり怪我しても決して訴えませんっていう理不尽な宣誓書を書かされて、殴られたり罵倒されながら、パワハラされたり薄給でこき使われる。しかも人並み以上の働きを要求されて、ミスすれば即減給。そんな職場でよければ、話だけはしてみるけど」

「うーん、やっぱり無いわ」

「世の中、おいしい話ばかりじゃないんだなぁ」

 

 社会の闇を垣間見たふたりは、結構ですとふるふる首を振った。

 そのように楽しく愉快に食事を採っていた最中である。

 

「こんなところに居たのね、悟」

 

 どういうわけか、他校に通っているはずの女子高生、清水初音が現れた。

 

「アンタ、またケータイ充電し忘れたの? しっかりしてよね。連絡が取れないから直接迎えにくるハメになったじゃない」

「えっ。ちょっと待ってくれよ。俺、まだ注文したメシの半分も――」

 

 哀れ悟は虜囚となった。茶碗と箸を持ったまま、ずるずると腕を引かれて連行されていく。

 その最中、

 

「悪いわね、雲居。悟のバカは借りてくわよ」

 

 などとちゃんと声を掛けられたので、雲居はすっかり満足して、気持ち良く悟を送り出すことができた。

 

「行ってらっしゃいなー。安心しろって。この料理はきっちり俺が平らげておくから。――ん?」

 

 ひらひらハンカチを振る雲居であったが、突然、訝しげに懐を探る。

 胸ポケットのなかで、何かが振動しているのだ。

 

「まさか……」

 

 そのまさかであった。

 携帯電話の液晶画面には、

 

『仕事だ。今からASEビルにさっさと来い!』

 

 という無慈悲なメッセージが踊っていたのである。

 

「俺たちが高校生って分かってるのかね、百舌鳥さんは……」

 

 とぼやきながら、雲居は料理を平らげた。

 悟が見れば、その不公平さに涙を流したに違いない。手づから連行された悟と違って、雲居には食事を堪能するだけの時間的猶予が与えられていたのである。

 

「それじゃあ、俺もお仕事に行きますかねっ」

「おっ、今日も午後の授業はサボリか?」

「あんまりサボってると、悟みたいな赤点スレスレの成績になるぞ」

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。きっとなんとかなるって!」

 

 そんな話をしながら、雲居はバッグを背負って走り出す。

 いったい誰が知っていよう。その中に、蜘蛛をかたどった奇妙な全身スーツが入っているということを。

 彼はスパイダーマン。ASEに所属する、世界でただ一人のスーパーヒーローである。




17,839文字


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3. Black History ~黒歴史~_上

<登場人物>

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生(今話においては中学生)。



**

 

 

 超一流の技能者を、報酬次第であらゆる現場へ派遣する企業がある。

 ドライバーはあらゆる乗り物をどんなプロよりも巧みに乗りこなし、メカニックは要求通りの機体を組み上げ、スパイは依頼者の望んだ情報を必ず盗み出すという。

 世界に名だたるその企業の名はAlmighty(オールマイティ) Support(サポート) Enterprise(エンタープライズ)、通称ASE(エース)といった。

 そんなASEには、世界唯一のスーパーヒーローが所属している。

 

「スパイダーマンだ!」

「スパイダーマンが犯罪者を捕まえたぞ」

「ありがとう、スパイディ!」

 

 という感謝の声を背に受けて、全身スーツのヒーローは、一目散に屋上へと跳び移った。

 人々の目から逃れた彼は、何かに耐えかねたかのように、悲鳴をあげて屋上で転げ回る。

 

「やめてくれよ、そんなふうに俺を呼ぶのは! 分かってるんだよ、いい歳して黒歴史のヒーローごっこをしてるってのは。頼むから煽るのを止めてくれっ。それか、いっそ殺してくれっ」

 

 小雀雲居(こがらくもい)。彼こそは、羞恥に悶え苦しみながら人々を救い続ける、世界で唯一のスーパーヒーローである。

 これは、彼がASEに籍を置くまでの物語。

 

 

 **

 

 

 小雀雲居(こがらくもい)は夢見がちな子供だった。

 将来の夢はと尋ねられる度に「ヒーローになる」という旨の答えを返していた。

 ヒーローといっても、例えば野球における「今日のヒーロー」のような現実的なもの、つまりアメリカ人が憧れる「突出した活躍をした人物」「功労者」といったものではない。

 雲居が憧れたのは、もっと非現実的で、そのくせ具体的なもの。すなわち「スーパーヒーロー」だったのだ。

 

「すぱいだーまんになる!」

 

 物心着いたばかりの舌足らずの口調で、小雀雲居少年は無邪気に宣言した。

 身を屈めて、片腕をつき出した、あまり格好良いとは言えない格好で。

 そんな無邪気な姿に、小雀夫妻はほほえましい笑みをこぼしたものである。

 

「はいはい、スパイダーマン、スパイダーマン。……いったい何なのかしらね、スパイダーマンって。初めてこの子が喋った言葉もスパイダーマンだったし」

「あれにはたまげたなぁ。パパとママのどっちを先に言わせることができるか二人で競ってたのに、どうして、こんな聞いたこともないような言葉を喋ったんだろうなぁ」

 

 不思議なこともあるものだなぁ、と小雀夫妻は首を傾げた。

 それは奇妙な話だった。

 小雀夫妻は、このいとけない愛し子に「パパでちゅよ~」「私はママよ、ママ。ママって言うのよ!」とインプットの雨を浴びせ続けてきた。

 そんな耳にタコができて触手でも生やしてしまいそうな言葉よりも、見たことも聞いたこともない「スパイダーマン」という謎の言葉を、この幼子は喋ったのだ。

 

「すぱいだーまんはね、クモのひとなの。てからいとをだして、わるいひとをやっつけるの」

 

 短い手足をふりまわして、童は熱心に語る。

 可愛らしい我が子の姿に、両親は、ただでさえ緩んでいた頬をでれでれに溶かして微笑んだ。

 

「なるほど、スパイダーってのは蜘蛛のことなのね」

「おいおい、この子は天才かもしれないぞ! もうこの歳で、しかも誰も教えてないのに、英語を使いだした」

「うふふ。それじゃあ、将来は外交官かしら」

「ははは。アメリカ大統領かもしれないぞ」

 

 そんなふうに笑っていられたのも最初のうちだけだった。

 長じるにつれて、雲居の異常性はどんどん顕著になる。

 

「スパイダーマンはね、蜘蛛に噛まれて蜘蛛の力を身につけたヒーローなんだ。力も強いし、素手で壁に貼りつくことができて、糸を出すことができるんだ。その糸は、変わったタンパクシツハイレツをしてて、一本の糸にもう一本がぐるぐる巻き付いたラセンコウゾウだから、鉄くらい固いのに、ゴムみたいにビュンとなって切れないんだよ」

 

 彼の語るスパイダーマン像は細部まで練り込まれている。しかもそれは、幼い頃に語ったことと何一つ矛盾していないのだ。それどころか、大人すらたじろむ高度な科学的な説明を添えている。

 

「不気味だわ、あの子。まるで、本当にスパイダーマンが存在して、言葉を覚える前からそれを知ってたみたい。さっきも、難しくて意味の分かってない言葉を言ってたし……」

 

 新しい言葉を覚える度に、スパイダーマン像はどんどんその輪郭を明確にしていく。

 それは、物心つくよりも前、ひょっとしたら生まれた時から魂に刻みつけられていた記憶を、ようやく表現する術を得たかのように見えた。

 

「ああ……。ふつうは、面白がってどんどん新しい設定を付け加えるものだ。しょせんは子供の浅知恵だから、トンでも設定をつくったり矛盾したりするんだが、あの子にはそれがない。これはちょっと、異常なことだぞ」

 

 雲居少年は、ずば抜けて賢いわけではない。

 九九の覚えも早ければ口数も多いので、この子は利発な子に違いない――そうした親の贔屓目を以てしても、そこまでの賢さを備えているとは言い難かった。

 そんな子が垣間見せる、異常な知性。

 

 ――この子は、ふつうとは違うのではないだろうか。

 

 そうした不安、得体の知れない恐怖が生まれるのも無理からぬことであった。

 自分たちの知っている子が、その事柄を語るときだけ、見知らぬナニカに変貌する。それを受け止めるだけの包容力が、年若い夫妻にはまだ備わっていなかった。

 のみならず、彼らは新たに娘を設けてしまった。

 たちまち夫妻は、この子の世話に夢中になった。はじめての女の子。しかも、不気味な姿を垣間見せる長男とちがって、その子は「夫妻の思い描いたとおりの可愛らしい幼子」そのものだったのだ。

 

 この妹という比較対象が育てば育つほど、長男の異常さは際立った。

 幼児期における性差はほとんどない。その筈なのに、雲居は力がべらぼうに強かった。買い与えた玩具はすぐに握りつぶして壊してしまう程である。足の速さ、無尽蔵の体力も異常だ。犬の散歩に行けば、犬がへばるまで一緒に走ることができた。

 そうした異常な身体能力は、夫妻をいっそう怖がらせた。いったいどこに、小学校高学年の児童と殴り合いのケンカをして、一方的に打ち負かすことのできる幼児がいるというのか。

 

 ――この子はふつうの人間ではない。

 

 そう思うようになるのに、さして時間はかからなかった。

 スプーン片手に食事をほおばる雲居に「おいちいでちゅかぁ?」と甘く問いかけることは躊躇われ。

 起き抜けにやさしく囁く「おはよう、かわいい雲居ちゃん」こともすっかり絶えてしまい。

 ついには「男の子だから、しっかりしないといけないんだぞ」と一人部屋に移された。

 この、子供の皮をかぶったヨクワカラナイイキモノに、どう接して良いのか分からなくなってしまったのだ。

 

 そうした親の変化を敏感に察することができるのが、子供という生き物である。

 幼い雲居もまた、例に漏れない。母の膝に座りこみ、父の背におぶさろうとする。すると、彼らは表情を堅くし、すぐに自分から離れていってしまう――そんな両親の変化を鋭敏に察することができてしまった。

 それが悲しくて、嫌でたまらないのに、どうにもならなくて。それでもどうにかしようと、泣いて怒って喚いてと、子供の本能で両親の気を引こうと試みた。

 それが、余計に両親の心を遠ざけるとも知らずに。

 

「どうしてあんなに暴れるのかしら、あの子」

「ちょっと僕らの手には負えないな。お医者さんに相談してみよう」

 

 もちろん、そうした心の問題は、医者にどうこうできる問題ではなかった。

 由来不明の「スパイダーマン」という知識を有し、幼児離れした身体能力を持つこと以外は、雲居はきわめて健全な心を宿した「ふつうの子供」だったのである。

 そうした雲居のカンシャクは、両親にとっては幸いなことに、すぐに収まることとなる。

 雲居はたいへん純朴な心の持ち主だったので、

 

「俺はスーパーヒーローになる。そうしたら、父さん母さんも、もっと俺を褒めてくれるかもしれない。なにより格好良いしな!」

 

 と、素直でまっすぐな決心を固めるに至ったのだ。

 小雀雲居、十四歳。中学二年生の頃である。

 

 

 **

 

 

「スーパーヒーローになるのは良いとして、一体何から始めよう」

 

 と悩んだのは、ほんの一瞬のことだった。単純な雲居は、とりあえず形から入ることにしたのだ。

 

「ヒーローには、ヒーローらしい格好が必要だ。専用のコスチュームが要るな」

 

 雲居の脳裏には、はるか昔から思い浮かべている姿がある。物心ついたころには、既にその像は頭のなかに在った。それを再現する時が来たのだ。

 

「中学校の授業でミシンの使い方は習った。生地は手芸店で手に入る。人型に縫いあげるための型も、探せばネットに転がってる」

 

 雲居は頑張った。

 夜も寝ずに縫い進め。授業中に昼寝し。それでも捗らなければ、授業を抜け出して、こっそり被服室のミシンを拝借して作業を続けた。

 そして、いよいよ完成にこぎつけた。

 

「スパイダーマン、爆誕!」

 

 手作り感あふれる、微笑ましい衣装である。

 全身をおおうスーツは、ところどころ生地があまって弛んでいたし、縫い目はふらふら蛇行している。覆面もまた、ヒーローというよりかは銀行強盗と称したほうがしっくりくる。

 それでも、手づから作り上げたとっておきの衣装である。赤と青の生地に、白い飾りで描いた蜘蛛糸模様は、世界にただひとつ。

 衣装をまとった雲居は、うれしくなって、そわそわと落ち着かない。後ろ向きに宙返りを決めて、着地と同時に、前に飛ぶ。膝を抱えてくるくる回って、窓のそばに着地した。

 窓は、誘うようにその口をおおきく開いている。

 誘われるがまま、雲居は窓から飛び出した。

 

「よし、街へパトロールに行こう。悪党(ヴィラン)をやっつける、スーパーヒーローのお披露目だ!」

 

 

 **

 

 

 かくして雲居は、悪党(ヴィラン)を求めて街へとくりだした。

 とはいえ、ここは日本である。世界でもっとも治安の良い国のひとつである。都合良く、向かう先に犯罪が転がっているとは限らないように思われる。

 

 けれども、悪い人間はどこにでもいるものである。

 例えば、すばらしい教養を身につけた富裕層にも、悪辣な知能犯はいるし、貧困と無教養のなかに放置され、野生さながらに育った貧者のなかにも、直情型の犯罪者は絶えない。

 ましてや、ここは東京である。世界でもっとも人口の過剰に集中する都市のひとつである。母数が増えれば、それだけ分子も増えようというものである。

 そのようなわけで――

 

「きゃあっ、引ったくりよ! バイクの男にバッグを奪われたわ、誰か捕まえて!」

 

 大都会のどこかでは、絶えず犯罪が行われているのだ。

 そして、

 

「待てぃっ!」

 

 悪事のいっさいを見逃さぬ、運命力ともいうべきすぐれた嗅覚の持ち主こそが、スーパーヒーローなのである。

 

「なんだ、お前は! 死にてぇのかっ」

 

 けたたましいブレーキ音を響かせて、バイクが急停止する。とつぜん人影が飛び出してきたので、おもわずブレーキを握ってしまったのだ。

 このとっさの行動を、犯人は、すぐさま後悔することとなった。人影の正体を確かめるなり、

 

(なんだこのイカレポンチは。いっそ、ひき殺しちまえば良かったぜ……)

 

 と内心頭を抱えたのである。

 ありていに言えば、それは不審者だったのだ。

 奇抜な全身タイツに、銀行強盗のような覆面。ひったくり犯よりも、よっぽど犯罪者然としたソイツは、よりにもよってこう名乗る。

 

「悪行を許さぬスーパーヒーロー、スパイダーマッ!」

 

 自称スーパーヒーローは、その場でトンボを切って、奇妙なポーズを決めた。

 着地と同時に股をひらいて、地面すれすれに上体を屈める。片手を地面に添えて、もう片手はピンと宙に伸して。

 

 ――ダサい。

 頑強さや逞しさ。そういった「力強いヒーロー」のイメージからかけ離れた、妙にくねくねしたポーズである。

 

「何がスパイダーマだ。イカれた格好してヒーローごっこかよ」

「スパイダーマではない。スパイダーマンだ。それに、イカれた格好とは何だ。イカした格好じゃないか。このタコめっ」

 

 思わぬ誹謗中傷をうけた自称スーパーヒーローは、指を突きつけながらつめ寄った。

 詮無きことである。なんせ、中身は多感な中学生なのだ。中学二年生なのである。

 けれども、敵もさるもので、

 

「テメェ、誰がタコだ! もう許さねぇ。タコだの海坊主だの、ハゲをおちょくるヤツは許さねぇっ」

 

 顔をまっ赤にして怒鳴る。

 詮無きことである。ハゲをハゲと呼んではならないのだ。

 ハゲをハゲと激しい口調で罵られた(と思いこんだ)男の熱量は、雲居のそれをたやすく凌駕した。

 

「ちょ、ちょっとタンマっ。ちょっとした冗談じゃないか。イカとタコをかけた、イナセなギャグじゃないのっ」

「あ”あ”っ!? 誰がイカだ、タコだろこんちくしょう!」

「もう何言ってるか自分でもわかってないでしょ!」

「ああ、分かってねぇよ。怒りで頭がプッツンきてなぁ。ごらぁっ!」

 

 ひったくり犯が、拳を振りあげる。

 それを、スパイダーマンはたやすく躱した。

 後方に宙返り。そのついでに、両足で首根っこをつかまえた。

 身体でおおきく円を描く。その円運動にひったくり犯を巻き込んで、そのまま地面に背中からたたきつけた。

 

「うげぇ、ごがががっ」

 

 うめき声をあげて悶絶する男から、バッグを取り上げる。

 

「まったく、怒りっぽいんだから。そこでしばらく頭を冷やしてなよ。ほら、ちょうど地面も冷たくって良い塩梅だろ? ――あ、やっと来たね。ほら、バッグ」

「あ、ありがとう……。その、あなたのお名前は?」

 

 バッグを受け取った女性――老婦人は、しわがれた声を一オクターブ上げて、ヒーローに誰何する。

 それが、素にもどりかけていた雲居の”ヒーロースイッチ”を再びオンにした。

 

「おほんっ。私の名は、正義の守護者スパイダーマッ! ……むっ。向こうから悪の気配がする。さらばだ、ご婦人ッ」

 

 どこかへ走り去っていく、全身タイツの自称スーパーヒーロー。

 

「ありがとう、スパイダーマさん……」

 

 その背中に、厚化粧のひび割れからのぞく地肌をまっかに染めて、老婦人は熱っぽく囁くのであった。

 

 

 **

 

 

 そして今度は、電車のなかである。

 

「うへへへ。若い娘は肌の張りが違うのぅ。尻も弛んでおらん。年増じゃこうはいかん。愛いのぅ、愛いのぅ!」

 

 ねちゃりと脂っこい笑みを浮かべて、中年男がいやらしく微笑んだ。

 その右手は、女性のスカートの下、すらりと延びた脚のつけ根、むちりとした太股に延びていた。

 

「けしからん格好しおって。ワシを誘っとったんやろ? けしからんなぁ」

 

 ぴたりと尻に張りつく、タイトなスカートである。うすい生地越しに、形のよい桃尻がその艶姿を主張する。

 

「ぐへへっ。たまらんなぁ。たまらんのぅ」

 

 男の手はするすると、木を這う蛇のように、太股を登って、魅惑の逆三角形へと侵入ていく。

 じっとり汗ばんだ手が、ぬるりと肌をなで上げる。

 たまりかねた女性が、

 

「ひんっ」

 

 と悲鳴をあげた、まさにそのときである。

 

「やめたまえ」

 

 コツリとドアを叩く音。

 それは、おかしな現象であった。男は、女性をドアに押しつけてことに及んでいた。走行中の電車のドアである。そのドアが、外から叩かれる筈がないのだ。

 この怪奇現象の正体を究めようとして、男は顔を上げ、悲鳴をあげた。

 走行する電車のドアに張りつく、奇妙な全身タイツの怪人。その覆面が、男をめねつけていたのである。

 

「ぬおぉっ!? なんやねん、お前は」

「痴漢を撲滅する男、スパイダーマッ!」

 

 スパイダーマンは、器用にポーズを決めた。

 腕を回して水平に延ばし、首は斜めを向いて”決め顔”をつくる。歌舞伎のようなポーズである。一連の動きをみせる上体を、どういう原理か、ドアに張りついた両脚が支えている。

 

「おい、見ろよあれ!」

「なんだっ、窓の外に人が張り付いてるぞっ」

 

 車内はいっきに騒然となる。こうなってしまえば、もう痴漢どころではない。

 あわてて手を引き抜こうとした男を、乗客が見咎めた。

 

「あっ。ドアの前の男、痴漢してるんじゃあないかっ」

「サイテー」

「誰か、こいつを捕まえて警察に突き出すんだ!」

 

 こうして、男はお縄につくこととなった。

 身柄を拘束される男を、スパイダーマンは満足げに見やるや、

 

「悪は滅びた。では、さらばだ」

 

 電車から飛び降りて、次の現場へと向かうのだった。

 

 

 **

 

 

 こうして悪事を裁いて回っていたスパイダーマンこと雲居である。

 彼は、人目を避けるべく、ビルの屋上に登っていた。

 施錠され、ビルの使用者すらも寄りつかぬ場所である。フェンスの陰にひとり寝転がると、向かいのビルや、もっと大きなビルからも見つからぬ、完全な死角に隠れてしまう。

 そこで、雲居はマスクを外してくつろいでいた。

 

「戦士にも休息が必要だからね」

 

 と自らに言い訳をしての怠業である。

 その言い訳は、しかし、ともすれば不謹慎な愚痴に転じてしまう。

 

「うーん。さっきから軽犯罪ばっかりじゃないか。そりゃあ、重犯罪者がそこいらにごろごろしてるよりかはマシだけど、もっとこう、センセーショナルな活躍の場が欲しいなぁ」

 

 と呟いた、まさにその瞬間である。

 耳をつんさぐ爆音が、轟いた。

 

「きゃああっ」

「爆発だっ。ビルのなかで爆発したぞっ」

 

 そんな声に尻を蹴られて、飛び起きた。屋上の縁へ寄って、はるか眼下を見下ろせば、それはすぐさま目に飛び込んできた。

 

「あそこか」

 

 デパートの入った商業ビル。

 その上層階のガラス張りの窓が、弾けたのだ。

 きらめく粒子となった硝子片が、みるみるうちに路上に降り注ぐ。

 

「危ないッ」

 

 雲居の判断は早かった。

 マスクを被りながら、ビルから飛び降りる。

 着地までの寸間に、四方八方に蜘蛛糸を飛ばし、引き寄せる。

 それは、無数ののぼりをつなぎ合わせ、ひとびとを覆う巨大な傘をかたちづくった。

 

「なんだこれぇ!?」

「とにかく助かった……」

「なぁ、誰がこれをしたんだ?」

「誰だか知らないけど、ありがとうっ」

 

