月軍死すべし (生崎 )
しおりを挟む

北条
第一夜 昼


  いつもと変わらぬ朝だった。

 

  朝餉を終えて、境内へと続く参道に立ちつつ落ち葉を竹箒で払いながら怠惰に午前中を潰す。

 

  異変でもなければ博麗霊夢の一日はそんなものだ。そうでなければ、宴会の準備をしているか、はたまた宴会に参加しているか、暇潰しがてら知り合いの元に顔を出すか、人里へと買い出しか、又はかったるい博麗神社の行事を行っているかのいずれかだ。

 

  秋に入り落ち葉の増えてきた参道の上を、霊夢は意図的に細々と手を動かして落ち葉を払う。霊力を用いた技でも使えばあっという間に終わるのだが、それでは時間が余り過ぎる。縁側で茶でも飲んでいたらまた誰かしらに「サボっている」、だの「暇そうね」と的外れな言いがかりをつけられてしまうのだ。それを思えば、こうして手を動かしていれば『掃除をしている』ようには見える。

 

  だが、いかんせん落ち葉が多い。夏は適当にやっていてもそこそこの時間掃いていれば終わった作業が、秋に足を突っ込むと終わりが見えない。いくら掃いても、ピューっと一度風が吹くと見えていた石畳が隠れてしまう。恥ずかしがり屋な参道の道が見えるまで、これでは一日経っても終わらない。

 

  結局今日も落ち葉を結界で纏めてしまおうかと取り出したお札を握り霊夢が思案していると、表でわんわんと吠える犬の声がする。博麗神社の番犬が吠えている。霊夢は放っておこうかとも思ったが、いつまで経っても鳴き止まない。どころか次第にそれは強くなっているようで、結界を張るために握りしめていたお札を霊夢が放り投げれば飛んで行き、遠くで「きゃうん⁉︎」という声が聞こえた。肩を落として箒を担ぎ霊夢が鳥居の方へと足を向ければ、道すがら倒れている緑の珍獣。目を回すその頭にぽすりと霊夢は箒を落とす。

 

「うるさいわよ。近所迷惑でしょうが」

「うぅ、酷いです。近所なんていないのに」

「気分よ、気分」

 

  そう言って霊夢が箒を担ぎ直すと、高麗野あうんは箒の落とされた頭をさすりながら身を起こす。神社や寺に勝手に居座り守護する狛犬がいったい何を叫んでいたのか。霊夢が訝しんであうんの顔を眺めていると、頭を叩かれた衝撃からようやっと戻ってきたらしいあうんの萎れていた耳がピクンと立った。

 

「そうでした! 霊夢さん、なんか怪しい人がやって来てます!」

「はあ? 何よ怪しい人って? 妖怪じゃなくて?」

「はい、妖気はないですし間違いなく人ですね」

「ふーん、ってあんたそれ参拝客じゃないでしょうね!」

 

  霊夢は再び箒を落とした。それも先程より強く落とすと、ペシンといい音を響かせて体を起こしていたあうんが参道にへたり落ちる。ただでさえ辺境にある博麗神社に参拝客が来るのは珍しい。だというのにその神社の狛犬に追い払われたなどという噂が人里で流行りでもしたら商売上がったりだ。なけなしの収入源が更にすっからかんになるかもしれない事実に霊夢が角をニョキニョキ生やしていると、慌てて起き上がったあうんが「だって普段嗅いだ事ない匂いで」とわけの分からぬ言い訳を言うので再びペシンと箒を落とした。

 

  そんな事をしていると、参道に続く石階段からコツコツと足音が聞こえてくる。あうんのせいで帰ってしまったのではないかと思われた参拝客は、こんな辺境まで来る無謀さで、あうんに負けず境内まで来るらしい。それほどの信仰を持っているなら、きっと神様へのお祈り(お賽銭)が多い事も期待できる。そう霊夢が小さくガッツポーズを取る中で、鳥居の間にせり上がって来た人影を見て握っていた拳を力なく下げた。

 

  「あぁ……」と声が出るようなため息と共に霊夢の肩が下がった。登って来たのは一人の男。短くざっくばらん切られた髪に、角もなければ翼もない。妖気の類もない事からあうんの言う通り人である。霊夢より頭一つ分は高い体を包んでいるのは、いつぞや守矢神社の東風谷早苗に見せられた写真に写っている学生服と呼ばれるもの。ただ早苗と違い男が着る学ランと呼ばれるものだ。竹刀袋のようなものを肩にかけており、他には何も持っていない。男は階段を登り切ると少し辺りを見回して、霊夢に気がつくとギザギザした歯を引き結び眉を顰めた。

 

  その男に霊夢は挨拶する事もなく、男と同じように、いやそれ以上に顔を顰める。参拝客でもなければ人里の人間でもない。たまに外の世界から迷い込んで来る外来人。あうんが嗅いだ事のない匂いというのにも霊夢は納得が言った。外来人が博麗神社に来る理由などただ一つ、外の世界に返してくれというお願いだ。外の世界と幻想郷では通貨が違うので賽銭も期待できない。使えても香霖堂へのツケの支払いくらいのものだ。霊夢がため息を吐く先で足音が霊夢へと寄り、少女が顔を上げた時には男は霊夢の目の前にいた。だが目は興味深そうにあうんの角へと向いている。

 

「神社に鬼とは珍しいな」

「んな⁉︎ 失敬な! 角だけ見て鬼と決めないでください!」

 

  挨拶のあの字もなしに男はそう言うと満足したのか肩を竦めて霊夢を見る。目を吊り上げたあうんが「曲者です!」と男に噛み付こうとするのを霊夢は箒で頭を叩き止め、男の顔を見た。

 

  普通の外来人と違う。そう霊夢は感じた。たまに来る外来人は、だいたい妖怪に怯えてビクビクし、周囲に異様に目を走らせている事がほとんど。だと言うのに男は別に気にした様子もなく、それにあうんを見て鬼だと言った。人里の人間なら相手が鬼かもしれないと分かれば土下寝する勢いで媚び(へつら)うか、脱兎の如く逃げ出すかのどちらかだ。だが男にその素振りはない。なんとも面倒くさそうな男が来たと霊夢は口の端を落とす。

 

「鬼ならたまに居候してるのがいるけど、萃香に用なわけ?」

「萃香? 誰かは知らねえがそんなのに用はねえな。それよりここはどこだ?」

「ここは幻想郷の博麗神社よ」

 

  そう霊夢が言うと男は「そうか」とだけ言って賽銭箱の方へ歩いて行き、ポケットから小銭を取り出すと賽銭箱へと放り投げた。しかし手も合わせずにそこから離れる。霊夢からすれば賽銭さえくれればなんでもいいため何も言わない。だが、男は賽銭箱から離れるとそのままズンズン鳥居の方へと歩いて行ってしまう。男の不可解な行動に流石の霊夢も声をかける。

 

「ちょっと! あんたいったい何しに来たのよ」

「ん、急に周りの景色が変わったかと思えば目についたのがここだったから寄っただけだ。それ以外に理由はねえ。ああいや、折角だから人里の場所を教えてくれねえかな?」

 

  それを聞いて霊夢は頭を掻く。男の言う事が本当なら、男は今さっき幻想郷に来たと言う事だろう。幻想郷が外の世界とは隔絶されていると言う事も知らない可能性がある。だが男は幻想郷の名を聞いても「どこ?」と聞く事もなければ、イヤに落ち着いている。元々幻想郷の存在を知っていたのか。興味がないのか。どちらにしても男の不気味さに霊夢はため息を吐いた。これが妖怪なら面倒だと退治してもいいのだが、人だとそうもいかない。

 

「はあ、あんたが何者かは知らないし興味もないけど、ここが幻想郷だって知ってるなら何しに来たわけ? 一応幻想郷の巫女としては聞かないといけないんだけど」

「あぁ、面倒くさいな。そんなルールがあるのかよ? 言ったら人里の場所を教えてくれ」

 

  男は言いながら服のポケットに手を入れて、霊夢へと中の物を放り投げる。霊夢が手に取ってみれば擦り切れた一冊の本。何度も読んだのか本の一部が指の形に黒ずんでいる。ただ背表紙にも表にも本の題名が書いていない。霊夢が中を開いてみると、よく見る草書で書かれていた。その始まりは、

 

「今は昔、竹取の翁といふものありけり。俺が世界で一番嫌いな本だ」

 

  男は竹取物語の冒頭を口にする。が、霊夢にはさっぱり分からない。竹取の翁がいったいどうした? と眉を顰めるだけで興味もない。本も魔道書などの類ではなくただのばっちい本。焚き火にくらいしか使いようがないように霊夢には思える。隣のあうんに見せてみても首を傾げるだけ。霊夢は本を閉じて肩を本の背で叩く。

 

「で? このゴミ渡せば理由が分かると思ったわけ?」

「思ったんだが、その様子だと違うのか? ならそれでいいんだが」

「何がいいのよ」

「人里に行かなくてもだ。アンタここの巫女なんだって? 外に帰してくれ」

 

  何だこいつ、と霊夢は目頭を抑える。人里に行くと言ったり外の世界に返せと言ったり言ってる事が滅茶苦茶だ。本を一冊投げて寄越してどんな結論を出したのか霊夢にはどうだっていい事だが、何にせよ言っておくことはある。

 

「私もあんたみたいなのにはさっさと出てって欲しいけど、タダでやれっての?」

「は? 有料なのかよ。チッ、持ち合わせなんてほとんどねえぞ。外にある家になら少しはあるが」

「そんなのダメに決まってんでしょ。無一文なら残念だけど無理ね。お金じゃなくて高価そうなものでもいいけど、あんた持ってなさそうだし、なら人里ででも稼ぐのね」

 

  男の態度が態度なので霊夢がふっかけてみれば、「マジかよ」と言って男は苦い顔をした。見かけによらず素直らしい。しばらく男は唸ると、一度空に顔を上げてから霊夢の顔を見る。

 

「なら仕事くれ。家事はできるし巫女の仕事手伝うからよ」

「何でウチなのよ。人里まで行きなさい」

「外に送ってくれるのがアンタならアンタん所で働いた方が早そうだから」

「却下よ!」

 

  男手なんてなくても力が必要な所は萃香にでもやらせればいい。だいたいそれでは楽はできてもお金は入って来ない。そう思い霊夢が強めに言うと、男は口の端を下げて唸りだす。霊夢の想像通り男は幻想郷に来たばかり、行く宛なんてあるわけがない。持っているものも背に背負った竹刀袋以外持っていない。先ほどの会話から霊夢が引かぬのは明らかで、初対面でも男にもそれが分かる。思い通りに行かない事に男は苛立たしげに大きく舌を打った。

 

「じゃあもういいから人里への道を教えてくれ。さっさと稼いでさっさと帰る」

「ええ、ぜひそうしなさい、私のために」

 

  勝手言ってら、と男は大きく空を見上げて、ギザギザした歯を擦り合わせた。男を見て唸るあうんと霊夢を今一度男は視界に収め、心変わりしないのを見届けると霊夢の手からボロ本を引ったくり霊夢達に背を向ける。

 

「で? 結局あんたは何しに来たのよ」

 

  男の背にかかる霊夢の声。だが、男がそれに答える意味は先ほどの会話でほとんど失われてしまった。手に持ったボロ本を懐にしまい、今一度振り返った。何を言おうか言葉を選ぶ。適当言ってもいいのだが、博麗神社にいる巫女と言えば博麗の巫女。外に帰る時のために心象をわざわざ悪くする必要もないと男は結論付ける。

 

「一千年以上前からの人探しだ、くそったれ」

 

  それだけ言って男は博麗神社の階段を降りる。霊夢とあうんは顔を見合わせ、何言ってるんだと肩を竦めた。鳥居の下へと姿を消していく男の背を見送りながら、霊夢はどうも嫌な予感を感じた。

 

 

 ***

 

 

  今は昔、竹取の翁といふものありけり。

 

  嫌という程聞いた話だ。というよりも男はその話以外の物語などほとんど聞いた事もない。博麗神社を後にして、人里に続いていると思われる一本道を肩で風を切りながら歩く。探し人がいないのならば、わざわざこんな辺鄙な場所にいる必要もない。だというのに博麗の巫女の融通の利かなさが腹立たしい。一々幻想郷に来るのも苦労して、帰る時にも金がいる。どうしてこんな事をしなければならないのかと、男は道端に転がっている小石を蹴飛ばして心の均衡を何とか保つ。

 

  それもこれも一冊の本。竹取物語という一冊の本が悪い。というよりもその内容が。それがある限り男の人生は変わらない。決まった人生をずっと歩き続けなければならない。懐にあるボロい本の重さに引き摺られるように男は歩き、地面に転がる小石をまた一つ蹴った。

 

  飛んで行った小石は背の高い草むらの奥へと消え、「痛った⁉︎」という声が男の元に返ってくる。ガサゴソと動いた草むらは、男の近くで一瞬止まるとガサリと大きく一度動き中から異物が飛び出した。

 

  薄い水色の癖の入った髪。外に世界でもそうそうお目にかからない色だ。青緑色をした大きなリボンを頭に付けた少女は、先程男が蹴り抜いた小石を手に持って、青い瞳を辺りに走らせる。それを見る事もなく男は素知らぬ振りをして道を急ぐ。一々相手になどしてられない。さっさと金を用意してさっさと帰る。男の行動目的はそれだ。

 

  どう路銀を稼ごうかと男は思案し、そしてピタリと足を止めた。そう言えば博麗の巫女からいくら必要なのか聞いていない。もし金を用意しても足りないだの言われては堪らない。男は強く一度頭を掻いて、くるりと体を反転させて来た道を戻る。こういう事は後にすると面倒だ。来た道を男は戻ろうとしたが、背中に六枚の青い羽を生やした少女が道を塞いでいる。

 

「急に石が空から降って来たんだけど! まさかお前か‼︎」

「知らね、そういう天気なんだろ」

 

  見慣れぬ容姿の少女に男は少し驚いたが、難癖つけられそうなので適当に少女に言葉を返すと、「そうなの⁉︎」と驚いた声を返す。アホらしいと男は首を振って少女の横を通り過ぎ先を急ごうとするが、男の頭上を飛び越えて少女が男の前に立つ。

 

「待ちなさい! この不思議な天気をきゅーめいしなきゃいけないわ! 行くわよ! あたいに続きなさい!」

「はあ?」

 

  男は背を屈めて男の背の半分ほどしかない少女、チルノに向けて睨んで見るが、全く気にしていないようでない胸を張るばかり。ギザギザした歯を擦り合わせ、男は少女の奥の道に目をやって、相手をするだけ無駄だと先を急ぐ。

 

「ちょっと! 待ちなさいって言ってるでしょ! 耳がついてないの!」

「はあ、探検ごっこは他所でやってくれ。俺は忙しい」

「忙しいってなんで?」

「家に帰るのに金がいるんだ。いくら必要か博麗の巫女さんに聞きに行くところなのさ。だからあっち行け」

 

  果たしていくらになるものか。電車で最寄駅に行くように百数十円くらいだと嬉しいが、数十万などだと道が遠いと男は頭痛がしてくるようだった。この場で少女と話して時間を潰すのは無駄だと足を動かそうとするも、男の隣に少女が飛んで並びどこかに行ってくれない。払うように男は手を動かすが、チルノはその手を目で追うだけで効果はない。

 

「家って遠いの? あたいは湖に住んでるの! 良いでしょう」

「……そりゃ羨ましいな。俺の家は幻想郷の外にあんのさ」

「外? あ、分かった! あたい知ってる、お前外来人だな!」

 

  「そうだねえ」と適当に返事をして男は歩くが、少女がどこかへ行く気配がない。男はチラリと目を少女の背に付く羽へと動かし、続けて少女の顔を見る。おかしな事などしていないというような少女の顔。少女にとって空を飛ぶというのは普通なのだ。だが男にとっては普通じゃない。幻想郷がどういった場所であるのかは漠然とだが男は知っている。だからこそ男は幻想郷に来た。

 

  だが知っているのと実際目で見るのでは違う。悠々と空を行く少女から視線を切って、男は前へと顔を向けた。チルノに男は興味はあるが、極論を言えばどうだっていい事だと男は処理する。今必要なのは帰る事。だというのに変なくっつき虫がいる現状がまた癪に触ると男は舌を打つ。

 

「外の世界ってどんな感じ? 暑い? 涼しい? あたいは涼しい方がいいかな」

「……アンタなかなかしつけえな。いい加減どっか行け。俺は忙しいんだ」

「そうは見えないけど、外来人が何しにここに来たの?」

「……はぁ、人探しだ。ただ幻想郷の守り人なんて言う博麗の巫女が知らないようじゃここに来た意味なかったがな」

 

  そう言い切って男は足を早めた。幻想郷に来るまでどれだけ手間が掛かったか。それを思えばこの無駄になった時間は何ともし難い。数人と力を合わせた結果がコレなど、我慢ならない。そのイライラを刺激してくるように「誰を? 何で?」とチルノは聞いてくる。

 

「言って分かるか知らねえが、なよ竹のお姫さんを探してんのさ。ほらもういいだろ。あっち行け」

「何で? 何で探してんの?」

「チッ、何だっていいだろ」

 

  男は足を早める。ただ早める。交互に出していた足の回転数が上がっていき、男の横を滑らかに過ぎ去っていた景色が、早送りされたように飛び始める。辻風のように加速した男の横を、しかしチルノは悠々と飛び続けて引き剥がせない。

 

  何で? そんな事は男の方こそ聞きたかった。

 

  男の一族は古い一族だ。百年や二百年など鼻で笑えるような古い一族。大正明治を超えて遥か昔、竹取の翁が竹を割って姫を抱える、そんな時まで遡る。竹取の翁が育てた姫は大層美しく育ったが、月の使者に連れられて月に帰った。そんな物語が竹取物語。その物語に出てくるくらいに男の一族は古かった。

 

  とは言えその物語に名前が出てくるわけではない。言ってしまえばモブ。名前のない人その一。そんな雑多な中に男の一族は混じっていた。後から物語を読んだ者にとってはそれくらいの扱いで、それでいいだろと男も思う。だが、当時の者達は違ったのだ。

 

  誰もが一度は見たであろう竹取物語絵巻。かぐや姫が月に帰って行く姿を映したとされるその絵に男の一族は写っている。月の使者がかぐや姫を連れにやってくると知った帝は、当然当時最高の強者を揃えた。その中でも特に強かったのは、平城(へいぜい)十傑と呼ばれた十の一族。いずれも名のある妖怪、悪人をその手に持つ刃と弓で退治し名を馳せた十の当主。布陣は万全。どの当主も負ける気など微塵もなく、自慢の技と業物を携えてかぐや姫の元に集った。

 

  だが結果は?

 

  誰もが知っている通り、なす術なくかぐや姫は連れて行かれた。怪しげな術で眠らされ、当代一の技を振るう事なく呆気なく終わる。

 

  許せない。許せるわけがない。

 

  誰を? 当然自分自身を。何を? 刃すら交えられなかった事を。

 

  故に平城十傑の誰もが誓った。どれだけの時間が掛かろうと、いつかきっと、十数代、数十代後の当主が必ずや月軍を撃滅し、なよ竹のかぐや姫を奪還すると。

 

  男はこの話を先代から聞いた時、心の底からどうだっていいと思った。いったいいつの話をしているのか。男自身、己の一族がかなり古い事は幼少の頃から知っていた。だが関わっているのが竹取物語というのがもう怪しさ満点だ。しかも追加で話された実はかぐや姫は月に帰っておらず逃げ出して、地球のどこかにいるとかいう誇大妄想。どこでそうなった。そんな事実無根な情報を追ってかぐや姫を探す意味が分からない。だから男は幻想郷にやって来た。何世代も前の当主が書き記していた最期の手掛かり。どこにもいないならここかもしれないという最期の砦。それをもうさっさと潰し、欲しくもない使命に男は決着をつけたかった。

 

「競争なら負けないよ!」

 

  何を勘違いしているのか、男の横を飛ぶチルノがそんな事を言う。引き離すために走っているのに、全く男からチルノは引き剥がれない。舌を打ってより強く男は足を出す。競争などはどうだっていいが、負けるのが男からすれば癪だ。それも男よりも小さな少女に。

 

「む〜、負けないぞ!」

「しつけえ! 追ってくんな!」

 

  男は姿勢を落としてより加速する。背後から聞こえる少女の叫び声。それを置き去りにするように足を動かすが、それでも少女の声は離れず寧ろ近付いてくる。男が背後を見れば、汗を垂らしてついてくるチルノ。何をそんなに必死なのか男には分からないが、少し楽しくなってきたと口の端を上げてギザギザした歯を薄く開く。男が顔を前に向ければ石階段が映った。

 

「ごーるはあの赤いのよ! 負けないんだから! あたい最強!」

 

  階段の上の鳥居を向き、男の横で高度を上げて行くチルノを男は見て舌を打った。チートだチート。と内心で呟き、足に力を込める。勝手にふっかけられた勝負でもどうせなら勝ちたい。足に力を込めて地面を踏み抜く。正直に階段を駆け上がるなど時間の無駄。男が踏み込んだ地面は大きく凹み、男を一気に空へと飛ばす。「嘘⁉︎」と叫ぶチルノの声。石段も鳥居も飛び越して、男は神社の屋根先へと足を伸ばし、そして見事に蹴り破いた。

 

「痛って、クソ、この屋根腐ってんじゃねえのか。あー最悪」

 

  木片を掻き分けて手近にあった賽銭箱に手をつき立ち上がる。学ランについた埃を払い落とし、男が竹刀袋を背負い直していると、鳥居をくぐってチルノがやって来た。その顔は悔しそうなものではなく勝ち誇ったもの。男の前に降り立つと、何を言うより早くチルノは胸を張る。

 

「赤いのをくぐらないで飛び越えちゃったからお前の反則負けね!」

 

  とわけのわからない事をチルノは言った。男は眉を吊り上げてチルノを見る。

 

「おい、なんだその追加ルールは。適当言ってんじゃねえぞ。どう見たって俺の勝ちだろ」

「ふぅ、あたい知ってるわ、負け犬の鳴き声ってやつね」

「鳴き声じゃなくて遠吠えだろ。まあ鳴き声の方が負け犬っぽいが」

 

  何を言ってもチルノは胸を張る姿勢を崩そうとしないので、男は肩を竦めて辺りに視線を散らした。博麗神社から男が離れてそこまで時間が経っていないのに巫女の姿も緑の珍獣の姿もない。どこに行ったのかと男が一歩足を出すと、男の前を塞ぐようにビシッとチルノは男に向かって指をさす。

 

「負けはしたけど、お前なかなかやるからあたいの子分にしてあげる!」

 

  「は?」と男の口から声が漏れる。なんたる理不尽。男は別に子分になりたいとも言ってないしなりたくもない。何よりも女にいいように使われる立場というのが気に入らない。胸を張るチルノの胸を指先で強く押し、よたっと後退るチルノの顔に男は顔を近づけギザギザした歯を開く。

 

「俺は女の下にはつかねえ。次アホな事言ったら叩っ斬るぞ」

「はぁ、仕方ないわね。子分のわがままを聞くのも親分のつとめね」

「おい、アンタ聞いてねえな。俺は子分にはならねえ」

「はいはい、あたいはチルノよ。親分の名前はしっかり覚えなさい。で? お前の名前は?」

 

  聞いちゃいねえと男は踵を返して神社の外回りに行こうとするが、チルノが男の周りをグルグルと周り行く手を阻む。少女の口から発せられる「名前は? 名前は?」の礫の荒らし。手で追い払おうとしても上手く避けられて当たらない。舌を打って男はため息を吐く。

 

「……(くすのき)だ。北条楠(ほうじょうくすのき)。覚えなくていい。だからいい加減」

 

  音が消えた気がした。トッと参道の石畳を小突く音。チルノの背後で、赤い鬼が降りて来る。迸る霊力が空間を歪めて、楠とチルノの体をピリピリと叩く。

 

「ねえちょっと、何か神社の屋根が一部足りないように見えるんだけど」

 

  霊夢の言葉に振り向いた楠が神社を見ると、屋根が欠けて折れた垂木が突き出している一部分。楠は冷や汗を垂らし、調子良く「親分が」と言いながら隣に浮かんでいる少女へと目をやるが、そこには誰の姿もない。上を見るとかなり小さくなった少女の六枚羽。男は背中の竹刀袋に手を伸ばそうとするが、それよりも早く一歩霊夢が足を出す。霊力に当てられ浮き上がる小石。楠の足がゆっくり後ろに下がった。

 

「待ちなよ巫女さん。俺は外に送って貰うのにいくらかかるのか聞きにだな」

「いくら? あぁそう、弁償代も含めて十両かしら、ね!」

 

  叩きつけられたお札が楠を弾き飛ばす。話も聞かず唯我独尊を貫く少女達。そんな少女達の事よりも、楠の脳裏にあったのは、十両っていくらという事。楠の不幸を笑うように月の姫君の笑う声が楠には聞こえた気がした。きっと幻聴だと吐き捨てて、楠は焦げた体で寝転がったまま、真上に上った太陽に唾を吐く。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一夜 夕

  何でこんな事やってんだ。と楠はギザギザとした歯を擦り合わせて唸った。日は既に落ちかけて、赤と黒の混じった空に真っ赤な夕日と白い月が上っている。そんな中一定のリズムで響く金槌の音。博麗神社の屋根を蹴り破ってからもうかれこれ五時間近く楠は金槌を振るい、時に鋸を引き、参道の窪みを埋める。明らかに壊した部分以上修理している。霊夢はというと、縁側に座りながら茶を飲んで指示を出すだけ。最後の縁板を打ち終えて、楠は手に持った金槌を放り落とす。

 

「終わりだ終わり! もういいだろ!」

「じゃあ次は」

「おい」

 

  背後の空に上る白っちい月を楠は親指で指し示してやるが、霊夢から返されるのは『だから?』と言いたげな鋭い目。それにこの黄昏時までに直してやった至る所を楠は指差す。明らかに修正箇所を上回った仕事。それを一応罪悪感から直してやるあたり楠も素直であるが、おかげで楠はもう日が落ちるというのに今日の宿も確保できていない。何も言わずに落とした金槌を片付けながら、楠は霊夢に文句を言う。

 

「こき使うにも程があんだろ。これって給料でんのか? 今日の宿どうすりゃいいんだ」

「出るわけないでしょ。それに宿は自分でどうにかしなさい」

「アンタそれでも人間か? そこは、しょうがないから今日は泊まっていきなさいとか言うだろうが普通よう」

 

  自分よりも歳若い少女に向かって今日家に泊めろというのも情けない話ではあるが、幻想郷がどういう場所であるか知っている楠は、引かずに無情な少女を睨みつける。

 

  幻想郷はその名の通り幻想の都。外の世界で幻想となったものが流れ着く。お伽話でしか聞くことのできない妖怪、伝説の怪物、自然の化身妖精など、そんな魑魅魍魎が闊歩する道端で野宿するような修験者精神は、現代っ子の楠は残念ながら持ち合わせていない。というか持ち合わせたくないと考える。故に引かずに楠は霊夢を睨んでいると、霊夢は手に持った湯飲みの茶を飲み干してため息を吐いた。

 

「なんだよ、本殿の中とか使わせてくれてもいいだろ」

「あんた信仰心とかないわけ?」

「悪いがうちは寺でな。俺は一応仏教徒だ。内陣の中で昼寝とかしょっちゅうしてる」

 

  それで修理の手際の良さに納得がいったと霊夢は一人小さく頷く。楠が直した箇所はぶーぶーと文句を言いながら、何だかんだ綺麗に直されていた。霊夢自身自分で修理するのは面倒なため萃香がいる時は萃香に直させるのだが、出来栄えは比べても萃香に劣っていない。別段信仰心が強くもない霊夢は、一晩ぐらいならいいだろうと決め、「宿代はそこよ」と賽銭箱を指差した。

 

「まだ金とんのか? もう小銭しかねえってのに。食事付きだよな?」

「まあ今更居候が一人増えても変わらないし、代わりにあんたが作りなさいよ」

「なあ、アンタ鬼とかよく言われねえか?」

 

  楠の質問に「言われた事ないわ」と霊夢はさらりと嘘をついて縁側から腰を上げる。苦い顔をした楠を連れて向かうのは台所。時間も時間、食事にするならさっさと作れという暴虐無人さに楠は歯を擦り合わせる。通された台所は、外の世界ではほとんどお目にかかれないカマドがあり、上に乗った釜の蓋がコトコト音を立てていた。昔懐かしい風景だが、楠にとっては見慣れた風景。薪をくべて飯を炊くのはいつもやっている。それもこれも楠の家は山奥の人気のないあばら寺であるからなのだが、そこでもお目にかかれないものがあり楠はカマドを前に目を丸くした。カマドに息を吹き込む竹筒が勝手に動き息を吹き込んでいる。霊夢はずっと縁側にいた。それなのに勝手に飯が炊かれている現状。これが博麗の巫女の秘技なのかと背を丸めて楠が覗き込んでみると、竹筒の息の吹き込み口にお椀の蓋が張り付いている。

 

  眉間に皺を寄せながら楠がお椀の蓋を摘み引き上げてみると、「わ! わ!」という驚きの声と共にオマケで女の子が付いてきた。驚いたのは楠の方だ。楠が持ち上げたお椀の蓋を手で掴み垂れ下がる小さな女の子。薄紫色の短い髪を揺らしながら必死にお椀から垂れ下がる少女、少名針妙丸を見て楠は一言。

 

「親指姫?」

「こらー!もっとあるから!」

 

  楠の疑問に顔を赤くして叫んだ針妙丸に、これは幻覚の類ではないと悟った楠は、針妙丸の足をひっ掴み逆さにしたりお手玉しながら針妙丸の体を突っつき回す。楠よりも何倍も小さな背丈でありながら、人形などではなく生きた人。「へんたーい⁉︎」と叫ぶ針妙丸の声も楠は聞かず、その摩訶不思議さに楽しくなり遊んでいたが、お祓い棒をどこからか取り出した霊夢に頭を叩かれる。

 

「あんた何してんのよ」

「いや、珍しいもんでつい。悪いな嬢ちゃん」

「霊夢ー! 退治よ退治ー!」

 

  プンスカ怒る針妙丸に適当に謝り楠は針妙丸を土間に下ろした。地面に置くと針妙丸の姿はお椀の蓋に隠れて全く見えない。忙しなく動くお椀の蓋を横目に霊夢に指示され、奥の棚から鉢りんと金網、炭を出す。楠の家でさえプロパンガスを使っているが、その類のものがない。ただ棚の奥にカセットコンロの姿が見える。

 

「おい、こりゃ使えねえのかよ」

「換えがないのよ、換えが。河童がいろいろやってるらしいけど」

 

  河童。有名な妖怪だ。楠も当然聞いたことがある。いろいろやってるらしいというのが楠には何のことか予想できないが、使えないということが分かっただけいいかと外の壁に竹刀袋を立て掛けため息を吐く。そんな楠に差し出されるメザシ四匹。これが晩御飯だと冗談ではないという顔で差し出してくる霊夢に楠は顔を顰めてみせ、メザシの尻尾を摘みながら歯を擦り合わせる。

 

「質素過ぎて何も言えねえ。俺でさえ外ではもう少し豪華だぜ?」

「口より手を動かす」

 

  楠の頭にまたお祓い棒が振り落とされる。しかし、どう炭に火を起こせばいいんだと鉢りんの中に炭を組み上げていると、横に突っ立っていた霊夢が指を弾いた瞬間炭に火が点いた。

 

「なあ、アンタが全部やった方が早えんじゃねえか?」

「嫌よ面倒くさい」

 

  こんなんで巫女が勤まるのかと口を歪めながら、楠は鉢りんの上に網を置き、網の色が火によって色を変えるのを見てメザシを置いていく。楠の横から霊夢が離れていき居間へと消え、代わりにズリズリとした音が楠の方に寄って来る。

 

  楠が振り返れば寄って来ているお椀の蓋。お椀の蓋がボロい団扇を引き摺っている。楠の隣までお椀の蓋は寄ると、団扇を地面の上へと置いた。団扇を引き摺った跡が地面に残り、見た目以上に重そうな雰囲気を出しているが、楠が手に取ってみれば、見た目通り軽かった。

 

「それ私のおかずでもあるんだから焦がさないでよ!」

「へいへい、で? アンタは何なわけ?」

 

  お椀の蓋から目を外して鉢りんに集中する。働いた後の飯を焦がしてしまうのは楠からしても望むところではない。隣で針妙丸が小さな胸を張るのも目に入れず、パタパタと団扇を動かすが、目に見えて隙間があると分かる団扇では、しっかり風が遅れているのか怪しい。そんな隙間の多い団扇を通り抜けるような元気のいい声で針妙丸は叫ぶ。

 

「私は少名針妙丸! 一寸法師の末裔よ!」

「一寸法師〜?」

 

  その言葉に今一度楠は針妙丸に目を落とす。一寸と言うにはそれよりは大きいが、小さな事には変わりがない。一寸法師という有名な名前を出せば楠もへり下るかとも針妙丸は思ったが、それどころか楠は再び針妙丸の今度は首の襟を摘むと持ち上げてしげしげと眺める。眉をへの字に曲げた楠の顔はお世辞にも良い面とは言えず、鼻を横渡った一線引いたような痣と、ギザギザした歯。はっきり言って怖い。針妙丸は一瞬身を凍らせたが、パタパタ腕を動かし抗議の意を示す。

 

「アンタマジで言ってんのか?」

「あ、当たり前でしょうが!」

「ッチ、気に入らねえな」

 

  そう言いながら楠は摘んでいた手を離した。針妙丸は重力に負けて落ちていくわけでもなく、重力に逆らうようにゆっくりと地面に降りると足をつけてまたバタバタ動き回る。

 

「貴方私のご先祖様馬鹿にしてるの!」

「そうじゃねえよ、ただ一寸法師が実在したって話が気に入らねえのさ。まるでマジでいるみたいじゃねえか。つまらねえ冗談は言うなよ」

「いるって何が?」

「……なよ竹のお姫さんだよ」

 

  かぐや姫と並んで本屋に行けば置いてある童話。その一つが実在したと言われても信じたくはないが、目に見えて異質な存在がいるという事実に百パーセント嘘ではないのかもしれないと楠も思う。それがどうも癪に触ると楠が顔を顰めていると、さも当然というようにさらりと針妙丸は「いるじゃない」と口にする。その言葉に楠の手は完全に止まり、鋭くなった目が針妙丸に落とされる。

 

「……おいアンタ、今の冗談でも許さねえぞ」

「い、いるってのに何で言ったら怒られるのよ! いるものはいるんだから仕方ないでしょ!」

「いるって何処に‼︎」

「ま、迷いの竹林よ! 人里から少し行った」

 

  そこまで聞いて楠は壁に立て掛けられていた竹刀袋を手に取り、その場を飛び出した。嘘か本当か聞いている時間も惜しい。もしも本当にいるのなら、楠がする事は決まっている。

 

(本当にいるのなら、本当にいるのなら絶対一発殴る!)

 

  北条家の伝統。平城十傑の家によって当主の選び方は違うのだが、北条家の選び方は至極単純。七つになった北条家の直系の子供達は集められ、一年間地獄の特訓を受ける。そして一年後最も当主に相応しいと先代が決めた一人が当主となる。これに選ばれた子供には拒否権はない。そして始まるのは浮世から離れた修行の日々。古臭いボロボロの寺に先代と二人押し込められ、朝から晩まで稽古させられる。春夏秋冬、一日も休みはなく、骨が折れようと肉が裂けようと関係なく毎日毎日稽古と言う名の拷問の日々。

 

  楠が何より気に入らなかったのは、強い者なら自分以外にいくらでもいたという事。最初の一年、楠よりも力の強い者はいくらでもいた。楠よりも速い者もいくらでもいた。楠よりも剣の扱いが上手い者も、楠よりも頭のいい者も。だからある日楠は先代に聞いたのだ。なぜ選ばれたのは自分なのかと。普段口数が少なく木刀、たまに真剣で楠をボコボコにする先代が、酒でも回っていたのか口にしたのは、「お前が一番北条の技の基本ができていたから」。

 

  何という理不尽。そんな理由で自分よりも強い者を切ったのかと楠は己を呪った。当主なんかに選ばれなければ、普通に小学校を出て、友人と遊び、文明の利器に囲まれて楽しく日常を謳歌できていたはずだ。先代が老衰で亡くなってから近くの中学校に行き、より強く楠はそう思った。

 

  だがそれも、全てかぐや姫なんていうわけもわからぬ者がいなければ済んだ話。だからどうしても楠はもし本当にかぐや姫なる存在がいるとしたならば、一発殴ってやらなければ気が済まなかった。

 

(そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ俺はよう!)

 

  鳥居を楠の目は捉え、その先へ飛び出そうと足に力を込めて飛び上がった瞬間目に見えぬ壁に阻まれる。ビタンと透明な壁に張り付きズリズリと落ちていく楠に、「どこ行こうとしてんのよ」と掛けられる疲れたような霊夢の声。

 

「……博麗の巫女さんよう、アンタ何で止めんだ」

「どこいくか知んないけどそんな殺気振りまいて、問題起こされたら困るでしょうが。うちの神社から飛び出してった奴が暴れたなんて言われたら評判落ちるのよ」

 

  何か言って霊夢が通してくれる雰囲気ではない事を楠も察する。博麗神社の評判など楠にとってはどうでもいい事だ。竹刀袋の紐を解き、その中の物を二つ手に取る。

 

  日本刀と脇差。長と短の二振りの刃。この二つが楠の得物。身の丈合わぬ頃から振り回してきた手足の延長。日本刀を右手に、脇差を左手に握り肘を曲げて楠が親指で鞘の根元を弾けば、ずるりと滑り落ちた鞘が神社の土に柔らかく跳ねて地面に転がる。構えなんてものではない。ダラリと両腕を垂れ下げた姿は落ち武者のようにも見える。霊力も何も感じない。だが、幽鬼のように体を揺らす楠の体から立ち上るプレッシャーは並ではない。少なく見積もっても白玉楼にいる庭師、魂魄妖夢と同等の剣客。その降りかかるだろう面倒さに霊夢は舌を打つ。

 

「あんた本気でやるわけ? 外来人のあんたに言って分かるか知らないけど、幻想郷には弾幕ごっこってルールがあるんだけど」

「弾幕? 知らねえな。そんなご立派なもん出せねえよ。それより結界解いて先に行かせろ。そうすればコレを振ることもねえ」

「あっそ、話になんないわ」

「そのようで!」

 

  楠が地面を蹴る。その瞬間を見計らったように、虚空に振った霊夢の赤い袖が一瞬瞬き、楠の顔に向かって飛来する銀閃。瞬きもせずに目の前まで迫った銀閃を楠は左手に持った脇差で簡単に払う。キンッ、と鳴った軽い音を置き去りにして、それが地面を打ち二度目に音が響くよりも早く楠は霊夢に肉薄する。後一度足を踏み込み進めば楠の間合い。だが、楠が足を落とし参道の石畳を踏み割った瞬間、楠の目前で霊力が弾けた。目の眩むような眩い輝き。

 

  霊夢を中心に霊力の花火が花開く。たった一度の霊力の解放で空間を支配する為に球状に広がる霊力の塊に、楠は舌を打ちながら前へ進もうと出していた足で後ろへと跳ぶ。花開いた霊力の塊は空を吸い込むような独特な音を上げて楠に迫る。一足では足りない。楠を追って迫る光球。空に浮いた両足を地面に付けて、楠は足を踏み込まずに崩れ落ちるかのように態勢を前へと倒し、紙一重で光球を避けた。頬を僅かに擦って煙を上げる光球を楠は横目で見送り、下へと重力を加えて向かったエネルギーを、足を踏み込む事で前へと向ける。

 

  その楠の姿を見て、霊夢は目を細める。幻想郷では見ない技術。人里にも妖怪退治屋として刀や槍を握る者はいる。だが動きが明らかに違う。楠は人間だ。目に見えぬ力からも霊夢はそれが分かる。だが目に見えて立ち上る男の空気は、あたかも妖怪を前にしたかのように歪んで見えた。

 

  剣気。

 

  霊力でもなく妖気でもなく、超一流の剣客だけが持つ刃のように鋭い気配。刀の範囲にいなくても、その気配に踏み込めば斬られると分かる。故に霊夢はそれを拒むように懐から取り出したお札を地面に叩きつける。水面に小石が落ち広がる波紋のように、楠が蹴飛ばした小石が目に見えぬ空間に阻まれる。それに楠は目を見開き、ギザギザとした歯を擦り合わせ右手を振るった。

 

  鋭いというよりは、隙間に滑り込ませるかのように振るわれた剣。それを振るった手を押し出すように、楠は足を滑らせ体全体で刀を振るう。結界と刀が打つかる硬い音はしなかった。空間が擦りあったような鈍い音。ギターの低音をかき鳴らしたような音が境内に響き、カーテンを捲るかのように結界に穴が開く。

 

「何よそれ!」

 

  霊夢の言葉に楠は答えない。ギザギザした歯を擦り合わせるだけで、壁のなくなった前へと楠は足を進める。

 

  平城十傑。その一族一つ一つはまるでタイプが異なる十の一族。だが彼らが千年で重ねた基本的な努力の方向は変わらない。月の姫を迎えに来た月の使者を倒す。だが、結局それは何もせず、何も見ずに終わってしまった。なら次回、月の使者を前にどうするべきか。そんな事は誰にも分からなかった。姿形も、どんな力を相手にすれば良いのかも分からない。

 

  その結果、代を重ねる毎に稽古は苛烈になり、どこで道を間違えたのか、魑魅魍魎から実態のない幽霊に至るまで、自らの技で斬れるようになるべし、とわけのわからぬ方向に技は進化していった。想像上の強大な月軍の者を倒すために磨かれた浮世から離れた理外の技。

 

  その技を持って楠は霊夢に迫る。ゆらりゆらりゆらゆらと、水面に浮いた枯れ葉のように、霊夢の視界から楠の姿がブレてその身を消した。目を見開く霊夢。辺りを見回しても楠の姿はない。ふと、鋭い気配が霊夢の胸の内に滑り込む。その悪寒に肌の産毛が逆立ち、その場から霊夢は宙へ飛んだ。一瞬遅れて、霊夢の前髪が数本夜の光の中を泳ぐ。

 

  目の前を通り過ぎた銀の線に霊夢は瞬きもせずに身を翻し背後へと跳ぶ。音もなく虚空に足をつき、霊夢の見下ろす大地にへばりつくように身を屈める楠の姿。その歪さと厄介さに霊夢は舌を打つ。

 

「あんた、今斬る気だった?」

「ざけんな、峰打ちだ峰打ち。アンタ斬ってもしょうがねえだろ」

「そう思うならもう止めなさいよ面倒くさい。ただの喧嘩なんて馬鹿らしいわ。しかもただの剣技で結界斬るような奴とよ」

 

  言いながらも霊夢は楠を観察する。宇佐美菫子や早苗から霊夢が聞いていた外来人の様子とは楠は合わない。第一印象から楠は怪しい雰囲気を背負った男だったが、今はより不気味だ。外の世界は幻想が薄れ、妖怪などには目をチラリとも向けていないとは早苗の言葉。文明の利器を求め、菫子の使う超能力と似たような力に尽力していると霊夢は聞いている。その見聞と楠は合致しない。

 

  正しく時代を超えてやって来た侍。神社の屋根で金槌を振るっていた男と同じだとは霊夢には思えない。刀を抜いてから明らかに楠の様相は変わった。軽い口調は変わらないが、明らかに隙がなくなった。ゆらりと手では掴めないそんな空気。

 

  石畳にへばりつくように身を倒していた楠がゆっくりと身を起こす。風に揺れる柳のような立ち姿。相変わらず両腕はダラリと下げられ、振り子のように両手に握った刀が揺れる。絶妙に刀同士は打ち合わず、空が擦り合わられるような唸り声が薄っすら響く。

 

「行くぞ、巫女さんよ」

 

  空に佇む霊夢に地に足付けた楠がどうやって近付く気なのか。霊夢には分からないが、楠に何の手立てもないようには見えない。奥歯を噛む霊夢が懐に手を伸ばし、身を落とそうとする楠に向かって、お札ではなく一枚のカードを掴んだ瞬間。

 

おーい、霊夢ー

 

  小さく声が境内に降って来た。場にそぐわぬ陽気な声。

 

おーい、霊夢ー!

 

  それもどんどん近付いて来ている。鳥居の方からではなく空を踏んでいる霊夢よりも更に上。震えた声は恐怖といった類のものではない。明らかに酔っ払った少々呂律の回らぬ声。それを聞いて霊夢はため息を吐きながら、掴んでいたカードから手を離す。そんな霊夢の様子に楠は眉を顰めていたが、

 

「霊夢ー‼︎」

「嘘だ、ろ⁉︎」

 

  地面に落ちた影はあっという間に楠を覆い、巨人が空から降って来た。刀を振る暇もなく、楠の目に移ったのは三日月が頭に突き刺さったような巨大な女。じゃらつく鎖の音と共に、楠の小さな体を押し潰す。

 

「あっはっはっは! っていててて⁉︎」

 

  笑いながら落ちて来た鬼、伊吹萃香は楽し気にその場で手をバタつかせて転がったが、背中にチクチクとした痛みを覚えてそのまましばらく転がり身を縮める。しゅるしゅるその大きさを十数倍は小さくした萃香は、ぽてりと地面に背をついて、空に浮かぶ霊夢を見るとにへらと笑う。

 

「霊夢ー! そこにいたのか、今日は良い酒が入ったんだ。どこぞの外来人がわらしべ長者みたいでさあ」

「うるさいわよ酔っ払い。あんた手水舎まで押し潰して弁償よ弁償。そこで潰れてるあんたもよ」

 

  完全に地面に埋もれた楠に霊夢は鋭い目を飛ばし吐き捨てる。地面に埋もれた楠は何とかその場から這い出てよろよろ立ったが、そのまま剣も構えず前のめりにパタリと倒れ仰向けに転がる。弱くともギザギザした歯を擦り合わせていると、楽しそうにゴロゴロと転がっていた萃香が楠を見て笑い声を上げた。

 

「ああ! こんな奴だよ霊夢、こんなヘンテコな格好した奴」

 

  その霊夢の言葉に霊夢は眉を上げる。同じタイミングで外来人が二人。ないわけでないが、楠を見ていると嫌な予感がすると霊夢のうなじがぞわぞわとうねった。手に持ったお祓い棒で霊夢が楠を突っつくと、楠は「何しやがる」と口にしなかったものの、ギョロリと敵意を含んだ目を霊夢へと向けた。

 

「ちょっとあんた」

「……何だよ、こちとら体が痛くて動きたくねえ。今日はもう出ねえよ、クソ。ちみっ子が地面を這いずってると思えば次は巨女が降って来るとか……この郷嫌いだ」

「そうじゃないわよ……あんた一人で来たの?」

 

  霊夢の質問に、楠は擦り合わせていた歯を止めて、むにむにと口を動かす。別に黙っている理由はない。だから楠は霊夢の質問に「いや」と短く答える。

 

「そ、仲間がいたわけね。……はぁ、あんたみたいなのがまだいるわけ?」

「仲間じゃねえよ」

「はあ?」

 

  霊夢の質問に今度は楠は答えなかった。仲間ではない。その通り、楠と共に幻想郷に入ってきた者達の名前も楠は知らない奴がいるくらいのそんな者達。誰も彼も平城十傑の当主達。だが、平城十傑は仲がいいわけではない。平城京で名を馳せた十の一族。当然クセが強い。その当時から仲が良いわけもなく、また月の姫が消えた後もそれは変わらなかった。それから千年以上が経ち、疎遠になっても親密になる事はない。今回幻想郷に来るにあたり手を組んだのは所詮利害の一致。一人では博麗大結界を超えることは不可能であったために手を組んだに過ぎない。だから月の姫が幻想郷にいないのならば、楠はさっさと一人で帰る予定であったのだが、月の姫がいるかもしれない現状、そうもいかないかもしれないと考え楠はため息を吐く。ゆっくりと身を起こし、見下ろす霊夢と楠は目を合わせる。

 

「明日はもう出てっていいよな?」

「んなわけないでしょ、これ見なさいよこれ!」

 

  そう言ってビッと周りにお祓い棒を指す霊夢。そのお祓い棒の後を楠が追って見れば、萃香が転がったせいで全体的に凹んだ境内の姿。神社の屋根先が欠けたなんてものではない。直すのに何日かかるのか分かったものではない有様に楠は口角を下げた。

 

「嘘だろ……。ほとんどそこの鬼のせいじゃねえか」

「あんたも同罪よ、ったく、萃香が落ちて来たせいでメザシも地面の上だしどうすんのよ、こら萃香!」

 

  楽し気に笑いながら地面を転がる萃香に向かって、霊夢がお祓い棒を振れば細かな霊力の塊が萃香の元へと飛来するが、ゴロゴロ地面を転がって笑いながら避けていく。今日の晩御飯が白米と味噌汁と漬物だけになった侘しい献立に、霊夢のイライラは治らない。

 

  その暴君から逃げるように、台所の入り口でわたわた動いているお椀の蓋の元へ逃げようとのっそり楠が身を動かすのを見て、霊夢の鋭い視線が楠を貫いた。

 

「ちょっと! まだ答えてないわよ! あんた何人で来たのよ!」

「……四人だ。俺を含めて四人。どいつもこいつも月の姫さんに人生引き摺られたどうしようもねえ奴らだよ」

 

  それだけ言って楠は台所へと姿を消す。月の姫がいるかもしれない可能性。絶対あって欲しくはないが、そうでないという想いも強い。握りしめた拳は今日は振るう事もなく、ただ強く硬く拳を形作っていく。まだ外で霊夢の弾幕を避けながら、転がる萃香の頭から突き出した三日月が癪に触ると、居間に続く縁にどかっと楠が腰を落とす。明日からまた楠が霊夢に顎で使われる事を哀れんでか、ぽんぽんと小さな針妙丸の手が楠の太腿を叩き、楠はギザギザした歯を擦り合わせた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 朝

「朝からこれだよクソ」

「口より手を動かす!」

 

  紅白色の現場監督に催促され、手に持った短刀を振るう。丸い木が四角く一瞬で加工される様に、霊夢は表情には出さないように関心し、萃香は楽し気に手を叩いた。賛辞なんて欲しくはない楠は、一通り手水舎を組み立てるのに必要な木材を切り出し終えると短刀を鞘へと戻し、博麗神社の縁側に腰を下ろす。

 

「いやあ見事なもんだね。その格好、袴垂、椹って言ったかな? アレの知り合いでしょ? こりゃ今回幻想郷に入って来たのは全員曲者みたいだねえ」

「アイツと一緒にすんな。どうせ幻想郷に来ても盗みにしか頭を使わないような奴だ」

「何よそれ、そんなのも来てるわけ?」

「そーなんだよ霊夢ぅ! あたし瓢箪取られたんだ! 取り返しておくれよ」

 

「面倒だから嫌」と取り付く島もなく霊夢に萃香のお願いは払われてしまう。代わりにというように萃香は楠の方へと目を向けるが、顔を背けて楠は逃げた。袴垂は平城十傑の中でも三指に入る問題一族。一々そんな面倒な相手を追っている時間は楠にはない。ただでさえ朝起きて、霊夢から握り飯を一つ放られたかと思えば、それからずっと大工仕事だ。剣を振って石を切れ。剣を振って木を加工しろ。ここまで横暴な使い方をさせられた事は流石に楠もない。ギリギリと楠が歯を擦り合わせても、何が変わるという事もなく、霊夢はそんな楠を見てため息を吐くと楠の隣にと腰を下ろした。

 

「組み立ては萃香がやるからあんたは少し休んで良いわ」

「休みはいいからさっさと行かせてくれよ。かぐや姫を一発殴ったらさっさと帰る」

「それは借金をちゃんと返してからにして。別に輝夜の奴はどこにも行かないわよ」

 

  霊夢の言葉に鼻を鳴らして楠は霊夢から顔を背けた。昨日から楠はずっとこの調子だ。会話にはなるのだが、霊夢が楠に少しでも踏み込んだ質問をしようものなら途端に機嫌が悪くなる。禁句はかぐや姫。この魔法の言葉を霊夢が口にすれば続くのは楠が歯を擦り合わせる耳障りな音。今も霊夢が見つめる楠の後頭部からギリギリ音が聞こえてくる。そんな妙な癖を持っているから歯がギザギザしているんだという言葉を霊夢は縁側に置いてある湯呑みを手に取り、お茶によって喉の奥へと押し流す。

 

「ふぅ、あんたはなんでそんなに輝夜を殴りたいわけ? 別に止める気はないけど」

 

  再三聞いた少女の再びの質問に、楠はお盆に置かれた湯呑みを手に取ると勢い良く喉に流し込む。ヒリヒリと口の中を焼く熱い液体を無理矢理に飲み干して、離れたところで巨大化している鬼を眺める。プラモデルを組み立てるかのように楠が切り出した木材を並べていく珍妙な光景に肩を落とし、紅白巫女へと向き直った。「アンタに話して意味あるのか?」という反骨精神に塗れた台詞を口にするのも疲れてしまった。所詮霊夢が聞いているのは心配からではなく、お盆に置かれた湯呑みの隣に、普段は置いているのかもしれない煎餅の代わりのお茶菓子と同じようなものでしかないのだ。要は暇だから面白い話を聞かせろという事。どうせ話してもこの怠惰を纏った巫女らしくない少女は、言った通り止める事はないだろうという事は一日で楠も十分理解した。煎餅を口に咥えて割るように、話の口火を楠は切る。

 

「いいか、もし今の自分の境遇を気に入ってないとしてだ、アンタだったら博麗の巫女だな。その境遇にいる理由が全部一人の女のせいだったらどうする?」

「そいつを殺すわ」

 

  想像以上に物騒な返し方をされて楠は口を閉じた。湯呑みの中の波紋を見つめている巫女が何を考えているのか楠には分からない。何も考えていないのかもしれないし、ものすごく深い事を考えているような気もする。無表情とも違う表情の浮いたような霊夢の横顔を楠は見つめて次の言葉を探すのだが、

 

(茶柱浮いてる)

 

  なんて事を考える程に霊夢にとってはどうだっていい話だった。茶柱が消えてしまう前に霊夢は一口で茶を飲み干し、間抜けな顔で固まっている楠へと目を向ける。物騒な空気を纏っている割には生真面目というか、顔に似合わず悪人ではない男に呆れたようにため息を吐きかけ、楠の静止した意識をカチ割るように湯呑みをお盆の上に音を立てて置いた。

 

「冗談よ冗談、あんた真面目ね。流石にそこまでしないわよ」

「お、おお、そうか。アンタならやりかねないと思ってな」

「あんたが私をどう見てるのか一度聞く必要がありそうね。だいたい殺すんだったらそれより酷い目に合わせるから」

「おし、俺の想像以上にアンタはヤバい奴だという事は分かった。じゃあそういう事で」

 

  流れるように巫女という名の鬼から離れようと縁側を立った楠だったが、お祓い棒で頭を一発叩かれ、元の位置へと押し込まれた。「まだ修理は終わっていない」という理不尽な言葉に返すだけのカードを楠は持ってはいるが、結局理不尽にそれが破り捨てられる事は明白であり、楠は不機嫌に歯を擦り合わせる。

 

「まあつまりアレね、アンタは輝夜を理由にうじうじしてる超女々しい奴って事ね」

「女々しいは余計だクソ。アレがいなきゃ俺は今頃普通に学生生活を謳歌してんだよ。朝に剣を振って、学校終わればまた家に戻って剣を振るう事もない」

 

  吐き捨てるように言う楠に、霊夢は心底呆れて口を開くのも怠くなった。なんだかんだ言いながら一族の技を磨いている楠がいったい何をしたいのか霊夢には理解できない。やりたくなければやらなければいい。それが霊夢の答えであり、霊夢はやりたくないからこそ博麗の修行をやる気がない。

 

「なら剣を振らなきゃいいだけじゃない。聞いた話だとあんたんとこの先代ももういないんでしょ? ならもう放っとけばいいじゃない。うちなんて先代がピンピンしてるからたまに見に来たりするのよ?」

「そりゃ災難だな。同情するよマジで」

「そんなのいらないから賽銭でも払って。で? どうなのよ」

 

  どうなのよなどと言われても、楠の答えは決まっている。やらなければいい、そんな事は分かっている。かぐや姫など放っておけばいい、それも分かっている。だが齢七つから先代が死ぬまで八年間、山の中で木刀で打たれ真剣で打たれ、野山を駆け回され続けた八年間で、楠の生活は固くなり食えなくなった餅のように固まってしまった。それを温めれば固い殻を破り中の柔らかなものがぷっくりと顔を出すかと言えば、それにはもう遅過ぎた。刀を握って振るっていないと、どうも痒いところに手が届かないようにムズムズしてくる。かぐや姫の呪い。そういうことにして楠は凝り固まった頭の奥底に燻るものをカチ割るためにかぐや姫を殴らなければ気が済まない。それで何も変わらなくても、やらなくて後悔するよりやってみようの精神だ。

 

「なんと言おうと俺はかぐや姫を殴ってみせるぜ。今の生活から脱却しかぐや姫の呪いを打ち破らなければ普通がやってこないのだ! 刀を握っていないと落ち着かないなんてもう嫌だ!」

「はあ、普通って何よそれ」

「そりゃアレだ。放課後は友達と遊んだり恋人とデートしたりとかアレだ」

「あんたも分かってないんじゃない」

「うるせえな! なら巫女さんが思う普通ってなんだよ。言っちゃなんだが俺達の境遇って似てるだろ? なんかこうやりたい事ってないのか?」

 

「どこが同じよ」と返しながら霊夢は湯呑みにお代わりを注ぐ。気が付けば博麗の修行をさせられていた霊夢からすれば、それしか知らないのだから普通と言われてもピンとこない。今から村娘として暮らしてくれと農具を渡されたところで、泥に塗れた生活を送りたいとも思わない。縁側で茶を啜り、異変解決というストレス発散する場もある。各シーズン毎に置かれている神社の祭事さえこなせば文句を言われる事もない。深く考えたところで見た目小さな頭の中をぐるりと考えはすぐ一周し、今が結局一番気に入っているのだという結論に落ち着く。

 

「どうだっていいわね。遊ぶだのデートだの考えた事もないわ。やるんだったら今の季節キノコ狩りとか、焼き芋でも焼いてた方がいいわ」

「隠居した婆さんかよ。若さが足りねえ」

「誰が婆さんよ、あんたよりも若いから」

「なら若さを出せ! 外じゃあ巫女さんぐらいの女の子はな、カラオケ行こう! だの甘味食い行こう! とかこの服かわいー! なんて俺も良く分かんねえ会話に花を咲かしてるもんだぜ!」

 

  それなりに感情のこもった楠の叫びに、やまびこ程の返しも霊夢からは返って来なかった。博麗大結界よりも強固な意識の違いが二人の間には横たわり、霊夢の心には響かない。だいたい幻想郷にカラオケはなく、この服かわいーなんて言われても霊夢は巫女服しか持っておらず、そして着られればいいやーという喪女じみたカビ臭い考えのおかげで、それもピンと来なかった。ただ一つ気になったのは甘味という言葉。つい先日最後の饅頭を食べてから砂糖を一週間も摂取していない。よって『普通』という名の青春生活を望む楠に霊夢が返すのは、

 

「饅頭怖い」

「な、なんだよ急に」

「こう言えば饅頭が貰えるって聞いたんだけど」

「俺が饅頭を持っているように見えるのか?」

「全く見えないわね」

 

  急に会話にオチをつけだし甘味を要求してくる少女。今時という言葉とは一光年以上の距離を感じる。『普通』を幻想漂う郷に住む少女に押し付けた楠が悪いのか、少女らしからぬ霊夢が悪いのか。おそらく両方であると外と幻想郷を知る菫子や早苗、マミゾウが見たら即座に答えていただろう。助け舟が流れて来ない博麗神社には、不気味な沈黙だけが流れ、饅頭の口になった霊夢と饅頭を出せとせがまれる楠だけが残される。そんな膠着状態を崩したのは、鬼が組み立てていたプラモデルが崩れる音。やっちゃったと頭を掻く萃香には、言葉の代わりに霊力の塊が送られる。吹っ飛ぶのは鬼だけでなく手水舎になるはずだったもの。ものはいずれ壊れるものだが、形になる前に壊れるのを見るのは楠も初めてだ。

 

「はあ、仕方ないわ、饅頭を買いに行くわよ」

「あっそう、行ってら」

「行ってらじゃなくてあんたも来るのよ」

「はあ?」

 

  霊夢が居なくなったのを見計らい逃げようと考えた脳内を覗かれたのかと楠は思った。わざわざ饅頭を買うためだけに逃げないようお供をさせられるなど耐えられない。もう逃げるなら今だと足に力を入れようとする楠の肩に巫女の晴れやかな手が置かれる。

 

「デートって奴がしたいんでしょ?」

 

  その暖かな手に凝り固まった楠の心の膜が破られ中身が膨らみ頭を出すかと思われたが、信仰よりも賽銭を気にする煩悩巫女の歪な笑みを見た瞬間、基本山にこもっていた楠の恥ずかしがりな心は、周りを覆う殻に釘を打ち付け光すら差し込まないように隙間なく入り口を塞いでしまう。そしてそれは正しかった。

 

「デートって確か男が全部奢ってくれるのよね?」

「そりゃデートじゃなくてタカリって言うんだよ‼︎ だいたい俺は金がもうねえ!」

「それぐらい皿洗いでもなんでもしてどうにかなさい。デートって男が死ぬ気で頑張るんでしょ?」

 

  それはデートではなく奴隷の扱いかなにかなのではないか。女性とのお付き合いのおの字にすらつま先をつけた事もない楠には文句を言いたくても上手い言葉が頭の中から出て来ない。容姿だけは良いと見える霊夢は男性経験でも豊富なのか、思わぬ失言をして潰れたカエルでも見るような目で歳下の少女に見下されたくはない悲しき男のプライドが、楠の中で転げ回る。

 

「なら死ぬ気にさせるくらい女が煽てるもんじゃないんですか⁉︎」

「嫌よ面倒くさい」

 

  何とか絞り出した結果つい敬語になってしまった楠の言葉も浮雲を動かす力はなかった。石の上に百年は座れそうな怠惰な意思。幻想郷を守る博麗の巫女としてもどうなのかという鋭い楠の目も同じように受け流し、霊夢は入れ直した茶を退屈そうに啜る。

 

「さあ行くわよ饅頭を買いに!」

「マジで俺も行かなきゃいけねえの?」

「荷物持ちよ荷物持ち。ついでに野菜とかも買うとしましょ、あんたの奢りで」

「銭ババァだ。アンタは妖怪銭ババァに違いねえ」

 

  銭ババァ。かつて江戸にいた金貸しの婆さんが妖怪化したもの。夜な夜な月の影に隠れて獲物を探し、獲物を見つけると物乞いのフリをしてしつこく獲物に縋り付く。一度でも金を払えば最期、コイツはいけると寄生され一文無しになるまで張り付かれる。

 

「そんな妖怪いるわけないでしょ」

 

  楠の頭にふと浮かんだ創作妖怪の姿は頭に落ちて来たお祓い棒に掻き消された。引き摺られていく楠に萃香は大きな手を振って、「酒も買って来てくれー!」と叫びを発する。楠はなんとか萃香に向けて片手を掲げ、見せつけるように中指を立てた。

 

 

 ***

 

 

  人里。妖怪の影よりも人影の見えない博麗神社とは打って変わって、わらわらと数えるのも面倒な程に人の影が見える。そんな中、紅白の目出度い目立つ少女の小さな背の後を顔を背けながら楠は追う。無理矢理霊夢に引き摺られて拗ねているのではない。全ては人里の至る所から細々と聞こえてくる話し声のせい。

 

『稗田家の屋敷に賊が入った』

 

  稗田がどんな家かそんな事は楠の知ったことではないのだが、袴垂だの椹だの聞きたくない単語が多々混じっている。頭すっからかんなコソ泥の仲間と思われては堪らないと、壁に貼られた人相書きを睨みつけながら、楠は歯を擦り合わせる。

 

「あんたの仲間とんでもないわね。懸賞金まで懸けられてるわよ」

「仲間じゃねえ! だいたいルーマニア=レウってルーマニアの通貨? これ幻想郷じゃ使えねえだろ。懸賞金の意味がねえぞ」

「ゴミ捨ても兼ねてるんじゃないの? 知らないけど、幻想郷で使えないなら興味ないわ」

 

  レミリア=スカーレットとやたら綺麗な字で書かれた依頼人らしい名前を見て、楠の想像よりもグローバルな幻想郷の実情に頭痛がしてくるようだった。一緒にやって来た盗人にも困ったものだが、それ以外にも困ったものがある。楠と霊夢に突き刺さる視線。変わった格好の楠にも刺さっているが、霊夢に刺さっている比率の方が高い。盗人の登場に博麗の巫女が退治しに来たとでも思っているのか、どこか霊夢を見る人々の目には安堵の空気がある。

 

「おいなんか期待されてるぞ」

「勝手な期待なんてどうでもいいわ。今必要なのは饅頭よ」

 

  巫女さんの頭の中では饅頭が神の位にでも上がっているのか、人々の願いは砂糖の結晶の輝きほどの価値もないらしい。胡椒が宝石ほどの価値のあった時もあったそうだが、それにしたって無情に過ぎる。だが霊夢にとってはどこ吹く風で、罪悪感も空を流れていく雲と一緒に勝手気ままに流れて行ってしまったらしい。

 

  迷いなく霊夢が足を進めるのは甘味と書かれた暖簾の奥。博麗の巫女の登場に驚いた様子の店員だったが、何を思ったのかポンと手を打つと霊夢の両手を強く店員は握り出した。

 

「分かっています博麗の巫女様! 盗人の情報ですね! 向かいの団子屋で勝手に団子が消えたという報告が」

 

  店員は全く分かっていなかった。霊夢は顔をげんなりとすると、キラキラ輝く店員の顔から目を背けて楠を見る。唯我独尊を貫く博麗の巫女も一般人には弱いのか、助けを求めるような目に楠は頭を掻く。すると次第に霊夢の目は鋭さを増していき、それが助けを求めるものではなく、お前のツレなんだからどうにかしろという半ば脅迫じみた目であった事に楠が気付いたのは、霊夢の目に霊力の輝きが灯り出した頃。楠は八つ当たりされたくないのでなんとか頭を回す。

 

「えぇえぇ、巫女さんが必ず捕まえるとも。だから饅頭を報酬がわりにくれ」

「盗人を捕まえてくれるならいくらでも持ってって下さい!」

 

  これが思いのほか上手くいってしまった。一箱二箱と積まれていく饅頭の箱に霊夢は笑顔を見せ、金を払わずに済んだ楠は安堵の息を吐く。

 

「こんな感じで他の食材もいけるんじゃないか?」

「良いわね、貰えるものは貰える時に貰っちゃいましょ」

「ちなみに盗人を捕まえる気は?」

「ないわね」

 

  最早詐欺であるとは楠は言わない。金を払わずに強制労働に送られるくらいならば、名前も知らない他人に霊夢の理不尽を押し付けてしまおうと悪い心が顔を出す。ただし貰ったものは楠に押し付けられ、早速片手が饅頭の箱で埋まってしまう。

 

「酷い巫女さんだな。あの神社に祀ってるのは邪神とかじゃねえのか?」

「なにを祀ってるかなんて知らないわよ」

「それで良いのか博麗の巫女……」

「じゃああんたの寺はなにを祀ってるのよ」

「知らね」

 

  宗教という人の心の拠り所の住まう場所に住んでいながら、その内に秘めた神秘に目も向けない二人をどこぞの尼さんや神様が見ればこめかみを押さえて念仏を唱える事だろう。馬の耳に念仏だろうから効果はない。仲間を見つけたというように霊夢は気さくに楠の肩を叩いていると、「霊夢」と気軽に少女の名を呼ぶ元気の良い少女の声。

 

  誰が呼んだのかはすぐに分かった。人々の間に伸びる黒いとんがり帽子。日本古来からの民家の中に洋風の屋敷をブッ建てたような異物感に、楠は目を白黒させた。そしてそれを写し取ったかのように少女の着る服も白黒だ。光と影せめぎ合い、その摩擦によって生まれた火花のように明るい金色の境界線が風に吹かれて揺れている。人差し指でとんがり帽子を押し上げ、その影から覗く黄色い目は星の光のようであった。手に持つ箒と衣装のせいで絵に描いたような魔女にしか見えない。

 

「よー霊夢。珍しいな人里にいるなんて、どうしたんだ?」

 

  奇抜な格好であるが、人に見える少女は親しそうに霊夢に近付くと、箒を肩に担いでいる手とは反対の手で霊夢の肩を強く叩いた。一度二度と叩かれる毎に霊夢の眉毛は大きく畝り、魔女を撃退する呪文を思い浮かべる。下手な事を言えばくっつき虫のように離れないのは目に見えていた。霊夢は隣に立つ楠に目を向け、「デートよ」と特大の爆弾を落とす。白黒少女、霧雨魔理沙の顔が笑顔のまま凍り付き、時が止まったように動きが止まった。魔理沙が再起動するのも待つ事なく、歩いて行く霊夢の背に置いていかれないように楠も歩く。

 

「おいおいおい、良いのかアレは」

「良いのよ別に、嘘は言ってないし」

「言ってんだろうが! タカリの旅から変わって詐欺の旅の途中だってのにそれをデートと言うかよ」

「ああもううるさい! アレでしょ、デートってのは男と女でこう練り歩いてればいいんでしょ? ならデートでいいじゃない。したかったんでしょ?」

「いやしたかったけど何だよ練り歩いてればって、ヤクザの地上げみてえだ……。だいたいあんなこと言って変な噂になっても知らねえぞ俺は」

「なるわけないでしょ」

 

  確信を持ってそう言い切る霊夢であったが、二人の背中から「霊夢に男ができたぁ⁉︎」と聞きたくない絶叫が響いて来た。空を見れば白と黒に武装した彗星が飛んで行っており、この狭い幻想郷で話が回るのにどれだけの時間を要するのか考えるまでもない。何か薄ら寒いものが背中に流れる楠を気にすることもなく、霊夢はため息を吐くだけで足を止める事もない。

 

「ああ……嫌な予感がする。もう早くかぐや姫を殴って帰ろう。このまま永遠亭ってとこに行こう」

「それは手水舎を直してからよ。逃げるのは許さないわ」

「二回目壊したのはアンタだろ!」

「建ってなかったんだからノーカウントね」

 

  霊夢から滲む霊力の波の質の高さに、逃げられはしないだろうと楠は手に持った饅頭の箱の重さに引っ張られるように肩を落とす。最初に博麗神社に足を向けた自分を楠は恨むがもう遅い。足取り重く八百屋の前で足を止めた霊夢に続いて楠も足を止めると、楠は霊夢の異変に気がついた。霊夢の顔がこれまで以上に苦いものになっている。霊夢の視線の先に目をやれば、楠の目に映るのは月明かりで髪を染めたような白い髪。それを透かしたような半透明の球体が白い髪を持つ少女の周りを回っている。だが霊夢が見ていたのはその少女ではなく隣に立つ男の方。

 

「やあこれはこれは、美しいお嬢さん。そんなに見つめられては惚れてしまいます」

 

  ふにゃりとしたふやけた笑みを浮かべて、いつ動いたのか流れる風に乗るように霊夢に近付きその手を優しく取る男。背には長い大太刀を背負い、鬱陶しい前髪を揺らしていた。

 

  魂魄妖夢のため息と、北条楠の歯を擦り合わせる音が同時に響き、その直後拳が二つ頭蓋骨を叩く轟音が鳴った。

 




五辻 第二夜 昼に続く


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 夕

  真っ赤に染まった空と、暗黒に染まった空。二色に挟まれたあやふやな境界線に照らし出される手水舎の骨組みを眺め、面倒臭そうに楠は手に持った箒を動かす。『デート』という名の、地上げ屋のような買い出しをなんとか終え、さっさとやることやってかぐや姫を殴るために楠が手水舎作りに従事した結果だ。

 

  木材の切り出しから組み立てまで、本来なら切り出し、乾燥、加工、組み立てと掛かる膨大な時間を、楠と萃香で一夜城を築くが如くぶっ建てる二人は、大工、材木屋泣かせだろう。

 

  報酬のつもりか、なんだかんだそれなりの酒を人里で買った霊夢からそれを受け取り萃香は居間へ。あうんも針妙丸も同様だ。外周りの仕事をほぼ楠にぶん投げた代わりか、久々に豊富な食材が揃ったとあって、霊夢が手ずから料理をするらしい。そんなわけで誰も彼もつまみ食いに奔走し、表には一人ポツンと楠だけが残された。

 

「なんと言うか、気楽なもんだよな」

 

  誰に拾われることもない言葉をこぼし箒で掃く。そうすれば、箒の穂先が落ち葉を散らす音に紛れてすぐに楠の独り言は散り去った。魑魅魍魎や修羅神仏が人と同じように普通に存在している幻想郷の中にあって、気にした様子もなく生活している霊夢は肝が据わっているのか、価値観が違うのか。楠が聞いてみたところで、「で?」と、興味なさそうな返事が返ってくるだろうことは、霊夢との付き合いがごく短い楠にも、容易に想像ができた。

 

  そんな変わった少女だからこそ、自分の隣に平然として立てるのかと楠は小さく舌を打ちながらも、薄く口角を上げる。

 

  楠は決して友人が多いとは言えない。それは、桐も椹も梓も、他の平城十傑の者たちも例に漏れずだが、コミュニケーション能力が高いだろう桐や梓をもってしても、『普通の』という言葉が冠につく友人はいなかった。生活がおよそ現代人らしくないということも大きな理由としてはあるが、結局どうにも噛み合わないのだ。表面上は他人と合わせられても、深いところでは絶対になにかが異なる。漫画や映画の世界のように、学校に通おうとも、画面を挟んで学園モノのドラマを見ているような感覚。拭えぬ異物感。自分だけ異世界にいるような空気感が、楠の精神を擦り減らす。それがどうにも堪らない。

 

  それも幻想郷(ここ)なら違うのか。と僅かな期待を覗かせた途端、ギリギリと歯を擦り合わせ、楠はその期待を粉々に磨り潰す。

 

  幻想郷とは分母と分子の数が圧倒的に異なるため比較にもならないが、神や妖怪の影が見えないほどに薄くなった外の世界でも、幻想生物は少なくとも存在し、またそれを狩る物も僅かながらにいる。

 

  陰陽師、魔術師、超能力者。不思議な技を振るう者は探せば、世界にはまだまだ居るだろう。そんな者たちと接したことが楠も少しばかりはある。だが、そんな者たちともまた楠は違うのだ。

 

  彼らとは目指す先が違う。

 

  妖怪を(はら)って終わり、ではない。敵を倒して終わり、ではない。なにかを守って終わり、でもない。もっと果てしなく終わりがない、どこにいるのか、敵がいるのか、そもそも本当に存在するのか全てがあやふやで、何のために剣を振るなんて言われても、「知るかクソ!」と逆ギレすることくらいしか楠にはできなかった。

 

  これまでは。

 

  そんな果てしないと思われていた先がようやく見えた。終わりという目的地が目と鼻の先にある。

 

  どうするべきか。どうしようか。なにをしようか。なにをするべきか。

 

  顔も分からぬなよ竹の姫君の姿を思い浮かべるだけで、楠の体に力が入っていく。ミシリと泣く箒に目を落として、楠は鋭く目を細める。

 

  手に持った箒を楠は放り捨てると、苔むした賽銭箱に立て掛けていた二本長短の刀を手に取り鞘を滑らせた。毎日毎日毛ほども面白くないのに繰り返してきた動作。そんな動作をまた今日も繰り返しながら、楠の頬は少し緩んだ。笑って刀を振るったことなど数える程しかない。それも楠がまだ小さい頃の話。歳を重ねる毎に顔は厳しいものになり、不機嫌な顔で刀を振るった。そんなだから楠の人相は悪くなったと言えるのだが、今に至っては少し心が軽い。ただ持ち切れなくなった感情を吐き出すように刀を空気に滑らせる。

 

  技の繋ぎが見ても分からない動き。蜃気楼のようにゆらゆらと両腕を振るう動作は、遠くから見れば踊っているように見えることだろう。

 

  神社の参道でしばらく揺らめく楠だったが、夜空に一番星で染めたような金色の線が流れるのを見て動きを止める。暗闇にところどころ浮き上がった白色に、参道に降りてくる間に暗闇から掘り起こしたような黒色が混じる。藁箒に跨った人影は人里で楠が一度見た。とんがり帽子を手で押さえながら少女は参道に降り立つと、驚いた顔で楠を見る。

 

「霊夢の男か! 神社にまでいるなんて驚いたぜ!」

「別にアレの男じゃねえ、アレはアイツの冗談だ」

「またまた、私は霧雨 魔理沙ってんだ。よろしくな! 霊夢の彼氏!」

「だから違うって言ってんだろうが! 耳ついてんのか!」

 

  楠は刀を鞘に戻しながら、突如降ってきた魔法使いに向けてビッと鞘の先を向ける。刀に慣れているのか恐れた様子もなく、存分に感情ののった笑顔を楠に返した。無感動、無表情な霊夢とは対照的な感情を顔に出す少女に、これはこれでめんどくさそうな奴が来たと楠は疲れた顔になる。

 

「巫女さんなら中だぜ、どうせ巫女さんに用なんだろ?」

「まあそうだったんだけど、用事たって霊夢におまえのことを聞こうと思ってただけだしな。本人がいるならそっちに聞いた方が早いだろ?」

「はぁ? 俺に用? なんでだよ」

 

  全く楠は魔理沙に対して用事はない。別に門番や用心棒を引き受けている訳でもないのだから、来訪者が来たところでどうだっていい。さっさと霊夢の方に行けとさえ思う。だが、魔理沙は動かず、手を銃の形にして楠を指差すと、「霊夢の彼氏だからだぜ」と全く楠にとってありがたくないことを言い切った。

 

「何度同じことを言わせんだ。違えってーの! ふざけろ!」

「いやでも霊夢のやつが男を神社に置くなんて今までなかったしさ。ほんとのところどうなんだ?」

「本当もクソもあるか。言っとくがなあ、俺にだって女を選ぶ権利はあんだぞ」

 

  霊夢は決して性格がすこぶる良いとは言えない。顔は美人だ。まだ成長期だろう首から下は置いておき、それは楠も認めるところ。どころか、太陽の畑の大妖も、天邪鬼(あまのじゃく)な悪童さえそれは認めるだろう。だが、その外面が覆っている中身が重要だ。楠からすれば、当たり屋を十倍は酷くした借金取りであり、幻想郷に来て早々、最初は楠が悪かったとはいえ、借金地獄に蹴り落としたあげく逃がさないというように引き摺り込んでくる少女と恋人になんてなりたくない。だいたい、幼い少女のように普通を望む楠からすれば、手から弾幕など出さず、読書や花を育てるのが趣味で将来はケーキ屋さんなんていういるかいないのかも分からない絵に描いたような女性とこそ、そういう関係になりたいと思っている。

 

「巫女さんと俺の関係はアレだ。悪代官と奴隷とかの方が正しい」

「そういうプレイか?」

「いい加減俺にも限界はあるぞおい、アンタ分かって言ってんだろ!」

 

  「あはは」と笑う魔法使いが、分かっていようともおそらくこのネタでこの先長く弄ってくることを察した楠は、二本の刀を腰に挿すと、放り投げていた箒を手に取り掃き掃除へ戻る。仕事中ですという空気を出せば少女もどこかへ行くだろうと思ってのことだったが、楠はまだ出会ったばかりの魔法少女のことを知らなさ過ぎた。それでどこかへ行くような少女なら、わざわざ霊夢が人里で『デート』などという爆弾を落とすようなことはしない。

 

  魔理沙はどこに行くこともなく、掃き掃除に勤しむフリをしている楠の頭から足先を観察するように眺め、少ししてパチリと指を弾いた。

 

「おお、そういやおまえ人里に貼られてた手配書のやつと同じ服着てるな! 外来人て話だけどおまえもそうなのか?」

「まあな、ただアレと一緒にされたくはねえ」

「ふーん、懸賞金が出るって話だったから霊夢を誘って追ってみようかなんて思ってたんだけど、なあなあ、あの指名手配犯の場所とか知らね?」

「知らねえし知りたくねえし知ってても言いたくねえ」

 

  幻想郷に来てから、楠の手に余るほど面倒ごとがゴロゴロしている。大きくは二つ。一つは言わずもがなだが、なよ竹のかぐや姫。これを避けて通ることはできない。そしてもう一つは、桐のおかげで知ることになった一人の少女。

 

  藤原妹紅。その名を楠は当然知っている。そして、今なお生きているということも勿論知っていた。だが、輝夜と同じくどこにいるのか分からなかった少女だ。有名なかぐや姫ほどではないが、耳にタコができるほどに聞いた少女の名を聞いて、楠が不機嫌になるのは当然のこと。昼間こそキレ気味にはぐらかして話に出すことは(まぬが)れたが、それで忘れてしまうことはできない。

 

  そんな二つの問題の前に博麗の巫女が仁王立ちしている。これ以上歩みを阻むくっつき虫など楠はいらない。

 

「うーん、おまえをエサにすれば出て来たりするか?」

「できるもんなら試すといい、俺も少し体を動かしてえしな。やるか?」

「……いや、やめとくわ。私の経験上こういう時にやる気がある奴っていうのは面倒な奴って決まってんだ」

 

  風見幽香然り、星熊勇儀然り。その名は出さずに魔理沙は断る。刀を持った人相の悪い男。見るからに弾幕を出すようには見えない。そうなると出てくるのは刀しかなく、肉弾戦など魔理沙の望むところではない。楠はストレスの発散ができずに残念そうに小さく舌を打ちながら刀に伸ばしていた手を箒に戻した。

 

「だったらもうさっさと行け、俺に用だってんならもう終わりだろ」

「そうなんだけど、生憎どこにも行くところがないのさ。家に帰るんじゃ今日は収穫がなさすぎだ。妖怪の山も騒がしいし、紅魔館に行こうとしたら今日はやめとけってパチュリーの奴に追い返されるしでさ。これで霊夢のとこもダメとなるといよいよ行く場所がなぁ。寺に行くのもアレだし、地底は遠いし、なんでか知ってるか?」

「知るかよ」

 

  幻想郷に来て二日。未だに楠は博麗神社と人里にしか行っていない。幻想郷の地名など言われてもどこにあるのかすら楠にはさっぱりだ。ぶっきらぼうな楠にやれやれと魔理沙はため息を零しながら、手に持った藁箒をくるりと回して肩にかける。

 

「まあいいや、それで霊夢は中にいるんだって?」

「おう、中で料理してるよ」

「霊夢のやつが⁉︎ へー、人が増えてからは珍しいな! だいたいは居候のやつにやらせるのに。良いこと聞いたぜ、からかってやらなきゃな! ありがとな霊夢の彼氏!」

「この野郎! それで押し通すつもりだな! 俺には北条 楠って名前があんだよ! ……、クソ、行っちまいやがった」

 

  聞こえていたのかいないのか。縁側まで飛ぶように魔理沙は走っていくと、縁側に跳び乗り障子を開けてすぐに中へと消えてしまう。霊夢のような少女には、萃香といい魔理沙といい本人が柳のような少女だからこそ騒がしいのが集まって来るのかと、呆れながら楠は掃除の続きを始める。すっかり刀を振る気分ではなくなってしまった。

 

  天真爛漫でありながら、またどこか少しズレている少女の登場に、いったい幻想郷にはどんな女たちが居着いているんだと頭を痛めながら、かぐや姫もあんなんなんじゃないかと嫌な想像を膨らませる。そんな楠の目の前を、パラリと白いものが通り過ぎた。いったいなんだと思うよりも早く、枯葉が木から落ちるように、もう一つ、もう一つと数を増やして落ちて来るのは何枚もの紙。それが参道を隠していくのに口端を引攣らせ、また一枚落ちて来た紙を手に取ってみる。

 

「おーい楠、霊夢がご飯できたって!」

「…………くそが

「楠〜、ご飯できたって! 楠聞いてるの?」

 

  神社の方から飛んできたお椀が、楠の腕に張り付き顔を覗き込む。そしてその動きをピタリと止めた。楠の目はギラギラと輝いて、三日月のような鋭さを得ていた。ギザギザとした歯も鋭さを増したようであり、獣のような深く不規則な呼吸を歯の隙間から繰り返している。そんな剣呑な雰囲気とは裏腹に、楠は針妙丸の頭に被ったお椀の蓋へと手を伸ばすと、その上に優しく手を置いた。

 

 

  ***

 

 

「おーい、霊夢、遊びに来たぜー!」

「なんでこの時間に来るのよ」

 

  人の家に上がるのに、ノックもなければ確認もとらず、魔理沙がずけずけと居間の中に入ってくる。萃香とあうんは慣れたように手を挙げて挨拶し、調子良く魔理沙はそれに手を挙げて返した。夕食ももう出来上がるところのようで、色々な料理の香りが居間の中を渦巻いている。大きな皿に盛られている肉じゃがにようようと魔理沙は手を伸ばすと、小さく切られているジャガイモを一つ摘み口に運ぶ。

 

「せめて手を洗いなさい手を、ってかなに勝手に食べてるのよ、お金取るわよ」

「ちょっとくらいいいじゃんか。にしても霊夢にしては豪華だな。やっぱり男ができたからか?」

「そうね」

 

  思った返し方とは違う返し方をされ、魔理沙は少しの間固まってしまう。そして少々バツ悪そうに長くクセの入っている金髪を人差し指で掻いた。指に絡まった金糸を振りほどきながら、魔理沙の顔は申し訳なさそうな色を帯びる。

 

「マジで? 表のやつはマジで違うって言ってたから、冗談だと思ったんだけど」

「なんだバレてたの。色々あしらうには便利だと思ったんだけど」

「そういうことかよ、心臓に悪いな」

「なによ、本気で信じてたの?」

「そりゃこんな生活してりゃあな。いよいよ身を固めにかかったのかと思っちまったぜ」

 

  幻想郷の中でも辺鄙な立地であり、周りに人がいなければ人も寄り付かない。日夜妖怪が入り浸っているせいで、そんな神社の巫女である霊夢の人里の評判は決して良いとは言えず、そんな霊夢の側に親しそうに男がいるなんて魔理沙も初めて見た。そんな霊夢だからこそ、ついに婿決めにでも走ったのかと思っても仕方がない。幻想郷の価値観が外の世界よりも昔に近いということもある。齢十四などで結婚していても、あまりおかしなことでもない。だが、霊夢にもちろんそんな気はなく、呆れたと言うように肩を竦める。

 

「言っとくけど、私にだって男を選ぶ権利はあるのよ」

「表のやつもそれ言ってたぜ? 意外と相性いいんじゃないか?」

「嫌よあんな結界を刀でぶった斬るようなやつ。それに貧乏みたいだし、せめて金持ちがいいわ」

「贅沢言うやつだな。にしても結界を斬るってほんとか? あいつとやらなくてよかったぜ」

 

  また神社が壊れそうな怪しげな魔理沙の発言に、明日もこき使ってやろうと楠の命運が決まる。そう決めながら炊けた白米を人数分の茶碗へと盛っていき、針妙丸に楠を呼んで来るように霊夢が伝えれば、お椀の蓋がふわふわと浮いていき外に向かって飛んで行った。

 

「いやあ、それにしても霊夢が料理なんて久々だよな。実際どうしてだ? やっぱり表のやつが原因か? いつもなら針妙丸に任せてんのに」

「あんたはどうしても男絡みにしたいわけ? だいたい針妙丸に料理を任せてるのは料理以外できそうもないからよ。掃除を頼んだ日には一日経っても終わらないし」

「まああのちっこさじゃな。それに私もおまえも他のやつだって愛だの恋だのの話は全然ないし気にはなるじゃんか。どうなんだ?」

「まああいつというか、あいつらのおかげってところかしら。久々に食材が大量に入ったから、たまには作らないと腕が鈍るからよ。深い意味はないわ」

 

  「ほー」と下衆な勘繰りを続けているらしい魔理沙の相手をするのは無駄であると結論を下し、霊夢も料理のために着ていた割烹着を脱いで土間から居間へと足を運んだ。肉じゃがにおひたしに胡麻和えに漬物と多くの料理に彩られたちゃぶ台を囲んで座る三人は、つまみ食いに精を出していたらしく、皿に盛られていた料理の山はその背を低くしていた。それを見て、霊夢の目が釣り上がる。

 

「あんたらには遠慮って言葉はないわけ? だいたい魔理沙、あんたの分はないわ」

「えー、もう少し友達には優しくしろよ」

「我が物顔して人の家でだらけるようなやつを友達なんて言いたくないわね」

「なに言ってんだ、それこそ友達ってやつだろ?」

 

  そう言いながら漬物を指で摘む魔理沙に、霊夢の眉はハの字に下がる。新しい文句が霊夢の喉をせり上がってくる中、それが飛び出すのを阻んだのは、開け放たれた居間の障子。だがその先に人影はなく、縁側の方へと向いていた四つの顔が下に下がると、人形のような小さな少女が、自分以上の大きさの紙を握りしめて立っていた。

 

「霊夢! 霊夢これ!」

 

  息を荒らげた針妙丸は、頭に乗せていたお椀の蓋もどこかに落としてきたのか、かなり焦った様子で手に持った紙を振るう。それを手に取った魔理沙は紙を眺めて顔を顰め、魔理沙からその紙を受け取った霊夢も同じように顔を顰める。

 

「楠が! 絶対瓦乗せに戻って来るからって!」

 

  針妙丸の言葉を聞き流しながら霊夢が縁側の方へと足を向ければ、秋風に吹かれた後のように、参道に紙が散乱している。どこぞの天狗がばら撒いたのは明らかであり、その内容も今霊夢の握る紙の内容と全く同じだろうことは手に取るように分かる。

 

「あんの、ばか」

 

  『月軍襲来!』

 

  そう銘打たれた文々。(ぶんぶんまる)新聞の内容は、決して嘘八白と霊夢は言い切ることができなかった。内容に目を向けなくても、まるで示し合わせたように平城十傑という竹取物語をこさえてやって来た外来人たち。世界一嫌いと言いながら、ぼろぼろの竹取物語の本を持ち。嫌だと言いながら刀を振るう。そしてかぐや姫を殴ると言いながら、結局紙切れ一枚を見て飛び出していく。そんな男の不機嫌な顔を思い出しながら、手に握った新聞を霊夢はくしゃりと握り潰す。

 

「霊夢! 楠が迷いの竹林に行って来るって!」

「……でしょうね。料理が冷めるわ、さっさと食べましょ。魔理沙、良かったわね一人分余ったわ」

「お、おう」

 

  障子を勢いよく閉めてちゃぶ台の前に霊夢は座る。その顔は無表情に見えたが、不機嫌な空気を滲ませており、魔理沙たち四人は顔を見合わせるとため息を吐き、霊夢の作った夕餉に向けて手を合わせた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 朝

  竹の間から漏れる朝日の輝きは美しく、とても澄んで眼に映る。行けども行けどもその景色が途絶えることはなく、いつまで眺めていても飽きることはない。色の変わった笹の葉が地面を埋め尽くす様は風情がある。そんな枯葉を踏みしめながら、楠は周りへ目を向けて、ギリギリと歯を擦り合わせた。

 

  昨夜博麗神社を飛び出してから、月が落ちて日が昇った。そんな時間を過ごしていつまでも続く竹林を見続けている。人里か神社に戻ろうかと思っても、360度周りを竹林に取り囲まれ、幻想的な竹林の景色に現を抜かすことしかできていない。つまるところ、

 

「迷ったぁああああ!!!!」

 

  木霊する楠の叫びは竹林の開けた隙間に吸い込まれていき、あっという間に消えてしまう。ひゅうひゅうと吹き荒ぶ秋風が、楠を馬鹿にしたように吹き抜けていき、楠の体から力を奪う。その寒さに背中をガシガシ掻いて天を仰ぐ。

 

  迷いの竹林。その名に偽りなし。と、言ってもどうにかなるものではなく、箱庭的な幻想郷の竹林なんてたかが知れてんだろと甘く見た楠におおいにツケが降り積もっていた。霊夢の馬鹿を見る目が楠の頭の中で流れていき、より強く楠は持ち前の歯をギザギザさせる。

 

  なぜすぐに飛び出したのか。『月軍襲来!』という記事に踊らされて走り出した己を恥じる。まさかかぐや姫の身を案じてなどと、そんなつもりは楠には微塵もない。だが、それでも楠は走った。人里へ走り、迷いの竹林の場所を聞き、夜は一段と妖怪が出るから危ないぞという親切な人里の住民の制止の言葉も振り切って突貫したのにこの様だ。こんなことなら桐を誘っておくんだったと思ってももう遅く、竹林の先にある竹林と、終わりなき景色に目を向ける。

 

  そんな楠の視界に、黒い影がちらつき楠は舌を打った。親切な人里の住民の言った通り、歩いていれば妖怪が出てくる。昨夜からもう何体も楠は妖怪を切り捨てている。魔力などの力がそういう方面の修行をしていないためほとんど感じられない楠は弱い妖怪にとって手頃な獲物に見えるらしい。ニヤついた妖怪の笑みがそう教えてくれた。

 

  ヒュルリと細い紐を伸ばして姿を表すのは薬缶吊(やかんづ)る。人間をどう料理してやろうかと竹林の中を蠢く影を目にして、楠は背に背負った二本の刀のうち、長刀を抜く。刀を手に取った人間を見て僅かに驚いたのかブレた薬缶吊るを睨みつけ、竹の背に薬缶吊るが入ったと同時に楠はダラリと下げた右手を振るった。

 

  竹の背から飛び出ると同時に二つに分かれた妖怪を見て、つまらなそうに楠は刀を鞘へと戻した。足で刀を振るった竹を蹴れば、刀で斬られたはずなのに、依然と竹はくっついたままその場で揺れ、幾枚かの葉を落とす。

 

  刃の中頃は透かし、先端のブレによって相手を斬る。人知れず一族の技を無駄遣いしながら、死角から刃を飛ばす楠を見る者はいない。妖怪の死体を埋めることも蔑むこともなく、取り敢えず外に出たいと楠はその場を離れた。

 

「行けども行けども藪の中か……、くだらねえ」

 

  かぐや姫が居ると言われる永遠亭。そしてその永遠亭がある迷いの竹林。竹から生まれたという伝承を文字ってか、わざわざ竹であふれる場に居を設ける意味が楠には分からない。かぐや姫だからと言って別に竹林に住む必要はない。東京の高層ビルの一室に住んでいると言われた方が、現代に即しているとも思うが、竹林にいると言われた方が、確かにかぐや姫のイメージには合う。どちらにしても今ここに居るなら関係ないかと、動かす足を楠は早めた。

 

  それは、すぐ近くにいるというかぐや姫を思い描いて。これまで殴ろう、殴ろうと思っていながら、幻想郷に降り立ってからどこぞの紅白守銭奴巫女のせいで近寄れもしなかった。だが今は違う。そんな巫女からようやく離れられたのに、すぐその手前で二の足を踏んでいる現状がとても歯痒い。

 

  手を丸め、握り拳に力を込めて足を動かす。地面に散らばっている落ち葉を蹴り上げながら、だがそんな足も歩くごとに遅くなっていき、次第にトボトボと弱くなり握り拳も緩くなる。もう何度もやった同じ動作。だって迷子だもん。というしょぼくれた内面を抱え、結局どこに出ることもなく、変わらぬ景色の中に未だにいる。

 

「どこだここは。今何時だ。あぁあぁくそったれ」

 

  ループものの世界に囚われているような陰湿な竹林のせいで、増える独り言を隠そうともせずに楠は二本の刀を手に取って横へと振るう。竹林全部叩っ斬れば抜け出せるんじゃないかという浅はかな考えだが、しばらく振るうと手を止めて刀を鞘へ戻した。

 

  この行動ももう何度かやっている。そうして無駄だということも。カラカラと音を立てて崩れる竹を目で追い地面へと向ければ、(たけのこ)の先端が顔を出しているのが見えた。それにより近づいて見れば、非常にゆっくりとだが、確実に今この瞬間も筍は背を伸ばしているのが分かる。一晩も経てば細い竹にまで成長するだろう。これが迷いの竹林たる所以の一つだ。

 

「ふざけんなよマジで。竹林見て喜ぶのなんて(すみれ)ぐらいだろクソ」

 

  ここには居ない平城十傑の一人を巻き込んで悪態をつきながら、ため息を吐きつつ立ち上がる。自然の牢獄。そう言っても差し支えなかった。ふらふらと歩き出し、そうして身を投げ楠はその場に転がる。

 

「腹減った。喉が渇いた。あともう竹を見たくねえ」

 

  せめて霊夢の晩飯を食ってから出てくるんだったと新たな後悔を並び立て、楠は頭の後ろで手を組んだ。空を見上げれば、青空が見えるはずの場所に漂う薄い(もや)。朝靄にしては随分長いこと空を漂っている。気候のせいか、土地のせいか、そんなことは楠の知ったことではないが、その濁った空が更に楠の気分を重くした。

 

  あぁあぁと愚痴を並び立てようと歯を擦る楠の口がぴたりと止まる。肌を撫ぜる気持ちの悪い空気は妖気が交じったせい。また新しい妖怪が寄って来たらしいと上体を起こし、竹の間を飛び交う黒い影を見て舌を鳴らした。

 

「また薬缶吊るかよ! 巣でもあんのか!」

 

  背に手を伸ばした楠だったが、急に割り込んで来た閃光に手を止めた。光の正体は空を走る炎。その既知の範疇を超える炎の動きに目を奪われている間に薬缶吊るは火に包まれて地に落ちた。ごぅごぅと燃え嫌な臭いを振りまく焼死体を睨んでいると、「大丈夫か?」という声が楠の背後から飛んで来る。

 

  なんとも久し振りに感じる人の声。その声の高さから若い女性であると楠は判断し、「ああ」と返事を返しながら声の方へと振り返った。

 

  竹林の中で声の主は異様に浮いて見えた。それは声の主であった少女の服のせいもあるだろうが、なによりも少女の持つ長く月明かりで染めたような銀の髪。それが朝陽に煌めく姿は、華厳の滝を写し取ったようである。そんな髪の先端をいくつものリボンで纏め、秋風に柔らかく揺らしていた。髪は女の命という言葉に初めて楠は納得する。そんな神秘性が少女にはあった。少女の持つ銀髪と赤い瞳に合わせてか、上には白いカッターシャツを着込み、モンペのような赤いズボンをサスペンダーで吊っている。そんな少々現代チックな服装がおかしいと楠は眉を寄せる。幻想郷でこれまで楠が見てきた者たちは、西洋文化に染まったような霧雨魔理沙以外良くも悪くも古い時代にあった格好の者たちであり、その中間のような格好をする少女は少し変だった。

 

「助かった。無駄な運動をしなくて済んだよ」

「なんだいそれは、ああ、刀? 妖怪退治屋だったのか?」

 

  竹の陰から出て来た少女に礼を言いながら、少女の方へと完全に振り返った楠を見て少女は動きを止める。服装によって驚かれているのかと楠は予想したが、少女の紅い瞳は楠の人相の悪い顔に固定されており、他のものには向いていないように楠には見えた。

 

  短くも長くもない静寂が流れ、薬缶吊るを焼いていた炎が鎮火する頃、ようやく少女は口を開く。それはまさに火の消え入るような声であった。

 

「……お前は」

 

  その先は紡がれず、急に顔を難しくして少女は口を一文字に閉じる。鋭くなった少女の瞳と、ピリピリと急激に緊張感の増した少女の気配に楠は眉を顰めて背の刀へとゆっくり手を伸ばす。世間話をするような気配ではない。怒気を孕んだ少女の声が静かに響いた。

 

「なにしに来たんだ今更」

「今更? よく分からないな。初めて俺はここに来たんだが。アンタとどこかで会ったか?」

「とぼけないでよ楠」

「確かに俺は楠だがな。嬢ちゃんと会った記憶がねえ。嬢ちゃんほど目立つ容姿なら忘れるはずもないと思うんだが」

「なに? お前、いったい何しに来たんだ?」

「かぐや姫を殴るために」

 

  少女の目が見開かれ、楠は言い切る。楠が刀の柄を握り少女は身構えたが、楠が刀を抜き放つよりも早く低く唸るような音が少女の耳を貫いた。その音の情けなさに楠は固まり、少女も固まる。楠は刀の柄を握ったまま、誤魔化すようにギザギザした歯を擦り合わせ、ゆっくりと口を開く。

 

「…………まあ、取り敢えず、飯屋の場所を教えてくれないか?」

 

  なんとも締まらない楠の言葉に毒気が抜かれたと少女は肩を落とし、仕方がないと楠を手招きする。どうしようか楠は少し迷ったが、刀の柄から手を離すと、渋々少女の後を追った。

 

 

 ***

 

 

「いやぁ助かったよマジで。嬢ちゃんいい奴だな! あの博麗の巫女はダメだ。なにかにつけて借金を積み上げていきやがる。しかも初対面で俺を顎で使いやがるしな。いやしかしやっぱ筍は食うに限るな! 竹はもう勘弁だ」

「……あっそ」

 

  顔を背ける少女に礼を言いながら、目前に広げられる遅めの朝食に楠は舌鼓を打った。博麗神社で出された初日の夕餉とはえらい違いだ。少女の家はなかなかのボロ屋であったが、出されたのは白米に味噌汁、漬物だけでなく筍のおひたしに干し肉と、バラエティ豊かなお菜に手を伸ばす。

 

  少女はムスッと不機嫌な空気を背負っているが、なんだかんだ飯を用意してくれ、なんだかんだ楠が気になるようでチラチラと視線を楠の方へと投げている。そんな少女をおかしいと思いながらも、楠は兎に角食欲を満たしてしまおうと白米を口に掻き込んだ。

 

  空になった茶碗を置いて一息吐く。出していた膳を片付けようと動いた少女を手で制し、それぐらいはやると膳を手に取り楠は立った。水の入った桶の前へ移動して手慣れたように茶碗を洗う慣れた様子の楠に少女は目を丸くして小さく息を吐く。

 

「お前どこから来たのよ」

「外から。ああ、外来人だったか? まあそんなとこだ」

「……ふーん、それでかぐや姫を殴るって? なんで?」

「殴りたいから」

 

  言葉だけ聞けば物騒なことこの上ないこの楠の発言に、一度は少女も驚いたが、二度目はそうでもないのか小さく笑う。そんな少女は変わっていると楠は肩を竦めながら、洗い終わった食器を並べて、少女の隣へと腰を下ろした。それを見越して茶の入った湯呑みを少女は出してくれ、その気の使いようにどうしても霊夢と比べてしまい楠は少女の肩を優しく叩く。

 

「な、なんだよ」

「いや、俺の中の女の基準が幻想郷(ここ)に来てから激しく上下しててな。お祓い棒で叩かれるは、弾幕撃たれるは、でかい女に潰されるは、ろくなことがなかったが、普通そうだよな! 俺だって行き倒れぐらいには優しくするぜ!」

「ああそ、はぁ、……なんか調子狂うな

 

  ぶつくさ呟く少女に満足気に頷いて楠は茶を啜る。なんだかんだ霊夢を下に置きながら、帰ったら文句を言ってやろうと帰る気は残して。そんな一人満足気な様子の楠を見て、より大きなため息を零し少女も茶を啜った。

 

  茶を啜る音が止んだ頃、ひとまず落ち着いたと二人して湯呑みを置き、楠は少女の顔に目を向けた。そんな楠の顔を受けて、少女は顔を背けながらも楠から目は離さず、男のギザギザした歯が開かないのを見て「なんだよ」と口にする。そうすれば、ようやっと時が動いたというように楠も口を開いた。

 

「いや、やっぱり会った記憶がないな。俺は北条 楠だ。アンタはなんで俺の名前を知ってたんだ?」

「知るか。私の気のせいだっただけだよ。たまたま、そう、たまたま昔の知り合いに似てたからさ」

「ほう、俺と似てるとはご愁傷様な奴だなそいつは。自慢じゃないが街を歩けば職質されるぞ俺は。その可哀想な奴の名前はなんて言うんだ? 精々健康くらいは祈ってやろう」

「なんだっていいだろ!」

 

  ふんっ、と鼻を鳴らして少女は茶を一気に喉に流し込む。不機嫌という空気を隠そうともしない少女に、これはあまり長居しない方がいいかもしれないと楠も茶を飲み干すと横に置いてあった二本の刀を背に背負う。そんな楠を見た少女の眉は、不機嫌な空気の中どんどん下がっていき、最終的に目尻までも小さく下げた。そんな少女の顔に楠はなにも言えずに固まっていると、少女は「……北条 楠」とゆっくり口を動かす。

 

「なんだよ? なにか頼み事か? 薪割りくらいなら喜んでするぞ」

「違うよ。さっきのやつの名前。……お前に似てる」

「いやだってそれ同姓同名じゃ……」

 

  訝しむ楠の視線を受け止めて、少女の紅い瞳が弱く輝いた。それを見た楠の顔は無表情から一転してとても難しいものへと塗り替わる。

 

  『楠』という名前は元々楠の名前ではない。当主と選ばれたその時に名前も引き継ぐ。これは他の当主の幾人かも同様だ。理由は、再びかぐや姫に出会った際に呼びやすいようにという要らない配慮のせい。だから男でも女でも関係なく、当主となれば北条なら楠と呼ばれ、五辻なら桐と呼ばれる。名を変えているのは袴垂に岩倉に六角と三家しかない。

 

  つまり同姓同名で楠と全く同じ名前を持ち、しかも顔も似ているとなれば、行き着く先は一つだった。遥か昔の北条の誰かを少女は知っている。哀愁を感じさせる少女の表情が、楠にその事実を叩きつけた。

 

  かぐや姫かと一瞬思案し楠は拳を強く握ったが、どうにも煌びやかに欠ける少女の住まいと、その揺れる瞳に拳を振り上げることはなく、弱々しく伸ばされた楠の握り拳は少女の肩に押し付けられただけだった。

 

「アンタ、……アンタ名前はなんて言うんだ。教えてくれよ」

「……なんで?」

「……ああ、ああそうだな、言わなくてもいい。分かったよ、かぐや姫じゃないんだろ? なんでだろうな、そう感じるよ。なら俺のことを知ってるのは一人だけのはずだ。先代から聞いた。他の先代たちの手記にも何度か出た名前がある」

 

  特に北条家二代目の当主の日記に何度も出た名前だ。竹取物語以外に読み耽られるのは各当主の手記ぐらいだったからこそ楠もよく覚えている。

 

  内に広がった感情に楠は名前を付けられない。伝説は伝説ではなかったと喜べばいいのか、怒ればいいのか、嘆けばいいのか。それがどれも違うような気がして、またどれも正しい気がした。これがかぐや姫なれば、楠も強く拳を振り抜いていただろう。だがこの少女には違う。これは別だ。二代目の当主の日記に綴られた後悔を思い出しながら、また一度弱く楠は少女の肩を殴る。

 

「……おい」

「…………なによ」

「なんか頼み事はないのか」

「は? ちょっとなんでそうなるの?」

 

  怪訝な表情になった少女に向けて、それでもなお楠は続ける。

 

「庭の雑草抜くか? それとも外壁でも直すか? ああ、食料の調達でもしてくりゃいいか? それとも」

「い、いやちょっと、わけが分からないんだけど! なんで急に」

 

  要らぬ親切を人でも殺しそうな顔でギザギザした歯を擦り合わせながら聞いてくる楠に、堪らず少女はそう聞いた。

 

  なぜ?

