那須隊の番犬 (遠野雪人)
しおりを挟む

ボーダー入隊・C級編
第1話 志岐犬彦


 ワートリ成分欠乏症が深刻だったので自家発電も兼ねて書いていたものですが、その必要がなくなったので記念に投稿します。

 連載再開おめでとおおおおおお!!


 

 

「さて、言い訳を聞こうか」

 

 頬をぴくぴくと怒りで引き攣らせながら弟が言う。

 腕を組んで仁王立ちするその正面には、正座でぷるぷると子鹿のように震える姉の姿があった。

 

「俺が聞きたいのは、――どうして! つい1週間前に確かに振り込まれたはずの! 1ヶ月分の小夜子の生活費が! すでにカラになってるのかってことだ!」

「さ、さあ……某には何のことやらさっぱり」

「おい目を逸らすなこっちを向け芸者ガール。答えろ、何に使った?」

 

 顎を掴んで無理矢理相対させるも、ひゅー、ひゅー、と吹けていない口笛を吹いて黙秘の構え。

 

 ほう、と弟の声音が更に低く地を這った。

 いいだろう。そっちがその気ならこっちは最終兵器を出すまでだ。

 

「だんまりか。なら仕方ない。この現状を包み隠さず実家に報告して――」

「すみませんそれだけは勘弁してください」

 

 すがすがしいほどの土下座を決めながら白状した。姉の威厳など欠片もなかった。

 ともあれこれで被疑者からの自白は得た。ならばあとは罪の軽重をはっきりさせるだけだ。

 

「で、何に使ったよ。いや何に、じゃないな。お前のことだしゲームに使ったのはわかりきってる。問題はあれだけの大金の何割をゲームに使ったのか、なんだが――おい待て何故視線を逸らした」

 

 びくり、と大きく震える姉にすぐさま問いを投げかけた。

 もうこの時点ですでに嫌な予感しかしなかったが、聞かないわけにもいかない。

 

「……その。ヤ○オクで欲しかったレトロ的なアレが安く売っているのが目に入ったもので」

「で?」

「オールインって言葉知って――あひはひひはひひはひ(いたいいたいいたい)! ほほは(ほおは)! ほほはほんはひほひはひはは(ほおはそんなに伸びないから)!!」

 

 至近距離から叩きつけられるダメ姉の悲鳴に、弟――志岐犬彦は深くため息を漏らした。

 

 

 

 

 

 姉の志岐小夜子が1人暮らしを始めると聞いた時にも驚いたものだが、その姉がボーダーに入ると聞いた時にはもっと驚いた。

 異性恐怖症な小夜子が組織に加入する。あまりにも現実離れしすぎていて耳にした時には思わず夢ではないかと頬をつねってしまったことは記憶に新しい。

 その上小夜子の仕事はオペレーターだというではないか。これはもう心配するなという方が無理な話だ。話を聞いた時にはコミュ障な小夜子がきちんと隊員とコミュニケーションをとれているのか、いじめられていないか気が気でなかった。

 

 職に就いて1ヶ月ほどは追い出されないかとハラハラドキドキの毎日だったが、幸いにして「追い出されたー!」という泣き言はいつまで経っても聞こえてこなかった。

 そして職場での愚痴を零す時間が、次第にその日あった楽しいことを話していく時間に変わり、活き活きとした笑顔を見せるようになった小夜子を見ているうちに、心配や不安は興味に変わった。

 

 だからある日、ふとした思いつきで小夜子の1人暮らし先を訪ねてみたのだ。

 勿論思いつきだったから、アポなどなし。むしろどんな反応をするのか期待していた節まであった。

 そうして小夜子が住んでいるマンションの1室を訪ねたところ、宅急便か何かだと思ったのか、無警戒に扉を開けた久々の姉の姿を見て絶句した。

 

 ダルダルのジャージ。

 色白くやせ細った肌。

 浅く染みついた目の下の隈。

 弟の姿を認めるなり顔色をいっそう青白く染め上げる顔の向こう――山のような段ボールで埋め尽くされた部屋の姿。

 

 日が暮れるまで姉を叱り倒したのは後にも先にもその1日だけだ。

 

 

 

 

 

 その日、小夜子の1人暮らしは終わりを告げた。

 翌日1日を使って小夜子の部屋を人の住める場所にした犬彦は、すぐさま実家に戻って小夜子の現状を告げた。そっくりそのまま伝えるとショックで倒れかねなかったためにオブラートに包みこそしたものの、それでも信じられないほどの非人間的生活だ。……1人娘が水と塩昆布だけで日々を過ごしていることを知ったらどんな顔をするだろう?

 そうなってしまえば両親としても否やがあるわけもない。小夜子との2人暮らしを始めることは、二つ返事で了承された。小夜子を溺愛する父などは終始身悶えして鬱陶しかったものの、我が家一の発言権を持つ母が首を縦に振ったのであれば従わざるを得なかった。

 そして1日でも早くというようにその日のうちに荷物をまとめ、次の日には自分の部屋を設けて荷ほどきを終えた。世間はゴールデンウィークに入っていて学校が長期休暇に入っていたのも都合が良かった。

 

 それが2週間前のこと。結果として、あの時の決断は間違っていなかったと胸を張ってそう言える。だがしかし、あまりの姉の生活能力のなさに早くも心折れそうになったことくらいは許して欲しい。覚悟の上でここへ来たとはいえ、これは本当に傍付きの執事よろしく姉の面倒を見る必要がありそうだった。

 

 

 

 

 

「お、そっち1人いったぞ。フォロー頼む」

「ん、了解」

 

 ポリポリとポテチを食みながらのんびりと答えるが、その操作は確かなもので、画面上の小夜子が操作するキャラクターはまるで分身であるかのように淀みない動作でめまぐるしく画面上を疾走する。

 

「何だかまだ慣れないわ。少し前まではいつも顔付き合わせてゲームやってたのになあ」

「ほんの少しの間離れてただけで何言ってんのさ。まだ半年だよ?」

「そうか? そういやそうか」

「そんなに私と離れて寂しかったのかね」

「寂しい……というか。アレだほら、お気に入りの枕が変わると眠れないとか、抱きしめるクッションの触感が変わった時みたいな違和感。据わりが悪くて落ち着かないようなあの感じよ」

「犬彦ってそんなに神経質だったっけ」

「ここ最近寝つきが悪いのはあった」

「寂しかったってことじゃないの? それ」

「そのいやらしい顔でこっちを見るな。寝つきが悪かった理由の大部分はお前がやらかしてないか心配だったせいなんだからな」

 

 とりとめもないことを喋りながらも画面上から目を離さず、またその操作が乱れることもない。これは小夜子と犬彦にとっては日常茶飯事なので、当然のことだった。

 大画面のテレビを前にコントローラを握る小夜子はぺたりと脱力した猫のように俯せに寝そべった姿勢で、時折手元に置かれたポテチ袋に手を伸ばしている。つい先程鬼のように叱られた犬彦が横にいるにも関わらずリラックスしきったその様子には呆れるよりもむしろ関心してしまう。

 

 まあ、今更、というやつだった。1人暮らしになってしまってからはご無沙汰だったが、元より犬彦と小夜子の関係はこんなものだった。

 しっかり者の弟が駄目な姉を叱り、事が終われば何事もなかったかのようにコントローラを取り出して顔をつきあわせてゲームを始める。

 喧嘩は毎日のように――主に犬彦が叱りっぱなしだが――しているものの、こじれたことはほとんどない。それは根が素直で奥手で善良な小夜子の気質のせいもあるのだろう。だからどうにもこの駄目な姉のことを嫌いになりきれない、というのもあるのだろうが。

 ともあれ、そんなわけで2人の姉弟関係はすこぶる良好なのだった。

 

「そういえばさ」

「うん?」

 

 モブゾンビの集団にグレネードを放り投げながら小夜子が言った。

 

「本当なの? 犬彦もボーダーに入るって」

 

 ただの世間話のように小夜子は問いかけを口にする。

 ちらりと視線を移すも、こちらに目線さえ向けていない。あくまで雑談の一環の様子だった。

 

「そのつもりだけど」

「止めといた方がいいって。しんどいだけだよ? キモいのいっぱい相手にしなきゃなんないしさあ」

近界民(ネイバー)とかいうのだっけ」

「私はむしろ近界民(ネイバー)よか味方のが怖い」

「マジでか」

 

 ぎょっと目を見開いて思わず画面から視線を向けると、マジだよ、とマジ顔で頷く小夜子。

 

「手足もげても敵を倒そうとするバトルジャンキーばっかりだし、酷いのだと狙撃兵がスナイプした弾を、避けるオア五右衛門宜しく斬鉄剣しちゃう人外がいたりする」

「おう……」

 

 外人みたいに口の端をひん曲げて呻く。

 なまじ小夜子とゲームやりまくってるだけにその発言は信じがたいものがあった。

 

「え、何。ボーダーってそんなのばかりなの?」

「いや、流石にそれは一部だけどさ。そんなのと付き合っていかなきゃいけないよって話」

「俺と同い年くらいの人ばかりなんだろ? どんな集まりなんだよボーダーって」

「そんな化け物の集まりに弟を放り込むのは姉としては忍びない。だからボーダーは止めておくべき」

「何だその棒読みは。どうせ小夜子のことだからボーダーに入ったら目をつけられる時間が増えるとか、そんなこと考えてるんだろ」

「はははまさか、自他共に認める姉の鑑であるわたくしがそんなさもしいことを考えるとでも」

 

 画面の中の小夜子が毒液をモロに食らった。動揺しているのが丸わかりである。

 というかそもそも、と図星をつかれて小動物のように震える小夜子を見やり、

 

「……正直小夜子がその中でやっていけてるんなら、大丈夫だろと思うんだが」

「失礼な奴だな! 私のどこに問題があるのか言ってみてもらおうじゃないか!」

「一日あっても語り尽くせないからやめておくわ」

「ぐう、あまりにも淡泊すぎる反応が私の心に大ダメージ……! あ、デブ出た。アレ私が抑えに行くわ」

「あいよ。……にしてもホント、小夜子がきちんとやれてるんだもんなあ。正直1ヶ月で追い出されるんじゃないかと思ってたわ」

「……まあ、私自身驚いてるのは確かだよ。入ってしばらくはずっと後悔してたし、こんなところ出てってやるーって思ってたしでモチベーションなんて言葉とは無縁だったからねえ」

「お前ずっと愚痴ってたからなあ……男の人怖い男の人怖いって。こいつよく面接通ったなってずっと思ってたわ」

「正直私もどうして通ったのかよくわからん」

「威張るな」

 

 ふふん、と得意げな顔をして鼻を鳴らす小夜子。

 

「まあ、私も大人になったってことですよ」

「それは絶対にないと断言しておく。まあでも、小夜子のことは抜きにしても結構給料入るって話だし。学校通いながらできるんだろ? 受けてみて損はないだろ」

「それはそうだけどさー」

 

 淀みなくゾンビを撃ち殺していた小夜子のペースがわずかに遅れた。人が操り人形になったレベルの変貌。会話しながらでも問題なく操作できる小夜子にしては珍しいことだ。

 

「そんなに嫌か? 俺がボーダーに入るの」

 

 さっきの説教が実は尾を引いているのだろうか、と若干不安になりつつ尋ねると、んーん、と小夜子は首を横に振る。

 

「嫌じゃないよ。むしろ私と犬彦が組んだらどうなるかって、ちょっと楽しみにしてるところもあるくらい」

 

 だけどさ、と瞳に心配の色を滲ませて犬彦を見て、

 

「犬彦も私と同じくらいのコミュ障だし。ボーダーでやってけるのか不安だわ」

 

 その言葉を聞いた犬彦はコントローラを放り出して前のめりに肘をつき、胸を掻きむしるような仕草とともに叫んだ。

 

「うっわ小夜子に心配された……!! こんな屈辱生まれて初めて!」

「やめろ、流石に傷つくぞそれは!」

 

 

 

 

 

 ――その姿に、目を奪われた。

 

 内緒だよ、と差し出してきた姉のタブレットに再生された模擬戦の動画。

 自身が所属するチームを自慢したかったのだろう。それがグレーゾーンの行いであることを理解しながらも、横で見守る姉の顔は宝物をみせびらかす幼子のそれだった。

 

 望んだわけではないとはいえ、興味がないと言えば嘘になった。

 だから小夜子の行いを咎めるふりをしながらも、差し出されたタブレットを受け取った。

 

 映像では、自分より少し年上くらいの年若い少年少女が、剣を、銃を手に取り激しくぶつかり合っている。

 見ているだけの自分にさえ伝わってくる熱。ルールは1つもわからなかったが、横から口を出してくる姉の説明もあり、何を目的としているのかはすぐに理解した。

 

 姉が編集したのか、映像は贔屓目に見ても姉が所属するチームに視点が寄っていた。

 だから何を見せたいのかはわかりやすかったし――その姿に惹かれるのは道理だった。

 

 その女性は剣も銃も持っていなかった。

 何も持っていない手から光る立方体のキューブのようなものが現われ、それが無数に分裂して女性の周囲をぐるりと巡る。

 アニメやゲームの知識だけは豊富だったので、自然と連想した兵器の名前が口を衝いて出た。「でしょ? やっぱそう思うよね!」と興奮した様子の姉が言った。

 

 それは言うなれば、タネだった。

 女性の声1つで、敵を撃ち貫く弾丸に、あるいはシールドに変化した。

 中距離を保ちつつ雨霰と機関銃のように弾が飛んでくるのに対して、これは堪らんと敵が壁を挟んで退避しようとする。しかし放たれる弾は鋭角に軌道を変えて隠れた獲物に食らいついた。

 姿も見えない遠距離から狙撃されたならそれをシールドで防ぎ、返す刀で放たれた弾が離れたマンションの屋上に潜む狙撃手を撃ち貫いた。「私が弾道解析して教えたんだよ!」と誇らしげに姉が胸を張った。

 

 ――凄い。

 

 いつしか、呼吸さえ忘れてその画面に食い入っていた。

 刀を手に暴れる剣士も、建物に隠れて狙撃する小柄な狙撃手も良かった。けれど何より少年の心を奪ったのは無数の弾で敵を翻弄する射手だった。

 

 色素の薄い、肩までの長さの髪が爆風に揺れる。

 細身の身体を包む白を基調とした制服も相まって、位の高い令嬢のようにも見えた。

 そして――整った容貌に煌めく、鮮やかな翠玉のような、目。

 

 志岐犬彦は、那須玲に憧れた。

 

 

 




 絶対小夜子って内弁慶だと思う(確信

 ダンボール生活を原作の志岐一家はどう扱っていたのか気になるところですが、今作ではこんな感じになりました。
 異性恐怖症のこともそうですし、基本的に原作沿いでやっていくつもりですが小夜子だけはどうしてもキャラ崩壊が免れません。
 ので、小夜子ファンの方々には平謝りです。それでも良ければ是非お付き合いください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 志岐犬彦②

 早速評価ついててびっくりしましたがとても嬉しいです、ありがとうございます!
 4話までは毎日投稿予定なので、期待に応えられるよう頑張ります。


 

 

 そんなこんなで、瞬く間にその日はやってきた。

 

 ボーダー入隊日。周囲を見渡せば犬彦と同じ白い制服を着込んだ少年少女が浮き足立った様子で和気藹々としている。

 対して犬彦はと言えば、顔なじみの知り合いがいるわけでもなく、椅子に座って黙々とスマホを弄っている。こういう時、普通に考えれば家族が来るものだろうが、父母は普通に仕事でこれず、唯一来れそうな小夜子は引きこもり。

 

「典型的なぼっちそのものじゃないですかやだー」

「地味にぐさりと来るからやめてそれ」

「言ってて私も悲しくなってきた。もうこの話は止めるさー」

 

 チャットでぽちぽちと小夜子と会話しながら時間を潰す。あいつはこの時間仕事とかないんだろうかと聞いたら、今日はオフですとどや顔スタンプが送られてきて軽くイラッとした。

 

「それにしても……今更だけど本当に良かったの? 私みたいにスカウトとかで入る選択もあったわけだけど」

「いいんだよ別に。何も急いで上に上がる理由があるわけでもないし……それに」

「それに?」

「一足飛びで上に上がるとか、ズルしてるみたいで男らしくない」

 

 返答には一瞬の間が開いた。続けて送られていたメッセージは「勿体ない」。

 

「折角の楽して上がれるチャンスをどうしてフイにしちゃうかなあ」

「右も左もわからない状況でいきなり上位の仲間入りしても勝手がわからなくてオタオタするのが関の山だろ。まずは操作感に慣れるのが重要」

「ゲーム脳はこれだから」

「ブーメラン乙」

 

 いつも通りのやりとりに思わず頬を緩ませながらメッセージを打つ。

 何だかんだで緊張していたのだろうか、強張っていた背筋から力が抜けていくのを感じた。

 

「そうやって意地張ったせいで余計な苦労を買う羽目になるかもしれないのに。お金だってC級とB級じゃ随分違うんだよ?」

「言っておくが、俺が稼いだお金はビタ一文お前には渡さないからな」

「共有財産でしょー? 今の生活費のいくらが私のお給金から出されてると思ってるのさあ」

「確かに小夜子の財布のひもを握っているのは俺だ。……だがいつ俺がお前に俺の金を渡すと言った?」

「なん…だと…?」

 

 愕然とした表情のスタンプが送信されてくる。

 

 現在犬彦達の生活費をまかなっているのは両親の仕送りと小夜子の給金、ということになっている。

 ――だがこれは小夜子には伝えていないが、実際は仕送り分だけで生活費は賄えているのだ。

 曰く、「まだ成人してもいない子供に生活費を払わせるほど落ちぶれちゃいない」という両親の厚意によって。

 

 だからといって小夜子に財布を握らせたままだとどうなるかはすでに証明済みであるため、両親にも口止めをお願いして内緒にしている。

 勿論小夜子のお給金はほとんど全額貯金させ、毎月決まった金額をお小遣いという形で手渡しているのだ。

 お父さんよりよっぽど父親らしい、とは、そんな犬彦の姿を見た母親の談。

 

「そういえば、那須先輩達が犬彦に会いたいって言ってたよ」

「えっ」

「そりゃ、私の弟だもの。話はしてたし、気になるのも仕方ないんじゃない?」

「アッ、ハイ。そうですね」

「ウチの弟がモテモテで姉の私も鼻が高い」

「心にもないこと言うのやめてくれませんかねえ」

 

 ポチポチと打ち込む犬彦の表情は内心の葛藤を表すかのように渋面を形作っていく。

 会いたくないわけではない。むしろ会いたい。姉のチームメイトであり、犬彦にとっての“憧れ”だ。会いたくないわけがない。

 ひとまず、探りを入れてみることにする。

 

「俺のこと何て説明してるんだ?」

「犬彦だったら私のこと何て説明する?」

「重度のコミュ障でヒッキーな駄目姉貴」

「よくわかった。当日私からのサポートはいらないってことね」

 

 いや、だって本当のことだし……と脊髄反射で打ち込みそうになったが、ここで本当にへそを曲げられてしまっては後が怖い。土下座のスタンプを送っておくことにする。内弁慶め。

 まあ、所詮弟の紹介だ。さして踏み込んだ紹介などしていないだろうし、期待されている、と考えるのも自意識過剰と言える。気にするほどのことでもないか。

 

「どこまで話せばいいか咄嗟に判断できなかったので、私に似てますと答えておいたよ」

「最悪の答えじゃねーか!」

「くま先輩の『お、おう……』と何とも言えない顔が印象的でした!」

「でした!じゃねーよ! 明らかにやらかしてんじゃねーか!」

「那須先輩は『面白そう。会ってみたいな』だって」

「あああああもうこのクソ姉貴いいいいいい」

 

 思わず顔を両手で覆って伏せる。憎らしいやら恥ずかしいやら、今の犬彦の表情はきっと人様にはとても見せられないものになってるはずだ。ここが衆目に晒された場所でなければごろごろと悶絶したい気分だった。

 そんな犬彦の百面相など露知らず――あるいは、わかってやっているのか――やり遂げた表情で汗を拭う小夜子似のイラストがスタンプで送られてくる。この姉どうしてくれようか。

 

「案ずるな。きちんとフォローは入れてあるとも」

「信用できないし安心もできないんだが? あと何だその謎キャラは」

「というか、どれだけ飾っても結局のところ犬彦に問題があるのは事実なのだし、それ以上何も言えないと思う」

「……ぐぬぬ」

 

 ふざけまくっていたと思えば急にまともなことを……実際その通りなので何も言えない。

 

「本当にそれ以上は踏み込んだこと話してないけど、どうする? 前もってちらっとでも説明しておいた方がいい?」

「……いや、いい。それはあんまりにも情けなさ過ぎる」

 

 まだ会ってもいない人にいきなり気を遣わせる必要なんてない。男の子には張るべき意地というものがあるのだ。

 

「きちんと会って話をしてから、説明する」

「骨は拾ってあげるさー」

「助かる」

 

 ふとスマホから顔を上げると徐々に喧噪が静まり始めていた。そろそろ入隊式が始まるようだ。

 そろそろ切り上げる旨を打ち込もうとしたところ、スマホが震えて受信を知らせる。

 

「犬彦なら、すぐに上に上がってこれるよ」

 

 ……本当にこの姉は、いつもは駄目駄目なくせに、たまに姉らしいことを言う。

 

 照れ隠しなのか、一拍の間を置いて続いたメッセージは「何せ私の弟だからね!」。

 思いがけず姉らしいことをした姉に倣って、犬彦も素直に送ることにした。

 

「ありがとよ」

「早く上がってきて私を楽にさせろー」

 

 すぐさまいつも通りの反応を返してきた姉に苦笑を返してスマホの電源を落とした。

 

 

 

 

 

 驚愕の事実が発覚した。

 

 入隊式が終わり、すぐさま訓練を始めるということで、犬彦達はまず攻撃手(アタッカー)銃手(ガンナー)希望、狙撃手(スナイパー)希望の二組に分けられた。

 犬彦は攻撃手(アタッカー)銃手(ガンナー)組を希望した。小夜子に聞いたところポジションコンバートもアリという話だったので、それならば明らかに上級者向きと言える狙撃手(スナイパー)よりもまずはこちらを、と考えた次第である。

 最も、犬彦の場合、すでに自分が目指す目標を決めていたためにどちらにせよこちらを選んだことだったろうが、それは今は置いておこう。

 

「君達の左手の甲を見てくれ。数字が見えるだろう? それは各自が選んだトリガーをどれだけ使いこなしているかを示す数字だ」

 

 嵐山隊隊長嵐山准。自己紹介もしていたが、嵐山隊はボーダーの広報担当を務めておりメディアにも出演することが多いことからその名前はよく知っていた。落ち着いた物腰とはきはきとした口調は、成程確かにこういったことに向いている、と思わせるものがあった。

 

「ほとんどの者は1000からのスタートだが、仮入隊期間に高い素質を認められた者は、ポイントが上乗せされているはずだ」

 

 そう。仮入隊期間。実は犬彦も参加していたのだ。とは言ってもたいしたことをやっていたわけじゃない。正式入隊日を迎えるまでの間、教養を受けたり、トリガーの操作訓練や訓練室で仮想近界民(ネイバー)を相手にした戦闘訓練を受けていただけ。

 それでも今日がスタートである新米隊員と比べればいくらかはリードしているはずだが、嵐山は高い素質を認められた者は、と言った。

 耳に聞こえてくる声を拾えば、大幅にポイントを加算されて喜んでいる者も、逆に思ったよりもポイントが加算されておらずがっかりしている者もいた。

 

 そして、今。犬彦の左手には、3500の数字が輝いている。

 

 思わずさっと袖口を引いて数字を隠した犬彦を誰が責められようか。

 嵐山に言わせれば、期待されている。それ自体は嬉しい。確かに訓練は真面目に取り組んでいたし評価をされるのも嬉しいことだ。

 だが先程聞いた話では、B級に上がるための必要ポイントは4000。あとたったの500ポイントで上がれてしまうではないか。

 

「一足飛びで上に上がるとか、ズルしてるみたいで男らしくない。……キリッ」

 

 脳内で小夜子が犬彦の台詞を反芻してどや顔を決めた。

 怨みはまったくないが、何か激しく嗜虐心を刺激されたのであとでリアルに報復することを心に決める。

 

 ここは逆に考えよう、と犬彦は思考のリセットにかかる。

 確かに想定とは随分違った形になってしまったが、元々上に上がるつもりではあったのだ。予期せぬ形でそれが短くなってしまったが、他の連中と比べて仮入隊期間という下積みもある。だから決してズルではない。

 

 それに、ポイントを稼ぐための手段の一つであるランク戦における勝利では、よりポイントの高い相手に勝てばそれだけ増えるポイントが多いという。

 これだけのポイントを持っている訓練生は滅多にいないことだろうし、つまり犬彦自身がラスボス。

 そう考えれば男的に割と燃えるシチュエーションではあった。

 

 よしメンタルリセット成功……!と内心で拳を固めていると、いつの間にか説明が終わっていた。

 どうやら仮入隊期間でもやった対近界民(ネイバー)戦闘訓練を行うらしい。

 気を取り直し、部屋に向かう訓練生の列に混ざるように犬彦も足を進めた。

 

 




 次回、戦闘訓練。
 ついでに1人目のヒロインが登場します。タグも追加します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 小南桐絵

 ヒロイン1人目です。


 

 

 小南桐絵は騙されやすい。それは自他共に認める評価だ。

 

 ちょっとした冗談でも、真に迫ったものでも、後で思い返せばどうして信じてしまったのかと頭を抱える荒唐無稽なものでも、とかく人の言葉を鵜呑みにしやすい少女だった。

 それは素直な小南の気質故のことなのか、あるいは悪意とは無縁の環境に恵まれていたためなのか、――あるいは単に頭が悪いだけなのか。小南自身にも実はよくわかっていない。

 ただ、そんな彼女でも胡散臭いと思うことはあるのだ。疑うという気持ち自体は存在するのだ。

 それはたとえば、迅の言葉に唆されてC級隊員の訓練の様子を見に来ている、今のように。

 

 

 

 

 

「喜べ。何とお前に弟子ができるぞ」

 

 いつもの胡散臭い笑みを浮かべながら迅はそう言った。

 今日入隊する訓練生の一人が小南の弟子になる未来が見えた、と。

 

 サイドエフェクト、という能力がある。

 高いトリオン能力を持つ人間に発現する超感覚であり、言ってしまえば超能力のようなものだ。

 高いトリオン能力を持つ人間、と条件づけられている通り、現在確認されている発現者は極めて少ない。今でも研究が進められている能力だ。

 

 迅が所有するサイドエフェクトは未来予知と呼ばれている。

 その名の通り、少し先の未来を見ることのできる能力だ。

 一度目にしたことのある人間に限定される、確定していない未来は可能性でしかない、等々、条件こそあるものの、その信頼性は積み重ねてきた実績により保証されている。

 

 その迅の言葉であれば信憑性は高い。

 事実、小南自身何度も迅の予知に助けられている。十分に可能性のある話だろう。

 

 だが、その未来を実現させるか否かは別の話だ。

 先にも述べた通り、迅の未来予知は確定するまでは可能性の一つでしかない。

 極端な話、小南が入隊式に行かなければ、ほぼ迅が予知した未来は回避できることだろう。

 

 それに小南自身、弟子が欲しいとは欠片も思っていない。

 自分より弱い人間に興味はないし、人を育てるということにも魅力を感じない。はっきり言って行く必要性が見出せなかった。

 明らかに拒絶の意志を露わにする小南に、迅は笑ってこう言った。

 

「行く価値はあるさ。その出会いは、お前にとってもきっと良い出会いだ。俺のサイドエフェクトがそう言ってる」

 

 

 

 

 

「絶対騙されてる……騙されてる、わよね? うん、多分」

 

 壁に背をもたれさせながらぶつぶつと独り言を漏らす小南。その釣り目がちな瞳から放たれる視線は不機嫌な色を隠そうともせずに鋭く訓練生達を見回していた。

 小柄ではあるが、小南自身の容姿が整っていることもあり、放たれる威圧感に訓練生達は「何だあの先輩」と怯えきった表情で目を背けている。勿論小南は新米達の畏怖感情などどこ吹く風だ。

 その中で、小南は早くも自分の弟子になるであろう人物に目星をつけていた。

 

「あいつ、かしら。……というかあいつくらいしかいないわよね」

 

 ざっと訓練生達の訓練風景に目を通したが、どれもたいしたことはなかった。そも、対近界民(ネイバー)戦闘訓練で1分を切っている人間が5人もいない。

 所詮近界民(ネイバー)の動きをこちらの技術で再現させただけの、シミュレート上の動きしかできない相手に、入隊したばかりとはいえ1分を切れない人間を鍛えるつもりは小南にはない。

 小南が目をつけたのは、その中でも群を抜いて速い記録を残した少年だ。

 

「2秒……たいしたことないじゃない。あたしの弟子って言うから、どんなものかと思えば」

 

 期待外れ、とばかりに嘆息する。

 余談ではあるが、最近A級に入隊した人員の記録は4秒である。それを思えばむしろ称賛されて然るべき記録であり、事実彼の周りにはちょっとした人だかりができている。

 新記録を樹立して、嵐山隊長からも称賛されて、さぞや鼻高々とふんぞり返っているのだろう、と思いきや。何か様子がおかしい。

 

「……何で怯えているのかしら、あいつ」

 

 明らかに腰が引けている。興奮して顔を寄せる少年少女達とは対照的に、みるみるうちに少年の顔色が青ざめていく。見ていて気の毒になるほどだ。

 その変化を察したらしい嵐山隊長が人垣を散らしていく。声に従って、先程の少年が打ち立てた新記録の興奮冷めやらぬまま、訓練生達が次の訓練に移っていく。嵐山隊長もまた、労うように少年の肩をぽんと一つ叩いてその場を去って行く。

 後にはほっとした顔で胸を撫で下ろす少年だけが残された。

 

「何だったのかしら」

 

 首を傾げつつも、小南は壁から背を離して立ち上がった。

 いずれにせよ、少年が一人になった。これはチャンスだ。声をかけるべきタイミングを探していた小南にとってはこれ以上ない絶好の機会。疑問もその性根も、全ては直接話して確かめればいい。

 かくして、先程の動揺がまだ残っているのか、胸に手を当てて乱れた呼吸を整える少年の背後に小南は立った。

 

「ちょっと、あんた」

「ひっ!」

 

 ――ひっ?

 

 びくん、と目の前で少年の小柄な背中が跳ねる。

 おそるおそる、といった小動物を思わせる仕草で振り返った瞳が小南を捉えた瞬間、幽霊でも見たかのような明らかな恐怖の感情が滲み出す。

 

 ――別に、好かれようと思っていたわけじゃない。本当に弟子にしようとか思っていたわけでもない。

 

 とはいえ、初対面の人間から声をかけただけでここまで怯えられて、傷つかないでいられるほど無感情でいられるわけもなかった。

 

「何でそんなに怯えてるのよ。何もしないったら」

「あ、ああ……すみません。怒ってるように見えたので、何か怒らせるようなことをしてしまったかと」

「むしろあんたのその言葉にイラっときたわ」

 

 確かに目つきが鋭いと言われたことはあるが、だからといってフラットな状態で声をかけたにも関わらず怒っていると言われるのは心外だ。

 

 小南の言葉を受けて「すみません!」と慌てて頭を下げる少年。

 即座に頭を下げる姿勢には好感が持てるが、この少年はそれが少々いきすぎているように思える。

 どんな家庭環境で育てばこんな卑屈な性格になるのだろう、などと失礼なことを考えながら小南は腕を組む。

 

「ん? あんた……」

 

 ふと、何か既視感のようなものがかすめた気がして顔を上げた少年を見やる。

 

「あの……何か?」

 

 じろじろと無遠慮な視線を向けられ、顔色を赤らめたり青ざめさせたり、気の毒なほど挙動不審な様子で身じろぎする少年。その小柄な背丈と中性的な容姿も相まって、ほんのりと嗜虐心のような感情が顔を出す。――苦労してそれを追い払って、引き続き既視感の出所を探る。

 瞳にわずかにかかるくらいの、少し長めの黒髪。

 肌色は白く、実は少年ではなく少女なのではないかと疑ってしまうほど線が細い。

 

「やっぱり……あんたの顔、どこかで見たことがあるような気がする」

「はい?」

 

 変なことを言っている自覚はある。が、言葉にしてしまうとそれが既視感の出所としてもっともしっくりくるような気がした。

 鳩が豆鉄砲食らったような間の抜けた顔でこちらを見る少年の顔を見ながら、記憶を洗い出す。

 思い出すのに難儀するような顔だ、そう出会ったことのない人間なのだろうが――はて、誰だっただろうか。

 

「あ、ああ……なるほど。ええと、姉です」

「姉?」

 

 姉、とは、一体誰のことだろう。唐突に言われてもさっぱり理解できない。

 眉をひそめていると、慌てて少年が言葉を付け足した。

 

「すみません。ええと、志岐小夜子、知ってますか。那須隊のオペレーターの。アレの弟です」

「那須隊……ああ、あの子か」

 

 そこまで言われてようやくピントが合った。

 成程、オペレーターの子の弟か。それならすぐに思い出せなくても納得できる。

 しかし、そう言われて改めて見てみると……

 

「あんたたち双子なの?」

「双子じゃないんです。よく似てる、とは言われますけど」

「似てる、というか」

 

 あまり覚えているわけじゃないので何とも言えないが、少なくともあまり会ったことのない相手を思い出してしまうほどに似ていることは確かであり、またこの中性的な容姿だ。それなり以上に似ていることは間違いなかった。

 まあ、今はそれは置いておこう。

 あまり嬉しくはないのか、やや複雑そうな顔をしている少年の目を見ながら口を開く。

 

「あんた、名前は?」

「その、犬彦です。志岐犬彦」

 

 小南の視線から逃れるように顔を背けながら少年、犬彦が言った。

 半歩を踏み込むと、反応するように身をよじって遠ざかる。

 まるで人慣れしていない動物のような反応だった。

 

 ……めんどくさい奴ね。

 

 小南は段々腹が立ってきた。

 そも、迅に言われてここに来てこそいるが、小南には最初から弟子をとろうという気持ちはない。

 そんな小南に弟子ができるという話を聞いてどんな奴かと思い来てみれば、唯一可能性のありそうな訓練生がこんなていたらくだ。かといって今更他の訓練生を見極めに行く気は小南にはない。時間は有限であり、モチベーションには限界がある。犬彦が予知の通りの人間でないのであれば、ただ単に縁がなかったというだけのこと。

 

「准! 訓練室一つ貸しなさい」

 

 急に声を上げた小南にびくりと身をすくませる犬彦を視界の隅に捉えながら、嵐山に呼びかける。

 傍に寄ってきた嵐山は、小南と犬彦を交互に見ながら口を開く。

 

「桐絵? 珍しいな、どうしたんだ」

「ちょっとこいつの腕を見たいの。模擬戦させてちょうだい。すぐに終わるわ」

「いや、待ってくれ。彼は今日入隊したばかりで、トリガーだって訓練用のものだ。桐絵と戦わせるのは流石に荷が勝ちすぎるだろう」

「別に勝てるなんて思ってないわよ。言ったでしょ。腕を見たいだけって」

 

 ――ふと。困惑した様子で小南と嵐山を交互に見やる犬彦の視線に力がこもった気がした。

 確かめるように小南が目をやると逸らされてしまったが、もし先程の発言が気に障ったというのであれば、小南にとっては喜ばしい。そこまで男を捨てているようであれば本当にどうしようもない。

 

 とは言ってもな、と悩ましげに眉を寄せながら嵐山が犬彦を見やる。

 先程あんな風に弱った様子を見せられたばかりで、案じるところもあるのだろう。

 小南は嵐山を手招きすると、犬彦を置いて少し離れたところで顔を寄せた。

 

「迅が予知したのよ。あたしに弟子ができるって」

「迅が? それが彼なのか?」

「そこまではわからないけどね。見たところ一番見所ありそうだし、それで試そうと思ったわけ。……まあ、アレを見る限り望み薄みたいだけど」

「そんなことはないだろう。先程の記録を見ただろう? あの技量にあのトリオン量は久々に俺も驚いたよ。桐絵が弟子にとろうとするのもよくわかるさ」

「とろうとなんてしてないってば。勘違いしないでよね」

「すまない。……確かに、今この中でもっとも素質があるのは彼だ。桐絵が試そうとするのもわかる。だが、桐絵も気付いていると思うが、どうも彼は――人付き合いが苦手のように見える」

 

 人付き合いが苦手、ね。

 

 上手い言い方もあったものだ、と小南は肩をすくめる。

 どう見てもアレは苦手なんて生やさしい言葉で片付けて良いものじゃない。

 

「迅の予知もあることだし、訓練室は貸そう。だが模擬戦については彼が良いと言わなければ駄目だ。それでいいか?」

「ええ、あたしも無理強いして弟子をとろうとするほど暇じゃないし――まあ、さっきまでの様子を見るとあまり期待はできなさそうだけど」

「そうか? 俺の目には、中々根性のありそうな奴に見えたけどな」

「もし本気で言ってるんだとしたらあんたの目は節穴かガラス玉だわ」

 

 手厳しいな、と嵐山は笑って肩をすくめた。

 

 

 




 主人公の容姿はほぼ小夜子とそっくりです。

 他の隊員を知ってるかについてはちょっと考えましたが、戦闘員ならともかくオペレーター、それも小夜子レベルのコミュ障・引きこもりだとそも出歩くことが少ないかと。

 次は小南との模擬戦です。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 小南桐絵②

 

 

 

 あれよあれよという間に、小南と名乗った先輩少女と模擬戦をすることになった。

 障害物が何一つない広々とした空間で犬彦と小南は向かい合う。

 

「さっきも言ったけど、真っ当にやってあんたがあたしに勝てるなんて思ってないからルールを作りましょう。あたしはあんたを緊急脱出(ペイルアウト)に追い込んだら勝ち。あんたはあたしに一撃、どんな形でも入れたら勝ちにしてあげる。トリガーもこの一つだけしか使わないわ」

 

 そう言ってトリオン体に換装した彼女の両手には小ぶりな二振りの手斧が握られている。

 見たことのないトリガーだ。少なくとも訓練生時代には教えて貰っていないものだが、正規兵専用のトリガーでもあるんだろうか。

 

「別にこれ自体には特別な力とかそういうのはないわよ。ただの武器。本当ならオプショントリガーと一緒に使うんだけど、今は見た目通りの性能と思ってくれて良いわ」

 

 犬彦の視線から察したのか、そうじゃないとフェアじゃないでしょ、と小南は肩をすくめてみせた。

 

「第一、あんた相手にこれ以外のトリガーなんて必要ないし。あんたは好きなトリガー使っていいわ。何だったら正規のトリガーを使ってもらってもいいくらいだけど」

「流石に、そこまでは許可できないな」

 

 と、苦笑交じりに嵐山が首を振る。

 

「わかってるわよ。ま、そういうことだから使い慣れたトリガーでせいぜい気張りなさい。じゃないとあっという間に終わっちゃうから」

 

 まるでやる前から結末が見えているかのような発言には流石にイラッとくるが、事実その通りなのだから口には出さない。

 

 そもそも、小南は何が目的なんだろうか。

 先程顔を合わせたばかりの初対面でいきなり喧嘩を売られる道理はないだろう。何となく気にくわないから、なんてチンピラみたいな理由で勝負を挑まれたわけもなし。

 第一、彼女が誰彼構わず噛みつく狂犬のような少女であれば嵐山が提案を呑むというのもおかしな話だ。顔を付き合わせて話をしていたところを見るに、何か真っ当な理由があるのは間違いなさそうだが、それが何なのか皆目検討もつかない。

 

 ――小夜子の知り合いだろうか。

 

 可能性としてはそれが一番ありそうな気がする――いや。小夜子から小南の話を聞いたことはないし、出会い頭のやりとりでは咄嗟に小夜子の顔を思い出せなかったほどだ。因縁がある、と考えるには少々そぐわない気がした。それさえも演技だというのであれば相当な腹芸持ちだが、そんなことをする意味が見出せない。

 

 となれば、いよいよもって犬彦には何故この小南という少女がこんなにも突っかかってくるのかわからなくなった。

 自分の実力に自信があり、犬彦のことをたいしたことないと見下していながら、そのくせ実力を見せろという。

 そこに深遠な理由があるのか、それとも女性というのはそういうものなのか。生まれてこの方母親と小夜子以外の女性と親しくしたことのない犬彦はただただ目を白黒とさせるばかりだ。

 

「正直、意外だったわ。あんた、絶対に受けないと思っていたから」

 

 差し出されたトリガーを起動して犬彦もトリオン体に換装すると、不思議なものでも見るような顔で小南が言った。

 

「どうしてですか?」

「どうして、って。あんたのあの反応見れば誰だって断ると思うでしょ。それに准から聞いたと思うけど、そもそも挑む側にも受ける側にもメリットのない勝負なんだから、別に断ってくれても良かったのに」

 

 犬彦は思わず腕を組んで眉をひそめた。

 あからさまな反応を示したのが気になったのか、「何よ?」と眦を釣り上げて問いかける小南に首を振る。

 

 今ここで頭の中であれこれ理由を考えても、何もかも的を外している気がした。

 ならば後は、ただぶつかるだけだ。

 

「その、おおよそ察していると思うんですが、話すのはあまり得意じゃないので……後は、これで」

 

 伸ばした手に、立方体のトリオンキューブが音を立てて生まれる。

 ぎこちないながらも半身の構えをとる犬彦に、小南は虚を突かれたように目を見開き――やがて不敵な笑みを浮かべた。

 

「ふうん、いいじゃない。あたし好みの答えだわ。それに免じて失礼な態度も許してあげるし、勝負もきちんとやってあげる」

 

 でも、と小南が腰を沈める。狩りに挑む豹を思わせるしなやかな戦闘態勢に全身が総毛立つ。

 開始の合図を認識した瞬間、小南は犬彦の眼前にいた。

 

「勝負になるかどうかは、あんた次第だけどね」

 

 冷ややかな声を聞きながら、犬彦の頭部がずるりと滑り落ちた。

 

 

 

 

 

 トリオン体は仮の肉体ではあるが、違和感を減らすために極力元の肉体に似せて作られている。たとえば食事をとることだってできるし、寝ることだってできる。発汗や呼吸といった代謝機能まで完全再現だ。

 とはいえ、その運動能力は生身の肉体とは比較にならない。持ち合わせているトリオン能力によっては大岩を持ち上げることも何のそのだ。

 

 それは極めれば、アメコミヒーローのような人外の動きも不可能ではないということ。事実それを聞いた時にはアメコミ好きな犬彦少年は数々の名場面を思い出して心躍らせたものである。

 故に思うことは一つだ。

 自分もいつか同じ動きを。

 恐らくは多くの少年が憧れ、そして目指したのだろう一つの理想。

 

 目の前に相対するそれは、紛れもなくその完成形だった。

 

「くっそ、何だよその動き……!」

 

 トリオンキューブが生み出すバイパーの雨を、涼しい顔をして小南がすいすいと避けていく。

 経験が浅いため、操作がつたなく狙いも甘いのは認める。まして動きながらとなればあとは弾数だけが頼りだ。だがこれほどに雨霰と撃ち続けてそれがかすりもしないというのはあまりにも信じがたい光景だった。

 

「別に動きながら撃つ必要なんてないわよ。今はあんたがどれくらい素質あるのか見極めてるところだし、止まった状態で好きなだけ撃ってくれて構わないわ」

 

 まあ、それでも当たるとは思わないけどね、と。

 眉一つ動かすことなく、呼吸一つ乱すことなく、当事者でありながら傍観者のようなあまりにも気の抜けた風情で小南は言った。

 絶え間なく降り注ぐバイパーの群れを最小限の身動きでかわしながら、だ。

 

「好き勝手言って……っ!」

 

 冗談じゃない、と犬彦は歯噛みする。

 

 ――足を止めて撃て? 馬鹿言うな、止めたら確実に()()()()()

 

 言葉を疑うわけじゃない。恐らくは言葉の通り、その気まぐれが続く限り小南が手出しをしてくることはないだろう。それは短いながらも小南の言動を覚えていれば何となくはわかる。

 

 だが、しかし――目と目が合う。

 逸らしても、誘導を狙っても、ひたすらに目線を合わせられる。

 熱のない、感情のない視線がじっとこちらを観察している。

 たとえるならそれは、蛇に睨まれたウサギの如しだ。

 

 確信していた。足を止めたら反抗の意志さえへし折られる。それはあまりに情けない。

 小南の言葉にも耳を貸さず、実戦さながらに動き回っているのは何のことはない、ただのちっぽけなプライドがためだった。

 

 ――カスればこっちの勝ちなんだ。これだけ譲歩されて黙って負けられるか……!

 

 萎えかける意志を意地で奮い立たせ、咆哮とともにバイパーを放つ。

 小南はそれを、一切目線を逸らすことなく避けてみせた。

 

「ウッソだろおい……!」

 

 ――目線で狙いがわかるってか? チートにも程があるだろ畜生め!

 

 もはや犬彦には何をどう狙い撃てば小南に当てられるのかわからなかった。

 並べても、三方から同時に射かけても、あらゆる方角からの攻撃をまるで読んでいるかのようにかわされる。

 その理由が犬彦の視線で狙いが読めるから、だ。まさに小南の言葉通りだ。これでは犬彦が立ち止まって狙いを済ませようが、主人公補正が働いて瞬間的に犬彦の技量が二段飛ばしで上がろうが変わらない。

 

 彼我の実力差は火を見るより明らか。

 嵐山が言っていた――小南がAランク隊員であり、その中でも上位に入る実力の持ち主という話も、もはや疑う余地はない。

 今の犬彦には逆立ちしたって勝てるはずもない相手だった。

 

 相変わらず距離をとりながら懲りずにバイパーの雨を射かける姿に何を思ったのか、不意に小南が目を伏せて視線を外した。

 檻の中の珍獣の気持ちからようやく解放されてほっと息を吐く犬彦の耳に小南の声が届く。

 

「もういいわ。だいたいわかった」

 

 見に徹していた小南がついに牙を剥いた。

 如何なる魔術か、両手の手斧が数度閃いただけで小南は呆気なくバイパーの雨を突破した。

 

「く――っ」

 

 反射的に後退する。牽制の願いを込めてバイパーをばらまくも、

 

()()()()()()()()()()()()

 

 やけに確信めいた口調。言い終わる頃には小南の小柄な肢体が猿を思わせるしなやかな跳躍でバイパーの雨をすり抜ける。

 再度弾丸を放つ慈悲をすでに小南は放り捨ててしまっていた。

 

『志岐、ダウン』

 

 機械的なアナウンス。肩口からの袈裟斬りで呆気なく犬彦は落とされた。

 身体は即座に修復されて元通りになったが、無意識のうちに斬られた箇所を擦ってしまう。慣れるまでにはそれなりに時間がかかりそうだった。

 

 これで9本目が終わり、いよいよもって犬彦には後がなくなった。

 情けないことに、ここまで時間にして5分とかかっていない。というのも、今までは全て小南による突撃(チャージ)斬撃(スラッシュ)で瞬く間に終わってしまっていたからだ。

 

 勿論犬彦とて自分が斬られる様をただ眺めていたわけではない。

 まずは開幕直後にバイパーをばらまくことを覚え、次に即座に後退することを覚えた。

 間合いの詰め合いも、手を読むこともせず、只管に突っ込んでくるのだ。いくらでも対策は思いつく。……そう考え続けてついにここまで来てしまった。

 小南の言動を思い返すに、先程の9本目はあくまで小南がこちらの実力を計るための気まぐれだ。2度目はないと思うべきだろう。

 

 というより――あんな明らかに手を抜いた態度をそう何度もとられてほしくはない、と犬彦は唇を歪めながら思う。

 単調な攻撃、対策を考えてもその上をいく圧倒的な実力差、そして極めつけの攻撃を捨てた9本目(舐めプ)

 元々の実力差があるとはいえ、こうまで良いように嬲られて気分を損ねないわけがない。たとえ雲の上の存在だろうと、男の子には意地というものがあるのだ。

 

「悪かったわね。どうも人違いだったみたい」

 

 そんなことを考えていたら、まるで思考を読んだかのような発言が飛んできて思わず背筋を伸ばしてしまった。

 気落ちしたように――ほっとしたように、とも見える――肩の力を抜いて吐息をつく小南に首を傾げる。

 

「人違い?」

「こっちの話よ。それより、どうする? あたしとしてはもう用は済んだから、これで終わりにしてもいいんだけど」

「いえ。最後までお願いします」

 

 即答した。勝ち逃げなんて許すものか。たとえ相手の用が済んでいようと、そもそも小南が吹っかけてきた勝負だ。始めたからには最後まで付き合ってもらう。

 強い口調で返した犬彦の言葉に、小南は意外そうに眉を上げたものの、「そう」と一言頷いて構えをとった。

 

「悪いけど、もうさっきみたいな手加減はしないからね。見るべきところは見たし、結論はもう出たもの。これ以上続ける理由もないから一撃で終わらせてあげる」

 

 願ってもない、と犬彦は内心で嘯いた。

 たとえ負けることになろうと、せめて全力の相手と戦って負けたい。弄ばれて死ぬような真似は死んでもごめんだ。

 手斧を振りかぶり、突撃(チャージ)の姿勢をとった小南が言った。

 

「最後の勝負よ。せいぜい気張りなさい――おチビ」

 

 ぷつん、と。何かが切れた音がした。

 

「だァれがチビだコラァ――ッッ!!」

 

 

 

 

 

「……えっ」

 

 それは誰の言葉だったか。

 あまりにも思いがけない叫びに、相対する小南も、外野で見守る嵐山さえも目を点にしてそれを見る。

 少女のような顔を憤怒に歪め、犬歯を剥き出しにして荒い息を吐く少年の姿を。

 

「雑魚だのコミュ障だの言われるのはいい! 女顔だの、男らしくないだのもまあ許す!」

 

 でもなあ、と怒りに震える指を突きつけて犬彦が言った。

 

「チビって言われるのだけは絶対に許さん! ヒトのタブー突いといてただで帰れると思うなよ畜生め……!」

 

 興奮からか、あるいは言葉通りのトラウマを抉ったせいか、うっすらと目尻に涙さえ浮かべて犬彦が言った。

 少女のような風貌の少年から発される怒気が突き刺さり、罪悪感やらが混じり合って思わずうっと怯む。

 

「ふ、ふん! お生憎様、意気込んでるところ悪いけどもう勝負はついたようなものよ! あんたの技量なんてとっくの昔に見切ったんだから、逆立ちしたって勝てるなんて思わないことね!」

「おーしよく言った! ならもう1つルール追加しようぜ。古今東西、負けた時のルールはつまるところこれ1つっきりだ! “負けたヤツは勝ったヤツの言うことを何でも1つ聞かなきゃならない”ってな!」

「え、そうなの? ――ま、まあいいけどね! どうせ勝つのはあたしだし! あんたこそ、そんな無茶なこと口にして負けた時に言い訳しないでよ!」

 

 一瞬素に戻りかけたのを慌てて首を振って修正する。

 

 端から見れば両者とんでもない約束をしているな、と戦くところだが、小南は自身の勝利を微塵も疑っていなかったので自信満々だ。

 すでに未来予想図では跪く犬彦を従えて高笑いする小南女王様の絵図が描かれている。実力的にも、経験で言っても負ける道理はない。

 

 上等だァ!と気炎を吐きつつ犬彦が構えをとった。

 小南と同じく腰を沈めた姿勢――また退くつもりだろうか。それでは一生かかっても勝てないというのに。

 

 まあ、今更よね。小南はため息を吐きつつ構え直した。どうなろうが知ったことではない。そんな諦観を露わにして。

 

 戦闘、開始。

 合図と同時に床を蹴って突撃する。先程の9本目を除いて繰り返し続けてきた小南のルーチン。

 

 異なるのは、犬彦もまた前方に身を飛ばしたことだ。

 

 お、と小南は目をわずかに見開いた。

 小南と違い、武器を持たない犬彦が近接戦を主とする小南に突撃するのは自暴自棄な自殺行為としかとられないかもしれないが、小南はそうは思わない。

 

 犬彦がこれまで一方的に負け続けたのは、実力や経験よりもむしろ、その逃げの姿勢だ。

 犬彦が抱える問題のせいか、それともあまりの実力差に怯んでいたのか、これまでの犬彦は一撃を当てさえすれば勝てるその勝利条件に囚われ、回避しつつ攻撃を当てるという戦略に固執していた。逃げることしか頭にない兎では、狩りに行く獅子を凌駕することはできない。

 

 それが先程の激昂のせいか、前に出るという攻撃的な意志に変わった。

 それが生み出すものとはつまり――ガンマンの早撃ちにも似た刹那を争う極限の闘争だ。

 

「やっと面白くなったじゃない……!」

 

 小南がようやく心底からの笑みを見せた。

 犬彦と目が合う。先程までは気まずそうに逸らされていた視線。それが今では望むところとばかりに強い意志を秘めて合わせられている。それが小南の戦意を高ぶらせる。

 

「バイパー!」

 

 犬彦の眼前にトリオンキューブが生まれ、射出される。

 彼我の距離は5歩分ほど。この距離であればもはやコントロールは必要ない。相手よりも速く当てる、ただそれだけを考えればいい。

 

「甘いわよ!」

 

 小南が吠えた。

 手斧が舞踏のように鮮やかに閃き、接触するバイパーのみを斬り落とす。互いが踏み込んできている今、振るった手斧を引き戻して踏み込めばそれで犬彦は斬り捨てられる。

 

「まだだァ!」

 

 咆哮。キン、とトリオンキューブが形成される澄んだ音。

 生まれたのは、かざした手が伸びる犬彦の背後。――そして弾丸が射出される。

 孔雀が羽を広げたようだ、とコンマ以下の秒が刻まれる刹那の中で思う。数えるのを諦めるほどの弾丸の雨。細かく分かたれたバイパーの群れが犬彦の背後から飛び立ち、ありとあらゆる方角から鋭角に角度を変えて小南を狙う。

 

「しつっこいッ!」

 

 確かに、これが全て着弾すれば小南といえどひとたまりもないだろう。

 元より今回のルールでは着弾した時点で小南の敗北が決まるルールだが、それを抜きにしても犬彦自身のトリオン能力は凄まじい。当たり所が悪ければ確実に緊急脱出(ペイルアウト)は免れないだろう。

 だが、小南にはそもそもそれを防ぐ気も、回避する気もなかった。

 

 ――才能はある。それは認める。だがそれでも小南には犬彦を育てようという興味も熱量も湧いてこない。

 何より、ここで敗北する程度の奴に教えることなど何もない。

 

 残り3歩。

 犬彦がどう認識しているのかは知らないが、この距離はすでに小南の間合いだ。

 恐らく犬彦の計算では小南があと1歩詰める前にいずれかの弾丸が着弾する算段なのだろう。確かに小南が今までに見せてきた速度であればその計算に間違いはない。

 

 だが犬彦は小南を、トリオン体を甘く見ている。

 小南は本気を出していなかったし、その必要もないと感じていた。しかし犬彦が条件を追加したことで事情が変わった。

 

 小南は弱い奴の世話をする気なんて毛頭ない。

 故に少しでも可能性を潰すために、瞬間的に倍以上の出力で踏む。バイパーの雨を抜け、犬彦を切り捨てる。それで終わりだ。

 確信をもって動作に移行しようとした小南は、その時になって不意に気付いた。

 

 逸らすことなく合わせていた目。

 犬彦の目は、未だ色褪せることなく勝利への意志を叫んでいる。

 

「速度90! 水平に吹っ飛べ……!」

 

 犬彦が吠えた。

 音声入力で速度を調節したことにも驚いたが、それよりもその言葉。速度90。威力、射程のどちらかを捨てたほぼ最速設定。

 通常であれば届くか、届いたとしても十分な威力を確保できるかさえ怪しい設定だが、トリオン能力の高い犬彦のものであれば話は別だ。その弾丸は確実にこちらに届きうる。その上発射場所はまたしても犬彦の背後らしく、目線を合わせて且つ距離を詰めているこの状況では軌道を推測するのは難しい。

 

 ここにきて回避が選択肢の一つとして上がってくるが、今となってはそれも叶わない。全方位から同時に降り注ぐバイパーの雨が小南の動きを制限している。

 切り抜けられないことはないが、確実にどこかに無理が生じる。

 追撃も加味すると一度もカスらせないまま逃げることは難しい。

 

 故に全力で踏み込んだ。

 一息で斬り捨てられる状況なのは変わらない。見て、かわして、斬る。それが勝利への道だと信じるが故に。

 

 果たして小南の手斧が犬彦を斬り捨てるその瞬間、小南はあまりの驚愕に表情を凍り付かせた。

 

 

 

 

 

 




 気にしていること+どうにもならないこと+異性恐怖症による緊張+戦闘によるハイテンション=ブチ切れ
 尚自分で口にした罵倒は全て経験がある模様。
 
 ストックを修正してたら1万文字超えてしまったので分割しました(震え
 なので明日も投稿します。何が起きたのかはまた次回。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 小南桐絵③

 評価ありがとうございます! 励みになります。


 

 

『志岐、ダウン』

 

 切り捨てられた犬彦の耳に届いたのは、聞き馴染んだ機械的なアナウンス。

 しかし今度はそれには頓着せず、勝負の行く末を見守っていた嵐山を見た。

 

 小南もまた顔を上げる。

 ――信じられない、と愕然とした面持ちで。

 

 嵐山が浮かべていたのは、快心の笑み。

 

「試合に勝って勝負に負けたな、桐絵。――この勝負、志岐君の勝ちだ!」

 

 告げられた勝利宣言に、思わず力の入ったガッツポーズ。やり遂げた、その充実感を噛みしめる。

 

「負けた……? あたしが……」

 

 現実に裏切られたような表情で呆然と呟く小南。

 結果として反応できなかったことからも間違いないと思っていたが、どうやら無事に作戦は成功したらしい。

 溜飲も下がり、満足した表情で犬彦はトリオン体を解除した。

 

「いや凄いな! こう言っては何だが、正直志岐君が桐絵に勝てるとは思わなかったよ」

「いえ、俺も途中までは勝てるとは思ってなかったですし、何よりあのルールでしたから」

「それでも、不利な条件だったことには変わりない。志岐君は初心者だったわけだからね。まして君が扱うバイパーは扱うのが難しいトリガーだ。攻撃手(アタッカー)として練度の高い桐絵相手では厳しいと思っていたんだが、いや、本当によく頑張った!」

 

 肩に手を置かれながらの大絶賛に流石に照れくさくなってきた犬彦は頬を染めて縮こまる。友人に恵まれなかった犬彦にとってこれほど衒いなく他人に褒められたのは初めての経験だった。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 

 再起動したらしい小南が声を上げる。

 明らかな静止の声に、何を言い出すつもりなのか、と胡乱げな視線を向けた。

 

「まさかやり直しがどうとか言い出すつもりか?」

「ぐぬ――」

 

 冷ややかな声に小南が鼻白む。

 思わずだろう、その手がさっと脇腹に小さく開いた穴に触れる。犬彦が放ったバイパーが着弾した箇所だ。

 感触を確かめるように指を添えながら唇をひん曲げ、何か呑みにくいモノを呑み込むようにその顔が天を仰ぎ――ややして、はあ、と大きな息を吐いた。

 

「……言わない。言わないわよ! でも、これだけは教えなさいよ。結局あんた、どうやってバイパーを当てたの? はっきり言って、あんたの腕じゃどこからどう撃ってもあたしに当てるなんて不可能だったんだからね!」

「まあ、当てたけどな」

「むきぃ――!」

 

 地団駄を踏みながら小南が吠えた。何だこいつ面白い。

 

 とはいえ――実情は別にもったいぶるほどのことじゃない。

 小南の言うとおりだ。1歩で手斧の攻撃範囲に入るあの距離でさえ、小南にはどこから撃っても斬り落とされるか回避されていた。あれだけ行動を制限した状況でもだ。たとえ横からでも、上からでも、下からでも。後ろからなんてもってのほか。

 となれば、後は1つだ。

 

「まさか正面から、なんて言うつもりじゃないでしょうね」

「……そんな言い方されると、何も言えないんだよなあ」

 

 腕を組みながらの凄みに、犬彦は困ったように頬をかいた。

 ここで皮肉の効いた一言でも返せれば洒落ているが、生憎とそこまでの能力はない。

 

 一瞬意味を理解し損ねたかのように眉をひそめた小南の顔が、みるみるうちに驚愕に染まった。

 

「はあ!? そんなわけないでしょ! 他の方向からならまだしも、真正面からのバイパーを落とせないなんてそんなこと――」

「確かに、何の障害物もなければ普通に弾かれて負けていただろうな」

「障害物、って」

 

 呟いた小南の表情に、ようやく浮かぶ理解の色。苦々しく歪んだそれは、気付いてしまえばあまりにも簡単な策を看破できなかった自分への怒りか。

 

「……ああ、そういうこと。盾にしたのね。あんた自身を」

「こっちの敗北条件じゃ別にいくらダメージを受けようが問題ないしな。俺自身を隠れ蓑にして最短距離を突っ切る分にはコントロールの甘さも問題にならない。ただ速く当てればいいだけだしな」

 

 背後に展開したトリオンキューブから、犬彦ごと貫く軌道で小南を狙い撃つ。

 至近距離まで前進したのも、逃げ道を潰すために囲う形でバイパーを展開したのも、全てはそのための布石だ。

 咄嗟に思いついた作戦だったが、上手くいって本当に良かった。アレさえも斬り落とせる技量と反射神経を小南が持ち合わせていたら為す術なく負けていたことだろう。

 

 胸を張りつつ、密かに内心で胸を撫で下ろしていると、ふと小南の表情がいやらしい笑みの表情に変わった。悪戯を思いついた悪ガキのような顔だ。

 

「その割には随分苦労していたようだけど?」

「……俺のログには何もないな」

「本当に? なら後で記録映像で確認しましょうか。私の記憶じゃ、バイパーを撃つのにわざわざ声を上げていた誰かさんの絵が映っているはずだから――」

「っくそ、いいだろ結果的に上手くいったんだから! 何素人に完璧を求めてるんだよ鬼かよ!」

 

 ぐああ、と両手で顔を覆って悶絶する。その小さな掌で覆い切れていない肌は興奮と羞恥で真っ赤に染まっていた。

 

 銃型トリガーを使わずに弾丸を飛ばす射手(シューター)タイプは威力・射程・弾速の三つを調整できる。

 今回はルール的に一撃を加えればいいだけなので当然優先するのは弾速だ。故にそう設定した上で放ったわけだが、はっきり言って経験の足りていない犬彦にそこまで細かく設定できるような技量――もっと正確に言うならそれを戦略に反映させるだけの実力はない。

 だからこその弾速90という極端な設定であり、だからこそのあの音声入力だったわけだが――正直どちらかで十分だった気がしないでもない。

 怒りと興奮、そして勝利への渇望に支配されていたとはいえ、流石にアレはやりすぎだった。黒歴史が一つ生まれた瞬間である。

 

 悶える犬彦に溜飲を下げたのか、ふふん、と鼻を鳴らして小南が背を向けた。

 

「まあ、せいぜい精進することね。あたしが負けたのは単純にハンデをつけてあげたからで、実力的には全然あたしの方が上なんだから。――それじゃあ准。あたしは帰るから、後は好きなように」

「……いや、何帰ろうとしてんの」

 

 ぎくり、と小南の動きが静止した。

 背を向けたままの小南に、腕を組んだ犬彦の顔に笑みが浮かぶ。

 

「何か忘れちゃあいませんかね? ねえ先輩」

「……な、何かしら。あたしには何のことだかさっぱり」

「まさかあれだけの大口叩いておいて今更知らぬ存ぜぬが通るとでも?」

「ぐ……あんた、意外とねちっこい性格してるわね」

「ねちっこくてもさっぱりしててもいいんだが、俺としてはもっと別の言葉が聞きたいっすね」

「ぐぐ――」

 

 段々わかってきたが、この小南という少女も犬彦と同じく中々負けず嫌いな性格をしているらしい。

 悔しそうに下唇を噛みしめ、葛藤すること数秒。大きく息を吐き出してこちらを振り向いたその表情は全てを受け入れたように静かなものだ。

 

「わかったわよ。ハンデつきとはいえ、確かにあんたはあたしに勝った。癪だけど――負けた以上、何でも言うこと聞いてあげるわ」

「……お、おう」

 

 覚悟を決めたらしいその言葉に、むしろ犬彦の腰が引けた。

 せいぜい1つ2つしか違わないだろう年の女子が何でも言うこと聞いてあげちゃう――ネットの世界では散々ネタにされてきたシチュエーションだが、実際に目の前にした時の衝撃は計り知れない。

 確かにお互いにそういう条件を呑んだが、それを口にすることに抵抗はないのだろうか。もっと自分の身体を大事にするべきじゃないのか――なんて、仕掛けた側のくせに父親のようなことを思う。

 

『何でも? 今何でもって言ったよね? いっちゃいなよYou……!』と悪心を唆す小夜子顔の悪魔の誘惑を振り払いつつ、咳払いを一つ。

 大きく息を吸って――全身全霊。頭を地に叩きつける勢いでひれ伏して言った。

 

「散々失礼なこと言ってすみませんでした! どうか俺を弟子にしてください!」

 

 言うまでもなく、本日2つ目の黒歴史が生まれた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 訓練室を出て行く小柄な背中を見送る。

 隣に並ぶ嵐山が嬉しそうに言った。

 

「才能の塊だな、彼は」

「どこが? やっぱり節穴なんじゃないの、あんた」

 

 刺々しい口調で答える小南に、おいおい、と苦笑を浮かべて肩をすくめる嵐山。

 

「アレを見落としたなら君の方が節穴だぞ、桐絵。彼のトリオン能力は素晴らしい。何せ――あんな大きなトリオンキューブを見たのは二宮さん以来だよ」

 

 トリオンを生み出すのは、トリオン器官と呼ばれる見えない臓器。筋肉と同様に鍛えることが可能であり、その能力は個々人によって異なる。

 では、そのトリオン能力の大小をどう計るのか。専用の機材を使って計測するのが最も正確だが、射手(シューター)タイプであればある程度の範囲なら一目でわかる。

 

 要は、弾を撃ち出す際に生み出すトリオンキューブが大きいかどうかだ。

 犬彦が生み出したトリオンキューブは、本人に直接言えば傷つくだろうが――犬彦本人に並ぶ大きさ。小柄な背丈も相まって、犬彦が小さく見えるほどであった。

 

「桐絵も最初、彼のトリオンキューブを見た時面食らっていたんじゃないか? 認められるところは素直に認めてあげないと伸びないぞ」

「勝手なこと言ってんじゃないわよ。確かにトリオン能力は高いかもしれないけど、それ以前の問題でしょ、アレは」

「俺としては、桐絵に勝てただけでもたいしたものだと思うんだが?」

「ぐ……! い、1発当てただけだし……第一それだって、あたしが見落としなんてしなければ当たるなんてことなかったし……!」

 

 わなわなと肩を震わせながら小南が言う。

 未だに引きずっているあたり、よっぽど悔しかったらしい。負けず嫌いもいいが、あまり過ぎると誰のためにもならないぞ、と嵐山は吐息をつく。

 

「しかしどうかな、それは本当に桐絵だけの問題だったのかな?」

「は? どういう意味よ」

 

 じとり、と目を細めて小南が問いを投げる。

 面白そうに嵐山が返した。

 

「もしそれを、犬彦くんが狙ってやったのだとしたら、どうだ?」

「狙って……?」

 

 眉をひそめる。不機嫌な色を隠し切れていない。

 

 小南はボーダーの中でも古株の実力者であり、その腕にも自信を持っている。

 先程の模擬戦も、確かに本気は出していなかったがわざと負けるような真似をするつもりはなかった。あくまで、土俵を同じくするためだけの手加減に止めていたのだ。

 つまり嵐山は何かしらの1点において犬彦が小南の上をいった、と見ている。自分の腕にプライドを持つ小南としては面白くないのも無理はない。

 

「素人なんでしょ? トリオン体での活動にも慣れていなかったみたいだし。そんな状態でぶっつけ本番で、あたしの目を欺くなんて」

「それだ。まさに、犬彦くんは桐絵の目を欺いたのさ」

「どういうこと?」

「思い出してくれ。最初、犬彦くんは桐絵と目を合わそうとしていなかっただろう? それがあの最後の一戦ではしっかりと桐絵と合わさっていた」

「……視線を限定したってこと?」

 

 何となく嵐山の言いたいことを察して口にすると、その通り、と嵐山は頷いた。

 

「桐絵が犬彦くんの実力を計ろうと避け回っていた9戦目のように、二人が距離を置く展開であればあまり意味はなかっただろう。だけど最後の一戦だけは互いに前に出ての接近戦になったからね――それもお互いがお互いに向かって突っ込んでいく展開だ。実際、桐絵も犬彦くんのバイパーを弾いたりしていたわけだし、余裕をもっていたわけではないだろう? そこへ犬彦くんの目だ」

「その効果を狙ってやったってこと?」

「少なくとも前進したのはそのためだろうな。さっきも言ったが、それはお互いが距離を置いている状況だと意味がない。互いが前進して距離を詰め、視界を制限していた状況だからこそ桐絵の目を封じることができた」

「でもそれ、あたしが目を逸らしたら意味ないでしょ。偶然なんじゃないの?」

「それは多分、してやられた、って奴だろうな。桐絵」

 

 愉快そうに肩を揺らす嵐山に眉をひそめる。

 不機嫌そうに視線で先を促す小南に、嵐山はズバリ言った。

 

「今まで決して目を合わせなかった犬彦くんが目を合わせて、楽しくなっただろう?」

「ぐ……っ」

「元より、事前に桐絵が上位の実力者ってことは説明してあった。その上、9戦目まではこれ見よがしに目線を合わせていた。好戦的な桐絵の性格を見てとった犬彦くんはそれを逆手にとって逆に目線を合わせた。そんなところだろうな。桐絵も、格下の犬彦くんが挑発的に目線を合わせてきたら逸らすわけにもいかなかっただろう?」

「ぐ、ぬぬ……!」

 

 図星をつかれて、反論することさえできずに唸り声を上げる。

 仮にそれが罠だと悟っていたとしても、小南は自身の性格から言って逸らすことはなかったことを確信していた。

 自分から逸らすなんてありえない。仮に罠だとしてもそれを食い破ればいい。そう考えて踏み込んだことは想像に難くなかった。

 

「桐絵の目を塞いで、且つバイパーを放って逃げ道を塞いでの、犬彦くん自身を隠れ蓑にした一点突破。良く考えてやったと思うぞ。一連の動きを良く計算している。初めてとはとても思えないほどだ」

「全部綱渡りじゃない。もしあたしが退いたら? もしあたしが目を逸らしていたら? もしあいつを貫いたところでバイパーが消えたら、って挙げたらキリがないんだけど」

「そうだな。だからどちらかというと、彼が凄いのはそれを成し遂げたことというよりは、後がない最後の1戦でそれを押し通した度胸だろうな。ほら、俺の目もあながち間違ってはいなかったろう?」

 

 こめかみの辺りを突いて、意趣返しのように嵐山が笑った。先程言ったことをまだ気にしていたらしい。

 

「……それにしても、やけにあいつの肩持つわね、あんた」

「才能の塊だと言っただろう? 真偽はともかくとしても桐絵に勝ったのであれば紛れもなく逸材だよ。将来有望な人材は歓迎されて然るべきだし、何より桐絵の初めての弟子だ。どうせなら、教える側も楽しんでやれた方がいいと思ってね」

「お節介ねえ。……それにあいつの場合、もっと大きな問題があるでしょ」

 

 腰の引け具合。コミュ障。短い時間であるにも関わらずあまりにも大きな欠点を知ってしまった小南には、いくら持ち上げられても手放しに喜ぶことは到底できそうになかった。

 そして、最大の問題。

 

 ――9戦目まで、1度も目を合わせなかったのよね、あいつ。

 

 目を合わせてわかることは多い。意志。意図。熱量。相手が何を狙っているのか、前のめりなのか慎重なのか、どこを狙ってくるのか。そういう相手の心がよく見える。

 慣れてくれば見の目という奴で少し視点を外して全体を見ることでも読めるようになるが、素人同然の犬彦がそれができる道理もない。

 ともあれ、見る利点を数えても合わせた方が良いのだし――そもそも、それ以前の問題として相手を直視していないなど論外だ。動作の起こりから狙いまで、何もわからない状態で勝てるはずもないのだから。

 

 犬彦が9戦目まで何もできずにいいようにやられていたのも、つまるところ経験がどうとかよりそれが大きい。

 訓練生たちに囲まれた時といい、根本的に人が駄目なのだろうか。それにしては嵐山と話していた時は普通に見えたし……性別の問題だろうか。

 

 小南の渋い声に、嵐山も言いづらそうに頬をかいた。

 

「あー……まあ、それは師匠の腕の見せ所、という奴だな」

「投げたわね、完全に」

 

 ジト目で見やる。こればかりは嵐山も苦笑するしかなかった。

 

「まあ、でも確かに――ちょっとやる気出てきたわ」

 

 呟く小南の口の端に笑みが浮いた。

 

 乗せられた形になったのは少しばかり癪だが、嵐山の言うとおり、逸材であるのは間違いない。ただその輝かしい才能と同じくらいの問題があるのもまた事実。

 初弟子にしてはあまりにもクセのある人材だが、これも何かの縁だ。やりがいがある、と無理矢理プラスに考えるとしよう。

 

 何から教えるべきか、と頭を悩ませながら、小南は訓練室を後にした。

 

 

 

 

 




 小南が舐めプしてたのが最大の勝因。
 勿論手抜きなしなら普通に蹂躙されて終わりです。

 那須先輩に憧れてる割には那須先輩より先に師匠作ってますが、その辺も追々触れます (目逸らし
 勿論このままでは終わりません。

 明日は仕事の都合でちょっと更新できなさそうですが、活動報告はまた上げる予定ですのでそちらを見て頂ければと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 小南桐絵④

 色々な数値がめっちゃ増えてて感謝しかない……。
 ありがとうございます、頑張ります。ご意見・感想もお待ちしてます。


 

 

 

「おーい、もう終わったよー? もしもーし」

 

 耳に届いた声に、はっと意識が浮上する。

 視界がクリアになる感覚。真っ先に目に入ったのはゲームのリザルト画面であり、小夜子が操っていた機体が勝利のポーズを決めていた。

 

「……あー、悪い。寝落ちしてた」

「深夜2時でうつらうつらとし始めるなんて……私は犬彦をそんな風に育てた覚えはありませんよ!」

「どこから突っ込めばいいんだよそれは」

 

 くあ、と欠伸を漏らしながらの気怠げな言葉。細められた瞳は今にも完全にくっつきそうだ。

 それを横目で見た小夜子は唇を尖らせつつ、

 

「むう、なんてノリの悪い反応。そんなテンションじゃこの先生き残れないぞー」

「お前は何と戦ってるんだ……ってやばいホント眠い。ちょっと休憩しようぜ」

 

 コントローラを置いて立ち上がる。

 キッチンへ向かって歩いて行く背中を物足りなさそうな目をした小夜子が目で追っていったが、肩を落としてため息を1つ。コントローラを放り出してソファに背中を預けた。

 

「そんなにしんどいの? 訓練って」

 

 ヤカンを火にかけたところで、小夜子の声。

 コーヒーとココアの粉をそれぞれ用意しながら、いや、と犬彦は首を振った。

 

「訓練自体は別にそうでもない。そもそもトリオン体は普通の身体と違って丈夫だし、換装していればそんなに疲れないしな」

「その割にはだいぶやつれているみたいだけど。徹ゲーで寝落ちするなんて珍しいじゃない」

 

 小夜子の言葉通り、実家でも週末の夜や3連休初日などには夜通しゲームするなんてことはしょっちゅうだった。朝日が昇る頃ならともかく、深夜2時にうつらうつらとし始めるというのは確かに今までにはほとんどなかった。

 

 新生活を始めた最初の週末、最初の徹ゲーでさえ寝落ちはなく、ボーダーでの訓練も影響を及ぼすほどじゃない。

 とくれば、その原因は1つしかなかった。

 

「やっぱり、小南先輩? あんまり話したことなかったけど、あの人そんなに厳しい人だったかな」

 

 用意したマグカップに粉末を注ぐ手がぴたりと止まる。

 

 ――違う。小夜子は小南のことを全然理解していない。

 

 小南に弟子入りしてから1週間が経とうとしている。

 確かな腕を持った先達だ、弟子入りしたこと自体は後悔していない、が……何かを得るためには代償が必要、とは誰の言葉だったか。

 

「……精神的にな、しんどいんだよ」

 

 渋面を作る犬彦に、というと? と興味深そうな声で先を促す。

 

 ちょうどいい、小夜子にも是非この苦労話を聞いてもらうとしよう。

 すでに小南に弟子入りした経緯は話してある。

 だから話は、その翌日。早速訓練を始めた日に遡る。

 

 

 

 

 

 結局、小南はきちんとルールには従ってくれた。犬彦の渾身の土下座にも面食らいつつも頷いてくれたし、早速翌日から面倒を見てくれることにもなった。

 そこで意気揚々と犬彦が小南に会いに玉狛支部を訪ねたところ、小南は夢から覚めたような面持ちで開口一番こう言った。

 

「……思ったんだけど。あんた射手(シューター)なんでしょ? なんで攻撃手(アタッカー)のあたしが教えることになってるのかしら」

 

 思わず目を逸らした犬彦の脳天に小南のチョップが炸裂した。

 

 正直、勢いで口にしてしまったことは否めなかった。

 入隊したばかりの犬彦にはポジションの認識が曖昧であったこと。目の当たりにした小南の腕前に率直に言って惚れ込んでしまったこと。そんな理由と禁句をつかれてハイになったテンションで思わず口にしてしまったのは紛れもない事実だ。

 

 実際、ポジションが違うというのはそんなにも教えることに差が出るものなのだろうか。狙撃手(スナイパー)志望に攻撃手(アタッカー)が教えるというシチュエーションならともかく、銃も使わない射手(シューター)であればたいした違いはないと思うのだが、とにわか知識で尋ねたところ、小南もまた難しそうな顔をして腕を組む。

 

「教えられなくはないわ。だけどあたし、バイパーなんて使ったことないもの。メテオラなら使っているけど、アレはまた別物だし。参考になるとは思えないわ」

 

 メテオラ。確か着弾すると炸裂する弾丸だったか。

 短いながらも小南の戦いぶりを見た限りではてっきり両手斧の手数でゴリ押すピュアファイターかと思っていたのだが、やはり手を抜かれていたのか。彼我の実力差を思い知るばかりだ。

 

「たとえば、あんたがせめてスコーピオンでも使うつもりがあるんならもうちょっと踏み込んだことも教えられそうだけど、そのつもりはないんでしょう?」

 

 やけに確信めいた口調だ。

 確かに今のところ、少なくともB級に上がるまでは他のトリガーを使うつもりはないが、そうだと感じた理由を知りたい。

 尋ねると、呆れた様子で小南が言った。

 

「バイパーはね、他のどんなトリガーよりもセンスがモノを言うトリガーなの。あんたも多少使ったんなら理解したでしょうけど、扱いにくさは間違いなくトップクラス。そんなトリガーを入隊したばかりの頃に使おうなんて物好き、あんたが初めてよ。それでも使おうとするってことは、何か理由があるんじゃないかって思っただけ」

 

 そっかー、やっぱ人気ないのかー、と複雑な気分になりながらも納得する。

 

 成程確かに、バイパーというトリガーはクセがある。使いこなすには小南の言うようにセンスと熱意、根気が必要なのだろうことは想像に難くない。犬彦もまた、憧れという強烈な感情がなければ別のトリガーを選択していたことだろう。

 しかしそうなると、バイパーについては別の師匠を探すしかないらしい。勿論、犬彦自身が憧れている人に教えてもらえるのであれば願ってもないことだけれど……と、それは追々考えていくとして、問題は今だ。バイパーのことについて教えられないのであれば、さて、小南は何を教えてくれるのだろう。

 

「まあ、仮に知っていたところであたしがあんたに教えられるとは思えないけどね」

 

 ――はい?

