俺と後輩と酒と文学少女と (JOS)
しおりを挟む

プロローグ

――貴方にとって、世界一美味い飲み物は何か。 

 

いきなりこんな質問を投げかけられたときに即答できる人間はどれだけいるだろうか。俺の勝手な予想になるのだが、自信をもって即答できる人間は少ないと思う。まぁ、そもそもいきなりこんな質問を投げかけられる状況がないとは思うのだが、いきなりではなく「貴方が世界で一番好きな飲み物はなんですか?」と聞かれて時間を貰ったとしても多くの人が頭を悩ませるに違いない。その理由はきっと自分自身のコンディションと周りの環境によって答えが変わるからだ。

 

いくら冷たい炭酸ジュースが好きな人がいたとしても真冬の雪ちらつき木枯らしが吹き荒れる中この質問をされたのなら、暖かいお茶やココアと答えるに違いないし、いくら温かいお茶が好きな人でもサハラ砂漠で遭難した時にこんな質問をされたら間違いなく温かいお茶ではなくキンキンに冷えた水を求めるに違いない。

 

まぁ、以上の例は極端すぎる例だが、俺の考えとしては世界一美味い飲み物は周りの環境と自らのコンディションによって変わると思っている。勿論俺も例にも漏れずに周囲の状況によって世界一美味い飲み物は優柔不断に変わる。変わるのだが、それでも一年を通じて殆どの時期においてある一つの飲み物が世界一美味い飲み物だと断言できる。

 

それはズバリ――――ビールである。

 

あの麦わら色の液体はまさしく神が作った天上世界の飲み物だ。この世の中に存在する全ての液体の中であれほど完成されたものはないだろう。間違いなく人類が今まで発明したもの中で五本の指に入るほど有能なものだ。ビールと日本酒とラム酒とウイスキーは人類の発明したもので十本の指に入ると信望して、信仰している。古代ギリシアの芸術は端粛を理想としたそうだ。芸術の理想が端粛なら、飲み物の理想はビールだろう。

 

今は昔、中世の欧州では錬金術という学問が流行ったそうだ。錬金術とは文字通り、金を作り出すという学問だ。結果の方はすでご存知の通り失敗に終わっている。まぁ、鉄くずから黄金を作り出すことは無理だったのだが、この世には黄金に負けずの価値があるビールという飲み物がある。

 

ビールの色は黄金であり、金もまた黄金色である。黄金もビールも人を狂わせる。

 

こう考えてみれば黄金もビールも変わりない物に感じる。程よく求めるなら人生を豊にするが、求めずぎると身を滅ぼす。お互いに身を滅ぼすのならまだ気持ちのよくなれるビールの方がいいのではないだろうかと俺は思う訳だ。

 

かのルイスキャロルが書いた不思議の国のアリスでは、主人公のアリスが瓶に入った液体を飲み、『少し飲んで、その味がサクランボ入りのパイとプリンとパイナップルと七面鳥の焼き肉とタッフィーとトーストを混ぜた様な味。素晴らしい味。』と称しているが、まさしくアリスが飲んだ液体が俺にとってはそのままビールになるという訳だ。きっとアリスもそのまま成長したらビールが世界で一番美味い飲み物だと分かってくれるはずだ。はい、そこただのアル中とか言わない。

 

まぁ、ここまで長々とビールに魅力について語ってきたのだが、俺もある特定の場合にのみビールではなく他の飲み物が世界一美味い飲み物と思う時がある。その少ない特定の場合と言うのが今日みたいな体の芯まで凍えそうな凍てつく冬の日だ。そんな日には鍋でもつつきながら熱燗を御猪口でゆっくりと飲みたいものだ。

 

そう、この物語は今にも雪が降りだしそうなある冬の日に始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――うぅ、寒い寒い。早く帰ろう。

 

 

吐いた息は白かった。口から出た白い息は、そのまま夜の闇に溶け込みすぐに見えなくなる。一月も中旬ともなれば真冬真っ盛り、陽が落ちるのも随分と早くなり、まだ七時にもなっていないというのに夜の帳は完全に降りきっていた。

 

日が落ちてしまえば気温が下がるのは道理であり、昼間比べるとより一層強い冷気が俺を襲っていた。今日は花の金曜日。多くの大人が待ち望む日であり、多くの街の赤提灯が賑わう日である。もう薄々分かっているとは思うが、俺は酒好きだ。酒を愛しているといってもいい。だからこそ、普通の金曜日なら就労が終わり次第、一も二もなく飲みに繰り出すのだが、流石の俺でもこんな極寒地獄の中飲みに繰り出すほど酔狂ではない。いや、訂正しよう。普段なら多分飲みに行く。寒かろうが、暑かろうが店に入ってしまえば関係ない。雨でも日照りでも雪でも嵐でも店の中は極楽浄土である。

 

しかし、だ。今日に限っては別に馴染みの安居酒屋に行かなくても良い。何といっても先日上物の日本酒が手に入ったのだ。たまたま職場の先輩が飲まなないからと言ってくれたその一本は、超有名な銘柄であり、俺の収入からすれば手も足もでない一本だった。まさに神からの恵み。神様仏さま先輩さまである。一週間くらいなら毎日拝んでも構わない。持つべきものはやはり出来た先輩である。

 

――明日休みだし、今日は思いっきり飲むぞ。

 

明日の心配何てしていたら美味い物も美味くなくなる。良い酒を飲むのなら後腐れなく、思いっきり飲むに限る。俺の崇拝する漱石先生も確かその著書の中で、『美味い酒は飲まねば惜しい、少し飲めば飽き足らず、存分飲めば後が不快だ』と書いていたし、俺の意見は間違っていない筈だ。

 

……ん? 漱石はそんなこと書いてないって? 

 

まぁ、あれだ。飯も酒も同じことだろ。両方とも生きていく上では欠かせないものだし。イエス様の血がワインならきっと仏さまの血は日本酒だ。両方とも有り難いものに違いない。え? 仏教は葷酒山門に入るを許さずだろって? まぁ、確かにそうだ。なら、きっと先輩の血液が日本酒なんだろう。

 

――まぁ、そんな下らないことより、さっさと部屋に入るか。このままでと酒を飲む前に凍死しかねん。

 

ブルブルと震えながらボロアパートの階段を上っていた時だった。

 

ふと、自室の窓から光が漏れていることに気付いた。朝、職場に出かける時は勿論部屋の電気は切っていた。安酒場で飲むことが唯一の楽しみであることから分かる様に俺の財布は基本的に薄っぺらい。夏でも冬でも木枯らしが吹き抜けている。だからこそ、日ごろからそういった節約は心掛けてきた。

 

――あぁ、アイツ来てるのね。

 

俺が消した電気がついているとなれば、誰かが部屋の中にいる他に答えはない。泥棒が入った可能性もあるが、こんなボロアパートに侵入しても金目のものなんてありはしない。我が家にある価値のあるものは一に酒に二酒だ。ちなみに付け加えると三四はなくて、五に本である。酒と本しかないのが我が家だ。何度か遊びに来たことのある友人曰く、お前の部屋は大正か昭和初期と称されたこともある。失礼な奴だ。一応、冷蔵庫もテレビだってあるというのに……。

 

閑話休題。話は戻すが、俺の部屋を訪れている人間に心当たりはある。合鍵を持っているのは大家さんを覗くと三人だけだ。一本は俺がもっており、もう一本を持っている人間は平日は学校があって来れない。となると、容疑者は一人に限られる。

 

半ば確信をもってドアノブを捻れれば、案の定何の抵抗もなくすんなりと扉は開かれた。

 

部屋の中は暖房が効いており、入った瞬間に暖かい空気が俺を出迎えてくれた。外の寒波が入り込まない様に素早く扉を閉めて鍵をかける。

 

「おかえりなさい、先輩」

 

そんな時だった。居間に続く襖が一人でに開いたと思ったら、一人の少女が寝転んだ姿勢でこちらを見上げていた。

 

「おう、来てたのか」

 

横着をして寝ころんだままで襖を開けたと見える馬鹿に、おう、と軽く挨拶をする。案の定俺が予想していた侵入者だった。

 

「えぇ、お邪魔しております」

 

彼女は億尾もなくそう言うとぐっと、腹筋に力を入れて状態を起こした。そんな彼女をしり目に俺は靴を適当に脱ぎ捨てると居間へと入る。

 

「何だ、お前まだ飲んでいなかったのか?」

 

冬の最強宝具、こたつの上にはIHのヒーターが一つ。その上には鍋が置かれぽこぽこと気泡が湧いていた。そして鍋の中には徳利が二本。二合入りの徳利が並べられていた。コイツのことだからてっきりもう既に飲んでいるだろうと思ってたが、そうでもないらしい。徳利の中には並々二合入っていた。

 

「えぇ、先輩が来られるまでの我慢してました」

 

そう言って彼女は「出来る後輩でしょ」と笑う。

 

「それは悪かった」

 

クローゼットからハンガーを取り出し上着を吊るすとそのまま彼女の対面に腰を下ろす。

 

「いえいえ、気にしないでください。出来る後輩ですから!」

 

目の前に座るソイツの恰好は薄いTシャツ一枚、恐らく下はショートパンツだろう。部屋の暖房の掛かり具合といい、ソイツの恰好といい、炬燵の上のIHヒーターといい、全てがコイツの行動を物語っている。間違いなくいつも通り勝手に人の部屋の風呂を使い、勝手にくつろいでいたに違いない。

 

伊達に長いことコイツとは付き合っていない。そんなことは聞かなくても分かる。

 

「出来る後輩ねぇ……もう少し可愛げがあればなお良いんだがな」

 

本当の可愛い後輩というのは勝手に先輩の家に上がって好き勝手するような奴では断じてないはずだ。

 

「何言っているんですか? 先輩、楓さんはいつも可愛いですよ!」

 

そう言って目の前の後輩は目を細めて笑う。ふわりとしたボブカットが揺れた。

 

「何が可愛いだよ、鏡見てこい鏡」

 

「さきほどお風呂に入る時に見ましたけど、超絶美人が一人写っているだけでした」

 

俺の失礼な物言いにも動じず彼女は笑う。俺が冗談で言っていることくらい当たり前の様に分かっているようだ。まぁ、お互いに下の毛も生えない時からの付き合いだ。俺もあいつの嘘は分かるし、アイツも俺の嘘は分かる。要するにお互いに嘘は通じない相手という訳だ。

 

「そりゃ、きっと湯気で鏡が曇っていたんだろうなぁ」

 

「うふふふ、残念ですが脱衣所でも見たのでそれはないですね」

 

何が可笑しいのかにこにことソイツは笑う。特徴的な群青と翡翠色のオッドアイを細めながら彼女は笑みを崩さない。何がそんなに楽しいのか俺にはさっぱりだ。出来る事ならその楽しさを一割でも分けてほしいものだ。

 

「――それよりも先輩」

 

そんなことを考えている時だった。後輩はそう言いながら、御猪口をこちらに差し出す。

 

「一献いかがですか?」

 

「――あぁ、いただこう。お返しにどうぞ」

 

「――――ありがとうございます、先輩」

 

お互いに御猪口の中身が潤ったところで、

 

「「――乾杯」」

 

ある冬の夜はこうして始まった。そう、ここいらで目の前に座っている彼女の紹介をしておこう。

 

先ほどの会話出た通り、彼女の名前は楓、名字は高垣。

 

ここまで来ればほとんどの人が分かってくれると思う。

 

そう俺の小生意気な後輩は――高垣楓。

 

彼女はナンバーワンアイドル――――シンデレラガールだ。




『俺と後輩と酒と』の最終回に行き詰ったので、こういう時はキャラに伸び伸びとう動いて貰おうということで……。完結は保障できません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話

アイツは俺の事を常に先輩と呼んでいた。慕っているかは分からん。ただ日頃のアイツの傍若無人ぶりを見るに恐らく俺の事は尊敬すべき、先輩ではなく都合のいい近所の兄貴的なポジションだと思っていそうだ。まぁ、変に気を使われるとこちらとしてもむず痒い物があるので、俺としてもこのままの態度の方が助かるは事実だ。序に言えば異性としても思っていない。風呂上りに下着姿のままウロウロしたり、酔った勢いで服を脱ぎ始めるのがコイツだ。俺のことをいったい何と思っているのか非常に気になるとことだ。

 

「――――美味しいですね、先輩」

 

目の間にはいつも通りニコニコと笑顔のアイツがいた。何がそんなに楽しいのかさっぱりと分からないのだが、美人は仏頂面よりも笑顔が似合う。そう、つけあがるため本人には死んでも言ってやらないが、俺の後輩は美人である。それもただの美人でない。特Aクラスの美人だ。

 

陶器のような透明感のある白い肌。メリハリがはっきりした顔。元々カリスマモデルをしていたためスタイルについても殆どいうことはない。あるとすれば胸がないくらいだ。まぁ、この話をするといつぞやの如くロング缶を投げられること間違いないので黙っておこう。

 

「そうだな、やっぱり冬はこれだよな」

 

そう言って目の前に置かれていた湯呑を啜る。中身は熱々の緑茶だ。目の前に座る小生意気な後輩がいつの間にか持ってきたものだった。お茶っぱには全く詳しくないのだが、いいものだろう。俺が飲んでも美味いと思う緑茶だ。

 

新年に入ってもう既に一か月と少しが過ぎた。冬将軍はますます勢力を強めて全盛期。外はチラチラと雪が降っていた。そんな真冬の午後三時。俺と小生意気な後輩は炬燵に向かい合って緑茶を啜っていた。

 

「そうですよ、やはり冬は炬燵にこれですね」

 