 

  そんなのは一つしかない。理由はただの一つだけ。少女の欲する答えを当然楠は持っている。楠は難しい表情のまま、しかし、少女の問いに即答した。その答えに少女の顔もまた難しいものへと変わっていった。

 

「アンタが藤原妹紅だからだ。理由なんてそれだけだ。それ以外に何もない」

 

  たっぷりと少女にとって無限にある時間を使い沈黙が流れる。楠は言っていることに間違いはないという表情で妹紅を見据え、そんな楠に百面相を返しながらしばらくして妹紅は静かに立ち上がった。体から揺らめく炎を燻らせて。妹紅の内に積み重なった気に入らないが溢れるように。

 

「意味分からないわ、腹が膨れたならさっさと出てって! 別にお前が北条だから助けたんじゃない、行き倒れそうな奴を助けるのは普通だから。……どうせまだ輝夜のやつを追ってるんでしょ」

 

  横に滑った妹紅に目を追って楠が顔を動かせば、部屋の隅に雑に放られている一枚の紙が目に映った。その内容は近づいて手に取らなくても分かる。月軍の襲来を報せる記事を見て妹紅がなにを思ったのかは楠の知るところではないが、それと妹紅は関係ない。楠は顔を戻し妹紅の紅い瞳を見返しながら頭の中のかぐや姫に唾を吐く。

 

 

「ああ追ってるよ、なよ竹の腐れ姫様を殴るためにな。だがそれとこれとは別だ。ここで行ったらな」

「お前のことなんて知るか! もうどっか行ってよ……」

「行かない。アンタのためじゃない。俺の、俺たちのためだ」

「それがウザいって言ってるの!」

 

  妹紅の身から炎が溢れた。生死を繰り返す不死鳥のように炎の翼を広げて、指向性を得た炎が楠の身に飛来する。感情で染めたような赤色に舌を打ちながら、背後を一度見て楠は大きく後ろに跳ぶ。壁にぶつかることもなく、ずるりと壁を通過して、弾け炎上するボロ屋を見つめた。

 

  焼け落ちたボロ屋の中から妹紅は壁を蹴り破り外に出ると、気に入らない男に向けてきつく絞られた目を向ける。チリチリと火花でも出そうなほどに。そんな妹紅の顔に楠は歯を擦り合わせながら背負った刀を手に取ってずるりと鞘を地に落とした。

 

「なに? やるの? 言っとくけどお前死ぬぞ」

「いややらない。俺の相手はアンタじゃない。早く消火しないと家がダメになるぞ」

「別にまた建てればいいだけでしょ」

「……なら手伝うか?」

「だから必要ないって……もう! 面倒くさい! 本当になんなのよ! 今更……、今更なんで来るの、遅いでしょうが楠」

「知らん。それは俺じゃない」

 

  全く気の利かない楠に妹紅の毒気が抜かれるように体から上る火は小さくなる。別に悪かったなんて謝罪の言葉を妹紅だって欲しいわけではない。姿が似ていても、名前が同じでも、妹紅の知る北条とは全くの別人である楠になにを言ったところで無意味だ。なにをしてもそれは妹紅の自己満足であり、楠がなにをしてもそれは楠の自己満足である。不機嫌な顔で突っ立っている楠を一度睨みつけてから妹紅は腕を振り、その動きに合わせて炎が消えた。

 

  焦げ臭くなった家へと妹紅は目を向けると、がっくりと肩を落とす。そうして楠の方へ振り返りながら、イラついた感情を隠そうともせずに家の方へ指を向ける。

 

「頼み事が欲しいって言った? 家を直すから手伝え楠」

「幻想郷に来てから大工になった気分だよ本当」

「うるさい馬鹿、精々、そう精々こき使ってやるから喜びなさいよ」

「分かった。アンタも巫女さんも変わらないってことがな。どうも俺は幻想郷の女と性が合わん」

 

  妹紅に頭をはたかれながら、渋々、本当に渋々楠は燃え落ちた外壁に手を掛ける。一千年経った妹紅と北条の再びの邂逅は、決して感動的で麗しいものではなかった。

 

 

 




第一部は第三夜をもって終わりとなります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 昼

  落ち葉を掻き分け、柔らかな土に手を差し込む。軽く掘れば出てくる筍の頭に妹紅が満足気に頷きながら、手に持った鍬を筍の根本へと振り込めば、ボコりと簡単に土の中から大きな筍が転がってくる。

 

  筍を取るのが異様に上手い貴族の娘というのはどうなんだろうか、と楠は鍬を肩に掛けて額の汗を拭っている妹紅を眺めながら、地面に転がっている取れ立ての筍を掴み背に背負った籠へと投げた。

 

  積み重なった筍の量は結構なもので、その重さに引っ張られながら楠は籠を背負い直すとまた筍を探して歩き始めた妹紅の後を追いかける。

 

  午前中、半焼の妹紅のボロ家を一日で直すことは不可能だと早々に二人とも諦め、妹紅に連れられ筍取りなんかに楠は連行された。妹紅曰く食料の調達と物売りのため。迷いの竹林で無限に取れる筍と時たま焼き鳥を売って生計を立てているらしいことを聞いた楠は、貴族の『き』の字も見受けられない妹紅の私生活に肩を竦める事しか出来なかった。

 

  また一つ地面から筍を掘り起こされた筍を背の籠に放り投げながら、楠は終わりの見えない竹林へと目を流し眉を顰める。冷たい秋風に含まれた僅かな血の匂いに鼻孔をくすぐられると、背に背負った籠の下にある刀の感触を確認して楠は妹紅へと振り向いた。

 

「おい、なんか騒がしくないか? ぞわぞわしやがる」

「……ここには妖怪が多いからそんなこともあるわよ」

「その割にはさっきから、かなり遠いが戦闘音が聞こえるぞ」

「誰かが弾幕ごっこでもしてるんじゃないの? 一々そんなので警戒しないでよ、疲れるわね。ほら、筍拾って」

 

  こんなことは日常と言わんばかりに呆れた様子で地面の筍を指差す妹紅に歯を擦り合わせながら、楠はまた一つ筍を拾う。最初会ってから、妹紅はそこまで口数は多くはないが楠が聞けば何だかんだ返事を返す。しかし、どうにも身から滲む不機嫌な空気は治まることなく、楠を見る目は尖ったままだ。

 

  遠くで響く戦いの音を首を振って放っておきながら、楠は先を行く妹紅を漠然と眺めた。文献でしか見たことのない架空の少女。心優しい娘であると北条家二代目の手記には書かれていたがそんな風には見えず、体からは火を噴くし力も強い。やさぐれた雰囲気を振りまく少女は、どの当主の手記に書かれていたものとも一致しない。そして何より少女はもう人ではない。

 

  蓬莱人。蓬莱の薬を服用し、魂が不滅となった存在。何があっても死ぬことはなく、その魂は永遠を生きる。不老不死を求めて死んだ者が世界にどれだけいるか。自らに永遠の呪いをかけた者がどんな末路を辿ることになるのかは誰にも分からない。どんな末路が来たとしても終わることがない。それを見ることのできる人間はいないのだ。

 

  目立つ容姿でありながら、陽炎のような立ち姿はそこから来るのか。別に親しいわけでもない楠は、初対面でありながら気にしてしまう少女になんと言えばいいのか分からない。擦り合わせていた歯を薄く開き、妹紅から小さく目を背ける。

 

「なあアンタ、平城京離れてからずっとこんな生活してんのか?」

「……なんで? 別にどうだっていいでしょ」

「暇つぶしだ。筍取ってるばかりじゃ退屈だろ」

「別に……この生活だって最近だし」

「最近?」

「二百年くらい前?」

「ああそう、最近ね……」

 

  全然最近じゃねえと思いつつ、それは言わずに楠は頭を掻く。こんな少ない会話でも、もう妹紅との価値観は違うのだということが十分に分かる。二百年。楠もまだ生まれておらず、北条の当主が何代変わったことか。自分には持て余す膨大な時間を思い楠は舌を打つ。

 

「で、その最近でなにか良いことあったか?」

「……はぁ、友人ができて、宿敵と喧嘩できるようになったわ」

 

  素っ気ない態度でも諦めずに口を開く楠に妹紅の方が折れ言葉を返す。「友人ね」と呟きそっぽを向いている楠を見つめながら、妹紅もまた、キリキリと歯を擦り合わせた。

 

  千三百年前からひょっこりやって来た来訪者。月の使者からかぐや姫を守れず初代の北条の当主はどこかへ何も言わずに消えた。二代目はそれを追い、妹紅が一番欲しかった時に側には誰もいなかった。蓬莱の薬を飲み戻った時、二代目も同じように戻ったが、もう妹紅に流れる時は変わっていた。二代目が生きている間は妹紅も平城京に留まったが、それも二十年に満たない。それよりも長く、遥かに長く妹紅は生きた。

 

  初代に似た男。北条 楠。不比等の隣にいつもいた男は、人相こそ悪かったが悪い男ではなかった。いざという時頼りになった。かぐや姫と喧嘩したいと言った時、喧嘩の仕方を教えてくれたのも父親ではなく楠だ。そんな楠から千三百年経った楠は、服こそ違うがまるで昔と変わらない。ぶっきらぼうで不機嫌そうで、人と接するのが嫌いそうなのにいつも藤原家のそばにいる。今もそうだ。それも今は千年以上生きている妹紅ですら見たことのない技を携えて。

 

  擦り合わせていた歯を妹紅は止めると、鍬を筍には振り下ろさず地面に下ろした。目は顰めながらも楠に向けて。

 

「お前は?」

「なにが?」

「壁を透ける変な術を身につけて、輝夜を追って、それで殴るだけ? そんなことのためにわざわざ来たの?」

「余計なお世話だ。だいたい術じゃなくて技だ。やろうと思えば誰だって覚えられるんだよ」

「技? アレが? へぇ、そんなのわざわざ覚えるなんてアンタ頭おかしいんじゃない? 便利そうではあるけどね」

「便利なもんかよ、それに頭おかしいは余計だくそ」

 

  透過するものにも限度はある。ただの家の外壁なら問題ないが、分厚い鉄板や、竹一本ならまだしも、間隔の空いた位置のズレている竹を同時に透過するのはかなり難しい。もし失敗すれば壁の中。それで終わりだ。手品に近くタネはある。無敵など存在せず、どんなものにも弱点はあるのだ。だから平城十傑などという名に頼り、今なお一人ではなく十人を揃えた。

 

  たった一つ技を納めただけで蓬莱人に頭おかしい認定の印を押され楠はため息しか吐けない。一族が頭おかしいのは認めるが、自分まで楠はそこに含まれたくはない。

 

「で? アンタは二百年で友達できて宿敵とやらと喧嘩して筍山ほど取って、他にやりたいことはないのかよ」

「またそんな話? そういうお前は」

「そりゃあるさ、たくさんな。今年はおそらく人生最後の修学旅行が控えてるから楽しみたいし、遊園地にも行ってみたい、水族館にもな。海外にだって行ってみたいし、恋人も欲しい。あと免許取ってバイクにも乗りてえな。それで日本中走ったりして、良いホテルに泊まって、好きな本読んで、好きな映画見て、たっぷり昼寝するのさ」

「それは……よく分からないけど、やりたいこと多過ぎて時間が足りないんじゃないの?」

「ああ足りない、全然足りない! だからかぐや姫どうのこうのやってる場合じゃないんだよ! そのためにはまずかぐや姫に会って殴らにゃならん! それが全ての始まりなんだ」

「なんで殴るのが始まりなのよ……アイツを殴りたい気持ちは分からなくないけどね」

 

  妹紅は小さく笑いながら笑顔でかぐや姫を殴ると断言する楠に肩を竦めた。その一点だけを楠は全く変えようとしない。

 

「アイツってかぐや姫だろ? 場所は知ってるのか?」

「知ってるけど、案内して欲しいの? まあお前が輝夜を殴るのは見てみたいけど。月軍とやらも来るそうだしね」

「月軍か……、まあ頼む。筍取り終わったらでいいから……?」

 

  急に楠の顔が顰められ、妹紅も首を傾げる。そっぽを向いたまま固まっている楠の目の向いている方へ顔を向けた。竹の間を走る白い影。頭には兎の耳を揺らし、ブレザーのような服を着て、手にはゴツい銃を持っていた。

 

  竹林の中で明らかな異物。ゆっくり妹紅の方に楠は歩を進めて近くに寄った。背に背負った籠の肩掛けを強く握る。妹紅もまた訝しみ、片眉を上げて首を小さく傾げた。

 

「ありゃなんだ? この竹林に住む妖怪か?」

「鈴仙に似てるけど……いや、見たことないやつね」

「アンタが見たことないやつってことは」

 

  そこまで言って楠は口を閉じると目を細める。血の匂いがする。先程よりも更に強く。兎の耳を揺らす少女は、楠と妹紅に気づくと足を止めた。そうすればよりよく見える。兎の少女の服についた血痕と、血走ったような赤い瞳。それが引き絞られるのと向けられた銃口が火を噴いたのはほとんど同時。

 

  筍が大地に転がり、籠が弾けて四散する。銃の弾丸は、進行方向の竹をことごとく突き破り、重い音を響かせる。舞い散った黒い髪と白銀が地面にゆっくりって触れたが、赤い雫は舞い散らない。枯葉の上で妹紅を抱えて転がった楠は、背に背負った刀へと手を伸ばしながら立ち上がる。

 

「この野郎! なんなんだてめえ!」

「……月軍だ、地上人」

「月軍⁉︎ マジか……、アンタが? 思ってたのとなんか違えな」

「ちょっとなにを呑気なこと言ってるのよ! って言うか離して!」

 

  少し呆けたが、楠の手の中で暴れた妹紅が楠から離れる。だがその目は月軍と名乗った兎に向けられ、眉を寄せたまま立ち上がった。千三百年前、かぐや姫を迎えに月からやって来た者。妹紅の父親も兵を挙げ、その最強たる北条、帝により召集された最強の十人。それでも戦いにすらならず完敗した相手。妹紅の体から薄く炎が揺れ上がる。

 

「……私もこいつらには少しムカついてるんだ。私にやらせろ」

「やらせろって何をだ? 弾幕ごっこってやつか? ルールなんだって? だがアイツらにその気はなさそうだぞ」

 

  月兎から漏れ出るものは殺気。遊ぶ気ではなく殺す気だ。見れば分かる。そんな月兎に目を向けたまま、分かっていると言うように一度大きく炎が揺らめいた。

 

「そっちの方が私は長い。それにお前と違って死なないもんでね」

 

  妹紅の手から炎が伸びる。少女の意思によって動く炎の鞭。放たれた月兎の銃弾を溶かし落としその命を燃え落とそうと揺らめいた。目も眩む爆炎が宙を走り白い世界が止んだ頃、上半身の焦げた残骸が転がっていた。悲鳴もなく、言葉もなくこの世を去った月兎を見つめ妹紅は笑顔を見せるが、その肩の端は燃え消せなかった銃弾が掠り血を垂らしている。

 

「おいくらってるぞ!」

「うるさいわよ、別にすぐに治るわ、ほら」

 

  肩の擦り傷に手を伸ばし妹紅がそこを親指で擦れば、血は一度拭われ姿を消すが、すぐにまた妹紅の白いカッターシャツにより赤い染みを作りだす。それを見た妹紅の顔が固まり、一瞬あとに眉が歪んだ。

 

「……なんで?」

「おい、塞がってないぞ。アンタ不死身なんじゃないのか?」

「いや、そのはず。なのに」

「……あいつらがなにかしたのか? 月軍ならそのくらいは……ッ⁉︎ 避けろ⁉︎」

 

  妹紅に覆い被さるように楠は転がり枯葉が舞った。その枯葉に穴が空き、重々しい音が響く。銃弾の雨が降り止むのを竹林の斜面に隠れるようにしながら耐える。腕の中でまるまる妹紅に目を落としながら、楠は歯を擦り合わせると強く噛み締め刀を抜いて立ち上がる。

 

「お、おい⁉︎」

「不死身じゃないなら隠れてろ! 俺がやる!」

「お、俺がやるって、そもそもお前は不死でもなんでもないだろ! どうせ私は死なないんだ!」

「アンタが死ぬ死なないは関係ない!」

「おいって!」

 

  妹紅の叫びを背に受けて、楠は斜面を飛び出した。銃弾の雨が止んだ合間を縫って視線を散らす。竹の間に揺れる三組の兎の耳を目に留めて、楠は強く大地を低く枯葉の中に身を隠すように突き進み、目の前の竹を避けずに透過し、目を見開いた月兎に向けて横薙ぎに振るう。

 

  刀が肉に食い込む感触。その感覚に眉を顰めながらも楠は躊躇わずに思い切り振り抜く。振り返りはしない。枯葉に落ちる首の音が耳を擽るのだけを感じ、次の獲物へと身を揺らす。ゆらり揺れる楠の体は、足を進めるごとにそのブレを大きくさせる。一歩進むごとに不確かな領域へ。一人が二人にも三人にも見える不可解な楠の動きに月兎の照準は定まらず、竹を透けて目の前に立った人間の姿に月兎は目を見開いた。

 

「こっちだあほう」

 

  傾きズレる月兎の首を、振り抜いた楠の足が捉える。飛んだ首は三人目に月兎の手から銃を弾き、驚き銃を目で追った月兎の顔が正面へと戻った時には人間の姿はもうなかった。月兎の首の後ろに冷たい風が流れ首が落ちる。

 

  とさりと落ちた月軍兵士の体を見下ろし、楠は二刀の刃を手の中で回した。滴る血は最小限。舌を鳴らして斜面から頭を覗かせる妹紅へ目を流した。

 

「頭を下げろ、まだ来るぞ。数は、三十近いなくそったれ」

「お前……なんで戦うんだ? 私は別に守ってくれなんて頼んでない! 月軍が来たならさっさと輝夜のとこに行けばいいだろ!」

 

  妹紅の叫びに楠は一度天を仰いだ。周りを取り巻く兎の耳に深いため息を吐きながら、楠は両手をダラリと下げてゆらりと揺らす。顔をゆっくり妹紅の方へ向けると、小さく口端を持ち上げて。

 

「アンタも守るしかぐや姫も殴る。アンタが守って欲しいかどうかは関係ない。守って欲しくなくても勝手に守る。そこにいてくれ、動かずに、そっちの方が楽だ」

「ッ、お前はなんで⁉︎ 私は死なないって言ってるだろ! なんでいっつも私の言うこと聞かないんだ楠‼︎」

 

  銃弾の掃射音が妹紅の声を塗り潰した。舞い散る銃弾は人ひとりを簡単に轢き潰す必殺の威力を内包しながら、四方から隙間なく迫る弾丸に楠は笑う。この時を待った、千三百年。この時間を手放しては、なにも掴めないから。視界にちらつく銀髪を時折眺めながら、両手に握った刀を振るう。

 

 

 ***

 

 

「あぁ、くそったれ。『守る』ってのはしんどいなぁ。はぁ」

「お前……馬鹿じゃないのか? ほんとに……」

 

  竹林に充満する血と肉の匂い。大地に散らばった腕や足は十や二十では足りはしない。真っ赤に染まった大地は血の池のようで、枯葉も沈んで浮いてこない。その赤い池に浮かぶ白い断片は、月兎の幾人かが着ていた装甲服の破片。ぽちゃんとそこへ新たな赤い雫が数滴垂れた。服が破け、額から伝う血を拭っても、新たな血が楠の額からは滲んでくる。体の表面に伝ういくつもの赤い筋は楠のものと月兎のもの。血に塗れた楠の赤はどこまでが楠のもので、どこからが月兎のものなのか、それは楠自身にも戦いを見ていた妹紅にも分からなかった。

 

  体に付いた血を削ぎ落としながら楠は刀を鞘に納める。荒くなっている呼吸を整えようと楠は深く息を吸い込むと、長く息を吐き切った。足を出せば枯葉の擦れる音は聞こえず、水たまりに足を落としたような重い音が竹林に響き、それに楠は口端を歪める。

 

「こんなことなら誰かを守る修行もしといてくれれば良かったのに、おかげで血濡れだ。なにかがズレてるよな」

「ズレてるのはお前だ馬鹿! なんでよ! なんで」

「なんで? ……俺のためだよ」

「意味が分からないわよ! 自分のためでそこまでする? 不死のために盾になるの? やって来てわざわざするのがそれなわけ?」

 

  例え楠が何もしなかろうと、妹紅は楠よりも長く生きる。その短な生をなぜ永遠の者に捧げるのか意味が妹紅には分からないし、命など欲しくない。妹紅は忘れないから。ただでさえ重荷だけが増えていく人生に、無理矢理重さを足していくようなことはされたくない。戦うために、血に塗れて、目の前で命を散らされては堪まったものではないのだ。それが見ず知らずの誰であろうと負の感情は積み重なる。それに耐えられなくなってしまっても、妹紅は自分を終わりにはできない。

 

  楠が何を考えているのか分からない。楠が何を感じているのか分からない。なんのために戦うのか? なんのためにここに来たのか? なんのために輝夜を殴るのか? 妹紅には楠が分からない。

 

「やっぱり似てるだけだ。お前は楠じゃない」

「当たり前だ。俺は俺だ」

「お前はなんのために生きてるのよ、力を示すため? 名誉? 使命?」

 

  名誉、麗しい言葉だ。使命、それもまた格好いい響きかもしれない。だが、そのどれもに楠は首を横に振る。何に近いと言われれば、義務が最も近いようであるが、結局それも少し違うと考えると、顔を持ち上げて妹紅の目を見る。

 

  強く輝く妹紅の紅い瞳。輝いているのは薄く心の汗が張っているからでも、周りの血の池の色が反射しているからでもない。それは妹紅が生きているから。揺らめく炎のように、永遠であるが、妹紅は確かに今を生きている。その激しく燃えるなにかが妹紅の瞳に力を与え、それを見た楠の目もまた鋭い輝きを返す。妹紅から決して目を離さずに、楠は口の中の血を一度地面に吐き出し口を拭ってから口を開いた。

 

「これからかぐや姫を殴りにいく。案内してくれ」

「はぁ、なんで今なのよ。今することじゃないでしょ! そんな体でいくつもり? 血で濡れてないところを探すのも難しいような体で」

「今しかないんだよ。今ここにいるのは俺なんだ。俺だ。俺はかぐや姫に会わなきゃならない」

「殴るために?」

「そうだ! 俺はそして言わなきゃならない、俺がいったい何代目の北条の当主なのかをな。いったい何人が同じ道を歩いたのか、かぐや姫にこれっぽっちも興味がなかろうと、俺はそれを言わなきゃダメなんだ。俺のために」

 

  俺のために。自分のために。二言目にはそういう楠の言葉に妹紅の瞳がブレる。自分のためと言いながら、楠の目は全く別のものをみているように妹紅には見えた。その瞳に映るものがなんなのか、少し妹紅は見たくなった。今の北条 楠はかぐや姫を追っているようで追っていない。妹紅の最もよく知る平城十傑の一族がいったいなにをするのか。その長い旅が終わればなにをする? 輝夜に会った時妹紅の旅も終わり、幻想郷に落ち着いた。楠は?

 

  顔の血を拭っている楠を見て、妹紅は小さく歯を擦り合わせた。たった一人の人間が気になる今が気に入らず、またどこか少し安心している自分も気に入らない。どれだけ妹紅が叫んでも目の前の男は変わらないと理性と本能の両面から理解できる。強く叫ぶ自分が負けているようで、それもまた気に入らず妹紅は静かに声を絞る。

 

「……案内して、月軍に殺されるかもしれないのにか」

「死ぬ気なんてこれっぽっちもない。言っただろ、俺にはやりたいことが沢山あるんだ」

「なら案内してやる楠。お前の答えを見せてよ」

「ああ特等席でな、行こう、なに安心していい、俺がアンタを守ってやる。俺が近くにいる間はな」

「別に守ってくれなくていいって……はぁ、もういい。なら精々守ってよ」

「ああそうするさ。良かったな、寿命が伸びるぞ」

 

  楠のクソ面白くもない冗談にため息を吐きながらも、妹紅は楠には見えないように薄く笑う。一千年以上が経ちまた何かが変わろうとしている。永遠に続く時の中でそれが大きな変化なのか小さな変化なのか、どちらにしても面白いことのような気がすると、妹紅の足取りは不思議と軽かった。

 

「行くわよ楠、はぐれて迷子にならないでよね」

「なるか、もう迷子はごめんだぜ妹紅さんよ」

 

  楠は歩く。妹紅の背を追い、かぐや姫を殴るために。握った拳は行き先を決め、どこまでも強く握られる。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 夕

「クソが! いったいどんだけいるんだこいつら!」

「ちょっと楠! 無茶しないで!」

 

  斬っても斬っても数が減らない。妹紅と共に永遠亭へ向けて走る中で、竹林から湧いて来ているんじゃないかと思うほど月兎たちで溢れている。飛んでくる重い銃弾の壁を妹紅の炎で溶かしながら楠が盾となり進んでいくが、その歩みは早くはない。

 

  何枚もの壁が前を遮り、飛んでくる弾丸が妹紅に当たらないようになんとか弾くが、透かすこともなく、斬り払うのではてきの手数が多過ぎた。百を超える弾丸のいくつかは楠の肌を削る。だが、血濡れの楠は赤い色に染まりすげているせいで、どこまで怪我をしているのかも見ているだけでは分からない。

 

  変わらぬ竹林のせいでどれだけ目的に近づいているのかも分からず、ただ増えていく月兎に楠は歯を擦り合わせた。進んでいても全てを斬り殺せるわけではない。雑草抜きのように全てを片付けていてはいつになれば辿り着けるのか分からない。壁に穴を開けるように進んでいくが、そのまま進み続けては包囲されているのと変わらないのだ。妹紅の炎を目眩しに、その隙を縫って更に奥へと突き進むが、それでもある程度の場所が月兎には分かるらしく弾丸が飛んでくる。

 

  また一つ弾丸が肩を擦るのに顔を顰めながら、楠は目の前の月兎の首を落とし足を踏み出す。後ろについて来ている妹紅の熱を感じながら、振り返らずに手に持った刀を握り直す。

 

「まだなのか! あとどれだけ進めば辿り着く! こんなことなら来るんじゃなかったよ!くそったれ‼︎」

「もう少しよ! もう少しで竹林を抜ける!」

「それさっきも聞いたぞおい!」

「楠が少し前にも同じこと聞くからでしょうが!」

 

  軽口が聞けるならまだ問題ないだろうと、周りに目を向けながら妹紅は炎の翼を振り撒く。どういうわけか飛ぶことも叶わず、地上戦を想定して来ている月軍は鬱陶しい。楠のおかげである程度安心して状況を見れる妹紅は、周りの竹を見て舌を打つ。永遠亭に近いのは本当だ。だが、その短い距離がなかなか縮まらない。それも無数に揺れている月兎の耳のせい。この量では既に月軍は永遠亭についているだろうことが分かる。もうすぐ見えるだろう永遠亭の屋根がある方へと妹紅は目を向けて、聞こえてくる聞きなれない音に眉を顰めた。

 

「楠!」

「なんだ! もう着くのか!」

「この月兎たちの壁を抜ければね! それよりも、この先で誰かが戦ってる!」

 

  妹紅の言葉に楠は耳を澄ませる。止まずに響き続ける発砲音に混じり、風に乗って運ばれて来るのは金属同士のぶつかる音。その弾け削れるような鉄の音が、何がぶつかり合っているのかを楠に予測させた。鋭く擦るような音は長物に弾丸が滑る音。滑る音の長さから長物の正体を思い描き楠はより前に強引に足を出す。

 

「ちょっと楠!」

「静かにしろ! ……飛脚屋の野郎、さすが足が速えな」

 

  ふやけた顔の友人を思い出し小さく笑うが、すぐに歯を食い縛る。桐がいるのなら、そこにいったい誰がいるのか、そんなことは深く考えなくても楠には分かる。強く握った拳にチキチキと刀の柄が震える。歯を擦り合わせる必要もない。心の中で渦巻くものをぶつける先がすぐそこにいる。

 

 

 

 

 

 

 

「桐⁉︎」

 

  てゐの叫びは数多の音に袋叩きにされてすぐに四散し飛び散ってしまう。津波のように押し寄せて来る月軍の鉄礫を長物一本で全て弾くことは叶わない。永遠亭の雅な外装は、紙に画鋲を打ち込むが如く簡単に穴を開けられ、既に崩れた玩具の城へと変わってしまった。

 

  てゐは輝夜に引っ付き、盾となる桐の背後にいた。大太刀を割り箸を振るように軽く振り回している桐だが、付き合いの短いてゐにも分かるほどに桐の動きは精彩を欠いている。怪我のせいではない。いくつも弾丸に体を舐められ赤色が服に広がっているが、致命傷ではない。だが、どうにも動きに滑らかさがない。

 

  燃え尽き症候群ではないが、急に消え去った重さに体が追いつかない。ふわふわとした体を持て余し、いつも以上に軽い大太刀に桐の体は振り回される。大太刀で受けた弾丸の重さも利用し加速しようと試みるが、予想以上に力が入り過ぎ鉄の礫を大きく飛ばし過ぎてしまう。その隙に滑り込んで来た弾丸に太腿を擦られ、全てを覆い隠す桐の笑みに歪みが混じった。

 

「姫様どうにかならないの! ねえって!」

 

  輝夜に向けててゐは顔を上げるが、輝夜の顔色もよくはない。これまで隠れていた竹林に月軍が大挙して押し寄せていることもあるが、他にも数多くのままならないが重なり、奥歯を噛み締めるだけで精一杯だ。どこかにいるはずの永琳はどこにいるのか姿を現さず、すっかり忘れていた平城十傑がどういうわけかひょっこり現れ、自分を守り、また殺そうとしに来ている。それだけでも気に入らないのに、なによりも自分の能力がまるで使えないことがなによりも輝夜を苛立たせた。

 

  『永遠と須臾を操る程度の能力』。

 

  永遠とは不変。終わりのない歴史。須臾とは刹那。一瞬に満たない一瞬。この相反する二つを操れる輝夜は、本来なら誰が相手であろうとも、無数の手札を有しているに等しい。敵が知覚できない時間の中で敵を永遠に殴り続けてもいいし、地球の裏側まで逃げてもいい。固まっている相手の顔を飽きるまで眺めたとしてもお釣りがくる。だが、その能力がまるで機能しない。その現実に顔を歪め、「ねえ!」と見上げて来るてゐに目を落とす。

 

「……できたらやってるわよ」

「え?」

「多分これは……、時間を固定されたのよ、クソ忌々しいわ」

 

  遥か昔に帝が聞けば「姫……」と固まってしまうような口汚い輝夜の台詞に、てゐもまた固まった。それは輝夜の態度からではなく、零した言葉によって。時間固定結界装置、世界に流れている時の流れを固定する。これが作動している限り、内にいる全てのものに流れる時は平等となる。巻き戻しも許されず、また加速も許されない。時は止まらず、再生はまだしも、肉体の巻き戻しは作用しない。

 

  永遠を閉じ込める監獄。この中で一度死ねば、この結界が作用している限り蓬莱人も死んだまま。結界の外に魂が出るまで肉体の巻き戻しは行えない。

 

  近づいて来る久々の死に輝夜は冷や汗を流し桐の背中を見つめた。千三百年経ち、なぜかやって来た遥か昔の護衛役。五辻。平城十傑という平城京最強の十の一族の一人が今目の前にいる。なぜ今なのか。なぜ今もいる。千三百年前は何もできずに地面に転がっていたはずの一人が、今大太刀を手に、月の軍の銃雨を弾いている。

 

  人間だ。それは目に見えるものからも、目に見えないものからもよく分かった。その人間が妖怪でも厳しい相手を無数に相手をして未だに死んでいない現実に、輝夜は夢でも見ているんじゃないかと錯覚する。

 

  『私は貴女を愛していた』。そんな一言を運んで来た人間、それも帝の遺言だと。遠い昔に既にこの世を去った人間の言葉を本当に運んで来たのなら、それは狂気だ。イかれている。それも意味不明な技術を培って。

 

  目の前で大太刀を潜り抜けた弾丸が、遂に桐の肩を貫通する。穴の空いた肩と飛び散った血肉にてゐは顔から血の気が失せ、膝をついた桐を見て一度弾丸の雨が止む。

 

  肩に弾丸の形で空いた穴へ桐は目を落とすと、より笑みを深めて立ち上がろうと大太刀をぼろぼろに崩れてしまっている縁側へと突きつけた。

 

「桐!」

「……弾が重いおかげで、その通り、肉が抉れただけで、済みました。致命傷じゃ、ない。まだ、動ける」

 

  何が桐を立たせているのか。それがてゐにも輝夜にも分からない。桐はもう限界が近い。それが目に見えて分かってしまう。すぐそばに永遠となる死が待っているのに、桐はなぜか立ち上がる。

 

「貴方は、なぜ立つの」

 

  輝夜の小さな呟きは、静寂のせいで桐の耳に届いてしまった。肩を一瞬跳ねさせた桐はゆっくりと振り返り、笑顔の桐を見て輝夜とてゐは顔を引攣らせた。死が迫る前にする顔ではない。

 

「……私の、仕事は終えましたが。死ぬ時は前のめりに……。私は五辻なのですから」

「……意味が分からない、意味が分からないわ」

「そうでしょうとも、分かっているのは私だけで結構です」

「貴方は……何言ってるのよ!」

 

  桐の背に輝夜の叫びが叩きつけられる。珍しい輝夜の檄に、桐ではなくてゐの方が驚いた。

 

  五辻だからなんだと言うのか。輝夜も望んでいない骨董品がなぜ命を賭ける。輝夜は今の五辻 桐のことなど欠片も知らない。勝手に命を掛けられて、勝手に守って、なぜ自分を大切にしない。命の限られた人のくせに。

 

「私なんて死んだって貴方には関係ないでしょう! 勝手に命を賭して、私は喜んだりしないわよ! なのになぜ立つの! 五辻なんて、平城十傑なんて、私なんて、そんなものは! ……捨ててしまえばいいのに!」

 

  輝夜の言葉に桐は小さく、次第に大きく笑った。桐は別に輝夜のために命を賭けているわけではない。ここまで来たのは、結局にところ全て自分の意思なのだ。誰がなんと言おうとも、桐は自分のためにしか動いていない。それが輝夜にとって重しになったとしても、それぐらいは許してほしいと、一人完結して大きく笑う。

 

「私は、死ぬのは怖くない。待ってて、初めて待っててくれる人がいるみたいですから。それが同情からなのだとしても、私は嬉しかった」

「なによそれ……むしろ私のことなんて、殺しに来てくれた方が納得できるのに……。なんで、私なんて見捨ててよ」

 

  立ち上がった桐の笑顔が輝夜に向く。桐の後ろで構えられた百に近い銃口が、不死身と見間違うような男を蜂の巣にしようと一斉に火を噴いた。迫る弾丸の壁に振り返ることもなく、桐は輝夜にふにゃりと崩れた笑みを与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「妹紅! やれ!」

「ったく! 私に命令するな楠‼︎」

 

  燃え盛る炎の翼が大地を焼く。飛来する殺意の壁を焼き切って、薄暗い夕焼けの中に、より赤く熱い光を灯す。命の炎に照らされた桐と輝夜とてゐの顔が、血濡れの男ともう一人の蓬莱人へと向く。「楠」と呟いた桐の顔に、右手から刀を縁側へと放り投げた血濡れの拳がめり込み輝夜の横へと転がった。桐の引いた赤い跡に目を落としながら、目の前に持ち上げた右拳を楠は骨の音が軋むほどに握り締める。

 

「く、楠。な、なにするんですか、死ぬかと思った」

「うるせえこの能天気野郎‼︎ なに一人満足気に笑ってんだアホ! こんなとこで死んでたまるか! クソッ! かぐや姫より先に桐を殴っちまった!」

 

  顔を抑えてふらふらと立ち上がる桐から目を外し、楠の顔がかぐや姫へと向いていく。人相の悪い男の怒気を孕んだ目を受けて、輝夜の肩がびくりと跳ねる。そんな姿に楠は思い切り顔を歪めると、大きく足音を立てて輝夜に寄り遠慮も躊躇もなく輝夜の顔へと向けて拳を振り抜いた。てゐの手から剥がれて床に転がった輝夜に、てゐは息を詰まらせ、桐は笑顔のまま固まった。あまりに遠慮がなかったため、妹紅さえも苦笑いのまま口端を引攣らせて楠を見る。

 

「……あ、貴方、なんなのよいったい⁉︎」

「うるせえな! なよ竹の腐れ姫様よお! 恨んでくれても怒ってくれても構わねえ、俺は、俺たちはずっとこの時を待ってたぜ!」

「は、はあ? 貴方誰よ⁉︎ 私を殺しに来たの⁉︎」

「殺すかあほう! アンタには死んでもらっちゃ困るんだよ! 俺たちが守ってやるから、そこで縮こまってろ!」

 

  言っていることが滅茶苦茶だ! とてゐも輝夜もわけが分からず両手を上げる。自分勝手な桐と同等、いやそれ以上の暴虐無人さに輝夜は拳を握りしめて楠に向けて振り抜くが、カウンターを食らって床に再びひっくり返った。顔を抑えた輝夜を見下ろして、ほっと楠は息を吐く。

 

「アンタ俺を誰だと聞いたな。俺は楠、北条楠」

「……北条? ……ああそ、妹紅のために私を殴りに来たわけね」

「はぁ? なんで俺があんな野郎のためにアンタを殴らにゃならないんだ? 馬鹿かアンタ」

「は、はあ?」

「ちょっと、あんな野郎に聞こえてるんだけど」

 

  藤原の護衛役にあるまじき発言に輝夜は目を白黒させて妹紅と楠を見比べる。そんな輝夜の目の前に楠の顔が突きつけられ、つい振るった拳は楠に今度は避けられずに右の頬に突き刺さった。口に溜まった血を床に吐き、口を拭った楠のギザギザした歯が炎に煌めきカチ鳴った。

 

「俺はな、俺は北条家第百三十七代目当主、北条 楠。さっきの拳は分かってるだけでも十代目と二十三代目と四十五代目と、それからまあたくさんからの分だ。二発で許してやる」

「なによそれ、十代目って、そんな奴知らないわよ。貴方なにしに来たのよ!」

「ああ、ああそうだろうとも。知ってるよ。北条家の当主のことは俺だけが知ってる。それでなにしにって? アンタを殴りに俺は来た。守りにもな」

「だからそれが分からないって」

 

  ため息を吐き楠は歩き出す。向かう先は床に突き刺さっている己の刀。それを引き抜き調子を見るように軽く振るった。独特の空気を裂く音が響き、炎のカーテンの向こうへ楠は顔を向ける。

 

「何年も、何人も」

「なに?」

「顔も知らない女のために、一生を棒に振るった奴が何人もいる。何年も何年もただ刀を振り続け、それを誰も知らないんだ。ただ、刀を振り続けて死んでいく。使うかも分からない技を鍛えるために。御伽噺に出てくるような女のために」

 

  したいこともあっただろう。やりたいことがたくさんあった。膨大な当主の手記に書かれていた夢の話を見て、楠はいつも思っていた。遊園地に行ってみたいと先代の当主は手記に残した。怖い顔の爺の残していたささやかな夢に楠はつい笑ってしまった。洋風のホテルができたから泊まってみたいと七代前の当主が手記に書き綴っていた。その先に泊まってみたという記述は終ぞ出てこない。恋人が欲しいと三十五代前の当主は、夢小説のようなものを書いていた。むず痒くなり最後まで読むのに苦労した。

 

  誰にもやりたいことがあった。もしかぐや姫に会ったなら、蹴鞠を一緒にしてみたい。もし妹紅に会ったなら今度は旅について行こう。たまには平城十傑で旅行なんてしてみたい。かぐや姫を一発殴ってやる。この技を存分に振るう時が欲しい。いくつも、いくつも、それも百三十六人分。

 

  夢は叶わず、ささやかな願いも気に留めず、毎日刀を振り続ける。刀を振って、振り続け、一度も日の目を見ることなく生涯を終える。そんなことがあっていいのか。あっていいはずがない。たった一人の女のために無意味な人生を送ったなどと、それを楠は許さない。

 

「先代は俺だ。先先代も、その前も、その前もその前も、俺と同じなんだ。先代たちの人生を、百三十六人の人生を無駄だったなんて言わせねえ! 無意味なんて言わせねえ! 意味を与えることは俺にしかできないんだ! 俺が、俺が当主になっちまったから! 俺がやらなきゃ、やる奴がいねえ、俺がやらなきゃ、俺がやらなきゃ誰がやるんだ!」

 

  楠の叫びを輝夜は静かに聞いていた。桐も妹紅も黙り口を開くことはない。

 

「だから俺が全部やる。当主たちがやりたかったこと全部やって、それで死んだら話してやるのさ! 北条の当主はやりたかったことを全部やったんだってな! だからこんなところで死ぬわけにはいかないんだ! こんなくだらないことで、桐! だからお前も死なせねえ! 百代目は五辻と旅してみたかったんだってよ! まだ俺はしてねえ! アンタもだ妹紅! 二代目は親友ともっと遊びたかったってよ! かぐや姫も、……五十三代目はアンタとデートしてみたいって、俺はしたくねえけど仕方ねえからしてやる!」

 

  なんだそれはと桐は笑う。子供染みた我儘を恥ずかしげもなくずらずら並べる友人に、桐はなにも言えずに笑うことしかできない。かぐや姫にデートをしてやるなんて言う男が今までいたのか。しかも仕方ないときた。あまりに身勝手に好き勝手言い過ぎる。ぽかんとした顔の輝夜を見て桐はまた笑い、膝を叩いて楠の隣に並ぶ。

 

「ふくく、良いですねそれ、私もしてみたいことはまだあります」

「ほー、なんだそりゃ」

「そうですねえ……例えばそう、姫様と口吸いとか」

「不純だ! 馬鹿じゃねえの!」

「ば、馬鹿とはなんですか⁉︎ 楠に言われたくないです! この愛の素晴らしさが分かりませんか!」

「アンタのはなんか違う! 怖ええんだよ! こっち寄んな! しっしっ!」

「ああ! そういうこと言うんならむしろ近ずいちゃいますからね! 私が! 愛を! 教えてあげます!」

 

  二人でわちゃわちゃしている楠と桐に呆れて肩を落とした妹紅の背の炎が消える。妹紅が消したのではない。突然飛来した二つの弾丸が炎のカーテンに穴を開けた。炎の先に控えた二つの長銃を視界に収めて楠と桐は飛んできた銃弾へ刀を振り切ったが、弾丸を弾くも二人も大きく後ずさる。その合間を縫って一発の弾丸が輝夜に走った。

 

  時間が足りない。足の止まった桐では追いつかず、楠の技では届かない。

 

  炎を燻らせた妹紅の手も届かずに、耳を抑えたてゐの目の先で白い三つ編みがふわりと揺れた。

 

  輝夜の目の前に手を突き出し、開いた手のひらからは銃弾が落ちる。ことりと落ちた血濡れの銃弾に目を落として腕を振りながら、人をイらつかせるような笑みを浮かべて不敵に笑う。

 

「悪いなかぐや姫、お前の命はオレが奪った」

 

  踊るように月軍へ向けて振り返る男の頭に落ちる拳が二つ分。まるで遠慮なく振り落とされた拳に床が抜けて椹が落ちる。「ぐぇ」と情けない声を穴から響かせ這い出てきた男は、頭を掻きながら拳を落とした楠と桐を睨みつける。

 

「痛ってえな! なにしやがんだ、オレの頭脳が!」

「うるせえんだよ泥棒野郎! アンタのせいで人里で白い目向けられてんだぞ!」

「これも世の女性たちのためです仕方ない」

「意味わかんねえやな! だいたい楠、オメエ声がでけえんだよ! まあおかげでこの場所が分かったがよお、で? どうするかや? 駄弁ってる時間はなさそうだがよ」

 

  振り返った椹に合わせて、楠と桐も永遠亭の外へと目を向ける。ずらりと並んだ兎の耳に反吐が出そうだった。桐は大太刀を肩に担ぎ、楠は大きく両腕を揺らし、椹は両手の拳を鳴らす。

 

「はっは、ここは、盗賊たるもの名乗らなきゃよ! 子分たちにも示しがつかねえ!」

「子分? 勘弁しろよクソ、また面倒そうなことを。おい桐、どさくさに紛れてコイツ斬ろうぜ」

「それは大大大賛成ですけど、私斬るのは苦手なもので」

 

  輝夜の前に三人の背が揺れる。それはまるで千三百年前の光景の焼き写し。あの時は地に転がり寝息を立てていた者たちが、血に体を染めながら立っている。千年越しの技を持ち、月軍を撃滅せんと立つ武士。かつて平城京で最強と謳われた十人のうち三人が、月の登った大地に立つ。

 

「貴方たちは」

 

  輝夜の呟きは幻想郷の総意。招かれざる来訪者。てゐも妹紅も同じ疑問を持ってその背を見る。三人の男が足を出すごとに月兎の足が僅かに下がった。

 

  ──何者だ?

 

  その答えはすぐに分かる。

 

「平城十傑、北条家第百三十七代目当主、北条(ほうじょう) (くすのき)

「平城十傑、五辻家第七十八代目当主、五辻(いつつじ) (きり)

「平城十傑、袴垂家第九十二代目当主、袴垂(はかまだれ) (さわら)

 

  長い長い夜が幕を開ける。竹取物語の続きが始まった。

 

 

 

 




北条 五辻 袴垂 足利 坊門 第三夜 夜に続く。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五辻
第一夜 夕


「月が綺麗ですね」

 

  夜空に月が浮かんでいる。満月には程遠い欠けた月。そんな月を見ながら、一人の男がふらふらと長い階段に立っている。無造作に目元まで流された長めの髪を掻きながら、背後に振り返りふにゃりと笑った。その男の視線の先に立つ一人の少女。薄く透明な尾を引く塊が少女の周りをゆっくり周っている。その薄い膜の向こうから、少女は目をきつく引き絞り、男を警戒してその一挙動に注視する。

 

  男は月明かりに照らし出された少女の白銀の髪に目を這わせて、よりふにゃりと笑う。緑色の服を揺らしながら、少女、魂魄妖夢は、背に背負った長い長刀をするりと抜いて地に沿わせた。白玉楼への侵入者。それに妖夢が気がついたのはほんの少し前。いつもなら誰かが白玉楼に近づけば、スキマを操るような例外を除きすぐに分かるのだが、この男は別だった。

 

  空を飛んで来たわけでもなく、白玉楼へと続く数えるのも嫌になるような階段をずっと上って来たらしい。それも霊力も妖気も持たぬ人間が。ただの人間。妖夢が自分の目で見てもそう思う程に、人里で目にする人々と変わらない。だが、着ている服が異質だ。青っぽい学ランを着て、手には長い筒のようなものを男は持ち、腰を曲げて杖のように筒先を地につけ肩に掛けている。そんな男を妖夢が白玉楼を出てすぐに見つける事ができたのは、白玉楼のすぐ下の階段で男が座っていたから。何がしたいのかよく分からない。

 

  そんな男は妖夢が刀を抜いても表情を変える事はなく、月の光が妖夢の『楼観剣』を舐めるのを目で追って、一人頷くと視線を外す。白玉楼を囲う大きな塀と、周りの木々を男は見て、再び気を張っている妖夢へと目を戻す。

 

「不思議な場所ですね、秋なのに桜の香りがするようだ」

 

  男の気の抜けた声に妖夢の肩が一段下がる。闘争心の欠片もない。白玉楼の周りに生えている桜の木を見てそう言ったのか。だが、その男の自然体な様子が逆に不自然だと妖夢は刀を握り直した。

 

「ここは白玉楼。あなたのようなただの人間が来るところではありません」

 

  そう妖夢は言うが、白玉楼には結界が張られている。ただの人間ではそうやすやすと白玉楼には入って来られない。何より冥界の冷気に当てられて、健全な状態ではいられないはず。だが事実男は入って来ている。男は妖夢の鋭い声の忠告にも顔色を変えず、ふにゃりと笑ったまま、「ここにお姫様が居ると聞いたのですが」と間延びした声で言った。

 

「居たとしてどうする?」

 

  妖夢の声に低さが加わる。白玉楼で姫と言えば一人しかいない。西行寺幽々子。冥界に住む幽霊達の管理人。ただの人間が気にするような相手ではない。だが男は長い階段を延々と上り白玉楼までやって来た。妖夢の質問に男は階段を一段上りながら考えるように小さく唸る。

 

「んー、ちょっとお話をしたいと思いまして」

「駄目だ、帰れ」

 

  短い否定の言葉で妖夢は斬り捨てるが、気にした様子もなく「困った困った」と言いながら男はまた一段階段に足をかけた。その足の一寸先、風を切る音と共に深い線が刻まれた。この先進むべからずの指標。それを男も理解し一瞬足が止まったが、変わらず足を差し出して線を超えた。

 

「愚かな」

「人は誰もが愚かなんです」

 

  音が切れる。薄い空気に綺麗に線が入り、男の手前で弾けた。目を見開いたのは妖夢の方。男の手に持った筒に妖夢の斬撃が上方に弾かれた音。長い筒の外装が破けて中身が外気に触れて白く光った。男が手に持つは白い鞘に収まった大太刀。痩身の男には似合わぬ得物。

 

  それよりも驚いたのは、霊力の刃を弾いた技術。鞘から刀も抜かずに軽く男は大太刀を振ったようにしか妖夢には見えなかった。より鋭くなった妖夢の目に、男は笑っていた口を閉じて口をむにむにと動かす。やる気なのかと妖夢は身構えるが、男の目は変わらず笑ったまま、妖夢の視線から逃げるように顔をふいっと背けた。怪訝に思う妖夢を気にせず、明らかに隙だらけな男の様子は闘いの空気ではない。

 

「そう、あんまり見つめないでください。惚れてしまいます」

「は?」

 

  ポツリと男は言い、余計に空気が柔らかくなる。男は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、再び妖夢へと視線を送る。

 

「だってそうでしょう? 貴女みたいな美人さんにそう見つめられては、好きになってもしょうがない」

 

  男が何を言っているのか分からないと妖夢は眉間にシワを寄せる。いや、言っている事は妖夢にも理解できる。だが、明らかに場に不釣り合いな言葉。今言うべきことではない。心情を乱し集中力を欠かせるための口八丁、そう捉えて妖夢は刀の切っ先を向けた。

 

「言葉で惑わそうとしてもそうはいかん!」

「いやいや、惑わすなんてそんな。私も自分の惚れ症には困っているんですがね、でも我が一族の性分なので仕方がないのです」

 

  暖簾に腕押し。妖夢の引き絞られた剣気を受けても全く男は変わらない。闘いの気配を滲ませすらさせずに、ただ妖夢に向かって笑顔を送る。しばらく二人は睨み合っていたが、段々と妖夢は馬鹿らしくなってきた。ただ妖夢を見つめるだけの男に、一人熱心になっている状況が煩わしい。

 

「……その大太刀は飾りですか?」

「ああこれですか、山を登ったりするのに便利なんですよね」

「……そうですか」

 

  変な男だ。身なりも変だが、言うこともおかしい。幻想郷で春を集めた異変の際に、多くの変人達と妖夢も出会ったが、その者達と比べても遜色ない変人だ。軽い頭痛に眉間を歪めながら、妖夢は楼観剣を鞘へと納める。

 

「はぁ、何にせよ、闘う気もないのなら帰ってください」

「いやいや」

「いやいやじゃなくて」

「まあまあ」

「まあまあじゃなくて、って何手を握ってるんですか!」

 

  いつの間にか妖夢の目の前まで階段を登っていた男が、いやいや、まあまあ言いながら妖夢の手を柔らかく握り手の甲を摩る。足音もせず気配もなかった。闘う気もない癖になぜこんな事に実力の一端を披露しているのかと、男の手を強引に払いながら口角を下げる。

 

「綺麗な手ですね。剣客の手だ。それも相当やり込んでいるでしょう」

「……まだまだですよ」

 

  男から手を隠すようにしながら、妖夢は男から顔を背けた。僅かに照れて頬が赤くなる。剣の腕を褒められた事によってではない。綺麗な手と言われた妖夢の手は、お世辞にも少女が仕える幽々子のように綺麗なものではない。日々の家事で手はかさついているし、剣の修行の成果を表すように、左手の小指の付け根の手のひらには大きな剣ダコがある。そんな剣客少女の手を握り臆面もなく挨拶するように綺麗と口にする男の気が知れない。

 

「そう照れないでくださいよ。そう可愛らしい姿を見せられると余計に好きになってしまうでしょう」

「全くあなたは、誰にでもそんな事を言ってるんじゃないですか?」

「そうですけど」

「否定しないんですか⁉︎」

 

  少女の叫びを受けても当たり前と言うように男は肩を竦めるだけ。さっき照れた自分を叩っ斬りたいと背の剣に手が伸びそうになるが、手を軽く握り妖夢はその想いを押し留めた。こんな男に振り回されるなどごめんだと言うように妖夢は会話を打ち切り男の肩を手のひらで強く押す。

 

「もういいから帰りなさい! ここに用はないでしょう!」

「いやまだ姫様に会ってないですし、それに今帰ろうと思ったら朝になっちゃいますよ。徹夜はちょっと」

「知りません!」

 

  もう一度強く男を押そうと妖夢は腕を突き出すが、スルリと避けられ男は階段に足をかける。闘う気はなかろうと、わざわざこんな怪しげな男を幽々子の従者が合わせるわけにはいかない。背の楼観剣の柄を再び握り振り抜く。相手は名も知らぬ侵入者。それも女たらしの変人だ。一度斬ると決めたなら、斬る事に半人半霊の剣客に躊躇いはない。

 

  音を置き去りにして空を駆ける銀の閃光。人でも妖怪でも関係なく、気づかぬうちに首が落ちるような光速の刃。だが、男の握る大太刀が僅かにズレたように妖夢の目に映った瞬間、男の首、薄皮一枚まで迫っていた刃が弾かれる。驚きはしても先程一度見はした男の動き。奥歯を噛み締め、身を捻り返しの刃を妖夢は振るう。再び弾かれる剣。三度四度と繰り返すが、男はただ階段を上りながら命に伸びて来ようとする剣先を弾く。

 

  おかしい。妖夢の一撃は軽くはない。加えて人の短い年月を嘲笑うように鍛えてきた妖夢の剣技は、剣士同士ならばこそ、並であれば受ける事も難しい。それを体も向けずに弾き続ける男は異様だ。

 

「いい音だ。綺麗な剣筋の音。貴方は大変良い腕をお持ちですね」

「くっ! 嫌味か!」

「それこそまさか、ただ私が得意なだけですよ。ただ前に進むのが。相手を斬り捨てるのは苦手なんですが、弾くのは得意で、いや弾く事しかできないんですけどね」

「なんだそれは!」

 

  何だと聞かれても説明がしづらいと男はまた迫る剣を弾いて額を掻く。

 

  男の一族は大昔帝の書状を届ける役職に就いていた。現代の外の世界で言う郵便屋さん。江戸時代、鎌倉時代で言う飛脚。ただ帝の書状と言う通り、民間で使われるものよりも重要性は遥かに高い。平城京の中から、遠く離れた土地にまで。時には帝の書状を狙いやってくる刺客を払いのけ、必ず書状を届けなければならない。二の足を踏む事は許されない。遅れるなど以ての外だ。幾つかの家が帝直属の飛脚としてその役職に就いていたが、ただの一度も遅れずに全ての書状を届けたのは男の一族のみ。時には妖怪が治める土地すら踏破し書状を届けた実力を讃えられ、ただの配達人でありながら、男の一族は平城十傑に名を連ねた。

 

  だが、ただの一度、一度だけ男の一族が届けられなかった命がある。かぐやの姫君には届かなかった。それを届けるために千年以上も男の一族は前に進んだ。その目的地は未だ見えず、どこかも分からぬ場所を目指して男は足を進める。昔から変わらずそれは今も。終わらぬ旅を終わらせるため。そのために。

 

  溜息のように気の抜けた息を男は吐き、足は止めずに銀髪の少女の方へと足を向ける。引き返すのではない。転進、前に進む事しか男は知らない。スルリスルスルと弾き振られる剣の隙間に男は一歩足を入れる。目を見開いた妖夢の顔を真正面から男は見るが、ゆっくり眺めている時間はない。前に足を出す動きに合わせて白い鞘で剣を弾く。上に手が伸びた妖夢の胸元へと体を屈め、転進、妖夢へと背を向ける動きに合わせて大太刀を引き抜き妖夢の胴へと振り抜いた。

 

  風が唸り、妖夢の小さな体が空を飛ぶ。刀で男の大太刀を防ぐ時間はなかった。白玉楼の堀に妖夢は体を叩きつけ、口から空気が漏れ出ていく。少女を追って宙を滑る半透明の人魂が少女の元へ向かうのを男はゆっくり見届けてまた階段に足をかけた。

 

「ぐっ」

 

  壁にめり込んだ体を起こし、妖夢は己が腹へと手を伸ばす。骨まで感じた刃の感触。だが、身は離れ離れにはなっておらず、服も変わらずそこにある。腹に当たった感触は、峰のように固いものではなかったのに、どういうことだと妖夢は視界のおぼつかない頭を軽く振り、男の方へ目を向ける。

 

  五尺はあるだろう大太刀の刀身。六尺近い痩身の男がそれを握り肩にかける姿は、そのまま男が一本の刀になったようにも見える。男は目を白黒させる少女の視線に気がつくと、変わらず顔をふにゃりと笑顔に変えた。

 

「ね? 弾くしかできないでしょう?」

「いや、おかしいでしょう。その刀、刃は」

「入ってますよ。兜割りもできるらしいんですけどね。私の使う技はどうも斬る事には全く向いていない」

 

  前に進めればそれで良い。手で触れられるものも触れられぬものも、斬り捨てるのではなく遠くへ弾ければ、気にせず前へと進む事ができる。それによって生まれた副産物的不殺の剣。闘いにはあまり向かないが、男はこの一族の技を気に入っている。綺麗な少女を斬り捨ててしまうよりもずっと良い。

 

  だが、その普通ではない剣術が、妖夢の剣士としての心に火をつける。ただの人間とは思えない。全身全霊技をかけて斬り捨てる。目の前の男には剣士として全力を出しても構わないと、白玉楼の門前に立った妖夢は楼観剣を背後に向ける。寄って斬る。必要なものはそれ。前へと身体を傾けて、男と同じく前へとただ突っ込むと分かる姿勢。

 

  男の元へ飛び込む。そんな姿を男は見て口角を上げた。柔らかな笑みではなく、鋭い笑み。大太刀の兼房乱の刃文を身に写したようなそんな笑み。

 

  それを覆い隠すように背を丸め、男は大太刀を背負うように丸めた背中に大太刀の背を合わせる。右足は曲げて大きく前に出し、伸ばし切った左足は体の重心を支えるため。残りの部位は全て前に進むためだけに躍動させる。

 

  『一刀背負』。

 

  これぞ男の流派が千年以上も変わらずにただ研ぎ続けた前進の構え。これしかないが、だからこそこれだけを極めれば良い。そしてやる事もただ一つ。目の前に立ちはだかる障害を弾き前へと進むためだけだ。

 

  静かな彗星のように緩やかな妖夢の構えに対し、柔らかな空気を纏っていながら、ギチギチと音がする程に全身の筋肉を引き絞る巨大弓(バリスタ)のような男の構え。それが放たれる時を待ち、僅かな静寂が二人の間に流れる。

 

  階段の下と階段の上。突き下ろすならまだしも、斬り払う動きならば、階段の下に位置取る男が有利。それが分かっているからこそ、妖夢は聞こえないように舌を打つ。一撃目でかち合うのは無理がある。刀同士をぶつけ合い、二撃目を突き下ろすのが上策。だが、それが分からぬ男ではない。二撃目がないように一撃で少女を弾くしか男にはない。お互いが飛び込む合図を探し、ジリジリと二人の身体だけが前のめりに動いていく。

 

  それが最大限まで倒れ込んだ瞬間、「待ちなさい」と柔らかな声がその場を包んだ。二人の視界に人の姿は映らない。ただ二人の間にひらひらと、夜桜色の光の蝶が横切っていく。

 

「妖夢、剣を納めなさい。面白そうじゃない。客人として招きましょう」

「幽々子様! ですが!」

 

  勢いよく身を起こして、姿は見えずともどこかにいるらしい幽々子を探して従者の少女は主人へと声をかける。その声に反応するように、木の隙間、屋敷の奥、月明かりの下から多くの光蝶が姿を現し、白玉楼の門上に集まっていく。数多の蝶が交差して、それが通り過ぎた先、青い夜色の着物が夜空に映えた。

 

  桜色の髪を黒い背景の上に揺らし青い袖を口元に当てて白玉楼の主人は柔らかく微笑む。妖艶な空気を存分に振り撒いているが、その中に潜む少女のあどけなさ。そんな主人へ向けて妖夢は顔を上げると視界の端に銀閃が滑り込んだ。

 

  向かう先は違えない。代々の技を存分に振るい、男は目的地に向かって一足飛びに前へと進む。

 

「幽々子様‼︎」

 

  妖夢も足に力を入れるがもう遅い。男は幽々子の手前で足を止めると大きく背まで振りかぶっていた大太刀を勢い良く振るい、幽々子の手前、自分の横へと突き立てた。

 

「探しましたよ姫様。私は貴女に会うためだけにここまで来ました」

「あらぁ」

 

  西洋にいるという騎士のように、男は優しく下から幽々子の手を掬い上げ、その手の甲へと小さく口をつける。満更でもないと言うように幽々子は自分の頬へと手のひらを当て、柔らかな笑みを男へ送った。

 

「月と見間違う美しさ。いえ羞花閉月、月も貴女の美しさには敵いますまい」

「あらお上手ね。でも誰にでも言ってるんでしょう?」

「まさか、貴女にだけですよ」

「あらあら」

 

  柔らかく笑い合う二人は楽しそうで、二人だけで独特な空気を作っている。それを妖夢は眺めて一度目を伏せ、

 

「ふん‼︎」

 

  一足飛びで男の横へと降り立ち、その頭に向かって楼観剣の峰を落とす。硬いもの同士が打つかり合い、黒い夜空に赤色が混じる。

 

「痛たた、私じゃないと死んでますよ。何するんですか」

「何じゃない‼︎ 何が貴女にだけですよですか! 幽々子様に嘘を言うな!」

「嘘じゃないですよ、今の台詞は今初めて使いました。ほら初めてでしょう?」

「それは屁理屈じゃないですか! いけませんよ幽々子様! こんな女好きに惑わされては!」

「あら妖夢、殿方のお誘いをそう無下に断るものでもないわ。取り敢えずお食事でもいかがかしら? 白玉楼でも良ければだけどね」

「貴女と一緒ならどこへでも」

「ふん‼︎」

 

  二度男の上に峰が落ちる。赤い噴水が夜空に上がり、男は今度こそ崩れ落ちた。

 

 

 ***

 

 

「あらそう、かぐや姫を探して千年以上も。大変だったわね」

「いえいえ、これも全て貴女と会うための道だったのでしょう」

「あらあら、困った子ね」

 

  ふふふと笑う幽々子に合わせて、胡座をかき、頭に包帯をぐるぐる巻いた男も同じく笑う。不死身かこいつはと呆れながら、何故か男にまで夕餉を作る羽目になった妖夢は、おひつから白米を茶碗へと盛る。それを横目に見た幽々子は口には出さないがもう少しと手で従者へとジェスチャーを送り、妖夢はため息を零しながら茶碗にもう一段白米を盛った。

 

「はしたないかしら、たくさん食べる女性はお嫌い?」

「いえそんな事はありません。健康な証ですよ素敵です」

「だそうよ、妖夢?」

「別に量は増やしませんからね。幽々子様楽しんでるでしょう? 何言っても肯定されると思って」

 

  笑う幽々子の対面に座る男に向かって妖夢は睨みつけるが、男はどこ吹く風でふにゃりと笑うのみ。出会って一刻も経っていないというのに、妖夢はもうこの不可解な男が苦手になっていた。何よりも、男の話が怪し過ぎる。

 

  千年以上も昔の話。本として広まった竹取物語。その場にいたという平城十傑と呼ばれた猛者達は、姿の消えたかぐや姫を探すため、月軍を倒す術を極めつつ、世界中を代々駆けずり回っていたと男は言った。

 

  かぐや姫なら妖夢も幽々子も良く知っている。永遠亭にいる月の姫。それを探して幻想郷くんだりまで足を運んで来た外来人などこれまでいなかった。かぐや姫こと蓬莱山輝夜からも、同じく平城京から幻想郷までやって来た藤原妹紅からも平城十傑の話など、妖夢も幽々子も聞いた事がない。故に男の姿は妖夢の目には不気味に映ったのだが、男は気にした様子もない。

 

「それでどうするんですか? かぐや姫は幻想郷にいますけど」

「みたいですねえ。困ったなあ」

「困ったなあって……」

 

  極め付けはこれだ。男の話を聞いて、幽々子はすぐに男の求めている答えを言ったのだが、男の歯切れが悪い。「そうですかぁ」と少し困ったように目尻を下げて、味噌汁を口へと運ぶだけ。その歯切れの悪さがより不気味であると妖夢は目を顰めるのだが、幽々子は変わらず笑うだけだ。

 

「あなたは蓬莱山輝夜を探してここまで来たんでしょう?」

「いやそうなんですがねえ」

「何なんですか? 何か不都合な事でも?」

 

  そう言われても、男には別に不都合な事はない。あるとすれば、この千年以上も当主の誰も成し遂げて来なかった事が自分の前に転がって来て現実味がなく困ったといったところだ。蓬莱山輝夜に会えば、男の役目は終わる。旅も終わる。すると一体その先どうすればいいというのか。降って湧いた幸運のようなそうでないような状況が手に余ると男は唸る。

 

「そうなると共に来た三人の仲間にも伝えないといけないですしね。いやあこうなんと言いますか、初めて女性に会うのが怖いなあって」

「何ですかそれは」

「いやあ、かぐや姫様といえば絶世の美女、一目で骨抜きに惚れてしまいそうで」

「もう早く行ってください」

 

  馬鹿らしいと男の相手をするのを諦めて、妖夢も食事に意識を移す。この女好きはどこまで行っても変わらないらしいと白米を口に放り込み、飲み込むのに合わせてため息も飲み込んだ。

 

「それで? 結局貴方はどうするのかしら? 面白い話を聞かせて貰ったお礼にしばらくここに泊まっていってもいいけれど」

 

  そんな幽々子の言葉に妖夢の喉が詰まる。気まぐれな主人の相変わらずなぶっ飛んだ提案が嘘であってくれと味噌汁を喉に流し込んで呼吸を整え主人に向かって目配せするが、それで得られた結果は妖夢が望まぬもの。「どうかしら?」と言うように袖から取り出した扇で口元を隠しながら幽々子は微笑む。

 

「ちょ、幽々子様」

「いやあそれは渡りに船です! 貴女のような美人さんと一つ屋根の下に居られるなど。それに聞いた話では幻想郷には美人さんが多いと。かぐや姫様に会う前に美人さんに慣れておかねばいけないでしょうし、是非お願いします!」

「あなたは! 何が美人さんに慣れておくですか! ただのあなたの趣味でしょ!」

 

  こんな女好きの変人と数日も一緒に居ては気が滅入ってしまうだろうと妖夢は断固反対の意志を見せるが、男には全く聞き入れられず、従者の事など手に取るように分かると笑う幽々子に口を挟まれる。

 

「でも妖夢、彼はかなりの剣の腕を持っているようだし、ここに居てくれればあなたの修行相手にもなってくれるんじゃないかしら? あなたと対等の剣士を探すのは大変だもの。彼とやった時楽しかったんじゃない? 弾幕ごっこより本当は剣で斬り合いたいのでしょう?」

 

  むぐ、っと妖夢は口を噤んだ。確かに幽々子の言う通り、男との剣術勝負は剣客少女の心の内を躍らせた。弾幕ごっこで弾幕を打ち合うのではなく、一振りの剣で命の取り合いをするあの感触。弾幕ごっこと比べれば綺麗さなど比にもならない無骨で血生臭い勝負。肌をひりつかせる剣気の感覚、視界を切り裂く煌めく銀閃。

 

  だが、妖夢としては不完全燃焼。男のやる気がなかったから。最後に最後で嵌りかけたが、それは幽々子の声で中断された。もし幽々子の声がなければどこまで行っていたか。その瞬間を得られるものなら得てみたい。チラリと妖夢は男を見て、そして肩を落とす。あの一瞬とは似ても似つかない柔らかいとも言えないふやけた笑顔。男のやる気が感じられない。

 

「はぁ、駄目ですよ幽々子様、この男からやる気のやの字も感じません」

「む、そんな事はないですよ、だいたいやる気がなければこんなとこまで来ません」

「それだってどうせ美人なかぐや姫が見たかったからとかそんな感じなんじゃないですか?」

「おお、よく分かりましたね。その通り、何たって私は誰より『愛』の力を信じていますから」

「何ですかそれは」

 

  この男とまともに話し合う事は不可能だと妖夢は男から視線を切る。何にせよ主人が認めたのならば、従者がそれを覆す事などできない。鬼気迫った問題ならばまだしも、そうではない。気に入らない男でも、主人がここに居ていいと言うのなら従うまで。主人の変わった者好きには困ったものだと妖夢は一度目を伏せ、手に持った茶碗を見つめて食欲によって誤魔化す。

 

「妖夢も了承してくれたようで良かったわ。たまには環境を変えないと飽きてしまうもの。ここにいる条件として妖夢の手伝いと、たまに私の相手もして貰う事になるけれど」

「全く問題ありません。美人さん二人の相手なんていくらでもしますとも。私は家事はあまり得意ではないのですがね。蹴鞠や琴なら弾けますよ」

「あらそうなの? 意外ね。私と趣味が合いそうだわ」

 

  そう言って幽々子はまた微笑む。男は自分の家に感謝した。帝直属の配達人。仕事がない時はたまに帝の相手をする。そのために唄から蹴鞠といった公家の嗜みも共に男は積んで来た。現代の外の世界では物珍しさから気を引けても、一時的なものでしかなかったが、幽々子程の美人と話が合うなど、これまでの苦労が報われた気分に、男は何もない虚空に手を合わせた。そんな男を馬鹿を見る目で睨む妖夢は間違っていない。

 

「あなた本当にここにいる気ですか?」

「ええ、かぐや姫様もここに居るなら逃げないでしょう。とはいえいつまでもここにいるわけにもいきませんがね。かぐや姫様が居着いた土地をしばらく見させて頂きましょう。千年以上も探したのですから数日くらいはいいでしょう。それに勿体振りたいですから。あの時はそういう時代でしょうからね」

 

  また意味の分からない事を男が言うので、もう何も言わずに妖夢は男の話を聞き流す。そんな二人の様子を幽々子は楽しそうに眺め、扇を閉じて手に打った。

 

「さあ、話は纏まった事ですし、そろそろ聞かないといけないわね。順番が前後してしまったけれど」

「聞くって何をですか幽々子様」

 

  聞くべき事は聞いたのではないかと小首を傾げる妖夢に、幽々子はカラカラ笑い男に向かって扇を向ける。ここまでおかしな状況で下手に話を伸ばしたせいで、全く気にしていない妖夢に向かって、「彼の名前よ」と呆れたように言葉を投げた。

 

「そう言えばそうでしたね。どうだっていいので忘れていました」

「ど、どうだっていい……」

 

  美人な少女にどうだっていいと言われたのがショックだったのか、初めて男は気落ちした様子を見せる。しかし、すぐに一度咳払いをすると、スッと背筋を正し、崩していた足を正座にまとめ、床に軽く拳をつける。ふやけた空気に一本柱が立ったように、男の雰囲気に鋭さが混じる。

 

平城(へいぜい)十傑、五辻(いつつじ)家第七十八代目当主、五辻桐(いつつじ きり)。以後よろしくお願いいたします姫様方」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 朝

  朝の陽射しに煌めく二つの刃。人の背程もありそうな大太刀と長刀。激しい剣戟の音に驚き半透明の球体達が水面に立つ波紋に追いやられる木の葉のように散っていく。一流の剣士達の応酬を眺めるのは、扇を口元に当てて微笑む冥界の主人。しかし手に汗握るような事はなく、踊り子の舞を見るかのように高速の剣技を眺める。

 

「あっはっは」

「真面目にやってください!」

 

  鉄が風を切り裂く音に混じるのは男の笑い声。全く緊張感の欠片もない声に、ふにゃりと笑う男の前に立つ少女は、口の端を大きく歪めて刃のように目を鋭く細めた。音だけ聞けば激しい剣技の応酬に聞こえなくもないが、その音の発生源を一度覗けば、幽々子のように観客として落ち着いてしまう。

 

  一方的に剣を振るうのは白玉楼の庭師。一手二手と加速し続ける剣技はまるで数人が同時に刃を振るっているかのように時間を縮めて男に襲い掛かるのだが、ただ突っ立っつ案山子のように見える男の薄皮一枚に鋭い剣先が触れた瞬間に、ひとりでに離れていくように弾かれる。男の周りに散る刃同士が擦りあって花咲く火花の美しさに、ホッと幽々子は息を吐いた。

 

  主人の吐息に押されるように、更に妖夢の手の回転が上がる。長刀は一筋の帯のように隙間なく技が繋がり、桐の剣技の間を縫って首筋へと伸び、桐の首を貫いた。が、赤い飛沫が散らなければ火花も咲かない。楼観剣の僅かな揺れに引っ張られた空気が桐の残像を消したと同時に、妖夢の首にふわりと柔らかな何かが巻き付いた。

 

「捕まえましたよ妖夢さん」

「真面目にやれと言ってるでしょ!」

 

  妖夢の背から首に腕を回して抱き着いてくる桐に向かい、腰に残った白楼剣を引き抜き背後に振るう。自らの足を軸にして小さな旋風のように振るわれた妖夢の剣尖は、しかし、桐に当たる前に肘を抑えられて止まってしまう。そのまま更に桐は妖夢に体を密着させると、間に挟んでいた大太刀で妖夢をなぞるように弾き飛ばす。

 

  本来ならば真っ二つになってしまうだろう斬撃を受けても衣服には切れ目すら入らない。宙を大きく舞って体勢を立て直す妖夢が地に足をつけると同時に、「いっちまーい」と桐はふやけた笑みを浮かべながら人差し指を立てる。それを桐が大太刀を握り込み直して隠した瞬間、妖夢の緑色の上着がパサリと落ちる。服は切れてはいないのだが、大太刀でいったいどうやったのかボタンが綺麗に外されていた。

 

「女性限定脱衣式稽古、緊張感はあるでしょう? さあ続けましょうか」

「続けません‼︎ 幽々子様、コレは変態です! もうさっさと追い出しましょう!」

「あらあら、でも見てる分には面白かったわよ? はい、続けて」

「続けませんから⁉︎」

 

  幽々子と桐の口車に乗せられては自分がどうなってしまうのか分からない。素っ裸になった自分の姿を思い浮かべ、絶対イヤだと妖夢は大きく首を左右に振るう。それに幽々子は残念そうに目の端を下げ、代わりに妖夢の目の端が吊り上がる。主従のシーソーを楽しげに桐は眺め、区切りはいいかと大太刀を鞘へ納めた。

 

「はぁ、妖夢さんのきめ細やかな肌が見れないのは残念ですがコレまでですね」

「ほらー! 幽々子様もう追い出しましょうコレ! さもなくば切り捨てましょう!」

「そうねー、私も残念だわ。妖夢の素肌が見れなくて」

「ちょっと」

 

  経ったの一日で幽々子と桐は熟年夫婦バリの以心伝心を見せ、妖夢の胃に穴を開けようとしているのか果敢に挑戦してくる。この惨状を今は白玉楼に姿のない妖夢の祖父が見ればなんと言うか、なんと言っても妖夢は聞きたくない。手に持った扇を閉じパシリと幽々子は手に落とし、桐を睨む妖夢の顔を楽しそうに見つめた。

 

「それにしても妖夢を捌けるなんて桐の剣技も見事なものね」

「お褒めいただき光栄です姫様。しかしそれは私に元々二刀の使い手の友人がいるので二刀の相手は私に一日の長があるからですよ」

「あらそうなの?」

 

  可愛らしく首を傾げる幽々子の問いに桐が思い浮かべるのはギザギザした歯を擦り合わせる友人の姿。歳が同じということもあり、桐は良くその友人と外で会っていた。意気揚々と桐が会いに行けば、塩を撒かれて刃が振るわれる。そんな困った友人を思い出し、桐は少し鋭い笑みを浮かべた。

 

「はい、斬れない私と違って良く斬れる男です。多分私より強いと思いますよ」

「桐より強いなんて、その子も幻想郷に来てるのかしら? 妖夢の良い稽古相手になるんじゃない?」

 

  流された幽々子の目を受けて、妖夢は手に持った刀を握り直す。女好きのふざけた男であるが、桐の強さは妖夢も認めはする。その桐が自分より強いという者に会ってみたいと思いはしたが、そんな妖夢の気も知らずに桐は困ったように長い前髪を指先で弄る。

 

「んー、来てはいますけどそれは無理じゃないですかねー」

「なぜかしら?」

「私の友人の多くは基本やる気がないですからね。自慢じゃないですが私達の世代は歴代で最もやる気のない世代なんて言われちゃったりしてるんですよね。なぜでしょうね?」

「いやそれ絶対あなたも一枚噛んでますから」

「いやいや私の一族は代々こんな感じですから」

「もう滅んだ方がいいんじゃないですかあなたの一族」

 

  毒のある妖夢の言葉を受けても、変わらず桐は笑顔を浮かべるだけで全く芯に響いていない。むしろ綺麗な花にある棘に突っつかれるのを楽しむかのような桐の反応に、妖夢は顔を苦くしそっぽを向く。それに桐と幽々子は揃って微笑み、二つの三日月に挟まれて妖夢の三日月は逆さを向く。

 

「ふふふ、姫様、朝の稽古は終わりのようですし、次はいかが致しましょうか」

「そうねー、そうだわ妖夢、食材がもうなかったはずだし人里に買い物に行ってはどうかしら? 荷物なら持ってくれる殿方もいることだしね」

「え……? コレと二人で行くんですか?」

 

  言葉は返されず、返されたのは満開の桜のようなおおらかな笑み。その反論も全て包み込んでしまいそうな柔らかさを向けられれば、妖夢は何も言うことができなくなる。唸る妖夢の隣に音もなく桐は立ち、ふやけた顔と同じく妖夢の肩に羽のように軽く手を置く。その無駄に鬱陶しくないように調整された力使いが逆に癪に触ると、妖夢は埃を払うように桐の手を払う。

 

「さあ参りましょう妖夢さん! 楽しみだなあ人里」

「……いいですか桐さん、やたらめったら女性に触れちゃダメですよ」

「分かっておりますとも」

「本当の本当にダメですよ!」

「分かっておりますとも」

 

  強く念を押せば強く頷く桐に妖夢はそれならいいかとため息を零したのだが、冥界の空気よりも質の薄い妖夢のため息は全く意味はなかった。白玉楼の階段を降りるのには半日は掛かると言っていたくせに、空を飛ぶ妖夢以上の速度で階段を降りて行った桐。妖夢が追いつく頃には階段の下で女性の手を取り笑顔を見せた桐が待っていてくれた。

 

  そのふやけた横顔に妖夢が飛び蹴りをかませば、ゴロゴロと蹴り上げられた小石のように吹っ飛んでいく。呆気にとられた女性を残して砂煙を巻き上げながら地面を転がる男を妖夢は追い掛ける。秋風に飛ばされて砂煙が姿を消せば、その先ではふらふらとその身を揺らしながら桐が普通に立っていた。インパクトの瞬間盛大に自分から蹴られる方向に派手に吹っ飛ぶという無駄に洗練された技を披露したお陰でほとんどダメージはない。飛んで来る妖夢をその身に受け止めようと桐は大きく手を広げるが、それを真っ二つに割るように脳天に鞘入りの楼観剣が落とされる。

 

「痛いです」

「白玉楼を出てすぐに約束を破る人がありますか!」

「やたらめったら触っていません。一人一人親身に接して」

 

  その先は聞かなくていいと二度目の楼観剣による拳骨に桐は頭を回す。女性はこんな漫才には巻き込まれたくないと足早にその場を去り、桐は小さくなっていく女性の背中に、未練がましく小さく手を伸ばした。

 

「あぁ、残念です。まだ名前も聞いていなかったのに……」

「はいはい、ほら行きますよ! 人里ではほんっとうにやめてくださいよ! 一々あなたの相手をしていたら何日人里にいなければならないのか分かりませんし」

「長旅になりそうですね!」

 

  三度目の正直を頭に受けて、桐はパタリと地面の上に倒れた。

 

 

  ***

 

 

  朝の人里はそれなりに活気に満ちている。と、言うのも、人の行動範囲が制限されている場だからこそ、人里に人が集中しているが故だ。朝でさえ賑やかであるのに、これが夕方、夜と陽が傾くにつれてより活気づいていくのだから、幻想郷という決して人にとって楽園とは言いづらい場所でも、人はなかなかに逞しい。

 

  道を歩く、主に女性に目を引かれながら歩く桐の姿に妖夢はため息を零しながら目的の場所へと向かって歩く。そんな二人に向けられる人々の視線には、どこか恐々としたものがあった。

 

  妖夢はもう慣れたものではあるが、半霊という見るからに異様な物体が妖夢の周りを回っているということもあるが、何より刀を隠すこともなく背負っているからだ。斬られれば死ぬという凶器を見せつけるように歩く少女という異様さ。半霊のおかげで人外というのも見ればすぐに分かる。それに加えて少女よりも幾分も背の高い男が、少女の持つ凶器よりも長い得物を背に背負っていることもあって、二人を見つめる視線には『恐怖』の色が小さくも含まれていた。

 

  そんな視線を受けても、少しズレている二人は気にした様子もなく、気にするのは別のもの。風に流れてきた一枚の紙が妖夢の足に引っかかり、それを手にとって覗いた妖夢の顔がくしゃりと歪む。

 

「どうかしましたか?」

「どうかしたというか、コレって」

 

  そう言ってぴらりと妖夢は紙を反転させて、桐に見せる。それを見た桐の顔は、妖夢が見たこともないほどに真剣なものとなる。

 

  一枚の紙に描かれた人相書き。袴垂 椹 と書かれた名前の横に描かれている綿毛のような頭髪を一部三つ編みに編んだ男の姿。服は桐の着ているものと似たようなもので、「共に来た三人の仲間」と桐の言ったうちの一人であろうと妖夢は容易に想像できた。

 

「あなた達はいったいなにしに幻想郷に来たんですか……。窃盗って……」

「これは困りましたね」

 

  真剣味が崩れない桐を妖夢は訝しむと、今一度人相書きの紙を見る。

 

「そんなに危ない人なんですか?」

「ええ、彼は盗みのプロですからね。気をつけてください」

「白玉楼に来たら即座に叩っ斬りましょう」

「いえ、そういうことではなく」

 

  意味が分からないと眉を顰める妖夢を見て、心配そうに近寄ると、紙を握り潰すように優しく妖夢の手を握る。

 

「アレはなんでも盗みますからね。私のライバルです。いったい何人の女性が心を盗まれたことか!」

「は?」

「大丈夫です! 姫様と妖夢さんの心だけは決して譲りません! 任せてください!」

「いや私も幽々子様も別にあなたに心をあげたりしてませんから‼︎ 手を離しなさい!」

「そんなご無体な」

「うるさい!」

 

  人を超えた膂力に振り回され、妖夢の手から桐の手が離れた。悲しそうな顔をして桐は人々によって踏みしめられた地面をゴロゴロと転がっていき、死体のように動きを止めた。六尺を超える長身の男が道の上に倒れているのは激しく邪魔である。

 

  妖夢はため息を吐きながら、一応のツレであるため男の方へと足を向けたが、妖夢よりも先に男の横に立つ影があった。

 

  朝陽に煌めくのは青のメッシュが入った長い銀髪。頭の上には青い帽子を乗せ、胸元の開けた同じく青い少し変わったワンピースのような服を纏っている。「慧音さん」と妖夢が言い終わらぬうちに、なにで察したのか、桐はリビングデッドが如く勢いよく復活すると、妖夢が口を挟めぬほどに洗練された動作で上白沢 慧音 の手を取った。

 

「これは失礼を。あなたのような麗人に気づかないとは一生の不覚です。お初にお目にかかります、私は五辻 桐 と申します姫様。慧音とはまさにあなたにぴったりの美しい名だ。よろしければあなたの口からお聞きしたいのですがよろしいかでしょうか?」

「は、はあ? あー、とりあえず大丈夫か?」

「悩ましげな仕草も素敵です」

「死んでください」

 

  飛んで来た楼観剣を避けることもなく、桐は楼観剣ごと壁にめり込んだ。そんな様子にぽかんと口を開けながら、妖夢の方へ困った顔を向ける慧音に、妖夢は申し訳なさそうな顔を向けると壁に埋もれた楼観剣を引き抜き頭を下げる。

 

「申し訳ありません慧音さん。コレは一応白玉楼の客人なんですが、はぁ、本当に、はぁ、幽々子様もなんでこんなのを気に入ったのか、早く出てってくれないかなぁ、って慧音さんに言っても仕方ないんですけど」

「よく分からないが苦労しているみたいだな。しかしその男、着ている服が今話題の盗っ人と同じだが」

「ああ一応仲間だそうですよ、あ、引き渡しましょうか?」

 

  嬉しそうに笑顔になる妖夢だが、「いや」と苦笑しながら慧音は断った。

 

「昨日稗田の家にもその盗っ人が入ったそうなんだが、落書きされた壁以外阿求は満足しているそうだから別にいいだろう。あまり騒ぎを起こされれば困るが。しかし、この男たちはどこからやって来たんだ? 服装を見るに外からだと思うが」

 

  人里の守り人とも言える立ち位置である慧音は当然数多くの外来人を見ている。その中には桐や椹と同じような格好の者もおり、すぐに外来人であるということに気が付いた。とは言え大太刀を背負った外来人というのは滅多に見たことがなく、また、これだけ人里を騒がせる外来人も見たことがない。慧音の疑問に嘘をつく必要もなく、妖夢は素直に男の素性を話す。

 

「なんでも外から輝夜さんを探しにやって来たそうですよ。一千年以上前から輝夜さんを探してたそうです」

「一千年以上前からだと? それは」

「あ、そう言えば妹紅さんも元々平城京に居たんですよね? ひょっとして知ってるのかな?」

 

  そんな疑問を思い浮かべ崩れた壁に目をやった妖夢だったが、そこに桐の姿はなく、少し離れたところで女性の手を握っていた。額に青筋を浮かべた妖夢に慧音は苦笑し、何度目かも分からない楼観剣の一撃を受けた桐は雑に妖夢に引きずられて慧音の前に戻って来た。

 

「あぁ、あぁ、妹紅さんですか。不比等様の娘さんですね」

「やっぱり知ってるんですか?」

「いや私はもちろん直接お会いしたことはないですよ。ただ帝の命でかぐや姫様からの贈り物を富士の山に捧げに向かった調岩笠さんの家がうちと同じ職務の家だったんで仲良かったそうなんですが、まあそれで色々知っているだけです。その時の私の一族はかぐや姫様護衛の失敗で信用が少し落ちていましたからね。同行はできなかったそうです」

「それは……」

 

  少し気の張った慧音の顔を見て、よく分からないがこれはいけないと、ふにゃりと桐は笑顔を見せる。美人の困った顔など見ても一文の得にもならない。スルリと慧音の手をとり、優しく握った。

 

「むかしむかしのお話です。伝説に罪や罰の判子を押す者はいませんよ。ね?」

「あ、ふふ、おかしな奴だな」

「あー、それに藤原家関連なら北条の当主である一緒に来た仲間の一人の方が詳しいでしょう。なんと言っても彼の一族は藤原家の護衛だったのですから」

「え、そんな人も来てるんですか?」

「ええ、来ていますよ」

 

  まだ居るかは分かりませんが、とは言わず桐は笑った。

 

「あれ、でも桐さん。その北条という一族も輝夜さんの護衛に当てられたんですよね?」

「不比等様はかぐや姫様に求婚しましたから、まあそういうわけです」

「あー、なるほど」

 

  現代の昼ドラよりもドロドロしていそうな昔話に妖夢はげんなりした顔になり、慧音も難しい顔になる。そんな二人を見て桐は困った顔をして鬱陶しい前髪を弄ると胸を張った。

 

「なーに、昔の話です! それに『愛』とは不滅のパウワ! 悪いことになろうはずがありません!」

「いや、意味が分かりませんから!」

 

  無駄に『愛』を振りまく男にもう勝手にしてくれと呆れながら妖夢は頭を掻く。そんな二人に慧音は笑顔を見せて手を叩いた。

 

「いや面白い話を聞かせてもらった。良かったら今度うちの寺子屋にでも寄ってくれ」

「では今からでも!」

「買い出しの途中でしょうが‼︎ まずは八百屋です! 行きますよ!」

「あー、慧音さーん!」

 

  手を振り見送ってくれる慧音に大きく手を振り返して桐は妖夢に引き摺られていく。しばらく引き摺られていたが、自分で歩けと妖夢に頭を叩かれて、桐も自分の足で歩き始めた。

 

「しかし驚きました。よく知っているというか、桐さんの一族は本当に一千年も前から続いてるみたいですね」

「みたい、ではなく実際そうなんです。私を含めて他の者たちもね」

「でもよく一千年以上も続けられますね、一千年と言えば紅魔館の当主の歳より長い年月ですし、私の歳よりも」

「まあ、他の一族はどうか知りませんけれど、私の一族だけは未だに勅命の最中ですから」

「はい?」

 

  妖夢の疑問に桐が答えることはなかった。ただ普段通りの溶けたような笑みを妖夢に向けて返すのみ。それがどうにも不気味であるのだが、同時に哀愁に似た空気を滲ませるおかげで、妖夢も目を背けることが難しい。どういうことであるのか妖夢も聞こうかとも思ったが、その間に八百屋に着いてしまいそうもいかなくなった。

 

「これはまた、値段設定がよく分からないですね。これいくらなんですか?」

「桐さんは荷物持ちなんですから気にしなくていいです。それよりもあまりふらふらして遠くに行かないでくださいよ!」

「分かっておりますとも。……おやあれは」

 

  全く信用ならない男が不審な言葉を放ったので、桐の方へ顔を向けた妖夢だったが、一足もふた足も遅かった。遠くで女性の手を取る桐の姿。なによりもその相手に妖夢は非常に見覚えがあった。紅と白で武装した幻想郷最強の人間の姿を視界に納めて口の端が引き攣る。

 

  一足飛びに妖夢は桐に近寄ると、ため息を零しながらその頭に拳を落とす。だが、鳴った音は一つではなく二つ。妖夢の拳以上に大きな音をあげる拳の音を追って妖夢の見上げた先には、盗っ人の人相書き以上に人相の悪い男が立っている。気怠げな目に、鼻を横渡った一線引いたような痣と、ギザギザした歯。連続殺人鬼と言われても納得しそうな風貌の男。それも桐と似たような服を着ており、それが妖夢の顔を良くないものへと変えたことは言うまでもない。

 

「痛たたたた、酷いじゃないか楠。私は男に叩かれる趣味はないのですよ」

「うるせぇな飛脚屋。こんなところまで来てもやること変わらないっていうのはどうなんだ? あぁ、それよかちと金を貸してくれねえか? 外に帰るのに有料らしくてな。銭巫女に張り付かれてて帰れもしねえ」

「誰が銭巫女よ、誰が。そんなことより妖夢、あんたも八百屋に買い出し? 丁度いいから私の分もよろしく頼むわ」

 

  何が丁度いいのか妖夢には分からない。明らかに問題児が二人増えた。少々口調の砕けた桐が、服の汚れを払いつつ相対する男。見たところ仲が悪そうには見えない。その様子と服装で男が何者であるのか妖夢は察したが、察したくはなかったと顔を歪める。

 

「金銭の関係なら袴垂か足利にでもせびったらいいと思いますが」

「いや俺アレと仲良くねえし。当代の椹だったか? さっき初めて名前を知ったぐれえだぞ。それに足利の大将はよく分からねえし」

「幻想郷に来るまで時間があったのに何をやってたんですか? 名前ぐらいはすぐに知ることができるでしょう」

「かぐや姫を殴る算段と帰る算段しかしてなかったよ。まさか本当に殴ることになるとは思わなかったがな」

「あぁ、なら知ったわけですね楠」

「アンタもな、桐」

 

  そんな男二人の会話を聞いて、より妖夢の顔色は悪いものとなる。霊夢へ顔を移してみれば、興味がないのか八百屋で値切り交渉をしていた。それも妖夢を指で指しながら。何を喋っているのかは聞きたくないと妖夢は耳を抑えようとしたが、目の前にギザギザした歯がにゅっと伸びてきたことで阻まれる。

 

「おい、アンタのところで泊めてくれるってのは本当か?」

「いやなんでそんな話になってるんですか⁉︎ ちょっと桐さん! あなただって居候でしょうが‼︎ だいたいあなたは誰ですか!」

「俺か? 俺は楠、北条 楠だ嬢ちゃん」

 

  ギザギザした歯が弧を描くのと、ふにゃりと崩れた笑顔を同時に見て、妖夢はひどい頭痛に襲われた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 昼

「藤原? 妹紅? 知るかよ誰だよ」

「えぇ……」

 

  八百屋でばったり出会った霊夢と楠を連れて、妖夢と桐は甘味処に来ていた。盗っ人を退治しに博麗の巫女が来たと盛大に勘違いしている人里で、やる気もないくせに退治料と言わんばかりに甘味を要求する霊夢に楠はギザギザした歯を擦り合わせたが、その想いが分かるのは妖夢くらいのもので、桐はふにゃりと笑いながら茶を(すす)り、妖夢と霊夢が団子を頬張るのを眺めていた。

 

  早速出会った北条に、せっかくということで妖夢は好奇心の赴くまま藤原の護衛であった北条の楠に妹紅のことを聞いたのだが、吐き捨てるように言葉を返され、何も言うことはできない。ただ呆れるばかりである。そんな楠の様子に桐もまた呆れたように眉を歪め、長い前髪を指で弄った。

 

「よく言いますね楠、どうせ先代から聞いてるんでしょう?」

「だとしてだ。なんでこんな箱庭みたいな狭えとこに一人も二人も面倒なのが居るんだよ。悪いが俺はかぐや姫だけで手いっぱいなんだ。ただでさえ守銭奴もくっついてるし知ったこっちゃねえんだよ」

「悪かったわね」

「ぐ、う、美人さんの情報を独り占めしてるくせにその言い草はどうなんでしょうか……。うらやまけしかりません」

「な、泣くなよ気持ち(わり)いよ」

 

  真顔でツーっと目から雫を垂らす桐に霊夢と楠はドン引きする。妖夢はもう驚くこともせず、ただ淡々と甘味を消費するだけの機械と化し、無駄な労力を消費することを抑えた。団子を口に運びながら桐を無視して妖夢が目を向けるのは霊夢と楠。お世辞でなくても美人と言える霊夢と、初対面の印象だけで牢に連行されそうな男の組み合わせは全く似合っていない。控えめに言って誘拐犯と被害者にしか見えない。だと言うのに違和感なさそうに隣り合っている二人の姿がどうにもおかしかった。と、言っても霊夢と楠の仲が良いわけではなく、お互い言いたいことを言う粗雑な性格であるが故。要は相性が無駄に噛み合っただけなのだが、妖夢がそれを知る由もない。

 

「だいたいかぐや姫様を殴るっていうのがもう常軌を(いっ)してます。ご先祖様が見たらきっと私のように泣きますよ」

「アンタに言われたくねえわ! こんなとこに来てまでナンパばかりの奴が言うことかよ! 幻想郷に来る時もアンタのその気性のせいで遅くなったみたいなもんだろうが! ご先祖様が泣いてるぜ!」

「むむ、それは心外です! だいたい袴垂のせいです!」

「一緒だ! 一緒!」

「あれ? 桐さんの一族ってみんな桐さんみたいな感じじゃないんですか?」

「んなわけあるか! どんな一族だそりゃ!」

「ですよねえええ!」

 

  いやに納得したと、これまでの恨みも込めて妖夢は桐の頭を叩く。赤べこのように桐は頭を揺らし、妖夢に叩かれたところに照れたように手を置いた。素の姿にこめかみをひくつかせながら、妖夢は桐を睨みつける。

 

「なんですかその顔は」

「いやあ、『愛』がこもっていたなって」

「霊夢さんコレ引き取ってください。もしくは退治してください」

「絶対嫌、ただでさえこっちも借金持ちを抱えてるんだからね」

 

  負債扱いされる楠は、相変わらず不機嫌そうにギザギザした歯を擦り合わせて霊夢を睨みつけるが、全く相手にされない。そんな霊夢から目を外し、女にうつつを抜かすアホウに目を向けた。男の視線は必要ないと、照れた顔を能面のような笑みに桐は変える。

 

「なあおい、もうこのまま二人でちゃっちゃと永遠亭とやらに行ってやることやって帰ろうぜ」

「その前にあんたには手水舎の弁償が待ってるでしょうが」

「分かった! じゃあもう殴った後に直すからそれでいいだろ!」

「ダメよ、逃げられたらたまったもんじゃないし却下」

「私としても紅魔館に地霊殿に命蓮寺と行ってみたい場所がたくさん」

「あなたは仕事をしてください!」

 

  妖夢と霊夢、楠と桐を交換すれば全てうまく行きそうであるが、そうはならないのが人生の妙である。楠と妖夢は揃ってため息をこぼし、桐と霊夢は揃って茶を啜った。

 