 

 言葉を失う犬彦に、小南はむしろ開き直ったような面持ちで胸を張った。

 

「悪いけど、あたし感覚派だから。こうした方がいいだの、ここが悪いだの、そんなことを丁寧に教えられるスキルなんてこれっぽっちもないわ。だからあたしが教えられるやり方は、徹頭徹尾これ一つっきりよ。――トリガーをとりなさい。あんたが上手くなるまで、ひたすらにボコボコにしてあげるから」

 

 人、それを私刑という。

 

 鬼! 悪魔! 人でなし! などという犬彦の絶叫を皮切りとして地獄の日々が始まった。

 小南の脳内には手を抜くという単語が欠落しているのか、犬彦は模擬戦の時の焼き直しのように何十、何百と斬り刻まれ続けた。

 最初のうちは模擬戦の時を思い返して抵抗を試みたが、しばらくすると喉に魚の骨がつっかえたような顔をした小南が眉をひそめながらこう言った。

 

「あんた、もう抵抗するの止めてただひたすら避け続けなさい。勿論、シールドを張るのも禁止よ」

 

 この女、意外と根に持つタイプだったのだろうか。

 ふざけんなてめえ――! とコミュ障も師匠への敬意も忘れた怒りの叫びが訓練室に響き渡った。

 

 

 

 

 

 うわあ、と引き攣った声を上げて小夜子が仰け反った。

 

「私にたとえるなら、持っていたゲームをハードごとまとめて捨てられたレベルの怨みを感じる。犬彦、実は気付いてないだけで何か怒らせるようなことしたんじゃないの?」

「菓子折持って土下座しに行くべきか一晩真剣に悩んだことは告白しておく。その後こっそり嵐山先輩に聞いてみたけどどうも素であんな感じらしいぜあの先輩」

「やはりボーダーは人外のすくつだったか……犬彦にお悔やみ申し上げる」

「笑えないからやめてくれ、本当に……第一嵐山先輩はまともな人だし、小南がアレなだけだと思う、んだが」

 

 言葉尻がすぼんでしまったのは、前に小夜子が口にした言葉を思い出したから。

 

 ……まさか、広報担当が嵐山先輩達しかいないのはあの人達しかまともな人がいないからって意味じゃあ……。

 

 即座に首を振って打ち消した。止めよう。これ以上は恐ろしすぎる。

 

「――珍しい」

 

 身震いしていると、小夜子の呟きが耳に届いた気がして顔を上げた。

 よく聞こえなかったんだが、何だって?

 

「で、結局訓練の意味は何だったの?」

「ん? ああ、要は俺がトリオン体での活動に慣れていないのが問題なんだと。スペックは普通の身体より数倍上だからもっと色々なことができるはずなのに、普通の身体の時と同じ動きをしようとしている。ハイスペックのパソコンでポチポチテキスト打ち込んで作業しているようなもんだってな」

「最新ゲーム機でテトリスやってるようなものだと?」

「それもドット描画のヤツな。まあだからまずは自分のスペックを理解することが重要ってことでそんな感じになったらしい」

「抵抗するなってのは?」

「選択肢が多いと迷うだろ。回避1本に絞ればそれに専念できるから余計なことを考えて動きが鈍ることがなくなる。だからそれに並行して色々やってるぞ。たとえば――」

 

 

 

 ケース1『高層ビルからの自由落下』

 

 

 

「待って。ねえ待って。犬彦、本当に小南先輩怒らせてないの? 実は結婚を前提としたお付き合いの途中に犬彦の不倫が発覚したとか、小南先輩の好きな人のファーストキス奪って泣かせちゃったとか、もっと直裁的に犬彦が小南先輩の親の仇だったとか、そういうレベルの怒りを感じるんだけど」

「お前は俺をどんな目で見てるんだよ……まあもう少し話を聞け」

 

 

 

 

 

「Bランクに上がったら、多分あんたもどこかのチームに入ってランク戦をすることになるわ。場所とか天候とかはその時々で細かく弄れるけど、基本はこういう市街地戦ね」

 

 夜空を背景に屹立するビル群。『摩天楼』と呼ばれるステージに犬彦たちはいた。

 シミュレーションで再現された無数の人口の灯りが街を染め上げ、夜空を明るく照らしている。それをビルの屋上から見下ろす光景は圧巻の一言。

 年若い少女であれば顔を輝かせて見惚れてもいい光景だろうに、背後にいる小南は腕を組んでいっそ不機嫌とさえ見える淡々とした口調で説明した。

 

「へえ。で、それとここから飛び降りろとかいうさっきの正気を疑う指示とどんな関係が?」

 

 犬彦は屋上の縁から下を見下ろしながらそう尋ねた。

 無論背後には細心の注意を払っている。説明の最中に突き落とされてはたまらないからだ。――何より恐ろしいのはこの頭のおかしい先輩の場合、それが冗談ではないことである。

 

 頰を恐怖で引きつらせながらの問いに、小南は相も変わらず無遠慮な声でこう言った。

 

「ただ飛び降りろってわけじゃないわよ、勿論。――空中で色々動きなさい。トリオン体なら余裕だから」

「いや、そこをもっと説明してくれないと困るんだけど! 何が余裕!? こっちには小南の求めてるものがわからねえしそもそもやる意味が伝わってこないんだが!」

 

 そんな最低限の説明でこんな超高空から紐なしバンジーやらされるこっちの身にもなってほしい。

 今の説明で伝わってくるのは、どうやら犬彦はこの師匠からひどく嫌われているらしいということだけだった。

 

 必死の説得が伝わったのか、んー、と顎に指を添えて小首を傾げた師匠が雑な口調で続けて言い放つ。

 

「そうねえ、じゃああたしが適当にハウンド撃つからいつもみたく避けなさい」

「あっクソ、しまったこれヤブ蛇だったか! 何てことを!」

「あと勿論シールド禁止よ。シールドオッケーにしたらあんたのことだし張ったまま一切動かずに落下するでしょ。それじゃ訓練にならないし、何よりあんたの硬い上におっきいんだから」

「くそ、こんな頭おかしい先輩なのに不覚にも最後に反応しちゃった自分が悔しい……ッ!」

 

 この先輩ちょっと無防備すぎやしませんかね! 色んな意味でドキドキしちゃう!

 

 

 

 

 

「変態かな?」

「俺は悪くねえ! 俺は悪くねえ!」

「親善大使乙。で、結局やったの?」

「いや、だってやらねえと噛みついてくるんだもんよあの先輩……」

「ご褒美かな?」

「物理的にじゃねーよ。……いや、小南なら割とありえそうではあるけど……」

 

 実際一歩手前まではいってるしな、うん。

 あの先輩俺より年上のくせに俺より子供っぽいところがあるからなあ、とぼやきながら悩ましげに腕を組む。

 

「ていうか、本当にやったんだ……墜落死なんて死因、ボーダーのランク戦じゃ滅多にお目にかかれないからどうなるのか気になるんだけど。やっぱり爆裂四散?」

「四散する側の人間にわかるとでも?」

「あっ」

 

 小夜子の声が途切れた。

 

 まあ、システム的に考えて流石に四散はしないだろう……多分。

 実際のところ痛覚は遮断されてるし墜落後は即座に再生するしで、墜落したという事実を正しく認識しているとは言い難い。

 それでも高所恐怖症の人間に、そうでなくても心の弱い人間にやらせたらトラウマは避けられないレベルだろうが……あれ?

 

「……もしかして俺、とんでもないことをやらされてるんじゃあ」

「犬彦、今日はもう休もう? お姉ちゃんが添い寝してあげようか?」

「えっ、何か効果あんのそれ」

「あの、真顔で返すのは止めて欲しいんですが……結構心にぐさりとくるので」

 

 ぐああ、と胸を抑えて悶える小夜子に鼻を鳴らすと、ちょうど火にかけていた湯が沸騰した。

 あらかじめ粉末を入れておいたマグカップに湯を注ぐと、コーヒーとココアの香ばしい香りが漂ってくる。

 ついでに、と戸棚から買いだめしておいたマシュマロを取り出して封を開き、1つずつ放り込んでからリビングへと持って行く。

 

「ほらよ」

「乙ー。ん、今日はマシュマロ入りですか。良いねえ、洒落てるねえ」

 

 ご機嫌でココアに口をつける小夜子に「はいはい」と苦笑しつつソファに座る。

 ココア一つでこれだけ喜んでもらえるなら入れた甲斐があったというものだ。

 

 手を温めるようにマグカップを両手で包みつつ、溶けかけのマシュマロが浮かぶコーヒーを口に含んでほう、と息を吐く。

 ほろ苦い香りと仄かな酸味がぼやけていた意識を覚醒させていく。

 

「勿体ないねえ」

「何だよ? マシュマロならまだ袋に一杯あるぞ」

「そっちじゃなくて――いやそっちは後で貰うけど。こんなに家事スキル高ければいくらでも女の子にチヤホヤされそうなのに、一向にそういう話を聞かないなんて……お姉ちゃんはとても悲しい」

「それは褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」

 

 第一お前にだけは言われたくねえ、と顔をしかめる。

 つい口が悪くなってしまうのは、痛いところを突かれたからか。

 

「まあ、だから今の話聞いて結構安心してるところはあるんだよ」

「お前は本当に人の話を聞いてたのか? 今の話のどこに安心できる要素があったんだよ」

「だって犬彦がこんなに早く女の人と打ち解けたの初めてじゃない? その口ぶりだと結構素で接していられてるんでしょ?」

「む……」

 

 確かに、犬彦は小南と話している時は小夜子と接している時と同レベルで普段通りに接することができている。が、それは別にコミュ障が改善されたからとかそんな理由ではないし、別に小夜子が期待するような色恋沙汰が絡んでいるわけでもない。

 たとえて言うなら、破天荒な姉に付き合わされている気分、と言えばわかるだろうか。

 容姿は整っているし、ふと近づいた際に漂う柑橘類の香りに落ち着かない気分になることはある。が、基本的に小南の顔が近づく時というのは小南の出す無理難題に噛みついて口論になっている時であるからして、生憎と色気とは無縁のシチュエーションでしかない。

 そんな相手と女性として付き合うとかそういう話は流石に無理だ、というのが犬彦の偽らざる本音であった。

 

 物思いに耽っていた思考から戻ると、はむはむと幸せそうに唇で溶けかけのマシュマロを弄ぶ小夜子の姿。

 何だか真面目に考えていた自分がアホらしく思えてため息をついた。

 

「まあそうだな、確かに小南とは普通に付き合えているかもな」

「うんうん、お姉ちゃんも一安心だよ、本当に。――那須先輩達に会わせる約束が無駄にならずに済みそうで」

「は?」

 

 ぼそりと呟いた言葉に、犬彦が目を剥いて声を上げる。

 

「那須先輩達と? 何で」

「何で、って。前に言ったじゃん。那須先輩達が犬彦に会いたがってる、って。入隊してからすぐはまあ犬彦も忙しいだろうし、ってことで那須先輩達も遠慮してくれてたんだけどね。もう1週間にもなるし、引き延ばすのも限界でしょ? とは言っても一応犬彦のことも心配だったしどうしようかなと思ってたんだけど、思ったより上手くやれてるみたいだし」

「いやいや待て待て。何をそんな急に……」

「何言ってるの、むしろ遅いくらいだよ。第一犬彦だって、どうせなら早く会ってみたいと思ってるでしょ?」

「それは……」

 

 それは、そうだ。

 小夜子が所属するチーム。小夜子が仲良くやれているチーム。

 そして、犬彦が憧れた人。那須先輩に会えるというのであれば、本来断る理由などない。

 

 ――いや、そもそも断る気なんてないと言えばないんだが。

 

 結局のところ、犬彦は問題を先送りにしようとしているだけ。自身の問題を解決する糸口が見つからず、及び腰になってしまっているだけだ。

 

 だが、それもここが限界――そう踏ん切りをつけられるだけの余裕がかろうじて犬彦にも存在した。

 それは犬彦にとっては素直に認めづらいことだが、入隊して早々小南と打ち解けられたことが大きいのだろう。

 針の先ほどの希望だが、それが生まれたことが犬彦の決断を後押しした。

 

「そうだな。そろそろ、会ってみるのもいいかもな」

「お、意外。あと1週間くらいは引っ張るモノかと思ってたんだけど」

「まあ、会いたいと思ってるのは事実だし。どの道バイパーのことは色々と教えて貰おうと思ってたんだ、小夜子が約束つけてくれたってんならむしろ都合がいい」

 

 言葉を口にするにつれて、意志が固まっていくのがよくわかる。

 我ながら単純だなと呆れるも、勢いというものは大事だ。

 これを逃す手はない、と小夜子に向き直り問いかける。

 

「んで、いつ会う予定なんだ?」

「明日」

「明日? そうか、明日か。それは……、なんて?」

「だから、明日。あ、違う。日付変わってるから正確には今日だね」

「えっ」

 

 ――えっ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 書いといて何ですが、バイパーのリアルタイムで弾道引くか、あらかじめ設定した弾道しか使えないのって絶対使いづらそう(小並感
 障害物には弱そうですけど、ハウンドのが初心者向きには見えます。

 勿論小南にはその辺は教えられないので、基本的には体術関係ですね。立ち回りとか。
 たとえ攻撃手でも教えられなかったとは言ってはいけない(戒め

 ステージ『摩天楼』は捏造。最新話の『市街地D』はシチュエーション的にクッソ燃えるので是非書きたい。

 次回は那須隊回。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 那須玲

 お待たせしました、メインヒロインです。


 

 

 

「人いすぎで震えが止まらない。ねえやっぱ帰ろう?」

「休日の朝に何期待してんだお前は。歩き始めて5分も経ってねえぞ」

「そもそもなんで休みの日にわざわざ出かけようと考えるのかがわからない。休日はゴロゴロするための日であって本来出かける日ではないはずなのに……!」

「引きこもりに何言っても無駄かもしれんが、休みの日は本来出かける日だからな」

「……うう、心なしか犬彦の言葉が3割増しで冷たい気がする」

 

 当たり前だ馬鹿め、と鼻を鳴らす。

 

 小夜子と2人、連れ立って向かう先は那須先輩の家だ。

 翌日に会う約束を控えた状態で徹ゲーと洒落込もうとした馬鹿を正座で叱り倒し、説教する時間も勿体ないとばかりに即布団に潜り込んだのが深夜の3時。ギリギリまで寝てられる小夜子と違って犬彦は洗濯だの朝食だのでほとんど寝られなかったのだ。口も悪くなろうというもの。

 

 瞼は重く、青空の向こうから降り注ぐ陽光が目に痛い。

 目の下に隈が出来ているのは確実であり、コンディションは最悪。小夜子ではないが、もうそのまま反故にして引き返した方がいいのではないかと思うくらいだ。

 それでも重い足を進めているのは、約束を守るという人としての道義は当然だが、

 

 ――珍しいからな。こいつが外に出ようとするなんて。

 

 小夜子は極度の異性恐怖症である。特に年上の男性に対しては顔を合わせるどころか同じ空間にいるのもつらい有様で、本来外を出歩くことさえ難しい。日常生活に必要なもののほとんどはネット通販で揃え、那須先輩達との触れ合いでさえパソコン通信で済ませている始末。唯一顔を合わせるのはランク戦の時のみと、本当にどうしてボーダーに入れたのかさっぱりわからない。

 そんな小夜子のことだから今日もてっきり犬彦だけで向かうことになるだろうと思っていたのだが、今朝になってなんと同行を申し出てきたのだ。

 熱はないか疑ってしまったのはご愛敬としても、これは良い傾向と不調を押してここまで歩いてきているわけである。

 

 ――まあ、これが果たして良い結果に繋がるのかどうかは微妙だろうけども。

 

 季節は初夏、そろそろ梅雨が見えてきたかというところ。

 シャツの上から半袖のパーカーを羽織る犬彦の背中には、そこまで長くもないパーカーの裾に上半身を潜り込ませようと奮闘する小夜子がくっついている。

 

 意味はわかるし、その無駄な執念も理解できる。今更のことだ。

 昔から出かける時はいつもこんな感じだったし、目立つからやめろと散々注意もしてきた。それでも頑として聞かないものだから、今では小夜子と出かける時にはどんなに熱くても上着を1枚羽織る習慣がついてしまったほどだった。

 

 当然、小夜子の克服を考えれば上着を着ていかないことも勿論考えた。

 だがそうなればどうなるかなど火を見るより明らかだったため、結局いつものこのパターンだ。

 無理矢理言うなら自分から外に出ると言い出しただけまだマシ、というところ。

 

 しかし、周囲の生暖かい視線がすれ違うたびに突き刺さるこの状況。

 誠に遺憾なことに――誠に、遺憾なことに。小夜子と犬彦の身長はほとんど同じだ。こんな風に無理矢理潜り込もうとすれば必然歩きにくいことこの上ないと思うのだが、小夜子はもう慣れたと言って気にも留めない。

 それはまあ外出するたびに同じことを繰り返していれば流石に慣れもするだろうな、と背後のダメな姉にため息を吐く。

 

 そのため息に何を悟ったのだろうか。

 ぷるぷると小動物のように震えながら歩く小夜子がどこか拗ねたような声でこう言った。

 

「……これで身長差があれば色々と楽になったのにナー」

「今お前は俺の逆鱗に触れた……! この野郎離れろダメヒッキーめ!」

「わあああごめんなさいごめんなさい謝るから裾だけはとらないで――!」

 

 

 

 

 

 歩くこと十数分。

 小夜子の案内の元、ついに那須家に到着した犬彦は開口一番こう言った。

 

「匂い立つような女の空気に震える。よし帰ろうか」

「あれ何かデジャヴ――じゃないね、うん! ていうか流石にそれはド変態すぎるから止めようか!」

「馬鹿言うなお前には感じ取れないのか? この百合の花園に迷い込んじゃったみたいな濃密な香りが。俺にはもう香りが女体化するレベルにまで感じ取れてしまって、だから、うん、帰りたい」

「ちょっといい空気吸い過ぎだね犬彦!」

 

 心なし煤けた犬彦の背中から小夜子が突っ込む。

 休日に他人の家で、男と服の中に潜り込んだ女の2人組が口論している様に通行人からの視線がちらちらと。――後日噂になることは避けられない光景がそこにあった。

 

「いやいや、そもそも女どころか男友達の家にさえ行ったことないのにいきなり女先輩の家とかハードル高すぎだって。常識的に考えよ? 勇者がひのきのぼう持って魔王の城に攻め込むみたいなも」

「ポチッとな」

「聞けよ人の話!」

「『絶対押すなよ!』と言われた気がした」

「言ってることとやってることが違う……! このコミュ障め!」

「むしろ空気を読んだ結果だと思う……っていうか犬彦の話聞いてたら多分夕方までここで話してることになると思うしむしろ英断」

「ため息! ため息吐きやがったぞこのくっつき虫!」

「くっつき虫チガウ。ワタシアナタノ良心。コノママ回レ右シタラアナタ魔法使いマッシグラオーケー?」

「オラァ!」

「あ――!! りょ、良心が! 犬彦の良心が今風前の灯火……!」

「……いや、いつまで遊んでんのよあんたら」

 

 インターホン越しに響く呆れた声。

 突如響いた女性の声に思わずびくんと背筋が反り返った。

 

「あ、くま先輩」

「『あ、くま先輩』じゃないわよまったく。インターホン鳴らしたくせにいつまで経っても反応ないから何してんのかと思ったら……漫才するためにわざわざこんなとこまで来たの?」

「私、犬彦となら全国狙えると思うんですよ」

「はいはい言ってなさい。んで、そっちが弟くんね」

 

 水を向けられたことにどきりとする。インターホン越しなので相手の表情まではわからないが、紛れもなく視線がこちらを向いたことに思わず生唾を呑む。

 

「どうです? 何か感想を一言」

「あー……最初聞いた時は冗談かと思ってたけど。色んな意味であんたの言った通りだったわね」

 

 でしょう? と小夜子は何故かドヤ顔を決めているが、それを聞いた犬彦は思わず口を衝いて飛び出しそうになった疑問を呑み込んだ。

 

 おい。何を言ったんだ、どんな話をしてるんだお前ッ……!

 

「というかいい加減中入りなさいよあんた達。そのままそこに突っ立っていられたらどんな噂が立つかわかりゃしないわ」

「だってさ。ほら犬彦、ハリーハリー」

「お、おう……」

 

 未だに葛藤がある犬彦ではあったが、事ここに至り回れ右する選択肢などありはしない。

 覚悟を決めて玄関を潜る。

 

 玄関は無人。廊下の奥から甘い香りが漂ってくる。菓子やクリームを連想する香りだ。

 示し合わせたように背中から剥がれる小夜子を連れ、廊下の奥の部屋へと向かう。

 

 ――うん?

 

 ふと、鼻先に別の香りが漂った。

 パーティを思わせる甘い香りとは別物、異質な匂いだ。

 

 それが何だったか、記憶から引っ張り出すよりも早く犬彦の手は部屋の扉を開き――それをするだけの余裕がなかったとも言う――直後に響いた小さな破裂音にかき消された。

 

「犬彦くん、ボーダー入隊おめでとー!」

 

 女性の声で告げられる歓迎の声。

 それが意味するところは灰色の青春時代を送っている犬彦にも流石にわかった。

 恐らくは小夜子も巻き込んでの、犬彦の入隊を祝うためのサプライズだったのだと。

 

 だが――感情や意志を無視して犬彦の意識は暗転する。

 ガチガチに緊張していたところへ突然の破裂音と衝撃。加えて――ようやく行き着いた先程の疑問への解答。濃厚に漂う“火薬臭”。

 あらゆる情報が一度に襲いかかり、犬彦の身体はばたりと盛大な音を立てて廊下に沈んだ。

 

 

 

 

 

 ――意識がゆっくりと浮き上がる。賑やかな声が耳に届いた。

 

「――いや、ほんとこうなるならこうなるって事前に言っておきなさいよあんた」

「本当ですよー! 心臓止まるかと思いました!」

「いやいや、だから何度も言ってるじゃないですか。流石に私もこうなるとは思ってなかったんですってば。せいぜい腰が抜ける程度だと思ってたんですけどねえ……軟弱な奴!」

「こらさよちゃん、そんなこと言っちゃ駄目よ」

「そもそもここに来るまで弟くんの背中に隠れてたあんたが言えることじゃないでしょうに」

「……まあ訪ねる前から背筋ガッチガチだったんで、『あ、これはヤバイ』って思ってたところはあったんですけども」

「止めなさいよあんた。鬼か」

「それにしても、本当によく似てますね。双子じゃないんですよね?」

「年違うでしょ。あとあんまりそのこと言わないであげて。何だかんだ気にしてるみたいだから」

「おお、小夜子先輩が姉っぽい……」

「私が姉らしくないみたいな言い方はやめてもらおうか!」

「ふふ、そうよね。だってさよちゃん、今日珍しく参加したのだって――」

「な、那須先輩! それは秘密! 秘密です!」

 

 ……何か恥ずかしいことを言われている気がして起き上がる。

 意識は未だぼんやりとしているが、これ以上続けさせてはいけない気がした。主に犬彦の羞恥心ゲージ的な意味で。

 

「あ、気がついたみたいですよ!」

 

 呻き声とともに上半身を持ち上げる犬彦に、子犬のように明るく無防備に近づいてくる小柄な姿。

 

「うおおおおおおおお!?」

 

 子犬であればまだいい。

 だがそれが幼くも女性の声であると認識したその瞬間、犬彦は寝かされていたソファの端まで弾かれるように後ずさった。

 

 当然、そんな反応をされて傷つかない子供がいるわけがない。

 帽子を被った――部屋の中なのに――少女は悄然と肩を落として頭を下げる。

 

「あ、その、ごめんね? 私、つい嬉しくなっちゃって……」

「え? あ、いやいや違います違いますそういうことじゃなくって!」

「本当に言うとおりだから気にしなくていいよ茜。言ったでしょ、私の男版って」

「その説明ホントやめてくれないかなあ!」

 

 呻き声とともにそう抗弁するが、状況証拠的に有罪確定なのでその語気は弱い。

 涙目で首を振る犬彦に、思わずといった様子で声を上げたのは黒髪の女性だ。

 

「うわー今の反応とかホントそっくりね。小夜子がもう1人いるみたいな気分になってくるわ」

「くまちゃん」

「ああごめん。あまりにも、だからついね。体調はどう? 結構派手に倒れたけど」

 

 ――唐突だが。小夜子の異性恐怖症は年上に対する反応がより顕著である。

 とはいうものの、見た目に左右されない、というわけではない。ボディビルダーのような年下と線の細い少年のような年上。どちらをより恐れるかということについては論ずるまでもなく理解できることだろう。

 

 そして小夜子ほどではないものの、犬彦の異性に対する反応についてもまた、小夜子と同じ傾向が見られる。

 つまり何が言いたいかというと、同じ年上であってもより女性らしい声と見た目の方が抵抗は強い。

 そこへいくと黒髪の女性はシャツとジーンズというこの中では一番ラフであり、女性らしいと言われれば首を傾げる見た目でありながら、とある一部分を押し上げる豊かな山脈がそれさえも色香に変えている。

 結論として、犬彦は一気にテンパった。

 

「だだだ大丈夫です。コブとかもできてないし」

 

 挙動不審な犬彦に眉をひそめるものの、そう、と頷く黒髪の女性。

 変な追求が飛んでくる様子もなく、乗り切れたことに胸を撫で下ろした。

 

「まあ、犬彦くんは大丈夫でしょうね。むしろ下敷きになった小夜子のが変な声出してたわ」

「ゴフゥって言ってましたね。小夜子先輩大丈夫でしたか?」

「そんな声出す人が大丈夫だと思うてか! 見てよこの私の痛々しいおでこを!」

 

 ほら!と長い前髪をかきわけて額を晒す小夜子。

 周りの反応は「はいはい」と流していたり、「小夜子先輩、ホント肌真っ白ですね!」とズレた感想をしていたり様々だが、深刻な空気は見られない。

 

 思わずほっと息を吐いた。

 

「ああ……なら良かった、本当に」

「何が良いのか。姉を下敷きにしたことへの反省が見られないんだけど」

「ああ悪い。もし床とか傷つけちゃってたりしたらどうしようって思ってたからさ」

「あのくま先輩。私の弟が姉の無事より人ん家の床の心配してるんですけど」

「いや、どう考えても自業自得でしょ。あんたの日頃の行いが透けて見えるわー」

 

 ちくせう、と低い声で呟いた小夜子の頭がテーブルに沈んだ。

 

 くすくす、と抑えきれないといった様子の笑い声。

 犬彦が寝かされていた対面のソファに座る女性が、肩を揺らして笑っていた。

 

「何だか新鮮ね。さよちゃんのそんなに活き活きとした姿、初めて見た気がするわ」

「そ、そうですか? いつもと変わらないですよ」

「そうねえ。いつものあんたはもっとダウナーな感じだもの。ランク戦前でもないのに珍しく顔出したり、珍しいこともあったものね」

「むしろこっちが小夜子先輩の素なんですかね? だったら私は断然今の方がいいと思います!」

「……あの、すみません。そろそろ限界なんでやめてくれませんか、ホント」

 

 あと茜はあとでグーパンチの刑ね、と言いつつ、俯き気味の顔は耳まで真っ赤だ。相当恥ずかしいのだろう。怒り顔や沈んだ顔もレアだが、照れ顔というのは志岐家においてもほとんどなかった。それくらい珍しい光景だ。

 

「でも、この機会にもっと素の自分をさらけ出してもいいと思うの。せっかく同じチームになれたんだし、私達ももっとさよちゃんと仲良くなりたいもの」

「……別に、隠してたりしたわけじゃないんですけど……善処はしてみます」

 

 ぼそぼそと、しかしはっきりと口にする小夜子。それを見守る周囲の面々にも笑みが浮かんでいる。それだけでも那須チームの絆の固さが見て取れる。

 犬彦は――先程までは悪戯な笑みを、そして今は優しい笑みを浮かべる那須を見ていた。

 

 ――深窓の令嬢、という表現がこれほどピタリと当てはまる人を他に知らない。

 整った容姿。触れれば折れてしまいそうな華奢な肩。物静かで儚げな空気と相まって、まるで1枚の絵画を眺めているような錯覚を抱かせる。

 どこからどう見ても強そうには見えない。後方で戦局を見守る指揮官が良いところだろう。

 

 だが犬彦は知っている。

 七色の軌道に変化する弾を自在に操り、敵を翻弄する那須の姿を。あまりにも優雅で強かな彼女の姿を。

 強くて綺麗で、そして優しい――憧れるなという方が無理な話だった。

 

「――犬彦? おーい」

 

 は、と我に返る。

 慌てて周囲を見回すと、不思議そうにこちらを見る4人分の視線。

 

「どうしたのよ犬彦。ぼうっとしちゃって」

「え、は、えっと! ごめんなさい何の話だったですか!?」

「テンパりすぎでしょ……顔会わせたばかりだし、自己紹介しようって話」

「あ、ああ勿論やろうすぐやろう今すぐやろう!!」

「いかん、犬彦が壊れた」

 

 アチャー、と額に手を当てて目を伏せる小夜子が逆の手で「ていっ」と額にチョップを当ててくれる。たいした痛みでもないのに何となく落ち着いてしまったのは慣れのせいか。

 

 直前まで考えていたことの恥ずかしさもあり、この時の犬彦はこの場を何としてでも流して乗り切ることしか考えていなかった。

 だから気付かなかった。

 

「――ほほう」

 

 面白そうなモノを見つけた、とばかりに目を光らせた黒髪の女性の眼光に。

 

 

 

 

 

 話の流れで自己紹介、と言う形になったものの、実はそれそのものにはあまり意味はなかった。

 そもそも、小夜子のチームメンバーである。すでに全員、小夜子の口から教えてもらっており、顔もばっちりだ。

 

 那須隊リーダー、那須玲先輩。

 黒髪の女性が熊谷友子先輩で、帽子の少女が日浦茜先輩。

 それに我が姉、志岐小夜子を加えた4人のガールズチーム。それが那須隊である。

 

「――し志岐犬彦です宜しうお願いしましゅ」

「え? 何だって?」

 

 真顔で尋ねてきた小夜子の額を小突いた。

 

 ――いやいや無理無理。こんな空間で落ち着いて話せとか絶対に無理だから……。

 

 言い訳を並べ立てるものの、次から次へと湧き上がる恥ずかしさは消えるはずもなく。顔を両手で覆って耳まで真っ赤に染めた犬彦は今すぐここから消え去りたい気持ちでいっぱいだった。

 微笑ましそうに見守ってくれる周囲の視線が――というか那須先輩だ――ちくちく痛い。

 

「犬彦くんていくつだっけ?」

「じゅ、14です」

「14というと、小夜子の2つ下か」

「は、初めての後輩……! 何でも聞いてくださいね! 私頑張りますから!」

 

 両手を合わせて感激している様子の日浦先輩。

 よほど嬉しいのだろう。目をきらきらと輝かせて身を乗り出してくるが、苦笑いとともに腰が引けてしまうのはどうしようもない。

 

「2人暮らしだっけ? 小夜子と」

「は、はい。半月くらい前から」

「家事とか全部やってるって聞いたけど、本当なの?」

「はい、何とか……」

「その年で全部とか、凄いのね」

「い、いえ! 俺なんて全然、たいしたことないですよ」

「凄いですよ! 私なんてお母さんに任せっきりだし」

「というか、普通はそうじゃない? 洗濯とか掃除とか、多少の手伝いをすることはあっても、ね。姉弟2人暮らしなら勿論だけど、誰かがやってくれるわけじゃないものね」

「その上、学校通いながらですもんね。大変じゃないんですか?」

「は、はあ。でも、もう慣れてしまったので」

「半月で? もしかして家にいた時にもやってたの?」

「流石にそこまでは……で、でも、要領とかは掴めたんで」

「凄いのね、器用というか何というか。……で、そろそろ何かコメントしたら? 小夜子」

 

 にやにやと楽しそうな笑みを浮かべて熊谷先輩が話を振る。

 全員の視線が1つに集まる――気まずそうにあらぬ方を見やり、苦々しい顔をしている小夜子の姿。

 誰とも目線を合わせないようにしながら、震えまくりの声で小夜子は言った。

 

「ど、どうですか? これが私の自慢の弟ですよ」

「ええそうね。あんた、初めて会った時には死人みたいな青白い肌していたことをよく覚えているけれど、今は別人のように健康的な色してるものね。相当弟くんが頑張っているみたいね?」

「ぐ……て、手伝ってますし。私だって、少しくらいは」

「だそうだけど。どうなの犬彦くん、その辺は」

「あー……まあ、流石に何もやってないわけじゃ、ない、と思います」

 

 ――自分が散らかしたゲーム機だの食器だの服だのは流石に片付けさせているし、間違ってはいないはずだ、うん。

 

 姉の体裁もあるのだろうし、ここは見栄を張らせてやろうとそう答えたのだが、犬彦の歯切れの悪い返答では隠し通すことはできなかったらしい。

「ああ……そういうこと」みたいな納得の視線が三方から小夜子に突き刺さり、何やらこちらに必死に念を送っていた小夜子が全てを諦めたようにくずおれた。

 

「ブルータス、お前もか……」

「アホなこと言ってないで、あんたこの機会にちょっと見直した方がいいんじゃないの?」

「ふふ、そうね。1人でやると大変かもしれないけれど、犬彦くんがいるんだもの。2人仲良くやるのも楽しそうじゃない」

「うう、那須先輩まで……やっぱり来るんじゃなかった」

 

 萎れた花のように肩を落とす様を見ると、流石に罪悪感も湧いてくる――否、ちらちらと俯けて目線を隠した前髪越しに周囲の様子を窺っている。意外と余裕がありそうだ。

 

 実際、手伝ってほしいかと言われれば、どちらでもいい、というのが正直なところだった。

 手伝ってもらって楽になりたい気持ちよりも、小夜子に手伝いをさせてどうなるか、という不安の方が大きい。包丁を持たせて料理などさせようものなら、ずっとはらはらしながら小夜子の手元を眺めることになりそうだ。

 それを思えば、このままでも別に問題はない、というのが犬彦の偽らざる気持ちである。が、勿論本人にやる気があるのであればそれを拒むつもりはない。

 

 もっとも、やる気を出させるのが一番難しい、ということもわかっているため、結局は何も変わることはないのだろう。

 水と塩昆布だけで生活を続けていた根性は伊達ではないのだ。

 

 

 

 

 

 




 伏線バラマキつつ次回へ続く。

 切りどころが中途半端なのはすみません、仕様です。
 そのまま繋げても良かったんですが、総計16000文字の話を1話として投稿すると見てる方も疲れると思ったので……。

 その代わり、次の投稿は早めにします。
 今日の昼か、夕方くらいには突っ込む予定ですのでしばしお待ちを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 那須玲②

 

 

 

 それから色々な話をした。初対面である犬彦とその姉である小夜子に関する話題がほとんどではあったが、那須隊の4人だけで話しているのを端から眺めているだけでも十分楽しかった。

 犬彦の知らない姉の姿を知り、姉とその友人達の他愛のない日々を知った。それだけでも来た甲斐はあったように思えた。

 

 だから――やっぱり下手なことせずにこのまま帰った方がいいと思うんですよ、ねえ?

 

 3人の話に耳を傾けながら、笑顔のまま小夜子とアイコンタクトを交わす。

 引き攣った笑みを浮かべる先、同様に愛想笑いを浮かべた姉がしきりに瞼をパチパチさせていた。

 

 ――いつまで日和る気なのか。ここまで来たら、後はもう行き着くところまで行くだけでしょ。ハリーハリー!

 ――いや、そうなんだけど、さ……。

 

 催促を繰り返す姉に、しかし踏ん切りがつかずに頷くことができない。

 

 実は、小夜子に頼んですでに“仕込み”は済ませてもらっている。

 これから説明することはあまりにも荒唐無稽すぎて、論より証拠、言って聞かせるより実際にやってみせた方が話が早いと考えたためだ。

 従って、あとは実行に移すだけ、なのだが……その一言がひねり出せない。

 

 姉の言葉の通り、那須隊の皆はとても良い人達だった。

 最初は緊張でガチガチだった犬彦だが、最初に比べれば随分と肩の力が抜けてきている。学校のクラスメイトとさえこんなに長く落ち着いて話したことはない。それを思えば犬彦にとって今の状況は驚異的とさえ言えた。

 

 だからこそ、唇が震える。喉が絞められる。

 犬彦が女性に対して壁を作るようになったのは、この“特性”を認識したその時からだ。

 これからももっと那須隊の皆と付き合っていきたい。だからこそ隠し事はしたくない。

 

 けれど、この“特性”の話をした時、果たしてこの居心地のいい空間は崩れずにいてくれるのか。

 そう考えてしまって、どうしても踏み出せずにいた。

 

「犬彦くん……?」

 

 那須先輩が名前を呼んだ。

 声に釣られて顔を上げる――思い悩むあまり、笑顔を取り繕うことさえ忘れてしまっていたことにようやく気付いた。

 

「少し、顔色悪いみたいだけど……大丈夫?」

「あ、いえ、そのっ」

 

 こちらの身を案じる声。

 大丈夫だ、と即座に答えられればまだ良かった。だが別のことに気をとられていた犬彦には到底上手い返しなどできるはずもなく、この場の視線が一斉に犬彦に突き刺さった。

 

 もう口にして楽になっちゃえよ、と心のどこかで声がする。

 嫌われたくない、と子供のような叫びが声を掴んで喉奥に引きずり落とす。

 

「えと、その」

 

 焦るままに適当な言葉を――恐らくはこの場をごまかすための――吐き出そうとしたその時。

 大きな、大きな深呼吸が1つ聞こえた。

 

「――それじゃあ、宴もたけなわ! ここで1つ、ウチの自慢の弟にあっと驚く一発芸を披露してもらいましょう!」

 

 がたん、と音高く立ち上がったのも意外なら。

 天高く指を指し、今まで聞いたこともないような大声を張り上げたのが引きこもり代表のような姉であったこともあまりにも意外で。

 上擦った声、耳まで赤く染まった表情。姉が無理をしていることに気付くのにだいぶ時間がかかってしまった。

 

「お、ようやく?」と興味深そうに熊谷先輩が佇まいを正し、

「楽しみです!」と期待に満ちた目で日浦先輩が手を打つ。

 複雑そうな顔ながらも、那須先輩も好奇心は抑えられないようで、ただ話の成り行きを見守っている。

 

 犬彦にとってあまりにも意外な切り出し方、そして瞬く間に転がってゆく展開。

 犬彦はもう拒絶することさえできずに目を白黒させて、勢いに乗せてまくし立てる姉を眺めた。

 

「ルールは簡単です! 那須先輩達には事前にこの家の敷地内に1つずつ皆さんの私物を隠してもらいました! 犬彦には今からそれを見つけてもらおうと思います!」

「ほうほう。で、それで終わりじゃないんでしょ?」

 

 楽しそうに熊谷先輩が相づちを打った。

 調子に乗せられて、ようやく元のノリを取り戻したらしい。

 小夜子がにやりと口の端を釣り上げる。

 

「勿論ですとも。だってそれじゃ徹底的に家捜しして終わりですしね」

 

 勿論そんなあからさまな抜け道は作りませんよ、と指を振る。

 

「犬彦には、この場で! 座ったこの姿勢のまま! 皆さんが隠した私物を全て見つけてもらいます! 手を使うのも禁止、足を使うのも禁止、勿論皆さんに質問して隠し場所を見つけ出そうとするのも禁止! 徹頭徹尾この場でたった一人で発見してもらいます!」

 

 高らかに宣言した小夜子の言葉に、俄に場が色めき立つ。

 

「え、え――!? 小夜子先輩、流石にそれは無理じゃないですか?」

「まあ、モノを隠した時点でこういう流れになるとは思ってたけどさ。どうやって見つけるんだって話よね、そんなの」

 

 いくら何でも条件が厳しすぎる、とその反応が雄弁に語っている。

 驚愕を全身で表現する日浦先輩は元より、熊谷先輩に至っては蝋の翼で空を飛ばんとする人間を見るような目だ。

 

 その場から一切動くことなく。座ったまま、口を使うことさえ許されず。2階建ての、今日初めて来たばかりの家屋の敷地内から何を隠されたのかもわからない私物を見つけ出せ。

 1億積まれたところで、やる意味もないと投げ出すのが普通の反応だ。

 逆に言うと、それができるのであれば大金を自由にするのも容易いだろうということ。

 あまりにもスケールの違うゲームが行われる予感に那須は密かに息を呑む。

 

「というわけで、早速始めましょうか。準備はいい、犬彦?」

「いや、準備も何も……」

 

 そもそも承諾した覚えもないんだが、と口を開きかけた犬彦へ、

 

「犬彦」

 

 真面目な顔をした小夜子の目が、射貫くように犬彦を見て。

 

「信じて。皆は、犬彦が今まで出会ってきたような人達とは違うんだから」

「――」

 

 ……そういうことか。

 小夜子の言葉に、犬彦はようやく得心がいった。

 あまりにも強引な話の持って行き方。無理をする小夜子の姿。

 今までとは違う。その言葉の意味を正しく理解し、犬彦はようやく覚悟を決めた。

 

「私物の大きさは?」

「鞄に入るサイズ、って思ってもらえればいいよ。そんな大がかりな準備してないしね」

「それが何か、ってのは教えてもらえないんだな」

「だって、その方がきっと伝わりやすいでしょ?」

 

 首を傾げる面々に、犬彦は「違いない」と苦笑した。

 

「制限時間は?」

「1分で考えてるけど、どう?」

 

 問題ない。が、それだとだいたいの場所しかわからないだろう。

 

「5分くれ。――せっかくの機会だし、真面目にやるから」

 

 顔の前で祈るように手を合わせ、目を閉じる。

 その雰囲気が変わったことを感じたのか、息を呑むように身を縮める那須隊の面々。

 ありがたい。別にどのようにしていても問題はないけれど、空気の乱れが少なければより一層その精度は増す。

 

 山を作るように合わされた掌の間。覆い隠された影の中で、くん、と鼻を鳴らす。

 家屋の中に漂う空気を、1つ1つより分けていく。解して、伸ばして、少しずつ範囲を広げていく。

 そうしていると、閉じた瞼の裏に匂いによって再現された間取りが鮮明に浮かび上がっていく。

 あとはそれぞれの匂いを探り当てるだけの簡単な作業だ。

 

「――はい、終了」

 

 制限時間を告げた小夜子の言葉に目を開ける。

 あまりにもいくつもの匂いを感じ取りすぎたせいか、軽い目眩が襲った。まるで夢の中にいるような心地だ。

 

「どう、わかった?」

「あーと、すまん。紙とペン貸してくれるか」

 

 問いには答えず、催促だけを返す。

 あらかじめ用意していたらしい2つを小夜子から受け取って、机の上で図を書き記す。

 

 

 

 

 

 ――これは、予想より……ううん、もっと凄いね。

 

 机の上に広げられたメモ紙に図形を書き込んでいく犬彦を眺めて、那須は感嘆の吐息をついた。

 言葉にせずとも、それは全員に共通した感情だ。

 感情を表に出しやすい茜はともかく、男勝りな熊谷――くまちゃんでさえ押し黙っているあたり、どうやら全員が彼の非凡さを肌で感じ取ったらしい。

 今は鳴りを潜めたものの、目を閉じて集中していた様子の彼から放たれる威圧感は凄かった。

 こちらに害する行為をとろうとしているわけじゃない。にも関わらずこちらの全てを見透かされたかのような雰囲気に自然と身体が動くことを拒否していた。

 

 迷いなくペンを走らせる彼からは、もうそんな気配は霧散してしまっているが……さて。小夜子曰く、自慢の弟である犬彦くんは、一体どのようにして4人の私物を探し当てたのだろう?

 

「とりあえず、この家のだいたいの間取りはこんな感じになっていると思います」

 

 こつこつとペン尻で指し示すその絵図を見て、目を見開いた。

 

「……小夜子。これって事前に犬彦くんに私の家の間取りを教えたりしてるの?」

「勿論教えてませんよ。どころか、犬彦はこの玄関から廊下、突き当たりのこのリビングまでしか那須先輩の家を知りません。勿論ここに通ってくるまでに見た階段だの扉だのは別ですけどね。ただ、その先にどんな部屋があるのかまでは絶対に知りません」

「そう、なのよね」

 

 ……流石に窓の位置とか、壁の位置とかが事細かく書き記されているわけじゃないけれど。1階と2階、それぞれのおおよその間取りが――それもバスルームだのトイレだのキッチンだのが書き込まれていることには、流石に驚かずにはいられなかった。

 しかも、その全てが正しく一致している。

 思わずくまちゃんが小夜子のスマホを確認し、犬彦くんとのチャットでのやりとりを確認してしまっているのも無理はないだろう。

 

「む……確かに、間取りなんかを教えているような会話はないわね。でもそうなると、結局どうやって探してるわけ?」

 

 誰もが気になっている問いに、犬彦くんは一瞬の逡巡を振り切ってこう答えた。

 

「匂い、ですよ」

「匂い……?」

 

 訝しげな問いに、犬彦くんは鼻を指差しながら答えた。

 

「鼻がいいんです、昔から。おかげで、昔からこういう捜し物には困ったことがありません」

 

 たとえば、と犬彦くんはペンでメモに書いた那須家の間取りのうち、1階バスルームを突いてある1点に×印を書き込んだ。

 

「ここ。多分バスルームだと思うんですけど、ここに私物1個ありますね。多分、日浦先輩の帽子でしょうか」

「ふぇっ?」

 

 鳩が豆鉄砲食らったような。あるいは、目の前で猫だましを食らった猫のように驚く茜。

 言葉に出ることはなかったけれど、那須自身、そしてくまちゃんも同じように驚いていることだろう。

 誰かの私物がある、だけならまだしも、犬彦くんは茜の帽子、とあまりにも具体的な解答をしてみせた。もはや裏で通じ合わせているとしか思えないほどだ。

 けれど、「間違いない?」と確認をする小夜子に頷く茜の驚愕は演技とも思えない。

 手品のタネを見極めようとするような目をしてくまちゃんが尋ねた。

 

「帽子ってズバリ当てたのも驚いたけど……どうしてバスルームだって?」

「水の匂いとかタイルの匂いとか……石けんの匂いとかが一番強いから、でしょうか。あとは」

 

 一瞬言いかけて、ちらり、とこちらを向く。

 意図が読めず首を傾げると、

 

「那須先輩の髪から同じ匂いがしたから――ってあああああそそそそのすみませんすみません忘れてくださいっっ!!」

 

 話すと決めた時から覚悟を決めていたのだろう。異性恐怖症の彼にしては珍しく淀みなく語られていたが、地雷を踏み抜いたと気付いた後にも続けられるほどには意志が固まっていなかったらしい。

 哀れみを誘うほどに慌てて土下座する犬彦くんに那須は大丈夫、と首を振るが――その頬には隠しきれない朱が差していた。

 怒っているわけではないし、それを引っ張っているわけでもない。

 けれど自分より年下とはいえ、異性に匂いのことを指摘されて羞恥心を覚えないほど女を捨てているわけでもなかった。

 

「あ! じゃあ、もしかして私のも?」

 

 思いついたようにポンと手を叩いた茜が問いを投げかける。

 答えはない。――けれど、土下座のまま頭を上げようとしないところを見るにその通りなのだろう。

 茜はおおー、とどこか抜けたような感心の声を漏らして手を叩いた。自身の匂いについてどうこう、というよりは、純粋に犬彦くんの特技に感心している様子だった。

 気付いていないのか、それとも気にならないのか。気になるところではあるけれど、わざわざ藪をつついて蛇を出す必要もないだろう。

 

「あ……」

 

 ――もしかして、そういうことなのかな。

 

 犬彦くんの態度。その理由。小夜子がわざわざ見せたかったもの。

 それがようやくわかった気がして、那須は顔を曇らせた。見れば、くまちゃんも複雑そうな顔をして犬彦くんを見ている。

 

「はいはい、謝るのはもういいから、とにかく答え合わせしようか犬彦。やっちゃったものは仕方ないし、いつまでもそうしてるわけにもいかないでしょ」

 

 小夜子が犬彦くんの肩を叩きながら声をかける。

 目線が那須とくまちゃんに向けられる。軽く頭を下げてアイコンタクト。どうやらこちらが思い至ったことに気付いたようだった。

 小夜子の声に促され、顔を上げた犬彦くんが言いづらそうに答えを言う。

 

 1階・洗面台、小夜子の携帯ゲームソフト。

 2階・那須の自室、くまちゃんのヘアゴム。

 そして最後に、茜の胸ポケットにしまわれていた、那須のハンカチ。

 

 引っかけのつもりだったのだろうか、少し捻った場所にあるものさえ、まるで見てきたかのようにどんな場所にしまわれているのかさえ説明して解答してみせた。

 他はともかく、那須の私物については自宅に置かれたものである。勿論そのこともあって置き場所は一工夫したけれど、それでも指摘するのは容易ではないはずだ。

 

「というわけで、どうやら無事全問正解、ということみたいですけど。どうです皆さん? ウチの自慢の弟の一発芸は」

 

 言葉の通り、自慢げに胸を張って小夜子が尋ねる。

 反対に初めの様子とは裏腹にすっかり意気消沈してしまった様子の犬彦くんは俯き気味に目を逸らしている。まるで叱られる前の子供のようだ。

 けれど……那須達にしてみれば、どうして犬彦くんがそこまで怯えるのかがわからない。

 

「凄いです! 匂いだけで当てるなんて初めて見ましたっ」

「そうねえ、小夜子が自信満々に言うだけはあったと思うわ。今度から捜し物があったら犬彦くんにお願いしようかしら」

 

 目をきらきらさせてはしゃぐ茜と、冗談交じりに鼻をつついて笑みをみせるくまちゃん。クッキーをかじりながらそれぞれに口にする様子を見て、深刻な空気を感じ取る人がいるはずもない。

 犬彦くんが顔を上げて、2人の顔を窺う。目を見開いた驚きの表情が那須に向けられた。

 

 ――同情してる、って思われるのかな。

 

 ふとそんなことを考えた。

 那須隊のチームメンバーの弟。贔屓目に見ていない、とは流石に言い切れないかもしれない。

 那須はその思考を、構うものかと切り捨てて笑みを浮かべた。

 

「うん、凄かったよ。流石小夜子の自慢の弟ね」

「え……ど、どうして」

「どうして、って。また変なこと聞くのね」

「だって……こんなの、俺は一度も凄いなんて思ったことなく、て」

 

 声が滲む。男の子とは思えないさらさらの髪が俯けた犬彦くんの表情を隠す。

 

 人と違うということは、それだけで迫害の口実となる。特に多感な時期、遠慮のない時期、ちょうど犬彦くんの頃の年であれば、それはより顕著に表われることだろう。

 まして、鼻が効くという特技。

 少し考えればわかるものだ。匂いには良い匂いも、悪い臭いもある。

 犬並に鼻が効く男の子が近くにいたとして、思春期真っ盛りの女の子が何も感じないでいられるかと言われたら、答えは否だ。

 そして、一度迫害された子が元通りに輪の中に戻ることは難しい。

 犬彦くんの女性に対する反応を見れば、どんな扱いを受けてきたのかは想像するに難くなかった。

 

「馬鹿ねえ。考えすぎなのよ、あんた」

 

 こつん、とくまちゃんが犬彦くんの額を優しく小突いた。

 

「あんたがどう思ってるのか知らないけど、あんたのそれは間違いなく凄い特技よ。それは誇るべきものだわ。今まではあまり良い思い出がなかったのかもしれないけど……私達は凄い、って素直に思ってるんだから。それを喜びなさいよ」

「熊谷、先輩」

「でもあんた、今後はもっと気をつけなさいよ? 玲は優しいから何も言わないけど、女の子の匂いを口にするなんてデリカシーに欠けるわ。あんたの女の子に対するそれ、治したいと思っているんでしょ? だったら少しでも女の子の扱いを勉強しないとね」

「う……そ、それは、はい」

 

 負い目を感じて顔を引き攣らせながらも、頷く犬彦くん。

 宜しい、と頷いてくまちゃんが笑った。

 

「流石くまちゃん先輩! ショタっ子を口説かせたら右に出る者はいませんね!」 

「あることないこと口にする悪い口はこの口か? うん?」

ひゃ()ひゃってほのひりはふなふうひに(だってこのシリアスな空気に)はえられなはっはんへふほん(堪えられなかったんですもん)ー!」

 

 頬を引っ張るくまちゃんと、引っ張られる痛みに涙目になる小夜子。

 

 ……気を遣ったのかな。

 

 そうだろうな、と思う。

 直接聞けば否定するだろうが、普段とはまた違った一面が見られたことがとても嬉しかった。

 だから、那須は犬彦くんに尋ねた。

 

「ねえ、犬彦くん。もし良かったら、私達のチームに入らない?」

 

 

 

 

 

 薄暗くなった帰り道。

 微かに伸びる影は1人分――けれど足は2人分。奇妙な生物になった2人組は行きと同じく身を寄せ合いながらよちよちと歩いて行く。

 初夏を控えた時期とはいえ、夜になれば長袖の上着が欲しくなることも珍しくない。

 朝は少し暑かったが、今は時折吹き抜ける風が少し肌寒く感じるほどだった。

 

「ねえ、どうして断っちゃったのさ?」

 

 いい加減焦れたように尋ねる小夜子に犬彦がびくりと身を竦ませた。

 那須家を出てからこっち、会話らしい会話もなく、口から零れるのは陰鬱なため息ばかり。

 こうしているのは暖かいし、最愛の弟分ではあるのだが、どんよりと暗い影を背負った人にずっとくっついていられるほど小夜子は闇属性をこじらせているわけではないのだ。

 

「だよなあ……絶対いい話だったよなあ」

 

 空気読めない奴だと思われたよなあ、と肩を落とす犬彦にため息を吐く。

 

 普段から男らしくあることを志して憚らない弟ではあるけれど……まあ。そもそも男らしい男の子であればそんなことを志す必要もないわけで。

 男らしくないことは本人が一番自覚しているのだ。口で言ってどうこうなる程度であれば、コミュ障にだってなるようなことはなかっただろう。

 

「後悔するくらいなら大人しく受ければ良かったのに。意地なんて張るから」

「だってなあ……何も成し遂げてないんだぞ、俺。始まってさえもいない。そんな状態で甘えてばかりっていうのは、何というか、違うだろ」

「憧れの先輩に誘ってもらえたのに?」

「憧れの先輩だからこそ、だ。別に先輩達が悪いってわけじゃない。だけどあそこは、何て言うか、居心地が良すぎて駄目になりそうな気しかしない」

 

 ……まあ、言いたいことはわかる。

 

 犬彦は小夜子にそっくりだ。見た目も、中身も、まるで鏡を見ているかのように瓜二つ。

 異性恐怖症をこじらせているところもそうなら、そのくせ人との繋がりを求めているところまでそっくりだ。

 

 これまで灰色の青春時代を送っていたところへ、いきなり真逆の世界へ放り込まれてしまえばどうなるか。

 きっと那須達は親身になって犬彦と付き合い、育ててくれるだろう。手取り足取り、幼子を導く親鳥のように育ててくれるに違いない。

 けれど――その強さは、きっと犬彦が真に求めているそれとは別物だ。

 

「……まあそんな風にちょっとかっこいい感じに言ったところで、結局犬彦が私のメンツ丸潰れにしてくれちゃったことに変わりはないんだけどね」

「ぐ……!」

「あーあ、どうすんのさあんな風に断っちゃって。お断りな空気が出てたならともかく、普通に皆歓迎ムードだったじゃん。那須先輩傷ついただろうなー私も傷ついちゃったなー」

「やめろ、その言葉は俺に効く……! ああそうだよ半分は意地で言っちゃったよだからこんな風に後悔してるんだよ……!」

 

 両手で顔を覆って悶絶する犬彦。

 ネタを交えているあたり意外と余裕あるのか? とも思ったけれど、小夜子にメンツなど存在しないと主観的に見ても妥当な突っ込みを入れてこないあたり本当に後悔しているようだ。

 

 実際、強さ云々は抜きにしても、本当に魅力的な提案であった。

 犬彦のボーダーでの成績はすでに聞いている。元々の点数の高さもあり、遠からずB級に上がってくることは間違いない――というか、初期点数の高さから見るに上層部もそれを期待している節がある。流石に仮入隊期間の成績だけを理由にするには高すぎる数字だろう。

 

 小夜子が心配しているのは、B級に上がったその時、犬彦が本当にチームを立ち上げられるのかということだ。

 女子は論外。男子のみで構成されたチームに入るか、あるいは自力で仲間を――それも同性に限る――探さなければいけないわけだけど、こんな中途半端な時期にその2つが可能かどうかを考えると渋い顔をせざるをえない。

 そして、もう1つ。これは犬彦が望んでいることではないとわかってはいるけれど――那須の提案がとても魅力的だと感じた、本当の理由。

 

「……おい。気持ちはわかるけど、あんま顔くっつけて息吹きかけないでくれ。こそばゆい」

「あ、ごめん」

 

 いつの間にか唇がくっつきそうなほどに背中に顔を近づけていたことに気付き、顔を離す。

 猫背気味に背中を丸めてとぼとぼと歩いて行く犬彦の背中を見ながら、夢を見た。

 

 小夜子自慢の弟と、那須隊の皆が協力してランク戦を勝ち上がっていく……甘い夢を。 

 

 

 

 

 

 

 

 




 おおよそ予想ついてると思いますが、今まで仕事してなかったタグの一つが仕事してます。
 前回でぶっ倒れた原因の一つ。至近距離でいきなり大量の情報量浴びたらそら処理落ちするよね、という感じで。
 多分本格的に言及し出すのはB級になると思いますが、今は高いトリオン能力の副産物兼犬彦のトラウマとだけ覚えておけばOKです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話 志岐犬彦③

 前振り回です。


 

 

 

「ざわざわ……ざわざわ……」

「そのBGM、何故かすげえ負ける気がするからやめてホント」

「雰囲気を盛り上げようと思って」

「どうして盛り上げようと思ってそのチョイスになるのかがまずわからない。いいんだよこういうのは無理に盛り上げなくて。無心だ……無心になること、それが一番良いんだ……!」

「ああうん、もうオチが見えた気がしたからいってみようか」

「そういうこと言うなよ――いや待て、逆に期待値下げた方がフラグっぽくていいかもしれん。ちょっとそのまま続けてみて」

「10連の中に燦然と輝くSR1枚……昇格演出確定からのダブり……」

「あしまったこれ呪いの言葉だ。させるかこれ以上俺の運気は下げさせねえ……!」

「物欲丸出しじゃないか」

 

 いっけぇ――! とヒト叫び。10連ガチャボタンをポチリと押すと始まる演出。

 

「キタ! 昇格演出キタ! 俺達の勝利だ……!」

「え、嘘ホントに? 引き弱の犬彦が昇格なんて引けるわけが――、あ」

 

 めくれたカードを見た両者の顔が一変する。ダブり。過去に入手済みのもの。またそれ以外のカードが全て通常レアであることを見届け、真っ白になった犬彦が呻き声とともに崩れ落ちた。

 

「おお、おおおおお………」

「あーうん、言葉にならないもんねこの悔しさは。よくわかるよ、うん」

「そう言いながらクッソいい笑顔浮かべるの止めてもらえませんかね」

「てへぺろ」

「殴りたいこの笑顔。何でこういうのってこんなかっこいい演出の割に限定カード来ないんですかね」

「物欲が消し切れていなかったと見えますね。まだまだ修行が足りんぞよ」

「そこまで言うならお前引いてみろよこの野郎」

「――あれ? こんな時間にお客さんなんて珍しい」

「うわなんって適当な流し方だよ」

 

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴る音に小夜子が耳を立てる。

 また何か通販でも頼んだのかこいつ、と胡乱げな目を向けるも、心当たりのありそうな風情ではない。友人が訪ねてきた、という線も俺達に限ってはもっとないだろうし……集金だろうか。

 

「あれ? くまちゃん先輩だ」

 

 そろり、とインターホンを覗き込んだ小夜子が素っ頓狂な声を上げた。

 つられてモニタを覗き込むと、なるほど確かに先週末に顔合わせを済ませたばかりの黒髪の女性の姿がある。

 

「何だ? 今日会う約束でもしてたのか」

「まさか、私がどんなキャラか知ってるでしょうに」

「……まあまったくもってその通りだけどよ。口にしてて色々と悲しすぎない? それ」

「どうしたんですか先輩、こんな朝早くに」

「聞けよ」

 

 さっきから流し方が雑すぎねえかコイツ、とジト目を向けるも本人はどこ吹く風だ。

 小さなハンドバッグ1つだけ、というのは女性にとっては軽装の部類に入るのだろうか。モニタの中の熊谷先輩は腕を組んで眉をひそめた。

 

「朝早くってこともないでしょ。もうお昼よ?」

「いやあ、志岐家のタイムスケジュールだとこの時間はおはようの時間帯なんですよ」

「……犬彦くん。余所の家にあんまり口出したくないけど、たまには厳しく突っ込んでもバチは当たらないわよ?」

 

 頭痛が痛いみたいな顔をしてため息を吐く先輩。

 犬彦は恥ずかしいやら情けないやら、口を開くことさえできずにただ頭を下げた。

 

「と、インターホン前で漫才してても埒が明かないわね。とりあえず入れてもらっていい?」

 

 吐息を一つ。切り替えるように声をかけた熊谷先輩の言葉に、何の用だろう、と訝りながらも小夜子が玄関に出迎えに行く。

 さて、そうなると自分は部屋に引っ込んでいた方がいいのかな――、なんて考えていたところ。

 

「何ですか先輩。流石にこんな時間にアポなしに来られても先輩の分のご飯はありませんよ?」

「あんたが私のことをどう思ってるのかよくわかったわ。そうじゃなくて、用があるのは犬彦くんよ」

「犬彦ですか?」

 

 名前が聞こえて足を止める。

 

 熊谷先輩が、俺に? 休日に、わざわざ?

