Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- (黒井押切町)
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プロローグ

 1981年、遠薙夏菜(とおなぎなつな)は三重県一志郡美杉村奥津(いちしぐんみすぎむらおきつ)に、遠薙家の次女として生まれた。その土地は1965年に起こった世界接続の影響で発生したと考えられている「異変」と呼ばれる自然災害群の影響があまり無く、また辺鄙さ故にそうした他の地域ほど人口の増加もない。かつての宿場町としての雰囲気を残した風光明媚な土地である。

 夏菜が物心ついた頃には母は既に他界し、父征四郎(せいしろう)は海軍の潜水艦乗りで家に殆ど帰れなかったため、近所の大人が夏菜とひとつ上の姉である深雪の世話をしていた。物静かで絵を描くことが好きだった姉に対して、夏菜は活発で外で体を動かすのが好きな少女だった。しかしタイプは正反対でも仲が悪かったということは決してなく、むしろ近所でも評判の仲良し姉妹だった。

 運命の分かれ道となったのは、夏菜が8歳の夏、夜の山に友達と肝試しに入った時のことだった。いくら夜の森とはいえ、数え切れないほど遊んだ山で迷うことは無いと夏菜は確信していた。だが、迷った。それほど奥には入ってはいないはずだったが、迷った。泣きながら森の中を歩き回ったが、夏菜は薄々、ここはあの土地ではないということを勘付いていた。季節は夏の盛りのはずなのに肌寒く、またあまりに枯れ木が多過ぎる。月だけは奥津で見てきたのと同じように見えたが、そのことがかえって夏菜を混乱させた。

 

「夢、だよね。お姉ちゃん、早く私を起こしてよ」

 

 夏菜は涙ながらに弱々しく呟いたが、風の音がするばかりで、期待したことは何も起こることはなかった。絶望した夏菜は、一際大きな泣き声をあげ、一心不乱に駆け出した。どのくらい走ったのか分からないが、いつの間にか森を抜けていた。しかし、それも見慣れた奥津の光景ではなく、石造りの建物が立ち並ぶ街だった。

 

「あは、あはは」

 

 夏菜は膝から崩れ落ち、乾いた笑い声を発した。幼いながらに、夏菜は己の死を予感した。見知らぬ土地で、幼子一人で生きていけるはずがない。絶望の沼の底に沈みゆく夏菜だったが、彼女の心に、たったひとつの蜘蛛の糸が垂らされた。

 

「死にたくないよ。生きたい。お姉ちゃんにもう二度と会えなくても、死ぬのだけは、嫌!」

 

 夏菜は力を振り絞って叫んだ。その瞬間、夏菜の目の前に光の塊が現れた。夏菜は取り憑かれたようにその光に手を伸ばし、掴んだ。その直後、光が弾け、深い青緑の剣が彼女の手の中にあった。しかし、それと同時に夏菜の精根は尽き果て、意識は途切れたのだった。

 

        ***

 

 夏菜が目覚めると、白い天井があった。自分が寝かせられているベッドは固く、夏菜は己が病院にいるらしいということは理解できた。あの山で気絶か何かしていて、昨日見たことは全て夢で、美杉の大きな病院に運ばれたに違いない——淡い希望を抱き、夏菜は体を起こして窓の外に目をやった。そして、そこから見えた石造りの街に、その微かな希望さえも砕かれた。

 

「目が覚めたようだね。気分はどう?」

 

 男の声が聞こえた。それも日本語だ。いくら8歳とはいえ、日本語以外の言語が存在することくらいは知っている。では、ここは日本だ。そのように思って、声がした方に夏菜は振り返った。そこには医者と思しき白衣を着た男性と、髭を生やした赤髪の男性がいた。後者の男が着ている服は、征四郎の軍服に似ていたが、日本軍のものではなかった。しかし、それだけでは夏菜はここが日本ではないということを否定するに至らなかった。

 

「ねえおじさん。ここは美杉じゃないよね。何県のどこなの? 教えてよ!」

 

 夏菜はベッドから出て、二人の男にすがりついた。だが、二人とも困ったような表情を浮かべていた。そしてそのうちの軍服の男が、夏菜に目線を合わせ、真っ直ぐな目で彼女を見つめて告げた。

 

「いいかい。今から言うことは、とても信じられることではないかもしれない。でも、本当のことなんだ。それは君にとってはとても辛いことだけど、私は話さなきゃならないんだ」

 

 男曰く、夏菜は元いた世界とは別の、この世界に転移してきたのだという。ここは日本ではなく、グリューネシルト王国という国であり、また男たちも日本語を話しているわけではない。世界水晶なる存在によって、男たちの話すG・S(グリューネシルト)の言語が夏菜の耳に日本語として入ってきているだけのことだった。

 

「あの、それで、元の世界に帰れたっていう人はいるの?」

 

 夏菜は最も気になっていたことを尋ねた。そのような人がいたということになれば、この先生きる希望も見える。だが残酷なことに、軍服の男は医者と顔を見合わせ、そして静かに首を横に振った。夏菜は再び絶望の底に突き落とされた。それを見かねたのか、軍服の男が、躊躇いがちに口を開いた。

 

「ひとつだけ、可能性が無いわけじゃない」

 

「本当!?」

 

 夏菜は目を輝かせ、軍服の男に食いついた。しかし、彼がずっと言いづらそうにしているのが気がかりになって、その輝きもくすんでいった。

 

「なんで黙ってるの?」

 

「その方法というのは、君がG・Sの軍人になることだ。私たちは今、他の世界とこの世界を自由に行き来できるようになる方法の研究をしてる。だけど、その場合君は元いた世界と戦争をする必要が出てくるかもしれない。君の手で、故郷をめちゃくちゃにするかもしれないんだ。だから、戻ることはできるかもしれない。もう一度、土を踏むことはできるかもしれない。でも、故郷で暮らすことは、多分無理だ」

 

「軍人さんにならなかったら、どうなるの?」

 

「G・Sの一市民として、ここで暮らす」

 

「それって、同じじゃないの? 私がやるかやらないかだけで」

 

 夏菜は、小さな声で返した。夏菜は早熟な子供だった。頭が落ち着いてきたことや、父が軍人であることもあいまって、彼女はそのように捉えられてしまった。よもやこのように返されるとは想定していなかったようで、二人の男は言葉を失っていた。そのうち、軍人の方が先に平静を取り戻したようで、一呼吸おいてから夏菜に語りかけた。

 

「あくまで、攻める可能性があるだけだよ。まだそうなると決まったわけじゃない」

 

「軍人さんがああやって言うってことは、ほとんど決まってるようなものだって、私何となくわかる。お父さんが軍人さんだから。どうせおんなじなら、私は軍人さんになる」

 

「いいのかい、それで」

 

 軍服の男の問いかけに、夏菜は頷いた。件の研究が頓挫すれば夏菜は奥津に帰ることはなく、成就すれば、奥津がどうなるかは分からないが、地球と戦争をするのは確かだ。勝つにせよ負けるにせよ、また夏菜がその時どのような身分であるにせよ、奥津の住民として帰られる保証はない。ならばいっそ、軍人になった方がいいと考えたのだった。

 彼は夏菜をずっと見つめ続けていたが、彼女の決意の固さを悟ってか、一度ため息をついて告げた。

 

「分かった。私の方で手続きをしておくよ。聞きそびれていたけど、名前は何と言うのかな。私はヨゼフ。ヨゼフ・ティルダインだ」

 

「えっと、下の名前、ファーストネームはどっち?」

 

「ヨゼフがそうだ。ティルダインは、家の名前」

 

「じゃあ、私はナツナ・トオナギ」

 

 陽光が差す中、ナツナはヨゼフと握手を交わした。これが、ティルダインとナツナの縁、そして、統合軍人、ナツナ・トオナギの始まりだった。

 

        ***

 

 まず、ナツナは退院後、ティルダイン家に引き取られた。ティルダイン家は軍人の名門とのことで、実際にヨゼフは少将で特務隊という特殊部隊を管轄する立場にある。長女のスレイは軍学校を首席で卒業したばかりでなく、初めて赴任した場所でもメキメキと頭角を現していて、大将クラスの高官も注目している期待のルーキーだ。長男のゲオルグは、ティルダイン家の中ではナツナと歳が比較的近い14歳で、彼だけは軍人ではなく、普通の大学に入って内務省の官僚を目指して勉強していた。

 ヨゼフの妻も軍人であるため、ティルダイン家には使用人の他にはゲオルグだけが、朝早く出て夜遅くに帰る、という生活を送らなかった。ナツナは幼年軍学校に通っていたが、初等部の段階では自宅通いができたので、家がそこに近かったこともあって、彼女はそのようにしていた。そのような状況で、ナツナとゲオルグがお互いにその寂しさを埋めあったため、すぐに男女として惹かれ合った。

 数年が経ち、ヨゼフが陸軍大臣として政界に入るのと入れ替わりにスレイが特務隊に転属したのがきっかけで、ナツナも特務隊を目指すことにした。ナツナが12歳に、ゲオルグが18歳になると、ナツナは特務隊候補生選抜試験の、ゲオルグは名門大学の合格を目指して勉強に本腰を入れるようになった。奇しくもその合格発表の日がどちらも同じで、またその場所もさほど離れていなかったため、一緒に見に行くことにした。

 

「何だか、ここまであっという間だった気がするな。ナツナはどう?」

 

「私も。もうここには慣れちゃったし、ここ一年は勉強ばかりだったから」

 

 快晴の空の下、首都の大通りを歩きながら、ナツナはゲオルグと腕を組み、何気ない会話を交わす。もし合格していたら、ナツナはゲオルグとはしばらく会えなくなる。そのことが心細く、この日の彼女はいつもよりも大胆になっていた。

 ナツナがG・Sに来てから四年が経ったが、その中でナツナの奥津への郷愁はほぼ完全に風化してしまっていた。この世界で出会った人たちは、ナツナに気を遣って元の世界の話題を振らなかったこともあって、姉と父以外の人の名前と顔は完全に忘れてしまっていた。その顔も非常にぼんやりとしたイメージしかできず、ナツナは自分がこの世界の住人と化したことを実感していた。特務隊に入りたがったのもそちらの方が故郷に帰りやすいからではなく、憧れのスレイが居て、あとはカッコよさそうくらいの気持ちでしかなかった。

 初めにゲオルグの合格発表の掲示板にやってきた。人だかりで見えづらかったので、あまり背の高くない彼は背伸びをして自分の番号を探していた。そうしている時間が長くなるにつれ、ナツナは段々と不安になってきた。もしかしたら、自分の受験番号が見つけられなかったのが信じられずに、何度も何度も見直しているのかもしれない。もしも彼が不合格だったら、ナツナは自分がどのような顔をし、彼にどのような慰みの言葉をかければいいか分からなかった。下手なことを言ってしまえば、傷心しているであろう彼をより傷付けてしまう。しかし、ここまで考えたところで、ゲオルグの顔が明るくなったことから、ナツナは自分の心配が杞憂に終わったことを察した。しかし、彼女は彼の口からその結果を聞きたくて、彼の腕をより強く抱いて尋ねる。

 

「ねェ、ゲオルグさん。どうだった、どうだった?」

 

「合格したよ」

 

 ゲオルグは屈託無く笑ってみせた。その笑顔を見た瞬間、ナツナは感極まってゲオルグに抱きついた。彼の頑張りを側で見てきたナツナにとって、それが報われたということは自分のこと以上に嬉しかった。

 

「良かった。良かったね、ゲオルグさん!」

 

「ありがとう。こんなに喜んでもらえるなんて思ってなかったよ。でも、ここじゃ少し恥ずかしいかな」

 

 ゲオルグが苦笑する。ナツナはハッとして辺りを見ると、周りの人々から冷やかしの目で見られていることに気がついた。急に恥ずかしさが増し、顔を真っ赤にしたナツナは咄嗟にゲオルグにくっつくのをやめ、代わりにその手を握った。

 

「は、早く私のとこ、行こ?」

 

「そ、そうだね」

 

 ナツナとゲオルグは、逃げるようにして掲示板から離れた。しばらく歩いて、彼らの目の届かぬところまで来られたかと思うと、ナツナの口から自然とため息が出た。ゲオルグも同時にため息をついて、互いに顔を見合わせ、互いに苦笑いした。

 

「ゲオルグさん。私が受かっても、抱きついたりしないでね」

 

「俺はそんなことしないよ」

 

「じゃあ、どうするつもりなの?」

 

「頭、撫でてあげるかな。こんな感じで」

 

 そう言ってゲオルグは繋いでいない方の手をナツナの頭に伸ばしてきたので、ナツナはそれをひょいと避けた。

 

「今やんないでよ。もったいないじゃん」

 

「ははは、ごめんごめん」

 

 口では謝るゲオルグだったが、性懲りも無くまた手を伸ばしてきた。ナツナはそれを避けてといった感じで遊びながら進んでいくと、あっという間に合格発表の場、統合軍首都駐屯地に着いた。特務隊候補生の試験は合格者20名という狭き門で、しかも合格者発表の張り紙には本名が成績が良かった順に掲示されるので、それを見れば受かったかどうかは一目瞭然だ。

 

「あ、受かってた」

 

 そのようなこともあって、ナツナはかなりあっさりと自分の名前を見つけられた。下から三番目、つまり17位であったので、喜びよりも、もっと上だと思っていたのになァというやや残念な気持ちが大きかった。

 とはいえ、合格は合格だ。ナツナがとりあえずゲオルグに改めて報告しようと振り向くと、すぐに頭の上に手が乗せられた。

 

「おめでとう、ナツナ。辛い訓練が待ってると思うけど、ナツナなら大丈夫だよ。だから頑張れ。俺は最後まで、ナツナを応援し続けるよ」

 

 彼の言葉を聞いて、ナツナは胸がときめいた。ありきたりな言葉だったが、だからこそ、飾らないゲオルグの優しさがありありと感じられた。その優しさには、ナツナが今作ることができる中で、最高の笑顔で返してみせた。その顔をナツナが見ることは当然出来なかった。しかし、ゲオルグが顔を赤らめたのを見てナツナは成功したのを確信し、心が満たされたのだった。

 ——それから更に時は流れ、ナツナが16歳になった秋のある日。彼女は、自分の直属の上司となったスレイの執務室の前にいた。この時期に呼び出されるということは、ついに自分にも出番が回ってきたのだと、ナツナの心は戦いに飢え始めていた。第二次ブルーフォール作戦。かつての故郷を滅ぼし、今の故郷を守る。その戦いが、今ナツナの中でも始まろうとしている。



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chaptire1:第二次ブルーフォール編
八年ぶりの星①


 ナツナはドアをノックして執務室に入り、中にいたスレイに敬礼をした。スレイも敬礼を返し、椅子に座りなおした。

 

「きたわね、ナツナ。あなたには3日後に青蘭島に行ってもらうわ。大まかな目的はふたつ。ひとつは他の子たちと同じく、第一次作戦で高まったあちらの警戒心を緩めさせること。もうひとつは、送り込んだ留学生の監視。で、これが青蘭学園生徒のリストよ」

 

 スレイはナツナに、分厚い書類を手渡した。ナツナはそれをじっと見つめた。このような書類はいつものことで珍しくないが、どのようなわけか吸い込まれるような魅力があった。

 

「これ、今拝見してもよろしいでしょうか」

 

「構わないわ。でも二人きりなんだし、いつも通りの口調でいいわよ」

 

「勤務中ですから、そういうわけにもいきませんよ」

 

 ナツナは苦笑するスレイに柔らかく返しつつ、書類をめくり始めた。G・Sの文字で綴られているはずだが、ナツナには地球の文字で書いてあるように見える。これは何年経っても変わらなかった。

 

(でも、漢字の名前を見るのは久しぶりだな)

 

 青の世界出身の生徒の名前を見ていると、ナツナは懐かしい気分になった。この程度でG・S王家への忠誠心は揺らがないが、以前は二度と目にしないだろうと思っていたおかげで、目頭が熱くなる思いだった。

 そうしながらあるページを目にした時、ナツナは愕然とした。名前の欄に「遠薙深雪」の四文字があり、顔写真は、成長しているものの、間違いなく姉、深雪のものだった。出生年も1980年でナツナの一年前で、出生地は日本国三重県一志郡美杉村奥津——最早、疑う余地はなかった。

 

「見つけたようね。懐かしい?」

 

「う、うん。そりゃ、当たり前だけど」

 

「言葉、いつものになってるわよ」

 

 スレイがニヤニヤしながら指摘する。ナツナは動揺が表に出てしまったことを恥じると同時に、誤魔化しの笑いを浮かべた。そして口調を堅くするのを諦め、ティルダインの家で接する時と同じように話すことにした。

 

「まさか、お姉ちゃんがいるなんて思ってなかったよ」

 

「会ってもいいわよ?」

 

「えっ!? いいの!?」

 

 ナツナは思わず声を裏返してしまった。出来ても遠くから眺めるくらいしか許されないと考えていたので、スレイの言葉はあまりに意外だった。

 

「そりゃ、偽名で送り込むわけでもないし、会いに行かない方が不自然よ。それに、あなたが姉と会っても王家への忠誠は失われないと上が判断してくれたから叶ったことよ。だから、むしろ会いに行きなさい。命令が無い限りは自由行動だから、何か命令が出ないうちにね」

 

「う、うん! そうする!」

 

 ナツナの心は、既にここにあらずであった。二度と会うことは無いと信じ込んでいた姉に会えるのだから、その喜びは尋常でなかった。

 

「心配はしてないけど、あまり入れ込みすぎないようにね。あなたは友好のためじゃなく、敵対のためにあそこに行くのだから」

 

 ナツナの浮かれようを心配してか、スレイが釘を刺す。しかし、その心配はもっともだったが、今のナツナにはいらぬお節介であった。

 

「大丈夫だよ。私の忠誠も、愛国心も変わりはしないから。それに、ゲオルグさんがいるこの国、この世界を、私は決して滅ぼさせやしないから」

 

「そうだったわね。そういえば、ゲオルグとは作戦が終わったら結婚するんだったわね。式の段取りとかは決まってるの?」

 

「それは、作戦後にしとこうかなって。今は作戦に集中したいし」

 

「そう。結婚、私も楽しみにしているわ。頑張ってね。向こうで恋人とか作るんじゃないわよ?」

 

「スレイさん、そりゃ冗談としてもキツイよ。では」

 

 ナツナは苦笑しつつ敬礼して、執務室を後にした。それから帰路につくまで、ナツナは深雪の顔写真を眺めてはニヤニヤしていた。八年ぶりに、姉に会うことができる——写真からでも分かる、変わらぬ深雪の穏やかな雰囲気に、ナツナは興奮しながら早くも浸っていた。

 

        ***

 

 出発前夜、ナツナはゲオルグと共に、生まれたままの姿でベッドに入っていた。しばらく会えなくなるから、ということで、これまでで一番激しかった情事を終えて二人ともぐったりとしていた。

 

「にしても、こんなことしちゃって本当に良かったの? 私はそんなに早く出る必要は無いからいいけどさ、ゲオルグさんは明日いつも通りの仕事でしょ?」

 

「そうだけど、ナツナと会えなくなるって思ってつい」

 

「そんな、今生の別れってわけでもないんだし、大袈裟だよ」

 

 深刻な顔をしたゲオルグに、ナツナは笑って返した。しかし、なおも彼は表情を和らげず、眉間にしわを寄せたままナツナを見つめた。

 

「今回はいつもの任務とは違うじゃないか。ナツナの故郷なんだろ? 心配しないわけにはいかないよ」

 

 ゲオルグは本当に心からナツナのことを心配して言ったのだろうが、ナツナにとってはその心配は禁句も同然だった。それでムッとなった彼女は、ゲオルグの頬を思い切りつねりあげた。

 

「いででで。ごめんマジでごめん」

 

「私のこと、心配してくれるのは嬉しいけど信じてよ。今の私の故郷はG・Sで、私の帰る場所はあなたの胸の中なんだから」

 

「その言葉を聞けば安心だよ。俺はお前を信じて帰りを待ってる。戦果、必ず上げてきてくれ」

 

「うん! 約束する!」

 

 ナツナは弾ける笑顔で応え、ゲオルグと固く手の指を絡めあった。やがて二人が眠りに落ちても、その指は解けることなく、二人の絆を繋いでいた。

 

        ***

 

 ナツナの出発当日の朝は、かつてゲオルグと共に試験の結果を見に行った日を彷彿とさせる快晴だった。世界接続後に、首都の郊外に作られた港から、シャトルで(ハイロゥ)へ向かう。仕事の都合でゲオルグは見送りの客にいないが、スレイとヨゼフは来てくれた。スレイはいつも通りの様子だが、ヨゼフはどこか感極まった様子だった。

 

「初めて会った時のことを思い出すよ。よくぞここまで立派になってくれたと、我が娘のように思う」

 

「大げさだよ。でも、ここまで世話してくれたこと、本当に感謝してる。乾坤一擲の大作戦、その成功に貢献することで、私を育ててくれたヨゼフさんたちと、この大地に報いてみせるから」

 

 ナツナは微笑みをたたえて敬礼してみせた。すると、より一層ヨゼフの琴線に触れてしまったようで、とうとうほろりと涙を零してしまうところまで行ってしまった。

 

「いやァ、歳をとると涙もろくなっていかんな。ははは」

 

 ヨゼフはわざとらしく笑った。ところが、すぐに一転してその笑顔はナツナを哀れむような顔に変わってしまった。ナツナは、それで彼が何を考えているのかを悟り、彼が何かを言う前に口を開いた。

 

「ヨゼフさん。もしかして、私が地球を攻めるってことで心配してたりする?」

 

「おや、分かってしまったか。顔に出ていたかな」

 

「うん。それに、ゲオルグさんも昨夜同じことを考えてて、その時のあの人の顔にそっくりだったよ。親子ですね。そういう心配を表に出さなかったのはスレイさんだけだよ」

 

 ヨゼフは誤魔化すようにはにかんだ。一方のスレイは得意げに鼻を鳴らした。彼女はそれからヨゼフと入れ替わるように前に出て、ナツナの肩に手を置いた。

 

「上官としてじゃなくて、家族として言うわ。気負いすぎないようにね。不安になったら、いつでも連絡していいから」

 

「スレイさんも別の意味で心配性じゃん。大丈夫だよ。私はそんなヤワじゃないよ」

 

 ナツナは呆れながらに返し、時計を確認した。もう今の場から離れてシャトルに向かわねばならない時間になっていた。時間が経つのが早いものだと感じつつ、ナツナは二人の方に向き直った。

 

「じゃあ、行ってくるね」

 

「気をつけてな」

 

「行ってらっしゃい」

 

 ヨゼフとスレイは、ナツナがシャトルに入って互いに見えなくなるまで手を振り続けてくれた。二人がいかに自分を大切にしてくれているかがしみじみと感じられて、ナツナは胸に込み上げるものがあった。

 

「こんなにも大事にしてくれたんだ。恩返しのためにも、絶対成功させてみせる」

 

 このようにナツナが決意を新たにしたところで、シャトルが離陸した。高度が上がり、緑の世界が一望できるところまでくると、周知のことではあったが、ナツナは胸が痛んだ。殆どの山は禿げ、森は枯れ、海と川は干上がって、奥津と同じくらいの自然が見られる場所はごく一部だ。これが、G・Sが地球を攻める理由だ。世界毎にひとつだけ存在する、世界の活力の源である世界水晶。その緑の世界のものの活力が、もうすぐ尽きようとしている。その代替として、青の世界のそれを奪おうというのが、ブルーフォール作戦だ。

 緑の世界では、世界水晶のエネルギーを取り出して活用する技術が古くからあり、他の世界に比べてその消費量が大きかった。故に、あと一億年保つと計算されている他の世界水晶に比べて、緑の世界のものは、人間の生活を最低限維持するために使ってもあと十年しか保たない。ここ十年のうちに、取り出したエネルギーを循環させる技術も開発はされたものの、それも焼け石に水だ。世界水晶と波長の合う人間を吸収させるという手段もあるにはあるが、そのような人間は限られる上に、その点では最高に資質を持つマユカ・サナギでさえ、世界水晶の寿命を三ヶ月しか延ばせない。他の世界への移民も考えられたが、緑の世界の総人口は、戸籍のある者だけでも四十億人いる。四世界に分けても十億人ずつであり、それほどの人間がいきなり移住できる余裕は、どの世界にも無い。その他にも、緑の世界の全国家の頭脳が必死になって、生き残る方策を研究し尽くしたが、最も確実で安定すると結論が出されたのが、他の世界水晶を用いることだったのだ。

 これだけの状況なのだから、裏切り者など出るはずもなく、もしあるとしても、その者は余程の狂人か愚か者で、そのような者が軍にいるわけがないと、ナツナを含め誰もが考えていた。だが、裏切り者は出た。その裏切り者——アゲハとマユカの姉妹は最初の一回で終わらせるはずだったブルーフォール作戦の二度目をやらせるに至らせた。しかも在ろう事か、のうのうと生きて未だ軍籍を置いている。普通なら召還して死刑にするところだが、他の青、赤、白の世界から匿われ、彼女らは実質的な亡命状態にあり、手を出せずにいる。

 ナツナが聞くところによれば、現在青蘭学園に通っている緑の世界出身の者らの一番のストレッサーは、その姉妹だという。留学生の一人で、ナツナと特に仲の良いルルーナ・ゼンティアは「アイツらが統合軍の制服を着て、楽しそうに学園内を闊歩しているのを見ると、今すぐブチ殺したくなるくらい超ムカつく」と、メールでナツナに愚痴をこぼしたことがある。ナツナは、温厚な彼女が例の姉妹と同じ空間にいるだけで、ここまで激烈な憤懣をナツナに伝えるまでになったという事実が恐ろしかった。二人と一言も言葉を交わしたことがなく、軍の施設で数回すれ違ったことがあるというくらいしか接点の無いナツナでさえ、二人の名前を聞くだけで胸を掻き毟りたくなるくらいの衝動に駆られるのだ。しかも、ナツナはルルーナよりも気が短い自覚がある。もし青蘭学園で遭遇したら、彼女は自分で自分がどうなるのか、予測もつかなかった。



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八年ぶりの星②

 青蘭島側の港である南青蘭港に着いたナツナは、入島手続きを経て、銀行でG・Sの銀行に預けてある金のいくらかを青蘭島の通貨に両替してから、モノレールで南青蘭港駅から学園寮前まで移動することにした。荷物は既に寮に送ってあり、財布以外はほとんど手ぶらであるため、ここまで滞りは全く無かった。

 モノレールが移動している間、ナツナは車窓から青蘭島の街並みを眺めていたが、地球に戻ってきたという喜びもノスタルジイも、つゆほども無かった。並木や公園以外の自然はほとんど見られず、ビルや住宅が立ち並び、道路も完全に舗装されている。日本にいた頃、奥津の外には出ても美杉からは出たことのなかったナツナには、これが地球の風景とは思えなかった。その上、今乗っているモノレールにしても、その走行音があまりにも静かで、ナツナの知っている国鉄の気動車が出していた音とは全く違う。同じ地球でも美杉と重ねられる物はなく、今のナツナが感情は、初めてG・Sの石造りの街を見た時と殆ど変わらなかった。

 

(ちょうどいいや。これだったら、この土地に対する愛着がG・Sを超えることはあり得ないしね)

 

 ナツナはほくそ笑み、椅子に深く座り直して車窓から車内に目を向ける。平日の昼という、ラッシュの時間からは外れて空いている車内が、未来の地球の姿に見え、彼女には居心地の良いものにさえ感じられた。

 十五分ほどで、モノレールは学園寮前駅に着いた。ナツナは降車してからまっすぐ指定された寮に向かい、そこの管理人から部屋の鍵をもらって新たな住まいに向かった。寮には中等部用の一号から三号棟と、高等部用の四号棟から六号棟、大学部用の七号から十号棟に教職員用の十一号棟まである。そのどれもが十五階建ての高層マンションのようなもので、将来的に生徒が増えても大丈夫なように現在の生徒数に対してかなり多くの部屋を確保してある。ナツナの部屋がすぐに決まったのもそれが理由だ。

 ナツナが自室の前に着くと、そこに送っておいた荷物が固めておいてあった。ナツナはその不用心さに愕然とし、大慌てで駆け寄って、送った荷物のリストのメモと照らし合わせながら、何も盗まれていないか入念に確認した。幸いにも欠けているものはひとつもなく、また傷が付いているものも無かった。

 

「よ、良かったァ。盗まれてなかったから良かったけど、何考えてんだろ、ホント」

 

 ナツナは心の底から安堵し、鍵を開けて荷物を全て部屋の中に放り込んだ。そうして部屋の中を初めて見たが、彼女はこれに関しても驚きを隠せなかった。寮というので統合軍の寮のように部屋にはベッドと机のみで、洗面所、トイレ、風呂は共用のものとばかり考えていたが、そのみっつが完備されているばかりか、3LDKで寝室と和室が別にあるという、寮としてはあまりに豪華な仕様だった。

 

「寮というよりマンションじゃんこれ。これが個室として与えられるって青蘭島ってどんだけ金あんの」

 

 ナツナは感嘆しつつ、とりあえずということで私物の整理をした。容量の大きなクローゼットと箪笥と押入れのおかげで、私物が入りきらないというのは全く無かった。また、ナツナはここに来る前、それが終わってすぐにインテリアを揃えに行こうと考えていたのだが、その必要は全く無かった。ダイニングテーブルだけでなく、リビングにもひとつテーブルがあり、しかもカーテンにソファとテレビとパソコン、それに敷布団と掛布団、更には鏡まで用意されている。その上風呂場にはマットも用意されており、タオルも多すぎるくらいにあった。

 

「至れり尽くせりって感じ。逆に不気味だけど」

 

 暇になってしまったナツナは下着姿になって、和室の畳の上でゴロゴロし出した。新品らしくチクチクせず、い草の匂いが心地よい畳だった。この時だけは美杉の家に帰ってきたような錯覚を覚え、ついつい安心感から眠りそうになってしまった。眠るわけにもいかなかったので体を起こしたが、ナツナはそこで自分の下着の無味乾燥ぶりが気になり始めた。ナツナは、軍で着れるような、無地の白い下着しか持ってきていなかった。ティルダイン邸にはそうではない下着もあるが、その殆どがゲオルグとの情事に使うような扇情的な下着で、普通に可愛い下着は持ち合わせていなかった。

 

「暇だし買いに行こ。ついでにバイクも買っとくかな」

 

 ナツナは起き上がり、先程脱いだ私服を再度着て繁華街に出かけた。平日の昼だけあって、繁華街と言えど人通りは多くなかった。ナツナはとりあえず気に入った下着を何着か買って、寮に一番近いモーターショップに向かった。学園生徒でもバイクが運転できて、しかもG・Sで得た免許があれば問題ないという情報は前々からルルーナから教えてもらっていて、青蘭島で自由に動ける足が欲しかったナツナにはちょうどよかった。

 

「せっかくだし大きめのほうがいいなァ。おっちゃん、でかめで爆走するのにぴったりなの教えてよ」

 

「お嬢ちゃんの体格を考えると、あれだね。けど高いぜ?」

 

 店主が指差したバイクに近づいてみると、概ねナツナの希望を大体満たしたそれがあって、値札には三万青蘭ドルと書かれていた。確かに他の店内のバイクに比べれば高いものの、ナツナの所持金は、青蘭島に来た時に両替した分だけでも一千万青蘭ドル以上ある。三万などはした金だった。

 ナツナはポンと金を出して、店主の驚く顔を尻目にバイクを頂戴し、ガソリンを入れて早速それで寮に帰った。動力が違う以外は、緑の世界の自動二輪車とほとんど変わらなかった。戻ってから駐輪場の登録を済ませて、一旦部屋に戻ってライダースーツに着替えた。これは緑の世界から持ってきたもので、ナツナのお気に入りだ。

 

「じゃ、行くとしよっか!」

 

 ナツナはバイクに再び跨って、慣らし運転も兼ねて青蘭島の散策を開始した。まずは繁華街を抜けて住宅街に入り、入り組んだ道を行きつつ、見た光景と街の構造を頭にしっかり焼き付ける。近いうちにここを戦場にすることもあるかもしれない。その時に土地勘が無くては効率的な行動ができるはずもない。

 

「しっかし、何だってこんなコンクリの塊みたいな、しかも小さい家しかないんだろ。G・Sと大差無いじゃん。植樹する木があるんだったら少しでも家に使えばいいのに」

 

 ナツナは奥津の家々を思い出す。あの土地の家は、新しい家以外は殆どが木造の大きな家で、地球の住宅といえばナツナにとってはそのような家だった。しかし、今彼女の視界にあるのは所狭しと詰められた家々に、それらを縫うように張り巡らされた路地。奥津の土地にあった開放感さえない。ナツナの心は、地球から離れるばかりだった。

 

「なんか、ムカつく。大阪とか京都も昔からこんな風だったろうけど、それでも少しくらい私の知ってる地球を見たかったな」

 

 ナツナは泣きそうになっていた。G・Sへの忠誠心はあっても、美杉を偲ばせるものがあることを青蘭島に期待していた。しかし、そのようなものは今見てきた中では存在しない。強いて言えばシャトルから学園の向こう側に山が見えたくらいだが、そこに根差した生活があるようには見えず、それではナツナが郷愁を感じることは無い。

 

「奥津が田舎ってことは私にだって分かるけどさ。でもこんなに違わなくてもいいじゃん」

 

 ナツナは頬を膨らませてブツブツ言いつつ、エンジンをふかして住宅街を回る。そこに住んでいるのは青蘭学園卒業後もこの島に残った者たちで、島外からの移住者ではない。青蘭学園設立が1968年で、今年は1997年なのでそうした者も数多くいるのである。また、その内訳は青の世界出身者が大半を占めている。青の世界風の街並みが形成されているのはこれが理由だ。

 巡回する中で、ナツナはあることに気がついた。道路だけでなく、塀やガードレールなどが、やけに綺麗なのだ。道路にはちりひとつ落ちておらず、塀には落書きもない。また、G・Sでは首都でもそこそこ見られた乞食さえもいなかった。この様を見て、ナツナは自分の荷物が部屋の前に放ってあったことに納得できた。青蘭島はとてつもなく治安が良いのだ。巡回する警察官が全く見えないことからも、治安の良さが伺える。盗みを働こうと考えるような人間が少しでもいればこうはならない。ナツナの常識からは信じられないことではあったが、そのように捉えるしかなかった。

 

(まァ、治安がこれだけいいってことは、住民は頭がお花畑になってる人が多いんだろうな。攻めるにはちょうどいい)

 

 ナツナは心の中だけで口角を吊り上げた。住民を攻撃するわけではないが、戦争になった時に混乱する住民が多ければ多いほど、相手が困りこちらが有利になる。また、非戦闘員に戦争反対論者が多いことも考えられる。青蘭島の上層部は左翼が多いとの情報もある。この情報が正しければ、青蘭島側は情勢や世論に振り回された挙句、戦争を回避することもできず止むを得ず、という形で戦争が始まる可能性も高い。もしそうなら、より一層G・Sは優位に立てる。

 ただし、これは総力戦を行う場合の話だ。G・Sには総力戦を行うだけの力はあるが、G・Sを取り巻く状況がそれを許していない。緑の世界でブルーフォール作戦に協力してくれている国家はもちろん多いが、全ての国がそうではない。いくつかのG・Sを潰したい大国は、ブルーフォールで軍隊が出て行き、G・Sが隙を作るのを虎視眈々と狙っている。その大国同士が最近同盟を結んだのもあって、G・Sは特務隊の他には一個師団すら出せない状況になってしまっている。ナツナは苦々しい思いだった。G・S陸軍の主力部隊の三分の一でも使えれば完勝できそうな相手に対して、相手と同じかそれ以下の戦力で戦う羽目になっているのだ。G・Sがあまり外交が得意でないということもある。だが、第一次作戦の失敗が根底にあるのは少し考えれば分かることだった。

 

(これも、あのサナギの売国奴姉妹のせいだ。あの二人が粛々と任務を遂行していれば、こんなことにはなってないのに!)