「チッ、いい気なもんだぜなあ桐、俺も最初博麗神社じゃなくてそっちに行けば良かったぜ」

「日頃の行いでしょうね」

「それは桐さんの日頃の行いが良いと言いたいんですか? それとも私の日頃の行いが悪いと言いたいんでしょうか? はぁ、それにしても霊夢さんが人里に来るなんて珍しいですね。どうしたんですか? 人里の人たちは盗っ人退治なんて言ってますけど」

「デートよ」

 

  半ば風前の灯と化している『建前』を惜しげもなく霊夢は口にした。白黒魔法使いをあしらうために一度突き付けて引くに引けなくなったからか、その言葉によって引き起こされる面倒ごとは、間違いなく楠の方にこそ降りかかるのであるが、気にした様子はない。むしろその様子を楽しむように甘味の肴に楠の顔を見ている。死んだ目で歯を擦り合わせる楠の目が霊夢へと向き、驚いた妖夢の顔が霊夢と楠の間を行き来し、桐の目から涙が溢れた。

 

「おい、泣くな、マジで、泣きたいのはこっちだ」

「いやあんたは喜びなさいよ。したかったんでしょ?」

「違うんだよなああああ‼︎」

「なんと言うか、え、霊夢さんのタイプってそういう方なんですか?」

「まあ面白くはあるわね。それだけだけど」

「アンタは俺を芸人かなにかと勘違いしてないか?」

 

  そういう意味での面白さでは勿論ないのだが、言うのは霊夢も癪なので喉に引っかかった言葉はお茶で奥へと流し込んだ。呆れる楠と妖夢に霊夢は無表情を返し、その目の前を一陣の風が流れる。

 

瞬きよりも早く霊夢の視界を割るのは鋭い白線。それが桐の大太刀であると理解するのに、妖夢も数秒を要する。それが理解できたのも、突き出されたそれの向かった先、楠が白い鞘を片手で掴み抑えたからだ。妖夢がなにかを言うよりも早く、桐は身を捻りながら大太刀の柄を掴み抜刀、刃を横薙ぎに振るった。その刃を腕で防ぎ霊夢を手で押す楠だったが、刃の勢いに負けて店の外まで盛大に吹っ飛ぶ。巻き込み崩れた入り口の戸を蹴り上げながら、全く斬れてはいない制服の上着の埃を払い楠の鋭くなった目が桐を射抜いた。

 

「この野郎! なにしやがんだよおう!」

「で、デートって、デートって、ずるいです! 私もしたことないのに!」

「言うに事欠いて言うことがそれか! 馬鹿じゃねえの!」

「ふっふっふ、私を怒らせましたね楠! 天誅である!」

「アンタがな!」

 

  背負っていた竹刀袋からふた振りの刀を両手に持つと、スルリと鞘が地面に落ちた。大太刀を担ぐように肩に掛ける桐に向かい、透けるように楠が迫る。地面に散らばった木片を縫うように音もなく迫る楠から目を離さずに両手を強く握り込み、振るわれた楠の長刀を弾いた。妖夢ももう見慣れた光景。桐の上背にも負けぬ長さの大太刀に弾かれる姿。その勢いのまま自分の体を巻き込むように楠は回転すると、もう片方に握る短刀を桐に向けて遠慮なく振るった。勢いに負けて下がる、なんていうことはなく、前に足を進めた桐は、刃を通り過ぎて楠の腕を身に受ける。だが、その楠の腕は溶けるようにすり抜けた。

 

  ゆらりゆらゆらと、陽炎のような楠の技は、そのまま桐の学ランの裾を僅かに斬り払いながら振り抜かれた。そのまま回転を続けて振られるもう一本の刃が振られるよりも早く桐は滑るように肉薄すると、スルリと桐と楠の間に滑り込ませた大太刀を振るう。弾かれた楠と桐の間に距離が生まれた。

 

  ダラリと両腕を垂れ下げた楠と、背に一刀の大太刀を背負う桐。二人の体が前へと傾いていく中、七色の閃光が二人の視界に割り込むと、いくつもの大きな光弾が楠に向かって降り注ぐ。大きな炸裂音をいくつもあげて残ったのは、人里の道の上で煙を上げて横たわる楠。ふた振りの刀を手放さずに転がる姿は落武者的だ。

 

「全くなにするのよ、お団子がもったいないじゃない!」

「俺、一応助けたのに……」

「服が汚れたわ、弁償よ弁償! あんた分かってるわよね?」

「んな馬鹿な! なんでそう次々と借金を積み上げてくんだアンタは。慈悲の心ってやつはないのか?」

「慈悲でお腹が膨れるならそうしてるわ。返済が終わるまで帰さないから」

「コレって犯罪じゃねえの?」

 

  残念ながら霊夢の罪状を読み上げる者はここにはいない。ギリギリ絞られた楠の目を、霊夢は服に付いた塵と一緒に払い落とすと、机の上に残っていた最後の団子の串を手に取り口に運んだ。

 

「それにしたって簡易な結界は切り裂くし、腕は透けるし、あんたいったいなんなのよその妙な術は」

「術じゃなくて技だ」

「桐さんのも変ですよね。斬っても斬れない剣なんて」

「一応タネはあるんですよちゃんと。私のは摩擦のエネルギーを別に使っているだけです」

 

  刀とは少なからず引くことによって初めてものを斬ることができる。鋭ければ鋭いほどにより小さな力で斬ることができるが、それは摩擦力があるからだ。摩擦力が働かなければ、どれだけ強く素早く刀を振りぶち当てても斬れることはない。身体と空気によって生まれる摩擦。刀を振って生まれる摩擦。それによって生まれるエネルギー全てをただ前に前進することだけに消費するため、五辻は扱うには邪魔とさえ言える長い得物を想像を絶する速度で振り回せ、また、地を滑るような動きを可能とする。そんな詳しい話を桐はする気はなく、漠然と語られた五辻の技の説明を妖夢も霊夢も理解できない。のだが、コレは良い機会と霊夢は話半ばに理解した雰囲気を出しながら、「あんたのは?」と楠に尋ねる。

 

「……トンネル効果」

「なによそれ」

「ボールを壁に投げるだろ? 透けるだろ? それだ」

「いや意味分かんないわよ」

 

  首を捻る霊夢に詳しい説明をすることなく、楠は刀を収めながら不機嫌な顔でそっぽを向く。

 

  数億、数兆回とボールを壁に向かって投げれば、一度くらいはボールが壁に跳ねることなく完全に通過することがある。だがこれは実際見た者はいないだろう果てしない回数を繰り返した場合だ。無限回やって一度も通過しない可能性すらある極小の確率。北条の技は、その無限分の一ともいえる偶然を、必然的に起こすことができるまでに練り上げられた技である。速度、タイミング、力の入れ具合で、自分を不確かなものにまで昇華すれば、不確かなものだって斬れるだろうという誇大妄想を、千年近くかけて徐々に形にしたものがそれ。それを知るために毎日刀を振り、目指すものに近づいたそれを次代へ、次代へと引き継がせて行った。

 

  北条も五辻も、他の平城十傑も例に漏れず、各々鍛え継承し続けたきた馬鹿げた技術を基本とし、まだ見ぬ月軍と戦うために日夜修練している。一族の話をあまりしたくはないと、楠は歯を擦り合わせ、桐はふにゃりと笑いその場を誤魔化す。

 

「はいはい、言う気はないのは分かったわ。はぁ、あんたらが暴れたせいで他の客の目が鬱陶しいわね。妖夢、あんたんところで弁償は頼むわよ」

「なんでそうなるんですか⁉︎」

「だってあんたんとこの客が最初に暴れたんじゃない。まあコイツが幽々子のとこで世話になるって言うなら皿洗いにでも」

「よっしゃ帰ろうぜ! 鬼の嬢ちゃんとお椀の嬢ちゃんも待ってるだろうしな!」

「え? 鬼にお椀のお嬢さんですか? ちょっと楠詳しく」

「話さなくて良いです!」

 

  意気揚々と霊夢を引っ張りながら甘味所を出て行く楠に桐は擦り寄ろうとしたが、頭に落ちてきた楼観剣のおかげで足止めされ、その間にあっという間に巫女と楠の背は小さくなった。頭をさすりながら桐は悲しげな顔になり、妖夢は大きなため息を吐く。

 

「なんという無駄な出費……。帰ったら桐さんにも働いて貰いますからね!」

「それはいいのですけれど、良かったんですか妖夢さん楠を行かせてしまって。手合わせしたかったんじゃないですか?」

「いや……まあ……」

 

  間違いなく楠こそ桐の話していた二刀の友人。それも桐自身が自分よりも強いと言う相手だ。本音を言えば妖夢も殺り合ってみたくはあったが、楠の技は剣技というには異様過ぎて感心が先に来てしまう。だが、それは桐の技も同様だ。腕が人の身を透けるという手品じみた動きを思い出しながら、妖夢は小さく唸った。

 

「よくあんな技を使えるものですね。私のお祖父様も時を斬ったと聞きましたが」

「いや、そっちの方が凄いのではないですか?」

「私からすればお祖父様も桐さんもあの男もどっちもどっちです。短い時間しか持たない人がよくそこまで練り上げられる。生半可ではありませんか」

「そこはまあ私が七十八代目の当主というあたりで察してください。それに同じ平城十傑の(かび)家の当主なんて百六十四代目ですよ?」

「それはまた、どうすればそんなに死ぬんですか?」

 

  パンドラの箱のような平城十傑の話は聞けば聞くほど半人半霊の妖夢をして顔が苦いものに変わってしまう。そういう話は主人としてくれと予想以上の出費を妖夢は支払い、甘味所を後にする。

 

 

 ***

 

 

  日の傾き始めた頃、ようやっと買い出しを終え妖夢と桐は帰路についていた。登るのも嫌になるような白玉楼の階段の下で、多くの買い物袋を手に桐は変わらぬ笑顔を浮かべながらも、額には冷や汗が一筋垂れている。

 

「困りました。この階段を上らねばならないとは……行きはヨイヨイ帰りはなんとやらですか」

「飛べばいいでしょう……、って桐さんは飛べないんでしたっけ? 変に不便ですね。それほど鍛えているのなら飛べてもいいでしょうに」

「人が空を飛ぶ、ということに違和感はないんですか? 翼もないのに飛べるはずもないでしょうに。もしできれば人を超えています。だから妖夢さん、私の手を取って是非運んでください!」

「そこはかとなく嫌な予感がするんですけど」

 

  ただ手を握るだけで終わるわけない。桐のにやついた顔を見れば、妖夢はより強くそう思う。さあさあと手を伸ばしてくる桐から逃げるように妖夢が後ずさっていると、白玉楼の階段の始まりを報せる門の上から、ゴロゴロと笑い声が降って来た。妖夢がその声の方を見上げれば、影のように揺らめく二本の長い尻尾。ちょこんと被った緑の帽子の端からは、猫の耳が生えている。

 

「庭師がついに男を知ったの?」

「まだです! って、橙さんなに言わせるんですか⁉︎」

「ほほう、それはそれは良いことを聞きました」

 

桐に刀のように鋭い少女の目が送られ、慌てて桐は話を逸らす。

 

「それより猫のお嬢さんは私たちになにか用なのでしょうか?」

「別に、暇だったから声掛けただけ。それよりお前はなに者? 見たところただの人間に見えるけど」

「私は五辻 桐と言いますお嬢さん。橙さんと言うのでしょうか? 私は見たまま人間ですよ」

 

  妖怪を前にしても取り乱した様子もなければ、霊力や魔力を滲ませることすらしない変わり者に、橙は好奇の目を向け、口端をゆっくり持ち上げた。

 

「変な人間、冥界に好き好んで来るなんて。藍様が言ってた変な奴らってお前のこと?」

「藍様という方がどちら様なのか知りませんが、多分そうでしょう」

「変という自覚があったんですか? それより、橙さんがいるということはひょっとして」

「紫様なら居ないわよ。数日前に外の世界に行くって出て行かれてからまだ戻って来ないから」

 

  紫。その名を聞いて桐は笑みを深める。幻想郷の中のことに詳しくなかろうと、その名が指す大妖怪にして賢者、八雲紫のことを幻想郷に来るというのに知らないのはモグリに過ぎる。スキマ妖怪。幻想郷の管理人。恐ろしい噂が多々あるものの、その中に見え隠れする『美人である』という情報を思い出しながら桐は頬を緩め、妖夢に肘で小突かれた。

 

「ならなぜ橙さんはここに? いつもは妖怪の山にいますよね?」

「その妖怪の山が少し騒がしくてうるさいからここに居るのよ。なんか天狗たちが侵入者に脱走者どうのこうの騒いでて」

「それって……」

「なんで私を見るんですか? 惚れました? いつでも大丈夫ですよ」

「なにがですか……」

 

  その内容は聞きたくないと、妖夢は桐から視線を切る。人里に続いて妖怪の山まで。深く考えなくても、桐たちが関係しているのだろうと妙に納得できた。桐、楠、椹。妖夢がまだ顔の知らない者が一人いる。ただこれまでの三人を思い浮かべれば、絶対にろくな奴ではないと当たりをつける。

 

「また桐さんのご友人じゃないんですか?」

「うーん、心当たりがありすぎて、足利さんだけはないと思うんですけど」

「それが最後の一人ですか」

「ええ、平城十傑の調停役の一族です。彼が私たちを連れてきたようなものですから」

「それは……大丈夫なんですか?」

「私が言うのもなんですが一番マトモだと思いますよ。ただちょっと……」

 

  桐は言いづらそうに口を噤んだが、もうなにが出てこようとおかしくないと、妖夢は呆れながらも続きを催促する。桐は眉をへにょりと曲げると、少し遠くを見つめるように顔を上げた。

 

「運が悪いんです」

「なんですかそれは。運が悪い? これまでで一番意味不明ですね。それがその人の技なんですか?」

「いや、技というかサガというか……。楠が同情するレベルですし、全く一族と関係ありません」

 

  ただでさえ一千年以上なにかに執着している一族の中にいて、一族と全く関係なく運が悪いとはそれこそ不運と言うのではないか。そんなことを考えながら、多分一番の不運は主人に桐を押し付けられている自分であると妖夢は一人納得し、門の上で横になっている橙に目を向けた。

 

「橙さん。今幻想郷は私の隣を見ての通り面倒臭そうな外来人が何人も来ている状況なのですが、藍さんと紫様に言ってどうにかできませんか?」

「えー、紫様はなんでか音信不通だし、藍様はそんな紫様の穴を埋めるために忙しそうだから無理だと思うけど。それより幽々子様にどうにかしてもらった方がいいんじゃない?」

「それができたらやってます……。はぁ。なんでこんな時に限って……」

 

  普段神出鬼没の紫が、橙の言葉を信じるなら明らかに不在。怪しげな空気に身を包み胡散臭いことこの上ない紫であるが、いざという時頼りになるのは間違いない。それも妖夢にとっては、敬愛する主人の親友でもある。どうにも状況が不審であり、薄ら寒いものが妖夢の背をぞわりと撫でた。

 

「桐さん、まさかとは思いますが『異変』とか起こそうなんて考えてませんよね?」

「『異変』ですか? よく分かりませんが、私としてはこの状況がもう異変ですね。なんと言ってもかぐや姫さまが見つかったのですから」

「全く会いに行こうとしませんがね」

「いやぁ」

「褒めてません」

 

  桐の箱ふやけた様子を見ていると、どうも幻想郷で度々起こる『異変』とは無縁にしか見えない。『異変』を起こした側である妖夢だからこそ、より強くそう感じた。妖夢の目にはどうにも『使命感』と言うものが桐には欠落しているように見える。その一見無気力な感じとは裏腹に時折垣間見える影のような怪しさが信用ならないのだが、それがどうでもよくなるほどに桐が困った男であるため、結局深く考えないことにした。

 

「まあいいです。幽々子様に聞けば何か分かるかもしれませんし」

「そうですね。私も夜は姫様と琴を弾く約束をしていますから早く帰りましょう」

「いつの間に、桐さん腕に覚えはあるんですか?」

「失敬な。琴と蹴鞠(けまり)は数少ない私の特技ですよ。きっと妖夢さんを聞き惚れさせてみせましょう」

「はいはい、それで橙さんはどうします? よろしければご夕食でも」

 

  善意ではなく、桐の犠牲者を増やそうと悪意の手招きを妖夢はする。門の上で寝転びながら二本の尻尾を指で弄り、晩御飯と暇な時間を天秤にかけ、暇を潰すなら美味しい方がいいと橙は小さく鳴いた。

 

「ならお邪魔するわ! 魚だとより嬉しいんだけど」

「秋刀魚が手に入りましたし早速それを使いましょう」

「なにを勝手に献立を考えているんですか、そう言うなら手伝って貰いますからね!」

「分かっておりますとも」

 

  時間が勿体無いので、結局妖夢は桐と手を繋ぎ空を飛んで白玉楼に帰ることとなった。が、道中当然と言うように妖夢の手の感触を楽しむように桐の手が艶めかしく動いたため、五度ほど手を離し不届き者を落とすことになったのだが、不届き者はすこぶる元気だった。




楠は北条 第ニ夜 夕 に続く


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 夕

  細い銀線の上を滑る白魚のような指。その動きを目で追いながら、ゆるりと弧を描く口元を隠そうともせずに、また桐の指も細い弦の上を滑る。空気の跳ねる音に耳をすませ、震える弦の音ではなく、それに触れる少女の指の音の方にこそ耳を向けた。

 

  夕餉もそこそこに(量は推して知るべし)、紅葉した葉が月明かりの中舞い落ちるのを眺めながら琴を弾く。それもとびきりの美人と向かい合って。この雅な空間をこそ望んでいたと言うように、静かに、しかし強く桐は琴の音色を奏でた。

 

  橙と妖夢は夕餉の片付けのために席を外しており、部屋には幽々子と桐の二人のみ。桐は誰もが認める女好きではあるものの、幽々子と二人にしても問題ないくらいには妖夢に信頼されているらしい。ただ見方を変えれば、幽々子に桐を押し付けたとも言える。

 

「幻想郷はどうかしら?」

 

  弦の弾ける音に交じって、その音に負けぬ少女の美声が桐の耳に運ばれた。一瞬聞き惚れてしまったが故に、僅かに手が止まってしまうもまたすぐに桐は細い指を弦に這わせる。そうしながら桐が思い起こすのは、まだまだ浅い幻想郷での日々。思い浮かぶのは妖夢の困り顔ばかりだが、それはそれで良しと一人小さく頷いた。

 

「きっと素敵な場所なんでしょうね」

「なんだか他人事ね」

「私はあまりひとつどころに留まることがありませんでしたので、妖夢さんのように一人とここまで長く居るのは久しぶりなんです」

 

  前に。前に。まだ桐が小さく先代とともに動いていた時でさえ、一つの場所には長くても一週間しか居たことがない。全てはかぐや姫を見つけるため。探す方法は簡単だ。美女の噂を辿って行けばいい。平城京で絶世のと謳われ、帝さえ愛した姫ならば、どこにいようと少なからず噂になるはず。黒髪の乙女の噂を追って西へ東へ。時には海さえ越えてそれを追った。そのため親しい友人などできるはずもなく、短い一期一会を繰り返すばかり。多くの土地を渡り歩いた桐をして幻想郷は不思議な都であり、その全てを知るにはこれまで通り三日やそこらで離れるわけにもいかない。そして、離れなくてもいいのかもしれない。

 

  僅かにぶれる桐の琴の音色を聴き、幽々子は薄く微笑んだ。自分に桐の注意を引きつけるように幽々子は強く弦を弾き、音の震えに桐の目がそちらへ揺れる。瞬く桐の赤茶色の瞳を幽々子の桜色をした瞳が見返す。ふやけた顔をよく浮かべる桐の表情とは対照的な熱く燃える大地のような瞳の色をからかうように、幽々子が指で弾いた弦の波紋に流されるまま一匹の桜色をした光蝶が二人の間へ羽を伸ばす。

 

「それで、桐はなにを焦っているのかしら」と、幽々子は、蝶を目で追いかける桐に言葉を投げた。弦と弦の音に挟まれた言葉は、幽々子の声音の美しさも相まって、言葉というよりは音、歌のように桐の耳に届く。その違和感のなさに桐は言葉の意味を理解できずまた僅かばかり動きが鈍り、意味を理解して完全に動きを止めた。

 

  弦の上に緩く手のひらを置いたまま、なにも言っていないというように琴を弾き続ける幽々子に桐は顔を向ける。時計の秒針のようにリズミカルにズレることなく響き続ける弦の音が急かすように桐の内側を掻き立て、間を置いて桐が絞り出した言葉は、「なにがですか?」という答えにもなっていないものだった。

 

「昨日会った時もったいぶりたいとは言っていたけれど、実際会わないように焦っているでしょう? ふふ、こう言うとおかしいわね。ゆっくりすることに焦っているなんて」

 

  桐の内面を見透かしているような発言に、桐は息を呑み、薄く笑いながら手を置いていた弦を弾いた。誤魔化すためでもあり、図星だと知られたくなかったから。そんな桐の様子を楽しむように幽々子はまた笑い。この女性には敵いそうもないなと、弦を弾いた指をそのまま長い前髪へと運びくるくる弄る。

 

「そう見えますか? 隠していたつもりなのですが」

「あなたは本当に困ると前髪を弄りだすもの。それに、あなたの性格からして、絶世の美女と言われるかぐや姫の元にすぐに飛んで行かないなんておかしいわ」

「ですか。いやはや、姫様には敵いませんね」

 

  その通り、と桐は強く弦を弾く。

 

  恐怖。その感情に少し近い。前に。前に。どんな時も、どんな場所でも、常に歩みを止めず前進あるのみ。遠く遠くどこまでも。果てしなく続くその道に、ついに終わりがやってくる。

 

「終わりは終わりなんですよ」

 

  もう前に進まなくていい。もうどこにも行かなくていい。その感覚が分からない。転勤族とはわけが違う。目的地はなく、家もない悠久の旅人。手段と目的が入れ替わったような永遠の旅が終わった時に残されるものはなにか。

 

「なにも。私にはなにもなく、そしてなにも残りはしない」

 

  全てを置いてただ前進。道端にこぼれ落ちたものへ振り向くこともなく、拾えないぐらい離れてもまだ前に進むことをやめない。親の顔も、兄弟の顔も随分前に忘れてしまった。出会ってきた多くの者たちの顔もその多くは思い出せない。旅が終わったからといって、それを拾いに行けるのか。それさえ桐には分からない。

 

「思えば随分遠くへ来た。他の者には故郷がある。それさえ私にはありはしない」

 

  帰る場所のない自分は、いったいどこへ行けばいい。旅の終わりは人生の終わり。それに等しい。前に進むことさえ取られたら、本当になにもなくなってしまう。唯一の持ち物と言える大太刀だけが残されて、それに寄りかかるように足を止めて風化するのを待てばいいのか。そんな未来を思い描き、馬鹿らしいと桐は笑った。

 

「どうせなら前のめりに倒れて死んだ方がマシだ。私の前任者たち七十七人はそうやって逝った。先代の最後はよく覚えている。次はあそこへ行こうと泊まった宿で、朝になっても起きなかった。死の最後まで前に進んだ。その方が幸せなのかもしれない。夢の中で死ねた方が」

 

  悔やみはするだろう。だが後悔はないはずだ。きっと五辻の歴代当主は死んでも黄泉比良坂を、冥土の中を歩き続ける。その道に桐は加われない。なぜなら終わりなのだから。

 

  「お終いね」と呟く幽々子の顔は、言いようのない憂を帯びており、亡霊のはずの幽々子が、生者以上の質量を持っているように桐には見えた。存在感の異様な強さに目を奪われている桐に、桐がするようなふやけた笑顔を幽々子は浮かべ、琴を奏でていた手を止める。

 

「終わりは始まりとも言うでしょう? そうは考えられないの?」

「そう、楽観できれば良いのでしょうけれど、それにはいささか歩き過ぎました。一度歩みを止めてどこに向かえばいいのやら」

 

  人は生きながらそれを探すところから始める。だが、桐には生まれながらにそれがあった。それしかなかった。ただそれに向かうだけ。それ以外のことなどなにも知らない。今更新たな目的地を探すことなどできようか。まだ二十歳にもなっていない歳であるが、大人以上に自分の道を進み過ぎている。

 

  笑顔のない桐はつまらないと言うように、幽々子は目を細め袖から出した扇を広げて口元を覆う。桐に見せない歪んだ口元は、生者の葛藤を羨んでか、それとも哀れんでか。真面目な顔をした桐の表情を変えてやろうと、口元を扇で隠しながら発せられた「夢はないの?」と言う幽々子の言葉に、桐の表情は柔らかく崩れる。それに少しホッとして、幽々子は動く桐の唇を目で追った。

 

「ありますとも」

「それはなにか聞いてもいいかしら?」

「もちろん、是非とも美人さんと連れ立って歩きたいものです」

 

  桐らしい答えに、幽々子は呆れながらも大きく笑った。常日頃桐のしている行動は、ふざけているようであって、そこに嘘はない。できれば歩いてみたい。誰かと一緒に歩いてみたい。恋人や夫婦という斬っても斬れない形となって。

 

「私はね、姫様。好きなんですよ」

「女性が?」

「そう、素敵なラブストーリーが」

 

  これまで顔も知らぬ、お互いの道のりも知らない男女が突然出会って恋に落ちる。そんな夢物語がなにより桐は好きなのだ。全く色も長さも違うその者たちの軌跡が、どこまでも綺麗に交じり合っていく。一人、たったの一人でいい。自分と同じ速度で歩いてくれるそんな一人が居てくれたらどれだけいいか。

 

  似たような者たちは居てくれる。どれだけ桐が前に進もうと、全く違う道を歩いていても同じように自分の道を行く者たち。(くすのき)(さわら)(あずさ)(あやめ)(いちい)(ふじ)……。桐を抜いて少なくとも九人。だが、彼らはそういう意味ではやはり違う。同じ道を歩いたとしても、それは自分の写し身と変わらない。欲しいのはそれではない。かぐや姫を追って歩む者ではない。

 

「私がよくお嬢さんたちに手を触れるのは、期待してではないんです」

 

  それは道端に咲いている花に手を伸ばすようなもの。一時その美しさを楽しみこそすれ、少しすればまた先を目指して歩きだす。摘んではいけない。きっと枯れてしまうから。

 

「私は我儘なんでしょう。手に入らない連れ合いを夢見て、少し楽しみ寂しさを埋めているだけだ」

「気づいていながらやめないのね」

「やめられません。そのおかげで歩いていられる。私は誰より愛の力を信じているんですよ」

「前にも聞いたセリフだわ」

「それが私の原動力ですから。それだけは色褪せないと知っているから」

 

  「ロマンチストなのかしら?」と言おうとして、それは言わずに扇を閉じる音で自分の思考を幽々子は閉じる。桐はふざけているわけではない。少し哀愁を帯びた桐の笑顔が、冗談や酔狂で言っているのではないことを察した。愛の力。言葉にすればなんとも正義的で魅力的か。幽々子はスッと立ち上がると、外に出ていくようなことはなく、桐の横に移り腰を下ろす。手を伸ばすのは桐の目の前にある琴。ゆっくり人差し指を伸ばし弦に当てる。

 

「愛の力ね。麗しい言葉」

「ね? どんな呪いよりも効果がある」

「恋は盲目?」

「節穴かもしれません」

 

  薄く笑った桐への返事は弦を弾く音。幽々子の動きを目で追いながら、桐もまた弦に向かって手を伸ばす。幽々子と桐の音が徐々に噛み合っていき、二つの音は共鳴しあう。それに二人は笑みをこぼしながら、動かす手を止めることはない。

 

「少し羨ましいのよ? 私はここを離れる気はないから。常に浮き雲のように動き続けることはできない。たまに遠くに足を伸ばしてもね。私はもう終わっているもの」

「私はそれが羨ましい。地に根を張ることはないですから。根を張ろうとしても強い風が吹けばきっと転がって行ってしまいます」

「真逆なのに音は合うのね」

「音は合っても、それだけです」

 

  幽々子は弦を弾く手を止めて、桐はそれでも弾き続けた。前に。前に。どこまでも。幽々子が立ち上がり、縁に続く障子の前に立ってもその手を止めることはない。

 

「少し歩きましょうか。ついてきてくれるかしら?」

「置いて行ってしまうかもしれません」

「あら、そしたら戻って来てくれればいいのよ。私はここにいるんだもの」

 

  開けた障子の隙間から月明かりが伸びる。桜色をした幽々子の髪がその光を広げるように反射して、幽々子に背後に立つ桜の枯れ木の枝を覆う。満開の夜桜のように桐の瞳には枯れ木が映り、その美しさに見惚れてしまった自分を恥じるように前髪を弄りながら席を立った。秋の夜空の下を春風のように歩く幽々子の背を追って、ゆっくりと桐は足をだす。

 

「殿方の後ろを三歩下がって続くのが大和撫子と言うけれど、女性の後ろを三歩下がってついてくる殿方はなんて言ったらいいのかしら」

「ストーカーか迷子でしょうか」

「なら桐はきっと後者ね。ストーカーにしては目立つもの」

 

  からから笑いながら、幽々子は長い縁側を歩き続ける。白玉楼を囲う塀の手前にずらりと並んだ葉もない桜の木を眺めながら、足音もなく先を行く。吹けば消えてしまいそうな幽々子の姿は、儚さと繊細さに彩られているが、白玉楼の中でなによりも存在感がある。壊れてしまう一瞬を濃縮したような少女の近くにいることが、桐をして少し躊躇われてしまうほどに。

 

  そんな桐を手招きしながら幽々子が目指すのは、白玉楼の中にあって最も大きな桜の枯れ木。白玉楼に居れば、どこからでも目に入る木ではあったが、その根元まで来れば、想像以上の大きさに圧倒され、桐も流石に驚いた顔になった。見事と言えばそれまでだが、そう言うには妖しさに過ぎる。視界を覆う木の枝は、漂う空気を舌舐めずりしているように見えた。

 

「この桜は西行妖(さいぎょうあやかし)と言うの」

「西行、ですか……」

 

  目の細められた幽々子の横顔を少し眺め、桐も西行妖に目を戻す。なにかを吸われているような薄ら寒さに、桐の肌の産毛が逆立った。

 

「素敵でしょう?」

「ええ、これだけ大きな桜でしたら、春にはさぞ幻想的な姿を見せてくれるんでしょうね」

「そうだと良かったのだけれどね。残念なことにこの桜は春が来ても決して満開にはならないの。誰かさんみたいでしょう?」

 

  それは恐ろしい妖怪桜。満開に咲けばその美しさで人を黄泉の道へと誘う。いったい幾人の生を吸ったのか。それは今はもう分からず、この先も分かることはない。

 

「死へと誘う妖怪桜。それを封印するために誰かがこの桜の下で眠っている。それを見てみたくて幻想郷中から春を奪い満開に咲かせようとしたこともあったんだけど、残念ながら失敗してしまったわ」

「春を奪うとは、袴垂が聞けば泣いて悔しがりそうな話ですね」

「人里を騒がせてる盗賊だったかしら? ……すぐ側にある。望む景色の見方も分かっている。でも見ない見れないというのは意外と多いわ。あなたはどうするのかしら」

 

  西行妖と同じように、目と鼻の先に答えはある。桐のように忙しなく動くこともなく、絶えずそこに存在する。離れるのも近づくのも自分次第。かぐや姫は関係なく、全ての選択肢は今桐の手の中に収まっている。それを握るように拳を作る。握るものはとうの昔に決まっている。

 

「行きましょうとも。ここまで来て引き返したら、きっと後悔しますから。前進あるのみ。届けるために」

「そう」

 

  羨ましいというように、幽々子は小さく微笑んだ。続く「それに美人さんをあまり待たせるものでもありませんから」という桐の言葉に、より深い笑みを幽々子は浮かべる。

 

「ふふ、もったいぶるのはやめるのね」

「それは昔のお話。私は現代っ子ですからね」

「あらあら困った殿方ね。それなら……」

 

  続くはずだった幽々子の言葉を遮ったのは、桐でも西行妖でも妖夢でもない。ぴらりと幽々子と桐の間に落ちて来た一枚の紙。その紙の軌跡を追って幽々子が空を見上げれば、月の影で羽ばたいている鴉天狗の小さな背が一瞬映った。時期の早い雪のように舞い落ちてくる紙たちは、西行妖に引っかかり花を咲かせているようにも見える。そのうちの一枚を手に取り書かれた文章に目を這わせた幽々子の顔が、困ったような、しかし、面白いと言うような色を含んだ笑顔を桐に向けた。

 

「あなたたちが来たからなのかしら? それともこのためにあなたたちは来たの?」

「……足利め、謀りましたね。こんなことなら先に言っておいて欲しいものです。それに菖さんも」

 

  坊門 菖が月軍を率いてやって来る。そんな記事に桐は長い前髪に手を伸ばしぐるぐる弄った。月軍が来ないからといって自分から連れて来るものがあろうか。坊門家、九十八代目当主の凛々しい仏頂面を思い出しながら、桐は深く長いため息を吐いた。

 

「なんにせよ、これで時間もないみたいです。いつ来るのか書いていないのが気になりますが、姫様も用心した方が良いでしょう」

「大丈夫よ、妖夢もいるもの。それで桐はどうするの?」

「かぐや姫様の元へ参ります。私は平城十傑、五辻家七十八代目当主なのですから」

 

  背に背負った大太刀へと手を伸ばし、鞘ごと手に取ると強くそれを握り込んだ。薄い微笑を浮かべながら、目は決して笑っておらず目的地へ向けて絞られる桐の瞳を興味深そうに幽々子は覗き込む。その瞳に宿る生者の強い輝きは、夜空に浮かぶ火星のよう。遠くから眺めても赤いと分かる情熱の色。

 

「そう、なら行ってらっしゃい。あなたがどこへ行こうとも私はここにいるもの。全てが終わったら帰って来てもいいのよ。例え先に進み続けても、きっとあなたは冥界(ここ)に来るわ」

「あはは、その誘い文句の魅力に勝てそうな言葉を私は持っていませんね。でも敢えて言うのなら」

 

  言葉を切り、桐は『西行桜』へと目を向ける。壮麗な巨木の肌を目で撫でた後に、口の中で転がした言葉を小さく呟いた。

 

「世の中を そむき果てぬと いひおかむ 思ひ知るべき 人はなくとも、ですか」

「え?」

 

  それだけ言うと桐は幽々子に一礼し、振り返ることもなく前へと進む。ゆっくりゆっくり一歩を確かめるように。思い描く女性の姿はなく、一人でまた先を急ぐ。舞い散る『月軍襲来!』の紙たちを掻き分けるように、桐は白玉楼を後にした。

 

  しばらくして、慌ただしく白玉楼の中を一人の足音が駆け回る。幽々子と桐の名を呼びながら足を忙しなく動かしていた妖夢だったが、西行妖の前に探していた後ろ姿を見つけると、降って来た紙の一枚を握りしめながらその背へと近寄る。

 

「幽々子様! 見つけましたよ!」

「妖夢」

 

  振り返った幽々子の顔を見て妖夢の足は石像になったように固まった。頬に流れた透明な一筋の道筋はどこから流れ出たものか。一見しただけで分かってしまう。ちらりと妖夢の顔を見つめ、すぐに幽々子は西行妖の方へ目を戻す。月明かりに照らし出された幽々子の背になんと言葉をかけていいか。妖夢は戸惑いながらも、口を開けたり閉じたりしながら幽々子の隣へ足を向けた。

 

「……幽々子様?」

「なぜかしら、とても懐かしいの。桐は帰って来るかしら」

 

  なにがあったのか、そんなことは妖夢にはまるで分からない。だが、とにかく次もし桐に会うことがあれば楼観剣の錆にしようと心に決め、幽々子と二人、白い紙に化粧された西行桜をしばらく眺めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 朝

「お兄ちゃんはやーい!」

「あっはっは、こっちですよー」

 

  寺子屋の庭先で着物を着た小さな少年少女たちが長身の男を追いかけ回す。十人、二十人などなんのその。スルリスルスルと迫る幾数十の小さな手を滑るように避けていく。時折捕まるような素振りを見せながら決して捕まらない一対多の鬼ごっこは、楽し気な声に溢れ見ている者を笑顔にする。

 

  子供を連れて来た親たちも、人相書きの貼られら盗人と同じ服を着ている男に眉を顰めるがそれも最初だけ。手を繋いでいた子がそれを羨ましそうに眺めこっちに来いと桐が手招きすれば嬉しそうに寄って行き、それを見た親もつい笑ってしまう。

 

  そんな光景を眺める慧音もまた笑顔だった。未来である子供たちの笑顔と笑い声こそ彼女の報酬。自分の夢見た景色が目の前に溢れているのを笑顔で眺める慧音だったが、視界の端からおずおずと寄って来た子供の親を見て、見られても分からないぐらい慧音は眉を寄せた。

 

  親が手に持っている一枚の紙。昨夜夕刻に盛大にばら撒かれた新聞の一枚。慧音も嫌という程見返したそれを、子供の親が持っている。いったいなにを言う気なのか、聞かれるのかはもう慧音も分かっていた。昨日から何度も慧音を頼って訪れた者が口にしたものと同じ。

 

「先生、大丈夫でしょうか?」

 

  月軍というものがどういうものなのか知っている者は非常に少ない。それを聞くには永遠亭に赴くか、第一次、第二次月面戦争で重要な立ち位置にいた八雲紫か西行寺幽々子に聞くしかないだろう。

 

  そんな時間もなかった慧音は多くは知らないが、それでもすぐに「大丈夫さ」と口にする。立場上そう言う方が波風が立たないと言うこともあるが、一番はその親が元慧音の教え子だから。そして、輝夜や妹紅、霊夢の顔を並べているときっと大丈夫だという気になってくる。それだけでも心強いが、今は目の前にそんな期待を後押しする男がいた。

 

  永遠と続くだろう鬼ごっこを慧音は手を打って終わりにすると、子供たちに寺子屋の中に入るように促す。桐に手を振って寺子屋の中へと消えていく子供たちを眺め終えると、庭にひとり残った男に慧音は目を向けた。

 

「いやいや子供は元気ですね。子供が元気なのは良いことです」

「そうだな。あの子たちと遊んでくれて助かった。いつもは結構言うこと聞かないんだ」

「そんなものですよ、その方がいい」

 

  ふにゃりと笑う桐の笑顔を見ていると毒気が抜かれるとつい慧音も笑顔を返す。初対面でもそうだったが、桐はまさに浮き雲のような男であり、不思議とついつい目で追ってしまう。そんな桐が訪ねて来た時のことを慧音は一度目を閉じ思い出す。

 

「それで、そろそろ行くのか?」

「ええ、姫様。ああ、幽々子様と約束してしまいましたからね。私はかぐや姫様のところに行かなければなりません」

「月軍が来るからか?」

「来ても来なくても」

 

  迷いの竹林の場所を教えてくれと『月軍襲来!』の新聞が舞い散る中、桐が慧音の元を訪ねたのは昨日の夕方。新聞に書かれていた桐の名を見て察していた慧音だったが、夜は危険だと一晩桐を寺子屋に泊めた。無駄にカッコつけて白玉楼から出て来てしまった桐にはそこ以外に泊まれる場所はなく一晩世話になったが、もう出て行く時間だ。

 

  月軍が来ると分かっていても昨日と態度の変化が見られない桐に頼もしいようなそうでないような呆れた息を吐きかけて、慧音は桐の顔を見る。ふやけた顔は相変わらずで、多くの子供たちを見てきた慧音をして桐がなにを考えているのか分からない。

 

「月軍に、平城十傑、一千年以上前から続く話など、私もあまり聞いたことがないからな。妹紅もあまり話したがらないこともある。強いことは知っている。……勝てるのか?」

「さあどうですかね?」

「おい、そこはもっとこう、勝つまではいかなくとももっと自信のありそうなことを言うところじゃないのか?」

「いやあ、私も他の者も月軍を見たことないですからね」

 

  月では兎が餅を突いている。そんなアホみたいな伝承を大真面目に信じはしないが、なにがいるのかも桐も他の者も分からない。だからこそ、想像上の強大な敵を叩き潰すために異常な技に執着しているのだ。桐にとっても、そこまでしても技が効くかどうかも分からぬ相手。勝てるか? と聞かれて、勝てる! と即答できるほど、想像上の怪物は優しくない。帝の配達人として、平城十傑の伝令役として、梓、藤、菖、(うるし)と、他の当主の尋常ならざる技も知っているからこそより強くそう思えた。

 

「平城十傑の情報役である櫟さんなら何か知っているかもしれないですけれど」

「櫟? その者も平城十傑なのか? 新聞には載っていなかったが」

「幻想郷には来ていませんからね。でも一度彼女の一族は月に行っていますから何か知ってるとは思うのですけれど、こんなことならもっと話を聞いておくのでした」

「月に? そうなのか?」

「はい、平城十傑内での小難しいことはだいたい唐橋と黴がやっていますから」

 

  公式から削除されたアポロ計画。アポロ18号。カットされた予算の大部分を平城十傑一の金持ちであった黴によって埋められ、唐橋を月に送ることに成功する。一種の金持ちの道楽とも言えそうなこの月への打ち上げは、搭乗者であった唐橋など、色々な社会的問題を抱えていたことによって世界から抹殺された。なぜ彼らが月に行きたかったのかはNASA(アメリカ航空宇宙局)も知らず、また、日本人で初めて月に行った者の記録も残ることはなかった。

 

  平然と仲間が月に行ったことがあると言いのける桐に軽い目眩を慧音は覚えるも、そういえば幻想郷にも遠足気分で月に行った者がいたなと頭を小さく振って頭の調子を整える。

 

「だが、この坊門 菖という者も行ったんだろう? どうやって月軍を率いるつもりなんだ? だいたいなぜ同じ平城十傑が敵になる?」

 

  慧音の当然の疑問に、桐は頭を悩ませる。それこそ桐には分からない。他の当主の個人的なことをそれほど知らないということもあるが、桐の知る菖の人となりからして、こういったいかにもな暴挙に出るとは思えなかったからだ。

 

  桐でさえよく分からない菖のことをどう慧音に伝えたものかと前髪を弄りながら、困ったようにふにゃりと笑った。

 

「菖さんは無意味なことをする人ではないんですがね。怖い人ではありますけど、ちゃんと優しい人というか」

「普段大人しい奴ほどキレると手がつけられないというやつかな」

「いや菖さんはキレても静かというか、櫟さんや藤さんと仲がいいのでせめて二人のうちのどちらかが居ればいいのですがね。まあもう遅いでしょう。菖さんはやると言ったらやる人です。少なくとも戦闘は避けられない」

「……ここも戦場になるか」

 

  慧音の呟きを桐は否定することはできなかった。月軍が来る。菖も関わっていることから関係の深いかぐや姫が狙われるだろうことは分かっても、それ以外どう動くのかは分からない。人里に来るかもしれないし、来ないかもしれない。ただ、楽観視はできなかった。もし来たら。そう考えて行動しなければならないことは慧音も重々承知だ。だができるなら。そう思わずにはいられない。

 

  そんな憂を帯びた慧音の手を、今回ばかりは桐も手に取ることができない。安心の言葉はあまり重さを持たず、何より桐の知り合いが先頭に立っている。この二つが桐の顔を笑顔でありながら重い空気を滲ませる要因となり、それに気付いた慧音に逆に気を使われる。

 

「そんな顔をするな。お前が悪い奴ではないということは私ももう分かっている。桐を責めたりしないさ」

「いやはや申し訳ない。私も私でできることはしますから」

「あまり無茶はするなよ。お前だってまだ子供なんだ」

 

  別に馬鹿にしてるわけではない慧音の笑顔を足された言葉に、一瞬桐の言葉が詰まる。当主なら甘えるな。歳は関係ない。並べられた言葉はそのどれかで、『子供』だと断じられた数など両手で足りる。楠が聞けば喜びそうだと薄く笑いながら、桐は『先生』に笑顔を向けた。

 

「慧音さんは先生ですね。私は立場上高校も通信制ですし、小学校も中学校もろくに行けなかったもので、先生という存在とは縁薄い」

「ふふっ、私の寺子屋に通ってみるか? 幻想郷の歴史を教えてやるぞ」

「それは楽しそうですね、終わった時の楽しみが増えました」

 

  それだけはやめておけ! と数多の人妖が見ていればそう叫んだだろうが、残念ながら桐の愚行を押し留めてくれる者はそこにはおらず、新しい生徒を歓迎するように慧音は微笑んだ。

 

「ではそろそろ行くとしましょうか。道も慧音さんに聞けましたから」

「そうか。気を付けてな」

「ええ先生、行ってきます」

 

  壁に立て掛けていた大太刀を背負い、「行ってらっしゃい」という言葉を背に受けてまた桐は歩き出す。着々と永遠亭への道のりを縮めて。前へ。前へと足を出す。

 

 

 ***

 

 

  迷いの竹林とはこれいかに。竹と人里へと続く道の境界線を眺めて桐は首を傾げる。雄大な竹林であることは見れば分かる。竹の先にどこまでも竹が続く竹林は外の世界でも滅多に見られない。だが、ボウボウとただ生えているわけでもなく、ある程度人の手が入っていると見える竹林は、外から眺めている分にはすぐに抜け出せそうに見え、神秘的であれこそすれ、後ろ暗い空気は感じられない。

 

  さて、どうしようかと竹林の前で首をひねり続ける桐だったが、竹林の中で白い影が動くのを見ると動きを止めた。それがいったい何であるのか。ぴょこぴょこと弧を描いて跳ねる動きは兎のそれ。白兎を目に留めて、桐は一歩足を出した。

 

「兎さん、かぐや姫様に会いたいのですが、場所を教えていただけますか?」

 

  他に声を掛ける相手もいないため、先を跳ねる兎を追って竹林へと身を滑らせる。一歩、竹林に足を踏み入れた瞬間、竹によって冷やされた秋風が桐の肌を撫ぜ、別世界へと迷い込んだと告げていた。少し振り返り見た竹林の入り口は、まだ人里へと続く道が見えていたものの、節くれだった青竹の格子に阻まれてとても遠くにあるように見える。

 

  ガサリと擦れる葉の音に桐は前へと顔を戻し、先を行く白兎の背を追った。緩やかな傾斜に足を這わせ、可愛く跳ねる白影を追う。一つ、二つ、三つと跳ねる音を追う度に竹林の影は深くなり、怪物の喉を通っているように錯覚させた。肌寒い空気もそれに拍車をかけているようで、桐は身の内の熱が冷めないように足を出し続ける。

 

  どれだけ白兎とともに歩いたのか。一時間かもしれないし、二時間かもしれない。太陽がどこにあるのか分からぬ竹林の中では、時間の感覚が曖昧だ。そんな中、ついにピタリと白影が止まった。白いボールのように地面に転がる白兎へと近づけば、少し開けたところに出る。だが、周りに建物があるわけでもなく、開けているのは竹がどういうわけか斬り落とされているからだ。

 

  そんな竹の断面に目を這わせ、指でその鋭く斬り裂かれた断面をなぞった。

 

「……楠?」

 

  斬った跡を見れば相手の技量が分かるという。その竹の断面は桐が何度か見た形。斬られたというよりは断面を磨かれたように離れ離れになっている竹を見て桐はそう結論を出す。独特過ぎる断面は北条の技のもので間違いない。何があったのかは分からないが、楠が刀を抜いたという事実に桐が考え込んでいると、丸まっていた白兎がぴょこんと跳ねた。

 

  追わなければと白兎に目を向けた桐の動きを止める。大地から伸びた二つの線は竹のものではなく肌色の線。それを追って桐が顔を上げれば、兎を抱えピンク色のワンピースを着た小さな少女。そんな少女の耳にも兎の耳が揺れている。

 

「貴方がやったの?」

 

  怪しむ兎少女の問いに、桐は周りで散らばっている竹を眺めてふにゃりと顔を崩した。そうして立てば、ひょろりと高い男の背に圧倒されてか、少女が一歩後ずさる。

 

「私の友人がやったようです。何があったのかは分かりませんが」

「ふーん、変なの。人間が竹林になんの用? 永遠亭に用だとしても病人には見えないけど。それに今日は休診なの」

「永遠亭の方なんですか? それは良かった。私は平城十傑、五辻家第七十八代目当主、五辻桐と申します。かぐや姫様にお目通りしたいのですが案内していただけますか?」

 

  そう桐が自分の名を名乗ると、少女は目を丸くして何度も目を瞬いた。少し考え込むように明後日の方へ視線を投げ、その間に手から跳び去って行く白兎を慌てて手に取ろうとするが間に合わず、白兎は去っていった。そんな兎に少女はため息を吐き、疲れたような目を桐に向けた。

 

「……昨日の新聞に載ってたわ、あれから姫様の機嫌が悪いのなんの。それでも会いたいの?」

「何を置いても」

 

  即答し頭を下げる桐を見て、なによりその背にある大太刀を見て、これは私の手に余ると少女はため息をまた一つ零した。少し張り詰めた桐の空気に、そういうのは自分に合わないと言うように、手を頭の後ろで組むとくるりと体を反転させる。

 

「ついて来て。私はてゐ。因幡てゐよ、よろしく一千年前からの訪問者」

「因幡……。こちらこそ白兎様」

 

  桐の返事に気分を良くしたのか、ふらふらとてゐは歩いて行く。跳び歩いていた兎よりも頼りなく見えるが、それでも桐は大太刀を背負い直すと後を追う。かぐや姫への道が遂に見えたと恐ろしくも嬉しくおどおど歩く桐を横目に、てゐは鼻歌を歌いながら足を動かし反転する。鬱蒼とした竹林の中で竹にぶつからず器用に後ろに歩くてゐを桐は興味深そうに眺めた。

 

「姫様を守りに来たの?」

「そうなっちゃっているみたいですね」

「何よそれ。貴方なにしに来たのよ」

「旅を終わらせに」

 

  要領を得ない桐の答えにてゐは鼻を鳴らし、兎のようにぴょんぴょんと何度か跳ねた。そんな可愛らしい動きをするてゐをふにゃりとした顔で桐は眺めていたが、ふいにその視界が下に落ちる。

 

「あっはっは! ざんね」

「おや危ないですね」

「いぃ⁉︎」

 

  背後にぽっかり口の空いた落とし穴を桐は一度見やり、口角を下げて固まっているてゐに顔を近づけた。

 

  落とし穴に落ちそうになる瞬間素早く足を動かして、虚空に浮いた足場を蹴り前に進んだ桐は落ちずに済んだ。一瞬足が増えたようにさえ見える異様な動きに流石のてゐも固まり、目の前に突き付けられた柔らかな笑みに戦慄する。そんなてゐの手を優しく取って顔を寄せてくる男が恐ろしい。

 

「大丈夫、怒っていませんよ。白兎様はお茶目なお嬢さんですね」

「あ、あはは、貴方本当に人間?」

「なぜかそのセリフよく聞くんですよね、なぜでしょうね?」

 

  なぜかって、人の動きじゃねえからだよ! と心の中でてゐは盛大にツッコミながら苦笑いを浮かべる。平城十傑。その存在を昨夜新聞を見て大層機嫌の悪くなった輝夜からてゐも聞いた。腕はたつけど所詮ただの人間だった。一千年もなにをしているのか。少し悲しげにそう言った輝夜の言葉をてゐも忘れずに覚えていたが、どこがただの人間なのかと顔を青くする。

 

  少なくとも博麗の巫女や紅魔のメイドと遜色ない。桐以外の四人の人間も同じだけヤバいのかと気が重くなるのも当然だ。

 

「さ、さあね? 歓迎の印は気に入ってくれた?」

「気にいるか気に入らないかで言えば気に入りはしませんが」

「あ、ああそう」

「お嬢さんの手は暖かくて素敵ですね」

「あ、ああそう……」

 

  手の甲を指で擦ってくる男に顔を引攣らせて、てゐは一歩後ずさった。その距離を詰めようと桐が一歩足を出す。てゐが一歩下がれば、桐が一歩足を出す。ズルズル下手なダンスを踊っているような現状に、てゐは腕を振り上げた。

 

「ああもう! いつまで握ってるのさ!」

「いやつい」

「なにがついなの⁉︎」

「そう見つめないでください惚れてしまいます」

 

  もうやだこいつとてゐは泣き言を言いそうになるが、人前でそれは情けないとなんとか踏み止まる。そんなてゐに変わらぬ笑みを返す桐であったが、内心はとても穏やかではない。

 

  素早くなった鼓動がうるさい。てゐの後を追って一歩進む毎にかぐや姫に近づいて行く。顔を見てすぐにかぐや姫だと気付くのか。最初に口にするのはなにがいいか。かぐや姫を見て見惚れて動けないのは嫌だなあ。とぐるぐる頭の中を駆け巡り、ついいつもの寄り道へと逃げてしまう。それが悪いと思いながらも、女々しくもそれしか知らないために下手に時間を潰している。そしてそんな桐の笑顔が固まった。

 

  後ずさるてゐに肉薄し顔を寄せる。

 

  食われる⁉︎ と身を硬直させるてゐの肩に桐の両腕を伸ばされ、力強く掴まれた。気分は蛇に睨まれたカエル。近付いてくる桐の顔に思わずてゐは目を瞑ったが、次にてゐに襲いかかって来たのは、全身を包む浮遊感。抱き上げられたと感じた瞬間ぐるりと風が体を包んだ。

 

  ────チィン。

 

  と鳴った間抜けな音に思わずてゐが目を開ければ、目の前の竹に大きな穴が開いていた。メキメキと音を立ててゆっくり倒れていく竹が非現実的であり、思わず夢の中にでも入ったのかと錯覚させたが、てゐの体を掴んでいる桐の手の熱に目を覚まされる。

 

「なに?」

「……さて、先に一応聞きますが、アレはてゐさんのお仲間ですか?」

 

  桐を見上げ、笑顔の消えた桐の視線をてゐは追った。その先に突っ立っている一人の少女。手には見慣れぬ銃を持ち、何より頭から兎の耳が伸びている。青い髪を靡かせて、その顔を狂喜に歪めていた。そんな少女と出会ったことがあったかとてゐは記憶の箪笥を次々開けるがその誰にも該当しない。

 

「知らない。鈴仙でも、鈴瑚でも、清蘭でもない。まさか本当に?」

「流石菖さん、仕事がお早い。一応お聞きしますがお嬢さんは何者ですか?」

「……今日かぐや姫を殺す者」

「それはまた分かりやすい」

 

  引かれた引き金に合わせて桐は大太刀を振り抜いた。鞘から抜く時間はない。大太刀で弾丸を弾き桐は前進しようと体を前に倒すが

 

(────重い!)

 

  鞘は砕け、前進しようとしていた桐の体が後方に押し込められた。続けて引かれ続ける弾丸をてゐを抱えて転がるが、その後を追って弾丸が迫る。竹も地面も関係なく抉り抜いていく弾丸に桐は歯を食い縛りながら無理矢理体を前へと押し出した。

 

「わわわわ⁉︎ なんなのさ⁉︎」

「喋ると舌を噛みますよてゐさん! ちょっと本気出すので掴まっててください!」

 

  大地を踏みしめただ前に。片手で大太刀を振るうのはなかなかに厳しいものがあるが、そこは遠心力と前へと突っ込むスピードで補う。回り込むように月の使徒へと迫る桐に月兎は銃口を向けると躊躇なくその銃口が火を噴いた。

 

「しァっ!!!!」

 

  踏み出した足を軸に桐は回り、その回転を狭めるようによりコンパクトに大太刀を握った右腕を振るう。かち合った銃弾と大太刀は重い音を響かせて、月兎の隣の竹に大穴を開けた。

 

「コイツ本当に弾いて⁉︎」

「次はオマエだ」

 

  驚愕に目を見開く月兎の視界の下から、黒い頭が迫り上がる。柔らかい笑みは鋭さを得て、月兎の視界を縦断すると共に銀閃がその間に滑り込んだ。引き金を引くにはもう遅い。たったワンアクションの時間よりも短く、腹部にめり込んだ鉄の感触を感じた瞬間、月兎は遥か後方へと吹き飛んだ。枯れた笹の葉を宙に踊らせ、竹を巻き込みながら砂煙を上げる大地を睨みつけながら、振り切った大太刀を桐は肩へとかけた。

 

「……斬ったの? っていうか貴方本当におかしいわ」

「斬ってはいません。しかしこれで……終わりではなさそうですね」

 

  枯れ葉を撒き散らしながら立ち上がった月兎は、口から血と吐瀉物を吐き出しながらも銃を構えようと手を動かす。へし折れた右手を掲げようとしながら失敗し、忌々しげに桐に向かって視線を突き刺した。

 

「これは困りました。あんな目で女性に見られる日が来るとは」

「いや、そりゃ怒るでしょ」

「先に撃ってきたのはあちらなのに?」

「だいたい戦いなんてやってる方は悪いと思ってないんだよ」

「みたいですね」

 

  無事な左手でなんとか銃を構えた月兎が引き金を引く。照準などあったものではない。四方八方に飛ぶ弾丸は竹林に穴を穿ち、一発でも当たれば終わるだろうと花開く。それを見て桐は、大太刀を握った手で前髪を弄りながら大きく長いため息を吐いた。

 

「……これも運命ですかねー」

「なにが?」

「いえいえこちらの話です。そしてこれが、平城十傑としての初仕事だ。てゐさん酔ったらすいません」

「は? なに────⁉︎」

 

  掻き混ぜられた視界にてゐの言葉は形を失う。その場でぐるりと回った桐が、遠心力をもって加速する。何回かその場で大太刀を振りながら得たエネルギーを、ただ前へ行くことのみに昇華する。竜巻に巻き込まれた後吹き飛ばされたように、吹っ飛んだてゐの視界が次に見たのは月兎の首にめり込む大太刀。

 

  べギリッ、という音は始まりの音。ふらふらと数歩前に歩いた月兎の首は百八十度下へと回りその体は重力に誘われるまま竹林の枯葉に柔らかく迎えられた。

 

「まず一人。永遠亭への道は遠そうです」

「まず? いや今倒したじゃん」

「耳を澄ませてください。その立派な耳を」

 

  てゐの耳に駆け込んでくるのはいくつもの枯れ葉を蹴り上げる音。血の気が失せて耳を垂れさせるてゐの先でいくつもの兎の耳が揺れている。薄く笑う桐の顔を見上げ、てゐの顔はより蒼白になった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 昼

「ああ、もう嫌ですね、女性に追いかけられるのは夢でしたがこれはちょっと」

「そんなこと言ってる場合じゃないから!」

 

  飛んでくる銃弾を横目に見ながら、桐は足を動かし続ける。

  月兎に遭遇してから早数刻。絶えず桐はてゐをぶら下げながら迷いの竹林の中を走っていた。それを追うのは数えるのも嫌になるほどの月軍。大きく桐からは距離を取り、囲むように動きながら重い弾丸を吐き出してくる。おかげで迷いの竹林は穴だらけだ。そんな月兎たちに近寄るだけなら桐には難しくない。走り続けるエネルギーを前進することだけに回して動く桐の速度は尋常ではなく、なんでもない人の目には大太刀の刃の煌めきのせいで光が走っているようにしか見えないだろう。

 

  だがそれを僅かでも捉えるのが兎の眼。走る細長い波長を追ってなんとか銃口を向ける。迫る四方からの銃弾を散歩でもするように避ける桐と月軍の戦闘は、確実に泥沼へと足を突っ込んでいた。

 

  早送りされているような世界に放り込まれながら、桐のバッグと言われても納得しそうな程の時間ぶら下がっているてゐは桐の顔へと目を向けた。異常な速度で体を動かす桐の熱を下げるため、桐は滝にような汗をかいている。その体表を包む水分でより空気間の摩擦を下げ、速度を上げていることをてゐは知らないが、そんな状態でも辛そうではなく微笑みを絶やさない桐に呆れながらも頼もしげに言葉を投げた。

 

「ねえ、その立派な刀で片っ端から叩っ斬っちゃえば? そうすれば万事解決?」

「いや、それだと走る速度が落ちます。この銃弾の檻の中では不要な手だ。それに私は斬るのが苦手でして、斬れなくても弾けますが、アレじゃあね」

 

  桐の目を向けた先にてゐも目を向ける。高速の視界の中でも見える有機的な鎧を着込んだ者たち。桐とてゐを取り囲んでいる円の最前線に立っている者たち。何度か桐の大太刀を受けても骨を折ることなくゾンビのように立ち上がって来る。真っ二つにすることができれば話は違うのだろうが、どうにも月軍の装甲服と桐の普段使う技の相性とはよくない。

 

  迫る弾丸の一つを大太刀というレールに乗せ、桐は月軍の一人に向けて弾丸を反らすが、月軍の装甲服に着弾した弾丸は重さを失ったようにポロリと地に落ちた。容易に大地に穴を開ける弾丸がポップコーンのように無意味になる月の技術力に舌を巻きながら、桐はなおも足を動かす。

 

「重さで威力の全てを(まかな)っているのか面倒この上ないですね。自滅も狙えそうにない。それにしてもこの竹林はどこまで広いんですかね、終わりも見えない」

「大きさは無限じゃないよ。ただ緩やかな傾斜と竹林に流れてる魔力が無限に見せてるだけさ。それにしても」

 

  てゐは周りに目を凝らして頭を掻いた。桐を取り囲んでいる月軍はパッと見でも三十人強。高速で動き続ける桐によく着いて来れるものだと感心しながら、てゐが目を向けるのはその円のさらに奥。桐の方に顔も向けずに走っていく月兎を捉えた。

 

「もう何人も、桐には目を向けないで遠回りするように走ってくのがいるよ。少なくとも三十人以上、多分永遠亭を探してるんだと思うけど」

「包囲網を突破しなければ追えませんね。だが、突破しても行き先が分からなければ意味がない。彼女たちの一人を追っても永遠亭に着けるか分かりませんし、(しらみ)潰しに進めばゴールに行き着く迷宮とはここは違うでしょう?」

「そだね。ただ、私もこう視界がぐるぐるした中じゃ案内は無理だよ。私の能力に賭けて走り回るってのも一つの賭けだけどさ」

「てゐさんの能力ですか?」

 

  「人を幸運にする程度の能力」、そう言いてゐは悪戯っ子のように笑みを浮かべる。てゐの能力、てゐの足元の草花が全て四葉のクローバーだったり、普通の人間がなににも襲われずに迷いの竹林から抜け出ることができたりする。『幸福』という個人の基準によって左右されるだろう不確かな力の話を受けて、桐は大きく笑みを深めた。

 

「では私は幸運の女神をぶら下げているわけですか。手放すのが惜しいですね」

「そう言うってことは手放すわけ?」

「その間私が彼らを堰き止めますから、永遠亭までの道の確認をお願いしますよ」

「良いけどさ、幸運だからって弾が当たらないわけじゃないからね、ひょっとするとここで死ぬのが貴方の幸運だってことだって」

 

  笑顔を向けててゐの言葉を桐は遮る。その顔がてゐから離れていき、大地にゆっくり下ろされたと同時にてゐの周りに旋風が走った。

 

  前進の力を遠心力に。てゐを中心に円を描き、迫る弾丸の直線の動きに逆らわないように反らす。一発、二発、三発と重さを受け止めずに弾き続ける光景の全てを目に収められる者はここには居ない。唯一全てを知覚しているのは桐ひとり。ただひとり術でもなく技術で高速の世界を踏破する桐の目には、飛来する弾丸が放り投げられたティッシュくらいの速さにしか映らない。

 

  だがそれを弾く桐の顔色は決して良いものとも言えなかった。顔に浮かべた微笑は顔に浮かびそうになる不安を搔き消すため。かぐや姫の現状が気になるということもあるが、なによりも桐が一発でも弾丸を逃してゐに当たってしまえば、それで小さな白兎の少女は死ぬかもしれない。数センチの誤差で少女の命が散るかもしれない緊張感が、桐の微笑の端に歪みを生む。

 

  周りで散る火花たちを視界には入れずに、てゐは迷いの竹林に目を這わせた。縦横無尽に走った竹林の中で、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。ただ見ているだけでは景色はどこも変わらない。目を走らせるのは竹の上部。日々急成長する竹の一部分に、日夜竹林の中を動き回っているてゐだけが分かる刻んだ印を見て、漠然と自分の居場所を把握する。そこからどのルートが一番永遠亭に近いのかを計算していたてゐの目前で火花が走り、銀の輝きが横切るのを見て冷ややかに口端を上げた。

 

「……平城十傑ね」

 

  人の技で幻想の領域に踏み込んでくる人間を信用するかどうかは別だが、頼りにはなるらしいとてゐは小さな耳を揺らす。竹から目を外して周りへと目を向ければ、自分の周りに銀色の輪っかができている。歪な輪っかは絶えず形を変えながら、絶え間なく火花を散らしていた。花火にも見えなくない幻想的な光景に一瞬てゐは見惚れたが、それを描いているのはどちらも殺意の込められた技と技術の応酬であるとすぐに思い出し、呆れたように頭を掻く。

 

「桐、道がわかったよ、って⁉︎」

 

  言葉を投げかけた瞬間にてゐの視界は再び吹っ飛んだ。自分の体を掴む桐の腕の熱さに夢ではないぞと脳を揺さぶられて、目の回る意識を頭を振ってなんとか整える。少し息の荒くなった桐が小さく笑いながら再び前進するのを体に感じ、急に飛翔している戦闘機に突っ込まれたような感覚に、てゐは喉の奥からせり上がってくるものをなんとか飲み込み顔を上げた。

 

「き、急には止めてよ、吐くかと思った……」

「すいませんね、あまり余裕がなかったもので。てゐさんの服の袖に銃弾が掠った時はゾッとしました。流石幸運ですね」

「嘘⁉︎」

 

  そう叫びてゐが右腕を持ち上げると、服の袖の端が綺麗に半円状に削れていた。ひゅうひゅう風に揺れる袖を死んだ目で見つめながら、桐の腕に思い切り垂れ下がる。

 

「全部弾けてないじゃん⁉︎」

「いやいや、数分時間を稼いだ私を褒めて欲しいですね。誰かを守るのなんて全然やったことないんですから」

「えぇぇ、だってかぐや姫を守りに来たんでしょ?」

「今は、そうなっているだけです」

 

  平城十傑の基本方針は、月の使者に攫われたかぐや姫を奪還することである。そのために必要なのは敵を殺し奪う技術であり、決して守る技術ではない。攻めには強くても守りにはそうでもない。かぐや姫が実は攫われておらず、幻想郷にいる現状が特殊なのであり、もし初めからかぐや姫が月に帰っていなかったと分かっていれば、平城十傑の技は全く違ったものになっていただろう。

 

  本来とは違う技の使い方に慣れていないのは誰もが同じ。楠然り、梓然り、己を刃とするためにしか鍛え続けていなかったのだから、守る者がすぐ横にいる現状にどうしても歩みが遅くなる。それでも手近にある命を零しはしないと桐はてゐを抱え直し、目の前に迫った銃弾をまた一つ避けた。

 

「それでてゐさん、場所は?」

「あっち。目印になるようなものはほとんどないから行き過ぎないように気を付けてよね。迷ったらまた止まらなきゃいけないんだから」

「分かっておりますとも」

 

  てゐの指し示した指先を眺めその先へと目を飛ばす。道を塞ぐように立つ月兎に向けて飛ぶように桐は地面を蹴ると、飛ぶ銃弾よりも速く月兎に向けて肉薄し大太刀を振るった。後ろに転がる月兎を跨ぐように飛び越えて先に居るのはまた別の月兎。二重三重の円陣に小さく舌を打ちながら僅かに落ちた速度のまま桐は突っ込む。弾丸を潜るように避けて刀を振った。弾ける月兎には今度は目も向けずに足を踏み込む。

 

  そんな桐の足に一発の銃弾が擦ったのに桐は顔を歪めて、変わらず足を踏み抜いた。血が僅か大地に滴るのを眺めたてゐが心配そうに顔を上げたが、それに桐は笑みを返す。

 

「ちょっと」

「大丈夫ですよ、まだ進めます」

 

  ただ前に。怪我も気にせず前進するそんな桐の姿に不安を覚えたてゐの予想は的中する。永遠亭へと進むごとに増える兎の耳。前へ進むごとに壁となって立ちはだかる。十や二十ではきかない月兎の群れは五辻の風を感じれば銃口を向けて鉄の塊を飛ばす。鉄同士の衝突音に混じって時折響く肉を削る音に耳を抑えたい気持ちを堪えててゐは顔を上げる。大太刀を振り抜き壁を弾く桐の汗には朱色が含まれたいた。

 

「ねえ」

「大丈夫、まだ進める」

「そうじゃなくて」

 

  てゐの言葉は届いているようで届いていない。てゐに笑顔を返すこともなく、「大丈夫」と言うその言葉に全て流され桐はただ前へと進む。空に数本の赤い線を引いて。

 

  増えていく月兎の数が桐に教えていた。かぐや姫との距離が近くなっている。揺れる兎の耳が増えるごとに桐の心臓は高鳴り、どれだけ傷を負おうとも足はより強く大地を蹴った。何年も掛けた。十年、百年、二百年と時間だけが積み重なり、目的には一歩も近付かなかった。それが今最初で最期の一歩を踏み出そうとしている。

 

  それまでにかぐや姫はまだ進んでいる場所にいるのか。月軍はどこまで進んでいるのか。もしかぐや姫がいなければ。本当に終わりなのか。自分はいったいどうしたい? 浮かんでは消える不安を前に進むことでなんとか置き去りにする。

 

「ねえ桐」

「大丈夫だ。まだ行ける」

「そうじゃなくって! もう着くよ!」

「それは……」

 

  竹林の先に光が射した。少し赤らんだ陽の光を追って桐は歯を噛み締めてより強く足を出す。目の前で揺れる兎の耳はもうない。いつしか月軍を追い越して、竹林さえも追い越した。開けた視界に飛び込んで来た光に目を細めて、桐の足はゆっくりと止まった。

 

  古くから立つ日本の屋敷。寝殿造の家屋、京都にある桂離宮と同じかそれ以上の雅さを滲ませながらも、まるで時代を感じさせない。遥か昔に単身飛び込んだような時間の錯覚と、時の止まった静かさの中、一歩桐は足を踏み出した。

 

「誰? イナバ?」

 

  風に乗って流れて来た声に、桐は肩を跳ねさせる。力強く、飛び交う無数の銃弾からも当たらぬように抱えていたてゐを桐は手から、とさりと落とした。警告もなく地面に捨てられたてゐは砂を吐きながら文句の一つでも言ってやろうと顔を上げたが、桐の顔を見た途端に何も言えなくなってしまった。

 

  笑顔ではあった。笑顔ではあったが、それを笑顔と断じていいのかははなはだ疑問だ。それは笑っているようにも見えれば、泣いているようにも見え、歓喜に満ちているようにも見えれば、また悲しげにも見える。歪んだ口端は上がっているのか下がっているのかも定かではなく、そんな中で桐の赤茶色をした瞳だけは少し離れた縁側に固定され全く動かない。

 

  その目はただ夕日に煌めく長い黒髪を追っていた。黄昏時に一瞬だけ垣間見えるピンク色に染められた服を上に纏って、十二単のように長い夕焼け色のスカートを身の詰まった縁側の上に滑らせている。足音の代わりにする布の擦れる音は静かに、だが確実にその距離を桐へと詰めて。

 

  永遠の月の姫の顔が桐へと向く。その動作が作る連続した刹那を見逃さないように桐は目を凝らしていたが、少女と目が合った瞬間に片膝を折り頭を下げると大太刀を横へと乱暴に落とすように置いた。鉄が土を叩く音はまるで幻聴のように聞こえた。

 

  口が渇く。浅く息を繰り返す桐は、なにかを言おうと息を吸い込むが、蓋をされたように喉から先に言葉が出ていかない。血濡れの、それもぼろぼろの学生服に身を包んでいる男が膝をついている姿を見た少女の顔は複雑な模様を描いた後にその背後に立っているてゐへと向けられる。

 

  その男がいったい何者であるのか。誰かは分からないが、外来の服から察しはする。昨日目を通す羽目になった新聞、そして、その傷を見て、竹林から流れてくる血と硝煙の匂いに眉を少し傾けると、顔を背けたてゐから見切りをつけて少女は男を見下ろす。

 

「貴方は……、何の用かしら?」

 

  弓の弦を張ったような凛とした少女の声に、桐は笑顔を返そうとしたが意思と反して動けない。少女からの重い言葉のせいではない。ただ、自分の重さに動けなかった。地に張り付けにされたように動けぬまま、膝を折って頭を垂れる、時が止まってしまったかのように。耳に届く布ずれの音は、少女が動いていることを桐に教えた。遠ざかっているのか、それとも近づいているのか、骨すら揺さぶるような自分の心の鼓動が大き過ぎて判断がつかない。心臓が喉からずるりと零れ落ちてしまいそうだ。

 

  目を瞑り、歯を食い縛り、狭まった喉に大きく息を吸い込んで無理矢理呼吸をする。前に。ただ前に。これまであらゆるところへ足を運んだ。海の上も、氷の大地も、変わらずその上を走ってきた。これまでの過酷な道のどれよりも過酷な道に、どうしても足を出しかねる。一歩踏み出せば終わるのに。

 

カヒュ……!」

 

  吐き出そうとする桐の声は言葉にならず、詰まった音になって吐き出された。身体中に噴き出していた汗は一斉に引き、桐の熱を冷やしてしまう。体を包む竹林からの秋風は、絶対凍土から吹き込む風のようで、桐の薄く開けた歯は噛み合わずにかちかち音を立てた。

 

  聞かなくても少女が誰かは不思議と分かった。少女こそがなよ竹の姫君。

 

  終わり。全ての終わり。旅の終わり。五辻の終わり。荘厳な道に突っ立っている素晴らしいゴールテープが恐ろしい。このために来たはずなのに、こうならないことを望んでいたというように。この先には何もない。道のなくなった荒野の先をどうすれば進むことができるのか。死を怖がる生者のように、ただ『無』というものが怖い。

 

「……用がないのなら」

ヒュ……ガッ……、私は‼︎」

 

  見えずとも、目の前で風が翻るのを感じ慌てて桐は声を絞り出す。風に乗って飛んで行ってしまいそうなゴールテープを引き止めるため、それが本当に自分が欲しいのかも分からず消えてしまいそうな声で『私は』と幾度も繰り返す。

 

  ──言え。

 

  ──今だ。

 

  ──この時を待っていた。

 

  ──言え。

 

  ──言え‼︎

 

  背中から数多の男女の声が聞こえて来たような錯覚をする。それはこれまでの当主たちの声なのか。背を押すはずの声は逆に楔となって桐に打ち突けられた。死んだ者の声が何になる。長い時を渡って回ってきた(たすき)。桐はゴールする時にたまたま受け取っただけに過ぎない。なぜ自分なのか。どうして今なのか。だが伝えなければ。頭の中を回り続ける自問自答に、言葉がどうしても続かない。

 

  なぜ引き止めた?

 

  なぜ言葉を吐いた?

 

  ──そしたら戻って来てくれればいいのよ。私はここにいるんだもの。

 

  桐の前に桜色の蝶が舞う。風によって流されてきた枯葉の一枚が夕日に当てられそう見えただけだったが、桐には一瞬確かにそう見えた。それだけで体に張っていた力がすっと消えた気がした。

 

  死人の言葉がなにになる。行き着いた先になにがある。行こうと行くまいと行き着く先は絶対同じ。生きているなら誰もが必ず遠く、そして近い未来に行き着く場所。冷たくも儚い冥土の奥で、永遠に変わらぬ一人の少女が微笑んでいる。その柔らかな笑みに、きっと自分はふやけた笑みを返すのだと、桐の顔がゆっくり上がる。

 

「……私は桐。平城十傑、五辻家第七十八代目当主、五辻桐。恐れ多くもかぐや姫様にあるものを届けに参りました」

「…………そう、五辻ね、……それで? 届け物とは何かしら? なにも持っているようには見えないのだけど」

 

  血濡れの男が唯一持つのは大きな刀。それで斬りかかる気なのか。死を与えに来たのか。己の体が二つに別れる姿を幻視しながら、男が何を言う気なのか耳を澄ませるかぐや姫の顔を見上げて、桐は唇を一度舐める。決して聞こえないことがないように。たった一度、自分が色褪せないと信じるものがひとりの少女に伝わるように。夕日を写し取ったような桐の瞳が強く輝き、かぐや姫の瞳をしかと見つめる。

 

「届けものは、物ではありません」

「……ではなんなの?」

 

  この時を待っていた。この瞬間を。五辻家が千三百年運び続けた人ひとりの命、七十七人の命よりも重い価値があるのかも分からない不確かな代物。だが、それが掛け替えのない素晴らしいものであると小さな頃に先代から話を聞いた頃より誰より信じて。

 

「私は──」

 

  時代が移り言葉のニュアンスさえ変わったが、本質は一度も変わっていない。ずっと、そうずっとこの言葉だけは忘れぬように思い返した。

 

「──私は貴女を愛しておりました。……帝様からの遺言です」

 

  千三百年だ。千三百年。この一瞬を、十秒にも満たないほんの短い言葉を伝えるために、何人もの者がこれを運んだ。全てを言い終え桐はふにゃりと崩れた笑顔を添えて、表情の固まったかぐや姫の顔を数瞬眺めて顔を下げる。これ以上は必要ない。極論を言えばかぐや姫の反応は関係ないのだ。かぐや姫の返事を返す相手はもういない。だが、形の変わらぬ『愛』は確かに。

 

  だから。

 

  桐は大きく息を吸うとゆっくり吐いた。

 

  桐の両肩に降り積もっていた全てはすべからくが消え去った。

 

  桐の旅はここで終わり。

 

  五辻の千三百年に渡る仕事もここで終わり。

 

  だから、

 

  遂に、

 

  ようやく、

 

  桐の歩みは静かに止まった。

 

  止まったのだ。

 




北条 第三夜 夕 に続く


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

袴垂
第一夜 昼


  影が歩いているような姿だった。直上に上った太陽の光に照らされて、人里に蠢いている色とりどりの着物の隙間を埋めるように、白い影が動いている。蒲公英の綿毛のようにふわりとした頭髪が風に揺れ、人々の喧騒の中を緩やかに流れる風に流され進んでいく。

 

  人里、幻想郷で数少ない人々が集まり生活を営んでいる場。幻想郷という名の箱庭の中で、人々の集まる人里は、大きな往来に多くの人の姿があり、辺境の秘境であるという事を忘れそうになる。外の世界で時間に追われる人々と違い、昼間から酒を嗜む者、店前で声を張り上げる客引き、艶やかな格好で男を誘う遊女と、あらゆる人々が小さな人里に詰め込まれていた。

 

  それを横目に見ながら、白い影は陽の光を避けるように足を進めていく。碧色の学ランに身を包んだ薄白の頭髪。髪色から姿形まで目を惹く者の多い幻想郷であるが、その中で人里を歩く外来人の男もまた目を惹く存在で間違いない。だが、すれ違う人々はただすれ違う影を視界に納めるように気にせず、目も向けずに通り過ぎて行く。男もまたそれを気にする事もなく、黒や灰色の質素な着物を着る者達には目も向けずに先を急いだ。

 

  そんな中で男が足を踏み入れたのは、往来の両脇に店の並んだ商店街、呉服屋、米屋、酒屋、団子屋、外の世界ではあまりお目にかかれぬ木造の古めかしい商家から看板建築の派手な見た目の建物まで、太めの路を埋め尽くす人々は、気取った様子もあまりなく、これが普段というように、肩が触れ合いそうな程に隙間がない。

 

  だが、男はそれも気にせず足を進めた。ふわふわふわりと人を避けて進む風に乗るように。薄皮一枚の差を残し、人々に決して触れる事なく男は進む。そんな中ふと男の足が止まった。だがそれも一瞬、人々の目が足を止めた男に向けられるよりも早く、足を再び動かし出す。

 

  数多の人々の間にいて目立つ姿。金と黒色の入り混じった寅柄の頭髪、人里の人々よりも質の良さそうな衣服を着込み、隣には側仕えのような少女が引っ付いている。側仕えの頭から生えた鼠のような耳とスカートから伸びる尻尾を見て男は一度目を瞬き、寅柄の頭髪の女性に目を戻して小さく唇を舐めた。

 

「ナズーリン、後はお米とお味噌ですかね」

「ご主人、後お酒も買ってきましょう」

「んー、たまには良いでしょうか」

「おっと、ごめんなすって」

「あ、いえいえこちらこそ」

 

  これまで人々を避けていた白い影がふわりと寅丸星の体を擦るように通り過ぎ、ちらっと背後に通り過ぎた白い綿毛を視界に収めようと振り向いたが、そこにはもう男の姿はなく人垣だけが少女の目に映り、ナズーリンに袖を引っ張られて少女もまた道の先に消えて行く。それを横目で男は眺め、手に持った小さな屋根のついた水晶のようなものを片手でお手玉して目の前に掲げた。

 

「んー、オレの勘がなかなかの値打ちもんだと言ってんな。幾らで売れるかね」

 

  そう言いながら男は人目につかないように懐へと毘沙門天の宝塔を隠す。

 

  掏摸(スリ)

 

  犯罪であるが、そんな罪など気にしていないというように、男の足取りは余計に軽くなる。当たり前だ。なぜなら男の一族は代々そういう一族だから。人から物を奪う事など当たり前。平城京に名を轟かせた大盗賊、それが男の祖先だった。

 

  どんなものだろうと男の一族は奪って来た。金、酒、女、終いには名声や身分まで。その暴虐無人さに、一時は妖怪よりも恐れられた人間。だが、そんな者にも奪えなかった者がある。それこそ平城京で一番の姫と謳われたなよ竹のかぐや姫。手に入れるどころか、奪われると言う結末に、これまで山賊として生きてきた初代の当主は怒りに震え、必ずかぐや姫を奪ってみせると誓ったのだ。

 

(馬鹿らしいやな、オレが奪われたわけでもなしに)

 

  そんな話を男は先代から聞いた時、心底どうでもよく、話途中に船を漕いでしまうほど男は退屈だった。祖先と言えど所詮他人、初代が奪われたのは、初代が間抜けだっただけだと男は考える。奪われるのも奪えないのもそれは当人が悪い。本当に大事なものなのならば、絶対に奪われぬようにするべし。そんな教えを一身に受け、男は幻想郷にやって来た。

 

  幻想が闊歩する幻想郷、いったいどれほどの宝物が眠っている事か。外の世界ではお目にかかれね宝物が必ずここにはあるはずだと、男はそれだけを楽しみにやって来た。早速上物の獲物を一つ手に入れて男は上機嫌に歩いていたのだが、その肩に後ろから手を置かれる。

 

  優しく、しかし力強く、その手の温度に男は口端を歪めて、誰にも聞こえないように小さく舌を打つ。外の世界だろうと、男の歩みを止めるものはほとんどいない。人の意識の隙間を歩く男が肩を掴まれたのなどかなり久し振りの事だ。男は振り返りながら、歪めていた口端を上げて笑顔に変えて振り向いたが、そこに人の姿はなく、おかしいと目を落とすと、薄い黄色のリボンがついた鴉羽色の帽子。

 

「あーなんか用かね嬢ちゃん」

「わ! お兄さん私が見えるの?」

 

  自分で肩を叩いておいて見えるとは意味の分からない事を言うと男の笑顔が固まった。見上げてくる瞳孔がないような少女の不思議な目、青い血管のような管が少女に巻きつき、目を瞑ったような第三の瞳が少女の左胸の上に浮いていた。

 

「誰にも気付かれずに歩いてたから仲間だと思ったんだけど、お兄さん人間?」

「そうだな、じゃあオレはコレで」

 

  触らぬ神に祟りなし。少女の手を振り解き先を急ぐ。さっさと先に進みたいのに、少女、古明地こいしは男の周りをグルグルと周りどこかへ行く様子はない。その少女の姿を目で男が追っていると、少女は嬉しそうに男に引っ付いて来た。

 

「お兄さん面白いね! お兄さんには無意識ってないの?」

「馬鹿らしいやな」

 

  一言でこいしの疑問を男はばっさりと斬り捨てた。無意識とは意識していない状態。それこそ男の一族が最も恐れる状態だ。

 

「自分の体を完全に操るにはなあ、小さな事も取りこぼさずに分かってなきゃいけねえのよ、それ即ち無意識を塗り潰す事に繋がるのさ。そうすれば相手の無意識にも滑り込めんのよね」

 

  そう言いながら男は手に持った巾着袋をお手玉する。「私の‼︎」と言ってこいしは男の持つ巾着袋に飛び付こうとするが、男はそれをひょいと避けて足を進めた。ミスディレクション、人の注意を反らしてその間に滑り込むなど男にとっては造作もない。

 

「授業料だぜ、勉強になったな」

「むー、凄いけどそれって泥棒じゃない」

「泥棒結構、オレは平城十傑、袴垂家九十二代目当主だぜ。俺の先祖は平安時代に一番有名だったが、その名声を奪ってオレが現代最高の盗賊になるのよ。袴垂椹(はかまだれ さわら)、今に幻想郷でもこの名を聞くぜ、オレを見つけた嬢ちゃんにサービスよ」

「何それ面白そう! 私も着いてく!」

 

  何言ってんだこいつと男はこいしから目を外すが、そのまま少し思案して、歩く椹とこいしに誰も目を向けていないのを目に留めて小さく唸る。椹も幻想郷に来たばかり、幻想郷の土地勘などなく、それにこいしはなかなか使えそうだと当たりをつける。外の世界では盗みに特化した知り合いなど全くおらず、椹は一人でやるしかなかったが、自分と同じように周りの目を避けて歩ける少女ならばいいかとこいしに目を落とし笑顔を見せる。それを見たこいしもまた笑顔だ。

 

「いいぜ嬢ちゃん、今から嬢ちゃんはオレの子分よ。道案内でも頼むぜ、オレの事は(かしら)と呼びな」

「はーい、お頭! あと私は古明地こいしだよ!」

「おうこいし嬢、そいじゃあ早速この幻想郷でお宝がありそうな場所を教えてくれよ」

「うん! こっちこっち!」

 

  こいしに手を引っ張られて椹は先を急ぐ。目指す先は何処であるのか。椹にとっては何処でもいい。目を惹く輝かしい宝物があれば、椹は手を伸ばすのだ。

 

 

 ***

 

 

「で? ここなわけ?」

 

  そう椹が聞けば、隣に立つこいしは満面の笑みを浮かべて大きく頷く。鼻を鳴らして椹が見つめる先に映るのは真っ赤な洋館。城と言っても良いほどの大きさがある。陽の光に照らされて深紅に輝く洋館は、数多の血で染め上げたようであり、漂う空気からは血の匂いがしてくるようだった。

 

  恐れと神秘。見ているだけで産毛立つような館の雰囲気が、椹の琴線に触れ、楽しそうに手を鳴らす。見るからに何かがありそうな館、触れてはいけない空気だからこそ、逆に手を伸ばしたくなる。好奇心という人の持つ危険な毒を楽しむように椹は喉を鳴らした。

 

  紅魔館、吸血鬼の住まう深紅の館。

 

  それを聞いて椹の笑みがまた深くなる。恐怖も幻想も好奇心も全てが椹が今を楽しむための調味料。「行くぜ」とこいしに言葉を落とし、スキップでもするかのように足を出す。壁をよじ登って中に入るなどという格好の悪い方法を椹は選ばない。足を向けるのは鉄製の豪華な装飾のついた門。足を向けながら、門の傍に立つ影を見る。

 

  緑色の華人服を着た赤い髪の乙女。目を瞑って腕を組み門壁に背を預けている。目に映るプロポーションと纏う空気から、戦闘の素人ではないと椹は察する。歩きながら足音を消し、紅魔館の門番である紅美鈴の前に立つが、美鈴は身動ぎ一つせず、一定の浅い呼吸のまま秋のカラッとした空気をいっぱいに吸い込んでいる。簡潔に言って眠っていた。

 

「不用心な事この上ねえやな。行くかこいし嬢」

「ほっといて良いの?」

「気付かれるのは最後で良いのよ。さてさて」

 

  椹が見たところ門に鍵などはかかっていない。竜の頭のような装飾の口にある取っ手を掴み、ゆっくりと開けていく。金属同士の軋む音を極限まで掻き消して、独りでに開いたような門の隙間に椹もこいしも体を滑り込ませて門を閉める。

 

「待て」

 

  その言葉に椹とこいしの体が固まる。弓の弦を弾いたような鋭い声。背中から放たれたその言葉に椹とこいしはゆっくりと振り向くが、人の影が伸びてくる事もない。二人は顔を見合わせて門の側へと再び近寄ると、美鈴はむにむに口を動かして再び「待て、待ってください」と口にして頭を掻いた。目を瞑ったまま。

 

「寝言かよ」

 

  途端に馬鹿らしくなり椹はため息を零して館を目指す。見れば見る程視線が吸い込まれるような赤色。その赤い外壁を目に留めて、口のように佇む木製の扉を目指す。軽く引けばこれまた鍵も掛かっておらずスルリと開く木製の扉。鍵を掛ける必要もないのか、来るもの拒まずの空気に乗っかろうと中へと入る。

 

  シャンデリアが星々のように輝く大きな玄関ホール。隅々まで綺麗に掃除され、埃一つない大理石の床は、鏡のように椹とこいしの姿を薄っすらと写した。

 

  赤い派手な外観と違い、洗練された洋室の内装に、これまた良い物がありそうだと舌舐めずりする。そんな二人の元に近づいて来る弱い羽音。それを聞いて椹は装飾品の影に潜むように身を滑らせる。その直後廊下に続いていると思われる廊下の奥からやって来る透明な羽を生やした少女の姿。

 

  キョロキョロと少女は目を動かして、隠れる椹と隠れもせずに突っ立っているこいしには目もくれずに引き返していく。

 

「おいおいアレが妖精って奴か、びっくりだぜ、それよりこいし嬢よ、なんでアレはこいし嬢に気付かなかったんだ?」

「私は無意識を操れるから」

「ほー、そりゃ凄い」

 

  本当にそう思っているのかいないのか適当に椹は返事を返し、辺りに耳を澄ませる。至る所から聞こえてくる薄い羽音達から言って、至る所に妖精がいる。それに顔を顰める事もなく笑みを深めて顎に手を伸ばす。

 

「何を奪うのが良いかね、こいし嬢よ、何かこうここの主人が大事にしてるもんとかねえのかね」

「ここの主人って言うとレミリア=スカーレット?」

「レミリア=スカーレット? それが主人の名前かや。名前にまで『紅』と付いてるとは、それを取るのも面白そうだが」

「うーん、あ! 確か紅魔館の地下に大事なものを隠してたよ」

「ほっほーう、地下があんのね」

 

  洋館に地下室。これほど御誂え向きなものはないと椹は手を打つ。何があるのか分からないのだから分かるものを目指すのが一番。こいしと二人なんの悪気もない明るい笑みと悪どい笑みを合わせて薄く笑う。

 

「さてどこから地下に行くかね」

「こっちこっち!」

「知ってんのかい……、こいし嬢はココに来たことあんの?」

「うん何度も!」

 

  こいしの返答に椹は肩を竦めてスキップしながら先を行く少女の後を追う。椹の想像以上に有能な案内役の背を椹は見ながら、しばらく石造りの廊下を歩いていると、こいしは壁の一部に急に手をつく。それに合わせて僅かに凹む石の壁。

 

「隠し扉とは凝ってんなー」

「うーん固いぃ、椹のお頭手を貸して!」

「あいよ」

 

  壁に引っ付くこいしの背後から扉へと椹も手をつき力を入れるが確かに固く開かない。扉の縁から溢れる僅かな埃が大分使われていない事の証。ズズッと石同士が擦り合う音に合わせてより強く両手で椹が押すと、固い蓋が弾けるように扉が開いた。

 

「おぉい⁉︎」

 

  急に開いた扉に負けてこいしを巻き込んで椹は扉の先へと落ちて行く。扉の先にあった苔むした階段は滑りやすく、途中で止まる事もなく暗闇の中を転がり落ちる。壁にぶつかる事もなく、薄暗い床を滑って行った。摩擦に体を擦らせ、椹の目に映るのは苔むした石の通路に貼り付けられたランタンの炎の灯り。椹が身を起こせば、上に乗っかっていたこいしがコロリと転がった。

 

「……痛てえな、おい平気かこいし嬢」

「うえーん腰打った、お頭おんぶ」

「自分で歩け子分そのイチ」

 

  体の埃を手で払い、こいしを抱き上げて地面に下ろした。ぶーたれてこいしが椹の背に張り付こうとしてくるが、それを手で払って椹が周りに目を這わせていると、結局こいしはその隙に椹の背に張り付く。初対面の相手によくもまあここまで厚かましくできるものだと、椹はなけなしの常識によって肩を落とし、暗闇に目を慣れさせる。

 

  暗く突き当たりの壁も見えない石造りの地下通路。椹も外の世界で若いながらに色んなところへと忍び込んだが、ここまで物語に出てくるような絵に描いた場所は初めての事だ。逆に気分が高まると口の端を上げて、笑うと、背に乗っかったこいしが男の綿毛のような頭髪をわしゃわしゃと撫でる。

 

「お頭どうする?」

「ここで行かなきゃ盗賊の名折れよ。あと、髪を弄んなや。ただでさえ癖毛で困ってんのに」

「えーでもふわふわでいい感じ!」

 

  髪を弄るこいしの手を椹は後ろ手で払うが、変わらずこいしは楽しそうに椹の髪を弄り、「三つ編みー!」と言いながら椹の髪を勝手に纏め出す。相手をするのも面倒になった椹は手を止め足を出しながら、石の壁に手をつける。

 

  冷たい地下通路にいったい何があるのか。吸血鬼の主人が大事に隠しているもの。吸血鬼こそまだ椹は見てはいないが、大層な宝物なのだろうと想いを馳せて口笛を吹きながら足を踊らせる。先も見えぬ地下通路に気負う事もなく椹は歩き続けるが、道の先どころか扉も見えない。

 

「そう言えばお頭は何で宝物を盗もうとするの?」

 

  椹の髪を弄りながら、退屈にでもなったからかこいしは純粋な疑問を口にする。幻想郷にも変わった者は多いが、人間で吸血鬼の住まう屋敷に嬉々として忍び込む人間など、霧雨魔理沙以外で初めて見たこいしだ。それも霊力も魔力もない。「んー?」と椹は唸りながら、しかし目は前から動かさずに答える。

 

「綺麗だから」

「それだけ?」

「それだけ」

 

  そう言って椹は口を閉じる。それ以外うんともすんとも椹は言わない。ただこいしを背に乗せたまま足を動かし、ランタンの隣でふと椹は足を止める。

 

  目に映った重厚そうな木の扉。それも所々ひび割れているようで、周りの石壁も欠けている。それを見て椹は手を擦り合わせた。

 

「さてさて、見るからに怪しい扉だぜ。何があるかね、宝石か宝剣か、いや吸血鬼の宝物ならもっと凄いかや? 何にせよあの感じなら罠の一つや二つくらいぃぃぃ⁉︎ おいこいし嬢⁉︎」

「さあ行こう‼︎」

 

  椹の背から飛び出したこいしが扉に張り付き引っ張って行く。罠も気にせずに扉を開ける豪胆さに、呆れと感心が合わさってため息を零し椹はこいしに近づくとその頭に手刀をぽすりと落とす。

 

「盗賊の心得その一、いかにも怪しそうなものには警戒しろだぜ」

「警戒してどうするの?」

「警戒して一気に開けんのよ」

「なるほど!」

 

  全く心得になっていない椹の話にこいしはなぜか納得して、二人してこっそり部屋の中へ顔を出す。扉の表面よりも更に抉れた石の壁。砕けたベッドと思われる木片。

 

「誰?」

 

  その中心で綿の飛び出たクマのぬいぐるみを抱えた金髪の少女。その赤い瞳が向けられる。宝石のようなものがついた骨張った翼をはためかせ、赤い服を暗い湿気が立ち込める部屋に靡かせる。

 

「……なるほど、宝物は少女かや? こりゃまた変わってんな、流石は吸血鬼の宝物よ」

 

  椹はバレた事もありのっそりと壁から体を出し、少女の前へと躍り出る。それをおかしそうに首を傾げて眺める金髪の少女に警戒する事もなく足を向けた。

 

「嬢ちゃん一人かい? こんなところに」

「うん、四九五年もここにいる」

「四九五年? そりゃあまた、体に苔まで生えちまいそうだぜ」

「苔なんて生えないよ。それよりも人間が何しに来たの? お姉様の知り合い? 変わった格好」

「お姉様って事は妹か、オレは外の世界から来たのさ、幻想郷の宝物を奪いによ」

「外の世界? 外来人って人間ね! 初めて見たわ‼︎ へー」

 

  嬉しそうに手に持ったクマのぬいぐるみを放り捨てて、骨張った羽を一度羽ばたき砕けた石の床にフランドール=スカーレットは足をつけた。新しい玩具を見るように、その紅い瞳を怪しく細めて、指を咥えながら椹の下まで寄って来る。

 

「私はフランドール=スカーレット! 外来人のお兄さんは泥棒さん?」

「そうとも、袴垂椹、今に名を轟かせる泥棒さんよ」

「そのお頭の子分そのイチ、古明地こいし!」

「へー、心を閉ざしたさとり妖怪までいるんだ。ねえ? 私と遊んでくれる? ここってとっても退屈なの。入って来た泥棒は撃退しないと」

 

  椹の背中からひょっこり顔を出したこいしを見て、可笑しそうにフランドールは笑うと、椹に輝く赤い瞳を向けて手を差し出す。小さな手のひらを大きく広げて、その手の中に何かが吸い込まれるように丸い球体が形成される。椹から何かを奪うように。それを見て椹の顔が初めて歪んだ。忌々しそうに目を細め、

 

「キュッと……」

 

  と言ったフランドールの口の動きに合わせて、椹は素早く手を振った。吸血鬼の目を持っても早いと感じるその動きにフランドールは笑みを深めて「ドカーン!」と強く手を握り込んだ。目の前で男が赤く弾ける様を幻視して、その通りになるとフランドールは思っていたのに、椹はつまらなそうに顔を歪めるだけで全く変わらない。

 

「オレはな、奪いはするが奪われんのが一番嫌いなんだや」

 

  そう言いながら椹は親指と人差し指でつまむように不確かな黒い球体をフランドールの前に掲げる。破壊の核となる『目』の姿。フランドールは目を見開き、『目』と椹の顔を交互に見る。

 

「どうして?」

「はっはっは! オレは世界最高の泥棒よ! 形あるものもないものもオレに奪えねえものはねえ! コレが何かは知らんがね、オレから奪おうとするとは大した嬢ちゃんだ!」

 

  椹はいたく気に入ったと言うようにフランドールの金色の髪をわしゃわしゃと撫でる。そのままフランドールを品定めするかのように椹は吸血鬼の妹を見回して、そしてパシッと手を合わせた。

 

「さてフランドール嬢や、行くとしようかや?」

「え? 行くってどこに?」

「オレは盗賊だぜ? 吸血鬼の宝物を奪いに来たのよ。フランドール嬢が宝物なら、それを奪わずに何を奪うよ?」

「おかしな人間、私は吸血鬼よ?」

 

  呆けて気味の悪いものを見るように目を細めるフランドールを見て、椹はより大きく笑う。暗い地下通路に似つかわしくない明るい笑い声。だからどうしたと言わんばかりに身を仰け反らせ、背中に張り付いていたこいしがずり落ちる。

 

「関係ないね! それが誰かの宝物なら、オレの持っていない綺麗で素晴らしい輝きならすべからくオレは奪うのよ! だからフランドール嬢よ、オレはここの主人、レミリア=スカーレットから嬢ちゃんを奪うぜ! 逃がしゃしねえよ、オレは獲物を逃さない」

 

  言いながら椹はフランドールの鼻先へと指先をつける。椹の持つ灰色の瞳を見開いて、それを腕で払おうとしたフランドールの動きは読まれていたように椹に避けられ、壁を背にして椹はまた笑う。逃げきれずに壁と椹に挟まれたこいしは「ぷふぅ」と空気の抜けた風船のような声を出して、何とか這い出ようと手を伸ばす。

 

「椹のお頭ぁ、苦しぃぃ」

「ああ悪いなこいし嬢よ」

「変な奴ら、だいたい出たらアイツに追われるわよ。出てっちゃダメって、屋敷から一歩も出た事ないもん」

「さてさて、次はどこへ行こうか。吸血鬼の妹はゲット! 幻想郷中の宝物掻っ攫うぜぇ」

「へいお頭! 次は人里に戻ろうよ! 屋荒らししよ屋荒らし!」

「ばっか、こいし嬢よ! それならここに来る前にそう言え!」

「聞いてないし……」

 

  ため息を吐きながらフランドールは二人を見る。狂気に蝕まれているフランドールと同じように、何かが致命的にズレている二人。フランドールを怖がらず寧ろ連れ出そうとする始末。あまりに二人がおかしいので、フランドールの口角も上がってしまう。

 

「さあそうと決まれば名を残さんと」

 

  そう言いながら椹はどこから取り出したのかも分からないスプレー缶を手に取ると、フランドールの部屋の壁を汚して行く。楽しそうに口笛を吹き足でリズムを取りながら壁に大きく描くのは『世紀の大盗賊、袴垂椹参上! レミリア=スカーレットの宝物確かに頂いた』の大きな赤い文字。それを描き終えるとこいしにスプレー缶を投げ渡し、壁の方を指で指し示す。

 

  それに笑顔を見せて『子分そのイチ、古明地こいし』の文字をこいしは書き終えると、フランドールの方へ投げ渡した。手に持ったスプレー缶と盗賊達の顔をフランドールは見比べて、椹が一度強くフランドールの背を叩くと、意を決したように笑みを浮かべフランドールは壁に向かって文字を描く。

 

『奪われた宝物、フランドール=スカーレット』

 

  それを見て椹はフランドールからスプレー缶を引っ手繰ると幾つかの文字を書き足していく。

 

「妹様?」

 

  その三人の背にかかる鈴を転がしたような綺麗な女性の声。それを受けて椹の動きが止まった。暗がりに見えるフランドール以外の影を目に留めて、女性の声に鋭さが混じる。

 

「誰だ⁉︎」

「ごめんなすって!」

 

  その叫び声から逃げるように、女性の横を二人の少女を抱えた椹が通り過ぎる。急な侵入者に紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は、メイド服に忍ばせたナイフを投げようと手を動かすが、メイド服の布の上を滑るだけでナイフのナの字も掴めない。そんな咲夜に向かって逆に椹の消え去った方向から飛んで来るナイフ。それを咲夜が手で掴み残りのナイフを払っている間に、男の姿はすっかり消えた。追うべきか思案する咲夜の目の端に映るフランドールの部屋の壁に描かれた文字を見て、咲夜の顔がそちらへ向かい歪んでいく。

 

