捻くれた少年と海色に輝く少女達 Guilty Kiss編 (ローリング・ビートル)
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プロローグ
「ヒッキー。元気でね…………」
「ああ…………」
千葉駅には、俺の家族と由比ヶ浜、一色、戸塚、材木座、川崎、平塚先生等の、関わる機会の多かった人間や、意外にも、葉山グループのメンバーまで来ていた。
「せんぱ~い…………」
「だから泣くなっての」
「だって~…………」
こんな時まであざとい奴かと思ったが、割と涙の量が多いので、慌ててしまう。
困っていると、戸塚が近寄ってきて、手を握ってくる。
「八幡、向こうに行っても連絡してね。僕からもするから」
「もちろんだ。毎晩してやる」
何ならモーニングコールも追加してやる。
「は、八幡よ。何なら我も…………」
「ああ、それつまんね」
こいつも相変わらずである。泣くなよ。絶対だぞ。
「そういや…………」
一応を周囲を確認する。
「あ、ゆきのんは…………」
「そっか…………」
雪ノ下も家の事でトラブルを抱えている。それが何なのかまではよくわからずじまいだった。そして、それが気がかりだった。
「ヒッキー、心配しないで!」
由比ヶ浜は拳をぐっと握り、胸の高さまで上げる。
「ゆきのんの事はあたしが何とかする!だからヒッキーは自分の家族の事だけ考えてればいいんだよ!」
「悪い…………」
由比ヶ浜の強さに甘える形になったのを申し訳なく思いながら、既に電車に乗り込んだ家族の事を思う。
『すまん』
家族に申し訳なさそうに謝る父の姿。別に俺達に謝る必要などないのに。
ざっくり説明するなら、親父は左遷された。
上司の大きなミスの責任を押しつけられる形での左遷。
あんだけ社畜として頑張っていたのにこの仕打ち。やっぱり仕事なんてするもんじゃねーな。
そんな事を考えている内に、何かしてやれないか、とか柄にも無いことを考えてしまった。
結果が、親父の単身赴任ではなく、家族総出の引っ越しだ。俺が何か言い出す前に、母ちゃんと小町も同じ事を考えていた。意外な所で家族とは似るものである。悪くない。
「まあ、色々あるだろうが、新天地でも頑張りたまえ」
平塚先生が頭をポンポンと叩いてくる。
「いや、何もないでしょう。3年だから受験勉強やるだけですよ」
「しかし、君だからなぁ」
嫌な信頼である。
「君の事だから、また転校先でも誰かを変えていくのかもな」
「買い被りすぎだっての。じゃ、時間だしそろそろ行くわ」
「じゃあね、ヒッキー」
「八幡、夏休みにでも遊びに行くから」
「ぐす…………はち…………まん…………」
「先輩、富士山登りに行くついでに見に行ってあげますから」
「…………ありがとな」
その場にいた全員に、しっかりと頭を下げた。
そして、振り返る事はしなかった。
「お兄ちゃん、海綺麗だよ!」
「ま、千葉にも負けてないんじゃないか」
MAXコーヒーを飲みながら、窓の外に目を向ける。
さっきからずっと海は見えていたが、静岡県内にはいってから見ると、どこか違った輝きを放っているように見える。
「泳ぎ行こーよ」
「いや、死ぬから。死んじゃうから」
「ダイビングショップもあるみたいだよ」
「聞いてねぇ…………」
しかし本当に緑も多く、気持ち良さそうだ。
降りたら真っ先に深呼吸をしよう。
「千歌ちゃん。どうしたの?」
「あの人達、引っ越してきたのかな?」
「う~ん…………そうみたいだね!」
「この街のいい所…………いっぱい見つけて欲しいなぁ」
*******
「ふう…………」
一軒家に、荷物を詰め込み、あらかた片づけてしまう。一家総出の頑張りで掃除もあっという間に終わった。あとは蕎麦でも食うだけか。
ふと気づく。そういや、駅で色々あって本を買い忘れていた。少し疲れはあるが、まだ日も沈んでいないし、本屋の場所を確かめておくのもいいかもしれん。
それと、自販機にMAXコーヒーがあるかを確かめておかないとね!
Amazonさんで注文はできるが、自販機でいつでも買える安心感というのは、やっぱりありがたいもんな。
「あれ?お兄ちゃん出かけるの?」
「ああ」
「じゃあ、小町も行こーっと♪」
「車に気をつけるんだよ-!」
母ちゃんの言葉を背に受け、小町と二人乗りで出発した。
「へー、さっきはあまり見れなかったけど、駅の周辺は割と都会なんだねー」
「ま、家の周りはあれだからな」
新居の周りは、2、3軒家があるだけて、あとは結構な自然に囲まれている。
ここに来る途中、最初は車もほとんど通らなかった。
改めて引っ越したんだなぁ、としみじみ思う。
「そういや、お前、総武…………」
「お兄ちゃん」
強めのトーンに発言を遮られる。
「私さ、雪乃さんも結衣さんも好きだよ。でもね…………」
小町が手を握ってくる。
「家族が世界でいっちばん大事」
「…………俺もだよ」
寂しさはある。多分数日、数カ月と時間が経つと共に、千葉との違いを見つけ、そして適応していくんだろう。
けれど、家族の為なら何て事はない。
「いらっしゃいませー」
本屋の中に入ると、人の数はまばらで、J-POPだけが騒がしく響いていた。
とりあえず、一般小説のコーナーへ行く。
「ここを曲がって…………」
案内図に従い、突き当たりを右へ曲がると、何かを踏んだ。
「って!?」
踏んだものにローラーが付いていたのか、ずるっと滑り、尻餅をつく。
「ずらっ!?」
女の子の声が聞こえた。…………今なんて言ったんだ?
「ご、ごめんなさいずら!オ、オラ…………」
「いや、大丈夫だ」
少し尻が痛いだけで、特にケガはしていない。それよりさっきから気になる事が…………。
「ほ、本当に大丈夫ずらか?」
「…………ずら?」
「ずらっ!」
その少し長めの茶色い髪が特徴の、小柄な女の子は口元を押さえ、自分の言葉を飲み込もうとしていた。
「ち、違っ、オ、オラ…………」
この辺りはこういう方言なのだろうか。まあ、いい。
少し離れた所へ転がっていった台車を彼女の前へと移動させる。
「あ、ありがとうず…………ございます」
方言を隠しながらのお礼を言われる。多分、年齢は小町くらいか。
「あ、ああ…………そっちはケガはないか?」
まあ、俺が一人で転んだだけだが。
「あ、はい大丈夫…………です」
「お兄ちゃーん!」
小町から呼ばれたので、俺は軽く会釈をして、その場を去った。
*******
「あと3日か…………」
あと3日で新天地での学校生活が始まる。おかしいな。3ヶ月足りない気が…………。ちなみに親父達は既に新しい社畜生活に突入している。ったく、あと3日間ぐらいゆっくり休めっての。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
小町が隣りに座ってくる。…………うわ、何か頼み事をしてくる時の態度だ。
俺は沼津の共学校に、小町は浦の星女学院に編入が決まっている。小町の方はかなりぎりぎりまで悩んだらしいが、高校は千葉の時と違い、俺とは別の高校を選んだ。今回の事で、何か思うところがあったのだろうか。べ、別に寂しいわけじゃないんだからね!
「学校への道を確認しとかないと」
「そうか。いってらっしゃい」
「お兄ちゃんも行かなければいけないのです」
「まあ、まだ慣れていないしな」
可愛い妹がまだ慣れない土地で迷子になるのも、かわいそうだ。仕方なく、外出の準備をする。
「つーか、お前の行くとこ女子校だろ?俺が行っちゃ、まずいんじゃねーの?」
「大丈夫だって!…………多分」
「おい、そこは絶対って言ってくれよ…………」
バスに乗って、窓の外に目を向けると、青く澄み渡る空と、静かにたゆたう海が流れていく。その二つが水平線を溶かして合わさってしまいそうに調和しているのを見つめていると、あっという間に目的地に到着した。
「バス停からそんなに遠くはないな。これなら、大丈夫だろ」
「そだね♪じゃ、校舎探検しよ!」
「いや、しねーから」
引っ越して1週間も経たない内にそんなドキがムネムネするようなスリルは味わいたくない。
「じゃあ、せめて校門まで!」
「へいへい」
「ふ~ん、結構グラウンド大きいね」
「ああ」
返事をしながらも、視線は海へ向けている。だって陸上部とかが割と露出度高めでアレなんだもん。
「ちょっと飲み物買ってくるわ」
曲がり角の辺りにある自販機前で財布を出していると、何かぶつかってきた。
「うおっ」
「ぴぎぃっ」
やけに甲高い声で、その小動物じみた女子は呻く。
「だ、大丈夫か?」
鼻を押さえている少女に声をかける。
「あ、はい…………こちらこそ、ごめんなさ…………」
少女は俺を見て固まる。まるで時が止まったようだ。
赤みがかったツインテールも、子犬のような庇護欲をそそられる瞳も、ほんのりと桃色の唇も全て停止していた。しかし、よく見たら額の辺りが青ざめているような気がする。
「お、おい、どうした?」
片手で軽く肩をゆすった。
しかし、それがスイッチとなったのか、少女の顔がどんどん赤くなる。そして、限界に達した瞬間…………
「ぴぎゃああああ!!!!」
その小さな体からは想像もつかないくらいの大音量をぶっ放してきた。思わず耳を押さえてしまう。
…………てゆーかこれ、ピンチではないでしょうか。
あたふたしていると、背後から、凛とした声が聞こえる。
「あなた…………わたくしの妹に何をしてますの?」
この時、確かに思った。
悪い予感ほどよく当たる。
*******
「え、いや、その…………」
上手い言い訳を考えながら振り向くと、思わず息を飲んだ。
まず印象的だったのは、その長い黒髪。腰まで届く長さのそれは、純和風の淑やかな色気があり、ある人物を連想させる。次に目に入った真っ白な肌は、季節はずれの雪のように儚げな美しさを放ち、俺を睨みつける勝ち気な瞳は、揺らぐ事なく俺を捉えていた。
「もう一度聞きますわよ、そこの貴方。私の妹に何をしているのかしら?」
「…………」
こちらに距離を詰めてくるその凛とした姿に、危うく目を奪われかけるが、我に返り反論する。
「いや、何もしてないじょ…………」
こんな時に噛むんじゃねえよ、俺。
案の定、顔を顰められる。
「やっぱり怪しいわね」
黒髪の美人は俺のパーソナルスペースに入るか入らないかの距離まで接近していた。妹と同系統ながらも、少し甘さ控え目な香りが漂ってくる。ピンチなはずなのにいらん思考が脳内を飛び交っていた。
「その腐った目…………どう考えても怪しいですわ!」
こちらが対応できていないせいか、少しずつ黒髪がヒートアップしてきている。
しかし、初対面の人間に腐った目と言われる筋合いはない。そういう人間に対して言う事は決まっている。
「…………この清楚系ビッチめ」
「なっ…………!」
俺の言葉に反応して、黒髪は顔を真っ赤にした。
「だ、だ、誰がビッチですってーーーー!!!」
ビッチという言葉が辺りにこだまする。しかし黒髪はそんな事はお構いなしで俺に詰め寄ってきた。
「その腐りきった目には、わたくしがちゃんと見えていないようですわね!」
「初対面の相手の目を腐ってるなんて言う奴にはビッチで十分だろ」
「何ですって~~~!」
お互いにまた言い合おうとすると、二つの小さな影が乱入した。
「お、お姉ちゃん、違うの!この人は」
「お兄ちゃん、何やってんの?」
「…………」
「…………」
そう。二人の妹が間に入る事で、その場は収まった。
何の気なしに空を見上げると、この馬鹿騒ぎを眺めるように鳥が旋回しながら青空を漂っていた。
「「ごめんなさい…………」」
とりあえず入った喫茶店にて、二人して頭をテーブルに付きそうなくらい下げる。店内にかかっているジャズがやけに物哀しく聞こえてくる。
裁判長である小町に、ひとまずYOU達両方謝っちゃいなよ!との判決が下された。
「お兄ちゃん。女の子にビッチなんて言っちゃダメじゃん。しかもこんな綺麗な人に…………」
「いえ、そんな、わたくしなど…………」
小町の言葉に黒髪は頬を染めながら俯く。
…………しかし、どこかあざとい。一瞬ニヤッとしましたよね?
「あの…………」
「ん?」
「ぴぎぃっ!」
声のした方を振り向くと、さっきまでいたはずのツインテールがいない。
「こらルビィ。そんなところに隠れてないで、あなたも謝りなさい」
「うぅ…………」
ひょっこりとテーブルの下からツインテールが顔を出し、こちらを潤んだ目で窺ってくる。な、何だ…………この可愛い生き物は…………。
しかし警戒されているのか、目を合わせようともしない。
「ごめんなさい。この子ったら、お父様以外の殿方と話した事がないもので…………」
「ああ、なるほどね…………」
話した事がない理由などはともかく、男に慣れていない状態で、目つきの悪い男に話しかけられたら、そりゃあ怖がるだろう。俺も苦手なタイプの人間ならいる。リア充とかリア充とかリア充とか。
「まあ、その、やっぱり俺も悪かった…………」
「何がですの?」
黒髪はキョトンとした顔になる。
「さっきの…………」
「ああ、もう気にしてませんわ。そもそも私が言いがかりをつけたのですし。それに、さっきお互いに謝ったじゃありませんか」
口元に優雅な微笑みを浮かべる。感情的になりやすいかもしれないが、決して引きずるタイプではないらしい。
「そういえばさっきルビィって言ってましたけど、名前なんですか?」
小町が興味津々な様子で黒髪に聞く。
「あ、自己紹介がまだでしたわね。私は黒澤ダイヤ。こちらが妹のルビィですわ」
「ル、ルビィです…………」
「私は比企谷小町です!これが兄の…………」
「比企谷八幡だ」
「小町さんと八幡さんね」
自然な流れでファーストネームを呼ばれた事に動揺しかけるが、何とか持ちこたえる。戸塚戸塚戸塚戸塚戸塚…………。
「小町さんが浦の星に入学、ということはルビィと同じクラスですわね」
「え!?クラスまでわかるんですか?」
驚いた小町に、黒澤姉は少し物憂げに目を伏せながら言った。
「浦の星は年々入学者が減って、今年の1年生はクラスが一つしかありません」
*******
「そっかぁ~。入学者そんなに少ないんだ~」
黒澤姉妹と別れた帰り道、隣りをとぼとぼ歩く小町がぼそっと呟く。
「俺なら喜んでるな」
「はいはい。ゴミぃちゃんゴミぃちゃん」
人が少ない方が、その分トラブルも少ないと思うの。To LOVEるは一男子としては大歓迎だが。
「まあ、東京の学校でも廃校になる事があるんだ。人の少ない地域ならなおさらだろ」
「そりゃそうなんだけど、やっぱり寂しいよね」
「そういうもんか」
「そういうもんなの!さ、商店街でお買い物して帰ろっか」
学生は春休みだが世間は平日。そんなわけで商店街の人通りは寂しいものがある。そう思いながらも決して嫌いではないのだが。人ごみ嫌いだし。
そして、こんな場所に来ると何となく本屋を探してしまう自分がいる。お、さっそく発見。
「お兄ちゃん、スーパーはあっちだよ」
「ああ、少しだけ」
「もう、しょうがないなぁ。十分だけだかんね!」
「へいへい」
小町のお許しをいただき、本屋の前まで行くと、俺に反応するより先に開いた自動ドアから、何かがそこそこの勢いで飛び出してきた。
「うおっ!」
その小さな何かは、どすっと腹の辺りに突っ込んでくる。
「きゃっ!」
突然の衝撃に耐えられず、背中から転んでしまう。咄嗟にその何かを庇うような形になった。
「つつ…………」
「うぅ…………」
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
小町が駆け寄ってくる。
「ああ、何とか」
頭は打っていないようだ。むしろ腹の方が痛い。
「ご、ごめんなさい」
謝る声が聞こえてくる。
その声でようやく、ぶつかってきたのが女だと理解した。そして、その響きは幼い。
上半身だけよろよろと起こし、確認しようと顔を声の方へ向けると、驚きで変な声が出そうになった。
「…………」
その少女(?)はマスクとサングラスで顔を完全武装していた。はっきり言って間近で見ると怖い…………。
とりあえず人目気になるので、そろそろどいていただきたいところだ。
「あの…………」
「…………」
声をかけても少女の方はピクリともせず、そのままの姿勢を保っている。サングラスの下の目がこちらに向けられているように思えるのは、気のせいではないだろう。
「……………………い」
「?」
何か言ったようだが、マスクに閉じこめられた声はこちらまで届かない。
ひとまず様子を窺っていると、サングラスがストンとずれて、ぱっちりとしたきれいな眼が露わになる。サングラスとマスクに気を取られ、気づかずにいたのだが、長い黒髪も先程の黒澤姉に引けをとらないくらい綺麗だし、お団子の部分もなんか懐かしい。お団子で由比ヶ浜を思い出してしまうからか。まだ引っ越して間もないけど。
その二つの瞳は俺と目を合わせたまま固まっている。
やがて俺の方が堪えきれずに目を逸らすと、少女が持っていたらしい紙袋から、ハードカバーの本が飛び出している。
「…………黒魔術?」
「え?あっ!」
俺の上からどいた少女は慌てて本を拾い上げ、その場から逃げるように走り去っていった。
「「…………」」
俺と小町はその背中を唖然として見送る事しかできなかった。
「ハァ……ハァ……」
あの眼…………。
「ハァ……ハァ……」
…………滅茶苦茶カッコイイ!!
