夏は嫌い。
嫌というほど日光が降り注ぎ、アスファルト熱するお陰で上から下から、まるで釜の中で焼かれているような気分になる。
そんな中、買い出しに行かなければならないのは苦行以外なにものでもない。
信号待ちで同じく赤信号で止まっている一般大衆車を一瞥すると、車内ではカップルであろう若い男女が談笑している姿が見えて、舌打ちをしたくなる。
別にカップルだからというわけではない。
クーラーから流れる外気とは無縁の冷たい風、オーディオからは流行りの曲がセミの声を消していることだろう。
たまには徒歩でスーパーまで行ってみよう、などと散歩気分で外に出たのが間違いだった。
2人分の食料品は、ただでさえ少ない私の体力を削り取るには十分な重さだ。
それでも季節への悪態を吐きながら、青に変わった信号を渡って十数分、彼の住むマンションが目に入ると不思議なもので、足取りが自然と軽くなった。
そしてエレベーター特有のカビ臭さを嗅ぎながら五階へ。
西日が差し込む角部屋は、彼が知り合いからノルマのために押し付けられたらしく、家賃もほんの少し安くなっている。
無駄に重たいドアを開けると冷気が足元を這って、十分に熱せられた体を徐々に冷やしてくれる。
荷物を一度玄関に置き、大きく息を吸って吐き出す。
もう一息と思った瞬間、私の鼻腔は微かに漂う鉄の匂いを嗅ぎ取った。
きっと、いや確実に彼だろう。
荷物のことなどすっかり忘れて、早足でリビングを抜けて彼の部屋へと続くドアを開ける。
瞬間、顔をしかめたくなるほどの鉄臭さと、赤黒くなったベッドのシーツ。
そして臭いの根源である深紅色の手首にカッターをあてがい、私の方を向いて硬直した彼の姿。
「やっ…ちが、違うんだ、これは……」
怯えてアタフタする彼に近寄ると、後退りしながら距離を取ろうとする。
しかし歩幅に勝るわけがなく、追いついた私が彼のカッターを握る手を掴み、そのまま胸元まで彼を引き寄せて私は耳元でこう囁くのだ。
「大丈夫、ここには貴方の敵はいないよ。私は貴方の味方だよ」
すると彼は、安堵して私に顔を埋めてくる。
服を通り越して伝わる彼の熱を帯びて乱れた吐息がくすぐったい。
「ごめ、んね…ごめんね…でも、こえが、聞こえたんだ…またアイツが、僕に…ッ」
嗚咽を漏らしながら震える彼の背中をゆっくり撫でながら優しく相槌を打つと、私の背中に回された彼の両腕に力が入る。
きっと私の服にも血が付着してるだろう。
彼が一通り泣き止んだところで頭を一撫でして声を掛ける。
「ほら、傷口見せて。消毒しなきゃ、ね?」
彼の自傷行為は今に始まったことではない。
だからポーチには消毒液、ガーゼ、包帯の三点セットが常備されている。
慣れた手つきで素早く手当てを終えると、汚れたシーツを回収し、彼の汚れた上着を脱がせる。
「おいでおいで、外に出て汗かいちゃったから一緒にシャワー浴びよ。洗ったげるから。」
手招きすると、よろよろと子犬のように近寄ってきて、そっと私の手を握る。
まるで母子のようだと一瞬思ったが、彼が私を頼りにしてくれるならそれでも構わないと思った。
私に依存してくれる彼と、そんな彼に依存する私。
傍から見れば不健全な関係も、私にとってはとても甘美なものなのだ。
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2
「痒いところはありませんか~?」
バスチェアに腰掛ける彼の後ろに陣取った私は、定番のセリフを使いながら彼の頭を洗っていく。
ワシャワシャと髪を泡だらけにしながら、正対するように取り付けられた曇りかけの鏡を見ると、目に泡が入らないようにと瞼をキュッと閉じた彼の顔が映されていた。
「ん…もう少し力入れていいよ」
「おっけー」
誰かに髪を洗ってもらうと、とても気持ちがいいのは何故だろうか、そんなことを考えながら引掻かないように気を付けて力加減を調節する。
彼はヘアサロンに行ったことがない、したがってプロが行う洗髪の気持ちよさを知らない。
素人の私が行うそれしか知らないと思うと、いつかヘアサロンに連れて行ってあげたいと思うのだが、彼の洗髪も私の特権だと思うと今しばらくは私で我慢してもらいたい。
そもそも彼は滅多に外へ出たがらないのだから、必然的にカットも私が行うことになる。
…一瞬本気で理容学校へ通おうかと思ったが、新社会人にそんな暇はない。
やはり彼には私で我慢してもらうしかなさそうだ。
「ほい、じゃあ流すよー」
空のバスタブに向かってお湯を吐き出し続けていたシャワーヘッドを手に取り、片手で泡を流していく。
一通り流したら、仕上げにリンスをして終わり。
彼はもともと中性的な顔立ちだが、ミディアムの黒髪が肌に張り付き水滴を垂らす姿は、ぱっと見女性にしか見えない。
ふと私の視線が、彼の腕に移る。
薄らと白い線が何本も短く這い、その上から新しくできた、未だ治癒しきれていない赤紫のリスカ跡。
中にはケロイドになっている物も少なくない。
反対の腕には傷口が水に触れないようサランラップが巻いてある。
「少しずつでも止めていけたらいいね」
私が彼の肩に顎を載せて呟くと、彼は小さく頷いた。
それが少しだけ嬉しかった私はそのまま彼に抱き着く。
「ねぇねぇ!次は私の髪を洗ってよっ!」
「いいけど、僕きっと下手だよ?」
「いいからいいから!」
私はその場で反転し正座で待機する。
幾ら夏場とは言えバスルームの床は少し寒いが、彼が私の髪を洗ってくれると思うとそんなことは大した問題ではない。
期待を胸に待っていると、ぎこちない手つきで彼の手が私に触れる。
髪ではなく肩だったのは少し予想外だった。
そのまま何度か肩を撫でた後、思い出したかのようにシャンプーを手に取る。
カシュッカシュッと2度のプッシュで吐き出されたシャンプー液からは、洗いたての彼の髪と同じシトラスミントが香りが漂う。
それを私の髪に乗せたところで、重要な事を思い出した。
「私…買ってきた食料品、玄関に置いたままだ…」
幾らクーラーを付けているとはいえ、夏場に常温で生鮮食品を放置するのはいただけない。
しかも、あれから割と時間が経っているため、傷み始めているかもしれない。
…が、あとで買い直せばいいか、と開き直ることにした。
それよりも今は彼の手を感じることが最優先だ。
背後からは、彼の苦笑いが聞こえた。
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