『世紀の大盗賊、袴垂椹、子分そのイチ古明地こいし 参上! レミリア=スカーレットの宝物確かに頂いた! 奪われた宝物、子分その二、フランドール=スカーレット』

 

  メイド長としての激務に追われながらこの惨状。酷い頭痛に襲われたように目頭を咲夜は強く抑える。

 

  そんな姿を思い浮かべて笑い声をあげるのは世紀の大盗賊。地下通路から飛び出して、じゃらじゃら走る度に持ちきれぬナイフを大理石の床に落としながら足を動かす。

 

「あのメイドいくつナイフ隠し持ってんだよ⁉︎ 奪い過ぎた!」

「咲夜は時を止められるから逃げきれないと思うけど」

「はあ⁉︎ 狡いななんだそりゃ⁉︎ 追われんのはいいけど捕まんのはノーだぜ‼︎ スピード上げんよ! 信濃の韋駄天小僧と呼ばれたオレを舐めんなぁ‼︎」

「行け行けお頭‼︎」

「ちょ、ちょっと私陽の光は」

「分かってんよ!」

 

  走りながら器用に学ランを脱いだ椹はばさりとフランドールを学ランで包み込む。目を丸くしたフランドールに椹は目を落とし、こいしと共に大きく笑いながら窓の一つをぶち破って椹は外へと繰り出した。燦々と太陽が降り注ぐ中、眩しさに目を細めるフランドール。

 

「い、妹様⁉︎」

 

  流石に物音で起きたのか、門の前から身を乗り出した門番が包まれた学ランの奥に見える赤い目と金髪を見て拳を握る。それを見て残ったナイフを投げ、門の上に足をつけて一足飛びに椹は紅魔館を後にする。

 

「妹様‼︎」

「美鈴、行ってくるね!」

「さあ! まだ見ぬものを奪いに行こう! 宝物はどこにでもあるぜ!」

「変な人間! 無意識を見るなんて!」

「変な人間! 狂ってるのね!」

「無意識も狂気も、手に取れぬものも全部奪うさ!」

 

  椹とこいし、二人の高笑いに小さく、しかし確かにもう一つの笑い声が混じる。袴垂椹の盗賊物語は始まったばかりだ。その物語に二人の少女を引っ付けて、椹は幻想郷中を闊歩する。

 

「ま、マズイですよこれは、妹様が、どうしよぅ」

「そうね美鈴、何であんなのが屋敷の中にいたのかしらね?」

「さ、咲夜さん⁉︎ あ! あぁ、ぁぁぁ……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一夜 夕

「困ったぜ」

 

  団子屋の奥の席で熱い緑茶に舌鼓を打ちながら椹は唸る。目の前で他の客から団子を奪って食べているこいしに、盗賊の素質○と椹は脳内で太鼓判を押し、隣にちょこんと座り団子を頬張っているフランドールに目を落とす。相変わらず椹の学ランを羽織り、団子をもぐもぐと嗜んでいる。それを見て椹はため息を吐きながら、肩に刺さっているナイフを引き抜いた。

 

  紅魔館を出てからすぐに追撃のメイド長に襲われ、逃げても逃げてもいつの間にか咲夜は椹達の近くにいる。十六夜咲夜の能力は『時間を操る程度の能力』。時を止められ心臓にでもナイフを突き立てられればそれで終わる。だが、咲夜の時間停止の種は咲夜自身が超高速で動いているが故に相対的に時間が止まっただけに感じるだけであり、そのおかげで椹も何とか手が出せた。手が出せたと言っても致命傷にならないように身を捩っているだけで傷を受けている事には変わりない。おかげで団子屋に入るまでに十数本のナイフが突き刺さり、全身の筋肉に力を込めて傷を閉じて止血、今でさえこいしの能力と椹の盗賊技術で逃げ出せたが、それもいつまで保つかと肩を回し椹も団子を口に突っ込む。

 

「あー痛え、くっそありゃ銭形平次の子孫か何かか? しつけえ、おかげで人里の屋敷にも忍び込めねえ」

「私を置いてけばいいと思うけど」

「やだね! 折角手に入った宝物を手放す盗賊がどこにいるよ! 絶対手放さねえ!」

「……変な奴」

 

  そう言いながらも少し嬉しそうにしながらフランドールは団子を口に運ぶ。これまで怖がられこそすれ、フランドールを自分から紅魔館の外に連れ出し側に置いて団子まで食わせた人間は初めての事。あまりに面白いのでフランドールがつい壊したくなってもあっという間に『目』を奪われてしまう。単純に暴力で暴れようとしても、当たれば終わるだろう打撃が椹には分かっているように避けられ戦闘の意思を奪われる。おかげでフランドールの狂気は空振りし、常識人のようなポジションにいる今が不思議だと一人頷きながら団子をお茶で喉の奥へと流し込むと、フランドールは椹へと目を向けた。

 

「じゃあどうするの?」

「どうするかや、このナイフも良いものみたいだからこれまでのは質に売れて軍資金は得た。これも売るかあ? でもまた質屋に行くのもなあ、フランドール嬢はどっか良いとこ知らねえの?」

「知らないよ、私人里来るの初めてだもん。それよりもっとお団子欲しいわ」

「あぁあぁオレのもやんよ」

 

  箱入り娘に聞いた自分が悪かったと椹は肩を落とし、頭の後ろで手を組む。そんな事をしていると、「団子がねえ⁉︎」と団子屋の店の中が騒がしくなってきた。見ればこいしが両手で何本も団子を持って口へと運んでいる。「お頭〜」と団子の串を持った手を振るこいしの姿に椹は噴き出し、隣にいるフランドールをひっ掴むと、「ごっそさーん!」と金を置いてこいしを掴み外に出た。団子如きを奪った罪でなんて捕まりたくはない。

 

「お金払うんだねお頭」

「食い物にぐらい払うっつうの、食い逃げ犯みたいなせこい奴にはなりたくねえのよ」

「……人攫いはいいのかしら」

「人攫いじゃなくて宝物盗み! だいたいフランドール嬢は人じゃなくて吸血鬼だろ!」

 

  言ってる事が違うだけでやっている事は同じだとフランドールは椹の腕の中でため息を吐く。それに合わせて急ブレーキを踏み、人里の狭い路地に滑り込む椹。顔を苦いものにしながら、しかし、嬉しそうに口の端は上へと持ち上がっている。そんな椹の矛盾した表情をこいしは見上げ、ズレた帽子の位置を直す。

 

「どうしたのお頭」

「気配だ気配がしやがるよ、あの銀髪メイドが近くにいやがる」

「……椹って妖怪よりも人間離れしてるわね」

 

  うるせえや! と椹はフランドールの頬を摘み、路地の奥へと足を進め影の中に溶け込むように動く。人というよりは獣じみた椹の直感に、頰を摘まれながらフランドールは少なからず呆れた。時に屋根の間に身を滑らせ、路地裏を歩く人々の頭上を飛び越して椹達は先を急ぐが、咲夜の気配はアスファルトにへばりついたガムのように剥がれない。まるで追われる盗賊のような状況に椹は嬉しそうに笑うが、いい加減ナイフで刺されたくないので頭を回す。

 

「嬢ちゃん達よ、なーんであの銀髪メイドはオレ達の居場所が分かってるかのように追ってきてるんだと思う?」

「えー、多分フランちゃんの妖気を追ってきてるんじゃない? 私は無意識を操れるから妖気を探られても見つからないし」

「妖気ってのはあれかや、あの何かざわざわした奴か。よしよし」

 

  椹は一人納得したように大きく頷き、こいしを掴んでいた手を離す。歩いていたのではこいしは椹に追いつけないため、自分で飛ばなければいけなくなった面倒さに頬を掻く。翼もなく空を飛ぶこいしを可笑しそうに椹は少しの間眺めたが、小さく首を振って空いた手をフランドールへと伸ばした。

 

  「フランドール嬢動くなや」と念を押し、伸ばされた椹の手はフランドールの手前で止まり、触れるか触れないかというところで、普通に目で見ては分からない歪んだ空気を椹はゆっくり指で摘む。妖気を掴む。それぐらい椹には造作もない。ゆっくりゆっくり椹曰くざわざわした空気を引き剥がすように手を引いて、後ろの方へ投げ捨てた。

 

「よしこれで囮ができたぜ、フランドール嬢の妖気を少し引っぺがした」

「え? お頭そんな事もできたの? いつから?」

「そりゃ生まれつきに決まってんだろうよ!」

 

  そう言って椹は笑うが、本当かどうか怪しいものだとフランドールは眉を顰める。箱入り娘であろうとも、フランドールも知っている人間、霊夢も魔理沙もそんな事をやっているのを見た事はない。少なからず自分と遊べる人間を、普通だとはさしものフランドールも思わない。故の疑問。

 

「椹、それ本当なの?」

「お、おうなんだやフランドール嬢、疑うのけ?」

「だって椹の髪って白髪でしょ? 白髪ってストレスでなるんじゃないの? それだけ苦労したんじゃない? 三つ編みなんかしてると余計に髪が痛むと思うけど」

「そんなわけねえだろ! オレが苦労なんかするかよ! こりゃ染めてんの!」

 

  そう言いながら椹は笑う。フランドールの疑問など馬鹿らしいやって言うように。ただし少しばかり口の端を引き攣らせて。四九五年生きた年の功か、箱入り娘だからこそ目敏いと言うか、フランドールの指摘に少々椹は焦る。格好が悪いから絶対に椹は口にしないが、椹だってフランドールの予想通り初めからこうであったわけではない。

 

  袴垂家の修行は至極簡単、次期当主として選ばれた子供は、袴垂家が代々当主が変わる毎に改良に改良を重ねた監獄島、そこを脱走できるまで放り込まれる。外の世界では見なくなった妖魔の類さえ詰め込まれ、最新の科学技術までふんだんに使われた脱出不可能な監獄島。脱走に失敗すれば耐性をつけるためと拷問の日々。おかげで椹の頭髪は真っ白くなったまま何故かもう戻らない。五歳の頃に放り込まれてから椹が脱走を完遂するまでに掛かった年月は九年。その時の事など絶対に口にはしたくはない椹だ。

 

  真の盗賊とは生まれながらにスマートで、苦労なんてするはずない。椹の持論はこれであるため、フランドールの質問には素直に答えずただ足を動かす事に集中する。

 

「ええでも」

「でももヘチマもねえの! っておわっと⁉︎」

 

  フランドールの訝しんだ目を置き去りにするように走っていた椹だったが、目の前の路地の出口に急に壁が現れ足を止める。見ればガチャガチャと家具が雑多に紐で纏められて転がっていた。その手前で二の足を踏み椹達がそれを見つめていると隣の引き戸が弱々しくガラガラと開き、頬に手を当てて着物の女性が外へと出て来た。

 

「あら?」

「あ、どうも」

 

女性は椹達に気がつくと、壁のような家具達に目を向けて、納得したように困った顔を椹達へと向け直す。

 

「こんにちは、ああ、悪いわね、引っ越しで引っ張って来た荷車が転がっちまって動かせないのよ。紐が固くて鋏じゃ切れなくてね。外に出るなら回り道をしてくれる?」

「ま、回り道?」

 

  咲夜の気配は遠くはなったが、それでもまだ近くにはいる。椹が引っぺがした妖気の辺りを調べられても、そこに居ないと分かればまた時でも止めて椹のすぐ側に現れる。女性の言葉に焦ってその場でワタワタと椹が足踏みしていると、カチャリと先ほど肩から抜いた咲夜のナイフが地面に落ちた。

 

「あら、よく切れそうなナイフね。良ければそうだわ、その家具の内の一つと交換してくれないかしら? それで多分紐は切れるし、多過ぎる家具も一つ減って助かるから」

「何かよく分からんが先に進めるなら何でもいい! 紐切っていいんだな!」

 

  女性の言葉を鵜呑みにし、落ちたナイフを拾い家具達を纏めている紐を切る。これまで壁のように道を塞いでいた家具は崩れ、道に出るだけの隙間ができた。出てきた人里の女性にナイフを手渡し、貰えるものなら貰うべきだと質の良さそうな片手で持てる書見台を引ったくり先を急ぐ。

 

「お頭そんなのどうするの?」

「分からん! だが貰えるって言うなら貰わないと」

「ケチな盗賊ね」

「うるせえや!」

 

  叫びながらも椹は先を急ぐ。いつどこからか銀髪メイドが襲い掛かってくるのか分からない。飛ぶのが面倒になったのか椹の首元に巻き付くこいしを振り解く暇もなく椹が苦しそうに走っていると、空を裂き、銀色のナイフが足元に向かって突き刺さった。横目で椹が背後の空を見れば、追って来ている銀髪メイド。

 

「見つけましたよ妹様! お戻りください、お嬢様が心配します!」

「うわわ来ちゃったよお頭、 捕まるー」

「捕まらん! 子分その二! 煙幕!」

「えー、まあいいけど」

 

  椹の叫びに渋々、しかし小さく笑みを浮かべてフランドールは開いた手をギュッと握る。それに合わせて吹き飛ぶ大地。巻き上がった土煙が椹達の姿をすっぽりと覆い、飛散した石礫がパラパラと小さな音を立てて咲夜の頭上に降り注ぐ。それに紛れるようにして土煙の中に分かれるフランドールの幾つかの妖気。フランドールの持つスペルカード、禁忌「フォーオブアカインド」ではない。先程と同じ現象。何故か妖気が置物のように置いていかれる。土煙が晴れた先にはもう三人の姿はなく、また逃げられたと咲夜は舌を打つ。空を飛んで遠くなっていく咲夜のを見つめ、背中につけていた壁から椹は力なくずり落ちた。

 

「おっかねえメイドだや。よくあんなのと暮らせるな」

「うーん、咲夜は面白いけど怖くはないよ?」

「お姉ちゃんのペットもあんな感じかも」

「こいし嬢も姉さんいるの? って言うかペットって」

「お姉ちゃんのペットはお空とお燐よ!」

「いや聞いてないけども」

「お姉様のペットはチュパカプラね」

「チュパカプラ⁉︎ まだそんな宝があったか…•」

 

  二人の少女に挟まれながら適当な会話に相槌を打ち、椹は二人を引っ付けながら立ち上がると辺りを見回す。咄嗟に入ったにしては大きな庭、その先に見える大きな屋敷、棚からぼたもちのように宝物がありそうな屋敷に入り込めた状況に盗賊の顔が緩む。が、ゆっくりしている時間はないと薄く息を吐いた。

 

「さて銀髪メイドが追ってくる前に遠くへ逃げんと、どっか良いところないかや?」

「思いつくのはお姉様がよく行く博麗神社とか?」

「博麗神社ね、博麗の巫女とか言うのがいる神社か、でけえのか?」

「ううん、ぼろっちい」

「なら興味ねえ、こいし嬢は?」

「うーん、そうだ! お姉ちゃんのところに行く?」

 

  そう笑顔でこいしは言うが、こいしの姉がどこにいるのかなんて椹には分からない。しかし、幻想郷をよく知らない椹に行く宛がないのも確か。博麗神社の名は椹も知ってはいるが、ボロい神社になど椹は行きたくない。少々思案して、椹は小さな頷いた。

 

「こいしの姉さんがいるとこはでけえのか?」

「うん! 地底の屋敷だもん!」

「地底の屋敷⁉︎」

 

  早く言えと椹は首から背中にぶら下がっているこいしにデコピンを放つ。そうと決まれば話が早いと、庭を通り屋敷の縁側に沿って外へと向かう。傾いた陽に当てられて、そんな椹達の伸びた長い影を途切らせるように、通りすがりの障子がスパンと小気味の良い音を上げて開いた。ブリキの人形のようにたどたどしく開いた障子の方へと顔を向ける椹の目に映る少女の姿。

 

  花飾りを頭に付けた、紫色の髪の少女。質に良さそうな着物の上に黄色い羽織を纏い、椹を見ると一度目をパチクリと動かし大きく口を開けるが、男が手に持つ学ランに包まれた金髪の少女を見て、声にならない息を吐き出し固まった。幻想郷のあらゆる事が書き留められている幻想郷縁起。それを書いた筆者自身である稗田阿求が危険度極高と書き記した吸血鬼の妹が稗田の屋敷の中にいる。一体なぜといった言葉が阿求の脳内に渦巻いて、そして強くポンと手を打った。

 

「夢ですね」

「おい勝手に夢にするなよ」

「夢じゃない⁉︎」

 

  手に持った書見台でこつりと阿求の額を椹が打てば、後ろに倒れる勢いで阿求は仰け反った。なんとか踏ん張り阿求は倒れる事だけは阻止すると、急に現れたフランドールと、何故かそれを抱えている見慣れぬ男に目を見開く。

 

「な、なんでフランドールさんがここに⁉︎ いやそれよりフランドールさんを抱えている貴方は誰ですか⁉︎」

 

  阿求の驚きの声に椹は一瞬固まったが、含み笑いをして大きく肩を動かすと、より楽しそうに笑みを深めて大きく笑う。一度バッと腕を広げて手に持った書見台をくるりと回して握り直し、勢いよく阿求の鼻先へとそれを突き付ける。

 

「よくぞ聞いた‼︎ オレこそ世紀の大盗賊! 袴垂椹よ!」

「その子分そのイチ、古明地こいし!」

「え、え⁉︎ もう一人いた⁉︎」

 

  こいしが声を出してようやく気がついたのか、阿求は椹の首に纏わり付いて元気よく手を上げるこいしを見て目を丸くする。そんな阿求を見て、笑顔のまま何も言わないフランドールに向けて目を送る椹とこいし。私も? と言うように学ランの奥でごそごそと動くフランドールを持つ手に椹が少し力を入れると、観念したように吸血鬼の箱入り娘は恥ずかしそうな声を出す。

 

「こ、子分その二、フランドール=スカーレット……」

「と、言うことだ‼︎」

「どう言う事ですか⁉︎」

 

  椹達の宣言に訳が分からないと阿求は頭を抱えた。阿求自身が人間友好度極低と皆無と書いたはずの妖怪が見慣れぬ服を着た外来人と思われる人間とつるんでいる。それも自分の事を世紀の大盗賊と名乗るような異常者とだ。阿求は現実逃避をする意味で目を泳がせ、三人の姿を脳内で消し、代わりに目の前に差し出された書見台を目に入れる。

 

「こ、これは⁉︎」

「ん? なんだよ嬢ちゃん。こりゃさっきオレが貰ったもんだぜ」

「これは稗田阿夢の書見台です! 間違いありません! ここに阿夢の文字が! 前に一度身の回りの整理をした時に質に出したと書いてあったのにまさかこんなところで出会えるなんて!」

「ほっほーう、よく分からんが掘り出し物と、ラッキーだぜ」

「譲ってください!」

「やだ」

 

  即答で椹は阿求の要求を斬り捨てる。阿求が書見台の事を知っているとして、値打ちもので頂いたものをそうやすやすと渡す椹ではない。奪う事ならばっちし、奪われる事は絶対にノーな椹だ。阿求がどれだけ目を潤ませてお願いしようと椹は強く首を左右に振る。

 

「そこをなんとか!」

「絶対にやだ! オレのもんだもんコレ、無料(タダ)でものを差し出すなんてありえないよ」

「椹ってばそんな子供みたいな事を」

「お頭って本当にケチだね」

 

  子供みたいな容姿の少女二人に大人げないと首を振られる。それでも頑なに差し出そうとしない椹にため息を零しながら、椹の背中からこいしは離れると阿求の手が届かないように書見台を上に持ち上げている椹のワイシャツの腰あたりを軽く引き。「ねえお頭、早くしないとメイドさんが来ちゃうよ」と魔法の言葉を口にした。

 

「こんな広い場所で咲夜に襲われて椹は逃げられるの? それも邪魔だし」

 

  更に足されたフランドールの正論に椹は眉を顰めると、考えるようにその場を円を描くように少しうろうろ歩いた後歩みを止める。差し出すか差し出さないか、襲いかかって来る銀髪メイドと盗賊としての矜持を天秤に掛けて、落とし所を探し出す。

 

「ッチ! 仕方ない、それじゃあ交換だ交換! 無料(タダ)はナシ! コレと釣り合うものじゃあねえとやれないやな」

「流石お頭がめつい‼︎」

「いいかこいし嬢、盗賊の心得その二だぜ、盗賊たるものただで転ぶなよ」

「なるほど‼︎」

「ただケチなだけでしょ」

 

  納得の声をあげるこいしに、ため息を零すようにフランドールは呟いた。椹の提案にそれならばと急いで阿求は屋敷の奥へと消えていく。何が可笑しいのか怪しく笑う椹とこいしに呆れたようにフランドールは目を外す。そのうち屋敷の奥から騒がしい足音が聞こえ、酒瓶を持った阿求が現れた。

 

「どうですか! これぞ先代の稗田阿弥が手に入れたと言われる伝説のお酒『偽電気ブラン』です!」

「なに! 偽電気ブランだと⁉︎」

「お頭知ってるの?」

 

  偽電気ブランとは、大正時代に浅草の老舗酒場で生まれた歴史あるカクテル、電気ブランの偽物だ。ある時、京都中央電話局の職員が何とかその電気ブランなる酒の味を作り出そうと企てて四郷錯誤のフクロウ孤児のドン図まりで奇跡のように発明され生み出されたものこそ幻の名酒『偽電気ブラン』。これが実に神秘的な風味で美味いと実しやかに囁かれていたりする。今も京都のどこかで作られているという本当なのか嘘なのかも分からぬ幻想の酒。曲がりなりにも大盗賊を名乗る椹が知らない訳がない。

 

  一升瓶に並々と詰まっている黄金の液体に椹は目を向けて唸ると、それならば良しと頷いて『偽電気ブラン』と阿夢の書見台を交換した。

 

「わあ、まさか稗田阿夢の書見台が戻ってくるなんて!」

「まさか幻の名酒『偽電気ブラン』が手に入るとは! なあ今飲む?」

「飲もう飲もう!」

「咲夜が来るんでしょ! 飲んでる暇ないでしょもう!」

 

  楽観的な誘拐犯達に学ランの奥からフランドールが弾幕を見舞えば、尻に火が付いたように椹とこいしは走り出す。おかしな来訪者達に手を振って見送る阿求が、書見台を早速部屋に飾ろうと身を翻そうとした瞬間、遠く稗田の屋敷の壁に描かれた文字を見てすっ転ぶ。

 

『世紀の大盗賊、袴垂椹、子分そのイチ古明地こいし、子分その二フランドール=スカーレット 参上!』

 

  いったいいつの間に描いたのか。幻想郷では見慣れぬ塗料で描かれたそれは落とす事に阿求は大変苦労し、後日壁を塗り直す羽目になる。この出来事はしっかり幻想郷縁起に描かれた。極悪妖怪を率いる極悪人として。椹の名はしっかり刻まれてしまう。

 

  そんな事になるとはつゆ知らず、椹達は道を急ぐ。左手でフランドールを抱え右手に酒瓶を持ち背中には古明地こいしを引っ付けて、赤く染まり始めた空の下、四方八方から飛んで来る銀の輝きを避けながら人の少なくなり始めた人里を椹は駆け抜ける。

 

「なんで屋敷出た瞬間にいるんだよ⁉︎ ターミネーターかあの嬢ちゃんは⁉︎」

「お頭前から来てる‼︎」

「どこから出してんだあの量をよ!」

 

  壁のように近づいて来るナイフにこいしが弾幕を放ち、穴の空いたナイフの壁に椹は躊躇なく滑り込む。その瞬間目に映るメイド服の靡く影。ナイフを手に持った咲夜が、映像のコマを切り貼りしたように姿を消して椹の胸にナイフを突き立てた。

 

「痛え⁉︎ この人殺し‼︎」

「ぐっ、何で時を止めた中でズレるのかしら! 妹様を離しなさい誘拐犯‼︎」

「やだよ! もうコレはオレのだ!」

「妹様をコレ呼ばわりなんて!」

「うっせえや!」

 

  足で咲夜を思い切り蹴飛ばし、ついでに椹は咲夜が隠し持っているナイフを奪う。相変わらずの量に奪ったナイフを落としながら椹は走る。咲夜は舌を打ってそれを追った。空も飛べないくせして椹の足は異様に早い。それこそ話に聞いた忍びのように。空を飛んでも咲夜には追いつくのに苦労するほどの速さ。お陰で近付くのに能力を使う必要があり、椹に決定打を与えられる程時間を止めていられない。口を歪めながら咲夜は椹が手に持つ学ランへと目を落とす。

 

「妹様お戻り下さい! お嬢様も心配していますよ!」

 

  再三掛けられる咲夜の言葉に、フランドールも学ランの中で身動ぎする。たったの半日にも満たない時間で、これまでよりも楽しいとは言えそうな時をフランドールも過ごせた。ただ何かを壊すこともなく、変な二人組と幻想郷中を駆け回る。これまで見たかった人里も見ることができ、少なからず満足はした。小さくフランドールは口を開き椹を見上げるが、その口を塞ぐように椹は足を早める。

 

「うるせえな! 大事な宝物なら自分で取りに来いとレミリア=スカーレットに言っとけ! 本当に大事な宝物なら奪われる方が間抜けなのよ! オレは絶対に宝物は手放さねえ! だからフランドール嬢もやらねえ! オレは世紀の大盗賊よ! オレから奪えるもんなら奪ってみろ!」

「貴様! お嬢様の気も知らず!」

「知るかそんなの! 人の気なんて気にして盗賊が成り立つかい! フランドール嬢! 目の前の壁ぶち壊せ! 行こうぜ!」

「……うん、うん分かった!」

 

  もういいよ、と言うフランドールの言葉は奪われ、もう少しだけたまには我儘になってもいいかとフランドールは手を握る。四九五年も待ったのだ。その時よりも長く物を奪う事に生涯を費やした一族が、今日もまた何かを奪っていく。砕けた漆喰の壁を跳び越えながら後ろ足で壁の破片を椹は咲夜に向けて蹴り飛ばす。ナイフを投げて咲夜は壁の破片を斬り裂くが、走りながら次々と壁の破片を蹴り飛ばす椹の勢いに押し負けて、破片の一つが咲夜の腹へと飛来した。身を捻った咲夜の目の前に迫る真っ赤な弾幕。時を止めるのも間に合わず、掠るように弾幕を受けて近くの壁に勢い良く銀髪が突っ込んだ。

 

「妹様の」

 

  服を掠った霊力の跡に咲夜は目を細めると、どうしようかと考える。まともに闘うのではなく、ただ逃げる奇天烈な盗賊を追い詰めるのは咲夜一人では手に余る。椹の逃避術は無駄に技術が高い。

 

  咲夜の気配が遠ざかったのを確認して、僅かに椹は足を緩めた。致命傷にはなってはいないとはいえ、胸への一撃は流石に椹も少々効いた。徐々に椹は脚を緩めながら、背中に張り付いているこいしを背負い直す。

 

「おういこいし嬢、地底とかいう所にはどうやって行けばいいのよ。流石にオレも休みてえや」

「うんお頭、ここからだと妖怪の山だよ」

「妖怪の山?」

 

  言いながら椹は背後から指差すその先へと視線を飛ばし、こりゃダメだと地面にひっくり返る。人里の外周部を囲う漆喰壁をぶち壊した事で、新たに顔を出した雑草の生えた地面に大の字に倒れた。間一髪もうごめんだと、椹と地面に挟まれぬように椹から飛び退いたこいしは、そのまま倒れた椹の上に乗っかって、楽しそうに手足を動かす。大地に腰を下ろしたくないのか、同じようにフランドールも椹をクッションにするかのように上に乗った。

 

  少女二人の重さに「ぐふぅ」と苦々しい息を吐きもう一度椹は妖怪の山へと目を向けた。明らかに尋常ならざる空気を纏った霊峰。妖気のせいか神気のせいか、揺らめいた空気に包まれて天に届くほどに巨大に見える。そして何より道のりが遠い。いくら椹の足が速かろうと、妖怪の山に着くまでにどれだけかかるか。咲夜に追いつかれるのが目に見えていた。

 

「遠いぃぃ、あそこまで行こうとしたら夜が明けちまうやな」

「えー、お頭頑張ってよ」

「頑張ってどうかなるなら頑張るがね」

「ならどうするの椹、諦める?」

「それだけは絶対嫌だ! あんな殺人メイドに捕まったら人生終わりだ!」

 

  椹の返答に小さく笑うフランドールの声を聞き流し、腹の上に二人の少女を乗せて椹は頭の後ろで手を組んだ。これまでこうもしつこく椹を追って来た者はいなかった。外の世界でもだ。それが嬉しくもあるが面倒でもあるが故に椹はこいしが三つ編みに編んだ髪をくるくると弄り考える。相手の命を奪うのなどは最終手段。奪ったところで面白くもない。かと言って打てる手がないからとフランドールを手放すのだけはありえない。折角手に入れた初めての宝物だ。

 

「さてさてどうするかね」

「どうすんだい?」

 

  唸る椹の目の前ににゅっと三日月が伸びた。何の気配もなく現れた三日月に椹は勢い良く身を起こして跳び退きながらこいしとフランドールを抱え直す。只者ではない。盗賊である椹と似たような気配。

 

「誰だよ何もんだ?」

「そう言うあんたは誰だい人間」

 

  可笑しそうに笑いながら、夕焼けの下で頭を下にひっくり返りながら宙に浮いた少女の姿。頭の両脇から枝のようなものを生やし、手には瓢箪を握っている。椹が両脇に抱えたさとり妖怪と吸血鬼を面白そうに見つめた後、それを肴として楽しむように少女は瓢箪を口へと傾けるが、ひっくり返っていたせいか上手く飲み込めなかったようで小さく吹き出す。

 

「マジで何だこいつ」

「鬼よ椹」

「鬼ぃ? 吸血鬼に鬼とはね。あの銀髪メイドといいここは退屈しねえぜ」

 

  少女の頭から伸びる三日月を見つめて、奪ったら面白いだろうかと椹は思案する。椹の好奇の目を受け止めて、萃香はジャラジャラと手首についた鎖を打ち鳴らして腕で口を拭き、くるりと体をひっくり返し椹の灰色の瞳を覗き込んだ。掘り出し物の玩具を見つけたように。

 

「吸血鬼の妹とさとり妖怪の妹を両脇に抱えた外来人とは面白い。名前は何だい?」

「ふっふっふ、よくぞ聞いた! 世紀の大盗賊、袴垂椹とはオレのことよ!」

「椹のお頭の子分そのイチ!」

「はいはいもういいから、これいつもやらなきゃいけないの?」

 

  ため息混じりにフランドールに名乗りを邪魔されて頬を膨らませるこいし。毎度毎度子分その二などフランドールは名乗りたくはないので、椹の腕の反対側から手を伸ばして来るこいしの手をペシリと叩き落とす。

 

「ぶー! 椹のお頭、子分その二が反抗期!」

「おいおいフランドール嬢、盗賊の心得その三、盗賊たるもの名を聞かれたら高らかに宣言すべしだぜ」

「それは盗賊としていいの?」

「アッハッハ! 変なトリオだね! 面白い! それに袴垂ねー、ふーん、久し振りに聞いたよ」

 

  椹達三人の声を掻き消して笑う萃香の椹を見る目が細められる。少しだけ懐かしいものを眺めるような萃香の気味悪さに椹は舌を打ちながら、未だに椹を挟んでわちゃわちゃやっている二人の少女を離すように抱え直し、萃香の目を睨み返した。

 

「何だよ嬢ちゃん、どっかで会ったかよ」

「いやいやあんたとは初めてだよ。あたしは伊吹萃香、見ての通り鬼さ」

「そうかい萃香嬢、で? 何の用だよ、鬼って言うからには人攫いにでも来たかや?」

「うーん? いや面白そうな事してるからちょっと見に来ただけなんだけど……、ん? あんたそれ何持ってるの?」

 

  鼻を小さくひくつかせながら萃香が眺めるのは椹が持っている酒瓶。こいしから腕を離し右に左に椹が手に持つ酒瓶を動かすと、萃香の顔もそれに釣られたように左右に動く。

 

「ほうお目が高い、これぞ幻の名酒『偽電気ブラン』よ!」

 

  物珍しそうに眺める萃香に見せつけるように椹は酒瓶を掲げた。手に入れた宝物は見せびらかさなければ意味がない。『偽電気ブラン』を見せつけられて、鬼が僅かに後退る。

 

「に、偽電気ブラン⁉︎」

「へー鬼も知ってるなんて有名なのかしら」

「いや全く知らん」

 

  きっぱりそう言う萃香に、ズルリと椹の腕からフランドールがずり落ちる。それを落とさないように椹はまた抱え直し、そんな椹にこれまでよりも柔らかな笑みを浮かべた萃香が擦り寄って来た。固い角がチクチクと椹の体を突き、逃げるように椹は身を捩る。

 

「いやいや、そんな名も知れぬ酒を持ってるとは流石は袴垂、酒は分かち合うものだと思わないか?」

「ちっとも思わねえや」

「鬼にまでケチとは椹はブレないわね」

「流石お頭! 世紀のドケチ!」

 

  こいしの言葉を否定するどころか胸を張って椹は萃香の角を押し返す。より深く椹の腹部に萃香の角が突き刺さり、大きく椹は咳き込み、馬鹿らしいと言うようにフランドールは学ランの奥に隠れるように身を移した。

 

「少しぐらいいいじゃん袴垂の、酒は飲まれるためにあるんだ」

「却下! オレんだもんコレ」

「椹、早くしないと咲夜が来ちゃうわ」

「お頭早く地底に行こう行こう!」

 

  少女二人に急かされて、咲夜の存在をすっかり忘れていた椹の動きが止まる。そう言えばそうだったと萃香に一度目を落とす。鬼というだけあって萃香の力は凄まじく、無視して先に行こうかと足を出そうとしてもビクとも動かない。椹に引っ付きながら、『地底』と聞いた萃香は怪しい笑みを浮かべて一人納得したように頷いた。

 

「なんだ地底に行きたいのか。なら抜け道教えるからさ、その代わりそれと交換な」

 

  酒瓶を指差して舌を舐める萃香に、絶対嫌だと椹は背中に隠そうとするが、「咲夜」と零すフランドールの言葉に肩が跳ねる。椹がこいしに目を向けても小首を傾げるだけで、萃香のように地底への抜け道とやらを知っているようには全く見えない。酒瓶と萃香のニヤケ面を椹は少しの間に比べて、渋々酒瓶を差し出した。

 

「おお! 話が分かるね!」

 

  差し出された酒瓶を勢い良く手繰り寄せて萃香は蓋を開けると一口で三分の一も黄金の液体を飲み込み、満足げに白煙を口から吐き出した。ここまで咲夜のナイフからも割れないように大事に運んで来た酒が一瞬にして空になりそうな状況に、椹はがっくしと大地に両手をつく。物とはなくなる時は呆気ない。

 

「お、オレのお宝……」

「もう、別にそれだって書見台と交換したものだしそんなに落ち込まなくてもいいじゃない。書見台も咲夜のナイフと交換したんだし」

「メイドさんのナイフならまだあるよ!」

「いらん!」

 

  こいしから椹に差し出されたナイフは、先がほんのりと赤く染まっており、椹に一度突き刺さったであろう事は明らかだ。それを掴むと椹は遥かに遠くの妖怪の山へ向けて思い切りぶん投げる。鬼すら感心する綺麗なフォームで投げ出されたそれは、夕焼け空の中に輝く一番星と重なって、キラリと光り消えていった。

 

「アッハッハ! ナイフを酒にまで変えるなんてわらしべ長者みたいな奴だね! さて袴垂の、約束通り教えよう! 地底への抜け道はズバリアレだ!」

 

  そう言って萃香は近くの草むらを指差すが、草以外に何も見えない。背の高いススキが秋の冷たい乾いた風に吹かれて穂を揺らしているだけだ。椹が萃香に文句を言うよりも早く、揺れる穂の動きに合わせて体を揺らしていたこいしが、じゃらしに飛び掛かる猫のようにススキ達へと飛び掛かり、そして消えた。

 

「は? お、おいこいし嬢⁉︎」

「ちょっと」

「こいし嬢が草むらに食われた⁉︎」

 

  椹が幻想郷に入る前に誰かしらが「幻想郷は恐ろしい」と言っていたが、流石の椹も草むらが誰かを食べるとは思わなかった。ヒェっと息を飲み込む椹を余所に、「お頭〜」と言うこいしの篭った声が辺りに響く。危機感も感じさせない能天気な響きを椹は聞いて、感心したように顔を歪めた。

 

「もう化けて出やがった! 流石オレの子分を名乗るだけはある。ただじゃあ転ばねえ」

「いや普通に生きてるんでしょ、だいたいこんな死に方はつまらないわ。もっと派手じゃないと」

「それもそうだ」

 

  天に花開く火の花のように劇的な人生の方が面白い。そう急に冷めたように椹がススキの草むらを掻き分けると、ススキの背にすっぽりと隠れるように、長方形の黒ずんだ古岩に囲まれた井戸が姿を現わす。岩肌は半分以上が苔に覆われ、覗き込めば夜闇よりも遥かに暗い黒が広がっていた。こいしの声は確かに全てを塗り潰す黒の中から響いており、目を細めて中を見ようとする椹と、せり上がってくる少女の声に包まれながら飛び出して来たこいしの頭同士が衝突し、寺の鐘を打ったような鈍い音が響いた。

 

「い、痛え……、無事みたいだなこいし嬢」

「うん、でも星が瞬いてるよ」

 

  頭を揺らしながらパチクリと目を回すこいしを見て、こいしの衣服から雫の一滴も垂れずに全く濡れていないのを椹は見ると、ふむふむ唸り顎へと手を伸ばす。それを見ながら酒瓶を傾けて、萃香は椹の想像通りと言うように頷いた。

 

「あんたの考える通りそれはもう枯れ井戸さ。ずっと潜って行けば地底に出る」

「やっぱりか。秘密の抜け道みたいでテンション上がるな」

「変わらないねえ袴垂のは」

 

  しみじみと目を伏せる萃香を見て、口角を下げ椹は目を外す。どこか夜の気配に似ている哀愁と言う名の雰囲気が椹は苦手だ。何よりも人のお宝を奪っておいて口に運びながら萃香がそんな顔をする事が椹はそこはかとなく気に入らない。文句の一つでも言ってやろうかと椹は萃香に近寄り、手が触れる距離まで歩き足を止めた。目は人里の方へと向けられ、ナイフの剣尖の冷たさが椹の背に流れる。

 

「あ、やべえや」

「どうかしたの椹?」

「こいし嬢! フランドール嬢! 行くぞ! 銀髪メイドの気配だぜ!」

「ちょ、ちょっと⁉︎」

「行こうお頭! お姉ちゃんのところへレッツゴー‼︎」

 

  こいしとフランドールを抱えて椹は枯れ井戸へと飛び込む。狭い石通路に数多の声が反響し、少しすると何かを握り潰す音が響き枯れ井戸は土とススキと掻き混ぜられて、その姿をすっかり消してしまう。枯れ井戸の最後を肴に萃香がまた酒瓶を傾けていると、星が大地に降ってきたように、滑らかな銀の髪が萃香の視界の中を泳いだ。

 

「あら萃香じゃない。ここに妹様が来なかったかしら?」

「吸血鬼の妹なら確かにさっきまで居たけどね、もう行っちまったよ」

「どこにかしら?」

「さあどこだっけ?」

 

  嘘が嫌いな鬼であるはずがとぼけたように笑う萃香に、咲夜はゆっくりナイフを握るが、陽の落ちる空を見上げて困ったように息を吐く。夜は妖怪の、何よりも吸血鬼の時間。紅魔館の主人が起きる。

 

「まあいいわ、それよりも」

 

  咲夜はふと萃香を見つめ、椹が握っていたはずの酒瓶を萃香が握っているのを確認すると、それ以外にいつも萃香が持っているはずのものがないのに気付き眉を曲げた。

 

「萃香、貴女いつも持ってる瓢箪はどうしたのよ」

 

  そう咲夜に指摘され、腰に手をやり瓢箪がない事に萃香は気づくと、崩れ去った枯れ井戸に一度目を向けて大層愉快に笑い出す。昔の景色が今の景色と重なり合い、ふわりとした白髪に鼻を擽られるように。

 

「アッハッハ‼︎ やられたぁ! 盗賊になる以外の未来を奪ってるだけあるね! くっそぉ、今代の袴垂は油断ならない奴だ、あんなヘンテコな格好でこの伊吹萃香からものを奪うとは! ふっふっふ、霊夢の奴でもけしかけてみるかね!」

「ちょっと!」

「吸血鬼のお嬢様に言っときな、また楽しそうな祭りが始まるってね!」

 

  咲夜の制止の声など聞かず、大きく笑いながらふらふらと空に浮かぶ月を目指して鬼は飛んで行く。地面には黄金の液体が詰まっていた空の酒瓶を転がして。咲夜は大きくため息を吐き、面倒な事になりそうだと主人の待つ紅い屋敷に足を向ける。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 朝

  荒い吐息が暗闇に木霊する。細く狭い暗闇の牢獄の壁に手を伸ばせば、全く整備されていないザラついた土と岩の感触。パラパラと頭に降って来る砂つぶに鬱陶しそうに頭を振って、先を行く少女二人の背を椹は見つめる。

 

  揺れる緑がかった灰色の髪と(つや)やかな金髪を視界に入れて、七色に薄く暗闇を照らしているフランドールの羽の動きを目で追った。

 

「……いつまで続くんだ。つうか今どこにいんだ?」

「椹うるさい、それもう、えーと何回目かも忘れたわ。同じことばっかり言わないでよ」

 

  背に掛かって来た男の声にうんざりした声でフランドールは返す。井戸から秘密の抜け道に入ってもう何時間経ったのか、それは誰にも分からない。初めの方こそ椹の持っていた外の世界の文明の利器、スマートフォンで道を照らしながら進んでいたが、もうとっくの昔に充電は切れた。あまりに道が長いので途中で休憩を挟んでもまだ終点が見えない。

 

  椹とフランドールのストレスは尋常ではなく、狭い通路を椹が進むのに常に体を屈めなければならないのと、フランドールは羽が通路の壁に擦って鬱陶しいことこの上なかった。もし椹がいなければ、早々にストレスの臨界点を突破したフランドールによって通路は破壊され、冬眠しているカエルと同じように、土の中の生物の仲間入りを果たしていたことだろう。

 

  永遠に続いているようにも見える暗闇に、またフランドールの羽が擦り、マッチに火を点けるように狂気が点火する。それをしてどうなるかなど考えもせずに手の中で『目』を握ろうとするフランドールの背から椹の腕が伸び『目』を()った。

 

  虚空を掴んだフランドールは不満げな顔をありありと浮かべ、椹に文句の一つでも言おうと振り返って、椹の白髪が土色に仄かに染まっているのを目に入れると、少し可笑しかったのでなにも言わないことにした。

 

「おいなんだ、今の顔は」

「別に、土から引き抜いた後の蘿蔔(すずしろ)みたいなんて思ってないわ。それにしても椹はこんな暗闇でも目が効くのね」

「誰が大根男がこんにゃろ。だいたい夜目の効かない夜盗とか笑い話にもならねえやな」

 

  椹が自分で大根などと言うものだから、フランドールは小さく噴き出した。その笑い声に椹は暗闇の中に不満の色を滲ませたが、フランドールがイラついているよりはいいかと、細く息を吐き出すことでなんとか耐える。

 

  そんな二人をさて置いて、こいしはずっと一人前を行き、鼻歌交じりに歩いてばかり。ストレスのスの字も感じていないのか、通路に入って来てからずっとそんな調子だ。こんな状況でも、目は空いていても盲目な少女は存分に楽しめているらしい。時折壁の感触を確かめるように壁を小突きながら、こいしの足取りは重くなることを知らないが、その足がピタリと止まる。

 

「どうかしたかやこいし嬢。ついに終わりか!」

「ううん、お頭足が疲れちゃった。おんぶ」

「こいし嬢マジか……。こんな狭いとこでおぶれるわけねえだろ。我慢しなさい」

「ぶー、じゃあフランちゃんおんぶ」

「絶対イヤ。って言うか身長差を考えてよ。むしろおぶって欲しいんだけど」

 

  ぶーたれるこいしは我慢できないのか、椹の方へくっ付いて行く。おんぶもなにも屈まなければ進めない椹がおぶったところで、背に引っ付くこいしを壁に擦り付けながら進むことにしかならない。

 

  わちゃわちゃ暴れるこいしに跳ねられ、フランドールの羽が再び狭い通路の壁に擦った。顳顬(こめかみ)の血管が切れたような音を幻聴した椹が慌ててフランドールの方へ手を伸ばそうとしたが時すでに遅し。キュッと握られた少女の手の音に合わせて、それを押しつぶすような破壊音が通路の中に反響した。崩れた天井は、三人の頭上に降り積もり、その重さに耐えかねて床が抜ける。

 

「おぉい⁉︎ ありえねえ! こいし嬢! フランドール嬢! 飛べ飛べ!」

「わー! これは無理!」

 

  降り掛かって来る土と岩の破片が邪魔でこいしもフランドールも上手く飛ぶ事ができない。なんとか手を伸ばしてこいしとフランドールの二人を引っ掴む椹だったが、二人を掴んだところで事態が好転することはなく、ただ下に落ちて行く。

 

「こいし嬢、フランドール嬢、自力でオレに捕まっとけ! 空気を掴んでどうにか止まる!」

「お頭そんなこともできたの⁉︎」

「なにそれ、あらゆるものを掴める程度の能力?」

「感心してねえでさっさとしろ! 誰も知らねえとこで生き埋めなんてな」

 

  「盗賊として終わってやがるのよ」と言おうとした椹の言葉は続かなかった。暗闇の底に消えて行く土と岩の欠片たちを見送る形で、三人の姿は空中で静止する。ビタンという音が鳴ったように宙に浮き、「ぐぇ」という声も合わせて響いたが、あまりに情けない声だったので、自分が言ったと手を挙げる者はいなかった。

 

  しばらく三人で固まり、宙で動いてみようと椹は手を伸ばそうとしたがこれが動かない。こいしもフランドールも同様で、空中でもがく三人は、それは間抜けに見えるだろう。

 

「ちょっと椹、動けないんだけど、なにか掴んでるの?」

「だったらこんな変な盆踊りは踊らねえよ」

「うわー、ベタベター」

 

  手を上げようとしたこいしの腕に引っ付いている透明な細い糸を見て、椹は目を顰める。それを追えば無数の糸が繋がっているのが分かった。糸によって構築されたジャングルジムは、大きさは異なっても椹もフランドールもこいしも見たことがある。八本の足を持つ小さな捕食者(プレデター)の姿を思い浮かべ、その巣の大きさから巣の主人(あるじ)の大きさを想像して椹は苦い顔をした。

 

「うわマジかや。デカイ蟲とか見たくねえ。オレは蟲が嫌いなんだ」

「お頭にも嫌いなものってあるんだ」

「だってアレ美味くねえんだ。非常食にしたってな」

「キモいこと言わないでよ……」

 

  袴垂の迷宮で幼少の頃に食べた蟲の味を思い出し白い顔をする椹からフランドールは距離を取ろうとするが、張り付いた蜘蛛の糸が剥がれず離れられない。そんな三人の体を僅かに揺らす振動が、小刻みにリズムよく届く。天井から降り注ぐ土たちの仕業かと椹は疑うも、糸から伝わる生物の脈動がそうではないと訴えかける。その振動の主人が近付いて来ているのを察し、なんとか逃げようと体を捻った。だが動けば動くほどに糸は絡むばかり。よくできた罠だと椹は感心しながら、顔から血の気が失せていく。

 

「うわぁ、イヤだ、デカイ蜘蛛とか見たくもねえ! 蟲だけは無理かや!」

「……椹にも苦手なものってあるのね」

 

  物陰にでも隠れそうな逃げ腰の椹は放っておき、強くなってきた振動の方へとフランドールは顔を向けた。

 

  暗闇の奥で光るのは、八つではなく二つの目。茶色い瞳がぼんやりと光り、金色の毛髪が揺れている。深い茶色のジャンパースカートの下から、暗闇で染めたような黒い上着の袖が伸び、それらが包んでいる肢体は、常に闇に潜んでいるからか、黒とは対照的な白。血の気を感じさせない生白い腕が細く薄い白糸に伸ばされ、宙を這うようにフランドールたちの元へ迫って来る。

 

  地上から忌み嫌われ追いやられた者たちの風貌に、表をほとんど知らないフランドールでも、拭えぬ嫌悪感に顔を引攣らせた。黒の中にぼんやりと浮かんでいた土蜘蛛がその身を(おど)らせて三人の前に立ち上がり、こいしは笑顔で手を挙げようとし、糸に引っ張られ宙で揺れた。

 

「ヤマメだー! 久しぶりー!」

「おお? さとりの妹か。どうしたんだこんなところで珍しい」

 

  怪しげな雰囲気は、洞穴を流れる風に流されて消えてしまった。近所のお姉さんに話しかけるようなこいしの空気感に、フランドールの肩から力が抜ける。「お頭たちとお姉ちゃんのところに行くの!」という元気のいいこいしの返事を受けて、お頭と呼ばれた男の方にヤマメは顔を向けて眉を顰めた。糸から伝わる心音が弱い。まさに今死の一歩手前にいるかというように、巣に引っかかりグデンとしている男。あまりに椹が動かず生気もないので、フランドールが吸血鬼の膂力をもって腕に絡みついた糸を引き千切りながら手を伸ばして突っついた。

 

「ちょ、ちょっと椹」

「や、め、ろ。もう、すぐで、仮死状態に、なれる。死んだ、フリで、誤魔化して、蟲が、どっか、行くのを、待とう」

 

  空気の抜けたような小さな声でフランドールへそう返す椹に、心の底から呆れたとフランドールの力ない声が椹を殴った。

 

「そこまでする? だいたいアレこいしの知り合いみたいよ? 人の形してるし」

「マジで?」

 

  本気の死体ごっこを演じようとしていた椹だったが、相手が人の形をしていると聞いてくすみ始めていた椹の青い瞳に急速に色が戻り始めた。無理矢理首を捻って巣の主人、黒谷ヤマメの方へ顔を向けると、マジで蟲じゃねえ、と大きく舌を打つ。

 

「クソ、損した。エネルギーの無駄遣いかや。で? こいし嬢の知り合いだって?」

「なんとも失礼な男だね。なんだいあんたは」

「オレこそ世紀の大盗賊! 袴垂 椹よ!」

「とんだ大盗賊もいたもんだね」

 

  蜘蛛の巣に絡まれたままキメ顔を披露する椹ほど間抜けに見えるものはないだろう。「子分そのいち」といつもなら続けるこいしですら微笑を浮かべその場は流した。フランドールに至っては、仲間だと思われたくないからか、虚空へ顔を向け今姉がどんな顔をしているだろうかと逃げる。そんな三人の三者三様の顔を眺めてから、ヤマメは椹へと顔を戻した。

 

「にしても盗賊ね。今でも人間は珍しいのに、盗人が地底に用なんて、ろくな奴じゃなさそうだ。ここでちょいとつまみ食いしても怒られないかな?」

「おぉい⁉︎ やっぱり蟲はダメだ⁉︎ そんな死に方ごめんだぜ!」

 

  舌舐めずりするヤマメの顔は妖怪のそれ。からかっただけのつもりでも、人とは違う空気がその身からは滲んでいる。食われて死ぬ。それも蟲に。など椹からすれば絶対にごめんである。いくら姿形が人と似ていても、ヤマメの喉の奥からカチ鳴る蟲特有の唸り声に椹は大きく首を横に振って身体全身に力を入れる。

 

「こういう時は逃げるに限る!」

 

  言っていることは情けないが、起こった事象は劇的だった。パチパチという小さくなにかが弾ける音に合わせて、椹に絡まっていた蜘蛛の糸が千切れた。その断面は熱を持ち、溶けたように先がない。一瞬の驚きの後に続くのは、目を眩ます閃光。人が初めて手にした文明の利器。即ち『火』。椹の右腕が火に包まれ、それを横に凪いで糸を断ち切る。

 

「今だぜ! はっは!」

「お頭が燃えたー! すっごーい!」

「いやもう本当に、びっくり人間にもほどがあるでしょ」

 

  穴の空いた巣は、穴に向かって垂れ下がる。バランスを崩したヤマメを残して穴に向かって落ちる三人。暗闇を照らす火の明かりが小さくなっていくのを眺めながら、マイホームに空いた穴にがっくりとヤマメは肩を落とす。

 

  そんなヤマメの姿に微笑を浮かべて闇の中へ再び沈む三人だったが、フランドールにはまだ蜘蛛の糸が絡まり羽が広げられず、余裕そうな顔をしながらも椹の顔には脂汗が浮かび体に力が入らない。そんな二人を引っ張って飛ぼうとこいしもするが、フランドールだけならまだしも、椹が一緒だとどうしても浮けずに落ちていく。

 

「お頭〜へループ。このままじゃ地面にぶつかるよー!」

「そうだ! 今こそほら空気を掴めばいいのよ椹!」

「そうしたいのはやまやまなんだがな」

 

  緩く挙げられた椹の手を見て、フランドールとこいしの顔が固まる。火の消えた椹の手は火傷を負ったように爛れており、無事とは言えそうにない。そんな手で空気が掴めるのか。できなくはないが、確実さには欠けてしまう。それが一番分かっている椹は、何かないかと周りへと目を散らし、暗闇の中に垂れ下がった一本のロープを見つけると勢いよく手を伸ばした。

 

「これしかなさそうだ、力仕事なら任せるぜフランドール嬢よ!」

「そんな絵面でいいの? でも任されてあげる!」

 

  ロープに引っ付き膂力に任せて勢いを止める。たわんだロープの動きに驚きながらも、なんとかそれを手放さないようにフランドールは掴んだロープを握りしめ、空いた手で椹と、椹に引っ付くこいしを引っ張った。

 

  ざりざり磨り減っていくロープの音に顔を歪め、パラパラと砂つぶの当たる音が足の下から聞こえてくるのを三人の耳が拾った瞬間。地が凹んだ音とロープの千切れる音がしたのは同時だった。

 

  地面に足を埋めながら大地に立つフランドールと、そのフランドールにしな垂れ掛かるように引っ付いている大の男と少女の姿。一見幼女という言葉の方が似合っているフランドールに、フランドールよりも大きな少年少女が擦りついている様は犯罪的だ。フランドールがため息を吐くのに合わせて椹とこいしの二人は離れると、周りに人が居ないのを確認して安堵の息を吐く。

 

「なんとかなったな。あんがとよフランドール嬢」

「ん、まあいいけど」

「でもお頭大丈夫? 手の怪我痛そうだよ?」

「ああ平気だ平気。オレは怪我の治りが早いからな。昨日ぶっ刺さった銀髪メイドのナイフの傷ももう引っ付いたしな」

 

  そう言う椹の服の隙間から見える傷は確かに閉じており、ナイフが刺さっていた証拠は肌に引かれている一筋の赤い線だけだ。その赤線の跡を目でなぞり、小さく喉を鳴らした後にフランドールは目を背けた。その逆に引っ付くのはこいし。椹の元気を確かめるように首に手を回して背中に引っ付く。

 

「椹の体ってどうなってるのよ。実は仙人だったり、それとも蓬莱人?」

「お頭確か前になんか言ってたよね。……ああ! 私覚えてるよ! 自分の体を操るには小さい子が必要? だっけ?」

「え……、なにそれ」

「全然覚えてねえじゃねえか⁉︎ やめろ! フランドール嬢もその目をやめろ!」

 

  自分の体を抱いて後ずさるフランドールに椹は目を引き絞ると、こいしの頭にぽすりと拳を落とした。悪びれた様子もないこいしと、訝しむフランドールの顔に椹もまた苦々しく口を引き結び口端を下げる。火傷した手へと学ランの内側から取り出した包帯を巻きながら、渋々椹は口を開く。

 

「オレの技だよ。自身の体を完全に操るのがオレら袴垂の技だ。さっきのは自身の熱エネルギーを右手に集めたのよ。まあ術じゃねえからこの通り火傷すんけどよ」

「じゃあ空気を掴むっていうのや私の妖気を掴んだりしたのは?」

「ありゃそれの応用さな」

 

  袴垂の一族の技は身体操作。それに極限まで特化したものが正体である。

 

  我思う、故に我在り。自我の極致。

 

  指先から髪の毛一本に至るまで、その気になれば椹は動かすことができる。筋肉の動き、五感の切り替え、関節を外すのも自由自在、それが自分の身体のことであるならどこまでも。それは肉体の操作に限らず、身の内のエネルギーに関することまで。小さな火や電撃、その操作によって普通なら掴めぬものも掴んでみせる。それが目に見えるなら掴めるだろうと火や水から始まり、風や霊力、魔力まで。それが掴めなければ脱出不可能な監獄島に押し込められて。当主が変われば新たにこれも掴めるようになれと島の難問が一つ増える。椹の代で九十二代目。それだけ多くのものを掴めるようになれた。

 

「そんな人間もいるのね」

「流石お頭!」

「もっと褒めていいぞ!」

 

  高笑いする椹が上を向いたのと同時に、暗闇から何かが伸びて来た。横に避けた椹の元いた場所に落ちて来たのは断面の千切れたロープ。先程千切れたロープの残りが落ちて来たらしい。ズルズルと上から下に落ち続けているロープはいったいどれだけ長いのか。地面に積み上がっていくロープの山を三人揃って見続ける。

 

「なげえなあ」

「どこまで長いのかな?」

「それよりも何か聞こえない?」

 

  フランドールの疑問に椹とこいしの二人は首を傾げていたが、すぐにその答えは分かった。風を切る音と小さな悲鳴。それが地面に降って来たのと同時に、椹の頭に空から降って来た釣瓶が落ちた。ゴンと打ち鳴る鐘の音。その勢いに任せて椹の頭を地面へ埋め込むと、見た目ぼろぼろの桶の中から緑色の頭が顔を出す。

 

「び、びっくりしたぁ」

「いや、びっくりしたのはこっちの方よ。って言うかあなたは誰?」

「あ、わたしはキスメって、言って、その、ロープが切れたから、あ……」

 

  恥ずかしそうに桶の縁に隠れるように顔を出したキスメだったが、フランドールの狂気の瞳と、こいしの虚無の瞳に見つめられると恥ずかしそうに顔を背けた。そして目に映った椹の体を見つけると、その体を追って桶の下へと目を向ける。

 

「あの、その、この人間は食べてもいいの?」

「…………いいわけないでしょ」「お頭〜」

 

  疲れた直後の脳天への一撃に、すっかり伸びてしまった椹の両足を、フランドールとこいしの二人で片方づつ掴むと引き摺っていく。地底に引かれた僅かな血の跡をキスメは見つめ、三人の姿が見えなくなった頃、その道跡に手を伸ばし指先に付いた赤い雫を舐め取った。

 

 

 ***

 

 

  ぐわんぐわんと揺れる視界の中、パチクリと何度も瞬きをして椹は頭を軽く振る。気を失ったことなど人生の中で何度もあったが、袴垂の監獄島を脱出してからほとんど久しぶりの事だっだ。ボヤけた椹の頭では、普段している悪巧みもろくにできず、ただ漠然と視界に映ったものを拾うだけ。空の見えぬ暗闇が天井には広がり、その岩肌をところどころに見える石灯籠や提灯が照らしている。木で作られた家々は、幻想郷の人里にあったものよりも古い作りに見え、時代がいくらか(さかのぼ)ったような錯覚に陥った。日本各地にまだ少し残っている城下町の景色。それに生活感を埋め込んで地の底に隠したというような在り方に、はっきりしない意識のままでも緩く椹の口角が上がる。

 

  ただ、その景色の手前にある木の格子を見たと同時に口角が下がった。少し目を左、右と動かせば分かる。左右、天井を取り囲んでいる木の壁。座敷牢のような空間に、椹の顔は苦いものへと変わっていく。そんな椹の視界に左右から割り込んできた金と緑の髪を見て、ようやく椹は身を起こす。

 

「よお」

 

  起き抜けの挨拶としては悪くないが、時と場合というものがある。どういう状況かはっきり分かっていない椹に引っ付くのは、能天気なこいしくらいのもので、フランドールは不機嫌そうに鼻を鳴らして格子の外を眺めた。「お頭〜」とじゃれついてくるこいしを床に下ろしながら、ふと痛んだ頭に手を伸ばしながら椹はフランドールの方へと顔を向けた。

 

「ここはどこだ? 見たとこ地底の都っぽいがよ」

「……その通り地底よ椹。ただ、見ての通り牢屋の中だけど」

 

  フランドールの機嫌は治らず、その白い肌からは隠そうともしない攻撃的な妖気が薄くだが漏れ出ている。「どうしてそうなった?」と首を捻る椹の前に差し出されたのは一枚の紙。嬉しそうに顔を笑顔にしたこいしがそれを椹に突き付ける。その紙に映った自分の人相書きを見て、椹はようやっと納得した。

 

「手配書が出回るたあ、オレも有名になってきたな!」

「気絶してる間に捕まってちゃどうしようもないけどね」

「それは言うな……、にしてもなんで二人もいんだよ。こいし嬢とフランドール嬢の二人なら捕まらねえだろうし、逃げられもすんだろ」

「だって私お頭の子分だもん」

「……まあ、椹がいないとつまんないし」

「そういうもんかね?」

「盗賊の心得そのさん! 盗賊は仲間を見捨てないだよ!」

 

  勝手に三つ目の心得を作り偉そうに三つの指を立てた手を掲げるこいしを見て、そういうものなのか、と反論することもなく椹はその言葉を飲み込む。そしてこいしを引っ付けたままフランドールの方へ近寄ると、格子の先に見える一番大きな屋敷に目を向けた。

 

「悪かったな。ただ休憩もできたことだし、早速出てくとしようかね。あんがとなお二人さん」

「ま、まあ良いけどさ。それで? あの一番大きな屋敷が目的地? 行くなら行きましょ。こういうとこ嫌いだし、まだゲームオーバーじゃないんでしょ?」

「うん! あそこにお姉ちゃんがいるよ! 早く行って驚かせなきゃ!」

 

  こいしの肯定の声に、椹とフランドールとこいしの三人は顔を見合わせると悪い顔でにやけた。そして椹が格子に向かって手を伸ばそうとしたところで、「おい」と低い声が掛けられる。囚人を咎める声かと椹は身構えたが、声の発生源は外ではなく、内から。牢の内側へと振り返った椹の目には暗闇しか映らなかったが、徐々にその中に潜んでいる人影が浮き上がってくる。

 

「誰かや?」

「あー、なんか少し前に運ばれて来た奴よ。全然喋らないから口がきけないのかと思ってたんだけど」

「……それはちがう。その男が起きるまで待っていただけだ。君らと話しても意味はあるまい。不機嫌な妖魔に手を出しても得られるものはあるまいよ」

 

  だんまりを決め込んでいた牢に突っ込まれている四人目が口を開いたと思えば、出てくるのはなんとも堅苦しい言葉。少しムッとしたフランドールが驚かせてやろうかと右手を軽く伸ばして手を開く。

 

「あれ?」

 

  だがその手のひらの内に浮かんでくるものは何もない。『目』をまた奪われたのかとフランドールは椹の顔を伺ったが、椹の顔には額から一筋の冷や汗が垂れており、フランドールの目をパチパチと瞬かせるには十分だった。

 

  薄く引き気味に笑う椹の目の前に、牢の影の中から身を乗り出して来た人影の全体像が浮かび上がる。その者が着ている椹と同じような学ランは、辛うじて知っている者にはそれと分かるくらいにぼろぼろで、竜巻の中に放り込まれた後のようであった。だが、どこにも傷は見受けられず、長い硬質な髪を掻きながら男は椹の隣まで来ると腰を下ろす。

 

「……梓の旦那。なんでここにいるのかや?」

「さてな。ただ、どうにも運が悪い」

 

  椹の顔と梓の顔。その対照的な二つの顔を見比べて、フランドールとこいしは大きく首を傾げた。

 

 

 




足利 第二夜 昼に続く。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 夕

「お頭、こっちこっち!」

 

  手招きするこいしの後を追い、地霊殿の中へと足を入れる。ここまで暴れて疲れたのか、陽の下でもないのにこいしと同じように肩にフランドールを引っ付けながら、椹は身軽に地霊殿の床に足をつけた。盗賊らしく、正面からではなく壁に取り付いている一枚の窓から。黒と赤が交互に入り混じるタイルを足で小突きながら、入ってきた窓の上部に取り付けられているステンドグラスを椹は見上げた。

 

「どうしたのよ椹」

「いや、良いご趣味でって感じだ」

 

  古い日本の町並みと言える旧地獄の中にあって、地霊殿の外観は西洋の館。だが同じ洋館である紅魔館の派手さとは打って変わり質素なもの。長崎のグラバー邸、愛媛の萬翠荘。それに近い。森の中にある紅魔館と違い町中にあるからこその遠慮具合に、当主の気遣いが見受けられる。だが、質素とはいえ、それは雰囲気の話であり、使われているものまで質素と言うわけではない。洋館の窓たちを彩るステンドグラス。床に貼られたタイルたち。それに加えて、設備という意味では文明レベルで外の世界よりも遅れているはずの幻想郷でありながら、肌に丁度いい気温は暖房が使われている。

 

  これは良さそうなお宝を期待できそうだと部屋の扉に静かに近寄ると僅かに扉を開き目を這わせる。大きな廊下の天井からぶら下がった照明が小さく揺れるのは、遠くから聞こえてくる衝突音のせい。何度も響くそれは梓と勇儀の激突で間違いない。せいぜい頑張ってくれと内心どうだっていいと思いながらエールを送り、廊下に足を差し出そうとして椹は動きを止めた。

 

「……ありゃなんだ」

「なんだって、お姉ちゃんのペットだよ」

「あれが?」

 

  「くえー」と鳴き声を上げて廊下を飛んで行ったのはハシビロコウ。アフリカにいるはずのそれがなぜか幻想郷の、それも地底の館にいる。外の世界でもあまりお目にかかれない生物に椹が目を丸くしていると、その目の前をまた一頭の龍がのそのそ歩いていった。コモドドラゴン。インドネシアにいるはずの小さな龍に、椹は今度こそ頭を痛めた。

 

「なあこいし嬢の姉さんは動物保護官かなんかなのかや? あれがお宝とか言わねえよな?」

「まだいっぱいいるよ? ニホンオオカミとか、キーウィとか、あとモアとか」

「よし、もういい。オレは生物学者じゃねえんだ。そんなの手に取っても嬉しくねえよ」

 

  廊下に目を走らせればまだまだ潜んでいそうな絶滅生物に顔を苦いものにしながら、椹は一歩廊下へ出る。紅魔館よりも面倒そうな地霊殿の中身に、少し楽しそうに舌を打ちながら、先へとスキップしていくこいしを追った。

 

「椹楽しそうだね」

「動物ってのは勘がいい。ペットって言うなら多少はその勘も鈍ってると思うがよ。こりゃこいし嬢に着いてってこっちもなるべく存在感消さねえとな」

「楽しそうになる要素が見当たらないんだけど」

 

  警備が厳しい方が盗賊としては嬉しいところ。なるべく手が届かなそうであるからこそ、手の伸ばしようがあるというものだ。鬼が出るか蛇が出るか、鬼はもう出たが、次はいったいなにが出るのかと心を踊らせながら椹は足を進める。

 

  しばらく質のいいタイルの上を足音を消しながら歩く椹だったが、驚くほどなにも出ない。目の前で大きく足音を響かせながら歩くこいしのせいではなく、その理由は椹が背に引っ付けている吸血鬼のせい。気配を消すなどという器用な芸当を引きこもりのフランドールができるはずもなく、小さくとも攻撃的な妖気を振り撒くフランドールから逃げるように地霊殿にいるペットたちは逃げているだけなのだが、そんなことは三人の知ることではなかった。

 

  そんな椹の期待とは裏腹に、無人の廊下を歩いていけば、一枚の大きな扉が姿を現わす。そのほかの扉よりも一回り大きく、また凝った装飾が彫り込まれている様は、明らかにその先に重要なものがある証。初めて紅魔館に入った時のように注意しようと思った椹だったが、実家であるからか意気揚々とこいしはその扉を開けてしまう。ギギィと耳に良い音を立てて開かれた扉からは、先に待つステンドグラスから差し込まれた光が数多の色の床に落としながら、その前に立つ人影も同時に床に落とした。

 

「お姉ちゃんただいま!」

 

  盗賊ということもすっかり忘れてか、人影に向かって笑顔を向けるこいし。その声を聞き、人影はゆっくり振り向くと、困ったような声を出した。

 

「こいし、あなたなの? どこに行ってたの、ペットたちも騒がしいし、今日は外も騒がしいのに」

 

  ステンドグラスの光を返すのはこいしの暗色の髪とは対照的な赤紫色の髪。その髪よりもやや赤みの強い瞳を燻らせて、少女の周りを取り囲む赤と黄色の入り混じったコードが生きているように蠢いている。そのコードと繋がれているのは、こいしの青い第三の瞳と対になる赤い第三の瞳。それが帰ってきた妹に向けられるが、困ったように目を細めている。

 

「そんなに泥だらけでなにをしていたのかしら。まずは温泉に……ってあら、誰?」

 

  その赤い瞳がこいしから外され、盗賊と吸血鬼に伸ばされる。閉じているこいしの第三の瞳と違い、開かれた第三の瞳の怪しさに椹は小さく舌を打った。気味が悪い。それも萃香や勇儀とは全く別の、力に対する不安ではなく、もっと心理的なものによって。心の中の閉ざされた扉の先を見透かされているような眼光に、椹は目を引き絞り、フランドールは静かに腕を伸ばそうとして椹にその手を掴まれる。

 

「おや、助けてくれるんですか? あぁ、でも盗みなんて困りましたね。あなたの欲しそうなものはここにはないと思いますが、この第三の目を綺麗だと思ってくれるのは嬉しいですよ? あまり褒められたことがないので。それにしてもその吸血鬼さんは少々厄介ですね。ここを壊されるのは困ります。どうしました驚いた顔をして。……何者かですか。自己紹介が遅れましたね、私はさとり、この地霊殿の主をしています。そう、こいしの姉ですよ。似ていないとはひどいですね、そんなことないと思いますけど、めんどくさいなんて思われてもこれが私たちなんですよ。そう、心を読むのが私たちさとり妖怪ですから。おや、そっちの吸血鬼さんは、へぇ、怖いんですか心を読まれるのが。その男の人に随分懐いてるみたいですね。でもだからこそ」

「お姉ちゃん話が長いよ、温泉使ってもいいんでしょ? お頭とフランちゃん温泉行こ!」

「ちょ、ちょっとこいし! なにを男の人を湯浴みに誘ってるの! だいたいお頭って、は? 子分? ちょっと」

「こいし嬢、フランドール嬢を連れて先に行ってな。オレはちょいとこいしの姉さんに話があるからよ」

 

  つまらなそうな顔になっているこいしに背に強く張り付いているフランドールを引き渡して二人の背を押す。こいしとフランドールの二人は椹に何か言おうとしたが、初めて見る椹の厳しい顔つきになにも言えず、「先に行ってるね」と言い残してこいしはフランドールを引っ張って行った。

 

  閉まる扉の奥に消えていく二つの背中を見送って、椹はさとりの方へと振り返る。さとりの目もまた厳しく、不機嫌な顔をする椹から第三の瞳を離さずにむしろ覗き込むように固定した。心配そうな顔で去っていったこいしと吸血鬼の顔を思い浮かべてより不機嫌になるさとりの顔に、同じく椹は顔をより不機嫌に歪めた。

 

「あなたですね、地上から来た盗賊とは。勇儀さんと戦っているのは別の方のようですが……梓と言うのですか、あなたは、なるほど、椹さんと」

「オレは平城十傑、袴垂家九十二代目当主 袴垂 椹 だ。よろしくなさとり嬢」

 

  さとりの言葉を遮るように椹は名乗る。そんな姿にさとりは眉を顰め、そして椹も目を鋭く引き絞る。お互い顔を顰めて顔を付き合わせる姿は決して友好的とは言えず、そして実際に二人の間に仲良くしようという空気はなかった。初対面でありながら、二人はもうお互いのことを嫌いになったと言っていい。妹が親しそうにしている男。無害ならまだしも、地上で人相書きが出回るような盗賊であり、それも妹を子分にしているような男だ。それだけでさとりからすれば椹を嫌う理由になる。そして椹がさとりを嫌いになる理由も単純だった。

 

「心を盗まれるのが気に入らないですか。読まれるのがイヤではなく、盗まれるのがイヤとは、変な人間ですね。その理由は」

「オレが盗賊だからだよ。一々オレが喋る前に喋んじゃねえよ」

「そう言われても私からすれば二度手間ですから。こっちの方が早いんです」

 

  知ったことかと言いたげに椹は大きく舌を打ち、床を足で強く小突いた。相手の手のひらの上にいるような現状がとにかく気に入らないと態度で示す。その子供っぽい仕草に呆れたようにさとりは肩を竦め、手近にあった椅子に腰を下ろした。短い会話では終わらないそう判断したから。

 

  椹はさとりを絶対一泡吹かせようと考えている。そしてそれはすぐにさとりに伝わった。地霊伝に来るまで椹は多くのお宝を手に入れてきたが、それも萃香には酒を半ば引ったくられ、勇儀には瓢箪をぶん取られ、さとりには頭の中を盗られている。萃香と勇儀には仕返す余裕がなかったが、今は違うと椹は頭をぐるぐる回す。心を読まれているからと言って、考えを止めることはできない。

 

  さとりは(お燐)(お空)を呼ぼうかと思案したが、目の前の盗賊が暴力に訴えようと考えていないのを見て取り止めた。力には力を、知恵には知恵を。椹はそう考えを巡らしている。普段はそこそこ心を読むことを遠慮するさとりであるが、こいしの側にいる変人に遠慮をする必要はない。

 

「なぜあなたはそうなったのかしら。多くの人妖を見てきましたが、あなたみたいなのは初めてね」

「そんなのお前にゃ関係ないだろ。オレは今オレとしてここにいる。過去なんてどうでもいい」

「そうは言っても過去は消せない。……なるほど、随分と過酷なところに放り込まれたようね。暗い迷宮に一人きり、何年も飢えと孤独の中にいて、友も家族も側にはいない。時には蟲や苔で飢えを凌ぎながら妖魔に怯える毎日ですか。私でもゾッとしますね。よく生きていられる。生き残ればあなたのようになりますか。全てはコケにしてくれた月軍の命を奪うため。でもあなたは命を奪うことを良しとはしていないと」

「オレは殺し屋じゃなくて盗賊なんだよ。命は生きていてこそ、手に取れないものを取ったところでなんになるよ」

 

  命とは生きているからこそ輝くのだ。動きを止めた命ほど色褪せてしまうものはない。椹はそう考える。綺麗だからこそ椹は手を伸ばす。ゴミに手を伸ばす盗賊など居ない。

 

「盗賊の矜持ですか。矜持……。だからあなたは今私に対して殴りかかりたいくらいイラついていても手は出さない。そんな境遇だから自分勝手なのも納得できますが、ある程度の線引きはしっかりしている。……でもそれはそうあれかしと奪われたからですか」

 

  さとりの言葉に椹の眉が釣り上がる。止まらぬ思考は椹のドキュンメンタリーをさとりに見せるかのようにさとりの目に映し出され、その内容にさとりは小さく息を吐いた。妖怪をして頭痛がしてくる。自ら己が一族に尋常ならざる試練を課す人間の歪さに。袴垂を除き断片的に見ただけでも九の一族が似たようなことに邁進している。修行ではなく拷問に近い日々を覗き、さとりは目頭を緩く抑えた。同情でも哀れむわけでもなく、ただその気持ち悪さに、突っ返そうになる喉を鳴らす。トラウマが多過ぎて眺めている方が陰鬱になる。

 

「家族を奪われ、友を奪われ、師も奪われ、未来を奪われた。全てを奪われて残ったのがあなた。その恨みは月の使者に向けろと言われ、言われるがままはイヤだからと目を背ける。でもそうやって手に入れたものもまた奪われるのではないかと恐れて。なんでも手に取れる盗賊でありながら、あなたこそが一番奪われることを恐れている。だからあなたはいつも一人。それならなにも奪われないから。……そう、いつも一人」

 

  私のようにとはさとりは言わずに顔に付いている両目を閉じた。自分の意思とは関係なく相手の心を読んでしまうさとりは、忌み嫌われ地上を追われた旧地獄の妖怪たちにまで忌み嫌われている。さとりにそんな気はなかろうとも、相手の方から離れていく。残されるのは孤独。アニマルセラピーで心の均衡を保ちながら、地底の館から滅多に腰を上げることはない。

 

  そんなさとり妖怪であるからこそこいしは……。そこまで考えて気付かれないぐらい小さくさとりは首を横に振るった。他人のトラウマは己のトラウマも呼び起こす。無意味な負の連鎖にさとりは薄く目を開けて、難しい顔で突っ立っている椹を瞳に写した。

 

「だからこいしを気に入っているのね。自分で奪ったわけでもないのにこいしの方からあなたの近くに寄って来た。あなたの生き方は決して褒められたものではない。善か悪かの極端な二元論を元に考えるのなら、あなたは悪側の人間だもの。そんなあなたのそばに居て笑顔を絶やさないこいしをあなたはあなたが思う以上に手放したくないのね」

「……それはお前もだろ」

「ええ、だって妹だもの。他人の、それも人間とはわけが違う。この世でたった二人の姉妹なの。大事に思うのは当然でしょう?」

「ならなんで放っておくんだ」

 

  椹の言葉にさとりは目を顰める。第三の瞳も嫌そうに畝り、椹に殺気にも似た視線を突き刺した。そんなさとりの様子にようやく椹は薄く笑い、火傷を負った右手を緩く握る。

 

「こいし嬢の第三の瞳が閉じているのはなんでかそんなことはオレの知ったことじゃない。お前みたいに使えるんならそっちの方が便利だし、オレは嬉々として使うだろうよ。だがこいし嬢はそうじゃねえ。自分の性質と違うことをするっていうのは思いの外ストレスが溜まるもんよ。オレだってあんま言いたくねえがどうせバレてるだろうから言うがよ、何度か普通に生きようとしたことがあったぜ。普通に学校に行って、なんでもない奴らとなんでもない会話に花を咲かす。でもそれがどうにもうまくねえんだ。奪いたくてしょうがない。オレにはないその綺麗な輝きを。誰もが持っていながらに気がついていないその輝きをよ。で、結局オレは盗賊で、だから結局こいし嬢もさとり妖怪なんだろうよ」

 

  その第三の瞳を開かせないのはなぜか。相手の心を覗くのが嫌だと目を閉じても、覗かない年月が長く続けば、きっとさとり妖怪の心は死んでしまう。相手の心を糧にするような生き物だ。人が息を吸い食事をとるのと同じ。今のこいしはそうは見えなくても、息を止め、食事を抜き、睡眠もとらずに動いているに等しいのかもしれない。もしそうならいずれこいしがどんな道を辿るのかは目に見えている。旧地獄にいながらその道をさらに下っていき、三途の川を渡るのだ。

 

「怖いんだろうお前も。こいし嬢に嫌われるのが」

 

  心の中で図星を突かれたのに、言葉で二度突かれる。要らぬダメ押しにさとりは顔を歪めた。その表情を楽しむように椹は小さく唇を舐め、両手を合わせて擦り合わせる。声には出さなくても、「だからなんです」というさとりの声が椹には聞こえてくるようだった。

 

「こいし嬢の目を開かせたいのに手を出さない。盗賊のオレからすれば馬鹿なことよな。お前はあほうだ。相手の内側は見れるのに自分の内側は見て見ぬふりかや? ふざけろ。クソ面白くもねえ。オレを愚かだと思うならテメエもそうさな。こいし嬢は好かれるだろ。無邪気ってのはその通り邪気がねえ。そうやって聖人にでも好かれてこいし嬢が第三の瞳を開けるのを待つか?」

 

  さとりは口を開かない。椹の期待するように荒げた声を返したくないから。ただ椹の言葉と心に浮かぶ想いに目を這わせ、膝に置いた手に力を込めた。そしてそんな仕草を椹が見逃すはずもなく、椹は口が裂けたかのように笑みを深め、さとりの目は鋭く引き絞られていく。

 

「自分が一番奪いたいのに誰かに奪われるのを待ってるだと? マジふざけんなよテメエ。オレはそれが、それこそが一番嫌いだぜ。自分のそばにある一番綺麗な輝きを知っていながらそれを守ろうとしない。奪われてからじゃ遅いんだよ、奪われたくなくても奪われる怒りを知らねえわけでもねえだろうによ」

「盗賊が……!」

 

  さとりの殺気のこもった言葉に嬉しそうに椹は耳を澄ませて大きく笑った。バレるバレないなど気にせずに、地霊殿に大盗賊の笑い声が木霊する。その声にさとりは座っていた椅子から立ち上がり、それを見た椹はゆっくりと、その時間を楽しむようにさとりの挙動を目で追った。

 

「んっん〜! やっぱり相手の内側を察することができたとしても声で聞かないと楽しくねえやな。オレはさとり妖怪じゃなくて卑しい人間様でね」

「コイツッ」

「ここにはオレが欲しいと思うものがない? あるじゃねえか一番のお宝が。お前の一番のお宝はオレが奪う。大盗賊 袴垂 椹が古明地こいしを奪ってやる!」

 

  さとりの第三の瞳が妖しく輝く。その瞳に相手を射殺す魔力を込めて。それが放たれようとするのを椹は大きく笑い待ち受けたが、背にある部屋の大扉がガタリと叩かれたことで放たれることはなかった。さとりも椹もその扉に顔を向けたが、いつまで経っても扉が開かれることはない。業を煮やしたさとりがふわりと浮かび近寄り扉を開けると、緑がかった灰色の髪が大きく揺れていた。

 

「あ、あのね、は、早く来ないと先に出ちゃうからねお頭!」

 

  頭に被った帽子をその場に残して飛び去って行くこいしを目で追って、椹は一度強く頭を掻いた。白い頭を染めていた茶色い土が目の前にちらつくのを眺めて一度強く頷く。

 

「よっしゃ! 今から行っちゃうぞ! 待ってろ子分ども」

「は? はぁ⁉︎ 馬鹿じゃないんですか⁉︎ ちょ、マジで行こうとしてるわねあなた⁉︎ しかも何考えてるのよ‼︎ お燐! お空! 変態よ! 変態が出たわ! というかもう全員出てきてこの変態を放り出して!」

 

  地霊殿で始まった鬼ごっこ。笑う椹を捕まえることは叶わず、数多のペットを退けて最終的にさとりを巻き込み椹は温泉へと飛び込むことになる。その結果、レーヴァテインが温泉に突き立てられることとなり、さとりと椹が茹で釜地獄に落とされることになったのはまた別のお話。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 朝

  旧地獄から地上へと続く道はいくつかあるが、大きいものとなると二つ。一つは間欠泉が噴き出した博麗神社へと続く道。もう一つは同じく間欠泉センターがある妖怪の山の麓へと続く道。椹、フランドール、こいしの三人は、一夜明け地上へ向けて移動を始めた。

 

  と言っても歩いてではない。ガタガタと揺れる箱の中に三人。幻想郷という旧時代の宝庫の中にあって、エレベーターの中にいるという現実に、椹は浪漫の欠片もないと頭に手を伸ばす。ゆっくり伸ばした手を頭に置けば、軽い痛みが頭に走り椹は目尻をだらりと下げる。昨日降ってきた桶に頭を強打したというのに、一夜明けてまた椹は頭を強打する羽目になった。

 

「くそが。マジでふざけてるやな」

「椹大丈夫なの?」

「大丈夫なもんか。こいし嬢の姉さんマジでどうにかなんねえの?」

「面白かったね!」

 

  そう言って椹の背に引っ付くこいしに笑顔を取り繕いながら、椹はこいしの頭にチョップを落とす。久し振りにベッドで寝れるとあってぐっすり寝ていた椹を起こしたのはさとりの弾幕。こいしが気に入っていることもあり、嫌々椹とフランドールを地霊殿に泊めたさとりだったが、朝になり部屋に居ないこいしを探して行き着いた先は椹の部屋。椹のベッドに潜り込み爆睡していたこいしを見て、姉の堪忍袋が引き千切れた。

 

  全くの冤罪であるのだが、さとりは聞く耳持たず、ファーストコンタクトが最悪だったこともあり、これ幸いと地底に弾幕の雨を降らせた。早朝から地霊殿の霊獣たちに追われ、地底の太陽が落とされたところで命からがら逃げ出すことに成功する。

 

「あの鳥女マジで何者だよ。生物兵器かよ、藤の旦那や漆みてえなやつだ」

「お空って言うの、お姉ちゃんのペットだよお頭」

「こいし嬢の姉さんはペット大臣かや? 幻獣を飼うな」

「それで椹、次はどうするの?」

「取り敢えずこの箱の行き先次第さ。あの鳥女が馬鹿で助かったぜ。わざわざ脱出路を教えてくれたんだからよ」

 

  ようやっと辿り着いたエレベーターの中は地上直通のようであり、それもまた椹たちにとって都合が良かった。地上ではお尋ね者。地底でもお尋ね者。だが安全度では地上が上だ。着々と悪名を積み重ねていく椹に苦い顔をするのはこいしとフランドール以外の者で、三人は全く気にしない。

 

  唯一気にするのはエレベーターの乗り心地の悪さ。木で組まれた箱は剥き出しの歯車が天井を突き破っており、なかなかにうるさい音を轟かせている。ガタリと揺れる度に背の小さなフランドールは小さく宙に浮き、その度にフランドールの不機嫌度は一段上がっていくようだった。ここでエレベーターを握りつぶされては堪らないため、椹は「それで」と会話でフランドールの気を紛らわせてやろうと口を開く。

 

「フランドール嬢はどっか行きたいとことかないのかや?」

「私? うーん、そう言われてもすぐには出てこないけど」

「前回はこいし嬢の案に乗ったからな。次はフランドール嬢の案に乗るぜ。どこに行きたいよ」

「う、うん、そうだね、うん」

 

  どこに行きたい。そう聞かれたのはいつぶりか。フランドールは深く記憶の海に潜るが、どこまで潜ってみ思い出せない。遥か昔、姉にそんなことを聞かれたようなというほどに昔。記憶の大部分は暗い地下迷宮に彩られ、青い空や夕焼けなどほとんどない。今が新鮮すぎて、どこに行きたいなどとフランドールは考えもしなかった。考えなくても椹とこいしがフランドールの手を引いて勝手にどんどん進んでしまう。それを今度はお前が歩いていいと急に言われても、行きたい場所など浮かんでこない。

 

  だが、そんなフランドールを急かすこともなく、どこへ行きたいとフランドールが零せば行こう! と二人が言うだろうことが分かるからこそ、フランドールはなんとか知恵を絞る。狂気以外に頭を支配させるなどいつぶりか。博麗神社、妖怪の山、白玉楼、命蓮寺、太陽の畑。話だけなら何度も聞いた。フランドールにとってはどれも夢幻と変わらない。そんな中から一つ、椹の不敵な笑みを見上げて思い浮かべる。

 

「……どこでもいいの?」

「まあどこでも面白くはあるだろうからな。ぼろっちい場所はちと嫌だがよ」

「ふふ、どこでもじゃないじゃない。なら、そう、永遠亭に行きたいわ」

「おいおい、フランドール嬢そりゃあよ」

「……ダメ?」

 

  可愛らしく、しかし、少々の影を孕んだフランドールの顔を椹は見下ろす。ここに来ての永遠亭、全く椹はかぐや姫に会う気はない。梓の思惑に乗るような形が嫌なのと、袴垂の姓に誇りはあっても、平城十傑としての使命にはほとんど興味がない。誰のものでもないものは奪えない。月の使者に攫われていなかったのなら、椹は何からかぐや姫を奪えばいいのか。絶世の美女に興味はあっても、奪えぬのなら関係ない。

 

  だが折角のフランドールのお願いを一方的に無下にするのは椹をして憚られた。最初こそ無理矢理連れ出したが、それでも椹から離れずにここまでついてきた子分その二だ。椹はがしがし頭を掻いて、フランドールの紅い瞳を見返した。

 

「一応聞くけどよ、理由は?」

「椹がかぐや姫を奪うところを見てみたいから」

「はぁ? そんなのが見たいのかよ」

「だって椹の祖先は失敗したんでしょ? 椹は成功するよね? 私はちょっとだけそれが見てみたいな。椹は世紀の大盗賊なんでしょ? だったら奪えるよね」

 

  私を奪ったように。そうフランドールの瞳は言っていた。無理難題をふっかけて誰の嫁にもならなかったかぐや姫。もしそれを手に入れたならどれほどか。帝さえ逃した宝物を手に入れられるのは誰だろう。

 

「お頭行こうよ! 私も見たいな! だって面白そうだもん!」

 

  こいしにまで後押しされて、椹はもう一度頭を掻いた。欲しくもないものを手に取ったことはない。だが、フランドールの言う通り、自分を監獄島に放り込んでくれたやつらの顔を明かしたい想いはある。もし椹がかぐや姫を奪い要らないから捨てたとでも宣えば、過去の袴垂はどんな顔をするのか。それを考えて椹の口角が上がっていく。

 

「かぐや姫はさて置いてよ、きっと高価そうなお宝はあるだろうな」

「うんうん! 私たちで全部奪っちゃおう!」

「行くかぁ! フランドール嬢!」

「うん……うん! 行こう!」

 

  フランドールの顔がパッと華やいだのを見て、椹は満足気に笑みを返す。行き先が決まったのに合わせてタイミングよくエレベーターが止まり、扉が開くのを今か今かと三人は待つ。ギリギリ回る歯車に合わせてゆっくりと扉は開いていき、三人の顔は笑顔のまま固まった。

 

  エレベーターの先の景色は、ひとりの人影に塞がれていた。人工的な光を照り返す銀色の髪。顔の横で三つ編みを揺らしながら、メイド服を秋風に靡かせている。椹を見る目はナイフのように鋭く、それがフランドールに落とされると柔らかな笑みへと百八十度変化した。

 

「妹様、お迎えに参りました」

「……なんでいやがる銀髪メイド」

「なぜ?」

 

  キラリと咲夜の顔の横が一瞬煌めき、その輝きを右手の指二本で受け止めた。指の隙間から見えるナイフの先端に舌を打ちながらそれを咲夜に向けて投げ返せば、同じように左手で飛んで来たナイフを掴み取る。

 

  椹を見る咲夜の目はどこまでも鋭くなり、投げ返されたナイフを太ももに巻かれたホルダーに戻すと小さく舌を打つ。メイドにあるまじき態度の悪さに椹も舌を打ち、二人の間に気まずい雰囲気が流れ、それを隠しもせずに咲夜は言葉のナイフを飛ばす。

 

「残念ね泥棒、例え私から逃げられてもお嬢様からは逃げられない。貴方に掴めぬものもお嬢様には掴めるからよ」

「それはオレに喧嘩売ってるのかや?」

「そう聞こえなかったのだとしたらちょっと頭が足りないんじゃない? それにこの距離なら私だって逃さない」

 

  咲夜の目が絞られていき、目の前で細く長い少女の指が弾かれた。その音になにか意味があるのかと椹が眉を顰めると、咲夜は目を見開いて周りの景色に目を散らす。なにかを言おうとして口を開き、結局なにも言わずに口を引き結ぶと、椹に向けてまた銀閃を見舞う。それを軽く受け止める椹を殺さんばかりに睨みつけて。

 

「貴方……なにをしたの?」

「はあ? おいなんだマジでよ。フランドール嬢、お前んとこのメイド頭でもやられてんじゃねえのか? それか過労だろうから休みでもやったら?」

「ええと、なんかよく分からないけど大丈夫咲夜?」

「ッ、はい妹様。大丈夫ですよ」

 

  フランドールに心配されたと軽い自己嫌悪に陥りながらも、咲夜は誰に気づかれることなく再び時を止めようと動く。わざわざ時を止めると教えずにそれを試みるが、「気持ち悪いやつよな」と言う椹の言葉がすぐに咲夜の耳に届きひとり眉間に皺を寄せた。なにがなんだか咲夜にも分からないが、自分が不利になることを椹の前でわざわざ言う咲夜ではない。椹が何か勘づく前に仕事を終わらせようと、フランドールの前に咲夜は膝をついた。

 

「妹様。そろそろお戻りください。お嬢様も心配しております」

 

  困ったような咲夜の顔に、フランドールは目を椹の方へと外らすことで答える。ついさっきまで永遠亭に行こうと言っていたところ。フランドールもあまり戻りたくはない。椹ならなにか言うだろうと期待してのことだったが、椹は何も言わず、ただフランドールを見返した。

 

「妹様?」

「あの、私」

「はい」

「私、まだ戻りたくないなって言うか」

「それは……」

「椹とこいしと一緒なら大丈夫って言うか、私」

 

  つっかえながら視線を至る所に移しながら言葉を紡ぐフランドールの背にこいしが飛びつく。その熱に後押しされるようにブレていたフランドールの瞳が咲夜の顔に定まった。小さく笑顔を浮かべるフランドールに、咲夜の顔が驚愕に染まる。

 

「私二人ともっと外を歩きたいわ」

 

  その言葉を受け取った二人にくっつかれて鬱陶しそうにしながらもフランドールはそれを受け入れる。そんな姿に咲夜は歯を食いしばりながら立ち上がり、椹の肩に手を置いた。メキメキ軋む骨の音に合わせて近づいて来る咲夜の顔が椹の顔の横に並んだ瞬間、

 

この泥棒が

 

  低く冷たい氷のような咲夜の言葉が椹の耳を撫ぜ、冷たい汗がツーっと椹の背を伝う。笑顔のフランドールがいるからこそ流石に荒事に咲夜もしないが、その身の内に潜む冷たいものに椹も笑みを引攣らせる。そんな椹に少し溜飲が下がったのか、咲夜は小さく咳払いをすると、三人から少し離れて佇まいを正した。

 

「そういうことでしたら、袴垂様、古明地様、お嬢様から屋敷に招待したいとの伝言をお預かりしております」

「おいこいつ急に様付けだしたぞ」

「妹様を連れ出してくれたお礼とのことです。いかがでしょうか?」

 

  椹のツッコミを全スルーして淡々と用件だけを咲夜は伝える。レミリア=スカーレットからの招待。お礼とは胡散臭いことこの上ない。怪しげな誘いに椹は眉をうねらせるが、こいしは「招待だって!」と両手を上げて喜びの声をあげ、フランドールは疲れたように肩を落とした。

 

  時を操るメイドを前に、四方を箱に囲まれたエレベーターの中では流石に逃げ切れないかと椹はこれ見よがしに舌を打ち、フランドールへ顔を寄せる。

 

「こいし嬢は行く気みたいだがどうするよ。超胡散くせえし、フランドール嬢は戻りたくないんだろ?」

「いや、まあ、そうだけど……咲夜潰しちゃう?」

「馬鹿お前んとこのメイドだろ。困ったらとりあえず潰すのやめろ。なんでもないようなのがお宝だったりするときもあんだぜ」

「うーん……椹に任せる」

「…………なら行くかぁ、吸血鬼の主人ってやつをちと見てみたいし、永遠亭への寄り道には丁度いいだろうよ」

 

  そうフランドールにウィンクをしながら椹が言えば、フランドールは両手で口を押さえてクスクス笑った。全くフランドールを返す気が椹にはない。そんな二人の背に手を回すこいし。三人を見つめながら咲夜はギリギリと目尻を釣り上げながら、「では参りましょう」と言葉を吐き出すことで椹にナイフを投げるのをなんとか抑え、空へと浮き上がる。

 

「おいおいどうやって行く気だよ」

「? 飛んでに決まってますわ。袴垂様」

「機械音声みたいに名前を呼ぶなよ。だいたいオレは飛べねえぞ」

「はあ? 貴方飛べないって、……冗談?」

「あのなあ、人間が空を飛べるわけねえだろうよ。そりゃな、化け物って言うんだぜ」

「お頭、でもあのメイドさん飛んでるよ?」

「ああこいし嬢、だからアレは化け物だ」

 

  変な技能に秀でてるくせになぜ飛べないんだと咲夜は頭を痛めながら、イラつきを表現するように間欠泉センターの床に強く足を落とす。紅魔館への遠い道のりを考えて、咲夜は深いため息を吐き出した。

 

 

 ***

 

 

  太陽が真上に登ろうかという頃、ようやく一行は紅魔館の門へと辿り着く。椹にとっては二回目の紅い館。その紅さに陰りは見えず、紅魔館の周りだけは夕焼けのように真っ赤な空気に塗れていた。四人が近づけば大きな鉄の門扉はひとりでに開いていき、客人を歓迎するように大きく口を開けた。その傍に立つ緑色の華人服を着た赤い髪の門番は、今回ばかりは夢の世界へ旅立ってはいないらしく、フランドールを見ると安心した表情を浮かべ、拳手の礼と共に椹とこいしを迎え入れる。

 

「今度も簡単に入れたねお頭」

「相変わらずザルな警備よな」

「あの聞こえてるんであまりそういうことは……」

 

  門番の泣き言を聞き流し咲夜の背について三人が紅魔館の中へと入れば、紅い絨毯の端にズラリと並んだ妖精メイド。シャンデリアの下に透明な羽を並べる妖精たちを見て、椹は堪らず口笛を吹いた。「初めからこうならもっとよくお宝を探していた」と軽口を叩きながら、足の止まらぬ咲夜の後を追う。

 

  途中こいしと通った隠し扉を通り過ぎその先へ。紅い絨毯は途切れずに先へと伸び、地霊殿同様、大きな扉へと続いていた。

 

「なんかこうよ、幻想郷に来たはずなのに洋館に縁があり過ぎるって言うか、似たようなとこばっかで驚きが足りねえやな」

「なら泥棒じゃなくて怪盗にでも改名したらいいじゃない」

「いやオレマントとか着けたくねえしよ」

「マント?」

「怪盗って言ったらマントだろ?」

 

  必要のない問答を椹はフランドールと終え扉が開く。扉の先で待っていたのは暗闇だった。そう感じるほどの明暗の落差に、僅かに椹は目を細める。暗闇の中へ変わらず歩いていく咲夜は浮き上がっているように目に映り、その様は夜空に浮かぶ星のように見えた。しばらく歩みを続けた咲夜だったが、足を止めて反転すると軽く頭を下げた。暗闇の中にいる誰かに向かって。咲夜の視線の先にいる何者かは薄く笑い、椹たちに入ってきた扉が背後で閉じた。

 

  椹の身を包むのは極大の妖気。鬼の威圧に似ていたが、身を叩く妖力だけなら上ではないかと椹は感じた。暗闇は音を吸っているようであり、耳の痛くなるような静寂がしばらく続く。そんな中、ゆっくりと紅い星が暗闇の中に二つせり上がった。

 

  そう見えたのはその者が持つ瞼のせい。爛々と輝く紅い瞳は、その内にくっきりと脅威と畏怖を内包する。縦に裂けたような瞳は人のものではない。夜の王。紅を啜る吸血鬼。その白い牙が紅い双星の下に三日月を浮かべる。

 

「待っていたわよ盗賊」

「来てやったぞ吸血鬼」

 

  ただの人なら鯉にように口を開閉するだけだというのに、不敵に笑いない言い返してくる人間に小さくレミリアは笑った。博麗の巫女と普通の魔法使いがやってきた時のことを思い出しながら、合わせた両手の甲に顎を乗せる。

 

「妹が世話になったようね」

「そりゃオレの子分だからな」

「貴方は命知らずなの? それとも無謀なだけかしら?」

「勇敢とは言わないんだな」

「それは勇者に使う言葉よ。貴方は勇者じゃないでしょう」

 

  違いないと椹は大きく笑った。暗闇に男の笑い声が木霊するのを、可笑しそうにレミリアは見る。どこまでも不敵で、フランドール=スカーレットを奪った人間。霊夢も魔理沙も遊び相手にはなりこそすれ、わざわざ狂気の塊を隣に置こうとはしなかった。そんな変わり者を観察するように眺めるレミリアから少し離れたところで火が灯る。

 

  白い蝋燭の先端に指を向けて火を灯したのは、ラベンダーで髪を染めたような少女。眠たげな目を椹に向けて、小さく細い息を吐いた。火に照らされる紫と薄紫のストライプが入ったゆるい服を靡かせて、紅い瞳の少女に目を向けた。

 

「レミィ、言葉遊びは今度にしなさい」

「あらパチェ少しくらいいいじゃない。まあいいか、ねえ盗賊、昨日の新聞は見たかしら?」

 

  そう言って暗闇からゆっくりと流れてくる一枚の紙。『月軍襲来!』の文字を見て椹は顔を顰める。流れてきた紙を手に取ると、くしゃりと丸めて背後へ放った。

 

「どいつもこいつも月軍、月軍。暇なやつらよな、マジでよ」

「あら? そんなんでいいの、平城十傑」

「オレには今が大事なんだ、過去なんて知るかよ。オレがやりたいかやりたくないかさ」

 

  椹の答えにレミリアは薄く笑う。その身勝手な人間らしさを笑ったのか、刹那主義を笑ったのか、椹には判断できなかったが、もう一人の紫色の少女がため息を吐いたのを見てどうせろくなことではないと肩を竦めた。

 

「そんな貴方だからフランも気に入ったのかしら? ねえフラン?」

「別に……言う必要ないし」

「妬けるわね、私より好かれるなんて」

 

  椹の服の裾を掴んで背に隠れるフランドールを見て、レミリアは視線を外し口を閉じる。火が灯っても所詮は蝋燭。目も閉じればそこにあるのは暗闇で、レミリアの姿は消えたように分からなくなる。再び紅い瞳が瞬き、その目が椹に戻された。

 

「で? オレを呼んだわけは? マジで歓迎してくれるのか?」

「まずは妹の相手をしてくれたお礼を、感謝するわ」

「それはマジだったのか……」

「……まあね。でもそれだけじゃないわ。私も月とは因縁があってね。なんで今このタイミングで月から敵が来るのか聞きたくてね」

「知るかよ」

「あらそうなの? 残念ね」

 

  全く残念そうな声で言わないレミリアに椹は鼻を鳴らす。どうにも掴み所のない相手というのが椹は苦手だ。何を考えているのか分からない吸血鬼に眉を寄せながら、椹は紫色の少女と紅い吸血鬼へ交互に視線を投げた。

 

「で? 呼びつけておいて自己紹介もなしかや?」

「泥棒だと言うなら忍び込んだ屋敷の主人の名前ぐらい知ってるんじゃない?」

「そりゃ嬢ちゃんのはな。そっちのは知らねえや」

「……パチュリー=ノーレッジ。覚えなくていいわ。これ以上泥棒の知り合いは必要ないもの」

「ほう、オレ以外にもそんなのが幻想郷にいるのか。そいつは是非ともお会いしたいもんよ」

 