場所は例にも漏れず俺の住んでいるボロアパートの一室。昨日の夜から何故かいる後輩はいつも通り勝手に泊まっていき、今に至るというわけだった。結構な頻度で泊りにくるため俺の部屋にはこの馬鹿の荷物が非常に多い。もともと物欲というものがほとんどないため実家にいた時から本と寝具と最低限度の服くらいしか部屋にはなかった。そんな俺の部屋が色々なものに溢れかえっているのは単にこの後輩が勝手に色々と持ってくるからだと言っていい。ちなみに俺たちが今いる居間の中で言うならば、TV、ソファー、クローゼットなどなどが彼女の私物だったりする。服に限って言えば間違いなく俺の服よりも倍以上が置いてる有様だ。勝手知ったる他人の家を素でいっている人間が俺の後輩だったりする。

 

「それよりも、先輩、昨日はお疲れのようで」

 

お茶の入った湯呑を置いて彼女は言った。

 

「あぁ、少しばかり立て込んだ仕事があってな、ここ数日まともに家に帰ってなかったんだよ」

 

思い返してみると酷い一週間だった。家に帰れたのが一日だけ、それも終電を逃してタクシーで帰り、そのまま仮眠をとって始発で出社。それ以外は会社のデスクで眠る日々。おかげ様で好きな酒は一滴も飲めず、ストレスと疲労ばかりが溜まる一週間だった。あのまま行けば俺はきっとストレスで死んでいたに違いない。いや間違いない。後一週間もすれば死んでいた。

 

「それはお疲れ様でした。先輩」

 

彼女は薄く微笑むと、炬燵の中心に置かれた柿色の急須を手に取り俺の湯呑に中身を注ぐ。そんな後輩にありがとう、と礼を言うと、気にしないで下さいと返ってきた。

 

「しかし、悪かったな昨日は付き合えなくて」

 

地獄の一週間と引き換えに三日の休日を手に入れた俺は遊びに来ていた彼女と数日振りの晩酌としゃれこもうとしたのだが、やはり睡眠不足と疲労には勝つことが出来ず、ビール一本で炬燵で寝てしまった。朝起きると寝室の布団の中で寝ていたため彼女が運んでくれてたのだろう。布団からほのかに何時もと違う匂いがした。昼過ぎに起きて礼を言うと、「いえいえ、私も久し振りに先輩といssy―――いや、何でもありません。お気になさらず」と何とも怪しげな返事が返ってきたが、深く考えるのは辞めておくことにした。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。藪から出てくるのが棒ならいいが、蛇やら鬼やら出て来た時にはしゃれにならん。

 

「しょうがないですよ。お疲れだったんですもの」

 

「いや、お前の方が多忙だろ」

 

こうやって普通に話していると忘れそうだが、彼女はその実滅茶苦茶多忙な人間だ。日本でもトップレベルに入ると言っても過言ではない。何といっても去年のクリスマスにアイドル界のトップ、シンデレラガールに輝いたのだ。今では日本中探してもコイツの知らない奴の方が圧倒的に少ないだろう。テレビをつければ見ない日はなく。街に出ればどこかでコイツの持ち歌が流れる。コンビニに行けば表紙を飾った雑誌が積んである。そんな存在が目の前の彼女である。俺なんかとは文字通り比べ物にならない。

 

――本当に何でここにいるんだろうな。

 

「うーん、まぁ、忙しいと言えば忙しいですけど……最近は落ち着いてきましたし」

 

「これで落ち着いてきたのか……」

 

「はい、シンデレラガールになって前よりもすこーしだけ忙しくなりましたけど、それくらいです」

 

そう言われてみればコイツは昔から多忙だったことを思い出す。大学時代にはモデルと学業の二足わらじを履いていたし、アイドルになってからは直ぐにトップアイドルになり国民的アイドルになった。そんな彼女からすればシンデレラガールになって仕事が増えたとしてもその差異は微々たるもかもしれない。

 

――まぁ、コイツだもんな。

 

昔から何でも卒なく要領よくこなしてきたのは知っている。きっと俺なんかが血反吐を吐く思いでやっていることも彼女にして見れば何でもないのかもしれない。いや実質なんでもないのだろう。彼女にはそれだけの才能がある。

 

――高垣楓だから。

 

今までの人生で幾重にも思った諦めに似た感情を心の中で吐露する。そう、彼女ならこの程度のこと出来て当たり前だ。それが彼女だ。

 

「それに、休みの日はこうして先輩のところでリフレッシュ出来てますし、今のところこの暮らしに満足してます」

 

「そうか、まぁこんな部屋で良ければ勝手にくつろいでくれ。俺は飲みにしか付き合えんが」

 

カリスマモデル、トップアイドル、そしてシンデレラガール。彼女が歩んできた輝かしい道の裏側でどれほどの苦労やストレスがあったのか俺には分からない、想像も出来ない。今は昔夏目漱石はこう書いた。

 

『明暗は表裏のごとく、日の当たる所にはきっと影がさす。――喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい』

 

彼女は確かに輝かしい道を歩んでいる。人よりも多くの栄冠をつかんだ。でも、きっとその分彼女は多くの影を背負っている、多くの憂いを帯びている。

 

俺は彼女と違ってただの一般市民だ。お金も持っていなければ、勉強が出来る訳でもない。凄い人脈もがあるある訳でも無論ない。どちらかと言わずとも、貧乏な方だし、勉強では彼女に遠くも及ばない、凄い人脈どころか、友好関係だって狭い方だ。容姿、金銭、学問、人脈、その全てにおいて俺は彼女に劣っている。序に述べれば性格と運動神経だって劣っている。太陽が東から昇るように、水が高い所から低い所へ流れるように、断然たる事実として俺は彼女に何一つ勝っている点がない。

 

――でも、そんな俺に出来ることがあるなら、彼女の影を憂いを少しでも無くせるのなら……。

 

別に俺とコイツは付き合っている訳でも何でもない。ただ付き合いの長い腐れ縁だ。良く言えば幼馴染なだけだ。俺はコイツの事を妹みたいな存在と思っているし、彼女もきっと俺のことを兄の様な存在だと思っているだろう。

 

それでも伊達に付き合いは長くない。俺に出来る範囲であれば彼女のことを応援してもいいくらいには彼女のことを思っているつもりだ。彼女は俺と飲むことがリフレッシュになると言った。それで彼女の気が晴れるのであればいくらだって付き合う。美人と飲めるなんて俺も嬉しい。

 

「うふふふふふふ、やっぱり先輩は優しいですね」

 

彼女はそう言って琳瑯璆鏘として鳴るような声で笑う。本当によく笑う奴だ。よくテレビとかを見ていると彼女はクールな大人のアイドルして映っているし、そういうキャラで売っている。実際に多くのファンもそう思っているだろう。でも俺からすれば彼女は昔からよく笑う奴だった。いつも飄々とした笑みを浮かべ猫の様に目を細める。高垣楓のイメージは昔からそれだった。きっとそのイメージが変わることはこれから先もないだろう。

 

彼女の笑みは昔から変わらず。

 

――俺はその笑みを見るたびに……。

 

「まぁ、あれだな。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人には親切がしてみたものだ」

 

「先輩、本当に漱石が好きですね」

 

「そういうお前もただの一文で漱石と分かるんだから相当なもんだろ」

 

「それはそうですよ。先輩の本棚にあった本は全部読みましたから、私も漱石は好きですよ」

 

まぁ、先輩の漱石好きには負けますけど、そう付け加えて彼女は微笑む。

 

「いや、別に俺は漱石が好きな訳じゃないぞ」

 

確かに漱石の作品は比較的読んだが、その全てが面白かったかと問われれば首を傾げざるを得ない。勿論好きな作品もあるが、漱石の作品が全部好きかと言われれば答えはノーだ。正確にいうならある一作品だけ異様に好きな作品があると言った方が正しい。

 

「それも分かってます。あの本だけが異様に好きなんですよね」

 

「まぁ、そうだな……」

 

楽し気にうんうんと頷いてる彼女に緑茶を啜りながら適当に応える。

 

そんな時だった。ソイツが「あっ」と思いついたように声を出した。

 

「ん? どうしたんだ?」

 

「先輩、実は明日の午前中の仕事がキャンセルになりまして、明日は午後からなんですよね」

 

「へぇ、珍しいことも在るもんだな」

 

「えぇ、だから、緑茶も良いですけど……どうですこれ?」

 

そう言って彼女はくいっと御猪口を飲む真似をする。

 

「お前今何時から知ってるのか?」

 

時計を見る。ボロ時計は三時と四時の丁度中間を差していた。つまりバリバリの昼間である。

 

「三時半です」

 

だから? と言った顔で後輩は応えた。

 

「昨日は飲めなかったんですし、今日はゆっくり飲みましょうよ! いい日本酒も買って来てますし」

 

そう言って彼女は目を細めて猫の鳴く様な声で笑う。特徴的な泣きぼくろが彼女の魅力をさらに上げていた。

 

「そういう事は早く言え。まぁ、たまには昼から飲んでも罰は当たらんか」

 

「えぇ、今日は昨日分も含めてゆっくり飲みましょう」

 

こうして雪がちらつくある冬の昼間の飲み会は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

注意 これから下は完全におふざけです。茶番100パーセントです。それでもよろしければご覧ください。本編には一ミリたりとも関係ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――はい、皆さんこんばんは! 346プロダクション、ナイトラジオのお時間です! このラジオはお酒を飲みながら本やお酒の話をするゆるーいラジオです。リスナーの皆さんも何も考えずにゆるーく、聞いてください! このラジオの司会を務めるのは、私、高垣楓と先輩でーす!!

 

おい、一体どうなっているんだ?

 

――どうなっているとは?

 

いや、飲みに行こうと誘われて付いてきたらこの346プロダクションの放送室だったわけなんだが、どういうことだ?

 

――どうもこうも、今言った通りですよ、先輩!

 

いや、だから今言ったことの意味が分からないんだが…… ラジオ? 346プロ? 何言ってんだお前は?

 

――ん? 何か問題でも?

 

いや、問題しかないだろ。ラジオでいきなり高垣楓の先輩とか出てきたらリスナーさんもビックリするだろ。ってか色々と勘違いしたファンに刺されそうなんだが。

 

――そのあたりは大丈夫ですよ。このラジオは社内でしか流れないので

 

社内でしか?

 

――そうです。所謂、校内放送の本格番みたいなやつです。イメージ的に言うなら、大学のキャンパスラジオみたいなノリですね! トーク力なんていりません。先輩はいつもどおり話してくださればOKです!

 

なるほど、でもそれって需要あるのか?

 

――さぁ、どうですかね? まぁ、需要があろうがなかろうがやってマイナスにはならないので大丈夫です。要は完全に趣味です。

 

趣味って……趣味でこんな立派な放送室使っていいのか?

 

――いいんです。許可は下りてますから!

 

は、はぁ……。いやでも、やる気が出ないんだが。

 

――まぁ、趣味レベルの社内ラジオなので報酬は出ませんが、報酬がわりにこの放送ではお酒が飲めます!

 

酒飲みながら喋るんだっけ?

 

――はい! ちなみに今日は山崎を持ってきました!

 

よし、今すぐ始めよう。ハリーアップ!

 

――流石先輩、見事な変わり身ですね!

 

こんな高級な一本が、ただ駄弁るだけで飲めるならいくらでも出てやるよ。ただ、本当にトークには期待するなよ。

 

――大丈夫です。いつも通りに話してくれればいいので!

 

OKOKじゃあ、始めようか。

 

――その前に……先輩飲み方はどうされますか? いつも通り、ニートとチェイサーで炭酸水でいいですか?

 

あぁ、それで頼む。

 

――分かりました! 張り切って作りますよ!

 

いや、作るも何もないだろ。それに……

 

――あると、思えばあるんです!

 

やけにテンション高いな今日。

 

――はい! 先輩出来ましたよ。

 

あぁ、ありがとう。お前はハイボールか。

 

――えぇ、楓さんはハイボールです!

 

で、ラジオはいつから始まるんだ? 一応心構えをしておきたい。

 

――もう、とっくの昔に始まってます。

 

は? 今なんて?

 

――だから、とっくの昔に始まっていますよ、先輩。具体的には先輩がこの放送室に入ってきた時からです。

 

は? じゃあこれまでの会話全部流れてたのか?

 

――イエス!

 

イエスじゃねーよ。どうするだよこれ、放送事故じゃないか!

 

――大丈夫です。社内ラジオですので放送事故なんてありません!

 

いや、ドヤ顔してるけど、本当に大丈夫なんだろうな?

 

――はい! 本当にまずい場合は誰か飛んでくるでしょうし、今のところは大丈夫です。

 

はぁ、なんか疲れたわ。

 

――では、早速乾杯といきたいんですが……先に本日のゲストを招きたいと思います!

 

ゲスト?

 

――はい、ゲストです。このラジオでは基本的に私と先輩とゲストの方でだるーくお送りしていくラジオですので。では、本日映えある第一回のゲストはこの方です!

 

『はい、皆さんこんばんは! 七尾百合子です!』

 

ゆ、百合子!?

 

『はい、 オジさんの百合子です』

 

来てそうそう何言ってんだよ、お前……。ってかお前完全に部外者だけどいいのかそれ?

 

――はい、こんばんは百合子ちゃん。今日は宜しくお願いしますね。

 

『楓さん、よろしくお願いします』

 

おい、俺の話しは無視かよ……。

 

――大丈夫です、先輩。このラジオは無法空間ですので、まだ本編に出ていない百合子ちゃんがゲストで出ようと何も問題ありません。

 

『その通りですよ、オジさん。私は本編にそのうち出てくるんです! だからこのラジオは七尾百合子の先行登場と言えるんです!』

 

お前ら本編とかそんなこと言っていいのか?

