君のためのコンサート (ココナッツ・アナコンダ)
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君のためのコンサート
「ここだ。この部屋で
美しい月が暗がりを照らす夜。
指揮官が手を引かれ、案内された先にたどり着いたのは、今は使われていない学園の空き部屋であった。
「じゃあ指揮官、私の役目はここまでだから」
「あいよ、ご苦労さん」
「楽しんできなよ。
「分かってるよ、せいぜい堪能させてもらうさ」
「へへっ、ならいいんだ!」
そう言って、ジャケットを翻して立ち去っていくクリーブランドを手を振って見送った。タイトなボトムスにベストから覗くシックなネクタイと、男である指揮官から見ても十分に目を引きつけられる凛々とした佇まい。男装の麗人とはよく言ったものだ。
「──さて」
ドアに向き直り、指揮官は懐にしまっておいたものを取り出した。
『
中央にそう書かれた一通の封筒。質素なダイヤ貼りの白い封に、赤い花柄のシールで栓がしてあるだけの簡素な造り。不器用な彼女の、精一杯の遊び心がシールから見て取れる。きっと完成品を見て、あまりに味気なくて悩みながら付け足したに違いない。
いや、もしかすると誰かからのアドバイスの可能性もある。
「……」
指揮官は感慨深くそれを見つめた。出会って間もない頃と比べて、彼女は大きく変わった。手に持つこれが、そのいい証拠だ。
見聞を広め、見識を深め、自分の意志を持つことを覚えた。
「……ふぅ……」
高まる期待と緊張感を胸に、コンッ、コンッ、コンッ、と記憶よりも新しくなっているドアを叩く。
『……誰だ?』
「俺だ」
『ああ、来てくれたか指揮官。入ってくれ』
許可を得て、ドアノブを回して入室する。
足を踏み入れると、その部屋は明かりが点けられていなかった。けれど、開け放たれた深窓から差し込む月の光が夜闇を和らげていて、物を見るには不自由を感じさせない程度の仄暗さに収まっていた。
(これはまた……)
室内を見渡して、指揮官は
シックに張り替えられた内観を額縁の絵画や台に飾られたアートオブジェが彩り、何処か洋風の講堂を思わせる作りに改良されていて、今や汚い空き部屋であった頃の面影は微塵もない。
中でも特に、室内の中央奥に鎮座するグランドピアノには、見るものの目を奪う圧倒的な存在感があった。
元々、雑乱とした備品を退かせばかなり広い間取りをしていたが、手を加えればこうも様変わりするものなのか……感心が意図せず漏れてしまう。
「待っていたよ指揮官」
窓辺に立っていた部屋の主が優しく語りかける。
「本日はお招きいただき、光栄の至りに存じます」
指揮官も少し距離が離れているものの、恭しく一礼する。
「……あまり仰々しくしないでほしい。これでも、緊張しているんだ」
少し困ったようで明るい声色だった。指揮官の悪戯心をきちんと理解しているのだろう。そんな彼女は今、どんな表情を浮かべているのだろうか……指揮官のいる位置からでは、影のせいで顔がよく見えないのが悔やまれる。
もっとも、どんな表情をしているかは想像に難くはないのだが──釣られて、指揮官にも笑みが浮かぶ。
「了解だ。なら、改めて──」
指揮官は踏みしめるように部屋の中へと進んでいく。
指揮官用に拵えられたであろう客席を横切り、今この部屋で最も黒色を放っているグランドピアノを抜け、優艶な純白のドレスに身を包んだ彼女の元へ──今日この日、
「今日はありがとうサウスダコタ。存分に楽しませてもらうよ」
月明かりが照らす彼女は、夢に揺蕩う花のように幻想的であった。
◇◆◇◆◇◆◇
指揮官着任の一周年を記念する特別パーティー。
ロイヤル艦隊を主軸として企画・運営が進められており、母校に所属する他陣営の艦船少女たちも、皆で力を合わせて大いに盛り上げようと奮起していた。主役であるため手伝いを諌められていた指揮官は、あらゆる場所で慌ただしく準備に追われている少女たちの姿を見かけていたのだが、誰もが楽しそうに笑っていた。