  普通の魔法使いと自称大盗賊が並び立って本を漁る姿を幻視しパチュリーは目頭を抑えた。そんな未来来ないでくれと祈りつつ、笑うレミリアに変わってパチュリーは眠たげな目を椹に方へと持ち上げる。

 

「貴方たちが来てからどうにも時間の流れが変なのよ。それが決定的になったのは丁度今朝から。咲夜、貴女今時を止められないんじゃない?」

「え、ええ。そうです」

「マジかよ。逃げとくんだった」

 

  驚く咲夜を苦い顔で見つめながら椹は頭を掻く。パチュリーの聞きたいだろうことへの答えを椹は持っていない。椹の仕草でパチュリーにもそれが伝わったのか、三度ため息を吐くとどこからか取り出した新聞へと目を落とした。いったい何枚新聞があるんだと椹は肩を落とす。

 

「平城十傑、東洋の島国には本当に変なのばかりがいるわ。こんなのがいるなんてね。遥か昔に唯一月の民と戦おうとした人間。何を考えてるのか分からないわ」

「あらパチェ、そこが人間の面白いところよ。勝てる勝てない関係なしに剣を手に取る。貴方もでしょう? 人間」

 

  パチリと目を閉じ暗闇と混じったレミリアの空気が変わる。暗闇の中蠢く空気に眉を跳ねさせ、フランドールを背に隠しながら椹は反転し真下へ目を向ける。

 

  椹を下から見上げるように立つ少女の青い髪が大きく揺れ、歯から伸びる牙が大きく開かれる。吸血鬼の吐息が首筋を撫ぜるのに目を引き絞り、喉に伸びた吸血鬼の手を横から掴み押しとどめようと試みるが、小さな手に潜む怪力には敵わず小さな爪が椹の首にかかった。

 

「さあ盗賊、よくも私の宝を奪ったわね。自分の手で掴みに来たわよ、それでお前はどうするの?」

「くはは! 面白い! 面白いなぁレミリア=スカーレット!」

 

  顔を背けるどころかよりレミリアの顔に椹は顔を近づける。盗賊の笑みに視界を覆われ、レミリアと椹の額がぶつかる。次はどうする? と気を反らしたレミリアの思考の隙を縫ってふわりと椹はレミリアの手から逃れると、その小さなレミリアの牙に指を掛けた。

 

「吸血鬼の牙、奪ってみるかや?」

「私が貴方()を奪うのよ」

 

  一足早い夜が来る。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 昼

  風が唸る。壁が弾ける。ギラつく赤い瞳が暗闇の中に線を引き、椹が逃げてしまわぬように取り囲む。黒に包まれた世界の中で、血の染み込んだ白い牙を光らせる吸血鬼を、見逃すことなく椹はそれを目で追った。咲夜は動かず、パチュリーも動かず、フランドールも動かず、こいしも動かない。いや、動けない。本気に近い吸血鬼の動きに上手く目がついていかない。唯一同じ吸血鬼であるフランドールだけが暗闇の中を縦横無尽に跳ねる姉の姿を追った。

 

  椹に迫る伸びた白い爪は日本刀のような鋭さをもって振るわれる。黒に引かれた五つの白線が椹の身を薄く削った。必殺のはずの一撃が人間に避けられた事実に笑みを浮かべてレミリアは爪先を仄かに染めた赤色を舐めとる。服に出来た三本の切り傷の部分を椹は指で摘み困ったように小さな息を吐いて、黒い世界に浮かぶ吸血鬼へ首を傾げてみせた。

 

「ったく、これ一着しかねえってのによ。ぴょんぴょん、ぴょんぴょん忙しねえな吸血鬼」

「ふふ、よく避けるじゃない。一瞬なら私の速度について来れるみたいだけど、一瞬でなにができるのかしら」

「なにができるかって? なんでもよ」

 

  暗闇の中で吸血鬼を前に不敵に笑う男に呼応してレミリアの口端も持ち上がる。その笑みがいったいどう歪むのか、レミリアはそれこそ見てみたい。するりと闇に混じるように消えたレミリアを目だけで追うのは叶わない。椹は闇に動く風と向けられる殺気へと触覚を伸ばし、それが自分に触れる瞬間、闇を切り裂く紫電が舞った。

 

  体の内に走っている電気信号を増幅させて一瞬纏う人体スタンガン。相手のシナプスに無理矢理信号を送り一瞬硬直させる荒技に、レミリアの姿が一瞬止まる。一瞬、だがそれで十分。紫電にまとわりつかれて姿の浮かび上がった吸血鬼へと椹は手を伸ばす。宣言通り小さな牙へ。素早く差し出された椹の指はレミリアの牙を確かに掴んだが、強引に体を動かしたレミリアに振り回される椹は壁へと叩きつけられた。人間に触れられた牙に指先で触れ、カチリと音を立ててレミリアは歯を噛み合わせる。不機嫌に染まった目と共に。

 

「二度も人間如きに牙を掴まれたのは初めてだわ、忌々しい」

 

  歪んだレミリアの口を眺めて椹は小さく笑い立ち上がる。冷たい壁に手をついて、夜の王がなんだと言うように。静かに目を引き絞りながら、闇に隠れる吸血鬼を捉えて足を一歩踏み出した。

 

  身体能力で言えば絶対にレミリアには勝てない。どれだけ自分の体を操れても、それは所詮人間の体。リミッターを外そうと、普段使っていない力に手を伸ばそうと、どうしても限界というものはある。

 

  レミリアの速度に追いつけるのは一瞬。常に同じ速度でレミリアについていくことはできない。自分に突っ込んで来る赤い光に壁を背につけ待ち受けて、椹は前面に全ての意識を集中する。いくら吸血鬼であろうとも、敵を屠るのにわざわざ一度壁に潜ることはないと背後を捨てて前面に。なによりも、人間如きと言うレミリアがただの暴力に訴えることに賭ける。

 

  その賭けは今回ばかりは功をなす。幻想郷の中にあって、霊夢も、魔理沙も、昨夜も、早苗も、肉体的な力はそうでもなく、他の者達も肉体的に迫る者はいなかった。勝負となるのは霊力や魔力。それが椹からはほとんど感じられない。故にただ早く、力強く手を伸ばせば命に届く。

 

  そうして伸ばされたレミリアの爪は、椹の首を引き千切るはずであった。槍のような一撃は、椹の首に突き刺さる。レミリアとフランドールにはそう見えた。だが、椹の姿は陽炎にように揺らめき消え、下から伸びた椹の腕がレミリアの腕を巻き取った。

 

  ぐるりと回った視界の後に背に強い衝撃を受け小さくレミリアは息を漏らす。数瞬の遅れはそのまま隙となり、三度吸血鬼の牙に椹の手が伸びる。かっちりと指で掴まれた牙を閉じようとレミリアは口を動かすが、それより早く椹は捻りながら手を引き抜く。クチリッ、という音を残しずるりと引き抜けた赤い雫の滴る白く鋭い牙を見つめて椹は目を細めたが、次の瞬間椹の手から牙がすり抜けた。

 

  レミリアに取られたからではない。だが奪い返された。小さな手が伸びてくることなく、幻のように消え去った牙は朱色の軌跡を闇に引き、小さく血を垂らしているレミリアの口へと飛んでいく。赤い靄のようなものがレミリアの口へ到達すれば、また白い牙となって現界した。噛み合わせがおかしくないか、一度口を動かして、愉快そうに、しかし鋭く尖ったレミリアの視線が椹に突き刺さる。

 

「あぁ、なるほどね。平城十傑、咲夜から聞いてはいたけれど、体感しないとやっぱりダメだわ。変な人間、霊夢や咲夜とはまた違って面白い」

「珍獣みたいな評価は欲しくねえやな、……それに、吸血鬼ってのは変なやつだな。奪うのも一苦労だ」

「くくっ、お前は吸血鬼をどんな妖怪だと思ってるの? 私たちは化け物よ」

 

  吸血鬼。血を啜り、流水を嫌い、太陽を嫌い、鏡には姿が映らず、招かれなければ人の家に入れない。なんとも苦手なものが多くあるが、それを含めても、鬼のような力、天狗のように空を飛び、魔女のように魔法を燻らす。それでいて鬼でもなく、天狗のでもなく、魔女でもない存在。夜を支配する夜の王。その名に嘘はありはしない。

 

  そんな吸血鬼をなんの妖怪であるかと問われれば、よく言われる蝙蝠の妖怪というのは違うだろう。似ている部分は確かにあるが、本質ではない。吸血鬼は血の妖怪。命の雫を啜り、それを力へと変える。本質が血であるならば、形はおよそ不形であり、自分の体ならどんな形にも変えられる。奪ってもするりとすり抜ける紅風に椹は舌を打ちレミリアを睨んだ。

 

「そんな化け物が、妹を地下に押し込めるのか?」

「……仕方ないでしょ、生物としての本質と己としての本質は別。フランの根本は狂気なの。それは誰にも変えることはできない。貴方だって短い時間の中で分かってるでしょ」

 

  レミリアの目が妹に流され、フランドールは縮こまった。相手が好きだから壊してしまおう。とても楽しかったから壊してしまおう。大事で無くなって欲しくないから壊してしまおう。およそ結び付かない二つが結びつく。自分の理性とは裏腹に、莫大な衝動が理性を捻じ曲げる。椹に手を伸ばされること二日で数十を超えている。無意識であるこいしにこそ回数は少ないが、それでもフランドールの手は伸びた。

 

  フランドールの本質は変わらない。優しくされても、怒られても、悲しくても、楽しくても、それらが行き着く先は一つだけ。『破壊』というただ一つに帰結する。全てを包む慈愛でも持っていなければ到底許容できない心。それを馬鹿らしいと笑うのは、ただ一人、慈愛も蹴飛ばす盗賊だけだ。

 

「関係ないね。フランドール嬢はオレが奪ったお宝だぜ。地下に押し込めてるやつよりオレが持ってた方がいいだろうが」

「その狂気に殺されても同じことが言えるのかしら?」

「その時はオレが間抜けだったってだけかや。それによお、オレは狂気をただのいらないものだとは思わねえ」

 

  それは一種の純粋だ。ものは言いようと言われてしまえばそれまでだが、全てがそれ一色に染まるなら、それより純粋な想いはない。それがなにかを傷つけるものだとしても、その輝きが美しいなら、椹は手を伸ばさずにはいられない。

 

  「それに」、と小さく呟いて、椹はその先は言わなかった。言いたくはない。こいしの姉が居ればまた不機嫌な顔でベラベラと椹の内を口にしただろう。椹は狂気を否定しない。否定できない。それによって生まれたのが椹だ。孤独と闇に放り込まれた九年間。何度発狂しかけてことか分からない。そんな中で全てを奪われ、椹は椹になったのだ。今が全てだ。今が楽しければそれでいい。

 

  だが、今に至るにはどうしても切り離せない過去がある。そしてそれは切り離してはならないのだ。切り離してしまえば、それは今には繋がらない。だから椹は狂気を否定しない。千三百年分の狂気の詰まった監獄で、濾過され生まれた人間だから。

 

「んん、まあ、でだ。吸血鬼、フランドール嬢をオレから奪い返すんだろう? 早くやって見せてくれよ。絶対返さねえけどよ、ここに来るまでそこそこお宝奪われててイラついてんだ。フランドール嬢だけは渡さねえよ。なぁ?」

「え⁉︎ ぁ、ぅ……ぅ、うん

 

  椹に声を投げ掛けられ、目を泳がせて小さく頷いたフランドールを見て椹は満足気に大きく笑う。それを見たレミリアの目は逆に激しく吊り上がった。

 

  ──なるほどね、これはダメだ。

 

  狂気さえ奪う大盗賊。ふやけた妹の顔を見て、レミリアはそう決断を下す。レミリアも口には出さないが、フランドールの狂気は気に入っている。誰もが少なからず持ってはいるが、シンプルにただ『破壊』に収束している純粋な心は、フランドールだけが有しているもの。それにたかが人間が手を掛けている。破壊の心を壊さぬように、吸血鬼の心を掴む人間など、存在して欲しくない。運命さえ握るレミリアでも不可能なものに手を伸ばそうという人間が、それはとても面白いと矛盾した心をどちらも隠さず、レミリアは厳しい目の下に弧を浮かべる。

 

  レミリアの右手に紅い魔力が形を成す。

 

  この不思議生物のような人間がどこまで行けるのか。盗賊と名乗る癖に変に正々堂々とした人間。弱い人間のくせに、椹はなんとしてでも上に立とうとする。レミリアの相手をするのなら、聖水を使うでも、壁を壊して陽光でも入れればいいのだ。それをせずに馬鹿正直に真正面からなんとかしようという態度が気に入らない。そんな人間を試すため。紅い魔槍をどう受ける。椹はどれだけ奪えるのか。フランドールを任せられるか。また姉妹で一緒に……。

 

「『運命を操る程度の能力』。椹、我が能力の一端を見せてやろう! コレは絶対にお前に向かう! さあどうする? お前はいったいなにを奪う!」

 

  運命。それがいったいなんであるのか、完全に理解できる者はいない。運なのか、必然なのか、偶然なのか。それら全てを手に掴める者などいないだろう。だからこそレミリアがするのは大きな枠組みでの取捨選択。可能性の塗り潰し。手に握った紅槍を、当たらない可能性を避けて当たる可能性目掛けて投げる。故にその槍は必中であり、どんなことが起ころうと椹に向かって飛翔する。

 

  紅い魔力の奔流は、闇を割いて暗い部屋を朱色へと塗り潰した。その眩さに目を奪われると同時に爆ぜる音と逆巻く空気。紅い屋敷を揺さぶる振動に意識が揺れ起こされた先に広がっていたのは、崩れた壁から差し込む陽光と、それを歪める土煙。

 

「椹⁉︎」「お頭‼︎」

 

  人の影の見えない破壊痕に、フランドールとこいしの叫びが崩れた壁に吸い込まれた。こんなことなら自分が先に壊しておけば良かったと、心の奥からふつふつ湧き上がってくる本能に歯を食いしばり、それが決して外に出てしまわぬようにフランドールは強く己の肩を抱いた。

 

  子供のように膝を折り、羽を丸めて自分の殻に閉じこもる。こんなことなら外には出なければ良かった。誰かと親しくなっても行き着く先は破壊でしかない。自分の衝動が嫌になりながらも、それが決して剥がれないことをフランドールも知っている。だから気に入らなくても地下にいることを甘んじた。それを姉のせいにする事で心の均衡をなんとか保って。

 

「……大丈夫だよ」

 

  目を瞑ったフランドールにそんな声が掛けられたのはどれだけの時間が過ぎてのことか。永遠だとすら感じた時間は、その実一瞬でしかなく、肩に置かれた手を伝い顔を上げた先には薄く笑ったこいしの顔が待っている。

 

「椹はね、お姉ちゃんから私を奪うんだって。フランちゃんを奪うんだって。鬼やお空やお姉ちゃんと会ってもなんだかんだで生きてた椹だもん。それに、大盗賊なんて言いながらまだ椹は全然なにも奪ってないわ、なのにこんなところで死ぬはずない! ね、椹!」

「……うるせえや、オレがなんだって? 盗賊らしくない? テメエらの目は節穴かや」

「あ」

「あらまあ」

 

  フランドールの呟きにパチュリーが続く。レミリアの戦闘など興味がないと目を落としていた本から顔を上げて、不可思議な魔力の流れに目を這わせた。薄くなっていく砂煙が晴れていく中で漏れ出て来る紅い光。壁の瓦礫を押し分けて立つ人影の手には、怪しく輝く魔槍を握って。

 

「……運命ね、いつかオレも掴んでみせるぜ」

「くっくっく、私の槍を掴んだか人間!」

「ああ! 手がクソ痛ってえから返すぜオラァ!」

 

  投げ返される紅槍は、砂煙に穴を開けレミリアの元に飛来する。その威力は自分が一番知っている。突っ込んで来る槍を人間が掴んだというのに、吸血鬼であるレミリアが避けるわけにはいかない。大きく口を開き牙を光らせて、己が槍に手を伸ばした。紅い光を手に掴み笑みを深めたレミリアの顔に、共に走っていた椹の拳がめり込んだ。壁に頭を半分埋め込み起き上がろうとするレミリアに更に一撃。

 

  壁に大きくヒビを走らせ、脆くなった壁を強引に削りながらレミリアは抜け出し、口端に張り付いた自分と椹の血の混じった血液を舌を伸ばして舐めとった。

 

「あっはっは! 良いわよ、もう少し本気で相手をしてあげる!」

「そう言いながら負けた奴って多いよな、また一人増えるかや!」

 

  レミリアと椹の目が細められていく中、「お嬢様!」と部屋の扉が開かれた。勢いよく開かれた扉は、人間と吸血鬼との戦闘で脆くなっていたのかそのまま崩れ、入ってきた妖精メイドの肩を跳ねさせた。多くの妖魔の瞳が妖精メイド一人に集中し、脂汗をダラダラ垂らしながらそれでもなんとか妖精メイドは口を開く。

 

「お、お嬢様、げ、月軍と名乗る者が攻めて来てます! 美鈴様が対処していますけど、もう何人か中に!」

 

  月軍。その名を聞いてレミリアは口角を上げ、椹はウンザリと口角を下げた。どこにいようと結局向こうからやって来る。面白い話を聞いたと和らいだレミリアの目が椹に流され、椹は肩を竦めてそっぽを向いた。

 

「どうするの平城十傑、お客様みたいだけど」

「オレにじゃねえだろうよ、知ったことか」

「あら、そんなことでいいのかしら? なんだかんだ言って気にしてるように見えるけど」

「話は嫌という程聞いたからな、だからなんだって感じだが」

 

  かぐや姫を奪え。そのために必要な盗みの技術を身に付けさせられる。欲しくもないものを手に取れと強制される毎日を吸血鬼に分かって貰おうとは椹だって思わない。吸血鬼が血を啜るのは生きるため。さとり妖怪が心を見るのもきっとそう。だが、椹は生きるのに必要でもないのにそうあれかしと必要ないものを押し付けられて、結局それを手放せなくなってしまった。なら奪うものぐらいは自分で決めたい。不貞腐れた顔で勝手にやってろと手を振る椹にため息を吐きながら、レミリアは腕を組み羽を広げる。

 

「……運命からは逃れられない」

「なんだそりゃ、月軍とやらと騒ぎ合うのがオレの運命だって言いたいのかよ、ふざけろ」

「さあね。でも、貴方は行くんでしょ?」

「行かねえっつうの! なんなんだテメエ!」

 

  分かったようなことを言うレミリアに腹が立つ。平城十傑だから。袴垂だから。だから行かねばならないとはなんなのか。そんなことのために全てを奪われたなど堪らない。人は自分を産んでくれる母親を選ぶことなど叶わない。袴垂に生まれたのがお前の運命だなどと言われたくはなかった。人の生き方など結局人が決めるのだ。それを運命などという綺麗そうな言葉で飾って欲しくはない。歯を剝きだす椹に目を細め、困ったちゃんな盗賊に、レミリアは盛大に深い息を吐いた。なんでも奪えるくせに一番近くにあるものが見えていないと言うように。

 

「私に妹どうのこうの言いながら貴方だって見えていないじゃない」

「何がかや」

「はぁ、貴方は唯一奪われなかったものを手放すつもり? 奪われるやつは馬鹿と言いながら手放しはするのね」

「だから何が」

 

  椹の顔に一枚の紙が飛んできた口を塞いだ。顔に張り付いたそれを引き剥がし見てみれば昨日の新聞。それを見て椹の目が波打つように歪む。

 

「貴方が何者だろうと既に近くにいる者はいるでしょうに。義務、使命、夢、欲、これほどまでに複雑に絡み合った運命はそうそう見れるものではないわ。蓬莱山輝夜のことはどうだっていいけど、それは既に貴方のものでしょうに」

 

  仲間が欲しい。友が欲しい。家族が欲しい。椹が一人で歩いているつもりでも、その近くにはどれだけ離れていようと九人の者がいる。例え何を奪われようとも、この九人だけは奪えない。千三百年前から同じ道を歩いて来た者。孤独と闇に塗れた九年間の中でさえ、姿は見えずとも共にいた九人の仲間。

 

「お頭行ってきたら? 留守番ならしたげるよ?」

「おいこいし嬢まで」

「……そうね、私も今度こそ侵入者握り潰したいし、久々に際限なく暴れたいわ」

「フランドール嬢」

「一応ここは私の家だし、私もここにいなきゃダメでしょ? それに、椹は私を奪いに来てくれるんでしょ?」

「次の目的地は永遠亭だったし! お頭一足先に行ってきてよ! それで、他の人たちの活躍奪って来て!」

 

  椹は数度目を瞬いた。これまで奪うなと言われた数はそれこそ両手の指の数では足りないが、奪えと言われた数は何度あったか。小さな手が二つ背を押すのを感じて、「盗賊の心得そのさんか……」と誰にも聞こえないくらいの大きさで呟く。そんな顔を子分には見られないように俯かせ、椹は一度手で口を覆うと笑みを浮かべる。

 

「はぁ、仕方ねえな! 子分に奪えと言われちゃ奪うしかねえやな! あいつらもオレがいなきゃあダメだろうしよ! 行って来るかぁ!」

「お頭行ってらっしゃい!」

「私以外に壊されちゃダメよ」

「へいへい! また後でな!」

 

  崩れている壁からふわりと風に流されるように椹は出て行ってしまう。元々そこにはいなかったように、影も残さず音もなく。そしてまた同じようにいつの間にかやって来るのだろうと信じて、フランドールは一度目を瞑ると体の内で燻っていた破壊衝動を滲ませた。それを遠慮しなくていい相手が紅魔館にやって来ている。

 

  揺らぐ魔力の余波で部屋の壁に刻まれているヒビを深くするフランドールの横に青い髪が静かに揺れた。向かい合うことはなく、ただ同じ先を見つめてレミリアの口が深く深く横に割ける。

 

「全く、最近見知らぬ来客が多くて困るわ、ねぇフラン?」

「そう? 私はそうでもないわよお姉様。でも今度のは招かれざる客みたい」

「はぁ、前のもそうよ、不作法な客には何をやればいいのかしら」

「あら困ったわお姉様、今は拳しか持っていないみたい」

「そう、なら存分に差し上げましょう。たっぷりと死をね」

 

  二匹の悪魔が笑う。空が赤らむ少し前、夜が来るのを歓迎するように。そんな二人に結局何をしていても似た姉妹だと呆れながらパチュリー=ノーレッジは本を閉じ、十六夜咲夜は小さく微笑み、こいしはフランに引っ付いた。

 




多分今回の紅魔館でのMVPは美鈴。

北条 第三夜 夕 に続く


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

足利
第一夜 夕


  我慢だ。

 

  耐え忍ぶ事。それこそ人生。耐えて耐えて、些細なものも見逃さず、小さい事をコツコツと積み上げる。それが手も届かぬ大望を成就させる。

 

「これは……」

「頑丈な人間ですねえ」

 

  一人の男の前で、犬、いや狼の耳を生やした少女と、黒い翼を秋の風の中はためかせる少女の二人は半分感心し、また半分呆れながら男とその周りに目を流した。

 

  妖怪の山。幻想郷の中において、人里とはある種真逆の立ち位置の存在。人が中心に立ち生活を営んでいる人里と、妖怪が中心に立ち生活を営んでいる妖怪の山。人里に妖怪が足を踏み入れば、少なからず警戒されてしまうように、妖怪の山に人が踏み入れば、それもまた警戒される。力を持った人間ならば攻めてきた敵対者として、力のない人間ならば餌として。男は後者だ。後者のはずだった。なんの脅威も感じさせず、急に妖怪の山の中腹に現れた男に、天狗の一人が意気揚々と飛び掛った結果、拳一発で天狗は地に埋まり、後からやって来た天狗達によってあえなく男は御用となった。

 

  人里が差し向けて来た刺客なのかと天狗達の折檻が始まったのがまだ陽も高かった真昼の話。縄に括られぶら下げられた男は、ずっと変わらず口を開くこともなくぶら下げられたまま、天狗の集落の牢の中にいた。その周りにはひしゃげた拷問器具の数々。山伏の使うような六角棒も多くがへし折れ硬い床に転がっている。疲れたように多くの天狗達も肩を落とし、呆れたように男を見る。

 

  何をしても男は悲鳴一つ上げやしない。業を煮やした天狗が喰ってやろうと短刀を突き立てても、柔らかそうな人肉を裂くことは叶わず、風を用いて引き裂こうとも、男の服を破くだけで肌色の肌には傷もつかない。もうどうしても男に口を割らせる事は出来なかった。

 

「しかし、なんとも不思議な人間ですね。急に外来人がやって来たかと思えば、うーん、スクープの予感がします」

 

  情報通の天狗だからこそ、姿格好で男の素性などある程度分かる。いつもなら好奇心から妖怪の山にやって来る外来人など鍋となって後悔を煮込まれ終わるのだが、煮ても焼いても風呂に入ったように男は長く息を吐くだけ。清く正しいブン屋である射命丸文のアンテナに、引っ掛かった男は幸か不幸か、目を輝かせる文に面倒臭くなり椛は目を反らす。

 

  先程から文が手を出せばどうにかなりそうなものであるはずが、全く手を出すそぶりを文は出さない。他の天狗達が手を出しているのを眺めるだけ。ようやく動いたかと思えば、手は出さない代わりに手帳をパラリと胸ポケットから文は取り出すと、目を瞑り口を引き結ぶ男の顔を覗き込んだ。

 

  よく見ればよりよく分かる。天狗達の折檻ではまるで傷が付かなかったが、男の体には数えることもできぬほどの無数の細かな古傷が埋め尽くされている。吹き飛んだ上着のおかげで、頭の先から腰に至るまで、背中も含めて傷で体が出来ているようにすら見える。閉じた瞼も無数の傷の一つのようで、栗色の長い針のような髪もまた傷のように見えてくる。

 

「どうも外来人さん。そろそろ折檻も飽きたでしょうし、お話ししませんか? 確か名前は」

 

  そう言いながらこれまで天狗達が纏めていた男の情報が書かれた紙に目を通す。そのほとんどは白紙だが、最初の一枚に一行だけ書かれている短な文字。男が唯一喋ったと思われる自分の名前。

 

「足利さんでしたね。一体何しに幻想郷に来たのですか?」

 

  当然の疑問であり、文も男が答えるとは思ってはいない。ただの挨拶のようなそんな言葉。だが、文の言葉に初めて男は薄っすらと目を開けた。

 

「かぐや姫様を守りに来た。僕は足利家第八十八代目当主『足利梓(あしかがあずさ)』、平城十傑の調停役だ」

 

  梓の答えに文は小さく息を飲む。そして面白いと口角を上げた。男が答えた事にも驚いたが、梓が口から出したかぐや姫。その昔一国の帝すら愛した月華の美女を守りに来たと言う男には、嘘を言う気配も気負った気配も微塵もない。ただ自分の役目を喋っただけ、少し人間味の薄く見える男であるが、全く泳ぎすらしない白い真珠のような梓の目を文は見据え、手に持った手帳へとペンを走らせながら口を開く。

 

「かぐや姫を守りにですか、それまた変わった外来人ですね」

「それより縄を解いてはくれまいか。君とはまだ話になりそうだ」

「んー、それは無理ですね。私も怒られたくないので」

 

  文の答えに梓は残念がることもなく、ただ「そうか」と口にして赤い陽光の差し込む窓へと目を向ける。文句も言わなければ命乞いもなく交渉もしない。一見諦めたようにも見えなくはないが、縄に吊られながらもそんな空気を全く男は感じさせない。ただありのままを受け入れて、全てを納得するかのように梓はまた目を瞑った。

 

「抵抗しないんですか?」

「しても逃げられはすまい。僕には君達を振り切るだけの足はないのだよ。無理なものは無理なのだ」

「それはまた潔いと言うか、諦めの早いと言うか」

「どちらも同じ事には変わりなし、ただ真実を真実のまま受け入れる。さすれば悪い事になりはせん」

 

  いやもう悪い事にはなっているでしょう、と半裸で吊られている梓に可笑しそうに呆れながら文は一枚写真を撮って、手元の手帳にペンを走らせる。たったの数回、一分にも満たぬ会話の中で、文は自分の勘は正しかったと口を歪めた。これまで多くの異変を記者として見て回り記事を書いて来た文であるが、その文の勘の通り梓はスクープの塊に見えた。

 

  一言目にはかぐや姫、平城十傑という文が聞いたことのない言葉。新たな異変の風を感じると黒い翼を動かして、文が梓の側へと舞い降りる。

 

「面白い人ですね。まだ悪い事にはなっていないと言いますか」

「事実。物事の捉え方とは個人によって違う。少なくともコレは僕にとって最悪ではない。口を開け、手足も動き、まだ考える頭もある」

「最悪ではないって、少しは悪いと思ってるんじゃないですか」

「事態は悪くはない。悪いのは僕の運だ」

 

  男の屁理屈を聞き流しながら、より深く文は梓を観察する。敵意もない完全に好奇そんな文を僅かに目を開けて眺め、梓は弱々しく息を吐く。これまでの天狗達と人違い、「何をしに妖怪の山に来たのか?」という問いではなく、「何をしに幻想郷に来たのか?」を問うた文だからこそ梓は答えた。それに加えて文の纏う雰囲気、部屋の中にいる天狗の中で最も敵意がないにも関わらず、嵐の前の静けさのように、少女の身に内に垣間見える秋の旋風よりも鋭い空気から梓はこの中で最も強い者は彼女だと察し話にも応じた。

 

  だが結局変わらずに縄に縛られたまま。気ままに揺れている己の体へと梓は目を移し目を閉じる。我慢だ。耐え忍ぶ事それこそ人生。待っていればいつか必ず好機は来る。梓の一族もまた千年以上待ったのだ。たかだか半日など瞬きよりも短な時間。しかし、それは終わりが見えていなければの話だ。少なくなっていく時間が見えているのなら、ただ風に揺られる草木のように待つ事は出来ない。ゆらゆらと揺れる体を持て余し、梓は文に語り掛ける。

 

「そんなわけで僕はもうここから出て行きたいのだがどうだろうか」

「いやどんなわけですか。何の説明にもなっていませんよ。だいたい妖怪の山に踏み込んで天狗を殴り倒してただ帰れるわけもないでしょう」

「先に手を出して来たのはそっちだ。それにここに踏み込んだのではなく、幻想郷に入ったらここに出たが正しい」

「入ったらここにとは、つまり貴方は今日幻想郷に来たんですか?」

 

  その通りと言うように頷く男を見て、それは運が悪いとも言いたくなると文は筆を走らせる。幻想郷に踏み入って、妖怪の山に出る確率はどれほどのものか。低くはないかもしれないが、高くもない。男の不運さに文は少し同情するもそれだけで、梓から視線を切ると部屋の扉へと目を向ける。

 

  ペンを握っていた文の手が止まった。それと部屋の扉が開くのは同時、文がふと感じた気配の主が姿を現す。赤く長い鼻を持った大天狗。天魔の下に位置する管理職。取材の時間は終わりであり、来るのが遅いが、それが今かと口には出さないまでも文は内心で舌を打った。床に転がった多くの壊れた器具を見て、ただでさえ怒ったように見える大天狗はより気に入らないと言うように太い眉毛をくねらせる。

 

「遅い! 一人の人間の口を割らせるのにいつまで掛かっている!」

 

  大天狗の叱咤の低い声に、疲れたような顔をしていた天狗達は勢いよく身を起こして背筋を伸ばす。焦りの表情、その顔に変わらなかったのは文と椛の二人だけだ。良い顔をしない天狗達を見回して、大天狗は大きな歯を擦り合わせる。

 

「その様で天狗とは嘆かわしい。天狗とは偉いからこそ天狗なのだ! 人間の前で冷や汗一つでも流すなど天狗の名折れよ!」

 

  その昔鬼に支配されていた者がよく言うと、同じ天狗でありながら大天狗の言葉に文は肩を竦めた。大天狗は吊るされら男の前までズカズカ歩いて行くと、強く頭髪を掴み顔を上に向けさせる。

 

「人間! ここに来た理由を言え! 妖怪の山に立ち入り天狗を下し何がしたい! 酔狂か? イカれているのか? 死ぬ前の慈悲をやっているのだ!」

 

  人間を明らかに見下している声に、梓はこれまでと同じように答えないと文は思ったが、梓は薄っすらと目を開けて大天狗を見て口を開いた。この場でようやっと役職が高いだろう者の登場に、話せば分かるかもと思うが故。

 

「僕達はかぐや姫を守るためにここまで来た。それ以外の理由など持ち合わせてはおらん。僕としては早急にかぐや姫様の元に馳せ参じたい。これが全てだ。他にはない」

「戯言を! かぐや姫だと?」

 

  梓の言葉はばっさり切られ、意味はなかったかと大きなため息を梓は零す。何をどうしても天狗達は違う答えが欲しいらしいと、梓は目を閉じ頭を回す。梓が狂言を言ったとでも捉えたのか、大天狗は大きく笑い、掴んでいた梓の髪から手を離した。

 

「今さら迷いの竹林に引きこもってる者を守りに来たか! なるほどイカれだ。もういい、鍋にでもしてやれ」

「いいんですか?」

 

  まだ取材しがいのありそうな梓が鍋になるのは少し残念だと文は大天狗に口を挟む。それに新たな情報が出た。

 

「我の意に口を出すか」

「まだこの人間は情報を持っております。今彼は僕ではなく僕達と言いました。つまり仲間がおります。それに大天狗様は今来たばかりで知らないのでしょうが、この人間は煮ても焼いても効きません。剣すらその身に通さない」

 

  文の進言を受けて、大天狗は顎に手を伸ばす。そして床に転がった折れた六角棒を今一度眺め、吊られている梓に目を向ける。大天狗の目を持ってしても、梓はただの人間にしか見えない。山の山頂に居座る現人神は、見ただけで普通ではないと分かる気配を放っているが、そんな気配は吊るされている人間からは何も感じなかった。だからこそ逆に不気味。試しに指先に風を纏めた塊を作り大天狗は梓に向けて弾いてみる。梓の顔に直撃した風塊は、本来ならば柔らかな皮膚を切り裂き見るも無惨に人間の顔をズタズタに切り裂くはずが、風の晴れた先には変わらず薄く目を開けた梓の顔。それを見て大天狗は口を一文字に引き結ぶ。

 

「おかしな人間だ。気も霊力もほとんど感じんというに傷も付かんか」

「おかしな外来人でしょう? まだこの人間は有用ですよ。宜しければ私が尋問を引き継ぎますが」

 

  これは取材のチャンスと、僅かに興味を見せ始めた大天狗に文は言葉を投げる。笑顔の文と不気味な人間を大天狗は見比べて、鍋にするのは時期尚早と判断を下す。

 

「良いだろう。だが必ず口を割らせろ。これだけおかしな人間だ、逃げ出そうとした時は殺して構わん」

「畏まりました。なので貴方も協力してくださいよ梓さん」

「よく分からないが、話して解放してくれると約束してくれるなら逃げはせん」

 

  少しだけ事態は良くなったのかと梓も口を開いたが、それに合わせて窓の外、夕焼けの中がキラリと光った。それに気がついた梓が何事だと目を向け終えるよりも早く、無双窓を貫き飛び込んで来た銀閃が梓の頭上を通り抜け、プツリと縄が切れる音がした。

 

  ペタリと地面に足をつけた梓は、目を丸くして自分を見てくる天狗達を一瞥した後、振り返り飛んで来たものを見る。和の空間では、異物にしか見えない銀色のナイフ。どこから飛んで来たのか見当もつかない。梓はバラリと床に落ちた縄を見て、弱々しく顳顬を掻く。

 

「……待った」

「待たん‼︎」

 

  梓の仲間が助けるためにナイフを投げた。そうとしか思えない状況に、大天狗は懐から羽団扇を取り出すと、梓に向けて大きく薙ぐ。静かだった部屋に台風が生まれる。それも指向性を持った災害。幾人かの天狗はそれに巻き込まれて壁や床に吹き飛ばされ、モロに受けた梓は壁を突き破って外へと弾き飛ばされる。

 

  空すら巻き込む切り刻む風のミキサー。細かな木片や部屋にあった物たちと共に風に巻き込まれながら、急な山の斜面を削り取り、数多の大木をへし折って山の大地に衝突する。梓の通り抜けた道は緩く渦巻いて風がその道程を残し、土と木の残骸が雨のように辺りに降り注ぐ。風の槍が突き抜けた中、大きな土煙と埃を掻き分けて、残った風に乗るように食い破られた部屋から身を躍らせた文が爆心地へと足を落とす。

 

  普通なら人妖関係なく木っ端微塵にでもなっているような惨状で、しかし、文の勘が梓は無事だと言っていた。その通り土煙の中に一人分の人影が突っ立ち、体に着いた土埃を手で払っていた。赤い筋を体に付けることもなく、ただ困った顔でさっきまで梓が居た随分遠くに見える牢部屋を見つめている。

 

「困った。運が悪い。これでは逃亡者になってしまう」

 

  そう言いながら先ほどの部屋に向けて足を出そうとする梓に文は咳き込み、その傷だらけの肩に手を置き引き止める。

 

「いやいや、何を戻ろうとしてるんですか。このままどこへでも行ってしまえば良いでしょうに」

「……しかし誤解を受けたままは面倒なのだ。僕達にはこれからやる事がある。そのためにわだかまりは無くして置きたいのだが」

 

  わだかまりもクソもない。人間が妖怪の山に入り込み天狗を殴り落とした。その結果だけで、もう梓が天狗達から良い目を貰えないのは明らかだ。梓のズレた考えが文は面白いとは思うものの、ここで梓が戻っても昼から繰り返された拷問がより厳しくなるだけで面白味も何もない。梓にはさっさと動いて貰った方が、面白い記事が書けるだろうと文は考える。

 

「ほら、貴方のやる事と言うのはかぐや姫を守る事なんでしょう? なら早く行かないと」

「それはそうなんだが、なぜ君は僕に助言をする」

「ファンなんですよ貴方の!」

 

  ファンとはなんぞやとは梓は言わないが、文の言葉があまりに突拍子もないので、梓は口を小さく開けて、何か言うわけでもなく口を閉じる。幻想郷とは恐ろしい場所であると聞いて来た梓だったが、それにしては変な女がいると、別の意味の恐怖に頭を掻いた。

 

「つまり?」

「取材ですよ、取材! 貴方の事を書けば新聞が売れる気がします!」

 

  「はぁ」と分かったようなそうでないような声を梓は零し、考えるのが面倒になり大天狗達の方へ戻ろうとしていた足を戻す。梓には今一つ理解できないが、文が協力的であるということだけは辛うじて理解した。

 

「よく分からないが、僕はここにかぐや姫様がいる事は知っている。場所が知りたい。案内を頼めるかな?」

「良いですとも。 ただとりあえず服を着ては? 半裸で歩き回るのは流石にどうかと」

 

  文の正論にそれもそうかと梓は周りに目を向ける。大天狗の羽団扇に吹き飛ばされた際に、梓が持って来ていた鞄も一緒に近くまで吹き飛ばされていたのが見えたから。少し辺りを歩き回り木片の影に目を向ければ、大きめのバックが腹を割かれ、その中から衣服が覗いている。細かな物は吹き飛んでしまっていたが、辛うじて中に一枚だけ残っていた黒い学ランを上に羽織る。

 

「見慣れぬ服ですねえ、外の世界ではそういったものが流行ってるんですか?」

「学生服、学生の着る服だよ。仕事着のような決まったもので流行ってるわけではない」

 

  文の質問に梓は適当に答え、こうなれば先を急ごうと周りに目を向けた。その視界の中で、トンッと小さく音がしたように、周りの木々達の中でも一際大きな木の頂上に降り立った人影。天狗かという疑問は、人影のシルエットと、身を叩いてくる神々しい空気に違うと即座に否定される。

 

  大きな輪っかを背負った人影は、背が高く、しなやかなシルエットから言って女性のもの。沈んで行く陽の光を背に受けたその姿は、後光が差しているようであり、その女性に大変良く似合っていた。

 

「あややや、神様が来ちゃいましたか」

 

  梓の隣でそう小さく呟いた文の言葉を梓は聞き逃さず、薄っすら開けていた瞼を大きく開けて木に降り立った女性を見る。母なる海のように深い青色をした髪は、緩やかな風に揺られ漣のように波打っている。黄金比率で纏められた女性の顔は、息を呑む美しさでありながら、作られたような気配は全くない。

 

「天狗が騒がしいと思えば、外来人とは珍しい」

 

  梓と文に落とされた言葉は、天狗と同じく見下されたもの。だが、その重みがまるで違う。威光の差なのか、それとも神という人の祈りを受け止める強大な存在感が故か、目に見えぬ重圧となって、梓と文の両肩に降りかかる。梓は畏まったように荒れた地面に膝を折って正座になると、小さく頭を下げた。

 

「お初にお目に掛かります。我が名は足利 梓。熊野の地よりここに来ました。さぞかし名のある神とお見受け致します」

「へー、珍しい外来人だね。霊夢や魔理沙にも見習って欲しいわね。うむ、我が名は八坂神奈子。妖怪の山、守矢神社の祭神の一柱よ」

 

  梓から確かに信仰を感じ、神奈子は気分を良くした。幻想郷では珍しくなくとも、外来人としては珍しい。外の世界の人間からの信仰など、かなり久し振りの事だ。人間の雰囲気はそれこそ現代人というよりも、古代人に近い。真珠のような梓の瞳を見つめ、神奈子は小さく笑った。

 

「八坂……八坂刀売神様?」

「うむ、それで? 外来人が何の用かや?」

「はい、私は月の姫君を守るために幻想郷に参りました。どうかこの山を下りる事をお許しいただきたい」

「うむうむ、それは良いんだけど蓬莱山輝夜を守りにね。なぜだい?」

 

  神奈子の言葉に文も耳を済ませて手帳を取り出す。天狗は変わらないかと神奈子は呆れながら文を一瞥し、顔も背けずに神奈子を見つめている梓に目を戻した。一度目をパチクリと動かし、ゆっくりと息を吸い込む。

 

「我々は平城十傑。竹取物語に描かれた一千年よりも前よりかぐや姫様を追っておりました。かぐや姫様を守るために」

 

  梓の言葉に文も神奈子も目を見開く。人の狂気を知らないわけでもないが、千年以上も一人の少女を追って来たと平然と言ってのける男の異様さに少々面食らってしまう。神に捧げられる信仰の質から、梓が嘘を言っていない事は神奈子にも分かる。だからこそ、男のズレた空気がよく分かる。

 

「……なるほど、だが、それは今必要な事なのかい? 竹取物語、それと今とでは状況が違うだろう。お前さんがここに来て意味はあるのかね?」

「恐れ多くも意味はあるかと」

「ほう、その心は」

「月軍が来ます」

 

  梓の声はすぐに風に流されて消えてしまうが、その言葉は神奈子と文の中で繰り返される。

 

  月軍が来る。

 

  空に浮かぶまあるい月から、地上に使者がやって来る。梓の言っている事の意味は分かっても、理由が全く分からない。文は呆けながらも、手帳へと筆を走らせ、神奈子の目が細められた。落とされた爆弾は小さくなく、手帳に書かれる文の文字が少し荒む。

 

「理由は?」

 

  鋭さの混じった神奈子の声に、小さく下げていた頭を梓は上げると、困ったように眉間に皺を寄せる。忌々しげに重い息を小さく吐き出して、空に浮かぶ白く小さな月へと目をやった。

 

「平城十傑の情報役、唐橋からの情報です。外の世界から僕達が幻想郷に向かった日から七日前、唐橋家当主が襲われ幾つかの書物が奪われました。唐橋家八十一代目当主、『唐橋 櫟(からはし いちい)』が一命を取り留めたおかげで情報が死なずに済みました」

 

  そこで一度梓は言葉を切った。月に向けていた目を神へと戻し、何も言わない神の顔を見ると小さく顔を俯く。

 

「奪われた書物は月の都の地図、そして月にある監獄についての情報が書かれた物数点。奪ったのは、平城十傑の当主が一人、坊門家九十八代目当主、『坊門 菖(ぼうもん あやめ)』。かつてかぐや姫を月に迎えるために地上に出向き、失敗した罪で幽閉されていた一族を率いて坊門 菖が幻想郷にやって来ます」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 朝

「なんで私がこんなこと……もう!」

 

  姫海棠はたては、悪態をつきながらも悠々と山を吹き抜ける風に乗って空を舞う。全ては同僚である鴉天狗のせい。昨夜から姿を消した文を探すため、「暇してんだろ?」という上司の決め付けによって、朝っぱらからはたては居心地の良い家を追い出された。探しものなら椛を使えばいいのだが、椛の方は昨日侵入と脱走を同時に行った人間のおかげで警戒レベルの上がった警備の方に回されており、問題児である文を探すのには問題児を使えばいいとはたてに望まぬ白羽の矢が飛んできたわけだ。

 

  朝日に照らされた紅葉した木々に埋もれている山は燃えているようにも見える。どこかで火事が起きても気づかないんじゃないかと、物騒なことを考えながら、その秋の山の美しさが鬱陶しいとため息を零す。

 

「あぁ、なんでこんなに朝からバタバタと、文のやつ……ってなに⁉︎」

 

  空気の振動がはたての体を叩き、その音の大きさに身を捩る。発生源は少し離れら山の中。下手な考えを持ったせいで本当に山火事でも起こったのかと、白煙を薄く上げる山の中腹に恐る恐るはたては目を向けた。

 

  『守矢神社』。しばらく前に突如山に姿を現した外界の社。二柱の神と現人神が、妖怪の山に幻想入りを果たし居着いてしまった。

 

「……確か昨日の侵入者も外来人って話だっけ?」

 

  妖怪の山には面倒そうな外来人しか来ないのかとウンザリしながら、はたては胸元のポケットから携帯電話型のカメラを取り出すと、白煙しか見えない山の中腹に向かってレンズを向ける。場所さえ分かってしまえば距離は関係ない。『念写』。白煙の中身がなんであるのか。記者として気になってしまえば見ずにはいられない。ひょっとするとスクープがと僅かな期待に押されて指を押し込めば、撮れた写真に映っているのは太く八角形の長い柱。

 

「げっ……、ちょっとこれは近寄れ……ん?」

 

  山の神の威光を体現する柱に写真のほとんどは占領されていたが、その端に見つけなくていいものをはたては見つけてしまい口をへの字にひん曲げた。一度目を擦り夢であることを願ったが、何度見てもその影は消えない。黒い翼を持ったショートカットの黒髪の鴉天狗の姿を見つめ、メキメキとはたてのカメラから嫌な音が響く。

 

「なんでそんなとこにいるのよ! うひゃぁ、写真消して見なかったことにしようかな……。でも文がわざわざいるってことはそういうことよね。……スクープを見逃すのは癪だし、椛でも引っ張ってこようかしら。あぁぁぁ、もう! いざとなったら文を恨むわ」

 

  上司からの叱咤。新聞の売り上げ。スクープ。いろんなものを天秤にかけて、結局行かないよりは行った方がいろいろマシかもしれないとふらふらはたては白煙の発生源へと飛んで行く。段々と近付き大きくなっていく御柱に口の端を引きつらせながらはたてが守矢神社の屋根を見れば、守矢神社に在わす二柱の神、八坂神奈子と洩矢諏訪子の二神がいるのに気づきより肩が重くなる。笑顔の加奈子と、興味深そうに御柱の根元へと目をやっている諏訪子の顔を不思議そうにはたてが見つめていると、地面に突き立てられていた御柱が小さく揺れた。

 

「なに?」

 

  その揺れは次第に大きくなり、ぶわりと少し御柱が浮くと大きな音を立てて山の中に横たわる。八角に凹んだ大地の中心に立つ人影を見て、より大きくはたての顔は歪んだ。昨夜に回って来た回覧板に乗せられていた人相書き。侵入者で脱走者の外来人。名前を思い出しながら、守矢神社の手前で空に留まっていたはたての横を石の礫がすごい速度で通り抜ける。

 

「ちょちょ⁉︎ ちょっとなに⁉︎ たんま!」

「おや、文女史ではなかったのか。失礼した」

「髪を見なさい髪を! どう見たらアレと間違えるのよ!」

「翼で判断しただけだ。それより君はなに者だ。今鍛錬の最中なのだがな」

 

  「鍛錬って……」と、二神の前に立つ変な男にはたては肩を垂れ下げた。御柱に押し潰されていた。だというのに、男には怪我をした様子もない。それに加えて男から感じる空気が、妖怪でも神でもないことをはたてに訴えかけて来ており、それが一番おかしいとはたての頭を痛ませた。

 

「あなた、本当に人間なの? 頑丈だとは聞いてたけどさ」

「無論訂正の余地なく。そういう君は天狗のようだ。文女史と同じ鴉天狗に見えるのだが」

「そうよ、足利 梓 だったっけ? 私は姫海棠はたて。その文を探してるんだけど」

「ああ、文女史ならそこにいるとも。彼女には随分助けられている」

 

  そう言って梓に指し示された方へはたてが顔を向ければ、守矢神社の下で文が目にクマを作り項垂れていた。本当にいたのかと苦い顔を浮かべたはたてが少し文に近づけば、はたてに文も気づき、はたてよりも早く文の方から飛び付いた。両の肩に手を置いて、文ははたての顔を覗き込む。同僚の疲れ顔に面食らったはたては、間抜けに口を小さく開けた。

 

「ど、どうしたのよ」

「し、新聞が完成しないの! 情報が多過ぎてどう纏めればいいやら! 一枚の紙に納めるなんて無理すぎる! ただ危険を報せるためにばら撒いたんじゃ芸がないし、かと言って情報過多でも意味がない! はたて! こうなったら手伝って! いや、手伝いなさい!」

「いやちょっと、意味が分からないんだけど! なにがどうなってるのよ⁉︎ ねえちょっと!」

 

  梓に向かってはたては勢いよく顔を向ける。珍しく本気で参っているらしい同僚にかける言葉が見つからない。梓は少し困ったように頭を掻き、考え込むように顎を指で小突き始める。

 

「月から敵がやって来る。故に文女史には幻想郷の現状を聞き、また、僕が知っている情報を教えた。結果がコレだ。八坂様との話の際に偶然居合わせた文女史に神命として号外を書くことが決まってな。今日中にばら撒くことになっている」

「は? 月から? なに? いやちょっと、それに神命って……あ」

 

  すっかり神様のことを忘れていたはたての動きが止まる。錆び付いた機械のようにギィギィ首を動かして、はたての顔が守矢神社の屋根へ向く。気になったことに目がいくと周りに目がいかない天狗の性分に二柱の神は呆れた息を吐いて新たに現れた鴉天狗に目を落とした。

 

「天狗が増えて良かったわ。これでなんとかなりそうだし。続きといこうか梓」

「いつでも構いません八坂様。僕も心配事が消えてこれでより集中できます」

「あーうー、いやあそろそろ休憩にしようよ。私喉乾いちゃった」

 

  諏訪子の提案に少し残念そうに加奈子は眉を下げるが、久し振りの信仰を持った相手に少々熱くなったかと気恥ずかしそうに頬を掻いた。そんな二柱の神に梓は微笑むと軽く頭を下げる。

 

「分かりました洩矢様、ではその間僕は文女史と話を詰めることに致しましょう。お心遣い感謝致します」

「ん。早苗ー、お茶淹れてー」

 

  守矢神社の中へと消えていく加奈子と諏訪子を見送って、泥沼地獄に引きずり込まれそうになっているはたての方に服に付いた汚れを払いながら梓は歩いていく。落ち着き払った男の物腰が、僅かばかりはたての不安を緩和させる。

 

「なかなか大変そうだな文女史」

「そりゃそうですよ……。昨夜聞いた情報を半日経たずに纏めてばら撒くんですから。平城十傑という一つの群の中に敵と味方がいるのも纏めるのに邪魔ですし。終わったらきっちり私に協力してくださいよ」

「是非もなし。力を借りるだけ借りてお終いでは足利の名に傷がつく。できることなら微力を尽くそう」

 

  侵入者と仲よさそうに話しだす文を見てはたてはより大きく口端を下げる。なにがどうなっているのかはたてには理解できないが、間違いなく面倒な事柄なのは確かだ。それももう神に目をつけられてしまった。安寧の地が頭の中で遠ざかって行くのをはたては考えることしかできない。

 

「あぁ、厄日だわ。どうすりゃいいのよ。これって上に報告しちゃっていいわけ?」

「そんな時間あるわけないでしょ。はたて、こうなったら死なば諸共よ」

「泥舟に放り込まれた気分だわ……」

「ふむ、ではできるだけ長く浮いていたいな」

 

  元凶がなにを言っているんだとはたては梓を睨みつけるが、梓はまるで気にした様子もなく、文の作っている改稿中の原稿を手にとって眺めた。ただ情報が漠然と書かれているのではなく、なんとか面白い記事にしようという努力の跡が見られる。それさえしなければもっと早く完成しそうなものであるが、梓は薄く微笑むと手に持った記事をはたてに差し出し、文へ笑顔を向けた。

 

「いい記事だ。完成したら是非ともゆっくり見たいものだな」

「おぉ! 流石梓さんは見る目がありますね! なんなら文々。新聞の方もどうぞどうぞ!」

「ああ、ゆっくり拝見させてもらおうか。僕はこういう話には目がなくてな」

 

  文の記事を絶賛する変わり者にはたてはガクッと肩を落とす。だが、「君も記者なのか?」と聞いてきた梓の言葉に、少し嬉しそうに姿勢を正す。

 

「ま、まあね! 花果子念報って言うんだけど、読んでみる?」

 

  いつも持ち歩いているのか、折り畳まれた新聞をはたてはポシェットから取り出した。「弱小新聞ですけどね」と褒められたからか調子に乗っている文には鋭い目を返しながら、記事に目を這わせている梓にチラチラ目をやった。新聞に弱小と言うように強さがあるのか疑問に思いながら、少しして梓は花果子念報から顔を上げると興味深いと言うように顎をさする。

 

「ど、どうだった?」

「いや面白かったよ。文女史の夢のある記事も好きだが、嘘がないと見えるはたて女史の記事も好みだ」

「えぇぇ、梓さん正気ですか?」

「ふっふーん! 残念だったわね文、これは今度の新聞大会は私が貰っちゃうかしら?」

 

  文と同じく容易に調子に乗るはたてに向かって同族嫌悪の目を文は向けた。梓としてはどちらも好みではあったが、新聞としては文とはたての記事を足して二で割ればちょうどいいと言う発言は言わないことにした。元気を取り戻した文に梓は安堵し、少し気になった先ほどの文の記事に口を出すことにする。

 

「文女史、先ほどの記事だが、僕らのことを月の姫を守る騎士と形容するのは辞めて貰いたいところだ。これは自信を持って言えることだが、残念ながら忠義や名誉で動いている者は僕らの中にはいないだろう」

「そうなんですか? ならなぜ来たんです?」

 

  文の当然の質問に、梓は少し困ったような顔になりながらも即答する。

 

「欲とエゴだ」

「梓もなの?」

「僕は夢の浮橋を渡るために」

 

  そう言い切り遠くまだ姿を見せない月の影を追うように、梓は空を見上げた。文とはたてがなにも言わないのを良いことに、たっぷり時間をかけて空を見終えると、「渡り終えたら後は任せよう」と固い微笑を二人に返す。その言葉に満足気ににやける文にジトッとした横目をはたては送り、小さく息を吐いた。

 

「文、いったいどんな取引したのよ」

「ちょっとボディーガードを頼んだだけよ」

「ボディーガード?」

「そう、風見幽香や山の四天王、大妖怪の取材に行くのに」

 

  それはけしかける気じゃないの? という明らかな答えを口にするのもバカバカしく、はたては言葉に詰まり心配そうに梓を見る。頑丈な人間というのは、もう先程の御柱の一件ではたても理解したが、どうしても所詮人間という色眼鏡が抜けない。人が妖怪に殺されるなどという日常茶飯事な光景をはたても見ているが、自身の新聞を好ましいと言った相手が嬲られるのは、はたてもあまり見たくはなかった。だから自然と「大丈夫なの? 」という言葉が出たのだが、当の人型サンドバッグになる予定の男は、気にした様子もなく肩を竦める。

 

「文女史から話は聞いたがね、聞いた限り僕が幻想郷で勝てなさそうなのは八雲紫と西行寺幽々子の二人だけだ。かぐや姫様とは事を構える気はないので除外させてもらうが」

「それはまた……すごい自信ね」

「自信ではなく事実だ。僕に自信というものはない」

 

  傲慢とも取られかねない梓の発言だが、本人にあまりにも気負った空気がないせいで、思わずはたては納得してしまいそうになる。文然り、本当の実力を隠している者が幻想郷には多い。梓が口に出した二人も強者と知られる存在であるが、強者と知られていながら双方未だに底を見せたことがない。想像以上にとんでもないことが起きるのではないかとはたては顔を青くするが、月軍の話を思い出しより顔色を悪くする。梓から受け取った文の記事に目を落とし、書かれている名前を脳に刷り込む。

 

「北条 楠。五辻 桐。袴垂 椹。梓以外のこの三人もヤバいやつなの?」

「ああ、それは私も聞きたいわね。どうなんですか梓さん」

「平城十傑の中でも特に戦闘能力と生存能力の高い三人だ。弱くはないさ」

「ふむ、平城十傑最強は誰なんでしょうか? 来てたりするんですか?」

 

  『最強』。妖怪だろうと人間だろうとこの称号の輝きは眩しい。人間なら疑いもなく幻想郷の住人たちは博麗 霊夢の名を挙げるだろう。妖怪ならば幾人か名は挙がるだろうが、八雲紫が一番多いと思われる。なら新手の外来人たち、平城十傑の中では誰か。記事の旨味を増すために文もはたても是非聞いておきたいところ。梓は長いこと悩み、ポツポツ言葉を紡ぐ。

 

「僕らはそれぞれ戦い方がまるで異なる。故に最も強い者を挙げるのは厳しい」

「まあそうかもしれないけど。敢えてっていう奴はいないわけ?」

「最強は無理だが、最恐ならアレしかいない」

「アレですか?」

「黴家百六十四代目当主 (かび) (ふじ)。来てはいないがね。幻想郷中の生物を皆殺すわけにもいくまいよ」

 

  さらりと言った梓の言葉に、ぞわりとしたものがはたてと文の背を撫ぜる。百六十四という数字もそうだが、淡々となんでも口にする梓だからこそ、言ったことが嘘や冗談の類ではないと理解できたから。八雲紫や西行寺幽々子以外になら負けないと言った梓が、最も恐ろしいと言う人間。はたては絶対会いたくないとげんなりし、文は見てみたいと目を輝かせた。

 

「いやはや面白いですね」

「どこがよ」

「この坊門 菖という方はどんな方なんです?」

「坊門家はかつて帝直属の暗殺者集団だった一族だ。暗殺にかけては平城十傑一であろうよ」

「それが敵ですか」

「面倒な事だな、菖の考えは読めん。常に能面を被っているように見える女だ」

 

  梓の説明に敵の姿を思い浮かべようとはたても文も頭を捻るが、月軍を率いる人間という時点でまるでイメージできない。湯立つ頭ではたてから煙が出そうなところで、スッと三人の間に湯呑みが三つ乗ったお盆が差し出される。それに続くのは、青と白二色の巫女服。平野で風に靡く青草のようにみずみずしい緑の髪。浮かべられた柔らかな笑みは、芸術の域に達しており、小さな威光を感じることができる。

 

  現人神、質量を持った偶像のおかげで、差し出されたただのお茶でさえ神々しく見えるが、梓も文もまるで気にした様子はなく、はたてもそんな二人を見て苦笑しながら湯呑みを手に取った。

 

「面白そうな話をしていますね! また悪巧みですか梓さん」

「悪巧みとは人が悪い、その手の事柄は僕には不向きだ東風谷君」

「でも異変の話なんでしょう? こう気合が入りますね!」

 

  異変という度々幻想郷の住人が口にする事柄に、梓は軽い頭痛を覚える。どうにも幻想郷の者たちは『異変』と『祭り』を混同しているように見受けられた。祭りは祭りでも開催されようとしているのは血祭り。目が痛くなるような赤を好んで視界に入れようと思う人間などごく僅かだ。そして梓はそんなごく僅かではなかった。文から聞いた幻想郷の話を思い出しながら、梓は東風谷早苗に目を向ける。

 

「弾幕ごっこだったか、そんな煌びやかなものは舞わないだろう」

「でも絶対霊夢さんや魔理沙さんが出てきますからね! 私も負けていられません!」

「そうなってもらっても少し困るがな」

 

  身内のゴタゴタは身内で片付けたい。調停役としてはそうでないと後が面倒そうだと梓は思う。キラキラ目を輝かせる早苗には、義理や建前などの話は期待できそうもないので、そんな話は口に出さない。早苗はそんな中ではたての持っている文の記事に気がつくと、嬉しそうにそれをはたての手から引っ張り出す。

 

「かつてかぐや姫を守るために集った十人の戦士、それが一千年以上経った今再び集まろうとしているなんて浪漫ですよね!」

「然り」

 

  堅物そうな梓の立ち振る舞いとは裏腹に、こう言った話に思いのほか梓は食いつきがいい。それは文々。新聞や花果子念報を一見して好みだという変わった感性からも意外ではない。文もはたても早苗もツッコまないため、おかしな空間になってしまっているが、残念なことにそれでこの場は流れてしまう。

 

  そんな空間に割り込めるのはこの場では守矢のニ柱だけであり、軽い休憩の終わりを告げるように深い笑みを浮かべた加奈子が、四人の前に一歩出て来る。それを見て文とはたては慌てて下がり、早苗は気分の良さそうな加奈子に少し嬉しそうな顔をして諏訪子の隣へ歩いていく。

 

「さあ休憩は終わりだ梓、続きをしようじゃないか」

「ええ八坂様、よろしくお願い致します」

 

  お互い薄く笑みを浮かべて相対する梓と加奈子。開始の合図は突き立てられる御柱。指を弾いた加奈子の動きに合わせて、八角の大影が梓を覆う。幻想郷での己が頑強さを試すため。避けるそぶりは微塵も見せずに梓はその柱をただ見上げた。

 

  轟音と衝撃。神の威光を目と鼻で打ち付けられる壮大な光景に、思わずはたては生唾を飲み込む。空気を震わせる振動が止んだ頃、先程見たように、御柱が揺れ動くのかとはたては思ったが、全くその気配はない。これに首を傾げたのははたてだけでなく他の者も同様で、加奈子が怪訝な顔で指を弾くと、御柱はひとりでに浮き上がった。

 

「……穴?」

 

  八角に凹んだ地面に空いた小さな穴。どこに続いているのか分からないが、梓の姿はなく、ただぽっかり空いた穴を残された者は不思議な顔で見つめ続けた。

 

 

 ***

 

 

  自分の身に降り積もった土を手で払いながら、梓は顔を上に向ける。空は見えず、暗い天井には、それよりも黒に染まった穴が見えた。周りを見渡せば、空いている穴以上の土砂が周りに溢れており、なにかしらの理由で地中が大きく崩壊したおかげで、御柱に弾き出されたような形で、薄くなってしまった大地を梓の頑強さ故に突き破ってしまったようであった。

 

  ピンボールのように弾かれたおかげでどこにいるのか梓にはさっぱりだ。飛べるわけもなく、遠い天井まで登るのも容易ではない。梓は口をへの字に曲げ、どうするべきかと、とにかく足を動かす。

 

「暗いな」

 

  あまりに暗闇が濃いせいで、視界も良好とは言えない。ふらふら歩いてどうにかなるのか。待っていた方が良かったのか。ふつふつ湧き上がって来る疑問に、時間もないのだと、行動することを強制させられる。そうしてしばらく歩き続けていると、暗闇の先に薄っすらとした光が灯っているのに気がついた。行き先も分からぬために、光に吸い寄せられる蛾のように足を向ければ、火の灯った石灯籠とそれに寄りかかっている女性が目に付いた。

 

  異国の服を着込んでいるらしい金髪の女性。一見人間のように見えるが、尖った耳と、森のような緑色をした瞳が人ではないと言っていた。女性は足音に気が付いたのか、暗闇へと緑色の瞳を流し、歩いてきた人影を見て眉を顰めた。

 

「人間なんて珍しい。いったいなんの用……って乞食?」

「失礼にも程があろう」

 

  出会い頭に乞食呼ばわりしてくる水橋パルスィに梓は目くじらを立てるが、地面を強引に突き破り、土に塗れた梓はお世辞にもどこぞの一族の当主であるとは言えそうになかった。服とは言えそうもないボロ布を纏った人間に、同情の色を浮かべて小さくパルスィは頷く。

 

「見たところ地上を追われて来たの?」

「いや追われてはいない。ただ柱を受け止めたら下に落ちたのだ」

「ああ、そう、まあアレよ、元気出しなさい」

 

  発言を強がりと取ったのか、パルスィの温かな手が梓の肩に優しく置かれた。橋姫に同情されるということがどういうことなのか梓には理解できないが、鬼が見でもすれば腹を抱えて笑っただろう。パルスィの生暖かい瞳に梓は肩を竦めると、「外に出たいのだが」と口を開く。

 

「め、メンタル強いわね。ちょっと妬ましいじゃない。でも地上を追われたならやめた方がいいと思うけど」

「だから追われてはいない。僕にはやることがある」

 

  テコでも動かなそうな梓の意思の強さに、パルスィは羨ましそうに目を細めた。

 

「その気の強さが妬ましいわね。でも、相手の善意は受け取るものだわ。そんな格好でどこに帰るのよ。どこから来たの?」

「……幻想郷の外から」

 

  外来人。そう言う梓の言葉を受けて、パルスィは思い出したかのように懐から一枚の紙を取り出した。地上で指名手配されている盗賊の男。その男の着ている服と梓の着ている服の残骸が似ていることに気がつくと、面倒臭そうに頭を掻く。

 

「はいはい、分かったわ。取り敢えず服くらい着替えなさいよ。こっち来なさい。そうしたら帰り道を教えるから」

 

  そう言われて梓はパルスィに連れられ、暗闇を歩き回っていた時間が嘘であったかのように、煌びやかな地底都市まであっという間に辿り着いた。パルスィに連れられて辿り着いたのは木の格子によって分けられた小さな部屋。中には金色の髪と紅い瞳を暗闇に浮かべる小さな少女と、横になっている白い髪の男。その男を突っついている青い第三の瞳をくねらせている少女の三人が中に居た。なにより見覚えのある男の顔を見た梓は顔を顰め、パルスィに言われるがまま中に足を踏み入れた途端に木の格子がガチャリと閉められる。

 

「あぁ、盗賊の仲間に親切にするなんて最悪だわ。あとで地上人に引き渡すからそうすれば帰れるわよ。良かったわね」

 

  吸血鬼の眼光から逃げるように、パルスィは言うだけ言って地底の都へとさっさと姿を隠してしまった。残された梓はどうしようかと頭を捻り、こいしに突っつかれて(うめ)いている盗賊を目に入れると、小さく息を吐いて牢の奥の壁に背を付ける。そうして数刻の時間が過ぎた頃、ようやく盗賊、椹は目を覚ました。

 

「と、まあそういうわけだ椹」

「いやどういうわけかや? わけわからん」

 

  だいたい椹のせいなのだが、それを責めるのは無意味なため、ただ淡々とこれまでの経緯を梓は説明する。神との鍛錬、それも一方的なサンドバッグという無謀さに、こいしとフランドールの二人は人外を見るような目で梓を見た。

 

「わけわからんが、梓の旦那がいてくれるなら百人力だな。脱走といこうじゃないか。盗賊の見せ場だぜ」

「お頭どうやって出るの?」

「うーむ……そりゃ梓の旦那が教えてくれんよ」

 

  少女二人の視線を受けて、梓は思案するように顎に手を置く。もう一度妖怪の山で脱走の濡れ衣を着せられているというのに、また似たような罪状が並ぶだろう未来に、もうどうにでもなれと梓は口の端を持ち上げる。

 

「正々堂々正面から脱走するとしよう」

 

  頑固の答えに、快楽と狂気と虚無の笑みが返された。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 昼

  旧地獄の牢屋は跡形もなく吹き飛んだ。こっそりなどというには程遠い大胆な脱走。それもこれも全ては一人の少女。破壊と狂気を司る悪魔のせいである。

 

「たまやー!」

 

  もう一人の無邪気な悪魔の楽しげな声に触発されて、また建物が一つ、『目』を潰されて吹っ飛んだ。これまで抑圧されていた狂気を解放するように目に付くものを破壊していくフランドールを見て、椹は大きく笑い、梓は小さく肩を竦めながら三人の後をついて行く。

 

  突如蹂躙され始めた旧地獄の中にあって、そこに住む妖怪たちは慌てて逃げ回りながらもどこか手慣れているように見えた。火事と喧嘩は旧地獄の華なのだ。忌み嫌われた存在がこぞって集まっている旧地獄の中では、喧騒など日常茶飯事。散っていく妖怪たちの背を眺めながら、梓は頭を掻き、のほほんと笑っている椹に目を向けた。

 

「椹よ。いつのまに保父に鞍替えしたのか」

「はぁ⁉︎ 鞍替えなんかするかあ⁉︎ ありゃ子分そのイチとその二よ!」

「子分? 君がか? それはまた珍しい」

 

  椹は誤魔化すように鼻を鳴らし、空をぐるぐる回っているフランドールの方へ目をやった後、パタパタ手を振っているこいしの方へと目を移す。経った一日、行動を共にした少女たちは、イヤな顔をすることもなく未だに椹の側にいる。そんな現状を今一度眺め、椹は少し鼻を赤くして鼻先を指で掻いた。そんな様子に梓も目を見張る。

 

「オレのことはほっといてくれよ旦那」

「そうもいかん。さっきも言ったがな、月軍が来る」

「月軍ね」

 

  月からやって来る使者。遥か昔にやって来た宇宙人。全く気にしていなかった者たちが来るなどと言われても、椹は微塵も興味がない。それも平城十傑の一人が率いて。ただでさえ興味のない話が、より興味なくなるというものだ。梓の真面目ぶった顔から冗談の類でないことは椹にも容易に想像できたが、来ると言われてもなにも言うことはなかった。

 

  興味なさげな椹の態度に、梓は怒ることもなくまあそうだろうと腕を組む。北条も、五辻も、調停役という立場上平城十傑の中でも数少ない現当主全員の顔と名前、ある程度の性格を梓は知っている。およそ此度の件に対して最もやる気のない椹の返答としては納得していた。だからこそ梓はわけも話さず三人を幻想郷に連れて来たのだ。もし言っていれば何人がついて来たか分かったものではない。

 

  そんな梓の思惑が分かったこともあり、椹の機嫌はあまり良くない。「お頭〜」と手を振ってくるこいしに軽く手を挙げ返しながら、フランドールを見失わないように椹は足を動かし続ける。

 

「北条と五辻がいんだろうよ。オレは要らねえだろ」

「そう考えていたら僕は君を連れて来ていない」

「あのなあ、幻想郷(ここ)に連れて来てくれたことには感謝してるぜ、だがそれとこれとは別よ。オレは今楽しきゃそれでいいのよ、この一瞬が楽しきゃな。わざわざ月からやって来る暇人どもと戦うなんてな。べつにやつらのなにかが欲しいわけでもねえのによ」

 

  なにを盗むわけでもなく戦う。それこそ無意味であり、徒労でしかない。椹は盗賊。欲しいものがあるから動く。欲しいものがなければ絶対動かない。なによりも、遥か昔の自分と関係ない物事を挙げられそれが義務であると突きつけられるのは堪ったものではなかった。

 

  故に返事は一向にYesにはならず、首を左右に振るばかり。そんな椹に梓は頭を痛め、先を行く二人の少女へと顔を向けた。地底を照らす弾幕に少々見惚れながら。

 

「彼女たちにも危害が及ぶかもしれないぞ」

「はぁ? それこそありえねえやな。あいつらはオレの子分だぜ? やわじゃねえ」

「随分信頼している、それほど気に入ったか。一匹狼の盗賊が」

「うるせえな!」

「お頭どうかしたの?」

 

  イラついている椹の形相が気になったのか、先を行っていたこいしはくるりと反転して椹の周りをくるくる回る。こいしに気を使われたことが気に入らないというように、「なんでもねえさな」とこいしの頭を帽子の上から雑に撫で、高笑いしながら空を舞うフランドールの名を呼んだ。

 

「なによ椹、今いいところなのに。ほらまだ壊せるものはあるわ」

「このままぶっ壊し続けながらこいし嬢の姉さんとこに行っても目立ち過ぎる。それはちとスマートじゃねえ」

「別に全部壊してけばなんにも関係ないでしょ? 何もなければ気にもならないもん」

「破壊の美学か。なかなかのじゃじゃ馬だな」

 

  横から口を挟んできた梓に向けて、フランドールは目を引き絞る。椹のことは自分でも意外に思うほどフランドールはそれなりに気に入っていた。どうも融通が効かないが、その自由の効かなさが同じ思考する生物であると示しており、同じようなこいしのことも悪くないと思っている。だが、急に現れた椹の仲間と思われる男に至っては別だ。

 

  気の向くままにフランドールは梓に向かって手を伸ばす。椹のように梓は動くことはなく、無闇に壊すなとそこそこの頻度でたしなめてくる椹も手は出さない。その理由は牢で一度見たから。いつもならフランドールの手のひら浮かび上がってくる『目』がどれだけ経っても出てこない。不良品の調子を見るように伸ばした手をフランドールは何度か振るが、結果は一向に変わらなかった。

 

  業を煮やしたフランドールが伸ばした手に魔力を込めて梓に放つも、それも椹は止めはしない。感情に押されて放たれた弾幕は梓の身を吹き飛ばし、背後にある建物ごと大きく弾ける。紅い極光が消え去った後に残されたのは、建物の瓦礫とより大きく服の避けた梓の姿。二本の足で立ち腕も二つ。最早服の機能を果たしていない上着を引き千切りながら梓は瓦礫の中から足を出す。

 

「なんなのよアイツ!」

「やめとけフランドール嬢、やるだけ無駄だ。ありゃそういうもんなんだよ。力じゃどうにもならねえのさ」

「うわー、あの人間超合金製? お頭って友達も変なんだね」

「…………友達じゃねえよ」

 

  吐き捨てるような椹の言葉を、フランドールの弾幕が搔き消した。相手を紅く塗り潰そうと走る高速の紅剣をその身に受け、後退りながらも梓は確実に前に出る。まるで世界に固定されたように梓は崩れない。生きているものは壊れるもの。生気を感じさせながらも生物らしくない梓にフランドールの口元が引き攣る。

 

「キャハハ! ウザイウザイウザイ、なんなのアレ、どうして壊れないの? ムカツク、ムカツク! なら周りごと弾けちゃえ!」

「喜ぶかイラつくかどっちかにしてくれよ。あとそれはいただけねえやな」

 

  手のひらの中にいくつもの『目』を浮かべ無差別に握り潰そうとしているフランドールの手から『目』を()った。虚空を握り空ぶったフランドールの手は握りこぶしを形成する。そしてそれはフランドールの隣に立つ椹へと思い切り振り抜かれた。空気の層をぶち破り伸ばされる小さな少女の握りこぶしは、「わ! わ!」 と驚くこいしを首元に引っ付けた椹にふわりと避けられてしまう。不壊の梓と異なり、椹には一撃さえ当たれば潰れたトマトのようになることがフランドールにも分かっている。分かっているが、訪れないその光景が、壊れない梓よりも鼻についた。

 

「お頭、子分その二が造反だよ!」

「盗賊のストライキとかクソ面白いな」

 

  フランドールがどれだけ荒れようと普段と変わらぬ二人の姿が、フランドールには癪に触る。忌み嫌われるフランドールの狂気さえ楽しむような男と、そんな狂気の中でもなにも感じていないのか無邪気に笑い意に介さぬ少女。それを握り潰すようにフランドールは手を伸ばすが、その手は遂にフランドールの隣まで来ていた梓の手に掴まれた。

 

「そろそろ落ち着いて欲しいものだ」

「邪魔を!」

 

  フランの身の丈よりも大きな男を視界の端まで飛ばしてやろうと掴まれた腕を振るうフランドールだったが、動いたのは自分。地面に突き立てるように足を踏み込んだ梓は動かず、フランドールは自分の力に振り回される。梓は起点に自分の力でフランドールは横へと吹き飛び、忌々しげに歯を噛み締めたところで背が何かに当たった。不動の感触に一瞬壁かと思ったが、背から伝わる熱が生物だと言っている。背後を見上げたフランドールの眼に映るのは、血よりも紅く見える一本の角。

 

「綺麗な羽だね、飴細工みたいだ」

 

  瓦礫に囲まれた道端でなんでもない感想を言う長身の女。あまりに場違いなせいで、フランドールの表情が険しいものから崩れていく。そんな顔へ角の生えた顔を、鬼、星熊勇儀は近づけると、ゆるりと右手を伸ばし指を丸め見舞った。

 

  ────ドンッ。

 

  軽い動作に合わぬ重い音。弾かれた指一本、眉間を拳銃で撃ち抜かれたような衝撃に、フランドールの体が宙を舞う。ぐらぐらと揺れる視界の中で、身を叩きつける衝撃になんとかフランドールは備えようと手を宙に漂わせるが、いつまで経っても衝撃はやって来ない。

 

「大丈夫かや、フランドール嬢」

 

  揺れる視界の中ににゅっと伸びてくるのは白い頭。こいしに結われた三つ編みを揺らしながら、変わらぬ不敵な笑みを浮かべた男の顔。暴れたフランドールを怒るでもなく、見捨てるでもなく、受け止める男にフランドールの口元はうやうやと歪み、額から血の流れる顔をそっぽに向けた。

 

「べつに……平気だし」

「そりゃ良かった。で? ありゃなんだ」

「鬼だよお頭、勇儀って言うの!」

「それは見りゃ分かる。オレが言ってるのはそういう意味じゃねえ」

 

  額から伸びている角を見なくても、勇儀の身から立ち上る強者の空気を見れば只者ではないことぐらい分かる。先日椹たちの出会った別の鬼である萃香に似たような空気があるが、それとはまた別の気味悪さ。肌を叩いてくる妖気は、どこまでも圧縮されているようで、重い感触が与えられたものの肌に張り付く。

 

  椹と梓、二人の人間を勇儀は見比べ、椹に引っ付いている吸血鬼の妹とさとり妖怪の妹を目に留めると、大きな声で笑い出した。

 

「アッハッハ! 地上から人間の盗賊が侵入して来たっていうからどんな顔してるのか拝んでやろうと思ったんだけど、こりゃあいい! あんたら何者だい? 前に来た巫女や魔法使いとは纏う空気が違う。そう、なんて言うか、懐かしい感じだ」

 

  そう言って開けた胸元から取り出した赤い盃に、なみなみと勇儀は酒を注いでいく。明らかに味方ではなさそうなのは椹も梓も理解できた。少なくとも絶対に弱者ではないと分かる勇儀のことは無視するのが吉であるのだが、名を聞かれて自称世紀の大盗賊である椹が答えないはずもなく。また、梓も腕を組むと口の端を緩める。

 

「覚えておけ、オレは袴垂 椹、日の本一の大盗賊よ!」

「平城十傑、足利家第八十八代目当主 足利 梓。お初にお目にかかる星熊童子」

 

  「子分そのイチ」と笑顔で続くこいしと、「言ってることが微妙に違う……」と椹の名乗りに呆れるフランドールの言葉を聞き流しながら、勇儀は笑みを大きく深めた。嚙み殺すような笑みは次第に大きくなっていき、鬼の咆哮が二人の人間に叩きつけられる。その空気の振動に椹は冷や汗を垂らし、梓は小さく眉を寄せた。

 

「平城十傑? 袴垂? はっは‼︎ あんたらまだ生きてたのかい!いや八十八代か。そんなに代を重ねて月の影を追うなんて、やっぱり人間は面白い! 特にお前たちは」

「おい、梓の旦那。なんか奴さん急にエンジンフルスロットルだぞ」

「僕に言うな」

「さぁまずは小手調べといこうかね。私の盃から酒を零せるか?」

 

  酒の注がれた盃を前へと差し出し勇儀はそんなことを言う。鬼の『遊び』、鋭く見定めるような鬼の眼光を二人は受けて、どちらも面倒臭そうに肩を竦めた。力任せに襲い掛かってくるでもない誘い文句に、梓は大きくため息を吐く。

 

「悪いが僕らは忙しい身だ。そういう遊びは別の誰かとやってくれまいか」

「おやおやつれないね。鬼と人が向かい合えばやることなんてひとつだろうさ。こう派手に暴れられちゃ、あたしとしてもあんたらを捕まえないといけないんだ。どうせやるしかないんだから、少しくらい付き合っておくれよ」

 

  嬉しそうに頬を緩める勇儀の顔に、梓は盛大にため息を吐きながらも、吐き切った後に薄っすらと口角を上げた。鬼が本気で遊べるかの分水嶺。その交通手形を受け取れるかどうか。やる気になったと見える梓に勇儀は笑みを深めたが、次の瞬間僅かに眉を顰める。微妙に揺れる盃が、零れないまでも雫をその上に跳ねさせた。

 

「おぉ?」

「げッ!」

 

  梓を見つめ瞬きをした瞬間、落ちた暗幕が上がると同時に目の前に揺れた白い髪。勇儀の差し出していた盃の端を掴んだ椹だったが、掴んだはいいもののピクリとも動かない。バレれば仕方がないと思い切り踏ん張り勇儀の手から盃を引き抜こうとするが、力の行き場を失った足が地面を削るばかりで動く気配は微塵もない。抜け目ない盗賊に呆れた笑みを返しながら、勇儀が一度盃を持った手を振るそれだけで椹の身は宙を踊る。

 

「……なんだいコリャ」

「ああ! オレのお宝!」

「萃香の瓢箪? あっはっは! あの馬鹿盗られたのか! 流石は袴垂!」

「感心してないで返せ泥棒!」

「袴垂に泥棒呼ばわりされるとは光栄だね。んー良い酒だ。しばらく借りとくか」

 

  宙を舞った拍子に落としてしまった萃香の瓢箪『伊吹瓢』を勇儀は手に取ると、味を確かめるように中身を盃へと足し一口に飲むと再び注ぐ。どうにか取り返したい椹ではあるが、油断しているようでまるで隙のない鬼の姿に、梓の隣に降り立つと、強く口をへの字にヒン曲げた。

 

「まあ一応友人の仇ってことで、成敗してやろうかね」

「なにが仇かや、どうせ難癖つけて喧嘩したいだけだろ、オレには分かる」

「あの鬼椹と似たようなところあるよね」

 

  フランドールの小言に口を引き結び、椹は勇儀の全体像を漠然と捉える。金色の長髪を靡かせて、額から伸びる赤い一角。大胆に胸元をはだけさせた蒼い着物がよく似合っている。そんな艶やかな服装とは対照的に、萃香同様千切れた鎖が垂れ下がった腕輪を嵌め、ジャラリと耳障りな音を立てた。自分で引き千切った証と言うように嵌められている腕輪だが、それがハッタリではないと分かる女性的でありながら、筋肉の筋が見受けられる鬼の肢体。勇儀が呼吸をするたびに脈動する肉体の質に、椹は顔を引攣らせた。

 

「……同じタンパク質でできてるとは思えねえな。つか思いたくねえよな。水銀ででもできてんのか」

「正に中身が違うか。驚きだ」

「梓の旦那が言うなよ……」

「仲間はずれは寂しいね!」

 

  ズズッと鳴った地響きのような音は勇儀が足を踏み込んだ音。巻き起こった砂煙に紛れて、勇儀の体が雲を引くように二人の人間の元に飛来する。力とはパワーであり、スピードとは力だ。目では追えても、椹でさえ身体が反応するのに一瞬の間が必要であり、その間に勇儀が腕を振り抜くには十分だった。迫る拳に椹は舌を打つ。避けるには距離が足りない。だからこそ、椹は隣に立つ男を引っ張った。

 

  肉と肉のぶつかる音。見ていれば分かるが、見ていない者はそうは思わなかっただろう。戦艦と戦艦の衝突、小惑星同士の激突、山同士の衝戟。形容する言葉はいくつも思い浮かぶだろうが、そのどれとも似て非なる生物同士の接触の結果は、音と反して静かなものだった。足の形に四箇所凹んだ大地と、そこから伸びる長いヒビ割れ。突き出された鬼の拳は、人間の額に突き刺さってはいたものの、その肉体にはヒビすら入っていない。

 

  拳を梓から離し、手の感触を確かめるように勇儀は軽く手を開いては閉じる。その感触に深めていた笑みを薄くして、細められた勇儀の艶かしい視線が梓を射抜いた。

 

「あんた……なんだい?」

「なんだとはなんだ。中身のない問い掛けには答えを持たん」

「言う気はないかい。ふーん……、千年経てなにか変わったのかね。じゃあ次はもう少し上げてやろうか」

 

  再び強く握り込まれた拳は彗星と同じ。宙に引かれる尾こそないが、膨大すぎる筋力ゆえに、振られる拳からは独特の音が畝る。梓はそれに少し眉を顰めると、小さく息を吸い込んで、両足を強く踏み込んだ。二度ぶつかり合ったその衝撃に、フランドールもこいしも耳を塞ぐ。二本の線を深く大地に刻み、殴られた肩から薄い白煙を上げて梓が下がった。拳を振り抜き笑顔を携えた勇儀に向かって、表情のない顔のまま梓は勇儀の盃に向けて人差し指を向ける。

 

「……殴られてもいないのに酒が零れたのは初めてだね。面白い、気に入った!」

 

  勇儀は盃に残った酒を飲み干すと、胸元へと盃を戻す。腰には萃香の瓢箪をぶら下げて、空いた両手を胸の前で打ち合った。ダイナマイトでも破裂させたかのような轟音に、梓は体の調子を確かめるようにぶらぶらと両腕を振った。

 

「致し方ない。椹、先に行け」

「おいおい、お宝取られて引き下がれってのかよ! ありえねえ! だいたい梓の旦那はどうすんのよ」

「鬼ごっこできるほど足が速くないでな。月軍が来る。先に上がれ」

「……オレが行くとでも? 地霊殿も目の前だってのによ」

「多少の寄り道には目を瞑るさ。それでも僕より速いだろう?」

「けッ! 面白くもねえ! 門番に時間掛けてもしゃあないか。行くぞ子分ども!」

 

  勇儀の力と相対する労力に白旗を振り、「覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて椹は二人の少女を抱えると影へと消える。その逃げ足の速さに勇儀は舌を巻き、「忘れそうもないね」と頭を掻いた。残った人間ひとりに目を戻せば、梓は逆に動くこともなく腕を組んでいる。先程の激突などなかったと言うように、体には傷の跡も見られない。

 

「お前さんほど頑丈なやつは鬼でも見たことないよ。本当に人間かい?」

「それは違うという答えが来てほしいという期待か? 現実から目を背けるものではない。事実は事実。あるべきものをあると言えないようでなければ、大望は望めんな」

「なんとも堅苦しいやつだね。酒でも飲めば柔らかくなるかね」

「断る。僕は下戸だし未成年なものでね」

 

  ゆるりと歩き出す勇儀に合わせて、梓もゆっくりと足を出す。縮まっていく距離に息を飲むものはなく、誰が見ているわけでもない。だが、その衝突を報せる音は旧地獄に潜む者たち全ての耳に届いた。しかし、届いたものはそれだけで、勇儀と梓の笑い声を聞いたものはお互いを除いて他にいない。

 

 

 

 




椹は袴垂 第ニ夜 夕 に続く


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜 夕

  額から垂れた一筋の汗を勇儀は拭う。あれから何度も衝突を繰り返しながら、未だに戦闘は終わりを見ない。瓦礫に囲まれた周りの風景は、度重なる衝突のおかげで更地と化し、旧地獄の中にぽっかりと穴が空いているようであった。そんな周りの風景に目を流してから目の前に立つ人間へと勇儀は目を戻す。何回、何十回、百を超えて加えた拳を受けても未だに二本の足で立ち勇儀を見つめる男。これほどの長時間の戦闘は勇儀も経験がない。肉弾戦ならだいたいは一撃で終わる。それがこうも自分の拳で倒れない相手がいるのかと嬉しくなりながら自分の着物に一度目を落とし、もっと動きやすい服で来るんだったと少し後悔した。

 

「見事だね。そうとしか言えない。なにかの術かい?」

「生憎僕は術士ではない。そんな器用なことはできん」

「そいつは……ははッ、余計に嬉しくなっちまうじゃないか。惚れちまいそうだよ」

「男冥利に尽きるとでも言えば良いのかね? ならそろそろやめにしないか。僕にはやることがあるのでね」

「そうもいかない、侵入者全員逃したんじゃ面目が立たないし、それになにより」

 

  やめたくない。そう言うように勇儀は再び足を踏み込む。爆薬を弾けさせたように砂煙を後方に置き去りにして、一息で距離を殺した勇儀の拳が梓に突き刺さる。外の世界の摩天楼さえへし折るだろう一撃を受けて、梓は何度目かも分からぬ浮遊感の中に叩き込まれた。腹部に炸裂した一撃に軽く息を吐き出しながら瓦礫へと突っ込み、腹をさすりながら立ち上がる。そうなることがもう分かっていたと肉迫していた勇儀に目を向けて、梓も腕を振り抜いた。

 

  ────ゴンッ。

  ────べしッ。

 

  二つの音が響き合い、梓がまた瓦礫に突っ込む。額から白煙を上げて立ち上がる梓に目を向けながら、勇儀は梓に殴られた頬へと指を伸ばしてちょちょいと掻いた。痛くも痒くもない。これが勝負が異様に長引いている理由だ。防御力という面で言えば、梓ほど頑丈なものを勇儀は見たことがない。鬼神然とした勇儀の一撃を何度も受けて、それでもなお飄々と立ち上がってくる。

 

  だが攻撃力という面で言えば、勇儀に聞いた場合酒で口を濁しながら肩を竦めるだろうと思われるほどにお粗末なものだ。視覚的に言っても梓の体は悪くない。むしろ良いと言える。芸術に趣旨の深いものが見れば、ローマ時代の彫刻と勘違いするほどに、『造られた』ように整っている。だが、そこに人の手が入っているようには見えないほどに自然と。バランスの良すぎる肉付きと、こうであったら良いのにという身体的コンプレックスを抱きようもない造形。あまり関係ないが、顔も男前と言えた。

 

  梓の上半身が服を破り捨てたおかげでよく見えるからこそそう思える。そんな人工的であり自然的な体を駆動させる梓を見て、極端な性能を誇る人間に、感心しながら、少しがっかりするように勇儀は額から伸びる角を一度撫ぜた。

 

「惜しい」

 

  ポツリと零される鬼の言葉は、何もない空間ではよく響く。おかしな話であるが、自分が窮地に陥るとしても、意識が飛ぶような一撃を受けてみたいという強者としての葛藤がある。勇儀は強い、そう力が強過ぎるが故に、術や謀略で絡め取られたことこそあれ、終ぞ肉体的に崖っぷちまで押し込められたことはない。初めての感覚というものは、良いものにしろ悪いものにしろ忘れることはない。長い年月を生きているからこそ、『今』新しい感覚を体感している時間がどれほどの喜びとして体の内を駆け巡っているか百年の時も持たない人間には理解できないだろう。

 

  勇儀も鬼として力に特化し、肉体的な防御という面でも上から数えた方が早い。だが今明らかにその面で自分よりも上にいる者が現れた。もしこれで少なくとも力が互角であれば、行き着く先がどこなのかは自ずと分かるというもの。

 

  勇儀は鬼生の中で現段階で最も一個人を殴ったと思える拳に目を落とす。感覚。初めての感覚。何度も殴ったからこそ分かる。梓を殴った時の感覚は、鬼や天狗、他の妖怪、人間を殴ったどの感覚とも違う。柔らかく沈むようでありながら、なんとも言いようのない滑る感じ。力は完璧に伝わっているのに、どこかに外れていってしまうという感じ。術士でないと言った梓の言う通り、術にぶつかった感覚ではない。ないからこそ不思議であるのだが。

 

「究極の肉体か」

 

  勇儀の答えは的中していた。細められた勇儀の目を見て、否定することはなく梓は薄く笑った。否定する時は否定し、肯定する時は肯定する。腹芸をする気のない梓の公正な性格を勇儀もこの長い戦闘という名の対話で理解している。だからこそ、そんな梓の反応に鬼も笑った。

 

「それが千年かけた答えか」

「人は短い間に世代交代を終える。それを利用しない手はないだろう」

 

  強い体を。例え誰が相手でも砕けぬ体を。もしそれが作れれば、月の使者がどんな相手であろうとも、取り敢えずは対抗できるはず。そんな考えの元、足利の一族は、人間の品種改良に邁進した。その時代足利の一族で遺伝子的に、肉体的に最高だと思われる者が当主となり、幾人もの内縁の妻を相手に次代を産む。およそ人間的とは言えない営みの果てに産まれたのが梓だ。

 

  だから梓には二十人を超える兄弟がおり、また十人を超える母がいる。祖父や祖母、叔父に叔母、それらを全て含めてゆうに百人を超える。当主に選ばれなければ待っているのは普通の生活。当主に選ばれれば、肉体を最高の状態に保つための微調整が待っている。

 

  そうして完成するのは完璧な外殻。梓は足利の中でも歴代最高峰の肉体を誇る。完璧とはそういうこと。繋ぎの見えない体は液体のように揺れ動くが砕けることはなく、破壊の中心点である『目』さえ散らして掴ませない。どれだけの力を加えられても、完璧な肉体は世界に固定されたようにその表面を滑るのみ。

 

  そうして人類史上最高の防御力を梓は手に入れた。

 

「よくできている。本当に。それで力も強ければ……」

「ない物ねだりをしてもな。持っているものでどうにかするしかあるまい。それに人の中では僕も力が強い方だ。最高の肉体を僕は生まれながらに持たされた。そういう意味では僕は幸運だったろうさ。他の当主たちとは違う。僕は生まれながらに当主であり、そこに努力が介入する余地はなかった。そして才能も」

 

  だから梓は賛辞を贈ってくれる相手にはいつもこう返す。

 

「僕に才能というものはなく、自信というものはない」

 

  自信とは努力によって裏付けされるもの。無論梓も努力はしている。だがそれをどれだけ梓がしたところで、究極的な肉体と釣り合いが取れるものではなかった。どれだけ努力をしようとも、『死』がいつも隣合うような狂気と修羅によって強制される他の当主たちの努力と比べようもない。死というものが周りを踊っているからこそ、生存本能に後押しされて人は想像以上に伸びていく。そして梓が生存本能を刺激されるようなことはないのだ。

 

  それがどうにも堪らない。同じ当主でありながら、いつも梓は他の当主を羨んでいる。平城十傑の中で調停役という大任を得ながら、一番そこに居るための努力が足りていないと梓自身がそう思っている。以前聞かれた文からの平城十傑最強は? という問いに、だからこそ梓は絶対に自分をそこには置かない。淡々と事実を受け止めて、ただできることをする。

 

「あんた硬いね。頭もさ。欲しいものとか、夢とかないのかい?」

「ある」

「折角なんだ。教えてくれるかい? あんたのことは気に入ったよ。そんなお前さんのことをできるだけ知っておきたいんだ梓」

「いいだろう。だがわざわざ口にすることもない。なぜならば!」

 

  大地を蹴り梓が勇儀と距離を詰める。笑みへと表情を崩した梓の拳が、戦闘中とはいえ、話を聞こうと少し気を抜いていた勇儀の顔へと直撃する。だが、威力は知っての通り。痛くはないが、突然の一撃に軽く面食らいながら勇儀は一歩足を後ろに置き、呆けた顔で梓を見た。

 

「今僕は夢の中にいる。鬼と喧嘩をするなどと、外の世界では笑われるだろう御伽噺の中に今まさに身を浸している! そして目と鼻の先にもっと、そうきっと素晴らしい御伽噺が待っている。現実は覆しようがない。ないと思われたものがある感動が君にも分かるだろう! 僕は待ったこの時を。僕の一族は待ったこの時を。僕たちは待ったこの時を。必要があるかも分からない品種改良を繰り返し、無用とも思えるこの体が役立つ時を待っている! 儚い? 結構! 人が夢を見てなにが悪い!」

「あんた……ふふ、あんた頭が硬いんじゃなくて実は一番」

 

  その先は言うまいと鬼が笑う。シンデレラに憧れる少女のように、夢を見続ける男を見て。

 

  この先に言葉は不要。勇儀は骨が鳴るほどに拳を握った。夢と言うなら、人とこれほど真正面から打ち合うことなどないと勇儀は思っていた。それが今まさに目の前にある。それも終わることのない闘争が。

 

  どれだけ行ける。

 

  どれだけ殺れる。

 

  人知れずすぐに終わってしまうからと無意識にセーブしていた力を惜しみなく解放したとして、目の前の人間は砕けないかもしれない。その事実が勇儀の無意識のリミッターを外す。

 

  ふと軽くなった自分の体に、勇儀は心の底からの微笑みを見せた。一つ鎖が引き千切れたと言うように、笑うのではなくただ優しく。その顔に一瞬梓は見惚れてしまうが、すぐに両手で己が頬を叩き意識を変えた。

 

  一歩勇儀が前に出る。それに合わせて梓も一歩。縮まる距離は極度の緊張感に擦り合わされて、火花が散る様を幻視させる。額から垂れる一雫の汗を今度は拭うこともなく、瞬きもせずにただ一人の男を見据える。

 

  同じく梓も体に付いた誇りをはたくこともなく足を出し続けた。

 

  ── 一歩。

 

  ──── 二歩。

 

  ────── 三歩。

 

  梓の視界がひっくり返る。遅れて聞こえてくる音に目を瞬かせた梓の視界に映る鬼の顔。顔に受けた一撃で地面にめり込んだのだと気付いたのは、手が触れている大地の感触のおかげだ。その手に力を入れて起き上がろうとした梓に向けて隕石が落ちた。

 

  生物を根絶やしにしようかという剛拳が、大地を砕き突き立てられた。ヒビ割れた大地はその威力を流し切れずに細かな砂粒が宙へ浮いていく。地に描いたクレーターの中心で、顔を地面に埋め込みピクリとも動かない梓を見ても、勇儀は笑みを崩さずに振り上げた拳を落とし続ける。

 

  めくれ上がった大地は歪な大輪を咲かせ、地底の大地を更に下へと押し下げる。壊れた人形のように体を跳ねさせる梓に遠慮も気負いも必要ない。宙を死んだように泳いでいた梓の手が、ゆっくりと勇儀の角へと伸ばされそれを掴んだ。

 

  振り解こうと頭を振り上げた勇儀に引っこ抜かれ、地の底から梓が起き上がる。勇儀の目前につき合わされた梓の狂喜の滲んだ笑みと光り輝く眼光に、勇儀が笑みを返すと同時に、引き抜かれた反動を利用して振り上げられていた梓の踵が勇儀の顔へと落とされた。

 

  骨と骨のぶつかり合う痛々しい音を首を動かすことによって勇儀は反らし、そのまま肩に落ちた梓の足を勇儀は掴む。

 

「ははっ、ハハハ!!!!」

 

  嬉々とした感情を振りまくように、振り上げた梓の体を大地に叩きつけた。人の体の形に凹んだ地面を塗りつぶすように、何度も何度も。

 

  局所地震を繰り返し、揺れて剥げた地底の天井の欠片に向かって梓を振り抜く。あまりの速度と力故にすっぽ抜けた梓の体はその後方に控えていた数十の家屋を轢き潰しながら遠い地底の壁に突き刺さった。ガラガラ落ちる地底の壁に手をついて、それを砕き身を踊らせる梓が目を向けるのは、破壊痕が続く鬼の居る間。小さく長く息を吐き出して、梓は軽くリズムを取るように体を揺らす。

 

  勝てない。

 

  そんな思考に彩られた頭を振っても考えは変わらない。いくら肉体が死ななかろうと、これでは人形遊びの人形役だ。ただ相手を満足させるためだけに動くなど、そんなことは認められない。だから同じくらい頭の中を占めているもう一つの言葉にこそ梓は頷く。

 

  負けない。

 

  勝てなくとも負けもしない。この勝負の終わりが、どちらかが大地に前のめりに倒れることだと言うのなら、梓にその気はなく、また勇儀にもその気はない。最強の矛と最高の盾。その矛盾は解消されることなく千日手の形相を見せ初めていたが、それではいけないと梓は首を振る。

 

  これは前座だ。どれほど雄大で素晴しかろうと、本当に待ち望んでいる瞬間がすぐそこに控えている。

 

  竹取物語。

 

  終わりと綴られたその物語の続きを自分たちこそが描くために。

 

  終わらぬものを終わらせるには現状を変える以外に方法はない。梓の拳が勇儀の芯に届かぬことが最大の理由であるのなら、それを変える以外にすべき事はなかった。

 

  だから梓は遂に刃を抜く。ぼろぼろのズボンのポケットに手を突っ込み、その中に隠していた世界で最も短い刃を取り出した。

 

  それは(やじり)のように見えた。尖った先端から末広がる下部に付いた二つの輪は、指を通す為に付けられたもの。中指と薬指を通して拳を握り込む姿は、手から棘が生えたように見えるだろう。

 

  メリケンサックの刃を地底の街灯に煌めかせながら足を進める梓の先から、勇儀もまた歩いてくる。足取りは軽く決して走らず。身の内に渦巻く喜びを相手にこそ叩きつけるために零さないようにゆっくりと。梓が逃げないだろうことを信じているから。

 

  梓の手に光る刃を見て、勇儀は少々残念そうに顔を顰めたが、それでも笑みは崩れなかった。素手同士で殺り会いたいのが本音ではあったが、それでは終わりが見えないというのは勇儀も同じ。

 

「それがあんたの武器か梓」

「肉体が脆いからこそ人は長い刃をその手に取る。その脆さがない僕にはこの長さがあればいい」

 

  振るうでもなく突き立てる。拳の可動範囲で十分威力を発揮する。全ての脅威をその身に受け止めながら、相手の隙間に拳を突き立てることが梓にはできた。だからこそこれが梓にとって最高の得物。たった十センチほどの刃があれば事足りる。

 

  握った右の拳をその甲を顔に向けるように掲げ、距離を測るために左腕を前に出して手のひらを開く。

 

  これから殴る。この刃を突き立てる。構えからそれをすると分かる形に、勇儀は呆れるように肩を竦めた。格好からして馬鹿正直過ぎる。心理戦など必要ないと、自分の肉体に最大の信を置いたその形は、傲慢でも自信があるからでもない。ただ知っているから。迫る災害から逃げ惑う必要などなく、その災禍の中に身を置いて、ただ前進できると梓は知っている。

 