 

 何の用だろうと思い耳をそばだてるも、声を落としたせいかよく聞こえない。鼻がいいなんて特技もこんな時には役に立たない。本当に何のためにあるのかわからない特技だ。

 どうせ俺に用があるなら、と部屋の前で足を止めていると、話が終わったらしい。

 

 わかりました、では早速、と心なしか弾んだ声音で小夜子が熊谷先輩を伴って歩いてくる。

 歩いてくる2人の表情を見て、嫌な予感が膨れ上がった。

 

「犬彦、ちょーっとこっちに来てくれる?」

「大丈夫大丈夫、痛くしないからね」

 

 まるで誘拐犯のような口ぶりで、示し合わせたように含みのある笑顔を浮かべた2人がこちらに手招きしていたからだ。

 

 

 

 

 

「こんな感じ、とか」

 

 細い指を動かして、熊谷先輩が肌を撫でる。

 ひんやりとした感触に、無意識のうちに肌が震えた。

 

「うひぃっ!? ちょ、ほ、ホントやめて……!」

「肌柔らかっ。本当、男の子にしておくには勿体ないわね色々と」

「各方面に誤解生みそうなこと言ってますねくまちゃん先輩」

「スキンケアしてるって言われても納得しちゃうわよホント。あんたも大概だったけど、遺伝なのかしら」

「そんな話は聞いたことないですけどねえ。というかそんな会話自体した覚えがないです」

「……あれ、もしかして地雷だったのかしらこの話題」

「気にしなくていいですよ。それを言い始めると地雷を回避する方が難しくなってしまいますし」

「そこで誇らしげにされても反応に困るわ」

 

 えへんと小さな胸を張る小夜子と、半目で肩をすくめる熊谷先輩。

 互いの距離感を熟知した軽口の応酬にはコミカルな空気が相応しいはずだが、今この場に流れる空気はそれより少しばかりサディスティックでエロティックだ。

 

 ソファに座る熊谷先輩が、隣に座る犬彦の手に指を這わせている。

 恋慕の情があるわけでも、欲情しているわけでもない。

 熊谷先輩の目は冷静に、そして3割ほど愉快そうな色を浮かべており、対する犬彦はソファの端っこギリギリまで後ずさりして逃げようとしている。きつく閉じられた目には涙さえ浮いており、本人が如何に限界なのかを物語っていた。

 

「ちょ、も、もういいでしょう? いいですよね!?」

 

 上擦った声で震える手を離そうとする姿に、笑みを浮かべたままの熊谷先輩が「んー」とわずかに気を持たせて、

 

「もうちょっと試したいことあるんだけどなあ。腕組んだり抱きしめたりとか」

「絶対無理!!」

「なんてね、冗談よ冗談。だいたいわかったからもういいわ」

 

 お許しが出た瞬間、手を振り解いた犬彦が脱兎の如くソファを飛び上がって部屋の隅まで退避した。

 その劇的な反応は流石に意外だったらしく、どことなく恨めしげな視線を送ってくる犬彦を困惑した様子で見つめ、

 

「そ、そんなに嫌だった? それはそれで複雑なんだけど」

「いえいえ、くまちゃん先輩のビッチっぷりには正直犬彦でなくてもドン引きですよというか」

「はっ倒すわよあんた!」

「痛ァ!? も、もうはっ倒してますよ先輩!」

 

 頭に拳骨を落とされた小夜子が抗議の声を上げるも、微かに頬を赤く染めた熊谷先輩がもう一度拳を振り上げる仕草をすると「退避!」と一声叫んで犬彦と同じように部屋の隅に逃げ込んだ。

 

「まったく……姉弟揃ってお客さんから逃げないでよね。仮にもあんた達のためを思ってやってることなんだから」

「……さ、さっきもそんなこと言ってましたけど、そ、それってどういう……?」

 

 物陰から顔を出しながら、恐る恐るといった調子で犬彦が問いかけた。

 他愛のない雑談から入り、犬彦を間近で覗き込むように顔を寄せたり、先程のようにボディタッチを行ったり。流石に反射的に逃げだそうと犬彦が動きかけたところで、その足を止めるようにそう言ったのだ。

 詳しい説明こそなかったものの、悪い人じゃないと思いここまで堪えたのだから、せめて理由を聞く権利くらいはあるはずだ。

 

「話聞いてるだけじゃわからないこともあったから、ちょっと確かめようと思ってね」

「た、確かめる?」

「そ。犬彦くんの異性恐怖症が、どの程度なのかってね」

 

 ちょっと借りるわよ、と一言告げて、熊谷先輩は壁にかかっていたホワイトボードに向けてペンを走らせた。

 

「それは、また、どうして?」

 

 何故急に。どうして熊谷先輩が。

 深く眉間にしわを刻んだ犬彦の疑問に「後で説明するわ」と事も無げに言ってくるりと振り返る。

 

「とりあえず、ざっと見た感じだとこんな感じかしら」

 

 ホワイトボードに書かれた文字をペンでつつく。

 

 

 

 ・会話→○。ちょっと詰まるくらい。ゆっくり喋ればOK。

 ・距離感→△。PS広め? 急に接近しなければ問題なし。

 ・接触→×。握手も抵抗ある感じ。一番改善したいところ。

 

 

 

「所見交えてこんな感じだけど、どう?」

「い、いや……どう、も何も……」

 

 あっけらかんと首を傾げる熊谷先輩に対し、耳まで真っ赤にした犬彦は両手で顔を覆って俯いた。

 

 ――自分の駄目なところを文章にして書き出されるとか、何この羞恥プレイ……!

 

「ホントクソ。どうしようもない」くらいに駄目だしされるだけならまだいい。まだ素直に受け取ることができただろう。しかし文章はまるで母親の如く優しくフォローされていて、下手に貶されるよりよほど恥ずかしい気持ちが込み上げてきていた。

 そんな風に悶えている犬彦を余所に、ほうほう、と興味深そうに頷きながら小夜子が言った。

 

「PSって何ですか?」

「パーソナルスペース。心理学の言葉で、言ってみると個々人の縄張り意識みたいなものね」

「縄張り意識、というと」

「満員電車とか乗ってたりすると嫌だなって思うことあるでしょう? そういう他人に踏み込まれると嫌だなって感じる心の距離のことをそう言うらしいのよ」

「くまちゃん先輩、私が満員電車に乗ったりすると思いますか?」

 

 どころか、犬彦の記憶が確かであれば小夜子はほとんど公共交通機関を利用したことがない。異性恐怖症になってからはほぼゼロだ。

 

「……そうね。一般的に、パーソナルスペースって男性の方が広いとされてて、その中でも個人によって広さが異なるらしいんだけど、あんたの場合そういうの関係無しに広そうよね」

「それほどでもない」

「褒めてないわよ」

「ちなみに、これ何段階評価なんですか?」

「3段階、って言いたいところだけど5段階で決めたわ。上は◎、下は/」

「◎、○、△、×、/の順ですか? あれ、でもそう考えると思ったよりも悪くないですね」

「だって私の中での最上級――というか最下級はあんただもの。あんたと同じレベルだったらどうしようかと思ってたからむしろ安心しているくらいよ」

「ぐ、ぐうの音も出ない正論……!」

 

 自覚があるだけに何も言えない様子で、小夜子が膝から崩れ落ちる。天国から地獄に落ちたかの如きその様に犬彦が愉悦の笑みを浮かべたのは言うまでもない。

 

「こら、あんたも笑ってられるほど余裕があるわけじゃないんだからね? 小夜子よりはマシだったのは幸いだったけど、接触に関してはほとんど同レベルなんだし。今後のことを考えるなら真剣に構えてもらわなきゃ」

「そ、それは……はい」

 

 まったくもってその通り。

 今だって熊谷先輩とまともに目を合わせて会話できていないのだから、どちらにせよコミュニケーション能力に致命的な欠陥があると言われても反論の余地がなかった。

 

 犬彦とて、このままでいいと思っているわけでもないし、諦めているわけでもない。

 何とかしたいという思いはあるのだが、そもそも異性恐怖症を治そうと思うと、女性とのコミュニケーション能力が不可欠になる。

 頼れるような友人はおらず、そもそもそんなツテがあるのであればこうはなっていまい。肉親の小夜子に至っては自身より酷いとまさに今太鼓判を押されたばかりであるからして、支援を受けづらい環境にあったというのが犬彦の不幸の1つだった。

 

 故に、理由はわからないが、女性であり且つ信頼できる熊谷先輩がこうして犬彦の異性恐怖症を調べてくれているのは犬彦にとっては歓迎すべきことなのだろう。

 

「さしあたっての課題は普通に会話できるようになることかしら。本当は触れ合えるようになると一番いいんだけど、まあそれは追々ってとこね。ひとまず無難に会話できれば支障はないのだし」

「……あ、あの、すみません。き、気のせいかもしれないんですけど……何か、よ、予定があったりとか、するんですかね?」

 

 確たる証拠があるわけではなかったけれど、思わずそう尋ねていた。

 あまりにも急な訪問に加えて、思わせぶりなその口ぶり。あらかじめ決められた予定に間に合わせようとするかのような言葉だと感じたのは気のせいだっただろうか。

 

「んー、その前に聞いておきたいんだけど、犬彦くんって明日用事とかある?」

「あ、明日? いえ、特には」

「そう、なら良かった。ぶっちゃけて言うとね、犬彦くんには明日、玲とデートしてもらえないかと思ってるのよ」

「でー、と?」

 

 あっけらかんと言われた言葉に理解が追いつかずに呆ける犬彦。

 しかしその意味を呑み込んだ途端、瞬間湯沸かし器のように顔を赤く染めて奇声を発した。

 

「い、いやいやいやいや! 何で!?」

「何で、って。顔合わせはもう済ませたんだし、後は親交を深めるだけでしょう? それに異性恐怖症を治す意味でも、身内以外の女性と接していくのは決して無駄にはならないと思うんだけど」

「いや、それはわかりますけど! だ、だったら皆で一緒に出かければいいじゃないですか! どうして俺と那須先輩だけになるんですか!?」

 

 パニックになりかけている犬彦は火を吐く勢いでそう言った。

 正直なところ、皆で行くのも2人きりで行くのも今の犬彦にとってはあまり変わらない。他人の女性というだけで犬彦にとっては等しく不安と緊張の元だ。できるのならばどちらも辞退したいというのが本音である。

 まして、尊敬する那須先輩と2人きりなんて……。想像するだけで胃がひっくり返りそうな思いだった。

 

「本当にわからない?」

 

 すがるような目を向ける犬彦に、熊谷先輩が意味深な流し目とともにそう尋ねた。

 心臓が、鷲掴みされたことに驚いたかのように強く跳ねる。

 

「な、にを」

「好きなんでしょ? 玲のこと」

 

 さらっと言われた言葉だったが、犬彦にとっては真実ヘビー級のボクサーに殴られたに等しい一撃だった。

 

「ち、ちがっ――違いますよ! 確かに那須先輩のことは尊敬してますけど、好きとか、そういうのじゃあ……っ!」

 

 尻すぼみに消えていく言葉を最後まで聞き届けて、おもむろに熊谷先輩が小夜子に水を向ける。

 

「尊敬と好きって別物なのかしら」

「さあ……。限りなく近いけど少し違う、みたいな感じなんですかね? 私はそういうの経験ないんで知りませんけど」

「手の届かない場所にいる人とか、恩のある人に対してのものかしらね。普通は」

「おおむね好意的な感情ですし、別物ってことはないと思いますよ。ただ――」

 

 ちらり、と犬彦に視線を向けて。

 

「犬彦に関しては、ほぼほぼイコールで結んでしまっていいと思うんですけどねえ」

「さ、小夜子っ!」

「そんなに恥ずかしがることないと思うけど。だって玲、同性のあたしから見ても綺麗だって思うし。犬彦くんだって、好意的な感情持ってることは間違いないでしょ?」

「そ、それは……そう、ですけど」

 

 憧れているし、尊敬もしている。嫌いなはずがない。

 ならば好きなのか、と。そう結論付けるのは流石に性急すぎると思いつつも――先程から、那須先輩の顔が頭に浮かんで離れない。

 

「……わからない、です。那須先輩は、憧れですし、綺麗、です。だけど、そんな……好き、なんて」

 

 畏れ多くて、言えない。

 続く言葉は声にならなかった。

 好きだなんて感情も抱いたことのない、異性恐怖症の俺なんかが。隣に立つことさえ、できないと思った。

 

 俯く犬彦を見ながら、ふうむ、と顎に指を添えて熊谷先輩が口を開く。

 

「難しく考えすぎなんじゃないかしら。あたしの話の持って行き方が悪かったのかもしれないし、それについては謝るわ。だけどさっきも言った通り、デートって言っても本来の目的は親交を深めることなんだし、もっと気楽に行っていいと思うわ」

「で、ですけど……いきなり2人きり、というのは。そ、それに! そもそも那須先輩の都合だって聞いてないんでしょう?」

「残念。OK貰ってるんだなあこれが」

 

 チャット画面を開いたスマホを手にしながら嫌らしく小夜子が笑った。

 

「くまちゃん先輩が何の準備もなしにここまで来るなんてのはちょっと考えが甘いでしょ。外堀なんてとっくに埋められてるようなもんなんだし、もう開き直った方がいいんじゃない?」

「ぐ……小夜子、お前」

「良い機会だと思うんだよ、私は。こうしてくまちゃん先輩がお膳立てしてくれてて、尚且つ相手の那須先輩も乗り気なんて、こんな状況そうそうあるはずないもの」

 

 それに、と細く白い指を犬彦に突きつけ、

 

「この前。結局弟子にしてもらいたいってこと言いそびれてたでしょ」

「――っあー、そうだよ、そうなんだよなあ……!」

 

 自分の特技を話した辺りの一件とか、生まれて初めてあんな風に女性に囲まれて会話したり何やらの衝撃が大きすぎて、一番に言いたかったことを話していなかったことに気付いたのが帰宅してすぐのこと。思わず頭を抱えて悶えたことは言うまでもない。

 とはいえ、犬彦も那須先輩も同じ組織の人間だ。

 もう二度と会えないわけではないのだからすぐに誘い直して頭を下げればいいだけなのだが、そんなことができるのであればここで七面倒くさい悩みに頭を悩ませてはいまい。

 

「ほら。行くでしょ?」

「……はい。行く。行かせていただきます」

 

 そう答えざるをえず、犬彦は悄然と肩を落とした。

 

 この日、犬彦は悶々と眠れぬ夜を過ごすことになる。

 

 

 

 

 

 




 那須先輩とのデート回に続く。

 小夜子・くまちゃん先輩による包囲網が完成しつつある模様。
 多分那須隊のそれとは別に専用のチャットグループができあがっててめっちゃ情報交換してる。
 くっつけようとしてるのは女子会のノリですがそのうちくまちゃん先輩の内面とかも書けたらいいなあ。

 茜ちゃん? 茜ちゃんはマスコットだから(目逸らし


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 那須玲③

 デート……うん、デートしてるから、デート回のはず(哲学


 

 

 

 翌日、待ち合わせ場所で声をかけられた犬彦は緊張のあまり飛び上がりそうになった。

 

「ごめんね、待った?」

 

 予想外だ。那須先輩が来そうな方向には目を配っていたはずなのに。

 油の切れた機械のようにぎこちない動作で振り向くと、那須先輩が申し訳なさそうな顔で立っていた。淡い色合いのワンピースにカーディガンという出で立ちで、犬彦が思い描く清楚という言葉を女性にすればちょうど今の那須先輩になることだろう。

 

「い、いえ。そんなことないです」

「そう? それより顔色悪いけど、大丈夫? 具合悪いなら無理しなくても」

「いえいえ大丈夫です本当に大丈夫ですから」

 

 もはや何を口にしているのかもよくわからない。

 頭の中にあるのは那須先輩の隣に立つにあたって、犬彦自身の格好は不釣り合いではないのか、もっと良いコーディネートができたのではないか。そんなことばかりだ。

 

 緊張と自虐じみた不安に目を回していると、気付けば電車に乗っていた。

 目的地は隣町の映画館だが、この分では何を見たのか、どんな話をしたのかさえ頭に残らずに一日を終えてしまうに違いなかった。

 

 やむを得ない――犬彦は最終手段を使うことにした。

 まだ合流して5分も経ってないのに最終手段を出す羽目になるとは流石の小夜子でさえ予想できなかったことだろうが、背に腹は替えられない。

 もしもの時はこれを開くこと。

 最終兵器と太鼓判を押す1通のメールを送って小夜子は真っ青な顔を晒す犬彦を送り出した。

 緊張が極まり、どうにもならなくなったらこれを開けと口添えて。

 

 チャットアプリもあるのに、今時メール。しかもたった1通しかない。

 姉の言葉ながら意味がわからなかったが、この状況を打破できるのであれば犬彦は悪魔に魂を売ってもいいとさえ真剣に考えていた。

 

 意を決し、那須先輩から隠れる形で開いた。

 内容は最終兵器と題された件名に、パソコンの液晶画面のスクリーンショットらしきものが1枚添付されているのみ。文章もない。

 こんなもので何が変わるのか。訝しげに画像を見ると、まずそれが何かの決済画面であることがわかる。

 品名がずらりと続いたその先。支払金額のゼロの数を数えた瞬間、犬彦は驚くほど呆気なく自分を取り戻すことに成功した。

 

「ね、そういえば今日見る映画のことだけど……犬彦くん、どうかした?」

「いえ、何でもないです。どうかしましたか?」

「映画の話をしようと思ったんだけど……不思議。何だかさっきより落ち着いてるね」

「ええと、小夜子からメールが入ってまして」

「さよちゃんから? そっか。ふふ、本当に仲良いね、2人とも」

「そう、ですね。――ええ、帰ってから話すのが楽しみです、本当に」

 

 

 

 

 

「ところでその、本当に良かったんですか?」

 

 映画館に着いたところで犬彦がそう遠慮がちに口にした。

 たとえるなら、暴れ馬の手綱をかろうじて掴むことに成功したかのように。秘密兵器のおかげで、当初の極端な緊張状態から脱却することはできたし、どころかいつもより落ち着いて話せもしている。それでも多少声に詰まることはあるものの、成程秘密兵器と題するだけはあったということか。

 呼びかける声に、端末を操作していた那須先輩が首を少しだけ傾げて見せた。

 

「良かったって、今から見る映画のこと?」

「すみません、今にして思えばあまりにも自分本位な決め方だったと思いまして。な、那須先輩と話し合って決めたわけでもないですし……」

 

 あの後、直接那須先輩とチャットのやりとりをして――直接顔を合わせる・もしくは電話の場合、犬彦自身使い物にならなくなるのが目に見えているためである――決めたわけだが、那須先輩はほとんど自分の要望を言っていない。犬彦を立てる言葉に甘えてしまった格好になるのだが、今になって罪悪感のようなものが湧き出してきた。

 今日見る映画は、犬彦の趣味が露骨に出たゲームを原作にしたアクション映画である。

 以前から気になっていたために、チャットとはいえ、那須先輩との直接のやりとりに一杯一杯だった犬彦が感情に従って選んでしまった格好なのだが、今になって思えば女性も楽しめそうな映画を選ぶべきだったのでは?なんて疑問が出てしまったのだ。

 

「犬彦くんの好きな映画でいいよ、って言ったのは私なんだし、気にしないで。私も興味あったし、むしろ嬉しかったくらい」

 

 ふふ、と笑みを零して那須先輩が手を振った。

 

「そうなんですか? 何だか、その、意外ですね」

 

 少なくとも、アクションが入り乱れる激しい映画は犬彦が考える那須先輩のイメージとは少し違った。

 予想外、と目を丸くした犬彦の反応は過去に覚えのあるものだったらしい。那須先輩はちょっと考え込むように顎に指を当てた。

 

「くまちゃんも同じようなこと言ってたんだけど、そんなに意外かなあ。こう見えても私、結構色々見てるのよ」

 

 おもむろに、那須先輩は指を1つずつ曲げながらいくつかのタイトルを口にした。

 洋画に邦画、アクションにホラー、恋愛もあれば喜劇もある。種類の豊富さもそうなら、それをすらすらと口にできることにも驚いた。犬彦が知っているのもあれば、名前さえ聞いたことのないようなものもあった。流石に、犬彦に話を合わせるためだけに口にするには異常に過ぎる数だ。

 

「お、驚きました。本当に色々見てるんですね」

「でしょう? だから犬彦くんも遠慮なんてしなくていいのよ。私にも勿論好みはあるけれど、基本的には見てから決めることにしてるの。自分の知らない世界を、見もしないうちから決めつけて見ようとしないなんて、そんなのあまりにも勿体ないじゃない?」

 

 那須先輩は楽しそうにそう言った。目がきらきらと輝いている。

 この表情、声を犬彦は知っていた。新しくプレイしたゲームが当たりだった時に熱く語る小夜子のそれだ。

 少しだけ胸を張って、声に力を乗せて。

 

 ――こんな一面もあるんだ。

 

 犬彦は那須先輩の新しい一面を知った。当初の深窓の令嬢のような、近寄りがたいイメージは薄れてしまったかもしれない。しかしそれは落胆すべきものではなく、むしろ歓迎すべきことだろう。少なくとも犬彦はこちらの那須先輩の方がずっとずっと好きだった。 

 

「でも、そんなに見てると大変じゃないですか? その、金銭的な意味で」

 

 そう? と那須先輩は首を傾げ、犬彦の視線がチケット販売の端末に当てられた会員カードに向けられていることに気づいて察したらしい。

 ああ、と読み込みを終えた会員カードを掲げてみせ、

 

「実はそんなに使ってないの、これ。私も久々に使ったくらいだから、そんなに貯まってるわけじゃないのよ」

「そうなんですか? てっきり、公開された映画は全部目を通しに行く、くらいの勢いなのかと思ってました」

「そんなことないわよ。普段は部屋で見てるから、映画館で見るのも随分久しぶり。会員カードを作ったのも席を取るのに必要だったからだし……それをしてみたい気持ちはあるんだけど、流石に体がもたないものね」

「一日中映画館に籠っているのも楽しそうですけどね」

 

 何でもないように笑う那須先輩の言葉を受けての返しではあったが、後に犬彦はこの言葉をひどく後悔した。

 

 

 

 

 

「面白かったね!」

 

 映画を見終えて、輝かんばかりの笑顔で那須先輩はそう言った。年相応、どころかそれより幼くも見える喜びの発露は他者をも引き摺り込んでいっそう輝く。

 

 犬彦は思わず鼻頭を押さえて目線を反らした。

 大人の色香を淑やかに漂わせる女性の、子供のような笑顔である。ギャップ萌えの真髄を痛いほどに理解した犬彦は次第に熱を上げて行く那須先輩の話に相槌を打つことしかできなかった。

 無意識、恐るべし。否、自分など歯牙にもかけられていないのだから当然である。

 

 正直なところ、犬彦が覚えている映画の内容はほとんど虫食いだ。

 隣にモデルじみた美貌の憧れの先輩が座っている。身じろぎに、触れた指に、漂う香りに、あらゆる魅力が暴力となって常時襲いかかって来るのだ。集中などできようはずもなかった。

 

「犬彦くんはどうだった?」

 

 無邪気な問いに頰が引き攣る。

 来るべくして来た質問である。満足な答えができる自信はさっぱりなかったが、幸いにして今作品はシリーズ物であり、得意なジャンルだ。

 そうですね、と口ごもりながらも、犬彦は感想を述べた。

 

「良かったと思います。ありきたりかもしれませんけど、やっぱり主人公がヒーローとして覚醒するシーンは熱いですね」

「ううん、そのありきたりをきちんと描ける人って意外と少ないと思うの。奇をてらわない物語って人によっては見飽きたものかもしれないけれど、私は好きだな」

 

 詳細な数は不明だが、恐らくは犬彦の倍以上の数の作品に触れて来た先達の言葉である。流石に説得力が違った。

 それにしても、と映画館を出て次の目的地に向かう那須先輩を見ながら、思う。

 

 ――意外と話せてるな。

 

 那須先輩が合わせてくれているだけなのかもしれないし、あるいはこれが話が合う、ということなのかもしれない。

 いずれにせよ、ここまで最初のオーバーヒートを除けば比較的平穏無事にきている。

 昨夜などは戦地に赴く兵士のような心地で一睡もできなかったものだが、蓋を開けてみればこんなものか、と雑事を考える余裕さえ出てきていた。

 最終手段を使った上での精神状態であり、情けないのは百も承知だが、それは今後の課題として克服していけばいい。

 

「――くん、犬彦くん?」

「へっ? あっ、と! すみません、何でしたか?」

 

 思考のラグに気付いた犬彦が慌てて振り返って声を張った。

 油断したそばからこの失態である。流石に頰が熱くなるのを隠せない。

 

「ううん、気にしないで。どう、ボーダーにはもう慣れた?」

「え? そう、ですね。入ってまだ一月も経ってないので何とも言えませんけど、浮足立った感じはだいぶ消えたんじゃないかって思ってます」

 

 言いながら、それはそうだろうな、と引き攣った笑いを浮かべた。

 ボーダーそのものの訓練はもとより、犬彦の場合は更に小南との訓練も重ねている。ボーダーでの日々、その濃度を競うのであれば犬彦はどの同期にも負けない自信があった。

 

「それに、そろそろB級にも上がれそうですしね。いつまでも新参気分でいられないですから」

「本当? 凄いね。初期ポイントが高かったのはさよちゃんから聞いてたけど、もうなんだ」

「一応訓練は高得点取り続けてますしね。初期ポイントが高かったのが大きいです」

「そう、良かった。せっかく仲間になったんだものね。わからないこととか、何かあったら頼ってね。頼りないかもしれないけど、これでも先輩なんだから」

 

 そんな、と。首を振りかけて気付いた。

 

 ――これ、今なら言えるんじゃないか?

 

 師事を依頼する絶好のシチュエーション。ここでしかない、と言わんばかりだ。

 もしかしたら小夜子あたりにでも聞いていたのだろうか。いや、いずれにせよこれを逃す手はない。

 

 那須先輩、と硬い声で切り出す。

 那須先輩の表情は柔らかい。それが先を切り出す勇気をくれた。

 

「いきなり、その、全身全霊で頼りまくる感じで大変申し訳ないんですけど! どうか俺に、那須先輩の技を教えていただけないでしょうか!」

 

 叫ぶだけ叫んで深く頭を下げる。

 声は上擦って、足は震えて、今だって那須先輩の顔も見れない無様さ。

 けれど言い切った。最後まで伝えられた。それだけでも犬彦にとっては偉業を成し遂げたかのような衝撃と喜びがあった。

 

 那須先輩の返答には一瞬の間があった。

 その一瞬さえ、今の犬彦にとっては無限に等しい煩悶の時間だった。

 

「うん。喜んで」

 

 一世一代の大勝負、とばかりに気合いを入れた犬彦とは、あまりに対照的な気楽さで。

 

「え……い、いいんですか?」

「さよちゃんの弟で、将来有望な原石だもの。断る理由なんてないし……むしろ、本当に私でいいの?」

「い、いえいえ! お願いします!俺は那須先輩がいいんです!」

 

 尋ねてくる言葉こそ信じられない。

 入隊前に一度だけ見た、鮮やかな戦いぶり。複雑な軌道を描く弾幕で相手を追い詰めるその様。あれを目にして、断れる人なんて存在するわけがないとさえ思った。

 表情が笑みに緩むのを抑えきれない。褒められた言葉が耳に残っている。憧れの人に持ち上げられて、舞い上がるなというのが無理な話だった。

 

 だからこそ、犬彦はついぞ気付くことはなかった。

 

 前を歩く那須先輩の身体が、ふらり、とわずかに揺れた。

 歩みが遅れる。那須先輩との距離が近づいて、反射的に飛び退くように顔を上げて、ようやく。

 顔に手をやった那須先輩の顔色が悪いことに、気付いた。

 

 

 

 

 

「ごめんね。久々の映画館だったから、ついはしゃぎすぎちゃったみたいで」

 

 いえ、と力なく犬彦は答えた。

 歩道のベンチに座り、休息をとる那須先輩。大急ぎで買ってきたミネラルウォーターを手に、柔らかく笑むその声にこちらを責める色はない。

 

 点と点が線で繋がる感覚。

 映画が好きなのに、あまり映画館に来ない理由。

 身体が弱い。それは事前に聞かされていた。けれど真剣に捉えていたかと言われれば嘘になる。こうして実際に目にして初めて重みを知る間抜けさだ。

 今日の那須先輩の振る舞いがイメージになく明るく見えたのも、無理をさせていたのだろうか。

 犬彦は強く奥歯を噛み締めた。

 

「……すみません。もっと気を遣うべきでした」

「ううん。本当に気にしないで。私が後先考えずにはしゃいじゃっただけだから。よくあるの、こういうこと。少し休めば良くなるから、ちょっとだけ休ませて」

 

 重ねられる言葉は包み込むように優しい。これ以上の謝罪が無粋であることは流石の犬彦も理解した。

 代わりに、犬彦にはどうしても聞きたいことができた。

 

「先輩は、どうしてボーダーに入ったんですか?」

 

 ミネラルウォーターを弱々しく口に含む様は、弾幕を操り、優雅に舞う画面の中の人とは別人のようだ。だからその問いは自然と口をついて出た。

 

 トリオン体に生身の身体能力や、体調が関係ないことについては教養を受けている。

 だがそもそもの始まり、どうしてボーダーに入ろうと思ったのか。

 ボーダーはネイバーに対抗するための組織であり、その理由から荒事とは無縁ではいられない。選んだのがオペレーターならまだしも、那須先輩が選んだのは前線に出る戦闘員だ。

 身体が弱く、激しい運動も難しい人が、どうしてこの仕事を選んだのか。それが犬彦は気になって仕方がなかった。

 

 問いかけに、那須先輩は少しだけ首を傾げながら静かに応じた。

 

「そうね……私の場合、最初から入ろうと思って入ったわけじゃないの」

「どういうことですか?」

「スカウト、みたいなものかしら。たまたまこの身体で、たまたまトリオン能力が高かったから。だから声をかけられたのよ」

「……? えっと」

 

 後者はわかる。だが前者が理由になったというのがよくわからない。

 流石に正直に口にすることではないかと思い濁したのだが、那須先輩はくすりと微笑んで言った。

 

「犬彦くん、顔に出やすいって言われない?」

「う……す、すみません」

 

 普通に見破られた。顔が熱い。

 ミネラルウォーターのペットボトルを手の中で転がしながら、那須先輩はどこか夢見るような声で続けた。

 

「トリオン体って、極端な話どんな病気を持った人でも普通の人と同じように運動できるようになるでしょう? そのトリオンを生成するトリオン器官は誰もが持ってるもの……つまり、どんな人でも普通に運動することができる可能性がある。残念ながら、現状は可能性がある、どまりだけどね。どうしても個々人の資質が絡んでくるから」

 

 でも、と声に力がこもる。

 

「ゼロじゃない。研究が進めば、どんな人だって自由に、人並みに動ける可能性が出てくる。そうやって声をかけられたのが、今私が所属する研究チーム。テーマは、トリオン体と健康について」

「研究チーム……」

「スカウトっていうのはそういうことね。だから私の場合は普通の人とはちょっと事情が違うの。テスターみたいなものね。活動結果がそのまま私達の研究に直結するから、オペレーターじゃなくて戦闘員の方を選ぶ必要があったし」

「抵抗はなかったんですか? 凄く、大変そうですけど」

「悩んだのは事実だけど……1回だけ、研究チームの人達にトリオン体で活動させてもらったことがあってね。頑丈で力強いことに驚くより、何も気にせず思い切り動けることがとても嬉しかった。この喜びに比べたら、少しの苦労なんて大したことないって本気で思ったわ。だから研究に協力することに抵抗はなかった」

 

 噛みしめるように呟く。

 人並みにできないことのつらさ。人並みにできるようになることの喜び。

 それがどれほどの感動を呼ぶのか、犬彦は痛いほどよくわかった。

 

「ボーダーに入ったのは、それが理由。あの喜びを、私と同じような誰かが同じように味わえるなら、それはとても素敵なことだと思えたから」

 

 薄く笑みをたたえて、囁くようにそう告げた那須先輩はひどく眩しく見えた。

 崇高な理由。崇高な目的。気高い信念に裏打ちされた優れた実力。

 その魅力は犬彦を強かに打ちのめした。

 

「……凄いですね、那須先輩は。俺なんてせいぜい、お金のことくらいしか考えてなかったですよ」

「そんなことないよ。生活費を稼ぐのも大事なことでしょう?」

「いえ、そうじゃなくて……何というか、こう」

 

 言葉にできず、ぐにぐにと虚空を弄ぶ犬彦の様子に那須先輩が首を傾げる。そんな仕草さえ可愛らしい。

 

「真っ直ぐ一本芯が通ってるっていうか。俺みたいになあなあで決めたような目的じゃなくて、きちんとやりたいことが定まってて、それに向かって真っ直ぐで。そういうの、凄く良いと思うんです。だから余計に自分の情けなさが際立つ、というか」

 

 犬彦の目に、那須先輩は今まで以上に輝いて見える。それは憧れの人が、立派な信念によって立つ人だと理解できたからだ。

 ボーダーの誰もが那須先輩と同じような目標を持っているかはわからない。だからこそ犬彦は那須先輩が自身の師匠であることに深く感謝した。

 

 ――こんなに素晴らしい師匠が教えてくれるんだ。なら、弟子も変わらなきゃ嘘だろう。

 

 胸の奥から沸き立つものがある。

 焦がれるほどの渇望。芯を求める熱だ。

 

「見つけなきゃ、いけないですね」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 そうでなければ、自分はきっと、那須先輩の弟子だと誇れないから。

 

 

 

 

 

 




 那須先輩の諸事情についてはふわっとした説明しかないので、独自解釈全開です。
 犬彦の目標としてどうしても出したかったのでこれくらいの理由かなーと適当にアタリつけて話しましたが、思ってたのと違ってたら申し訳ない。

 というわけで、犬彦に目標ができました。
 ここから一気に人間関係を広げていきます。

 その前に、次にもう1人の師匠の視点を書いておきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 小南桐絵⑤

 最後まで悩みましたけど、今回の話は分割じゃなくて繋げてにすることにしました。
 代わりに一話辺りの文字数が過去作品の中でも最多になってます。この辺の意見ももしあれば是非。


 

 

 

 今日も今日とて、小南に稽古をつけてもらっている。

 

「ふ――っ」

 

 戦闘体に換装した小南が鋭い呼気とともに袈裟懸けに手斧を振り下ろす。

 

 ――どうでもいいことだが、この先輩は戦闘体に換装した時、いつもの長い髪を2つにくくったヘアスタイルではなく、ばっさりと2つの房を落としたショートカットになる。

 どうして普段からそうしないのか聞いてみたところ、戦闘の邪魔だから、と如何にも男らしい答えが返ってきた。……一応この先輩もオシャレに気を遣うんだ、なんて喉元まで出かけた感想は固く胸の内にしまっておいた。

 

 突撃&斬撃。小南との師弟関係、その最初のきっかけとなったあの賭けでも散々にいいようにやられ、そして訓練を始めた今でも何十、何百と繰り返されている必勝の型。

 速く、力強い。実にシンプルだ。単調な軌道であり、すでに何百と振るわれ、受け続けてきた斬撃である。読まれたところで問題はない、むしろかわせるものならかわしてみせろ、という強い意思が滲み出ている。

 

 まずこの斬撃を前にした犬彦が決まって思うことがある。

 

 ――どう考えても素人相手に振るう斬撃じゃねえよな!

 

 さて、ここで問題だ。ボーダーに入隊したばかりの新人に、果たして戦闘経験があるのか否か。

 勿論否だ。そんなものあるはずない。武術の経験くらいは大なり小なりあるかもしれないが、殺気マシマシの斬撃を慣れ親しんだ術理の埒外から放たれて避けられるかと言われれば答えは間違いなく否だろう。

 勿論、犬彦に武術の経験などない。答えは推して知るべし、というやつだ。

 

 加えて、小南の斬撃には手加減がない。

 どうせ小南に聞けば間違いなく手加減していると答えが返ってくると思うのだが、受け手の印象で言えば「もしやコイツ手加減の意味を知らないのでは?」という判断をせざるをえなかった。

 一度そこまで言うなら、と小南と玉狛支部の別の先輩とのランク戦を見せてもらったことがあったが、何もわからないことがわかっただけだった。戦闘経験がそもそもないのに手加減がどうとかわかるわけない。やる前から気付け、という話だ。

 

 閑話休題。

 つまり犬彦が今音を裂いて襲いかかってくるこの一撃を避けるためには、類い稀なる戦闘センスか豪運か、あるいはそれに並ぶ何かを手にしている必要があるということだ。

 そして、犬彦はそれを手にするために一週間もの時を費やした。

 

「う、お……っ!」

 

 同じ軌道。同じ威力の一撃。

 けれどその一撃が同じであるかどうかは、“見なければ”わかるはずもない。

 

 迫る一撃から目を逸らさず、見ること。

 人間の反射行動を制御するために何百回と斬り刻まれたが、その甲斐あり、犬彦は最初の一撃はほぼ避けられるようになっていた。

 犬彦にとって幸いだったのは、自身の反射神経がそう悪いものではなかったということだ。神経が千切れているようなレベルだと、見えたところで身体がついてこず話にならない。

 小柄で身軽なことも手伝い、反射的な動きについては犬彦は一定の成果を出しつつあった。

 

「気を、抜くなっ!」

 

 小南の一喝。振るった勢いのままに身体を深く落とし、そのまま蹴りを見舞う。

 一撃目ですでに無理な動きをしていた犬彦はそれを避けることができなかった。

 

「ぐ、っ」

 

 痛みは薄いとはいえ、腹部を圧迫される不快感に声を漏らす。

 

 ――マズ、体勢を……!

 

 師匠の教えに従い、顔を上げて体勢を戻そうとした犬彦の目が捉えたのは、駒のように回転する師匠の姿。

 次の瞬間閃いた斬撃を回避する術を、犬彦は持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

「だーかーら、何度言わせるのよあんたは! もっとグッと捻ってバッと動けっていつも言ってるでしょ!」

「その説明で何人が理解できると思ってんだお前は! 日本語で話せ日本語で!」

「日本語以外の何だってのよ!」

「少なくとも効果音は言葉じゃねーよ説明しろ!」

 

 ぎゃあぎゃあ、と声高に罵り合う小南と犬彦。至近距離で顔を近づけ、今にも取っ組み合いを始めかねない雰囲気だが、オペレーターを務めていた宇佐見は見慣れた光景であるかのように平然と今の模擬戦をデータにまとめている。止めようとするどころか、仲良いねえホント、なんて笑みを浮かべているくらいだ。

 事実、この光景を小夜子が見ていたのであれば驚いた後に笑みを作り、那須隊の面々が見たのであれば目を丸くしたことだろう。

 犬彦が女性の前で緊張せずに物を言えていることも意外なら、吐息さえ感じ取れるだろう距離で声を上げているのも驚愕に値する光景だ。

 犬彦も最初こそ抵抗を覚えていたものの、何度も続けてきた今となっては小夜子に怒鳴るのと変わらない感覚でいる。それだけで本来なら驚くべきことのはずなのだが、犬彦にとっては喧嘩仲間が増えただけという認識なのでイマイチありがたみが薄いというのが正直なところなのだった。

 

「何で終わるなり毎回喧嘩を始めるんだ、お前らは」

 

 呆れたように話しかけながら男性が入ってきた。

 木崎レイジ。薄いインナー越しにも見て取れる鍛え上げられた肉体は、ここにもし小夜子がいたのであれば卒倒することを確信させるほど。初対面の時には犬彦でさえ言葉をなくしたものだが、何度も小南との仲介をしてくれ、おまけに小南の日本語を翻訳してくれるうちにいつしか最も尊敬する先輩のうちの1人になった。

 

「あ、レイジさん! お疲れ様です」

 

 傍目にも見てわかるほどに顔を輝かせて犬彦がレイジの下へ寄っていく。その姿はまさにご主人の姿を見つけた犬の如しである。

 

「ちょっと! 何で私の時より嬉しそうなのよ、あんた!」

「何でも何も、お世話になってる先輩が来たなら普通こうなるだろ」

「私! 私は!?」

「え? あー……そういえばそうだったな、悪い」

「何その今気付いたみたいな反応! はっ倒すわよこのチビ助!」

「誰がチビだそれ言ったら戦争だろうがこの野郎ァ――!」

 

 喧嘩、リスタート。犬歯を剥き出しにして顔を付き合わせ合う犬2匹を前に、やれやれ、とうなじを掻きながらため息一つ。それぞれの額に手をやってぐいと引き剥がした。

 

「その辺にしろ。仲良いのは結構だがお前らの喧嘩に付き合ってたらいつまで経っても終わらん」

「ぐ……すみません」

「レイジ! だけどコイツ」

「お前も落ち着け。苛立つ気持ちもわかるが、お前の方が年上なんだからな」

「ぐぬ……わかってるわよ」

 

 未だに飛びかからんと構えていた手を解き、腕を組む。もっとも、眦は不機嫌さを隠そうともせずに釣り上がったままであったが。

 こつん、と犬彦の額を小突きながらレイジが言った。

 

「お前もお前だぞ。まともな説明がなくて苦労するのは理解するが、小南を師匠に選んだのはお前なんだからな。一から十まで汲み取れとは言わんが、汲み取る努力くらいはしてやれ」

「……はい、わかってます」

 

 悄然と肩を落として犬彦が頭を下げる。

 確かに、レイジの言うこともわかる。

 賭けがあったとはいえ、小南の都合などお構いなしに師事を求めたのは犬彦だ。小南が誰かの師匠になったことがないことを犬彦は後から知ったし、あれだけの腕があるのだから教えるのも上手いのだろう、と根拠もなしに思っていた。

 ただ――流石に『グッと動いてバッとかわせ』なんて独特のセンスが要求される説明しかされないとは思わなかった。それくらいは言わせてほしいのだ、声を大にして。

 

「……気持ちはわかるんだがな。だからそんな顔をするな。たまに顔は見せてやる」

「ああ……その言葉だけで救われます、本当に」

「な、何よ二人してその反応は――!」

 

 二人揃ってのため息に小南が噴火しているが、知ったことではない、と犬彦は鼻を鳴らした。

 努力すべきなのは弟子だけではなく、師匠もだろう。

 

 

 

 

 

『志岐、ダウン』

 

 アナウンスが響く。同時に戦闘体のダメージが復元されて元通りになった。

 

「くそっ、またかよ……っ」

 

 床の上で大の字に寝転がりながら、思わず毒吐く。

 今日も何十回と稽古を繰り返したが、結局、1分と小南の攻撃を避け続けることはできなかった。

 一撃目を避けることはできるようになった。しかし続く攻撃を避けることはできず、フェイクで、あるいは体術で体勢を崩されたところへ一撃をもらってしまう。

 

 ――シールドが使えるならこうは……いや、駄目か。今それを使うことができたなら、それに頼り切りになる。同じことだ。一撃を防いだところへ別の攻撃を食らって終わりだ。

 

 同じ理由で、バイパーなどの攻撃トリガーを使わせてもらっても変わらないだろう。避けることに専念しても避けきれないのに、生半可な攻撃を叩き込んだところで牽制にさえなりはしない。

 根本的に見直す必要がある、と感じた。

 妨害手段に頼ることなく、純粋に体術のみで回避しきる必要がある。

 

「じゃ、今日の訓練これで終わりね。また進歩なかったんだから、ちゃんと反省しときなさいよ」

 

 換装体を解き、いつもの2つ縛りに戻った小南が涼やかな顔でそう言った。

 進歩がない。悔しいが確かにその通りだ。一撃目を避けられるようになってから、それ以上避けることができずに無駄に日数ばかりを重ねている。

 あれほど無理ゲーだと嘆いていた一撃目も避けられるようになったのだから、そのうち避けられるようになるんじゃないか、という思いがないと言えば嘘になる。が、それは流石に楽観視に過ぎるし、その前に我慢の限界が来るだろう。犬彦然り、小南然り、だ。

 

 必死でやらない訓練に意味なんてない。やると決めたらやるのだ。一撃目を避けるという課題にただでさえ時間をかけてしまったのだから、これ以上時間をかけられはしない。

 だからこそ、頼みの綱の師匠がそんな投げっぱなしな姿勢ではいけないと思うのだ。

 

「なあ。お前から見て何が悪いと思う?」

 

 師匠の意図を汲み取る努力が必要。

 なるほど、確かにその通りだ。だがそれを訓練の中で読み取れというのは初心者相手に酷すぎるだろうし、もっと言うならアドバイスするのが師匠の務めだろう。

 

「……私に聞かれても、あんたの満足いく答えなんて出ないと思うけど」

 

 つん、とそっけない態度で小南が言った。

 小南は小南なりに、言われたことを少しは気にしているらしい。

 

「いいよそれでも。レイジさんも言ってただろ。汲み取る努力はこっちでする。だから、お前なりに悪いと思ったところを言ってみてくれないか」

「何よその言い方……」

 

 頬を膨らませてそっぽを向く。

 機嫌を損ねたようだが、出て行こうとした足を止めて振り返り、腕を組んだ。眉をひそめて思考を巡らせている様子。

 無言で見守っていると、何度か唸り声を上げて首を傾げた末にこう言った。

 

「……慌ただしいのよね、何か」

「慌ただしい?」

「落ち着きがない、っていうか。フラッフラしててとても危なっかしい感じ。こっちを見る余裕もなくなってるし……ううん」

 

 そこでまた、小南は言葉に詰まったかのように押し黙る。

 

「落ち着きがない……危なっかしい」

 

 何となく、言いたいことはわかる。

 現状、犬彦は小南の一撃を避けるために一杯一杯で、一撃目を避けた後の体勢がだいぶ不安定だ。そこへ更に体勢を崩す一撃を加えられ、続く一撃で止めを刺されてしまうのがパターンになってしまっている。

 そこまでは理解している。問題は、それをどうすれば改善できるのかということだ。

 

「それがわかったら苦労しないわよ」

「……おう。まあ、その通りなんだけどさ」

 

 お前が言っちゃ駄目な奴なんじゃないの? それ。

 そう思いつつ半目を向けるも、小南は腕を組んで何故か胸まで張っている。理解できないお前が悪い、と言わんばかりだ。

 

「汲み取る努力、ね」

 

 がしがしと頭を掻きながら、聞こえない声で呟いた。

 アドバイスらしきものは聞いたのだし、役に立つか否かはともかくとしても――否、最大限に役立てるよう努力しよう。

 

「了解。ちょっと1人で考えてみるわ」

「え? あ、うん。――あ! あと」

「ペナルティだろ? やっとくやっとく。やりながら考えるわ」

 

 ペナルティとは、1日ずっと、何の進展もなかった日に苛立ちを覚えた2人が衝動的に思いついたものだ。

 

 ――あたしが教えているのに何の進歩もないなんて許さない。

 

 侮辱にとられかねない言葉ではあったが、犬彦もまたそれを良しとした。

 焦れていたのは犬彦とて同じだったのだ。

 

 それまでの一日は、簡単に言うと筋トレからの訓練、という流れだった。多少の差異はあるにせよ、基本的にはトリオン体への理解を深め、戦闘行動に慣れるための訓練だった。

 そのうち、戦闘行動の訓練において進歩が見られないというのであれば、話は簡単だ。進歩が見られる方の訓練を更に重ねて帳消しにすればいい。2人はそう考えた。

 脳筋極まりない考えだったが、2人も、レイジでさえ――あるいは、このメンツで決を採った時点で必然だったのかもしれない――ゴーサインを出したことで決定となった。

 メニューはレイジ監修の下定められており、破れば掛け値無しのペナルティが待っている。

 自己満足かもしれない。が、何かしなければ落ち着かなかったのだ。

 

 ――こんなところで足踏みなんてしてられない。早く、先輩に追いつかないと。

 

 別に、達成できなければペナルティが待っている、なんて話はない。小南はA級でも上位の攻撃手(アタッカー)であり、その攻撃を避けるのが容易ではないことくらいは理解している。

 けれど――胸の内から湧き出す焦燥感。

 突きつけられた最初の課題。それを妥協したら、きっと自分は延々と妥協を繰り返す怠惰な人間に堕ちることを確信していた。

 だからこそ、犬彦は今日もまた抗うように床に腕を立てる。

 

 ペナルティを始めた犬彦を、小南は無言でしばらく見つめていたが、やがて視線を外して部屋を辞した。

 最後まで、物言いたげな空気が尾を引いていた。

 

 

 

 

 

 リビングに辿り着いた小南は、脱力してもたれかかるようにソファに座り込んだ。あまり行儀の良い行為ではなかったが、訓練を終えた後の倦怠感は如何ともし難かった。

 

「お疲れ様です。はいこれ」

「ああ、ありがと」

 

 差し出されたマグカップを何の気なしに受け取り、口をつけたところで変な声を上げて咽せた。

 

「大丈夫ですか?」

「っあ、あんた、とりまる! いつの間に!?」

 

 ごしごしと口元を袖で拭いながら小南が叫んだ。

 整った顔立ちに、すらりとした細身の体格。玉狛支部に在籍する、犬彦にとってのもう1人の先輩、烏丸である。

 面食いが見れば胸をときめかすだろう容姿を前にして色気もへったくれもない声を上げる先輩に対し、鳥丸は平然とした様子でこう答えた。

 

「知らなかったんですか? 飛べるんですよ、俺」

 

 ワープで、ぎゅんと。幼稚園に通う幼子でさえ懐疑心の眼差しで見ること不可避な雑な説明に、

 

「えっ、そうなの!?」

 

『何それ何、サイドエフェクト!?』と小南は1人全力で盛り上がっていた。

 1ミリたりとも疑っている様子のない先輩が騒いでいる様子を、鳥丸は冷静に見守っていた。

 

「もう、そんなのあるなら最初から言いなさいよ!」

「ええ、だから言わなかったんですよ。最初からないんですから」

「えっ?」

 

 一瞬きょとんとした顔をした小南が、ようやくからかわれたことに思い至ったらしい。

 

「だ、騙したわねあんた!?」

「ところでどうしたんですか先輩、こんな場所で1人で。何かやらかしましたか?」

「ぐ! ぬぬ……!」

 

 話を逸らすな! とでも言いたかったのだろうが、続く言葉がクリティカルした衝撃で言葉を継げなかったらしい。唸り声を上げて振り上げた拳を下ろした。

 

「また犬彦のことで悩んでるんすか?」

「……悩んでないし。そもそもまたって何よ、またって」

「気付いてないんすか? 小南先輩、ここのところ難しい顔ばっかりしてますよ」

 

 意外そうに烏丸が言った。マグカップを口にしながらの言葉は、むしろ意外そうに告げられた。

 してないし、と目を逸らしながら小南は言った。自分でも説得力のない言葉だと思った。

 

 差し出されたマグカップに口をつけながら、相談すべきだろうか、と考える。

 烏丸は対面のソファに座りながらコーヒーを飲んでおり、完全に居座る構えだ。元々それが目的だったのかもしれない。けれど小南の性格上、素直に吐露するのもまた抵抗があった。

 

「俺はよくやってると思いますけどね」

 

 不意に烏丸が言った。疑わしそうな目を向けた小南に、意外にも誠実な色の目で烏丸は続ける。

 

「犬彦はトリオン能力こそ高いですけど、それ以外は武道の経験もない素人ですからね。目はいいし器用ですが、それはまた別の才能です。小南先輩は教えるのも初めてなわけですし、手探りになってしまうのは仕方ないと思いますけど」

「わかったような口を利くじゃない」

「そもそも攻撃手(アタッカー)射手(シューター)に戦い方を教えるって、そこからしておかしな話ですしね。経緯は聞いたんで何も言いませんが」

 

 とん、と人差し指でテーブルを突きながら烏丸が言う。絵になる仕草だ。

 

「仮に俺が教えることになったとしても、恐らくはその辺りのことしか教えられないと思います。流石にあんな極端な指導ではないと思いますが、指導方針は間違ってないと思いますよ」

「褒めてるのか貶してるのかわかりづらいわ、あんた」

 

 小南は唇をへの字に曲げて腕を組んだ。

 

 ――間違ってはない、ね。

 

 烏丸の言葉を口の中で転がす。そのくせ一向に胸のもやもやは晴れる気配がなかった。

 

 才能の塊だな、と褒め称える嵐山の声がリフレインする。

 小南とて、犬彦に光るものを感じていないわけではない。コミュ障なことは大きなマイナスポイントだろうが、類い稀なトリオン能力に意外なほどの負けん気はそれを打ち消してあまりあるプラスポイントだ。賭けのことがあったとはいえ、その才能を実感できていなければここまで真面目に取り組むことはなかったに違いない。

 

 小南の顔色が優れないのは、まさにそれが理由だった。

 いつまで経っても結果を出せない犬彦に不満を抱いているわけではなく。

 いつまで経っても結果を出させてあげられない自分自身への不甲斐なさが故だった。

 勿論、そんな自身のもどかしい心情を、喧嘩をしてばかりのあの小生意気な弟子に口にするはずもないのだけれど。

 

「犬彦のどこが悪いのかはわかってるんです?」

 

 黙々と思考を巡らせる小南に烏丸が尋ねた。

 目を逸らしながら口を開く。小声になることは流石に隠せなかった。

 

「多分……わかっては、いるんだけど」

「じゃあ、後はそれを伝えるだけじゃないすか」

「それができたら苦労しないわよ」

 

 半目を向ける小南に、まあそうすね、と悪びれた様子もなく烏丸が言った。

 それから、まるで今さも思いついた、みたいな風情で手のひらに握り拳を打ち付ける。

 

「こうしましょう。口で伝えようとするから駄目になるんです。なら、文字ならいけるってことじゃないすか?」

「ええ……? そう、かしら」

「そうですよ。ささ、試しに騙されたと思って」

 

 どこから用意したのか、紙とペンを握らせて小南に手のひらを広げてみせる。

 眉をひそめながらも、物は試しに、と小南は姿勢を正して紙に向き直った。

 脳裏に犬彦の訓練の様子を思い浮かべながら、まずあの時に話していた言葉を真っ先に書く。「落ち着きがない」。「危なっかしい」。

 そこで小南の手は止まった。しばらく経っても、ペンを動かそうとしているのではなく、脳裏の映像を紙面に投影しようとしているかのように睨みつけたまま動かない。

 

「理解してなかったみたいすね。いや……そもそも、小南先輩は本当に犬彦のことを理解しようとしていたんすか?」

 

 ため息を吐きながら烏丸が言った。

 

「あいつのことを……?」

 

 紙面から顔を上げた小南は、俄に色彩の失せた目でオウム返しに繰り返した。思ってもみなかったことを突かれたかのように虚ろな顔で烏丸を見た。

 

「的確なアドバイスができないのは、口下手だとかそれ以前に、理解が足りていないからです。一つ聞きたいんですが、先輩はこの訓練を始めてから、一度でも犬彦と話しましたか?」

「話したわよ!」

「それは、どのような?」

「どんな、って。どこが悪いのか、とか」

「それが具体的に話せているのなら、こうはなってないと思いますけど。じゃあたとえば、この訓練の意図について犬彦に伝えていますか? そして犬彦は、この訓練内容に納得しているんですか?」

「それ、は」

 

 唇を震わせて、小南は押し黙った。

 居心地悪そうに肩をすくめる姿は、さながら親に叱られる子供のようだ。

 

「小南先輩が悪いと言ってるわけじゃないんですよ。さっきも言いましたけど、悪いのは互いにコミュニケーションが満足にとれていないことです。小南先輩が犬彦を理解していないように、犬彦もまた小南先輩を理解していない。一度納得いくまで話し合ってみてはどうです? 一方が塞ぎ込んでいるだけじゃどうにもならないと思いますよ」

「……それだけで上手くいくのかしら?」

「わかりません。何せ俺、弟子なんてとったことないですし」

「そう、そのはずよね。……なのにどうしてあたしが怒られてるみたいになってるのかしら」

「知らなかったんですか? 皆の怒りを買いやすい空気が垂れ流しになってますよ、小南先輩」

「えっ、嘘!?」

「ええ、嘘です」

「ちょっとは悪びれなさいよあんた!」

 

 牙を剥いて声を上げるも、まあそれはともかく、と飄々とした烏丸が逃げるように席を立つ。

 

「まだいるんでしょ? あいつ。それなら今からでも声かけてきてやったらどうすか。上手くいくかは正直なところわかりませんけど、そもそもいつまでも1人悶々と考え込んでいるなんて性に合わないんじゃないすか」

「む……まあ、それはそうね」

 

 確かに、どちらかと言えば直感的に動く方が小南の性分には合っている。烏丸の言い分にも納得はしたのだし、ならすぐにでも行動を起こすべきだろう。

 席を立つと、空になったマグカップ2つを手にして烏丸がキッチンへと引っ込んだ。こういうところがあるからこの後輩は憎めない。礼を言って訓練室に向かった。

 

 ――そもそも、どうしてあたしがこんなにやきもきしなきゃならないのかしら。

 

 歩きながら、理不尽な思いに駆られて小南は肩を怒らせた。

 なるほど、確かに小南は不出来な師匠だったのだろう。だがこうして師匠が悩んでいる間もあいつはきっと師匠が悪いとグチグチ言っているに違いないのだ。自分のことを棚に上げて、不満を垂らしているに違いないのだ。

 顔を見たら頬をつねってやりましょ、と剣呑な光を目に宿していると訓練室が見えてきた。

 

「俺が師匠になってやろうか?」

 

 ――それはまさしく、小南にとっての痛烈なカウンターパンチに他ならなかった。

 

 訓練室の扉を開け、一歩を踏み出した矢先のこと。

 耳に届いた言葉にぎょっと目を見開く小南の正面には、こちらに足を向けて腕立て伏せをしている犬彦と、それを見守るレイジの姿がある。

 ここに来るまでの間に、ずっとペナルティという名の筋トレを続けていたのだろう。明らかに疲弊した様子の犬彦はこちらを見る余裕もないのか、カウントを呟きながら腕立てを続けている。

 

 レイジは扉の開く音に気付き、視線だけを向けて小南の姿を認めた。

 しかし発言を取り消す様子も、取り繕う様子もない。どころか、唇に指を当ててアイコンタクトを図ってきた。黙っていろ、というサインだ。

 

 これには、流石に小南も割って入ろうとした。

 確かに自分は優れた師匠とは言い難い。だが、目の前で自分の初めての弟子が勧誘されているのを黙って見ているわけにもいかない。理性的な判断より、衝動的な感情に衝き動かされて口を開こうとした。

 

「どういう、ことですか?」

 

 先回りをされて、思わず言葉を呑み込んだ。

 疲れた声の犬彦が乗ってきた。そうなると、一度タイミングを外された会話の流れというものは乗りにくいもので、もはや小南には話の流れをただ黙って盗み聞きしている他なかった。

 それに――犬彦がどういう返答をするのか。それが気にならないわけではなかった。

 

「何、ただのお節介だ。小南は教えるのが下手だし、口下手だ。言葉より先に手が出るような奴だ。毎度喧嘩しているのを仲裁させられている側としては、流石に口も出したくなる」

「それは、返す言葉もないですね」

「それにあいつは攻撃手(アタッカー)だからな。お前が理想としているスタイルについて教えられることはそう多くはないだろう。その点で言うなら俺は射手(シューター)の戦い方も心得ている。少なくとも小南よりはより多くのことを教えてやれるだろう」

「それは、確かに」

「あとは、そうだな。お前の考え方は俺に似ているところがある」

「どういうことですか?」

「嫌な顔一つせずこうして筋トレを続けているところとか、な。普通は結構嫌がられるもんだ。トリオン体になれば疲れ知らずで、その筋力は生身の肉体ではなくトリオン性能によるところが大きい。それなら生身で筋トレすることに意味なんてないじゃないか、ってな」

「そうなんですか? 結構好きなんですけどね。レイジさんが言うところの、自分の限界を広げる感覚」

 

 相変わらず腕立て伏せをしながらだから、犬彦の顔は窺い知れない。けれどその声色は喜色に滲んでいて、とても楽しそうだ。それがどことなく小南には面白くなかった。

 レイジはおもむろに犬彦の下にしゃがみ込み、言葉を続けた。

 

「実際どうだ? お前が小南を師匠に選んだ経緯は知ってる。自分から頼み込んだ手前、師匠を変えるのは抵抗があるかもしれんが、必要なら口利きしてやってもいい」

「それは、師匠を小南からレイジさんにする、ってことですか?」

「そうしてもいい、って話だ。小南に断りの話をするのが難しいってことなら、新しい師匠になってやってもいい。最近射手(シューター)の師匠を見つけたんだろう? なら今更1人や2人増えたところで変わらないだろう」

 

 どうだ、とレイジが首を傾げてみせる。

 あまりにも居心地の悪い空気に、小南は思わず目を伏せた。

 レイジの提案はまっとうなものであり、善意からくるものだろう。才能ある人材の将来を思うのであれば、どちらを選ぶべきかは明らかなのだから。

 

 何故だろう。あれほど煩わしいと考えていたことなのに、あれほど喧嘩していたのに。

 目の前に選択肢を突きつけられる弟子を見ている今、胸に湧いてくるのは不安、苛立ち、後悔、怒り――喜びの感情は欠片もなかった。

 

 レイジの提案に、犬彦はまず苦笑いを浮かべた。

 

「レイジさんの提案は、正直すっごくありがたいですし、実際教えてもらいたいこともあります」

 

 でも、と、疲労を滲ませる声のまま、はっきりと犬彦は言った。

 

「すみません。それはやめておきます」

 

 小南は思わず目を見張った。あまりにもきっぱりとした断言は、小南にとって予想外の返答だったから。

 

「意外だな。あれだけ喧嘩しているんだ、すぐ乗ってくるものと思っていたが」

「口下手だし頑固だし、足りないところばかりの師匠ですけど……ここに来てから最初に憧れた師匠なのは間違いないんで。あいつから見捨てられるならともかく、俺が鞍替えするのはないです」

「現状は理解しているんだろう? とてもお前の望むような成長ができているとは思えないが、それでも小南のままがいいのか?」

「不満に思っているのは事実ですけど。それは俺のせいでもありますし、今の状況であいつにばかり責任を求めて逃げ出すなんて、そんなのあまりにも情けないじゃないですか」

 

 ぐさり、ときた。

 小生意気で、喧嘩してばかりの弟子ではある。だが今の言葉は、小南の胸の奥の深いところを貫いた。

 弟子を教え、導くこと。師匠を名乗るだけでは師匠たり得ない、そんな当たり前のことを小南は今更ながらに痛感した。

 

「なるほど、小南を師匠にしておきたいお前の気持ちはわかった。だが、その話だと新しく師匠をつけるのは問題ないんじゃないか? 勿論、嫌だというのを無理にとは言わんが」

「いえ、レイジさんが師匠ってのが嫌なわけじゃないですよ! むしろ小南より教えるの上手いし師匠らしいしで、ホントならいくらでも教えてもらいたいところなんですけど!」

 

 小南のこめかみに青筋が浮いた。

 当たり前であるが、納得と苛立ちは別物である。

 

 慣例として、師匠が複数人の弟子を持つことはそう珍しくはないが、弟子が複数人の師匠を持つことは珍しい。

 禁止されているわけでもないし問題はないが、どうしたって教え方や考え方に違いが出る。一方の師匠が良しとすることをもう一方の師匠が不可とするなんて事例はザラだ。それならば効率の面から見ても師匠は1人でいい、とする人の方が圧倒的に多い、という話。

 どころか、そもそも師匠を必要とせず、独学で研鑽を積む人もいる。

 そこへいくと何人もの師匠に教えを乞おうとする犬彦の姿勢は良く言えば勤勉、悪く言えば見境なしで節操なしの考えなしだ。

 

 レイジの言い分は、師匠を2人とっているのなら3人も4人も変わらないのではないか、という問いかけだ。

 小南自身もっともな言い分だと思うのだが、犬彦は否、と首を振った。

 

「多分今レイジさんが師匠になったら、俺、小南じゃなくレイジさんに頼りきりになります。それは違うと思うんです。俺は小南とはウマが合わないけど、嫌いなわけじゃないんで」

 

 考えながら、時折唸りながら口にする。それは紛れもなく犬彦の本音だ。

 

「何より、俺はまだ少しも小南から技を盗めてない。なのに自分から降りるなんて、冗談ですよ。俺はまだ、小南の背中を追っていたい」

 

 ――きっかけは成り行きにすぎなかった。

 賭けに負け、従うしかなかったために渋々と教えていただけのこと。

 自分に師匠は向いていない。そんな拭いきれない思いからどこか乗り切れていなかったもの。

 けれど今、胸の奥で燻るものは――。

 

「成程な。あれだけ喧嘩しながら決定的に亀裂が入らない理由はそれか」

 

 感心したようにレイジが言った。日々喧嘩の仲裁ばかりさせられている身として、思うところがあったのだろう。

 それを悟ったのか、すみません、と気まずそうに犬彦が言った。

 

「だからその、レイジさんの提案は本当に、ほんっとうにありがたいんですけども、まだ一ヶ月も教えてもらってないうちから鞍替えするのはできませんというか」

 

 しどろもどろになりながら犬彦が謝罪を始めた。レイジの厚意を無碍にしたという罪悪感を隠しもしておらず、レイジも苦笑を浮かべている。

 ――たまに男らしさがどうのこうのと言い出す割に、こういうところはらしくないんだよなあ、とは、流石にそろそろ玉狛支部の誰もが理解し始めていた。

 

「気にするな。お前がそういうのならこれ以上俺が言うことは何もない」

「ま、まあ。ここであれこれ言ったところで結局小南に見捨てられちゃったら意味ないんですけどね。レイジさんもさっき言ってたとおり喧嘩ばかりしてるんで、自分で言うのもなんですけど本当にいつ見捨てられてもおかしくないなと思ってますし」

「そうだな。それこそ本人に直接聞いてみたらどうだ? なあ」

 

 ここでようやくレイジが小南に水を向けた。

 ということはもう口を開いてもいいということだ。――もう、我慢しなくてもいいということだ。

 

 えっ、と声を漏らし、ぎくりと身を強張らせた犬彦の顔目掛け、小南は用意していたタオルを思い切り投げつけた。

 

「ぶっ、こ、小南!? え、いつからそこに?」

「ずっといたわよさっきから! 黙って聞いてれば好き勝手言ってくれて……あんたが心の中であたしのことどう思ってるのかよくわかったわよこのチビ助め!」

「チビ!? チビって言ったなこのダメ師匠が! 文句言うなら少しはまともに説明できるようになってから言いやがれこの野郎!」

 

 犬歯を剥いて吠える犬彦。

 またか、と呆れたようにレイジが吐息を吐いた。

 こうなってしまえば、後は誰かの仲裁が入るか、お互いのボギャブラリーが尽きるまで止まることはない。少なくともこれまではそうだった。

 

「わかったわよ! だから行くわよ、今から」

「は?」

 

 それはきっと、犬彦にとっても予想外の返しだったのだろう。

 拍子抜け、と顔に書いてあるような間の抜けた表情を晒す犬彦に小南は鼻を鳴らして言った。

 

「ファミレスでもどこでもいいわ。徹底的に話せるところならね」

「いやいや、何だよそれ。どういう意味だ」

「あんたが説明しろって言ったんでしょうが。だから納得いくまで説明してあげるって言ってんの。徹底的に、一から十まで。言っておくけど、拒否権なんてないからね。まともに説明しろって言ったのはあんたで、あんたの言うとおりあたしにはそんなスキルなんてないんだから。なら、あんたが納得いくまで話し合うしかないじゃない。違う?」

「いや、それはいいんだけどさ」

 

 犬彦はもうすっかり毒気を抜かれた様子で、小南の据わった目から逃れようとするように目を逸らして頬を掻いた。

 気まずそうに小南と虚空を行ったり来たりする視線。上目遣いなその表情にははっきりと小南を案じる色が浮かんでいる。

 もう夜も遅い。今から始めれば確実に深夜、最悪日付さえも越えてしまうことだろう。自分のためにそこまでするのか、小南はいいのか。そんな思いが透けて見えるようだ。

 確かにそれは大変だ。けれど今はこちらの方が大事だ。

 

「確かにあたし、今まで本気じゃなかったわ」

「本気? 何が」

「あんたを鍛えること。最初に言ったわよね。あたし、弱い奴に興味なんてないもの。だからあんたが結果を出せなくても、それは、ほとんどあんたのせいだってくらいにしか思ってなかった」

「おう……まあ、そうだな」

 

 言いたいことが喉元まで迫り上がってきたところを、ぐっと堪えて犬彦が言った。話を聞くことを優先したのだろう。

 

「……だけど、今の話を聞いてて思った。別の師匠をとるのはいい。けどそのおかげで強くなったって思われるのは、それはそれで腹が立つのよ」

 

 ごくり、と犬彦が喉を鳴らした。マジかよコイツ、と目が語っていた。

 

「あたしはあんたに強くなってほしい。それは間違いないわ。だけどそれは誰かに教えられたからじゃなくて、あたしに教えられたからだって言いなさい。たとえ成り行きがどうであろうと、元々別の師匠をとるつもりだったのだとしても、あたしは、あんたの最初の師匠よ。切り捨てるなんて絶対に許さないから覚えておきなさい。代わりに、あたしはあんたを絶対に強くしてみせる」

 

 言い切った。胸の内の思いを晒け出した小南は、心地よい開放感に笑みさえ浮かべた。

 

 ――互いに理解する必要がある、と烏丸は言った。

 なるほど、と小南は理解した。

 思っていることを素直に晒け出すことには抵抗がある。だが自分の気持ちを吐露することは、相手に伝えるのもそうだが、それ以上の効果があることを理解した。自分への理解を深めること、だ。

 

 今までどこか胸の内で燻っていた思いが言葉となって形になる。曇天が晴れ渡るような開放感と心地よさ。

 どこかおざなりになっていた関係が、双方に本音をぶつけることで確かな形となったことに弟子もさぞや喜んでいるだろう。そう晴れやかな気持ちで見やると、どこか様子がおかしい。

 犬彦は助けを求めるように口元を引き攣らせて、傍らで様子を眺めていたレイジを見た。

 レイジもまた、心なしか視線を逸らして口を開いた。

 

「まあ、良かったんじゃないか。雨降って地固まる、というやつだ」

「いや、確かにそうなんですけど……本音は?」

「……正直なところ、思い描いていたのとはちょっと違った。すまん」

「ちょっとどころじゃないんですけど! 何すかアレ、愛が重いんですけど!? 師匠愛が! いや確かに嬉しいんですけどね!?」

 

 後半は部屋の隅、男2人で顔を付き合わせての会話である。聞こえないように声を抑えての叫びは絞め殺される鳥のそれだった。

 当然、そんな風に目の前で内緒話のような格好をされて気分が良いはずもない。

 

「ちょっと、いつまでやってんのよ。そんなの後でいいから行くわよ。時間ないんだから」

「ひぃっ!? わ、わかったから手に触れるのはやめろ!」

「あんた本当にコレ駄目ね。だいぶ慣れたと思ったけど、ちょうどいいからその辺の話もしましょ」

「行く! 行くっての! すみませんレイジさん、残りは今度で! 失礼します!」

 

 言い争いのような応酬は終わらない。

 嵐のような喧噪を連れた2人が出て行くと、後にはやれやれと吐息をつくレイジのみが残された。

 

「なるほど、いいコンビだ」

 

 

 

 

 




 原作と違ってすでに完成されていた素材を鍛えるわけじゃないのでそら悩むよね、という話。
 師匠レベルが上がったので、こちらの小南が遊真を鍛えることになったらもう少しわかりやすくなってる気はする。

 複数師匠がアリかなしか、という話については賛否あると思いますが、実際やるとしたらだいぶ難しいでしょうね。
 師匠同士で理解があって、人格ができていて、弟子との仲が良好でないと……それなんて無理ゲ(震え

 次回はその後の話。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 小南桐絵⑥

 お気に入り登録・評価・感想、いつもありがとうございます!
 今回は11話の後日談です。



 

 

 

「というか、流されるままに出てきたけど……ファミレスなんて行けるわけないだろ」

「何で?」

「何で、って。こんな時間に明らかな未成年を入れさせてもらえるわけねーよ」

 

 さして深く考えもせずに出てきてしまった犬彦も犬彦だが、小南も小南だ。半ば勢いで言ったことなのだろうが、少しはブレーキを効かせないといつか事故るぞ、とため息交じりに告げる。

 

「そうなの!? 知らなかったわ……」

「えっ」

 

 マジ顔で驚く小南に驚愕の表情で凍りつく犬彦。

 この反応は間違いない。いつもの他愛ない嘘にさえ真に騙されている時の反応……つまり、小南は本気で知らなかったことになる。

 ファミレスを利用したことがないか、その時間帯まで遊び歩いたことがないか、あるいは単純に知識がなかっただけなのか。

 犬彦とてコミュ障故にあまり利用したことがないものの、知識くらいは備えている。小南くらいの年齢であれば少し羽目を外して遅くなるくらいのことがあってもいいはずだが、小南の反応はそういった経験がないとまで匂わせている。騙されやすいことといい、大事に育てられた箱入り娘、という印象だ。

 

 そこまで考えて、犬彦はおもむろにずいと小南に顔を寄せた。突然のことに、「は、え、ちょ!?」と顔を真っ赤にさせてあたふたしだす小南を尻目に犬彦は語気も強く指さしつきで忠告する。

 

「いいかお前、どこ行くにせよ絶対にトリガーを手放すなよ」

「は、はあ?」

「そんで怪しい奴にはついて行くな。ヤバいと思ったら即使え。あとお前がどんなに騙されやすくてもせめて詐欺の手口くらいは勉強しておけ。いやしてくれ、頼むから」

「あんたはあたしの母親か! 言われなくてもそのくらいわかるわよこの大馬鹿っ!」

「いやいやいや。俺もそんなに付き合いある方じゃねえけど、お前ほど見てるだけで危機感覚えるような奴見たことないから。チャラ男にありふれた誘い文句で誘われて瞬く間に人生破滅しそう。その辺把握してる分小夜子のがよっぽど安心して見てられるわ」

 

 まあ、そもそも小夜子の場合は1人で出歩くことがないのだけれど。その点からいっても少なくとも小南よりは安全であると踏んで犬彦はしたり顔で頷く。

 

「何よそれ! あたしがそんなわかりやすい誘いに引っかかると思ってんの!?」

「思うから言ってるんだが……逆に聞くけど、今までにこういう忠告されたことないか? 親からとか学校の行事以外で。そしたら今すぐこの場で土下座するけど、どうよ?」

「も、勿論ない……わよ」

 

 言葉とは裏腹に、逸らした目が泳いでいる。

 嘘を吐き慣れていない様子には好感が持てるが、だったら下手に意地を張らなければいいのに。

 大きく溜息をついて言った。

 

「まあお前がそう言うならいいけど、とにかく気をつけろよ、本当に。茶化したり馬鹿にしたりしてるわけじゃなくて、本当に心配なんだよお前」

「う……わ、わかったわよ。気をつける」

 

 犬彦の語調が真剣であることを悟ったのか、しおらしく肩をすぼめて小南が頷いた。真っ直ぐな誠意に照れを隠せなかったのか、耳まで赤く染めて居心地悪そうに身じろぎしている。

 さて、そうなるとどこにするか。

 

「一応聞くけど、後日にするって手は」

「ないわよ」

「ですよねー」

 

 眼光鋭く突き刺さり、犬彦は頰を引きつらせた。

 

 ――プランもないくせに勢いだけで口にするんだからなあ、この先輩は!

