夜天に輝く二つの光 (栢人)
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第零話 プロローグ

 

 

 人間には、突飛的に起こる出来事を事前に察知できる者などいない。もしもいたとしたら、その者は未来からやってきたか、未来予知のできる超能力者だろう。つまり、それは事前に決められていた、運命とも呼ぶべき回避不可能な事だったのだ。

 それこそ、事故と呼ぶに相応しい。

 その日は久しぶりに家族揃って出かけた日だった。共働きの両親は忙しく、休日でさえ家に仕事を持ち込むことが多い。しかし、珍しくその日は違った。

 楽しかった。遊びに行くか、と声をかけられてから、出かける準備をするのも、目的の場所に向かう車の中も、遊園地で遊びまわるのも、楽しかった。仕事優先で不仲に見える両親も、この日ばかりは終始笑顔だった。

 今日が終わらなければいい。八神(やがみ)颯輔(そうすけ)はそう思った。

 しかし、時がその流れを止めることなどない。颯輔の願いとは裏腹に、遊園地は閉園の時間を迎えた。愚図る颯輔だったが、来年もまた来よう、という言葉に渋々納得した。

 帰り道。遊園地を遊び倒して疲れていた颯輔だったが、眠ることはなかった。眠ってしまえば、楽しい一日が終わってしまうから。だから、重い瞼を必死で持ち上げ、幼い故に拙い会話力でも両親に話しかけ続けた。

 或いは、それが原因だったのかもしれない。そうではなかったとしても、避けることはできなかったかもしれないけれど。

 帰り道の高速道路で、対向車線の大型トラックが、颯輔達の乗る車に向かって突っ込んできた。覚えているのは、父親の怒声と母親の悲鳴と体を襲う衝撃。

 それらを最後に、颯輔は意識を失った。

 

 

――……じっ、主っ!

 

 細く長い銀髪に、透き通るような真紅の瞳。

 

――お気を確かに、主っ!

 

 美しいはずのその顔は、涙に濡れて歪んでいる。

 

――目を開けてください、我が主っ!

 

 水中を漂うような浮遊感の中で、鈴の音のような声を聞いた気がした。

 

 

 颯輔が目を覚ますと、そこは真っ白な部屋だった。白い天井に、白いカーテンに、白いベッド。薄い水色のストライプが入った入院着に身を包み、腕には点滴が打たれている。

 病院だった。医師の話では、一か月もの間眠っていたらしい。

 最初に訪ねてきたのは、去年に結婚したばかりの叔父夫婦だった。結婚式には颯輔も出席している。父の弟にあたる叔父はよく遊んでくれる優しい人だったし、関西出身の叔母は明るく面白い人だったし、二人とも颯輔を我が子のように可愛がってくれていたので、しっかりと覚えていた。

 お父さんとお母さんは、と尋ねると、叔父に抱きしめられた。抱きしめる腕の力は強く、苦しかった。腕が震えていた。

 嗚咽の混じった声で、冗談にしては性質の悪い言葉を聞いた。

「お父さんとお母さんにはもう会えないんだ……。二人は遠いところに行ってしまったんだよ……」

 涙を流す二人を見て、それが本当のことだと理解した。叔父とは反対側から叔母に抱えられ、三人で泣いた。

 検査を終えると、大きな怪我もなかった颯輔はすぐに退院することができた。戻った家に両親の姿は当然なく、荷物も整理されてほとんどなくなっていたためか、そこが自分の家だとは思えなかった。事実、そこはもうすぐ自分の家ではなくなる。他に身寄りのなかった颯輔は、叔父夫婦に引き取られる手筈となっていた。

 大事な物は家に持っていったから、颯輔のいるものだけ持って来なさい、と言われ、階段を昇って自分の部屋に向かった。学習机やランドセル、ベッドはもう叔父夫婦の家に運ばれていて、部屋がやけに広く見えた。

 段ボールにゲームなどの玩具を適当に詰め込んだ。本棚を見ると、教科書類はもうなく、漫画などが残っていた。その中に一つだけ、買った覚えのないハードカバーを見つけた。こんなのあったっけ。颯輔はそう思いながら、その本を手に取る。

 不思議な本だった。茶色のカバーに、金色の十字架が装飾されている表紙。辞書のような厚さだが、どこを見てもタイトルらしき文字が記されていない。それどころか、鎖で厳重に封がされており、開くことすらできないのだ。これでは読むことなどできない。だけど、綺麗な本だ。そっと背表紙をなぞってみると、滑らかな感触が心地よく、驚くほど手に馴染む本だった。捨てるのも勿体ない気がして、颯輔はその本を持っていくことにした。

 新しい家は、海鳴市の中丘町というところにあった。庭付きの二階建てで、前の家よりも大きい。モデルハウスを安い値段で購入したそうだ。安いと言っても、まだ年若い叔父夫婦にとっては十分高額だったのだが。

「今日からここが颯輔の家だ」

「三人……いえ、四人仲良く暮らしてこうね」

 優しい微笑みを浮かべる叔父夫婦に、颯輔は首を傾げる。叔父に、叔母に、自分。この場には三人しかいない。照れるように笑った叔母は颯輔の手を取り、そっと自分の腹部に当てさせた。

 

「ここに、もう一人おるんよ」

「もう少ししたら、颯輔はお兄ちゃんになるんだ」

 叔父は叔母の肩を抱き寄せ、二人で幸せそうに笑った。もしかしたら、自分は邪魔者なのかもしれない。そう思いつつも、颯輔は笑うことにした。

 

 



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第一話 『終わり』の始まり

 

 

 私立風芽丘学園。海鳴市では、私立聖祥大付属高校に次ぐ進学校だ。

 聖祥大付属が女子高なのに対し、風芽丘学園は男女共学。聖祥大付属はレベルも学費も高いため、共学であってもこちらに通う女子は多い。八神颯輔の隣の席に座る女子、高町美由希もまた、その女子の一人であった。

 6月3日13時。土曜日のため半日授業が終わった教室で、本日の日直である颯輔と美由希は掃除に取り掛かっていた。

「八神君、時間は大丈夫? 妹さん、今日も待ってるんじゃない? 私一人でも掃除はできるけど……」

「大丈夫。掃除をする時間くらいはあるさ。それに、二人でやった方が早く終わるよ」

 諸事情を知っている美由希の言葉は嬉しかったが、そこまで気を遣われるほどのものではない。颯輔は何でもないように答えて箒を手に取り、慣れた手つきで床を掃き始めた。美由希もそれに倣い、四時間の授業で白くなった黒板を拭き始める。

 二年生のクラス替えで初めて同じクラスになった二人だが、新学期が始まって二ヶ月そこらにもかかわらず、その仲は良かった。別段、男女の仲というわけではない。読書という共通の趣味があり、また、お互いの妹が同い年ということもあって、自然と話すようになったのだ。

 あまり人に言いふらす様なものではない家庭事情をすんなりと話せたあたり、どこか通じるものがあったのかもしれない。時々先ほどのように気を遣われることはあったが、必要以上に遣われることはなく、同情ではなく普通に接してくれるため、颯輔は美由希の態度を有難く思っていた。

 最近のオススメの本は何だの、昨日のテレビはいまいちだっただの、適度に雑談をまじえつつ掃除を終える。あとは担任に学級日誌を提出すれば、日直の仕事は終わりだ。

「そうだ、妹さんのケーキ、頑張って作ってるから楽しみにしててね」

 美由希は握り拳を作って意気込みながらそう告げた。

 美由希の両親が経営している翠屋は、海鳴市では人気の喫茶店兼洋菓子店だ。妹の誕生日を明日に控えた颯輔は、翠屋にバースデイケーキを頼んでいた。

「高町が作ってるの?」

「あー、えっと……お母さん、だよ。私、恥ずかしながら料理のセンスはないから、厨房には入れてもらえないんだ。一応、練習はしてるんだけどね……」

「誰にでも得手不得手はあるよ。練習してるんなら、きっとそのうち上達するさ。俺も最初は全然料理できなかったし」

「ほんと? 八神君のお弁当、すっごく美味しかったけどなぁ」

「本当。四苦八苦して、やっと今のレベル。まだまだ精進中だけど」

「目標高いねぇ。将来の夢は、料理人とか?」

「さぁ、どうだろ? 先のことなんて、まだわからないよ。今のことだけで精一杯」

「高二でそれはマズイんじゃない? ……まぁ、私も今のことで一杯一杯だけどさ」

「みんなそんなもんだと思うよ。とりあえずは就職、そんな風にしか考えてないし」

「そっか。こっちは、うーん……恭ちゃんが大学生だし、私も進学、かな?」

 ぼんやりと話しているうちに、日誌を書き終える。時計を見れば13時半。そこまで時間はかかっていないだろう。

 学級日誌を提出すると、二人は学校を出て別れた。美由希は商店街にある翠屋の手伝いに行くらしい。颯輔は携帯電話を取り出し、新着メールを開いた。

『図書館で待っとるよー(^-^)v』

 差出人は『はやて』。受信時間は20分ほど前だった。

 今から行く、とメールを返し、颯輔は風芽丘学園の近隣にある風芽丘図書館へと足を進めた。

 

 

 

 

 車椅子のくせに毎度毎度よく来るものだ、しかし、家に籠っているよりはいいか、と相反する気持ちを抱きつつ、歩くこと五分。颯輔は目的の場所に到着し、その玄関をくぐった。

 館内で携帯を使うわけにもいかず、心当たりのコーナーへと向かう。はやては童話や伝奇が好みだ。この前借りたのは伝奇だったため、今度は童話だろうと当たりをつけた。

 童話のコーナーを覗いてみれば、案の定、そこには電動車椅子に座った少女がいた。

 栗色のショートヘアーに、年相応の幼い顔立ち。その表情をほんの少しばかり歪め、必死に本棚に手を伸ばしている。

 颯輔はそっと近づき、お目当てと見られる本を手に取った。

「あっ、ありがとうございま――って、なんや、お兄か。おかえり、お兄。それと、ありがとうなぁ」

「ただいま」

 本を手渡し、さらさらと手触りのいい細い髪をくしゃくしゃと撫でる。他にも何冊かの本を選ぶと、ゆっくりと車椅子を押し始めた。

 毎日のように通っているためか、すっかり顔馴染みとなってしまった司書と軽い挨拶を交わし、本を借りて図書館を出る。今日は買い物をする必要もなかったため、寄り道をせずに真っ直ぐ自宅へと向かった。

 中丘町は風芽丘の隣町。颯輔の足ならば十五分ほどで、電動車椅子ならば二十分ほどの距離だ。颯輔が進学先に風芽丘学園を選んだのも、自宅から近いという理由が一番だった。

「今日はちょう遅かったなぁ。何かあったん?」

「日直当番だったんだ。掃除と、学級日誌の提出が放課後の仕事。ちゃんと連絡しておけばよかったな、ごめん」

「ええよ。本選んでたらすぐやったし」

 はやては生まれつき下半身に障害があり、車椅子での生活を余儀なくされている。本来ならば小学三年生として学校に通っているはずなのだが、その理由から現在は休学していた。

 はやては日がな一日を読書をして過ごす場合が多く、また、颯輔の学校が近いため、借りた本が読み終わると図書館まで通っているというわけだ。

 季節が春から夏へと移り始め、気温が高くなった街並みを歩く。車椅子に座る少女とそれを押す男子高校生に好奇の視線を向ける者も少なからずいるが、ホームである中丘町まで来ればその限りではない。二人とすれ違えば、おかえりなさい、と声をかけてくれる人もいた。

 今では子供だけの二人暮らしとなった颯輔とはやてだが、地域の人は温かく見守ってくれていた。同情されるのは好きではないが、おかずのお裾分けをくれたりと、その好意は純粋に嬉しかった。

 家に辿り着くと、颯輔は車椅子に座るはやてを抱き上げ、リビングにあるソファへと運んだ。

 電動車椅子は高価なために屋内と屋外で兼用しており、外出した後は車輪を拭かなくてはならない。モーターやバッテリーを積んでいる電動車椅子は三十キログラム近くある。体も大きくなった今ではすっかり慣れてしまったが、颯輔が小さい頃は、この作業がまた一苦労だった。

 颯輔は普段着に着替えてから遅めの昼食を済ませると、まずは宿題を片付けることにした。ぶー垂れるはやてを促し、一緒に算数のドリルをやらせる。

 休学しているとはいえど、いや、休学しているからこそ、勉強を疎かにすることを許すつもりはない。はやての勉強を見るのも颯輔の仕事の一つだった。

 もっとも、口では文句を言いつつも、何だかんだではやては真面目に勉強に取り組んでいるようで、小学三年生として十分通用する学力を有している。それどころか、むしろそれよりも高いくらいだった。

 三年生用のドリルはもうすぐ終わりそうで、そのうち四年生用を用意しなければならないだろう。ドリルに赤ペンで丸をつけながら、颯輔はそう思った。

「お、お兄、そろそろご飯の用意せな……」

「ん? もうこんな時間か」

 颯輔の授業にグロッキー状態になりつつあったはやてに催促をされて時計を見てみれば、針は17時半を指していた。今から調理を始めれば、いい時間帯になるだろう。

 颯輔の宿題は終わっていたし、はやての授業もキリのいいところまで進んでいる。今日の勉強はここまでにし、二人は夕食を作ることにした。

 叔母の身長が低かったということもあり、八神家のキッチンは低めに作られている。車椅子のはやてにはギリギリの高さだが、できないことはない。はやて自身の意向もあり、料理だけに限らず、二人で家事をするのが八神家のスタイルとなっていた。

 颯輔は黒いエプロンを、はやてはピンクのエプロンをつけて手を洗う。

「今日はカレイの煮つけやね」

「ああ。煮汁、作ってみるか?」

「うんっ」

 冷凍庫から出しておいたカレイは、すでに解凍されている。颯輔は鍋を取り出し、お椀二杯分ほどの水とかつおだしを入れて火にかけた。人参とジャガイモを小気味いいリズムを奏でながら切り分け、鍋に追加する。

 その間、はやては水と酒、醤油にみりん、砂糖を使って煮汁を作っていた。

「こんなんでええかな?」

「どれ……うん、上出来だ」

「やたっ」

 颯輔からゴーサインをもらい、はやては煮汁を入れたフライパンを火にかける。一煮立ちしたら切り分けたカレイを入れ、十分ほど煮れば完成だ。

 ほどなくして、煮汁の甘い香りが台所に立ち込め始める。

 颯輔が味噌汁の味を調えている間に、はやては朝のうちにまとめて炊いておいたご飯を温めた。

 カレイの煮つけは完成したが、煮汁は少し多目に作ったため、野菜を煮ることでもう一品追加できる。青菜の煮物も作り、本日の夕食が完成した。

「「いただきます」」

 手慣れた様子で夕食を作り、二人は揃って手を合わせた。

 二人だけの食事だが、そこに寂しさはない。テレビではニュースを流しながら、颯輔ははやての語る今日読み終えた本の感想に相槌を打つ。

 八神家では颯輔が聞き手、はやてが話し手という構図が多い。聞き上手な颯輔と、女の子らしくおしゃべりなはやてとは相性が良かった。

 食べ終われば二人一緒に後片付けだ。片方が洗い、片方が拭くという役割分担で、これは日替わり制にしている。今日は颯輔が洗い、はやてが拭くという構図だった。

 次いで、食器を棚に戻し、明日の分の米を研いで炊飯器にセットする。炊きあがりの時間は7時だ。

 風呂を汲んでいる間はリビングで時間を潰す。面白い番組があればテレビを見るし、なければ本を読むことが多かった。

 今の時間帯は丁度ゴールデンタイムで、バラエティ番組を放送していた。

「お兄」

「はいはい」

 両手を伸ばして膝の上を要求され、颯輔ははやてを車椅子から移す。膝の上に収まると、はやては颯輔の腹に背中を預け、満足そうに喉を鳴らした。

 触れ合ったところからはやての温もりが伝わってくる。昔からのはやての定位置。テレビを見るときなどは、大抵このスタイルになるのだ。

 関西人であった母親の影響か、はやてはバラエティが好きだ。今のツッコミはいまいち、など、少々辛口ではあるが。

 だが、この穏やかな時間が颯輔は好きだった。

 はやてを膝の上に乗せ、手慰みに栗色の髪に手櫛を入れながら、面白ければ笑い声をあげる。一日疲れやストレスを忘れられる、貴重な時間だった。

「どれ、そろそろ風呂に入るぞ」

「え~。もうちょっと、アカン?」

「今入らないと、21時からの映画に間に合わないだろ?」

「う~、しゃあないか……」

 20時を少し過ぎたところで、颯輔ははやてに入浴を促した。

 毎週土曜日の21時からは映画の放送をしている。今日は観たかったタイトルだったからか、はやては渋々ながらも頷き、テレビの電源を落とした。

 一度部屋に戻り、着替えを取ってから脱衣所へ向かう。足の不自由なはやてが一人で入浴するのは危険なため、颯輔も一緒に入る。はやてはマットの上に座りながらだったが、自力で服を脱いでいた。できることは自分で、それがはやてのモットーだ。

 颯輔も服を脱ぎ、腰にタオルを巻いて浴室に入る。

 はやてをイスに座らせると、まず頭を洗い始めた。できることは自分で、だが、このあたりは颯輔の担当だ。頭くらいは自分でも洗えるはずだが、兄への甘えなのだろう。スキンシップの一環として、そういった要求には応えることにしていた。

 

「痒いところはないか?」

「んー、もうちょい右……あっ、そこそこ。ん~、気持ちええよ。お兄は洗うの上手やね」

「毎日のように洗ってるからな、上手くもなるさ」

 颯輔は爪を立てないようにと注意しながら、指の腹を使って丁寧に洗う。

 シャンプーを流すと軽くタオルで拭き、今度はリンスを手に馴染ませてから髪を洗い始めた。必要以上に擦って髪を傷めないように、手櫛を入れるようにして洗っていく。はやては心地良さそうに目を細めていた。

 颯輔は丹念にリンスも洗い流してやると、タオルを巻きつけてはやての髪をまとめた。今度はボディタオルにボディソープを垂らし、泡立て始める。

 はやては自力で足を動かすことができない。無論、手を使えば話は変わってくるが、足の力だけで動かすことはできないのである。そのため、はやての体を洗うのも颯輔の担当だった。さすがにデリケートゾーンは自分でやってもらうのだが。

 あまり日に当たらない所為もあってか、ミルクを溶かし込んだかのように真っ白な肌に、優しくタオルを当てる。そっとタオルを動かすと、はやては時折身を捩じらせて小さな声を上げていた。

 

「んひゃっ」

「こら、動くなったら。洗い難いだろ」

「だ、だって、くすぐったいんやもん」

「少しくらい我慢しなさい」

「はーい。んふふっ」

 小さな体に纏った泡の衣をシャワーで洗い流すと、脇に手を差し込んではやてを湯船に入れる。

 今度は颯輔が椅子に座り、シャンプーを始めた。急いでいるというわけではないが、その手つきは先ほどよりは雑で、かかる時間も少ない。子供で女の子であるはやての柔肌とは違い、今度は正真正銘自分の体なのだ。当然といえば当然だった。

 頭、顔、体と洗い、颯輔も湯船に浸かった。二人も入れば一気に窮屈に感じる湯船だが、足をたためば入れないこともない。

 風呂のお湯は適温で、体の隅々までをじんわりと温めてくれる。一日の疲れが溶け出していくようだった。

 十分に体が温まったところで、風呂から上がる。バスタオルを使い、先ずははやての体を拭いた。

 続いて、はやてが着替えている間に颯輔も体を拭いて着替える。颯輔はグレーのスエットで、はやては藤色のパジャマだった。

 リビングに戻るとはやての頭のタオルを解き、ドライヤーで髪を乾かし始める。あ~、う~、などと言いながら、はやてはされるがままになっていた。最後に櫛を使って乱れを調えると、颯輔は自分の髪を乾かした。

 ドライヤーを片づけ、洗濯機の予約を済ませると、丁度映画の始まる時間になっていた。

 夕食後の間食は推奨されないが、こういう時は別と割り切り、お菓子と飲み物を用意する。始まってまうよ、と急かすはやてを再び膝の上に乗せ、一緒にテレビの画面に目を向けた。

 時折お菓子へ手を伸ばしながら、画面に集中すること二時間半。比較的長い部類の映画は終わり、膝の上でははやてが欠伸を噛み殺していた。終盤になってから時折そうしていたため、眠気が大挙として襲ってきているのだろう。

 颯輔は一度はやてを下し、ゴミとコップを片づける。さっとコップを洗って戻ってみると、はやてはうつらうつらと船を漕いでいた。

「ほら、歯磨きして寝るぞ」

「んぅ……」

 曖昧な返事をしながら手を伸ばしてくるはやてを抱き上げ、洗面所へと連れて行く。頬を軽くぺしぺしと叩いて起こし、イチゴ味の歯磨き粉をつけた歯ブラシを持たせてやると、意識を半覚醒させたはやてはもそもそと手を動かし始めた。その様子に苦笑を漏らしながら、颯輔も歯磨きを始める。

 歯磨きを終えると、トイレに入ってから寝室に足を運んだ。

 はやてが車椅子でも行けるようにと、はやての寝室は一階にある。また、はやては一人でトイレに行くことが困難なため、颯輔も一緒の寝室で眠ることにしていた。

 部屋のスペースの都合上、ベッドは大きめのサイズのものが一つきりだ。無論、ベッドから落ちないようにとはやてが壁側である。はやてを奥に寝かせると、電気を消して颯輔もベッドに入り込んだ。

「おやすみ、はやて」

「……歯磨きしたら目ぇ覚めてもうた」

「いいから寝なさい。もうすぐ0時になるぞ?」

「そやけど……ちょっとだけお話しよ? 明日はお兄もお休みやし」

「……ちょっとだけだぞ?」

 どうも甘やかしすぎている気がする、と自覚を持ちつつも、颯輔ははやての誘いに頷いてしまった。

 ダメなものはダメと言える颯輔だったが、こういった部類のちょっとしたお願いには弱い。はやてがこの世でたった一人の家族だからだろう。人より不自由な思いをさせているから、という理由もある。そのため、はやてが望むことにはできる限り応えるようにしていた。

 時折カーテンの隙間から差し込む車のライトによって照らされる天井を見上げながら、映画の感想や明日の予定などを話し合う。

 明日、6月4日ははやての九回目の誕生日だ。

 二人きりの家族でサプライズも何もないが、誕生日プレゼントは既に用意してあるし、夕飯のご馳走メニューも考えてある。今年は、海鳴市で一番の洋菓子店にバースデイケーキの予約もしてあった。プレゼントもご馳走メニューもそれとなくリクエストを聞いていたためにバレているだろうが、ケーキに関してはまだ話していない。はやては稀に入ってくる広告を穴が開くほど見つめていたため、間違いなく喜んでくれるだろう。サプライズといえば、サプライズになるかもしれなかった。

 二人の小さな声が響く寝室で、時計がカチリと音を立てる。分針が頂点に登って時針と重なり、12を示したのだ。

 6月4日、午前0時である。いつもなら寝ている時間だが、今晩は起きているのだ。せっかくだから、誕生日おめでとう、と早めに祝おうと颯輔が口を開いた、その時だった。

 真っ暗な部屋を、怪しい光が照らし始めたのは。

 慌てて身を起こして光源を探してみれば、机の上に飾っていた一冊の本が紫の光を発していた。茶色の表紙に十字架の金細工が施されたハードカバー。鎖で封をされた、あの本である。綺麗な本だからとインテリアとして飾っていたはずが、どういう仕掛けか、自ら光を発しているのだ。

「なっ、何っ? きゃあっ!?」

「はやてっ!」

 光量が増すとともに、地震のような揺れが襲ってくる。颯輔は、悲鳴を上げたはやてを反射的に抱きしめた。

 何が起こっているかはわからない。危険なのか、安全なのかの判断もつかない。颯輔は、空中へと浮き上がって脈打つように鳴動している本から、ただただ目を離せずにいた。

 ギチギチと軋みを上げていた鎖が遂に飛び散り、どうやっても解けなかった封が解ける。本が開き、バラバラと独りでに頁が捲られていた。不思議なことに、その頁は文字も絵も記されていないまっさらな白紙。呆然と見つめる中、颯輔はそんなことに気が付いた。

《Ich entferne eine Versiegelung.》

 全ての頁が捲られると、これまたどこから発したのか、聞き覚えのない合成音声が何事かを告げた。

 気のせいでなければ、封印を解除します、と聞こえたような気がする。バタン、と音を立てて閉じられた本はゆっくりと高度を下げ、二人の目の前まで下りてきた。

《Anfang.》

 起動、と本が告げると、一際眩い光が寝室を照らし出した。

 



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第二話 ヴォルケンリッター

 

 

「うっ……!」

「んっ……!」

 体から何かが抜け出る感覚に声が漏れる。

 一際眩い光は紫の光を発する本からではなく、もっと近いところから発せられていた。颯輔とはやて、二人の胸のあたりから出現した発光体である。

 おかしな表現ではあるが、颯輔の胸から現れた発光体は黒い光を発しており、対してはやてから現れた発光体は真逆の白い光を発していた。

 二つの発光体はふよふよと宙を昇り、本の高さにまで達したところで爆発するように光り輝いた。

 固く閉じた瞼越しに光が収まったのを感じると、颯輔は目を開いて逸らしていた顔を元に戻した。

 見れば、二つの発光体の輝きは落ち着いている。ちかちかと明滅する発光体は滑るように移動し、一つに溶け合って紫の発光体になった。

 しかし、それとは別の光源を感じ、また、この場には二つしかないはずの生き物の気配まで感じる。

「――っ!?」

 視線を落とし、驚愕する。

 そこには、先ほどまで影すらなかったはずの四人の人間がいたのだから。

 紫の光を発しながら回転する、中心に本と同じ十字架を据えた六芒星。その上に、片膝をつけて頭を垂れている四人の男女。いずれも黒い薄着を身に纏っている。うち、ただ一人だけの大男は、どういう構造になっているのか本来耳があるはずの位置に、明らかに人間のものではない耳がついていた。有体に言えば、獣耳である。

 現実には起こりえない異常事態の中で颯輔の思考は停止し、視線はその獣耳に釘付けになっていた。

「闇の書の起動、確認しました」

 思考停止している颯輔を余所に、桃色の長髪をポニーテールに結わえた女性が凛とした声を発した。

「我ら、闇の書の蒐集を行い、主を守る守護騎士にございます」

 続いたのは、いつの間にか例の本を小脇に抱えていた、金髪をボブヘアーにした女性。

「夜天の主の下に集いし雲」

「ヴォルケンリッター。何なりと命令を」

 獣耳の大男と、赤毛を三つ編みおさげにした少女がそう締めくくった。

「…………」

 停止していた思考が徐々に動き出す。

 いったい何が起こっているのか。目の前で巻き起こった現実ではありえない光景にただただそう思う。

 きっと夢を見ているのだ。そうに違いない。ベッドに入り、はやてと話をしている間にいつの間にか眠ってしまったのだろう。

 そんなことを考えていると、黙ったままのこちらを不思議に思ったのか、不意に赤毛の少女が顔を上げた。

 サファイアのような青い瞳と視線が交差すると、少女は弾かれたように慌てて顔を下げる。畏まった物言いをしていたはずだが、その仕草は見た目相応に子供らしい。よくよく観察すれば、はやてよりも幼く見える。そんな年頃の少女が守護騎士などと似合わない名乗りを上げたのだから、何とも不思議な夢である。我ながらおかしな感性だ。

「うきゅぅ……」

「はっ、はやてっ?」

 腕の中で重みを増した妹に目を向ける。見れば、はやては目を回して気絶していた。

 完全に体から力が抜けており、さして重くもないその全体重を颯輔に預けている。その重みに、ようやくこれが夢でもなんでもない現実の出来事なのだと実感した。

「……意識を失っているようです。よろしければ、治療を施しますが」

 膝をついていたはずの一人、金髪の女性が事務的な口調でそう告げた。立ち上がり、こちらに近づいてくる。

 そっと伸ばされる白魚のように白く細い手を――

「触るなっ!」

 反射的に、怒声とともに弾いていた。

「も、申し訳ございません。差し出がましい真似を致しました。身の程をわきまえぬ無礼、どうかお許しください」

 今度は怯えのような色を含んだ声に、颯輔は自分が何をしたのかを唐突に理解し、鋭くなってしまったであろう目つきを意図的に元に戻した。

(何をやってるんだ。正体はわからないけど、あの人は好意から申し出てくれただけだろうに)

 溜息をついて理不尽な怒りを吐き出し、そのまま深呼吸をして気分を落ち着ける。頬を張り、強張る体に喝を入れた。

「……あの、すみませんでした。気にしないでください。良ければ、詳しい話を聞かせてもらえますか?」

 はやては気絶しているし、元よりこの家には頼りになる大人などいやしない。ならば、自分がこの事態に対処しなければならないだろう。

 何が起こっているのかはさっぱりわからないが、彼女達は主を守る守護騎士と言っていた。その言葉を信じるとすれば、害意はないはずである。幸い言葉も通じるようだし、話くらいはできるだろう。

「はっ」

 四人のまとめ役なのか、ポニーテールの女性が返事をする。

 颯輔は気絶したままのはやてをベッドに寝かせ、四人をリビングへと促した。

 すっかり温くなってしまったコーヒーを口に含み、乾いた喉を潤す。

 突如として現れた四人に話を聞くこと小一時間。信じられるかどうかは別問題として、颯輔は大まかな全体像を何とかつかんでいた。

 まず、あのハードカバーの本は闇の書というらしく、普通の本ではなく魔導書だということ。魔導師が持つ魔力の源、リンカーコアを蒐集し、全666ページを埋めることで、闇の書の持ち主、すなわち主は膨大な力を手に入れられるそうだ。

 そして、彼女たち四人――正確には三人と一匹、いや、四体と数えるべきかもしれない――は闇の書とその主を守るために生み出された魔法生命体。早い話が、プログラムが人の形を取った姿らしい。主の代わりに闇の書のページを蒐集するそうだ。

 ポニーテールの女性が将である『剣の騎士』シグナム。ボブヘアーの女性が参謀である『湖の騎士』シャマル。三つ編みおさげの少女が『鉄槌の騎士』ヴィータで、獣耳の大男が『盾の守護獣』ザフィーラである。

 魔法、魔導書、魔導師、魔法生命体とツッコミどころは多々あるが、口を使わずに頭に直接話しかけられたり、目の前で大男が大型の狼の姿になったりすれば、それらの疑問は飲み込まざるを得ない。非現実的だと切って捨てるのは容易いが、そうするにはあまりにも非現実的なことを現実として見せられすぎていた。

「はぁ…………」

 眉間を揉み解しながら、大きな溜息を疲れたように吐き出す。いや、疲れたようにではなく、実際に疲れていた。

 話し合いの前段階として苦労させられたのは、彼女達の態度だ。主と同じ視線に立つなど畏れ多いことです。そう言って床に片膝を着き、ソファにも座ろうとしなかったのだ。

 これは、困る。颯輔は一介の男子高校生であって、当然、誰かを従えるような経験をしたことはない。それが突然主として持ち上げられても、話し難いことこの上ない。

 ついでに言えば、彼女達の服装も問題だった。

 ヴィータとザフィーラは除くとして、シグナムとシャマルの服装は不味い。季節的には無理があるとは言わないが、彼女達の服装はインナーのように体にフィットするタイプの黒い薄着だ。それも、丈の短いワンピースタイプ。街中ですれ違えば誰もが振り向くような美人で、女性として理想的なスタイルをしている彼女達が片膝を着き、それを上から見下ろす形となるのは、健全な男子高校生には少々刺激が強すぎた。

 ヴィータも不味いと言えば不味いのだが、正直に言ってしまえば、少女の裸などはやてので見慣れている。特殊な性癖の持ち主ではない颯輔には、何ら影響を与えない。ヴィータには失礼かもしれないが。

 そんな理由があって、早速とばかりに主権限を発動し、四人には対面のソファに座ってもらったのだ。

 6月とはいえ夜は冷えるからと言って、膝掛けも渡したために視界の安全は多少はクリアされた。話は長くなるだろうからと渡したコーヒーは、遠慮しているのかそれとも口に合わないのか、あまり手は付けられなかったが。

 ただ、ヴィータは例外のようで、ホットミルクが満たされたマグカップを両手で持ち、ちびちびと飲んでいた。

 話を整理しよう。

 大前提として、文明が栄えているのは地球だけではないということ。世界は次元の海に広がっており、地球はその海に浮かぶ一つの島にすぎないそうだ。他の島には地球よりも文明が栄えて技術が発展している世界もあり、魔法もその技術の一つらしい。

 『進みすぎた科学は魔法と区別がつかない』とは誰の言葉だったか、その表現が正鵠を射ているということだ。闇の書は、その魔法技術で生み出されたものである。

 闇の書が破壊されると、魔法の知識の有無にかかわらず、新たに主の資質を持つ者の下へと転移するらしい。

 そして、颯輔は新たに闇の書の主として選ばれた。それに、はやても。これは、主と守護騎士の間に構成される精神リンクが繋がっているため間違いないらしい。

 一度に二人の人間が主になることなど今までに一度もなかったそうだが、参謀役であるシャマルの考察では、二人共に主となる適正があったのだろうとのこと。今まで颯輔の手元にあったのに起動しなかったのは、はやても主として登録されており、その成長を待っていたからだと思われるそうだ。

 まず考え付いたことは、闇の書の主を辞めること。

 主を辞めてしまえば、魔法の存在などは忘れて元の生活に戻れる。はやては、夢でも見たのだろうと誤魔化せばいいだろう。

 だがしかし、主を辞めることはできないらしい。正確には、生きているうちに辞めることは、だが。

 闇の書が新たに主を選出するのは、前の主がいなくなったとき。すなわち、前の主が死んでしまったときだけだそうだ。

 なら本を壊したらどうなるかのか、と訊いてみたが、起動した闇の書と主の間にはパスが繋がっており、闇の書を破壊すれば主も死んでしまうそうだ。

 まさに一蓮托生。最初から最後まで拒否権がないとは、何とも傍若無人な魔導書である。

「ご自身の状況は理解されましたか? 命令があれば、我らヴォルケンリッターは今すぐにでも蒐集を開始致します」

 困惑の色が薄くなった強い瞳で、将であるシグナムに問われる。

 闇の書の主を辞めることができない以上、問題はまさにそれなのだ。蒐集をするか、しないか。大きな力を手に入れるか、入れないか。

 家庭環境の所為か、自分の精神が周りの人間よりも大人びている自覚はある。

 だが、颯輔は決して聖人君子などではなく、欲のある人間だ。何でも思い通りにできる力があるのならば、それを扱えるに越したことはないとも思う。叶えたい願いの一つや二つ、いや、数え上げればキリがないほどにある。

 しかし、どうしても欲しいかと問われれば、答えは否である。

 現実問題にフィクションの観点から考えるのはよろしくないが、そう言った旨い話には必ず裏がある。煽てられるがままに絶対者として振る舞えば、手痛いしっぺ返しが待っているだろう。今まで読んできた似たような題材の小説には、大抵そのようなオチがついていた。

 だから、ここは慎重に考えなければならない。聞かされた内容を思い返し、疑問点を洗い出す。

「……今の状況はなんとなくわかった。だけど、もう少しだけ俺の質問に答えてほしい」

「何なりと」

「俺の知る限り、地球には魔法文明なんてものはない。魔法という概念はあっても、それはお前たちが言う魔法とは別物だと思う。俺とはやてのように魔力がある人間だって、突然変異みたいなものなんだろ? なら、お前たちはどこでそのリンカーコアとやらを蒐集してくるんだ?」

 主が僕に畏まらないでください、と注意されて直した口調で問いかける。

 リンカーコアの蒐集。その対象が他人である以上、それには何らかの交渉が必要になるだろう。言葉にしろ、行動にしろ。そして、彼女達は『騎士』と名乗った。それが意味するところは……。

 質問に答えたのはシグナムではなく、四人の中では最も表情豊かなシャマルだった。

「私達は単体での次元移動――転移魔法が使えます。蒐集は、この世界ではなく魔導師のいる世界で行います。もちろん、主に害が及ばないように、蒐集対象には口封じを施しますから安心してください」

 こちらの不安を拭い去ろうとしたのか、安心させるような笑みを浮かべながら言われる。だが、笑顔でそんなことを言えること自体が、颯輔には異常にしか思えなかった。

 口封じ。それが必要ということは、つまり、そうしなければならない方法で蒐集を行うということ。そして、口を開く先はおそらく、この世界でいう警察のような機関。

 世界が無数にあることを把握しており、単体でその世界を行き来する方法があるのだ。次元世界の治安を維持する機関があっても不思議ではないだろう。

「口封じって……?」

「バラさないようにぶっ殺すっつーことです」

「……!」

 悪い方向へと行く思考を吐き出すように呟いた言葉に返したのは、はやてよりも小さな少女、ヴィータだった。

 ぶっ殺す。現代のやんちゃな子供なら、使ってもおかしくはない言葉。もしはやてがそんな言葉を使ったら、そんな言葉は使ってはいけないと厳しく叱るであろう汚い言葉だ。その言葉を、小学生になり立てのような子供であるヴィータが使ったのだ。それも、なんら罪の意識を感じていない表情で。

 ザフィーラは口下手なようで、不要な発言はせまいと顔を伏せたまま。シグナムとシャマルは、ヴィータの物言いに僅かに顔をしかめていた。しかし、その発言を忌避しているというよりは、主の前で乱暴な言葉を使うな、と窘めているかのよう。

 事実、シグナムとシャマルは叱るような視線をヴィータに送り、ヴィータはそれを受けて不機嫌そうに顔を逸らしていた。おそらく、思念通話でもしていたのだろう。何となくだが、そうだとわかる。

(つまり、闇の書っていうのは、そういう類のものなのか……)

 魔導書の名前から、ある程度予測していた可能性。

 恐ろしく怖い暗がり。

 邪で悪しきモノ。

 心をざわつかせる夜。

 光の正反対に位置する、闇。

 見た目は人間にしか見えないが、正確に表現すれば、守護騎士達はプログラム。そこに善悪の区別はないのかもしれない。

 だが、人間であってもその思想や常識がまったく同じとは限らない。次元世界には無数の世界があるのだという。その中には、殺人に対して忌避を感じない人間がいるのかもしれない。ごく一部ではあろうが、地球にだってそういった人間は存在するのだろう。

 しかし、颯輔はそういったことを忌避するこの世界では真っ当な人間のつもりだ。誰かを犠牲にして得る力には嫌悪感を覚える。

 はっきり言って、とても自分の手には負えない。闇の書の主なんて、今すぐにでも辞めて逃げ出してしまいたい。

 寒気を感じる体を抱くようにして腕を組み、別の可能性を探した。

「……蒐集はするなって言ったら、しないのか?」

「はあ……? そう命じるのなら、我々は従うだけですが……」

 ダメ元だったが、どうやらそれはそれでアリらしい。

 よくよく思い返してみれば、彼女達は自分達を主の僕と称していた。それも、何の見返りも求めない、だ。健全な男子高校生としては思うところがないでもないが、主の命令は絶対なのだという。

「なら、その……本の中に戻ることとか、できる?」

「申し訳ございません。一度守護騎士プログラムが起動した場合、闇の書を完成させて主が真の主とならなければ、プログラムを停止させることはできないのです」

「真の主?」

「はい。完成すれば絶大な力を誇る闇の書ですが、それまでは蒐集ページ数に応じた不完全な力しか行使できません。闇の書の主は、闇の書の完成と共に真の主へと目覚めるのです」

「今はまだ仮契約ってことか……」

「申し訳ございません……」

「いや、責めてるわけじゃないけどさ」

 どうやら見なかったことにもできないらしい。かと言って、主を辞めることができない以上、どこかに行ってしまえというのもなしだろう。そもそも、罪悪感でそんな命令はできない。

 ならば、選択肢は一つしかない。

 蒐集はさせずに、この家に住まわせる。

 二階は使っていない部屋ばかりだし、家具もまだ処分はしていない。颯輔とはやての保護者で遺産の管理も任せている叔父の友人からは、二人で使うには多すぎるくらいの、むしろ六人で使うのが丁度いいほどの生活費をもらっている。衣食住はなんとかなるだろう。

 未だ兄にべったりとはいえ、はやても大きくなってきており、そろそろ同性のお世話役が必要だと思っていたところだった。事情を知っている美由希や病院の先生でさえ、風呂もベッドも一緒だと言ったら少し白い目で見られたことを思い出す。

 やはり、丁度いい機会かもしれない。

 守護騎士達の人間性には多少危ういところが見られるが、彼女達は良くも悪くも主に忠実だ。主に弓引くことはおそらくないだろうし、この世界の常識も教えればいい。それで大丈夫なはずである。

 はやてには事情を話せば受け入れてくれるだろうし、一人の時間が減るのだから喜んでくれるだろう。近所の人には、親戚が訪ねてきたとでも言えばいい。仕事が忙しいらしく、ここ二、三年は姿を見せていない放任主義な保護者には、適当に話をつければいいはずだ。

 残る問題は戸籍や税金などの法律的なところだが、一介の高校生にすぎない自分にはいい案が浮かんでこない。犬猫を拾ってきたわけではあるまいし――ザフィーラは狼が本来の姿らしいが――有耶無耶にはできないだろう。そのあたりは詳しく調べて、何か手を打たなければならない。

「はぁぁぁ………………」

 時刻はもうすぐ午前2時を回る。

 この先のことを考えると多大な苦労が待っていることが目に見えて分かり、盛大な溜息が漏れた。

「あ、主……?」

 その溜息を何か悪い方向に捉えたのか、凛としていたはずのシグナムが、こちらの様子を窺うような視線を向けてきた。

 シャマルは目に見えておろおろとしているし、ヴィータはちらちらと視線を飛ばし、それがかち合うと慌てて目を逸らしている。一見すると落ち着いているように見えるザフィーラでさえ、獣耳がピクピクと忙しなく動いていた。

(何だ、人間らしいところもあるじゃないか)

 その様子に、思わず笑みが零れる。

 もしかしたら、前の主からは酷い扱いを受けていたのかもしれない。完全に信用したわけではないが、ならば、せめて自分は優しく接するように心掛るとしよう。物足りないかもしれないが、守護騎士達には大切な家族を守ってもらおうではないか。

 少なくなく感じていた恐怖は心の奥へと引っ込んでいき、いつしか小さなものへと変化していた。

「蒐集はしなくてもいい。というか、しないでくれ。大層な力を手に入れたって、その責任には耐えられそうもない。だからまあ、今回は長い休暇だと思っていいから。少しは手伝いをしてもらう気でいるけど、ガチガチに行動を制限するつもりもないし。もちろん、危ないことや悪いことはさせないけどね」

「「「「………………」」」」

 四人の呆ける顔は、とてもプログラムには見えない。感情のある、立派な人間だ。

 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して立ち上がる。

 まずは、二階の寝室を使えるようにしなければならない。颯輔は、明日の起床時間を少し遅めに設定することにした。

 



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第三話 戸惑い

 

 

 カーテンの隙間から差し込んでくる日の光を感じ、はやてはゆっくりと意識を覚醒させた。

 寝惚けてぼんやりとしているところには辛い光に顔をしかめながら、何度か瞬きをして目覚まし時計に目を向ける。

 どうやらアラームよりも先に起きてしまったらしい。まだ寝れるやんか、と二度寝を決め込もうとしたはやてだったが、目ざまし時計の示す時刻に違和感を感じ、もう一度それを確認した。

 八神家の起床時間は6時である。身支度を整える他に、二人分だけだが朝食も作らなければならないためだ。

 さらに言えば、自分は障害の所為で兄の手を借りなければまともな生活を送れないため、普通の人よりも多く時間がかかる。それを踏まえての起床時刻だ。その習慣は休日であっても変わらない。

 だが、目覚まし時計の針はどう見ても7時手前を指していた。

 アラームに気づかず寝過ごした可能性もあるが、隣を見れば、口を半開きにして、起きているときには見られないあどけない寝顔を見せる兄がいる。自分だけならまだしも、しっかりしている颯輔まで一緒に寝過ごすというのは、少し考え難い。

 よくよく見てみれば、一番短いアラームの針は、7時に設定されていた。

 目覚まし時計を触るのは、アラームを設定するときと止めるときくらいだ。アラームの鳴る時刻を変えることは、普段はしない。でも、現に設定時刻は変わっている。

 颯輔が変えたのだろうか。そう思って視線を颯輔に向けると、その向こう、ベッドよりも向こうで、ムクリと影が立ち上がった。

「おはようございます、主はやて」

 どこかで聞いたことがあるような、低い男性の声。

 だがしかし、はやての視界に移る人間は、その手前の颯輔しかいない。というかそもそも、この家には自分と颯輔しか人間はいない。

 きっと寝惚けているのだ。そうに違いない。

 コシコシと目を擦って、もう一度影に目を向けてみる。

「どうかなさいましたか?」

 そこにいたのは、青い毛並をした大きな獣。人語を解す、大きな犬だった。

「きゃっ、きゃあああああああああああああああっっっ!?!?」

 6月4日、日曜日。

 はやての誕生日は、家中に響き渡るはやての悲鳴で始まったのだった。

「闇の書の主に、守護騎士かぁ~……。なんや、お話の出来事みたいやね」

 朝、はやての悲鳴によって叩き起こされた颯輔は、昨晩に聞き出し整理した情報を説明した。

 悲鳴を聞きつけて駆け付けた残る守護騎士三名の登場に更なる混乱を見せたはやてだったが、どうにか状況は理解したらしい。子供の純粋さ故か、はたまたはやての器が大きいのか、事実を疑うことはなかった。

 ちなみに、主を驚かせたとしてシグナム達に思念通話でこっぴどく叱られているようだったザフィーラは、しばらく耳と尻尾を垂れ下げてしょんぼりとしていた。主の護衛――シグナム達も申し出たが颯輔が断固として拒否した――が何たる醜態か、ということらしい。

 目覚めた段階では一人蚊帳の外だったはやてだったが、状況を理解するとすんなりとザフィーラを許した。

 初見では驚きはしたが、もともと犬を飼うことに憧れを抱いていたはやてだ。人語を解すというイレギュラーはあるが、ザフィーラの存在は大歓迎である。

 注記しておくが、ザフィーラは犬ではなく狼である。重要なことなので出来れば間違えないでほしいとのこと。

『確かに信じ難いけど、自分で魔法を使ってみると、信じるしかないだろ?』

『思念通話、やったっけ? 便利やね、魔法って。これあったら、電話代が丸々浮くんちゃう?』

『俺かシグナム達と話すときは、な。普通の人には使えないんだから』

『んまぁ、それもそうやね』

 早速覚えたての魔法を使ってみる。闇の書の構築する精神リンクを利用した場合は呪文を唱えたりと特別な動作は必要とせず、心で念じるだけで声が届くため、思念通話はすぐに使えるようになっていた。

「あのぅ……」

「ん? どないした、シャマル?」

「その、私達にも、何かお手伝いできることはありませんか……?」

「ああ、別にええよ。わたしとお兄が闇の書の主っちゅうんなら、騎士の面倒もしっかりみなあかんし。な、お兄?」

「そうだな。この世界じゃまだ慣れないことも多いだろうし、今はゆっくりしていてくれて構わないぞ」

 おずおずと手を挙げ質問したシャマルに、はやてと颯輔は朝食であるおにぎりを作りながら答えた。守護騎士達はプログラムが人間の形を取ったものだが、その外見も名前も外国人――異世界人とも言える――だから箸は不慣れであろうという配慮である。

 八神家では一日分のご飯を朝にまとめて炊くため、六人分のおにぎりは何とか用意できそうだった。

 しかし、主二人がせっせと朝食を用意しているというのに、守護騎士であるシグナム達が黙って座っているというのはあり得ない。かと言って、戦いが本分で食事の必要すらなかった騎士達には、料理の心得などあるはずもない。そこで、初めての扱いに困惑している四人を代表してシャマルが尋ねたのだったが、ゆっくりしていろと、これまた初めての扱いに困惑を深めるばかりである。

 結局、どうすえればいいかわからずに立ち尽くしている間に、二人は朝食を作り終えてしまった。

 大きなおにぎりが一つに、卵焼きとウインナーにプチトマト、そして熱いお茶が食卓に並ぶ。箸とフォークの両方がシグナム達に配られ、やはり困惑をしつつも揃っていただきますと手を合わせた。

 主からの魔力の供給があれば食事は不要な守護騎士だが、それを告げても、自分達だけが食べるのは悪いと押し切られてしまったのだ。もちろん食べられないことはないし、そもそも主が自ら用意したものを食べないという選択肢はない。

 同じテーブルについて同じ食事を取ることに恐縮しつつも、海苔の巻かれたおにぎりを口に運んだ。

「うまい……!」

 小さく漏らしたのは、小さな口で大きなおにぎりを一かじりしたヴィータだった。

 海苔の香りが鼻腔をくすぐり、塩によって引き立てられたご飯の旨味が口の中いっぱいに広がる。

 大きく口をあけてかじりつくと、今度は先ほどとは別の味がした。マヨネーズを和えたシーチキンである。マヨネーズの酸味が食欲を促し、口に運ぶ速度が上がる。

 美味しい。今まで食事を取ったことがなかったわけではないが、闇の書の長い歴史の中でもこんなに美味しいものを食べたのは初めての経験だった。

 感想を口に出したのはヴィータだけだったが、シグナムにシャマル、ザフィーラも同じだったようで、見る見るうちにおにぎりが小さくなっていく。

 颯輔とはやては、その様子を満足そうに見守っていた。

『いい食べっぷりやねぇ。お昼ご飯はもっとたくさん作らなあかんとちゃう?』

『そうみたいだな。食べ物と、それから服も買ってこないとなぁ……』

 何気にはまりつつある思念通話でひそひそと相談する。食事も大切だが、衣服も同じくらい大切だ。真っ黒なインナー一着だけでは話にならない。

 一先ずヴィータにははやての服を着せるとして、颯輔の服はザフィーラには小さいだろうし、シグナムとシャマルには大きいだろう。というか、男物――それも自分の服――を女性に着させるのはアリなのだろうか。

 しかし、着させないことには外出もできない。外出をしなければ、服も買いに行けない。さてどうしたものか。

 家具は残しているのだから叔父と叔母の服も残しておけば良かったなぁ、と思いつつ、颯輔はツナマヨのおにぎりを頬張るのだった。

「はぁ……」

 すっかり厚みのなくなってしまった財布の中身を確認し、颯輔は自宅リビングにてどこか遠い目をしながら溜息を吐いた。

 ATMから預金を下したときは二つ折りの財布が反発で戻るほどだったのだが、今では諭吉さんが二人と英世さんが数人しかいなくなってしまった。今日ほど散財したのは生まれて初めてのことである。

 ちゃっかり新しい服をヴィータのカゴに混ぜていたはやての分と、足りない食材を買い足した分が地味に痛い。

 ちなみに、女性陣は今頃二階でさっそく着替えを始めている頃だろう。

「申し訳ございません、主颯輔。シグナム達のみにならず、私の分まで与えていただいたばかりに……」

「あ、ああ、気にしなくていいぞ、ザフィーラ。人間形態になってほしいのは俺の方だし。今日だって、男手が増えて助かったよ」

 今は狼形態に戻り、隣に控えていたザフィーラの頭を撫でる。

 春物と夏物、それに下着類を人数分買ったのだ。いくらシグナム達が見た目に反する力を持っているとはいえ、流石に女性に荷物を持たせるのは世間的によろしくない。買い物の頼もしい味方である男手が増えるのは大歓迎だった。ザフィーラは本来の姿を好むそうだが、今後も度々買い物には付き合ってもらうことになるだろう。

 それに、先ほどは大げさに溜息までついて見せたが、実のところ、そこまで家計は圧迫されていない。

 颯輔とはやての現保護者、叔父の友人で英国人であるギル・グレアムなる人物に遺産の管理を任せているのだが、生活費は十分すぎるほどにもらっていた。それこそ、二人だけでは使いきれないほどに。むしろ、六人で丁度いいくらいだ。

 月に一度の近況報告の度に多いとは言っているのだが、何かあったときのためにと額が減ることはない。はやてのこともあるし、子供の二人暮らしが心配なのだろう。仕事が忙しく、なかなか様子を見に来ることができないという負い目があるのかもしれない。

「いえ、主の命令に従うのは守護騎士として当然のことです」

「命令って。お願い程度のつもりだったんだけどなぁ……」

 固い態度を崩さない守護獣に苦笑を漏らす。

 昨晩突然現れた守護騎士の態度は、今日一日の買い物を通して徐々に柔らかいものになりつつあったが、まだ難しいところがあるようだった。

 シャマルだけは適応力が高いらしく、口調は敬語のままだがその物腰は柔らかい。出かける前に注意した呼び名も、『主』から『颯輔君』と『はやてちゃん』に変わっている。地の性格と守護騎士としてのポジションからか、主と守護騎士の間に立ってくれていた。

 はやてに着せ替え人形にされつつも満更ではなさそうだったヴィータはあと一押しな気もするが、シグナムとザフィーラは元来の生真面目さがあるのか、時間がかかりそうである。

 その間にあるのは恐らく、戸惑いと猜疑心。

 此度の主はいったい何を考えているのか。

 どうしてこんなに優しくしてくれるのか。

 裏にある思惑はなんなのか。

 いつ蒐集を命じられるのか。

 騎士達は隠しているようだが、精神リンクを伝ってそういった感情がありありと流れ込んでくる。

 不安なのだ。穏やかな時間を過ごすことが。その時間が失われることが。そんな時間を、過ごしたことがないから。

 わからないことは、怖い。騎士達自身も気づいていないであろうそういった感情を、颯輔は無意識のうちに汲み取ってしまっていた。

 颯輔は、ザフィーラを撫でていた手を下した。

「なぁ、ザフィーラ。……俺たちみたいな主は、今までいなかったのか?」

 早過ぎる気もしたが、一歩だけ踏み込むことにした。建前ではなく、真実を語ってくれそうなザフィーラに。同性だからというか、動物だからというか、ザフィーラには訊き易かったという理由もある。返ってくるであろう言葉を、女性であるシグナムやシャマル、子供であるヴィータの口からは聞きたくなかったからかもしれない。

 だから、ザフィーラと二人だけのうちに確かめておきたかった。

「……はい。我らは長い時を過ごし、その日常は戦いと共にありました。休息がなかったわけではありませんが、その時間よりも、戦いの時間の方が長かったのです。しかし、魔法技術のない世界に転生したことも……貴方のような人物が主になったことも、初めての経験となります」

「…………」

 予想していた答えではある。だが、予想のままであったのと、実際に当人の口から告げられるのでは、重みが違う。

 ザフィーラの言葉に、やり場のない怒りを感じた。

 いったいどれほどの時間そういった扱いを受ければ、こうなってしまうのだろうか。優しくされることに戸惑うなど、穏やかな時間の過ごし方がわからないなど、絶対に間違っている。今までどんな世界でどんな扱いを受けてきたかはわからないが、不幸な出来事はあっても平和な日本で過ごしてきた颯輔は、そう思う。

「最初から混乱していた世界もありました。我らが混乱をもたらしたこともありました。しかし、そのいずれもが、戦うことでしか、奪うことでしか何かを得ることができない世界でした。そういった世界で、我らは戦ってきたのです」

「…………」

 ザフィーラのいう世界を、颯輔は理解することはできない。想像することはできても、理解にまでは至らない。その想像すらも、現実には及ばないだろう。

 しかし、何の因果か、闇の書は颯輔達の下へと転生してきた。争う必要がなく、奪う必要もない平和な世界に。

 ならば、もういいではないか。

 辛い時間を過ごさなくても。優しい時間を過ごしても。この時間はきっと、今まで頑張ってきた騎士達へ、誰かからのプレゼントに違いないのだから。

「守護騎士はさ……」

「……?」

「守護騎士は、主を守るためにいるんだろう? 奪うためにじゃなくて、守るために。幸い、この世界はそんなに危ないところじゃない。大きな争いもないしね。少なくとも、この国は。その辺りは、今日出歩いてみて何となくわかっただろ?」

「はい。治安の良い、安全な街だと思いました」

「そうだな……普通の人にとっては、ね。でも、はやては違う。あの子は自分の足で歩けないから、車椅子に乗ってる。車椅子だと、安全に思えるところも危険だったりするんだ。ちょっとした段差だったり、階段だったり、坂道だったり。小さい危険が、大きい危険になってしまう。そのくせ、あいつはあんまり人に頼ろうとしない。できることは自分でやりたいって思ってる。それが悪いとは言わないけど、兄貴としては……やめてほしい。正直言って、目の届かないところでは大人しくしていてほしいんだ。俺が学校に行っている間に何かあったりとか想像すると、ゾッとするよ。過保護だって自覚はあるけど、これ以上、誰もいなくなってほしくないからさ」

 父も母も、叔父も叔母も、皆いなくなってしまった。颯輔に残された家族は、もうはやてしかいない。

「だから、ザフィーラには――守護騎士達には、はやてを守ってもらいたいんだ。俺がいない間もそばにいて、生活を支えて、寂しい思いをさせないでもらいたい。闇の書の現マスターである俺がお前達に望むことは……いや、お願いすることは、それだけだよ」

「御意に……!」

 

 小さく、しかし力強く頷いてくれたことに満足し、わしゃわしゃと撫でつけていると、階段を降りる音が聞こえてきた。二階では女性陣の着替えが行われているが、そろそろ終わったのかもしれない。

 リビングのドアを開けたのは、ヴィータだった。

 それまでははやてのおさがりだった服装が、肩口が赤、胴が白のラグラン・パーカーと、ラインの入った黒いミニスカートと白い二―ソックスに変わっている。スポーティーな印象を与えるそれは、子供らしいヴィータにはよく似合っていた。

 リビングに入ってきたのはヴィータだけで後続はいないらしく、カチャリと扉が閉められる。

「あれ、ヴィータ一人だけ?」

「シグナムとシャマルは、もうちょい時間かかるみてーです。その、下着とかで苦労してて……」

「あー、なるほど、ね……。えっと、ヴィータの服、似合ってると思うよ。自分で選んだの?」

「あたし、こういう服着るのは初めてだから、どういうのがいいのかわかんなくて、その……はや、はやてに選んでもらいました」

「そ、そっか……」

 どうやら上では苦戦しているらしい。はやてに上手くできるとは思えないが、颯輔が行っても力にはなれないし倫理的にもアウトだ。よって、下着云々から話題を逸らそうとしたのだが、ヴィータの様子にどうも地雷を踏んだ気がした颯輔だった。

 しかし、普通の服を着るのが初めてということは、今までずっとあの黒い薄着だったということだろうか。地球以上に文明の発達した世界には、もっとしっかりとしたものがあっただろう。ないとは思えない。これまでの主はいったい何を考えていたのか、甚だ疑問である。

「そろそろ行かないと夕飯の支度が間に合わなくなるんだけど、まだ時間がかかるのか……。ヴィータ、よかったら、一緒においしいものを買いに行かないか?」

「おいしいもの……行くっ、ですっ!」

 しゅんとしていたヴィータだったが、颯輔の誘いに目を輝かせた。朝昼二回の食事で、すっかりこの世界の食べ物の味を占めたヴィータである。

 食べ物で釣る誘い方には罪悪感を覚えたが、子供の意見も重要だ、故に正当だ、とそれを振り払う。

「ザフィーラはどうする? 散歩ついでに、一緒にどうだ?」

「一階を無人にするわけにはいきません。私はここで見張りをしていましょう。ヴィータ、主を頼んだぞ」

「おう、任しとけっ!」

「あはは……。それじゃ、はやて達にはケーキを買いに行ってくるって伝えてくれ」

「はい。お気をつけて」

 自分の腰のあたりの背丈しかない少女に守られるという事実に疑問を抱きつつ、颯輔は上機嫌なヴィータを連れ立って外へと繰り出した。

 日が傾き始めたばかりの空は、まだまだ明るい。空が赤く染まる頃には帰って来られるだろう、と当たりをつけ、颯輔は歩を進めるのだった。



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第四話 不穏な影

 

 

 喫茶翠屋。海鳴市の商店街にある、颯輔のクラスメイトである美由希の両親が経営する喫茶店兼洋菓子店である。美由希の母が本場で修業を積んだパティシエだそうで、特にシュークリームは絶品とのこと。海鳴市でデザートを買うならここが一番と評されるほどの人気店だ。日曜日の夕方であろうと、客が途切れないほどに。

「颯輔、ここ?」

「ああ。喫茶翠屋っていう、海鳴じゃ一番おいしいデザートのお店だよ」

 翠屋を訪れる客の一組である颯輔が、甘い香りにスンスンと鼻をならすヴィータに微笑みながら答える。

 ここまでの道中、颯輔は普通に会話できる程度にはヴィータに心を開いてもらえたようだった。おいしいものを買いに行くと聞かされ、上機嫌だったことが勝因だろう。髪の色から妹とは言えない少女に主などと呼ばれては、今頃どうなっていたことか。考えただけでも恐ろしい。

 嫌な想像を振り払った颯輔は、ヴィータと共に店内へと続く扉を開いた。

「いらっしゃいませ――って、八神君?」

「こんにちは。それと、お仕事お疲れ様、高町」

 二人を出迎えたのは、翠と刺繍の施された黒いエプロンを身に着けた美由希だった。休日ということもあってか、店の手伝いに駆り出されていたらしい。喫茶店も兼ねる翠屋には、ウエイトレスも必要なのだ。

「あ、妹さんのケーキね。忙しくてすっかり忘れてたよ。えーと……妹さんじゃない、よね?」

 片づけの途中だったのか、空いた食器をトレーに乗せて近づいてきた美由希が、ヴィータを見て首を傾げる。

 これまで片手で数えるほどだが、美由希ははやてに会ったことがあった。読書好きが功を奏して話は合うのだが、はやては笑顔の裏で妙な威圧感を放ってきていた気がしたので、その顔を忘れることはない。

「ああ。うちの保護者のおじさんのことは話したっけ?」

「イギリスの方のこと?」

「そう、その人。そのおじさんの親戚が日本にホームステイすることになってさ、四人くらいうちで預かることになったんだ。急な話だったから、高町には話してなかったけどね。ほら、挨拶、できる?」

「ヴィ、ヴィータです。よろしくどーぞ」

「私は高町美由希。八神くんの友達だよ。よろしくね。それにしても、ヴィータちゃん日本語上手だね~。なのはの友達もイタリア人なのに日本語上手だったし、日本語が共通言語にでもなりつつあるのかなぁ?」

「さ、さぁ、どうだろ? ヴィータ達はしっかり勉強してきたみたいだけど……」

「へぇー。ちっちゃいのに偉いぞ」

「はぃ……」

 近所のお姉さんと化した美由希に頭を撫でまわされるヴィータが助けを求めるような視線を送ってきたが、颯輔は曖昧な笑いを返すだけだった。美由希の人柄は知っていたし、ヴィータも案外満更ではなさそうだったので、その必要はないと判断したのだ。

 それに、こういったスキンシップは守護騎士達の人間性を取り戻すきっかけにもなるだろう。密かに計略を巡らせている颯輔である。

「コラ、美由希。お客様を困らせたらダメだぞ」

 そろそろ抵抗してもいいのではないか、と結論を出そうとしていたヴィータと美由希の撫でまわす手を止めたのは、厨房から出てきた一人の男性だった。

 すらりと高い身長に、優しげな顔立ちと美由希と同じ黒髪。同じく、翠屋のエプロンを身に着けている。

 以前颯輔が来店した時は美由希の姉かと思えるほどに若々しい母親が対応をしたため、この男性と顔を合わせるのは初めてのことだ。

「こ、困らせてないってば、お父さん。ちょっとお話してただけだって」

「そうか? 友達と話すのは結構だが、TPOはわきまえないとダメだぞ?」

(予想してたけど、お兄さんじゃなくてお父さんだったか……)

 繰り広げられる親子の会話にどこか懐かしいものを思い出しつつ、高町夫妻のあまりの若々しさに感心半分呆れ半分の颯輔であった。三十代後半と聞いていたが、二十代でも十分通用しそうな外見である。

 颯輔の叔母は童顔で年より若く見えたが、叔父や両親はそうではなかったはずだ。自分の十年後を想像し、今度は不安になる颯輔であった。

「なるほど、君が八神君か……」

「……?」

「私は高町士郎。美由希から話は聞いているよ。うちの娘はどうもぼんやりとしているところがあるから、よろしく頼むよ」

「いえ、そんな。こちらこそ、娘さんにはお世話になりっぱなしで」

「話の通り、しっかり者のようだね。注文のケーキはできているよ。今持ってくるから、少し待っていてね」

「はい」

 一瞬探るような目を向けられた気がしたが、ただの気のせいだったのかもしれない。握手を交わした手が妙に力強かったのも、たぶん、気のせい。笑顔の裏から威圧感を感じたりなんかは、していないはず……きっと。守護騎士であるヴィータも反応していないし、悪寒が走ったりもしていないったらしていない。

 颯輔が勘違いから冷や汗をかいている一方で、ヴィータは美由希から解放されてからはショーケースに並ぶケーキに釘付けだった。

「あ、えっと、その、今日は足りない分のケーキも見に来たんだった。いいかな?」

「もちろん。ヴィータちゃん達の分?」

「そうそう。ヴィータ、好きなの四つ選んでいいよ」

「いいのっ!?」

「ああ。ヴィータの分が一つと、あとはシグナム達の分ね」

「わかったっ!」

 瞳の輝きが五割増しになったヴィータが、ショーケースとじっくり睨めっこを始めた。

 このけーきは何、こっちはどんな味、と興奮気味に質問を繰り返し、候補を絞り込んでいく。最後の一個をチーズケーキかレアチーズケーキかで悩んでいたようだったが、颯輔がまた今度買いに来るからと告げると、迷った挙句にチーズケーキに決めていた。

 さらに追加で評判のシュークリームを六個頼み、会計を済ませる。英世さんではなく諭吉さんが出陣したあたり、そこそこ大きな買い物だった。

「ありがとうございました」

「また明日学校でねー」

 士郎と美由希に見送られ、翠屋を出た。

 シュークリームのケースを任されたヴィータは、それを味わう時が心底楽しみなようで鼻歌まで歌っている。聞き慣れないが、耳に残る綺麗なメロディーだった。ヴィータのここまでの喜びようは流石に予想外だったが、喜んでくれるに越したことはない。

 もはや完全に見た目相応の子供にしか見えなくなったヴィータに気を抜かれ、温かな気持ちで歩いているときだった。

 そのメロディーが、ブツリと途切れたのは。

「ヴィータ……?」

 歩みも止めてしまったヴィータを見て、颯輔は困惑した。喜色満面だった表情が険しいものへと変化し、ある一点を射殺す様な視線で睨んでいる。その様子にただならないものを覚えつつ、その先を追った。

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 歳はおそらく、はやてと同程度。赤い長袖と白い半袖のアンサンブルに、紫のミニスカートと白いニーソックス。黒いリボンで明るい茶髪をツインテールに結っている。その小さな肩にはペットであろうフェレットを乗せ、こちらに向かって歩いてくるところだった。

 美由希の母親にそっくりな顔立ちと、美由希の話に度々出てくるフェレット。見たことはないが、その特徴から美由希の妹である高町なのはだと推測される。推測があっているのならば、これから翠屋にでも行くのだろう。

 ヴィータの視線に気が付いたのか、その少女はビクリと立ち止まると困惑の視線を向けてきた。ヴィータに向けていたそれが隣へと移り、目が合った颯輔は困ったように笑う。

「ごめんね。……ヴィータ、ダメだぞ、そんな睨んだりしたら」

「睨んでねーです。もともとこういう目つきなんです」

 確かにヴィータはつり目だが、昨晩から思い返しても今のように敵意を滲ませた目つきを見せたことはない。

 あからさまな誤魔化しに不信感を抱きつつ、颯輔を庇うように少女との間に立ったヴィータの前へと割り込み、もう一度少女に謝ってから道を譲る。少女はペコリと頭を下げた後、気のせいでなければ急ぎ足になって脇を抜けて行った。

 推測は正しかったのかどうか、少女は翠屋の方へと消える。その後ろ姿が見えなくなるまで、ヴィータから剣呑な雰囲気が抜けることはなかった。

 まだ固いが、ヴィータがいくらか元に戻ったところで片膝をついて視線を合わせる。

「いきなりどうしたんだ? あの子、怖がってたぞ?」

 何か理由があるのだろうとは思いつつも、窘める口調で問いかける。ヴィータから返ってきたのは、颯輔の疑問を吹き飛ばすような言葉だった。

「……あいつ、魔導師かもしれねーです」

 楽しい時間というものは、総じて体感時間が短い。颯輔とヴィータの報告に一波乱はあったが、例年より賑やかなはやての誕生会はあっという間に終わってしまった。

 新たな同居人の歓迎会も兼ねた誕生会。腕によりをかけて作った料理は綺麗になくなり、四号サイズのホールケーキとシグナム達のために買ってきたショートケーキもペロリと平らげた。

 シグナム達の態度はまだぎこちないところが目に付いたが、自分の誕生日を祝ってくれる人が増えたことが単純に嬉しかったようで、はやてはいつも以上にニコニコと笑っていた。あんなに楽しそうにしているはやてを見たのは、随分と久しぶりだった気がする。

 過ぎ去った時間に思いを馳せながら、颯輔はシグナムと共に後片付けをしていた。

 はやてにヴィータ、それからシャマルは入浴中である。はやてがヴィータと一緒に入るときかなかったため、シャマルにお守りを頼んだのだ。

「主颯輔。ヴィータと共に遭遇した魔導師の件ですが……」

 こういったことは初めての経験だったのか、隣で澄ましつつもおっかなびっくりと食器を拭いていたシグナムが、皿洗いをしながら物思いにふけっていた颯輔の意識を呼び戻した。帰宅後に守護騎士達に報告はしたが、夕飯の時間だからと話し合いは後回しにしていた件だ。

 翠屋の帰り道に遭遇した魔導師。名前はおそらく、高町なのは。

 魔導師同士でも普通に生活している分にはお互いが魔導師かどうかはわからないそうだが、ヴィータはあの少女から魔力を感じたという。トレーニングでもしていたのか、行動を制限する魔力の負荷をかけていたために気が付いたらしい。

 地球には魔法文化はないはずだが、颯輔とはやてという前例がある。二人はいわば突然変異で非常に珍しいケースなのだが、同じ海鳴市に他にも魔導師がいないとはいいきれない。正体を隠しているだけで、案外、物語のような魔法使いやらがどこかに隠れ住んでいるかもしれないのだ。魔法の学校だったり、魔法使いの組織だったりも存在するかもしれない。一ヶ月ほど前には街路樹が巨大化するという摩訶不思議な事件があったし、あれに魔法が絡んでいる可能性もなきにしもあらずだ。

「街路樹の巨大化云々については判断しかねますが、今は目先の問題が重要です」

「ごめん、そうだったな……」

 ふと思い付いたことを尋ねてみただけだったが、話をそらさないでくださいと視線で訴えられてしまった。

 気を取り直して。

 ここで問題になるのは、件の少女が外の世界を知っているかどうかである。

 本日女性陣の買い物を待つ間にザフィーラから聞いた話では、次元世界の法と秩序を守る時空管理局なる組織が存在するらしい。魔法技術があって管理局の手が及ぶ世界を管理世界、魔法技術がなくて管理局の手が及ばない世界を管理外世界と呼ぶそうだ。

「この世界――地球は管理外世界です。件の少女が管理局に通じている可能性は極めて低いと思われますが、用心に越したことはありません。何しろ、少女は魔力を持っていただけでなく、実際に使っていたのです。魔法を使えるという事実。魔法文化のない世界では、まず有り得ないことです……。無論、我らヴォルケンリッターが一対一で遅れを取る事はありませんが、しかし、管理局に大挙として迫られた場合は、少々話が変わってきてしまいます。主達はこの身に代えても護り抜く所存ではありますが、敵軍の殲滅は不可能に近いでしょう。この地で暮らす事は適わなくなるやもしれません」

「殲滅って……。まぁ、シグナムの考えがわからないでもないけど、まだ管理局の人間って決まったわけじゃないんだから。不審には思われたかもしれないけど、こっちの正体がバレたわけじゃないし。だいたい、その女の子だって、まだ小さな子供だったしさ」

「いいえ、油断は禁物です。もしかすると、変身魔法で正体を隠した管理局員やもしれません。ここはやはり、向こうが感づく前に、こちらから打って出るべきかと」

「って、待て待て待て待て!」

 早速普段はアクセサリーとして待機状態となっている武器――レヴァンティンを胸元からゴソゴソと取り出そうとするシグナムを、その動作にドギマギしつつも慌てて止める。

 シグナム本人は至って真面目なようだが、少々血の気が多い気がしてならない。ついでに言えば、自分が女性、それも美人であることを自覚してもらえるとありがたい。

 心の中で溜息を吐く颯輔であった。

 ちなみに、魔法というからにはそれらしい杖を想像していた颯輔とはやてだったが、実際に見せてもらうとレヴァンティンは未来的なデザインの剣。ヴィータのグラーフアイゼンはハンマーだし、シャマルのクラールヴィントは指輪という形状。これまでの二人のイメージを見事に粉砕してくれたのだった。騎士である事を考えればシグナムとヴィータは納得のチョイスなのだが、いくらなんでも物騒な事この上ない。

「……その女の子は、俺の友達の妹かもしれないんだ。例え管理局員だったとしても、いきなり斬った張ったは勘弁してくれ。朝も言ったけど、この世界で暮らしていくには大切なことなんだから、そうやってすぐ実力行使に出ようとするのは禁止。わかったか?」

「申し訳ありません……」

「ないとは思うけど、ピンチになったときは頼りにさせてもらうからさ。とにかく、まずは事実確認が先だ。それまではちょっかいは出さないこと」

「はい……。それではせめてもとして、シャマルに探知防壁と防御結界を張らせておきましょう。探知防壁は探索魔法から逃れるためのもの、防御結界は敵の侵入を防ぐものだとお考えください。万が一への備えは必要ですから」

「それくらいなら、まぁ……」

 もしも件の少女がシグナムの言うとおりのような人物だった場合、それに対する備えは確かに必要である。颯輔とはやては突然闇の書の主に選ばれただけで何もしてはいないのだから、理不尽な理由で逮捕なんてことになるのはご免だった。それに、以前はどうであれ、少なくとも、八神家に現れてからのシグナム達は今のところは何もしていない。

 シグナムの提案は、考えようによっては一般用の防犯システムにもなるだろう。海鳴市で物騒な事件が起こったなどと聞くことはないが、しかし、用心に越したことはない。

 防壁だの結界だのという言葉に己の常識がガラガラと音を立てて崩れる音を聞きながら、颯輔は頷いたのだった。

「ふぅ……」

 久方振りに使う自室のベッドに潜り込み、颯輔は一つ息をついた。

 入浴と明日の朝食の下ごしらえを済ませ、後は就寝するだけとなったのだが、はやてがヴィータと一緒に眠ると言い出したのだ。不安はあったが、小さなヴィータが軽々とはやてを横抱きにするのを見て、色々と言葉を飲み込んだ颯輔である。

 セミダブルサイズのベッドとはいえ、一人で眠るそこはいつもの何倍も広く感じた。

 自分にべったりなはやてを見て、いつかは兄離れが必要だとは思っていたのだが、いざこうなってみると、何やら物足りなく感じてしまう。もしかしたら、自分の方が妹離れできていないのかもしれない。

 しばらくは慣れそうにないな、と思いながら、颯輔は重くなり始めた瞼を閉じた。

 思い返してみれば、今日は密度の濃い一日だった。

 本日6月4日になった瞬間に守護騎士達が現れて、魔法の存在を知った。そして、あろうことか、自分と九歳の妹が彼女らの主となったのだ。改めて、突拍子もない空想的な話だと思う。

 それから、はやての悲鳴で目を覚まして、朝食を振る舞って、美味しそうに食べるシグナム達を見て。

 買い物では、さしてセンスもない自分にレディース物の意見を求められて困惑したり、四苦八苦して選んだ服は、はやてにイマイチと評価されたり。

 翠屋への買い物では、ヴィータの見た目相応に可愛らしい一面を発見し、帰り道には自分達以外に魔導師である可能性を持つ少女とすれ違った。

 夕飯は腕によりをかけてご馳走を作り、はやての誕生会は今までで一番賑やかなものとなった。しかし、シグナム達はまだ遠慮していたというか、戸惑っていたところがあったので、打ち解けているであろう来年にはもっと賑やかなものになっているだろう。

 休日と言えばはやてと二人で静かに過ごすことが多かったのだが、今日は慌ただしい一日だった。まだまだ考えなければならないことはたくさんあるが、今日はもう疲れで頭が働きそうにない。思考を閉じて、颯輔は微睡に身を任せた。

 

――お疲れ様でした。ゆっくりとお休みください、我が主よ。

 薄れゆく意識の中、同室でカーペットに身を横たえているザフィーラでも別室のシグナム達でもなく、しかし、どこかで聞いたことのあるような女性の声を耳にした気がした。

 



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第五話 備えあれば憂いなし

 

 

「はぁ……」

 HRの終了と共に放課後になった瞬間、颯輔は溜息を吐いた。授業で疲れたというわけではなく、昨日から激変した私生活が原因である。同居人が一気に四人も増えたのだ。八神家の家事を預かる身なのだから、疲れが増えるのも当然の事だろう。主に、洗濯などで心労が。

「何だかお疲れだね、八神君。妹さんの誕生会、上手くいかなかったの?」

「いや、そんなことはないけどさ。ちょっとね……」

 そんな颯輔の様子を気遣ってか、美由希が声をかけてきた。颯輔はそれに軽く笑って返す。なぜなら、颯輔の疲れの一端は美由希も関係していたからだ。

 先日遭遇した魔導師と思われる少女。その姉かもしれない人物が颯輔の級友だと知ったシグナム達は、学校まで護衛を、と騒ぎ出したのだ。

 具体的に言えば、得意の魔法でもろもろを誤魔化し、シャマルが養護教諭として潜入しようとしていた。登下校の護衛も、シャマルの潜入も当然の如く断ったが。

 結論から言ってしまえば、高町美由希はおそらく、魔法とは何の関係もない。

 内心で冷や汗をかきながらも恐る恐る昨日の事を確認したところ、件の少女は美由希の妹である高町なのはで間違いなさそうなのだが、ただそれだけだったのだ。

 なのはは夕食の席でヴィータに睨まれたことをぼやいていたそうだが、特に気にした様子もなかったとのこと。美由希の態度もこれまでと何ら変わりなく、ヴィータちゃんってお人形みたいで可愛いよねー、またお店に連れてきてよ、という程度の認識であった。その言葉に裏はないようであるし、何より友達であるという事から美由希を信じる事にした颯輔である。

 ヴィータが嘘をついたり間違った判断をしたとも思えないので、高町なのははおそらく魔導師で間違いないだろう。しかし、家族はその事を知らないのだというのが颯輔の考えだった。

 美由希が魔導師だったり管理局と繋がっていたりすれば、昨日ヴィータと会った時点で何らかの反応があったはずである。昨日の態度も今日の態度も演技だとはとても思えないので、美由希は無関係と判断したのだ。

 これで美由希が管理局に通じていたりしたら、女性にトラウマを抱きそうな颯輔である。

「同居人が増えたから、環境の変化に戸惑ってるだけ。調子が悪いとかそういうのじゃないから、心配しないで」

「ふーん。確かに、突然家族が増えたりしたらびっくりしちゃうよね。私もそのうちそういうの味わっちゃうのかな……いやでも、恭ちゃんは婿に入るのかも……それはそれでうぅぅ……」

「え? あれ? 高町?」

 確認のつもりで鎌をかけてみたのだが、颯輔の予想に反して何故か美由希はガックリと落ち込み始めてしまった。

 どこかの誰かと同じくブラコンな美由希が、兄が家からいなくなってしまうのを想像して勝手に落ち込んでしまっただけなのだが、流石にそこまで高町家の内情に詳しくない颯輔にはさっぱりな展開である。

 気落ちした美由希を何とか宥めつつ、これは完全に白だな、と確信する颯輔だった。

 落ち着きを取り戻した美由希と共に学校を出ると、颯輔は周囲の様子がいつもと違うことに気が付いた。

 見れば、校門のところに小さな人だかりができている。人だかりと言ってもある一点に密集しているというわけではなく、どちらかと言えば、遠目から様子を窺っているような雰囲気だ。

「どうしたんだろ?」

「何かあったのかな?」

 同じく疑問に思った美由希が近くの友人に確認してみたところ、校門のところに不審者がいるらしい。サングラスとマスクで顔を隠した金髪の美女が誰かを待っているようで、教員に知らせるべきか、それとも警察に通報すべきかで迷っているとのこと。

 それを聞いた颯輔は、何やら妙な胸騒ぎを覚えてしまった。

 外国人女性の知り合いなどは颯輔にはいないが、その特徴に当てはまる人物ならば知っている。そして、突拍子もない事をやらかしそうな人物もだ。

 まさかとは思いつつも、とりあえず校門に向かってみる。校門を抜けたところで、颯輔は頭を抱えたくなった。

 そこにいたのは、颯輔よりもいくらか背の小さい金髪の女性だった。

 春の陽気から夏の熱気に変わり始めた季節だというのに、その服装は何故かベージュ色のオーバーコート。サングラスとマスクを装備して顔を隠してはいるが、その女性は明らかにシャマルだった。

 黙って立っていればシャマルの美貌も相まってトップモデルのようにも見えるのだが、如何せん、季節を無視し、なおかつ、『私、不審者です』と自己主張している服装と、周囲からの奇異の視線にアタフタとした態度が色々と台無しにしている。

 何か間違えたかしら、といった不安げな様子を醸し出していたシャマルは、やっと学校から出てきた颯輔を見つけて安堵の溜息を吐き出し、マスクをずらした。

「主颯輔っ、お待ちしておりましたっ!」

 周りで様子を窺っていた生徒達にも聞こえる程度には大きなシャマルの声に、時間が停止する。もちろん、魔法を使ったわけでもないし本当に時間が停止したわけでもないのだが、ヒソヒソとした話し声がピタリと止んだ有様は、あたかも時間が停止したようである。空気が凍りついた、と言った方が正確かもしれない。原因は言わずもがな、素に戻ってしまったシャマルの呼び方だった。

「……あるじって……え?」

 美由希の声に、止まっていた時間が動き出す。しかし、空気は凍りついたままだ。

 「主って、ご主人様ってことだよな……?」、「金髪美女にご主人様と呼ばせている……だと……?」、「やだ、八神君ってそういう趣味だったんだ……」、「もげろ……!」、などなど、いい感じに誤解しているであろう言葉が絶対零度の視線とともに颯輔に降り注ぐ。

 今度こそ頭を抱えて蹲りたくなる颯輔だったが、何とかその衝動を抑え込んだ。

 多少認識の齟齬があってもだいたいは合っているのだが、その多少が問題なのだ。ここで誤解を解いておかなければ、学校内での颯輔の株は大暴落し、残る高校生活が灰色のものとなってしまうだろう。

 颯輔が意を決してシャマルに歩み寄ると、周囲の視線も合わせて追随してくる。颯輔は、それなりの成績をキープしている頭をフル回転させた。

「こ、こら、シャマル。風邪引いて調子が悪いんだから、家で大人しく寝てないとダメじゃないか」

「え? 私、風邪なんて――」

「それから、『主』だの『様』だのつけるのは昔の日本の話だぞ? 現代では名前の後に『さん』とか『君』とかつけるんだ。まだ日本語には慣れてないかもしれないけど、しっかり覚えような」

 シャマルのボロを隠すように言葉を重ね、目で必死に訴えかける颯輔。シャマルは主の目に只ならぬものを感じ、コクコクと頷いた。

 ここは話を合わせるべきだ。ヴォルケンリッター参謀の頭脳に雷光が走り、この場に最適な対応を一瞬のうちに弾き出す。

「けほっ、けほっ。すみません、颯輔君。熱も下がったのでお買い物に行こうと思い、通り道でしたから待っていたんですけど……。けほっ、けほっ」

「シャマルはホームステイに来てるんだから、そんなに気を遣わなくてもいいんだぞ。咳だってしてるんだから」

 掌を当ててわざとらしい咳をするシャマルの横で、これまたわざとらしく説明のような言葉をかける颯輔。

 わざとらしくはあっても一応納得はしたのか、遠目から様子を窺っていた生徒達は徐々に少なくなっていった。

 ただでさえ疲れているのに、その疲れが一気に倍になったように感じる颯輔であった。

「えっと……?」

「ああ、ごめんごめん。昨日言ったよね、ホームステイに来てるって。こちらはシャマル。それから、こちらは友達の高町美由希さん」

「いつも颯輔君がお世話になっております」

「いえいえっ、こちらこそお世話になってます」

 一人置いてけぼりだった美由希にお互いを紹介すると、二人は軽い挨拶を交わして握手をした。

 シャマル達守護騎士は魔導師の可能性がある美由希を警戒していたため、何かあるのでは、と心配していた颯輔だったが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。今日は家で剣の稽古に励むのだという美由希と二、三、話をして別れるに終わった。

 その後、シャマルを連れ立って未だに残っている視線から逃げるようにして校門を離れる。

 風芽丘の生徒の姿が少なくなった所で、颯輔はようやく押し黙っていた口を開いた。

「こんな所まで来て、いったいどういうつもりだ? 俺、学校に護衛とかは要らないって伝えたつもりだったんだけど……」

「申し訳ありません……主が……颯輔君が心配でしたので……。ですが、颯輔君を待っていたのは本当です」

「……何かあったのか?」

「いえ、問題が発生したというわけではありません。先ほどの少女も調べた所、リンカーコアはありませんでしたから」

「そうか……」

 悪戯をした子供を叱るような口調だった颯輔はシャマルの言葉に気を張ったが、美由希が魔導師ではないと知って安堵の息を吐いた。リンカーコアの有無は、握手をしたときにでも調べたのだろう。

「一先ず、颯輔君の学校の安全は確認しましたが、この世界に魔導師がいることに変わりはありません。ですから、私達の騎士甲冑を考えていただきたかったのです。はやてちゃんとシグナム達も、図書館で颯輔君の帰りを待っています」

「騎士甲冑?」

「戦闘時の防護服です。意匠を考えていただければ、あとは自分達で再現いたしますので。この服装も即席で作った騎士甲冑なんですよ?」

 クルリと一回りするシャマルだったが、先日購入したワンピースでも着ていれば様になったであろうそれは、やはり、服装が不審者ルックのままであったため、颯輔の溜息を誘発するに止まった。

「話は分かった。けど、その恰好はやめてくれ。怪し過ぎる事この上ないぞ……」

「ええっ、いけませんでしたかっ!?」

「俺はどうしてそこまで自信満々だったのかが聞きたいよ……」

「いえ、あの……はやてちゃんと一緒に見ていたお昼のドラマで、刑事さんがこのような恰好をしていまして……。はやてちゃんも、『変装はあの恰好が定番や』と仰っていましたから……」

「間違っちゃいないけどさ……はぁ……」

 だんだんと頭痛がしてきたように感じた颯輔は、眉間を揉み解しながら溜息を吐いた。昨日から急激に回数を増した溜息である。おそらく、颯輔の幸福の貯蔵は底を突いているだろう。

 颯輔の様子に自分の失態を理解したのか、シャマルは周囲に人気がないことを確認すると、簡易設定していた騎士服を解除して普段着へと服装を戻した。白のフレアスカートに黒いシャツ、その上に緑のサマーカーディガンを重ねた装いだ。

 ちなみに、今度はマスクもサングラスもしていない。

「これでよろしいでしょうか……?」

「ああ、問題ないと思うよ。……それから、あの恰好はもう禁止ね。警察に通報されてもおかしくないから」

「はい……」

 しょんぼりとするシャマルには悪いが、ここは反省してもらわなければならない。

 実際、いつ通報されてもおかしくはなかったのだ。颯輔が遅れていたら、もっと大事に発展していただろう。

 もう一度シャマルに日本の常識を教えつつ、颯輔は図書館へと向かうのだった。

 風芽丘図書館にて合流を果たした八神家一行は、大通りの一角にある玩具店を訪れていた。玩具を買うためではなく、それを参考にしてシグナム達守護騎士の騎士甲冑の意匠を考えるためである。

 騎士甲冑と言っても魔力で生成するため、言葉通りに甲冑である必要はない。主二人にも守護騎士達を戦わせる気はなかったため、ならば騎士らしい服を、というはやての案によって、玩具を参考にしようとなったわけだ。

「おお、懐かしいなぁ」

 ふと足を止めた颯輔が手に取ったのは、変身ヒーローモノのフィギュア。小さい頃はテレビに釘付けになって観ていたものだ。

 見た目は大分ハイカラになってはいるが、同系統のヒーローで間違いないだろう。多少はデザインの変更があっても、腰にベルトを装着しているのは未だにシリーズ一貫しての設定らしい。

「お兄。ザフィーラはともかく、シグナムらにそれはないわぁ……」

「主……」

「いやいや、流石にこれを騎士甲冑にしようとかは考えてないからな?」

 『それにするの?』、と怪訝な目を向けてくるはやてに否定で返し、颯輔はフィギュアを棚に戻した。

 心なしか、はやての車椅子を押しているシグナムが安堵を息を漏らしたように見える。

「女の子やったら、やっぱ魔法少女やろ」

 通路を進んだはやてが目をつけたのは、フリフリとしたドレスを身に纏った魔法少女のフィギュア。どういうわけか、銃やら剣やら槍などの武器を装備している。

 最近の魔法少女は、とうとう武装するようになってしまったらしい。もっとも、守護騎士であるシグナムの武装は剣、ヴィータにいたってはハンマーなのだが。

「待て待て、ヴィータはともかくだな、その……」

「あー、そやね……」

「え?」

 言葉を濁しても通じたらしく、はやてはシグナムとシャマルに目線を送ってからそっと逸らした。

 気のせいでなければ、シャマルは名残惜しそうに魔法少女のフィギュアに視線を送っている。

 それを気のせいということにして、一行はさらに歩を進めた。

「うわぁ、こんな鎧もあるんかぁ……」

「こっちはちょっと、マニアックなコーナーだな……」

 進んだ先にあったのは、深夜枠アニメのキャラクターであろうフィギュアのコーナー。大きなお友達御用達のコーナーである。

 先ほどまでの簡素なプラスチック製ではなく、精巧に作り上げられたそれらはその完成度に比例して値段が桁違いだ。

 はやてが見つけたのは、見た目重視で鎧の役目など明らかに果たせていないであろう際どい装備をした、女戦士のフィギュアだった。所謂、ビキニアーマーである。

 凛々しい顔つきで剣を構えてはいるが、着ているのは水着のような鎧で、肌色がほとんどだ。

 ふむふむ、と何かを想像したはやては、少し意地悪な笑みを浮かべて後ろを振り返った。

「シグナム、こんなんはどうや?」

「こ、こちらですか……?」

「そや。シグナムはスタイルええし、こういうの似合うと思うんやけど」

「は、はぁ、主はやてが、そう仰るのならば……」

 ゴニョゴニョと、最後の方はもはや言葉になっていないシグナム。口では肯定しているが、その表情を見れば拒否しているのが丸わかりである。凛々しい顔つきはどこへやら、今は耳まで真っ赤にしているのだから。

「はやて、からかい過ぎだ。シグナムは本気だと思ってるぞ?」

「はーい。ふふっ、冗談や、シグナム。真っ赤になって、かわええところもあるんやね」

「ぅ、ぁ、いえ、その……」

「ふふふ。でもでも、お兄も実は見てみたかったりして?」

 これまた悪戯を思い付いたはやてが、今度は颯輔をターゲットにするが……。

「ザフィーラはどういうのがいいんだ? 希望とかある?」

「特には。主にお任せします」

「よし。じゃあこっちに行ってみるか」

「はい」

 次の矛先を予想していた颯輔は、わざとらしくザフィーラに話題を振り、いそいそと逃げ出してしまっていた。

 実の所、この一角に踏み込んだあたりから離脱する機会を窺っていた颯輔である。妹の思考パターンを理解しているあたり、流石は兄といったところか。

「むぅ、いけずなお兄やな」

「恥ずかしかったのでは? 少しお顔が赤かったようですし、想像してしまったのかもしれませんね」

「おいシャマル、何を言うかっ!」

「こらこらシグナム、ケンカはあかんよ。お兄はお年頃なんやし、シャマルは何も失礼なこと言うとらんよ」

「……はい」

「ほな、また色々見て回ろか。……そういえば、ヴィータはどこ行ったん?」

 笑顔でシグナムを諌めたはやてが次に進もうとしたが、そこで、ヴィータの姿が見えないことに気が付いた。入店した時は確かに一緒にいたはずだが、思い返してみれば、先ほどからヴィータの声を聞いていない気がする。

 進んだ通路を引き返してみると、出入口のすぐ傍にあったぬいぐるみコーナーにその姿があった。ヴィータは少々頬を赤く染めて、棚の奥に視線を注いでいる。

「ヴィータちゃん?」

「うわぁっ!?」

 シャマルが声をかけると、ヴィータは驚き跳ね上がった。

 キッ、とシャマルを一睨みし、続き、はやての姿を見つけては、慌ててぷい、と顔を逸らしてしまう。

 近づき棚を奥を確認してみると、そこには兎のぬいぐるみがあった。黒い蝶ネクタイをした、デフォルメされた白兎である。

「ヴィータ。これが欲しいんか?」

「っ…………」

 はやての問いには答えなかったヴィータだったが、時折ちらちらとぬいぐるみを見ており、その仕草が『欲しい』と物語っていた。

 ヴィータの様子を見てクスリと笑みを漏らしたはやては、車椅子を寄せ、棚からぬいぐるみを手に取る。

「お兄捜してみよか。このくらいなら、お願いしたらきっと買うてもらえるよ」

「……ホント?」

「主はやて、よろしいのですか?」

「ええよ、高い買い物でもないし。それとも、シグナムとシャマルも何か欲しいのあるんかぁ?」

「いえ、そういった意図で言ったのではありません」

「私も大丈夫です。ヴィータちゃんに買ってあげてください」

「そかそか。ほな、お兄捜しに行こか。はい、ヴィータ」

「あ……ありがと、はやて」

「うん」

 はやてからぬいぐるみを受っとったヴィータは、それをぎゅっと抱きしめた。

 どこが可愛いとはっきりとは言えないが、ヴィータの琴線に触れた一品だ。買ってもらえることが、嬉しくないはずがない。それも、主からのプレゼントだ。長い記憶を振り返ってみても、おそらく、初めてのプレゼントだった。

 

 



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第六話 守護騎士達に休息を(前編)

 

 週末の昼下がり、シグナムは主二人に連れ立たれ、バスに揺られていた。目指す場所は、海鳴大学病院。はやての治療のためである。

 はやては原因不明の下肢麻痺を患っており、月に何度か通院しなければならない。長年治療を続けてはいるが、残念ながら回復の兆しは見られないそうだ。治療系の魔法を専門とするシャマルが診ても、やはり原因はわからなかった。

 ちなみに、そのシャマル達三人は家で留守番中である。守護騎士達を一人ずつ、はやての担当医に紹介していく算段なのだ。

『次は、海鳴大学病院前、海鳴大学病院前』

「シグナム、そこのボタン押してくれるか?」

「こちらですか?」

「そや」

 バス内にアナウンスが流れると、はやての指示に従い、手を伸ばして停車ボタンを押す。ランプが点灯したのを確認したシグナムは、隣でぐったりとしている颯輔を見た。

「まもなく到着しますので、それまでの辛抱です」

「ああ……」

 窓際に座る颯輔の顔色は真っ青で、目に見えて体調が優れないとわかる。聞けば、颯輔は乗り物、特に車には弱いらしい。発車して数分と経たないうちから辛そうにしていた。

 颯輔も診察を受けた方がいいのではないか、とシグナムは提案したが、車を降りて数分も休めばすぐに治るとのこと。精神的な問題だから心配しないでほしい、と言われていた。

「もう。シグナムが付いてきてくれるんやから、お兄は家で待ってればよかったやん」

「そういうわけにもいかないだろ……」

 家を出る前に交わした会話を再び繰り返す。

 担当医にシグナム達の事を伝えておかなければならず、また、はやての病状を把握しておくため、颯輔は酔い止めを飲んでまで同行したのだ。そう言われてしまえば、シグナムには颯輔を止めることはできない。はやてにも止められないのならば、主を守るための道具に過ぎない自分も当然である。

「申し訳ありません。こちらの世界に慣れれば、私やシャマルが主……貴方の負担を減らしますので」

「謝らなくていいから……」

 力なく笑う颯輔の背を擦っていると、程なくしてバスが目的地に到着した。よろよろと立ちあがる颯輔を支えようとしたが、はやての方を頼む、と言われ、はやての車椅子へと手をかける。

 海鳴市を巡回するこのバスは、ドアにスロープを取り付けることで車椅子利用者も利用することのできる、所謂ノンステップバスだ。八神家から病院まではそこそこの距離があるため、通院の際には重宝させてもらっていた。

 バスを降りると、抜けるような青空の下に大きくて真っ白な建物が正面に見えた。海鳴大学病院は、ここいら一帯では最も充実した施設を誇る医療機関だそうだ。

 スロープを収納した運転手がバスに乗り込むのを見送り、シグナムは病院、続いて空へと視線を移した。

「ん? シグナム、どないした?」

「ああ、いえ、美しい空だと思いまして」

「んー、確かに気持ちええくらいに晴れとるなぁ。これなら、帰る頃には洗濯物も乾いとるね」

「はい。ですが、その頃にはシャマルが取り込んでいるでしょう。お二人に比べればまだまだ未熟ですが、あれも役立とうと必死です。ヴィータにザフィーラも協力するでしょうから、気にする必要はありません」

「ふふふ、シグナムらが来てからやることが減って助かっとるわ。ご飯は増えたけど、食卓が賑わうからプラマイゼロ、むしろプラスやしなぁ。おーい、お兄、もう大丈夫かー?」

「も、もうちょっと……」

 いくらか顔色は元に戻ったが、まだ辛そうにしている颯輔が回復するのを待つ。シャマルがいればよかったが、戦闘に特化しているシグナムでは颯輔を癒すことができない。

 バス停のベンチに腰掛けはやてと言葉を交わしながら、再び颯輔の背を擦り始めるシグナムだった。

 ベッドの上で医療用の検査機器に繋がれたはやての姿を、シグナムはただ黙って見守っていた。

 魔法技術は見られないが、代わりに科学技術の水準は高い。

 それが、地球という世界に抱いたシグナムの感想である。突き詰めて言ってしまえば魔法技術も科学技術の一つの形なのだが、この世界の技術は『魔法』とは別ベクトルで大きく発展していた。魔法技術のない世界で起動されたのは初めてのことであるため、シグナムにとっては物珍しいことだ。

 しかし、いくら技術が発展しようとも、解決できない問題というものはどこの世界にも存在するらしい。

 その一つが、主であるはやての病気だった。

 原因不明の下肢麻痺。生まれつきやからもう慣れたよ、とはやては笑って言っていたが、それが辛くないはずがない。シグナム達守護騎士プログラムが起動したこの一週間で、はやてには一人では出来ないことが少なからずあるのだと理解した。

 大抵のことはハンデを抱えていることを感じさせずにやってのけるはやてだが、それでも、入浴や排泄のときなどは誰かの手を借りなければならない。騎士としては初めての経験である介護を通じ、はやての不自由さを痛感したシグナムである。

 知らず、握った拳に力が込められる。

 二人の主に仕え始めてから今まで、シグナムは不自由や理不尽さを感じることは全くなかった。舌を唸らせる食事に温かい衣服、柔らかい寝床と穏やかな時間、そのどれもが、造り出されてからの長い時の中では与えられたことのないものだった。

 一刻も早く闇の書の完成を、と闘争に明け暮れた日々。自分達に好意的な人間が全くいなかったわけではないが、少なくとも、主が好意的ということは絶対になかったと断言できる。

 

『蒐集はしなくてもいい。というか、しないでくれ。大層な力を手に入れたって、その責任には耐えられそうもない。だからまあ、今回は長い休暇だと思っていいから。少しは手伝いをしてもらう気でいるけど、ガチガチに行動を制限するつもりもないし。もちろん、危ないことや悪いことはさせないけどね』

 もう一人の主の言葉を思い出す。

 絶対的な力を目前にして、颯輔が望んだことはただ生活を共にすることだけだった。蒐集云々については伝えていないはやても同様である。

 力を望まない主。道具として扱うのではなく人間として接する主。重なった例外が、シグナムを含めた守護騎士全員に戦闘以外の思考を取り戻させていた。

 心優しい主達を襲う理不尽な境遇。闇の書を完成させれば、或いは――

「これで検査はお終いよ。お疲れ様、はやてちゃん」

 入室してきた黒髪の女性の声に、シグナムは思考を中断した。

 石田幸恵。海鳴大学病院の神経内科医で、はやての主治医である。

 石田は手慣れた様子で検査機器を取り外すと、はやてを車椅子へと戻した。おおきに、と告げるはやてに、どういたしまして、と柔らかい笑みを返している。

 はやてにはどこか遠慮が感じられたが、石田からははやてを想う気心が感じられた。

「それじゃあ、この後もう一回だけ診察するから、待合室で待っていてね」

「わかりました」

 車椅子の後ろへと回っていた颯輔が返事をし、検査室を出る。シグナムもそれに続こうとした所で、呼び声がかかった。

「シグナムさん。少し、いいかしら?」

「私ですか?」

「ええ。ごめんね、颯輔君にはやてちゃん。シグナムさんと、少しお話をさせてちょうだいね」

「はぁ、シグナムがいいのなら、構いませんけど」

 そっと目配せをしてくる颯輔に、小さく頷いて返す。

 すでに石田には話を通してはあるが、遅かれ早かれ、こうして一対一で向かい合う機会があるだろうとは予測していたことだった。

「ほな、向こうで待っとるよ、シグナム」

「はい」

 小さく手を振るはやてに笑みを浮かべて見送ったシグナムは、二人の姿が見えなくなると表情を戻して石田に向き直った。

「驚いたわ。はやてちゃん、随分とあなたに懐いているのね」

「……どういう意味でしょうか?」

 石田は心底驚いたという顔をしていた。自然、その物言いに表情が険しくなったシグナムだったが、石田はそれに対し、悪い意味じゃないのよ、と苦笑で返す。

「はやてちゃん、颯輔君にべったりでしょう? あの子、他人にはほとんど心を開かないのよ。私もそこそこのお付き合いになるけど、未だに少しだけ壁を感じちゃうくらい。こっちは一方的に保護者みたいに思ってるのにね。だけど、何ていうのかしら……そう、あなたとは、もう心の距離が近いというか……。だから、驚いてしまったの。気を悪くしないでちょうだいね」

「いえ……」

 心の距離が近い。

 その言葉は、シグナムも感じていることではあった。

 魔法の知識が皆無だった主二人には不可解な存在であろう自分達にも、同じ人間に接するのように接してくれる。それも、主だからと言って傲慢な態度を取らずにだ。

 特に、通学している颯輔とは違い、現在は休学しているはやてとは共に過ごす時間は多かったためか、大分頼りにされていると感じている。

 買い物などに出かけるときはもちろん、入浴や就寝も、ヴィータを交えた所にシャマルと一日交替で共にすることを誘われていた。はやてが自分にできないことを自覚しているためではあるが、スキンシップは別である。ヴィータとシグナムを両脇に配置し、甘えるかのように身を摺り寄せてくるのは、純粋な好意からであろう。戦いに明け暮れる日々をだったシグナムにも、あれだけ純粋無垢な笑顔を向けられれば、それくらいのことは察することができる。

 武骨な自分のどこを気に入ったのかは、未だにわからないが。

「正直に言えば、ただでさえ大変な生活をしているのに、そこにホームステイなんて、って最初は思ったけど……はやてちゃんも懐いているようだし、颯輔君も助かっているって言っていたし、何も心配することはなかったのかもしれないわね。お門違いかもしれないけれど、私からもお礼を言わせてください。あの子達のお世話をしてくれて、本当にありがとうございます」

「あ、頭を上げてください。私達は当然の事をしているだけで、世話になっているのはこちらの方なのですから」

「それでも、よ。いくらしっかりしているとは言っても、颯輔君はまだ高校生だから一人じゃ大変な事も多いはずだから。そこに、日本には不慣れでも大人の助けがあるだけで、どれほど安心できることか。はやてちゃんも一人の時間が減るし、いい事ばかりだわ。……まあ、長年保護者面してきた私としては、少し悔しく思う所もあるのだけれど」