 

 第一次ブルーフォール作戦の時は、緑の世界の同盟国に対してさえ、徹底した情報規制によりその作戦の存在すら知らせず、最後まで秘密裏に行う予定だった。しかし、作戦の失敗により「G・Sが大きな動きをしたがっている」と敵対国に露呈した。その作戦の内容から、G・Sが実行しないわけにもいかないということは自明であるから、その国家はG・Sが動くのを今か今かと待っているのだ。もちろん、それらの憂いを断つことができればそれに越したことは無いのだが、タイムリミットの十年でそれができるかと聞かれれば、否と答えるしかないのが現状だ。

 ナツナは腹が立って仕方がなかった。サナギ姉妹を暗殺せよという命令が下ることを渇望するほどだった。しかし、いつまでも腹を立て続けるわけにもいかず、どうしようかと思っていた矢先に、タバコの自動販売機を見つけた。

 

「タバコかァ。高いだろうけど、まァバイク買っといてお金を惜しむのもアレかな」

 

 ナツナはバイクを停め、その自動販売機に近づき、そしてタバコの値段に驚愕した。

 

「十青蘭ドル!? G・Sだったら、安いのでもこれの百倍は高いのに! 喫煙者には天国じゃないここ!?」

 

 G・Sにおけるタバコは超高級な嗜好品だった。それが破格の値段で手に入ることにナツナは興奮しながら適当なタバコを買い、出てきた箱を早速開けた。すると、その中に紙巻タバコが詰まっていて、ナツナは少しだけ不満になった。

 

「葉巻じゃないの? ってかよく見たらこの自販機紙巻しか売ってないじゃん」

 

 G・Sではタバコといえば葉巻だった。紙巻は存在は知っていても見た記憶が無い。違和感はあったが、吸ったことがないというだけなので、気にしないことにして、火を魔法で付けて一服した。

 

「ん、まァ悪くはないね。煙は少ないけど、タバコ吸ってる感じはするし」

 

 ナツナは興奮が落ち着くのを感じつつ、空を見上げた。移りゆく雲を眺めながら、あの雲が降らす雨は、やがて雲出川を流れるのだろうか——そのようなことを、ぼんやりと考えていた。



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八年ぶりの星③

 ナツナが住宅街を一巡する頃には、西の空が赤くなってきていた。学園では放課後になる頃だ。ナツナは姉の顔を思い出すと、反転して学園に向かった。今学園に行けば会えるかもしれない。そう考え、正門前の緩い坂のところでバイクを停め、そこにもたれかかってタバコを吸いながら、下校していく者たちの顔の中に姉の顔を探した。そうしていると、姉の顔ではないが、よく知る顔を見つけた。その彼女の方もナツナに気がついて、連れの手を握り、走ってナツナの方に駆けつけてきた。

 

「やっほーナツナ。ナツナもこっちに来てたんだね」

 

「はい、ルルーナ先輩! 一緒の学び舎で過ごせるなんて感激です!」

 

 ナツナとルルーナは、手を取り合って喜び合った。その一方で、ルルーナの連れのリーリヤ・ザクシードは、不満そうに眉をひそめていた。この二人はパーソナルカラーの制服を着ることを許された統合軍の若きエースで、二枚看板で広告塔でもある。それゆえ、統合軍のポスターには大体この二人の写真が載っているので、G・Sで彼女らを知らぬ者はいない。ナツナとルルーナは仲が良いが、これは何度か同じ作戦に参加したことがあり、話をしてみると気が合って、一緒に遊びに行ったりするうちに大の仲良しになったという次第だ。そのルルーナと仲が良いリーリヤとも仲が悪いわけではないが、彼女もナツナも、その扱いはルルーナほどではない。それどころか、リーリヤはナツナをどこか敵視しているきらいがある。それに関してはナツナも何となく察してはいるが、肝心のルルーナが全く気づいていない様子なので、ナツナとリーリヤはぎくしゃくした関係を続ける羽目になっている。

 

「そうそう、ナツナ。外ならいいけど、学園の敷地内は禁煙だから気をつけてね」

 

「え、そうなんですか。面白くない」

 

 ルルーナにそのように言われて、ナツナは口をへの字にした。

 

「まァ、青の世界の国家ではタバコを吸えるのは20歳以降というところもありますから、仕方ないと思いますよ。でも、我々も初めはぶーぶー言ってましたが慣れましたからナツナも大丈夫ですよ」

 

 リーリヤは澄ました顔で言い、ナツナの持っているタバコの箱から一本取り、それに火を付けて吸い始めた。あまりに自然な動作だったのでナツナはボーッとしていたが、すぐにハッとして大声を上げた。

 

「あーっ!? リーリヤ先輩、私のタバコ勝手に吸わないでくださいよ!」

 

「あとでラーメン奢ってあげますから目を瞑ってください」

 

「え、あ、じゃあ、一本だけですよ?」

 

 ナツナの心の中で、タバコを取られた怒りよりも、久しぶりの地球らしい食事ということもあって、ラーメンを奢ってもらえることが勝ってしまった。

 

「ナツナ。お姉さんならまだ美術室に残って絵を描いてると思うよ」

 

 ナツナは浮かれていたところに、ルルーナが突然そのようなことを話したので、思わず目をぱちくりさせた。

 

「よく分かりましたね、私がおねえ……姉に会おうと思ってるって」

 

「出待ちしてる時点で分かるって。行って来なよ。それで、もしよかったらお姉さんと一緒にラーメン食べよっか」

 

「はい! そうしましょう!」

 

 ナツナは満面の笑みで頷いた。これに対してルルーナは気分良さそうな表情を浮かべる一方で、リーリヤは真顔だった。

 

「何、リーリヤ。もしかしてラーメン奢る相手が増えて不満?」

 

「そういうことではないです。っていうか何で私がナツナの姉の分まで払わないといけないんですか。流石にそこまでは」

 

「え、違うよ。ナツナとナツナのお姉さんと私の三人分払うんだよ?」

 

「はァッ!? 何でそうなるんですか!」

 

 ナツナの目の前で、ルルーナとリーリヤがいがみ合い始めた。これに対して離れづらくなってしまったナツナは愛想笑いを浮かべつつ、少しずつバイクに近づいた。

 

「じゃあ、私行きますね!」

 

 三歩ほど離れると、ナツナはバイクに跨って一目散に坂を登った。そうして校門をくぐると、ナツナは吹き付ける秋風の中に春の匂いを感じた。

 

        ***

 

 いがみ合うのをやめてリーリヤとルルーナの二人はナツナの背中を見送った。その後、二人並んで帰路につきながらリーリヤはひとつ唸った。

 

「どしたのリーリヤ」

 

「いやその、ナツナは大丈夫でしょうかと思って。姉と会ったことでG・Sを裏切ることになるかもしれませんよ」

 

「いや、それは無いでしょ」

 

 リーリヤの懸念に対して、ルルーナは即答した。リーリヤは彼女のその答える速さが不可解だった。リーリヤは彼女ほどナツナのことを知っているわけではないので、自分が知らないナツナの事情があるとしても、彼女はナツナを信用しすぎではないかと思わざるを得なかった。

 

「何でそんな風に即答できるんですか」

 

「だってナツナ、G・Sに婚約者いるし。知らなかったの?」

 

「それだけじゃ、私はまだ納得できませんよ」

 

「あとね、今日のナツナはあまり機嫌良さそうじゃなかったし、イラついてる感じもしたから。私は、あの子が一番守りたいのはG・Sにあると見たね。だから大丈夫だよ」

 

 ルルーナは諭すように言った。リーリヤはまだ何となく蟠りがあったが、もう反論する材料は尽きていた。また、これ以上何かを言うのも見苦しいように思えたので、リーリヤはナツナに関しての話題はやめた。別の話題に切り替えてルルーナと歓談する間、リーリヤは一度、一瞬だけ学園の方に振り向いた。丘の上に聳えるその姿は、夕陽の陰で真っ黒だった。

 

        ***

 

 ナツナは駐輪場にバイクを停め、部活でか様々なスポーツが行われているグラウンドを尻目に、特別教室棟に足を踏み入れた。比較的賑やかな外とは違い、その中は静かなものだった。事前情報によれば、特別教室の種類の割に教室の数はかなり多く、中等部と高等部のそれぞれの学年に教室を割り当ててもなお空き教室が出てくるほどだ。噂では、その空き教室の多さを利用してそこで性欲の有り余っているアベックが情事に励んでいるとのことだった。これに関しては流石に実在はしないだろうと思っていた矢先、奥の方から淫らな嬌声が聞こえてきた。その声はかなり大きく、廊下の端にいるナツナにまではっきりと聞こえるほどだった。声が高く、なおかつナツナの他には誰もいない廊下でよく響いているということもあるが、それにしても配慮がなさ過ぎだとナツナは思った。

 

(お姉ちゃんの方に行く前に、様子見しよう。気になってしょうがないし)

 

 ナツナは今さっき湧いた好奇心に打ち勝つことができず、抜き足差し足で廊下の奥に向かう。ちょうどその教室まで半分の距離に来たところで、嬌声が止んだ。ナツナがそれでも足を止めずに進むと、汗だくの男女が例の教室から現れた。男の方は身長190cmはあろうかというほどの大柄の大和民族らしく、女の方は小柄で右肩だけから翼を生やした金髪碧眼の天使だった。ナツナは先に天使の方と目が合った。すると彼女は顔を真っ赤にして、男の影に隠れた。対して男の方は全く恥ずかしがっていない様子で、女がすがりついたままナツナに歩み寄り、顔を数秒ほど凝視して口を開いた。

 

「お前、ここで見たことないがアレか? ここを破壊しにでも来たのか?」

 

「何でそうなんの!? 明日からここに通うの! 編入生だよ編入生!」

 

 いきなり正解に近いことを言い当ててきた男にナツナは驚きはしたが、そのことは表に出さず、一般人らしく反論した。すると、男はがははと豪快に笑ってナツナの肩をバシバシと叩いてきた。

 

「何だそうか! そうならそうと言ってくれ! 俺は篠谷壮太郎! あんた日本人だろ? なら俺の名字にピンと来るはずだ!」

 

「いや何もないけど」

 

 ナツナは壮太郎の馴れ馴れしさに辟易しながらぶっきらぼうに答えた。ナツナは早くこの場から離れたくて仕方がなかった。はっきり言ってあまりにもうざったい。先ほどの嬌声の正体は今目の前にいる二人に違いないが、ナツナはこのような男に体を許す天使の気が知れなかった。

 

「マジかよ。お前日本人なのに俺の名字聞いて何も連想しねェとかありえねェだろマジで」

 

「あのね! 私は確かに日本出身だけど、八年前に緑の世界に飛ばされて、そこから生徒として来てんの! 日本のことなんか全然覚えてないから、あんたの名前なんか聞いたって何も思わないの!」

 

 ナツナの堪忍袋の尾が切れた。壮太郎の後ろの天使は完全にナツナの剣幕に萎縮していたが、壮太郎自身はよほど神経が図太いのか、澄ました顔でけろりとしていた。そして、ああ、と一人で声を上げ、今度は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。

 

「そりゃ悪かったな。すまんすまん。実は俺の親父は日本の現陸軍大臣なんだ。ところであんたの名前は何だい?」

 

「ナツナ。ナツナ・トオナギ」

 

「遠薙? もしかして遠薙深雪となんか関係あんのか」

 

 ナツナはどきりとした。彼としては何気ない疑問だったであろうが、ナツナにとっては、日本人が姉の名を口にしたという事実が、己が地球にいるという事実をこの上なく実感させた。

 

「お姉ちゃんと知り合いなの?」

 

「知り合いも何もクラスメイトだ。しかし、ははァ、妹か。言われてみりゃ、顔立ちは確かに遠薙に似てるな。あいつなら高等部三年用の美術室にいると思うぜ。案内してやろうか?」

 

「いや、いい。それだけ教えてくれりゃ十分。じゃあね」

 

 ナツナは踵を返して、早足で壮太郎と天使から離れた。階段に足をかけた時に天使の名前を聞くのを忘れていたことに気がついたが、軍からもらったファイルを見れば分かることだとして、ナツナは先を急いだ。

 

        ***

 

「おいレミエル、いつまで隠れてんだお前。もういなくなったぞ」

 

 ナツナが見えなくなった後、壮太郎は未だに後ろに隠れるレミエルの方に振り返った。一方、レミエルは眉間にしわを寄せ、小声で呟くように言う。

 

「普通にバレたじゃないですか。だからこんなところでセックスなんてするものじゃないって言ったのに」

 

「いや、三ヶ月くらい続けてたがバレたのはこれが初めてだったろ。そういうのは、初めての時にいきなりバレた時に言うもんだ」

 

「私は、壮太郎さんみたいに開き直れるわけじゃないですから。もうここでするのはやめにしましょう?」

 

「分かった。済まなかったな」

 

 壮太郎は涙目になったレミエルの頭を撫でてやる。すると、レミエルは機嫌がすぐに直ったらしく、猫のように心地良さげにしていた。

 

「ところでレミエル。さっきのナツナとは仲良くできそうか?」

 

「無理ですよ。私は壮太郎さん以外とは口をききたくないんです。他人なんてロクなものじゃないです。壮太郎さんさえ私の隣に居てくれたら、私は満足です」

 

「そうか」

 

 壮太郎は短く相槌を打って、レミエルの頭を撫で続けた。レミエルの人間不信は度が過ぎているが、これは彼女の過去に起因するものなので仕方がない。壮太郎は彼女に一目惚れして、猛アタックの末に恋人同士になれたが、そこまでの道のりは猛吹雪の剱岳の如き厳しさだった。クラスメイトの日向美海のように、彼女に過去と決別させるべきだと言う者もいるが、壮太郎はそうは思わなかった。何故なら、彼女自身がそれを望んでいないからだ。本人が心から過去の克服に挑もうとしなければ、レミエルの人間不信を助長するだけで、何も意味を成さない。

 壮太郎は、撫でられる恍惚感に浸るレミエルを見つめる。壮太郎しか映せない傷付き濁りきった青い瞳さえも、彼にとっては至極の宝物となる。彼にそれを綺麗にする気はなく、むしろずっと愛でる気でいるのだった。

 

        ***

 

 遠薙深雪は、夕焼けに染まるカンヴァスの前に佇んでいた。右手には描画用の木炭があるが、それはピクリとも動かせなかった。窓から見える風景ともう一、二時間は見つめあっているが、どうしても手を動かすことが出来なかった。今日は不思議と気が散って仕方がない。生理も何もない日のはずなのに、もやもやしたものが朝からずっと深雪の胸に去来している。

 

「スランプ、なのかな。デッサンも出来ないなんて変な日だけど、とにかく今日はやめよう」

 

 カンヴァスは置いたままにして、深雪は他の絵画道具を片付けて、美術室を後にした。すると、その直後にライダースーツを着た少女とばったり出くわした。自分とよく似た顔、天真爛漫な瞳、ツインテールにした銀の髪——深雪がその姿を見た刹那、彼女の体を美杉の風が吹き抜けた。



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八年ぶりの星④

 ナツナは目を見開いたまま固まっていた。自分とよく似た顔立ちに、柔らかな瞳、ポニーテールの空色の髪。二度と会えないと思っていた姉の深雪が、今、目の前にいる。何とか彼女を呼ぼうと口を動かしたが、喜びと緊張のあまり、声が出ずにパクパクとなるのみだった。これではいけないとナツナは深呼吸をして気を鎮め、大粒の涙を流しながら叫び、彼女の胸に飛び込んだ。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

 

「夏菜!?」

 

 突拍子もない行動のはずだったが、深雪はしっかりとナツナを受け止め、その体を強く抱きしめてくれた。

 

「夏菜、本当に、夏菜なんだよね?」

 

「うん! 私は正真正銘のお姉ちゃんの妹、ナツナだよ。久しぶり、お姉ちゃん」

 

 ナツナと深雪は、一旦離れて互いに顔や体を確かめ合った。共に成長はしたが、それでもナツナは目の前の女性が深雪であるとはっきり分かる。それは深雪も同じようで、今度は彼女が泣き崩れた。

 

「ああ、夏菜。生きてくれて、本当に良かった」

 

「心配かけちゃって、ごめん。だけど安心して。私は、もう突然いなくなったりしないから」

 

 代わって、ナツナが深雪を抱き留めた。しかし、ナツナは嘘をついた。少なくとも一ヶ月以内には、統合軍は戦闘行動を起こす。ティルダイン家の権力を使えば彼女一人くらいは青蘭島からG・Sに移住させられるだろうが、露見すれば重大問題となる上、何より日本人としての彼女に恥をかかせることになる。ナツナであれば自分一人が生き残るよりは国に殉じたい。彼女もそのように考えるだろうし、そのように考えて欲しい。ナツナが提案した時に彼女がすんなりと受け入れるようなことがあっても、ナツナは彼女の破廉恥な真似をする様を見たくなかった。もしも、ナツナがそうせずとも彼女が命乞いをするようなことがあれば、その時には名誉の死を与えるつもりだ。このように統合軍が勝てば二人が別れることは確実だ。逆に統合軍が負けたとすると、三度目のブルーフォールを行うことは絶望的だ。それで、そのようになればナツナは責任を取って切腹するつもりでいるので、どの道ナツナと彼女は別れる。だからこそ、二人で居られるこれからの数週間を何としても充実させると、深雪の涙に誓った。

 

        ***

 

 ナツナと深雪は、二人で寮の深雪の部屋に帰った。深雪が料理を振舞ってくれるとのことで、彼女が料理している間に一旦寝間着のネグリジェと替えの下着を取りに帰って、深雪の部屋に戻ってナツナは風呂に入った。取りに帰った際、ついでに先の天使の名前も確認しておいた。赤の世界出身でレミエルという名であることは分かったものの、他にはクラスが分かっただけで他の情報は一切分からなかった。例の資料の中で、学園に来る前の経歴が一切記されていないのはレミエルくらいなものだった。

 

(何なんだろ、アイツ。ワケありなんだろうけど、何も分からないっていうのは異常だよね。警戒するべきかな)

 

 こうしてレミエルのことを考えているうちに、彼女の隣にいた壮太郎のことが思い出された。ナツナはもうそれだけで腹が立ち始めた。顔立ちはかなりの美形の部類に入るくらいだった気はするが、それを帳消しにするくらいの鬱陶しさを持つ彼が、なぜレミエルと性交できるくらいに慕われているのか理解できなかった。

 

(まァ、アイツの趣味なんてどうでもいいや。とにかく、あの篠谷ってやつ、もし戦場で出会ったら真っ先にブチ殺してやる)

 

 ナツナは苛立ちのあまり、心の中で彼に対する怒りを吐き出した。ここで、彼女は戦場ということから、ブルーミングバトルのことを連想した。青蘭学園特有のカリキュラムのひとつで、痛みや怪我が一切無い、異能を用いた模擬戦である。模擬戦といっても兵士を育てるためのものではなく、戦いを通じて異能の使い方を掴み、成長させるためのものだ。つまり、元々軍人だったり兵士だったりする極一部の生徒を除けば、ぬるま湯に浸かってきた者ばかりだということだろうとナツナは考えた。今回の作戦では、現在学園にいる統合軍の軍人のみで行動する予定なので、戦闘する予定があるのは学園生徒のみだ。そのうちの何人が骨のある者かは分からないが、少なくとも正規軍はもちろんのこと、民兵を相手にするのよりも気が楽になることは想像に難くない。

 

(気になるものといえば風紀委員くらいかな。高等部の生徒だけで構成されてるくせに警察権持ってるくらいだし、組織的統率も取れてるんだろうけど)

 

 ナツナが持っている情報では、風紀委員は志願制の百人くらいの組織で、青蘭島内の学園生徒による犯罪、つまりプログレスによる犯罪を取り締まる組織である。しかし基本平和なこの島では本業を果たす機会はあまり無いらしく、巡回と訓練くらいしかそれらしいことはしていないとのことである。ただし、訓練に関してはS=W=E軍の人間部隊のサングリア=カミュが監督しているため、他の生徒とは違って軍隊並みの動きができるという話だ。

 

(何にせよ、実際に見てみないことには分からないな。風紀委員、入ってみるかなァ。うん、そうしよう)

 

 ナツナが風紀委員に入ることを決心した直後、深雪の呼ぶ声が聞こえた。それで、ナツナは急いで湯船から出て、慌てて体を拭いたりドライヤーで髪を乾かしたりした。その間、ナツナは何か忘れている気がしたが、少し考えても思い出せなかったので、気のせいということにした。

 

「お待たせ!」

 

 ナツナがダイニングに駆け込むと、既に出来上がった料理が並べられていた。茶碗一杯のご飯に、鮎の塩焼きとほうれん草のおひたし、豆腐とネギの味噌汁。まさしく、ナツナが求めていた形の料理そのものだった。

 

「やば、ちょっと感動しちゃった」

 

 ナツナは溢れてきた涙をぬぐって、深雪と向かいの席に座った。それから二人同時に手を合わせて「いただきます」を言い、ナツナははじめに鮎に手をつけた。特別な味では無かった。塩味のよく効いた、普通の塩焼きだ。しかしそれでも、ナツナには懐かしい味だった。一口食べただけで、拭ったばかりの涙が溢れてくる。

 

「夏菜、美味しい?」

 

 深雪はナツナの涙が喜びの涙だと察してくれたようで、穏やかに尋ねた。ナツナは何度も頷いて、箸を進める。ただの白米でさえも、今は至極の一品だ。気が付けば、ナツナはあっという間に食事を平らげてしまっていた。

 

「ごちそうさま。美味しかったよ、お姉ちゃん」

 

「ありがとう。夏菜に喜んでもらえて嬉しいよ」

 

 深雪は、食事の手を止めて微笑む。その柔らかな笑みは、八年前と何も変わっていない。この時初めて、ナツナは地球に戻って良かったと実感できた。しかし、次に気になるのは奥津のことだ。あそこが青蘭島の街並みのようになってしまっていたら、それはとても悲しいことだ。

 

「ねえ、お姉ちゃん。奥津って今どうなってる? 私がいた頃から、何か変わったところはある?」

 

「ううん、私がここに来る前の二年前までは、特に変わってなかったよ。あそこは異変の影響が少ないと言っても辺鄙だから、そうそう変わらないと思うし、少なくとも向こう十年は昔のままじゃないかな。強いて変わったところを挙げるなら、お父さんが予備役に入って、うちで農業始めたくらいかな」

 

「じゃあ、あそこに今帰れば、お父さんに会えるんだ」

 

「そう出来たらいいけどね」

 

 ナツナの何気ない言葉に、深雪は目を伏せた。彼女のその行動で、ナツナはハッとした。学園生徒は許可が下りない限り、青蘭島の外には出られない。しかし、ナツナの聞いた話では、地球出身の者が生徒の身分で青蘭島の外に出られた例は無く、親の死に目にすら会わせてもらえないという。

 

「お姉ちゃんは、いつまでここにいるの?」

 

「私は、高等部を卒業したら奥津に帰って、お父さんの農業を手伝いながら画家をやりたいと思ってる。先生は青蘭の大学部への進学を勧めてくるけどね」

 

 深雪は苦笑しながら答えた。しかし、その笑みはすぐに消えた。暫く逡巡し、やがて声を震わせて、彼女は尋ねる。

 

「夏菜。今まで、どこで何をしていたの? みんな、ずっと心配してるんだよ。神隠しに遭ったっていう話になってるけど、それでも諦めきれずに奥津に帰ってくるのを待ってるんだよ」

 

 深雪の潤んだ瞳からは、ナツナを射抜くような鋭い眼光が放たれた。ナツナは、彼女が怒っていると感じた。そのように感じるのは初めてのことだったが、考えてみれば当然のことであっだ。突然姿を消して、再会してもナツナは自分のことを一言も話していない。これでは誠意がないと思われても仕方がない。

 

「ごめん。実は、緑の世界に飛ばされていたの。だから、今の私は地球出身の生徒としてではなくて、G・S出身の生徒として、この島にいる」

 

「G・Sに。そう、だったんだ。八年いたんだよね。辛くなかった?」

 

 深雪のこの問いに、ナツナはどのように答えようか迷った。深雪は特定の答えを望んでいるということは無く、単純に気になって尋ねただけであろうが、もしもナツナが辛くなかったと答えれば、彼女は影で悲しむかもしれない。奥津のことを忘れるほどに充実していたという事実を隠せば済む話かもしれないが、それでも彼女がどう思うか分からない。暫く悩んだ末に、ナツナは半分くらい嘘を混ぜて答えることにした。

 

「辛くはなかったよ。向こうの人はみんな親切だったし、婚約者だって向こうにいる。でも、美杉の空気も、伊勢奥津駅の給水塔も、雲出川のせせらぎも、私は決して忘れることは無かった。私の心は、ずっとあそこ(丶丶丶)にあるの」

 

 ナツナは「美杉にある」とはどうしても言えなかった。しかし、この文脈なら間違いなく深雪は「あそこ」を「美杉」もしくは「奥津」と捉える。ナツナはそのように期待し、果たしてそれは的中したらしかった。

 

「そうなんだ。じゃあ、いつか二人で一緒に、昔みたいにあの家で暮らせるのかな」

 

「うん、そうだね」

 

 ナツナは頷くのが堪えた。その日は来ない。ナツナはこれまでのやり取りで確信してしまったのだ。己の一番守りたいものは奥津でも目の前にいる深雪でもない。自分を育んでくれた大地があり、愛し合う人がいる緑の世界なのだと。これが揺らぐとしたらそれは今奥津に帰ることに他ならないが、ナツナの任務はあくまで生徒として過ごすことである故、それは敵前逃亡も同然だ。ナツナはそこまでして奥津に帰るつもりはない。するとやはり、当初の予定通り、二人で奥津の土を踏む前に別れることになる。

 このように考えていると、ナツナはつい黙ってしまったので、それを誤魔化そうと何か話題がないか探し始めた。

 

「あ、そうだお姉ちゃん。お姉ちゃんにはさ、彼氏とかいるの?」

 

「いないよ。ほら、青蘭学園って男の子の方が少ないでしょ。入学直後の獲得戦争に乗り遅れちゃってね。男友達はいるから、アルドラに困ってるってことはないけどね」

 

「あー、お姉ちゃんのんびりしてるからねェ。でも、奥津に帰れば引く手数多なんじゃない? お姉ちゃん器量いいし、嫁に欲しいっていう人多いと思うよ」

 

 ナツナが何気無く言うと、深雪は「そんなことない」と言いつつ、頬を緩め顔を赤らめていた。そして、誤魔化すように食事の残りを掻き込む。年頃の少女らしいその仕草は、先程までの暗い心に光を灯してくれた。ナツナがニヤニヤしていると、食べ終わった深雪は顔の色はそのままで、ナツナから目をそらしながら口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ私も聞くけど、夏菜の婚約者ってどんな人?」

 

「とてもいい人だよ。G・Sで私を養ってくれた家の人なんだけど、優しくてカッコよくてね。ちょっと心配性だけど、それもまたいいっていうか」

 

「そう。羨ましいな。私なんか、絵だけが恋人みたいな人になってるから、そういうロマンスは憧れちゃうな」

 

 深雪はどこかうっとりした様子だった。一人で居残って絵を描くほどそれが好きなのは相変わらずだが、それ以外に興味が無いわけではないようだ。とりあえず、深雪は学生生活を満喫できているらしい。このことはナツナを安心させた。彼女が学生として楽しんでいるなら、自分も楽しめる。根拠は無いが、ナツナは何故かそのように確信できた。



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青蘭学園①

 初登校の朝、軍人らしく午前5時55分ぴったりに目を覚ましたナツナは、癖ですぐにベッドのシーツを整えて制服にアイロンをかけて着用した。ここまで要した時間は5分で、G・Sでの暮らしと殆ど変わらない。ただひとつ違うことは、着ている制服が軍のものでなく、青蘭学園のものということだ。ナツナはこの制服を着るのは初めてだが、すぐに気に入った。カッターシャツにも高い生地を使っているらしく着心地は良く、デザインも可愛い。一応制服は着ても着なくてもよいことになっているが、着る生徒が多いことに納得できるくらいだ。

 

「さてと、ご飯ご飯。まだお姉ちゃんとこ行くには早いから、食堂使うかな」

 

 ナツナはそのように呟き、ローファーを履いて外に出た。秋の朝の風は冷たい。これは緑の世界と変わらぬ空気だ。学生手帳を片手に握り、軽い足取りで階段を駆け下りて食堂に入る。青蘭学園の学生手帳は便利なもので、これを見せるだけで青蘭島で最低限の衣食住は無償で保証される。衣は制服で、住は寮。そして食が寮と学園の学食だ。

 まだ早すぎるのか、食堂には調理場で働く婦人以外には、人影は奥のテーブルにいる二人の他には認められなかった。そしてその二人については、ナツナの顔見知りだった。

 

「おはようございます、ジェミナス中尉」

 

 ナツナは盆に、白米を盛った茶碗、目玉焼き、そして合わせ味噌の豆腐の味噌汁を載せて、二人のいるテーブルに座った。その二人、ユニ・ジェミナスとアインス・エクスアウラは特務隊の同僚で、ナツナとは仲はそこまで良くないが、悪いわけでもない。

 

「おお、トオナギ少尉か。確か少尉は今日が初登校だったな。何か不安は無いか?」

 

 ナツナを無視して盆いっぱいに載せたドーナツを食いまくるアインスとは対照的に、ユニは普通にナツナに応対する。

 

「いいえ。別にそこらに地雷が埋まっているわけでも、テロリストが潜んでいるわけでもないのですから、何の不安もありませんね。それに、私は社交的な性分。特に怪しまれることもないでしょう」

 

「それもそうだな。アインスでさえ違和感なく溶け込めている。況や少尉をや、だな」

 

 ユニは隣で全くペースを落とさずにドーナツを頬張り続けるアインスを一瞥して苦笑する。しかし、ナツナは目の前のアインスに違和感を感じていた。彼女の知るアインスは、このような微笑ましい一面は決して見せることのない、冷酷そのものな女だ。G・Sにいた頃は、趣味など一切持たず、暇さえあれば訓練しているといった様子でもあった。

 

(かぶれたのかな、ここの空気に。まァ、禁欲的な人間ほど欲に負けた時に物凄いって言うし。珍しいことでもないか)

 

 ナツナはそのようなことを考えながら、箸を進めつつアインスを眺める。すると、彼女は盆をナツナから遠ざけてキッとナツナを睨みつけた。

 

「あげないから」

 

「いやいや、別にいらないし」

 

 ナツナは苦笑して首を振ったが、アインスは彼女を睨みつけたままだ。ナツナが何なのかと思っているうちに、彼女は再び口を開いた。

 

「ドーナツを欲しがらないなんて、人間じゃない」

 

「めんどくさいね君!? そんなキャラだっけ?」

 

「トオナギ少尉こそ、そんな普通な人だっけ。もっと気難しかった気がする」

 

 ナツナが大声を上げると、アインスは心外だと言わんばかりに眉をひそめて呟いた。それで少し冷静になれたナツナは、気を取り直して彼女に答える。

 

「オフの時はこんなもんだよ。アインスは仕事モードの私しか見たことないから分からなかったろうけど」

 

「そういうことなら同じこと言える。オフの私はこんな感じ」

 

「いや、そういうことではないと思うぞ。監督役の私でも、お前がドーナツを初めて食うまではオフの貴様なんぞ見たこともない」

 

「そうなの? へえ」

 

 アインスは興味なさそうに相槌を打った。その普通の人間らしい仕草に、ナツナはだんだんと嫌な予感がしてきた。彼女はG・Sにいた時よりも、明らかに人間らしさを身に付けている。彼女の受け持つ使命を考えると、これは非常にまずいことだ。彼女は後天的に異能を付与されたエクスペンドなる存在であり、基本的に課せられる任務は非人道的なものである。それを良心の呵責無く実行するために、彼女はロボットの如き人間になるように調整されている。その彼女が人間らしさを得ては、彼女自身のことに疑問を持ち始めるのは自明だ。

 

(中尉は報告してるのかな、このこと。してると思うけど、私からも報告しておくか)

 

 ユニはアインスの現状に、危機感を抱いていないように見える。ナツナは胸にもやもやした思いを抱きながら、箸を進めた。

 

        ***

 

 朝の8時になって、ナツナは深雪を迎えに行った。彼女の部屋の前に立ち、インターホンを鳴らそうとしたところでちょうど深雪が出てきた。

 

「あ、夏菜おはよう。迎えに来てくれたんだ」

 

「うん。ちょうどいいしこのまま行こう。はいこれ」

 

 ナツナはバイクのヘルメットを深雪に手渡した。しかし、深雪はピンと来ていないようで、それをまじまじと見つめるだけだった。

 

「バイクだよバイク。どうせモノレール混むでしょ? この島は交通量少ないらしいし、こっちの方が良くない?」

 

「そう言えば、昨日再会した時はライダースーツだったし、帰りもバイク手で引いてたね。それどころじゃなくて気にしてなかったけど」

 

「さ、早く行こうよ」

 

 ナツナは深雪の腕をぐいと引っ張る。この時、ナツナがふと思い出したのはかつて深雪と遊び回った記憶だった。深雪は外出がそこまで好きでなかったにも関わらず、今のようにナツナが腕を引っ張ると、彼女はいつも付き合ってくれた。この郷愁の念と共に、ナツナは胸にこみ上げるものを感じた。これは深雪も同じようで、彼女は困ったような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべていた。

 バイクのもとに着くと、深雪はそれを物珍しそうに眺めていた。駐輪場に停めてある他の二輪車を見ても、殆どが自転車で、バイクは見当たらないので実際珍しいようだ。

 

「二人乗りすることになるからちょっと心配だったけど、大きいバイクだね。いきなりこんなの買って大丈夫だった?」

 

「G・Sでもこのくらいのに乗ってたし大丈夫だよ。早く早く」

 

 ナツナはバイクの収納に鞄を突っ込みながら深雪を急かす。しかし、深雪はその前に鞄から携帯電話を取り出した。

 

「待って。その前に二人で写真撮ろうよ。今度奥津に送る手紙に同封するの」

 

 どことなくうきうきしている彼女の提案に、ナツナは弾けるような笑顔を以って頷く一方で、内心では締め付けられるような悲しみを感じていた。この仮初めの回帰した日常に、奥津の人を巻き込むのは好ましくなかった。しかし、ナツナの事情を知らぬ深雪にとって、ナツナが彼女の提案を断る理由が無い。

 

「はい、ちーず」

 