 

――いいんです。何故ならここは本編から隔離されたメタ空間なので! ネタバレ、メタコメなんでもありです! あ、百合子ちゃんはお酒は飲めませんのでオレンジジュースで我慢してくださいね。

 

お、おう……。

 

『ありがとうございます』

 

――それではまずは乾杯しましょう! 

 

「「「乾杯」」」

 

――では、早速始めましょう。本日のテーマはこれ!「印象に残るタイトルの本」です!

 

『なるほど、これは興味深いテーマですね!』

 

何で百合子はいきなり来てここまで対応出来てるんだ……。

 

――まぁ、先輩。細かいことは置いておいて、早速考えて下さいよ。

 

ん……まぁ、飲んだドリンク分くらいは頑張るよ。

 

――はい、お願いしますね。それと思いついたら目の前のボードに記入してくださいね。

 

あぁ、このボードそう言う意味だったのな。

 

『うーん、色々悩みますけどやっぱりこれかな……』

 

何だ百合子、もう書いたのか?

 

『はい、少し悩んだんですけど、やっぱりこれかぁと思って』

 

――へぇ、百合子ちゃん早いですね。あ、それと先輩は漱石の本を上げるのはなしです。

 

はぁ、なんでだよ?

 

――だって先輩何から何まで漱石の本をあげそうですので。

 

『確かにオジさんはそうですよね』

 

――よって、漱石はなしです。いいですね。

 

はいはい、分りましたよ。

 

 

 

 

 

 

――皆さん書けましたか? あ、先輩お代わりどうぞ

 

あぁ、ありがとう。書けたぞ。

 

『はい、私もばっちりです』

 

――では、発表をお願いします。まず、百合子ちゃんから!

 

『はい、私はこれです――アルジャーノンに花束を、です』

 

あぁ、また古典をもってきたな。

 

――これは分りますね。誰かが選ぶと思ってました。

 

『はい、色々と悩みましたけど、この本にしました。やっぱり何と言っても物語を読むと分かる題名の意味です! 内容も面白いし、興味深い話です』

 

確かにこれは読んだ人と呼んでない人でタイトルに対する考えが変わるだろうな。

 

――SFの中でも有名どころの中の有名どころですもんね。読んだ人も多いと思います。

 

『有名なだけじゃなくて色々と考えさせれる話ですよね。教養とは人間関係に楔を打ち込む……。知識を得ることが幸せなのかどうか……幸せとは何か本当に考えさせられるお話ですね』

 

――確かこの名言をもじったやつが本編の隠れテーマになっているんですよね。『彼女の才能は、俺と彼女の間に楔を打ち込む』もしくは、『俺の醜い嫉妬心は俺と彼女の間に楔を打ち込む』。

 

『へぇ、そんな裏話があったんですね』

 

――まぁこの話は置いておきましょう。アルジャーノンに花束をといえば、やっぱり終わり方ですよね。特に最後のつい……おっとこれ以上は読んだことのない人もいらっしゃると思いますのでやめておきましょう。でも、しかしSF小説は面白いタイトルの本が多いですよね。

 

あぁ、確かにSFの本は面白い題名の本が多いな。

 

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? たった一つの冴えたやり方 世界の中心で愛を叫んだけもの……有名どころだけでもこれだけありますね』

 

――そう言えば先輩が一度タイトル買いしたらSF本ばかりなったこともありましたね。

 

あー、そんなこともあったな。それだけタイトルが興味深い本が多いんだろうなぁ……。

 

――では次は私の発表と行きますね! 私はこれです――不思議の国のアリス。

 

また、超有名どころ持って来たな。聖書とシェイクスピアに次ぐ有名どころじゃねぇか。

 

『これは題名内容含めて知らない人の方が少ない本ですよね。アニメにも漫画にもなっていますし』

 

――もう内容について語ることはいいでしょう。この本のタイトルの良い所は非常に分かりやすいところですね。不思議の国のアリス。この題名だけでこの本がどんな内容かが分かります。スマートな本ですね。

 

確かにそう言う意味ではこれ以上に分かりやすい本はないな。タイトルもスマートだし心に残りやすい。

 

『内容も言葉遊びや当時の教訓が色々と書かれてあって面白いですし、勉強にもなりますよね』

 

――はい、アンジャーノンに花束をが読んで意味が分かるタイトルなら、不思議の国のアリスは読まなくても意味が分かるタイトルと言えますね。

 

雪国やら人間失格、彼岸過ぎまでなんて言うのもそういう分かりやすいタイトルだとは思うけど不思議の国のアリスに比べると少し毛色が違うな、やっぱり。どれも素晴らしい題名だけど。

 

――続編の鏡の国のアリスもそのままの題名ですし。そう言う意味ではおススメですね。それに本編でもこの小説でも初めに引用してましたし、結構関わり深い作品ですね。では、最後に先輩の答えを聞きましょう。

 

あぁ、俺か。俺はこれだ――ロリータ。

 

――…………。

 

『…………』

 

おい、黙るなよ! それこそ放送事故だろ!

 

――い、いや予想外だったので少し固まってました。先輩の事ですので夜は短し歩けよ乙女、とか永遠も半ばを過ぎて、辺りをチョイスすると思ってました。

 

『それか存在と時間とか、純粋理性批判とか哲学書でせめてくるかと……』

 

いや、そこらの本も浮かんできたんだけどな。一番初めに浮かんできたのがこれだった。

 

――ロリータですか。まぁ、確かに特徴的な題名ですね。

 

『ロリータコンプレックスとかロリータファッションの言葉のもとになった本ですよね』

 

そうだな、内容には賛否両論あるとは思うけど俺は好きだよ。あの物語。

 

――まぁ内容に関していうのならロリータよりもドロドロとした話はいっぱいありますしね。シェイクスピアとか中々酷いお話が多いです。

 

『人は小説を読むことが出来ない。ただ再読しているだけだ、でしたっけナボコフさんが言った言葉』

 

流石、百合子よく知ってるな。そうそうロリータと言う本は読み返す度に新しい発見のある本なんだよなぁ。まぁ、これは題名関係ない話だけど。

 

――でも。ロリータですか……。一体何人の方が読まれたことがあるんでしょうか?

 

『有名なだけで読んでいる人は少ないと思います。本屋にも売ってないですし』

 

そうだよなぁ、内容も語ろと思ったらマニアックになってしまうしなぁ。まぁ、面白いから読んでくれとしかいえないなぁ。

 

――私たちは皆読んだことありますけど、確かに内容を話し合うと……。まぁ、私も面白いので見てくださいとしか言えないですね。

 

――あっと、初めの方に色々と時間を取り過ぎてしまったので、本日はここまでです! 最後に視聴者クイズを出して終わりましょう。インターネットとかで調べたらいけませんよ!

 

クイズ? そんなのあるのか?

 

――景品は出ませんが。ちなみに事前に百合子ちゃんには解いてもらいました。

 

『はい、一応全部書いたんですが、あってるかどうかは……。難しかったです』

 

――大丈夫よ。百合子ちゃん。満点でした!

 

『や、やりました! オジさん!』

 

へぇ、やるじゃないか百合子。

 

『えへへへへ』

 

――ちなみに私も満点でしたよ、先輩!

 

いやお前は当たり前だろ。何中学生に張り合ってんだよ。

 

――ぶーぶー、差別だ差別!

 

はいはい。後で構ってやるから先進めろよ。

 

――あ、そうでした。では問題を出しますね。それと、次回のゲストは引き続き、百合子ちゃんでお送りします。テーマは「心に残る小説の冒頭です」では、皆さんまた次回! 

 

『今日はありがとうございました』

 

ありがとうございました。って本当にこれ流れてるのか……?

 

 

 

 

 

 

 

 

問題1 不思議の国のアリスの著者は?

 

問題2 不思議の国のアリス。アリスのモデルとされている少女の名前は?

 

問題3 アルジャーノンに花束を。アルジャーノンとは何?

 

問題4 ロリータ。ロリータと呼ばれる少女のフルネームは?

 

問題5 ロリータ。主人公の名前は?

 




本編と茶番の文字数が同じって……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話

空を見上げれば二月の空と呼ぶのに相応しい鉛色の重い曇天が頭上を覆っていた。それが何とも俺の言葉では伝えることが出来ない微妙な心の中を現しているようで少しおかしくなって、乾いた息が漏れた。

 

まだ夕方の四時を五分ほど過ぎただけの時刻だと言うのに随分と気温は低いのか、零れた息は真っ白だ。そう言えば朝のニュースで今日は今冬一番の寒さになると言っていたのを思い出す。昼過ぎからは雪が降るかもと美人のキャスターが言っていた。

 

――あぁ、どうりで寒いわけだ。

 

コートにマフラーそれに手袋。これだけの完全防備なのに寒い理由に納得する。

 

何とも形容しがたい空の下をゆっくりと歩けば横から笑い声が聞こえ来た。

 

「うふふ、先輩楽しいですね」

 

何とも楽し気な笑い声は風鈴の音の様に涼やかで璆鏘琳朗として鳴るような声だった。何時ものように綺麗な笑い声なのだが、その声は少しばかり音が籠っている。

 

何がそんなに楽しいやらと声がする方を見てみれば、黒いキャップを深く被り、口元をマスクで覆った黒目、金髪ロングヘア―の女と目があった。ちなみに、服装は茶色のロングコートに口元には黒いマフラーを巻いている。黒いキャップと口元のマスク、これにサングラスでもすれば怪しさ役満の不審者が出来上がりなのだが、惜しいことにサングラスがないことと、目元だけでも分かるソイツの整った顔により良くて二翻どまりという結果になっている。くやしいことにどんな格好をしてもソイツは美人だった。まぁ、つけあがるため死んでも本人には言ってやらない。言ったが最後確実につけあがるのは火を見るよりも明らかだ。

 

「そーかい、そーかい。楽しそうで何よりだ」

 

うふふ、と笑うそいつに適当に返事を返す。付き合いは短くはない。会話には苦労しないし、適当に返事をしても相手が傷つかないことくらい分かってる。空はこんなにも曇天だと言うのに彼女の心の中は晴れ晴れとしていそうだ。

 

さて、もうすでにお気づきだと思うが、俺の左隣をあるく謎の金髪美女の正体は例の後輩だ。特徴的なボブヘア―は金髪のウィッグで覆い、宝石の様な群青と紺碧の双眼は黒のカラコンをすることで隠し、最後に口元をマスクで覆えば完成である。

 

マスクの方は顔を隠すついでに声も籠らせることが出来て二重の意味があるらしい。非常にどう手も良い話だな、すまん。

 

では、何故こんな格好をコイツがしているのかと言うと、これは言うまでもなく変装の意味だ。長いことコイツと腐れ縁をやっているため忘れそうになるが、コイツは有名人だ。それもただの有名人ではない。超ド級の有名人だ。全国でアンケートを取ったとすればコイツの事を知らない人の方が少ないであろう国民的アイドルだ。この国の内閣総理大臣の名前は知らなくてもコイツの顔と名前は知っているという人間も多いだろう。比喩ではないそれほどまでに彼女の顔を名前は売れている。

 

アイドルの最高峰

 

――――シンデレラガール 高垣楓。

 

この肩書と彼女の名前の重さは伊達ではない。変装もせずに外に出ようものならば、一瞬で人だかりができ、混乱が生まれるのは想像に難くない。そして、一緒にいる俺に被害が及ぶのもまたしかりだ。

 

「えぇ、とっても楽しいです。まさか、先輩とこうして出かける事が出来る何て」

 

「出かけるも何も近所の商店街に買い物に行くだけじゃないか」

 

では、何故俺と彼女が一緒にこんな曇天の空の下を仲良く歩いているのかと言うと、夕飯の買い出しに行くと言った俺に彼女が「一緒に行きますよっ! 先輩っ!」と張り切ってついてだけの話だ。デートだとか、逢引きだとか考えた奴がいたら悪いがそれはないとだけ言っておこう。俺とコイツはただの付き合いの長い先輩と後輩以上の関係はない。

 

ついでに何故こんな寒空の下、夕飯の買い出しなんて行っているのかと言えば、先日我が家をいつも通り訪れていた後輩に少しばかり少しばかり痛いところを突かれたからだ。

 

いくら気のおける後輩とは言え、後輩に日頃の食生活で小言を言われると少しばかり恥ずかしい。男の一人暮らしなら大抵はカップラーメン生活になると思うのだが、俺だけだろうか。是非機会があれば他の一人暮らしの男性にも聞いてみたいところだ。

 

――先輩、ダメですよ。いくら一人暮らしでもカップラーメンやレトルトばかり食べては! 今日は私が多めに保存がきく料理を作っていきますので先輩はしばらくこれを温めて食べて下さいね! いくら、面倒くさがりな先輩でもこれくらいはして下さい!