「申し訳ありません……」

 代わって頭を下げたシグナムに、石田はただの冗談ですよ、本気にとらないでください、と返す。

 元来生真面目な性格に設定されているシグナムには、冗談はほとんど通じないのだ。

 真剣な話をしつつもどこか世間話をするようだった石田は、シグナムが頭を上げたのを見計らって表情を引き締めた。

「はやてちゃんの事もあるけど、あなたと話したかったのは、実は、颯輔君の助けになって欲しかったからなの」

「ある――コホン、そ、颯輔の助け、ですか?」

 一週間経っても慣れない呼び方に恐縮しつつも、シグナムは疑問を返す。客観的に見ても、助けの手が必要なのは颯輔ではなくはやての方ではないのか、と考えながら。

「確かに、はやてちゃんには誰かの手が必要よ。だけど、あの子は大抵の事は一人でできてしまうし、できない事については颯輔君がいるから、そこまで過保護にならなくてもいいの。もちろん、本心は別だけどね……。でも、颯輔君は違う。はやてちゃんには颯輔君がいるけど、颯輔君には助けになってくれる人がいないのよ。あの子達の両親は早くに亡くなっているし、今の保護者さんも国外だしお仕事が忙しくてなかなか日本には来られないと聞いているわ」

 それもあって、あなた達のホームステイ先にさせたのでしょうけど。

 石田は一度そこで区切り、話を続ける。

「シグナムさんも感じただろうけど、介護って、想像以上に大変な事なの。それを、颯輔君はたった一人でこなしてきた。はやてちゃんの両親が亡くなってからだから、もう五年くらいになるのかしら。信じられる? ヘルパーの手があったのを考えても、当時はまだまだ子供だったはずの男の子がよ? 同年代の子と比べて大人びているとはいえ、遊びたい盛りのはずだったのに。たった一人の家族ですから、と言って、身を粉にして尽くしてきたの」

 その話は、颯輔がいない時にはやてから聞かされていた。

 やりたい事があるはずなのに、自分の所為で迷惑をかけてきてしまったと。もうそれに気づいたはずなのに、甘えてしまっていると。だから、シグナム達が現れてくれて本当に良かったと。

 十歳にもならない女の子が、そう語ったのだ。

「颯輔君は、愚痴一つ零さなかったわ。最初の頃は大変そうにしていて、ヘルパーも雇っていたけれど、家事を覚えてからは一人でするようになってしまったし。それは、はやてちゃんが赤の他人の手を借りる事を気にするっていう理由もあるのだろうけど。私も気にかけてはいるけど、他にも患者さんはいて、あまり大した事はできていない……。心配かけまいと振る舞ってはいるけれど、颯輔君にだって内に溜め込んでいるものは少なからずあるはずなの。だから、あなたには……あなた達には、はやてちゃんだけでなく、颯輔君も支えてあげて欲しいんです。初対面で図々しいのはわかっています。だけど、あの子達の近くにいるのは……近くにいられるのは、あなた達だけだから……だから、お願いします。日本にいる間だけでいいですから、あの子達の面倒を見てあげてください」

 まるで、本当の母親のようだ。

 そう思いながら、シグナムは返事を返すのだった。

「当然です。……我らは、そのためだけに存在しているのですから……」

 とっくの疾うに日は沈み、気温も下がって少しばかり肌寒さを覚える外気に触れながら、シグナムは一人ベランダに備えられたイスに座り、ゆっくりとした時間を過ごしていた。

 辺りは人工の光と月明かりに照らされてそこまで暗くはないが、思考を切り上げて見上げた快晴の夜空には、数えきれないほどの星々が瞬いている。街が眠ればさらによく見えるのだろうが、シグナムにとっては空に雲がないだけで幸運。それが快晴ともなれば、奇跡のような出来事だ。このような光景を目におさめられた事に感謝こそすれど、不満を覚える事などあるはずがない。

「ベルカの空に比べ、地球の空のなんと美しいことか……」

 独りごちて、空気を胸いっぱいに吸い込む。

 シグナム達守護騎士が、闇の書が作られた世界では、常に陰鬱な色をした雲が空を席巻していた。空を見上げても雲の下に戦船が見えるだけで、星を見る機会など皆無だったのだ。雲を抜ければまた別なのだろうが、そもそも、当時の自分達にはそんな発想すら浮かばなかった。それに、浮かんでもそれを許されることはなかっただろう。

 だが、今は違う。時折家事の手伝いを頼まれることもあるが、こうして自分の時間を過ごすことも許されている。理不尽な命令を与えられることもなければ、剣を振るうこともない。砂塵の舞っていない空気は澄んでいて、血臭や死臭が鼻を突く事もない。もっとも、主達に言わせれば、もっと空気のおいしい場所はあるらしいのだが。それでも、シグナムにはここだけで十分満足だった。

 月明かりを受け、手慰みに撫でていた待機状態のレヴァンティンが、きらりと光る。

「私は、弱くなってしまったのだろうか……」

 戦いこそが日常で、剣を振るうことは呼吸と同じく生きるために必要な行為で、強者との戦闘に何よりの喜びを感じていたはずだ。それが、今回起動してからは全くない。体を動かす事が目的でレヴァンティンを起動することもあるが、それを振るう先に相手はいない。そもそも、この世界には敵と呼べる敵がいないのだ。忙しなく蒐集対象を求めて空を飛び廻ることもなく、こうして一人の時間を楽しむ余裕さえある。

 そう、自分はこの時間を楽しんでいるのだ。

「お前の主にはこういった一面もあるらしい。戦闘しか知らぬはずが、滑稽な事だな」

《Sorgen Sie sich nicht.(いいのではありませんか)》

「くっく。そうか……確かに、悪くはないな」

 己が半身と言っても過言ではない存在に肯定され、シグナムは満足そうに笑う。

 少なからず意思を持つレヴァンティンも主に影響されたのか、ここでの生活で思考パターンに変化を来しているようだった。それがいいことなのか悪いことなのかは、まだわからない。しかし、いいことであると信じたい。少なくとも、シグナムはそう思う。

 再び思考を空にして夜空を見上げようとした所で、窓が開く音が聞こえた。そちらを見れば、此度の主二人がいた。颯輔ははやてを抱きかかえ、はやては両手に湯気の立つマグカップを持っている。

「お邪魔しても?」

「邪魔などではありませんよ。どうぞ、こちらへ」

 空いていた対面の席を引き、着席を促す。そこには颯輔が座り、はやては当然の如く颯輔の膝の上に落ち着いた。

 ベランダのイスは二つしかないため、二人を座らせて自身は立っていようと思ったシグナムだったが、それはいらぬ心配だったらしい。仲睦まじい兄妹の様子に微笑を浮かべ、シグナムは元の場所へと腰を下ろした。

「はい、シグナム。寒かったやろ? コーヒー淹れといたから」

「ありがとうございます。ですが、よろしいのですか? それではどちらかが……」

「ああ、ええんよ。こっちは二人で半分こやから。ね?」

「そうそう。気にしないでいいよ」

「では、いただきます」

 シグナム好みのブラックコーヒーを流し込むと、体の奥からじんわりと熱が広がる。寒かったわけではないが、確かに冷えていた体には心地良い温もりだった。

 対面では、宣言通りにホットココアを飲み分けている二人が笑顔でいた。

 シグナム達が現れた当初はそこまで近くはなかったが、三日と経たずに元の鞘に戻ってしまったはやてである。颯輔の意向で入浴や就寝は別になっていたが、それ以外の颯輔が家にいる時間では、はやてはその定位置に納まっていた。

 曰く、いつかばれるんやから、見栄なんて張らんでも良かった、とのこと。

「星空を見ていたのか?」

「ええ。今宵は光を遮る無粋な雲もありませんから」

 無粋な雲。

 果たして、自分達はこの二人の仲を隔てる無粋な雲にはなっていないだろうか。

 長年主の様子を捉え、ある程度は感情が読めるようになった目には、そのような様子は映らない。だが、本音まではわからない。主との間に繋がっている精神リンクでも、大きな感情は読み取れても小さな感情までは読み取れないのだ。かと言って、直接尋ねるのはまた違う気もするし、何より、答えを聞くのが怖いと思う自分がいる。

 嫌われるのが、怖い。

 起動してから一週間足らずだが、やはり、自分はこの二人から大きな影響を受けているらしい。もしかしたら、守護騎士プログラムに重大なバグが生じているのかもしれない。

「星かぁ。星座がわかったら、もっとおもろいんやろうけど……。あっ、そや、お兄、星座早見持ってへんかった? あのまぁるいやつ」

「あったとは思うけど、どこに仕舞ったかなぁ……。あ、星座早見っていうのは、その時間にどんな星座が見えるかわかるやつね。ちょっと探して来ようか?」

「いえ、今は大丈夫です。ですが、よろしければ、探しておいてもらえると幸いです。私だけでなく、皆も夜空には興味があるでしょうから。特に、ヴィータは喜ぶでしょう。あれはよく空を見上げていましたから。私もヴィータの影響を受けて見るようになったのです」

「そっか。なら、しっかり探しておくよ」

「見つからへんかったら買うて来ないとなぁ」

「そうだな」

「そ、そこまでせずとも……」

 シグナムの遠慮もどこ吹く風で、颯輔とはやてはいつの間にか、いっそのこと人数分揃えるか、などと相談を始めている。

 そんな、心優しい主達だからこそ、シグナムは思う。この二人が幸福にならなければ、それは嘘であると。シグナムだけでなく、ヴィータにシャマル、ザフィーラも、きっとそう思っていることだろう。それほどまでに、颯輔とはやては自分達によくしてくれた。主の道具に過ぎない、守護騎士達に。

「主、お話があります」

 居住まいを正したシグナムは、星座早見から夜空をよく観察できるスポットの話へと移行していた主二人に向き直った。

「改めてどしたんや、シグナム?」

「何か大事な話?」

「ええ。……主はやての、お体に関することです」

 空気が重くなることを理解しつつも、シグナムは告げる。

「蒐集を行い、闇の書を完成させましょう。そうすれば、今は治すことのできない貴女の病も、治すことができるはずです」

「……っ!」

 病院から帰ってきてから、ずっと考えていた事の答えだった。

 口には出さずとも、はやてが自身の体に不満を抱いている事は明白である。それが両者の負担になっているのなら、その問題を解決してしまえばいい。

 闇の書の主に選ばれる者は、膨大な魔力を備えていることが絶対の条件。闇の書が完成し、その管制融合騎と融合すれば、それまで溜め込んだ闇の書の貯蔵魔力も扱え、並の魔導師が束になっても、例え次元航行艦の艦隊が相手でも、脅威とも思わずに退けることができるのだ。それほどの力があれば、不治の病どころか死者でさえ蘇らせることができるかもしれない。蒐集した魔法にその術式がなくとも、蓄えた知識と無限に近い魔力を行使できる闇の書の真の主ならば、その術式を作り上げることも不可能ではないはずだ。

 もちろん、二人の支えとなるのが嫌なわけではない。心優しい颯輔とはやてだからこそ、闇の書の守護騎士だからではなく、シグナム個人が仕えたいと思う。二人には、真の意味で幸せになって欲しいのだ。それには、はやてを苦しめる病などない方がいい。健康な体であれば、さらに人生を謳歌することができるはずなのだから。

 だと言うのに――

「……それは、あかんよ」

 言葉を失う颯輔に変わり、病に苦しむ本人が――はやて自身が、それを否定した。

「――っ!? 何故ですかっ!?」

 それが信じられなくて、悲しげな表情を見たくなくて、シグナムは声を張り上げる。

「貴女だって、病を治したいはずですっ! ご自身の足で歩きたいはずですっ! 主颯輔の隣に立ちたいはずですっ!」

 ベッドの中で、はやては語っていた。いつか病気が治ったら、お兄と一緒にお散歩してみたい、もちろん、シグナムもヴィータもシャマルもザフィーラも、みーんな一緒にやで、と。

「闇の書を完成させれば、その願いが叶うのですよっ!? 貴女の、お二人の願いを叶えるためならば、我らは……私は……例えどのような罪を被ろうとも……!!」

「それや」

「え……?」

「シグナム、今自分で言うたやないか。どのような罪を被ろうとも、って。それって、闇の書の蒐集は悪い事やってことなんやろ?」

「それ、は……」

 世が乱れ、正に弱肉強食の時代だったベルカの世界でも、時空管理局が目を光らせている現代でも、闇の書の魔力蒐集は確かに違法行為だ。同意の下になら話は別だが、そもそも、下手をすればリンカーコアが回復せず、二度と魔法が使えない体になってしまう蒐集を了承してくれる魔導師などいるはずがない。

 リンカーコアを持つ魔法生物から蒐集することも可能だが、魔法生物の保護にも力を入れている管理局からすれば、どちらも違法行為であるのに変わりはなかった。

 悲しげな顔から一転、はやてはいつもの優しい笑顔を浮かべる。

「だったら、あかんよ。わたしの自分勝手な願いの所為で、人様に迷惑をかけるわけにはいかん。それになにより、シグナムらはもう家族や。いくら自分のためとはいえ、家族が罪を犯すのを黙って見てられるわけないやろ?」

「あ、あぁ……」

 視界が歪む。

 これは、涙だ。涙で視界が歪んでいるのだ。どうやら自分は、柄にもなく涙を流して泣いているらしい。

 人間を模して造り出されたとはいえ、プログラム体に過ぎないシグナムに涙を流させるほどに、はやての言葉はシグナムの胸を打った。

 闇の書の主にしては、自分達に好意的だとは思っていた。しかし、『家族』と言ってくれるほどに好意を抱かれているとは、夢にも思わなかった。

 何が理由で好かれているかは、よくわからない。それほどの好意を寄せられるような事は、何一つとしてしていない。主を支えるどころか、世話になってばかりだったのだ。その恩を、自分達は何一つとして返せていない。

 しかし、精神リンクを介して流れ込んでくるこの温かな気持ちは、間違いなく本物だった。

「そやから、わたしらが主でいる限り、闇の書の蒐集は禁止や。今までがどうやったかはようわからんけど、これからは、傍にいてくれるだけでええんよ。……お兄も、それでええな? おかしな事考えたらあかんよ?」

「……大丈夫だよ。最初から蒐集させるつもりはなかったしな」

「どう、して……」

 どうして貴女方は、自身の幸福を望まないのですか。

 言葉にならなかった問いは、しっかりと伝わっていたらしい。

「そんなの簡単や。わたしの願いは、もう叶っとるからな。お兄に、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラと一緒におること。家族みーんなで楽しく過ごすことが、わたしの願いや」

 そやからわたしは、もうとっくに幸せなんよ。

 その言葉に、堪えていた涙が堰を切ったかのように溢れ出す。そんなシグナムをおいでおいでと引き寄せ、はやてはその小さな胸の中に抱え込んだ。颯輔もおずおずと手を伸ばし、やがて、はやてにするようにそっと頭を撫でる。

 この日、剣の騎士は、長き旅路の果てに、自身も気づくことのなかった最も欲っしたものを手に入れた。

 夜天の下で交わした誓いが破られるのは、これから約四ヶ月後のことである。

 



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第七話 守護騎士達に休息を(中編)

 

 

 一陣の風が吹き、立ち込めていた砂煙が晴れる。

 視界を埋めるのは、干乾びた大地と五千を超える兵士達。空には暗雲が立ち込め、数隻の戦船が窺える。戦船の中には、眼前に迫る兵士達と同数以上の兵力が控えているのだろう。一国を攻め滅ぼさんとする戦力が、ヴォルケンリッターの前に迫っていた。

 だが、そんな事は関係ない。どんな敵がどれほど待ち構えていようとも、知った事ではないのだ。薙ぎ払い、叩き潰し、蹂躙して魔力を奪うのみ。それだけが、闇の書の守護騎士である自分達の役目。

 全ては、闇の書の主のために。

 例えこちらの戦力が、たったの四人であろうとも。

 

「流石に四人で相手にするのは厳しいわね……。ザフィーラと私でどうにか攻撃を防ぐわ。やれるわね、ザフィーラ?」

「無論」

「シグナムはファルケンで爆撃を。ヴィータちゃんは、接近してきた敵の迎撃をお願いできる?」

「心得た」

「…………」

「ヴィータちゃん……?」

 

 シャマルが細々とした作戦を練っているが、その内容が気に入らなかった。

 守護騎士では随一の防御魔法の使い手であるザフィーラと、それにも劣らない広域防壁を展開できるシャマル。この二人の守りを突破できる者など、ニアSクラスの魔力を持つ者だけで、凡夫が大半の敵軍には片手で数えるほどしかいないだろう。シグナムの最強の一手、シュツルムファルケンを何十射かすれば、無駄に数だけは多い敵軍も残らず地に這いつくばるはずだ。

 だが、自分はどうだ。

 先も言ったように、シャマルとザフィーラの守りを突破してくる敵などほとんどいない。いたとしても、自分の所に到達する前に、気を利かせたシグナムが射線に入れて撃墜してしまうだろう。

 つまり、自分がこの戦鎚を振るう可能性は、ほとんど皆無という事だ。

 気に入らない。

 別に、自分が活躍したいというわけではない。そんなことをしたとしても、主が頭を撫でて褒めてくれるわけではないのだ。無論、褒めて欲しいなどとは微塵も思ってはいないが。

 思い返せば、いつかの戦闘でもこういった作戦だった。結果は読み通り、堅牢な防御を切り崩すことができずに一方的な爆撃で蹂躙される。枯れた大地に立っているのは四人だけで、余力を持て余しているのはたった一人だけ。

 そう、最初に戦端を開くべきポジションの自分だけが、大した魔力も消費せずに立っていたのだ。見た目の幼さゆえに、大きな背中に庇われて。

 闇の書の守護騎士は戦乱のベルカでも名を轟かす最強の存在だ。自分達を地べたに這わせることができるのは、出鱈目な力を持つ王くらいのものだろう。

 しかし、一対一では分が悪くとも、四人揃えば例え王が相手でも後れを取る事はない。それだけの力を持つ守護騎士でも、消耗しないわけではないのだ。

 大軍を相手に勝利した時、自分を除いた三人は魔力切れ寸前まで追い込まれていた。自分も戦いはしたが、羽虫を叩き潰した程度の戦闘しかしておらず、役立たずもいい所だった。

 だから、気に入らない。

 このふざけた容姿も、下手な気遣いも、私利私欲で動く王も、目先の力に囚われた闇の書の主も、枯れ果てた大地も、真っ黒な空も、全部、全部、気に入らない。

 

「……アイゼン」

《Explosion.》

 

 カートリッジを二発ロード。圧縮魔力が戦鎚の中で炸裂し、自身の魔力も相まって、行き場を失った膨大な力の奔流が風となって吹き荒れる。足元に浮かぶ真紅のベルカ式魔法陣が、眩いほどに輝きを放った。

 

「ヴィータちゃんっ!?」

「貴様、何をする気だ?」

「うるせえっ! あんなやつら、あたし一人で十分だってんだよっ! 行くぞ、アイゼンッ!!」

《Jawohl!》

 

 シャマルとシグナムの制止を振り切り、ヴィータは単身で敵軍へと飛び出した。共にあるのは、己が半身であるグラーフアイゼンのみ。鉄の伯爵は戦船をも粉砕するほどに巨大な姿へと変貌し、全てを叩き潰すべく振り上げられる。

 

「おおおおおああああああッッ!!」

 

 これから始まるのは、紅の鉄騎による一方的な虐殺劇だった。

 

 

 

 

「……タ、ヴィータっ!」

「う、あ……」

 

 半ば悲鳴のような呼び声に、ヴィータは意識を浮上させた。

 重い瞼を持ち上げてみれば、眼前には泣き出しそうな顔をしてこちらを覗き込むはやての姿があった。その奥には、同じ守護騎士の一人であるシャマルの姿が窺える。はやての寝室、そのベッドの上だった。

 

「よかったぁ……。もう、心配したんやで?」

「どうしたの、はやて……?」

「どうしたのって、酷くうなされてたのよ、ヴィータちゃんは」

「うなされて……」

 

 代わって答えたシャマルの言葉に、直前まで見ていた夢の内容をぼんやりとだが思い出す。あれは、ヴィータの古い記憶だった。

 今までの日常、戦場の風景。血の丘に佇む、武骨な甲冑を身に纏った自分……。

 

「――っ!」

「ヴィータ……?」

 

 思い出した瞬間、足元が崩れ去ったかのような感覚に囚われて、はやての胸に縋りついた。

 大丈夫、自分はちゃんとここにいる。

 まだ何も、失ってなんかいない。

 そう自分に言い聞かせるが、心に纏わりつく何かは一向に離れてくれる気配がない。まるで、大蛇に全身を締め上げられているかのような、どうしようもない息苦しさと不快感があった。

 

「よしよし、怖い夢やったね。もう大丈夫やから、安心しぃ」

 

 困惑気味に受け止めたはやてだったが、きゅっとヴィータの小さな体を抱きすくめ、そっと後頭部を撫でてくれた。

 母親のような温もりが、大蛇の拘束をほんの少しだけ緩めた気がした。

 しばらくそうしていると、廊下からパタパタと足音が聞こえてくる。寝室の扉を開けたのは、一度抜け出したシャマルだった。その手には、ガラスのコップが握られていた。

 

「ヴィータちゃん、お水、飲める?」

「ん……」

 

 シャマルからコップを受け取り、少しずつ口に含む。奥まで流し込むと、張り付いて不快だった喉が潤いを取り戻した。

 しかし、喉の不快感は消えてくれても、体の不快感と息苦しさは、なかなか消えてはくれない。

 

(クソ、なんだってんだよ……)

 

 心の中で吐き捨てる。

 はやての隣で心地よく眠りについて、明日も気持ちのいい朝を迎えるはずだったのだ。朝のミルクを飲んで、顔を洗って着替えたらザフィーラの散歩。散歩から帰ったら、おいしいご飯を食べるはずだったのだ。そうしたら、学校に行く颯輔を見送って、それから、はやてと穏やかな時間を過ごすはずだったのだ。

 

(平和ボケしてんなってことか?)

 

 確かに、今の日常はこれまでの日常とはかけ離れている。

 闇の書の主は二人もいるし、蒐集はしなくていいなどと言い出すし、服も食事も与えてくれるし、寝床もふかふかで温かい。

 そして何より、主二人が好意的なのだ。

 これまでとは、何もかもが正反対。これでは何のための守護騎士システムなのか、わからなくなる。

 しかし、ヴィータは今の日常を気に入っているのだ。気に入らなかった子供扱いをされようとも、さして疑問も抱かずに受け入れられるほどに。

 起動してから一週間が経って、ようやくこの生活にも慣れてきたというのに。こんな生活もいいかもしれないと思えるようになったのに。

 これではまるで、その全てを否定されているようではないか。

 

「……はやて」

「なんや?」

「あたしは……あたし達は、ここにいてもいいんだよな?」

「……なぁーに当たり前の事言うてるんや。誰もダメやなんて、言うてへんよ」

 

 ヴィータを抱きしめる腕が、少しだけ強くなる。

 

「ヴィータはわたしの大事な家族や。ヴィータがおらんと、寂しくてかなわんもん」

「うん……うんっ……!」

「は、はやてちゃんはやてちゃん、私はどうなんですかっ?」

「もちろん、シャマルもやで。ヴィータもシャマルもシグナムも、ザフィーラもおらんと嫌や」

「よ、よかったです~!」

「ひゃあっ!?」

「うわっ!?」

 

 感極まったらしいシャマルが抱き着いてきたせいで、はやて共々ベッドに押し倒されてしまう。

 昔から守護騎士の中では感情豊かなやつだったが、ここまで馬鹿みたいにオープンなやつではなかったはずだ。

 そういえば、昨晩はあのシグナムが泣いている所を目撃してしまった。ぶすっとしているか、不敵な笑みを浮かべるかだったあのシグナムが、涙を流していたのだ。初めてばかりでさんざん驚かされた今回では、おそらく、一番驚かされた事だろう。

 

「お、重い~! さっさとどけよシャマルっ!」

「し、失礼ねっ! 私はそんなに重くありませんー!」

「いーや、重いね! ここに来てから太っただろお前!」

「ヴィータちゃんが酷いっ!? はやてちゃん、そ、そんなに重くないですよね……?」

「う、う~ん……ちょう、苦しいかなぁ」

「はやてちゃんまでーっ!? そ、それは、颯輔君とはやてちゃんのご飯はおいしいですから、ついついたくさん食べちゃいますけど……」

「いいからどけってんだよっ!」

「きゃんっ!?」

 

 今回の自分達は、明らかに今までとは違う。

 しかし、そんな変化も悪くはないと思える。

 見た目に反する怪力でシャマルを押しのけたヴィータは、はやてと共に布団を被った。いつの間にか、大蛇はいなくなってしまったようだった。

 

 

 

 

「………………」

 

 どうしてこうなった。

 ヴィータの心情を表す言葉は、正にその一言に尽きる。

 

《So daß ein Meister fest schläft. Gehen wir!(主の安眠のためです。行きましょう!)》

「お、おう……」

 

 パジャマの下にあるヴィータのデバイス――グラーフアイゼンが、何故か、意気揚々と告げてくる。相方は戦場にでも赴くかのようなテンションだが、対する主の方は、いまいち決心がつかないでいた。

 小さな手を差し出しては寸前で弾かれたように引っ込め、胸に抱いたのろいうさぎに戻る。そんなこんなを、かれこれ五分は繰り返しているのだ。

 二階にある、颯輔の部屋の前で。

 

『ヴィータ、寝られへんのか?』

 

 あの後、ヴィータは大人しく眠ろうと思ったのだ。

 思ったのだが、思っただけで、やはり、寝付くことはできなかった。

 目覚めた世界が、この陽だまりの世界ではなくて、『いつもの』世界になっているような気がして。

 

『そや、お兄のとこ行ってみるか?』

 

 それを見かねたはやてが、一つの提案をしたのだ。

 

『お兄と一緒に寝るとな、不思議と、怖い夢も見んでぐっすり寝られるんよ』

 

 颯輔と一緒に眠る事である。

 

『心配せんでもええよ、ちゃーんと説明しとくから。ん? もう寝てるだろうって? そんときは、起こしてまえばええんよ』

 

 ヴィータの反論も特に気に留めもせず、はやては思念通話で何やらやり取りをした後、のろいうさぎを渡し、ほな、おやすみな、と笑顔で締め出してしまったのだった。

 はやてには非常に申し訳ないが、そのときの有無も言わさぬ傍若無人っぷりは今までの主にどこか通ずるものがあった気がしないでもない。やはり、闇の書の主に選ばれる人間には、何かしら共通点があるのかもしれないと思った。はやてや颯輔を今までの主と一緒にするのは、本当に納得できないが。

 ともかく、そんなやりとりの結果、ヴィータは颯輔の部屋を訪ねることとなったのである。

 なったのだが。

 

(ああーっ、クソっ! たかだか一緒に寝るだけじゃねえか! はやてとは毎日一緒に寝てんだから、颯輔とだって何の問題もねえっ!)

 

 目標を前に地団太を踏む鉄槌の騎士。さらに、その頬を真っ赤に染めているときた。一騎当千の騎士と謳われたベルカの世界では、まず見られない光景である。

 

「部屋の前でいつまでも……お前はいったい何をしているのだ」

「うきゃうっ!?」

 

 びっくりした。

 びっくりしすぎて変な声が出てしまった。

 それに、みっともなく尻餅までついてしまった。

 見れば、いつの間にか颯輔の部屋の扉は開いており、ザフィーラが呆れたような目をこちらに向けていた。

 

「て、ててててめえっ!」

「我は一階で眠る。主を頼むぞ」

 

 わなわなと指差すヴィータを置いて、ザフィーラは横を抜けて行ってしまう。

 どうやら口下手なりに気を遣ってくれたらしい。

 歩みに合わせて左右に揺れる尻尾を、ヴィータは黙って見送ることしかできなかった。

 

「…………けっ」

「ふふっ」

「おわぁっ!?」

 

 びっくりした。

 あまり変な声は出なかったが、びっくりはした。

 見れば、開いている颯輔の部屋の扉から、颯輔が顔を出してこちらを窺っていた。

 どうやら、一連の流れはすっかり見られてしまっていたらしい。ヴィータは、頬が再びかあっと熱くなるのを感じた。

 

「ごめん、驚かせたかな? でも、はやてに起こされたはいいけど、なかなか来ないからさ」

「うっ……」

 

 ヴィータにその意思がなかったとはいえ、確かに、颯輔を起こしたのはこちら側なのだ。それなのに、態々起こしておいて、こちらの都合で待たせてしまった。

 迷惑だったのだろうか。

 嫌われて、しまったのだろうか。

 

「大丈夫?」

 

 俯くヴィータの頭に、そっと乗せられる大きな手。

 はっ、と見上げてみれば、そこには、はやてと同じように、心配そうにこちらを覗き込む颯輔の顔が。

 

「怖い夢見たんだろ? 思い出しちゃったか?」

「そんなことない、けど……」

「そっか……」

 

 颯輔は再び俯いたヴィータの頭をくしゃりと一撫でし、その手を戻す。

 かと思ったら、続いて、ヴィータの両脇に颯輔の両手が差しこまれた。

 わっ、わっ、と声を上げるうちに、ひょい、と軽々と颯輔に抱きかかえられてしまう。突然のことに驚きはしたが、不思議と嫌な感じはなくて、ヴィータは颯輔の肩に手をおいた。

 はやてがよくされている抱かれ方で、何だか胸の奥からあたたかいものが込み上げてくる。これまでは知ることのなかった気持ちだ。

 颯輔はベッドにヴィータを寝かせると、自身も隣に横になり、布団をかけた。すると、颯輔の腕に抱かれている間は何てこともなかったはずなのに、今さらになって、ヴィータの心臓がドキドキと暴れ出した。

 

(う、あ……な、何つーか、今すっげーことしてんじゃねえか?)

 

 ただ一緒のベッドに入っているだけなのに、それが、とてもいけないことをしているように感じてしまう。

 恥ずかしさのあまりに固く閉ざした目に変わり、自分の鼓動でうるさい耳が、颯輔の苦笑を拾った。

 

「なんか、懐かしいな。昔に戻ったみたいだ」

「……昔?」

 

 赤い顔を見られたくなくて、頭まで被っていた布団からひょっこりと顔を出す。布団の間から、胸に抱いたのろいうさぎの耳がぴょこんと覗いていた。

 

「ああ。はやてにも、こんな小さい時期があったなぁって。……って、これじゃあヴィータをバカにしてるみたいだよな、ごめんごめん」

「別に、いいけど……」

「そう? まあともかく、当たり前のことだけど、はやてにも小さい頃があったわけさ」

 

 今でも小さいけどな。

 そう言って、颯輔ははにかむように笑う。

 こちらを向く颯輔の瞳は夜空のように深く、ともすれば、ふとした瞬間に吸い込まれてしまいそうだ。そこに映っているのはヴィータのはずなのに、颯輔が視ているのは、別の人のようで。

 

「小さい頃のはやても魘されることがあってな、その度に、よくこうしたもんだよ」

 

 布団の上から颯輔の手が伸びてきて、ヴィータのお腹のあたりに触れる。ビクリ、と固まるヴィータを余所に、颯輔の手は、ゆっくりと一定のリズムを刻み始めた。

 これまた不思議なことに、やっぱり嫌な感じはしなくて、徐々に強張った体の力は抜け始める。大きな存在に見守られているような、そんな安心感がヴィータの胸を満たした。

 まるで、魔法のようだ。

 颯輔は何の魔法も使っていないはずなのに、下手な魔法よりもずっと魔法らしいと思った。

 

「夢っていうのは、頭が記憶を整理しているときに見るものなんだって。……怖い夢を見たってことは、つまり、ヴィータがそういう体験をしてきたってことなんだと思う」

「………………」

 

 颯輔には、自分達守護騎士が具体的に何をしてきたかなどは話していない。大まかなことを教えただけで、颯輔も、それ以上を追及しようとはしなかった。

 できれば、知られたくない。

 蒐集をしなければ、颯輔とはやてが闇の書の真の主として覚醒してこれまでの闇の書の記憶を知ることはない。だから、隠し事をしていることになろうとも、ヴィータには、二人にこれまでのことを話すつもりはなかった。

 きっと、嫌われてしまうだろうから。

 無論、話せと命令されれば話すしかないのだが。

 

「でも、もう大丈夫」

「…………?」

「これからは、怖い思いなんてさせないから。ヴィータ達が楽しく過ごせるように、主として頑張らせてもらうよ。だからきっと、これから見るヴィータの夢は、楽しいものになるはずだ」

 

 底抜けに優しくて、だけど、どこか儚く消えてしまいそうな微笑み。

 ヴィータが今まで向けられることのなかった表情が、そこにはあった。

 

「おやすみ、ヴィータ。良い夢を」

「……うん。おやすみ、颯輔」

 

 その笑顔を目に焼き付けて、ヴィータはゆっくりと目を閉じる。

 何だか今日は、ぐっすりと眠れるような気がした。

 

 

 

 

《Stehen Sie bitte auf. Es ist schon Morgen.(起きてください。もう朝ですよ。)》

「ん、ううん……もう少し……」

《Meister Sosuke ist schon auf. Sind Sie gut?(主颯輔はすでに起きているようです。よいのですか?)》

「それを先に言ってよ!」

 

 朝の惰眠を貪ろうとしていたシャマルは、己の相棒である指輪のデバイス――クラールヴィントの念話を受けて飛び起きた。

 本日八神家の朝食を作る担当は、颯輔とシャマルの二名。未だ不慣れな作業で颯輔におんぶに抱っこのシャマルとしては、せめて颯輔よりも早く起きて準備を済ませておきたいところだったのだ。

 

《Seien Sie bitte still. Meister Hayate steht vielleicht auf.(お静かに。主はやてが起きてしまいます)》

「うっ!」

 

 ピコピコと咎めるように光る指輪の忠告を受け、隣のはやての様子を窺う。

 幸いにも、小さな主は未だに夢の中にいるようだった。すぅすぅと穏やかな寝息を立てており、それに合わせてかけ布団が上下している。どうやらはやての眠りは深い方らしい。

 ホッと胸を撫で下ろしたシャマルは、そろそろとベッドを抜け出した。極力音を立てないように注意しながら、しかし、できるだけ急いで、昨晩のうちに持ち込んでいた服に着替える。

 

「それじゃあ行ってきますね、はやてちゃん」

 

 夢見る主に小声で挨拶をし、するりと無音で部屋を抜け出す。

 八神家の筆頭主婦を目指すヴォルケンリッターが参謀役、湖の騎士シャマルの一日の始まりだった。

 

 

 

 

「ごめんなさい颯輔君、遅くなってしまいました~!」

 

 顔を洗い、頑固な寝癖も無事に整えたシャマルは、緑色のエプロンを装着しながら台所に飛び込んだ。そこにはすでに、此度の闇の書の主の一人である黒いエプロンを装着した颯輔の姿がある。

 シャマルに気が付いた颯輔は、少し苦笑しながら振り向いた。

 

「俺が早く起きちゃっただけだし、そんなに遅れてないから慌てなくても大丈夫だよ。それから、おはよう、シャマル」

「あ、はい、おはようございます」

 

 ペコリと挨拶を返すと、颯輔は満足そうに頷いた。

 エプロンの紐を結び終えたシャマルは、颯輔の隣に立つ。コンロにはすでに鍋がかけてあり、かつおだしのいい香りが台所に漂っていた。

 

「それじゃあ、今日は味噌汁を作ってもらおうかな。……と言っても、もうだしは取っちゃったんだけど」

「あぅ……すみません……」

「いいっていいって。それじゃあ、いっぺんに覚えるのは大変だから、一つずつ確実に覚えていこうか」

「はいっ!」

 

 主で先生でもある颯輔の言葉に、シャマルは胸の前で握り拳を作って答えた。

 料理に限らず掃除や洗濯に買い物など、颯輔は家事全般におけるシャマルの先生だった。長年八神家の主夫を務めてきただけあって、その腕はご近所の奥様方の間でも評判だ。颯輔君が婿に来てくれれば一家の家事は安泰、などと井戸端で噂されるほどである。

 しかし、いくら優れた主夫力を誇ろうとも、颯輔は高校に通う学生。おまけにはやての世話まであるのだから、突然押しかけた形となったシャマル達までいつまでも甘えているわけにはいかない。此度の守護騎士の役割は、主二人の生活を支えることなのだから。

 腕まくりをして気合をいれたシャマルは、颯輔の指示に従って調理に取り掛かり始めた。

 

「冷蔵庫に豆腐が入ってるから、出汁が沸騰するまでに切っておこうか。木綿って書いてあるやつね。分かる?」

「これ、ですか?」

「そうそう。切り方は、こうやって……こう。正方形をいくつも作る感じで。できそう?」

「あ、はい。何度か颯輔君やはやてちゃんがしているのを見ていましたから」

 

 一騎当千の騎士であるシャマル達に頼まれたことは二つ。はやての面倒を見ることと、家事を手伝うことであった。

 几帳面な性格のシグナムは掃除を得意とし、妹のように可愛がられているヴィータははやてのお世話、はやてに狼形態でいることを望まれているザフィーラは番犬代わり、シャマルはご近所付き合いの他にも家事全般を担当していた。

 最初は不審がられたご近所付き合いは、人当たりよく設定された性格もあってかすでに良好。荒廃はしていても文明度は高い世界にいたため、掃除機や洗濯機の使い方も完璧なまでにものにすることができた。これらは主二人に筋がいいと褒められるほどである。

 しかし、料理の腕の成長速度は他と比べるといまいちだった。味付けもそうだし、食材の組み合わせによって千変万化する完成形の複雑さは、あるいは魔法の術式の方が単純なのではないかと疑うほどである。

 現に、事前にしっかりと予習していた包丁さばきもなかなか上手くいかないでいる。いったい自分のどこがいけなかったのだろうか。教えられたとおりに豆腐に包丁を入れてみたはいいが、一つ一つの大きさがてんでばらばらで不格好な形になってしまったのだ。

 

「ま、まあ、最初から上手くできる人なんていないよ。俺もそうだったし、少しずつ慣れていけばいいさ」

「は、はい……」

 

 気落ちするシャマルの隣で、颯輔はシグナムの剣技のように冴え渡る包丁さばきで魚の内臓を取り除いている。はやての手つきも慣れたものであったし、あのレベルにまで達するには相当な精進が必要となるだろう。

 

「それじゃあ、あとは中火にしてから味噌を溶いて……うん、これくらいかな。一気に全部じゃなくて、少しずつ溶かすといいよ」

 

 颯輔は出汁が沸騰したのを見計らい、火を弱めてからおたまに味噌を掬って渡してくる。分量を記憶したシャマルはそれを受け取り、見よう見まねで溶かし始めた。

 あとは特に心配する必要はないと思ったのか、颯輔は自分の作業に戻ってテキパキと仕事をこなしていく。

 台所は主婦の城とお隣の奥様に聞いたが、ここの主も颯輔で間違いないようだった。さばいた魚を焼き始めた颯輔は、焼き上がるまでの間を利用して手際よく大根を下している。

 今日は味噌汁を、と言っていたとおり、颯輔には他のことを教えるつもりはないらしい。しかし、シャマルはその作業の様子を事細かに観察していた。まずは見てなんとなく覚えること、とは、これまたご近所様の教えである。

 そのあとは具を加えるだけだったために失敗らしい失敗はなく、無事に朝食の準備を済ませることができた。

 もっとも、シャマルが行ったのはせいぜい豆腐を切ることと味噌を溶かすことくらいで、颯輔が分量を量ったために味付けもろくにしていないのだが。

 朝食時、食にうるさくなったシグナムによって小姑の如く少々歪な形の豆腐を小馬鹿にされたシャマルは、料理の腕も完璧にしてみせると心に誓うのだった。

 

 

 

 

 空の半分は雲に覆われており、その合間から太陽が顔を覗かせている。

 一家揃っての朝食を済ませた後、シャマルはヴィータと共に洗濯物を干していた。

 人間形態になるのは大きな買い物のときくらいとなったザフィーラを除けば、洗濯物を出すのは五人。それほどの人数ともなれば、一日の洗濯物の量もそれなりの物となってしまう。さらに、この季節の洗濯物は輪をかけて大変だとお隣さんも言っていた。

 この世界には梅雨と呼ばれる雨の多くなる時期があるらしい。例年に比べて遅くなった梅雨入りらしいが、遅かろうと早かろうとその時期が疎ましいのに変わりはないそうだ。

 天気予報では本日の天気も午後から崩れると告げていたため、雲行きが怪しくなったら屋内に取り込むこととなるだろう。確かに、せっかく外に干した物を乾いてもいないのに取り込むのはなんだか負けた気がする。

 

「ん」

「はい」

 

 ハンガーに掛けられた洗濯物をヴィータから受け取り、物干し竿へと吊るす。

 身長的に無理のあるヴィータは、洗濯物をハンガーに掛けるまでが仕事だった。

 飛行魔法を使えば身長など関係ないのだが、魔法技術が皆無なこの世界での魔法の使用は主二人によって基本的には禁止されている。ここでの常識で考えれば、空中に浮かんで洗濯物を干す少女などを見られたらどんな噂が立つかわからない。ホームステイに来た、とただでさえ目立っているのだから、これ以上の悪目立ちは避けたいところである。

 

「ん? なんか今、不快な思念を受信したような……?」

「き、気のせいじゃないかしら?」

 

 精神リンクから何かを感じ取ったのか、触覚のように伸びたアホ毛をピコピコと揺らすヴィータに慌てて返した。

 一撃の破壊力に定評のある小さなアタッカーは、自身のデザインに大きな不満があるのだ。せっかく寝起きからにこにこと機嫌がよかったのだから、こちらまでゴロゴロと悪天候にするのはよろしくない。

 

「それより、昨日はよく眠れた? 颯輔君は、特に何もなかったって言ってたけど」

「ま、まあな。べ、別に、嫌な夢も見なかったぞ」

 

 はた目から見ればあからさまな話題転換ではあったが、その効果は予想以上にあったようだ。ヴィータは薄く染めた頬をポリポリとかき、覗き込むシャマルから逃れるように顔を逸らしていた。

 どうやら、颯輔にとっては何でもないことであってもヴィータにとっては一大イベントであったらしい。このように照れている表情など、これまでは見せたこともなかったのだから。

 

「うふふ、可愛い顔するようになったわね、ヴィータちゃん」

「ううう、うっせーなっ! 誰もそんな顔してねーよっ!」

「真っ赤になって否定しちゃってー。かーわいっ」

「こ、子供扱いすんなってっ!」

 

 颯輔君とはやてちゃんには許してるくせに、などと思いながら、小さくじたばたと暴れるヴィータの頭を撫でまわす。

 以前にこんなことをしようものなら、問答無用でグラーフアイゼンの頑固な汚れにされていただろう。それがここまで豹変するのだから、主二人の影響力は計り知れない。

 もっとも、以前の自分もこのようにじゃれつこうとは考えもしなかっただろうが。

 

「コラコラ、仲がいいのは結構だけど、あんまり外で騒ぐとあとで恥ずかしい思いをすることになるぞ」

 

 一見すれば母子のふれ合いにも見えなくもない行為を止めたのは、玄関から出てきた颯輔だった。もう学校に行く時間らしく、服装は制服になっている。

 恥ずかしい思いが嫌なのか、颯輔に注意されたからか、はたまた現在進行形で恥ずかしい思いをしているのか、ヴィータはシャマルの腕をするりと抜けだして颯輔の下へと駆け寄っていた。ザフィーラのように尻尾が生えていれば、ぱたぱたと忙しなく揺れていただろう。

 

「颯輔、もう行くの?」

「ああ。留守番よろしく頼むぞ?」

「うんっ!」

「傘は持ちましたか? 帰りの時間まで雨が上がるかはわかりませんよ?」

「折り畳み傘を入れてあるから大丈夫だよ。冷蔵庫の中身はまだあるから、買い物は大丈夫だと思う。今日は家でゆっくりしていていいよ」

「わかりました。それじゃあ、いってらっしゃい、颯輔君」

「気をつけてね、颯輔」

「うん。いってきます」

 

 ヴィータと二人、主の後姿を見送る。

 蒐集に駆り出されるのではなく、留守を預けられるのもいいものだとシャマルは感じた。

 

 



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第八話 守護騎士達に休息を(後編)

 

 

 我らの小さな主は物怖じしない性格らしい。

 自身に寄りかかるはやてを見て、盾の守護獣ザフィーラはそう思った。

 ザフィーラほどの大型犬を中丘町で見かけることはまずない。海鳴市全域にその範囲を広げれば話は変わってくるのかもしれないが、近隣の人々の反応を見る限り、ザフィーラが一番大きいということで間違いないのだろう。

 中には好奇心が勝る子供もいないことはないが、散歩中に出会う者は、ザフィーラの姿を認めると大抵が及び腰になっていた。

 もっとも、ザフィーラは大型犬ではなく魔法世界に生息する狼を模して造り出されたため、それが当然の反応とも言えるが。

 

「んー。ザフィーラはふかふかで気持ちがええね」

「ありがとうございます」

 

 ザフィーラを撫でる手は優しく、信愛の情を感じる。はやてはこの姿に微塵も恐怖を抱いていないようだった。

 前から犬が飼いたかったんよ、猫には嫌われとるみたいやから、と言っていたはやてにとって、狼形態のザフィーラとのふれ合いは至福の時間であった。

 故に、犬ではなく狼です、といちいち訂正することもない。最初は拘っていたが、そんな小さなプライドは、主の笑顔に比べるべくもないのだ。

 今のザフィーラが守るべきものは主二人の笑顔。考えてみれば、盾の守護獣の名に相応しい矜持ではないだろうか。

 

「……はぁ。お兄とヴィータにシャマル、遅いなぁ」

 

 ところが、笑顔を守るというのは存外難しい。どんよりと暗い窓の向こうを見やったはやては、寂しそうに小さな溜息を吐き、ザフィーラの背中に顎を突いてしまった。

 今日の天気は一日雨。ざあざあと降る雨が、窓を叩いて濡らしている。

 颯輔ははやての代わりに家事見習いのシャマルを連れ、少なくなった食材の買い出しに出かけていた。最近、はやてよりも颯輔に懐きつつあるヴィータもそれに付いて行ってしまっている。

 ヴィータははやてと一緒に留守番するのと迷っていたようだが、はやて自身が、行っといで、と促してしまったのだ。

 雨が降れば地面は濡れ、車椅子のタイヤが滑りやすくなる。また、車椅子に座ってジッとしていれば冷えてしまい、体の弱いはやては調子が悪くなってしまう。

 そういった理由から、颯輔は雨の日にはやてを外に連れ出したことはない。例外があるとすれば、通院日くらいのものであろう。

 シグナムは家にいるのだが、あの戦好きは風呂場で頑固な水カビと激闘を繰り広げている。どうも強者の代わりに強敵との戦いに楽しみを見い出してしまったらしい。築十年近くになる八神家は、シグナムのおかげで新居のようにピカピカであった。

 

「わたし、梅雨が一番嫌いな時期や。留守番が多なるし、洗濯物は乾かんし、おまけにジメジメするし」

「………………」

 

 確かに、湿気が多いのはザフィーラも気になっていた。

 はやては気にしていないようだが、正直に言ってしまえば、今日の毛並は少々調子が悪い。湿気のせいか、普段ならばピンと立っているはずのたてがみは、毛先が微かに下を向いていた。

 これまでは気に留めることもなかったことだが、主に触れられるというのであれば、万全の調子で迎えたいザフィーラであった。

 

「それにな、最近、お兄はヴィータとばっかりでちっとも構ってくれへん。ヴィータもちょいちょいお兄んとこで寝るようなるし……」

「あ、主……?」

 

 何やら黒い雰囲気を感じる。

 一週間ほど前から、確かにヴィータは度々颯輔の所で眠るようになった。もちろん、はやて自身も許していることではあったが、どうやら本心では思う所があったらしい。

 

「ああ、もう、なんかあかんわ。ヴィータはお兄に盗られてまうし、お兄はヴィータに盗られてまうし、わたしって……」

 

 実際の所、颯輔とヴィータの二人にはやてを除け者にしようという意思は、当然皆無である。ただ純粋に、その仲が前よりもよくなっただけなのだ。

 だがしかし、今まで颯輔と二人っきりだったはやては、大切な兄を奪われてしまったように感じていた。

 本当は、そうではないことはわかっている。わかってはいるのだが、どうしても、そう感じてしまう。だからこそ、はやては自己嫌悪の念を抱いていた。

 

「元気を出してください」

 

 口下手なザフィーラではあるが、気落ちしている主を放っておくことなどできない。笑顔が消えているのであれば、笑顔になるように行動するだけである。

 少しでも気分を和らげようと、伸ばした尻尾ではやての頬をこしょこしょと撫でた。

 

「主颯輔もヴィータも、もちろん我らも、貴女のことを大切に想っています。我らを家族として受け入れてくれた心優しい貴女を、いったい誰が疎ましく思いましょうか」

「………………」

「主達の負担は我らが減らします。ですから貴女は、我らのことなど気にせずに、心の赴くまま、主颯輔に甘えてしまえばいいのです」

「……おおきに」

 

 はやての手がザフィーラの尻尾を掴み、頬を摺り寄せる。

 それはこれまでになく温かくて、ザフィーラに、守るべきものを再度教えてくれた。

 

「雨降りやからかな、なんや、いつにもなく弱気になってしもうたみたいやね。さっきのはナシ。ザフィーラも、忘れてくれてかまへんよ」

「はい」

 

 こうして内に抱え込むところは、本当に兄妹らしい。

 そう思いながら、ザフィーラは言葉を続ける。

 

「主はやてにも、不平不満が募ることがあるでしょう。そうしたときは、我にでもお話しください。我は守護獣。主の心をお守りするのも、我が役目にございます」

「ザフィーラ……」

 

 数瞬の沈黙の後、クスクスと笑い声が漏れる。

 

「ほんなら、さっそく不満そのイチや」

「はい、何でしょうか」

「いい加減、主ってつけるのやめること。もうザフィーラだけやで、あるじあるじ言うてんのは」

「むぅ…………」

 

 はやての言うとおり、今となっては主二人を主と呼ぶのはザフィーラのみであった。一番最初にヴィータが、次はシャマル、最近ではザフィーラと同じく堅気な気質のシグナムでさえ、度重なる注意の果てに普通に呼べるようになっていた。

 ザフィーラは口数が少なく、また、自ら呼びかけることがほとんどなかったため、見逃されていたようなものなのだ。

 

「で、ですが、主は主ですので……」

「シグナムもそないなこと言うてたなぁ。『これは仕様ですので』、て。でも、ザフィーラだって偶には人間形態なるんやから、いつまでもそんなんやと、いつかボロが出てまうで? だから、そろそろ直さなあかんよ?」

「……努力します」

 

 断るわけにもいかず、とりあえずの逃げの一手を打つ。

 だが、それを聞いたはやては、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

 これは、イタズラを思い付いたときの表情だ。

 長年の戦闘で身に付いた直感が、ザフィーラに警鐘を鳴らす。

 しかし、今は体を預けてくるはやてを支えているため、逃げ出すことはできなかった。

 

「ほんなら、さっそく練習や。はやてって言うてみて」

「ぬ、ぬぅ…………」

「………………」

「あ、ある――」

「はやて」

「………………」

「………………」

「…………は、はや――」

「ただいまー!」

 

 はやて。

 これまで一度も呼び捨てにすることのなかった主の名を意を決して呼ぼうとしたとき、玄関から幼い少女の大きな声が聞こえてきた。買い物に行っていたヴィータの声である。

 

「ただいま帰りましたー!」

「ただいま」

「あっ! お兄らやっと帰ってきた!」

 

 続いて聞こえてきたシャマルと颯輔の声に、はやては弾かれたように顔を上げ、玄関へと続くリビングのドアを見やった。その顔には喜色が溢れており、もうすでにザフィーラいじりは忘れてしまったようである。

 これでよかったような、悪かったような、何とも言えない気分に襲われたザフィーラは、溜息と共に尻尾を床に投げ出したのだった。

 

 

 

 

「お兄、こっちこっち!」

「んー? ちょっと待ってな、冷蔵庫の整理もう少しで終わるから」

 

 颯輔達が帰ってから完全に笑顔に戻ったはやてはご機嫌で、ザフィーラと留守番していたときとは大違いだ。そこにいるだけではやてを笑顔にしてしまうのだから、やはり、はやての中の颯輔の存在はそれだけ大きいのだろう。

 敵わない。

 人を元気づけるどころか会話すらほとんどしないザフィーラではそれが道理なのだが、やはり、颯輔には敵わないと思った。

 

「どうした、はやて?」

 

 買い物の戦利品を片づけ終えたらしい颯輔が、こちらへと近づいてくる。はやてはこっちこっちと手招きし、自身の隣へと座らせた。

 向きを変えて颯輔と向き合ったはやては、言葉を選ぶようにしてゆっくりと口を開く。

 

「あんな、お兄。えーと……ね、眠かったりせえへん?」

「ん? いや、昨日もぐっすり眠れたし、そんなことないけど」

 

 それがどうかしたか、と返されて、はやての頬が少し膨れる。どうやらお望みの答えではなかったらしい。

 

「でもでも、ほら、久しぶりのお休みやし、疲れたりしとらんの?」

「うーん、まあ、少しくらいは……」

「ほ、ほんなら、一緒にお昼寝しよ?」

「う、うん?」

 

 嬉しさと恥ずかしさの混じった声。はやての頬は、少しだけ赤かった。

 事態をいまいち把握しきれていないらしい颯輔は、小首を傾げたあと、ザフィーラを助けを求めるように見やる。

 

『はやて、どうかしたのか?』

『最近、主と……颯輔と共にする時間が少なく、機嫌を損ねられていたようです』

『ああ、なるほど……』

『ここは要望に応えた方がよろしいかと』

 

 ザフィーラの思念通話に小さく頷いて返した颯輔は、小さく苦笑を漏らす。それから、不安げに颯輔を見上げるはやての頭に手を置いた。

 

「そうだな。偶には、ゆっくり過ごすのもいいかもしれないな」

「ホンマっ!?」

「別に、ここで嘘をつく必要はないだろ?」

「そ、そやね……。ほんならザフィーラ、枕お願いしてもええか?」

「はい」

 

 はやてに答えてから、はやての背中側に回り込んで床に伏せた。

 それを見届けたはやてが、ゆっくりと背中を倒して身を預けてくる。颯輔が不在のときに限る、はやての特等席の完成だった。

 

「お兄はここ」

 

 ポンポンと隣を叩くはやてだったが、対する颯輔は怪訝な顔をしている。

 どうやら、自分も背中を預けていいものかと悩んでいるようだった。

 

「我の心配ならいりません」

「でも、重くないか?」

「許容範囲内ですので、お気になさらず。もっとも、颯輔が嫌なら仕方がありませんが」

「はは、嫌じゃないよ。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 軽い冗談を混じえたところで、ようやく颯輔が背中を預けてくる。

 守護騎士の中では最も長い時間を颯輔と共にしているザフィーラは、颯輔になら冗談を言えるようにはなっていた。

 はやてにはいじられてばかりだが、颯輔をいじることはある。それはもはや主従ではなく、気の置けない友人や兄弟のような関係だった。

 

「………………」

 

 何やら視線を感じる。

 見れば、買ってもらったカップアイスを食べ終えたらしいヴィータが、羨ましそうにこちらを見つめていた。

 はやてと颯輔にべったりのヴィータにとって、二人が並んで横になっているこの場所は、まさに理想の光景なのだろう。混ざりたいが邪魔してはいけない、と葛藤しているようだった。

 

『もう一人くらいならば問題はないぞ』

『――っ!?』

 

 念話を飛ばしてやると、ビクリと震えたヴィータは頬を赤らめ、念話の代わりに鋭い視線を飛ばしてくる。何かを言いたそうに口をパクパクとさせていたが、途端、ボフンと頭から煙を上げて俯き、そろそろと近づいて来た。

 どうやら、はやてに見つかってしまったらしい。視線を向けてみれば、はやてがあの黒い笑みで手招きをしていた。

 

「ヴィータもお昼寝するか? お昼寝するなら、わたしの反対側やで?」

「………………」

 

 言葉に代わり、はやての問いにコクリと頷いたヴィータは、颯輔の隣の空いている方に腰を下し、ザフィーラへ背中を預けてきた。

 わかっているのかいないのか、颯輔は借りてきた猫のように大人しいヴィータの頭をぽふぽふと撫でるように軽く叩き、ただでさえ赤い顔をさらに真っ赤にさせてしまう。今やヴィータの顔は、彼女の魔力光もかくやというほど紅潮していた。

 

「………………」

 

 何やら、またもや視線を感じる。

 見れば、買ってきた日用品をしまい終えてリビングへと戻ってきたシャマルが、羨ましそうにこちらを見つめていた。

 ちょうど反対側を向いている三人は、まだシャマルには気が付いていないようだった。

 

『三人の反対側ならばまだ空いているが?』

『そっちじゃ意味ないじゃないっ!』

 

 悔しそうに、しかし、静かに地団太を踏むシャマル。

 浴室の掃除を終えやりきった顔をしてやってきたシグナムが、シャマルの肩を宥めるように叩くのであった。

 

 

 

 

 颯輔達がザフィーラを枕にして寝息を立て始めてから、しばらくの時が経った。

 雨脚は大分弱まったが、空は未だに愚図ついており、窓からは細い雨の線がちらほらと窺える。

 台所では、ようやく料理を覚え始めたシャマルが、シグナムと共に夕飯の下準備を始めていた。

 寝息と雨音と小さな物音しか聞こえない、静かな時間。怒号と悲鳴と炸裂音が常だった世界とは、まるっきり正反対の時間だ。

 闇の書の長い歴史からすれば、刹那の一時かもしれない。

 だが、この刹那を数瞬でも長く伸ばしてみせよう。

 主達が蒐集を望まないのであれば、ザフィーラ達守護騎士は、この穏やかな時を生きることができる。それが主達の望みでもあるのだから、自分達はそれを守るだけである。それは、主達の望みであると同時に守護騎士達の望みでもあるのだから。

 この管理外世界には、明確な脅威は存在しない。最初に発覚した魔導師もこちらに接触してくる様子は見せておらず、また、こちらも大きな魔力を使うことはないため、面倒が起こる可能性は低いだろう。

 ならば、この穏やかな世界で、数十年の時を静かに過ごそう。主達が天寿を全うするまで、傍に仕えて見守るのだ。

 

(願わくば、この平穏を乱されることのないよう……)

 

 心の中で小さな祈りを捧げ、ザフィーラも目を瞑ろうとしたときだった。

 リビングに、小さな転移反応があったのは。

 ザフィーラも、台所にいたシグナムにシャマルも一瞬身構えたが、すぐにその緊張を解した。その魔力は、誰よりも自分達が一番知っているものだったから。

 深紫の光と共に出現したのは、一冊の魔導書。普段は颯輔の私室においてある、守護騎士達の核ともいえる闇の書だった。

 今回は静かに本をしていた『彼女』だったが、どうやら機能不全などではなかったらしい。

 頭上に現れた闇の書はゆっくり高度を下げ、颯輔の胸元へと落ちた。

 

「お前も昼寝に来たのか?」

《………………》

 

 当然ながら、答える声はない。『彼女』――闇の書の管制人格である融合騎が起動するには、闇の書の蒐集が必要なためだ。

 400ページで主は第一覚醒を果たし、承認すれば、融合騎との対話と精神アクセスが可能となる。全てのページ埋めることで完全覚醒し、ここまでしてやっと現実世界に具現化できるようになるのだ。

 つまり、闇の書の蒐集が行われない今回は、『彼女』が起動することはない。本の姿で飛び廻り、簡単な魔法くらいならば発動できるが、あくまでもそれだけで、主達と対面することはないのだ。例え精神リンクから精神世界で邂逅を果たせたとしても、主達がそれを覚えていることはないだろう。

 

「すまんな、我らばかりがこの時間を謳歌してしまって。お前も主達のお傍で仕えたかっただろうが、どうやら、今回は起動させてやれそうにない……」

《………………》

 

 答える声は、やはり、ない。代わりに、表紙の剣十字が小さく輝いただけだった。

 

「そこでよければ、ゆっくりさせてもらうといいだろう。幸い、主達を起こす時間まではまだしばらくある」

《………………》

 

 一方的な会話を終え、今度こそ、ザフィーラは目を閉じた。

 身を寄せ合う三人と一匹は、まるで、仲のいい家族のように見えた。

 

 

 

 

 そこは、一条の光も差し込まない完全な闇に覆われた空間。

 現実でも空想でもない、その狭間の世界。

 その世界にたった一人きりだった『彼女』は、来訪者の存在を感じて跪いた。

 それは、絶対の忠義を示す臣下の礼。来訪者は、『彼女』の主であった。

 

「ここは……」

「お待ちしておりました、我が主」

 

 歓迎の意を伝え、静かに顔を上げる。その先には、戸惑うように辺りを見回す颯輔の姿があった。

 子供だったあのときから幾何かの時間が経ち、少なからず面影を残してはいるが、その姿は成長した青年のものになっている。

 しかし、その姿を見間違うことなどあろうはずがない。なぜなら『彼女』は、その成長をずっと見守ってきたのだから。

 

「君は……?」

 

 現実世界では眠りについているために半覚醒状態なのか、颯輔はぼんやりと尋ねてくる。『彼女』は微笑を携え、美しい声音で答えを紡いだ。

 

「私は夜天の魔導書の管制人格である融合騎にございます。こうして成長した貴方にまたお会いできたことを、大変幸福に感じます」

「夜天の、魔導書……また、会えた……? 君は、確か…………。ダメだ、思い出せない……」

「気に病む必要はございません。本来ならば、こうしてお顔を拝見することすら叶わぬのですから。主は夜天の魔導書との繋がりが深い故に、ここへと迷い込んでしまっただけです」

「……? ゴメン、どこかで会ったような気はするんだけど……」

 

 思考がはっきりしていないのか、颯輔は何かを思い出そうとして必死だ。しかし、夜天の魔導書の蒐集が一ページもされていない今、彼がそれを思い出すことは不可能だろう。

 僕に過ぎない自分にまで頭を下げられて、『彼女』はクスリと笑みを漏らしてしまう。不敬だとわかってはいるが、眠気と必死に戦っている様子は『彼女』の目にもおかしく見えてしまったのだ。颯輔も、それを咎めることはしなかった。

 

「いいのです。お疲れなのですから、今はお休みください」

 

 何もない宙を舞い、空間を漂う颯輔をそっと捕まえる。そのまま足場を固定して正座をした『彼女』は、颯輔の頭を膝へと導いた。

 普段ならば抵抗したであろう颯輔も、ぼんやりとした意識ではそれを黙って受け入れるのみであった。

 白魚のような指先で颯輔の前髪を均し、眠そうに見上げてくる目をそっと閉じさせる。

 

「寝苦しいかもしれませんが、どうぞお使いください。主が戻られるまでは、私がこうしてお傍に控えておりましょう」

「うん…………」

 

 幼子のように返事をした颯輔は、睡魔に身を任せて意識を沈めていく。『彼女』は慈しむように颯輔の頭を柔らかな手つきで撫で続けた。

 

「そのままでよろしいので、どうかお聞きください」

「ん…………」

「まずは、守護騎士達を受け入れていただきありがとうございました。貴方がたのおかげで、あれらは本来の自分を取り戻せているようです」

「そう、かな…………」

「ええ。命令を遂行するのみだった烈火の将も、不貞腐れてばかりだった紅の鉄騎も、ずいぶんと丸くなったものです。風の癒し手も蒼き狼も、今の生活を楽しんでいるようですよ」

「だと、いいけど…………」

「間違いはありません。それは、主もわかっているはずです」

「ああ…………」

「一つだけ、お願いが。どうかこのまま、心優しい騎士達に安らかな時間を与えてください。あれらの心は、擦り切れてしまう寸前でした。図々しい願いだとは承知しております……。ですが、どうか、どうか……」

 

 手を止めて俯いていた『彼女』の横顔に、大きな掌が触れた。

 

「また泣いてる……。心配しなくても大丈夫だから……。だから、もう泣かなくてもいい……」

 

 いつの間にか流していた涙を、颯輔の指が拭っていく。妹にするように優しく頭を撫でて行った掌は、ゆっくりと下へと落ちた。

 やがて、穏やかな寝息を立て始めた颯輔の体は、闇に解けるようにして消えていく。その様子を、『彼女』は黙って見守るしかない。

 主の姿が完全に消えてなくなると、『彼女』はこの場にまた一人となってしまった。

 

「……っ」

 

 主が去ったのを確認し、一度は止まった涙を再び流し始める。

 『先』を知ってしまっている『彼女』は、それを嘆かずにはいられなかった。

 

「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」

 

 掌で顔を覆い隠し、『彼女』は泣きながら謝り続ける。

 我が身の呪いが愛しい主達を傷つけるのを、止めることができない故に。

 残された時間は、あまりにも少なかった。

 

 



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第九話 夏の日の夜空

 

 

 梅雨が明ければ一日の最高気温は上昇の一途を辿るばかり。七月末ともなれば、暑さのピークとも言える時期だろう。

 本日は最高気温三十五度をマークした真夏日だったが、夕方ともなれば、いくらか過ごし易い気温となっている。もっとも、夏らしく日照時間も長くなり、時刻はもう18時半を指しているのだが。

 快晴の空から西日が射し込む八神家の台所には、ソースの香ばしい香りが漂っていた。

 フライパンを振るう颯輔の額には、汗が薄らと滲んでいる。いくら過ごし易い気温と言っても、やはり火の周りは暑いらしい。

 手際よく麺と具にソースを絡めて水気を飛ばした颯輔は、完成した焼きそばをプラスチックの容器に移していく。容器の数は全部で六つ。八神家全員分の個数だ。

 

「ふぅ……。こんなもんかな?」

 

 久しぶりに一人きりで料理をしたために疲れてしまったのか、微妙に違和感を覚える左腕を回しながら、品揃えを確かめる。

 テーブルには、焼きそばの他にもフランクフルトやいか焼きなどが並んでいた。まるで、縁日の屋台のようなラインナップである。もちろん、サラダなどの緑の食べ物も忘れてはおらず、多少は偏ってはいるが、しっかりと栄養バランスは考えてあった。

 家庭で作れるような品は一通り作ってある。これ以上を望んでも、荷物が増えて移動が大変になるだけだろう。

 そう判断した颯輔は、満足そうに一人頷いた。

 

「お見事です」

 

 見計らったようなタイミングで現れたのは、完全な人間形態となったザフィーラ。群青色の甚平とラフな格好をしており、色彩も相まって涼しそうだ。

 本人の希望もあって狼形態でいることが常のザフィーラだが、今日は数少ない例外の日だった。

 

「片づけは我がしておきましょう。颯輔はその間に着替えてしまってください。着付けも終わり、こちらに向かっているとの連絡がありました」

「ん、了解。それじゃあ、後はよろしく頼む」

「お任せを」

 

 手を洗ってからエプロンを外し、ザフィーラへと渡す。

 期末試験も終わって夏休みとなった今日は、年に一度の花火大会が開催される日だった。

 

 

 

 

 グレーの生地に縞が入った甚平に着替えた颯輔は、家の戸締りを始めた。

 海鳴市の花火大会は県内でも有数の規模を誇り、それに比例した見物客が会場である河川敷に集まってくる。すると当然無人の民家が増えるわけで、そこを狙った空き巣が現れるのだ。

 今朝の新聞にもそれを注意する旨のチラシが入っており、空き巣だけでなく、羽目を外しすぎてしまった人達のためにパトカーの巡回も増えるという始末である。

 もっとも、普通の家庭とは少々違った事情を持つ八神家のセキュリティは、銀行どころか政府主要施設にも劣らないのだが。

 ともあれ、用心に越したことはない。こういった事は、日ごろの心掛けが大切なのだ。

 一通り見て回った颯輔はリビングへと戻る。その途中、誰かの気配を感じて後ろを振り向いた。

 

「……なんだ、お前か。脅かさないでくれよ」

 

 そこにいたのは……いや、あったのは、空中にふわふわと浮かぶ一冊の本。この家に住むようになってからずっと颯輔の傍にあった、闇の書である。主の余剰魔力を動力としているこの本は、時折こうして家の中を飛び廻っているのだ。

 最初は驚きはしたものの、魔法には耐性ができつつあったためにすんなりと受け入れてしまった。慣れというのは恐ろしいものである。

 これから何があるのかを知っているのか、はたまたほったらかしにしていたことに抗議しているのか、自身の回りを旋回し始めた闇の書を捕まえる。

 

「わかったわかった。お前も連れて行くから、暴れるなって」

 

 颯輔の言葉を理解しているのかしていないのか、腕の中で微かに抵抗していた闇の書は、普通の本と同じように大人しくなった。

 はぁ、と軽い溜息をついた颯輔は、今度こそリビングへと戻った。

 一瞬迷った颯輔は、何かのためにと取っておいた紙袋に闇の書を突っ込み、レジャーシートなどを入れたバッグへと仕舞う。空を飛ぶとはいえ、綺麗な本ではあるし守護騎士達の核でもあるため、万が一にも汚してしまうことは躊躇われたのだ。

 ザフィーラもその光景を見てはいたのだが、複雑そうな表情は浮かべても口出しまではしてこなかった。一冊だけ家に残しておくよりも、連れて行ってしまった方が無難であると判断したのかもしれない。

 

「さて、それじゃあ行きますか」

「はい」

 

 必要な荷物を持って家を出る。施錠をしてから敷地を出ると、ちょうど、こちらへと向かっていたはやて達とばったり出くわした。

 

「颯輔ーっ!」

 

 団扇を片手に下駄をカランコロンと鳴らしながら走り寄ってくるヴィータを、苦笑しながら受け止める。八神家の女性陣は、浴衣のレンタルと着付けをするために出かけていたのだ。

 こういった時に着飾りたがるのは、女性の真理と言えるだろう。もっとも、言い出したのははやてなのだが。

 ちなみに、そこまで懐に余裕はないため、男性陣は安物の甚平だった。

 

「どうどう? 似合う?」

 

 ヴィータは颯輔から離れ、クルリとその場で回ってみせた。

 薄いピンク色の生地に、桜模様の女の子らしい浴衣。それでいて、深い赤色の帯が落ち着きを見せている。解いた髪を両サイドでシニヨンにまとめ、残った長い髪は垂れさせてツインテールに。子供らしい快活な雰囲気が溢れており、ヴィータによく似合う浴衣姿だった。

 

「ああ。可愛くしてもらったね」

「えへへっ」

 

 ほんのりと頬を上気させ、満面の笑みを浮かべるヴィータ。そのはしゃぎっぷりからも分かるとおり、誰よりもこの日を楽しみにしていたヴィータである。

 

「もう。ヴィータちゃんたら、はしゃいじゃって」

「しゃあないよ、シャマル。何せ、昨日は楽しみでなかなか寝付けんみたいやったからなぁ」

 

 ヴィータに続いて合流したのは、車椅子を押すシャマルと押されるはやて。

 シャマルの方は、藤色の生地にブルーと薄紫の朝顔が涼やかさを演出する浴衣。ライム色の帯が目に鮮やかだ。髪型は、前髪を上げてバックに流したポンパドール。髪留めに使った水色のフラワーコサージュが、大人の可憐さと可愛らしさ感じさせる。その姿は、シャマルの魅力を十二分に引き立てているようだった。

 一方のはやては、深い藍色の生地に水色の百合が咲き誇る上品な印象の浴衣。真っ白な帯が清廉さを表しているようだ。普段はいじらない髪型は、後頭部で一つにまとめたショートポニー。シンプルではあるが、あごと耳の延長線上にデザインを作る黄金ルールも忘れていない。ゴムに付いたシックなデザインのビーズアートが、沈みかけの夕日を受けて小さく光っている。普段の甘えん坊とは違う、大人びたはやてがそこにいた。

 

「どうですか、颯輔君?」

「シャマルらしい色合いでよく似合ってると思うよ」

「お兄、わたしは?」

「もちろん、はやても。大人っぽくて見違えた」

 

 颯輔の言葉を受け、シャマルは嬉しそうに、はやてはさも当然とばかりに頷いていた。

 ご機嫌な様子の三人を見て、颯輔は内心でほっと胸を撫で下ろす。素直に褒めるのは恥ずかしかったが、それ相応の反応が返ってきたようだった。

 

『女の子がおしゃれをしてきたらしっかりと褒める事。例え妹さんでもね』

 

 夏休みに入る前にこの日の予定を美由希と話し合ったときに、相当強く念を押されて聞かされた言葉をふと思い出す。

 妙な緊張感から解放された颯輔は、浮足立つ女性陣が一人足りないことに気が付いた。

 

「あれ? シグナムは?」

「ああ、シグナムなら……」

「まだ慣れていないみたいで……」

「……?」

 

 首を傾げながら、後ろを振り返った二人の視線を辿る。そこにあるのは路地で、シグナムの姿はない。

 カラン、と下駄の音が響いた。

 曲がり角からゆっくりと姿を現したのは、浴衣姿の女性。白地の全体に墨色のぼたんと菊の花が描かれた、落ち着きのある意匠。黒地の帯にラベンダーピンクの紐がアクセントになっていた。三つ編みにした後ろ髪をカチューシャのようにアップにし、黒いビジューが敷き詰められたバレッタで留めている。

 大人の女性特有の妖艶さが漂う美しさが、そこにはあった。

 

「………………」

「………………」

 

 その女性はもちろん、シグナムだ。だが、普段はそれとはわからない薄化粧のはずが、今は濃いルージュを引いている。いつもとは違うそんな自分を自覚しているのか、その顔は耳まで赤く染まっており、それを隠すように片手で襟足を気にしていた。

 美人だとは思っていた。守護騎士の皆は容姿が整っており、シグナムもシャマルも方向性の違った美しさを備えている。が、目の前に立つ浴衣美人は、なんというか、こう、ぐっとくるものがあった。

 

「なんや、わたしらのときと反応が違うなぁ……」

「そうですね……」

「あ、う、いや、その……。えと、綺麗だと思う、よ?」

「……っ……っ……!」

 

 底冷えするような声音と視線に意識を引き戻され、慌てて言葉を紡いでみたはいいが、どうやら逆効果だったらしい。冷たい視線は強くなるばかりで、颯輔は堪らず冷や汗をかいてしまう。

 一方のシグナムは、青くなる颯輔とは正反対だった。リンゴのような色になった顔を俯かせ、身を小さくしている。咄嗟に出た颯輔の言葉が本心からのものであると理解していれば、さらに蒸気を上げていたかもしれない。

 

「『恥ずかしいのであまり見ないでください』、やって」

「あ、うん」

 

 颯輔の袖をちょいちょいと引き、途切れ途切れに送られてきた念話の内容を伝えるはやて。せっかくの大人らしさはどこへいってしまったのか、少々膨れてしまっている。

 釘づけになっていた視線を逸らした颯輔は、またもや反対側の袖を引かれたことに気づき、そちらを見やった。

 

「全員揃ったし、行こうぜ、颯輔」

 

 無邪気に語りかけてくるヴィータが、そのときばかりは救いの天使に見えた。

 

 

 

 

 一度はご機嫌斜めに陥ったはやてだったが、しばらくのうちにそれは元に戻った。なにせ、今日は家族揃って花火を見に行く日なのだ。いつまでも怒っていては、せっかくのイベントが台無しになってしまう。

 気が緩んだ途端に出てきた欠伸を噛み殺す。家の前ではヴィータにあんなことを言ってしまったが、眠れない夜を過ごしたのは、はやてにも言えることであった。

 毎年この時期に開催される花火大会だが、実のところを言うと、こうして外出して花火を見に行くというのは初めてのことである。

 正確には、過去に行ったことはあるらしいのだが、生憎と物心のつく以前のことだったようで、そのときのことは覚えていない。毎年この日は、家の二階から遠くに見える小さな花火を颯輔と二人で眺めるだけだった。

 皆で花火を見に行こう、と言い出したのは、颯輔から。聞けば、学校の友人から、人混みを避けて花火を見ることのできる穴場を教えてもらったらしい。

 おそらく、友人とは高町美由希のこと。はやても面識のある、颯輔のクラスメイトだ。友達の話題と言えば男友達のことしかなかったはずが、はやての知らないうちに、いつの間にか仲良くなっていた女友達である。

 気の良さそうな人であるはずなのに、図書館で紹介されたときは、直感だけでこの人とはあんまり仲良くなれそうにないと悟らされた。あれが俗にいう女の勘というやつかもしれない。

 話を戻そう。

 せっかく地元の街で大きな花火大会があるのに会場に行かなかったのは、このポンコツな足のせいだ。人がごった返す会場に車椅子で突入すれば、周りも自分も不快な思いをするのは目に見えている。

 同じ理由から、せっかくの夏休みだというのに遊びに出かけるなどということはなかった。海にもプールにも入れないため、家で自堕落な生活を送るしかなかったのである。まあ、休学中のはやては毎日が絶賛日曜日状態なのだが。

 仕事が忙しいらしく英国のおじさんの所に遊びにも行けず、今年も自宅待機かぁ、としょげていたところにかかった一声。楽しみでないわけがない。おまけに、今の自分には賑やかな家族がいる。子供心が躍るイベントとは無縁の生活をしてきはたはやてにとって、これは大きな大きな出来事なのだ。

 荷物をザフィーラに預けた颯輔に車椅子を押され、また、電動車椅子のブーストを追加して長く続いた坂道を登りきる。見晴らしの丘と呼ばれている、地元住民でもほとんど足を運ぶことのない高台の広場。その向こうに広がるのは、煌びやかな輝きを見せる海鳴市の夜景だった。

 

「うわぁ……!」

「綺麗ですね」

 

 感嘆の声に合わせ、隣を歩いていたシャマルがほぅと呟く。見晴らしの丘の名に恥じない絶景が広がっているのだから、無理もない。海鳴マップの一押しスポットに入れてもいいくらいだ。

 一度夜景から目を離し、辺りを見回してみる。穴場と言っても知っている人は知っているらしく、ちらほらと家族連れや男女の姿が窺える。さすがに八神家の独り占めとはいかなかったが、会場に出向くよりは何倍もマシだろう。

 視界の端では、シグナムとザフィーラがよさげな場所を見繕っており、また、若干の疲れを見せる颯輔に、ヴィータが団扇で風を送っていた。

 ドン、と太鼓を叩いたような音が空気を震わせる。

 急いで視線を戻してみれば、夜空に光の大輪が咲いていた。結構な距離を来た気がしていたが、会場とはそう遠く離れていないらしい。少なくとも、家から眺めるよりは大きな花火が見えた。

 

「おおー!」

 

 ヴィータの歓声が聞こえる。いや、ヴィータだけではなく、はやても、周りの見物客達も、一様に声を上げていた。

 光の残滓が完全に消えてしまう前に次の花火が上がり、それを皮切りに、次々と色とりどりの花を咲かせていく。咲いては散り、咲いては散りを繰り返す花火が尽きることはなく、夜空を鮮やかに彩っていた。

 花火大会の始まりだ。

 

「さあ、座ってご飯を食べながら見よう」

 

 少しばかり見入っていたところに、颯輔の声がかかった。車椅子が動き始め、前へと進みだす。見れば、目ぼしい場所を見つけたらしいシグナムとザフィーラが、せっせとレジャーシートを広げていた。

 

「屋台を見て回ることはできないけど、それっぽい料理を用意したから、それで勘弁な」

「ええよ、それでも。おおきにな、お兄」

 

 申し訳なさそうに話す颯輔に、はやては満足顔で返した。

 会場に行けないのは確かに残念だが、今はそんなことはどうでもよかった。颯輔が腕を振るってくれただけで、皆と花火を見に来ることができただけで、ただそれだけで、はやては幸せだったのだから。

 

「はやて」

「ん」

 

 両脇を支えられ、颯輔に抱き上げられた。距離が近づき、颯輔の顔が間近に迫る。そのまま体が触れ合い、完全に抱きかかえられる形となった。

 ここまで接触しても、颯輔の顔色には特に変化は見られない。少しだけ化粧をしてもらい、颯輔自身も見違えたと言っていたが、普段と変わらない様子だ。

 シグナムのときは、顔を赤くしていたのに。

 何故だか、胸がチクリと痛んだ。その理由もわからないうちに、レジャーシートに座らせられる。颯輔はそのまま隣に座ると、ザフィーラから夕飯が詰められた容器を受け取り、それぞれの前へと配り始めた。

 

「うわぁ、これ全部、颯輔君が作ったんですか?」

「ああ。会場にある屋台だと、こういうのを売ってるんだよ。まあ、こっちはもう冷めちゃったんだけどね」

「大丈夫だよ、颯輔! 颯輔のご飯は冷めててもギガウマだからな!」

「はは、ありがと」

 

 シャマルにもヴィータにも、笑顔で返している。それはやはり、いつもどおりの笑顔だ。 

 ヴィータの言うとおり、颯輔の作るご飯はおいしい。趣味の一つは料理というだけあって、料理を覚えてからもその腕の研磨には余念がない。料理本を捲りながら、そういえば、最近は面白い料理番組がなくなったよなぁ、と寂しそうにぼやくほどだ。

 焼きそば、フランクフルト、いか焼き、果てにはお好み焼きなど、お祭りには欠かせないらしい料理が所狭しと並ぶ。

 確かに浴衣のレンタルには時間がかかったが、いったいどれほど効率よく動けばこれほどの量を作れるのか。そこそこ長い間颯輔に師事しているが、はやてにはまだ不可能な領域のようだった。

 

「こらヴィータ。先に手を合わせてからだ」

「う、うっせーなシグナム。そんくらいわかってるって」

「まったく、心を込めて作ってくださった颯輔に失礼だと思わんのか」

「まあまあ落ち着いて。さあ、いただきますするぞ」

 

 颯輔の言葉で、少々言い争っていた二人が揃って大人しくなる。シャマルは微笑ましそうに、ザフィーラはやれやれといった雰囲気でその様子を見守っていた。

 特別なことをしているはずなのに、それはどこまでもいつもの光景で。それに気づいて安心感を覚えたはやては、さきほどから感じていた心のモヤモヤが晴れるのを感じた。

 

「手ぇ合わせたね? ほんなら、いただきます」

「「「「「いただきます」」」」」

 

 声を揃えて挨拶をし、各々が箸を伸ばし始める。

 鋭い三日月と大きな花火が、その光景を照らしていた。

 

 

 

 

 夕飯を食べ終えた颯輔達は、それぞれの場所で花火を眺めていた。レジャーシートに座っているのは颯輔にシグナムとザフィーラの三人。子供二人とシャマルは広場の端の方に移動し、少しでも近くで打ちあがる花火を見物している。はしゃいでいる声がここまで聞こえることから鑑みて、あちらはあちらで楽しんでいるようだった。

 苦労して用意した夕飯は、移動時間で冷めてしまったにもかかわらず好評だった。颯輔自身もしばらく行っていない祭りの雰囲気を味わってもらおうと、持てるスキルをフル活用した甲斐があったというものだ。

 特に好評だったのは、クレープ。薄くスライスしたフルーツを自分の好みで盛り付けるスタイルで、少し多目に用意したにもかかわらず、あっという間に完食されてしまった。料理はしてもお菓子作りはあまりしたことのない颯輔だが、また作ってほしいとせがまれるほどだった。

 荷物は増えてしまったが、態々クーラーボックスまで用意していたりと、自分もこの日を楽しみにしていたらしい。

 止まることなく打ちあがっていた花火が見えなくなり、程なくして、今までの倍はあろうかという橙の大輪が花開く。ほんの少しだけ遅れて届いた大音量が、そのスケールを物語っていた。

 四尺玉、というやつだろう。橙の大輪の中に赤青緑の小さな花火が連続で明滅する。最後まで残っていた橙の大輪は円形から形を崩し、火花が流れ星のように地表に向かって消えて行った。

 太鼓を打ち鳴らすように続いていた音がなくなり、辺りに静寂が訪れる。先ほどの四尺玉が大取で、一時間半に及んだ花火大会が終了したのだ。

 

「見事なものでした。あれほど美しいものは、初めて見ましたよ」

 

 喜色を含んだ声は、シグナムのもの。最初は恥ずかしがっていたシグナムもさすがに慣れてしまったのか、今は落ち着いた様子で空を見上げている。どうやら、目に焼き付けた光景を幻視しているようだった。

 

「花火は日本の伝統工芸だから、この世界じゃトップレベルだと思うよ。だけど、意外だな。魔法世界なら、あれくらいのものはいくらでもあると思ってた」

「探せばあるのかとは思います。ですが、少なくとも、私達は見たことがありませんでした」

 

 少しだけ小さくなった声に、颯輔は後悔する。純粋な疑問だったとはいえ、彼女達の過去について、もっとよく考えておくべきだった。

 彼女達は、こうした娯楽とは無縁の世界で生きてきたのだから。

 

「ごめん……」

「謝らないでください。さほど気にしていませんから」

「その通りです。我らも楽しませていただきました」

 

 明るい声を出すシグナムとザフィーラに、ますます申し訳なく感じてしまう。だが、ここで掘り返しては負のスパイラルだと思った颯輔は、話題を逸らそうとバッグを漁った。

 取り出したのは、六枚の正方形。いつかベランダで話していた、星座早見だった。

 

「ほら、これ、この前話した星座早見。こうやって日付と時刻を合わせると、その日の星座がわかるんだ」

 

 努めて明るい声を出し、星座早見を合わせる。シグナムもザフィーラも興味深そうに見ており、話題を戻すつもりはないようだった。

 街の明かりはまだ灯っているが、花火が消えたことで光量は大分減った。快晴の空には宝石箱をひっくり返したかのように星々が瞬いており、星座の観察は十分にできるだろう。

 説明を始めようとしたところで、ザフィーラが「はやて達にも渡してきます」と一言告げ、四枚の星座早見を持って行ってしまう。気を遣っているのか、それとも、ただ純粋な好意なのか、その背中はどことなく上機嫌。おそらく前者だとあたりをつけた颯輔は、余計なことすんな、と内心で毒づいた。

 隣を見れば、星座早見と睨めっこをしては時折首を傾げているシグナムの姿が窺える。何かが馬鹿らしくなった颯輔は、小さく溜息をついて寝転がった。

 

「ほら、横になった方が見易いし疲れないよ」

「は、はい」

 

 少々上ずった声。首元に覗くうなじが妙な色気を放っている。星座早見で顔は隠れているが、耳が赤くなっているのが暗がりでも見えた。

 それらを頭から追い出し、意識を夜空へと飛ばす。星座早見と見比べた颯輔は、天頂の方を指差した。

 

「ほら、あそこ。天頂から少しだけ東側にずれた所に、明るい星が見えるだろ? あれが、こと座のベガ。見つけた?」

「ええと、おそらくは……」

「星座早見の角度はこうね。続けても大丈夫?」

「……はい、お願いします」

「それじゃあ、ベガから北東に見える明るい星が、はくちょう座のデネブ。そこから真っ直ぐ南に降りると、わし座のアルタイルが見える。わかるかな?」

「む…………ん、見つけました。あの三つですか?」

「そうそう。あの三つの星を直線で結ぶと、三角形ができる。これが、夏の大三角形ってやつね」

「なるほど……。流石は颯輔です。星を見つけるのも、それを教えるのも上手い」

「いや、星座早見の力だけどね」

 

 感心したように言うシグナムに笑いを返す。

 シグナムに限らず、彼女達はことあるごとに颯輔を褒めてくるのだから少々性質が悪い。冗談ならばともかく、本気で言っているようなのだから尚更だ。自分が主で彼女達が守護騎士だからというわけでは、おそらくないのだろう。

 颯輔は、何も特別なことなどしていない。もちろん、それ相応の努力はしてきたつもりだが、ただそれだけ。颯輔にできることは、やろうと思えば誰にだってできることなのだ。

 気づかれない程度に声の調子を落とした颯輔は、シグナムへの解説を再開する。夏の大三角形の反対側には、ギリギリの位置に春の大三角形が見られた。

 事前に調べておいたがうろ覚えの星座の物語を披露していると、車輪の音と複数の足音が聞こえてきた。どうやら、はやて達が戻ってきたらしい。

 

「ちょう目離した隙に、お兄とシグナムがいちゃついとる……」

「い、いちゃついてなどおりませんっ!」

 

 薄ら寒さを覚えるはやての声に反応したシグナムが、慌てて距離を離した。意識しないように努めていたはずなのに、それに少しだけ不満を覚えるのだから、自分もよくわからないものだと思う。

 シャマルに抱えられたはやてが颯輔の隣に寝転がり、その反対側、シグナムとの間にヴィータが入り込んだ。シャマルはそのままはやての隣で横になったが、ザフィーラは腰を下ろして後ろ手に体を支えるだけだった。

 ご満悦のヴィータとは違い、どこか不機嫌になったシグナムが抗議の声を上げる。

 

「お、おい、ヴィータ。そこは私の場所だぞ」

「あたしがどこにいようとあたしの勝手だろ? それに、シグナムが場所空けてくれたんじゃねえか」

「べ、別に、空けたつもりはない。少し暑かっただけで……そ、そうだ、颯輔が暑いかと思って少し離れただけだ!」

「じゃあ、あたしが颯輔を扇いでやるから問題ねえな。暑いんならお前一人でそこにいろよ」

「こ、このっ……!」

「シグナム~、ちょう大人しくしよかー?」

「は、はいっ!」

 

 いつもの如くヴィータとじゃれあっていた――と思うことにする――シグナムだったが、はやての鶴の一声を浴びて途端に静かになった。

 ヴィータはシグナムに向かって小さく舌を出してから颯輔を扇ぎ始め、それを見たシグナムが拳をプルプルと震わせている。シャマルはシグナムとは違った意味でガタガタと震えており、ザフィーラは我関せずと言わんばかりに黙って空を見上げていた。

 それらを見てうんうんと満足そうに頷いたはやては、颯輔の手を取って動かし始める。何も言えない颯輔は、はやてのされるがままになっていた。

 

「これでよし、と」

 

 何をしているのかと思えば、颯輔の腕を下に敷いて枕にしてしまうはやて。ニコニコと笑うはやてに少しだけ乾いた笑いを返した颯輔は、黙って夜空に目を戻した。

 

「ほんならお兄、星座の授業の続きよろしく」

「はい……」

 

 いつも通りの声音ながらも何故か強制力を感じさせる声に力なく答えた颯輔は、南の空にへびつかい座を見つけ、十二星座占いだけでなく十三星座占いもあるのだとうんちくを語り始めた。

 花火大会が終わってから減り始めた人影は、もう完全になくなっている。夜の静寂に響くのは、虫のさえずりと颯輔の声。

 なにやら色々とあったものの、来年もまた皆揃ってここに来ようと思う颯輔だった。

 

 



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第十話 家族

 

 

 『湖の騎士』シャマルは、一騎当千揃いのヴォルケンリッターの中では少々毛色が違い、直接的な戦闘能力を持たない後方支援型である。回復に各種ブースト、探知に結界と補助系ならばなんでもござれのバックアップ担当。たった四人しかいないヴォルケンリッターには、欠かすことなど考えられない存在だ。

 永遠のような時間を戦い抜いてきたシャマルだが、今現在はなんと、専業主婦――お手伝いさんともいう――をしている。起動してからの二ヶ月の間に粗方の家事を覚え、複雑な家庭の八神家を支える、欠かすことなど考えられない存在である。

 まあ、料理だけはどうも苦手があり、ときたま味付けでやらかしてしまうのだが。

 ともかく、中丘町では知らぬ人のいない、明るく元気な若奥様(自称)である。

 そんなシャマルは長年連れ添ってきた愛機――クラールヴィントをはめた手を伸ばし、茶色の棒を握った。本日二度目の接触となるそれは、木目調のハンドルである。

 

「すーーー…………はーーー…………」

 

 大きく深呼吸をして胸の動悸を落ち着けたシャマルは、慎重に、恐る恐る、ただし、熱い想いを込めて、ゆっくりとハンドルを回し始めた。

 ハンドルに合わせ、八角形の箱が回転する。ガラガラという音が、静寂で満たされた空間に響き渡った。

 そして――。

 コロン、と出てきたのは、真っ白な玉。一切の穢れも持たないような、純白の玉だった。

 

「ざぁ~んねんッ! はい、こちら景品のポケットティッシュになりまーす!」

「あうぅ………………」

 

 意気消沈したシャマルはがっくりと肩を落とし、もはや顔見知りとなっていた、今日は抽選コーナーを任されたらしい試食コーナーの店員であるおば様からポケットティッシュを受け取る。本日二つ目の戦利品は、またもや同じ品だった。

 もはや涙目になってしまったシャマルは、いっそこの場でこいつを使ってしまおうかと悩み始める。

 

「まだ終わってないだろ、シャマル。ほら、もう一回だけ挑戦できるから、な?」

「そうだよシャマルちゃん、颯輔君の言うとおりさ。おばちゃんも応援してるから、頑張んな!」

「は、はいぃっ!」

 

 颯輔とおば様に励まされたシャマルは、胸の前で両手を握り、震えた声ながらも大きく返事をした。

 さっそく手に入れたポケットティッシュの封を切り、目の端に浮かんだ涙を拭いて、鼻をかむ。最後にパチンと頬を張ったシャマルは、三度目の正直と再びハンドルを握った。

 たっぷりと願いを込め、ハンドルを回し始める。

 シャマルが狙うはたった一つ、このお盆セールの大抽選会の一等賞。それを示す、赤い玉だ。

 千円の買い物毎に一枚だけもらえ、それを五枚集めてやっと挑戦できる福引き。福引券欲しさに買い物をすれば本末転倒、それこそお店の思うツボだと理解しつつも、何とか集めた十五枚の福引券。勝ち取った三回の権利の全てを、単価で百円もしないポケットティッシュになぞ代えてなるものか。

 シャマルは非戦闘要員でもベルカの世界に名を馳せた騎士の一人。

 ここで退いては『湖の騎士』の名折れというもの。

 こんなはずじゃなかった世界を壊してくれた、愛しい愛しい主達の想いに応えるべく、シャマルは今、全身全霊でハンドルを回す。

 ゴクリ、と誰かが生唾を飲む音が聞こえた。

 ガラポンは、ガラガラと音を立てながら回転する。

 そして――。

 コロン、という音が、ガラガラと煩い中でもシャマルにははっきりと聞こえた。

 

「おっ、おめでとうございますっ! 一等賞、一等賞です! 遂に一等賞の、海鳴温泉ペア宿泊券が出ましたーっ! おめでとうございますっ!!」

 

 メガホンを使ったおば様の声が、お盆で賑わう店内に響いた。シャマルと颯輔の後ろに並んでいた客が、割れんばかりの歓声を上げる。大きな祝福の声が、小さな嫉妬の声が、放心しているシャマルの耳に届いた。

 

「おめでとう、シャマル! やったじゃないか、まさか、本当に一等を引き当てるなんて」

「え……?」

 

 シャマルの様子に苦笑する颯輔に促され、ガラポンの台座へと目を向ける。そこには、真っ赤な玉が鎮座していた。シャマルが勝ち取った、一等賞の証である。

 

「や…………」

「ん?」

「やりましたよっ、颯輔君っ!!」

「おわっ!? シャ、シャマルっ!?」

 

 己の勝利をやっとのことで自覚したシャマルは、感極まって颯輔に抱きついてしまう。突然の抱擁と柔らかい感触と甘い香りに惑わされ、颯輔は一瞬にして顔を一等賞の玉の如く染めてしまうが、テンションゲージが振り切れている今のシャマルには制止の声も聞こえていない。

 二人の周囲から、先ほどとは別種の祝福と嫉妬の声が上がった。

 なお、颯輔とシャマルを母親の顔をして見守るおば様が、羨ましそうに颯輔を見る旦那の足を踏みつぶした奥様の姿を視界の端に捉えたのは、まったくの余談である。

 

 

 

 

 お盆にあった奇跡の大逆転から一ヶ月が経ち、完全な人間形態となったザフィーラも加えた八神家一行は、海鳴市の郊外にある温泉旅館『山の宿』へと向かっていた。

 旅館と市街地を往復するバスに揺られる中、ほとんどの乗客がこれから向かう場所を楽しみにしている。窓から覗く山間の景色は美しく、温泉の話に花を咲かせながらも、それらの自然に見惚れていた。

 そんな中、一人だけ青い顔を窓ガラスに映しているのは、風芽丘学園一爆発させたい男こと八神颯輔である。幼少期のトラウマから、颯輔は乗り物酔いが酷いのだ。

 今日も今日とて事前に酔い止めの薬を飲んでいたが、その効果はまったくみられない。うねうねと続く山道が、颯輔の顔をまるで死体のように変化させていた。

 

「颯輔君、大丈夫ですか? 気持ち悪かったら、吐いちゃってもいいんですからね?」

「大丈夫……だと思う……。それに……吐いたら……他のお客さんが……」

 

 弱弱しく返事をする颯輔の背中を擦るのは、回復担当のシャマル。得意の治癒魔法を施せば車酔いの一つや二つは完全回復させる自信はあったが、今この場で魔法を使うわけにはいかなかった。

 シャマル達ヴォルケンリッターには魔法の心得があるが、生憎とこの地球は魔法文化のない世界。八神家以外にも乗客のいるバスの中では、発動時にどうしても魔力光が発生してしまうため魔法は使えないのだ。

 助ける術があるのにそれが使えないとは、なんと不便な世界なのか。

 頭のどこかでそう考えてしまったシャマルは、小さく頭を振ってその思考を追い出した。多少の不便を感じてしまうことはあるものの、シャマル達はこの世界を気に入っているのだから。

 

「旅館のお部屋に入ったらすぐに治療しますから、それまで我慢してくださいね?」

「ああ…………」

 

 小さく頷く颯輔の背中を、シャマルは優しい手つきで擦り続ける。今の自分にできるのは、これが精一杯のことだった。

 こんなことなら、事前に周辺世界を巡って材料を集め、シャマル印の特製酔い止めでも作っておくのだった。

 心底辛そうな顔をする颯輔を見て、シャマルはそう思う。

 大抽選会の激闘の果てに手に入れたこの温泉旅行だが、実は手に入れた瞬間から、いや、狙いをつけた段階から問題があった。宿泊券の利用人数が、たった二人であることである。

 八神家は総勢六人のそこそこ大きな家族。当然ながら、ペア宿泊券では全員で行くことなどできない。シャマル達は颯輔とはやてで行くようにと言ったが、それでは皆に悪いと二人は断ってしまった。

 あまり無駄遣いのできない八神家では、四人分の宿泊費を捻出することも難しい。いっそのこと換金してしまおうという案もあったが、それではあまりに勿体ないと却下されてしまった。提案したのはシャマルだが、引き当てたのもシャマルであるため、正直その却下は少し嬉しかったりもした。

 どうしたものかと悩み始めたところでシグナムが、「金がないなら稼げばいいのではないか」と発言。どうして気づかなかったという思いと、その手があったかという思いが半々のシャマルだった。

 短期アルバイトの募集はお盆前に終わってしまっていたために颯輔は断念。はやてとヴィータは子供であるため論外。はやてのお世話と家事があるためにシャマルは最終手段。というわけで、シグナムとザフィーラが働くこととなった。

 シグナムはその経験を活かして近所の剣道場で非常勤の講師を始め、ザフィーラはその体躯を活かして近場の工事現場でアルバイトを始めた。

 アルバイトのできない四人も、もちろん資金捻出には協力した。颯輔は節約レシピを考え、はやてとシャマルを交えて徹底的な節約術を行使。ヴィータも三人を手伝ったり大好きなアイスを我慢したりと頑張っていた。

 そして、資金捻出の苦行から一ヶ月が経ったシルバーウィーク前にして、ついに目標金額が貯まったのである。ちなみに、一番の功労者はザフィーラだったことをここに記しておく。工事の日程が大幅に短縮されたそうだ。

 しかし、資金面をクリアしてもまだ問題は残る。

 一つは、行き帰りのバスの往復。言わずもがな、颯輔の体調である。もっとも、颯輔を除いたはやて達は不本意であったが、颯輔が我慢をするだけでいいためにこちらは解決。前述のとおり、人目がなくなってしまえばシャマルの力でどうとでもなる。

 もう一つは、はやての車椅子が持ち込めないことであった。

 市街地のバリアフリー化に余念がない海鳴市も、流石に郊外までは目が届かなかったらしい。往復バスはノンステップではなく通常のもの。施設も歴史ある古い建物であるため、段差は建築当時からそのままになっているそうだ。はやてには不便をかけるが、こちらは誰かが常に付き添うということで解決とさせてもらった。

 こうして、様々な問題がクリアされて決行に至った温泉旅行である。颯輔とはやてには散々よくしてもらったが、まさか、こうして旅行を楽しむことになるなど、夢にも思わなかった。

 回復する兆しの見えない颯輔の心配をしつつも、旅館が見えてくるのを今か今かと二つの意味で待ち続け、心躍らせている八神家一行であった。

 

 

 

 

 山の宿が好評である理由には、美容効果の高い温泉の効能、美人女将の丁寧な持て成し、舌を唸らせること間違いなしの絶品料理などが挙げられ、季節毎に別の顔を見せる周囲の景観もそれに含まれる。当然それ相応の宿泊費がかかるため、上流階級のみに許された特権であると言えるだろう。

 下にずり落ち始めた背中のはやてを、できるだけ揺らさないように注意しながら背負い直す。

 宛がわれた部屋でシャマルの治療を受けた颯輔は、皆を連れ立って旅館周囲の散策コースへと繰り出していた。

 生い茂る木々の葉は先端が色着き始め、残暑が厳しい中にも秋の到来を感じさせる。小川のせせらぎが清涼感を届け、また、陽光もあまり届かないため、暑さはほとんど気にならなかった。

 

「のどかでええところやねぇ」

「探検してるみてえで楽しいしな」

「そうだな。街中は昔に比べて発展しちゃったし、他はいくらか緑が残ってるけど、ここまでじゃないからなぁ」

 

 背中と前方から上がった声に、颯輔はしみじみと返した。年寄り染みた発言だが、颯輔は十七歳とまだまだ若い。しかし、ちょうど颯輔世代の成長と共に、海鳴の街も発展してきたのだ。

 海に面した海鳴市はまだある程度の自然が残っているが、そこから内陸へと進んだ遠見市近辺はビルが立ち並んでいる。颯輔達の住む中丘町に暮らす人々の仕事場は、大抵がすぐ隣の遠見市にあったりするのだ。

 

「昔の海鳴市はどのようなところだったのですか?」

「さすがに全体は覚えてないけど、家の周りは結構空き地が多かったかな。ニュータウンってやつで、周りの開発が進んで人が集まってきたんだよ」

「なるほどー。だからご近所には新しいお家が多いんですね?」

「そういうこと。うちの家が建てられたのは最初期だって聞いてるから、周りよりはちょっと古臭く見えるかもしれないね。……そういえば、家族も増えたしリフォームとかも必要だよなぁ」

 

 シグナムとシャマルの問いに答えた颯輔は、ふと思い付いたことを口にした。

 颯輔にはやて、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラと、八神家は総勢六人家族。今現在は、颯輔が二階の一人部屋を、シグナムとシャマルが二階の二人部屋を、はやてとヴィータの二人が共同で一階の一人部屋を使っている。ザフィーラは普段はリビングにいるが、眠る時は颯輔の部屋だ。

 しかし、働くようになったザフィーラは人間形態でいることが増えた。シグナムとシャマルにも、いつまでも相部屋では申し訳ない。本人次第ではあるが、個室も必要になってくるだろう。そうでなくとも、はやてが大きくなったら部屋を分けたいと言い出すかもしれない。リフォーム以外にも対応の仕様はいくらでもあるが、それぞれのプライベートを分ける事は、やはり必要だと考えられる。

 

「リフォームって、そんな、今回の旅行費もギリギリだったんですよ?」

「そうです。それに、我らのためにそこまでせずとも……」

「そうだぜ颯輔。はやてがいいんなら、あたしは今のままでいいよ。いざとなったら、シグナムとシャマルの部屋に転がり込めばいいし」

「ヴィータ、わたしと一緒の部屋嫌なんか……?」

「だ、だからそうじゃないってば! は、はやてぇ、お願いだからそんな目で見ないでくれよぉ……」

「我も特に不便は感じておりません。家では狼形態が常ですから」

「そ、そう? まあ、将来的な話だよ。別に、今すぐどうこうしようってわけじゃない。資金もないし、ちょっと考えてみただけだって」

 

 しかし、提案でもない思い付きの段階で揃って否定されるのだから、甘やかし甲斐がないというか、なんというか。今晩何が食べたいか、という質問に対する何でもいい、という答えに通ずる遣る瀬無さがあった。

 

「実際、皆がそう言ってくれるのは助かってるけど、でも、少しくらい我儘を言ってくれたっていいんだからな? そりゃあ、無茶なお願いは叶えられないけど、少しくらいなら、俺にもできることがあるんだからさ。それからはやて、そろそろヴィータをいじめるのはやめなさい」