 

 いつものこととはいえ、もっと時と場合を考えた提案をするべきだと強く思う。代案があるならともかくないのに半ば意地のような勢いで推すのは流石にどうだろう。ちらちらとこちらを伺うくらいなら最初から突っ走るなというのだ。

 とにかく、返す返すもこの時間だ。1時間2時間くらいで終わる話ならともかく小南の勢いから言ってそうはなるまい。となると深夜帯まで、それも未成年でも過ごせる場所が必要になるわけだけども。

 

「ところで、小南はこんなに遅くまで過ごして親から何も言われないのか?」

「さっき連絡したもの。何も問題ないわ」

「……親御さん何か言ってなかった?」

「な・に・も・な・い・わ・よっ!」

「アッ、ハイ」

 

 それだけで全てを察したが、口にするのはやめておいた。

 

「ていうか、だったらもう玉狛戻った方が早くね?」

 

 今更ではあるが、こんなに悪条件が揃っているのであれば出る必要などなかったのではないか。訓練室さえ動かせるのなら話の流れで実際に身体を動かすこともできるし、悪くないように思えるのだけど。

 犬彦の提案に、小南は腕を組んで首を横に振った。

 反応は早いが、口にする言葉には力がない。考えなかったわけではないのだろう。

 

「却下」

「何で?」

「……あんな感じで出てきておいて戻ったら馬鹿丸出しじゃない」

「えっ、今更? ――ちょ、痛い! なんて理不尽!」

「うるさい! とっとと次の案考えなさいよ!」

「次の案って言っても……」

 

 制服こそ着てないものの、見た目からして少年少女然とした2人組である。となると店に入るという選択肢は必然潰れてしまい、そうなると選択肢などほぼないに等しい。

 対案も考えつかないわけではないが、もっとダメそうであることを考えるとこれしかなかった。

 どうしてこんなことになったのか。くたびれた溜息を漏らしながら、犬彦は投げやり気味に言った。

 

「じゃあ、ウチ来るか?」

 

 

 

 

 

「お、お邪魔します……」

 

 先に玄関の土間に踏み入った犬彦が、思わずといった様子で振り返った。

 

「何でそんなに緊張してんだよ……ビビるわ。普通にしててくれよ」

「き、緊張なんてしてないわよっ」

「いや、まあいいけどさ……」

 

 緊張云々は、繰り返し言ったところで水掛け論になるだけだろうと早々に諦めた。

 どうせ犬彦と小夜子しかいない部屋だ。両親がいるならともかく、同年代の面々しかいないのだからそのうちいつもの調子に戻るだろう、と放置を決め込む。

 

 それにしても友達の家に遊びに行くくらいでこれとは、ますます箱入りっぽいな、と犬彦は密かに疑いを強めた。

 素直ではないものの、明るく善良な小南のことを考えるに、友達付き合いがないという線は薄いだろう。となると単純にこういう経験が少ないだけか、親から止められているか、あるいはボーダーに尽くしていたか。

 小南にかかっている容疑を考えると2番目の線も捨てがたい。前に聞いた、古参メンバーの1人らしい話を聞くと3番目の線も考えられる。

 

 今度従兄弟らしい嵐山先輩にでも話を聞いてみようか、と結論づけて思考を打ち切る。すると不意にポケットの中のスマホが着信を知らせた。画面には小夜子の名前がある。

 

「もしもし」

「誰? お母さん? それともアウトな方?」

 

 足音で来客を悟ったらしく、鋭く囁く声には緊張が走っている。

 突然足を止めて電話に出た犬彦を背後の小南が不思議そうに見ている。無理からぬ反応だ。こうして電話に出ている犬彦自身も理解はしているが納得はしていないのだから。

 深々とため息をつきながらそれに応じた。

 

「どっちも違うわ。というかアウトな方は流石に哀れみがすぎるからやめてやれよ」

「ならとりあえず身内の線は消えたわけか……ほ。そうなると誰になるのさ。身内以外っていうと、友達? まさか」

 

 両親の線が消えた途端、嘘みたいに流暢に語る様を見て思わず天を仰いだ。

 

 ――嫌われすぎだろ親父……。いや無理もないけどさ。

 

 幼少の頃からのエピソードを探せばいくらでも原因がゴロゴロと出てくる。そういう関係なので今更同情を寄せる理由もなかった。

 電話の向こうのダメ姉はかなり失礼なことを平然と吐いているが、これでもトーンは真剣そのものなのである。お互いを熟知し、交友関係を知り尽くしているからこその真顔の発言。今更腹を立てることもないがこの調子で社会に出られるのか弟としては不安で仕方がなかった。

 再び声を潜めて小夜子が問いかけた。

 

「男? 女?」

「……女だけど」

「なっ……!」

 

 鋭く息を吸う音が聞こえたと思ったら電話が切られた。リビングが俄かに騒がしくなり、慌ただしい音を立てて廊下に繋がるドアが開かれる。

 犬彦の背後に立つ小南を認め、小夜子の目が大きく見開かれた。

 

「ひっ、酷いわ犬彦っ! 私とのことは遊びだったのね!」

「俺は何も疾しいことはしていない!」

「む。素の反応っぽくありながらもそれでいてこっちの演技に付き合った回答。やりますねえ!」

 

 物陰からこちらを悔しそうに覗く不倫相手の真似から一転、へーいへーいと子供のようにハイタッチをねだる小夜子。

 適当にあしらっていると、どさっ、と背後で響く鞄が落ちる音。

 首を傾げた2人が仲良く振り返る。――驚愕に顔を引きつらせた小南が細い指を突きつけて叫んだ。

 

「あ、あんた達そういう関係だったの!?」

「待て待て待て、俺は何も疾しいことはしていない!」

「姉弟でなんて、不潔よ不潔! 変態! 変態!」

「チクショウ、ネタが通じねえ奴はこれだから! おい演技は終わりだ、お前からも何とか言ってやれ!」

「ちょっと犬彦! 誰よこの泥棒猫は!」

「お前もここぞとばかりにノってくるんじゃねえ! 収拾つかねえだろが!」

 

 この後、喜色の色を隠しきれていない小夜子のかき回しに翻弄されつつも何とか小南の誤解を解くことに成功した。

 かかった時間は15分。言うまでもなくトップレコードであった。

 

 

 

 

 

「意外と片付いてるのね」

 

 リビングに踏み入りながら感心したように小南が言った。

 他人からそう褒められると、ダンボールだらけの初日を思い出して犬彦は何だかとても感慨深い気持ちになった。

 元々小夜子が買い集めたゲーム以外にモノが少なかったこともあり、不要なものを捨てて整理してしまえばそんなに多くは残らない。こざっぱりとしたリビングに目立つのは大型のテレビとゲーム機を収納したラックくらいのものだった。

 きょろきょろと物珍しそうに周囲に目をやる小南に、腰に手を添えた小夜子が得意げに胸を張って鼻を鳴らした。

 

「ウチは犬彦がそういうの気にしてますから。弟が有能で姉の私も鼻が高い」

「まあそうだな。姉が何もしてくれないからな」

「痛烈なカウンターが姉の心に大ダメージ! ところで今日はどうしたの? こんな時間に小南先輩が来るなんて珍しい」

「必死さが滲み出てんぞ」

「……犬彦さん、もしかして割と怒ってます?」

「答える必要ある? それ」

 

 低く呟くと、逃げるようにさっと目を逸らした。

 要らない揉め事で無駄に浪費した体力と時間の恨みを犬彦は決して忘れない。

 

「ちょっと犬彦に話があって。急に押しかけて来て今更だけど、こんな時間に来て大丈夫だった?」

「全然大丈夫ですよー。私達しかいませんしこの時間はいつも徹ゲーやってますから」

「徹ゲー?」

「徹夜でゲーム。朝までぶっ通しでやる予定なんですけど、やります?」

 

 咄嗟の判断に困ったらしい小南がコメントを求めるように犬彦を見た。

 犬彦は少し考えて、

 

「後にしよう。話がどれくらいかかるかわからんし、とりあえず小夜子だけでやっててくれ」

「ほいほい」

「やるかやらないかの同意を求めたんじゃないわよっ。ていうかあんた達、いつもそうなの?」

「流石に平日はやりませんけど、週末は大体。防衛任務とかない限りは基本そんな感じですけど?」

「平然とダメなこと言われてる気がするんだけど、私がおかしいのこれ……?」

 

 納得いかない表情をして唇を曲げる。

 もっともそれは志岐家の内情を知った人間がとるおおよそ普通の反応だったが、当然不利な情報を口にするはずもなく犬彦はさて、と手を叩いてキッチンに向かった。

 

「とりあえず時間もアレだし先に飯にしよう。ちょっと時間かかるから小南は小夜子と遊ぶなりしててくれ」

「え? あんたが作るの?」

 

 エプロンを手にする犬彦の姿に小南が目を丸くして素っ頓狂な声を上げる。

 言ってなかったっけな、と首を傾げながら犬彦は頷いた。

 

「料理できるの?」

「まあ、人並みには」

「安心して! 犬彦の家事スキルは本物だから! 何せ私の家事スキルがゼロなので犬彦が上げざるをえなかったんだからね!」

「あんた、苦労してるのね……」

 

 変な同情を買ったようだがその効果はあったらしい。目頭を押さえながらの小南の言葉を背にキッチンに立つ。

 そこそこ夜も遅いし、相手は小南だ。あまり凝った料理にする必要もないだろう。

 

 

 

 

 

 犬彦特製の焼きそばを食べ終えた後は、ようやく本題の『どうやったら強くなれるか会議』だ。

 座卓の上にノートパソコンを立ち上げ、訓練の様子を録画した映像を流して観察する。

 犬彦と小南とで肩を付き合わせて食い入るように眺めていたのだが、気付けば小夜子も興味深そうに目を輝かせて画面を覗き込んでいた。

 2合、3合で何度も切り捨てられて行く犬彦を見ながらの最初の言葉は、

 

「これどう考えてもレベルアップポイントだよね。一度前のステージに戻ってレベル上げに勤しまないと」

「ああ、明らかに運営がここで難易度釣り上げて来た空気あるよなこれ。……でもこれ最初のステージなんすよ」

「クソゲーかな?」

「バグと言われても納得しちゃう。早く修正パッチ当ててほしいんだけど」

「いやいや、ゲーマーとしてはここでレベル上げ以外の抜け道を探すのも全然アリだと思うんだよ」

「ほう。たとえば?」

「毒入り煙幕叩きつけて動きを止めるとか」

「お前何でこの動画見てるか覚えてねえだろ」

「特殊コマンドで小南先輩の足元の床がパッと抜けたりしないかなあ」

「そこまでしないと勝てねえのか……いかん、なんだか泣けてきた」

「あんたたち真面目に見なさいよっ」

 

 いつものノリで小夜子と話していたらついに小南の雷が落ちた。

 確かに側から見たらそう見えるかもしれないが、頭から尻までふざけていると思われるのは心外である。

 

「いやいや、じっと黙って見てたってわからんでしょ。第一それでわかるようなら側から見てたレイジさん達が気づかないわけがない。違うか?」

「あんた達の話、全然わからなかったけどとても真面目に話してるようには見えなかったんだけど」

「小南先輩はゲームやったことないんです?」

「ないけど」

「なんて勿体無い! 人生の半分は損してますよ。実際、私の人生はほぼほぼゲームで形作られたと言っても過言ではないです」

「口にする人間のせいで説得力がカケラもないんだが」

「犬彦、シャラップ!」

 

 まあこれは放っておいてだな、と犬彦が小南に向き直る。

 意外にも真摯な目に小南が鼻白んだ。

 

「どんな馬鹿話でも会話してるってことが大事なんだよ。1人の頭の中で考えつくことなんてたかが知れてる。人が違えば、視点も変わるし感想も意見も変わるんだ。俺が考えもしなかったことがポロッと会話の中に零れ落ちることもあるから案外馬鹿にできないぞ」

「会話……ねえ」

 

 犬彦の言葉を受けて、小南は顎に指を添えて考え込む仕草をした。

 頭ごなしに拒否されるかと思ったが、顔色や雰囲気は意外と肯定的である。こういうところもこの先輩を嫌いになりきれない理由なのだった。

 

「私もやった方がいいの? それ」

「バッチこいだ。身内の外からの視点ってのがすでに新鮮だからな。ゲーマーじゃないってところもいい」

「あんた達の話、さっぱりわかんないんだけど」

「気にするなって。こういうのはノリが肝心なんだよ」

「いっそ見ながら教えましょうか。この機会に是非小南先輩もゲームの魅力を知ってって欲しいですよ」

「そんなに楽しいものなの?」

 

 その質問には、小夜子と口を揃えてこう返さざるを得なかった。

 

「それはもう、とびっきりに」

 

 

 

 

 

「んう?」

 

 朝日を受けて小南は薄らぼんやりと目覚めた。

 身体はクッションの効いたソファに沈み込んでいる。寒くはなく、ほんのり温かい。いつのまにか毛布をかけられていた。最近干したばかりなのか、お日様の香りが鼻に付く。

 

 ――どこだっけ、ここ。

 

 半覚醒の意識で小南は考える。

 そう、昨夜は犬彦の家を訪ねて、夜も遅い時間から話し合いを始めた。その後話の流れで小夜子がゲームを持ち出した辺りから記憶が飛び始めている。恐らくそのまま寝入ってしまったのだろう。

 隣を見ると、犬彦の姉である小夜子が長い黒髪をソファに垂らして寝入っている。毛布に包まれ、緩く笑んだような寝顔はきっと幸せな夢を見ているのだろうことを悟らせた。

 

 ……改めて見ても本当によく似ている。

 昨夜小夜子と顔を合わせた時、小南は内心とても驚いていた。まさに犬彦を女性にしたらちょうどこんな感じになるのだろうという顔立ち。恐らくどちらかがどちらかに合わせて変装したら今の小南にはきっと見分けがつかないに違いない。

 今度アイツ女装させてみようかしら、とぼんやり考えながらかけられていた毛布を剥いだ。

 

「お、起きたか。早いな」

 

 キッチンから声がかけられた。

 見ると昨日と同じくエプロンを着た犬彦が小南に小さな背を向けて料理をしている。

 

「おはよう。今何時?」

「おはよう。もうすぐ9時になるんじゃねえか? 結構遅くまで起きてたはずだが、朝はきちんと起きれるのな、お前」

 

 9時。その時間はいつも7時か8時には起床する小南に軽い衝撃をもたらした。

 それほど疲れていたということだろう。夢さえ見ない眠りから覚めた小南の頭はひどく重かった。

 

「そういうあんたは何時頃起きたのよ?」

「7時くらいだな」

「……あんたこそ早いじゃない。あたしより遅くまで起きてたはずでしょ?」

「まあ慣れっこだからな。習慣みたいなもんだ。いつもならこの時間までぶっ通しでゲームしてることを考えれば、このくらいは当然」

「あんた達マジで早死にするわよ……」

「なあに、昼に寝れば帳尻は合うだろ」

「完全にダメ人間の発想じゃない」

「そのダメ人間が朝飯作ったわけだけど、いらねえのか?」

 

 言葉に反応したのか、小さく小南のお腹が鳴った。

 彼ら姉弟と違って規則正しい生活を送っている小南には正常な反応である、が。……何もこんな時に鳴らなくても、と小南は顔を赤く染めてやけ気味に叫んだ。

 

「いる! いるわよ!」

「そんな噛み付くように言わんでも……ほら、できたぞ」

 

 チン、と軽い電子音。レンジから取り出したトーストを皿に乗せ、もう片方の手にサラダを持ってやって来るのが不思議と様になっている。

 

 ――しっかりしてるんだ。

 

 本人に言ったら怒られること間違いなしだろうが、今までの小南にとっての犬彦への印象は年相応のやんちゃな子供、というものだった。小柄な見た目に普段の付き合い方を考えれば、どうしたってそれ以上にはならない。

 しかしこうして一晩、特に家での犬彦の振る舞いを見ているとまた違ってくる。

 家事を一通りこなし、甲斐甲斐しく姉の世話を焼いているのを見ると世話焼きのお兄さん、という印象の方が強い。

 弟なのに兄、というのも変な話だがこの姉弟の場合その方がしっくりくる。背伸びして手伝いをしているだけならともかく、一連の動きは手慣れている空気を感じた。これが彼らにとっての日常なのだろう。

 

 ――週末の日課は徹ゲー、と平然と口にしているような変なところもあるけどね。

 

 その辺りは年相応なのだろうか、と小南は運ばれたトーストに口をつけた。

 

「お姉さん、小夜子は起こさなくていいの?」

「徹ゲーしたわけでもなし、そのうち起きてくるだろ。昼までには起こすさ」

 

 未だにソファで寝こけている小夜子を見ながら聞くが、犬彦は姉のことより自分のトーストの味付けに夢中らしく、マーガリンの上からジャムを塗る手を一切止めないままに言い放った。

 

「適当ねえ」

「休みだし、予定があるわけでもないしな。ところでお前はどうするんだ?」

「これ食べたら一度帰るわ。着替えたいし、一応の方針は立ったものね」

 

 立たなかったら昼まで続投の構えだったが、幸いにしてそれはなくなった。ならいつまでもここに残る必要はないだろう。

 

「本部って休みでも空いてるのか?」

「空いてるけど、何?」

「午後から暇だからな、一度顔出そうと思ってる」

「自主練? 別にいいと思うけど、休みだしほとんど相手なんていないわよ?」

「1人でも筋トレはできるし、立ち回りくらいならやれるだろ」

「休み明けでいいんじゃない? 急いでやる必要もないと思うけど」

「そうか? ……なんか意外だな。お前なら積極的にやれって言ってくるものかと思ってた」

 

 不思議そうに、あるいは気味悪そうに犬彦は言った。

 確かに小南自身、本来であれば犬彦の言う通りの反応をするところではあるのだが。

 

「あんたって、どうして強くなりたいの?」

「強く? またいきなりな質問だな」

「お金のためだったり身内の人を殺された恨みを晴らすためだったり、色んな人がいるけど、あんたってそのどれでもないでしょう? そこまでお金に不自由しているようには見えないし、何より小夜子がすでに働いているんだもの。滅私奉公ってタイプでもなさそうだし、なのにそこまで頑張るのはどうしてなのかなって」

 

 一晩を通して犬彦と話し合い、その日常を見て、確かに犬彦への印象は変わった。でもそれはあくまで犬彦の人となりを知ることができただけにすぎない。

 大きなバックボーンがあるわけでもなく、人よりトリオン能力が高いだけの普通の子供だ。ボーダーでの活動もいいとこ部活の延長上でしかなさそうで、必要に駆られる理由もないのに頑張るのは何故なのか。それが小南には不思議だった。

 小南の問いを受けて、犬彦は腕を組んで首を傾げた。

 言葉にはしづらいのか、少し間が空く。

 

「憧れたから、じゃダメなのか?」

「それだと、別にあたしに教わる必要はないんじゃない? 要は玲の技術を学べればいいわけでしょう?」

「まあ、そうだけど。でもお前のも……その、良いと思ったわけで」

 

 尻すぼみに口の中に消えていくが、言いたいことは伝わってくる。気分は悪くないが、答えとしては物足りない。

 無言で促すと、そうだなあ、と背もたれに深く背中を預けて、夢見るようにぽつぽつと呟く。

 

「まあ今になって思い返してみれば、最初は興味からだったな」

「興味? ボーダーの活動に、ってこと?」

「それもあるが、どっちかというと小夜子が働いてる職場に興味があった、という方が正しいな」

「……シスコン?」

「違えよ。小南は見たこと……ないのか? あるかもしれんが、あいつは普通に働くにはちょっとばかり障害が多すぎるからな。最初はすぐに逃げ出すんじゃないかと思ってたけど、これがどうしてよく続く。となれば、興味が出てくるのも無理ないだろ?」

「障害? ……って、聞いてよかった? これ」

 

 隠せるようなものでもないしな、と犬彦は肩をすくめて続ける。

 

「異性恐怖症で、コミニュケーションも苦手、ゲームをやって育ったおかげでパソコンは扱えるけど、人に言える得手なんてそれくらいのもんだ」

「あんたにも当てはまるんじゃない? それ」

「そうだよ。だから興味が出たんだ」

 

 茶化すつもりで口にした言葉に、犬彦は意外にも真摯な声でそう返した。

 空を仰いで、目を決して合わせようとしない。呟かれる声に小南は思わず口を噤んだ。

 

「小夜子があんまりにも楽しそうだったから、似た者同士な俺も小夜子みたいに楽しくやれるんじゃないかってな。最初のきっかけはそれだ。学生の頃から働けて給金が出るってのも魅力的だったし……で、小夜子に無理言ってボーダーの模擬戦を見せてもらって、那須先輩の技に憧れた」

「……入る前の話? だとしたらマズイんじゃないの、それ」

 

 いくら身内とはいえ、内部の情報をそう気軽に部外者に見せてはいけないだろう。たとえ模擬戦の情報であっても、だ。

 ジト目で咎めると、犬彦とて危ない橋を渡っているのは理解しているらしく、それは言わない方向で一つ頼む、と目を逸らした。

 シリアスめな話をしている割に肝心なところで締めきれないなあ、と小南は頬杖をついて顎を乗せる。

 

「まあそれは貸し1として、ね。あんたの入ってきた経緯はわかったけど、それで熱心に頑張る理由は何なの?」

「借りてもいないのに貸したことになるのか……。とにかくそういうわけだから、入った理由はふんわりしたものだった。憧れたから、興味本位で、小遣いを稼ぎたいから……そんな理由しかなかったし、だから強くなりたい理由も、やるなら1番を取りたいから、ってくらいのものでしかなかった」

「なかった、ってことは今は違うの?」

「詳細は省くけど、この前那須先輩とそういうことを話す機会があった。それでちょっと、考えが変わった」

「どんな風に?」

「お前が言うところの、熱心に頑張る理由が欲しいと思ったのさ」

「……んん? 熱心に頑張る理由が欲しいから熱心に頑張る……?」

 

 無限に続いていきそうな言葉の連なりに小南は思わず首を捻った。

 理由が欲しいのが頑張る理由だなんて、なんだかよくわからない言葉だ。

 

 眉根を寄せる小南とは対照的に、そんなに悩むことだろうか、と犬彦は教鞭を振るう教師のように指を立てて言葉を続けた。

 

「さっきも言った通り、俺にたいそうな理由なんてものはなかったんだ。身体を鍛えておきたいから適当な運動部を選ぶとか、そんな曖昧な理由でしかここにいることを説明できない。けど那須先輩の理由を聞いて、それじゃダメだと思ったんだ。明確な目的がないと、本当の意味で強くなれない……なんて、俺もよくわかってねえけど、何となくそう思ったんだよ」

「その明確な目的ってのが決まってないのに、熱心に頑張るの?」

「……決まってないから、足掻くしかない、が正解だなあ。頑張るのをやめたら、それこそ目的なんて手に入れられない気がするだろ」

 

 渋い顔をして犬彦は言った。

 苛立たしげに頭を掻くのを、小南はじっと目を細めて見つめた。

 

 ――あんまり良くないわね。

 

 漠然とした感覚ながらも、小南は今の弟子の状態をそう判じた。

 目的や理由を求めようとするのはいい。けれど今の犬彦の状態はあまり健康的ではないように感じた。

 止まり木も見つからず、果てのない大海の上を渡る鳥のようなものだ。足掻くのをやめれば墜落する。それがわかっているから足掻くのをやめられない。

 それはあまりにも救いがない。けれどやめさせるのもそれはそれで違う気がする。

 

 理由はどうあれ、犬彦は今目的を探すために行動しようとしている。

 必要なのは道しるべだ。

 この選択が正解なのかはわからないが、もとより理性的な判断など向かないタチだ。

 小南は勘の赴くままに口を開いた。

 

「あんたとしては、今のまま頑張っててもその頑張る理由ってのは見つからないと思ってるわけよね」

「……見つかればいいなあ、とは思ってるけどな」

 

 先行き不安、と考えてることは明白だった。

 

「ボーダーに来てから何かやった?」

「C級の訓練に教養に……お前との特訓か?」

「ほぼ身体鍛えることしかしてないわね。だとしたら無理もないんじゃない? 頑張る理由も何も、何のために鍛えてるのかも理解してないんだもの」

近界民(ネイバー)と戦うためだろ?」

「それがよくわかってないって話よ。近界民(ネイバー)と戦うことは手段であって目的ではないでしょう? 市民を守るために戦う、が模範解答じゃない?」

「あー……そうだな、その通りだ」

 

 気まずそうに頬をかく犬彦にため息をつく。

 歳を考えれば無理のない反応だが、仕事をする上では、特に公の場でしていい反応ではない。

 

「別にいいわよ。人は皆自分のために戦うものだし、入ったばかりでそういう意識を持てってのが無理だってことくらい理解してるわ。だからきっと、まずあんたに必要なのはきっかけでしょうね」

「きっかけ?」

「B級に上がれば防衛任務が入ってくるし、近界民(ネイバー)が襲ってくれば最前線に立って迎撃することになる。市民を助けるために、守るためにね。その時に感じたことをよく覚えておきなさい。それがあんたにとっての原動力になるはずだから」

「原動力……」

 

 手のひらを広げて視線を落とす。

 そこに何が見えるのか、何が掴めるのかを思い馳せるような茫洋とした表情。

 

「……それまでは結局、今まで通り訓練するしかないってことか」

「まあB級にはさっさと上がりなさいよ。訓練生と正隊員とじゃやれることがまったく変わってくるんだから、何をするにせよB級に上がらなきゃスタート地点にさえ立てないわ」

「きがるにいってくれるなあ」

「ボーナスポイント与えられてる奴の言うセリフじゃないわね。それまで手持ち無沙汰だって言うなら……そうねえ」

 

 細い顎に指を添えて、小南はそこで言葉を途切らせた。

 対面の犬彦は、小南が何を口にするのか興味があるかのようにじっと見守っている。

 

 バックボーンがない人間にとってのわかりやすく高潔な目的といえば、市民を守るという使命や正義感だろう。とはいえそういうのは教えられて決められるものではないし、今この場での答えとしてはそぐわない。

 むむむ、と唸りながらも小南は考える。

 経験も説得力もない、感覚所以の考えだ。自信などあるはずもないし、とんでもない間違いなのかもしれない。

 しかし――小南は犬彦の師匠であると決めた。ならばたとえ自信がなくても、間違いかもしれなくても、自身が考えうる限りの答えを口にするべきだろう。

 重要なのは、視点が真っ直ぐ一点にしか向いていないようなこの弟子の視野を広げることだ。

 

「訓練から離れたところ……そうね、見学でもしてみたら?」

「見学?」

「ボーダーの。どうせあんたどこに何があって、どんなことしてるのかって言うのも全然把握してないんでしょ?」

 

 言葉に詰まった様子でさっと目を逸らす犬彦。本当にわかりやすい弟子だ。

 

「小南は把握してるのか?」

「まあだいたいはね」

「嘘だろ……」

「これでも古株なんだからね。細かいところはわからなくても、おおよそのことは知ってるわよ」

 

 裏切り者、と呟いて犬彦の額がテーブルに沈んだ。

 馬鹿にされたことは確定なので追い討ちで脛を蹴り飛ばしておく。

 

「訓練するのもいいけど、それだけじゃ足りないのはあんたが思ってるとおりだと思うわ。だからまずはB級に上がって、それから色々勉強してみなさいよ。目的も大事だけど、無理して見つけるものでもないと思うわ」

 

 取り繕った目的ほど脆いものはない。今の犬彦のような状態で作ったところで、きっとそれは蝋燭の火より頼りない。

 真っ直ぐなのもいい。正直なのもいい。けれど直情的であってはいけない。

 犬彦に今必要なのは鞭打って走ることではなく、息を整えて周りを見る時間だろう。

 戦いのことしか頭にないのならそれから離れさせる。安直な考えだが意外と悪くない気がした。

 

「……感動した。小南がすげえ師匠っぽい」

「師匠っぽいじゃなくて師匠なのよ馬鹿!」

 

 額に手をやって感動に震える犬彦の向こう脛にもう一撃。

「2回目は反則だろ!」と激痛に悶えているが小南の知ったことではなかった。

 

 

 

 

 

 




 お察しかと思いますが、異性恐怖症のために犬彦はたまに感覚がズレていることがあります。
 異性の家に遊びに行ったら普通は小南みたいに緊張したり戸惑うと思うんだ……。

 それはそれとして、行き先が決まってからの道中の小南の表情を妄想するととても幸せになれますので是非どうぞ(ゲス顔
 ついでに異性の家にお泊まりして朝帰りとかいう地雷ネタが生まれたのでいつか使いたいですね(暗黒微笑

 ちょっと次の展開についてはどうしようかなーと悩んでます。
 とはいえ今回時間かけてしまったので、一週間以内には上げたいかなと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 志岐犬彦③

お待たせしました、溜め回です。ちょっと短め。
タグが追加されました。


 

 

 

「そういや、人によっては遠征も1つの魅力になるんだろうな」

 

 ソファに寝転がり、片手にボーダーが配布している広報誌を手にした犬彦がぽつりと呟いた。

 遠征とは、トリガー技術の流用元である近界(ネイバーフッド)に赴き現地での探索・交渉を行う仕事である。その重要性は言うまでもなく、未開地における危険な任務となることからボーダーの中でも選り抜きの精鋭が選抜される。

 とはいえ、この情報については機密事項とされ、一般に出回っているボーダーの広報誌には載っていない。では何故犬彦が知っているのかというと、小南から聞いたためである。ついでに小南にも遠征に興味があるのか聞いてみたものの、特に関心のある様子ではなかった。やはり皆が皆興味があるというわけではないのだろうが、未知なる世界に赴くことは人によっては強い目的となることもあるだろう。

 

 返答を期待したものではない独り言のつもりだったが、「なるだろうねえ!」と語尾を上げた奇妙な返答がそれに応じた。コントローラー片手に画面にかじりつく小夜子のものだ。

 

「A級に上がらないとだからハードルは高いだろうけど、異世界旅行楽しめるなら多少のリスクは承知の上で――あちょ、ここでスタンは反則でしょ! ヘルプ! ヘルプ――!」

「返事するかゲームするかどっちかにしろよ」

「じゃあゲーム!」

「ブレない返事嫌いじゃないよ。……確かにロマンある仕事だけど、実際にやれって言われたらちょっとなあ」

 

 お宝求めて星の海を航海、なんて響きだけを聞けば確かに魅力的で、心が踊らないこともない。

 しかし、犬彦にとっては少なくとも今のところは天秤が傾くほどの衝動は感じられなかった。

 犬彦は犬彦なりに今の生活に愛着を持っていたし、地続きすらしていない果ての世界に旅立つことに人並みの抵抗はある。

 

「何より近界(ネイバーフッド)にはゲームないしね。ゲームがないなら仕方ない」

「人の思考読んだ上に勝手に結論づけるんじゃないよ」

「でも正解でしょ?」

「否定はしねえけどさ!」

 

 イェーイ、と姉弟仲良くハイタッチして、一息。

 モニタを見れば小夜子の方も一息ついたらしく、ソファの端から身を乗り出して広報誌を覗き込んできた。長い髪がふわりと鼻先を漂ってこそばゆい。

 

「広報誌なんて持ち出してどうしたの?」

「師匠からありがたーいアドバイスもらってな。もうちょっとボーダーのこと知ろうかなと思って」

「簡単な説明くらいなら仮入隊期間の時に受けたんじゃないの?」

「何があるのかってのと、だいたいの位置くらいはざっくばらんに説明受けたけど、もうちょっと踏み込んでみようと思ったのさ」

 

 ふうん?と腑に落ちなかった様子の小夜子が首を傾げた。

 だからこんなに近い距離で首を傾げるなよ、と小夜子の頭を抑えて脇へ押しやった。

 

「変なアドバイスだね? この間まで絶賛強化期間中みたいな感じだったのに」

「頑張るにせよ、何かしらの目標がないとやり甲斐がないだろ?」

「んん? 強化期間と今広報誌を見てるのが繋がらないんだけど、どういうこと?」

「ああ、そういや言ってなかったか」

 

 犬彦は先日那須先輩と出かけた時にあったやり取りと、小南とのやり取りをかいつまんで説明した。

 ほうほう、と感心したように小夜子が何度も頷く。

 

「それで強くなる以外にも目を向けてみたらって? 小南先輩も意外と良いアドバイスするね」

「お前ナチュラルに酷いこと言うね」

 

 とはいえその認識は犬彦自身がもらした不平不満がもとであることは間違いないため、間接的には犬彦のせいと言えた。

 でもさ、とコントローラーを操作しながら小夜子が呟く。やけにボタンを押す音が聞こえると思ったら装備品を開発していた。

 

「それって、要は部活で頑張ってる人が学校のパンフ見るようなものでしょ? そう考えるとどうなのかなーって思うんだけど」

「但し学校のことをあまり理解してない、って注釈つくとどうよ」

「アホなのかな?って思う」

「火の玉ストレートやめてくれる?」

 

 思いの外ダメージが入って泣きそうになった。

 だが、この例え話はわかりやすい。年若いうちから仕事に就いたこともあり、今まではボーダーが未知の組織のように思えていたが、学校に当てはめてしまえばストンと理解できた。

 となると、このまま学校にたとえて考えていくのが一番わかりやすそうだ。

 

「学校の部活に入って上手くなるために頑張ってる人が、頑張るための目標が欲しいと言い始めました」

「……え? すでに頑張ってるんでしょ? 大丈夫なのその人」

「何故だろう。このイメージの仕方俺にクリティカルダメージばかり叩き出すんだけど」

 

 行程は間違ってないはずなのだが、いつの間にか傷口を広げる地獄になっている。

 この痛みは覚えがある。黒歴史を掘り返される痛みのそれだ。

 ということはまさか、自分の今までのボーダー生活は黒歴史ばかり……?

 

「そこに気付くとは……やはり天才……」

「おういい加減にしねえとその長い前髪1本ずつ引っこ抜くぞコラ」

「大丈夫! 君の前にいるのは人生単位で黒歴史真っ最中な先達だからネ!」

「お前もうちょっと自分のこと大事にしてあげろよ」

 

 まさか自分を下げてまで犬彦を上げようとするとは恐れ入ったが、いつまでも不毛な傷の舐め合いをしているわけにもいかない。

 小夜子にもダメージが入って痛み分けとなったところで話を戻した。

 

「部活の目標って言うと、全国大会?」

「ボーダーだとA級とか、遠征とかか?」

「遠征は興味ないの聞いたけど、 A級はどうなの? それこそいつもの男児たるもの理論で合致しそうなものだけど」

「何だよその名前……まあその通りだけど、それは何か違うんだよなあ」

「というと?」

「A級は言うなら称号であって、大事なのはそのランクに上がって何がしたいか、じゃないかと。上がることが目的ならそれは部内の中で一番強くなりましたよ、ってのと変わらないんじゃないか」

 

 何がしたいか。犬彦の命題はまさにそれだ。

 

 頂点と、そう呼ばれることに憧れはある。

 けれど犬彦は強さ以外にも道があることを知ってしまった。

 自分にも何かがあるのではないかと、犬彦は可能性に魅入られている。

 

 ふと気付くと、ボタンの音が止んでいる。ならばクエストを受注するために行動しているのかと思いきや、小夜子は画面を一旦停止して唸り声を上げている。処理落ちしたパソコンのような不穏な響きだ。

 

「難しい……。目標も何も、ボーダー入ってくる人って大抵は何も考えてないか、正義感か、恨みとか復讐心くらいしかないと思うんだけど。あとお金とか。那須先輩のはむしろ結構なレアケースだから言い方は悪いけど参考にならないまであるんじゃない?」

「……まあ、言いたいことはわかる」

 

 自分と同じ立場、ボーダーの戦闘員という括りで考えるのなら、入ってくるのはほぼ20歳以下の年若い少年少女だ。というのもトリオン能力が成長するのは成人するまでであり、それ以降は緩やかに衰えていくものであるからして、成人してから志す人がほとんどいない。

 何が言いたいかというと、そんな未成年ばかりの彼らが確固たる展望を持つものかと言われたら、答えは否だろう。

 犬彦より上か下なのかはともかくとして、大なり小なり同じような感覚であるのは間違いない。

 まあそれで話を切ったらあまりにも生産性がないからしないけどさ、とついにコントローラーを放り出して小夜子はこちらを振り向いた。

 

「ボーダーを学校だとするなら、何を学ぶべきだと思う?」

「何を学ぶべき?」

 

 問いかけに広報誌を脇にやって首を傾げた。

 学校が何を学ぶべきかといえば、勿論勉学だ。だがその答えは今の状況にはそぐわないだろう。

 しばらく無言を貫く犬彦に、チッチッ、と気障っぽく指を振りながら小夜子が勿体ぶって口を開く。

 

「協調性、集団生活に決まってるじゃあないか! 切磋琢磨し、共に競い合う仲間。人の絆を学ぶことが学校の本懐でしょう?」

「お前がそれを口にするのか! よりによってお前が!」

 

 鳥肌が立つほどの違和感しかない。口にする人によって印象が変わる典型例だった。

 

「で、それがどうした?」

「要はわかんないなら人に聞いたら?っていう意見ね。私達はあんまり考えてないだろうと思い込んでるけど、実はもっと考えてるかもしれないでしょ? 学友同士で将来の話をするのは青春モノの王道なんだし、ならそれに倣うのもアリだと思うんだよ」

「王道、ねえ」

 

 腕を組んで考え込む。

 直感はアリだと判断していた。古今東西、学園モノで少年少女らがその手の話に花を咲かせる展開は枚挙に暇がない。

 何を考えてボーダーに入ったのか、何をモチベーションにしているのか、聞いてみるのも悪くないだろう。

 だがしかしこの方法には重大な問題がある。犬彦は厳しい面持ちをして口を開いた。

 

「お前、俺たちがコミュ障だってこと忘れてないか?」

「それを言っちゃおしまいでしょうがっ!」

「理不尽の塊!」

 

 自分で提案しといて逆ギレするなよ、と思いはするがこれもやはりいつものことだ。

 ため息1つで切り替える。

 

「まあ、そのことを差し引けばやってみる価値のある案だとは思うけど、どこから聞けばいいんだ? 同期なんて似たようなのばかりだろうし、かと言ってそのことを聞きに行くためだけに先輩方を訪ねるのはハードル高いぞ」

 

 真っ先に思い浮かぶのは小南を始めとする玉狛支部の面々、それから嵐山先輩だろうか。あの優しそうな先輩であれば無下に断られることはないだろうという期待がある。

 そんなところだろうねえ、なんて無難な答えが返ってくるかと思ったのだが、小夜子はいやいや、と俄かに身を乗り出してきた。

 

「それに関しては私から1つ提案があるんだよ」

「提案?」

 

 珍しい。ここまでの流れを計算に入れての提案とは。

 しかも自信満々のようで、口元には余裕の笑みが浮いている。

 

「勝算は?」

「犬彦次第だけど、順調に行けば上の人脈が一気に広がると思うね」

「マジかよ」

 

 頼もしくはあるが、経験則で言うと2割……いや3割ほどの不安もある。こういう顔をしておいてロクでもない策が出てきたことも一度や二度ではない。

 だが、小夜子の語る将来の展望には流石に目を剥いた。この段階から上の人間に話が通じるようになるというのは尋常ではない。

 ということは同時にそれなりの博打でもあるはずなのだが、さて一体どんな策なのか。

 

 先を促すと、小夜子は犬彦の肩を力強く掴んでこう言った。

 

「犬彦、オペレーターになってみない?」

 

 

 

 




 オペレーターも真面目に書くと面白いポジションだと思ってます。いわゆる『椅子の人』っぽいポジションで格好良いと思うんですけどね(小並感
 というわけで次回とある部隊に突撃します。どこに突撃するのか楽しみにして頂けたら幸い。

 今回短かったので次回は早めに投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話 仁礼光

 ――後に犬彦はこう尋ねた。何故初手にこの人を選んだ、と。

 ――小夜子は当然のようにこう答えた。その方が面白そうだからに決まってるじゃん、と。


 

 

 

 オペレーターは各員の通信を取りまとめ、情報共有・支援することが基本の仕事になる。

 支援できる情報は多岐に渡り、戦場のマップは勿論、そこから狙撃位置や敵の位置を割り出すことも可能だ。

 狙撃されれば弾道解析してある程度の精度で敵の位置をマークすることもできるし、更には逃走経路や各員の行動から未来の位置まで計算して伝えることができる。

 

 戦闘員の力量をフルに発揮させるためになくてはならない存在であり、戦闘員と同じく腕を問われるポジションである。

 やれるかどうかはともかくとして、話を聞きに行くのは吝かではない。

 しかし1つ問題があった。

 

 ――女性しかいないんですよねえ。何で俺ここにいるんですかねえ。

 

 作戦室の扉の前に立った犬彦は泣きそうな面持ちで立ち尽くしていた。

 何でも統計から並列処理能力が高いのが女性だからとかいう理由で、現在ボーダーにいるオペレーターはほとんど女性ばかりだ。

 コミュ障なのに異性に話を聞きに行くことについて考え直すよう口にしたのは一度や二度ではきかなかったが、結局やけに押しの強い小夜子に押し出された格好となった。

 

『先方に話は通してあるから、この時間に訪ねて行ってね。事情が事情だしこっちの事情もある程度話してあるから気楽に行けばいいよ。匂いはこっち寄りの子だし』

 

 最後の一言に嫌な予感しかしなかったが、これもコミュ障克服の一環と言われたらどうにも断りにくかったのだ。

 今回は小夜子不在とはいえ、段取りは整えられている。

 先方も乗り気とあれば従わざるを得なかった。

 

 訪問先は、B級上位の影浦隊である。

 男性3人にオペレーター1人のオーソドックスな構成のチームだ。

 

 今回会う人は仁礼光という小夜子と同い年の女性らしい。

 こっち寄りの匂いなどといった小夜子の発言からするに一癖ある人物なのは間違いないだろう。それが一歩を踏み出すのを躊躇わせている理由でもあるのだが、向こう側の好意を無下にするのは流石に失礼が過ぎる。

 

 覚悟を決めてインターホンを押す。

 電子音が室内に響くも、しばらく経っても中からの反応はなかった。

 もう一度押してもやはり変わらず。

 時間間違えたかな?と首を捻りつつもスマホを取り出して小夜子にチャットでメッセージを送った。

 

『インターホン鳴らしても反応ないんだけど』

 

 メッセージが送られると、すぐに既読がついて返信が来る。どうやらスタンバイしていたらしい。

 

『おかしいねえ。場所間違えてないよね?』

『確認したから間違いないはずなんだが』

『んー、ちょい待ち』

 

 しばらくの間。察するに電話をかけているのだろうが、室内から着信音が響く様子はない。防音が効いているのか、それともマナーモードにしているだけか。

 耳をそばだてて確認しようと身を乗り出した瞬間、自動ドアがスライドしてぎょっと身を硬直させた。

 ロックがかかっていなかったのか、開かれた扉の向こうには誰もおらず、生活感の漂う室内の様子が広がっている。

 

 呆然としていると、微かに鈍い振動音が聞こえた。室内のスマホの着信音だろう。

 着信音が途切れるのに合わせてメッセージが送られて来る。

 

『ダメだねえ。室内にはいるだろうしもしかしたら寝てるのかも。一度出直す?』

 

 犬彦は思わず室内を見た。

 人の気配はないように見える……いや。犬彦の鼻が仄かに香るシャンプーの匂いをとらえた。

 どうやら目的の人物は中にいるらしい。着信が鳴っても反応がないということは恐らく寝ているのだろう。

 出直すことも考えたが、ここに来るまでにも幾度かの葛藤を経て来ている。再び精神を振り絞るような真似はできるだけしたくなかった。

 

『開いちゃったよ、ドア。どうもロックかかってなかったっぽい』

『うせやろ……なんて不用心な』

『匂い的には多分中にいるような気がするので入ってみようと思うが、どうだろ』

『気をつけてね、スネーク』

『誰がスネークだ』

 

 却下ではなかったので足を踏み入れる。

 お邪魔します、と声をかけても返事はない。

 

 鼻を効かせた感じでは室内には1人しかいないようなので、寄り道せずにそちらに向かった。というか入ってすぐ左手に目的の人物を発見した。

 

「初夏も近いのにこたつ……」 

 

 暑くないのだろうか、と戦慄しながらぐるりと見渡す。

 

 中央に存在感を主張するこたつが1つ。

 床には絨毯が敷かれ、上座にはテレビやゲームが無造作に広がっている。

 壁に並ぶ本棚の中身が漫画ばかりであるのを確認して、頷かざるを得なかった。小夜子の言い分は正しく、まさしく仁礼光、あるいはこのチームメンバーはこちら寄りの存在だと。

 

 その少女はこたつに包まり、横になって幸せそうに寝息を立てていた。

 明るい色合いの髪をサイドで結い上げた髪型……こたつで寝たまま。解くことなく。幼さが残る顔立ちはだらしなく緩んでおり、口の端には涎が垂れている。こたつの外で広げられた手のそばにはゆるキャラカバーのスマホが乱雑に放り出されていた。

 

 ――えっ。どうすればいいのこれ。

 

 犬彦は立ち尽くして途方に暮れた。

 

 声をかけるのも躊躇われる。触るなどもってのほか。小夜子に着信音を鳴らしてもらっても手元から離れているこの状況では効果は薄いだろう。出直すことはさっき考えた。

 となると、彼女が起きるまで黙って立っているしかないのだ、が。

 

 犬彦はじとりと机周りを見た。

 中身の入ってないスナック菓子の袋。

 放り出されたゲーム機と絡み合ったコード。

 積み重なった読みかけの本。

 雑に押し込められた棚。

 

「掃除するか」

 

 衝動が己を突き動かす。

 気付けば犬彦はゴミ袋を手に取っていた。

 

 

 

 

 

 粗方片付いた辺りで、もぞりと少女が身動きした。

 寝ぼけ眼を擦りながら上半身を起こす動きに自然と犬彦の身体が硬直する。

 

「んんー……」

 

 茫洋とした半開きの目が犬彦を捉える。

 一瞬寝起きの小夜子を幻視した。

 

「……姉ちゃんもうちょい寝るから……」

 

 そう呟いて再び上半身が仰向けに沈んだ。

 硬直した犬彦は声を上げることもできず、このまま彼女が真に目覚めるまで立ち尽くすのみかと思われた。

 

「ん? あれなんか縮んだような気が……」

 

 寝言のようなことを呟きながら再起動。

 脊髄反射でカチンと来た犬彦が眉を吊り上げるが寝言である。誰とも何とも言っていないのでセーフ、と言い聞かせる。

 

「すみません、仁礼先輩ですか。小夜子の紹介で来たんですけど」

 

 起き上がった少女に、今度は逃がさない、と先制攻撃。

 ……微妙に口調がキツいのは先程の寝言のせいではない。ないったらない。

 

「小夜子? 紹介? ……ああ! 弟くんか!」

 

 ようやく覚醒したらしい。ぽん、と手を打った少女がぐしぐしとジャージの裾で顔を擦りながら放り出されたスマホを手に取った。

 

「あー小夜子からの着信めっちゃ来てる……わりーわりー全然気付かなかった」

「い、いえ。それは全然いいんですけど」

 

 スマホを弄りながらの言葉にわかりやすく犬彦がたじろぐ。

 無理もない。今まで犬彦の周囲にはいなかったタイプの女性だった。

 タイプで言うと熊谷先輩に近い空気だが、しっかり者の空気を感じさせる熊谷先輩と違い仁礼先輩は少し雑破だ。しかしそれが自然であるように伺わせる様は気ままな猫を思わせる。

 蓮っ葉な口調と相まって、今まで犬彦が培って来た女性像とは少し異なるタイプの人だった。

 

「勝手に入っちゃっててすみません。外で待つべきかとも考えたんですけど」

 

 ただ、中身は確かに小夜子に近い。そのおかげもあって犬彦は初対面の女性という条件にしてはだいぶ普段に近い姿勢で話すことができていた。

 

「あーいいよ気にすんな。すぐ出れるようにロック外して弟くん待ってようかと思ってたんだけど寝ちゃってなあ。こたつに横になったのは失敗だったな」

 

 からからと笑う。

 器も大きい。雑なだけかもしれないが、少なくとも第一印象は悪くなかった。

 

「ところで、何で掃除してんの?」

「へ? あっ、と、すみません。どうしても気になっちゃって……つい」

「いや、別にいいけど……うわめっちゃ綺麗になってる。棚まで直したのかよお前」

「すみません。ついいつもの癖で」

 

 勝手にやったことには違いないため、平謝りである。

 幸いなのは仁礼先輩に怒っている様子がないことか。目を丸くして純粋に驚いている様子だった。

 

「ふーん……」

 

 かと思えば、今度は腕を組んで観察するようにこちらをじっと見てくる。

 知識はあるが見たことはない動物を目にしたような反応。

 

「あの、何か?」

「いや、どこの弟も皆こうなのかなーって思ってさ」

「こう、とは」

「ウチの弟もできる子だからさー、行き着く先は皆一緒なのかなってちょっとセンチになっただけ」

 

 まあそれはいいとして、と脇に押しやるジェスチャー。

 

「まずは自己紹介か。仁礼光です、どうぞよろしく」

 

 何故敬語、と眉をひそめながらも挨拶を返す。

 

「志岐犬彦です。今日は無理言ってすみません」

「いいっていいって。で、小夜子から聞いたけど、オペレーターの仕事が知りたいんだって?」

「ええ、まあ」

「どうして知りたいんだ?」

「あれ? 小夜子から聞いてませんか?」

「本人の口から聞きたいだけ。嫌なら答えなくてもいいけど」

 

 手櫛で髪を整えながら仁礼先輩が言う。

 隠し立てするようなこともなく、犬彦は正直に答えた。

 

「カードの種類を知りたいんですよね」

「は? カード?」

「ええと、オペレーターのやれる範囲が知りたいって意味です。普段戦闘中にオペレーターが何をしてるのか、どこまでサポートできるのか。味方として行動する分には勿論、敵に回した時にも手の内が掴みやすいですし」

 

 ダイヤ・スペード・ハート・キング、1から13の数字にジョーカー。

 カードの種類を把握もせずにポーカーをしたところで勝てる道理もない。基本ルールさえあやふやな状態で戦って、おもわぬ方向からの指し手に詰められるなんて真似だけは避けたいところだ。

 そういう理由なので別にこうして教えてもらいに来る必要は微塵もないのだが、小夜子はそれを否と言う。

 意図するところはわかるためにこうしてやって来たが、未だに抵抗を感じていることくらいは許して欲しいところだった。

 

「ははっ、こりゃすげーわ。マジで小夜子の弟なんだな」

 

 犬彦の答えに、仁礼先輩はひどく愉快そうに笑った。

 感心することしきりといった様子に犬彦は首を傾げるしかない。

 

「何がそんなにおかしいんです?」

「弟くんの答えが小夜子とまったく同じだったからな。別に疑ってたわけじゃねーけど、何よりも確かな身分証明だ。似てるってのは見た目だけじゃないらしいな」

「そう、なんですかねえ」

「なんでちょっとダメージ負ってる顔なんだよ」

 

 日頃からああはなるまい、と反面教師にしている姉に似ていると言われてはそうもなるだろう、と犬彦は顔をしかめた。

 腕を組んで言葉を濁す様子がおかしかったのか、仲良いんだなー、と朗らかに笑う仁礼先輩。

 その視線がおもむろに壁に掛けられた時計を追った。

 

「あーもうこんな時間か。どうすっかな」

「何か予定でも?」

「予定というか、んー……」

 

 時計を眺めたまましばし唸り声を上げて考え込む仁礼先輩。

 邪魔をしないように話しかけないでいると、その目がついと犬彦をとらえ――いいこと考えた、とばかりに弓の形にしなった。

 その視線に、背筋が不意に寒くなったのは何故なのか。

 

「おし。とりあえず基本的なところから教えてやるよ。まずは視覚支援からな」

 

 力強くそう言って、こたつから出た仁礼先輩が手招きしながら犬彦をモニタが置かれたデスクへと導いていく。

 近寄ることに理由のない抵抗を覚えながらも、犬彦はそれに従った。

 

 

 

 

 

「あれ、お客さんまだいるの?」

 

 ドアがスライドする音に顔を上げると、ぞろぞろと青年らが連れ添ってやってきたことに思わず表情を強張らせた。

 思わず立ち上がりかけたが、いいのいいの、とデスク脇に立つ仁礼先輩がジェスチャーでそれを止める。

 

「おう、コイツが来る前にアタシが寝ちゃってなー。ちょっと時間ズレてんだ」

「ちょっとってどのくらい?」

「30分くらいか?」

「そりゃズレこむわけだよ」

 

 せっかく気を利かせて空けておいたのに、と肩をすくめるのは先頭を行く一際恰幅のいい青年である。

 ちなみに実際はその更に15分とんで45分である。部屋の掃除を粗方終えてしまったあたりでお察しであった。

 

「ごめんねウチのが振り回しちゃって。あ、北添尋です。どうぞよろしく」

「いえ、俺は別に……志岐犬彦です。どうも」

 

 がっしりとした手と握手を交わす。

 背丈も体格もこの中で一番立派であり、醸し出される威圧感は中々のものであったが、同時にその顔つきはこの中で一番人畜無害そうなおっとり顔である。首から上が優しそうに見えるだけで全体の印象も変わってくるのだから人の認識って凄いな、と犬彦は感心の吐息をつく。

 先陣を切ってきただけあり、もっともとっつきやすいのはどうやらこの人だけらしく、後の2人は一癖も二癖もありそうな雰囲気だった。

 

「絵馬ユズル」

 

 空気を察して自己紹介をしてくれた、一番年若そうな少年はまだいい。

 寡黙そうな顔立ちであるにせよ利発そうな目をしており、落ち着いた付き合いができそうな雰囲気を感じる。同年代かその前後という空気を察した犬彦は年上ばかりの空気の中で少なからず安堵を覚えた。

 問題は、一際不機嫌そうな空気を放つ最後尾の青年である。

 

「んで、何でまだこのガキが部屋にいるんだ」

 

 舌打ちを1つ。

 青年はこちらをちらりと一瞥した後、他のメンバーのように名前を告げることもせず、仁礼先輩に問いかけた。

 

 ――落ち着け落ち着け。この言い方ならセーフセーフ。大丈夫、致命傷だ。

 

 どちらかと言えば青年の台詞の一部分にカチンと来ていた犬彦であったが、状況を鑑みて鋼の自制心で押し止まった。もっとも、そのこめかみには青筋が浮いているのだったが。

 

「ごめんね。こいつは影浦雅人、ウチのチームのリーダーで、俺達はカゲって呼んでるよ」

「勝手に言うんじゃねえっ! 言っとくが同じ呼び方で呼ぶんじゃねえぞ、おい」

 

 北添先輩のナイスアシストで影浦先輩のことも知れた。

 本人からはキツい視線が飛んで来たが、釘を刺されるまでもないことだったので素直に頷く。

 で? と催促する空気に、仁礼先輩は悪びれた様子もなくしれっと言った。

 

「見学だよ見学。いきなりざっと詰め込んでもよくわかんねーだろうし、実際に見せた方がわかりやすいと思ってな」

「え? ランク戦見学させるの?」

 

 北添先輩はそう言って目を丸くするが、犬彦などは声も出せずに目を剥いた。

 勿論、何も、聞いて、ない。

 

「俺は別にいいけど……そもそも、見学なんてできるの?」

「明確な規定はなかったはず。C級とは言え隊員なんだし別にいいと思うけど、見学させるだけなら別にここじゃなくてもいいんじゃない? 観覧室でも見れるんだし」

 

 冷静に指摘する絵馬先輩。

 絵馬先輩の言うとおり、B級ランク戦はオペレーターを始めとする隊員の実況・解説付きで観覧室で観戦できる。見学だけを目的とするなら別にここである必要はないだろう。

 中立な立ち位置からの意見であり、犬彦も納得の一言なのだが、仁礼先輩は恐らくキメ顔と思われるニヒルな笑みを浮かべて言った。

 

「せっかく頼って来てくれてるのに、途中で放り出すなんて真似できるわけないだろ?」

「……そもそもこんな時間までズレ込んじゃったのは光のせいじゃ」

「ユズル、シャラップ!」

 

 ……不思議と親近感を感じるやり取りだった。肝心なところで決めきれない……まるで誰かさんのようだ、と。

 

「つうかそもそも、俺らがそこまでしてやる義理はねえだろ」

 

 やり取りを聞いていた影浦先輩が牙を剥いた。腕を組んで見るからに不機嫌そうである。

 

「教えてやるように頼まれたってのはいいが、そもそもそいつがなるのは戦闘員じゃねーか。必要ねえことを教えて、ランク戦まで見せてやる必要はねえ」

 

 ぐうの音も出ない正論である。

 ここで影浦隊のランク戦を見せてもらうということはつまり彼らの作戦・立案・行動の全てを見せてもらうのと同義であり、同じ組織の人間とは言え、競い合うライバルにはできるだけ秘密にしておきたい情報だ。

 感情的な判断かどちらなのかは不明だが、北添先輩も絵馬先輩も強く否定しないということはつまりそういうことだ。

 

 犬彦とて、そこまでしてもらうのは流石に気が引けるというのが本音だ。

 勿論、見せてもらえるなら見たい。凄く見たい。

 しかしそれは、何も知り合ったばかりの人達の領域に強引に押し入ってまで成し遂げたいことじゃない。

 自分から仁礼先輩に進言すべきか悩んでいると、その仁礼先輩が不満そうに唇を尖らせながら言った。

 

「えー別にいいだろー、見学くらい。そもそも見られて困るもんがアタシ達にあるかよ」

「まあそれは確かに。作戦もほぼ行き当たりばったりだしねえ」

 

 苦笑交じりに北添先輩が言うと、そうだろー?と何度も頷く。

 

「アタシも小夜子から頼られた手前、中途半端に投げ出したくねーし、見学くらいさせてやってくれよ。それに聞いた話じゃ弟くんも結構優秀らしいし、成長すればカゲも楽しめるんじゃねーの?」

「なってから言えよ、そういうのは」

「なあ、弟くんもそう思うだろ?」

 

 急に水を向けられてどきりとする。

 反射的に否、と口にしそうになったが、止めた。

 

 そもそも今、表立って否定しているのは影浦先輩だけだ。

 だからこそここまで揉めているのであるが、北添先輩も絵馬先輩も事の成り行きを見守っているのみで、口を出そうとはしていない。

 

 つまり、ここでは犬彦の意思こそが重要。

 それに気付いた時、犬彦は影浦先輩に向けて頭を下げていた。

 

「すみません、お願いできませんか」

 

 想定していなかった展開だが、オペレーターの仕事は勿論、B級上位の戦いを間近で見られる機会はそうはない。拒んでいるのも影浦先輩だけとなれば、特攻する価値は充分にある。

 影浦先輩は苛だたしそうに舌打ちをして頭を掻いた。

 

「邪魔だけはすんじゃねえぞ」

 

 そう言い捨て、背を向けた後姿が控え室に消えていく。

 正直なところ、意外だった。頑として否と蹴られるのも覚悟していたが、想像以上にすんなりと決まってしまったことに思わず呆然としてしまう。

 ぽん、と北添先輩に肩を叩かれた。

 

「ちょっと気難しい奴だけど、あんな感じで悪い奴じゃないから気にしなくていいよ」

「そう、ですね。断られるかと思ってたのでびっくりしました」

「あんな見た目だからねえ。まあリーダーの許可も出たし、楽しんでってよ。――じゃあ光ちゃん、あとよろしく。いつもの感じでいいね?」

「市街地Aじゃ作戦も何もねーし、いいだろー。いつも通りぶっ飛ばすだけだ」

「……自分が言うのもなんだけど、あんまり参考にならないと思うよ、ウチは」

「あ、あはは……」

 

 苦笑交じりの言葉を最後に、北添先輩も、絵馬先輩も後を追って控え室に入っていく。

 

 ――いい人達だったな。

 

 急な訪問・急な申し出、にも関わらずここまで良くしてくれるとは思っていなかった。

 北添先輩は勿論、絵馬先輩も、そして影浦先輩も刺々しくはあるけど良い人だ。

 来る前はどうなることかと思ったが、小夜子もたまには良い仕事するもんだ、と犬彦はすっかり安心して気を抜いていた。

 

「よし、行ったな」

 

 全員の退室を確認した瞬間、仁礼先輩がぼそりと呟いた。

 

「仁礼先輩?」

 

 不穏な空気を感じ取った犬彦が呼びかけた。

 こういう時の嫌な予感は当たるのだ、と自身の余計な経験則が頭の中で囁いている。

 仁礼先輩はしばらくキーボードを叩いた後、くるりと振り返って立ち上がり、モニタ前の席を空けた。

 

「よし、弟くん。ここに座りな」

「えっ」

「何やってんだ、あいつらがいない今がチャンスなんだからな。ほら、はよ」

「えっ? あの、ちょ――わ、わかりました! 座りますから! 触るのは!」

 

 拒むこともできず、促されるままに椅子に座る。

 この時点で嫌な予感しかしなかった。

 

「んで、このヘッドセットをつけさせて。アタシはこの予備のをつけて、こうして。――ハイ、完成」

 

 じゃーん、と気の抜けた声で完成を祝う仁礼先輩。

 手を広げてみせる先には、モニタを前にしてヘッドセットをつけて椅子に座る犬彦の姿があった。

 

「あの、これは、どういう?」

 

 もう色々と察してしまっていたが、聞かないわけにもいかない。

 震えた声で問いかける犬彦に、親指を立てたイイ笑顔を浮かべて仁礼先輩が言った。

 

「ん? 見ての通り実践の機会を作ってあげてるんだが」

「やっぱりか! いや、さっき見学って言ってたじゃないですか!」

「実際に触ってみなきゃ身につくもんもつかないだろー? それにアタシは見学させるとは言ったが、体験させないとは言ってない」

「何ちょっと上手いこと言ったみたいな顔してんですか! そんな、ついさっき教えてもらったばかりなのに無理ですよ!」

「何言ってんだ、結構できてたぜ弟くん。基礎的なことはだいたい覚えたみたいだし、あとは実戦するだけだ。そうだろ?」

「そんなテレビゲーム感覚で気軽に……! 嫌ですよ間違いなく怒られますって!」

「でも、正直ちょっとやってみたいだろ?」

「ぐ……!」

 

 ……否定は、できなかった。

 色々と口にしてはいるが、何だかんだ犬彦は椅子から腰を上げようとはしていない。

 からからと笑いながら仁礼先輩が言った。

 

「そう固い顔すんなよ。最初はマップとか敵の位置知らせたりとか簡単なことばかりだし、本当に忙しくなってくるのは敵と遭遇してからだ。アタシもこうして横にいるし、ヤバくなってきたらフォローしてやる。マイクも基本はアタシ持ちだ。バレやしないさ」

「そうは言いますけど……それでも不利な条件を俺の都合で先輩達につけるのは申し訳ないですし」

「なあに、カゲは強い奴らと戦えればいいような奴だし、1回負けたくらいじゃどうってことない。遠征目指してるわけでもないし、他のやつも何か言うようなやつじゃない。好きにやってみな」