 結局、ナツナは深雪に乗せられてツーショットを撮った。写真写りを確認すると、自分が自然に笑えていることが確認できて、ナツナはホッとした。表情を自然に偽る技術は特務隊の訓練で身につけたものだが、このような場面で役に立つとはナツナ自身にも思いもよらぬことであった。

 

「ごめんね時間取らせて。じゃ、行こうか」

 

 深雪は申し訳なさそうに言って、ナツナと同様に鞄をバイクの収納に入れ、ヘルメットを被った。ナツナも気を取り直してバイクに跨り、深雪が後ろに座ったのを確認して、エンジンをかけた。

 

「お姉ちゃん、振り落とされないように、しっかり掴まっててね!」

 

 ナツナは大声で言うと、勢いよくバイクを発進させた。G・Sではゲオルグ相手に二人乗りもよくやっていた。それゆえ、ナツナは殆どその時の感覚で、しかも道路が空いていたことも相まってかなりのスピードを出して走っていた。信号に一回も引っかかることがなかったため、学園の駐輪場に着くまで深雪の具合を確認する余裕が無かったが、そこで彼女の方を見てみると、すっかりへろへろになってしまっていた。

 

「な、夏菜。次はもっとゆっくりね」

 

 目を回しながら、深雪はヘルメットを外した。ナツナは引きつった笑いを浮かべて、頭の後ろをぽりぽりと掻いた。

 

「は、はは。ごめん、ごめんね」

 

「ううん、いいの。すぐ治るから」

 

 深雪は気丈に振る舞うが、顔色を悪くしており、足取りもふらふらしている。仕方がないというのと、自分の運転でこのようになってしまったという負い目から、ナツナは深雪の遠慮を押し切って彼女に肩を貸した。深雪も、結局はそれほど遠慮することはなく、ナツナの好意に従った。

 校舎の玄関まで来ると、ナツナから見ても分かるくらいに深雪は回復していた。それで、ナツナは彼女から体を離して、抱えていた彼女の荷物を手渡した。

 

「ありがとうね。ところで、教室がどこにあるかとか分かる? 案内しなくても大丈夫?」

 

「大丈夫だよと言いたいけど、ちょっと不安かな。ということで、お願い!」

 

 ナツナは手を合わせて、少し頭を下げた。ナツナは、本当は校内の見取り図は完璧に頭に入っているので、教室の位置が分からないということはあり得ないのだが、深雪との時間を大切にしたかった。

 

「ふふふ、いいよ。どこのクラス?」

 

 深雪は嬉しそうに笑った。すぐに、二度と見ることは無くなるであろうその笑みは、昨日から見てきたものと同じように、ナツナの胸にすぐに刻み込まれた。

 

        ***

 

 深雪に自分の教室まで送ってもらった後、彼女が見えなくなってから、ナツナは職員室に向かった。実は最初からクラスに向かわずにそうしなさいと指示されていたのだが、深雪に職員室まで案内させると、彼女がホームルームに遅れてしまうので、黙っていたのだった。

 職員室に着いてから担任の教師に挨拶をし、そのまま折り返して彼と共に教室に入った。そして、新たなクラスメイトが見つめる中、ナツナはチョークで「ナツナ・トオナギ」と黒板に記した。「遠薙夏菜」としようかとも考えていたが、あくまでG・Sからの留学生であることを示すために、敢えて片仮名で書いた。

 

「ナツナ・トオナギです。G・Sからの留学生です。まだまだ分からないことがたくさんありますが、よろしくお願いします」

 

 ナツナは愛想笑いを浮かべつつ定番の文句を並べて、軽く一礼した。クラスメイトも拍手で迎える。その後、ナツナは用意された奥の席に向かいながら、クラスメイトの顔を確認していった。1クラスの人数は40人程度で、その中に各世界の出身者がバランスよく割り当てられている。男、つまりαドライバーはその中でも5人しかいない。平均的には一人が一度にリンクできる人数は最大4人とのことなので、明らかにαドライバーの数は足りていない。しかし、もちろんあぶれるプログレスは多いが、αドライバーもパートナーを見つけられない者の方が多いのだという。この話に関してはナツナは半信半疑であったが、クラスメイトの男の様子を見て納得した。見た目が好青年なのは2人で、残りの3人からは魅力が全く感じられない。寧ろ近寄りたくないし、陰口を叩いても誰からも文句を言われなさそうな雰囲気だ。彼らとリンクするなら壮太郎とリンクした方がマシだと言える。

 ナツナが椅子に腰かけ、一限目の数学の教材を鞄から取り出していると、前の席の青髪の女子が振り向いて話しかけてきた。

 

「トオナギさん。何かお困りのことが有りましたらぜひ声かけてください! あ、私、リーナ=リナーシタといいます! どうぞよろしくお願いします!」

 

「じゃあ、困ったら頼らせてもらうね、リーナ。こちらこそよろしく」

 

 ナツナは、リーナが手を差し出してきたのに応じて握手を交わした。ナツナは、彼女のことは既に名簿で確認済みだった。S=W=E軍機械化部隊の中で、人型のロボットであるジャッジメンティスを駆るパイロットで、風紀委員会にも属している。つまり、近い将来で死闘を演じる可能性がある。

 

(この子はぬるくない戦いを知っているはず。この子みたいなのは他にもいたはずだから、手の内を晒すのは控えた方がいいな)

 

 愛想笑いの下で、ナツナはリーナと戦う前提で思考を巡らせた。戦いは既に始まっている。統合軍所属の学生以外は全員が敵だ。ナツナは、つかの間の学園生活は楽しむつもりだったが、彼ら彼女らの中に本気で浸かる気は毛頭無かった。



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青蘭学園②

 昼休みに、ナツナはリーナたちクラスメイトの誘いを断って、深雪のいる教室を目指した。しかし、その途中で会いたくなかった者を見てしまった。彼——壮太郎は複数人の女を侍らせていたが、その中にレミエルの姿は無かった。彼の方もナツナに気が付いたようで、侍らせていた女らを待たせて、にやにやして近寄ってきた。

 

「よォ遠薙妹。こんなとこで会うたァ、もしかしなくても姉ちゃん目当てだろ」

 

「まァ、そうだけど。ていうかあの子どうしたの」

 

「秘密の付き合いだから大っぴらにはしてないんだよ」

 

 壮太郎がさらりと言ったその一言で、ナツナは彼を信じがたいものを見る目で見た。そのままナツナはしばらく言葉も出なかったが、やっと思いで絞り出せた。

 

「秘密の付き合いって、嘘でしょ? どこの世界に空き教室でセックスする秘密の付き合いがあんの?」

 

「ここの世界にあるだろ。安心しろって。お前以外にはバレてないからさ。俺は表では今は女選んでる真っ最中ってことになってるしな。俺にはレミエルしかいないんだがな、いやァ、モテる男はつらいぜ」

 

「それ本当? てか、あんたみたいなのがモテるって、青蘭学園の女は頭がパッパラパーなんじゃないの? あんたの顔と体以外に何の魅力があんの?」

 

「ひでェ言い草だなおい。こう見えてもとっても気さくで気が置けなくて文武両道で歴代最高のアルドラで風紀委員長もやってる美少年で、高等部男女混合ミスター&ミスコン二連覇の男だぞ。モテる要素しかねェだろうが」

 

 ナツナは、様々な要素で開いた口が塞がらなかった。その様子を見た壮太郎は何を勘違いしたのか、だらしのない表情で頰を掻き始めた。

 

「今更俺の魅力に気づいたか? いやァ、照れるぜへっへっへ」

 

「やっぱり青蘭学園の連中ってパッパラパーだよ。あんたが風紀委員長とかあり得ないでしょ。何をどうしたらそんな采配になるの。空き教室でセックスする風紀委員長とか訳わかんないんだけど」

 

「あ、そこに注目するんだな。てかお前やけにセックスに拘るな。スケべか? スケベなのか?」

 

 この言葉で、ナツナの苛立ちは頂点に達していた。この場で解体してやろうかという気にもなったが、先ほどまで壮太郎が侍らせていた女たちがヒソヒソ話しながらこちらを見ているのに気がつき、ナツナの心はひとまずクールダウンした。それで、もう彼と話すのはやめようと思った矢先、奥の方から歩いてきた深雪と目があった。

 

「あれ夏菜? 何で壮太郎君と一緒なの?」

 

「壮太郎、君? お姉ちゃん、もしかして昨日言ってた男友達ってこいつのこと?」

 

「え、まァ、そうだけど」

 

 ナツナは深雪が肯定したのに愕然とした。これまで散々、壮太郎に近寄る女のことを軽蔑していたのに、その女たちに最愛の姉が含まれてしまった。知らなかったこととはいえ、この事実がナツナの心に付けた傷は深かった。軽く自己嫌悪に陥ってしまったナツナは、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 

「あァ、最悪」

 

「そこまで嫌いかァ。ちょっとセンチになっちゃうゾ」

 

「いやマジでウザいんだけど。あんたホントなんなの」

 

「夏菜。壮太郎君は確かに凄く腹立つ時あるけど、そんなに悪い人じゃないよ。むしろ結構いい人だよ。凄く腹立つ時あるけど」

 

 深雪の言葉で、ナツナは顔を上げた。何故二回も腹が立つと言うのか、と壮太郎が騒ぐが、ナツナは彼を無視して立ち上がった。

 

「そうなの? 信じていいの?」

 

「腹立つ人だけど大丈夫だよ。そのうち慣れるし」

 

「おい遠薙ィ。何だってそんなに腹立つことを強調するんだい。フォローする気あんのか」

 

 壮太郎はわざとらしい涙声で訴えるが、深雪は笑顔で黙殺した。このような深雪の姿は、ナツナの瞳には珍しく映った。違和感はあったが、八年もすれば新たな一面が付け加えられてもおかしくはない。そのように考えると、むしろ彼女がどのような八年を過ごしたかを想像することを、楽しめる気がした。

 

「お姉ちゃん、割と毒も吐くんだね。意外だけど、ちょっと面白いかも」

 

「そうかな。でも、壮太郎君にだけだよ。これが正しい扱い方だってみんな言ってるし」

 

「なんだ。みんなアイツが馬鹿だって分かってるんだね。じゃあ、みんなアイツに魅力を感じてるんじゃなくてオモチャにしてるって感じ?」

 

「いや、そういうことじゃないよ。壮太郎君には壮太郎君の魅力があるし。魅力が無きゃ風紀委員長にはなれないからね」

 

 その言葉を聞いて、ナツナはまた首をひねった。魅力などかけらもあるはずもないというのに、何を言っているのだろうかと思い、訝しんで壮太郎を見た。

 

「今俺様の魅力に気がついたとしても、お前の好きなセックスはできねえからな」

 

「死ね!」

 

 少しでも彼に期待を持ってしまったがために、ナツナの口から一際強い言葉が飛び出した。しかし壮太郎はへらへらしている。ナツナの怒りは頂点に達しようとしていた。しかし、二人の間に深雪が割って入り、彼女も怒った様子で言う。

 

「ダメだよ壮太郎君。そんなことばかり言って夏菜を困らせないで」

 

「んぐ、それもそうだな。悪かった。すまん」

 

「お姉ちゃんに言われてからしか謝れないの、あんたは。ヘタれるんだったらセクハラし続けた方がましだよ」

 

 ナツナは壮太郎を強く睨み付けた。彼は答えに詰まっている様子だった。彼の困り顔を見れたのは初めてだったので、ナツナは密かに優越感に浸っていた。しかし、次に彼の口から飛び出したのは、彼女の予想の斜め上の言葉だった。

 

「えーっと、それはお前にいくらセクハラしても問題ないってことか? やっぱスケベか?」

 

「死ね! ホント死ね! マジで死ね!」

 

「こうやってキャラ崩れるレベルで死ね死ね言うのも照れ隠しなんだな。なるほどなるほど」

 

 壮太郎の表情は晴れやかだった。ナツナは、何を言っても無駄だとそれを見て悟った。がっくりと肩を落とした彼女は、彼から目を逸らして深雪の方に向いた。

 

「お姉ちゃん、ご飯ってもう食べた?」

 

「まだだけど、一緒に食べる?」

 

 ナツナは頷き、深雪の制服の袖を引っ張って歩き出した。それから、壮太郎の方を振り向くことはなかった。

 

        ***

 

 ナツナと深雪が食堂に着いてから最初に目が合ったのは、席に着いて今さっき食事を済ませたらしいルルーナとリーリヤであった。その二人を見て、ナツナは昨日の約束を思い出して、若干ながら青ざめた。それで慌てて彼女らに近づき、頭を下げた。

 

「昨日の約束をすっぽかしてしまって、ごめんなさい先輩」

 

「あ、いいよ別に。お姉さんと会えて浮かれてたんでしょ? そういうことなら問題ナッシング。今リーリヤに奢って貰えばいいんだし」

 

「結局私が奢るんですね。奢らなくて済んでラッキーだと思ってたのに」

 

 笑顔なルルーナに対し、リーリヤの表情は暗かった。しかし、不機嫌そうに振る舞いつつも、彼女は財布を取り出しながら食券売り場の方に体を向けた。

 

「奢りますから、何がいいか早く言ってください。トオナギ少尉のお姉さんも」

 

「え、私も?」

 

 三人の様子を特に何も言わずに見ていた深雪だったが、いきなり話しかけられたためか、素っ頓狂な声が出ていた。

 

「じゃあ、エビフライ定食でお願いするね」

 

「私はお姉ちゃんと一緒で」

 

 深雪に続けてナツナは何気なくそのように言うと、リーリヤは泣きそうになりながら食券売り場の方に向かった。その背中を見つめる深雪はニコニコしていたが、ルルーナの方は苦笑いしていた。

 

「ナツナのお姉さん、鬼だね……」

 

「え、どういうことですか?」

 

「エビフライ定食って、地球系のメニューの中じゃ二番目に高いんだよ。ちなみに一番はステーキね。松坂牛とかいう牛を使ってたと思うけど」

 

「松坂!?」

 

 ルルーナの言葉の中に現れたその単語が余りにも懐かしく、ナツナはつい大声を出してしまった。事情の分かる深雪は目を細めたが、ルルーナは目をぱちくりさせていた。

 

「あ、こほん。えっと、松坂っていう土地が、地球にいた時に住んでた所から近かったんですよ。汽車一本で行けて」

 

「そうそう。懐かしいね。たまにお父さんが帰ってきた時は、汽車で松坂に行って、松坂牛の牛丼とか食べに行ってたね」

 

 深雪はうっとりした様子だった。ナツナも当時の記憶が蘇り、口の中に涎が溜まり始めた。対し、ルルーナは興味無さげに「ふうん」と相槌を打った。

 

「そう言えば、今日のナツナは微妙に機嫌悪そうだけど、何かあったの?」

 

 ルルーナは話題を逸らしてきた。先ほどの松坂に対するナツナの反応が、地球に対する愛着が復活してきているものと判断されたらしい。そのようなことは天地がひっくり返ってもあり得ないのに、と彼女の心配のし過ぎに心の中で苦言しつつ、ナツナは先の壮太郎とのやり取りのことを話した。その話を聴き終えたルルーナは、ニヤニヤしながら口を開いた。

 

「あいつに関してはもう仕方ないかなって気がするね。私は嫌いじゃないけど、リーリヤはすっごく嫌ってるし。あのセクハラ大魔神っぷりは人選ぶよねェ。ま、嫌いなら嫌いで、関わりを避ければいいんじゃない?」

 

「いや、それがですね。私、風紀委員やってみようかなって思ってまして。でもそれやったら絶対アイツと関わる羽目になるじゃないですか」

 

「私だったら、アイツと関わるくらいなら風紀委員なんてやりませんけどね」

 

 かなり不機嫌そうな顔つきで、リーリヤが戻ってきた。その両腕にはエビフライ定食の盆がそれぞれ載っており、ナツナと深雪がそれを受け取ると、どかっと豪快にルルーナの隣に座った。

 

「大体、命令でもないのにわざわざアイツに関わりにいく必要なんてありません。そんなことしたらレイプされるに決まってます」

 

 リーリヤは感情的になってこのように言ったが、ナツナはこの意見には賛意を示さなかった。俺にはレミエルしかいないと言った時の壮太郎は、思い返してみれば態度こそチャラチャラしていたが、目は本気だった。空き教室でセックスするのも、裏を返せばそのくらいレミエルが好きだということだろう。そのように考えると、何だかんだで彼は義理堅い所や、人への配慮ができないだけで自制心もある男のように思えてきた。だからといってゲオルグと比べればあらゆる面で天と地ほどの差があるのには変わりなく、依然として、ナツナにとって彼は不愉快な存在であった。

 

「リーリヤさんも夏菜も壮太郎君のことすごく嫌ってるね。そんなに悪い人じゃないんだけどねェ。セクハラは勘弁して欲しいけど」

 

 深雪は味噌汁をすすりながら言う。ナツナは深雪は壮太郎の何を気に入っているのかが分からなかった。義理堅さを評価しているとしても、落ち着いた雰囲気の深雪とうざったい壮太郎ではそりが合わないように思える。このようにして考えているうちに、ナツナの頭の中は、結局壮太郎のことで一杯になってしまうのだった



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青蘭学園③

 放課後、ナツナは風紀委員の参加申込書を持参してその教室を訪れた。壮太郎と遭遇しないようにと祈りながら入ったのだが、その願いもむなしく、風紀委員会教室には彼一人しかいないという最悪の状態であった。彼は日本刀の刀身を打ち粉で叩いていたが、ナツナを見るなり嬉しそうにニヤニヤして声をかけてきた。

 

「よう遠薙妹。なんか用か?」

 

「風紀委員会に入ろうと思ったんだけど、やっぱやめよっかなー」

 

「待った待った。ぜひ入ってくれお願いだ。お前みたいな軍人の人材は貴重なんだよ。どんなシフト作っても、軍属じゃない連中は人手不足だってのに、必要性も理解しないで、もっと遊ぶ時間が欲しいだの深夜巡回は嫌だの、しょうもない文句ばかり付けてくるんだよ。お前が入ってくれればシフトに余裕もできるし、あいつらの要望を聞けるゆとりも少しはできるからさ」

 

 壮太郎は必死な様子だった。ナツナにとって、これまで横柄な態度しか見せてこなかった彼が頭を下げるのを見るのは気分が良かった。機嫌を良くしたナツナは、意地悪な気分になってポケットに入れていた申込書を取り出し、見せつけるようにそれを壮太郎の目の前で揺らした。

 

「ねェねェ。これが欲しいの?」

 

「印鑑押すからさっさと寄越せコノヤロウ」

 

「それが人に頼む態度だとでも思ってんの?」

 

 ナツナがそのように言うと、壮太郎はイラっときたのか、不愉快そうに眉をひそめた。

 

「ごちゃごちゃ言っとらんでさっさと渡さんかいワレ。大体テメェこそ風紀委員に入れてくださいってお願いする立場じゃねェのか? ああん?」

 

「そっちこそごちゃごちゃ言わないで『捺印しますから渡してくださいお願いします』って言えば済む話じゃん。さっさと言いなよ」

 

 壮太郎の言葉が乱暴になったが、ナツナも引くに引けないので挑発せざるを得なかった。まさしく一触即発の空気だったが、その時ちょうど、リーナが入室してきた。

 

「あれ、トオナギさん? どうしたんです?」

 

「いやなリナーシタ。こいつ風紀委員に入るんだよ。今その申込書をもらう所だ」

 

 ナツナが口を開くよりも早く、壮太郎はまるで先ほどまでのいがみ合いなど無かったかのように言った。このように言われては、リーナの手前、ナツナは申込書を渡すしかない。仕方なく、ナツナも彼と同じくいがみ合いの雰囲気を感じさせない表情で申込書を手渡した。

 

「にしても、トオナギさんは今日転校してきたばかりですよね? なんでまた風紀委員に」

 

「こいつに頼まれたの。軍属の人材は喉から手が出るほど欲しいんだってさ」

 

 仕返しのつもりで、ナツナは壮太郎が何か言う前に答えた。しかも、嘘は言っていない。いきなり怒り出したのは壮太郎の方である。彼もそのことは分かっているようで、渋々ながらも「そうなんだよ」と肯定の意を示した。

 

「でもそれだと変な話じゃないですか? 緑の世界出身のトオナギさんと青の世界出身の委員長では接点が無いような」

 

「昨日下見に行ったときに会ったの。接点はそれ」

 

「あ、なるほど。それなら納得です」

 

 リーナの顔が晴れた。そうしてそのまま、壮太郎の方に向き直って、姿勢を正して毅然とした表情で告げる。

 

「15時から15時半、Hー3イ地区異常なし。これからHー2ロ地区へ1分遅れで巡回に参ります」

 

「よし。この遅れはちょっと仕方ないところがあるから、罰は無しな。だけど出来るだけ埋め合わせてくれ」

 

「はい!」

 

 リーナは壮太郎に威勢良く返事をして、教室から駆け足気味に出て行った。先の壮太郎の態度は、しっかりと風紀委員長らしいものだった。しかしそれ以上に、ナツナは記号の割り振りや1分遅れという文言が気になった。

 

「ねェ、質問がふたつあるんだけど。Hなんとかって、どうやって決めてんの? あとさっきの1分遅れってなに?」

 

「前者は学園の敷地の区分けだよ。幼年部はP、初等部はE、中等部はJ、高等部はH、大学部はU、特別教室棟はS、研究室棟はR、野外はFから始まって、数字が階層、イロハで平面的に分けてる。例えばHー3イ地区だったら、高等部棟三階の西側半分だ。もっとも、これは学校の敷地だけの話で、学校の外は普通に住所で区別してるけどな」

 

「じゃあ1分遅れは?」

 

「そのまんまだよ。ほれ。これが今日のシフト表だ」

 

 壮太郎は一旦刀を机の上に置いて、一枚の紙をナツナに手渡した。それを見た瞬間、ナツナは目を見張った。それはシフト表というよりはバスや鉄道のダイヤグラムだったが、かなり綿密に計算されたものであることは軽く目を通しただけでよく理解できた。グラフの傾きを見ると、個人個人でそれぞれ異なることから、それぞれの身体能力も考慮されていることがわかる。それでいて秒単位で設定されているので、実は壮太郎はかなり有能な人物なのではないかという疑惑が浮かび上がってきた。ただし、あまりに細かいので、1分でも遅れれば業務に支障が出ることは間違いない。

 

「これ作るの大変だったでしょ。でもこんなに細かかったら、私が入って作り直しちゃ大変じゃないの?」

 

「そう思うだろ。だが安心しな。あと十人、どんなタイプのやつが入っても大丈夫なように3の10乗通りのパターンをもう作ってある。お前どうせ運動神経いいだろうから、スポーツ万能が入った時のパターンな」

 

 ほらよ、と壮太郎は新たな紙を渡してきた。それを見ると、ナツナはまたもやその精巧さに驚きを隠せなかった。先のダイヤグラムと比較しても全く遜色ない出来だ。

 

「ま、お前が入った時点で十人の余裕作るために、結局ダイヤ作り直す羽目になるんだがな。まァ俺にとっちゃこんなことは本気出しゃお茶の子サイサイよ」

 

「すごいね、あんた。本気で見直したよ」

 

「当然だ。俺が絶大な人気を誇る理由が分かるだろ」

 

 壮太郎は鼻を伸ばして言った。もうそれだけで上がったナツナの彼に対する評価はがくっと下がったが、このくらい馬鹿な方が面白いので、彼の人気も何となくだが納得できた。

 

「まァ、ね。それよりさ、風紀委員の仕事ってどんなのか教えてよ。どうせ明日からやらなきゃいけないんでしょ?」

 

「基本は巡回して不審者の発見か困民救済だ。ま、基本は特に何も無いがな。そんでも、プログレスが犯罪行為に走ったら手に負えないからこれは必要だ。実際、お前らが来る前にそういうことがあったんでな。この刀の錆にしてやったが」

 

 壮太郎は、刀を見せびらかすようにして手に取り、高級そうなティッシュペーパーに油を染み込ませて、それで刀身に油を塗り始めた。その刃の輝きを見ていると、かなり大事に手入れされていることが分かる。

 

「そういえばさ、それすごく大事にしてるっぽいけど、いい銘柄のものだったりするの?」

 

「いや、日華事変の時くらいに工場で大量生産された安モンだよ。つっても出来は良くて、丈夫な上に斬れ味は抜群だがな」

 

 そのように言いつつ、壮太郎は油は塗り終えたらしく、刀身を柄にはめて目釘を打ち始めた。その時の目には、これまでの無邪気な目とは違い、少し大人びた、感傷的な光が見えた。窓から差し込む夕日も相まって、余計にその雰囲気が強調されている。

 

「貰いもんなんだ。そして、これには俺の十五までの半分が詰まってる。ずっと曲がることが無かったあの背中に追いつくためにも、これを無碍には出来ねェんだ」

 

 ナツナは言葉が出なかった。目の前の少年が、昼間の無礼者の姿と一致しない。今の彼は確かに美しかった。ゲオルグがナツナの心に無ければ、ナツナの目の前にある彼の姿だけで、彼に惚れてしまいそうなほどであった。呆然として彼を見つめていると、彼はニヤリと下品に笑った。

 

「今惚れたってセックス出来ねェからな。俺とセックスできるのはレミエルだけだ。ここでお前が素っ裸になっても無理というのは分かってくれ」

 

「あんたのセクハラのレパートリーはセックスしか無いの?」

 

 呆れ果てて、ナツナはため息をついた。先程から、壮太郎に対する評価が上がっては下がっての繰り返しだ。黙っていれば本当に格好いいのにというナツナの思いとは裏腹に、壮太郎は口からあまりに残念な言葉を吐き続ける。

 

「そりゃお前がセックス言い始めたからセックスで弄ってるだけでんがな。セックス弄りが飽きたなら乳首当てゲームでもやろうぜ。お互いに服の上から乳首をつつけるかどうかってやつ」

 

「それはあの子とやることじゃないの?」

 

「え、学年の女の八割とは既に実行済みだぞ。たまにお前の姉ちゃんともやったりするし」

 

 ナツナは、別の意味で言葉を失った。と同時に、いつの間にか近くなっていた壮太郎との距離を遠くした。

 

「なんかもう、なんだろ。お姉ちゃんがそうするのは、押しに弱いからまだ分かりたくないけど分からないでもないけど、学年の八割って、あんたの学年終わってんじゃない? そりゃあんたは凄いよ。才気溢れる家柄もいいイケメンな男だとは認めるよ。でもこんなに気持ち悪いやつに自分の乳首触らせるとか、私には分からない」

 

「その気持ち悪さがスパイスになってんじゃね? 俺には気持ち悪いって自覚全然ねェけど」

 

「自分で言うかなそれ。ま、私には婚約者がいるからね。天地がひっくり返ってもあんたに乳首なんか触らせないから」

 

「その婚約者はどんな風にお前の乳首を触るんだ?」

 

「そりゃもう私が感じるように、愛撫で硬くなったのをクリクリと——って、何言わせんの!」

 

 ナツナは一気に壮太郎に詰め寄って怒鳴った。しかし、壮太郎は悪びれない様子でヘラヘラしている。それどころか余計に調子に乗っている様子だった。

 

「お前ノリツッコミするくらい俺のこと気に入ってくれたんだなァ。昼に比べりゃえらい違いだ」

 

「あんたみたいな生き方できたら人生楽だろうね」

 

「よく言われるよ。でも、楽そうな様子の裏にはそれなりのドラマがあったんだぜ。映画同好会に『ドキュメント・篠谷壮太郎秘話〜壮絶! 自信家の裏側〜』っていう映画を作らせてもいいくらいだ。レミエルが許さないだろうけど」

 

 壮太郎はそこまで言うと、ちょうど目釘を打ち終えたらしく、刀を鞘に納めて机の上に散らばった書類を整理し始めた。

 

「そろそろ交代の時間だから、人が来る前にとっとと行きな。あと、規則上、お前の実力を測らにゃならんで、夜の八時に第七闘技場に来てくれ」

 

「うん、分かった。じゃあね」

 

 ナツナは軽く手を振って、廊下に出た。日陰ゆえか、そこの空気は思ったよりも冷たく、ナツナは思わず身震いしてしまった。



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青蘭学園④

 夜の八時、ナツナは壮太郎の言う通りに第七闘技場に来た。それは縦に長い廊下のような室内闘技場で、通常のブルーミングバトルの授業では使われない、ほぼ風紀委員の訓練専用の闘技場である。

 その闘技場で待っていたのは壮太郎と、栗色の髪をツインテールに纏めた少女だった。その名をナツナは資料で知っている。日向美海——高等部二年のプログレスの中では中心的な存在の女子生徒だ。

 

「来たな遠薙妹。こいつ、日向がお前の相手だ。別に勝たなくても問題無いけど頑張れよ。日向は今んとこブルーミングバトルの校内ランキング暫定一位だからな。でも校内で一番強いのは俺だから、校内二番手の実力者ってとこだな」

 

「そんなに実力に自信があるなら、あんたが私とやればいいんじゃないの」

 

 ナツナは、やたらと自信に満ち溢れた壮太郎の言葉にムッとなって、唇を尖らせた。しかし、まるでその言葉を待っていたかのように、壮太郎はふふんと鼻を鳴らした。

 

「無理だね。俺はプログレスじゃないから、俺と戦うってなったら互いにブルーミングバトルフィールドは使えねェ。で、俺は加減が出来ないからお前を殺しかねない。つーわけで無理だ」

 

「あァ、そう。その自信の証拠を見てみたいものだけど、今何言ってもダメそうだし、諦めるよ」

 

 ナツナは呆れながらに言って、壮太郎と入れ替わりに、闘技場に入った。美海と二人きりになると、彼女は申し訳なさそうに苦笑した。

 

「ごめんね。うちの委員長、ああいう人だから」

 

「それはもう分かってますよ。それより、始めましょう。夜も遅いわけですし」

 

「そうだね。篠谷君、お願い」

 

「おう、勝負は一対一のブルーミングバトル。分かってると思うが、ブルーミングバトルでは傷を負うことは無い代わりに、一定のダメージを食らうと勝敗判定のブザーが鳴るからな。じゃ、始め」

 

 スピーカーから聞こえてきた壮太郎の合図で、先に動き始めたのは美海だった。彼女はどこからともなく出したレイピアを握り、空に飛び上がって、ナツナ目掛けて突進きた。ナツナはそれをフットワークのみで回避するが、美海は即座に方向転換してまたもや突いてきた。ナツナは再び回避するが、やはり美海はそれから数秒もしないうちに突いてくる。

 これを数回繰り返して、ナツナは、美海が大気を操る異能で飛び上がったり無理矢理方向転換したり、突進の勢いを強めてるのだと理解した。そして、彼女の剣は剣術を修めているものではなく、無い技巧を異能で補っているということも把握できた。

 

(この程度でランキング一位なんて笑っちゃうね。次の一回で、私の勝ちだ)

 

 ナツナは内心で勝利宣言する。その直後、美海の突きが正面から来た。ナツナはそれを紙一重で回避する。そして次に、ナツナは美海が真後ろから突こうとしているのを察知した。

 

(勝った!)