 安堵の声は、しだいに驚愕と感謝の声へと転じていく。

 この好機を見逃す雲居ではない。彼は、電信柱の上に飛び乗ると、お気に入りのポーズと共に声を張った。

 

「私の名は、スパイダーマッ! 皆、安心してほしい。いかなる事件が起ころうとも、かならず私が君たちを守る。――そう。私の名は、平和の守護者スパイダーマッ」

 

 わっと悲鳴があがった。

 バク宙を決めて、再びポーズを取ったのだ。

 不安定な足場の上である。にも関わらず、その自称スーパーヒーローは、危なげなく飛んで跳ねてさまざまなポーズを取る。

 ハイテンションである。実際、雲居は内心で狂喜していた。

 

(これだよ、これ。こういうのを待ってたんだ! うーん、みんなの熱い視線が気持ち良いなぁ)

 

 どんどんキレを増していくアクロバティックな姿に、すっかりひとびとは見入ってしまった。

 そうした聴衆の姿に、すっかり気をよくした雲居が、再度名乗りを上げようとしたその時である。

 

『突然だが、このデパートはこの俺、爆弾芸術家、木村ボンバーズの木村次郎が占拠した。店員どもは動くなよ。今から全員ぶっ殺してやるからな。お客のみんなも、そこから動かないでね。動いたりしたら、うっかり爆破しちゃうかもよ? ギャハハハハ!』

 

 下品な哄笑が、壊れた窓から木霊する。

 それは、デパートの店内放送のようだった。

 件のビルの中では、凶悪な事件が起こっているに違いない。そう察した雲居は、覆面の下で、口の端をつり上げた。

 

(なるほど。テロリストの類か。こういう時の対応は、既に想定してある。俺の正義の心が唸るぜっ)

 

 小雀雲居、中学二年生。

 正義のヒーローを志す彼は、あらゆる悪の襲撃に対する備えを怠らない。

 退屈な授業中や、寝台で横になっているとき――頭の自由になるときがあればいつでも、そうした場面をシミュレートしていたのである。

 この状況もまた、十二分なシミュレートが成されていたので、彼の行動は迅速だった。

 

「私はこれから、悪を成敗しに行く。必ず、この街に平穏を取り戻すことを誓おう。――とうッ」

 

 飛び上がると同時に、蜘蛛糸を掴んで空高くに舞い上がる。

 目指すは、爆破された窓。ぽっかり大口を開いた窓枠である。

 

「ウェブ・スウィニングッ」

 

 おおきな円弧をえがいて、窓へと足先から飛び込んだ。

 

 




8,106文字


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4. Black History ~黒歴史~_中

<登場人物>

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生(今話においては中学生)。

木村次郎(きむら じろう):
爆弾魔。「木村ボンバーズ」の次男。



 **

 

 

 木村次郎はご機嫌ななめだった。

 ひさびさの楽しみを、理不尽に取り上げられたのだ。

 

「腹立つぜぇ~。『駅弁フェア』だっていうから、わざわざデパートの四階まで上がって来てやったってのに、売り切れだとぉ? 客をナメてんのかよぉ!」

「だっ、だから申し訳ありませんでしたと申し上げているじゃあないですかっ」

 

 店員が情けない声を上げて抗議する。

 それは、明らかな悪手であった。

 

「あぁ?」

 

 と不機嫌そうな声を出して、店員をねめつける。ただでさえ良くない機嫌をさらに損ねてしまったのは、誰の目にも明らかであった。

 しかし、誰が店員を責めることができよう。この男は、どれだけ店員が謝ろうとも聞く耳持たず、しつこく同じ言葉でなじってくるのだ。現に、店員の後ろで身をすくめている老若男女の客の面々も、恐怖に身をこわばらせながら、店員に同情の視線を送っていた。

 

「謝って済めば、警察なんて要らねぇんだよ。これって広告詐欺だろーが。俺はな、他人に騙されるのが一番腹が立つんだよ!」

「ひぃぃっ!」

 

 男がショーケースを殴りつけた。

 どういうわけか、店員と客は悲鳴をあげて、怯え縮こまってしまった。

 それは奇妙な光景であった。男は、店員とは十分な距離を置いている。いくら拳を振り上げたところで届きようがないのは、誰の目にも明らかなのだ。

 

「あんまり俺を怒らすなよ。怒りのあまり、ついつい拳を握り込んだりしちまうかもしれないからなぁ」

 

 もしも目敏い者がよくよく観察したなら、男の手に握られたスイッチに気づく事ができただろう。

 

「ひぃっ。どうか、どうかそれだけは!」

「どうしようかなぁ。怒りってのは、俺の言うことを聞いてくれねぇからなぁ。勝手に指が動いても、仕方ないことだろ。ほら、こんなふうに」

 

 男がニタリといやらしく微笑み、スイッチに指をかけた、まさにその瞬間である。

 

「きゃあっ」

 

 と悲鳴が上がった。

 窓から奇妙な物体が、超高速で飛び込んできたのだ。

 超高速で回転する、赤青模様のまるいナニカ。

 それは、着地と同時に手足を生やし、またたく間に人型をかたちどった。

 どうやら、それは、人間らしい。

 あまりにすばやい人間離れした動きだったので、そのように理解するまで、一拍の間が必要だった。

 その貴重な一拍の間をつかって、人型は奇妙なポーズを決める。

 

「爆弾魔は貴様だな。動くな!」

 

 赤と青の、奇妙な全身タイツ。胸には蜘蛛の巣をかたどった装飾を施し。頭部をおおう覆面は、銀行強盗のそれである。

 それが、腰を屈めて、腕を曲げて上下に動かし、カマキリのような奇妙なポーズを取った。

 思わず、男は叫んだ。

 

「なんだ、この不審者は。火事場泥棒でもしにきたのか」

「火事場泥棒でも、強盗でもない! 私は、弱きを助け悪を挫くスーパーヒーロー、スパイダーマッ」

「スーパーヒーローだと。日曜朝の特撮ヒーローにでもなったつもりか? ふざけた野郎だぜ!」

 

 言うなり、男は手に持っていた物を投げつける。

 

「死ねぇっ!」

 

 ある種の蜘蛛の感覚能力は、人間のそれを凌駕する。たとえば徘徊性の蜘蛛は、虫の羽ばたきを聞き取り、その動きを捉え、一瞬の隙をついてこれを捕食する。

 スパイダーマンもまた、これに準ずる動体視力を有する。

 

 回転しながら宙を進む物体。

 その姿を、コマ落としの動画のように、鮮明に捉えることができた。

 独楽のようにくるくる回転する、茶色のビン。その中では、怪しげな液体が身を踊らせている。

 それを、スパイダーマンは危なげなくキャッチする。両手でやさしく包みこみ、衝撃を殺す。卵をそっと手のひらに乗せるかのように、やさしく。

 

「これは毒薬か爆薬だな。なんてものを投げてくるんだ!」

「おいおい、毒なんかと勘違いするなよ。俺は、爆弾芸術家の木村ボンバーズ。爆弾一筋の、真摯な芸術家なんだぜ?」

 

 男は、ジャケットに両手をつっこむ。再び手を出したときには、四つのビンが握られていた。

 それを、振りかぶって投げつける。

 

「大盤振る舞いだ、たっぷり喰らえ!」

 

 スパイダーマンめがけて飛来する、四つのビン。それは、着弾の衝撃で弾け、あたりに破片をまき散らす、凶悪な爆弾である。

 スパイダーマンとて、人間である。ビンの破片が当たれば皮膚は裂け、肉に刺さる。目に当たれば失明だってするだろう。

 ――そんなことに動じるスパイダーマンではない。

 覆面の大きな目は、四つのビンをすべて捉えていたのである。

 

「とぁっ!」

 

 というかけ声と同時に、スパイダーマンは器用な捕球を披露した。

 右手で一つ、左手で一つ。

 宙返りしながら、それらを地面に置き、自由になった両手でさらに二つ。

 

「なにぃ、全てキャッチしただと!?」

 

 男は目を見張った。

 スーパーヒーローを自称する、全身タイツの不審者が、本物(スーパーヒーロー)さながらの身体能力を備えていると理解したのである。

 スーパーヒーローは、余裕綽々で男を挑発する。

 

「はっはっはっ、愚か者め。ボンバーズのズは、複数形のマークだ。であるなら、お前は木村ボンバーズではない。木村ボンバーだ! さては、学力に問題あるのではないかな。こんなことをしている暇があるなら、英語でも勉強したらどうだね」

「ちげぇよ、俺たち木村ボンバーズは三人兄弟なんだっての!」

「気にすることはない、これからはそう名乗ることになる。なにせ、これから独房で独りになるのだからな」

 

 ひしと男を指さして、逮捕宣言をする。

 かと思えば腰を落とし、やおらファイティングポーズを取って、今にも男に襲いかからんとする。

 それを男は、掌中のリモコンを見せて制した。

 

「ちょっと待った! それ以上何かしたら、このスイッチを押すことになるぜ」

「スイッチだと?」

「見ろ」

 

 男は、店員と客を指さした。

 彼らは、突然はじまった戦闘を固唾をのんで見守っていたが、話の矛先が自分たちに向いたことに気付いくや、身を固くした。

 

「こいつらの手首にとりつけた、ステキな腕輪のスイッチさ。中に爆弾を仕込んだ、俺の芸術作品だぜ」

「なにっ。本当か!?」

 

 スパイダーマンの問いかけに、店員は悲壮な顔で頷きを返す。

 そのやりとりが面白いのか、男は、さも愉快そうに言葉を継いだ。

 

「俺がスイッチを押せば、ドカン。こいつらの腕ごと吹っ飛ぶって寸法さ!」

 

 喜色満面で両手を広げ、子供のようにはしゃぐ。それを、スパイダーマンは口惜しそうに睨みつけることしかできない。

 もちろん、諦めてしまったわけではない。男の隙をうかがって、好機とみれば即座に飛びかかる心づもりだった。

 そうはいかぬとばかりに、男は提案をした。

 

「鬼ごっこをしようぜ」

「鬼ごっこだと?」

 

 いぶかしむスパイダーマンから視線を切って、男は、ひとかたまりになって身を震わせる店員と客に視線を転じる。

 そして、嗤った。

 

「おい、お前ら。走って逃げな。俺から逃げることができたら、そのまま見逃してやる。だが、もし俺に捕まったら、その腕輪はドカンだ。――そら、はじめるぞ。ほら、行けっ」

 

 わっと悲鳴をあげて、老若男女は駆けだした。

 もちろん、すべての人が男の言を素直に信じたわけではない。なかには、到底信じられぬ、どうせウソを言って弄んでいるに違いないと、悲観的に考えている者もいないでもなかった。

 だからと言って、何かできよう筈もなかった。

 この自分勝手な爆弾魔は、何かの拍子で簡単に人を殺めかねない。そんな凶人から離れることのできる好機があるのなら、考えなしに飛びついてしまうのが人の性質であった。

 そのようなわけで、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのだった。

 その様を、男は嘲笑する。

 

「おっと、ひとつ言い忘れてたな。実は、あれは時限爆弾付きで、もう五分もしないうちに、あいつらの腕は吹き飛ぶのさ。ああ、楽しみだぜ。助かったと思ったその瞬間、腕が吹っ飛んで、絶望に泣き喚くあいつらの悲鳴がよぉ」

「くっ、この人非人が!」

 

 ゲラゲラと愉快そうに笑う男に、スパイダーマンは罵声を浴びせる。

 それを、男は心地良さそうに受け止め、悪辣に微笑んだ。

 

「おっと、俺に構ってる暇があるのかよ。――ほら」

 

 男は、スパイダーマンに何かを投げて寄越す。

 むろん、受け取るよりも早くに、スパイダーマンはその正体を見極めていた。鍵である。だが、その用途が分からぬ。

 

「それは、腕輪を外すための唯一のカギだぜ。あいつ等の、爆弾付きの腕輪のな」

「なっ」

 

 いやな予感が兆した。

 それというのは、男が酷薄な笑みを浮かべてみせたからである。

 

「ヒーローさんよォ、ゲームをしようじゃねぇか。お前がいくつ、あいつらの腕を救えるかってゲームをな。五分の制限時間内に、一人でも多くの腕輪を取ってやるんだ。いいな!」

 

 言うが早いか、男は駆けだした。スパイダーマンが腕輪の開錠にやっきになっている間に、逃げ出す寸法なのだ。

 その背中に、スパイダーマンは蜘蛛糸を放つ。

 

「あっ」

 

 と男が声をあげる。

 男の手から、爆弾のリモコンが糸に釣り上げられたのだ。

 

「マヌケめ。こいつはいただくぞ」

 

 スパイダーマンは内心、ほっと安堵した。これで、理不尽に腕輪を爆破される心配はなくなった。

 しかし、その安堵が一瞬の隙を生んでしまったとみえる。

 

「しょーがねぇなァ、そいつはくれてやる。オマケに、こいつも喰らいなっ」

 

 と男が投げつけたもの。

 それは、煙幕である。茶色のビンがシュウシュウ音を立てて、もくもくと白煙を噴き上げる。

 スパイダーマンが驚いているうちに、男はすっかりその姿を消してしまった。

 

「くっ、取り逃がしたか」

 

 忸怩たる思いである。けれども、犯人ばかりに構ってもいられない。正義の味方(スパイダーマン)には、護るべき者がいるのである。

 

「あいつはひとまず捨て置こう。それより、腕輪を外さないと。もうこの階には誰もいないな。ということは、下の階と上の階だろうけど……」

 

 どこに逃げたのか、把握することができない。

 五分などあっという間である。このまま闇雲に走り回っても、すべての人を助けることはかなわぬ。

 スパイダーマンの判断は迅速だった。彼は地面に伏して、床に耳を押し当てた。

 

「どこだ、どこにいる……」

 

 スパイダーセンスとも呼ぶべき超感覚は、すべての音を捉える。

 もつれるように転がる足音、恐怖に乱れた人の息づかい、絶望の金切り声――それらを一つ残らず拾い上げた。

 

「いた!」

 

 と跳ね起きる勢いもそのままに。

 スパイダーマンは宙に跳ぶ。

 くるくると回転しながら、風穴を開けた窓の外へと飛び出した。すなわち、地面へと向かう重力を、体重に上乗せする。

 蜘蛛糸を壁面に放ち、これを支点にして、円運動を行う。飛び出した勢いを、そのまま利用したのである。

 目指すは、三階の窓。分厚い窓ガラスめがけて、蜘蛛糸に導かれるままに、蹴りを放った。

 そして、

 

「とぅ!」

 

 重力、体重、脚力のすべてを集めた一撃は、見事に窓を打ち抜いた。

 

「うわあっ!?」

 

 窓のすぐ隣を走っていた男が、驚いて身を竦ませる。

 スパイダーマンは機敏に駆け寄って、まごつく男の腕輪をすぐさま開錠せしめた。

 

「これで大丈夫だ。安心して逃げると良い。では、さらば!」

 

 男の返事も聞かずに、スパイダーマンは走り出す。

 あとには、ぽかんと立ち尽くす男の姿だけが残された。

 

「えっ。これ、助かったの?」

 

 そんな男のことなど忘れたと言わんばかりに、スパイダーマンはデパートの中央、エスカレーターめがけて駆ける。

 無論、悠長にエスカレーターに乗る為ではない。エスカレーターを横目に、吹き抜けからまっさかさまに飛び降りたのだ。

 

「よっと」

 

 三階から、はるか眼下の一階へと飛び降りた。

 その衝撃を、彼の両足はいとも容易く吸収する。大きく足を屈めて、地面に音もなく降り立った。

 かと思えば、すぐさま蜘蛛糸を放つ。

 蜘蛛糸は、外へ通じる扉を、またたくうちに覆い尽くしてしまった。

 

「ちょっと、何するのよ。これじゃあ逃げれないじゃない!」

 

 早くも一階まで逃げてきていた女性客が、スパイダーマンに詰め寄る。

 スパイダーマンの対応は冷静だった。そっと腕を取ると、抜群の器用さで以て、ただちに腕輪を取り去ってみせたのだ。

 

「外に出られたら、これを外すことができなくなるのでね」

 

 西部劇のガンマンもかくやという早業である。

 

「えっ……?」

 

 呆気にとられた女性に、スパイダーマンは「んっ、んっ!」と喉を鳴らしてから、努めて低い声で、

 

「安心してほしい。逃げなくても済むよう、私が犯人を捕まえてみせる」

 

 と格好つけて言い放った。

 

「あなたは一体――」

 

 何者なのか。

 その問いに、彼は全身で答えてみせた。

 

「私は、爆弾魔を退治しに来た男。スパイダーマッ!」

 

 腰を屈めて、右手を天に突き出す。

 そのまま、手から糸を上階に放ち、これを引っ張り跳躍して、その場を後にした。

 

「ふっ。決まったな」

 

 とスパイダーマンがドヤ顔を決めているとき、女性は、

 

「すごいけど、ダサいわね……」

 

 と白けた顔をしていたのだった。 

 

 **

 

 そのようにして、スパイダーマンは次々に人々の腕輪を開錠して回った。一階からどんどん上階へ登って、とうとう最上階の一つ前まで。

 その動きを察知しておらぬ爆弾魔ではない。

 

「くそっ。一階から外に逃げようと思ったのによぉ、変な糸でドアを塞ぎやがって。残りの爆弾もこれだけか。ちょっと遊びすぎたかもなァ……」

 

 爆弾魔の男は、ポケットの中を改めて、顔をしかめた。

 ポケットの中には、人を傷つける程度の、小型の爆弾数個を残すのみ。もう、強固な窓を破るだけの高性能爆弾も、面白い芸術的な爆弾もありはしない。

 

「何があるか分からねぇし、普段からもっとたくさん爆弾を持ち歩かなきゃいけねぁなぁ」

 

 男は、自らの浅慮を反省した。くだらぬ理由で突発的に犯行に及んだことを省みたのではない。爆弾芸術家を自負する者としての、心構えが足りなかったことを、彼は悔いたのだ。

 

「この反省は次に生かすとしてだ。さて、どうやってここから逃げ出すかだが……」

 

 男はしばし考えた。下からは、冗談じみた身体能力を誇る、全身タイツの怪人がやってくる。上へ逃げても、逃げ場はない。

 八方塞がりかと思われたそのとき、眼前に救いの女神が現れた。

 

「へへっ。こいつぁ都合が良いぜ」

 

 ニヤリと笑って、男は駆け出すのだった。

 

 

 **

 

 

 そして、スパイダーマンはとうとう屋上へとやってきた。

 空が近い。

 周りのどの建物よりも、このビルは高いのだ。

 唯一の例外は、隣のビルの屋上。そこに設置された、ビル建築用のクレーンだけである。

 そんなビル群を見下ろすように、爆弾魔は背を向けて、立っていた。

 

「全ての腕輪は解除したぞ。残るはお前だけだ、犯人」

 これより階下の人の腕輪は、すべて解錠してある。

 彼らは、忌まわしい腕輪から解放された実感も湧かぬ間に、置き去りにされてしまっていたが、ようやく身の安全を確信して喜びの声をあげていた。そのかすかな声が、スパイダーマンの耳にはしかと届いた。

 スパイダーマンは得意になって、男をひしと指さした。

 それを、男は嘲笑う。

 

「そうだな。手持ちが足りなくて、全員に腕輪を付けれてやれたわけじゃねぇからな。そう、例えばコイツみたいにな」

「ひぃぃっ、助けてぇっ」

 

 男が振り向いた。その腕には、なんと、小柄な人影が囚われていた。

 少女である。年の頃は中学生。同級生であろうか。

 幼いながらに整った顔を、くしゃくしゃの涙まみれ鼻水まみれにして、彼女は助けを求めた。

 

「待っていろ。いま助けるッ」

「おっと、動くなよ。爆弾は腕輪だけじゃないんだぜ。こいつには腕輪をプレゼントできなかったらなぁ。代わりに、この爆弾をくれてやってもいいんだぜ?」

 

 男は、掌中の爆弾を見せつけた。少女の顔に突きつけて、何かあれば爆破するぞと脅しをかける。

 こうなれば、どうしようもない。スパイダーマンが駆け寄って何かするより、男が爆弾を爆発させるほうが早い。

 スパイダーマンは苦し紛れに声を荒げた。

 

「この卑怯者め。なにが爆弾芸術家だ。さっきから見ていれば、お前のしていることときたら、人質をとって逃げ回るばかりじゃあないか。芸術家を気取るなら、クリエイティヴなことをしろ」

「だから創ってるじゃあねぇか、大小いろいろの爆発をよ。観客も、わぁきゃあ黄色い声で応えてくれてるぜ?」

 

 男は、口の端をつりあげて笑った。

 本気でそう思っているのか、それとも皮肉っているのか。どちらにしろ、彼の性根は腐りきってしまっていて、いくら打とうが響かぬことは明白であった。

 打つ手無し。いよいよ事態は息詰まったかに思われた、まさにその時である。

 

「な、なんだ?」

 

 スパイダーマンは驚きに目を剥いた。

 向かいのビルの屋上のクレーンが、動き出したのだ。それも、尋常ではない速さで以て。

 ぐるりと腕を振り回し、その先のフックが、男の服を掠めた。

 バランスを崩して、男はたたらを踏む。

 

「うおぉっ!?」

 

 それは驚くべき妙技である。

 もし、これより少しでも腕が長かったり、速度が出ていたなら、腕先のフックは男の身体を直撃していたに違いない。少女ごと、屋上から下へと吹き飛ばしてきたに違いない。

 クレーンの長さ、フックまでの長さ、そして回転する勢い。それら全てを、クレーンの運転手は我が身のように把握していたのである。

 

「今だ。こっちへ!」

 

 男が体勢を崩したその隙に、少女は男の腕から抜け出す。

 だが、爆弾魔は往生際が悪かった。

 

「逃すかよっ」

 

 腕を伸ばして、無理矢理に少女を掴む。

 

「いやっ、離して!」

 

 それを、少女は咄嗟に振り払った。

 ――それがいけなかった。男の手を払った反作用で、少女の身体がおおきく傾ぐ。

 運の悪いことには、屋上の柵は背が低かったので、そのままふらりと少女の身体は宙を舞った。

 