「我が主…………いえ、あの人どこの学校なのかしら?」
いや、それよりも先に自分の堕天使を捨てるのが先だ。こんな自分では絶対に引かれてしまう。一刻も早く変わらねば…………そして…………
「リア充に…………私はなる!」
そう。浦の星女学院で私は生まれ変わる!
「…………この本、どうしよう」
ま、まあ、持っててもいいわよね!
*******
「お兄ちゃん、早く早く~!」
小町に手を引かれながら、今日も晴天の下をたったかたったか小走りで目的地まで急ぐ。
「な、なあ、小町ちゃん。何も開店と同時に行かなくても…………」
「何いってんの!やっぱり一番乗りでやりたいじゃん!並ぶ必要もないし」
「…………」
正直その心配はないと思う。
そこまでの人通りはない。
まあ、これはこれで落ち着くんだけど。ついでにリア充もいないと助かる。
「いらっしゃいませ-!」
考えている内に目的地に到着していたようだ。元気のいい女性店員の声が響く。
その声の方に目を向けると、ポニーテールの女性が奥から出てきた。年は割と近そうだ。ポニーテールなんて川何とかさん以来!さすがにパンツからの登場はしないけど!
「あの…………どうかしました?」
怪訝そうな目を向けられる。いかん。こっちが変なインパクトを与えてしまうところだった。
「ごめんなさ~い。お兄ちゃんったら、すぐ美人に見とれちゃうから」
小町がフォローにならないフォローをしてくる。
「ふふっ。ありがとうございます!」
「あ、実はダイビング初めてなんですけど」
「じゃあ、こちらへどうぞ」
受け付けやら準備やら、小町の代わりにしっかり話を聞き、ようやく潜る事になる。
海中は自分が思ったよりずっと透き通っていた。
水面という確かな境界線があり、その下ではまったく別の世界の営みがあった。
その世界の広がりに心を奪われてしまった。
「どうでした?」
「ああ、楽しかったです…………」
「すごかったです!こう、ばぁ~っと青くて!」
小町のアホっぽい感想に頭を抱えていると、隣ではそれ以上に悩ましい光景が広がっていた。
「ふう…………」
ポニーテールさんはウエットスーツのジッパーを下ろし、上半身は水着だけになる。豊満な胸の谷間も、くっきりとしたくびれも、青空と海に映えていた。
また見過ぎないように顔を逸らす。
「お二人は旅行で来られたんですか?」
「いえいえ、小町達は最近引っ越してきたんですよ!」
「へえ、どちらから?」
「「千葉」」
「もう、ここには慣れました?」
「ぼちぼちですね」
千葉愛が深いもので。
「学校はこの辺り?」
「私は浦の星女学院の1年生になります」
「そっか。じゃあ私の後輩だね」
「え、てことは…………」
「今年度から浦の星女学院3年になります松浦果南です。よろしくね比企谷さん」
「あ、はい!改めまして比企谷小町です!こちらは兄の…………」
「比企谷八幡だ」
「お兄さんの学年は?」
「兄は果南さんと同じですよ~」
「そっか。よろしくね」
「あ、ああ…………」
「先日生徒会長とも偶然出逢ったんですよ♪」
「生徒会長…………ダイヤ?」
「はい!お知り合いなんですか?」
「小っちゃい頃からの親友だよ」
一瞬表情が翳った気がするのは何故だろうか。
「お二人に学校で会えるの楽しみだなぁ~」
「あ、実は今休学中なんだ」
「え?どうしてですか?」
「おい、小町」
「あ、お父さんがケガしてるだけだよ。それでお店手伝ってるの」
さすがに踏み込みすぎかと思い、小町を制するが、松浦はあっさり答える。
「そうか」
「あ、何ならうちの兄を使ってくれていいですよ!どーせヒマだし」
確かに本当の事なんだけどね。いや、いいんだけどさ。
「え?わ、悪いよ。大した給料出せないし」
「いえいえ、果南さんみたいな美人と働けるならお兄ちゃんも気にしないと思います」
「おいおい」
小町に抗議しようとすると、突然の大音量に遮られた。
「果南ちゃ~ん!」
声のする方を見てみると、ボートから女子が二人手をぶんぶん振っていた。
*******
「やっほ~!果南ちゃん!」
「ヨーソロー!」
松浦の知り合いと思われる二人がボートを降り、こちらへ駆け寄ってくる。蜜柑色がかった短めの髪の少女は手をぶんぶん振り、薄目の茶色が印象的なショートボブの少女は敬礼しながら、という賑やかな挨拶スタイルだ。
「今日も二人して元気だね」
「もっちろん!新学期始まったらやりたい事始めるからね!景気づけに潜りに来たよ!」
「そちらの二人は、お客さん?」
ヨーソロー(仮)の視線がこちらに向く。
「うん。この前引っ越してきたんだって。こっちの子は千歌達の後輩になるよ」
「え、そうなの!?」
「初めまして比企谷小町です!こっちが兄の…………」
「比企谷八幡だ」
「私は高海千歌です!浦の星女学院の2年生!」
元気いいなー。でも少し声のボリュームを落としていただけると助かります。
「ヨーソロー!初めまして。渡辺曜です!」
つられて敬礼をしそうになった。軽く手を上げて応え、それをごまかす。片や小町はビシッと敬礼を返している。適応力高すぎである。
「ヨーソロー!私の事は小町って呼んでください、先輩♪」
「よろしくね、小町ちゃん!お兄さんも!」
「お、おう…………」
唐突な距離の詰め方に一歩引いてしまう。こちらが男だという事はあまり意識していないようだ。男の勘違い製造機である。
「お兄さんはどこの高校に通うんですか?」
渡辺が隣にすとんと腰かけてくる。こちらは普通の距離感で助かる。
「沼津の共学だ」
「へえ、結構大きな高校ですよね。あ、二人はどちらから引っ越してきたんですか?」
「「千葉!」」
「「…………」」
あ、やべ。千葉愛が爆発してドン引きさせてしまった。高海と渡辺は顔を見合わせている。
「千葉って…………どこだっけ?」
「東京の下だよ、千歌ちゃん」
「くっ。これが千葉のイメージなのか…………!」
「お兄ちゃん、ファイトだよ!お兄ちゃんが千葉の良さを広めていけばいいんだよ!」
「ああ、そうだな…………」
「よ、曜ちゃん。私、何かいけない事言っちゃったかな?」
「多分…………」
「あはは…………」
意外と東京の下という表現も傷つくのだがあえて口には出すまい。さて、MAXコーヒーはどこかな?そこの自販機には…………ない。
「ねえ、皆で一緒に潜らない!?」
「お近づきの印にって事で!」
「いいね、やろう!」
「ほら、お兄ちゃん!」
「あ、ああ…………」
幾つもの歯車がギシギシと音を立て、静かに回り出す。どの歯車がどの歯車と噛み合うのか、それは誰にもわからない。
「ここで…………海の音が聞けるのかな?」
「フフッ、ようやく戻って来れたワ。待っててね果南、ダイヤ!」
こうして物語の続きが紡がれていく。
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Your song 桜内梨子編
Your song
「りっこりっこり~♪あなたのハートにりこりこり~♪笑顔届ける桜内りこりこ♪皆だいすき~……りこっ♪」
「…………」
「……リアクションしてくださいよ。一応彼氏なんですから」
「いや、それとこれとは別だし……てか何やってんだよ」
「か、可愛いアイドルの練習です!スクールアイドルですので!」
「……そうか」
「そうです」
「…………」
「…………」
桜内は頬を赤く染め、気まずそうに目を伏せる。そこまで恥ずかしがるならやらなきゃいいのに……。
それにしても……一応、彼氏か。
……何故こうなってしまったのか。
*******
転校初日。
当たり障りのない挨拶を済ませ、背景に溶け込んだような静かな時間を過ごした俺は、何となく砂浜に足を運んでいた。
この前の高海達とのスキューバダイビングで、割と海が好きになったのかもしれない。まったくの無人というわけではないが、ぼんやり考え事をするのにも向いてそうだ。
ざらざらした砂浜に腰を下ろし、静かにたゆたう海を眺めていると、特に意識していなくても、千葉でのあれこれを思い出してしまう。
……今頃何してるのだろうか。
そんなことを考えていると、背後からじゃりっ、じゃりっ、と砂を踏みしめる音が聞こえてきた。
振り向くと、一人の制服姿の少女がそこにいた。
赤みがかった髪が風に揺らめき、その端正な顔立ちも相まって、何だか小説の中の登場人物が、そのまま抜け出てきたかのような気分になる。
その少女は、波打ち際まで一歩一歩ゆっくり歩き…………こけた。
そりゃもう豪快に顔から海面に突っ込んだ。
水しぶきが上がり、それと同時に俺は自然と駆け出していた。
しかし、彼女はすぐに立ち上がる。
そして俺と目が合った。
「「…………」」
しばらく無言で見つめ合う。というより、目が離せなかっただけだが。
しかし、彼女の視線が何を訴えようとしているのかは理解できた。
『見たわね』
うん。俺のせいじゃないけど、ただひたすら気まずい。
とりあえず顔を背け、進路を変え、何事もなかったかのように振る舞い、そっと砂浜をあとにする。
これが俺と桜内梨子の初めての出会いだった。
*******
「は、恥ずかしい……何であそこで転ぶのよ……ちょっと海の音を聴こうと思っただけなのに……」
私は溜め息を吐き、一人ぼっちの砂浜に腰を下ろす。
さっきの人はもういない。何だか悪いことしちゃったかも。
すると、春の風が優しく頬を撫でていき、慰めてくれている気がした
「ふぅ…………くちゅっ」
やっぱりまだ寒いわね……風邪引かない内に早く帰ろ。
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Your song #2
学校帰り、今日は真っ直ぐに帰ろうと自転車を黙々と家へ走らせていると、波止場に誰かがいるのが見えた。
普通ならそのまま通り過ぎてしまうのだが、その服装に見覚えがあり、つい自転車を止めてしまう。
あれは昨日の……。
何故こんな所で…………そんな疑問はすぐに拭い去られた。
「なっ……!?」
思わず声が漏れる。
なんと、その少女はいきなり制服を脱ぎ捨て、水着姿になった。
おい、マジか。まだ4月だぞ。
「たあ~~~~~っ!」
何故か気合いを入れ、海に向かい走り始める少女。
さすがにやばいと思うが距離がありすぎて、止められそうもない。
しかし、そこで誰かが少女を引き止めた。
「し、死ぬから!死んじゃうから!」
あれは……高海?
高海にしがみつかれた少女は、それでもなおもがいていた。
「離して!いかなきゃいけないの!」
どうしてそこまで……もうこれ、エナが乾いてるとかじゃないの?
とりあえず駆け寄ろうとすると、二人はバランスを崩した。
「「わぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」
大きな水飛沫が何かの始まりを告げるように上がり、俺は近くにあった紐付きの浮き輪を手に駆け寄った。
*******
「……くしゅっ!」
「もうっ、ダメだよ!まだ4月なのに……」
「…………」
高海はぷんすか怒りながら、謎の少女の隣に腰かける。
てか、お願いだから濡れた服のまま気にせずに動くのはやめようね。目のやり場に困っちゃうだろうが。
「あの……」
謎の少女から声をかけられ、やや緊張気味に目を向けると、彼女は立ち上がり、俺と高海に深々と頭を下げた。
「ごめんなさいっ!それとありがとうございます……」
「えっ?あ、いいよ、そんな……ていうか、私も比企谷さんにお礼言わなきゃ!ありがとうございました!」
「……い、いや、別に。偶然通りかかっただけだから」
いきなり女子二人から頭を下げられ、むず痒い気持ちになるが、話題を変えようと何とか口を開いた。
「つーか、何でこんな時期に海に入ろうとしてたんだよ?」
「そうだよ、海に入りたいならダイビングショップに行けば……」
高海の言葉に、彼女は首をふるふると振った。
「違うの……海の音が聴きたくて……」
「「…………」」
某携帯会社のCMソングを彷彿させるような言葉に、俺と高海は顔を見合わせる。例えば、材木座が同じ発言をしていれば、中二病として片づけられるのだが、彼女の言葉には、そう感じさせない切実さがこもっていた。
とはいえ、それを深く追及するような勇気も図々しさも俺にはない。
このまま黙るのかと思ったが、彼女は話を続けた。
「私、作曲やってて……でも、最近何も思い浮かばなくて……それで、何となくだけど、海にヒントがあるんじゃないかって……」
作曲か……正直まったくわからん。
ただ、彼女が藁にもすがる想いなのは、はっきりと伝わってきた。
その内心もがいている横顔は誰かに重なって見えた。
焚き火の音だけが聞こえる何ともいえない空気の中、高海が携帯を取り出した。
「じゃあ、元気が出る曲かけてあげるね!」
「え?」
高海が歌手名も曲名も言うことなく流したメロディーが、人気のない砂浜に響きだした。
*******
曲が終わり、微かな余韻が波音と溶け合っていく。
高海が流した曲には、自然と引き込まれる何かがあった。てか、スクールアイドルか……総武にはなかったし、そういう知識には疎いから知らなかった。
ちなみに、謎の少女からの感想は「普通」らしい。まあ、こういう感想もあるだろう。
高海は特に気にした風もなく、つらつらとスクールアイドルの素晴らしさを語っている。
そして、彼女が話終えたと同時に、俺は立ち上がった。
「じゃあ、俺帰るわ」
すると、高海がこちらに駆け寄ってきて、あっという間にパーソナルスペースを侵略してきた。
「あっ、比企谷さん!さっきは本当にありがとうございました」
「あ、ああ……」
近い近い……!
高海の無防備すぎる距離感に戸惑いながら、ゆっくりその場を離れようとすると、謎の少女と目が合う。
彼女は少し恥ずかしそうに顔を伏せた後、ぺこりと頭を下げてきた。
俺もそれに倣い、頭を下げ、その場をあとにする。
その日の夜。何故か彼女の横顔が何度かちらつき、そのことがやけに胸を締めつけた。
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Your song #3
「あ、こんにちは……」
「……おう」
翌日、もう会うこともないと思っていた少女と再会した。中学時代なら、うっかり運命を感じちゃいそうになるレベル。
しかも、彼女は小町や高海と同じ制服を着ていた。
俺の視線に気づいた彼女は、疲れの滲む笑顔を向けてきた。
「実は私、東京からこっちの学校に転校してきたんです」
「そっか」
「えっと……比企谷さん、ですよね?確か千葉から転校してきたって、高海さんが言ってました」
「……ああ」
「じゃあ、どこかですれ違ったかもしれませんね」
「……どうだろうな、あまり東京行かないし」
「デスティニーランドは?」
「まあ、たまになら……てか、結構疲れた顔してるんだが……」
「え?ああ、実は高海さんにスクールアイドルに勧誘されまして……7回くらい」
「…………」
昨日出会ったばかりで、今日7回も勧誘か……そりゃあ疲れるわ。高海、『押してダメなら諦めろ』という素晴らしい名言を知らないのか。
「私、今はピアノの事意外考えられなくて……」
「……そっか」
「あっ、そうだ。助けてもらったのに自己紹介がまだでしたね。私、桜内梨子って言います」
「……どうも」
桜内は自分の名前を名乗ると、ぺこりと頭を下げた。
その立ち振舞いの一つ一つに上品さや育ちのよさやらが滲み出ている気がする。
頭を上げてから、彼女はやわらかな笑顔を向けてきた。
「じゃあ、失礼します……きゃっ」
歩き出そうとしな桜内は、何かに躓き、こけそうになる。
「っと!」
何とか踏みとどまるが、手に持っていた鞄と手提げ袋が地面に落ちる。
「……大丈夫か?」
「あわわ……!」
中身をぶちまけたのか、やたら慌てて拾い集めている。
とりあえず手伝おうと駆け寄ると彼女はバッと顔を上げた。
「あっ、ちょっと、待っ……!」
「?」
その表情はあまり手伝って欲しくなさそうだが……これは……薄い本?