 

 ナツナは、美海の背後からの突きを右に移動して回避するとともに、彼女の額に本気の裏拳を叩き込んだ。確かな手応えとともに、ブザーが鳴る。念のためナツナは自分の体を確認するが、自分が当てられた攻撃は無い。ナツナは勝ったことを再確認した。それを裏付けるように、転んでいた美海が立ち上がって、額をさすりながら話しかけてきた。

 

「負けちゃったなァ。すごい裏拳だったね」

 

「偶然ですよ。次やったら上手くいくか分かりませんし」

 

 ナツナは社交辞令的な受け答えした。この裏では、何度戦っても負ける気がしないという気持ちがあったが、それは表に出さずにいた。

 

「お疲れ。日向は帰っていいぞ。俺は遠薙妹と少し話す」

 

 壮太郎がスピーカー越しに声をかける。美海は「はァい」と返事をして、ナツナに別れを告げて早足で帰って行った。ナツナが闘技場から出ると、そこで壮太郎が小さく拍手してきた。

 

「合格。あの裏拳、いい当たりだったな。多分ブルーミングバトルじゃなかったら日向は気絶してたな」

 

「ホントに、あの人が暫定一位なの? うちの統合軍にはあれより強い人なんていくらでもいるよ?」

 

 壮太郎の賞賛は無視して、ナツナは眉をひそめて尋ねる。すると、彼は少しびくりとして、誤魔化すように笑った。

 

「暫定一位ってのは本当なんだ。ただ、四ヶ月前の大会の結果だから、緑の世界の連中は参加してないし、途中敗退した連中の中でも日向に勝てる奴は何人かいる。それに、その大会にはアルドラも付いてたから、それも大きかったな」

 

「ふうん。でも、アルドラ抜きだと弱体化が著しいのはヤバくない?」

 

「弱体化ってか、戦いへの意識の違いだな。お前、あの裏拳に殺意めっちゃ込めてただろ。そういう戦いをしてないんだよ、あいつは。まずい傾向だが、風紀委員含めてこの学校はそんなんばっかだ。残念なことに今の風紀委員で殺意全開の戦いが出来るのは俺とリナーシタと、ソフィーナくらいしかいねェ」

 

 壮太郎は、顔をしかめて吐き捨てた。彼がそれを気にしているのは、ナツナにとっては危機感を募らせるのに十分で、昨日の「風紀委員と言えどぬるま湯に浸かっているもの」という認識を変えねばならかった。確かにそのような者も一定数いるようだが、警戒すべき人間が多い。彼女は、風紀委員に入って正解だったと心の底から感じた。昨日の油断を軍事行動中に持ち込んでいれば、戦死は免れないと思える。

 ナツナが考え込んでいると、壮太郎がどことなくソワソワし始めた。それが気になって、ナツナは思考を中断した。

 

「どうしたの?」

 

「ん、いや。お前、さっき異能使わなかったろ。緑の世界の連中の異能は武器を召喚するやつだろ。何で使わなかった?」

 

「別に使う必要も無かったから。あれ出すの疲れるから、あんまり出したくないんだよね」

 

 真の理由は手の内を晒さぬためだったが、流石に正直に答えるわけにはいかなかった。壮太郎が訝しげにナツナを見るが、彼女は澄まし顔で平然としていた。

 

「ふうん、まァいいや。わざわざ問い詰めることでもねーし。とりあえず、明日は帰りのホームルームが終わったらすぐ風紀委員会教室に来い。じゃあな」

 

 壮太郎は早口気味に告げると、踵を返して歩き去ってしまった。しかも、寮に近い昇降口に向かうには遠回りの方向に、である。彼がどこに行くのか不審に思いながら、ナツナは寮への帰路に着いた。

 

        ***

 

 壮太郎は暗い廊下を真っ直ぐに暫く歩いて、最初の階段が見えたところでその方に曲がった。すると、壁の陰に隠れるようにして、レミエルが縮こまっていた。その姿を認めるとすぐに、壮太郎は彼女を抱き締め、その頭を撫でた。

 

「待っててくれてありがとな。寒かったろう」

 

「いえ、壮太郎さんが来るって分かってたから大丈夫ですよ。それに今は、こんなに暖かい」

 

 レミエルも、壮太郎の後ろに手を回す。小さな手ながらも、その力は強かった。この力がすなわちレミエルの壮太郎への想いの強さと言っても過言ではない。

 

「ねェ、壮太郎さん。こんな暗くて冷たい夜は、あの夜を思い出しますね。私と壮太郎さんの付き合いが始まった、あの夜のこと」

 

 壮太郎は、レミエルがその話を切り出してきたことに心底驚いて、思わず抱く力を緩めた。対照的に、レミエルはより抱く力を強める。

 

「あの夜のこと、辛い思い出だと思って、これまで口にして来なかったんだけど。もう大丈夫なのか?」

 

「確かに辛い夜です。ですが、それ以上に壮太郎さんという、信頼できる人を見つけられた夜でもあります。辛さよりも、そっちの喜びの方が大きかったですから、これまであれを辛い思い出だと思ったことは一度もありません」

 

「そっか」

 

 壮太郎は微笑み、レミエルから手を離した。それを受けてか、彼女の方も壮太郎から一歩離れた。それから、壮太郎は制服のベルトに佩いている軍刀を抜いて、僅かな光に照らされている刀身を見つめた。レミエルもそれを懐かしげに眺め、そのまま壮太郎に問いかける。

 

「その刀、あの日から振るったことはありますか?」

 

「振るったことは何度かある。だけど、この刀で誰かを殺したのは、あの夜のただ一度だけだ」

 

「でも、その刀で誰かを殺さないといけない時が来る。そうですよね」

 

「そうだ。正確なタイミングは分かんねェが、二度目のブルーフォール作戦は必ずある。そん時はこいつで統合軍の連中を斬り伏せるさ。あの時、アイツ——ガブリエラを殺した時の感覚はまだ残ってる。気分のいい感触じゃないけど、これが染みついているうちは、この刀で斬り殺すことに遠慮もためらいもない」

 

 壮太郎は、柄を握る力を強めた。青蘭島が独自に持ち得る最高の軍事力は風紀委員である。総勢150人程とはいえ、最もプログレスとして脂の乗っている15から18歳の少女と壮太郎を含めたαドライバーで構成されているのだから、力だけで見れば弱いはずがない。しかし、壮太郎からすれば危機感を覚えるほどに、風紀委員は精神的に脆弱だ。近いうちに敵になるのが目に見えているナツナをわざわざ引き入れたのは、彼女が入ることで統合軍の個人の強さを実感させ、風紀委員の意識改革をしようと考えたためだ。実際、ナツナは美海を裏拳の一撃だけで抑えた。彼女は手の内を明かさないようにしていたようだが、その意識がかえって壮太郎の目論見に手を貸す格好になった。

 

「ま、俺以外にも風紀委員全員がやれるといいんだけどな。アイツら、人を殺したら人格が変わるんじゃないかとも思ってんのかってくらいだし。別に修羅になれってんじゃないのにな」

 

「大変ですね、人を束ねるの」

 

「お前が入ってくれりゃ戦力的にも精神的にも楽なんだけどな」

 

「私以外の風紀委員を全員解雇するならいいですよ」

 

 レミエルは真顔で言った。いつものこととはいえ、このようなことを平然と言える彼女に、壮太郎はゾッとする。だからと言って彼女への愛が冷めるわけではないが、関係を結ぶ人は出来るだけ多い方がいいという壮太郎のポリシーとは対極にあるため、境遇をかんがえても受け入れられるものではない。しかし、直させる気も無い。それゆえ、壮太郎はこの手の彼女の言葉は軽く流すようにしている。

 

「そりゃ無理だ。ところでレミエル。今二人きりで、深夜巡回の風紀委員がここを通るまでにはあと30分はある」

 

「すごく強引に話変えてきましたね。つまりここでセックスしようって事ですか」

 

「超したい。実は、俺のバズーカ砲はもう暴発寸前で抑えられないんだ。このままだと俺のパンツがベトベトになってしまうかもしれない」

 

 壮太郎は刀を鞘に納め、体を反ってレミエルに股間の膨らみを見せつけた。すると彼女はため息をついて、パンツが丸見えになるよう制服のスカートをめくり上げて、壁に手をつき、壮太郎の方に尻を突き出した。

 

「するなら早く済ませてくださいね。もうバレたくありませんから」

 

「へいへい」

 

 壮太郎はふざけた調子で返事をする一方で、真っ赤になった彼女を愛おしく思いながら、彼女のパンツに手を掛けた。

 

        ***

 

 ナツナは昨日と同様に深雪の部屋で夕食を済ませてから帰ると、密かに対魔術・透過光線コーティングを施したカーテンを閉め、隠しカメラや盗聴器が仕掛けられていないかを厳重にチェックしてから、軍用の通信端末を取り出した。

 

「さてと、レポートレポート。義務にはなっていないし他の人がもう書いてるかもしれないけど、書くにこしたことはないね」

 

 ナツナは、今日一日で青蘭学園について分かったことの中で以前は全く知らなかったことと風紀委員に入ったこと、アインスが青蘭島の文化にかぶれてきていて、情緒が芽生えてきているかもしれないということをキーボードを叩いて文書にまとめた。それを送信すると、今度は授業で出された課題の数々を取り出して、シャープペンシルを手に取った。

 

「あァ、めんどくさい。もう既に学習した内容を、何でもう一度やらなきゃいけないんだろ」

 

 大きなため息をついて、ナツナは眠い目を擦る。どれだけこなすのが億劫でも、学生である以上はやらねばならぬことだ。近いうちに潰す学園の課題をやるということも、ナツナのやりたくない気持ちに拍車をかけた。やる気がなければ、分かっている内容でも当然手の動きは鈍くなる。結局、それらが片付いたのは、日が変わる直前のことだった。



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戦いの狼煙①

 早朝の、風紀委員会教室で行われる風紀委員の集まりで、教壇に上がって話をする壮太郎の隣に、ナツナは自己紹介ということで並んだ。彼女が己を見つめる風紀委員をそれぞれ観察していると、その中にマユカとアゲハの姉妹を見つけた。一瞬目が合って、二人は顔を強張らせたが、ナツナはすぐに視線を逸らした。ナツナは、少なくともこの場では明るい新入りを装う必要がある。長く彼女らの顔を見ていたら、いくらナツナと言えど我を失ってしまうかもしれない。そのように考えてのことであった。

 

「ナツナ・トオナギです。よろしくお願いします、先輩方」

 

 ナツナが明るい調子でそのように言い、一礼するとわっと拍手が起こった。その拍手も止まぬうちに、壮太郎が一歩前に出た。

 

「統合軍から来るのはサナギ姉妹以来だが、こいつは強いぞ。何たって、テストのブルーミングバトルで日向に裏拳一発で勝ったからな。みんな、この強い遠薙妹に負けないように精進しろよ。で、新しく入ったということで、新しいシフト表だ」

 

 壮太郎は、ざわつく衆に押しつけるように、シフト表のプリントを渡す。そして最後に、それをナツナに手渡した。すると、それに対して「相変わらずキツキツ」「全然遊べない」「時間厳しすぎ」などなど、彼女らから不満の数々がすぐに漏れ始めた。その様子にナツナは呆れ、壮太郎の方を見てみると、彼はわなわなと震えながらベルトに佩いた軍刀を持ち、その柄尻で黒板を思い切り叩いた。その剣幕は、場の空気を鎮めるのには十分すぎるほどだった。

 

「てめェらふざけんじゃねェぞゴラァ! 毎度毎度そうだけど、俺の作り上げた非の打ち所がない緻密で完璧な巡回システムにそんなくだんねェケチ付けんじゃねェ! これでもそっちに譲歩してる方なんだぞ! いっぺん、俺の本気基準のシフト表作ってやろうか、あァ!?」

 

 壮太郎は唾を飛ばして怒鳴り散らし、最後に教卓を蹴り倒した。ナツナは怒りの予兆が見えていたので、その怒りぶりに引くのみだったが、他の風紀委員は皆慄然としている。その中でリーナだけが澄まし顔だった。

 

「ったくよォ、こんぐらいで黙るんだったらいちいち文句つけんなよ。今日の朝の集まりはこれで終わりだ。とっとと朝の巡回に行きやがれ」

 

 軍刀を再びベルトに引っ掛けつつ、壮太郎はぶっきらぼうに言った。すると、暗い表情で風紀委員の衆がぞろぞろと教室から出て行った。風紀委員会教室に最後まで残ったのは、ナツナと壮太郎の二人で、交代時間まで30分ここで待機することになる。風紀委員会教室は、巡回時間中は高等部の校舎の、風紀委員の詰所兼行動拠点であり、このような場所は他の各校舎にもある。

 

「おい遠薙妹。ちょっと来い」

 

 二人きりになってすぐ、先の怒りは無くなったらしい壮太郎が、パソコンの前に座ってナツナを手招きした。ナツナがその画面を見てみると、彼はネット掲示板を開いている様子だったが、その書き込みの内容は気分のいいものではなかった。

 

「これは?」

 

「ここの裏サイト。平たく言えば、この学園に関すること全般について、陰口を叩いたり、口に出しづらいことを書き込むための掲示板だ」

 

「あァ、何。これをこれから何とかして潰す感じ?」

 

 ナツナは深く考えずにそのように尋ねたが、壮太郎は首を横に振った。

 

「んなことしねェよ。出来んこともないけど、そうしたって新しいのが出来るだけで、イタチごっこになっちまう。こんなのは放置でいいんだよ。それより、これ見ろよ」

 

 壮太郎は、あるスレッドを開いた。それは他のスレッドよりも段違いに書き込みが多く、何かと思って見てみると、ナツナはその理由がすぐに納得できた。

 

「あのサナギ姉妹の陰口のスレッドか。そりゃあ伸びるわけだね」

 

「まァ、俺も軍人の息子だ。あの姉妹を憎む理由は十二分に理解できるし、仕方ないとは思う。それより問題なのは、こんだけ憎まれてる中であいつらに風紀委員やらせることだ。お前に聞きたいのは、ふとしたきっかけで人をぶっ殺しちまうようなやつが、統合軍にいるかどうかだ」

 

「さァ、悪いけど分かんない。そういう人って大概、ここに来る前になんか問題起こしてブタ箱行きになるか除隊されるかのどっちかだからさ。ただ、軍のみんなのあの二人への恨みは尋常じゃないからね。温厚な人でも、あの二人には信じられないくらいの罵詈雑言が出ることなんて珍しいことじゃない。だから、言うなればあの二人には統合軍のみんな全員が、ふとしたことで危害を加えるかも」

 

 ナツナは誤魔化した言い方で答えた。一方で、壮太郎の方は納得していない様子で、眉間にしわを寄せていた。そうした表情のまま、彼はナツナに目だけを向けて、低い声で尋ねる。

 

「それは、お前を含めての話か?」

 

「さァ、どうだか。もしそうだとしたらどうする? 私を解雇するのかな?」

 

「いや、アイツらの方だな、解雇するのは。そんで、その後は常に護衛でも付けておく。本当はどっかに閉じこもってもらえるといいんだが、流石にそういうわけにもいかないからな。とりあえずお前の話を考えると、さっさと解雇した方がいいな。一度ローテーションを回し終えたところで解雇するのが丸いか」

 

 壮太郎はそのように言い、裏サイトを閉じて表計算ソフトウェアを開いてキーボードを凄まじい勢いで叩き始めた。彼は完全に自分の世界に入ってしまった。このまま彼の側に居ても仕方がないので、ナツナは彼から離れて、適当な椅子に腰かけた。それから、誰も来る気配が無かったので、先ほどの壮太郎とのやり取りを簡単にまとめて参謀本部に送信しておいた。サナギ姉妹は、大した権限を持っていないとはいえ、確実に裏切る者としてその動向は注目しておく必要がある。本当は早く国家反逆罪で捕まえて処刑してしまうのが手っ取り早いのだが、和平条約の効果でそのように出来ないのが現状だ。

 

(あんなカス、私に命令くれればすぐに暗殺できるのになァ。早く命令来ないかなァ)

 

 ナツナは大きくため息をついた。殺せるだけの力を持ち、殺そうと思えば殺せる状況にありながら、手を出せずにいるのはあまりにも歯がゆい。地団駄を踏みたくなる気持ちを抑えて、ナツナは二度目のため息をついた。

 

        ***

 

 昼休みの巡回を終えて、ナツナはリーナと共に食堂に入った。本当は、ナツナは深雪と昼食を取りたかったのだが、彼女は次はブルーミングバトルの授業があって急がなければならないとのことで、その願いは叶わなかった。

 

「15分で食べて戻らなきゃいけないというのは、いつものことながら大変です。私は最近は委員長に重用されて、非番の日も減ってますから尚のことですね」

 

 リーナは口一杯にハンバーガーを頬張り、それを咀嚼しながら言う。ナツナも同じハンバーガーをむしゃむしゃと食べつつ、彼女の話に付き合う。

 

「ホントねー。私もアイツに扱き使われそうな予感するし、大変になりそう。軍出身の連中は文句言わないからラクだ、なんてこと言ってたし。ま、私が選んだことだからいいんだけどね」

 

「委員長の才能には目を見張るものがあります。その才能が理解され難いというのは悲しいことですが、私たちのような理解者がいるだけ、まだマシですね」

 

「あのセクハラ大魔神っぷりが無ければ、もうちょっと評価高いと思うんだけどなァ。あれがちょっと残念すぎる」

 

 ナツナがここまで言ったところで、彼女とリーナはほぼ同じタイミングでハンバーガーを全て口の中に放り終えた。そこで二人は一旦会話を中断し、水を大量に飲んでそれを一気に喉奥に押し込んだ。

 

「あれくらい完全無欠な人です。むしろ、そのくらいの欠点がないと不気味ですよ」

 

 リーナはトレーを持って立ち上がりながら、会話を再開する。ナツナの方はまだ喉に食べ物が引っかかっているような感覚がしていたので、彼女は少し間を置いてから応答した。

 

「欠点が酷いよ。私なんて、昨日めっちゃセックスセックス言われたし」

 

「トオナギさんにはそういうセクハラなんですね。私はジャッジメンティスのパイロットスーツのおかげで痴女扱いされてます。好きであの格好をしているのではないと言うのに、全く失礼な話です」

 

「その痴女っぽい格好ってどんなの?」

 

「だから痴女じゃありませんてば。これですよ」

 

 リーナは顔を赤らめながら制服のシャツを少しはだけさせ、ナツナにその中身を見せた。するとそこには、彼女の体にぴったりと張り付いた、光沢のある白いスーツがあった。体のラインがかなりしっかりと分かる上に、その光沢のおかげで、より一層艶めかしい雰囲気を醸し出している。

 壮太郎の気持ちも理解できたので、ナツナは思わず苦笑いしてしまった。

 

「あー、これはエロいね、うん。アイツにこんなの見られたら、そりゃ痴女扱いするだろうね」

 

「メルティに新しいスーツの開発要請をしなければなりませんね。エロくないやつを開発してもらわないと」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、リーナがぶつぶつと呟き始めた。悪いことをしたかなァとナツナが思っていると、リーナが拗ねた風でナツナを睨んできた。

 

「トオナギさんもそういうこと言うんですね。委員長のセクハラに辟易してるんじゃなかったんですか」

 

「あ、ごめん、ごめんね。私はアイツに言われるのがムカつくだけで、下ネタ自体はそんなに嫌いじゃないというか。いやまァだからその、とりあえずリーナには言わないでおくよ」

 

「そうしてください。全くもう」

 

 リーナは頬を膨らませる。その可愛らしい仕草は、彼女が軍人であるということを一瞬ナツナに忘れさせるほどであった。それで、ナツナが彼女に見惚れていると、彼女は一層不機嫌な様子でナツナに目を向けた。

 

「何なんですか。ジロジロ見て」

 

「ちょっとね。可愛くて」

 

「うーん、委員長がそんなこと言ったら蹴り飛ばすところでしたが、トオナギさんに言われるのは嫌な気にはなりませんね。同性だからですかね」

 

 リーナは少し機嫌を直した様子だった。馬鹿にしていると取られるかもしれないとも思ったが、そのようなことはなかった。案外、単純な子なのかもしれないと、彼女の愛らしい照れ笑いを眺めながら、ナツナはぼんやりと思った。

 

        ***

 

 放課後の巡回を終え、ナツナが帰宅するとすぐ、軍用の通信端末に着信があった。彼女は盗聴対策で即座に風紀委員の腕章がついたブレザーを脱ぎ捨て、寝室に駆け込んでからその電話に出た。

 

「ナツナ。新しい任務よ。アゲハ・サナギ中尉を、彼女が風紀委員に在籍している間に、誰にも見られずに半殺しにしなさい。出来れば、多人数に襲撃されたように見せかけて、ね」

 

 電話をしてきたのはスレイだった。ナツナはとうとう裏切り者に手を下せると歓喜したが、すぐに何故暗殺でなく半殺しなのかという疑念が湧いた。しかし、だからと言って口答えはしない。ナツナはG・Sの刃として、淡々と任務をこなすだけだ。

 

「了解です。このナツナ・トオナギ、統合軍兵士の誇りにかけて、必ずやこの任を達成します」

 

「何故暗殺でないのかは、聞かないのね。気にならないのかしら?」

 

 スレイの口調は、暗に尋ねろと言っているかのようだった。わざわざこのような言い方をするのだから、ナツナの方から聞かなくても最終的に彼女は教えてくれそうではあったが、そのようにするのは時間の無駄なのでナツナは躊躇いなく訊くことにした。

 

「差し支えがなければ、教えてください」

 

「いいわ。この目的は風紀委員の目を青蘭学園内の統合軍に向けさせるためよ。アゲハ・サナギなら、誰に襲われても不思議じゃないし、私たちとしても早く切り捨てたい存在。でも、暗殺だと刺客を送り込んだと見做される恐れがあるから、それで半殺しよ。それと、風紀委員の目を逸らした後については任務を遂行した後で伝えるわ」

 

 健闘を祈る、と言ってスレイは通話を切った。ナツナは通信端末をベッドの上に置き、自身の異能の剣、エンドブレイザーを召喚し、その刃を月光に照らす。多人数で襲撃されたように見せろ、というのは、この剣を使いナツナ一人でやれと言っていることに他ならない。ナツナの心は昂ぶっていた。この任務を任されたのは、ナツナが信じられている証拠だ。その事実は、ナツナを天にも昇る心地にさせた。

 

(アインスやジェミナス中尉じゃなくて、私に命令を下してくれたんだ。こんなに嬉しいことはないよ)

 

 ナツナは、月光に煌めくエンドブレイザーの刃を見つめる。それにはG・Sで振るっていた頃と比べても全く曇りはない。そのことを確かめると、ナツナはエンドブレイザーを仕舞って、玄関で脱ぎ捨てた制服の上着をもう一度着た。



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戦いの狼煙②

 命令を受けてから二日後の晴れた深夜、ナツナは自室で、闇夜に紛れられるような、艶のない真っ黒な全身タイツを着、上に黒いロングコートを羽織り、更に髪を纏めて黒い帽子を被った。そのようにしてから鋼鉄製の手甲を嵌め、足音が全くしない特殊な靴を履き、ロープを使って部屋の窓から外に降りた。ここまで、誰の視線も感じなかった。

 

(まずは上々。ここに来てから特務の訓練はしてなかったけど、体は全くなまってない)

 

 ナツナは密かに安堵しつつ、学園へと向かう。今日はアゲハが深夜巡回の当番だ。他の者ならいざ知らず、仮にも軍人である彼女が、壮太郎の定めた時間を守らないとは思えなかった。それならば、予め彼女の通る道で待ち伏せた方が確実だ。他の風紀委員も居るが、彼女らが通る道は熟知している。しかも、深夜巡回は最後に集合せず、通信で報告を済ませてから各々が寮に戻ることになっている。つまり、アゲハを気付かれることなく半殺しにするのはさほど難しくない。

 音を立てず、風紀委員の巡回経路の合間を縫って移動し、ナツナはアゲハの巡回経路に先回りして物陰に隠れる。そこで彼女は指弾用の礫をコートのポケットから取り出し、息を殺してアゲハを待つ。そして視界の中に彼女を捉え、指弾の射程距離に入った瞬間、ナツナは礫を弾いた。元々のナツナの指弾の腕に加え、魔術により威力が倍加したそれは、アゲハの額に直撃し、彼女を一撃で昏倒させた。ナツナは彼女に近づいて、本当に気絶したかを確かめたのち、右手にエンドブレイザーを召喚し、左手にコートに忍ばせておいたハンマーを持った。

 

「さァ、裏切りの報いを受けるのは今だよ」

 

 ナツナの顔が嗜虐的な笑みに歪む。その直後から、血飛沫とともに、骨が砕け肉が飛び散る音が、乾いた夜空に残虐に響き渡った。

 

        ***

 

 翌朝、ナツナがいつも通りの時間に起きて、眠気覚ましのカフェインの錠剤を飲んでから支度を始めると、風紀委員の腕章がけたたましく鳴った。何の要件で鳴っているかは考えるまでもなかった。

 

「全風紀委員に伝達。今すぐ風紀委員会教室に集合しやがれ」

 

 いつになく真剣な壮太郎の声がそれから聞こえた。ナツナは、支度を終えた後、深刻な表情を顔に貼り付けて自宅を後にし、風紀委員会教室に向かう。その道中、ナツナはちょうど昨夜の現場の辺りを通りがかった。そこは柵で囲われて人が入れないようにはなっていたが、早朝にも関わらず、既に何人か野次馬が集まって騒いでいた。その光景を尻目に、ナツナは先を急いだ。

 ナツナが風紀委員会教室に到着すると、中にいた誰もが彼女に注目した。一瞬、目撃されていたかと焦りを覚えたが、ナツナの次に入って来た者に彼らの注目が移ったため、ナツナは内心で安堵した。もちろん、これらの心の動きは一切顔に出していない。

 数分で全員が揃い、それを確認した壮太郎が、教壇に上がってレジュメを片手に黒板に今彼らが把握しているらしい情報を記した。

 

「被害に遭ったのは知っての通りアゲハ・サナギだ。深夜巡回が終わった時間になっても戻ってこない彼女を心配した、同じ当番だった日向とユーフィリアが第一発見者だ。で、全身の打撲に加え、肋骨のいくつかと肩、膝の骨は粉砕、更に全身なます切りにされたっぽくて、現在は意識不明。医者に言わせりゃ生きてるのが奇跡だそうだ。目撃者は無し。襲撃された場所と発見した時刻を考えると、犯人が襲ってから離脱するまで、長くて5、6分くらいってところだな」

 

 壮太郎は淡々と説明していく。他の風紀委員に動揺している者が多く居る中で、彼は顔色ひとつ変えていない。その精神的な強さに、ナツナは思わず感心していた。

 

「犯人はどう考えても統合軍関係の奴だろう。ガイシャに恨みがあるのはアイツらくらいだろうしな。だけど、人数は、はっきり言ってわからん。短時間でここまでやったんだから、複数と考えるのが自然だろうが、緑の世界の異能で召喚される武器に、一人でこういうことができるのがあるかもしれん。つーわけでだ」

 

 壮太郎が、ナツナに目を向けた。更に、全員の注目もナツナに集まる。予想通りの展開に、彼女は大きくため息をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 

「私があんたに武器を見せてないから、今この場で見せろってことでしょ」

 

「ああ。お前もサナギ(あね)に恨みを持ってたクチだしな」

 

「しょうがないね。はい」

 

 ナツナは、大人しくエンドブレイザーを召喚し、壮太郎に手渡した。一応、武器を偽って他の武器を魔法で召喚することも出来たが、同じ緑の世界出身のマユカや、優れた魔女であるソフィーナなどが同じ場にいるため、そのようにすれば、誤魔化したことが露見するかもしれなかった。エンドブレイザーはナツナが念じなければただの剣である。マユカはその特殊能力は知らないはずなので、隠さずにそれをそのまま見せた方が安全であるように、ナツナには思えた。

 受け取った壮太郎は、初めはその刀身を眺め、それから振ってみたり自分の指の皮膚を少し切ったりしたりしていたが、やがて不満げな表情でナツナにそれを返した。

 

「ただの剣か。斬れ味は良さそうだが、あの短時間で全身なます切りしたように見せるには無理があるな。サナギ妹は、遠薙妹のこの剣について何か知らないか?」

 

「知らないです。そもそも、トオナギ少尉の武器を見たのは、今が初めてですし」

 

 壮太郎の問い掛けに、マユカは申し訳なさそうに答えた。それを聞いて、ナツナは裏でホッと一息ついた。実は知っていた、などというオチがついては目も当てられなかった。これで疑いが晴れたとは思わないが、少なくともナツナが単独で行った、という嫌疑は殆ど晴れたに違いなかった。

 

「さて、こっから犯人探しだが、困ったことにいきなり八方塞がりだな。犯人の候補がマユカ以外の統合軍出身者全員だ。なんか知ってたとしても口を割るとは思えねェし。ダメ元で聞くけど、遠薙妹はなんか知ってるか?」

 

「さァ、知らないね。そん時は寝てたし、心当たりあるかって聞かれたら、それこそ全員じゃないのってなるし」

 

 ナツナは、本当に分からない風を装った。これは上手く騙せたようで、壮太郎は今以上にナツナを追求することはなく、大きくため息をついて黒板消しを取った。

 

「そういうわけで、犯人探しはサナギ姉が意識を取り戻すまではやめだ。やるだけ無駄だろうしな。やることといえば、サナギ妹をどこに匿うかを決めるくらいか」

 

「私は、犯人探しに参加できないんですか」

 

 マユカは、あからさまに肩を落としていた。ナツナは、彼女の姉の力になりたいという気持ちだけには共感できたが、それ以上に、裏切り者のくせに何を言うかと憤った。第一次ブルーフォール作戦の失敗の責任も取らずにのらりくらりと学園を闊歩するのみならず、身内のことに関しては責任を取らせようとする彼女の態度が、ナツナには許せなかった。しかし、人前で彼女に殺意を向けるわけにもいかず、ナツナはただ猫をかぶるしかなかった。

 ナツナが葛藤する一方で、壮太郎がややうんざりした様子でマユカに対して言う。

 

「お前も襲われたいなら話は別だがな。悪いが、普通の風紀委員の業務もあるんでね。お前が歩き回ってる時の護衛なんか出せねェぞ」

 

 その言葉で、マユカは黙ってしまった。マユカよりも強いアゲハを一方的に痛めつけた相手に、彼女一人ではどうしようもないと悟ったらしい。

 重苦しい空気が漂う。その中で、数人の風紀委員はちらちらとナツナの方を伺っていた。単独犯という括りでは容疑が無くなったとはいえ、集団での犯行という線ではまだ犯人候補の一人だ。

 

「でも、匿うって言ったって誰がするのよ」

 

 居た堪れなくなったか、ソフィーナが口を開いた。壮太郎はうーんと唸ってから、リーナの方を顎で指し示した。

 

「私ですか?」

 

「お前なら侵入者は容赦なくぶっ殺すくらいの気概はあるだろう。それに同じ軍人だし、向こうの考え方は読みやすいんじゃないか?」

 

「なるほど、そういうことですか。いいでしょう。マユカ先輩もいいですか?」

 

「え、ああ、はい。大丈夫、です」

 

 暗い調子で、マユカは頷く。その様子を見兼ねたらしい美海が、ポンと彼女の肩に手を乗せて、明るく、しかし決意を秘めた瞳を以って笑いかけた。

 

「犯人は、私たちが絶対に見つけてみせるからね。それで話し合って、アゲハさんとマユカちゃんのこと、ちゃんと分かってもらう。そうすればきっと、もうこんなことはしないと思うから」

 

 熱く語る美海を、ナツナは冷ややかな目で見ていた。その滑稽なほどに青い考えを、ナツナは心底軽蔑した。分かった分からないの話ではなく、例えどのような事情があったにせよ、ナツナはサナギ姉妹が裏切り、その結果G・Sが被った害に対して、何の責任も負う気が無いことが一番許せないのだ。

 この場の多くは美海に同調している様子だったが、リーナと壮太郎はナツナと同じ目をしていた。しかしそれはナツナの予想通りだった。リーナは軍人で、壮太郎は軍人の息子だ。軍人ではない他の風紀委員よりは、二人の思考はナツナの方に近い。この感覚のズレは、ナツナにとって、そして統合軍にとって有利だ。考えが統一されていない集団というのは烏合の集になりやすい。いくら壮太郎とリーナが頑張ったところで、足並みが揃わないのを補うのは普通に考えれば不可能だ。

 

(やっぱり、勝利の女神は私たちに微笑むんだね)

 

 朝の光は柔らかく、暖かい。それがまるで自分の考えを肯定しているかに思え、ナツナは密かにほくそ笑んだ。



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闘いの狼煙③——幕間:黒の双璧/月の姫

「ミル、統合軍が動き始めたわよ」

 

 D・Eの政治の中枢機関、黒柩城の魔女王の間。D・Eの政治、軍事の頂点に位置する魔女王に次ぐ立場である宰相のジュリアが、そこに入室しながら魔女王ミルドレッドに話しかけた。

 

「知っているよ。ようやくか、という感じだがな。T・R・AとEGMAは相変わらず猫を被ってるが、我々だけでも世界にとって最善の行動を取らねばな」

 

 彼女は腰掛けていた王座から立つと、体の各所を伸ばしながらジュリアに近づいた。世界の命運がかかった戦いを前にしてもなお彼女が持つ余裕に、ジュリアは感服していた。まさしく王者の風格だ。まだまだ未開国家のD・Eを育て上げるには、まだそれが必要だ。

 

「ジュリア。アシュラは帰ってきてるか?」

 

「ええ。研究の方もバッチリよ。裏付けも取れたし、よく働いてくれたわ」

 

「よし、なら次はアシュラをアルフレッドの方に遣れ。我々の為すことのためには彼の軍の助けも欲しい。ブルーフォールには間に合わんだろうから、その次の布石としてな」

 

「順子の方にも使い、送っとこうかしら?」

 

「いや、それはいいだろう。どうせアイツのことだ。何か異変を感じたらすっ飛んでくるさ」

 

 ミルドレッドは苦笑する。ジュリアも懐かしい名前を出して、ついクスリとなった。そして、誘われるようにジュリアは歩き出し、窓から身を乗り出して、空に輝く門を見つめた。

 

「どうしたジュリア」

 

「いやね、らしくもなく懐かしくなっちゃったわ。昔の仲間の順子、辰吉、征四郎君、アルにアシュラ。岸さんや勝美さん、日泰(イルテ)じいさんと昭和天皇はもう亡くなってしまったけれど、今でもあの時のことは鮮明に思い出せるわ。私たちが積極的に動くのも、あの30年前の戦い以来かしら」

 

「言われてみればそうだな。しかし、まだ30年か。私たちが日本にいた時から数えれば40年だが、私には何百年も昔のことのように感じるよ」

 

「濃い40年だったもの。そう感じて当然よ」

 

 ジュリアは窓から身を離すと、再びミルドレッドの方に向いた。彼女とは多くの苦難を共にしてきた。先代魔女王へのクーデター未遂から、日本に流され、再起し、彼女が新時代の魔女王となるまでは背中合わせで戦い抜き、その後も二人三脚で政治を行ってきた。下部組織の十二杖はあるが、ミルドレッドが魔女王になる前からの付き合いなのはアルスメルとハイディだけだ。しかも、その二人以上に、ジュリアはミルドレッドとの絆が強い。自分こそがミルドレッドの最高の相棒であるという自負をジュリアは持っていた。

 

「ねェ、ミル。これから先も、濃い年月が続きそうね」

 

「ああ。私たちは、まだD・Eを近代的法治国家にするための準備をしたに過ぎない。日本が明治に10年でやれたことを、我々は30年もかけてしまった。難しいものだな。時代を作るというのは」

 

「あら、魔女王が弱音を吐いちゃっていいの?」

 

「お前の前でしか、こんなことは言わないさ」

 

 ミルドレッドは柔らかな微笑みをたたえた。それを見たジュリアは、自分はやはり最高の相棒だと確信しつつ、彼女の親友として屈託ない笑顔を見られることに、密かに優越感を覚えた。

 それからミルドレッドは王座に座り直し、頬杖をついて笑みを消した。

 

「ジュリア、頼みごとがある。ソフィーナの様子を見に行って欲しい。最近のアイツの様子を直接はよく知らんが、嫌な予感がする。私の代理と、見聞を広げさせるために奴を留学させたのは私だが、もし奴に何かあれば、それは私の責任だ。だから私が直接奴の様子を見るべきだが、今私が離れるわけにはいかんからな」

 

「そのくらいなら、別に私じゃなくても他の学園にいる子に頼めばいいんじゃない?」

 

「いや、私と感覚が近いお前にこそ行って欲しいのだ。お前なら人形を操れば政務もこなせるだろう」

 

 ミルドレッドはいつになく焦っている様子だった。その必死な目で見つめられては、ジュリアは臣下としても親友としても、頼みを断るわけにはいかなくなった。

 

「分かったわ。他でもない、あなたの頼みだしね」

 

 ジュリアは快諾すると、身を翻した。そして、ミルドレッドの「頼む」という重い声を背中で受け、軽い足取りで魔女王の間から退出した。

 

        ***

 

 空の上、さらにその彼方にある月の都の宮殿で、その姫である月ノ宮赫夜は、御簾の向こうに人の気配を感じた。前に呼んでもいないのに誰かがやってきたのは32年前、世界接続が起きたその日だった。

 

(長い話なんだろうな。やだなァ、マジめんどくさい)

 

 赫夜は動かず、目の前のノートパソコンでしていたオンラインゲームに再び意識を向けた。神通力を以ってすれば、下界の機械をコピーしたり、それによって下界と同じ風俗を楽しむことなど造作もない。女房たちはしきりに止めるよう言ってくるが、赫夜にとっては詩歌管弦などよりも、オンラインゲームの方がよほど楽しい。

 しかし、女房の「姫様」と呼ぶ声で、赫夜の意識はすぐに現実に引き戻された。

 

「下界にて、異世界間での戦争が間もなく起こります。ゆえに、姫様には下界に降りて頂くことになります。32年前とは違って、これは帝のご命令です」

 

「因果関係が見えないんだけど。なんで下界の揉め事のせいで私が降りなきゃ行けないの。どうせこっちには何の影響も無いんだからいいじゃん。だいたい、千三百年前はあそこにいたじゃん、私。なんで連れ戻したくせにまた行けっていうの」

 

「姫様は将来、月の帝となられるお方です。それはつまり、夜の天を統べることになられるのと同じこと。この戦いの行く末を直に見届け、新たな世界の元で暮らす人々のことを知ることが、夜に安寧をもたらす月の帝の候補としての役目だと、帝は仰りなさっておりました。それに、千三百年前とは人々の暮らしも大きく異なっていることは、姫様が何よりご存知のはず」

 

 赫夜の文句に対する反論の内容で、彼女は焦りを感じた。理屈には納得できないが、将来云々を帝が言い出したということは、抵抗したらば、帝によって無理矢理下界に送られてしまう可能性が高いのだ。ならばいっそ、自分から降りた方が楽が出来ると確信した赫夜は、放置していたオンラインゲームを一旦やめ、ノートパソコンを閉じ、御簾を挟んで女房と正面から向かい合った。

 

「分かったよ。今下界に行くね」

 

「え、いや今すぐにとは——」

 

「じゃあね」

 