 

数日前に突然やってきた後輩はそう言って食材を持てるだけ買い込み、冷蔵庫に料理一杯を詰め込んで帰っていった。アイドルの最高峰シンデレラガールの貴重な休日をそんなしょーもないことに使わせたことに思う所があったためこうして買い物へと精を出しているという訳だ。

 

「うふふふふふ、それでもいいんですよ。分かってないですね、先輩っ!」

 

何がそんなに楽しいのか見当もつかないし、考えることもしないのだが、彼女は足取りが軽く、半ばスキップするかのように足を進める。秋の空と女心、昔の人はそう言いました。俺には彼女の心情なんて殆ど分りはしない。分りはしないが、彼女が今、心の底から楽しげに笑っていることくらいは分かる。マスクの下は喜色満面だ。いくら顔を覆おうがそれくらいのことは分かる。なんせ、人生の五分の四以上の付き合いだ。お互いの喜怒哀楽や嘘程度なら直ぐに分かる。

 

先輩も楽しいですよね、彼女は俺の数歩先を歩きながら振り返りそう言った。

 

「まぁ、一人でいるよりかはいいか」

 

俺だって男だ。美人と買い出しに行けるのは嬉しい。こんな寒空の下、これくらいは役得があっても罰は当たらないだろう。

 

「先輩は本当に素直じゃありませんね! 女の子の扱いが分かってないです。これじゃあ行き遅れてしまいますよ」

 

足取りの軽い彼女に合わせて少しだけ足を踏み出すスピードを上げる。

 

「行き遅れるかぁ……」

 

四捨五入をすれば三十と言う歳になる俺にとっては何とも耳の痛い話だ。まぁ、孫の顔を見せるべき相手は既にいないのだが、大学の同期や高校の同期なんて言うのがポツポツと結婚しはじめてきている。子供がいる奴まで既に数人知っている。それに比べて俺はと言うと結婚どころか彼女すらいない、極めつけは女友達まで皆無と言う有様だった。別にどうしても結婚をしたいという願望はないのだがこのまま寂しく人生を過ごすのは、どうかなぁとは自分でも思う。

 

「大丈夫ですよ、行き遅れてたら私が貰って上げます」

 

「そーかい、そーかい、有り難い話だよ、全く。まぁ、耳の痛い話だが、お前の方はどうなんだよ。いい加減いい歳だろ二十五なんて」

 

「うーん、そうですね。今のところは色々と忙しいのでそう言ったことはあまり考えてませんね」

 

俺の問いかけに彼女は含みのある視線をこちらに寄越したあと、淡々と答えた。

 

「お前の方こそ行き遅れるんじゃねぇのか?」

 

「うふふふ、そーかもしれません」

 

その返答をソイツがしたように軽口をもって迎える。

 

「もしも、行き遅れたらまぁそん時は俺が貰ってやるよ」

 

まぁ、その可能性は100パーセントないだろうけど。モテない俺と違い彼女はモテる。まぁ、当たり前だ。だからこそ、彼女が行き遅れることなんてありえない。

 

見た目は元カリスマモデルであり、現役アイドルの時点でスタイル、顔ともに文句のつけようがないのは言うまでもないし、内面の方もこれまた文句のつけようがない位良い奴だ。俺には小生意気な態度で接する彼女だが、俺以外の人間に対しては凄く丁寧に接する、自分の才能を鼻にかけることはしないし、友達思いだ。俺とは違い友達も多いことからも彼女の性格の良さがうかがえるだろう。

 

見た目もよし、性格もよし、と来ているのに彼女はそれに加えて頭まで良いと来ている。未だに何で俺と同じ大学に通っていたのかが謎だが、高校時代の同級生曰く、間違いなく赤門のあるあの大学の医学部に入れるだけの実力があったとか、まぁ今になってしまえばその真相は闇の中だ。

 

ついでに言えば運動だって馬鹿の様に出来る。天は二物だけでなく、三物も四物も与えるらしい。俺は一つも与えられていないと言うのに全くこの世の中は理不尽で不公平である。

 

閑話休題。

 

天は二物を与えず、という言葉の否定を体現したような彼女を誰が受け入れないと言うのだろうか。彼女の告白を断る奴がもし居るとすれば見てみたい。それほどまでに高垣楓は完成された人間だ。

 

「あらあら、先輩が貰ってくださるのなら遅れてみるのもありですね」

 

後輩はそう言って笑った後、軽快な足の速度を更に上げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目的の商店街は我が家のボロアパートから歩くこと約十数分の所に存在する。大学時代に東京へ越してきて以来、ずっと今のボロアパートで暮らしており、その頃よりたまに買い物へと訪れてきたため商店街の中は庭の様に熟知している。

 

――今日は、一段と人がいないことで……。

 

近くに大型ショッピングモールやスーパーがあるためこの商店街で買い物をする人は少ない。俺が越してきた数年前はまだそこそこの活気があったのだが今ではその頃の勢いすらなく、平日にもなるとこのように行き交う人もまばらになっている。

 

――まぁ、今日が一段と寒いせいもあるか……。

 

先ほどから吐く息は相変わらず真っ白だ。頭上も重い鉛色。何時雪が降っても可笑しくない。普段から人通りが少ないこの商店街が更に閑散しているように見えるのはその影響も多少なりともあるだろう。俺だって何も無ければお金を積まれたとしても外出は断る。

 

「先輩、まずはどこに行かれます?」

 

マスク越しに後輩が聞いてくる。あらかじめある程度ルートは考えてきているため、そのまま声に出す。

 

「まずは、八百屋からだな。その後に肉屋、最後にコロッケでも買って帰るか」

 

「分かりました。じゃあまずはあのオジさんの八百屋ですね!」

 

俺は勿論のことコイツもこの商店街を訪れた回数は数えきれない。勿論、多くの店を知っている。まぁ、最近はアイドルの仕事が忙しく行ったことは流石にないそうだが、数年行かなかっただけで彼女の記憶から消えることはないだろう。その証拠に俺の数歩先を歩いている。

 

「そうだな、そのルートで行こう」

 

と、ここまで言った時だった。ふと、思い出したことがあった。

 

「あっ」

 

「どうしました? 先輩」

俺の声に後輩が足を止める。

 

「いや、そう言えば米あったかなと思って」

 

普段から台所に立つときはおつまみをつくる気だけだったのですっかり米の存在を忘れていた。と言うか、前に米を買ったのはいつだっただろうか……。それすらも覚えていない。

 

「あぁ、この間先輩の台所の戸棚で五キロの未開封を見かけましたよ。なので大丈夫です」

 

俺の疑問に後輩はさっさと応える。

 

「おう、そうかありがとう。じゃあ米屋はいいか」

 

「そうですね」

 

再び歩きはじめる後輩の後を俺はゆっくりと追いかけるのだった。

 

――今更だけど、なんでコイツの方が俺よりも俺の家の台所事情詳しいんだろうなぁ。

 

少しは料理しよう、改めそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目的の八百屋までは直ぐについた。その間後輩とどうでもいいことを話ながら歩いたのだったが、すれ違う人は誰も俺の横を歩く彼女が高垣楓だとは気づいていなかった。

 

まぁ、それはそうか、俺が彼らだったら、あのシンデレラガール 高垣楓がこんな寂れた商店街に来るはずがないと思うはずだし、そもそもこんな変装をしていては彼女の友達ですら分からないだろう。

 

「おじちゃん、久しぶり」

 

店先で商品の品分けをしていた後ろ姿に声を掛ける。

 

「ん? おう、兄ちゃんじゃねぇか! 久しぶりだな、最近めっきりと来なくなったけど忙しかったのか?」

 

トレードマークの白いタオルを今日も今日とて頭に巻いた店主は俺の顔を見るなりそう言って豪快に笑った。

 

「まぁ、そんな感じですよ。今日は久々に何かまともな料理でも作ろうと思って来ました」

 

「そうかそうか、今日は新鮮な野菜ばかりだから全部おススメだぞ……」

 

店主はそこまで言った後、俺の横にいる後輩に目を向けて少しばかり言葉を途切れさせた。そして、暫くの後、

 

「なんだ、楓ちゃんじゃないか! 来てたのかい! なら、そう言ってくれよ!」

 

と、これまた豪快に笑いながらソイツの肩をポンポンと叩き笑う。

 

「…………」

 

この行動に呆気にとられたのか、ソイツはただ言葉もなく呆然と立ち尽くす。まぁ、俺だって少し驚いた。まさか一言も話してないのに店主が見破るとは思っていなかったからだ。

 

「久しぶりだね、楓ちゃん! 何だ兄ちゃん、楓ちゃんが来ているんだったら言ってくれよ! ささ、楓ちゃんここは寒くて風邪引くかもしれねぇから奥に入りな、ささ」

 

呆気に取られている俺たちをお構いなく店主は機嫌よく豪快そう続け、俺たち奥に入るように促す。

 

「て、店主さん、何で分かったんですか?」

 

漸く思考が戻って来たのか後輩が聞く。確かにそれは俺も疑問だった。今の彼女はテレビで見るようなボブカットでもオッドアイでもないし、顔の輪郭もマスクで分からなくなっている。外見で特徴的なところは殆どないと言ってもいいだろう。

 

「ん? そんなの簡単じゃねぇか」

 

彼女の最もな問いかけに対して、店主はさも当然にこう返した。

 

「昔のままだったからだよ、楓ちゃん。この兄ちゃんと買い物に来るとき、楓ちゃんはずっと兄ちゃんの左隣にいた。どんな時でも兄ちゃんの左隣、今の場所が楓ちゃんのポジションだったじゃないないか。そして、今日来た兄ちゃんの左隣に一人見慣れない女性がいるときた。思い出すのに少し時間がかかったけど、あの時の記憶がふっと甦ったんだよ。兄ちゃんの左隣、美人、高身長、そして目元の泣きぼくろ、これで楓ちゃんと分からない奴はこうの商店街にいないよ」

 

店主は何気なしにそう言うと更に「それに兄ちゃんと一緒に買い物にくる女性だなんて楓ちゃんだけだしね」と付け加えて笑った。

 

そして、ひとしきり笑った後、店主はそうだ、と何か重要なことを思い出したよう顔をすると、

 

「楓ちゃん、シンデレラガールおめでとう! ずっと応援していたよ」

 

彼女はその言葉に「はい」と嬉しそうに返事を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「色々なもの貰っちゃいましたね」

 

夜の帳がすっかりと降りた帰り道、彼女は嬉しそうにそう言った。凛とした声で笑う彼女の左手にはビニール袋が一つ、商店街を回った結果色々な人から貰ったりしたものが入っていた。

 

「そうだな、お金を払わずにこんなに貰ってたら暫くあの商店街に通うしかないなぁ」

 

彼女に釣られ俺も笑いながら右手を少し掲げてみせる。俺の右手には大きめのビニール袋が三つばかり提げられていた。

 

あれから、数軒商店街の店舗を回ったのだが、回る店店で高垣楓だとばれ、色々と雑談をして多くの土産を戴いた。俺も後輩も何度も断ったのだが、「シンデレラガールになったお祝いだ」と言われると俺も彼女も何も言えなくなり、ただただお礼を言って物を戴くばかりの結果になってしまった。そして、帰るころにはこの有様だという訳だ。

 

勿論、シンデレラガールになったお祝いだということは貰ったもの全て彼女のものだ。しかし、彼女は「これだけあっても絶対に一人では食べきれませんし、先輩の家に置いておきますので一緒に食べましょう、先輩! あ、もちろん私がいない時もちゃんと料理して食べて下さいね」と言って半ば俺と彼女の共有財産のようになってしまった。

 

ちなみに彼女も何故荷物を持っているのかと言うと、それは昔彼女と買い物に行ったときに彼女が頑なに先輩だけに荷物を持たせるためにはいきませんと駄々をこねた結果だ。いくら俺がモテない甲斐性なしだとしても、女性に荷物を持たせることはしたくないし、男の俺の方が力が強いのは当たり前なのだが、彼女は自分も持つと言って聞かなかったため、それ以来ずっと彼女も何か持つというスタイルが続いてきただけの話に過ぎない。

 

「そうですね、今度また行きましょう。今度はちゃんと買い物に」

 

 

「そうだな」

 

そんな時だった。

 

ふと、視界を白が上から下に横切った。

 

――ん? 

 

そう頭上を見上げて見た時だ。

 

「あ、雪だ」

 

後輩の呟きが聞こえた。

 

――ついに降り出したか。

 

何時か振り出すとは思っていたがここで遂に雪が降りだしてしまったようだ。後二十分も待ってくれれば家に着くと言うのにお天道様は待ってはくれなかったらしい。

 

「雪か、急ぐぞ」

 

別に雪で喜ぶような子供でもない。どちらかと言えば寒いのは嫌いなので早く暖かい我が家に帰ろうと後輩を促す。

 

「あ、はい」

 

その言葉に彼女は右手で左手を摩りながら応えた。

 

――ん? あぁ、そう言えばコイツ手袋していなかったんだな。

 

ずっと、コートに手を突っ込んでいたため気付かなかったが、彼女は手袋をしていなかった。

 

「おい、ちょっと待ってろ」

 

「?」

 

ハテナマークを浮かべているソイツに脱いだ左手の手袋を投げ渡す。

 

「それしとけ、寒いだろ」

 

反射的に飛んできた手袋を受け止めたソイツは、暫く黙った後、

 

「やっぱり、先輩は優しいですね」

 

そう笑って手袋を左手に嵌めた。

 

「俺は右利きで、お前は左利き。お互いこうすれば温かいだろ」

 

「そうですね、とっても、とーっても温かいです」

 

「そして、残りの手はコートのポケットにでも入れれば――」

 

――完璧だと続くはずだった言葉は出なかった。

 

何を思ったのか小生意気な後輩は俺の方へと一歩足を近づけると、ポケットの中に突っ込もうとしていた俺の左手を自らの右手で握った。何も言う間もないほどの瞬間的な行動だった。

 

「でも、こうすればもーっと温かいですね。先輩っ!」

 

今日一番弾んだ声で彼女は言う。握られた左手は彼女の冷たい右手によってどんどん熱が奪われていくような感覚がした。

 

――どういうつもりだ。

 

そう非難めいた視線を飛ばして、彼女を見れば、

 

「――嫌でしたか?」

 

心配そうな目でこう返してきた。

 

「…………いや、何でもない。よし、帰ろう」

 

――たく、何そんな顔しているんだよ。

 

俺の言葉に、

 

「はいっ!!」

 