「ああっ!」
「……カベクイ?」
拾い上げた薄い本の表紙には、綺麗な女子が可愛い女子に壁ドンし、アゴをクイッとしているイラストが……
「ダメッ!」
とてつもない反応速度で、すぐさま奪われる。
桜内は先程とは打って変わった焦り顔で、こちらを見ていた。
「み、見ました?」
「見てない」
「嘘だっ!!!!!」
怖っ!この人怖っ!!何なの、一体?全然キャラ違うんだけど!
豹変した彼女の表情にたじろいでいると、彼女は俺との距離を詰め、ゆっくりと肩に手を置いてきた。
そして、顔がやたら近くまでくる。形のいい鼻や唇、長い睫毛。宝石のような瞳に見とれそうになるが、それどころじゃないのはわかった。
やがて彼女のうっすら赤い唇が開く。
「……さっき見た物はすぐに頭の中から消去してください」
「お、おう……」
「お願いしますね」
「……わかった」
「ふふっ、ありがとうございます♪それじゃあ、失礼しますね」
極上の微笑みを見せた彼女は、身を翻し、そのままてくてくと歩いていく。
俺はしばらくその背中を見つめていた。
……ま、まあ、その、あれだ。
あいつが色々やべえ奴なのはわかった。
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Your song #4
「「あ」」
二人して固まる。
昨日の出来事があってから、その翌日に本屋帰りに遭遇するとは……思わず「不幸だ~!」と叫びたくなる。まあ、こいつはさすがにレールガンとか撃ってこないだろうけど。
しかし、レールガンのように鋭い視線に射抜かれ、俺は足が震えるのを抑えながら、見なかったことにして、その場を去ることにする。
あっちも同じ様に振る舞うかと思えば、そうでもなかった。
「どうして逃げるんですか?」
「…………」
どうやら逃げることは許されないらしい。
俺は溜め息と共に振り返り、彼女に向き直ると、その表情からは、ほんの少し気まずさが見てとれた。
「そんな無視しなくてもいいじゃないですか」
「……いや、逃げるだろ。普通に」
「べ、別に逃げなくてもいいじゃないですか。人を危険人物みたいに……」
「別に危険人物扱いはしてない。ただ怖いだけだ」
「それ、意味合いはそんなに変わりませんよね?」
「……確かに」
「否定しないんですね。まったくもう……別にあなたに危害を加える気はありません」
「そのセリフが既に怖いんだが……え、何?お前ヒットマンなの?」
「ち・が・い・ま・す!こんな可憐な乙女つかまえて、何言ってるんですか」
「自分で言うのかよ……まあ、いい。その袋の中の本、ぶちまけないように気をつけろよ」
「なっ!?何で中身を知ってるんですか!もしかして、ストーカー?」
「いや、違うから。ありえないから。じゃあな」
「ああ、はい。それじゃ……」
「あっ!桜内さ~ん!比企谷さ~ん!」
いきなり聞こえてきた声の主はすぐにわかった。
目を向けると、高海と渡辺と、知らない女子三人がすたすたと歩み寄ってきた。
その姿を見た桜内は、肩をびくんと跳ねさせ、明らかに他所行きの笑顔を向ける。
「あら、どうかしたの?申し訳ないけど……私、スクールアイドル部には……」
「違うよ。せっかくだから一緒にお茶でもどうかなって?そういえば二人って仲良かったんだね?」
「「違う」」
「う、うん、なんかごめんなさい……」
うっかりタイミングが被ったことに気恥ずかしさを感じていると、いきなり強い風が吹き荒れた。
「きゃっ!」
その風にバサッとはためくスカートを手で押さえる桜内。言っておくが別に見ていたわけではない。たまたま視界に入っただけだ。俺は悪くない。
そんな事より……
「あっ」
桜内が何かに気づいたような声を上げる。
どこかに破れかけた部分があったのか、なんと彼女の持っていた紙袋がビリビリに破れ、中身が地面にぶちまけられた。
「あ~~~~!!」
「だ、大丈夫!?」
「手伝うよ!」
「あっ、ちょっと待っ……」
高海達が手を伸ばすのを止めようとするも、間に合わずに彼女達は迅速に拾い集めてしまう。
そして、ピタリと固まった。
「これ……えっと……カベクイ?」
「普通のカベドンとアゴクイも……」
「ち、違うの!違うのよ!これは……」
何というベタなオチ。
高海は、しばらく気まずそうな顔をしていたが、すぐに笑顔を向けた。
「さ、桜内さん!スクールアイドルってすごいんだよ!だから……ね!」
話題転換下手か!!どう考えても勧誘するタイミングじゃないだろうに……
思わず心の中でツッコミを入れていると、渡辺がささっとまとめた本を桜内に手渡す。
「私、何も見てないから、うん」
優しすぎる嘘松に、全俺が泣きそうになっていると、桜内はまだ言葉を並べていた。
「そう!これは作曲の為なのよ!曲作りっていうのはありとあらゆるものからインスピレーションを……」
「だ、大丈夫だよ!桜内さん!」
「私達、そういう偏見とかないから!」
「好きなものを好きと言える気持ち抱きしめていようよ!」
「ち、違……」
桜内は顔を真っ赤にし、わたわたしている。助け船を出そうにも、このシチュエーションは初めてすぎて、どうしようもない。そもそも、ボッチ歴長すぎて、誰かに助け船を出すシチュエーションにほとんど遭遇した事がないんだが……。
そこで彼女と目が合う。
「…………」
「…………」
え?何でこっち見てんの?俺何もできませんよ?
その意味ありげな視線に首を傾げると、何故か距離を詰められ……
「っ!」
「なっ……!?」
いきなり桜内は俺の腕にしがみついてきた。
そんな桜内の挙動に、周りの女子達も目を丸くしている。
突然の甘い香りと柔らかな感触に、何がなんだかわからなくなっていると、彼女ははっきりと宣言する。
「本当に私、そういうのじゃないから!!だって私……この人と付き合ってるんだから!!!」
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Your song #5
……………………は?
俺の頭上を疑問符が飛び交う。
今、何て言った?
桜内の発言の内容をもう一度反芻してみても、上手く理解できない。
すると、高海が驚きと共に口を開いた。
「えぇ~~~~~~~!!?」
彼女は俺と桜内を交互に見て、ただだだ目を丸くしている。どうやら俺と同じく、まだ現実を飲み込めてないみたいだ。ちなみに、他の四人はポカンとしたまま、何故か俺の方を見てくる。
やがて、高海は桜内に詰め寄り、キラキラした瞳を向けた。一方、桜内のほうは気まずそうに唇をひくひくさせ、視線を逸らす。
「ねえねえ、いつから付き合ってるの!?まだ出会ったばかりだよね?」
「え、えーとぉ……そう!今さっきよっ」
おい。
「そうなんだぁ、それで……ど、どっちから告白したの!?」
「えっ!?あー……」
嘘のハリボテがあっさり剥がれ落ちようとしていると、渡辺が高海の肩に手を置き、ふるふると首を振った。
「千歌ちゃん。千歌ちゃんにはまだ早いんじゃないかな?」
妹に諭すような渡辺の言葉に追従するように三人組も頷く。
「「「確かに」」」
「そ、そんなことないもん!私、もう高校2年だよ!」
どんだけ子供扱いされてんだよ……。
つーか、やばい。場の雰囲気に流されすぎてやばい。
このままでは訳のわからん事情に巻き込まれ、面倒を抱えることになる。
それだけは断固阻止しなければならない。
「……いや、俺は別に……」
「っ!!」
口を挟もうとした瞬間、彼女はガバッと俺の腕をとった。
突然の柔らかな感触に、危うく「おふぅ……」とか気持ち悪い声を漏らしそうになる。
そして、ほぼ同時に太ももに痛みが走る。
彼女はこっそりと太ももの裏をつねっていた。
目をやると、至近距離から花が開いたような、美しい笑顔を向けてくる。そして、その棘もしっかりアピールしてきた。
俺は、腕に絡みつく柔らかな温もりと太ももの痛みに、何ともいえない複雑な表情になりながらも、とりあえず抗議することにした。
「……おい」
「お願いします!話をあわせてくださいっ」
「どうかしたの?」
「な、何でもないのよ!今からどこに行こうか相談していただけ!ね、ダーリン♪」
「…………」
今、めっちゃ鳥肌たったぞ。初対面の時からテンション変わりすぎて怖ぇ……!てか、何がダーリンだよ。実際に使う日本人いたのかよ……。
桜内は、俺の沈黙を勝手に肯定と受け取り、高海達に手を振りながら歩みを進めた。
「じゃ、じゃあ、私達もう行くから!ごきげんよう!!」
「…………」
よくわからないまま、彼女は俺をどこかへ連れていこうとしている。
……仕方ないから、ここはこいつに協力しておこう。
そう。別に肘に押しつけられている何かのせいじゃない。絶対に違う。
*******
「大変申し訳ございませんでした」
「……ああ」
喫茶店にて、俺は彼女から頭を下げられている。店員の目は気になるが、今はそれどころではなかった。
「あの方法しか思いつかなくて……」
「そりゃあ、凄まじい思考回路だな。将来は発明家にでもなれそうだ」
「…………」
「まあ、とりあえず……後は知らんから、どうにか言い訳を……」
「ちょ、ちょっと待ってください!少しの間でいいですから……!」
「……いや、んな事言われても」
「こ、こんな可愛い子の彼氏になれるんですよ?形だけでも……!」
「…………」
自分で言っちゃったよ……どうやら自分の容姿に関しては、雪ノ下ばりに自信があるらしい。
……まあ、確かに美人だと思う。
だがそれとこれとは別である。
「じゃあな」
「ちょっと待ってください!」
「?」
「あ、あの手を使うしか……」
何だ、次は何をやるつもりなんだ?
急に身に纏う雰囲気を変え、しゅんと俯いた彼女は、制服の胸の辺りをきゅっと摘まみ、数秒経ってから、何かを放出するように顔を上げた。
「……お願ぁい……!」
「…………」
居たたまれない空気が店内を支配し、店員さんにあまりに申し訳なかったので、俺は彼女を促し、喫茶店を出た。
*******
外に出ると、そろそろ陽が沈みきってしまいそうだった。
空はうっすらとした赤色も消えかけ、夜の帳が降りかけている。トラブルに巻き込まれている内に、意外と時間が経っていたのか。
彼女は半ば諦めたような表情で話しかけてきた。
「あの、それで……」
「……はあ。まあ別に……」
「っ!」
「まあ、フリだけなら別に……構わん」
正直、もう断るのも面倒くさい。別にヤクザとマフィアを騙すわけでもないから特に危険も何もないし、たまに並んで歩くくらいなら、材木座の小説を読むよりもずっと楽だろう。
俺の言葉を聞いた彼女は何故か神妙な顔をして頷き、俺の肩に白い小さな手を置いた。
「じゃあ、さっそく……ん」
「はっ?」
頬に柔らかいものが触れる。
「っ……い、今……」
「う、う、嘘とはいえ恋人ですし?た、ただのお礼ですから!えっと……勘違いしないでくださいね!」
彼女は耳まで真っ赤にして、そっぽを向いた。
今、こいつ、何した……?
「…………」
「な、何か言ってくださいよ」
「い、いや、べ、別に……?」
「あぁ、もう!恥ずかしいじゃないですか!さよならっ!」
彼女はいきなり駆け出し、すぐにその背中は見えなくなった。
……いや、恥ずかしいのはこっちなんだが……てか、あれ?え?
今さらながら、頬にキスをされたという事実が頭の中を侵食していく。心臓がいつもより高鳴るのがはっきり自覚させられる。
こうして、俺にガールフレンド(嘘)ができた。
……てか、何で……今の、する必要あったのか?
*******
「あああああああああああああぁぁ~~~~~~~!!私ったら何やってるのよ~~バッカじゃないの!?バーカ、バーカ!!」
「り、梨子?……あの子、大丈夫かしら?」
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Your song #6
「お兄ちゃん、どったの?帰ってくるなりぼーっとして。あと顔赤い」
「……いや、な、何でもない」
結局、この後は勉強も何も手につかなかった。
*******
「梨子、本当に大丈夫?顔赤いけど……」
「あはは、大丈夫大丈夫、本当に」
結局、この後はピアノも何も手につかなかった。
*******
衝撃の展開の翌朝……。
「「あっ……」」
登校中にまさかの遭遇。
どうやらこのまま会わずにフェードアウト……なんて真似はできないようだ。
……いや、もしかして昨日の出来事は夢だったんじゃなかろうか。
「お、おはよぉ♪ふぁちまんしゃん」
「…………」
噛みすぎて誰の事だかわからねえ……てか、もうファーストネームで呼ぼうとしてやがる……。
「ち、違う違う!もっと自然に……おはよ♪八幡さんっ」
桜内は何事もなかったかのように言い直した。こいついちいちハート強すぎだろ……初めて見かけた時には、かなり儚げな雰囲気があった気がしたんだが、あっちが夢だったのか。
「あの~!もしも~し、八幡さ~ん!無視しないでくれますか~?」
「……周りに誰もいないから、今は普通でいいんじゃないか?」
「何言ってるんですか。そういう油断からバレるものなんですよ」
「経験者は語る……だな。その注意力を……」
「何か言いましたか?ダーリン♪」
「……いや、何でもない」
だから怖いんだよ、その笑顔。あと声も。可愛い子ぶってる時のが怖いとかどうなの?
……まあいい。引き受けたからには淡々とやり過ごすだけだ。
「……じゃあ、その……途中まで一緒に行くか」
「えぇっ!?」
何故か桜内は目を見開き、俺から距離をとった。いや、本当に何故だ。
「何だよ。なんかあんのか?」
「いえ、その優しげなリアクション……ま、まさかとは思いますけど……本当に私の事、好きになったんですか?だとしたら、それは申し訳ないですけど……」
「…………」
ダメだ。こいつと話してたら精神が汚染されるかもしれん。無視だ無視。初登場時の小さなときめきを返せと言いたいところだ。
「む、無視しないでくださいっ!……えいっ!」
「ひぁっ」
思わず気持ち悪い声が零れ出てしまった。
そう……桜内は、有無を言わさず俺の左手を握りしめていた。
ひんやりした柔らかな手の感触に、鼓動が跳ね上がり、落ち着かない気分になる。
「ちょ……おま……」
「だ、だだ、大丈夫でしゅよ、これくらい……ほら、高校生だし……仮にも恋人同士だし……ね?」
ね?じゃねえよ。朝っぱらからどんなテンションなんだ、こいつ。
しかも、よく見なくてもわかるくらいに顔が真っ赤になっている。何気にまた噛んでたし……。
さらに、間違いなく俺も顔は赤いだろう。こんなのがしばらく続くと思うと、それだけで気が滅入りそうだ。
「あ~っ、お二人さん、おはよ~っ!」
「「っ!……お、おはよう」」
「あははっ、二人ともおんなじリアクションだ。朝から仲良いね♪」
いきなりやってきた高海の挨拶に対して、まったく同じタイミングで返事をしてしまう。
その偶然に何ともいえない気持ちになっていると、桜内は俺の方に、「ほら、私の言ったとおりじゃないですか」とでも言いたげなドヤ顔を向けていた。
……朝だけでこの疲労感とか、本当に大丈夫だろうか。
まあ赤点候補の五つ子の勉強を見たり、十四股を目指すよりは楽かと自分を慰め、俺は桜内の手を握り返した。
……やはりその手は小さく、指先は細く滑らかだった。
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Your song #7
「ああ~!!何だかドツボにはまってる気がする~!!」
御手洗いにて、私は一人頭を抱えていた。
あの場面を乗りきる為についた嘘が、まさかこんなことに……しかも、比企谷さんに思いきり迷惑かけちゃってるし。
私は、さっきまで比企谷さんの手を握りしめていた右手を見つめた。
……うーん、まさかこういう形で男子と手を繋ぐことになるとは……手、意外と大きかったな。
いやいや!!!私ったら何浸ってるのかしら?はやくこの件は何とかしないと……曲も作らないといけないし……まだ書ける気がしないけど。
「梨子ちゃん?」
「ひゃわっ!」
いきなり名前を呼ばれ、飛び上がってしまう。
振り向くとそこには何ともいえない表情をした高海さんがいた。
「ど、どうしたの、高海さん?」
「あはは……梨子ちゃんが一人で悩んでたみたいだから」
「え?ちなみにいつからいたの?」
「えーと、右手をじーっと見てたあたり、かな?」
「そ、そう……なの」
よかった~、てっきりばれたのかと思ったわ。
いや、待って。そもそもこれ、本当の事言っちゃったほうがいいんじゃないかしら?