「……いいんですか?」

「まあ勿論、バレた時には後で怒られるのは確定だろうけどなー。アタシもフォローはするけど、ゲンコツ1つくらい覚悟しておけばいいんじゃね?」

「……いえ、終わったら自分から言います。それくらいはやっぱり、けじめはつけておかないと」

「いいって。カゲとか多分めっちゃ怒るぜ?」

「う……でも、それは。自分で決めたことですし、はい」

 

 怒り狂う影浦先輩を思い浮かべるとしくしくと胃が痛む。

 しかし仁礼先輩の計らいとはいえ、最終的に決断したのは自分なのだから。バレるバレないではなく、迷惑かけてすみませんでした、くらいは言わなければならないと思うのだ。

 青い顔をして胃の辺りを擦る犬彦を、仁礼先輩はきょとんとした目で見つめていたが、やがて面白そうに表情を崩した。それからおもむろに手を伸ばして犬彦の頭を撫でまくる。犬彦の悲鳴が響いた。

 

「よしよし、それじゃ気張って勝たなきゃな! 勝手しても結果的に勝っちまったならこっちだって万々歳だ。カゲの拳骨だって1つくらいは少なくなるだろうさ」

「きがるにいってくれるなあ」

 

 1時間も教わってない素人に何を期待しているのかと呆れるが、犬彦の罪悪感を和らげる道はもはやそれしかないのも事実。

 それに犬彦は指示されたとおりに画面を操作するだけであって、実際に動くのは確かな実力と経験を持つ影浦先輩たちである。ならば可能性はゼロとは言い切れないはずだ。

 

 ……もし勝てたら、那須先輩にも胸を張って話すことができるだろうか。

 

 そう思うと、不思議と心が落ち着いて、何でもできるような気がするのだった。

 

 

 

 

 

 尚、現実は非情であった模様。

 祈ったことが罪なのか。期待を裏切るかのように見事敗北した犬彦は、戻ってきた影浦隊の面々(主に影浦先輩)に鬼のように叱られるのであった。

 

 

 

 




 同じ弟持ちとしてめっちゃ話が合いそうだよなあ、という理由から仁礼先輩の登場です。紹介するにあたって欄外で裏取引等もあった模様。
 私生活面だと犬彦は割と優秀な方なので、原作カバー裏コメントのとおりに姉御肌を吹かせられるかどうかは今後に期待というところですね。
 今回でオペレータースキルを習得したので、その方面でなら難しくはないかもしれません。

 次回はB級昇格前の最後の話です。またヒロイン追加します。

 余談ですが、活動報告も更新してます。
 たまにアンケートみたいなこともやってますので、色々な意見を聞かせていただけるとありがたいです。
 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 黒江双葉

 独自・拡大解釈全開です。
 どうしても同期に近いポジションが欲しかったんや……。


 

 

 

 黒江双葉にとって、今のところボーダーの日々はあまり面白いものではなかった。

 

 入隊してからもうすぐ一月が経過しようとしている今、黒江のC級での立ち位置はいわば主席候補と言えた。

 初日に戦闘訓練で11秒を叩き出し、各種訓練においても常に上位をキープしている。C級隊員たちとのランク戦でもほぼストレートで勝っており、ラウンジにいれば視線を感じるくらいには活躍していた。

 

 しかし、その成績に反比例するように黒江の熱は冷めていく一方であった。

 訓練も、ランク戦も、今となってはほとんど同じことの繰り返しである。

 誰よりも上手く訓練をこなし、大人と子供ほどの力量差のある同期をただひたすらに倒していく作業。

 

 黒江は己が優秀であることを理解した。理解したが故に、張り合いのない環境に言いようのない倦怠感を抱いていた。

 幼馴染の緑川という少年は、少し前にボーダーに入り、スカウトを受けてA級のチームに所属しているらしい。

 A級ともなれば、自分の想像を超える強さを持つ人達がいっぱいいるのだろう。その中で幼馴染は切磋琢磨している。そのことが少し羨ましい。

 

 ――早くB級に上がりたい。

 

 最近ふつふつと沸いてきた黒江の欲求だった。

 強い目的意識や承認欲求があるというわけではないけれど、このままでは指の先から腐り落ちていくような言いようのない不安があった。

 

 

 

 

 

 隊員達が集うラウンジに黒江は足を踏み入れた。

 入ってきた己にチラホラと視線が刺さるのを感じる。もっとも、あまり気にはならない。黒江の関心はただ1つ、ランク戦で速やかにポイントを貯めることのみだ。

 

 早速ブースに入ろうとすると、声を拾った。

 

「え? 犬彦くん、今までランク戦やったことなかったの?」

「そうなんですよ。俺はもっと早くやりたかったんですけど、小南に止められてまして」

 

 その珍しさに足を止めた。

 視線を向けると、淑やかな女性と小柄な少年が大型モニタを前に会話をしている。女性は私服だったが、少年はC級の隊服を着ていた。

 

 となると、ますます珍しい。

 入隊して一月も経った今、ランク戦を経験していない隊員などほぼいない。

 その事実もさることながら、止められていた、という少年の言葉。それはつまり少年には技術を教わる誰かがいるということ。真っ先に連想するのは師匠だけれど、この時期にすでにそういう人がいるということも黒江の興味を引いた。

 それに――黒江の頭の中に、1つ引っかかる点もあった。

 

 さり気なさを装って彼らの近くのソファに座り、会話を聞く姿勢を作る。

 少年のぼやきに、女性が訝しそうに問いを投げた。

 

「止められてた? どうして?」

「いつものことながら解読に難儀しましたけど、どうも余計な自信がつくのが嫌だったみたいです」

「そうなの? 自信がつくのは良いことのように思えるけれど」

 

 あまり言いづらいことなのか、声を潜めて少年は答えた。

 

「C級で自信をつけられても困る、だそうですよ。弱い相手に慣れて変なクセがつくのを嫌ったみたいで」

「そんなことってあるのかしら」

「あー……そうですね。俺なりに考えてみましたけど、たとえばC級のランク戦しか戦っていない状態でB級に行くのは怖いですね」

 

 その言葉に、どきりとした。それはまさに黒江の現状に他ならなかった。

 緊張しているのか、少年はつっかえながら語り始めた。

 

「手札の数に絶対的な違いがあるんですよね。トリガーの種類もそうですけど、それを含めた戦術の数はC級のランク戦では絶対に培えないものですから」

「確かに、C級にいる間は個々に使うことはあっても、組み合わせて使うことってないものね」

 

 基本を飛ばして応用から教える指導者はまずいない。上に上がれば様々なトリガーを組み合わせて対戦することができるようだが、ボーダーも例に漏れず、C級の間はそういった複数のトリガーを扱った戦闘をすることはできなかった。

 思えば、そういった戦術に多様なバリエーションを持たせることのできない単調なランク戦も黒江のストレスに繋がっているのかもしれない。

 

「対戦データ見て勉強することはできますけど、見るのと実際にやるのとでは大違いですからね。そういう手札の数にも違いが出ますし、経験も豊富です。上がってすぐにB級以上の隊にスカウトでもされない限りはしばらく苦労しそうだな……なんてことは思いました」

「なるほどね。でも、それとクセがつくっていうのはどう繋がるのかしら」

「思い込みかな、と思います。トリガーの種類と量が変わるので、C級の間は限られていた選択肢が倍以上に増えます。そうするとC級のランク戦で積んできた経験がマイナスに働くこともあるのかなと」

「こう攻めてくるはず、こういうことはしない、というような感じかな?」

「ですね。そういうのが咄嗟の判断に影響してくるのかなー、なんて。入って一月の身で何言ってんだ、って感じですけど」

 

 照れたような苦笑いで締めた2人の会話に、ふんふん、と小さく頷く。

 

 参考になる話だった。同じC級隊員であり、黒江の現状に通ずる話。

 少年の師匠も、良く弟子のことを考えているんだな、と感心した。

 少年の今と、これからを見据えた長期的なアドバイス。

 すると、自ずと見えてくるものがある。

 

 ――ここにいるということは、つまり少年の師匠が今の彼に太鼓判を押したということ。

 

 少年の解釈を思えば、少年の師匠は時間をかければいずれ上がっていくC級の間にランク戦をすることはむしろマイナスだと捉えているように思える。

 だからこそ、最小限。上がるべきタイミングで一気に稼いで短時間でB級に上がる。そういう青写真を描いているのだろう。

 

 勿論、地盤ができていなければ挑戦させるはずもない。

 B級以上の戦いをしっかり理解し、C級に混ざっても浮き足立つことなく淡々とポイントを稼いで上がる。それが少年の師匠が理想とした条件のはず。

 

 ということは、今ここにいる彼は師匠の理想を実現できる実力があるわけだ。

 久しくなかった熱を感じて、逸るままに黒江は自然と席を立っていた。

 

 

 

 

 

 犬彦がブースに入って端末を操作していると、すぐに対戦申し込みが来た。

 

「はやっ」

 

 相手は同じくC級だったが、目につくのはそのポイントの高さ。

 

「もう3000超えてるじゃねえか」

 

 入隊からまだ1ヶ月しか経っていないのにこのポイントということは、ほぼ仮入隊組で間違いはないだろう。

 いくらかのボーナスを得て入隊した、組織から将来有望と判断された逸材。

 

「それともランク戦に篭ってればこのくらいはいけるのかね。えーと、YES、と」

 

 まあ何にせよ、犬彦はできれば今日中には上がる算段で来たのだ。

 小南にもそう言われたことだし、犬彦とてB級に上がりたい気持ちが強い。

 高ポイントのラスボスとして立ちはだかる魔王プレイができなくなってしまったのは残念だが、高得点が狙える相手が来てくれたのは僥倖だ。

 

 相手の武器種だけ確認して対戦申し込みを受け入れる。

 孤月。形状は日本刀そのもの。オプションをつけると斬撃を飛ばすことができるが、C級ではつけることができない。

 つまり純粋な剣術と体術のみでここまで稼いできたということだ。

 ポイントが実力を証明している以上、油断できないな、と犬彦は気を引き締める。

 

 しかし、転送先に現れた対戦相手に犬彦の精神はあっけなく乱された。

 

「よろしくお願いします」 

 

 幼い声とともにそう告げたのは、金の髪を二つ縛りにした少女である。その小柄な見た目は、犬彦から見ても1つか2つは幼いと察せられた。

 

 しかし、初対面の、女性である。

 その高ポイントから、犬彦は根拠もなく相手が男性だと考えていた。

 故に言葉少なにそれだけを言って孤月を構えた少女に対し、犬彦の最初の反応は引き攣った声を上げて一歩を引くことだった。

 

 

 

 

 

「……あの、どうかしましたか?」

 

 思わず、黒江はそう声をかけてしまっていた。

 黒江は自身がそこまで弁の立つ方ではないことは理解している。そのため知らず勘違いをさせてしまったことなどもよくある。

 

 しかし、そういう経験が豊富な黒江をして相手の反応は不可解極まるものだった。

 よろしくお願いします、と挨拶をしただけだ。

 どんな行き違いがあったとしても、間違っても毛虫を放り投げられた少女のように後ずさられる筋合いはないと思うのだけれど。

 

「あっ、や、すみません! なんでもないんで、気にしないでください、ハイ」

 

 白い肌を紅潮させて、激しく両手を振りながら少年は言った。

 眉にかかるほど長めの髪に、細身の体躯。

 小柄な背丈も相まって、同年代かもしれない、と黒江は感じた。

 

 ――この人がそうなのだろうか。

 

 とてもそうは見えない、というのが初見での黒江の感想。

 だが先程の会話、そして黒江を上回る所有ポイント。

 黒江は1つ、どうしても確かめたいことがあった。それを知るために、構えを正して意志を固めた。

 

「行きます」

 

 踏み込む。

 少年が息を呑む。

 構えも乱れているが、挨拶はした。気にしないでほしいとも言われた。呼吸も一つ挟んだ。これ以上待つ道理がない。

 三歩踏み込み、孤月の切っ先をそのまま腹部に突き出した。

 

「ぉっ、と!」

 

 小さく漏れる呻き。半身になった少年がするりと刀身をかわした。

 雷に打たれたような衝撃。

 線ではなく点の攻撃。構えの取れていないところへの刺突。不意打ち気味のそれをして、少年はかすらせることさえなくかわしてみせた。

 

 振り払うように上段から振り下ろす。かわされる。返しで横薙ぎ。これもかわされる。

 

 ――まぐれではない。黒江は身を震わせた。

 

 たまたま運が良いだけであれば、重心も乱れるだろうし、余裕のない表情をするだろう。

 しかし少年の足腰は常に地面を捉え、黒江を視野に入れている。

 

 ()()()()()()()

 黒江は今こそ少年がすでに師匠を得ていることを理解した。そして少年の実力が自身の遥か上を超えていることを肌で感じた。

 胸が高鳴る。黒江は口の端に笑みを浮かべた。乾いた荒野に降る恵みの雨。楽しい。

 

 高揚のままに刃を振るい、しばらくして彼女はようやくそれに気づいた。

 

「どうして、反撃しないんですか?」

 

 思わず手を止めて尋ねた。

 黒江自身が確認して対戦を申し込んだのだ。少年の武器はバイパーだと理解している。少年の腕であれば、黒江の斬撃をかわし、返す刀でバイパーを撃ち放つのも容易いことだろう。

 にも関わらず、少年は今の今まで、1度たりとてトリオンキューブを生み出す素振りさえ見せていない。

 

「あー……いや、わかってる。わかってますよ」

 

 どこか歯切れ悪そうに少年は答えた。

 煮え切らない態度が黒江の怒りに火をつける。

 

「真面目にやってください。確かに私は貴方より強くないかもしれませんが、だからといって手を抜かれるのは不愉快です」

 

 黒江は、勝つことは楽しく、負けることは悔しい素直なタイプだ。

 熱が冷めていたのも変わり映えのしない日々に飽き飽きしていたからであって、戦闘そのものが楽しくないというわけではない。だから負けることがあってもそれはそれで受け入れられる。

 

 けれど、これはダメだ。

 まるで猫にいたぶられるネズミの気分。いつでもとどめをさせるのに、獲物が足掻く様を楽しんでいるかのよう。

 だとすれば目の前の少年はひどくタチが悪い。

 楽しんでいたからこそ、この裏切りは心に重くのしかかる。

 

「いや、そうじゃなくてですね、その」

 

 手と視線を彷徨わせる少年に黒江は低い声で言った。

 

「それとも、私に戦う価値がないってことですか。だったらすぐにリタイアしますけど、そういうのはもっと早く言って――」

「――っああ! もう! ちょっと、待て!!」

 

 堪忍袋の緒が切れたのだろう。今までの少年らしからぬ粗野な大声に思わず口を噤んだ。

 ふうふう、と少年が息荒く肩を上下させる。

 

「あーその、すみません。急に怒鳴って。だけどその、こっちにも事情というものがあってですね」

「事情、とは」

「いやその、……初めてなんですよ、ランク戦」

 

 ひどく言いづらそうに口にしたのは、そんな言葉だった。

 もっとも黒江にとっては、それは既知の情報だ。第一、それと攻撃に転じない理由が黒江の頭の中で結びつかない。

 

「それが何か関係があるんですか」

「関係というか、その。実は師匠がいるんですけど、その師匠から教わってたのが回避の方法ばかりだったから……」

「は……?」

 

 目を丸くした。

 黒江は、てっきり師匠がついているのであれば、少年の武器からしてバイパーの師匠なのだと思っていた。どちらが言い出しっぺなのかはともかく、指導を受けるのであれば当然その武器についてなのだろう、と。まして1ヶ月もの時があったのであれば学ぶ機会はいくらでもあったはずじゃないのか。

 なのに、回避のみ。回避のみを、1ヶ月も?

 呆然と黒江が見つめる先、視線を浴びる少年は居心地悪そうに頰をかく。

 

「だからその、避けるのが楽しくてつい手を出すのを忘れてた、というか。……すみません、変な理由で」

「……本当に、避けることしか教わってないんですか? 1ヶ月も?」

「残念ながら本当なんですよねえ」

 

 遠い目をして少年が呟いた。年不相応な苦労が滲み出ている。

 

「一対一での立会いは何度もしたので身体の動かし方はだいぶわかってきたんですが、そっちは何も」

「貴方の師匠はバイパー使いではないんですか?」

「最近見つけたので、今教わってる途中なんですよ」

「……? どういうことですか?」

 

 思わず首を傾げて尋ねた。

 1ヶ月間立会いをしてきたという割に、バイパーの師匠を見つけたのは最近?

 困惑している黒江の様子を見て、慌てて少年が補足した。

 

「ああ、すみません。師匠は2人いるんです。2人目の師匠はシューターなんですけど、最初の師匠はアタッカーで。だから回避の仕方くらいしか教われなかったんです」

「どんな人脈持ってるんですか、貴方」

 

 呟く声には、少しばかり嫉妬が滲んでいる。

 この時期に2人も師匠を得ていること。1ヶ月で結果を出すほどの有能さ。

 どちらも黒江にはないものだ。先に進んでいく幼馴染の姿が脳裏をよぎる。

 良い師匠。良い対戦相手。黒江が望んでも手に入れられないものを得ている少年が妬ましかった。

 

「運が良かっただけですよ。なのですみません……というのも変な話ですけど、攻撃に関してはまだ甘いのでそこは勘弁してください」

「わかりました。こちらこそ変なことを言ってすみません」

「いえ……というか、それを抜きにしてもぶっちゃけ難しかったのもあるんですよ、攻撃するの」

「そうですか?」

 

 訝しげに眉根を寄せる。

 余裕ありそうに回避していたように見えたが、違ったのだろうか。

 

「あんなに速く詰めてこられたらなかなか狙いつけられませんよ。こっちが不慣れなのは勿論そうですけど、それにしたって身軽で速い。そちらも師匠がいるんですか?」

「いえ。いませんよ」

 

 心なしかキツい口調。心の嫌な部分が出てしまったようで惨めな気持ちになる。

 そもそも、行動しなかったのは自分だ。そして行動したのが少年だ。なのに結果だけを見て不満を抱くのは筋違いにもほどがある。

 

「いないんですか? 凄い。独学ですか」

 

 気にならないのか、それとも気付いてないのか。

 少年はその答えにただ感心したようだった。

 

「師匠を見つける予定、とかは」

「わかりませんよ、そんなの。まだ入ったばかりなんですから、見つけられるかどうかだって」

「そう、ですか」

 

 少年もまた、あまり会話が得意な方ではないのだろうか。言葉少なにそう言って困ったように首筋をかいた。

 

 沈黙。嫌な間だ。

 そもそもどうして対戦中にこうやって話しているのだろう。こちらが話しかけたから? なら、もういっそ切りかかってしまおうか。

 孤月の柄を握り直す。

 重い気分で悩んでいると、あの、と遠慮がちな少年の声。

 

「その、もし良かったら、なんですけど。俺が紹介しましょうか?」

「え?」

 

 思わず顔を上げる。

 口にしておいて、少年にも葛藤があるらしい。

 見てとれるほどに顔をしかめて、迷いながらも言葉を続ける。

 

「運が良いんですよ、俺。入ったばかりなのに、上の知り合いが何人かいるんです。だから、もし良かったら俺が皆に聞いてみます。師匠になれるかどうかはわかりませんが、何かのきっかけにはなるんじゃないかと」

「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」

 

 感謝よりも、警戒が先に出た。

 知り合いでもなく、初対面で、特に利益もない。

 そんな相手の甘い言葉に釣られるほど黒江は純真無垢ではいられなかった。

 

「……くどいようですけど、運が良いんです、俺。出来過ぎなくらいなんですよ。ここに来てから色んな良い人達に会えて、師匠になってもらえて。俺も多分、何か1つでも違ってたらきっと貴方と変わらなかった。だから何か力になれるならなりたいと、思ったんです、けど」

 

 少年は、爽やかな笑みを浮かべるでも、凛々しい真面目な顔をするでもなく、見ているこちらに伝染しそうなほど不安そうな顔でそう言った。

 多分、根本的に人と話すのが苦手なのだろう。それでも、黒江のことを考えて言葉を発している。それは信じても良いのかもしれない。

 

「……でも、それって別に私でなくても良いことじゃないですか? 私の他にも、師匠のいないC級なんて何人もいます。貴方は、そんな人達にも同じように声をかけていくつもりですか?」

「それは……」

 

 口にして、意地が悪いとは思った。けれどそんな風に誰彼構わず振りまく優しさを受け取ろうとは思わない。

 意固地になっているな、と黒江の冷静な部分が言った。

 それでも「結構です」の一言で終わるはずの会話を続けているのは、きっと。

 

 少年が意を決したように口を開いた。

 

「さっきの訓練、俺はすげえ楽しかったです」

「っ」

「めっちゃ大口叩きますけど、正直C級に俺より強い奴なんていないと思ってました。だから師匠に今日一日でB級に上がれって言われたのも手放しで賛成してたんです。俺はもっと強い人達と戦いたかったから」

 

 ――それは。

 

「だけど、同じくらい強い人がいた。正直、B級にもそんなに上手い人は中々いないと思います。……だからその、楽しかったので、せっかくならまたやりたいと思ったんですけど」

 

 少年の言葉は徐々に尻すぼみに消えていく。

 口した言葉がどう受け取られているのか気になったのだろう、気まずそうに頬をかいていた。

 恐らく、少年が思っているだろうことを悪戯心で口にした。

 

「口説いてるんですか?」

「口説いてない!」

「そうですか? 私にはとてもそうは聞こえなかったんですけど」

「いや、言ってて俺もそう聞こえるよなあとは思いましたけど、そうじゃなくてですね! 本当に思ったままを口にしただけなんですけど……ああくそ」

 

 何で口にしてしまったのか、と顔を隠すように手で覆いながら吐き捨てる少年。

 耳まで赤く染めて悶えている様子は少しばかり嗜虐心が刺激されるが、流石にこれ以上は気の毒だろう。

 ふわりと微笑んで黒江は言った。

 

「冗談です。すみません、つい調子に乗ってしまいました」

「……何で俺の周りの人はこういう……」

「何か?」

「いえ何でも」

 

 一瞬渋い顔をしたようだが咳払いで誤魔化した。

 

「それで、その様子だと返事はイエスってことで良いですか?」

「はい。よろしくお願いします」

 

 改めて頭を下げる。

 少年が腕を組んで悩ましそうに言った。

 

「そうなると、あとは誰に相談するかですね。そちらの武器は孤月ですから、最低でもアタッカーで……ああ、やっぱり同性のが良いですよね?」

 

 早速脳内でピックアップを始めてくれている少年に、しかし黒江は静かに首を振った。

 

「いえ、その必要はありません」

「ん? どういうことです?」

 

 訝しげに眉根を寄せる少年には答えず、黒江は指を立てて問いかける。

 

「その前に1つ確認したいんですけど、入隊した時の戦闘訓練での記録っていくつでしたか?」

 

 入隊時の戦闘訓練。黒江が出した11秒という記録は、けれど過去の最高記録を塗り替えるには至らなかった。黒江の直前に“その記録”が出てしまったからだ。

 ブースに入っていた黒江は“その瞬間”も、“その後の騒動”も見ていない。

 だから黒江が確認することができたのは新しく塗り替えられた最高記録と、それを刻んだ人の名前。

『志岐犬彦』。

 

 突然何を聞くのか、とイマイチ要領を得ない顔をしながらも、少年は言った。

 

「2秒だけど」

「――ああ、やっぱり」

 

 訝しげに眉根を寄せる少年に、黒江は口の端を緩めて言った。

 

「よろしくお願いしますね、()()

「……えっ、と。それは、どういう?」

「だって私、そもそも師匠を探していたわけではありませんから。私が欲しかったのは、競い合える練習相手です。なら、わざわざ探さなくても貴方でいいと思いませんか?」

「いやいや、そもそも俺だって絶賛練習中ですし。人に教えるなんて立場じゃあ」

「私は気にしませんよ。少なくとも貴方は私よりずっと強いみたいですから、こうして付き合ってもらえるだけで勉強になります」

「……先輩って?」

「先に進んでいる方をそう呼ぶように考えていましたけど、違いますか?」

「いや、いやいや……ええ……?」

 

 どうしてこうなった、と弱り果てたように少年は天を仰いだ。

 

「いいんですか? 俺で。アタッカーでもないですし、それに自分が言うのもなんですが、初対面でよく知りもしない相手なのに」

 

 問いかける声には懐疑の色が乗っている。先程まであからさまに警戒していたので無理もないだろう。

 黒江自身、警戒を解いた早さに驚いてはいるが、答えは実のところとてもシンプルなものだった。

 

 楽しかった、と少年は言った。

 強い人達と戦いたい、と少年は言った。

 

 同じ想いを抱いていた人に、感じ入るものがあっただけのことだ。

 

「私は、貴方がいいと思ったんです」

「……ああ、はい。だったらその、俺からは何も」

 

 ストレートな物言いに、それを口にするだけで精一杯の様子の少年。

 とはいえ、流石にこちらにも表面上はともかくとして照れがないわけではなかったので、切り替えがてら頭を下げる。

 

「黒江双葉です。これからよろしくお願いします」

「ああ、その、志岐犬彦です。こちらこそ、宜しくお願いします」

「ええ。……それと、敬語はやめにしませんか。同い年でしょうし、窮屈でしょう?」

 

 ――黒江としては、何気なく口にした言葉。

 これからの付き合いを考えて、円滑な関係を構築することを目指したファインプレーのつもりだった。

 

 そうだな、とぎこちないながらも頷く少年、犬彦。

 その言葉にふと訝しげに口を開き、そういえば、と。

 

「あーとその、失礼かもしれないけど、黒江って今いくつ?」

 

 

 ――思わぬ形で地雷を踏み抜いたことに気付くまで、あと5秒。

 

 結局この日、2人はランク戦もロクにすることなくお互いへの理解に1日を費やしたのだった。

 

 

 




 BBFによると、黒江が142cmに対して小夜子が156cmとのこと。で、犬彦は誤差はあれど小夜子とほとんど一緒。
 全国平均で見ると、13歳女子の平均身長が155で、男子が158。
 それぞれの読みは、犬彦視点だと黒江が年下、黒江視点だと同い年、なので。
 2人とも読みはだいたい合ってるのにどうしてこんな悲劇が……コレガワカラナイ。

 しばらく黒江編が続きます。だいたいこれ含めて3、4話くらい。
 これが終わったら今書いてるB級ランク戦に移ります。
 本年はこれが最後の更新になります。良いお年を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 黒江双葉②

 あけましておめでとうございます。
 今年も宜しくお願いします。


 

 

 

 ――軽業師のようだ、と黒江は思った。

 

 

 

 少年――否、自己紹介を交わして今は先輩、あるいは犬彦先輩と呼んでいるが――との組手。

 

 ランク戦ではない。というのも、犬彦が携える獲物が違うからだ。

 曰く、教わったことを教えるのであれば今はこちらの方がいいとのこと。

 

 もっとも黒江にとっては犬彦と戦うことができればそれでいいので、それに文句はない。

 むしろどう動くのか、どこまで動けるのかという興味の方が大きかった。

 

 そして、先の感想に至る。

 

「先輩って、武術の経験ないんですよね?」

「あったらもっと強いと思うんだよなあ!」

 

 息を切らせながらの問いに、距離を詰めながらの答えが応じる。

 

 思わず尋ねてしまったが、それくらい犬彦の振る舞いは堂々としている。

 黒江が構えているのは、日本刀の形状をした孤月である。

 切られて死ぬわけではないとはいえ、切られれば切られる感覚はあるし、大抵は刃物を向けられれば怖気付くものだ。

 

「怖くないんですか?」

「何百回も切られれば嫌でも慣れる!」

 

 答えは自棄っぱちな叫びだった。

 黒江の中で犬彦への敬意がまた1つ上がった瞬間である。

 

 そう。犬彦に武術の経験はない。そのことを黒江は言葉ではなく実感として察していた。

 武術には型がある。それは積み重ねた研鑽の果てに形作られたものであり、対峙していればその振る舞いに歴史を感じるものである。

 

 犬彦の動きは、言ってしまえば戦い慣れした素人だ。理性ではなく本能と直感で動く獣のそれである。

 これが生身の戦いであればまだ話は別だっただろう。けれどトリオン体はその素人を正真正銘の化け物へと押し上げる。

 

「オラァ!」

 

 踏み込んだ足で訓練室の床が割れる。跳躍した身体が吹き飛んでくる様はまさに砲弾だ。

 勢いのままに繰り出された拳を孤月で防ぐ。岩を叩きつけられたかのような重い衝撃に手が痺れる。

 

「っ女の子を殴りつけるとか、ドン引きなんですけど……!」

「そりゃ失礼!」

 

 無論、冗談である。

 犬彦も初日に徹底的に語り合っただけあって承知しているのか、心にもない言葉を吐いてステップを踏む。

 

 この距離を逃さないとばかりに、二撃、三撃、四撃。軽快な足さばきとともに繰り出される拳と蹴りは格闘選手のそれだ。

 引いて、踏み込み、放つ。その繰り返し。

 攻め方も教わってないのにそれを実行できるのは、回避のみを教わってきたというアンバランスな特訓の副産物とのことだが、きっと皆が同じようにできるわけではないだろう、というのは黒江自身確信していた。

 

 ――器用なんですよね、先輩

 

 隙間に差し込んだ袈裟斬りをバックステップでかわされるのを見ながら、感心半分、仄かな嫉妬とともに思う。

 武術の経験もなく、回避を学んだだけで一月でここまで動けるようになるのは紛れもなく才能だろう。

 だからこそ、学ぶ。スタート地点は同じはずなのに、彼我の距離はあまりにも遠い。

 その距離を縮める術は、きっとこの攻防の中にある。そう信じて。

 

「ところで、いつ抜くんですか?」

 

 距離が離れたところで問いかける。構えをとり、互いの隙を探り合う展開。

 何の武器を選択したかは事前に聞かされている。にもかかわらず当の先輩はと言えば素手で殴ることしかしていないのだからそうも聞きたくなるだろう。

 

 訝しげに、若干わくわくしながら尋ねた黒江の問いに、犬彦は笑みを返して言った。

 

「もう抜いたよ」

「ッ!」

 

 瞬間、足に走る違和感。

 痛みはない。が――視線を落としたその先、地面から生えたスコーピオンの刃に足を切り落とされた。もぐら爪。傷口からトリオンが溢れ出す。

 

「余所見すんなよ!」

 

 踏み込み。また、地面を潰すほどの脚力を発揮して犬彦がこちらへ吹き飛ぶ。回避はできない。受け止めるしかない。

 先程の再現のように繰り出された拳に孤月を合わせ、

 

「あっ――!」

 

 やられた、という実感を伴う確信。

 衝撃の瞬間、拳から伸びたスコーピオンが孤月を避けるようにして黒江の額に突き立った。

 

 

 

 

 

「こんな感じで、スコーピオンの強みはどこからでも展開できることだな。その柔軟さは他のどの武器より群を抜いてる。手から、足から、何だったら繰り出した刃から更に繋げて刃を伸ばすこともできる。マンティス、っていう技らしいんだが」

「そんなこともできるんですか? 凄いですね」

「そうそう。本当に何でもできるんだ。目から出したり、口から出したりとかもできるぞ」

 

 ハイここテストに出ます、と手にしたタブレットに丸を書き込みながら犬彦が言った。

 

「実用性はともかくとして、やってみたんですか? 実際に?」

「そらそうよ。武器を知るには実際に扱ってみるのが一番ってな」

 

 想像する。全身の至る所から棘のようにスコーピオンを生やす犬彦の姿を。

 

「ハリネズミ先輩……」

「珍獣見つけたような顔して笑ってんじゃねえよ」

「私、ハリネズミな先輩も好きですよ」

「その褒め言葉で喜ぶ奴がこの世にいるのか……?」

 

 複雑そうに首を捻った後、まあいい、と1つ手を叩く。

 

「そういうわけだから、発想力、応用力のあるスコーピオン使いは滅茶苦茶やってくる。勿論、単に伸ばしただけじゃ威力は伴わないだろうから体術に絡める形になるだろうが、その厄介さはさっき見せた通りだな。だからスコーピオン使いと対峙した時は使用者の発想力と、間合いの見極めが大事だな」

「驚きました。どこからでも出せるとは確かに聞いてましたけど、思ったよりも自由度高いんですね」

「そうなんだよ。仮入隊の時もそうだし、基本的にその辺の説明はざっくりしてるから、こうやって色んなトリガー試したり、動画を見たりしないと中々気付けないんだよな」

 

 悩ましそうに腕を組みながら犬彦が言った。

 

 聞くところによると、犬彦は1週間で全てのトリガーの概要を把握し、実際に手に取って扱ったらしい。師匠が鬼教官でな、と苦い顔をしながらその話をしたものだ。

 

 確かにC級隊員に知識として詰め込むにはあまりに過密かつ性急なスケジュールだけれど、犬彦の事情を聞いた後では頷かざるをえなかった。

 仮入隊を経て、3500ポイントという高い初期ポイントを所持しての入隊。初日に師匠を得たこと。そして訓練で見せる本人の資質と器用さ。

 

 仮に師匠からランク戦を止められていなければ、入隊して1週間もかからずにB級に上がることも考えられた逸材。

 犬彦の師匠はきっとそのことを見越して、犬彦がB級に上がった後でも足踏みすることのないよう知識と経験を蓄える時間を与えたのだろう。

 凄い人だ、と黒江はひっそりと感心の息を吐く。

 

「先輩は、私もスコーピオンにした方がいいと思いますか?」

 

 黒江が孤月を選択したのは、以前に剣道をかじったことがあったためである。逆に言えば、スコーピオンを選ばなかった理由はそれしかない。

 しかし、今話を聞いてみると練習さえすればスコーピオンもアリかもしれない、という思いが湧いた。

 C級の間はともかくとしても、B級に上がった際には鞍替えを検討する余地は十分にある。

 

 思わず尋ねた黒江に、そうだなあ、と指でタブレットを小突きながら犬彦が口を開く。

 

「オススメはしておく。スコーピオンはヒットアンドアウェイに向いた性能だから、身軽で素早い黒江には合ってると思う。応用については要練習だけど、理解できればすぐ慣れるだろ」

「じゃあ」

 

 ただ、と。利点ばかり口にしていた犬彦が、ここで始めて言葉を濁した。

 

「当然、スコーピオンにも欠点はある。最たる例が耐久性。これは間違いなく孤月に劣る。孤月の攻撃をガードしようとしてスコーピオン側の刃が欠けたなんて事例はザラだし、トリオン能力が足りてない場合は、必然その穴埋めを他の部分で補う必要が出てくる」

「他の部分、というと」

「それこそさっき言った発想力とかな。サブウェポンとか、技術とか。あとはサイドエフェクトとかみたいな反則技も勿論ある」

「……難しいですね」

 

 多分、黒江のトリオン能力は平均の域を出ていない。

 となると犬彦の言うところの他の部分を頼らざるを得なくなるわけだが、今のところ黒江に自信がある部分は1つもない。サイドエフェクトについては論外だ。

 

 少し乗り気になったところへ突きつけられた現実に思わず苦い顔を浮かべてしまう。

 不満げに唸り声を上げる黒江に、そんな顔すんなよ、と犬彦が笑った。

 

「要は使うならそのデメリットもきちんと理解しとけよってことだ。デメリットもあるが、それと同じくらいメリットもある。対策さえできるなら問題ないだろ」

「そう、でしょうか。なんだかデメリットを聞いた後だと、素直に使うのが躊躇われるんですけど」

「戦略をしっかり練った上でならいいと思うけどな。そもそも打ち合わなければいいという発想もある。回避に重点を置いてもいいし、シールドで防ぐのもアリだろう」

 

 そこでふと、犬彦の顔を見た。

 

「先輩ってスコーピオンを使う気はないんですか? 結構、合っているような気がしたんですけど」

 

 回避に重点を置くというのは、まさに犬彦には御誂え向きのスタイルではないか。

 そう考えて尋ねると、犬彦は言いづらそうに後頭部をかき、

 

「まあ、考えなかったわけじゃねえよ。少なくともアタッカーの武器の中じゃ孤月やレイガストより合ってるとは感じてるからな」

「やっぱりそうですよね」

 

 小南が言っていたのはきっとそういうことだろうなあ、と何か遠い目をして犬彦は言った。

 

「……ただ、少なくとも今は使う気がない。師匠もついてもらえたし、今は射手(シューター)に専念したいからな」

 

 憧れの人、と言っていた師匠のこと。

 そう話す犬彦の目はきらきらと輝いていて、それが少しだけ羨ましい。

 

 ――今は、あまり気にならないけど。

 

 黒江は今、とても満足している。

 犬彦と出会うまでは萎れていく花のように全てが色褪せて見えたものだけれど、今は水を得たように生き生きとしていた。

 

 無理もなかった。限られた環境、変わり映えのしない日々に退屈していたところへの真っ当なライバルだ。

 今はそれに加えて、お互いのスキルを高め合うために犬彦に知識を教わっている。

 まだ始めて数日しか経ってないのに、黒江は入ってからの一月を凌駕する大きな充足感を得ていた。

 

 ――だからこそ。この関係が1週間もしないうちに終わってしまうのは、少しだけ寂しい。

 

 出会った初日に話したところ、犬彦の師匠はやはりその日に上がるように言い含めていたようだった。

 そこを犬彦の口利きで――めっちゃ大変だった、と後に疲れた顔で語っていた――期限を延ばしてもらったのだが、それでも1週間が限度だったとのことだ。

 

 まあ、それは仕方ない。

 元より現時点での2人の所持ポイント数を鑑みれば、1週間でも伸ばしすぎなほどだ。互いに少しランク戦に集中するだけで即日ランクアップは容易に実現できる。それを延期させてもらっているのだから、犬彦にも、そして犬彦の師匠へも感謝しかなかった。

 

 聞いている話の印象では、犬彦の師匠は犬彦のことをとても大切に思っているように思える。

 技術だけ教えればいいところを、上がるタイミングまで指示して余計な固定観念を与えないようにしているのがその証拠だ。

 予定を崩して付き合わせてしまっているのはこちらなのだから、折を見て挨拶に行こうと黒江は心に決めた。

 

「犬彦ー、今日のデータ化終わったよー」

 

 自動ドアが開いた。

 訓練室の隅で額を突き合わせる黒江達に歩み寄ってくるのは、犬彦と瓜二つの小柄な少女。姉の小夜子である。

 オペレーターの正装である黒いスーツに身を包んだ姿はキリッとしていて黒江から見ても格好いい。が、それを身に纏う小夜子は欠伸混じりに伸びをしながら歩いてくるのだから色々と台無しだった。

 

「おーサンキュ。また見とくわ」

 

 タブレットを操作しながら犬彦が言った。

 姉弟ならではの気の知れた対応だけど、流石に黒江にとってはそうはいかない。

 

「お疲れ様です」

 

 視線を合わせてきっちりと頭を下げる。

 

 何しろこの訓練室も小夜子の所属する那須隊のものだ。

 そこを部外者である2人が使わせてもらっており――もっとも、那須が師匠で、小夜子が身内となれば犬彦については半分以上関係者だろうが――その上休みを割いて協力してもらっている。小夜子が口にするデータ化というのも、今日の2人の訓練の様子を録画したものをデータにして犬彦が手にするタブレットに落とし込んでいるのだ。

 犬彦は気にしなくていいぞ、と軽いものだけれど、流石にここまでお世話になっていて礼を尽くさない道理などなかった。

 

 頭を下げた黒江に、気にしなくていいよ、とひらひらと手を振りながら小夜子が笑う。

 

「黒江ちゃんもお疲れ。犬彦の相手、大変だったでしょ?」

「いえ、きついのは確かですけど、優しく指導してもらってますし……楽しいです」

「そっかーなるほどー。……ねえ犬彦。これ多分普段のノリで返しちゃダメな奴だよね?」

「わかってるなら言うんじゃねえよ」

 

 突然鼻頭を抑えて空を見上げた小夜子に、犬彦が辛辣に吐き捨てる。

 会話の意味はよくわからなかったけど、この姉弟はたまにこういうところがあることは理解していた。

 

「つれないなあ。犬彦ももっと私に感謝しろよー構えよー」

 

 胡座を組んで座り込む犬彦の背に小夜子がもたれかかる。

 物言いたげな低い声で語りかけるも、慣れたものとばかりに犬彦はタブレットから顔を上げもしない。

 

「いや、礼ならもう言っただろ」

「黒江ちゃんみたいな敬意が足りないと思うんだよ私は。見てごらんあの丁寧に頭を下げる姿を。ああいう純真さを犬彦は忘れてしまってるんじゃない?」

「かつてなくウザい絡み方するんじゃないよ。何だってんだ」

「犬彦はわかってないみたいだから言うけど、よく考えてごらん? 2人がキャッキャウフフしてるのを私は1人! 司令室の中で! モニター越しに! 1人で! 見てるしかないんだよ?」

「コイツ1人でって2回言ったな。てかキャッキャウフフなんてしてねえよ」

「しててもしてなくても構うものかー! 休みの中駆り出されて2人が楽しそうにしてるのを眺めてるしかない私をもっと労われー!」

「ああもうわかった! わかったから力を込めるな邪魔くせえ!」

 

 犬彦の首に腕を回して抱きついたところでついに犬彦がキレた。手を振り回して解こうとするも、小夜子はなかなか離れようとしない。どころか少し楽しそうだ。

 

 ――いいなあ。

 

 少し、羨ましい。

 見ててわかる。この姉弟は本当に仲が良い。

 微笑ましい姉弟の触れ合いは一人っ子の黒江には縁のなかったもので、だからこそ羨ましく、そしてその輪から少しだけ外れたところで眺めている自分が少し寂しい。

 

 しかし、ふと見ていて気になったことがある。

 取り残された寂しさもあって、考える間もなく思わず声をかけてしまった。

 

「あの、先輩」

「ん、黒江?」

「どうかした?」

 

 2人揃ってこちらを振り向く。その距離は相変わらずとても近い。

 

「先輩って、女の人が苦手なんですよね?」

「まあそうだな」

「聞いたところによると、確か小夜子先輩もだとか」

「私は男の人だけどねえ」

 

 首を傾げる2人に、触れ合う手を見ながら言った。

 

「その、それは大丈夫なんですか?」

 

 それ?と、一瞬何のことだかわからなかったようだけれど、やがて浮かぶ理解の色。

 ああ、と触れた手を軽くひらひらさせながら口にする言葉はまったくの同時で、

 

「だって小夜子だし」

「犬彦だしねえ。生まれた時から一緒だし、むしろ今更」

 

 放つ言葉も、やはりまったく同じだった。

 

「……そういうもの、なんですかね?」

 

 けれど、2人の答えは結論ありきのようにしか見えなくて、論理的とは言い難い答えに黒江は首を傾げるしかない。

 

「そういうもの、としか言えないな。こればっかりは感覚の問題だし」

「その理屈で他人とも何とかなったらねえ」

「なったら苦労しないんだけどなあ」

 

 難しい顔をして顔を突き合わせ合う姉弟。

 心の問題だし、そう簡単にはいかないものか、と納得するしかない。

 

「でも、犬彦の方には進展ありそうだし。その点は黒江ちゃん、大変だろうけどお願いね?」

 

 指を立てて、悪戯っ子の顔で笑う小夜子。

 その言葉を聞いた瞬間、苦いものでも飲んだかのように顔をしかめる犬彦。

 

 対照的な2人に、黒江は頷きと、少しだけ笑みを浮かべて言った。

 

「精一杯頑張ります。それが自分の恩返しですから」

 

 

 

 

 

 指が触れる。

 

 感触が伝わった途端、ぴくりと対面の指が退く。

 逃がさないとばかりに少し強引に手を伸ばして捕まえれば、小さな手のひらがびくりと跳ねる。

 

 少しひんやりとした体温が溶け合い、徐々に高まっていく。

 体温が上がっていくにつれて、やがて諦めたように捕まえた手の力が弱まっていく。

 

 ――それはまるで、蛙を呑み込む蛇のよう。

 そんな支配者の視点に、知らず気分が高揚する。

 

「……お、おっかない目してるぞ、お前」

 

 引き攣った声で犬彦が指摘した。

 そうですか、と確かめるように頰に触れる。自分ではよくわからない。

 

「肌すべすべですね。気を遣ってるんですか?」

「まさか。そんなのを気にするような歳でも性別でも――うひぃ!? ちょ、撫でるな指を動かすな!」

「だいぶ慣れてきたかと思ったんですけど、やっぱり動きがあるとダメなんですね。こういうのもダメなんですか?」

「ひぃっ! ちょ、お前ホントいい加減にしろ……!」

 

 空いた手をもがくように振り回しながら悶絶する。

 もう片方の手は黒江に掴まれ、繋がれている――一言で言うなら、握手だ。

 

 訓練室の隅、正座で向き合い握手を交わす男女。

 側から見れば密約が結ばれた瞬間か、はたまた怪しげな儀式の最中か。

 前途の通り犬彦は激しく身じろぎして見えない何かと戦っているようであり、対照的に黒江は物静かにその様を見守っていた。

 

 最初にお礼をしたい、と言い出したのは勿論黒江だった。

 互いのスキルを高め合うランク戦において、知識も経験も劣る黒江が犬彦から受け取るものは多い。

 しかしその逆はと考えた時に、黒江にはいっそ申し訳ないほど犬彦へ返せるものが少なかった。

 犬彦は同期で孤月使いと戦えるだけで良い経験になるとは言ってくれたけれど、教わるものに見合うものを返せているかと言われれば否になる。

 犬彦にもその師匠にも迷惑をかけているのだから、できる限りのことはしたかった。

 

 提案したのは、小夜子だった。

 那須隊の訓練室を借りた最初の日、そんなやり取りをする黒江たちに提案したのだ。

 異性恐怖症。犬彦の悩みの種である体質を克服する手伝いをしてほしい、と。

 

 黒江は二つ返事で了承した。

 ボーダーにおけるスキルで手助けをできないのは残念なものの、どんな形であれ受けた恩を返せるのであれば願ってもない。

 改善するポイントの関係上、触れ合わなければいけないと聞いた時には流石に恥ずかしかったものの、蓋を開けてみれば握手でさえコレだ。最初期には指で触れ合うことさえできず、これでも慣れてきた方だというのだから重症である。

 

 これは本当に腰を据えて挑まないといけないみたいだ、と思っていたのだけれど。

 

「っその、何か喋ってくれないか? 気が紛れるし、何より黙り込んだままでコレを続けられるのは流石に恥ずい」

「そうですね。じゃあ先輩、昨今の日本経済についてどう思いますか?」

「何故よりによってその話題をチョイスした? 第一お前日本経済わかるのかよ!」

「いえ、わかりませんけど。何か喋ってくれ、とのことだったので」

「その要望で真っ先にそれが出てくるのかお前は……もっと別の話にしてくれ」

「そうですか。じゃあ先輩、昨日の夕ご飯は何でしたか?」

「え? オムライスだけど」

「そうですか」

「……」

「……」

「いや、会話下手くそか! 俺もだけど! そっちは流石にもっと広げ方あるでしょ!」

「すみません、咄嗟に思いつかなくて。じゃあ先輩、明日の天気は――」

「地雷! それ見えてる地雷! 絶対そうですかとしか返せない奴だろそれ! もう大人しく定番のネタ使えよ!」

「わかりました。じゃあ先輩、今好きな人とかいますか?」

「修学旅行の夜かッ! 定番って聞いてなんでそんな答えにくいネタ選んでくるんだよもう! もう!」

 

 ゼーハーと息を荒げながら突っ込みをする犬彦。繋がれた手のひらは犬彦の興奮に合わせて熱を上げていて、暑いくらいだ。

 息を整えて、半目でこちらを恨めしげに睨みながら口を開く。

 

「……まあ、確かに要望通りではあるけどさ。天然か? それ」

「さあ、どうでしょう?」

 

 くすり、と微笑みながら首を傾げた。

 感情を隠そうともしない黒江の様子に、くたびれた様子で吐息をつく。

 触れた手のひら越しに伝わる鼓動は、最初よりずっと落ち着いていた。

 

「訓練の成果は出ていますか?」

「流石に数日そこらじゃ出ないだろ。まあ、流石にお前の手はだいぶ慣れてきたけどさ」

「私の手に慣れてきただなんて、なんだかいやらしいですね」

「そういうこと言うのやめてくれよ……言い方が悪かった、すまん」

「気にしてませんよ。最初からわかってますし」

「それどういう意味? 場合によっては朝まで話し合うのも吝かじゃあないんだが?」

「先輩の想像の通りですけど?」

「ようしそこに直れ。俺の男女平等パンチが火を噴くからなあ!」

 

 ぐるぐると肩を回す仕草に、堪え切れなくなって噴き出す。

 口元を抑えはしたものの、肩が震えるのは隠せない。

 

「ったく……まあ、ちょっと安心したわ」

「安心、とは」

「ニギニギすんなぁ! 話させろや!」

「すみません。手触りが良くて、つい」

「お前ホントこの時間だけめっちゃ活き活きしてるの何なんだよ……まあ、つまりそれだよ。最初会った時はめっちゃつまらなさそうにしてたけど、今は楽しそうだから。良かったなって」

 

 言ってて照れ臭くなったのだろうか、最後は目を逸らしながらそう言った。

 それを、思わず目を丸くしてまじまじと見てしまう。

 

「何だよ、間違ってたか?」

「いえ、逆です。先輩って、異性恐怖症と言う割には見てるところは見てるんだなって思って」

「別にそんなことねえよ。話している時と戦ってる時でギャップがありすぎたから、そうなのかなって思っただけだし」

「ああ……」

 

 言われて思い出す。

 表情の変化については自分ではわからないけれど、内面のことについて言えばそれは劇的だったことだろう。それが大なり小なり表に現れていたとしても不思議はない。

 

「そうですね。確かに、今まではそんなに面白くなかったです」

「ぶっちゃけたな。面白くなかったというと」

「ランク戦とか、色々です。入った時は面白かったですし勝ち続けるのもそれはそれで好きでしたけど、物足りなさはずっと感じてましたから」

「天才の悩みだなあ」

「先輩が言いますか」

「俺は師匠がアレだっただけだし」

 

 遠い目をしながら犬彦が言う。

 それも否定はしないけれど、先天的にトリオン能力が優れていたのだから十分天才の範疇だろう。

 

「なので、本当にどうしようかって思うところはあったんです。バカはさっさと上行って楽しそうにしてますし、どうしようかなって」

「お前の口がそんなに悪いの珍しいな。バカって?」

「少し前に入った幼馴染がいるんです。その幼馴染はもうスカウトされてA級になってますけど」

「スピード出世だなあ。よっぽど優秀なんだな」

 

 どうでしょうね、と空を仰ぐ。

 ボーダーに入ってからのバカ――緑川駿がどんな感じなのかは知らない。追い出されてないということは上手くやっているのだろう、程度。

 

 実際、子供の頃から身体を動かすことに関しては飲み込みの早い野生児だったからそんなに心配はしていない。元々住んでいた田舎の山を2人で駆け回っていた日々の経験が今の黒江を形作っているものだ。黒江が上手くやれているのなら、緑川もそうなのだろうという信頼がある。

 だからこそ、自身の現状を省みて不満と、焦りを感じていたのは事実だった。

 

「やっぱり、負けたくはないですから。辞めようとまでは流石に思っていませんでしたけど、憂鬱にはなりました」

「なるほど。まあそういうことなら、少しでも楽しめてるようで何よりだよ」

「ええ。お陰様で、楽しくやらせてもらってます」

「そう言いながら力を込めるなァ! 嫌がらせか!」

 

 ぐにぐにと力を入れたり離したり。そのたびに跳ねる犬彦を見ながら思う。

 

 ――自分は本当に運が良かった。辞めるつもりはなかったとは言ったけど、あのまま沼に沈むように腐っていたら意志が折れていた可能性は十分にあった。

 

 だから、本当に犬彦には感謝しているのだ。

 犬彦のおかげで、今は本当に充実した日々を送れている。

 

 だから、そう。願わくば、これからも。

 

「……」

 

 犬彦の顔を見る。

 少女にも見える中性的な顔。戦闘時の勇ましい顔も、肌を触れ合わせている時の緊張と羞恥の顔も、この数日間で見慣れてしまった。

 

 思うのは1つだ。

 

 ――先輩、B級に上がったらどうするつもりなんでしょう。

 

 この少しおかしな訓練の日々は1週間で終わってしまう。

 けれど終わってからの話をしたことはない。

 

 黒江には今のところどこかの隊に入るつもりはなかった。そもそもそういうコネがないし、だからこそ悩んでいたのだ。

 強いて言うなら緑川くらいのものだが、あの幼馴染に頭を下げて入れてもらうのもそれはそれで釈然としない。きっとからかわれるだろうことは容易に想像がついた。

 

 一方、覚えが正しければ犬彦からもそういう話を聞いたことはない。

 姉の小夜子と組んでやりたいような発言はちらりとしていた覚えがあるが、誰の隊に入るとか、誰と組んでチームを作るという話は聞いたことがなかった。

 

 だから、そう。少しだけ、思うことはある。

 

 ――どうせならこのまま、先輩と。

 

「……江。黒江ってば」

 

 呼びかける声に我に帰る。

 

「っ。すみません、ぼうっとしてました」

「いや、別にいいけど。そろそろいい時間だし、お開きにしないか? 今日ランク戦もしてないし」

 

 言われて時計を見る。確かに、もういい時間だった。

 

「そうですね、わかりました。――あ」

 

 握手が解かれて、繋がれていた手のひらが離れる。そのことに思わず声が漏れた。

 

「どうかしたか?」

 

 不思議そうな顔をして犬彦が聞く。

 茫洋と、手のひらを見ながら呟いた。

 

「先輩って、何かそういうフェロモンとか出たりしているんでしょうか」

「は? フェロモン?」

「もし私が先輩から離れられなくなったら、責任取ってくださいね」

「待て、何の話だ!?」

 

 慌てる声を引き連れて、訓練室を出ていく。

 

 知らなかった。

 ――人の温もりというものは、存外に心地いいらしい。

 

 

 

 

 

「スカウト……ですか?」

 

 そして、選択の日が訪れる。

 

 

 

 

 

 

 




 基本的に、神の視点からの突っ込みは排除してます。
 ので、黒江の(まだ顔合わせもしていない)小南に対する評価が鰻登り。
 多分本人はそこまで考えてないと思った人、どのくらいいるのカナー(棒読み

 書いてて思いますが、黒江ってスコーピオンでも戦える気しますね。
 スピード寄りのアタッカーで適性は十分なんで、そっちで立ち回る姿も見てみたい……韋駄天でバチバチにやり合う姿も勿論好きなんですけど!


 次回、選択。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話 黒江双葉③

 

 

 

「おーい、黒江?」

 

 は、と我に帰る。

 見ると、トリオン体に換装した犬彦が訝しげな目をしてこちらを覗き込んでいる。

 

「すみません、何でしたか?」

「何でしたか、って……。今日変だぞ、お前。変なもんでも食ったか?」

「いえ、すみません。何でもないです」

「何でもない、って」

 

 かぶりを振って強く言い切る。

 けれど犬彦は悩ましげに腕を組んで、思案している様子。明らかに怪しまれていた。

 

 言っておいて何だけれど、下手な嘘だった。

 そもそもトリオン体に換装してしまえば、体調不良など起こりえない。犬彦への下手な返しが、逆に黒江が何か抱えていることを露呈させてしまっていた。

 

 静かに、大きく息を吐き出す音。犬彦が言った。

 

「……無理に聞き出すつもりはないけどさ。何か悩みがあるんなら話してみないか? はっきり言って、このまま続けても練習にならない」

 

 否定はできなかった。

 黒江の今日の記憶はほとんど虫食いで、早くも薄れ始めてしまっている。こんな状態では何も身につくはずがない。

 

 それに、と。

 言いづらそうに目を逸らしながらこう続けた。

 

「約束の日はもう明日なんだ。どうせなら最後まで楽しくやった方がいいじゃないか……と思うん、だが」

「……先輩」

 

 なけなしの勇気を振り絞ったのだろう。こちらから隠すように手で顔半分を覆っているけど、それでも赤らんだ肌を隠しきれていなかった。

 

 少し、嬉しい。

 そのことも、犬彦が口にした言葉も。

 犬彦もまた、この日々を楽しいと感じてくれている。一方的ではなかったという喜びが黒江の勇気に繋がった。

 

「すみません。隠すようなことではなかったんですけど、まだ自分の中で整理がつかなかったので考え込んでしまってました」

「そう、か。あー、別に無理して話さなくてもいいんだぞ? 俺に解決できるかもわからないし」

「いえ、どの道先輩には話さないといけないことですから。……いえ、ちょっと違いますね。私が、先輩に話したいんです」

 

 短い間だけど、お世話になった先輩だから。最後まで義理は通したい。

 トリオン体を解除して、黒江は言った。

 

「少しだけ、相談に乗ってもらってもいいですか?」

 

 

 

 

 

 ――それは、昨日の訓練を終えた後のこと。

 

「まずは自己紹介かしらね。私は加古望。部隊はA級6位で、隊長をやらせてもらってるわ」

 

 宜しくね、と微笑む女性に、はあ、と気のない返事を零すしかない黒江。

 

 突然だった。

 廊下で声をかけられて、ここじゃなんだから、と建物内のカフェに連れられて、気付けば目の前には甘い香りを漂わせるオレンジジュースが置かれている。

 時間を飛ばされたかのような強引さと急展開に黒江は目を白黒させていた。

 

「黒江双葉です」

 

 名乗られたからには名乗り返さないと失礼、と半ば条件反射のように口にする。

 

「宜しくね」

 

 側から見ても無愛想な返事にも、嫌な顔1つせず加古は微笑んだ。

 

 ――大人の女性、って感じですね。

 

 酸味の効いたオレンジジュースを口に含みながら、ゆっくりと状況を咀嚼する。

 

 さらりと肩まで垂れた金色の髪に、細身の体躯。

 切れ長の目と口元のほくろが大人の色香を漂わせている。

 

 何となく、故郷の狐を思い出す人。

 そんな印象はおくびにも出さずに口を開く。

 

「それで、その」

「スカウトね。改めて聞くけど、黒江ちゃん、ウチの部隊に入らない?」

 

 これだ。先程も廊下で言われたけれど、あまりにも唐突すぎて黒江はまったくついていけない。

 

「……その、どこかでお会いしましたか?」

 

 取っ掛かりを得るために探りを入れる。

 黒江の記憶では、入隊前も、入隊してからも会ったことはないはずだ。なのにどうしてこの人は自分のことを知っているのだろう、と首を傾げる。

 

「直接顔を合わせたことはないわ。私が一方的に貴方のことを知っただけだもの」

「どこで?」

「ランク戦。結構皆見てるのよ? 戦い方の勉強は勿論だけど、こうして有望な新人を引き入れたりするためにね」

 

 なるほど、と黒江は頷いた。

 ラウンジにある大型モニタにはその時行われているランク戦の様子がランダム且つ無数に垂れ流されている。一月もランク戦をやっていれば、見られていたとしてもおかしくはない。

 だけれど、だ。

 

「A級6位、でしたか」

「ええ。不満だった?」

「いえ。むしろ、何故私なんですか? まだ入ったばかりですし、A級の方に勧誘されるような覚えなんてないんですけど」

 

 S級という例外を除けば、A級というランクがすでに1つの頂点を指す肩書きである。

 翻って自身を顧みれば、まだ何の結果も残していない素人同然のC級。疑問に思うのも無理はなかった。

 

 眉をひそめていると、加古が目を丸くして言った。

 

「意外と自己評価低いのね。ランク戦見せてもらったけど、良い動きしてたわよ。とてもC級とは思えないくらいに」

「そう、ですか」

「ええ。すぐに活躍できると思うわ」

「どちらかというと、声をかけられたことについていけてないんですけど」

「C級へのスカウトなら皆普通にやってるわよ。B級に上がってしまうとほとんどチームを組んでしまってるし、有望そうな子なら取り合いになることも珍しくないわ」

 

 そういうもの、なんだろうか。筋は通っているように思えるけれど、今まで陽の目を見ることのなかった自分に声をかけてもらっていることが信じられなくて、イマイチ現実味が薄かった。

 

「特に、ここ最近の貴方は見違えるほど上手くなってたから。出遅れたかもしれないと思っていたのだけれど、貴方の反応を見る限りそういう話はなかったみたいね」

 

 ――だから、きっと。未だに信じられていない最大の理由は、身近で輝く太陽を見続けてしまっていたからだった。

 

 カップを優美に傾ける加古に、あの、と声をかける。

 

「声をかけたのは私だけ、ですか?」

「どういうこと?」

「その、ここ最近私と一緒にランク戦をしてる人がいるんですけど……黒髪で、背の小さい男の子」

 

 心の中でごめんなさいを唱えながらぎこちなく説明する。犬彦にとっての禁句でしか特徴を説明できない自分の口下手さが恨めしい。

 何より申し訳なかったのは、「ああ、あの小さい子のことね」と、その説明で話が通じてしまったことだ。

 

「その子がどうかしたの?」

「私、最近あの先輩に色々と教わりながらやってるんですけど、先輩にはかけないんですか?」

「彼って同じC級でしょう? 先輩だなんて、不思議な呼び方をしているのね」

「すでに師匠を見つけてるんです。それで、色々と教えてくれているんですよ」

「そういうこと。確かにあの子も良い動きをしていたわね。……けれど、ね」

 

 頰に手をやって首を傾げる。

 仕草の1つ1つに気品が漂う人だった。

 

「彼、私の感覚(センス)には合わないのよね」

感覚(センス)、ですか?」

 

 不思議な単語が出てきて首を傾げる。

 チームの方針とか戦略とか、そういうことだろうか。

 

 加古は意味深な流し目で黒江を見る。

 まるで、黒江の反応を探っているような。

 

「ウチのチーム、皆名前のイニシャルに『K』がついているのよ」

「イニシャル?」

「そう。彼の名前、志岐犬彦でしょう? だからあの子はちょっと違うのよね。彼がダメというよりは、私の感覚(センス)に合わないから声をかけなかっただけ」

「黒江双葉……ああ、なるほ、ど?」

 

 そういうことか、と理屈は把握した。けれど彼女の言い分はよくわからない。

 良い動き、と言って褒めてくれたのだから流石に名前しか見ていないということはないのだろうけど、理屈に合わないから、という理由で犬彦より黒江を選んだのは彼女にとっては理解できないことだった。

 そしてどうやら、本人にとってはそれは真面目に重要なことらしい。少なくとも嘘や冗談を語っている風情ではなかった。

 

 首を傾げて思い悩む様子の黒江を、しばし観察していた加古が口を開く。

 

「不満かしら?」

「不満というか、よくわからないだけです。そんな風に誘われたのは初めてですし……」

 

 ――それに、何より。こんな形で道が別れそうになるとは、想像もしていなかったから。

 

 黒江の表情にわずかに影が差す。

 それを見て取ったのかはわからないが、加古が吐息をついて言葉を重ねた。

 

「まあ急な話だし、悩むのも無理はないわ。だから1つ、良い話をしておきましょう。A級になると、今使っているトリガーを改造することができるようになるの」

「改造、ですか?」

「そう。既存のトリガーを改造してもいいし、まったく新しいトリガーを創り出してもいい。それは私達の想像力次第。勿論、その中から実用に足るトリガーを生み出すのは大変なことだから、既存のトリガーだけで戦っているチームも多いんだけど、私達はそれを精力的に研究しているわ。だから貴方がウチに入れば、自分の好きなようにトリガーを研究することができるわよ」

「トリガーの、研究」

 

 呟いた言葉に、好奇心が疼く。

 

 ――正直、面白そうだと思った。別に現状に満足していないわけではないけれど、より自分に合うトリガーを研究するというのはそれだけで面白そうだ。

 

「そうそう、これ、私の連絡先ね」

 

 名刺を取り出して黒江に手渡す。

 書かれてある番号をまじまじと眺める黒江を置いて、席を立った。

 

「返事は今でなくてもいいから、ゆっくり考えてみて。貴方の先輩に相談してもらっても構わないわ」

「そう、ですね。はい」

「良い返事を期待してるわ」

 

 図星を突かれて目を逸らす黒江に笑みを1つ。伝票を手に取って加古は優雅に去っていった。

 

 

 

 

 

「大人だなあ」

 

 全てを聞き終えた犬彦が言った。

 あの余裕のある仕草には憧れるところもあったので、素直に「ですね」と頷いておく。

 

「黒江はどう思ったんだ?」

「……正直、興味はあります。A級で戦えることもそうですけど、トリガーの改造ができるというのは知りませんでしたから、面白そうとは思いました」

「それな。どこまでできるのかわからんけどワクワクするよな」

 

 夢見るように笑みを浮かべる。

 それ自体は間違いではないので、黒江もまた頷きを返した。

 

「しかし、聞いた限りだと良さそうな話に思えるけど、何に悩んでるんだ?」

「それは……その」

 

 ちらりと、犬彦の顔を盗み見る。

 犬彦は本気でわからない様子で首を傾げていた。

 目を逸らした。

 

 ……どう言えばいいというのだろう。

 そもそも、黒江には今この胸の内にある想いを形にできる自信がなかった。

 

 ストレートに形にしてしまえば、寂しい、だ。

 スカウトの話を飲めば黒江は一気にAランクに上がる。そうなれば少なくとも犬彦としばらくの間ランク戦で相見えることはなくなる。犬彦との訓練が楽しい今の時間が明確に終わってしまうのは紛れもなく寂しいことだ。

 

 そして、もう一つ。

 黒江は再び犬彦を見た。けれど表情の変化はない。

 ということは、少なくとも今犬彦にその考えはないということ。それもまた寂しいことではあったけれど、具体的にこの先の話をしたことがなかったのだから当然と言えば当然か。

 

 ――先輩とチームを組めたら、だなんて。言えるわけないですよねこれ。

 

 今の状況で、形にもなっていなかった夢のようなそれを口にするのは非常に勇気がいることで。

 黒江にはそれを口にする勇気はなかったし、口にしようとすると、様々な感情が絡みついてきて邪魔をする。

 

「……急な話だったから、整理がつかなかったんです。それに、加古先輩のこともよく知りませんし、人脈のある先輩なら何か知ってるかも、って」

 

 結局黒江にできたのは、建前を口にすることだけだった。

 

 

 

 

 

「人生の味がする」

「悪かったって……」

 

 夕食の席。

 苦々しい顔で焦げたハンバーグを口にする小夜子に、珍しく低い立場から犬彦は言った。当然、そう口にする犬彦の前にあるハンバーグも同じく焦げついていた。

 

「まあ完全に黒コゲじゃないなら全然大丈夫大丈夫。これも人生と同じだねえ」

「いちいち疲れるような言い回ししてんなよ。変な宗教にでもハマったのか」

「何言ってんの、犬彦が何か悩んでるみたいだからネタ振ってあげてるんじゃないか。いつもならこんな失敗しないもんね?」

 

 焦げ目の部分をフォークで突きながらそう言って笑う。

 そう言われると、図星な犬彦としては口を閉じるしかないわけで。

 

「悩みあるんなら話してみなよ。なあに、犬彦のやらかし話なんて今更なんだし1つ2つ増えたところでさして変わらないでしょ!」

「お前に言われると凄く反発したくなるんだがなあこの野郎め」

「それは否定しない」

「否定しろよ」

 

 何故かドヤ顔を決めている小夜子。

 などと言いつつも、一応は感謝している。犬彦にはいくら考えても何故自分がここまで引っかかっているのかわからないわけで、だからこうして小夜子に相談するのも、きっと決まっていたことだった。それをやりやすくしてくれたのは感謝してもいいのだろう。

 

 犬彦は今日の黒江とのやり取りを説明した。

 何が問題があったのか、何故こんなにも引っかかっているのかはわからなかったためにできるだけ客観的な視点で伝えるようにした。

 

 やがて全てを聞き終えた小夜子は、なんだかひどく呆れたような面持ちで口を開いた。

 

「犬彦と黒江ちゃんって、今後の話とかってしたことなかった?」

「今後? いや、特には」

「おけ把握。なんだ喧嘩でもしたのかと思ったら……まあ、問題が表面化しない分ある意味こっちの方がめんどくさいのかなあ」

 

 頬杖をついて思わせぶりにため息をつく小夜子。

 小夜子は即答えが出たようだけれど、犬彦には未だに理解できない。

 

「何だよ、お前にはわかるってのか?」

「わかるというか……まあ、外から見てればねえ」

 

 んー、と、小夜子はしばし考え込むような間を置いてから、わかりやすく肩をすくめた。

 

「まあ、このままだと良くないまま終わっちゃいそうだし、口出そうか。要はさ、黒江ちゃん、犬彦とチーム組みたかったんじゃないかと思うよ」

 

 それはまさしく、犬彦にとっては青天の霹靂だった。

 

「は? 俺と?」

「犬彦と。だって犬彦、B級進んでも組む相手いないでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「でしょ。で、話聞いてた限りだと黒江ちゃんもそういう話なかったみたいだし。だから多少なり、そういうことも考えてたんじゃないかな」

「……今後の話って、そういう」

 

 確かに、犬彦も黒江も、B級に上がったらどうするかという話はしたことがなかった。

 犬彦自身に具体的なプランが立ってなかったのもそうだし、自分のスキルを高めることに精一杯でそちらまで頭が回っていなかったこともある。何より、チームは最低限戦闘員1人にオペレーター1人で組めると知っていたのもあって何とでもなると考えてしまっていたことが大きかった。

 

「でも、それで黒江が俺と組みたいってことにはならないだろ」

「……まあ、犬彦から見るとそうだろうね。でも外から見てても黒江ちゃん、犬彦に懐いてたし。多分意識はしてたと思うよ」

「まあ、俺だってここんとこ楽しかったのは事実だけどさ。だからって、そうなるのか?」

「じゃなきゃ、そこまで悩む理由に検討がつかないよ」

 

 もしそれ以外ならお手上げ、とばかりに小夜子は両手を上げた。

 

 まさか、という思いもある。けれど犬彦は自身が感じていた引っかかりが解けていくのを感じていた。

 悩みを打ち明けた後の、黒江の笑み。

 どこか違う、と感じていながらも、けれど言葉にできなかったもの。

 