  その思い上がりこそを潰したい。長くはないその鼻柱をへし折りたいと勇儀も拳を鳴らす。身の丈合ったその実力を叩き潰し合ってこその戦士。勇儀が信じるのは己の力。防御など必要ない。屈強な肉体と、それによって生まれる力で勇儀は理不尽さえ叩き潰してきた。それをまた一つ潰すだけ。遥か昔から見ている人の夢を、たった二つの剛腕をもって弾くだけ。

 

  同時に迫る二つの影は交差して、梓の顔は驚愕に歪む。

 

  ぶ厚い。

 

  椹が水銀と称した鬼の肉体は、防御においても最良の効果を発揮する。突き立てた刃は筋肉に押し返され、その芯には届かない。僅かに赤い染みを勇儀の蒼い着物に浮かべるだけで終わり、梓は再度地底の壁に突っ込んだ。穴をまた一つ地底に開け、そこから梓は這いずるように立ち上がる。

 

「見事。鬼が恐ろしい相手であるということは重々承知していたつもりだが、君はその中でも最上だろう」

「人間に褒められて嬉しいのは久しぶりだね。梓がそう言うならそうなんだろうさ。それで? 勝てそうか?」

「負けはしない。だが」

 

  できるなら勝ってみたい。憶測など言っても意味はないと考える梓だからこそその先は言わなかったが、沈黙は言ったのと同じ。小さく声を出して笑う勇儀に、少し恥ずかしくなり梓は咳払いを一つした。そして地底の壁を一度叩き踏み出すと、少し進んで足を地面に突き立てる。吹き飛ばされないように深々と。大地を割って足を踏み込む。

 

  殴り合おうという誘いを勇儀が断るはずもない。その身を大地に縫い付けた梓の拳の距離まで勇儀は近づくと、勇儀も足を広げて拳を掲げる。

 

「やろうか梓」

「やろう勇儀」

 

  望んだ言葉が返ってくると分かっていても言葉として聞きたかった。頭で描いたその通りの返事を受け取って、何度目かも分からぬ拳が交差する。吹き飛びそうになる体を全身の力を使ってなんとか押し留め、梓が初めて二撃目を放つ。そんな姿に勇儀も惜しげなく拳を返した。

 

  一回、二回と増えていく交差する拳。確実に大地を削りながら下がっていく梓を一人にはさせないために、一歩また一歩と勇儀も足を出す。梓の刃で削れていく見目麗しい着物のことなど気にもせず、体の表面を流れる赤い筋を嬉しそうにくねらせて。勇儀の拳が梓目掛けて刺さり続けた。

 

  軋む体の音に耳を傾けながら、なお梓も動くことを止めない。いくら丈夫な体でも、勇儀ほどの一撃を何度も貰えば、積み重なったダメージが徐々に顔を出す。それでも体は崩れないが、痛いものは痛い。そんな痛みは生きている証。体の内側に流れる鈍痛に奥歯を噛み締めながら、笑い声を時折零して梓は腕を振り上げた。

 

  突き出される勇儀の拳に、梓は腕を折りたたむように肘を叩きつけると横へと流した。頑強さ故に成り立つ受け流し。態勢の崩れた勇儀の脇腹に梓の刃が突き刺さった。

 

  銀色の先端が体に打ち込まれるのを、深く息を吸い込み筋肉を絞めることで受け止める。肉と肉の隙間に打ち込まれた刃は、尋常ならざる筋力に噛み付かれその侵攻を阻まれた。そのまま態勢を戻す勇儀に引っ張られる形となって、次に態勢を崩されるのは梓。

 

  勇儀を見上げる形となり、振り上げられた拳は極大の鉄槌。地底の形をまた変えようと振り切られる拳を、梓は勇儀に引っ張られる力に乗るようにして初めて回避する。想像以上の力に脇腹から離れたその体を、地面にしがみつくように削りながらその場に留まり、大地を砕く勇儀の上に今度は梓が踊り出る。

 

「しッ!」

「甘い!」

 

  いくらお互い肉体が頑強でも、隙を見せるような愚行を犯しはしない。今梓は強固な肉体の隙間を穿つ刃を有している。その刃に晒される危険性を、勇儀も当然理解していた。拳を出す暇はない。梓の体にぶつけるのは己が肉体。無理な態勢から力を振り絞って勇儀の体は弾丸と化した。

 

  梓を巻き込み地底の地図を塗り替える。二人を人と鬼と呼ぶ者はいないだろう。地底ではあるはずない竜巻が通ったのだと言われた方が納得できる。勇儀の暴力を受け止めるのは地底の大地と家屋のみ。梓の無敵の肉体は、依然そこにあり、体にのしかかった木片を振り払いながら不変を示すように立ち上がった。少し遠くなった勇儀を見つめ、再度梓はその手に握った刃を構える。

 

「ああ! 楽しい! 楽しいねえ!」

「然り、だがしかし」

「あぁ、いつまでも続けていたいけど、そうもいかないか」

 

  惜しむように勇儀は吐き出し、今一度体に力を込めた。無限に続くかと思われる勝負にだって終わりはくる。それがいったいどういったものであるのか。このままではいずれ喉が渇き、腹が減り、動くのも億劫になってお終いとなるかもしれない。そんな終わりは勇儀も梓も望んでいない。闘いの終わりは劇的に。全力を振り絞り大地に墜つ方が二人とも性に合っている。

 

  最後の衝突になると察した両名の空気が変わる。膨れ上がった勇儀の妖気と、静かに張りつめられていく梓の気迫。息をするのも辛い緊張は、天井知らずに上がっていき、その熱にうなされるように、最後になるかもしれないと勇儀の口が軽くなる。

 

「あんたに……袴垂に、他にもまだ来てるのかい?」

「北条と五辻が。遠くない日に他の者も来るだろう。藤がそんなことを言っていた。なんせ月から使者がやって来る」

「月からか。……クソ、地上に未練はなかったのに、梓みたいなのがまだいるなら、まだ来るなら上っちまいたくなるじゃないか」

「来るといい。月軍を潰したその後なら幾らでも相手をしてやる」

「鬼は内って? 馬鹿かいほんとに……本当に。お前さん狂ってるって言われないのか?」

「僕は生まれながらにイカれてるんだろう。そして彼らも。普通を歩むことができない僕たちは、結局こんなところにいる。そんな僕たちを拒むかな?」

「いやいや、あんたらみたいなのなら幾らでも。私を誘ったんだ。その言葉忘れるなよ?」

「そっちこそ忘れるな。平城十傑の調停役としてこれは言えることだが、僕らの相手はしんどいぞ」

 

  だろうねと勇儀は笑い、膨れ上がった妖気をその身に凝縮していく。力の結晶を視界に収め、梓も盾を矛に変えようと右手を握り直した。

 

  三歩だ。三歩あれば全てが終わる。

 

  手加減などと馬鹿げた考えは既にない。有り余る力を全てぶつけていい相手が目の前にいる。振り切れたリミッターに、浮ついていた体にようやく意思がついてきた。勇儀の思い通りに躍動する肉体を惜しげもなく引き絞る。

 

  その隙間へ最大の力を突き立てようと梓の目が細められた。変わったことをする必要はない。奇策や秘策の類など、鼻から梓にはないのだ。故に梓の動きは自然と限られた。長い年月、ただ相手を拳一発で張り倒す為に研究を重ねられ続けその形に落ち着いて等しい形。即ち正拳。ただの形に則った一撃が、梓にとっては必殺技として昇華される。完璧な肉体は、その最適化された形をもって、最高の威力を披露する。

 

  地震と言える勇儀の踏み込みに呼応して、見惚れるような梓の正拳が炸裂した。完璧に完成した一撃は、たった十センチの刃の先端に集束され、勇儀の肩に突き刺さる。その痛みに顔を歪めながらも、地を這うような勇儀の拳が梓の腹部で強く弾けた。肉体を打つ音ではない。かつて恐竜が聞いただろう地上最大の破壊音、かつて大日本帝国が誇った最強の戦艦の砲撃。どれにも負けぬ音を残して、梓の体が幻であったかのようにその場から消えた。

 

「……痛たた。折れたねこりゃ」

 

  ぽっきり逝った鎖骨に笑みを与えて勇儀は肩を回す。姿なき人間は、見えずとも生きているだろうと確信する。荒れに荒れ果てた旧地獄の町並みを見回して、これはひどいと言うべきか、これだけで済んだと言うべきか思案し、後者だろうと勇儀は笑う。

 

「……さて、と。さとりのとこに行こうかね。上への切符を貰わなきゃならん。なあ梓、まだ見ぬ人間たち。鬼との約束は破っちゃダメだよ」

 

  足取り軽く勇儀は歩く。萃香の酒で喉を潤し、素敵な未来に祝杯を挙げる。

 

 

 ***

 

 

  突然妖怪の山を揺らした地震と、湧き上がった煙に、天狗たちは騒然となった。噴火でもしたのかと慌てた天狗たちは、印刷のために戻っていた文とはたてに様子見という生贄役を押し付けて、山から蹴り出すように急き立てた。文もはたてもそんな暇はないのにと印刷した大量の新聞を手にそこへ向かえば、大きく弾け飛んだ山の斜面が待っていた。

 

「どういうことよコレ」

「知らないわ。どうしてこう短い期間で面白いことが起きるのか。はたてが珍しく働いてるからじゃないの?」

「あんたに言われたくないわ」

 

  木々が燃えていないことから溶岩の類はないと判断し、薄くなっていく煙の根元に二人が下りると、一人の人間がその中心に立っていた。それも今朝方姿を消したはずの男。しかも薄く口からは血を垂らし、それを地面へと嬉しそうに吐き出している。

 

「ちょ、梓さん?」

「ああ、文女史か。見たところ新聞は出来上がったようだな。是非見せてくれ」

「いやそれは良いんですけどどうしたんですか? 服は?」

「いや、ああそうだな。ああ」

 

  うわ言のように呟きながら、梓はその場に寝転がる。体に走る痛みに笑顔を返しながら、赤くなっている空へと目を向けた。天狗の折檻で傷も付かなかった梓が口から血を垂らしている異常さに文とはたては顔を見合わせ、何も言わずに梓の答えを待つ。

 

「鬼と殺った。今はただ浸っていたい」

「「え゛?」」

 

  文とはたてがその先を聞くことはなく、青い顔で夕日の中へ飛んで行く二人の背を、梓は愛おしそうに見送った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三夜 朝

  守矢神社の縁側でお茶を啜る音が二つ。舞い散る紅葉を眺めながら、梓は隣に目を向ける。右手に持ったペンの背を唇につけながら唸る文を見て、また縁側に置かれていた湯呑みを手に取ると梓は茶を啜った。

 

  妖怪の山の偽噴火騒ぎから一日が経ち、鬼の襲来かと妖怪の山の警戒レベルはさらに引き上がった。妖怪の山で指名手配中の梓がそこに留まるわけにもいかず、結局妖怪の山の中でも台風の目である守矢神社に身を寄せている。加奈子も諏訪子も、さすがに触れたら爆発しそうな妖怪の山では、梓との鍛錬を自粛し、加奈子などは残念そうに肩を落とした。文はというと、脱走者の捜索という仕事を盾に早々に離脱。脱兎の如く、まさに逃げるが勝ち。警備組に回されたはたては恨んでいい。

 

  そんな文がにらめっこをするのは己が手帳。昨日号外を配り終えてから死んだように眠り、目が覚めてから暇さえあれば手帳を眺めている。二日前に幻想郷にやって来た平城十傑。梓の話を聞き漠然と書き綴られた文字を眺めて文は問題の本質はなんなのか考えるが、虫食い状に必要なピースが足りなさ過ぎて判断がつかない。

 

  分かっていることは、坊門 菖が月軍を率いてやって来ること。かぐや姫を守るために四人の男が来たこと。黴 藤と唐橋 櫟という者が平城十傑である。坊門 菖は暗殺者。梓は平城十傑の調停役。

 

  どれも単体で意味はあるが、結局何が根本にあるのかが見えてこなかった。かぐや姫が全てと言えばそれだけであるのだが、風の噂でも輝夜の元に外来人が訪れたという話を文は聞かず、平城十傑の元々の目的に邁進していない。

 

  なによりも、梓もまたそうであることに文は大きな疑問を持った。わざわざ幻想郷中に月軍の襲来を報せるビラを撒かせ、すぐに永遠亭へと行けばいいのに加奈子と鍛錬をしてむざむざ時間を潰す。今もまたあまり行く気配もなく縁側で茶を啜っている。そんな梓に文は記者の目を流した。それに気が付いた梓は手に持った湯呑みを縁側の上へと、カツっと音を立てて置く。

 

「どうかしたのか文女史」

「いやあ、わざわざ大天狗に飛ばされた他の学生服? でしたか? を回収してきて着るなんて。いったい何着スペアを持って来てるんですか?」

「学生の間はこれを着ておけば間違いないでな。楽でいい。それで? 聞きたいことはそれではあるまい」

「あややや、気づいてましたか」

 

  わざとらしく頭を掻きながら、文はちらりと手帳を見る。初対面の時もそうであったが、なんだかんだ素直に質問には答えてくれる梓だ。どれから聞こうかと文は書かれている自分の走り書きを見ながら、「他の平城十傑の方はどんな方なんですか?」と軽いジャブを放った。

 

「他のか、藤と櫟は言ったな。残りは三人、『蘆屋(あしや) (うるし)』、『岩倉(いわくら) (すみれ)』、『六角(ろっかく) (さいかち)』という」

「その方たちもいずれ来るんですよね?」

「……さてな」

 

  答えを濁して梓は守矢神社の庭でぴょこりと跳ねている雨蛙を目で追った。目を細めて怪しむ文の視線が隣から流れて来ているのに気がつくと、梓は腕を組み小さく息を零す。

 

「藤は来るだろう。櫟もな。だが残りの三人は少々クセが強くてな。藤がうまくやるとは言っていたが」

「梓さんや指名手配されてる椹という人も大分クセが強いと思いますけどね。どんな技を使うんですか?」

「……いずれ分かるさ」

 

  肩を竦めて返事をする梓は言う気はないらしく、そのまま口を閉じてしまった。こうなるともう口を開かないと短い付き合いでも分かっている文は、この質問を切り上げて次に目を向ける。

 

  一気に核心に近づこうかとも考えるが、まずは手近なものにしようと目を向けるのは梓を含めた四人の男の名前。本当なら文自身が本人のところまで行き取材をしたいところであったが、どこにいるのか分からない三人を探すのは時間の無駄と諦める。

 

「残りの三人はどういった方なんでしょう。梓さんが戦闘能力の高いなんていう方たちですから、この方たちもまた普通じゃないんでしょうけど」

「楠はかつてかぐや姫に求婚した藤原不比等の一族の護衛を勤めていた一族の出だ。物体を透過するおかしな剣技を使う。桐は平城十傑一の俊足であり、平城十傑の伝令役でもある。進むことにかけては随一だろう。椹は見ての通り盗賊の家系。脱走から侵入、そういったことなら彼の右に出る者はいまい」

「それはまた……梓さんは他の方をよくご存知ですね」

「僕の一族は調停役で纏め役だからだ。他の一族は世襲ではなく適正で選ばれる一族が多いからな。世襲で当主が変わるのは僕の一族である足利、それと袴垂、蘆屋、岩倉の四家だけだ。他の三家は特殊でな、だから僕の一族が纏め役となった」

「つまり梓さんは平城十傑内での大将ということですか?」

「一応そうなっている」

 

  淡々とそう言う梓を見て、文は驚きながらも納得した。それは梓の持つ情報量が故。だが、同時にどうにも大将らしくない梓の雰囲気に目を瞬く。大将と言えばトップ。天狗のトップは見るからに偉そうであるし、紅魔館のレミリア=スカーレット。白玉楼の西行寺幽々子。命蓮寺の聖白蓮、地霊殿の古明地さとりと、性格の違いこそあれ、どれもトップたる風格を持っている。だが、梓は持ち前の神秘性こそあれど、平城十傑の頂点に立つ空気を放っていない。それは他の平城十傑が好き勝手やっているからなのか。それとも梓に従えるという気概とが欠けているからか。その両方な気がすると一人納得し、文は手帳に書かれた一番聞きたかった名前に目を落とした。

 

「なるほど。そんな梓さんにお聞きしますが、坊門 菖はなぜ月軍を率いて来るんですか?」

「……さてな」

 

  目を反らして言い淀む梓を見ても、こればかりは答えを聞きたいと文は一度指を舐めると手帳のページを一枚めくった。書かれているのは文が考えた数々の予想。それを喋りながら組み立てて梓に問う。

 

「こう言ってはなんですが、月軍を率いる意味が分かりません。坊門 菖は暗殺者の一族なんですよね? いろはも知らないならまだしも、殺すのが目的だとして、暗殺者ならわざわざ大勢を率いず、一人で人知れず幻想郷に来てかぐや姫を暗殺した方が早いじゃないですか。まあ殺せるかはさて置いてです」

「……まあそうだな」

「それに月軍を率いるとして、わざわざ月の、それもかぐや姫の迎えに失敗した一族の場所を調べて月に行き監獄から解放して共に幻想郷にやって来るというのは手間がかかり過ぎる」

 

  そこまで言って文は言葉を一度切った。梓に動揺の色は見えなかったが、湯呑みを手に取り茶を一口飲むと目を瞑り湯呑みを置く。そんな姿を見て自分の疑問に自分で答えを出しながら、文は再び口を開いた。

 

「外の世界がどうか知りませんが、月に行くとなると相当大掛かりですよね? 私の知り合いにも月に行った者がいますが、妖怪でさえ月に行くにはロケットがいる。いらずに単身で行けるのは八雲 紫さんくらいでしょう。そんな大掛かりなことを坊門 菖一人でできるとは思えません。誰か協力者がいると見たほうがいい。ではその協力者とは? 梓さん、坊門 菖と仲が良い人に心あたりはないんですか?」

「……藤と櫟だ」

「櫟さんは確か坊門 菖に襲われた方でしたよね? 一命を取り留めたと聞きましたが、先程櫟さんも幻想郷に来るだろうと梓さんは言いました。暗殺者に狙われて一命を取り留めそんなに早く幻想郷に来られるなんて少しおかしくないですか? 梓さん、本当は全て知っているんじゃないですか? なぜ坊門 菖が月軍を率いてやってくるのか。その理由を」

 

  文の鋭い目はほとんど真実を見定めていたと言っていい。梓は何も言うことなく沈黙を貫いたが、それこそが答えであった。言う必要のないことは言わない。図星を突かれて反論もなく黙る梓の姿は、そう言えばまだ子供だったと言える姿であり、文は困ったように手に持ったペンをくるりと回す。

 

「話す気はありませんか。初めて梓さんに会った時と一緒ですね。でも私には話してくれましたよね。まだ話になりそうだって」

 

  文の言葉に薄っすらと梓は目を開けると、文の方へと小さく瞳を動かす。その瞳を文は見返してゴクリと息を飲んだ。

 

「…………僕はそこまで頭の回る男ではない。だいたいの問題は藤と櫟が頭を回す。僕に寄越されるのは最終の決定権のみ。そして僕はそれを可とした。櫟か藤が居ればもっとうまくやっただろうが、あの二人は今話を詰めているところだ。ならば幻想郷には僕が行かねば誰が行くのか。僕は僕にできることをやらねばならない。あの三人にはいつも苦労をかける」

 

  文の望む答えを梓は吐き出すと、「嘘が言えなくて困る」と言って雑に頭を掻いた。だが、その答えを文が欲していたかと言えば別だ。では今幻想郷を取り巻いているこの『異変』とも言える事態を思い描いているのが誰なのか。梓の言葉を信じるなら、それは黴と唐橋である。それに加え、裏が読めたところでなぜ坊門 菖が月軍を率いてやって来るのかの答えにはなっていなかった。

 

「……梓さん。坊門 菖は結局なぜ月軍を率いてやって来るんですか?」

「……これもまた前座だ」

「前座、ですか?」

「平城十傑である限り無下にもできんが、事はもうかぐや姫どうのこうのという問題ではない。故に藤と櫟と菖は一計を案じた。幻想郷の、延いては世界の全てがかかっている」

「幻想郷の?」

「殺し合いなどというものに練習はない。もしあったとしたらばそれは本気でやらねば意味がない。これは菖の言葉だがな。弾幕ごっこではない、本当の殺し合いが始まるぞ」

 

  嘘。そう思いたくても、ブレもない梓の言葉が嘘ではないと雄弁に語った。文も殺し合いをしたことがないわけではないが、博麗霊夢が当代の博麗の巫女になっていこう、血生臭い話はとんと減った。そして、妖怪ながら文もそんな幻想郷を気に入っている。それが戦場になるのだと言われて、驚愕もしたが、長年生きてきた文の優秀な頭脳は、もう一つの疑問にぶち当たる。

 

「幻想郷を戦場になんて、幻想郷の賢者たちが許しておくとは思いませんが」

「……」

「なぜ今黙るんですか?」

 

  それが答えだ。幻想郷の管理人たる八雲 紫。平城十傑という異様な外来人たちが訪れてからというもの、全く紫の影を感じない。月軍襲来という、およそ嬉しくない出来事に顔すら出さないなど流石におかしい。そう考えれば行き着く先は一つ。

 

「……八雲 紫も噛んでいる?」

 

  梓の言う前座に紫も絡んでいるというなら、影すら全く表に出て来ないことに説明がつく。幻想郷全体に危険を報せ、月軍をわざわざ連れてきての前座。ざわざわと逆立った産毛を文は撫でながら、額を伝う冷や汗を拭いもせずに体全体で梓の方へ振り向いた。

 

「梓さん、本当の敵はなんなんですか? 何が来るんです」

「それは……」

 

  重々しく梓が口を開こうとしたところで、その言葉は途切れた。二人のすぐ横に大きな剣が突き刺さり、庭に大きな亀裂を刻む。突然の不意の一撃に、聞かれては困るような話をしていた文は、盾にするように梓の背へと素早く隠れたが、掛かって来た声は聞き慣れたものだった。

 

「文様! 敵襲です!戦いのご準備を! 防衛線の第一陣は既に壊滅! 大天狗様が鴉天狗の皆様を招集しています!」

「も、椛⁉︎ 敵襲って……まさか」

「まさかです! ご自分で新聞ばら撒いたでしょうが! 敵は月軍! 総数はおよそ二十!」

 

  殺し合いを練習でやるなら本気でやらねば意味がない。だがそれは練習とは言えず、結局のところ殺し合いでしか殺し合いは学べない。現れた月軍が何を思って妖怪の山に攻め入って来ているのか文には分からない。だが、それが血を見ることになる出来事であるという事は分かった。文は目を細めると、椛に返事も返さずに梓を掴んで空へと舞う。

 

「重⁉︎ 梓さん何キロあるんですか⁉︎」

「さて、最近測っていないから分からないな、それで? どこに行く」

「敵のところですよ! 総数二十って、それで月軍全部なんですか?」

「さあな。少なくとももっといるだろう。菖が何人連れ出せたかだ」

 

  二十しか妖怪の山に来なくて良かったと言うべきか、それともたったの二十人で天狗の第一陣を壊滅させたのを褒めるべきか。頭の中に流れる考えに舌を打ちながら文は空を駆ける。文の両手に吊るされたまま、梓が燃えるように紅い山間に目を向ければ、大きく立ち上る砂煙。それを見て小さく梓は笑みを浮かべた。

 

「どうしました?」

「いや、空を飛んだのは初めてでな。これはくせになるやもしれん」

「ああそうですか! 呑気なんですから!」

 

  幻想郷でも最速の種族である天狗の飛行速度を体感しても態度を崩さない梓に感心しながらも呆れ、文は砂煙を目指して突っ込んだ。そうして眼下に広がったのは地獄絵図。多くの白狼天狗が体に無数の穴を開け血の池を妖怪の山に作っていた。風によって舞い上がって来る血の匂いに顔をしかめながら飛ぶ文に、「ちょっと文!」と聞き慣れた声が横から飛んでくる。

 

「今までどこ行ってたのよ⁉︎ あれってアレでしょ! 最悪よ! あいつらの弾幕当たればそこを持ってかれるわ!」

「はたて! 今どうなってるの!」

「どうもこうも、妖怪の山の山頂目指してやつらピクニックよ! それも硬そうな服身に纏ってね!」

「ほう、装甲服も持ち出せたのか。流石は菖」

 

  敵の大将を褒める梓に口元を引攣らせながら文が目を落とせば、宇宙服のようなものを着込んだ者が血溜まりの中に突っ立っているのが見えた。頭からは兎の耳を生やし、手には銃を持っている。血を貼り付けてテラテラと不気味に光る鎧は、その肌に数本の光の線を流しており、時折明暗を繰り返していた。服自体が呼吸しているような気味悪さに文が眉を寄せていると、下でぶら下がっていた梓が、その手に(やいば)を掴む。

 

「行こうか文女史。この機会を逃しては月軍を体感できん」

「行くって、どうするんですか?」

「奴の上に放り投げろ。あとは僕がどうにかしよう」

「ああもう、分かりましたよ!」

 

  はたての制止の言葉も聞かずに、月兎に急降下した文は、そのまま梓を放り投げる。重力に文の速度が加わって、梓は人の形の槍となった。風の音を聞きつけて上へと顔を上げる月兎に向けて、梓は大きく振りかぶると、最短の刃を握った右手を振り下ろす。

 

  空気と大地の砕ける音に加わるのは肉の爆ぜる痛い音。だがそれも一瞬で、すぐに梓の拳に縫い付けられるようにそれは地に落ちた。頭のてっぺんに集中した衝撃は、そのまま装甲服を押しつぶしながら大地に当たると同時に粉々に砕け散る。舞い散る血と肉に月兎だったものは跡形もなく飛び散ってしまい、周りにいた月兎も驚き足が止まってしまう。それらを見回しながら梓はゆっくり立ち上がると、首に手を当て、調子を見るように骨を鳴らす。

 

「平城十傑、足利家第八十八代目当主、足利梓。地上にようこそ月軍諸君」

 

  固まっていた月兎たちは、梓の自己紹介を聞くと遂に動きだす。手に持った銃を梓に構え、その引き金を押し込んだ。

 

「ッ、ほう」

 

  額に飛んできた銃弾が梓の頭を跳ね上げる。小さな礫からの想像以上の衝撃に少し感心してしまうが、昨日の鬼の一撃と比べるとそうでもないなと首を振った。

 

「なかなかに重い。銃弾に重さを加えているのか?」

 

  絶え間なく飛んで来る銃弾に、弾かれるように梓は後方に押し込められる。銃弾一発に込められた質量は小さくなく、ちょっとした引力でも働いているのか、側まで寄った銃弾に軽く体が引っ張られる。そんな銃弾を雨のように放ってくる銃の科学力に舌を巻きながら、梓は大地に足を突き立てた。

 

「一千年待った。この程度でやられるようでは平城十傑もそこまでだな。だが僕の体はそこまで甘くはないぞ」

 

  体に梓が力を込めれば、梓の体を弾いていた銃弾が梓の体に弾かれ始める。完璧の形は崩れない。完成した形だからこそ、それを崩すのは容易ではない。一歩、また一歩と足を進めるごとに、傘が雨を弾くように銃弾は梓の元に殺到してすぐ弾かれる。生身で銃弾を弾きながら迫る人間を人間と呼べるか。引き金を引き続けながらも月兎の足は後退し、それより早く梓は足を出した。

 

「来たぞ、僕は」

 

  月兎の眼の前で腕を振り上げた梓の姿は鬼と変わらない。下から掬い上げるように放たれた梓の右拳は、月の装甲服に穴を開け、刃が骨と内臓を喰い千切る。体をくの字に折り曲げてその場に崩れた月兎に向けて、振り落とされた梓の拳は、そのまま相手の頭を轢き潰した。腕を引くと穴の空いた学生服に目を落とし、ため息を吐きながら別の月兎に梓は目を向ける。

 

「次だ」

「……最早鬼ですね。手伝いましょう梓さん」

 

  月兎の血に濡れる梓に月軍が固まった瞬間、梓の隣にふわっと黒い翼が舞い降りた。つまらないと言うように顔を顰めながら、文が指を弾けば風が逆巻く。局地的に吹き荒れる暴風は、文の手足と変わらない。梓と文の目の前にいた月兎は、風に掬われ宙に浮くと、梓に向かって突っ込んで来る。それに拳を返しまた次と、安全であるはずの竜巻の中心がまるで安全ではない状況に、月兎たちの手は宙を泳ぐだけで、ことごとく短い刃に噛み砕かれた。

 

  辺りに散らばった装甲服の欠片と血肉に目を走らせて、考え込むように梓は腕を組んだ。右手の刃から滴る血を腕を振って振り払い、難しい顔の文に目を向ける。

 

「……どう見る?」

「……この装甲服厄介ですね。風では表面を削れても決定打にはならない。何より銃弾は重く半端な風では動かないときてます。梓さんが居てくれたから良いものの、天狗だけでは苦労したでしょうね」

「それは買い被りだ、文女史ならどうにかなるのではないかな」

「それこそ買い被りですよ、私は一介の鴉天狗に過ぎません」

「まあ、そういうことにしておこう」

 

  空に落ちてくる動く影が数を増やしたのを見て、梓は小さく息を吐き出し組んだ腕を解いた。静かになったことによって天狗が集まってくる。ここに長居は無用だと言うように頭を掻き、文と二人目を合わす。

 

「まだ来るかもしれないが、悪いが僕はもう行くぞ」

「……遂に永遠亭へ行きますか」

「ああ、文女史はどうする? ついてくるか? おそらく次は八坂様も出て来るだろうからここに僕は必要ないだろう」

「そうですね……ここまで来たら行きましょうか。私は梓さんのファンですから……ってわわ⁉︎」

 

  いい顔で着いて行くと宣言した文が、急にバランスを崩し大地に転がる。目を白黒させて文は辺りを見回して立ち上がると、羽を伸ばして首を傾げた。そんな文の背後では同じようにいくつもの黒い影が地に向けて落ちて行く。

 

「……どうしましょう。飛べないみたいです」

「なに? 浮力か揚力でも操作されたか? ここまで来ると科学も魔法だな」

「能力を使えば飛べるかもしれませんけど」

「いや、誰も飛べないのに飛べば目立つ。足が付いているんだ。歩くとしようか」

「えぇぇ、ここから永遠亭まで歩きですか。遠いですねぇ」

 

  文と二人梓は歩き出す。火蓋は切って落とされた。それはもう随分も前に。度重なる前座を積み上げて、届く先は遥か先。月まで届くのにどれだけの日数が残されているか。梓は近くにはいない友人たちを想い行き着く先はきっと同じだと夢を見て足を止めずに歩き続ける。

 




北条 五辻 袴垂 足利 坊門 第三夜 夜に続く。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

坊門
第三夜 朝


菖の章は各第三夜の最後に見るのがいいと思います。


  いつもと変わらぬ朝だった。

 

  朝餉を終えて、境内へと続く参道に立ちつつ落ち葉を竹箒で払いながら怠惰に午前中を潰す。

 

  異変でもなければ博麗霊夢の一日はそんなものだ。だが、その日の霊夢は頗る不機嫌であり、箒の動きも精彩を欠いていた。それもこれも落ち葉に混じって落ちている新聞たちのせい。昨日鴉天狗によってばら撒かれた新聞は、一夜経てばどこかへ飛んでいってくれるだろうと考えた霊夢の思惑とは異なり、神社の参道の石の隙間に引っかかり、掃いても上手く剥がれない。

 

  霊力を用いた技でも使えばあっという間に終わるのだが、そこまでするのは嫌だった。だから霊夢は乱暴に箒を動かし、同じく少し離れたところで箒を動かす白黒衣装の友人に檄を飛ばす。

 

「ほら魔理沙、もっときびきび手を動かしなさい。昨日の夕飯代なんだから。いつも持ってる箒は飾りじゃないでしょ?」

「別に掃除用でもないけどな。はぁ、こんなことなら昨日霊夢んとこに来るんじゃなかったぜ。アイツも出てったきり戻ってこないし」

「知らないわよあんなやつ、手水舎の修繕も終わってないし、朝の掃除もサボるなんて」

「マジで同情するぜ、ああ霊夢じゃなくてお前の彼氏の方だ」

 

  にししと笑う魔理沙にお札を投げつけながら、霊夢は不満そうに舌を鳴らす。便利な居候は帰って来ず、萃香もどこかへふらふら姿を消したせいで手水舎は全く完成を見ない。やろうと思えば霊夢もやってできないことはないが、瓦を乗せに戻って来るらしい男をしばく為に手は出さずにとっている。お札に殴られたように頭を跳ねさせた魔理沙は、頭を摩りながら、なんだかんだ楠を気にしているらしい霊夢に肩を竦めた。

 

  魔理沙と軽口を叩きあいながら、霊夢の掃いた箒の動きに全く石畳の間に張り付いた新聞が動かないのを見て、結局結界で纏めてしまおうかと取り出したお札を握り霊夢が思案していると、表で「霊夢!」と吠える犬の声がする。霊夢は放っておこうかとも思ったが、いつまで経っても鳴き止まない。どころか次第にそれは強くなっているようで、結界を張るために握りしめていたお札を霊夢が放り投げれば飛んで行き、遠くで「きゃうん⁉︎」という声が聞こえた。「ひどいやつだ」と引いている魔理沙を伴って霊夢が鳥居の方へと足を向ければ、道すがら倒れているのは当然緑の珍獣。目を回すその頭にぽすりと霊夢はいつものように箒を落とす。

 

「もうまたなわけ? アイツが帰って来たなら吠える必要ないし、他の外来人が来たっていうなら帰ってもらって」

「神社が人を選んでいいのか?」

「うぅ、またこんな扱い。仕事してるだけなのに」

 

  あうんは箒の落とされた頭をさすりながら身を起こす。神社や寺に勝手に居座り守護する狛犬がいったい何を叫んでいたのか。どうせ良いことではないと二日前を思い出しながら霊夢が訝しんであうんの顔を眺めていると、頭を叩かれた衝撃から再び戻ってきたらしいあうんの萎れていた耳がピクンと立った。

 

「そうでした! 霊夢さん、なんか怪しい人がやって来てます!」

「ああそ、聞きたくなかったわ、あの新聞に書かれてた誰かじゃないの? 追い返して来なさい」

「えぇぇ、でも楠さんみたいな人だったらおっかなくって」

 

  霊夢との喧嘩を見てるからこそあうんは眉を垂れ下げる。神社を守護する狛犬をして、あんな変な人間とはあまり関わりたくはない。どうせ楠と同じように賽銭の類も期待できず、面倒ごとしか転がして来ないだろうことが予想できるからこそ帰ってもらいたいと職務怠慢な狛犬を霊夢が睨んでいると、参道に続く石階段からコツコツと足音が聞こえてくる。あうんが吠えても全く帰る気のないらしい参拝客は、こんな辺境まで来る無謀さで、境内まで来るらしい。いったい何者か。時が止まるようなこともなく、鳥居の間にせり上がって来た人影を見て、霊夢は予想通りだと一気に肩を落とす。

 

  登って来たのは一人の女。長い黒髪を雑に頭の後ろで纏め秋風に揺らし、角もなければ翼もない。女性にしては背が高く、その身を包んでいるのは学ランではなく、早苗も持っているセーラー服と呼ばれるもの。だがそれは首に巻かれた赤いスカーフ以外黒一色で一瞬喪服に見えた。足にも菖蒲の装飾が入っている黒いストッキングを履き、肌は薄く日に焼けていた。腰には日本刀ではなく、刀身が針のような西洋剣を携えて、女は階段を登り切ると少し辺りを見回して、霊夢と魔理沙に気がつくと能面のように無表情な顔をこてりと傾げる。

 

  異様な雰囲気だった。楠と同じ外来人だと見れば分かるが、体に纏っている空気の質がまるで違う。黄泉の道から歩いて来たように、女は体から冷たい空気を放っている。それは表情の乏しさのせいか。それとも腰に差している剣のせいか。霊夢がため息を吐き、魔理沙が目を瞬いているその先で、女は一歩博麗神社の中に足を踏み入れる。

 

「ここは博麗神社で相違ないか」

 

  女の声にあまりに抑揚と感情の色が見えないので、霊夢と魔理沙は一瞬それが女が喋ったものだとは思えなかった。だが数瞬のうちに理解すると、二人は一度顔を見合わせて女の方へ顔を戻す。女は音もなくいつの間にか足を止め、鳥居を入ってすぐのところで突っ立っていた。

 

「そうだけど、だったらなに?」

「そうか、ならば貴様が博麗の巫女だな。隣の者は霧雨魔理沙で相違ないな」

「だからなんなのよ」

 

  そう霊夢が言えば、女は左手をゆるりと動かし剣の鍔に手を添える。その動きに片眉を上げて怪しんだ霊夢が懐からお札を取り出した途端に、女の右手が一瞬ブレた。それも霊夢をして気付くかどうかという異様な速さ。

 

  ────カヒュ。

 

  浅く息の詰まるような音が同時に響き、その音はすぐに消え去った。女はなにも言わず、霊夢が訝しみながらお札を持った手を引き上げたところで事態に気付く。お札の中心には穴が空き、お札の切れ端がひらひらと宙に舞っていた。サッと血の気が引き薄ら寒くなった肌を振り払うように霊夢が動こうとした途端、先程の音がほぼ同時に二回。霊夢の服の袖に穴が空き、隣の魔理沙が抜き放とうとした八卦炉が床に転がる。

 

「鈍い。私がその気なら今頃二人、仲良く黄泉道を歩いているぞ。そんな様で幻想郷を守れるのか?」

「……あんた弾幕ごっこって知ってる?」

「知っているからといってそれに則る必要はない。ここで暮らすこともない者がそれを遵守する必要はないということだ。戦争なら尚更に。死人に口なし。幻想郷が滅ぶその瞬間にも貴様は同じことを言うつもりか?」

 

  せめて感情の色合いが見えれば違っただろうが、女はただ言うべきことを言っているというように口を動かし、表情も未だ変わらない。ただ左手を剣の鍔に添えたまま、何事もなかったかのように言葉を紡ぐ。そんな異質な空気に霊夢は顔は動かさず魔理沙の方へと目配せするが、その目の前を鋭い空気が通り過ぎ、背後の手水舎の柱が崩れた音が響いた。

 

「動くな。少しでも動けば体に穴を増やしてやろう。それでいいと言うのであれば止めはしないがな」

「……あんたなんなの? なにが目的?」

「相手が欲しいものをいつもくれるとは限らない、質問とは上にいる者ができるのであり、下にいる者はただ相手からの言葉に流されるのみである。つまり、私が何者であれ貴様らにはなんの関係もないということだ」

「それじゃあ話にならないぜ」

 

  女は確かに場を支配している。が、心を支配しているわけではない。突如現れた上から目線な女の言っていることが間違っていようとなかろうと、そんなことは問題ではなく、霊夢からすれば勝手にやって来て手水舎を壊した挙句自分を上だと言う女が気に入らない。

 

  パチパチと火にくべられた木の枝が爆ぜるように霊夢の体から滲み出した霊気が空気を侵食し、それに女はほんの少しだけ、そうかもしれないと思うほど僅かに口角を上げる。戦闘態勢に確実に変わっていく霊夢に魔理沙とあうんは息を飲み、女が鍔に手を掛けたまま腰から西洋剣を引き抜いた。

 

「……居合でしょ?」

 

  そんな女に霊夢が静かに技のカラクリを口にする。女はなんの返答もせずに、ずるりと黒真珠のような瞳を霊夢に向けた。

 

「速過ぎて僅かに軌跡が見えるくらいだけど、あんたと似たような構えをする奴知ってるし。剣の違いでそんなに技も変わるものなのね」

「……当代の博麗の巫女はスロースターターだと聞いていたが、命の危機に晒されればそうもいかないのか。その通り居合が我が一族の技だ。だが、得物さえ変えればコレができると思われるのは心外だな」

 

  そう言って女の右手が西洋剣の柄に添えられた。チキッ、という鍔鳴りを残して右手が消える。先程の一撃と違い、ゆっくりとした一撃。ゆっくりと言っても十分に速いが、その技の正体を霊夢は捉えた。鞘から抜けると同時に、針のような細い刀身は、異様にしなりながら元に戻ろうとして空気を弾く。それによって生まれた真空の針が霊夢の前髪を数本穿った。見せつけるような親切な一撃に、霊夢はより深く目を顰める。

 

「この細い刀身を折らずにしならせるのに死ぬほど苦労する。鞭でも使えばいいと思うかもしれないが、鞭だとこの鋭さは出なくてな」

「で? 自慢してなにがしたいのよ。死合いでもしたいわけ?」

「そのつもりであった。当代の博麗の巫女は稀代の天才だとも聞いていたから楽しみにしていたが、結果の見える戦いほどつまらないものはない」

 

  女は少し悲しげに言いながら、霊夢の引き絞られた目を見返す。結果の見える。女は勝者は自分だとは言わなかったが、言っているのと変わらない。圧力鍋に煮詰められたような霊夢の空気に、つまらなそうに女は言葉を続ける。

 

「貴様は鍛錬が嫌いだそうだな。努力は報われないと信じているそうじゃないか。努力する天才としない天才。どちらが勝つかは自明の理だ」

「そう言うってことはあんたは自分が天才だと信じてるわけ、それはすごいわね。おめでとう」

「茶化すな。才能がなければまず当主にはなれないからな。私然り、楠然りだぞ」

 

  居候の名を聞いて、霊夢と魔理沙の肩が小さく跳ねる。女がいったい何者であるのか。このタイミングでの外来人の来訪者に予測はついていたが、実際聞くと感じ方が異なる。目の前の女が楠と同じであると言われても、纏う空気が違い過ぎて信じ切れなかった。そんな霊夢たちの要らない疑念を穿つため、女は少し背を正し霊夢たちが聞き逃さぬようにはっきりと自分の名を口にする。

 

「私は平城十傑、坊門家九十八代目当主、『坊門(ぼうもん) (あやめ)』。博麗の巫女、魔法使い。貴様らは隣り合う死にどう動く」

 

  右手を西洋剣の柄に置いたまま、下手に動けば眉間に穴を開けると言うように菖は口を閉じ二人の動きに注視する。月軍を率い幻想郷にやって来た女。その登場に思い切り霊夢は眉を吊り上げた。

 

「輝夜を追ってるやつがなんで私たちに用なのよ」

「一々聞くな。まだ状況が掴めていないのか? 理不尽を押し通せる者は強者だけだ。自分がそうだと言うのなら、まずは状況を変えてから口にすればよい。貴様らがどれだけ殺したくない、戦いたくないと言ったところで、死ねば全てが水泡に帰す。このように」

 

  鍔が鳴り、霊夢の服にまた穴が空く。円状に穿たれた空気の端が僅かに霊夢の皮膚を持っていき、肩口からは赤い雫が一筋垂れた。魔理沙は歯を食いしばりそれを眺め、菖にきつく絞った目を向ける。霊夢は削れていく服にため息を零しながら、軽く舌を鳴らした。

 

「面倒ね。アイツが来てからほんっとうに良いことないわ」

「なんだ、諦めたのか?」

「はあ? んなわけないでしょ。折角の手水舎をまた壊して! アイツにツケよ、絶対直させるわ!」

「どうやってだ?」

 

  霊夢が小さく微笑んだ。そう菖が感じたと同時に、霊夢の姿が消える。空間に黒い穴を残して。驚きの表情も浮かべることなく菖が体を横へと向ければ、上から落ちて来た霊夢の踵が菖の目の前で虚空に落ちる。驚いたのは霊夢の方。喜びも、怒りもなく、表情のない菖の顔がこてりと横に傾いた。

 

「距離を潰せばどうにかなるという考えは浅はかだ。千年掛けた我らが一族の技のことを一番よく知っているのは我々だ。この距離で撃てないと思うか? さあ防げよ」

 

  お札を菖の方へと放り投げた途端、空気が弾ける。簡易の結界にチーズに爪楊枝を刺すが如く穴を開け、僅かに反れた真空の針が霊夢の皮膚を削っていく。舞い散る紅と白の衣服の破片を舞い散らせながら、背後に飛ぶ霊夢との距離を感じさせずに空間に穴を空け続ける。

 

  ────キィィィィン。

 

  とワイングラスが鳴くような薄い鉄鳴りの音が途切れることなく糸を引くように響き続け、遂にその一発が霊夢の肩口に穴を開けた。血と肉が弾け飛ぶこともなく、静かに血のよだれを垂らして空いた口を、霊夢は不思議そうに眺めたが、次の瞬間痛みが襲い霊夢の顔が悲痛に歪む。

 

「少し涼しくなったか? 殺す気の者とそうでない者。例えば実力に開きがなかった場合どちらが勝つかは分かるだろう。実力に開きがあればより鮮明に。ここを貴様の墓場にするか?」

「霊夢!」

「貴様もだ魔法使い。人生楽しいことばかりではないぞ」

 

  魔理沙の箒を持つ手に穴が空く。魔力で強化しようが、結界を貼ろうが、無意味だと嘲笑うように簡単に穴を開ける菖に、魔理沙は箒を大地に落としながらも目を離さない。ただ静かに血の抜けていく手を抑えながら痛みを堪え、止血しようと魔力を燻らす。

 

「さあどうす……ほう」

 

  呆然としているあうんに目を流しながら霊夢へ顔を向けた菖の目が小さく見開かれた。ふらりと揺れた霊夢の姿が、蜃気楼のように透けたような気がした。そしてそれはその通り透けていた。舞い散る枯葉が、霊夢に当たらず透過して地に降っていく

 

「あんた……いい加減にしなさいよ」

 

  空気が変わった。そう菖は感じた。怒気に彩られていた霊夢の雰囲気が、言葉とは裏腹になりを潜め、つかみどころのないなんとも言えない空気を纏う。それに背筋をゾッと冷やした菖が剣を抜くが、真空の針は霊夢の胸に突き立てられたはずなのに穴を開けず、その奥の木に穴を穿つ。

 

  あやふやな空気を振り撒きながらも、確固たる存在感をもってふわりと浮き上がった霊夢から、同じように霊力の塊が浮き上がる。撃ち放たれた弾幕に穴を開け、菖は一度大きく息を吐くと、取り乱した様子を見せずにまた一度小さく息を吐く。

 

「それが貴様の奥の手か。見事。……だが、惜しいな。その技完成してはいないだろう。殺すための技には少し欠ける。冥土の土産に見せてやろう。殺す技とはこういうものだ」

 

  身を大きく沈めて、初めて大きく菖は構えた。これから剣を抜き穿つ。そのために完成された構え。それが動き出した時、全てに関係なく穴を開ける。

 

  坊門の当主には女性が多い。それは坊門の居合術と女性特有のしなやかな筋肉との相性がいいため。本気で抜き放たれた剣尖は、空間同士の摩擦で聞き慣れぬ音を響かせながら、空間に火花を散らせ黒点を空ける。僅かに光の速度に迫ったそれは、不触のはずの霊夢の脇腹を掠め削り取った。血の滴る脇腹を手で押さえ、浮き上がっていた霊夢の体が地に落ちる。赤い川を石畳の肌に滴らせて、荒くなった霊夢の呼吸音に菖は耳を這わせてから口を動かした。

 

「本当に触れられないのなら、貴様が放つ弾幕が現実に影響を与えるはずがない。ならばこちらから触れる方法は必ずある。中途半端に完成した技は中途半端な結果しか生まない。今こそ努力を怠った己を恨め」

「霊夢!!!!」

 

  ちらりと魔理沙に目を向けた菖を極光が包む。星の大河のような魔力の奔流が、神社の大地を削りながら一直線に貫ける。八卦炉を穴の空いた腕で掴みながら掲げる魔理沙の視界に僅かに揺れる長い黒髪。次の瞬間、魔理沙の腕に二つ目の穴が空いた。

 

「ぐ⁉︎ ッっつう⁉︎」

「当たらなければ折角の大砲も意味がないな」

 

  膝を折る魔理沙と地に伏せて霊夢を交互に眺め、「さて」と菖は軽く顔を上げる。死を連れて来る暗殺者。その佇まいは、命を握るその瞬間でも崩れることはなく、ただ沈然と大地に立つ。その姿は影のようであり、夢のように現実味に欠けていた。

 

  菖は一歩霊夢の方へと足を差し出し、耳を抑えると目を瞑る。動きを止めた菖だったが、それに迫る者はなにもなく、しばらくすると目を開けため息を吐いた。

 

「時間だ」

 

  それだけ言うと、菖はもう霊夢にも魔理沙にも目を向けずに鳥居の方へ歩いていく。その背にかかる声もなければ迫る影もない。階段の下へと黒い髪を揺らしながら暗殺者は身を落としていき、それがすっかり消えるまでただ一人残ったあうんはそれを見つめていた。

 

 

 ***

 

 

「……首尾は」

 

  博麗神社を背に、菖は神社のすぐ下で待っていた者たちに言葉をかける。誰も彼も頭から伸びた兎の耳を揺らし、手には銃を持っている。神社でなにをして来たのか誰もが知っているが、荒事を終えても纏う空気の変わらぬ人間に、月兎たちは感心しながらも小さな畏怖を持って頭を垂れた。

 

「迷いの竹林におよそ二百名、妖怪の山に五十、紅魔館に二十。全員出撃しました」

 

  月兎の一人がそう言いながら、菖に向けて敬礼を向ける。それを聞いた菖は、少し申し訳なさそうに目を伏せて、手に持っていた西洋剣を腰に差した。誰一人として帰らないであろうことが分かるからこそ気が重い。だが、それを止めることもせずに菖は背を伸ばして顔を上げる。

 

「よろしい。……加重銃、装甲服、時間固定結界装置、その他数点。持ち出せたものは多くはないが、それでも十分だろう」

「ええ、こうなったらもうやるだけです」

「すまんな。貴官らの主人である月人は誰も地上に来られなかったというのに」

「しかたありません。月から兵器を奪取し地上に赴くための間の囮には私たちでは役不足。しかし、私たちもすぐに後を追います」

「それでいいのか? 私が言うことでもないが」

 

  かつてかぐや姫を迎えに行き失敗した者たちはことごとくが月の監獄に幽閉されていた。それを説得し協力を取り付けた菖であったが、菖が敷いた道は死出の道だ。強力な力を持った月人に対抗するには、同じ月人を使った方が早い。千人以上を無差別に脱獄させた結果、地上に残ったのは全て月兎でありその数は三百名に届かず。それが限界であった。

 

  おそらくもう亡き者であろう主人たちに仕えていた月兎たちは、菖の言葉にお互い顔を見合わせて、大きく強く頷いた。

 

「殺せたら殺せたで手土産になりましょう。私たちに殺されるぐらいであれば所詮それまで。その方が幸せかもしれませんし。そうでないなら」

「そうでないなら?」

「かぐや姫様のことはお任せします」

 

  それが総意であると言うように、菖の前に立つ月兎十人は、一様に見惚れるような敬礼をする。そんな姿に謝罪をぶつけるような無粋な真似をすることはなく、菖は目を細めながら、軽く曲げた左手を西洋剣の柄へと置いた。

 

「任されよう、せめてもの手向けだ。今この瞬間に限り貴官らは私が率いる。なに、私も手加減するようなことはしない。見事かぐや姫の首取ってみようか」

 

  返事はなかったが、爛々と輝く兎の眼の中に答えを見て菖は歩きだす。目指すは近くも遠い永遠亭。かぐや姫の待つその場所へ。一度小さく振り返り、楽園の素敵な巫女と普通の魔法使いが再度立ち上がるのを夢想しながら、菖は死を与えるために剣を握る。

 

「ここで死んでくれるなよ。まだ始まってもいないのだからな」

 

 

 




北条 五辻 袴垂 足利 坊門 第三夜 夜に続く。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北条 五辻 袴垂 足利 坊門
第三夜 夜


  戦場とは地獄である。

 

  誰かが言ったそれは正しい。飛び散る血肉と叫び声。抉れる大地と爆ぜる鉄。引き裂かれる風と砕ける骨。数多の生物の熱狂によって掻き混ぜられる場は、人ひとりなど簡単に轢き潰してしまう。

 

  だが、今夜に限って言えば、身の毛もよだつような騒音の中に三つの笑い声が混じっている。

 

  『北条』

 

  『五辻』

 

  『袴垂』

 

  外の世界では七十億に混ざり、名も知らぬその他いちであろうとも、今夜幻想郷でだけは違う。普段人が見上げる月に住む兎が、地面に縋り見上げている。揺れる二刀。滑る大太刀。意識の隙間から伸びる両腕。向けなければならぬ銃口の先は三つに散り、腕を動かしている間に腕が落ちる。ぼどりっ、と枯れ葉の上に転がったものを見下ろす兎の首がずるりとズレる。崩れ落ちた月兎を見つめるものはなにもなく、悲鳴を飲み込み足を下げた月兎に踏みつけられた。肉が潰れ血が広がり、赤色の混じった空気に鼻を顰めている間により濃い赤色が兎の顔を汚す。

 

  多勢に無勢。そうであるべき事実は、鬼のように暴れている三人の人間によって捻じ曲げられている。いや、人間かどうかも怪しい。少なくとも月兎たちの眼に映る者は人の形はしているが、それを信じたくない。目の前でジグソーパズルのようにばらけた仲間をまた一人見て、月兎は引き金を引く。

 

「うぁああああ!!!!」

「あっはっは!」

 

  笑える。笑えてしょうがない。これで笑わずいつ笑うのか。深く沈み揺れ消えた楠を探しているうちに兎の首がまた落ちる。逆さになった兎の首を肘で弾きながら崩れる兎の体を盾にまた沈み、楠は地面を転げ回る。一撃での必殺は必要ない。足さえ奪えればそれで済む。肌色の林に刃を這わせて刈り取れば、落ちて来るのは兎の耳。枯れ葉を舞上げ林を抜けて、楠は不死鳥に向けて顔を上げる。

 

  言葉はいらない。ギラついた楠の目と深く大きな笑みを向けられウンザリと大きく顔を背けながら、嬉しそうに舌を打ち不死鳥は大翼をはためかす。血に転がった多くの肉の焼ける匂いに眉をしかめながらも、その火を引き裂く閃光を見て妹紅は炎の壁で進路も退路も塞いでしまう。足の止まった月兎の目は、目の前を横切る細長い波長を見た瞬間に宙を舞う。

 

  前に。前に。銃弾よりもなお早く。軽くなった体の背を押すのは、同じ道を歩く友人たち。揺らめく幽鬼のような友人と、銃を奪い命を奪う友人とをゆっくり眺めながら崩れた笑みと共に桐は大太刀を滑らせる。一人を弾けばドミノのように後方の群れが倒れる。それを踏み越えより前に。大型の長銃を背後に弾き前に出る。

 

  空を飛んだ宝物を掴む者は一人だけ。月兎の頭上を舞った長銃を、ふわりと飛んで盗賊が奪う。初めて手に取る武器だろうと、どう撃つのかはもう一度見た。頭で月兎の動きを思い描きながら、それを自分の動きに落とし指を弾いた。動きを盗むその妙技に目を見開いた月兎の目に黒穴を開け、椹は満足げに高く笑う。その表情こそ見たかったと言うように。ただ必要ないものが混じっていると唾を吐いて。

 

「ああったく、月軍の命とかマジでいらねえやな! まあこの武器は悪くねえ! おい桐もっといい武器よこしゃあ!」

「わがままですね、それよりあっちをどうにかしてください!」

 

  崩れていく人垣は、壁に阻まれたようにその崩落を止める。ブレザー風の軍服を着た月兎たちを押し分けて出てくるのは、生きた装甲を纏った兎。肌に光線をくねらせて、椹の放つ重弾を受け止めた。マシュマロが弾けたというような柔らかな結果に椹は舌を打ち、その重弾を溶かして妹紅の炎翼が後を追うが炎のカーテンを容易く捲る月軍の鎧の表面を焦がすだけに終わった。

 

  月の軍の装甲服。その耐久性に妹紅が舌を打つその前で、枯れ葉の海から這い出るように楠が両腕を揺らし立ち上がる。相手の領域を確実に侵しながら、緩やかに足を出す月軍の壁を見て楠は笑った。この瞬間が必要だった。月兎に教えなければならない。千三百年培った北条の技を。例えどんな硬い守りであろうと、すり抜け命に届く刃。左の刀を左なぎに、右の刀を上から振り下ろす。月兎の体の滑り込んだふた振りの刀は、風鈴の鳴るような音を響かせてすり抜けた。

 

  『崩十字(くずしじゅうじ)

 

  体の内側で擦り鳴った小さな音。隙間なく体の内に滑り込んだ刀の振動は、そのまま体組織の細胞、分子を揺らし崩してしまう。砂の城が崩れるように体が折れた月兎を見て、月兎の壁が止まる。

 

「俺に盾は関係ない。だが、こう多いと面倒だな。桐、いい加減斬るのが苦手とか言ってんな。やれ」

「いやあ、あっはっは。本当に苦手なんですが、まあもう歩む必要もないですか。北条の技を見せられて、五辻の技を見せぬわけにもいきますまい、ねえ? 下がれ楠」

 

  ゆらりと消えた楠を見て、桐の笑みに鋭さが足される。また消えるのかと警戒する月兎の前から桐は消えず、大きく足を広げて大太刀を背に担いだ。一刀背負い。ただ前に。だがその必要はもうない。ここが目的地であり足を止めたなら、弾くのではなく斬るだけだ。滑らせる刃はもう滑らず、空気の壁と刃が噛む。ただ刀を振る全てに力の全てを。刃の煌めきに火花が混じり、夜の闇に紅い線を引く。

 

  『炎閃』

 

  宙に引かれた炎の一本線が風に舞って消える頃、二つに焼き切れた八つの体が地に転がる。速さを捨てた五辻の剣の鋭さに、足を止めた月兎の頭に両手が添えられた。ふわりと揺れる白い三つ編みが、ゆっくりと添えた手を狭めた。両手が掴むのは狭間の空間。圧縮された空間に取り残され、月兎の頭が徐々に小さく潰れていく。ぐっと握りしめた椹の手に合わせ、兎の頭がボンと爆ぜた。

 

「キュッとしてドカーンだっけ? まあそんな感じで」

「なんだそれ、全然アンタに似合ってないぞ。気持ち悪。袴垂の技はどうしたんだよ」

「技ってのは盗むもんだろ? オレのはそれさ」

「はいはい、喋ってないで手を動かす! 余裕振りまいてる場合じゃないから! ほら動いて楠!」

「なんで俺だけ⁉︎」

 

  妹紅の炎に背を焼かれて、堪らず楠は地を転がりながら敵へと突っ込んだ。呆れる桐と椹もその後へと続き、月兎の壁を崩していく。みるみる減っていく月軍の壁を、てゐと輝夜はただテレビを見ているかのように呆けて見ていた。

 

「……いやあ、あの三人、凄いって言うかやばいね姫様」

 

  妹紅はまだ分かる。妹紅と輝夜の死闘は嫌という程てゐも見てきた。月人でもなく長い時を得た人間の狂気。不死鳥の如き人の力に並ぶのもまた長い時を生きた人。永遠を持たず、世代交代を繰り返してなおかぐや姫に会いに来た人。何も言わずにその三つの背を見つめる輝夜の顔から目を外し、てゐもまた三つの背を追った。

 

「……まあなんて言うか、バカだね」

「そうね、本当に」

 

  悪口にだけ反応する輝夜にてゐが肩を竦める先で、遂に月軍の壁は崩壊する。月兎の数ももう数える程に減り、そのほとんどが妹紅の炎に焼かれて竹林の枯れ葉を燃やしている。立ち上る白煙を振り払うように楠と桐が刀を振れば、残り少ない月兎も崩れ去る。

 

「アンタらの負けだ。下がれよ」

「まだだ! まだ!」

「怖いですね、何があなたたちをそこまで駆り立てているんでしょうか」

「全ては我らが主人のため! そして!」

 

  最後の力を振り絞って突っ込んで来る月兎に刀を振る。四人三人と数を減らす月兎に目を細めながらも手を止めず、その足掻きが通じたのか桐の前へと最後の一人が躍り出た。だが、距離を潰せばいいというわけでもない。自分を起点に大太刀を巻き込むように振るった動きに月兎の首の骨がへし折れその場に崩れる。最後の一人が崩れて小さく息を吐く。誰が吐いたか、その音に混じって流れてくる小さな音。息を飲むようなその音に合わせて、空気の層に穴が空いた。

 

「……おや?」

 

  小さな穴は音もなく、黒い口を桐の足に開く。片膝崩れて枯れ葉に膝を落とした桐に誰が駆け寄る間も無く、もう片方の足にも同じように開く口。燃える竹林の中から流れる葉擦れの音は死神の足音。夜闇の中により暗い黒い川を揺らしながら、黒い瞳が瞬いた。

 

「気を抜いたな。貴様らの中で唯一私について来れそうな平城十傑一の俊足の足は死んだ。楠、桐、椹。これがどういうことか分からぬ貴様らではないだろう」

「……誰よ」

 

  妹紅の問いに暗殺者は答えない。ただ一度妹紅の方へ目をやるだけで、すぐにその目は三人の男に流された。味方ではないのは見れば分かる。警戒する妹紅がやって来たのは誰なのかと楠へと目を向けて、そしてそのまま固まった。楠の肩に一つ、同じように椹の腕に一つ、桐の足と同じく小さな穴が空いている。静かに血を垂らしながら、三人の男の顔色は良くなく、張り付いた血を押し退けて汗が肌に滲んでいた。それを見た妹紅もやって来た者が誰か予想がついた。三人が知っているであろう者、新聞に載っていた敵の将。猛威を振るっていた三人と同じく、平城京より時を超えてやって来た人間。

 

  暗殺者の目が楠たちから外れると、それが向かうのは月に照らされた黒髪の乙女。逃げず、隠れず、側に小さな白兎を貼り付けた月の姫に向け、暗殺者の口は大きな弧を描いた。

 

「探したぞかぐや姫。私は菖、坊門 菖。平城十傑、坊門家九十八代目当主。その首貰うぞ月の姫君」

「っ、椹‼︎」

 

  楠の叫びよりも早く血を振りまいて椹が手を伸ばす。菖と輝夜の間に割り込んで、菖の視界を塞ぐように伸ばされた椹の手のひらにずるりと穴が空いた。奥に控える輝夜の額を小さく削り、鈴の音のように西洋剣の鍔が鳴る。

 

「諦めろ。貴様らの技もそうであるように、いや、それ以上に私の技は殺すことに特化している。同じ平城十傑のよしみだ、大人しくしていれば貴様ら三人と、そこの白兎と女は見逃そう」

「菖さん、なぜ……」

 

  足を抑えて菖を見上げる桐の目に、菖は肩を竦めて返した。見つめる先の輝夜が額から血を流れているのも気にせずにただ菖を見つめている姿に菖は眉間に皺を寄せながら、左手を西洋剣の鍔に添えて桐の問いに言葉を返す。

 

「なぜときたか。むしろ問おう、なぜ貴様らはかぐや姫を守る。言ってしまえば我らの境遇はかぐや姫のせいとも言えるだろう、それを守る必要がどこにある」

「それは、菖さん。暴論です。私たちの境遇は私たちの一族のせいであってかぐや姫様のせいではない。殺す必要なんてどこにもないでしょう」

「だとして、貴様らは一度でもかぐや姫を恨んだことがないと言えるか? 血を吐き、骨を噛み、歯を食いしばって必要なのかも分からぬ修行を重ねる中で一度でも思わなかったことがないと」

「いや、普通にあるな」

 

  菖の問いに楠は即答する。思わないことがないわけない。幼き頃、日々先代や一族に向く怒りの矛先に、かぐや姫が含まれていないなんていうのは嘘だ。だから楠は輝夜を殴ったし、桐と椹は否定することなく口を閉ざす。例え八つ当たりだとして、かぐや姫は八つ当たりを引き寄せるだけの存在感がある。その名は欠かせないピースなのだ。

 

「だが菖さんよう、それが全部じゃないだろう。所詮俺たちがやってるのは自己満足に近い。それでかぐや姫を殺すまで行くのはやり過ぎだ」

「そうかな? 私たちが背負わされているものはそれぞれ違う。千年を超える蠱毒の中で、そう思い立つ者が出ても不思議ではないだろう」

 

  坊門の当主を決める方法は簡単だ。最も殺しが上手い者が当主となる。それをどう示すのか。当主の候補として集められた者たちによる殺し合いだ。人を殺す方法も知らない者たちを集め素養を見る。たった一人が残るまで。およそ五十人が集められた中で菖が残った。その先に待つのは殺しの英才教育。犬の殺し方、猫の殺し方、妖魔の殺し方、人の殺し方。姿形の分からぬ月人を殺すため、そして自分が死なぬため、死とはどういうものかを体験させられる。時には半殺しにされながら。

 

  そんな生活を強要されてまでかぐや姫は守らなければないない存在なのか。いるのかいないのかも分からない存在のため、ただ必殺の牙を研ぐ毎日。それを差し向ける相手ぐらい、選んでもいいだろう。

 

「多くの者がただ命を散らした。楠、貴様なら分かるだろう。この牙を突き立てる相手が月人であることに変わりはない。ここでかぐや姫が死ねば全ては終わる。後はその死体が蘇らぬように封印したままマリアナ海溝にでも沈めれば終わりだ。それがいいとは思わないか?」

 

  菖の笑みに楠も笑みを返す。ただ少し呆れながら。

 

「……さてな、俺は北条の技をかぐや姫に振るおうとは思わない。それにもう殴って満足だ。菖さんも殴ってみりゃいい、それで満足するかもしれんぞ。なあ椹」

「あ? オレ? 知るかよ先祖とかどうだっていいし。だいたいお宝ってのは壊れたら価値がねえ」

「……はぁ、では桐はどうだ? 貴様なら知っているだろう? 私の一族は帝直属の暗殺者だった。一族の記録に確かに残っている、かぐや姫が他人の手に渡るようなことがあれば殺せとな。そんな帝のうわ言を届けるだけで満足なのか?」

 

  菖の言葉に桐は目を見開いた。小さく振り返りかぐや姫を見る桐に、てゐは輝夜に引っ付き、輝夜は何も言わずに目を瞑る。大太刀を地に突き刺し立ち上がった桐は細く長い息を吐き、大太刀を回して背に背負う。

 

「……例えそうでも、今際の際の言葉に嘘はない。連れて来いでも、殺せでも、会いたいでもなくただ愛の言葉を口にした意味など誰も分からないでしょう。でも私は分かりたい。その尊いものを受け取った女性を殺そうとは思いません」

「……そうか、ちなみにそっちの」

「私? ちょっと、私をお前たちのいざこざに巻き込まないでよ。あいつを殺すのはもう随分前に諦めたし、まあなに? お前よりは楠の味方がしたいかしら」

 

  腕を組みそっぽを向く妹紅に楠は両肩を竦め、菖は一度目を瞑り小さく顔を振る。ただほんの少し口角を上げて。

 

  殺しだけの毎日だった。その心が壊れずに済んだのは、殺さなくてもいい櫟と藤が近くにいたから。菖に得意なことなど何もない。女性らしい料理や裁縫など全くできず、勉強も不得意で友人も少ない。ただできるのは殺しだけ。だからもしも本気で殺そうとしてもできなかったら、それ以外のことができるなら、どうかそれを教えて欲しい。

 

「ならば……さあ、私を止めてみろ。貴様らはここまで迫った死を止められるのか?」

 

  細い鉄針が静かに高鳴る。目に見えぬ真空の針が空気の層に穴を開けた。目に映らぬ透明な穴を切り裂くのは五辻の大太刀。両足を動かす必要はない。足元にできた血溜まりの上で振り回す大太刀の遠心力を使い加速する。

 

「ッぐ⁉︎」

「見事、だが遅い‼︎」

 

  大太刀の影に隠れるように、突き抜けた針が桐の肩に穴を穿った。僅かに速度を落とすことが命取り。壁のように迫る針の筵の前に白い髪がふわりと舞う。広げた両手はパントマイムのようにぺたりと透明な層に触れ、回した腕の動きに合わせて空間が捻れる。

 

「いかがだ殺し屋」

「手が足りんぞ盗賊‼︎」

 

  拮抗できたのはほんの僅か。捻れた空間に弾かれて地面や建物に空いた穴と同じように、再度飛来する針をまた弾くが、一つ穴が椹の膝に開く。同時に空中に弾けた地面の小石を見て、椹の顔が少し歪んだ。目の前に差し出す腕に横から穴が開く。また一つ舞う小石。その結果をすぐに椹の頭脳ははじき出した。

 

「くそ、跳弾か! だが時間は奪ったぞ! 楠!」

「分かってるっつうの!」

 

  菖の隣で影が揺れる。視界の端で月明かりを照り返す刀を見て、僅かに菖は目を顰めた。振り切られる右の刀を頭を下げて避け、左の刀は距離を詰めて避ける。体に当たるはずだった左腕が透けて行くのを眺めながら、反転する楠の背に蹴りを放つ。突き出された針のような蹴りは楠を貫き、その姿が揺れ消えた。地面から伸びる二刀を眺め、添えた右手を弧を描くように菖は下に這う楠へと落とす。

 

「腕一本貰うぞ楠」

「なら足を一ついただこう」

 

  楠の右肘に穴が空き、菖の足が切り裂かれる。血の垂れる足を振りながら振られる菖の右手から距離をとった楠に、菖の笑顔が送られた。体勢を落としたまま振った右手を柄に添えて、菖の最速の牙が穴を穿つ。勝負は一瞬。いくつも壁を砕くのではなく透けてきた。薄く細かく息を吐き、楠の全神経が菖の右手だけに集中する。僅かに引き絞られた菖の指の動きに合わせて、楠は一歩足を出した。

 

「……貰った」

「見事だ、だが終わったのはどちらかな?」

 

  穴をすり抜けた楠の顔は、笑顔を崩さぬ菖の顔を見て凍りつく。

 

  自分の背後には誰がいた?

 

  その事実に刀も振らずに振り返った楠の目の前で黒髪が散る。かぐや姫の背にある壁には黒々とした穴が空き、その姿は幻のように透けて見えた。崩れる輝夜の体がまるでスローモーション映像のようにゆっくりと倒れ、その背後にあるものを見せつけた。

 

  視界に揺れる紅と白。体中に包帯を巻き、ぼろぼろの巫女装束を揺らした少女が立っている。手に持ったお祓い棒を肩に掛け、苛立たしげに小さく舌を打つ。

 

「博麗の巫女⁉︎ この短時間で技の調整をしたのか‼︎ ハハッ、見事だ!」

「あんたに褒められてもまるで嬉しくないわ。悪いけど私天才なのよね。楠、さっさと終わらせて手水舎おっ建てなさい。いちからね」

「今言うことじゃねえ⁉︎ って、は? いちから⁉︎」

「まだだ! 私の技の速度がこれで打ち止めだとでも思ったか!」

 

  菖へ楠が振り向くよりも早く、菖の体が躍動した。ギリギリと空気を削る音を立てながら、細く鋭い穴を世界に穿った。およそ一秒掛からず開く口は、かぐや姫に向けて鋭い牙を突き刺そうと叫び、その間に究極の体が落ちる。

 

  耳障りな音はまるで鋼鉄を引き裂く音。学生服を切り裂いて垂れる赤を指で掬い、調停役はその赤を服の端で拭う。

 

「完璧だ文女史、なんとか間に合った」

「結局飛ぶことになるとは……。腕がツリそうです。もう二度と梓さんは運びませんよ」

「梓の旦那! 遅え!」

「ああ遅刻か? だから言っただろう、椹なら僕より早く着くと」

 

  最高の盾の登場に菖の顔が大きく歪む。血の垂れた足に目を落としながら、菖は舌を打ちながらも右手の添えられた柄を強く掴んだ。踏み込みの浅い足では今以上の速度は出せない。奥歯を噛み締めて体を沈ませる菖に向けて、輝夜の哀れんだ目が落とされた。

 

「……なんだその目は」

「……どうせなら、もう少し早く来てくれれば良かったのに。そうすればこの首をあげても良かった。でも、それは、周りの者に失礼でしょう?」

「貴様の想いなどどうでもいい。これも全て私のわがままだ。私は試したかったのだ。私に唯一ある殺しも無理なら、今度こそ別のことを」

 

  剣の柄から手を放し、影のようにふらりと立ち上がった菖の体を光の濁流が飲み込んだ。迷いの竹林を貫く極光の輝きがその場にいた者の視界を塗り潰す。焼けた竹林も、穴の空いて大地も、月兎の死体も飲み込み、戦場の全てを洗い流す天の川が走り抜けた先には何もなく、開けた竹林の先にはとんがり帽子が揺れていた。

 

「どうだ! 今度は当ててやったぜ!」

「いや、これは当てたっていうより押し流したって言うか……これで終わりか? 梓さんよ」

「まあそうだな楠、よくやった」

 

  梓の一言に三つの体が崩れ落ちた。怪我をしていないところを探す方が一苦労だ。誰も彼も体に穴を開け、枯れ葉の海に沈み込む。歯を擦り合わせることもなく、崩れた笑みもそこにはなく、お宝だって盗んでない。だが不満もありはしなかった。

 

「ちょっとあんたなに寝転がってるのよ。神社の修理が待ってるわ」

「今言うか⁉︎ もう少し優しさを見せろ! おい妹紅手を貸してくれ」

「嫌よ、自分で立って」

「あっはっはどんまい霊夢の彼氏!」

「彼氏じゃねえ!」

「あー! ずるいですよ楠ばかり女性に囲まれて! うぅぅ、姫様ぁ、今戻りますから!」

「こ、この野郎桐オレに引っ付くんじゃねえ! 気持ち悪いから泣くんじゃねえやな! ああ! 鼻水が付いたぁ⁉︎ フランドール嬢さっさと来てくれ! そんでこいつは潰していい!」

「……姫様の新しい部下やばいやつしかいないんだけど」

「部下じゃないわ、っていうかなにがどうすればこんな奴らばかりになるのよ! ちょっと! 永琳! あとイナバ!いい加減出てきなさい急患よ!」

 

  月の使者は地上を去った。血濡れ達磨の三人を見て、記事を書くのも忘れて文はただ困ったように翼を羽ばたかせた。文の隣でしばらくそんな景色を眺めていた梓は、少しすると口を引き結びその場に膝を折る。周りが誰も気に留めていないのに呆れながら、仕方がないと文が咳払いを二つしてようやく全員の目が梓に向いた。

 

「かぐや姫様。僕は平城十傑、足利家第八十八代目当主、足利 梓。此度は無事で何よりでした」

「……そ、今度は足利ね」

「はい、ここに今四人しかいないことはお詫びいたします。他の六人もすぐに参りますので今しばしお待ちを」

 

  頭を下げて言い切った梓に、三つの首が傾げられた。梓の言葉の違和感に、血が足りないせいなのか納得できない。三人の男は顔を見合わせ、楠は背を撫で付ける嫌な予感に、小さく歯を擦り合わせ始める。

 

「なあオイ梓の旦那、菖の姉御の計画もおじゃんになったんならよ、他の奴ら来る必要ねえだろ。しかも六人て菖の姉御も含まれてねえかや?」

「ああ含まれている。戦いは終わりだ。此度の演習はな」

「はあ⁉︎ 演習⁉︎ いやいや梓さんよ、なに言って」

「……どういうことかしら?」

「姫様、まだ本当の戦いが残っています」

 

  梓の言葉に嘘だという言葉は返ってこない。梓の人となりを知っている三人はもとより、隣にいる文も、他の者はその意味を測りかねて。

 

  なにが来る?

 

  その答えは顔を上げた梓の見上げる先。夜空に浮かぶ黄金の球体。静かな夜に木霊する重い梓の声に、今度こそ楠はギリギリと歯を擦り合わせた。

 

「今こそ全てを話しましょう」

 

  月から使者がやって来る。人を迎えず刃を手に。ただ死を迎えにやって来る。

 

  手からポロリとペンを落とした文は、慌てて拾うと急いで手帳を開き文字を書き綴る。梓の話を漏らすことなく、自分史上最大のスクープを逃してしまわぬように。新たな記事の見出しはもう決めた。月の使者がやって来る。それに対するは幻想郷と十人の外来人。それらがいずれ叫ぶだろう罵詈雑言を思い浮かべて。

 

『月軍死すべし』

 

  物語の終わりが始まる。

 

 

 

 




第一幕 完

ここまでありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一幕 終章

「ちょっとなにサボってるのよ」

「サボってねえんだよなあこれが!」

 

  ジト目の霊夢に叫びかえしながら楠はそっぽを向く。あれから数日、なんともおかしな生活に楠は身を浸していた。時間固定結界装置も、加重銃も、散らばっていた月の兵器の回収を終えて月軍の痕跡は綺麗さっぱり消え去った。残っているのは頭から離れぬ記憶のみ。月軍に付けられた爪痕も、永遠亭のどこにいたのかひょっこり顔を出してきた永琳という薬師に処方された薬で嘘のように治ってしまった。副作用が怖かったがそんなこともなく、こうして楠は霊夢にいびられる毎日だ。

 

「木を切り倒しただけでまるで仕事が進んでないでしょうが、いつになったら直るのよ」

「じゃあせめて木を乾燥させろ巫女さんよ、生木で組んで柱が捻れたから作り直せって言うのが目に見えてんだよ! だいたいあの鬼の嬢ちゃんはどこ行ったんだ! しかも今度壊れたのは菖さんのせいだしよ!」

「ぐちぐち言わない。だいたいこんなことしてていいわけ?」

 

  そっぽを向く楠に呆れたように霊夢は両手を上げる。先日梓から特大の爆弾を落とされたというのに、楠は全く慌てることもなく普段通りだ。それは霊夢もそうであり、他の者にも言えることだが、現実味がなさすぎた。だが、情報を持って来た同じ平城十傑である楠の様子の変わらなさには呆れしかしない。

 

「騒いだって仕方ないし、今できることをやるのが一番。それにどこに居たって関係もないみたいだしな」

「あっそう、まあいいけど、夕飯までには帰って来なさいよ。じゃないと針妙丸とかが五月蝿いんだから」

 

  そう言いながら楠の手元にあった焼き鳥を一本手に取り霊夢は空へと飛んでいく。巫女らしからぬ手グセの悪さに楠はギリギリ歯を擦り合わせた。

 

「おぉい泥棒だ! 食い逃げだ! 妹紅焼け!」

「焼くかバカ、今の分給金から引いとくから」

「ウソだぁ……」

 

  振り返った楠の視線を払うように妹紅は手を動かして小さくなっていく霊夢の背を見上げる。毎日毎日逃げないようにと監視に来ながら焼き鳥と焼き筍を奪っていく巫女を追うよりも、手近なアホを相手にしている方がマシだと結論付けて。

 

  迷いの竹林に近い人里で開かれている妹紅の屋台は、無駄に料理のできる男のおかげで連日開くことが可能となりそこそこ繁盛していた。新たな店員の人相が悪いのが傷ではあるが味はいいと、慧音や魔理沙もよく顔を出してくる。霊夢や魔理沙が勝手に食い逃げしていくせいで楠にしわ寄せが来るので、全く楠は常連客をよく思っていない。店番を完全に楠一人に任せて後ろの長椅子に横になっている妹紅へと目を向けながら、楠は器用に焼き鳥が焦げてしまわぬようにひっくり返す。

 

「店長がサボってるのはいいのかよ」

「金を稼がなきゃならないからって雇ってあげてるんだからそういうこと言わない。霊夢と違って優しいでしょ私は」

「あー優しい優しい! はいはい、黙って働きゃいいんだろ全く」

「それで? 今日は霊夢の方に泊まるわけ?」

「ああ、あっちの修繕のためにな」

 

  神社の修繕と妹紅の家の立て直し。全く学生のすることではないと楠の頭痛の種である。博麗神社と妹紅の家を行ったり来たりしている楠に、「二股だ」と魔理沙にひどいレッテルを貼られ、店に来る桐に拳を振られる毎日。それが楠のここ最近。焼けた串付きの筍をひっくり返す楠の背を見ながら、妹紅は火力調節のために軽く手を振った。

 

「で? そう言えば外に帰るのに金が必要なんだっけ? いくら必要なのよ」

「十両だってよ。仕事終わらせて外に戻れば待ってるのは天国(パラダイス)! 修学旅行に文化祭も控えてるぜ! なにしよっかなー」

 

  夢を思い描いて口笛まで吹く楠に、口端を引き攣らせた妹紅がゆっくり立ち上がり、楠に寄るとその肩に優しく手を置く。同情の色を瞳にありありと浮かべて。

 

「楠……、お前いったい何年幻想郷(ここ)にいる気なの?」

「……え?」

 

  長い付き合いになりそうだと、叫ぶ一歩手前の楠を見て妹紅は小さく笑みを浮かべた。

 

 

  ***

 

 

  剣撃の音が今日も鳴る。最近の白玉楼での一日はそこから始まる。楼観剣の煌めきを受け止めるのは長い大太刀、滑るように刃を流し、スルリと妖夢の懐に一歩桐は足を出す。

 

「今日はそうはいきません!」

 

  腰に差した短刀を掴み横薙ぎに振るった。霊力の刃が横に走り、桐の体を捉えた瞬間に、大太刀の柄でその技を軸にぐるりと回った桐の手から大太刀が伸びた。もう何度も妖夢も見た動き。恐れて足を下げてもその間合いから外れるのは容易ではない。故に近づく。高速で迫る刃に奥歯を噛み締めながらも妖夢は一歩を踏み出して、楼観剣の柄を桐の頭目掛けて叩きつけた。

 

  スルリ。

 

  と固い音は鳴らず、回転によって滑らされ妖夢の体がそのまま桐の背後へと通り過ぎる。続いて迫る刃を飛んで避けた妖夢の薄い笑みを目に留めて、ふにゃりと桐は笑顔を崩す。

 

「にっまーい」

「は?」

 

  いけない! と上着を抑えた妖夢のスカートが下にストンと落ちた。表情の固まった妖夢に向けて一歩桐が足を出し、発狂した妖夢の弾幕が桐をタコ殴りにして白玉楼の庭に転がす。ついでとばかりに宙を泳ぐ半霊の尻尾が桐の頭に落とされた。

 

「馬鹿じゃないんですか⁉︎ 死んでください!」

「こ、これも修行のうちでしょうに」

「こんな修行ありません!」

 

  落ちたスカートを急いで履き直し、焦げた桐から目を背ける。月軍を屠ったと聞いた時はついに桐はやる気になったのだと妖夢も期待したが、結局帰って来た桐はなんにも変わらない。ふやけた笑みを携えて相変わらずスルスルスルリと妖夢の剣から逃げている。あんまりダメージも見せずに立ち上がる桐にため息を吐きながら、目を細めた妖夢の視線が突き刺さる。

 

「全く。五辻の技を永遠亭で振るったと聞きましたけど、ここじゃあ振らないんですか?」

「あれは月軍用です。見せてもいいですけれど、どうします?」

「結構です! いつかこちらから引き出させますから」

「いやあ嬉しいですね。妖夢さんにそこまで気にされるなんて」

 

  桐のもの言いに噛み付こうと妖夢は口を開きかけたが、途中で取りやめ楼観剣を鞘に戻した。一々相手をしても桐が喜ぶだけで意味がないのと、永遠亭でなにがあったのか妖夢は知らないが、この数日で桐に多少の変化が見られた。付き合いの浅い妖夢でも目に見えて分かる桐の変化。無闇矢鱈と女性に触れることがなくなった。

 

  普通そうだろと言えることだが、人里に買い出しに行っても声を掛けることはあっても、初めて妖夢が会った時にように手を握るようなことはない。おかげで初めよりも少しだけ桐との買い物が楽になり妖夢としてはありがたいのであるが、その変化が不気味であると顔を歪める。

 

「あら、今日はもう終わりなの? なにか見逃したかしら?」

 

  大太刀を納める桐へと目を向ける妖夢の前にひらひらと桜色の蝶が舞う。その軌跡を辿って目を動かせば、欠伸を噛み殺しながら縁側にふわりと幽々子が姿を現した。そんな幽々子を見て笑顔を崩す桐に目を向けて肩を落とす妖夢を挟んで聞こえてくるのは、いつもの調子の二人の会話。

 

「妖夢さんの下着姿を見逃しましたね姫様」

「ちょっと」

「あらそれは残念だわ、妖夢もう一度やってくれないかしら」

「やりませんから!」

「それでは今一度」

「やらないって言ってるでしょうが!」

 

  後頭部に楼観剣の鞘を受け、庭の上を桐が転がっていく。こういう攻撃だけは律儀に受ける桐に妖夢の溜飲は僅かに下がり、その桐のヘイトコントロールの無駄な巧みさに幽々子は微笑みながら桐を見下ろした。

 

「大丈夫かしら?」

「ええ大丈夫ですとも。それより姫様、明日はどうしましょうか?」

「……ふふ、もう明日の心配をするの? そうねえ、明後日のことでも考えましょうか。ねえ桐」

「ええ、そうしましょう姫様」

 

  まだ見ぬ明日の話をする二人に呆れながら妖夢は二人の元に足を運ぶ。少なくとも妖夢が刀を打ち合える相手はまだ白玉楼に居座るらしい。

 

 

 ***

 

 

  押した扉は暗闇に消えていき、ガタリと音を立てて崩れ落ちた。紅魔館の地下迷宮の一室で瞬く紅い瞳は、入ってきた来訪者のメイド服を見るとすぐに背けられる。数日に渡り全く減っていない朝食を今日もまた下げるメイドにご馳走さまと言うこともなく、フランドールは抱えた膝に頬をつける。

 

「妹様、お食べにならないのですか?」

「……いらない」

 

  椹と離れてから数日フランドールはずっとこの調子だ。フランドールとレミリアによって半壊した紅魔館は今も復旧工事中であり、上にいてやることもないフランドールは部屋に引きこもりっぱなし。レミリアからは出てもいいと言われてはいるが、ふらふらと外に出て何か壊したくなってしまっても、それを止めてくれる者は今はいない。

 

「ですが少しくらい食べませんと」

「いい、だから咲夜下げちゃって」

「しかし」

 

  心配そうなメイドの声に手を振って、揺れる三つ編みを視界の端に追いやった。動かず騒がず遊びもせずに座り続けるフランドールを心配して頻繁に咲夜が見に来てくれることは嬉しくもあるが、あまり喜ぶと壊してしまいたくなるので、なんとか自分の理性で自分を縛る。それでも聞こえない足音に少しイラつきながら、それもいけないと咲夜に背を向けた。

 

「妹様、お嬢様も心配していますよ」

「そんなに言うなら咲夜が食べちゃっていいよ」

 

  人間の血を飲めるなら。そう言葉を続けようとしたフランドールだったが、その言葉は血の入ったワイングラスを傾ける音と飲み干す音に遮られて飲み込まざるおえなくなる。どこまで忠臣なメイドなんだと呆れるフランドールの耳に背後から聞こえてくるのは咳き込む音。なにやってるんだと振り向いたフランドールの目はメイドに向けられそのまま見開かれると固まった。

 

「どうかしましたか妹様?」

「あの、咲夜? なんていうか口がふやけてズレてるんだけど」

「はい? ……ってうわマジだ。だから変装って苦手なんだよなあ、上手くいかねえもんだ」

 

  咲夜の声が喋るごとに野太くなっていき、伸ばされた手が咲夜の整った顔を掴むとべりっと剥がれる。シールを剥がすように下から出てくるのは白い綿毛のようなくせ毛と、揺れる細い三つ編み。不敵な笑みを貼り付けた盗賊の顔が外に出る。

 

「よおフランドール嬢、全く子分が会いに来てくれねえからこっちから来ちまったぜ」

「椹……」

「おう!」

「……メイド服似合ってない」

「気にするのそこかや⁉︎」

 

  感動の再会などという言葉はなく、咲夜のメイド服から伸びる見知った顔にフランドールは大いに引く。そんなフランドールの目の先で椹の肩に手を掛けて飛び出てくるのは妖精メイドの服を着たこいし。その可愛らしい姿で口直しし、ようやくフランドールは笑みを浮かべた。

 

「遅いよ椹、待ってたんだから」

「いやあなんかここの警備が前以上に厳しくてな! 前に警備がザルって言ったからかや?」

「楽しかったね! あの銀髪のメイドさんにたくさん追いかけられて」

「咲夜に? ってことは」

 

  フランドールの呟きに合わせて部屋の入り口が大量のナイフを吐き出した。空間を捻りナイフを弾く椹の姿に目が点になったフランドールの横に盗賊と子分そのいちが身を翻す。そんな三人を睨むのは、頭髪を逆立たせたメイド長。その怒気は色付いてさえ見え、暗いはずの部屋を怒りで照らした。

 

「ようやく追い詰めたわよこの泥棒! なんで私の服を着てるのよ⁉︎ 伸びるでしょうが! と言うか返しなさい!」

「おっかねえ! おいフランドール嬢! 壁ぶっ壊せ! 逃げるが勝ちよ!」

「行こうフランちゃん! レッツゴー!」

「……ああもう! 私が居ないとダメなんだから!」

 

  嬉しそうに手を握り締めるフランドールの動きに合わせて、紅魔館の一部が崩れ落ちる。紅魔館の一室からそれを眺めたレミリアは、楽しそうに手に持ったティーカップを傾けた。

 

 

 ***

 

 

  今日も文は忙しなくタイプライターを叩く。平城十傑、月の使者、書く話題には事欠かない。チンッ、と音を立てたタイプライターから書ききった原稿を抜き出して、隣に座る男へとそれを笑顔で差し出した。

 

「どうですか梓さんよく書けてるでしょう」

「ああ悪くないな、流石文女史。ただ僕としてはもう少し幻想郷の情報を知りたいところではあるが」

「それならそっちにあるのをどうぞ、第一号からありますから」

 

  本棚にずらりと並んだ黄色く変色した新聞から真新しいものまでを目に入れて、機嫌良さそうに梓は席を立ち本棚に寄る。永遠亭の一件から、梓は文の部屋に入り浸りだ。理由は幻想郷の細かな情報を知ることができるからというのと、必要な情報を逐一ばら撒くため。月軍が再びやって来るまでの影の最前線基地と文の部屋は化していた。

 

「いやあ楽しいですね。メディアが世を動かすと言いますか、黒幕になった気分ですよ」

「あまり浸透してはいないがな。それとなく警告できればそれでいい。必要な者には届いているだろう」

「あの永遠亭の場に博麗の巫女が居てくれたのは大きいですね。あれも梓さんの策ですか?」

「前にも言ったが僕はそこまで頭の回る方ではない。菖の策か別の誰かか、どちらにしろ良い方に転がって良かった。……この妖精大戦争という記事は面白いな。他にはないのか?」

 

  意外と子供っぽい記事に食いつきのいい梓に笑みを返しながら、それじゃあと他の似たような記事の載った新聞を取り出していく。ここまで自分の新聞を気に入ってくれる相手は珍しく、ついつい文も表情が緩んでしまう。椅子に戻りじっくりと文々。新聞に目を落とす梓にコーヒーでも入れてやろうとキッチンに文が立った瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。入って来るのはツインテールを揺らして荒い息を吐く同僚。はたての登場に新聞から顔を上げた梓に少しがっかりしながら文もはたてに顔を向けた。

 

「どうしたのよはたて、新聞は配り終わったの?」

「まあね! ってそんな場合じゃ、っああ! 梓また文の新聞なんて読んで! 花果子念報を読みなさい!」

「ああ、そっちも是非頼む」

「はいはい、そういうのは私を通してからにしてよね」

「あんたいつからそんな秘書みたいな立ち位置になったのよ……」

 

  貴重な読者を囲う文に目を細めながら、梓に花果子念報を渡そうとしては文に阻まれる。そんなことに天狗のスピードを無駄遣いする姿につい可笑しくなって梓は小さく笑いながら、二人の間に割り込んだ。

 

「それではたて女史、何か用があったのではないのかな?」

「ああ! そうだった‼︎」

 

  振り落とされた新聞が文の脳天にヒットしたのも気にせずに、再び慌てだしたはたてに向けて、文は涙目になりながら落ち着かせようとはたての両肩に手を置く。動きの止まったはたてだったが、それでもあわあわと口を動かし、梓と文の顔へと忙しく交互に目を動かした。そんな様子に二人が肩を竦めていると、ようやく再起動を終えたはたてが、勢いよく文の胸ぐらを掴む。

 

「お、お、おにおに」

「オニオン?」

「玉ねぎじゃない! 星熊勇儀様がやって来てるの! 妖怪の山目指して!」

 

  はたての叫びに文はビシリと凍りついた。静寂の後、ブリキのおもちゃのように梓の方に向いた二つの顔。それに腕を組んで梓は少しの間考えて、二人の天狗の襟を掴んで外へと歩きだした。

 

「ちょ、ちょっと梓⁉︎ なんで私たちまで⁉︎」

「ご、後生です梓さん⁉︎ なんでも言うこと聞きますからそれだけは⁉︎」

「いや、僕だけでは話にならないかもしれん。鬼に礼を失するわけにもいくまい。話は頼んだ」

「「いやあああああ!!!!」」

 

 

 ***

 

 

  一面に広がる彼岸花を見て、菖はホッと息を吐く。花で溢れている場所でありながら、まるで生命の吐息を感じない。薄い霧に覆われた地は朝か夜なのかも分からず、薄い光と薄い闇とが混じり合った灰色の風景をただ静かに菖は見つめていた。

 

  彼岸花畑の先には緩やかな太い線が引かれている。流れているのかそうかも定かではない澄んだ川は、底があるようには見えず、覗き込んだ菖の顔も水面には映らなかった。

 

  一時間か二時間か、ただ座り静かな川と彼岸花を眺める菖の身を叩くのは、ギィギィと軋む木の音と、それに混じった陽気な鼻歌。次第に大きくなるそれに耳を澄ませる菖の前で、木の唸り声が止むのと同時に鼻歌も止む。

 

「お前さんまだここに居たのかい? 死んでもないのに三途の河に近付くなんて、閻魔様に怒られちまうよ」

 

  笑うようにそう言うのは彼岸花で染めたような赤い髪の和装の少女。あどけない笑顔を浮かべながらも、背には身の丈に負けぬ大きな鎌を背負っている。漕いでいた木の小舟から足を下ろし彼岸花の中に一歩を踏み出した少女からは熱は感じず、ただ骨も凍えるような冷気を感じる。死に誰より近い菖だからこそよりよく分かる。先日、小野塚小町と名乗った少女はものが違う。自分よりも死の色を強く振りまく少女に畏怖と共感を抱きつつ、菖は小さく顔を上げた。

 

「……小町か。いいのかこんなところでサボっていて。また怒られるんじゃないのか?」

「生きるのをサボってるお前さんに言われたくはないさね。まだ行く気にはならないのかい?」

「そうだな、いささか血を流し過ぎた。無論私のではないが。いずれは行くさ、友人も待っているしな」

 

  嘘は言っていないと分かる小町は、難儀な少女にため息を吐きながらその隣に腰を下ろした。死神が隣に座るという笑えない冗談に、普通の人間なら固まるか、仙人なら酷ければ気絶でもしようものだが、菖は身じろぎひとつせずにただ受け入れる。死というものに慣れているのか、少々生気に欠ける人間に、小町はつまらなそうに口を尖らせた。

 

「あたいの正体薄々察してるだろ? もう少し驚いてくれてもいいのにさ」

「私はいつも死と向かい合ってきた。今更だ。隣り合っても驚かんよ」

「ふーん、難儀な人生歩んでるね。いつか死に手を引かれても知らないよ。まだ若いのにさ」

「くくっ、見た目で言えば貴殿とそう大差はないがな。大丈夫そうはならんさ。少なくとも二人手を引っ張り返してくれる者がいる。お節介な奴らだ」

「そりゃいい友人だね」

 

  「全くだ」と返して菖は笑った。そんな友人たちに無理を言い菖は今回の策に乗った。本来なら菖は敵になる予定ではなかった。だが、それでも自分の可能性を知りたいと藤と櫟を説得し、なんとか梓の了承を得た。暗殺者ではあっても、真正面から本気で殺しに行って、それを止めてくれると少し信じながら刀を抜く。付き合わせた偽月軍の月兎たちには少々申し訳ないと思いながらも、結局己が欲には抗えない。そして得た結果は自分の予想通り。予想外だったのは、霊夢と魔理沙の二人の少女だ。それなりにぼろぼろにしたという自負が菖にはあったが、それを簡単に覆し、想像以上に早く立ち上がって来た。それがなにより嬉しい。一種の異常だ。千年の呪いに包まれた平城十傑以外にも似たような者がいるという喜び。人の可能性が喜ばしい。そんな感情に浸りながら、菖は死神に目を向けた。人を信じるそれとは逆に、人では届きそうにない領域に立つ少女を羨むように目尻を下げて。

 

「私も、死以外を振りまけるだろうか? どう思う?」

「あたいに聞くのかい? それが最も得意なあたいに」

「だからさ」

「あたいは少なくともこうしてサボれる。死神なんて暇な方がいいのさ。最も得意だからこそやらない。いつでもできるからね。だろう?」

「……最も得意だからこそやらないか。アッハハ! そうだな! うん、それじゃあ私も、一番苦手なことをやってみようか」

「一番苦手? なんだいそりゃ」

「守ることさ」

 

  そう言いながら立ち上がり、軽く挨拶をして去っていく菖の背を小町は微笑を持って見送った。軽く垣間見得える菖のこれまでに、「苦手でもないだろうさ」と小さく呟く。その両脇に立つ一組の男女の影を守っていた手が死を遠ざけることを確信しながら、大仕事が待っていそうだとうんと伸びをして。そのために今出来るだけサボろうと小町は彼岸花の中に沈むように横になった。

 

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 

  夜の病院の一室の窓際に一人の男の姿があった。その男はいかにも具合が悪そうな青白い顔をしながら、口には舌がデザインされたカバーシールを貼り付けた悪趣味な電子タバコ*1を咥えて、大量の白煙を吐き出している。不良病人。そう見えなくもないが、男は真っ黒い喪服のような学ランに身を包み、病人のようでありながら病人の空気は纏っていない。看護師に見つかれば怒られるようなことをしていながら、それを咎める者はその病院には居なかった。なぜならその病院こそその男の持ち物だから。それも一つではない。今男のいる病院も、世界中にある男の一族が持つ病院の一つでしかないのだ。だが、看護師が咎めなくても、病室には一人男を咎める者がいた。

 

「もう藤さん。そんなにプカプカ煙を吹いて、煙感知器が鳴っても知りませんよ? もしそうなったら私だって怒っちゃいますからね」

「そう言わんでくれよ櫟、俺から唯一の武器を奪うつもりかい?」

 

  (ふじ)さんと呼ばれた男が(いちい)と呼んだ少女へと振り返る。病院服に身を包んだ少女は、ばっちりと瞼を閉じたまま藤の方へと顔を向け、呆れたように眉を歪めた。目玉模様が刻まれた簪で長い黒髪をあたまのうしろで一纏めにした少女は目を開けることもなく、だが分かっているように風に流れて来た煙を手で払う。そんな櫟の姿により口から煙を吐き出しながら藤は緩やかに微笑んだ。

 

「傷は癒えたようだね櫟、これでようやく俺たちも動ける」

「菖ちゃんが致命傷にならないように綺麗に穴を開けてくれましたからね。藤さんがお見舞いに来てる最中少しでもそれを控えてくれればもっと早く治りましたよ」

「おいおい俺は毒を吐いているわけじゃあないんだぞ? 少なくともお見舞いに来ている時はな」

「当たり前です。もしそうなら私は既にこの世にいません。そうなったら菖ちゃんに仇を討ってもらいましょう」

「洒落になってないんだが」

 

  藤の面白くない冗談に同じように櫟は面白くない冗談で返す。笑う者はおらず、平城十傑の誰が居ても今の冗談はどっちも笑えないだろう。藤はまた一度口から細く煙を吐き出して夜空に浮かぶ月を眺めた。地球のどこにいても誰もが眺める数少ない同じもの。その美しさはそのまま恐ろしさでもある。それを煙に巻くように、藤は再び煙を吐く。

 

「菖は上手くやったかね、失敗はないと信じたいが」

「藤さんよりはきっと上手くやりますよ。心配なのはやり過ぎてないかです。菖ちゃん普段大人しいからかテンション上がると抑えが効かなくなっちゃいますからね。ニトログリセリンみたいなものですよ」

「その例えは人にしていいもんなのか? ま、いない人間のことを気にしても仕方がないかね」

「あ、今の菖ちゃんに言っちゃおう」

 

  冗談キツイと窓辺に寄りかかる藤にクスクスと櫟の笑い声が降り注ぐ。この調子なら櫟は本当に全快したらしいと安心しながら、慣れた口つきで藤は煙を燻らせる。そんな男の背中に顔を向けていた櫟であったが、肌をつつく僅かな空間の乱れに眉間にしわを寄せると、部屋の中央へと顔を向けた。「……来ますよ」という少女の小さな呟きと、部屋の虚空に一本の線が引かれたのはほぼ同時。

 

  際限なしに口を開けようと開いていく空間の両端に緩く巻かれたリボンがそれを堰き止めて、部屋に別世界へと続くトンネルが開通する。藤も櫟もそれに目を向けることなく、その奥から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。亜空間を踏みしめていた中身のなかった足音が次第に大きくなり、病室の硬質な床に足を落とす。コツリ、という音と共にスキマから這い出るようにずるりと姿を表すのは、部屋の中にも関わらず日傘を肩に掛けた金髪の少女。

 

  目を向けなくとも、身を削られるような少女の雰囲気に二人は誰かは察しがついた。数ヶ月前から何度も顔を合わせている大妖怪。幻想郷を作った賢者の一人。口元を扇子で覆う少女の金色の瞳が櫟の方へと流される。その圧力にため息を吐く櫟を見て微笑みながら、少女は開いていたスキマをファスナーを閉じるように掻き消して身から滲んでいる力を緩めた。

 

「よく分かるわね櫟。目がなくても貴女は誰より見えている」

「紫さんに褒められるとは誇っていいのでしょうね。今日はなに用でしょうか」

「終わったから伝えに来たのよ。結果は上々、とまあ言えるのではなくて? 主要な戦力は死ななかったのだし」

「それだけ聞ければ満足ですね、菖も死ななかったなら良かった」

 

  遠い目では見えぬ世界にいる友人たちを想いながらぶわりと藤は煙を吹いた。そんな男の背中を八雲紫は可笑しそうに眺め、手に持っていた扇子を閉じる。パチリと打ちなった小さな音に振り返った藤の目と紫の目が交差した。お互いに微笑を浮かべているが、心中穏やかではない。まだ何も始まっておらず、始まりはすぐそこに控えている。

 

「この数ヶ月、貴方たちも準備をしていたようだけど、そろそろアイツらが動き出しますわ。首尾はどうかしら?」

「蘆屋の百二十三代目と岩倉の十二代目は未だ説得中、六角の八十五代目は今いる場所が分からないんですよね、これは困った」

「そこは菫子が上手くやるでしょうから安心していいわ藤、それに六角の居場所は狸の御大将が見つけたわ。富士の樹海だそうよ」

「それは結構ですね。そちらは? 幻想郷はどうでしょうか紫さん」

 

  盗み見ていた永遠亭の一件を思い出しながら、紫は平城十傑に関しては何もいうことはないと切り捨てた。大丈夫だと藤と櫟は信じており、その通りになったことは先程伝えたため言うことがない。人の思惑の通りに事が進んだこともほんの少し癪だった。だから口にするのは幻想郷の象徴のような少女について。ぼろぼろになっていた博麗の巫女が静かにやる気になっている姿に笑みを浮かべながら藤を見返す。

 

「菖には感謝ね。霊夢もやる気になってくれたわ。一度死を感じた後と前では対応に差が出る。本番ではこれで上手くやってくれるでしょう。どういう者が来るのか、主要な者たちの何人かには伝わったのだし、天狗が梓に協力して新聞を逐一ばら撒いているから意識改革には十分でしょうね」

「なるほど、幻想郷も準備に入りますか。もうこちらも後は幻想郷に行くだけだ」

 

  藤はそう言いながら咥えていた電子タバコを掴み口元から少し遠ざけ目を落とす。櫟も菖も命を賭けた。櫟は状況が切迫していると伝えるための証拠として、菖は自ら脅威の一端になるために。次は自分が命を賭ける番だと決めて目を険しくさせる藤に紫は目を細めながら、この男には興奮して欲しくはないと話題を変えるために話を反らす。

 

「それにしてもよく今まで貴方たちの一族はひとつも欠けずに残っていたものね。それだけでも珍しいわ」

「私の一族は情報役。潰えそうになっても各一族の情報のバックアップを取ったりしていますから。それにそうは言われても今日までなかなか厳しかったんですよ?」

「そうそ、技術を向上させるため事あるごとに各当主たちは古い時代の戦争の、その最前線に身を投じた。源平合戦、関ヶ原、西南戦争、その他諸々。当主のくせに前線に出るからそりゃ狙われる。おかげで戦時中にバタバタ死んで当主の交代がそれはもう激しい」

「断絶の危機に瀕したこともありましたし、各一族の技術がだいたい完成したのは二三百年は前ですからね。例外を除いてですけど。それまでは仕方ないですよ。それに馬鹿みたいな理由で亡くなった方もいますしね。ねえ藤さん」

 

  海の上走り切れるんじゃね? と昔船で行くには時間が掛かると日本海を走って渡ろうとした道中に足を攣り溺死した五辻の当主。壁を抜けようとして埋まった北条の当主。俺はミサイルも耐えられるかもしれないと、アメリカの核実験場に忍び込み死んだ足利の当主など、アホみたいな理由で死んだ者たちもいる。そんなおもしろ死因(シーン)を流石に口に出すことは憚られ、藤も櫟も苦笑した。

 

「俺に言うなよ櫟。悪かったなうちの一族の死因がだいたい自滅で」

「別に馬鹿にしたりしていませんよ。藤さんはそうはならないでくださいね」

「そうね。貴方に居なくなって貰うと戦い方を変えねばならない。今からそれは大変だもの」

「分かってますよ紫殿。まだ元気ですから大丈夫です」

 

  両手を挙げて戯けて見せる藤に紫も櫟も呆れながら肩を竦めた。藤はいつもこの調子で、本当に分かっているのかどうか怪しい。それを確かめるように窓の外に浮かぶ月へと顔を向け、月明かりが照らす少年と少女を紫は漠然と視界に収めた。白煙を吹き流す男と盲目の女。ぱっと見強者には見えない人間が二人。

 

「ここまで来て言うのもあれだけれど、貴方たちは敵が何者であるのか、この戦いの本質がなんであるのか分かっているのかしら?」

「紫殿、俺たち二人は平城十傑内での頭脳労働担当ですよ? 分かってなきゃあ」

 

  そう藤は言うが、紫の目は細められたまま、納得したと動かされることはない。いつものように煙に巻くのは許さないから言葉で聞かせろと床の金色の瞳が訴えている。それを見た藤は電子タバコを咥え直し小さく煙を吐き、櫟も呆れたように息を吐く。

 

「……はぁ、世情を見れば誰が敵で目的は何か意外と分かりやすい」

「今外の世界は信仰が薄れてしまいましたね、それもここ百年も経たずに急速に。まるで腐った林檎のようにいつ落ちてしまうやら」

「そんな世界に見切りをつけて二柱の神が土地を離れた。問題はそこにある。ああ、そいつらが敵だと言ってるんじゃないよ」

 

  信仰とは力である。少なくともそれによって神は生きていると言ってもいい。忘れられた神など吹けば飛ぶ。ならば、なぜ八坂加奈子と洩矢諏訪子の二柱は信徒がいないだろう幻想郷へ旅立ったのか。風祝を従えていたとして、よく信仰のない幻想郷に踏み入り無事だったものだ。それはなぜ? 外の世界で消えた信仰の行き先は?