「はーい」

「うぅ、颯輔ぇ……」

「おーよしよし」

「ちょっ、やぁっ、お兄っ! 急に離さんといてっ!」

 

 涙目になってしまったヴィータを軽くあやしてから、必死で首にしがみつくはやてを背負い直す。いくら体重の軽いはやてとはいえ、九歳児の細腕が完璧に極まればそれなりに苦しかった。一応、落とさないようにと気をつけていたが、どうやらはやては本気にしてしまったらしく、颯輔の背をポカポカと叩いている。

 話を戻そう。

 ヴィータの場合は「颯輔、このアイス買ってもいい……?」と比較的素直に要望を言ってくれるのだが、他三人に関してはほぼ皆無と言える。

 もっとも、シグナムあたりに「颯輔、この刀が欲しいのですが……」などと言われても困るだけのだが。

 とにかく、彼女達にははやての面倒を見てもらったり生活を支えてもらったりと助けられてばかりなのだ。未だに高校生にすぎない颯輔とはいえ、これでも一応八神家の通帳を預かる立ち場。できる範囲のことはしてやりたい。今回の旅行だって、シグナムとザフィーラがいなかったら成立しなかったのだから。

 

「颯輔こそ、気に病み過ぎなのです」

「私達は、今の生活をすっごく気に入ってるんですよ」

「ですから、これ以上を望むべくもありません」

「だから、そういう所が――」

「では、こうしましょう」

 

 なおも食い下がらない彼女達に颯輔が業を煮やし始めたとき、横合いから正面に回ったシグナムが、すっと立てた人差し指で颯輔の唇を閉じた。

 

「少々汗をかいてしまいました。風呂好きの私としては、音に聞いた温泉を一刻も早く楽しんでみたいと思っています。時間も頃合いですし、そろそろ旅館へ戻りませんか?」

 

 絶句する颯輔。

 口をパクパクとさせるシャマル。

 ヴィータの目を掌で覆うザフィーラ。

 「何だ? どうしたんだよ?」と戸惑うヴィータ。

 そして――

 

「うわぁ、シグナム……その、ええと、大胆やねぇ……」

 

 顔を真っ赤にし、蚊の鳴くような声で呟くはやて。

 木漏れ日に照らされたシグナムは、自分がどんな顔でどんな事をしているのか理解していないのだろう。

 クルリと方向転換した颯輔は、旅館を目指して来た道を戻り始める。その後ろ姿から覗ける耳が紅葉しているように見えるのは、気のせいではないはずだ。シャマルと、ヴィータを連れたザフィーラも、颯輔の後に続いた。

 

「……?」

 

 はて、と首を傾げたシグナムも、了承されたのだろう、とすぐに納得して歩き出す。

 彼女の頭の中は、宣言通りに温泉の事でいっぱいだった。

 

 

 

 

 車椅子利用者という立場上、はやては多くの人の視線を引き付ける。単なる物珍しさであったり、はたまた憐みであったりと、その種類は様々だ。

 しかし、今回はやてに――というよりはやて達に向けられるのは、感嘆であったり羨望であったり嫉妬であったり羞恥であったりと、いつもとは少々毛色が違うようだった。

 

「んふふ、シグナムは相変わらずええおっぱいしとるなぁ。これはお兄がほっとかないでぇ」

「ん、あっ……! い、悪戯が過ぎますよ、はやて!」

 

 はやての小さな手で形を変える柔らかくて大きな乳房は、それはそれは見事な円錐型であった。形状、弾力、どれをとっても申し分ない。同性異性因らずに視線を釘づけにするそれは、まさに理想形――いやさ、芸術と表現しても過言ではないだろう。

 掌を押し返してくる豊かな母性を堪能するはやてと、羞恥に耐えながらもしっかりとはやてを抱きかかえるシグナムは、連休で賑わう浴場の視線を一手に惹きつけていた。

 

「他の客人に見られていますし、何より浴場は危険ですから、ど、どうか大人しくしてください。聞き分けがないようでしたら、颯輔に言いつけることも検討させていただきます」

「はーい。大胆なシグナムでも流石に恥ずかしいか。……でもシグナム? ホンマにお兄に言えるんか?」

「――っ!? そ、それはっ……!」

 

 にこにこと満面の笑みのはやてに対し、シグナムの顔はゆでだこのように赤くなってしまう。浴場に入ったばかりでかけ湯もまだだというのに、上せてしまったような状態だ。肉体的な責め苦は終わったが、今度は精神的な責め苦が始まるらしい。

 

「別に、わたしはお兄に怒られてもええけどね」

「くっ……!」

「あはは、冗談や。謝るからそんな怒らんといて。……でも、今日は一緒の布団で寝よな?」

「……はい」

 

 ほっとしたのと諦めたので、二重の溜息をつくシグナム。今日のはやてはいつも以上にじゃれついてくる。どうやらテンションを表すタコメーターがレッドゾーンを維持しているらしい。

 しかし、無理もない話か、とシグナムは思う。シャマルが旅行券を当てたとハイテンションで帰って来たときから、花火大会以上に楽しみにしていたのだ。自室のカレンダーに射線を引いてカウントダウンしている姿は、見ていて大変微笑ましかった。

 最近多くなった胸部接触も、はやての境遇を考えれば理解できた。物心のつく以前に両親を事故でなくしたのだ。泣き言を一切口にしないはやても、内心では父母の温もりに飢えているのだろう。どんな人物が何の意図をもってこのように自分をデザインしたのかは検討もつかないが、こんなものでも役に立つのだから感謝の念が湧くというものだ。

 ご満悦な様子のはやてを空席のシャワーの前へと運んだシグナムは、丁寧な手つきで髪を洗い始める。

 

「………………」

「私だって……私だってぇ……!」

 

 無言で自身の胸部をペタペタと触るヴィータと、負けず劣らずのはずなのに悔しがるシャマルの姿は、シャンプー中で目を閉じているはやてには映らなかった。

 散策でかいた汗をきれいさっぱり流すと、いよいよ温泉に浸かった。浴槽は檜でできており、小庶民な八神家には縁遠い作りだ。無色透明の熱いお湯が身を包み、日ごろの疲れが染み出していくようだった。

 この温泉の泉質は炭酸水素塩泉。アルカリ性の湯は皮膚の角質に作用し、脂肪分や分泌物を洗い流してしっとりとした肌を作り上げる。所謂、『美人の湯』と呼ばれる代物だ。慢性皮膚病に効き、切り傷や火傷も目立たなくなる。飲用すれば、痛風に慢性胃炎、糖尿病にも効果のある優れもの。市街から遠く離れた郊外にも関わらず、リピーターが多いのにはそういった理由もあった。

 

「んはぁ~、気持ちええねぇ~」

「ええ、まったくです」

「苦労してきた甲斐がありましたねぇ~」

「そうだな~」

 

 ツンケンしていたシャマルも、がっかりしていたヴィータも、湯船に浸かった今はいい具合に蕩けている。海鳴が誇るこの温泉は、悪感情にも効能があるらしかった。

 

「はやてはやて。風呂から上がったら、もうアイス食べてもいいよね?」

「ええよ~」

「よっしゃ! アイス解禁だぜっ!」

「このあとご飯もあるんだから、一個だけよ、ヴィータちゃん?」

「わぁってるよ、うへへー」

「食い意地の汚いやつめ。せめて風呂に入っている間は風呂に集中できんのか」

「風呂に集中するってなんだよ。これだから風呂好きおっぱい魔人は……」

「なぁっ!? お、おっぱっ!?」

 

 バシャン、と水しぶきを立て、浮き輪のようにぷかぷかと浮いていた二つの果実を慌てて隠すシグナム。ぷるんと揺れるをそれを見たヴィータはジト目になり、一度自身の胸に目を向け、続き、隣で浮き続けているシャマルのを見た。

 ぽん、と肩に手を置かれる。視線を上げたヴィータは、サムズアップしているシャマルが目に入った。

 

「大丈夫よ、ヴィータちゃん。あったらあったで問題だけど、ヴィータちゃんにも需要はあると思うわ」

「けっ。持つ者に持たざる者の気持ちがわかって堪るかってんだよ」

「ちょっとくらいわかるわよ。私もおっぱい魔人には負けるもの……」

「なっ、なななな、貴様まで何を言うかっ!」

 

 腕に押さえられ、むにょんむにょんと形を変えるそれを見たヴィータとシャマルは、揃って深い溜息を吐き出す。その反応を受けたシグナムはわなわなと震えるばかり。その所為で余計に揺れるのだから、二人の視線はますます強くなる。見事な堂々巡りがここに完成していた。

 

「こらこら、他にもお客様がおるんやから、こんなところでケンカしたらあかんよ。それに、世の中のおっぱいに悪いおっぱいはない。みんなちがってみんないいんやで」

「だけど……はやては悔しくないのかよ?」

「わたしはええんや。まだまだこれからやもん」

「はやても敵だった……」

 

 同じ子供同士で連合を組めるかと思ったが、和平協定の寸前で裏切りを受けてしまった鉄槌の騎士。機嫌が大暴落したヴィータは、拗ねてぶくぶくと泡ぶくを立て始めるのだった。

 

「まあまあヴィータちゃん、アイス二つまでなら食べても……え? え?」

 

 ヴィータにとっての朗報をもたらしかけたシャマルが、不自然に固まる。どうした、と皆で様子を窺うが、シャマルは顔を青くするばかりだった。

 

「どしたんシャマル? 何かあったんか?」

「い、いえ、何でもないですよ、はやてちゃん。それより私、ちょっと上せちゃったみたいです。先に部屋に戻っていますね。シグナム、あんまり長湯しないで、はやてちゃんとヴィータちゃんをお願いね?」

「あ、ああ」

 

 いまいち事態は掴めないが、とりあえずと返事をするシグナム。「お先に失礼します」と一声かけたシャマルは、いそいそと脱衣所へ向かって行った。

 

「……あ。財布持ってるのシャマルじゃん」

 

 その背中を見送ったヴィータは、今更ながらにアイスが食べられないことに思い至ったのだった。

 

 

 

 

 決して走らないように、それでいて全力の早足で廊下を進んだシャマルは、ようやく目的の場所に辿り着いた。その表情は真っ青で、上せた人間のものとはとても思えない。

 颯輔とザフィーラの部屋の戸を開けたシャマルは、スリッパもろくに揃えもせずに脱ぎ捨て、中へと押し入った。

 

「颯輔君っ!? 大丈夫ですかっ!?」

 

 シャマルの視線の先には、布団に寝かされている颯輔の姿があった。意識はあるようだが、その表情は苦痛に歪んでおり、呻き声を上げながら必死に胸を押さえている。ただ事ではない様子だ。隣に座るザフィーラは治癒魔法の心得がないためにどうすることもできず、タオルで颯輔の脂汗を拭う事しかできていなかった。

 傍に駆け寄ったシャマルはクラールヴィントを起動し、颯輔の身体をスキャンしていく。三角形の中央に剣十字を配したベルカ式の魔法陣が浮かび上がり、漏れる魔力光が室内をミントグリーンに染めた。

 

「いつっ!? いつ颯輔君は倒れたのっ!? どうして救急車を呼ばなかったのよっ!?」

「風呂から上がって寛いでいるときに突然苦しみだして……。皆に心配はかけたくないと言われ、お前にだけ念話を入れた」

「そんな――っ!? 颯輔君っ!?」

 

 ヒステリックを起こしたように叫ぶシャマルの細腕を、弱々しい握力の颯輔の腕が掴む。焦点の合っていない目が、涙を溜めたシャマルの目を捉えた気がした。

 

「ザフィーラは、悪くない……。俺が――」

「今は喋らないでくださいっ! すぐに治しますからっ!」

 

 途切れ途切れに語る颯輔の口を塞ぎ、術式に意識を集中させる。頭部、胸部、腹部、脚部と診ていくが、どこにも異常は見つけられない。

 恐怖と焦りがシャマルの頭を埋め尽くす。それが魔法の構築を乱すと理解していながらも、ぐちゃぐちゃになる感情を抑えきれなかった。

 

「何が、何が原因なの? 身体に異常は見られないのに、こんなにも苦しんでる……普通じゃない病気? と言っても颯輔君は普通の人間で、特別と言ったら保有魔力量が多いくらいで――リンカーコア? ああもうっ、何で早く気が付かないのよっ!!」

 

 肉体的なスキャンから魔法資質を探るものに切り替える。思考がダダ漏れになっているあたりがシャマルの動揺具合を表していたが、己が主の不調を読み取ったクラールヴィントが魔法の制御を受け取りそれをカバーしていた。

 再度全身スキャンを開始したクラールヴィントが、ついに颯輔の異常を見つけ出す。闇の書との同期により、普段は思念通話ができるくらいでほとんど休眠状態にあるはずのリンカーコアが、どういうわけか起動している。それも、最大効率で魔力を生成しているはずのそれは、みるみるうちに反応が弱まっていた。

 もちろん颯輔には何の魔法も使っている様子はない。この苦しみようでは魔法を使う余裕などないし、そもそも前述の通りに大きな魔法は使えない。

 自分からではないとすれば、原因は外部にある。そして、身体への影響を無視した暴力的なこの活動に、シャマルは覚えがあった。それこそ、あり過ぎるくらいにある。

 颯輔のリンカーコアは、まるで、外部から無理矢理に搾取されているかのようで――。

 

「まさかっ!」

「シャマルっ!?」

 

 思い至ったシャマルは部屋の隅に置いてあったキャリーバッグを乱雑にひっくり返し、ぶちまけた中身から小奇麗な紙袋に収められた一冊の本を取り出した。家に残していくわけにはいかないと持ってきた、自分達の核とも言える本。

 その本は、あるいは胎動しているようにも見えた。空腹に怒っているようでいて、満たされるのを喜んでいるようでいて、生まれ出でるのを今か今かと待ち続けているようだった。

 闇の書が生み出した下位プログラムにすぎないシャマルには、どうしてそれが起こっているのかはわからない。今までこんなことは一度もなかったのだ。そもそも、道具が持ち主に牙を向くなど絶対にあってはならない。

 しかし、理屈はわからなくとも何が起こっているのかははっきりと理解できた。

 闇の書が颯輔のリンカーコアを侵食し、喰らい尽くそうとしている。

 

「そんな、どうして……待って……待って待ってお願いやめてっ! わかったから! ちゃんとするからぁっ! 足りないなら私のをあげるからっ……だから……! お願いだから、颯輔君を傷つけないで……!!」

 

 どうしてこんなことが起きているのかを考えるのは後回しだ。こうしている間にも颯輔はリンカーコアを侵され苦しんでいるのだから、それを止めるのが最優先事項。

 闇の書が求めているのはリンカーコア。ならば、颯輔以外のものを与えてやればいい。差し出す餌は、シャマル自身のリンカーコアだ。

 

「クラールヴィント、お願い……!」

《……Ja.》

 

 クラールヴィントをリンゲフォルムからペンダルフォルムへ変形させる。ミントグリーンの魔力紐が繋がった振り子が伸び、シャマルのリンカーコアを摘出した。

 鈍痛が胸に響く中、蒐集させるために闇の書を開こうとして――

 

「……その必要はない」

 

 大きな腕に、闇の書を奪われた。

 

「何のつもりよザフィーラっ!? 早くしないと、今だって颯輔君は苦しんでいるんだからっ! …………いくらあなたでも、邪魔をするなら容赦はしないわよ」

 

 激情が浮かんでいたシャマルの瞳が静まり返り、凍えるような冷気を帯びる。かつてヴォルケンリッターとして恐れられていたときの、その参謀格の目だ。

 卓越した情報収集能力を持ってして敵の穴を見抜き、力を持たずとも策を弄して大軍を壊滅させる、ある意味ではヴォルケンリッターで最も敵に回したくない存在。八神家の温厚でどこか抜けているシャマルではなく、鋭利で冷徹な思考を持つ『湖の騎士』がそこにいた。

 殺意すら宿った視線を向けられたザフィーラは、疲れたように溜息をひとつ吐き、親指で己の胸を指す。

 

「我のリンカーコアを蒐集しろ。参謀格が聞いて呆れるぞ、シャマル。この後必要になるのはお前の力だ。ならば、ここで消えてもいいのは我だ。そうだろう、シャマル?」

「…………」

「わかったのならば急げ」

「……ごめんなさい」

 

 瞳の色を戻したシャマルは短く告げ、再度クラールヴィントに指示を出す。シャマルのリンカーコアを格納したクラールヴィントはその振り子をザフィーラへと伸ばした。ザフィーラの胸から、力強い輝きを放つ群青色の球体が現れる。

 闇の書を受け取ったシャマルはそれを開き、ザフィーラのリンカーコアへと向けた。

 

「何を、して……やめ――」

《Sammlung.》

「ぐっ……!」

 

 朦朧としている颯輔の声を無機質な合成音声が退け、ザフィーラの表情が苦悶に歪む。群青色の球体から細かな粒子が移動し、闇の書へと吸い込まれていった。全頁白紙だったはずのそれに、古代ベルカ語の文字が刻まれる。リンカーコアが縮小するにつれて頁は埋まっていき、そして、それらに比例して颯輔の表情が安らいでいくようだった。

 やがて、一定の速度で進んでいた加筆が終了し、闇の書が閉じられる。ザフィーラの身体が、ぐらりと揺れた。宙に浮かんでいた闇の書を手にしたシャマルが、慌ててそれを支える。

 

「ザフィーラっ! あなた、何で消えずに……大丈夫なのっ!?」

「……大丈夫のようだ、何も問題はない」

「そんなわけないでしょうっ!? いくらあなたでも、蒐集をされたら……」

 

 魔法生命体である守護騎士がリンカーコアの全てを蒐集されれば消え去るのみだが、ザフィーラの駆体は維持されたままだった。

 どうやら、ザフィーラの限界よりも先に闇の書の方が満足してしまったらしい。主が二人になり、守護騎士達の保有魔力量が今までよりも少しばかり増幅していることが上手く働いたのかもしれない。もちろん何か別の原因がある可能性も捨てきれないが、どっちにしろ、今の二人にはわからないことだった。

 

「大丈夫だと言っている……。それより、颯輔を」

「……わかったわ」

 

 強がるザフィーラを壁際に座らせ、颯輔の下へと向かう。侵食が治まったらしい颯輔は極度に疲弊しているようだったが、先ほどまでの苦悶の表情は見られなかった。しかし、その代わりに、今までに見せたことのない厳しい目をシャマルに向けていた。

 

「どうして……」

「誓いを破ったことは謝ります。罰ならばいくらでも受けましょう。ですが、私達には貴方が……颯輔君とはやてちゃんが全てなんです……! あなたが苦しんでいるのに、黙って見ていることなんてできなかった!」

 

 道を見失っていたシグナムに仕えるべき主を見出させてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 心荒んでいたヴィータを笑えるようにまでしてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 口を閉ざすばかりだったザフィーラの心を開いてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 せめて人間らしくと振る舞っていたシャマルを人間扱いしてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 奴隷も同然だった守護騎士達を家族として迎えてくれたのは、颯輔とはやてだけだったのだ。

 ここで颯輔を失ったら、きっと何かが致命的に駄目になってしまう。またあの日々に逆戻りしてしまったら、今度こそ自分達の心は壊れてしまうだろう。これ以上なく兄を慕うはやてだって、嘆き悲しむに決まっている。だから、この温かな陽だまりをどうしても失いたくなかったのだ。

 颯輔の頬に、まだ熱い滴が落ちる。定まらない視界と思考の中でも、シャマルが泣いているのだとわかった。嗚咽を漏らしながら治癒魔法を発動するシャマルを、颯輔にはこれ以上責めることができない。身体に流れ込んでくるシャマルの魔力が、ただただ温かかった。

 

「また泣いて……ほんと、お前はいっつも泣いてばっかりだな……」

「颯輔君……?」

 

 シャマルの耳に微かに届いた声は、心当たりのない言葉だった。確かにシャマルは泣き言も言うし泣き真似もすることはあるが、颯輔の前でそう何度も泣いた覚えはない。朦朧としている颯輔は、シャマルに目を向けているようでいて、そこに誰か別の人物を見ているようだった。

 颯輔の左手が上がり、シャマルの頬へと伸びてくる。しかし、もう少しで触れようとしたところで、颯輔の腕は操っていた糸が切れてしまったかのように下に落ちた。

 

「あれ……? おかしいな、上手く動かせないや…………」

「颯輔君……? 颯輔君っ!」

 

 そのまま動かなくなってしまった颯輔を、シャマルは慌てて揺する。しかし、どうやら颯輔は意識を失ってしまっただけのようだった。

 胸に耳をつけてまで心音を確認したシャマルは、安堵からそのまま颯輔の胸の上で泣き崩れてしまう。

 結局、颯輔は夕食の時間ギリギリまで目を覚まさなかった。疲れて眠ってしまったということにして、はやてとヴィータには真実を伏せたままに、八神家の初めての家族旅行は終了。颯輔の左腕が肩から上に上がらなくなったことを知るのは、颯輔自身とシャマルにザフィーラ、それからシグナムだけである。

 行く先には、これでもかというほどの暗雲が立ち込めている。不安と秘密と緊張を抱えたまま、暦は十月へと進もうとしていた。

 

 



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第十一話 時は待たない

 

 

 いつも通りの日常など脆く儚いもので、幸福はそう長く続かないもので、不幸は何の前触れもなくある日突然やってくるもの。当の昔に理解していたはずのことを、颯輔はすっかり忘れてしまっていたらしい。諺にもあるではないか、二度あることは三度ある、と。

 

「あの、何を言ってるんですか……?」

 

 しっかりと聞こえたはずの言葉を聞き返す。それはただの確認作業にすぎない。耳には届いても頭では理解できなかっただけだ。正確には、理解したくなかったという方が正しい。

 本当は一ヶ月も前から予想できていたこと。だけど目を逸らし続けていたこと。

 いつかこんな日が来ると、心のどこかではわかっていたはずなのだ。今日であるはずがない、まだ大丈夫と言い聞かせ、必死に自分を誤魔化し続けてきた。

 

「……はやてちゃんの麻痺は、ここ数ヶ月で徐々に上へ上へと進んでいるの。このままだと、内臓機能が麻痺してしまう可能性だってある。率直に言ってしまえば、はやてちゃんは命の危険にさらされているのよ」

 

 直接的な表現を付け加えてきた石田の言葉に、颯輔はこれ以上の誤魔化しは無理であると悟った。

 頭が鈍器で殴られたかのように痛い。衝撃で張りぼての壁が崩れ去ってしまったようだ。

 ふらつき倒れそうになる体を知らない誰かに支えられる。いや、知らない誰かではない。一緒に病院まで来たシグナムとシャマルだ。

 颯輔とは違い事前に心構えができていたのか、二人は悲痛な表情を浮かべながらも真っ直ぐに石田を見ている。その強い瞳に少しばかり力を分けてもらった颯輔は、石田へと向き直った。

 

「……冗談でもなんでもないんですよね」

「私がこんな性質の悪い冗談を言うためだけに、あなた達を呼び出したと思っているの?」

「いえ……すみません」

 

 怒っているような厳しい声を出しているのに、石田の表情は今にも泣き出してしまいそうだった。目の下には隈ができており、化粧をしていても隠しきれていない。きっと、石田自身も苦悩していたのだろう。一方的な勘違いでなければ、石田は颯輔達を我が子のように可愛がってくれていたのだから。

 石田の手が伸びてきて、膝の上で震えていた颯輔の手を上からそっと包み込む。

 

「辛いでしょうけど、まずは現実を受け止めなさい。今の颯輔君は一人ではないでしょう? 今までみたいに一人で抱え込む必要はないの。それに、私だってできる限りのことはするつもりよ。私にとってもはやてちゃんは大事な大事な子だから。……だけど、はやてちゃんの病気は非常に難しい。だから、せめて今の状態だけは理解しておいて。ね?」

「はい……」

 

 覇気のない返事しかできなかったが、石田はそれでも引いてくれた。薬の種類を増やしてみる、今までとは違ったアプローチを考えてみる、と今の颯輔にも分かり易いように説明してくれる。

 しかし、颯輔は石田の言葉を聞きながらも頭では別のことを考えていた。

 闇の書は、リンカーコアを蒐集して頁を埋めるものだと聞いている。つまり、リンカーコアとは闇の書の餌なのだ。

 十年。十年だ。十年近くもの間、闇の書は颯輔の傍にあった。それだけあれば、腹を空かせてしまうのは当然のことだろう。わざわざ温泉旅行の最中に颯輔が侵食を受けたのも、偶々その時だったというだけにすぎない。

 あれからはシグナム達の機転で何とか誤魔化しているが、十年もの空腹をどこか他の所でも埋めていたとしても何らおかしな話ではない。その対象が、はやてだったというだけのこと。

 一通りの説明を終えた石田にそれでいいか、と確認されても、颯輔には黙って頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 石田からの説明を聞き終えたシグナムは、力ない足取りの颯輔を支えるようにして診察室を出た。終始無言だったシャマルも、俯きながら後ろをついて来ている。今日病院を訪れたのはこの三人だけで、本来の患者であるはやての姿はない。

 颯輔の携帯に石田から連絡があったのは昨日のことだ。「大切な話があるから、シグナムさんとシャマルさんと一緒に病院まで来てほしい。できれば、はやてちゃんには内緒で」と言われ、買い物に行くと誤魔化して出かけたのだ。

 先日の検査の結果は、半ば予想がついていたもの。一ヶ月前に颯輔にあんなことがあったのだ。戦いに身をおいていないとはいえ、今の今まで何もしないほど平和ボケするつもりはない。とはいえ、やはりショックは大きかったのだが。

 

「……シグナム」

 

 名を呼ばれた瞬間、胸倉を掴まれて廊下の壁に押し付けられた。

 痛くはない。振りほどこうと思えば振りほどける。しかし、シグナムにはこの震える右手を振りほどくことができなかった。颯輔の怒りの矛先が自分に向くのは、至極当然のことなのだから。

 俯く颯輔の表情は窺えない。その向こうには、自分がされたわけでもないのに小さくなって身を震わせているシャマルがいる。神経内科は患者が少ないのか、自分達以外に他の誰かの姿は見られなかった。

 颯輔の口から、今まで聞いたこともないような冷たい声音が聞こえてきた。

 

「……こうなるって、わかってたのか?」

「……予想はついていました」

「どうして教えなかった?」

「確証が持てませんでした」

「原因は闇の書か?」

「はい」

「――っ!!」

 

 颯輔と目が合った。淀んだ瞳に激情の炎を燃やしている。そこに映った自分は何とも情けない顔をしていた。かつてのシグナムならば、絶対にしないであろう表情。それでもベルカの騎士か、と斬り捨ててしまいたかった。

 視線が交差したのは一瞬で、大きく目を見開いた颯輔はシグナムを解放して離れた。ごめん、と短く告げ、空いた拳を固く握りしめている。ただし、その左手だけは軽く握られた程度にしか見えなかった。

 今までの主の姿がちらついてしまったが、やはり颯輔は颯輔のままだったらしい。いっそのこと怒鳴り散らされた方が楽だとも思ったが、実際にそんなことをされれば、弱っている今の自分ではどうなっていたかわからない。場違いにもほどがあるが、優しい主に感謝した。

 

「……この間ので、終わりじゃなかったのか?」

「颯輔だけでなく、はやてもまた闇の書の主です。颯輔ほど成長していない分、闇の書の侵食を強く受けているものと思われます。あの小さなお体では、抑圧された膨大な魔力には耐えきれないのかと」

「あの痛みに、ずっと耐えてきたっていうのかよ……!」

「――っ、ごめんなさいっ! ごめんなさい颯輔君っ! 私が、私がもっと早く気が付いていればこんなことには……!」

 

 絞り出したかのような颯輔の声を受けて、遂にシャマルが泣き崩れてしまった。そんな余裕はないだろうに、颯輔は唇を噛み締めながらも縋りつくシャマルの背をできるだけ優しく撫でている。

 颯輔の腕に抱かれるシャマルが、そして、颯輔からこれだけの感情を引き出せるはやてが、少しだけ羨ましい。シグナムは、こんなときにそう思ってしまう卑しい自分が堪らなく嫌いだった。

 

「……いいよ、もう。シグナム達だって知らなかったんだから。だから……そう、これは俺の所為なんだ。蒐集をするなって言ったのは俺なんだから、全部……全部俺の所為なんだよ。はやてが歩けないのも、はやてが苦しんで――」

「違いますっ!!」

 

 うわ言のように漏れる声を、限界まで張り上げた声で塗り潰した。あまりの声量に窓ガラスがビリビリと震え、さすがに聞きつけてしまったらしい看護師の女性が何事かと駆け寄ってくる。

 自分は救いようのない馬鹿者だと思いながら、シグナムは集まってきた人達と颯輔に頭を下げた。

 

『申し訳ありませんでした。続きは念話で行いましょう』

『俺も変なことを言ったな、ごめん……。歩いて帰りながらでもいいか?』

『はい』

 

 シャマルが落ち着くのを待ってから、病院を出て歩き始める。バスを利用しなかったのは、当然話し合う時間を設けるためだろう。それだけの時間が必要な話題だ。いや、本当はもっともっと時間が必要かもしれない。もっとも、現実にそこまでの時間は残されていないのだが。

 颯輔の足取りは相変わらず重いが、それはシグナムとシャマルにも言えることだった。精神リンクを伝わってくる感情が、颯輔の心の様子を表している。こんな感情は、今まで受け取ったことがなかった。

 

『……はやてが助かる方法はあるのか?』

『闇の書を完成させ、真の主となれば』

『……管理局は、助けてはくれないのか?』

『闇の書を造り出す技術はもはやどの世界にも残されていません。私見ですが、管理局の技術力では不可能かと』

『………………』

 

 沈黙が返ってくる。しかし、シグナム達にはもはやそれしか思いつかなかった。

 治癒魔法に優れるシャマルでも、上位存在である闇の書の影響を取り除くことはできない。できるとすれば闇の書そのものと言ってもいい管制人格である融合騎だが、どちらにせよ、闇の書を完成させなければ彼女を完全起動することはできないのだ。

 闇の書が完成すれば、颯輔やはやてが侵食を受ける事もない。覚醒して魔力制御の術を身につければ、個人の身に余るほど膨大な魔力もしっかりと手綱を握ることができるだろう。

 つまり、これからやるべきことは一つだけ。

 

『結局は、蒐集しろってことかよ……』

 

 吐き捨てるように言った颯輔は立ち止まり、憎たらしいほどの晴れ間を見せる天を仰いでいる。ともすればそれは、この世界に伝わる神仏に祈っているかのようにも見えた。

 秋の風は肌に冷たく、この間までの茹だるような残暑が嘘のよう。しばらく風に打たれていた颯輔は、シグナムとシャマルに視線を戻して小さく言った。

 

「少しだけ……少しだけ、一人で考える時間をくれ」

 

 この状況でも決断できずに迷う、それはもはや優しさではなく弱さだ。しかし、そんな弱さを持つ颯輔だからこそ、シグナムとシャマルは何があっても力になろうと思う事ができた。

 

 

◇ 

 

 

 水の流れる音が耳に届く。

 いつもどおりに振る舞うのがこんなにも難しいと思ったことは、これまでに一度もなかった。

 病院帰りに買い物を済ませて帰った颯輔の様子は、それはそれは酷いものだった。何をするにも心ここにあらずで、話かけられても聞き逃すことが多く、ただ黙って何もない宙を見つめている。シグナム達にはいつもどおりに振る舞うようにと言っておいて、自分ができていないのだから話にならない。

 極めつけは、料理の失敗だった。今日日マンガの世界でも流行らない、砂糖と塩を間違えるという大失態を犯してしまったのだ。おかげで出来上がった大学いもは蜜が塩辛く、とても食べられたものではなかった。シャマルが時折やらかすポカと同じレベルである。

 流石に不審に思ったらしいはやてが、「お兄、スーパーで変な病気でももらってきたん?」と心配したり、「……もしかして、恋の病……? ああ、アカン、それだけはアカンっ!!」などと、こちらが心配になるような発言をしていたほどだ。

 腕まくりをした白い手が横から伸びてきて、上から下へと流れ落ちる水を止めた。ようやくそれに、自分が皿洗いの途中で呆けていたことに気が付く。いったいこれで何度目のミスになるのか、颯輔にはわからなかった。

 

「あとは私がやっておきますから、颯輔君は休んでいてください」

「……ごめん」

 

 いつもと変わらない微笑を向けてくるシャマルが、少しだけ羨ましい。

 あれだけ泣いていたのだから、シャマルだって辛くないわけではないはずなのだ。それでもはやてやヴィータの前では普段通りに振る舞うのだから、やはり、踏んできた場数が違うということか、それとも、こういうときの女性は強いというべきか。どちらにせよ、真似できないな、と颯輔は思った。

 不本意ながらシャマルにあとを任せ、エプロンを脱いで自室へと向かう。その途中、風呂上りのアイスを楽しんでいるヴィータが駆け寄ってきた。ストロベリーのカップアイスを片手に、颯輔を見上げてくる。

 

「颯輔、その……アイス、半分食べる?」

「いや、それはヴィータの分なんだから、ヴィータが全部食べちゃっていいよ。それに、好きだっただろ? ストロベリー」

「うん……。じゃ、じゃあっ、一緒にトランプやろうぜ! もうすぐはやてとシグナムも風呂から上がって来るから、皆で――」

「ごめん、ヴィータ」

 

 ヴィータが言い終わらないうちに、否定の言葉を返す。それを受けたヴィータの笑顔が固まってしまったのを見て、ようやく自分が何をしたのかに思い至った。

 颯輔は踏みにじってしまったのだ。優しいヴィータの気遣いを。

 

「その……ごめん。ちょっと、調子が悪いみたいなんだ。今日は早めに休むことにするよ」

「そっか……うん、なら、しょうがないよな。じゃあ、その……お大事に」

「………………っ」

 

 リビングへと向かうヴィータの背中に、思わず手を伸ばしてしまう。しかし、かけるべき言葉が見つからず、そして、言葉をかける資格もないことに気が付き、その手はただ宙をかいただけだった。

 手を戻した颯輔は、ヴィータがソファに座ったのを認めて廊下へと出る。

 ドアを閉めるときに、リビングに伏せていたザフィーラと一瞬だけ目が合った。ヴィータについた小さな嘘を見咎められているような気がして、思わずドアを閉める手に力が篭ってしまう。バタン、という予想外に大きな音が、静かな八神家に響いた。

 

「……くそ」

 

 小さく自分を罵倒し、階段を昇って二階へと上がる。何かから逃げるようにして、急ぎ足で自室に入った。自分以外に誰もいない空間に入ったことで安堵を覚えてしまったのか、颯輔はドアを背にして座り込んでしまう。そんな自分がどうしようもなく矮小な存在に思えて、所構わず叫び散らしたい気分だった。

 酷い精神状態だ。颯輔の中にいる妙に冷めた目をした颯輔が、自分自身をそう評価する。両親が死んだときも、叔父夫婦が死んだときも、ここまでにはならなかった。両親や育ての親よりも従妹であるはやての方が大事だというのだから、自分も大概親不孝者であると思う。

 

「何で、こんなことになっちゃったんだろうなぁ……」

 

 記憶を辿る。

 今現在どうしてこのような状況になっているのか、それが本来の考えるべきこととは違うにも関わらず、颯輔は過去を振り返る。

 颯輔は極々普通の家庭に生まれた。両親が共働きであったために保育園や託児所で過ごす時間は多かったが、今ではもう、自分は恵まれていた方だと思っている。世の中には日本よりも治安の悪い国などたくさんあるし、家庭では冷めていても両親がいたし、健康な体を持って生まれることができたから。

 それが最初に変わったのは、ある日の遊園地の帰りに事故に遭ってから。

 颯輔は叔父夫婦に引き取られた。母親とは違って専業主婦だった叔母は常に家にいて、その後ろに付いてまわるのが颯輔の日課になった。思い返せば、その頃に妊娠中の叔母を手伝っていたことが、今の家事スキルに繋がっているのかもしれない。調理師の免許を持っていた叔母は料理が上手かったから。

 ほどなくして、はやてが生まれた。

 初めて見た赤ちゃんは皺くちゃで猿のような顔をしていた。思わず、「猿みたい」と口に出してしまい、それまで怒ったことのない叔父からデコピンを頂戴したのを覚えている。直後に叔母が叔父に対して天を衝くほどの怒りを見せたのも、鮮明に覚えている。今でも稀に夢に見るから。

 はやてが笑ったのを覚えている。

 泣いてばかりだったはやてを初めて笑わせたのは、叔父でも叔母でもなく颯輔だった。特別なことをしたわけではない。ただ抱っこをしただけで笑ったのだ。自分の場所を奪われた気がして大嫌いだったはずの妹が、そのときから可愛く思えて仕方がなかったから。

 そして、ある日唐突に叔父と叔母も亡くなった。

 家ではやての面倒を見ていたとき、警察の人から連絡が来た。とある用事から二人で買い物に出かけていた叔父と叔母は、居眠り運転で信号を無視した車に突っ込まれたらしい。相当なスピードが出ていたようで、即死だったと後から聞いた。忘れられないのは、その日が颯輔の十二歳の誕生日だったから。

 ギル・グレアムと知り合った。

 二人別々で施設に預けられそうになったとき、叔父の友人を名乗る異邦人が現れた。名前をギル・グレアム。叔父の友人にしては年配で、洋画に出てくる偉い人のような髭を生やした人。身寄りのない颯輔とはやてを引き取り、短い間だったが一緒に暮らした。まったく知らない人でも上手くやっていけた――グレアムの飼い猫達とは上手くいかなかったが――のは、何故か安心を覚えたから。

 はやてがよく泣くようになった。

 生活費の管理などを覚えた頃、グレアムは仕事が忙しくなったと祖国に戻った。その頃からはやては夜泣きをするようになった。父さんはどこ、母さんがおらん、と。寝付いたと思ったら突然泣き始め、泣き疲れて眠る。眠ったと思ったらまた泣き始める、の繰り返し。これには颯輔も散々悩まされた。ところが、しばらくしたある日からまったく泣かなくなる。きっと、我慢の限界を迎えた颯輔が遂に怒鳴ってしまったから。

 シグナム達が現れた。

 突然現れた四人は、自分達を主を守る騎士だと言った。最初は不審に思ったが、不器用な生き方しか知らない四人組に誰かを重ねてしまい、迎え入れた。いちいちこちらの様子を窺ってくるところなど、本当によく似ている。はやてが上辺だけでなく心の底から笑えるようになったのも、きっと彼女達のおかげだろう。それまでのはやては、笑いはしても楽しそうにはしていなかったから。

 楽しかった。

 

――本当に?

 

 家族が増えて嬉しかった。

 

――心から?

 

 あの日の選択は、決して間違えていなかったはずなのだ。

 

――絶対に?

 

 金色の反射光が目に入る。何かと思えば、机の上に置いてあった闇の書だった。カーテンの開いた窓から差し込む大きな満月の光を、表紙の装飾が反射している。

 家の中を飛び廻るという非常識な本だが、慣れてしまえばそれなりに愛嬌を感じる。はやてなど、ペットのように可愛がっていたほどだ。しかし、あの日から恐ろしくなって、せめて、はやての元には近づけまいと颯輔の自室に置いていた。

 ようやく立ち上がった颯輔はのろのろと机に歩み寄り、椅子を引いて座った。

 

「なぁ、お前はどうして俺のところに来たんだよ……」

 

 触れた闇の書のカバーはひんやりと冷たい。意図せず、掴む右手に力が入った。

 

「どうしてはやてまで主に選んだんだよ……。俺一人で十分だったじゃないか……」

 

 もしも、颯輔が叔父と叔母に引き取られなければ。

 もしも、あの日に遊園地に行かなければ。

 もしも、闇の書が颯輔を主に選ばなければ。

 

「お前さえいなければ……俺達は、今まで通りに生きていられたはずなんだ……!」 

 

 あるいは叔父と叔母に引き取られていなければ、はやては主に選ばれなかったかもしれない。

 あるいはあの日に遊園地に行かなければ、両親も死なずに済んだかもしれない。

 せめて闇の書が颯輔の前に現れなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 そう、闇の書さえ存在していなければ――。

 どす黒い感情が颯輔を支配する。

 おもむろに開いた頁には、何も記されていない。例え全頁捲ったとしても、白紙だということしかわからないだろう。万が一にはやてやヴィータが本を開いた場合を考えて、シャマルが隠蔽工作を施し、そう見えるようにしているのだから。

 体感で握力が半分に落ちた左手で支える。反対側を持った右手に、ありったけの力を込めて――

 

「……颯輔?」

 

 引き裂こうとしたところで、廊下からの声に手を放した。

 声の主は、先ほど振り払ってしまったヴィータだった。

 

「……どうした、ヴィータ?」

 

 鼓動がうるさい。いつもどおりの声は、出せたと思う。颯輔の耳に、階段を昇る足音は届かなかった。それだけ考え込んでいたということらしい。ヴィータが颯輔の独り言を聞いてしまったのかどうかは、判断がつかなかった。

 ドアノブが回る気配はなかったが、ドア越しにいくらかくぐもったヴィータの声はそのまま続いた。

 

「その……大丈夫、颯輔?」

「うん。横になってたら大分楽になったよ」

「そっか。なら、よかった……」

「うん……」

「あのさ、颯輔」

「……何?」

「その、上手く言えないけど……颯輔が困ったときは、いつでも言ってね。あたしは颯輔の味方だし、だから、颯輔が苦しんでるとこなんて、見たくないからさ」

「………………」

「あたしだって守護騎士の一人なんだ。温泉行ったときから何か変だったのは、ちゃんとわかってる。シグナム達とも長い付き合いだからな、何か隠してんだなーってのは、薄々感づいてた」

「………………」

「颯輔が、何か抱え込んでんのはわかった。あ、別に、話したくないなら話さなくてもいいんだ。『男の子には秘密があるのよ』ってシャマルも言ってたしな。……だけど、もしあたしでも力になれることなんだったら、話してくれると嬉しいなーって。ただ、そんだけ」

「………………」

「下でまだトランプしてるから、颯輔もやりたくなったら来てね。……あ、調子悪いんだっけ。ごめん、えっと、治ったら、また一緒にトランプやろうね。……それじゃ」

 

 ヴィータの足音が遠ざかっていく。今度は、階段を降りる音がしっかりと聞こえてきた。

 ヴィータの足音が聞こえなくなったところで、颯輔は握りっ放しにしていた闇の書を閉じて机の上に戻す。ぐしゃぐしゃと頭をかき、そのまま肘を支えにして頭を抱え込んだ。

 

「何をしようとしてたんだよ、お前は……」

 

 自分に向かって吐き捨てる。

 闇の書がなかったら、守護騎士達は颯輔達の前に現れなかったのだ。闇の書を否定することは、今の温かい家族をも否定することになってしまう。颯輔には、それだけは決してできなかった。

 そして何より、闇の書は主の命と繋がっている。引き裂かれたところで破壊されたことになるかはわからないが、先ほどの行動は、自ら命を絶とうとしていたようなものだ。それも、自分だけでなく、はやての命までも奪おうとしていた。それでは無理心中も同然ではないか。ヴィータが来なければ、いったいどうなっていたことか。

 

「問題は、蒐集を『させる』か、『させない』かだろうが……」

 

 過去を振り返ってばかりでは、未来を考えることなどできはしない。過去を変えることなどできはしないのだから、未来のことを考えるべきなのだ。

 やるべきことはわからないが、どうしたいかは決まっている。颯輔自身、それはわかっているのだが、どうしても覚悟ができなかった。

 

「本当に、情けない……」

 

 小さく呟き、立ち上がる。

 今の精神状態では、どのみち真面な思考をすることができない。ドロドロと心に絡みつく暗い感情を洗い流すべく、颯輔は風呂場へと向かうのだった。

 

 

 

 

 ドライヤーの音が止み、戸を開閉する音が聞こえる。続いて階段を昇る音が聞こえるかと思いきや、足音はこちらへと近づいてきて、リビングのドアが開いた。そこに立っていたのは、先ほどまで風呂に入っていた颯輔だった。

 今日は一日中様子のおかしかった颯輔だが、今はいくらか疲れたような顔をしているくらいで、普段と変わらないようにも見える。少なくとも、はやてには元の兄に戻ったように見えた。

 颯輔とザフィーラを除いた皆でしていたトランプも止め、寝る準備を終えていたはやての方へと、颯輔がゆっくりと近づいて来る。

 

「はやて、偶には、一緒に寝ないか?」

「…………え?」

 

 一瞬、我が耳を疑った。

 シグナム達が現れて以来、はやては颯輔とは別のベッドで眠っていた。正確には、眠らされていた、だが。風呂も一緒に入ることはなくなったし、嫌われてしまったのかとも思ったほどだ。何でも、年頃の女の子がいつまでも兄貴と一緒ではどうたらこうたら、という理由らしい。十歳にもならないのに年頃なのかはわからなかったが、それ以外はいつもどおりであったため、とりあえず、嫌われたわけではないらしいと理解したはやてはそれを受け入れていた。

 

「ダメか?」

「う、ぇ、いや、ダメやないけど……」

 

 視線を合わせてくる颯輔から顔を逸らす。心と連動した頬が緩んでしまうのを止められなかったからだ。

 ヴィータ達がいたとはいえ、密かにお兄成分の不足に頭を悩ませていたはやてである。どのような心境の変化があったかはわからないが、颯輔の提案は非常に魅力的であった。

 ただ、今日はヴィータと二人で寝ようと事前に話していたわけで。

 

「はやてが嫌なら、別にいいけど……」

「いっ、嫌やないっ! お兄と一緒に寝たいっ!!」

 

 ふと悲しげな顔をした颯輔を見て、思わず叫んでいた。

 目を点にした颯輔を見て、急に恥ずかしくなったはやては顔を伏せてしまう。いつも颯輔に甘え、また、同時に甘やかされてきたはやても、今のように声を大にして訴えたことはなかった。久しぶりに颯輔と共にベッドに入るということで、緊張してしまっているのかもしれない。

 

「颯輔、あたしも――」

「ヴィータちゃん、今日は一緒に二階で寝ましょうか」

 

 はやてが必死に鼓動を落ちつけようとしている最中、ヴィータが颯輔にアタックを仕掛けようとしていたが、言い終わる前にシャマルによってインターセプトを受けていた。

 

「え? でも――」

「行くぞ、ヴィータ」

「お、おい、ちょっとま――」

「お休みなさい、颯輔君、はやてちゃん」

「お先に失礼します」

 

 結局、伝えたいことも伝えられぬまま、ヴィータはシグナムとシャマルにより引きずられるようにして廊下へと消えてしまう。

 ドアが閉まる前に涙目のヴィータと目が合ったが、はやては合掌をして目を閉じてしまった。颯輔にヴィータと三人で眠るのもやぶさかではないのだが、せっかく颯輔から誘われたのだから、偶には二人っきりで眠りたい。

 はやて~っ、と恨みがましい念話がはやてに届いたが、それに返信することはなかった。明日はヴィータの好物を作って機嫌を取ろう、と決意するはやてである。

 

「もう歯は磨いたのか?」

「うん。トイレにも行ったで」

「そっか」

 

 頷いて返すと、車椅子を押されて寝室へと入った。嬉しさのあまりに颯輔の首へと両手を回して抱き着き、軽く抱き返されてベッドへと寝かされる。必要以上の力を込めない颯輔の優しい手つきが、はやての胸を幸せで一杯にした。

 颯輔もベッドに入ってきて、布団をかけられる。隣に並んだ颯輔の顔を見たはやては、嬉しくも疑問に思ったことを尋ねてみた。

 

「お兄、急にどうしたん? 最近、一緒に寝るのはお昼寝のときだけやったのに」

「まあ、偶にはいいかなって思ってさ」

「ひょっとして、寂しかった?」

「はは、そうかもな」

「ふ、ふーん……そかそか」

 

 にへらっ、と口角が上がってしまう。

 電気は消えているので颯輔には見えないだろうが、はやてはだらしなくなってしまう表情を抑えるのに必死だった。颯輔は冗談で言っているのかもしれないが、それでも嬉しかったのだ。二人きりの時間が減ってしまったことに、少なからず寂しさを感じてしまっていたから。

 そんなはやての気持ちを知ってか知らずか、布団の中を颯輔の手が伸びてきた。はやてのお腹の上で止まったそれは、一定のリズムを刻み始める。幼い頃、はやてが寝付けなかったときにしてくれていたものだった。

 

「なんや、昔みたいにして。別に、魘されてなんてあらへんよ?」

「うん、まあ、そうなんだけど」

「ふふ、変なお兄」

 

 小さな頃からされていたためか、颯輔にそうされるとどんなに眼が冴えていても瞼が重くなってくるのだから不思議なものだ。小さく笑ってから目を閉じたはやては、微睡に身を任せて意識を手放していく。

 

「お休み、はやて」

「ん……」

 

 颯輔から伝わる温もりが、しばらくしてはやてを夢の世界へと誘った。

 

「……ごめんな」

 

 だからだろう。安心して眠りについたはやてに颯輔の呟きは聞こえず、また、そっとベッドを抜け出したことにも気が付かなかった。

 

 

 

 

 腹部に抱き着き嗚咽を漏らす赤毛の少女を、まだ大丈夫、と安心させるように、そして、自分の口から真実を伝えられなかったことを謝罪するかのように撫でつける。ごめん、と口に出して謝ってみるも、少女は頭を横に振って泣き声を上げるばかりだった。

 風呂から上がってリビングへ足を運んだ颯輔は、シグナムとシャマルに念話を送り、これまで伏せていた全てのことをヴィータに話しておいてほしい、と頼んでいたのである。はやてが寝付いてから、念のために結界を張ってもらったリビングに皆を集めたというわけだ。

 

「ごめんな、ヴィータ。今まで黙ってて……」

「っ、いいよっ、颯輔はっ、何にもっ、悪くねえんだからっ」

 

 途切れ途切れに返してくるヴィータの頭を右手で撫で、背中を左手で軽く叩く。

 守護騎士のうちヴィータにだけ秘密にしていたのは、見た目が幼い少女である彼女に辛い現実を見せたくなかったから。そして、純粋無垢なヴィータの笑顔を曇らせたくなかったから。

 

(……違うな。本当は、怖くて自分でも認めたくなかったんだ……)

 

 ここまで来ても自分を誤魔化す自分が本当に情けない。シグナムとシャマルに説明を頼んだのも、自分からヴィータに話す勇気がなかったからだ。その証拠に、はやてにはこれまでのこともこれからのことも話さないつもりでいるのだから。

 本当に、救いようのない臆病者だ。

 

「颯輔、答えは決まりましたか?」

「……ああ」

 

 いつにも増して真剣な目を向けてくるシグナムに短く答える。腕の中で、小さな体がビクリと震えたのがわかった。

 見渡せば、シグナムにシャマル、そしてザフィーラの顔が窺える。誰もが硬い表情をしていたが、それは最初に見たあの無感情なものではなく、沈痛な思いを携えたものだった。

 シグナム達の表情を見て、少しだけ決心が鈍る。颯輔はこれから、彼女達に罪を犯せと言うつもりなのだから。それはつまり、颯輔自身も犯罪者になってしまうということ。自分が罪を被ることもそうだが、何よりも、彼女達に平穏を約束しておいて自らそれを壊してしまうことが辛かった。

 一つ深呼吸をした颯輔は、腹に力を入れて覚悟を決める。この言葉だけは、颯輔の口から言わなければならない。それが、闇の書の主としての最低限の責。

 

「……リンカーコアを蒐集して、闇の書を完成させてください。そして、俺達を――はやての命を助けてください。お願いします……!」

 

 深く、深く頭を下げた。本当なら膝をついて頼みたいところだったが、生憎とヴィータを抱えているため、そこまではできない。

 しかし、言質は取らせた。これでもう後戻りはできない。引き返してしまえば、そこに待っているのは望まぬ『死』だけだ。例え罪を犯そうとも、生き残る道があるのならば生きていたい。そして、生きていてほしい。

 

《《Anfang.》》

 

 返事の代わりに、機械の音声が颯輔の耳に届いた。続いて、ラベンダーにミントグリーン、群青色の三色の光が颯輔を照らす。それは、彼女達の魔力光。すなわち、決して来ることのないと思っていた万が一がやって来たのだ。

 

「どうか、お顔を上げてください」

「もしも『蒐集はするな』と言われても、きっと私達は黙ってこの方法を選んでいましたから」

「颯輔達には生きていて欲しい。それが、我らの願いです」

 

 颯輔は顔を上げる。そこにいるのは、それぞれの甲冑を纏ったシグナム達。ベルカの世界に名を馳せた、一騎当千の騎士達だった。

 甲冑というよりも戦装束と表現した方が近いそれは、颯輔とはやてがデザインしたものだ。鎧で固めるよりも動き易さを重視し、それぞれの魔力光に合わせた色を基調としている。ファンタジーに登場する剣士に僧侶、武道家のような装いだった。

 

「ヴィータ、お前はどうする? いつまでも泣いているつもりか?」

「…………あたしも行くに決まってんだろ」

 

 シグナムに促されて颯輔から離れたヴィータは、涙を拭ってグラーフアイゼンを突きだした。

 

「起きろ、アイゼン」

《Anfang.》

 

 ヴィータの体を紅の魔力光が包み込み、騎士にしては可愛らしいゴシックドレスが現れた。帽子にはトレードマークののろいうさぎが縫い付けられている、はやてが考えた騎士甲冑。待機状態だったグラーフアイゼンも起動しており、基本形態であるハンマーフォルムを取っていた。

 騎士の姿となったヴィータは、赤く目を腫らしながらも颯輔へと向き直った。

 

「颯輔とはやては、あたし達が必ず助けてみせる。だから……だから颯輔は、安心してここで待っててくれ」

 

 目の端に再び涙を溜めながらも笑って見せたヴィータに、颯輔は小さく頷くことしかできなかった。

 戦う力を持たない颯輔には、戦いの場でできることなど何一つない。もう一人の妹のような少女を、そして、大切な家族を送り出し、その帰りをただじっと待つことしかできないのだ。

 

「……それでは、行って参ります」

「朝までには戻りますから、ゆっくり休んでいてくださいね」

 

 ベランダへと出た四人の足元に、転送用の魔法陣が浮かび上がる。深紫の輝きの中心に浮かぶのは、八神家の始まりで終わりにもなるかもしれない闇の書だった。

 

「みんな、気を付けて。……危なくなったら逃げてもいいから、疲れたら休んでもいいから、お願いだから、怪我だけはしないで無事に帰ってきてくれ」

 

 本来なら言うべきではない言葉を、シグナム達の顔を見据えて一人一人にかける。自分がシグナム達に危険なことをさせるのだとわかっていても、それでも、彼女達には無事に戻って来てほしかった。

 颯輔の言葉を受けたシグナム達は、力強く頷いてから飛び立っていく。大きな満月が見下ろす夜空に、四色の流星が昇っていった。

 光の尾が完全に消えても、颯輔はその軌跡を見つめている。その頬に吹き付ける風は冷たく、冬の足音が間近に迫ってきているようだった。

 自責の念に囚われ、空を見上げている颯輔は気が付かない。遠くから自分を見つめる、一匹の猫がいたことに。

 

 



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第十二話 雲は動く

 

 

 地球から遠く離れたとある世界に、四色の流星が降り注ぐ。ラベンダーに紅、ミントグリーンに群青色のそれらは魔力光。転移魔法の光だった。

 音もなく地表に降り立ったのは、騎士甲冑を身に着けた四人の男女。シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラ――すなわち、闇の書の守護騎士達である。

 

「ここか……」

「見るからに暑そーなとこだな……」

 

 転移が完了した瞬間、素早く己の武器を構えて周辺を警戒したシグナムとヴィータは、それぞれの感想を漏らした。シャマルが転移先に指定した世界は、灼熱の世界だった。

 視界に緑が入ってこない、草木が枯れ果て死んだ土地。ゴツゴツとした岩石がそこら中に転がっている、陸戦には不向きな足場。大小様々の山がそびえており、水飴のように粘性のあるマグマを噴出している。すぐ傍を流れるマグマ流に誤って突っ込もうものなら、絶命は必須だろう。

 所々から濃い火山ガスが噴き出していることもあって、地球の生物などはとても暮らしてはいけない環境だが、シグナム達はその限りではない。プログラム体であることも理由として挙げられるが、一番は、その身に纏う騎士甲冑の存在だろう。魔力によって構成されたそれは魔法攻撃や物理的衝撃を緩和するだけでなく、温度変化や大気状態への対応も可能なのだ。

 

「シャマル、この世界でよいのか?」

「ええ。この世界に住んでいるのは魔法生物だけよ。管理外世界だから、管理局の目も届かないはずだわ」

 

 ザフィーラの問いかけに、シャマルは魔法で周囲の状況を探りながら答えた。その腕には、闇の書が抱えられている。

 颯輔に蒐集を願われたのはつい先ほどのことだが、実は、蒐集の算段はすでについていた。

 『魔導師や騎士との交戦は避け、できうる限り魔法生物からリンカーコアを蒐集する』

 人間からリンカーコアを奪えば、その話はほぼ必ず管理局の耳に届いてしまう。管理外世界の人間から奪ったり、蒐集対象に口封じを施せばその可能性は薄くなるかもしれないが、しかし、そちらの方法は取れない。

 まず、管理外世界は基本的に魔法文明のない世界であり、その中からリンカーコアを保持している人物を捜し出すには多くの手間がかかるため、非効率的なのである。

 また、口封じを施す方法でも、本人からではなく周囲の人間から漏れる可能性があり、完全に痕跡を消すことができないためだ。そもそも以前のシグナム達ならばいざ知らず、今のシグナム達には倫理的にも『口封じ』はできなくなっている。颯輔やはやての未来を考えれば、それは尚更のことだ。

 そこで目をつけたのが、リンカーコアを持つ動物。魔導師や騎士に比べれば一度の蒐集頁数は劣るが、管理外世界にも生息していることのあるそれらを対象にした方が、足はつき難いのである。つまり、質より量というわけだ。

 当然、魔法生物からの蒐集も違法にはなるのだろうが、人間を対象にするよりかは罪が軽くて済む。個体数の多い危険指定生物であれば、或いは罪に問われないかもしれない。

 それらの理由から、蒐集対象は魔法生物ということに決めていた。颯輔とはやてが闇の書に侵食されているとわかった、一ヶ月も前からだ。

 つまり、颯輔が蒐集を許すにしろ許さないにしろ、シグナム達は蒐集をするつもりだったのである。騎士の誓いにより蒐集は禁じられていたが、今のシグナム達にとっては、騎士の誇りよりも家族の命の方が大切なのだ。

 要するに、当初はヴィータを除いた三人で行うつもりであったことが、四人揃って効率が上がったというだけのことなのである。

 無論、犯した罪は何らかの形で償おうとは考えている。管理局が捕えるというのであれば、大人しくそれに従うつもりだ。ただし、それは全てが終わってからの話だが。

 ほどなくして、クラールヴィントが四人に近づいて来る生物の反応を捉えた。速度はそれなりに速い。地球感覚で表せば、高速道路を走る自動車程度だろうか。

 

「大型の魔法生物が一体、上空から接近中。魔力量は……それほどでもないわね。肩慣らしには丁度いいと思うわ。まずは四人で一体、確実に仕留めましょう」

「わかった。……本当なら、こういうのはもうねえと思ってたんだけどな」

「確かに、な。しかし、最早これより他に方法はあるまい。こんなことは一刻も早く終わらせて、いつもの暮らしに戻るとしよう」

「はっ……そうだな」

 

 ヴィータは、戦闘狂が珍しいこと言うじゃねえか、というからかいの言葉を思い付いても口に出すことはなかった。シグナムの言うとおりだと思ったからだ。それは、シグナムとヴィータだけでなく、シャマルとザフィーラも同様に思っている本心であった。

 早く全てを終わらせて、あの温かな陽だまりに戻るのだ。

 やがて、大気を切り裂く音が四人の耳に微かに届いた。シグナムとヴィータが武器を構えて前に進み、二人とシャマルの間に人間形態のザフィーラが立つ。主戦力であるシグナムとヴィータがアタッカーを務め、防御魔法に優れるザフィーラが攻撃を封じ、シャマルが状況に応じてサポートをするための陣形である。

 

「……来るぞ」

 

 狼である故に最も五感の優れるザフィーラが呟いたとき、それは、黒雲を割って現れた。

 蜥蜴、或いは蛇のような頭部に、体の左右に開かれた大きな翼。太い足の先には猛禽類のような鉤爪が伸びており、長い尻尾の先端には攻撃手段の一つであろう棘が突き出ている。全身が硬そうな赤い鱗で覆われており、その全長は二十メートルにも及ぶだろう。

 大空を舞うその生物は、一匹の飛竜。おおよその生物を捕食するであろう、自然界の強者。『空の王者』と呼ぶに相応しい、雄々しき姿。神話の中の生物が、この世界には生息していた。

 

「グオオォォォォッッ!!」

 

 近づいてきた飛竜の黄色い目がシグナム達の姿を捕え、咆哮を上げる。彼我の間には未だ十分な距離があるにもかかわらず、大気の震えがこちらにまで伝わってきた。

 

「行くぞ……!」

 

 炎の魔剣――レヴァンティンを構えたシグナムが、相手を見据えて短く告げる。

 今ここに、戦端が開かれた。

 

 

 

 

「やるぞ、グラーフアイゼンッ!」

《Schwalbefliegen.》

 

 初手を預かったのは、右手でグラーフアイゼンを振り上げたヴィータ。声高らかに謡ったヴィータの前に、二列に並んだ計八つの鉄球が現れる。重力に反して浮遊しているのは、飛翔の効果が付与されているためだ。

 三角形の中央に剣十字を配した紅の魔法陣が、ヴィータの足元に輝く。誘導制御型の射撃魔法、シュヴァルベフリーゲン。近接戦を主眼に置くベルカ式では珍しい魔法だが、牽制には持って来いの一手である。

 

「うッ、らぁッ!」

 

 ハンマーを左に振り、すぐさま右に返し、鉄球を四つずつ打ち出す。ヴィータの意のままに高速で動く鉄の兵士達は、紅の尾を引きながら真っ直ぐに飛竜へと殺到した。

 接触の瞬間、展開されている不可視の魔力障壁によって僅かに減速するも、鉄球は容易くそれを食い破った。ヴィータとグラーフアイゼンによるバリア貫通効果の前では、あの程度の障壁などあってないに等しい。着弾と同時に炸裂した鉄球は、鱗を砕いて肉に突き刺さった。

 しかし、あの巨体にしてみれば与えられたダメージは軽微。相対速度や付与魔力量から考えると、砕けた鱗がどれほどの硬度を持っていたのかがわかる。飛竜は僅かに体勢を崩した程度で、力強い羽ばたき一つですぐに立て直してしまった。

 我が身を傷つけられたことに怒りを覚えたのか、飛竜は時折火が漏れていた口を大きく開いた。唾液でてらてらと輝く肉食動物特有の鋭牙が見え、暗いはずの喉の奥が赤熱して照らされる。

 飛竜の体内で生成された魔力が、火球となって撃ち出された。紅蓮の炎はそこいらのマグマに比べれば温度は低いだろうが、直撃を受ければ焼き尽くされることに違いはないだろう。

 迫る火球に対し、シグナムとヴィータの前に出たのはザフィーラであった。

 

「通さんッ!」

 

 身の丈ほどもある火球を、展開した群青色の防壁で受け止める。そして、それに障壁破壊の術式を加え、右の拳を叩きつけて魔力を打ち返した。盾の守護獣の名に相応しい、鉄壁の構えからのカウンター技だ。渦巻く防壁から、群青色の衝撃波が発生した。

 衝撃波に追随するようにして飛び立ち、迫る飛竜を迎え撃つはシグナム。レヴァンティンを肩に担ぐようにして両手で構え、生成した魔力を身体に廻らせて肉体を強化する。

 肉体を強化した上での近接戦は、ベルカ式魔法の基礎にして神髄。守護騎士の中では随一の魔力を持つシグナムがそれを行うからこそ、初歩の初歩でしかないそれは至高の一手へと昇華される。狙うは、障壁破壊からの一撃だ。

 しかし、射撃魔法より速度の遅い衝撃波を、黙って受けるような飛竜ではなかった。

 翼の角度を調節し、風を受けて急上昇。ザフィーラの放った衝撃波は、飛竜を掠めるに終わってしまう。そして、迫るシグナムを視点を上げることにより発見した飛竜は、柔らかい腹部を晒しながらも棘の生えた尻尾で撃墜に出た。

 

「――ッ」

 

 だがしかし、高速機動による斬り合いを得意とするシグナムには、飛竜の動きなど止まって見えていた。肩に溜めていたレヴァンティンを腰の横まで下げる。尻尾の軌道を先読みしたシグナムはそれをかわし、横薙ぎの剣閃を放った。

 

「ぜあぁぁッ!」

 

 気合一閃。豊富な魔力により強化された一撃は、風切り音すら置き去りにして振り抜かれた。神速の剣閃はしかし、シグナムの腕に微かな抵抗しか与えていない。

 残心をとるシグナムに遅れ、破砕音と絶叫が上がった。飛竜の障壁は木端微塵に砕け散り、長いはず尻尾は半ばの切断面から血を噴出していたのだ。飛竜は戸惑いと激痛に叫ぶばかりで、飛行速度を極端に落としている。切断された尻尾は、マグマの川に飲まれて消えるところだった。

 

『シグナム、離れて。大きいのを撃つわよ』

 

 そして、生まれた大きな隙をむざむざ見逃すような守護騎士達ではない。

 念話を受けたシグナムは、空中を平行移動して射線から外れた。その間に視線を地表に落として確認すると、ミントグリーンの魔力光が窺える。そこにはすでに、術式の起動を終えて飛竜に狙いをつけるシャマルがいた。

 後方支援型のシャマルには、直接的な戦闘力はない。しかしそれは、シグナム達のように近接戦ができないというだけであって、攻撃手段を持たないということではないのだ。

 

「風よ――」

《Bösertornado.》

 

 シャマルがかざした両手から荒れ狂う竜巻が伸び、飛竜の巨体を丸ごと飲み込んだ。無数の風刃が鱗を削ぎ落とし、体表を切り刻んでいく。体の中では特に柔らかい部位である翼膜が引き裂け、飛行手段を失った飛竜は、地表へ向けて落下していった。

 シャマルが発動したベーザートルナードは、ベルカ式魔法が近接戦闘に特化し始める以前にあった砲撃魔法の一つだ。魔力を疾風に変換しているため、純粋砲撃に比べると面制圧力は劣ってしまうが、その威力までもが劣ることは決してない。

 やがて、十トンを軽く超えるであろう巨体が地表に衝突し、地震が起こったかのような揺れが生じた。あまりの衝撃に、飛竜の傷口という傷口から体液が噴き出す。

 血を失い、満身創痍である飛竜だが、重い体を引きずり起こし、丸太のような足で一歩を踏み出した。その一歩に、またもや大地が揺れる。その死に体を突き動かしているのは、怒りだ。例えこの先に死を悟ろうとも、我が身を傷つけた下手人だけは喰い殺す。その執念だけで、倒れこむようにしながらも前へ前へと歩を進めているのだ。

 しかし、獲物を狙う狩人達に慈悲はなかった。或いは、糧にするべく手に掛けた以上、最後まで貫き通すのがせめてもの敬意だったのかもしれない。

 シャマルの砲撃に合わせ、飛竜の落下地点を目指して進んでいた二つの影があった。頭部を挟み込むようにして接近するのは、ヴィータとザフィーラだ。得物であるハンマーと拳を引き絞り、そして――

 

「でりゃああああッ!」

「おおおおッ!」

 

 数瞬のタイミングをずらし、飛竜の頭部を打ち叩いた。

 左右からの凄まじい衝撃は飛竜の脳髄を揺らしに揺らし、その平衡感覚を奪い去る。それどころか、鱗と頭蓋骨で一際防御の堅かったはずの頭部は、左右が完全に陥没していた。

 明らかに致命傷を負っている。だが、竜種故の生命力の高さが、飛竜にまだ活動することを許していた。せめて一撃を、と灼熱の炎を吐き出そうとしたところで――

 

「悪いが、そこまでだ」

 

 上空から急降下してきたシグナムが、飛竜の頭部にレヴァンティンを突き立てた。切っ先は鱗も頭蓋骨をも貫通し、上顎と下顎を串刺しにして固い大地に縫い止める。

 行き場をなくした魔力は飛竜の体内で暴発し、内側の柔らかい肉を蹂躙した。ビクン、と大きく体を震わせた飛竜は、今度こそ大地に崩れ落ちた。

 飛竜が動かなくなり、その目から光が消える。それを確認したシグナムはレヴァンティンを引き抜き、刀身に付着した体液を払い落として鞘に納めた。返り血を浴びてはいなかったが、周囲に撒き散らされた体液による異臭が鼻をつく。

 久方振りの連携で勝利したというのに、浮かない顔をしているヴィータとザフィーラ。その傍にシグナムが降り立つと、丁度、闇の書を携えたシャマルも飛んできたところだった。常日頃から明るいはずのシャマルも、今は険しい顔をしている。そして、それはシグナムにも言えることであった。

 

「……闇の書、蒐集を」

《Sammlung.》

 

 シャマルの命に応じ、闇の書は白紙の頁を開く。飛竜の体から赤く光る球体が現れ、闇の書へと吸い込まれていった。

 古代ベルカの文字が刻まれ、頁が埋められていく。一頁、二頁、三頁と進んだところで蒐集は完了し、闇の書はその身を閉じた。

 

「ちっ、たった三頁ぽっちか……」

「この程度の相手では仕方がなかろう。蒐集はいくらか進んでいるが、これからは地道に数を稼ぐしかないな」

 

 少ない戦果に気を落とすヴィータの頭を、シグナムが帽子の上からくしゃくしゃと撫でつけた。

 シグナム達が狩った飛竜種は、この世界の食物連鎖ピラミッドでは限りなく頂点に近い位置に存在している。それは当然、飛竜の敵となりうる生物がほとんど存在しなかったためだ。

 しかし、リンカーコアを持つ魔法生物は、種族としての強さと保有魔力量に比例関係を持たない場合が多い。今回の飛竜に関して言えば、魔法よりもその強靭な体躯を活かした強さを誇っていたのだ。

 つまりは、飛竜とは正反対に、身体は貧弱に見えても凶悪なまでの魔法資質を持つ生物も存在するということ。そういった生物から蒐集すれば、魔法資質に見合った頁数を稼ぐことができるだろう。

 もっとも、どちらかと言えば魔法資質に優れる生物の方が厄介な相手である場合が多く、シグナム達にしてみれば、最終的な労力は同程度となるだろう。ローリスクローリターンか、ハイリスクハイリターンの違いでしかない。

 

「血の臭いを嗅ぎつけたようだな……」

 

 ずれた帽子を被り直したヴィータは、ザフィーラの言葉を受けて上空を見やる。そこには、同じ種族と思われる飛竜のシルエットが四つほど確認できた。

 同朋の敵討ちに来たのか、それとも、食物の少なさそうなこの世界では例え同種族であっても糧でしかないのか、どちらかは分からない。ただ分かるのは、新たに標的を捜す手間が省けたということだけだ。

 

「私とヴィータで一体ずつ相手をしよう。ザフィーラはシャマルを守りながら――」

「いいえ、その必要はないわ」

 

 シグナムの作戦を、庇われる形となるはずだったシャマル自ら否定した。

 

「一人一体で十分よ。あの程度なら、私一人でも相手にできる」

「……無茶はするなよ?」

「分かってるわ。颯輔君のお願いだもの、それを無視するわけがないでしょう?」

「……そうだな」

 

 シャマルの強い意志の宿った瞳を見て、シグナムはそれを受け入れた。

 シャマルの言うとおり、シグナム達にとって先ほどの飛竜は決して強い相手とは言えなかった。この世界では頂点に近くとも、次元世界規模で見れば矮小な存在でしかない。それはつまり、ヴォルケンリッターの敵ではないということ。中堅レベルの魔導師の方が、まだ脅威に感じられるほどだ。

 肩慣らしは終えた。いざとなれば、自分が援護に回ればいいだけの話だ。

 そう結論を出したシグナムは、レヴァンティンの柄に触れながら標的を睨みつける。

 飛来する標的を迎え撃つべく、四人は地を蹴り空へと上がった。

 

 

 

 

 次元世界の法を司る機関を、時空管理局という。魔法文明が発達して世界間の移動が可能になると、それに伴って魔法を使った犯罪が増加した。時空管理局は、それを取り締まるために発足したのである。

 その在り方を有体にいってしまえば、地球でいう軍隊と警察と裁判所を一つにまとめた組織。権力の集中には様々な問題点が挙げられるが、しかし、次元世界という限りなく広い『世界』を守るためには止む無しの措置だった。本局と現場での情報共有のタイムラグが、取り返しのつかない事態を引き起こしかねないためである。

 例えば、世界の消滅。極端な例ではあるが、行き過ぎた技術の結果がそれとなるケースは少なくない。そして、世界を消滅を引き起こした産物を、ロストロギアと呼ぶ。

 危険な思想を持つ犯罪者がロストロギアに目をつけるのは道理である。時空管理局の主目的は、ロストロギアが悪用する者の手に渡る前に確保し、封印ないし破壊する事といっても過言ではない。

 時空管理局の本局は、次元の海に浮かんでいる。都市クラスの施設を内包しており、管理局の本拠地とそこで働く局員およびその家族の居住区が一体となっている、巨大コロニーである。

 そんな本局施設の一室に執務室を構えるのは、管理局の官職を務めるギル・グレアム。嘱託魔導師、本局執務官、次元航行艦提督、艦隊司令官、執務官長と務め、現在は顧問官として席を置いている管理局の重鎮だ。管理外世界の出身でありながらそれほどの役職に就けたのは、彼の持つ魔法資質の高さとそれに比例して積み上げてきた実績があるからに他ならない。

 グレアムが仕事の合間を見つけ、送られてきた手紙に目を通していると、執務室の扉を叩く音が聞こえてきた。手紙をデスクの引き出しに仕舞い、どうぞ、と短く告げる。扉を開けたのは、よく似た容姿の二人の女性だった。

 グレーの髪に碧眼、黒衣の制服兼バリアジャケット。特筆すべきは、頭部に生えた猫耳と歩みに合わせえてゆらゆらと揺れる尻尾であろう。違いと言えば、髪の長さと纏う雰囲気程度しかない。ショートカットの女性は少々猫背気味で飄々としているように見え、ロングヘアーの女性は背筋が伸びていて真面目なように見える。

 彼女達は、外見のとおりに人間ではない。猫を素体とした双子の使い魔。グレアムを主とする、リーゼロッテにリーゼアリアの姉妹である。

 

「ただいま戻りました、父様」

「報告があります」

 

 グレアムの前に立った二人が、背筋を正して言葉を紡ぐ。リーゼロッテが普段のものではなく事務的な口調を使ったことに、グレアムは二人の報告が正規の仕事のモノではないと感づいた。

 グレアムが気を引き締めてから黙って頷くと、二人は短くアイコンタクトを取る。先に口を開いたのは、管理外世界に赴いていたリーゼアリアの方であった。

 

「守護騎士達が蒐集活動を始めました。八神颯輔が転移するのを見送っていたことから、彼は蒐集に関与しているようです。八神はやてがどちらかは、まだ判断ができません」

「そうか……」

 

 グレアムは小さく返し、深い息を吐く。

 そういった話はまったく聞いていなかったが、どうやら、あちらにはその兆候が出ていたらしい。もっとも、こちらがこういった事情を抱えていることは当然知らせていないため、彼がグレアムに相談することなどないだろうが。八神颯輔と八神はやての二人にとって、ギル・グレアムはただの保護責任者でしかないのである。

 ようやく進展を見せた事態に、グレアムは思考を巡らせる。

 闇の書の頁数は六百六十六。これから蒐集を始めるのならば、どれだけ早くても最低一ヶ月はかかるだろう。これから報告が上がるであろう魔導師や魔法生物の襲撃事件の頻度を調べることで、そのペースはおおよその検討がつくはずだ。問題は、それまでにこちらの準備が間に合うかどうか。

 

「ロッテ、デバイスの方はどうなっている?」

「基礎フレームはようやく完成。残りはシステム面の調整かな? モノがモノだけど、グランツ君ならちゃんと仕上げてくれるはずだよ。テストもしたいから、そのうち父様も顔を出してほしいって」

 

 グレアムの計画のカギを握るのは、闇の書対策として考え出した魔法とそれを行使するためのデバイスだ。一般にはまだ公開されていない、管理局の魔法技術の全てをつぎ込んだハイエンドモデルである。

 ピーキーな性能を誇るが故にここまで漕ぎつけるのには紆余曲折があったが、報告どおりならば、闇の書の完成よりも早く仕上がるだろう。開発者は凝り性な男ではあるが、納期を逃すような不誠実な男ではない。

 

「わかった。後ほど私からも連絡を入れておこう」

 

 デバイスの心配がいらないのであれば、あとは場を整えるだけである。幸い、グレアムはどの部署にも顔が利くほどには高い地位にある。理由も正当なもので、上の後押しもあるとなれば、理想の状態で事にあたることも難しくはないはずだ。

 懸念すべき事柄は、イレギュラーな事態が起こらないかどうか。

 此度の闇の書の主は二人と、すでに今までとの違いが出ている。主の魔法資質に応じて能力の上がり下がりがある守護騎士は、間違いなく以前よりも手強い存在となっているだろう。まだ対処の仕様はあるが、その時を前にしてこれ以上のイレギュラーは避けたいところである。

 

「ロッテとアリアは引き続き監視を続けてほしい。気付かれるのは拙いが、できれば、闇の書の蒐集頁数を把握してもらえるとありがたい。事件の対策チームは、私の方で手配しておこう」

「「はい、父様」」

 

 ギル・グレアムの目的は、第一級捜索指定遺失物――ロストロギア『闇の書』の永久封印。例え罪を犯すことになろうとも、不幸の連鎖はここで断ち切ってみせる。闇の書に関わって涙を流す者を、これ以上増やしてはならないのだ。

 グレアムは、膝の上に置いた拳を固く握り締める。脳裏に浮かぶのは、先ほどまで読んでいた手紙とそれに添付されていた笑顔溢れる家族の集合写真。

 目的のためならば、自分の心などいくらでも殺してみせよう。グレアムの覚悟は、決して砕けない。

 

 

 

 

 誰かの声がする。不意に耳に届いた声を聞き届け、はやては目を覚ました。

 

「ん……? な、何や、ここ……?」

 

 そこは、何もない空間だった。光がなく、空がなく、大地がなく、只々暗い、闇に閉ざされた空間。灯りのない街に夜の帳が下りたような、そんな世界。

 自分の体は目に入る。服装は、ベッドに入ったときのパジャマのままだ。しかし、自分の体が視認できるだけで、他には何も見えない。はやての心を不安と恐怖が満たしていく。

 

「…………さい、……め…………――」

 

 声が聞こえた。小さな声。すすり泣いているような声。どこかで聞いたことがあるような、女の人の声だ。

 暗い感情を胸の奥に押しやり、勇気を振り絞って辺りを見渡す。微かな声に耳を澄まして暗闇に目を凝らすと、そこに、一人の女性の姿を見つけた。

 絹糸のように輝く細い銀の長髪に、シグナム達が最初に着ていたような黒い薄手のワンピース。両の手で顔を覆っており、その表情を窺うことはできない。しかし、肩を震わせて嗚咽を漏らしていることから、彼女が泣き声の主だとわかった。

 

「どうしたん……?」

「――っ!?」

 

 気が付けば、はやてはその女性に声をかけていた。どうしてそうしたかは、わからない。ただ、彼女には泣いてほしくないと思ったのだ。

 はやての声に、女性がはっと顔を上げる。涙に濡れ、驚きに呆けているその顔はしかし、はやてが今までに出会った女性の中で最も美しかった。

 張りのある白い肌に、整った顔立ち。一際目を引くのは、紅玉のような瞳だろう。潤んだその瞳は光を閉じ込め輝き、見ているだけで吸い込まれそうな感覚に囚われる。神々しくもどこか儚い、そんな美しさ。

 そして、その強く触れれば消えてしまいそうな儚さは、はやての良く知る人物に似ていて――。

 

「こ、これは、主はやて、大変見苦しいところをお見せしてしまいました。申し訳ございません」

 

 呆けた顔から一転、表情を引き締めた女性は、涙を拭って居住まいを正した。片膝を着き、頭を垂れて臣下の礼を取る。しかし、その涙はまだ止まっていないようで、慌てたように手の甲で目元を擦っていた。

 その対応の仕方と『主はやて』という呼び名に、はやては懐かしいものを感じた。それは、現れた当初のシグナム達の反応だ。着ている衣服も似通っていることから、彼女も闇の書の関係者なのだと当たりをつける。

 シグナム達の仲間なら、放ってはおけない。

 そんな想いが、はやての中の不安と恐怖に打ち勝った。どうにか彼女に近づこうともがいてみるが、しかし、ここには移動手段である車椅子も、そもそも地面すらないことに気が付いた。

 ならば、どうして自分はここに浮いていられるのか。

 疑問が頭に浮かんだ直後、柔らかく、温かな感覚に包まれる。

 銀髪が頬を撫でる。見上げれば、女性の顔がすぐ目の前にあった。頬を流れる涙はまだ止まっていない。はやては手を伸ばし、その頬にそっと触れた。

 

「おおきに。でも、どうして泣いてたん? 嫌なこととか、悲しいことでもあったんか?」

「いえ……。主はやてが気に掛けるようなことではございませんよ」

「む……。ほんなら、泣いてたらあかんよ。せっかく綺麗な顔しとるんやから、美人さんが台無しや」

「そのとおりですね、申し訳ございません……」

 

 涙を流しながらも、彼女は困ったように笑ってみせた。

 困らせたかったわけではない。ただ泣き止んでほしかっただけなのだ。止まらない涙をパジャマの袖で拭い取りながら、はやては必死に話題を考えた。

 

「いけません、お召し物が汚れてしまいます」

「ええのええの。このくらい、何も問題なしや。それより、あなたの名前は? どうしてこんなとこにおるん?」

「名前、ですか? 私は夜天の――……いえ、今は闇の書でしたね。私は闇の書の管制融合騎にございます。ここは、闇の書の中といったところでしょうか。私はずっとここにいて、主はやてが訪ねてきたのですよ」

「かんせいゆうごうき? うーん、なんや難しい名前やね。それに、ここが闇の書の中? 確かに真っ暗やけど……。こんな暗いとこにおって、寂しゅうない?」

「いえ、闇の書を通して外の様子を知ることもできますから。それに、時折こうして貴女や主颯輔にお会いすることもできます」

「え? わたし、あなたに会ったことあるん? それに、お兄も?」

 

 女性はそう言うが、はやての記憶の限りでは彼女にあったことなどないはずである。このように一目見ただけで心奪われるような美人ならば、忘れるはずがない。そして、この女性は八神家のおっぱい魔人ことシグナムにも劣らない胸部の持ち主なのだ。なおさら、はやてが覚えていないなどありえない。

 はやての問いに、女性は表情に少し影を作った。

 

「ええ、主はやてにお会いするのはこれが初めてではありません。主颯輔とも、何度かここで語らいました。ただ、私は未だに起動してはおりませんので、貴女方が私との邂逅を記憶に留めることはできないのです。そうですね、これは一時の夢とでも思っていただければ」

「でも、あなたはちゃんと覚えとるんやろ? そんなことって……」

 

 自分は相手のことを覚えているが、相手は自分のことを忘れてしまっている。それは、とてもとても悲しいことではないか。少なくとも、はやてならばそんなことは嫌だった。大切な人に忘れ去られるなど、そのような残酷な仕打ちには耐えられそうにない。

 俯くはやての頭に、少々冷たい手が触れる。しかし、そっと髪を梳いていくその手つきは、どこまでも優しくて。

 

「どうか、ご心配なさらず。及ばずながら、私はここで、貴女とあの方と守護騎士達を見守っておりましょう。ただそれだけでも、私にとっては過ぎた幸福なのです……」

 

 それに、私など、貴女方と出会うべきではなかった。

 注意していなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さな声で、彼女はぽつりと呟いた。涙はいつのまにか止まっている。しかし、はやてにはその顔が泣いている時よりも余程悲しんでいるように見えた。

 

「待って、それ、どういう――っ!?」

 

 問いただそうとしたはやての体を、淡い光が包んでいく。光が強くなるにつれ、次第に周りの世界が歪んでいった。思わずしがみ付こうとした女性の体も、はやての透けていく腕ではすり抜けてしまう。

 伸ばした腕を支えられるように、彼女の掌と触れ合った。

 

「どうやら、お時間のようです」

「そんな――待って、ちょう待ってっ!」

「また眠りに戻るだけです。怖がらずともよいのですよ」

「そんなんちゃうっ! 怖がってなんかないっ! わたしは、わたしは――!」

 

 手が離れ、彼女の顔が遠くなっていく。泣いてばかりだったはずの彼女は、慈しむような微笑みを浮かべていた。

 自身の存在が薄れていくのを感じ取りながら、はやては必死に手を伸ばす。まだ、彼女とは話したいことがある。伝えたいことが、伝えなければならないことがあるはずなのだ。

 

「わたし、あなたのこと忘れへんからっ! 絶対覚えとくからっ! ――そやっ、名前! 次会うまでに、可愛らしい名前考えとくから、だから、だから――…………」

 

 視界が白く染まる。

 はやての意識は、急速に閉じていった。

 

 



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第十三話 再会

 

 

 12月2日午前6時。霜が降りて寒さが頬を刺すまだ薄暗い朝の道を、ダッフルコートを着込んだ少女が息を弾ませながら駆けていた。黒いリボンでツインテールに結わえた髪と首から下げた紅玉のペンダントが、走りに合わせて揺れている。朝早い時間とあってか、時折ペットを連れて散歩をする人にすれ違う程度で、少女の他にはほとんど人気がなかった。

 少女の名前は高町なのは。私立聖祥大付属小学校に通う、少しばかり普通とは違う秘密を持つ小学三年生である。

 

「――っ、はぁっ、はぁっ……! レイジングハート、時間、まだ大丈夫だよねっ?」

《Don't worry. There are 30 minutes till the time of waiting.(心配ありません。予定の時刻まで、まだ30分もありますよ。)》

 

 なのはの問いかけに答えたのは、彼女の胸の辺りで忙しく揺れていた紅玉。人工知能を有した魔法の杖、ミッドチルダ式魔導師が扱うインテリジェントデバイス――レイジングハートである。

 そう、高町なのはの秘密とは、魔法を使えるということなのだ。

 極々平凡な少女だったはずのなのはが魔法の存在を知ったのは、今年の春のこと。一人の少年との出会い――出会った当初はフェレットの姿だった――が、なのはを魔法の世界へと導いた。

 地球の魔力素との適合不良を起こして行動不能になった少年に代わり、海鳴市の近辺に散らばってしまったロストロギアを回収する。それがなのはの魔導師としての第一歩だった。

 次元干渉型エネルギー結晶体、ジュエルシード。下手に刺激を与えれば次元震を引き起こし、世界を崩壊させてしまうほどの危険物。そのような代物を集めるのだから、その過程には多くの困難があった。

 お化けのようなジュエルシードの異相体と戦った。怪物へと変貌した動物と戦った。街を危険に晒してしまったこともあった。そして、一人の少女と出逢い――何度も何度もぶつかり合った。

 

「そ、そんなにっ!? ……でも、行こう、レイジングハートっ!」

《All right. Let's go, my master!》

 

 時間には十分に余裕があるにもかかわらず、今すぐ飛んで行きたい衝動を堪え、なのはは懸命に足を前に出す。目指すは海鳴臨海公園。あの日に大切な友達と別れた場所だ。

 思い返せば、なのはと少女が出逢ったのは、限りなく偶然に近い必然だったのだろう。

 最初の出逢いは、なのはの親友の家の敷地内だった。邸宅近辺でジュエルシードが発動し、その影響を受けた子猫が巨大化してしまったのだ。発動状態のジュエルシードを封印するためその場に向かい、そして、鮮やかな雷光を見た。

 第97管理外世界『地球』に住む歴とした地球人であるなのはには、魔法の心得など当然なかった。故に、生粋の魔導師である少女に敗れてしまったのは必然であろう。風になびく金髪と、どこか物悲しさを秘めた赤い瞳を視界に収めながら、なのはは少女の雷撃によって撃墜されてしまったのだ。

 それからも、少女とはジュエルシードを巡って衝突した。温泉地で、街中で、海辺の公園で、そして、臨海公園で。

 今度は負けないように、しっかりと役に立てるようにと魔法の練習にも励み、なのはは本来花開くことのなかったはずの才能を開花させた。天性のそれで少女とも渡り合えるようになったが、同時に気になることもあった。

 どうして、ジュエルシードを集めているのか。

 どうして、身を犠牲にしてまで集めるのか。

 どうして、そんなに淋しい目をしているのか。

 疑問が募る中でも、事態は進んでいく。そのうちになのはは時空管理局に協力することとなり、そのバックアップを受け、順調にジュエルシードの封印を進めることができた。

 そして、その過程でなのはは自分の本当の気持ちに気が付く。ひょっとしたら、自分と同じ境遇にあるのかもしれない少女と『分け合いたい』ことに。友達に、なりたいことに。

 しかし、現実は残酷だった。

 降り注ぐ轟雷。明かされる真実。すれ違う想い。少女の出生の秘密。その全てが、こんなはずではないことばかりだった。

 後にジュエルシード事件――あるいはPT事件――と名付けられる一連の騒動の背景にあったのは、狂おしいまでの愛情。過去に起こった悲しい出来事が、全ての始まりだったのだ。

 全てを知った上で、なのはは杖を手に取り立ち上がった。傷ついた少女を救うために、そして、この事件にケリをつけるために。

 最終決戦の地に待っていたのは、意思を持たない機械の人形達。数が多く、熾烈な攻撃を仕掛けてくる敵になのはは苦戦を強いられる。しかし、その窮地を救ったのは、他ならぬもう一人の魔法少女だった。

 悲しい別れが待っていたものの、なのはは少女と心を通わすことができた。しかし、事件が終われば管理局は本拠地へと引き上げることになる。それはつまり、管理外世界の住人であるなのはと、管理世界の住人――延いては事件を起こした身である少女との別れを意味していた。

 出逢いの春が終わり、そして、約半年の月日が流れて冬が訪れた。

 

「――っはぁ、はぁっ、はぁっ……」

 

 階段を駆け上がったなのはは、膝に手をつき乱れた呼吸を整える。海から吹き付ける冷たい冬の風が、火照った体に心地よかった。

 

「なのは……!」

 

 耳に心地いい声が届く。弾かれたように顔を上げたなのはは、風になびく金の長髪と濡れた赤い瞳を見つけた。そのツインテールの髪を結っているのは、あの日に交換した白いリボン。

 

「――フェイトちゃんっ!」

 

 海から迫り出す朝日を受け、綺麗な髪から金の粒子を振り撒いているように見える少女の名前は、フェイト・テスタロッサ。半年に及んだ裁判を終え、海鳴の街に帰って来た、もう一人の魔法少女。高町なのはにとって、掛け替えのない大切な友達。

 どちらともなく駆け出し、抱き合った二人の少女は、再会の約束をここに果たした。

 

 

 

 

 新暦65年12月2日。時空管理局は、とある事件に緊張を高めていた。それは、約10年周期で起こる一種の災害のようなもの。管理世界、管理外世界を問わずに甚大な被害を齎し、大抵はある一定の期間が過ぎると終息に向かうのだ。

 実は、それらの事件はその全てがとある一つのロストロギアによって齎される。第一級捜索指定遺失物――ロストロギア『闇の書』。原因となるロストロギアの名を借り、その事件の名を『闇の書事件』と呼ぶ。

 前回の事件は、今から11年前に起こった。対応の任に当たったのは、当時次元航行艦提督を務めていたギル・グレアム。自身の高い魔法資質もさることながら、優秀な使い魔達との連携は、管理局史上最強の攻撃オプションと謳われるほどの魔導師である。

 グレアムは、『歴戦の勇士』の呼び名に相応しい成果を上げた。計四隻の艦船を指揮し、被害の削減と闇の書の主の捜索に尽力。優秀な部下達の協力も相まって、闇の書の完成前に主の身柄を確保することに成功する。

 唯一誤算だったのは、闇の書の抵抗力が想定以上に強かったことだろう。厳重に重ね掛けしたはずの封印が破られ、護送中の艦船のコントロールを奪われてしまったのだ。

 しかし、グレアムは部下に恵まれていた。その艦船の提督を務めていた局員の男性は、自分以外の乗組員を脱出させると、自身は最後まで艦に残って闇の書に抵抗した。グレアムは一人の優秀な管理局員と引き換えに、『闇の書事件』に終止符を打つ。多少の犠牲は出してしまったものの、それは、これまでの事件に比べれば目を見張るほどに少ないものだった。

 しかし、11年の時が経った現在、闇の書は再び活動を始めたのである。

 時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンは報告書の山を空間投影型ディスプレイに映し出し、それに忙しく目を通していた。

 事の起こりは今から一ヶ月ほど前、とある管理外世界の魔法生物が何者かに狩猟されたことが始まりだった。魔法生物はその後の活動が困難なほどに痛めつけられており――中には死んでいる個体もあった――、そのいずれもが、とあるものを奪われていた。大気中の魔力素を吸収して魔力を生み出す、リンカーコアだ。

 これまでの『闇の書事件』の全てに共通していることは、襲撃された人間、あるいは魔法生物から、リンカーコアを通して魔力が奪われていること。闇の書が有する機能の一つ、魔力蒐集による結果である。

 一月前の事件から報告に挙がった同種の事件の数は、今では50件に迫る勢いだ。蒐集された個体数で言えば、未確認のものを含めれば200体近くにも及ぶだろう。被害に遭った生物のことごとくが蒐集を受けた形跡があるために、管理局はこの一連の事件を『闇の書事件』の始まりであると断定したのである。

 しかし、『闇の書事件』にしては不可解な点もあった。これまでは人間魔法生物見境なしだったのだが、今回被害を受けているのは魔法生物のみなのである。もちろん、実際には人間も被害を受けており、今はまだ発覚していないだけという可能性も捨てきれはしない。だが、少なくとも現段階では報告に挙がっていないことも事実である。事の重大さに比べれば些細な違いでしかないのかもしれないが、クロノは、この小さな差異がなにか大きな意味を持っているような気がしてならなかった。

 

「おっ、いたいた! クロノ君、今時間大丈夫ー? 艦長達が捜してたよ?」

 

 本局の資料室にて頭を悩ませていたクロノの耳に、自動ドアの開く音と場違いなほどに能天気で明るい声が入ってきた。軽い溜息とともに思考を中断して振り返ったクロノの視線の先には、クロノの補佐官を務め、学生時代からの友人でもある少女の姿があった。

 

「むっ、何なのかなーその溜息はっ! せっかく人が呼びに来てあげたって言うのに。心優しい部下の有難味をわかっていない上官さんですねー」

 

 困ったもんだぜ、と言いたげに肩を竦めて溜息を返してきた少女の名前は、エイミィ・リミエッタ。底抜けに明るくてお喋り好きで誰とでもすぐに仲良くなれるような人たらしのお気楽少女――もとい、若干16歳で一つの艦船の通信主任を任されるほどの才女である。

 公私共に渡ってサポートをしてくれるエイミィの存在にはクロノも感謝をしているのだが、できれば、もう少しだけTPOというものを考えてくれると助かる。頭の回転は速いはずの彼女だが、もしかしたら、頭のネジが一本くらいは外れているのかもしれない。

 

「心優しいとか自分で言うのか、君は。それに、これから今まで以上に大きな事件に臨むのだから、もう少し緊張感を持ってだな……」

「でもでも、緊張してばっかりでガチガチになってたら、いざってときに動けないでしょ? クロノ君はただでさえ頭が固いんだから、こうやってバランスとらないとねー」

「はぁ……」

 

 そこまで酷くはないだろう、とクロノはもう一つ溜息を漏らす。クロノがああ言えばこう言う、その癖毛のように跳ね返った少女がエイミィという少女なのである。

 やはり、威厳を出すにはそれ相応の身長が必要なのかもしれない。二歳年上とはいえ、自分と頭一つは違う身長を持つエイミィに恨みがましい視線を向けながら、クロノはディスプレイを落とすのだった。

 クロノの態度にまたしてもとやかく言ってくるエイミィに曖昧な返事をして小言を受け流し、資料室を出て目的の場所へと歩を進める。目指す場所は、本局の上層部。将官クラスの局員が執務室を構える階層だ。

 止まらないエイミィの小言にいい加減うんざりし始めた頃、ようやくその一室に辿り着いた。昔からの馴染みで多少は通い慣れているとはいえ、今日の管理局を支える重鎮達が醸し出すこの階層独特の雰囲気には、やはり、少なからず緊張を覚えてしまう。

 薄らと掻いてしまった手汗をスラックスで拭ったクロノは、その扉を四度ノックする。直後に帰って来たのは、年老いた男性特有の低くていくらかしわがれた、それでも威厳を含んだ声。クロノにとっては聞き馴染んだ声だった。

 

「どうぞ」

「失礼します」

 

 声に従い、クロノはエイミィを伴って入室した。そこにいたのは、今回の事件でクロノ達が所属することとなった部隊の指揮官達。クロノにとっては、局員としての心構えとノウハウ、魔導師としての戦技を教授してもらった、師匠とも言うべき人達だった。

 

「遅いぞ、クロスケ」

「わざわざ迎えに行かせて悪かったわね、エイミィ」

 

 クロノとエイミィに話しかけてきたのは、使い魔としては局内でも最強クラスの実力を誇る双子の姉妹、リーゼロッテにリーゼアリア――通称、リーゼ姉妹である。

 

「先ほど、アースラの改修が無事完了したとの報告があった。予定通り、明日には本局から出航するつもりだ。準備は済んでいるかね、クロノ?」

 

 そして、そのリーゼ姉妹を従えるのは、此度の事件で現場へ復帰することとなったギル・グレアム。過去の功績を活かし、『闇の書事件』に対応するためだけに組織された少数精鋭部隊の部隊長に就任した、管理局の英雄である。

 

「ええ。もちろんです、グレアム提督」

 

 鼓動を落ち着け、強い意志を持って言葉を返すクロノ。『闇の書事件』は、クロノにとっても因縁深いものなのだ。

 今ここに、たった一つの事件を追うためだけの特務機動隊――『特務四課』が動き出した。

 

 

 

 

 第1管理世界『ミッドチルダ』出身の時空管理局嘱託魔導師、フェイト・テスタロッサは未だかつてない窮地に直面していた。危機度で言えば、今となっては大切な友人であるなのはとの決闘レベルだろうか。あのときの桜色の極光に包まれる感覚はもはやトラウマものだが、今現在の事態はそれに匹敵すると言えるだろう。

 フェイトはその生い立ち上、対人スキルというものが極端に低い。気兼ねなく自分を出せるのはかつての家庭教師に己の使い魔と、そこになのはを加えた三人程度。現在の保護責任者であり、もしかすると義理の母親となるかもしれない女性には、出会ってから半年も経つというのに未だに遠慮を隠せずにいる。フェイトの性格を知りながらもグイグイと来るお姉さんとはいくらか話せるのだが、執務官のお兄さんとはほとんど会話が続かない始末である。顔見知りとなってもそれなのだから、初対面の人物とはどうなるかなど、改めて説明するまでもない。

 そして、私立聖祥大付属小学校3年A組の教室内で、フェイトは現在まさにそういった状況に置かれていた。

 

「うわー、すっごいキレイな髪! シャンプーは何使ってるの?」

「好きな食べ物は?」

「なあなあ、サッカーとかできるか?」

「イタリアから来たんだろ? 外国人なんだよな、すっげー!」

「やっぱり英語はぺらぺら? 日本語でわかんないこととかある?」

『あわわわわわわっ、なっ、なのはーーーっ!?』

 

 これまでほとんど見たことのない同年代の子供達に囲まれ、質問攻めにされる。ある意味生粋の箱入り娘であったフェイトにとっては、生まれて初めての経験であった。

 グルグルと回る視界の中で懸命にその少女の姿を捜してみるが、悪意無き人海戦術の前に屈するばかり。嬉しさと恥ずかしさと恐ろしさが一緒くたになって混乱してしまい、助けを求めて念話を送ってみるものの、返って来たのは『にゃはは……』という苦笑いのみ。高速機動に自信を持つフェイトでも、この包囲網を突破することは不可能に近い。

 そろそろ思考回路がショートしてしまうのではないかと思われたとき、フェイトに救いの手を差し伸べたのは、両手で数え切れる友人のうちの一人だった。

 

「はいはい静かにーっ! フェイトが困ってるでしょーがっ! 全員一旦離れなさーいっ!!」

 

 この世界の諺、鶴の一声とはまさしくこれのことを指すのだろう。とある少女の高く大きな声が響き渡り、クラスメイトによる転校生包囲網が真っ二つに割れる。そこから現れたのは、フェイトと同じ金髪の持ち主にして友人の一人、アリサ・バニングスその人であった。

 

「うぅぅ、ありさぁっ……!」

「あーもうっ、あんたもいちいち泣かないのっ!」

 

 もはや涙目となっていたフェイトは、救世主の如く現れたアリサに思わず縋りついてしまう。アリサは口では厳しく叱責しつつも、我が子を守る母親のようにフェイトの頭をよしよしと撫でつけてくれた。これまではビデオメールで会話をした程度で実際に会ったのは今日が初めてのことなのだが、このときばかりはアリサが旧知の友であるかのように全力で頼るフェイトである。

 そして、そんな二人の様子を遠巻きに見つめる少女がまた二人。

 

「フェイトちゃん……」

「あはは。なのはちゃんの役、アリサちゃんにとられちゃったね」

 

 母性本能をくすぐるフェイトの可愛らしい姿にほっこりしつつも、どこか腑に落ちないものを感じ取ってしまうなのは。そして、そんななのはと、抱き合う二人を微笑ましく見守る紫の長髪の少女。なのはとアリサを含めた仲良し三人組の一人、月村すずかである。もっとも、これからは仲良し四人組へと変わっていくのだろうが。

 せっかく再会できたというのに、思うように二人きりの時間が取れないことになのはは頬を膨らます。その視線の先では、仕切り屋であるアリサの手によって割り振られ、順番にフェイトへと質問をするクラスメイト達の姿があった。フェイトは時折こちらへちらちらと視線を送ってくるものの、アリサの助け船を受けながらも質問には懸命に答えていた。フェイトに友達ができることは自分のことのように嬉しいなのはだが、やはり、一番近くにはなのは自身がいたかった。

 フェイトはジュエルシード事件の容疑者の一人として、裁判を受けるために地球を離れていた。容疑者とはいったものの、その背景には様々な事情があり、実質的には被害者に近いのかもしれない。ともかく、そんな理由があって、なのはとは離れ離れとなっていたのだ。

 しかし、被告人側ではあるが、なのはの知り合いでもある提督や執務官の計らいがあり、フェイトの拘束は比較的緩かった。とはいえ、直接会うことは叶わない。だが、やはり言葉を交わしたりはしたい。そこで思いついたのが、ビデオメールによるやりとりである。

 最初の頃は一対一で行っていたのだが、フェイトが海鳴の街で生活できそうだと聞いたときから変わってきた。今後のことを考え、なのはの親友であるアリサとすずかにも出演してもらい、フェイトの友達になってもらおうと思ったのである。そのアイディアの結果が、この教室の様子というわけだ。

 フェイトと一緒に学校生活を送れるようになったのは、この上なく素敵なことだ。友達が増えるのも、絶対にいいことのはず。ただ、フェイトの一番だけは、誰にも譲りたくない。

 心にもやもやを抱え込んだなのはは、早く放課後にならないかなぁ、と強く望むのであった。

 

 

 

 

「リンディさんって、もしかするとすっごくお金持ちなのかな……?」

「提督だから、少なくとも私よりはたくさんお給料を貰ってると思うけど……」

 

 マンションの最上階に無理矢理建てられたとしか思えないフェイトの住まいを見て、平凡な二階建ての家に住むなのはは戦慄を覚えていた。高給取りは、やはり、やることなすことが一味違うのだと理解する。

 今日も一日の学校生活を終え、習い事があるというアリサとすずかに別れを告げたなのはとフェイトは、私服に着替えるために一度それぞれの家に帰宅した。その後、集合場所で合流を果たしたのだが、周りの建物に比べ高い位置にあるフェイトの新居は、いくらか離れたそこからでも十分視界に収める事ができたのである。

 フェイトが地球で暮らすのは、何も限られた短い期間だけではない。嘱託魔導師である以上管理局の仕事はあるのだが、なのはにいつでも会えるようにと地球の海鳴市に籍を移したのである。当然、未だ九歳の身であり、延いては保護観察期間中であるフェイト一人だけでそんなことはできない。その裏には、フェイトの現保護責任者である時空管理局本局所属の提督、リンディ・ハラオウンの全面協力があった。