 赫夜は女房の慌てた声を無視して、ノートパソコンを片手に次元の扉を開いて月を去った。そして着いたのは、富士山の山頂——千三百年前、時の天皇が、不死の薬をつきの岩笠に焼くよう命じられた場所だ。今日は雲が低いらしく、眼下には日に照らされた雲海が広がる。陰影がはっきり付き、まるで雲がうねっているかのように見えるそれは正しく海であった。綺麗なものは色々と見てきたが、赫夜はその美しさと雄大さに思わず目を奪われ、息を飲んだ。

 

(あの薬を焼いた人も、この景色を見たのかな)

 

 千年前のことを思い出しながら、赫夜は雪に覆われた地に足をつけた。その時ふと違和感を感じ、足元の雪をどかした。すると、そこにあったのは比較的最近に固まったと思われるマグマがあった。

 

「そういえば、32年前の世界接続の影響で、大噴火を起こしたんだっけ。じゃあこれも納得だ」

 

 赫夜は、それからすぐ大きなため息をつき、適当な岩に腰を下ろした。何もやる気が起きない。月の帝から逃げるのが第一の目的だったために、一気に無気力になってしまったのだ。

 

(戦いがどうこうとか、面倒くさくてやってらんないね。これからどうしようかなァ)

 

 再び、赫夜はため息をつく。ぼんやりと雲海を眺めていると、その白が皇室を連想させ、更に赫夜の頭に浮かんだのは、かつて恋した帝の御顔だった。

 

「はァ、こうなるって分かってたら、帝もあの薬を飲んでくれたのかな。そうしたら、もう一度——」

 

 赫夜は首を振った。いくら願ったところで、もう会うことは叶わないのだ。しかし、それでも未練は尽きない。少し考え込んで、赫夜は「よし」と意気込んで立ち上がった。

 

「この気持ちに決着をつける。それが私のまずやるべきことだ」

 

 このように思い立つと、赫夜は抱えていたノートパソコンを開き、インターネットで当時の帝の(みささぎ)を探した。その地はここから西の方、奈良県にあると分かった。

 

「千里眼にも等しい効果をこんなちっぽけな機械で再現できちゃうなんて、人の力も大したもんだねェ」

 

 赫夜は感心しながら、再び次元の扉を開いた。 そうして次に到着したのは、奈良県の某古墳のある丘に通じる道であった。足は靴越しにアスファルトの上に付き、目にはコンクリート造りの家々が映り、耳には自動車が走る音が聞こえてくる。千三百年前では、足を付けたのは土の上で、大半の民家は竪穴式の粗末な土と藁で出来たものであったし、移動手段も自動車のような便利なものは無かった。しかし、流れる空気だけは変わらない。道行く人を見ても、彼らが大和民族かそうでないかがすぐに分かる。

 

(千三百年、ずっと心の奥底にあるものだけは保ってきたんだね、この国は。少し嬉しいかも)

 

 空気に満足した赫夜は、踵を返して古墳がある方角に向いた。赫夜は一瞬だけ行くのを躊躇ったが、すぐ意を決して足を踏み出した。一歩進むごとに足取りが重くなるのを感じながら、赫夜は車が行き交う道を行き、古墳のある小さな丘に着いた。そこの草は色褪せ、木はすっかり葉を落として屹立している。落ち葉を踏みながら歩いていくと、やがて簡素な柵に覆われた小さな古墳を見つけた。赫夜は近くにあった適当な木にもたれかかり、古墳に向かって話しかける。

 

「帝」

 

 過去盗掘に遭って、今赫夜が目にしている古墳には副葬品はもちろん、遺骨すら残っていないということは、インターネットの記事に書いてあった。しかしそれでも、赫夜は確かに、そこに帝の魂を感じていた。

 

「ごめんなさい。あの時は、二度とここにお戻りできないとお思いしましたから、今生の別れのように奏してしまいました。もし、帝が私が千三百年後のこの今に参ることをお知りになっていましたら、あの薬をお飲みになられたのでしょうか」

 

 当然、答えは返ってこない。その後、急に北風が吹き付け、木の枝を激しく鳴らし、赫夜の髪を乱れさせた。それから、赫夜はただ沈黙していた。何かを言っても、風でかき消されてしまうような気がした。

 

(未練を消すためだったのに、むしろ未練が強くなっちゃったかな)

 

 赫夜は溢れ始めた涙を堪えて、木から体を離した。そして体を古墳の方に向け直したが、目は伏せて、か細い声を絞り出した。

 

「また、ここに参ってもよろしいでしょうか」

 

 すると、風が弱まった。冷たいことには変わりないが、木も穏やかになった。このおかげで、赫夜は今この場を離れる決心がついた。次元の扉を開け、富士の麓に行こうと足を動かした時、ふと、ひとつの和歌を思い出した。

 

——いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる——

 

 かつて、別れの時に詠んだ歌。千三百年前は、二度と会えぬという悲しみを込めた。しかし、今は違う。赫夜の心にあるのは、次に来る時に対する期待だ。言葉の重みは違ってしまうが、それでも赫夜にとっては気持ちの重みは変わらない。

 

「ではまた、次は木が青い葉をつけた時に参ります」

 

 赫夜は古墳に背を向け、一歩を踏み出した。



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戦いの狼煙④

 青蘭学園の生徒が二限目の授業を受けている中で、高等部の校舎の屋上の貯水タンクに腰掛ける一人の幼い少女がいた。彼女はその緑の髪を風になびかせながら、空に浮かぶ門を眺めていた。

 

(G・Sの動きがきっかけとなって、D・Eが動き始め、月からは姫が下界に降りた。九十九年七の月を待たずして、世界が動く、か)

 

 彼女がぼんやりと考えていると、屋上の扉を開ける音がした。その人物が放つオーラで、彼女はそれが誰かすぐに判別がついた。

 

「あら、このようなところで会うとは奇遇ね。シルト・リーヴェリンゲンさん」

 

 その人物は、緑髪の少女――シルトに微笑みかけてきた。しかし、シルトは微笑み返すことはせず、むしろ眉間に皺を寄せた。

 

「暁天の女神アウロラ。あなたにはまだ名乗ってなかったはずだけど」

 

「美海さんには名乗ったでしょう? それで分かったのよ」

 

「とぼけないで。まァ、そっちから来てくれたなら丁度いい。T・R・Aの主神であるあなたが、何のためにわざわざ記憶喪失したという自己暗示をかけてまでここに入学したのか、教えてもらいたいんだけど」

 

 シルトは低い声で尋ねるが、アウロラは微笑みを崩さない。その態度が、シルトの癇に障った。

 

「そうねェ。ここの人たちと、一庶民の立場で接してみたかったのよ」

 

「何のために」

 

「私の目標は、五世界を含めたみんなが笑って暮らせる世にすることよ。そのためには、ここの人たちがどういう人か知らなきゃダメでしょう?」

 

 アウロラは柔和な笑みを浮かべた。一方で、シルトは彼女の言葉を鼻で笑った。そして、そのままシルトは彼女に心底見下した目を向けた。

 

「そんな大層な理想は、せめてT・R・Aに住む人全てか笑って暮らせるようにしてから言うことだね。それに、自国の民に刺客を差し向けて暗殺を図るような人が口にしていいことじゃない」

 

「刺客? 何のことかしら?」

 

「寝惚けないでよ。レミエルを始末するためにガブリエラを遣ったのはT・R・Aでしょ。篠谷壮太郎に討たれたのは計算外だったろうけど」

 

 そのように言った直後、一瞬だけアウロラが不愉快そうに顔を歪めたのを、シルトは見逃さなかった。アウロラは表情を作り直したが、シルトからすれば、その行動は後の祭りというものだった。

 

「まァ、何にせよT・R・Aにいた頃からずっと、あなたたちのせいでレミエルが笑えてない時点で、今のあなたに理想を口にする資格はないよ」

 

「勘違いしないで欲しいわ。レミエルに刺客を差し向けたのは、あの子の存在がT・R・Aにとって危険だからよ。いわば天災に対する備えみたいなものよ」

 

「違うでしょ。主語を大きくしないで。あなたたちにとって危険だからでしょうが。あの子――正確に言えば、あの子の中に眠ってる存在がね。それに、あの子だって一人の意思ある人間なんだから、たとえ害をなす存在であろうと、どうせ理想を謳うなら共生できる道を選ぶのが筋じゃないかな」

 

 今度こそ、アウロラの表情から余裕が消えた。北風が強く唸った後、彼女はその表情のまま、怒気を滲ませた声で言い放った。

 

「何を言うかと思えば。理想の実現のためには、そうするしかないのよ」

 

 その言葉を聞いて、シルトはため息をついた。本気でこのように思っているのであれば、為政者としての彼女の意識は低すぎる。正してやる必要さえ感じられた。

 

「あのね。理想は結構だけど、政治に関わる人は実現不可能なことは言うべきじゃないよ。それと、みんなが笑顔になれる世界なんて、誰もが願ってることなの。別にあなた一人の崇高な理想じゃない。口にしないのは、それができないことを知っているからだよ。為政者がやるべきは、叶いもしない理想を唱えるんじゃなくて、どうしたらその理想に近づけられるかを考えることだよ」

 

「諦めたら、叶うものも叶わないわよ」

 

「だから、それは為政者が言うことじゃないって。それに、諦めない結果がレミエル暗殺なら、少しくらい頭を冷やした方がいいよ。あの子が内に秘める存在は、必ずしも害をもたらすものじゃない。今のあなたには害かもしれないけど、ね」

 

 アウロラは口を噤んだ。しかし納得はできていないようで、悔しげにシルトを睨みつけている。その往生際の悪さに、シルトは二度目のため息をついた。

 

「納得し難いならいいや。私は後腐れなく異変を終息させられればそれでいいから。そのために排除しなきゃいけない存在は排除する。例えば、そう。異変の最終段階の混乱に乗じて、良からぬことを企んでいる輩とか」

 

「さっき言ったことと矛盾してないかしら。T・R・Aには暗殺するなと言うくせして、自分は暗殺する気でいる」

 

「あなたと私じゃ、目的が全然違うじゃない。さっきも言ったように、私の目的は後腐れなく異変を終息させること。そのためなら、白昼堂々障害を叩く! コソコソやるしかないあなたとは違うんだよ」

 

 シルトはそこまで言うと、貯水タンクから飛び降り、アウロラの背後に立った。警戒してか、アウロラはすぐに振り向きつつ、一歩後ろに下がる。その様を見てシルトはにやりと笑い、アウロラの方に一歩詰め寄った。

 

「安心して。私たちには今、ブルーフォール阻止という利害の一致がある。少なくとも今ここで私があなたを討つことはないよ」

 

「その後は?」

 

「あなたの行動次第」

 

 シルトは不敵に微笑むと、風とともに文字通り姿を消した。残されたアウロラは、北風に吹かれるままその場に突っ立っていた。

 

        ***

 

 昼休みの巡回を終えたナツナは、深雪と昼食をともにするために彼女の教室へ向かっていた。この時、すれ違う人々から向けられる視線に、敵意のようなものを感じていた。昨夜のアゲハの件であることは間違いない。G・S出身者全員が容疑者ということになっているので、敵意を向けられて当然であった。ナツナのクラスにおいてもそれは同じだった。リーナだけが全く風評を気にせず彼女と話していたが、それ以外は遠くから囁き声で噂されていた。

 ナツナはそれらを意に介さずに歩いて行くが、道中で見たことのない小柄な金髪ツインテールの女を見つけた。彼女の只者とは思えない雰囲気を危険に思い、ナツナは気配を消して彼女に近づき、背後に立ったところで声をかけようとした。しかし、その前に彼女が振り向き、にやりと笑った。

 

「隠密としては一流以上の気配の消し方だったけど、でもそれで私の背後を取るのは甘いわよ」

 

「アンタ何者? 少なくともこの学園じゃ見ない顔だけど」

 

「ふふふ、聞いて驚くがいいわ。この私こそ、現D・E宰相、ジュリアよ! あなたは確か、征四郎君の下の娘さんの、夏菜ちゃんだったわよね」

 

 ナツナは目を丸くした。まさか、この青蘭学園で、自分の知らぬ者から父の名を聴くとは全く予想していなかったのだ。その様子に、ジュリアはころころと明るく笑った。

 

「私が征四郎君を知っているのがそんなに意外? でもあなた、確か八つの時にG・Sに飛ばされたのよね。なら征四郎君から聞いたことがなくて当然かしら」

 

「どういうこと?」

 

「知らないでいるのも気の毒だから教えてあげたいけど、私急いでるから悪いけど話してあげられないわ。ソフィーナに会いたいのだけど、どこにいるか知らない?」

 

「ソフィーナ先輩なら、そこの教室にいると思う。いなくても、そのうち戻ってくるよ」

 

 ナツナが後ろの教室を指差すと、ジュリアは礼を言ってそこに入っていった。ナツナは彼女の背中を見送った後も、そこをしばらく動けなかった。D・Eの宰相が、一見関係なさそうな父の過去を知っているという事実に、ナツナは金縛りにあったように動けなかったのだ。

 

(嫌な予感もする。何故D・Eの宰相が一軍人で、しかもアルドラでもないお父さんを知ってるんだろう。D・Eの人間なんて、青蘭島の外では接触できないはずなのに)

 

 ナツナはしばらく頭を悩ませていたが、不意に深雪が視界に入ってきたので、一旦そのことは頭の隅に置くことにした。そして、一歩踏み出して彼女に話しかける。

 

「あれ、お姉ちゃん? 今迎えに行こうと思ってたんだけど、どうしたの? 何か用事?」

 

「ん、ああ。そういうのじゃないよ。その、待ちきれなくてね。あと、たまには学食じゃなくて、屋上で食べない?」

 

 深雪はしどろもどろな調子だった。この様子を見て、ナツナは深雪の意図を察した。学食の空気も、今ナツナが歩いてきた廊下やクラスと同じものなのだろう。ナツナは気にしないが、深雪の性格を考えれば、彼女にとっては居た堪れない空気であることは間違いない。

 

「いいね。寒そうだけど、たまにはいいかも」

 

 ナツナは笑顔で賛同してみせた。その時、深雪の顔が少しだけ晴れた。この変化で予測が正しかったと確信したナツナだったが、そのようなことは表に出さず、猫を被り続けた。



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戦いの狼煙⑤

 自動販売機でパンとおしるこの缶を二人で買って、ナツナと深雪は屋上に通じる扉の前まで来た。いざ開けようとナツナがそのドアノブに手をかけた時、微かにその外から淫靡な嬌声が聞こえた。これは訓練のおかげで常人離れした聴力を持つナツナだから聞こえたようで、深雪にはそのような声が聞こえている様子はない。

 

「お姉ちゃん、ちょっとここで待ってて」

 

 その嬌声に心当たりがあったナツナは、屋上への扉を開け、わざと勢いよくそれを閉じた。そうして、ペントハウスの裏側に回ってみると、予想通りの二人組がいた。そのうちの男――壮太郎は堂々と前に出て、レミエルは彼の後ろに隠れた。

 

「よう遠薙妹。奇遇だな」

 

「何をしゃあしゃあと。私は今からお姉ちゃんとここでご飯食べるつもりだったのに、何ここでセックスしてるの! それに」

 

 ナツナは怒りのあまりぐいと前に出ていたが、そのおかげで壮太郎の下半身の状態に気がついて、思わず仰け反った。それから後ずさりをして、ナツナは彼から目を逸らした。

 

「ん? どうした?」

 

「み、見えてるの。気がついてよ」

 

「見えてる? 何が?」

 

 壮太郎は左右に見回した。しかしその首はわざとかと思うくらい、下には向かない。しびれを切らしたナツナは、恥ずかしさから、声が裏返るくらい大きな声で怒鳴りつけた。

 

「チンコ! チャックから全部出てるから、早く隠して!」

 

「え? あ、悪りィ悪りィ」

 

 さしもの壮太郎もすぐ謝り、数十秒ほどレミエルの後ろに隠れた。寒空のもと、レミエルと見つめ合うその数十秒間は気恥ずかしかったが、彼がしっかりと陰部をしまって現れると、ナツナは思わずホッとしてしまった。

 

「いやァ、すまんすまん。制服着たまんまでヤってたからつい油断しちまった」

 

「その話はもうしないで。それより、レミエル先輩はどうするの? お姉ちゃんすぐそこにいるんだけど」

 

「あ」

 

 壮太郎は、困り顔でレミエルの方に向いた。彼女は暫し考え込んだのち、大きくため息をついた。

 

「まァ、いいですよ。一人に知られるのも、二人に知られるのも同じことです」

 

 初めて、ナツナはレミエルの嬌声ではない声を聞いた。うっとりするような綺麗な声だったが、その言葉の節々から、ナツナはえもいわれぬ淀みを感じた。その淀みは、右肩とは違って翼のない左肩からも感じた。その小さな肩に、これまで何を乗せてきたのか、ナツナには想像もつかなかった。

 すぐに深雪を呼んできて、ナツナら四人で円を作り、冷たいコンクリートの上に尻を付けて昼食を取り始めた。しかし、言葉は誰の口からも出なかった。理由はレミエルの存在だった。お喋りでデリカシーのない壮太郎でさえ、話題を出せていない。彼女が放つプレッシャーは強烈だった。

 

「あの、ナツナさん、でしたっけ」

 

 空気に耐えかねてか、レミエルが一番先に口を開いた。彼女が自分から話し始めたことに心底驚いたナツナは、思わずびくりと体を跳ねさせてしまった。その反応に、レミエルは不愉快そうに眉をひそめた。

 

「どうかしました?」

 

「あ、いや、ちょっと寒くて。それより、なんです?」

 

「えらく壮太郎さんと仲良いみたいですが、気に入ったんですか?」

 

「彼女のレミエル先輩の前で言うのもなんですが、別に仲良くないし、気に入ったわけじゃないです。変な縁といったところでしょうか」

 

 そのように答えてから、ナツナは壮太郎を一瞥した。彼はホッとしている様子だったが、その額には冷や汗が残っている。彼の普段のわがまま放題で無神経な素振りから考えると、異常とも言える光景だった。

 

「アンタどうしたの」

 

「レミエルが俺以外の青蘭学園の生徒と話すのは、俺が知る限り初めてなんだよ。だから、その、不安だったんだけど、普通に話せてて安心した」

 

 壮太郎の目に涙が溜まり始めた。彼は感極まると泣いてしまう人らしい。彼の新しい一面は、ナツナの心を冷たい秋の風に負けないくらい暖かくしてくれた。

 

「泣くような大げさなことじゃないですよ、壮太郎さん。ナツナさんだから私は話せるんです」

 

 その言葉に、表情を固まらせたのは深雪だった。彼女は何でもない風を装ってパンを食べているが、ナツナにはその動揺が分かった。それからもう一度レミエルの方を見てみると、彼女の瞳は壮太郎とナツナだけを映し、深雪の姿は入っていなかった。

 

「壮太郎さんがナツナさんのことをよく話してましたから。それに今見てみれば、ナツナさん、あなたの目は壮太郎さんに似ています。あなたの瞳の奥には、具体的で曲がることのない正義がある。そうでしょう?」

 

「まァ、ね。でもそういうことなら、統合軍のみんなは全員その目を持ってるよ」

 

「他の人のことは、よく知りませんから。とにかく、壮太郎さんやナツナさんみたいな人は信じるに値します」

 

 レミエルのような気難しい人に認められて嬉しくなった反面、ナツナは深雪を哀れに思った。彼女は内向的で一人で過ごす時間が好きだが、同じくらい友人と過ごす時間も好きだ。しかし、レミエルの眼中に彼女だけがいない今、少しでも動けばそれだけで空気が変わる。

 ふと、壮太郎の目が深雪に向いた。その直後、彼はスッと立ち上がって、踵を返した。

 

「戻るぞ、レミエル」

 

「え、ああ、はい」

 

 レミエルはナツナに一礼し、壮太郎に着いていく。その壮太郎は、ペントハウスの影に隠れて見えなくなるまで、ずっと背を向けたまま手を振っていた。

 

「壮太郎君、気を遣ってくれたのかな」

 

「アイツが気を遣えるとは思えないけどね」

 

 ナツナはカラカラと笑ったが、深雪の表情は暗くなった。彼女は何かを言いたげな様子ではあるが、ナツナはそれを問うことができなかった。黙ったまま、二人は膠着する。やがて一回風が唸ったのを合図に、深雪が口を開いた。

 

「朝の件で、みんな気が立ってる。ブルーフォールの直後と同じ、誰も彼もが緑の世界の子を敵視してる。だけど壮太郎君とレミエルさんは、夏菜を容疑者として見てなくて、夏菜も容疑をかけられてるような素振りはないよね」

 

「私とアイツとレミエル先輩が理解できない?」

 

 ナツナが尋ねると、深雪は硬い動きで頷いた。その仕草を見て、ナツナは少し落胆した。同じ軍人の娘であれば分かると思っていたが、それ以上に彼女がこの学園に空気に影響されてしまっている。見損なった、という感情よりは、哀れに思う感情の方がナツナの心に浮かんだ。

 

「レミエル先輩も言っていたけど、私の中には決して曲がることのない確たる信念がある。それがある限り、私は私の道を見失わない。だから、容疑をかけられてもこうして堂々としていられるの」

 

 ナツナは余裕綽々に語った。しかし、深雪の表情は晴れない。その顔を見ていると、ナツナは己の心が彼女から離れつつあるのを感じた。確かにナツナは深雪を愛している。これは変わりないが、彼女から学ぶことの有無は別だ。彼女は、ナツナにとっては一緒に居ることが嬉しい、というもの以上の存在たり得ない。

 

「夏菜は、すごいね。私よりよっぽど大人っぽいよ」

 

 寒さでか、身を震わせて深雪が呟いたこの言葉は、ナツナの彼女に対する見方を決定付けた。最早マスコットとさえ言える。マスコットを切り捨てることに、ナツナには何のためらいもない。

 昨夜のアゲハと、目の前の深雪。その二人が、ナツナの士気を最高潮に引き立てている。ナツナには、今の自分は無敵だとさえ思えた。

 

        ***

 

 昼休みの終わり頃にソフィーナが教室に戻ると、何やら大きな人だかりができていた。ワイワイガヤガヤと、朝の事件を忘れたかのような明るい声が耳に入る。何だ何だとその中心を見てみると、あまりに意外な人物がいたために、思わず腰を抜かした。

 

「ジュ、ジュリア!?」

 

「あ、ようやく戻ってきたのね。じゃあ私、ちょっとソフィーナと話してくるから、また今度ね」

 

 ジュリアは笑顔を振りまきつつ人だかりから抜け出して、ソフィーナの手を取り、ぐいと引っ張った。

 

「行くわよ、ソフィーナ」

 

「え、ちょっと、行くってどこに!?」

 

「教室の外」

 

 ジュリアに引っ張られるままにソフィーナは廊下に出ると、彼女の手を振り払った。すると、周りの空気の感じが変わったような気がした。それはジュリアが結界を張ったからだと、すぐにわかった。これで、二人の姿は外から見られず、声が聞こえることもない。

 

「ミルから様子を見るように言われてね。あなたが教室に居なかったから、あの子たちと喋ってたのよ」

 

 ジュリアは壁にもたれかかって腕を組んだ。ソフィーナは青蘭島に来てから彼女を見るのは初めてだったが、その余裕のある尊大な態度は、何一つ昔と変わっていない。

 

「それでわざわざ、宰相のあなたがここに来たの? ミルドレッドも案外心配性ね。私は見ての通り、何も問題無いわ」

 

「へェ、何も問題なし、ねェ」

 

 ジュリアは、明らかに何かを言いたげな様子で、ソフィーナの全身を舐め回すように見た。そして、彼女はひとつ息を吐いて、壁から背を離して姿勢を伸ばした。

 

「ミルがわざわざ私に頼んだということは、つまり今のあなたを試せということよ。ここに留学させたのは果たして正解だったか」

 

「なるほどね。でも、ここに来てから魔術の研鑽は欠かさず積んできたから、たとえあなたが相手でも、遅れは取らないわよ」

 

 ジュリアの言葉を遮るようにして言い、ソフィーナは胸を張った。しかし、ジュリアはきょとんとして、まるで信じられないものを見たかのように目を丸くしていた。

 

「魔術? 遅れは取らない? あァ、何てこと。ミルに大丈夫と報告したかったのに、こんな調子じゃ絶対無理だわ」

 

 大仰に額を手で覆って、ジュリアは嘆いた。わざとらしいその仕草にソフィーナはムッとなったが、直後に背筋が凍るような冷たい目で見られ、彼女は萎縮して後ずさりしてしまった。

 

「ソフィーナ。あなたは青蘭島評議会のD・E代表代行で、次期魔女王候補の一人でしょう。なのに、私の話を最後まで聞かず、戦闘力の試験だと決めつけてかかった。これだけでもう政治家(丶丶丶)として失格みたいなものね。政治屋(丶丶丶)としてはいいかもしれないけど」

 

 分かりやすくなじられ、ソフィーナは頭に血が上った。しかし、その怒りをたやすく上回る、ジュリアから感じる戦慄が、彼女の体を縛り付けていた。ジュリアのいつも浮かべる余裕の笑みの裏に、確かな怒気を感じる。ソフィーナは息を飲んだ。彼女が冷や汗まで垂らしたその時、ジュリアの奥から怒りが急に消えた。

 

「まァ、いいわ。政治屋としての素質も、祭り上げられる者には必要だものね。気を取り直して、私が、あなたに魔女王としての資質があるかどうか試すわよ」

 

 ジュリアは一転して陽気に言った。一体どのように試すのかとソフィーナが身構えていると、どこからともなく一体の西洋人形が、大きな赤いスイッチを持ってきた。

 

「なにこれ」

 

「私が問題を出すから、答えを出せたらそれを押しなさい」

 

「そんな、クイズ番組じゃあるまいし」

 

「つべこべ言わない。それじゃ第一問! そろそろG・Sが二回目のブルーフォールをここに仕掛けてくるのは明白だけど、私たちD・Eはその時どう動くでしょうか」

 

 ソフィーナはその問いに、すかさずスイッチを押した。ポーン、と間の抜けた音が響く。ジュリアは先程から表情を変えていない。

 

「当然、青蘭島を助け――」

 

 そこでソフィーナは言葉を止めた。ジュリアの目が急に冷ややかになったためだ。「助ける」というのは不正解なのであろうが、何故そのようになるのか、焦りを感じ始めたソフィーナの頭では考えられなかった。

 

「助けない、というのが正解だとは察したみたいだけど、どうしてかは分からないみたいね。ヒント、欲しい?」

 

 ジュリアの提案に、ソフィーナは無言で、硬い動きで頷いた。

 

「やれやれ、しょうがないわね。じゃあ、D・Eが現状取っている支配体制、郡国制についておさらいしましょうか?」

 

「待って。郡国制は助けない理由にならないわよ」

 

 頭が冷えたソフィーナは、即座に毅然とした態度に直って口を開いた。ジュリアはふうん、と相槌を打った。その余裕は、まるでソフィーナがかのように言うことを予期していたかのように、彼女には見える。

 

「なら、どうして助けない理由にならないかを答えてみなさい」

 

「D・Eは、黒柩城を中心にした魔女王直轄地と、十二杖が領主として収める十二の国に分かれている。そしてその配置は、クーデター後に従った十二杖が謀反を起こしても始末しやすいように、彼らは黒柩城の近くに置かれ、更に昔からの仲間の十二杖に牽制されるようになっている。だから、軍を動かせばそのパワーバランスが崩れるかもしれない。けど、ここを助けるために出せる兵力は、様々な条件を加味して、せいぜい一万が限度よ。そのくらいじゃ、バランスが崩れることは無いわ」

 

 ソフィーナが言い切ると、ジュリアはおもむろに拍手をした。しかし、馬鹿にされているように感じ、ソフィーナはいい気分がしなかった。

 

「流石に、これくらいで流されることはないのね。まァ何にせよ、私たちが二回目のブルーフォールが起こった時に助けないというのは本当だから、そこんとこよろしく」

 

「どうしてよ。青の世界水晶が奪われたら、地球が滅亡するのは知ってるでしょ?」

 

「それを知るのはもう少し後よ。私が今張っている結界を突破できる者がいる中で言える話じゃないわ」

 

 ジュリアはそれ以上何かを言おうとはしなかった。ソフィーナもその理由の見当がつかず、そのまま空気が膠着してしまった。

 

(何が理由なのかしら。もしかして、にほ――)

 

 よく知るはずの国の名を思い出そうとした時、ソフィーナはひどい頭痛を感じた。痛みにはそれなりに耐性があるつもりだったが、それでも立っていられなくなる程の痛みだった。ソフィーナは痛みに耐えながらジュリアの表情を伺うと、彼女は表情から余裕を消し、ソフィーナをじっと見つめていた。

 

「ソフィーナ。あなたの素質云々に関わらず、ここにあなたを寄越したのはマズかったかもしれないわ。その時になったら改めて言うけど、二度目のブルーフォールが確定した時点で、ここにいるD・Eの子たち全員に帰国命令を出すように命令しておくわ。じゃ、またね」

 

 珍しくかなり焦った様子で言い、ジュリアは結界を消した。そして、瞬間移動の魔法でも使ったらしく、彼女は姿を消した。しかし、その頃にはソフィーナの頭の中から、彼女の言ったことは頭痛のあまり完全に抜けてしまっていた。



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決別の日①

 アゲハを襲った日の夜、ナツナはその日の青蘭学園の様子や対応をスレイに電話で報告した。それが済むと、スレイは次のように語りかけた。

 

「この作戦の目的、後で伝えると言ってあったわよね。この作戦は実は穴攻(けっこう)を行うためのものよ」

 

「穴攻、ですか。ずいぶんと古風な作戦を使うんですね」

 

「向こうもそんな古臭い手を打つとは思わないでしょうから、うまく陽動をかけられればいい奇襲になるわ。もっとも、穴攻隊は退路が無いも同然だから、必然的に決死隊になってしまうけれど」

 

 穴攻とは、穴を掘って敵陣を奇襲する戦法である。地球での有名な例としては、後漢末期に、河北で最も力のあった群雄の一人である袁紹が、幽州の群雄、公孫瓚の易京城を攻めた際にこれの戦法を用いたという。

 青の世界水晶が地下にあり、どの部屋にあるかも分かっている。しかし正面から獲ろうとすれば、細く入り組んだ迷路に翻弄され、格好の餌食となる。それよりは、穴を掘って最短距離で世界水晶を奪うほうが良い。統合軍参謀本部は、そのように考えたらしい。

 

「それで、今参謀本部としては戦闘中に穴攻を隠すための作戦を立てているところなのだけど、あなたの意見も聞こうかと思って」

 

「私の意見、ですか? 私は兵ですよ。個人的な物ならまだしも、軍を動かす大略など、私にはございません」

 

 予想外の話に、ナツナは声を硬くした。動揺で態度を変えてしまったのは特殊部隊の精鋭として情けないことだとは思ったが、ナツナにとってはそれほどまでのことであった。

 

「そんな重く捉えなくて大丈夫よ。あなたは青蘭学園に送り込んだ中で、風紀委員の長に最も近づいた。向こうの組織体制を見るに、恐らく指揮をとり作戦を練るのも彼でしょう。だから、彼の人柄を教えてくれるだけでいいわ」

 

「わかりました。彼、篠谷壮太郎は、一見豪胆で馬鹿な男です。しかし、その裏に計り知れぬ才気を隠し持ち、更に完璧主義で強い猜疑心を秘めています。そして、自己愛が強く目立ちたがりでもあります」

 

 大したことではないと気を楽にしたナツナは、すらすらと答えた。その後、スレイは考え始めたのか黙り込んでしまった。ナツナが数分待つと、スレイは煮詰まったらしく、彼女との会話を再開した。

 

「策が固まったわ。これを参謀本部に提出して採決されたら、よほどのイレギュラーが無い限りは問題なしだと思うわ。ただ、あなたにはかなり負担の大きい役割を背負わせることになるかもしれない」

 

「中佐は当代最高の軍師です。私の命をその策に捧げる覚悟は出来ています」

 

「頼もしいわね。ブリーフィングを楽しみにしてなさい。じゃあ、もう切るわ。おやすみなさい」

 

 ナツナも挨拶を返すと、スレイは通話を切った。ナツナはその後、通信端末をしまって風呂に入ろうと寝室を出た時、インターホンが鳴っていることに気がついた。ぱたぱたと駆け足で外に出ると、そこにはパジャマと思しき服を抱えたルルーナとリーリヤがいた。

 

「先輩方、どうしたんです? こんな時間に」

 

「暇だし遊びに来たの。できたらお泊まりもしたいなって」

 

 ルルーナはあっけらかんと答えた。対して、リーリヤは面白くもつまらなくもなさそうな仏頂面で彼女の隣に突っ立っている。ルルーナに無理矢理連れて来られたのだろうと、ナツナは悟った。

 

「まァ、いいですけど。連絡くらいくださいよ」

 

「何度もメールしたのに全然返信来ないから、しびれを切らしたの」

 

 ルルーナの言葉を受け、ナツナは私用の携帯電話を開いた。すると、彼女からのメールが何通も来ていた。それらが送られてきた時間はちょうど、ナツナがスレイと話していた時間に重なっていた。

 

「あ、ごめんなさい。この時間は取り込み中だったんですよ」

 

「あちゃ、そうなの。ごめんごめん」

 

「大丈夫ですよ。さァ、立ち話もなんですし、上がってください」

 

 ナツナは二人を部屋に入れ、リビングまで案内する。それから緑茶と茶菓子を出して、三人でテーブルを囲った。リーリヤはぐるりと首を回して室内を見回すと、ふむ、とひとつ息を吐いた。

 

「思ったより普通の部屋ですね。ルルーナに近いタイプですから、色々とデコレーションしてると思ってました」

 

「この寮の備品だけで、普通に生活する分には十分ですから。どうせすぐ用済みになりますし、お金をかける必要は無いかなと」

 

「そう言うわりには、バイクは買うんだ」

 

 ルルーナがにやにやして突っ込む。しかしこれは想定内の言葉で、ナツナは緑茶を一口飲んでから、落ち着いて答える。

 

「バイクは向こうでも乗りますから。エンジン換装すれば向こうでも使えますし」

 

「言われてみればそうだね。しかしまァ、家具は今から買わせるにはちともったいないよね。朝の件を考えると、ブルーフォールはもうすぐだろうし」

 

 ルルーナは茶菓子を頬張りながら、何でもないように言う。しかし彼女の言葉で、ナツナとリーリヤの意識も、ブルーフォールの方に向いた。

 

「そうですね。あと一週間くらいで何か指令があるでしょう。腕が鳴ります! ずっと、私のヴィヒター・リッタが血に飢えていますから!」

 

 リーリヤは鼻息を荒くする。物騒な物言いだったが、ナツナも彼女に共感した。アゲハを半殺しにしたくらいでは足りない。戦いが間近に迫っているという実感を一度持つと、殺戮を求める心が胎動した。

 

「私も、リーリヤ先輩と同じ気持ちです。私の持てる全てで、襲い来る敵を皆殺しにしてやりますよ」

 

「はいはい、二人とも血気盛んなのはいいことだけど、私たちの目的はあくまで世界水晶だよ。殺すのはそのための手段だからね」

 