 

「著名な二柱の神でさえ存在が消えかけ土地を離れた。他の神も同様の危機に晒されている。それは天照大神然り」

「消えてしまわなくても力は落ちます。大変ですねえ、日が陰るといろいろ弱まってしまって」

 

  太陽の光があるからこそ照らされたものはより鮮やかに色を出す。生物然り、水然り、大地然り、だが何よりもその陽の光の恩恵を受けているのは櫟が顔を向ける先。夜空に浮かんだまあるい月。

 

「月が輝いていられるのも太陽があるおかげです。光が弱まれば月も弱り、太陽が消えれば月も消えてしまう。裏表のある一枚のコインのようにどちらかしかないなどあり得ない」

「天照大神はいい神様だ。こんな世の中でも変わらず照らしてくれてるが、どうにも力を持った夜空の住人はそうではないらしいね。困ったものさ、神の時代に恐竜の時代、妖魔の時代があり今は人の時代だと言うのに、永遠を持っているくせに懐古主義とかアホらしすぎて鼻血も出ない」

「まあそういうことですね」

 

  勝手に話を終わらせる櫟に紫は呆れたように大きく首を回す。そこまで言ったら最後まで言えと嗜めるように咳払いを一つしながら藤の方へ鋭い視線を突き刺した。大妖怪のギラリとした目を受けてやめてくれと藤は両手を挙げて煙を吹くと、ペロリと出ているように見える長い舌型の電子タバコを軽く摘み、手の内でくるくる回して目の前に掲げた。

 

「相手は月夜見だ。信仰の溜まり場になっている幻想郷を前線基地に神の世界を取り戻す気なのさ。太陽の権威を取り戻すためにな」

「天照大神ほどのビッグネームなら消えてしまうこともないでしょうにね。輝きが失せるだけでも我慢できないみたいです。付き合わされる玉兎さんたちはご愁傷様ですね」

「そこまで分かっているならいいですわ。世界より何より先にこのままでは幻想郷が滅んでしまう。それだけは許すわけにはいきませんもの。そのために貴方たちの力利用させてもらいますわ」

「お互い様だよ紫殿、敵の手が世界に届く前に叩き落とす。その場に幻想郷を使わせて貰うんだからね。まあ逆に言えばそこで負けるわけにはいかないわけだ」

 

  神が襲い掛かってくるなどという話にいったいどれほどの外の人間が耳を貸すか。烏合の集はただの邪魔な壁になり出せる手が出せなくなり、出せる足が出せなくなる。

 

「幾らかの助っ人に声はかけられたがどうなることやら、豊姫に依姫に天探女に嫦娥。半端ないな笑えてくる。だがやらないわけにもいかない。俺たちの終わりにはこれで丁度いいだろう」

 

  千三百年も続けて来た物事を終わりにするには中途半端な結果では意味がない。かぐや姫は攫われていなかった。それで見つけましたお終いでは、納得できないほどに長く惰性とも言える年月を積み重ね過ぎた。必要なのはその呪いを打ち砕く劇的な終わり。それにこれは丁度良いと言える。月の神を追い払えれば、もうかぐや姫も大丈夫だと胸を張って言えるだろう。そう思い笑みを浮かべる藤に「こちらまで一緒に砕かれなければいいですね」と、笑顔の櫟から毒が吐かれげんなりと藤は窓辺にしな垂れ掛かった。

 

「冗談でもやめてくれ。ただでさえ短い寿命がさらに短くなっちまう」

「そのまま倒れないでよ藤。これから幻想郷に行くのでしょう?」

「藤さん今すぐ行かれるんですか?」

「夜に行ってもしゃあないし早朝にはな。こういうのは早い方がいい。先に行ってるよ」

 

  外の世界で打てる手はもうほとんど打ってしまった。無論手を打ち過ぎるということはないが、打ち終わるということもない。次に打つ手は全て幻想郷の中にある。まだ月軍と戦う気のない者たちを戦線に引っ張り出さなくてはいけない。スカウトマンのような仕事は似合っていないとため息を吐きながら藤はまた電子タバコを咥える。

 

「そんなわけで朝には頼むよ紫殿」

「貴方の場合体質のせいでどれだけ細かく術式を組んでもスキマを出た先の位置がズレるから適当に送るわよ。だからと言って身の危険を感じても殺し過ぎてはダメよ藤」

「わざわざ味方の戦力を削ぎはしないさ。それに俺は運動が苦手なんだ。戦闘は嫌い。平和主義でいこう」

「どの口が言うんですか? 存在がCWC*2に引っかかるような人が。バレたら極刑ですねお可哀想に」

「なあそれが国境なき医師団にめっちゃ寄付してる医療薬品会社の会長に言うことか? ここの入院費だって全部俺持ちなのに」

「ああ、恩着せがましい。お金を盾にあんなことやこんなことをするつもりです」

「しねえわ⁉︎」

 

  咳き込みながら櫟の言葉を否定して、無闇矢鱈と散った白煙を藤は手を振ってより散らす。「はぁ」と一息ついて呼吸を整え、逃げるように藤は病室の入り口に向かう。煙を引いて歩いていく男の背に、「ではまたすぐに」と櫟が声をかければ、藤は軽く手を挙げ返して出て行った。部屋に残っていた白煙は風に流されあっという間に散ってしまい、藤の痕跡はすぐになくなる。静かになった病室で、もう取り繕う必要もないと起こしていた半身を倒し櫟は柔らかなベッドに沈み込んだ。

 

「はあ、もう行きましたでしょうか。藤さんにあまり心配かけたくありませんから」

「苦労人ね櫟。治りかけでもまだ痛むみたいね」

「私敏感肌ですから。紫さんが近くに居るだけでも妖力でチクチク、肌が荒れそうで」

「はいはいそろそろお暇するわよ。……櫟、幻想郷の有力者には先に話は通しておくからその時は頼んだわよ。平城十傑の参謀さん」

「勿論です。ただ私よりも陰謀家の方を放っておかない方がいいと思いますけどね。藤さんは目を離すとすぐにどこかへ行ってしまいますから。風に乗って流れていく煙のように」

「留意しておきましょう」

 

  そう言葉を残して音もなく紫は姿を消した。誰の目にも見えずとも、肌で感じる空間のスキマ風に腕をさすりながら櫟は悩ましげに吐息を零す。出来るだけ早く友のいる地へ向かうため、意識を自分の内に向けて櫟は夢の世界へ旅立った。

*1
形状はbluとかいうやつを参照。上部がカートリッジ式で簡単に味とか換えられる。

*2
化学兵器禁止条約



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二幕
竹取物語


「──今は昔、竹取の翁といふものありけり」

 

  国語の女教師が読む教科書の一文に目を落としながら、心の底から少女はため息を吐く。なんともタイムリーな授業内容は、これまで少女が好き勝手やって来たことへの罰なのか、他の生徒の寝息や貧乏ゆすり、小さな話し声に混じって聞こえてくる竹取物語の一節に少女は覚えた頭痛をこそぎ落とすように頭を掻いた。

 

  別に少女は竹取物語のことが嫌いではない。日本最古のSF物語。夢と悲哀の詰まった物語は面白いとも思う。だが、物語とは観客として眺めているからいいのであって、その渦中に放り込まれるとなれば別だ。それもより壮大で危機的なものとなればより強くそう思う。先日空中に突如開いたスキマよりひらひらと雪のように少女の頭上に舞い落ちて来た一枚の紙。そのたった一枚の紙が問題だった。差出人が誰かは手紙を見なくても分かった。手紙を手に取った少女が急いで広げた手紙の最初に書かれていたのは、『頼みがある』と。

 

「──さん、宇佐美さん」

「は、はい!」

 

  考え事に集中していたせいでつい宇佐美菫子は強く返事を返してしまう。教師に怪訝な顔を向けられ、羞恥から菫子の頬に赤みが差した。これも全てスキマ妖怪のせいだと心の中で悪態を吐く菫子に、教師は教卓の上に手に持った教科書を置くと、疲れたようにホッと一度息を吐いた。

 

「宇佐美さん今日は起きているみたいね。それで?」

「あー、なんでしょう」

「かぐや姫が月に帰ると聞いた時の帝の心情をどう考えるか。そう聞いたのよ」

 

  そんな文章問題みたいな質問をするなと目を泳がせて菫子は考える。美しい姫が手が届かない場所へと行ってしまう心境など、どれだけ考えても菫子には経験がない。異世界の研究をしている菫子からすれば、落ち込んでないで会いに行く方法を考えろボケと言いたい。が、それを言ったところで教師から花丸を貰えないことが分かるので、あまり自分を出さずに脳に浮かんだ客観的意見を弾き出す。

 

「それはまあ、帰って欲しくなかったでしょうね、その当時最高の者たちを揃えたくらいですし」

「その当時最高?」

「ええ、そうほら平城十傑──」

 

  そこまで言ってしまったと菫子は顔を顰めた。案の定教師は馬鹿を見る目で固まっており、周りからもくすくすと笑い声が聞こえてくる。

 

  平城十傑。かつてかぐや姫を月の使者から守るために帝が招集した十の一族の当主たち。その存在を知る者はほとんどおらず、だいたい竹取物語を史実だと考える者もいない。今度は深く考えなさ過ぎたと菫子が後悔してももう遅い。最近脳にインプットされたばかりの話は新鮮で、その鮮度を保ったまま出荷されてしまった。教師は呆れたように、これ見よがしにため息を吐き、教卓の上に置いた教科書を手に取った。

 

「はぁ、宇佐美さん、今は漫画の話をしてるんじゃないの。教科書を見なさい。変な活動に熱心なのもいいけれど、学生の本分は勉強よ」

「……はい」

 

  どっちが無知だこの野郎と食ってかかることもなく、菫子は椅子の上で縮こまった。例え菫子しか知らぬ真実があったとして、そのほとんどは常識には勝てない。鬼も、河童も、天狗も、全ては想像の産物で、夢に見ようとも実際に見ようと思う者はいない。神が攻めて来ると聞き、それを信じる者もいない。

 

  世界の命運を小さな教室の中でただ一人知っている。口を大にして菫子はそれを叫びたいが、もし試せば狂人認定の印を押される。苛立たしげに机の天板を指で叩きながら毒にも薬にもならない授業を聞き続け、授業終了のチャイムと同時に菫子は教室を飛び出した。

 

「ちょっと! 宇佐美さん!」

「ああ! 先生! その今日は部活の大会なんです!」

「あなたの部活大会ないでしょう!」

 

  学校の廊下に木霊する教師の声と競争するように走っていた菫子の体は、曲がり角を曲がると加速した。地面にリズムよく落とされていた足の影は、足音を消して小さな影が一つ廊下に落ちる。揺らめくスカートは風に揺れ、重力が消えたように少女が舞う。空を蹴り学生たちが教室の扉を開けるのを横目に、菫子は一つの教室へと滑り込んだ。

 

  『秘封倶楽部』

 

  異世界の秘密を暴く非公認サークル。部員数は驚異のひとり。机の椅子にかけてあったマントを羽織り、机の上に置かれている黒い三角帽子を被れば秘封倶楽部初代会長の出来上がりだ。マントをはためかせて掛けている眼鏡の位置を直し、菫子は椅子へドカリと腰を落とした。

 

「あぁぁぁ、どうしよ」

 

  情けない声を上げながら机の上に上半身を倒し両手でバシバシ机を叩く。竹取物語。幼き頃から知っている物語。菫子はかぐや姫本人だって知っている。だが、それに纏わる平城十傑のことなんて露とも知らなかった。キラリと光るレンズの向こう、机の上に置かれた手紙を見つめて再び手に取る。八雲紫から送られて来た一枚の紙。最後の意思表示の確認に二人の人間に会えと書かれている。

 

  蘆屋家第百二十三代目当主 蘆屋 漆

 

  岩倉家第十二代目当主 岩倉 菫

 

  その二つの名前を見て菫子は頭を抱えた。八雲紫直々の案件、めんどくさそうなことこの上ない。だが断って幻想郷を出禁にでもなったらそれこそ困る。なぜこんな頼みごとが自分に来たのか、そんな菫子の疑問は、手紙に挟まれていた短な一文によって答えられた。

 

  東深見高校。平城十傑の二人はここにいる。この事実を知った時菫子は顔を顰めた。誰かの策謀か。たまたまなのだとすれば運が悪いなんてものではない。手紙にしばらく目を落とし、それをくしゃくしゃ丸めると部屋の隅にあるゴミ箱へ投げる。

 

「あ、……っと」

 

  ゴミ箱の縁に弾かれたちり紙に菫子が指をさせば、床に転がる前に空間に固定される。ゆっくり指を動かしてゴミ箱の上に浮かんで行ったちり紙を見て、菫子はゴミ箱へと落とさずに手元に引き戻した。

 

「はーあ、もう!」

 

  ちり紙を手に取り窓を菫子が睨み付ければ、ひとりでに窓が両脇に開く。滑るように宙を飛び外に出た菫子は、学校の外壁に沿って空へと身を翻し舞い散る落ち葉を掻き分けて校舎を眼下に見下ろした。どこにでもある普通の学校。菫子の目にはそう見える。幻想郷という不思議の箱庭とは比べるべくもない普通。つまらなそうにそれを見ながら、はためくマントを抑え屋上へと足を落とした。

 

  足音もなく屋上へと舞い降りた菫子は歩きながら周りに目を向ける。人の姿はまるでなく、青空といくつかの白い雲に囲まれている。陽に照らされて宙を舞う紅い葉を目で追いかけながら、後者に続く扉へと手を伸ばしドアノブを捻る。

 

  カチャリ、と音を立てて静かに開く扉を見て、菫子はため息を吐きながら首を回す。普段開いていない屋上の扉が開いている。その事実に眉間に皺を寄せ、ペントハウスの上へとふわりと舞い上がった。ペントハウスの上に立った菫子の目は、目当てのものを見つけてしまい小さく目を反らす。

 

  紫からの手紙を見た時、菫子にはそのうちの一人に既に当たりがあった。目を戻した菫子の目の前で横になっている一人の少女。菫子と同じくある意味で学校の有名人。曰く不良。暴走族と喧嘩をした。ここら一帯の高校全てをシメている。そんな噂に事欠かぬ自分とは正反対の世界の住人にわざわざ会いに来ている現状に、菫子はメンドイと雑に頭を掻いた。

 

  少女は菫子が来たというのに目もくれず、昼寝でもしているのか目を瞑ったまま。金色の混じった長い黒髪は鋭く、世の中に反抗しているかのように外へ向かって跳ねている。整って見える顔はだからこそ少女の苛ついた内情を強く表し、切れ長の眉は剃刀のように鋭かった。菫子と同じ制服は、上は同じでもスカートは足首が隠れるほどに長い。一時代前のスケ番のようなスタイルに菫子は呆れながら、恐る恐る少女に声をかける。

 

「あのー」

 

  小さな呟きは秋風に流され、少女に届いていなかったのか返事はない。少し待ち全く少女から返事がないのに内心で舌を打ちながらもう一度口を開いた。

 

「あの、蘆屋さん? ……蘆屋さん聞こえてます? ああなんで私が、蘆屋さん!」

「ウゼエ、あたしになんか用か」

 

  急に身を起こした漆の顔が菫子の鼻先に突き付けられた。一体いつ立ち上がったのか。驚き目を瞬いた菫子の目の前から漆の姿は消え、目を擦った菫子の前には変わらず横になった漆がいる。ただし閉じられていた目は開けられ、青い瞳が菫子の顔に向いていた。

 

「で? テメエ宇佐美だったか? 学校の鼻摘まみ者があたしになんの用だよ」

「んなっ、それは貴女もでしょうが。だいたいさっきのはいったい?」

「んなことよりテメエは自分の格好をどうにかしな」

「な⁉︎ 格好いいでしょうが! はあ、これだから凡人は!」

 

  菫子のファッションセンスに首を振りながら、渋々漆は立ち上がる。菫子よりも頭半分背の高い漆は威圧感があり、一歩菫子は足を下げた。その足は虚空を踏み抜き落ちそうになるが、慌てて帽子を抑えながら虚空を踏む。風に揺れるマントに片眉を上げ、隠すこともなく漆は舌を打った。

 

「テメエ、なんだ?」

「それはこっちの台詞なんだけどね平城十傑さん」

「テメエ……ッチ、藤の回し者かクソ! あいつに言っとけ、世界とか知らねえんだよ!」

 

  平城十傑。その単語に初めて強く漆は答えた。鋭く尖った瞳は刃物のように菫子の抵抗心を切りつけて、喉から出かかった言葉を詰まらせる。身を翻し背を向ける漆の姿に、私に当たるなと欲しくもない頼みを受けてイライラがせり上がってきた菫子は、同じくそっぽを向いてズレた眼鏡の位置を直した。

 

「はぁ、藤って誰なのか知らないけど、これだから不良の相手は嫌なのよね。話にもならないし」

「あ?不良だ? 誰のことだそりゃ」

「貴女しかいないでしょうが、喧嘩の噂には事欠かないし、こんなところで授業サボって」

「喧嘩は向こうから勝手に吹っかけて来て勝手にくたばってるだけだ、それにサボってるわけじゃねえ」

「はいはい、だいたい不良ってそう言うのよね」

 

  この野郎! と噛み付こうとして、途端に馬鹿らしくなり漆は止まる。学校の中でも一段と変な噂に事欠かないのは菫子も同じ。そういった変人と進んで関わろうとは漆も思わない。なによりも平城十傑という全く世に浸透していない言葉を知っている少女。それだけで厄ネタであるのは明らかだった。奇術師のような格好をしているコスプレイヤーの相手はもうやめたと屋上から去るため足を動かす漆を止めたのは、菫子の零した言葉に含まれたたったの一言。

 

「夢のある話だったからちょっと期待してたけど、不良を従えたんじゃ『かぐや姫』も可哀想ね」

「テメエ避けろ‼︎」

 

  憐れみの言葉を零した菫子に返されるのは漆の叫び。急に形相を変えた漆に首を傾げる菫子だったが、次の瞬間視界が飛んだ。

 

  音が消えた。体の感覚も。身に降りかかった砂埃と、遅れて聞こえてくる瓦礫の崩れる音。ぷくぷくと顔を出す体の痛み。目の前に刻まれた屋上の一本傷を見て、ようやく菫子は何かに殴られたということに気づく。

 

「やめろ『ウルシ』!」

 

  ふらふらと立ち上がった菫子は、漆の側に立つ異形を見て目を見開いた。

 

  背が高いと見える漆よりもなお背が高い。十尺はありそうな長身は、ボロボロの黒い十二単に包まれて、床に引き摺られその端は千切れて擦り消えている。足元に垂れた黒髪は滝のようで顔さえ隠し、黒い髪の隙間からは血走った赤い瞳が覗いていた。細いが異様に長い二つの腕の先には、針金のように細く長い指が五つづつ。全体として人の形はしていても、絶対に人でないと言える。屋上に突如現れた異形に固まった菫子の前に漆が立ち塞がり、犬を躾けるように地面へと指を突き付けた。

 

「かぁぁぐぅぅぅやさぁぁまぁぁぁ」

「うるせえ黙れウルシ、さっさと消えろ。かぐや姫は居ねえ」

 

  悲しげに泣くような女の声が怪物から漏れ出ると、かぐや姫の名を口にしながら蜃気楼のように姿を消した。夢のような光景を見て漆の方へおぼつかない足取りで歩く菫子へと漆は振り返り、不機嫌そうに頭を掻いた。菫子の体に大きな怪我がないのを確認すると、「大丈夫かよ?」とぶっきらぼうに言い放つ。

 

「いやまあ、バリヤは間に合ったし。……それより今のは?」

「うるっせえ、どうせ藤か櫟か梓とかに聞いてんだろ。さっさとどっか行け」

「いやその人たちが誰か知らないんですけど」

「あ?なんだテメエ意味分かんねえ。ならなんであたしに話しかけた」

「いやちょっとした妖怪に頼まれまして」

 

  「妖怪?」と怪訝な顔をして漆は手を振った。どんな者が関わっているのか知らないが、少なくとも漆は相手をしたくない。そんな漆に「あのあれは?」と好奇心を振り撒く菫子をあしらう為に、削れた屋上の床の破片を漆は蹴り上げた。

 

「……式神だ。あたしの一族は陰陽師だかんな。式神というより呪いだが」

「呪いですか?」

「ああ、千三百年前にいたらしい初代からのいらねえ置き土産だクソ! そんなわけで誰の頼みであろうが世界なんて気にしてる場合じゃねえ」

 

  歩き去っていく漆の背を見て、菫子は人知れず口角を上げた。夢は夢ではなく、御伽噺は御伽噺ではなかった、幻想郷で見れるような光景が、今まさに目の前に広がっている。人のようで人ではない存在が自分以外にも身近にいるという現実が、頼まれごとの面倒さは別として、喜びとして菫子の内に広がった。

 

「まあ待ってよ蘆屋さん」

「ああ? なんだって?」

「一応私も頼まれたから聞かなきゃいけないのよ。幻想郷に来るかって」

「行かねえ、世界を救うなんて勝手にやってろ」

 

  隣にふわりと並び立つ菫子を追い払うように腕を振り、漆は歩く速度を上げる。刺々とした空気を周りに放つ漆の近くにいるのは危険そうだと足を止めて、菫子は持って来ていたちり紙を開き、書き綴られた文字に目を這わせた。

 

「あー、一応これが最後ってことで、えー幻想郷にはかぐや姫がいる。呪い解けなくていいのかだって」

「あ? は? はあ⁉︎ ッチ! 藤と櫟の野郎黙ってやがったな‼︎ かぐや姫だと……、かぐや姫かぐや姫うるせえ‼︎」

 

  ピリピリと空気を震わせる漆の感情に呼応して、漆の影がゆっくり伸びる。太陽の向きとは関係なしに伸びていく影からずるりと長い腕が伸び、屋上の床にペタリと落ちた。望外の膂力に軋む屋上の床は簡単にヒビが入り手の動きに合わせて削れていく。かぐや姫を呼ぶ泣き声をあげながら、外に飛び出る式神を見て漆の目がひどく歪んだ。

 

「ウルシ出てくんじゃねえ! 毎度毎度勝手に出て来やがって鬱陶しい! おいテメエ、宇佐美! 今言ったことに嘘はねえんだろうな! 嘘だったらウルシに千切らせるぞ!」

 

  何をと漆は言わなかったが、細長い手に掴まれて上半身と下半身が離れ離れになる自分の姿を想像し、何度も菫子は頷いた。それを見た漆は醜悪な笑みを浮かべながら、隣の怪物を手で叩くと足早に菫子に近寄り肩を叩く。

 

「ならさっさと連れてけ案内人。あたしはさっさとこれとおさらばする!」

「いやあの、もう一人話さなきゃいけない相手がいるんですけど」

 

  菫子の手に持つ紙を漆は覗き込み天を仰いだ。その名と東深見高校の字を見て舌を打つと、菫子の手を取り引っ張っていく。

 

「ちょちょっと⁉︎」

「場所はあたしが教えてやる! どうせあそこだ! ッチ、全然気づかなかったぞあの野郎」

 

  歩みを止めぬ漆に菫子は諦めたように抵抗するのをやめて掴まれた腕を払うと隣を歩く。宇佐美菫子と蘆屋漆。問題児二人が並び立って歩く姿に、学生達は進んで道を開けた。

 

 

 ***

 

 

  広いとは言えない東深見高校の図書室は、生命の休息日とも言える冬が一足早く訪れたように静まり返っていた。だがそれは耳に心地のいい静寂ではない。不発弾を投げ込まれ、それを刺激して破裂しないように息を飲むような静かさだ。内部の危うさは扉を閉められていても外へと滲んでおり、廊下を歩く生徒たちは巨大な箱の中身は何だろなに挑戦することもなく、ちらっと目を向けるだけで離れていく。

 

  もし廊下を歩く生徒たちの中で誰か一人でも好奇心に負け図書室の扉を開けてくれれば換気ぐらいはできたのだが、そうでないせいで中の空気はどんどん悪くなる。それもこれも不発弾となっている二人の少女のせいであり、一人を除き図書室にいる生徒からすれば堪ったものではなかった。

 

  二つの不発弾の一つは宇佐美菫子。入学早々『秘封倶楽部』という非公認オカルトサークルを立ち上げた変わり者。面白おかしく活動しているならばまだしも、大真面目に不思議を追い求める彼女は、机をベッドと勘違いしているのではないかというほどの授業中の居眠り常習犯でもあり、はっきり言って不気味である。それをマントに三角帽子という格好が強く後押しした。

 

  二つ目はもっと分かりやすい。蘆屋 漆。時代錯誤の女番長。進学校である東深見高校にあって、数少ない不良の彼女を嫌う者は多い。その多くは事実無根な風聞によるものではあったが、彼女自身の体面の悪さと、気の強さがそれを助長し、少なからず触れずらい空気を纏っている。

 

  そんな二人がなぜか一緒に図書室を訪れたとあって、生徒たちの心中は穏やかではない。何か起こるのではないかという期待と恐怖。漆のせいで若干後者に傾いている天秤は、一定感覚ごとに後者により傾いていく。

 

  それは時折図書室の静寂を打ち破るパチリッ、という音のせい。火打ち石を打ち合わせているような音は二人の少女が顔を向けている先から発せられており、いつ着火してもおかしくはなかった。

 

「あーうちの部に、いやなんでもないです」

 

  図書室に入って来てから一言も喋らない少女二人に意を決して少年が話しかけようとしたが、ギラリと二人の少女に目を向けられ引き下がる。そんな部長である少年に他の生徒たちからジト目が送られるが、少年は全スルーして席に戻った。

 

  図書室を借りて活動をしているボードゲーム部。およそ荒事とは無縁の部がなぜか修羅場のようになっている。そんな空気に気づいていないのか、パチリッ、とまたひとつ音が鳴る。

 

  そんな中菫子は他の生徒と違い冷や汗など流すこともなく隣の漆をちらりと見た。漆が見ているのは一人の男子生徒。黒い碁石をひとつ持ち、目の前の机に置かれた十九×十九のマス目へとまたひとつ置く。少女二人を気にすることもなく碁石を置き続ける少年に業を煮やし、漆は両手を叩きつけるように机に置いた。

 

「なんや先輩、ぼくになんか用ですかー? 秋にもなって新入生いびり怖いわぁ」

「テメエ私よりずっと年上だろうが、ふざけたこと言ってんなよ菫」

「え? 私何も言ってないけど」

「は?」

「今私のこと呼んだでしょ?」

「いや呼んで、はあ、テメエ名前は?」

「菫子」

 

  紛らわしい!と漆は机を一度叩き、菫子の相手をやめて菫と呼んだ少年へ顔を戻した。

 

  紫っぽい黒髪を短く切り揃えたどこにでもいるような少年。髪色こそ少しおかしいが、少なくとも菫子にはそう見える。漆や菫子のように格好がおかしいわけでもなく、学校指定のブレザーを着ている高校一年生。だが、漆の言った年上という言葉が引っかかり、少年の首元にある校章に目を向け眉を寄せた。

 

「……留年?」

「失礼やな先輩、ちゃんと一年生やで、何回目かは分からんけど」

「うるせえ、それよりちょっと面貸せ」

「わー、イジメやー、助けて先輩ー」

 

  助けを求める菫の声に全員手元のボードへと目を向けることで逃げた。「あれま」という一言を残して漆に引き摺られていく菫の後を菫子も追った。図書室を出てしばらく菫は引き摺られていたが、他の生徒の目が気になったのか諦めて自分で立つ。紅葉した葉が舞う外の景色へ顔を向ける菫の胸ぐらを漆は掴んだ。

 

「菫、テメエは知ってたのか? かぐや姫が幻想郷にいるってよ」

「あーそれな、藤と梓から聞いたわ。まあぼくには関係あらへんな。世界もかぐや姫もどうでもええ」

「だってよ宇佐美、話はこれで終わりでいいな」

「え? そんなのでいいの?」

 

  話は終わったと菫の胸ぐらから手を離す漆に顔を向けながら、菫子は両手を挙げてため息を吐いた。同じ平城十傑という枠組みの中にあって仲がいいわけでもないのか、菫は掴まれていた胸ぐらをはたきネクタイの位置を直す。

 

「そんなんで連れ出すなんてひどいわー。でもそう言うってことは漆は行くんやね」

「なんだ悪いか」

「別にええんやない? また初代みたいにかぐや姫のお守りに行けばええやん」

「テメエ!」

 

  嘲笑の入った菫の声に怪物の手が影から伸びる。廊下の壁をスポンジを毟るように簡単にちぎるだろう怪物の腕は、振るわれた先の菫を確かに捉えた。がりがりとコンクリートを削る音は壁からではなく廊下の床から。足の大きさの線を廊下に刻みながら、菫は顔を崩すことなく受け止める。受け止めた手と反対の菫の腕はゆるりと漆の方へと伸ばされ、広げた手は人差し指と中指の間からキリキリと言う音を立てて二つに開かれた。腕の内部に見える歯車の間から迫り出して来るのは金属の筒。真鍮色の長い筒は狙いを漆の顔へと定め、空気を吸い込み低い呼吸音を繰り返す。

 

「やっぱり蘆屋の一族は短気で困るわ、進歩ないなあ」

「このガラクタ野郎が、絡繰(からくり)もブリキ製に変更か?」

「君らと違ごうて、ぼくは日進月歩なんよ。今の世の中ぼくに丁度良くてな」

「歳だけ重ねた老害が、潰せウルシ」

「あーそ、人のままでぼくに勝てるわけないやろ」

「い、いやいやちょっと!」

 

  二人の距離が強引に離される。見えない手に掴まれたような体の自由の効かなさに漆と菫の顔が歪み、間に歩いて来た菫子へと向けられた。怪物を従える少女とカラクリ少年を困り顔で見比べて、がっくりと菫子は肩を落とす。

 

「なにやってるのよ、場所を考えて!」

 

  幻想郷なら見ててもいいが、ここは勝手知った外の世界の学校である。未解決事件になりそうな案件をほいほい学校で起こされても困るのだ。秘密を暴く秘封倶楽部でも、秘密を隠すどころか大いに振るう二人の前では常識を語らなければならないのか、自分の立ち位置が嫌になり菫子は強く舌を打つ。

 

「目を背けられるために目立つのはいいけど、目を向けられる目立ち方はいやよ。それも外でね」

「くくっ、面白いなあ、えぇ? 君は幻想郷の関係者なんか? ふーん」

「宇佐美テメエさっきからなんだそいつは、テメエなんなんだ?」

「こっちが聞きたいわ、私は宇佐美菫子、超能力者よ。で? 貴方たちは? 名前は聞いてるけど」

「ぼくは見ての通りや。岩倉家十二代目当主 岩倉 菫。名前お揃いやね。歳は六百歳くらい?」

 

  菫の歳を聞き少し驚いたが、幻想郷での日々を考えれば珍しくはないのか? と菫子は一人飲み込む。ゆっくりと廊下の床に二人を下ろせばもう暴れはしないようで、菫は怪しげな笑みを浮かべ、漆は「……超能力者」と言いながら舌を打つ。自己紹介をしない漆に二人の目が集中し、いらねえだろと思いつつ漆は嫌々口を開いた。

 

「……蘆屋 漆だ。もういいだろ、さっさと幻想郷に連れてけよ宇佐美」

「そやね、ぼくも頼むわ」

「はあ⁉︎ テメエさっきと言ってること違うじゃねえか!」

「幻想郷って忘れられたもんが流れ着く落し物箱や廃棄場みたいなとこだと思っとったんやけど、思ったより楽しそうや。興味湧いた。こんなことなら梓も藤もはよ言ってくれればええのに」

「知るかウゼエ! ッチ! おい宇佐美、もうどうでもいいからさっさと連れてけ! こいつの相手はもうしたくねえ!」

「いやそれはいいんだけど……」

 

  怪しげな笑みと怒ったような漆の二つの顔を受けて、菫子は目を反らす。幻想郷への行き方を菫子は知ってはいるが、連れてくとなると別である。なにより菫子は行くか行かないかの確認を取らされているだけだ。だが、「連れてき方は知りません」と言おうものなら、影からまた手が伸びて来そうな状況に、手紙になにか書いてあったかとポケットからくしゃくしゃのちり紙を急いで広げた。

 

「……あれ?」

「んー? どうかしたんか?」

「いや、これって」

「ぁあ? なんだよ意味分かんねえ、なんか書いてあんのか? 貸せ!」

 

  菫子の手から手紙を引ったくり目を落とした手紙の文面が、漆が覗き込んだ時より変わっている。

 

  いや、今まさに変わっていた。

 

  ずらずら書き綴られていた文字はぐるぐると掻き混ぜらるように渦を巻き、短いたった一行の言葉に変わった。

 

  紙が急に紫色の炎に包まれ焼け落ちる。慌てて手を離した漆の目の前で、焼け落ち消えた紙の代わりに、文字は消えず宙に刻まれていた。

 

  『ようこそ幻想郷へ』

 

  六つの目はその一文に一瞬固定され、互いに顔を見合わせる。

 

「あーっと、これは……なんや?」

「おい宇佐美」

「いや私に聞かれても」

 

  そう呟いた菫子の言葉を最後に、三人の姿は学校から消えた。地面にぽっかり空いた異世界への扉が閉じてしまえば、残されるのは廊下の床に残った爪痕だけ。百目鬼の群れに放り込まれたような空間に叩き込まれ、重力も浮遊感もなく地のない世界を三人は回る。

 

「宇佐美! なんなんだこれは!」

「だから私に聞かないで⁉︎ でもこれは確か紫さんの!」

「あー、多分それぼくら三人が一定時間一緒に居たから発動したんやない? やらしいわ。藤のやつ、いかん言うたのにぼくの気が変わらんでも連れてく気やったな。いやそもそも菫子ちゃんみたいなのが来たあたりがもう……。その紫いう子とも仲ようできん気がするわあ」

「んな考察いらねえんだよ! あいつら全員覚えてやがれ!」

 

  叫び声は反響せずにスキマへと飲み込まれていく。無数の目は新たな来訪者を歓迎するように、三人に向けて緩やかに弧を描いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不死の樹海

  富士山。日本で最も月に近いこの山には、日々多くの登山客が訪れている。そんな富士山の周りは深い山に囲まれており、山道こそ人の影をそれなりに見るが、森の中は別だ。薄暗い森の中は迷宮であり、蠢く影は怪物のように影にも見える。目に見えない壁に阻まれているかのように人は森の中に踏み入らず、踏み入るのは仕事か、それともある種の物事を決めた者だけ。

 

  死を決めた者。自分で自分の命を断ち切ると決めた者は容易に不可視の壁を乗り越えて富士の樹海にやってくる。キィキィと揺れる富士の樹海に実った新たな死の果実を見上げて、「なんまんだぶなんまんだぶ」と口ずさみ、二ッ岩マミゾウは肩に落ちて来た枯葉を手で払った。

 

  風が吹けば炎が揺らめいているようにも見える秋の富士の森の中を大学生が歩いている。一見するとそうとしか見えないだろうが、その実情は違う。佐渡の狸の御大将。二つ岩大明神として祀られてさえいる大狸。普段は大きな綿菓子のような尻尾を揺らし、凛々しい耳で風を切る少女も、今はジーンズにワイシャツ。その上に黄緑色のカーディガンを羽織った人間に化けていた。

 

  別に旅行に来ているわけではない。秋に山に行くのなら少なくともマミゾウも八ヶ岳や奥羽山脈を訪ねる。昼間でも不気味に見える秋の富士の森の中を歩き、目当てのものを見つけて足を止めた。

 

  結界のように枯葉のない地面を色付いた落ち葉が囲っている。炎に穴が開いているような景色に鼻を鳴らしながら、マミゾウはくしゃりと枯葉を踏み越え、音を吸い込む土の上に足を置く。

 

「こんなところに何か用だにか? おんしのような大妖怪がよ」

 

  その足を押し返すような声が木々の隙間から風に乗って運ばれてくる。それは眼鏡を押し上げたマミゾウの目の前に物言わぬ石のように身じろぎせずに座っている。少し赤みがかった学ランに身を包み、畝った髪を風に揺らす四角くゴツいサングラスを掛けた男。男の視線がどこを向いているのかは分からないが、顔がマミゾウの方へ向いているのを確認すると、マミゾウは息を吐き目の前に落ちて来た葉を吹き散らす。

 

「お前さんよく分かったのう、なぜ分かった?」

「見えるからよ。おれにはな」

 

  そう言って男は足元に置いてあった登山用のコップを手に取り口に運ぶ。顔はマミゾウの方に向いたまま、ただ相変わらずどこを見ているのかは分からない。自分の化けの皮が剥がれていないのを頭へと手を伸ばし耳に触れないことで確認しつつ、マミゾウは足を動かすことを再開する。

 

「見える? 唐橋という一族と同じく心眼とかいうやつの使い手か?」

「いや、言った通りだに。おれにはそのまま見えている。その立派な尻尾もな」

 

  マミゾウは背後へ振り向き尻尾が揺れていないのを確認して頭を掻いた。変化には少しの乱れも見られない。だというのに男は見えていると言う。そのおかしさに笑いながら、マミゾウは男の前に立つ。サングラスの奥の瞳を覗き込もうとマミゾウは身を乗り出すが、男にそれに合わせて顔を上げられ阻まれる。

 

「噂に違わず変わってるのう。平城十傑、六角 (さいかち)

「……おれを知ってるのか?」

「まあの」

「……そうだにか」

 

  それだけ言って梍はサングラスへと手を伸ばしそれを外す。黒いレンズの向こうには、同じく暗闇が広がっていた。夜空の闇を圧縮したような様々な極彩色が瞳の中で揺れている。それを覗くマミゾウの視界もまた揺らぎ、数度のまばたきの後にマミゾウの前にいたはずの男の姿が嘘のように消え去った。

 

  「ほ?」と声を漏らすマミゾウの体を突如吹いた突風が包み、周りの落ち葉が舞い上げられる。カラカラと音を立てながら加速していく落ち葉たちは渦を巻き、マミゾウは紅色の竜巻の中に囚われる。太陽の陽を透かしていたはずの木々はざわざわと鳴き喚き、細長い足を大地から掘り起こす。

 

「……幻術か?」

 

  紅色の竜巻を貫いて伸びる槍のような根はマミゾウの足に巻きつき締め上げる。現実味の薄い光景は、痛みをもって現実であるとマミゾウの脳へと忍び寄るが、ぽふん、という間抜けな音と小さな白煙に飲み込まれ、突如空から落ちて来た巨大な信楽焼の狸に全てが踏み潰された。非現実には非現実を。富士の樹海に突然現れた信楽焼もまた、すぐに風に流され形を変える雲のように傾き倒れると、間抜けな音を立てて姿を消した。

 

「……やるな。これを狙って来ただけのことはあるだに」

「これ?」

 

  富士の暗闇から滑り込んでくる梍の声。未だ姿を現さず、マミゾウの元に声だけが運ばれてくる。木を背に辺りを伺うマミゾウは、目を細めながら注意深く観察するが、液体のように形を変えた木の肌に腕を掴まれそうもいかなくなる。

 

  技の出も原理も分からぬ幻術に顔を歪めながらも、手を化けさせてその場を離れる。生き物のように動く木々。風向きも気にせずに森を駆け抜ける生温い風。魔力も霊力も肌では感じない。梍を探し上を向いたマミゾウの足は、ずるりと落ち込み目を向ければ、落ち葉の中に足が沈んでいる。それも際限なく底なし沼のようにズブズブと落ち葉の海に沈んでいく足を見て、マミゾウは空を飛ぼうと力を込める。それを抑えるのは紅い海から伸びてくるいくつもの根っこ。イカの足のようにマミゾウに巻きつく。そのままマミゾウの体を引き、落ち葉の中に沈み込むマミゾウを止めるものはいない。

 

  ぬるい感覚に身を浸し、頭の先まで引きずり込まれ息を大きく吸い止めるマミゾウの意識は、目を閉じてなお続き、暗闇がぐるぐると渦を巻く。暗黒の渦の中心から真珠のように白い骨の手が伸びる。頭の中で伸ばされた腕はマミゾウの首を掴み、強引に口を開けさせた。頭の中とリンクして口を開いたマミゾウの口に流れ込んでくるのはコーヒーの香り。驚き目を開けたマミゾウの前には、初め会った時と同じように梍が岩の上に座っており、カップを傾けていた。サングラスを掛けて。

 

「無駄な殺生をする気はないだに。これに懲りたら帰ってくれ」

「……今のはお前さんか?」

「ああ、おれを知ってるなら分かるだろう?」

「いやいや、知ってるのは名前だけじゃ。おっかないのう、化かされたのは久し振りじゃな」

「なに? 名前だけで会いに来たのか? なぜだにか?」

 

  周りの景色が変化しないことを確認しながら大きく息を吐きマミゾウはその場に腰を下ろした。どんな目にあったのか。そんなことは梍には分からないが、よくないことだろうことは分かっている。だがどんな目にあっていようと暴力にすぐ訴えず、その場に居座る豪胆さに梍は舌を巻いた。それだけでマミゾウがやはりそこらの木っ端妖怪とは違うという証明になる。そんな妖怪が何の用で訪ねて来たのか。興味半分、怖さ半分で梍は聞く姿勢を整えた。攻撃の姿勢を崩した梍を見てマミゾウは短く息を吐き、少し前に自分のところにやって来たスキマ妖怪の言葉を思い出す。

 

「月から敵がやって来るそうじゃ。お前さんの力が必要なんじゃと」

「……それは」

「お前さんと同じ平城十傑の藤と櫟とかいう二人が探しとるんだと、そうある妖怪から頼まれてのう。儂が探しに来たというわけじゃ」

 

  サングラスを外して目頭を指で抑える。目を閉じていてもびくりとマミゾウの耳が跳ねたのが梍には見えるため分かったが、マミゾウがまた幻覚を見ることはない。藤と櫟が絡んでいる。それだけで梍には面倒ごとであるということが分かった。なによりも『月』というワードが絡んでいるあたりとびきりだ。手に持ったカップを足元に置きながら、梍は目頭から手を離し目の前のマミゾウを見据えた。

 

「……なにが来るだにか?」

「月夜見じゃと。世界が滅ぶと」

「神か……、なるほど笑えるな」

 

  押し殺すように笑いながら梍は天を仰ぐ。人の世には馴染めない。だから人のいない場所を渡り歩くような生活に身を落としていたのに、世界が滅ぶと言われては笑うしかない。笑う梍の瞳が彩雲のように輝くのを見ながらマミゾウは自分の膝に肘をつき、突き立てた腕に顎を乗せる。

 

「それで? おれにどうしろと?」

「幻想郷という場所が戦いの場になる。そこに来て欲しいそうじゃ」

「なるほど、で、おんしが案内人といったところだにか」

「ま、そんなところじゃ。それでどうする?」

「行こう」

 

  即決して梍は足元のカップを取り飲み干すと背後に置いていたバッグに放り込む。バッグを背負い立つ梍を見上げながら、思ったより簡単に決めたなと探索の面倒さを思い出しながら、マミゾウも笑った。膝を一度強く叩くとマミゾウもまた立ち上がる。

 

「よいのか? そんな簡単に決めて。儂が言うのもなんじゃがかなり面倒そうな案件じゃぞ」

「ここに居ても仕方がないだに。藤先輩と櫟先輩の頼みはいつも面倒だにが、今回は行かないわけにもいかないだに」

 

  肩を竦める梍に、同じく肩をすくめ返しマミゾウは化けの皮をぽふりと剥がす。落ち葉の上に柔らかな尻尾が落ち耳が生えるが、そんなマミゾウを見ても梍がなにか反応することはなかった。『見えている』。そう言った梍の言葉を思い出しマミゾウはつまらなそうに口を尖らせた。

 

「お前さんの目、なんなんじゃそれは? 人の目か?」

「そうとも。人の中で稀に出る邪眼というやつだによ。生まれてすぐに目を潰された櫟先輩のような人もいれば、おれのように逆に優れた目を与えられる者もいる。人生とは思い通りにならないもんだに」

 

  邪眼。または邪視。生まれながらに見た者を呪う瞳。どういう経緯でそれが生まれるのかは分からない。ある種の進化なのか。それとも突然変異か。少なくともいいか悪いかの二択で判断するならば、迷わず梍は悪いと答えるだろう。優しさなどなく見た者に攻撃的な意思を向けるだけで相手は勝手に破滅していく。そんなものを良いと言えるわけがない。

 

  そしてそんなものを現代まで繋いだ一族もまた良いものではないだろうと梍は断じる。邪眼などという特殊なものが毎度毎度一族の中で生まれるわけがない。なら梍の持つ邪眼はなんなのか。簡単だ。外部から持ってきた。邪眼の噂を聞きつけた古い当主はそれを手に入れ、それを自分に移植したのだ。死んだら次の当主に。また死ねばまた次の当主に。邪眼に適応できれば次の当主に。できなければ拒絶反応で死ぬ。そんなことを繰り返して現代まで運んできたパンドラの箱。

 

  それを人の業を嘲笑うかのように邪眼は一千年経っても腐らず、活動も止めずに存在し続けている。その終着点はどこなのか。そんなことは誰にも分からないが、少なくともそれぐらいは良い方に持っていきたいと梍は思う。そのために。

 

「藤先輩も櫟先輩も梓先輩も、終わらせることをいつも考えていただに。今回の件はそれは大きいんだろう。きっと先輩達の目指していたところはこれだ。ならばおれも行かなくては」

「お前さんも、他の平城十傑とやらも大変じゃのう。欲しくもないものを与えられて」

「まあいざという時は便利だによ。嫌いな奴は簡単にあしらえるし」

「はっは、そうじゃろうな」

「で? その幻想郷にはどう行くだにか?」

 

  意外と強かなことを言う人間の肩を叩き、マミゾウは一枚の葉を手に掴み掲げる。なんの変哲もない葉っぱ。サングラスの奥から邪眼で見てもそう見えた。それを梍の頭に乗せながら、マミゾウは微笑んだ。

 

「行く。というより向こうに引っ張って貰うんじゃ。化かすのは儂の、いやお前さんもか、得意分野じゃからな。ふふん、驚くぞ」

 

  指を弾いてマミゾウの動きに合わせて軽い音が梍の頭上から響いた。薄い白煙に視界が包まれたと同時に、視界が伸びていく。背を引っ張られるように富士の樹海の景色は遠のいていき、紅い落ち葉は絨毯のように広がった。次第にその中からポツポツと木造の家屋が下から伸びてきて、それが生え切る頃には伸びた世界は元に戻り、静かだった世界が喧騒に包まれる。それに合わせてまたぽふり、と小さな音が梍の耳を叩いた。

 

  梍の目の前を横切る人影は、怪訝な顔で梍を見ながら通り過ぎる。着た服は灰色の着物であり、足には下駄を履いていた。その奥にいる人もまた同じ。その周りにいるものもまた同じ。周りに目を移した梍の目に飛び込んでくる木造の日本家屋は、外では古めかしいとよく言われるが、今見えるのは真新しいもの。江戸時代にでもタイムスリップしたような光景に眩暈を覚え梍の足がふらついた。

 

「こらこらしっかりせんか。ふふ、視界が急に変わるのは初めてかの?」

「いや、ああこれは……すごいだにな」

 

  支えてくれたマミゾウから離れて、梍は空へと目を移した。風に乗って流れている魔力や霊力に目を見張り目を見開く。外の世界とは空気から違う。小さな箱に遥か太古の幻想を詰め込んだようだった。薄く遥か先に見える魔力はドーム状に世界を包み込んでいるように見え、手をどれだけ伸ばそうともその結界に触れることはない。幻想郷。幻想が行き着く最後の都。至る所に点在する魔力や妖力、霊力の塊に目を見張り、それが消えないか確認するため梍は軽く首を振った。

 

「もう幻想郷だにか? いや、心の準備とかそういう問題じゃないだにな」

「もう少し風情を出すべきじゃったかの? まあでも化かされた仕返しというやつじゃ」

 

  悪戯っ子のように笑うマミゾウに呆れながら梍は首を振る。普段多くの見えないものも見てしまう梍もこれには驚いた。まさしく化かされたような気分だ。だがそれは多くの人の声と、風に乗って流れてくる木の匂いと美味しそうな食べ物の匂いを嗅いで現実だと認識した。途端に鳴る低い音は梍の腹が鳴った音。そう言えば久しくちゃんとしたものを食べていないと思い出し、梍は腹をさすった。

 

「はっはっは! 花よりだんごか? 体は欲求に素直じゃのお」

「仕方ないだに。ここ二、三日野草の煮込みしか食べてなかったから」

「野生動物みたいな生活しとるのう。そうじゃ、折角の幻想郷初日ということで昼は奢ってやろう。詳しい話はその時にでも」

「いいんだにか? なら頼むだに」

 

  バッグを背負い直し梍は歩き出す。向かう先は風に乗って流れてくる美味しそうな匂いの出所へ。薄く宙を泳いでいる白煙は梍だけが見えている。その道標を辿りながら、隣を歩くマミゾウへ目を向けた。尻尾を振って耳を出したマミゾウは、周りの人々から多少の目を向けられてはいるが、騒がれることもなく慣れたように歩いている。世界観の違いにまだ面食らいながら、梍は漂う白煙に目を戻した。

 

「変わった場所だに。そう言えば集合場所とか、拠点とかはあるだにか?」

「ん? いやあ、時が来れば集まるじゃろうがそれまでは好きにしてていいんじゃないかの。儂はお前さんを幻想郷に連れて来いとしか聞いとらんし」

「そんなんでいいだにか? なんとも適当な」

 

  あまりの保障のなさに梍はため息と共に肩を落とす。扱いがあまりにも雑過ぎる。困ったことに野山に放てば無問題ではなく、人間は快適ではない環境にはがっかりしてしまう。いくら人の目を離れた場所を移り歩いていた梍でも、風呂に入ることもあれば食べ物だってスーパーで買う。もしあるなら布団やベッドで寝たいところ。そのどれがあっても手に入るかも分からぬ状況に梍は頭を痛めた。

 

「ひょっとして来たる時まで野宿だにか?」

「そうじゃのう、お前さん以外の平城十傑は勝手に居候になったりして住む場所確保してるそうじゃぞ?」

 

  マミゾウの言葉に梍の頭痛は痛みを増した。

 

「先輩たち逞し過ぎるだに……。どうすればそうなるだに?」

「さあのう。まああれじゃ、儂の知り合いに寺に住み着いてる奴がおっての、それを頼ってみようか」

「頼むだに、悪いだにな」

「困った時はお互い様じゃ」

 

  気の良い大妖怪の懐の深さに感謝しながら、梍は辿っていた場所の終わりを見つける。木造の家の切れ間に置かれた木の屋台。引車にようなそれからは、甘いタレに漬け込まれた鶏肉の匂いが流れて来ており、空きっ腹を直撃してくる。「あそこで」とマミゾウに言いながら屋台を指差した梍はそのまま固まった。

 

「…………楠先輩?」

「あ?」

 

  屋台で焼き鳥の串を持って手慣れた様子で焼いている男に梍は非常に見覚えがある。ワイシャツの上に割烹着を着た楠は、人相の悪さと全く似合っていなかった。屋台の前に立つサングラスを掛けた男の登場に楠はギリギリと歯を擦り合わせると、パチリと弾けた木炭の上に置かれていた焼き筍をひっくり返す。

 

「梍、なんでいやがる。ああいい、藤さんか梓さんに呼ばれたな。ドンマイ!」

「いやまあそうですけど。楠先輩は何して……いやほんとになにしてるだに」

「見りゃ分かるだろうが。焼き鳥屋だ」

 

  それがなんでか聞いてるだに⁉︎ と叫びながら、梍は突き付けていた手をダラリと下げた。月からやって来る神との戦いのために集められているはずなのに、なぜかそのうちの一人が焼き鳥の屋台をやっている。梍が知っているいつも不満そうに刀を振っていたはずの楠のイメージと今が全く合わない。固まる梍の前で焼き鳥を焼き続ける楠の顔は怪訝であり、そんな楠の後ろから長い銀髪を揺らして一人の少女が顔を出してきた。

 

「なによ楠、知り合い? ……ああ、外来人? ってことはそいつも平城十傑? 初めて見る顔ね」

「ああ六角 梍って言ってな。うちの寺にたまに泊りに来てた奴さ。こりゃ他の奴らもついに来たかな」

「あー、楠先輩? そっちの人は?」

「ん? ああ妹紅って言ってな。ほら藤原の」

 

  楠と親しそうな少女に目を白黒させていた梍だったが、少女の名前を聞いて本当に視界が白黒になったのかと思うほどに錯覚した。藤原妹紅。楠から何度か聞いた千三百年前に存在していた貴族の少女。それが目の前にいると聞かされて平気な方がおかしい。妹紅に目を向け幻の類でないことを確認して、梍は顳顬を抑えた。

 

「え? え? 本当にいただにか? いや、えぇぇ」

「言っとくけどかぐや姫もいるぞ、アンタなんで来たんだ?」

「はあ⁉︎ 全然聞いてないだに⁉︎」

「ちなみにもう俺は殴ったぞ、やったぜ」

「いや先輩なにしてんだに⁉︎」

 

  情報が多過ぎて梍の脳がオーバーヒートする。おかしなものを見る妹紅の目と、呆れた楠の目から逃げるようにマミゾウへと梍が目を向ければ、肩を竦めるだけで否定もなにも返ってこない。ただ小さく梍の腹が鳴り、取り敢えず食い物と叫ぶ体の欲求に逃げることにした。

 

「あー、楠先輩、取り敢えず」

「なら金を払え。常連客が食い逃げ犯ばっかで俺の給料がやべえ。ちなみに外の世界の金はなしだ」

「それなら大丈夫だに」

「ほいほいっと。約束じゃからな、ここは儂が奢ろう」

「え、なにその人超いい人じゃん。俺のと交換してくれ」

「なんで私を見るのよ、今日泊めないわよ」

「交換してくれ」

 

  妹紅に頭を叩かれながらマミゾウから代金を受け取った楠から幾らかの焼き鳥を受け取る。視界の端で「これで霊夢と魔理沙の分」と給金を引かれている楠を目に入れないようにして、梍は久し振りの肉に腹を満たした。味は楠の家で何度か梍はご馳走になっているため心配はない。急いで腹に焼き鳥を詰め込み、串は屋台についているゴミ箱へと捨ててしまう。

 

「それで先輩はその人の家に泊まってるだに?」

「ん、まあ一応妹紅の家とあと博麗神社に行ったり来たり」

「博麗? 博麗の巫女? なんでそうなっただに?」

「いや神社の修繕と妹紅の家の修繕で」

「先輩マジでなにしてるだに……。おれは神様と戦うからって言われたんだにが」

「らしいな。俺もつい最近聞いたよ。梓さんと藤さんと櫟と菖さんに嵌められたんだよマジで。会ったら邪眼使っていいぞ」

「いやそれは……。他の人たちも来てるだに?」

 

  梍の問いに楠はウンザリとした顔になり歯を擦り合わせた。そんな楠の様子に聞きたくないなあと思いながらも、顔には出さないようにしつつ梍はサングラスを指で押し上げ位置を直す。

 

「桐のやつは白玉楼ってとこにいる。たまにそこの庭師と屋台に来るぞ。椹はあれだ」

 

  楠が親指で雑に指した塀には盗賊と書かれた椹の人相書きが風に揺れており、梍は苦笑いを浮かべてそれに応える。

 

「梓さんは妖怪の山で新聞作ってるぞ。しばらくすれば今日も天狗が届けに来るはずだ。菖さんは知らん」

「なんというか予想通りというか、まず梓先輩に会いに行くのがいいだに? それともかぐや姫様?」

「梓さんのとこはやめとけ。妖怪の山ってとこにいるんだが隠れてるようなもんだからな。警備も厳しいし今は外来人が近寄るだけで殺しにかかって来るぞ」

「え? なんでだに?」

「梓さんのせいだ」

「いやもう本当に先輩たち、いやもうなにも言わんだに」

 

  好き勝手やりすぎなんじゃないかと言いかけた梍だったが、よく考えれば考えるほど別におかしいことでもないんじゃないかと梍の感覚が麻痺してくる。なぜか焼き鳥の屋台をしながら大工仕事をしている楠。早速指名手配されている椹。梓は相変わらず不運なようなので梍は考えないことにする。戦いの前から早速いろいろ心配になった梍だったが、かぐや姫のことを思い出しそれは聞いておこうと顔を上げた瞬間口を閉じる。

 

  楠がギリギリと歯を擦り合わせている。それは楠にとってよくない状況が来ている証。その音に耳を澄ましながら、楠の目と、顰められた妹紅の目の先を追って梍も顔を動かした。その先に待ち受けていたのは黒髪の乙女。なにか言うよりも前に梍は息を飲んだ。不思議と誰か言われなくても察しがついた。シミひとつないシルクのような白い肌とその美貌。その少女を見た梍は間抜けに口を開き目を見開く。

 

「ま、まさかかぐや姫さ「あっはっは! 来てやったわよ楠! 今日も焼き鳥を献上なさい!」……ま?」

「来やがったななよ竹の疫病神さまよう! アンタ金持ちなら金を払え! せけえんだよいろいろ!」

「なに言ってるのよ私はかぐや姫よ? はいはい、全く味は良いのよねえ」

「げ⁉︎ いつの間に取りやがった⁉︎ 食い逃げだ! 妹紅焼け!」

「言われなくても!」

「あっつ⁉︎ なにするのよ! これは謀反だわ! 切腹!」

「するかあ! 妹紅塩だ塩を撒け! 塩塩‼︎」

「それはもったいないからいや」

「えぇぇ……、ええええ⁉︎」

 

  一族が追っていた月の姫。その美しさから帝さえも愛したという少女の幻想が、梍の中で音を立てて崩れていく。妹紅の炎を避けながら焼き鳥を奪う少女はどう見ても平城京一の才女には見えない。ひどい頭痛に襲われてふらふらと揺れる梍を、笑顔のマミゾウが支えた。その笑顔の眩しさに梍はマミゾウに化かされていると夢を見たかったが、優秀な目がそれを否定した。

 

「大丈夫か?」

「……こんなことなら来ない方が良かったかもしれないだに」

「あら? また外来人? 貴方は誰かしら?」

「え? ああ、かぐや姫様、おれは六角 梍と言って」

「六角? ああ六角も来たのご苦労様。じゃあ貴方も今日から私のために働きなさい。それが望みで来たんでしょ?」

「ええええ⁉︎ そうだっけ⁉︎ もうわけわからんだに⁉︎」

「誰が働くかアホ! 梍! 邪眼使え邪眼! それか殴れ!」

「楠先輩頭おかしいだに! 梓先輩に怒られるのは嫌だに!」

「そうだったわ楠! あの時貴方二度も殴ってくれたわね! 私まだあと一発殴ってないわ! 殴らせなさい!」

「本気のアンタの拳なんて受けたら死ぬわ! 妹紅盾だ!」

「なるか馬鹿! 護衛役はお前でしょうが!」

 

  妹紅に背後から殴られ地に埋まる楠に輝夜が飛び掛かる。もう見なかった事にして梍は踵を返すと振り返ることなく歩き出す。梍の背中からは人を殴るとは思えない音が響いていたが、楠なら多分大丈夫だろうと勝手に終わらせて、マミゾウを急かして先を急いだ。

 

「いいのかアレは放っておいて、見てる分には愉快じゃったが」

「いやもうなんか早く寝たいだによ……。それに今なら悟りが開ける気がするだに」

 

  見たいものは全て見れるが、この世には見なくてもいいものがある。それをまた一つ知った梍は少しだけ大人になった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

馬鹿と煙は高いところへ上る

「さてさて、運がいいのか悪いのか、どっちものような気がするし、どっちも違うような気がするねぇ。梓のがうつったかな?」

 

  ぶわりと口から白煙を吐き出しつつ、眼下に広がる景色を藤は眺める。会議やらなんやらで、若くとも世界中飛び回ってきた藤でも見たことのない景色が足元の遙か下方に広がっていた。途轍もなく巨大な岩をそのまま置いたような変な形状の山。遠くてよくは見えないが、湖畔にぽつんと建っている紅い屋敷。一時代前のような集落。それらを中心に地平線の彼方まで広大な森が続いている。どこまでも広く見えるが、そこだけしか世界がないようにぽつんと見える生活感が、なんとも奇妙だ。

 

  そんな景色が現実として存在しているのだが、一枚の絵画であるように存在感が薄い。このまま飛び降りようと、ただ落ちたのでは絶対そこに辿りつけないと直感で理解できる。何よりも今自分が立っている場所がもうおかしいんだよなぁ、と藤はくらくらしそうな眼下の景色から目を外し、煙を吐き出しながら足で地面を叩いた。

 

  足に返ってくる硬い感触は、綺麗に菱形に切り出された石のもの。材質はよく分からないが、下手な大理石よりもよっぽど高級に見える。だが問題は何よりもその下で。一歩を踏み出せば落ちてしまうだろう下方の絵画と石畳の間。頑丈な石畳は土の上にはなく、綿毛のような雲の上に敷き詰められていた。藤は石畳の下地に触れてみようと恐る恐る手を伸ばしてみたところ、触ることなく指は普通に雲の中を突き抜ける。冷たい汗が背を伝うのを感じながら、気分を誤魔化すためにうんと伸びをして藤は背後へと振り返った。

 

  上質な木と石で作られた宮殿。西洋、東洋あらゆる文化の色が見え隠れする宮殿は、擬洋風的宮殿と言えた。秋でも肌寒くなく心地いい風が吹き抜け、至る所に桃の木が生えている。空は青一色に染まっており、雲は全て足元にしか浮いていない。ところどころ離れた場所に浮いている雲の上にも似たような建物がちらほら見える。その割に生活感を感じず、だがなにかしらの気配は確かにあった。

 

  幻想郷とは空の上にあったのかと藤は一瞬考え、紫から聞いた話と違うなと頭を掻きつつ足を動かす。石畳の下地には不安しかないが、その上に建てられた石道と建物はしっかりしたもので、人間の藤でも問題なく触れる。木の円柱の感触を楽しみつつ大きな石門をくぐり抜ければ、ようやく人影を見ることができた。

 

  羽衣とでも言えばいいのか。そんな服を着た幾人かの少女が、ひとりでに奏でられているハープの音に合わせて待っている。舞い散る桃の花の中でくるくると回る姿は、名画のワンシーンを切り取ったかのように素晴らしい。少しの間藤は見惚れたが、咳払いを一つして頭を切り替えると少女たちに足を向けた。

 

「すいませんお嬢さん方、少し聞きたいことがあるのですが」

「え……っ⁉︎」

 

  藤の声に振り返った少女たちは、一瞬固まった後に鼻を抑えながら後ろに飛び顔を歪めた。これには藤もショックを受け、「えぇぇ……?」と肩を落としながら自分の匂いを嗅ぐと、昨日使ったシャンプーの匂いしかしない。

 

「な、なんだお前⁉︎ なんだ本当に!」

「いやついさっき幻想郷に来たんですが気付いたら」

「穢れよ! それも特大の! 誰か!」

「話にもならないとはこれいかに」

 

  喚く少女たちは絶対の藤に近づかないように距離を取り、大声で衛兵を呼ぶ。それも数多くの弾幕を放ちながら。迫る無数の光球を見ながら、藤は面倒臭そうに頭を乱暴に掻くと、仕方がないと諦めた。こうなれば戦わないことを諦めるほかない。

 

  口に咥えていた電子タバコの上部を咥えたまま引き抜けば、スルリと上部のカートリッジだけを残して引き抜ける。口に咥えていたカートリッジを吹き出しつつ、腰に付いている別のカートリッジを差し込み咥え、弾幕に向かってぶわりと大きく白煙を吐く。

 

  石畳を容易に砕くだろう光球は、ふわりと緩やかに広がった煙に押し広げられるように反れていく。まるで磁石の反発のように勝手に藤を避けていく弾幕を見て少女たちは固まり、流れてくる白煙を見ると地面に転がるようにして大きく逃げた。あれはよくないと少女たちの本能が警鐘を鳴らす。アクションスターのような俊敏さで逃げ惑う少女たちに、どうしたもんかと咥えていた電子タバコを手で回しながら考えていた藤だったが、空から閃光が降ってきてそうもいかない。空に浮かぶ屈強な男たちは鎧を着込み、手に持った槍を弾丸のように投げてくる。空を裂く槍先は藤目掛けて雨のように降り注いだが、上に吹かれた藤の白煙に弾かれてどれも命中せずに終わった。

 

「いかんよね。これはマズイ。だがどうにも……仕方ないかぁ」

 

  また一つ藤は自分の中で諦めると、電子タバコのカートリッジを換えて大きく息を吸い込んだ。

 

 

 ***

 

 

(マズイマズイマズイ⁉︎)

 

  永江衣玖は大きく迂回するように空高く飛び、白煙が轟々と立ち上っている場を目指す。

 

  三分。人間が天界に侵入したという報告が衣玖の元に回って来てからたったの三分足らずで報告のあった一帯の天人、召使い全てと音信が途絶えた。以前、比那名居天子が異変を起こした報復か。とも衣玖は考えたが、それにはどうにも受け取った報告の断片から考えられない。

 

  『人間の男』、『煙の悪魔』。

 

  報告を寄越した者たちが口々にした言葉。わざわざ天界に攻め入ってくるような人間の男に思い当たる人物など衣玖にはなく、煙の悪魔などと言われてもそれもピンとこない。だが、大きく膨れ上がった白煙を見ると、煙の悪魔という呼び名にも納得はいく。

 

  白煙を上げる宮殿。それに踏み入る一歩手前で衣玖は止まる。

 

「うそ」

 

  白煙の隙間に見える倒れた人影。それも十や二十では足りそうにない。血すら流さずに倒れ伏している天人たちがどうなっているのか。慌てて近づこうとした衣玖だったが、薄い煙の壁が揺らめき衣玖の行く手を阻んだ。煙の根元に目を落とした衣玖が見たのは、ごく小さな機械。服のボタンほどのサイズしかない黒い台形の機械から白煙は噴き出している。疎らに落ちている機械から噴き出している白煙が束ねられ、山火事のような煙を上げていた。

 

「これは……⁉︎」

 

  ──カツリッ。

 

  ゆっくり白煙の根元に手を伸ばそうとした衣玖の肩が跳ねる。生命の躍動を感じない宮殿から、石畳を蹴る音がした。一つ。二つ。増えていく足音は静かに、だが確実に衣玖の方へと向かって来ていた。腕を引き、警戒する衣玖の目前の白い壁が大きく揺れた。白いベールを纏うように白煙を掻き分けて歩いて来る人影。煙の奥で薄っすらと光る翡翠色の瞳が瞬き、黒い頭が薄い壁を突き破る。

 

  長い硬質な舌を垂らしながら、覚束ない足取りで出て来た男は、衣玖を見るとぶわりと白煙を吐き出した。特に喋る事もなく男は長い舌を唇の上で回しながらその舌型の電子タバコをカートリッジを残して引き抜くと、唾を吐くようにカートリッジを吐き出す。カツンッ、と石畳に跳ねたカートリッジに衣玖は目を一度落とし、男に目を戻した。

 

  見慣れない服に見慣れぬ機械を咥えた若い男。ただ一人動くもののない宮殿で自由に歩いている男を見て、言葉よりも先に衣玖は雷鳴を轟かす。両手の間に走った稲妻は、小さな球体を形作り男の方へと弾け飛んだ。音を置き去りにして飛んだ雷球は、男の手前まで飛ぶとバチリッ、と音を立てて四散した。

 

  男に当たったわけではない。周りの白煙に吸われるように稲妻は白煙の中を走り抜けどこかへと消え去ってしまう。遅れて響いた稲妻の音に男は耳を澄ましながら、電子タバコを咥え直すとまた白煙を吐く。

 

「……電気も水も」

「なに?」

「流れやすい方に流れるものだよ。この場でバチバチと稲妻を吐いても意味はないからやめとくんだねお嬢さん」

 

  世間話をするように男は頭を掻きながら、手近にあるベンチに腰を下ろす。顔の青白い男は具合が悪いのか、煙の吸い過ぎなのか。この事態を引き起こしたと見える男は、全く好戦的な空気を纏わずに気怠げだ。少し毒気の抜けた衣玖だったが、男の背後で揺れている白煙を見て気を引き締め直す。ただの煙ではないことは先程の一撃で理解した。

 

「貴方がやったのですか?」

「ん? ああ、やる気はなかったんだが襲われちゃあ仕方ないさ。おかげで眠り煙が尽きちまった。こうなるとヤバめなのしか残ってないから、これ以上戦いたくないんだよね」

「眠り?」

「ああ寝てるだけだよスヤスヤと」

 

  そう言いながら男に電子タバコで指された天人に衣玖が目を向ければ、苦しそうな顔はしておらず、緩やかに胸が上下している。他の者に目を移しても同じような有様で、今度こそ衣玖は肩を落とした。

 

「そんなわけで、お嬢さんは俺と話をしてくれるのかい?」

「話? 天人様方が無事だからといってここまでした相手と?」

「させたのはそいつらさ。俺は見ての通り平和主義者なんだ。戦いは嫌いさ」

「どの通りなのかしら? テロリストにしか見えませんね」

 

  パチパチと衣玖の周りに弾ける紫電と逆巻く風を見て、男は困り顔で諦めたように細く煙を吐いた。なぜこうも好戦的な連中と当たるのかと小さく愚痴を零しながら、ゆらりと揺れる煙のように男は立ち上がり、電子タバコを掴むと手早く頭のカートリッジを入れ換える。

 

「一応名前を聞いておきましょうか人間」

「ん? 俺の?」

「他に誰がいるのです。墓標には刻むものがいるでしょう」

「やだなぁ、まあいいや。俺は──」

 

  口元で煙を燻らせた男の後方で煙が弾ける。大きな音に藤の言葉は潰されて、飛び散った石畳の破片が男の肩を軽く叩き振り向かせた。抉れた石畳はなにかが落ちて来た証。クレーターの中央で好戦的な笑みを浮かべるのは一人の少女。青空をそのまま流したような青い髪を風に揺らし、手に持った夕焼け色の剣を地に突き立てている。少女は大きな一歩を男の方へと踏み出して、風に揺らめいた白煙を顔に受けてそのまま倒れ寝息を立てた。

 

「…………んん‼︎ さて、お嬢さん続きといこうかね」

「え、ええ。そうですわね、いきますわ!」

「……ッ⁉︎ いくな馬鹿! って言うか無視するな!」

 

  千鳥足で剣を振りながら、白煙の中から這い出て来た少女はそのまま再び倒れる。眠たげな目をなんとかしようと自分で自分の頬を叩き、剣を杖代わりに立ち上がった少女の顔が男に向いた。夢遊病患者のように少女の有様に男は驚くよりも感心し、口元が小さな弧を描く。

 

「お嬢さんは誰かな?」

「ぐぅ、そういう時はまず自分から名乗るもんじゃない?」

「平城十傑、黴家第百六十四代目当主 黴 藤。で? お嬢さんは?」

「平城十傑〜? 聞いたことないわね。私は非想非非想天の娘、比那名居天子! これをやったの貴方でしょ? 面白いじゃない! 勝負!」

 

  剣を構え藤に突っ込む天子に向けて藤は変わらず白煙を吐く。ハラリと舞う白煙を剣で払おうと天子が剣を横薙ぎに振るった瞬間、轟音と閃光が天子の体を包み込む。焼け焦げた天子がその場に転がるのを藤は眺め、衣玖の方へと目を戻した。

 

「さてお嬢さん続きといこうかね」

「貴方は……眠らせるだけではないんですか」

「それは尽きたと言っただろう。これでも安全な方だ一応な。それともやめるんならその方が」

「ッ、ぐ、やめるかー!!!!」

 

  衣玖と藤の間で両腕を振りながら天子が勢いよく起き上がる。肩で呼吸をしながら焦げてひび割れた口元を手で拭い剣を突き付けてくる天子を見て、今度こそ誰にでも分かるように藤は大きく笑みを浮かべた。手の中で電子タバコをくるくる回しながら、観察するように天子を眺める。

 

「お嬢さん凄いね。それ一応内部にもダメージあるはずなんだが」

「うっさい! なんなのよそれ!」

 

  斬り掛かってくる天子に再び煙を吐けば、今度は剣ではなく手で天子は煙を払おうとし、爆発に巻き込まれて後方に転がっていく。しばらく浜辺に打ち上げられた鯨のようにぐったりしていた天子だったが、しばらくするとまたふらふらと立ち上がる。

 

「こいつぅう」

「……お嬢さん不死身か? 蓬莱人ってやつか? いや非想非非想天だから天人か。なんで無事なのかねぇ」

「無事じゃないわよ! クソ痛いわ! こんなの気合いでどうとでもなるのよ!」

「は? き、気合い? ……くく、くっはっはっは‼︎」

「なに笑ってんのよ! 人間のくせに!」

 

  白煙を吐き、爆発し、床に転がる。三度目の正直にはならず、またまた立つ天子を見て藤は腹を抱えて大きく笑った。

 

  黴の技は気合いなどという精神論で立ち上がれるような代物ではない。それでは床に転がっている他の天人の説明にならない。それでも立つ天子が異常なのであり、藤の予想を超えてくる少女に笑いしか今は送ることができなかった。

 

  黴の当主は人間化学兵器だ。吐き出す煙は当然ただの煙ではない。妖怪の牙の粉末や、毒キノコ、特殊な薬草などを混ぜた特別なもの。だが発動条件はどれもが同じ。黴の燻らす白煙は、そのどれもが気や魔力、妖力といった力に反応して効果を及ぼす。だから魔力などを抑えて動けばある程度効果を緩和することは可能だが、一度人体にでも触れ反応すれば、体の中の魔力にまで反応して着火する。強い力を持つ者にはより強く。天子も見た目だけでなく体の内側までぼろぼろのはずで、それでも立つ天子はやっぱりおかしい。

 

  これならもっと強いのを試してもいいかと悪い考えを巡らせていた藤だったが、あまりに笑い過ぎて口から吐き出る白煙に朱色が混じった。咳き込む藤の呼吸に合わせてせり上がってくる血液を抑えられずに滝のように血を吐きだし始めた藤を見て、天子と衣玖の動きが止まった。

 

「ちょ、ちょっと」

「ぐ、ッぶふ、はぁ、なんだ心配してくれるのかい? 優しいね」

「い、いや、そんな死にそうなくらい血を吐かれたらそりゃあ……それよくないんじゃない?」

 

  藤の口元に咥えられた電子タバコを指差す天子を見て、藤は当然と言うように頷いた。天人にさえ危ない効果を及ぼす白煙がいいものであるはずがない。そして、それを直に吸い吐き出す藤が、無事であるはずもまたなかった。

 

  黴の一族は非常に短命だ。歴代当主の平均没年齢は二十代中頃から後半。小さな頃より、まず耐性のあるなしが判断され、最も耐性のあるものが当主となる。当主になれば本格的に黴の技の修行が始まる。歴代当主が開発した薬煙の全てに耐性をつけるために始まる修行。いざという時自爆しないよう、毎日毎日電子タバコ*1から煙を吸い、自分の体を自分で壊していく。新薬煙の開発が最も厳しく、拒絶反応で命を落とした当主が全体のおよそ半数。藤は今年で十八だが、早ければもう命を落としてもおかしくない歳だ。

 

  真っ赤に染まった口元を拭いながら、黴は興味深そうに天子を見る。黴の技の特異さを誰より知る藤だからこそ、天子の異常さはよく分かる。触れれば即死級の煙もないわけではないが、それを幻想郷の住人には使おうと思っていない藤からすると厄介な相手であり、また興味深い。

 

「んんッ、続けるかい天子。気に入ったよ惚れそうだ。どうする?」

「えぇ……、そんな死人一歩手前みたいなのに好かれてもね。病人の相手はしたくないわ。弱いものいじめみたいだもの」

「ならこれでお開きかね? そいつは良かった」

「なんか拍子抜けね、つまんないわ」

 

  天子は焦げた服を揺らしながら唇を尖らせる。身体中がズキズキ痛むが、それより面白いものが目の前にあるためそこまで気にならない。これまでに人がたった一人で天界をここまで揺るがしたことがあったか。見慣れぬ服の見慣れぬ男。一度異変を起こした天子だからこそ同族は直感で分かる。藤が内に抱えているものがなんであるのかは分からないが、吐き出す白煙と同じく目的もかなり厄介なものであることは予想がつく。毎日踊って歌うそんな生活と藤を天秤にかければどちらに傾くかは見なくても天子の中では決まっていた。

 

「ねえ、藤って言った? 貴方なんで天界に来たの? なにが目的?」

「俺は本来幻想郷に行くはずだったのさ。ここもそうなのかは知らないが、とにかく俺は幻想郷に行かねばならない」

「なんで?」

 

  大きな期待を込められた笑顔の天子からの疑問は、欲しかった答えに埋め尽くされる。「戦うために」、そんな短い藤の答えに頬を緩ませ腕を組み、天子は満足そうに笑った。なぜ笑うのか分からない藤はくるくると電子タバコを回し、その動きの方へ目を移すことで天子を視界から追いやる。

 

「相手はなんなの? 教えなさいよ」

「知りたがるね天子。まあここも幻想郷なら無関係ではないか。ただ、聞けば逃げられないぞ。逃げても無意味だからな」

「なによそれ」

「敵は月夜見。月に住む神様さ。神の時代を再び始めるためにやつらがやってくる。まずは幻想郷に」

 

  衣玖が息を詰まらせ、天子が目を見開いた。神が来る。神代の御伽噺のような話に、衣玖は嘘だと眉を顰め、天子は見開いた瞳をギラギラと輝かせた。誰が見ても嬉しそうと分かる天子の顔は場違いであり、さすがに藤も苦笑いのまま表情が固まる。「嬉しそうだね」という藤の問いに、「あたりまえでしょ!」と天子はすこぶる元気に胸を張った。

 

「神が来る? それも月から?」

「軍隊連れてね」

「面白いじゃない! え? なんでそうなるのよ! 全然知らなかったわ!」

「あらら、天狗が新聞ばら撒いてるはずなんだが」

「なら天界まで来なさいよ! 全くサボって。つまりなに? 貴方は神と戦うために来たわけね」

 

  笑う藤に天子も笑顔を返す。壊れていく体を引きづってわざわざ幻想郷に行くという人間。ヘンテコで、おかしくて、それはとても天子にとって素敵だった。嘘はない。深く聞かなくても理解した。月から敵がやってくる。それならば!

 

「ねえ私も混ぜなさいよ」

「ちょ、頭領娘様⁉︎」

「なによ衣玖、どうせなにもしなくても勝手に向こうから来ちゃうんでしょ? ならやらなくちゃつまんないじゃない」

「そうそう一応名目は格好いいぞ、世界を救うんだからね」

「あら貴方は世界を救うつもりなの?」

「いや全く」

 

  天子の問いに間も無く藤は答えた。それは所詮副産物に過ぎない。自分のため。己のため。それは誇れるものではなく、エゴによって行われる行為。そもそも神が人を作ったというのなら、神の決定に従わないのは愚かだ。それに全力で抗い得られる結果は、所詮竹取物語の蛇足の終わりだ。そのためだけに藤や櫟、菖に梓、他の六人も動いている。賞状やトロフィーは必要ない。必要なのは勝利と解放。

 

  藤の答えに満足そうに天子は微笑を返す。つまらない、つまらない。代わり映えのない永遠が。おまけで与えられた永遠になんの意味があるというのか。欲しいものは自分で勝ち取ってこそ。つまらない永遠よりも面白い一瞬の方がいい。その場が今目の前にある。

 

「気に入ったわ藤。それでまずはどうするの?」

「仲間を集める。もう一人できたが、来てから対処じゃただでさえ勝率の薄い戦いがより負け戦に近づくだけだ。勝つためには事前に意思を統一しなければならない。梓、我ら平城十傑の大将が新聞で戦力を募っているが、見向きもしない強者もいるだろう。俺はこれからそいつらをスカウトしなきゃならないのさ。八雲紫殿、紅魔館、白玉楼、博麗の巫女、永遠亭の者達は既に参戦の意思を示した。残りに会いにいく」

「なにそれおもしろいじゃない、もうどこに行くかは決まってるの?」

「紫殿に聞いたよ、まずは一番面倒そうなところに行く。太陽の畑とやらにね」

 

  藤の言葉に天子の笑みは引き攣った。太陽の畑。その場所には確かに大妖怪が一人いる。それも特大の大妖怪が。拳で天人さえ天界に殴り返すような妖怪の笑みを思い出し、もうどうにでもなれと天子は諦めただ大きく笑い声をあげた。

 

「あっはっは! 行ってやろうじゃないの! 太陽の畑! ばっちこいよ!」

「ついてくる気か天子。まあ俺も案内人は欲しいけどね」

「ここで待ってても暇でしょうが、退屈させないわよね藤」

「多分しないさ。月軍の前の前菜だよ所詮。そう思わなきゃやってられんよ。他の当主にも時折力を借りないとなあ」

 

  ため息を吐きながら伸びをして、藤は石畳の端に立つ。傍に立つ天子と共に眼下に広がった幻想郷に目を落とし、電子タバコを咥え直した。

 

「さて行くかね。じゃあ連れってってくれ天子」

「え? 貴方飛べないの?」

「いや、あのそれよりこの煙止めて貰えませんか?」

「……さて行くかね。じゃあ連れってってくれ天子!」

「よっしゃ行くわよ! 手離さないでよ藤!」

「ちょ、ちょっと⁉︎」

 

  衣玖を残して天子と二人、藤は石畳の端から飛び出した。宮殿から空に立ち上る白煙を視界の端に捉えながら、きっとその白煙がいつか月にまで届くと信じて藤は白煙を再び吐く。

 

「……あの人間出禁ですね」

 

  藤は天界を出禁になった。

 

 

 

*1
電子タバコになったのは百六十三代目から



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

心の目

  壁に手を伸ばし軽く触れる。先日偽月軍の銃撃を受けて穴だらけになっていたとは思えないほどに永遠亭はいつも通りだ。鈴仙=優曇華院=イナバは、壁から手を離すと持っているお盆に乗った菓子たちを落とさないように持ち直し、永遠亭内の病室である一室の扉に手をかけた。

 

「シベリアとは、懐かしいですね。私甘いものって好きなんですよ鈴仙さん」

 

  扉を軽く開けただけで隙間から吐き出された言葉に、鈴仙は頭の耳を揺らしながら感心した。八雲紫が連れてきた外来人。平城十傑の参謀役。瞳のない少女は、瞳以外で全てを見る。鈴仙が永遠亭のどこにいようとその動きは少女に分かるらしく、少女が来てから鈴仙のなけなしのプライバシーは死んだ。

 

  病室に入り扉を閉めて、鈴仙はお盆を少女の座っているベッドの横にあるチェストの上へと置く。顔も向けずにお盆の上にあった湯呑みを取る少女を見て、また鈴仙は耳を大きく揺らした。

 

「貴女みたいな元気な患者見たことないわ、櫟」

「怪我はもう治ってはいますからね。だというのに藤さんは心配性なんですよ。幻想郷に行ったら一応見て貰えって。過保護で困ります、一番ひ弱なのに。あ、傷見ますか鈴仙さん」

 

  クスクス笑いながら着ている白いセーラー服の襟を指で引き下げたその先の櫟の胸の谷間には、銃創のような小さな傷があった。既に古傷に近いその傷は、ただまだ少し赤味が差しており、指で突っつけば赤い涎を垂らしそうに見える。

 

  「えっち」と言いながら服装を正す櫟に呆れて鈴仙は大きく目を反らした。丁寧な言葉で相手をからかい毒を平然と吐く櫟の相手をするのは、鈴仙のような生真面目なタイプには少々堪える。来て早々てゐと仲良さそうに話していたあたり、鈴仙にとっては苦手なタイプだ。しかし、師であるえ八意永琳と輝夜から直々に相手を頼むと言われては鈴仙はそれを無下にすることはできない。ベッドの脇に置いてある椅子に鈴仙は腰を下ろすと、櫟と同じく湯呑みを持って口へと運ぶ。

 

  渋さと熱さに舌を浸しながら、鈴仙は今一度元気過ぎる患者に目を向ける。常に目を瞑り微笑を浮かべた少女。純和風と言える大和撫子な美人でありながら、髪を纏めている簪の趣味は良いとは言えない。以前どこかで鈴仙も見た早苗が外の世界で着ていた学生服を着込み、白いセーラー服の首元には蒲公英色のスカーフを巻いている。そう観察していた鈴仙だったが、櫟の顔に目を戻したと同時に、閉ざされていた少女の瞼が開いた。

 

  ぽっかりと空いた洞窟が二つ。この世の全てを吸い込む口のようにも、絶対に立ち入ってはいけない危険領域にも見える二つの黒穴に、鈴仙は静かに息を殺した。人であるのに、人に通常あるものがないだけで人から離れて見える。存在しない瞳の色を無意識に考えてしまう鈴仙に向けられる櫟の顔は変わらず笑顔で、ぽちゃり、と揺れた鈴仙の湯呑みの音に櫟は小さな笑い声を合わせた。

 

「ふふ、そんな反応が見れるからこの悪戯はやめられませんね。目がないのに見れると言うのはおかしいですか」

「心臓に悪いわ。生まれつきなの?」

「まさか。生まれてすぐにくり抜かれたんですよ。赤ん坊でしたから私は覚えていないのですけど。その方がいいですかね」

 

  笑いながら話される櫟の話は決して笑い話にはならない。生まれてすぐに目を抉られる。なんの不備もないというのにそれをされることに抵抗はないのか。ないわけがない。が、目を失ったのは口にできる年齢の時でもない。唐橋家八十一代目当主の候補だった者は三十人弱、その全員が例外なく目を生まれてすぐに抉られている。

 

  唐橋家の技は心眼。目がなくても周囲の物事を把握できる能力を人工的に開かせるために抉るのだ。初めから目がなければ、そもそも目でものを見るという概念を持たずに成長できることが大きい。だが、その中で心眼を開ける者は、唐橋の長いノウハウをもっても片手で足りる。更にそこから目がなくとも不自由なく生活でき、戦闘まで可能な者となると歴代でもかなり少なくなる。

 

  異常と聞いていたはいたものの、実際に見聞きするとここまで印象は違うのかと、鈴仙は人の狂気にゾッとした。永琳からの言い付けで菖が来た時は手出ししなかったが、それでも垣間見た他の平城十傑と比べてもなお異常。ふと自分の瞳へと手を伸ばし、鈴仙は指で瞼に軽く触れる。

 

「……そこまでする必要あるの?」

「さあ? 少なくとも私は才能があるおかげで日常生活に不便はないですし、ああ視力検査は苦ですけどね。それに伊達眼鏡も持ってるんですよ? 良いでしょう」

「あー、それは笑うところ?」

「そうでなければ釣り合いが取れないでしょう? 笑い話にでもしなければ、必要なんてないですよ。肌で感じる振動で、耳で感じる音で、味で、匂いで、全てが分かってもそれがなんだというのでしょうね。私だって目で色を感じてみたい」

 

  魔力で、妖力で、霊力で、気で、風で、熱で、あらゆるもので物の形も場所も理解できる。だがそれは色の世界ではなく波の世界。レーダーのようにものを感じられるだけで無色の世界だ。目で色を感じられる、それがなにより櫟は羨ましい。が、それを言ったところでなにが変わるわけでもない。口を閉じ押し黙った鈴仙の心情もまた分かるが、そんなものを見れても面白くないなと櫟はまた笑った。

 

「まあそんなところですね。だからこんな力は使えるところで使ってあげないと」

「……それが月夜見様との戦いなの?」

「あら、確かに無謀ですけれど、これがなかなか渡りに船なのです。おかげで内部分裂せずに済む」

 

  平城十傑の望む円満な終わり。必要な戦いがあり、強大な敵がいる。そしてかぐや姫は手元におり、存分に技を振るえる場がある。必要なピースは全て揃った。これを逃せばいつ終わりを迎えればいいのか。延々と不必要な儀式を続ける意味はない。半ば義務のように繰り返されている当主の選定は、どの一族にも必要ないものだ。

 

「月夜見が人にとって不要な一手を丁度取ってくれる時期に世代交代があり私たちは当主となりかぐや姫の居場所も掴めた。これは幸運なことです。そうでなければ、菖ちゃんに課した策は建前ではなくなっていた可能性が高い。きっと誰かがかぐや姫を本気で殺すために動いたでしょう。そんな八つ当たりをするだけの理由がありますからね。それに誰かが呼応し、そして待つのは平城十傑同士での殺し合い。それを回避できるだけの機会と理由があるとは、運がいい」

 

  内容は違くとも、誰もが苦行を経験している。必要ないものを与えられている。それらを互いにぶつけ合うことの無意味さは、誰もが納得するところだろう。必要ないものを持ち続け、不必要なことに消費するよりも、なにかしら意味があった方がいい。各初代が志したものに添い、世界を救うなんて手土産ぐらいなければ、ここまで続けた意味がない。今更かぐや姫では釣り合わないのだ。そんな不遜なことを考えながら、櫟は湯呑みを口に運んだ。

 

「それで、月夜見様に勝てるの?」

 

  大きな口を叩く櫟を豪胆だとは鈴仙も思うが、それで結果がついてくるかは別だ。月軍。それをよく知る鈴仙だからこそなお強く思う。立ち向かうことすら馬鹿げた存在。櫟たち平城十傑がやろうとしていることは、高速道路の中で野球をするだとか、飛行機相手に地球の反対側まで競争するだとか、徒歩で八十日世界一周するだとか、それぐらい無謀で蛮勇なのだ。

 

  鈴仙ならば戦う前から白旗を振る。どころか打つのは逃げの一手。勝てるか勝てないかで言えば、そんなことは頭が春な妖精でも分かる。不安一色な鈴仙に櫟は柔らかな笑みを崩さずに、また一口お茶で口を濡らす。スケートリンクのように滑りの良くなった櫟の口は詰まるということはなく、「勝てないとお思いなんですか?」と不敵なものから揺れ動かない。

 

「むしろ勝てると言う人間の方が変よ。月夜見様よ? 師匠でも首を振るわ」

「ふふ、変ですか。そうかもしれませんが、変であれ、勝てるようにするために私のような者がいるのです」

「櫟のような」

「参謀ですよ」

 

  不可能を可能に。無理を確実に。勝利の発明家。成功の導き人。参謀の辞書にある不可能の文字は破り捨てなければならない。あってはいいのだ。だが、決めた目的に対してそれを口にしてはいけないのだ。できる。簡単。余裕。例え強がり空元気でも、笑ってそれを口にする。故に参謀は参謀足り得る。周りを不安にさせるようでは、居ない方がマシなのだ。

 

  笑顔を決して崩さぬ櫟を見ていると、大丈夫なんじゃないかと鈴仙の頭にも一瞬過るが、月の神の姿を思い出すだけでその畏怖に全てが踏み潰される。絶対に影の踏めぬ影踏み鬼をさせられているに等しい期待と不安の鬼ごっこに終わりはなく、相反する感情の摩擦は行き場を失い、それらをかき落とすように鈴仙は乱雑に頭を掻いた。

 

「全然分かんないわ、だいたい勝つってどうするのよ」

「あ、鈴仙さん諜報活動ですか? 月の兎は怖いですねーこの裏切り者〜」

「私はもう地上の兎! 味方なんだから少しくらい教えてくれたっていいじゃない」

 

  ピンと立った兎の耳へ笑いながら櫟は顔を向けて手を伸ばした。その手をはたき落とす鈴仙に残念そうに櫟はしょんぼりしながら、陽の差す窓へと顔を移した。陽の暖かさに目尻を下げてポツポツと口を滑らせる。

 

「太陽は良いですね暖かくて。誰もの味方です。ですが近づき過ぎれば人の身では太陽の熱に溶かされてしまう。いえ、人でなくともですか」

「えっと、それが?」

「だから遠ざけます。博麗の巫女さんは神を降ろせるそうですね。天照大神と今は対話してもらっているところです。どんな神様もこの一件が始まった時には力を貸さないようにと」

「え? え? なんで? 普通は味方になってって頼むでしょ」

 

  鈴仙の問いに櫟は笑う。そうだろう、普通はそうする。だが櫟も他の九人も普通じゃないのだ。普通じゃない者が普通の手を使うなどつまらない。普通じゃないから普通ではない手を打つ。それに一応は櫟の中では理由もあった。

 

「まずは依姫の力を封じることが一つ。八百万の神の力を行使されては堪ったものじゃありません。天照大神が力を貸さないと決めれば他の神も芋ずる式にその後に続きます。もう一つは、力を貸せより力を貸すなの方が成功率が高いからですよ。どちらの味方になるか? と問われては、天照大神も妹の方に行く可能性が高い。ですがこれは月夜見の独断でしょうからね。どちらの味方にもなるなの方が天照大神も決断しやすいでしょう」

「なるほど」

 

  依姫の名を聞き鈴仙は納得したようだったが、天照大神の力を借りない最大の理由は別にある。言い訳を潰すため。もし天照大神の力を借りる事に成功した場合、勝てたのは天照大神がいたおかげと言われることは確実だ。日本の最高神、その力は甘くはない。それで胸に刃を突き立て月夜見が四散しても、およそ不滅である神は信仰によって蘇る。月夜見ほどの神なら確実に。そうすれば月夜見の思惑通りにいくまで繰り返しだ。故に人の、人と妖魔だけの力で退けなければならない。言い訳のしようのない敗北は、相手の思惑を打ち砕く一撃に足り得る。人の時代なのだから人が衰退するまで放っておこうと。だから天照大神の力を借りるわけにはいかないのだ。

 

「でもそんなことでいいの? 悠長にやって、敵がいつ来るかも分からないのに」

「分かりますよ」

「は? どうやってよ」

「鈴仙さんと違って逃げたわけでもなく地上に残ってる玉兎さんたちがいますでしょ? 彼女たちに聞いて貰ってるんですよ」

 

  清蘭と鈴瑚。玉兎にも階級があるように、箝口令を敷いたところで末端に行けば行くほど緩くなってしまうもの。それも仲がいい相手となればより緩く。しかも敵ではないとなれば更に緩くなり、締まりは悪くストンと落ちる。

 

「聞く内容はこうです。月に帰りたいんだけど方法がないんだよねー、今度攻めてくるんでしょ? その時に便乗して帰るからさー、来る日教えてくんない? それまでに準備しとくわ〜。といった具合です。今回の遠征、神に利はあっても、玉兎さんたちにはほとんど利がないでしょう? そんな戦いに一々命を課さねばならぬとなれば不満も出る。相手の策が分からなくとも、準備の時間だけはこれで稼げます」

「清蘭と鈴瑚のやつそんなことしてたなんて……。でも末端情報はそれで良くても、先に重要人物に暗殺者が送られたりは警戒しないの? そういったことは上層部の方で動くだろうから情報は下りないだろうし」

「さすが元軍人さん、目敏いですね。それも大丈夫ですよ。今は拠点を決めていないことがそれの牽制になるのですよ。私たちも適当に動いているようで、意外と良い配置になっているのです」

 

  楠は迷いの竹林と博麗神社を行ったり来たり。桐は白玉楼に常駐し。妖怪の山には梓が。椹はフランドールとこいしという銀の弾丸を抱え、梍は命蓮寺に。櫟は永遠亭におり、残りの者もふらふらと。少なからず積み重なった千年の技術に平城十傑の誰もが最低限の自負があり、楠、桐、椹、梓はそれが通用することを示した。殺しに来た者を殺すだけの自力はある。それを覆すだろう敵の大将格も来ないだろう理由があった。

 

「依姫や豊姫といった者たちに来られるとさすがに困りますが、今月の都は幽閉されていた月人の何人かが暴れた後であり、そしてまだ脱走した者が潜んでいるでしょうからね。こちらに気を割くよりもまずは内側にある腫瘍を切り落としませんと安心できないでしょう?」

 

  そのためにまずこちらから仕掛けた。月に赴いた菖が侵入した監獄で無差別に収容されていた罪人を解き放った理由はこれだ。菖が脱出しやすいようにという意味もあったが、それに加えて挑発の意味もある。人間一人に侵入されて好き勝手やられ放っておくのか。最も平城十傑が恐れているのは、今の平城十傑が死ぬまで放っておこうというもの。永遠を持つ月の民なら容易に取れる手。だがプライドの高い月の民が、やられた後に逃げの一手ともいえる手をむざむざ打つはずもない。気に入らないものは自分の手で潰してこそ。もし月の民が感情より理性を取っても挑発する手が残っている。

 

「あちらが静観を決め込み長い年月来ないと決めても、そしたら藤さんが、というか黴の一族が溜め込んでいるミサイルを月に向かって撃つ予定になっていますから」

「は? はあ⁉︎ ミサイル⁉︎」

「藤さん酷いでしょう? 国境なき医師団に寄付していながら別のところにも寄付していて」

 

  毒と薬は紙一重だ。そして黴の技術は薬よりも毒の側面が強い。毒ガス兵器という分野で世界的に見ても、千年以上の歴史を持ち邁進してきた一族の技術をいったい誰が欲しがるか。大きな声では言えないが、某大国が某戦争で活用したりした。その代わりに受け取ったのはもっと分かりやすい破壊することしかできない暴力。それを敵が怒るまで投げ続ける。しかも敵はどれだけ怒っても幻想郷は破壊できないという寸法だ。幻想郷の結界を壊してしまっては前線基地足り得ない。幻想郷より穢れた外の世界に先に一歩を出した場合、平城十傑、及び必要な戦力は幻想郷にあるため問題なく、先に外の世界の強者が勝手に相手してくれる。

 

「……よくそんなのあるわね。藤ってやつ怖すぎでしょ」

「そうでもないですよ? 戦い嫌いですし、何もなければぷかぷか煙吹いてるだけで動きませんし、よくいろいろ諦めますし、体弱いくせに人のことを気にしてばかりで困った人です。そのくせ無能とは言えないので、より困った人なんです」

「櫟詳しいわねその藤ってやつのこと」

「ふふ、幼馴染なんですよ、私と藤さんは」

 