 ジュエルシード事件を解決したアースラチームの指揮官でもあったリンディは、フェイトの境遇に深い理解を示していた。フェイトの今後に幸が多いことを願って、フェイトの小さな希望を最大の形で叶えてくれたのである。大きな事件も終えてキリがいいからと、長期休暇を取ってまで一緒に地球に来てくれたのだ。つまり、フェイトの家にはフェイトとリンディ、それからフェイトの使い魔であるアルフの三人が暮らしていることになる。

 当然、その過程で管理局法やら何やらの規則が行く手を阻んだわけだが、多方面に伝手のあるリンディによって、その一切が取り払われたのである。具体的にどうやったのかを訊いてみても、朗らかに笑って誤魔化されるだけで、フェイトは何も知ることができなかった。

 何はともあれ、なのはとフェイトの二人にとっては一緒に過ごすことができるだけで十分満足。どうでもよくはないかもしれないが、とりあえず、些細な事は気にしないことにした。

 本当なら、なのはも未だに片付いていないであろう引っ越し作業の手伝いをするつもりだった。しかし、リンディとアルフの二人によって、遊びに行っておいで、と断られてしまったため、現在は正真正銘二人きりである。

 

「えっと……それじゃ、行こっか、フェイトちゃん」

「う、うん……」

 

 差し出した手が、おずおずと握られる。なのはよりも少しだけ大きな掌から伝わる温もりが、胸の奥をくすぐった。恥ずかしがっているのか、フェイトの頬は少しだけ朱が差していた。それはおそらく、なのはにも言えることであろう。

 顔が熱くなるのを感じながら、それでもなのはは笑顔を浮かべ、フェイトと共に海鳴の街を歩き始めた。

 

「フェイトちゃんは、どこか行きたいところとか、何か見てみたいものとかある?」

「うーん……私、この街のこと、まだあんまりわからなくて……。ごめんね、なのは」

「うっ、ううんっ! フェイトちゃんは悪くないよっ、言われてみたら、そうだよね……」

 

 短いながら地球に滞在していたとはいえ、当時のフェイトはジュエルシードの回収に忙しくしていたはずである。改めて考えてもみれば、どこに行きたいかと聞かれても答えようがないだろう。

 アリサとすずかと遊ぶときは、今日は何々して遊ぶわよ、とアリサが決めてくれていた。それに甘えていたなのはは、自分から何かをしたいと言い出したことなどほとんどない。フェイトが自分と同じタイプであったことに内心で嬉しく思いつつも、なのはは頭を悩ませた。

 

「え~っと、アリサちゃんとすずかちゃんは用事があるからダメだし、翠屋も今の時間は忙しいし……」

 

 現在の時刻は午後4時を回るかという所。なのはの両親が経営している喫茶店兼洋菓子店である翠屋は、学校を終えた学生達で賑わい始めるところだろう。お客さんの少ない時間なら遊びに来ても構わないと言われているのだが、今は少しばかりタイミングが悪かった。少し歩けばなのはの魔法の練習場である桜台の登山道にも行けるが、久しぶりの再会で魔法訓練というのも、なんだか違う気がする。

 何かないか、と助けを求めるように辺りを見回したなのはは、建物の合間から覗ける高台を見つけた。なのはの記憶が正しければ、いつか姉の美由希に教えてもらった、海鳴市を一望できるという隠れた名所であったはずだ。あそこならば、海鳴の街を説明することも、二人きりでゆっくりすることもできるかもしれない。

 

「フェイトちゃん。少し歩くけど、大丈夫?」

「うん。いいけど、どこに行くのかな?」

「それは……着いてからのお楽しみっ!」

 

 まだ内緒だよ、と人差し指を口の前に立てたなのはは、フェイトの手を引いて進路を変更した。冬になって日が短くなり、太陽が大きく傾いてはいるが、まだ遅い時間というわけではない。帰りが遅くなるのはいただけないが、この季節ならば、海鳴市の夜景をフェイトに見せることができるだろう。

 学校のことや管理局のこと、魔法戦技のことなどについて語り合いながら、目的地を目指して歩を進める。

 

「――それじゃあ、クロノ君とエイミィさんはしばらく忙しいんだ?」

「うん。何だか、大きな事件があるみたいで……。本当は、リンディ提督や私も参加しなきゃいけないんだろうけど、リンディ提督は長期休暇を取ったばかりだったし、私もゆっくりして来なさいって言われちゃったんだ」

「そうなんだ……。私も、何か手伝えることがあるといいんだけど……」

「なのはは現地協力者っていう扱いになってるから、今はまだそんなこと考えなくても大丈夫だと思うよ?」

「そうなのかな……。あっ、そうだ、ユーノ君はどうしてる? 元気にしてるのかな?」

 

 暗くなりかけた思考を振り払うように、なのははフェイトに尋ねた。

 なのはが魔法の存在を知るきっかけとなった少年、ユーノ・スクライア。なのはの大事な友達で、魔法の先生でもある少年である。先の事件後、しばらくはフェレット姿のままで高町家に滞在していたのだが、ほどなくして、フェイトの裁判の証人として管理局に召喚されたのである。

 

「ユーノなら、無限書庫の見習い司書として頑張ってたよ。古い文献とかを見られるのが楽しいんだって」

「そういえばユーノ君、学者さんなんだもんね」

 

 実は、先の事件のきっかけとなったジュエルシードは、考古学者であるユーノが発掘したものだった。それを管理局に届けるために輸送していたところ、輸送船が『事故』に遭ってしまい、海鳴市近隣に散らばることとなったのだ。

 それに責任を感じて自ら回収に乗り出したユーノだったが、やむなき事情とはいえ、その過程でいくつか管理局法を違反してしまっていた。証人のはずがそのことを見咎められ、そのまま人手不足の管理局に協力することになってしまったのである。もっとも、考古学者としての血が騒ぐのか、次元世界中の書物が集まってくる無限書庫で仕事をすることについては、本人はあまり苦に思っていないらしい。

 その後も共通の友人について話に花を咲かせていると、いつの間にか目的の場所に辿り着いていた。日は海に半分ほど顔を隠しており、空が夕焼けの赤と夜の深い青に染められている。見渡せる街の灯りも相まって、幻想的ともいえる景色が広がっていた。

 

「すごい、きれい……」

「うん……。あれが、私達の街だよ。ここは、見晴らしの丘っていうんだって」

 

 高台にある広場を進み、端にある柵の位置まで移動する。吹き付ける冬の風に、体を寄せて体温を分け合いながら、なのはとフェイトは会話も忘れてその景色に魅入っていた。

 

「…………っ」

「フェイトちゃん……?」

 

 触れ合った体から震えが伝わってきた。すぐ傍にあるフェイトの顔に目を向けてみれば、寒さで赤味を増した白い頬を、光る滴が伝っていた。

 

「どっ、どうしたのフェイトちゃんっ!? 私、何か悪いことしちゃったかなっ!?」

「ううん、違うよ……。なのはは、別に、何も悪くない。ただ、なのはにやっと会えたことが嬉しくて、ここにいられることが幸せで、そんなことを考えてたら、何だか涙が出て来ちゃって……。ごめんね……ごめんね、なのは」

「フェイトちゃんっ……!」

 

 ぎゅうっと、心が締め付けられる。ごめんね、ごめんね、と繰り返しながら溢れてくる涙を拭うフェイトの頭を、なのはは自身の胸へと引き寄せた。小さく震えたフェイトが、その腕をなのはの背中へと回してくる。なのははそれを受け入れてフェイトの体を支えながら、手触りのいい金糸を黙って撫でつけていた。

 二人以外に誰もいない広場に、小さな嗚咽が響き、夜へと吸い込まれていく。なのはも視界を涙に歪めながら、フェイトが落ち着くのをただただ待っていた。

 夕日が完全に沈んでしまった頃、ようやくフェイトが落ち着きを取り戻した。互いに支え合うようにしながら歩き、近くのベンチへと腰を下ろして一休みする。

 

「……ごめんね、なのは。せっかく一緒に遊ぶ予定だったのに、ダメにしちゃって」

「謝らないで、フェイトちゃん。私は、フェイトちゃんと一緒にいられるだけで幸せなんだから」

「なのは……」

「フェイトちゃん……」

 

 フェイトの潤んだ瞳がゆっくりと近づいて来る。なのははその全てを受け入れようとして――

 

「――っ!? バルディッシュ!」

《Get set.》

「えっ? ――きゃっ!? ふぇ、フェイトちゃんっ!?」

 

 視界が黄金の光に包まれた。そう思った瞬間、なのははフェイトに抱き寄せられ、座っていたベンチから目測で15.72メートルほど離れた位置に着地した。フェイトの姿は先ほどまでの私服ではなく、黒いレオタードにマントといった、魔導師の防護服――バリアジャケット姿になっていた。なのはの腰に回された左手の反対側には、フェイトのデバイスである黒き戦斧――バルディッシュが握られている。

 先ほどまでの弱々しい姿はどこへやら、凛々しさを身に纏ったフェイトは、なのは達の座っていたベンチの辺りを油断なく注視していた。その視線を追い、なのはもようやく異変に気が付く。

 ベンチから少し離れた位置に、今まで見たこともない、魔法陣のようなものが浮かび上がっていた。

 

「あれは、魔法……?」

「うん。たぶん、転移魔法……」

 

 フェイトに言われて感覚を研ぎ澄まし、なのはのリンカーコアがようやくその気配を捉えた。なのはの知らない何かが、大きな魔力を持った何かが、この場所に現れようとしている。

 深紫の光を放ちながら回転する魔法陣が一際眩く輝き、そして、彼女達は現れた。

 一人は、背の高い女の人。桃色のポニーテールと、鷹のように鋭い目つきが印象的だ。おそらく地球製と思われる冬物の白いコート着込んでおり、一目見ただけでは魔導師とはわからない。

 もう一人は、なのは達よりも小さな女の子だった。赤毛のおさげとつり目が特徴的で、こちらはなのは達と似たようなデザインのダッフルコートを着込んでいた。やはりこちらも、その姿は一般人のように見える。ただしそれは、魔法陣から現れなければの話だが。そして、二人共がどこか疲れているような、そんな雰囲気を漂わせていた。

 転移が完了した二人は、なのは達の存在に気が付いて驚愕の表情を浮かべる。なのはは二人の見開いた瞳の奥に、怒りと焦りの感情を感じた気がした。

 

「時空管理局嘱託魔導師、フェイト・テスタロッサです。この世界は管理外世界です。魔導師の方々と見受けましたが、渡航証を確認してもよろしいですか?」

 

 フェイトが声をかけるが、二人はそれに何も答えようとせず、黙って目配せをしていた。おそらく、念話で会話をしているのだろう。それくらいのことなら、なのはにも予想は立てられる。

 二人を注視するうち、なのはは一つ違和感を覚えた。何の事はない。赤毛の少女の方に、どこか見覚えがあった気がしたのだ。

 

「……すまないが、転移先を間違えてしまったようだ。こちらに非があるのはわかっている。しかし、すぐにこの世界から立ち去る故、見逃してはもらえないだろうか」

「え? えっと、それなら、まあ、はい……いいのかな……?」

 

 ポニーテールの女性がようやく口を開き、フェイトが一転してたどたどしい会話をしている間も、なのはは少女を見ながら記憶を探る。気のせいでなければ、少女からも鋭い視線を向けられているようだった。

 二人の足元に再度転移魔法の魔法陣が浮かび上がったとき、なのははようやくそれを思い出した。まだユーノが地球にいた頃の、翠屋に向かう道。前者の方はよく覚えていないが、翠屋の箱を持った男の人と、そして、その前に立って睨んできた女の子。その女の子は、目の前の少女にそっくりではなかったか。

 疑問を覚えたなのはは、少女に向かって声をかけた。

 かけて、しまった。

 

「あなた、私と、どこかで会ったことある……?」

「「――っ!!」」

 

 転移魔法の光が消える。

 その代わりに、ラベンダーと紅の魔力光が輝いた。

 

 



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第十四話 ベルカの騎士

 

 

「レヴァンティンッ!」

「グラーフアイゼンッ!」

《《Anfang.》》

 

 なのはとフェイトの前に現れたポニーテールの女性とおさげの少女が、ラベンダーと紅の光に包まれた。足元に輝く魔法陣は、やはり、なのはもフェイトも見たことのない形状。三角形の中央に剣十字を配した、ミッドチルダ式のものとは別の魔法陣だった。

 魔力光が晴れた先に現れたのは、なのは達魔導師と同じようなバリアジャケット姿の二人。ファンタジーに登場するような剣士と、可愛らしいゴシックドレスの少女。その手には、剣と戦鎚のような武器――おそらくデバイスが握られていた。

 突然の事態に混乱するなのはを余所に、レイジングハートの判断は迅速で、そして何より正解だった。

 

《Stand by ready. Protection.》

 

 レイジングハートが主人の危機を察知してバリアジャケットと防御魔法を展開するのと、剣士の姿がなのはの視界から消え去ったのは正しく同時であった。

 高速機動を得意とするフェイトに迫るほどの速度。掻き消えた像が再び視界に結ばれたときには、剣士はすでに目の前にまで迫っていた。ようやく危機を認識し始めていたなのはは、慌てて盾に魔力を注ぎ込み、少しでもと強化を図る。

 時間の進行が感じられないような刹那の間に、桜色の防壁の向こうの剣士と目が合った。それは、なのはが今までに向けられたことのないような鋭い目だった。だがしかし、その奥には悲哀の色があるように見えて。

 

「――疾ッ!!」

「っ、く、ぁ――きゃあああああっ!?」

「なのはっ!?」

 

 フェイトがフォローに入る寸前に、隣にいたはずのなのはが広場の端の方まで吹き飛ばされた。数秒だけ保った防壁は桜色の残滓と化し、それらが飛び交う中を、桃色の尾が泳いでいる。

 攻撃を受けたなのはを心配しつつも、次は自分の番だ、とフェイトは身構えた。

 突然の襲撃者の太刀筋は、何とか捉えることができた。しかし、フェイトも苦労させられたなのはの堅牢な防御を、たった一撃で粉々にするような攻撃だ。防御よりも回避に重きを置くフェイトには、とてもではないが受けきれない。故に、剣閃を見極めるべく備えていたのだが――

 

「え……?」

 

 剣士は、フェイトに一瞥もくれることなく小脇を通り過ぎて行った。進行先はもちろん、飛行魔法を発動させて体勢を立て直している最中のなのはの方向だった。

 接近戦は圧倒的に不利。

 今すぐなのはの隣に駆け付けたい衝動をぐっと堪え、瞬時に判断を下したフェイトは、バルディッシュに魔力を叩きこんで乱暴になりながらも術式を起動する。今は威力よりも速度を優先。平時の展開速度を大幅に超えた速度で展開されたのは、フェイトの手によく馴染んだ射撃魔法――フォトンランサーだ。

 

《Photon Lancer, Fire.》

 

 突き出した掌の前に現れたフォトンスフィアから、魔力弾が放たれる。細かい狙いはバルディッシュに丸投げしたが、優秀な相方は性能に見合う仕事をしてくれたらしい。雷槍は、剣士を目指して直進していた。

 まだ間に合う。

 フォトンランサーが剣士の背中に食らいつくのを見て、スパークを続ける発射体にフェイトが次弾を要求した瞬間だった。

 魔力弾は背面に回された鞘によって防がれ、そして、見晴らしの丘を覆い隠すように、後方から封鎖結界が展開された。

 空が、薄暗い紅に染まる。

 

「まさかお前、敵がもう一人いるって忘れてんじゃねえだろうな?」

「――っ!?」

 

 とても真似できない離れ業を見せつけられ、そして、図星を突かれたフェイトは、すぐさま声のした方を振り返った。そこには、紅の魔力を帯びた大きな鉄球が。

 

《Defensor.》

「くっ――このっ!」

 

 バルディッシュが金色の盾を展開してくれるも、バリアブレイクの効果を付与されているらしい鉄球は、それを易々と食い破ってきた。迫る鉄球をバルディッシュの柄で防ぎ、全力で後方に飛びながら受け流す。

 何とか軌道を逸らすことに成功して直撃は避けたものの、凄まじい衝撃が伝わってきた手首に違和感を覚えた。幸いにも利き手は問題なく動くが、バルディッシュは両手で扱う武器だ。片手しか使えないのは、十分に痛手となる。

 しかし、フェイトが不調だからといって、敵が矛を収めてくれるはずなどない。射撃魔法を放ったであろうおさげの少女は、紅の粒子が漏れる戦鎚を振りかぶり、スカートをはためかせながら追撃を仕掛けてきた。

 

《Sonic Move.》

「うらぁッ!」

 

 戦鎚が振り下ろされ、地面が砕けた。だがそこに、フェイトの姿はない。小さな少女の攻撃でも、視覚化されるほどの魔力が乗っていれば墜とされる可能性がある。そう考えたフェイトは、瞬間高速移動魔法を発動させていたのだ。

 空振りした少女は、攻撃直後の隙を見せていた。その背後を取ったフェイトは、バルディッシュを変形させて魔力刃を展開し――火薬が爆ぜるような、炸裂音を聞いた。

 

《Panzerhindernis.》

「ぐっ、うぅっ!?」

 

 首を刈り取るようにして振るった――当然、非殺傷設定の――鎌が、背面に展開された障壁によって弾かれた。衝撃で手首に鈍い痛みが走り、フェイトは苦悶の声を上げる。

 失敗した。一撃で意識を奪い、すぐさまなのはの援護にまわるつもりが、失敗してしまった。

 

「アイゼンッ! ロードカートリッジッ!」

《Explosion!》

 

 またもや、炸裂音。先ほどは何が起きたのかわからなかったが、今度はその光景を視界に収めることができた。

 少女のデバイスが駆動したのだ。

 デバイスに込められる魔力が跳ね上がるのを感じたと同時、排熱機構の下から金属の円筒が排出される。そして、デバイスはその形を変形させた。片側の打撃部分からは衝角が迫り出し、その反対側は完全に形を変え、三つの噴射口を形成していた。

 何が起こったのかを見ることはできた。しかし、英才教育により『魔法』に深い知識を持つフェイトでも、何が起こったのかはわからなかった。

 

《Raketenform.》

「ラケーテン――」

 

 一瞬呆気に取られてしまったフェイトを差し置いて、少女はその武器を構える。戦鎚の噴射口に、煌々と燃える火が点った。

 

「――ハンマーーーッッ!!」

「つぅっ!?」

 

 噴射口から真っ赤な炎が噴き出し、少女はその身を回転させた。爆発的な加速を得た戦鎚が振るわれ、辛うじて反応したフェイトの眼前を通り過ぎていった。

 異臭が鼻をつく。逃げ遅れた髪の先端が、噴射炎によって焼け焦げていた。しかし、フェイトにそれを気にする暇はない。なぜなら、少女の攻撃はまだ始まったばかりだったからだ。初撃の空振りなどなかったかのように、少女は駒のように回転を続けていた。

 またもや迫る衝角に、フェイトは堪らず空へと逃げて距離を取る。だがそれでも、少女はデバイスを推進装置として利用し、定められた標的へと突き進むロケットのように向かってきた。ギラついた瞳が、フェイトの姿を捉えている。

 今ここに、ミッドチルダの魔導師とベルカの騎士による空戦が幕を開けた。

 

 

 

 

 かつて海鳴の街を救った魔法少女、高町なのはは未だかつてない窮地に直面していた。危機度で言えば、今となっては大切な友人であるフェイトとの初戦レベルだろうか。まだ魔法の心得がそれほどでもない頃だったそのときは、一方的に墜とされてしまったのだ。

 そして今現在も、なのははその戦闘を一方的な展開に持ち込まれていた。

 

《Protection.》

 

 展開した桜色の盾に剣が突き立てられ、その負荷に軋みを上げる。徐々にひび割れて綻びを見せる魔法に更なる魔力を注ぎ込んで補強し、そこまでしてようやく一撃を受け止めることができた。

 小さく舌打ちを漏らしたポニーテールの女性は、防御を崩せないと見るや剣を盾から離し、なのはの視界から掻き消える。なのはは見失った敵を、周囲にばら撒いた端末とリンカーコアが感じる魔力波長を使って捜し始めた。

 索敵し、攻撃され、それを受け止め、逃げられる。先ほどからその繰り返しだった。

 なのはは射砲撃――特に砲撃を得意とする砲撃魔導師だ。簡単な射撃魔法ならばともかく、なのはの主砲にはそれ相応の溜めが必要となる。この溜めの時間が稼げないために、なのはは防戦一方に追い込まれていた。

 魔力弾をあらかじめ配置しておき、剣士の姿を捉えたら撃ち抜くという手もある。だがしかし、全力で防御魔法を展開しなければ、剣士の強烈な一撃によって瞬く間に墜とされてしまうだろう。レイジングハートのリソースをエリアサーチに、なのはの思考の片隅を飛行魔法の制御に使っているのだから、これ以上の魔法の発動はあり得ない。

 サーチャーが高速で動く敵の影を捉え、リンカーコアが大気中の魔力の震えを感じ取った。直感に従い、なのはは砲撃魔法に込めるほどの魔力を込め、防御魔法を身体の左側に再展開する。

 

「く、うぅ……っ!」

 

 重すぎる衝撃を、なのはは何とか堪えることに成功した。これでいったい何度目の防御になるのか。視界の端でおさげの少女と空戦を広げているフェイトを助けに行かねばならないというのに、この空域に釘付けにされてしまっている。歯痒い思いと情けなさが募る。これではいったい何のために春から魔法の特訓を続けていたのか、わからなくなる。

 

「……堅牢な防御だな。これほどの使い手とまみえるのは、随分と久しい」

 

 小さく俯き、隙を晒してしまったなのはに話しかける声。はっ、と顔を上げたなのはは、正面に剣士の姿を見つけた。剣を下してはいないが、飛行魔法で中空に止まっており、あの反則染みた速度で動く素振りは見せていない。

 戦闘開始から、なのははようやく剣士と向かい合った。

 

「あ、あのっ! いったいどうして襲ってくるんですかっ!? 私、なにか悪いことしちゃいましたっ!?」

 

 この隙に攻勢に出る選択肢もあった。しかし、なのはは会話を選んだ。理由も分からずに傷つけあうなど、そんな悲しいことはもうたくさんなのだ。言葉が通じるのならば、あるいは話し合いで解決できるかもしれないのだから。

 それに、なのはは理由が知りたかった。なのはにはおさげの少女に見覚えがあるものの、しかしその程度なのだ。そのときも睨まれたような気がするとはいえ、別段迷惑をかけた覚えはない。もしなのはが覚えていないだけで何かをしてしまっていたのなら、素直に謝りたかった。

 なのはの問いかけに、剣士は眉間に薄らと皺を寄せて答えた。

 

「非があるのはこちらだ。お前達は何も悪くない。ただ、タイミングが悪かったのだろうな……。すまないが、しばらくは魔法を使えない体となってもらおう」

「そんな……!」

 

 これ以上語ることはない。まるでそう言うかのように、女性は口を閉ざして剣を構えた。その凛とした佇まいは、物語の騎士を連想させる。

 しかし、剣士は構えたままで動かない。なのはの気のせいでなければ、来い、と言われているようであった。なのはは一瞬の躊躇を見せ、小さく首を振り、レイジングハートの柄を握り直した。

 剣士の目は、あのときのフェイトと同じ目をしている。それはつまり、なのはには明かすことのできない事情があるということなのだろう。ならば、やることは一つだけだ。

 勝って、話を聞かせてもらう。

 

「お願い、レイジングハートッ!」

《We can! Dinine Shooter, Full Power!》

 

 レイジングハートのコアが応えるように明滅し、なのはの足元に桜色の魔法陣が浮かび上がった。円の中で二つの正方形が回転しているそれは、ミッドチルダ式の魔法を示すものだ。そして、なのはを取り巻くように、八つのスフィアが形成される。

 なのはが発動したのは、誘導制御型の射撃魔法――ディバインシューターだ。形成したスフィアを飛ばす、射撃魔法では基礎中の基礎。バリア貫通効果を付与され、術者の意のままに動くそれは、簡素であるが故に威力は術者の実力に左右される。しかし、なのはがこの半年の間、ずっと練習してきた魔法だ。今こそ、特訓の成果を見せるとき。

 

「ディバインシューター、シュートッ!!」

 

 なのはの掛け声に応じ、桜色の魔力弾が剣士に向かって放たれた。正面と左右から二発ずつ、計六発の魔力弾を、剣士を取り囲むような軌道で導く。残りの二発は自動追尾設定にして、なのはを中心に旋回させておいた。

 ディバインシューターは弾速が遅いために制御し易いが、その分だけ対処され易くもある。しかし、発射速度は速いため、いざ剣士に対処されて接近を許しても、本命の二発が残っているというわけだ。

 得意の魔法で勝負に出たなのはに対し、剣士はあくまでも冷静に命じた。

 

「やるぞ、レヴァンティン」

《Explosion.》

 

 主の命を受けた剣が、炸裂音を響かせて金属の円筒を排出する。なのはは実物を見た経験など当然ないが、サーチャーが捉えたそれは、空の薬莢のようにも見えた。そして、剣に込められた魔力が、突如として跳ね上がる。

 

「はぁああああッ!」

《Schlangebeißen.》

「えぇっ!?」

 

 烈火の気合いと共に振られた剣が、その刀身を伸ばした。少なくとも、なのはの目には一瞬そう見えた。

 あと少しの所まで届いていた魔力弾が、蛇のようなうねりを見せる剣によって次々と斬り裂かれた。真っ二つにされた魔力弾は、桜色の粒子となって宙に解けていく。六つの魔力弾を屠ったその咢は、なのはをも捕食せんと伸びてきた。

 切先が迫り、刀身が伸びたように見えていた仕組みを理解する。刀身がいくつもの節に分かれ、それをワイヤーが繋いでいるのだ。螺旋を描くそれはしかし、絡まるようなことはない。おそらく、伸びた刀身は剣士の思うがままに動かせるのだろう。その反面、剣士はその場に止まっており、どうやら術者が動くことはできないようだった。

 正面から来るとわかっている攻撃を態々受ける必要もない。なのはは飛行魔法のフライアーフィンを操作して上昇し、残りのディバインシューターを最大速力で射出しようとして――

 

《Master!!》

 

 悲鳴のような、レイジングハートの声を聞いた。

 直後、なのはの背中を連続した衝撃が襲う。鈍器で殴られたような痛みが三度続き、視界が黒く狭まった。誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、朦朧とした意識では何を言われたのかよくわからなかった。

 フライアーフィンの制御を失って落下していく中、狭い視界にフェイトの姿を捉えた。連結刃に巻きつかれ、苦しいだろうに必死の形相でこちらに手を伸ばしている。おおよそ30メートルは離れていて、絶対に届くはずもないのに。

 

(フェイ……ちゃ…………助け、なきゃ……!)

 

 鈍痛が響く中、なのはは頭を振って意識を覚醒させた。フライアーフィンの制御をレイジングハートに明け渡し、自身は大気に満ちる魔力素をリンカーコアに集中させる。

 頭が痛い。背中が痛い。今すぐ倒れ込んでしまいたい。だがそれでも、フェイトだけは助けなければならない。

 

《Cannon Mode, Divine Buster!》

 

 なのはの意を汲んだレイジングハートが、その機構を変形させた。真紅の宝玉を金の三日月が囲む形状だったそれが、槍のように鋭い銃口を覗かせる。射線の安定を図る光の翼が目に眩しい。新たに形成されたトリガーユニットは、なのはの掌にピタリと吸い付くよう。

 ありったけの魔力を込めながら、ぼやける視界で剣士の姿を捜す。レイジングハートを取り巻く四つの環状魔法陣が回転を始め、桜色の砲弾が膨大な魔力に甲高い音を立てた。

 

『ダメだっ! なのは、逃げてっ!!』

 

 フェイトの念話が届くと同時、その少女はなのはの視界に現れた。

 

「いい加減、寝てやがれェーーッ!!」

《Tödlichschlag.》

 

 戦鎚が振り抜かれる。

 一際重い衝撃を受け、なのははその意識を今度こそ深い闇に沈めた。

 意識を失う寸前、暴発した砲弾によって、愛機が砕ける様子を見た気がした。

 

 

 

 

「っ……ぁ……なの、は……!」

 

 燃え盛る炎の剣閃によって地に墜とされたフェイトは、思うように動かない腕を懸命に伸ばした。そのバリアジャケットは所々が破れており、赤く腫れた肌を外気に晒している。傍らには、真っ二つに断ち切られ、コアをも損傷させてしまったバルディッシュが転がっていた。

 フェイトとなのはの敗因は、一対一の戦闘だと思い込んでしまったこと。敵二人は、土壇場で標的を入れ替えるチームプレイ――スイッチをやってのけた。フェイトがかわしたはずの射撃魔法はなのはに突き刺さり、また、なのはがかわしたはずの攻撃はフェイトを捕えたのだった。そこから先は、なのはが墜とされて更なる一方的な展開となった。

 

「ぅ……ぁ……」

 

 たったの2メートル。それしか離れていない位置に仰向けで横たわるなのはが、小さく声を漏らした。胸の上には桜色の球体が浮かんでおり、そこからおさげの少女が持つ本へと光の粒が道を作っている。球体は徐々に小さくなっていき、代わりに、本の頁に見たこともない文字が書き込まれていく。

 止めなければ。

 なのはが何をされているのかはわからない。しかし、身体にいいことをされているわけでは絶対にないだろう。

 妨害を、とただ魔力を放っただけの攻撃――とは言っても、フェイトの魔力変換資質により電撃となっているのだが――はしかし、間に突き立てられた剣の鞘によって易々と防がれてしまった。

 

「案ずるな。別に、命を取ろうというわけではない」

「なのはに……なにをした……」

「命に別状はないというに。……それほどにこの少女が大切か?」

「ともだち……なんだ……!」

 

 なのはからは目を離さず、掠れる声で強く言葉を発する。

 やっと再会できた、大切な友達なのだ。

 学校では新しい友達に囲まれて、恥ずかしかったが嬉しかったのだ。

 アリサとすずかは都合が合わなかったが、放課後はなのはと二人で過ごすはずだったのだ。

 それが、いったいどうしてこんなことになってしまったのか。

 フェイトの発言を受けた剣士は、そうか、と静かに呟いた。

 

「それはすまないことをした。恨むならば我らを恨むがいい。再戦がしたいというのならば受けて立とう。だがしかし、今しばらくは大人しくしていろ。事が済む前に再びまみえるようなことがあれば……」

 

 そのときは、怪我では済まさんぞ。

 それは、殺気すら感じ取れる強い語気だった。なんで、どうして、疑問符ばかりが頭を過ぎる。力が通じなかったことが悔しくて、なのはを守れなかったことが苦しくて、理不尽な暴力が許せなくて、涙さえ浮かんできた。そんな自分が情けなくて、唇を噛みながら、緑が枯れてしまった地面に爪を立てる。

 なのはの胸に随分と小さくなってしまった光が戻っていった。作業を終えたらしいおさげの少女が、茶色のハードカバーを小脇に抱えて歩み寄ってくる。歪んだ視界では、その表情は窺えなかった。

 

《Sammlung.》

「……っ!」

 

 電子音が聞こえ、鈍痛と共に体から何かを引き抜かれる感覚があった。

 せめてもの抵抗と、フェイトは声を漏らさぬように歯を食いしばり、襲いくる痛みに耐えるのだった。

 

 

 

 

 蒐集を終えたおさげの少女――ヴィータは闇の書を手に取ってその頁数を数えていた。蒐集を始めてから一ヶ月と少し。頁数は半分を超えて、第一目標に届こうかというところまできている。今回蒐集することとなってしまった魔導師二人は、魔法生物を相手にしているのがいろんな意味で馬鹿らしく思えてくるほどの魔力を持っていたため、結果には期待できるだろう。

 文字が書かれている最後の頁数を確認したところで、気絶してしまった少女達をベンチへと運んだポニーテールの女性――シグナムが隣に並んだ。

 

「今のでどれくらいだ?」

「400頁は超えたよ。……こいつを起こしてやるかは、颯輔次第だな」

「そうだな……」

 

 ヴィータはしかめっ面を浮かべ、シグナムも表情が暗くなった。

 蒐集頁が四百を超えた闇の書は、限定的にだが管制融合騎を起動できる。彼女ならば、主への侵食についても何か知っていることだろう。もしかしたら、それを止めることだってできるかもしれない。

 だがしかし、はやてが絡めば怒りの感情を見せることもある颯輔は、彼女を糾弾したりはしないだろうか。ヴィータにシグナムにも問い質したいことがあるのだから、当事者である颯輔は尚更だろう。大切な人が悪感情を抱いているところなど、誰も見たくはない。普段が優しい人ならば尚のことだ。

 鈍い光を放つ金の装飾から視線を切り、ベンチへと目を向ける。そこには、バリアジャケットが解除されて私服に戻った高町なのはとフェイト・テスタロッサがいた。魔法は非殺傷に設定していたとはいえ、武器を振るうベルカ式の攻撃を与えたのだから、少なからず負傷していることだろう。

 

「すっかり悪役になってしまったな」

「はっ、いつものことじゃねえか。今更何とも思わねえさ」

「……本当にか?」

「…………」

 

 シグナムの問いかけに、ヴィータは答えられなかった。静かに見つめてくるシグナムから、思わず目を逸らしてしまう。

 今回の戦闘は、ヴィータ達にとっても完全に想定外だった。別世界から転移するにあたり、人気のほとんどないこの場所を帰還ポイントと指定していたのだが、どうやら今回は最悪についていなかったらしい。よりにもよって、要注意人物である高町なのはと遭遇してしまったのだ。それも、管理局員付きときた。多重転移により足はつかないようにしていたが、嗅ぎつかれてしまったのだろうか。偶然だったとすれば、それこそ最低である。もっとも、どちらにせよ動き難くなったことに変わりはないのだが。

 一度は立ち去ろうとしたものの、高町なのはの一言は見過ごせなかった。まだ完全に思い出したわけではなかったようだが、それでも、不安の芽は摘み取っておくに越したことはない。下手に嗅ぎまわられるよりは、ここでリタイアしてもらった方がマシだったのだ。

 リンカーコアが回復するまでにはそれなりの時間がかかるだろうから、それまでに蒐集を終えればいい。駆け付けるであろう管理局員はこの二人よりも格下であろうから、その気になればどうとでもできる。

 問題は、人間から――それも、管理局員から――蒐集をしてしまったこと。やむを得ない状況だったとはいえ、こればっかりは、颯輔にも報告しておかねばならないだろう。さらに、高町なのはは颯輔の友人の妹なのだから。

 

「……シャマルに来てもらおう。せめて、怪我くらいは治してやらねえと。そんくらいはいいだろ?」

「ああ。連絡してみよう」

 

 やっていることは『これまで』と同じでも、その目的は大きく違う。闇の書の完成は、あくまでも手段でしかないのだ。

 未来を手に入れるために、ヴィータ達は蒐集を続ける。例えその先に、どんな罰が待っていようとも。

 

 

 

 

 夜の帳が下りた海鳴の街を、宵闇に紛れて疾走する影があった。建物から建物へ、その屋根を風のように駆けていく速度は、普通の人間に出せるようなものではない。

 その影は、一匹の獣。オレンジ色の毛並を持つ、大型の狼。フェイト・テスタロッサの使い魔、アルフだ。

 

『フェイトっ! フェイトっ! 返事をしておくれよ、フェイトぉっ!!』

 

 家を飛び出してから何度も念話を送っているにもかかわらず、それに応える愛しい主人の声はない。主と使い魔との間に繋がる精神リンク、そして、微弱なフェイトの魔力を頼りにアルフはただ只管に駆けていた。リンディも、アルフに遅れてフェイト達を捜していることだろう。

 事の異常に真っ先に気が付いたのは、フェイトから魔力の供給を受けているアルフだった。夕日が沈んですっかり暗くなってしまったころ、供給魔力に揺らぎを感じたのだ。それはつまり、フェイトが魔法を使ったということを意味する。

 初めは、なのはと共に魔法訓練でもしているのかと思った。しかし、続いて精神リンクを伝わってきた動揺と焦燥が、ただ事ではないと物語っていた。それから確認のために念話を送ってみるも、フェイトにもなのはにも届かないことを知り、リンディに事情を伝えて家を飛び出し、今に至るというわけだ。

 移動中に調べ、発見した結界はすでに消え去ったのを確認している。にもかかわらず、フェイトにもなのはにも念話が届かないということは、いったいどういうことなのか。魔力供給が途絶えていないため、最悪の事態には至っていないようなのが不幸中の幸いか。しかしそれでも、この微弱な魔力では時間の問題のようにも思える。

 住宅街を越え、空に大きく跳躍し、そして、それを見つけた。半径2メートルもない、小さな結界。高台の広場に展開されたそこから、フェイトの魔力を感じ取った。

 

「フェイトっ!!」

 

 広場に降り立ち、ベンチが並ぶ間にある結界に走り寄る。アルフの体を光が包み込み、狼のシルエットが人間のものとなった。一瞬で晴れた光の中から現れたのは、豊かなプロポーションを誇るオレンジの長髪の女性。人間形態となったアルフだ。ただ人間と違うのは、獣耳と尻尾が付いていることだろうか。毛色がアルフの特徴を示している。

 小さな結界の端まで迫って右の拳を振り上げたアルフは、そこに魔力を付加した。起動させたのは、バリアブレイクの術式だ。

 フェイトを閉じ込める忌々しい結界をぶん殴ろうとして――

 

「おわっ!? っと、と……!」

 

 拳を叩きつける前に、ミントグリーンの粒子を撒き散らして結界が消失した。行き先を見失った鉄拳が宙を彷徨いバランスを崩してしまうが、その場でくるりと回転して体勢を立て直す。誰かに見られていれば恥ずかしい思いをしたであろうその行動は、幸いと言っていいのか、誰にも見られずに済んだ。

 なぜなら、結界の中にいた二人の少女はベンチに肩を並べて座り、その目を閉じていたのだから。

 

「フェイトっ! なのはっ!」

 

 直前の出来事をなかったことにし、アルフはフェイトとなのはのもとへと駆け寄った。恐る恐る二人の肩に触れ、小さく揺すってみるも、うんともすんともない。まさか、と顔を青ざめさせたアルフは、掌を二人の小さな口の前に持っていった。

 息は、している。

 ほぅっ、と大きく息をつく。安心からか、目尻に涙が浮かんできた。垂れ下がっていたはずの尻尾が上を向いてぶんぶんと振られていることから、アルフの心境が窺えるというものだろう。

 ぐすんぐすんとしばらく鼻をすすっていたアルフは、尻尾を振るのをピタリと止め、表情を硬くした。できるだけ刺激を与えないように、ぺたぺたと二人の体を確かめるように触れていく。

 どうやら、大きな怪我もしていないらしい。

 ふぅ、と汗の浮かんだ額を拭ったアルフはしかし、今度は鼻をついた異臭に顔をしかめた。何やら焦げ臭い。一度大きく鼻をすすり、すんすんと臭いの元を辿ったアルフは、再び顔色を青くした。

 フェイトの綺麗な髪の毛が――毛先のほんの少しだけ――焼け焦げてしまっている。

 

『リンディ提督っ! フェイトが、フェイトが……っ!!』

 

 事態を重く見たアルフは、悲痛な声でリンディに念話を送るのだった。

 

 



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第十五話 嘘

 

 

 12月2日午後4時。八神家の台所では、はやてとシャマルが些か早すぎる夕飯の支度をしていた。コンロにかけられた土鍋からは蒸気が漏れ、だし汁のいい香りを台所に広げている。今晩のメニューは、寒い冬には持って来いの料理、おでんであった。

 

「シャマルー、そろそろ火ぃ止めてもええよー」

「はーい。でもはやてちゃん、こっちのはんぺんとかちくわとかは入れなくてもよかったんですか?」

「そっちのは煮過ぎるとふにゃふにゃになってまうからなぁ。あとは、皆が帰ってきてからで大丈夫や。そのころには大根に味が染みて、ええ感じになっとるで」

「なるほど、それは楽しみですね」

「ふふ、せやな」

 

 疑問、感心、笑顔とコロコロ表情を変えるシャマルに、はやては微笑みを返す。今では料理にも慣れ、ほとんど失敗をしなくなったシャマルにも、まだまだわからないことはある。兄に教わった知識ではまだ自分の方が勝っていることに、はやては内心でガッツポーズを上げた。

 普段は香りを嗅ぎつけて味見に来るヴィータも、それを咎めつつも実は自分も気になっているシグナムも、その光景を寛ぎながら見守っているザフィーラも、そして、八神家の家長たる颯輔も今現在は留守にしている。ヴィータは老人会に呼ばれてゲートボール、シグナムは剣道場の非常勤講師、ザフィーラは工事現場でアルバイト、颯輔は進路相談があるためだ。そのため、現在家にいるのははやてとシャマルの二人きりである。面白そうなテレビ番組もなくて手持ち無沙汰になってしまい、早めの夕食作りとなってしまったというわけだ。

 今日に限らずここのところは皆が忙しい様子で、はやては家に誰かと二人きりになることが多くなっていた。シグナムであったりヴィータであったり、シャマルであったりザフィーラであったりと日によって様々であり、颯輔が学校から帰ってくるまでは二人きりなのである。夕食の時間には皆帰ってくるのだが、逆に言ってしまえば家族が揃うのはそのときくらいで、はやては少々寂しい思いをしていた。

 

「はやてちゃん、エプロン預かりますよ」

「ん、おおきに」

 

 手を洗い終えたはやては、エプロンを脱いでシャマルに渡した。車椅子を誰もいないリビングに移動させると、ほぅ、と頬杖を突く。

 皆が皆、毎日家にいるのが不可能なことは、はやてにも十分わかっている。生活するには働かなければならないし、ご近所付き合いも必要だ。しかし、夏が本場を迎えるまではシャマル達が皆揃っていたことを考えると、どうしても、比べてしまうのだ。

 かくいうはやても、来春からは学校に復学する話を颯輔から勧められていた。エレベーターこそさすがにないが、校舎内はバリアフリーが進んでおり、私立で少しは融通も利くという聖祥大付属小学校に転校するのだ。今の学校にも友達はいるにはいるのだが、一年以上休学してしまっているはやてのことなど、もうとっくに忘れてしまっただろう。最初の頃は遊びに来てくれていた子も、今では連絡さえ取らない始末である。

 そして、復学してからのことを考えているのか、最近の颯輔はあまりはやてのことを甘やかしてはくれなくなっていた。

 変わらないものなどないのだと、永遠など言葉だけなのだと、理解はしているつもりだ。しかし、もう少しだけゆっくりさせてくれてもいいのではないか。

 寂しさを思考で誤魔化したはやては、深い溜息を吐き出した。

 

「あの、はやてちゃん。颯輔君を迎えに、図書館にでも行ってみますか?」

 

 挙句の果てには、シャマルにまで気を遣わせてしまっている。

 はやては申し訳ない気持ちを抱きつつも、魅力的な提案に頬を綻ばせた。

 

「うーん、でも、今日は進路相談で遅くなる言うてたで? ちょう待つことになるかもしれへんけど、シャマルはええの?」

「大丈夫ですよ。はやてちゃんが本を選ぶのにお付き合いしますし、私も、何か面白い本を見つけられるかもしれませんから」

「そかそか。ほんなら、行ってみよか?」

「はい。戸締りをしてからコートを取ってくるので、少し待っていてくださいね」

 

 ぱたぱたと駆け出すシャマルを見送り、はやては颯輔に向けて念話を送った。念話を覚えてからは、携帯の使用率がとんと低くなったはやてである。

 

『あー、もしもしお兄?』

『……はやてか? お前、学校の間はいきなり念話を送ってくるなって、あれほど言ったじゃないか……』

『びっくりしてビクってなるんやろ? ええ加減慣れてよ、お兄』

『せめてコール音を鳴らしなさい。……で、何の用だ?』

 

 口で言うんかい、と心の中でツッコミを入れ、はやては要件を伝える。

 

『ん、シャマルと一緒に図書館で待っとるから、終わったら来てな』

『わかったけど、たぶん、17時は過ぎるぞ? いいのか?』

『ええよ、本読んどるから。夕ご飯の支度も終わってもうたし』

『随分と早いな。まあ、終わったら行くよ。それじゃあな』

『はいはーい』

 

 颯輔との念話を終えると、カーキ色のコートを着込んだシャマルが戻ってくるところだった。自分の分を受け取ったはやては、それを着込んで毛糸の手袋もはめる。準備を終えると、シャマルに車椅子を押されて家を出た。

 12月に入って日照時間は大分短くなり、16時を過ぎたばかりだというのに空は茜色に染まっている。吹き付ける冷たい風に、はやては小さく身を震わせた。

 帽子とマフラーも必要やったかも、と考えながら、ブランケットを掛け直してから口の前に両手を持ってくる。はぁー、と吐き出した息は、一瞬だけ白い霧を作って宙に消えた。

 ご近所さんや帰宅途中の学生達とすれ違いつつ、シャマルにクイズを出して風芽丘の図書館を目指す。お題は先ほど作ったおでんのレシピ。時折出てくる不穏なアレンジに恐れ戦きながら、シャマルの間違いを正していく。こうした確認作業をしなければ、いつ物体Xが出てくるかもわからないのだ。以前、試しにシャマル一人で料理をさせてみたところ、止めるのがあと一歩遅ければ凄惨な事態になるところだったほどである。

 シャマルがレシピを暗唱できるようになった頃、ちょうど、風芽丘図書館に到着した。携帯がマナーモードになっていることを確認するついでに時間を確かめてみると、颯輔の言っていた時間までは、少なくとも30分はある。いつの間にか、茜色だった空は夜の深い青へと変化していた。

 はやては顔見知りの司書さんにペコリとお辞儀をし、まずは新刊コーナーへと進んだ。今月の新刊の出版日にはまだ数日あったためか、ラインナップに変化は見られない。はやての興味を傾ける本も、兄が気になるであろう本も、すでに読み尽くしてしまっていた。

 

『シャマル、小説コーナー恋愛モノ目指して出発進行や!』

『了解しました!』

 

 寒くなるにつれて増え始めた受験生に気を遣い――とは言っても、当人たちは楽しんでやっているのだが――はやてはシャマルに念話で指示を出した。本日のはやての趣向は切ない恋愛話。それが年上、それも禁断の恋だったりしたら、尚グッド。恋愛モノならば、そういったドラマが大好物なシャマルも楽しめるだろう。ジャンル毎に棚を分けてくれているこの図書館は、実に探し物がし易い。

 いざ物色を始め、しばらく経ったところでシャマルの息を飲む音が聞こえてきた。

 

『ごめんなさい、はやてちゃん。ちょっと、お手洗いに行ってきますね』

『ん、りょーかいや』

 

 すぐに戻ってきますから、と告げた急ぎ足のシャマルの背中が見えなくなると、はやては綺麗に本の並んだ棚に視線を戻した。

 シャマルがいなければ少し高い位置にある本には手が届かないのだが、未だ気になるタイトルは見つけていない。目線の高さから段を下げていくと、最下段を通り過ぎて最上段になってしまった。

 

「……あ」

 

 タイトルはとても口には出せないが、気になるものを見つけてしまった。シャマルがそばにいなかったことは幸か不幸か、それははやての手が届くか届かないかの位置にあった。

 目ぼしい本はいつもこうだ。ひょっとしたら、わざとそうセッティングしているのではないか。

 理不尽な怒りを感じつつ、車椅子を本棚にピタリと着けて車輪を固定したはやては、ぐっと手を伸ばした。シャマル達が現れるまで、こんなことは日常茶飯事だったのだ。随分と久しぶりの動作とはいえ、この程度で屈するはやてではない。

 指先が背表紙に触れる。あと、もう少し。

 奥の手発動や、と車椅子の肘置きに手をついて体重を掛けたはやては――

 

「んっ、しょ――ひゃっ!?」

「――っ!」

 

 無理な過重に車椅子が傾き、バランスを崩してしまった。

 ああ、こらあかん、と来たる衝撃に備えて固く目を閉じたはやては、ぽふっ、と予想に反して柔らかい感触に包まれた。カーペットにしては柔らかく、また、温か過ぎる。んぅ、と小さく疑問の声を上げて目を開いたはやては、茶色の生地と紫の毛束を視界に収めた。

 

「よかったぁ……。あの、大丈夫ですか?」

 

 はやてが目線を上げたその先には、同年代の少女の上品な微笑があった。

 

 

 

 

「本当にこれでいいのか、八神?」

 

 私立風芽丘学園の進路相談室。若干黄色味を帯びた古い蛍光灯が照らすその場所で、颯輔は担任の教師と向かい合っていた。担任は三十代前半と教師にしてはまだまだ若い年齢だが、眼鏡の奥の鋭い目つきとその口調が、すでに貫禄を醸し出している。厳しい人ではあるが、その分生徒思いで人気のある先生だ。

 自分と進路希望調査票を見比べながら問いを投げかけてくる担任に、颯輔は頷いて返した。

 

「はい。就職の方向でお願いします」

「八神の学力ならば国公立も十分狙えると思うんだがな。学費の心配をしているのならば、無利子の奨学金の申請も通るはずだぞ?」

「それは嬉しい話なんですけど……。ちょっと、稼がなければ生活が苦しくなりそうでして」

「む、そう言われるとこちらは何も言えんな……」

「すみません」

「謝る必要はないだろうに。ともかく分かった。八神がしっかり考えた上での結論ならば、もう何も言うまい。少々気は早いかもしれんが、地元で良さそうな企業を見繕っておこう」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

「構わん。進路希望調査はまだ何度かあるが、もしも気が変わったのなら、いつでも言いに来なさい。……おっと、いつでもと言っても来春までが期限だからな。それでは、次の者を呼んできてくれ」

「わかりました。それでは、失礼します」

 

 深く礼をし、颯輔は進路相談室を出た。

 八神家の事情は、当然学校側にも告げてある。中には同情的な視線を向けてくる教師も親身になってくれる教師もいたが、やはり、特別扱いはせずとも配慮はしてくれる担任が一番やりやすかった。

 この先三者面談もあったりするが、異国で忙しくしているであろうグレアムを呼ぶべきか、それともザフィーラあたりに協力してもらうべきか。そのときが来たら考えるか、と自問自答を終了した颯輔は、教室へと続く廊下を歩く。

 ちなみに、シグナムかシャマルに頼むという案はない。あの二人はただでさえ目立つ容姿をしているのだから、共に歩く姿を男子生徒にでも目撃されたあかつきには、またよからぬ称号を頂戴してしまうであろうことは目に見えていた。

 一度その経験をしてしまった颯輔は、それによって被る事象を十二分に理解していた。具体的には、比較的仲がいいはずの男子にまで恨みがましい目線を向けられたり、集団で家に押しかけられそうになったり、すれ違う女子にヒソヒソと何事かを囁かれたり、などだ。

 哀愁漂う背中を見せる颯輔は、辿り着いた教室の戸を開いた。中には、順番待ちや相談の終わったクラスメイト達が残っている。次の生徒に順番が来たことを告げ、コートを取った颯輔は、自分の席へと戻った。

 

「お疲れ、八神君。もう終わったんだ?」

「終わったけど……高町の番って、昨日じゃなかった?」

 

 こちらまで来て声をかけてきた美由希に、颯輔は疑問を返す。時刻はすでに17時を過ぎている。部活動はまだ終わっていない時間で、何もないならば残っているような時間でもなかった。そもそも美由希の進路相談は、昨日で終わっているはずである。

 

「私は、まあ、ちょっと友達と話し込んじゃっただけだよ。どの大学がいいかー、とか」

「そう。高町は進学だったね」

「うん…………」

「……? どうかした?」

 

 コートを着込む途中だった颯輔は、不意に黙り込んでしまった美由希に向き直った。その視線は、颯輔のだらりと下した左腕に向けられていて。

 

「……高町?」

「八神君、怪我でもしたの?」

「え……?」

「いや、左手、コート着るのに全然使ってなかったからさ。重心も傾いちゃってるし、怪我でもしたのかなーって」

「ああ、ちょっと、体育の柔道で受け身をミスってね、変なふうに手を着いちゃったんだよ」

「ふーん……。武道に怪我は付き物だけど、気をつけないとダメだよ?」

「了解。高町は剣道で大活躍だって聞いてるけど、俺はそっちの才能は皆無だったみたいだなぁ」

 

 できるだけ自然に苦笑を返し、颯輔は右肩に鞄を掛けた。まるで暗殺者のように鋭かった美由希の目は、今はもう普段の柔らかいものに戻っている。面倒なことになった、と思いつつ、颯輔は携帯を開いた。

 

「妹が待ってるみたいだから、俺は図書館に行くよ。それじゃあ」

「うん、じゃあ、また明日」

 

 美由希に軽く手を振った颯輔は教室を出ると、特に操作もしなかった携帯を閉じてポケットへと戻した。戸を開く音が聞こえないことに、一度後ろを振り向いて確認した颯輔は、ふぅ、と深い息を吐いた。

 どうやら、美由希には気づかれてしまったらしい。颯輔自身気をつけていたつもりだったが、肘から先はまだ動くとはいえ、腕一本をほとんど使わないというのは、目立つ場面では目立つものだ。おそらく、美由希以外にも薄々と感づいている者はいるのだろう。明日からは、体育の授業も見学した方がいいのかもしれない。

 颯輔は、今や形だけの拳しか作れなくなった左腕を擦った。闇の書の蒐集を開始させてから一ヶ月は経つが、その間も、徐々にではあるが颯輔の左腕の麻痺は進行していた。旅館で感じた痛みも、何の前触れもなしに突然襲ってくることがある。蒐集は順調なペースで進んでいるが、きっと、闇の書が完成するまでは付き合うことになる問題なのだろう。

 そして、颯輔が影響を受けているということは、つまり、はやても同じ状況にあるということで。

 

「…………っ!」

 

 縁起でもない想像を振り払い、昇降口で靴を履き替える。外はすっかり暗くなってしまっており、気温も大分低くなっていた。

 はやてからの連絡を受けたのは、もはや一時間も前。はやてもシャマルも図書館で暇をするようなことはないだろうが、待たせてしまったことには変わりない。颯輔は歩幅を気持ち大きめに取り、図書館へと急いだ。

 

『颯輔、連絡があります』

「――っ」

 

 突然の声に、ビクリ、と颯輔の肩が上がった。念話を受ける頻度はここの所上がりつつあるが、やはり、慣れないものは慣れない。電話のように着信音が鳴るものはまた別なのだが、どうも苦手があるらしい。もちろん、颯輔にはホラーが苦手などという事実はないはずなのだが。

 目だけを動かして辺りの様子を探った颯輔は、何事もなかったかのように念話に応じた。

 

『どうした、シグナム?』

『少々――いえ、少しばかり大きな問題が発生しました。詳しくは後ほど報告しますので、今ははやてとシャマルを連れ、早急に帰宅してください。私達もまもなく帰還しますので』

『わかった。気を付けて』

『はい。それでは』

 

 色々と訊きたいと思う衝動をぐっと堪え、颯輔は不自然にならない程度に足を速めた。

 元より、全てが順風満帆にいくとは思っていない。多かれ少なかれ、困難にぶつかることは想定済みだ。問題は、それが対処できる範囲であるかどうか。

 風芽丘図書館に辿り着いた颯輔は、急ぎはやて達を捜そうとして――

 

「あっ、お兄! おーい、こっちやでー」

 

 入口のロビーにて、能天気に手を振ってくるはやてに呼び止められた。声のした方向、自動販売機が備えられた休憩ブースに、はやて達の姿を見つける。

 そこには、はやてとシャマルの他にも見慣れない少女の姿があった。波打つ紫の長髪に、白いヘアバンド。ダッフルコートの下に覗くのは、確か、聖祥小学校の制服だったか。

 

「あ、こんばんは。それから初めまして、お兄さん。私、月村すずかといいます」

 

 わざわざ立ち上がった少女から簡素な自己紹介を受け、続き、それはそれは丁寧なお辞儀をされたのだった。

 

 

 

 

 12月2日午後10時。時空管理局本局の一室にて、リンディ・ハラオウンは厳しい面持ちで対談に臨んでいた。

 温厚な性格で普段は笑顔を絶やさないリンディだが、今回ばかりはそうもいっていられない。相手は時空管理局のトップに限りなく近い存在で、題目は二人の少女の今後を賭けたものなのだから。

 

「本気、なのですか」

 

 聞かされた内容を十分に咀嚼したリンディは、冷ややかな声音を絶対零度の視線と共に放った。決して上官に向けるべきものではない。しかし、それ故にその態度はリンディの心境を如実に表していた。

 並の管理局員ならばすぐさま尻尾を巻いて逃げ出す様な精神攻撃だが、対面に座るギル・グレアムは、あくまでも涼しい表情で応じた。

 

「もちろんだとも。何なら、運用部に所属している君の友人に確認を取ってもらっても構わないのだよ」

「……しかし、彼女達はまだ九歳の少女です。今回の任務には、あまりにも――」

「――君が、それを言うのかね? 高町なのはに協力関係を持ち掛け、フェイト・テスタロッサに嘱託魔導師の道を勧めたのは、君自身に他ならない。そして何より、息子には関わることを許しているじゃないか」

「それは……!」

 

 グレアムに言葉を被せられ、攻め気だったリンディの表情が崩れた。グレアムが言ったことは、紛れもない事実だったためだ。

 ジュエルシード事件にて、管理局の到着前にジュエルシードの回収に当たっていた現地人をこちら側に引き込んだのは、リンディだった。裁判中の少女に、少しでも罪を軽くするためにと嘱託魔導師試験を受けさせたのは、リンディだった。彼女達の魔法資質があまりにも高く、管理局にとっては喉から手が出るほどに欲しい人材であったために。

 そして、息子であるクロノ・ハラオウンの特務四課入りを許したのも、リンディ自身だった。自分で決めたのならと、クロノの意志を優先させてしまったのだ。

 

「情に厚いのは君の長所ではあるが、同時に短所でもある。君は世渡りが上手いように見えて、その実とても不器用だ。いずれ官職に就くつもりならば、直さなければならないところだね」

「――っ! それとこれとは別問題ですっ! 今話し合っているのは、高町なのはとフェイト・テスタロッサの部隊所属の件でしょうっ!」

「……リンディ君、君は一つ勘違いをしている。これは話し合いなどではなく、通達だ。これは、上層部の決定なのだよ」

「上層部って、貴方の上に立つ人など――」

「――立場を弁えたまえよ、リンディ・ハラオウン『少将』。これは既に決定事項なのだ。君がどう足掻いたところで、今更覆るような問題ではない。それが例え、この私であってもね」

「………………」

 

 ギル・グレアム『大将』の言葉に、リンディは異論の言葉を飲み込んだ。その代わり、握り込んだ拳は節が白くなっており、膝の上で震えている。ギリっ、と歯が鳴り、リンディの口の中に血の味が広がった。

 

「それに、君もよく知っているはずだ。闇の書の蒐集を一度でも受けた者は、再度蒐集されることはない。すでにリンカーコアの回復が始まっている彼女達ならば、一週間もすれば体調も含めて万全の状態で復帰できるだろう。破損したデバイスについても、こちらで修理を受け持つ。それに彼女達は、今回の『闇の書事件』で唯一確認された人間の被害者だ。なのは君もフェイト君も、もしかするとなんらかの関係を持っているか、核心に触れてしまったのかもしれない」

「……それはつまり、魔法文化のない第97管理外世界に、当代の闇の書の主が潜伏しているかもしれないということですか?」

「あくまでも、可能性の話だがね」

「それでは尚のことです。将来有望な魔導師を、ここで失うわけにはいきません」

「では訊くが、どうして彼女達は今回の戦闘を生き残った? 治療までされていた理由は?」

「それは……」

 

 グレアムの質問は、リンディにも検討のつかないものだった。

 本日、現地時間で17時を回ったころ、高町なのはとフェイト・テスタロッサの二名が魔力を奪われた状態で発見された。リンカーコアの異常なまでの収縮は、闇の書による蒐集特有のものだ。二人の証言からも、加害者は闇の書の守護騎士であるとほぼ特定できている。

 この事件のおかしな点は、二人が管理局の手の届かないところで蒐集を受けたにもかかわらず、五体満足でいられたこと。あり得ない点は、一度負った怪我を治療された形跡があること。そのどちらもが、これまでの『闇の書事件』では考えられなかったことだ。今では人間の被害者も出てしまったとはいえ、これまでは魔法生物のみからの蒐集であったことと並び、今回の異常な点の一つである。

 二人が生還できたのは、まさに奇跡と表現しても過言ではない。事件後二時間程度で目を覚まし、なおかつ、すでにリンカーコアの回復が始まっている点も含めて、だ。

 

「さらには、君が本局の医療センターに運び込むまでに……いや、フェイト君の使い魔が二人を発見するまでに、戦闘終了からはいくらか時間があったはずだ。その時点でも現地の気温は低かったと報告を受けている。もしも発見が遅れ、本人たちも目を覚まさずに放置されていれば、凍死の危険もあっただろう。それが、結界まで張られて守られていた。以上の事から考えるに、おそらく、今回の闇の書の主には未だ良心が残っており、守護騎士には良心が芽生えているのだと推測される」

「……良心、ですか? 主と、あの守護騎士に……?」

 

 グレアムの推測は、リンディには信じ難いものだった。

 これまでの闇の書の主はそのいずれもが残虐非道な人物で、守護騎士は蒐集さえ行えれば対象の生死など問わないような存在だったのだ。それ故に、管理局ではロストロギアが齎す天災扱いされていた。それが今更になって良心などと、とてもではないが信じられない。

 しかし、そうでなければ今回の事態はあり得なかっただろうこともまた事実。

 

「もっとも、それだけでこれまでの行為が許されるわけでは絶対にないがね。犯した罪は償わせなければならない。これ以上の罪を重ねさせてはならない。被害者を増やすことも、ここで終わりにしなければならない」

「………………」

「そのための特務四課だ。我々としても、蒐集を気にせずに済む戦力が増えるのは望外な展開なのだよ。管理局は実力主義の世界。年若くとも、彼女達には一線級の実力がある。聡明な君ならば、わかってもらえると思っていたのだが?」

 

 グレアムの真っ直ぐな視線を、リンディは正面から受け止めた。先ほどまでの動揺は、常識を覆す様なグレアムの推測で吹き飛んでしまっている。故に、そこにいるのは管理局の次代を担うと称されている、若き将官リンディ・ハラオウンに他ならない。

 もっとも、リンディの表も裏もよく知る友人は、『犯罪者も真っ青の腹黒女』などと揶揄しているのだが。

 グレアムの言葉のとおり、なのはにフェイトほどの魔導師が蒐集を気にせずに動けるというのは、管理局にとっては大きなアドバンテージである。今回は惨敗してしまったようだが、相互の魔法資質には大した差はないはずだとリンディは考えていた。勝敗を分ける違いがあったとすれば、それは、間違いなく経験の差だろう。

 返答を決めたリンディは厳しい表情を一変させ、聖母のような微笑みを装着した。気のせいでなければ、グレアムの頬がヒクついたように見える。

 

「わかりました。高町なのはとフェイト・テスタロッサの特務四課所属の件に関しては、もう何もいいません」

「……そうか、わかってくれたか。二人とも君の所に所属していたからね、話だけは通さなければと思っていたのだよ」

「流石はグレアム提督ですわ。このような小娘にまで義理を通してくださるだなんて。ここだけの話、他の大将殿ではこうはいきません。手塩にかけて育てた人材『全て』を、強盗のように掠め取っていくのですからね」

「………………」

 

 リンディは出された紅茶を口に運び、口内を潤した。切れてしまった唇が沁みたが、ここで笑顔を崩すような真似はしない。

 

「……ところで提督? 話はガラリと変わるのですが」

「……聞こうか」

「私、丁度良く長期休暇中でこれから暇を持て余すことになるだろう使える人材を、たまたま知っていますの。闇の書の犠牲者を減らすための少数精鋭部隊だとは熟知しておりますが、使える人材というのは何人いても困らないものです。ここまで来たら、二人も三人も四人も一緒だとは思いませんか?」

「……………………」

 

 沈黙するグレアムに、リンディはニッコリと微笑み続けた。

 後に、英雄ギル・グレアムはこう語る。昔から何故かあの笑顔には逆うことができない、あれはもはや稀少技能の領域だ、と。

 

 

 

 

 はやてが眠りにつき、シグナム達が蒐集へと向かってしまった深夜。八神颯輔は自室の窓から、薄く雲のかかった空を見上げていた。上空は風の流れが早いようで、雲が押し流されてはその形を変化させている。雲間から見える夜空が刻一刻と変化しているせいで、星は見えてもそれが表す星座まではわからなかった。

 颯輔が帰宅後に受けたシグナムとヴィータの報告は、吉報の類ではなかった。魔導師からの――それも、高町なのはと時空管理局員からの蒐集。止むを得なかったとはいえ、越えたくはなかった一線を越えてしまったのだ。その事実が、颯輔の心に重くのしかかっていた。

 颯輔は重く感じる体を支えるように、窓辺に置いた闇の書に触れた。心では敬遠しているはずなのに、その本は颯輔の手にしっくりと馴染んでくる。それが、どこまでいっても自分は闇の書の主なのだと、颯輔に再認識させてくれていた。

 

「さて、と……」

 

 闇の書を開いて蒐集の済んだ頁数を確認する。高町なのは達は破格の魔力の持ち主だったようで、今日一日だけで稼いだ頁数は平時の倍ではきかなかった。それにより、現在の闇の書は453頁まで埋まっている。

 魔法生物から蒐集するよりも、魔導師から蒐集した方が闇の書の完成は早いのではないか。

 

「………………」

 

 脳裏によぎった悪魔のささやきを聞き流し、颯輔は告げられた新たな事実を思い返した。

 蒐集頁数が400頁を越えた闇の書は、管制人格を起動させることができる。起動すれば、管制人格――主をサポートする融合騎との対話と、精神アクセスが可能となるのだ。

 闇の書そのものと言い表しても過言ではない管制人格には、正直、言ってやりたいことや訊きたいことが山ほどある。温かな時間を過ごしていたはずが、あの日を境にこのような過酷な状況に陥っているのだから、当然のことだった。

 管制人格から、真実を聞き出すために――

 

「管理者権限を行使する。……闇の書、第一封印を解除しろ」

 

 颯輔は、そのワードを口にした。

 

 



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第十六話 真実

 

 

 12月3日午前8時。あるときは若き天才考古学者、またあるときは優秀な結界魔導師、またあるときは高町家のフェレット、そして今現在は時空管理局の無限書庫に勤める見習い司書――ただし、実力は司書長が感涙を通り越して絶句するほど――である少年、ユーノ・スクライアは朝の本局医療センターを駆けていた。

 じんわりと汗をかいたユーノの額には金の髪が張り付いており、その口からは荒い息が零れている。すれ違う医務官に注意され、すみません、と謝りつつも、ユーノがその足を止めることはなかった。

 本来は遺跡発掘を生業とするスクライアの一族であるユーノが、管理局に所属するようになった過程にはやんごとなき事情があるのだが、それを一言で説明してしまえば、あのにっくき黒いののせいであった。

 今月頭にフェイトの裁判がようやく終わり、これでやっと仕事に集中できると思った矢先に催促され、その名のとおり無限の所蔵を持つ無限書庫にて、今の今まで地獄のような作業に明け暮れていたのも、あのにっくき黒いののせいである。

 作業がキリのいいところまで進み、何とか出航に間に合ったと思った矢先に連絡を受け、慣れない全力疾走をすることになったのも、あのにっくき黒いののせいである。

 しかし、この一大事を知らせてくれたことには感謝をしなければならない。一大事になる前に手を打てなかったことについては、自分を含めて一発ぶん殴ってやらなければ気がすまないが。

 柔和を絵に描いて表したような少年であるはずのユーノは、心に暗い炎を灯して突き当たりの角を曲がった。そしてその先に、廊下の壁に背中を預けて腕を組み、何故か不機嫌そうな顔をしているあのにっくき黒いのの姿を見つけたのだった。

 

「ああ、随分と急いで来たようだな――って、今はマズイっ! よすんだユー――」

「――なのはっ! フェイトっ! 怪我は、な、い…………」

 

 にっくき黒いのことクロノ・ハラオウンを突き飛ばして扉を開けたユーノは、その部屋の中、備え付けられた二つのベッド付近に、二人の少女の肌色の姿を見た。

 

「――っ!? ……っ! ……っっ!!」

「………………ユーノ、く、ん……?」

「…………あの、間違えました」

 

 ぼふんっと頭から煙を上げて真っ赤になったユーノは、そっと後ずさって扉を閉めた。終始廊下で待機していたクロノは、頭痛を治めるように眉間に刻まれた皺を揉み解している。あ、あはは、と乾いた笑いを漏らしたユーノは、直後、部屋から上がる少女達の甲高い悲鳴を聞いたのだった。

 

「……気持ちはわからないでもないが、もう少し冷静に行動すべきだったな。それから、覗きの現行犯だ」

 

 懐から取り出したカードを黒い魔導師の杖――S2Uへと変えた少年執務官にその先を突き付けられたユーノは、瞬く間に捕縛魔法によって拘束されてしまった。両の肘と手首を胴ごと、そして、両足首をまとめた三カ所を、水色の帯によって締め付けられている。クロノによって発動された、三重のバインドだった。

 

「ちょっ、待っ!? さっきのは不慮の事故であって、つまり、僕は無実なんだっ! す、少なくとも、狙ってやったわけじゃないっ! ただなのはとフェイトのことを心配してっ!」

「言い訳がましいな、この発情フェレットめ。徹夜明けでおかしくなってしまったか」

「徹夜させたのはクロノじゃないかっ!? っていうか、僕はフェレットじゃないし発情もしていないっ!!」

「医療センターでは静かにしたほうがいい。それから、むしろ君はこの程度で済んでいることに感謝するべきだ。なのは達が魔法を使える状態だったなら、間違いなくあの馬鹿魔力の餌食になっていたぞ? そうでなくとも、ビンタの一発二発はもらっていたところだ」

「……馬鹿魔力って、誰のことを言ってるのかな?」

「それはもちろん君の――…………」

 

 第三者の声にすかさず返したクロノは、その途中で言葉を失った。ガクガクブルブルと震えるユーノの後ろに、二本の明るい茶色をした触覚と、二本の金色をした尻尾を見つけてしまったからだ。

 ユーノの後ろ、開いた扉から出てきたのは、着替えを済ませた高町なのはとフェイト・テスタロッサだった。なのははクロノの母親を思わせる素晴らしい笑顔を浮かべていて、フェイトは顔を真っ赤にして涙目になっていた。

 ユーノと共に口を閉ざして冷や汗をかき始めたクロノは、続く衝撃の発言に顔を真っ赤にしてから真っ青にした。

 

「クロノも……見たでしょ……!」

「二人とも、何か言うことは……?」

 

 二人の少女の言葉を受けたユーノとクロノは、それはそれは丁寧な謝罪をしたのだった。

 

 

 

 

 時を同じくして、八神颯輔は自室にて携帯電話を耳に当てていた。普段ならばとっくに家を出ている時間だが、今日は服装も寝間着のままだ。休日というわけでもなく、そして、臨時休校というわけでもない。

 保留音が二度ループして三周目に入ってまもなく、電話越しの相手はようやく受話器を取ったようだった。

 

『もしもし。すまんな、待たせてしまって。それで、どうした八神?』

「先生、おはようございます。昨日の今日で申し訳ないのですが、実は、風邪を引いてしまったみたいでして……」

『あー、朝方は大分冷え込んだからな。どうした、布団を蹴飛ばしてでも寝たのか?』

「はは、そうかもしれません。それで、ちょっと熱が下がらないので、今日は学校を休ませてもらおうかと」

『あいわかった。今日一日ゆっくり養生して、明日には学校に来られるようにしなさい。それから、三年生はデリケートな季節だ。辛いかもしれんが、一応、病院に行って診察を受けておくように』

「予防接種はしたんですけど、様子を見て行ってみます。それでは、すみませんがよろしくお願いします」

『ああ、お大事に』

「はい、失礼します」

 

 通話を終えた颯輔は携帯を閉じ、ベッドへと倒れ込んだ。睡眠不足により目の下には濃い隈が刻まれているが、本当に熱があるわけではない。ただ、体調が悪いのだけは本当だった。気分などは特に、これまでの人生で最悪のコンディションだ。

 体調が優れず、しなければならないこともあった颯輔は、初めて学校を仮病で休んだ。しかし幸い、そのおかげで今日一日は美由希とも顔を合わせずに済む。昨日の今日では、彼女にどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 ちょうど、颯輔の顔の横の位置にあった金細工で装飾されたハードカバー――闇の書が、淡い光を放った。光は像を結び、剣十字の上に女性の立体映像を映し出す。流れる銀の長髪に、紅玉のような瞳。等身は本来の人間サイズではなく、女の子向けの着せ替え人形サイズだ。黄色いラインの入った黒地のワンピースといった装いで、その左手首には、手枷を彷彿とさせるような禍々しい腕甲を装備していた。

 

『やはり、お加減は優れませんか……?』

「あんなものを見たら流石に、ね……。それに、これから考えないといけないことも増えたし……」

『……申し訳ありません』

「それはもういいって。お前だけが悪いわけじゃないのは、十分わかった。昨日みたいに責め立てたりはしないさ。……そこは、俺も悪かったと思ってる。ごめん」

 

 昨晩の話の内容を思い出し、颯輔は複雑な表情を浮かべて謝った。対する女性――闇の書の管制人格は、顔を俯かせているままだ。もう涙は枯れてしまったのか、今は泣いている様子はない。もっとも、泣かれたとしても今の颯輔の精神状態ではろくな慰めをできそうになかったため、それは正直有難かった。

 昨晩、夕食を食べ終えて就寝の準備も済ませた颯輔は、自室にて管制人格を起動させていた。懸念はしていたとはいえ、予定外のアクシデントがあり、すがるような気持ちで起動させた彼女から語られたのはしかし、あまりにも残酷な話だった。

 シグナム達には何も知らせていないため、今も身を危険にさらして蒐集を続けている事だろう。お前たちがしているのは自殺の手伝いだ、などとは言えるはずがないのだ。

 一階では、蒐集が行われていることさえ知らないはやてが、今日は休息を取っているザフィーラに、昨日できた友達の話でもしているだろう。お前の命は残り僅かだ、などと、いったい誰が言えるというのか。

 つまり、闇の書の真実を知るのは、颯輔と管制人格のみ。

 肉体的な疲れなど皆無だが、一つ大きな伸びをしてから身を起こした颯輔は、努めて明るい声を出した。

 

「さて、学校はもう休んじゃったし、もう一度抜け道を探すとしますか」

『――っ!? そんな、これ以上は主の心が耐え切れませんっ! 私と深く繋がってしまえば、侵食も進んでしまうのですよっ!? それに、この絶望に抜け道など――』

「――じゃあお前は、俺とはやてにこのまま死ねっていうのか?」

『そ、それは……!』

「俺はこのまま死んでしまうのも、はやてを死なせてしまうのも、お前達を囚われたままにしておくのも、何も見なかったことにしてわずかに延命されるのも……全部、真っ平御免だ」

 

 昨晩、真実を知った颯輔は、管制人格に一つの提案をされていた。蒐集を止めれば、あと一年は生きられる、と。侵食をできる限り食い止め、少しでも長く生かしてみせる、と。

 だが、闇の書を完成させずとも、待っているのは同じ未来。それに、もうすでに賽は投げられてしまったのだ。昨晩の出来事で、管理局も動き出してしまったことだろう。昨晩の出来事があらずとも、動き出してはいるのだろうが。どのみち、引き返すべき道などありはしない。

 ならば、颯輔達が未来を掴む方法は唯一つ。

 

「生き延びるためには、夜天の魔導書の異常をどうにかしないといけない。今回二人の主が選ばれたことには、必ず意味があるはずなんだ。だから俺は、最後の時まで抗っていたい」

 

 例え、破滅の道を進み行くことになろうとも。

 絶望の運命だけは、打ち破ってみせる。

 颯輔の強い覚悟は、何人にも砕くことなどできはしない。

 

『……わかり、ました。……ならば私も、貴方と共に抗いましょう。全ては、我が主の御心のままに』

 

 だから、夜天の魔導書の管制人格であった彼女は、夜天の主に仕える融合騎であった彼女は、闇に囚われてしまった彼女は、今はただ颯輔に付き従うのみ。彼が闇に囚われてしまうのを、少しでも防ぐために。

 

「ありがとう……。それじゃあ、行こう」

『はい、我が主……』

 

 身を起こした颯輔は、立体映像の消えてしまった闇の書を手に取り、額へとかざした。冷たい金細工に触れたことで、額から体温を奪われる感覚があった。

 これより颯輔が旅立つのは、永きに渡って続いた地獄の世界。深淵の闇に覆われた、彼女達の記憶の世界だ。

 

「『精神同調、スタート』」

 

 颯輔はその意識を、闇の書の内へと埋没させた。

 

 

 

 

 医療センターでの騒動から一時間が経過した頃、改修を終えて新装備を積んだ巡航L級8番艦『アースラ』のブリーフィングルームには、特務四課の主な構成員に見習い司書のユーノを加えたメンバーが集合していた。中にはここで初めて顔を合わせた者もいるのだが、それを考慮した自己紹介はすでに終えている。

 直前までお冠だったなのはだが、外見的に偉そうな――実際とてつもなく偉い――初老の男性の登場に、今は緊張を高めていた。それは、隣にいるフェイトも同様のようで、二人は不安を取り除くように机の下で手を取り合っていた。

 

「はは、そう固くならずともいいのだよ、なのは君。それに、フェイト君もね。私は今回の任務では部隊長及び艦長を務めさせてもらうが、所詮は老いぼれの爺だ。適度な緊張は必要かもしれないが、今はまだ気を楽にしていてもいい。それに、君達に協力してもらうのは、君達の体調が良くなってからだしね」

「「はっ、はいっ!」」

 

 揃って裏返った声を出すなのはとフェイトだったが、穏やかな眼差しで微笑むというグレアムの反応に余計に恥ずかしさを感じてしまい、これまた揃って俯いてしまうのだった。

 グレアムのかたわらには、フェイトの復帰に合わせて長期休暇を返上する予定のリンディがおり、あらあらまあまあと二人を見守っている。その隣では、不機嫌な表情のクロノと困り顔のユーノが、未だにリーゼ姉妹によってからかわれていた。消費魔力を抑えるために燃費のいいらしい子犬形態をとっているアルフは、ゆるい部隊だねぇ、とフェイトの膝の上で呆れ顔だ。議事進行を務めるエイミィは、作り笑いを張り付けて周囲の喧騒を受け流している。

 確かに、これからロストロギアの代名詞とも言われている『闇の書』に挑むにしては、些か以上にアットホームな雰囲気だった。

 

「んでんで、クロスケはいったいどっちの子が好みなんだ~? 態々魔法の練習メニューまで考えてやったなのは? それとも、嘱託試験やら裁判やらで付きっきりだったフェイト? でも、フェイトはそのうち妹になるかもしれないんだぞ~? あ、それに加えてエイミィもいるじゃないか! いやぁ、弟子がモテるってのは嬉しいもんだねぇ!」

「いい加減うるさいぞ、ロッテ。今はブリーフィング中だ。……まったく、いつまで経っても話が進まないじゃないか」

「ちぇー、お堅い執務官様だねぇ。せっかくお師匠様が緊張を解してやろうってーのに」

「まあまあロッテ、クロノはムッツリだから、表には出さないのよ。……そっち方面に関しては、こっちの可愛い顔したネズミっ子の方が積極的みたいだねぇ」

「だからあれは誤解ですってばっ! ついでにネズミじゃなくてフェレットですっ!」

「遂に君は、人間扱いされないことにも慣れてしまったようだな……」

 

 その原因は、明らかにあそこの双子の使い魔にあるようだった。しかし、ロッテの言うとおりの目的もあったのか、その主も特に諌めようとはしていない。

 アウェイではないが完全なホームでもないこの場に緊張すればいいのかリラックスすればいいのかわからず、なのはは深い溜息をついていたエイミィへと助けを求める視線を送るのだった。

 なのはの救援に気が付いたエイミィはキョロキョロと周囲を見渡し、「え、あたしっ!?」と自身を指差した。なのはが隣のフェイト共々コクコクと頷くと、見るからにげんなりとしていたエイミィは、その姿勢を正してから大きな咳払いをした。

 

「あー、あー、ンっ、ンンっ! ……あのっ!! クロノ君は自業自得のくせにご立腹ですし、ユーノ君もお疲れだと思うので、そろそろ本題に入らせてもらいまっす! ロッテもアリアも着席するよーにっ!」

「はいはーい」

「む。エイミィに言われたなら仕方なし、か」

 

 エイミィの一声で、面白おかしそうに尻尾を振っていたリーゼ姉妹が席に戻った。二人からようやく解放され、ユーノが一息をついている。クロノはというと、棘のあるエイミィの態度に溜息を漏らしていた。その様子になのははフェイトと顔を見合わせ、小さく笑いを零す。

 場が落ち着いたのを見て取って、エイミィが軽やかなタッチで端末を操作していき、中空に複数のディスプレイを投影した。表示されているのは、金の十字架が装飾された本に、先日なのはとフェイトを襲ってきた二人や、金髪のショートボブの女性と蒼い毛並をしたアルフのような狼の姿だった。新たに加わった一人と一匹については判断がつかないが、なのはも見覚えがある二人は、昨日とは別の鎧のようなバリアジャケットを装備していた。そしてその表情も、まるで別人であるかのように違っていた。

 

「まず確認するが、昨日なのはとフェイトを襲った相手は、このポニーテールの女性とおさげの少女――シグナムとヴィータで間違いないんだな?」

「えっと、たぶん……」

「バリアジャケットの意匠が違うけど、その二人のはずです」

 

 随分と印象の違う画像に、なのはとフェイトは曖昧に返す。その答えを受けたクロノは、微かに眉根を寄せていた。

 

「はっきりとしないな……。しかし、この剣のデバイスとハンマーのデバイスを使っていたのだろう? ベルカのカートリッジシステムを搭載した、アームドデバイスを」

 

 カートリッジシステム――魔力の込められた弾薬を使用することでデバイスへの付加魔力を跳ね上げ、一時的に能力の大幅な向上を図るベルカ式魔法特有の仕組みのことだ。その機構を搭載し、直接的な武器の形状を取ったデバイスは、アームドデバイスと呼称されている。ミッドチルダ式が主流の管理局では、まず見かけることのないデバイスだ。

 そのあたりの説明は、なのはもフェイトも昨日の段階で受けていた。

 受けてはいたのだが。

 

「それは間違いないんだけど……」

「何というか、雰囲気が全然違うような……?」

 

 あの二人は、表示されている画像のように人形のような顔などしていなかった。もっと必死で、攻防の間に感情を見せていて、なのは達と変わらない様子だったのだ。

 二人のこれまた曖昧な返しに、クロノは小さく唸って腕を組んでしまった。グレアムのかたわらに控えるリンディも、拳を口に当てて考え込み始めてしまう。

 停滞しかけた空気を再び進めたのは、双子の使い魔だった。

 

「守護騎士のバリアジャケット――ベルカ式じゃあ騎士甲冑っていうんだけど、それはそのときの主によって変わるもんなんだよ」

「変わらないのは騎士甲冑を除いた外見と使用するデバイス。雰囲気の違いはさておき、顔とデバイスが一致するなら間違いないはずよ」

「……っていうことらしいけど、話を進めちゃってもいいかな?」

 

 疑問を残しつつもリーゼ姉妹の説明に一先ずは納得し、なのはとフェイトはエイミィの催促に頷いて答えた。それを受けたエイミィが、クロノへとアイコンタクトを飛ばす。

 

「昨日も説明はしたが、もう一度おさらいついでに説明しておこう。この四体の守護騎士は、闇の書に付随するプログラム――魔法生命体でしかない。それぞれの戦力は十分脅威だが、真に危険なのは闇の書とその主だ。完成した闇の書は主を取り込み、その力を使って破壊の限りを尽くす。それは、力を使い果たして機能を停止するまで終わることはない。それが終わったとしても、無限再生機能によって自身を修復し、転生機能によって新たな主を捜してしまうんだ」

 

 クロノの説明に合わせ、エイミィが新たな画像や映像を表示させていた。

 そこにあったのは、凄惨な破壊の光景だった。街は火の手に晒され、人々は逃げ惑っている。その名のとおりに闇のように暗い魔法が、都市や艦船、果ては惑星までをも飲み込んでいた。

 なのはは思わずそこから目を逸らし、対面に座るグレアムとリンディが、微かに眉根を寄せているのを見た。

 

「君達が受けたのは、闇の書を完成させるために必要な蒐集という行為だ。リンカーコアから魔力を奪い、白紙の頁を埋めていく。全頁が埋まると完成し、主を取り込んだ闇の書が暴走を始めるというわけさ」

 

 なのはは自身の胸に手をやり、そこをそっと撫でた。そこには、今や弱々しい反応しか感じられないリンカーコアがある。医務官には直に元に戻るだろうと言われたが、それまでは魔法の使用は厳禁とも注意を受けていた。魔法を生き甲斐としているなのはにとっては、呼吸をするなと言われているようなものである。

 どうやらその様子を見ていたらしいリンディが、そっと目を細めていた。

 

「心配しなくても大丈夫よ、なのはさん。それどころか、お医者さんは『元に戻るばかりか成長する勢いだ』って言っていたんですから。もちろん、フェイトさんもね」

「元に戻らないケースもあるみたいなんだけど、なのはちゃん達の場合は副艦長の言うとおりに問題なしっ! 安心してもいいよ! それじゃあクロノ君?」

「ああ。これまで管理局は暴走した闇の書に対し、対艦反応消滅砲――アルカンシェルを持って対抗してきた。着弾地点を中心に、百数十キロの範囲にあるものを文字通り消滅させる魔導砲……闇の書に対抗するために作りだされたと言っても過言じゃない代物だ。だけど今回、アルカンシェルの使用は第二案となる」

「第一案は、闇の書の永久封印。それが、特務四課が掲げる目標だよ」

 

 クロノの言葉を、説明が始まってからは口を開かずにいたグレアムが引き継いだ。口調こそ穏やかではあったが、その双眸には強い意志が感じられる。

 正直、なのはは途中からあまりのスケールの大きさに理解が遅れていたのだが、闇の書の永久封印、と復唱し、辛うじて要点だけは押さえることができた。もっとも、アルカンシェルに関してはすっごく危険なモノ、程度の認識だが。

 一方、なのはの隣に座るフェイトはしっかりと理解したようで、クロノとグレアムの言葉に真剣に相槌を打っていた。後で教えてもらおう、と考えるなのはである。

 

「今回は少々例外も見られるが、このまま何もしなければ、闇の書がもたらす被害だ甚大なものになるだろう。私達は、なんとしてもそれを食い止めなければならない。破損してしまった君達のデバイスは、四課のメンテナンススタッフが修理中だよ。二機の修理が終わり、君達も回復次第、力を貸してもらうことになる。危険な任務になると思うが、どうか、協力してほしい」

「「はいっ!」」

「えー、以上、四課の設営理念、ちなみに情報提供はユーノ君でした。えーと、続いては具体的な隊の編成について――」

「――あのっ!」

 

 エイミィの進行を遮る少年の声。すっと手を挙げたのは、不足している闇の書の情報を無限書庫からかき集めてきたユーノだった。

 グレアムとリンディの様子をちらりと窺ったエイミィは、どうぞ、とユーノを指名する。それを受けたユーノは、これまで以上に真剣な面持ちで立ち上がるのだった。

 

「実は、ロストロギア『闇の書』――いえ、正式名称『夜天の魔導書』には、まだ明かされていない事実があります」

 

 グレアムにリーゼ姉妹、リンディにクロノの纏う雰囲気が、変化する。

 ユーノの口から語られたのは、グレアムでさえ知りえなかった情報だった。

 

 

 

 

 星のない夜空のような、光の届かない深海のような、暗闇に満たされた空間。現実世界とは時間の流れさえ異なる、閉ざされた空間。管制人格との精神アクセスを介した颯輔は、その本体の宿る闇の書の中へと意識を飛ばしていた。

 ここは、颯輔が夢の世界で何度も訪れた世界だ。管制人格の計らいで、忘れていたはずのその記憶は取り戻している。管制人格によればはやても訪れていたらしいのだが、一次起動を果たしてわずかに能力を取り戻した彼女により、その記憶は未だに思い出せないようにされているそうだ。

 

「……では、始めます。どうか飲まれてしまわれないように、心を強くお持ちください」

「ああ、頼む。今度は、大丈夫だから」

 

 かたわらに控える管制人格に、颯輔は穏やかな声音で答えた。

 颯輔が闇の書の記憶を辿るのは、昨晩に続いて二度目となる。昨晩は管制人格に打ち明けられた事実によって精神を揺さぶられていたためか、あまりに残酷な光景を直視し続けることができず、途中で彼女に止められてしまったのだった。

 しかし、今回は違う。夜天の魔導書に異常が生じ、死を呼ぶ魔導書――闇の書と化しているのだという事実は、すでに受け入れることができた。シグナム達の過去については、簡単には受け入れられずとも今度は目を逸らしたりはしない。

 固く握った颯輔の右拳に、常人よりもひんやりとした掌が触れた。

 

「私がおそばに付いております……。ですからどうか、無理だけはなさらないように……」

「……わかってるよ」

 

 小さく息を吐き出し、颯輔はその手を取った。

 小さい頃から一緒だった管制人格は、言うなれば、颯輔にとっては第三の母親か、あるいは姉のような存在なのだ。そして、今にも泣き出しそうな顔をして見上げてくる彼女の進言を、無下にできるような颯輔ではない。

 颯輔の返事を受けた管制人格は、今度こそ術式を起動させた。彼女の足元に、深紫の光を放つ魔法陣が現れる。深い闇に覆われていた二人の周囲がぼやけ始め、徐々に像を結んでいった。

 颯輔と管制人格は、空中から見下ろす様な視点にいた。眼下には、ある家族の団らんの様子が広がっている。温かな夕食を囲む、颯輔にはやてとシグナム達だ。闇の書の最も新しい記憶――すなわち、八神家で過ごした日々だった。

 時間をさかのぼる。

 視界を白い閃光が覆い尽くした。時空管理局が誇る対艦反応消滅砲――アルカンシェルの光だ。光が収まると、シグナム達の戦闘様子が映し出される。戦っている相手は、黒髪の男性に緑色の髪の女性、猫耳に猫の尻尾も生やしたよく似た女性が二人。そして、今の颯輔が知っているよりも若々しい姿の、ギル・グレアムだった。

 時間をさかのぼる。

 シグナム達が、捕縛魔法によって拘束されていた。その身に纏う騎士甲冑の意匠から、『前回』の出来事ではないことが窺える。彼女達の前に立つのは、黒髪をオールバックにした小太りの男だった。狂った高笑いを上げながら、その手の闇の書に蒐集を命じている。シグナム達の胸からそれぞれのリンカーコアが現れ、小さく苦悶の声を上げていた。

 時間をさかのぼる。

 そこは、暗い石造りの地下室だった。光源はランプの灯りのみで、湿った石壁をてらてらと照らしている。部屋の中には、壁に背を預けているシグナムとシャマル、床に横になっているヴィータと、狼形態で伏せているザフィーラの姿があった。室温が低いのか、四人が吐く息は白い。それにもかかわらず、その服装は所々が破けてしまっているボロ切れだった。

 時間をさかのぼる。

 大男の絶叫と共に、真っ赤な鮮血が飛び散った。大男の太腿からは、颯輔にも見覚えのある剣が生えている。剣を突き立てているのは、作り物のような顔をしたシグナムだった。宙に浮く闇の書が、大男のリンカーコアから蒐集を始める。闇の書が閉じられるとシグナムはレヴァンティンを引き抜き、続き、意識を失ってしまった大男の首を斬り落とした。

 時間をさかのぼる。

 城を守る城壁が爆散した。土煙の向こうから覗くのは、あまりに巨大な戦鎚。それを支えるのは、武骨な甲冑を真紅に染め上げたヴィータだった。ギラついた瞳が、風を切って迫る矢を捉える。多方向から放たれたそれらは、紅の障壁によって阻まれた。戦鎚が振り上げられる。振り下ろされたグラーフアイゼンは、弓兵の一団を叩き潰した。

 時間をさかのぼる。

 闇の書の噂を聞きつけ、主を狙った盗賊が屋敷に侵入してきた。主の寝室へと続く回廊を守るのは、氷のような微笑を携えたシャマルだ。向かい側の扉が開き、黒装束の男たちが飛び出してくる。盗賊たちは、鈍い銀色の刃を構えて疾走してきた。しかしその疾走は、十メートルも進まないうちに終わりを迎えるのだった。盗賊たちの体がバラバラに切り裂かれ、肉片と体液を床に撒き散らす。回廊には、目には見えないほどに細いクラールヴィントの魔力紐が張り巡らされていた。

 時間をさかのぼる。

 砂塵が舞い上がる荒野に、一匹の獣の姿があった。その名は、蒼き狼――ザフィーラ。周囲には、ザフィーラの魔力によって形成された杭が所狭しと並んでいる。そしてその先端には、身体の一部を串刺しにされた兵士達の姿があった。杭が描く円の外、軍隊の包囲網がジリジリとその輪を縮めてくる。血の池で上げたザフィーラの遠吠えが、戦場に響き渡った。

 

「う、ううううううう……!」

「主っ!!」

 

 頭に直接叩き込まれる情報の洪水と、それが映し出す光景に、颯輔は意図せず膝を屈してしまった。繋いでいた手を引かれた管制人格が、うずくまる颯輔の体を支える。

 わかってはいた。

 わかってはいたつもりだった。

 そのはずが、なんという醜態をさらしているのか。

 込み上げてきた物を飲み下した颯輔は、管制人格の手を借りながらも立ち上がった。今見た光景は、闇の書が辿ってきた歴史のほんの一端でしかない。シグナム達はさらに長い時をあのようにして過ごし、そして、管制人格はそれをずっと見てきたのだ。

 ならば、こんなところで音を上げるわけにはいかない。

 

「……続けてくれ」

「しかし……」

「いいから、続けてくれ」

 

 颯輔は躊躇する管制人格に、語気を強めて言い聞かせた。

 颯輔の目的は、夜天の魔導書に生じた異常を見つけ出して修正し、闇の書から本来の姿へと戻すことだ。そのためには、その異常がいったいどういうものなのか、いったいどのタイミングで生じさせられたものなのか、まずはそれを解き明かさなければならない。解決法を探るにも、その原因がわからなければ探りようがないのだ。

 だから颯輔は、自身でその心を切り刻むことになろうとも、こんなところで屈するわけにはいかなかったのだ。

 

「……っ」

 

 口を開きかけ、そして、出かけた言葉を飲み込んだ管制人格は、中断していた記憶の再生を再開させた。

 管制人格が自身の異常に気が付いてから主へと伝えたのは、何も今回が初めてというわけではない。どころか、守護騎士達にも伝えたことがある。異常を自覚してからは、声を大にして何度も何度も訴えたのだ。

 しかし、それが主に信じられることはなく、守護騎士達に関心を持たれることもなかった。

 目先の欲に憑りつかれ、力を求めるばかりの主は管制人格の言葉を聞き入れようともしなかった。管制人格が起動できるのは蒐集頁が四百を超えてから。絶対の力を持って世界に君臨する未来を信じて疑わない主に、完成を間近に控えてからではあまりに遅すぎた。

 その頃にはすでに心を閉ざして感情を殺していた守護騎士達は、だからどうした、と聞き流した。異常があろうがなかろうが、辿る運命は破滅ばかり。それによって何かが変わることなどもはやない、と。だから管制人格は、主の命令を遂行するだけの人形に成り果てていた守護騎士達が、せめてこれ以上は壊れてしまわないようにと、終わりの記憶を封印するようになった。

 それからは、自身の異常を誰にも伝えることなく抱え込み、ただただ終わりを繰り返すのみだった。

 だが、今回はこれまでとは何かが違った。

 主が二人も選出された理由については、管制人格である彼女にもわからない。しかしその主達は、闇の書がもたらすとされている恩恵を知っても人間のままでいられたのだ。守護騎士達も主達の温かさに触れ、徐々に人間性を取り戻していった。そして、管制人格にとっては驚くべきことに、家族と呼べる関係にまで成りえたのだった。

 だから、初めて訪れたその関係が壊れてしまうのを、これまで通りにただ黙って見ていることはできなかった。皆の笑顔を、何よりも望んでいたために。

 そして、管制人格の言葉は主に届き、共に解決法を模索するという奇跡のような状況にまで至ったのだ。

 望まぬ終わりを繰り返すのを止めたいことは、管制人格にとっても同じこと。だから彼女は寄り添う主を信じ、共に記憶を辿っていくのだ。

 時間をさかのぼる。

 時間をさかのぼる。

 時間をさかのぼる。

 時間をさかのぼる。

 時間をさかのぼる。

 時折休息を挟みながら、それでも模索をやめることはしない。颯輔は記憶から目を離すことはせず、管制人格は少しでもと颯輔の負担を受け持つ。永遠のように続くその情景を、ただ只管にさかのぼっていった。

 時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼった。

 そして、さかのぼった時の果てに――……。

 

「………………」

 

 気が付けば颯輔は、独りきりでその空間にいた。かたわらに管制人格の姿はなく、記憶の再生も止まってしまっている。辺りを覆い隠すのは、一切の光を拒絶する常闇だ。

 いったいどこまで記憶をさかのぼったのか、果たして異常の原因を見つけることができたのかも定かではない。霧がかかったようにぼんやりとした思考では、何かを考えようとすることもできなかった。

 

「……?」

 

 ふと、こちらを見つめる視線を感じた。

 ここは、颯輔以外には何も存在しないはずの空間だ。しかし颯輔は、確かに何かの気配を感じ取っていた。

 微かに起動しているリンカーコア、それが告げる直感に従い、颯輔はゆっくりと後ろを振り向いた。

 

 

 

 

 ブリーフィングを終えたリーゼアリアは、アースラに備えられたメンテナンスルームに向かうべく、艦内の廊下を踏み鳴らしていた。時折遊び心を覗かせることはあるものの、相方のリーゼロッテと比べずとも理知的な彼女にしては、随分と機嫌が悪い様子だった。

 それもそのはず。クロノが闇の書の調査を依頼したユーノ・スクライアは、あまりにも優秀過ぎたのだ。よりにもよって、こちらの決心が鈍りそうな情報まで集めてきてしまった。アリア達が十一年間かけて集めた情報をたった数日で集めてみせられたのも、その一因だろう。

 ユーノの調べによれば、『闇の書』は『夜天の魔導書』と呼ばれる魔導書だったらしい。その本来の目的は、世界を渡り歩き、各地の魔法技術を収集して研究すること。つまりは、健全な資料本だったそうなのだ。

 それが破壊の力を振るうようになったのは、歴代の主のうちの誰かがプログラムを改変してしまったためだそうだ。それにより、復元機能が無限再生機能へ、世界を旅する機能は転生機能へと変貌。魔法技術を記録する機能も、相手から一方的に搾取するものへとなった。主に対する性質も変化し、一定期間の蒐集がない場合は主の魔法資質をも侵食してしまうらしい。

 そしてそこからは管理局も知っているとおり、完成した闇の書は主を取り込み、その魔力を使って無差別破壊を開始する。アルカンシェルで蒸発させようが、無限再生機能で新たな主の下へと転生する始末だ。ただ、再生にはそれなりに時間を要するらしく、次の事件まではおおよそ十年周期であることが唯一の救いか。

 ここまで調べたユーノもさすがに停止や封印方法まではわからなかったようだが、この話を聞いたグレアムとリーゼ姉妹を除いた面々は、守護騎士にも何か事情があるのではないか、と考え始めてしまった。真実は正にそのとおりであるため、目標を前にして余計な苦労を背負い込むことになってしまうだろう。

 すでに覚悟ができているグレアムとぶれない強い意志の持ち主であるロッテは、いかなる理由があろうとも罪は罪、というスタンスであった。アリア自身もグレアムらの方針には賛同しているのだが、同情を誘うような話を聞いてしまえば、少なからず心を動かされてしまうのもまた事実だった。

 そんな弱い自分が許せなくて、アリアはピリピリと周囲を威嚇するような雰囲気を纏っているのであった。

 廊下をずんずんと進み行くうちに、目的のメンテナンスルームの前に着いてしまった。中には困ったことが起きたと通信を入れてきた四課の技術士が、その頭を悩ませていることだろう。

 両手で頬を張り、高ぶった心を鎮めるように手櫛を使って髪型を整えたアリアは、メンテナンスルームの扉を開いた。

 

「あっ、アリアっ! もう、助けてよぉ~!」

 

 情けない声を上げながら、大きめの白衣を振り乱して駆け寄ってきたのは、四課に出向中の本局メンテナンススタッフ、マリエル・アテンザだ。深緑のショートヘアーに太眉と垂れ目、そして、縁なしの丸眼鏡が特徴的な少女である。四課の中ではロッテとエイミィに続いて絡みやすい性格をしており、皆からはマリーの愛称で親しまれていた。

 マリーは十六歳と、アリアにしてみれば小娘もいいところなのだが、そこは人間と使い魔、呼び捨て程度はご愛嬌である。むしろ、さん付けで呼んでくる人間の方が稀有というものだ。

 縋りついてきたマリーを受け止めたアリアは、よしよしとその頭を撫でた。

 

「はいはいどうしたの? 修理中に上手くいかないところでもあったのかしら?」

「レイジングハートもバルディッシュも、何とかコアは修復できたんだけど……」

「さすがマリー、そこまではいい手際ね」

「うん……。でも、二機ともそれ以上の修理は拒否しちゃって、こっちの操作を受け付けてくれなくて……。これじゃあ戦闘データの吸出しもできないよぉ……」

「あらら、それはなんともまぁ……」

 

 これだからインテリジェントは、という文句を飲み込み、アリアはマリーを引きはがして奥へと進んだ。作業台には、待機状態のレイジングハートとバルディッシュが並んでいる。コアは修復できたという話だったが、その外見には痛々しいヒビが入ったままだった。

 さてどうしたものか、とアリアは腕を組む。マリーは年若くとも一流の技術士だ。そもそも、そうでなければ四課にお呼びがかかるはずがない。そのマリーがお手上げということは、いくら長年の経験からアリアにデバイス関連の知識があろうとも、役に立てることは少ないだろう。

 とは言え、可愛い後輩の頼みを無下にできるはずもなく、とりあえずとアリアはコンソールを立ち上げた。

 

「……んん?」

「あれ、メッセージ? さっきまではこんなの表示されてなかったのに……」

 

 マリーの言うとおり、そこには一つのメッセージが表示されていた。

 

《《Please give us CVK-792.》》

「……!」

「そんなっ!? レイジングハート、バルディッシュ、本気なのっ!?」

 

 文面を見て取ったマリーが驚愕の声を上げる。アリアも、息を詰まらせずにはいられなかった。

 CVK-792――それは、ベルカ式カートリッジシステムを指す規格番号だ。局内では未だ試作段階の域を出ず、実用化にまでは至っていない。論文の発表はされているため、インテリジェントデバイスである二機が独自に調べたことまでは納得できる。しかし、その実装を要求してくるなど、人工知能に異常を来しているとしか思えない判断だった。

 それとも或いは、そこまでして己が主を護り抜く力が欲しいのか。主を護り抜けなかったことを、悔やんでいるのか。

 

「……マリー、この子達は私が説得してみるわ。ちょっと長丁場になるかもしれないから、悪いけど、飲み物を買ってきてもらえるかしら?」

「え? まあ、いいけど……じゃあ、お願いしてもいい?」

「任せなさい」

 

 アリアはニッコリ笑顔で手を振り、メンテナンスルームをあとにするマリーを見送った。あまり上手い口実ではなかったが、その辺りは日頃積み重ねてきた信頼関係がものを言ったようだった。

 室内に一人きりになったアリアは笑顔を消し去り、待機状態の二機に鋭い目を向けた。

 

「さて、と。先に言っておくけど、自分達がとんでもなく無茶な要求をしていると自覚しなさい。……けれどその上で、こちらはあなた達の要求を呑んであげるわ」

 

 長年グレアムらと共に管理局に勤めてきたアリアには、要求を実現できるだけの伝手があった。

 その相手は四課への誘いを蹴り、つい先日に長い仕事を終えて長期休暇を取ってしまったばかりだったが、まだ呼び戻せる段階だろう。あの隠れ親馬鹿は、休暇を利用してミッドの訓練校に通う愛娘達に会いに行くのだ、などとのたまっていたが、優先順位はこちらの方が遥かに高い。それに、会いに行ったところでデリケートな年頃の娘達には煙たがられるのがオチなのだ。門前払いを受けて引き返し、研究所に籠ってどんよりとすることになるのだと考えれば、むしろ感謝してほしいくらいである。