「いっ、いやぁああっ!?」

 

 それだけではない。

 

「ば、ばかっ。何しやが――うおわっ!? うわぁぁああ!」

 

 手を振り払われた男もまた、宙を舞った。ただでさえ無理な体勢をしていたので、少女の一撃でいとも容易くバランスを崩し、転倒してしまったのだ。

 それぞれ反対方向に落ちていく、ふたりの人間。それを見捨てることのできる正義の味方(スーパーヒーロー)ではない。

 

「二人とも、助けてやるからなッ」

 

 スパイダーマンは、果敢に屋上から飛び降りた。

 まずは一人目。少女を、左手に抱える。

 間髪入れず、空いた右手から蜘蛛糸を放つ。

 

「その糸に掴まれッ」

 

 スパイダーマンは叫ぶ。

 しかし、彼は失念していた。男が、根腐れた心根の持ち主だということを。

 

「誰が、お前の世話になんかなるかよっ!」

 

 自分めがけて飛来する蜘蛛糸。その救いの糸めがけて、なんと男は、爆弾を投げつけたのである。

 爆発。

 爆風が、救いの糸をはねのける。蜘蛛糸は、あさっての方向へと飛んでいく――

 

「なんてバカなことを……」

「お前に助けられるくらいなら、死んでやらぁ!」

 

 ――そこにクレーンが先回りしていた。

 クレーンに蜘蛛糸が貼りつく。糸は、スパイダーマンを男の方向へと導いた。

 

「助かったぜ、クレーンの人!」

 

 蜘蛛糸にぶらさがり、宙を泳ぐ。

 左手に少女を抱えたまま、右手の糸を離し、空いた手で男を掴まえる。

 そして、垂直落下。

 

「きゃあああっ!」

「うわぁぁああ!」

 

 両手の二人が喚く。

 その悲鳴すら置き去りにして、三人はどんどん落下する。みるみる地面が近づいてくる。

 けれども、スパイダーマンは冷静だった。

 

「安心したまえ。私のウェブは、大人三人でも楽に支えることができる。こんなふうにねっ」

 

 両手から蜘蛛糸を飛ばす。

 その糸を掴んで、減速。

 そして、三人はすとんと地面に降り立った。

 

「ぐえっ」

「ひぅっ」

 

 男は尻餅をつき、少女はぺたりと座り込んだ。ふたりとも腰を抜かしてしまったのだ。

 無理からぬ話である。数十メートルの距離を自由落下したのだ。

 風切り音。浮遊間。胃が喉元にもち上がるかのような、異様な感覚。それら全てが、死の予感というより確信をもたらした。

 いまや心臓は早鐘のように脈打ち、走ってもいないのに息は乱れ、視界はぐるぐる回っている。立ちあがることすらおぼつかない。

 そんななか、ただ一人、スパイダーマンだけが二本の足で立っていた。

 

「こんな様子だから大丈夫だとは思うが、念には念を入れて、ウェーブシュートだ」

 

 男を糸でぐるぐる巻きにして捕縛する。

 

「ぐももっ、ももがぐももっ!」

 

 口まで糸でふさがれた男は、怨嗟の声をあげて地面を転がった。

 それを見て、ようやく全て終わったのだという実感が湧いたのか、

 

「ふぇぇっ。やっと、やっと助かったぁっ……!」

 

 少女が、スパイダーマンの腕にすがりついて泣きじゃくった。

 わっと歓声が上がる。

 観客だ。騒ぎを聞きつけた人々が、ぐるりとビルを取り囲んでいたのである。携帯電話を掲げて写真を撮る者もいれば、早くも駆けつけたのであろうカメラを回している記者やらカメラマンやらもいた。

 

「あの、インタビューお願いできますか」

 

 全身タイツの怪人に、恐る恐るといった呈で、キャスターが近づいてくる。

 もちろん、スパイダーマンは快く応じてみせた。誰何されるより早くに名乗りをあげたのである。

 

「私は、地獄からの使者スパイダーマッ!」

 

 足を折り曲げ、上体を屈める。そうした窮屈な姿勢のまま、腕を忙しなく動かした。横に振っては前方につきだし、最後にはピンと伸ばしてポーズを決める。

 それこそは、雲居が格好良いと信じているポーズであった。

 

「はぁ……」

 

 キャスターがポーズについて言及しなかったのは、雲居にとって幸いであった。もしも素直な感想を述べていたなら、雲居はもんどりうって地面を転げ回る痴態を、テレビカメラの前で晒してしまったに違いない。彼の審美眼は、中高生特有の心の病によって曇ってしまっていたけれども、すぐさまそれを晴らすだけの分別は持ち合わせている。ちょっとしたきっかけさえあれば、彼は正気を取り戻すに違いない。

 

「スパイダーマさんですか」

「スパイダーマではない。スパイダーマンだ」

「えっと、お仕事は何を?」

「見ての通り、正義の味方(スーパーヒーロー)だとも」

「あの、それでは、どうして事件現場に?」

「悪の臭いがしたのさ。鼻の曲がるような、強烈な悪の臭いがね。この街に悪のある限り、私はどこからでも駆けつける。それこそが、悪を許さぬ男、スパイダーマッ」

「……えっとですね。今回、見事に犯人を捕まえて、被害者を救助したわけですが、何かコメントはありますか」

「それは……」

 

 スパイダーマンは声を落とした。

 覆面の下の素顔に、たちまち苦渋が満ちる。

 すぐ隣で腰を抜かして放心している少女に向き直ると、彼は頭を下げた。

 

「……ごめん。怖い思いをさせてしまった」

「え……」

 

 少女が困惑の声をあげる。

 そんなことはない。私はあなたに助けてもらったのだ――そのように雄弁な瞳が訴えるも、スパイダーマンには届かない。

 スパイダーマン――雲居の胸中は苦く、重い。重石でも呑み込んだかのようだった。

 

(あのクレーンには助けられたなぁ。アレがなかったら、どうしようもなかった。犯人には逃げられて、しかも、悪くすればこの娘もケガをしていたかもしれない。……警察に任せておけば、こうはならなかったんじゃあないか? 結局、俺は、この娘を危険に晒しただけなのかもしれない)

 

 一度その考えが芽生えてしまうと、もうダメだった。純粋な雲居は、たちまち申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 インタビューを早々に切り上げて、雲居は帰路に就く。すなわち、ビルに糸をかけて、野次馬たちの頭上高くを滑空する。

 ぐんぐん遠ざかっていくスーパーヒーローの後ろ姿をひとびとは指さして、口々に賞賛の声、驚きの声を投げかけた。

 しかし、そんな声など耳に入っていない様子で、雲居は一目散に空を泳ぐのであった。

 

 

**

 

 

 あくる日から、世間はスーパーヒーローブームに沸き立った。

 

「この目で見たんだよ、手から糸を出してぴょんぴょん飛び回るスパイダーマンを!」

「本物のスーパーヒーローの誕生だ!」

「警察でも捕まえてくれない犯罪者をやっつけてくれるなんて、とても頼もしいわ」

「ってか、警察ってもう要らなくない?」

 

 いかに日本が犯罪検挙率が高く、群を抜いて治安の良い国であるとはいえ、犯罪の被害に遭う人がいないわけではない。身近にある犯罪の気配にたいして、恐怖や憤りを感じる人はけっして少なくない。

 そんな善良な人々の声なき声が、とうとうスパイダーマンという形を得て、いっきに噴出したとでも言うかのように、人々はやんやの喝采を叫んだのである。

 それは、警察の面目をおおいに損なうものだった。

 

「くそっ。何がスーパーヒーローだっ。これでは我々はまるで、ウルトラマンの科学特捜隊ではないかっ。我々はスパイダーマンの前座などではないんだぞ!」

 

 壮年の男が怒声を張りあげる。

 側に控えていた、忠実で実直な部下が、静かに諫めた。

 

「署長。お言葉ですが、科学特捜隊は顕著な活躍もしており、決して前座と言い切ってよい存在ではありません。実際、砂地獄怪獣サイゴが襲来した際には、特捜隊が独力で――」

「うるさいっ、いちいち喩え話に食いつくんじゃあないッ!」

 

 壮年の男――警察署長は失念していた。この優秀だが融通の利かない部下が、特撮オタクだということを。

 叱られた部下は、今度こそ適切に答えた。

 

「しかし、警察が表立って捜査するわけにはいきませんよ。猫も杓子もスパイダーマン。世間じゃアイドル顔負けの人気者ですから。令状を取った段階で一大ニュースになって、批判が殺到します。それに、もし万一逃がしたりしたら……」

「ううむ……確かに、あんなにひょいひょい飛び跳ねて、あまつさえ糸で移動なんかされたりしたら、手に負えん」

 

 署長は唸った。超人(スーパーヒーロー)を自称するだけあって、彼の運動能力は人間の枠をはるかに越えていたのである。

 

「けれども、捨て置くこともできないのも事実です。警察の面子もあるかもしれませんが、勝手に犯罪者に向かって行くのがいけない。今のところ上手くいってるようですが、ドジを踏んで市民の安全を害するようなことがあってはならない。そうなる捕まえなくては」

「そうだ。その通りだ。市民の安全を守るのは、我々なんだからな。邪魔する者もまた、許してはおけん。だが、どうしたものか……」

 

 署長は頭を捻り、そして、とうとうそのアイディアを絞り出した。

 

「そういえば、いたじゃあないか。報酬次第であらゆる難事を解決する、世界屈指のエキスパート集団が!」

「それは、つまり……」

「そうだ。ASEに依頼を出すのだ」

 

 ――目には目を、歯には歯を、化物には化物を。

 

 そう呟いて、署長はニヤリとほくそ笑むのだった。

 




1,039文字


<次回予告>

「届け、俺の想い。そして『よしこ』第二期を……!」

 連続する不審火。
 警察の捜査の目を巧妙にかいくぐる悪党(ヴィラン)に、スパイダーマが迫る。

「そこまでだ、悪党。悪の炎を消火する男、スパイダーマ見参ッ」
「俺の名はバーニング原田! 俺の想いの炎を受けてみろッ」

 一方で警察は、勝手に犯罪者を捕らえてまわる怪人(スパイダーマン)を逮捕すべく、秘密裏にASEに依頼を出していた。

「百舌鳥さんも無茶苦茶言うよなぁ。犯罪者をボコボコに打ちのめすスーパーヒーローを、武器も無しに捕まえろだなんて。いったいどうしろって言うんだ……。――ま、こいつがあれば、どうにかなるか。頼んだぜ、相棒。今、お前に魂を吹き込んでやる!」

 決戦の場に集う、三人の男たち。

「くらえ、バーニングッ!」
「ウェブ・シュート!」
「不審者と不審者が戦っているぞ。うーん、ちょと間に入っていきたくない絵面だなぁ」

 そして、スパイダーマは『最強の男』と戦うことになる。

「ガキの遊びにしちゃ、やりすぎだ。その鼻っ柱、ここでへし折ってやるぜ」
「ぬわぁぁああああ!?」

 次回、『ブラックヒストリー・下 ~怪人VS怪人~』。


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5. Black Histroy ~黒歴史~_下

<登場人物>


小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生(本話においては中学生)。

バーニング原田:
放火魔。

斑鳩悟(いかるが さとる):
雲居の同級生で、高校生(本話においては中学生)。
ASEのマルチドライバー。あらゆる乗り物を乗りこなす。

百舌鳥創(もず はじめ):
悟の師匠。前任のスーパーマルチドライバー。
現在は一線を退き、ASE日本支部の長を務める。


**

 

 

 世間は、スパイダーマンの話題に沸き立った。

 

「東京都○○区に”スパイダーマン”が出現し、爆弾魔を逮捕しました」

「この”スパイダーマン”は、犯人を屋上に追いつめると、なんと飛び降りた犯人を追いかけて自らダイブ! 足を滑らせて落下した少女を抱え、そのまま犯人を捕まえて、無事地上に降り立ちました」

「ヒーローです。スーパーヒーローの誕生です!」

 

 テレビは連日、この突如現れた謎のヒーローについて面白おかしく報道し、新聞社もこぞって記事を飛ばした。もうちょっと品のない週刊誌などは、何度もテレビに取りざたされた目撃者の証言から、いささか信憑性に欠ける噂話にいたるまでのあらゆる情報を並び立て、そこからスパイダーマンの素顔に迫ろうとしてみたりと、ちょっとしたお祭り騒ぎであった。

 そのどれもが、好意的なものであった。彼らは、このスーパースターの誕生を心から楽しんでいたのである。

 けれども、両親は違う。

 

「あなた、このスパイダーマンってひょっとして、雲居のことなんじゃないかしら……」

 

 気付かぬ筈がない。

 テレビに映るスーパーヒーローの背格好。小柄で痩せ肉の、子供のような体型。それは、毎日夫妻が目にする我が子のそれと、寸分の違わぬものであった。

 

「しっ!」

 

 父親は、妻の浅慮を短く叱咤した。

 きょろきょろ辺りを見渡して、人の気配のないことを確かめてから、口を開く。

 

「迂闊なことを言うんじゃない。ご近所に聞かれたりしたら、大変なことになるぞ。……今はまだ良い。ヒーロー扱いだからね。けれども人間、掌を返すのは早いもんだ。今にきっと皆、あの異常性に目が行くようになる」

 

 彼は、弱り果てた顔で、こう結んだ。

 

「そうなった時に、僕らにいったい何ができるって言うんだ。僕らはふつうの人間なんだよ。あの子と違ってね」

 

 

**

 

 

「見た? スパイダーマンのニュース」

「見た見たー。正義のヒーローだってね。すごいねー」

 

 そんな会話が、子供の間でも成されている。

 教室でささやかれる賞賛の声を、雲居はニヨニヨしながら聞いていたのだが、

 

 

「でもさ、あのポーズはないよね」

「だよねー。ちょーダサイ」

 

 という声を耳にして、笑顔が凍り付いた。

 そんな雲居の変化を、隣席の少年は目敏く見つける。

 

「おや。どうしたでござるか、雲居殿。そんな、ヒロインかと思われた女の子が、実は血を分けた兄妹だったという驚愕の真実が突拍子もなく語られて驚いた顔をして」

 

 その声掛けがあまりにあんまりだったから、

 

「それってスターウォーズのこと? それとも、なんとかシードってやつ?」

 

 雲居はなんとか、いつもの調子を取り繕ってツッコミを返すことができた。

 そんな雲居に、隣席の少年はデュフフと笑いかける。

 

「いやぁ、アレらはどちらも名作でござった。ただ、この点だけは何とかならなかったのかと、思わないでもないでござるが」

 

 彼は、典型的(トラディショナル)なオタクファッションをしていた。眼鏡にバンダナ、必要もないのに指貫グローブをして。学校だというのに背負ったリュックからは、丸まったポスターのようなものが飛び出している。

 そんなマイペースな友人の雰囲気にひっぱられて、雲居もだんだんいつもの調子が戻ってくる。

 

「あのさ、樋縮(ひちぢめ)。スパイダーマンって、その、ダサいかな」

「ほう? 何故にかような質問を」

 

 眼鏡をくいと持ち上げながら、樋縮少年は尋ねる。

 

「いや、その……だって、スパイダーマンって格好良くない?」

 

 雲居は、級友の女子生徒をこっそり親指で示した。彼女らは「全身タイツとかダサイよねー」「あの覆面、銀行強盗かっての」などとスパイダーマンの悪口で盛り上がっている。

 

「うぅーむぅ」

 

 樋縮(ひちぢめ)は首を捻って、

 

「ダサカッコイイでござるな!」

 

 と力強く答えた。

 それは、雲居の耳に馴染みのない言葉であった。

 

「えっ……それってつまりダサいの? それとも格好良いの?」

「格好良いでござる。『ダサい、けれどそれを含めて尚カッコイイ』の意でござれば」

 

 微妙な顔をする雲居に、樋縮(ひちぢめ)は持論を述べた。

 

「あの全身タイツ、おそらくは自作でござろう。ところどころ生地が余ってよれよれになっているでござる。が、あのデザインは独特で、見る者を唸らせるものがあるでござるよ。センスがある」

「へへっ」

 

 雲居はにへらと笑った。

 

「その一方で、あのポーズはいただけないでござるな」

「ぬあっ!?」

 

 雲居は凍り付く。

 タイミングが良いのか悪いのか、件の女子生徒も同じ話題に移っていた。

 

「あのポーズさ、妙にクネクネしてない?」

「分かるー。なんかナヨナヨしててダサイよねー」

 

 もちろん、雲居と樋縮の耳にも届く。

 樋縮は、呆れた様子でため息をついた。

 

「まったく、あんなる女子共は分かっておらぬでござるな」

「え?」

「ポーズの方向性は良いのでござる。身体を屈める独特のポージングは、面白い。ただ、洗練が足りぬだけ。もっと動きのキレを良くして大げさにすれば、それだけで格好良いポーズになる筈でござる」

「樋縮……」

 

 雲居はじんと感じ入った。

 樋縮は嘘の言えるような器用な性格ではない。彼はいつも自分に正直で、だからこんな格好をしている。そんな友人の真実の言葉だからこそ、雲居は胸を打たれたのだ。

 

「なに、同じオタク趣味を持つ同志ではござらんか。拙者、幼稚園のみぎりより変わらずスーパーヒーローへのあこがれを持ち続ける雲居殿を、心より尊敬してござる故な」

「へへっ。よせやい、誉めても何にも出ないぞ」

「ははっ。なに、お気にめさるな。なにせ――」

 

 ひとしきり笑うと、樋縮は拳を突きだした。

 

「友情は見返りを」

「求めない」

 

 雲居がこつりと拳を合わせると、二人は男くさく笑い合う。

 

「ところで雲居殿。その地図はいったい何でござろう」

 

 樋縮は、気になっていたことを尋ねる。

 雲居の机の上には、地図が広げられていたのである。

 

「見ての通り、東京都内の地図だな。最近、不審火が多発してるだろ。もしも犯人がこっちまでやってきたらイヤだなって思って、調べてるんだ」

「ふむ」

 

 地図のうえには、いくつか点が打たれている。恐らくは、それが不審火の現場なのだろう。

 樋縮は、顎を撫でつ地図を眺めやる。

 ややあって、何かひらめいたと見える。

 

「雲居殿。地図に書き込んでも?」

「いいけど、何か分かったりしたの」

「ふふふ。これをご覧あれ」

 

 ボールペンを走らせて、地図上の点を結ぶ。それはたちまち、とある文字をかたちづくった。

 

「これは……『よしこ』?」

「その通り。つい先月まで日曜朝に放送されていた女児アニメ、『魔法少女よしこ』のタイトルでござる」

 

 樋縮は、眼鏡を怪しく光らせて、にやりと笑った。

 

「いや、ちょっと何のことか分かりませんねェ……」

 

 と困惑する雲居そっちのけで、樋縮は持論を語る。

 

「『よしこ』のアニメは、そのシリーズを閉じたばかり。思うに、ヒートアップした『よしこ』のファンが、想い余ってやらかしてしまったのでござろう」

「そんな馬鹿げた理由で放火する人がいるとは思えないけどなぁ。にしても、よく地図上の点を結ぼうと思ったもんだ」

「この手のトリックは、マンガや映画で散見されてござるよ。古くは西ドイツの産んだ迷作『ベルリン忠臣倉』にも見られ――」

 

 なおも語ろうとする樋縮を、雲居の声が遮った。

 

「なぁ。もしこれが本当だとすれば、この文字の最後の一画。その終点が、次の犯行場所なんだな」

「恐らくは。……どうしたでござるか。血相を変えて」

 

 馬鹿馬鹿しい。そうは思うものの、ひとかけらでも可能性がある限り、捨て置くことはできない。

 なぜならば、

 

「父さんの会社がこの辺りにあるんだ」

 

 大切な家族の安否がかかっているのだから。

 

 

**

 

 

 その日の夜のことである。

 雲居は、夜遅くに帰宅した父を出迎えた。

 

「父さん!」

 

 彼は、雲居が帰りを待ちかまえていたことに驚いた様子である。

 そんな驚いた顔も、雲居には嬉しく感じられた。父と話すのは久しい。()()()仕事が忙しいのだろう。帰宅するのが遅いので、顔を会わせることは稀である。こうして雲居の方から声を掛けなければ、言葉を交わすことはほとんど無い。

 けれども、今は嬉しさを噛みしめる心の余裕がない。

 雲居は、まだ靴も脱いでいない父親に、件の地図を突きつけた。

 

「これを見てよ。今、街を騒がしてる連続不審火の発生場所を、地図上に描いたんだ。ほら、文字になってるのが分かるだろう」

 

 雲居は、熱心に地図を指さして語る。

 だから気付かなかった。自らを見やる父の表情を。

 

「この文字の終点、つまり次の事件の起きそうな場所が、父さんの会社に近いんだ! だから、しばらくは会社を休んで――」

 

 顔を上げた雲居は、言葉を呑み込んだ。

 父が、心底弱り果てた顔をしていたのだ。

 

「ヒーローごっこの次は、探偵かな。……まぁいいいさ。何をするのもキミの自由だ。だがな、雲居。僕や母さん、雲雀(ひばり)は巻き込むんじゃないぞ」

 

 父は投げやりに告げる。

 それは、このヨクワカラナイ生物のことなど理解できる筈がない、と思っているのがありありと分かる態度であった。

 

「僕たちはお前とは違って――」

 

 そして、とうとう彼は言い放つ。

 雲居を突き放す、最後の一言を。

 

 ――普通の人間なんだから。

 

 

**

 

 

 深夜である。

 

 眠らぬ街、東京。そこでは、人の営みは絶えるということを知らない。

 様々な年齢、職業構成のひとびとがひしめくように暮らしているので、入れ替わり立ち替わり、必ず誰かが活動している。その為、街は常に灯りをともし、煌々としているのだ。

 しかし、それは、必ずしもすべての地区が、昼も夜も変わらぬ姿で過ごしているということを意味しない。

 例えば、このオフィス街には、営業時間を昼間に定めるきわめて健康的な企業が、数多く拠を構えている。

 