彼女はそう元気に返事を返すのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話

すみません。スマートフォンで執筆のため、表記が可笑しいところがあるかもしれません。


晩夏と呼ぶには秋の香りが強くなってきた九月の中旬、いつも通りのボロアパートにて台所に立つ。聞こえるのはまな板を叩く包丁の音と、コトコトと何かを煮込む鍋の音、そして曇りガラスの向こうから聞こえる秋の虫の声。華の大都会の東京とはいえ、中心部から外れた場所だと虫も鳴くし、カエルも鳴く。

 

クーラーは数日前からその役目を終え、今は少し早い冬眠をしている。今年も天寿を全うせずに働いてくれた彼には頭が上がらない。猛暑日を連発させた今年の夏はきっと彼が天寿を全うしたら生き抜けなかっただろう。

 

--それにしても、本当にいいものが手に入ったなぁ。

 

まな板の上の鯛を捌きながら、心の中で呟く。半身におろしても、まな板の面積の八割ほどを占めるそれは、いつもの市場にて買った一匹だった。

 

知り合いの店主と話しながら思わず勢いで買ってしまったが、買ってよかったと確信する。身の締まりに、脂の乗り、それに大きさ、どれをとっても素人目に見ても逸材と分かる。

 

ーーこりゃおっちゃんに頭が上がらないなぁ。

 

こんな逸材を割引に割引を重ねて売ってくれた魚屋の店主には頭が上がらない。しばらくは魚は全てあの店で買おう。

 

--まぁ俺一人だったら絶対にここまで値引きしてくれなかったと思うけど。

 

ちらりと横目に見れば俺が捌いた半身の片割れを煮付けに調理をしている一人の人物。もう言うまでもないとは思うが、俺の後輩にして、腐れ縁の高垣楓がいつもの飄々した笑顔でお玉で鍋のアクを取っていた。

 

いつもの市場に夕飯の材料を買い出しに行こうと思った矢先、玄関を開けると、遊びに来たコイツがいた。そしてそのまま買い出しに一緒に出かけ、今に至るというわけだった。

 

いつも基本的にコイツは料理をしているため、たまには俺が作ろうかと提案したところ、「たまには一緒に作りましょう、先輩」と嬉しそうにそう言われて今に至るというわけだ。

 

彼女と目があった。すると彼女は目を猫のように細めながら、

 

「先輩、いい鯛が手に入りましたね」

 

「あぁ、しかもあんな値段でな」

 

鯛を捌く手を止めずにそう答える。

 

「そうですね、しばらくはあの店で買い物ですね、先輩。もしも行くなら私も一緒に行きますので」

 

コトコトと音を鳴らす鍋からアクを掬いながら彼女はいう。どうやら彼女も俺と同じことを考えていたようだ。

 

「おう、その時は頼む。多分おっちゃんもそれが狙いだろうしな」

 

「そーですかね?」

 

「そうに決まってる。俺が行っても多分ここまで値引きしてもらえなかっただろうし。それにあのおっちゃん、お前のファンだぞ」

 

店の一番奥に大事そうに飾ってる色紙はコイツが昔書いたサイン。モデル時代とアイドル時代の両方が並んで飾ってある。間違いなくあのおっちゃんはコイツのファンだ。だからこそ、ここまで値引きしてくれたに違いない。

 

「そうですかね? でも、私がモデルを始める前からあそこの店主さんは値引きしてくれましたよ?」

 

コロリと首を傾げるその顔には疑問符が浮かんでいた。どうやら本当に分かっていないようだ。

 

「そりゃ男なら美人にはサービスしたくなるってやつだよ」

 

半身に捌いた身を更に刺身にするために包丁を入れる。余りにも上物の鯛だっため一匹を半身に分け、刺身と煮付けにすることした。

 

「へぇー、美人ですかぁ」

 

付け上がるのが目に見えているため死んでも言いたくはないが、彼女--高垣楓は美人である。しかも、そんじゃそこらの美人ではない。日本でも一握りの存在だ。そのことは彼女の経歴から見ても明らかだ。大学ではトップモデル、アイドルに転向してからもすぐにトップアイドルになった。そして、ついにはシンデレラガールの称号まで手中に収めたのだ。

 

今の総理大臣の顔は知らなくても、『高垣楓』の顔は知っている。そんな人が多いのではないか?

 

そんな噂が立ち、それも半ば本当かもしれないと思わせるような人気が彼女にはあった。街を歩けばどこから彼女の持ち曲が聞こえてきて、コンビニに入れば彼女が表紙を飾る雑誌が積まれている。テレビをつければ見ない日はなく、一日のどこかで必ず彼女の顔と名前は聞く。そんな存在がシンデレラガール 『高垣楓』という存在だ。

 

整った顔、白鷺のような白い肌、艶のある髪どこをとっても文句なしの美女だ。惜しむべきは胸がなーーおっと、この話をするといつぞや如く拗ねられるのでここまでにしておこう。

 

まぁ、まとめると長年付き合いがある俺の贔屓目抜きにしても彼女は非常に整った容姿をしているということだ。

 

「なんだよ」

 

ニタニタと笑っているであろう後輩に声をかける。

 

「いえ、先輩が私のことを美人と思ってくださっているなんて嬉しいなー、と思いまして」

 

「俺が思っているんじゃない。一般論の話だ。寝ぼけているのか? 顔でも洗ってこいよ」

 

「残念でしたが、私はばっちりと起きてますよ先輩。今日もしっかりと仕事をしてきましたし」

 

「それじゃあ、きっと疲れてるんだろうな。今日は早めに寝るといいぞ」

 

「あら、先輩それは泊まっていってもいいといいことですか?」

 

そう言って笑うソイツに思わずため息を吐きそうになる。

 

「ダメだと言ったら今日は帰るのか?」

 

「残念ですが、今からご飯を作って一杯飲むとなると終電に間に合いませね」

 

「じゃあ好きにしていけ」

 

「さすが、先輩。優しいです」

 

--どうせ、初めから泊まる気しかなかったくせに。まぁ、今更過ぎるか。

 

彼女がこの家に泊まったのは一度や二度ではない。学生時代の時も含めると相当な回数になる。数えるのも億劫だ。なので今更気にしないことにした。

 

それに今ではこのボロアパート、俺のものよりも彼女のものが多くなったように感じる。服なんて勝手にクローゼットと一角を占領しておいているし、その服の量は間違いなく俺の倍はある。それに加えて彼女のマイ布団とマイ枕まで完備されている。

 

きっとあのバカは俺の家を程のいい物置か何かと勘違いしているに違いない。まぁもとより本と酒以外に置くものがないため、彼女の私物があるくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

「そういえば、一つ気になっていたんだが」

 

ふと、昔から気になっていたことを今更だが彼女に聞くことにした。

 

「何ですか? 先輩。指輪のサイズですか? それなら」

 

「本格的に寝ているのか? 立ちながら寝るとは器用なやつだな」

 

すみません、すみませんと全く心の篭っていない謝罪を口にするソイツに砂糖を渡す。

 

コイツの高級マンションならともかく、我が家は年期の入ったボロアパートだ。もちろん、台所の広さもそれに見合ったもので、二人も並んで立つと一杯一杯だ。何も知らない者同士だとお互いがお互いの動きを邪魔して一人で使った方が早いという本末転倒になるのだが、伊達に無駄に長い付き合いをしていない。お互いが何をしたいのかなんて口に出さずとも分かるため、俺とコイツの調理は非常にスムーズに進む。

 

「お砂糖ありがとうございます。はい、刺身用のお皿です」

 

砂糖の代わりに皿が返ってきた。切り分けた鯛の身を皿に盛りながら、

 

「お前っていっつも料理しているけど、大丈夫なのか?」

 

そう聞いてみる。

 

「えーっと、どういうことですかね?」

 

「いや、お前ってモデルやったりアイドルやったりしているけど、その手荒れとか、さ」

 

モデルやアイドルは言うまでもなく体が資本だ。人前に出て見られることを仕事にしている以上、指先一つまで気を使うのが普通だろう。

 

しかし、彼女はそんなことを気にするまでもなく台所に立つ、冬だろうと夏だろうと。別にやらなくてもいいと何度も言っているのだが、「好きでやっていますんで」と言われると止めろとも言いにくい。

 

「なるほど、そんなことですか」

 

「いや、アイドルって身体が資本だからさ、赤切れとか手荒れとかって不味いんじゃないかと思ってさ」

 

「確かにアイドルは体が資本です。一応対策はしていますが、手が荒れてしまうこともあります」

 

--じゃあなんで、

 

そう口に出そうとするよりも先に彼女が言葉を続けた。はっきりとした口調で笑顔を見せながら、

 

「でも、いいんです。私にはそっちの方が価値があるんですよ、先輩。確かにモデルのお仕事もアイドルのお仕事も大切ですが、これはそれ以上に大切なことなんです。ただ、それだけです」

 

まるで何気無い世間話をするような口調でそう語る彼女の顔には笑顔。俺にはその顔があまりにも眩しく、直視することがどうしようもなく出来なかった。

 

「--そうか、ならこれからも頼む」

 

結局そんなことしか言えなかった俺に、

 

「はい」

 

彼女はそう嬉しそうに目を細めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刺身を皿に盛り終わったタイミングで彼女が味見皿を差し出してきた。

 

どう意味かわからず、怪訝そうな表情をすれば、煮付けの味見をお願いしますと返事が返ってきた。小皿を受け取り一口飲み、彼女に返す。

 

--あぁ、美味い。

 

少しだけ味の濃い味付けは俺の好きな味付けだった。いつも通り俺の好みを知っている彼女が少しだけ濃く作ったのだろう。

 

俺から小皿を受け取った彼女も再び、小皿に出汁を掬い口に運んだ。そして、「うん、バッチリ」と呟く。

 

「どうでしたか、先輩?」

 

「あぁ、美味しかったよ。俺の好きな味付けだ」

 

俺の答えに満足したのか、それは良かったですと頷くソイツに聞いてみる。

 

「でもお前も味見をするんだったら俺はしなくても良くなかったか? 俺の好みの味知っているだろ?」

 

「えぇ、先輩の好みはもちろん存じ上げてますよ」

 

「ならーーーー」

 

「でも、こういうことは声に出すことが大切なんですよ。たとえ相手が何と言うか分かっていたとしても」

 

「? そういうものか」

 

「そういうものです」

 

疑問視を浮かべる俺を見ながら彼女はいつも通りの涼しげな笑みを浮かべるのだった。

 

--本当によく笑うやつだなぁ。何が楽しいのやら。

 

テレビや雑誌で見る彼女は笑顔が似合うアイドルというより、どこかクールビューティー的なクールさをアピールポイントにしている。雑誌や、テレビでもそのイメージを守る為か、あまり笑顔を見せないが、俺の前では違う。ほとんど常時何が可笑しいのか楽しいのか分からないがニコニコとしている。だからこそ、俺にとってはテレビの彼女は違和感しかないが、一般のファンからすれば今の彼女が異常なのかもしれない。

 

どちらにしろ、俺の彼女イメージはいつも笑っている心配事のなさそうなヤツ、という印象だ。

 

「ん? 先輩、どうかしました?」

 

「いや、別に何でもないよ、ただ……」

 

「ただ……何ですか?」

 

「どうして何時もそんなに楽しそうに笑っていられるのか不思議でな」

 

「Who Cares? I’m happy just standing here next to you」

 

「--は?」

 

全く想像していなかった英語で返事が返ってきて驚いた。そして、ここまで付き合ってくれたヤツなら既に知っていると思うが俺は英語がさっぱりだ。読むだけなら多少は出来るかも知れないが、聞くのと喋るのは全く分からない。それに加えて彼女も話す英語はネーティブもかくやというほどの流暢なものだ。さっきの言葉の一単語も分からなかった。

 

「そういうことです」

 

そんな俺を置いて彼女はただそういうと盛り付けた煮魚の皿を持って居間へと入っていってしまった。どうやらこれ以上口を開く気はないらしい。

 

彼女が何といったのか結局のところ俺には分からないが、ただ去り際の彼女の頸がほんのりと朱に染まっていたことを考えると……。

 

--まぁ、いいか。

 

別に彼女が何と思っていようが俺にはあまり関係ない。この場合大切なことはたった一つだけだ。

 

--よく分からんが、あいつは楽しいわけね。

 

彼女が笑顔で笑っている。

 

俺だって男だ。美人が笑顔で横にいるだけで嬉しかったりする。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

もしもの話――前編――

この話だけは前作を読まないと理解できないと思います。前作を読むことをお勧めいたします。

そして後編はいつになるのやら……



吐いた息は白かった。駅方の帰宅途中、あと曲がり角を三つほど曲がれば我が家というところ少しだけ立ち止まり、頭上へ上る白い息を追いかけるように空を見上げる。午前中まで降っていた雨の影響か、それとも日が落ちたせいなのか、それは分からないが、今夜は身を貫くような芯から冷える夜だ。

 

こんな凍てつくような寒い夜は、すぐに家に帰り日本酒の熱燗とスルメをお供に炬燵に籠城を決め込むのがいつものパターンなのだが、今日は少しだけ家に帰る足が重い。

 

――何も見えやしないな……。

 

息が消え去った空にあるのはただ真っ黒なキャンパス。星の一つだって見つけることが出来そうにない。物は試しと、ぐっと目を細めて見ても星の瞬きを見つけることは叶わなかった。どうやら雨が止んだとはいえ頭上には重い曇天の空があるらしい。

 

星を見つける努力をそうそうに諦めて、足を再び動かす。

 

無論言うまでもないと思うが、俺が星が好きだとかいうロマンティストな訳ではない。そもそも星が見つかろうが、見つかるまいがどちらでもよかった。ただ足を止めたかっただけだ……いうなれば遊園地で帰りたくないと駄々をこねる子供だ。

 