 

「カートリッジシステムはまだ試験段階だけど、実は、実用化まではあと一歩のところまで来ているの。安全性にちょっと難ありだけど、短期的には気になるほどでもないわ。それに、その問題も直に解決されるでしょうし」

 

 そして、デバイスの造詣に深いその相手は、長い仕事――すなわちアリア達の依頼を完遂するまで、ミッドチルダ式魔法とベルカ式魔法の混合を研究していたような男である。カートリッジシステムの取り扱いも、お手の物のはずだった。

 

「その代わり、こちらにも条件がある。まずは、昨日の戦闘データを今すぐ私に提供すること。そして、提供した後は私との会話ログも含めてそのデータを速やかに消去すること。もちろんチェックもさせてもらうわよ。いいわね?」

 

 万が一、守護騎士との戦闘中にあるワードが出ていたならば、今後の計画に支障を来してしまう。それだけは、何としても避けなければならない事態だった。最悪、この二機の破棄すら考えなければならない。

 しばらくレイジングハートとバルディッシュを睨みつけていたアリアは、続いて表示されたメッセージを読み、そして、満足そうに微笑むのだった。

 

 

 

 

 誰かの気配と額に触れる温もりを感じ、颯輔はその意識を現実世界へと戻した。重たい瞼を持ち上げた先には人の腕があり、それを辿っていくと、ベッドの上で自分の額に掌を当てているはやての姿を見つけた。

 

「……はやて?」

「あっ……。ごめんな、お兄。起こしてもうたみたいで」

「いや、大丈夫だけど……」

「まあ、もうお昼過ぎてもうたから、起こそうとは思ってたんやけどね」

 

 颯輔の額からも掌を退けたはやてが、悪戯っぽく笑った。どうやら、額の温度を比べて熱を測っていたらしい。颯輔はいつのまにかベッドに寝かされており、布団もかけられていた。枕元には、沈黙している闇の書がある。

 視線を向けたまま、颯輔は管制人格に向けて念話を送った。

 

『どういう状況だ?』

『記憶を辿る途中、主颯輔は意識を失ってしまったのです。主はやてらが寝室へと入室するようでもありましたので、精神同調は切らせていただきました。随分と消耗してしまったようですから、今日はこれまでにした方がよろしいかと……』

『成果は?』

『残念ながら、今のところは何も……』

『そっか……』

 

 思考を切り替え時計を確認してみれば、時刻は13時を示していた。ベッドのかたわらには、小さい土鍋を乗せたお盆を持ったヴィータと、人間形態のザフィーラの姿がある。ヴィータは僅かに疲れを見せており、一時の休憩に来たのかもしれない。ザフィーラは、はやてを二階にあるこの部屋まで運んできたのだろう。

 

「はやてはやて。颯輔の熱、もう下がってた?」

「うーん、まだちょうあるみたいやったなぁ」

「布団もかけずに寝ているからです。熱が下がった方がおかしいのです」

「今日のザフィーラは酷いな……」

 

 微熱ではあろうが、どうやら本当に風邪を引いてしまったらしい。また、颯輔と管制人格が辿ることのできた記憶はベルカの戦乱期までだったが、いくら時の流れが違っていようとも、それだけすれば現実世界でもそれなりに時間が経ってしまったようだった。

 気怠い身体を起こした颯輔は、こちらの状況を確認するべく念話を送った。

 

『ヴィータは休憩中?』

『うん。ゲートボールの練習っつっても限界があるから、昼休憩ってことで一旦戻ってきた。その、闇の書に蒐集した分もやんねえといけねえし……』

『ああ、そうだな……。ともかくお疲れ様、ヴィータ。ついでにゆっくり休んでから行くように』

『うん……』

 

 室内のテーブルにお盆を置いたヴィータが、言葉を詰まらせつつ返してきた。昨日の一件について、後ろめたい気持ちがあるのだろう。そして、過去のヴィータは主とはもちろんのこと、管制人格どころかシグナム達とも上手い関係を築くことはできずにいた。今ではそんなことはないとはいえ、昨晩起動したばかりの管制人格にはまだ、シグナム達と同じようにとはいかないようだった。

 ちなみに、颯輔がそれを知っていることについては、当然ながらヴィータにもザフィーラにも話してはいない。知らせるつもりがない以上、ヴィータにそれを指摘することも難しいだろう。

 

『ザフィーラの方は、何も問題はなかったか?』

『はい。管理局もまだ嗅ぎつけてはいないようで、付近に怪しい気配もありませんでした。はやては何度か颯輔の看病をしたいと仰っておりましたが、何とか堪えていただきました』

『わかった。布団をかけてくれたのはザフィーラだよな? ありがとう』

『いえ、お気になさらず。ただ、今度からは対話が長くなるようでしたら事前にベッドに入っていてください。暖房もつけずにいては、お体に障ります』

『了解、気を付けるよ』

 

 颯輔とはやてがグレアムとは定期的に連絡を取り合っている以上、管理局が嗅ぎつけていないというのはあり得ない。だとすれば、今は準備段階か、それとも、他に何か狙いがあるのか。いずれにしても、管理局の手は近いうちに伸びてくるだろう。報告を受けている限り、人間から蒐集をしたのはこの世界でだけなのだから。

 

「それでは、我は残りの洗い物を片づけておきます。食事が終わったらお呼びください」

「おおきにな、ザフィーラ。ヴィータ、お粥こっちに持ってきてくれるか?」

「うん!」

「……うん?」

 

 目の前で繰り広げられる光景に、颯輔は疑問符を浮かべた。

 ザフィーラが退室してしまったまではいい。多少体がふらつく感覚はあっても、なにも下に降りて食事もできないというほどではないのだが、ここで食事をするのが嫌というわけではない。むしろ、その気遣いは有難いものだ。ザフィーラが退室してしまったため、車椅子もないはやてがベッドから降りる気配がないのも理解できた。

 だがしかし、いったいどうしてはやてはヴィータを呼び寄せ、ヴィータも喜び勇んでそれに従っているというのか。

 あれよこれよと考えるうち、ベッドに上半身を起こしている颯輔は、右側をはやてに、左側をヴィータに陣取られ、身動きができない状態となってしまった。これから起こるであろう展開は、疑問を覚える颯輔にも想像くらいはできていた。

 

「ご飯くらい自分で食べられるんだけど……?」

「ダメでーす。お兄知っとる? 八神家の病人は、大人しく看病される運命にあるんよ?」

「颯輔はいっつもあたしらの面倒を見てくれてるからな。こういうときくらいは、あたしらが代わりにやんねえと」

 

 颯輔の遠慮もいざ知らず、土鍋の蓋が開けられて湯気が立ち上った。甘い香りが、今はないはずの食欲を刺激する。土鍋の中身は、まだ熱々の卵粥だった。

 ヴィータがお盆を支え、はやてがお粥を蓮華ですくい、息を吹きかけて熱を冷ましてから颯輔の口元へと運んできた。

 

「はい、あーん」

「あーん」

「……あーん」

 

 拒否するわけにもいかず、颯輔は差し出されたお粥を口内へと迎え入れた。熱と共にご飯と卵の甘みが広がり、少しだけ感じる塩味がその旨味を引き立てている。あの光景を見た後では何も食べる気はしなかったが、存外、自分も太い神経をしていたらしい。もちろん、卵粥が絶品ということと、二人の気持ちがそれを後押しはしているのだろうが。

 お粥を咀嚼して飲み込んだ颯輔は、その決意をより一層強固なものにする。この小さな幸せを守るためにも、絶対に諦めることなどできはしない。

 望むべく問題の解決法は、未だに見つかってはいなかった。

 

 



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第十七話 雲を掃う力

 

 

 12月11日午後4時半。今にも泣き出してしまいそうな黒雲の下、特務四課オーダー分隊副隊長、クロノ・ハラオウンは、これから始まる大捕物を前に、自身のうるさい鼓動を落ち着けようとしていた。クロノの眼下、街灯が照らしだす海鳴市は平時と変わらないようにも見えるが、その何処かに諸悪の根源が潜んでいるかもしれないというだけで、普段の冷静さを保てなくなる。

 急事にこそ冷静さが友。

 師の言葉を思い出したクロノは、大きく深呼吸をした。

 

「なーにを難しい顔してるのかにゃ~?」

「なっ、おいこらロッテっ! やめないか、今は作戦行動中だぞっ!」

「つってもリンディはまだ始めてないじゃんかよー」

「もうすぐ始まるんだっ! いいから離せっ!」

 

 深呼吸を終えた途端、背中に軽い衝撃を受け、続き、後頭部に柔らかい感触がクロノを襲った。クロノにこのような過激なスキンシップをしてくる相手など、考えるまでもなくリーゼロッテしかいなかった。

 拘束から逃れようとも、近接格闘のエキスパートであるロッテはそのスキルを無駄に駆使し、一向に離してくれる気配はない。しばらく抵抗を続けていたクロノは、抵抗するだけ体力の無駄だと悟り、大人しくその身を預けた。体格でも経験でも実力でも劣る相手に本気で刃向うなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 ただ、頭の上に自身の顎を乗せて、ゴロゴロ~、と猫をあやすが如く顎から喉にかけてを撫でてくるのだけは、正直勘弁してほしいクロノであった。

 

「緊張感に欠けるにもほどがある……」

「んー?」

「……いや、君に緊張感を求めた僕が馬鹿だったよ」

 

 はぁぁ、と深い溜息を吐き出したクロノは、リンディが待機しているであろうビルの屋上へと視線を向けた。海鳴市の上空にいるクロノの肉眼ではその姿は確認できないが、作戦が始まれば、翡翠色の魔力光が目に留まることだろう。

 本日なのはとフェイトが復帰を果たし、新たなデバイスの性能試験も終えたところで、特務四課の戦力は守護騎士とも渡り合えるほどになった。そして、ようやく闇の書の主と守護騎士の捜索に本腰を入れることができたのである。

 無論、これまでも守護騎士の転移反応を追跡したりとはしていたのだが、その成果はいずれも芳しくはなかった。ただ、転移反応が海鳴市の近辺に集中していることだけは掴んでいたのである。これ以上悲劇を繰り返さないため、何としても主達の身柄を確保し、闇の書を封印しなければならなかった。

 故にクロノは緊張を隠せずにいたのだが、対するロッテの何たるお気楽なことか。その在り様は、普段とまったく変わらないほどである。

 

「んなこと言ったって、緊張し過ぎてもダメなんだぞー? 身体がガチガチになって、反応速度も判断速度も鈍るし。それにたぶん、今回闇の書の主は出てこないと思うぞ?」

「それは、そうかもしれないが……」

 

 ロッテの言うとおり、闇の書の主がその姿を現す可能性は限りなく低い。過去の事件でも、主が姿を現したのは闇の書が完成してからか、如何に早くとも完成する直前だったのだ。

 レイジングハートとバルディッシュがコアを破損しながらも記録していた映像により、2日の時点で400頁を越えたことは分かっている。それから九日間経ったが、おそらく、完成まではまだいくらか猶予があるだろう。

 

「今回の作戦で真っ先に確保しなきゃなんないのは、守護騎士の一体の金髪の女だ。バックアップ担当のシャマル。あいつがいなくなるだけで、守護騎士の活動範囲はぐっと狭くなる。守護騎士の連中が釣れれば、そいつも一緒に釣れるだろうよ」

「僕とロッテがシャマルを――可能ならば主も捕える。それは分かってはいるんだが……」

「リンディの心配かい? それともなのはとフェイト? ……それとも、まさかのアルフ?」

「全員に決まっているだろう。もちろん、純粋な意味で、だ」

「純粋な好意? クロスケは節操なしだなー」

「僕は執務官だ。パワハラとセクハラで起訴してもいいんだぞ」

「軽い冗談だろー? 怒んない怒んない」

「君は1分と真面目になれないのか……!」

「まあ実際、そんな心配することないと思うぞー? あっちにはアリアが付いてるし、いざとなったらあたしらも参戦できるし。つーかそもそも、リンディは心配するだけ無駄だ。なのはとフェイトだって、今度は簡単に墜ちたりしないさ。なんたって、あんだけぶっ飛んだデバイス持ってんだからなー」

「………………」

 

 いきなり真面目になるのか。というかそもそも、そのぶっ飛んだデバイスを手配したのは君達だろう。

 もろもろの言ってやりたい言葉を飲み込み、クロノは午前中に行われた性能試験の様子を思い出してげんなりとした。あくまでも試験であるはずのそれは、凄まじいの一言に尽きる光景だったのだ。

 ベルカ式カートリッジシステム。局内でも試験段階の域を出なかったはずのそれを搭載したレイジングハートとバルディッシュは、元々高かった性能を更なる高みへと進化させた。仮想敵の役を買って出たのはリーゼ姉妹だったが、過去には守護騎士とも渡り合った経験もある管理局最強クラスの使い魔達が追い込まれるほどだったのだ。

 なのはの相手をしたのはアリア。魔力運用には定評のあるアリアの防御はしかし、元来の凶悪さに磨きをかけたなのはの砲撃によって、いとも簡単に破られていた。局内でも上位に位置する実力のクロノの砲撃でも抜けないアリアの防御を、である。

 一方で、フェイトの相手をしたのはロッテ。短距離瞬間移動を極めているはずのロッテの高速機動はしかし、従来の速度に輪をかけて素早くなったフェイトの高速移動によって、いとも簡単に追いつかれていた。クロノですら見失うことのあるロッテの機動に、である。

 なのはとフェイトとの戦闘も含め、管理局が記録している過去の守護騎士の戦闘の映像には目を通していたクロノだったが、確かにあの二人ならば、あるいは守護騎士相手に勝利することも可能ではないのかと思わされたほどだったのだ。

 そして、あのやたらと前線に出たがる元艦長についても、言われて改めて考えてもみれば、クロノが心配するような実力の持ち主ではない。リンディが知れば、私よりも自分の心配をしなさい、と言うことだろう。それに加えて、あちらにはアリアとアルフまでもがいるのだ。さらに、今回の作戦では出撃することはないが、あのグレアムまでもが控えている。守護騎士の連中も大概だが、四課も過剰戦力が集結していることに違いはなかった。

 

「……おっと、言ってるそばから始まったみたいだぞ、副隊長さん」

 

 ロッテに言われ、クロノもそれを視界に捉えた。アースラの魔導炉とパスを繋ぎ、その魔力量を大幅に引き上げたリンディの手によって、眼下には翡翠色の魔力光が瞬いていた。大量に生み出されたサーチャーが、海鳴の街へと散開していく。本当に闇の書の主達が海鳴市に潜伏しているのならば、この常識外れの捜査網からは逃れる術はないだろう。

 作戦が始まり、クロノはようやくロッテの拘束から解放された。ぐるりと肩を回したクロノは、自身のストレージデバイス――S2Uを握り直して眼下を睨む。

 いつの間にか、クロノの鼓動は落ち着きを取り戻していた。

 

 

 

 

『今のところ、魔力反応はまだ感知できていません。引き続き、サーチャーの散布をお願いします』

「了解したわ、エイミィ。オーダー01、捜索を続けます」

 

 ブリッジとの簡単な連絡を終え、特務四課オーダー分隊隊長、リンディ・ハラオウンはディスプレイを落とした。作戦開始から5分は経っているが、サーチャーからは何の反応も返ってきてはいない。少しでも魔力を持つ者には反応するように設定してあり、海鳴市の隅々まで配置している以上、見落としがあるという可能性は考えられなかった。

 つまり、闇の書の主はここにはいないか、それとも、リンディの捜査網をも潜り抜けるほど高度な探知防壁を展開しているかのどちらかである。

 

「中々見つからないわね……」

「転移反応は間違いなくここを示していたから、いるにはいるんでしょうけど……」

 

 リンディのぼやきに返してきたのは、リンディの護衛を務めるリーゼアリアだった。

 アースラからの魔力供給により現在の魔力量はSランクをオーバーしているとはいえ、リンディは後方支援型の魔導師である。自分で戦うことができないわけではないが、それでも、百戦錬磨のアリアがそばにいるのはリンディにとっても心強いことだった。

 困ったわねぇ、ともう一つぼやき、リンディはその手に持ったの銀色の杖を振るった。

 先端に両翼のデザインが施され、その中央には翡翠色のコアを備えたストレージデバイス――アテナ。インテリジェントデバイスのように高度な人工知能は搭載していないが、その分だけ処理速度を限界まで追求した特注品である。高性能で特注品である以上はそれ相応に値が張るのだが、その程度でリンディのお財布事情がどうにかなることはなかった。

 アテナのコアが明滅し、命令を受け付けたサーチャーが海鳴市を駆け回る。民間人には見えないように設定しているが、魔力を持つ者にとっては別である。仮に相手が何らかの手段で探知から逃れていても、向こうがサーチャーを見つければ反応を見せるはずだった。そして、闇の書の主が少しでも見つかる可能性があるのならば、守護騎士も動かずにはいられないはず。

 

「もしかすると、転移反応は潜伏先の特定を防ぐためのダミーだったのかもしれないわね……」

「あら、でもなのはさんには赤毛の子に見覚えがあったそうよ。それとも、翠屋は他の世界でも評判なのかしら?」

「夢のある話だけど、別の街に潜んでいるって考えるのが現実的かもね」

「それじゃあ、近隣都市まで範囲を広げてみる?」

「そこは父様と相談してみないと――……釣れたわね」

「ええ、そのようね」

 

 作戦行動中ながらもどこか飄々としてたリンディとアリアだったが、起きた異変にその表情を引き締めた。リンディとアースラの魔導炉とをつなぐパスが突然に断ち切られ、二人のいるビルを中心に、ミッドチルダ式とは別の封鎖結界が展開されたのだ。

 リンディの命令を素早く遂行したアテナによる解析の結果、結界の術式は、当然のようにベルカ式を示していた。

 薄暗いミントグリーンに染まった空の下、深紫の光を放つ転移魔法によって、三騎の守護騎士が顕現する。剣の騎士シグナム、鉄槌の騎士ヴィータ、そして、盾の守護獣ザフィーラ。騎士甲冑の意匠に違いがあるとはいえ、リンディの記憶のままのその姿は、十一年の月日などまったく感じさせないものだった。

 守護騎士のリーダー格であるシグナムから、そして、ヴィータとザフィーラからも、鋭い視線が向けられる。リンディにとっては驚くべきことに、そこからは確かに怒りの念が感じられた。

 

「我らが主を捜しているのならば、それは無駄なことだ。貴女方には、あの御方を見つけ出すことなどできはしない」

「それはどうかしら? 貴女達がこうして現れたということは、この世界にいると教えてくれているようなものなのだけれど?」

「わからない御婦人だ。我らが現れた意味……よもや、察していないわけではあるまいに」

 

 デバイスを構えたシグナムとヴィータ、そして、ザフィーラの魔力が高まっていく。並の魔導師ならばその圧だけで膝を着いてしまいそうな魔力に、空気が悲鳴を上げているような気がした。

 しかし、その程度に屈するリンディとアリアではない。これほどの魔導師――いや、騎士を相手にするのは珍しいこととはいえ、何も初めての経験ではないのだ。この程度の修羅場は、過去にいくらでも潜り抜けてきた。相手の戦法も、過去の経験から熟知しているつもりだ。

 

「貴女達こそ、私達を侮っているの?」

「一騎当千と謳われた守護騎士を三体も前にして、たった二人で挑むはずがないでしょうに」

 

 それは、アリアが肩を竦めた瞬間のことだった。

 東側からは桜色の、西側からは金色の砲撃が放たれ、守護騎士達を飲み込み炸裂した。

 

 

 

 

 海鳴市に残っていたシャマルの連絡を受け、あと一歩の所まで獲物を追い詰めていた蒐集を放り出し、取り急ぎ駆け付けたシグナム達だったが、現在の状況は思わしくなかった。

 

「グッ、ヌオオオオッ!!」

 

 桜色と金色の光の奔流の中、全周障壁を展開したザフィーラが苦悶の声を上げる。

 ザフィーラは盾の守護獣。その名が示すとおり、守護騎士の中では最も防御に長けた存在だ。二人がかりの不意打ちとはいえ、それをも揺るがす砲撃魔法。相手が並大抵の魔導師ではないことは、明白だった。

 

「ザフィーラッ!」

 

 ピキリ、と悲鳴を上げた群青色の障壁に、紅の障壁が溶け込む。少々攻撃寄りの傾向はあるが、ヴィータは本来オールラウンダーである。ザフィーラには劣るとはいえ、最前線でもその身に傷を作ることなどほとんどないヴィータの防御は、堅牢の一言に尽きた。

 競り負けていた障壁が安定し、ヴィータはほっと一息をつく。

 

「すまない、ヴィータ」

「いいってことよ。それよりこの砲撃、もしかしてこの間のやつらのか? つーことはあいつら、リンカーコアがもう回復したってことかよ……!」

「呆れた回復力だな……。それにこの威力、どうやら魔力量も増えているらしい」

「……お前達の言う少女達は化け物の類なのか?」

 

 シグナムとヴィータは至って真面目に推論していたが、返すザフィーラの言葉には呆れの色が混じっていた。

 それもそのはず。高町なのはとフェイト・テスタロッサから蒐集をしてから約十日。収縮したリンカーコアが元の状態に戻るような時間ではない。それどころか、魔力量さえ増えているというのだ。相手が常人だとはとても思えない。それこそ、百年に一人の才覚を持った人物であろう。

 

「こんなことなら、治療なんかしねえで腕の一本二本は折っとくんだったな……」

「そういうわけにもいくまい。……しかしこうなれば、再度退場を願うしかない、か」

「砲撃が弱まってきた。シグナム、どう相手取る?」

「戦術を知っている私がテスタロッサを受け持とう。あれの速度を見切るのは、ヴィータにも骨が折れたようだしな」

「そんじゃあ、あたしは高町なのはをやる。あいつの防御を破るのは、シグナムにも骨が折れたみたいだしな」

「…………」

「では、我が先ほどの婦人と守護獣か。……女性を狩るのは性に合わんが、文句も言っていられまい」

 

 視界を塗りつぶすほどだった光が薄れていき、断絶されていた周囲の景色が徐々に見えてくる。あまりの魔力量によって感覚をかき乱されてはいるが、この間に大きな増員はなかったようだった。

 シグナム達にとっての敗北条件は、颯輔とはやてを見つけ出されてしまうこと。闇の書が探知防壁を張っている以上はその心配はほとんど皆無だが、万が一ということもある。それを防ぐためにも、そして、今後の活動を邪魔させないためにも、管理局には少々痛い目に遭ってもらわなければならなかった。

 砲撃が、止んだ。

 

「各自、伏兵には注意を払えよ。では――征くぞッ!」

「「応ッ!!」」

 

 展開していた障壁を消し去り、シグナム達はそれぞれの目標を目指して空を翔けた。

 

 

 

 

 大気中の魔力素を固定して足場と成し、四肢を躍動させて宙を駆ける。弾幕を張り巡らすように飛んでくる青色の魔力弾は、空中だからこそ可能な三次元機動を活かして回避した。込められた魔力量から防御することも容易いが、一度足を止めれば控えの緑髪の女性が仕掛けてくるだろう。それ故の回避。ザフィーラの持ち味は、なにもその名を表す防御だけではないのだ。

 ザフィーラが受け持ったのは、緑髪の女性とグレーの毛色の守護獣――ミッドチルダ式に倣って呼べば、使い魔の二人。過去に戦闘経験のない相手であるため、ザフィーラはまず戦術を見極めることを優先した。

 

「ちょこまかと……!」

 

 一度に繰り出される魔力弾が20発から倍の40発に増え、弾幕がさらに厚くなった。要求される操作技術が上がったにも関わらず、その狙いは鋭くなっている。かわすことが困難な弾道も混じってきたため、ザフィーラは前面に魔力障壁を展開しながら接近を続けた。

 使い魔の射撃魔法は誘導制御型。展開および連射速度、そしてその操作技術から、ザフィーラとはタイプは違うが同等の実力者であると判断。耳と尻尾の形状から猫科の生物が素体と推測されるが、接近してくる様子はないため遠距離型の戦闘スタイルなのだろう。

 もう一方、女性の方は未だに動きを見せてはいないが、戦闘開始時から魔法陣を展開したままだった。射撃、砲撃、広域魔法である可能性は低い。少なくとも、現時点では大きな魔力の高まりは感じられない。稀少技能を行使している可能性も捨てきれないが、その場合は実際に使われてみないとわからない。よって、現時点では補助系統の魔法を発動させている可能性が濃厚だった。

 

(シグナム達へ手を出している様子もない。……となると、結界の解析か)

 

 戦闘区域を覆っているのはシャマルが張った封鎖結界だ。その術式は当然ベルカ式であるため、ミッドチルダ式を主とする管理局に抜かれることなどまずあり得ない。ベルカ式に精通しているか、それ相応の魔力を叩きつけて破壊するかの二択なのだ。

 しかし、もしも結界を抜かれるようなことがあって増員を呼ばれたり、そこから結界を再展開され、今度はこちらが閉じ込められたりするのは望ましい展開ではなかった。

 

『シャマル、結界の維持に問題はないか?』

『一帯に局員が配置されているけど、私が捕捉されるようなことはないはずよ。ただ、術式に割り込みがかけられていて……。今のところは破られる気配はないけど、私とクラールヴィントに追随してくる性能よ、相手は後方支援型だと思うわ』

『了解した。先にそちらを叩いておこう』

『ええ、お願い。邪魔がなくなり次第、私もサポートに入るわ』

 

 シャマルとの念話を済ませたザフィーラは、遂に標的を定めた。狙うは後方支援型の魔導師。感じる魔力量は使い魔と同程度だが、他の術式を展開している今ならば、攻撃に転じる余裕もないだろう。例え誘いであったとしても、それに乗った上で突破してみせる。

 決断を下したザフィーラは障壁を強化し、四肢にも魔力を通わせた。飛躍した脚力にものを言わせて急加速し、三次元機動から直進に入る。まずはフェイント、使い魔を目指して疾走した。

 ザフィーラの正面に見据えた使い魔が、頬を小さく釣り上げる。

 

「――ブレイズキャノンッ!」

「――ちッ」

 

 思わず舌打ちが漏れる。使い魔から放たれたのは砲撃魔法。射撃魔法の展開速度を遥かに凌駕して発動されたそれは、熱量を伴い迫ってきた。射撃魔法の展開速度もなかなかのものだったが、あれはあれで手加減をされていたらしい。

 予定よりも距離は稼げなかったが、ザフィーラは反射的に女性を目指して足を蹴り出した。目前にまで迫っていた砲撃魔法がわずかに障壁を掠り、それだけで術式を吹き飛ばされる。

 だが、問題はない。群青色の残滓を置き去りにして、ザフィーラは鋭い爪を伸ばした前足を振り上げた。

 

「グオオオオッ!」

「あらあら、相変わらず躾のなっていないわんちゃんですこと」

 

 振り下ろした前足が、直前に展開された翡翠色の防壁によって受け止められた。障壁破壊の術式を立上げてはいなかったが、単純に強度よりも威力が勝っていたためか、防壁に爪が中頃まで食い込んでいる。

 このまま破れるか、と思考したザフィーラはしかし、瞬時に自身の見通しが甘かったことを悟った。

 

「グッ……!?」

 

 一思いに引き裂こうと魔力で強化してまで力を込めた前足はしかし、翡翠色の防壁を破ることができなかった。それどころか、引き抜くことすら叶わない始末。防壁に込められる魔力が増大し、ザフィーラの爪を噛んでいたのだ。

 そして、急を要する事態にもかかわらず、直前の女性の聞き流せない言葉が、ザフィーラの思考を否応なく戦闘以外の方向へと迷い込ませた。

 相変わらず、とはいったいどういうことなのか。それは、過去に相対したことがあるからこそ口をつく言葉ではないのか。

 

「わんちゃんのご主人様には悪いけど、私が躾けちゃってもいいのかしら?」

「……我は、狼――ガァッ!?」

 

 無駄な思考を放棄し、久方振りの文句を口にしようとしたところで、脇腹に強い衝撃を受けた。噛まれていた爪は今の衝撃で外れたのか、ザフィーラの体が宙に投げ出される。そして、痛みと共に痺れも覚えた。受けたのは、魔力付与打撃――それも、雷撃の類だ。

 攻撃を受ける直前に感じた魔力反応は、猫科の使い魔ではなく第三者のものだった。用心のために障壁を再展開し、吐き出してしまった空気を吸い込んでから体勢を整える。全身に自前の魔力を巡らせ、体内に残留する第三者の魔力を体外へと追いやった。

 そして、固めた足場を踏み締めて見据えた先。そこにいたのはオレンジ色の毛並を持つ、ザフィーラによく似た狼だった。

 

「オーダー05、アルフさん参上、ってね。……リンディ隊長、アリア。悪いけどあの青いの、あたしに譲ってくれないかい?」

 

 大胆不敵で、どこか小馬鹿にしたような口調。しかしその碧眼には、確かに怒りの炎が燃え上がっていた。そして、高ぶる感情に呼応するかのように、漏れ出した魔力がバチバチと火花を上げている。電気の魔力変換資質持った、雷獣だ。

 

「私は自分のお仕事があるから構わないのだけれど、アリアはどうかしら?」

「お子様の自主性を尊重してあげるのも、私達大人の役目かしらねえ。まあどっちみち、私の役割は最初から全体のサポートだし?」

 

 この状況でもおどけて見せる二人に、もう立派な成体だよあたしゃ、と返したアルフが、前足を一歩踏み出してきた。

 ザフィーラとしても、一対三を強行するよりは、幼い思考の持ち主と一対一をして確実に仕留めていく方がやり易い。無論、空いた二人の皺寄せがどこかでくるのだろうが、しかし、戦闘能力はザフィーラよりもシグナムとヴィータの方が上である。あちらに回ったとしてもおそらく問題はなく、そして何より、ザフィーラがそうなる前に片付けてしまえば済む話だった。

 

「連中にゃあうちのご主人様が世話になったからねえ。あんたが相手をしたわけじゃないだろうけど、どっかで発散しないと腹の虫が収まらないんだよ。悪いけど、ちょいと付き合ってもらうよ?」

「……よかろう。来るがいい、無知なる獣よ」

「この……! 年寄り共め、あんたらに若さってやつを教えてやる!」

 

 二匹の獣の咆哮が、戦場に響いた。

 

 

 

 

 封鎖結界内で行われる二組の戦闘は、熾烈を極めていた。リンディは初期位置から微動だにせず、結界の解析を続けながらその様子を窺っていた。

 なのはとフェイトが戦っているのは、シグナムとヴィータの二人だ。戦闘開始時は一対一だったが、ほどなくして合流を果たし、現在は二対二の状況になっている。なのはの射撃で相手を牽制し、フェイトが切り込む。あるいはフェイトが足止めをし、隙をみてなのはの砲撃を撃ちこむという息の合った連係を見せてくれていた。カートリッジシステムの恩恵はやはり大きかったのか、あの守護騎士のアタッカー二枚とも互角の戦闘を繰り広げている。

 最初は二人共が声をかけ、話し合いに持ち込もうともしていたのだが、どうやら守護騎士達にはそれに応じるつもりはないらしい。もっとも、上の指示とはいえ先に仕掛けたのはなのは達であるため、守護騎士の態度は当然とも言えるが。二人はとにかく、勝ったらお話聞かせてもらいます、と意気込み、時折バインドを仕掛けては無力化を謀っているようだった。

 一方、少々苦戦気味であるのは一騎打ちを望んだアルフだ。いくらアルフが優秀な使い魔とはいえ、彼女は使い魔となってから2年しか経っていない。それこそ気の遠くなるような時間を戦い続けてきたザフィーラを相手に、経験の差がそのまま戦闘に表れているようだった。しかし、ただやられているというわけではもちろんなく、リーゼアリアの援護を受けながらも、差を埋めようと必死に食らいついてた。

 

「私も、そろそろ援護に回りたいところね……」

 

 この場でのリンディの役目は、外界とを隔てている封鎖結界の破壊だった。この結界には対象を内部に捕えるだけでなく、外界との交信をも妨害する機能があるらしい。戦闘開始から、アースラ及びクロノ達とは一切連絡がつかないでいた。

 現状は切迫しているが、追い詰められているというほどではない。ただ、アースラの魔導炉からの供給が絶たれたリンディには、守護騎士を相手にできるような攻撃魔法は使えない。事態を好転させるためにも、結界の破壊は必須であった。

 深く息をし、はやる気持ちを抑えつける。十一年前ならばいざ知らず、今のリンディは指揮官を務める立場だ。この場に至るまでに無茶をしてきたからこそ、今は冷静に事に当たらなければならない。

 闇の書によって人生を滅茶苦茶にされる人間は、自分達で最後にしなければならないのだから。

 

《Analysis complete.(解析完了)》

 

 アテナから、待ち望んでいた結果がようやく告げられた。

 リンディはミッドチルダ式の魔導師だが、職務に追われて多忙な生活を送る中、時間を見つけてはベルカ式魔法の知識も溜め込んできていた。全ては、いつか来るだろうと思っていた今この瞬間のために。

 

「それじゃあ、反撃開始といきましょうか?」

《Yes, Ma'am. Invasion halberd.》

 

 展開していた魔法陣が一際眩く輝き、翡翠色の魔力波が結界の外壁目指して広まっていった。

 リンディが発動したのは、結界を無効化するための魔法――インヴェイジョンハルバート。結界の術式構成を解析し、それとは逆位相の結界を展開することで、双方を対消滅させる効果がある。元はミッドチルダ式の結界を破るための魔法だが、リンディはベルカ式の結界をも破れるようにと術式に改良を施していた。そして、それを実現するために用意したのが、リンディのデバイス――アテナである。

 湖の騎士、シャマルが展開していた封鎖結界が消滅したことを確認し、リンディはすぐさま新たな結界を張り巡らせた。魔力光がほぼ同色であるため、結界内の空に大きな違いは見られない。しかし、結界が張り替えられたことには、守護騎士の誰もが気が付いたようだった。

 

『――……ちょ……艦長っ! 無事ですかっ!?』

「ええ、おかげさまでね。それと、今は副艦長よ、エイミィ?」

『そ、そうでしたっ! あわわわ、グレアム艦長すいませんでしたっ! つい癖でっ!』

 

 通信が回復し、リンディの目の前にエイミィの映ったディスプレイが現れた。余程心配していたのか、役職を間違えてしまうほどに慌てているエイミィの姿に、リンディは安心を覚える。必死に謝るエイミィの後ろ、小さく映ったグレアムが、愉快そうに微笑んでいるのが見えた。

 

「エイミィ、結界外周に展開している武装局員に、結界の補強をするよう連絡してもらえるかしら? 私一人だと、いつ破り返されてしまうかもわからないわ。それから、クロノ達の様子はどう?」

『あっ、それならはもう手配済みです! まもなく結界の強化と維持に入りますから、安心してください! 結界の外ではクロノ君とロッテが中心になって、守護騎士シャマルおよび闇の書の主を捜索してるんですけど、どちらもまだ見つかってはいません……。こっちでもサーチャーを飛ばしてるんですが、どうも探知防壁が展開されてるみたいで……』

 

 エイミィから、リンディにとっては予想通りだった答えが返って来た。

 後方支援に特化したシャマルが本気で身を隠せば、同じ系統であるリンディにも見つけ出すことは不可能に近いだろう。そして、守護騎士の中で最も厄介なのが、自身は身を隠して一方的に敵を攻撃することのできるシャマルだった。そのため、できれば今回の作戦で身柄を押さえたかったのだ。

 

「仕方がないわ。それなら、まずはこちらの三騎を押さえ――ぁ……!」

『副艦長っ!?』

 

 リンディの声が途切れ、エイミィの悲鳴が上がる。

 なぜならば、リンディの胸から一本の腕が生えていたからだ。その掌の上には、翡翠色に輝く球体――リンディのリンカーコアがあった。

 これこそが、シャマルを真っ先に押さえたかった理由。例えどこに逃げ隠れようとも、シャマルに居場所を把握されていれば、転移魔法の応用により距離に関係なくリンカーコアを摘出され、蒐集を受けてしまうのだ。

 しかし、これは本来相手の防御を破壊してから発動される魔法のはずだった。事実、リンディは『前回』、バリアジャケットを損傷していたためにこれを受けたのだ。そうでなければ、敵対する者全てにこの魔法を使ってしまえばいいのだから。

 

「あらあら……以前よりも、随分凶悪な魔法になっているじゃない?」

 

 リンカーコアを摘出されたことにより、リンディの胸に鈍痛が走る。だが、いつまで経っても蒐集が始まる様子はなかった。

 それもそのはずだ。

 闇の書による蒐集は、同じ相手から魔力を奪うことなどできないのだから。

 

「だけど、これで貴女の居場所が割れたわ――湖の騎士、シャマルさん?」

 

 そして、この攻撃は転移魔法の応用。解析に重きを置くアテナを持ってすれば、向こうの位置を逆算できない道理はない。

 鈍痛など感じていないような涼しい表情で、リンディは胸を貫く腕の主が潜んでいる方向を見据えた。

 

 



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第十八話 雷鳴轟く

 

 

 この広い世界には、魔力を持つだけの者ならばいくらでもいる。あるいはシグナム達の主たる八神颯輔と八神はやてのように、膨大な魔力を持ちながらも魔法とは縁遠い管理外世界に住み、その秘めたる資質に気が付かないでいるケースもあるのかもしれない。

 しかし、魔法を発動する際には、より多くの魔力を注ぎ込めばいいというものではない。その過程には複雑な演算が必要であり、また、その制御もしなければならないのだ。故に、持ち得る魔力量が多いだけでは、それがそのまま強さとイコールにはならない。無駄を省いた術式を作り上げ、そこに適切な魔力を流し込み、しっかりと手綱を握ることで、発動した魔法は一つの技へと至るのだ。

 もっとも、真の意味で魔法を技として扱える者は、次元世界広しと言えどその数は少ないだろう。加えて保有魔力量も多いとなれば、その絶対数は限りなく小さくなる。そして、それほどの技量と魔力量を持つ者は、天賦の才を持っていると表現しても過言ではない。

 そう言った意味では、シグナムとヴィータが激戦を繰り広げている相手、高町なのはとフェイト・テスタロッサは、未だ年若くも天才と呼べる存在であった。

 

《Accel Shooter.》

「シュートッ!」

 

 魔導の杖が振るわれ、十二発の桜色の光弾が放たれる。前回の戦闘に比べて数が増えた誘導操作弾だが、その狙いは憎たらしいほどに正確無比。美しい放物線を描き、シグナム達を取り囲むように迫ってきた。

 そして、高町なのはの魔法をまとうようにして飛来する、金色の閃光があった。魔力刃を展開した大鎌を振りかぶり、アクセルシューターの中心を直進するのはフェイト・テスタロッサだ。

 味方の魔力弾と並走するなど正気の沙汰とは思えないが、なのはの操作技術を持ってすれば、フェイトを避けてシグナム達だけに命中させるという芸当も不可能ではないのだろう。そしてまた、フェイトの機動力を持ってすれば、誤射が発生する可能性はほとんどゼロに近くなる。互いに信頼しているからこそのコンビネーションだ。

 

「ヴィータッ!」

「わぁってるよッ!」

 

 シグナムの呼びかけに、後方のヴィータが頼もしい返事をした。幼いながらもたくましい掛け声と共に、同じく十二発の鉄球が放たれる。その機動はなのはのアクセルシューターとまったく同じで、正しく鏡合わせのようであった。

 ヴィータの援護射撃を確認したシグナムも、鉄の兵隊を率いる将のように飛び出す。腰だめに構えたレヴァンティンに魔力を流し込み、標的を見据え、横薙ぎに振り抜いた。

 

「ぜああああッ!」

「はぁあああッ!」

 

 レヴァンティンと黄金の刃の大鎌――バルディッシュ・アサルトがぶつかり合う。それと同時、シグナムとフェイトの周囲で、十二の爆発が起こった。

 刃が噛み合い火花を散らす向こうに、爆風に髪を揺らすフェイトの顔が窺える。その表情は真剣そのもの。しかし、赤い瞳の奥には確かに迷いの色があった。

 

「ディバイーーーン……」

「シグナム離れろーーッ!!」

 

 シグナムが沸き起こる怒りを剣閃に乗せようとしたとき、ヴィータの悲鳴にも似た叫びが飛んできた。フェイトの後方、そのマントの向こうに、尋常ではない魔力の高まりを感じる。しかし、フェイトにはまだ離脱する様子は見られない。おそらく、ギリギリまでシグナムを釘付けにするつもりなのだろう。

 

「バスターーーッッ!!」

 

 桜色の砲撃が、増水した河川の水流のように押し寄せてきた。フェイトも流石に退き時と思ったのか、大鎌に更なる力が込められる。シグナムも刃を走らせ、魔力刃を弾いた反動を利用して離脱した。

 シグナムとフェイトが直前までいた場所を、膨大な魔力の奔流が駆け抜けていく。魔力流がシグナムの髪を揺らし、掠った騎士甲冑の裾が消し飛んでいた。直撃を受ければ、間違いなく墜とされていただろう。防御をしたとしても、受けきれたかは怪しいほどの威力だった。

 

『あたしが突っ込む! 援護は任したぞ!』

『心得た』

 

 念話が終了すると同時、グラーフアイゼンをラケーテンフォルムに変形させたヴィータが、ロケット弾のように飛び出していった。狙いは、まだ砲撃を撃ち続けている最中のなのはだ。

 迫るヴィータの姿を認めたなのはは、慌てて砲撃魔法を終了させていた。

 

「なのはッ!」

「お前の相手は私だろう、テスタロッサ?」

「しまっ――きゃあっ!?」

 

 友人の危機にフェイトが目を逸らした瞬間を、シグナムは逃さなかった。一瞬だけ無防備になったフェイトに、レヴァンティンを叩き込む。直前で気が付いたフェイトはバルディッシュで受け、衝撃を殺しきれずに吹き飛ばされていった。

 あわよくばデバイスを両断するつもりで放ったシグナムの一撃だったが、その目的は果たせなかった。なのはとフェイトの戦闘力の向上には新たに搭載したらしいカートリッジシステムが一役をかっていたが、どうやら、基礎フレームまでもが強化されていたらしい。

 シグナムは求めた結果が得られなかった歯痒さを即座に斬り捨て、ヴィータと挟撃を仕掛けるべく飛翔した。

 シャマルの結界が破られてしまった今、戦況は好ましくない状況だった。

 ザフィーラは一人で使い魔二人を相手にしているため、シグナム達を援護する余裕はないだろう。外側にも管理局員は配置されているだろうから、シャマルが結界を破り返すのもおそらく困難。ならば、シグナムかヴィータのフルドライブで破壊するしかない。故に、なのはかフェイトのどちらかを墜とし、隙を作らなければならなかった。

 

《Protection Powered.》

「ぐっ――このぉッ……!」

 

 ヴィータの十八番であるラケーテンハンマーは、カートリッジを消費したなのはの防壁によって阻まれていた。強化前ですらシグナムの攻撃を受けきってみせた防壁。強化された今では、シグナムよりその分野に長けるヴィータをもってしても、突破するのは難しい様子だった。

 

「話を聞いてヴィータちゃんっ! 闇の書には悪いプログラムがあって、主さんもその影響を――」

「――うるっせえッッ!! ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえんだよテメーはぁッ! そんなことはあたしらだって――」

『――ヴィータ、口が過ぎるぞ』

 

 戦闘開始時から続くなのはの説得にとうとう切れてしまったらしいヴィータを、念話を送ってを諌める。確かに、今までのなのはの言葉の中には聞き流すことなどできないものもあった。だが、それに過剰に反応し、相手方に情報をくれてやる必要もないのだ。

 気になる点は、この状況を脱してから颯輔と管制人格に直接聞けばいい。蒐集を完了した闇の書は暴走を始めるらしいこと。そして、闇の書の本当の名前が夜天の魔導書であるらしいことは。

 

「お前も、出鱈目を吐くのは謹んでもらおうか?」

《Explosion.》

 

 高速機動を活かしたシグナムは、ヴィータの攻撃を受ける防壁の反対側、なのはの背面へとまわった。カートリッジを一発ロード。魔力変換資質を持つシグナムの魔力をまとい、レヴァンティンが炎の魔剣へと変貌する。

 剣の騎士、烈火の将の呼び名に相応しい一手をもってして、高町なのはをここで斬り捨てる。

 振り向いたなのはの目が大きく見開かれ、その眼に紅蓮の剣を映し出した。

 

「紫電――」

「――させないッ!」

《Load Cartridge, Haken Slash.》

 

 振り下ろす刃が標的に到達する寸前、間に割り込む閃光が一筋。シグナムの視界の中、炸裂音と共に吐き出された空の薬莢が、重力に従い落ちていく。

 雷光をまとう大鎌が、シグナムの攻撃を受け止めていた。

 

「フェイトちゃんっ!」

「テスタロッサ……!」

「あなたの相手は私のはずですよ、シグナム?」

 

 その持ち主はもちろん、フェイト・テスタロッサ。フェイトのバリアジャケットの意匠には変化が見られ、先ほどまで身に着けていたマントが消失しており、装甲も薄くなっている。四肢に展開された光翼は、高速移動魔法の証か。

 完全に間合いの外から駆け付ける速度。それはもはや、シグナムのそれをも凌駕している。シグナムが最強の一手と自負している攻撃を受け止められたことにも、多大な衝撃はあった。

 しかし、今のシグナムを満たしている溢れんばかりの怒りは、そんなちっぽけな理由から生じたものではない。

 

「……まを、するな……」

 

 管理局さえ来なければ、今も蒐集に明け暮れていたはずなのだ。

 

「……?」

 

 颯輔とはやてへの侵食さえなければ、今も穏やかな暮らしを続けられていたはずなのだ。

 

「……我らの邪魔を――するなぁああああッッ!!」

 

 シグナムの猛りに呼応したかのように、魔力が漏れ出し炎となって膨れ上がる。広がった炎は一転して収縮を始め、未だ燃え盛るレヴァンティンへと送り込まれた。

 そして、許容を越えた膨大な魔力は状態を保てず、敵味方の区別なく双方を巻き込む爆発を引き起こす。

 

「ああっ!?」

「フェイトちゃんっ!?」

 

 自身が起こした爆発に巻き込まれ、シグナムは盛大に吹き飛ばされた。魔力の暴走により、レヴァンティンの刃がいくらか欠けてしまっている。シグナムの騎士甲冑も所々が焼け焦げ、赤黒く染まった素肌をさらしていた。

 対する相手方は桜色の全周障壁に包まれており、爆発の直撃をくらったようには見えない。ただし、装甲の薄いフェイトは間近にいたためか、シグナムと同程度のダメージを受けているようだった。なのはに支えられるようにして、苦しげな表情を浮かべている。

 あれでも墜ちないならば、もはや加減など無用。

 シグナムが無意識にかけていた制限を解こうとしたとき、隣にスカートの裾を焦がしたヴィータが降り立った。

 

「……何やってんだよ、お前」

「……うるさい」

「――ッ! 自爆してそんなボロボロになってまで、何がしたいんだって聞いてんだよッ!」

 

 ヴィータに胸倉を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。ヴィータは目の端に涙を溜めながらも、鋭い眼光をシグナムへと向けていた。その向こう、なのはとフェイトは、突然の仲間割れに困惑した様子を見せていた。

 何がしたいかなど、わからない。何をすればいいのかも、わからない。自分達は、知らないことが多すぎる。

 しかし、それでも。

 

『――……む、シグナムっ!』

 

 身を焦がすような激情に染められつつあったシグナムの思考を緊急冷却したのは、この場では聞こえるはずのない声だった。

 

 

 

 

 時刻は午後4時半をいくらか過ぎたところ。闇の書の主たる八神颯輔は、自室にてシグナム達の戦闘の様子を見守っていた。一階でははやてと友達の月村すずかが遊んでいるはずだが、現在起きている事態など知る由もないだろう。

 闇の書が展開するディスプレイには、シャマルから送られてくる映像が映し出されている。普段はこのようなことはしないが、今だけは状況が違った。なぜなら、その戦闘は海鳴市で行われているのだから。

 颯輔が帰宅してまもなく、海鳴市全域に翡翠色のサーチャーが放たれた。管制人格によれば、魔力を持つ者を感知する類のものらしい。しかし、颯輔とはやてのリンカーコアはほとんどが闇の書の内に取り込まれているため、サーチャーに反応する程の魔力はないという。さらに、闇の書とシャマルによって何重にも張られた探知防壁のおかげで、自宅にいる限りは居場所を特定される心配はないようだった。

 ただ問題だったのは、どうも管理局は颯輔達の潜伏先を海鳴市であるとあたりをつけているらしいこと。外国からの移住者が比較的多い海鳴市だが、その中でも八神家は多国籍であると近所ではある意味有名だ。サーチャーによる捜索だけでなく、聞き込み捜査でもされてしまえば、特定される可能性はぐっと高まってしまう。

 故に、海鳴市近辺に潜伏しているのだと情報を与えることになっても、今のうちに管理局には捜査の再開までに時間がかかる程度にはダメージを与えておかなければならなかった。

 

「頼む……」

 

 颯輔は多彩な魔力光に彩られるディスプレイを見ながら、祈るように呟いた。

 今月頭に魔導師から蒐集したことに加え、管理局への敵対行為。それらが颯輔の罪を重くすることなど、理解はできている。だが、闇の書の完成がようやく見えてきた今、管理局に捕まることだけは避けたかった。

 何を引き換えにしても、はやての命だけは救わなければならない。そして、管制人格とシグナム達も。颯輔が裁きを受けるのは、それからだ。元より、犯した罪から逃げようとも、逃げられるとも思ってはいない。

 颯輔が右拳を固く握り締める中、しかし、それを嘲笑うかのように、事態が急変した。

 ガラスが割れるかのようにしてシャマルの結界が壊れ、続き、翡翠色の結界が再展開されたのだ。魔力光は似ているが、それは、シャマルの張ったものではないようであった。シグナム達を映し出していたディスプレイに砂嵐が表示され、生き残ったのはシャマルと結界の外周を映し出すものだけなのだから。

 

「どうしたっ!?」

『結界を破られてしまったようです。風の癒し手の組み上げた術式をも破る手腕……申し訳ありません、敵方の戦力を見誤っておりました……』

 

 闇の書の上に姿を現した管制人格が、僅かに顔を伏せながら颯輔に現状を伝えた。颯輔はギリッと歯を鳴らし、砂嵐を映し出すディスプレイを睨みつける。

 管理局員の中には、闇の書の記憶を辿った颯輔にも見覚えのある姿があった。緑髪を後頭部で結わえた妙齢の女性、リンディ・ハラオウン。闇の書が蓄えている情報によれば、リンディは後方支援型の魔導師だ。11年前はベルカ式の結界を抜くほどの力はなかったはずだが、今日までにその実力を高めていたようだった。

 生き残ったディスプレイには、再展開された結界を抜き返そうとするシャマルと、それを外側から補強している武装隊員の様子が映し出されている。過去の蒐集により、ミッドチルダ式の結界の術式はシャマルも知り得ているはずだが、いくらシャマルが優秀であろうとも、数の力を得た結界を破るのは難しいようだった。

 ほどなくして、顔を青くしたシャマルと颯輔の視線が、ディスプレイ越しに交差する。それは、決意を秘めた強い目だった。

 

『申し訳ありません、我が主。もう一人、魔導師からの蒐集を行います』

「なっ……! 待て――」

 

 颯輔の言葉が終わらないうちに、シャマルはクラールヴィントに命令を下し、旅の鏡にその手を挿し入れた。

 旅の鏡はシャマルのみが有する特殊魔法で、クラールヴィントの作りだす鏡面によって空間を繋げ、離れた場所にある物体を手元に取り寄せるものだ。対象がどこにあろうとも、シャマルがその位置を把握しているだけで発動できる、転移魔法の応用。例えば今のように、魔導師の背後に扉を開き、安全圏からリンカーコアを摘出できる、もはや反則のような魔法だ。

 しかし、今回のシャマルの決断は、失態と言わざるを得なかった。

 

『え……? どうして、蒐集ができない……!?』

 

 ディスプレイを通じ、シャマルの驚愕の声が颯輔の耳を打った。

 シャマルの犯した失態は、同じ相手から蒐集をしようとしたこと。シャマルの企みが成功していれば、蒐集を受けてリンカーコアが収縮し、結界を維持できなくなっていたことだろう。ただし、結界を展開したのがリンディではなく、また、シャマルが前回の記憶を引き継いでさえいれば。

 別のディスプレイが、動きを見せる武装隊の様子を映し出していた。それを率いるのは、まだ小さな黒衣の少年だ。その手に黒い杖を構え、シャマルの潜んでいる位置を目指して飛翔してきている。先ほどのシャマルの攻撃は、転移魔法の応用。どうやら、シャマルの位置を逆算されてしまったらしい。

 この場合、シャマルを一方的に責めることはできない。颯輔と管制人格は、前回と同じ敵がいることに気が付いていたのだ。十一年の時があれば、ベルカ式の結界への対策を編み出すのも不可能ではないのだろう。記憶を辿っていたこと、そして、シャマル達の記憶を操作していたという後ろめたさから、その事実を伝えることができなかった。

 

「シャマル、一時撤退だっ! 武装隊がそこを目指して迫ってきている!」

『そんな、でも、結界の中にはまだシグナム達が…………念話も届きませんっ!』

 

 颯輔の怒号のような命令に、旅の鏡を閉じつつも混乱した様子のシャマルが悲鳴のような声で返してきた。颯輔も慌ててシグナム達に念話を送ってみるも、何かに遮られる感覚があって届いた様子はない。

 ならば、と颯輔は闇の書に触れ、目を閉じて意識を集中させた。

 

「精神リンクの感度を最大にしてくれ。念話がダメでも、直接ならいけるかもしれない」

『了解しました。意識は私が支えます。主颯輔は、将達へ呼びかけることだけを考えてください』

「ああ……!」

『それでは、いきます……!』

 

 管制人格の掛け声と共に、闇の書に意識を埋没させるような感覚が颯輔を襲った。例えるならば、眩暈が最も近いだろうか。ぐらりと視界が揺れるような、意識を引っ張られる感覚。闇の書の構築する精神リンクに、颯輔の自意識が深く潜り込んだのだ。

 複数の意志が揺らめく精神の海を漂いながら、颯輔は真っ先に浮かんだ名前を呼ぶ。応える声は、ほどなくしてに返って来た。

 

『……颯輔、ですか?』

『シグナム、聞こえるか!?』

『ええ、聞こえています。しかし、外との念話は通じないはずですが……』

『精神リンクから直接声をかけてる。結界内の状況は?』

『進退窮まる、といったところでしょうか。悔しいことに、実力が拮抗しています。些細なきっかけで流れが変わってしまいそうですね……。颯輔達は無事ですか?』

『こっちは心配ない。だけど、シャマルが捕捉された。結界は自力で破れるか?』

『術はありますが、それを行う隙がなさそうです……。いえ、この程度の苦境、どうにか切り抜けては見せますが』

 

 シグナムはこちらを安心させようという声音を出していたが、精神リンクを強めた今、颯輔には内心の焦りがはっきりと伝わってきていた。

 今現在シグナム達が相手にしているのは、高町なのはにフェイト・テスタロッサ。さらにはフェイトの使い魔に、おそらくはリーゼアリア。三対四で、相手方の実力も考えれば、いくらシグナム達であろうとも多勢に無勢。

 シャマルは武装隊に追われているため、外側から結界を破ることは不可能だろう。そこで手の空いたリンディが向こうに加われば、結界内の戦闘の優劣は瞬く間に管理局側へと傾いてしまう。そうなってしまえば、シグナム達が自力で結界を破ることは不可能に近い。どころか、身柄を拘束されてしまう可能性の方が高いだろう。

 ならば、第三者の手によって結界をどうにかするしか方法はない。

 

『……結界はこっちでなんとかする。シグナム達は回避と撤退の準備を始めておくように。同じことをヴィータとザフィーラにも伝えてくれ』

『なんとかって、何を言って――』

『――いいから、頼んだぞ。それから、管理局の人にも回避するようにと注意してあげてくれ』

 

 シグナムの言葉が終わらないうちに、颯輔は伝えるべきことを伝えて精神リンクを通常の感度に戻した。無茶苦茶な命令だったが、やるならば急いだ方がいい。自分には指揮官の才能はなさそうだ、と自嘲しながら、颯輔は続いて管制人格へと声をかけた。

 

「認識阻害を常時展開できる騎士甲冑を作ってくれるか?」

『作れはしますが……しかし、主を戦場に出すわけには――』

「――ちょっと結界を壊すだけで、あとはすぐに逃げるから大丈夫」

『…………畏まりました』

 

 反論に反論を返してやると、颯輔は管制人格から今までになく非難がましい目を向けられる。颯輔がそれをまっすぐに受け止め、無言で催促をしていると、何かを諦めたらしい管制人格が力なく呟いた。

 颯輔の足元に深紫の魔法陣が輝き、そこから立ち上る粒子が颯輔の体を包み込む。直後、制服姿だった颯輔の服装が、頭から足元までをすっぽりと覆い隠すローブへと変化した。艶のある漆黒の革製で、そのまま闇に溶け込んでしまいそうな装いだ。颯輔が一瞬想像してしまった戦国時代の甲冑姿よりは、余程動き易いし無難なデザインだろう。管制人格やシグナム達は対象から除くが、認識阻害の魔法によって外部に聞こえる声も変化しているはずだった。

 颯輔は無茶苦茶な要求にも応えてくれた管制人格に感謝と申し訳ない気持ちの両方を抱きつつ、必死に結界を破ろうとしているシャマルへと再び呼びかけた。

 

「シャマル、結界は俺達が壊す。だから、俺達をそこに転移させてくれ」

『…………は?』

「時間がないから急いでくれっ!」

『は、はいぃっ!』

 

 一瞬呆けたシャマルに強く言い返し、颯輔はディスプレイを閉じさせて闇の書を手に取った。そして、颯輔の足元にシャマルの転移魔法陣が現れる。颯輔の視界が、ミントグリーンの光に包まれた。

 光が晴れて転移を完了した先、そこは、シャマルの隠れ潜んでいたビルの屋上だった。遠くに翡翠色の結界が見え、その周囲には武装隊員達の小さなシルエットが窺える。黒衣の少年が率いる別働隊は、もうすぐこの場に駆け付けようとしていた。

 

「そう――あ、主っ! どうしてこんなところまで来られたのですかっ!?」

「今は結界を破るのが最優先。話は後だ、シャマル」

『癒し手よ、今は主を護り、同時に逃走の準備を進めておいてほしい』

「あなたまで……わかりました」

 

 怒りを見せながら詰め寄ってきたシャマルを、強引ながらも二人がかりで手短に説き伏せた。

 外側から結界を破るには、術式を解析するか、強引に破壊するかしか方法はない。そして、十分な時間が残されていない以上は、強引に破壊するしか成す術はなかった。

 結界を破壊するほどの魔法は、外にいるシャマルには使えない。だが、闇の書を用いればそれも可能となる。別段、シャマルが闇の書を使えばいいだけではあったが、今回の場合は、『闇の書の主が動いている』と管理局に認識させる必要があった。

 シャマル自身も手段はそれしかないとわかっていたのか、それ以上の抗議はないようだった。颯輔の横に並び、迫る武装隊を見据えて油断なく構えている。

 記憶では知っていても、初めて感じる戦場の空気に緊張を高めながら、颯輔は闇の書を開いた。颯輔の足元に、深紫の魔法陣が浮かび上がって回転を始める。魔法の構築は、管制人格に一任していた。

 

『主のリンカーコアを一時的に起動させます。稼働率、6パーセント……23パーセント……47パーセント……? 稼働率、50パーセントから上がりません! 主、お体に異常はありませんか!?』

「いや、なんともないけど……」

『ならばどうして……いや、これでは十分な出力が……』

 

 土壇場での異常に管制人格が焦りを見せるも、颯輔は心配されるようなことに心当たりはなかった。強いて言えば起動したリンカーコアによって胸の奥が熱いくらいだが、それ以外に苦しさを覚えるなどの異常は何も感じられない。颯輔のリンカーコアは闇の書が取り込んでいるため、管制人格に異常の原因がわからなければ、あとは誰にもわからないだろう。

 とにかく、今は時間がおしい。発動に迷いを見せる管制人格に、颯輔は冷静に応じた。

 

「足りない分は闇の書の備蓄分で補ってくれ。消費した頁は、皆には悪いけどまた集めればいい」

『……わかりました。それでは、主の魔力と24頁分の魔力を使用させていただきます』

「ああ。術式の制御は任せるぞ?」

『お任せを』

 

 颯輔が胸の熱を闇の書へと送ると、深紫の魔法陣が輝度を上げた。人の身には過ぎた魔力の高まりが風を呼び起こし、もっと魔力を寄越せと仄暗い空に突風が吹き荒れる。湧き上がる魔力が集束を始め、颯輔の頭上に形を成していった。

 

「『眼下の敵を打ち砕く力を、今、ここに――!』」

 

 颯輔と管制人格の声が重なり、静かに響き渡る。深紫の魔力光は巨大な発射体を作りだし、表面に電流を走らせては、解き放たれるのを今か今かと待っているようだった。

 颯輔の視界が真紅に染まっていく。その中に、引き連れていたはずの武装隊員を置き去りにした黒衣の少年の、必死の形相で杖を突き出している姿が映った。颯輔は浮き上がった闇の書から手を離し、少年を射線に入れないように注意しながら、突き出した掌を結界へと向けた。

 

「『撃ち抜け――夜天の雷よッ!!』」

 

 詠唱の完了と共に、結界破壊の効果を持った広域攻撃魔法が撃ち放たれた。

 海鳴の空を引き裂いた轟雷は翡翠色の結界と衝突し、微塵も減衰されることなく突き抜ける。

 それと同時、颯輔の左腕と胸を、これまでとは比べ物にならないほどの激痛が襲った。

 

 

 

 

 結界内のリンディから連絡を受け、クロノは海鳴の空を飛んでいた。その後ろには、かつてはアースラチームの一員であった武装隊員が追従している。目指すは海鳴市のビルの一角。そこに湖の騎士シャマルが潜伏していると、確かな証拠を元に伝えられていた。

 S2Uを握る掌に力が入る。今この瞬間の行動は、ある意味でクロノが管理局入りした最大の目的でもあったのだ。

 クロノの父であるクライド・ハラオウンは、『前回』の闇の書事件に部隊の一部を率いる提督として参加していた。母のリンディ・ハラオウンも、クライドの補佐官として捜査にあたっていたという。総指揮を執っていたのは、現在の特務四課の部隊長でもあるギル・グレアムだった。

 主の確保にまで至ったのは、過去の事件では『前回』だけだ。だが、辿った結末はそれまでと同じく破滅。クライドを犠牲にして、『前回』の事件は終幕をみた。

 当時のクロノはまだ幼かったため、今となっては父の顔をろくに思い出すこともできない。父の写真を見て自分と似ていることを認め、ようやく微かな記憶と一致するのだ。しかし、あの日の母の顔だけは――雨降りの葬儀の日、笑顔を絶やさなかった母が唯一見せた泣き顔だけは、何年経とうとも色あせることなくクロノの脳裏に焼き付いている。おそらくこの先も、決して忘れることはないだろう。

 だからクロノは、あの日の涙を止めたくて管理局員となったのだ。それが、クロノ自身も自覚していないであろう本心。管理局員として、執務官として、オーダー分隊副隊長として、正義を振るう理由。

 

「目標捕捉っ! 報告と一致する座標に留まっています!」

 

 武装隊員の一人、サーチャーを放って現場を確認していた者がもたらした朗報により、クロノは気を引き締めた。

 今は過去を振り返っている場合ではない。シャマルの捕縛を足掛かりに守護騎士を崩して主を捕え、闇の書を封印して『闇の書事件』を終わらせるときだ。

 目標地点に迫り、クロノも肉眼でシャマルの姿を捉えたときだった。そこに、その影法師のような人物が姿を現したのは。

 

「なっ、転移反応っ!? ……で、ですが、対象の魔力反応がありませんっ!」

「なんだって!?」

 

 その報告に、クロノは思わず驚愕の声を返してしまった。

 シャマルの隣、ミントグリーンの魔法陣から現れたのは、頭頂からつま先までを漆黒のローブで覆い隠した人物。シャマルよりも長身だが、男性か女性かの区別はつかない。顔はフードの影に隠れて見えないが、あれが闇の書の主である可能性は高い。例え別口の協力者であったとしても、このタイミングで介入してくるのならば、魔導師でないはずがないのだ。

 ローブの人物を凝視したクロノは、その右手に持った、一冊の古めかしい書物を見つけた。

 

「あれは……!」

 

 茶色の装丁と、小さく光を反射してくる表紙。はっきりと確認したわけではないが、クロノの目が確かならば、その書物は闇の書で間違いないはずだ。つまりあの影法師は、闇の書の主でしかあり得ない。

 ローブの人物はその書物を開き、足元に深紫の光を従え始めた。そして、その身に魔力をまとい始め、それが次第に増大していく。

 

「そんなっ!? 対象の魔力量が急激に増大していますっ! 推定魔力、Aランクを突破! まだ増大を続けていますっ!」

「――っ! 君達は回避行動を優先しろ!」

 

 件の人物の頭上に、巨大な深紫の魔力球が形成されていった。吹き上がる魔力流が風を呼び、クロノ達を吸い寄せるかのように突風が吹き荒れる。クロノの直感が告げるあの攻撃は、Aランクどころの範疇には収まりきらない。おそらくはSランクオーバー、クロノも未踏の領域だ。

 だが、それでも。

 

「ですが、副隊長はどうするのですかっ!?」

「僕は、闇の書の主を捕える……!」

 

 クロノは、クロノだけは、ここで退くわけにはいかなかった。

 武装隊員の制止を振り切り、クロノは飛翔を続ける。S2Uに魔力を流し、術式を立ち上げながら、捕えるべき対象を睨みつけた。

 そして、暗い闇が覆うフードの奥、真紅の瞳と視線が交差したのだった。

 

「――ッ!?」

 

 その眼に射抜かれた瞬間、クロノの背筋をぞわりと怖気が走った。構えるS2Uの先端ががくがくと揺れ、それを見て初めて自分が震えていることに気が付く。起動していたはずの術式は、まるで蛇に射竦められた獲物のように、ピタリと処理途中で停止していた。

 クロノは14歳ながらも、経験豊富な執務官だ。凶悪な犯罪者とは、過去に何度も顔を突き合わせてきた。Sランククラスの実力を誇る犯罪者と戦闘になったこともある。そのときでさえ、微塵も恐怖を感じたことはなかったはずなのだ。

 だが、あの眼はかつてのどれとも違う。もっと禍々しい類の、人では理解できない何かだ。

 闇の書は、第一級捜索指定遺失物。ロストロギアとは、人の手に負えぬ狂気の産物。そんな言葉が、クロノの脳裏を過った。

 

「『撃ち抜け――夜天の雷よッ!!』」

 

 二重に聞こえる声が詠唱の完了を告げ、深紫の轟雷が解き放たれる。あるいはなのはの切り札をも凌駕するかもしれない暴力的な魔力が、クロノの眼前にまで迫り――

 

「クロノーーーッッ!!」

 

 その声を聞いて衝撃を受けると同時、クロノの視界が何度か連続で飛んだ。コマ送りをするかのように景色が遠ざかっていき、あの魔法も、それに伴いクロノから離れていく。

 いや、そうではない。クロノが魔法の発動地点から離れているのだ。クロノの魔法の師、リーゼロッテの腕に抱かれて。

 短距離瞬間移動を繰り返し、二人は手頃なビルの屋上へと着地した。危険はとうに去ったはずなのに、ロッテがクロノを離す様子はない。まるでクロノに縋りつくかのようにして、ロッテは小さく震えていた。その背の向こう、大分遠くでは、ようやく闇の書の主が発動した魔法が収まりつつあった。大きく射線から外れたここまで魔力流の余波が飛んでくるとは、いったいどれほど強力な魔法だったのか。リンディが展開していたはずの結界は、当然の如く消失していた。

 呆然と眺めるクロノの視界を、四色の魔力光が天を目指して昇っていく。どうやら、闇の書の主と守護騎士には逃げられてしまったようだった。先ほどの魔法による残留魔力が付近一帯に渦巻いているせいか、念話が上手く機能しない。結界の中にいたリンディ達が無事かどうかは、わからなかった。

 

「……か、……のばかぁ……!」

「ロ、ロッテ……?」

 

 微かに声が聞こえたかと思いきや、ロッテの抱きすくめる腕がきつくなった。ぎゅっと体が寄せられ、クロノは頭をロッテの肩に乗せる形となる。ロッテの震えは、未だ治まっていなかった。

 

「……バカクロノ、あんな魔法が発動しようとしてるところに突っ込んで、いったいどうする気だったんだよ」

「それは、闇の書の主を確保しようとして……」

「バカクロスケ、ああいう状況なら自分の命を優先しろって教えただろーが。射線は少しずれてたものの、ちょっとでも掠ればバリアジャケットなんて簡単に破られんだ。そのまま余波で意識を持ってかれてたら、飛行魔法も維持できなくて墜ちてたんだぞ……! バリアジャケットなしであの高さから落ちたら、絶対助からない。ちょっと考えればわかんだろ……!」

「……すまない」

「このバカスケ……生きててよかった……本当に……よかった……!」

 

 嗚咽を上げ始めたロッテの背に手を回し、クロノもようやく抱き返すことができた。そっと撫でてやると、生意気、などと返してくるものの、ロッテがクロノを離す気配はやはりない。余程心配だったのだろう。ロッテは目の前で、クライドが消滅するところを見ていたはずなのだから。

 二人が揃って動けずにいてしばらく。ようやく通信が復旧したのか通信用ディスプレイが現れ、クロノ君クロノ君クロノ君、と慌ただしい声が聞こえてきた。クロノの耳によく馴染んだその声は、四課でも変わらず通信主任を務めるエイミィ・リミエッタのものだった。

 

『……あー、お邪魔だった、かな?』

「いや、そんなことはない。それよりもエイミィ、いったいどうなっているのか、そちらで把握している現状を教えてもらいたい」

『う、うん……。えーと、闇の書の主と思われる人物の広域攻撃魔法によって結界は消滅。副艦長とアースラの魔導炉のパスを繋ぎ直す最中だったんだけど、どうも攻撃の影響を受けたらしくて、魔導炉が停止しちゃって……。今さっき復旧させたばっかりだから、実は、こっちもあんまり状況はわかってないんだよね。直撃コースだった結界内とは、まだ通信が繋がんないし……』

「そうか……。守護騎士達の転移先も追跡できてはいないのか?」

『さっきの攻撃の残留魔力が酷くて、計器が全然反応してくれないの。あんなの無茶苦茶だよ……』

 

 アースラのシステムをダウンさせるほどの攻撃。かつてジュエルシード事件でも味わったことだが、Sランクオーバーの魔導師とはその大概が常識外れもいいところだ。主も魔法が使用可能という事実が今後の捜査に大きく影響を及ぼしそうで、クロノの胃がきりきりと痛みを訴えてくる。

 猫フォームをあやす要領でロッテの背を撫でつけつつ、同時にエイミィから何やら理不尽な視線を向けられながらも、新たにグレアムも交えて状況を整理しているときだった。

 

『――……ロノ、クロノっ!』

『フェイト、無事か? いったいどうした?』

『私は大丈夫だけど、リンディ隊長が私達を庇って、それで……! ああ、早く医療班を呼んでっ!』

 

 フェイトの悲鳴を受け、クロノの中の何かに亀裂が走る。その頬を、ぽつりぽつりと降り始めた雨が濡らしていった。

 

 



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第十九話 不協和音

 

 

 遠くに聞こえる小川のせせらぎ。小さく届く小鳥のさえずり。耳に入る自然の音に、八神颯輔は泥のような眠りから目を覚ました。

 

「颯輔ぇっ!」

「颯輔君っ!」

 

 続いた二つの心配そうな声。ヴィータとシャマルの声だ。胸に感じる重みはヴィータがそこに飛び込んできたからであり、シャマルの顔が上下逆さまに見えるのは上から覗きこまれているからのようだった。どうやら、シャマルの膝の上に寝かされていたらしい。騎士甲冑は、フードだけが外されていた。

 颯輔は、意識を失うまでの過程を思い出した。今にも泣き出してしまいそうな二人に笑いかけようとし、思わず顔をしかめる。ずきり、と左胸に鋭い痛みを感じたためだ。

 

「颯輔、まだ痛いの?」

「いや、そんなことは――」

『――癒し手よ、引き続き主に治療を。今度は左胸だ』

「わかったわ」

 

 下から覗きこんでくるヴィータの不安を取り除こうとし、それを右側から上がった声に遮られた。颯輔の右手、そこに握られた闇の書から投影されている管制人格が、強がらないでください、と視線で訴えかけている。颯輔の体調を把握している管制人格がいる限り、今後は下手な嘘は通用しないようだった。

 身を起こそうとしていた颯輔の肩が押され、ぽすんとシャマルの膝の上に逆戻りする。ヴィータが離れてシャマルが痛んだ左胸に手をかざし、そこから淡いミントグリーンの光が注がれた。シャマルの温かな魔力が颯輔の体に溶け込んでいき、次第に痛みが和らいでいった。

 

「颯輔、さっきは助かった、ありがとう。……だけど」

「今度あんな無茶をしたら、私達、怒りますからね。こんな反動があるなら、尚更です……」

「ごめん……」

 

 言葉だけでなく視線でも諌めてくる二人に、颯輔は素直に謝罪の言葉を返した。

 颯輔自身、あれが大きな危険を孕んだ無茶な行動だったとは自覚している。しかし、闇の書の記憶を辿ったことで主にも魔法が使えることは分かっていたが、それで侵食が進むとは思ってもいなかったのだ。

 もっとも、颯輔は例え侵食が進むと分かっていても、あの状況ならば同じ選択をしただろうが。

 その考えを見透かされたのか、向けられる意味深な三つの視線に耐え切れず、颯輔は話題を変えるべく目の動きだけで辺りを見回した。

 周囲の地面には柔らかい草が生い茂っている。背はそれほど高くないのだが、その色が特徴的だった。なにせ、赤や黄色などまるで紅葉でもしているかのような色をしているのだから。

 空を覆っているのは大木から無数に伸びる枝。そこから生える橙色の葉は、針葉樹なのか広葉樹なのか判断が難しい独特の形をしている。その隙間から届く木漏れ日は赤色をしていた。しかし、地球群生のものとは思えない植物に囲まれているのだから、それが夕日の色だとは限らない。

 

「地球じゃないっぽいけど……ここはどこなんだ?」

「ここは、地球から少し離れた無人世界です」

「海鳴じゃ見れない生き物もいるけど、あたしが追っ払うから安心していいよ」

『探知防壁を展開しておりますので、追っ手の心配もありません』

 

 予想通りに地球ではないらしい。途方もない大金を叩けば宇宙旅行も夢ではなくなった世の中だが、颯輔はタダでそれを決行してしまったようだった。当然、満喫する余裕などないのだが。

 無人世界という割には生き物がいるらしいが、それが追い払う必要がある生き物だということは、今は考えないようにした。もしも襲われたとしてもヴィータにシャマルがいれば安心ではあるのだが、歓迎はできない。

 ともかく、管制人格が探知防壁を展開している以上、管理局に見つかる可能性はほぼ皆無だろう。手応えなどわからなかったし非殺傷設定にはしていたが、颯輔と管制人格が放った魔法の威力は折り紙つきだ。ばら撒いた魔力はチャフのように作用するため、追跡も困難のはずである。

 

「シグナムとザフィーラは? ヴィータがいるってことは、二人も無事なんだろうけど……」

「念のために、逃走経路はバラバラに別れたんです」

「シャマルから連絡受けて、一番近かったあたしが最初に合流したんだ。シグナムもザフィーラもちゃんと逃げてたから…………うん、もうすぐこっち来るって」

「よかった……。じゃあ、俺はどのくらい眠ってたんだ? あんまり家を空けると、はやてに怪しまれるかも……」

『地球時間での現在時刻は17時6分28秒です。主颯輔が眠られていたのは12分45秒間ですので、主はやてはまだ月村すずかと遊ばれているはずです』

「そ、そう……」

 

 元を質せば管制人格は融合騎――すなわちデバイスであるため間違ってはいないのだろうが、秒刻みで把握していることに何とも言えない感想を抱く颯輔であった。料理の中にはタイミングが重要なものもあるため、そういった場面では心強い助けとなるかもしれない、などと益体のないことを考えてしまう。

 颯輔がシャマルの治療を受けながら、ヴィータから結界内の事のてん末を聞き出していると、すぐ近くに二つの転移反応があった。探知防壁のあるこの場を特定できる者など限られている。無人世界である以上、偶然別人が、ということもなかった。

 ラベンダーと群青色の転移魔法陣から現れたのは、シグナムとザフィーラ。シグナムの姿を視界に認めた颯輔は、安堵の感情を焦燥に塗り替えて飛び起きた。

 

「シグナムっ!!」

 

 颯輔はすぐさまシグナムの傍まで駆け寄り、ふらつくその体を支えた。シグナムの騎士甲冑は所々が焼け焦げており、赤黒く染まった肌をさらしていたのだ。まるで至近距離で爆発を受けたかのような有様に、二人を労うことも忘れてしまう。

 

「シャマルっ! 早くシグナムの治療を――……シグナム?」

 

 置いて来てしまったらしい闇の書を携え、ヴィータと共に駆けてくるシャマルをなお呼びつけていた颯輔の肩に、震えるシグナムの手が添えられ、体重が預けられた。しかしそれは、恋人同士の抱擁などではない。まるで、崩れ落ちてしまわないようにと縋りつくかのようで、そして何より、颯輔が逃げてしまわないようにと捕まえているかのようだった。

 シグナムの顔が上がり、怒りと悲しみと苦しみを混ぜ返したような表情が、颯輔の視界に映り込んだ。いつかの夜と同じく、いや、それ以上に見れない顔だった。

 

「颯輔……どうか、誤魔化さずに教えてください……」

「……何を?」

「あなたが……あなたと管制人格が知っていて、私達に隠していること……その全てです……」

 

 シグナムらしからぬ力のない声。それは、半ば予想のついていた言葉だった。訊かれないことに安堵しつつも、いつかは訊かれてしまうのだろうと危惧していたものだ。元より、いつまでも誤魔化しきれる類の話ではない。シグナム達が蒐集に明け暮れていたということもあったが、管制人格が起動してからの颯輔は、ほとんどの時間を管制人格と共に過ごしていたのだから。

 

「…………」

「颯輔君……」

 

 颯輔とシグナムのかたわら、ザフィーラは口を閉ざして見上げてくるばかり。隣に立つシャマルは、悩む素振りをしながらも視線を颯輔へと向けていた。

 

「あたしも、知りたい……」

 

 ヴィータは握った拳を震わせ、迷いを見せつつもそう呟いた。

 シグナム達の全員が、真実を知りたがっている。遠巻きの映像では音声までは拾えなかったが、戦闘中の高町なのは達は、シグナム達に何かを呼びかけていた。きっと、そこで聞かされてしまったのだろう。そうでなくとも、何かを隠していることには気が付いていたはずなのだ。むしろ、これまでそれを訊かずにいてくれたことに感謝すべきなのである。

 

『お前達、あまり主を困らせては――』

「――私達はっ!!」

 

 シャマルの手を離れ、独立飛行した闇の書の管制人格が諌めるも、それはシグナムの叫びにかき消されてしまう。

 

「私達は、あなたの家族ではないのですかっ……! それは、家族にすら話せないようなことなのですかっ……!」

「……っ!」

 

 糾弾するシグナムの頬を、涙が伝い落ちていった。

 限界、なのだろう。平穏を手に入れたかと思いきや、あの闇の世界に逆戻りしてしまったのだ。敵の言葉が響くほど、シグナム達は心身に疲労を蓄積させてしまっていたのだろう。そして、致命的だったのは、リンディ・ハラオウンから蒐集が行えなかったことか。

 

「それは……」

『…………』

 

 だが、本当に全てを話してしまってもいいのだろうか。今のところ、微かな希望があるにはあるのだが、それは、決して最良の結果を導くものではない。ともすれば、はやてとシグナム達を更なる絶望の淵に追い込んでしまうかもしれないものだ。

 迷う颯輔の肩を掴む力が弱くなり、シグナムの手が離れた。

 

「それとも私達は……あなたにとっても道具だったと――」

「――違うっ!!」

 

 シグナムから漏れる言葉を、颯輔は腹の底から声を出して遮った。木霊した颯輔の声が消えてなくなると、風のない森には静寂が訪れる。

 いつもそうだ。八神颯輔の選択は遅すぎる。迷ってばかりであと一歩が間に合わず、結果は最良のものから遠ざかってしまう。いつもいつも、後になってから悔やんでばかりだった。

 颯輔は、そんな優柔不断な自分が許せなかった。

 

「わかった……全部、話すよ。……だけど、それは今じゃない。今はシグナムの治療をして、そして、家に戻らないと……。夜、はやてが眠ったら、皆で俺の部屋に来てくれ。そこで、全部を話すから。それでいいか?」

「…………はい」

 

 シグナムが頷いたのを見て取ってから、颯輔は周りを見回して確認する。今はそれで納得してくれたのか、ヴィータもシャマルもザフィーラも、黙って頷きを返してくれた。

 しかし、管制人格だけは俯いており、内心では颯輔の考えに反対しているようだった。その理由は、望むべく解決法が見つかってはいないためだろう。だがそれでも、シグナムにあそこまで言わせてしまった以上、颯輔にはこれ以上黙っていることなどできなかった。

 

「それじゃあシャマル、まずはシグナムの治療を頼む。ザフィーラはその間、二人のことを守ってやってくれ」

「はい」

「わかりました。治療が済み次第、我らも戻ります」

「頼んだ。悪いけど俺達は先に戻ってるから、気を付けて。ヴィータ、転移魔法、お願いできるか?」

「うん、任せて」

 

 それぞれに指示を出し、颯輔は管制人格とヴィータと共に自室へと転移する。羽のように軽いはずの騎士甲冑が、今だけは鉛のように重く感じた。

 

 

 

 

 八神はやてが携帯電話を持たされたのは、小学校への入学を機にしてだった。無論、身体に障害を持つが故にである。学校が終わると、兄である颯輔に連絡を入れて迎えを待つ、というのがほとんどだったのだ。

 携帯電話の普及が進んでいる昨今、当時のクラスメイトにも少数ながら携帯電話を持つ者はいた。はやてもアドレスを交換したのだが、休学している今現在は、電話帳の肥やしとなっている状態である。実質利用しているのは、両手どころか片手で足りる件数だろう。

 もっとも、一番連絡を取る相手であった颯輔とは、携帯の代わりに念話を使うようになってしまった。シグナム達と連絡を取る際も念話を使ってしまうため、外出していても自宅の固定電話にかけることはまずない。次点では担当医の石田幸恵であったが、最近の体の調子はどうだのといった内容が多く、友人関係とは程遠い内容である。父の友人であるグレアムに至っては、颯輔が連絡を取ったとき、ついでに二言三言話す程度でだった。

 改めて考えてもみれば、はやては携帯をほとんど利用していなかった。颯輔に料金プランを変更されてしまったのも止む無しである。

 しかし、12月に入り、はやての携帯の使用率は今までの遅れを取り戻すが勢いとなっていた。それは、今月頭に風芽丘図書館で出会った月村すずかと、アドレスを交換したからである。

 実のところ、はやては時折すずかの姿を図書館内で見かけることがあった。同い年くらいの子かな、とは思っていたのである。そして、それは向こうも同じだったらしい。お互い読書好きということもあって、電話やメールの話は弾んだ。すずかの通う聖祥小学校に、はやてが来春から転校する予定であったのも、一役をかっていただろう。

 それらがあって、はやてとすずかは出会ってから一週間と少ししか経っていないにも関わらず、お互いの家に遊びに行くほどの仲となったのである。

 ちなみについ先日、はやてが初めてすずかの家に遊びに『連れて行かれた』際、その待遇と豪邸を目の当たりにし、格差社会という言葉を早くも理解してしまったのは、すずかには内緒の話である。

 というわけで本日。しばらく家族しか足を踏み入れていなかった八神家に、随分と久しぶりに家族以外の姿があった。話のとおりにそのお相手は月村すずか。テーブルに置いたお菓子とお茶を挟み、はやてとリビングにてガールズトークなるものに花を咲かせているのであった。

 

「ほんでな、最後の最後にびっくりなどんでん返しあって……あとは、読んでみてのお楽しみや」

「うーっ、すっごく気になるよぉ……! 今日は寝ないで読んじゃうかも」

「あはは、すずかちゃんは案外せっかちさんやな。でも、夜更かしはあかんで? 返してくれるのはいつでもええから、ゆっくり読んでくれてかまへんよ」

「そう? じゃあ、うん、ちょっと貸してもらうね。ありがとう、はやてちゃん」

「そ、そんな気にせんでもええよ。うちに置いといてもたまーに読み返すくらいやし、その子も誰かに読んでもらった方が幸せや」

「読んでもらった方が幸せ、かぁ。それじゃあ、私もおすすめの本、今度持ってくるね。何冊か選んでメールでタイトルとあらすじを送るから、その中から選んでもらえるかな?」

「ほんま? おおきにな、すずかちゃん」

「うん、どういたしまして」

 

 可憐に微笑むすずかの姿はどこからどう見てもお嬢様で、少々年季の入ったソファに座らせているのが申し訳ないくらいだった。すずかの家に比べると、ここには煌びやかな調度品もメイドの姿もない。お茶請けにあるのも、そこいらのスーパーで売っているようなものだ。どう考えても、見劣りしてしまう。

 しかし、幸いなことに、すずかにそれを気にした風はなかった。物語のお嬢様は金髪縦ロールで、おーっほっほっほと高笑いをして、何かと金持ちであることを鼻にかけるような人物ばかりだが、やはり、それはフィクションの中だけだったらしい。

 はやては自分が偏見に囚われていたことを恥じ、顔の熱を冷ますように天井を仰いで息を吐いた。

 何気なく見上げた天井の先は、颯輔の部屋の位置。しばらく前に帰宅した颯輔だが、気を遣ってくれたのか、一度顔を見せただけであとは部屋に籠ってしまっていた。最近の颯輔は、家に二人きりのときを除いてそうしていることが多かった。

 はやての様子がおかしかったのか、すずかがクスリと笑いを零した。

 

「ふふふ、お兄さんが気になる?」

「えっ、ちゃ、ちゃうよ、そんなことあらへんって」

「でも、何だか寂しそうな顔してたよ?」

「か、勘違い! そんなんすずかちゃんの勘違いや!」

「そうかな?」

「……もう、すずかちゃんのいじわる」

 

 はやては、弁明をする度に笑みを深くするすずかに、自分がからかわれていたことを悟った。はやては家ではいじり役であるため、いじられることには慣れておらず、赤くなった顔を伏せてしまう。誤魔化しにすすったお茶は、熱が冷めて温くなってしまっていた。

 先ほどの行動は意図したものではなかったが、すずかには内心を見透かされてしまったらしい。お世辞にも長い付き合いではないはずだが、どうやらすずかは心の機微に敏いようだった。最近は家族皆が忙しそうにしている、と話してしまったのも、判断材料にされたのかもしれない。

 

「ねえ、はやてちゃん。はやてちゃんさえよかったら、今度、私のお友達を誘ってみてもいいかな?」

「ん? すずかちゃんのお友達?」

「うん。学校ではやてちゃんの話をしたら、その子も会いたいって言ってたし……その、今日学校が終わったときも、なんだか雨の中に捨てられた子猫みたいな目をしてたから……。あっ、別に、はやてちゃんと遊ぶのが嫌だとか、全然そんなんじゃないよっ? ただ、他のお友達も最近忙しいみたいで、その子だけ仲間外れみたいになっちゃって……」

 

 遠慮がちに目を伏せるすずかを見て、小学生みたいな悩みみたいやな、とはやては思った。どうやらすずかは、友人一人を残して遊んでいることに、罪悪感を感じてしまっているらしい。

 学校の友達ということは、当然その子も聖祥小学校の児童だろう。それに、すずかの友達なのだから、悪い子であるはずがない。むしろ、今の話を聞く限りは可愛らしい子ではないか。そういうことならば、はやてとしては断る理由もない。内心を言ってしまえば、同学年の友達が欲しいという気持ちも確かにあった。

 

「わ、わたしは、別にかまへんよ。ほら、わたし、年がら年中家におって、暇しとるだけやし……。その、そっちの子がええっちゅうんなら、うん、大丈夫」

「本当? それじゃあ、その子に伝えておくね。ありがとう、はやてちゃん」

 

 ぱっと顔を上げ、花咲くような笑顔を浮かべるすずかに、何故かしてやられたような気持ちになってしまうはやてだった。何だか、すずかの思惑通りにことを運ばれた気さえする。

 気のせいだろう、と考え直していると、物音さえしなかった二階から階段を降りる音が聞こえてきた。それが一階に到達すると同時、玄関の開く音があり、ただいまー、と幼い声がする。続き、リビングのドアを開けて入ってきたのは、颯輔とヴィータだった。

 颯輔は台所に向かい、ヴィータははやての下へと駆けてきた。

 

「はやて、ただいま!」

「おかえり、ヴィータ。今日はちょう遅かったなぁ」

「こんばんは、ヴィータちゃん。お邪魔してます」

「どうも、です」

 

 膝の上で笑顔だったはずのヴィータが、すずかに話しかけられた途端にぎこちなくなってしまうのを見て、思わず苦笑が漏れた。ヴィータとすずかは前にも会ったことはあるはずだが、どうやらまだ慣れてはいなかったらしい。人見知りのきらいがあるヴィータが、家族以外の人にも同じ態度で接するようになるのは、少しばかり時間がかかるのだ。

 ヴィータを撫でつけつつ再びすずかとのお話に興じていると、急須を持った颯輔が台所から戻ってきた。

 

「はい、すずかちゃん。おかわりどうぞ」

「ありがとうございます、お兄さん。でも、そろそろ迎えの時間が……」

「そっか。まあ残しちゃってもいいから、お迎えが来るまではゆっくりしてなよ」

「はい。それじゃあ、少しだけいただきます」

 

 すずかの言葉に時計を確認してみれば、いつの間にか、時刻は17時半を過ぎていた。まだ少ししか話していない気でいたが、そんなことはなかったらしい。楽しい時間は短く感じるもので、あっという間に時間が経っていた。

 

「はい、はやても」

「うん。おおきに、お兄」

 

 すずかの湯呑茶碗にお茶を注ぎ終えた颯輔が、今度ははやての方へと急須を向けてきた。寂しい思いを胸に抱きつつ、はやても湯呑茶碗を差し出して――

 

「――っ、ぅ……!」

「……はやて?」

 

 どくん、と。胸の奥で、心臓以外の何かが大きな音を立てた。

 途端、はやての体中に激痛が走り渡る。手を離れた湯呑茶碗がテーブルに落ち、甲高い音を響かせた。しかし、それに構っている暇などない。体内で暴れる痛みだけが、はやての感じる全てだった。

 この痛みは、はやてにとっては既知のものだ。ずっと前から、何の前触れもなく突然襲ってくるもの。ただ、小さい頃から付き合ってはきたが、今回のものは今までで一番酷い。気付かれないように我慢することは、不可能のようだった。

 

「はやてっ!!」

「はやてちゃんっ!?」

 

 二つの悲鳴を最後に、はやての意識は遠ざかっていく。

 崩れる体を、広い胸に受け止められた気がした。

 

 

 

 

 本日の作戦を失敗に終えてしまったクロノ・ハラオウンは、アースラ内の執務室にて報告書をまとめていた。室内にいるのはクロノ一人だけで、キーボードを叩く音だけが響いている。クロノは、感情を殺したかのような無表情で淡々と仕事をこなしていた。

 作戦は、途中までは順調に進んでいたのだ。闇の書の主を見つけ出すことこそ叶わなかったが、リンディの放ったサーチャーは、守護騎士をおびき出すことに成功した。シャマルの結界によって閉じ込められてしまう形となるも、結界内の戦闘は四課が優勢だった。

 状況が動いたのは、リンディが結界を破壊してから。新たに結界を展開するも、リンディはシャマルによって蒐集をされかけた。不幸中の幸いか、リンディは『前回』の事件で蒐集をされていたため、今回は無事に済んだ。しかし、それが引き金だったのかもしれない。

 劣勢を強いられていたはずの守護騎士を救ったのは、その主。シャマルの確保に向かっていたクロノ達の前に、その人物は突然現れのだ。なのはの記憶およびその身長から男性かと思われるが、身体のラインを隠す様な漆黒のローブ姿であったため、断定はできない。だが、主が管理局に敵対意思を持つ危険人物であることだけはわかった。

 主の放った広域攻撃魔法は、凄まじい威力だった。その道のプロであるリンディが展開して武装隊が強化までした結界を一瞬にして破壊してしまい、残留魔力で追跡が困難になるほどに。ギル・グレアムやプレシア・テスタロッサ、あるいはアースラの魔導炉の補助を受けたリンディにも引けを取らない、強大な魔導師だ。

 

「…………」

 

 キーボードを打つ手が止まり、クロノの表情が悔しさに歪んだ。

 リンディにリーゼアリアの活躍、なのはにフェイト、そしてアルフの奮闘に比べ、いったい自分は何をしていたのか。結界の外、リーゼロッテや武装隊員と共にシャマルを捜索していたにもかかわらず、彼女の居場所を特定したのはリンディだった。現場に急行すれば主によって邪魔をされ、結果、全員を取り逃がしてしまう始末だ。

 あのとき恐怖に竦んでさえいなければ、という思いが、クロノの中で膨れ上がる。犯罪者に気圧され肝心な場面でミスをする、そんなことは、執務官には許されない。ましてや、相手は長年探し求めていた闇の書の主なのだ。何よりも、クロノの矜持が自分自身を許せなかった。

 もしも、あの場にいたのがクロノよりも魔法の扱いに長ける師のアリアであったならば、結果は違っていたのかもしれない。そんな考えが過ったとき、執務室の扉が開いた。

 

「クロノ、調子はどう?」

「……アリアか」

 

 噂をすれば影がさすとは、日本の諺だったか。入ってきたのは、そのアリアだった。アリアも今日の失敗には思うところがあるのか、その面持ちは沈痛なものだった。

 

「……大丈夫?」

「ああ。見てのとおり、何の怪我もない。僕はいたって健康体だ」

「体じゃなくて、メンタルの方。酷い顔してるって、自分でわかってる?」

「…………」

 

 アリアの問いかけに、クロノは沈黙で答えた。そんなことは、言われずともわかっていたからだ。それを隠すために、今まで黙々と仕事に向き合っていたのだから。

 はぁ、と溜息をついたアリアが、こつこつと音を立てて近づいて来る。クロノの隣に立ったアリアは、ぽんぽんと頭を撫でてきた。俯くクロノは、それを振り払うことはしなかった。

 

「リンディが目を覚ましたわよ。こっちは私が片づけておくから、行ってきなさい」

「いや、しかし……」

 

 アリアの言葉にはっと顔を上げる。しかし、クロノはすぐにその視線を彷徨わせた。

 闇の書の主の攻撃が放たれたとき、その馬鹿げた威力を知っていたリンディは、すぐさま皆を転移魔法で一カ所に集めていた。続き、障壁を張って防ごうとしたのだが、あの魔法はそのすぐそばを掠めたのだ。結果、結界と障壁を破壊されて二重のフィードバックを受けたリンディは、その負荷に耐え切れずに倒れてしまったのである。それから四時間ほど経っているが、今の今まで昏睡状態だった。

 クロノにとって、リンディはたった一人の肉親だ。クロノ・ハラオウン個人としては、今すぐに医務室に向かいたい。だが、執務官としてのクロノ・ハラオウンは、仕事を放りだしてまで駆け付けるわけにはいかなかった。

 

「いいから、ほら、こんなときくらい自分を優先しなさい」

「…………すまない」

 

 しばし迷い、アリアに背を押される形で立ち上がる。アリアに頭を下げてから、クロノは医務室へと向かって駆け出した。

 執務室と医務室は、階が違うだけで同一ブロックにある。エレベーターを待つ時間も待ち遠しかったクロノは、階段を駆け下り目的のフロアへと到達した。角を曲がる際にスタッフとぶつかりそうになり、すまない、と謝りながら強引に避ける。壁に強かに肩を打ちつけるも、クロノが足を止めることはなかった。

 ほどなくして、クロノは医務室の前へと辿り着いた。すぐさま扉を開けようとして、思い止まり、乱れた服装と呼吸を整える。何となく、リンディにはここまで走って来たのだと知られたくなかった。

 

「……失礼します」

 

 扉をノックし、返事があったのを確認してから入室する。相手は母親だが、いつかの誰かと同じような目に遭うのはごめんだった。

 

「あらクロノ、いらっしゃい」

「…………」

 

 ベッドに半身を起しているリンディは、けろっとした表情でそう言った。その手には以前に地球から取り寄せた湯呑茶碗が乗せられており、そこから甘ったるい香りが立ち上っている。見舞い中らしいなのはとフェイトがベッドのそばに座っており、二人共が湯呑茶碗を手に辛そうな顔をしていた。

 

「クロノ君……」

「クロノ……」

 

 なのはとフェイトの助けを求めるような視線を咳払いをして斬り捨て、気持ちほんの少しだけ離れた位置に立った。

 好物を手にしているリンディの顔色は、常と変らないようだった。どころか、普段よりもほくほくとしてさえ見える。何だか、必死に走ってきた自分一人が馬鹿のように思えて仕方がないクロノだった。

 

「ご無事のようで安心しました、隊長」

「ええ、おかげさまで。あれは非殺傷設定だったようだし、魔力ダメージだけで済んだのが功を奏したようね」

「…………」

 

 あのクラスの魔法となれば殺傷設定も非殺傷設定も変わらないようにも見えるが、受けた本人がそう言う以上は間違いないのだろう。守護騎士の攻撃も非殺傷設定だったのだから、その主も同じだというのは一応納得はできる。『これまで』に比べれば、イレギュラーもいいところだが。

 もっとも、非殺傷設定であろうとも怪我をするときはする。手当てを受けた今は完治しているが、至近距離でシグナムの炎を受けたフェイトなどは、軽度の火傷を負っていた。ともすれば、フェイトの方がリンディよりも重症だったくらいだ。

 

「さて、と。なのはさんとフェイトさんは、そろそろお家に帰りましょうか。今日は休んでもらったけれど、明日は学校に行かないといけないものね。もう遅い時間だし、なのはさんのご両親も心配してるでしょう」

「あ、はい」

「え、でも……」

 

 なのはの両親にはハラオウン家にいると連絡を入れてあるはずだが、さすがにこれ以上は非常識な時間だ。なのはもそれをわかっているのか、リンディの言葉を素直に聞き入れていた。

 一方のフェイトはリンディが心配だったのか、リンディとクロノの間で視線を彷徨わせている。仮にも母親となる予定のリンディが負傷したのだから、無理もないだろう。

 くすりと笑ったリンディは、フェイトの頭をそっと撫でつけた。

 

「大丈夫よ、フェイトさん。今晩はここに泊まらないといけないけれど、明日の朝には家に戻って、お弁当も作るわ。だから、ね?」

「は、はいっ……。それじゃあ、あの……お、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

「…………」

 

 顔をほんのりと赤く染め、まだ緊張の見える挨拶をするフェイトを、リンディは微笑ましい様子で見ていた。それは正しく、我が子に惜しみない愛情を注ぐ母親のような表情だ。

 少しだけ釈然としないものを感じていたクロノに、一思いに煽って湯呑茶碗を置いた二人から、おやすみ、と声がかかる。おやすみ、と返してやると、二人揃って医務室から出ていった。転移ゲートまでは少しあるが、この艦の構造を完璧に把握しているフェイトがいれば、道中迷うことはないだろう。

 

「クロノ、ちょっとおいでなさい」

「……はい?」

「こっちこっち」

 

 閉まった扉を見つめていたクロノに、リンディから声がかかる。一応ベッドの傍にはいるのだが、尚も手招きをするリンディに首を傾げていると、先ほどまでフェイトが座っていたイスを指し示された。立ったままでいるよりは、と思ったクロノは、素直にそのイスに腰掛けた。

 ベッドの隣、最も近い位置に座ったクロノに、リンディが手を伸ばしてくる。何を、と思う間もなく、クロノはリンディに正面から抱きしめられてしまった。

 

「――っ、か、かあさっ、何をっ!?」

「心配かけてごめんなさいね、クロノ」

「そそそ、そんなことはっ、いいから離し――」

『――落ち着きなさい、クロノ。それに、実の息子にそんな風に嫌がられてしまうと、さすがに私も傷つくわ』

 

 クロノが士官学校に入ってからはされた覚えのない少々過剰なスキンシップに慌てふためいていると、リンディからクスクスと笑い混じりの念話が入った。しかし、リンディからの抱擁が解かれる気配はない。甘く懐かしい匂いが、クロノの肺を満たしていく。

 からかわないでください、とクロノは言おうとしたが、その前に再び念話が届けられた。

 

『しばらくはこのままで。それから、クロノも念話でお願いね?』

『……いったいどうしたんですか?』

『ちょっと、内緒話よ』

『内緒話……?』

 

 どういう意味ですか、とクロノが視線を上げると、ウインクで返された。歳を考えてください、と言いたくなったが、言わずに思うだけで我慢するクロノである。ほんの少しだけ、リンディの腕がきつくなったような気がした。

 

『今日の作戦、クロノはおかしいと思うところはなかったかしら?』

『おかしなところ、ですか?』

『そう。気になったこととか、何もない?』

 

 言われ、考えてみる。

 まず、現地時間の16時20分頃にそれぞれの配置に付いた。それから16時半に作戦開始、リンディがサーチャーによる捜査網を展開する。

 ほどなくして守護騎士が現れ、シャマルによって結界が張られた。結界外ではクロノとリーゼロッテが武装隊を率いてシャマルを捜索し、結界内ではリンディ達が戦闘を開始。報告では、なのはとフェイトがシグナムとヴィータと、アルフとアリアがザフィーラと戦闘を始めたとのこと。リンディは、結界を破壊するために術式の解析に入ったらしい。

 しばらくしてリンディがシャマルの結界を破り、新たに結界を張り直す。続き、ブリッジとの通信中にシャマルの攻撃を受けたのだ。幸いにもリンディは蒐集をされず、シャマルの居場所の逆探知に成功。クロノ達が連絡を受け、その場所に向かう。後は闇の書の主が現れて、という展開だった。

 この中で、おかしな点と言えば。

 

『…………そうだ、どうしてシャマルは、隊長を蒐集しようとしたんでしょうか。隊長は「前回」、他ならぬシャマルの手によって、それも同じ方法で蒐集を受けていたはずなのに……』

『うーん、それも気になるところだけど、今は不正解。私がおかしいと思ったのは、ロッテとアリアの配置よ』

『配置、ですか?』

『ええ。だって、普通は逆じゃない? ベルカ式の使い手は近接戦に秀でている。それは使い魔――守護獣のザフィーラにも言えることだわ。だったら、同レベルの近接格闘型であるロッテを結界内に配置すべきだと思うのだけど』

『ですが、ロッテの機動力は捜査範囲の拡大に繋がりますし、アリアの場合は全体の援護が出来ます』

『捜査範囲の拡大を図るなら、アリアがサーチャーをばら撒いた方が効率がよかったはずよ。全体の援護なら、アリアほどでなくとも私ができるわ。その気になれば、アルフでも大丈夫だったでしょう。それに、アリアはアルフと一緒にザフィーラと戦っていた……なのはさんとフェイトさんの援護なんて、一度もしなかったわ。まあ、私は最初にしてもらったのだけど、それはロッテでも十分――むしろ、ロッテの方が適任だったはずよ。ロッテなら守護騎士とも互角に戦えるし、短距離瞬間移動で撹乱もできるし』

『それは…………あの、何が言いたいのですか?』

 

 リンディの言には確かに一理がある。クロノ自身、アリアがいれば闇の書の主を捕えることができたかもしれないと思ったほどだ。しかし、ロッテとアリアの配置の違いだけで、作戦失敗に繋がったのだとはとても考えられなかった。むしろ、原因は恐怖してしまった自分にあるはずなのだから。

 そして、リンディが言わんとしていることも、クロノにはよくわからなかった。

 

『それからもう一つ、おかしなことがあるわ』

『もう一つ?』

『アースラの魔導炉が停止して、システムが一時的にダウンしてしまったことよ。確かに、闇の書の主の魔法にはそれだけのことを成し得る力があったでしょう。けれど、それはアースラに向けて撃たれた場合の話よ。あのとき、私とアースラの魔導炉のパスはまだ繋がっていなかった。専門家の意見も欲しいところだけど、パスを繋ぐ途中に攻撃を受けたとして、それが軌道上にあるアースラにまで被害を及ぼすものかしら?』