 草木も眠る丑三時――

 

 ともなれば、人の姿はほとんど見られない。

 ビル群の灯りはまばらで、あれほど賑々しかった街並みも、今はすっかり夜の静寂に沈んでいる。

 コツコツという自らが立てる足音のおおきさに驚いて、偶然ここを通りがかったひとびとは、そそくさと歩を早めるのであった。

 その足音が通り過ぎるのを、今か今かと待ち構えている人物がいた。

 

「よし、行ったようだな。それじゃあ、ひと仕事始めるか」

 

 ひとことで言えば、不審者である。

 ワックスで金髪を逆立てた、タンクトップにジーパン姿の、「ウェーイ」とでも言いそうな若者。その若者は、なんと、手にはお手製の火炎放射機を携えて、どういうわけか線香をハチマキで頭に括り付けている。ハチマキには「バーニング」と書いてあったから、「放火魔でござい」と主張しているかのような、それは奇抜な格好であった。

 彼は、小脇にかかえたダンボールを壁に立てかけると、満足げに頷いた。

 

「これで下準備は完璧だ。それじゃあ、さっそく始めるか。この『種火』の炎を灯して、俺の想いを伝えるんだ!」

 

 男は、額の線香を手に取り、ダンボールに近づける。たちまちダンボールにまっくろな焦げ目が広がり、いまにも炎を吹き上げようとした、まさにその時、

 

「待ていっ」

「なんだ、何者だ!?」

「悪の炎を鎮火する男、スパイダーマッ」

 

 ヒーローが現れた。

 

「お前は、今話題のスーパーヒーローかっ。どうしてここが分かった!?」

「はっはっはっ! 地図上で、犯行現場を線で結んだのさ。まさか本当にここが次の犯行現場になるとは思っていなかったが」

 

 スパイダーマンは、高らかに笑う。まるで、何かを忘れようとでもしているかのように、いつもより過剰なポーズを決めながら。

 

「俺の『愛の大文字焼き作戦』を見抜くとは、さてはお前も『よしこ』のファンだな」

「いや、俺の友達が気付いたんだが」

 

 呆れた声音のスパイダーマンである。そんなスパイダーマンにはお構いなく、放火魔はなにやら嬉しそうに頷く。

 

「なるほどな。その友人とやらなら、俺の想いを理解できる筈だ。『魔法少女よしこ』は歴史に名を残す傑作女児アニメだ。たったの一期で終わっていい筈がねぇ。この街をキャンパスに『よしこ』のタイトルを描いて、愛の炎を皆の心に灯すんだ。そして『よしこ』第二期を!」

 

 話すうちに放火魔はだんだんヒートアップして、ついには火炎放射器から炎を吹かせた。

 

「うわぁ、本当にそんな頭の痛い理由で放火なんかしてるんだ……」

 

 余りにあんまりな供述に、雲居はすっかり素に戻ってしまう。

 

「頭の痛い理由、だと」

 

 怒髪天を衝くとはこのことか。ハチマキに結われた髪は逆立って、それは、線香に灯った炎のように揺らめいた。

 

「俺の名は、バーニング原田! 俺の炎は、愛の炎! お前こそ、俺の愛を止めるだけの理由があるっていうのか」

 

 その言葉が、『スパイダーマン』を『小雀雲居』に引き戻す。

 素に戻った雲居は、思わず内省してしまう。

 

「理由、か」

 

 最初は、ただの憧れだった。

 物心ついた頃にはすでに、スパイダーマンという存在に憧れていた。特別な理由はない。ただなんとなく、格好良いから憧れていたような気がする。

 それから、もっと別の理由を得た。

 

(正義のヒーローとして人気者になったら、父さんも母さんも、俺のことを見てくれるかなって思ったんだけどなぁ)

 

 それは、まったくの無意味に終わってしまった。

 

 では、今はどうなのだろう。どうして自分はこんなことをしているのだろう。

 そんな自問を、すぐに首を振って打ち消した。

 

(考える必要なんてない。誰かの役に立てるなら、それだけで十分じゃないか)

 

 思わず考え込んでしまった雲居に、隙ありとばかりにバーニング原田が火炎放射器を向ける。

 

「どうしても俺の邪魔をするってなら、しょうがねぇ。お前ごと街をバーニングしてやるぜっ。バーニントゥギャザー!」

 

 唸る火炎放射器。それは、電動の農薬散布機を改造してつくった代物だ。

 機械本体に直結されたポリタンクから、本体に重油が供給される。たちまち気化されたそれは、ノズル先の炎に勢いよく吹きつけられ、炎の大蛇となって雲居を呑み込まんとする。

 

「うわぉっ!?」

 

 それを、雲居はおおきく跳び退いて回避する。

 生物の、あるいは蜘蛛の本能なのだろうか。爆発物すら冷静に対処した雲居であるが、炎にたいして異常な恐れを感じてしまう。

 

「くっ、あの火炎放射器をどうにかしなくては。ウェブ・シュートッ」

「しゃらくせぇ。蜘蛛の糸もまとめてバーニングだっ!」

 

 ぶわっ、とひときわ強く吹き出す炎の大蛇。大蛇の顎が、蜘蛛糸をひと呑みにした。

 たちまち蜘蛛糸は縮み、固まって、じゅうじゅう煙を噴きながら地面に落ちた。

 

「なんだって!?」

 

 蜘蛛糸は非常に強靱で、ほんの数ミクロンの太さでクモの自重の二倍の重量を支えることができる。そこに目を付けが科学者たちが、これを人工的、工業的に再現しようと躍起になるほどである。

 そんな蜘蛛糸も、結局のところはタンパク質の塊にすぎない。熱を加えれば、不可逆の変化を起こしてしまうは道理である。

 

「そうか、要するに焼き肉と同じだものな。焼いた肉は元には戻らないってことか」

 

 と感心する雲居に、脅威が迫る。

 

「バァニィィィィン!」

 

 ほとばしる裂帛の気合い。猿叫のような声援を受けて、炎の大蛇がおおきく顎を開く。

 蜘蛛の天敵とも言うべき炎を前にして、雲居の生存本能がはげしく暴れ出す。

 アドレナリンが大量に分泌され、ニューロンの電気信号は火花を散らし、脳はそのポテンシャルを十全に引き出した。

 

 ――その瞬間、時は歩みを緩める。

 

 コマ落としの映像となって、世界は、ことのあらましを雲居に語りかけた。

 気化した重油の粒子のひとつひとつが、その身に炎を宿す。ひとつ炎が宿れば、それに連鎖するようにひとつ、またひとつと炎の粒が広がっていく。その行き着く先、未来の姿を、雲居は掌を指すがことくに知ることができた。

 

「うわぁっ!?」

 

 夢中になって、身体を地面に投げる。

 身体が重い。水の中でも歩いているかのようだ。スロー再生のようにゆっくりと身体が地面を転がって、そして、その上を炎が通り過ぎた。

 と同時に、スローモーションが解除される。絶体絶命の危機を逸したと、本能が察したのである。

 

「危なかった。でも、これでお前に接近することができたぞっ」

 

 腹筋の力だけで跳ね起きて、そのままバーニング原田に肉薄する。

 

「インファイトだ! これだけ近ければ、火炎放射器は使えないだろ」

「くっ、こしゃくな真似をっ」

 

 この至近距離で炎を当てるのは自殺行為である。雲居の身体にぶつかった炎は、逃げ道を求めてあちこちに飛散する。それすなわち、バーニング原田へと炎は返ってくるのだ。

 

「これで終わりだ」

 

 雲居は拳を握りこみ、凶悪な放火魔へと一直線に放つ。

 

「うおっ、危ねっ」

 

 それを、バーニング原田はすんでのところで頭を下げて、回避する。

 それは、ひょっとしたら、日頃のたゆまぬ自己研鑽の成果なのかもしれない。

 大きなお友達も楽しむことのできる女児向けアニメ『魔法少女よしこ』では、ほんの数フレームの寸間、すなわち数十分の一秒の刹那、男心をわしづかむ逆三角形が出現する。それを決して見逃すまいと、バーニング原田は己が動体視力を、人間の届きうる極限の領域まで高めていたのだ。

 

 見よ。

 幾人もの悪人を打ち据えてきた、正義の鉄槌。それを、バーニング原田は髪一重で躱し――

 髪の毛と、頭に括りつけた線香とが刈り取られた。

 

「あっ」

 

 とバーニング原田が声をあげた。

 頭に括り付けた線香がぽきりと根本から折れて、その炎を絶やしてしまう。

 それは、バーニング原田の生命を刈り取ったも同然だった。

 

「お、俺の『情熱線香』がっ。断腸の思いで『よしこ』グッズを燃やして、その炎でつくった聖なる種火が、炎が……消える……」

 

 バーニング原田の脳裏に、苦難の記憶がよみがえる。

 大好きな『よしこ』のアニメが終了してしまい、絶望のあまり慟哭した運命の日。

 『よしこ』第二期を制作させるべく、昼夜の別なく渾身の計画を練りつづけた、臥薪嘗胆の日々。

 血の涙を流しながら『よしこ』グッズを火にくべ、次にグッズを手にするのは『よしこ』第二期を視聴したときだと臍を固めたあの日。

 それはまさしく、バーニング原田の魂の炎そのものだったのだ。

 

「お母さん……僕はもう……駄目みたいで――」

 

 バーニング原田は、魂の燃えつきた抜け殻となって、その場に崩れ落ちた。

 

「えっ。これで勝っちゃったの?」

 

 雲居はしばし呆然と立ち尽くした後、あわてて火の後始末を始めるのだった。地面におどる火の粉を踏みつぶして、あたりに引火していないことを確かめる。

 そんな雲居に、のんきな声が掛かる。

 

「なぁ、こいつも念のために縛っといたぞ」

「おっ。どうもサンキュ――って誰だ!」

 

 白目をむいて地面に伏せるバーニング原田を、ぐるぐるに縛り上げる少年がいた。

 ぼんやりした、しまりのない顔。たどたどしく縄を結い上げる、頼りのない手つき。年の頃は、同級生くらいか。すなわち中学生である。

 傍らには、中学生には不釣り合いな、いかめしいバイクが置いてある。

 

「うーむ、何と言ったらいいのか。見習いだしなぁ。でも、百舌鳥さんもデビュー戦だって言ってたし、ちゃんと名乗っていいんだろうか」

 

 マイペースな少年である。腕組みしてああでもないこうでもないと唸りながら、バイクに跨がる。

 ――その途端、少年は変貌する。

 きりりと口元を引き結び。瞳はするどく眇めた鷹のそれで。なかなか精悍な顔つきは、さっきまでの「ぽややん」とはまるで別人である。

 エンジンに火を入れ、エンジンのスロットルを力強く握り込む。その姿は闘志にあふれた、ひとりの戦士であった。

 

「ASEのドライバーだ。悪いヤツではなさそうで心苦しいが、お前を捕まえにきた」

 

 こうして、戦いの火蓋は切って落とされた。

 

 

**

 

 

 時は僅かにさかのぼる。

 さえない顔つきの中学生、斑鳩悟はその闘いを眺めやっていた。

 

「うーん。線香を頭に括りつけた放火魔と、全身タイツのスーパーヒーローか……。あんまり、間に割って入りたくない絵面だなぁ」

 

 とぼんやり呟く、間抜け顔の少年。その実は、あらゆる乗り物を乗りこなすASEのスーパーマルチドライバー――の卵である。

 いや、孵ったばかりのヒナと言うべきか。彼は、今日がはじめての実()だった。

 

 前任の、最強の称号を思うがままとした、伝説のスパーマルチドライバー百舌鳥創(もずはじめ)に師事し、彼はめきめきと実力を伸ばしてきた。

 例えば、バイクレースの元世界チャンピンオンを相手に競い、ついにはそれを追い抜き。F2レースカーにおいても、プロ顔負けの技術を身につけ。のみならず、潜水艦から飛行機、建機までありとあらゆる乗り物に、おそるべき早さで習熟していった。

 小学生という年少から英才教育を受けはじめたということを差し引いても、彼の吸収の早さ、才覚は並外れていた。

 講師として召集された、それぞれの分野のスペシャリストたちは、こぞって太鼓判を押し絶賛した。なかには「是非、私の後継者になってほしい!」と申し出る者も少なからずいたほどである。

 その報せを受けた百舌鳥創は、しかし全く満足することなく、更に過酷な修練へと悟を放りこむことにした。

 

「見習いなりに、少しはマシになってきたじゃないか。なんとか構外講習レベルには達したようだな。――よし。今日から実戦デビューだ」

 

 百舌鳥創はニヤリと口の端をつりあげる。 

 

「お前に仕事をやろう。最近、犯罪者に私的暴行を加えて、そのまま路上に放置する危険なヤツがいる。知ってるな? スパイダーマンとかいう全身タイツの変人だ」

「えっと、まぁ一応は」

 

 悟はたどたどしく答えた。

 先日の爆弾魔事件のとき、人質が取られて事態が硬直したと見るや、屋上のクレーンを()()して犯人確保に協力した。そのことを百舌鳥には黙っていたので、歯切れが悪かったのだ。

 そんな悟にお構いなしに、百舌鳥は言葉を浴びせかける。

 

「そいつを捕まえるよう、警察から依頼があった。お前のマシンは、初音のヤツに頼んである。そいつを使って、スパイダーマンを捕まえろ。……どうした、なにをボサっとしている。さっさと行かんか!」

 

 などと、たいした説明もなしに、悟は部屋から追い出された。

 困り顔の悟は、バイクを受け取り、その場でASE作戦立案部からスパイダーマンの出現予測地点、つまり放火魔の犯行予測地点を聞かされることとなった。なんでも、犯罪者の現れるところに、彼の怪人は現れるのだという。

 しょうことなしに、悟はバイクに跨がった。

 

「百舌鳥さんも無茶苦茶言うよなぁ。犯罪者を一方的に倒すスーパーヒーローを、武器も無しに捕まえろだなんて。いったいどうしろって言うんだ……」

 

 弱気な発言も、そこまでだった。

 エンジンに火を入れ、アクセルスロットを握り込む。

 その瞬間、彼の顔つきは変貌する。己の半身たる単車を信じ、何物にも動じない、いっぱしの戦士の面構え。

 

「――ま、こいつがあれば、どうにかなるか。頼んだぜ、相棒(CBR600RR)。今、お前に魂を吹き込んでやる!」

 

 そうして斑鳩悟は、二人の怪人が火花を散らすこの戦場(いくさば)へとやって来たのだった。

 果たしてそこに居たのは、炎をまき散らす怪人と、それを避ける全身タイツの怪人。

 

「おっ、決まったか?」

 

 全身タイツのするどい拳打が、放火魔へと放たれる。

 それを、なんと、放火魔は間一髪で回避した。

 にも関わらず、放火魔はへなへなと腰砕きになって、力なく地面に倒れ伏す。謎の戦意喪失である。全身タイツの怪人も、これには困惑した様子である。

 

「うーん、あんまりいいのを貰いそうになったんで、ビビったんだろうか。……それにしても、あのスパイダーマンってのは悪いヤツじゃなさそうだな」

 

 放火魔のまき散らした炎が引火していないかを確かめている。地面に落ちた、いずれ消えゆくであろう小さな火の粉すら、丁寧に踏みつぶして回る几帳面さだ。

 

「でも、放火魔を放置しとくはマズいよなぁ。一応、縛っておこう」

 

 ASEから支給された、スパイダーマン捕獲用の縄で放火魔をぐるぐる巻きにした。

 そして、スパイダーマンに声を掛け、本来の用件を伝えたのだった。

 

「俺を捕まえるだって? 何かの間違いじゃないのか。自分で言うのもなんだけど、悪いヤツを捕まえるヒーローなんだから」

 

 全身タイツの怪人――雲居は訝しげに問い返す。

 悟は、困ったふうに頭を掻きながら答えた。

 

「うーむ、それなんだが、いくら相手が犯罪者とはいえ、殴って回るのは犯罪なんじゃないか?」

「あ……」

 

 思ってもみなかったとばかりに、大口をあけて唖然とする雲居。その表情はマスクの下に隠れていたけれども、声音にはありありと動揺が滲んでいた。

 

「そうか、俺は悪いことをしてたのか……」

 

 けれども、次の瞬間には動揺を振り払って、悟に向き直る。

 

「悪いが、それでも捕まるわけにはいかない。俺が捕まると、迷惑をかける人がいる。それに、俺がしたのは、誰かの為になることだ。それは悪いことじゃない。そうだろう?」

 

 雲居は、ひとびとの感謝の言葉を思い出す。警察が防ぐことの出来ない犯罪を防ぎ、秩序と安心をもたらすスーパーヒーロー。

 ――そう、自分は『スパイダーマン』なのだ。

 その意識が、雲居のヒーロースイッチを再びオンにした。

 

「うーむ、そうなんだよなぁ。でも、違法行為は違法行為だしなぁ」

 

 と逡巡する悟に、スパイダーマンは指を突きつける。

 

「そういうキミこそ、バイクに乗ってるではいか。見たところ、中学生だろ? 免許を取れるような年じゃあないはずだ」

「うっ。それを言われると、返す言葉がないが……」

 

 痛いところを突かれた。国際免許を持ってはいるが、日本においては十八歳の齢に達さねば有効化されない。

 そんなことを指摘されても、悟は退かなかった。

 彼にもまた譲れぬ信念がある。それこそは『真のASEドライバー』になるということである。

 悟の夢は今日このとき、ようやく実現までの第一歩を踏み出したばかりだ。ここで引き下がるわかにはいかぬ。

 

「でも、これもASEの任務だ。悪く思わないでくれよ。なるべく痛くしないようにするから」

「なるほど、あのASEのエージェントか。……どうしても退かぬというなら、仕方ない。誰にも、私の正義は邪魔させないッ」

 

 スパイダーマンがポーズを決める。それこそは、樋縮の助言を受けて練り直した「究極にカッコイイポーズ」である。

 不夜城の放つ光。うっすら白ばむ夜空を背景に、黒くそびえるビルの群。その影絵のような背景を背負って、彼は名乗りをあげた。

 

「かかってこい、ASEドライバー。私は影絵の街に巣を張る蜘蛛、スパイダーマッ」

「それじゃあお言葉に甘えて!」

 

 先に仕掛けたのは悟だった。

 正面からぶつかって、吹き飛ばそうとする。

 もちろん、そこには手加減が見て取れた。インパクトの直前にブレーキをかけて、重大な怪我をさせぬよう配慮していた。

 

 そのような手加減は不要だった。

 スパイダーマンは、軽々と悟を飛び越えて、回避する。

 

「跳んだ!? いったいどんな脚力してるんだ」

 

 今度はスパイダーマンの番である。着地するなり拳を放つ。拳は、悟の騎乗する単車にまっすぐ向かっていく。

 悟は、嫌な予感を覚えた。

 二百キロもの鉄塊である。それを殴ろうというのは、常識では考えられない。けれども、相手は常識外の存在(スーパーヒーロー)である。ひょっとしたら、単車すら破壊せしめる破壊力を秘めているのではないか――

 

「くっ」

 

 とっさに後輪を滑らせて、単車を逃す。

 単車のあった場所を、拳が突き抜ける。

 そのまま壁に突きたって、壁を爆発四散させた。

 

「うそだろ……」

 

 悟はあんぐりと、顎も外れんばかりに大口を開けた。

 

「こら、逃げるな!」

「と言われて逃げないヤツはいないと思うぞ。だってこれ、タダじゃ済まないだろ!」

 

 と叫ぶなり単車を走らせようとした悟の機先を、スパイダーマンが制する。

 

「ウェブ・シュートッ」

 

 手首を向けて、蜘蛛糸を放ったのだ。

 噴水のごとくに勢いよく飛び出した蜘蛛糸を、悟の単車はすんでのところで躱す。

 

「蜘蛛の糸!? そんなことまで出来るのか」

「そう言うキミこそ、なかなかどうしてバイクが上手いじゃないか」

 

 悟の操縦テクニックも絶妙である。それ以上回せば、タイヤは地面を離れて空転してしまったに違いない。摩擦のかかるギリギリのラインを見極めて、単車の全力を引き出したのだ。

 悟の妙技は、これに留まらない。

 前輪を持ち上げて、壁に突撃する。と思いきや、そのまま勢いで壁を登り、壁の上に立った。

 その幅、実に幅数センチ。車輪がようやっと乗るだけの幅に立つ器用さは、猫のようである。

 そして、

 

「悪いな。ちょっと手加減できそうにない。なるべく痛くしないようにするんで、我慢してくれ」

 

 スパイダーマンめがけて飛びかかった。

 

「そうはいかない。歯を食いしばるのはキミの方だ」

 

 飛び上がり、攻撃を避けるスパイダーマン。

 その手首から飛び出した蜘蛛糸を、悟は単車をウィリーさせて避ける。

 その防御の動きが、攻撃の始動だった。ウィリーからノーモーションで、スパイダーマンめがけて体当たりをしかけたのだ。

 もちろん、スパイダーマンはひらりと躱す。

 

「はっはっはっ。そんな攻撃に当たってしまうほど、私はトロくはないぞ」

「なら、これでどうだ」

 

 横に跳んだスパイダーマンに、悟は追撃をしかける。すなわち、急制動をかけて前輪一本で立ち上がり、そのままぐるりと車体を振ってぶちかます。ジャックナイフターンである。

 

「ふっ!」

 

 地に伏せて、車輪をやりすごすスパイダーマン。その体勢を利用して、ブレイクダンスのように身体を回す。

 

「このまま足払いだっ」

「うそだろ、バイクを蹴り飛ばせるってのか!?」

 

 悟は咄嗟にブレーキを離して、前輪を滑らせる。ぶぉんという恐ろしい風切り音を聞きながら、器用に前輪を転がして、数メートルの距離を離した。

 そして、二人は対峙する。

 身を屈め、いつでも全身のバネを駆動できるように身構えるスパイダーマン。アクセルに手を添え、相棒(CBR600RR)と一体になった悟。

 奇しくも、二人は同じことを考えていた。すなわち、眼前の好敵手の常識離れした能力に、驚きと賞賛の念を抱いていたのだ。

 