 咀嚼するように、呟く。

 

「……黒江は俺と組みたかった。けどそこに今回の話が来た。そこで板挟みになって、俺に相談してきた、って?」

「だいたいそんなところだと思うけど。で、どうするの?」

「どうする、って」

 

 戸惑う犬彦に、試すような眼差しで見つめる小夜子。

 

「じゃあ、聞き方を変えようか。犬彦、B級に上がったらどうするの?」

「チームの話か? 」

「そう。オペレーターについてはこの際置いておくとしてさ、仮に誰かのチームに入らず自分のチームを作るとして、犬彦は1人の方がいい? それとも黒江ちゃんと組みたい?」

「どっちかって、そりゃ……」

 

 ――黒江のことは嫌いじゃない。異性恐怖症の身ではあるけれど、気が合ったこともあってそれなりに早く打ち解けられた。戦いのセンスもあるし、競い合っていく上で不足のない相手だ。

 それを踏まえてチームを組みたいか、と聞かれたら。犬彦はその答えを口にしようとして、

 

「そうだね。良い機会だし、ちょっと真面目に話をしようか」

 

 よっこいせ、と佇まいを正した小夜子が言った。

 

「犬彦、私をオペレーターにしようとしてるよね?」

「……悪いか? それか規則でできないとか?」

「そのどちらもNO、だね。オペレーターになってあげてもいいし、規則で禁止されてるわけじゃない。少しばかり大変にはなるけどね」

 

 頷く。

 誰かを今から探すのもいい。けれど、犬彦のポテンシャルを誰よりも発揮させることのできるオペレーターは小夜子以外にないことを確信している。

 血を分けた姉であり、呼吸から性格まで犬彦の全てを熟知した存在である。これ以上があろうはずもなかった。

 

「前にも言ったとおり、私と犬彦が組んでどこまでいけるのかってのは純粋に興味があるし、面白そうとも思ってる。だから組むこと自体は問題ないんだよ」

「回りくどいな。何が言いたいんだ」

「はっきり言うとね。私の理想は、犬彦が那須隊に入ることなんだよ」 

 

 何の衒いもなく小夜子は言った。

 笑み1つさえ浮かべていない。それだけ本気だということだ。

 

「……それは、前も話しただろ」

「話したね。だけど納得したわけじゃないんだよ。誰か1人でも反対してるなら話は別だけどそうじゃないし。第一、犬彦が断った理由って“今は”何もしていないし、何もできていないから入りたくないってことでしょう? なら、しばらく経った後ならその理由は消えるはず。違う?」

「それはそうだけど……つまり、何か? 要はお前は、お前をオペレーターにするのなら黒江とは組むなと、そう言いたいのか?」

「違うよ、そういうことじゃない」

 

 一息。

 静かな目が犬彦を見据えて、恥ずかしげもなくこう告げた。

 

「これは私のエゴだよ。私の夢は犬彦が那須隊に入ること。だけど犬彦は少なくとも今は入りたくないんだよね? だから私をオペレーターにするのなら、条件をつけよう」

「条件……?」

「要はリスクだね。これについてはずっと前から考えてた。犬彦は今何のデメリットもなく私の手を借りようとしてるでしょ? それは不公平だと思うんだよね。私にも都合があるし、私の負担は増えるばかり。なのに犬彦はさしたる目的もなく私の手を借りようとしてる。なら、それくらいは呑んでくれるでしょう?」

 

 静かに尋ねてくるそれを、拒絶することは難しかった。

 無条件で力を貸してくれるなどと約束を交わした覚えはないし、その言い分も間違ってはいない。力を借りるなら、代わりに何かを背負うのは当然のことだ。

 

 問題は、それが何なのか、ということだけれど。

 

「そんなに変な話じゃないよ。というか多分、これについては犬彦も納得してもらえると思う」

「俺も?」

「そういうごく当たり前の条件ってことね。だから変に構える必要はないよ。ちなみに、この条件には黒江ちゃんは関係ないから。組むのも1人でやるのもどっちでもいいよ」

「……ちなみに、クリアできなかったら?」

「そりゃ勿論、ゲームオーバー。常識でしょ? 私達にとってはさ」

 

 そうだな、と犬彦は天を仰いだ。

 

 小夜子をオペレーターにした時点でゲームスタート。小夜子の目的が犬彦を那須隊に入れることだと考えると、つまりは力を借りられる期間は有限だということなのだろう。もしかしたらそれに加えて他にも条件がつくかもしれない。

 しかし、それを聞かされた上でも犬彦は小夜子以外のオペレーターを取るつもりはない。

 

「だから、もし黒江ちゃんと組むなら覚悟を決めなよ。黒江ちゃんの出世話を断ち切って、犬彦の都合に付き合わせて、挙句解散の可能性もある話だし」

 

 組んだ手を解く小夜子に、相槌を返すしかない犬彦。

 

 厳しい現実を突きつけられた。それだけだ。霧の向こうの道を照らしてくれた分、小夜子の言葉はむしろ温情があるとも言える。

 もっとも、どの道を選ぶのか、については未だに答えが出ないのだけれど。

 どうやら今日は眠れぬ夜を過ごすことになりそうだ、と犬彦は全てを受け入れた面持ちを浮かべる。

 

「で、その条件って?」

「簡単だよ。とってもシンプルな条件さ」

 

 そして、小夜子はそれを告げた。

 

 

 

 

 

「悪い。訓練の前に、ちょっと話しようぜ」

 

 そう言って連れてこられた先は、加古と話をした時にも利用したカフェだった。

 これには少なからず驚いた。

 

「どうしたんですか、先輩。こんな場所、先輩が好んで来るような場所じゃないでしょう?」

「……色々、考えた結果なんだよ。これでも、な」 

「とてもそうは思えないんですけど……」

 

 失礼かもしれないけれど、注文を取りに来たウェイトレスにさえ表情を強張らせている犬彦を見ていると失敗や後悔といった2文字しか浮かんでこない。

 男性客もいないことはないが、女性客の方が割合も大きく、傍目から見ても居心地悪そうにそわそわしている。明らかに場違いな風情だった。

 

 前に利用したのが優雅な様を貫いた加古の時だっただけにギャップが大きく、黒江は純然たる親切心から口を出してしまう。

 

「その、今からでも変えてもいいですよ? 先輩にこういう場所が無理なことは知ってますし、今ならまだ通ると思いますけど」

「……いや、すまん。頼むからこのままやらせてくれ。ホントお願いします」

「いえ、私はいいですけど……」

 

 重く息を吐き出しながら犬彦が頭を下げた。

 完全にミスった、とか、どうして俺はこう、とか、そんな声が漏れ聞こえている。

 

「その、元気出してください先輩。先輩がそういう人なのは知ってますし、何てことないですよ」

「フォローに見せかけた追い討ちだよそれ」

「だって私、先輩の良いところたくさん知ってますから。そういうプランニング下手だったり肝心なところでドジ踏んでしまうようなところより、もっと多くの良いところ挙げられる自信あります」

「よしわかった! 元気出た! 元気出たからそれ以上やめよう! じゃないと本当に立ち直れなくなっちゃう!」

 

 パンパン、とひどく慌てて先を促すように手を叩いて、一息。大きく肩を落とした先輩は疲れたように息を吐いた。

 仄かに緩む黒江の表情が原因だろう。本当に、最近の黒江の表情筋は自分の思い通りに動いてくれない。

 朗らかな気持ちで口を開いた。

 

「それで、結局話ってなんですか?」

「楽しそうにしやがって……まあ、アレだよ。ほら」

 

 咳払いを1つ。

 

「今日が約束の日だしな。ちょっと、これからの話をしようと思って」

「あ……」

 

 届いた言葉に、色々な思いが脳裏をよぎる。

 その可能性も考えていなかったわけではないけれど、予想外の場所や犬彦とのやり取りでいつの間にか有耶無耶になってしまっていた。

 

 そこでふと、気付いたことがある。

 

「もしかして、今までのってわざとですか?」

 

 気まずさを和らげるための、犬彦なりの演出だったのだろうか。

 そう考えて尋ねると、犬彦はぎこちなく視線を逸らして苦い声で言った。

 

「……場所を選んだところまではその通りだよ、うん」

「ああ、そういう……何だかその、気を遣わせてしまってすみません」

「いや、うん。こちらこそマジですみません」

 

 何故か喫茶店で頭を下げ合う2人組がそこにいた。

 犬彦も、今日の話をするにあたってきっと重く、最低でも堅苦しい空気になるだろうからと話しやすい場所を選んだつもりなのだろう。とはいえ流石にこれは予想外だったろうな、とどこか抜けている犬彦の一面を再確認した。

 

 そこで2人が注文した飲み物が届いた。

 これ幸い、と犬彦は早速アイスコーヒーを一口。

 黒江もまた気を取り直すように、シロップを注いだアイスティーに口をつける。ひんやりとした液体が喉の奥に消えていくのが気持ちいい。

 

 よし、とグラスを置いた犬彦が手を叩いた。

 

「話を戻そう。今後の話だけど、まずAランクを目指すのは確定として、問題は隊をどうするか、だ」

 

 知らず、グラスに触れる手に力がこもった。

 表情が変わっていないことを祈りながら、さりげなさを装って聞く。

 

「先輩は、どこかに誘われていたりするんですか?」

 

 少し、表情が変わった。

 

「1つだけ、な。まあ、断ったんだけど」

「断ったんですか……って、すみません。聞いてもいいことでしたか?」

「ああ。そのチームな、那須隊なんだよ」

 

 衝撃に息を呑む。

 けれどそれは、呑み込んでしまえば、ですよね、と納得の感想しか浮かんでこない。

 何せ師匠と肉親のオペレーターがいるのだから。

 

「前に、小夜子先輩がガールズチームだって言ってましたけど、それが理由で?」

「いや、それとはまた別。俺には勿体無いくらい良い人達ばっかりだったから組むのは問題なかったんだけど……ちょっと、我儘言ってな。誰かの隊に入る前に、どうしても自分がどこまでやれるのか、力を試してみたかった。ゲーム感覚なのは否定できないから、流石にそのままには口にできなかったけどな」

 

 グラスの結露した表面を指で弾きながら言った。

 

「でも、わかります、そういうの」

「意外、でもないか。お前もだいぶ負けず嫌いなところあるしなあ」

「も、ってことは自覚してるんですね」

「そりゃ、男だったらなあ。負けたくはないし、負けてばかりってのも面白くないだろ」

「失礼ですね。それだと、まるで私が男みたいって言ってるみたいに聞こえるんですけど」

「まあ中身は割とそれっぽ……待て、悪かった。謝るからこっちに伸ばすその手を引っ込めろ、ステイだ」

「いいことを教えてあげましょう。私、最近マッサージを勉強し始めたんですよ」

「どこを揉む気だ! その鍛え上げた腕で俺のどこを気持ちよくする気だ!?」

「先輩、先輩。――大丈夫ですよ、天井のシミを数えている間に終わらせますから」

「やっぱり男の子じゃねーか」

 

 両手をわきわきしながら目を光らせる黒江と、両手で身体を覆い隠しながらの犬彦。

 互いを見やりながら冷静に言って、小さく吹き出す。

 

「褒めてください。最近、ようやく先輩達の芸風がわかってきたんですよ?」

「芸風って言うなよ。まあ、あれだけ一緒にいればなあ」

「ええ。そのたびに寂しい思いをしてたんですからね」

 

 茶化して口にした言葉に、歯切れの悪い返事が応じる。 

 尋ねようとしたところで、あのさ、と犬彦が切り出した。

 

「黒江ってその、……俺と組みたいって思ってるの、か?」

 

 ――予想もしていた。聞かれるとも思っていた。

 

 唯一予想できなかったのは、尋ねられた時に、黒江がどう答えるか。

 

「はい。私は、先輩と組みたいと思いました」

 

 静かに黒江が言った。

 息を呑む音。それは果たして、どちらのものだったのか。

 

「それは、A級入りの話を蹴ってでも?」

「ええ。あの時と一緒です。私は、先輩がいいと思ったんです」

 

 この奇妙な関係が始まった時。最初に抱いた想いは今でも変わっていない。

 この楽しい日々を、このまま続けられたら。それは偽りのない黒江の本音だった。

 

 そうか、と犬彦は視線を落として呟いた。

 その意味を、その想いを、噛みしめるような長い沈黙。

 

 やがて、大きく息を吸った犬彦が言った。

 

「――ごめん。俺は、お前とは組めない」

 

 震えながら。上擦った声で。

 それでもしっかりと目を合わせて、犬彦がそう告げた。

 

「……理由を聞いてもいいですか?」

 

 落ち着いた声を出せたことに、自分で驚いた。

 それは多分、どこかで犬彦の意思に気付いたからだ。

 

「……オペレーターの話。俺は、自分の隊を作るなら小夜子しかいないって思ってる。互いが互いを良く理解してる仲だしな、これ以上はない。だけど、その小夜子から条件を出された」

 

 犬彦の口から語られる条件。

 それが厳しいのか厳しくないのか、今の黒江に正確に推し量ることはできなかったけれど、そもそも現在B級にいるお姉さんからの課題である。ギリギリのラインを攻めていることは容易に想像がついた。

 

「お前がたとえば、何の声もかけられていないのなら。どこにも入るつもりがないのなら、組むこともあったかもしれない。けど、A級入りなんて美味しい話を蹴って、それでも俺についてきてくれ、なんてことは――いや、違う」

 

 弱々しく、顔を覆って。

 

「違うんだ。それは全部、建前だ。それも否定はしない。でも決定的なのは、そういうことじゃなくて――今、那須先輩とお前を比べてしまった時、お前を選べない。それだけのことなんだ」

 

 自傷行為を見ているようだ、と思う。

 断られているのはこちらなのに、こちらに向けられるはずの刃がすべて犬彦に刺さっている。

 血を流しながら、吐きながら、それでも犬彦はそれを口にした。

 

 黒江は、もはや呆れてため息しか出ない。

 

「バカですか、先輩は。なんでそんなことまで口にしちゃうんです? 建前だけで充分理由になるはずなのに、余計なことを付け足して。どっちも傷つくだけじゃないですか」

「ぐ……いや、こういうのは本当のこと言わないと、ダメだと思ったんだ、が」

「馬鹿正直なのも、時と場合を選ぶべきだと思うんですよ。先輩、手癖とか凄く器用なのに、この辺はどうしようもなく不器用ですよね」

「ぐぐ……いや、はい。すみません、ホント」

「頭を、下げないでくださいよ」

 

 我慢できなくなって、額が机につくほど深く俯いた。

 ぐるぐると胸の中で荒波が渦巻いている。それが収まるのをひたすらに待った。

 

 やがて、力強くグラスを握って冷えたアイスティーを一気に流し込んだ。ただでさえクーラーの効いた部屋の中、身体が急速に冷えていくのを感じたけれど、知ったことではなかった。

 

「先輩。手を、握ってもらえませんか」

「――ああ、わかった」

 

 即答、ではなかったけれど。異性恐怖症の犬彦にしては躊躇いの薄く速い首肯。それがとても嬉しかった。

 

 差し出された手が触れる。

 一週間で慣れてしまった温もり。クセになってしまった手触り。柔らかく、けれどその内には硬質な感触を感じる、男の子の手つき。

 

 静かに、黒江が言った。

 

「私は、先輩を尊敬しています。でも、それ以上に負けたくないって思ってます。先輩は同期で、歳も近くて、私と同じ気持ちを持ってて。あの2秒の記録を出した人だって知って、ますます負けられないって思いました。先輩は、私の目標で、超えるべき壁なんです」

 

 ぽつり、ぽつり。胸の内の思いを1つ1つ取り出して並べるような、丁寧な声。

 

 だから、と。繋げる言葉に篭る力。

 

「私は、加古隊に入ります。だから、絶対にここまで上がってきてください。この1週間と同じように、また私の先輩として、ライバルとして競い合いましょう。――それだけが、私の望みです」

 

 

 

 

 

「犬彦、大丈夫?」

 

 犬彦の寝室に立ち入りながら小夜子が言った。

 声に、ベッドの片隅に背中から寄りかかり、床上に座り込んだ犬彦が顔を上げる。

 ぼうっとした表情。未だに魂が抜けたままらしい。

 

「ああ……悪い。もう夕飯の時間だっけか」

「まだ若いのにボケ入ったお爺ちゃんみたいなこと言わないでよ。ついさっき食べたばかりじゃない。料理なんてできそうにないから、わざわざ出前まで頼んでさ」

「ああ、そうだったな」

 

 答える声にも力はない。声は右から左へ抜けているようで、口から漏れる言葉も身のないものばかりだ。

 

 帰宅してから、犬彦はずっとこの調子だった。

 経緯は聞いていたし、今日が約束の日なのだから、理由を聞く必要はない。その心情も、おおよそ予想できる答えを思えば自ずと理解できる。伊達に生まれた時から一緒に過ごしてはいないのだから。

 

 ――まあ、今は何言っても無駄だろうね。

 

 異性の頼みを、断ったのだ。人生に関わること、と表現すると流石に大袈裟だろうが、それでも紛れもなく犬彦にとってのターニングポイントの一つだった。

 まして同性ではなく、異性に対しての決断である。

 犬彦が味わった苦悩と衝撃は計り知れないことだろう。

 

 しかし、これは犬彦にとって必要なプロセスだったことを小夜子は確信している。

 

 ――決めるってことは大事な経験だからね。喜びでも後悔でも、どちらに転んでもレベルアップできる。

 

 犬彦に決断を迫ったのは小夜子だ。結果までは断定できなかったとはいえ、この葛藤を犬彦に強いたのは小夜子である。

 それは犬彦の成長――ひいては異性恐怖症の克服には必要不可欠と信じたが故のことである。

 

 ――まず大事なのはオバケじゃなくて枯れ尾花だって理解させることだしなあ。

 

 未知の生物から、既知の生物に落とし込む。

 そのためには多くの女性と触れ合い、心を通わせることが必要だ。

 攻撃されるばかりでも、甘えさせられるばかりでもなく、対等の目線で付き合えるような人柄が望ましい。

 

 その点、側から見ても犬彦は黒江と良い関係を築けていた。

 黒江をダシに使った形となったのは小夜子とて心苦しいが、結果的に犬彦は一つ階段を登った。結果こそ黒江の望んだ形ではなかったとはいえ、だ。

 今度埋め合わせしないとね、と1つ頷いて小夜子は部屋を出ようとする。

 

「小夜子」

「ん? どうかした?」

 

 呼びかけに応える。

 犬彦は相変わらずぼうっとした顔で言った。

 

「黒江の話、な。断ったよ。お前とは組めないって」

「――ん。そう」

「結構、悩んだ。キレられることも覚悟してた。――なのにあいつ、何も言わなかった。罵らなかったんだ、1回も」

「うん」

 

 溢れる声に、耳を傾ける。

 ただ寄り添って、静かに聞く。

 

「下手くそな説明しかできなかったのに、いつもの調子で、笑ってて、手を握って。絶対上がってきてくださいね、って」

 

 なあ、小夜子。

 

「絶対に勝つ。やるぞ、姉弟」

 

 答えは決まっていた。

 

「任せて、姉弟」

 

 

 

 

 

 

 




 今回の展開については本当に悩みました。
 この時点でフリーな犬彦と黒江、親しい関係を築けてて、しかも互いに同時期のランクアップが可能となればチーム作ろうぜ!ってなるのも道理じゃね?と気づいてしまったのがいけなかった。
 アンケートとるのも真剣に考えましたけど、流石にそれはどうかなあ、と思ったので悩みに悩んで、最終的には犬彦の感情が決め手となりました。

 黒江には本当に損な役回りをさせてしまった感があるので、何かしらの救済を考えたいですね。
 中距離の犬彦と近距離の黒江、って感じで仮に組んだ時のバランスがめちゃくちゃ良さそうだったのが余計に罪悪感……。
 別ルート書いてみたいくらいですけど、まずは本編を優先します。そのうち「あるランク戦」くらいで書いてみるのはアリかもしれませんね。

 長くなってしまったのでその他の所感は活動報告に書きます。
 次回はランク戦その1。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

B級・奮闘編
第18話 B級ランク戦ROUND1 VS吉里隊・間宮隊


 加筆修正してたら遅くなりました。
 ついに(ようやく)B級ランク戦スタートです。


 

 

 

「あ、那須先輩! こっちです、ここ!」

 

 観覧室に入ると声が聞こえた。

 呼ばれるままに視線を向けると、明るい笑顔で茜が手を振っている。

 

「くまちゃん、茜ちゃん。ごめんね、遅くなっちゃって」

「大丈夫よ、今から始まるところだから。間に合ってるわ」

「良かった。最初の試合は、やっぱり直に応援したいものね」

「作戦室には行かなくて良かったですかね? そのまま真っ直ぐに来ちゃいましたけど」

「うん。犬彦くんの場合、私達が行くと返って緊張させちゃうと思うの。だから今日は、ここから」

「あー、でしょうね。試合前のあの子がどんな感じかわかんないけど、変に気負わせるよりは小夜子に任せていつもの感じにした方がいいと思うわ」

「最初の試合って緊張しますもんね。私もすっごく緊張しましたし……うう、言ってたらなんだか私まで緊張してきました」

「なんであんたが緊張してんの。……それより、どう? 玲。師匠としての見立ては。あの子結局1人だけど、大丈夫なの?」

「うん。私が結局教えられたのは基礎的なことだけだったけれど……教わったことをしっかり出しきれば大丈夫だと思うよ。犬彦くんなら」

「師匠のお墨付き、ね。ならまあ今日は安心して見てられるのかしら」

「そう、ね。だからどちらかといえば、引っかかるとするなら技術より別のところなのよね」

「別のところ?」

「えっ」

 

 驚愕の声が聞こえた。

 見ると、携帯を取り出した茜が青い顔をして固まっている。

 

「茜? どうかした?」

「その、今小夜子先輩からメッセージが来たんですけど、これ」

 

『ヤバいかも』

 

「何が!?」

「メッセージ送っても返事ないですし……! ど、どうしましょう? 今からでも行った方がいいんですかね?」

「いや、あたしらが言っても混乱させるだけなんじゃない……? 下手に混乱させるよりはもう小夜子に任せた方がいいと思うんだけど」

「うん、私もくまちゃんに賛成かな。お姉さんなんだし、さよちゃんなら私達よりも上手く犬彦くんを立ち直らせられると思う。……それに」

「それに?」

「犬彦くんも男の子だもの。きっと大丈夫」

 

 

 

「双葉、ここにいたの」

 

 観覧室でモニタを眺めていると、後方から声が聞こえた。

 

「あ、加古さん。お疲れ様です」

 

 頭を下げると、歩み寄ってきた加古がそっと黒江の隣に座った。

 少し意外だった。黒江はともかく、加古はこのランク戦にはそんなに興味がないものだと思っていたから。

 

「早いのね。ランク戦が始まるまではまだ随分時間があるはずだけど?」

「そうなんですけど、なんだかその、落ち着かなくて。どうせ他にやることもないですし」

「あら、だったら激励にでも行けば良かったじゃない。作戦室の場所は聞いてるんでしょう?」

「う……いえ、先輩の場合、下手に女性が行くと逆効果な気もしますし。最初の試合ですから、変に気負わせるのもどうかと思ったんですけど」

「気まずい?」

「いえ、その、……はい。あんなことがあったばかりで、どんな顔して話せばいいのかわからなくて」

 

 ズバリ聞いてきた加古に、観念して頷いた。

 あら、とむしろ意外そうな面持ちで加古が言う。

 

「普段通りでいいと思うけれど。1週間、短いようだけれど、随分と仲良くしていたんでしょう?」

「それはそうなんですけど、顔を見た時に普段通りにできる自信がなかったので。今回は、ちょっと」

「初心ねえ。……まあどちらかといえば、真に驚きなのは1週間でこれだけ懐かせたあの子なんでしょうけど」

「? 加古さん?」

 

 声が聞き取れなくて聞き返すも、加古は頭を振るだけだった。

 

「何でもないわ。それより、双葉としてはどう見てるの? 今回のランク戦」

「問題ないと思います」

「言い切るのね。彼、1人だけど、集中的に攻撃されたら流石に厳しいんじゃない?」

「全員で一斉にかかられたら厳しいかもしれませんけど、そういう状況になるとも思えませんし、問題ないかと。相手チームの対戦ログも確認しましたが先輩の敵ではないと思います」

「わざわざ確認したの? 双葉が戦うわけでもないのに」

「……時間あったので。それだけです」

「ふふ、そう」

 

 笑われた。

 何もかも見透かされている気がしたので、咳払いをして話を変える。

 

「ただ……1つだけ、気になることがありまして」

「何かしら?」

「相手のチームに、女性が1人いるんですよね」

 

 

 

 男らしくあることを目指す犬彦だが、その実情は真逆に等しいことはもはや少しでも付き合いのある面々には周知の事実になりかけている。

 中性的な容姿はもとより、器用で綺麗好き、家庭的なスキルに優れている。その性格こそ勝負好きで負けず嫌いと男らしいところもあるものの、肝心なところで抜けていたり、プレッシャーに弱かったりと未だ成熟しているとは言い難い。それも、成人もしていない少年なのだから無理もないことではあるのだけれど。

 

「犬彦、大丈夫?」

 

 シャワーを済ませ、息を整える犬彦に小夜子が問いかけるも、色の良い返事は返ってこない。そもそも、見た目からしてすでに青い顔をしている時点でお察しではあった。

 

 さて、試合の前に、人は如何にして過ごしているべきなのか。

 

 試合でもっとも怖いのは緊張して普段通りの実力が出せないことである。試合の時にベストな状態でいられるよう、準備運動をしたりして身体を解したり、楽な体勢でイメージトレーニングをしたりして緊張を取り除く。それが一般的だろう。

 

 だがしかしこの姉弟の場合、その経験がまずない。故に最初に話し合って決めたのは、試合前の緊張を取り除く儀式の模索である。

 今回は記念すべきその1回目。

 何がいいか話し合った末、身体を動かすのだからと選んだのがジョギングであった。

 しかし、どうやらこれはハズレだったらしい。そういう判断を下さざるをえなかった。

 

「ヤバい、吐きそう」

「ドストレートな表現だね犬彦。いや本当に大丈夫? 顔真っ青だよ?」

「そんな顔色の人が大丈夫だと思うの? お前の住んでる星は火星か何か?」

「あーあー、私が初めてここ来た時みたいな顔しちゃってまあ。ちなみに参考情報なんだけど、この顔の後5分もしないうちに吐いたよ私」

「いらねえ……! その参考情報死ぬほどいらねえ……! 何で今付け足したのその情報。おかげで今割と喉元までせり上がってきてるんだけど」

「バケツならここに用意してあるよ、ほら」

「なんでそんなところだけ準備万端なんだよ……何、わざわざそのために準備しておいたのそれ?」

「だって犬彦だし……」

「否定させてくれよ頼むから!」

 

 くそう、と振り上げる拳が力なく落ちる。

 口元に当てた手は片時も離れようとはしなかった。

 

「本番前のジョギング作戦はあんま効果なかったみたいね」

「緊張しないように、って考えたまでは良かったと思うし、実際身体は解れたんだけどなあ……そもそも俺たちが致命的に体育会系に向いてないことを思い出すべきだったな」

「身体動かすより普段通りでいることを心がけた方が良さそうだね。瞑想でもする?」

「ただでさえ緊張と不安で吐きそうなのに瞑想なんてできると思うの?」

「うん、吐き気にブーストかけるだけだね。……でも犬彦、逆に考えてみたらどうかな?」

「逆に?」

「そう。吐き気を止めるんじゃなく、吐いちゃってもいいさと考えればいいじゃない! 胃の中スッキリで逆に身体が軽くなるかもよ?」

「こいつ他人事だと思ってなんていい笑顔で言いやがる……! 第一そうすると、お前はゲロ臭い部屋でオペレートする必要が出てくるわけなんだがいいのか?」

「よし、この作戦はなかったことにしよう」

「手のひらクルックルじゃねーか」

 

 手を叩いて切り替える小夜子に犬彦の半目が突き刺さるが、フットワークの軽さが自分の長所と考えている小夜子にはほとんど意味のないものだ。

 

 ――ううん、あんまり効果なさそうだね。

 

 普段通りの会話を心がけて緊張を取り除こうと試みているものの、イマイチ効果が薄そうというのが小夜子の所感だった。

 側から見れば特に問題なく会話を続けているように見えるが、顔色は未だ悪く、血の巡りが悪いのか落ち着かない様子で手を揉み合わせている。受け答えにもいつもよりネガティブな色が濃い。この辺りの観察力は流石姉弟というところだった。

 

 小夜子は、この戦いで犬彦が負けるとは思っていない。

 少なくともスペック的には他を圧倒しており多少の緊張など物ともしない……と考えてはいるのだけれど。緊張と不安で押し潰されそうになっている弟を見ていると不安が伝染してくるのがよくわかる。

 

『半年間で、A級まで上がること』

 

 唯一つ。それが小夜子がオペレーターとして力を貸すにあたって犬彦に課した条件だ。

 他の条件は何もない。誰か新しい人を入れてもいいし、何回負けたっていい。

 犬彦は素直にこの条件を呑んだ。半年という期限についてはやはり微妙な顔をしていたけれど、徒に期限を延ばしても意味がないことはきっと2人とも理解していた。小夜子はこの条件については妥当だと判断しているし、犬彦もきっとそうだろう。

 

 すでに賽は投げられている。

 犬彦が負ければ、その分小夜子の理想には近づく。それは確かだ。

 けれど、だからといって最愛の弟が実力も出せずに負けるのを見るのが嬉しいはずもない。どうせ負けるのなら、それは緊張や不安による躓きではなく、実力差に押し潰される形であってほしい。

 

 残り時間はあとわずか。

 この短い時間で、小夜子は犬彦を平常心に戻す必要がある。

 

「とう」

 

 思い立ったら即行動。

 唐突に背中に抱きついてきた小夜子を、犬彦は抵抗もできずに受け入れる。

 

「……重い」

「いやいや、余計な肉のついてない私が重いわけないでしょ。お、必要な肉もついてないとか考えたのはこの頭かな? うん?」

「いやなんだよその理不尽な言いがかりはよ……」

「なかなか普段通りにならないみたいだから、実力行使しようかと思って。どこかのツボ押したら何とかなったりしないかな」

「そう言いながら執拗にハゲになるツボ連打するのやめろよ」

「16連打くらいしたら隠しモード発生したりしない? 無敵感漂う犬彦とか超見たいんだけど」

「やーめーろー」

 

 ぺたぺたと頭に触れる小夜子と、それを振り落とそうと頭を振る犬彦。さらさらとした黒髪が左右に揺れる。

 

「――那須先輩が見にきてるよ」

 

 動きが、止まった。

 

「小南先輩は珍しく解説につくって言ってたし、きっと黒江ちゃんも見にきてる。光ちゃんは今日は生憎と防衛任務入ってて無理だけど、残念がってた」

「……わかってる。気持ちは、絶対勝つって叫んでるんだよ。だけど」

「うんうん。身体がついてこないんでしょ? まあ無理もないね。私達にはこういう経験がそもそもなかったし。――肉親以外の誰かに、本当に期待されることが」

 

 皆には本当にお世話になってばかり。だからこそ、期待に応えたいと強く思う。その気持ちばかりが空回りして、身体とチグハグになってしまっている。

 こればかりは意志1つでどうにかなるものじゃない。今までに似たような経験がないのであれば尚更だ。

 

 本人がどうにかできるならそれが一番いいけれど、それができないというのであれば――それをなんとかするのは、志岐隊オペレーターであり、経験者であり、姉である小夜子の仕事だ。

 

「提案なんだけど、最初の動きは全部私に任せてくれないかな?」

「最初?」

「うん。移動も何もかも、全部私の指示通りに動いて。犬彦としては不本意かもしれないけど、今のままだと万が一があるかもしれないしね」

「……否定は、できないけどさ。いいのか? それは」

「野暮なことは言いっこなし。確かに那須隊としての犬彦が見てみたいのは事実だけど、かと言って負けるのが見たいわけじゃないんだよ。こんなところで足踏みされても困るんだから、早く上がっておいで?」

 

 笑みを浮かべて小夜子が告げる。

 その提案は、犬彦にとってはやはり素直に飲み込みにくいもののようだったけれど、幸いなことに犬彦は自身の現状をよく理解していたし、理が通った話に意地を張るほど我が強くなかった。

 ややして、犬彦は諦めたように頷いた。

 

 

 

 

 

『ボーダーの皆さんこんばんは! B級ランク戦新シーズン、初日・夜の部が間もなく始まります! 本日の実況は私海老名隊・武富桜子と、解説役として素敵なゲストをお呼びしております! 玉狛第一の小南先輩と、嵐山隊の嵐山隊長です!』

『どうぞよろしく』

『よろしく……って、今更だけど本当にあたしがいていいのこれ。たいした解説なんてできないわよ?』

『勿論ですとも! 聞くところによると小南先輩は今回デビュー戦となる志岐隊隊長の師匠とのことですので、むしろそちらの視点からお話しを伺えればと思ってます!』

『あーそういう』

『えー、本人はこう口にしてますけど、話が来た時には一も二もなく飛びついていたので気合いは十分だと思います』

『ちょっ、准! 勝手なこと言わないでよ、飛びついてなんてないったら!』

『嵐山先輩には主に戦略面のお話しを伺いたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いします』

『ええ、こちらこそ。精いっぱい頑張りますので宜しくお願いします』

『あたしを無視して話を進めるなーっ!』

 

『さて、本日の対戦組み合わせは吉里隊、間宮隊、そして志岐隊の3チームです。初参加の志岐隊は戦闘員の志岐隊長、オペレーターに志岐隊長のお姉さんでもある志岐小夜子さんを据えた姉弟チーム! なんと計2名の最小構成のチームです!』

『2人チームというのはB級上がりたてのチームにはそう珍しくはありませんが、他のチームが戦闘員3人ずつであることを考えると不利なのは否めないと思います。小南さんはその辺りどう考えてますか?』

『ぐぬぬ……、問題ないわよ。1ヶ月だけど、その間ずっとあたしがみっちりしごいたんだから。普通にやれば負けはしないわ』

『強気な発言が飛び出しましたね! 師匠からの太鼓判となれば、これは嵐が吹き荒れそうです!』

 

『それより、私としては小夜子が普通にオペレーターやってることの方が気になるんだけど。あの子那須隊のオペレーターでしょ? 兼任なんてできるの?』

『条件付きですが可能です! もっとも、基本的には専任のオペレーターを見つけることがほとんどなので私も初めて見ました!』

『ランク戦が被った場合はどうなるの?』

『その辺は長いので割愛します! 志岐隊が勝ち上がってくれば自ずとそういった状況になると思いますので、その時説明しますね』

『ああ、ごめん。そうね、もう始まる時間だわ』

 

『その通りです! なんだかんだでもう間もなく転送時間! ステージはもっともオーソドックスな『市街地A』に決定されたようですが、お2人ともいかがですか?』

『家屋が立ち並ぶ、クセの少ない標準的な住宅街ですね。他の隊に対して有利を取るというよりは、凝った作戦のない真っ向勝負を選んだ印象を受けます』

『まあ、普通にやれば負けないはずだから、特徴のあるステージを嫌ったんじゃないかしら。ゴリ押しする気ね、あいつ』

 

『師匠の発言に強い自信が伺えます! さて、各員転送が始まりました! 最初は各員ある程度の間隔を空けてバラバラに配置されます! そして志岐隊長が即座にバッグワームを起動! ……おっと? 小南先輩、私の記憶が確かなら、確か志岐隊長は眼鏡をしていなかったと思うんですけど』

『……あのバカ、何やってんの』

 

 

 

 ――甘い匂いが漂っている。

 

 

 

 転送されてすぐに、小夜子から鋭い指示が飛んだ。

 

『犬彦、まずバッグワーム着て。んでそこの建物の陰に隠れようか』

「お、おう。……なあ小夜子、それより俺はこの眼鏡の意味を教えて欲しいんだが……」

 

 トリオン体に換装したところ、何故かついてきた眼鏡のフレームに触れながら呟く。

 トリオン体のデザインはある程度自由に変えられるそうだが、手を加えた覚えは犬彦にはない。

 となれば小夜子の仕業に間違いはないのだが、元々の視力は悪くなく、そもそもトリオン体に生身の視力が関係あるはずもない。それなのにわざわざ眼鏡をつけた理由は何なのだろうか?

 言われた通りに隠れながら訝しげに尋ねると、よくぞ聞いてくれました、と得意げに鼻を鳴らしながら小夜子が言った。

 

『それじゃあお披露目しようか。これが私が夜なべして作った秘密兵器その1!』

 

 ポチッとな、という古典的な声とともに、レンズに半透明の映像が浮かび上がる。

 

「何だこれ」

 

 一言で言うなら、ゲーム画面のフレームである。レンズの端それぞれにマップや制限時間、装備しているトリガーからご丁寧に名前まで表れている。

 

『緊張を取り除くにはまず普段の環境作りから、と思って視界をFPS風にしてみました。どう? 凄くない?』

「おお……」

 

 確かに、レンズ越しに映る視界はもはやゲームのそれである。手を振ったり、小夜子のレクチャーに従って画面の操作をしていると、まるで自分がゲームの世界に入ったような錯覚に陥る。

 謎の技術に感嘆していると、さて、と小夜子が仕切り直しの声を上げた。

 

『感動するのはその辺にして、早速最初の仕事をしようか。とりあえずここにバイパー打ち込んで?』

 

 くるくる、と手にしたマーカーで囲った場所は、とある隊員の場所である。

 それは2人で事前に話していた目標である。が、思わず苦い顔を浮かべてしまうのはどうしようもなかった。

 

「……口から心臓飛び出そうなんだが。大丈夫かなあ」

『2回、多くても3回で仕留めなよ。プレッシャーかけるつもりはないけど狙いがバレちゃダメだし、応援来られたら詰むんだから』

「簡単に言ってくれるなあ」

『数並べればいいだけなんだからいけるいける。真正面からなら回避2割なんだから、ほらはよはよ』

「ぐ……わかった、わかったっての」

 

 渋々と構える。

 呼吸を1つ。大仰なほど大きく息を吐いて、身体を解す。

 

 プレッシャーはある。

 けれど小夜子の秘密兵器が効いているのか、震えはだいぶマシになった。

 

 ――行くぞ……行くぞ。

 

「バイパー」

 

 バッグワームを解く。

 呼びかけとともに、広げた両の手に巨大なトリオンキューブが生まれた。

 

 

 

『デカっ! 何ですかアレ!』

『デカいですねえ。一度見たことがありますけど、やはり規格外の一言ですね』

『あんな大きいの見たのいつぶりでしょう……ともあれ、志岐隊長、バッグワーム解除からのバイパー射出! 大きく弧を描いて襲いかかるその先には――吉里隊の月見隊員!』

『予想通りすぎるわね』

『合流前の隙をつかれましたね。他の隊員がサポートに入るには少し時間が必要でしょう』

 

『月見隊員、回避ではなくシールドを選択しました! 流石に真っ正面からの襲撃ですからね、奇襲にはならなかったようです! きっちりガードしています!』

『それでもシールドがほぼ半壊している辺り、志岐隊長のトリオン能力の高さがよくわかりますね』

『ですね。しかしここはきっちり防いだようで、たいしたダメージには――』

『まだよ』

 

『え? あーっと、これは!2撃目! いや、この量はむしろ第2波と表現すべきか! 角度を変えた一斉射撃が次々とシールドの隙間から月見隊員を襲う! 月見隊員、懸命に防ごうとするもこれは――ここで月見隊員が緊急脱出(ペイルアウト)! 志岐隊長、開幕直後の先制攻撃で早速1点をもぎ取りました!』

『上手いですね。合流に向かう月見隊員の正面からバイパーを当てて足を止め、続く第2波で角度をつけての包囲射撃。こうなってしまうと他所からのサポートなしでは反撃に転じられません。ここしかない、という絶妙なタイミングでの襲撃でした』

『タイミングはともかく……妙に数が多いというか、バタついてる気がするんだけど。絶対何かトラブルあったわねアイツ』

 

『しかし、志岐隊長の今の襲撃には何か、上手く言えませんが執念のようなものを感じましたね。絶対に落とすと決めていたかのような』

『確かに、思い返せばバッグワームを起動した後の動きは全て月見隊員を落とすためだけに組まれていたように思います。射程ギリギリまで距離を詰めてから一気に攻めに出る様子はとても場当たり的なものとは思えませんでしたね』

『実は月見隊員より近い位置に間宮隊の秦隊員がいたんですよね。ですがそちらには目もくれずに月見隊員に向かったのも気になるところです。これらの意見を踏まえて、小南先輩如何ですか?』

 

『まあ、本人から口止めされなかったから言うけど。異性恐怖症なのよ、あいつ』

『異性、恐怖症?』

『ざっくり言うと女の子が苦手なの。触れるのは絶対ダメだし見るのも話すのもダメね。慣れれば多少は良くなるみたいだけど、まあ初めてだと普通にポンコツになるでしょうね』

『意外な弱点! ということは、つまり?』

『今回の組み合わせの中で、あいつの唯一の不安要素が女性隊員のあの子だった。実力差は確かでしょうけど、それでも拭いきれない不安はあった。でも今それが取り除かれて、残っているのは男性隊員ばかり。だから多分、一気に動くわよ。だってもうあいつを止めるものがないもの』

 

 

 

「くそっ、やられた!」

 

 舌打ち混じりに叫んだのは、吉里隊隊長である。

 

 動き出すのは合流してからというのは最初に決めていた。

 だからこそ互いの位置を確認して脇目も振らずに合流したというのに、すでに欠員が出てしまった。まだ5分と経っていないのに、だ。

 

『ごめん、失敗した!』

 

 通信が入った。落とされた月見からだ。

 確かに真っ先に落とされたのは痛いが、だからといって攻める気にはならない。

 

「何、気にすんな」

「ああ。間宮隊も合流を優先してたし、転送位置は悪くなかった。合流を優先したのは悪くなかったはずなんだ」

「どちらかというと、今回は相手が悪かったな。ソロだからって好き勝手しやがって」

「間宮隊も合流してる。狙われたのは運みたいなもんだが、状況が変わったぞ」

「状況?」

 

 もう1人の隊員、北添が尋ねる。

 

 それぞれのチームが無事合流を果たしたなら、互いに牽制し合うか、あるいは圧倒的に人数不利な志岐隊に攻撃が集中する可能性が高い。

 しかし今の攻撃でこちらに欠員が出た。

 ということはつまり、どちらがより与し易いか明確になったということ。

 

『警告! 志岐隊長がこっちに向かってる! それも、凄い速度で!』

 

 ――ああくそ、そりゃそうなるよなあ!

 

 悪態を吐いた。

 

 月見を落とした攻撃の様子からそのトリオン能力の高さはよくわかった。紛れもなく化け物。

 1対1(サシ)でどうこうできる相手ではないが、かといって逃げるわけにもいかない。

 

 というより――そんな場所はもうどこにも存在しない。

 

 

 

 別の場所。

 合流を果たした間宮隊隊長が率直な感想を零した。

 

「凄まじいの一言だな。何だアレ、砲撃か?」

「バイパー、なんだよな。言ってて自信なくなるんだが」

「あんな高威力のハウンドがあるなら是非使わせてもらいたいもんだけどな。残念だがそういうわけじゃあないらしい」

 

 全員がハウンドを使う射手(シューター)だからこその意見である。

 自身らが同じようにバイパーを使ったところであれほどの威力も距離も出るとは思えない。よしんば届いたとしてもシールドに防がれて終わりだろう。

 

 奇しくも、時を同じくして間宮隊も志岐隊長の危険性に気付いた。集団ではなく、サシでやり合った場合にはどうあがいても勝てはしないだろうことも。

 

「さて、どうする隊長? 奴さんは完全に吉里隊を狙うことにしたみたいだが」

 

 マップを見れば、合流を果たした吉里隊に接近していく志岐隊長のマークがある。まずその速度が桁違いだ。まともにやり合うのは危険すぎる、という思いを新たにする。

 

「ここで構えて奴さんを待つか? フルハウンドならそう避けられることもないと思うが」

 

 それも悪くはない。

 吉里隊が志岐隊長を止められるかはわからないが、もし仮に止められなかったのであれば万全の体制で迎え撃つ必要がある。

 

 しかし、それで止められるかという点についても疑問符がついた。

 3人がかりでのハウンド攻撃がそうそう防がれるとは思わないが、何しろ基本スペックが段違いの相手である。慎重になって損はない。

 

 故に、選択は1つだ。

 

「――いや、今が好機だ。移動するぞ」

 

 首を傾げる隊員らを連れて、間宮隊は移動を開始した。

 

 

 

『さて、各隊今合流しました! 合流の必要のない志岐隊長はそのまま吉里隊を追撃することにした様子ですが、速い速い! エンジンでもついてるのか、物凄い速度で接近していきます!』

『いや、速いですね。B級上がりたての隊員だとトリオン体での活動に慣れてないことから動きがぎこちなくなるか、あるいは普通の身体能力しか出せないことが多いんですが、志岐隊長にはそれがない。それもすべて小南師匠の教えによるものだと思われますが、如何ですか?』

『……動きが固い。後で反省会ね』

『師匠が厳しい! 志岐隊長の苦労が偲ばれます! 志岐隊長頑張って! ――さて、吉里隊・志岐隊の動きを受けて間宮隊も動くことにしたようです。志岐隊長の後方から追いかけているようですが、これは志岐隊長に狙いを定めたということでしょうか?』

 

『これは恐らく、どちらも狙ってますね。良い動きをしていると思います』

『というと?』

『志岐隊長が吉里隊に狙いを定めたので2つの隊がぶつかるのは確定ですが、そこに乱入してしまうと、集合体ではなく個人で動いている志岐隊長が有利です。状況は混乱を極めて、損をする展開になりかねません』

『確かに、言われてみると間宮隊は付かず離れずの距離を保っているように見えますね。しかしだとすると、待ち構えて寄ってきたところを反撃した方がいいのでは? 間宮隊には全員同時にハウンドを撃ち放つ『追尾弾嵐(ハウンドストーム)』がありますが』

『確かに待ち構えることにもメリットはありますが、同時に勝ち残った方に時間を与えるデメリットもあります。何より、志岐隊長のトリガー構成がまだ割れてない。激戦は必至でしょうが、仮に未知数の志岐隊長が少ない消耗で生き残った場合を考えると、攻めに出る選択は悪くないと思います。間宮隊の狙いは、決着がつくタイミングで割り込んで漁夫の利を狙うことでしょう。混乱した状況、決着がついたことによる気の緩み。狙いどころのタイミングですからね』

『なるほど、間宮隊はすでに詰めの構想を練っているわけですね』

 

『狙われた形になった吉里隊は不幸でしたが、ここが踏ん張りどころですね。志岐隊長は確かに優れていますが、人数差があります。撃破すれば、中距離銃手(ガンナー)である2人にも勝機が出てくると思いますよ』

『ということです! 各隊、ここが勝負所! 吉里隊・志岐隊の衝突をきっかけにして、一気に状況が動きそうです!』

 

 

 

『サラマンダーよりずっとはやーい!!』

「トラウマはやめろォ!」

『モニタ越しの疾走感に口が滑っちゃった。てへぺろ』

「コイツまったく反省してねえ!」

 

 悪態をつく犬彦を他所に、どうどう、と気にもしていない小夜子が更に煽る。

 

『さーてと、敵さんも良い具合に釣れたみたいだけど。どう犬彦、そろそろ緊張解けた?』

「この野郎……まあ、これだけ動いてるし、多少はマシになってきたはずだろ、うん」

 

 落ち着かなさそうに手を握ったり解いたりしながら犬彦が言った。

 不安だなあ、と小夜子がため息をつく。

 

『そんなんで大丈夫? そろそろ接敵するよ?』

「感覚的にもう少しだとは思うんだけどなあ……そんなこと言ってもやるしかねえし。今更退けないだろこれ」

『むしろそんな不安そうなのにどうしてそんなに速度出せるのか。パルクールだっけ? アレの選手になれるんじゃないの犬彦』

 

 ステージは市街地A、オーソドックスな住宅街である。

 舗装された道路が均等に広がっているためにそちらを行けば勿論速いが、吉里隊はアサルトライフル状の銃を持つ銃手(ガンナー)である。障害物も備えもなしに開けた道を爆走するのは自殺行為でしかない。

 

 そんな場所でどうすれば速度を出せるのか。

 犬彦の結論は、最短距離を真っ直ぐに、である。

 脇道、庭先、はたまた窓枠を飛び越えて屋内さえも突っ切っていく。猿の如き敏捷さでするすると住宅街を抜けていく犬彦に小夜子は目を白黒させていた。

 

 しかし、意外そうに褒めそやす小夜子に応じる犬彦の声は素っ気ないものだ。

 

「小南との訓練」

『察した。犬彦、後で美味しいものご馳走してあげるからね……』

 

 ホロリと零れる涙を拭って小夜子が言った。

 

 射手(シューター)としての技術を教われない分、こういう体術面の技術については周りが引くほど訓練を積んできているので緊張している今でもこれくらいは容易いものだ。

 中にはどこで役に立つのかわからないものもあったけれど、なんだかんだで血肉になっているのがわかるので頭ごなしに否定できないのがつらいところである。

 

『間宮隊はH-bからE-iに移動中。距離とって来てる辺り狙い通りかな』

「決着つく辺りで割り込んでくる、か」

『多分ね。欲を言えばどっちかアタッカーが良かったねえ。経験積みたかったでしょ』

「開幕直後に爆散させた人間が何か言ってますね……」

『女の子だからね、仕方ないね。さて衝突まであと10秒ってとこかな。準備はいい?』

「準備はいいが、本当に大丈夫かこの作戦。セオリー外れてて不安しかないんだけど」

『犬彦、犬彦。――リアルとゲームは違うんだよ?』

「うっわクソムカつく!! やってやるよコンチクショウ!」

 

 垣根を飛び越えて路上に出る。

 射程距離内。空気が変わったことを肌で感じる。

 

『シールド』

「撃てェ!」

 

 脇道から飛び出してきた吉里隊の狙撃。

 小夜子の合図で張ったシールドに断続的な振動が伝わる。

 

 ――いや、確かにログで確認してはいたけどさ。違和感凄すぎるわコレ。

 

 驚愕の面持ちで犬彦はその光景を見る。

 

 シューティングゲームの類では、建物や障害物などの陰に隠れての銃撃戦が基本だった。

 偶然遭遇した場合など当てはまらない状況も存在するものの、すぐに身を隠すのが基本で、姿を晒し続けるなどありえない。

 

 吉里隊の2人は、犬彦が射程距離に入るなり両脇から姿を晒して一斉射撃を続けている。腰だめに構えたまま。姿を隠すことなく。

 その手のゲームにどっぷりな犬彦にとっては自殺志願と取られても仕方のない暴挙ではあったが、小夜子の言うとおりこのランク戦にその常識は当てはまらない。2人の眼前に縦長に展開されたシールドが身を隠す盾となっているからだ。

 

 ある程度自由な範囲で張ることのできるシールドの存在があるから、銃手(ガンナー)は場所を選ぶことなく攻撃に移れる。

 普通であれば的にしかならないような横並びも、互いが互いをフォローできる構えになりうる。

 

「役に立つこともあるけど、役に立たないこともあるな、ゲームのセオリー。ようやく実感したわ」

『でしょ? 私も最初カルチャーギャップ凄かったなあ』

 

 しみじみと頷き合う姉弟。

 銃撃を浴びながら呑気な会話ができるのはこの姉弟の平常運転であるのと同時に、眼前に張ったシールドに一向に割れる気配がないためだ。

 

「何だコイツ、シールド硬すぎだろ!」

 

 困惑に顔を歪めながらの叫び。

 それもそのはず、2人がかりで銃撃しているにもかかわらずシールドにはヒビ1つ入らない。

 

『俺ツエエエエエエエ』

「変な鳴き声やめてくれる?」

『あまりに酷い状況につい』

「割れないなら退くのもあるかなと思ったけど、そんな気配もないな」

『そりゃ、犬彦レベルのトリオン能力なんて今までに見たことないもの。二宮さんが凄かったけど、吉里隊が戦ってるはずもないし。割れないシールドってのがそもそも信じられないんでしょ』

「本当に割れないのか?」

『いや、割れるよ。要は分散してるから威力が足りないのであって、一点に集中させれば普通のトリオン能力でも――』

「ポイントを集中させろ! 散らしていたらコイツのシールドは破れない!」

「あっ」

 

 姉弟の声が重なった。

 途端、銃撃が重なるシールドの中央から軋む音が響き始める。

 

「ヤバいヤバいヤバい言ってたら割れ始めたじゃねーかどうすんだオイ!」

『大丈夫だ、問題ない』

「それダメなやつのセリフー!!」

 

 絶叫する犬彦を他所に、小夜子の声は大丈夫大丈夫、と呑気なものだ。

 

『射撃を集中させるってことはそれだけ神経を使うんだよね。つまりそれだけ他のことに注意が疎かになるんだよなあ――メテオラ』

 

 反射的に動けたのは、姉弟の呼吸というやつだった。

 

 シールドの陰から放つ一条の閃光。

 咄嗟に速度にステータスを振れたのは僥倖という他なかった。

 

 視認はできたことだろう。しかし回避する余裕はない。

 吉里隊の2人がシールドを一点に集めるのが見えたが、それでいい。

 この距離だと万が一があるし、求めたのは全てを破壊する無差別さではなく、詰めの一手である。

 

 着弾。閃光、爆音、振動。

 何故か刺すような香りが鼻をついた。

 

「どわぁっ!」

 

 流石の炸裂弾。製造理念が違うだけあって少ないトリオンでも破壊力が段違いである。

 ダメージは全て2人がかりのシールドでガードされたようだが、衝撃までは殺しきれなかったようだ。

 バランスが崩れ、大きく吹っ飛ばされる。

 

 ――吉里隊は今混乱の只中にいる。

 一点に集中していたところへの急な反撃。

 メテオラによる派手な爆発。

 崩れた体勢はすぐに戻せても、動揺まで収まるわけではない。

 

 故に、つけ込むべきは今。

 

「っ、いないっ!?」

 

 舞い上がった土煙が晴れた先に敵はおらず。視界に敵の姿を求めて探す、その隙を。

 

「バイパー」

 

 背後から狙い撃つ。

 シールドを張る隙も与えない速度重視の弾丸の雨がガラ空きの背中に突き刺さった。

 

 これで吉里隊の2人が緊急脱出(ペイルアウト)。しかし息をつく暇はない。

 

『来たよ』

「ハウンド!」

 

 そこへ狙い澄ましたかのように響く間宮隊の声。

 近隣の屋根の上から、角度をつけたハウンドの雨が3人同時に放たれる。

 

『犬彦』

「ああ、やっとだ」

 

 ここへ来るまでの全力ダッシュ。そして2人を落として、ようやくスイッチが入った。

 今までどこか遠かった身体の感覚と意識が繋がる。

 震えが止まった。

 勝負所にして、ようやく訓練の成果を正しく発揮できる機会を得る。

 

 大きく弧を描いて落ちてくる様子はさながら流星群のようだ。まともに食らえばひとたまりもないことはこの幻想的な光景を見れば容易に想像がつく。

 

 防ぐのは悪手だ。

 フルガードであればトリオン性能に物を言わせて防ぎきることができるかもしれないが、足が止まる。反撃に転じる間もなく雨霰と続けられることだろう。

 

 ――速度が遅い。威力重視か。

 

 散々見せてきた強大なトリオン性能が効いているらしい。普通の威力ではシールドを破れないと見て他を犠牲にしたようだった。

 

 故に判断をしてからの反応が間に合う。

 犬彦は後方に大きく跳んだ。

 3人から距離を開けると、必然降り注ぐ流星群が犬彦に引き寄せられて軌道を変える。正面から、あるいは側面から。上空からの弾丸はほぼ殺した。

 

『誘導弾の弱点その1。障害物に弱い』

「エスクード」

 

 地面に手を添えて呟く。

 犬彦の前方、大通りの路面から数枚の分厚い壁が迫り上がった。

 

 着弾。空気を震わせる音の大合唱が肌に響く。

 威力重視にしただけあって端から削れていくのが伝わってくるが、エスクードの最大の利点はシールドのように張り続ける必要がなく、生成した時点で持ち主の制御を離れることである。

 

 故に、両の手が空き、反撃の余裕が生まれる。

 両手を広げて犬彦は告げた。

 

()()()()

 

 

 

 ()()を認識した瞬間、間宮隊長の脳裏にフラッシュバックのように映像がよぎった。

 

 高速で接近し、2人がかりのシールド2枚を喰い破って尚吹き飛ばす暴力の化身のような弾丸――メテオラ。

 

 それが今、エスクードを盾にした志岐隊長から射出された。

 3人それぞれに狙い撃たれたのはまだいい。

 問題なのはその数だ。

 

「冗談だろ……ッ!」

 

 巨大なトリオンキューブから別れた無数の弾丸が真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

 

 ――あんな数食らったらひとたまりもねえぞ!

 

 速度は先程とあまり変わらない。分散させた分、1発の威力は先程吉里隊に向けられたほどのものではないはずだ。

 しかし何をおいてもそのトリオン能力の高さである。とても甘く見られるようなものではない。

 

「フルガード!」

 

 指示を出すと同時、自身もまた前方に向けてシールドを張り、重ね合わせる。

 メイン・サブ両方のトリガーを使うことから追撃は途切れてしまうが、防御力は格段に上がる。兎にも角にもあのメテオラの群れを凌ぎ切らなくては話にならない。

 

 衝突に備えて体勢を低くした、その瞬間。閃光が瞬いた。

 

「は――」

 

 衝撃。脱力。アナウンスの音を遠く聞いた。

 

『トリオン漏出過多。緊急脱出(ペイルアウト)

 

 まさか、そんな。ありえない。

 だってシールドは2枚とも破られずにそこにあって、そもそも激突さえ未だにしていないのに。

 

 驚愕、動揺。見下ろしてみればそこには映画で見るチーズのような穴だらけの身体があって、何らかの攻撃を食らったことを証明している。

 崩れ落ちる身体が、同じように穴だらけになって沈む間宮隊全員の姿を捉えた。

 

 全員が、同時に撃墜されている。

 それもシールドはやはりそのまま残っていて、前方からあの凶悪なメテオラを食らった様子はない。

 思い出すのは、一瞬の閃光。

 

「まさか――」

 

 その声を最後に、間宮隊全員が緊急脱出(ペイルアウト)した。

 

 

 

 

 




 勝因・圧倒的スペック差。あと下位チームということで経験で差がつけられなかったのが痛かったかなと。
 各隊の思惑とか考えるのが楽しくて思ったより長くなってしまいました。
 ついでにどのように犬彦を倒すか考えるのが意外と楽しかったので、次はもっと苦しめようと思います(ゲス顔

 マンガと違って、文章だと視点が切り替わりすぎるとわかりにくくなってしまうので、ポイントを絞って描写・適宜解説、という形にしましたが如何でしたでしょうか。
 ついでに意識して地の文も削りました。今回はさらっと流すつもりだったのもありますが、あんまり長くなるとテンポ悪くなると思いましたので。
 原作の感じに近づけようと色々と試行錯誤している段階ですが、宜しければこれらについても意見・感想等お待ちしてます。

 今回もまた小ネタみたいなのを活動報告で書いておく予定です。
 次はROUND1の締めと、各人の反応。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第19話 那須玲④

 

 

 

『しょ、衝撃の決着! 間宮隊が一瞬にして全滅しました! これで残っているのは志岐隊長ただ1人! 生存点2点も獲得して、志岐隊の完全勝利です!』

『お見事ですね。最後まで隙を見せずに状況を支配し続けていました。いや、志岐隊長は本当に新人離れしてますね。とても初参加のルーキーとは思えません』

『ですね! というか、同じB級として私も他人事ではいられないんですけど……最後のも凄かったですね! 正面からの襲撃と見せての、急角度で変化するバイパー! お見事でした!』

『ああ、それは――』

 

『それだけじゃないわよ、多分ね』

『小南さん。それだけじゃない、とは?』

『こっちには音声届いてこないからよくわからないかもだけど。……えと、間宮隊。最後全員がフルガードしてたでしょ。それも前方に』

『してましたね』

『最初から曲がる弾が来るってわかってるのにあんな張り方するのっておかしいと思わない? シールドなら割と自由に形変えられるんだから、薄くはなるけどもっと広くカバーした方がいいでしょ』

『言われてみればそうですね! でも、つまりどういうことなんでしょう?』

 

『釣ったのよ、意図的にね。そういう練習をしてるって聞いたことあるわ。発声したものとはまったく別の弾を発射する技術をね』

『生駒隊の水上隊員などが使用しているテクニックですね』

『……それ、確か高等技術って聞いた覚えがあるんですけど』

『そういう小手先の技術は習得早いのよねアイツ。だから多分、今回もそれだと思うわ。目の前にフルガードしてたところを見ると、口にしたのは恐らくメテオラ。そりゃアイツのトリオン性能であんな弾数撃ち込まれればフルガードも納得よね』

『あんな数のメテオラが襲ってくるとか確かに考えたくありませんね! 間宮隊の方々に同情します! さてこのまま総評に移りたいと思いますが――』

 

 

 

 従兄弟である嵐山であれば、きっと違和感を抱いていた。小南の反応があまりにも大人しすぎることに。

 きゅ、と小南の手が知らず力強く握り込まれる。

 

 ――自分が勝ったわけじゃない。教えた弟子が、勝っただけ。

 

 小南の頭の中にあったのは何故か、この1ヶ月の訓練の日々だった。最初は振るう刃1つにさえ目を閉じて縮こまっていたのに、気付けばその道の専門家もかくやという動きで立ち回る姿。

 そして今、その成果を遺憾なく発揮して勝利した。

 

 なるほど、確かにこれは楽しい。

 知らず緩やかに口の端を釣り上げて、小南は高鳴る鼓動を聞く。

 

 ――弟子を教え、導くということ。

 

 その面白さを、小南はようやく知った気がした。

 

 

 

「危うげない勝利って感じかしら。ねえ、双葉?」

「そうですね。開幕直後の容赦ない爆撃からの的確に弱みを突いた詰め将棋。流石先輩です」

「最初だけ動きがぎこちなかったようだけれど、緊張していたのかしらね」

「だと思います。先輩はフラットな状態ならかなり器用に立ち回りますけど、メンタル激弱なので女性が相手だったり緊張してたりするとだいたいあんな感じで躓くんですよね」

「……双葉ってあの子のこと、尊敬してるのよね?」

「? 勿論ですけど」

「遠慮がないのも信頼の形なのかしらねえ」

 

 悩ましげに吐息をつく加古。

 黒江はその意味深な態度に首を傾げていたけれど、すぐに取り直して席を立った。

 

 何しろ、黒江の気分は昂りっぱなしだ。黒江が正しくライバルと認め、尊敬している先輩の活躍をまざまざと見せつけられて、興奮しない方がおかしい。

 

「加古さん、訓練室お借りしてもいいですか」

「いいけど、今から?」

「はい。ちょっと落ち着かないので、身体動かしてきます」

「あの子には会いに行かないの? 今なら自然に話ができるんじゃない?」

「それは……その、考えたんですけど。よくよく考えたら私より師匠の方々が会いに行くだろうなと思いますので、今回は」

 

 困り顔で黒江は言った。

 

 元々、黒江は自身が人付き合いが上手な方だとは思っていない。犬彦と、せめて小夜子だけであれば話せもするだろうけれど、タイミングを考えると明らかにそうはならないだろうな、と思う。

 何を置いても弟子の初ランク戦で、初勝利である。

 那須隊も、今回解説を務めた小南も向かうことだろう。そこへ混ざって自分の望む会話ができるとは黒江には思えなかった。

 

 控えめに告げた黒江に、加古は1つ間を置いて言った。

 

「そう。双葉がそう決めたのなら私から言うことはないのだけれど、1つだけ。さっきも言ったけれど、双葉がそんなに引け目を感じる必要はないと思うわ」

「そう、でしょうか」

「ええ。貴方よりも理解しているとは思わないけど、仮に私が彼の立場なら、双葉にはぎくしゃくした感じで接してもらうより、いつも通りにしてもらえた方が気が楽になると思うもの」

「それは……はい。そうかもしれませんね」

 

 元より異性恐怖症で、女性との付き合いが特殊な犬彦である。こちらが変な態度でいると、逆にどういう風に接したらいいかわからなくてあたふたする様子が容易に想像できた。

 いつも通りでいればいい。そう考えると少しは気が楽になれた気がした。

 

「ありがとうございます、そうしてみます。……ところで、加古さんは今から時間ありますか?」

「私? ランク戦のお誘いかしら」

「ええと、その。それもそうなんですけど」

 

 首を傾げる加古に、思わずそわそわと視線を彷徨わせる黒江。

 

 気が楽になって、つい口が滑ってしまった。

 口にするのは気恥ずかしいものがあったけれど、かと言って今更口を噤むのもそれはそれで不自然である。

 

 それに、やはり。

 間近で見て、興奮してしまったのは隠しきれない事実だったから。

 

 意を決して――顔の赤みはやはり隠せなかったけれど――こう言った。

 

「……あの、さっき先輩がしてた動き。もし再現できたら、教えてもらえませんか」

 

 

 

「乙ー。へいへい」

 

 作戦室のデスクに戻るなり、小走りで寄ってくる小夜子とハイタッチを交わす。

 

「お疲れさん。悪いな、助かったわ」

「なあに気にしない気にしない。最初だもんね、絶対やらかすと思って用意しておいた甲斐があったよ」

「超否定したいけどなあ! できないんだよなあ!」

 

 ニマニマと嫌らしく笑う小夜子が非常に憎らしいものの、助けられたことは間違いないので強く言えないのがとても悔しい。

 

「というか何だよあのメガネ。何、トリオン体ってあんなのもできんの?」

「できるよ。技術は必要だけどね」

「ほうほう。凄えな」

「ただ別にメガネである必要はないしもっと言うならあんな画面も邪魔なだけで必要ないよね。オペレーターなら逐一必要な情報を送ってこそだし、装備トリガーとか残トリオンとか表示しておいても「で?」っていう」

「多分一番不必要なのは名前じゃねえかなあと思うんだ」

「“†絶影†”とか厨二病真っ盛りな名前の方が良かった?」

「本名そのままが気に食わねえって話じゃないんだよ」

 

 ちなみに犬彦の年齢がまさに中二そのものだったが、過去のトラウマや姉を主原因として環境が環境だったせいでその時期はすでに過ぎ去ってしまっている。厨二病という時期を正しく認識した今となっては、早めに過ぎ去ってくれたことは僥倖以外の何者でもなかった。

 

「画面自体は面白いと思うんだけどなあ。なんだかんだテンション上がるものはあったし。ただたまに邪魔になるというだけで」

狙撃手(スナイパー)くらいだったら良さそうだけどね。一瞬の判断が勝敗を分ける攻撃手(アタッカー)だと流石にどうかなーって感じかな」

「トリオン量表示とか面白くはあったけどな。しかしあんまり減ってる様子なかったけど、あんなもんか?」

「それは分母が大きすぎるだけだね。今回はなかったけど、負傷したりしたらもっとゴッソリ削れると思うよ」

「なるほど、改良の余地アリだな」

「え? まだ使う気? 犬彦が緊張しなくなれば別に不要だと思うけど」

「いや、ネタ方面で。単純にダメージ量出したりウィークポイント出したりして遊び倒したい」

「それプログラムするのは誰だと思ってるのかなあ!」

「小夜子センパイオナシャス!」

「私を動かしたければ塩昆布一年分持ってくるんだよ!」

「割と安いなオイ」

 

 そんな風にいつものノリで余韻に浸っていると、自動ドアがスライドした。

 

「お疲れ様でしたー!」

 

 現れたのは、弾ける笑顔が眩しい日浦先輩を筆頭にした那須隊の面々である。

 

「お2人とも、大勝利おめでとうございますー!」

「はいはい、ありがと。へい」

 

 満面の笑顔で駆け寄ってきた日浦先輩と、いつものノリでハイタッチする小夜子。

 そのまま流れで、とこちらに寄って来ようとして、あ、と急停止。

 

「ご、ごめんなさいっ! 私ったらついはしゃいじゃって……!」

「……いえ、その。もし良ければ、やりましょう。ハイ」

 

 ――目の前でわかりやすくしゅんとなる小動物のような先輩相手に、ノーと言い張れるのは人間じゃないと思うんだ!

 

 日浦先輩の落ち込みようと言ったら、まさしく叱られる子供のそれである。いくら犬彦とて、やるべきこととそうでないことの区別くらいはつく。

 それに、お世話になっている先輩方である。ハイタッチ1つでその笑顔が守れるのなら安いものだ。

 

「本当? それじゃあ」

 

 差し出した手を、軽く叩く。

 弾けた高い音に明るい笑顔が咲いた。

 

「ありがとうっ! それと、初勝利おめでとう!」

 

 ――天使かな?