『確かにそうですが……』

『もっとも、例えアースラの魔導炉が停止しなかったとしても、あの残留魔力では守護騎士達の追跡は困難だったでしょうけどね。万が一のための保険か、それとも、他に狙いがあったのかしら?』

『保険に狙いって……――まさか、四課の「誰か」が守護騎士達に肩入れをしているとでも言うんですか?』

『さあ、そこまで断言はしないけど……けれど、偶然にしてはちょっと出来過ぎていると思わない?』

 

 小首をかしげるリンディは、いつもどおりの微笑を浮かべていて。安心を覚えるはずのそれを見たクロノは、胸にもやもやとしたものが広がるのを感じたのだった。

 

 



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第二十話 涙の理由

 

 

 12月12日。普段ならば兄を学校へと送り出し、家族と共に家事に精を出している時間帯にもかかわらず、八神はやては未だにベッドの上にいた。それも、自室のベッドではない。海鳴大学病院の、病室のベッドだった。

 昨日の夕方、『発作』を起こして倒れてしまったはやては、ちょうどすずかを迎えにきた車に乗せられ、海鳴大学病院へと運ばれた。颯輔に受け止められたために頭を打ったりなどはなかったらしいのだが、念のため、ということで、入院することになったのである。はやてが気が付いたときには、すでに病院のベッドの上だったというわけだ。

 

「お兄もこんな大事にせんでええのに……」

 

 日が差してくる窓から景色を眺めながら、はやてはほうとぼやいた。

 正直、はやては病院が好きではない。白い部屋に押し込められ、ただでさえのところを病人として扱われれば、余計に気が滅入ってくるのだ。自宅で家族と一緒に過ごしていた方が、よほど治りが早いだろうと思えるほどだ。

 そして、帰る間際だったとはいえ、すずかに迷惑をかけてしまったこともはやての気分を落ち込ませている原因の一つだった。遊びに行った先で倒れられ、心優しいすずかは自分のせいではないか、と思ってしまわないだろうか。

 はやてが目を覚ましたのは遅い時間だったこともあり、すずかはすでに帰宅してしまっていた。颯輔が上手く言ってくれたらしいが、やはり、自分で謝りたい。ただ、病院では携帯が使えないため、連絡の取りようがなかった。

 クリスマスも近いからと手慰みに石田に頼んだものは、まだ届けられていない。暇を持て余したはやてがぼんやりと雲の流れを目で追っていると、ノックの音とスライドドアの開く音が聞こえてきた。

 

「おはよう、はやて。調子はどうだ?」

「お兄、シグナムらも。おはようさん」

 

 入ってきたのは、颯輔にシグナム達、家族の全員だった。

 ショルダーバッグを提げた颯輔は、繋いだ左手をヴィータに引かれている。シグナムははやての着替えを持ってきたようで、トートバッグを手にしていた。ザフィーラも人間形態でおり、お見舞いの品でも入っているのか、ビニール袋を提げている。シャマルは皆のコートを預かり始め、クローゼットへと仕舞いこんでいた。

 

「調子はいつもどおりやけど……それよりお兄、学校は?」

「今日は休んだよ。石田先生と話もあるし、それに、今は学校どころじゃないさ」

 

 シャマルにコートを預け、肩をすくめて返してくる颯輔。昔からはやてが体調を崩すと学校を休んで看病をしてくれていた颯輔だが、今回もそれをさせてしまったらしい。申し訳ないやらそれでも少しだけ嬉しいやらで、はやては複雑な気分だった。

 コートを脱ぎ終えたヴィータがベッドのそばまで駆けてきて、はやて、と抱き着いてくる。心配させてしまったことを自覚していたはやては、よしよしとヴィータの頭を撫でた。

 

「ごめんなぁヴィータ、心配かけてもうて」

「ううん……。はやて、どこも痛くない?」

「うん、大丈夫やで。皆大げさに騒ぎ過ぎなんよ」

「いけません。健康が何より大切なのですから、はやてもお体を大切にしてください」

 

 元気なことをアピールしたつもりが、冷蔵庫にビニール袋の中身を仕舞い終えたザフィーラに注意されてしまう。八神家子供組のお目付け役的立ち位置にいるザフィーラは、時折こうして小言を言ってくるのだ。もっとも、ザフィーラのそれはことごとくが正論であるため、言い返すことはできない。今回も、むぅ、と頬を膨らませるに終わるはやてである。

 

「だって、もうすぐクリスマスやし……せっかくなんやから、家族一緒に過ごしたいやんか……」

「大丈夫ですよ。そのころには、きっと退院できているはずです」

「ですから、今は石田先生と看護師さん達のいうことをよく聞いてください。いいですね?」

「はぁーい……」

 

 漏れてしまった願望を聞きとめられ、シグナムとシャマルにまで小言を言われる始末。これにははやても大人しくならざるを得なかった。

 実際、二人の言うとおりにすればいいのだ。治療に専念して、さっさと悪いところを治してしまえばいい。そうすれば、いつもの生活に元通り。思い描いていたとおりに、クリスマスを皆で祝える。ご馳走を振る舞って、おいしいケーキを食べて。シグナム達が現れてからは初めての、楽しい聖夜を過ごすのだ。

 もっとも、治療に専念すると言っても、出される薬を飲んで大人しくしているくらいしか、はやてにできることはないのだが。

 

「ともかく、当分の着替えはタンスに入れておきましたから、こちらをお使いください」

「ん、おおきにな、シグナム」

 

 せっせと着替えを移し終えたシグナムが、その出来栄えに満足げに頷いてから言ってきた。はやてとしては着替えを使う間もなく退院したいところだが、こうなっては致し方なし。目標は、着替えを使い切る前に治すことだ。もちろん、補充分はカウントしないで、今日持ってきてもらった分だけのカウントである。

 意気込んだはやてのそばに、颯輔が近づいてきた。右手が伸びてきて、はやての頭をくしゃくしゃと撫で、続き、乱れた髪を手櫛で整えていく。

 

「俺とシャマルは石田先生のところに行ってくるから、シグナム達とゆっくりしていてくれ。もちろん、羽目を外して騒いだりしないように」

「わかっとるって。いってらっしゃい、お兄、シャマル」

「はい。それじゃあ、いってきますね」

 

 ひらひらと手を振ってくるシャマルに、はやても手を振って返した。シャマルの奥の颯輔も、振り返りながら小さく右手を振っている。

 

「……?」

 

 どうしてそう思ったのかは、はやてにもわからない。

 ただ、病室を出ていく颯輔の背中が、いつも見ているそれよりも小さく見えた気がした。

 

 

 

 

 診療室へと通された颯輔とシャマルは、石田から昨晩の検査の結果の説明を受けていた。CTスキャンの画像や細かな数字の羅列されたシートなどが、机の上に広がっている。それら自体は見慣れていたが、具体的にそれが何を意味するのかなど、深い知識のない颯輔にはわからない。石田の言葉を借りてしまえば、内臓機能の低下が少しだけ見られるとのことだった。

 

「内臓機能の低下が数値に見えてきました。今のところは大きな影響もないのだけれど……そうね、少しだけ免疫力が下がっているようです。こっちはお薬で対応できるとして。次に、はやてちゃんが感じたという痛みは、内臓の腫れから来るものですね。また倒れられたりすると危ないので、やはり、用心のために入院を続けてもらうことになりそうです」

「そう、ですか……」

 

 石田の説明に、颯輔は力ない声を返した。

 やはり、はやての病状は少しずつ悪化しているらしい。蒐集自体は順調なペースを保っているが、はやても颯輔同様、闇の書からの侵食が進んでいたのだろう。石田の説明にあったものもあるのだろうが、感じている痛みの大部分は侵食によるもののはずだ。管制人格の力を持ってしても侵食は止められないため、襲いくる痛みにはそれが治まるまでじっと耐えるしかない。

 シグナム達を助け出すためとはいえ、闇の書の力を行使してしまったことを颯輔は少しだけ後悔した。はやてが苦しむとわかっていたのなら、あのときの自分はいったいどうしていただろうか。そんな疑問が颯輔の頭を過ぎる。

 

「……あの、消化器系への異常が見られたりは、まだしていないんですよね?」

「ええ、その点は大丈夫です。ただ、この先も麻痺が進行して機能の低下が続くようなら、いずれは食事を取れなくなったりとなるかもしれません。それに加えて、肝臓と腎臓にまで影響が及んでしまったら、自宅での治療は難しくなるでしょう……。もちろん、そうならないようにと最大限の努力はさせていただきますが」

 

 医学に理解のあるシャマルは、颯輔よりもよほど事の重大さを理解しているのだろう。石田の答えにほっと一息をついたものの、続く懸念の言葉に表情を険しくしていた。その分野の魔法に秀でているにもかかわらず何もできない歯痒さは、シャマルが人一倍感じているはずだった。

 

「あの、クリスマスまでに退院は可能ですかね……?」

「そればかりは今後の経過を見てみないと……でも、何もないようなら少しすれば退院できますから。様子を見て一時帰宅という選択肢もありますし」

 

 石田は笑顔で答えてくれたが、あくまでそれは、はやての体調が良くなればの話だ。侵食が進めば、闇の書が完成するまでそれが回復することなどない。そしてこのまま何もせずにいれば、闇の書の完成は死を意味するのだ。つまりは、クリスマスを家で過ごすのは難しいということ。

 事実を受け止めながら、それでも颯輔は暗い表情を隠した。今は、石田に余計な心配をかけるときではない。

 

「本人はクリスマスまでに退院したいそうなので、今回は積極的に治そうとすると思います。石田先生、どうかよろしくお願いします」

「お願いします」

「ええ、任せてください。だから颯輔君達は、はやてちゃんへのクリスマスプレゼントを考えてあげておいてちょうだい。これは秘密って言われちゃったんだけど……はやてちゃん、この間にプレゼントを用意する気でいるみたいだから」

 

 シャマル共々頭を下げると、力強く頷いた石田は砕けた口調に戻った。固い話は終わり、ということらしい。普段と言い聞かせるときのみ、石田は砕けた口調となるのだ。

 その後、少しばかりの世間話を終え、颯輔とシャマルは診療室を出た。

 世間話のときには表情を明るくしていたシャマルも、今は浮かない顔を――ともすれば、ふとした拍子に泣き出してしまいそうな顔を――していた。はやてのこともあるが、昨晩の話が尾を引きずっているのだろう。病院に来るまでの道のりも、誰もがほとんど口を開かないお通夜のような状態だったのだ。

 包み隠さず話したのは早計だったか、と思うも、そのときが来ればどのみち話さなければならなかったのだから、直前で混乱させるよりは、と颯輔は思い直した。

 とはいえ、病室までこの空気を引き連れていくのはよろしくない。普段のシャマルに戻ってもらうため、颯輔は意図して明るい話題を振ることにした。

 

「クリスマス、か。クリスマスプレゼント、シャマルは何か欲しいものとかあるか?」

「プレゼント、ですか? そうですね……私には、特に。……強いて言えば、前みたいに皆で笑って過ごせるようになるのが、一番のプレゼントです」

「そ、そうだな……」

 

 予想以上に重い言葉を笑顔で返され、これには颯輔も言葉をすぐには続けられなくなってしまう。

 シャマルとヴィータは護衛として海鳴に残るが、はやての入院を機に、シグナムとザフィーラには家に戻らずに蒐集を続けてもらう算段でいた。颯輔はその間に新たな解決法を探りつつ、合間を見てプレゼントを用意しようと思っていたのだが、シャマルの願いばかりは難しいものだった。

 

「きっと、そうなるよ。……いや、そうしてみせる」

 

 だが、難しいからといって諦めるわけにはいかない。皆で笑って過ごせる日を取り戻すことが、その輪に管制人格も入れることが、颯輔達の最大の目標。やる前から諦めていたら、できることもできなくなってしまう。それに、シグナム達にだけ苦労をさせておいて、自分だけが何もしないでいるのは耐えられなかった。

 だから颯輔は、それが途方もなく困難な道のりであるとわかっていながらも、シャマルに笑顔を向けた。

 

「はい……!」

「だ、だから泣くなってばっ。もう、他の人にも見られてるじゃないか……」

 

 ふとした拍子を作ってしまったのか、シャマルは顔を掌で覆い隠して嗚咽を上げ始めてしまった。元気づけるつもりで言ったはずが泣かせてしまったのだから、これには颯輔も立場がない。視線が集まる中でシャマルの肩を支え、その場からそそくさと逃げるしかなかった。

 ごめんなさい、と涙声で謝ってくるシャマルの背を撫でて落ち着かせながら、道すがら休憩所を探す。自動販売機の隣に誰も座っていないベンチを見つけた颯輔は、シャマル共々そこに腰を下ろした。シャマルがこれでは、はやてやシグナム達にも様々な意味で誤解を与えてしまう。颯輔が怒られる方向に転ぶならばまだしも、万が一にもはやてを不安にさせるわけにはいかなかった。

 

『ですから、話さない方がいいと申し上げたのです。こうなることは目に見えていました』

 

 颯輔が通りかかった人々からの様々な温度の視線に耐えていると、ショルダーバッグに収められた闇の書から、管制人格の念話が届いた。不服そうな声音であるのは、管制人格が直前まで反対していたからであろう。シグナム達の不満は解消されたが、その代償に著しく士気を低下させてしまったのだから、その点は管制人格の危惧していたとおりと言えた。

 一人ばつの悪い表情を浮かべた颯輔は、内心で溜息を吐きつつそれに応じた。

 

『仕方ないだろ、誤魔化すのも限界があったんだ。それに、まだ時間はあるんだから、他の選択肢だって見つかるかもしれないじゃないか』

『仰るとおりではありますが……しかし、それで主颯輔が無理をしてしまわれれば、元も子もありません。主はやてや騎士達を気遣うように、どうかご自身の身も労わってください』

『今は無理をしなくちゃいけないときだよ。もう後には退けないんだから、ひたすら前に進むしかない。お前だって、そのくらいはわかって――……いや、ごめん、そういうつもりで言ったわけじゃなくて……』

『…………っ』

 

 念話の途中、管制人格の雰囲気が変わってしまったのを感じ、颯輔は言葉を詰まらせた。声を押し殺して涙を流しているのが、姿を見ずともわかってしまったのだ。

 何もかもが自分の所為だと思っている節のある管制人格に、自己を顧みない台詞を聞かせてしまうと、それを気にして自己嫌悪に陥り、事ある毎に泣き出してしまうのだ。颯輔は昨日から皆を泣かせてばかりいることを反省しつつ、右手ではシャマルを、左手ではバッグの中にある闇の書の表紙を撫でた。

 颯輔にだって、死にたくないという気持ちはもちろんある。だから、どんなに可能性が低くとも、最良の結果を得たいとは思う。しかし、それしか方法がないとなれば、家族のために命を懸ける覚悟はあった。

 

(覚悟とは言葉ではなく行動で示すもの、か……)

 

 闇の書の記憶の中、遠い過去に存在した、とある王の言葉を颯輔は思い出した。

 言葉にしてしまえば悲しませてしまうのだから、あとは黙って足掻くのみ。

 それでもどうにもならない場合は、八神颯輔の全てを賭ければいい。

 颯輔の胸の奥、心臓以外の何かが鼓動を刻む。颯輔は絶え間ない痛みに耐えながら、管制人格とシャマルが泣き止むのを待つのだった。

 

 

 

 

 正午を過ぎても冬の太陽は夏ほど高くまでは昇らず、室内に眩しい光を届かせる。雲が切れて顔を出した太陽に照りつけられ、颯輔はカーテンを半分引いた。明度は下がったが、それでも証明を点けるほどではない。

 少しだけ暗くなった病室にいるのは、颯輔とはやての二人だけだった。シグナムとザフィーラはしばらく前に出て、闇の書の残りの頁を埋めるべく蒐集に赴いている。ヴィータとシャマルは颯輔とはやての護衛役ではあったのだが、今日だけは先に帰ってもらっていた。念のためにと闇の書は颯輔が持っているため、万が一があっても二人が駆け付けるまでの時間くらいは稼げる。

 今だけは、颯輔ははやてと二人きりでいたかった。

 

「はやて、寒くはないか?」

「ん、寒くあらへんよ。エアコンは動いとるし、厚着だってしとるもん」

 

 羽織ったカーディガンをパタパタと動かし、笑顔でアピールをしてくるはやて。颯輔はそれに苦笑を漏らし、ベッドの隣にある椅子へと戻った。

 冷暖房完備の病室は、はやての言うとおりに適温に保たれている。しかし、それでも颯輔の心が冷たくなってしまうのは、静かな怒りを感じているためだ。颯輔には、はやての笑顔が作り物で、ただ強がっているだけなのだとわかってしまっている。例え管制人格からの進言がなくとも、今のはやての嘘くらいは颯輔でも見抜けた。どれほどはやてが嘘をつくのが上手くとも、無理をしているのは見え見えだった。

 家族に心配をかけないようにと、負担にならないようにという努力が、棘となって颯輔の心に突き刺さる。内側から響く痛みが、余計にそれを錯覚させた。

 颯輔は右手を伸ばし、はやての柔らかな髪に手櫛を入れた。くすぐったそうにしながらも、はやては目を細めてそれを受け入れていた。

 小さい頃から、はやては甘えることはあっても我儘を言うことはなかった。あれが欲しい、これが欲しいとねだることはなく、ただ傍にいることだけを望んでいた。早くに両親を亡くした反動か、一人になってしまうことを嫌うのだ。そのため、家からは距離のある図書館にも颯輔を迎えに来ていた。寂しさを本の世界に入って誤魔化しながら、一人の時間を少しでも短くするために。

 しかしそれでも、颯輔が忙しいことを子供ながらに理解していたのか、颯輔の手が空いたときにのみ声をかけてくる。つまり、はやてが無理を押して家事を手伝うようになったのは、コミュニケーションを取るためだったのだ。年端に合わない家事のスキルも、はやてにとってはただの手段でしかなかった。

 誰かに隣にいてほしくて。けれど、大切なその人を失ってしまうのが恐ろしくて。だからはやての大切な人は、これまで颯輔一人だけだった。小学校を休学したのも、身体のハンデだけが原因ではない。友達ができても一定の距離を保ってしまうため、上手い関係を築けなかったのだ。

 けれども、はやては突然現れたシグナム達を受け入れた。それは、はやてが闇の書の主であり、闇の書が起動する前から無意識化では精神リンクが繋がっていたためでもあるのかもしれない。そして、はやてのささやかな願いは主従を超えた関係を築いた。それがはやてにもたらした変化は計り知れない。月村すずかと友達になることさえ、以前のはやてならば選ばなかっただろう選択肢なのだから。

 だが、大切な人が増えたことで、はやては益々無理をするようになった。それが今の状態だ。本当は泣き出したいほど痛いはずなのに、笑顔の仮面を被っている。大切な人の前でさえ、はやてがそれを外すことはないのだ。

 だから、八神颯輔は。

 

「はやて」

「んー?」

 

 小首を傾げたはやてが、颯輔を見上げてくる。颯輔は手櫛を入れていた右手を移動させ、はやての頬へと掌を添えた。

 

「痛いときは、痛いって言ってもいいんだぞ」

 

 掌から、ビクリと震えが伝わってくる。はやての笑顔は凍りついてしまっていた。

 

「泣きたいときは、泣いてもいいんだ」

「お、お兄? いきなり何言って――」

 

 颯輔はほとんど感覚の残っていない左腕を無理矢理持ち上げ、両手ではやてを引き寄せた。

 

「誰もそれだけで、はやてを嫌いになったりなんてしないから。泣いたって、もう怒ったりなんてしないから」

「…………」

 

 腕の中のはやてが小さくもがく。それでも颯輔は、はやてを抱きしめ続けた。

 

「だからもう、無理して我慢する必要なんてない」

「…………っ」

「ここにはシグナム達もいないから、俺しかいないから、だから、弱音を吐いたっていいんだよ」

 

 腕の中の抵抗が徐々になくなり、はやての腕が颯輔の背中へと回される。颯輔の胸へと黙って顔を押し付けていたはやての体が、小さく震え始めた。

 

「俺はずっと、はやてのお兄をやってきたんだ。はやてが痛いのを我慢してることくらい、お見通しなんだからな」

「……っ、うぅ……ぉ、おにぃ……」

「なんだ?」

 

 絞り出したかのような、微かな声。颯輔は、右手ではやての頭を撫でて続きを促した。

 

「……いたい……いたいよ、おにぃ……!」

「うん」

「足が痛くて……お腹が痛くて……胸が苦しいんや……ずっと……ずっと、痛いの消えてくれへん……!」

「ごめんな、今まで我慢させて……。もうすぐ治るから……きっと治してみせるから、だから……」

「ぅ、っ、うああああああああああああ!」

 

 遂にはやては、声を上げて泣き出してしまった。颯輔はその小さな体を包み込み、黙って温もりを与え続けた。

 颯輔がはやての泣いているところを見るのは、おおよそ五年振りとなる。それほどの間、はやては内に溜め込み続けていたのだ。いったいどれほどのものを抱えていたのか、その全体像は颯輔にも想像がつかない。けれど、はやての感じる孤独と寂しさの一端くらいはわかるような気がした。なぜなら、それを感じる暇もなかったというだけで、颯輔もはやてと同じだったのだから。

 静かだった病室に、はやての声だけが響く。

 もしかしたら、はやては颯輔に対して余計に依存するようになったのかもしれない。できれば、シグナム達の前でも同じように弱さを見せられるようになればとは思う。しかし、今回は無理やりにでもはやての強さを崩してしまう必要があった。『その時』が来てしまう前に。

 

「……大丈夫。俺はずっと、はやての傍にいるから……」

 

 しがみつくはやてに言い聞かせるように、颯輔は小さく囁いた。

 それはまるで、約束をするかのようで。

 闇の書は、あと少しで完成する。蒐集を行うのはシグナムとザフィーラの二人のみとなってしまったが、年内の完成は確実だった。あとは、より良い方法が見つかるか、それとも命懸けとなるかだ。

 闇の書の呪いを解く安全な方法が見つかるのならば、それでいい。命懸けとなるのならば、勝ちの目を出しに行くだけだ。

 だが、いずれの場合も問題となるのは、管理局の、そして、グレアムの動向。昨日の戦いにリーゼロッテとリーゼアリアの姿があったことから、颯輔達の保護者であるはずのグレアムが今回も動いていることに間違いはない。八神家の内情を知りながら、何の音沙汰もないのは些か以上に不気味なことだ。近いうちに、リスクを承知でグレアムと接触する必要があった。

 はやてを抱きしめながら、颯輔は窓の方へと目を向ける。再び雲に隠れてしまったのか、カーテン越しでもはっきりとわかった太陽の輪郭は、ぼやけてしまっていた。

 

 

 

 

 12月13日の夕方。昨日の戦闘で負傷したフェイト・テスタロッサは、本日はオフを貰っていた。怪我自体はすぐに治療してもらったのだが、ここ数日は管理局員と小学生の二重生活で忙しかったこともあり、念のためにと完全休暇となったのだ。

 フェイトの代わりというわけではないが、大きな負傷もなかった高町なのははアースラで待機。そのため、今日のフェイトはアリサ・バニングスと月村すずかの二人と行動を共にしていた。

 

「ね、ねぇすずか。本当に、私も一緒に行っていいのかな……?」

「もちろんだよ。お友達も一緒に行ってもいいですかって昨日のうちに聞いておいたけど、大丈夫って言ってたから」

「そ、そう?」

「ていうかあんた、目の前まで来ておいて今更過ぎるでしょ」

「そ、そうだね……」

 

 目的地を前にして尻込みしてしまったフェイトに、温かい眼差しと呆れた視線が注がれる。責められているわけではないのだが、なんだか居た堪れなくなってしまったフェイトは、顔の熱が上がるのを感じた。

 しかし、今でこそ慣れてきてはいたが、小学生をしたり友達と遊んだりと普通の子供らしいことに耐性のないフェイトにとっては、お見舞いというものも一大イベントである。すずかの友達とはいえ、相手が初対面の子ともなれば尚更だ。特務四課のメンバーが仕事に追われている中で自分だけが、という負い目もあった。

 とにかく、ここまで来たからには覚悟を決めなければ、と深呼吸をするフェイト。フェイトが落ち着いたところを見計らってから、すずかがドアをノックした。

 はーい、という男の人の声が返ってくる。ドア越しであることを考えても、いくらか小さな声であるような気がした。入院しているのは女の子だという話だったのだが、いったいどういうことなのか、などとフェイトが考えていると、すずかが失礼します、とドアを開けた。先頭を進むすずかとその一歩後ろのアリサに遅れ、フェイトも慌ててその後に続いた。

 病室は個室のようで、それなりに広い部屋にベッドやタンス、クローゼットなどがあった。ベッドの横、椅子に腰かけていたのは、一人の男の人。立ち上がってこちらに向き直った男の人の視線が、フェイトのそれと交わってそのまま停止した。

 

「こんにちは、お兄さん。お友達と一緒に、はやてちゃんのお見舞いにきました」

「…………」

「お兄さん?」

「あ、ああ、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃって。改めて、こんにちは、すずかちゃん。それから、わざわざありがとうね」

 

 すずかの挨拶に男の人の視線が切れ、固まっていた表情が柔和なものになる。どうして自分を注視されていたのかはわからなかったが、その優しげな顔立ちを見て、フェイトの中の小さな疑問は泡となって消えてしまった。

 男の人はおそらく、すずかの話にあった八神はやての兄――八神颯輔なのだろう。どうやら、お見舞いの時間が被ってしまったらしい。

 

「君達は初めましてだね。はやての兄の、八神颯輔です」

「アリサ・バニングスです。こっちはフェイト・テスタロッサで、私もフェイトもすずかのクラスメイトです」

「よ、よろしくお願いしますっ」

「はい、よろしくね。それから二人も、学校からは遠いのにわざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

「いえ、家の者に車を出してもらったので。それからこれ、よかったら食べてください。喫茶翠屋っていうお店のシュークリームです」

「本当はもう一人、翠屋の子も来るはずだったんですけど、クリスマスセールの準備で忙しいとかで……」

「そ、そうなんだ……。ま、まあ、ありがとう。でも、三人ともまだ小学生なんだから、今度からは何も買ってこなくても大丈夫だよ。こういうのは気持ちが大事なんだし、はやてもお見舞いに来てくれるだけで嬉しいと思うからさ」

 

 颯輔がシュークリームの入った翠屋の箱をアリサから受け取りつつ、穏やかな口調で諭してくる。フェイト達からしてみればお見舞いの品を用意するのは当然のことだったが、世間一般の目から見れば、小学生がわざわざ高価なお菓子を買ってくることなどないのだろう。安物ならばともかく、翠屋のシュークリームはスナック菓子などに比べれば倍近い値段となるのだから。

 そういえば肝心のはやての声がしない、とフェイトがベッドに目を向けると、そこには静かに寝息を立てる女の子の姿があった。すずかの携帯の画像にあった、栗色のショートヘアーの少女だ。呼吸に合わせ、布団が上下に小さく動いていた。

 

「せっかく来てもらったところ悪いんだけど、今、はやては寝ちゃってるんだよね。すぐ起こすから、ちょっと待っててね」

「いえ、そんな、悪いですよ」

「いいのいいの。それに、せっかくお友達が来てくれたのに起こさなかったら、後で俺が怒られちゃうよ」

 

 肩を竦めて答えた颯輔が眠る少女を小さく揺らし、はやて、と呼びかけた。一度眉根が寄り、はやての瞼がゆっくりと持ち上がる。もぞもぞと半身を起こしたはやては、大きな伸びをした。

 

「ふあー……。ん、おはようさん、お兄」

「おはよう。それと、すずかちゃん達がお見舞いに来てるぞ」

「そかそか…………え?」

 

 口に掌を添えて欠伸を噛み殺していたはやての目が、こちらに向けられる。ぴしり、と固まったかと思うと、ぐるんと反転して窓の方へと顔を隠してしまった。

 何で起こしてくれなかったんや、やら、来たから起こしたんだよ、やら、来る前に起こして、などと小声の応酬が聞こえてくる。はやてが服装を乱れを直し、その間に颯輔が手櫛で寝癖を整えるという兄妹らしいコンビネーションが見られた。フェイトにも義兄となるクロノ・ハラオウンがいるのだが、まだあんなことはできないし、今後できるようになるかもわからなかった。

 

「ご、ごめんな、すずかちゃん。みっともないとこ見せてもうて」

「ううん、気にしてないよ。こっちこそ、タイミングが悪かったみたいでごめんね?」

「そ、そんなことあらへんよ。……そっちの子らは、すずかちゃんの友達?」

「うん。紹介するね。アリサ・バニングスちゃんと、フェイト・テスタロッサちゃん。昨日話したのは、アリサちゃんの方だよ。フェイトちゃんも仲良しさんで、予定が空いてたから誘ってみたんだ」

「そかそか、おおきにな。わたし、八神はやて言います。えと、変な喋り方やけど、よろしゅうお願いします」

 

 ぺこりとお辞儀をして自己紹介してくるはやてに、フェイトもアリサも同じく返す。はやての独特の口調とイントネーションは、関西弁というものらしい。本人曰く、色々と混ざっとるかもしれへん、とのことだったが。

 口調はともかく、そのにこやかな表情は、フェイトの親友たるなのはに似た雰囲気を感じさせた。なんとなくだが、この子とは上手くやれそうな気がする。初対面の子にそのような感情を抱くのは、引っ込み思案なフェイトにしては珍しいことだった。

 

「さて、はやても起きたことだし、さっそくもらったシュークリームをいただくとしますか」

「シュークリーム?」

「ああ。翠屋のなんだって」

「あ、でも……」

「いいからいいから…………なるほど、ね」

 

 翠屋の箱を開けようとする颯輔にフェイトが思い出したように声を出すも、少しだけ遅かった。中を見た颯輔が、納得したように頷く。それもそのはず、買ってきたシュークリームは四つだけで、はやてと一緒に四人で食べようと思っていたのだ。この時間にまで家の人が残っているとは、想定していなかったのである。

 しかし、颯輔は何事もなかったかのように椅子を勧め、さらに、すずか、アリサ、フェイト、はやての順でシュークリームを配った。椅子もシュークリームもなくなってしまい、颯輔は壁に背を預けてしまった。

 

「あの、いいんですか?」

「もちろん。俺はあんまり甘いのは食べないから、気にしないでもいいよ」

「お兄の嘘つき。翠屋のシュークリームはやっぱりおいしいって前に言ってたやんか」

「…………」

 

 すずかの問いに涼しく答えたはずの颯輔だったが、続くはやての言葉に笑顔を固めてしまった。兄妹故にお互いの好みは知っているのか、誤魔化しは効かなかったらしい。

 

「はい、お兄。わたしとはんぶんこでええやろ?」

「いいって。はやてだって好きなんだから、別に分けなくたって――」

「――もう割ってもうたんやから、今更遅いで」

「……ありがと」

 

 食い下がる颯輔に、半分になったシュークリームを差し出して引かないはやて。やがて根負けしたのか、颯輔は苦笑交じりにそれを受け取っていた。フェイトとクロノ以上に年が離れているように見えるが、随分と仲のいい兄妹である。

 

「……なのはとフェイトよりも甘いわね」

「……そうだね」

「え?」

「別に」

「何でもないよ」

「……?」

 

 颯輔とはやての様子を見ていたフェイトの耳に自分の名前が届いた気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。隣に座るアリサとすずかは、揃ってシュークリームを口に運んでいた。

 二人に倣い、フェイトもシュークリームを頬張った。カリッとした食感と共に、口の中に控えめで上品な甘さが広がる。海鳴では評判の喫茶翠屋、その中でも一押しの洋菓子に舌鼓を打ちながら、兄妹の在り方を見て学ぶフェイトだった。

 

 



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第二十一話 陰る空

 

 

 12月20日、巡航L級8番艦『アースラ』の訓練室。念のためにと結界が張られたその中では、三色の魔力光が忙しく飛び交っていた。

 

「はい、それじゃあラスト100。ど真ん中以外は外れにするから、気を抜かないように」

「はいっ!」

《Accel Shooter, set.》

 

 リーゼアリアが端末を操作すると、全滅させたはずのターゲットが再び空中に現れた。静止しているものは一つとしてなく、その全てが緩やかに、あるいは高速で動いている。大きさは直径30センチとサッカーボールよりも大きい程度だが、図星は魔力弾一発相当だ。

 額に汗を光らせながらも元気のいい返事をした高町なのはは、レイジングハート・エクセリオンを振るいつつ答えた。桜色の魔法陣が描かれ、なのはの周囲に十二の魔力弾が形成される。手足の如く動かすことのできるそれらを従え、なのははターゲットの位置と動きをつぶさに観察していた。

 しかし、なのはの視界に映るのはターゲットだけではない。金色の魔力刃と青色の魔力を帯びた四肢とがぶつかり合い、光を散らしている。ターゲットの隙間を縫うように飛行しながら、フェイトとリーゼロッテが激しい空戦を繰り広げていた。

 

「もちろん、ロッテとフェイトに中ててもアウトだからね。用意……スタート!」

「――シュートッ!」

 

 アリアの掛け声とほぼ同時、桜色の魔力弾が射出された。

魔導師の訓練校ではとても教材にできないレベルのものだが、なのはに戸惑いはなかった。なぜならこれは、なのはとフェイトのレベルに合わせてリーゼ姉妹が考えた訓練だから。一見無茶苦茶に見えても、何とかクリアできるレベルのもの。術者に求められることも多いが、何よりなのはは己がパートナーを信頼していた。レイジングハートと協力すれば、この程度の難題など突破できないはずがない。

 レイジングハートのサポートを受けたなのはの指示により、十二の魔力弾が舞い踊る。それぞれの方向に散りながらも、その狙いは正確無比。逃げるターゲットを捕捉し、見事に図星を撃ち抜く。その一方で、フェイトとロッテには掠りもしない。ターゲットの数は、見る見るうちに減っていた。

 

「うーん、なのはにはこれでも簡単過ぎたかしら……? ロッテはまだ余裕だし、フェイトは息を切らしてる程度だし……」

 

 残るターゲットが早くも半分を割ったとき、集中を続けるなのはの隣で不穏な声が上がった。集中を維持しつつもなのはが耳を傾けると、先行きが不安になるワードが聞こえてくる。どうかおかしな方向に行きませんように、と心の中で祈りつつ、なのははアクセルシューターの制御を続けた。

 

「よし、もうちょいレベルアップしてみましょうか」

「ふぇっ!?」

 

 願い空しく、パチン、とアリアが指を弾くと、なのはの視界に異常が現れた。フェイトとロッテの姿が、ターゲットの合間にいくつも現れたのだ。

 高速機動で戦闘を行っていた本物のフェイトとロッテは、同じく高速機動で戦闘を行うフェイトとロッテ達の中に紛れ、すぐにどれが本物なのかわからなくなってしまう。アリアの幻術魔法、フェイクシルエットによる凶悪な妨害だった。

 

「こんなっ、ずるいですよぉっ!」

「ほら、集中集中。失敗したら、ご褒美に甘くておいしいお茶をご馳走しちゃうわよ?」

 

 なのはの抗議にも動じた様子を見せず、アリアは普段と変わらない様子でとんでもないことをのたまってくる。抹茶オレなどとは比較にもならないあの甘ったるさを思い出し、なのはは続く文句を飲み込んだ。

 それご褒美じゃないです、と心の中でマルチタスクによるツッコミを入れ、レイジングハートを力いっぱい握り締める。

 

「行くよ、レイジングハートっ!」

《……All right.》

 

 心なしノリの悪いパートナーの返事を受けてから、なのはは思考の全てを術式制御につぎ込んだ。

 今は余計な思考など不要。視覚とリンカーコアが感じる全てをただ情報として受け入れ、レイジングハートと共に分析。全てのフェイトとロッテの機動を予測し、差異が出る度に軌道に修正をかけ、目標のみを穿つ。当然、その過程で射撃のレベルを落とすことなど選択肢にも上らない。

 この瞬間、なのはは射撃型魔導師の到達点へと踏み込もうとしていた。

 内心で舌を巻くアリアの前で、ターゲットが次々と撃ち抜かれていく。障害物が十倍以上に増えたにもかかわらず、撃墜速度に遅れは見られなかった。

 時折シルエットに対する怪しい判定はあったものの、それでも命中精度は背筋が寒くなるほどで、図星から1ミリたりとも誤差はない。アリアがこれほど育てたいと思わされた人材は、クロノ・ハラオウン以来だった。

 

「これで……最後っ……!」

 

 弱弱しい掛け声と共に、全てのターゲットが破壊される。レイジングハートの排熱機構が駆動し、なのはの姿が隠れるほどの蒸気を吐き出した。

 常軌を逸した排熱量に、アリアの興奮も一気に沈静化した。なのはの限界を見るつもりで多少無茶な訓練をさせたが、まさか、成功してしまうとは思ってもいなかったのだ。

 明るく人懐っこい普段からは想像もつかないが、なのはの本質は負けず嫌いのがんばり屋。思いもよらない伸び代を見せたなのはに、止める立場にあったアリアはそれを忘れてしまっていた。

 蒸気が晴れて、なのはの姿がようやく現れる。アリアがほっとしたのもつかの間、なのはの体がぐらりと傾いた。

 

「なのはっ!?」

「……けほっ、けほっ……しゅ、集中しすぎて、息するの忘れてました……」

「この子は……。まったく、大した魔導師よ、あなたは」

「にゃはは、ありがとうございます」

 

 慌てて受け止めたアリアの腕の中で、赤くなったなのはが可愛らしく舌を出す。呆れ半分感心半分で頭を撫でてやると、満更でもないのか照れ笑いを見せながらも身を委ねてきた。

 なのはの魔法資質は、アリアの知る魔導師の中でも一際異彩を放っている。魔力量こそギル・グレアムには及ばないが、それでも射砲撃のスキルは、アリアにとっては悔しいことに上回っているだろう。特務四課ではなく、武装隊の方で出会っていれば、という思いがアリアの心に募った。

 

「おうおう、アリアの飴と鞭になのはも骨抜きみたいだね~」

「失礼な……。ロッテはもう少し優しく扱ってあげなさい。フェイトはクロノと違って女の子よ?」

「だから、こうして抱えてやってんだろ?」

「この子は……」

 

 同じく訓練を終えて隣に降り立ったロッテの言葉に、アリアは半目になって返した。なにせ、体力を使い果たしてぐったりとしたフェイトを、あろうことか肩で抱えているのである。男の子だったクロノならばともかく、女の子であるフェイトまでをも同列に扱ってしまうのは、些か以上にデリカシーに欠けると思えた。

 

「フェイトちゃん、大丈夫……?」

「た、ぶん…………」

 

 なのはとアリアの隣、仰向けに寝かされたフェイトに、なのはが恐る恐る声をかけると、掠れた声が返ってきた。ぐっしゃりと汗に濡れたフェイトは、呼吸をするのも辛そうだ。

 戦闘のレベルは互角でも、フェイトはまだまだ子供で、体力ではどうしてもロッテに敵わない。互いに強固な信頼関係を築いているとはいえ、魔力弾が飛び交う中での訓練で、精神的にも参っているのだろう。

 レイジングハートの収納領域から清潔なタオルを取り出したなのはは、甲斐甲斐しくフェイトの汗を拭い始めた。

 

「ありがと……なの、は……」

「ううん、気にしないで。お水もいる?」

「ん……」

 

 コクリと頷いて見せたフェイトに、今度は清涼飲料水を取り出すなのは。フェイトの頭を太腿の上に乗せ、口元に運んだペットボトルをゆっくりと傾けてやると、喉が小さく震えた。

 もう大丈夫、と念話を受け、今度はなのはがペットボトルに口をつける。厳しい訓練を終えて火照った体に、程よく冷えた水分が心地よかった。

 

「~~っ!」

「フェイトちゃん、どうかした?」

「な、何でもないよ……!」

「……?」

 

 突然頬を赤く染めたフェイトになのはが首を傾げるも、蚊の鳴くような声を返されるばかり。まだ飲み足りなかったのかと思って飲み物を差し出すも、今度は激しく首を横に振って否定されてしまった。

 火傷でもしたかのような勢いで太腿から飛び起きたフェイトは、もう大丈夫だから、ほんとに大丈夫だから、と俯きながら呟いている。その様子を見たなのはは、さらに深く首を傾げるしかなかった。

 

「お熱いこったねえ」

「冷やかさないの。それじゃあ二人共、今日の訓練はこれで終わりだから、シャワーを浴びて待機しておくこと」

「あっ、そうそう。一応、デバイスはマリーに見てもらっとけよー。バルディッシュもレイジングハートも結構な負荷掛かってたからな、カートリッジシステムもデリケートなんだし」

「はい、わかりました」

「ありがとうございました!」

 

 意味深な目を向けながらも細かな気遣いを見せるロッテと、結界を解きつつ訓練終了を告げるアリアに、立ち上がったなのははフェイトと揃って頭を下げる。よしよしと頭を撫でる感覚が二度過ぎると、リーゼ姉妹は訓練室から一足先に去ってしまった。

 二人が出て行ったのを確認してから、なのははフェイト共々再び床に座り込んだ。

 リーゼ姉妹の訓練を受け、着実に実力が上がっているのはわかるのだが、その分だけ疲労は溜まってしまう。訓練後はしばらくそのまま休憩することが、なのはとフェイトの特務四課での日課であった。

 

「今日の訓練、いつもより厳しかったね……」

「うん。ロッテもガンガン攻めてきて辛かった……」

「フェイトちゃんとロッテさんがいっぱいになったときはびっくりしたよ」

「でも、私達にもシルエットにも一発も当たらなかったよ? やっぱりなのははすごいよ」

「そんな、危ないのもあったってば。フェイトちゃんが避けてくれたから助かったんだもん」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ」

「…………ぷっ」

「…………くっ」

 

 互いに主張を曲げず、しばしの間、顔を突き合わせて視線を交える。やがて、どちらともなく吹き出し、二人揃って大きな笑い声を上げた。

 アースラの設備では比較的広い訓練室に、しばらく二人の声が反響する。基本多忙な四課では、限られた緩やかな時間だった。

 

「ねえ、なのは」

「なに?」

 

 ひとしきり笑いこけた後、フェイトに改めて呼び止められる。顔を向けたなのはは、フェイトの赤い瞳に真剣な光を見た。先ほどまでとは違う、真面目な話。そう直感したなのはも、表情を引き締めて応じた。

 

「闇の書の主は、どうしてシグナム達に蒐集をさせてるのかな?」

「それは……」

 

 それは、なのはには答えようのない問いだった。

 

「この前戦ったとき、シグナムもヴィータも、何だか泣いてるみたいに見えたんだ」

「うん。私も、そう思った……」

「仕方なく蒐集してるけど、嫌々してるわけじゃないみたいだったっていうか、何ていうか……」

「……主さんのため?」

「それはそうなんだろうけど、ただそれだけじゃないっていうか……ごめん、上手く言葉にできないや」

「うーん…………フェイトちゃんの言いたい事、何となくわかるかも。ヴィータちゃん達、悪い人には見えなかったもん。あのときも、危ないから逃げろ、って教えてくれたし」

「結局よくわからなくてそのままいたから、リンディ隊長に迷惑かけちゃったんだけど……」

「そっ、それはほらっ! 私達もだめだったかもだけど、一番いけないのは攻撃してきた主さんだよ!」

 

 あのときを思い出してしまったのか、目に見えて暗く沈み始めるフェイト。なのはは慌てて身振り手振りをしながらそれを否定した。

 リンディが倒れたとき、確かになのはも動揺はしたのだが、それ以上にフェイトが取り乱していたため、それを見て落ち着きを取り戻すことができたのだ。要は、それほどにフェイトを放っておけなかったということ。いつか、自身の真実を聞かされたときほどではなかったが、その次点にくる程度には塞ぎ込んでいた。リンディが目を覚ましてフェイトを諭し、ようやく普段のフェイトに戻ったのである。

 

「うん……でも……本当に、そうなのかな?」

「え……?」

 

 それはつまり、闇の書の主は悪くないと言いたいのだろうか。

 思い返せばヴィータは、なのはが闇の書のことについて、もっと言うならば、主に騙されているのだと諭したときに、激しい怒りを見せていた。

 主の悪態をつかれて怒るということは、主に対して好意的であるということなのだろう。しかし、なのはがクロノやユーノから聞いた話では、今までの主は守護騎士に酷い扱いをしてきたというものだった。

 自分達は、どこか根本的なところで勘違いをしているのではないか。

 

「ごめん、忘れて。どっちにしたって闇の書が危ない代物であることに変わりはないんだから、ちゃんと封印しなきゃなんだよね……」

 

 なのはの思考を、フェイトの言葉が縫い止めた。

 結局のところは、そこに行き着くのだ。

 二回目の戦闘以来、守護騎士の反応は地球では見られなくなった。転移反応を追っても別の世界に行き着くだけで、現地に赴いても蒐集が済んだ後、というのがほとんどだ。

 地球で闇の書が暴走するという最悪の事態は避けられそうだが、しかし、闇の書が完成してしまえば、どこかの世界が危険に晒されることに変わりはない。

 戦闘要員でしかないなのはとフェイトには、次の戦闘に備えて力をつけることしかできない。守護騎士に打ち勝ち、話を聞かせてもらうことでしか、二人が真実を知る術はなかった。

 

 

 

 

 クロノ・ハラオウンの性格は、冷静沈着で生真面目。いっつも機嫌悪そうにしてるから確かに近寄りがたいかもねー、とは補佐官談。本人からしてみれば、早く一人前にならなければ、という想いが強かっただけなのだが、そのために学生時代は仲のいい友人があまりできなかったのだという自覚はあった。

 しかし、あまりできなかったというだけで、仲のいい友人がまったくできなかったわけではない。エイミィ・リミエッタを除いたとしても、クロノには同性の友人がしっかりといる。その人物はクロノとは真逆の性格をしているのだが、あるいはそれ故にと言うべきか、士官学校を卒業してそれぞれの道に進んでからも、頻繁に連絡を取り合うほどには親交があった。

 

『「管理局の英雄の身辺を洗ってほしい」、ねぇ。これはまた、なんとも無茶苦茶なお願いだ』

 

 プライベート用の端末から繋いだ通信、ディスプレイの中の少年が、冗談めかした溜息をついていた。また仕事をさぼってお菓子作りにでも精を出しているのか、深緑の長髪はポニーテールに結わえてエプロンを装着している。本人曰く要領がいいそうで、いい加減な態度で物事に臨んでも結果は出すのだから性質が悪い。最年少査察官の様々な噂は、なにかと忙しいクロノの耳にも届くほどだ。

 時空管理局本局査察部に所属する、ヴェロッサ・アコース。士官学校時代からの付き合いの、クロノの親友だった。

 

「やはり、難しいだろうか……」

『秘密裡に、と条件がつけば、そりゃあ難易度は跳ね上がるさ。失敗すれば僕だけじゃなく、君と君のバックの立場も悪くなる。間違いなく干されてしまうね』

「むぅ……」

 

 器用にもボウルの中身をかき混ぜながら肩を竦めて見せるヴェロッサ。クロノ自身も無理強いをしているとわかっていたため、拒否されてしまって当然とは考えていた。

 しかし、こんなことを頼めるのはヴェロッサ以外にはいないのもまた事実。それほどクロノは彼を信頼していたし、また、客観的に見ても、査察官としての技能は依頼相手として申し分ないほどに抜きん出ていた。

 

『そうだね……条件を飲んでくれるのなら、久しぶりに頑張ってみようかな』

「……聞こうか」

 

 ディスプレイ越し、ヴェロッサの目が怪しく光った――ような気がした。

 管理局の英雄と謳われる人物の身辺を探るなど、管理局に対する敵対行為もいいところ。それが所属部隊の部隊長ともなれば、尚更である。

 当然、ヴェロッサに頼み込む前にクロノ自身の力で調べてはみた。しかし、相手はクロノの恩師であるという引け目があり、また、同部隊故に動きが取り難く、有用な情報は得られなかった。

 事が公にできない以上、協力者は信頼できる者でしかあり得ない。そして、四課の外部の人間である必要があった。その条件に該当するのは、ヴェロッサただ一人だったのだ。

 

『実は今、新作のお菓子を作っているところなんだ。ところが残念なことに、体のいい味見役がいなくて困っていてね。そのうちでいいから、クロノ君には休みを取って遊びに来てもらいたいんだけど……おっと、特務部隊所属の最年少執務官殿には、あまりにも無茶な条件だったかな?』

「……そんなことで、いいのか?」

『そんなことって、おいおい、僕が一生懸命仕事に励むくらいには、価値のあることだと思うんだけどなぁ。違うのかい?』

 

 いったいどんな無理難題を突き付けられるのか、と身を固くしていたのだが、クロノは肩の力が抜けるを感じた。なんだか盛大な肩すかしをくらった気分だった。

 あのヴェロッサのことだ、もっとこう、えぐい要求をしてくるものだと思っていたが、それはクロノの一方的な思い込みだったらしい。士官学校時代からずぼらなところが目立ちすぎるヴェロッサだったが、思い返せば、確かに義理人情には厚い男だったか。

 

「ふっ、いいだろう。君の指定する日に休暇を申請しようじゃないか」

『交渉成立だね。仕事の期限は?』

「早ければ早いほどいい。中身はどんな些細なことでも構わない。君が不自然に思ったことを取り上げてくれ」

『ただし誰にもばれないように、だね。まったく、人使いの荒い執務官殿だ』

「休暇を選べない執務官を無理矢理休ませるんだ、安いものだろう」

『はいはい。それじゃあ、何かわかったらプライベート端末に連絡を入れるよ』

「ああ、よろしく頼む」

 

 キザったらしくウインクを飛ばしてくるヴェロッサに、クロノは苦笑を返して通信を切る。しばし学生時代に思いを馳せたクロノは、続き、別の相手に通信を入れた。

 コール音がしばらく続き、ようやくディスプレイが開いたかと思いきや、古めかしい書物の山が映し出される。手慣れた魔法捌きでそれらが避けられ、少々ほこりに塗れた金髪の少年、ユーノ・スクライアが顔を出した。

 ユーノの表情は、見るからに不機嫌なものである。目の下には、色白のユーノの顔では大いに目立つ隈ができていた。

 

『……何か用?』

「闇の書の封印方法の件だが、調べは進んでいるか?」

 

 呪詛すら込められているようなユーノの声だったが、クロノは至って冷静に返した。冷静沈着であるのがクロノ・ハラオウンの長所である。フェレットもどき程度に威圧されるようでは、執務官は務まらないのだ。

 

『……無限書庫でも文献が少なすぎて、もうお手上げ状態だよ。闇の書を破壊したって話はあるけど、結局は再生しちゃってるし。封印を試みたってのもあるにはあるんだけど、こっちも全部失敗に終わってるみたいだね』

「まあ、成功していればこうして頭を悩ませることもないからな」

『僕が扱き使われることもなかっただろうね』

「いや、それは希望的観測だろう」

『せめてそこは同意してよっ!』

 

 ディスプレイの向こうではギャーギャーと騒いではいるが、何だかんだで協力してくれるのがユーノ・スクライアという少年である。そして、ユーノのもたらす情報の有用性は遥かに高い。その点では、クロノはユーノのことを高く評価していた。ロストロギアが絡む事件がなくならい以上、ユーノが職に困ることはないだろう。

 だいたいクロノはなんたらかんたら、と喚き散らしているユーノの声をBGMに、クロノは思考を巡らせた。

 ギル・グレアムの提案した闇の書の封印方法は、極大の凍結魔法による無限再生の阻止。闇の書のシステムを停止させ、遺失物管理部が厳戒態勢で保管するというものだった。

 正直、探せばいくらでも穴はある。管理局でも随一の魔力量を誇るグレアムならば封印も可能なのかもしれないが、その後が問題だ。

 遺失物管理部では数多のロストロギアが保管されているが、闇の書を局内に抱え込むということは、外部勢力に急所を晒すようなものだ。管理局の転覆を狙う犯罪組織がこぞって動きだし、協力関係にある聖王教会ですら黙ってはいないだろう。『闇の書』というロストロギアのネームバリューは、それほどのものなのだ。

 しかし、代替案があるかと問われれば、口を閉ざさるを得ない。そんなものがクロノに思い浮かぶのならば、闇の書などとうの昔に封印されてしまっているだろう。遺失物管理部で保管するというのも、ロストロギアの扱いとしては真っ当なものだった。

 

「ユーノ。闇の書の凍結封印は、本当に可能だと思うか?」

『この前なんて司書長が泡吹いて――えっと、凍結封印が可能か、だって? ……僕もそっち方面の知識は少ないから確かなことは言えないけど、理論上は可能なんじゃないかな。実際、そうして封印されていたロストロギアの話も聞いたことがあるし。ていうか、可能じゃなかったら採用されないでしょ。これまで闇の書に試したことはなさそうだけど……でも、失敗したとしても保険があるんだよね?』

「ああ。そのときは、これまでと同じ方法になるそうだ」

『なら、試す価値はあると思う。グレアム提督のような努力、僕は必要なことだと思うよ』

「そうだな……。それに、もしも失敗したとしても、今度は別の方法を試せばいい。そのときはまた忙しくなるだろうな、ユーノ」

『クロノ、君は無限書庫の全員を敵に回す覚悟があるみたいだね……!』

「僕の要請がなくとも、無限書庫の忙しさは変わらないと思うんだが……」

 

 次などない方がいい。今回で終わらせるに越したことはない。だが、もしも次があるとするならば、そのときもまた自分が最前線に立つのだという気概が、クロノにはあった。

 ふと脳裏を過るのは、闇の書の主の紅の瞳。あの絶大な魔力を思い出しただけで、クロノは肌が粟立つのを感じてしまう。

 だがそれでも、正義の旗を掲げる時空管理局は、クロノ・ハラオウンは、恐怖に屈するわけにはいかなかった。

 震えだしてしまうのを気合で止め、クロノは深呼吸をする。クロノは一人で戦っているわけではない。四課には、志を同じくする仲間がいるのだ。オーダー分隊副隊長として、自分一人が怖気づいている場合ではない。目の前のユーノにだって、あれだけ無茶をさせておいて自分が尻尾を巻いて逃げたに終わったでは、顔向けできないのだ。もしもそうなってしまえば、こうしたやり取りもできなくなってしまうだろう。

 

「そういえば、地球では今月の24日にクリスマスというイベントがあるらしい。なのは達は半休を貰っていたはずだから、君も様子を見てこちらに来るといいだろう」

『…………ごめん、クロノ。僕の耳がおかしくなったのかな? 今、君、気のせいじゃなければ僕に休めって言った?』

「そう言ったつもりだが? これまで働き詰めだったんだ。無限書庫とはいえ、いくらなんでも半休くらいは貰えるだろう」

『………………』

 

 ユーノは絶句などしているが、クロノとて悪鬼羅刹の類ではない。ユーノ君も来られるかなぁ、お仕事忙しくないといいけど、などと、なのはとフェイトがぼやいているのを聞いてしまったし、そろそろ飴を与えてやってもいい頃合いだろう。とても口には出せないが、一応、ユーノのことは好ましくも思っているのだ。友人に過労で倒れられては、クロノとしても気分が悪い。だからこれは、クロノの精神衛生上の観点からも仕方がない提案なのである。

 目を丸くしているユーノを前に、クロノが必死で自分を誤魔化していると――

 

『クロノ君クロノ君っ! また管理外世界で蒐集の被害だよっ! 調査班と一緒に出られ――って、ありゃりゃ、ユーノ君? ひょっとしなくてもお話中だった?』

 

 友人筆頭、補佐官でもあるエイミィから、職務用の端末に通信が入った。正直、そろそろ沈黙に耐え切れなくなってきていたところだ。クロノとしては有難いタイミングである。

 

「いや、いい。丁度話も終わったところだ。僕が出よう」

『そう? それじゃあ転移ゲートにお願い。ユーノ君も、お仕事頑張ってね! ではではー!』

「そういうことだ。また連絡する」

『う、うん……』

 

 半ば呆けた声で返してきたユーノとの通信を終え、クロノは身支度を整えて自室を出た。

 四課の裏側は気になるが、疑心暗鬼に囚われている場合ではない。今は守護騎士の足取りを掴むことが先決。闇の書をどうこうするにも、相手を見つけなければ話にならないのだ。

 『真実』を知るときが来て、そのときクロノがどう行動するにしても。

 迷いを内に抱えながらも、クロノは転移ゲート目指して走るのだった。

 

 

 

 

 ペンを片手に船を漕ぐ。世間では受験戦争なるものが目前にまで迫っているが、八神颯輔はまだ高校二年生。机の上に広げてあるのは、勉強道具というわけではなかった。

 見かねた闇の書が、揺れる颯輔の頬を軽く突いて起こす。目を覚ました颯輔は、はにかみ笑いをしながら管制人格に礼を言った。

 机の上を確認してみるが、どうやら居眠りをしている間にペンが紙面を彷徨ったりはしていないらしい。そのことにほっと一息をつき、颯輔は再びペンを走らせ始めた。

 

『主颯輔、あまり根を詰められては……』

「大丈夫だよ。でも、また寝そうになったら起こしてくれると助かるかな。一から書き直すのはちょっと大変だからさ」

『それは構わないのですが……』

「あー……わかったよ。ここだけ書いたらやめるから。だから、そう睨まないの」

『に、睨んでなどおりません! 私はただ主の身を想って――……』

 

 邪魔にならない位置に着地し、立体映像を投影した管制人格が身を案じてくる。クリスマスはもう目前に迫っているのだから、キリのいいところまでは書き進めておきたかった颯輔だったが、いつもの如く真紅の瞳を潤ませ始めた管制人格の言葉は素直に聞き入れるしかなかった。

 

「わ、わかったってば! 今すぐやめる! ほら、もうペンも置いたから、だから泣くな!?」

『な、泣いてなどおりません……』

「はいはい、そうだな……」

 

 管制人格は、目尻に溜まった滴が零れ落ちないようにと我慢している。右手を伸ばした颯輔は、小指でそっと目元を拭ってやった。

 そんなことをしても実体ではない管制人格には触れられはしないのだが、それでも、心配性な彼女に気持ちを伝えることはできる。ここのところは塞ぎ込みがちだった管制人格の心を、颯輔は少しでも支えてやりたかった。

 この頃颯輔を襲う眠気は、疲れからくるものでも生理的なものでもない。闇の書からの侵食によるものだ。侵食による痛みが引いていくと、途端に睡魔が襲ってくるのである。眠ったら最後、というわけではもちろんないのだが、貴重な時間を無駄にするわけにはいかなかった。やらなければならないことは、いくらでもあるのだから。

 管制人格が落ち着くのを待った颯輔は、机の上を片づけ始めた。無論、今日はもうやりませんアピールだ。時刻はまだ午後九時を回ったところだが、これ以上管制人格の機嫌を損ねるのはよろしくない。何事も信頼関係が大切である。

 信頼関係。一時は家族間の関係がかつてないほどに悪化した八神家だったが、今は徐々に回復の兆しが見えていた。本日の夕食を前にして、シグナムとザフィーラが帰還したのである。はやては未だ入院中だが、シグナム達全員が家に揃ったことで、かつての雰囲気が戻ってきたのだ。

 本人達は無理はしていないと言っ張っていたが、実際、相当なペースで蒐集を続けていたのだろう。闇の書の全頁を埋める分の魔力は、すでに用意ができていた。あとは、闇の書に蒐集をさせるだけだ。それでもまだ完成させないのは、未だに安全策が見つかっていないためだ。

 残された時間は決して多くはないが、足掻くことをやめるわけにはいかない。少しでも危険を減らすべく、颯輔達は別口の解決策を模索していた。

 

「もう少しでシグナム達も風呂から上がるだろうし、そしたら下に行こう。それまでは、大人しく休憩してるよ」

『将達には秘密にしなければならないこともわかりますが、そうなさってください。貴方にまで倒れられては、皆に合わせる顔がありません。さあ、どうぞ寝台へ』

「いや、流石に寝てる時間はないだろ――って、押すなって!」

 

 制止の声に耳を貸す気はないのか、飛び立った闇の書が颯輔の体をぐいぐいと押し続けてくる。颯輔の体を動かすほどの勢いはもちろんないのだが、代わりに退いてくれる様子もなかった。

 管制人格の過保護っぷりに懐かしさを感じた颯輔は、苦笑を漏らしつつもそれに応じることにした。同じく過保護だった叔母も、颯輔が体調を崩したときにはベッドに押し込もうとしていたものだ。

 掛布団の上から身を倒した颯輔は、枕元に携帯電話を置きっ放しにしていたことに気が付いた。血流が上手く回っていないのか、最近は物忘れが多くなった気がする。何の気なしに携帯を手に取った颯輔は、考えていたことを連鎖的に思い出し、すぐさま半身を起こした。

 

「こんなことまで忘れてるなんて、重症だな……」

『主……?』

 

 物忘れどころではない騒ぎに、颯輔は思わず自嘲した。これなら管制人格の執拗な心配も頷けるというものだ。颯輔自身、ここまで影響が出るほど侵食が進んでいるとは思ってもいなかった。残されている時間は、考えていたよりもずっと少ないのかもしれない。

 颯輔は携帯を開き、電話帳をスクロールした。画面に表示されたのは、ギル・グレアムの名前と電話番号。別世界ならわからないが、もしもイギリスにいるのだとしたら、迷惑な時間ではないだろう。

 

『素直に応じるでしょうか……』

「惚けるようなら『前回』の話でもしてやるさ。……まあ、交渉なんて生まれて初めてするんだけど。頼りにしてるぞ?」

『ええ、お任せをください』

 

 闇の書の記憶などを通して知識としては知っていても、一介の高校生にすぎない颯輔には交渉事の経験などない。管制人格に目配せをした颯輔は、発信ボタンを押した。

 じんわりと掻いた手汗で、携帯が滑り落ちそうになる。コール音がしばらく鳴り続き、やがて、受話音があった。

 

「こんにちは、グレアムおじさん。颯輔です」

『そちらではこんばんはかな? 声が聞けて嬉しいよ、颯輔。今月は初めてだね、何かあったのかな?』

「はい。ちょっと、大事な話がありまして。時間、大丈夫ですか?」

『ああ、構わないよ』

「それじゃあ、偶にはお互い腹を割って話しましょうか。……闇の書の主と、時空管理局の提督として」

『………………』

 

 颯輔は、電話の向こうでグレアムの雰囲気が変わるのを感じたのだった。

 

 



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第二十二話 聖なる夜に

 

 

 12月24日、クリスマス・イヴ。朝から厳しい冷え込みを見せる本日、天気予報によると、夕方から雪が降り始め、翌朝まで続く大雪となるかもしれないとのことだった。

 北国に比べれば降雪量の少ない海鳴市だが、多い時は足首が埋まる程度には降り積もる。長年海鳴に居を構えている八神家でもその辺りの対策は万全で、玄関にはプラスチック製のスコップが用意されていた。

 中天へと昇った太陽の光が南の窓から差し込む八神家のリビングには、台所から流れ込む甘い匂いと、マグカップから立ち昇るコーヒーの香りが広がっている。台所、椅子に登って電子レンジの中を確認したヴィータが、稼働音に負けない歓声を上げた。

 

「おおーっ! 颯輔っ、ケーキ膨らんでるよっ!」

「おっ、そっかそっか。それじゃあ、休憩はおしまい。そろそろ生クリームとかも作り始めるとしますか」

「はい、行きましょう」

「ここからが本番ですね。頼りにしてるわよ、ザフィーラ?」

「やはりハンドミキサーが必要だったと思うのだが……。いや、これも節約のため止むを得んか……」

 

 ヴィータの声に、リビングで一休みをしていた颯輔達も動き始める。残っていたコーヒーを飲み干した颯輔は、クリスマスケーキのレシピが記された料理本を手に取り立ち上がった。颯輔の後ろにシグナムとシャマルが続き、若干の疲れを見せていたザフィーラも腰を上げた。

 現在八神家では五人と一冊がかりでケーキ作りが行われているのだが、台所はその全員が収まるような広さではない。包丁や水道を必要とする者は台所、それらを必要としない者はダイニングと作業場を分けていた。

 シグナム達がそれぞれのエプロンを着けたり手を洗ったりとしている中、颯輔はヴィータの隣に並んで電子レンジを覗き込んだ。オレンジのライトに照らされる中、どろどろだった生地はしっかりと固まり、ふかふかになっているように見える。タイマーを確認してみれば、もう少しで焼き上がるようだった。

 

「よしよし、第一歩で躓いたりはないみたいだな」

「ザフィーラがすっげー勢いで泡立ててたから、いい感じだよね?」

「ああ。あとはクリームの味と、デコレーション次第だね。ほら、ヴィータも準備しておいで」

「うんっ!」

 

 ヴィータは久しぶりのお菓子作りに喜色満面だ。ヴィータが軽々と椅子を持ち上げてダイニングに運び始めると、入れ替わりに闇の書が颯輔の下へと飛んできた。颯輔の胸の辺りで止まった闇の書がバラバラと捲られ、己の頁を半分ほど開く。ベルカ語で魔法の術式が記されたその上に、颯輔は料理本を置いて開いた。直接は料理に参加できない颯輔と管制人格は、シグナム達の監督役に徹しているのである。

 

「よし、続きも頑張ろうな」

『はい。ですが、少しでも疲れを感じられたら、すぐに休んでいただきますからね?』

「りょーかい」

 

 体調管理に余念のない管制人格に、颯輔はおどけながらも了承の言葉を返した。睡眠時間を多目にとるなどして体調を整えてはいたが、颯輔としても無理をするつもりはない。ケーキが完成したらはやての見舞いに行って、その後に一世一代の大勝負が待っているのだ。料理で手を抜く気などさらさらないが、張り切り過ぎて不調を来しては元も子もないのだから。

 レシピを目で追い、頭に入っている内容と照らし合わせて最終確認を終えた颯輔は、準備を終えたシグナム達に指示を出し始めた。

 

「シグナムはフルーツの準備。苺とキウイと桃缶は冷蔵庫で、包丁と缶切り、あと、濡れ布巾も用意だ」

「わかりました」

「次、ヴィータはシロップ作り。お湯を使うから火傷には気を付けるように」

「任せといて!」

「最後は責任重大、シャマルとザフィーラでクリーム作りだ。シャマルはしっかりボウルを押さえて、ザフィーラは生地のときみたいにしっかり掻き混ぜること」

「了解です!」

「心得ております」

『目標時間は午後二時半だ。皆、主颯輔の指示をよく聞き、本職の菓子職人にも劣らないクリスマスケーキを完成させるぞ』

「「「「応ッ!!」」」」

「はは、気合入ってるなぁ……」

 

 空元気ではあるのだろうが、シグナム達の一致団結の様子に可笑しさを堪えきれなかった颯輔は、小さな笑いを零した。

 これまでのシグナム達が揃って立ち向かう相手など、敵意を持って押し寄せる大軍しかなかったのだ。それが、今では協力してケーキ作りに精を出している。これが颯輔とはやてがシグナム達に与えた変化だと思うと、目頭が熱くなるのを感じた。

 

「颯輔、準備を終えましたが……颯輔?」

「あ、ああ、悪い悪い。それじゃあ、まずは苺のヘタを綺麗にとって、次は濡れ布巾で汚れを拭くんだ。キウイは皮をむいて、それから全部、一口大にカット。……大丈夫だと思うけど、力を入れすぎると潰れちゃうから、優しく丁寧にね」

「それは流石に心配のし過ぎというものです。私にだって、力加減くらいはできますよ」

「ごめんごめん。シグナムの言うとおりだな、謝るよ」

 

 心外です、と眉根を寄せるシグナムに、颯輔は悪いと思いながらも苦笑をしながら謝った。最初の頃のシグナムは、生卵を上手く割ることもできなかったのだ。剣士繋がりか包丁の扱いだけは見事なものだったが、繊細な作業は苦手だったのである。もちろん今ではそんなことはないため、安心して任せられるのだが。

 

「颯輔、ちょっといい?」

「颯輔、少々よろしいですか?」

 

 颯輔を呼ぶ声が同時に二つあった。ヴィータとザフィーラからである。少しだけ迷った颯輔は、管制人格をヴィータの下に向かわせ、自身はザフィーラ達の方へと向かうことにした。

 ザフィーラ達のところに行ってみると、生クリームの入ったボウルを前にして、白い粉の入った袋を手にしたザフィーラと、白い粉の入った容器を手にしたシャマルが何かを言い合っている。ザフィーラの手にした袋の中身は買っておいたグラニュー糖だったが、シャマルの手にした容器は家に常備している塩だった。

 

「シャ、シャマルさん? まさか、生クリームに塩を入れようとかは考えてないですよね?」

「そんなこと考えてないですしどうして敬語なんですか!? 私は氷水の方にお塩を入れようと思ってたんです!」

「我は必要ないと言ったのですが……どうしますか?」

 

 これまでの指導でほぼ安心して料理を任せられるようになったシャマルだ。砂糖と塩を間違えることなど、おそらくないだろう。ならば、ここに来てまさかの塩ケーキに路線変更かと思いきや、そんなこともなかったらしい。

 おそらくシャマルは氷水の温度をさらに下げようとしているのだろうが、そこまでする必要があるとは思えない。とはいえ、しない理由もないのだろうが、そこまで詳細には料理本にも記されてはいなかった。少々悩み、どちらでもいいか、と結論を出した颯輔は、優しげな微笑を顔に張り付けた。

 

「シャマルがどうしても入れたいなら、入れてもいいと思うよ」

「心遣いが余計に痛いですよ、颯輔君……。わかりました、私が間違ってましたよ……。お塩は置いてきますから、どうか、それまでにいつもの颯輔君に戻っていてください……」

「……あー、颯輔? グラニュー糖は大さじ2杯で合っていますか?」

「うん、合ってるよ。泡立ての目安は、泡立て器で掬うとクリームがゆっくり落ちるくらい、かな。まずはそこまで混ぜて、それから3つに分けようか。間に挿むのと、外側に塗るのと、デコレーション用ね」

「はい。それらしくなってきたら、颯輔にも確認をお願いします」

「わかった。シャマル、ボウルを押さえてあげて」

「はーい」

 

 シャマルが戻って生クリーム作りが始まったのを見届けた颯輔は、その場からヴィータ達の様子を眺めた。立体映像を投影した管制人格が料理本の頁を指差し、ヴィータはそれに頷きを返している。はやてが入院してからは、颯輔に管制人格、ヴィータにシャマルの四人で闇の書の呪いを解く方法を考えていたためか、二人だけでも会話ができるほどの仲にはなっているようだった。

 管制人格は実体ではなく本来のサイズでもないが、二人の様子は、母子か歳の離れた姉妹のようにも見える。その様子に、颯輔は十年ほど前の光景を思い出した。颯輔と仕事の忙しかった母は、実の親子にもかかわらず上手く会話ができなかった。ヴィータと管制人格の少しだけ距離の感じる会話は、まさにそれと一致するのだった。

 経過した年月で擦り切れてしまった過去に思いを馳せていた颯輔を現実に呼び戻したのは、電子レンジの上げた音。それを聞き届けた颯輔は、そちらへと向かった。

 颯輔が電子レンジの扉を開けると、作業を中断したシグナムが駆けて来た。どうやら気を遣わせてしまったらしい。心配するシグナムをやんわりと制し、竹串を受け取って生地の焼き上がりを確認する。一度奥まで刺し込んでから引き抜いた竹串には、生地が付いてきたりなどはない。スポンジケーキ作りは、問題なく成功したようだった。

 

「あとは私が取り出しますから」

「ああ、任せるよ」

 

 颯輔は、ミトンを手につけたシグナムに押し退けられてしまう。片手で出来ないこともないが、もしも落としてしまったら、と考え、ここは大人しく従うことにした。監督役に徹するということが、颯輔参加の条件でもある。もっとも、監督役でも結局は忙しく動き回っていることに変わりはないのだが。

 型に収められたスポンジケーキを取り出したシグナムが、用意しておいた網の上へと逆さまにして置く。あとは冷えるのを待ち、その間にフルーツやクリームを用意しておくだけだ。

 颯輔と管制人格が忙しく様子を見て回って指示を出し、シグナム達が調理を進めていった。失敗らしい失敗もなく、無事に一通りの作業が終わると、皆でデコレーションをしようということになり、全員分の椅子があるダイニングへと集合した。

 シグナムが、型とスポンジケーキとの間に沿ってくるりと包丁を入れる。慎重に型を外すと、きつね色に焼き上がったスポンジケーキが姿を見せた。

 

「おおっ! おおーっ!」

「これなら、はやてちゃんも喜んでくれますよね」

「シャマルよ、仕上げはこれからだろう。慎重に盛り付けねば」

『将、次は半分の厚さになるようにスライスだそうだ』

「任せておくがいい」

「これで合わせて――ああ、シグナムにそういうのは必要ないんだったな……」

 

 包丁を入れる高さを合わせようと颯輔が補助具を持ち出すも、持って来た頃にはすでに事が終了した後だった。柔らかく切り難いスポンジケーキも、その道のスペシャリストであるシグナムの実力の前には及ばなかったらしい。半分にされたスポンジケーキの切り口は美しく、厚さにズレもないようだった。

 剣技と包丁捌きの関連性に今更ながらに疑問を抱きつつ、そっと補助具を仕舞いに行く颯輔。空元気も続けていれば本物に変わるものなのか、シグナム達は賑やかにフルーツの盛り付けを始めている。戻るタイミングを逃してしまったような感覚に囚われた颯輔は、台所に留まりその光景を目に焼き付けていた。

 もしも闇の書の呪いを解くことに失敗してしまったら、『ここ』に戻ることはできないのだ。

 

「ヴィータ、つまみ食いをするな!」

「こんなにいっぱいあんだから、一個くらいいいじゃねえか! ていうか、お前だってこっそり苺食ってたの、あたしはちゃーんと見てたんだからな! シグナムのけちんぼいやしんぼ!」

「な、なんだとっ!?」

「なんだよっ!?」

「あーもうっ、二人共やめなさいってば!」

「五十歩百歩というやつか……」

『こんなときにまでお前達は……。主颯輔からもなんとか――……主、そんなところでどうされたのですか?』

「いや、なんでもないよ……。ほらほら、シグナムもヴィータも喧嘩しないの」

 

 『次』があれば、ここにはやての姿もありますように。

 そう祈りを捧げながら、颯輔もシグナム達の輪に加わるのだった。

 

 

 

 

「遅いなぁ…………」

 

 12月24日、クリスマス・イヴ。時計の針が午後三時を過ぎてしまったのを見とめた八神はやては、深い溜息を吐き出した。はやてが入院してからは毎日あった見舞いだが、今日はまだ誰も姿を見せていない。普段ならば午前中や昼を過ぎたあたりに訪ねて来るのだが、今はその気配すらなかった。

 もしかしたら、自分一人だけが除け者にされていて、皆は今頃楽しく騒いでいるのではないか。

 脳裏に浮かんだ後ろ向きな考えを、頭を振って追い出す。昨日も病室を訪れた颯輔達は、明日もまた来るから、と言っていたのだ。きっと、何か用事があって遅れているのだろう。そうに違いない。

 気を取り直したはやては、手慰みの編み物を再開した。かぎ針をいそいそと動かし、毛糸で無数に輪を作っていく。現在はやてが挑戦しているのは、こま編みのバッグだった。もっとも今回は習作で、サイズも実用的なものではない。編み物の道具を仕舞っておくのがせいぜいのものだった。

 編み物に必要なかぎ針や毛糸に資料は、石田に頼んで買ってきてもらったものだ。ちなみに、代金は退院してから渡すつもりだったが、石田からは少し早いクリスマスプレゼントということにされてしまっている。はやてが編み物を手慰みの手段に選んだのも、家族や友達にクリスマスプレゼントを用意するためだった。

 人数分のプレゼントはもう完成してしまっていて、見つからないようにとクローゼットの奥にしまってある。それを渡すのは、クリスマスである明日の予定だった。

 はやてが編み物に没頭していると、病室の扉をノックする音があった。

 

「はやて、おまたせっ!」

「遅くなってすみませーんっ!」

 

 わいわいがやがやと、静かだった病室が一気に賑やかになった。ヴィータとシャマルを先頭に入ってきたのは、待ちに待った家族達。ここ最近は忙しかったらしく、しばらく姿を見せていなかったシグナムとザフィーラも一緒だった。八神家全員集合である。

 

「こらこら、病院じゃ静かにせなあかんよ。シグナムとザフィーラは、久しぶりやね」

「すみませんでした。門下生の出場する大会がありまして……」

「我もアルバイトが忙しく……。はやての大変なときに、申し訳ありません」

「そんなっ、別に怒っとるわけやなくて……。うん、だから、謝らんでええよ。今日はちゃーんと来てくれたんやから」

 

 嬉しさに顔が綻んでしまうのを我慢し、テンションの高い二人を注意する。続いてシグナムとザフィーラに声をかけたのだが、直前の行動が裏目に出てしまったらしい。はやてが自分達のことも怒っていると勘違いしたのか、シグナムとザフィーラにも頭を下げられる始末。慌ててそれを否定するはやてだった。

 はやて達の様子にくすくすと苦笑を漏らしながら、最後に颯輔が入ってくる。その右手に持っているのは、取っ手の付いた箱だった。箱の表面は、クリスマスツリーを彷彿とさせる絵柄だ。

 

「お兄、それ……」

「うん、クリスマスケーキだよ。開けてごらん」

 

 シグナムがベッドに備えられたスライド式のテーブルを設置し、そこに颯輔が箱を置く。編み物を横に退けたはやては、慎重に箱を開けてケーキを取り出した。

 箱の中から姿を見せたのは、真っ白の生クリームと苺の瑞々しい赤が目に映える大きなショートケーキ。チョコペンを使ったのか、ホワイトチョコの丸板には黒字の筆記体で『Merry Christmas』と表記されており、余ったスペースには可愛らしいのろいうさぎが描かれていた。

 

「うわぁ、美味しそうなケーキやね! のろいうさぎっちゅうことは、ヴィータが選んだんか?」

「違う違う。これ、皆で作ったんだよ」

「ええっ、これ、手作りなんかっ!?」

「はい。我ら全員で、協力して作りました。ただ、シグナムが造詣にこだわってしまい……」

「いえ、あの、その、はやてには喜んでいただきたくてですね……」

「まあまあ、上手にできたんだからいいじゃないか」

「ええと、それでこんな時間になっちゃったんですよ。ごめんなさいね、はやてちゃん」

「ううん、嬉しい……嬉しいよ、みんな。ほんま、おおきにな……!」

 

 家族皆が揃ったことが嬉しくて。家族皆の気持ちが嬉しくて。けれど、一緒にケーキを作れなかったことが少しだけ悔しくて。はやては花咲くような笑みを浮かべたまま、そっと涙を流した。

 その途端、笑顔だった颯輔達皆が打って変わって心配をしてくる。嬉しかっただけ、大丈夫や、と返したはやては、急いで目尻を拭った。

 石田からは、自分の体調はそこまで悪くないと聞かされている。ただ検査のために入院が長引いているのだと。しかし、それは方便であるのだろうと、はやては理解していた。

 はやての身体を蝕む病は、普通のものではないはずだ。原因不明なのだから、きっとそうに違いないのだろう。もしかしたら、退院できずにこのまま、ということもあるかもしれない。

 しかし、今だけは。

 家族に囲まれている今だけは、はやては確かに幸福を感じていた。

 

「あらあら、廊下まで声が聞こえるから来てみれば、今日はまた一段と賑やかね」

「石田先生。すみません、騒がしかったみたいで……」

「いいのいいの――って言いたいところなんだけど、ごめんなさいね、少しだけ、ボリュームを落として騒ぐように」

 

 回診の時間であったのか、石田が柔らかな笑みを浮かべながら入ってくる。颯輔が謝ると、石田は苦笑しながら人差し指を唇へと運んでいた。

 石田がケーキを見つけてその出来栄えに感心した様子でいると、颯輔がショルダーバッグから闇の書と使い捨てカメラを取り出した。

 

「すみません、石田先生。記念撮影、お願いしてもいいですか?」

「もちろんよ。さあ、並んで並んで」

 

 石田の言葉に皆が移動を始める。はやてとクリスマスケーキがセンターに来るようにとベッドの周りに集まるも、石田は渋い顔をしていた。

 どうやら、上手い具合にはフレームに収まっていないらしい。ならば、と、はやては颯輔とヴィータの手を引いた。

 

「お兄とヴィータもベッド入れば、いい感じになるんとちゃう?」

「そうか……?」

「ナイスアイディアね、はやてちゃん。それなら、いい写真が撮れそうよ」

「颯輔、早く早く!」

 

 石田とヴィータにも促され、あまり納得のいかないような顔をしながらも颯輔がベッドに入ってきた。

 胡坐をかいた颯輔の両膝の上に、闇の書を持ったはやてとケーキを持ったヴィータが座る。さらに、ベッドの端に腰掛け、シグナムとシャマルにザフィーラが、左右から隙間を埋めた。

 今の状況は多少窮屈に感じるも、それでも、優しい温もりに溢れている。皆が表情を綻ばせていると、カメラのフラッシュが焚かれた。何度か撮り直しをして、幸福な時間が切り取られる。はやては、今から現像するのが楽しみで仕方がなかった。

 

「せっかくですから、石田先生も一緒に写りませんか?」

「それは嬉しいですけど、悪いですよ。誰かが撮らないといけませんし」

「ザフィーラあたりが腕を伸ばせば、何とか皆が入る気がするが……」

「別に構わんが、上手く撮れる保証はないぞ?」

「2、3枚撮りゃあいいじゃん。颯輔、まだフィルムはあるんだよね?」

「新品だから、まだまだ余裕はあるよ。でも、こういうときデジカメがあったらなぁ……」

「我が家にそこまでの余裕はあらへんからなぁ……。まっ、とりあえずはチャレンジや。石田先生、こっちこっち。ザフィーラ、頑張ってな?」

「はあ、努力はしてみますが……」

 

 シャマルの提案で、今度は石田も入って全員で写ろうということになる。最も腕の長いザフィーラがカメラを受け取り、ぐっと腕を伸ばしてカメラを構えた。

 全員がフレームに収まるようにと、窮屈だった体勢がさらに窮屈なものとなる。おしくらまんじゅうをしているようで楽しかったが、ヴィータの持つケーキが零れ落ちそうになったりと笑えないピンチもあった。

 慣れないカメラの撮り方にザフィーラが四苦八苦するも、何とかそれらしい写真を撮ることに成功する。もちろん、使い捨てカメラであるためどんな写真が撮れたのかは現像してみるまでわからないのだが、さすがにそれだけでフィルムを使い切るわけにもいかず、何度か撮り直しをしたところで手打ちとなった。

 写真を撮り終えると、シグナムとシャマルが人数分の紙皿を用意し、いよいよケーキを切り分け始めた。石田は仕事中だからと遠慮していたが、写真を撮ってもらって何もしないというのはあまりいい気はしない。逃げるように立ち去ろうとする石田を捕まえ、後で食べてください、と切り分けたケーキを箱に仕舞って無理矢理持たせたのだった。

 全員にケーキが行き渡る。切り分ける前にはわからなかったが、スポンジの間にも贅沢に生クリームが詰められており、苺の赤やキウイの黄緑、黄桃の橙が目に鮮やかだった。

 もったいなく思いつつも、はやてはフォークを入れてケーキを口へと運んだ。

 

「はやてはやて、どう? おいしい?」

「……うん。今まで食べたケーキの中でも一番や!」

「それはちょっと、言い過ぎじゃないかなぁ?」

「そんなことあらへんよ。甘~い生クリームと、ちょっと酸っぱいフルーツ、それからふわふわのスポンジで、お店に並んでても文句なしの出来やで」

「それは絶対言い過ぎだ。……まぁ、それくらいおいしいとは思うけどな」

 

 折れた颯輔の言葉に、シグナム達も同意を示している。こういうシチュエーションだから、という補正もあるのだろうが、実際、皆が作ってくれたケーキは本当においしかった。味はもちろんのこと、デコレーションも凝っていて、売り物と変わらないレベルである。

 ただ惜しむらくは、はやてがケーキ作りに参加できなかったことか。皆で一緒に料理を作るというのは、きっと楽しいことなのだろう。それだけが、はやての心に少しだけ影を落とした。

 

「わたしも一緒に作りたかったなぁ……」

「何を言っているのですか。はやてが退院したら、そのお祝いに作ればいいではありませんか」

「へ……?」

 

 シグナムの言葉に、はやては虚を突かれたような顔をした。

 

「そのとおりです。クリスマスにしかケーキを作ってはいけないという決まりなどありませんから」

「春になったら颯輔君のお誕生日ですし、そのときも作れますよ」

「ていうか、別にケーキだけじゃなくてもいいじゃん。夕ご飯でも何でも、皆で作ったりできるし」

「もはや何でもアリだな……。でも、楽しいと思うよ。だから、はやても早いとこ退院しないと。な?」

「…………うんっ!」

 

 温かい家族の優しい言葉に、はやては精一杯の笑顔を浮かべて頷いた。

 そうだ。そのとおりなのだ。よくわからない病気に負けている場合ではない。このまま入院を続けるなど、大損もいいところである。早く元気になって退院してしまえば、楽しいことなどいくらでも待っているのだ。

 まずは退院をして、お祝いにケーキを作って。それから次は、皆揃って年越しをして、初詣に行って。おせちを作ったり、お正月の特番を見たり。一週間後には、それだけの行事が迫っている。来年だって、今年と同じように――いや、それ以上に素晴らしい一年になるはずなのだ。

 

「おおきにな、皆」

 

 うじうじと下を向くのはもうおしまい。弱気になっていては、治るものも治らない。

 明るい未来に思いを馳せつつ、面会時間が終わってしまうまで、はやては家族に囲まれながらクリスマス・イヴを過ごすのだった。

 

 

 

 

 時刻は午後七時を過ぎたところ。閉鎖されているはずの海鳴大学病院の屋上に、五つの姿があった。颯輔にシグナム、ヴィータにシャマルとザフィーラの五人である。

 吹きつける風が、吐き出す白い息を吹き飛ばしていく。今の五人には、病室であったような笑顔はなかった。

 なぜならば。

 闇の書の呪いを安全に解く方法など、存在しなかったのだから。

 

「それじゃあ、行ってくる。ヴィータ、シャマル、はやてのことは任せたぞ?」

「うん。……颯輔、ちゃんと戻ってきてね?」

「私達の心配は要りませんから……だから、必ず皆揃って帰ってきてください。ちゃんと、おかえりなさいって言わせてくださいね?」

 

 必然、命懸けとなってしまうこれからに、ヴィータとシャマルは心配を隠せなかった。ヴィータは颯輔にしがみつき、シャマルも颯輔の手を両手で包み込んでいる。もしも最悪の事態が訪れれば、その温もりを感じることはできなくなってしまうから。

 本音を言えば、ヴィータとシャマルも颯輔達と一緒に行きたかった。戦う力を持つはずが、肝心な時に祈ることしかできないなどとは耐えられない。

 しかし、はやての存在があった。闇の書が完成すれば、防衛プログラムが暴走を始めてしまう。それまでに全てが望む形に終わればいいが、どうなるかはわからない。もう一人の主であるはやてに影響が出てしまったとき、そちらに対処できるだけの戦力が必要だった。

 

「もちろん、ちゃんと帰ってくるさ。闇の書を夜天の魔導書に戻して、管制人格も連れてくる。そしたら、明日は皆でお祝いだ」

 

 賭けに勝ったとしても、そんな未来はやってこない。そうとわかっていながらも、颯輔は明るく笑ってみせた。

 犯した罪は、償わなければならない。シグナム達に犯させた罪も、主である自分が背負わなければならない。全てが終わったとしても、八神颯輔には闇の書が犯してきた罪を清算する義務があるのだ。だから、もう一度家族が揃うのは、明日ではなくずっと先のことになるだろう。

 もしかしなくとも、はやてには失望されてしまうかもしれない。そもそも、どんな罰が下されるのかもわからない。

 しかし、はやてに未来が与えられるのならば。

 シグナム達を闇の書の呪縛から解放できるのならば。

 八神颯輔の選択に、後悔などありえない。

 

「颯輔、そろそろ行きましょう」

「侵食により危険な状態にあるのは、颯輔も同じこと。早く終わらせて、明日に備えてゆっくり休まなければなりません」

「そうだな……」

 

 シグナムとザフィーラに促され、颯輔はヴィータとシャマルから離れた。

 もしも暴走が始まってしまったならば、魔力が尽きるまでそれが終わることはない。そのときのことを考えると、闇の書を地球で完成させるわけにはいかなかった。

 

「騎士甲冑を頼む」

『はい、我が主』

 

 闇の書を取り出した颯輔が、管制人格に告げた。深紫の魔力光が颯輔を包み込むと、漆黒のローブが形成される。颯輔の両隣りでラベンダーと群青色の光が輝き、シグナムとザフィーラも騎士甲冑を身に纏った。

 三人の足元に、転移魔法陣が描かれる。これから向かうのは、何が起こっても人的被害の出ない無人世界だ。

 

「シグナム、ザフィーラ……それから管制人格っ! 颯輔のこと、任せたからなっ!」

「あなた達も気を付けて……」

「ああ、行ってくる」

「そちらも、はやてのことは頼んだぞ」

『任された。紅の鉄騎も、風の癒し手も、今少しだけ待っていてほしい』

「それじゃあ今度こそ、いってきます」

 

 ヴィータとシャマルの前で、颯輔達の姿が光に包まれ消えた。深紫の光が飛び立ち、夜空を縦に切り裂く。魔力光が見えなくなってしまうまで、ヴィータとシャマルは夜空を仰ぎ続けた。

 月明かりを遮る分厚い雲から、真っ白な雪が降り始める。天が祝福してくれているのか、それとも足掻く様を嘲笑っているのか、どちらかの判断はつかなかった。

 今ここに、運命の夜が幕を開ける。

 闇の書が生み出す絶望の螺旋。

 暗き闇の果てに光を見るかどうかは、誰にもわからない。

 

 



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第二十三話 誓い

 

 

 巡航L級8番艦『アースラ』に本部を置く特務四課は、突然の事態に混乱していた。ここ数日はまったく動向が見られなかった闇の書の守護騎士の魔力反応を、ようやく捉えたのである。それも、一時は潜伏先の最有力候補と見られながら、しかし今現在は候補地から外されていた、第97管理外世界での反応だ。オーダー分隊の主力がクロノ・ハラオウンを除いてオフを取っている今、まさに寝耳に水の状態だった。

 四課のスタッフはギル・グレアムやリーゼ姉妹、クロノ・ハラオウンの指示に従い、捜査用の計器を忙しく動かしている。戦力の整っていない状態で、ブリッジには緊張が走っていた。

 

「守護騎士二体の転移反応、第76無人世界エルトリアへと向かっています!」

「探知防壁の類はないようですが……囮ということでしょうか?」

 

 これまでの守護騎士は転移の際に探知防壁を併用していたため、四課の捜査網を持ってしても反応を捉えることは困難だった。しかし、今回は違う。転移元から転移先まで分析が可能なのだ。まるで、誘ってでもいるかのように。

 実のところ、この事態はグレアムにとって、数日前から予定されていたものだった。

 第76無人世界エルトリア。『死蝕』と呼ばれる環境汚染に侵され、生命が生きることを許されない世界だ。かつては管理世界であったため、日常生活が困難となった住人は、ミッドチルダなどの別世界へと移り住んでいる。グレアムの知人にも、エルトリア出身の者はいた。この世界ならば、闇の書が暴走を始めたとしても大きな被害はない。

 そして、その場所を指定したのは、他ならぬグレアムだった。

 グレアムは、回線の繋がったディスプレイに映るリンディ・ハラオウンへと目を向けた。リンディにエイミィ・リミエッタ、高町なのはにフェイト・テスタロッサとアルフの五名は、地球のハラオウン邸に集まっていたところだ。タイミングは理想的とも言えた。

 

「話は聞いていたね、リンディ君?」

『はい。この誘い、決着をつけよう、ということでしょうか……?』

「おそらくは、ね。エルトリアへは私とリーゼが向かおう。君にはアースラの指揮を任せたい」

『わかりました。リミエッタ通信主任と共に、すぐにそちらへと向かいます』

「頼んだよ。代わりに、クロノをそちらに向かわせる。なのは君とフェイト君達には、クロノと合流して転移元地点の周辺を調査してもらいたい。捉えた守護騎士の反応は二体分。もしかしたら、もう二体が近辺に潜伏しているかもしれないからね」

『わかりました!』

『了解です、グレアム提督』

 

 目で合図をすると、力強く頷いたクロノが転移ゲートへと走り出した。リンディの姿が消えたディスプレイにはなのはとフェイトが映っており、グレアムの命令に了承を示している。武装局員はアースラの護衛として残すため、エルトリアへと向かうのは全てを知るグレアムとリーゼ姉妹だけとなった。

 グレアムも出撃するべく艦長席から立ち上がると、ディスプレイに金髪の少年が映り込んだのが目に入る。今日一日は休暇を取って地球へと渡航しているらしい、ユーノ・スクライアだった。

 

『あの、グレアム提督っ! 何か出来ることがあれば、僕にも協力させてください!』

 

 なのはとフェイトの前に立ち、真っ直ぐにグレアムを見据えてくるユーノ。そこには、想いの込められた真剣な目があった。

 ユーノは四課に直接所属しているわけではないが、クロノの伝手で何度か協力してもらっている。調べ上げた情報は、有用なものばかりだった。さらに、結界魔導師としての資質も高く、戦力としては申し分ない。その知識量からも、イレギュラーが起こったときには頼りになるだろう。

 ただ懸念すべきは、いくらか有能過ぎる点か。戦力増強は歓迎できるが、あまり動き回られるのは好ましくない。

 断る理由はいくらでも考えられたが、ユーノの見せる目がかつての部下に重なり、グレアムは頷きを返した。

 

「いいだろう。臨時協力者として、なのは君達と行動してくれたまえ。君の結界魔法は優秀だと聞いている。その資質を活かし、皆を支えてもらいたい」

『はい! ありがとうございます!』

 

 深く頭を下げるユーノを尻目に、グレアムは今度こそ足を踏み出した。リーゼロッテとリーゼアリアの二人が、音もなくその後に続く。ギル・グレアムとリーゼ姉妹、時空管理局が誇る最優の攻撃オプションだ。

 目指す先、転移ゲートが輝き、リンディとエイミィの姿が現れる。通路脇に避けてグレアム達に道を譲った二人は、直立して敬礼をしてきた。

 

「ご武運を」

 

 長きに渡り次元世界に災厄をもたらし続けてきたロストロギア『闇の書』、その歴史に今度こそ終止符を打つ。十一年の時を経て、過去にケリを着ける時が来たのだ。

 リンディの声援に黙って敬礼を返し、グレアム達は転移ゲートへと乗り込んだ。

 

 

 

 

 転移を終えた八神颯輔達を待っていたのは、終わってしまった世界だった。

 草木が見られず、ひび割れ枯れ果てた大地。汚染されているのか、海は毒々しい色に染まっていた。空は一面が灰色の雲に覆われ、恒星の光を遮っている。乾燥した空気が、喉に絡みついて痛かった。

 ここまで酷くはなかったが、ベルカの世界に似通った光景に、感慨深い気持ちを抱く颯輔。フードを取って風に吹かれると、記憶の世界に迷い込んでしまったかのようだ。まさに、終わりを迎えるに相応しい世界だ。

 

『将、狼もこちらへ』

 

 闇の書から管制人格の声があり、辺りを警戒していたシグナムと人間形態のザフィーラが、颯輔の傍へと寄る。三人の足元に魔法陣が現れると、深紫の魔力光がその姿を包み込んだ。

 用心のためです、と言う管制人格に、颯輔は黙って頷いた。

 これから対峙するのは、執念の塊と言ってもいい者達だ。警戒を重ねるに越したことはない。誠実に見える手合いにこそ細心の注意を、というのが管制人格からの進言だった。颯輔としても、その言葉に異論はない。なぜなら、ギル・グレアムはこれまでの間ずっと、何も知らない颯輔達を欺き続けてきたのだから。

 

「どうやらお目見えのようです」

「颯輔、我らの後ろに」

 

 その気配をいち早く察知したシグナムとザフィーラが、颯輔を後ろに庇って前に出る。その向こう、10メートルほど離れたところに、藍色の光が生じた。ミッドチルダ式の転移魔法陣だ。

 魔法陣から現れたのは、直接会うのは随分と久しい相手。名目上は颯輔達の保護者となっている、ギル・グレアム。そして、リーゼロッテとリーゼアリアを加えた三人だった。

 グレアムは白いスラックスに紺色のジャケットという出で立ちだが、管制人格が念話により告げてくる解析結果によれば、それらはバリアジャケットだという。ロッテとアリアが着ている黒い制服も同じらしく、動こうと思えばいつでも動くことのできる状態のようだった。

 グレアムの静かな目からは、感情は読み取れない。しかし、ロッテとアリアが向けるそれには、確かな憎悪の念が込められていた。過去にグレアムの邸宅を訪れたとき、二匹の飼い猫がまったく懐いてくれなかった理由も、今となっては理解できる。『闇の書の主』は、グレアム達の部下の命を奪っているのだから。

 少しの間、シグナム達とロッテ達の間で睨み合いが続く。そのプレッシャーの中でも、颯輔の鼓動は奇妙なほどに落ち着いていた。

 続いた沈黙を破ったのは、颯輔からだった。

 

「ようやくお出ましか、管理局。待ちくたびれたぞ?」

「……君が、闇の書の主で間違いないのだな?」

「察しろよ。それとも、この手に持ってるのが飾りに見えるのか?」

 

 白々しく滑稽な演技に笑いそうになってしまう。颯輔はそれを嘲笑に変えて顔に貼り付け、右手に持った闇の書をグレアム達に晒した。

 ギリ、と歯の鳴る音がロッテとアリアから聞こえてくる。役に入り込んでいる、というわけではないのだろう。ロッテなどは、今にも飛び出さんばかりの勢いだった。

 

「それで、その闇の書は完成しているのかしら? それとも、そこのお人形二体で完成とか?」

「我らの魔力など、真っ先に捧げている」

 

 アリアの挑発を、ザフィーラが涼しい顔で受け流した。それを受け、グレアムを除いた二人の表情が驚愕に染まる。シグナム達からの蒐集が済んでいることに気がついてはいなかったのか、それともその可能性はゼロだと判断していたのか。

 もっとも、過去に蒐集をされたシグナム達は、全ての魔力を奪われて消滅していた。そのことを知っていたのならば、ロッテとアリアの反応も頷ける。

 しかし、それは最後に蒐集された場合の話だ。シグナム達は、闇の書とその主を守る騎士。役目を終えた後ならばいざ知らず、自己を守ってもらわなければならず、また、魔力を蒐集してもらわなければならない状態の闇の書ならば、守護騎士を消滅させるなどあり得ないのだ。

 

「……主よ、最後の蒐集を」

「ご苦労だったな、シグナム。闇の書、蒐集を始めろ」

《Sammlung.》

 

 魔法生物から奪い、保存していたリンカーコアを差し出すシグナム。颯輔はシグナムに見向きもせず、ただただ冷たい声音で命令を下した。

 管制人格のものではない機械的な音性が上がり、闇の書が蒐集を始める。白紙の頁はたったの6頁。最後の蒐集は、あっけなく終了した。

 ドクン、と闇の書が脈打つ。それに同期して胸に鈍痛が走るも、颯輔が表情を変えることはなかった。この程度の痛みなど、まだまだ序の口にすぎない。本番は、これから始まるのだ。

 

『……始めるぞ』

『将、狼。主の守護は任せた』

『どうか、ご無事で……』

『ご武運を』

『ああ。……グレアムおじさん、もしものときはお願いします』

『わかっている』

 

 念話を手短に済ませると、闇の書が颯輔の手を離れ、独立飛行を始める。目線の高さまで浮かび上がった闇の書に、颯輔は静かに告げた。

 

「闇の書、全ての封印を解除しろ」

《Freilassung.》

 

 ――瞬間、グレアムの足元が瞬いたかと思いきや、藍色の砲撃魔法が放たれた。デバイスの補助がないにもかかわらず、展開速度も威力も並の魔導師では足元にも及ばない領域に達している。

 恐るべき速度で迫る魔力の奔流はしかし、颯輔達の左側を通過していった。

 やっぱり裏切った。

 薄れゆく意識の中で、颯輔は諦観の念を抱いていた。

 事前の交渉では、闇の書の制御に失敗したとき、颯輔ごと封印する手筈になっていた。それが、封印できる状態となった途端にこれだ。用心のためにかけた認識阻害の魔法が、正しくその役目を果たしてしまった。

 

「――させんッ!」

「このッ!」

 

 颯輔の背後では、シグナムとロッテがぶつかり合っている。

 短距離瞬間移動者にとって10メートルの距離などないに等しい。しかし、積み重ねた経験と知識からその戦法を熟知し、仕掛けるタイミングを正確に割り出していたシグナムに、ロッテの試みは通用するはずがなかった。

 

「颯輔! 今のうちに――ぐううっ!?」

「墜ちなさいッ!」

 

 颯輔の前方では、アリアの射砲撃に障壁を張ったザフィーラが必死に耐えている。

 前回の戦闘では、アルフがザフィーラとの近接戦を繰り広げているにもかかわらず、アリアの援護射撃は正確にザフィーラだけを狙っていた。例え味方が間近で戦闘をしていても、敵だけを攻撃する技術がアリアにはあるのだろう。ザフィーラとて生半可な攻撃などは全てを防ぎきる技量はあるが、ここにグレアムが加われば持ちこたえることは難しいはずだ。

 激戦を強いてしまう二人に心の中で謝り、颯輔は目を閉じる。

 深紫の魔法陣が輝き、エルトリアの天地を光の柱が貫いた。

 

 

 

 

 八神颯輔がもう一度目を開けると、そこにはシグナム達の姿もギル・グレアム達の姿もなかった。エルトリアの空よりも暗い闇が揺蕩う外界から閉ざされた空間、闇の書の内部だ。

 目を凝らしてみると、少しだけ離れたところに管制人格の姿があった。固く目を閉じ、集中しているように見える。足元には、深紫の魔法陣が光り輝いていた。きっと、防衛プログラムが暴走を始めてしまうのを必死に食い止め、また、はやてがこの場に招かれないようにしているのだろう。現実世界では数瞬のことでも、時の流れの違うここならば重要な意味を持つ行為だ。

 管制人格に歩み寄ろうとして、颯輔は体が軽いことに気が付いた。試しに左手を動かしてみると、固い握り拳を作ることも、腕を思うとおりに持ち上げることもできた。どうやら、闇の書が完成したことで侵食を受けていた体が元に戻ったらしい。これではやても、と安堵を覚えつつ、颯輔は管制人格の傍へと進んだ。

 

「主颯輔……」

「ナハトの様子は?」

「今にも目覚めそうですが、何とか食い止めております。やはり、あまり長くはもちません……」

「そっか……」

 

 颯輔が問いかけると、管制人格は左手首の腕甲を撫でながら、悲痛な面持ちで答えた。

 闇の書の防衛プログラム、その正式名称を、ナハトヴァールと呼ぶ。夜天の魔導書とその融合騎を守ることを究極の命題としており、魔導書が完成するまでは、その機能の全てを持ってして主と魔導書の存在を存続させようとする。暴走状態にあるナハトヴァールこそが、全ての元凶とでも言うべき存在だった。

 左手を伸ばした颯輔は、管制人格の左手を取った。続けて、装着している腕甲――待機状態のナハトヴァールに右手を伸ばすと、管制人格は逃げるように左手を引いてしまう。その微かな抵抗を、颯輔は許さなかった。

 

「主颯輔、やはり私も――」

「――ダメだ。もし、それでも失敗したら、はやてまで連れていくことになる。それだけは、何があっても許さない」

「しかし……!」

「頼りないかもしれないけど、あとは俺に任せておいてくれ。……さあ、こっちだ。おいで」

 

 明確な拒絶を示した颯輔は、今度こそ管制人格の左手を引き寄せ、ナハトヴァールを一撫でした。すると、腕甲として待機状態にあったナハトヴァールの姿が一匹の蛇へと変化し、繋がれた手をつたっていく。颯輔の左手首に巻きついた蛇は、元の腕甲の状態へと戻った。

 本来、ナハトヴァールには主を個体認識する機能はない。覚醒後に自身の力を振るうための器として主を必要としているだけであり、覚醒前に主を守護しているのもそのためだ。その力の一片に触れることを許されているのは、同じステージに立つ管制人格のみである。