(ASEのドライバーってのは化け物か! こんな中学生が居てたまるか。若作りのベテラン・スタントマンか、それとも中国雑技団でも中に入ってるって言われたら、ころっと信じるぞ)

(見かけによらず、こいつ滅茶苦茶強いぞ! これがスパイダーマンか。見かけは細いのに、いったいどんな筋肉してるんだ)

 

 悟が攻撃を仕掛ければ、スパイダーマンはひらりと宙を舞って回避する。スパイダーマンが仕掛ければ、悟は曲芸じみた挙動で回避する。防御の動きがそのまま攻撃につながり、攻守はめまぐるしく交代する。

 それは、よくできた演武のようにも見えた。もしも聴衆がこの場にいたなら、映画の撮影かと騒ぎカメラを向けたに違いない。

 しかし、見る者が見れば、まったく違った真実が顔を出す。

 

「なんだこりゃあ。アイツ等、やる気があるのか?」

 

 と呆れ声を漏らしたのは、百舌鳥創である。

 彼は、背の低いビルの屋上から、二人の闘いを観察していたのだ。

 

「全身タイツのヤツ、悟に遠慮してやがるな。マシンばかり狙って、一向に悟を殴ろうとしない」

 

 スパイダーマンこと小雀雲居は、純粋で善良な少年である。躊躇なく悪人を殴ってまわる彼も、無辜の市民に手を挙げることは躊躇われる。

 悟は凄腕の敵対者であったけれども、彼が罰すべき犯罪者ではなかったので、極力これを傷つけまいと努めていた。すなわち、蜘蛛糸で動きを封じたり、単車を破壊しての無力化を試みていたのである。

 悟本人にはいっさいの危害を加えまいとしていたので、どうしても攻撃は遠慮しがちになってしまうのだ。

 

「悟も悟で、悪い癖が出たな。マシンを庇ってやがる。それじゃあ全身タイツには勝てんぞ」

 

 それは、悟の唯一にして最大の欠点である。

 彼は、どんな乗り物でも己が身体の延長上のように扱ってしまえるという、他に類を見ない優れた才能の持ち主であったけれども、かえってそれが災いした。

 マシンに感情移入してしまうので、肉親かひょっとしたらそれ以上にこれを大切にしてしまうのだ。我が身を挺してマシンを庇うほどの徹底ぶりである。

 

「マシンを犠牲にすれば、攻撃を当てる機会はいくらでもあった。それをあえて棒に振る甘さは、いつか必ず命取りになる。……もっとも、全身タイツの方も相当な甘ちゃんらしいがな」

 

 スパイダーマンの拳が単車を捉えそうになる度に、悟は、我が身を挺して単車を庇う。すると、今度はスパイダーマンがあわてて拳を引くのだ。

 

「まったく、馬鹿共め」

 

 百舌鳥は笑った。

 二人とも、どうしようもない未熟者である。でありながら、そのどちらも頑なに、己の信じる正しさを貫こうとしている。

 その青さが、彼にはほほえましく見えたのだ。

 

「灸を据えてやらんとな」

 

 百舌鳥は、単車に跨がった。

 ハーフのヘルメットに、単車(CB400SF)のネイキッド・ボディ。目にはサングラスを。革ジャケットは襟を立てて。

 そのワイルド・アメリカンな出で立ちに不似合いな、曲芸めいた操縦を披露する。

 すなわち、屋上から飛び降りて、そのまま壁の上、二人の間に降り立った。

 

「またバイクだと!? やはりキサマ等は中国雑技団か」

「そういうお前は、中学生の学芸会だな」

「なん……だと……?」

「子供のお遊技だと言ったんだ。あまりにダサくて見てられん」

 

 百舌鳥は、妙にキレ良く構えをとる全身タイツ(スパイダーマン)を、鼻で笑う。

 

「バカな、この『スパイダーマン』がダサいわけあるか! ……そんなことないよね?」

 

 思わず素に戻って、雲居は悟に尋ねた。年の離れたオッサンなどではなく、同世代の悟ならきっとこの格好良さを分かってくれると信じて。

 当然、そのアテは外れることとなる。

 悟は、非常に言い辛そうに、

 

「いやぁ、その、人の感性はひとぞれぞれだからなぁ。きっとそれがカッコイイって言う人もいるんじゃないかな」

 

 と慰めの言葉を口にしたのである。

 

「ふぁっ!? そ、そんな筈は……。そうだ! ポーズはまだちょっとダサいかもしれないし、コスチュームもイマイチかもしれないけど、あの名乗りは格好良いよな! 『地獄からの死者、スパイダーマッ』 これが格好良くないわけがない! なぁ、そうだろ?」

「うーむ……俺、そういう趣味とは縁がないから、何とも言えないなぁ」

 

 悟は明言を避けた。これは、不器用な悟なりの最大限の気遣いである。

 もっとも、その胸の内は誰の目にも明らかだった。悟の目は語っている。「その名乗りはちょっと……」と。

 

「ぬわぁぁぁああ!?」

 

 矢でも射られたかのように、雲居は大げさにのけぞり、地面に崩れ落ちる。

 

 ――キャハハハ、ダッサーイ。ヒーローごっこが許されるのは小学生までだよねー。

 

 雲居の脳裏には、そんな副音声が再生されていた。

 

「……そうか。そうだったんだ。そうだよなぁ、やっぱりそうだよなぁ! 可笑しいとは思ったんだよ、取材してくれたリポーターの人とか目が笑ってたし!」

 

 雲居は、頭を抱えて地面を転がった。まるで、魂をヤスリにかけられるような、耐えようのない痛みに悶えているかのように。

 

「もう俺はダメだ、社会的に死んだんだ! 今すぐ死にたいっ。殺せ、いっそ殺してくれっ!」

 

 そんな雲居に、百舌鳥は追い打ちをかける。

 

「まったく、噂のスパイダーマンとやらはどんなヤツかと思えば、こんなガキだったとはな。……気にするな。その頃の子供にはよくあることだ。若いうちは、大なり小なりバカするもんだ」

 

 百舌鳥の瞳が、懐古の色を帯びる。ヤンチャをしていた昔の自分や、ひょっとしたら、昔の相棒を思い出したのかもしれない。

 けれども、それはほんの一瞬の変化だったので、誰も気付くことができなかった。こと雲居の目には、呆れ混じりの苦笑としか映らなかったのである。

 

「や、やめろよっ、笑うんじゃあないッ」

 

 雲居は悲鳴を上げる。それは、恥ずかしさから目を逸らす為の、必死の逃避行動であった。

 そんな雲居に、どういうわけか、百舌鳥はさんざん挑発的な言葉を投げかける。

 

「ふんっ。これが笑わずにいられるか。そんな格好をして、まるで道化だな」

「ぐあぁっ!?」

 

 まるで不可視の攻撃でも受けているかのように、地面を転がるスーパーヒーローと、悪の親玉のような貫禄の百舌鳥。

 そんな光景を、悟はぼんやり眺めやっていたが、

 

「百舌鳥さん、一体どうしたんだ。いつも口が悪いけど、今日は特別ひどいぞ」

 

 百舌鳥の様子に首を傾げる。

 そもそも百舌鳥は、口よりも先に手がでるタイプの人間である。諭すよりは殴って躾け、書類の上で指示を出すよりも、自ら現場に出張ることを好む。

 だから、口数の多い百舌鳥に、悟は違和感を抱いたのだ。

 百舌鳥は、スパイダーマンを警戒していた。

 悟との無様な立ち会いで見せた身体能力は、人間のそれを超越している。これと闘うには、カンカンに怒らせて、戦術眼を曇らせておかなければならない――

 その作戦は、うまく行きそうもなかった。

 

(こいつ、なかなか怒らない。どうやら、悟並みにおめでたい頭をしてるようだ)

 

 やれやれとため息を吐いて、単車のアクセルを握り込んだ。

 ブォンとエンジンが唸りを上げて、雲居を威嚇する。

 

「百舌鳥さんっ」

 

 百舌鳥の戦意を察した悟が、割って入ろうとする。もちろん、百舌鳥は一蹴した。

 

「悟、お前は黙ってそこで見ていろ。お前にやらせてたんじゃあ、いつまで経っても終わらんからな!」

 

 言うなり、百舌鳥は人馬一体となって雲居に襲いかかる。

 その頃には、膨れ上がる戦意を察知した雲居も飛び起きて、迎撃体制を整えていた。

 

「なんだよ、口撃の次は攻撃かっ。良いよ、かかってこいよ! 俺は勝つぞッ。なにせ、バイクの動きはもう見切ったからな」

「吠えるな、小僧。俺は、悟のように甘くはないぞ」

 

 悟は掛け値無しの天才ドライバーである。

 だが、百舌鳥は更にその上をいく。彼こそは、かつて『デスマシン』と渾名された最強の傭兵である。

 戦場を渡り歩いて蓄積した戦闘経験と、完成された大人の体躯から絞り出されるパワーは、単車を自在に動かし、すぐれた戦術眼でもって戦況を支配することを可能にした。

 雲居の攻撃をことごとく避け、それどころか、お返しとばかりに一撃を見舞う。

 

「ぐあっ」

 

 悟と同じジャックナイフターンである。

 同じ技でありながら、百舌鳥の方がするどく素早い。大人の体躯が、単車の挙動を完全に制し、予想しえないタイミングでの攻撃を可能としたのだ。

 しかし、スパイダーマンは大したダメージを受けていないように見える。

 二百キロ超えの体当たりを受けて、吹き飛ばされはしたが、それだけである。壁に足を着くと、そのまま百舌鳥めがけて跳躍する。

 

「よくもやったな。今度はこっちもお見舞いしてやる!」

「やれやれ、アレを喰らってなんともないのか。大したタフネスだ」

 

 百舌鳥はひとすじの冷や汗を垂らす。

 この全身タイツの怪人の身体能力は、『デスマシン』と呼ばれる歴戦の戦士をして驚愕せしめる程である。戦場で出会ったどの敵よりも優れた身体能力の持ち主であることは、疑いようがない。

 

(だが――)

 

 繰り出される拳を前に、どうしたことか、百舌鳥は微動だにしない。

 いよいよ拳が百舌鳥の顔面を捉えそうになって、

 

「くっ!」

 

 雲居は、あわてて拳の矛先を逸らした。

 彼の純粋さが、激情のままにふるった拳をそのまま振り下ろすを良しとしなかったのである。

 

「――甘いな、小僧」

 

 カミソリのような鋭い一撃が、ハーフメットの顎ひもを断ち切り、サングラスを吹き飛ばす。

 露わになるは、鷹の眼差し。

 そのするどい眼に微かな温かみを宿らせて、

 

「頭を冷やせ」

 

 拳を握り込み、強烈な一撃を鳩尾に見舞った。

 

「ぐぁ……」

 

 それは内蔵をえぐる、見事な一撃。

 常人のそれとは比べものにならぬほど強靱な、けれども鍛えようのない内蔵をえぐられて、雲居は気を失いかける。

 

「ったく、本当にタフなヤツだ」

 

 やれやれとため息ひとつ。そして放たれた強烈な一撃を浴びて、今度こそ雲居は気絶した。

 

「百舌鳥さん!」

 

 闘いを見守っていた悟が、百舌鳥に駆け寄る。

 

「こいつを運ぶぞ。手伝え」

「それじゃあ、警察まで連れて行くんですか」

「アホウが! 誰がコイツを警察に突き出すと言った」

「痛っ」

 

 頭をゴツンと殴られて、悟は呻いた。

 

「コイツはASE(ウチ)で預かるぞ。こういう傍迷惑な小僧は、誰かが殴って躾てやる必要があるからな。バカは殴ってやらなきゃ覚えん」

 

 お前と同じだ、と罵倒を飛ばす百舌鳥に、悟は参ったとばかりに頭を掻いた。

 そして、心配そうに尋ねる。

 

「でも、それじゃあ依頼内容に違反してしまうんじゃあ……」

 

 ASEのスーパーマルチドライバーたるもの、必ず任務を達成しなくてはならない――

 それは、百舌鳥が口を酸っぱくして悟に言い聞かせてきたことだった。

 百舌鳥は、ニヤリと答える。

 

「何も問題はない。依頼内容は『スパイダーマンを保護すること』だからな。捕まえたコイツをどこでどう保護しようが、こっちの自由というわけだ」

「うわぁ、この人えげつないなぁ……」

 

 顔をひきつらせる悟に、百舌鳥は笑みを納め、低い声で語りかける。

 

「いいか、悟。ASEドライバーなら、必ず守らなくちゃならんことがある。分かるか?」

「えっと、依頼を達成することですか」

「アホウが! そんなのは言うまでもない当然のことだ!」

「痛っ」

 

 ゴツンと頭を殴られて悲鳴をあげる悟に、百舌鳥は指を突きつける。

 右手に立てられた、三つの指。それは、ASEドライバーの心得を表している。

 

「ひとつ、仲間を見捨てるな」

 

 悟は頷いた。そこに仲間が居るのなら、いかなる危険の渦中にでも、自分は飛び込んでいくだろう。

 

「ふたつ、決して死ぬな」

 

 重々しく頷く。それこそは、悟が生涯かけて目指すべき頂のひとつである。

 

「みっつ、悪に荷担する依頼は受けるな。つまり、正しい事をしろということだな」

 

 きょとんとして、頷いた。思ってもみなかったという、脳天気な顔をしている。

 それは信頼の証である。百舌鳥がそのような仕事を寄越す筈がないと、心の底から信頼しているのである。

 そんなバカ正直な悟に、百舌鳥はサングラスの奥で瞳を細めて、問いかける。

 

「で、尋ねるが、コイツは悪いヤツだったか?」

「いいえ。善いヤツだと思います」

 

 悟は即答した。

 スパイダーマンの純粋で善良な為人は、僅かな問答からも伺い知ることができた。

 また、闘いの最中にあってさえ、「こいつは人を殺めたり、理不尽に害するようなことは絶対にしないだろう」という奇妙な信頼を、いつしか寄せてしまっていたことを、今更ながら自覚したのである。

 

「それじゃあ、コイツを捕まえるのは悪いことか?」

「うーん……人を殴るのは犯罪だけど、それも相手が犯罪者で、そもそも犯罪者を捕まえる為なワケだしなぁ……」

「悟、お前はどうしたい?」

 

 百舌鳥はまっすぐ悟を見つめた。

 その瞳が、静かに問いかける。

 スパイダーマンを警察に差し出すのか。それとも、警察から庇うのか。果たして、どちらが正しい行いなのかと。

 悟は逡巡し、

 

「――うん。そうだな」

 

 晴れやかに答えを告げる。

 

「百舌鳥さん。俺も、コイツを警察に突き出したくないです」

「そうだ。それで良い」

 

 百舌鳥はニヤリと口の端をつり上げると、懐から携帯電話を取り出した。

 かける先は、もちろん依頼主である。

 ややって、電話機から男の怒声が飛んでくる。

 

『なっ!? それでは話が違うではないか!』

 

 という怒声は、

 

『確かにそのように依頼したが……』

 

 という困惑の声に変わり、最後には、

 

『おのれ、足元を見おって! いいか、貸し一つだからなっ』

 

 という悲鳴のような大声に変わった。

 こうして、スパイダーマンはASEに引き取られることとなったのである。

 当然、百舌鳥は部下に説明を求められた。

 

「ASEは恨みを買いやすい組織だ。アイツには、恨みと攻撃を一手に引き受ける、職員の盾になってもらう。このまま仮面を被った正体不明のヒーローとして――と言ってもあのダサいスーツは新調することになるが――存分に活躍してもらうぞ」

 

 それでは、スパイダーマンこと雲居少年の安全はどうなるのか。そうした声は、すぐに押さえ込まれることとなった。

 

「なに、心配は要らない。アイツの身体能力、なによりタフネスは人間離れして凄まじい。アイツをどうにかできるヤツなんか、そうそうおらんさ」

 

 という説明を受けた職員は、ASEエージェントがひそかに撮影していた、悟や百舌鳥との交戦記録を観ることとなった。

 そして、あんぐり大口を開く。

 二百キロを超える超重量の突撃を受けて尚、何事もなかったかのように、元気に跳ね回っていたのである。

 最後は百舌鳥に沈められはしたものの、あの人外じみた動きを捉えることができる者は、この世にいくらも居るまい。

 職員は、もうこの少年を「普通の人間」とは思えなかった。「戦場に派遣するのは、もうこいつ一人で十分なんじゃないかな」とさえ言う者もいた。

 それをするどく叱りつけるように、百舌鳥は言い放つ。

 

「それに、だ。アイツはまだまだ中学生のガキに過ぎん。調べてみたところ、家庭でも放ったらかしのようだ。可哀想な話じゃないか。何より、こいつを躾ける人間が必要だ。そうだろう?」

 

 職員は身震いした。

 この越常の力を持った怪物は、まだまだ子供なのだという。成長すれば、さらなる力を身につけ、もはや百舌鳥でさえ手に負えなくなるかもしれない。

 しかも、それをふるうのは中学生である。幼く驕りやすい、子供なのである。

 誰かが、彼をまっすぐに導かねばならない。そして、それができるのは、やはり目の前の『最強の男』に他ならない。

 

「分かってくれたようでなによりだ」

 

 百舌鳥はニヤリと口の端をつりあげると、話は終わったとばかりに解散を命じた。

 後に残されたのは、百舌鳥と、その秘書だけである。

 

「本当に、それだけが理由ですか?」

 

 泣き黒子のよく似合う、いかにも苦労と縁の深そうな彼女は、おそるおそる尋ねた。

 百舌鳥のことだから、なにか面倒な考えがあってのことに違いないと勘操ったのだ。

 

「ふっ。実を言えば、悟の為でもある」

 

 百舌鳥は、ニヤリと笑った。

 

 あの心根の優しい少年であれば、きっと、いざというとき悟の力になってくれるに違いない――

 

 という親心を正直に吐露するのは憚られたので、代わりに、悪戯っぽく笑って、こう言ったのである。

 

「同レベルの馬鹿がもう一人いた方が、悟の馬鹿も安心ってもんだろう」

 

 こうして、ASEにスーパーヒーローが所属することとなった。何日もしないうちに、ASE職員の名乗りをあげるスパイダーマンの姿が、街には見られるようになったのである。

 これを、世の人々は歓迎した。法の定める「自由の権利」をいささか逸脱した彼の身を案じる者も、実は少なからずいたのである。

 また、正義のヒーローとはいえ、明らかに人間離れした超人に、首輪が付けられことに安堵した者もいる。

 

「スパイダーマンみたいなスーパーヒーローが、ASEみたいなしっかりした企業で活躍してくれるなら、安心だ」

 

 というのが、おおまかな反応であった。

 もっとも、ただ一人、当の本人だけが承伏しかねていた。

 

「だから、こんな恥ずかしいことはもうしたくないんですって! そもそも、コレが恥ずかしいことだって教えてくれたのは百舌鳥さんでしょ。それを強制させるだなんて、この人非人! 鬼畜! お前等人間じゃねぇ!」

 

 スパイダーマンこと小雀雲居。

 彼こそは、黒歴史の延長戦を強いられ、魂をすり減らしながら悪と闘う、世界唯一のスーパーヒーローである。

 




<Q&A的な何か>


Q:樋縮くんって、どこかで見た覚えがあるんだけど。
A:はい、そうです。くじら先生の『桶縮君の十三時ヶ丘さんルート』というマンガのキャラです。かなりお気に入りのキャラなんです。
Q:にしては、喋り方とか格好とか色々違わなくない?
A:はい、そうです。あくまで「樋縮くんに似た誰か」ということでご容赦ください。彼の魅力は、R-18でないと完全に発揮することができないんです……。

Q:バーニング原田も、どこかで見た覚えがあるんだけど。
A:はい、そうです。めいびい先生の『松ケ丘エンジェル』に登場した放火魔です。氏は、最近一般誌で活躍されていますが、もっと昔の作品も素敵ですよね。


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6.Cliffhanger ~クリフハンガー~_上

 今回クライミングします。
 本を読んだり動画を観たりしましたが、全く分かりません。
 なので、クライミングの描写はフレーバー程度に捉えてください。矛盾点や不条理な点が見つかっても、「そのキレイな顔をフッ飛ばしてやるぜ!」のアサルトライフル狙撃みたいに、笑って流していただければ幸いです。
 決して拙作を鵜呑みにして、半端知識でクライミングに挑戦しないでください。他人を巻き込んで死にます。そんな人、いないとは思いますが。
 それと、詳しい人は、分かりやすく教えていただけると嬉しいです(本分を修正するとは言っていない)。



<登場人物>

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生。

百舌鳥創(もず はじめ):
ASE日本支部をまとめる支部長。

亜鳥アキラ(あとり アキラ):
ASEのエージェント。怪力オバケ。
自然保護団体IBAMAの一員として活動する傍ら、密猟者撲滅組織の一員として世界中を飛び回っている。日系三世ブラジル人。


 浮遊感。

 胃の浮くような心地に、キンと耳にかかる圧力が、急激な高度の低下を教えてくれた。それからとどめとばかりにやってくる、身体を揺さぶる上下の振動。

 すっかり寝息をたてていた雲居は、ぱちりと目を開いた。

 

「んあ? やっと着いたのかな」

 

 耳栓とアイマスクを外して、横を向く。

 合成樹脂の窓越しに、茶色い景色が流れるのが見える。

 その遠景の手前には、飛行機の主翼があって、翼下についたジェットエンジンが轟音を吐き出していた。

 ジェットエンジンは、しかし、だんだんと轟音を小さくして、己の役目を終えたとばかりに眠りにつこうとしている。

 そうした景色のさらに手前、窓のこちら側。隣の席に座っていたASEの職員が、生真面目にも雲居のつぶやきに答えた。

 

「ええ、到着しましたよ。中東一の山岳国、アヘラエル国に」

 

 日本を離れて十数時間。雲居は、はるか離れた砂塵の国に降り立ったのだった。

 

 

 **

 

 