隣に立つサウスダコタもまた例にもれず、勝手に戸惑い右往左往しながらも、その顔には確かな充実に満ちていた。
「それにしてもピアノか……中学生以来だな、また随分と懐かしい」
記憶の中にある迫力のイメージは、子供の頃より成長した今の指揮官でも変わらず感じ取れた。それが懐古と混じってどうにもこそばゆい。
「指揮官も昔は弾いていたのか?」
「まさか。けど、子供のころ通ってた学校には必ず一台は置かれてたからな。軍学校にはなかったし、昔を思い出すんだ」
「指揮官の子供時代か。想像がつかないな」
「ただの腕白小僧だったよ。教師からの評価は軒並み悪かった」
「それについては想像に難くないぞ」
「おっと?」
「よく本部から叱責を受けているんだ、今もさして変わらないだろう?」
「ん、まぁな!」
誇らしげに堂々と胸を張る指揮官。これにはサウスダコタも少々、呆れ気味に首を小さく振っている。
「ピアノも、昔は鍵盤を乱暴に叩いたりしてたもんだ。その度に捕まって叱られてな」
「今では考えられないな」
「そうだな。ピアノみたいな嗜好品は前より高価になったし、修理費だって馬鹿にならん」
セイレーンが海域の多くを支配して早数年。島国である日本が物資を調達する経路はごく限られている。
日用品の値も上がり、魚介類は比較にならないほど高騰していく中で、多くの素材と高い技術を浪費する、必ずしも生活に必要ではない嗜好品が、世の煽りを受けないはずがなかった。
「半年前までは
「自分で作ったらしいぞ」
「……は? 嘘だろ」
驚愕。目が点になるとはまさにこの事か。
「正確には“修理した”と言っていた。廃棄予定だったピアノを譲り受けて、傷んていた箇所を修繕・交換して直したと。ほぼそう取り替えだったらしいが」
「すげぇなそれ」
「その方が安くつくらしい」
行動原理は明石そのままで安心した。
しかしそれでも、出費を抑えるためにピアノまでほぼ自作したとなると、明石の執念も末恐ろしいものである。
(何者だよアイツ)
「ピアノの整備も調律も明石がやってくれている。演奏会の練習で多用していたから本当に助かったよ」
(マジで何者だよホント)
修理ができれば整備もの流れは分かるが、調律に関しては全くの別物のはずだ。何故、どれもこれも手掛けることができているのだろう。これもまた、出費を抑えたいがための執念なのだろうか?
恐るべし明石。しかし、これ以上は知るのが些か怖くなってきたので、冷や汗が落ちないうちに指揮官は話を逸らすことにした。
「そういや、本当によかったのか?」
「何がだ?」
「これだよこれ。
ならばついでと、指揮官は招待状が届いて中を確認した時から気にかかっていたことを聞いてみた。
「……先に?」
「おお。特別扱いは悪くないが、まぁ、ちょっとなぁ〜」
不思議そうに首を傾げるサウスダコタに、一週間前に届けられた独演会の招待状を見せる。
無駄なものはおろか曲目すら記載のない空白が目立つ案内欄。数少ない記載項目の内の一つである開催日の日付は、一周年記念の特別パーティー開催日──その前日に指定されていた。
「明日……先に…………ああそうか、そういう事か」
指揮官の意図が読めず、自作の招待状をジッと見つめていたが、少しの逡巡の後にサウスダコタは納得したように頷いた。
「どうやら指揮官は勘違いをしているようだ」
そよそよとカーテンが風と踊る。
サウスダコタは指揮官から視線を外し、窓の向こうに登る月を見上げた。
「このコンサートは明日の演奏会の先行上演じゃないぞ」
「え?」
思わずといった風に、素頓狂な声を上げてしまった。
「明日に弾く曲と、今日の演奏会で弾く曲は別々だ。今日は今日で、指揮官に鑑賞してもらうための楽曲を用意してある」
「あ〜、そうだったのか……」
「そうだ。しかし、その勘違いは招待状への記載不足が招いた結果のようだ……不甲斐ない。緊張していたとはいえ、これは抜けが多すぎる。すまない、僕の落ち度だ」