 興奮する二人に、ルルーナは呆れ顔で諫めた。ナツナはぐうの音も出なかったが、リーリヤは澄まし顔でルルーナに言葉を返した。

 

「そんなこと言って、ルルーナも戦場で嬉々として敵を虐殺してるじゃないですか。シュッツ・リッタで何人も撲殺したり押し潰したりしてるでしょう」

 

「私はちゃんと目的が分かってるからいいの。それに、あれは作戦前に使ってる覚醒剤でちょっとラリってるからだし。素じゃないし」

 

 ルルーナの言葉は早口気味だった。本人としては平静を保っているつもりであろうが、ナツナには彼女の動揺が簡単に分かった。それで、彼女は少し意地悪をしたくなった。

 

「まァまァ、いいじゃないですか。殺しを好む蛮勇は、私たち兵にあって困るものではありません」

 

「かわいくないからやだ。戦場ならともかく、今はそういうのはナシ!」

 

 頬を膨らませて、子供っぽくルルーナはそっぽを向いた。その様に、ナツナとリーリヤは揃って苦笑する。

 和やかで緩やかな雰囲気の中で、戦場の狂気を思い出しながら語り合う。ナツナたちは、戦いが近づくと決まってこのような会話をする。この会話の裏で育む闘争心と殺戮への渇望こそ、彼女らの戦場での力の源なのだ。

 

        ***

 

 アゲハへの襲撃からちょうど一週間が経って、G・Sが青蘭島に対して宣戦布告を行った。ナツナが耳にした噂によると、G・Sは青蘭島評議会に対して世界水晶の譲渡、もしくは世界水晶の力を回復させる技術の提供を要求していたのだが、評議会が無視し続けたため、宣戦布告と相成ったとのことだった。

 宣戦布告の内容は、一週間後の午前8時に開戦し、それまでは互いに交戦しないというもので、統合軍出身の生徒は全員が一旦帰国することとなった。ナツナも当然例外でなく、業者に部屋の私物とバイクをG・Sに送ってもらうよう依頼し、財布などの小物を入れた小さなバッグを手にし、寮の自室を後にした。

 

「夏菜!」

 

 歩き出した直後に、廊下のエレベーターの方から深雪の声が聞こえた。少し待つと、泣きそうな顔をした深雪が息を切らして走ってきた。

 

「夏菜。どうしても、ここを攻めるの?」

 

「そうだよ。ていうか、もともとそのつもりだったし」

 

「軍の命令、だから?」

 

 ナツナはその質問に眉をひそめた。彼女が何を言わんとしているかを悟ったからだ。

 

「私がそうだと言えば、お姉ちゃんは、それはおかしいとでも言うつもり?」

 

 図星だったようで、深雪は言葉を失い、たじろいだ。しかしすぐに彼女は踏ん張って、姿勢を正した。ナツナはその態度にほんの少しだけ感心し、小さく鼻を鳴らした。

 

「そうだよ。だって、地球は私たちの故郷じゃない。世界水晶が無くなったら地球が滅びるんでしょう? そんなのやだし、それに私は、夏菜と戦いたくなんてない!」

 

 深雪は涙ながらに話した。しかしそれは、ナツナの苛立ちを加速させるだけだった。彼女が本気なのは分かるが、だからこその苛立ちだった。ナツナは大きくため息をついて、彼女を冷めた目で見つめた。

 

「がっかりだよ、お姉ちゃん——いや、深雪(丶丶)。軍人の親を持つ身なら、私の気持ちも理解できると思ってたけど。それに随分と身勝手になったものだね。私の思いをわかろうともしないなんて。じゃあね」

 

「あ——」

 

 深雪は膝から崩れ落ちた。その様を尻目に、ナツナはエレベーターに向かって歩き出した。言い過ぎだったかという思いがナツナの脳裏によぎったが、すぐにそれを否定した。腑抜けきった深雪にかける情けなど、ナツナに存在しない。

 ナツナはエレベーターで地上に降り、寮の門をくぐってタバコに火をつけた。良い天気だった。快晴で、髪も揺らさないほどの弱い心地の良い風が吹いている。その空気とタバコとで、二重に気分が良かった。しかし、その中でふと視線を感じ、待ち構えていたように突っ立っていた壮太郎に気付いたのだった。

 

「何」

 

「タバコ吸うんなら喫煙所で吸え」

 

 楽しみを邪魔されたナツナは舌打ちして、携帯の灰皿でタバコの火を消して、蓋をしてからそれをバッグに入れた。それから歩き出そうとしたのだが、壮太郎に呼び止められた。

 

「おい待てやコラ」

 

「どこぞの誰かさんみたいに説教するつもりなら聞かないよ」

 

「説教だァ? タバコのマナー以外に今のお前に説教することなんかあるかよ」

 

 壮太郎のその態度を見て、ナツナは拍子抜けすると同時に、彼が自分と近い感覚を持っていることを思い出した。彼は、深雪のような下らない理由で説教する男ではない。それを確信し、ナツナは足を止め、壮太郎の方に向いた。

 

「ごめん。アンタはそういう人じゃなかったよね」

 

「そういう人? あ、なるほど。遠薙には引き止められたんだな」

 

「うん。地球生まれなら青蘭島側で戦うのが筋だってさ」

 

「そんなこと言われたのかよ。後で俺が説教しといてやろう」

 

 壮太郎の目は本気だった。本当に説教するつもりだ。それで深雪が考えを改めてくれれば、ナツナも気分が良くなるというものだった。

 

「人が戦争に参加する時は、守りたいものを守れる側に付くのが常識なのにな。お前はG・Sに守りたいものがあるから、そっちに立つんだろ?」

 

「うん。ところでさ、何で引き止めたの? 私を説得しようとかいうことじゃないんでしょ」

 

「ああ。前に乳首当てゲームやろうぜって話したろ。そういやまだやってないなって思ってな」

 

 ナツナは一転して、何も言わずに壮太郎に侮蔑の目を向けた。彼からのセクハラは久しぶりで、懐かしささえ覚えてしまったが、それでも不快なことには何ら変わりない。

 

「乳首当てゲームねー。手が滑って、アンタの胸を突き破って心臓抉り取っちゃうかもしれないけど、いいかな?」

 

「お前のおっぱいにさわれるなら死んでもいいぜ」

 

 壮太郎は涼しい顔で返してきた。彼らしい返し方ではあるが、だからといってナツナが怒らないわけではない。

 

「気色の悪い。来週、戦場で会うのが楽しみだよ。細切れにしてブッ殺してやる」

 

「寝ボケんなよ。ブッ殺すのは俺の方だ。まァ、俺も俺と対等にやりあえるのがいなくて飽き飽きしてるんでな。お前と命の削り合いができること、期待してるぜ」

 

 彼が言い終えると、互いに不敵な笑みを交わし、背を向けあって歩き出した。この時ナツナは、自分が学園の敵となったことを心の底から実感した。しかし彼女に悲しみはない。あるのは、G・Sへの美しき忠誠心と、野獣のように激しい闘争心だけだった。



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決別の日②

 G・Sの宣戦布告の直後、D・Eから帰還命令が出されたが、それに応じる者はいなかった。それはD・E代表代行として学園にいるソフィーナも同様だった。国の命令よりも、仲間を守りたいと考えた彼女は、壮太郎にその意思を直接伝えようと思い立った。しかし、ソフィーナが部屋から出ようとした瞬間、目の前にジュリアが瞬間移動してきた。

 

「ソフィーナ。他の連中が命令を無視するのは構わないけど、あなたは戻りなさい。代表代行のあなたがここで統合軍と戦えば、それが国の意思と取られるでしょうが」

 

「なら、代表代行の座を降りるわ。それなら文句は無いでしょう」

 

「馬鹿。大有りよ。自分がD・Eの重鎮という事実を思い出しなさい! 力さえあれば、ある程度のワガママが許された先代の治世とは違うのよ!」

 

 ジュリアは、耳が裂けるような大声で怒鳴った。普段怒る時も余裕を忘れないジュリアが、本気で怒っている。彼女はしばらく身を震わせていたが、やがて大きく息を吐くと、ソフィーナを哀れむような目で見つめた。

 

「その目は何なの」

 

「——学園に来てから、ソフィーナは何か、ここが変だと思ったことはなかった?」

 

 先ほどとは打って変わって、ジュリアは落ち着いた声色で語りかけてきた。ソフィーナはその変わりように戸惑いつつも、彼女に答える。

 

「変だと思ったことといえば、あなたと話している時に何かを思い出そうとしたら頭痛がして、何を思い出そうとしてたのかも忘れてしまったことくらいよ」

 

「なるほどね」

 

 ジュリアはそれだけ言って黙り込んでしまった。空気が重く、ソフィーナは秋だというのに汗を滲ませた。彼女があまりに長く黙り込んでいるように思えたので、ソフィーナは居心地悪く感じて声をかけようとした。しかし、その前に彼女がソフィーナに目を向けた。

 

「ソフィーナ。あなたの望み、叶えてもいいわ。条件付きだけど」

 

「条件って?」

 

「D・E代表代行を降りるだけじゃなくて、D・E国籍を放棄し、二度とD・Eの土を踏まぬと誓うこと」

 

 ソフィーナは絶句した。それではまるで大罪人だと悲嘆したが、無理からぬこととも分かっていた。他の庶民ならともかく、ソフィーナはジュリアの言う通り、D・Eの重鎮だ。寧ろこの場で殺されないことをありがたく思うべきとも言える。

 

「分かったわ。その条件、飲むわ」

 

 ソフィーナがこう答えた時、ジュリアは一瞬、もの悲しげな表情を見せた。その顔を見た時、ソフィーナは何か取り返しのつかないことをしてしまったように感じた。しかし、今の彼女に、青蘭島を助けに行く以外の選択肢は存在しない。

 

「口約束だと反故にされるかもしれないからね。悪いけど刻印を埋めさせてもらうわよ」

 

 不意にジュリアがそのように告げ、有無を言わせずにソフィーナの腹に手を当てた。その後、電撃が走ったような感じがし、服をめくってみると腹部に幾何学模様の紋章が刻まれていた。

 

「これで、あなたはこの刻印が消えない限り、黒の世界に立ち入れないわ。無理に立ち入ろうとすれば、あなたは死ぬ」

 

 彼女の言葉に、ソフィーナは一呼吸置いてから頷いた。祖国よりも青蘭島を選んだのだから、信用を失っているのは当然のことだと言えた。

 

「じゃあね、ソフィーナ。最後にひとつだけ言うわ。ミルも私も、あなたには期待していたのよ」

 

 ジュリアはそれを捨て台詞にして、ソフィーナの前から姿を消した。彼女の声は震えていた。気丈で滅多に素の感情を出さぬ彼女をそうさせたのはソフィーナだ。ここでようやく、ソフィーナは己が取り返しのつかないことをしてしまったことを自覚し、一人慟哭した。

 

        ***

 

 学園の会議室に、壮太郎とリーナ、そして歩けるようにはなったアゲハが集まった。今から、世界水晶防衛の最高指揮官となった壮太郎を中心に、作戦会議を行うのだ。

 

「これから作戦を立てるが、T・R・AとS=W=Eが外での戦闘をやってくれるそうだから俺たちは学園の建物の防衛を第一に考えよう。とは言え、敵がどんな作戦を立ててくるのか分からないのに奴らに挑むわけにもいかん。つーわけで、サナギ姉。敵の参謀は誰だと思ってる?」

 

「今回の作戦は特務隊主導とのことだから、スレイ・ティルダイン中佐が参謀の中心でしょう。しかし、特務隊の任務は、本来は裏工作や暗殺で、時々一般部隊に混じって任務を行うこともあるけど、私が持っていた権限では具体的なティルダイン中佐の戦歴は分からなかったわ」

 

 アゲハの話を聞いて、壮太郎はうーんと唸った。敵の具体的な手法が分からないとなると、ナツナを介して壮太郎たちを知っている統合軍に対して大きく不利を被ることとなる。

 

「何か知ってること無いか? そのスレイとかいうやつの性格とか私生活とか」

 

「そういうことなら、彼女の家はトオナギ少尉の保護者だったはずよ。確か、彼女の弟がトオナギ少尉の婚約者だとか」

 

「ならば、そのスレイのナツナさんに対する信頼は厚いと考えていいですね。つまり、考えられる可能性はふたつでしょう」

 

「遠薙妹が重要な役割を担うか、もしくは安全な場所にいるか、だな」

 

 リーナの言葉に続けて、壮太郎は呟いた。リーナが頷いたのを見ると、同じことを考えていたらしい。改めて、壮太郎は二人を見回して告げる。

 

「遠薙妹が前線に現れたなら、それが鍵だな。戦闘中は、常にアイツを意識するようにしよう。それ以外はまァ、スレイのことが分からんからセオリー通りにゲリラ戦をやるか。連中が学園にいた期間があっても、学園のことなら俺らが百倍よく分かってる。そしてこれが、部隊の割り振りと配置だ。意見があったら言ってくれ」

 

 壮太郎は懐からレジュメを取り出し、机の上に置いた。リーナとアゲハがそれに食いつく。やがて、見終わったらしい二人が、同時に顔を上げて壮太郎の顔を見た。

 

「私には、粗があるようには見えませんでした。完璧ですよ」

 

「天才ね、あなた。でも、こんなのいつの間に作ってたの?」

 

「第一次のブルーフォールの直後だ。絶対二回目があると思ったからな。でもそんなに凄いかァ。へへへ」

 

 鼻を伸ばしながら、壮太郎はアゲハに答えた。しかしその時、慌てた様子の美海が、書類の束を抱えて飛び込んできた。彼女が机の上に置いたそれを覗き込むと、それらが風紀委員会への申込書だと分かり、壮太郎はめまいがした。

 

「壮太郎君! 学園のために戦いたいって人がこんなにも!」

 

「嘘だろオイ。時間無いってのに仕事増やすんかい。しかもせっかく作ったこれが全部パーじゃねェか」

 

 壮太郎は頭を抱えた。学園のために戦いたいという彼らの気持ちを無碍には出来ないが、かと言って全員が役に立つとは限らず、全員に十分な訓練を施す余裕も無い。それに、戦闘中に誰か一人でも逃げ出せば、それが楔となって戦線が瓦解することも考えられる。

 

「はァ、しょうがねェ。日向、そいつらを講堂に集めてくれ。俺が直々に選別してやる」

 

「選別? みんなと一緒に戦うんじゃないの?」

 

「アホ。俺たちは戦争をするんだ。いつ死んでもおかしくない所に放り込まれるんだ。何となく志願したヤツなんか邪魔なだけだよ」

 

 壮太郎が告げると、美海の表情が固くなった。壮太郎と美海はこのような点で全く気が合わなかった。彼女は素直すぎ、理想を重視する。人としては良いが、上に立つ者として相応しい性格ではない。一方で、壮太郎は猜疑心が強く、重視するのは現実だ。壮太郎の考えでは、人の上に立つ者として最も重要な能力は現実を見られる目である。理想しか見られない者たちは、決まって暴走し、迷走の果てにあらゆるものを犠牲にして潰れていくと相場が決まっている。猜疑心の強さは策略家として必要だ。そのどちらも持っていない美海を、壮太郎は重用したくないのだが、彼女が持つカリスマは何者にも代えがたいものだ。志願してきた者も、壮太郎の人徳ではなく美海の人徳に引き寄せられた者の方が多いような気さえする。風鬼委員長として、壮太郎自身も人徳があると自負しているが、美海のそれは彼のを凌駕する。壮太郎はそれが悔しいのだが、不用意に妬むことはなく、利用するだけ利用することにしている。

 

「とにかく集めといてくれよ」

 

 壮太郎はそれを捨て台詞にして、会議室を去って講堂に向かった。すると、その道中でレミエルと遭遇した。彼女は壮太郎と目を合わせると、すぐに近寄ってきた。周りには人もいるというのにそうした彼女を見て、壮太郎は目を丸くした。

 

「お前、人前だけどいいのか」

 

「ナツナさんと、そのお姉さん、でしたっけ。とにかく二人に知られたと考えたら、どうでもいい拘りだったと思いまして」

 

 壮太郎はまたも驚いた。レミエルの口からこのような言葉が出てくるとは思いもよらなかった。彼女の目は相変わらず濁っているが、以前と比べたらだいぶ澄んだ目をしている。壮太郎の知らぬ間に、彼女は変化を遂げたらしい。

 

「そうか。俺は今から志願してきた連中の選別に行くけど、お前も付いてくるか?」

 

「講堂でしょう? 袖から見守りますよ。ところで、私が志願したかどうかは聞かないんですね」

 

「お前がするわけないだろ?」

 

 壮太郎が問い返すと、レミエルはふっと笑った。そして、彼女は壮太郎の左腕を取り、それを彼女の胸に当ててきた。その控えめながらも独特の柔らかな感触に、壮太郎はつい顔をだらしなく歪ませた。

 

「さすが壮太郎さん。でも、壮太郎さんがピンチになったら駆けつけますね。私が命を懸けてでも守りたいのは、壮太郎さんだけなのですから」

 

「くくく、嬉しいこと言うなァ。レミエルはやっぱり最高だよ」

 

 壮太郎は空いている方の手で、レミエルの頭を搔き撫でた。彼女の柔らかな金髪が心地よい。彼女も喜んでくれているようで、恍惚とした表情を浮かべている。

 講堂までの道の半分くらいまで来たところで、志願した人は講堂に集まるように、という美海の声がスピーカーから流れてきた。それに伴って、周囲の人々の何人かが慌てた様子で講堂に向かって走り出した。

 

「やる気はあるみたいだな」

 

「そうみたいですね。学園の何を守りたくてここまでやるのか、私には理解できませんけど」

 

 レミエルは冷めた目で、忙しく動く生徒たちを眺めていた。やがてその目から冷たさが消えると、それは壮太郎の方に向けられた。

 

「そういえば、壮太郎さんは何で戦うんですか?」

 

「青蘭島防衛の最高指揮官という役職が背負う義務に俺は命を懸けたんだ。俺の将来は日本の陸軍元帥だからな。この若いうちからキャリアを積めるなんて、滅多にないチャンスだ」

 

「えらく個人的な理由ですね。壮太郎さんらしいといえば壮太郎さんらしいですが、それで人が付いてくるんですか?」

 

「お前にしか明かさねェよ、こんなこと。まァ、実を言うと、そういうことにしとかないと、俺のやる気が出ないんだ」

 

 壮太郎がそのように言うと、レミエルは足を止めた。彼女は訳のわからないと言った顔をしている。

 

「ちょっと来い」

 

 壮太郎はその理由が、人に聞かれてはいけないように思えたので、レミエルの手を引っ張って、空き教室に連れ込んだ。そしてその部屋の鍵をかけると、机に腰掛けて小声で告げる。

 

「実は、今のこの状況が不可解なことが多すぎて納得できてねェんだよ」

 

「どういうことですか?」

 

「そもそも、優秀なプログレスが沢山いるとはいえ、高校生にプロの軍人の相手をさせるって神経が理解できん。それに、世界水晶が奪われたら、地球が滅ぶって言われてんのに、地球の他の国家は何も援助しない。つか、世界水晶がある部屋は異常に頑丈だから、島民全員を避難させて、この島に核爆弾打ち込みまくれば世界水晶は守れるし統合軍も全滅だ。これは極論かもしれんが、世界の危機な訳だしそれくらいしてもおかしくないだろ。でもやらない。上の連中は、俺に指揮しろと言って放りっぱなしだ。D・Eの不参戦も考慮に入れると、本当は世界水晶を取られても特に問題無いんじゃないかとさえ思える。前はこんなこと考えなかったんだが、いざやるとなるとこんだけ疑念が噴出する。納得できると思うか?」

 

 壮太郎はまくし立てる中で、頭の中が整理されて、ますます青蘭島の上層部に対する不信感が増大した。しかし、今はそのようなことはあまり考えていられなかった。壮太郎は世界水晶防衛の指揮を任された立場だ。その彼がこの戦いに対する疑念を抱けば、それは下にも伝播する。そのようになれば、当然士気は落ち、いたずらに人を死なせることになりかねない。それは避けねばならない。

 この壮太郎の葛藤を悟ったのか、レミエルは少しの沈黙の後、彼に一歩寄り、真摯な目で彼を射抜いて告げる。

 

「壮太郎さん。その調査、私に任せてくれませんか? 私が調査すれば、壮太郎さんは防衛任務に集中できるでしょう?」

 

「まァ、そうなんだけど。何で俺の考えてること分かったんだ? エスパーかお前は」

 

「以心伝心というやつですよ」

 

 レミエルは明るく笑ってみせた。その笑顔は明るく、見ている壮太郎も晴れ晴れとしてきた。彼女がこのような顔を見せるのは初めてのことで、壮太郎はつい涙ぐんでしまった。



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決別の日③

 レミエルを舞台袖に置き、壮太郎は講堂の舞台に立った。眼前には、不安げに壮太郎を見つめる生徒の面々がいた。壮太郎はふんと鼻を鳴らすと、マイクを持って彼らに向かって話し始める。

 

「おいテメェら。ここにいるってことは、全員命を落とす覚悟があるってことでいいな? そういう訳で、俺はここにいる連中で決死隊を作ろうと思う。決死隊の意味は分かるな? 志願者は、今俺がいる壇上まで、今すぐ来い」

 

 壮太郎の呼びかけに応じたのは沈黙だった。誰もが顔を見合わせるばかりで、一向に動く気配が無い。その様子に、壮太郎はわざと大きくため息をつき、ふざけた調子で言う。

 

「誰も来ないけど、遠慮してんのかなァ。来ないなら俺がくじで決めちゃおっかなァ。大した志は無いけど周りに感化されて来ちゃったやつが当たったら気の毒だけど、仕方ないよなァ」

 

 壮太郎がそう言い終えた直後、一人、また一人と足を進める者が現れた。やがてそれは、時間が経つにつれて大きな動きと化してゆく。最初の一人が動いてから数十秒後、壮太郎は大きく息を吸い込んだ。

 

「止まれ!」

 

 壮太郎の大声で、全員がぴたりと停止した。その後、彼は舞台から飛び降り、講堂の一方の壁伝いに何メートルか歩いた。

 

「よし、俺がいる位置から舞台側にいるやつだけ残れ。他は足手纏いだから、とっとと帰って、志願したことは忘れてシェルターにでもこもってろ」

 

 帰れと言われた者から敵意を持った目を向けられたが、壮太郎は彼ら彼女らを威圧し返して、更に刀の柄に手をかけた。すると、敵意はたちまち消え去り、彼らは失意の表情で講堂を去った。壮太郎は去れと指示した者全員が居なくなったのを確認すると、舞台に戻って、残った者の顔を順に見た。その中には深雪の姿もあった。彼女が居るのは意外だったが、ナツナとの会話の後に心境が変化したと考えると、不思議でもなかった。

 

「さて、お前らは真の勇敢さを持っている。だが、実力に見合わない勇敢さは無謀に過ぎん。そういうわけで、今日から風紀委員の訓練に参加してもらう。更に、あと一週間でモノにしなきゃならんから、体を壊さん程度に超ハードにしてやる」

 

 壮太郎の言葉に、残った者たちは特に動揺は示さなかった。流石だと感心した彼は、深雪を残して他の者たちも帰らせた。

 

「遠薙。ここでお前の姿を見るまで、ちょいと説教してやろうと思ってたが、ここにいるってことはその必要は無いか?」

 

「夏菜から何か聞いたんだね。あの子が統合軍として攻めるって分かった時はショックだったけど、あの子が去ってから考えて、分かったの。あの子が言ったことは少しもおかしくない。私の方が変なこと言ってたって。だから私は、私の守りたいもののために、夏菜と、統合軍と戦うの」

 

「言っとくが、俺たちと統合軍の戦いは、ブルーミングバトルじゃない。正真正銘の殺し合いだ。お前も妹と殺し合う可能性も出てくる。アイツはお前を殺しにかかるだろうが、お前に妹を殺す覚悟はあるか?」

 

 壮太郎が問うと、深雪はこくりと頷いた。彼には、その動きは固かったが、迷いは無いように見えた。

 

「あの子の覚悟は本物だから。殺したくなんかないけど、あの子が殺そうとするなら、私はその覚悟に応えられるだけの気迫で戦いたい」

 

 揺らぎない目で、深雪は答える。ナツナから聞いていた話とは大きく違う彼女の雰囲気に、壮太郎はかくも短時間で変われるものかと思ったが、それだけ深雪の中のナツナか大きいということで納得した。

 その後、深雪を帰らせ、レミエルと別れた壮太郎は、会議室に戻った。するとそこに、見知らぬ緑髪の、小学生ほどに見える少女がいた。彼女からただならぬ気配を感じた壮太郎は、即座に佩いている軍刀の鞘に手を添え、柄に手をかけた。しかし、いざ抜き放とうとした時、彼と彼女の間に美海が割って入ってきた。

 

「ダメだよ壮太郎君! シルトちゃんは敵じゃないよ!」

 

「いいや! 俺の勘が、コイツはやべェって言ってんだ。そもそも俺の知らねェヤツがここにいる時点で、俺にはコイツを斬る理由になる!」

 

「やっぱり、みんながみんな美海みたいな子じゃないんだね。そこのリーナも、私がここに入ってきた時同じこと言ってたよ」

 

 シルトはおもむろに椅子から立つと、壮太郎に歩み寄ってきた。壮太郎は気を緩めず、すぐに抜刀できるように構え続ける。

 

「初めまして。私はシルト・リーヴェリンゲン。緑の世界水晶の意志そのもの」

 

 彼女が名乗った瞬間、壮太郎は彼女に居合斬りを仕掛けた。彼女は咄嗟に避けたものの、壮太郎の斬撃の方が早く、右腕から下が斬り落とされた。壮太郎は仕留め損なったと分かった瞬間、抜き放った刀を両手持ちにして、シルトの左袈裟を狙う。しかし、突然間に美海が割って入り、壮太郎の体を抱き締めて止めた。

 

「ダメだよ壮太郎君! 刀を納めて!」

 

「離せ日向! 何が敵じゃないだ! こんなやつが味方な訳ないだろうが!」

 

「まァ、普通はそう考えるよね。リーナも私が名乗るなりいきなり銃で撃ってきたし」

 

 シルトは涼しい顔で呟き、斬り落とされた腕を拾い上げて、それを元の位置にくっ付けた。彼女はそれから、右手を握って開いてを繰り返してから、壮太郎の方に向いた。

 

「私は言った通り、緑の世界水晶の意志。だから、私は緑の世界の真実を知っている」

 

「ほう。そりゃ大層な真実なんだろうな」

 

 壮太郎の煽るような物言いに、シルトは眉をひそめた。そして大きなため息をついて、壮太郎の真横についた。

 

「今は遠慮するよ。話を聞かれたくない人が学園にいるし、それにあなたは最初から信じる気がなさそうだしね。じゃあ、健闘を祈るよ」

 

 それだけ言って、シルトは文字通り姿を消した。その直後、ドアをノックする音が聞こえた。壮太郎は苛立ちを治められぬまま、ドアを開けた。そこにいたのはソフィーナで、壮太郎はまた負の感情が綯い交ぜになった。

 

「D・Eは参戦しねェのに何でテメェがまだ居んだよ」

 

「これは私個人の意思よ。国は関係無いわ」

 

「他の連中はともかく、お前は許可降りたんかよ」

 

 壮太郎の問いに、ソフィーナは沈黙した。その沈黙の意味するところは、無許可か、もしくは人には言えぬ代償を背負ったかのどちらかだろうと壮太郎は考えた。どちらにせよ、今の彼女の態度は、壮太郎には受け入れがたかった。

 

「何考えてんだか知らんが、テメェには失望したよ。貴重な戦力だから使うが、信用があると思うなよ」

 

 壮太郎が、ナツナやレミエルには甘く、ソフィーナにはこのように強く当たるのには根拠がある。前者二人はそこまで大きな責任を負ってはいない。しかし、ソフィーナは黒の世界の重鎮の一人である。その彼女が私情を優先してこの戦いに参加するというのは、全く感心できない行動であった。

 

「とにかく、志願者の中から絞ってきたから、人員配置を今から考え直すぞ。日向とソフィーナは帰れ。邪魔だ」

 

 壮太郎は二人を威圧して会議室から追い出すと、彼とリーナ、アゲハの三人で合議を始める。その時には既に、彼の頭の中に美海とソフィーナは居なかった。

 

        ***

 

 追い出されてしまった美海とソフィーナは、項垂れて会議室の扉の前で突っ立っていた。誰かが往来することもなく、二人の間には、重苦しい沈黙の空気が漂っている。それを引き裂いたのは、互いに廊下の反対側からやってきた二人だった。一人はシルトで、もう一人はレミエルだった。

 

「気配を追っていたのですが、そちらから姿を見せてくれるとはありがたいですね、シルト・リーヴェリンゲンさん」

 

「あなたがレミエル。なるほど、話に聞いた通り、確かにミカエルにそっくりだ」

 

 二人は美海とソフィーナを無視して、その間に火花を散らした。ソフィーナは隙を伺っている様子だったが、美海は動くことができなかった。二人の間には、ブルーミングバトルとは全く異質の緊張感が迸っている。それが、戦争をブルーミングバトルの延長だと無意識のうちに捉えていた彼女を、戦慄させた。

 

「壮太郎さんからは怪しい動きを見せたら殺せと言われました。しかし、すぐにそうする気はありません。あなたの知っている全てを聞かせてください」

 

「殺気を発しながら言う言葉かな、それは。あと、彼にも言ったけどこの学園には話を聞かれたくない人がいるからね。口を割る気は無いよ」

 

「そうですか。ならば致し方ありませんね」

 

 レミエルが呟き、彼女の姿が消えたかと思うと、次の瞬間には彼女はシルトの目の前に居た。その時、彼女の翼の無かった左肩から黄金の翼が生えていた。

 

「煉獄の炎で焼き尽くす!」

 

 レミエルが叫んだ直後、彼女の左腕から、廊下全てを焼き尽くしそうなほどの炎が吹き出した。シルトはそれをまともに食らったが、平然として突っ立っていた。流石のレミエルも驚いたらしく、炎を消してその場に留まった。

 

「無意識なのか意識してなのかどうか知らないけど、彼女(丶丶)の力を使ったのかな。でも、煉獄の炎は私には効かない。その炎が何のためにあるのかを理解しているなら分かるはずだけど、ね。あなたが力だけを引き出しているってよくわかるよ」

 

「何が言いたいんですか」

 

「あなたには、真実を知る資格がまだ無いってことだよ」

 

 それを捨て台詞にして、シルトはいずこかへ消えてしまった。更にその直後にはレミエルも歩き去ってしまった。残された美海とソフィーナはしばらく言葉を失っていたが、やがて美海が苦笑いを浮かべて、ソフィーナに話しかけた。

 

「は、はは。なんだか、凄いことになってたね」

 

「そんな呑気にしてていいのかしらね。レミエルが戦うのを見るのは初めてだったけど、あんな炎、炎魔法が得意な私にも到底出せるもんじゃないわ。それに、シルトがミカエルとか言ってたのも気になるし」

 

「何か知ってるの?」

 

 美海は何気なく尋ねたが、ソフィーナは返事もせずに黙り込んだ。彼女はやがて大きくため息をついて、首を横に振った。

 

「分からないわ。知ってた気がしたけど、気のせいだったみたい」

 

 そのように答えるソフィーナの顔は、納得がいっていないようであった。彼女のその様子は、美海に嫌な予感を抱かせた。彼女のことだけではない。レミエルとシルトの言葉、壮太郎の普段とあまりに違いすぎる態度が、美海の体をぶるっと震わせた。



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決別の日④

 G・S統合軍の首都基地内では、今回の作戦にあたってのブリーフィングが開かれていた。これまで殆どの者には極秘で進められていた作戦だったが、ここに来て、満を持して作戦参加者に情報が公開される。聴く者には、当然ナツナもいる。

 作戦の説明をするのは、今回の作戦の立案者であり、臨時参謀長を務めるスレイだ。彼女はスクリーンに青蘭島のあらゆる角度からの見取り図を映し、指示棒を片手に説明を始める。

 

「まず、この作戦において重要なことがふたつあるわ。ひとつは、この作戦が、我々が初めて経験するプログレス同士の戦争になるということよ。今主流な戦いとは違って、個の武もかなり重要になる、つまり古代の戦争に近い性格がある。そしてもうひとつが、地理。私たちは(ハイロゥ)を通って攻めるしかない。当然、敵もそれを分かっているから待ち伏せされるだろうし、敵としては私たちを門付近に留まらせておきたいはず。何せ、そこを突破されたら学園は目と鼻の位置だもの。そして、通り道がひとつしかなく、目標が至近にあるということは、長期戦は絶対に不可能ということになるわ。このふたつを加味して私たち特務隊参謀が出した結論が、奇策による一撃必殺」

 

 スレイはそこまで言うと、青蘭島の断面図に一本の線を表示させた。その線は学園の裏山から、世界水晶の部屋まで伸びている。

 

「奇策とは穴攻よ。そしてこれを成功させるのは、四重の陽動。そのうちひとつは既に済んでいる宣戦布告と青蘭島からの撤収命令。これにより、学園の殆どの者に、島には統合軍がいないと思わせられたはずよ。しかし実際は、穴攻隊は今島に居り、しかも穴を既に掘り終えて、あとは作戦時に壁を崩すだけにしているわ。そしてふたつ目は正面からの攻撃。私たちが使えるのは陸軍第一師団第一大隊のみだけど、これをふたつに分けるわ。一方はフィーリア・グレンハルト中佐が率いて、もう一方はラン王女殿下が率いるわ。学園側にサナギ姉妹がついているから、この二隊が主力だと彼らは判断するでしょうね」

 

 次に、スレイは島を斜めから写した図に味方部隊の位置を合わせたものをスクリーンに映した。その部隊の両端から、彼女は指示棒でそれぞれ一本ずつ線を伸ばす。

 

「第三、第四の陽動は、このふたつの別働隊。一方はジェミナス中尉を隊長とした特務隊の精鋭部隊。そしてもう片方は、トオナギ少尉とザクシード中尉、ゼンティア中尉の三人よ。さっきも言った通り、プログレス同士の戦いでは個の武が重要になるわ。そこで、この三人は我が統合軍の中でも特に優れたそれを持っているというのが参謀部の判断よ」

 

 視線は動かないものの、場の人間の意識が、少しナツナたち三人に向いた。ナツナは、背中がむず痒くなった。意識を向けられたからということもあるが、大きな原因は、軍にそのように評価されているという事実であった。しかしそれよりも、昔から慕ってきたスレイからその言葉が聞けたという至上の喜びが大きかった。

 その後は作戦の詳細についての話になった。まず先鋒を務めるフィーリアとランの部隊から、少し目立つようにしてユニの部隊を切り離し、東側から学園の建物に直接侵入する。それに隠れて、ナツナ、リーリヤ、ルルーナの三人が完全に気配を消して学園に西側から突入し、それぞれの部隊で世界水晶の部屋を目指す。そして、ふたつの別働隊で敵をある程度釣り出したところで、待機している穴攻隊が突入し、世界水晶を確保する。スレイの話を要約するとこのようになる。

 作戦の説明が終わってから、ナツナはリーリヤとルルーナと落ち合い、喫煙所に入って三人で一服した。

 