 飛行機から降り立つなり、雲居は顔をしかめる。

 

「なんだ、これ。空気がカラカラで埃っぽい。それに香辛料みたいな臭いがするぞ」

「そういうものだ。土地が変われば、風も変わる。私からすれば、東京の空気こそ湿っぽくて醤油臭い」

 

 不快そうに眉をひそめる雲居の耳に、女性の声が響く。

 それが予期せぬ、しかも久々に聞く想い人の声だったから、雲居はぱっと顔を輝かせた。

 

「亜取さん!」

 

 一陣の風が吹く。

 びょうと舞う砂塵から姿を現したのは、一人の女性である。

 長い黒髪の、たいへん美しい女性。

 長い睫毛をたくわえた目元は、きりりと力強い。女性らしい美麗さと、野性的な魅力とを同居させた、しなかやで美しい女性であった。

 

「おひさしぶりです! こうして会うのは、前回の東京サファリパーク化事件から数ヶ月ぶりですね。元気にしてました?」

「馬鹿者、そんなことより確認することがあるだろう」

「痛いっ。いきなりゲンコツは止めてくださいよっ」

 

 賑々しく駆け寄ってくる雲居に、亜取はゲンコツを見舞う。拳に返ってくる感触に満足そうに頷いた。

 

「うむ。その反応と無駄に頑丈な身体。変なマスクをしていないので半信半疑だったが、たしかにお前は雲居のようだな」

「あー、前回はスパイダースーツを着てたからなぁ。いっしょに写真撮るときに、すこしだけ素顔見せただけで。でも、だからって、殴って確認しないでくださいよ。どんな原始部族だって、拳で挨拶(そんなこと)しませんよ――痛いっ! また殴りましたねっ」

「その減らず口に軽々しい口調。たしかに雲居で間違いないようだな」

 

 傍から見れば、二人は、憧れの人との再会を喜ぶ高校生(こども)と、そんな子供を躾る姉貴分のようにも見える。

 だが、そこは世界に名だたるASEのエージェントである。雲居は、キリと顔を引き締め、確認事項を尋ねる。

 

「えっと、今回の依頼主は亜取さんで間違いありませんね。依頼内容は、貴方のサポートとありますが」

「その通り。今回、私はバイオパイレーツ撲滅機関に出向して、絶滅危惧種の草花の保護を行っている。未整備の山を登ることになるので、優れた身体能力を持つお前を、サポート役として雇うことにしたのだ」

「つまり、登山に同行すれば良いと」

「その通りだ。必要な装備はすでにこちらで準備してある。あとは、その格好のまま集合場所に来てくれれば良い」

「なんだ、ただの山登りかぁ。いやぁ、今回は簡単そうな依頼で良かったなぁ」

 

 雲居は、ほっと息を吐いて脱力した。

 

 世界にその名を轟かせる人材派遣会社ASE(エース)

 かの有名な企業が取り扱う人材に、只人は存在しない。ありとあらゆる分野のプロフェッショナルを取りそろえ、およそ達成不可能な依頼は存在せず。鼻血の出るような高額の報酬と引き替えに、ありとあらゆる難事を解決する――

 

 その噂は、まったくの事実である。

 ASEに所属する「スーパーヒーロー」の雲居もまた、無茶苦茶な依頼に駆り出される日々を送っている。だから、久々の危険の少ない依頼に、ほっと気を抜いた。

 仕事の方は大丈夫そうだ。余力がある。となれば、憧れの女性とぜひお近づきになりたい。

 そのように考えてしまうのも、年頃の男子としては無理からぬ話である。雲居は、パッと顔を輝かせて、元気良くアキラを誘う。

 

「依頼期間は明日から。まだ時間がありますよ。それまで、その、二人で街を歩いたり食事したりして、交友を深めませんか!」

「ふむ。そうだな、たしかに時間に猶予がある。良いだろう。それまで、お前と過ごすというのも悪くない」

「本当ですか!? やった!」

 

 そんなやりとりを隣で聞いていたASEの職員は、耳を疑った。亜取アキラといえば、ドゥルガと畏れられ、あの百舌鳥創(もずはじめ)ですら扱いに難儀する、歩く暴力装置である。その行動目的は動植物の保護と、これを脅かす悪党の殲滅。彼女は悪党どもを、文字通りその拳で粉砕してきた。

 それがデートの誘いに応じるような機微を持ち合わせていたことや、ましてや、雲居という高校生の誘いに応じるなど、青天の霹靂であった。「まさかドゥルガは少年趣味なのか」と慄く。

 もちろん、そんな筈はなかった。

 

 

 **

 

 

 アヘラエル国は、天高くそびえるアヘラエル山脈を領有する。国土のあちこちに、切り立つ崖のような険しい山々を拝むことができる。

 そんな山々の片隅で、地面からほど近い岸壁にしがみつく少年がいた。雲居である。

 雲居は、岸壁にハンマーで金具(ボルト)を打ち込むかたわら、心底不思議そうにアキラに尋ねた。

 

「ねぇ、亜取さん。たしか俺たちは、なんていうか、所謂デートに出かけた筈ですよね。それがどうして、こんな本格的な装備背負った、ガチのロッククライミングの練習なんてしてるんですか」

 

 アキラは鼻で笑って答える。

 

「なにがデートだ、寝言は寝てから言え。そして、寝るのは依頼をこなしてからだ。――良いか。今回の依頼は、絶壁だらけのアヘラエル山脈山頂付近に咲く、絶滅危惧種の草花の採取だ。つまり、我々はロッククライミングをしてそこまで登らなければならない」

「それじゃあ、これって……」

「訓練だ。明日死にたくなければ、今ここでしっかり練習しておけ」

「ガッデム! あの亜取さんがすんなりOKするなんて、話が美味しすぎると思ったんだ……」

 

 などとぶつくさこぼしながらも、雲居はするする器用に絶壁を登っていく。

 

「ほぉ。なかなかどうして器用に登るじゃないか。経験でもあるのか」

 

 ロッククライミングは、体力はもちろんのこと、独特の技術と頭を使うスポーツである。

 わずかな出っ張りや窪みに指をかけ、バランスを保ちながら、身体を引き上げる。それに耐えうるだけの足場なのかを確かめる思慮深さ。次の足場までの、身体の動きを冷静に計算する思考能力。そして、数あるルートのなかから、最も安全で体力の消耗のすくないものを選び取るための、観察力と考察力。

 腕一本で身体を支える身体能力とバランス感覚。焦る心を落ち着かせる精神力に、冷戦沈着な思考能力。すなわち「心技体」が要求される高度なスポーツなのだ。

 ――それを、雲居は力尽くでねじ伏せる。

 

「まぁ、百舌鳥さんにひととおり仕込まれたんで。でも、百舌鳥さんいわく、俺はフィジカルバカで、身体能力に物を言わせてるんだとか。だから、ほら、こんなことだってできる」

 

 ピンと両腕から指先まで一直線に伸ばし、指先からぶら下がる。

 それは不思議な現象だった。

 指は、岩を掴んでいない。にも関わらず、まるでそれが吸盤かなにかであるかのように、指先はぴたりと岩に吸い付いて離さないのだ。

 

「……なんだそれは」

 

 驚きよりも呆れの表情で、アキラは眼前の珍妙な現象を見やった。

 

「分子間力を高めてるんですよ」

 

 ドヤァと得意そうな顔をする雲居に、アキラはとびきりの笑顔を返す。

 

「ほぅ。マトモに答えるつもりはないか」

「答えます、答えますからハンマーを投げようとしないでください!」

 

 慌てて地面に飛び降りる。

 音もなく着地すると、雲居は、指先をアキラの眼前に突き出した。

 

「……なんのつもりだ、指なんか突きつけて」

「これが秘密の正体です。俺の指先からは目に見えないくらい微細な繊毛が生えてて、それが、あらゆる物にくっつくんです」

 

 耳に馴染みのない原理である。しかし、動物学に精通したアキラの理解は早かった。

 

「なるほど。ヤモリの類が壁や天井に張り付くのと同じ原理というわけか」

「ヤモリと一緒かぁ。そうすると、俺って蜘蛛男(スパイダーマン)というよりヤモリ男(ゲッコーマン)なのかな?」

「手から蜘蛛糸を飛ばし、ヤモリよろしくあちこち張り付いて、五感の鋭さは野生の獣並で、戦闘能力も私と同等かそれ以上ときた。つくづく便利なヤツだな、お前は」

「褒めてるんだか、珍獣扱いしてるんだか……」

「もちろん褒めてるに決まってるだろう。私の仕事は希少な動植物の保護なのだぞ」

「それって、戦力としてですか。それとも珍獣として?」

 

 ひきつった顔をする雲居に、アキラは小さく笑って答えを返す。

 

「明日からのサポート、頼りにしているぞ」

 

 それが陰を感じさせない、心からの笑みだったから、雲居は嬉しくなって胸を叩いた。

 

「そりゃあもう、大船に乗ったつもりで、このASEのスーパーヒーローに任せてくださいよ!」

「調子に乗るな、馬鹿者っ」

「痛いっ。どうしてすぐに手が出るんですか」

「動物の躾と同じだ。言葉よりも身体に刻みつけたほうがよっぽど効果的というものだ」

「俺は人間ですよ。話せば分かる!」

「問答無用」

 

 そんな二人を、遠くから監視する人影があった。

 

「なるほど、IBAMAの連中はASEに助っ人を頼んだか」

「おい、大丈夫なのか。相手はあのASEだぞ!?」

「なに、心配ご無用。依頼主(クライアント)のあなたは、ゆっくり冷房の効いた部屋でくつろぎながら、吉報を待っていてくださいよ。山に登るというのなら、これほど好都合なことはない。どれほど優れた登山家であっても、山の気まぐれひとつで容易く命を落とすもの。うまく事故に見せかけて葬ってみせますよ。大自然を前にしては、人間は無力なものだ。――我々アンザー山岳傭兵団を除いてはね」

 

 

 **

 

 

 アヘラエル国の夏は、カラッと暑い。

 なにせ、降水量の少ない砂漠と山岳の国である。むしむしした不快な暑さとは無縁であるが、その分、刺すような日光が肌に痛い。種類は違えど、暑いことに変わりはないのだ。

 にも関わらず、山は涼しい。頂上に積雪こそ見えないものの、山の空気はひんやりしていた。

 

「山って涼しいんですね。まるで別世界だ。こんな厚着を渡されたときは、おいおい大丈夫かよって思ったけど、なるほど納得だなぁ」

「標高が高いから、昼であっても気温が比較的低い。ちょっとした避暑地みたいなものだな。だが、日光は強いぞ。動けば発熱もする。服の中は、当然熱気がこもる」

「……やっぱり要らないかな、この上着。邪魔になるし」

 

 いったん背嚢を下ろして上着を脱ぎだした雲居を、亜取が止める。

 

「脱ぐんじゃないぞ。夜は山でビバークすることになる。肌を保護する必要もあるしな。はだけるくらいにしておけ」

 

 分厚い地表をまっぷたつに割いて、山が地中からせり出している。それが為か、山は、刃物のように鋭く切り立っている。ごつごつした山肌は、こうして距離を置いてみれば、カミソリのようにするどく見えた。

 その山を、雲居は麓から見上げる。

 首が痛くなって、雲居はうめいた。

 

「これを登るんですか……」

 

 九十度にちかい絶壁が、幾重にも重なっている。冬になれば雪化粧をして、氷山のように見えたに違いない。

 

「そうだ。その為の訓練は昨日した筈だ」

「ええ、デートの代わりにね。まさか、別の女()の口説き方を教えられるとは思わなかったなァ」

「無駄口を叩くなよ。山は、おしゃべりな男は好かないらしいからな」

 

 そんな軽口をたたき合いながら、ふたりは山を登り始めた。

 

 まずは雲居が先行する。

 するすると絶壁を登り、しばらく行ったところでボルトを壁面に打ち込んだ。そうして支点を取ると、ボルトの先の金具に、命綱を固定する。

 命綱は、雲居とアキラの二人につながっている。片方が登るときは、必ずもう一方が命綱を手にとって、もしもの時に備えるのである。

 

「セルフ確保! ビレイを解除してください!」

「了解だ! 引き上げシステム構築できたら声をかけてくれっ」

「できました! 登ってください!」

 

 雲居が大声で合図を送ると、今度はアキラが登り始める。

 その間、雲居は新たに見つけた足場で、しっかりと命綱を握ってアキラの滑落に備える。

 もちろん、そんなヘマをやらかすアキラではない。涼しい顔で、雲居のいる足場へと登ってきた。

 

「やぁ、しばらくぶりです」

「また減らず口を。……ふむ。ちゃんと手は動かしていたようだな。なかなか上手にできているようだ」

 

 壁面のボルトと、そこに取り付けられたカラビナ・ロープを見て、雲居を褒める。

 

「へへっ。百舌鳥さんにしごかれましたんで」

 

 雲居は照れくさそうに頭を掻いた。

 服から提げたカラビナの群れが揺れて、ジャラリと音を立てる。ツールを提げ、ハーネスを腰に巻いた姿は、なかなかどうして様になっていた。

 

「悪くないぞ。昨日の練習もなかなか手際が良かったが、創が仕込んだだけのことはある」

「そうでしょうとも。あの人、めちゃくちゃ厳しいからなぁ。ちょっとでも手間取ったら拳骨が飛んでくるし、もちろんトチっても拳骨だし、手の届かない距離にいても後から拳骨だし」

「当然だ。命に関わることだからな」

「ここにも肉体言語の遣い手が。言えば分かるのに、どうしてわざわざ手を出すのか俺には分からないよ……」

「痛くなければ覚えないだろう」

 

 などと合流しては会話を交わし、それからまた交互に登っていく。

 クライミングは大変だ。素手で岩肌を登りながら、いちいちボルトを打ち込んでいくのは重労働だし、しかもコース取りには頭を使う。

 けれども、雲居にはそれが苦にならなかった。亜取アキラというとびきりの美人と会話を交わすチャンスがあったからだ。

 

「砂漠の国での任務だなんていうから、どんなに味気ないものかと思ったけど、来て良かった! まさか亜鳥さんとこうして絶景を拝むことができるなんて」

 

 たまの休憩には、ふたりで仲良く絶壁に腰かけて、はるかな絶景を楽しんだ。

 

「すごいですね、これ。水平線が丸くなってるのが見える。地球って、本当に丸かったんだ」

「遠くを眺めるのも良いが、近くを見るのも楽しいぞ。ほら、さっきまでと生えている植物が違うだろ」

 

 茶色の岩肌からは、ところどころ木が生えており、わずかばかりの緑を添えている。アキラはそれを、登りながら観察していたのだ。

 

「植生限界というやつだ。植物にはそれぞれ、自生するのに適する高さがある」

「へぇ。アキラさんって、動物だけじゃなくて植物もイケる口なんですね。守備範囲が広い!」

「たしかにそうだが……その表現はなにか邪念を感じるぞ」

「わわっ、冗談ですって。だから拳を構えないでください。こんなトコで殴り飛ばされたら、死んじゃう!」

「大丈夫だ。そういう時のために、今さっきセルフを取っただろう?」

 

 岩肌のボルトと、身体のハーネストとを直接つなぐスリングを指さして、アキラは微笑んだ。肉食獣のような笑みだった。

 

「なんてな。さすがに冗談だ。私の力で殴れば、そんなハーネスくらいかんたんに千切れる。……さて、そろそろ登山を再開するぞ」

「はーい。……やれやれ、これを登るんですか。気が滅入るなぁ」

 

 休息を終えた二人は、上を見た。

 傘のようにせり出した壁が、行く手を阻んでいる。

 

「オーバーハンギングだ。ここからは、本当に気が抜けないぞ。ここまではお前に経験を積ませる為に先行(リード)させたが、ここからは私が先に行く。よく見ていろ」

 

 言うが早いか、ひょいと壁に飛びついた。

 アキラは美麗な見た目に似合わぬ、怪力の持ち主である。片手で全体重を支え、それどころかすいすい上へ上へと登っていく。

 頭上にせり出した尾根。そこにぶらりと掴まって、そのまま身体を引き上げた。

 

「ひゃあ、亜取さんはスゴイなぁ。あの出っ張りを、腕力だけで登っちゃった。……いや、違うな。腕に力はかかってない。脱力してぶら下がってるだけだ。足で蹴って、その力で登っていってるんだ」

 

 アキラは熟練のクライマーである。

 動植物の保護のため、ありとあらゆる環境に二本の足と二本の腕で分け入っていく。密林の奥地や、砂漠の真ん中、果ては絶壁に守られた山頂まで。

 世界最後のバイオハンターは、世界屈指の冒険家なのだ。

 その動きを、雲居はじっと、まるで頭に刻みこむかのように眺めやる。

 

「待ってろ、雲居。今からロープで吊り上げてやる」

「いやいや、心配御無用。俺だって男なんです。亜取さんに頼りきりなんてできませんよ。――ほっと」

 

 四肢で壁を蹴って、頭上にせり出した尾根に飛びつく。それこそ蜘蛛のような、体重を感じさせない身軽な動きだった。

 アキラを見て学んだ動きを、自分の身体に合わせて再構築したのである。

 

「どんなもんです」

 

 と得意そうな顔をする雲居を、アキラは一喝した。

 

「バカ者!」

 

 それから、重々しく諭す。

 

「……お前が優れた身体能力の持ち主だということは知っている。だが、意味もなく無謀なことはするな。いくら慎重を期しても、し過ぎということはないんだ」

「むぅ」

 

 当然、雲居は面白くなかった。そんなに自分は頼りないのかと、反骨心が首をもたげる。

 ひとこと言ってやろうとアキラを睨んで、

 

「っ――」

 

 言葉を飲み込んでしまった。

 アキラが、まるで我が子を案ずる親猫のように、じっと雲居を見ていたのである。それは、雲居がずっと欲して、けれどもとうとう得ることのできなかったものだった。

 

「……分かりました、無理はしませんよ。だから、そういうの勘弁してくださいよ。なんだかムズ痒い」

「うむ、それで良い。大人の言うことは素直に聞くものだ」

 

 居心地悪そうに頭を掻く雲居に、アキラは目を細めて微笑んだ。

 

「ったく、調子が狂うな。なにせ、俺の周りの大人ときたら、無茶無謀を要求する鬼軍曹ばっかりだからなァ」

「違いない。創のヤツは言うまでもないが、ヤツが連れてくる教官役の連中も似たり寄ったりだろう」

「昨日の亜取さんもね」

「ほう。また殴られたいらしいな」

 

 ニヤリとする雲居に、アキラもニヤリと返す。ただし、こちらは猛獣の笑みであった。

 

「またまたそんなこと言って。こんな場面じゃあ、流石の亜取さんも手は出せないでしょ」

「今はな。帰ったら覚えておけよ」

「えっ」

 

 こうして二人は、どんどん山を登っていく。

 けれども、いつまでも気楽にクライミングを楽しむことができたわけではない。

 ここはアヘラエル山脈。「大地を穿つ剣山」の異名を持つ、世界に名だたる険しい山である。高く登るにつれて、いよいよ山はその牙を剥きはじめたのである。

 

 

**

 

 

 それから数時間。

 二人は絶壁を登り続けていた。

 

 とはいっても、登山スピードは落ちてきている。

 山頂に近づけば近づくほど、より強い雨風にさらされるのか、壁面はいっそう鋭く磨かれ、取っかかりが少なくなってきた。のみならず、行く手を阻む裂け目(クラック)に、たびたび顔を出す出っ張り(オーバーハンギング)

 雲居は、額をぬぐって嘆息した。

 

「うひゃあ、なかなかどうしてキツイですいね、この山!」

「それはまあな。お前が訓練を積んだのは日本アルプスだそうだが、ここは世界屈指のアヘラエル山脈。しかも我々が登るのは、先達のいない山だ。一からルートを構築しなければならん」

 

 驚異的な身体能力を誇る雲居であるが、それだけで登れるほど山は甘くない。適切な判断をするには、深い洞察と経験とが必要なのだ。身体よりもまず先に、精神のほうに疲れがくる。

 

「ちょうど手広な足場がある。どれ、ひと休みしよう」

 

 サバサバしたアキラである。壁面にセルフを取ると、絶壁からせり出した足場にドスンと腰を下ろした。雲居の意見など知ったこっちゃないと言わんばかりに。

 だが、それが自分を気遣っての行動だと、雲居にはよく分かった。

 

「俺、かっこわるいな。亜取さんはこんなに余裕なのに、俺ときたら」

 

 額に滲む汗を拭いながら、雲居も腰掛ける。

 汗は、身体的疲労によるものではない。極度の緊張状態を維持する、精神的疲労によるものだ。

 

「俺、さっきから足を引っ張ってばかりだ。正直、山を舐めてました。訓練でちょっとばかり上手くできたからって、一人前(プロ)にはほど遠いのに。……俺、亜取さんのサポート、ちゃんとできてないですよね」

 

 雲居は俯いて声をしぼりだした。その声には、くやしさと申し訳なさが滲んでいる。

 アキラはサバサバと言った。

 

「そうだな。お前以上、あるいは私以上に登山の上手いスペシャリストなど、いくらでもいる。少しばかり身体能力が優れているからと言って、お前を選ぶ理由にはならん。だが――」

 

 言葉を続けようとしたアキラの側面で、殺気が膨らんだ。

 それに気付かぬアキラと雲居ではない。二人は、弾かれたように散開する。

 

 銃声――

 

 乾いた炸裂音が、それまで二人の居た空間を引き裂いた。

 見れば、ずっと向こう側に見える壁面に、銃を構えた男がいた。

 

「なんですかアレ! ひょっとして俺を選んだ理由って……」

「そうだ。山を登りながら、妨害勢力と渡り合える人材。私の知る限り、もっとも適した人材がお前だった」

「そうでしょうとも。そんな超人、スタローンかスーパーヒーローくらいでしょうよ!」

「それより敵に集中しろ。あっちだ」

 

 二人が登ってきた崖の、反対側の崖から上半身をのぞかせる男。腹を崖の壁面に、腕を地面にくっつけて、銃の反動を制していた。 

 