 だが、もしもナハトヴァールの力を振るうに相応しい人物が現れたのならば。

 例えば、ナハトヴァールとほぼ同一の魔力波長を持つ者が現れたのならば。

 永遠とも言える時を越えて巡り会った、限りなくゼロに近い可能性。

 それが、八神颯輔という存在だった。

 闇の書の意志とも言える管制人格が選んだ主は、夜天の魔導書の力を振るうに相応しい人物、八神はやて。そして、闇の書の防衛プログラムであるナハトヴァールが選んだ主は、自身の力を振るわせるに相応しい人物、八神颯輔。八神颯輔の下に闇の書が転生したのは、闇の書の正統な主である八神はやてが、まだ母体の中にいたからに過ぎなかった。

 すなわち、闇の書の暴走を、ナハトヴァールの暴走を止められるのは、絶望の運命を断ち切ることができるのは、八神颯輔をおいて他にはいない。

 しかし、現実はそう甘くはない。

 漆黒の魔力光を放つ魔法陣が颯輔の足元に浮かび上がり、切れかけた電球のように明滅する。ナハトヴァールの暴走を抑え込もうとする颯輔の意志と、颯輔を取り込み暴走しようとするナハトヴァールの意志がせめぎ合っていた。

 颯輔の左手首に装着されたナハトヴァールの拘束が、万力を締めるように強くなっていく。それはまるで、獲物を絞め殺さんとする蛇のようでもあった。

 

「っ、あぁっ……!」

「主っ!? そんな、まさか……!」

「は、はは……やっぱ、そう上手くはいかないか……」

 

 痛みを誤魔化しきれず、颯輔の表情が歪む。しかし、慌てて体を支えてくる管制人格に、颯輔は脂汗を浮かせながらも笑ってみせた。

 颯輔には、確かにナハトヴァールの力を振るう資質がある。だがしかし、資質があったとしても、力量が伴わなければ制御することなど到底できない。管制人格でさえ完全には制御できなかったのだ。最初から、資質だけでどうこうなるような話ではなかったのかもしれない。そもそも、資質があるだけで制御できるような生温い代物ならば、『ロストロギア』などと呼ばれはしないだろう。

 力を振るわせる器を得たナハトヴァールは、颯輔の制御を受け付けずに暴走を始めようとしていた。

 だがそれでも、自分一人の犠牲だけで家族が助かるのならば。

 

「早く、俺とナハトを魔導書から切り離してくれ。俺じゃ抑えきれない……!」

「……っ! 管理者権限を行使します。どうか、無力な私をお許しください……!」

 

 訪れた最悪の事態に、管制人格は涙を溢れさせながらも事前に取り決めていた役目を全うした。

 ナハトヴァールの侵食対象が魔導書から颯輔へと完全に移った今、管理者権限を行使できるのは、管制人格のみである。ナハトヴァールの干渉を受けないのならば、魔導書の構造に手を加えることも容易い。管制人格は、魔導書を構成する要素からナハトヴァールを取り除くことに、そして、颯輔を主の席から排斥することに成功した。

 颯輔の中で、これまで繋がっていたものが寸断される感覚があった。闇の書の精神リンクが絶たれたのだ。今まで手に取るように伝わってきた管制人格達の感情が、心に流れ込んでくることはもうない。しかしそれでも、今の管制人格の心情だけは理解できた。

 

「結局お前は、最初から最後まで泣いてばっかりだったな……」

「いったい誰の所為だと思っているのですかっ……!」

「……ごめん」

 

 力が入らず倒れ掛かる体を、管制人格にもたれる形で支えられる。密着した管制人格の体と、背中に回された腕だけが、颯輔の冷えていく体に熱を与えていた。

 颯輔の身体が闇に解け始め、管制人格の身体は光に包まれていく。残された時間は、あと僅かだった。

 

「そういえば、ずっと考えていたことがあったんだ」

「今はナハトを制御することだけを考えてくださいっ!」

「シグナムは剣の騎士で、烈火の将。ヴィータは鉄槌の騎士で、紅の鉄騎。シャマルは湖の騎士で、風の癒し手。ザフィーラは盾の守護獣で、蒼き狼だろ?」

「主颯輔ぇっ!」

 

 泣きじゃくる管制人格の叫びを聞き流し、颯輔は言葉を続ける。重い身体に鞭を打って管制人格の背に腕を回すと、ナハトヴァールから赤い紋様が伸びているのがわかった。今はもう、身体を走る痛みすら感じられない。

 

「守護騎士達はちゃんと名前も異名もあるのに、お前だけ管制人格とか融合騎っていうのは、何か不公平だと思ってさ。実は、名前を考えたりもしてたんだ」

「今は聞きたくありませんっ! 私に名前をくださるというのなら、現実世界でもう一度会ってからにしてくださいっ! このような、別れの言葉などで授かっても……!」

「これでも、結構頑張って考えたんだからな? そんなこと言わないで、受け取ってもらえたら嬉しいんだけど……」

「わかりました……わかりましたから……ですから、どうか……!」

「幸運を運ぶ翼――祝福の風。夜天の騎士、リインフォース。……嫌か?」

「嫌なわけがないでしょう……! 貴方に出会えたこと、貴方に仕えられたこと、家族に恵まれたこと、名を与えられたこと……これほど幸福な時間など、他にありません……!」

「大袈裟だなぁ。これからもっと幸せな時間が待ってるんだから、だから、最後くらいは泣き止んで笑ってほしいんだけど? 図々しいようだけど、はやてとシグナム達のことも頼みたいんだから」

「そんなこと……! 貴方のいない世界で私が、烈火の将が、紅の鉄騎が、風の癒し手が、蒼き狼がっ……誰より主はやてが、笑えるとでも思っているのですかっ!?」

「…………」

 

 怒りに燃える真紅の瞳に正面から射抜かれ、颯輔はそれ以上の言葉を紡げなくなってしまった。

 すでに二人の身体は胸元までが消失してしまっている。間もなく、別れの時が訪れるのだ。

 

「必ず……必ずや貴方を救ってみせます。ですから貴方も、諦めずに足掻き続けていてください。私と騎士達を永遠の呪縛から解き放ったように。主はやての死の運命を覆したように。主の死よりも後に壊れるなど、夜天の魔導書の名が許しません」

「今の自分の状態をわかって言ってるのか? そんなことをしたら……それに、俺はもうお前の主じゃ――」

「――わかっていますよっ! 壊れかけた私が力を振るえばどうなるかなど、わかっていますとも! それでも私は……私は、夜天の魔導書の名に……そして、リインフォースの名に懸けて誓います。我が生涯の主たる八神颯輔を救い出し、皆が望む未来を手に入れてみせると」

「…………ああ、待ってるよ」

 

 リインフォースが見せるかつてないほどの熱に、颯輔は深い溜息をついた。

 額を突き合わせた颯輔は、儚く笑って降参の宣言をする。リインフォースは涙を流しながらも、最後には微笑んで見せてくれた。

 優しい笑顔が光に消え、颯輔一人きりが残される。自身の存在が完全に消えゆくのを感じ、颯輔はゆっくりと目を閉じた。

 

――やっと会えましたね、颯輔。

 

 誰かの声を最後に、颯輔の意識は深い闇へと飲まれていった。

 

 

 

 

 身体強化の魔法に関して言えば、ミッドチルダ式よりもベルカ式の術式の方がずっと優れている。青色の魔力光をまとう蹴りを辛くも受け止めたシグナムは、そのままリーゼロッテを投げ飛ばした。

 敵が体勢を崩したのならば、その隙をつかない道理はない。しかし、その相手が短距離瞬間移動の使い手ともならば、話は変わってくる。ロッテには、体勢も間合いも関係ないのだ。

 吹き飛んでいたロッテの体が、その場から忽然と消失する。微かな風切り音と小さく漏れる吐息を聞きとめたシグナムは、振り向きざまにレヴァンティンを振り抜いた。

 鋭い剣閃が、何もない空間を斬り裂く。寸前まで確かにそこにいたはずのロッテは、シグナムの視界の下方、地面にしゃがみ込むようにして拳を振りかぶっていた。

 

《Panzergeist.》

「――ぎぁっ!?」

 

 青い線が走り、ロッテの拳がシグナムの甲冑に突き刺さる。防御魔法を発動したにもかかわらず、殺しきれなかった衝撃がシグナムの腹部に響き渡った。ロッテが放ったのは、障壁破壊の術式が乗せられた攻撃だった。

 込み上げてきたものを飲み下し、ふらつく体を気合で支えたシグナムは、ロッテの腕を掴んだ。かまわず顎を狙ってくるフックをスウェーバックでかわし、そのまま頭突きを叩きこむ。一瞬昏倒したロッテを、続けて容赦なく蹴り飛ばした。

 今のは確実に入った。

 確かな手応えを感じたシグナムはすぐさま踵を返し、高速移動魔法フェアーテを発動して地を蹴った。次の標的は、颯輔を庇うザフィーラを攻め立てているリーゼアリアだ。

 濃密な闇の書の魔力に満たされた戦域に、新たな魔力の高まりを感じる。シグナムが目をやった上空で、白銀の杖を展開したギル・グレアムが、初撃よりも遥かに強力な魔法を発動しようとしていた。

 

「ザフィーラッ!」

「鋼の軛ッ!」

 

 シグナムの呼び声に呼応し、障壁の展開を中断したザフィーラが咆哮を上げる。大地より伸びた白き拘束条がグレアムの魔法を中断させ、その代償に、アリアの射撃魔法がザフィーラに集中した。

 ザフィーラが青色の魔力弾に晒されるのを確認しながらも、シグナムが進路を変えることはなかった。あの程度で倒れるザフィーラではなく、そして、助けるならば元を絶った方が早い。

 

《Explosion.》

 

 ザフィーラを、そして、その奥の颯輔を狙い続けているアリアに、シグナムは真横から接近する。炎をまとわせ振り下ろしたレヴァンティンで、アリアを一刀両断にした。

 

「残念、ハズレだ」

 

 両断したはずのアリアが像が霧散し、青色の魔力光となって散る。後方からシグナムの耳を打った声はアリアのものではなく、もう一人の使い魔のものだった。

 振り返った先にいたのは、砲撃魔法の展開を終えたロッテ。

 

「ブレイズキャノンッ!」

《Panzerschild.》

 

 放たれた砲撃に、シグナムは咄嗟に防御魔法を展開した。ラベンダー色の盾の範囲を除き、シグナムの周囲が青に染まる。

 ロッテも純粋な近接型で、射砲撃はないと管制人格から聞かされてはいたが、十一年の間に練磨を積み重ねていたらしい。シグナムは、砲撃を防御するので手一杯だった。

 まずい、と周囲の状況を確認すると、晴れた砂煙の向こうに、多少のダメージを受けた様子のザフィーラの姿があった。颯輔は未だ魔力の柱の中にいるが、ザフィーラがいるのならば無防備というわけではない。

 そう安堵できたのも、一瞬のことだった。

 ザフィーラが藍色をした特大の砲撃魔法に飲み込まれ、同時に、背中を突き抜ける衝撃がシグナムを襲った。

 青色の魔力紐が、シグナムを拘束していく。

 

「行くよ、ロッテッ!」

「おうよ、アリアッ!」

「しまっ――がああああっ!?」

 

 短距離瞬間移動の異様な機動による連撃、豪雨のように降り注ぐ射撃魔法。双子の使い魔による連携攻撃が、身動きの取れないシグナムの体を容赦なく撃ち付ける。全身に響く痛みが、シグナムの意識を刈り取ろうとしていた。

 

「ミラージュ――」

「――アサルトォッ!!」

 

 蹴り足に込められた過剰魔力が炸裂する。ろくな防御もできずに直撃を受けたシグナムは、無様に地面を転がった。

 岩壁へと強かに体を撃ち付け、ようやく停止する。体中を激痛が走り、気を抜けば今にも気絶してしまいそうだった。

 しかし、満身創痍ながらも、シグナムはレヴァンティンを離すことだけはしなかった。

 誓ったのだ。

 何があっても、八神颯輔を守ってみせると。

 四肢に魔力を通し、重い身体を持ち上げる。レヴァンティンを杖代わりにすることで、ようやく立ち上がることができた。見れば、あれだけの砲撃を受けたザフィーラも、ボロボロの状態で立ち上がろうとしていた。

 ロッテとアリアにしても、シグナムとザフィーラが与えた分のダメージはしっかりと残っているようだった。膝に手を突き肩で息をしている二人が、忌々しそうにこちらを睨んでいる。グレアムだけが、悠々と上空に留まっていた。

 闇の書の封印を解いた颯輔は、未だに反応を見せない。グレアムの封印魔法はそれ相応に大規模なものらしく、何とか妨害を続けてこられたが、これ以上は難しい。ロッテとアリアほどの実力者の相手も、片手間でできるようなものではなかった。

 上空で、大規模魔法陣が再び展開される。グレアムは、颯輔が闇の書の暴走をどうこうする前に、つまり、確実に封印が可能であるうちに封印してしまうつもりらしかった。

 させるものか、と動き出そうとしたところで、状況に変化が訪れる。立ち昇っていた膨大な魔力の柱が、突如として消失したのだ。

 

「颯輔っ!」

「ご無事ですかっ!?」

 

 中から現れた颯輔は、元の姿のままだ。闇の書の暴走体は、蒐集した生物を掛け合わせた醜い姿だと聞いている。ならば、人の姿を保っている颯輔は、暴走を食い止めることができたということ。

 颯輔の姿を見とめ、グレアムの術式が止まる。ロッテとアリアも、次の動きを待っているようだった。

 シグナムとザフィーラの呼び声に、俯いていた颯輔の顔が上がる。そこにあったのは、一切の感情が消え去った能面のような表情だった。

 

「そう、すけ……?」

 

 颯輔の手に闇の書は――いや、夜天の魔導書はない。もしも管制人格と融合して容姿が変化しているのならば、管制人格の身体的特徴が出ているはずだ。

 では、どうして颯輔の眼は暗い金色に染まっているのか。

 どうして、颯輔の温かい心がもう感じられないのか。

 ローブの袖の下、颯輔の左腕の体積が肥大し、ぐちゃぐちゃと蠢く。そこから這いずり出てきたのは、巨大な漆黒の蛇だった。

 

 

 

 

 フェイト・テスタロッサは、雪がちらつき始めた海鳴の空を飛んでいた。編隊の先頭を行くは、特務四課オーダー分隊副隊長であるクロノ・ハラオウン。同分隊の高町なのは、フェイト、アルフ、そして、臨時協力者となったユーノ・スクライアが、クロノに続く形だ。

 フェイト達はハラオウン家にてクリスマスを祝っていたが、そこにアースラからの緊急通信が入り、休暇を返上して出動している。初めてのイベントを潰された形となってしまったが、フェイトの本職はあくまでも管理局員だ。多少思うところはあっても、愚痴を漏らすことはない。むしろ、日常生活を送る海鳴市で問題が発生したことこそが、フェイトの使命感を駆り立てていた。

 しかし、使命感以上に感じているのは、焦燥感だ。フェイト達が目指している守護騎士の魔力反応があったという場所は、海鳴大学病院。そこは、フェイトの友人が入院している場所でもあった。

 

「フェイト、何か心配事でもあるのかい?」

「ううん、何でもないよ、アルフ」

「フェイトちゃん……?」

「なのはまで……。本当に何でもないから、気にしないで」

 

 精神リンクからフェイトの焦燥を感じ取ったのか、アルフが声をかけてくる。どころか、なのはにまで気を遣わせてしまった。

 作戦行動中に他のことを考えるのはよろしくない。微笑を作って二人に答えたフェイトだったが、しかし、嫌な想像は止まらなかった。

 フェイトの友人である八神はやてが、もしもこの事件に巻き込まれでもしたら。

 視界の先に、海鳴大学病院を捉える。そこには、ベルカ式の封鎖結界が張られていた。

 

「オーダー分隊、これより結界内に突入する。各員、互いをカバーすることを忘れるな」

 

 クロノへ頷きを返し、フェイトはバルディッシュの柄を強く握り込んだ。

 解析の結果、結界は内に閉じ込めるタイプの術式。アースラのエイミィからは、そう聞かされている。つまり、これは明らかな罠だ。

 しかし、時空管理局の性質上、罠だとわかっていても放っておくことはできない。四課の最高戦力が動いた今こそが、決着の時だった。

 紅の障壁を越え、結界内へと突入する。すかさず周囲を警戒するも、予想された攻撃はやってこない。結界内は、不気味なくらいに静まり返っていた。

 

「何だぁ? 誰もいやしないじゃないか」

「現にこうして結界が張られているんだ、そんなはずがないだろう。なのはとフェイトは僕と周辺警戒。ユーノとアルフは広域探査を頼む」

「うん、わかった」

「はいよー」

 

 病院の屋上に降り立つと、ユーノとアルフが広域探査の術式を発動する。フェイトとなのは、クロノの三人は不意打ちに備え、デバイスを構えて辺りを見回していた。

 しかし、いつまで経っても守護騎士は姿を見せない。クロノの言うとおり、紅の封鎖結界が展開されている以上は、少なくともヴィータがいるはずだ。ギル・グレアム達が追っているのはシグナムとザフィーラだと報告を受けていたため、シャマルもこちらにいるはずだろう。シャマルのサポート受けたヴィータが、と予想できたが、五対二ではさすがに慎重にならざるを得ないのか。

 フェイトは意図的に思考を続け、ざわつく心を無視する。しかし、ユーノとアルフの報告が、フェイトの願いを打ち砕いた。

 

「……見つけた。病院の中に、ヴィータとシャマルの反応があるよ」

「あいつら、三階の南東、端っこの方にいるみたいだぞ?」

「そんな……!」

 

 アルフが告げる場所、そこはまさに、はやての病室のあたりではないか。

 

「クロノ、今すぐそこに行こう!」

「落ち着けフェイト。いったいどうしたというんだ?」

「落ち着いてなんかいられないよっ! はやてが蒐集されちゃうかもしれないんだよ!?」

「はやてって、この前お見舞いに行った子のことかい?」

「はやてちゃんって、八神はやてちゃん!? あの、入院してるっていう!?」

「その子も魔力を持っているっていうこと?」

「それはわからないけど……でも、そのあたりの病室にはやてがいて……とにかく、はやてを助けに行かないと!」

 

 見舞いに行ったとき、そこまで注意をしていなかったフェイトには、はやてが魔力を持っているかなどわからない。しかし、その可能性があるのならば、闇の書を完成させないためにもはやてを助けなければならない。誰かが目の前で蒐集されてしまうのを見るのは、もうたくさんだった。

 

「……わかった。そういう事情ならば、ここで状況が動くのを待っているわけにはいかないな。僕が先頭を行く。屋内へ突入するぞ」

 

 何かを考えるようにしていたクロノだったが、ほどなくして頷きを返してくれた。普段は寡黙だが、その実クロノは正義感に厚い。そのクロノが、民間人に迫る危険を見過ごすはずがなかった。

 クロノを先頭に、屋上の出入口から屋内へと突入する。夜の病院、それも、結界に隔離されて誰もいないという状況が、少しだけ不気味だった。

 狭苦しい廊下を飛行魔法で進む。廊下の中ほどまで進むと、クロノから念話が送られてきた。

 

『……フェイト』

『何、クロノ?』

『酷なことを言うようだが、その少女が蒐集される側ではない可能性も考えておくんだ』

『…………うん』

 

 クロノから、自分が必死に否定しようとしていることを突き付けられた気がした。よくよく考えなくても、これまでのことを考えれば全てが繋がるのだ。

 フェイトとなのはが海鳴市で蒐集を受けたこと。

 海鳴市に転移魔法の痕跡が集中していたこと。

 海鳴市で大規模捜査を行ったときにのみ、守護騎士が現れたこと。

 そして今、ここに結界が展開されていること。

 闇の書の主は、やはり海鳴市に潜伏しているのだ。そしてその正体はきっと、フェイトの知っている人物。

 

『……ここだ。ユーノは防御魔法の準備を。アルフ、扉を開けてくれ』

『任せて』

『オーケー。皆、気を付けるんだよ』

 

 目的の場所に辿り着くと、中から聞き覚えのある少女の声が聞こえてきた。室名札に記されているのは、『八神はやて』という文字だった。

 クロノの指示で、アルフがスライドドアに手を掛ける。防御、回避、捕縛のいずれの対応もできるように備え、フェイトはアルフに視線を送った。

 アルフが、勢いよくスライドドアを開ける。

 

「時空管理局だ! 全員その場から動くな!」

 

 攻撃はない。戦闘を行うには狭すぎる病室になだれ込む。クロノの名乗りに、病室にいた三人の目が、フェイト達に集中した。

 

「へ……? え、フェイト、ちゃん?」

「はやて……!」

 

 ベッドの上で体を起こしている、八神はやてと目が合う。騎士甲冑をまとってすらいない、地球の私服姿のヴィータとシャマルが、はやてを庇うように立ち塞がった。

 ヴィータもシャマルも、デバイスは展開していない。静かに間に立つだけで、抵抗する様子は見られなかった。

 この場に予想されたはやての兄、八神颯輔の姿は、ない。

 

「信じてもらえないだろうけど、暴れたりはしねーです。あたしら、管理局に投降するつもりですから」

「ですから、どうかデバイスを下してください。それから、この子の保護をお願いします。この子は、今回の事件に巻き込まれただけの被害者なんです」

「待って……待って! ヴィータもシャマルもさっきから何言っとるんや! ちゃんと説明してくれへんとわからんやろ! フェイトちゃんまで突然現れて、もうわけわからんわ! ……お願いやから、何が起こってるのかちゃんと聞かせて!」

 

 深く頭を下げるヴィータとシャマル。そして、説明を要求するはやて。予想外の展開に、フェイト達は警戒を続けながらも困惑した。

 演技の可能性は捨てきれないが、一切の武装を放棄しているヴィータとシャマルの姿には、説得力がある。今にも泣き出してしまいそうなはやても、一芝居しているようにはとても見えない。ただ、ヴィータとシャマルの存在を以前から知っていたような口ぶりだった。

 前回の戦闘で、ヴィータ達は闇の書の異常を自覚しているかのような発言をしていた。はやてのことを主ではなく被害者と称したのだから、それで間違いはないだろう。

 しかし、蒐集は行っていたわけで、自覚があるのならば、その行動には矛盾が生じる。蒐集の先には、破滅しか待っていないのだから。

 それとも、管理局の把握していない情報がまだあるということか。

 

「……投降するつもりならば待機状態のデバイスをこちらに投げろ。話は聞かせてもらうが、まずはそれからだ」

「…………」

「ヴィータちゃん、大人しく従いましょう」

「……わかった」

「ヴィータ! シャマ――っ!?」

「はやてっ!?」

「はやてちゃんっ!?」

 

 クロノの要求にヴィータ達が応えようとしたとき、異変は起こった。

 はやてが息を飲み、表情を苦悶に歪めて胸を押さえ込む。それと同時、今まで微塵も感じられなかったはやての魔力が、急激に膨れ上がった。その総量は、この中では最も多いフェイトとなのはをも上回るだろうほど。感覚だけでもSランクオーバーは確実。ともすれば、グレアムにも匹敵するほどだった。

 そして、深紫の魔力光を放つ、ベルカ式の転移魔法陣が床に描かれた。

 

「やはり罠だったか!」

「違うっ! あたしらは何もしてねえっ!」

「待ってください! これは、そうじゃなくて!」

 

 フェイト達がデバイスを構え直し、拘束魔法を発動しようとするのと、転移が完了したのはまったくの同時だった。

 転移魔法陣から現れたのは、スリットの入った黒いローブをまとった女性。闇の書の主のように正体を隠すものではなく、腕部は雪のように白い肌を露出していてフードもついていない、体型に合わせたタイプのローブだった。

 真紅の双眸がフェイト達を射抜く。銀色の長髪が、薄暗い中でも輝いているように見えた。

 

「ストラグル――そんなっ!?」

 

 ユーノの驚愕の声。

 銀髪の女性もまとめて拘束を、とフェイトが思考をした途端、深紫の拘束魔法に捕縛される。クロノ達も同じく、行動を起こす前に全員が捕えられてしまっていた。

 術式を起こすのは明らかにこちら側が早かったはず。それを凌駕できたのは、おそらく、相手がデバイス――闇の書の管制人格であるからだろう。そちらの速度では、人間が敵う相手ではない。

 術式の破壊を試みるも、その上から更なる拘束魔法が重ねられ、四肢の動きを完全に封じられる。外から誰かの助けがあるのならば変わってくるが、こちらの全員が個別に拘束されている以上、抜け出すことは困難を極めた。

 ユーノが調べ上げた情報、その画像の一枚に写っていた管制人格は、何事にも無関心でいるかのような、静かな顔をしていた。だが、目の前に立つ彼女は、この場にいる誰よりも焦っているように見える。自分によく似たその目は、邪魔する者は許さない、と言っているような気がした。

 

「あなた、どうして!?」

「何でいきなりとっつかまえてんだよお前はっ!? つーか颯輔はどうしたっ!?」

「…………」

 

 蹲るはやてに視線をやってからヴィータとシャマルを見据えた管制人格だが、言葉を直接発することはなかった。ただ、ヴィータとシャマルの表情が、みるみるうちに青くなっていく。察するに、はやてやフェイト達には聞かれないようにと念話での会話を行っているようだった。

 念話が終わったのか、ヴィータとシャマルが騎士甲冑とデバイスを展開する。このままでは一方的に、と思ったが、三人がフェイト達を攻撃する様子は見られなかった。その代わり、三人の足元にミントグリーンの転移魔法陣が浮かび上がった。

 

「待て、どこへ行くつもりだ!」

「今は説明する時も惜しい。一方的ですまないが、その少女の保護を頼みたい」

「ちょう、待ちぃ……!」

 

 上がった弱々しい声に、管制人格達が小さく震える。クロノの言葉では止まる素振りも見せなかった三人を止めたのは、顔を上げたはやてだった。

 

「勝手に、どこか行くなんて許さへん……! わたしは、あなたの主やろ……!? ヴィータはアイゼンしまって……シャマルは転移魔法止める! わたしが何も知らへんと思ったら、大間違いや!」

「――っ!? そんな、記憶が戻って……」

「はやてちゃん、これは、その……。……あなた、はやてちゃんの記憶を戻したの?」

「いや、そんなはずは……」

「あの、はやて、今は急いでて――」

「――言うこと聞かん悪い子達は嫌いやっ!! お願いやから、もうこれ以上わたしを悲しませんといてっ!!」

 

 はやての悲痛な叫びが、管制人格達の動きを完全に止める。

 転移魔法陣が消失し、フェイト達を縛っていた拘束魔法が解かれた。

 

 

 

 

 絶えることのなかった痛みの全てがまるで嘘のようになくなったとき、八神はやては全てを思い出した。夢の中で出会った闇の書の管制人格の存在と、シグナム達の過去を覗き見てしまったこと。それら全てが、管制人格によって封じられていた記憶。リンカーコアが起動し始めるのと同時に、闇の書から流れ込んできたのだ。

 どこかへ転移しようとしていた管制人格達を、強い意志を持って見つめる。すると、ヴィータがグラーフアイゼンを待機状態へと戻し、シャマルが転移魔法の発動を止め、管制人格がフェイト・テスタロッサ達への拘束を解いた。

 ヴィータとシャマルが騎士甲冑を展開していて、管制人格が実体化しているということは、蒐集を終えて闇の書を完成させてしまったのだろう。見舞いに来てくれた際に友人となったフェイトがいたことには驚いたが、管理局が駆け付けたことからも、それは確実だ。

 しかし、どんな事情があったにせよ、はやては蒐集を禁じていたはずだ。はやてにも話せない理由があるのだと理解しつつも、裏切られたように思えてしまうのは仕方がない。落胆を怒りに変えて、はやては三人に説明を求めた。

 

「……わかりました、全てをお話しします。……先ほどはすまなかった。管理局の者達も、どうか聞いてほしい」

「フェイトちゃん、わたしからもお願いや。悪いことしたら捕まらんといけへんのはわかっとる。……そやけど、この子らの話、少しだけ聞いてもらえへんやろか?」

「……うん、わかった。私は、はやてを信じるよ」

「フェイトっ!」

「お願い、クロノ」

「……いいだろう」

「おおきに……」

 

 管制人格が応じ、はやてがフェイトへと話をつける。フェイトの了承にクロノと呼ばれた少年が声を荒げるも、続くフェイトの視線に渋々ながらも同意してくれた。

 クロノが構えていたデバイスを下したためか、その後ろの白い防護服の少女もそれに倣う。大人と呼べる者がザフィーラのように獣の特徴がある女性しかおらず、あとは同年代に見えたことに疑問も覚えたが、ひとまず、はやては視線を管制人格へと戻した。

 

「まずは、貴女を差し置いて行動してしまった非礼を詫びさせてください。臣下の分を弁えない独断行動、誠に申し訳ございませんでした。改めまして、私は夜天の魔導書の管制人格、リインフォースにございます」

「……名前、お兄が?」

「はい、主颯輔より授かりました。主はやてには申し訳ありませんが、どうかこの名を名乗らせてください」

「そこは謝らんでも……それに、ええ名前やと思うよ」

「ちょっ、ちょっと待ってください! あの、どうして主が二人もいるんですか?」

 

 リインフォースの言葉を受けた金髪の少年――ユーノ・スクライアが、驚きと疑問の声を上げる。フェイトを見れば、隣の少女と目を合わせて困り顔になっていた。その後ろの女性も、腕を組んで首を傾げている。クロノだけが、静かにはやて達の様子を窺っていた。

 はやては今更気にしてはいなかったが、それは、最初の頃は何となく疑問に思っていたことだ。リインフォースを見ると、頷きを一つ返された。

 

「それも含め、手短にですが、説明をさせていただきます」

 

 リインフォースは言葉を続けることでそれ以上の質問を許さず、簡潔に事実のみを述べていった。

 夜天の魔導書が改変を受け、防衛プログラムであるナハトヴァールが暴走し、永遠に破滅を繰り返す闇の書となってしまったこと。

 八神はやてを主として選んだのはリインフォースで、八神颯輔を主として選んだのはナハトヴァールであったこと。

 はやての病気は闇の書による侵食が原因であったこと。

 颯輔も侵食を受け、はやてと共に命の危険に晒されていたこと。

 二人の命を救うため、蒐集を始めたこと。

 リインフォースが起動し、颯輔に真実を話したこと。

 真実を知ってなお、絶望の運命に抗おうとしたこと。

 ナハトヴァールの暴走を止めるには、何をするにしても闇の書を完成させ、管理者権限の全権を行使できる状態にする必要があったこと。

 結局は、ナハトヴァールの暴走を安全に止める方法は見つからなかったこと。

 資質を持つ颯輔が、闇の書からナハトヴァールを自分の身に移植したこと。

 制御に失敗した颯輔が、ナハトヴァールに取り込まれてしまったこと。

 このままナハトヴァールの暴走を許せば、颯輔の命が失われてしまうこと。

 

「そん、な……」

 

 真実を知ったはやては、視界が狭まったように感じた。

 胸の鼓動がうるさい。

 上手く呼吸ができない。

 シグナム達が蒐集を始めたことも、颯輔が死んでしまいそうになっていることも、その全部が、はやてが理由だった。

 

「ここまでの事態になるまで、どうして管理局に助けを求めなかったんだ……!」

「それは……」

「……あたしらの探知防壁も破れねえやつらに、いったい何ができるってんだよ」

「ヴィータちゃんっ!」

「だってそのとおりじゃねえかっ! ベルカのことなんざ何も知らねえやつらに、リインフォースにだってどうにもできなかったことなんて、解決できるわけねえだろ! そもそも、管理局にとってのあたしらはただの敵で犯罪者だ! それが、今更どの面下げて『助けて』なんて言えるんだよっ!」

「……っ!」

 

 口は悪くともヴィータの言葉は正論だったのか、クロノは反論できずに俯いた。拳を握り、何かを言おうとして顔を上げるも、結局は何も言えず終いになっている。その様子は、心の中で必死に何かと葛藤しているようにも見えた。

 病室に訪れた沈黙を破ったのは、それまで黙って話を聞いていた少女――高町なのはだった。

 

「なら、今度こそ頼ってよ、ヴィータちゃん」

「……高町なのは、お前、あたしの話を聞いてなかったのか?」

「ちゃんと聞いてたよ。……だけど、私はまだ何も言われてない。今みたいにちゃんと話してくれないと、何もできないよ。主さんを、はやてちゃんのお兄ちゃんを助けることもできない」

「何を、言って……?」

「その人を助けに行こうとしてたんでしょ? なら、私も一緒に行く。一緒に行って、はやてちゃんのお兄ちゃんを助ける」

「……私も。はやての大切な人なら、私にとっても大切な人だから」

 

 なのはに続き、フェイトも一歩を踏み出した。何が二人をそこまでさせているのかはわからない。ひょっとしたら、ただただお人好しなだけかもしれない。

 しかし、その意志は、どこまでも尊いものだった。

 

「待て、ちょっと待つんだ。君達、いったい自分が何を言っているのか、正確に理解しているのか?」

「そうだよ二人共。だいたい、暴走を止める方法だってわかってないのに……」

「いいんじゃないのかい?」

 

 二人を諌めるクロノとユーノを止めたのは、組んでいた手を腰へと当てた女性、フェイトの使い魔のアルフだった。

 

「困ってるやつらを助けるのが管理局だし、その暴走体も放っちゃおけないんだ。非常事態ってことで、協力したっていいんじゃないのかい? あんたらだって、暴走体を止める方法を知ってるから行こうとしたんだろ?」

「残念だが確かな方法はない……だが、諦めるつもりは微塵もない。私は……いや、私達は、あの方を必ず助けると誓ったのだ」

「はっ、上等じゃないか。ほらユーノ、こういうときこそ、あんたの出番だろ?」

「ええっ!? それは、僕としてもどうにかしたいと思うけど…………うん、わかった。僕だって、無限書庫でずっと夜天の魔導書について調べてきたんだ。何か、できることがあるかもしれない」

「君までそんなことを言い出すのか……」

 

 次々と意見を返す仲間達に、一人となってしまったクロノが呆れた声を出す。周囲の視線を受け、クロノはしばらく目を瞑る。そして、再び目を開けたクロノは、リインフォース達に鋭い目を向けた。

 

「……例え誰かを助けるためであっても、君達が行ったのは犯罪行為だ。そう簡単に許されることじゃあない」

「わかっている。全てが無事に終わったのならば、大人しく投降しよう」

「その言葉に偽りはないな?」

「我が主達に誓って」

「……いいだろう、君達を臨時協力者と認める。……これじゃあ僕も執務官失格だな。苦労して取った執務官資格を返上する気でやるんだ、必ず暴走体を止め、八神颯輔を救い出し、闇の書事件を今度こそ終わらせるぞ」

「おおっ、クロノも話がわかるようになってきたじゃないか」

「笑い事じゃないんだぞ……」

「あの、目的地の座標を教えてください。この人数で行くなら、僕も転移魔法を使いますから」

「すまないが、頼む」

「ほら、皆ちゃんと動いてくれるでしょ?」

「うっせえ! いいか? あたしは別に、『助けてくれ』なんて一言も言ってねーんだからな!」

 

 ばらばらだったはずの輪が繋がっていく。何の取り柄もないはやてには、その中に入っていくことができなかった。

 そもそも、自分は誰かの手を借りなければ普通の人のように生きることもできないのだ。それが誰かを助けようなどと、おこがましいにもほどがある。

 俯くはやての下に、シャマルとフェイトが近づいてきた。

 

「あの、はやてちゃん。今まで黙っていてごめんなさい……。だけど、颯輔君を助けてすぐに戻ってきますから、それまでは、管理局の船で待っていてもらえますか?」

「アースラっていうんだ。今は、その……私の義母さんが指揮を執ってる。事情を話せばちゃんとわかってくれる人だよ。私も一緒にそこまで行くから、行こう?」

「…………」

 

 いつも、いつもそうだった。

 自由に動けないはやてには、颯輔の帰りを待っていることしかできなくて、それが嫌で嫌で堪らなかった。自分も歩くことができれば、シグナム達のように戦う力があったのならば、こんな思いはしなくて済んだはずだったのだ。

 しかし、そう後悔するのは、これまでの八神はやてだ。

 

「わたしは……」

 

 ドクン、と。はやての胸が、心臓ではない器官が、鼓動を上げる。

 それは、はやての持つリンカーコア。闇の書の――夜天の魔導書の主として選ばれるほどの資質と魔力量を持った、はやてだけの力だ。

 はやてには、その強大な力を使う術はない。シグナム達がいても、魔法の勉強をしたことなどなかったのだ。思念通話がせいぜいのレベルである。

 しかし、はやての記憶、闇の書の中で見た光景が、それを否定する。はやて自身は確かに魔法を使って戦闘をすることなどできない。だが、それを補うための人物がこの場にはいた。

 力なき八神はやてに、八神颯輔を助ける力を与える存在。

 夜天の魔導書の管制人格。

 魔力の管制と補助を行う融合騎――リインフォース。

 

「わたしも、お兄を助けに行く。もう待ってるだけは嫌や」

 

 はやては顔を上げ、静かに、しかし力強く宣言した。

 下を向いて待ち続けるのは今日で終わり。

 今度は、はやてが颯輔を助ける番だ。

 

 



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第二十四話 闇の獣

 

 

 食器を洗い終えた八神颯輔は、手を刺すような冷水を吐き出す蛇口を締めた。ハンドタオルで水滴を拭き取り、掌を擦り合わせて温めながら、戸棚へと向かう。袋詰めにされたお茶漬けの素を二つ取り出すと、ダイニングのテーブルの上にあるラップをしたご飯の隣に置いた。

 買っておいた年越し蕎麦は無駄になってしまったが、途中で予定を変更して茹でなかったため、無駄にはなっていない。正月のどこかで楽ができると考えれば、儲けものだろう。

 これでよし、と一人頷いた颯輔は、リビングのテーブルにだらしなく突っ伏している男女に目をやった。

 

「父さん、母さん。ここにお茶漬けの用意しておいたよ。お湯はポットに入ってるから、それ使って」

「ありがとぉそーすけー。さっすが私の産んだ子、よくできてるわねぇ~」

「颯輔もこっちに来て飲め飲め! 俺はまだまだ飲みたらんぞぉ!」

「この酔っ払い共は……!」

 

 真面目で仕事一筋であるはずが、その普段の反動でも出ているのか、目も当てられない状態の両親に颯輔は拳を震わせる。大晦日だからと多目に見ていたらこの様だ。テーブルの上には缶ビールやら熱燗やらが空けられており、年初めから盛大な二日酔いに見舞われるのは確実だろう。性格の豹変によって晒した痴態を思い出して盛大な後悔をするか、記憶を失い何も知らずにいつもどおりに戻るかは、半々といったところか。

 やたらとテンションの高くなっている母親と、やたらと飲酒を勧めてくる父親を無視し、颯輔はファーフード付きのダウンジャケットを羽織る。外していた腕時計を左手に巻き、ジーンズのポケットに財布を突っ込んだ。

 携帯を手に取り確認すれば、もうすぐ今年も終わりの時間だ。後片付けに忙しい間に不在着信と受信メールが何件かあることから、もう向こうの準備は終わっているはずである。

 

「それじゃあ、初詣に行ってくる」

「なにぃ!? 俺の酒が飲めないっていうのか!?」

「まだ未成年だよ! それから、お酒のストックはもうないからな!」

「えー、もうないのぉ? ……ま、いっか。いってらっしゃーい、そーすけー。高町さんによろしくね~」

「……いってきます」

 

 会社の部下にも同じことを言ってないだろうな、と心中穏やかでない颯輔は父親にツッコミを入れ、続く母親の言葉に顔を赤くしてからそっと家を出た。

 このまま寝落ちしてしまうだろう両親に代わって玄関の鍵を締め、やっと解放されたことに深い息を吐く。吐いた息が真っ白に染まる屋外は、靴の底が隠れるほどには雪が積もっていた。

 

――早く終わらせて、明日に備えてゆっくり休まなければなりません。

 

 寒空の下、手早く携帯のキーを打鍵し、『遅くなってごめん。今から迎えに行く』、とメールを送信する。閉じた携帯をポケットに突っ込み走り出すも、ほとんど間を置かないうちにマナーモードの携帯が震えた。

 震える時間が長いことに着信だと気が付いた颯輔は、走りながら再び携帯を取り出す。サブディスプレイには、『高町美由希』と表示されていた。

 

「もしもし、遅くなってごめん高町! 今すぐ行くから、もうちょっとだけ待ってて!」

『あはは、そんなに急いで来なくても大丈夫だよ。どうせいつもどおりに家事してるんだろうなーって思ってたし』

「す、すいません……」

『だから、謝らないでってば。なんだか私がいじめてるみたいじゃん』

「違うの?」

『違うよっ!? もうっ、待ってるから早く来てよっ! それじゃっ!』

 

 ガチャリと切られた電話に、からかい過ぎたか、と苦笑し、颯輔は携帯を再びポケットにしまった。雪に足を取られないように気を付けながら、走る速度を上げていく。運動は得意というほどではなかったが、遅れているのは自分の方だ。明確な時間を決めていたわけではなくとも、これ以上待たせてしまうのは颯輔としても忍びない。

 同じく初詣に赴くと思われる人達とすれ違ったり、偶然出くわした学校の友人にからかわれたりとしながら、走り続けること約十分。夜道を走りながら年越しを迎えた颯輔は、ようやく高町家の前へと辿り着いた。

 膝に手を置き、乱れた呼吸を整える。心臓が、二重の意味で鼓動を早めていた。

 

「…………よし」

 

 落ち着きを取り戻した颯輔は、身体を起こして身なりを整えた。まだ少しだけ鼓動がうるさかったりもするが、そこはご愛嬌というもの。そもそも、異性の家を訪問するのにまったく緊張しない男子高校生など、圧倒的に少数なのだ。多分に漏れず、颯輔は大多数の男子高校生に属する人間である。

 一つ深呼吸をしてから覚悟を決め、寒さで先の赤くなった指でインターフォンを鳴らす。普段なら非常識きわまる時間だが、今日だけは特別な日だ。

 ほどなくして、玄関が開く。中から出てきたのは、ダッフルコートを着込んだ美由希とその両親、高町士郎と高町桃子だった。やはり酒が入っているのか、大人二人の顔はほんのりと赤い。美由希は、少しだけ不機嫌そうな顔をしていた。

 

「こんばんは。それから、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「明けましておめでとう、八神君。今年もよろしく――ということで、早く行こう!」

「え? いや、少しくらい士郎さんに桃子さんと話したって――」

「――いいからっ! お願いっ!」

「本当、めでたいわね……こうして美由希を送り出す日が来るなんて……!」

「颯輔君、今年も美由希をよろしく頼むよ!」

「もうっ! お母さんもお父さんも余計なこと言わないでってばっ!」

「ああ、なるほどね……」

 

 完全にできあがっている大人二人と、二人に負けないくらい真っ赤な顔で叫ぶ美由希の三人を見て、颯輔は全てを察した。颯輔の両親ほど酒癖が悪いというわけではないようだが、士郎と桃子は普段に比べていくらか陽気になってしまっているようだ。高校生という年代ではなくとも、自分の親の痴態を見られてしまうのは恥ずかしいだろう。

 美由希に背中を押されて――その行動で余計に囃し立てられてしまうのだが――ご機嫌な高町夫妻から離れる。颯輔としては士郎や桃子ともう少しまともに話をしたかったのだが、背中から感じる無言の圧力に諦めることにした。ただでさえ遅れてしまったのだ、これ以上美由希の機嫌を損ねるのはよろしくない。

 しばらく無言でざくざくと雪を踏み鳴らし続け、高町家もすっかり小さくなった頃、ようやく背中を押す力がなくなる。後ろから聞こえた盛大な溜息に、颯輔は悪いと思いながらも笑いを堪えきれなかった。

 

「笑わないでよぉ……」

「いや、ごめんごめん。つい、ね」

「八神君来るまで大変だったんだからね? 『美由希もそういう年頃かぁ』とか、『正月からお赤飯炊かなくちゃね』とか。八神君と出かけるの、別に初めてじゃないのに、お酒入るとああなんだから……。恭ちゃんは忍さんとリッチに海外行ってるし、なのはは紅白の途中で寝ちゃうし、私一人で相手してたんだよ?」

「それはそれは、お疲れ様でした」

「他人事だと思って……。そういえば、八神君のとこは? お父さんとお母さん、大晦日くらいはお酒飲んだりするんでしょ? 酔ってるとことか全然想像つかないけど」

「うちは高町のとこより酷いと思うよ……」

「うっそだー。……でも、それはそれで見てみたかったり?」

「ダメ、絶対。他所様に見せられるようなものじゃありません」

「うちのは見たくせにぃ」

「クリスマスもあんな感じだったと思うけど?」

「あのときは、優秀な助っ人さんがいたから機嫌がよかっただけだよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

 

 二人並んで夜道を歩きながら、他愛のない会話を交わす。今日ほどではなかったが、士郎と美由希が忙しいはずのクリスマスにも楽しそうにしていたのを、颯輔は思い出していた。

 洋菓子店ならばかき入れ時のクリスマスシーズン。颯輔は、臨時アルバイトとして高町夫妻が経営する喫茶翠屋で働いていた。常日頃から経営は上々の翠屋だ、一日中客足が途絶えることはなく、その忙しさは多忙の一言に尽きた。

 しかし、一流のパティシエである桃子のアシスタントに就けたことは、貴重な経験だっただろう。働き詰めの両親に代わって家事に明け暮れるうち、料理を趣味としてしまった颯輔だ。洋菓子というジャンルはほぼ未経験だったが、持ち前の料理感と本職の者に教わったことにより、更なる技術の獲得へと至っていた。三桁に上るケーキを作り――もちろん桃子には比べるべくもないが――それなりのものは作れるようになったほどである。

 

――これなら、はやてちゃんも喜んでくれますよね。

 

 士郎と桃子には、ぜひ来年も手伝ってほしい、と言われてしまったが、生憎とその頃は受験シーズン真っ盛りだ。颯輔も美由希も進学を希望しているため、気が早い話ではあるが、今年のクリスマスの翠屋は、更なる激務となってしまう可能性が高い。

 

「クリスマスが終わった次の日なんて、『惜しい人材を亡くしたわ……』とか言ってたんだから」

「死んだりしたわけじゃないんだけど……」

「でも実際、翠屋も後継者とか考えないといけないと思うけどなぁ。恭ちゃん、忍さんにくっついて行っちゃいそうだし」

「あの二人はなぁ……そうだ、なのはちゃんとかはどう?」

「何でそこで私をすっ飛ばしたのかな、ねぇ?」

「いや、別に他意はない、ですよ……?」

「八神君、その敬語と疑問形には絶対に他意があるよね?」

 

 ジト目を向けてくる美由希に、乾いた笑いを漏らす颯輔だった。

 誰かに影響されたのか、美由希は去年の春から料理を始めたらしい。本人曰く、だんだん上手になってるよ。士郎曰く、先生は優秀だから今後に期待。桃子曰く、サラダなら任せられる。颯輔は直接腕前を見たことはないのだが、聞いた限りの情報では、もう少し頑張りましょうの判を押さざるを得なかった。

 

「……それじゃあ八神君は、パティシエとか興味あったりしない?」

「俺のは所詮趣味だからなぁ。桃子さんのようにはいかないよ」

「でも、やりたいことはまだないんでしょ? まずはアルバイトからとか、どう?」

「そうだな……土日だけでもいいんなら、前向きに検討してみるかな?」

「そっかそっか。色よい返事を期待してるね」

 

 ジト目から微笑に表情を変え、足取りまで軽くなる美由希。颯輔は美由希に半歩遅れ、はしゃぐ子供を見守る保護者のような心境で歩を進めた。

 歩み行くうちに目的地へと近づき、神社が見え始める頃には人の気配も多くなってきていた。参道の両側には賑やかな屋台が立ち並び、その間に参拝客がひしめいている。深夜帯に出歩いているという背徳感と、初詣特有の祭のような空気が、否応なく気分を高揚させた。

 

「うわぁ、すっごい人だねー!」

「この時間に来たのは初めてだけど、案外混んでるものなんだね。……やっぱり、はやてはこういうとこに連れて来られないなぁ」

「………………」

「……高町?」

「……はやてって、誰?」

「え……?」

 

 颯輔が隣を向くと、予想以上に近くに美由希の顔があった。眼鏡の奥、夜空のような、あるいは深海のような黒い瞳を覗いていると、周囲の喧騒が耳に入らなくなる。吸い込まれてしまいそうな瞳から、颯輔は目を離すことができなかった。

 はやてって、誰。

 その単純な問いに、しかし颯輔は答えられない。なぜなら、自分で口にしつつも、颯輔はその名前を持つであろう人物に心当たりがないから。いくら記憶を辿ってみても、誰も思い浮かんではこなかった。

 静まり返った世界がとてつもなく不気味で、美由希の瞳に言いようのない不安を感じて、颯輔は指先一つ動かすどころか、呼吸すら満足にできなくなってしまった。じっと見つめてくる黒曜の瞳の奥には、暗い金色が渦巻いている気がして。

 停止してしまった時間を再び動かしたのは、可愛らしく頬を膨らませた美由希だった。

 

「女の子の名前……私だって、まだ名前で呼ばれたことないのに……」

「あ、え、高町……?」

「……美由希」

「え?」

「美由希って呼んでよ、『颯輔』君」

 

 見上げてくる潤んだ瞳が、記憶の中の誰かと重なる。だが、それがいったい誰だったのか、颯輔には思い出すことができなかった。それどころか、そんな思考さえも霧の中に隠れてしまうかのように消えていく。

 

「……あー、えっと……美由希、さん?」

「……呼び捨てじゃないんだ」

「いやだって、高ま――……美由希さんだって、その、君付けだし……」

「うっ……じゃあ、それでいい。今は許す」

「いいんだ……」

「いいのっ! さっ、行こっ!」

「うわっ、ちょっ、美由希さんっ!?」

 

 美由希に手を引かれ、参拝客で賑わう参道へと繰り出す。外は真冬の寒さだったにもかかわらず、繋いだ美由希の手は温かかった。

 颯輔も美由希の掌を握り返し、まずはお参りを済ませるべく、人混みを掻き分けて神社の境内を目指した。

 

――主颯輔ぇっ!

――お兄っ!

 

 背中にかかる誰かの声を、空耳だろうと思考の外に追いやりながら。

 

 

 

 

 転移魔法の光が晴れる。目を開けた八神はやての前に広がっていたのは、これまでの日常を全否定してしまうかのような光景だった。

 暗い空には満足な光もなく、青いはずの海は毒々しく濁って沼のように変貌している。生命の気配を感じられない大地が、星の終わりを示しているかのようだった。

 闇の書の記憶で覗いた、ベルカの世界よりも荒れ果てた世界。息苦しいほどに濃密な魔力素が漂うこの世界を支配しているのは、一体の魔獣。人の形を失ってしまったはやての兄、八神颯輔だった。

 本来ならば腕があるはずの左肩の先からは、大樹を思わせるほどに太い胴体を持つ漆黒の大蛇が生えている。反対側の右腕は肥大化して赤黒く染まっており、先端には猛禽類のように鋭い爪を尖らせていた。腰から下に足はなく、魚類のような、ただし鯨のように巨大な尾を垂らしている。周囲には七体の無眼の竜が取り巻いており、その首は魔獣の背中から伸びていた。肩の上に展開されているのは、血液のように鮮やかな赤色の翼。まるで雲のように形を変化させる不定形のそれが、巨体に空を翔けることを許している。そして背後には漆黒の魔法陣の描かれた円環が浮遊し、ゆっくりと回転していた。

 

「■■■■■■■―――ッ!!」

 

 新たな獲物の出現を察知したのか、継ぎ接ぎだらけの魔獣が身の毛もよだつような咆哮を上げる。ただそれだけで突風が巻き起こり、十分以上に距離を取り、戦闘区域から外れているはずのはやての髪を揺らした。

 はやては目を逸らすことはせずに、魔獣の頭部を真っ直ぐに見つめる。そこには、血の気のない青白い肌をした颯輔の顔があった。しかし、顔の上半分を覆う仮面によって、二人の視線が合うことはない。仮面の下から走る赤い紋様が、はやてには涙を流しているかのように見えた。

 七体の竜が大きく口を開き、燃え盛る業火を吐き出す。狙う先ははやて達ではなく、魔獣の周囲を飛行する一人の魔導師だ。その魔導師――ギル・グレアムは、大きく距離を取って炎を回避し、白銀の杖をかざして藍色の砲撃魔法を撃ち込んだ。

 砲撃が頭の一つに命中し、炸裂する。魔力光が晴れた先には、グロテスクな肉の花が咲いていた。しかし、次の瞬間には断面の肉がぐじゅぐじゅと膨れ上がり、破壊されたはずの頭部が再生される。防衛プログラム――ナハトヴァールの再生機能だ。取り込んだ主の魔力が底をつくまで、暴走体が活動を停止することはない。

 

「お兄……」

 

 変わり果てた姿に、夜天の魔導書と杖を持つ手に力が入る。しかし、はやては戦闘から無理矢理視線を切って、撃墜されてしまったというシグナムとザフィーラ、そして、リーゼロッテとリーゼアリアを捜すことに集中した。

 巨大な魔力がぶつかり合う余波で、感覚が塗り潰されそうになってしまう。この状況下で個人の魔力反応を捉えるのは至難の技だ。魔法に理解のない素人にできるようなことではない。しかし、夜天の主であるはやてならば、はやて達にならば、それは不可能なことではなかった。

 

『対象の魔力を捕捉。この場へと転移させます』

「うん。お願いな、リインフォース」

『お任せください、主はやて』

 

 はやての内から響くリインフォースの声。それを聞き届けると、はやての足元に白く輝くベルカ式魔法陣が浮かび上がった。

 先端が剣十字となっている黄金の杖の石突を地に落とし、はやては深く呼吸をする。

 まともに魔法を使ったことのないはやて自身は、ただ求められるままに魔力を供給するだけでいい。術式の起動と制御は、それに特化したリインフォースに任せればいいのだ。主と融合騎の理想的な関係からは程遠いが、それが今打つことのできる最善手。リインフォースが単体で行うよりも、膨大な魔力を持つはやてと共に行う方が、魔法の効果も精度も跳ね上がる。

 やがて、はやての周りに四つの転移魔法陣が浮かび、シグナム達が現れる。四人共が意識を失ってぐったりとしており、その体には直視するのがはばかられるほどの痛々しい傷があった。

 

「シグナムっ! ザフィーラっ!」

「リーゼさんっ!」

 

 シグナムとザフィーラにはヴィータとシャマルが、リーゼ姉妹には高町なのはとフェイト・テスタロッサ、そして、ユーノ・スクライアとアルフが駆け寄る。治癒魔法を専門とするシャマルが冷静に四人の容体を見比べ、最も重傷を負っているザフィーラから治療を始めた。同じく治癒魔法の心得があるユーノは、ロッテに治療を施し始めていた。

 はやては自分も傍に駆け寄りたい衝動をぐっと堪え、リインフォースの告げてくる情報を冷静に噛み砕く。見た目は酷いが、シグナムとザフィーラは駆体を維持できなくなってしまうほどのダメージは受けていないらしい。二人への供給魔力を増やし、自己回復力を促進させることで、ざわめく心を誤魔化した。

 はやての隣に、黒い杖を手にした黒衣の少年が並ぶ。クロノ・ハラオウンが、少しだけ訝しげな目を向けてきていた。

 

「初めての魔法行使とは思えない転移魔法だ。この状況下では、ユーノでもこうはいかなかっただろう。それに、随分と落ち着いているように見える」

「リインフォースのおかげや、わたしの力とちゃうよ。だいたいの場所も、エイミィさんから教えてもらっとったし。……それに、本当は全然落ち着いてなんてない。人よりちょっと、嘘つくのが得意なだけや」

「そうか……。情けない話ですまないが、今は君達の力をあてにさせてもらいたい。闇の書の暴走体は、グレアム提督にも……特務四課の全戦力をもってしても、難しい相手だ」

「……もちろんや。わたしは、お兄を助けるためにここまで来たんやから」

「問題はどうやって助けるかだが……どうするつもりなんだ?」

 

 グレアムと暴走体の戦闘に目を向けたまま、クロノが質問をしてくる。それに答えたのは、はやての肩の上に人形サイズの立体映像を投影したリインフォースだった。

 

『あのような状態ですが、おそらく、主颯輔はまだ完全に取り込まれたわけではないはずです』

「見たところ、完全に生体融合を果たしてしまっているようだが……」

『もしもナハトが完全に主導権を握っていたとしたら……将達が消滅していないはずがありません。四人が受けた攻撃は、ナハトではあり得ない非殺傷設定。主颯輔の意識が残っているのならば……ナハトを停止させることができれば、あるいは』

「ほんなら、ナハトはどうやったら止まるん?」

『純粋魔力ダメージを蓄積させ、システムに過負荷をかけてみましょう。確実な方法とは言えませんが、今はこれしか……代替案を考え付いたら、すぐにお伝えします』

「了解した。……グレアム提督は、僕が説得しておこう。あの人はおそらく、八神颯輔ごと暴走体を封印しようとしているだろうから……」

「ん、お願いするわ」

 

 クロノの言葉に、はやては表情を曇らせることなく頷きを返した。

 はやて達の保護者であったはずのグレアムが管理局の人間であったことについては、今はどうでもいい。その程度のことに頭を悩ませる余裕があったら、その分を拙くとも魔法の制御に充てた方が遥かに利がある。今は、颯輔を救い出すのが最優先事項だ。

 

「ユーノ、リーゼ達を頼む」

「うん、任せて。治療が済んだら、僕達もそっちに向かうから」

「ああ。ここは安全だと思うが、余波が来るようならアースラに退避してもいい。念のため、アルフにはユーノ達の守ってもらいたい。頼まれてくれるだろうか?」

「当然! その代わり、そっちもきっちり片づけて来るんだよ!」

「了解だ。……なのは、フェイト、そろそろ行こう。作戦は、『皆で協力して、全力全開で頑張れ』だ」

「さっすがクロノ君! すっごく分かり易いよ!」

「そうかな……? でも、うん。頑張ろう」

 

 なのはとフェイトが立ち上がり、はやて達の傍に並ぶ。はやては直接は二人の力を知らないが、リインフォースやクロノからはお墨付きをもらっていて、意地っ張りなところのあるヴィータですら認めるほどである。協力者としては、素直に頼もしいと思えた。

 なのは達が立ち上がったのを見て、ヴィータもはやての傍へと駆けてくる。立っているヴィータを見下ろすことができるという感覚が少しだけおかしくて、場違いだとわかってはいながらも笑いそうになってしまった。はやては何とかそれを微笑に変え、ヴィータの頭を帽子の上から撫でつけた。

 

「頼りにしてるで、ヴィータ」

「うん。はやてもリインフォースも、絶対あたしが守るから。……絶対、颯輔を助けようね」

「もちろんや。シャマル、シグナムとザフィーラをお願いな」

「はい。はやてちゃん達も、どうかお気を付けて」

 

 シャマルからシグナム達へと視線を移す。はやてはまだ意識を取り戻していない二人に心の中で謝り、礼を言い、そして、戦場を見上げた。

 戦場から吹き付ける魔力を伴った風が、淡い銀色に染まった髪を撫でていく。純白のジャケットと漆黒のスカートが、風を受けて揺れた。

 

「ほな、行こか」

 

 蒼く澄んだ瞳に決意を宿し、八神はやては一歩、前へと踏み出した。

 

 

 

 

 どこまでも清らかに澄んだ蒼穹の世界。そこにリインフォースの魔力光が溶け込み、月明かりが照らす夜空のような濃紺の世界へと変化していく。夜天の主の名に相応しい舞台が、そこにはあった。

 そこは、八神はやての心象世界。夜天の魔導書の管制人格、リインフォースが待ち望んだ世界だ。融合騎として正しく機能するのはいったいいつ以来のことだったのか、それはもうリインフォースにもわからない。だが、今はそんな些細なことはどうでもよかった。

 はやてとのユニゾンには、確かに心を満たすものがある。しかし、リインフォースには、まだ果たすべき役目があった。

 

「『スレイプニール、羽ばたいて』」

 

 呪文を紡いでトリガーを引き、飛行魔法を発動させる。リインフォースははやての持つ膨大な魔力からほんの一握りを使用し、騎士甲冑の一部へと供給した。

 はやての背面に展開された闇を祓うような純白の翼が、一回り大きく成長する。感触を確かめるように六枚の翼を震わせると、大地を蹴って空へと昇った。

 はやての後をヴィータが、クロノ・ハラオウンが、高町なのはが、フェイト・テスタロッサが続いた。闇の書と管理局の因縁を越え、空を翔ける。戦闘区域は、もう目の前に迫っていた。

 

「予定通り、僕はグレアム提督の説得へ向かう。その間はほとんどそちらに参加できないと思うが……あまり無茶はするなよ。それから、危険を感じたらすぐに離脱するんだ」

「心配しないで、クロノ君。こっちはこっちで頑張るから!」

「君というやつは……」

「お前、ほんとに話を聞かないやつだよな……」

 

 身を案じた傍からやる気を見せるなのはに、クロノは疲れたように目を伏せ眉間を揉む。その様子を隣で見ていたヴィータが、呆れた声音を出していた。

 

「えーと……その、クロノも気を付けてね」

『こちらの舵取りは私が責任をもって行おう。クロノ・ハラオウン、お前はお前にしかできないことを』

「……わかった。それでは、任せた」

 

 フェイトとリインフォースのフォローを受け、気を取り直したクロノは編隊を外れた。向かう先は、たった一人で暴走体を相手取っているギル・グレアムの下だ。ある意味そこは、この戦いで最も危険な場所。クロノはこちらを心配していたが、クロノ自身も危険であることには変わりない。

 離れていくクロノを、リインフォースは後ろめたい感情を抱きながらも見送った。

 クロノもまた、闇の書によって運命を狂わされた者の一人。まだ葛藤を続けてはいるようだが、それを割り切って協力してくれたことには、感謝しきれない。そんなクロノを、リインフォースは時間稼ぎが精々としか考えていなかった。

 現在特務四課の指揮を執っているリンディ・ハラオウンには了承を取っていたが、グレアムに同じことを期待するのは難しい。そもそも、ナハトヴァールの制御が失敗に終わった場合は、グレアムによって封印してもらう手筈だったのだ。闇の書の封印を解いた瞬間に裏切って即座に封印しようとしてきたのはグレアムの方だが、こちらも協定を無視して颯輔を救い出そうとしているため、協力を得られる可能性は限りなく低かった。

 だが、グレアムの協力が得られず敵となった場合はそのときだ。邪魔をするようならば、それさえも乗り越えてしまえばいい。

 

「リインフォース、わたしらはどうしたらええ?」

『はい。まずは、七つの竜の首を止めましょう。あれがあっては、安全に近づくことも叶いません』

「でも、砲撃は効かないんじゃ……」

「それに、颯輔さんへの影響はないの?」

『主颯輔への影響は正直わからないが……だが、今は信じるしかない。方法については、こちらに策がある。紅の鉄騎、高町なのは、フェイト・テスタロッサ。しばしの間、主はやての守護を頼めるか?』

「当然!」

「もちろん!」

「任せて!」

『感謝する。……では主はやて、いきましょう』

「うん……!」

 

 戦闘区域に達して暴走体に近づいたことで、四つの竜の首がはやて達を向いた。すんすんと鼻を鳴らし、獲物の位置を確かめるようにしている。他の首は、グレアムとクロノを攻撃したままだ。

 リインフォースには、はやての身体が恐怖に小さく震えているのがわかった。だがそれでも、優しさを勇気へと変えた心が、兄を助けたいという願いが、はやてに前を向かせていた。

 空中に静止し、夜天の魔導書を開く。足元に展開された魔法陣が、暗い空に輝いた。

 

「『――彼方より来たれ、やどりぎの枝』」

 

 はやてとリインフォースの声が重なり、呪文を詠唱していく。

 はやての持つ特殊な魔法資質は、遠隔発生。例え目標が射程圏外にあろうとも、射程圏内に砲台を展開することで攻撃が可能となる。後方型には望外なほどのスキルだ。

 遥か前方に砲台となる魔法陣が展開され、七つの砲弾が形成されていく。発動するのは、古代に盲目の魔導師が生み出した大魔法。

 

「『――銀月の槍となりて、撃ち貫け……!』」

 

 竜がその咢を大きく開く。ある首は業火を放ち、ある首は獲物を喰らおうと迫ってきた。

 だが、その攻撃が無防備なはやて達に届くことはない。なのはの発動した防御魔法が業火を防ぎ、フェイトの発射した光刃が首を斬り落とす。ヴィータに迫る二つの首は、片方がグラーフアイゼンによって叩き上げられ、もう片方は返す戦鎚で叩き落されていた。

 形成されていた砲弾が、完成する。

 

「『石化の槍っ、ミストルティン――ッ!』」

 

 リインフォースが目標の動きに合わせて射線を微調整し、はやてが杖を振り下ろしてトリガーを引いた。

 石化の効果を持った、禁忌の魔法が解き放たれる。なのは達を避けて一直線に伸びた七本の白光が、寸分違わず狙い通りに全ての竜の首に命中した。着弾地点から生体細胞が凝固を始め、やがてそれは、首の全体へと及ぶ。七つの竜頭は、精巧な造りの石造へと姿を変えた。

 

「やったかっ!?」

「待って、何だか様子が…………」

「そんな……!」

 

 第一目標をクリアしたかと思われた途端、石造に変化があった。まるで、脱皮をするかのように石が剥がれていく。鱗が落ち、てらてらと光る肉に亀裂が入っていき、やがて、幾重もの触手へと分かれた。それは、無数に蠢く触手によって巨大な暴走体の体が隠れてしまうほどだった。

 光明をと発動した大魔法の結果は失敗。状況が改善されるどころか、余計に悪化したとしか言えない。リインフォースの見通しが甘かったのか、それとも、やはり本体を叩かなければ意味はないのか。

 本体へと攻撃を加えるのならば、遠距離からでは難しい。いくら威力の高い砲撃を撃ち込もうとも触手の壁によって減衰され、壁を貫いたとしても――おそらくは本体を守っているのであろう――先ほどから動きを見せない漆黒の大蛇に防がれてしまうだろう。

 本体へ近づくにしても、あの無数の触手を掻い潜らなければならない。なのはは攻撃力は十分でも、機動力に不安がある。フェイトならば辿りつけるだろうが、あの薄い装甲では万が一攻撃を受けてしまったときが心配だった。ヴィータは信頼できるが、魔力ダメージのみを与える類の攻撃はあまり持ち合わせていない。

 

『……主はやて。しばしの間、貴方のお体を貸していただけますか?』

「ええよ。それでどうにかなるなら、喜んで貸したる」

 

 数瞬悩んだリインフォースが出した結論は、ある意味最も確実な、自らが突貫するという方法。唯一の問題ははやてだったが、予想に反して間をおかずに答えが返ってきた。

 主ではなく融合騎が主体でユニゾンするというのは、融合事故に近い行為だ。融合騎の反逆を恐れる者なら決して許しはしないことだが、はやては自分のことを微塵も疑っていないらしい。リインフォースは、寄せられる確かな信頼に微笑を浮かべた。

 

「『ユニゾンシフト』」

 

 はやての体が淡い光に包まれ、リインフォースが『表』へと出た。リインフォースの魔力波長に合わせ、騎士甲冑の全体が漆黒に染まっていく。ただし、展開している翼だけは、清廉な白を保ったままだった。

 杖と魔導書を格納して空拳となった手を動かし、身体の調子を確かめるも、恐れた異常は見当たらなかった。しかし、融合騎主体のユニゾンは主に負担を強いるのも事実。あまりこの状態は保っていられない。

 

「わあ、リインフォースさんになっちゃった」

「あの、はやては……?」

『心配せんでもちゃーんとこの子の中におるよ、フェイトちゃん』

 

 突然の変化になのはは驚き、フェイトは姿の見えなくなったはやての身を案じる。リインフォースの内から念話が響き、フェイトに無事を伝えていた。しかし、やはりリインフォースほどには制御できていないようで、立体映像が映し出される気配はなかった。

 二人と別種の戸惑いの視線を向けてきたのは、ヴィータだ。その視線の中には、戸惑いとは別に怒りの感情も混ぜられていた。

 

「お前、そんなことして――」

「――紅の鉄騎、共を頼みたい。本体を直接叩く。主颯輔を助けに行くぞ」

「…………ああ、わかった」

「高町なのはとフェイト・テスタロッサには、道を作ってもらいたい。砲撃を撃ち込み、突破口を開いてもらえるか?」

「了解です!」

「うん!」

 

 ヴィータの言葉を遮り、話題を変えるように指示を飛ばす。今は言うな、という真意を理解してくれたのか、ヴィータがそれ以上を追及してくることはなかった。

 なのはとフェイトにも指示を出し、了承を得たところで目標を見据える。立ちはだかるは、数を把握しようとするのも億劫になるほどの触手の群れ。

 だが、ここで退く理由などない。

 リインフォースが飛び出し、ヴィータが後に続く。残ったなのはとフェイトはカートリッジをロードし、背中を合わせて照準を定めた。

 

「いくよ、フェイトちゃん!」

「うん、なのは!」

《N&F,Combination!》

《Blast Calamity,Fire!》

 

 交わり合わさった桜色と金色の砲撃がリインフォース達を追い抜き、触手の壁を穿ち抜く。こじ開けられた大穴に飛び込もうと加速するも、それをさせまいと新たな触手が伸びてきた。

 リインフォースとヴィータが構える前に、空から剣の雨が降り注いだ。無数に飛来する水色の魔力刃が、迫る触手を次々と斬り落としていく。ダメ押しとばかりに藍色の砲撃が撃ち込まれ、大穴へと続く道を開いた。

 切断されたそばから再生していく触手を尻目に、リインフォースとヴィータはさらに飛行速度を上げる。リインフォースは前面に障壁を展開し、ヴィータと共に埋まり始める触手の穴へと突入した。

 再生された触手が次々と障壁を叩きつけてくるも、それが突破されることはない。どころか、飛行速度が落ちることもなかった。はやてから潤沢な魔力が供給されている今、リインフォースは魔導書が培ってきた力を十二分に発揮できていた。

 暗い触手のトンネルを抜け、僅かに光の射す空の下へと抜ける。しかしそこに待っていたのは、大口を開けた漆黒の大蛇だった。

 

「――っ!?」

「こいつはあたしがやるっ! お前は颯輔んとこ行けっ!」

『ヴィータっ!?』

 

 すぐさま回避行動に移るリインフォースと、グラーフアイゼンを振りかぶってそのまま突っ込むヴィータ。ヴィータが大蛇に飲み込まれそうになる様を見て、はやてが悲鳴を上げた。

 

《Explosion!》

「でりゃああああああッ!」

 

 空の薬莢が排出され、グラーフアイゼンがラケーテンフォルムへと変形する。展開された衝角が頬肉を突き破り、そのまま数本の大牙を粉砕した。

 横っ面を殴り抜かれた大蛇は、威力に押し負けて大きく弾き飛ばされた。ヴィータは追い打ちをかけるべく、更なる攻撃を大蛇に仕掛ける。さっさと行け、という念話が、リインフォースに飛んできた。

 任せた、と念話を返し、リインフォースは翼で空を叩いて体勢を立て直す。なのはとフェイト、そして、クロノとグレアムが道を切り拓き、ヴィータが最後の守りを砕いてくれた。あとは、颯輔の下まで一直線。

 大蛇の胴体を避け、ついに暴走体の本体――颯輔の下へと辿り着く。仮面越しに、颯輔と目が合った気がした。

 

「主颯輔ぇっ!」

『お兄っ!』

 

 二人の声に対する答えは、前へと差し出された巨大な右腕だった。背後に浮かんだ円環が回転速度を上げる。掌が右から左へと宙を滑ると、リインフォース達と颯輔との間を遮るように、千を越える魔力弾が生成されて密集陣形を組んだ。

 闇の書が蒐集して記録した、フェイト・テスタロッサの大魔法――フォトンランサー・ファランクスシフト。漆黒の軍列が、侵略を始める。

 

「くっ……!」

 

 フェイトの誇る強力な魔法は、颯輔とナハトヴァールの魔力によって威力と数が増し、より凶悪な性能を得ていた。足を止めて防御に徹しようが、あの魔法は防御を容赦なく削りきってリインフォース達を撃ち落としてしまうだろう。リインフォースはフェアーテを発動し、最大戦速で空を翔けた。

 暴走体を中心に旋回するリインフォース達を、漆黒の魔力弾が掠めていく。回避距離を取ればいくらか余裕が生まれるが、その選択肢は存在しなかった。離れてしまえば触手の壁が本体の位置を隠し、正確な狙いをつけられなくなってしまう。リインフォースは回避を続けながらも術式を立ち上げ改変し、弾幕が途切れるのを待ち続けた。

 そして、そのときが来る。

 

「『遠き地にて、闇に沈め――』」

 

 漆黒の豪雨が過ぎ去った後、深紫の瞬きの上で、リインフォースとはやてはその呪文を唱える。はやての膨大な魔力とリインフォースの魔法資質を掛け合わせた、広域空間攻撃。その本来の攻撃範囲を指定することによって絞り、拡散する威力を目標へと集中させる。

 

「『――デアボリック・エミッション!』」

 

 深紫の球体が暴走体の目の前に現れ広がり、その体を包み込んだ。

 リインフォースに許された最大出力での純粋魔力攻撃。その威力は折り紙つきで、例え相手が才能溢れるなのは達だろうと、シグナム達が苦戦させられたリーゼ姉妹だろうと、リインフォースには一撃で墜とす自信がある。暴走体だろうとひとたまりもないだろう、と確かな手応えを感じていた――はずだった。

 耳に届いたのは、ガラスの割れるような音。魔力が晴れた先にあったのは、損傷が皆無の暴走体の姿だった。

 瞬時に再生した、というのはあり得ない。現に、攻撃範囲に入った尻尾や腕の先などはまだ再生している途中で、背から伸びた触手はその途中から全てが断たれている。だが、暴走体の本体、颯輔の体から一定の範囲内には、魔力ダメージを受けた形跡がまったく見られなかった。

 

『そんな、何でっ!? ちゃんと当たったんやろっ!?』

「複合、障壁……!」

 

 動転するはやてだったが、リインフォースはその答えを瞬時に導き出していた。

 防衛プログラムが誇る、魔力と物理ダメージを遮断する複合四層式障壁。今の攻撃でリインフォース達が破壊したのは、その一層でしかなかったのだ。触手が破壊できたことと、ナハトヴァールの根幹と思われる漆黒の大蛇がダメージを受けていたことから、障壁の類は展開されていないと思っていたのだが、それはあまりにも浅はかな考えだった。

 本体に攻撃を届かせるには、あと三層の障壁を破壊しなければならない。だが、こちらだけが一方的に攻撃できるわけではない。暴走体の攻撃を防ぎ、全ての障壁を突破し、その上で、ナハトヴァールが活動を停止するほどの魔力ダメージを与える必要がある。しかしそれも、確かな方法とは限らないのだ。

 もしも、それでも助けることができなかったならば――

 

『リインフォースっ、攻撃来るよっ!』

 

 下へ下へと向かう思考を、はやての声によって引き止められる。リインフォースは、眼前に迫る大爪を寸前で回避することに成功した。

 劣勢に立たされながらも、はやてはまだ微塵も諦めてはいない。己が内にいる主に感謝し、リインフォースは翼をはためかせる。失敗してしまったとしても、そのときはそのとき。また新たな方法を考えるだけだ。

 例え、激しい戦闘によって残された時間が磨り減ろうとも。

 八神颯輔を救い出すまでは、戦いを止めることは許されない。

 それが、リインフォースの誓い。

 

 

 

 

 特務四課の本部でもあるアースラは、第76無人世界エルトリアの軌道上に待機していた。現在アースラの指揮を執っているのは、オーダー分隊隊長にして四課の副部隊長でもあるリンディ・ハラオウン。ブリッジの艦長席に座るリンディの目は険しく、粗い映像を映し出すメインモニターに向けられていた。

 守護騎士の魔力反応を感知し、ギル・グレアムとリーゼ姉妹の主従で構成される四課の特記戦力――ストライク分隊がエルトリアに向けて出動してから、三十分ほど経過していた。

 グレアムの読みが当たっていたのか、はたまたそうなる『予定』だったのか、エルトリアには闇の書の主の姿があった。どこにでもいるような、柔和な顔立ちをした青年。それが、リンディが抱いた当代の主に対する印象だった。

 しかし、メインモニターにはもうその青年の姿など映し出されてはいない。そこに映るのは、人体の要素をほとんど失ってしまった化け物。ただあるがままに力を振るい、次元世界に災厄をもたらすロストロギア――闇の書の暴走体だった。

 グレアム達が最初に交戦していたのは守護騎士のシグナムとザフィーラだったが、ほどなくして主が闇の書の封印を解き、そして、暴走体へと姿を変えた。

 その後、協力とまでは言えずとも、シグナム達とは共同戦線を張って応戦していた。しかし、リーゼ姉妹とシグナム達は撃墜されてしまい、現在は治療を受けている。今現在戦闘を行っているのは、グレアムと、リンディを除くオーダー分隊。それから、協力を申し出てきたもう一人の闇の書の主、八神はやてとその騎士ヴィータだった。

 戦闘区域は魔力素の濃度が異常に高い値を示しており、距離のある現場との通信は不可能。サーチャーも影響を受けており、通常よりも不鮮明な映像でしか現場の様子を映し出せない。戦闘区域から外れてリーゼ姉妹とシグナム達の治療に当たっているユーノ・スクライアとシャマル、そして、アルフとのみ、辛うじて連絡が取れる状態だ。

 

「対象の再スキャン結果、来ました! ……うわー、リンディ副艦長の予想通り、対象の残存魔力量には一切の減少が見られませんね、ははは……」

「そう。ありがとう、エイミィ」

 

 乾いた笑いを漏らしている通信主任のエイミィ・リミエッタに、リンディはいつもと変わらぬ声音で返した。

 通常、魔法を行使する場合はリンカーコアが溜め込んだ魔力を消費する。リンカーコアは大気中の魔力素を体内に取り込んで蓄積するのだが、戦闘での消費量に対して回復量の方が上回るということは、まずあり得ない。魔法を行使するほどに相応の魔力を消費し、同時に疲弊しなければならないのだ。

 リンディが違和感を覚えたのは、クロノ達が戦線に合流してほどなくの頃だった。合流以前、暴走体は、リーゼ姉妹達を墜とすのにも大威力の魔法を連発していた。闇の書の情報を受け継いでいるのか、合流後もフェイトのファランクスを使用している様子さえ見られた。

 だが、それだけの魔法を行使しているにもかかわらず、活動停止する気配がまったくなかったのだ。

 12月11日の戦闘の分析結果、そして、リインフォースからの情報により、闇の書の主――八神颯輔の総魔力量は、グレアムを多少下回る程度だと判明している。Sランクオーバーと十二分に多いのだが、それでも、その程度ならば今頃魔力切れを起こしていなければおかしいのだ。

 八神颯輔には、高町なのはのように集束魔法の高い適正があったらしい。だが、集束魔法にも少なからず自前の魔力は必要だ。通信が阻害されるほどの魔力を周囲に振り撒いておいて、内在する魔力が一切減少しないということは、絶対にあり得ない。いくら高い値を叩き出そうとも残存魔力は数値として出ているのだが、その数値に変化は見られず、まるで、無限の魔力を持っているかのように錯覚させられた。

 

「向こうも薄々気づいているでしょうけど、一応、ユーノ君達にも伝えてもらえるかしら?」

「了解です。でも、こんなのどうやって……」

「暴走を止めることができず、封印も不可能ならば、残る方法は一つよ」

「アルカンシェル、ですか……」

 

 エイミィの問いとも言えない呟きに、リンディはその手に握り込んだ鍵の感触を確かめながら答えた。歴代の闇の書の主を幾度となく葬り去り、そして、リンディの夫、クライド・ハラオウンの命をも奪った管理局の魔導兵器――対艦反応消滅砲アルカンシェルの発射キーだ。

 封印が不可能であった場合を考慮し、保険として、アースラにはアルカンシェルが搭載されている。『闇の書事件』専用と化している兵器だけあって、暴走体を消し飛ばすことも不可能ではないだろう。決戦の舞台は都合が良過ぎることに無人世界だ。現地住民を避難させる必要もないため、許可が下りればいつでも決着はつく。

 今の状況に十一年前の光景を幻視したリンディの耳に、四課以前からの部下であるブリッジオペレータ、アレックスとランディの声が届いた。

 

「本局より入電! アルカンシェルの使用、承認されました!」

「転移ゲートは生きていますが、どうしましょうか?」

「……アルカンシェルの発射準備を。ただし、今はまだ待機よ。もう少しだけ、様子を見ましょう」

 

 些細な判断ミスが殉職という最悪のケースに繋がるような状態だが、それでもリンディは待機を選んだ。現場にいる者達は、暴走体を止めるために、そして、八神颯輔を救い出すために戦っている。アルカンシェルを自らの手で撃つという覚悟がないわけではないが、少しでも可能性があるのならば、リンディはそれに賭けたかった。

 リンディは、『闇の書事件』による被害者をこれ以上増やさないために四課に参加したのだ。思う所は合っても、闇の書の主をそのくくりから外すつもりなどない。

 指示を受けたスタッフが、アルカンシェルの起動に入った。

 その威力に比例して大量の魔力を消費するアルカンシェルの起動には、アースラの魔導炉のほとんどのエネルギーを供給しなければならない。それに伴い、アースラを覆う防壁が薄くなり、照明の何割かが消え、内部電源に回されるエネルギーが減少した。

 リンディの前に、アルカンシェルのトリガーたる赤い箱に収められた鍵穴が現れた。あとは、発射キーを挿入して回すだけで、今回の事件に終止符を打つことができる。

 連絡のつくユーノ達は幸いにも後方支援型で、転移魔法の心得もある。いざとなれば、ユーノ達に頼んで皆をアースラに避難させればいい。

 リンディが、そう考えていたときだった。

 メインモニターに映る暴走体、仮面に隠された顔が上を向き、左腕の漆黒の大蛇が大口を開けた。戦闘区域に漆黒の流星が流れ、大蛇の口の先へと集い始める。

 

「――なっ!? 対象、周囲の魔力の集束に入りました! アースラ、予測される射線上に入っています! 防御も回避も間に合いませんっ!」

 

 大きく膨れ上がる漆黒の球体に、エイミィが悲鳴を上げる。

 集束速度から見て、アルカンシェルを停止して防御、あるいは回避に移るほどの時間はない。現段階の集束魔力量から見て、リンディや武装隊がどうこうできるような攻撃でもなかった。サブモニターには暴走体を止めようとするグレアム達の姿があったが、範囲を広げた障壁がそれら全てを防いでいた。

 致命的なミスを犯してしまったことに、そして、ともかく行動を、と焦り立ち上がったリンディの視界、暴走体を映し出すメインモニターに、新たに二つの影が映り込んだ。

 白と黒のバリアジャケットをまとった少女達。高町なのはとフェイト・テスタロッサの二人が、アースラを守るかのように射線上へと飛び込んでいた。

 

 



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第二十五話 奇跡の代価

 

 銃床から頬に伝わるのは、ひんやりと冷えた木の感覚。覗く照準具の先には、ターゲットの眉間が収められている。

 狙いは完璧だ。

 無音となった世界で鼓動を落ち着ける。狙撃においては、鼓動による手振れさえもが結果を大きく左右するのだ。

 ゴクリ、と生唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。

 肺に溜まった空気を全て吐き出し、呼吸を止める。かけていた人差し指で引き金を引いて――圧縮された空気が解放され、コルク弾が射出された。

 ポンッ、と小気味いい音を立ててまっすぐに飛んだコルク弾は、見事にだるまの眉間に命中し、その体を揺らすことに成功する。しかし、揺らしただけで台座から撃ち落とすことはなく、無残に弾かれ地へと落ちた。

 

「嘘でしょっ!? いや今のっ、絶対クリティカルだったよねっ!?」

「あはははははっ!」

「美由希さんは笑い過ぎだからっ!」

 

 最後の最後でようやく命中したものの、戦利品はゼロという結果に八神颯輔の悲鳴と高町美由希の笑い声が響く。露店の店主に再々挑戦を勧められるも、二度目の大敗を喫した颯輔は、戦略的撤退を選んだ。イベントが続くこの季節、高校生の財布は厚みを減らすばかりである。

 口元を掌で隠して笑いを堪えている様子の美由希を連れ、颯輔はげんなりとしながらもその場を離れた。美由希のもう片方の手にはキャラメルが握られているという事実が、颯輔の気分を余計に落ち込ませる。華麗に商品を撃ち落としてプレゼント、などという幻想は、見事に撃ち砕かれてしまった。

 

「そんな、落ち込まないでよ、颯輔君……くふっ」

「どうせ俺はああいうの下手くそですよ」

 

 慰めているのか、それともからかっているのか、はたまたその両方なのか。頬をひくつかせている美由希から、不機嫌になった颯輔は顔を逸らした。

 射的の経験などほぼ皆無のくせに、比較的大物の景品を狙ってしまったことが敗因なのだ、と颯輔自身も理解はしている。だが、いいところを見せようとして失敗に終わってしまったとあっては、やはり恥ずかしくてまともに顔を合わせることができなかった。

 どうして手軽な景品を狙わなかったのか、と後悔する颯輔の顔の前に、美由希の手が伸びてきた。白く細い指に挟まれているのは、先ほどの景品のキャラメルらしかった。

 

「はいはい拗ねないの。ほら、キャラメルあげるから、機嫌直してよ」

「あのねぇ美由希さん。俺、そんな子供じゃな、い……」

 

――颯輔、その……アイス、半分食べる?

 

 子供扱いをしてくる美由希に反論する颯輔の耳に誰かの声が響き、脳裏に粗い映像がフラッシュバックした。

 赤毛の少女。

 ストロベリーのアイス。

 そして、固まってしまう笑顔。

 映像の背景は、自宅のリビングで。

 何か、とても大切なことを忘れてしまっているかのような、そんな気がして。

 

「――くんっ、颯輔君っ!」

「……あ、え、何?」

「何って、こっちが訊きたいよ。急にぼーっとしちゃって、どうしたの?」

「ああ、いや、ごめん。何でもないから、気にしなくても大丈夫だよ」

「気にしないでって、そんなわけにもいかないよ。颯輔君に何かあったら私……」

「何かあったらって、そんな大袈裟な。ちょっとふらっとしただけだってば」

「それって、うちまで走ってきて掻いた汗が冷えたりしたんじゃ――」

 

 心配そうに見つめてくる美由希の顔が、ぐっと近くなる。つま先立ちとなってまで伸びてきた美由希の両手が、颯輔の額と首元に触れた。

 

「――わっ、ちょっ!?」

「えっ、颯輔く――きゃあっ!?」

 

 突然の接触に颯輔の顔が真っ赤に染まり、動揺した拍子に雪で足を滑らせてしまう。慌てた美由希が颯輔のダウンジャケットを掴むも、美由希よりも颯輔の方が当然体重は重く、引き戻すどころか引っ張られる形となってしまった。

 まずい、と考えた颯輔は、咄嗟に美由希を腕の中に引き寄せてから倒れ込み、後頭部を踏み固められた雪に打ち付けてしまった。

 ちかちかと視界が明滅し、後頭部に痛みと雪の冷たさが同時に伝わってくる。その中で、颯輔の胸の上でもぞもぞと動く気配があった。

 ばっと上半身を起こした誰かが、上から颯輔の顔を覗き込んでくる。それはもちろん、颯輔が庇った美由希の顔だった。

 

「だっ、大丈夫っ、颯輔君っ!?」

「た、たぶん……。それより、美由希さん……」

「何っ!? やっぱり大丈夫じゃないっ!?」

「あー、その……そろそろ退けてくれないと、変な誤解を招きそうなんですが……」

「え……?」

 

 顔を上げた美由希が辺りを見渡し、続いて自分がどこに乗っているのかを理解したようで、羞恥に顔を紅葉させる。颯輔と美由希の様子を遠巻きに見守る参拝客から、あらあらまあまあ、といった視線が向けられていた。

 飛び上がる勢いで立ち上がった美由希に続き、颯輔も後頭部を擦りながら立ち上がる。転んだ拍子に雪が入ってしまったらしく、首元から背中へと冷たい滴が流れて行った。

 颯輔は汚れたジャケットとジーンズを叩きながら気まずい思いを誤魔化し、ついでにうるさい鼓動を落ち着けた。周囲からの視線は減ったが、美由希はずれてしまった眼鏡も直さずに俯いたままだ。颯輔も冷静ではなかったとはいえ、もう少し上手い言い方があったかもしれない。

 

「あの、ごめんね、美由希さん。いきなりでびっくりしちゃってさ……」

「ううん、こっちこそ、ごめんなさい……」

「あー、いや、美由希さんは悪くないわけで、この場合は一方的に俺が悪いわけで――美由希さん……?」

「……こっち」

 

 謝罪の言葉を考えつつ続ける途中、美由希の手が伸びてきて、颯輔の手を掴んだ。困惑する颯輔を余所に、一言だけ告げてくる美由希には、妙な強制力があった。

 それ以上は何も言わない美由希に手を引かれ、颯輔も後に続いて歩き始める。今度握った美由希の掌は、何故か、氷のように冷たかった。

 

 

 

 

 戦闘区域を満たしていた濃密な魔力素が、天を仰ぐ漆黒の大蛇の口元へと集まっていく。漆黒の流星が集う先、そこには、深淵の闇を閉じ込めたかのような禍々しい球体があった。次第に大きくなっていくそれは今も成長を続けており、高町なのはのいる位置からは、もう大蛇の顔が見えなくなってしまっていた。

 ギル・グレアムやクロノ・ハラオウンが、八神はやてとユニゾンしたリインフォースやヴィータが、その魔法の発動を止めようと必死に攻撃や妨害を続けている。しかし、その尽くが、三層に渡る障壁によって無効化されてしまっていた。

 闇の書の暴走体が発動しようとしているのは、かつて、なのはとレイジングハートが編み出した知恵と戦術の結晶。集束砲撃魔法――スターライトブレイカーだ。そしてその狙いは、軌道上に待機しているはずのアースラ。戦闘区域から外れているユーノを通し、エイミィ・リミエッタから、アースラがその攻撃を防御も回避もできない状態にあるということは聞かされていた。

 

「なのはっ! フェイトっ! 君達もこいつを止めるのを手伝ってくれっ!」

 

 下方から、必死に砲撃を撃ち込むクロノの怒鳴り声が聞こえてきた。しかし、なのはの直感が、リンカーコアが、そして、レイジングハートが告げている。あの魔法の発動は、もう止められないのだと。

 スターライトブレイカーは発射される。アースラは防御も回避もできない。このままでは、なのはのよく知る四課の人達の命が失われてしまう。

 そんなことは、絶対にさせられない。

 アースラにはなのはの大切な人達がいて、そして、その命を奪うことになるのは、はやての兄である八神颯輔なのだから。

 

「フェイトちゃん、いこう……!」

「うん、なのは……!」

 

 隣に浮かぶ親友、フェイト・テスタロッサと目を合わせ、なのはは二人で大きく頷いた。

 発動する前に止められないならば、発動した後に止めてしまえばいい。

 その攻撃を、真正面から撃ち抜いて。

 

「お願い、レイジングハート!」

《All right, my master. Exelion Mode――》

「いくよ、バルディッシュ!」

《Yes, sir. Zamber Form――》

《《――Drive ignition!》》

 

 炸裂音が、計三度。桜色と金色に輝く二つの魔力光が、エルトリアの空を明るく照らした。

 激しい光が薄れたその場にいたのは、なのはとフェイトの二人。その手には、新たな姿となった二つのインテリジェントデバイスが握られていた。

 なのはの手にあるのは、フルドライブ形態となったレイジングハート・エクセリオン。槍の先には半実体化した赤色の魔力刃『ストライクフレーム』が、その周りには、桜色の翼が六枚形成されている。外見は大きく変化しているが、中身も当然の如く変化していた。安全装置を限界まで解除したことにより、魔力消費量と負荷の増加を引き換えにし、爆発的な出力を生み出して術者の戦闘力を大幅に強化するのだ。それ相応のリスクは背負うことになるが、その性能は段違いと言っても過言ではない。

 一方、フェイトの手にあるのは、フルドライブ形態となったバルディッシュ・アサルト。こちらも出力リミッターが解除されており、ただただ破壊力を追及したモデルとなっている。半実体化した黄金の大剣はフェイトの身長をも越え、魔力密度もこれまでとは桁違いだ。その威力は圧倒的で、対象の形状もサイズも問わず、あらゆるものを切断することが可能である。かつて、バルディッシュを作りだした人物の願いが込められた、『すべてを断ち切る閃光の刃』がそこにはあった。

 嵐のように吹き荒れる魔力風が、なのはのスカートとフェイトのマントをはためかせた。それぞれの力の具現を手にし、暴走体に対してフェイトが前衛、なのはが後衛へと移る。そして、ありったけのカートリッジをロードした。

 

《Starlight Breaker.》

《Jet Zamber.》

 

 桜色の魔法陣が、金色の魔法陣が、大きく空に描かれる。クロノ達から念話が届いたが、信じてください、の一言で一蹴した。

 暴走体の集束はほとんど終わってしまっている。集束砲撃は、今にも放たれてしまいそうだ。

 なのははカートリッジの魔力を元手にし、さらに、暴走体が集めきれなかった魔力の集束に入る。桜色の星がなのはの下へと集い、大きな恒星を生み出そうとしていた。

 恒星の前方では、フェイトがバルディッシュを正眼に構えて集中を続けている。時折魔力刃から放電が起こるのは、その分だけ魔力をロスしてしまっている証拠だ。荒れ狂う魔力の手綱を握り、鋭く、堅く、練り上げていく。

 完成した大剣を、フェイトは大上段に振りかざした。

 

「■■■■■■■―――ッ!!」

 

 背後に浮かぶ魔法陣が高速で回転し、闇の獣が咆哮する。漆黒の恒星が爆発し、深淵の闇が、なのは達を目掛けて押し寄せた。

 

「撃ち抜け、雷神――ッ!」

 

 迫る死の奔流の中心に、フェイトは光の剣を振り下ろした。

 

「――くっ、ぁぁあああああああああッッ!!」

 

 爪が割れ、血が噴き出す。魔力風の刃が体中を傷つけていく。それでもフェイトは、立ち向かうのを止めなかった。

 この程度は、あのときに比べれば大したことはない。自分の魔力は十分にあって、体調だって健康そのもの。バルディッシュも、以前とは比べ物にならないほどに強化されている。後ろには守るべき人達がいて、そして何より、なのはがついていてくれるのだ。負ける理由が、一つも見当たらなかった。

 押し負けていた魔力刃が、徐々に前へ前へと進んでいく。

 光の剣が、暗い闇を斬り裂いた。

 

「なのはーーッ!」

「全力、全開――」

 

 離脱したフェイトの声が、レイジングハートを振りかぶったなのはの耳に届いた。こちらも、ようやく砲弾が完成したところだ。二つに裂かれて勢いを削がれた漆黒の闇を、桜色の恒星が照らしていた。

 

「――スターライトブレイカーーーッ!!」

 

 なのはがレイジングハートを振り下ろすと同時、桜色の恒星から集束砲撃魔法が撃ち出された。

 中心を断ち切られて本来の威力を失った集束砲と、なのはの集束砲がぶつかり合う。フェイトが削ったにもかかわらず、その威力は互角。正面からぶつかり合い、拮抗し、激しく互いを削り合っていた。

 桜色の魔力が、漆黒の魔力が、衝突面で火花を散らすように弾け飛ぶ。わずかに腕を押し返してくるような感覚があり、なのはは、それに負けじと腕をさらに突き出した。

 

「シューーートッッ!!」

 

 なのはの掛け声と共に恒星本体が落ち、湧き上がる闇にぶつかり炸裂した。

 溢れかえった膨大な魔力の奔流が叩きつけられ、なのはの体は大きく吹き飛ばされてしまった。体がぐるぐると回転し、上下左右がわからなくなる。無茶をさせて弱々しい反応しか見せないレイジングハートに代わって飛行魔法を立て直すと、ようやく体が停止した。

 集束砲同士のぶつかり合いで再び大量の魔力素が拡散し、ユーノ達どころか戦闘区域内にいるはずのフェイト達とも念話が通じない。エクセリオンモードの副作用なのか、はたまたカートリッジを使い過ぎたことが原因なのか、なのはの視界もぼやけてしまっており、周囲の状況がまったくわからなかった。

 

「ボケっと突っ立ってんじゃねぇっ、高町なのはっ!」

「ヴィータちゃん? どこに――きゃあっ!?」

 

 聞こえてきたヴィータの声に、上手く焦点が合わない視界ながらも辺りを見回す。そうしていると、紅の何かが正面から迫り、なのはの胸を突き飛ばした。

 続いて、紅の何かが漆黒の何かに塗りつぶされる。なのはが目を凝らしてようやく捉えたそれは、漆黒の大蛇の胴体だった。

 

「ヴィータ、ちゃん……?」

 

 ひらひらとなのはの手の中へと落ちてきたのは、ヴィータが被っていたはずの帽子。デフォルメされたうさぎのぬいぐるみが縫いつけられていたそれは、紅の魔力となって散り始めていた。

 

 

 

 

「帽子、落としてきちまったなぁ……」

 

 深い闇の中に閉じ込めらてしまったヴィータは、帽子のない頭を一度撫でつけてから呟いた。

 騎士甲冑を展開すれば同時に展開される、のろいうさぎの縫いつけられた帽子。ヴィータの主たる八神はやてが意匠を考えてくれた、お気に入りの帽子である。あるのが当たり前のはずの物がないというのは、どうも落ち着かなかった。

 高町なのはと暴走体の集束砲の激突の一部始終を、ヴィータは地表付近から見ていた。巻き起こった魔力の大爆発ではやて達とは連絡が取れなくなるも、視界までもが潰されたわけではない。身体強化魔法によって視力を強化し、目視による状況把握に努めていたのだ。

 そして、ぼろぼろになりながらも空中で体勢を整えるなのはと、吹き飛んだ頭部を再生させる漆黒の大蛇を見つけたのである。

 漆黒の大蛇はなのはを最も驚異的な存在と認識したのか、動きの鈍ったなのはを仕留めようと攻撃を仕掛けていた。そして、気が付いたときには、ヴィータはなのはを突き飛ばしていたのだ。

 はっきり言ってしまえば、ヴィータはなのはのことが嫌いである。海鳴市で一番最初に遭遇した敵性存在だ。ずっと警戒していた相手を、どうして好きになれるというのか。

 全てがギル・グレアムの手の内だった以上はタイミングの問題だったのかもしれないが、足がつかないように蒐集を行っていたヴィータ達と最初に交戦した魔導師も、なのはだった。なのはがヴィータのことを忘れてさえいれば見逃すはずが、おぼろげながらも覚えられてしまっていたのだ。

 終わるまでは邪魔されないようにと蒐集をしてしまうも、なのはは驚異的な速度で復活。それも、新たなデバイスにカートリッジシステムを引っ提げての登場だ。しつこいにもほどがある。

 そして、ヴィータが何より気に食わなかったのは、如何にも同情的な視線を向けてくることだった。事実そうではあったが、なのははこちらに何かしらの事情があると信じて疑わなかったのだ。

 温かい家族に囲まれているくせに、平気な顔をして危険に首を突っ込んでくる。グラーフアイゼンで叩き潰してやらねば気が済まなかった。

 しかし。

 しかし、だ。

 普通の家族に恵まれていて、信じられないくらいに魔法の才能があって、人の話は聞かないくせに話を聞かせろだのとうるさくて、邪魔で邪魔で仕方がなかったはずなのに。

 助けを求める声を、聞いてくれた。

 危険だとわかっているくせに、協力してくれた。

 似てなんかいないはずなのに、にこにこと笑うその顔は、どこか、ヴィータの大好きな人に似ていて。

 だから、気が付いたときには、なのはのことを助けに向かってしまっていた。裏切り者のグレアムの部下など、囮にでもしてしまえばよかったのに、ヴィータにはそれができなかった。

 

「……ったく、昔はこんなこと、考えようとも思わなかったんだけどなぁ」

 

 紅の鉄騎。

 戦場に出れば、騎士甲冑を血染めにして戦っていたことから付けられた異名。その前に城壁など意味をなさず、全てを叩き潰されると恐れられたものだ。

 そう、恐れられていたはずなのに。

 ヴィータは――いや、ヴィータだけでなく、シグナムもシャマルもザフィーラも、変わってしまった。もちろん、いい方向に。一番変わっていないようでいて最も影響を受けている管制人格などは、立派な名前までもらったのだ。八神颯輔と八神はやての二人への恩は、数え切れないほどにある。

 

「まぁ、こういうあたしも悪くはねぇ」

 

 精神リンクから、はやての動揺が伝わってくる。病院で別れ、しばらくは感じていたはずの颯輔の心は、今は一切感じられない。

 

「大丈夫だよ、はやて。あたしは――あたしらは、はやてを守る騎士で、一緒に生きる家族だ。何が起きたって、絶対はやてのとこに戻ってみせる。絶対に、颯輔を助け出してみせる。……そうだろ、グラーフアイゼン?」

《Ja!》

 

 己が半身を強く握り締め、ヴィータはありったけの魔力を注ぎ込んだ。

 カートリッジを三発ロード。

 紅の魔力光が、闇を照らし始める。

 

「主に迫る脅威を粉砕するのがあたし、鉄槌の騎士ヴィータだ。この腹ぶち破るぞっ、アイゼンッ!」

《Jawohl! Gigantform!》

 

 ヴィータの呼び声に、鉄の伯爵が真の姿を現す。ハンマーヘッドが巨大な角柱へと変形し、込められた魔力に比例して更なる巨大化を始めた。

 フルドライブ形態のギガントフォルムにより、漆黒の蛇の腹が内部から押し広げられる。ヴィータを拘束していた肉壁が離れたことで、ようやくまともにグラーフアイゼンを構えることができた。

 限界まで引き延ばされた腹部が弾け飛び、ヴィータは空の下へと帰還する。空が雲に覆われて薄暗いだろうがなんだろうが、蛇の腹の中に納まっているよりは何倍もマシだった。永遠のような時を戦い続けてきたヴィータでさえ、こんなことは初めての経験だ。

 

『ヴィータっ!』

「ヴィータちゃんっ!」

「轟天爆砕――」

 

 はやてとなのはの声を聞き届け、暴走体を見据えてグラーフアイゼンを振り上げる。巨大化を続けたグラーフアイゼンは、巨大な暴走体にも引けを取らない大きさにまでなっていた。

 障壁破壊の術式を追加し、ヴィータはグラーフアイゼンを振るう。

 

「――ギガントシュラァーーークッ!」

 

 振り下ろされた巨人の一撃が物理障壁に衝突し、そのまま暴走体の巨体を地面へと叩き落とす。ヴィータの腕に凄まじい衝撃が伝わり、ピシリ、と障壁にひびが入った。

 

「――ぶち抜けぇぇぇえええええッッ!!」

 

 そのまま叩き潰さんというほどの勢いで、グラーフアイゼンに更なる魔力と力を込める。

 ガラスの割れるような音と共に、物理障壁が粉々に砕け散った。

 残りの障壁は、魔力と物理の二層。

 ヴィータの遥か後方で、待ち望んでいた魔力がようやく高まりを見せた。

 

「シグナム! ザフィーラ! あと二つだッ!!」

「心得た」

「遅れてすまない」

 

 ヴィータの叫びに答えたのは、二つの声。シャマルの治療を受けて駆け付けた、シグナムとザフィーラだった。まだ完全には回復していないのか、騎士甲冑のところどころに綻びが見られる。しかし、その挙動に頼りなさは微塵も感じられなかった。

 先に仕掛けたのは、レヴァンティンを抜き放ったシグナム。剣の柄と鞘を繋げ合わせると、ラベンダーの魔力光に包まれ、一張の大弓が姿を現した。刃と連結刃に続く、レヴァンティンの遠距離戦闘形態だ。

 ラベンダーの魔法陣がシグナムの足元に浮かび上がり、溢れる魔力が炎となって宙を舞う。

 カートリッジを一発ロード。現れた一本の矢を引き絞り、狙いを定める。

 さらにもう一発、カートリッジをロード。鏃に魔力が集中し、ラベンダーの過剰光を発した。

 ヴィータによって吹き飛ばされたはずの漆黒の大蛇が再生され、頭を上げる。

 

「翔けよ――隼ッ!」

《Sturmfalken!》

 