そうよねっ!今この場でドッキリでした~!って言えば、問題解決するわよね!
だって比企谷さんにあまり迷惑かけられないし、クラスメイトに嘘をつくのは心苦しいし、何よりもう例の本の事は忘れてるだろうし!
「あの、高海さん、私ね?本当は……」
「もしかして、桜内さん……比企谷さんとケンカしちゃったとか!?」
「え……?」
「いや、今朝二人を見たら、なんかこう……ぎこちないというか……あっ、私そういう経験ないから、よくわかんないんだけど!でも、相談くらいならのるよ!」
「…………」
わぁ……高海さん、良い人だな~。良い人すぎて、本当の事言いそびれちゃったけれど……。
とにかく、今本当の事を言うのは、すっごく気まずいわ……。
「あはは、ケンカとかじゃないの。ほら、何ていうか……まだ距離をはかりかねてるというか……はい」
とりあえず「はい」とか締めちゃってる自分が恥ずかしい。てかやばいわ……このままじゃどんどんドツボに……もうはまってる気がするけど。
「そっかぁ、じゃあ困った事があったら言ってね!あとスクールアイドルの事も考えてくれたら嬉しいなっ、それじゃ!」
「あっ、高海さん……」
*******
「……ていう感じです」
「…………」
ていう感じです、じゃねえよ。え、何?この子、アホの子なの?由比ヶ浜よりアホの子してる奴は中々見かけねえぞ。
放課後、桜内から待ち伏せされた俺は、そのまま並んで歩いていた。やわらかな風に優しく揺れる草木が羨ましく思えるくらい慌ただしい……。
*******
「くしゅっ!」
「由比ヶ浜さん、どうかしたの?」
「あははは、何だろ?誰か噂してるのかなぁ?」
「……比企谷君じゃないかしら。きっとあなたの良い所を誰かに話してるのよ」
「え、ええ?もう、しょうがないなぁ、ヒッキーは……」
*******
「…………」
「どうしたんですか?いきなり黙って……」
今、アホな子がアホな事考えてる気配がしたんだが……気のせいだろうが。まあいいか。
「……何でもない。それより、今日はどうするんだ?帰るか?」
「自然に逃げようとしないでください。その……今日はとりあえず私の家に来てください」
「はっ?」
この子いきなり何言ってんの?き、聞き間違い……じゃないですよね?
あまりの衝撃に、ついつい疑問を口にしてしまった。
「……お前、もしかして俺の事好きになっちゃったの?」
「はぁっ!?な、な、何考えてるんですか!べ、別にあなたの事なんか好きでもなんでもないんですからね!」
「お、おう……」
どうしてテンプレツンデレな台詞なのかはともかく、桜内のやたら真っ赤な顔を見ながら、何とか気持ちを落ち着けた。
「ていうか、さすがに家に行く必要はないんじゃないか?そもそも家の中だったら誰も見てないから意味なくないか」
「だ、誰もいないって……な、何考えてるんですか!いやらしい!」
「…………」
いやらしいのはその思考回路じゃないですかね?まあ、口には出さないけど。
すると、彼女は急に顔を伏せ、ほんの少しだけ切なそうな表情を見せた。その表情のコントラストに何ともいえない気分になっていると、彼女はポツリと口を開いた。
「……お願いが、あるんです」
「…………」
年頃の(一応)美人が、お願いだから今から家に来てとか……。
「な、何顔赤くしてるんですか」
「いや、俺は悪くない。お前が悪い。いいからさっさと要件を言え。思春期男子の想像力なめんな」
「あ、はい、ごめんなさい。実は……聴いて欲しいものがあるんです」
「……わかった」
そういやこいつ、作曲をしてるんだった。
別に断ってもよかったのだが、彼女の澄んだ瞳を見ていたら、自然と首を縦に振っていた。
すると、彼女は胸元を隠し、警戒するような目を向けてきた。
「あの……いくら恋人役をお願いしてるからって、変な事しないでくださいね」
「…………」
やっぱり帰ろうかな。無理か。
かぶりを振った俺は桜内家までの道を、とぼとぼ辿りながら、これから聴かされる曲に対する想像を膨らませた。
しかし、どれだけ頭の中で鍵盤を叩いても、なんのメロディーも出てこなかった。
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Your song #8
桜内の家は旅館の隣にあった。至って普通の一軒家で、ウチと大して変わりないのに、妙な親近感を覚えた。
「どうかしたんですか?」
「……いや、別に」
「そうですか。じゃあ行きますよ」
桜内に向かって首肯すると、彼女は「大丈夫、ありのままを言えばいいだけ」とボソボソ呟きながら、玄関の扉に手をかけた。
さっそくトラブルの予感が……
「ただいま」
「あら、おかえり……そちらの男の子は?」
「あっ、その……「ただの彼氏よ、彼氏!」……」
えー……何で自分から外堀埋めに行ってんの?いや、外堀は既に埋められたから、家康ばりに内堀まで埋めに行ってるようなもんだ。とりあえずバカだろ、お前。
「か、彼氏……?」
案の定、桜内の母親はポカーンとした瞳で自分の娘を見つめていた。ほら、やっぱり変な空気に…
「そう……えーと、あなた、お名前は?」
「……ひ、比企谷八幡です」
ここで誤魔化したところで、余計混乱を招くだけなので、とりあえず自己紹介だけしておく。
「……比企谷、八幡君ね。ふふっ……じゃあ、娘をよろしくお願いします」
「は、はあ?」
よろしくお願いされちゃったんだけど……どうなってんだ、桜内家……てか、気まずさやら何やらで顔見れねえ……。
そこで、ようやく桜内が話を打ち切るように、足を動かした。
「じゃ、じゃあ……私達、部屋に行くから……」
「ええ。すぐに飲み物持っていくわね。比企谷君もごゆっくり」
「は、はい……」
これでいいのだろうかという漠然とした疑問を浮かべながら、俺は桜内の背中を追った。
二階への階段を昇る途中、背中に生温かい視線を感じたのは、気のせいだと思いたかった。
「……ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
彼女の部屋の中は、特に変わった物はなく、いかにも女子高生という感じの部屋だ。いや、そんなに入った経験ないけど。
それと……なんか甘い香りがする。
すると、気恥ずかしさからか、桜内は少し顔を赤くしていた。
「あ、あまりキョロキョロしないでください!なんか恥ずかしいじゃないですか……」
「安心しろ。この前の事故以上の事はそうそう起こらねえよ。てか、案外普通の部屋でよかった」
「どういう意味ですか!」
むしろ何故その心配をしないと思ったのか……。
ぶっちゃけ、あちこちにポスターとか貼ってたら、回れ右していたところだ。
「それよか、聴かせたい曲とかいうのがあるんじゃないのか?」
「あっ、そうでしたね。じゃあ、すぐに準備しますので、適当にその辺の本棚の本読んでていいすよ」
「……えぇ?」
「いやっ、そういう本ばかりじゃありませんからね!?」
「そ、そうか……」
あー、びっくりした。危うく「この変態!通報しますよ!」とか言いそうになったわー。
*******
「じゃあ……弾きますね」
「……ああ」
こちらにぺこりと一礼してから、桜内は鍵盤に指を這わせた。
すると、穏やかなメロディーが室内を満たし始めた。
まるで海の中にいるような、不思議な感覚に、心が安らぐのを感じながら、俺は彼女の旋律に身を委ねていた。
どこか懐かしい気分がして、その感覚は心をくすぐり、いつまでも聴いていたい気分になった。
しかし、その優しい時間は、やがて終わりを迎えた。
その余韻を残しながらも、彼女は顔を上げ、こちらを見た。
「ど、どうですか?」
「……ああ、お前、本当にピアノ弾けたんだな」
「ありがとうございます!……って、そこですか!一体私を何だと思ってるんですか!?」
「……隠れオタク兼トラブルメーカー」
「ぐっ、否定できない……ていうか、それはもういいので、曲の評価をお願いします」
「あー……まあ、その、聴いてて落ち着くような感じだが……」
「なるほど……あの……どんな風景が思い浮かびました?」
「…………海、だな」
「海、ですか」
桜内は口元に手を当て、ふむふむと考え込んでいる。
「よし……じゃあ、ある程度イメージ通りにはできてるみたいね。あとは……」
桜内は、そのまま独りでぶつぶつ呟いてから、またピアノに向かい、演奏を始めた。今度は誰かに聴かせるというより、自分自身に語りかけているような響きに思えた。
そして、その横顔は……あまり認めたくはないが、否定しようのないくらい……綺麗だった。
*******
彼女がまたピアノを弾き終えると、それを待っていたかのようにドアが開いた。
「お待たせー」
「あ、お母さん、ありがとう」
「……どうも」
「どういたしまして。比企谷君、甘いものでよかった?」
「あ、はい。だ、大丈夫です……」
「そう……ならよかったわ」
桜内母は、テーブルにお盆を置き、部屋から出ていくかと思えば、そのまま俺の隣に腰を下ろした。
そして、何故か彼女はこちらをじぃ~っと見つめてきた。
……ぶっちゃけ気まずいんですが……てか桜内母、さっきはあまり見れなかったが、よく見たら、めちゃくちゃ若っ。ガハママに匹敵する若さである。あと香水の香りが、控えめだけど、確かな大人の色香を伝えてくる。
緊張を悟られぬよう、そのまま視線を交錯させていると、桜内がジト目でこちらを見ていた。
「……あのー、さっきから何を見つめあってるんですか?」
「ふふっ、ごめんね?梨子の人生初の恋人だから、つい気になっちゃって」
「…………」
その気になるとはどういう意味なのか?私、気になります!てか、オラすげードキドキすっぞ……。
すると、桜内母は何か思いついたように、ぽんと手を打った。
「そういえば、あなた達恋人同士なのよね?」
「……う、うん。そうよ。付き合いたてのとびっきりフレッシュな仲よ」
「………」
とりあえず頷くだけにしておく。これ以上ドツボにはまってたまるか。
そんな俺を見て、やわらかい笑みを見せた桜内母は、楽しそうに話を続けた。
「恋人同士なら、「あ~ん」って、ケーキ食べさせたりとかは余裕よね?」
「えっ……?」
「…………」
……この人は何を考えているのでしょうか?
カマをかけているのか、それとも全て察したうえでからかっているのか……。
どちらにせよ、俺も桜内もそんな手に乗るほどバカじゃない。そんな事やるわけ……
「も、もちろんじゃない!は、はい、あ~ん♪」
「…………」
前言撤回。やっちゃうんだよなぁ、こいつは。
「あ~ん!」
「…………」
いや、やるわけ……
「あ~ん!?」
それもう脅してるじゃねえか。
結局観念して開いた口に、ケーキを乱暴に突っ込まれる。
初めて女の子から「あ~ん」で食べさせてもらったケーキは、そのシチュエーションのせいか、あまり甘くなかった。
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Your song #9
春眠暁を覚えず。
この時期のベッドの中は言うまでもなく気持ちよく、できればずっと出たくないなどと、心の底から思えてくる。もう今日は休みでいいような気がしてきた。てか、休みじゃね?休みだろ?休みだよな?
「……………………す。……………………さい」
すると、何やら聞き覚えのある声と不穏な気配がする。いや、それが何なのかはもう気づいている。だがこれは気のせいだろう。そうだ。そうに違いない。そうですよね?
しかし、現実はそう甘くはない。
そいつは急に動きだした。
「ああ、もう!おはようございます!朝ですよ~!彼女(偽)が起こしに来ましたよ~!」
「……お、お前、マジか……」
「マジです。さあ起きてください」
予想だにしない展開に一気に目が覚める。
……あれ?おかしいな。女子から朝起こしてもらうって、もっとドキドキワクワクするイベントだと思ってたんだが……。
とりあえずまだ鈍い思考回路を働かせ、体をむくりと起こしながら、疑問を口にする。
「……なんでいんの?」
「迎えに来たからですよ。家が近いので。たまには一緒に登校しないと不自然じゃないですか」
「……そ、そうか。てかなんで俺の部屋に……小町は……?」
「小町……あ、妹さんですね。あんな可愛い妹さんがいるなんてびっくりしましたよ。あんまり似てないですね」
「ほっとけ……あー、一応聞いておくが、家族には……」
「恋人って言っておきましたよ。」
「…………」
どうしてこの子は自分から外堀と内堀を埋めていっちゃうの?バカなの?お前、本当は俺の嫁になろうとしてんの?
俺は溜め息を吐き、また想像した以上に騒がしくなりそうな1日を迎える事になった。
*******
制服に着替えてリビングに行くと、珍しく母ちゃんがいた。
新聞から顔を上げると、こちらにやけに爽やかな笑みを向けてくる。
「おー、おはよう、八幡。梨子ちゃん、ありがとね」
「いえいえ。これぐらい……か、かか、彼女の役目ですから……」
「………」
おい。顔真っ赤にして明らかに無理してる感が出てるぞ。
しかし、母ちゃんも母ちゃんで初めての経験に浮き足だっているのか、気づく様子はない。
「やるわね。引っ越して早々こんな美人さんと付き合うなんて……」
「いや、まあ……」
ちなみに、慌てて肯定したのは桜内が物凄い視線を向けてきたからだ。
……おい。ガチで外堀内堀埋まって、開門してる状態じゃねえか?