「ちぃっ、躱したか。勘の良いヤツラだぜ。だが、次は無い。このまま蜂の巣にしてやる」

 

 男は、素早く崖をよじ登って銃を構えた。両手を銃にふさがれていながら、素早く安定した身のこなしである。特殊な訓練を受けていることは、誰の目にも明らかだった。

 

短機関銃(サブマシンガン)か。この場所では不利だ。逃げるぞ、雲居」

「逃げるったって、どこへ!」

 

 狭い崖の上である。遮蔽物もなければ、男との距離だって遠くはない。

 となれば、答えはひとつしかない。

 

「決まってるだろう。こっちだ」

「でっすよねェ!」

 

 アキラは躊躇いなく崖から飛んだ。その後ろに雲居が続く。

 

「うわぁああああ!」

 

 雲居の絶叫が険しい山々に木霊して、それから、物体がぶつかるドスッという音がする。

 それで、男は二人の無事を確信した。

 身体を打ち付けたのとは、異なる音だった。足から壁面に着地したに違いない。

 

「ちっ、しぶといヤツラだ」

 

 崖に駆け寄った男が目にしたもの。それは、壁面にへばりつく二人の姿だった。

 命綱に吊り下げられ、落下運動を横移動に変換。壁面に叩きつけられながら、それでもなんとか、壁面にへばりついていたのだ。

 そのまま、するすると降下していく。

 

「喰らえ!」

 

 はるか眼下の二人に向けて、短機関銃を撃つ。

 ところが、途中の出っ張り(オーバーハング)が傘となって、雨あられと降り注ぐ銃弾を弾いてしまう。

 しばらくすると、二人の姿は見えなくなってしまった。視線を遮る出っ張り(オーバーハング)の下から、別ルートへと逃げ込んでしまったのだ。

 悔しがる男の背後に、ぬっと一つの人影が立った。

 すると、男は顔色を青くして、弾かれたように直立して人影に向き直った。

 

「すいません、隊長。ヤツラを逃してしまいました」

 

 隊長と呼ばれたのは、年嵩の男である。

 年嵩の男は、傷だらけの顔に壮絶な笑みを浮かべ、

 

「なに、構わん。ここのところ、他愛ない仕事ばかりで退屈していたところだ。たまには狩りでのある獲物と遊ばなければ、腕がなまってしまう。――気を引き締めろ。久々の狩りだぞ」

「はい――グッ!」

 

 男の腹にパンチを見舞った。

 それから、崖から垂れるロープ――雲居とアキラの命綱である――をナイフで切り、後ろに居並ぶ男達に檄を飛ばす。

 

「お前らも気を抜くな。次に下手をこいたら、崖から蹴り落とすぞ。我々は最強のアンザー山岳傭兵団なんだからな!」

 

 

 **

 

 

 そして、こちらは雲居とアキラの二人である。

 二人は壁面に背中を預けて、なるべく上から姿が見えないように気をつけながら、囁き合った。

 

「アイツら、いったい何者なんです?」

「うむ。あの熟達した身のこなしに、戦闘服の山羊のエンブレム。間違いない。山羊(アンザー)山岳傭兵団だ。妨害が入ることは予想していたが、まさかヤツラを雇うとはな……」

 

 アキラは苦々しく呟いた。

 その一言で、雲居はなんとなく事情を察した。要するに、アキラの活動を煙たく思った連中が差し向けてきた刺客なのだろう。

 実際、アキラの説明は、大筋では雲居の予想通りだった

 

「我々は、絶滅危惧植物保護の観点からアヘラエル政府に提言をしてきた。鉱山開発を止めるようにとな。だが、それに耳を貸すような国などある筈もない。国を動かすには金が必要で、もっとも簡単な金策のひとつが鉱山開発だからな」

 

 アキラは粛々と語る。

 

「そこで、国際機関にも働きかけ、国際的な問題として取り上げてもらえるように動いた。そこまで事が大きくなれば、さすがのアヘラエル政府も完全には無視できん。そして、その為には、件の植物をこちらで確保する必要があった」

 

 希少な植物には、希少な動物以上の価値が見いだされる。それというのは、植物のつくりだす未知の成分が、新たな薬の原料となる可能性を秘めているからだ。

 

「もちろん、アヘラエル政府も指をくわえて見ている筈がない。妨害工作か、悪くすれば襲撃があることが予想された。まさか、あの悪名高いアンザー山岳傭兵団を出してくるとは思わなかったがな」

「例えば、そんな危険な任務に高校生を呼ばないでくださいとか、ASEもそれを理解した上で俺を派遣したのかよとか、ツッコミたいことは色々ありますが……大変遺憾ながらそれは一旦棚上げして、アンザー山岳傭兵団って何です?」

「この地域の山岳地帯を中心に活動している、凄腕の傭兵部隊だ。金次第でどんな仕事も請け負う」

「うへぇ、ガチの傭兵集団か。ぞっとしないな……」

 

 雲居は身震いした。

 短機関銃(サブマシンガン)で武装した、山岳地帯に特化した部隊を、しかも徒手空拳で相手取る。

 

「なに、正面切って戦う必要はない。私たちの勝利条件は、あくまで件の希少植物の採取なんだからな」

「そうは言っても、連中が見逃してくれるとは思えませんけどね。やっぱり一戦交えるんだろうなぁ」

「それなら、この任務を降りるか? 私はそれでも構わないぞ」

 

 頬杖ついて難しい顔をした雲居を、アキラが淡々と煽る。

 雲居は、ニカッと牙を剥いて答えた。

 

「冗談。俺だってASEの一員です。途中で投げ出すもんですか。それに、アキラさんを置いて一人だけ逃げ出すなんて、男のすることじゃない。任せてくださいよ。返り討ちにしてみせます」

「それは頼もしいことだ」

 

 アキラもまた、笑みを浮かべて頷きを返す。

 

「さて、日も暮れてきた。今日のアタックはここまでにして、今日はそろそろ休むぞ」

 

 背嚢に詰めた寝袋やらクッカーやらを指す。

 

「アキラさんと二人きりで外泊! うーん、やっぱり来てよかったなぁ」

「バカモノ! ヤツラの襲撃を警戒しながらの不寝の番だ」

「あいたっ! だから肉体言語でなくっても理解できますってば」

 

 そんな話をしながら、二人はせっせとビバークの準備をするのだった。

 




11,014文字


読んでくださってありがとうございます。

プロット自体は、前話を書く前からほぼ出来ていました。
が、クライミングについて勉強しようと思ったのがいけなかった。やたらめったら難しい上に、なんやかんやで忙しかったので、いつまで経っても本編が書けず。名画『クリフハンガー』を観るも(無茶苦茶面白かったです)、参考にならずただただ楽しい時を過ごしたり。そうするうちに他の小説にまで手を出して、結果、一年以上放ったらかし。

このままじゃあ、いつまで経っても書けない!
そこで「フレーバーなんだし、テキトーでいいじゃん」と開き直ることに。
ユグドラシル未プレイでもオバロは書けるし、猫耳猫が実在しなくても猫耳猫は書けるし、童貞でも陵辱系エロゲのシナリオは書けるんです。
ホーリーランドの作者がボクシングしてる筈ないし、久保帯人先生もポエムは書いても刀は振るったことはないに違いない。福本先生は……麻雀とか都会派野生生活とか収容所暮らしとかしてたかもしれませんけど(どれもひどい偏見)。

改めて、読んでくださってありがとうございます。
続きは数日以内に投稿します。


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7.Cliffhanger ~クリフハンガー~_下

<登場人物>
小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生。

百舌鳥創(もず はじめ):
ASE日本支部をまとめる支部長。

亜鳥アキラ(あとり アキラ):
ASEのエージェント。怪力オバケ。
自然保護団体IBAMAの一員として活動する傍ら、密猟者撲滅組織の一員として世界中を飛び回っている。日系三世ブラジル人。


 山の朝である。

 天にほど近いからだろうか。冴え冴えとした白光があたりに満ちて、目に眩しい。

 まっしろな空気はあまりに清澄で、肺を刺すような心地さえした。

 そんな、都会にいては望むべくもない朝焼けのなかで、絶壁に取り付く少年がいた。小雀雲居である。

 

「いやぁ、相変わらずご立派な絶壁だなぁ。今日も楽しく登れそうだ」

 

 そんな雲居にかかる女性の声。

 

「ほう。随分と乗り気じゃないか」

 

 長髪を山風になびかせ、長い睫毛に瞳をけぶらせた、たいへん美しい女性。亜取アキラである。

 

「はい、それはもちろん! 悪党をサクッと殲滅して、稀少植物を根こそぎ持って帰っちゃいましょう」

「バカモノ、それではただの乱獲だ!」

「あいたっ」

「お前はバカモノだが、今日は輪をかけてひどいぞ。どうした、寝不足か?」

「いやいや、睡眠時間は十分ですよ。ただ、ちょっとやる気が空回りしたっていうか」

 

 なにせ昨夜の就寝は早かった。交代で不寝の番をしたとはいえ、睡眠時間はたっぷり確保できている。

 となれば、雲居の体たらく(・・・・)の原因は睡眠時間ではない。もっと別のこと、即ちアキラと過ごした昨夜の一幕にあった。

 

 

 **

 

 

 刻は、昨夜の夕食まで遡る。

 

 雲居はニコニコ笑顔で夕食の準備をしていた。

 携帯コンロに(コッヘル)をセットして、お湯を沸かす。ハーブティーなんぞ淹れた後は、パウチ詰めの食糧を(コッヘル)に移して温めれば、ちょっとした山ごはんの出来上がりだ。

 薄暗がりのなかで、コンロの揺れる火を見つめる。

 それも、対面にとびきりの美女を据えて。

 となれば、自然と頬も綻ぶというもの。

 

「どうした、そんなにニヤニヤして」

「いやぁ、素晴らしいシチュエーションだなと思って。前人未踏の雄大な自然に囲まれながら、焚き火を囲んでキャンプ。しかも目の前には美人のお姉さん(亜取さん)もいるし。完璧ですよ。これでワクワクしなきゃ、男じゃない!」

「暢気なヤツだな。いつ敵が襲ってくるとも知れないというのに」

「その可能性は低いって言ったのは亜取さんじゃないですか」

 

 ニコニコ笑顔の雲居と、呆れ顔のアキラ。

 ともすれば、年上のお姉さんと、お姉さんに憧れるおしゃまな高校生(こども)のように見える。

 実際、アキラは雲居を軽くあしらってのけた。

 

「だが、自然を楽しむのは良いことだ。どれ、ひとつ教えてやろう」

 

 と言って指さしたのは、壁面からにょきりと生えた、一本の木だった。

 

「あれは木ですか。木というには、ちょっと細くて頼りないですけど」

「何を言う。これも立派な木なんだぞ。こんな厳しい環境にも関わらずしっかりと根を張って、こうして命をつないでいる。強かで頑張り屋の、立派な木だ」

 

 まるで我が子を語る母のように、アキラの声音はやさしい。

 コンロの火にぼんやりと照らされる姿は、慈母を描いた絵画のよう。

 

「亜取さん……」

 

 思わず見入ってしまう雲居であったが、

 

「だがな」

 

 アキラはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「コイツは多くの登山者を殺してきた『殺人樹木』とも言われている。どうしてだか分かるか」

「えっ。これがですか? まさか自ら動いて人を食べるワケじゃないでしょうし。ひょっとして、毒を持っていて、うっかり触った人が死んでしまったとか」

「ほう、毒か。ならば触ってみろ。本当に毒があるかどうか、すぐに分かる」

「ということは、毒は無いんですね」

 

 からかわれて、むすっとする雲居。

 アキラは、カラカラと笑う。

 

「悪い悪い。だが、そうだな、この個体では分かりづらいか。それじゃあ、ちょっと上を見てみろ」

「上って……あっ、なんだかガッシリ太くてご立派な木がありますよ!」

「あれも、コイツと同じ品種の木だ」

「アレが!? ひゃあ、とても同じ木だとは思えないなぁ。片やこんなに細くてたよりないのに、片やあんなに大きくて太い。あれなら、命綱を掛けても大丈夫そうだ」

「そう、それが答えだ」

 

 よく気付いたな、とばかりにアキラが頷く。

 

「……ひょっとして、あんなに丈夫そうなのに、命綱を掛けるとパキッと折れちゃうとか」

「その通りだ。そのようなわけで、そいつは悪魔の木(ザックーム)と呼ばれている」

「なんか、名前からしてトンデモないヤツですね」

 

 雲居はちょっと怯んだ様子で、その「人喰いの木」を見やる。

 

「創にも習っただろうが、命綱を掛ける方法はいくつかある。ひとつは、今日してきたように、壁面に直接ボルトを打ち込む方法だ。そして、もうひとつが、岩や木などの自然物を利用する方法だな」

 

 命綱(ロープ)をぐるりと、木に直接巻きつけるのだ。

 当然、樹皮をこすって傷つけるし、根にも大変な負担を与える。

 

「近年は環境保護の観点から、木を傷つけないよう、壁面にボルトを打ち込む方法を推奨する動きがある」

「分かる気がします。だって、大の大人が下手したら二人も三人も一本の木にぶら下がるんでしょ? もしも俺が木だったら、やめちくりー、根が抜けちゃうよ~って思いますもん。ああやだ、歯を抜かれたときのことを思い出してしまった……」

 

 奥歯をおさえて背筋を震わせる雲居を見て、アキラは、

 

「そうか」

 

 と嬉しそうに笑った。

 

「とにかく、その悪魔の木(ザックーム)には気をつけることだ。安易に掴んだり、命綱(ロープ)を掛けたりしてはいけない。でないと、悪魔に牙を剥かれることになるからな」

 

 などという話で、二人は盛り上がった。

 雲居にしてみれば、憧れの美人のお姉さんとの逢瀬である。どんな話をしても楽しい。

 アキラにとっても、目を輝かせて話に聞き入り、ときに熱心に相づちを打ち、またときには背筋を震わせたりといった純朴な雲居の反応は心地良いものだった。

 あれだけあけすけな下心を持って近寄ってくる雲居が、その下心すらすっかり忘れて、夢中になって話に聞き入るのだ。

 このおしゃまで調子の良い少年が、アキラには、子犬のように可愛らしく思われた。

 

「ふっ」

「ちょっと、なに笑ってるんですか。俺のことバカにしたでしょ!」

「大人ぶりたいのなら、口許を拭ってからにするんだな。ホワイトソースがついてるぞ」

「あっ」

 

 雲居の頬が羞恥でまっかに染まる。

 微笑みながら、アキラはやさしく雲居の口許を拭う。

 それで、雲居は別の理由で頬を赤く染めるのだった。

 

 

 **

 

 

 そのようなやり取りがあったので、雲居はたいへんご機嫌だった。

 

「気を抜くなよ。連中に命綱を切られたからな。ここからは命綱無しだ。身ひとつで、この険しいアヘラエルの山を上らねばならん」

 

 すでに大地ははるか彼方。

 たった一つのミスが、容易く命を奪い取る。

 

 だが、それは普通の人間の話。

 世界唯一のスーパーヒーローにとっては、いささか事情が異なる。

 

「大丈夫ですって。何かあっても、俺のスパイダーウェブで壁にひっつきますし、人間の一人や二人は余裕で支えられます。俺と一緒にいるかぎり、滑落死は無いものと思ってくださいよ」

 

 と言って、手首から蜘蛛糸を放ち、壁面にくっつけてみせた。

「そういえば、お前にはそれがあったか。本当に何にでもくっつくんだな」

「ドンとこいってね!」

 

 感心した様子のアキラに、雲居はニカッと笑ってサムズアップ。

 アキラは苦笑を返す。

 

「その糸の出番が無いよう、細心の注意を払うよう心がけろ」

「まぁ、そうですね。この糸も無限に出せるってワケじゃありあませんし」

「そうだろうな。体内で作られる以上、どうしたって上限はある筈だ」

「タンパク質が原材料なんですよね。だから、いつも山ほど肉を食べなきゃならない。一応プロテインを持ってきてはいるんだけど、なるべく無駄撃ちは避けたいところです。だって、なんとか山岳傭兵団とかいう連中もいることですし」

「そうだ。気を引き締めてかかるぞ」

「はいッ」

 

 二人は頷き合い、緩んだ心を引き締めたのだった。

 

 

 **

 

 

 こうして、二人は登山を再開した。

 

「ひゃあ、こいつはすごい。山がまっぷたつに割れてる」

 

 二人が上ってきた絶壁は、途中から二つに裂けていた。

 あたかも、同じ胴体から二つの首を生やした、二股頭の竜のようにも見える。

 けれども、その更に上を見れば、首はまたひとつに合体しているのが分かった。これは洞窟への入り口なのだ。

 

「地殻変動か、あるいは流水に削られたのか。永い時間の流れのなかで、山に大きな裂け目ができたんだ。――これから私たちは、この裂け目のなかを登っていく」

「なんか、いよいよ冒険って感じでワクワクしますね」

 

 二人は、身をひねって裂け目のなかへ入っていく。

 

「へぇ。裂け目のなかに更に裂け目があるのか」

 

 雲居の瞳に飛び込んできたのは、亀裂だらけの壁面である。

 すっぽり身体が入るくらい大きなものもあれば、手足が入るかどうかといった小さなものもある。

 二人が目を付けたのは、まっすぐ縦に伸びた細長い亀裂だった。

 

「しめたぞ。却って登りやすい」

「ですね。習った技術が大活躍。百舌鳥さんにしごかれた甲斐があったってもんだ」

 

 雲居は、亀裂に両手を突っ込んだ。

 手の甲を合わせると、そのまま指を折り曲げて、V字をつくる。あるいは、鳥が翼を広げたふうにも見えたかもしれない。

 それは、うまい具体に亀裂につっかえて、雲居の身体をしっかり支えた。

 

「リービテーションって手の握りだ。次は足をTスタックにしてっと」

 

 こうして上体をホールドすると、脚が自由になる。

 自由になった脚を持ち上げ、足先をT字に組んで亀裂にガチリはめ込んだ。そのまま、ぐっと脚を伸ばす。

 くの字に折れた身体が、上に伸びる。尺取り虫のように、雲居の身体は壁を上へと登っていく。

 

 このように手をはめ込んで上体を支え、脚を使って上へと登る。そうしたら再び手をはめ込んで……と尺取り虫が壁を這うように、すこしずつ上へ進む。

 腕ではなく、脚を使って登っているのだ。

 人体において、脚が発揮する筋力は、腕にはるかに勝る。当然、持久力も段違いとなる。

 

「よし。次は狭くなってるから、ハンドとヒールトゥかな」

 

 今度は片手を差し込み、くの字にしてつっかえる。

 足は、片足を捻ってうまいこと亀裂にはめ込む。

 

 手も足も、亀裂の大きさに合わせて握ったり捻ったり、あるいは両手両足を組み合わせたりと、さまざまなパターンがある。

 それを、雲居は素早く適切に選び取って、するすると登っていく。

 

「ほう、なかなか上手いじゃないか」

「でしょう? 百舌鳥さんにも『バカのくせに飲み込みが良いじゃないか』と褒められたんですよ」

 

 ニコニコと嬉しそうに言う。

 

「更に、こんなこともできるんです。ほらっ」

 

 パッと手を放す。

 かと思えば、掌を開いて壁面にくっつけた。

 

 するとどうだろう。

 まるで吸盤でも隠し持っているかのように、雲居の掌は壁に吸い付いたのだ。

 

「…………そういえば、そんな特技(もの)もあったな」

「靴を脱げば、ほら、こんなことだって」

 

 手足が壁面にくっつく。

 そのまま壁面を四つ足でするすると登っていく様は、まるで蜘蛛のようだった。

 

「なるほど、蜘蛛男(スパイダーマン)か」

「便利でしょ? 百舌鳥さんにも言われました。お前はジャミングするより、そうやって登った方がずっと早いって」

 

 足だけで壁にへばりつき、上体をそらして満足気な雲居に、アキラが呆れ顔で尋ねる。

 

「創のヤツにしごかれた甲斐、本当にあったのか?」

「………………」

 

 雲居は渋い顔で黙すのだった。

 

「……とにかく、どうにかこのクッソ長い亀裂(クラック)を登りきりましたね!」

「ああ。ようやく一息つけるな」

 

 先行していた雲居が、アキラを片手で引き上げる。

 亀裂から這い出た先は、ちょっとした平地になっていた。

 

「広いなぁ。ここなら、ゆったり手足を伸ばして寝転んでくつろげるぞ」

「ふむ。我々が登ってきたのは、大岩に穿たれた亀裂だったのかもしれないな。何にせよ、昼時だ。一休みといこう」

 

 二人は腰を下ろして、辺りを見回した。

 

「おお、絶景だなぁ」

 

 どこまでも伸びる茶色の地平線。

 地平線を境に、それより上は空の青色で塗りつぶされている。それは、茶色との対比になって、いっそう瑞々しい。

 いつの間に追い越したのだろうか、眼下で、白い雲が茶色い地平を覆うようにたなびいていた。

 

「もうこんなに登ったんですね」

「ようやくと言った方が良いかもしれん。なにせ、一日がかりでここまで来たわけでからな。……ほら、後ろを見ろ。頂上が見えてきた」

 

 後ろを振り向くと、相変わらず絶壁が上へと続いている。

 どこまでも続くかと思われた壁は、しかし、よくよく見れば先が途切れていた。頂上だ。

 

「本当だ、ずっと見えなかった果てがようやく見えてきた! ……ずっと遠くに、豆粒みたいに見えますけど」

 

 喜色ばんで、それから肩を落とす。

 ころころ表情を変える雲居の姿に、アキラはカラカラ笑い声を上げた。

 

「ふふっ。もっと喜んだらどうだ? 世界に名だたるアヘラエルの山を攻略しつつあるんだぞ」

「おっ。といういことは、俺も晴れて一人前のクライマーの仲間入りですかね」

 

 などと暢気に四方山話ができたのも、ここまで。

 

 パーン――

 

 乾いた破裂音が、山々に木霊した。

 