――遊園地で駄々をこねる子供ねぇ……言い得て妙だな。

 

自分自身の言葉に納得し、自然と乾いた笑いが口からこぼれた。

 

――どこまで行っても俺は弱いな。

 

いつだって俺が強かった時なんてないのだが、今の状況は本当にひどいと自分自身で自らの行動を呆れる。ため息の一つでも吐きたかった。しかし、ため息を吐く余裕すらも今の俺にはなかった。

 

我が家まであと曲がり角を一つ曲がればつくといった場所、コンビニの前で立ち止まる。ガラス窓にはさえない顔をした青年が映る。もちろん俺の顔だ。立ち止まったまま視界だけを右へとずらせば、見飽きたポスターが数枚ガラスの向こうに貼られていた。

 

ポスターには多くのアイドルたちが映っていて、その中心にはティアラを頭に乗せ新緑色のドレスを着た見慣れた顔のあいつが大きく映っていた。そして、その下には大きな目立つ文字で、『今年も聖夜にシンデレラは決まる。一体栄冠は誰の手に!?』と書かれてあった。ポスターに写るアイツの顔をじっと見つめる。

 

そしてそのまま何も考えずにただ立ち尽くす。

 

――分かっている。もちろん、分かっているよ。

 

ずっと、前から分かっていた。

 

水が高いところから低いところへと流れるように、雨が必ず止むように、時は平等に流れる。時計の針が逆回転することなんて、ありえない。もしも、あったとすればそれは故障だ。時間は絶対に残酷に、それでいて美しく全人類平等に流れる。潮の満ち引きが止まらないように時も絶対に止まらない。

 

遊園地もいつかは閉まる。ネバーランドもいつかは出ていかなくてはいかない。この世に変わらないものなんて何一つもない。

 

ユートピアも黄金郷も、リンゴのなる島も全て過去に滅び去った。理想郷は滅びるからこそ理想郷

足りえる。

 

コートの中で握りこぶしをぐっと一度握る。そして、今度こそ家に帰るために足を進めるのだった。

 

 

 

 

――高垣 楓はまるで物語の主人公のような人間だ。

 

それは俺が普段から往々にして思っていることだった。勉強もスポーツも完璧にこなし、誰にだって優しく、友達も多い。それでいてトップモデルになれるだけの美貌を持ち、更にはアイドルの頂点シンデレラガールズにも去年輝いている。事実は小説よりも奇なりとはよく言う言い回しだが、彼女の場合は冗談を抜きにしてそこらの出来の悪い小説の主人公みたいな人生を歩んでいる。もしも、この世界が一冊の小説だとすれば彼女を主人公と言わずして誰が主人公だというのだろうか。

 

そんな彼女との付き合いも短くない。何せ、お互い下の毛も生えそろわないうちからの付き合いであり、小、中、高、大そして今までずっと長い間の腐れ縁だ。いつの日か彼女は『世界中で誰よりも先輩の事を知ってます!』 そう言って笑ってみせた。彼女が世界一俺のことを分かっているのと同じように俺も世界で一番彼女のことを分かっている。それこそ、彼女の両親よりも彼女のことを分かっている自信がある。

 

だからこそ、彼女がこれからどうするのか痛いぐらいに分かる。彼女は往々にして間違えない。この歪んだ世界で、潔白であろうとする。間違え方しか選べない世界で、第三の選択肢を作り出す。それが彼女だ。

 

だからこそ、彼女は今日俺の家にいるに違いない。

 

最後の曲がり角を曲がる。俺の家までは歩いて三分といったところ。視界の右端に小さなアパートが見えてきた。そこの二階、角部屋の俺の部屋は消したはずの電気がついていた。

 

歩くスピードを緩めずに右ポケットから携帯を取り出し時刻を確認する。買った時から変えていないデフォルトのままの画面には12月24日という文字と就業時間から三時間と少したった時刻が映っていた。

 

――時よ止まれ、汝は美しい。

 

かの文豪ゲーテは作中でこう書いた。この言葉をファウストが発した時、彼は破滅の音を希望の音と勘違いしていた。俺がかの文豪のことを理解できているとは少しも思わない。しかし、今俺はファウストがかの明言を発した時の気持ちを理解できると思っている。

 

足を止めることなく、

 

「――時よ止まれ、汝は美しい」

 

そう呟いていく。もちろん、時は止まることなく、携帯の画面上では数字が変化した。

 

12月24日、クリスマスイブ。その半年以上も前の6月14日。25歳の誕生日にアイドル『高垣 楓』は今回のシンデレラガールズ総選挙を辞退すると公式に発表した。

 

最後に頭上を見上げてみたがやはり星は一つも見つけることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よかったのか?」

 

いつもの定位置、俺の向かい側の炬燵に座る彼女にそう投げかける。

 

「なんの話ですか?」

 

俺の問いかけがいまいちピンと来ていないのか、それともごまかすためなのか、彼女は湯飲みから口を話すと首を傾げた。いつものようにラフな格好ではなく、仕事帰りの服装のままの彼女はどこか新鮮で、雰囲気だけでもいつもと違うことが分かる。

 

「シンデレラガールズのことだよ。なんでも二期確実だったとかいう話じゃねぇか。二期連続となると日高舞以来の快挙だっていうのに……辞退だなんて」

 

そこまでしゃべり終え、目の前に置かれた湯飲みを啜る。中には彼女が入れてくれた温かい緑茶。

少し苦みが強いそれは、俺の好きな茶葉だった。さすがに今日この日に酒を飲む気は起きない。

 

「別に構いませんよ。昨年シンデレラガールズに選んでいただけましたし、それだけで十分です」

 

彼女はそこまで言うとお茶を一口だけ飲み、間を作った。

 

「それに、明日はそんなことよりも大事で大切なことがあります」

 

そう言って彼女は湯飲みをテーブルに置き、まっすぐに俺を見る。綺麗で濁りのない翡翠と紺碧色のオッドアイが俺を写す。

 

――先輩、もちろん分かってますよね。私がいいたいこと。

 

視線は俺にそう訴える。

 

――あぁ、もちろん。

 

俺も何も言わずに返事を返す。

 

 

しばらくの間、沈黙が支配した。俺も彼女ももう語るべき言葉は一つだけ、そしてそれを切り出すタイミングも決まっていた。この湯飲みの中身が空になったときそれ以外に切り出すタイミングはない。

 

つまり一杯の緑茶を飲み終えるまで、それが俺と彼女に残された時間であり、俺の理想郷が崩さるまでの時間だった。

 

“動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁には、拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ。この故に動と名のつくものは必ず卑しい。”

 

今は昔、夏目漱石は作中でこう書いている。動いてしまえば結果が出る、結果が出ればもとに戻ることが出来ない。彼女がしたいことは単純にして明快。動かしたいのだ。

 

――俺と彼女の間で止まってしまっていた時計を再び動かす。

 

彼女は今日そのために俺の前にやってきた。

 

時は止まらない。時間して七分と一九秒。俺と彼女の湯飲みの中身は照らし合わせたかのように同時になくなった。

 

そして、お互いどちらともなく口を開く、

 

「なぁ、――」

 

「先輩、――」

 

『――終わらせ(ようか、全て)(ましょう、全てを)』

 

俺の六年あまりの理想郷はこうしてあっけなく崩れ去った。

 

「それでは、今日はこれにて失礼しますね、先輩」

 

湯飲みを洗った後、その足で彼女はコートを着ながらそういった。お互い、あれから一言も話していない。明日の集合時間も場所も何もかもを俺も彼女も話していなかった。

 

しかしお互いに分かっている。言葉にせずとも分かる。時計の針を動かしたいのなら、時計を止めた時と場所に行けばいい。数年前に俺が時計を壊した場所と時間、全てを終わらせるのにあそこ以外の場所はない。

 

「送っていこうか?」

 

「いえ、結構です。タクシーを呼んでありますので。それでは先輩、また明日」

 

「あぁ、気をつけて帰れよ」

 

彼女が俺の申し出を断るのはこれが二回目になる。

 

一人きりの部屋はやけに静かで時計の針の音が大きく聞こえた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

冬の空は曇天で

書き直す可能性が非常に高いお話です。


人生の転機とは往々にして思いもしない時に不意打ちの様に急にやってくる。多くの人がそうである、あるいはそうであった様に私の場合もまるで予想もしないようなある平日に急にやってきた。私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 

あの日のこと、そしてあの日からの一連の出来事を。

 

――冬のある日、曇天の曇り空の下、私の人生は漸く始まったのだ。

 

 

 

 

 

「それにしても今日はグンと冷えますね」

 

さきほど購買で購入したカップのホットコーヒーの蓋を開けながら私は向かいに座る彼女に言った。

 

場所は大学の食堂の一角、いつもの特等席。そこは観葉植物の陰になっているため見落とし易いということと四限の講義中ということもあり、周囲に人影はなかった。毎週この日のこの時間にこの場所で軽くお茶をするのが私と彼女との習慣だった。

 

「そうね、大分気温も落ちてきたわね。本格的に衣替えしないと」

 

彼女はスティックシュガーを一本とミルクを二つ自らのカップに注ぎ、マドラーでかき混ぜながら窓に目をやった。

 

私もつられて窓を見る。

 

曇り一つない食堂の大きな窓から外を見上げれば重い曇天が空を覆っていた。先月までは秋の香りが強く過ごしやすい気温とどこまでも澄んだ青空が見えたのだが、今週に入ってからは曇りや雨の日ばかり、すっかり冬がはじまり気温もグンと下がった。何でも来週には強い寒波がきて雪が降るかもしれないとテレビで言っていたことを思い出す。

 

「楓、そういえば貴方が表紙を飾っている雑誌をこの間生協で見たわ。相変わらず凄い人気ね。すぐに売り切れてたわよ」

 

 

貴方と小学校低学年の時からずっと同じクラスの腐れ縁だって言ったら皆どういう表情をするかしら? 

 

彼女は一口コーヒーを飲むとそう続けて笑った。

 

そう私と彼女との関係は小学校から続く友人関係。先輩である彼を除くと彼女との付き合いが一番長い。長い付き合いということもあり彼とも面識がある。数回なら私と彼女と彼とで遊んだことだってある。

 

少し直球でものをいうことが多く初対面の人には誤解されがちな彼女だが、努力家で友達思いな女性であることは長い付き合いの中で良くわかっている。

 

彼女は常に真っすぐだった。

 

「うふふふ、私も少しは人気も出てきたようで嬉しいです」

 

そう言ってコーヒーを一口。彼に倣ってブラックを飲み始めた当初は苦すぎて水と交互に飲まないと飲めなかったが、ずっと飲み続けたお陰か最近になって漸くこの苦さの良さにも慣れてきた。冬の昼下がりはホットコーヒーに限る。

 

「何が少しよ。高田馬場のカリスマモデルって呼ばれているのよ、楓のこと。間違いなくうちの大学で今、一番有名なのは貴方よ」

 

あきれ半分で彼女は笑う。それにつられて私も口だけで笑顔を作る。

 

別に人気になるためにモデルになった訳ではない。ただある日彼と一緒に街中を歩いているときにスカウトされ、話の流れでモデルをやることになっただけだ。別に自分の容姿が悪いとは思ったことはなかったが、特段いいとも思っていなかった。私よりも美人な人もスタイルがいい人も身長が高い人もいっぱいいる。そんな人たちの中でやっていけるのか心配だったが、星の巡りあわせがよかったのかそれとも何か別の要因があったのか、それは分からないが結果として多くの人に評価され多くのお仕事をもらえるようになっていた。私にとってすればモデル仕事というのは少し忙しいイト同じ感覚だった。

 

勿論、評価されることは嬉しいが、別に人気が出なくても構わない。いずれモデルを辞めて一般企業で働くのが私の人生プランだった。

 

「カリスマだなんて言いすぎですよ。私よりも素敵な女性はいっぱいいます」

 

その言葉は本心だった。

 

「アンタねぇ……。まぁいいわ。それよりもさっきの中間試験の手ごたえどうだった?」

 

先ほどの中間試験とは、私と彼女が同じくとっている三限の講義の試験だ。

 

「うーん、そこまで酷い出来ではないと思いますよ……」

 

「楓がそういうってことはまたクラストップね……。モデル業で忙しいのに本当に良くやるわよ……。そりゃ、学長が名指しでほめるわけだ」

 

「去年がたまたまそうだっただけで、今年もそうかはわかりませんよ。貴女も頑張っているようですし、私ももっと頑張らないと」

 

学問と仕事の両立は確かに大変だが、やってみれば案外できるものだった。幼い時から何かを両立させることが得意だったことも幸いしてかモデル業が多忙になってからも生活ペースも学力も落とさずに済んでいた。

 

私のその言葉を受け、目の間に座る彼女はマドラーをかき混ぜるその手を止めた。くるくると茶色の渦が湯気を立てながらコップの中に浮かんでいたのがやけに目についた。

 

「…………? どうかしました?」

 

「…………ねぇ、楓」

 

そう切り出したあと、彼女は数秒間を空けた。その間に逡巡するかのように視界を窓の外と私の交互に合わせ、そして目を閉じた。刹那、開いた瞳には確かに強い決意のようなものが浮かんでいた。

 

「ねぇ、楓一つ聞きたいことがあるのだけど」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「来年から入るゼミのことだけど……やっぱり芦屋ゼミに入るのかしら?」

 

彼女が言う芦屋ゼミとは私と彼女が来年から所属するゼミの名前だ。もちろん彼も今年三年として一足早く入っているゼミのことだ。

 

「えぇ、そうですね」

 

「ねぇ、楓、芦屋ゼミに入るのやめてくれない」

 

――え?