「いやァ、ティルダイン中佐も思い切ったことするねェ。宣戦布告も作戦のうちとは、驚いた驚いた」

 

 からからと笑いながら、ルルーナが呟く。別働隊の話はするつもりがない様子であった。周りにナツナたち三人しかいないわけではないから、これは当然だ。

 

「向こうからすれば卑怯でしょうが、我々には手段を選んでいる余裕はありませんからね。しかし、向こうには篠谷壮太郎がいますからね。あの切れ者を相手に、どこまで騙せるか」

 

「いやァ、大丈夫だと思いますよ、リーリヤ先輩」

 

 リーリヤの懸念を、ナツナは即座に否定した。ナツナは一服し、葉巻タバコの火を付けたまま、その理由を語り始める。

 

「アイツの価値を本当に分かってるのはリーナと、多分アゲハ・サナギの二人だけですから。アイツって割とキレやすいし横柄ですから意外と人望がないんですよ。もしアイツが私たちの作戦に気付いたとしても、周りの人間の殆どは本気で信じない。だから、アイツのオツムにはそこまで警戒しなくてもいいでしょう。アイツを警戒するとしたら、その実力の方です」

 

「ナツナはこの中じゃ一番アイツに近かったし、ナツナが言うならそうなんだろうね。でも、アイツはアルドラでしょ? 確かにいつも刀を佩いてたけど、実力あるのかな」

 

「アイツの戦う姿は見たことがないのでよく分かりませんが、アイツからは確かに強者の雰囲気は感じましたね」

 

 ルルーナの疑問に、ナツナは無難な言い方で答えた。ルルーナが「ふうん」と相槌を打って、一旦会話が途切れたがすぐに世間話が始まった。その裏で、ナツナは作戦のことを思い出していた。恐らくそれは成功する。穴攻隊を率いるナタク・ヴリューナは武勇と統率力を兼ね備えた名将だ。退路が無いも同然とはいえ、今まで人を殺したことすらない者たちに遅れを取るようなことはない。しかし、ナツナは嫌な予感がした。D・Eの不参戦の理由をもっと深く考えるべきではないかと思う。D・Eが参戦しないということは、ブルーフォールの結果がどうなるにせよ、D・Eにはダメージがないということか、もしくは参戦した時のリスクが不参戦のリスクを上回るかということだ。ではその根拠は何なのか。それだけは、ナツナはいくら考えても分からなかった。ナツナはD・Eの詳しい内情は殆ど知らない。故に、結論が出るはずもなかった。やがてこの思考は不毛だと断じて、彼女は一旦D・Eのことを忘れることにした。

 

        ***

 

 戦闘前夜、ナツナは兵舎の自室から電話を掛ける。今の彼女の胸は、明日の戦闘ではなくこの電話に対する緊張でいっぱいになっていた。

 

「もしもし、ゲオルグさん?」

 

「うん、俺だよ。こんばんは、ナツナ」

 

 電話の相手、ゲオルグの爽やかな声が、ナツナの耳朶を打つ。久しぶりにその声が聞けたということだけで、ナツナは歓喜に震え、頰を一筋の涙で濡らした。

 

「ナツナ?」

 

「大丈夫だよ。あなたと久しぶりに話せて、感極まっちゃっただけだから」

 

「あァ、そうなんだ。良かった。嗚咽が聞こえたからさ、心配になって」

 

「相変わらず心配性だね」

 

「泣いてるのかなって思ったら、心配性じゃなくても心配するよ」

 

 ゲオルグの言葉を聞いて、ナツナの心の光がより明るくなった。ありきたりな言葉だが、それだけに彼の優しさが直接的に伝わってくる。

 

「ゲオルグさん、心配しなくていいからね、本当に。絶対にあなたのいるこの世界を救ってみせるから」

 

「強いな、ナツナは。俺だったらきっと、情がわいて戦えなくなる」

 

 ゲオルグは自虐するように呟いた。ナツナは一呼吸置いてから、その呟きに答える。

 

「ゲオルグさんは優しいね。その優しさを持ったままでいてね。冷徹でいるのは、私たち軍人だけでいいんだから」

 

「うん、分かった」

 

 それから暫く、二人で世間話をした。大それた中身もない、何気ない会話だったが、だからこそナツナの心は浄化された。明日には血に染まる心だが、今、この瞬間は真っ白にしておきたかった。例え冷徹であっても、ゲオルグの前では血に濡れた心を晒したくないというのが、ナツナの願いだ。

 一度話が途切れると、ゲオルグは少し沈黙してから、次のように切り出した。

 

「そういえばさ、ナツナ。あまり作戦前に言うのも気が散るかなって思ってたんだけどさ」

 

「うん? なァに?」

 

「式のこと。ナツナはずっと頑張ってきたから、ご褒美的な意味も込めて盛大にやろうと思ってんだ。だから、その」

 

「生きて帰って来てってことでしょ。大丈夫だよ。これまで死んでもおかしくない任務から生還してきたんだもの。だから安心して待ってて」

 

 ナツナは口ではこのように言ったが、内心では違っていた。失敗したら自害しようという気持ちは、今も全く変わっていない。もし作戦が失敗すれば、ナツナが生きて帰るというゲオルグの願いは叶わない。しかし、それはすなわち成功すれば何の問題も無いということでもある。ナツナの見立てでは、何かしらのイレギュラーが無ければ勝てる。つまり勝てば良いのだ。それに、作戦が始まる前から失敗のことを考えるのは縁起が悪い。

 

「もう消灯時間になるから、切るね。おやすみなさい、ゲオルグさん」

 

「うん。おやすみ、ナツナ」

 

 ナツナはその声を聞いて、惜しみながら電話を切った。彼女はそのまま歯を磨くために洗面台の前に立ち、ふと鏡で自分の顔を見ると、そこには修羅の面があった。



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黄昏①

 決戦当日のG・Sの朝は快晴であった。空気は澄み渡り、ひとつ息を吸えば正のエネルギーが体に満ちる。ナツナは、神が自分たちの応援をしているようにも感じた。そして今から、神では無いが、王族で一部隊を率いるラン・S・グリューネによる訓示が始まる。まだナツナのひとつ年上という若さにも関わらず、彼女の風体は威風堂々としている。彼女の目の前の屈強な軍人に訓示をするということに対しても、全く緊張した様子が見られない。

 

「勇敢なる兵たちよ。そなたたちはこの世界を救う勇者として、王の名の下に選ばれた精鋭中の精鋭です。その肩には、この世界に存在する全てのモノの想いが重くのしかかっていることでしょう。しかし、その重みをものともしない力強さで、困難に打ち勝つことを信じています。さァ、行きましょう! 私たちのこの手で、明日を勝ち取るのです!」

 

 ランの言葉に応じ、兵が一丸となって咆哮する。その声は天を衝くほどに激しく、これほどまでに士気の高まった統合軍を、ナツナは見たことがなかった。ランの訓示のおかげというよりは、今回の作戦の大義名分によるものなのは疑いようもないが、わかっていてもナツナは驚くほかなかった。もちろん、ナツナ本人の士気も、かつてないほどに高まっている。しかし冷静でもあった。あまりに高い士気は、時に正気を失わせ、兵を狂気に走らせる。失敗の許されないこの作戦では、その狂気は発現させてはならない。昂ぶる心を抑えるため、ナツナは深呼吸を繰り返す。

 そのようにしているうちに、いよいよ出撃の時間となった。強襲空挺に自分の武器と、馬型魔導駆動式空戦機——通称「木馬」を積み、流れるように乗り込む。全員が乗り終えると、空挺は(ハイロゥ)に向けて出発した。その時ナツナは、窓から見えたG・Sの荒野に、緑が蘇る幻影を見た。

 

        ***

 

 青蘭学園世界水晶室併設臨時司令室にて、全員が配置についたとの報告を受けた壮太郎は、一旦咳払いをしたのち、全校放送で話し始める。

 

「おいテメェら! 今ここにいることを後悔してるやつもいるかもしれねェが、ここまで来たんだ。腹をくくれ! いいか! 悪いが、俺たちは統合軍には遠く及ばねェ。技術も、協調も、練度も、アイツらとは月とスッポンだ。だがな、学園のことを一番よく知ってるのは俺たちだ! どんだけ調べ上げて、何人ここで過ごさせたとしても、学園のことだけは俺たちの方が一億倍よく知ってる! つまり地の利は我らにあり! 総合的には五分五分だ。そうなったら勝負を分けるのはヘソだ! 俺らがどんだけヘソに気ィ入れられたかが、勝負の鍵だ! さァ、気合い入れろ!」

 

 壮太郎が発破をかける。地下にいる彼には、生徒らがこれで気合が入ったかどうかはわからない。しかし、気合が入ったと考えねばならない。そのようにならなければ、彼らは犬死にしかねない。野戦はT・R・Aの戦乙女隊とS=W=Eのアンドロイド部隊が受け持ってくれるが、統合軍は策を弄して学園に侵入してくると壮太郎は確信している。しかし、T・R・AとS=W=Eの顔を立てるためにそのことは言えなかった。彼は、誰もがこの考えに至るとは思っているが、万が一、二国が守るから安心、などという考えを持っている者がいれば、統合軍が侵入した途端にパニックになりかねない。そのための発破だった。

 風紀委員の配置は、大きく分けてふたつに分かれる。ひとつは、リーナが指揮をとる校舎内の部隊で、もうひとつは壮太郎が指揮をとる世界水晶の防衛部隊だ。前者は志願者を四人ずつに分け、彼ら彼女らを風紀委員の中でも統率能力に優れた一人に率いさせた小隊を集めて構成されており、後者は風紀委員の中から個人としての能力が高い者を選りすぐった精鋭部隊である。その上で、リーナの手にも負えない敵が来れば、壮太郎がアゲハに指揮を任せて出撃する。

 

(勝つ見込みはほぼゼロ。だけど、今の練度じゃこれが限界だ。あとは、奇跡が起こることを賭けるしかない)

 

 美海が周囲の者に必勝を説く中で、壮太郎は眉間にしわを寄せていた。彼が自信家であるのは常に自分と相手の分析を怠らない現実主義からであり、それ故に今の力で勝てぬと分かり、逆に自信を無くしてしまったのだ。しかし、それをそのまま周りに知られるわけにもいかず、美海に対して彼は無言でいた。

 やがて、時はきた。0800の時報が鳴ると同時に、司令室のモニターに、緑の(ハイロゥ)をくぐる空挺が映し出されたのだった。

 

        ***

 

 空挺の総司令席に座るランは、早速空挺に装備されている魔導弾で、木馬部隊の進路上に展開しているT・R・Aの戦乙女の部隊を追い払わせた。そして、部下全員が出撃し、陣形を組めたことを確認すると、フィーリアの乗る空挺から出撃した部隊とシンメトリーになるように自分の部隊を蛇行させる。

 ランの指揮下にある他の空挺からも木馬部隊が出撃していき、戦乙女・アンドロイド隊と混戦の様相を見せ始めた。白兵戦が主体となる戦いを指揮するのは初めてであり、記録映像以外で見たことすら無かったが、スレイの要望通りに戦いを進められている。要望とはできるだけT・R・AとS=W=Eの部隊を空挺と木馬部隊に集中させ、別動隊が動きやすくなるようにすることだが、白兵戦の指揮に不慣れなランでも容易にそれを達成できたのは、この戦いの条件にあった。G・Sと地球を結ぶ道は門のみで、今統合軍はその至近にある。地球側の攻撃が激しくなるのは必然だった。

 

「予定を早めます。作戦を第二段階へ移行しなさい」

 

 戦闘開始から数十分後、参謀本部から以上の内容の暗号文が送られてきた。ランはそれを認めると、手筈通りに特務隊の乗った空挺を最前線へ送った。それとほぼ同時に、ナツナとリーリヤ、ルルーナの乗った空挺も、フィーリアの軍団から最前線に出た。それらはすぐに攻撃され、爆破炎上するが、そのことこそが狙いであった。爆炎に紛れ、特務隊とナツナたちが即座に校舎近くへ飛ぶ。地球側は、これに対する反応が完全に遅れていた。追っ手を出した時にはすでに、彼女らは校舎に取り付いていた。

 

        ***

 

 校舎の東側から特務隊が突入してから数分後、追っ手が迫っていることもあって、予定よりも早くナツナら三人は西側の校舎の壁を破壊し、内部に侵入した。これまた予定とは違い、二階からの侵入になった。すると、異変に気がついた学園の生徒がやってくる足音が聞こえた。

 

「手筈通りにいきましょう。派手にカマしますよ! ルルーナは私たちの背中を守ってください!」

 

 リーリヤは異能で召喚武器のランス、ヴィヒター・リッタを召喚し、やってきた生徒らの方に投擲した。それと同時に、リーリヤは彼らの方へ走り出す。ナツナはその後ろについた。

 投げたヴィヒター・リッタは避けられたが、リーリヤたちの狙いはそれだった。狭い廊下で出来る動きは限られる。特にヴィヒター・リッタのような巨大なランスを避ければ、その回避行動そのものが隙となる。それを突いて、ナツナとルルーナは一人を除いて彼らを小銃で射殺した。出来るだけ凄惨な現場にするため、脳漿やはらわたを撒き散らさせるようにした。すると、ナツナたちの思惑通りに残った一人は恐怖に駆られて逃げ出した。

 

「よし、とりあえずは予定通りだね。周りに人の気配が無いってことは、特務の人たちの対処に人が割かれたってことかな」

 

 逃げた彼の背中を眺めながら、ルルーナが呟く。この内容は壮太郎にも聞かれているかもしれないが、聞かれた方が好都合なのでナツナもリーリヤも黙らせるようなことはなかった。

 

「以前は罠などは仕掛けられていませんでしたが、アイツのことです。地雷とかが色々と仕掛けてるかもしれません」

 

 ナツナは辺りを見回しながら言った。透視の魔術なども使ってみたが、言ったような罠は見当たらなかった。しかし、T・R・ΑにはG・Sで使える魔術より断然に強力な魔術がいくらでもある。ゆえに、ナツナの魔術で見えないということが罠が全くないということと同等ではない。

 

「透視魔術では見つかりませんでしたが、だからといって歩みを止めるわけにもいきません。行きましょう。打ち合わせ通り、ここからは私が先導を務めます」

 

 前を見たまま、ナツナは告げた。二人の返事が聞こえてから、ナツナは歩み出す。やがて、最も近い階段の1段目を踏んだ時であった。そこだけ、踏んだ感覚が先ほどまでと異なっていたのだった。

 

「離れて!」

 

 ナツナは咄嗟に叫び、自身は前方に跳んだ。その直後、先ほど踏んでいた点を中心として魔法陣が出現し、更にそこから黒い壁が現れ、ルルーナとリーリヤの二人とナツナを分断した。

 

「ルルーナ中尉! リーリヤ中尉!」

 

 ナツナが呼びかけるも、返事がない。不審に思い、ナツナは壁そのものには危険がないことを確認してから、それに耳を当てた。すると、不気味なことに向こう側からの音が全く聞こえなかった。それではと、ナツナは着ているロングコートの中から無線機を取り出し、コンタクトを図った。しかし、これも反応が無い。魔術による遠隔交信も同様だった。

 ナツナは考えた。このまま一人で進むべきか、迂回して合流すべきか、この壁の破壊を試みるか。みっつ目については既にリーリヤが行なっているに違いない。しかし、彼女のランスで何度も突いて今の状況なら、すぐの破壊はナツナの力では不可能である。このまま待っていても、風紀委員の何人かがここまで来ることは予測できる。流石のナツナも、逃げ場のない場所で大人数を捌ける自信はなかった。試しに踊り場の窓を割ろうとしたが、結界でも張っているのかビクともしなかった。

 ふたつ目についても、得策かは怪しい案であった。どの階段にも同じような仕掛けがあることは容易に想像がつく。そもそも、壁の性質からして障害物以上の機能がない。つまりこの罠は分断が目的ということだろう。

 

(ならば先に進むのみ!)

 

 ナツナは思い切ると、全力で階段の残りを駆け下りた。そして、一階に降り立った瞬間、強い殺気を左手側から感じた。彼女は咄嗟に壁に身を隠し、殺気の出所に目を向ける。するとそこにいたのは、S=W=E軍のレーザーガンを携えたリーナであった。二人の距離を考えれば、交戦は避けられぬ運命にあった。

 先手必勝——ナツナは心の中でそう叫び、手榴弾をリーナの方に放った。その直後、それはレーザーに貫かれる。それによってリーナの位置を把握したナツナは、煙の立つ中、即座に小銃でリーナの手の位置と予測される所を狙撃した。そして、槓桿を引いている間に何かが落ちた音がして、ナツナはそれをリーナがレーザーガンを落とした音だと確信し、壁から出て銃を構えた。

 しかし、それと同時に、ナイフを持ったリーナが飛び込んで来て、一気にナツナの懐に入ってきた。ナツナは咄嗟に蹴りを彼女に入れ、吹っ飛ばして弾を放つ。しかし、その弾は当たったものの、リーナの着るパイロットスーツに弾かれてしまった。

 

(防弾か!)

 

 ナツナは近接戦闘を決断し、間も無くまだ熱の残る銃口に銃剣を取り付け、リーナの方へ駆け出した。立ち上がる彼女にナツナはひと突きするが、リーナはナイフの腹で銃剣を受け止め、そのまま刃に滑り込ませ、銃剣を通じてナツナの態勢を崩しにかかった。そして、彼女は空いた手を握り、腰を落として振りかぶる。その拳はそのままではナツナに届かないが、嫌な予感がしたナツナはすぐさまリーナから離れ、小銃を盾にするように横にして前に突き出し、更にその前に防御の魔法陣を幾重にも重ねた。しかし、それを見てもリーナは迷わず拳を突き出した。

 

「召喚、ジャッジメンティス!」

 

 リーナが叫ぶと、彼女の突き出した拳のあたりの空間に穴が開き、そこから廊下を埋めるほど巨大な機械の拳が姿を現した。それを見た瞬間、ナツナは死を覚悟したが、それが一番先の魔法陣と接触する刹那、その拳と天井の間に人一人が横になれるくらいの隙間があることに気がついた。そして、その隙間からは、リーナがナツナの行動を見ることはできないのは明らかだった。

 

「一か八か、やるしかない!」

 

 ナツナは決心し、小銃を床に突き立ててそれを足がかりに天井に跳んだ。宙に浮いている間に異能で召喚武器の剣、エンドブレイザーを召喚し、それを天井に刺した。そして、更にそれを分割して伸張させ、自らの体に巻きつけることで、体を天井に密着させた。その直後、まさしく紙一重の差で、機械の拳がナツナの下の空間を突き抜けた。しかし、その衝撃波は凄まじかった。彼女は何重にも結界を張ることでそれを防いだが、廊下の壁はひどく抉られ、拳の通った後には塵芥が舞っていた。

 その様子を見て、ナツナはこの攻撃に二度目はないと確信した。これだけ破壊力のある攻撃なら、乱発していたらいつか校舎が崩壊することは間違いない。それならば、もちろんナツナを見つけたとして、真上に打つこともないと予測して、ナツナは息を潜めた。リーナがこちらに向かってきていたからだ。

 

「手応えがなさ過ぎるような気がしましたが、衝撃波で跡形もなく吹き飛んだということでしょうか」

 

 リーナは顎に手を当てて考え込んでいる。ナツナは今この瞬間が好機と踏み、自らの体を刀身から解放し、その剣でリーナを斬ろうとした。しかし、その直前——一迅の風が、二人の間に舞った。



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黄昏②

 時はナツナたちが突入する少し前まで遡り——青蘭学園の司令室で、壮太郎は校内の監視カメラの映像をモニターで見ながら、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。待機用員でなく、最初から出撃させている風紀委員のメンバーは壮太郎が選んだ実力者たちだが、特務隊になす術もなく蹂躙されている。軍属のリーナと、意外にも深雪などは奮戦しているが、彼女らが崩れるのも時間の問題だった。

 世界水晶の守りをしている美海たちから人を出すことも考えたが、それが狙いという可能性も十分に考えられるので、壮太郎はその考えを下げた。即座に待機要員を出撃させたものの、不安は色濃く残っていた。

 

「壮太郎君。今、みんなどうなってる?」

 

 美海が尋ねる。対して、壮太郎は黙っていた。美海が知るには辛い状況だからだ。しかし、隠しても仕方がないと思い直し、壮太郎は真剣な顔で美海に向いた。

 

「厳しい状況だ。αフィールドを使ってるから死んではいないが、どいつもこいつも重傷を負ってる。特に軍属以外の連中が厳しいな」

 

「そんな。助けに行かなきゃ!」

 

 美海は壮太郎の予想通りな答えを返した。そのまま世界水晶の部屋から出ようとした彼女の腕を、側で話を聞いていたソフィーナが掴んだ。

 

「待ちなさい、美海。私たちをここから動かすのが目的かもしれない。ここは我慢をするところよ」

 

 ソフィーナが嗜めると、美海は渋い表情で立ち止まった。そのやりとりを見ながら、壮太郎は考え込んだ。ここから誰かを動かすことは難しいが、このままでは全滅は必至である。求められるのは、最小限の戦力で、最大限の戦果を、最速で挙げられる者を出すことである。つまりは——

 

「俺が出るしかないな!」

 

 壮太郎はいきり立ち、壁に立てかけてあった軍刀を手にする。彼が気がつくと、その場の全員の視線が己に集中していた。その中で、ソフィーナが一番先に口を開いた。

 

「正気? 指揮官が持ち場を離れるなんて」

 

「その指揮官がこの中じゃ一番強いからしょうがねェだろ。それに、俺一人だけで出撃するなら、ここの守りが十から七くらいに落ちるだけだ。勝つ戦いはできないかもしれんが、負けない戦いならできるだろう。俺が戻れば勝てるしな」

 

 皆は顔を見合わせつつも、言葉を出せないでいた。無機質な部屋の壁と、青の世界水晶の淡い光が、不気味な静けさを演出し、壮太郎を苛つかせる。それに耐えかねて、彼は大きくため息をついてから口を開いた。

 

「サナギ姉。俺がいない間の指揮を頼めるか?」

 

了解(ヤー)

 

 アゲハは、嫌な顔をせずに返答する。それだけを見て、壮太郎は踵を返して駆け出した。世界水晶の部屋を出ると、脇目も振らずにエレベータに飛び込み、地上までの時間を黙想して過ごした。そして、地上階に辿り着く直前に窓から見えたのは、通路の先にいる特務隊の姿だった。

 

「ちきしょう、もうあそこまで来てんのかよ!」

 

 壮太郎が毒づく間にエレベータの扉が開いた。彼は万が一のことを考えて中にありったけの地雷を仕掛けておくと、すぐさま駆け出し、友軍の頭を飛び越えて銃弾の飛び交う中に飛び出した。しかし、壮太郎という新たな敵が突然現れても、特務隊は動じずに射撃を続ける。その冷静さに彼は感心しながら、全ての銃弾を躱して敵の前に立つ。

 

「おりゃああッ!」

 

 白刃一閃、特務隊員が倒れる。そのまま流れるようにして、壮太郎は次の敵に斬りかかる。その動きは舞うが如し。流れるような動作で、次々に斬り裂いてゆく。あっという間に特務隊員の分隊ひとつが無力化された。

 

(ここまで入り込んできた連中にしては歯応えが無いな。どういうことだ?)

 

 壮太郎が考えられる可能性はみっつだった。ひとつは自分が強過ぎた。ふたつは、味方が予想以上に弱過ぎた。そして最後は、罠だ。普段の彼ならひとつ目しか考えないところだが、この場では最悪のケースを考えるべきというのは分かっていた。それで、死体に近寄ってみると、その輪郭がおぼろげになっているのが分かった。

 

「しまった。こいつらは影か!」

 

 気が付けば、先ほどまで戦っていたはずの学園生も居なくなっていた。しかし、壮太郎が焦りを感じたのも束の間、エレベーターの方から心臓を鷲掴みにするような爆発音が響いてきた。彼らが罠に引っかかったのに安堵する壮太郎だったが、疑問が残った。いくら壮太郎が強いとはいえ、彼一人を出し抜くために罠を張るだろうかと。そこまで考えて、壮太郎はハッとした。

 

「もしかして、敵の目的は俺を釣り出すことだったのか? そしてさっきのは罠にかかったのではなく、俺を下と分断するためだとしたら」

 

 壮太郎は舌打ちをした。今、統合軍がどういう手段を打ったかは分からないが、間違いなく下が危なくなっていると悟ったからだ。しかし、今急いで下に戻ろうにも、遠回りで下に降りるしかなく、時間がかかることは間違いない。それならば、今地上で窮地に陥っている味方を助けることが先決だ。

 

「負けない戦いというのは時間稼ぎにしかならないからな。下の連中が統合軍を上手く疲弊させられればいいが」

 

 壮太郎は呟きながら、この作戦の中枢にナツナがいることを確信した。彼を標的にした作戦など、彼女の影響が無いとは考えにくいからだ。

 

「釣り出されたにせよ、俺の今の役目は皆を助けることだ。俺を嵌めたことを後悔させてやる」

 

 頬を叩き、壮太郎は気合を入れ直した。彼は軍刀を鞘に収めると、薄暗い廊下を走り出した。

 

        ***

 

 壮太郎を欠いた司令室は、微妙な空気に満ちていた。彼は多くの学園生から嫌われていた。より正確には、美海に同調する者からの評判が良くなかった。彼は対話の可能性を諦めている。と言うよりは、そもそもその可能性を考えていない節がある。しかし、美海には分かっていた。彼は立場を弁えているだけなのだと。彼は真面目で、自分の役割はしっかりと果たす。ただし、自分の立場に求められていることしかやらない。怠惰な訳でも臆病な訳でもなく、求められていないことは、それをするように求められる人がやるべきと考えているだけだ。だから、彼が対話を求められる立場になれば、対話するだろう。

 美海は他の者らと違い、彼とは少し反目しながらも、彼の生き様を否定しない。彼の歩む道が自分たちと違っているだけで、彼は何も間違っていない。それに、彼女は彼の生き様を誰も批判する資格はないとも考えていた。彼の父親は、日本の現防衛大臣だ。美海は知らなかったが、そのポストに就く前も伝説級の軍人として日本軍にその名を轟かせていたとのことだ。その息子として生きる彼が背負う重圧は、一般家庭の生まれの美海には計り知れない。

 彼がその重圧があったからこそ風紀委員をあそこまでまとめ上げたと考えたとき、彼が先ほどまで座っていた椅子を、美海はつい見てしまった。そこに彼の姿は無く、ひとつの椅子がポツリと佇むだけだった。

 美海が周りに気取られぬよう、ため息を噛み殺した時だった。いきなり、部屋の一角が爆発した。

 

「戦闘準備!」

 

 爆風の中、アゲハの凛とした声が響き渡る。美海も風のエネルギーを固めたレイピアを作り、敵に身構える。すると、爆風の中から銃弾が雨霰のように飛んできた。美海は咄嗟に大気の流れを変えて銃弾を全て無力化しながら、煙を剥がした。αドライバーが居なくとも、今の美海はこのくらいのことはできる。

 

「やはり統合軍。しかし一体どうやって」

 

 アゲハが呟くと、侵入してきた統合軍人たちの目の色が変わり、その視線がアゲハに集中した。怒りと憎しみに満ちたその目を見るだけで、実際に見られている訳でもないにも関わらず、美海は足を震わせた。

 

(心をしっかり持たなきゃ)

 

 美海は、自分を奮い立たせるように頬を叩いた。統合軍を止めるためには、勝つしかない。説得するにも、耳を傾けてくれるだけの力を示さねばならない。それは第一次ブルーフォールの時に理解した。

 美海は深呼吸をして前を向く。そのようにすると、敵の方も武器を構える。美海を前にしては通常の銃弾が無意味と見てか、全員が異能の武器を召喚していた。美海たちも各々が構え直し、お互いに火花を散らす。

 しかし、あわや激突、という瞬間だった。天井の向こうから、緑の稲光が統合軍と学園側の間に落ちたのだった。そして、その光の中から、長い緑の髪を靡かせて現れた少女が、威風堂々と仁王立ちしていた。

 

「両軍、戦いを中断して私の話を聞いてほしい」

 

 視線を釘付けにした彼女は、その場の全員をゆっくりと見渡しながら、落ち着いた声で言った。心の底に触れるような、透明な声だった。その声で、一体何を言うつもりなのか、その場の誰にも分からなかった。統合軍の屈強な軍人たちも、少女の放つプレッシャーに気圧されている様子だった。

 

「私の名はシルト。シルト・リーヴェリンゲン。緑の世界水晶の意志を成す者」

 

 その名を聞いて、美海は驚くほかなかった。彼女が知っているシルトは、幼子のような見た目だ。今目の前にいるような、自分らと同年代か年上に見える者ではない。しかし、顔つきやその髪色にシルトの面影は感じた。

 美海たちの疑問を肌で感じてか、シルトを名乗る少女は胸に手を軽く当てながら告げる。

 

「この姿は、私が最大限に力を振るうための姿。私は間違い無く、正真正銘の美海たちが知ってるシルトだよ」

 

 振り返りながら美海たちに向けた柔らかな笑顔は、紛れもなくシルトのものと美海は実感した。彼女だけでなく、他の人も同じようなことを考えたようで、その顔から疑問の色は無くなっていた。

 

「さて、話を戻すよ。単刀直入に言えば、統合軍のブルーフォールに意味は無い。何故なら、二年後の緑の世界水晶を観測できないのは自然の摂理だから」

 

 シルトがその言葉を告げた瞬間、統合軍の槍を構えた一人が飛び出してきた。しかし、シルトは動こうとしない。慌てて美海たちが助けようとしたところに、槍の兵の目の前にウインドウが浮かび上がった。そこには、長い赤髪の女の顔があった。

 

「ヴリューナ中尉。動きを止めなさい。彼女の話は聞く価値があるわ」

 

「ティルダイン中佐……。了解しました」

 

 槍の兵——ナタク・ヴリューナは渋々といった様子で槍を納めた。それを確認したシルトは、画面の女——スレイ・ティルダインに向いた。

 

「あなたが最高指揮官?」

 

「違うわ。私はしがない参謀長よ。それよりも、さっきの話はどういうことかしら」

 

「言った通り。ブルーフォールに意味は無い。青の世界水晶が緑の世界水晶と融合したとしても、それは二年後に起こる予定のことが、青と緑の世界に限って早く起きるだけのことだもの」

 

 シルトはそこまで言うと、美海の方に向いた。その透明で冷たい視線に、美海は思わず息を呑んだ。

 

「青の世界の有名な予言者、ノストラダムスの予言のひとつに、97年7の月に恐怖の大王が降ってくるというものがあるけど、知ってる?」

 

「聞いたことはあるよ。日本にいた時はテレビでやってたし」

 

 美海が恐る恐る答えると、シルトは再びスレイの目を見て、それから他の統合軍人、そしてソフィーナたちの顔を見回した。その場の誰もが、彼女のそうする時間を長く感じた。ようやくシルトの目の向きがスレイに戻ると、静かに、ずんと重い声で告げた。

 

「予言は当たる。二年後の1997年7月、恐怖の大王じゃないけど、大変動が起きる。全ての世界水晶がひとつになり、五世界は境界線を失うんだ」



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黄昏③

 シルトが告げた事実は、その場の全員の唖然とさせるには十分すぎるものだった。あまりに突拍子の無い話だ。そして、現実味が全く無い。強いて言えば、三流オカルト雑誌の記事にありそうな話だと、美海は思った。他の殆どもそのように感じたようで、彼女らは冷めた目をしていた。ただ一人、美海たちの仲間のユーフィリアだけが真剣に受け止めているようだった。

 全員が言葉に詰まる中、最初に口を開いたのはスレイであった。

 

「そんな与太話を信じろと?」

 

「期待していないよ。ただし」

 

 シルトが指を鳴らすと、スレイを写したホログラムが消滅し、統合軍の者たちの手の武器が全て破壊された。流石のエリート揃いといえど、この事態には平静を保つことができなかった。慌てふためく彼女らを、シルトは無表情で見つめている。

 

「いくら力が衰えているとはいえ、このくらいはできる。こうなったからには、この部屋での戦闘は行えないはず。降伏し——」

 

「待ちなさい、シルト。助けてくれたことには感謝するけど、あくまで助っ人のあなたに、その先は言わせないわ」

 

 アゲハの凛とした声が、シルトの言葉を遮った。そして、彼女は自分の召喚武器の二丁の軽機関銃、グリム・ベスティアを出し、無防備となった敵兵たちにその銃口を向けた。

 

「ただちに武装解除し、降伏しなさい。さもなくばここで射殺します」

 

 その言葉が向けられていない美海でさえ、アゲハの声に背筋が凍る思いをした。直に向けられた敵兵たちは、一斉にナタクの方を見た。彼女が隊長か、などと些事に美海が気を向けていると、そのナタクが懐から拳銃を放り投げ、両手を挙げた。潔くはあったが、その顔には苦渋の色が張り付いていた。

 結局、敵の全員がナタクの選択に追従し、武装を放棄して両手を挙げた。しかし、誰もが一様にナタクと同じ表情をしている。彼女らを見て、美海はここから説得しようとは考えなかった。何か言葉を掛ければ、何かしらがその逆鱗に触れてしまうことは、よく分かった。

 全員があっさり降伏したことにも初めは驚いたものの、彼女らの浮かべる表情を見れば、美海にもその動機は察せる。生きて汚名を雪ぐことを選んだのだろう。

 

「とにかく、今のうちに拘束しましょう。それからは静かにここで待つことよ。そして、決して、上の階の敵味方双方に、ここであったことを知られてはならないわ」

 

「どうして? この部隊が本命みたいだったし、このことを知らせて降伏を促せば」

 

「本命だからこそ、よ。この別働隊が無力化されたと分かれば、上の敵は死に物狂いでここを目指すでしょう。そうなれば、双方に多大なる犠牲が出ることは必至だわ。だから、歯痒いだろうけど、戦況が落ち着くまで私たちはここで待機するわ」

 

 美海の安直な疑問に、アゲハは丁寧に答えた。それを受けて、美海は「ああ」と相槌を打った。それからふと思い浮かべたのは、地上に行った壮太郎のことであった。ナタクらの突入で壮太郎の様子を確認できていなかったので、美海はモニターの方に寄って壮太郎の姿を探した。そこで見たのは、彼女を絶句させるのには十分すぎる光景だった。

 

「何、これ」

 

「美海、どうしたの——!?」

 

 後からやってきたソフィーナも、同じように言葉を失った。ある区画から、普段よく磨かれたクリーム色の床が、赤黒いものが飛散している。その元を辿って見てみると、そこには黒い統合軍の制服を着た将校が倒れていた。その体には、大きな袈裟斬りの跡が刻まれている。

 

「壮太郎君が、やったんだよね」

 

 小さな呟きが、美海の口から零れ落ちた。ソフィーナの反応は無い。そのまま、美海は捕縛されているナタクたちに目を向け、すぐにまた目を逸らした。シルトが来なかったら、あのまま戦闘になっていたらと、ただただゾッとするばかりだった。

 

(覚悟、できてたと思ってたんだけどな)

 

 美海は天井を見上げた。高い高い天井は暗闇で塗り潰されていて、美海の目にはただの黒としか映らなかった。

 

        ***

 

 今にもリーナに斬りかかろうとしていたナツナの目の前に迫るのは、日本刀の白刃の鎬だった。リーナの脳天を破るはずだった剣は、その鎬に高い音を立てて当たった。その反動を利用して、ナツナは後ろに跳んだ。そのようにしながら、彼女は状況を確認する。目の前には、最早見飽きた壮太郎の立ち姿があり、その後ろにリーナがいる。

 

「リナーシタ。お前は他の味方を助けに行ってやれ。こいつは俺がやる」

 

「了解しました。ご武運を」

 

 リーナは、すぐに踵を返して走り去った。しかし、その無防備な背中に、ナツナは何も出来なかった。壮太郎の放つプレッシャーは、想像以上に強烈だった。やがてリーナの背中が見えなくなると、壮太郎は刀を鞘に納めた。その刀身には、歪みや傷はひとつもなかった。

 彼は無言で、腰を落として右手を柄に寄せた。間違いなく、居合を仕掛けるつもりだとナツナは考えた。

 

(コイツの間合いの外から仕掛ける他に、勝機はない!)