 矢が大弓を離れ、火の鳥となって飛翔した。

 隼は音速を超え、炎の軌跡と衝撃波を伴って空を翔ける。

 やがて、暴走体の展開する魔力障壁に突き刺さり――抵抗なくそれを貫いて、頭を上げた大蛇の眉間を射抜いた。

 一点に集中していた魔力が解放され、障壁内を業火が嘗め尽くす。

 しかし、全てを焼き払う熱量の中でも、暴走体が蒸発してしまうようなことはなかった。

 焼失と再生を繰り返す暴走体が、右腕を振るって業火を消し飛ばす。

 残る障壁は、あと一層。

 最後の障壁を破ろうと接近するのは、両の腕甲に群青色の光をまとわせたザフィーラだ。

 

「おおおおおおおおおッ!」

 

 固く握った右拳を、雄叫びと共に物理障壁へと叩きつける。

 障壁破壊の効果が発動し、物理障壁に亀裂が走った。

 

「――ておりゃあああああああッッ!!」

 

 一度で破れないならば、もう一度。

 大きく振りかぶった左拳を振り抜き、遂に、最後の障壁が粉々に砕け散る。

 ――直後、戦闘区域にいる者達を、青色の拘束魔法が襲った。

 そして、この場にいる誰よりも強大な魔力の柱が天を衝く。

 藍色の魔力光の中に佇むのは、暴走体を真っ直ぐに見据えたギル・グレアムだった。

 

 

 

 

 もしも暴走体の制御に失敗してしまったときは、どうか俺ごと封印してください。

 それが、闇の書の主である八神颯輔が、特務四課の部隊長であるギル・グレアムへと向けて放った言葉だった。地球の主だった通信方法である携帯電話では、相手がどんな表情をしているのかまではわからない。だがそのときの颯輔の声からは、自らの死をも受け入れるという覚悟を感じ取れた。

 しかし、颯輔にそう言われずとも、グレアムは元よりそのつもりだった。暴走を始めてしまう前に、完成した闇の書をその主ごと凍結封印する。それが、当初からの計画だったのだ。

 颯輔が闇の書の記憶の辿って過去を知ったのは計算外だったが、天はグレアムへと味方をした。なんと、颯輔の方から協定を持ち掛けてきたのである。闇の書の暴走を抑える策を聞かされ、表ではグレアムも協力を約束したが、裏では失敗するだろうとしか思っていなかった。

 闇の書が作りだされたのは千年以上も前。それだけの時間があれば、颯輔のように考えた者などいくらでもいるはずだ。それでも闇の書は『闇の書事件』を引き起こしているのだから、資質程度でどうこうなるような話ではない。

 だから、グレアムは協定を破って強硬策に出た。もしも闇の書が暴走を始めてしまったら、本当に封印ができるかはグレアムにもわからない。例え悪と罵られようとも、少しでも現実的な方法を選んだ方がいい。『闇の書事件』に終止符を打つことができるのならば、いかなる汚名を受ける覚悟も、非人道的な行いを断罪される覚悟も、とっくのとうに固まっていたのだ。

 最前線からは離れ、上空に佇むグレアムは、静かにそのときを待っていた。眼下では、守護騎士達が暴走体の複合障壁を破ろうと、魔力を振り絞って総攻撃をかけている。グレアムの両隣には、ユーノ・スクライアの治療を受けたリーゼ姉妹が控えていた。

 シグナムの攻撃が三層目の障壁を破り、ザフィーラが最後の攻撃を仕掛ける。全員がその行方を見守っており、息をひそめるグレアム達へは意識が向いていないようだった。

 

「では、そろそろ始めるとしよう。ロッテ、アリア、後は頼む」

「任せて父様。誰にも邪魔はさせないから」

「だから父様も、どうか無理をしないで……」

 

 頼もしく頷いてみせるロッテと、グレアムの身を案じるアリア。グレアムが黙って頷きを返すと、二人はその場を離れて行動を開始した。

 ザフィーラが最後の障壁を破り、そして、アリアが戦闘区域にいる全ての者を拘束した。ロッテは短距離瞬間移動を使って四課のメンバーを安全圏まで退避させる。そして、八神はやてとユニゾンしているリインフォースと守護騎士を、総攻撃を受けて再生に徹している暴走体の下へと運んだ。

 グレアムは自身のデバイス、氷結の杖――デュランダルを構え、己が魔力を高めることに集中する。外界の雑音は、もうグレアムの耳には届かなかった。

 

「ブラスターシステム、起動」

《OK Boss. Blaster Mode, Drive ignition.》

 

 グレアムの命令にデュランダルが応じ、藍色の魔力光が溢れて柱を成した。藍色の魔法陣の上に佇むグレアムの周囲を取り巻くは、騎士剣と盾を掛け合わせたような形状をした、四機の浮遊ユニット。侵食型ロストロギアの凍結封印にのみ特化した、デュランダルのフルドライブ形態だ。

 安全性を度外視した魔法の徹底強化。それが、ブラスターシステムの生み出された意味だ。術者とデバイスのリミッターの全てが解除され、グレアムから限界を超えた魔力が引き出される。リンカーコアが酷使に耐え切れずに悲鳴を上げ、グレアムの胸に鋭い痛みが走った。変換されて発生した凍結魔力粒子が周囲の熱を奪い、グレアムの吐く息が白く凍りつく。

 

「……悠久なる凍土よ――」

 

 身体の中で荒れ狂う魔力を、グレアムは必死に制御下に置く。静かに詠唱を始めると、浮遊ユニットが稼働して暴走体を四方から取り囲んだ。

 暴走体の周りでは、リインフォース達が拘束を解こうと足掻いている。しかし、アリアが残存魔力の許す限りを使って拘束魔法を重ねているため、術式が破られる気配はなかった。

 

「凍てつく棺の内にて、永遠の眠りを与えよ――」

 

 グレアムと暴走体との間に、ミントグリーンの転移魔法陣が浮かび上がる。非戦闘区域にいたはずのシャマルとユーノ・スクライア、そして、アルフの三人が現れた。

 三人を退けようと迫るロッテに、アルフが応戦を始める。シャマルとユーノが、二人がかりでグレアムに向けて防壁を張った。

 しかし、グレアムは魔法の発動を止めない。暴走体の複合障壁ならばいざ知らず、ブラスターシステムの恩恵を受けた魔法ならば、あの程度の防壁を破ることは容易いだろう。そして、今更犠牲が増えようとも、それは大事の前の小事でしかない。

 十一年前に、グレアムは誓ったのだ。

 『闇の書事件』の悲劇を止めるためならば、いくらでも己が手を汚してみせる、と。

 

「――凍てつけッッ!!」

《Eternal Coffin.》

 

 デュランダルの穂先が指し示す目標へ、極大の凍結魔法が放たれた。

 デュランダルから、そして、四機の浮遊ユニットから、藍色の極低温冷気が暴走体へと伸びる。

 鮮やかな緑の防壁は一瞬にして凍りつき、凍結魔力粒子となって砕け散った。

 光を乱反射しながら舞い踊り、視界を遮る氷の煙。その中へ、五条の魔力光が射し込んでいく。

 程なくして、デュランダルを通して確かに感じる手応え。極低温冷気の放出を終えたデュランダルが、術式の高速処理で発生した熱を蒸気に変えて排出した。

 グレアムの眼下に広がっているのは、障壁の代わりに身を守ろうとしたのか、翼で身体を包み込むようにしている暴走体。不定形のはずの翼も、継ぎ接ぎだらけの体も、その全てが凍りついていた。

 巨大な氷のオブジェが動き出すような気配はない。場を支配していた圧倒的な魔力も、今は感じられなくなっていた。

 

「……終わった、か」

 

 十一年に及ぶ醜い復讐劇。その幕がようやく下りたのを感じ取って、グレアムが深く肩を落とす。もう飛行魔法の維持が精々の魔力しか残っておらず、四機の浮遊ユニットが光に包まれて消えた。

 

「――まだ、終わらせへんっ!」

 

 しかし、直後に上空から聞こえてきたのは、暴走体と共に凍りついたはずのもう一人の主、八神はやての声だった。

 

 

 

 

 八神はやてがユニゾンしたリインフォースとシグナム達、そして、闇の書の暴走体――八神颯輔に迫るのは、壮絶な覚悟と絶対的な魔力の奔流だった。

 死を予感させる広域凍結魔法が、五条の光となって放たれる。ユニゾンにより限定的にでもリインフォースの知識を得ているはやてには、それがもたらす結果が見えてしまっていた。

 

『シャマルっ、ユーノ君っ! 今ならまだ間に合うから、今すぐ逃げ――』

「――逃げませんっ! 絶対っ、絶対っ、逃げませんっ!」

「どっちにしろ、全員を転移させるのは間に合わないよ。もう、あの攻撃を防ぎきるしか方法はない」

 

 せめて拘束されていないシャマルと、そもそも巻き込んでしまっただけのユーノ・スクライアだけでも、と思ってはやてが声を大きくするも、シャマルの叫びに途中でかき消される。静まった場に、やけに落ち着いたユーノの声がよく通った。

 リインフォースもシグナム達も、拘束魔法を解こうと必死になっている。しかし、解け始めた途端に再発動され、動くこともできずにいた。迫る大魔法は、シャマルとユーノの二人に防げるようなものではない。

 極低温冷気が一瞬にして防壁を凍りつかせ、粉々に砕く。

 ここで全てが終わるのだ、とはやては目を伏せるも、襲いくるはずの冷気はなかった。

 

「そんな、まさか……」

「颯輔君、なの……?」

 

 はやての耳に届いたのは、ユーノとシャマルの驚きと戸惑いの声。急いで顔を上げたはやての視界に飛び込んできたのは、空を覆う凍りついた鮮血の翼だった。

 暴走体の展開する不定形の翼が、はやて達を守るかのようにグレアムの魔法を受けていた。

 

「颯輔っ! 颯輔ぇっ!」

「颯輔っ! 私の声が聞こえますかっ!?」

 

 ヴィータとシグナムが叫ぶように呼びかける。

 暴走体の本体――颯輔の仮面に覆われた顔は、何も答えず天を仰いでいた。

 

「お止め下さい颯輔っ!」

「もういいのですっ、主颯輔っ!」

 

 ザフィーラとリインフォースが悲痛な叫びを上げる。

 はやて達を庇う翼を冷気が伝わり、暴走体の体が凍りついていく。再生の追いついていない部分が、凍った端から崩れ始めていた。

 はやて達のそれぞれの足元に、漆黒の魔法陣が浮かび上がる。それは、ベルカ式の転移魔法陣の紋様を描いていた。その魔力光は、暴走体のものだ。

 暴走体がグレアムの攻撃からはやて達を庇い、あまつさえ、転移魔法まで行使して逃がそうとしている。

 それはつまり、八神颯輔の意識が暴走体にも確かに宿っているということで。

 

『お兄ぃーーーっ!』

 

 しかし、はやての呼び声にも、暴走体は反応を示さない。颯輔の顔は、天を仰いだまま凍り付いてしまっていた。

 遂に暴走体の全身が凍りつき、極低温冷気がはやて達をも氷漬けにしようと迫ってくる。それがはやて達へ及ぶ前に、はやての視界は漆黒の光に包まれた。

 光が晴れた次の瞬間、はやて達がいたのは灰色をした雲の上だった。天には無数の星の光が瞬いており、その中に薄らとアースラのシルエットが窺える。雲の下の地表からは、急速に萎んでいくグレアムの魔力が感じられた。

 転移先は、エルトリアの遥か上空。リーゼアリアによる拘束は、完全に解けていた。

 

「私達だけが、逃がされたというのか……!」

「そんなっ、せっかく颯輔の意識が戻ったってのにっ、何でだよっ!?」

「落ち着け二人共。……まだ我らにも、できることが必ず残されているはずだ」

「ええ、きっと。……でも、ここだとアースラから観測されてしまうわ。まだ私達には気づいていないみたいだけど、時間の問題よ」

「…………ああ、いえ、僕から知らせたりとかはしませんから、大丈夫です。グレアム提督は、僕がいても攻撃してきたわけですから……」

 

 ザフィーラとシャマルの言葉にいくらか冷静さを取り戻したシグナムとヴィータが、今度は一人管理局側の人間であるユーノへと鋭い目を向ける。びくりと肩を震わせ焦りを見せたユーノは、小さくなって尻すぼみの弁明をしていた。

 そのやり取りを目と耳に収めながらも、はやては借り物の知識を巡らせる。

 颯輔が受けたのは、大出力の広域凍結魔法。

 暴走体の再生力を頼ることになるが、単純に考えてしまえば、同威力の反対魔法をぶつければ、凍結封印を解くことができるかもしれない。

 

『シグナム、さっきの攻撃で、お兄の封印解いたりできへんか?』

「……申し訳ありません。炎熱変換資質は確かに凍結魔法と相反する関係にありますが、しかし、私の魔力では、あの者には及びません……」

『そんな……』

 

 はやての問いかけに、シグナムは悔しげに目を伏せる。守護騎士の中では随一の魔力量を持つシグナムにもできないとなれば、話は振り出しに戻ってしまう。

 

「――いえ、主はやてにならば、不可能ではないかもしれません」

 

 落ち込むはやての心を引き上げたのは、すかさず否定の言葉を返したリインフォースだった。

 

『わたしに……?』

「ええ。貴女の魔力量と最大魔力放出量は、私達の中でも群を抜いています。邪魔が入らなければ、あるいは――いえ、確実に。主はやてにならば、主颯輔を救い出すことも可能です」

『わたしが、お兄を……助ける……!』

 

 改めてその言葉を口に出し、はやての心は、完全に固まった。

 

「『ユニゾンシフト』」

 

 リインフォースとはやてが入れ替わり、はやてが『表』へと出る。漆黒に染まっていた騎士甲冑が純白に染まり、杖と夜天の魔導書がはやての手に形成された。

 戦闘による疲労が溜まっているのか、軽かったはずの体が鉛のように重く感じる。それでも、強い想いがはやてに上を向かせた。

 

「いくよ、皆」

 

 はやての言葉にシグナムが、ヴィータが、シャマルが、ザフィーラが、内なるリインフォースが、そして、ユーノさえもが大きく頷く。

 もう一度一人一人の顔を確認したはやては、純白の翼を羽ばたかせた。灰色の雲を翼で斬り裂き、再び戦場へと舞い戻る。雲を抜けると、体を抱くようにして氷漬けとなっている暴走体と、宙に佇むグレアムの小さな背中を見つけた。

 

「……終わった、か」

「――まだ、終わらせへんっ!」

 

 力なく呟くグレアムの声を拾い、はやてはそれに語気を強めて否定した。グレアムが振り向き、はやてと視線が交差する。保護者であったはずのグレアムと、久しぶりに言葉を交わして顔を合わせるのが、まさか戦場になろうとは、いったい誰が予想できただろうか。

 グレアムから離れた位置に停止し、はやては夜天の魔導書を開いた。

 白き魔法陣が描かれる横を、シグナムとヴィータが翔け抜けていく。二人が迎え撃つのは、はやて達の無事を知ったリーゼ姉妹だ。

 ザフィーラとシャマルの二人がはやての両隣に構え、不意打ちに備える。ユーノは、未だ拘束されたままのなのは達を助けに向かった。

 

「『――開け、天上の門』」

 

 声を重ね、はやてとリインフォースはその呪文を唱え始めた。

 二人の高まる魔力が共鳴し、魔法陣が輝度を上げる。

 

「『――我が乞うは原初の火』」

 

 封印に魔力を使い果たしてしまったのか、グレアムが何かを仕掛けてくる様子はない。

 シグナムとヴィータは、ロッテにアリアとの戦闘へと入った。

 白く輝く光が集い、二つの魔力球を形成していく。

 

「『――清浄なる炎もて、咎人の血を雪がん』」

 

 八神はやての魔力量はギル・グレアムと同等だが、先ほどの広域凍結魔法に込められた魔力に匹敵するほどの魔力を一度に放出することは不可能。

 あれは、自身の命を代償として支払ったために許された魔法だ。

 故に、足りない分はこの場に満ち満ちた魔力素で補う。

 夜天に輝く二つの光が、巨大な恒星へと成長を遂げた。

 

「『ウアタイル・デス・リヒテス――ッ!』」

 

 二つの発射体から、白熱する極光が降り注いだ。

 二条の極光は交わり巨大な柱となって、氷漬けの暴走体を包み込む。

 熱気と冷気がぶつかり合い、濃霧のような水蒸気を発生させた。

 はやてとリインフォースが発動したのは、一国の王宮を跡形もなく蒸発させたという広域炎熱魔法。当然非殺傷設定ではあるが、直撃を受ければ怪我では済まされないほどの大魔法だ。放出した魔力量はグレアムの魔法に一歩及ばない程度だが、十分な威力があったはずだった。

 炎熱魔力の照射が終わり、水蒸気が晴れた先には、不定形を取り戻した鮮血の翼があった。地表に触れている尻尾にはいくらか氷が残っているが、体表を覆っていた氷のほとんどは消失している。凍結封印の解除には成功したようだった。

 問題は、この後どちらへ転ぶか。

 そして、鮮血の翼が揺らめき、左右に開いた。

 

「…………■■■■■■■―――ッ!!」

 

 恨みの籠った咆哮を上げたのは、闇の書の暴走体。体表はぐずぐずに焼け爛れており、体のあちこちが欠けてしまっていた。

 肥大化した赤黒い右腕は中ほどから千切れており、背中から生えていたはずの触手は消え失せ、そのどちらもが再生する兆しを見せていない。いくらか凍りついたままの尻尾は動きもしないのか、そのままの形を保ったままだ。背後に浮かぶ円環は、壊れてしまったかのように回転と停止を交互に繰り返していた。

 暴走体にも痛覚はあるのか、狂ったように咆哮を続けている。そこには、颯輔の意識があるようには思えなかった。

 目を背けたくなる痛ましい光景に、はやては口元を押さえる。しかし、それでも視線を逸らさず、天に祈る想いで変化を探し続けた。

 そして、暴走体の胸元に、その変化を見つける。そこには一度封印される前まではなかったはずの、真紅に輝く結晶体があった。

 はやての直感が告げる。

 その真紅の結晶体こそが、全ての元凶だと。

 しかし、結晶体の周囲の体表が蠢き、それを体内へと隠そうとしていた。

 

「シャマルっ! 胸元っ、あの紅い結晶捕まえてっ!」

「はいっ!」

 

 はやての指示と共にシャマルのクラールヴィントが煌めき、転移魔法の応用によって真紅の結晶体の位置座標を固定する。同時に、沈黙していた左腕の漆黒の大蛇が鎌首をもたげ、風船のように膨れ上がり、弾け、中から大量の蛇が顔を出した。

 小さかったはずの蛇はみるみるうちに成長し、一匹一匹が大蛇へと変貌を遂げる。大蛇の群れはまるで、結晶体を守るかのように暴走体の身体を取り巻き始めていた。

 

「ザフィーラは蛇の動きを止めてくれへんか? さっきのあれは、わたしが壊してくる」

「しかし――」

「――わたしやないとあかんねん。お願いや」

「……はやて、お気を付けて」

「ん、おおきに」

 

 指示に反対するザフィーラを遮り、はやてはまっすぐにその目を見つめる。やがて、はやての意思を尊重してくれたのか、ザフィーラは小さく息を吐き出し、微笑と共に頷いてくれた。

 シグナムとヴィータが足止めをしている今、最も突破力があるのは、はやてとリインフォースだ。勘頼りだが、おそらく、結晶体を破壊できるのは自分だけだろう。シグナムとヴィータの手が空いていたとしても、同じ指示を出したかもしれない。

 

「ごめんな、リインフォース。もうちょっとだけ、力貸してな」

『はい、我が主』

 

 内なるリインフォースに語りかけ、はやては杖を掲げた。

 

「『夜天の光よ、我が手に集え』」

 

 白い魔力光が、薄らとはやての体を覆う。防御と飛行魔法を制御する分の魔力を残し、残る全てを杖の剣十字へと込めた。過剰魔力の込められた杖が、激しい光を発する。

 今度こそ、終わりにする。

 一度深呼吸をしたはやてを、桜色の砲撃が、淡い緑色とオレンジの鎖が追い抜いて行った。砲撃は大蛇の群れに僅かに隙間を開け、二本の鎖がその周りの大蛇の壁を拘束して穴を広げる。それは、なのはとユーノ、そして、アルフの魔法だった。

 

「いくよ、はやて!」

「――うん、フェイトちゃん!」

 

 四肢に光翼を展開し、黄金の鎌を左手に携えたフェイトが駆け付け、はやてに向けて右手を伸ばしていた。はやては夜天の魔導書を待機状態に戻し、空いた左手でフェイトの手を取る。フェイトに手を引かれ、はやては杖を構えて飛び出した。

 金と白の光を、桜色の魔力弾が追い抜いて行く。大蛇の群れから伸びる小さな蛇が、正確無比なコントロールによって一掃された。続いて群れを離れた二匹の大蛇は、大地より伸びる白い拘束条によって締め上げられる。

 

「はやてっ!」

「遅れてしまい、申し訳ありません。それから……ありがとう、テスタロッサ」

 

 はやてにリインフォースとフェイトの三人に合流したのは、リーゼ姉妹と戦闘を続けていたはずのヴィータとシグナムだった。

 相手の二人はどうしたのか、と魔力を探って目を向けてみれば、そこには、クロノによって拘束されているリーゼ姉妹の姿があった。凍結封印が解除された今、もはや戦う理由はなくなってしまったのか、二人に抵抗するような素振りは見られない。リーゼ姉妹と同じ様子のグレアムが、三人の下へと降り立っていた。

 はやては視線を前方へと戻し、そして、必要以上の言葉はもう交わさず、ただただ目標を目指して空を翔けた。

 フェイトがはやての手を離し、シグナムと共に前へ出た。左右から一つずつカートリッジがロードされ、空の薬莢が後方へと流れていく。レヴァンティンに炎を宿らせたシグナムが、魔力刃に紫電を走らせたフェイトが、先陣を切って大蛇の群れへと突入した。

 漆黒の闇の中で、ラベンダーと金色の閃光が何度も何度も明滅する。二つの光が瞬く度に大蛇が断ち切られ、その密度をみるみるうちに薄くしていった。

 なのはの砲撃が空けた穴がさらに大きくなり、その度に、二色の鎖と拘束条が大蛇を締め上げていく。

 ヴィータが前に出て、はやてがその後ろに続く。文字通りにシグナムとフェイトが切り拓いた道は広く、ヴィータがグラーフアイゼンを振るうスペースが十分にあった。

 紅の魔力光が、穴の奥を照らし出す。深い闇の先に、光を受けて反射する宝石の輝きを見つけた。

 紅に染まった戦鎚が振るわれ、最後の壁を破砕する。はやての進む前方に、真紅の結晶体を胸にした颯輔の体が現れた。

 白き羽が舞い散り、流星となって闇を翔ける。

 

「――届けぇぇぇえええええええっっ!!」

 

 漆黒の闇と、純白の光が衝突した。

 

 

 

 

 氷のように冷たい手をした高町美由希に連れられ、八神颯輔は神社の敷地内、その外れへと迷い込んでいた。

 初詣に賑わっていたはずの参拝客の姿はほとんど見られず、新雪が積もったままの地面は、とても道とは思えない。それでも美由希は、明確な目的地があるかのように颯輔の手を引いていた。

 

「ちょっとっ、待ってよ美由希さんっ!」

「………………」

 

 さすがに不審に思って颯輔が呼ぶも、美由希からの反応はない。おかしいと言えば、先ほどから颯輔の体調もおかしかった。

 美由希にこうしてどこかへ案内されるまでは何の異常も感じられなかったはずが、今はズキズキと頭が痛い。早足で歩いているだけのはずなのに、まるで、マラソンをした後のように体が重かった。

 そして、颯輔の胸の奥の何かが、第六感のような何かが、これ以上はいけないと警鐘を鳴らしている。これ以上進んでしまえば戻ってこれなくなるかのような、どこにも辿りつけなくなるかのような、そんな、絶望にも似た感覚を覚えていた。

 

「ちょっと待ってってばっ!」

「…………」

 

 多少申し訳なく思いつつも、美由希の手を強く引いて立ち止まらせた。迷い込んだ林の中には、颯輔と美由希の二人以外に誰の姿も見当たらなかった。

 美由希が颯輔の方へと向き直る。しかし、美由希は俯いたままで、灯りが届かないこともあってか、その表情は窺えなかった。

 

「美由希さん、ちょっと変だよ? いったいどうし――って、美由希さんっ!?」

 

 颯輔の胸に、微かな衝撃が伝わる。

 二人の間の距離を詰めた美由希が颯輔の胸に飛び込み、背中に強く腕を回していた。

 

「……颯輔君、私のこと、好き?」

 

――私達は、あなたの家族ではないのですかっ……!

 

 見上げてくる美由希の姿が、大切な誰かと重なった。

 所々が破れた騎士甲冑と、火傷をして赤黒く染まった肌。

 ポニーテールに結わえた桃色の長髪と、凛々しいはずの目から零れる涙。

 かけがえのない、大切な家族の一人。

 

「……シグナ――」

「――だめっ! だめだよっ! 今は私だけを見てっ!」

 

 蘇った記憶の彼女の名前を呼ぼうとしたとき、それをかき消すように美由希が叫んだ。暗い金色の瞳に大粒の涙を溜め、懇願するように、颯輔に縋りついてくる。

 

「お願いっ、お願いですっ! わたしを、もうひとりぼっちにしないでください……っ!」

 

 一度目を閉じた颯輔は、深い溜息を吐き出した。すると、胸にあったはずの重みが消え、冬の寒さもなくなって何も感じられなくなってしまう。

 颯輔が再び目を開くと、そこはもう、神社の外れの林の中などではなかった。空も木も雪も寒さも、そして、高町美由希も存在しない暗闇の空間。

 そこは、颯輔のよく知る世界だった。

 颯輔は膝を折って屈み、目の前で泣きじゃくる小さな少女を抱きしめた。細い身体の少女は颯輔の首へと腕を回し、声を上げて泣き始める。颯輔は右手で少女の背中を擦り、左手では波打つ金の長髪の上から頭を撫でた。

 

「大丈夫、俺はここにいるよ。君をひとりぼっちになんてしないから」

 

 鮮血の生地に、揺らめく炎のような紋様の入った装束の少女。『闇の書』が生まれてから、たった独りでこの世界に幽閉されていた少女。

 防衛プログラム――ナハトヴァールを狂わせていたモノ。

 闇の書の、闇。

 永遠の果てに巡り会った、一人の小さな女の子。

 それが、颯輔の腕の中の少女だった。

 先ほどまで颯輔がいた世界は、少女が見せた幻想の世界。八神はやても、シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、リインフォースもいない世界。颯輔の願った、『普通の暮らし』をすることができる世界だった。

 改めて思い返せば、おかしな所はいくらでもあった。颯輔は美由希の家など訪ねたことがないため、その場所を知っているはずがなく、そして何より、両親が生きていたのなら、海鳴市へと転居することもなかったはずなのだ。闇の書が蒐集した記憶を利用され、颯輔が深層で望んだ世界が作られていた。

 

「でもダメだぞ? 勝手に高町に化けたりしたらさ。……いや、まあ、俺にもいけないところはあったと思うけど」

「ですがっ、わたしはっ……!」

「……うん、まあ、仕方ないよな」

 

 少女は、管制人格たるリインフォースでさえ知覚できない領域にいたのだ。誰にも存在を気づいてもらえず、外の世界に恋い焦がれるだけ。そして、外の世界への想いが強くなるほど、刻み込まれた破壊衝動が抑えられなくなってしまう。

 しかし、少女は出会ってしまった。

 リインフォース以上に孤独な世界で、そこに迷い込んできた八神颯輔と。

 闇の書にエネルギーを供給するだけの存在だった少女には、シグナム達やリインフォースのように外界とのかかわりを持つ手段がない。しかし、颯輔が中途半端に接触してしまったせいで、永遠の孤独に耐えられなくなってしまったのだ。

 だから、少女は颯輔を自身の世界へと引き込んだ。誰にも邪魔をされない永遠の世界へと颯輔を閉じ込め、未来永劫の孤独から脱しようとした。それしか渇きを潤す方法がなかったから。

 

「そうすけっ、そうすけっ、そうすけぇっ!」

「うん……」

 

 他人の温もりを知ってしまった少女は、駄々を捏ねる子供のように、もっともっとと颯輔を求め続ける。颯輔は、はやてやヴィータよりも小さな少女を壊してしまわないようにと注意しながら、少しだけ抱き寄せる力を強くした。

 その拍子にローブの左袖が下がり、颯輔の左手首が露わになる。そこには腕時計などではなく、待機状態のナハトヴァールが巻きつけられていた。

 あまり、こうしてゆっくりはしていられない。

 

「君なら、ナハトの暴走を止められるんじゃないのか?」

「……できません」

「……本当に?」

「自分では、止められないんです……」

「そっか……」

 

 少女の答えに、颯輔は再び深い溜息を吐き出した。

 颯輔の溜息に、少女の体が大きく震え、つかまる力がぎゅっと強くなる。嘘ではないのだろうが、例え止められたとしても、少女が自分の意思で止めてくれるかは怪しいところだった。

 どうしたものか、と颯輔が悩んでいると、首を回した少女が、ぴたりと額をつけてくる。少女は、いたずらを告白して怒られてしまうのを怖がる子供ような、そんな顔をしていた。

 

「あの……ほんとは、今なら止められるかもしれない、です……」

「本当?」

「でも、でも、そうしたら全部が終わってしまう……。……颯輔、あなたはそれでもいいのですか? あなたが選べるのは、自分一人か、他の全てか、なんですよ?」

 

 最後の問いかけをしてきた少女は、外見相応ではなく、その本質を見せている。自分と、大切なもの以外はどうなってもいい。その表情に、颯輔は背中が粟立つのを感じた。

 少女の問いは、言葉どおりの意味なのだろう。

 自分一人だけが生き残って他の全てを滅ぼすか、自分一人だけを滅ぼして他の全てを救うか、その二択。

 だが、どちらを選んだとしても、『八神颯輔』としての未来はない。

 『人間だった八神颯輔』は、もう生きてはいないのだから。

 だから、颯輔の選んだ答えは当然――

 

「ごめん、ナハトを止めよう」

 

 後者。

 自分と、大切な人達。

 天秤にかけるような問題でも、そもそも、かけていい問題でもない。

 

「……わかりました」

 

 永遠の孤独に囚われていた少女は、寂しそうに笑って――

 

「『ユニゾン、イン』」

 

 颯輔と共に、永遠を捨てることを選んでくれた。

 

 

 

 

 八神颯輔は、失っていた現実の肉体の感覚を取り戻した。

 暴走を止めるためとはいえ、よくもまあここまでしてくれたものだ、と思う。もちろん、そうするしか方法がなかったのは十分に理解しているつもりだが、起きた瞬間に右腕が千切れていたり、左腕がズタズタに切り裂かれていたり、足が氷漬けにされていたりもすれば、そう思ってしまうのも仕方がないだろう。

 視界を隠していた仮面が外れると、荒れ果てたエルトリアの世界が目に飛び込んでくる。その世界で一番最初に見つけたのは、淡い銀色の髪で、蒼く澄んだ目から止めどない涙を流している、誰よりも愛しい少女だった。

 

「■■■……」

 

 名前を呼ぼうとして出てきた自分の声を聞いて、颯輔は驚いた。胴体と頭だけはまともな形を保っていたのだが、人語を話せるような構造にはなっていなかったらしい。

 自分に呆れて溜息をついたつもりが、口から出たのは獣のような唸り声だった。

 

「お兄……なんか……?」

 

 はやての疑問の声を聞き、颯輔は自身の状態を把握するのを急いだ。

 まともに動くのは首から上だけで、異形の手足は動かすことなどできない。念話ならどうかと試そうとするも、使おうとした途端に胸に鋭い痛みが走った。

 胸の中央には、亀裂が入ってくすんでしまっている結晶体があった。内にいるはずの少女が感じられないのは、その核を損傷しているためのようだった。

 『今なら』というのは、つまり、そういうことだったらしい。

 ともかく、痛みは感じても耐えられないというほどではなく、また、魔法を使えなくなっているというわけもなかった。

 胸の痛みに耐えながら、颯輔は再生機能を稼働させた。イメージするのは人間だった頃の自分の姿。なにかを壊すために自身を強化する必要などはない。ただ、以前の自分の身体を取り戻すだけでいいのだ。

 暴走体としての肉体が魔力素に還り、周囲に漆黒の光を撒き散らす。その中心にいたのは、ナハトヴァールに取り込まれる以前の姿をした颯輔だった。ただし、胸の中央には、結晶体がローブの上から埋め込まれていた。

 鮮血の翼を展開し、空中を滑るように移動する。颯輔は、目を見開いているはやてを腕の中へと迎え入れた。

 

「ただいま、はやて、リインフォース」

「……おにぃ」

 

 震える声を漏らすはやての手から杖がこぼれ落ち、光に包まれて消失する。確かめるように颯輔の背中へと腕を回したはやては、やがて、幼子のように声を上げて泣き始めた。

 うしろめたい気持ちを抱きながら、颯輔ははやての頭をそっと撫でつける。ぬか喜びをさせることになってしまうが、今だけは、こうしていたかった。

 

『主颯輔……よくぞ、ご無事で……!』

『あー……ごめん、無事じゃあないんだ。言いたくないけど、あんまり喜ばない方がいい』

『それは、いったい……?』

『実は――』

「――颯輔ぇーーーっ!!」

『悪い。もう少ししたら話す』

『……はい』

 

 はやてには聞こえないようにと念話をリインフォースと交わすうちに、駆け付けたヴィータが背中側から抱き着いてきた。リインフォースに断りの念話を入れ、一先ずもう一人の幼子をあやす。少しだけ、この姿にはならない方がよかったと後悔した。

 ヴィータに続き、シグナムが、シャマルが、ザフィーラが、そして、高町なのはやフェイト・テスタロッサ達も颯輔達の周りに集まってくる。家族には揉みくちゃにされ、その様子を微笑ましく見守られ、幸福に見えれば見えるほど、その幸せが颯輔の胸を締め付けた。

 

「よかった……本当によかった……!」

「ありがとう、シグナム」

「おかえりなさいっ……颯輔君っ……!」

「ただいま、シャマル」

「これだけ皆に心配をかけたさせたのですから、帰りが遅くなるようなら事前に連絡してください」

「ごめんな、ザフィーラ」

 

 隙間を埋めるように左右から腕を回してくるシグナムとシャマルには鼓動を早められ、腕を組んで呆れているというポーズをしているザフィーラには苦笑をさせられた。

 

「颯輔さんって、やっぱりお姉ちゃんのクラスの集合写真に写ってた……」

「そのとおり。なのはちゃんとは会ったことがあるけど、一応、初めましてかな?」

「あの……無事でよかったです、颯輔さん」

「フェイトちゃんには、迷惑をかけちゃったね……」

 

 感付いてはいても確証はなかったのか、驚きと納得が半々の顔をしているなのはには少しおどけて挨拶を、もらい泣きをしてしまっているフェイトには、素直に頭を下げた。

 どちらも知らない子ではない。まだ小さな女の子に尻拭いを押し付けてしまったのだから、その厄介さを思うと颯輔は頭が上がらなかった。

 なのはとフェイトから一歩退いた位置では、いい話だねぇ、と主人以上にもらい泣きをしているアルフが、隣のユーノ・スクライアに宥められている。こちらの協力者は裏表がなさそうで助かった、と颯輔が一安心していると、黒いバリアジャケットに身を包んだ少年が現れた。

 クロノ・ハラオウン。闇の書に運命を狂わされてしまった、被害者の一人。

 

「感動の対面をしているところで僕としても心苦しいのだが……時空管理局特務四課所属の執務官、クロノ・ハラオウンだ。君が闇の書の主、八神颯輔で間違いないな?」

「ああ。守護騎士に蒐集をさせたのも、管理局を攻撃したのも、全部、俺がやったことだ」

「できれば艦まで同行を願いたいのだが……拘束は必要か?」

「拘束の必要はない。それから、悪いが同行するつもりもない」

「……どういうつもりだ?」

 

 温かかったはずの場の空気が、颯輔の一言で凍りついた。八神家と管理局の双方に緊張が走り、シグナムとヴィータとシャマルが戸惑いを見せながらも颯輔から離れ、いつでも行動をできるようにと構えている。颯輔と向かいあったクロノは、その手に持った杖に力を込めていた。

 これで多少は切り出し易くなった、と緊張の中にも安堵を感じる。颯輔は、抵抗の意思はない、と両手を上げた。シグナム達に視線を送って諌めてから、クロノへと向き直る。

 

「争うつもりはない。……だけど、まだ終わりじゃないんだ」

「……説明してもらおうか?」

「俺はもう、『八神颯輔』という人間じゃない。ナハトヴァールに取り込まれた、闇の書の暴走体だ。そして、今は一時的に止まっているだけで、修復が終わればまた暴走が始まってしまう」

「修復、だと?」

 

 目を細めるクロノに、颯輔は胸にある結晶体を指し示してみせた。結晶体には、はやてが付けたはずの亀裂が入っていて、しかしそれは、最初の亀裂よりも小さくなってしまっていた。

 颯輔が再生機能を稼働させると、結晶体が真紅に輝き、亀裂の修復が目に見えて早くなる。その様子を見せて知らせ、颯輔は再生機能を再び停止させた。

 

「この結晶体は、闇の書の、そして、ナハトヴァールの核だ。夜天の魔導書を闇の書へと変えた、全ての元凶……。機能を停止させているこれを完全に破壊しなければ、『闇の書事件』は終わらない」

「それは、つまり……」

「俺が生きてる間は終わらないってことさ。そして……」

「アルカンシェルを使え、と?」

「それしかないだろうな」

 

 今度こそ、この場から温かな雰囲気が完全に消え去った。

 失敗してしまった場合、どうなるかを知っていたためか、シグナム達には思った以上の動揺は見られない。しかし、その表情から笑顔は消え、真実を知ってしまったときのような、そんな悲しい顔をしていた。

 訪れた沈黙を破ったのは、颯輔に縋りついて泣き続けているはやてだった。

 

「そんな、いややっ……! おにぃゆうてたやんかぁっ、ずっとわたしのそばにおるって、ゆうてたやんかぁっ……!」

「……ごめん」

 

 颯輔には、泣き叫ぶはやてをただ抱き締めて謝ることしかできなかった。

 

「あやまんなくてええっ! そんなんききとうないっ! ちゃんとかえってきたんやからっ、またなんとかしてよぉっ!」

「……ごめん」

「やぁっ! ……リインフォース、おにぃのことたすけて……っ!」

『……申し訳ありません』

「……っ! そや、シャマルならおにぃのわるいとこなおせるやろ? な?」

「それは……」

「はやて、もうどんなことをしたって――」

「――クロノくんはっ!? まほうなんてつかえるんや、かんりきょくなら――」

「――はやてっ!!」

「……っ、うぅ、うあああああああああああああああっ」

 

 颯輔は怒鳴り声を上げて、はやての言葉を無理矢理に切った。叱ることはあっても怒ることは二度としないつもりが、上手く感情が抑えきれなかった。視界は歪み、涙が頬を伝ってはやての髪を濡らしていく。

 颯輔だって、助かる方法があるのならばそれを選びたい。しかし、夜天の魔導書と闇の書の知識を得た今でも、そんな方法は見つからなかったのだ。

 もともと雲を掴むような話だったのだ。こうなることくらい、闇の書の侵食を受けていることを知った時から、予想はできていた。

 

「シグナム。これから大変だと思うけど、ちゃんと皆のことを引っ張っていってほしい。それから、あんまりヴィータとケンカするなよ」

「はい……!」

「ヴィータ。はやてが寂しい思いをしないように、傍にいてやってくれ。お腹壊しちゃうから、アイスは食べ過ぎちゃダメだからな」

「うん……!」

「シャマル。ケンカとか始まったら、ちゃんと止めるんだぞ。あと、料理はもうちょっと練習だな」

「……わかりました」

「ザフィーラ。家族のこと、これからも守ってもらいたい。男一人なんだから、頼んだぞ」

「……任されました」

「ありがとう、皆。皆が俺達のところに来てくれて、嬉しかった……皆と一緒に暮らせて、本当に幸せだった……!」

 

 はやての誕生日に突然現れたこと。

 皆揃って食事をしたこと。

 協力して家事をしたこと。

 花火を観に行ったこと。

 旅行をしたこと。

 今までの思い出を振り返りながら、颯輔は一人一人に声をかけていった。

 

「リインフォース。これからは、家族のことはちゃんと名前で呼ぶんだぞ」

『はい』

『……それから、ちゃんと助けてやれなくてごめんな』

『いいえ、私は貴方によって救われました。ですが、私は誓いを果たせずに……』

『いいや、こうして戻って来られたんだ。ありがとう、リインフォース』

『……私の方こそ、ありがとうございます』

「……なのはちゃん、フェイトちゃん。はやて、春から聖祥に通うんだ。もしよかったら、仲良くしてあげてくれないかな?」

「そんなっ、こっちこそっ、よろしくお願いしますっ!」

「私、もうはやてとは友達ですよ?」

「……ありがとう」

 

 リインフォースと、なのはとフェイトにも礼を言って。

 

「クロノ・ハラオウン。君には、今まで辛い思いをさせた。許してくれとは言わない、恨んでくれていい。ただ一言だけ……すまなかった」

「……君が謝ることじゃあない。……もしも次があったとしたら、今度は管理局に頼ることを勧める」

 

 クロノには、これまでの全てを謝罪した。

 そして、こちらの輪には加わらず、己が使い魔と共に離れた位置で見守るグレアムに目を向けて。

 

『グレアムおじさん、今度こそ、うちの子達をよろしくお願いします』

『……ああ』

『もしもまた裏切ったりしたら、俺、絶対に許しませんから』

『約束しよう。私が生きている限りは、彼女達に暗い道は歩ませない』

 

 最後に、はやてを抱き直した。

 

「はやて。一つだけ、約束してほしい」

「…………」

「これからも家族を大切にして、皆で仲良く暮らすこと。な?」

「…………ん」

「ん、いい子だ」

 

 はやては、胸に顔を埋めながらも小さく頷いてくれた。

 颯輔は手を伸ばし、帽子を取ったはやての頭をくしゃくしゃと撫で、乱れた髪に手櫛を入れる。誰かの温もりを感じるのは、これが最後だ。

 はやての腕が解かれ、真っ赤に腫れた顔が颯輔を向く。

 

「……お兄」

「ん?」

「……大好き」

「……ああ……俺も、大好きだ」

 

 颯輔は、袖を使ってはやての顔の涙の跡を綺麗に拭った。

 涙はやはり途切れずに、それでも、はやては必死に笑おうとしていて。

 颯輔はその笑顔を焼き付けて、前髪をかき上げたはやての小さな額に、そっとキスを落とした。

 

「それじゃあ、さよならだ」

 

 最後に一度、泣き笑いをしながら皆の顔を見て。

 颯輔は、鮮血の翼で空を叩いた。

 高く、高く、天を目指し、空を昇っていく。

 灰色の雲を突き破ると、雲の下には届かなかった星の瞬きが見えた。

 涙も凍る寒さを、しかし感じることができず、人を捨てたことが恐ろしくて肩を抱いた。

 エルトリアの空を抜け出して、星の大海へと飛び込む。

 無限に広がる世界には一隻の艦船があり、その主砲を、闇の書の暴走体である颯輔へと向けていた。

 主砲が開き、これまで幾多の主を葬ってきた、破滅の光が輝き始める。

 

――やっぱり、死にたくはなかったなぁ……。

 

 つい言葉にしてしまった本音を最後に、八神颯輔は、世界から消滅した。

 

 



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第二十六話 想い

 

 

 12月26日。絶望の螺旋から解き放たれたリインフォースは、特務四課の本部――アースラに搭乗していた。

 脱いでいたローブに袖を通し、肌蹴ていた前を閉じる。魔法を使って騎士甲冑を展開すれば、着替えなどは一瞬で終えることができるのだが、今はその基本的な魔法も使えない状態にあった。

 魔力放出を制限するリミッター。それが、リインフォースに課せられた新たな枷だ。リインフォース達に抵抗の意思はなく、アースラ内ならばある程度の自由を許されてはいるが、拘束されているというポーズも必要である。リミッターは、リインフォースを始め、シグナム達や八神はやてにも課せられていた。

 もっとも、リインフォースにはもう、リミッターなどはなくとも魔法を使うことができないのだが。

 

「しばらくの間は、躯体維持にも問題はないと思います。けど……」

「こうなることはわかっていた。自分がどういう状態であるかも、わかっているつもりだ。お前が悲しむ必要はないのだが……こういうときは、ありがとう、と言えばいいのか?」

「えっと……うん、それで合ってると思いますよ」

 

 管理局員ならば『闇の書』に対しては好感情を抱いているはずなどないのだが、四課の構成員には同情的な者もいるらしい。俯き深緑の髪を見せている少女に、リインフォースは困惑しながらも微笑を浮かべる。顔を上げ、表情を穏やかにした少女――マリエル・アテンザも、そのうちの一人だった。

 検査を受けている間、マリエルは何故か顔を赤らめていたのだが、それでも仕事は正確だった。今の自分の状態を示すデータは、リインフォースの自己診断とほとんど変わらない。些細な誤差はあるが、管理局の技術力を考えれば驚くべき精度だった。

 

「四課には最先端の技術が集まっているんですけど、やっぱり、専門の人にも診てもらった方がいいと思います。ベルカのことだと、聖王教会あたりですね。……ごめんなさい、私、力になれなくて……」

「それについては、ギル・グレアムが話をつけてくれているそうだ。気に病む必要はない、マリエル・アテンザ。それに、お前にはお前にしかできないことがある。こんな私を想って悲しんでくれる、たったそれだけのことでも、私は嬉しく思う」

「リインフォース、さん……」

 

 聖王教会。ベルカの世を統べた聖王家を信仰する宗教団体だが、ロストロギアの調査や保守も行っているらしい。ベルカが絡むロストロギアについては、管理局と共同で管理をしているそうだ。

 ミッドチルダ式を主とする管理局よりは、ベルカ式を主とする聖王教会の方が、夜天の魔導書についての知識があるのかもしれないが、リインフォースはそれほど期待をしていなかった。

 聖王教会が興ったのは、少なくとも聖王家が滅んでからだ。夜天の魔導書が創造されたのは、それよりも遥かに以前のことである。失われた技術を復元することは、想像以上に難しい。公式を与えたところで、その本質を理解して使いこなすことができなければ意味はないのだ。

 さらに、大きな懸念もある。闇の書と聖王家は、切っても切れない関係にあるのだ。例えどうにかできたとしても、聖王教会が素直に手を貸してくれるとは思えなかった。

 リインフォースは、再び俯いてしまったマリエルの頬に手を伸ばし、そっと上を向かせた。何やら恍惚としているマリエルだったが、暗い表情をされるよりは、と割り切る。触れた頬を撫でて礼を告げると、リインフォースはメンテナンスルームを後にした。

 それなりの乗組員がいるはずのアースラだが、その廊下は閑散としていた。必要もないのか、それとも忙しさでその余裕もないのか、リインフォースは監視もつけられずに歩を進める。自らの足を使って移動するというのは、随分と久しいことだった。

 目的の場所、食堂へと辿り着く。その隅に設けられた休憩スペースのソファには、シグナム達守護騎士の姿があった。

 四人共が私服を着ていて、自分が普段着を持ち合わせていないという事実に今更になって気が付く。名前と共に賜った騎士甲冑のデザインはもちろん気に入っていたが、少しだけ、羨ましく感じてしまう。そういった感情を抱けるということが、この世界で得たものの一つだった。

 リインフォースは四人の下へと進み、同時に自然と開けられた、シグナムとヴィータの間へと腰を下ろした。

 

「お疲れ様、リインフォース。調子はどう?」

「日常生活に支障はないだろう。だが、やはり戦闘は不可能のようだ……」

「逆ユニゾンなんて無茶すっからそうなんだよ」

「それに、しばらくは剣をとる許可も与えられまい」

「そのとおりだな……」

 

 対面のシャマルに答えると、両隣りからそれぞれの反応があった。ヴィータはテーブルに突っ伏しながら、億劫そうに顔だけを動かして。シグナムはソファに背を預けて腕を組みながら、小さく溜息を吐いて。

 返す言葉もない、と下を向くと、シャマルの隣に座ったザフィーラから、あまりされたくなかった質問が飛んできた。

 

「それで、あとどれほどの時間がある?」

「……静かに過ごせるのなら、半年といったところだ。念話程度ならば問題はないが、飛行も……ユニゾンも、もう不可能だろう……」

 

 リインフォースの答えに、全員が表情を曇らせた。

 闇の書からナハトヴァールを切り離し、その状態でユニゾンと逆ユニゾンを行い、なおかつ、大威力の魔法を連発したことで、リインフォースの基礎構造は修復不可能なほどに歪められていた。本来ならば新たに創造されるはずの防衛プログラムも、動力部を失ったことで組まれる気配はない。リインフォースは、ただ緩やかに自己崩壊を起こしていくだけだ。

 だが、皮肉にも融合騎としての力を失ったことにより、暴走を起こして主を破滅させることもなくなった。闇の書の闇は祓われ、夜天の魔導書の名を取り戻すことができたのだ。

 愛しい主達――八神颯輔と八神はやてが起こした奇跡。それが、リインフォースが夜天の魔導書として過ごすことのできる半年という時間だった。

 

「なに、半年もあれば十分な絆を紡ぐことができる。それは、お前達が証明しているだろう。その間に主――……はやてへと私の全てを伝え、一足先に颯輔の下へといかせてもらうさ」

 

 四騎の守護騎士はリインフォースやナハトヴァールよりも下位の存在で、後付けで生み出された魔法生命体だ。夜天の魔導書の根幹部分には触れていないため、躯体維持のための魔力供給さえあれば、その存在を保つことができる。

 夜天の魔導書が消滅したとしても、そこから切り離されてさえいれば、シグナム達が消滅することはない。八神はやての生ある限り、共に生きることができるのだ。

 これまでに比べれば半年の時間などは刹那の一時に過ぎないが、シグナム達が残るのならば、リインフォースは安心して死を受け入れることができた。

 

「……はやては、そのことを知っているのか?」

「まだ伝えてはいないが……おそらく、知られてしまっているはずだ。はやてと夜天の魔導書の繋がりは、私が思う以上に強い。今は疲れから眠られているが、初めてのユニゾンであれほど私を乗りこなせたのも、その繋がりがあったが故にだろう。私が勝手にしたことを、気に病んでおられなければいいのだが……」

 

 エルトリアで八神颯輔を送った後、緊張の糸が切れてしまったかのように、はやては意識を失ってしまった。これまで知らされていなかった真実を知り、兄の変わり果てた姿を目の当たりにして、それでもなお戦い続けたのだ。肉体的にも精神的にも、疲れが溜まっていて当然である。

 一日以上が経過しても目を覚まさないのは心配されたが、精神リンクから感じ取れる体調に異常は見られない。四課の医務官も診察をしたが、魔力不足程度しか問題はなかったそうだ。一度に多くの事があって、心が休息を欲しているのかもしれなかった。

 

「……はやて、大丈夫だよな?」

「ああ、直に目覚めるさ」

 

 リインフォースは不安を見せるヴィータを引き寄せ、その小さな背中をゆっくりと叩く。そのリズムは、颯輔が寝かしつけるときのものと同一だった。

 思い出させてしまったのか、嗚咽を漏らし始めたヴィータが腕を回してくる。リインフォースはそれを受け入れ、包み込むように抱き返した。

 ヴィータのすすり泣く声だけが静かに響く食堂の一角に、ゆっくりと床を叩く音が混ざる。シャマルとザフィーラが表情を険しくし、また、後ろを振り向いたシグナムが殺気立ったの感じて、リインフォースもヴィータを抱いたまま首だけを動かした。

 後ろにいたのは、大小六つの包装された荷物を抱えた、ギル・グレアムだった。

 

 

 

 

 ギル・グレアムの登場に、シグナムは気が荒立つのを抑えられなかった。自分達が言えたことではないが、八神颯輔と八神はやての運命を弄んだ者に、どうして好感情が持てるというのか。できるのならば、今すぐその首を切り落としてやりたいくらいだった。

 だが、荒立つ一方で、シグナムの冷静な部分が告げている。グレアムの行いが今回の『闇の書事件』を引き起こした一つの要因ではあるが、彼がいなければ、シグナム達にこれまでの生活はなかったのだ、と。

 グレアムが颯輔とはやての保護者となったから、シグナム達は颯輔達と出会うことができた。

 グレアムが闇の書の完成を待っていたから、シグナム達は颯輔達と家族になることができた。

 グレアムが暴走体に広域凍結魔法を撃ち込まなかったら、魔力ダメージが足りずに本体コアが露出せず、颯輔の意識を戻すことはできなかった。

 わかっている。

 わかってはいる。

 何より、自分達もグレアムにとっては憎悪の対象であるということも。

 しかし、この男さえいなければ、という想いは、暗い炎となって燃え続けてしまうのだ。

 

「……何か御用ですか」

 

 口から出た声音は、まるで、依然のシグナムのよう。

 レヴァンティンを押収され、リミッターを掛けられた状態で心底よかったと思った。

 

「……頼まれた物を、渡しに来ただけだ」

「頼まれた物……?」

「そう噛みつく必要はない、シグナム。ギル・グレアムにそれを頼んだのは、颯輔と私だ」

「……どういうことだ?」

「……一日遅れてしまったが、颯輔から君達へのクリスマスプレゼントだ。済まないが、勝手に颯輔の部屋に入らせてもらったよ」

 

 一瞬、グレアムとリインフォースが何を言っているのかわからなかった。

 理解して、暗い炎が消えた。

 堪えていたはずの涙が、止まらなくなってしまった。

 

「颯輔、から……?」

「ああ。お前達が家を空けている間に、一人で用意していたようだ。気付かぬのも無理はないだろう。失敗してしまった場合は、こうしてギル・グレアムが届ける手筈となっていた。交渉の場には私も同席し、知ってはいたのだが……颯輔には、口止めをされていてな」

「……颯輔君らしいというか」

「まったく、恐ろしい策略家だな」

 

 ヴィータの質問に答えながら、リインフォースはグレアムから五つのプレゼントを受け取っている。シャマルは目の端を擦っていて、ザフィーラは天井を見上げて顔を隠していた。

 リインフォースがシグナムへと差し出してきたのは、白地に小さな金色のサンタクロースが描かれた包装紙に包まれた、細長い棒状の物だった。丁寧に包装を開けてみると、現れたのは、一振りの竹刀。三尺九寸の、真新しく上等な竹刀だった。

 

「そう、すけ……!」

 

 二度と触れることのできない颯輔の温もりを求めるように、シグナムは竹刀を掻き抱いた。

 蒐集を始めてからは顔を出していなかったが、シグナムは剣道場でコーチの真似事をしていた。しかし、私用の竹刀は持ち合わせておらず、偶に庭先で身体を動かすときも、レヴァンティンを振っていたのだ。きっと、それを見止めて用意したのだろう。女性への贈り物としては不合格だが、家族へのクリスマスプレゼントと考えれば、これほど嬉しいことはなかった。

 続いてヴィータが受け取った物も細長い棒状で、先端が左右に広がっているそれは、ゲートボールのスティックだった。コンパクトズームタイプでサイズの調節もでき、持ち運びに便利なものだ。紅の柄がヴィータの魔力光に合っていて、グラーフアイゼンを思わせるデザインのものだった。

 シャマルが受け取ったのは、銀色の包装袋だった。中から出てきたのは、ピンクのエプロンとお揃いのミトン。形状自体はシックなものだが、色合いによって女性らしさがしっかりと前に出されている。愛らしい魅力を備えたシャマルに、ぴったりのプレゼントだった。

 ザフィーラが受け取ったのは、比較的小さな長方形の箱形だった。その中身は、デジタルカメラ。何かイベントがあれば、インスタントカメラで写真を撮っていたのだが、その度に、デジタルカメラがあれば、と仄めかしていた颯輔である。どうやらクリスマスを機会に購入を決定したようで、ついでにザフィーラをカメラ係へと任命したようでもあった。

 リインフォースの手元に残ったのは、五つの中では最も小さい掌に収まる大きさの袋だった。そこからそっと取り出したのは、二つの黄色い髪留め。その二つをクロスさせる、騎士甲冑姿のはやてとお揃いの髪留めだ。はやてと同じく跳ねていた前髪を押さえたそれは、紅玉の瞳に涙を溜めているリインフォースによく似合っていた。

 シグナム達の間に、涙と笑顔が溢れる。

 颯輔は、卑怯だ。

 与えるだけ与えて、何も返させずに去ってしまった。

 たった半年の間に、シグナム達へたくさんのものを与えて。

 たった半年しか、傍にいさせてくれなくて。

 出会ってからたったの半年で、シグナム達の前からいなくなってしまった。

 

「……シグナム?」

 

 雰囲気の変化を感じ取ったのか、リインフォースが名前を呼んでくる。これまでは『将』としか呼ばなかったはずで、これも、颯輔が与えてくれた変化だった。

 シグナムはソファから立ち上がり、竹刀の柄に手を掛けた。どんな行動に出るか思い至ったらしく、ザフィーラがテーブルの向こう側で慌てて立ち上がる。しかし、剣の騎士であるシグナムの前では、それはあまりにも遅すぎた。

 ソファからいくらか離れた位置に立っていたグレアムへと一足で踏み込み、肘を基点に半円を描く。そして、その頭を狙って竹刀を振り下ろし――

 

「…………どうして、避けなかった?」

 

 寸前で、止めた。

 グレアムも先の戦いでダメージを受けてはいるが、シグナム達のように魔法を使えない状態にあるわけではない。グレアムほどの魔導師ならば、デバイスを起動させずともシグナムの打ち込みを防御、あるいは回避できたはずなのだ。しかし、グレアムは眉一つ動かさず、行動を起こしたシグナムを見据えたままだった。

 シグナムの問いに、グレアムは誰かと同じような仕草で溜息を吐いてから答えた。

 

「君が短慮に走る人物ではないと、颯輔からの贈り物をそういったことに使う人物ではないと、そう判断ができる程度には、私は君のことを知っている。颯輔とはやてからは、そのように聞きかされていたからね」

「……もしもそうでなかったならば、死んでいたかもしれんぞ」

「君の怒りは理解できているつもりだ。それで君の気が晴れるのならば、とは思う。だが、受けたとしても、簡単に死にはしない。私には、君達を守る義務がある」

「……我らは……私は、貴方を許すつもりはない。……許されるつもりも、ない」

「そうでなくては困る。こちらも、許すつもりも許されるつもりもないのだから。私達の関係は、それでいい」

「……そうか。これは、そちらで預かっていてくれ。次は、抑えられないかもしれん。……ヴィータ、お前も預けておけ」

「……あいよ」

「大切に保管しておこう」

「頼む」

 

 ヴィータと共に、グレアムへと竹刀とスティックを預ける。拘束中の犯罪者に武器となる物を渡すなど、あってはならないことだ。それを行ったのが管理局のトップに限りなく近い男だというのだから、まったく笑えない。自分が入局してからは、まずはそういったところを改めさせなければ、と思った。

 次元世界に混乱をもたらした大罪人――闇の書の主には、事実上の死刑が執行された。残ったのは、一方的に命令を下され、魔法生命体であるが故に常識を持ち合わせておらず、ただ黙って従うことしかできなかった守護騎士達五人。そして、偶然事件に巻き込まれてしまった一人の少女。加害者とも被害者ともいえるその六人は、最後には管理局への協力を見せたため、そして、事件が事件であるため、形式的な裁判の後に隔離施設送り。更生プログラムの受講が済み次第、管理局へと従属させる。

 颯輔とグレアムの間では、すでにそのようなシナリオが用意されていた。

 ふざけた話だ、とは思う。

 颯輔に全ての汚名を着せて、その死を利用するなど、絶対に許されない。

 しかし、それこそが颯輔の意思。

 そうすることでしか、シグナム達がはやての傍にいられる方法はないのだ。

 ならば、是非もない。

 残されたシグナム達はせめて、颯輔の願ったとおりに、はやての望むとおりに生きるだけだ。

 

「ギル・グレアム。私達は、まだアースラから出られないのだろう?」

 

 互いに走る緊張を解きほぐすように、リインフォースが柔らかな声音を出した。

 シグナム達の中では、唯一『前回』の記憶を引き継いでいるのがリインフォースだ。グレアムに対しては最も深い感情を抱いているはずだが、彼女がそれを表に出すことはなかった。世俗に関心がないようでありながら、その実、前だけを向いている。

 

「ああ。葬儀のときには一時的に認めるが、それ以外では不可能だ」

「では、はやてへのプレゼントは、はやての友人へと託したい。すまないが、フェイト・テスタロッサを呼んではもらえないだろうか?」

 

 颯輔の願った未来をしっかりと見据えているのが、最も時間の残されていないリインフォースのみであるなど、実に皮肉で、恥ずべき話だった。

 

 

 

 

 フェイト・テスッタロッサは、生まれて初めての冬休みというものを体験している最中だった。もっとも、小学校は休みであっても特務四課は事件の後始末に追われている。しかし、その中でフェイトに与えられていた仕事は、自宅療養だった。

 24日の戦闘で、フェイトに高町なのは、そして、八神はやての三人は、魔法の使い過ぎにより魔力切れを起こしていた。初めての魔法行使ということもあったはやてなどは、意識を失ってしまったほどである。

 アースラでの検査の結果、はやては枯渇した魔力を回復させるために眠っているだけであること、そして、侵食により受けていた下肢麻痺が綺麗に消えたことがわかった。はやては闇の書の主ではあったが、今回の事件にはほとんど関与しておらず、それどころか管理局へと協力して暴走体を止めるのに貢献したため、念のためにリミッターを掛けられてから、一時的に元いた病室へと戻されていた。

 はやては意識を失いこそしているが、実のところ、三人の中では最も症状が軽い。フェイトとなのはは意識を失いはしなかったが、制限されていたフルドライブを使用し、また、カートリッジシステムを多用してしまったことにより、リンカーコアに多大なダメージを受けていたのだ。結果、蒐集を受けたときのように、一週間は魔法の使用を禁止と通達されてしまった次第である。

 そのため、フェイトは仕事で家族が出払っている自宅にて、先ほどまで一人宿題と格闘をしていたのだ。しかし、急遽特別任務を与えられ、今現在は、海鳴大学病院を目指して雪の積もる道を歩いていた。

 その特別任務とは、海鳴病大学院に入院しているはやてへと、少し遅めのクリスマスプレゼントを届けることである。アルフに転移魔法を使ってもらい、自宅からアースラへ、そして、アースラから病院の近くまで送ってもらったのだった。

 

「はやて、起きてるかな……?」

 

 近づいてきた病院を見据え、何の気なしに独り言を漏らす。吐いた息が、寒さで真っ白に染まっていた。

 リインフォースの話によれば、はやての魔力はすでに回復しており、あとは目が覚めるのを待つだけ、とのことだった。一般的に見ても保有魔力量の多いフェイトとなのはを上回る魔力の持ち主であるはやてだが、その回復力さえもフェイト達を上回るほどである。なのはといい、はやてといい、そして、八神颯輔といい、ギル・グレアムといい、どうしてこの管理外世界にはこれほどの逸材が眠っているのか、甚だ疑問であった。

 預かったプレゼントの中身が気になりながらも歩いていると、ふと、携帯電話がメロディを奏でる。取り出し開いてみると、なのはからのメールだった。

 せっかくだからとフェイトと同じく自宅療養中のなのはをお見舞いに誘ってみたのだが、結果は二つ返事での承諾。文面をよく見てみると、アリサ・バニングスと月村すずかも誘ったらしい。地球に戻ってきてから思い付いたため、フェイト一人が先行する形となっていた。

 先に任務を終わらせておきます、と返信し、フェイトは携帯の電源を切った。はやてが起きていた場合、プレゼントを渡すほかにも現状を説明しなければならない。民間人であるすずかとアリサがその場に居合わせるのは、よろしくない展開であった。

 病院の玄関を潜り抜け、はやての病室を目指す。フェイトは今回で三度目の訪問となるが、病室の場所はしっかりと覚えていた。

 やがて、三階の南東、はやての病室へと辿り着く。ノックをしても返事はなかったが、預かり物を届けるため、フェイトは遠慮がちになりながらも扉を開けた。

 

「失礼します……」

 

 窓はカーテンが閉められており、照明の点けられていない病室内は薄暗い。そして、窓際のベッドには、はやての姿があった。だが、その表情を覗くことはできない。はやては頭から布団を被っていて、まるで、自分の世界に閉じこもるかのようにしている。布団の中から、微かにすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「えっと、はやて? フェイトだけど……起きてる、のかな?」

「………………」

 

 布団が小さく動いたが、答える声はない。フェイトは少しだけ迷い、そして、ベッドの隣にある丸椅子に腰かけた。

 

「あのね、リインフォースから、はやてに渡して欲しいって頼まれて、それで、私が来たんだ。その……颯輔さんからの、クリスマスプレゼントだよ」

「……リイン、フォース……お兄、から……?」

 

 今度は、掠れた声が帰ってきた。

 布団からゆっくりと顔を出したはやては、目を真っ赤に腫れさせていて。その腕に抱かれた枕は、涙に濡れて湿っていた。

 はやてがいつから目覚めていたのか、いつから泣いていたのかは、フェイトにはわからない。しかし、大切な人を失ってしまった悲しみは、少しだけわかるような気がした。

 心にちくりと痛みを感じ、それでもフェイトは微笑を浮かべ、リインフォースから預かったプレゼントを上半身を起こしたはやてへと渡した。

 包装紙に包まれたプレゼントの外観は長方形をしており、厚みはほとんどない。はやてがゆっくりと包みを剥がした中にあったのは、一冊のノートだった。その表紙には、いくらか丸みを帯びた達筆で、『はやてへ』と記されていた。

 

「お兄の、字……これ全部、お兄が、書いて……」

「料理の、レシピ……?」

 

 そのノートの中には、様々な料理のレシピが詳細にわたって記されていた。文字だけではなく、不格好ではあるが雑誌の切り抜きが張られており、視覚的にも分かり易い。和食に始まり代表的な洋中もカバーしており、ケーキに始まるお菓子の類もあった。全てを書き終えるのにはいったいどれほどの時間がかかったのか、送り主の想いが手に取るようにわかるプレゼントだった。

 一通りの頁がめくられ、ノートに水滴が落ちる。その下のインクが滲み出て、文字をぼかした。はやてが肩を震わせ、大粒の涙を流していた。

 

「これ……お兄と作った、料理……」

「そう、なんだ……」

「皆、おいしいって、食べてくれて……!」

 

 はやてはノートの端を固く握り、強く、強く、胸に抱いていた。

 

「……こんなっ、悲しい想い、するんなら……――」

 

 嗚咽が混ざる、途切れ途切れの声。

 

「――……お兄が、いなくなるんならぁっ……」

 

 胸の内の悲しみと苦しみ、その全てを吐き出そうとしているかのようで。

 

「――……まほうのちからなんて……いらへんかったっ……!」

 

 それはきっと、八神はやての心の叫びだった。

 

「……そんなこと、言っちゃダメだよ」

 

 しかしそれは、口に出させてはいけない言葉だった。感情に任せて言ったのだとしても、本心からだったとしても、それは、これまでの全てを否定してしまう言葉だから。

 

「……そんなこと言ったら、頑張った颯輔さんにリインフォース、シグナム達が可哀そうだよ。それに、はやてに魔力がなかったら、リインフォースとシグナム達とだって――」

「――フェイトちゃんにはわからへんっ! わたしの気持ちなんてっ、わかるわけないっ!」

 

 フェイトの言葉を、はやての怒号がかき消す。そこにあったのは、深い悲しみと滾る怒りとの両方を宿した、激情の目だった。

 

「お兄が苦しんどるのにっ、シグナムらが頑張っとるのにっ、わたしは、何にも気づかんでっ……――わたし一人が守られてっ!! お兄がおったらそれでよかったんやっ! 他には何もいらへんかったっ! 足なんて動かんたってええっ! お兄がおらんとわたしはっ……わたしは……っ! ……もう、こんな想いしたくないんよ……! リインフォースだって、せっかくこっちで会えたのに……!」

「はやて、リインフォースのこと……」

「あの子とユニゾンしたんはわたしや……あの子がどんな状態やったかなんて、隠そうとしとったってわかっとった……。そやけどわたしは……それ知ってて魔法使ったんよ……。お兄助けたくて……リインフォースのこと殺そうとした……! リインフォースより、お兄選んでもうた……!」

 

 しかしそれでも、八神颯輔は。

 

「そんでもお兄のこと、助けられへんかった……! お兄と約束したけど……こんな汚いわたしじゃ、約束守られへん……きっとみんなに、嫌われる……!」

 

 ぱしん、と。乾いた音が、病室に響いた。

 それは、フェイトがはやての頬を張った音だった。

 

「……リインフォースの気持ちを、シグナム達の気持ちを、勝手に決めつけないで」

 

 アースラでリインフォースの話を聞いたフェイトには、全てを知ったフェイトには、今のはやての言葉は、どうしても聞き逃せなかった。もしも心が弱って出てしまった言葉なのだとしたら、尚更だ。

 あのとき、フェイトが心を弱らせているときは、なのはが隣で支えてくれた。誰かの温もりがあっただけで、自分がいったいどれほど救われたことか。だから今度は、自分が誰かの支えとなる番だ。

 フェイトは、俯いて動かなくなってしまったはやての頭を、腕の中へと抱え込んだ。

 

「リインフォース、言ってた。本当は、ナハトヴァールを切り離したときに消滅したっておかしくなかったんだって。ナハトヴァールには、夜天の魔導書の動力も一緒に持っていかれちゃったから。だけど、リインフォースはまだ生きてる。半年も生きられる。はやて、どうしてだと思う?」

「………………」

「はやてのおかげなんだよ、リインフォースが生きていられるのは。はやてがリインフォースに魔力をあげてるから、リインフォースはまだ生きていられる。シグナム達だってそう。はやてが魔法の力を持っていたから、泣いたり、怒ったり、笑ったりできるんだよ」

「………………」

「颯輔さんを助けようとしてたのだって、はやてだけじゃない。リインフォースも、シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、皆、ボロボロになって戦ってた。はやてがお願いしたからだけじゃなくて、きっと、自分が助けたいと思ったから。そう思ったから、自分を犠牲にしてまで颯輔さんを助けようとした」

「そやけど、お兄は…………」

「じゃあ、リインフォース達が助けようとしていたのは颯輔さんだけ? 颯輔さんが命と引き換えにしてまで助けたのは、リインフォース達だけじゃないでしょう?」

「……わたし……」

「うん、はやてのことだって助けようとしてたんだよ。皆、はやてのことが大好きだから。颯輔さんとは二回しか会ったことがないし、リインフォース達のこともまだまだ知らないことばっかりだけど、私にだって、それくらいはわかるよ。皆、はやてのことが大好きなんだって、わかる」

「そやけど、わたしは……!」

「はやてがそうやって自分のこと責めてないかって、リインフォースは心配してたよ。『私が命を削って戦ったのは、自らの意思によるものです。ですから、はやてが気に病まれる必要はありません』って。半年の間にはやてに魔法のことを教えて、それから、いっぱい思い出を作るんだって、すっごく嬉しそうにしてた」

「――っ!」

「颯輔さんはもういなくなっちゃったけど、はやてにはまだ、リインフォース達がいるでしょう? リインフォース達だって、大切な家族でしょう? 皆、はやてのことを嫌いになったりなんてしないから、だから、はやてもちゃんと向き合ってあげないと。颯輔さんとの約束、ちゃんと守らないとダメだよ。皆が助けようとした『はやて』を、自分でダメにしちゃ、ダメだよ」

「フェイト、ちゃ……! わたし……!」

「……うん。今は、泣いてもいいから。だから、リインフォース達に会うときは、笑顔のはやてを見せてあげよう?」

「うん……! うん……!」

 

 背中に腕を回してくるはやてを、フェイトは偽りの記憶を頼りにし、子を抱く母のように優しく抱きしめた。

 はやてが求めているのはリインフォースの温もりで、シグナム達の温もりで、何より、颯輔の温もりだ。フェイトでは、その代わりになることなど不可能。

 しかしそれでも、フェイトにだって、はやての体を支えるくらいはできる。心を支えることまでは難しくとも、その悲しみと苦しみを分け合うことくらいはできるつもりだった。

 震えるはやての背中をそっと撫でて、栗色のショートヘアーに見よう見まねで手櫛を入れる。そして、背後から上がった、誰かの小さな咳払いを聞いた。

 

「…………え?」

 

 振り返った先、いつの間にか病室へと入ってきていたのは、腕を組んで微かに怒りを見せているアリサと、顔を青くして口元を押さえているすずかと、そして、翠屋の小箱を持って申し訳なさそうにしているなのは。

 

「フェイト。今あんた、聞き捨てならない話してたわよね?」

「お兄さんがいなくなっちゃったって、どういうこと……?」

「……あ、あのね、フェイトちゃん……今の話、二人に聞かれちゃった……」

「……ええぇぇっ!?」

 

 フェイトの叫びがはやての泣く声をかき消し、狭い病室に響いた。

 

 



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第二十七話 それぞれの正義

 

 時空管理局という組織は、階級制度を採用している。下僚が上官の行動に対して意見するというのは決して選奨される行為ではないのだが、しかし、上官の行動に明らかな非が見られた場合は、その限りではない。

 だが、正義を掲げる時空管理局も、所詮は善悪をあわせ持つ人間で構成された組織だ。恥ずべきことだが、そこには人の意思が介在し、上層部に限らず、様々な思惑が渦巻いていることもまた確か。例え内部不正があろうとも、告発できない場合がある。声を大にして訴えたところで、権力という力によって押し潰されてしまうのだ。

 そして今回、明らかに『裏』がある『闇の書事件』も、その真相については、特務四課に属する全ての者に箝口令が敷かれていた。ギル・グレアムの階級は大将。グレアムには、それほどのことを押し通すだけの力があった。

 だがそれでも、クロノ・ハラオウンは真実を知りたいと思った。

 クロノ・ハラオウンは、何のために戦ったのかを。

 ギル・グレアムは、何を目指していたのかを。

 

「グレアム提督、聞かせてもらえませんか? 特務四課が、いったい何のために存在したのかを」

 

 12月26日の夜、アースラにある執務室の一室。そこで、クロノはその問いを投げかけた。

 クロノの対面に座るのは、特務四課の部隊長であるグレアムだ。その後ろには、リミッターを課せられ形式的な厳罰を受けているリーゼロッテとリーゼアリアが控えている。

 リーゼ姉妹の厳罰は、エルトリアの決戦にて暴走体を止めるのを妨害したことによるものだ。例え直接は妨害せずとも、状況だけを見れば、指示を出したグレアムにも同じことが言える。しかし、それでもグレアムには何の厳罰もなく、部隊長の座に居座り続けられるという理不尽がまかり通っていた。それは、グレアムには確かな後ろ盾が存在するという何よりの証拠である。

 

「『闇の書事件を解決するため』……という言葉だけではないのだろうね、君が聞きたい答えは」

「ええ。……それから今の言葉、『解決するため』ではなく、『解決させるため』の間違いではないのですか?」

 

 クロノの言葉にグレアムが諦観の息を吐き、リーゼ姉妹はその鋭い目つきで無言の圧力をかけてくる。師匠二人からのプレッシャーを受け流し、クロノはグレアムの言葉を待った。

 

「そうか……まだ子供だと思っていたのだが、クロノはもう『執務官』だったのだな……。……クロノ・ハラオウン執務官。まずは、今回の『闇の書事件』に対する君の考えを聞かせてもらおうか」

「……わかりました」

 

 グレアムに、逃げの姿勢は見られない。その安らかと言い表してもいい表情は、全てを受け入れた者が浮かべるものだ。

 すなわちこれは、ギル・グレアムがクロノ・ハラオウンに課するテスト。執務官としての力がどれほどにまで成長したのか見たいという、親心にも等しいものだった。

 

「恥ずかしながら、最初に違和感を覚えたのは僕ではありません。12月11日、海鳴市での戦いで、母がその違和感に気が付きました。リーゼ達の配置……あの日、結界内に配置すべきは、ロッテの方です。ベルカの騎士とも対等に打ち合える戦闘技術に、非常時にはすぐさまサポートに入れる短距離瞬間移動。アリアは結界外に置いて、サーチャーによるシャマルの捜索をさせるべきでした」

「30点、だな」

「私のサーチャーでもシャマルの探知防壁は抜けないだろうし、それに、私の戦闘技術だって、守護騎士に後れを取っているつもりはない。そして、私の射砲撃でも距離を選ばないでサポートに入れるし、ロッテの捜索能力だって、決して低くはないわ」

「確かにそうかもしれない……けれどアリア、君は、ベルカの探知防壁も抜けるんじゃないのか? それに、君がアルフと共にザフィーラと戦ったとき、君が主体で戦いアルフをサポートに回せば、その時点でザフィーラを墜とせたはずだ。はっきり言って、なのはとフェイトには誰かの助けなど必要なかった。シグナムとヴィータとも互角以上に戦った二人のコンビネーションは、あの二人だけだからこそできたものだ。そこに第三者が入れば、二人のコンビネーションは崩れてしまっていた。……君が結界内にいたのは、あの場では守護騎士を墜とさせないため。いざとなったら、転移魔法を使って逃がすつもりだった……」

 

 アリアとロッテの反論にもすぐさま斬り返し、クロノは続く言葉を許さない。

 

「だいたい、これまでの『闇の書事件』で守護騎士の魔力波長は分析できているんだ。聖王教会とも繋がりがある現代で、管理局の最先端技術の集まっている特務四課の設備で、いつまでも守護騎士の反応を捉えられない方がおかしい。それができる程度には、技術は追いついているはずなんだ。ハードに異常がないとすれば、残るはソフト。細工をしたのはアリア……それから、提督も絡んでいるはずです。海鳴の戦いでアースラの魔導炉を落としたのは、提督、貴方だ。守護騎士達を、確実に逃走させるために」

「……証拠は、きちんと揃えたのかね?」

「僕が情や惰性でエイミィ・リミエッタを補佐官に置いているとでも? 魔法資質には恵まれずとも、彼女の能力は間違いなく一流ですよ。『いくら上手に隠しても、改竄の記録は必ずどこかに残っている』、だそうです」

 

 クロノはデバイスを操作し、エイミィが調べ上げた情報を開示する。

 それを見止めたリーゼ姉妹の肩が、ゆっくりと下へ落ちた。

 

「貴方達がそこまでして捜査を妨害したのは、闇の書の完成を待っていたからですね? 闇の書の封印――凍結封印は、どのタイミングでもできるものじゃあない。そして、闇の書だけを封印すればいいというわけでもない。闇の書のみを封印できたとしても、主がこの世を去れば、闇の書は新たな主の下へと転生してしまうからです。完成して暴走を始める前、一時的に防衛機能を停止させた闇の書と、生きたままの主を同時に凍結封印する必要があった。……どんな罪を犯した者にも、人権は存在します。生きたまま氷漬けにするなどという非合法な方法、一般の局員に話せるはずがない。暴走を始める直前を狙ったのは、その状況ならば『止む無く』という理屈が通じるからです。だから、貴方がたは誰にも真実を明かさずにその状況を作り上げた。……五年もの間、八神颯輔と八神はやての保護者として、闇の書の蒐集が始まり、完成するのを待っていた」

「……よく、調べたものだな」

「封印方法については、ユーノやリインフォースにも確認を取りました。あなたと八神颯輔と八神はやての関係については、ちょっとした伝手を。……リーゼ達の渡航記録、それから、提督のご自宅へと宛てられた郵便物です。一ヶ月に一度は必ずどちらかがイギリスのご自宅へと戻り、それを確認していた」

 

 渡航記録の一覧と、地球のイギリスにあるグレアムの自宅の住所が記された封筒。封筒には、八神颯輔の名前と自宅の住所も記されていた。

 

「五年前、提督が執務官長の席を降りて顧問官の職に就く際、その間に長期休暇を申請していますね? 滞在先は、第97管理外世界『地球』……海鳴市にある、八神颯輔と八神はやての自宅……八神颯輔にとっては義理の、八神はやての実の両親が亡くなってから、ほどなくしてのことです。その時点ですでに、提督は十一年前に転生した闇の書の所在を突き止めていた」

「……正解だ。その優秀な査察官の友人は、大切にしなさい」

「……そのつもりです。……ただわからなかったのは、いったいどうやって闇の書の所在を突き止めたのかです。故郷の世界だったとしても、イギリスと日本では距離が離れすぎている。まさか、ご自宅から闇の書の魔力を感知した、というわけでもないのでしょう?」

 

 上官に対する物言いではないが、いくら非常識な魔法資質を持ち合わせているグレアムとて、自前の魔法だけでそれほどの物理的距離を埋めることは不可能だろう。旅先で偶々、などということも、まず起こりえないはずだ。

 母であるリンディ・ハラオウンに背中を押され、補佐官であるエイミィ・リミエッタの助けで確証を持ち、友人であるヴェロッサ・アコースの手を借りて証拠を揃え、クロノはここまでは辿りついた。

 だが、闇の書の所在をどうやって突き止めたのか、それはヴェロッサでもわからなかったのだ。クロノが持つ情報では、偶然というあいまいな答えしか出せないでいた。

 クロノの問いにグレアムはしばし沈黙し、やがて、迷うようにゆっくりと口を開いた。

 

「…………それだけのことをした私が厳罰を受けず、未だに部隊長として特務四課を率いていられるのか。それがどうしてかは、わかるかね?」

「それは…………大将の地位にある提督の力、でしょうか……?」

「半分正解だ。しかし、それだけでは説得力に欠ける。大将程度の権力では、これほどの不正は隠し通せないよ」

「……まさか……四課には、大将以上の後見人が……?」

 

 ギル・グレアム『大将』一人の力でも及ばないのならば、それはつまり、それ以上の力が働いているということに他ならない。

 『闇の書事件』を二度も解決してみせたグレアムは、間違いなく管理局の歴史に名を残す存在だ。不正が明かされないままに評価されれば、元帥の席にも届くだろう。

 しかし、局内にも局外にも派閥というものは存在し、グレアムを元帥の席には座らせまいという勢力もあるはずなのだ。例えば、他にも元帥の席を狙うグレアムに近い地位の持ち主。その者達が、今回のグレアムの不正を見過ごすはずがない。

 ヴェロッサは優秀な査察官だが、優秀な査察官が管理局にヴェロッサ一人だけということはない。五年以上の長期に渡り、そして、自身の目的のために特務四課まで設立させてみたグレアムの企みが、誰にも知られていないということなどあり得ないはずだ。

 ならば、その者達までもがグレアムに協力しているか、または、それ以上の力の持ち主によって首を押さえられているか。

 『大将』の上の役職など、それこそ元帥クラスの人物となる。現元帥か、あるいは、管理局の黎明期を支えた三提督か、それとも、実質的な管理局のトップ――最高評議会か。

 

「……私が闇の書の所在を知ってからの行動は、我ながら早かったと思う」

 

 思考を続けるクロノを差し置いて、グレアムは独白を始める。

 まるで、クロノに『それ以上は踏み込むな』とでも忠告するかのように。

 

「まだ活動を始めていない闇の書をこの目で確認し、そして、異国の子供二人の保護者を買って出た。その場で破壊してしまうこともできたが、何とか思い止まったよ。活動を始める前の闇の書など、まず見つけられるものではない。『前回』の悲劇を繰り返さないためにも、ここで『闇の書』がもたらす不幸の連鎖を断ち切らねばならないと思った。……例え、見ず知らずの子供二人を犠牲にしたとしても、それで全てが終わるなら、と思った。思ってしまった……」

 

 グレアムの考えは、次元世界の平和という大局的見地から見れば、正しいのかもしれない。二人の命と、大勢の命。それを存在してはならない天秤にかけたとすれば、大勢の命の皿が傾いてしまうのは、当然だ。

 だが、その選ばれなかった側から見れば、また違った答えが出るのかもしれない。

 例えば、家族のために世界を敵に回した、八神颯輔のように。

 

「しかし、私の縋った正義など、覚悟など、脆く儚いものだったよ。彼らは見事にそれを打ち砕き、運命さえも覆してみせた。……過去に囚われた覚悟などでは、未来を求める覚悟には、敵わなかった……敵うはずがなかった」

 

 ギル・グレアムの行いは、非情ながらも間違いなく正義だった。

 八神颯輔の行いは、管理局からすれば間違いなく悪だった。

 しかし、家族のために戦う行為を、悪と断じてしまっていいのだろうか。

 

「……本当は、誰かに止められたかったのかもしれない。お前のやろうとしていることは間違っていると、糾弾して欲しかったのかもしれない。……しかし、そんな甘えは、敵であるはずの颯輔ですら許さなかった」

「それは、どういう……?」

「あの子はこう言ったよ。『もしも暴走体の制御に失敗してしまったときは、どうか俺ごと封印してください。そして、その功績を使って、はやて達を守ってください』とね。暴走体の制御に成功したとしても、颯輔は自分一人が罪を被るつもりだった。……馬鹿な子だ。そんなことは、他ならぬ颯輔の家族が許すはずがないのに。自分一人が罪を被るつもりなら、彼女達の信頼を裏切らなければならなかったのに。まだまだ子供だ、詰めが甘すぎる……」

 

 くつくつと笑うグレアムはしかし、八神颯輔を貶しているのではなく、自分自身を嘲笑っているようにしか見えなかった。

 だがクロノは、グレアムが間違っていたとも思わない。グレアムはきっと、十一年前に部下を失ったことを、リンディ・ハラオウンの夫の命を見捨てたことを、クロノ・ハラオウンから父を奪ったことを、ずっと後悔していたのだから。クロノに執務官としての教えを説いたのも、他ならぬ、グレアムなのだから。

 ギル・グレアムがかざしていたのは、正義。

 そして、八神颯輔がかざしていたのも、正義。

 別の形をした正義が、ぶつかり合ったに過ぎない。

 それが、『最後の闇の書事件』の真相。

 

「……私を告発することは不可能だ、クロノ・ハラオウン執務官。そんなことはできないし、させもしない。私には、まだ成すべきことが残っている。それを邪魔しようというのならば、何人であっても――クロノ、お前でも容赦はしない」

 

 グレアムがクロノに向ける目は鋭く、そしてそれは、子を守ろうとする親の目だった。

 クロノは、その目を真っ直ぐに見据える。

 

「僕は、聞きたかったことを聞きに来ただけです。……それに、今の僕にはできないこともあるのだと、『学ばせてもらった』つもりですよ」

「………………」

「だけど、この先どんなことがあっても、僕は僕の正義を捨てたりはしない。貴方と八神颯輔以上の力をつけて、いつの日か必ず、守りたいもの全てを守れるようになってみせる。……それが、僕の覚悟です」

「…………そうか」

 

 グレアムの返事を受け、クロノはソファから立ち上がった。

 自分が宣言したことが、子供が語る夢物語のようなものだという自覚は、クロノ自身にもある。

 だが、理想を目指して前へと進まなければ、明日が今日よりもよくなるはずがない。

 クロノ・ハラオウンは時空管理局員。

 掲げる目標は、誰もが笑顔で暮らす事の出来る世界をつくること――次元世界の恒久的な平和だ。

 

 

 

 

 12月26日の夜。海鳴市にあるハラオウン家の邸宅には、リンディ・ハラオウンとエイミィ・リミエッタの二人の姿しかなかった。事件の事後処理という激務を終えて自宅へと戻ったのだが、クロノ・ハラオウンはアースラにて待機、フェイト・テスタロッサとアルフはアリサ・バニングスの家にお泊りである。

 血の繋がりはなくとも親子のような、そして、親子ほどに歳が離れていても友人同士のような仲にあるリンディとエイミィだ。どちらも話せる口であるため、リビングで顔を突き合わせていれば、中身のない会話でも盛り上がるのだが、今日は明るい話には恵まれなかった。

 

「フェイトちゃんとなのはちゃん、とうとうばれちゃいましたね……」

「そうね……」

 

 ぼそりと呟き、エイミィはオレンジジュースを、リンディは砂糖とミルクたっぷりのお茶を口に運び、喉を潤した。能天気というか天真爛漫というか、そういった性格であるはずのエイミィも、今回ばかりは頭を悩ませているようだった。

 本日、フェイトは形ばかりの特別任務を受けて八神はやてを見舞ったのだが、どうやらそこで、学校の友人であるアリサ・バニングスと月村すずかの二人に魔法のことを知られてしまったらしい。

 地球は管理外世界で、『魔法』という概念はあっても、リンディ達のような管理世界でいう『魔法』とは認識が異なる。その世界を混乱させてしまわないためにも、管理外世界の住人に魔法を知られてしまったときは、認識阻害の魔法などを駆使して誤魔化されてもらっている。仮にも管理局員ならばそうするべきなのだが、フェイトとなのはは罪悪感や執拗な追及に耐え切れず、バニングス邸で洗いざらいを話している最中だった。

 ちなみに、アルフは現在は魔法の使えない状態にある二人に代わり、生き証人として連行されてしまっていた。

 

「……まぁ、それはそれでもいいでしょう」

「いいんですかっ!? そりゃあ、アリサちゃんとすずかちゃんは可愛くていい子ですけどっ、ですけどもっ!」

「フェイトさんもなのはさんも、管理局の仕事を続けるつもりなら、どうしても学校を休むことが増えてしまうわ。そういうとき、事情を知っているお友達がいた方が、いろいろと都合がいいじゃない?」

「それは、まぁ……えぇ? ほんとにいーのかなぁ……?」

 

 エイミィはまだ納得がいかない様子だが、リンディの中ではもう片付いてしまっている問題だった。

 管理外世界であっても、今回の『闇の書事件』のように、ロストロギアが絡む事件が発生する場合はなくはない。その事件にかかわってしまった民間人は、『誤魔化されてもらう』か、今後もそのような事件が発生したときのために、現地協力者となるかのどちらかだ。現地協力者となるのなら、当然、『誤魔化されてもらう』必要もない。

 最悪、フェイトには地球を離れるという手段も残っているが、なのははそうもいかない。なのはは歴とした地球人で、ここ、海鳴市に家族が住んでいるのだ。

 もしも、なのはが本格的に管理局入りを目指すのならば、家族の理解も得なければならない。今回の病院での騒動は、行く行くは突き当たるかもしれない問題であったのだ。いずれ話さなければならないのならば、早いか遅いかの違いでしかなかった。

 

「特に心配はないでしょう。アリサさんもすずかさんも、秘密を言いふらすような子ではないわ」

「それはまぁ、はい。……いや、うーん、やっぱり、管理外世界への引っ越し自体に問題があったんじゃ……あ、いえ、決して今更反対しているというわけではなくっ!?」

「やっぱり、エイミィもそう思う?」

「やっぱりって……えぇ、リンディさんもそう思ってたんですかっ!?」

「だって申請するとき、レティにすっごく怒られたもの。『仮にも提督が何考えてんのよ』って」

「『仮にも』って…………いや、でも、何となく想像つくような……」

「でも、仕方ないじゃない。フェイトさん、すっごく寂しそうにしてたんですもの」

「……リンディさんって、フェイトちゃんには駄々甘ですよね」

「あら? 私としては、クロノにもエイミィにも、なのはさんやアルフにだって、厳しく接しているつもりはないのだけれど?」

「ははぁ、いつもお世話になっております」

「ん、よろしい」

 

 日本のテレビ番組、時代劇の真似をしてみせたエイミィに、リンディはにっこりと微笑んだ。

 リンディの方針は、『締めるところは締めて、緩めるところは緩める』である。四課ではギル・グレアムの手前ということもあって顕著ではなかったが、それ以前のアースラは、管理局内でも比較的ゆるい職場であったはずだ。

 締め過ぎて緊張し、常日頃から使命感に溢れていては、いつか必ず切れてしまう。そうなってしまった人を、そうなりかけた人を、リンディは知っていた。十一年前の自分達を。そして今回の事件では、八神颯輔がそうだった。

 

「……四課が解散して、元のアースラチームに戻ったら……クロノ君、ちゃんと元に戻りますよね?」

 

 顔を上げたエイミィは、先ほどまでとは打って変わって不安の色を浮かべていた。

 

「……クロノ君、前から勉強にもお仕事にも真面目でしたけど、特務四課に配属されてからは、なんか、怖いくらいで……。今日だって、いつにも増して怖い顔でグレアム艦長のとこ行っちゃいましたし……。それは、クロノ君にも色々あるんだって、わかってるつもりですけど……なんか、クロノ君まで遠くに行っちゃいそうで……」

 

 エイミィの言っていることには、リンディにも心当たりがあった。

 『闇の書事件』を追うことになったクロノは、これまで培った全てを使い切るかのように、必死で捜査に当たっていた。アースラの改修が終わるまではひたすら過去の資料を漁り、しかしそれでも満足はせず、無限書庫のユーノ・スクライアにまで協力を求めた。アースラが出航してからも、寝る間を惜しんで守護騎士の反応を探索し、反応を捉えれば、自らその世界に赴いて捜査の指揮を執っていたのだ。

 クロノの気持ちがわからなくはないリンディであったが、心身の健康を度外視するような勤務態度は、流石に見過ごせなかった。それもあって、少々気持ちの矛先を変えさせてはみたのだが、どうやらそれは正解ではなかったらしい。今度は、グレアム達の思惑を探るのに没頭してしまったのだった。

 だが、何も褒められた点がなかったわけではない。クロノは自分にはできないことを正確に理解していて、エイミィやヴェロッサ・アコースに協力を要請していた。

 自分にできないことがあるのならば、できる誰かを頼る。そこだけは、八神颯輔達とは違った。頼れる先がなかったのかもしれないが、八神颯輔達は、自分達で完結してしまったのだ。

 

「大丈夫よ。クロノには友達想いの友人がいるし、そして、優秀な補佐官もついているもの」

「うぇ、わ、私ですか?」

「あら、だって、そうでしょう? エイミィは、周りの緊張を解すために明るく振る舞っているのでしょう? エイミィのそういうところ、私も感謝してるのよ?」

「えー……あー……その……まぁ? なんか、改めて指摘されると恥ずかしいんですけど……」

 

 視線を彷徨わせながら跳ねている髪をいじっているエイミィは愛らしく、この子が隣にいれば、と安心ができた。

 

「そうね……今のクロノは、目の前で他の男の子の格好いいところを見てしまったから、その影響を受けているだけかもしれないわね」

「他のって……八神颯輔君、ですよね……」

「ええ。決して褒められた方法ではなかったけれど……管理局員が言ってはいけない言葉だけれど、彼の行動は、きっと正しいものだった。物語の主人公のような、人を惹きつける生き方だわ。……けれどそれは、人間として致命的に間違えてしまっているの」

「間違えて……?」

「例え、どれほど大切な人がいても、その人の命を自分の命よりも優先してはならないのよ。それは、誰にもはできない尊い選択かもしれないけれど……一見、素晴らしい選択かもしれないけれど、絶対に間違っているわ」

 

 例え、それしか方法がなかったのだとしても。結果的に、その行動で命を救われた人がいたとしても。残された人の心に刻まれた深い傷は、決して癒えることはない。ふとした拍子に疼きだし、過去を思い起こさせてしまうのだ。

 十一年前、リンディはアルカンシェルによって夫であるクライド・ハラオウンを失った。そして今回、他ならぬリンディがアルカンシェルを撃ち、八神颯輔の命を奪ってしまった。

 心の傷は、深く、深く。

 『彼らを救う力を』と、声高に叫び続けている。

 それでもリンディは微笑を浮かべ、疼く心の叫びを冷たくあしらった。

 

「クロノがそうなってしまわないように……もう二度と、こんな悲しい事件が起きてしまわないように、私達も、頑張らないといけないわね」

「……はい!」

 

 『最後の闇の書事件』も、悲劇のうちに終わりを告げてしまった。

 それは、とあるロストロギアが引き起こした、悲しい事件の一つ。

 時空管理局は、その悲しみを一つでも少なくするためにある。

 

 



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最終話 夜天の光に祝福を

 

 石田幸恵の手が伸び、恐る恐るザフィーラの獣耳へと触れる。二度、三度と感触を確かめるように揉み、撫でると、やがて納得したのか、石田の手はゆっくりと、若干名残惜しそうに離れていった。

 

「本物、なんですよね……?」

「はい……」

「……あの、信じてもらえました?」

「え、ええ、まぁ……」

 

 シャマルの問いかけに、喪服に身を包んだ石田は、ザフィーラの獣耳を凝視しながら答えた。

 12月30日になったばかりの深夜、海鳴市にある葬儀場では、八神颯輔の葬儀が執り行われている。現在は通夜の最中で、シャマルにザフィーラ、そして、石田の三人で蝋燭の番をしていた。

 これからしばらく海鳴市を離れることとなるため、その時間を利用し、シャマルとザフィーラは石田にこれまでの全てを話していた。リミッターを課せられていても出し入れ可能なザフィーラの獣耳は、魔法が存在することの何よりの証拠である。

 

「じゃあ、あの颯輔君も……?」

「はい……。颯輔君の生体データはリインフォースが記録していましたから、それを元にして、幻術魔法で再現しているんです」

「……颯輔の人形、と言ったところです」

 

 石田の視線の先、祭壇にある棺には、颯輔の姿がある。しかしそれは、リンディ・ハラオウンが幻術魔法によって作りだした偽物に過ぎなかった。

 颯輔はアルカンシェルを受けて命を落としてしまったが、管理外世界である地球では、その説明は通らない。よって、特務四課が事件の事後処理として、颯輔の死を偽装したのだ。そうして世界の矛盾をなくすのも、管理局の仕事の一つである。

 八神颯輔の死因は、急性心不全。25日の早朝、自宅のベッドで亡くなっていたところを家族が発見した、ということになっている。身体は健康になった八神はやての退院を待って、葬儀を始めたというわけだ。

 

「急性心不全、ね……。おかしいとは思ったわよ……はやてちゃんの病状は突然良くなっちゃうし、あなた達にしたって、最初はホームステイって話だったのに……」

「……すみません」

「我らのせいで、颯輔は……」

「……あら、どうしてシャマルさんとザフィーラさんが謝るの?」

 

 視線を戻した石田は、儚げな微笑を浮かべていた。

 

「颯輔君は、はやてちゃんを、あなた達を……『家族』のことを、ちゃんと助けられたんでしょ?」

 

 その声は、徐々に震えていって。

 

「なら、謝らないでよ……謝ったら、だめよ……」

 

 その頬を、透明な滴が伝い落ちていく。

 

「……私、そんなに頼りなかったかなぁ……?」

 

 微笑は崩れてしまって。

 

「頑張ったのに……魔法なんて、ずるいわよ……!」

 

 俯いてしまった石田の手を、シャマルはそっと包み込んだ。

 

「颯輔君は……はやてちゃんも、もちろん私達も、石田先生には感謝していますよ」

「でも、私は、何もできなくて……!」

「そんなことはないです。魔法の力を持っている私達でも、はやてちゃんの治療はできませんでした……。それでも石田先生は諦めないで、ずっと、ずっと、治そうとしてくれていました。颯輔君とはやてちゃんの、そばにいてくれました」

 

 はやての両親が亡くなり、ギル・グレアムも去って、シャマル達が現れるまでの間、颯輔とはやての面倒を見ていたのは、実質石田一人だけだった。二人にとって、それがどれほどの助けになっていたか。

 

「石田先生は、颯輔とはやてにとっての母でしたよ」

 

 ザフィーラの言葉に、石田はついに泣き崩れてしまうのだった。

 

 

 

 

 12月30日の午前。高町なのはは、火葬場から冬の空を見上げていた。火葬場の排気筒からは、微かに翡翠色の光が窺える。光は薄く雲のかかった空へと昇り、その色を失っていく。八神颯輔の幻を構成していた、リンディ・ハラオウンの魔力光だった。

 なのはと同じく外にいるのは、ギル・グレアムとリーゼ姉妹。その三人から離れたところには、八神はやてとリインフォース達、石田幸恵、そして、月村すずかとアリサ・バニングスの姿がある。フェイト・テスタロッサにアルフ、エイミィ・リミエッタを加えたハラオウン家も、一カ所に固まっていた。その全員が、無言で空を見上げている。

 

「なんか、実感湧かないなぁ……」

「お姉ちゃん?」

 

 なのはの隣には、なのはの姉で颯輔の同級生でもある高町美由希がいる。美由希は、なのはから顔を隠すかのように上を向いていた。

 

「終業式の日は、普通にさよならって別れたのに……。いなくなっちゃって、初めて気が付くなんて、私、馬鹿みたい……」

「お姉ちゃん、もしかして、颯輔さんのこと……?」

「わかんない……よく、わかんないよ……」

 

 眼鏡を外した美由希が目元を拭い始めたところで、なのはは美由希から視線を外した。

 なのはが魔法の事件に関わったのは、今回で二度目となる。そのどちらもで新しい友人を得て、しかし、辛い別れも経験した。

 ジュエルシード事件では、フェイトの母であるプレシア・テスタロッサを救うことができず、闇の書事件では、はやての兄である八神颯輔を救うことができなかった。

 ジュエルシード事件の頃の高町なのはは、魔法の存在を知ったばかりの無力な少女に過ぎなかった。それから魔法の練習をして、特務四課で訓練を受けて、その頃よりも強くなったつもりだった。そのはずが、また、だめだった。

 なのはに与えられたたった一つの才能。それを活かせば、誰かに褒めてもらえると思っていた。しかし、褒められるだけで満足してはいけなかったのだ。その先、誰かの役に立って、誰かを助けられるようにならなければ、意味はない。

 ならば、高町なのはが進むべき道は、ひとつ。

 

「……お姉ちゃん。帰ったら、皆に、大事な話があるんだ」

 

 今度こそは、誰にも悲しみの涙を流させない。

 

 

 

 

 12月30日の夜。八神颯輔の葬儀を終えた八神はやては、自宅へと戻っていた。

 ナハトヴァールが消滅し、闇の書が夜天の魔導書へと戻ったことにより、はやての身体を侵していた異常は綺麗になくなった。海鳴大学病院での検査を終え、ようやく退院することができたのだ。リハビリを続ければ、自分の足で歩くこともできるようになるそうだ。

 しかし、はやてはしばらくの間、病院へ通うことはできない。リインフォース達と一緒に隔離施設へと入り、更生プログラムを受けながら、魔法の勉強をすることにしたのだ。

 もう誰にも、自分のような想いをさせないために。

 何より、八神颯輔との約束を果たすために。

 

「……やっぱり、そんな都合のいい魔法なんてあらへんよね」

 

 ベルカの文字が記された最後の頁をめくりおえ、はやては小さく息を吐いた。永い時を旅し、様々な魔法を収集してきた夜天の魔導書にも、死者蘇生の魔法などは記されていなかったのだ。

 そんなものは存在しないと、最初からわかっていた。ただ、自分の目で確かめて、そして、踏ん切りをつけたかっただけだ。

 少しだけ期待してしまったことは、否定しないけれど。

 

「はやて、もう出発だって」

「クロノ・ハラオウンが迎えに来ました。皆も、準備を終えて待っています」

「ん、今行くよ」

 

 ヴィータとリインフォースに呼ばれ、はやては小さく笑いながら返事をした。ヴィータが首に巻いているのは、はやてがクリスマスプレゼントとして用意していた紅のマフラー。リインフォースのマフラーは、颯輔に渡すはずだった黒いマフラーだ。

 家族皆が笑って写っている一枚の写真を挟み込み、夜天の魔導書を閉じる。自室からリビングへ出て、ヴィータからコートと白いマフラーを受け取ると、リインフォースが後ろに回って車椅子を押し始めた。

 外に出れば、微かに雪の降る中にシグナムとシャマル、そして、ザフィーラとクロノ・ハラオウンの姿がある。シグナムとシャマル、ザフィーラの三人も、それぞれの魔力光と同じ色の毛糸で編まれたマフラーをしていた。

 時空管理局本局にて形式的な裁判を受けて、隔離施設で過ごす。それには、おおよそ三ヶ月の時間がかかると聞いている。次にここへ帰って来る頃には、桜の季節となっているだろう。

 雪が舞い散る夜空を見上げれば、浮かぶ雲の切れ間から、大きな月が覗いているのが見える。

 その隣には、寄りそうようにして輝く小さな星があった。

 近く見えても遠く離れているそれらは、兄と自分を表しているかのようで。

 

「――ほな、いってきます」

 

 月明かりの下、無人となってしまった暗い家を振り返って、はやてはそっと囁く。

 ふわりと吹いた風が、はやての頬を撫で、優しく髪を梳かしていった。

 

 




最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
EDには、『PHANTOM MINDS』などをどうぞ。
今後の活動の参考とさせていただきますので、お手数でなければ、感想やダメ出しなどをお願いします。

続編となる『夜天に輝く二つの光Relight』を連載中です。
結末に納得のいかなかった方は、検索してみてください。


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