「いや、不都合はなかったから気にするな」
指揮官も習うように窓の向こうを見上げる。
雲は無く、遮るものが何もない空の中に一つ、虫たちの鳴き声に聞き惚れているかのようにぼんやりと光が揺らめいていた。
「ともあれ、そういう事だ。だから、明日の吹雪やオーロラたちとの演奏会も、今日のこのコンサートも……双方とも僕にとっては大切な本番だ」
宿敵との決戦前のような、そんな強い決意をヒシヒシと感じ取った。
彼女の今日と明日の演奏会に掛ける情熱は、並々ならぬものなのだろう。
「そうか……なら、明日も明日で期待しとくよ」
「是非ともそうしておいてくれ」
そう言ってサウスダコタは楽しそうに笑った。
決して満面の笑みではないが、目尻が若干下がって口元が微かに綻んでいた。先程まで緊張して強張り気味であったのだが、指揮官との雑談を始めてから幾分か和らいだように見える。
着任したての頃の鉄面皮から、これだけでも彼女の表情が随分と柔らかくなったことが分かるものだ。彼女の至るところに変化の実感を得られて、指揮官は嬉しく思う。
「……はははっ」
「ん? どうした指揮官?」
「いや、楽しそうで何よりだと思ってな」
「楽しそう、か……そうだな。そうだとも」
サウスダコタは、はっきりと肯定の意を示した。
“わからない”とも、“そんな感情に意味はない”とも、もう言うことはない。
「指揮官──」
呼ばれて、サウスダコタと視線を合わせる。
彼女は穏やかに、けれど確固とした意思を含ませて続けた。
「──僕は今、とても楽しい」
と、言葉にすればたったそれだけだった。
たった今、指揮官が言った言葉を繰り返しただけだった。
「……っ」
表情が変わったわけではない。なのに、その時見せたサウスダコタの雰囲気があまりにも無垢で、純粋で──指揮官は一瞬、言葉を失った。
呆気に取られた……いや、見惚れたが状況的に正しいだろう。
指揮官の頭の中は文字通り、真っ白に塗りつぶされた。
その僅かな空白の間に、サウスダコタはドレスを翻して窓辺を離れた。コツリ、コツリとヒールが床を叩く音が、静かな部屋の中で後を残さず鳴り響く。
「指揮官と出会う前の僕の世界は、極々小さく収まっていた」
音が止んだ。
指揮官がゆっくりと振り返ると、サウスダコタはピアノの前に立っていた。まだ開けられていない鍵盤の蓋を優しく撫でている。
「戦うことしか知らなかった。戦うことにしか意義を見出だせなかった。戦果を出すことでしか存在価値を示せなかった──僕にとって、戦うことだけが世界の全てだった」
──懐かしむように、かつての自分の姿を思い出す。
脳裏に浮かぶのは、兵器として、戦艦として、意志なき無機物としてただ命令を遂行するだけの、まるで人形のような自分の姿だった。
悲しい、とても哀しい姿だった。
「けれど指揮官と出会えて、指揮官が戦うことが全てではないと教えてくれたから。知らなかった世界の広さを見せてくれたから。己の価値は、誰に決められるものでもないと喝してくれたから。僕は変わった……いや、変われたんだ」
だがそれも、今はもう省みる必要はない。
それは既に決別した過去の姿なのだから。
「指揮官が僕を導いてくれたから、偏狭だった殻を破り、新しい場所に歩み出せた」
言葉が口から出てこない。胸の奥が熱く、強く握りつぶされるようだ。
サウスダコタが言葉に秘めた万感の思いは如何ほどのものなのか、指揮官には計りかねた。
しかし、それでいいのだろう。分からなくていい。
「今ではこうして、自分の意志で行動することを覚えた。戦闘以外の生き方を探せるようになった。指揮官のおかげで、僕は“楽しい”と思える日々を送ることができている」
それはきっと──。
「本当に、本当に──感謝している」
──サウスダコタだけが持っているべきものだから。
「だから今日、その集大成を君に見せたかったんだ。明日、皆の前で披露する前に、僕が僕の意思で選択して、学び、培ってきた日常を。今ある僕の成長した全てと、胸の内にあるもの全てを乗せて……君だけに──」