そんなこちらの心配など何処吹く風で、桜内は母ちゃんと楽しげに話している。おい、少しは気にしろ。色々と。
だが、その横顔は……その横顔だけは、深窓の令嬢と形容できるくらい上品で、少し……綺麗だった。
*******
家を出て、少し先を歩く桜内に、俺はもう一度疑問をぶつけた。
「それで……今日は朝からどうしたんだよ」
「さっき言いましたよ?とりあえず一緒に通学しようって」
「……本当は?」
「本当ですよ。私を何だと思ってるんですか?」
「お前は俺が出会った人間の中でもトップクラスで頭がおかしいとはっきり言ってやりたいが、まあ朝から無駄にカロリー消費したくないから黙っておこう」
……いや、なんでも。
「セリフとモノローグが逆になってますよ!頭がおかしいとはなんですか!」
「むしろ、これまでの言動からすれば妥当な判断だと思うが…」
「そんな事言うならこれあげませんよ」
こちらを振り向いた桜内はランチバックを俺の目の前でぷらぷらさせた。
「……何だ、これ」
「見ての通り、お弁当です。あ、べ、別にそんなんじゃないですからね!一人分も二人分も一緒というか……ほら、一応恋人同士のフリをしてるから、こういう事もしないとばれるかもしれないですし?と、とにかく勘違いしないでくださいよね!」
「…………」
今さらそんなテンプレみたいなツンデレされても……それに……
「…………」
「どうしたんですか?」
「いや、お前……料理とかできたのか?」
「はぁ!?で、できますよ、料理くらい!バカにしないでください!ハンバーグとかも朝から作ったんですから!」
「わ、悪い……なんかそういうイメージなかったからな。てっきりスーパーで買ったやつをそのまま移してそうな……」
「ふんっ、あまりの美味しさに震えるといいですよ」
「……ありがとな。まあ、その……購買行く手間がなくなって助かる」
「どういたしまして……ていうか急に素直にならないでくださいよ。なんか恥ずかしいじゃないですか」
「いや、まあ、その、あれだ……やってもらった事に対してはきっちり礼を言うのがポリシーなんでな。この借りは後で返す」
「じゃあ、遊園地行きたいです」
「っ!」
いきなりな提案に咳き込みそうになった。こいつは本当に……
「いや、なんでそんなガチのカップルみたいな提案するんですかね……」
「いや、私もパンさん好きなんですよ」
知らねえよ。
「ていうかそこ千葉だろ。さすがに二人分の交通費は出せねえよ。却下だ、却下」
「そうですね……確かにそれは申し訳ないですし……あっ、それじゃあちょっと付き合って欲しい事があるんですけど……スクールアイドル関連で」
「……えぇぇ……」
「な、なんでそんな嫌そうなんですか?」
「そりゃあ、まあ……いや、毒を食らわば皿までとか言うし……」
「誰が毒ですか」
こうして休日と引き換えに昼飯を確保した。おい、等価交換の原則はどうした。
ちなみに、彼女の手作り弁当は意外なくらい美味かった。
「うわ、ヒキタニくんの弁当シャレオツじゃね?もしかして、この前の彼女さんの手作り!?」
「……違ぇよ」
いらぬ誤解がさらに広がったが……。
*******
日曜日。スクールアイドルの練習に付き合う羽目になり、一話の冒頭シーンに戻るわけだが……あの時は驚かせて悪かったな。いや俺は悪くないけど。
桜内から呼ばれた俺は彼女の部屋で、その様子を見守っているのだが……
「ほら、何か行ってくださいよ。」
「いや、なんか無理してる感があってな……」
「無理してる感……あっ、じゃあ語尾に『リコ♪』ってつけるのはどうですか?可愛いと思うんですけど」
「可愛いとイタイの境目を見事についてるな……」
「イ、イタイ!?失礼ですね!これでもYouTubeで研究したんですよ!」
「……別にわざわざキャラつくらんでも、普通でいいだろ。母ちゃんもお前の事美人って言ってたし」
「ふぁっ!?」
桜内が急に奇声を発し、顔を赤くした。
「い、い、今、美人って……え?その、本気で惚れられたとか?やだ、困る……でも……いや、やっぱり……」
「…………」
おーい。母ちゃんが言ってたんだよ、母ちゃんが。
彼女が正常な状態に戻るのには30分ほどの時間を要した。
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Your song #10
「……スクールアイドルを始めた?」
「はい。実は昨日から……」
「そっか。まあ頑張れ」
「反応薄っ!もうちょっと何かないんですかっ!?」
「いや、別に……」
いきなりの発表で驚きはあるが、まあ彼氏役に付き合わされる時間が減るのはいいことだ。
ちなみに、今も普通にカップルのように並んで歩いている。いや、これだけでカップルというにはアレかもしれないが、桜内的には充分すぎるらしい。その慎ましさをもっと別のところで生かせんのか。マジで。
「だから、しばらくは一緒にいられる時間が減るので……ごめんなさい」
「ああ、わかった……おい、ちょっと待て。俺は偽恋人の役をやってるだけなんだが。いつの間にお前の事が好きみたいな話になってんの?」
「……たしかに」
すげえな、すっかり忘れてたというのか。爆発しねえかな。
「まあ、とにかく……スクールアイドル活動は思う存分やってくれ。それで……」
「その忙しさを理由に、さりげなく別れようとしていませんか?」
「……え?ダメなの?」
むしろ、たったひとつの冴えたやり方だと思うんだが……。
桜内に疑問を込めた視線を向けると、彼女は気まずそうに目を逸らした。おい、まさか……
「まあ……ほら、色々とあるじゃないですか、色々と……」
「おい。その色々との内容を今すぐに話せ」
「……あっそうだ!そろそろゴールデンウィークなので、紅葉狩りに行きませんか?」
「気がはえぇよ。咲いてはいるけど散ってねえよ」
「あはは……」
やがて桜内は、ものすごく言いづらそうにもじもじながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの、ですね……お母さんから、『比企谷君は今年3年生でしょ?卒業したらどうするの?』って聞いてきたから、ずっと一緒に決まってるじゃないとか」
「お前、俺の事本気で好きになったの?」
「ち、違いますよ!ただ、すぐ別れて、ふられたみたいに思われるのもアレなんで……」
「…………」
誰か、(頭が)冴えないヒロインの育て方を教えてくれ。いや、マジで。
*******
その日の夜、勉強の休憩に寝転がって、ぼんやりしていると、彼女の顔が思い浮かんだ。
まあ、実際のところは高海達に同人誌を見られたあの場はしのいだわけだし、明日にでも性格の不一致を理由に別れたとかいえば、それで済む話なのだ。
ただ、不思議なことに、そこまでして辞退しようとは思わなかった。
これはアレだな……ア○ア様から迷惑かけられるカ○マの心境かもしれないな。そうに違いない。
考えていると、いつの間にか眠りに誘われていた。
*******
学校帰り、駅前の本屋に立ち寄ろうと自転車を漕いでいると、見覚えのある女子達がビラ配りをしていた。
「ライブやりまーすっ!」
「よろしくお願いしまーす!」
すると、高海がこちらに気づいて、とてとてと駆け寄ってきた。
「あっ、比企谷さんだ!」
「……お、おう」
だから、大声で呼ぶなっての。周りの視線がこっちに集まっちゃうだろうが、恥ずかしい。
「ほら梨子ちゃん!比企谷さん、来たよー!」
またもや大声で呼ぶのを聞きながら、桜内の方に目をやると、そこには目を背けたくなるような光景があった。
「ライブやります。観に来てね」
桜内が、ポスターの女の子に向かってビラを差し出している。練習と思いたいが、こいつの場合はガチでやってるんじゃないかという不安もある。
「「…………」」
俺と高海は溜め息を吐き、黙ってかぶりを振った。
*******
「まったくもう……常識で考えてくださいよ。ポスター相手に話しかけるわけないじゃないですか」
よかった。どうやらただの練習だったらしい。しかし、こいつの場合、それを疑われるという現状をどうにかしたほうがいいと思うんだが……もし、タイトルが独立していたら『捻くれた少年と気が触れた少女』か『捻くれた少年と頭のおかしな少女』だと前も言っただろうが。
「まあまあ、梨子ちゃん。それより比企谷さんに渡さなくちゃ、でしょ?」
「……そうね」
高海の言葉に頷いた桜内は、ビラを一枚こちらに渡してきた。
「べ、別に、あなたのためにライブをやるわけじゃないんですからね!」
「…………」
こいつは何故、こんなテンプレツンデレでドヤ顔をしているのだろうか。ほら、高海も「ちょっと何言ってるのかわからない」って顔してるだろうが。
だが、少し……ほんの少し、どんなステージになるのか気になりながら、俺は彼女から、可愛いイラストが描かれたビラを受け取った。
*******
その日の夜。
「……はい」
「あ、もしもし……さ、桜内です」
「……そっか。じゃあな」
「ちょっ、な、何で切るんですか!待ってください!」
「……ええぇ。もう夜なんだけど、眠いんだけど……」
「今回は本当にいい用事なんですよ」
「そもそも悪い用事を持ってこられるのが問題なんだが……」
「うっ……ま、まあ、それはそれとして!聞いて欲しいことがあるんですよ!」
「すいません。深夜のテンションでマジ告白とかありえないし、今そういう気分じゃないので出直してきてください。ごめんなさい……」
「いや、なんで私ふられてるんですか。それより、その……私、できちゃったんです」
「…………は?」
今、こいつ、何て言った?
彼女はいつもより明るめに話を進めた。
「いや~、難産でした!」
「はっ?早くね?もう?」
「そうですか?もう一年近く作ってましたから、だいぶ時間かかってますけど」
「えっ、そんなに?いや、ぱっと見わからなかったけど……」
「何言ってるんですか、この前聴いたくせに。それより、この子の名付け親になってくれませんか?」
「いやいや、名付けないから。てかそれ俺のせいにされても困るから。さすがにそこまでは……」
「えーっ、曲の名前を決めるくらい、いいじゃないですかー!」
「…………曲?」
「はい。ようやく完成した私の曲ですよ。今度聴きにきてくださいね」
「……じゃあ、もう寝るわ」
「えっ?どうしたんですか、いきなり?ちょっ……!?」
とりあえず、こいつの相手は電話でもかなり疲れることがわかった。
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Your song #11
とある日の放課後……。
可愛らしい家具やぬいぐるみを控えめに置いていて、ほんのり甘い香りが漂う清潔感のある部屋は、ピアノの音で満たされていた。
それは春の日差しのような心地よいメロディー。
歌詞があるわけでもないのに、そこには前向きなメッセージが込められているのが、何となくわかった。
やがて曲が終わり、じっくり余韻に浸ろうと考えたところで、ピアノから離れた桜内は、俺の正面に座った。せめてテーブルを挟んで欲しいんだが……。
彼女は距離感とかそんなのはお構い無しに、どこか自信なさげな瞳を向けてきた。
「あの……どうですか?」
「……あー、まあ、いい感じだと思う」
俺の感想を聞いてから、彼女はうんうん頷き、また距離を詰めてきた。ふわりと上品な香りが漂うのが、今の気分とアンバランスで、何とも言えない……。
「ちなみに、どういう風にいい感じでした?」
「いや、なんつーか、今の季節に合ってるとは、思う……」
「なるほど……じゃあ、気になる部分とかありました?」
桜内はさらに距離を詰め……てか、近すぎるんだが……今、鼻に少し息かかったぞ……。
「…………」
「どうして黙って……あ」
桜内もようやく気づいたのか、ピタリと固まる。
「…………」
「…………」
すぐに動くかと思った彼女は、何故かこちらを見つめたままで、見つめ合う態勢になった。
白く透き通るような頬は、ほんのりと紅く染まり、瞳は微かに揺れていた。
窓の外から聞こえてくる子供のはしゃぐ声が、やけに大きく聞こえる。
そんな中、先に口を開いたのは桜内だった。
「あ、あの……何か言ってくださいよ」
「……いや、つーか、まあ、その……」
お前がこの状況を作ったんだろうが、というツッコミはさておき、そんな事言われても、そんなすぐ出てくるはずもなく、ただ時間だけが、じわりと進んでいく。
そこで、いきなりドアが開いた。
「お待たせ~。……あらあら、ごめんね?」
カップやケーキの載ったお盆を持った桜内の母親は、「おほほほ」と無駄に上品ぶった笑みを残し、ドアを閉めた。
「ちょっ、お母さん!?そ、そういうのじゃないからね!?あとドアはノックして!」
「…………」
とりあえず、何か言ったら墓穴を掘りそうなので、黙っておこう。
扉が閉まる直前の桜内母のウインクが何を意味しているのかはわからなかった。
*******
桜内母からの差し入れを受け取り、ひと息ついていると、先程の出来事を思い出したのか、桜内はぷんすか怒りながら口を開いた。
「まったくもう……お母さんはたまに常識がないんだから」
「…………」
「何ですか、その『お前はいつも常識ないけどな』みたいな目は」
「お前、読心術使えるのか。すげえな」
「失礼ですね!」
「まあ、あれだ……ライブ、そろそろだっけ?晴れるといいな」
「露骨に話題を変えましたね。まあ、たしかに晴れて欲しいですけど」
天気予報だと今のところ曇りだが、まあ当日には運良く……なんてこともあるかもしれない。窓の外に目を向けると……てか、飲みかけのペットボトルが何本か置いてあるじゃねえか。部屋は綺麗にしてあるのに。
まあ、今はほっとこう。本人の飲むペースもあるだろうし。
「そういや今さらだが、お前、ダンスもできたのか」
「いえ、初心者ですけど、まあまあリズム感には自信があるので」
「そっか」
「何なら少し振り付けを見せてあげましょうか?」
「……別にいい」
「一回しかやらないから、見ててくださいね」
「…………」
なんだ、この一方通行のコミュニケーション。俺の言葉反射させてんのかよ。
そんな傍若無人ランキング第一位の桜内は、すっと立ち上がり、軽やかなステップを踏んだ。
思ったより軽快な足運びについ目を奪われていると、桜内はドヤ顔でこちらを見た。
「ふふん、どうですか?私をピアノだけが取り柄の運動音痴な美少女だと思ってたから、ギャップにやられたんじゃないですか?」
「……アホな事言ってると転ぶぞ」
「まさか、そんな……あっ!」
言わんこっちゃない。
つるりと足を滑らせた桜内は、そのままこちらに倒れ込んできた。
いくら予想していたとはいえ、いきなりすぎて碌に受け止める態勢もとれないでいると、そのまま彼女の体がぶつかってきた。
膝を床にぶつけたのだろうか、ガンッと大きめの音が響く。
「あたたた……ご、ごめんなさいっ!大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……むしろ、そっち平気か?」
「はい、少し膝を打っただけなので……あはは、調子に乗りすぎちゃいましたね」
「…………」
急にしゅんとした笑顔を向けられても困るし、それに一刻もはやくこの態勢を何とかして欲しい。無駄に美人なんだよ、こいつ……。
いや、本当にはやく動かないと、この後の展開なんて誰でも予測でき…
「大丈夫?すごい音したけど……あら……ええと……ごめんね?」
「「…………」」
ほら、こうなる。知ってた。てか、この距離感、本当にやばいから!色々と!
この後、桜内母の誤解を必死に解こうとする桜内を見ながら、脳内に焼き付いた彼女の笑顔やら感触やらを反芻した。
*******
しばらくして比企谷さんが帰ると、私はベッドに寝転がった。
はあ……まったく、散々な目に合ったわ。まあ、私が全面的に悪いんだけど。
「……あの人、意外と大きな体してた……いやいや、何を考えてるのよ、私は!」
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Your song #12
まさかの雨。
ライブ当日でというのに……実はあいつ、雨女なのか?
ライブ会場となる体育館へと歩きながら、晴れる気配のない曇り空を見つめていると、俺は一つの事実に気づいた。
……そういや、さっきから人見ねえな。
イベントの告知はしてあるし、少しぐらい体育館を目指して歩く人を見かけてもいいと思うのだが……。
自分の事でもないのに、何故か不安が胸をよぎるが、ここで俺が考えても仕方ないので、とりあえず会場に向かう事にした。
まあ、会場に行けば、先に家を出た小町もいるしな。
*******
体育館の扉を開くと、10人いるかいないかくらいの女子が全員こちらを向いた。うわあ……女子に告白した翌日の教室思い出すからやめてね。
すると、その中に混じっていた我が妹が、とてとてとこちらへ駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、意外とはやかったね!」
「ああ……てか、まだこんぐらいしか来てないのか?もうちょっとで開演だろ?」
「んー……あはは」
小町が笑いで誤魔化すあたり、どうやら観客がこれ以上増える可能性は低いようだ。
……まあ仕方ないのかもしれない。
考えてみれば、まだ始めたばかりで、どれほどのパフォーマンスができるのかもわからないスクールアイドルをわざわざ休日に観に来る奴は、家族や友達、クラスメートならいざ知らず、それ以外には中々いないだろう。
でも何故だろうか。
関係ないはずなのに、心の片隅で悔しいと思っている自分がいる。
曲作りに励んでいるあいつを見たからだろうか。
やがて、ゆっくりと幕が上がり始めた。
ステージにいる彼女達の姿が見えると、その衣装のせいか、なんだか本当のアイドルに思えて、つい視線が吸い寄せられてしまう。
彼女達はガラガラの館内を見渡し、ほんの数秒気落ちしたように見えたが、すぐに顔つきが変わり、これから何か始まる空気に変わる。
すると、桜内としっかり目が合ってしまった。
もちろん声をかけたりなどしないし、手を振ったりもしないが、それでもしばらく視線を逸らせなかった。
彼女はゆっくり頷いたが、その時微かに笑顔を見せた気がした。ピアノの演奏会でステージに立ち慣れているから、少しは余裕があるのかもしれない。
3人がそれぞれ配置につくと、イントロが流れ出した。
穏やかな旋律に、今度は弾けるような楽器の音が重なり、自然と体がリズムを取ってしまう。
そして、さらに彼女達の声が加わる。
「わあ……」
小町も三人に見とれていた。
ステージから感じる熱にあてられているようだ。
だが、そこで突如異変が起こる。
なんと突然館内の照明が落ち、ピタリと音楽が止まった。
それが演出でないことは明らかだった。
「……小町、大丈夫か?」
「うん、こっちは大丈夫だけど……」
その言葉だけで、小町の視線がステージに固定されたままなのがわかった。
暗闇の中、徐々に目が慣れていくと、戸惑っている3人の姿が確認できた。
……まずいな。
会場の温度が徐々に冷えていくのがわかる。
そんな中でも、メンバーはアカペラで歌おうとしていた。
「……桜内」
「お兄ちゃん?」
自然と足が前に進んでいく。何ができるわけじゃなくても。
ただ、彼女達のライブをどんな形であれ、最後まで見届けたかった。
そこで、背後からガラッと扉が開く音がした。
さらに、車のライトが館内を煌々と照らした。
「バカ千歌ー!!あんた時間間違えたでしょー!?」
どうやら高海の姉のようだ。
そして、それが合図になったかのように、館内に人が押し寄せてきた。え、何?皆一緒に来たの?仲良しなの?