「銃声!?」

「あっちだ。崖を挟んだ向こう側にいるぞ!」

 

 アキラが指さす先には、いくつかの人影があった。

 赤茶けた山肌と同化する迷彩服。手には銃を携えて、こちらに狙いを定めていた。

 

「うわぁ、短機関銃銃(サブマシンガン)の群れだ!」

「落ち着け。短機関銃銃(サブマシンガン)の有効射程はせいぜい五十メートル。当たりはしない。単なる威嚇射撃だな」

 

 と言うアキラの足許で、地面が爆ぜた。着弾したのである。

 

「いや、威嚇じゃなくって当てにきてるじゃないですか。しかも当たりそうになってるし」

「ふむ。強風の流れる谷越しに、短機関銃銃(サブマシンガン)でこの精度。なかなか腕の立つ連中らしいな。これは……なかなか困った状況かもしれん」

 

 開けた場所なので、射線を遮るものがない。

 かといって、来た道は、長い長い鉛直方向の一本道だ。戻ろうものなら、追いかけてきて蜂の巣にされる。

 

「連中、この崖くらいなら渡ってきそうだしなぁ」

 

 崖は、下が見えないくらいに深いが、距離はたいしたものではない。勇気を出して飛べば、成人男性なら飛び越すことができるだろう。

 

「よし。だったら、ここで戦おう」

 

 雲居は腹をくくった。

 

「どうするつもりだ?」

「逃げても追ってくるってんなら、正面切って飛び込んでくまでです。亜取さんは、何か物を投げて援護をしてください」

 

 言うなり、雲居は駆けだした。

 崖に向かってひた走る。

 崖の向こうの男達は、鴨が葱背負ってやってきたとばかりに、短機関銃銃(サブマシンガン)から鉛玉をばらまき出す。

 

 それを雲居は上に跳ね、左右に飛び、また地面に伏せるような超姿勢になって避けながら、どんどん前に出て行く。

 

「また無茶をする! ええい、とにかく援護だっ」

 

 コッヘルにハンマー、懐中電灯にマルチツール、コンパス。アキラは背嚢からありったけの硬そうなものを取り出して、手当たり次第に投擲した。

 

 ただの投擲とあなどるなかれ。

 大の大人を空中に殴り飛ばすことのできる、人間離れした怪力の持ち主である。それが、野球選手のような綺麗なフォームで以て、全身の力をまんべんなく伝導させて物を投じるのだ。

 

 投げられた物体は、ごうっと凄い音をたてて雲居を追い越していく。

 それは狙い過たず、自動小銃を構えていた男達の顔に突き刺さった。

 

「うごぉ」

「ふげっ」

 

 変な声を出して、男が一人、また一人と倒れていく。

 歯が欠けたり、鼻が折れたり、またひどい者は頬骨を砕かれ眼底挫傷の重傷すら負ったりしていた。

 

「動きながら撃て! 動けば当たらんぞ!」

 

 リーダーの号令で、男達は左右に動きながら弾丸をまき散らす。

 

「でも、狙いが甘くなってるぜ。あちらを立てれば、こちらが立たずってね。亜取さん、ナイス援護!」

「だからって、当たらないなんてオカシイだろ! これだけバラ撒いてるんだぞッ」

 

 傭兵どもがわめいた。

 それも無理からぬことである。

 たっぷり一マガジン分の弾丸を、それも十人余りが一斉に吐き出しておきながら、雲居は無傷。

 まるで弾丸の行く先が分かっているかのように、跳ね回って段幕を回避してしまったのだ。

 

「俺、動体視力と反射神経には自信があってね。見えてるんだよ、おまえ等の弾丸は全部」

「そんなバカなことがッ」

「あるんだな、これが」

 

 などと軽口を叩きながらも、雲居は足を止めない。

 上下左右に跳ね回りながら、どんどん前に出て行く。

 

「ちっ、弾切れだ!」

 

 男達がいっせいにマガジンを交換する。

 段幕が途切れる。

 

「あらあら、おひねりはもうオシマイかい? それじゃあ、お代わりがもらえるように、今から芸をしに近くに行こうじゃないか!」

 

 雲居は、崖目がけて一直線に駆ける。

 一歩地面を踏むごとに、身体はぐんぐん加速していく。

 眼下に青空を見下ろす崖がどんどん近づいてきて、

 

 ――トン、と地を蹴った。

 

 浮遊感。

 雲居の身体は、宙を舞っていた。

 

 と同時に、ガシャンという音。

 リロードを終えた銃口が、一斉に空中の雲居に向けられる。

 よほど訓練が行き届いているのか、一連の動作は目を見張るほど手際よく素早かった。

 

「撃てぇぇええ!」

「雲居!」

「あっ、やば」

 

 アキラの悲鳴が響くのを聞いて、流石の雲居も青ざめた。

 しかし、雲居は諦めない。

 

「よしっ、ならこうだっ」

 

 足を男達に向け、水平になる。

 なるべく被弾面積が少なくなるようにして、急所を両腕で守った。

 

「そして、ウェブ・シュート!」

 

 前方にしゃにむに蜘蛛糸を放つ。

 それは、足の前で傘のように広がり、身体を守る即席の盾となった。

 

「うおおおおっ」

 

 雨あられと銃弾が降り注ぐ。

 あるいはあさっての方向に飛んでいき、またあるいは雲居をかすめ、またあるいは蜘蛛の巣に弾かれて直撃コースから逸れていった。

 もちろん、全ての銃弾を防ぐことができたわけではない。

 蜘蛛の巣をくぐり抜けた銃弾や、銃弾を弾いてもろくなった箇所を打ち破って突き進んできた銃弾もある。

 それらは、雲居の肩を裂き、あるいは腕にめり込み、あるいは脚を貫いた。

 しかし、それでも――

 

「ははっ、どんなもんだい。概ね無事にこっち側へ来てやったぞ!」

 

 ――致命傷にはほど遠い。

 ぎりりと拳を力強く握りしめ。

 敵を見据える眦は鋭く。

 地面を踏みしめる両脚には力が滾っている。

 

「さぁさ、楽しい乱戦(パーティー)のはじまりだ!」

 

 トン、と男達の頭上を跳び越え、身を捻りながら着地。

 男達の間に割って入る。

 

「これなら同士討ちを恐れて、銃は使えないだろ。――さぁ、そんな(もん)なんか捨てて、スデゴロでかかってこい!」

「チッ、やるぞお前ら!」

 

 リーダーの男が声を張る。

 すると、男達はいっせいにナイフを抜いて、雲居に襲いかかった。

 

「だぁーっ、だからスデゴロで掛かってこいって言ってるだろ! もう絶対遠慮なんてしないからなッ」

 

 雲居の動きはすばしっこい。

 なにせ、銃弾に対応できるような、冗談じみた身体能力を備えているのだ。

 相手が反応するより早くに、懐に飛び込んで拳を放ち。

 横から伸びてくる腕を、逆に絡め取って地面に叩きつけ。

 後ろに目でも付いているのか、バク宙をして背面の攻撃をかわす。

 そのまま相手の頭を跳び越え、背中に取り付いて、バックドロップの要領で地面に投げた。

 雲居の動きは、圧倒的だった。

 

 とはいえ、敵も然る者。

 

「なんだこいつ、滅茶苦茶強いぞッ」

「怯むな、一斉に飛びかかるんだ!」

 

 彼等は、数の利をいかした効果的な戦術をすぐに思い付く。

 のみならず、非常によく訓練された連携で以て、アイコンタクトひとつでタイミングを合わせるという離れ業をやってのけた。

 否、やってのけようとした。

 それを邪魔する者が現れたのだ。

 

「うぼぉあっ!?」

 

 冗談のような声をあげて、男達が宙を舞う。

 

「待たせたな、雲居」

「アキラさん!」

 

 アキラであった。

 崖を跳び越え、雲居の応援に駆けつけたのだ。

 

「へへっ、頼もしい味方の登場だ。これでお前達の数の利は覆ったぞ。なにせ俺は、百人力のASEのスーパーエージェント。そしてこの人も、百人力のASEの筋肉オバケだからな!」

「ほう。そういう目で私を見ていたのか。覚えておけよ」

「いや、そのですね、これは敵の心を攻める高度な心理戦っていうか……」

 

 などとバカな会話ができるほどの余裕が、今の二人にはあった。

 

「ぐうっ、バカにしやがって! たった二人で、この人数に敵うと思ってるのかッ」

 

 さきほど雲居にのされた男が、鼻血を拭いながら立ち上がった。

 よほど厳しく鍛えられているのか、なかなかの頑丈さ(タフネス)である。

 

「あらら。ちょっと手加減しすぎたかな」

「なかなかどうして根性のあるヤツラじゃないか。これは骨が折れそうだな」

「それじゃあ心を折りましょう。指揮官(リーダー)をやっつければ、片が付く筈。さっき号令を出してたそれっぽいのがそこに――って、アイツどこに行ったんだ?」

 

 四方八方から迫るナイフやキックを捌きながら、キョロキョロ辺りを見回す雲居に、アキラの声が掛かる。

 

「雲居、あそこだ! 山を登っているぞッ」

 

 指さす先には、天に向かって伸びる絶壁。山頂への道筋。

 その中程に、ひとり壁面を登る男の姿があった。

 男は、勝利を確信して哄笑を投げかけた。

 

「我々の勝利条件は、稀少植物採取の妨害! このまま山頂に登って、目的の植物(ブツ)を滅茶苦茶にしてやる。残念だったな、ASEのバケモノ! 我々アンザー山岳傭兵団の勝利だ! わははははっ」

「くっ、汚い。なんて卑怯なヤツだ」

「雲居、行ってくれ。お前なら間に合うはずだ」

「分かりました、アキラさん。こいつらの相手は任せました。稀少植物の保護は、この俺に任せてください」

 

 雲居は躊躇わなかった。四方を取り囲む敵の間をすりぬけて、壁面へと駆け出す。

 そんな雲居を捕まえようと手が伸びるが、

 

「逃すか――うごっほぉっ!?」

 

 アキラの拳に吹き飛ばされる。

 見れば、その男は顎を割られ、血反吐をまき散らしながら宙を舞っていた。

 

「邪魔はさせん。どうしてもと言うなら、私を倒してからにするんだな。だが、覚悟しろ。私はアイツのように甘くはないぞ」

「くそっ、なんて怪力だ。こいつ本当に女、いや人間か!?」

「失礼なヤツラだ。覚悟しろよ」

「ひぃっ」

 

 アキラは拳を鳴らして、男達に近寄っていった。

 その姿は、男達の目には悪神のように映るのだった。

 

 一方の雲居は、四つの手足でするすると絶壁を登っていた。

 掌と足裏は吸盤でも備えているかのように、ぴたりと壁面にくっつく。四つ足で這うように壁面を登る姿は、蜘蛛さながらである。

 

「ちぃっ、なかなか素早いじゃあないか。だが、俺とて何十年もアヘラエルの山々を登ってきたプロだ。こんなガキに負けるわけにはいかん」

 

 それを見て、リーダーの男の動きが加速する。

 

「あいつ、これ以上素早く登れるのか!?」

 

 登攀スピードは、雲居のそれに劣らない。

 人間の知恵と技術というのはまこと偉大である。長きに渡る技術の継承と研鑽とが、何にでも吸い付く四肢という反則を備えた雲居に対抗することを可能とした。

 

「なんてヤツだ。俺ももっと早く登らないと」

 

 雲居も急いで手足を動かす。

 だが、そもそも人間は地を這うようにはできていない。二足歩行を覚えたことで手が自由になったことが、種族の進化を促したと言われている。人は、二本脚で歩く生き物なのだ。

 

「ええい、まどろっこしい。こうだ!」

 

 だがら、雲居は立ち上がった。

 

「なんだそりゃあ!?」

 

 後ろを振り返った男が、素っ頓狂な声をあげた。

 雲居が壁面に立ち上がって、そのまま走っていたのだ。

 

 どういう理屈か、足裏が壁面に吸い付いている。

 まるで壁面に重力でも生じているかのように、雲居は軽やかに壁面を走る。

 

 男は我が目を疑い、それから、この世の法則を疑った。

 ひょっとしたら、重力は壁面から発生するもので、自分もまた絶壁を駆け上ることができるのはないか。

 そんな考えが頭をよぎる。

 

 もちろん、そんな道理はない。

 彼の手にはたっぷり自重がかかって重かったし、指の間からは風化して砂となった壁面が、パラパラ重力に引かれて落ちていった。

 

「一体全体、どうなってやがんだ! ……わかったぞ、アイツは悪魔だ。神の定めたもうた理を歪める悪魔なんだ。ちくしょう、ASEのヤツラ、とうとう悪魔まで抱き込みやがったッ」

 

 そんな叫びを聞いて、雲居は遠い目をする。

 

「うーん、バケモノだとか悪魔だとか、こいつらは俺のことを一体なんだと思っているのか」

 

 が、すぐに首を振って気を引き締めた。

 

「そんな失礼なことを言うヤツは、殴って躾けてやらないとなぁ! 肉体言語でオハナシしてやるぜッ」

「クソッ、来るんじゃあないッ!」

 

 男はしゃにむに崖を登る。

 ろくに確かめることなく、壁面の凹凸や裂け目に手をかける。

 これは極めて危険な行為である。壁面は何千年、何万年と雨風に晒され、なかには風が吹くような微かな刺激で崩れるものすらある。人間の体重を支えるだけの強度を有するか、本来はじっくり慎重に確かめなければならない。

 そうした手掛かり、足掛かりの選別を、男はほぼノータイムで行っていた。それを可能とするだけの経験と集中力が、男にはあった。

 けれども、何事にも限界はあるもので。

 

「あっ、その木は」

 

 集中力を切らした男の手が、壁面に生えた木を掴んだ。

 ずっしりと根を張った、いかにも頑丈そうな木は、ところが、

 

悪魔の木(ザックーム)だと!? しまった――」

 

 パキリと乾いた音を立てて、あっけなく折れた。

 まるで、悪魔の手を取った愚か者をあざ笑うかのように。

 

 男の身体が、宙に浮く。

 重力に引かれて、死出の旅を始める。

 

「うわああああっ」

 

 みるみる降下していく男が目にしたもの。

 それは、ぐるぐる回る青と茶色の境界線と、

 

「ウェブ・シュート!」

 

 という声と共に降ってきた、白い蜘蛛糸だった。

 

 

 **

 

 

「よし。たしかに稀少植物は確保した」

「やれやれ、どうにか任務成功ですね」

 

 アキラが、用意していた容器に植物を入れる。

 それを見て、雲居はほっと胸をなで下ろした。

 

「これで頂上に花が無かったら、いったいどうしようかと思いましたよ」

「そのときは、別の山を登るまでだ。アヘラエルの山の貴重な自然を破壊されるわけにはいかないからな」

「ほんとに、花があって良かった……」

 

 雲居とアキラの二人は、山の頂点に立っていた。

 世界屈指のアヘラエル山脈の、最も高い山のひとつだ。

 地上は遙か彼方。

 それどころか、アンザー山岳傭兵団の連中と戦ったあの戦ったの足場も、ずっと小さくミニチュアのようにしか見えない。そこに縛られ転がされている連中は、豆粒どころか胡麻か蟻のフンのように見えた。

 

「今回もまた、お前に助けられた。お前がいなければ、この任務は失敗し、貴重な自然がまたひとつ失われていただろう。――ありがとう、雲居」

「そんなふうに改まって言われると、なんだか照れますね」

 

 照れて頬をかく雲居に、アキラは微笑んだ。

 

「胸を張って受け取ればいい。お前はそれだけのことをしたのだ。私のこの言葉とて、彼等の言葉を代弁できているとは、到底言いがたい」

「彼等?」

「ほら、見ろ。彼等(自然)もお前に礼を言っている」

 

 小首を傾げる雲居に、アキラは目線で答えを示す。

 アキラの目線を追った雲居の目に、絶景が飛び込んできた。

 

 三百六十度に広がる、大パノラマ。

 あまりに高くまで登ってきせいか、視界にたいして地面の占める割合はすくない。

 地平線はあまりに低くにあって。

 雲ひとつない蒼の天蓋が、それらを呑み込もうとしている。

 

 あまりに青い。

 僅かばかりの茶色の大地には、人の姿はもちろん、その痕跡すら見つけることは困難だった。

 人の営みは大地に呑まれ、その大地すら、こうして三百六十度を取り囲む大空に比べればあまりにちっぽけな存在に過ぎない。

 

「すごい――――」

 

 雲居はあんぐりと大口を開け、爛々とかがやく瞳で絶景に見入る。

 それを横目で見やるや、アキラはぽつぽつ語り始めた。

 

「私はな、人間があまり好きではない。自分たちの勝手な都合で、罪のない美しい生物に平気で手を掛ける」

 

 それは、言葉より先に手が出る不器用なアキラなりの励ましであった。

 

「だが、大自然というのは凄いぞ! そんな人間もまとめて、こうして受け止めてくれる。この光景を見る度に私は、心に降り積もっていた淀がすっかり吹き飛ばされる心地がするんだ」

 

 もはや雲居は、返事をするのも忘れて、すっかりこの光景の虜になっていた。

 そんな雲居をやさしく見守りながら、アキラは小さな声をそっと口の中で転がした。

 

「……お前も、そうだと良いな」

 

 

 **

 

 

 それから、二人は下山した。

 

「おまえ等を縛る縄は、この蜘蛛糸に代えておくよ。安心しろ。二時間も経てば糸は勝手に溶けて無くなるから、それからゆっくり下山すればいい。おっと、変な気は起こすなよ。銃は預かっておくから、おまえ等に万に一つも勝ち目は無いぜ!」

「私は別に、襲ってくれても構わんぞ。そのときは、この山の肥料にするだけだ」

 

 などと脅しつければ、男達は力なく項垂れた。

 それから、連中が構築してきたルートを利用して、もう一泊ビバークを挟み、安全に山を降ったのである。

 

「連中の張った命綱を使うことができて良かった。命綱無しであそこから下山するだなんて、考えたくもない。もしそうなったら、一生あの山の上で暮らしてたかもしれないですよ、俺」

「安心しろ。そのときは殴ってでも連れて帰ってやったさ」

「ははは…………冗談とは欠片も思えないあたり、アキラさんらしいや」

 

 久々に地面に降り立った二人は、そんな会話を交わして、そのまま別れた。

 否、別れようとしたアキラを雲居が引き留めた。

 

「あっ、そうだアキラさん。また写真を撮りましょうよ! 一緒に任務を達成した記念に。そして、二人の再会を祝して」

「またか。ひょっとしてお前、本当に毎回そんなバカなことしてるのか?」

「いや、流石に相手は選びますよ。ノリの良い人とか、笑って許してくれる人なら尚良し。苦い顔して一緒に写ってくれる人なら、まぁセーフかな」

「……苦い顔してる時点で察してやれ。迷惑がっているぞ」

「そういえば、アキラさんも前は難しい顔して写ってましたね。今度は笑顔でお願いします。ピースなんかもしてみません? 日本人は皆するんですよ、ピース」

「……まったく、仕方のないヤツだ」

「それじゃあ職員さん、お願いします」

 

 迎えに来ていたASEの職員にカメラを手渡して、パシャリと一枚撮影。

 それから別れようとしたアキラであったが、もちろん雲居が言い募る。

 

「ところでアキラさん。晴れて任務も達成したことですし、この後いっしょに食事でもして友好を深めませんか。約束してましたよね」

 

 ずいと近寄る雲居。必死さが伝わってくる、真剣な表情だ。

 アキラは、ちょっと考えて、頷いた。

 

「そういえば、寝言を言うのは任務をこなしてから、と言った覚えがあるな。良いだろう。付き合ってやる」

「えっ、ほんとですか!? やった、つくづくこの国にやって来て良かったなぁ!」

 

 ぱぁっと満面の笑みを浮かべる雲居に、アキラは微笑む。

 ちょっとだけ苦笑いの混じった、けれどもあたたかい微笑み。

 

「そうと決まれば、さっそく行きましょう。実は、目を付けてるアラビア料理店があってですね」

 

 アキラの手を取って歩き出そうとした雲居であるが、それは叶わなかった。同行していたASE職員が、ポンと雲居の両肩に手を置いたのだ。

 

「残念ながら、その時間は無いんだよ、雲居くん」

「えっ、どういうことですか。まさか……」

 

 みるみる雲居の顔が引きつっていく。

 さっきまできらきらと輝きを湛えていた瞳が、どんより淀んでいく。

 

「任務です。場所はアメリカ合衆国。ちょうど地球の裏側です」

「それじゃあ……」

「ええ。今すぐ出発です」

「そんな、せっかくアキラさんと仲を深めるチャンスなのに! ねぇ、ちょっとだけ待ってくださいよ。ほんの二時間……いや一時間だけでいいんで。ねぇってば!」

「ダメです。既に任務を受けてしまいました。そして、今から向かわなければ間に合わない。だから今すぐです」

「まる三日山に登って、ようやく人里に戻ってきた疲労困憊の人間に対する扱いがコレか!? ASEの人非人、人でなし、おまえ等人間じゃねぇ!」

 

 ぎゃあぎゃあ喚きながら、ずるずると引きずられていく。

 そんな雲居を、アキラは苦笑しながら見送るのだった。

 

「やれやれ、仕方の無いヤツだ。だが、約束は覚えておいてやろう。次の機会を楽しみに待っているぞ、バカモノめ」

 

 苦笑はいつしか、微笑みへと変わる。それは、慈愛に満ちたやさしげな表情だった。

 そんなアキラの姿を、雲居は直接見ることはできなかったけれども、後日、同じ表情を見てニヤニヤすることとなる。

 

 二人で撮った写真。

 そこには、とびきりやさしい笑顔を浮かべるアキラの姿があったのだ。




13,154文字

<参考文献>
阿部亮樹,2008,『イラスト・クライミング』,東京新聞.


アヘラエル国も悪魔の木も、もちろんアンザー山岳傭兵団も創作です。なんだよアヘラエルって……最高に頭悪いな(自嘲)。

拙作は不定期更新です。
次回は年内には投稿したいです。


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