 

微塵も想像していなかったことを言われ、一瞬私の脳内が真っ白になった。

 

「そ、それはどういう意味でしょうか?」

 

どうにか動揺を落ち着かせて言葉を紡ぐ。

 

「どうもこうもその儘の意味よ。芦屋ゼミを諦めて別のゼミに入ってくれない、と言っているの。貴方の人気とその学力なら今からでもどんなゼミでも入れるわ。だから、お願い芦屋ゼミは諦めて」

 

彼女は確かに口が悪い。変化球を好む人が大半を占めるこの世の中で常に真っすぐに勝負する。そして、そんな言葉の中には彼女なりの意味があることを私は知っている。だから、私は彼女の真意を聞くことにした。

 

「それは一体どういう積りですか?」

 

彼女は眼を逸らさず真っすぐに私の目を見ながら口を開く。

 

「今から私が言う言葉は楓にとっては酷い言葉かもしれない。ひどく傷つくかもしれない。でも、私は言わないといけないと思った。本当ならずっと前から言わないといけなかったことかもしれない。うんうん、本当なら高校の時に伝えるべきだった。でも私は伝えることが出来なかった。だから、いま伝える。今ならまだ間に合うと思うから伝える」

 

「私と貴女の仲です。思い切って何でも言ってください」

 

私も目を逸らさず彼女と目を合わせる。

 

「ねぇ、楓今更分かり切ったことを聞くけど、貴方が芦屋ゼミを選んだ理由は何?」

 

「それは……」

 

返答に少し困った。

 

「彼がいたからでしょ?」

 

ずばりと言われた。

 

「でなければ芦屋ゼミなんていうパッとしないゼミを貴方が選ぶわけないもの」

 

「…………」

 

「じゃあ次に聞くけど、貴方がこの大学を選んだ理由は?」

 

「そ、それはここ以外の大学に全部落ちたからで……」

 

「それは私も知っているわ……。でも違うわよね」

 

「…………」

 

「確かに貴方は大学に落ちた。でも、ただ落ちたんじゃないわよね。“わざと”落ちたわよね」

 

「…………」

 

何も返せない私に彼女はさらに言葉を続ける。その口調は段々と熱を帯びているように感じた。

 

「沈黙は肯定と捉えるわ……。まぁこれはウチの高校の人間ならだれでもわかることだし。毎年数人だけど現役東大入学生を出すウチの高校創立以来の天才と謳われた貴方が落ちるなんてそういうことしか考えられないし……でも、まぁ私はそれでいいと思うわ」

 

「え?」

 

責める言葉が飛んでくると思ってばかりいたので少し驚いた。

 

「別にいいと思うわ。母校の進学実績とか興味ないし、楓の人生だもの楓の好きにすればいい。ゼミだって楓の好きにすればいいと思っていたわ」

 

「じゃあ、なんであんな事を――」

 

「――彼が、彼がいるからよ!」

 

私の言葉はもっと強い彼女の言葉によってかき消された。

 

彼女は数回深く呼吸し、気持ちを落ち着かせる動作をした後、ゆっくりとした口調でつづけた。窓の外はまだ曇天の鈍色の空が覆っていた。

 

「彼がいなければ……あるいは彼の存在を知らなければ私はゼミを諦めてなんて言っていない。少し疑問を抱くかもしれないけど楓の好きにさせていたわ。でも、私は彼を知っている。彼のことを知ってしまっている」

 

「…………」

 

「楓、断言するわ。貴方このままだと彼を不幸にするわ。いえ、違うわね、なんていっても彼は既にずっとずっと不幸だから……。なら、こういうほうが正解ね」

 

そして、彼女は言葉を紡ぐ。はっきりと、強い意志の籠った口調で、

 

――――――高垣 楓といる限り彼が幸福になることはない。

 

そのセリフに息が止まった。比喩ではなく、本当にこの時の私は呼吸をしていなかったと思う。今まで生きてきた中で一番の衝撃だった。後ろからハンマーで殴られたような、そんな衝撃が私を襲った。

 

「ねぇ、楓、貴方はもっと自分自身ことについて知るべきよ。容姿についても、学力についても、才能についても……そして、気持ちについても。貴方には自分がない、だからこそ他人を、彼を傷つける」

 

「ねぇ、楓、物の価値って一番と二番では大きく変わると思わない?」

 

「それは一体どういうことでしょうか?」

 

「例えば、日本で一番標高が高い山は?」

 

「富士山です」

 

「じゃあ二番目は?」

 

「北岳です」

 

「さすが楓よく知ってるわ。でも一般的には知らない人……いや興味もない人が多いの。山だけの話ではないわ。日本で一番大きな湖はみんな知ってても二番目に大きな湖を知っている人は少ない。一番っていうのはそれだけで特別なのよ」

 

「ねぇ、楓、中学校一年生時に成績が学年で一番良かった生徒って誰か知ってる?」

 

「それは……私です」

 

嫌味になるかもしれないが、昔から勉強は出来たほうだった。彼と一緒に本を読む機会が多かったからかも知れないが、中学高校両方で私の成績がトップ以外だったことはない。

 

「じゃあ、学年二位は誰でしょうか?」

 

「それは……分かりません」

 

「まぁ、普通はそうだよね。知らないのが当然だよね。では、正解を発表します。総合二位は私だったのよ」

 

想定していた言葉だった。でも、その予想を私は口に出せなかった。

 

「じゃあ、二年生の時、学年一位は?」

 

「私です」

 

「じゃあ二位は?」

 

「…………貴女ですか?」

 

「ご名答その通り。じゃあ三年生の時は?」

 

「一位が私で……二位は貴女ですか?」

 

「大正解。そう、私は中学時代こう見えてずっと次席だったんだ。じゃあ、楓さらに聞くけど。中学時代、50m走で一番早かったのは誰でしょうか……?」

 

「……それは」

 

「まぁ、ここまでくるともう言わなくてもいいと思うけど、一番は当然貴方、そして二番目は陸上部のエースだった私。タイムにして0.1秒。十分の一秒が当時の私にはどれほどの大きな意味をもったか……ねぇ、少し話を聞いてもらえない? とある女の子の話」

 

「その女の子はどこにでもいるような平凡な女の子だった。少しだけ特徴をあげるとすれば彼女の家は親が教育熱心な方で小学校の低学年の時から塾に通って勉強をしていたくらいね。

 

少女は順調に成長し、中学生になった。中学の最初の試験、少女は平均88点をとった。小学校と違い中学校の試験は難易度が全く違う。高い点数をとれたことに喜んだ。実際に教師には褒めてもらえた。家に帰れば両親に褒めてもらえると思った。

 

しかし、実際は違った。点数を見た両親はただ『そうか』としか言わなかった。それどころか学年一をとった子が塾も通信教育もやっていないと知ると、『楓ちゃんは塾にも行ってないのに貴方よりも点数が高いそうじゃない。貴方ももっと頑張らないと』そう、少女に言うのだった。

 

少女は両親の言葉をうけて頑張った。走ることが好きだった彼女は陸上部に所属していた。少女は毎日部活終わりに深夜まで勉強をした。部活のない日は塾に通った。そんな暮らしを続けた。

 

でも、結果はだめだった。どれだけ頑張ってもどれほど努力しても通知表の学年二位の文字に変化はなかった。少女と学年一位の女の子は仲が良かった。学校ではよく話すほうだった。少女と彼女はライバルであるのと同時に親友だった。

 

親友だからこそ少女は頑張れた。彼女に勝とうと努力できた。

 

しかし、少女はある日気づく。それはある土曜日の事だった。少女が塾から帰る帰り道、もう夜のとばりも降りかけ辺りは薄暗くなっている時間帯。ショッピングモールの扉から見知った顔が出てきた。それは、少女のライバルである彼女と、彼女と仲のいい一つ年上の男の子だった。

 

親友である少女にも見せたことのない笑顔で男の子に話しかけるその光景を見たとき少女の心にヒビが入った。

 

『私はこんなにも頑張っているのに、彼女は毎日楽しそうに遊んでいる。そして、遊びながらでも私よりも成績がいい。――――――ねぇなんで?』

 

そのヒビは初めは小さかったが、一度ヒビの入ったガラスが割れるしかない運命を辿るように、少女の心を徐々にしかし、確実にむしばんでいった。

 

 

そしてある日の体育の時間、彼女の唯一の息抜きであり、大好きだった陸上のタイムで少女に敗北したとき、少女の心は完全に壊れた」

 

「長い話ごめんね。まあ、知っての通りこの少女とは私のこと。つまりこの話は私の実体験なのでした」

 

「わ、私は貴女の努力を否定したり、そんなつもりは……」

 

「分かってるわ。楓、貴方に悪意がないことくらい。貴方ほど優しい人間を私は知らないわ。でも、だからこそ知っていてほしい、貴方は紛れもない天才で、貴方の何気ない好意によって心を折られた人間がここにいることを。そして、貴方は知らないといけない。貴方が不用意に隣にいたせいで彼がどんな目にあったのか」

 

「…………」

 

「ねぇ楓……。私は貴方と競うことを諦めた。高校時代は陸上に逃げた。勉強で張り合うのを辞めた。頑張ることを辞めるとね、人間嫉妬しなくなるんだ。純粋に凄いと思えるようになるの、いうなれば漫画の主人公を見ているとでもいえばいいのかしら……。諦めるっていうのは物語の登場人物から読者になるということなの。ヒーローより劣っているのはしょうがない、だって彼らは物語の世界の存在だ。だから、張り合うのは無駄だ、ってね。私はそう思うことで、心を守った。でも、ね、彼は違う」

 

――――ずっと、ずっと彼は貴方の才能と戦い続けてきた。心が折れることもなく、だれからも認められない無意味な戦いをずっと。

 

「ねぇ、楓は知ってる? 彼がずっと夜遅くまで図書館とかで勉強していたのを。

 

ねぇ、楓は知っている? 貴方が隣にいるせいでずっと比べられ続けたことを。

 

ねぇ、楓は知っている? 大学の試験でも貴方に勝とうと努力していることを。

 

ねぇ、楓は知っている? 誰かが貴方を褒めたとき、『そうだアイツは俺とは比べ物にならないくらい凄い人間なんだ』って、言って自分の努力を自分で認めないことを」

 

「比べられ続ける辛さを二番目の辛さを貴方は知らない。だって、――――貴方は常に一番だから。いつだって貴方は特別なのよ。そして、自分の才能に気づいていない。誰だって自分と同じようにできるんだと思っている。持っていない人間の事なんてわからない。」

 

「ねぇ、楓。貴方は彼の事を一番知っていると思っているかもしれない。でも、それはある意味で間違いよ。彼の事を一番知っているのは、貴方に本気で挑んだことがある人間だけ。そう私のような人間だけよ」

 

「私は知らない。――あそこまで無駄だとわかっている努力を出来る人を。

私は知らない――一番嫉妬心を抱いている人間のことを他人が褒めたときまるで自分の事の様に誇らしげな顔を出来る人間を」

 

「ねぇ、楓。もう十分じゃない? 貴方がゼミに入ると彼はまた比べられる。彼のこれまでの頑張りはまた全て白紙に返る。私はもう、彼が否定される場面を見たくない。彼はもう十分に頑張った。報われてもいいじゃない。だから、お願い。楓、ゼミだけは諦めてちょうだい」

 

――――――高垣 楓といる限り彼が幸福になることはない。

 

彼女は最後にそういった。そして、その頬には涙が一筋伝っていた。それだけで彼女が本気だということが分かった。

 

「楓、貴方にとって彼はどんな存在なの? ちゃんと考えてほしい。彼は貴方の道しるべじゃないのよ。人が引いたレールの上を歩くのは楽よ、でも本当に貴方がしたいことって何?」

 

彼女がそう言い切った瞬間、四限の終わりのチャイムが鳴った。彼女はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み切ると、その勢いのまま立ち上がった。

 

「二週間後また会いましょう。それまでに答えを用意しておいて」

 

彼女はそういうと食堂から立ち去った。

 

窓の外では鈍色の空からとうとうポツリポツリと雨が降り出し始めた。

 

冷めたコーヒーをひどく不味く、私は水が欲しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

(再掲)346ラジオ

昔あげた作品です。

今回更新した本編が重いのでお口直しにどうぞ。


『タイトル詐欺ですっ!』

 

いきなり、どうした百合子? 

 

――あらあら、百合子ちゃん、どうかしたの?

 

『どうも何もタイトル詐欺じゃないですか!』

 

とりあえず、落ちつけ百合子。開始早々何を訴えたいんだ?

 

――そうそう、まずは落ち着いて一杯どうですか? オレンジジュースですけど、どうぞ。あっ! 先輩は白州のロックと、チェイサー置いておきますね。

 

『あ、ありがとうごさいます。楓さん』

 

おう、サンキュー。今週もウイスキーか。分かってるな。

 

――えぇ、先輩の事はなんでもお見通しですからね。

 

『ごくごく……ごくごく』

 

――おっ百合子ちゃん、いい飲みっぷりですね! ささ、お代わりどうぞ!

 

『あ、ありがとうございます、楓さん…………って、そうじゃないですっ!!』

 

いや、そうじゃないと言われても一体どうしたんだよ、百合子?

 

『だから、タイトル詐欺だと言っているんです!』

 

――タイトル詐欺?

 

『そうです。オジさん、このお話の題名覚えていますか?』

 

そりゃ勿論、俺と後輩と酒と文学少女と、だろ。

 

『そうです! 前作に文学少女が付いただけの安価なネーミングです!』

 

――確かに私も安価だと思うのだけど、それは言わないお約束というやつでは?