 

 目が潰れそうになるほどの癒しのオーラに思わず目頭を押さえた。

 あまりにも邪気のない笑顔に何だか自分がとても汚れた存在に見える。

 

「茜がいけるならあたしもいけるわよね。はい」

「えっと、はい」

 

 熊谷先輩ともハイタッチする。

 軽い音が鳴るなり、悪戯な笑みとともに口を開いた。

 

「最初めっちゃ緊張してたでしょ。どうなるかとハラハラしてたわ」

「うぐっ。ま、まあその。なんとかなったのでいいじゃないですか!」

「本当だよ。私がいなかったら多分かなりキツかったね」

「あら、それでも負けるとは思ってなかったのね」

「多分ポイントいくらか取りこぼす気はしますけど、まあ何せ犬彦なんで。ハイスペックでゴリ押しすれば不可能はないかと」

「あんた、あたし達の時にもその脳筋思考持ち出すんじゃないわよ」

「あの熊谷先輩、俺の時にもそれしてもらうと勿論困るんですけど」

 

 一応突っ込んでおく。

 それが通じるのは下位で経験のない相手だけだ。流石に上に行ったなら冷静に対処されてしまうことだろう。

 

 熊谷先輩の自身へのイメージが気になるなあ、などと苦い顔をしていると、

 

「なら、最後は私だね。はい」

「うひぇ!?」

 

 笑みを浮かべて両手を出してきた美貌の先輩に思わず後ずさる。

 反射的な行動である。それ以上でも以下でもない。けれど那須先輩は犬彦の反応にあからさまに傷ついた顔を浮かべてぼやいた。

 

「そんなに怖がらなくてもいいのに……くまちゃんと茜ちゃんは良かったのに、私はダメなの?」

「いえ、いえいえいえ! いや、めちゃくちゃいいんですけど、急に来られるとまだ流石に慣れないというか!」

 

 わたふたと手を振って言い訳を並べてしまう。すると否が応でも2人分のにやにや笑いが視界の端に入ってしまってますます顔が熱くなる。

 

 慌てふためく様子が面白かったのか、くすりと那須先輩が笑みをこぼした。

 

「なんてね、冗談。わかってるから大丈夫よ」

「し、心臓に悪いのでやめてもらえると助かります……」

「善処します、かな。じゃあ、はい」

 

 善処なんだ、という突っ込みを入れる余裕はなかった。

 

 言われるがままに差し出された手を叩く。

 ひんやりとした肌触り。仄かに漂う花の香り。

 

「初勝利おめでとう。練習の成果、きちんと出てたわね」

「――あ、その……はい」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、濁流のように押し寄せてきた思いが胸に詰まって、犬彦は思わず顔を伏せた。

 

 本当に、犬彦は自分が嫌で嫌で仕方がない。

 憧れの人に褒められた。なのに自分が返せた言葉といえば言葉にすらならない呻き声じみたものだけ。胸の内に溢れかえる感情を1つも言語化できないことが犬彦は悔しくて仕方がなかった。

 

「……そういえば、結局2人はどこまで作戦考えてたの?」

 

 気を利かせたのだろうか。しばらくの間を置いて――犬彦には一瞬にも感じられたし、永遠にも感じられた――熊谷先輩が小夜子に話を振った。

 そうですね、と指を立てながら小夜子が言う。

 

「紅一点の月見さんだけは断じて許すことができないので、先手必勝で倒すことだけは決めてました。そこから先は状況に応じてですけど、おおむね今回のアレは作戦通りでしたよ。とにかく転送位置が最高でした」

「そこよね。今回は隣同士だったけど、基本は最初の位置はランダム且つ一定の間を置いて、よね。そうすると犬彦くんの隣にならない場合も、反対側になる場合もあったわけだけど。その場合はどうしたの?」

「その場合でも吉里隊の誰かを狙うだけですね」

「吉里隊に狙いをつけてたんだ?」

「ええ。ログを見る限りでは吉里隊も間宮隊も合流を優先するタイプでしたから、まずはこちらが合流の必要がないという利点を活かして開幕爆撃です。そうして戦力を削いでおいて、合流前に個々に潰すか、合流したところを潰します」

「どうして間宮隊の方々を狙わないんですか?」

「女の子がいないからじゃないの?」

「それもそうなんですけど、確か間宮隊の方々って全員ハウンド装備でしたよね? 全員で来られたら大変だと思うんですけど」

 

 難しそうな顔で日浦先輩が尋ねる。

 確かに結果的には勝ったとはいえ、3人同時に放つハウンドの山は脅威ではある。放置するよりは先に潰してしまうのも1つの手だろう。

 

 だが、それは何の用意もしていなかったのなら、の話である。

 

「間宮隊はトリガーでメタ張ってましたから。正直に言うなら、エスクードがあれば3人揃っても勝てる自信がありました」

 

 咳払いを1つ挟んで答えた。――目元が赤くなってないか、気にするのはもう諦めた。

 

「間宮隊は全員が射手(シューター)で、特に変わったトリガー編成でもありませんでしたから、何より自分の間合いで戦えるんですよね。囲まれないように気をつけて、エスクードで軌道を制御したり分断したりしながら各個撃破していくのが一番無難で無理がないかなと思いました」

「まあ犬彦がハッスルしすぎたせいで結果的にあんな曲芸撃ちみたいな感じになりましたけどね!」

「反省はしているけど後悔はないんだよなあ」

 

 実戦で試してみたかったことの1つで、イケると思ったから試してみたまでのことである。

 実際はやはり効果的だったので今後も有力な切り札の1枚となることだろう。

 

 小夜子が他の面々に説明すると、やはり驚かれた。この時点で修得していることが予想外だったらしい。

 

「間宮隊は勝てると考えていたのはいいけど、吉里隊はどうだったの? 結構慌ててたみたいだけど」

「それは忘れてもらえると助かります……。吉里隊は月見先輩が攻撃手(アタッカー)、他2人が銃手(ガンナー)だったんでぶっちゃけもし残ってたら大変でしたね」

「女の人で、しかもポジション上懐に入り込んでくるからねえ」

「ええ。間違いなくヤバかったですね」

「真顔で言うほどなんですね……」

 

 小夜子も言っていたが、今回は本当に転送位置に助けられた。緊張で潰されていたところへ転送位置も悪いなんて不運が重なったら、実際はもっと苦戦していたことだろう。

 

「何分こっちは経験という点で大きく劣りますから。攻撃手(アタッカー)として小南より上とは流石に思いませんけど、当てられるかというとそれはまた別の話でしたしね」

「その場合はどうしてたの?」

「サシならトリオン能力でゴリ押せるので、やっぱりエスクードで分断して各個撃破かなと。トリガー編成を見るにグラスホッパーは恐らくないと踏んでたんで、再合流にかかる時間の間に片方を全力で爆撃する予定でした」

 

 うわぁ、と若干引いた声で熊谷先輩が言った。

 

「えげつないわね……じゃあどちらにせよ、勝てる計算ではあったわけだ。でも話聞いてるとステージをもっと凝っても良さそうに思えるけど、それはどうなの?」

「それはですね――」

 

 

 

 ――良い子だなあ。

 

 自然と緩んでしまう頰をそのままに、饒舌に語る弟子を見る。

 

 よく学び、よく考え、よく行動する子だ。真面目で器用で、新しいことに手を出すことへ躊躇いがない。

 異性恐怖症という難しい問題こそあれど、紛れもなく磨けば光る原石。素材としては最上級だ。

 

 だからこそ、思うことはある。

 

 ――少し残念って思うのは、我儘なのかな。

 

 先のランク戦。確かに犬彦は那須の教えた技を使って勝った。

 けれどバイパーの当て方も、発声とは別の弾を撃つ技術も、それは本人のセンスによるところが大きい技だ。那須の戦い方とは大きく違う。

 

 その点、立ち会うことこそなかったけれどあの街中を疾駆する移動技術は紛れもなく小南の教えの賜物だろう。

 

 教えた時間に差があることから仕方のないことだという思いはある。

 けれど、もっと、と欲が出てしまうのは止められない。

 

 ――羨ましい、って思っちゃったんだよね。

 

 教えた技を最大限に発揮して活躍する姿を。那須自身の技を犬彦が使いこなして勝ったなら、それはどんなに気持ちいいのだろう、と。

 

 故に、思考する。

 今のところ犬彦に教えたのは基礎技術のものばかり。リアルタイムで弾道を引くのはまだ早いと思っていたけれど、欲が出た。もう止められない。

 

 にこやかに談笑する面々を見ながら、那須は静かに訓練メニューを組み立てていた。

 

 

 

 

 

 

 




 色々考えてましたよー、って感じで舞台裏書いてみましたけど、文字に起こすとほぼトリオン能力でゴリ押ししてるだけですねコレ。どうしてこうなった。

 本編ではまったく触れられなかったので想像ですが、この辺の下位チームは多分1人で判断して立ち回るだけの実力ある人がいないので、まず合流→その後チームとして戦うのが一般的なのかなと思います。
 つまりは合流の必要のない・実力あるソロチームと、優位しかなかった感じで。
 次以降、苦戦必至なのが楽しみすぎますねコレ(ゲス顔

 静かに噛みしめる小南と、憧れ爆発の黒江と、密かに燃える那須先輩の三本立てでお送りしました。
 そろそろ那須先輩との訓練シーンについても書いてみたいと思います。

 余談ですが、前回完全に活動報告書くの忘れてて抜けてしまったので今回のと混合で触れます(白目


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第20話 那須玲⑤

 那須先輩の掘り下げが大変すぎて時間かかってましたが、ようやく完成です。
 独自解釈多めなのは目を瞑ってください……(白目


 

 

 

 ――それは、最初の訓練の時のこと。

 

 

 

 いよいよ、那須先輩に直に教えてもらえることになった。

 

「正直に言って、私もまだ完全に使いこなせているわけじゃないわ。だから誰かに教えるなんて、荷が重い気もするけれど……せっかく頼ってくれているのだし、やってみるわね」

 

 苦笑を交えつつ那須先輩が困ったように言うけれど、不満などあるはずがない。マスタークラスに属している人が荷が重いだなんて、謙遜もいいところだ。

 宜しくお願いします、と深々と頭を下げる。

 

「それじゃあ、まずは犬彦くんも使ってるバイパーからね。憧れて使ってるなんて聞くとちょっと面映ゆいのだけれど、犬彦くんはバイパーを使う上での利点ってなんだと思う?」

「利点、ですか」

 

 バイパーの特徴は、他のトリガーに比べて軌道を自由に設定できること。

 

「軌道を細かく設定できること、だけだと不十分ってことですよね」

「そうね。確かにその通りなんだけど、その答えだと50点かな。バイパーはアステロイド、ハウンド、メテオラに比べると、使用場所を選ばないというのがまず最大のメリットね」

 

 説明しながら、ホワイトボードにそれぞれの軌道を書き込んでいく。

 

「アステロイドとメテオラはほぼ直線、ハウンドは誘導弾だから大体こんな感じの曲線になるでしょ? でもバイパーはこれよりもっと細かく、複雑に設定できる。つまり」

「障害物に左右されない、ってことですか」

 

 そうそう、と嬉しそうに那須先輩が頷いた。

 

「開けた場所ならともかく、狭い路地裏とか、家屋が立ち並ぶ住宅街とかになると射手(シューター)系のトリガーは使いづらいの。障害物を崩しながら狙うこともできるけど、それをすると逆に相手に反撃の目を与えてしまう可能性もあるから難しいわね」

 

 わかります、と相槌を打つ。

 この辺りはゲームが趣味の犬彦にとって馴染みの深い話題なので理解も早い。

 

「障害物を狙うこと自体がダメってわけじゃないですよね?」

「そうね。射線を確保するためだったり、味方への援護とかで狙う場合もあるから必ずしもダメというわけではないわ。話を戻すけれど、つまりバイパーの利点は、場所を選ばない利便性の良さ、ってことになるかしら。バイパーなら、大体のシチュエーションで応用の効く軌道を描けると思うわ」

「ただ、そういう風にリアルタイムで弾道を引けるのは那須先輩か出水先輩だけ、って聞きましたけど」

「私自身、あまり特別なことをしている自覚はないのだけれど……そもそも、バイパーを使っている人自体が少ないのも関係しているのかもね」

「そうなんですか? さっきの話だと、利点ばかりが目立つような気がしましたけど……?」

「そうでもないわ。たとえば、さっきみたいな状況になったとして考えてみて。もしその状況で咄嗟に撃つことが求められた時、犬彦くんはすぐにバイパーを撃つことができる?」

 

 狭い路地裏。住宅街。いずれも見通しが悪く、標的が少しでも動けば簡単に障害物に隠れて見えなくなってしまう場所だ。

 

「無理ですね。直線か、短距離なら1回曲げて持ってくくらいはできるかもしれませんけど」

「そういうこと。そもそもバイパーって、普通はあらかじめ自分でいくつかの弾道を設定してストックしておくものなのよ。さっき言ったように咄嗟のシチュエーションで軌道を描ける人が少ないから、自然とさっき言ったようなバイパーの利点がなくなっちゃうのね」

「なるほど。そうなると確かに、利点の少ないバイパーよりは、利点の明確な他のトリガーを使った方が良くなりますね。前に小南が扱いの難しいトリガーって言ってましたけどそういうことですか」

「そうね。確かに、慣れるまではちょっと時間がかかると思うわ」

 

 苦笑を浮かべて那須先輩が頷く。

 奥ゆかしい那須先輩がここまではっきりと言うということは、本当に上級者向けのトリガーであるらしい。

 今更ながら、自分がどれだけの茨の道を進もうとしているのかを理解して気分が重くなった。

 

「もしかして俺、選択ミスっちゃったりしてるんでしょうか」

 

 聞けば、入ってきたばかりの新人が射手(シューター)系のトリガーを選ぶ場合、ハウンドが最も多いと聞く。

 アステロイドには及ばないものの、威力はそこそこで、何より誘導性能があるから多少狙いが甘くても目標には当てられる。トリオンの扱いに慣れていない初心者が扱うにはうってつけだろう。

 

 バイパーを選んだ理由に、利点だの利便性だのといった頭のいい理由などない。ただそれを扱う様に憧れただけだ。そんな不純な理由で選ぶべきではなかったのかもしれない。

 

 それを理解しているのか、那須先輩の浮かべる表情も苦笑いに近いものだった。

 

「うーんまあ、多分初めての人に勧める人は少ないと思うけれど……私はそうは思わないかな」

「え? 扱いの難しいトリガーなのに、ですか?」

「それはそうなんだけど、扱ってると色々なものが見えてくる、奥深いトリガーでもあるからね」

「色々なもの、というと」

 

 思わず身を乗り出して問いを投げる。

 明らかな手のひら返しだ。現金だなあ、と苦笑を見せられても反論することはできなかった。

 

「それじゃあ、ちょっと考えてみましょうか。逃げる相手にバイパーを当てる時、犬彦くんはどう当てる?」

「えっと……?単純に背中を見せて逃げてるようなら、まっすぐな軌道で当てればいいと思いますけど」

「そうね。でもそれだと、アステロイドを使ってもいいと思わない?」

「あー……そうですね、その通りです」

 

 ぐうの音も出ない言葉に、恥ずかしくなって頰をかく。

 

「たとえば、こうしたらどうかしら」

 

 ホワイトボードに人の絵を描いた後、四方から取り囲むように矢印を描く。

 なるほど、こうして見るとバイパーとは上手く名付けたものだと思う。その図はまさに、四方八方から襲いかかる蛇の群れそのものだ。

 

「こうすると、相手はシールドを使うか、切り払うかの選択をしないといけなくなるから次の弾が当てやすくなるわね。敢えて1つ逃げ道を作って、誘導するのもいいかも」

 

 じゃあ、次の問題、と別の絵を描いていく那須先輩。

 

「壁の向こうに隠れた相手を狙う場合、どうやって当てようか?」

 

 えと、と思考するための一呼吸を置いて、

 

「壁を崩して、道を塞ぎつつの包囲攻撃とかどうですかね?」

「いいわね。ただそれには壁を崩せるだけの威力が必要になるし、相手のトリガー構成にもよるから事前の下調べはきちんとしないといけないわね」

「確かに……グラスホッパーなんて持ってたら上に飛んで逃げられるだけですもんね」

 

 まあそもそも、このシチュエーションに持ってくには相手が逃げ一辺倒になるほどの圧力をこちらが持っていなければならないのだけど……思考実験に威圧感がどうとか言い出すのも野暮な話か。

 

 他に何かないか、思考に没入していく犬彦を那須先輩は楽しそうに見ている。

 飲み込みのいい弟子を見る目にも見えるし、新たな同志の誕生を喜んでいるようにも見えた。

 

「他にも色々と、それこそ考え出せばキリがないほどシチュエーションはあるけれど、今はこの辺にしておきましょうか」

「あ、はい」

 

 その声に意識を引き上げられる。

 思考の中の犬彦は気付けば別のトリガーを持ち出していたし、相手は1人から2人にも増えていた。

 那須先輩が止めていなければきっともっと長い時間を過ごしていたことだろう。

 

「どう、楽しい?」

「……そう、ですね。実際に動けるかは別として、自分ならどう使うかを考えるのは大変ですけど、楽しいです」

「私は別に他のトリガーよりバイパーの方が優れているなんて言うつもりはないし、扱いの難しいトリガーっていう評価も間違ってはいないと思うわ。けれど、1番楽しいトリガーは何かって聞かれたら間違いなくバイパーを推すと思う。だってこんなに使い手の創意工夫が活かされるトリガーはバイパーをおいて他にないもの」

「それは、はい。俺も凄くそう思います」

 

 きらきらとした目。熱く映画の感想を語っていた時と同じ目だ。そこに視線を合わせるのがどうにも照れ臭くて犬彦は視線を逸らしながら頷いた。

 

「だから、初めて使う人には難しいかもしれないけれど、犬彦くんの選択は間違いなんかじゃないと思うよ。大事なのは、思考を止めないこと。考えて考えて、当てるために必要なことを学んで、それから他のトリガーも使っていけばいいんじゃないかな」

 

 

 

 

 

 犬彦は、那須先輩が最初に話をしてくれた時のことを思い出していた。

 

 弟子を取ること自体が初めてだということもあって、那須先輩は実に丁寧に指導してくれていた。

 それぞれの弾トリガーのことを教え、そして当て方を教えてくれた。

 

 殊更に丁寧だと感じたのは、最初にバイパーを使わせるにあたって、那須先輩のようにリアルタイムで弾道を引くことを禁止したことだ。

 リアルタイムで引かずとも、予め軌道をストックしておくことで撃つことはできる。

 反撃という選択肢を削ってひたすら回避に専念させた小南のように、那須先輩もまた変なクセがつかないように土台をしっかりさせることからスタートさせた。

 

 犬彦はそれに不満はなく、むしろ全面的に受け入れていた。

 銃ならともかく、ゲームにおいても扱ったことさえない、扱い方もわからない弾をいきなり応用から扱えるなんて自惚れるほど犬彦は自信家ではなかったからだ。

 この前の、B級に上がってからの最初のランク戦でも犬彦はストックした軌道のみを用いた。最後の間宮隊を全滅させた変則撃ちも、要はほぼ直角に曲がる弾を使用しただけだったのでリアルタイムで引いたわけではない。

 

 つまり、犬彦はバイパー使いとしては未だひよっこであり、今は許可が出るまでひたすら下積みをしている段階である。

 犬彦とて強い憧れはあったためにいつ許可が出るものかとやきもきしている段階だったのだが、本日は少し毛色が違った。

 

 

 

「今日はランク戦をしましょうか」

 

 B級ランク戦ROUND1を快勝で抜けて、最初の訓練の日。那須隊訓練室。

 いつもであれば座学を経て的当ての訓練から入るところ、少し茶目っ気のある笑顔を浮かべて那須先輩がそう言った。

 

 え、と戸惑いの色を隠せずに尋ねる。

 

「ランク戦、ですか。ここで?」

「そう。勿論ポイント移動なしのランク戦ね」

「それはわかりますけど……」

 

 小南との訓練のように縛りプレイだろうか、と首を傾げる。

 

 未だ犬彦に許されているのは軌道をストックするタイプのバイパーのみであり、仮にバイパーのみの戦いであれば那須先輩に勝てるはずもない。実戦での当て方を研究するとか、そういうことだろうか。

 このタイミングでのランク戦の指導に首を傾げていると、指を立てながら那須先輩が言った。

 

「理由はいくつかあるんだけど、その前に確認しようかな。犬彦くんは新しい技を覚えたらすぐに試したくなるタイプ?」

「新しい技、ですか」

 

 急な質問に戸惑いこそあったけれど、犬彦はほんの数秒、考える間を置いて答えた。

 

「度合いによりますけど、完璧に覚えたなら試します。逆に少しでも不安があるなら、それしかない場合、もしくは勝算が高い場合を除いて試さないと思いますね。状況にもよりますけど」

「さよちゃん、どう?」

「大丈夫だと思いますよ」

 

 那須先輩は犬彦にではなく、側に居合わせた小夜子に尋ねる。

 小夜子もまた、まるでそれが予定調和であるかのように平然と答えた。

 

「犬彦は確かに抜けてるところもありますけど、負けず嫌いでズル賢いタイプなんで。ウッキウキで覚えたての技を試して自滅、なんてことにはならないかと」

「突然の悪口!」

「要は説明書読んでチュートリアルもきっかりこなすタイプってことですね」

「うーん、私ゲームはあまりやらないから、そのたとえはあんまり」

「まあ、今のは素に近い反応だったので裏を読んだりとかはないと思いますよ」

「あの、さっきから何を?」

「ああ、ごめんね。疑うわけじゃないんだけど、ちょっと慎重になりすぎちゃったかも」

「慎重?」

 

 表情が強張る。気付かないうちに何らかのテストを受けていたらしかったのだから当然だ。

 先の答えに間違いはないが、もっと考えるべきだったかもしれない、という考えが一瞬脳裏をよぎった。

 身構える犬彦に、那須先輩が柔らかく言った。

 

「うん。今日から解禁を考えてるから、ついね」

「解禁? ――え、それって?」

「そう。今までは私みたいにその場で弾道を引くことを禁止していたけれど、今日の訓練から本格的に教えていこうと思ってるわ」

「う、おおお……!」

 

 その言葉に全身が歓喜に震えた。

 憧れに一歩近づけたことへの喜び。必殺技を学ぶ高揚。男の子としても弟子としても喜ばない方がどうかしている。

 途端にギラギラと輝き出した弟子に、那須先輩は微笑ましそうな顔で付け足した。

 

「犬彦くんも不思議に思ってたように、このタイミングなのはちょっと変かもしれないけどね。私なりに色々考えてみて、やっぱり教えるべきだって思ったから」

「そういえば、いくつか理由があるって」

「うん。まず1つ目は単純な話で、これから戦うことになる相手の方がずっと強いから。経験値もそうだけど、どのチームもエースクラスの実力を持つ人がいるからROUND1のような力押しはほとんどできないと思った方がいいわ」

「う……そうですね、確かに」

 

 犬彦は参考資料として過去のランク戦を見たことが何度かあったが、その戦いはやはりROUND1の時とは比べ物にならないほどレベルの高いものだった。

 チームとして合流しなければ実力を発揮できないのではなく、それぞれが意志を持って動くことができ、尚且つそれを可能とする実力のある部隊。そんなイメージだ。

 

 犬彦ほどのトリオン能力を持つ人間はボーダーにもそうはいない、と小南にもお墨付きをもらっている。が、それだけでは勝ち切れないことを犬彦は十分に理解していた。経験にも、人数でも圧倒的な差がある。補うための方法を見つけなければこれより先で勝つことは不可能だろう。

 

「2つ目。これはちょっと矛盾するかもしれないけど、軌道を引くことに早く慣れた方がいいから」

「やっぱり慣れとかあるんですか?」

「勿論。バイパーは特にたくさんの判断がいるトリガーだもの。その時間を減らすには常に扱って慣れるのが1番よ。ただ、流石に最初からリアルタイムで引くのを実戦してしまうと変なクセがついてしまうから、そこだけは止めさせてもらったけどね」

「多分、最初から自由にさせてもらってても勝手がわからなくてオタオタしてたと思うんで、それはすっごくありがたいです」

「私も最初はそうだったしね、多分皆が通る道かな」

 

 そう言って那須先輩が苦笑した。

 

 オタオタする那須先輩というのもちょっと想像できない話だったけれど、考えてみれば那須先輩に師匠はいないのだからほぼ独学で学んできたはずである。あそこまで鍛え上げるために、一体どれだけの苦労を味わってきたのだろう。

 

「本当はもう少し待った方がいいかなとも思ったんだけど、この前のランク戦。多分、犬彦くんはもう一定のレベルに達してるわ。だったら、多少のリスクを背負ってでも手札を増やしてあげた方がいいかなって思ったの」

「犬彦ー、顔がにやけてるよー?」

「に、にやけてねーし! 表情筋の訓練だし!」

「このタイミングでやる意味とは一体……?」

 

 腹の立つ顔で見上げてくる小夜子の額を小突く。

 師匠から褒められて喜ばない弟子がいるはずもないだろう。

 

「とは言っても、まだまだスタート地点に立ったばかりなんだけどね。2週間くらいでここまで来れたのも十分驚異的なんだけど、躓くのはここからよ」

 

 じゃあ、具体的な話をしましょう。

 那須先輩が目配せすると、小夜子が自分のデスクに引っ込んでいく。

 しばらくして、殺風景極まりないモノクロの訓練室が市街地Aの様相に移り変わった。

 

「基本的には、ポイント移動のない普通のランク戦を行います。使用トリガーはバイパーのみで、ルールを1つつけましょう。私は犬彦くんがバイパーで私に一撃当てるまでは回避に専念するわ。当たったら、攻撃を始めます」

「最初に、一撃ですか」

 

 バイパーのみで、リアルタイムで引いての一撃。

 なにぶん初めてのことばかりでその難易度も犬彦には正確に推し量ることはできなかったけれど、数も速度も指定されておらず、市街地である。やりようはある、と考えることにする。

 

「シールドもなしなんですね?」

「ええ。つけることも考えたけれど、それは訓練の目的から逸れてしまうから無しにしましょう」

「なのに、一撃を食らってから?」

「そう。だから勿論、そのまま勝負が決まることもあるわね」

 

 さらっと言ってのけた那須先輩の表情から微笑みが消えることはなかった。

 

 他の人が言ったなら、その余裕にきっとカチンときていただろうし、不満も出ただろう。

 けれど、犬彦自身が理想とした、憧れの人であれば。

 

 ――そうだ。そうでなくちゃ、追いかけ甲斐がない!

 

「宜しくお願いします!」

 

 衝動のままに頭を下げる。

 その大声に驚いたのか、きょとんとした面持ちで那須先輩が言った。

 

「……反発とかあるかなと思ったんだけど、そうでもないみたいね?」

「那須先輩の強者感が男の子ハートに触れたっぽいですね」

「解説どうも。そんな感じなので、反発とかは全然です!」

「狙ったつもりはなかったけど、結果オーライなら良しとしましょうか。じゃあさよちゃん、そろそろお願いね」

「了解です。じゃあカウントダウン開始しまーす」

 

 マイクに乗って小夜子の声が聞こえてくる。残り10秒。

 距離を取る前に声をかけようと口を開いたところ、被せるように那須先輩が言った。

 

「犬彦くん」

「? はい」

「私“も”、結構動けるから。大変だと思うけど、頑張ってね」

 

 ――優雅に、艶やかに。どきりとするほどの笑みを見せた那須先輩に問い返すことは、ついぞ叶わず。

 

 その言葉の意味を、犬彦はこの訓練で嫌というほど思い知ることになるのだった。

 

 

 

「ぜんっぜん当たんねえ!」

 

 床に倒れ伏した犬彦が掠れた声で絶叫した。

 

 10本勝負を終えただけなのに、時計を確認すると1時間も経っていた。

 当てられたのもクリーンヒットは一切なく、薄皮1枚を削ったかのような接触があったのみである。

 そのくせ那須先輩からのバイパーはそのほとんどが有効打になったのだから、結局どちらが回避する必要があったのかわからないほど犬彦は翻弄され、1勝することさえできずに最初の訓練を終えることになったのだった。

 

 体力的な消費こそないが、終始当てるために頭を使い、そして翻弄されることになった犬彦の精神的な消耗は計り知れない。

 息を大きく荒げ、あまりの消耗に薄っすらと汗さえ浮かべながら床に大の字を晒していた。

 

 そんな犬彦に、スポーツドリンクを差し出しながら那須先輩が寄ってきた。

 こちらは犬彦と違い、同じように走り回っていても涼しい顔だ。

 

「お疲れ様。大丈夫?」

「あ、すみま、――ッ!」

 

 直後。“それ”を認識した犬彦は、思い切り額を殴りつけた。

 

「ど、どうしたの?」

「いえすみません何でもないです気にしないでください本当にすみません」

「そう……?」

 

 犬彦の様子に訝りながらも、それ以上気付いた様子はない。そのことに犬彦は安堵した。

 

 ――めっちゃいい匂いしためっちゃいい匂いしためっちゃいい匂いしたそりゃ代謝機能再現してるんだから当然だよねああああホントすみません……!!

 

 トリオン体って匂いするんだ、と。運動による疲労とは別の理由で激しく鼓動する胸を抑えながら犬彦は思った。

 また1つ、いらない知識を重ねてしまった瞬間である。

 

 兎にも角にも、運動後である。犬彦ほど消耗を強いられてはいなかったとはいえ、那須先輩もまたよく動いていた。

 視線を上げれば、ペットボトルを頰に当ててその冷たさに浸っている那須先輩の姿が目に入り、それが妙に艶めかしく見えて犬彦は腕で顔を覆った。

 

「どう、犬彦くん。ストックして撃つのとはだいぶ感覚が違うでしょ?」

 

 そんな状態だから、話が逸れてくれたことには感謝しかなかった。

 視線を逸らしたまま、そうですね、と相槌を打つ。

 

「ストックして撃つ時にはどれ使うかってのと、目標くらい決められればだいたい何とかなったんですけど、リアルタイムで引くのは全部1から決めないといけなくて……やること多すぎて、しんどかったです」

「そんなに違うの?」

 

 デスクから離れて寄ってきた小夜子が尋ねた。

 それは勿論、と頷いて指を立てる。

 

「たとえば、ストックして撃つ場合なら①地形を確認して②目標とその未来位置を見て③どれを使うか決めて、撃つんだよ。俺の場合は1回、多くても2回曲がるくらいの軌道をストックしてる」

「ふんふん」

「単純な話、これがリアルタイムで引くことになるとそれを設定する工程が増える。ストックして撃てば瞬時に判断できた未来位置も設定している間に変わったりするから、設定する時間を考慮した未来位置を計算しなきゃならない。その間に障害物が増えるようなら更にそれも計算したりして……」

「相手も止まってるわけじゃないもんね。ついでに案山子でもないから、相手のガードを掻い潜る戦術も立てないといけないと。いや大変だね、頭パンクしそうだよ!」

「お前他人事だからってそんなイイ笑顔するのはどうかと思うんだよ」

 

 だって他人事だし、と唇を尖らせる小夜子に渋面を作る。

 

「勿論、必ずしも当てる必要はないけどね」

 

 フォローするように口出ししたのは横で見ていた那須先輩だ。

 

「前に犬彦くんも言っていたけど、大事なのは相手の動きをコントロールすること。壁を崩して道を塞ぐのもいいし、極端な話当てなくても相手を動かすことはできるわ」

「選択肢多すぎて迷っちゃいますね……」

 

 うへえ、と眉尻を下げて犬彦がぼやいた。

 

「そうね、確かにその通り」

 

 さらっと那須先輩が肯定する。

 手慰みに生み出されたトリオンキューブが那須先輩の手の中で円を描く。

 

「迷うことは誰にでもあるわ。私だって未だに迷うことばかりだもの。だから私達がすべきなのは、判断までの時間を減らすこと。考えて経験して、決断への時間を限りなくゼロに近づける。それが大事なことじゃないかしら」

 

 ふ、と那須先輩が表情を綻ばせる。

 その手の中にはくるくると自在に踊るトリオンキューブ。

 

「バイパーは私達の手。そう思えるくらいに慣れるのがまずは最初の目標かな」

「……了解です! 何とか頑張ります!」

「完全に勢いだけの返事だねそれ」

「ぶっちゃけ、那須先輩のあの動きに当てられる気がしないです!」

「うん、まあそれはあるね。正直、見てて気の毒になるくらい翻弄されてたもんね」

 

 過去のログで、そして今の訓練を経て犬彦は実感した。

 那須先輩の真骨頂は、戦場を高速で機動して、その自在な射撃で相手を翻弄するスタイルである。体感した今だからこそ口にできるが、その身軽さは小南のそれとほとんど遜色ない。

 

 ――『私“も”結構動けるから』

 

 訓練の始まる前、那須先輩の言葉を思い出す。

 

「那須先輩、めっちゃ動けるんですね」

「身体を動かすことは好きだから。それに私自身がトリオン体について研究しているチームの一員だもの。発揮できる身体能力とか、一通りは調べているつもりよ」

「説得力が凄い……!」

 

 犬彦自身、1ヶ月と少ししか訓練していないとはいえ、小南の無茶振りという訓練を経てきている。更にはレイジの助言もあり、身体操作についてはそれなりに自信を持っていたのだけれど、那須先輩のそれはまさしく完成度が違ったように思えた。

 

 実際に身体を動かして染み込ませるアナログな手法と、数値を計測して理論として染み込ませるデジタルの手法。

 元々の経験値は元より、那須先輩のそれは2つの手法のどちらも実戦した上での成果である。完成度の違いもむべなるかな。

 

 ――すげえなあ。

 

 鳥籠と呼ばれるまでに昇華させたバイパーの技に加えて、A級と比べても遜色のない身体技術。

 そんな凄い人が教えてくれている。

 改めて実感した事実に犬彦は歓喜に打ち震えた。

 

「俺も計測始めようかな……」

「小南先輩に『そんなことしてる暇があるなら訓練しろ』って言われそう」

「いや、強くなるためなら小南もそこまでは……言いそう、だなあ」

 

 デジタルとアナログを両立させたのが那須先輩なら、とことんまでアナログを突き詰めたのが小南である。元より小南自身が感覚派であるからして、間違いなく良い顔しないだろうことはすぐに想像がついた。

 

「まあ、一歩ずつ確実に、かな」

 

 よいしょ、と腰を上げて立ち上がる。汗も引いた。休息もとった。ならばまた詰め込むだけである。

 

「那須先輩、もう10本お願いします!」

 

 意気揚々と頭を下げると、何故か一瞬、虚をつかれたように間が空いた。

 しかしそのことに気付くより早く、時計の針は動き出す。

 

「――ええ、そうね。そうこなくちゃ。ルールはさっきと同じにするとして、ステージはどうする? 他のステージも試してみる?」

「あ、っと。そうですね、もう一度同じステージで」

「わかったわ。それじゃあさよちゃん、また宜しくね。犬彦くん、次はもっと早く当てられるように頑張ろうね」

 

 

 

 ――とても眩い笑みだった。

 

「楽しそうだね、那須先輩」

「っ、小夜子。まだいたのかよ」

「フリーズしてたみたいだったから、再起動しとこうと思って」

「いや、そんなこと……」

 

 苦い顔で言い淀む。言葉は最後まで告げられなかった。

 図星だったのもあるし、もしこのまま始めていたらしばらく間の抜けた顔を晒して立ち尽くしていたことは想像に難くなかったから。

 

「まあ、アレは見惚れちゃうよ、仕方ない。那須先輩のあんな顔、私もほとんど見たことないし」

「いや、それは流石にないだろ」

「本当なんだけどなあ。多分那須先輩、本当に楽しいんだよ。身体のこととか研究とか、色々あってチームのランク戦くらいしか満足に戦えないし。ソロで行くのもないことはないけど、相手がねえ」

「相手?」

「犬彦、那須先輩とガチでやり合えって言われたらどう?」

「……あー、なるほど。なんとなくわかった」

 

 折れそうなほど細い容姿に、あの美貌。抵抗がある、と考える人は少なくないように感じた。

 

 実際のところ、犬彦もあまりに当たらなすぎてそのことを考える余裕がなくなったからこそ抵抗が消えただけなので、そういう譲れないものがない状況であれば、特に異性は全力で当たるのは難しいかもしれない。

 

「だから、そういうアレコレ気にせず遠慮なしにやれる犬彦は結構ありがたい存在なんじゃない? やる気があるってのも那須先輩的にはプラスポイントだと思うし」

「いやいやいやまさかそんなこと」

「まあ、都合のいい頑丈なサンドバッグができたって感じの喜びかもしれないけどね」

「そうやって的確に崖から突き落とすのやめよう! せっかく高まってたやる気がガクンと落ちたよ30パーセントくらい!」

「匠の技と呼んでくれたまえ」

「褒めてねーよ」

「なあに、どうせ舞い上がったまんまだと落ち着かないだろうしこれくらい冷えてた方が犬彦的にはちょうどいいでしょ」

「ああそうだなありがとよ畜生め!」

 

 吠える犬彦をからからと笑い飛ばして、小夜子がデスクに引っ込んで行く。図星をつかれたのはやはりお見通しということらしかった。

 

 楽しいんだろうね、と小夜子は言った。

 

 間違いということもある。

 けれどもしそれが本当なら――自分は、どこまでも頑張れる。そう思えた。

 

 

 

 楽しい。心底からそう思って那須は笑みを深めた。

 

 素晴らしい才能の原石を磨いている、ということ。

 意気高く、向上心もあること。

 

 そして何より、そこに自分の姿が見えること。

 それが何より那須を愉快にさせている。

 

 恐らく、犬彦が最初に指導を受けたのが那須であればこうはならなかった。最終的にはなったかもしれないけれど、この段階でその片鱗を感じるほどにはならなかった。

 

 ――きりちゃんには感謝、だね。

 

 小南の顔を思い出して笑む。

 

 期せずして小南という、攻撃手ランク3位の師匠を得たこと。それがターニングポイントだった。その訓練内容は伝聞でしか知らないけれど、攻撃手としての術を教えられない代わりに体術を中心に教えていると聞く。

 そして、あの小南の攻撃を避け続ける訓練。

 

 ――多分、バイパーに慣れてたらもっと大変だったね。

 

 正直なところ、自身の回避についてはかなり手を抜いている。そうでもなければ延々と那須が避け続けることになるのだから止むなしである。

 けれど、こと攻撃という点に関しては那須はほぼ本気で当てにいっていた。

 

 今はまだ、扱いが不慣れであるためにそっちに思考を取られてしまい、攻撃と回避の両立ができていない。

 でも。もし、それができるようになったら。

 

 下地はすでにできつつある。

 後はそこに那須の技術を上乗せすれば、生み出されるものは自身と同じ、あるいは超えていく存在だ。

 

 笑みが深まる。

 今までの訓練では決して出会えなかったもの。

 優秀な弟子であり、互いに高め合う存在――好敵手。

 

「本当に、楽しみ」

 

 ひそりと呟いて、那須は訓練に身を投じていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 犬彦、ついに弾バカへの一歩を踏み出すの巻。
 リアルタイムで引く難しさってぶっちゃけ言及がふんわりで感覚でしかわからなかったのでこんな感じになりましたが大丈夫でしょうか(震え
 しかし考えれば考えるほどに難易度高いトリガーだなあと。その覚える手間暇で他の訓練した方が強くなりそうですね(小並感

 BBFで同校同クラスであることが判明したというのにその友好関係に関して言及が一切ない小南と那須の組み合わせ。
 小南は周囲に偽ってまで隠しているし、口裏合わせの観点から言っても那須と親しくなってないのはありえないと思うんですよね。
 ならば二次らしく突っ切ってしまおう!と妄想した結果が『きりちゃん』呼び。
 2人の学校での様子とか超見たい……見たくない?

 次はランク戦前のアレコレの予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第21話 染井華

 防衛任務編スタートです。
 原作だとほんの数シーンしかないので当然のように独自解釈アリアリ。
 シフトについてはググったら素晴らしい考察記事があったのでそれを参考にしてます。


 

 

 

 

 

 初めての防衛任務を控えた、前日のこと。

 犬彦は菓子折りを入れた紙袋を手に、とある作戦室へ向かっていた。

 

 

 

「犬彦、ちょっと挨拶してこようか」

「どうした急に。あとなんだその顔」

 

 週明け。学校から帰宅した犬彦に小夜子がそんなことを言った。

 しかしその言葉の軽さに反して、小夜子の表情はなんだかひどく難しそうだった。眉をハの字に唇をへの字に、腕を組んで如何にも「私悩んでます」といった風情。

 ソファの上で膝を揃えて、思い悩む修行僧のような様子で言葉を続ける。

 

「ほら、今度防衛任務あるでしょ?」

「え? ……あー、そうか、そういや明日だっけ」

 

 苦い顔で頷く。

 

 トリオン兵が現れる時には、必ずゲートが開く。そのゲートはボーダー本部が設置されてからは本部周辺の警戒区域に誘導されるようになっているが、ゲートそのものを閉じたり、侵攻を防ぐようなことはできない。故にそこから現れるトリオン兵を駆除する人間が必要になる。

 その仕事が、防衛任務。1度のシフトに、オペレーターも含めて3・4人ほどのチームで割り当てられる。そのまま1つのチームで呼ばれることもあれば、希望者を寄せ集めて臨時チームが組まれる場合もある。

 

 何故希望するのか? 単純である。金が欲しいのだ。A級ならば固定給があるものの、B級にはそれがない。C級に至っては無給だ。

 ならばB級とC級を分ける壁は何かと言えば、まずはこの防衛任務に参加できること。そして任務中にトリオン兵を倒したなら、その成果に応じて報酬が支払われる。金を稼げるのだ。

 故に生活費を稼ぐ必要のある隊員などは防衛任務のシフトに多く入れてもらえるよう希望している。今回の犬彦はまさにそれだ。

 もっとも犬彦の場合、そもそもソロチームであることから防衛任務につく際にはどの道誰かと組まされることになるのだが。

 

 その初めての防衛任務を明日の日中に控えている。

 今回は先程挙げた例で言えば寄せ集めの臨時チームであることから、小夜子はおらず犬彦単独でのシフトになると聞いていた。

 

 そうそう、と小夜子がしたり顔で頷いて指を立てる。

 

「で、いきなり初めてにして初対面の人と組んでやることになるわけじゃない」

「あー、そういえばまだ誰と組むのか見てなかったわ」

「ええ……気にならないの? そういうの。私なんていつも誰と組まされるのかびくびくしてるんだけど」

「いや、気にならないわけじゃないけどさ。ちょっと訓練がキツすぎてしんどかったから、気にする余裕がなかったというか」

「ああ、なるほど。私達にしては珍しく週末の徹ゲーもお預けだったもんね」

「流石にアレの後で徹ゲーやる元気はない」

 

 真顔できっぱりと言い切った。

 

 これまでは小南の訓練が理不尽に厳しかっただけでまだ何とかなった。

 しかしここ数日は那須先輩の訓練――というよりバイパーを当てるのが難しすぎて四六時中そのことばかりを考えている。おまけに何故か小南の訓練も苛烈さを増して、そんな状況で防衛任務がどうだとか考える余裕などあるはずもなかった。

 

「本当に嫌なタイミングで入ってきたなあ。上がってからまだ全然経ってないんだぜ? もうちょっと余裕持たせてくれても良さそうなもんだ」

「上がると同時に希望出したのがマズかったねえ。いっぱい入りたいなんて書けばそりゃ駆り出されるよ」

「ヒモ同然な身分はもう嫌なんだ……!」

「いやヒモて。私お姉ちゃんなんだけど」

「もっと言うならこのダメ姉に養われている現状が我慢ならない!」

「おう札束の力に従えよマイブラザー」

「いっそ殺せぇ! 殺せよぉ!」

「男のくっころなんてどこにも需要ないんだよなあ」

 

 はーっはっは、と一通り笑ってから、まあそれは置いといて、とジェスチャーする小夜子。

 

「で、組む相手の話」

「ああ。誰となんだ?」

 

 ほい、とタブレットの画面を示してみせる小夜子。

 どれどれ、と覗き込む犬彦の目に映ったのは、

 

「冬島隊当真勇、香取隊香取葉子、オペレーターが香取隊染井華……なるほど、2人か」

「何がなるほどなのさ。目を逸らしても現実は変わらないんだから、帰っておいで?」

「……いきなり初っ端からかよ」

 

 渋い顔で呻いた。

 

 女性隊員もいるのだからそういうことはある。

 わかってはいた。いずれは経験しなければならないことも。

 けれども、まさか最初にそれを引くとは。

 

「本当に犬彦は引きが悪いね。まあ、上に希望出してるわけじゃないし仕方ないと言えば仕方ないんだけど」

「女性が苦手だからできるだけ一緒にしないでくれって? いや、できるだろうけど、流石にそれはなあ……」

「抵抗があるの?」

「……なんか、情けない、というか。あんま接触しなければいいだけだし、そもそもそんなにいないし。何とかなるだろって」

「裏目引いた時のリスクを真剣に考えなかった犬彦の落ち度だねえ、それ」

 

 うぐ、と声を詰まらせて犬彦が唸った。

 

 確かに、やろうと思えば回避できたことではある。

 組織を運営する上では上下も横も、人間関係は重要である。個々人にも個性があり、まして支障が出るともなれば多少の融通は利かせてくれることだろう。

 

 だけれど、あの暗黒時代を過ごした犬彦と今の犬彦では環境が違う。周りを取り巻く環境も大きく変わって、支えてくれる人も増えた。ならばいつまでも過去のトラウマを引きずるのは、なんだか自分だけ殻に閉じこもって逃げているみたいで嫌だったのだ。

 

 希望を出さなかったのは犬彦自身の意地でもあった。

 だからこれは、いずれ来たるべき時が少し早く来てしまっただけのこと。

 

 肩をすくめて小夜子が言った。

 

「まあ、犬彦が考えてることは何となくわかるけどさ。……ただ、いきなりこの子ってのがねえ。ホント引き悪いよね、としか」

「なんだよ、引っかかる言い方だな?」

「引っかかるも何も、それが最初の話に繋がるんだよ」

「挨拶するとかいう?」

 

 こくり、と小夜子が頷いた。

 

「私、こっちの香取さんと同じクラスなんだよ」

「ほう?」

「だけど、仲が良いわけでもないし、ほとんど話したこともない。ここまで言えば、ある程度察しがつくでしょ?」

 

 同じボーダーに所属していて、にも関わらずほとんど話したことがない。

 何となく、話が見えてきた犬彦はうんざりと顔をしかめた。

 

「……嫌いなのか?」

「どっちかと言えば、苦手かな。今時のJKって感じ。しかも我の強いタイプ」

「お前もJKのはずなんだけどなあ……まあそりゃ気が合うわけないわ。無理だわなあ」

 

 犬彦とこれだけ打てば響くような会話をしている小夜子も、相手によっては借りてきた猫のように、あるいはそれ以上に大人しくなる。小夜子の言ったタイプなどまさにそれだ。

 そしてこの姉弟の場合、往々にしてその苦手なタイプはかなりの確率で一致する。

 

「最近のJKと何を話せばいいんですかね」

「マジ・ヤバい・ウケる。何を聞かれてもこの3つをローテしてればいけるのでは?」

「偏見の塊!」

「というか私に聞くのがそもそもの間違い」

「さっきも言ったけどお前も最近のJKだよ? もうちょっとなんかあるでしょ」

「あの生物と私が一致しているのは歳と性別くらいだよ」

「言い切った! 言い切ったぞコイツ!」

 

 瞠目して言った。

 しかもこれだけ言い切っても小夜子に傷ついた様子はなく、どころか少し誇らしげである。何故なのか。

 

「まあそんな考えるだけ不毛なことは置いといてだね。挨拶の話だよ」

「ホントブレねえなお前……。挨拶っても、その様子だと行っていいものかね。藪蛇じゃないか?」

「いやいや、考えてもみなよ。まったく面識もなく、しかも話が合わないかもしれない人と仕事するんだよ? おまけにこっちは経験もない素人で、あっちはキレッキレのJKときた。そんな空気の中で長時間いて、コミュ症の犬彦が耐えられると思う?」

「無理ですね」

 

 即答した。

 帰るころには胃がめちゃくちゃになってそうだ。

 

 でしょ、と、こちらもしたり顔で小夜子が頷く。

 先ほどの話はもしかしたら小夜子の経験談だったのかもしれない。

 

「だったら、やれることは全部やっておいた方がいいと思うんだよ。私の見立てでは多分私達とは相性が良くないとは思うけどね。何せ面識がないし、もしかしたら話が合う可能性もある。この文化は私にはよくわからないものだけど、挨拶しに行くだけで相手の機嫌が良くなるかもしれないのならやっておいて損はないでしょ」

「藪蛇の可能性があっても?」

「あっても、だよ。少なくとも今の状況がすでに最悪なんだから、これ以上悪くなることはよっぽどないでしょ」

 

 おもむろにソファから立ち上がった小夜子が、キッチンから紙袋を2つ提げて帰ってきた。

 紙袋には『鹿のや』の文字がある。確か有名な和菓子屋だったはずだが、小夜子がそこまで気を利かせたことに目を見開く。

 

「わざわざ買ってきたのか?」

「ううん。くまちゃん先輩にお願いして買ってきてもらった」

「だと思ったよ」

 

 今度頭下げないとなあ、と呟きつつ手渡されたそれを受け取った。

 

「細かいところはまた教えてあげるから、宜しくお願いしますだけ言って帰っておいで。話が弾むようならいいけど、そうなる確率は多分犬彦のガチャ運くらい低いと思うから」

「……行きたくないけどなあ。行かないといけないんだろ?」

「行かないよりは行った方が良いと思うよ、私はね」

「ああ、了解。諦めて行ってくるわ」

「行ってらっしゃい。……あ、そういえば、犬彦」

「うん?」

「なんか封筒来てたよ、ボーダーから」

「封筒?」

 

 そう、と頷く小夜子が取り出した茶封筒を受け取る。

 差出人は確かにボーダーだ。

 

「何だと思う?」

「解雇通知では?」

「もし本当だったら刺し違えてでもお前を道連れにしてやる」

「なんて理不尽!」

 

 アホなことを言いながら開封して中を見る。

 数枚の綴りのうち、1枚目の題目はこう書かれていた。

 

「診断、書?」

 

 そして、1つの結論が出た。

 

 

 

 香取隊の作戦室に着いた。

 

 今回は以前に影浦隊を訪ねた時と違い、アポ無しである。小夜子の助力も得られず、純然たる初対面であることから緊張はあの時の比ではない。インターホンに伸びる手が震えるのは仕方のないことであった。

 

 ――挨拶して帰るだけだし。取って食われるようなことはないだろう。

 

 言い聞かせながら、ゆっくりと伸ばした指がインターホンに触れた、その瞬間。

 

「私達に、何か用?」

「うひぇっ」

 

 凜と響いた女性の声に、比喩ではなく飛び上がってドアから離れた。

 声のした方を見やれば、スーツ姿の小柄な女性が飛び跳ねた犬彦を訝しげに見ている。

 

「へ、あ、えっとその! 別に怪しいものではなくてですね!」

 

 何かを言わなければ、と思考ばかりが空回りしていた。

 それが目的の人物だと気付いてはいても、むしろだからこそ狼狽は加速する一方だった。

 

 そうこうしているうちに、女性の方が先に思い当たることがあったらしい。1つ頷いて口を開いた。

 

「志岐くん、だったかしら。明日の防衛任務のこと?」

 

 涼しげな声が耳に届いて、犬彦は少し冷静さを取り戻した。ぶんぶん、と大きく頷いて同意を示す。

 

「え、ええ。明日一緒になるので、挨拶に」

「そう、律儀なのね。ボーダーにはあまりそういう人はいないから、少し意外だったわ」

「何もかも初めてなので……迷惑、かけるかもしれませんが、宜しくお願いします」

 

 菓子折りを手渡しながら頭を下げる。

 ありがとう、と一言告げて受け取った。

 

「染井華よ。知ってはいるでしょうけど、一応ね」

「あ、す、すみません。志岐犬彦です。宜しくお願いします」

「ええ、宜しくね。これ、わざわざありがとう」

 

 いえいえ!と大仰に手を振りながら、犬彦は思った。

 

 ――なんだか、思ったより普通だな。

 

 小夜子の話を聞いて、どうなることやらと身構えていたが、今のところ平穏無事に事が進んでいる。小夜子曰く、香取隊長が相性が悪そう、とのことだったので、それ以外ならまた話は別、というだけのことかもしれないが。

 

 染井先輩は表情は薄く、どういう感情を浮かべているのかイマイチ判然としないが、口調は柔らかで剣呑とした空気は感じない。

 このままいけば何事もなく終えられそうだ、と犬彦は早くも気を抜きかけていた。

 

「志岐くんは、防衛任務は初めてよね?」

「え? あ、ええ。その、つい最近上がったばかりなので」

「どういう流れなのかはもう聞いた?」

「その、はい。小夜子が――姉が、教えてくれてますので」

「お姉さん……ああ、志岐さんね。私はあまり話したことはなかったけど、お姉さんがいるなら確かに、と」

 

 そこで、急に染井先輩が言葉を止めた。口を覆って、薄くはあるけど、しまった、とでも言わんばかりの空気。

 眉をひそめて首を傾げると、

 

「ごめんなさい。あまり長く引き留めてもいけなかったわね」

「え、っと?」

「異性恐怖症、なのでしょう? 言い訳するつもりはないけど、思い出すのに時間がかかってしまって。ごめんなさい」

「あー……」

 

 そういえば、ROUND1の解説で口にしたと小南が言っていた。

 それが耳に届いたのなら、そういう反応になるのも無理はないか。

 

 実際のところ、気遣ってもらえたのは嬉しい。

 初対面の女性との会話で犬彦は神経をすり減らしていたし、目線は逸れ気味で声の調子もおかしい。長くは続けたくないというのが本音ではある。

 ただ、そうかと言って初対面の女性に負い目を抱かせるのもそれはそれで罪悪感があった。

 

「いえ、その。少しくらいなら大丈夫です。慣れてくれば大丈夫ですし、えっと、人見知りみたいなものなんで、はい」

「そう。ごめんなさいね、なんだか気を遣わせてしまってばかりで」

「いえ、そんなことは」

 

 ……悟らせることなく流せるのが理想だったのに、やはり隠し通せなかったらしい。

 こういうところが本当にダメなんだよなあ、と犬彦は眉尻を落として頰をかいた。

 

 曖昧な笑いを浮かべていると、染井先輩の迷っている気配を感じた。

 意図はすぐに察した。挨拶に来ているこちらに対して、迷うということ。それは恐らく、犬彦と香取隊長とを引き合わせるか否かの話。

 

「……確認はしてないけど、多分葉子は中にいると思う。どうする? 一応会っていく?」

 

 伺うように、問いを投げられる。

 

 鼻は役に立たなかった。

 自動ドアは閉まっているし、様々な匂いが混じっていて精査は難しい。かといって集中して匂いを嗅ぐなんて真似を隊の人間の前でできるわけがない。部屋の前で突然犬のように匂いを嗅ぎ始める人間がいたら失礼云々以前に警察を呼ばれる案件である。

 

 また、会わない、と答えるのもそれはそれで何のために来たのか、という話になる。

 最低に近い状況を何とかしようと勇気を振り絞って来たというのに、目標を目前にして帰ることにしたら本末転倒だろう。

 

 結局、犬彦の答えは1つしかない。

 

「お願い、します」

 

 その一言を告げるために、いったいどれほどの勇気を振り絞ったのか。

 フォローはしてあげる、との染井先輩のありがたい言葉も話半分に、スライドドアが開くのを見守った。

 

 どんな魔窟か、と恐る恐る覗き込む犬彦の目に映ったのは、ごく普通の作戦室である。

 右手にはオペレーターのデスク。左手には本棚やテーブル、くつろぐことを目的とした大きなクッションソファが見える。

 

 相変わらず作戦室と名付けるには首を傾げる様相だが、犬彦の中で一際異質だったのは影浦隊のこたつなのでこれでもまだ違和感は少ない。散らかり方も生活感のあるものなのでまだ見られる、といった印象。

 

 正面のドアは閉まっていて奥の部屋は見られなかったが、人のいる気配はない。

 おや、と首を傾げていると、染井先輩もまた首を傾げてみせた。

 

「いないみたいね。何か用事でもできたのかしら」

「そ、そうですか」

 

 言葉は普通。けれど何を考えたのかはバレバレだった。

 

「ねえ、1つ聞いてもいい?」

「はい?」

 

 菓子折りをデスクに置く音。染井先輩が振り返った。

 

「志岐くんは、どうしてボーダーに入ろうと思ったの?」

「え、っと」

「その異性恐怖症、少し話しただけだけど簡単に治るようなものじゃないことはわかるわ。こういう組織で働くことが難しいことはわかっていると思うのだけれど、それでも今、働くことを選んだのはどうして?」

 

 怜悧な眼差し。急に突きつけられた問いに犬彦は鼻白んだ。タイミングがタイミングなこともあって、まるで叱られたような気持ちになってしまう。

 それを顔つきで察したのか、染井先輩が眼鏡の位置を直す振りをして視線を逸らした。

 

「ごめんなさいね。責めたいわけじゃないのよ。これはただの純粋な好奇心。貴方もお姉さんも、どうしてこの道を選んだのかなって思っただけ。嫌なら答えなくてもいいわ」

「い、いえ、そんなことはないですよ。答えるのは別にいいんですけど……」

 

 なんと答えたものか、判断に迷った。

 緊張しているのもあるし、また犬彦自身、入る前と入った後で考えが変わったこともある。

 

 建前で話すことも考えたけれど、もたもたしていたら香取隊長が戻ってくるかもしれない、という恐怖が一瞬ちらついた。

 よって、この時犬彦が零したのは反射的な回答――即ち本音だった。

 

「継続的にアドを得たいんですよね」

「継続……え、何?」

「あ、えーっとその! すみません今のは忘れてください!」

 

 反射に身を委ねすぎてつい小夜子と話している時のノリで口走ってしまった。

 こほん、と咳払いを1つ挟んでもう一度口を開く。

 

「最初は興味本位です。姉が先にいたので話を聞いたりして、興味が湧いて」

「苦学生、とか」

「いえ、そういうのでもないです。親からお金は貰ってましたし――最初は1人暮らししてたのは姉だけでしたけど、あんまりにも姉がダメだったので、監視も兼ねて一緒に住むことにしたんです。で、話を聞いて、ボーダーに興味を持ちました」

「お姉さんがいたから、ってこと?」

「まあ、それもありますね。お金も貰えますし、仕事が面白そうだったので、やってみようかなと」

「女性と働くことに抵抗はなかったの?」

「……まあ、そうですね。今にして思えば、正直勢いもありました。小夜子がやれてるんならやれるだろって軽く考えてたのもあります」

「現実は厳しかった、ってことね」

「返す言葉もありません……」

 

 肩を落としてため息をつく。

 実際に今、現在進行形で精神を疲弊させているところである。反論の余地はなかった。

 

 ただ、と。前髪で顔を隠して、小さな声で犬彦は言った。

 

「入った時の理由はそんな感じなんですけど、今はまた、別の理由がありまして」

「別の理由?」

「……成長したい、って思ってます。凄い人に触れて、憧れて、燃えてるんです」

 

 きゅっ、と拳を握りしめる。

 

「働いてお金を稼ぐことも、腕を磨くことも、異性恐怖症(これ)を治すことも、ここにいれば全部できる。そう思ってます。たとえリスクを背負ってでも……むしろそのリスクがあるからこそ、ここにしがみつくべきだって、そう思うんですよ」

 

 昔のことを思い出す。

 学校と家とを往復して過ごす日々を送っていた自身に、心の底からやりたいと願うことはあっただろうか?

 

 今の犬彦は違う。

 手のひらでは数え切れないくらい、心の底からやりたいと願うことばかり湧いてくる。それが犬彦にはたまらなく嬉しいことだった。

 

 もっとも、そんな青臭いことを口にするのはやはり気恥ずかしいもので、犬彦は俯きがちに染井先輩の反応を待った。

 

 そう、と一言相槌を打った染井先輩はしばし黙り込んでいた。

 何を考えているのか、感情が薄く、そもそもこれが初対面である女性の思考を読み取ることなどできはしない。

 

「聞かせてくれてありがとう。変なことを聞いてしまってごめんなさいね」

「いえ……」

「正直なところ、今の志岐くんが組織で働いていくのは大変だと思う。でも、それを承知で働いていくと言うのなら、応援するわ。貴方が成長できるようにね」

「あ、その、はい」

 

 思いがけない激励の言葉に、つっかえながらも頷いた。

 

 顔を上げて表情を見る。笑顔は見えない。

 けれどその言葉は暖かく、こんな子供の話も馬鹿にすることなく聞いてくれた。

 

 挨拶に来て良かった。

 犬彦はようやくそう思うことができたのだった。

 

 

 

 部屋から出て行く小さな背中を染井は見送った。

 

 良くも悪くも子供、という印象だった。

 未熟な青い果実であり、未来への可能性に満ちている。

 

 普通の子供との差異は、異性恐怖症というその一点。

 あの歳でいったいどんな経験をしたらそうなるのだろう、という疑問はあったが、それこそ野暮というものだろう。

 他人の暗いところを想像して愉しむ趣味は染井にはない。

 

「行ったみたいね」

 

 背後でスライドドアが開く音がしたので振り返る。

 憮然とした表情で腕を組んでいる、犬彦が探していた女性――香取葉子がそこにいた。

 

「盗み聞きは趣味が悪いよ」

 

 驚くでもなく染井が言った。

 ふん、と鼻を鳴らして香取が吐き捨てる。

 

「会う理由がないじゃん。めんどいし。別に挨拶なんてしてもしなくてもカンケーなくない?」

「葉子としては、されないよりはされた方が気持ちいいんじゃないの?」

「知らない奴に頭下げられても鬱陶しいだけだし。ま、お菓子はありがたく頂いておくわ」

 

 言い捨て、『鹿のや』の紙袋を嬉しそうに手に取った。

 

 ――異性恐怖症でありながら、それでもわざわざここまで来たのに。

 犬彦のおっかなびっくりな様子を思い出すと、その辛辣さに流石に憐憫の情が湧いてきて吐息をついた。

 

 そもそも、と香取が菓子折りから視線を上げて指を差す。

 

「アタシが奥にいることに気付いてたのに話を振ったのは華じゃん。それでアタシが責められるっておかしくない?」

 

 その指摘のとおり。

 犬彦には言わなかったが、香取が扉の向こうの部屋にいるだろうことは気付いていた。

 にも関わらず犬彦にそのことを告げなかったのは、香取と対面する犬彦の心労を思いやったわけではなく、もっと打算的な思考だ。

 

「――興味があったから。志岐くんの情報は少ないけれど、そのどれもが濃い。少しでも話ができれば、参考になるかと思って」

 

 2人の師匠。短期間でのランクアップ。姉弟のソロチーム。そして異性恐怖症。

 どれもが異例であり、驚異的な点もある。同じB級であり、今後相対することを思えば、情報を手にしておくのに越したことはない。

 

「だったらもっと参考になること聞けば良かったじゃん。弱点とかクセとか」

「初対面でそんなことが聞けるのは葉子だけよ」

 

 そんな風に踏み込んだ解答が得られれば楽だったろうが、生憎と現実は甘くない。

 むしろ初対面で、尚且つ異性恐怖症の相手とあれだけ話をすることができたのだから十分すぎる成果である。

 

「あっそ。ま、いいわ。どーでもいいし」

 

 蝿でも払うように手を振って、菓子折りを手にお気に入りのクッションソファへと歩いて行く。

 

 ――そう。敵として相対した時のことを思えば、今回は間違いなくプラスだった。

 しかし、明日同じ勤務に就く身であることを思うと、途端に話が変わってくる。

 

 犬彦に話を振ったのは染井であり、また話を聞いて思うことがあったのも事実だ。

 だがその感情を隠しておける染井と違い、構うものかとさらけ出すのが香取という少女である。

 

「……葉子はあの子のこと、どう思った?」

 

 わかっていながら口にする。

 染井と香取は幼馴染であり、環境が激変した第一次近界民侵攻を経てからもずっと親しくしてきた仲だ。

 互いの性格を熟知しているから、何を考えているのかも容易に想像がつく。

 

 静かに尋ねた染井に、背中を向けたまま香取が吐き捨てた。

 

「甘ったれたガキね。反吐が出る」

 

 

 

 

 

 ――そして、防衛任務当日を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 




 割と犬彦に対して甘い・フラットな面々ばかり書いてきたので、明確に嫌うキャラ書くのがとても新鮮でした。
 今の犬彦はふんわりとした目的意識しかないので、黙ってればともかく、喋ると城戸派の人間とは絶対に合わない。これは間違いない(確信

 挨拶に行くという選択が間違いというわけではなくて、ただ、選択肢に関わらず用意されたエンディングは1つしかありませんでした、といったオチでした。

 次は防衛任務です。
 もう今のうちに言っておきますが、やっぱり次の話も独自・拡大解釈です(白目


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第22話 当真勇

 めちゃくちゃ苦戦してて時間かかってしまいました、お久しぶりです。

 防衛任務開始です。
 どうでもいいですけど、初めてサブタイに主人公以外の男キャラが出ました。


 

 

 

「ようチビ助、昨日ぶり」

「昨日ぶりです当真先輩、今日は宜しくお願いします。……それはそれとして次チビって言ったら先輩でも容赦しませんよ」

 

 ギロリと睨め付ける。気の早い拳はすでに固められていて、いつ振り上げられるのかと臨戦態勢に入っていた。

 

 その視線も意に介すことなく、からからと笑うのは本日の防衛任務の隊長を務める当真先輩だ。すらりと細身で、見上げるほどの高身長にきちんとセットされたリーゼントが特徴的な伊達男である。

 

「昨日俺に噛みついてきた時の勢いはどこいったよ。なんだ、ビビってんのか?」

「ビビってないです。……まあ、流石に初めてですし緊張くらいしますよ」

「馬鹿、それがビビってるっつーんだよ。予習はしてるんだろ?」

「まあ、一応。どんな流れかくらいは聞いてますよ」

「湧いてきた近界民(ネイバー)仕留めるだけの簡単なお仕事だ。何を不安に思うことがあるんだよ」

「そんな簡単に構えられたら苦労しませんよ……」

 

 誰もが当真先輩みたく心臓に毛が生えているわけではないのだ。小夜子に話を聞いたとはいえ、所詮経験談でしかないのだからいざ実践するとなれば緊張するのも仕方のないことだろう。

 

 そんなもんかね、とまったく理解できない様子で呟く当真先輩。

 少し話しただけだが、確かにこの先輩が緊張しているところも想像つかないな、と思い声をかける。

 

「当真先輩だって最初の頃は緊張したんじゃないですか?」

「いいや? ちっとも」

「よくわかりました。今後当真先輩のことは異星人だと思って接することにします」

「ははっ、さてはお前、俺のこと嫌いだな?」

「わかっていただけて何よりですよ」

 

 かわいくねえ後輩だなあ、と零す当真先輩とメンチを切り合う。

 

 この因縁の発端は昨日の挨拶である。

 香取隊を訪ねた後、同じ初対面であるのに片方を訪ねてもう片方を訪ねないのもどうかと思い、冬島隊を訪ねたのだ。

 その時の最初の一言が、コレである。

 

「おうなんだチビ助、どこから迷い込んだんだ?」

 

 ――最初は、耐えられたのだ。懸念していた香取隊を何事もなく過ごすことができ、気分も上々。ましてこちらはお世話になる側なのだから、いきなりキレるのも失礼だろう、と理性のブレーキがかかったのだ。

 しかし、怒りを抑えながら意図を説明したところ、

 

「あん? ああ、お前か! トリオン能力のバカ高い中坊! いや確かに話には聞いてたが本当に小せえなあ。ちゃんとメシ食ってるか?」

 

 限界であった。チビと言ったこと。小さいと言ったこと。そしてトリオン能力だけならともかく、何故かそれにまったく関係のない体格の話が噂として付随していること。めでたくスリーアウトゲームセットである。

 

 仏の顔も三度までなどと器の大きなことを言えるほど人間ができていなかった犬彦は烈火の如く怒り狂った。

 しかし哀しいかな、まさにその体格差もあり犬彦の怒りは当真先輩に軽くあしらわれてしまったのだけれど、そんな初対面だったものだから犬彦のこの先輩への印象は最悪に近いものとなったのだ。

 

「ちゃんと謝ったじゃねーか。器が小せえ男はモテねえぞ?」

「別に当真先輩に好かれようとは思っていませんのでご心配なく」

「へいへい。まあ別にそれはそれでいいんだけどよ。お前、あっちともそんな感じで揉めたのか?」

 

 ひそりと声を潜めながらの言葉。

 途端、犬彦の顔が苦く歪んだ。

 

「……いや、そんなことはない、はずなんですけど」

「とてもそうは見えないがね。明らかになんかありましたって空気じゃねーか」

 

 2人揃って視線を向けるのは、先を歩く香取先輩である。

 

 オペレーターの染井先輩と別れてから、終始無言で不機嫌そうに歩くその人と、犬彦は未だ一言たりとも言葉を交わすことができていない。明らかに避けられている様子なのだ。

 そのことを重々承知していたので、必然犬彦の声も重いものとなる。

 

「本当に心当たりないんですってば……だって染井先輩はともかく、香取先輩とは昨日顔を合わせてさえいないんですよ? 何かありようがないじゃないですか」

「ふぅん? そりゃおかしな話だな。なら昨日のやりとりでお前さんが下手打ったか、だ」

「染井先輩が俺の悪評を流した、ってことですか? そんな人には見えませんでしたし、下手打った覚えもないはずなんですけど……」

 

 ううむ、と唸り声をあげて犬彦が腕を組む。

 話の途中も、去り際の様子を見ても染井先輩に不機嫌そうな様子は見られなかったはずである。……まあ初対面であることはもとより、染井先輩の表情が薄いこともあって、当たっている自信はこれっぽっちもないのだが。

 

「となるとあとは、単にお前さんが気に食わねえとかだな」

「なんて理不尽!」

「いや、直感ってのは案外馬鹿にできねえもんだぜ。たまにビビッとくることあるだろ。『コイツ絶対ソリ合わねえな』って思うヤツがよ」

「ああ、そういう……」

「なんでそこでこっちを見るのかねえ、このクソ後輩は」

「自分の行いを省みてくださいよ、クソ先輩」

 

 互いに悪態を吐き合って、一息。

 会話をしている気配くらいは感じているはずなのに、相変わらず香取先輩は一向にこちらを向こうとしない。

 

 肩をすくめて当真先輩が言った。

 

「ま、あの様子じゃこっから先が大変だな。頼むから同士討ちだけはしてくれるなよ?」

「……ん? やけに他人事じゃないですか。一緒に行くんですよね?」

 

 この3人に、染井先輩を加えた4人で1つのチームなのである。外へ出ての警戒も、現れた近界民(ネイバー)の撃退も、休憩も一緒に行動するはずだ。ならば当然この先輩も同行するはずなのに、やけに遠くからの物言いに首を傾げた。

 すると、あからさまに呆れた様子で手を振った。

 

「おいおい、馬鹿言ってんなよ。お前、俺のポジションわかってんのか?」

「ポジション?」

狙撃手(スナイパー)だぞ、狙撃手(スナイパー)。遠距離から攻撃する奴が攻撃手(アタッカー)射手(シューター)と肩並べて歩いてどーすんだよ」

「ああ、なるほど。確かにそれはそうですね――って」

 

 そこではた、と。今更その事実に気付いた犬彦は思わず足を止めて顔を強張らせた。

 

 狙撃手(スナイパー)の当真先輩は外から構えるために同行せず。

 オペレーターの染井先輩については論外。

 そもそもが新人である犬彦を、単独で行動させるなどありえない。

 

 ということは、つまり。

 あまりの絶望に気が遠くなりかける犬彦の肩を、頑張れ、と笑いながら当真先輩が1つ叩いた。

 

 

 

「ええと、その。今日は宜しくお願いします」

「……」

 

 無言。無言。無言。ひたすらに無言を貫き通されている。

 

 最初に勇気を振り絞って放った犬彦の一言も敢えなく玉砕し、以降は由緒正しきドット絵のRPGのように後ろについて歩き回っている。心が折れた犬彦はもはや声もかけることなく金魚の糞を徹底していた。

 

 ――何もやってないはずなんだけどなあ。

 

 首を傾げながら、手持ち無沙汰に思案を巡らせる。

 

 思いついたのは、小夜子と何か因縁があるのではないか、ということくらいである。

 小夜子自身はほとんど会話したこともないと言っていたが、あんな姉なので、知らないうちに怒りを買っている可能性もある。

 仮にもしそうだとしたならそれを向けられるのは理不尽でしかないが、よっぽどの怒りであればそういうこともあるのだろう。ただ、それを身内というだけの自分にそこまで向けられるのか、ということについてはやはり疑問符がついたのだけれど。

 

『志岐くん、ちょっといい?』

 

 他に何かあるかなあ、と黙々と考えていると、プライベートチャンネルで通信が入った。

 作戦室のデスクについた染井先輩からのものだ。

 

 急に響いた女性の声に比喩でなく跳ね上がりながらも、おっかなびっくり声を返した。

 

「あっ、はい。大丈夫です」

『たいしたことじゃないんだけど……葉子のことは、あまり気にしないでいいわ。それが難しいってこともよくわかってるけど』

「気に、しないでいい……どういうことですか?」

 

 意図が伝わりづらかったので尋ねると、少し言い淀む間があってから答えが返ってきた。

 

『志岐くんと葉子は、多分根本的に相性が悪いから』

「ああ……それは、その。何となくわかります、はい」

『今日1日でどうこうできるものでもないし、申し訳ないけれど今日だけ我慢して頂戴。居心地は悪いでしょうけど、その時になったらフォローはするわ』

「あ、それはその、大丈夫ですけど。……あの、ってことは別に香取先輩に何かしてしまったとか、そういうことじゃないんですね? あとは、小夜子――姉が何かしたとか」

 

 これだけは聞いておきたくて、矢継ぎ早に尋ねた。

 答えには、やはり1つの間が空いた。

 

『ええ。志岐くんが何かしたわけでもないし、お姉さんと何かあったわけでもないわ』

「そうですか、わかりました」

 

 その答えに、少しだけほっとした。

 知らず知らずのうちに何かしていたとか、怒りを買っていたわけではない。ただ香取先輩が犬彦を拒絶していただけだということ。

 

 ――いや、それはそれでどうなんだろう。

 

 理由もなく、気に入らないという理由だけで、話もしたことない相手に対してこうも攻撃的になれるものなのか。

 それはそれで謎が深まった感じだなあ、と思いながら染井先輩との回線を断つ。

 すると同時に別方向から回線を繋げられた。当真先輩である。

 

『視界良好。右手右足が一緒に出てるぜチビ助』

「出てませんしチビ助言うなクソ先輩!」

 

 即噛みついて、慌てて口を押さえる。

 もっとも、相変わらず前を歩く先輩はそのスタンスを変えることなく貫き通していたけれど。

 

 愉快そうに当真先輩が言った。

 

『お前脊髄反射で噛みつくクセやめたらどうよ。損しかねえぞ?』

「それ、絶対に当真先輩には言われたくないんですけど」

『おっと、ちょっとは調子出てきたか? さっき回線塞がってたがなんか話でもしたか』

「別に……気にしないでくれ、って言われただけです。あとやっぱり俺が何かしたわけじゃないっぽいですよ」

『そうかぁ? そんな感じには見えなかったがな』

「そうやって不安煽るのやめてもらえます? せっかく少し持ち直したんだから、このままキープしておきましょうよ」

『いいことを教えてやろう。良い仕事をする秘訣はほどよい緊張感を保つことにあるんだぜ』

「それ敵じゃなくて味方から与えられてるんですけど、この仕事おかしくないですか?」

 

 犬彦がしたいのは普通の仕事であって、火のついた爆弾をたらい回しするようなゲームでは断じてないのだ。

 そしてその緊張感を保つのも、できることなら短い方がいい。犬彦は周囲を見渡しながら眉をひそめた。

 

「というかですね、こうして警戒と言いつつ見回るのって意味あるんですか? (ゲート)が開く時ってわかるんでしょう?」

 

 現在犬彦が香取先輩と連れ立って歩いているのは、本部の周囲に広がる警戒区域と呼ばれる場所である。

 

 過去に近界民襲撃の被害に遭い、放棄せざるをえなくなった場所。あるいは、(ゲート)を誘導するためにボーダーが買い取った場所。

 そのため昼間にもかかわらず周囲はひっそりと静まり返り、襲撃の被害を物語るボロボロの建物がその悲痛さを煽る。

 

 初任務の犬彦としては、早い話がまさにゴーストタウンという感じでとても不気味だ。別に殊更ホラーに弱いわけではないけれど、好んで歩き回りたくないというのが正直なところだった。

 

『確かに、(ゲート)が開く時には反応があるがな。解析も進んで、今じゃよっぽどのことがなけりゃ見逃すなんてことはないが、万が一ということもある』

「そうなんですか?」

『誘導装置から逸れちまった事例もあるしな。過信は禁物っつーこった』

「まあ、他所の世界の技術ですし納得はできますけど。てことは、こうして歩いている今でもばったり出くわす可能性もあるわけですか?」

『かもな。警戒区域の外だって考えられるぜ』

「思ったよりアバウトだなあ」

 

 ため息をつきながらも、見回りの必要性については納得した。

 そういう事情ならむしろ必須作業と言えよう。

 

 となると、今何気なく歩いているこの場所も決して安全とは言えないわけだ。

 何気なく歩いていた場所が急に地雷原だと宣告された感覚に身体が強張る。

 

 途端に響く笑い声。明らかに見透かされた。

 

『ビビってんじゃねーよ、気楽に行け気楽に』

「び、ビビってないですってば」

『いいか? そんなお前に1ついいことを教えてやる』

「あんま聞きたくないですけど、なんですか?」

『ああ。お前がビビるのは要は近界民(ネイバー)にやられるかもって不安があるわけだろ? 近界民(ネイバー)の方が強かったらどうしようなんて、そんなことばかり考えてるわけだ』

「……まあ、それだけじゃないですけど」

 

 上手くやれるかどうかという不安。

 明らかに前を歩く先輩との連携が難しいだろうこと。

 素直に認めるのは癪だが、考えだすといくつも不安の種は挙げられる。

 

 ハ、と強く笑って当真先輩が言った。

 

『だったら話は早ぇ。安心しろ、これから現れる近界民(ネイバー)より俺達のがよっぽど強ぇよ』

「なんですかその脳筋論。こっちのが強いから大丈夫って、そんなこと」

『そういうことなんだよ。俺達のが強い。だから問題ない。それだけの話だ。ヘマやらかすのが不安だとか、そんなこと考える余裕があるなら終わった後に何奢るかでも考えてな』

「……最低だ、後輩にたかる気満々のクソ先輩がここにいるぞ」

『ははっ、嫌ならうまくやるこったな。レートは3回分の尻拭いで焼肉1回だ』

「いやそのレートクソすぎません!?」

『お、なんだ自信ねえのか? なら仕方ねえな、5回にまけてやろうか?』

「やーりーまーすー! 代わりに3回未満だったらアンタが奢ってくださいよクソ先輩め!」

 

 はっはっは、と勘に触る笑い声を聞いていると、ふと違和感が襲った。

 

 ――何だこれ、匂い?