急に人で満たされていき、すぐに満杯になった館内を見回してから、再び桜内に目を向けると、彼女は力強く頷いた。
そして、音楽が会場内を盛り上げるように甦った。
今度こそラストまでやりきった彼女達は深々と頭を下げた。
「「「ありがとうございました!!」」」
こうしてAqoursの初ステージは、慌ただしくも温かいものになった。
ステージ上の桜内は初めて見る表情で、俺はしばらくその姿から目を離すことができなかった。
*******
何故か俺はライブ後の片付けを手伝うことになり、終わってからは桜内と並んで帰路に就いていた。
いつの間にか雨は止んでいて、曇り空はだいぶ明るくなっていた。
「はぁ……滅茶苦茶緊張しました……」
「そっか。まあ、お疲れ……てか、なんで俺達当たり前のように一緒に帰ってんの?」
「え?そりゃあ……恋人同士(偽)だからですよ。いえ、ニセコイ中とか言ったほうがオシャレですかね?」
「やめい。なんか一々聞いたのがアホらしくなってきた……とりあえず、最後までライブできてよかったな」
「ふふっ、本当に。まさか今日に限ってあんなに天気が悪くなるなんて。もしかして雨男だったりします?」
「いや、それはこっちの台詞なんだが……イベントの主役はそっちなんだから、雨の原因もそっちだろ。あと幸薄そうだし」
「はあ!?何言ってるんです!曇り空みたいにどんよりした目してるクセに!そっちのほうが幸薄そうですけど!」
「ぐっ……それはまあ否定しないが……」
「あ、そうだ!それより……」
彼女は何かを思い出したかのようなに、突然俺の前に立った。
そして、さっきステージで見せたのアイドルとしての笑みを向けてきた。
「観に来てくれてありがとうございました。もしよかったら……また来てくださいね」
「……まあ、暇なら」
先程の雨を忘れるくらいに賑やかな帰り道。
やがて雲の合間から、光が射してきた。
「あの……今の私、めっちゃアイドルっぽくなかったですか?すごい可憐な笑顔してましたよね。写真に撮っておけばよかったくらいの笑顔ですよね」
「自分から色々台無しにしてるけどな」
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Your song #13
ファーストライブも終わり、いよいよ本格的に活動が始まる私達は、空いた時間を使って、部室の掃除をしていた。
「はぁ~、やっと終わったよ~」
「あはは、お疲れ様」
「ほらほら、掃除終わったからって寝転がらないの。早く片付けて帰るわよ」
「そだね。今日は私も水泳部の練習あるし」
「は~い」
普段はこんな感じなんだけど、ステージだと頼りになるのよね。
すると、千歌ちゃんはこちらを見て、口を開いた。
「梨子ちゃんは今日はデート?」
「ぶふぉあっ!!げほっ!げほっ!」
「ど、どうしたの梨子ちゃん!?」
曜ちゃんが背中をさすってくれる。ありがたいけど、力強すぎませんかね?
「いえ、別に……彼の事を思うあまりむせただけだから」
「そうなの?何て言うか、ウソついてる人がギクッとしてむせたみたいな感じだったから」
「…………!」
この子、わざとやってるんじゃないかしら。ニアピンどころかホールインワンよ。
何とか気を取り直した私は、なるべく大人びた笑顔と優雅な仕草を心がけて、彼女達に向き直った。
「ほら、うちの彼氏、今年受験があるから。あんまり遊んでばかりもいられないの」
「そうなんだぁ。やっばり梨子ちゃんの彼氏だから頭いいんだろうなぁ」
「そ、そうねぇ……まあ、うん」
「あれ、梨子ちゃん大丈夫?なんか汗かいてるけど」
「大丈夫大丈夫大丈夫。ほら、りっこりっこり~」
「「…………」」
あ、滑った。
「うわ……」と顔に書いてる感じ。やだ、めっちゃ恥ずかしい。
とにかく!今度あの人に詳しいことを聞いておかなくてはならない。
*******
「ふぅ……どっと疲れたわ……」
『りっこりっこり~』は可愛いと思うんだけどなぁ。そもそもやってる私が美人なわけだし……。
帰ったらゆっくりピアノでも弾いて、気持ちを落ち着かせよう。
「って、私ったらいつの間にかこんな所まで……」
気がつけば、だいぶ長い距離を歩いていたみたいだ。
そういえば、この辺りに図書館があったわね。たまには寄ってみようかな。
ひとまず足を踏み入れてみると、中はそこそこ人がいた。それでいて静寂が保たれているのだから、図書館ってやはり独特な空間だと思う。
さて、何か借りようかな。それともここで読もうかな……ん?あれは……。
視界の片隅に、見覚えのある人物がいたので、ついそちらに足が向かう。
なるべく近づいて、もう一度確認してみると、やはり比企谷さんだ。どうやら図書館で勉強しているらしい。
ふむ……こうして見ると、イケメンっぽく見えなくもないというか……目つきはあれだけど……って、私ったら何やってんのかしら。いや、これもボーイフレンド(仮)の生態を知るには必要なことよね。ふむ……。
「あの……どうかされましたか?」
「はっ!い、いえ、何でもありません!」
いきなり職員さんに声をかけられ、肩が跳ねる。そ、そんなに怪しかったかしら?
さらに、近くに置いてあった脚立を蹴り倒してしまう。
ガシャンっと静寂な空間に罅をいれるように、大きな音が響いた。
同時に数多の視線がこちらに向く。あ、気まずい。申し訳ない。
「す、すいません!」
慌てて脚立を立て直し、職員さんに頭を下げる。ていうか、この声も大きいし、あーもう何やってるんだろう、私……。
「お前、何やってんの?」
「……別に」
「……あっそ。じゃあな」
「あ~!ひ、一人で行かないでくださいよ~!」
*******
「ふぅ……」
「いや、何黄昏てリセットしてんの?全然できてないからね。むしろ俺も巻き込まれて、しばらく行きづらいわ」
「それはさておき、比企谷さんの得意科目とか教えてくださいよ」
「え、何?何なの?唐突すぎて怖いんだけど……」
「はーい、怖くないですから吐きましょうね♪私のも教えますから♪」
「ええぇ……交換条件になってなさすぎるんだけど……」
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Your song #14
「おはようございます」
「……なあ、当たり前のように朝っぱらから人の部屋にいるのやめてくんない?」
枕元で作り笑い浮かべてるもんだからマジでおっかねえわ。何だろう、本物の彼女みたいな真似やめてもらっていいですか?
「それで……何か用か?」
「せめて布団から出てきてから言いません?二度寝する気満々じゃないですか」
「だが断る」
「それは相手の要件を聞いてから言う言葉ですよ。まったくもう……」
「いや、絶対に面倒なやつだろ……」
「そんなわけないじゃないですか。あの……今から一緒出かけませんか?」
「…………」
ほら、面倒なやつじゃん。知ってた。
布団を被り、これ以上は何も聞かないというアピールをすると、外側から揺さぶられているのを感じた。
「とりあえず話を聞いてくださいよ~!絶対に損はさせませんから!」
「いや、損しても構わないからお断りします。これ以上関わると、さらなる泥沼にはまりそうな気がするんで」
「八幡、あまり梨子ちゃんを困らせちゃダメよ」
「…………」
目を向けると、ドアの隙間から母ちゃんが顔を覗かせていた。
何だ、このシチュエーション。まるでねぼすけな男子を起こしにきた健気な幼馴染みの女子みたいな、こいつに有利でしかない見られ方をしている。
「いえ、私が好きでやっていることですから。気にしないでください」
「…………」
見たかよ。この変わり身のはやさを。このお嬢様スタイルを1割くらい俺に向けて欲しい。いや、今さらやられても失笑ものかもしれんが。
まあ何はともあれ、このままこうしていても、母ちゃんや小町に何を言われるかわかったもんじゃない。そうなるともう手をつけられない。何なら桜内母の元へ逃げる所存だ。
俺は溜め息を吐き、観念して起きることにした。
*******
身支度を整えている間、桜内は部屋の隅っこで、漫画を読み耽っていた。何だ、この徐々に慣れてきた感じ。何ならそのうち普通に晩飯まで食っていきそう。
準備ができたので、彼女から話を聞き始めると、まあ予想していたような内容だった。
「……作曲のネタ作りにデート?」
「はい……こう、頭の中にはっきりとした情景が欲しいんですよね。せっかくファーストライブも成功したことだし」
「そっか。まあ、色々難しいだろうが、全力で応援するわ。じゃあな」
「またそうやって逃げようとする……一回デートしてくれるだけでいいですから!ね!?」
「いや、別に出かけるくらいならいいんだが……いいのか?」
「え?どういうことですか?」
「いや、何つーか……あれこれ言われるというか……これだと、その……本当に付き合ってるみたいな感じになるけど、大丈夫なのか?」
「え?……はっ!ま、まさか、このままさりげなく逢瀬を重ねて、本物の恋人になろうとしてますか!?ごめんなさい。ぶっちゃけそこそこ相性良さそうだし、一緒にいて気が楽ですけど、まだそういう気分ではないのでお断りします。ごめんなさい」
「……お前、千葉にあざとい身内か知り合いがいたりする?」
「いえ、いませんよ。どうしてですか?」
「……いや、別に」
案外アレをやる女子は日本中にいるのかもしれない。まあ、そういうことにしておこう。
こうして、なし崩しに桜内との外出が決定した。
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Your song #15
「それで……どこに行くんだ?なるべく近場で……」
「こっちです」
「っ!」
いきなり手を握られた。
現状を正しく認識する為、もう一度確認する。
いきなり手を握られた。
「……お、おい」
「えっ?どうしたんですか?」
「いや、手……」
「手?デートなんだから手ぐらい握りますよ」
当たり前のように言う桜内。
……ああ、そういやこいつ作曲の為に四月の海に飛び込むような奴だった。
ひんやりして柔らかな手の感触に、どうも落ち着かない感じでいると、彼女は何故か得意気な顔を見せた。
「ふっ、この程度で顔を真っ赤にして涙を流して感動するなんて、まだまだですね」
「いや、そんな顔真っ赤じゃないし、そもそも涙なんて一粒も流してないからね。嘘つくのやめようね」
色んな人が誤解するだろうが、まったく。油断も隙もありゃしない。
だが、このアホなやりとりのおかげで、緊張が少しやわらいだのも事実だった。
*******
それからバスに乗り込み、沼津へ向かうのだが……。
「……あの、バスの中で手を繋ぐ必要ありますかね……」
「しっ、静かに。今集中してますから」
バスの中でも握られたままの手を近くに座った主婦二人組がチラ見している。
さらに「あらまあ」「最近引っ越してきた家の子達よね。若いっていいわぁ」とか会話が聞こえてくる。つらい。
だが、海を見つめる桜内の瞳は真剣そのものだった。
おそらく今もこの風景からインスピレーションを……
「あ、同人誌をテーブルに置いたままだったわ」
「…………」
おい。
*******
それから、バスの心地よい揺れ具合にうとうとしかけたところで目的地に到着。その場所とは……
「商店街か……」
「ここなら色んなものが見れますからね」
「…………」
そうなると色んな人から見られることになるんですが。いや、今さらなのはわかってるんだけどね。
もし、これが外堀を埋めて俺を落とす作戦なら、まあまあ上手くいっているだろう。まあ、間違いなくそういうんじゃないだろうが。
「じゃあまずは喫茶店に行きましょうか。付き合ってくれたお礼に私が出しますよ」
「……いや、大丈夫だ」
「何でそんな警戒した顔してるんですか?」
「後で何を頼まれるかわからんからな」
「お礼って言ってるじゃないですか。私がそんな酷い悪女に見えますか?」
「……見えない」
本当は見えると言ってやりたかったが、「クソだらあ」とか言いそうな目を見せたので、すぐに入れ替えた。こいつ実はヤンキーなんじゃね?
*******
喫茶店に入ると、店内はぽつぽつ客がいて、曲名のわからないジャズが少し大きく聞こえた。
注文した物を受け取り、窓側の小さなテーブル席に向 かい合って座ると、何だか気持ちが落ち着く。
桜内の方はパンケーキも一緒に注文していた。
上に乗っかったバターがとろけるのを見ていると、何か注文しておけばよかったかと後悔する。
彼女はそれをフォークとナイフで丁寧に切り……
「はい、あ~ん」
「はっ!?」
いきなりこちらに向けてきた。やたら得意気な顔で。
「ご褒美ですよ、ご褒美。美少女からこんなことしてもらえるなんて滅多にないですよ。この前みたいに恥ずかしがらなくてもいいですよ」
「いや、恥ずかしがってないから。ほんとにいいから。てか何?これも作曲に必要なこと?」
「……そうかも」
何だよ、その小悪魔みたいなの。心臓に悪いからやめてくれませんかね……。
「あ、梨子ちゃんと比企谷さん!」
「用事ってデートだったんだ?」
「っ!」
今度は聞き覚えのある声。おい、前も似たようなのなかったか?
おそるおそる顔を向けると、なんとそこには高海と渡辺がいた。
ちなみに、桜内はまるでそんな姿勢のマネキンかのように固まっていた。
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Your song #16
「あはは、はは、ど、どうしたの、二人とも?」
桜内は平静を取り繕いながら、二人に笑いかけた。
いや、慌てすぎだろ。出くわす可能性がそれなりにあることは予想つくだろうに……。
とはいえ、このタイミングとは思わなかった。
俺は口を開いたまま、なんかアホみたいなことになっていた。
……うん。やっぱすげえ恥ずかしい。何を血迷ったのか、俺は。
高海と渡辺は驚き混じりの笑みをこちらに向けている。
「でも、本当に仲良いんだね~」
「うん、こんなに堂々と……」
「「…………」」
俺と桜内は自然と顔を見合わせた。とりあえずこのまま食うのはやめとこう……。
「えいっ」
「んぐっ!?」
閉じようとした口に、無理矢理生クリームが突っ込まれる。
えっ?そのまま続けちゃうの?めっちゃ恥ずかしいんだけど……ダレカタスケテェ……。
「わぁ……」
「人目も憚らずに……」
二人は掌で目を覆いながらも、指の隙間からしっかり見るという定番のボケをかましながら、キャッキャウフフと騒いでいる。やめて。本当にやめて!
だが、桜内は不敵な笑みを見せた。こいつマジか。どんなメンタルしてんだよ。
「あははっ、ほら、私達ラブラブだから~?」
何だよ、最後のでかい疑問符は。せめてやりきれよ。いや、やらなくていいか。
そして、俺の隣まで回り込んできた桜内は口元をひくつかせながら、腕を絡めてきた。
「っ!?」
いやいや、当たってる!当たってる!とっても控えめな何かが!