 

 ナツナはそのように考えた瞬間、ちょうど脇構えをとるように、自分の体で剣を隠した。そうしつつ、左手で拳銃を壮太郎を撃ってみるが、彼はその弾を全て紙一重でかわした。その動きのあまりの滑らかさに、ナツナは彼に銃が通じないことを悟った。それで、彼女は左手から拳銃を捨て、剣の柄尻をその手で握った。

 ナツナは意を決すると、下から切り上げるように剣を振った。そして、その勢いが消えぬ間に、その刃を分割させ、伸長させ、壮太郎の眉間を目掛けて刃を突撃させた。流石の彼も一瞬目を見開いたが、即座に先ほどの銃弾の時と同じように、軽やかに紙一重でかわしてみせた。

 

(もらった!)

 

 ナツナは心の中で勝利宣言をし、手首を返した。すると、壮太郎の脇を通り過ぎた刃は、ぐるりと半回転して、今度は壮太郎のうなじを狙った。これにはさしもの壮太郎も反応が遅れた。回避したものの、避けきれずに左の耳たぶに切れ込みを入れられる。ナツナはそこから更に手首を返し、刃を真下に向けた。それはすぐに彼の左の大腿部に突き刺さった。それを確認すると、ナツナは剣の刃を元に戻した。すると、一番先の刃が壮太郎の太腿の肉を抉り取って戻ってきた。

 

「なるほど、そんなカラクリが仕組んであったか」

 

 壮太郎は、左の大腿部を押さえもせずに態勢を整え、今度は刀を抜き放ち、構えることなく右手で軽く持っていた。その顔には笑みが浮かんでいた。まるで遊ぶ童のように、楽しそうに眉をひそめた。そのような彼にナツナは何も遠慮することなく、今度は上段から振り下ろし、また分割、伸長させた。

 瞬間、壮太郎は鞘をベルトから外した。何をするかと思いきや、また伸びてくる刃を紙一重でかわすと、凄まじい勢いで刀を納めた。しかし、ただ納めただけではなく、ナツナの剣の分割した刃を繋ぐワイヤーを、刀と鞘で挟んでのことだった。いくらワイヤーが丈夫でもこれには耐えられずに切れ、支えを失った剣の前の方が、重力に従って落ちてゆく。それと同時に、壮太郎が床を蹴って一気に距離を詰めてきた。ナツナは慌てて剣を戻す。破損していても、盾代わりにはなること、新しく剣を召喚し直す時間がないことを考えると、ナツナに取れる選択はこれだけだった。

 ナツナが剣を戻したとほぼ同時に、輝く白刃が鞘から姿を見せた。それは、ナツナの想定を遥かに上回る速さと力で、斜め下から彼女を襲った。なんとか剣の鎬で防ぐが、ナツナは腕が痺れる思いがした。その間にも、壮太郎はあえて刀を滑らせて振り切ると、返す手でナツナの左の肩口を狙う。ナツナには剣を振り上げて盾にする余裕は無かった。それで、ナツナは左前腕で刀を受けることにした。そこには袖の下に鎧が仕込んである。骨は折れど、切り落とされはしないと判断してのことだった。やがてすぐに、刀が左前腕を打つ。鎧と鈍い音を響かせて、その下の腕に衝撃が及ぶ。骨が砕けるかと思うようなそれに、ナツナは思わず後ろに飛び退いた。しまったと思った時には、既に壮太郎はナツナの脇を抜け、背後に立っていた。そして、着地する前の無防備な背中を、遠慮なく切りつけた。

 

「ぐっ」

 

 これまで全く声を発しなかったナツナも、流石に呻き声を上げた。コートの中に仕込んでいたプロテクターのおかげで、体を切り分けられることはなかったが、それでも、背中が熱くて熱くて仕方が無かった。その感覚に耐えながら、ナツナは咄嗟に振り向きながら、壮太郎の間合いの外まで距離を取った。彼と彼女を結んだ線の、ナツナ側の延長線上には大きめの窓ガラスがある。いざとなればそこを割って、退路を確保するためだった。

 

「仕留めたと思ったんだがな。なるほど、結構重装備なんだな」

 

 壮太郎は感心したように話しかけるが、ナツナは返事をしない。その様に、何故か壮太郎は満足した様子だった。しかし、ナツナはそれは気にせずに剣を二本召喚した。壮太郎の居合を破る奇策を思いついたのだ。

 仕掛けたのはナツナが先だった。思いついてすぐ、緊迫感を感じる間もなく飛び出した。左に持った剣は上段に、右に持った方は中段に構える。対し、壮太郎はナツナの想像通りに、居合切りを仕掛けてきた。大きくは踏み込んでいない。ナツナの勢いを利用しようという魂胆が見えていた。しかし、ナツナの策に影響は無い。そのまま、ナツナは壮太郎に近づく。やがて、刀がナツナのすぐそこに迫った時、彼女は右の剣の鎬を刀の刃に向けた。そして、そこに刃が当たる瞬間、ほんの少しだけ剣を分割し、すぐに戻した。すると、ナツナの予想通りに、壮太郎の刀がナツナの剣に挟まった。

 勝った——ナツナが確信した瞬間だった。不意に、壮太郎が刀を手放した。そこから、壮太郎の動きが、ナツナにはやけにゆっくりに見えた。彼は、一瞬だけ腰を左側に捻り、握った左拳でストレートを繰り出した。

 ずしりと重い感覚があった。次にナツナの体が浮き、窓ガラスに叩きつけられる。それで勢いは止まず、ナツナから地面が離れてゆく。最後に、背中全体が、何か硬いものに打ち付けられた。衝撃で体の中が掻き回され、ナツナの目の前で星が光るような感覚があった。朦朧とする意識の中で状況を把握すると、ナツナは先ほどまでいた校舎と、中庭を挟んで反対側の校舎の外壁に身体をめり込まされたのだと気がついた。そのことを理解した直後、不意に体が傾いた。そして視界が反転し、ナツナに向かって、冷たいコンクリートの地面が迫ってきた。



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黄昏④

 ナツナは、落下し切る前に、力を振り絞って外壁を思い切り蹴った。すると、彼女の体は横に飛び、体の側面から柔らかい土の上に落ちた。コンクリートの上に頭から落ちることよりは危険は無いとはいえ、ナツナは再び、全身が打ち付けられる痛みを味わった。

 

「誰にも教えていない、いいことを特別に教えてやろう」

 

 悶絶するナツナの真上から、壮太郎の偉そうな声が聞こえてきた。目だけでその顔を見上げると、彼は実に得意げな顔でナツナを見下ろしていた。

 

「俺の親父は現陸軍大臣だが、俺のお袋はD・E出身で、昔日本を救った真の英雄にして日本初の女子プロボクサー、剣順子(つるぎじゅんこ)だ。で、さっきのフックはお袋譲りの必殺パンチだ」

 

 壮太郎は、意気揚々と語りながら、ナツナへと腰をかがめて手を伸ばした。ナツナは何とか逃げようとするが、全身を貫く激痛がそれを許さない。結局、左手で首を掴まれ、ゆっくりと持ち上げられた。

 

「もっとお前との戦いを楽しみたかったが、時間がそれを許しちゃくれないんでな。死ね」

 

 壮太郎が冷たく言い放つと、彼の左手が鈍い黄金の輝きを見せた。それと同時に、ナツナは自分の身体がグシャグシャに潰されるかと思うほどの衝撃を感じた。しかし、ナツナは諦めはしなかった。ゲオルグの下に帰る——その意思が、彼女を踏みとどまらせた。

 ナツナは何とか、口の中に仕込んでいた針を飛ばした。勢い無くフラフラと口から出たそれは、彼女の首を絞めている壮太郎の左手を掠めた。その瞬間、衝撃が収まり、壮太郎の左手から握力がなくなって、ナツナの体が落とされた。

 ナツナは、また地に落ちる前から反射的に激しくむせ込んだ。咳をするたびに、口から血が吐かれていき、枯れ草を赤黒く染めていく。しかし、そうしながらも這って壮太郎から距離を取り、剣を召喚して、それを杖にして立ち上がった。

 

「どうも、この打ち合いが最後になりそうだな」

 

 壮太郎は右手で刀を抜き放った。左腕の麻痺は続いているようで、力なく垂らされている。対して、ナツナは満身創痍とはいえ、両腕が使える。これならば互角だと確信した彼女は、身体を右に半身にして、剣の鎬を地面と平行にした。狙うのは、壮太郎の心臓ただひとつ。しかし、目は壮太郎の喉元につける。

 日は高く登っていて、眩いばかりの光で二人を照らす。まだ戦闘が始まってから数時間しか経っていない。もともとそのくらいの時間の設定だったが、戦争というにはあまりに短い。しかしそのようなことは対峙する二人には関係ない。ナツナも壮太郎も熱くなりすぎている。目に入るのは、ただただ目の前にいる敵だけだ。

 先手必勝——ナツナは、大きく前に跳んだ。そうしながら、引いていた左の腰を前に突き出して、小さく弧を描くような軌道で、壮太郎の心臓を狙う。対して、壮太郎の反応は早すぎた。彼の刀は、喉にくる剣を払い除けるように動こうとするが、その時には既に、ナツナの剣は彼の刀の下にあった。それに気がついた壮太郎は剣を打ち払おうとするが、ナツナの方が早かった。その剣は、壮太郎の肋骨の間に深々と刺さる。壮太郎の刀は、ナツナの剣を打ち払うことができずに、剣の刃で止められた。

 その時点でナツナの全身から力が抜け、剣を手放した。壮太郎は踏ん張ることができずに、尻餅を付いてしまい、そのまま地面に仰向けに倒れた。しかし、彼からはまだ生気が感じられた。まだ死んでいない。それを悟り、殺さなきゃと、ナツナが一歩を踏み出した時だった。ナツナと壮太郎の間に、ひとつの影が出来、上空から一人の天使が降り立った。右肩のみから出ている翼に、金髪碧眼。間違いなく、レミエルだった。

 

「取り引きです、ナツナさん。ここで壮太郎さんを見逃してください。そうしたら、私もあなたを見逃します」

 

 レミエルの目は冷たかった。傷ついているナツナには、その目だけでも痛かった。しかし、負けるわけにもいかない。返事をせずに、ナツナは剣を召喚し直して、レミエルに向き直った。しかしレミエルは応戦するそぶりを見せず、大きなため息をついた。

 

「ナツナさん。今から手当ても無しに私と戦って、無事で済むと思ってますか? 私は壮太郎さんだけの味方です。この学園がどうなろうと知ったことではありません。私はあなたに、学園側に投降しろとは言っていないのですよ?」

 

「なるほどね、分かったよ」

 

 ナツナは、掠れた声で答えた。これまでのことを考慮すれば、レミエルの言葉は信用するに値する。統合軍の敵でない彼女に構っても仕方がないし、壮太郎はしばらく戦闘不能になる。そのように考えると、次の敵を探すことと、リーリヤとルルーナと合流することの方が大切だ。

 ナツナはレミエルに背を晒して、元いた校舎に戻った。その時になって初めて、プロテクターが粉々に砕けてしまっていることに気がついた。

 

        ***

 

 壮太郎が目覚めた時に感じたのは、後頭部にある柔らかな感覚だった。そして、目の前には自分を見下ろすレミエルの顔がある。彼女の顔は、陽光の影で明瞭には見えなかったが、穏やかな顔のように見えた。

 

「お前が助けてくれたのか?」

 

「私は、トドメを刺そうとするナツナさんを止めただけです。回復して目覚めさせたのは、壮太郎さんの生命力です」

 

 レミエルの声も穏やかだった。壮太郎は、それを聞いてから、彼女の顔をぼんやりと眺めた。その隣に、先ほどのナツナの表情を重ねる。命懸けで、必死だった。その彼女を、恐らく説得だけで追い払った。

 

「よくやってくれた。強いんだなお前は」

 

 壮太郎は右手を伸ばし、レミエルの頬にそっと触れた。すると彼女はその手の甲に自分の手を重ね、優しく手を握った。

 

「壮太郎さんこそ、生きていてくれてありがとうございます」

 

「感謝するなら、俺にじゃなくてお袋に、だな。俺がこんなに頑丈なのは、お袋の血が俺に流れてるからだし」

 

「壮太郎さんの、お母さん。お父さんが篠谷辰吉さんですから、剣順子さん、ですか?」

 

 枝が揺れ、木の葉が擦れ合う音がした。レミエルの言葉に、壮太郎は珍しく息を詰まらせた。隠していた訳ではなかったが、そのことを自分から話したのは先のナツナが初めてで、レミエルには話したことすらなかったからだ。

 

「どうして、それを?」

 

「私、ふと思い出したんです。その名前を。どこで聞いたかは覚えてませんけど」

 

 レミエルも不思議がっていた。その様を見て、壮太郎の頭も少しずつ冷めてきた。そして、心がざわつくのも感じていた。今とは別の、より重要な戦いの予感がする。壮太郎は身震いした。それは恐れによるものではなく、獣のような闘争心によるものだった。

 

「しかし、負けちまったか」

 

 壮太郎の震えが止まった。闘いの予感を覚えたことで、かえって先の闘いを思い出してしまった。父母と、剣の師以外に負けるのは初めてのことだった。理由は考えるまでもない。最後の打ち合いは、技術の問題ではなく、ナツナの執念が、彼女の剣を壮太郎の心臓に届かせた。それまでは、壮太郎の方が優勢だった。つまり、心の差で敗北したということだ。そのように考えると、壮太郎は負けたことは認めつつも、自分の不甲斐なさに腹が立ってしかたなかった。

 

「あァ、クソ。腑に落ちるけど腑に落ちねェ!」

 

「まァまァ。それより、いいんですか、戦線に復帰しなくて」

 

「いい。何だかもう終わりそうな感じだしな。必要になったら出向くさ。それよりも、今はレミエルの膝の上で眠りたい」

 

「珍しいですね。壮太郎さんが甘えるなんて」

 

「案外、負けたのがショックだったみたいだ」

 

 素直に壮太郎が答えると、レミエルの手が彼の頭に伸び、優しく撫でた。壮太郎は、天にも登る気持ちになった。

 

        ***

 

 膝が笑う。目が霞む。背は曲がる。ナツナは、自分の体が限界に近いことを察していた。それでも、前に進まねばならない。壮太郎に構わなければ、という後悔もあるが、彼女はそれを押し殺していた。使い物にならなくなったプロテクターは捨て、コートは、ポケットから必要なものだけを取り出して包帯がわりにした。身軽になったはずなのに、ナツナは一歩踏み出すたびに極度の疲労感に襲われていた。

 誰かが、先で立ちはだかっているのに気がついた。ナツナは大きく息をして、杖代わりにしていた剣を構える。この時には、もう視界のほとんどが白に覆われていたが、敵の気配は察知できる。しかし、不思議なことに目の前の敵からは、気配だけが感じられて、殺気や闘気はつゆほども感じられなかった。

 

「夏、菜?」

 

 その声で、目の前にいるのが誰かを察した。しかし、誰であろうと関係なく、敵は斬るのみ——そう思っているのに、ナツナの体は全く動かなかった。どうしてと思っている間にも、視界の白が大きくなっていき、やがて全てが真っ白になった。

 

        ***

 

 ナツナが目を覚ますと、今度は視界に茜色が広がっていた。どうしてと思いながら首を横に向けると、頬に知らない枕の感覚があり、簡易的なベッド柵と、点滴の管が腕から伸びていることに気がついた。そして、椅子には肌を茜色に染めた深雪が座っていた。そうして初めて、ナツナは今自分がいる場所が病院であり、今の時間が夕暮れ時であることを知った。

 

「よかった。目を覚ましてくれたんだね」

 

 深雪が優しく声をかけてくれるが、ナツナは反応する気にならなかった。状況が知りたい。負けたことは言うまでもないと分かるが、どのように負け、どのように状況が動いたかが重要だ。その想いが、ナツナの口から溢れた。

 

「私たちは、どうなったの?」

 

「夏菜たちは、今は捕虜ってことになってるよ。でも、いつでも送還できる状況で、夏菜が青蘭島に留まっているのは、怪我が治るのを待つため」

 

「うん、それで?」

 

「えっと、ニュースでは、G・Sが幾らかの賠償金を青蘭島に支払って、今の議院と内閣を解散、それと、青蘭島評議会の監視の元で青蘭島との交流を継続するって言ってた」

 

「分かった。ありがとう」

 

 ナツナはとりあえず一安心した。深雪の言うことが本当なら、統合軍は敗戦国として妥当な扱いを受けている。断交しないのは、また戦争を起こす可能性と、プログレスの研究機関としての在り方を天秤に掛けた結果だろうと、ナツナは予測した。

 

「三日、目を覚さなかったんだよ」

 

 ふと、深雪は消え入るような声で呟いた。彼女を見遣れば、その目は涙に滲んでいた。その涙を見た時、ナツナも不意に涙がこみ上げた。戦闘は終わり、処理も済んだ。それでは、ナツナと深雪は敵ではない。一度見下しても、それでもやはり、深雪が「大好きなお姉ちゃん」であることには変わらない。

 

「ごめん。心配かけた」

 

「いいんだよ、夏菜。それよりも、私も謝らなきゃいけない」

 

 深雪は自分の涙を拭うと、真摯な瞳をナツナに向けた。夕陽の赤が空間を赤く染め上げる。白い床や壁はよく反射して、ナツナの目には少し眩しかった。

 

「私、夏菜の想いを否定してしまった。あの時夏菜が怒って私を置き去りにして、それから私なりに考えて、そして傷だらけの夏菜を戦場で見て、そこで初めて本当に理解したの」

 

 深雪は、ナツナの目を見つめたまま、決して目を逸らさずに続ける。

 

「夏菜。G・Sは、あなたの故郷なんだね」

 

 ナツナは小さく頷いた。すると、深雪の口から安堵の息が漏れた。それで、二人の空気が和んだ。お互いに微笑み合う。二人とも何も語らないが、その沈黙は居心地の悪いものではなかった。じわりと心が温まってくる、優しい沈黙だった。が、それは能天気な大声で破られてしまった。

 

「よォ、起きてるかー?」

 

 ドアの方に目を向けると、そこには傷ひとつない、上機嫌な壮太郎の姿があった。彼が現れて居辛くなったのか、深雪は一言断って出て行ってしまった。

 

「せっかくお姉ちゃんと家族としてのひと時を享受してたのに」

 

「まァまァ、そう言うなや。親父とお袋、それと師匠以外で俺を負かしたのはお前が初めてなんだ。次は負けんからな」

 

 そのように言いながらも、壮太郎はニコニコ顔で右手を開いて差し出してきた。握手を求めているようだが、ナツナはその手を素直に取れなかった。なぜ、自分と同じだけの重傷を負ったのに彼の方は健やかなのか。単なる体質の問題と片付けられることではないように思えた。しかし、壮太郎の底抜けに朗らかな笑顔を見ていると、そのこともどうでもよく思えた。

 

「次も勝つのは私だよ、壮太郎(丶丶丶)

 

 ナツナは自然に返答して、手を握り返したつもりだった。しかし、壮太郎は呆気に取られた顔をして、ナツナをまじまじと見つめている。

 

「どうしたの」

 

「いや、お前、初めて俺の名前呼んだよな。アンタ、じゃなくて」

 

「あ」

 

 言われてから、ナツナは気が付いた。しかし、彼女は慌てることはなかった。壮太郎の名を呼んだ理由はしっかりと自分で説明できる。

 

「昨日の敵は今日の友ってやつだよ。三日経ってるらしいけどさ」

 

「なるほどね。じゃあ俺も、その友に敬意を表して、遠薙妹ではなく、夏菜と呼ぼう」

 

「うん——あ」

 

 ナツナは、あるものに気がついてパッと壮太郎から手を離した。壮太郎も気が付いたようで、苦笑いを浮かべる。

 

「怖ーい鬼嫁が嫉妬の眼差しを向けてるんでな、今日はさようならだ」

 

「うん、さようなら」

 

 壮太郎が背を向け、その背と、壮太郎の向こう側にいるレミエルに、ナツナは小さく手を振った。レミエルはずっとムッとしていたが、最初に見た頃の刺々しさはなく、むしろ可愛くさえ思えた。

 壮太郎が出て行き、一人になったナツナは、ベッドから降りて窓を開け、そこから空を見上げた。煌々と光る緑の門の輝きは、沈みゆく夕陽にも負けていなかった。

 

        ***

 

 グリューネシルトの王宮の応接室で、G・Sの外務大臣は腕組みをして、ソファに浅く腰掛けて時計をジッと見つめていた。秘書はすぐ後ろに立っているのだが、その存在感はまるでなくなっていた。

 約束の時刻のちょうど1分前ほどになって、ドアがノックされた。来たか、と緊張が強まるが、それを堪えて落ち着き払った声で言う。

 

「どうぞ」

 

「失礼いたします」

 

 案内役の男がドアを開ける。するとそこに現れたのは、小柄な金髪の女性だった。見た目はかなり幼げだが、只者でないことは、彼女の振る舞いから簡単に察せた。外務大臣が息を呑んでいると、彼女は優雅にお辞儀をしてみせた。

 

「初めまして。D・E外交副大臣にして、十二杖が一人、ハイディと申します。本日はD・Eの全権大使として参りました。有意義な会談になることを期待しておりますわ」

 

 そうして、秘密会談が始まる。世界の存亡を懸けた戦いは、未だ終わらず——。




 お久しぶりです。エタったわけじゃありませんでしたが、リアルの方で何かと忙しくてあんまり書けてませんでした。
 今回で第一章、ブルーフォール編が終了し、次回から第二章である日本編が始まります。次回から、原作の歴史とは大きく異なる話になりますので、そういうのが受け付けない人はこの先を読まないことを強く推奨します。
 本章を振り返ると、大筋は初めのプロットからほぼ無変更で書けたので満足ですが、壮太郎関連で下ネタぶっ込み過ぎたかと反省してます。壮太郎がセクハラ大魔神というキャラ付けではあったのですが、今読み返すと「にしても酷いな」と思った次第であります(修正する気力はない)。
 あとレミエルさんが誰だお前状態ですね。これに関しては、自分でもうーんと思ったりするんですけど、最初期のレミエルって闇深そうだし、最初期の心境のまま、壮太郎に甘やかされたらこうなんのかなーという感じです。ガブリエラも目の前で壮太郎に殺されちゃってますし(この辺は後で少し詳しく触れる予定です)。まァでも原作とは別人ですね完全に。一番好きなキャラなのに何故こうなってしまうのか。
 次回からは先に書いたように日本編です。ということで、ナツナの一時的な帰郷をメインな話としつつ、裏で色々進行する感じの話です。
 あまり間を開けないように頑張るのでこれからも拙作をよろしくお願いします。


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chaptire2:日本編
懐かしき国へ①


 快晴の空の下、大勢の観衆が見守る中、盛大にファンファーレが鳴り響き、ティルダイン邸の正門が開かれる。そこから現れるのは、一組の美男美女——純白のウェディングドレスに身を包んだナツナと、また純白のタキシードをしっかりと着こなしたゲオルグだ。観衆の誰もが息を呑み、二人を見つめる。その中を、ナツナはゲオルグに手を引かれ、粛々と石畳の上を歩き、豪奢な装飾を身につけた馬車に乗り込んだ。

 今日は、ナツナの怪我が治ってから、G・Sに戻って一ヶ月が経った日だった。そして、行われているのはナツナとゲオルグの結婚式である。ティルダイン家は古くから代々有力軍人かつ貴族なので、結婚式は地元住民を巻き込んで盛大に行われる。方式としてはこうしてパレードを行いながら近場の王立教会に行き、一転して静粛に結婚の儀式を執り行い、それが終わればまた盛大なパーティーが開催される。これが、G・Sの上流階級の一般的な結婚式である。

 

「これだけの人に祝ってもらえるのは、本当に幸せなことだね、ゲオルグさん」

 

 ナツナは観衆に小さく手を振りながら、こっそりゲオルグに話しかけた。彼も反対側で同様にして言葉を返す。

 

「本当にそうだな。家の発展を考えた結婚じゃなくても、こうして祝ってくれるみんなにも感謝しなきゃいけない」

 

「もう、そんなこと今は考えないでよ。真面目なところ好きだけど、今日くらいは素直に喜ぼうよ」

 

 ナツナの言うことに納得したようで、彼はそうだな、と満足げに答えた。彼の顔は見えないが、ナツナは彼が笑っていると確信できた。そのようにして二人で笑顔を振りまいている間にも、振動を抑えてゆっくりと、馬車は舗装された道路を進む。しばらく進み、馬車は教会の玄関の手前に着いた。ゲオルグが先に降り、ナツナも彼の手を取り馬車から降りた。

 教会の中は、外とはまるで別世界のようだった。そこにいる者で、言葉を発する者は一人もいない。円形の部屋で、中央に淡い緑の光を放つ世界水晶のかけらがあり、それを取り囲むようにして長椅子が並べられている。磨りガラスから入る弱い陽光と水晶の光とが、ナツナの体に浸透していくように感じられた。

 ナツナとゲオルグは、手を繋いだまま中央の水晶の前に立つ。世界水晶は、今も昔も変わらず、G・Sの人々にとっては無くてはならない存在である。それゆえに、信仰の対象となっている。宗教によって崇拝の仕方は異なるが、その対象はいずれも世界水晶だ。G・Sの人々が水晶から力を引き出す術を持っているといっても、その源流が何かは、既に神話の領域だ。彼らが開発と発展をさせたのは、引き出した力の使い方であり、引き出し方そのものではない。神話では、どの宗教でも一貫して、水晶の使いやら化身やらがある人物に力の引き出し方を教授するというものだ。ナツナも、異能を手に入れた時の経験があるので、この神話は概ね正しいと考えている。そういうことがあって、実はブルーフォールは宗教関係者からは渋い顔をされていた。敬虔な信徒などは水晶とともに滅ぶべきとも言っていたが、水晶と心中するつもりはない、という意見の方が圧倒的に多かったため、決行することになったという背景もある。

 結婚の儀式は実に簡単である。司祭が水晶のかけらを少しだけ削った粉を水に解き、それを祝福された盃に入れ、二人で代わる代わる飲む。それが終わったら、水晶に繁栄の祈りを捧げる。これで終わりだ。

 儀式を終え、教会の外に出れば、そこからは翌朝まで盛大な宴会である。ナツナとゲオルグは、馬車でティルダイン邸まで戻り、庭に来てみると、先ほどまで街道にいた人々が、待ちくたびれた様子でテーブルに着いていた。その様に苦笑しつつ、二人は庭の中央にあるテーブルに着いた。

 

「本日はお集まりいただき、ありがとうございました。これより、宴会をお楽しみください」

 

 ヨゼフの形式的な言葉で、宴会は始まった。その一方で、ナツナとゲオルグはスレイ、ヨゼフと、その妻のアンネと共に、挨拶回りに出発した。偉い人からと相場が決まっているので、来ていた政府高官や軍の高官から順に回っていく。彼らへの挨拶を終えると、いよいよ友人たちへの挨拶だった。まず、ゲオルグの友人の方であった。愛想を振りまいておけばいいナツナは、側で冷やかされて照れるゲオルグを見るのは面白かったが、その役目はすぐ彼女にも回ってきた。

 

「おめでとうナツナ! ウェディングドレス姿すっごい可愛いし、先輩感激だよー。いやァ、必然って感じだったけど、やっぱり羨ましいな。こんなに内も外もイケメンなおにーさんゲットするなんて」

 

 ルルーナは身を捩らせながら早口気味にまくし立てる。その側でリーリヤは呆れてため息をついていた。その彼女とナツナの目が合った。すると、リーリヤは「あー」と天を見て頭を掻き、しばらくしてナツナとまた目を合わせた。

 

「おめでとうございます、ナツナ」

 

 簡素な言葉だったが、はにかんだリーリヤの顔を見ると、それだけでナツナは満足だった。

 結婚の宴は夜まで続き、ナツナたちは沢山の祝福を受けて幸せに終わった。撤収後、ナツナはせっかくだからとドレスから着替えずにゲオルグを自室に連れ込み、ベッドに押し倒した。

 

「明日どーせお互いに仕事休みだし、文字通り精魂尽き果てるまでやろうよ」

 

「ナツナ、目が怖いよ」

 

「まァまァ」

 

 ナツナは笑いながら、ゲオルグのタキシードを脱がし、上半身を露出させた。そして彼の体の上にのしかかり、その鎖骨の辺りに、ゆっくりと舌を這わせたり、甘噛みをしたりする。彼の荒くなってゆく息遣いが、たまらないほど愛おしく感じた。

 

「さァ、ゲオルグさん。たくさん、たくさん愛し合おうよ」

 

 薄暗い部屋の中、妖艶に微笑むナツナに、ゲオルグは小さくため息をついてから、そっと彼女の背中に手を回した。

 

        ***

 

 結婚式後の最初の出勤日で、ナツナは情報科隊長——要はスレイに呼び出された。先の戦いで特務隊は解散させられたが、それは書類上のことだけであった。すぐに統合本部情報科部隊として、ほぼ同メンバーで再編された。特務隊との違いは、名前以外に無い。仕事内容はもちろん、陸海空軍とは別の指揮系統で動くことも変わらない。

 分隊長でもないナツナが一人で呼び出されるということは、単身で工作活動なりなんなりをしろということか、もしくは心当たりはないが服務事項で上げられるかのどちらかである。

 

「トオナギ少尉、入ります」

 

 ノックをして入室し、スレイに一礼する。一通りの規則上のやり取りを交わすと、スレイはナツナに軽く手招きした。

 

「ナツナ、心して聞いてちょうだいね。これから話すことは、まだ誰にも公にはできないことだし、あなたが一番関係あることだから」

 

 この時のスレイは、厳格な上官としてではなく、ナツナの家族としてのスレイだった。それで、これから告げられることが、ただの機密事項ではないと察して、ナツナは息を呑んだ。

 

「あなたには、今度日本に飛んでもらうわ」

 

 ——スレイの言葉が、ナツナは頭をハンマーで殴られたように感じられた。そしてそのまま、ナツナは言葉を失っていた。スレイは何も言わないが、どのような表情をしているかも分からなかった。それはスレイが顔を隠しているということではなく、ナツナの焦点が定まっていないだけのことだった。

 言葉を失ったナツナに対して、スレイは懇々と事情の説明を始める。曰く、先日D・Eから外務省に使者が来て、G・Sに日本と国交を結ぶことを提案してきたのだという。そもそも日本とD・Eが国交を結んでいるというのは全く寝耳に水だったが、ナツナはそれどころではなかった。

 

「まァ、あなたを交渉の任に命じるとかじゃあないのよ。それは外交官たちの役目。あなたに期待されているのは、表向きは親善大使としてマスコミの前に出て、日本とG・Sの友好の象徴となること」

 

「はァ、表向き、ですか」

 

 ナツナはようやく声を出せたが、その声はあまりにも情け無く呆けたものだった。しかし、それにスレイが不快感を示すようなことはなく、彼女は話を続ける。

 

「裏の事情としては、国からの温情で、交渉が終わったらナツナに三ヶ月の特別休暇を与えるから、日本に残ってゆっくりしてもいいって」

 

「え?」

 

 また、ナツナは間抜けな声で返事をする。

 

「出発は二週間後の今日、0900に外務省の正門に出向くこと。詳しいことはこの資料に書いてあるわ」

 

「はい、分かり、ました」

 

 ナツナはぎこちなく返事をし、資料を受け取って隊長室から退出した。己の心臓の音がうるさい。まずは落ち着こうと、ナツナは統合本部ビルの屋上に上がり、そこに出るなり大きく深呼吸をした。新鮮な空気が体を満たす。少し動いたことに加えてこの深呼吸で、ナツナはようやく少しながらも平静を取り戻した。

 

「まずは、資料を確認しよう」

 

 風から資料を守れる場所に移動して、ナツナはそれに目を通した。それによると、元々日本とD・Eが、G・Sと国交を結ぶことを画策していたらしく、G・Sが首を縦に振れば、何回かの調整を経て国交が樹立できるほどまでに日本が準備していたとのことである。日本がG・Sと国交を結ぶ目的は、資料には新たな貿易ルートの開拓による好景気への期待が主な理由とされているが、ナツナはそれだけでは納得できなかった。軍事同盟も結ぶとのことだが、その同盟の内容はかなり高度な機密事項であるらしく、資料では全く触れられていない。日本は青の世界の国である。日本を相手にしていないとはいえ、一度その世界を滅ぼす戦いを仕掛けたG・Sを、日本が軍事的に信頼する理由も資料だけでは分からなかった。

 また、ナツナが親善大使として適任とされたのは、やはり元々青の世界の人間だから、というのが理由のようである。確かに、神隠しに遭っていた女の子が別の世界で生きていたというのはセンセーショナルで、マスコミの受けも良さそうである。日本人としても、馴染やすくはあるだろう。

 多少の不自然は後で分かるだろうと考えて、ナツナは理屈の上では納得することにした。しかし、気持ちの上ではまだ納得できていない——というよりは、未だに実感が湧いていない。

 

「私、日本に行ってもいいのかな」

 

 ナツナは己の手を見つめる。先の戦闘で、自分は何人かの人間を殺したが、その中には当然、青の世界の人間も含まれていた。G・Sが何をしたのかを知ったら、自分は日本から裏切り者の誹りを受けるのではないか。そのような不安が頭によぎる。しかし、それでも。

 

「日本に、帰れるなら帰りたいよ。あの奥津で、またゆっくりしたい」

 

 とうとう、涙が溢れた。それで確信した。自分がどれほど、心の底で日本に帰ることを熱望していたか。そして、それを押し殺していたか。G・Sが日本と軍事同盟を結ぶということは、ナツナたちが青の世界に侵攻する理由が無くなるということだ。その事実は、ナツナにとっては心のタガを外させるには十分だった。

 

「あァ、私は、まだ日本を愛しても良かったんだね」

 

 ナツナは止めどなく頬を伝う涙を拭いながら、笑った。頬の緩みを止められなかった。これまでナツナを縛っていた重圧の何もかもから解放された気分だった。そして、ふとした衝動が働いて、ナツナは青空へ向かってジャンプした。涙が跳ねる。風を全身で受ける。——そうして、1秒足らずで着地したとき、涙は既に無くなっていた。



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