 

『まぁ、題名の安価さはどうでもいいです!』

 

いいのか……。

 

『私が言いたいのは、何で前作と違い文学少女と題名にあるにも関わらず、私の登場がまだなんですか!? 前々回の話で、七尾百合子、先行登場と言っておいたのにも関わらず本編では話題にすら上がってませんよ! 七尾百合子のなの字も出てきてないじゃないですか!』

 

――まぁまぁ落ち着いて百合子ちゃん。

 

『前作でもそうでしたけど、この作品は登場人物少ないんです! 名前が出てくるキャラクターなんて前作でも五本の指で足りましたし、今作に至っては楓さんしか名前付きのキャラクターいないじゃないですか!』

 

どうどう落ち着け百合子、お菓子でも食べて気を治せよ。

 

『子供扱いしないでください! まぁ、お菓子は貰いますけど』

 

――でもまぁ、百合子ちゃんの言う通りですね。一応タグに七尾百合子と書いてありますし。

 

『そうです! 一話投稿の時点で七尾百合子のタグはあったんですよ。これも詐欺です。本編に出てくると思ってくださっていた全世界の七尾百合子ファンの期待を裏切ったことになるんです!』

 

全世界の七尾百合子ファンって……。

 

『楓さんはいいですよ。ハーメルンでタグ検索しても五十件くらい出てきますし、ネット漁ればSSも五万と出てきます。でも私のタグはたったの6件です! ハーメルンには圧倒的に七尾百合子成分が足りないんです!』

 

おい、さっきから思うんだが、こんなメタ的な発言して本当にいいのか?

 

――大丈夫です。基本的にここは本編とは隔離された空間です。メタ発言、ネタバレなんでもありなんです! それに何か不味いことがあれば、誰か止めにくるはずですので。

 

『今作を見返すと酷いものです! 出てくるのは楓さんとオジさんだけ、前回の話に限ればお酒の話すら出てきません。もうタイトルも「俺と後輩」でいいんじゃないですかね!』

 

――まぁまぁ百合子ちゃん落ち着いて。きっと何か事情があって百合子ちゃんが出てないだけですよ。ほら、プロットでは二話の時点で出てくると書いてありますし、きっと何か事情がって出番が遅れているだけですって。

 

『それです! 楓さん!』

 

それってなんだよ?

 

『私が怒っているのはその事情というやつです!』

 

――あら、火に油を注いでしまったかしら?

 

『えぇ、確かに私が出てくる話は書いてありましたよ。書き終わってありましたよ。でも、その書いてあったデータが入ったパソコンごと失くすってどういうことですか? 書き溜め? そんなことしなくていいからさっさと更新すればよかったじゃないですか』

 

あぁ、これどうすればいいんだよ。

 

――うーん、とりあえず飲みます?

 

その案はありだな。

 

『大体パソコンをなくした経緯がカバン自体を紛失したとか全国の七尾百合子ファンに喧嘩を売っているとしか思えません』

 

あぁ、それについては俺も同じ意見だな。そもそも酔っ払って記憶なくしたとか何やってんだって感じだよな。

 

――そうですね、お酒は飲んでも飲まれるな、です。

 

『一番の失態は書き終わった文章のバックアップをとってないこととさっさと更新しなかったことですけど……お遊び感覚で書いていた長編ファンタジー小説とか、懸賞論文のデータとかそんなどーでもいい話は置いておいて、私の登場話が永遠の闇に葬られたことは許し難いです』

 

いや、論文は問題ありだろ……。

 

『いえ、私の登場話に比べれば価値なんてないに等しいです!』

 

――まぁまぁ、失くしたデータは書き直せばいいですし……

 

『じゃあ、さっさと書き直して下さいよ。やる気なくしたって何なんですか! 結局前回の話も私は存在すら出てきていないじゃないですか!』 

 

あぁ、あれか。一度書いた話をもう一度書くのは嫌だってやつだな。

 

『オジさんも納得しないでください! あれですか? 主人公だからってモブキャラクターの私を見下しているんですか? 言っときますけど、オジさんもあれですよ。主人公じゃなければただのモブですよ! 名前すら出てないんですから、あれですよ八百屋の店主さんと同じですよ!』

 

――これは百合子ちゃん相当にお冠ですね……先輩。

 

まぁ、暫く叫んだら落ち着くだろう。

 

――そうですね。あ、先輩、お代わりどうぞ。

 

あぁ、すまん。

 

『いいですか、オジさん! オジさんが主人公じゃなければ、この作品の題名はただの『後輩』になるんですよ! いや、後輩じゃ意味が分かりませんから『高垣楓』になるんですかね!? 世間はどこもかしこも、高垣楓、高垣楓……。やはり、楓さん。貴方が一番の敵なんですね。魔王なんですね』

 

――魔王ですか……魔王は好きですよ。

 

お前が言っているのは焼酎だろ。

 

――えぇ、先輩はどうですか? 魔王?

 

うーん、あまり高級な焼酎は飲まないしなぁ……。魔王もやら森伊蔵買うなら、青酎とかがいいかな。

 

――あぁ、いいですね。青酎。

 

『ちょっと、オジさん聞いてますか!? イチャイチャしてないで私の訴えを聞いてください! どうせ本編でさんざんイチャイチャしているですからこんな時くらい付き合ってください!』

 

別にイチャイチャしているわけじゃねーんだけどなぁ……。まぁいいや、付き合うからとりあえず落ち着け、ほらオレンジジュースだ。

 

『ありがとうございます! ぐびぐび……よしっ! まだまだ私の怒りは収まりませんよ! 全国の七尾百合子ファンの声を私は代弁するんですっ! ――――――――』

 

こりゃ、長くなりそうだな……。

 

――まぁ、時間はありますし、気長に待ちましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

落ち着いたか? 百合子。

 

『はい、どうにか……。ご迷惑おかけしてごめんなさい、オジさん。楓さんもすみませんでした』

 

――いえいえ、気にしないでください。では、落ち着いたところで第二回、346プロダクション社内ラジオ始めたいと思います。

 

あぁ、これ結局やるのな。

 

――もちろんです。私の癒しですので! 今回のゲストも前回に引き続き、七尾百合子ちゃんです。

 

『はい、よろしくお願いします』

 

前回も思ったけど、お前も百合子も切り替え早すぎるだろ。

 

――さて、今回のテーマは前回発表した通りこれです。「心に残る小説の冒頭」です!

 

冒頭かぁ……。これは悩ましいな。

 

『確かに有名どころは沢山ありますけど……うーん』

 

――はい、今回もこのクリップに回答を記入してくださいね。あ、先輩は勿論漱石はなしですよ。

 

何でダメなんだよ。

 

――だって、先輩漱石しか選びそうにないですし……。

 

『確かにオジさんはそういうイメージですね』

 

納得できんが、まぁいいや。分かった。

 

 

 

 

――はい、皆さん書き終わりましたか? 

 

『はい! 悩みましたけど』

 

俺も終わったぞ。

 

――では、まずは百合子ちゃんから発表してもらいましょうか。

 

『はい、では私はこれです「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」です!』

 

これはまた王道で来たなぁ。

 

――ですね。恐らく日本で一番有名な冒頭ではないでしょうか? 吾輩は猫であるか雪国、この二つのどちらかですよね。

 

『まぁ有名な冒頭ですが、名文だからこそ有名になったと考えられます』

 

確かに雪国の冒頭は文句なしに名文だしな。

 

――それは否定の余地はないですね。

 

『私は更に『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』に続く、『夜の底が白くなった』もすごく好きです』

 

分かる分かる。俺は寧ろそっちの方が好きだな。

 

――そう言えば、「国境」をなんて読んでました?

 

『私は『くにざかい』と呼んでましたけど、楓さんは?』

 

――私も「くにざかい」ですね。先輩はどっちですか?

 

ん? 特に意識してないなぁ。「こっきょう」でも「くにざかい」でもどっちでも意味は間違ってないし。どっちでもいいんじゃないか。

 

――なるほど、そう言う意見もあるんですね。

 

『オジさんらしいです』

 

――では次は私の番ですね。私はこれです「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった」です。

 

『これもまた名文ですね。本当に』

 

あぁ、これ何だっけな。どっかで聞いたことがあるけどどこだっけな……。

 

――あら、先輩覚えてないんですか?

 

俺はお前たちみたいに記憶力もよくないしなぁ……でも、なんだっけ?

 

『ニューロマンサーですよ。オジさん』

 

あぁ、思い出した。どっかで読んだと思ったら原作の方か。確か、訳が凄くいいって聞いて少し目を通したんだっか。

 

――原文だとThe sky above the port was the color of terevision. Tuned to a dead channel.ですね。

 

そうそう、この一文を翻訳してこの文を書けるって凄いよなあ。俺なんて英語全くだし。尊敬するよ。

 

『オジさんはこの冒頭何て訳したんですか?』

 

何せ随分昔の事だから覚えてないけどこの一文なら、「港の空は砂嵐のような曇天が覆っていた」みたいな感じじゃないかな、多分。

 

――あら、先輩は空の色は砂嵐派ですか?

 

『この空の色も、国境問題よろしくよく話題になりますよね』

 

――そうですね、百合子ちゃんはどちら派ですか?

 

『私は青空派ですね。SFを書いた作者が、未来のことを予想できたと考えると面白くないですか?』

 

――確かにその考えは面白いですね。

 

ちなみに、お前はどうなんだ?

 

――私も先輩と同じく曇天派ですね。

 

いや、俺は別に曇天派という派閥ではないんだが……たまたま読んで想像した風景が曇り空だっただけで……。

 

『それにしても洋書も心に残る冒頭多いですよね』

 

――そうですね、有名どころで言えば「それは全ての時代の中で、最良の時代であり、最悪の時代でもあった」から続く一文とかですね。

 

あぁ、これくらいは分かるな。二都物語だな。

 

『金字塔中の金字塔ですね。私は有名どころで言えば、老人と海なんて好きですよ』

 

ヘミングウェイかぁ……。確かに老人と海も有名どころだよなぁ。

 

――確かにそうね。それにヘミングウェイは前作でも大いに出てきましたしね。この作品とも関係大ありですね。

 

『はい、どうせ、オジさんは変化球で来るのは目に見えてますし、ここらでヘミングウェイについて触れておかないとと思いまして』

 

――確かに前作ではヘミングウェイの作品からの引用が圧倒的に多かったですね。

 

変化球ってなんだよ、何だか俺がひねくれているみたいな感じじゃないか。

 

 

――はい、では最後はその捻くれた先輩です、どうぞ!

 

おい、スルーするなよ。まぁ、いいか。俺はこれだ「まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた」

 

――…………。

 

『…………』

 

だから、前と同じように黙るなよ。ラジオだぞ、放送事故だぞ。

 

――いや、まさか虚航船団が出るとは……。

 

『確かに印象深い冒頭ですが……』

 

正直に言って漱石以外でパッと思いついた冒頭がこれしかなかった。でも、この冒頭は小説界に置いてもトップクラスの冒頭だと思うぞ。

 

――確かに一度聞いたら忘れられない冒頭ですね。

 

あぁ、そして何よりこの一文だけで読者に続きを読もうと思わせるのが凄い。

 

『あぁ、確かに気になりますよね、この一文書かれると』

 

続きが読みたいと読者に思わせる文章と言うのは凄いよなぁ、本当。

 

――私はてっきり太宰治の斜陽や人間失格で来るかと思いましたけど、この作品を選ぶとは流石先輩です。

 

それ褒めてんのか? まぁ、あれだ俺はお前たちの様に頭が良くないから冒頭を覚えている作品が少ないんだよ。漱石ならある程度分かるが、斜陽とか人間失格とかになると冒頭よりも有名なシ一文とかセリフが思い浮かんでなぁ……。

 

『例えば、斜陽や人間失格だとどんな一文が思い浮かぶんですか?』

 

例えば斜陽ならパッと思い浮かぶのは「人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである」だな。人間失格なら『恥の多い生涯を送って来ました』が思い浮かぶ。

 

――あぁ、でも分かります。冒頭を覚えている作品って意外と少ないですよね。

 

『私もその気持ち分ります』

 

その点、人間失格や斜陽よりかは冒頭という点で限れば山椒魚とか羅生門の方が印象深いなぁ……。

 

――さてではそろそろ白州の方も一本空きますので、お開きといたしましょうか。では最後に視聴者クイズです。

 

思ったんだけどこのクイズって何の意味があるんだ? 景品も出ないし……。誰も得しないだろ。

 

『うーん、確かにそうですね』

 

――じゃあ何か景品をつけますか? 正解数が多い方に対して?

 

『あ、それいいですね。物はダメでしょうし、こうしましょう、リクエストされたアイドルがヒロインの作品を書くとかどうでしょうか!? いい案だと思いませんか? 思いませんか?』

 

いや、それただお前がメインで出たいだけだろ。

 

『何を言うんですか、オジさん。そんな下心はありませんよ!』

 

…………。

 

――新作を出す。確かにいい案だとは思うのですが、次の新作のヒロインは茄子ちゃんかほたるちゃん、卯月ちゃんの誰からしいですから駄目ですね。それにリクエスト自体このハーメルンさんでは禁止されてます。

 

『え? メインヒロイン候補に私は入っていないんですか? 何でですか!』

 

――大丈夫ですよ。メインでは出れませんが百合子ちゃんの出番はあるそうですよ。タグもつけるそうです。

 

『それだったら、まぁ』

 

百合子それでいいのか。

 

 

――では、時間もいい時間ですので、本日はこれで。次回も宜しくお願いします。あ、ちなみに次回のテーマは「心に残る小説の一文、またはセリフ」です。それでは皆さんいい夢を~。

 

結局、景品の話はどうなったんだよ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の冒頭の作者名と作品名を答えなさい。

 

1 「おい地獄さ行ぐんだで!」 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背伸びをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。

 

2 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

 

3 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

 

4 石炭を早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。

 

5 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。