高海達は、そんなこちらの様子に呆れたような眼差しを向けていた。
「千歌ちゃん。邪魔しちゃ悪いからそろそろ行こっか」
「あ、そうだね!お邪魔しました~。梨子ちゃん、また学校でね~!」
二人はぺこりと頭を下げ、商店街の奥の方へと歩いていった。
何故かそれだけで脱力してしまう。
それは桜内も同じだったらしく、机に突っ伏していた。
「ふぅ……何とかやり過ごしたわ」
「やり過ごした……のか?」
「ええ、ご、ごめんなさい。いきなり……………………して」
最後のほうは聞こえなかったが、とりあえず謝ってるのはわかった。いや、いきなりしおらしくされても、それはそれでリアクションに困るんだが……。
桜内もそれに気づいたのか、自分の頬を両側からつねっていた。なんかアホな顔になってんだが……。
「あ、変な空気になりましたね。さて、そろそろ行きましょうか。」
「あ、ああ……」
*******
「で、次はどこ行く?もう帰る?」
「帰りませんよ!なんでそんな自然に帰宅提案できるんですか!?」
「…………」
どうやらこの手段は沼津でも使えないらしい。女ってこわい。
女子の面倒くささを再認識していると、桜内は立ち止まり、こちらを振り返った。
「つきましたよ。ここです」
桜内が指差す先には、少し古びた看板が特徴の、小さな楽器店があった。
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Your song #17
「へえ、こんなとこに楽器屋が……」
「ええ、ちょっと付き合ってください」
店内に足を踏み入れると、BGMの穏やかな旋律が心地良い。
楽器店に来たのは、昔ギターを買った時以来だろうか。
久々すぎて、初めて来た時のような新鮮さに浸っていると、奥から若い女性店員さんがやってきた。
「あ、いらっしゃい」
「こんにちは……え?梨子ちゃん、もしかして彼氏?」
「違いまっ……あはは、そうなんですよ~」
「…………」
おい、デート中とかいう設定はどうした。楽器屋で浮かれてすっかり忘れてただろ。いや、そのまま忘れてくれても構わないんだが。
すると、桜内はいきなり腕を組んできた。
「っ!?」
「わ、私達ラブラブで~」
だからいちいちオーバーなんだよ。自分から墓穴掘りやがって。真性のMなんですかね……あとさっきから当たってるんだが……。
「あらあら、見せつけてくれちゃって。今日は彼氏とどんな用事かしら?」
「あはは、五線譜を買いに来たんですけど、彼氏がどうしてもって言うから~」
「へえ、じゃあついでに一曲聴かせてくれない?」
「もちろんです」
桜内はゆっくりと椅子に座ると、慣れた手つきでピアノを弾き始めた。
店内を優しい旋律が包み込み、他の楽器を見ていた客の視線も自然と桜内に集まる。
俺もその旋律を頭の中で追っていた。
タイトルは知らないが、どこかで聴いたことのある曲だが、彼女の手によって、これまで聴いたものとは違った響きで耳に届けられる。
やがて音楽が鳴り止むと、数秒の静寂の後、ぱらぱらと控えめな拍手が聞こえてきた。
桜内は頬を赤らめながら、ぺこりと頭を下げ、こちらに駆け寄ってくる。
「な、なんか恥ずかしい……」
「いや、すごかった。お前ずっとピアノ弾いてりゃいいのにな……」
「あはは、それほどでも……あれ、今さらっとディスられませんでした?」
「つーか、五線譜買いに来たんじゃないのか?」
「誤魔化してる気が……まあいいか、買ってきます」
……セーフ。
いや、まあ……ピアノ弾いてる時は、本当にすごいと思ってるんだが。
それを本人に言うと、変なテンションになり、ウザそうなので言わないけど。
********
「ふぅ……たまに設定を忘れそうになっちゃうのがこわいですね」
「え?お前、俺の事本当に好きになったの?」
「はぁ!!?そんなわけないじゃないですか!」
「お、おう……」
めっちゃ否定されたが、今のは俺が悪かった。自重しよう。
すると、桜内がいきなり距離を詰め、耳元で囁いた。
「本当はそっちが好きになってるんじゃないですか?」
「いや、それはない」
「ちょっ、そこは照れるとこじゃないんですか!?」
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l Really Like You 小原鞠莉編
l Really Like You
転校初日、特に可もなく不可もなくのスタートだった。まあ、3年になったら、皆受験勉強やら何やらで、転校生など一々気にしていられないだろう。
現在時刻は正午を過ぎているとはいえ、まだ腹は減っていない。
とりあえず、この前見つけた本屋にでも……。
ふと目を向けた先、向かいの歩道を歩く誰かに、視線を縫い付けられる。
「ふぅ……この道も2年ぶりデスネ」
「…………」
春風にさらさら揺れる金髪。甘めのトーンが印象的な片言の呟き。この街の海のように透きとおった金色の瞳。白いワンピースから伸びる長い脚。
そこで、唐突にふわりと風が吹き、彼女の白いつば広帽を攫っていった。
そして、その帽子は俺の元へと飛んでくる。
胸元にふわりと飛び込んできたそいつを受け止め、こちらに駆け寄ってきた彼女に手渡す。
「サンキュー♪助かりマシタ」
片言の日本語がやけに心地良く響くのは、そのハキハキした明るい声のトーンのせいだろうか。去年の今頃の俺なら、そのまま回れ右して何事もなかったかのように去っているところだが、何故かその場に縫いつけられたように、立ち止まり、彼女の金色の瞳を見て……いや、つい見とれていた。
「どうかしマシタか?」
「え?あ、いや……」
キョトンと首を傾げる彼女に慌てて目を逸らす。
そのまま早足で立ち去……
「ちょっと待ってクダサイ」
「……な、何でしょうか?」
え、何?いきなり肩を掴まれたんだけど。逆ナン?
「アナタも財布、落としてますよ?」
「え?あ、ああ、悪い……」
頭を下げ、財布を受けとる。危ない危ない。ていうか意識しすぎだ、俺。だからただの偶然にいちいち意味を見出すなとあれほど……。
「あ、お兄ちゃ~ん!」
聞き覚えのあるとても可愛らしい声が聞こえてくる。振り向くと、天使……じゃない、小町だ。一瞬天使の羽が見えてしまった。
「お兄ちゃん、どしたの?ぼーっとして……」
「え?ああ、今……あれ、いない?」
さっきまで金髪の少女がいた場所には、もう誰もいなかった。
「えっ、何?お兄ちゃん、幽霊でも見たの?」
「いや、んなわけねえだろ。いや、本当に怖いからやめて?」
俺は手にした財布をもう一度強く握りしめ、さっきの出来事を思い返す。
それは間違いなく現実に起こった事だ。
*******
「鞠莉お嬢様。何かいいことでも?随分ご機嫌なようですが?」
「そうカシラ?ふふっ、アイリから見てそう見えるのならそうでしょうネ。それに……」
「これからもっと良いことが起きる……いえ、起こすんだから!」
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I Really Like You #2
新学期が始まってから数日。当たり障りのない静かな日々は、受験勉強をするのには最適だった。何ならこのまま高校卒業した後は専業主夫として当たり障りのない日々を送りたいものである。無理か。いや、決めつけはなしだよっ!
今日は休日ということもあり、本屋に行くことにしたのだが、せっかくだから普段とは違う道を通ってみようということになり、海沿いの道をのんびり自転車で走っていたのだが、視界にダイビングショップが入る。
……どうやら知らぬ間にいつか来た道を通っていたようだ。
そのまま通り過ぎようとすると、店から見覚えのある金髪が出てきた。
あれは……確かこの前の……。
とはいえ、話しかけるような知り合いでもないし、向こうも気づいていないようなので、見なかったことにしていると、彼女はいきなり視線を俺に向け、ぐっとにこやかにサムズアップしてみせた。
俺は自転車を止め、何故かドヤ顔気味の金色の瞳と見つめ合う。
いや、意味は何となくわかるんだが……。
とりあえず軽くサムズアップして、彼女をやり過ごすことに……
「ストップ!!」
やっぱり簡単には逃げられないようだ。
そして、ストンっと何かが荷台に乗っかる感覚がした。
「…………」
「チャオ♪」
振り返ると、荷台には金髪お嬢様が乗っていて、にっこり笑顔を見せた。
「……あ、あの……」
「ふふっ、途中まででいいから乗せてくれない?」
いや、もう乗ってんじゃねえか。
本来その席に乗せるのは小町だけなのだが、ここで説得をしても時間の無駄になりそうなので、俺は再び自転車を走らせることにした。
*******
「いきなりごめんね?本当は歩いて帰るつもりだったんだけど、ちょうどアナタが通りかかったから」
「……そうですか」
「ふぅ……やっぱり内浦の風は気持ちいいデス……」
言葉の割に、その声の響きはどこか切なかった。
本来なら黙って目的地に運ぶだけで十分だが、背後で白けた空気になられては、せっかくの休日が台無しである。
なので珍しく自分から話を振ってみた。
「……ダイビング、しに来たんじゃないのか?」
「ええ。今日は親友に挨拶しに来ただけだから」
「松浦に?」
「あら、アナタ……果南の知り合い?」
「いや、知り合いっつーか……この前ダイビングショップ利用した時、少し話したくらいだが……」
「そう……」
あれ?声のトーンが沈んだ……どうやら、話題のチョイスを間違えてしまったようだ。慣れないことはするべきじゃない。
俺は気を取り直し、しばらく無言のまま自転車を漕いだ。
*******
商店街に到着すると、彼女は俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「ここでダイジョウブデェス♪」
「……わかった」
ゆっくり減速し、商店街の入り口の近くで止めると、彼女はストンと自転車から降りた。
そして、こちらに先程の憂いを拭い去るような華やかな笑みを向けてくる。
「あー、ラクチンデシタ!サンキュー♪いい気晴らしになったわ」
「そっか、そりゃよかったな。じゃあ……」
「あっ、あなたの名前、聞いてイイ?」
「えっ?あー……比企谷八幡だ」
「八幡……ワオ!ユニークな名前ね♪」
「ほっとけ。てか、人に名前を尋ねる時は自分からって教わらなかったのかよ」
「Oh、ソーリー。そうでしたね……」
彼女は申し訳なさそうにペロッと舌を出す。その赤さに何故か胸の鼓動が高鳴った。
微かに色香を振り撒き、鮮やかな金髪を春風に靡かせながら、彼女は自分の名前を口にした。
「私の名前は小原鞠莉。気軽にマリーって呼んでね♪」
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l Really Like You #3
彼女は風にきらびやかな金髪を靡かせ、にっこりと微笑んだ。
その姿を見て、柄にもなく、素直に綺麗だという感想が浮かんでくる。そのぐらい綺麗だった。
この場面を切り取って絵にしたら、きっと素敵なものになると思えるくらいに。
「…………」
「フフッ、そんなに見つめられると恥ずかしいデス」
「っ!わ、悪い……!」
クスクスと笑われ、慌てて目を逸らす。い、いかん……つい見とれてしまっていた。
偶然も運命も宿命も信じないと決めているのだが、それでも見とれてしまうくらいに……いや、もう考えるのは止めておいたほうがいい。
「顔、すごく赤いよ?……アナタ、見かけによらずなかなかシャイデスね~」
「ああ、そりゃどうも……」
何がどうもだよ、と自分に心の中で突っ込みを入れながら、再び小原に視線を戻す。
すると、彼女はこちらに距離を詰めてきた。しかも面白そうな顔で。さっきの仕返しとでも言いたそうに。
「な、何か?」
ふわりと漂う甘い香りに、胸がまた高鳴っていく。その華やかな香りは、この町の穏やかな景色とやけに合っていた。
そして、しばらく俺を覗き込むように見て、そっと離れた。
何のつもりかと目を見ると、彼女は納得したように一人頷いた。
「……優しい目」
「は?」
信じられない一言に自然に反応してしまう。な、何だよ一体……初めて言われた気がするんだが。気のせい、か?
しかし、彼女のこちらを見つめる瞳が、嘘じゃないと告げている気がした。
そんな中、やがて厚みのある唇が動き、ぽそりと言葉を紡いだ。
「また逢いましょう……なんてね♪フフッ、チャオ♪」
小原は悪戯っぽい笑みを残し、颯爽と歩き去った。
「…………」
俺は何だかここが現実じゃないみたいな……上手く言葉では言い表せないくらいの不思議な気持ちで、金髪を揺らして歩く彼女の後ろ姿を見送った。
*******
「お兄ちゃん」
「…………」
「お兄ちゃーん」
「…………」
「お兄ちゃんってばっ!」
「…………」
「お兄ちゃ~ん……」
「……おう、どした?」
「いや、聞こえてるなら返事してよ。目だけじゃなくて、とうとう耳まで腐ったのかと思うじゃん」
「小町ちゃん、発言が乱暴よ」
「どしたの?帰ってからずっとおかしいけど。あっ、いつもおかしいけど、今日はいつもと違って!」
「おい」
最後の絶対にいらねえだろ。俺はちょっと残念なだけで、別におかしくはない。まあ……多分?一応?
とはいえ、可愛い妹が心配(?)するくらいぼーっとしてたとは……まあ、あれだ。あんな鮮やかな金髪と淡い金色の瞳を見たせいだろう。初めてだったし。うっかり二人乗りしちゃったし。きっと一晩寝ればこの感覚はなくなるはずだ。
……それに、どうせもう会うことはないだろうし。
*******
翌朝。
「チャオ♪」
「…………」
どうしてさっそく再会しちゃうの?えっ、何?これ運命なの?うっかり信じちゃいそうだからやめてくんない?
そう。俺は小町に頼まれたおつかいの途中で彼女と再会してしまった。
長い金髪を風に優しく靡かせながら、彼女はこちらに笑顔を向け、まるで友達のような距離感で話しかけてきた。
「フフッ、昨日はサンキュー♪またお願いネ」
「いや、それは遠慮しとく」
「え~!?じゃあ、今度は私が前に乗るよ~!」
「それはそれで怖いんだよ……てか小原は……」
「マリーだよぉ!呼び方忘れたの?」
「…………」
そもそもその呼び方一回も使ってないんだけど……てかやばい。完全に相手のペースに呑まれてる。ていうかまた近いんですけど!さっき鼻にちょっと吐息がかかったぞ。その辺の女子相手でもやばいのに、なんか通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃になってる感じが……!
いや、落ち着け。ボッチとして鍛えられたメンタルを信じろ……なんてしょうもないことを考えながら、首筋に手を当て、彼女に応じた。
「……それで、小原はどうかしたのか」
「……これは中々手強いデスね~。まあ、今はそれで構いまセン」
「そっか、じゃあな」
「ストップ」
クールに立ち去ろうとすると、がしっと肩に手を置かれた。いや、これもう捕まれてますね。
しかし、ここで道草をくってる場合ではない。ディアマイシスターが帰りを待っているのだ。
「いや、俺今からおつかいがあるんだけど……」
「そっか。なら仕方ありまセン」
意外なくらいあっさり引き下がったので、少しポカンとしてしまった。
……まあいい。とりあえず行くとするか。
すると、小原は俺の隣に並んだ。
「じゃあ、私もついていきマース!」
「…………は?」
彼女の意外すぎる提案に、またもや俺は目を見開いてしまった。
*******
結局、内浦の町を二人でのんびり歩いている。朝の風はまだ少し肌寒さを感じた。
だが今はどうでもよかった。
「それで……何か用なのか」
「フッフッフ、出会いは大切にしなくちゃね♪」
「…………」
だから勘違いしちゃうだろうが。まあ、表情からして恋愛的な意味がないのはわかるけど……。
程よい距離を意識しながら歩いてみても、何だか気分が落ち着かないが、彼女は全然お構い無しだった。
「あと、この前のお礼♪」
「……あれは別に。行き先が同じだっただけだ」
すると、彼女はいきなり俺の前に回り込み、昨日のように顔を覗き込んできた。
「じ~っ……」
「……いや、な、何だよ」
ATフィールドをあっさり破られ、至近距離で見つめられていると、ただただ緊張しかない。てか、これもうフラグ立ってるじゃん、とかなるから、勘弁して欲しいんだが……。
「ふむふむ、ナルホド。これがジャパニーズツンデレデスネ」
「…………」
何だよ、ジャパニーズツンデレって……。
てかツンデレじゃねえし。小町曰く捻デレなんだよ。
「それより、いいのか?そっちは用事とかあったんじゃ……」
「私?ないよ。ただ久しぶりだからあちこち歩いてるだけ」
「……久しぶり?」
「そう。実は内浦に住むのは2年ぶりなのデェス!」
小原は俺の前で両腕を広げ、高らかに告げた。
MAXハイテンションについていけねぇ……。
まあ、乗る必要もないので黙って歩くと、肩をとんとんとつつかれた。
「ねぇ、ハチマン」
「っ!」
いきなりファーストネーム呼びかよ……まあ、別にいいけど。
彼女は何度も頷いてから、再びやわらかい笑みを浮かべた。
「私、ここで始めたいことがあるの。よかったらアナタも見届けてみない?」
その笑顔が胸の奥の方を叩いた気がしたが、それには気づかないふりをしておいた。
そして、彼女の澄んだ瞳にも、海の向こうからやってきた春の風にも、これから何かが始まるという漠然とした確信がそこにはあった。
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I Really Like You #4
学校へと向かう車の中。
ようやく馴染んできた2年ぶりの内浦の海をぼんやり眺めていると、専属メイドのアイリが話しかけてきた。
「あの、鞠莉お嬢様」
「なぁに、アイリ?」
「お嬢様は、やけにあの目つきの悪い少年を気に入っておられるようですが……」
「目つきの悪い少年……ああ、ハチマンの事?フフッ、なんか面白そうだけど、どうかした?」
「いえ、なんだか彼の事を妙に気にかけてらっしゃるので……」
「アイリ……人生とは一期一会なのデース!!だから出会いは大事にしなくちゃ♪」
「は、はあ……」
こてりと首を傾げる可愛らしいメイドに笑いかけながら、私は彼の顔を思い出した。
ていうか目つき悪いって、アイリったら、そんなはっきり言わなくても……まあ、目つきが悪いのは本当デスネ。あれはあれでチャーミングなんだけどね。
彼の目を思い出しながら、もう一度海に目をやると、見覚えのある船がゆっくりと何処かへ向かっていた。
*******
休日の朝、俺は砂浜に腰を下ろし、携帯を耳に押し当て、癒しを直に耳に入れていた。
「それで、そっちの方はどうなの、八幡?」
「あー……まあ、あれだ。特に変わったところはない。いい場所だけどな」
「あははっ、なんか八幡らしいね。その言い方」
「そうか?」
「うんっ。僕も部活が終わったら、そっちに行ってみたいなあ」
「そりゃあ、いつでもウェルカムだ。なんなら今日でもいいぞ」
「さすがに今日は無理だけどね、あはは。じゃあまたね、八幡」
「……ああ、それじゃ」
守りたい、この笑顔。
いきなり電話してきた戸塚は、総武高校の連中について教えてくれた。何なら特に知る必要のない葉山や材木座の話までしてくれた。
……とはいえ、誰かが気にかけてくれるというのは、むず痒いが決して悪いものではない。
「……夏休みに一回くらい千葉行っとくか」
「へえ、千葉好きなの?」
「ちょっと前まで住んでたんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「……っ!びっくりしたぁ……」
「あははっ、シャイニー♪」
こいつ、いつの間に隣にいたんだよ。あんま高性能なステルス機能搭載されてると、ステルスヒッキーが霞むだろうが。
「てか何か用か?今忙しいんだが…」
「そうかしら。とても暇そうデスネ~」
まあ言い訳のしようもない。実際戸塚との電話を終えた喪失感でぼーっとしていたところだからな。
「そういうそっちも暇そうだな」
「シャイニー♪」
今誤魔化したよな……何その便利なフレーズ。今度俺も使おうかな。
ふわりと通り過ぎる風が彼女の鮮やかな金髪を揺らし、甘い香りを届けてきた。
「…………」
「フフッ、私の顔に何かついてる?」
「い、いや、別に……」
いかん、つい視線が吸い寄せられていた。いや、吸い寄せられたということは、これは俺が悪いんじゃない。小原が悪い。
とりあえず誤魔化そうと、思いつくままに口を開いた。
「それよか……そっちは何でこんなとこ歩いてたんだ?」
一応尋ねると、小原は勿体ぶるように笑い始めた。
「フッフッフッ……今日は、高校の方に用事があるのデース!何故かって?来週から理事長に就任するからデース!」
「あ、ああ……そうか……え……は?」
一人で賑やかな奴だとやや引き気味に見ていただが、最後のほうを聞き流すことが出来なかった。今、なんかすごい事言わなかったか、こいつ?
すると、小原がしてやったりと言わんばかりの子供じみた笑顔を見せた。
「……あー、その……一応聞いておくが、冗談だよな?」
「嘘じゃありません。私のホームの小原家の寄付金は相当な額なの」
「…………」
おいおいマジかよ。
さすがに、そこまでする奴が……いや、先日言ってたっけな。それにしてもやりすぎな気もするが。
「……それが、これからやる事に関係してるのか」
「まあ、そんなところデスネ。そういえば、ハチマンは前の学校で何か部活やってたの?」
「……あー、奉仕部だ」
「奉仕部?どんな事やるの?」
小原はこてりと首を傾げていた。まあ、そういうリアクションになるよなと頷きながら、いつか彼女から聞かされた言葉をなぞった。
「……飢えた人間に魚を与えるんじゃなくて、魚の取り方を教えてる」
「なるほど……」
えっ?今の説明だけでわかったの!?と彼女の方を向くと、彼女は目を優しく細めていた。
そして、その瞳は真っ直ぐにこちらを向いていた。
「アナタがその場所をとても大事に思っているのがわかるわ。そこにいた人達の事が好きだったことも」
「…………」
俺は肯定も否定もせずに、そのまま視線を海に固定させた。
心の中を見透かされたような気がしたが、不思議と嫌な気分ではなかった
「私も……同じだから」
ぽつりと呟かれた言葉に顔を上げると、小原も同じように海を見つめていた。憂いを帯びた表情はこれまで見たことのないもので、その金色の瞳が見つめているのは、水平線よりもさらに向こうにある見えない何かだ。
つい見とれていると、彼女は軽やかに身を翻し、柔らかい笑みを見せた。
「じゃあ、そろそろ行くね。チャオ♪」
そして彼女は背を向け、颯爽と去っていく。
俺はその背中を、誰かに重ねるでもなく、黙って見送った。
彼女の靴が砂を噛む音が、微かに響くのを聞きながら。
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I Really Like You #5
「ふぅ……時差ボケはもう治ったけど、あれこれ手続きが大変ですネェ」
「そうか……」
「むむっ、これが日本のオタクカルチャー……八幡、結構好きなの?」
「まあ、そうだな」
「あ、とってもプリティな猫デスネ~。ほら、おいで♪あっ、逃げられちゃった~」
「おい」
「なぁに?」
「どうしてお前が朝っぱらからここにいるんだよ」
そう、30分前に小原はいきなりウチにやってきた。
いきなりすぎて、『突撃!となりの朝ごはん』が始まったかと思ったくらいだ。
しかも、彼女の華やかな容姿に、親父も母ちゃんもしばらく口をぱくぱくさせ、俺に意味ありげか視線をよこしてから出かけてしまった。
小町もそれについていったので、今我が家には俺と小原とカマクラしかいない。てか、小町の奴はまだ小原が理事長に就任するのを知らないようだった。驚くだろうなぁ。
ちなみに当の彼女は、足をだらんと伸ばして座り、何やら残念そうな顔をしていた。
「だってぇ~、せっかくのオフなのに、果南もダイヤも忙しくて相手してくれないからデース!」
「……そっか」
「それで暇そうにしてる君のところに来たってわけ」
「暇ではないんだが……」
「あ、勉強中?……ワオ!八幡、三年生だったの?」
「あー、そういやお互いに年言ってなかったっけ?」
「ふふっ、まあ何となく同い年とは思ってたけど」
「……そっか」
だが今はそんなことより、この距離感を何とかして欲しい。こいつ、無駄に近すぎだろ。
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りや陶器のように滑らかな白い頬。そして、当たるか当たらないかの位置にある豊満な膨らみ。あらゆるものが理性を揺さぶり、気持ちを落ち着かなくさせてくる。
すると、こっちの心情を知ってか知らずか、小原は耳元に唇を寄せ、そっと言葉を吹き込んできた。
「八幡は進路、どうするの?」
「……大学進学。てか、何故小声?」
「だって、デリケートな話題じゃない?」
「別に今家に俺達しかいないから気にしなくていいっての」
俺の言葉に頷くように、小原は離れ、部屋の中をキョロキョロ見回した。べ、別に名残惜しいなんて思ってないんだからね!
彼女は何故か一人で納得したように頷いている。
「ふぅん」
「どした?」
「男の子の部屋って初めて入るから。なんか不思議デース」
「……っ!」
なんでそんなデリケートな情報ばらしちゃうの?イミワカンナイ。
小原はこちらを見て首を傾げているが、首を傾げたいのはこちらである。
「どうかしたの?」
「……いや、別に」
「そう?ねえ、八幡。この前私が言った事覚えてる?」
「……………………ああ」
「そ、それ、覚えてないリアクションじゃん!も~、やりたい事があるって言ったでショウ!?」
「…………そういや言ってたな」
「その事なんだけど、ちょっと予定より遅れそうデース。本当はもっとスムーズにできると思ってたんだけど」
「そっか。まあ何やるかはわからんが……」
「色々難しくって……よしっ!八幡、海行かない?」
「……は?」
*******
「シャイニ~!!」
「…………」
両腕を広げ、陽の光を全身で受け止める小原を、歩道を歩く子供が不思議そうな目で見て、通り過ぎていった。
うわあ……他人のふりしたい。
「あれ?八幡はやらないの?」
「やらねえよ。てかその掛け声なんだよ」
光合成でもしてんのかと、ついツッコミたくなる。
俺の問いかけに、彼女は何故か得意気な笑顔を見せた。
「だってこんなに晴れてるんだもの。このくらい叫ばないと失礼というものデース」
「そ、そうか……」
うん。わけわからん。
まだこいつだから絵になる部分はあるが、俺が同じ事をすれば変質者扱いされるだろう。
戸塚ならもちろん余裕で許せる。
材木座……………………ちっ。
想像だけなのにイラッとしてしまった。つーか何故想像した?馬鹿じゃねーの。
「ふむ、まだ泳ぐには寒そうデスネ」
「そりゃあ、まあ……4月だし」
「じゃあ、追いかけっこでもする?」
「いや、しないから」
「それじゃあ、かけっこは?」
「いや、しないから。てか、それさっきとあんま変わってねえだろ」
「もうっ、八幡はワガママデース!」
「貴方達、何してますの?」
突然背後から届いた声。
小原と同時に振り向くと、そこには長い黒髪を風に靡かせた黒澤ダイヤがいた。
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I Really Like You #6
「あらダイヤじゃない。グッモーニン♪」
「破廉恥ですわっ!」
「「?」」
黒澤姉のいきなりの発言に、俺と小原は顔を見合わせ、首を傾げた。
すると、黒澤姉はわなわな震えながら、こちらを指差してきた。
「このような朝早い時間から、人気のない海で男女が逢瀬を交わすなど……破廉恥ですわっ!」
「「…………」」
波の音が一際大きく聞こえたのは何故だろうか。
とりあえず小原の方をちらりと見やると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。おそらくこれは、どうからかってやろうかと考えているのだと思う。
「あーあ、ただ二人で遊んでいるだけなのに、そんなこと言い出すなんて……ダイヤってもしかして、お子ちゃま?それともムッツリ?」
「なっ!?だ、誰がお子ちゃまですの!?誰がムッツリですの!?わたくしはただ、慎みを持てと言ってるだけですわ!」
「慎み……そのバストみたいに?」
「おだまらっしゃい!こういうのは形が大事なんですの!大きさだけでアピールできると思ったら大間違いですわ!」
「あら?アピールしたい男の子がいるの?」
「そんなのいませんわっ!あなた、人の話くらい真面目に聞きなさい!」
「ダイヤったら相変わらずおこりんぼなんだもーん」
「だ・れ・が!そうさせているのですか~!」
「…………」
やべえ。なんだ、この置いてきぼり感。
入っていけそうにない。別に入ろうとも思わないが……。
とりあえず、親友同士で積もる話もあるだろうから、邪魔にならないよう、俺はさっさと立ち去ろう。抜き足、差し足、忍び足……。
「ハチマン、逃げられると思ったら大間違いデース」
「いや、気を利かせてるだけだから。俺の事は気にせず存分にやり合っていいから」
「べ、別にわたくし達はやり合ってなんか……」
「ざっぱーん!!」
「「っ!!」」
いきなり海水をかけられた。
そりゃもうたっぷりと。
「……ええぇ」
「ふふふ、これでもう逃げられまセーン」
全然そんなことはないけど、と言いかけたが、隣にはひたすら怒気を放っているお方がいたので、俺は口をつぐんだ。
「鞠莉さん。よくもやってくれましたわね……」
「あらあら、ダイヤ……怒った?」
「おだまらっしゃ~~~~~い!!!」
黒澤は、さっきの小原より大量の水を掬い上げ、俺もろとも小原をずぶ濡れにした。おい。
「ふっふっふ、昔やった水かけ合戦の決着をつけるのデース!」
「望むところですわよ!」
「…………」
とりあえず、このまま帰るのも癪なので、こっそり俺も水をかけた。
思ったより多くの水を掬い上げ、長い間こういう遊びをしていなかった事を思い出す。何だか笑みが零れそうだった。
そして、そのまましばらく三人で海ではしゃいだ。
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I Really Like You #7
「あ~、久しぶりにエキサイティングな時間だったわ!」
「……そっか」
「あら。ハチマン、ずぶ濡れデ~ス!」
「いや、驚いてるがけど犯人目の前にいるんだが……」
「ウフフ、ソーリー♪じゃあ、ウチに来て。服乾かすから」
「あ、ああ。…………家?…………は?」
「もしもし、アイリ?迎えに来てくれない?場所は……」
「…………」
マジか。なんか勝手に話が進んでいるんだが……。
え?てか、い、いきなり家?やだ、この子大胆。俺じゃなきゃ勘違いして舞い上がっちゃうね。
電話を終えた小原は、こちらを見て、にっこりと微笑んだ。
迎えが来るのには5分もかからなかった。
*******
「おお……」
思わず感嘆の息が漏れる。
遠くから見た時もすごいと思っていたが、近くで見るとさらにすごい。写真撮って小町に見せたいくらいだ。さすがにそんな真似はしないが。
小原は当たり前だが、慣れた足取りで入り口へ向かい、振り返って手招きした。
「さ、はやくはやく!」
「……お、お邪魔します」
無駄に礼儀正しく頭を下げて中に入ると、そこは別世界だった。
きらびやかなシャンデリアに、イタリアの名画を彷彿とさせるような噴水。小原そっくりの銅像とか、なんか見慣れないものに視界が満たされている。
あれ、俺異世界転移した?ゼロから異世界生活始めちゃうのか?この素晴らしい世界を祝福しちゃうのか?
そんなアホなことを考えてしまうくらい浮世離れした光景に目を丸くしていると、小原にまた手招きされた。
「ハチマン、こっち来て」
「はい」
思わず「はい」とか返事しちゃったよ。庶民の卑屈さに苦笑いしてしまいそうだ。情けない。
さっきまで少しでも変な妄想がちらついたのが嘘みたいだった。
*******
かつてない高級なバスルームでシャワーを浴び、用意された服に着替えると、まだ小原はいなかった。
……はやく出てこねえかな。場違いな空間すぎて気まずいんですけど。何なら今すぐにでも帰りたい。
すると、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「お待たせ~♪」
「おう……おおぉ……」
また変な声が漏れてしまった。
なんと小原はバスローブに実を包んでいた。
真っ白なバスローブとあらわになった胸元や生足の肌色のコントラストに、つい目を奪われかけるが、何とか逸らした。
「どうかしたの?」
「……な、何でもない」
「もしかして……照れてる?やっぱりウブデスネェ」
「…………」
ええい、近い。いい匂い。あとエロい。どストレートにエロい。変な気分になるだろうが。
まだ湿っている金髪を揺らし、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「それじゃあ、ティータイムデース♪」
「……ティータイム?」
楽しそうに言う彼女を見て、どうやらまだここから帰れそうもないことを悟った。
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