ふわりと、風が舞い入る。
悪戯なそれは指揮官の髪を撫で、サウスダコタのドレスを弄んでいった。揺れたカーテンを抜けて、光が一層柔らかく差し込む。
音が消えた。
呼吸を忘れた。
目を見開いたままだった。
意識がサウスダコタだけに集まった。
それが、あまりにも美しい光景だったから。
その微笑みが、あまりにも清廉なものだったから。
今この時、この瞬間を切り取れたのならば、どれほど美麗な絵画が誕生したことか。指揮官はそう思わずにはいられなかった。
「……サウスダコタ」
絞るように名を呼ぶのが精一杯だった。
それでも彼女は満足そうに目を細めて頷いた。
「──さぁ、そろそろ開演しよう。席についてくれ」
サウスダコタは鍵盤の蓋を開け、椅子を細かく動かして引きやすいよう調整作業に入った。
「……」
指揮官はまだ動いていない。瞳を閉じて、ただ静かに立っている。
余韻がまだ残っているのだ。嬉しいやら、喜ばしいやら、感激やらが濁流のように湧き上がって渦巻いている。
「……指揮官?」
「…………ああ、分かってる」
今度は、促された通りに座席へ向かった。
乱れていた心の整理がついたようだ。感情の荒波は凪いで、着席した姿からは入室時と同じく、演奏会の期待と開始前の緊張感しか感じ取れない。
「もういいか?」
「ああ」
短く言葉を交わして──。
「では、始めるぞ。先ずは──ショパンの“
サウスダコタの指が、鍵盤の上を滑らかに走り出した。
音が──流れ星のように夜空を駆けていく。
クラシック──もとい、音楽に疎い指揮官は知らない。
サウスダコタ自身、無意識の選曲だった。
粛々と奏でられるサウスダコタの独演会。
優しい音色、静かな音色、軽やかな音色が楽曲に合わせて顔をのぞかせる。燃え滾るような激しくはなく、心に染み入る耽美な旋律は、まるで木々が枝葉を揺らすように鮮やかで、繊細だった。
“フレデリック・ショパン作曲:『夜想曲第1〜3番』”
“ロベルト・シューマン作曲:連作歌曲『ミルテの花』より数曲”
“カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲:『舞踏への勧誘』”
それらが、サウスダコタの選曲の一部である。
作曲者や年代はバラけ曲調も異なり、選曲には統一性が無いように見える。しかし、よくよく調べてみると一点、重要な共通点を楽曲の中から発見することができた。
十中八九、それがサウスダコタの選曲の基準になっていたのだろう。
重ねて言うが、サウスダコタは決してそれを意図して選曲した訳ではない。
指揮官への演奏会で弾く楽曲は、サウスダコタが耳にしたものの中から感覚で決めたという。つまり楽曲については、詳しく掘り下げて調べるようなことはしなかった。だから、サウスダコタは楽曲たちの共通点に関しては何も把握してはいない。
にも関わらず、的確にポイントを押さえて選曲したのは、もしかすると直感的にその楽曲にこめられた意図を、サウスダコタは感じ取っていたのかもしれない。
作曲者たちが伝えたかった想い。
楽曲に乗せた感情。
届いたもの──届かなかったもの──。
遠いアナタへ──隣の君へ──。
サウスダコタ自身、まだ完全に自覚していない特別な感情。
指揮官に伝えたい気持ちは感謝の心と──きっとソレなのだ。
いつの日か、自覚するときが来るのだろう。
そのとき必ず、サウスダコタはこの独演会で、この楽曲たちを弾きたいと思った真意を悟るはずだ。
だから今は、ただただ心のままに奏でればいい。
感謝と秘めたソレを旋律に乗せて、
──戦艦の話をするとしよう。
忠義の勇士。堅固な盾。海域の果てから君に聞かせよう。彼女の海路は奇跡に満ちていると……“無垢なる者”のみ通るといい。
ガーデンオブアヴァ (ry
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