 

 砂埃と、日に焼けるアスファルト。日陰からひそりと漂うカビ臭さ。寂れた警戒区域では到底しないはずの、薬品にも似た刺すような匂い。

 

 それについて思考を巡らせるより先に、オープンチャンネルで全員に染井先輩から声がかかった。

 

『警告。(ゲート)が開きます』

 

 ピン、と糸が張るような緊張感。自然と表情が強張る。

 

「場所は?」

『そこから北東に100メートルくらい。警報発令します』

 

 初めて香取先輩の声を聞いた。

 短いやり取りの後、表皮を震わせるほどの大音量で警報が響き、機械音声のアナウンスがそれに続いた。

 

(ゲート)発生。(ゲート)発生。近隣の皆様はご注意ください。座標誘導、誤差……』

 

 最初の防衛任務が、始まった。

 

 

 

 

 

 

 




 作中キャラで絶対何人かは初対面で犬彦の逆鱗に触れるのいるよね……当真先輩とか間違いないと思います。


 今回も独自解釈盛り盛りです。
 多分問題ないかと思いますが、

・オープンチャンネル→全員が傍受も発信も可能
・プライベートチャンネル→個人間のみ傍受・発信が可能

 という感じで。流石にこのくらいはできるでしょう、と思います。
 作中でインカムとか使ってる様子がなかったので、この辺もアドリブで。


 警戒区域についても、多分こんな感じかなあ、とふんわりした感じです。
 お金集めてくる唐沢さんとかマジで何者なんだろうという恐怖しかない。


 今回の防衛任務の話ですが、合計1万6000文字ちょいだったので一旦切りました。
 次の話はすでにできてるので、今日明日くらいには更新します。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第23話 香取葉子

 お待たせしました、防衛任務編ラストです。


 

 

 

 

 

 それは、例えるならサソリが1番近いだろうか。

 厚みのある小判のような胴体に、蜘蛛の足のような節足がいくつもついている。それのサイズも虫と同じくらいであれば脅威になどなりはしないが、自動車並みのサイズが迫ってくるとなるとそのスケールの違いに圧倒される。

 

「……なんというか、こんなゲームあったよなあ」

 

 ボロボロの街並みを背景に、3体のモールモッドが徘徊する様を眺めながら呟く。

 

 もっとも、いつもならその軽口に返ってくる声が今はない。

 そのことがなんだか無性に寂しかった。

 

 そして、いい加減現実と向き合わなければならない――終始無言を貫く香取先輩と。

 

 今までは急時でなかったために会話がなくても問題はなかったが、事この期に及んで、部下である犬彦が指示を仰がないなどありえないし、上司である香取先輩が指示を出さないのもありえない。

 モールモッド3体を確認したことはすでに染井先輩が上に報告してくれているものの、現場は現場で連携を取る必要がある。

 どう対応するか、せめて方針くらいは決めておく必要があると犬彦は判断して口を開いた。

 

「あの」

「あんたはその辺で突っ立ってなさい。アタシ1人でやるから」

「え、――は?」

 

 返事など待ちもしない。

 犬彦の困惑を他所に香取先輩はそれだけを言い捨ててモールモッド3体に躍り掛かった。

 

「あの、ちょっと! ……ああもうなんなんだあの先輩は!」

 

 確かに防衛任務は今回が初めてだし、勝手がわからないことから足手まといであることも認める。が、流石にあの対応はどうなのだろう、と苛立ちさえ覚えながら吐き捨てた。

 

 となると、犬彦はもう更に上の上司に確認を取るしかない。

 犬彦は当真先輩に通信を取った。

 

「当真先輩、聞こえますか?」

『聞いてるし見てたよ。……まあわかってはいたが、もうちょっと仲良くやれんものかね。取りまとめるの俺なんだぜ?』

「いや、わかってますけど、取りつく島もないんですよあの人……」

 

 通信越しのため息にこちらもため息で返したくなるのを我慢して、素直に頭を下げる。リーダーとしての苦労もわかるし、犬彦の方に原因があるのも事実だ。

 

『ま、今更言っても仕方ねえ。お前、モールモッドなんとかできるか?』

「訓練の時はなんとかなってたので大丈夫……だと思います」

 

 近界民(ネイバー)というのは人型を除くと、往々にして役割というものがデザインされているのが見出せる。このモールモッドはその中でも戦闘用とされている近界民(ネイバー)だ。

 現在はボーダーで集積された過去のデータからシミュレーター上で再現が可能であり、隊員達はそれらへの教養や訓練を受けている。

 

 犬彦も同様で、モールモッドについてはB級に上がってから始めたばかりであるものの、トリオン能力によるゴリ押しで何とかなっている。

 いけると判断して頷いた。

 

『なら、お前が手近な奴1体の気を引いてやれ。あいつもああ言ってるが、流石に3体同時に相手取るのは面倒だろ』

「……あー、連携はもう諦めるわけですね。切り離してそれぞれで戦うと」

『形だけでも仲直りできるんならそれでいいが、明らかにそうじゃねーだろお前ら。ならいっそ2つに分けて別々にした方がお前らにとっても俺にとってもやりやすい。だろ?』

「ですね。それでお願いします」

 

 近界民(ネイバー)が攻めてきているこの状況で唯一の敵が味方というのは本当に頭が痛かったが、今更どうにもならない。ならば仕事を分けてしまおう、という提案は合理的だったし、それしかないようにも思えた。

 

 あとは、犬彦次第。

 犬彦は咄嗟に隠れた建物の影から現在の戦闘状況を確認する。

 

 大通りにみっしりと3体のモールモッドが集い、鎌のようなブレードを振り回している。

 追い回されている香取先輩は、1人で戦うと豪語しただけあって軽やかに立ち回り、手にした銃でモールモッド達にいくつもの弾痕を刻んでいる。

 しかし如何せん数が多く、致命傷を与えられていない。恐らくは精確に狙撃するよりも回避にリソースを割かれてしまってそれがままならない状態なのだ。

 

 犬彦はそれを見て、怒りを覚えたり、蔑んだりはしない。貶めたいわけではなく、ただ不思議なだけだ。――その私情は、協力して事に当たることを放棄してまで優先されることなのか、と。

 

「どんだけ嫌われてるんだよ俺……」

 

 独りごちつつ、トリオンキューブを展開。

 ひゅう、と当真先輩の口笛が響いた。

 

 狙うは右端のモールモッド。

 今だと香取先輩との立ち位置が近く、巻き込む危険性があるため、ひとまずは引き離すことを優先して出力を抑える。

 

 発射した。

 那須先輩と訓練を始めてから久々のストック方式でのバイパー。その手頃さに感動さえ覚えた。

 

 ――使いこなせばこれでもいける気がするなあ。

 

 などと思っていると着弾した。

 3発が近界民(ネイバー)の甲羅のような外殻を砕き、2発が触角を砕いて更に前進する。――明らかに調整をミスっていた。

 

 しまったと息を呑んだ瞬間、視界の先で1つの動きが生まれる。

 

 バキン、と煉瓦を叩き合わせて砕いたような音が響く。

 直進していたバイパーが砕かれ、それを視線もやることなく叩き落とした香取先輩の右手の拳銃トリガーが粉微塵に砕かれた。

 

 ――おいおい、今どうやって悟ったんだよあの先輩……!

 

 内心で感嘆の声を上げると、鋭い目が犬彦を射抜いた。

 

「どっちの味方してんのよあんたはっ!!」

「す、すみません!」

 

 こればかりは犬彦が悪い。

 意外と緊張していたからだとか、手が滑ったとか、言い訳も口にできずに平謝りである。

 

「邪魔すんなって言ってるでしょ! どっかその辺で寝てなさい!」

「いや、そうは言いますけど……!」

 

 失態の後だけに素直に頷きたくなるも、そうもいかない。

 放ったバイパーによってすでに2体のモールモッドがこちらに寄ってきている。貫通したバイパーがもう1体に着弾したのだろう。

 

 流石に棒立ちになっている理由などありはしない。クソ、と悪態を吐きながらトリオンキューブを浮かべた。

 

 場所は大通りであり、彼我を遮る障害物が少ない。

 攻撃する分には射線を遮るものがなく有利だが、守る分には身を隠すものがなく明確に不利だ。

 

 とはいえ、嘆いていても始まらない。

 後退しつつ片側に攻撃を集中しようとしたところで、1体のモールモッドの“目”が弾け飛んだ。

 

『いいねえ。3発撃つだけで焼肉たあ、やる気も出るってもんよ』

「……どうして素直に頭を下げさせてくれないんですかねえ、この先輩は」

 

 撃たれたモールモッドは一瞬全身を震わせた後、糸でも切れたかのように崩れ落ちる。

 たったの1発で正確に急所を射抜いたのだ。移動し、外殻に覆われた敵を。

 

『そこは素直になれよ、後輩。いや、さっきもか。お前訓練では倒せてたって割に全然ダメダメじゃねーかよ』

「うぐぅ……! ち、ちょっと手元が狂っただけですってば!」

『練習で成果を出せない奴は本番でも出せないって言うよなあ?』

「ああ言えばこう言う……! わかりましたよやればいいんでしょう!」

 

 ヤケクソ気味に叫び、トリオンキューブからバイパーを残ったモールモッドへ発射。

 人数差さえ覆ったのならもう苦戦することなどありえない。ただつるべ打ちにするのみである。

 

 巨大なトリオンキューブが細かく分かれ、マシンガンのように殺到する。

 軌道さえ設定しない。向かい撃つ形で、最短距離を一直線に。威力にステータスを振った弾丸の雨がモールモッドを穴だらけにした。

 

『30点だな』

「あまり聞きたくないですけど、内訳は?」

『ん? あー、トリオンキューブがデカい。29点』

「それほほ技術点ゼロじゃないですか!」

『バッカお前、角度もつけずに撃ったバイパーで何をどう評価しろっつーんだよ。アステロイドのがもっと上手くできるじゃねーか』

「間違いじゃないですけど! 間違いじゃないですけども!」

 

 まったく同じことを、撃っている犬彦自身も思っていたのでぐうの音も出ない。

 まして一撃で正確に急所を射抜く当真先輩の絶技を見た後なのだから尚更である。

 

「いや、でもよく考えたら才能だけで100点のうち30点ももぎとれた俺って割と凄いのでは……?」

『上限1万点くらいだぞバーカ』

「アンタどんだけ俺のこと嫌いなんですか!」

 

 そんなやり取りをしていると、不意に音が生まれた。

 

「警報?」

 

 近隣に近界民(ネイバー)が現れたことを告げるアナウンス。先程も聞いたものだ。

 

「染井先輩?」

『当真先輩、(ゲート)がもう1つ開きました』

 

 オープンチャンネルによる染井先輩の警告に緊張が走る。

 しかし応じる声は呑気なもので、

 

『場所は?』

『今度は遠いですね。そこから東に200メートルほどです』

『ったく忙しねえな。誰か呼んでるんじゃねえか?』

「誰のことを言ってるんですかねえ」

 

 誰だろうなあ、と笑う当真先輩の声に青筋を立てつつ、手近な石垣に手をかけて屋根の上へ飛び移る。

 

 言われた方角に視線をやると、宙に黒い穴が空いていた。

 周囲にヒビを走らせながら規模を広げていくその(ゲート)の向こうから、追い立てられたゴキブリのように這い出してくる近界民(ネイバー)の姿が見える。

 

「視認しました。……5体もいますよ、今度は大所帯ですね」

 

 現れたのはまたしてもモールモッド。

 まだこちらの姿は確認していないようだが、時間の問題だろう。

 

『さて、どうすっかね』

 

 言葉の割に緊張感のない呟きを漏らす当真先輩。

 ここで先程の失態を取り戻すとばかりに、犬彦もまた思考する。

 

 何はなくとも、脅威なのはその数である。

 対するこちらは前線に出られるのが犬彦と香取先輩の2人で、香取先輩は未だ最初のモールモッドの対応に追われている。

 

 とすると、今前線に出られるのは犬彦のみであるわけだが、流石に5体ものモールモッドを正面から相手するのはいくら当真先輩のサポートを受けても厳しいだろう。まして犬彦のポジションは中距離射程の射手(シューター)であり、前に出てがっぷり組み合うスタイルではない。回避の技術であればそれなりに自信はついてきたものの、5体ものモールモッドを相手にして囲まれるようなことは避けたいし、先程の失態を考えると満足に実力を発揮できるかという点にも疑問が残る。

 

 そこまで考えて、犬彦は口を開いた。

 

「当真先輩、1つ案が浮かんだんですけどいいですか」

『言ってみな』

「はい。今だと前に出られるのが俺しかいないので、このままあそこまで行くのはちょっと無理があると思います。当真先輩のサポートがあっても、捌き切れるかわかりませんし」

『ほう。俺の腕をナメきっていることはよくわかったが、後でお仕置きするだけで許してやる。んで? それでお前はどうしようってんだ?』

 

 不穏な台詞を努めて無視して、だからですね、と声を続けた。

 

「アレをこっちに呼びましょう。こっちからちょっかいをかけて注意を引いて、寄ってきた奴から順に叩く。それがベストだと思うんですけど」

『……ちょっかいをかけるのは簡単だが、一斉にこっちに来たらどうする? そのプランだと横に並んでも失敗じゃねえか』

「俺、今日はエスクードを持ってきてるんですよ。横に広がりそうな奴はエスクードで物理的に軌道を遮って、順番にこっちまで来させればいいんじゃないですか」

 

 できない、とは思わない。

 エスクードの射程距離は基本25メートルくらいだが、犬彦のトリオン能力はそれを優に超えている。ましてモールラッドをこちらへ呼び寄せるのだから余裕で射程圏内だ。

 

 そして都合のいいことに、ここは住宅街の真っ只中である。

 障害物は多く、エスクードで道を制限するのも難しくはない。

 

『いや、それはな――』

 

 何かを言いかけた当真先輩の声を、遮るものがあった。

 

「ホントムカつく」

 

 零れた声に心臓を掴まれた気分になる。

 今更、犬彦はこれがオープンチャンネルであり、全員に聞こえていることを思い出した。

 

「当真先輩、あとよろしく」

 

 その一言を呟くなり、香取先輩は対峙していたモールモッドからあっという間に距離を取って新しく現れた集団へ向かっていく。

 

 すでに通信は切られており、それ以上何かを言う様子もない。視線をやることもなく駆けていくところから、犬彦が口にした作戦を呑むつもりがないのは火を見るより明らかだった。

 

『――手ェ抜いてやがったな。まったく』

 

 やれやれ、とぼやく。

 置いていかれた犬彦は、ただ途方に暮れた顔で尋ねるしかない。

 

「……俺、何か間違ってましたか?」

 

 犬彦とて気付いている。犬彦が良かれと思って口にした策は、確実に香取先輩の逆鱗に触れたのだろうことを。

 けれど、何が触れたのかについては皆目見当がつかなかった。

 

『それは俺の口からは言えねえな』

 

 縋るような一言が、ばっさり切り捨てられた。

 

『検討はつくが、俺が何か言うようなことじゃねえし、今口にしたところで何かが変わるわけでもねえ。だが、そうだな。1つだけフォローしといてやるが、口を出したこと自体は間違っちゃいねえよ。その積極性は褒められるべきもんだ』

「こんな結果になったのに、ですか?」

『失敗しない奴なんていやしねえよ』

 

 軽い調子で告げる。その言葉が今はありがたい。

 

『とはいえ、だ。あの調子じゃお前をあっちに向かわせるわけにもいかねえし、お前はこっちの奴の相手してろ。あっちの5体は俺達でなんとかする』

 

 ……色々、言いたいことはあった。

 初の防衛任務でこの失態。取り戻したいという感情はある。けれど、同時にこの場の理がどちらにあるかなど言われるまでもなくわかっていた。フォローしてくれている当真先輩の負担を、これ以上増やすなどできるはずもなかった。

 

 犬彦にできることは、ただ苦い顔で頷くことだけだった。

 

 

 

 

 日も落ちた頃、次の当番の者が来て引き継ぎをする。

 どこで何があった、どんな対応をした、気になったことはあるか、などといったことを報告する。

 

 話しながら、振り返る。

 結局2回目に開いた(ゲート)が最後で、それ以降は何もなかった。

 警戒区域を見回っても特に異変はなく、引き継ぐようなこともない。

 

 犬彦の失態も、終わってみればさして影響はなかった。

 すべて当真先輩と香取先輩がなんとかしてしまったからだ。

 

 だからこそ焦る。犬彦のしたことと言えば足を引っ張っただけで、何一つ成し遂げられていない。

 この上失態の意味さえ理解できなかったとなれば、今回の任務は犬彦にとって本当に意味がなかったことになってしまう。

 

 故に、踏み込んだ。

 

「香取先輩、さっきはすみませんでした」

 

 引き継ぎに使っていた部屋を後にして、廊下。

 解散の流れになったところで、行き先に滑り込んだ。

 

 あからさまに鬱陶しげな視線が刺さるが、腹に力を込めて耐えた。

 

「邪魔なんだけど。どいてくれない?」

「いえ、香取先輩には色々とご迷惑をかけてしまいましたし、謝りたいと思ってるんですよ」

「どうせ何が悪かったのかもわかってないんでしょ? 中身のない謝罪なんてされても鬱陶しいだけだわ」

 

 食いついた、と内心で拳を握る。

 何の反応もなくガン無視で立ち去られる可能性もあったし、それをされたら本当にどうしようもないところだった。

 

 もっとも、犬彦にとってはこちらの方が精神的にキツい展開であるのもまた事実なのだが。

 努めて平静を装って言葉を続けた。

 

「ってことは、中身のある謝罪なら受け取ってもらえるってことですか?」

「空気も読めないの? 謝罪がそもそもいらないって言ってんの」

「じゃあ、せめて教えてください。何がそんなに先輩の気に障ったんですか?」

「ハ、なんでもかんでも聞けば教えてもらえるなんて、おめでたい頭してるのねあんた」

「……いや、その。せめてそれだけ、ですね」

「知らないし、あんたに教えるつもりもない」

 

 取りつく島もない、とはまさにこのこと。

 どれだけ頭を下げても、丁寧な言葉を心がけても、まるで響いていないかのように香取先輩は仏頂面でこちらを拒絶し続ける。ここまで強く当たってくる人は犬彦の人生でもそうはお目にかかれなかった。

 

 犬彦としては、せめてどうにかして理由だけでも聞き出したいところだった。

 初の防衛任務は散々という結果。それはもう仕方のないこととして諦めがつく。だがその理由さえわからずじまいでは何の糧にもなりはしない。

 

 どうすればいいのか、あれこれと引き留める言葉を頭の中でこねくり回していると、いい加減焦れた様子の香取先輩が前に出た。

 

「ああもうしつこいわね。もういいからそこどきなさいよ」

「――っっつ!」

 

 押し退けようとして伸ばしてきた手。

 それが、古い記憶を呼び起こした。

 

 咄嗟に払いのける。後ずさる。じとりと嫌な汗が背中を濡らした。

 

 しん、と寸時静まり返る。

 遠巻きに見守っていた染井先輩も、当真先輩も、振り払われた香取先輩さえ目を丸くして動きを止めた。

 

 最初に再起動したのは、不機嫌そうに目を細めた香取先輩。

 

「……異性恐怖症、だっけ? この程度の触れ合いで顔真っ青にするような奴が、軽い気持ちで入ってくるんじゃないわよ。邪魔なだけだわ」

 

 冷たく言って、荒い息をつく犬彦を尻目に今度こそ横を通り過ぎていく。

 

「……俺は、間違っていたとは思っていません」

 

 力を込めて背中に告げる。

 香取先輩がその足を止めた。

 

「他に選択肢があったかもしれないというならわかります。極限状態ではなかったし、俺の言ったことよりもっと上手くやれた作戦があったというなら納得はできます。でも頭ごなしに否定されて、馬鹿にされるほどだったとはどうしても思えません」

 

 奥手で、異性恐怖症の犬彦をして、流石に今の言い草はカチンときた。

 

 “軽い気持ち”。

 確かに、代々受け継がれてきたものだとか、壮大な因縁だとか、そういう重い理由なんてない。

 だがよく知りもしない他人から、まして争点と関係のないことで馬鹿にされる謂れなどないはずだ。

 

 要は、譲れないラインの話である。

 香取先輩は今そのラインを踏み越えた。ならば戦争するしかない。

 

「俺はただ納得したいだけです。馬鹿にするなら俺が間違っていたというだけの理由をください。……ここまで強く言っておいて、まさか気に入らないからなんて理由だけで貶していたわけじゃないでしょう?」

 

 意図的に挑発する。

 その甲斐あって、ついに香取先輩が振り向いた。

 

 美人が凄むと迫力があるという。

 キツい印象こそあるものの整った顔立ちの香取先輩が睨んでくる様子に、その言葉を強く実感した。

 

「……たとえば、あんたが引っ越しとかの理由で、住んでいた家を離れたとする」

 

 腕を組んで、静かに語り出す。

 

 香取先輩は印象と違って声を荒げることはしなかった。しかしだからこそ、沸々と滾る苛立ちや憤りが圧を伴って喉を締め上げるのだ。

 

「日々を過ごした場所だもの。どこで遊んだだの、どこで寝ただの、思い出くらいあるわよね? 何年も過ごした場所だから、愛着だってある。離れたら名残惜しいと思うくらいにはね」

「え、っと」

「――そして、それを踏み潰されたとする」

 

 言葉は、もはや刃のそれと変わりなかった。

 

「何の感慨もなく、住んでいた家が、道端の小石でも蹴るような呆気なさで。跡形もなく踏み潰されたとして、あんたはそれを許せると思うの?」

「……ち、ちょっと待ってください。まさか、あそこの住宅街のことを言ってるんですか?」

 

 香取先輩の言及が何を指すのかは明白だった。

 

 あの時、犬彦たちと新たに現れたモールモッドの間には住宅街が広がっていた。家々が密集しており、確かに犬彦の作戦をそのまま実行したならいくらかの家の倒壊は免れなかったことだろう。

 しかし、だ。

 

「あの辺は警戒区域で、ボーダーが買い取った場所のはずです。人もいませんし、上からも壊してもいいって説明があったじゃないですか」

「勘違いしてるんじゃないわよ。壊してもいい、じゃなくて、壊れてもいい、よ。故意と過失の区別もつかないの?」

「いや、だとしても……」

「だとしてももかかしもないの。だからあんたは甘ったれたガキだってのよ」

 

 失笑。冷たい視線が犬彦を射抜く。

 

「あんたのそれは、“3分制限の巨人ヒーロー”と一緒よ。敵を倒すためだからってお構いなしに暴れて、後のことは知りませんってね。確かにあんたの言うとおり、あそこはもう捨てられた場所で、人が住むことなんてない。戦いで壊れてしまうのも、それはそれで仕方のないことだわ。だけど、それを見た世間の人々は何を思うかしら」

 

 何もかもが人の目に止まるわけではない。

 警戒区域の中であれば、戦闘中の行動の全てが見えるわけではないし、誰にも気付かれずひっそりと終わることもあるだろう。

 

 だけれど、結果は残る。

 壊された街という、その結果は絶対に消えない。

 香取先輩の言うところの、『住んでいた思い出の残る家』が。

 

「こんな場所だもの。ただでさえ、市民は近界民(ネイバー)にいつ襲われるとも知れない不安や不満を抱えているのよ。ニュースとか見てればわかるでしょうけど、それがボーダーに向けられることだってある。説明を求められることも勿論ね。そんな時、あんたが今日しようとしたことの説明を求められて、答えられるの? 『市民の皆さんを守るために、皆さんの家を犠牲にしました』って?」

「それ、は」

「ああ、あんたの理屈だと、『壊してもいいと上が言っていたから壊しました』ってなるのかしら。後のことは知らない、後は上にお任せします。……とんだヒーローね」

 

 言葉もなく俯く犬彦を、香取先輩がせせら笑う。

 

「葉子」

 

 くい、と染井先輩が香取先輩の袖を引っ張った。

 香取先輩はそちらを見やると、不機嫌そうに舌打ちをして、今度こそ背を向けて立ち去っていく。

 

「ヒーローを気取るのは勝手だけど、街が更地になるまで戦うって言うなら、あんたはヒーローじゃない。ただの怪獣よ」

 

 去り際の言葉が、耳にこびりついて離れなかった。

 

 

 

「よう、お疲れさん」

「……あ、当真先輩。まだいたんですか」

「帰り時逃したんだよ。ったく勝手におっぱじめやがって」

「ああ、それは、その。すみません。というか、それも、ですね。作戦のこととか、変なこと言ってすみませんでした」

「やめろやめろ。お前がしおらしくしてるとサブイボ立ってくるわ」

「わかりました。じゃあやめにしますね」

「切り替え早すぎんだろ」

 

 かわいくねえ奴め、と当真先輩が口の端を釣り上げた。

 

「それにしてもアレだな、マゾなのか? お前」

「急に何言い出すんですか」

「わざとだろ、アレ。何が間違ってたかなんて、他の奴に聞けばいくらでもわかったことだろ。それを1番の地雷を敢えて踏みに行ってまで確認するなんて、そういう趣味があるのかと思ってな」

「……別に、そんなんじゃないです。人の考えてることなんて、その人にしかわからないじゃないですか。だから誰かに聞くよりも、直接聞いた方が早いだろうって、そう思っただけです。それに、こんなことで逃げるなんて男らしくないでしょうし……そうでしょう?」

「それで凹んでちゃ世話ねえな」

「凹んで……は、ないですよ、多分」

「ふーん。ほーう」

「……なんですか」

 

「さっきも言ったが、失敗は別に悪いことじゃねえぞ。入って1ヶ月の奴が失敗しねえ方がおかしい。それに個人的に言や、ビビって前に出ねえ奴のが嫌いだね。そういう奴は成長しねえからな」

「失敗なんて、しないに越したことないと思いますけど」

「だが、お前はそうやって成長してきた。違うか?」

「わかったようなこと言いますね」

「違うなら、あんなヘマした後にあいつに聞くような馬鹿はしねえよ」

 

 ぐうの音も出ない。

 笑おうとしたが、口から漏れたのは乾いた笑い声だけだった。

 

「……ま、せいぜい悩めよ。若い奴はそうやって成長するもんだ」

「さっきから思ってましたけど、当真先輩口ぶりが親父臭いですよ」

「お前がガキなだけだよ、馬鹿め」

 

 そういうもの、だろうか。

 当真先輩も高校生だったはずだが、同年代や1つ2つ上の先輩が皆こうであるのなら本当にそう思えてきてしまいそうだった。

 

 お疲れさん、と言って立ち去ろうとした当真先輩だったが、ふと思い出したような仕草で声をかけてきた。

 

「そういやお前、週末暇か?」

「週末? ええ、まあ」

「何呆けたツラしてんだよ。焼肉の話、忘れたわけじゃねえだろ?」

「……ああ、はい。そんな話もありましたね」

 

 尻拭い3回で焼肉1回。

 襲撃は2回だけだったが、その実多くの面で迷惑をかけてしまっている。

 

 なんでこんなタイミングで、とは思うけれど、実際フォローもしてもらっている。

 ここは奢るのが筋か、などと考えていると、

 

「約束通り奢ってやるから付き合えよ。タダ飯なら文句ねえだろ?」

「……え? いや、尻拭い3回ですよね? 俺が奢るんじゃないんですか」

「馬鹿、俺が拭ってやったのは最初に現れた奴1回だけじゃねえか。他はやってねえよ」

「いやいや、結局2回目なんて全部やってもらったわけですし……」

「それは俺が自分の仕事しただけだからノーカンだ」

「いやいやいや……」

 

 強く言い切られるが、気が咎める、なんてものではない。

 何もできず、挙句迷惑をかけた先輩に奢られるなんて、犬彦の価値観では到底許されるものではなかった。

 

 言い募る犬彦に、当真先輩は1つ肩をすくめてこう言った。

 

「お前、明日ランク戦だろ?」

「え? そうですけど」

「んじゃ、それで勝て。そうすりゃ戦勝祝いになる。だろ?」

「なんて無茶苦茶な……」

「ええいうじうじと。男らしくねえぞ」

「ぐっ」

 

 痛いところを突かれた、と顔をしかめる。

 当真先輩が笑って言った。

 

「あんま難しく考えんなよ。ヘマしようが何しようが、結局は楽しんだもん勝ちってな」

 

 

 

「葉子、流石に言い過ぎよ」

 

 廊下を歩きながら釘を刺すも、香取は不機嫌そうに柳眉を逆立てて吐き捨てた。

 

「現実見えてないガキ見るとイライラすんのよ。仕方ないじゃない」

「わかっているけれどね。葉子の場合、言わなくてもいいことまで口にするんだもの」

 

 長年の付き合いというもので、この少女がどういう性格であるかということは理解している。こうして苦言を呈したことも1度や2度ではないし、言って聞かないことも身に染みてわかっている。

 しかし、自分たちより年下の少年にああまで厳しい言葉を投げかけるところを見せられると、流石に少しくらいは口を出したくもなるというものだった。

 

「別にいいでしょ。いずれ誰かに言われることを今言っただけなんだから。それより、華こそやけにあいつの肩持つじゃない」

「別に。子供に対してあそこまでムキになる必要はないって思っただけ」

「アタシは、別に間違ったことは言ってないわよ」

「葉子の言い分にどうこう言うつもりはないわ。むしろ、葉子があそこまで考えていたことがちょっと意外だったくらい」

「どういう意味よそれ!」

 

 声を荒げて噛みつく。

 それをさらりと無視して、染井が呟いた。

 

「……ただ、そうね。あの子、逃げなかったから」

「何が?」

「私は今回のことについて特に何か、あの子に教えてあげるつもりはなかった。そんな義理はなかったし、それは他の人の役目だと思っていたから。でも、あの子は敢えて葉子に聞く道を選んだ。多分、あの子にとって1番つらく厳しい道をね」

「だから気に入ったって?」

「そういうわけじゃないけれど。私の見立てとは違っていたから、驚いただけ」

 

 犬彦のデータを調べた時、染井はチグハグだな、という印象を抱いた。

 

 異性恐怖症。そういう病を患っていながら、2人の女性の師匠を持っていること。

 程度が軽いのかとか、何か他に事情はあるのかとも考えたが、いずれにせよあまり強い印象はなかった。

 

 しかし、昨日の会話。そしてついさっきのやり取りを見ていると、バラバラだったピースが揃い始めるのを感じていた。

『成長したい』。それが真実なら、随分愚直な少年だな、と思った。

 

「華は妙にあいつのこと買ってるみたいだけど、アタシにはそうは思えないわね。ただの馬鹿なガキでしょ?」

「そうね。何も考えず、ただ1番わかりやすい道を選んだだけかもしれないけれど。もし、違っていたとしたら」

 

 明日は大変かもしれない。

 そう呟こうとした染井の言葉を打ち消すように、鼻で笑って香取が言った。

 

「カンケーないわね。立ち塞がるなら踏み潰す。それだけよ」

 

 

 

 

 

 ――各端末に送信された組み合わせから抜粋。

 

 

 

 B級ランク戦、2日目・夜の部

 

 ROUND2

 

 志岐隊・香取隊・荒船隊

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 香取は多少強化している自覚がありますけど、作中の描写的に天才肌っぽいのでこのくらいのポテンシャルはあるのかなとも思います。

 犬彦との感覚の違いを表現するのが一番難しかった! それが今回遅れた理由の大部分ですが、それぞれ支えるキャラがいたので何とかなった感じです。
 MVPは当真先輩。あんたすげえよ……! こんなチーム任されたら自分なら投げる(確信
 ちなみに、最後のやりとりは意図して地の文削りました。

 というわけで、次はようやくROUND2です。
 こっちまでは流石に手が回らなかったので少しお待ちを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第24話 黒江双葉④

 ROUND2の前フリ。当日だから実質ROUND2回(目逸らし


 

 

 

 

 

「――だから多分、香取さんはそう動くと思うんだよね。となると自然、他の2人も連動して動くから」

「初動が肝心ってことだよな。できればそこで香取先輩の動きを確定させておきたい、と」

「そういうこと。……だけど多分、今の感じだと」

「ああ……負けるな、多分」

 

 2人してその結論に達し、肩を落とす。

 

 作戦室を目指して廊下を歩く犬彦と小夜子。

 梅雨の時期に差し掛かり、空気はじとりと重く生暖かい。5月の爽やかさも消えて、本来であれば半袖シャツ1枚で過ごしたいところを、その上に1枚パーカーを着て背中に小夜子をくっつけている。周囲の視線も慣れたもので、今ではまたあの姉弟かとばかりにほとんど視線も集まってこない。

 背中にかかる重いため息を払うように距離を取ると、逃すものかと裾を掴んで再びくっつかれる。犬彦はもう1つ別のため息をついた。

 

「やっぱダメなの? どうしても?」

「そう、だなあ。こればっかりは気合いでどうにかなるものでもないし」

「何があったかってのは昨日も聞いたし、ついでに色々言ったけどさ。仕方なかったと思うよ? 14歳の子供に、入って一月ちょいで自覚を持てって方が無茶なんだしさ」

 

 くぐもった声で小夜子がフォローを入れてくる。

 

 犬彦とて、それはわかっているのだ。だからこそ深刻な状況にも陥っていないし、こうしてボーダーに来ることもできている。昼間の学校は心ここに在らずというやつでさっぱり記憶に残っていないが、登校もできた。最悪には至っていない。

 だから、これはそれとはまた別の話なのだ。

 

 苦い顔で犬彦は言った。

 

「なんて言うのかなぁ、失敗した後の気まずさって言うかさ。やらかしたり迷惑かけた後って、その人に会うと気まずくなるだろ」

「え、そう?」

「素で聞き返してくるのやめろよ……悩んでる俺が馬鹿みたいじゃねーか」

「うーん、私はそういうのあんまり気にしないけどなぁ」

「わかった、お前に聞いた俺が馬鹿だった」

 

 失礼なー!とか抗議の声が背中から聞こえてくるが、無視して志岐隊作戦室の扉をくぐった。

 

 着くなり、背中から離れた小夜子が自身のデスクではなくソファの上にダイブする。

 今はボーダーの制服姿ではなくラフな私服だから止めはしないが、その動きは年頃の女としてどうなのだろう、という思考が脳裏をよぎった。

 

 ――くそ、雑念多すぎだな。

 

 思考がすぐに余所見をする。集中できない。何をしていても、あの時の失敗と後悔、香取先輩の冷たい目が脳裏をちらつく。

 こんな状態ではとても勝つことなどできはしない。

 ただでさえ相手は前回と違い、自分より経験も長く技術もある集団である。全身全霊をもって挑まなければ勝てはしないし、何より失礼だろう。

 

 作戦室に足を踏み入れた犬彦だったが、再びその足を反転させた。

 

「ん? どこか行くの?」

「自販機。なんか買ってくるわ」

 

 どの道ここでじっとしていても塞ぎ込んだままだ。気分転換でもしなければ落ち着かなかった。

 

「犬彦」

「ん? ああ、なんかいるものあったか?」

「絶対勝つ。そう言ったよね」

「――ああ」

「それを思い出しても、難しい?」

 

 脳裏をよぎるのは、黒江の顔と、触れた温もり。

 拳を握る。それでも、言葉は出てこなかった。

 

 

 

 

 

 自販機の前に立つ。

 今甘いものを飲むと、どこまでも甘い気分に浸りそうで嫌だったので缶コーヒーを選んだ。ブラック。とても好んで飲むようなものとは思えなかったが、気分を変えてくれるだろうか。

 

 缶が底にぶつかる音がした時、ふと声が溢れた。

 

「先輩?」

「え?」

 

 振り向く。

 先程思い浮かべていた黒江が、目を丸くしてこちらを見ていた。

 

 思わず、缶コーヒーを手に取った姿勢のまま固まってしまう。

 

「……よう、お疲れ」

「えっと、はい。お疲れ様です」

 

 犬彦は元より、黒江もどこか心ここに在らずといった様子で挨拶を交わした。互いに、予期せぬタイミングで遭遇したことが丸わかりであった。

 

 ――気まずい。

 

 犬彦は内心で渋面を作った。

 

 最後に言葉を交わしたのが、断った時のあのやりとりだった。

 あれから特に連絡を取り合っていたわけでもなく、加えて先程思い浮かべた顔。表情が強張るのが嫌でもわかる。

 

 一方、黒江もそうなのだろうか。そっと犬彦が自販機の前を空けると、ぎこちない様子で自販機の前に立つ。

 ちらりと、その視線が犬彦の手元を見た。

 

「先輩、コーヒー好きなんですか?」

「ん? まあ、微糖ならな。ブラックはあんまり」

 

 味を楽しむのではなく、気分転換が目的である。

 しかしそれを素直に吐露するのも憚られて、自然と言葉尻を濁した。

 

 コインを投入しながら、意外そうに黒江が言った。

 

「そういえばこの前も飲んでましたっけ。なるほど、先輩ってコーヒー派だったんですね」

「あまり自覚はなかったけど……そうだな。徹ゲーの時とかどうにも眠かった時に飲んでたし、確かによく飲んでるわ」

 

 ふむ、と頷いて黒江が言った。

 

「ちなみに私は緑茶派です」

「ん? ええと、そうなのか」

「はい。だから先輩、次会う時は戦争ですね」

「切り返しが物騒すぎる」

「安心してください。刺し違えても先輩を緑茶派に引き込んでみせますよ」

「お前そんなに情緒不安定だった?」

 

 コーヒー派を代表したわけでもなければ緑茶が嫌いなわけでもないので切実にやめてほしいところだった。

 

 ふふ、と小さな笑みが零れた。

 黒江の柔らかな表情。少し肩の力が抜けたのだろうか。

 

「今日はどうしたんだ?」

「私はその、訓練です。先輩は」

「俺はランク戦」

「確か夜でしたよね。それにしては早くないですか?」

「……ちょっと落ち着かなくてな。早く来ちゃったんだよ」

「緊張して、ですか?」

「いや、緊張はしてないんだけど……」

「え? 違うんですか? 先輩は緊張してこそだと思ってたのに」

「ストレートに心を抉ってくるなあ」

 

 久々に会話したはずなのに黒江が冷たい。それともやはり時間とともに悪感情が溜まってきたのだろうか。

 

「今は違うんだよ。ちょっとそれどころじゃなくって……」

「それどころじゃない、とは?」

 

 ペットボトルが自販機の底を叩く音。

 不思議そうな表情で首を傾げる黒江に、しまった、と口を噤む。

 

 自分1人ではどうにもできないもやもや。

 確かに、黒江に話せば何か良い方向に転がることもあるのかもしれない。そう思う一方で、こんなことで誰かに頼りたくない、と意地を張る気持ちもあった。まして、黒江には。

 

「その、ですね。何か悩んでいるなら話してみませんか? 私では頼りにならないかもしれませんけど、話して楽になることもあるかもしれないですし」

 

 屈んで手に取ったお茶を玩びながら、おずおずと遠慮がちに黒江が言った。

 

 犬彦は黒江に同じように言葉をかけた時のことを思い出す。

 あの時と同じような顔を自分もしているのだろうか。

 

 だけれど、あの時と今では状況が違う。

 黒江の話を断り、自分の気持ちを尊重して、その結果がこれだ。

 勝たなければいけない。勝つと決めた。なのにB級中位で躓きそうになっている自分に嫌気がさす。

 

「……なんでもないよ。ありがとな、心配してくれて」

 

 ダメだ。やっぱり話せない。

 

 唇を引き結んで背を向けると、小さく声が漏れた。

 

「ま、待ってください。やっぱり何か変ですよ、せんぱ――」

「っ!」

 

 思わず、だろう。

 引き止めようとしたのか、黒江が肘を掴んできた。手も小さく、力も弱い。

 けれど今の犬彦にとっては、女性が触れるということはそれ以上の意味を持つ。

 

「あっ」

 

 咄嗟に振り払う。

 目と目が合う。

 

 黒江を通して見えていたもの。

 それがズレてようやく黒江とピントが合って、初めて意識を取り戻す。

 

「わ、悪い! そんなつもりじゃ」

 

 ない、と、言いかけたその時。

 じっと、黙って振り払われた手を見ていた黒江が――すん、と鼻を1つ啜った。

 

「えっ」

「……そう、ですよね。すみません先輩。変に気を回してしまって。そもそも異性恐怖症の先輩が私と話すのだって大変だってこともわかってたはずなのに」

 

 目が潤む。声が湿る。

 犬彦はもはや呻き声しか出せない。

 

「いや、ちょっ」

「それでも、それでも、先輩に救われた私だから……なんとかしたい、と思ったんですけど。すみません。出すぎた真似でした。もうしません」

「待て、待って。なんでお前、泣いて」

「だから――また、落ち着いたら、でいいですから。話を、してもらえませんか。役に立たない私ですけど、それでも私は、こんな形で先輩と――」

「ああああああっ!! わかった、話す! 話すから! 頼むから泣くのはやめてくれぇっ!!」

 

 

 

 

 

 

「泣いてる女の子を連れ込むとか、事案? 事案なの? 110番しよか?」

「お願いですからやめてください」

 

 場所が場所なだけに、流石にあれ以上あの場で話すのは危険すぎた。

 話をする上でもっとも適した場所はラウンジだったが、人目は避けられない。そんな場所へなかなか泣き止まない黒江を連れ込んだ上で話をしようものなら、あらぬ疑いをかけられたりしてそれこそランク戦がどうこうという話ではなくなりそうだった。

 

 となると、犬彦が連れ込める場所は志岐隊作戦室以外にない。

 先の台詞はぐずる黒江を認めた小夜子のものだったが、その小夜子は今はここにはいない。

 

「何があったのか知らないけど、ちゃんと話してあげなよ? 私は席外しててあげるから」

 

 そう言い残してささっと出て行った。と言っても小夜子の行ける場所なんて限られているから、恐らくは那須隊の作戦室だろう。

 気を利かせたつもりだろうか。それはありがたいが、泣く女の子なんてどう扱えばいいというのだろう。どうせならそれも教えて行って欲しかった、とほとほと情けない顔で犬彦は頭を抱えた。

 

「……すみません、取り乱しました」

 

 ソファに黒江を座らせて、しばらく。

 ようやく落ち着いたらしい黒江がそう言って頭を下げた。

 

「いや、俺の方こそすまん」

 

 差し向かいのソファで、困ったように眉を寄せて犬彦も頭を下げた。

 目尻の赤い黒江を見ながら、慎重に言葉を探す。

 

「えーっと、その、な。悪気があったわけじゃないんだ、本当に。お前に相談したくなかったのも……まあその、ただの意地だ。すまん」

「いえ、私も……その、泣いてしまったのはすみません。わからないんです。あれから連絡も取ってなかったですし、もしかしたら本当に嫌われてしまったのかも、と思っただけで……何故か。その、すみません」

 

 黒江の呟きに、犬彦は顔を覆った。

 

 自分はいったい、どれだけ黒江を傷つければ気が済むのか。本当に、犬彦は自分が大嫌いだった。

 

「本当に、ほんっとうにすまん。連絡をしなかったのはただ気まずかったからで、お前のことを嫌いになったとかそういうことじゃ一切ない。だからそんなに気に病まないでくれ」

「いえ、私も……本当はこの前のランク戦の時に行けば良かったんですけど、同じです。なんとなく気まずくて。だから本当は私のせいなんですよ」

「いや、黒江が謝ることじゃないだろ。悪いのは俺だ。勝手だった」

「それこそ、先輩が謝ることなんてないですよ。もともと異性恐怖症なんですし」

「いや俺だって。そんなの言い訳にもならないんだから素直に受け入れてくれよ」

「いやいや私ですよ。勝手に考えて勝手に泣いてしまったんですから、譲ってください」

 

 そんな、他愛もないやり取りをいくらか繰り返した後。

 どちらからともなくふっと表情を綻ばせた。

 

「……悪い。ありがとな。心配してくれたのは本当嬉しいよ」

「……ええ。私も、ありがとうございます」

 

 黒江は多くは語らなかった。

 けれど犬彦もそれ以上を聞かなかったし、それでいいと思えた。

 

 どこかこそばゆい空気を払うように、さて、と腕を組む。

 

 話をするといった以上、犬彦にとっては恥ずかしい話であるあの話をしなければならないのだが、やはり抵抗があるのも事実で。言葉はどこか遠慮がちに告げられた。

 

「でも、黒江には悪いんだが、本当にたいしたことないんだよ。次の対戦相手と昨日一悶着あって、それでどうしようかって悩んでただけなんだし」

「一悶着、ですか?」

 

 首を傾げながらペットボトルのお茶を口に含む黒江に、犬彦は昨日の防衛任務のやり取りを話して聞かせた。

 恥であり、人によっては怒りを覚える内容だろう。話しながら黒江の反応が怖かったが、仲直りしたばかりの相手である。隠し事はしたくなかった。

 

「ってわけ、なんだけど……その、黒江?」

 

 話を終えた犬彦は、恐る恐るといった風情で黒江に声をかけた。

 というのも、話を終えてようやく黒江のそれに気付いたからである。

 

「――なんですか、それ」

 

 不機嫌そうに。低く猫のような唸り声を上げて黒江が呟いた。

 

 ――やっぱり、そうなのか。そりゃそうだよな。

 

 黒江の怒りも、香取先輩の話を聞いた後ならもっともだと思えた。

 多分、本当なら誰もが抱いて然るべきもののはずで。それを抱くどころか、気付きもしなかった犬彦に憤慨しているのだろう、と。

 

 処刑台に赴く死刑囚のような面持ちで口を開いた。

 

「悪い。ちょっと軽く考えてたかもしれん。香取先輩の話を聞いて納得もしたから、今後は気をつけるよ」

 

 粛々と頭を下げる犬彦に、しかし黒江は訝しげに首を傾げてみせた。

 

「? いえ、違いますよ先輩。先輩は多分勘違いしてます」

「勘違いって、何が?」

「私が怒っているのは、先輩にではなく香取先輩にです」

「え? なんで?」

 

 失敗をしたのは犬彦で、それに注意をしたのが香取先輩である。なのにどうして黒江が香取先輩に憤慨するのか、犬彦にはまるでわからなかった。

 

 しかし、それこそわからないとばかりに黒江は首を振る。

 

「何故って……私にしてみればその質問こそおかしいですよ。香取先輩は先輩が異性恐怖症だって知ってたんでしょう? だったらそれ相応の対応があったはずです。なのに香取先輩ときたら先輩のことをガン無視で、そんなの誰だって萎縮するに決まってるじゃないですか。冷静な判断ができるわけないですよ」

「え……い、いや、そんなことないんじゃないか。状況はどうあれ緊張してたのは間違いないし、香取先輩はあまり関係ないんじゃ」

「確かに先輩が緊張に弱いのは知ってます。でもよく考えてください。最初の任務ですよ? 当真先輩が言ったように失敗なんて当たり前です。だからこそ周りの人がフォローして然るべきなのに、それを放棄しておいて挙句に先輩1人を悪者にするなんて、そんなの許せないですよ。ありえないです」

 

 矢継ぎ早に不満を吐き出す黒江を、犬彦は唖然として馬鹿みたいに見つめていた。

 

 犬彦が覚えている限り、こんなに感情的に、こんなに饒舌に、こんなに怒りを露わにする黒江を見たのはこれが初めてだった。

 犬彦の中で黒江はあまり感情を表に出さない少女だったし、犬彦をからかっている時でもその感情表現は随分控えめなものだと思っていた。

 なのに今。黒江は縄張りを荒らされた猫のように眉を立てて、怒りに拳を震わせている。

 

 ――こんな風に怒る奴なんだ、こいつ。

 

 そのことが、どうしようもなく犬彦の心をかき乱す。

 

「いや、そんなこと……緊張してトチったのも俺だし、馬鹿なこと考えたのも俺だ。香取先輩だって、間違ったことは言ってないし」

 

 震える声で呟く。

 

 黒江は訝しげに目を逸らす犬彦を見た。

 やがて何かに気付いたのか、まるで痛ましいものを見るような目で口を開いた。

 

「……先輩。先輩の過去に何があったのかは聞きません。けど、私は今回のことについては絶対に先輩だけのせいじゃないと思っています。きっと私だけじゃなくて、小夜子先輩や、那須先輩だって同じことを言うはずです」

 

 優しい声だ。開いた傷を癒すような声。

 

 自分よりも幼い少女からの励ましに、羞恥はなかった。それは偏に、異性恐怖症の犬彦でもわかるほどに黒江が真摯に労ってくれているからだ。

 

 けれど、犬彦は弱々しく首を振った。

 

「違うんだ」

「何がですか?」

「違うんだよ、黒江。そういうことじゃないんだ」

 

 犬彦が真に許せなかったもの。

 犬彦が真に失望した理由。

 論理では溶かせない、犬彦の心に未だ消えずに残っているしこり。

 

「前に、小南に言われたことがあった。俺に足りないのはきっかけだって。だから防衛任務とか、市民を守るために戦う時、その時に感じたことをよく覚えておけって。そう言われたことを思い出したんだ」

 

 聞いた時には、どんなことを思うのだろうと首を傾げ、しかしその一方で期待していたことを覚えている。俺にも、何かそういう尊い想いを抱くことができるのだろうと、想いを馳せたことを覚えている。

 

 けれど、実際に蓋を開けてみれば。

 

「何もなかった。何も、なかったんだ。香取先輩に言われて気付いた。俺は何も考えていなかったし、感じてもいなかった。家を壊されたら、住んでた人が、周りの市民がどう思うかなんて、そんなことこれっぽっちも考えてなかったんだ」

 

 犬彦の頭は、ただただ合理的だった。

 打ち捨てられた建物は所詮建物でしかない。障害物でしかない。ゲームの環境設定でも見るような目で見てしまっていた。許可を得ているからと思考停止して、そんな発想にさえ至らなかった。

 

 恐らく誰にも止められなかったら、犬彦は自身の作戦を平気で実行していたし、近界民(ネイバー)に踏み荒らされた家を見ても何も感じなかっただろう。むしろ上手くいったことに安堵さえしているのかもしれない。

 

 そこまで容易に想像できるからこそ、犬彦は自己嫌悪に陥っている。

 失敗からくる後悔と、自分の心の内を覗かれたかのような香取先輩の目から逃れられないでいる。

 

 ――こんなヤツが、ここにいていいのか。

 

「隙ありです」

 

 顔の前で合わせた手。

 それが、不意に黒江の小さな手に挟み込まれた。

 

「――えっ」

「ううん、久々に触りましたが本当にすべすべな手ですね。女の子って言われても納得できそうです」

「なっ、ちょっ」

 

 呟く言葉など半分も頭に入ってこない。触れる感触。女の子の手。

 身を強張らせ、反射的に手を引こうとしたところで、

 

「先輩。少しだけ私の話を聞いてくれませんか」

 

 懇願するような黒江の声。

 ぐっ、と踏みとどまることができたのは、先程の涙を見たばかりだからだろうか。

 

 現状維持を決めると、自然と手に意識が向く。

 ひやりとした感触。細い指。上がる熱はどちらのものか。

 

「1つ目。先輩が色々なことを考えられることは知っていますし、凄いとも思っています。話を聞いていても私では思いもしなかったことがあったりしますし、きっと私には同じように考えることはできません」

「お、おう」

「ただ、先輩はそのせいで自分の首を絞めてしまっています。……正直なところ、私は先輩のそういうところは嫌いです。凄く考えられるんですから、もっと堂々としているべきです。私の時もそうでしたけど、本当に先輩はそういうところは不器用ですよね」

「アッハイ。そうですね」

 

 視線が痛い。自覚はしているが、器用に立ち回る方法など今の犬彦には皆目検討つかないのだから平謝りである。

 もっとも、改善できるならそもそもこうはなっていないことだろうが、それは藪蛇にもほどがあるだろう。

 

 こほん、と咳払いして黒江が言った。

 

「と、すみません。話が逸れました。私が言いたいのはですね、多分みんな、先輩が考えるほどには使命感とか、街とか住人への配慮とか、そんな小難しいことは考えていないだろうということです」

「……そうか? 小夜子も似たようなことは言ってたけどさ」

「はい。みんながみんなそうだとは思いませんけど、多分先輩が考えるよりはずっと少ないと思いますよ。かくいう私だってここに入る時には面白そうくらいにしか考えてませんでしたし、それは先輩も知っているでしょう?」

 

 今まではそんなに面白くなかった、と以前に黒江が語ったことを思い出す。犬彦と出会う前、刺激が足りず、先に入った幼馴染と比べて、やる気をなくしていた黒江のことを。

 

 犬彦にだって、黒江の言いたいことはわかる。

 歳は違えど、犬彦と大差のない少年少女である。ならば犬彦と同じような考えしか抱けなくても不思議ではない。

 

 しかしそれでも、何かを得たかったと思うのはやはり高望みが過ぎたのだろうか。

 

「まだ晴れないみたいですけど、やっぱり気になりますか?」

「……まあ、そうだな。夢を見すぎたのかもしれない、って気はしてきた」

「そもそも私は、先輩がこの世の終わりって顔をしてるのがどうしてもよくわからないんですよ」

 

 首を捻りながらの言葉。犬彦とは違い、何かを掴みかけているようなそれ。

 

「それは、どういう」

「先輩、1つ確認なんですけど。先輩は先輩にとって最初の任務で何も感じなかったから凹んでいるわけですよね? 小南先輩の言うところの、『その時に感じたこと』がなかったから」

「あ、ああ。初めての任務なのに、何も感じなかったから――」

 

 犬彦の言葉に、ようやく合点がいった、というように頷いて、黒江が言った。

 

「先輩。それって最初じゃなければいけないものなんですか?」

「え?」

「小南先輩は『その時に』って言ったかもしれませんが、それって別に重要ではないと思うんですよ。大事なのは先輩が何を感じたか・考えたかであって、それは別にその時でなくてもいいことだと思うんです。最初はあんまり美味しくないなって思ったご飯も、何だか忘れられなくて、また食べちゃったりして、気付いたら好きなものになってることとかあるじゃないですか。それと一緒で、別にいつ気付いてもいいことのように思えるんですけど」

「あ――うん」

 

 さらっと言われた言葉に、犬彦は思わず目を逸らした。

 

 盲点だった。正直な思いはまさにそれだ。

 気付いてしまえば何でもないことだし、何故わからなかったと思いもするのだが、「その時に」という言葉に囚われてしまっていた犬彦は任務失敗の後悔だったり、理想を高く持ちすぎたためについぞ気付くことはなかったのだ。

 

 問題は解決した。しかし同時にこの反応も必然である。

 犬彦にとっては真実、神から齎された啓示にも等しい言葉ではあったが、理解が及ぶにつれて湧き上がってきた感情は喜びではなく、身悶えするほどの羞恥であった。

 

 ――うわ、恥ずかしっ……!

 

 包まれていた手を振りほどいて、思わず顔を覆い隠したのもむべなるかな。

 

 あんなにシリアスにモノを語って、後輩に慰められて、挙句勘違いだったと気付かされるなんて恥ずかしいにもほどがある。恥ずかしすぎて、黒江の顔などとても見られないほどだった。

 

 1人で急に悶え出した犬彦に、黒江はスマホを取り出しながらさらりと追撃を重ねた。

 

「まあ、香取先輩にショックなこと言われたことだったり、初めての任務で失敗したりだとかが尾を引いて良い方向に物事を考えられなかったんだろうなってのは想像がつきます。だからそんなに恥ずかしがることはないと思いますよ――パシャリ、と」

「えっ待ってなんで撮ったの今」

 

 したり顔で語りながらさらりと行われた犯行に犬彦は戦慄して言った。

 

 しかし黒江は被害者の追求にも平然としている。

 どころか、さりげなくスマホをポケットに忍ばせながら爽やかな笑顔でこう言った。

 

「いえ、先輩と私の大切な思い出を記録しておこうと思いまして、ええ。――他意は何もありませんよ、勿論ですとも」

「目ェ逸らしながら言っても説得力ねーよ他意ありまくりじゃねーか今すぐ消せ!」

「そんな、先輩は私との思い出を残すのが嫌だって言うんですか?」

「思い出を選ぶ権利くらいあると思うんだ」

「私忘れっぽいんです。だから映像に残して、バックアップを取って、チャットで共有して、SNSに流さないと覚えられなくて」

「こえーよ! お前は俺のことどうしたいの? ちょっと距離を置こうか真剣に悩み始めたんだけど」

「ああ、いつもの先輩節ですね。安心しました」

「このタイミングで言われても反応に困るんだが!」

 

 

 

 

 

 しばらくして。

 小一時間ほど経過した頃、さてどうなったかな、と小夜子が志岐隊作戦室に戻ってきた。

 

 ドア付近に近寄りつつ、ふと思う。

 自分はどういうテンションで入るべきかと。

 

 ――そんな深刻そうな様子でもなかったし、多分大丈夫だとは思うけどなぁ。

 

 犬彦自身が言っていたとおり、犬彦自身も最悪の状況には至っていない。

 泣いている黒江を連れて戻ってきた時には流石に瞠目したけれど、大人しく連れてこられたところを見るに拗れに拗れたというわけでもないらしい。ならばきちんと腹を割って話していれば今頃は和解できているだろう、と結論づける。

 

 となると、だ。

 仮に失敗していたとしても、沈んだ空気の中に同じ調子で入っていっても仕方ないし、中の様子がわからないからと慎重に探りながら行くのもそれはそれで何の解決にもならない気がする。

 というかそれはむしろ私が恥ずかしいな、と小夜子は1人頷いた。

 

 やっぱりハイテンション安定だよね、と結論づけた小夜子は柔軟を開始した。身体を解し、呼吸を整え、楽になったところで、いざ吶喊。

 

「いぇーい2人とも、盛り上がってるぅー!?」

 

 

 

「いいなお前、わかってるよな? 負けたらあのデータ削除だぞ?」

「ええ、わかっていますよ」

「後でやっぱナシとかそんな卓袱台返し御免だからな」

「勿論ですとも。そんなつまらないことはしませんよ。それより先輩こそ、私が勝ったらあのデータはきちんと残させてもらいますからね? わかってますか?」

「さっきから不思議なんだが、お前のそのよくわからない自信はなんなの? これゲームよ? 俺の十八番よ? 俺の土俵で勝とうなんて言っちゃあなんだが自惚れがすぎるんじゃないか?」

「何言ってるんですか、勝つ気満々ですよ。勝算だってちゃんとあります」

「勝算?」

「必殺・おっと手が滑った」

「ヒェッ!」

「隙ありです!」

「な、っちょ! てめ、まさかお前の勝算って!」

「フフフ、いくら先輩がゲームに強くてもこの状況で私に勝てると思うんですか? この隣り合って座った状況なら私の手は確実に先輩を逃しませんよ」

「こ、この外道……! そこまでするか!?」

「おっと立ち上がりましたね。だけど先輩、私が何のためにわざわざ有線コントローラーにしたと思ってるんです? 無線ならともかく有線なら、ほら、こうするだけで」

「うひぃ!? 擦り寄ってくるな猫かお前は!」

「にゃーん?」

「そんなあざとい鳴き真似で俺が釣られると――ああやめろ寄るな触るな! ぎゃあ!」

「やっといてなんですけどその反応は地味に傷つきますね。バケモノですか私は。もっとフレンドリーな反応を要求します」

「無茶振りにもほどがあんぞこの悪魔後輩!」

 

 

 

「めっちゃ盛り上がってる……!」

 

 自身のテンションすら上回る場の空気に、小夜子は瞠目して慄いた。

 

 確かに、高確率で仲直りしているだろうとは予想していた。

 それでも小1時間である。さめざめと泣いていた黒江と、悩みを抱えた犬彦の2人を見ていた小夜子としてはいいとこ仲直りして談笑しているくらいにしか考えていなかったのに、何がどうしてこうなったのか。

 

 モニタを前に、コントローラーを握りしめた2人がぎゃあぎゃあと騒ぎながらゲームしているこの光景。

 何らかの賭けをしているのだろうことは2人の会話ですぐにわかる。

 

 一見して喧嘩しているように見えるものの、額面通りに受け取る人はいないだろうな、と小夜子は思う。

 口の端に隠しきれない笑みを浮かべた黒江と、テンション高く騒ぐ犬彦。黒江への遠慮ない言葉も2人の関係性があったればこそだ。そも、本当に嫌であれば相手が女性である時点でこうはならない。

 

「まあ色々と解決したみたいなのは良かったけど――ねえ」

 

 それはそれである。

 小夜子なりに心配し、気を配り、部屋に入る時などは蓋を開けたらどうなるかとほんの少し緊張していたところへ、まるで何もなかったかのように繰り広げられるバカップルの如き大騒ぎである。

 小夜子は激怒した。訴訟も辞さない。

 

 小夜子は再び吶喊した。

 

「私も混ぜろリア充どもめ!」

「ゴフッ! 小夜子お前、いつの間に!」

「ナイスアシストです小夜子先輩!」

「あっ! ちょ、おい離れろ小夜子! 何か知らんが後で混ぜてやるから、今は!」

「こうした方が絶対面白いって私のカンが囁くからね、仕方ないね」

「捨てちまえそんな傍迷惑なカン! 黒江、ストップだ! これは予期せぬアクシデントだ! 休戦を要求する!」

「先輩先輩。――外道で悪魔な私がそんな言葉に耳を貸すと思いますか?」

「こ、この野郎しっかり根に持ちやがって……! あ、やめろやめろ! それはやめっ、アッ――!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※この後めちゃくちゃ保存した。


 うじうじタイム終了。
 今度こそ次からROUND2です。

 書いてて死ぬほど思ったけど、黒江泣かせるとか各方面から怒り買いそう。どう足掻いてもギルティ(無慈悲
 黒江ガチ勢(キャラ的にもファン的にも)があっちこっちから湧いてくる未来しか見えない……この作品詰んだのでは……?(震え

 多分次はちょっと時間かかります。
 今回は理屈こねくり回すのが死ぬほど大変だったからですけど、次回はリアルが忙しいので……(白目



余談。
 前話の感想ですが、たくさんのご感想を頂きありがとうございます。
 念のため申し上げますと、作者は香取が嫌いなわけではなく、また貶める目的で書いたわけではありません。
 状況から作者がそう解釈しただけですので、解釈違いの可能性は十分にあります。
 それだけご了承頂ければ幸いです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。