  黴の一族は非常に短命であるため、情報役である唐橋が度々情報のバックアップを取らねばならないせいでこの両家は繋がりが強い。櫟と藤の両名もこの例に漏れず、黴の先代が存命であった頃より付き合いがある。何より藤と櫟が一歳違いで年も近かったため、時代による感性の大きなズレもなく仲良くなるのにそこまで時間が掛からなかった。それに加えて黴と唐橋の家には一種の共通点もある。

 

「私と藤さんの家はどちらも困った一族で強くなるためという理由に自分を削りますからね。私は目を。藤さんは命を。それを続けたくないんですよ私も藤さんも。だから終わりにしたいんです。私も自分の子や孫の目を抉りたくないですから」

「……そう」

「だから私が打てる手は打ち、他のことは藤さんがどうにかするでしょう」

 

  今ある手札を切るのは櫟の役目。そして手札を増やすのは藤の役目。手札を溜めておく必要はない。敵の出方も分からないなら、いくらでも手札を切ればいいのだ。足りなくなっても藤が増やしてくれると櫟は信じているからこそ安心して手札を切れる。それに絶対の自信のある手札もあるのだ。櫟も詳しくない者もいるので強くは言えないが、平城十傑、櫟自身を除いた九枚の中でも菖、梓の二枚は櫟も自信を持てる。

 

  浮かべた櫟の微笑に柔らかさが入ったのを見て、鈴仙も笑顔になった。少し安心すれば出てくるのは悪戯心というもので、鈴仙はこれまでにからかわれた仕返しに、からかってやろうと決意する。耳を揺らしながら鈴仙はシベリアを一口頬張り、お茶で持って糖分を喉の奥に流し込む。

 

「ふーん、櫟ってさ、その藤って男のこと好きなのね」

「はい、好きですよ」

「ぶっ、ごほ、本当に⁉︎」

「さあ?」

 

  櫟の微笑は崩れず、鈴仙の微笑は崩れた。ニコニコ笑いながらシベリアを口に運ぶ櫟の姿に動揺は見られず、どちらが心理的に勝利を得たかは明らかである。いいようにあしらわれた鈴仙は悔しそうにシベリアの残りを口に放り込み空になった湯呑みを二つ盆に乗せ立ち上がる。

 

「はぁ、まあいいわ。櫟が味方で頼もしいって思っときましょ。師匠はどうもやる気を感じないし」

「それはそうでしょう。要は鈴仙さんより親しかった人が敵になるわけですからねー」

「あーはいはい、どうせ私はパシリみたいなもんですよー。また来るわ」

「ええ、また遊ばせてくださいね」

 

  手を振る櫟に呆れながら鈴仙は手を振り返し病室を出て行った。扉が閉まる音に合わせて櫟はホッと息を吐いた。頭を使った後にシベリアだけでは糖分が足りないと口をムニムニと動かして病室の窓辺に寄ると窓を開ける。風に乗って運ばれて来る竹の匂いに鼻を向け、揺れるカーテンの音に耳を澄ませる。揺れる笹の音を聞きながら部屋の味に舌を這わせて窓の縁に櫟は指を滑らせた。

 

  表面すら削れない時の止まったような永遠亭の窓辺に寄りかかり、秋の空気で肺を満たす。その空気を吐き出しながら、ふと揺れるカーテンへ顔を向けた。空気に混じる雨に濡れた蜘蛛の巣のような味。中身のない穴を舐めたような、味のない味を味わって。

 

「……菖ちゃん」

 

  カーテンの影から浮き出るように姿を表すのは黒尽くめの少女。西洋剣をぶら下げて、浮かべた平坦な表情には、僅かに笑みが見て取れた。

 

「ちゃんはよせ。一応私の方が一つ歳を重ねているんだ。傷は癒えたか櫟」

「ええ、平気です。見ますか?」

「どういう傷をつけたかは私が一番分かっている。見る必要もないな」

 

  効率的な会話を好む菖にはからかう隙もなくてつまらないと櫟は頬を膨らませながら、月に向かった時と変わらない菖の様子に内心安堵した。序盤最も危険な仕事を押し付けてしまったが故に、少しの後ろめたさが櫟にはあったが、そんな櫟の内心を見越してか膨らませた櫟の頬を菖は突っつき、冷たい黄泉の吐息を吐く。

 

「私が居ない間はどうだった? 藤に襲われたりしなかったか?」

「そんな度胸がある人なら良かったんですけれど、残念ながら諦めのいい人なので」

「この戦いも諦めることを諦めているからな。楠、桐、椹の出来も良い。やる気のないなどとよく当主以外の者たちからは言われるが、当代の者たちは相当やり手ばかりだ。当たり年だな。これも運命か」

「当主以外の一族の者たちの言葉なんてそこまであてにもなりませんよ。役目より権力が大事な方たちですからね」

 

  当主という者が一族の中でも厄介者扱いな場合の方が多い。唐橋でも当主以外の者は目を抉られて心眼も開けなければただの盲目。その恨みが当主に向くことも多い。坊門もまた子を殺されるため、少なからず恨むを背負う。北条は修行のためもあるが当主を山奥の寺へと追いやり、黴は同じ一族の当主以外触れ合うことも難しい体質。六角は邪眼を恐れ、五辻は風来坊、岩倉に限っては菫は長年生きる化け物だ。同じ一族でありながら、どうしても人とは外れた存在が恐ろしい。家の運営を当主以外が執り行っている場合の方が多かったりする。

 

「まあそんな者たちも今回の結果を受けこれで終わりだと言えば納得するだろう。さすれば肩の荷もおりる」

「それとも言われるがまま無能を演じて次代に流したりしちゃいましょうか。それも一興ですかね」

「思ってもいないことを言うものではないな。ここまで水面下で全て進めたのは櫟と藤だろうに。私も梓もそれを見てきた」

「私は藤さんに乗っかっただけですよ。それだけです」

「……まあいい、それで? 藤は動いているのだろう? 私はなにをする」

「菖ちゃんはもう十分働いていると思いますけど。休んだ方が、でもそう、ならある仙人を仲間に引き入れに行って下さい。数々の動物を使役するそうですが、菖ちゃんならうまくやれるでしょう。仙人相手だと藤さんは見られただけで嫌われる可能性もありますからね」

 

  相変わらず藤に対して過保護な櫟に菖は「分かった」と返し、影の中へ再び消えた。すっかり気配のなくなった病室のベッドに櫟は腰掛けると瞼を開ける。何も写さぬ黒穴を向けるのは、頭の内側、ただ勝利に躙り寄るため、櫟はまた手札を切る。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

現代っ子、不良物見遊山

「あの野郎どこ行きやがった! ってかここはどこだ宇佐美!」

「間欠泉センターだったかな? それよりうるさいから静かにしてよ」

 

  ツンツンと世界を劈く漆の声に耳を背けながら、菫子は妖怪の山麓の間欠泉センターの壁に目を向けた。ロの字型の施設は、幻想郷の中でも有数の機械的施設。木と鉄の歯車が所々顔を出している外壁は、温泉の熱と地熱を用いて稼働しておりとことどころ硫黄の香りが混じった煙を吹いている。そんなスチームパンクちっくな世界を眺める菫子の視界の中をズカズカと肩で風を切りながら漆が横切っていく。

 

  スキマを通り過ぎた先はまさかの妖怪の山上空。菫子は空を飛べるため問題なかったのだが、漆は飛べず、菫は余裕そうに背中から火を噴き空を飛んで消えていった。「ほならねー」と笑いながら漆を見捨てて飛び去っていく姿は堂々としたものであり、罵詈雑言を撒き散らす漆の姿は滑稽だった。「くたばれ!」と漆が繰り返すこと数十回、菫子が漆を浮かせてやり着いた場所が間欠泉センター。それからはや数分側経過したが、菫子は唸り、漆は間欠泉センターの床を粗雑に踏み荒らしているだけだ。

 

  幻想郷には着いた。だがそこからどうすればいいのかが分からない。行きの切符を持たされただけであとはご勝手にと言うような不親切な幻想郷ツアーをどう乗り切るべきか。漆はそもそも幻想郷に来たことなく、菫子が頼れそうな相手と言えば霊夢やマミゾウなどだが、間欠泉センターからはいささか遠い。

 

  思い悩む菫子とは対照的に、勝手すら知らない漆はどうすることもできずただ怒りの質を高めていく。硬質な床の継ぎ目を踏み潰しながら、理不尽だけは踏み潰せない。説明もなければ地図もない。キリキリと動く歯車の音が鬱陶しく、ただ怒りを煽ってくる。漆が吐き出す心の淀みを菫子は流すだけで、唯一吸い込んでくれるのは、ロの字の開けた中央に空いている大きな穴。その淵に丸出しのエレベーターを引き下げた井戸のような大きな口はどこに繋がっているのか見当もつかない。飾りっ気のないカラクリ壁を見ていても面白くはないと穴に向けて足を出す漆の背に、ようやくそれを咎める声が掛かった。

 

  優しい声ではなく鋭い声。少女の声ではなく男の声。警戒と怒りと怖れを含んだごちゃ混ぜの声音に漆は舌を打ちながら、背後へ向けて肩越しに小さく青い瞳を向ける。

 

「止まれ、外来人ども! 妖怪の山の麓に何用だ! いや用などどうでもいい! 帰れ!」

「うぇえ〜、な、なんであの妖怪はあんな敵意バリバリなのよ?」

「帰りたくなければここで散れ!」

「ウゼエ……、ウルシ」

 

  巨大な紅葉が床に落ちる。びっしりとヒビを走らせて落ちた大きな手は漆の影から伸びている。死人が棺桶から這いずるように、生者を道ずれにするように、愚かにも伸ばされる骨張った怪物の腕は生者へと容易く届いてしまう。負の引力。式神、怪物『ウルシ』の手は、手のひらに感じた温かさを手放さぬように閉じていき、その熱を優しく握り潰した。

 

「かぁぁぐやぁぁぁぁぁぁぁさぁま」

「うるせえ出てくんな。ここにかぐや姫はいねえ。戻れ戻れ」

 

  影の中からずるりと出てくこようとする大きな頭の上にゲシゲシと漆は足を落とすが、泣き言を続けながらウルシは漆黒の滝を枝垂れさせズルズル這い出てくる。式神と言いながらウルシに対する扱いの悪さに菫子は苦笑を浮かべながら潰れた白狼天狗の冥福を祈った。

 

「それすごいよね。なんて言うかホラー映画? 貞子みたいなさ。蘆屋さんが作ったの?」

「はぁ? こんな夢見悪いの作るわけねえだろうが! 冗談も休み休み言いな! コイツはな、ただの呪いなんだよ」

 

  式神『ウルシ』。その名の通りウルシの正体は漆である。かぐや姫のお守りであり、侍女であった初代、蘆屋 漆が死後己を式神と化したもの。そしてその力の源は、歴代当主蘆屋漆が支えている。

 

  蘆屋家の当主の決め方は他の一族と違いものすごく安全に簡単に決まる。先代当主が死んだ時、血縁の中の者の一人にウルシが憑く。それが当主となる決まり、そして当主となった者にとっては地獄の始まりとなる。毎夜毎夜夜になれば繰り返される夢。かぐや姫との愉快な日々。そしてそれが終わる絶望という落差。寝ている間に永遠と繰り返される悪夢はウルシの叫び。その積み重なった漆とウルシの怨みこそが力になる。

 

  精神をやられて衰弱死した当主。イかれて崖から飛び降りた当主。例え死んでも誰かに流れるだけで消えはしない永劫の呪い。そしてそれを解き放つ方法はこれまでなかった。御伽噺の中に入り込めるわけがないから。「かぐや姫、かぐや姫」としか繰り返さず、何も言わない式神とは会話すら成立することがない。悪夢の結晶は何を望んでいるのか。再会か復讐か、それすら分からずただ夜を恐れる。だがそれも終わりだ。夜明けがすぐそこまで迫っている。

 

「行くぞ宇佐美! かぐや姫のくそったれのところへな!」

「いやまあ別にいいけど」

 

  宇佐美の目の前で漆はウルシに拳骨を打たれて床に埋まった、「ぶっ」と硬質な床を砕き頭から突っ込む漆には目も向けない式神は空だけを見る。同じ一族の歴代当主であろうともかぐや姫の悪口すら許してくれないお目付役に髪を逆立たせて飛び上がった漆の蹴りが炸裂した。まるでブレず、動かないウルシに蹴った足を摩りながら漆は舌を打ち、ウルシが見上げる先を見つめる。

 

  羽ばたいている黒い翼が四つ。吹き抜ける風に溶けたように飛んでくるそれはあっという間に間欠泉センターの上空を回る。

 

  鴉天狗。幻想郷最速の種族の軽やかさに舌を打ちながら、舞い落ちてくる黒い羽を漆は蹴り上げる。

 

「なんでこう邪魔そうなのがわらわらわらわらと! 月軍とやるんじゃなかったのかよ? なんであたしがこんなこと、ックソ!」

「いや、蘆屋さんが出頭に白狼天狗を潰したからじゃ。どうするの?」

「どうするって……ッチ、空にいるやつら引きずり落とせ」

 

  空から風の刃が落ちて来るのを忌々しく睨み付け、隣の式神へと漆へ指を動かして見せた。頭を振り回しウルシの漆黒の髪が伸びる。黒い閃光は風を裂き、生きているように蠢いた。高速で飛び回る天狗の足に絡みつき、()()の影が地に堕ちる。

 

「いやあああ⁉︎ なんなんですかああああ⁉︎」

 

 絶叫をBGMに轟く肉ドラムと、それにノッたヘッドバンキング。前に後ろに、左に右に、機械の壁を凹まして五つの生物を肉塊に変えるために振り回す。「ひぶ! ふぶ!」と唯一白い影が情けない声を吐き出して黒い髪に包まり床に転がる。他の花開いた四つの赤い花と違い姿を保ち、頭のたんこぶをさすりながら身を起こす緑の髪の少女を見て二人は固まる。パチクリと三人顔を見合わせて、流れる気まずい雰囲気に漆は指揮者のように指を振った。

 

「宇佐美、ありゃきっと物の怪とかそんなんだよなって思う。なんたって髪に苔が生えてやがるからな。そうじゃなきゃアレだ。きっと病気持ちであんな髪色なのさ。ばっちぃの。だから潰せウルシ」

「いや急になんなんですか貴女たちは! 勝手に攻撃してきてばっちい⁉︎ 失礼過ぎます! 私だって怒りますよ!」

「いやあ、なんて言うか、ごめんなさいと言うか。はぁ」

 

  立ち上がり漆と距離を詰めようと歩く東風谷早苗であったが、ウルシの黒い髪に足を引っ掛けすっ転ぶ。コントをする気もない漆は相手をしたくはないと明後日の方へ顔を反らし、菫子はどうしようか眼鏡を押し上げた。蜘蛛の巣に絡まったようにウルシの髪と格闘している早苗は二人に全く相手をされないことに業を煮やし、はんぺんに棒をくっつけたようなお祓い棒を一振りして黒い牢獄を断ち切った。

 

「天狗の皆さんが騒がしいから今度は乗り遅れるまいとやってきて見れば! 外来人が二人とは、まさか梓さんと同じ平城十傑?」

「げ、梓の知り合いかよ。てかウルシの髪を切るとかテメエ普通じゃねえな」

「ふっふーん、普通じゃないんです!」

「なんでテメエ嬉しそうなんだよ……」

「まあそれは貴女たちもみたいですけどねー。貴女は言わずもがな。そっちの方は格好が変だし」

「だよな。ファッションセンスを疑うって」

「はあ⁉︎ この格好良さが分からないとか⁉︎ かぁぁ! 凡俗な感性しか持ち合わせていないのね!」

 

  マントをはためかせて小石を宙に浮かべる菫子に漆はもう呆れて言葉も出ない。少なくとも高尚な人物であれば、学生服の上にマントを羽織るという謎ファッションセンスは御免被る。どうせ数年もすれば心の痛みで床をのたうち回ること請け合いだ。「マジシャン?」と勘違いする早苗に「超能力者!」と返すお決まりクサイ流れを聞き流しながら、でくの坊な式神を引っ込めようと漆はウルシの服の裾を引っ張るがビクとも動かない。

 

「で? お二人はどんな一族なんですか? 梓さんはターミネーターみたいな人でしたけど」

「ターミネーター? そんな例えするなんて、幻想郷にはあの映画も幻想入りしてるの?」

「ああいえ、私も数年前に幻想入りしましたので」

「はー、じゃあ幻想郷での先輩なのね」

「そうなんです! だから頼っていいですよ!」

「超どうだっていいな。くだらねえ」

 

  胸を張る早苗には目も向けずに再度漆はウルシを強く両手で引っ張れば、ようやく名残惜しそうに渋々影へと潜っていく。一仕事終えたと額を拭う漆に早苗のキラキラと輝く子供のような瞳が向き、漆はウンザリとした面持ちになった。

 

  平城十傑。かぐや姫を守るため集った十の英傑。その子孫に向けられた夢見がちな目に漆は頭を掻くが、否定してなにがあるわけでもない。なにより他の平城十傑が幻想郷にいる手前嘘をついても仕方ないと、漆は舌打ち混じりに少女の望む答えを雑に投げる。

 

「蘆屋だ。蘆屋 漆。陰陽師だよ」

「私は宇佐美菫子。平城十傑じゃないわ」

「陰陽師! 安倍晴明とかですか!」

「いやうちで言えば他に有名なのは蘆屋道満、ってかどうだっていいな。はぁ、おい宇佐美、もうかぐや姫のとこ行くぞ」

「えぇ……この惨状放っておいてですか? それは……ッ⁉︎」

 

  急に吹いた突風に、菫子は足を踏ん張ろうとするがそれよりもなお強く風が吹き荒れる。自由に空を飛ぶ事も叶わず、突如吹き抜けた嵐に足を掬われて、菫子は早苗と漆を巻き込み大穴へと吸い込まれた。大海に穴が開いたように流れ込み続ける風に押し流されて落ちていく三人を見下すのはペンを握り締めた天狗の少女。

 

「んー、黒幕っぽい、黒幕っぽいわね。これで梓さんの頼み通り地底も丸。あとは岩倉ですが、放っておいていいって言われてるけどどうしようかな。梓さんと一緒にいた方が面白いけど今は鬼も一緒だし。はぁ……、まあでも戻りますか。なにより妖怪の山が面白そうなんだから」

 

  黒い羽を散らして少女の姿は風に溶ける。地底に続く穴からは小さく怪物の泣き声が響いたが、誰に届くこともなくひっそりと消えていった。

 

 

 ***

 

 

  ガラガラと崩れた岩を押し退けて怪物が立ち上がる。遥か上空に見える小さな点は地上の光。怪物に続いて立ち上がった三つの人影は服に付いた砂埃をはたき落としながら、一人は帽子を被りなおし、一人はホッと息を吐き、一人は崩れた岩を蹴り上げようとして足から痛い音を響かせた。

 

  「痛ってえ!」という叫び声は閉ざされた地底に反響して木霊する。呆れたように首を傾げる怪物に中指を立てながら、周りの明かりに顔を向ける。間欠泉センターの地下。オレンジ色に照らされた黒い鉄の塊がいたるところに置いてある。半球状の鉄の塊についている分厚く丸い硝子窓を漆が覗き込めば、中ではオレンジ色の球体が目に痛くなるような光を発しながら縮小と膨張を繰り返していた。呼吸しているような球体から目を外し、再び上へ向いて肩を落とす。

 

「なんだよマジであのありえねえ動きをする突風は! あんなのありか! ここは風まで生きてやがんのか?」

「さあどうでしょうね? 少なくとも今天狗さんたちは外来人撲滅隊というくらいつんけんしてますから。天狗の仕業かも。それよりその大っきい人すごいですね! なんていうかコスプレした貞子みたいな」

「やっぱりそう思うわよね! テレビから出てきそう」

「うるせえ、テメエらはホラー映画マニアかよ、それよかどうするかだ。上に戻るなら確かエレベーターがあったな」

 

  そう考えて壁に目を走らせた漆の目の先で木の箱が上から落ちてきた。ぐしゃりと潰れた木の箱はただのゴミだ。同じようにもう一つ落ちてきて薪にしか使えなくなったエレベーターに、漆の口端がひくつく。

 

「あれま」

「あれまじゃねえ⁉︎ おい宇佐美どうすんだ!」

「飛んでもいいけど蘆屋さん飛べないんだっけ。あの式神で上って来たら?」

「いや、今行くのはやめた方がいいと思いますけど。天狗の皆さんがまだいるでしょうし、地底にいれば少なくとも天狗の皆さんは来ませんよ」

「はあ? なんでだよ」

「鬼がいますから」

 

  それはもっと良くないんじゃないかと思いながら漆は舌を打ち顔を背けた。そうなると残されているのは地底の道。外に出るには、裏道を知らぬ限り博麗神社へと繋がる道を行くしかない。幻想郷に来て早速薄暗い穴蔵に押し込められている現状に漆は不満しか抱けず、逆に汚れた服にしか不満をもっていないような緑髮の少女に目だけを向ける。

 

「そういやテメエはなんだ? あたし達と同じ外から来たってのは聞いたがよお、人間か?」

 

  緑髮の少女は人間にしてはどこか変わっていた。髪の色も勿論そうなのであるが、少女を前にして感じる感覚がどうも普通とは異なる。梓とは別の意味で整いすぎている容姿は、名画家の手掛けた少女の姿。初日の出を眺めているような、夏の空に沸き立つ入道雲を見上げているような、雄大な自然を前にした感覚に近い。少女の体から滲む力の流れは魔力とも霊力とも異なる。その爽やかな力は平野を流れる風のようで、漆はその潔癖とした空気の流れに眉を顰めた。

 

「私は東風谷早苗、守矢神社の風祝にして現人神です! ふふん、拝んでくれていいですよ!」

「ウルシやれ」

 

  背後から伸びた怪物の腕にペシリと早苗は潰される。「ぐえ」と呻き声を上げながらも器用に全身を神力で補強し握り潰されることを回避しながら、尖った目尻に引っ張られるように舌打ち交じりに見下ろしてくる漆へ睨み返した。

 

「なにするんですか⁉︎」

「現人神? 神ってことは月夜見だかの味方か? あたしのことも梓に拷問でもして聞いたのかよ」

「違いますよ! 信徒が幻想郷にいるのに裏切るわけないでしょ! 味方です‼︎ だいたい梓さんに拷問なんて効かないでしょ!」

「はあ? 水責めとか普通に効くだろ。テメエらどんな拷問してんだ」

「え? そ、そうなんですか?」

 

  梓だって人間だ。痛みに強かろうと、呼吸をできなくされては流石の梓もどうすることもできない。そうなる前には流石に梓も逃げるだろうが、それを思えば一生懸命棒で突っつき梓の口を割らせようとした天狗の涙ぐましい努力になにも言えない。敵にしては間の抜けた早苗の反応に、漆は指を弾きウルシに手を退けさせる。

 

「ま、いい。信じてやる。で? テメエは天狗と一緒に来たってことはやつらと仲良いのか? どうすんだ」

「全く短気な人ですね。帰ってもいいんですけど、次にのけ者になるのは嫌ですし、漆さんについていけばあぶれませんかね?」

「はあ? なんだテメエ、自分から進んで戦いたいなんて変なやつだな。顔に似合わず戦闘狂か?」

「お好きに言ってくれていいですよ。漆さんも、菫子さんも、お二人も分かるでしょ? こんな力をもって外の世界に生まれて、力を持て余している」

 

  手から火が出せる。風を操れる。電気も水も、空を飛べても便利ではあるが必ずしも必要ではない。それも人ではあるのに他とは違う。違うというのは生き辛い。法律も、権利も、社会とは大多数のためのものであり、片手で足りるような少数にとっては生き方を狭める。できるのに、やれるのに、それを行使してはいらない首輪をかけられるだけで、得られるものは不自由だ。

 

「できるならこの力を良い方に使いたいじゃないですか。大いなる力には大いなる責任が伴う、ですよ」

「今度はスパイダーマンかよ。英雄願望なんてくだらねえって」

「化け物と呼ばれるよりもヒーローと呼ばれたいですからね! 漆さんは違うんですか?」

「ヒーロー? あたしとこいつがか?」

 

  十尺近い式神を漆は見上げる。悪夢を永劫見せる巨大な怪物。我儘で粗暴で泣き言しか口にしない。外にいても勝手に暴れて被害を出すだけだ。見上げる漆の顔にウルシは血走った目を落とし、大きく首を傾げる。死神が首を擡げているような姿には『英雄』などという称号は似合いそうもない。漆は鼻を鳴らすと手を振りウルシの視線をつらす。

 

「ヒーローなんてガラじゃないね。だいたいあたし自身はそんな強くねえし」

「まあ確かに漆さんはヒーローというよりポケットなモンスターのマスターというか、妖怪をウォッチする人って感じでしょうか」

「おい幻想郷ってのは幻想の拠り所じゃねえのかよ。例えが若いってかガキっぽいぞ」

「んな⁉︎ じゃああれです行くぞ鉄人みたいな! ベイマックスみたいな!」

「なんでアニメばっかなんだよ! オタクか!」

「あのお二人さん。盛り上がってるところ悪いんだけどもアレってなに?」

 

  菫子の言葉に引っ張られて顔を向けた二人の視界は暗闇から浮かんだ極光に包まれる。地下の太陽の輝きが人間を飲み込もうと手を伸ばす中で、影の巨人が手を伸ばした。叫ぶ泣き言は暗闇を塗り潰す音によって掻き消され、影に両腕が迫る極光を切り裂く。巨大な人の形に切り抜かれた光は三人の少女を残して通り過ぎ、地底の壁を溶かしていく。その中で舞う黒い羽に一瞬また天狗かと漆は思ったが、ひらめく白いマントと、胸の谷間に覗く大きな赤い瞳を見て別の何かだと理解した。地底に流れる炎熱の中を漂う黒い翼はゆっくりと三人の少女の前に降りてくると、右手に嵌められた大砲のようなものを掲げ、目を三人へ向けてキツく絞る。

 

「また来たのね三人組‼︎ 次は逃しはしないわよ!」

「はあ? またってなに言ってんだけどテメエ。誰かと勘違いしてんじゃねえのか?」

「そんなことないわ! ほら変な格好の人間が一人に……人間が二人に三人? こいし様は? あれしかも一人多いような」

「おいコイツなんだ?」

「いや、だから私に聞かれても」

「お空さんですからね。仕方ないですよ」

 

  なにが仕方ないのか漆にはさっぱり分からない。盾となったウルシに目を向ければ、焦げ付きながらもいまだ健在であり、体よりもより擦れてしまった服の方を気にして服の端を摘んでいた。漆の青い視線に気付いたウルシは大きな手を丸めると親指を突き立て漆に返す。心配するのも馬鹿らしいと肩を竦めて漆が核エネルギーを遊ばせる地獄の鴉へ目を戻せば、右手の筒を構え、力を点滅させていた。

 

「まあ良いわ! さとり様の命令で変な格好の人間の侵入者は処分! ろくなのいないからってね!」

「おい変なのって、こいつは巫女として、一人しかいねえぞ」

「だから変じゃないってば! マントは格好いいでしょう!」

「ああ? そういやあの鴉もマントだな。分かったマント着けてるやつはやべえ奴だ。おい東風谷、マントはやべえぞ」

「あー、やばいですかね? あっ、あー、なんかそんな気がしてきました」

「やばくない‼︎」

「うるさい!」

 

  わちゃわちゃしている三人組に再び核が火を噴いた。人型の盾がその光を遮るが、熱まではどうしようもない。神力で、霊力で、超能力で熱から三人の少女は身を守るが、吸い込む空気の熱さに多少咳き込む。相手がちょっと、ほんのちょっぴり、多分ちょびっと頭が足りなかろうと、その力は偽物ではない。焼け落ちる土の匂いに鼻を擦り、漆は指を鳴らす。

 

「ウゼエ。話もできねえ奴に用はねえぞ。久し振りに使ってやる。 (おん) 阿謨伽(あぼきゃ) 尾盧左曩(べいろしゃのう) 摩訶母捺囉(まかぼだら) 麼抳(まに) 鉢納麼(はんどま) 入縛攞(じんばら) 鉢囉韈哆耶(はらばりたや) (うん)!ぶっとばせウルシ、急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)‼︎」

 

  光があれば影がある。光が生んだ影の一本線に、漆とウルシの呼吸が合わさり漆の指の動きに合わせて影に向けてウルシは拳を突き入れた。ズブリッ、と肘の先まで泥の中に沈んだようなウルシの腕は、ノータイムでお空は足元の影から突き出しその身を遥か後方へと飛ばす。地底の壁を削り跳ね飛んで行くお空の姿はどこまで飛んだのか、オレンジ色の明かりも吸い込む地底の闇へと破壊音は反響し、その音が小さく収束する元から光が漏れた。指を横に動かす漆に合わせてウルシが腕を振り、光の槍が弾き飛ぶ。

 

「元気な野郎だ、うざってえ」

「うわあ漆さん! 今の凄い陰陽師ぽかったです! くぅぅ、いいなあ、急急如律令‼︎」

「は、はあ⁉︎ なんだテメエバカにしてんのか⁉︎」

「いやでも本当に蘆屋さん陰陽師だったのね。ただの不良じゃなくて。それよりそのウルシって式神ひょっとしてまだ上があるの?」

「えーもっと色々やって見せてくださいよ!葉っぱで舞う蝶々を斬るとか!」

「うるっせえ、この映画マニア! ってかまた来んぞ! 宇佐美! 東風谷! テメエらも働け!

「ふっふっふ! では見せてあげましょう! 神の力と風祝の技を!」

「皆古いのよね、超能力が最強だって教えてあげるわ!」

 

  過去と今の技術が踊る。太陽の化身が飛んで来るのを目に留めて、ウルシが応え叫び返した。

 

「かぁぁぐぅぅやぁぁさぁぁま‼︎」

「うるせええええ‼︎ だからここにはいないって言ってんだろうが!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

絡繰のいと

  色鮮やかな紅葉は作り物。山に流れる細川はただ柔らかなものでしかなく、景色は写真、生物は剥製、土の表面という脆いものに指を伸ばし、菫は指先に付いた茶色を擦る。指先に広がる茶色をつまらなそうに眺めたあと、手を振ってそれをこそぎ落とす。

 

「……幻想郷に来ても別に変わらんなぁ」

 

  人生とはなんであるか。偉い先生や、高名な学者が人生をあらゆるものに例えている。人生とは旅。人生とは物語。菫にとって例えるなら、人生とは劇である。喜劇でなく、悲劇でもない。それも終わりがなく、盛り上がりもなく、主演の菫以外頻繁に出演者が変わる。観客はおらず台本もない。演出家はおらず、もし監督がいたら即座にクビだ。菫が何をしても何も変わらず、永遠に人形劇は続いていく。

 

(つまらんわぁ)

 

  目で見れる。物も触れる。味も分かるし音も聞こえる。しかし、どうにも剥がれない離人感。何を食べても感動がない。音楽を聴いてもテンションは変わらず、何に触れても感触もない。自分は主演であり観客。いつも世界と自分の間に透明で分厚い壁がある。誰かに操られているんじゃないかというほど現実味がない。見えない糸が手足から伸びているんじゃないかという不安。操っているのは誰なのか。そんな存在はいないのだが、いてくれた方がまだマシだ。いれば少なくとも殴ることができる。

 

  現実味のない数百年が幻想郷に来れば変わるのではないかと、僅かに菫は期待していたが、別にそんなことはなかった。自然も、空気も外にいた時とそう変わらない。変わったのは、姿形の少し違う生物がいるくらい。妖怪だろうが、幻獣だろうが、神だろうが所詮形が違うだけ。結局また演者が変わっただけで、主演は変わらず。いつも通りだ。

 

「藤も櫟も、梓も菖も、楠も桐も、他のみんなはどうすんやろ」

 

  そんな菫にとってのいつも通りが、周りには全く違うらしい。終わりに向かって歩いている。これまで積み重ねた無意味を形にするために、平城十傑が歩んでいる。それを少し離れて眺めるのは菫ひとり。自分のありようと変わらない。終わりだ、夢だ、と口にするには、菫は長く生きすぎた。これまでいったいどれだけの平城十傑の当主たちと共にあったか。百人を超える当主たちのことを菫だけは覚えている。覚えているしかない。忘れることはできないから。

 

  岩倉は平城京の武器番であった一族だ。他の一族が技を磨く中、岩倉が邁進したのは己を武器とすること。それは武術のように、拳は金槌、蹴りは戦斧といった抽象的な意味ではなく文字通り。己の体を武器とする。そうすれば武器を手放し落としてしまう必要もない。だから骨肉を砕き、古い時代に使われていたヒヒイロカネと混ぜ溶かし、もう一度人の形に作り直す。記憶は頭の中のヒヒイロカネの液体金属に蓄音機のように刻まれ続け忘れてしまうこともない。そんな金属人形として完成したのが十二代目当主 岩倉 菫。平城十傑の中で誰より早く完成してしまったおかげで、誰よりも多くの無駄の中にいる。

 

「綺麗なんやけどねぇ」

 

  紅葉した妖怪の山は美しくはあるが、それだけ。生命の息吹は流れていても、それを感じることができない。一枚の写真、VRの世界を眺めているのと大差ない現実が、削れ過ぎて形を変えることもない菫の心を撫でていく。

 

  歳をとり過ぎるとどうも独り言が増えてしまうな、と頭を掻いて菫は指で削った地面を踏み付け足を進める。行き先なんて決めていない。漆と菫子の二人と一緒に幻想郷に来たはいいが、菫は全く共に行動する気はない。現代っ子二人と一緒に居てもただでさえ話は合わないだろうし、また、一人の方が菫は気に入っている。そもそも共演者がいなければ演者が変わることもないのだ。必要のない気遣いをしなくて済む方が楽でいいと歩く菫だったが、ガサリ、と近くの草むらが揺れ足を止めた。

 

  そちらに顔を向けた菫だったが、特におかしなものはない。ただ草木があるだけで、何もないように見える。が、その木の根元の落ち葉が二箇所不自然に凹んでいるのを目に留めると、くすくすと小さく笑みを零した。

 

「誰かは知らんけど、頭隠して尻隠さず、やね」

 

  揺れた木に向けて言葉を投げるが、特に返事は帰ってこない。見つかっていないと思っているのか。それとも言葉に詰まったのか。どちらでも菫は構わなかったが、知らず識らず不可視の観察者に張り付かれるのは面白くなかった。

 

  小さくため息を吐いて首元に手を置く。ガチリッ、という音に合わせて、菫の背中の制服がめくり上がり、背骨の両脇から長い鉄の筒が二つ、肩の上まで筒に繋がった腕が伸びてせり上がった。それと同じく背中から伸びるのは二つの鉄の爪。四つの凶器を背後で振るい、一歩草木に向けて足を出す。キリキリ唸る歯車の音が鳴き声のように森の中に木霊した。

 

「悪いけど、ぼくは月軍じゃなくても容赦せんよ? かぐや姫も月軍もあんまり興味なくてなあ。吹き飛びたいか、切り裂かれたいか。どっちでもええよ」

「ひゅい⁉︎」

 

  変な息の吸い込みをして、草木からずるりと少女が這い出て来た。空間から浮き上がってくるように、パチパチっ、と小さな紫電を周囲に振りまき出て来た少女に、菫は首をこてりと傾げる。出てき方が普通に隠れていた出方ではない。溶け込んでいた風景から突如出てきた少女は、宝くじのコイン削りで削り落とした銀紙のように浮かび出てきた。

 

  リュックサックを背負った青い髪の少女。河城にとりを見下ろして、背後の四つの凶器を肩を回すように菫は捩る。あわあわと口をふやけさせて尻餅をつくにとりの前に菫が屈めば、びくりと少女は両肩を跳ねさせた。そんな姿が可笑しく、菫は小さく笑ってしまう。

 

「待った待った! 外来人のお兄さん! 私悪い妖怪じゃないよ! 私は河童! 人間たちの盟友さ! ほら安全安心!」

「別になんも聞いてないんやけどね、そんな怖がらんでもええのに」

「いや……、だって外来人でしょ?」

 

  怯えた様子のにとりに、菫は困ったように肩を竦めた。外来人だからなんだと言うのか。所詮よそ者の人である。そんな菫の見識は正しい。外来人。幻想郷に来たならば、幻想郷のルールを無視して食べてしまっても構わない妖怪達の素敵なおやつ。振って湧いたご馳走。であったのだが、ここ数日でそんな外来人の意味は百八十度変わってしまった。

 

  曰く博麗の巫女の結界を斬った。曰く鬼と殴り合って引き分けた。曰く風よりも速く走り、曰く破壊すらその手に掴む。異変解決者に穴を穿ち、蓬莱人を殴り、盗みを働き、一度来た月軍を追い払ったと。

 

  控えめに言っても化け物である。人のくせに人の枠組みから大きく外れた例外がずらずら何人も。その誰もが背格好は似通っている。人里に貼られている手配書然り。若い男女で、学生服という服に身を包んだ者達。人相書きの出回っている椹や、菫子と同じような服を着ている菫はまさにこの今幻想郷に流れている情報に一致し、そしてなんかもう見た目からして色々とおかしい。陽の光によって地面に映し出された菫の影は、大きな蜘蛛のようにも見える。

 

「そ、それで外来人のお兄さんは……、あーっと、人間?」

「変なこと聞くなぁ、どう見たってせやろ」

「で、ですよねぇ」

 

  どう見たって化け物だよ! と思いつつも、にとりは確かに菫から人の匂いを感じた。ただしそれはごく僅か。錆び付いた血のような鉄の匂いに包まれて、ほんのちょっぴり香る程度。人とは姿形が違っていても、人であることに間違いもない。菫を観察し、恐れから少しずつ興味へと移り変わってゆくにとりの目の色を見て、菫は展開していた凶器を背中に納める。凶器さえ納めて仕舞えば、菫の見た目は外の世界のどこにでもいる学生に戻る。

 

「それで? ぼくになんか用なん?」

「あはは、いやぁ、用なんて別に」

「じゃあ今手ぇ伸ばしてるスイッチは押さなくてもええな」

「そりゃもちろん!」

 

  敵意のなさそうな顔のくせして目敏いな! とにとりは慌てて腰の後ろにぶら下げていた警報機から手を遠ざけ両手をあげた。相手は外来人。見た目が恐ろしくなくなったからといって、何をしでかすか分かったものではない。盛大に貧乏くじを引いてしまった今をにとりは恨む。

 

  ここ数日、急に降って湧いた問題ごとで妖怪の山はてんてこ舞いだ。外来人が来たと思えば、天狗を殴り、捕縛から脱走。月軍を名乗る一団に絡まれ、しかもどういうわけか鬼までやって来た。最初にやって来た外来人も未だ消息が掴めず、月軍にぶっ壊された家屋の修理などで、河童は馬車馬のように働かされている。勿論にとりも例外ではない。そんな中、外来人を見かけたら報告するようにと回覧板が回って来たが、どうせ会わないだろと、にとりが高を括っていた矢先でのこれである。

 

  鍵山雛に厄祓いでも頼もうかと思いつつ、だが、アーキテクトとしてのにとりの側面は、菫に興味を抱き目が離せなかった。これが他の平城十傑ならば話は違うのだが、菫の背中が気になってしょうがない。そんな恐怖と好奇心の混ざったにとりの顔に、菫はつまらなそうに首を傾げた。そんな顔を向けられたことも数多く慣れてしまった。

 

「そんなに見つめんで欲しいわ。ぼくはどっかの誰かと違ごうて女の子に見つめられても嬉しくないし」

「ああごめんよ。私は技術畑の妖怪でね。どうしても気になるんだ。お兄さんは発明家? それとも鍛冶屋とか?」

「ほー、妖怪なのに技術屋とは珍しいねえ。さっきの急に出て来たのも君の作品か?」

「そうなんだよ! 私特製光学迷彩スーツ! いいでしょ!」

「光学迷彩? そりゃまたえらいもんやね」

「でしょ!」

 

  相手が恐ろしかろうと、自慢の子を褒められて悪い気はしない。胸を張り、左腰のツマミをにとりが回せば、パチパチ音が鳴りにとりの姿が薄れていく。幻想郷の意外な技術力の高さに菫は素直に感心した。そんな菫に満足した顔をにとりは返す。

 

「それ空気中の水分つこうてるん? エレキテルで集めてそれで光を屈折させてるんやろ」

「お! お兄さん話せるくち? この凄さを分かってくれる奴があんまりいなくてさあ。折角作ってもそれじゃあね」

「まあ普段使わないような技術には目がいかんもんや。必要にならんとそれが凄かろうとな。で? 河童ちゃんは何してるん? わざわざ姿隠して、かくれんぼかいな。ハイレベルやね」

「ああいや、私はちょっと気晴らしに」

 

  誤魔化すように、にとりは頭を掻いた。あまり人に言えることではないから。外の世界のブラック企業なみにツンケンしている天狗に嫌気がさし、つい光学迷彩スーツまで使い任された仕事から脱走してしまった。

 

  月軍の武器の調査。妖怪の山に侵攻して来た偽月軍の所持していた武器の回収が済んだはいいが、どういう仕組みなのか天狗たちにはさっぱりであった。そこで手先の器用な河童たちのところまで流れて来たのだが、技術格差の壁はぶ厚い。いろんなところでたらい回され、結局流れ流れて河童の中でも一等おかしいものを作るにとりのところまで流れ着き、数日奮闘した結果、にとりは大きく両手を上げたというわけだ。

 

「気晴らしなあ」

「そういうお兄さんは? なにしてるのさ」

「ぼくぅ? さあなあ、何してんのやろ」

 

  幻想郷に来たのは、僅かな期待があったから。普通とは違う世界なら、普通にあらゆるものが鮮明になると期待して。だがそれも一刻も掛からず終わってしまった。何してるかと聞かれても、特に答えることもない。

 

「なにそれ、お兄さん幻想郷になにしに来たの?」

「うーん、観光?」

「なにそれ」

 

  あまりに気の抜けた菫の答えににとりも流石に呆れてしまう。

 

「外来人の人たちって月の神様と戦うために来たんじゃないの? 新聞にはそう書いてあったけど」

「ぼくはもう戦いなんて死ぬほどやったからなぁ。関ヶ原も世界大戦も。他のこともそうやし。河童ちゃんは戦う気なん?」

「いやぁ、私だってやだけどさ。家が火事になってなにもしないのもおかしいじゃん」

「そりゃそうや」

 

  敵の狙いは幻想郷。幻想郷に居る限り逃げ場はなく、幻想郷から逃げたところでいずれは戦うことになるかもしれない。笑う菫を訝しみにとりは頭を指で掻きながら、背中のリュックを背負い直した。最初こそ驚いたが、菫のやる気なさげな雰囲気に毒気が削がれていく。そうなると残るのはあまりある好奇心。にとりは薄く笑いながら、胸の前で緩く手を合わせた。

 

「お兄さんが悪い人じゃないってのは分かったからさ。さっきの背中の教えてよ。どういう作り?」

「どうもこうも、ぼくは全身が武器なんよ。ほれ」

 

  少女の疑問に、別にそのくらいなら黙る必要もないと菫が右手の指を鳴らせば、キリキリと小さな歯車の音と共に右肘から刃が伸びる。左足を踏み込めば踵から。武器を携帯しているのではなく体が武器。物騒な菫の体ににとりの口端が固まった。

 

「……体だけは戦う気満々だね」

「手放そうにも手足取らなあかんからね。不便やほんと」

「自分で作ったの?」

「半分はな。もう半分は先代や。こう河童ちゃんみたいなエネルギー装置でもあれば格好ええんやけど、無骨であかんわ」

 

  カラカラとなんでもないように笑う菫であるが、技術屋だからこそ、にとりはその凄まじさが分かる。カラクリなら当然にとりも嗜んでいる。有名なカラクリである茶運び人形や、弓曳童子を作ったのも一度や二度ではない。菫の体から聞こえる音から歯車の音と当たりはつくが、それにしたって菫の動きは滑らか過ぎた。生物と比べても遜色ない。

 

  半分は自分で作ったという菫の技術力に小さく頷き、にとりは笑みを浮かべたまま、パシリっと手を打つ。

 

「ねえお兄さんなにもしてなくて暇ならさ、ちょっと手伝ってくれない? お兄さんの腕をかって頼みたいことがあるんだけど」

「んー? ぼくに? 変な子やね。聞くだけ聞くけど」

「今月軍の武器の調査をお願いされててさ。分かんないからって渡されても私だって分からないし。お兄さんなら分かるかなって」

「月軍の武器? そらまた、面倒そうやね。なんで僕に頼むん?」

 

  菫の問いに、にとりは肩を竦める。なんでもなにもない。

 

「だってお兄さん平城十傑って外来人じゃないの? 今いる外来人てその人たちって話だし」

「まあそやけど、ぼくらそんな有名なん? 嫌やなぁ」

「いや、あんなに目立つことばっかやってて有名にならない方が変でしょ」

 

  それは自分は関係ないと菫は思うも、結局平城十傑である限り一括りにされてしまう。人ではない人、平城十傑。そう言うのなら自分が一番その呼称にはあっているかと渋々菫は納得する。だが、それでにとりに協力するかどうかはまた別の話。どうしようか一瞬考え、即座に断ろうと答えを弾き出して口を開こうとした瞬間、

 

  ビィィィィ‼︎

 

  と、にとりが腰に付けている機械の一つからけたたましい音が鳴った。何事かと目を丸くした菫がにとりに聞くよりも早く、にとりは慌てて音を発した機械を掴む。

 

「わ! わ! こちらにとり! 一体なに……はあ⁉︎ 間欠泉センターが大破⁉︎ 地下から吹っ飛んだってなにそれ⁉︎ 今? いやあ今はちょっと……えへへ、あ、ちょっと電波が! あぁあぁあぁ」

 

  そう尻すぼみに声を落としてにとりは通信機のスイッチを切る。何も言わずに立っている菫に愛想笑いを浮かべてにとりは顔を向けるが、次の瞬間にまた別の通信機が鳴り、「なんなの⁉︎」とにとりは乱暴にもう一つの通信機を掴んだ。

 

「はいはい! こちらにとり‼︎ え?……えっ⁉︎ 外来人が妖怪の山に出た! 鬼と一緒に⁉︎ 天魔様のところに向かってるって、いやそんなこと言われても!」

 

  通信機に叫び返すにとりの目が菫に向けられたが、菫は苦笑を返すことしかできない。また「電波がぁぁ‼︎」と叫びながらスイッチを切るにとりの腰の通信機がまたひとつ鳴り、腰から通信機を全て引っこ抜くと、にとりはそれを地面に叩きつけぶっ壊した。落ち葉の上に転がった機械は薄い白煙を上げてパチリッ、と火花を散らす。肩で呼吸をするにとりの肩に菫は優しく手を置いた。

 

「大変そうやね」

「いやお兄さんたちのせいでしょ⁉︎ なんで他人事⁉︎」

「いや、ぼくはなんもしてへんのやけど」

 

  がっくりと肩を落とすにとりだが、その肩はすぐに再び跳ね上がった。空気を揺らがす轟音が遠くから響いてくる。そして視界の上部を僅かに掠めて遥か上空を横切る閃光。その光を死んだ目でにとりは見つめながら、無気力に頭をがしがし掻く。

 

「なんなのこの急な世紀末状態は。月軍来る前に幻想郷滅ぶんじゃ……。あの光、太陽の畑の方から? またお兄さんの知り合い?」

「さてなぁ、ぼくに聞かれても。それで? 河童ちゃんはどうするん?」

「どうするって……」

 

  間欠泉センターにも妖怪の山にも他の場所にも行きたくはない。どこに行こうとろくなことがないことが分かってしまう。目の前にいる菫のことをちらちら眺めながら、ひとり頷く。

 

「平城十傑のお兄さんが一緒なら安全? やっぱり協力してくんない? こうなったらもう(ラボ)に引きこもろうかなって」

「ぼくぅ? なんで?」

「少なくとも今は妖怪と見れば退治してくる巫女や、盗み癖のある魔法使いくらいには頼りになりそうだからさ」

「それは……」

 

  なんとも業の深そうな者たちと並べられ、菫は言葉に詰まってしまう。お願いと、手を合わせてくるにとりに菫はため息を零し、どこも安全そうではない状況では、ついていった方がいいかと決めた。

 

「まあええか。協力しよ河童ちゃん」

「おっけー! よろしく、お兄さん。あと私は河童ちゃんじゃなくて河城にとりね」

「にとりちゃんな。ぼくは岩倉 菫や。ほなよろしく」

 

  にとりと菫は握手もそこそこにその場を離れた。妖怪の山から響いてくる轟音から逃げるように足を動かす。必要なのは戦いではない。まだ。




どうでもいい設定集①

十八歳 梓。 菖。 藤。

十七歳 楠。 桐。 椹。 櫟。 漆。

十六歳 梍。

骨董品 菫。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一隻眼

  地蔵。丸っこい石の頭がいくつも並んでいる景色をサングラスが反射する。暗闇に浮かぶ石の小人たちから目を外し、四脚門を梍は見上げた。門の面構えでなんとなく中の空気は察することができる。カラッとした清々しい空気であるが、どこか芯に刺さる鋭さがある。荘厳な空気を掬い取るように(さいかち)の目は門をしばらく見つめて、「楠先輩の寺とは雲泥の差だだに……」と、ポツリと呟いた。

 

  だが、見た目の立派さと、流れる空気とは裏腹に内に渦巻いているものはすこぶる怪しい。暗い暗色を示す光は妖気の証。それが寺の至る所に点在している。それに比べて人の気配はかなり薄い。人里という人営みの側に控えていながら、別世界さながらの空間に梍はサングラスの位置を直し視線を隠す。

 

  命蓮寺。幻想郷最大の妖怪寺。陽の空気で洗われた潔癖さではなく、陰の空気に洗われた潔癖さを滲ませる独特の場。目指す先は一緒でも、アプローチの違いでここまで違うのかと、梍をして初めての景色に静かに喉を鳴らした。そんな鈍い音までも木霊しているんじゃないかと思う空間の入口へ、一歩を踏む前に一度梍は振り返る。

 

  ここまで梍を案内してくれた狸の御大将。どういうわけか、いつの間にかその姿は夢のように消えてしまった。狸に化かされる。その年季の違いに舌を巻く。なんでも見えると言っても、それは目の向いている範囲だけ。音もなく姿を消した妖怪は見事だ。そんなマミゾウの最後に零した言葉は、「きっと面白いものが見れるぞ」という確信を持って放たれた言葉。

 

  そんなことを思い出しながら、命蓮寺の方へと梍は振り返り二歩目を踏み出す。土の地面から門を越えれば続くのは白い石造りの長い参道。その純白に足を落とすことは躊躇われ、参道の脇を歩いていく。一定感覚で置かれた灯篭の横を過ぎる度に一歩異世界に近づいている気分だ。ジャリジャリとした玉砂利の音に耳を澄ませながら、天に続くような真っ白な階段を登れば、緑灰色(りょくかいしょく)瓦の大きな本堂が待ち構えていた。

 

  左右対称の無駄のない本堂は、地に根を張った縄文杉のような自然な煌びやかさがあるが、梍が目を奪われてのはそれではない。本堂の前に立つ二つの人影。

 

  色で言えば白。寺を包み込んでいる白石と同じ、シミひとつない白光を漂わせている。どんな人間にも陰と陽の二面を持つが、圧倒的に陽の面が強い。純白のキャンバスに、さらに白を塗り込んだよう。ただ微かに白の奥に滲む別の色が、欲のある生物であることを証明していた。

 

  その人影の横にもう一つ。こちらは色で言えば虹。極彩色の鮮明な色をかき混ぜつつ、全く混ざらず結晶となって彩光を放っている。濁流のように渦巻く欲望の色。その色が多過ぎて梍も全てを把握できない。人の身に余りある大望を支えているのは、天のように広い器だ。

 

  そんな二つの色が隣り合っている姿は異質であり、また壮大であり寺の本堂の威光がすっかり隠れてしまっていた。

 

「……禍々しい、それはこの世にあっていいものではないでしょう」

「途方も無い欲ね。ただ一つ、相手を破滅させることのみに特化した欲」

 

  聖白蓮と豊聡耳神子。普段敵対している二人が見つめる先は朱殷に輝く地獄の火の色。サングラスの奥に揺らめく二つの瞳の危うさに、二人は僅かに冷ややかな汗を滲ませる。ゆっくりゆっくり近づいて来た脅威がなんであるのか。階段を上った先で突っ立ている若い男を油断なく二人は見据え、白蓮が一歩前に足を出す。

 

「命蓮寺に来た。ということは貴方もその瞳に苦しんでいるのでしょう。私は聖白蓮、この寺の住職をしております。その瞳を手放すのなら力になりましょう」

「そうやってまた勢力を拡大する気なのかしら? 私は豊聡耳神子。その瞳、君も欲しくて手に入れたわけではないようですけど、よければ私が話を聞きますよ」

「結構です。ここは命蓮寺、話なら私が聞きましょう。仏の教えこそが必要です」

「そんなものは必要ありません。必要なのは教えではなく導き手。私が君を導きましょう」

「結構です」

「貴方には聞いてません」

 

  薄い微笑を浮かべながら、静かにバチバチと火花を散らす二人の前で、なにも言うことなく梍は静かにサングラスを外した。それを見て神子も白蓮も僅かに足を下げ、法力と道力を滲ませる。破滅の視線。その薄暗い縮退星(ブラックホール)のような瞳に警戒するが、いつまで経ってもなにも変わらない。眉を顰める二人の聖人を前にして、梍は全く別のものに目を奪われていた。

 

「……綺麗だ」

 

  梍の零した言葉に嘘はなく、そしてその言葉は白にも虹にもかけられたものではない。梍の破滅の瞳が見つめる先、命蓮寺の緑灰色瓦の屋根の上。そこに腰掛けている無色の少女。空の器には色がない。白や黒とも違う真に透明。その純粋な器の周りを、梍が見たこともないほど鮮明な感情の色が回っている。怒りの赤。悲しみの青。喜びの黄。和の緑。絶望の黒。優しさの橙。繊細でいて大胆に、より近いのは赤ん坊であるが、赤ん坊よりもなお純粋。それが信じられないほど綺麗だから。

 

「動かないでください」

 

  白蓮から制止の言葉がかかるが、梍は気にせずに足を出す。できることならより近く。輝く感情の色が見たい。だから一歩。さらに一歩。足を止めずに寧ろ早め、近づいてくる破滅へと、仕方ないと目を伏せた白蓮の魔力と、神子の道力が弾ける。

 

  独鈷杵(どっこしょ)から伸びた魔力の刃と七星剣の斬撃が十字を結び空気を割く。空間さえ歪める十字架に、梍はただ目を強く顰めた。

 

「邪魔だ」

 

  見つめるだけで相手を破滅させる破滅の瞳。ただ強く、瞳に映る脅威を殺すように。

 

  そして破滅が訪れる。

 

  敵を斬り裂くはずの斬撃が、十字の中心から捻れ弾け飛んだ。その内に秘められた力も関係なく破滅を齎す邪悪な力。夢も現実も関係なく、梍の目は敵を許さない。歩みを止めずに進む梍を警戒する二人の聖人に、梍は気にすることもなく、足に力を込めて屋根へと飛んだ。目の前に回る怒りの赤に梍は手をおずおずと伸ばしたが、それを避けるように赤い感情は宙を滑る。

 

「我々に何か用か? 変な人間」

「ああ悪いだに、つい綺麗だったもんで。これはおんしの?」

「それもどれも我々だ。私は面霊気、秦こころ。貴方、見る目あるわね!」

「それはどうも。おれは六角 梍だ。梍でいい。そこまでいい色の感情を見るのは久しぶりでな」

 

  面霊気であればこそ、面を褒められて悪い気はしない。急に現れた変な格好の男。神子と白蓮を跳び越えて来たあたり随分とおかしくはあるが、それよりなお面を褒められたことの方が大きい。薄く笑う梍の暗黒の瞳を無色の目が見返し、小さくこころの首が傾いた。梍の言葉を咀嚼して、その味の疑問を口にする。

 

「梍は感情の色が見えるのか?」

「まあな。一つならよく見るが、こうたくさんは初めてだに。素敵だな」

 

  人は生きながらに多くの感情を生む。それが一色に染まることは稀である。だが、梍の周りにはそれが九つ。刃を振るう時。輝きを掴む時。前へ駆ける時。煙を吹かす時。彼らの心は一色に染まる。それと同じような多くの色が回る姿は感情のメリーゴーランド。普段見たくもないものを多く見るからこそ、梍はつい強い輝きに弱い。目の前を行き来する彩色にまた梍は手を伸ばそうとし、こころにペシリと手を叩かれる。

 

「む、お触りは禁止だ。大事なものだからな」

「ん、残念だに。それにしても、秦さんみたいな子もいるんだにな。さっきの二人は物騒だったが」

「あの二人が揃って出たから見に来たの、面白そうだと思ったからな。梍は何者なんだ?」

 

  普段いがみ合っている二人が出るとあって、気にしない方がおかしい。事実こころでなくとも多くの者が気にはしたが、白蓮と神子に止められて見に来ることは叶わなかった。それもこれも梍の邪眼を警戒してのこと。幻想郷に梍が出現してから、それが邪眼と分からずとも、その禍々しさに肌がピリつく。無視されたからといって放っておくわけもなく、こころと梍を挟んで聖人が二人屋根に降りる。

 

「それは私も聞きたいわね。なぜ命蓮寺に来たのかも」

「ここまで無視されたのは初めてですよ。私よりこころを気にするとは」

「あー、なんでと言われても。おれはマミゾウさんにここなら泊まれると聞いたから来ただけなんだにが」

 

  白と虹に挟まれ梍は面倒だと思いながら視線を隠すために再びサングラスを掛けた。手をサングラスから離し敵対する気はないと両手を下げる。そんな梍の姿に白蓮と神子も力を抑え、マミゾウの名に肩を竦めた。封獣ぬえが呼び寄せた大妖怪。大将の器を持った掴み所のない油断できぬ相手。だが、その人の良さは二人も知っている。神子はため息を吐きながら、取り出した釈で口元を軽く抑えた。

 

「なるほど、二ッ岩マミゾウに言われて、ね。君が何者か。その目が邪魔で上手く見えないけれど、君は平城十傑でしょう?」

「そうだに」

「毎日落ちてくる新聞で知っていますよ。神と戦うとは正気ですか?」

「勿論」

 

  言い切った梍の言葉に、神子は戦場に立つ梍の姿を見る。例え誰が来ようと梍は戦さ場に立ち、そして相手も来ると神子は察し、諦めたように小さく肩を落とす。そんな神子を見て白蓮は目を細めると、梍を今一度眺める。救いを求めて来た相手を無下にもできないが、命蓮寺は駆け込み寺というわけでもない。脅威の邪眼を寺に置くか、悩みながら白蓮が気になることがもう一つ。

 

「ここに留まりここを戦場にする気ですか? それに、貴方は勝てるとお思いで?」

「どこに居たって戦場にはなるだろうよ。それに、勝つために来た」

 

  不敵。でありながら、その裏に潜む不安を神子には隠すことはできない。サングラスで目は見えずとも、顰めているだろう梍の顔を思い浮かべながら手の釈を弄ぶ。

 

「勝てるとそこまで思っていないのにそう言い切りますか」

「おれ一人なら無理だ。だが」

 

  梓と藤と櫟と菖がいる。個人の技量もさることながら、不可能な道のりを可能にするのが藤と櫟。その道を不動で、また静かに歩くのが梓と菖。その後ろに続く先人たちを想えば、梍が続かない理由がない。

 

  たったの一、二年の違いでしかないが、先を行くその輝きを追うために。

 

「他の九人に並ぶため?」

 

  神子の問いに頷くことなく、梍はサングラスを指で押し上げ答える。

 

「おれにあるのはこの眼だけだに。ただこの眼と適合しただけで、先輩たちと同じように修羅の道を歩いているわけじゃない」

 

  梍が歩くのは孤独の道。ふとした時、荒れた時、気分の良くない時、ただそれだけで周りに危害が及ぶ。サングラスは所詮気休めだ。墨を垂らしたような黒一色の目を隠すため。

 

  そんな梍の周りにいてくれる九人。楠も桐も梓も椹も気にすることなく、どうしても嫌になった時、短気な漆や不干渉な菫でも家に泊めてくれる。人の世では孤独でも、少なくともそれを埋めてくれる者が九人。梍はまだなんの恩返しもできていない。

 

「導き手も、教えも必要ない。それはもう持っているだに。この眼が力になるのなら、その相手も、使い時も知っている。勝つ負けるじゃない。例え待っている結果が破滅でも、おれは戦うために来た」

 

  サングラスを挟んでいようと分かる梍の目の輝きに、白蓮と神子は目を伏せた。宗教とは、救われたいものに手をさし述べるもの。とうに救われている者はそれを必要とはしない。梍の纏う空気から、白蓮も神子も言葉での勧誘は無理であると納得した。

 

「それで、あー、聖さんと豊聡耳さん? どうするだにか? やるんなら相手にはなるがよ」

「やめておきましょう。その眼は脅威ですが、わざわざ振るう気のない相手に振るわせるものでもない」

「此方も同じく。君の立つ戦場はここではないようですし。まあここが壊れる分には私は全く構わないんですけど」

 

  「やります?」と続けた神子を白蓮が睨む。緊張の糸が少しの間張られたが、神子がそっぽを向いたことですぐに緩められた。宗教戦争なんて不毛なものに首を突っ込む気のない梍は、眩しい二色から視線を遠ざけ、目を向けるのは無色の少女。

 

  その器の表面に青い感情が張り付き、中に薄い水色が湧き出るのを見て梍は薄く口端を持ち上げた。

 

「退屈そうだにな、秦さん」

「やらないんなら面白くない。これじゃあ見に来た私はただの間抜けじゃないか」

「うーん、でもおれの戦いは見てても退屈だと思うだにが。あぁでもこんなのなら見せれるだに」

 

  サングラスを外し虚空を睨む。思い浮かべるのは命蓮寺に来る道中見かけた野良猫の姿。空間が揺らめき、その渦の中心から黒い手が伸びる。体毛は剣山。爪は鎌。尻尾は鞭。ギラつく大きな二つの黄金の瞳が黒い剣山を引き裂いて覗いている。突如生まれた化け物は低いうなり声を鳴らし、思わずこころの内に黒っぽい色が湧き出てしまう。

 

「な、なんだあれは⁉︎」

「思い浮かべたものを見せられると言えば聞こえはいいんだにが、なぜか思い浮かべたものがやたら禍々しくなるだによ。一応猫なんだにが」

「あれが猫⁉︎ どんな猫だ⁉︎ 危なくないのか?」

「幻覚のはずなんだにが、なぜか人体に当たるとダメージがあるだに」

「危ないじゃないか⁉︎」

 

  思い込みによるダメージ。それがただの幻覚に質量を持たせる。とんでもなく相手の我が強いと意味はないが、それでも脅威であることには変わりない。そんな脅威は、大きな欠伸を一つすると、玉砂利の上で丸くなる。

 

「な? 猫だに」

「それは梍の思い通りに動くのか?」

「動くだに」

「ふーむ、使えるかもしれないな」

 

  感心するこころがポンと手を打つ。器を満たすのは楽しそうに踊る黄色。その動きを目で追いながら、梍は手を振って幻影を消した。神子も白蓮もパチクリと瞼を動かして消えた猫を見る。蹲っていた猫の姿はすっかり消え、影さえ残っていない。

 

「面白くはありますね。危険なことには変わらないですけど」

「どうも豊聡耳さん、それで秦さん、使えるって何だにか?」

「能楽だ。私の特技で仕事でもある。その力を使えば私の能楽はより進化するぞ! スーパー能楽だ!」

 

  「能楽?」と呟き梍は首を傾げた。能楽とは能と狂言とを包含したものの総称である。能楽という言葉自体の歴史は古くはなく明治時代の言葉だ。こころの言う能楽は、狂言よりも能の側面が強い。狂言は能ほど面を使用しないからだ。能自体は歴史は古く平安時代まで遡り、奈良時代を生きた平城十傑の末裔である梍も知ってはいるものの、実際に能演者にあったことはない。それも妖怪のとなれば、気にもなるというものだ。

 

  幻想郷で人気の能演者であるこころが、新たな能楽の構想を膨らませる横で、そんな少女の姿に梍の口から笑いが溢れた。梍に向くこころの丸い目に、サングラスを外しながら目尻を擦り悪いと手を上げた。

 

「いやすまんだに。秦さんほど感情を分かりやすく表現する子は珍しくて。器が透明だからか良く見え過ぎる」

「ほ、本当か! 私は感情豊かか!」

「ああとっても」

「どうだ宗教家! 私は遂に克服したぞ!」

 

  胸を張るこころだが、その顔は表情の抜け落ちた能面と変わらず、顔からは何も読み取れない。神子と白蓮はそんなこころに微妙な笑みを浮かべて返すが、梍は弾けて渦巻く黄色に大きく笑った。

 

「くっはっは! 面白いな! 秦さんは感情の宝石箱みたいだにな! 秦さんみたいなのがいるならこの寺も気に入った。それで聖さんが住職だっただにな。泊まっても?」

「全然いいぞ! さあ相棒! 早速スーパー能楽と演目を詰めよう!」

「なぜこころさんが決めてるんですか? ハァ、しかし」

 

  無表情でも喜びを表現して両手を上げるこころと、破滅の瞳を光らせて楽しそうに笑う梍。そんな二人が能楽について話し合い盛り上がっている姿はどこか可笑しい。が、平和なワンシーンではある。白蓮は腰の前で緩く手を組むと、青空に浮かんだ白い月を見上げる。

 

「梍さん月の神は本当に攻めて来るんですか? 神の世を取り戻しに、幻想郷を手に入れに」

「ん、おれも詳しいことは分からん。藤先輩や櫟先輩に聞けばより詳しく分かるだろうがどこにいるか。幻想郷で何か動きはないだにか?」

「特には。変わったことなど貴方方が来たことでしょうか。後は毎日新聞が届くくらいですね。おそらくそろそろ」

 

  白蓮がそう言い空を見上げれば、命蓮寺の空に黒い線が走った。暗い風のようなそれを完全に捉えられる梍は、ツインテールを靡かせる黒翼を持った少女を見た。その少女は腰のバックから新聞を二つ取り出すと、神子と白蓮に向かって軽く投げた。そんな少女の目がゆっくりと動き梍と目が合うと、驚いたような顔をして通り過ぎる。あっという間に空を飛び抜けた少女に梍が目を瞬いている内に、新聞を持った白蓮がそれを広げて渡してくれる。

 

「内容はいつも決まっています。月の脅威についてと貴方方のこと。そして戦力の募集。幻想郷の危機に力を貸せと。吸血鬼、月の姫、冥界の主人、博麗の巫女、幻想郷の賢者が既に参加していると。この戦いに正義はありますか?」

 

  白い輝きが強くなる。白蓮の顔を笑顔の消えた梍は見返し、少しの間目を閉じるとサングラスをかけ直す。

 

「難しい質問だにな。藤先輩なら正義なんて麻薬の一種と言って煙に巻くだろうし、菖先輩なら戦いにそもそも正義はないと言うだに。梓先輩ならただやるだけと答え、楠先輩ならそんなの知らんときっと言うだに」

「では貴方は?」

「……おれには見え過ぎる、正義なんてまっさらなものの裏にあるものもきっと。おれが戦うのはおれのため、先輩達もきっと同じだに。それを問うだけ無駄だによ。この戦いは結局自分で決めてどうするかだに。正義や法に従ってやることではないよ」

 

  月夜見がやるのも自己満足なら、向かい打つ方も自己満足。そんなことに世界の命運がかかっている。馬鹿らしくて笑えてくると梍は微笑を浮かべ、白蓮も呆れたように薄く笑った。

 

「貴方方は「見つけたわ!!!!」……はたてさん?」

 

  黒い風が再び吹き、灰緑色の瓦が少し吹き飛ぶ。白蓮と梍の間に落ちてきたはたては大きく肩で息をして、梍の顔を覗き込む。

 

「貴方が最後の一人ね! 確か、六角 梍だったかしら? 私は姫海棠はたて、梓に言われてこうして新聞をばら撒いてるわけね。貴方が来てるか微妙って話だったけど、これで十人揃ったわね!」

「十人? 漆先輩と菫先輩も来た? そりゃ藤先輩達も本気だにな。それでおれに用だにか?」

「今梓が戦力を集めて回ってるの。藤ってやつもそうだって。近い内に一度会議をするそうだからそれまでにって。戦いの時は近いそうよ。だから梓も最後の動きに出た。天魔のとこに行ってるわ、天魔とさえ話がつけば天狗が全部味方になるからよ。だから……ッ⁉︎」

 

  空に轟音が流れる。音の元に目を向けた者たちの目には、渦巻く風が大きな山の山頂にいくつも蠢いていた。それを見たはたてはがっくりと肩を落とし、強く頭を掻く。

 

「やっぱり⁉︎ 梓のやつなにが穏便に話をするよ⁉︎ 全然穏便じゃない! 鬼が一緒の時点で怪しいと思ってたっての‼︎ あぁぁぁどうなるの? 匿ってたのがバレたら私も処刑なんじゃ……」

「なんか良く分からんだにが、苦労してるんだにな」

「そうよ! 全く……、いい、これは伝言よ! 時が来るまで貴方は命蓮寺にいろって、まあここがそうなんだけど……。平安時代に猛威を振るった鵺を味方にしろってね。悪いニュースがあるとすれば、ちゃっちゃとやらないと藤ってやつが来るそうよ」

「あぁ……、それは、まだおれが頑張った方が良さそうだに。藤先輩怒るとおっかないから」

 

  苦笑する梍にはたては苦笑を返し、「それじゃあね」と言うとまたあっという間に飛び去っていく。空を見上げればはたての消えた先に新しく閃光が走り空を裂いた。その閃光に込められた妖力と、それが溶けているような流れを見て、ムニムニと梍は口角を落とした。

 

「梓先輩も藤先輩もなにやってるだに……。はあ、なんにせよ、始まりは近そうだに。それで、聖さんと豊聡耳さんはどうするだに?」

「……そうですね、貴方がここに居座るなら、貴方方を見定めるとしましょうか」

「私も興味が湧きました。君を見させて貰うとしましょう。こころが気に入ったみたいですし」

「ああ気に入った! 新しい能楽の構成もそうだが、梍と居れば新しい演目もできそうだ! なあ相棒!」

 

  相棒。呼ばれ慣れてないが、その響きの美しさに梍は笑い、空を見上げる。白くて綺麗な月にいくつか光る強い光。その輝きは恒星のようであり、圧縮された力の結晶を瞳に写す度に梍の肌が粟立つ。勝つために来たとは言った。誰もが勝とうとしている。だが、神子に見透かされたように、見れば見る程勝てる気がしない。力の有無も関係なく、この世に生きるもの全てには、内包している質量とでも言うべき違いがある。それは力であったり、知恵であったり、カリスマだったり、種族だったり。白蓮も神子も大きな質量を持って梍にも見えるが、その何倍も大きい。その中でも一際大きなものが一つ。光を極限まで圧縮した穴のようにさえ見える輝き。色は光色としか言いようがない。それを見れば見る程に。

 

(……勝てる気がしないだにな。アレとやるのか。演目なんて優しいものになればいいが……)

 

  月に浮かぶ光が一箇所に集まろうと動く様を見ながら、梍は幻想郷に煌めく強い光に目を落とし、表情がバレないようサングラスを強く指で押し上げた。

 

 

 




どうでもいい設定集 ②

みんなの大好物

楠はオムライス。桐は豆大福。椹は鮎の塩焼き。梓はステーキ。菖はパフェ。藤はうどん。櫟は蕎麦。漆はパンケーキ。菫は水饅頭。梍はおにぎり。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はなけぶり

「疲れたなぁ」

 

  木々の間に道などなく、獣道は歩き易いと言えない。「もう疲れたの?」と得意げな顔を浮かべる天子の顔をぶわりと零した煙で遮りつつ、大きな石の上に藤は足を落とし空を見上げた。

 

  落ちて来たとも言える天界はどこにあるのかも見えず、目に映るのは白い雲と青い空。空を飛ぶのは悪くはなかったのだが、早々に藤が腕を攣りそうになったため断念する羽目になった。そうして歩きながら既に三十分。道が歩き辛いこともあり、藤は老人のように落ちていた木を杖代わりに歩いている。

 

「俺は普段移動も車か飛行機だし、そんな長時間歩かないからなぁ。素晴らしい文明社会が恋しいよ」

 

  「俺が山の主ならトラベレーター*1付けるね」と無意味な愚痴を吹かす藤に鼻を鳴らしつつ天子は呆れた。天界であれほど猛威を振るった人間の姿は綺麗さっぱりない。突っつけばパタリと倒れてしまいそうな青白い顔の人間には心配しか抱けない。ふらふらしながら煙を吐く藤の隣へと天子は歩みを緩めると大袈裟にため息を吐き軽く支えてやる。「なんで天人の私が」という愚痴も忘れずに。

 

「そんな状態なのになんでずっと煙吹いてるのよ。体に悪いならやめときなさいよ」

「これをかい?」

 

  口に咥えた電子タバコを唇で持ち上げ笑う藤に、天子は呆れた笑いしか返せない。四六時中ぷかぷかぷかぷか、外の世界ならあっという間に補導されそうなほどに煙を吹いている姿は、さながら人の形をした蒸気機関車。体の一部というほどに咥え続けている。だから舌のデザインなんかにしてるのかと思いながら唇を尖らせる天子に、藤は咥えていた電子タバコを摘みくるくると回すとその尻を天子に向けて微笑んだ。

 

「そう言わないでくれよ。一応これの外の世界での名目は呼吸補助器だし、あながち嘘でもないのさ」

「そうなの?」

「普段こうして吸ってるのは万能中和剤なのさ。気休め程度だけどね。俺が開発したんだぞ、凄いだろ」

「中和剤って……やっぱりあれよくないじゃない」

「それもそうだし、助けてくれるのは嬉しいけど手を離してくれ。頼むよ。俺の汗には触れるな、よくて火傷、酷いと壊死する。もっと酷いと……やめとこ」

 

  口を引攣らせてパッと天子は手を離した。藤は毒袋だ。日夜あらゆる効能を含んだ煙を吸っては吐く藤の体の内にはあらゆる毒素が渦巻いている。そのおかげで藤の体液に触れればどんな効果が出るかも分からない。気や魔力の低い一般人相手でさえ、時には瞬時に命を奪うこともあるだろう劇薬だ。吸血鬼が藤の血を吸おうものなら、それだけで昇天する可能性さえある。天子の反応に嫌な顔一つせずに歩き続ける藤の背を天子は少しの間見つめ、ムッとした顔をするとまた軽く藤を支えた。

 

「おいおい」

「私は天人様よ! 人間一人にビビるわけないでしょ! だいたいこの後あの妖怪に会うってのにここで倒れられちゃ困るのよ。折角面白くなって来たのに」

「いやでも」

「うっさいわね! 気合いよ気合い! 気合いさえあればだいたいどうとでもなるのよ!」

 

  そっぽを向いて喚く天子に藤は諦め、電子タバコを咥え直し煙を吹いた。楽しそうに煙を燻らす藤の顔を天子は横目に眺めて、藤の咥える長い舌の動きを目で追った。

 

「咥えてるやつってそれしかないの? 気に入ってるのね」

「ああこれか……まあ気に入ってるな」

「趣味が良いとは言えないけど、藤のセンスとも思えないし、誰かから貰ったの?」

「ああ、そうだな。貰った。……先代の形見だ」

 

  そう言って電子タバコを掲げる藤の微笑を見て、天子はなんとも言えない顔になる。触れ辛い話題に頭を掻く天子の内面を見越したように、藤は黙るよりも口を動かす。

 

「先代は二十五で死んだ。俺が十四の頃の話だ。俺が七つの頃からの付き合いでな、いつもゴスロリパンクって言うのか? そんな服を着ててな。デスメタルを聴くのと演奏することが趣味だった。面白いだろう?」

「へぇ、仲よかったのね」

「まあ悪くはなかったな」

 

  黴の当主に選ばれ修行が本格的に始まれば、普通の人と同じ生活は送れない。万が一があっては困るため、食事も一人で済ませ風呂も同じ、海や川で遊ぶのなど以ての外。その例外の唯一が同じ黴の当主だ。黴の薬煙に耐性を持つ数少ない人間。

 

「先代は俺が風呂に入ってれば勝手に入ってくるわ、プールに投げ込むわ、女性にしては破天荒な人だったよ。夜になるとよくギターを弾いて歌ってくれた、ほとんどデスメタだったけどね。ギターの趣味も変わってて、大きな口がプリントされたギターでな。習ったから俺も弾けるぞ」

「好きだったの?」

「まあ……俺の初恋だよ、先代がまだ生きてたら結婚してたんじゃないかな」

 

  そう笑いながら話す藤につられて天子もつい笑ってしまう。黴にとって恋愛など遠い夢だ。同じ当主以外肌で触れ合うことも難しい。横を歩く天子に目を落として、藤は輪っかの形の煙を吹き遊ぶ。

 

「天子は先代に似てるよ。先代もやるだけやろうってタイプだったから」

「ふーん、それで私に惚れたってわけ」

「惚れそうってだけさ。自信過剰だね。流石天人様」

「な、なによそれ。まあ私の方がいい女だろうし? 藤じゃあ釣り合わないでしょうね!」

「だろうね、それより着くみたいだぞ」

 

  流れる風に花の匂いが混じりだす。緩やかになった斜面をいくらか歩けば、空気にまで黄色が薄く混じった。太い木の間を抜ければ、人の背ほどの大きな向日葵が一面に広がり風に揺れている。空からは黄色い点に見えた一画は、黄色い絨毯となって目の前に広がっている。鮮やかな向日葵を見て、藤は笑いながらも小さく眉を寄せた。

 

「いや素晴らしいな。……ただ今が秋ということを考えなければの話だが」

「ここまで綺麗に咲いてるってことは絶対いるわね。良かったじゃない留守じゃないみたいよ」

 

  真夏をとうに通り過ぎ、紅葉した葉が流れてくる中で鮮やかに花開く向日葵の美しさは、綺麗を通り過ぎて不気味でさえある。天子の皮肉に肩を竦めながら一歩、藤が足を出すのと同時に、立ち並んだ向日葵がゆっくりと横に動き道を作った。動きが止まれば、初めからそこにあったかのように風に揺れて頭を揺らす向日葵の姿に、藤は咥えていた電子タバコをヘタリと下げる。

 

「行くべきか行かざるべきか……、帰りたくなってきたなぁ」

「ちょっと、月軍と戦うってのにこんなんでビビってるの?」

「あのね、やるとは決めたさ。だが怖いか怖くないかは全く別の話なんだよ。愚痴くらい言わせてくれないかい。なにを言っても行きはするんだからさ」

 

  どうせなにが待っていても、これは必要なことだ。行かないという選択肢を早々に諦め、「せいぜい歓迎されよう」と藤は足を動かし、太陽の道へと踏み入った。

 

  耕された田畑のように柔らかな土に足を落とす。雲の上にあったくせに全く柔らかくなかった天界と違い、雲の上を歩いているような感覚に藤は苦笑した。両脇に立つ緑って黄色の壁に目を流しつつ、薄くなってきた壁の間から見える日傘を目に留めた。ピンク色の花開いた傘の布地が、向日葵の茎からせり出してくるように露わになる。くるくると左右に小さく傘は楽しげに回っていたが、それがぴたりと止まるのに合わせて藤と天子も足を止めた。

 

「いいところですね。花と土の匂いしかしない」

 

  最初に口を開いたのは藤。周りの向日葵に目を向けながら、煙と共に日傘に向けて吐き出した。日傘から返事は返って来ず、また小さく左右に回るばかり。余裕そうな態度に牙を向こうとする天子を横目に見た藤はその頭を小さく叩き止める。

 

「だが、この素晴らしい景色もいつまであるか。俺は平城十傑、黴家第一六四代目当主 黴 藤。風見幽香殿、貴女の力を借りたい。月の神と戦うために」

「……月夜見ね。…………藤なんて、もう見頃*2は過ぎてるでしょうに。面白そうなのが近付いて来たかと思えば、つまらないことを言うのね」

 

  ゆっくりと日傘が横を向き、出てくるのは鮮やかな緑の髪、どんな花の足元にもある葉のように揺れて。細められた少女の紅い瞳が藤に突き付けられた。血で染めたような瞳の色と薄い笑みに藤は表情を誤魔化すため口を手で覆い煙を吹く。

 

「まあ確かにつまらないことだが、このつまらないことを放っておくと世界が終わるんでね。風見幽香殿は、ただ月を眺めるだけで放っておくくちですかな?」

「弱い子っていうのはどうして群れたがるのかしらね。強ければ気にすることもない。日差しが強ければ傘をさす。気に入らなければ潰すだけ。違う?」

「どうせ潰すなら一緒にやった方が効率はいいでしょう?」

「あら? でも友人は選ばないと。つまらない相手が隣にいると先に潰したくなってしまうもの」

 

  幽香の瞳の輝きの鋭さが増した。ゆらりと立ち上った妖気の妖香に藤は顔を歪めて電子タバコのカートリッジを噛んで引き抜き換装するが、その前に腕を組み顔をつまらなそうにヒン曲げた天子が立った。天子の横から藤は顔を覗き込むが、不満そうな空気を滲ませるだけで目すら向けない。天子の目は幽香に固定され、紅い瞳同士がかち合う。

 

「いつまでぐちぐち言い合ってんの! 勝負で勝ったら言うこと聞けとか言っときゃいいのよ!」

「優雅さに欠けるわね貴女、不良天人は仲間にできたみたいだけど、もう十分ではないの? それに私はそれに加わりたくないわね、品位が落ちそうだし」

「月夜見と戦うのに十分などということはないでしょう。貴女の力が必要だ。それに格なら一応この天人様が一番上だったり」

「はぁ……、私の力? 貴方は私のなにを知っているのかしら人間」

「なんでも、と言えば格好がつくんだが、それはこれから知るとしようか」

 

  「あっそう」と優しく微笑んで、幽香は傘を折り畳むとゆっくりと振り藤と天子に突き付ける。弧を描いて輝きを増していく魔力を睨みつけ、緋想の剣を大地に突き立て歯を食い縛る天子の背後から藤は横薙ぎに煙を吹いた。薄い白煙のレールに乗って、吐き出された閃光は天子の青い髪を擦りながら空へと逸れる。目の前を過ぎ去っていく妖力の奔流に天子は口端を歪めながら微動だにせず、それが過ぎ去った頃にヘタリと地面に膝をついた。

 

「あら面白い、天人様が腰を抜かしてるわ」

「な⁉︎ ち、違うわよ! む、むぅぅ‼︎」

「ああ天子、少し吸ったな。魔力を緩めろ溶けるだけだぞ」

 

  天子の肩に手を置いて、ゆっくりと藤は前に出た。口元から大量の煙を吐き出しながら、杖代わりに持っていた木の棒を投げ出して。風に揺れて空に飛んでいく白煙が向日葵に触れれば、夢が覚めるように急速に枯れて溶け落ちた。それを横目に見た幽香の目の端が釣り上がる。それに微笑を藤は返し、また向日葵に向けて白煙を吐いた。

 

「夢は終わりだ幽香殿。少しだけなら貴女の魔法を解くだけで終わる。長期戦は苦手でね、それに土壌汚染はしたくない。いくら自然物しか使っていなくても劇薬なんだよ。天子じゃないが……何分がいい?」

「平城十傑、好き勝手言うわね。苛め甲斐がありそう、そうね……三分。本気で相手してあげる。耐えられれば、少しだけ貴方の話を聞きましょう人間。耐えられなければ」

「月の神が来るのを見なくて済む。素敵だね」

「でしょ?」

 

  「じゃあ天子また後で」と藤に後ろ蹴りを喰らい、天子はゴロゴロと背後に転がる。直後に膨れ上がった白煙と妖気の乱気流に揉みくちゃにされ、天子は黄色い絨毯から弾かれた。

 

 

 ***

 

 

  太陽の畑の姿が白煙に飲まれた。黄色い絨毯は土色に変わり、その上には秋の花草だけが残される。その白煙を閃光が散らすが、白煙に触れるたびに妖気の槍は形を失い、潰れたトマトのように地面へ溶けた。生物のように地面を這いずってくる白い悪魔に舌を打ちながら、幽香は傘を広げ宙を舞う。

 

  白いカーテンを纏うように白煙の中からずるりと人影が這い出る。翡翠色の目が揺れる緑色の髪を追って流れた。口から長い舌を引き抜いて口を尖らせると矢のように鋭く白煙を吐いた。

 

  男の口から吐き出された飛行機雲が薄く広がりながら少女を追い、手に持つ花を折り畳み放たれた妖力の川を柔らかく受け止める。音もなくシーツに包まれたように勢いの失せていく魔力の流れは、次第に表面が溶け、雨となって大地に降り注ぐ。幽香の色に染まっていく大地を踏みしめながら、小さく藤は咳をして口に溜まった赤い液体を地に吐いた。

 

  一分。秒にして経ったの六十秒で、地は抉れ、空には白煙が立ち上っている。災害同士の対面のような地に足を踏み入れられる者はおらず、少し気にして覗きに来た小さな妖魔は、白煙から溢れた妖気の塊に潰されひっそりと消えた。

 

  妖気の川を受け止めきり、穴の空いた白く柔らかな壁はすぐに風に揺らめきその穴を埋める。大地を隠す白いベールを空から眺め、幽香は薄く笑いながらも内心で大きく舌を打つ。

 

  力が上手く流れない。ただ強い一撃にはそれより強い一撃をぶつければ事は済む。だが、形なく、柔らかな怪物の触手はいくらなぎ払おうとも消えることなく揺らめくばかり。白い壁の向こう側でゆっくり動く二つの翡翠色の光に目を落として、再び軽く妖力の礫を落とす。

 

  水が岩を避けて流れるように、風が大木を避けて流れるように、白い壁に当たった礫は緩やかにその表面を滑り溶けていく。フライパンの上のバターのように小さくなった礫が翡翠色の光からだいぶ逸れてその中へと消えたと同時に、煙の壁が幽香目掛けて隆起した。

 

  傘を振った風圧でそれを弾き、幽香は再びゆっくりと動く人間の目へ顔を向ける。

 

(面倒ね)

 

  なにに白煙が反応を示すのかはすでに理解した。だが、理解したからと言ってそれが消え去るわけではない。白煙が薄らぎ色すらなくなった空気を吸い込めば、微量ながら幽香の内に溢れる力が溶ける。身体の内側で溶けた妖気が流れ落ちてゆく奇妙な感覚を腕を振って誤魔化しながら、強く傘の柄を握り締めた。

 

  三分。ただ時間を潰される相手としてこれほど嫌な相手はいない。あっという間に減っていく時間の中で、ただ見ていて終わったなどと言う結果を、幽香が許すはずがなかった。一度大きく息を吸うと、光る人間の目に向けて空を蹴り突っ込む。

 

  肌を舐める白煙を突き破り地に着けば、衝撃に白煙は半球状に散り、白い壁のめくれた先に藤が立つ。薄く笑う藤は幽香を見据え小さく腰を落とした。

 

「見つけたわよ、隠れんぼはお終いね!」

「ああ、見つかっちまった」

 

  電子タバコを咥え直した藤の顔へと、握り締めた幽香の傘が振り上げられる。息を吸った藤の目前に迫る一撃に、藤は手を差し出した。笑みを崩さぬ藤に眉を顰めながら振り抜かれた幽香の一撃は、ベシッ、と幽香の想像以下の音を立てて受け止められる。

 

「妖気を抑えて突っ込むってのはいいアイデアだよ。毒の回りが遅くなる。だが、その弱点は八百年前に克服した。妖気を抑えればその分力が落ちるだろう? まあそれでも妖怪の力は強いが、さて俺はなぜ受け止められたのかね?」

 

  傘を掴む藤の右手が捻られ、その動きを追うように傘を握る幽香の左手も動いていく。だが幽香の目はそれを追わない。その目が追うのは藤の口元。吐き出され続けていた白煙は吐き出されず、吸い込まれていくばかり。それと合わせて藤の肌の表面に血管が浮き上がった。それが次第に顔までに至り、瞳の翡翠色の深みが増す。

 

「ッチ‼︎ 薬中が!」

「正解!」

 

  下から掬い上げるように放たれた一撃が幽香の腹部を突き上げる。人の限界を超えた膂力に骨が軋み、こぽりと幽香の口から息が吐き出される。肺が萎めば次に訪れるのは膨張。あたりに立ち込める白煙が、幽香の口へと忍び込む。

 

  ずるりずるりと喉を這いずり肺を満たす白煙が、身の内に広がり妖気を溶かす。散り飛んだ白煙が妖気を貪るために空いた空間を侵食し、肌の表面からその中へと削り取るように侵入した。少女の形をそのままに、内側を舐め回される感触に少女の手から傘が落ちた。力を込めようとするほどにより多くの力が抜け落ち、人間に向けて振り抜いた拳も容易に掴まれてしまう。口の端から赤い線を一筋垂らしながらも微笑を止めぬ藤の目が、口端の歪んだ幽香を見る。

 

「身体の内、妖気が溶けていく感触は独特だろう? 病み付きになるなよ、抜け出せなくなるぞ」

「ふふっ、誰が! ……舐めるなよ人間!」

 

  幽香の手が僅かに藤の手を押し返す。眉を顰めた藤の足が動かさずとも数センチ後方へと下がり、藤の目が見開かれる。黴の薬煙が効いていないわけではない。幽香のうちでは絶え間なく妖力が溶け落ち続け、気を抜けば意識まで落ちそうだ。それを歯を食い縛ることなく、寧ろ横に引き裂いて大きく笑い、笑う幽香の声に呼応するようにより強く妖気を振り絞る。滝のように溶けていく力の感触も楽しむように、足を踏み込み拳を突き出す。

 

  溶け出た力で滑るように幽香の拳は藤の顔を捉え咥えていた電子タバコを弾き飛ばした。口に溜まった血を吐き落とし、藤は幽香を睨むよりも早く落ちた電子タバコを探し汚れを払うと咥え直した。吸い込む血と煙の味に藤は少しの間目を瞑ると、目を開くと同時に笑う少女を殴り返す。

 

「そう来なくては仲間にする意味がない! 幽香、いいな悪くない、貴女が欲しくなった! 勝たせて貰うぞ!」

「あら熱烈な誘い文句だけれど、私弱い奴には興味ないのよ!」

「そうか! ならやっぱり勝たんとな!」

 

  電子タバコを懐にしまう藤の顔が跳ね上がる。口から血を吐き出しながら、握り締めた藤も歯を食い縛って殴り返した。額の切れた幽香の深い笑みに藤は引き攣った笑みを返し、腹部に走った衝撃に血を吹き出す。血溜まりを吐き出した藤に眉を顰めながらも、幽香は拳を振り上げることはやめない。振り抜かれた幽香の拳と、地を踏み締めて頭を振り上げた藤の額とかち合った。骨同士の衝突音にお互い体の芯揺さぶられ後退し、赤と緑の視線が交じる。牙を剥く妖怪の顔を人の微笑が受け止めた。白煙の立ち込める中、互いに顔を突き合わせ、白い壁に相手の姿が隠れてしまわぬように瞬きもしない。

 

「藤、貴方体が弱いでしょう? なのになかなかしぶといのね。長く咲き毒のある藤のような男」

「当たり前だ。まだ月夜見も来てないのにここじゃあまだ倒れられん。約束もあるしね」

「約束?」

「俺は先代に誓った」

 

  『苛烈に生きろ』、それが百六十三代目 黴 藤の口癖だった。体が弱いくせにヘビメタを好み、一通り歌えば血を吐き倒れる。いつも藤が抱えて先代をベッドへと連れて行く時には、「今私は生きてるだろ?」と笑う先代に「生きてるよ」としか返せなかった。かぐや姫も見つからず、繋ぎのように一族の歴史を埋める当主の心がどういう形なのか藤には分からない。そんな当主も二十五で世を去った。そんな先代が死に歩み寄られ床から出れなくなった頃、よく藤にこんな話をしてくれた。

 

『私たちの命の蝋燭は短いわけじゃないのさ。長さは同じ、ただ私たちが人の何倍も激しく燃えているだけなんだよ。だから苛烈に生きろ百六十四代目。後悔のないようただ苛烈に』

 

  その言葉を胸に藤はここまでやって来た。苛烈に。血を吐き出すたびにそれが燃料となるように逆に藤の頭は冴えていく。何をすればいいのか。自分は何を残すべきか。それを決めたからこそ、本当なら十八になり次代の当主を藤は決めなければいけない。決めたは決めたが、その相手に黴の修行を全くしていなかった。

 

「幽香、貴女は幸運だよ。よく覚えておけ、俺は百六十四代目当主 黴 藤。俺が黴家最後の当主だ。俺は終止符を打つためにここに来た。それが俺の人生と諦めた!」

「諦めた? それは殊勝な心掛けね。やりたいこともあるでしょうに」

「俺の他の全ての夢は次代の当主に託した! 後悔はない! 百六十五代目は、新たな時代の黴の当主はきっと、きっと長生きするよ。毒も吐かずに」

「そう、それは……ふふっ、つまらなそうだけど。そのためには」

「ああ勝つさ」

 

  二つの三日月が落ちる。引き結んだ口元を弓の弦のように引き絞り、幽香と藤の全身に力が漲る。溶ける妖気の奥底からそれを破るように。花の蕾が開くが如く、流れ落ちる妖気も気にせずただ妖気を垂れ流す。それを含めた周りの空気を吸い込むように藤は大きく口を開け、振り上げた拳が突き出されれば雲を引く。相手の頭を砕くため。交差する拳は白煙を弾き、天から降る青い光を見易くした。

 

  妖怪の凶撃と人の凶撃に挟まれ散るのは青い髪。二つの拳を顔に受け、小さな少女が錐揉み状に宙を舞う。どしゃりと落ちる少女を受け止めるのは柔らかい土だけ。動かない少女に藤は咳払いを一つして、ぶらぶらと振った両手を再び拳に固める。

 

「……さてと、ん‼︎ 続けようか」

「ええそうね、なかなかいい感触だったわ。次は貴方よ」

「──次とかないから⁉︎ なんで何度も私を無視するのよ! 三分! 三分経ったわよ! はいお終いお終い! ふんっ! 次は私が相手になるわよ!」

「……天子、マジで不死身かい?」

 

  顔を腫らせて胸を張る天子に、幽香は残念そうに唇を尖らせると、額の血をハンカチで拭い日傘を振って白煙を散らした。咳き込み血を地面に吐き捨てる藤を横目に見ると、幽香はハンカチを藤に投げ渡す。それを藤が受け取るのを見届けると、幽香は軽く手を追いやるように振った。

 

「それ気に入ってるのよ。洗って返しなさいよ藤」

「えぇぇ、マジで? もう俺の血が付いちゃったよ。これは煮沸消毒じゃ足りんぞ。どうしようかねぇ……」

「ならそうね……、私外の世界ってあんまり行ったことないのよね。今の外の世ってハイカラなんでしょう? 今度案内して新しいの買って頂戴よ」

「あぁうん、そう、うん、ハイカラね」

「……なに笑ってるのよ」

 

  鋭く尖った幽香の視線に射抜かれて、藤は苦笑しながら両手を上げて降参する。白煙の薄らいでいく中日傘を開き、ふらつきながらも幽香は歩いた。少しづつ遠くなっていく背中を黙って藤は見送っていたが、天子は変わらず牙を剥く。その頭を小突く力は残念ながら今の藤にはない。

 

「ちょっと! 話聞くんじゃなかったの! 逃げるな! やり足りないなら私と勝負よ!」

「うるさいわよ、折角良い気分なのに。話なら聞くわ、ただこんな花もない場所じゃ退屈でしょう? ほらなに突っ立ってるのよ。行くわよ藤」

 

  そう言って振り返った幽香は、再び歩いていく。藤と天子は顔を見合わせ肩を竦めた。藤は苦笑し、天子は口角をうんと下げて。

 

「うっそ……。ひょっとしてこれからアレも一緒? ねえ藤」

「頼もしくて涙が出るね。次はどこに行くのがいいか……。命蓮寺か、地霊殿か、妖怪の山は……行かなくて良さそうだ」

 

  見上げた山の影から煙が上がっている。欠けた山頂の一部を見て幽香の背へ目を戻し、血を拭った幽香のハンカチを胸元にしまいながら電子タバコを咥え足を出す。「次は?」と聞きついてくる天子に軽く振り返り藤は煙をぶわりと吹いた。

 

「俺にとってかなり重要になる相手のとこに行くとしようかな。ただ会いに行くには場所が分からないし紫殿の力が必要なんだが」

 

  そこまで行って藤は言葉を切った。先を行く幽香が立ち止まり振り返っている。その先に揺れる九つの狐の尾の影を見て、「準備がいいねぇ」と、藤はため息混じりに肩を落とした。

 

「藤? アレが次の相手ってわけ?」

「一応種族としては親戚かな。櫟との話で月軍と戦う時は既に誰がどの大将格を相手取るかある程度考えてるんだ。そう上手くはいかないだろうが、俺の相手はもう決まってるようなもんでね。それと戦う時に必要不可欠な相手がいる」

「ふーん、誰よそれ」

「俺はおそらく敵の雑兵の大部分を相手取る。その雑兵を動かすのは月の女神さ。ああ月夜見じゃないよ、それは最終目標。蓬莱の薬を飲み蝦蟇となった罪人、それが俺の相手の予定だ」

「それって……」

 

  その蛙を狙い単身で何度も月を襲った者がいる。時には異変さえ起こした月人の天敵。菖が月に向かった方法は、その者の軌跡を辿ったに近い。

 

「復讐に狂った神霊との話し合い、無事に終わるといいんだがねぇ」

「……面白いを通り越して怖くなって来たんだけど」

「今更かい? 俺は月夜見が来ると知ってからずっとだよ」

 

  笑いながら煙を空に向かって吐き出す藤の背をしばらく見つめ、呆れた笑いを零しながら天子もその背を追いかけた。

 

 

 

*1
飛行場なんかにある動く床

*2
藤の見頃は四月下旬から五月上旬




どうでもいい設定集③

黴家百六十五代目は百六十三代目の妹の一人。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大将の器

  強烈な酒気が鼻先を掠め、梓は堪らず指で鼻を擦った。ただ対面に座る者が気分を害さないよう、つとめて自然に。そうして差し出された盃をおずおずと断った。残念そうに苦笑する鬼の額の朱の一角が揺れ動く様を目で追う梓を見ながら、勇儀は一口で酒を飲み干す。水抜き穴のようにただ酒の流れていく赤い唇を梓は眺め、浮かべた笑みを僅かに深める。

 

  初めて会った時と変わらぬ梓の様子に勇儀は満足気に頷いて、唇を一度舐めると晴れやかな橙色に着物の胸元へと盃をしまった。

 

「はぁ、やっぱり秋の山の景色はいいね、見事な野山の錦。これで酒の相手も居れば言うことないんだけど」

「前にも言ったが僕は酒に弱くてな。一口でぐでんぐでんだ。今そうなるわけにもいくまいよ」

「分かってるさ、話し相手がいるだけでも違うからね」

 

  薄く笑い声を上げて窓辺に寄りかかる勇儀を楽しそうに梓は眺めるが、ただ、残念ながらこの場で笑顔なのは二人だけ。バランスを取るためなのか、同じく二つ蝋人形のように暗く凝り固まった顔がある。そんな顔でカタカタとタイプライターを叩く文の姿は、下手な絡繰人形よりも不気味だ。営業用の仮面を被ったはたても同じようにタイプライターを叩き、時折肘で文を小突く。

 

「……もう何日目よ」

「三日よ、三日。三日も私の部屋に鬼がいるわ……」

 

  妖怪の山にやって来た勇儀を出迎えてから、三日も文の部屋に鬼が入り浸っている。なにをするでもなく酒を飲み梓と話しているだけだが、鬼がいるというだけで文とはたての両肩は子泣き爺がくっ付いているんじゃないかというほど重かった。

 

  ただ、勇儀がいることで他の天狗が全く寄り付かないため、梓を隠す意味においてはこれほどうってつけな相手もいない。だから社交辞令でも、散歩でもどうですか? とすら言えなかった。故に三日間印刷機のようにただ文とはたては新聞を書く機械と化し、気が抜けるのは外に出た時だけ。ため息を吐きながら今日の分の新聞を書き上げ、印刷所に持って行けと文ははたてに手渡す。

 

「今日は私が配って来ていいわよね?」

「昨日は私だったからね。はたてに譲るわ」

 

  今はいがみ合う時ではないと出ていくはたてに手を振って、文は座っている椅子に深く沈みうんと両手を伸ばす。そんな少し肩の力を抜いた文の目の前に赤い角が突きつけられ、文は咳き込みそうになった喉をなんとか鳴らし息を飲み込む。夕日のように光る勇儀の瞳が文を覗き込むと柔らかく歪んだ。

 

「お疲れだね文屋。どうだい一杯、梓は相手してくれなくてさ」

「ぇえ⁉︎ ああいや私は」

「すまない勇儀、文女史に今酔っ払われると困る」

「そう! そうです! 梓さんもそう言ってますし!」

「なんだいつまんないね。いつから天狗は人の言うこと聞くようになったんだか。……なあ梓、面白い話でもしとくれよ。私は退屈してきた」

 

  目の赤みが増し、勇儀の身から妖気が滲む。口の端が落ちていく文とは対照的に勇儀の口端は上がっていくが、特に表情を変えない梓は前のめっていく勇儀を手で制した。頬を膨らませる勇儀につい梓は笑ってしまい、申し訳なさそうに一度口元を手で覆うと笑みを消す。

 

「月夜見の話じゃ満足いただけなかったか?」

「いやあ、あれは面白い話だったさ。神との喧嘩! それもお前さんと一緒なら悪くないさ梓。ただねぇ、いつ来るか分からない相手を待つのはしんどいもんさ。すぐって言ってももう三日。折角地上に上がったのに梓以外の面白い人間にも会えてないしね。力を持て余しちまうよ」

 

  そう言い勇儀が拳を鳴らす音は稲妻のよう。肩の跳ねた文を見て、梓はまた苦笑する。が、すぐにまた笑みを消す。勇儀がここで暴れれば文の部屋が壊れてしまう。世話になっているのにそれはまずいと、梓はいい案が浮かばないか少しの間頭を回したが、思いつく案など一つだけ。仕方がないと一人頷き、座っていた椅子から立ち上がる。

 

「本当は藤が来るまで待つつもりだったんだが、致し方あるまいな。どちらにしろ時間が足りないかもしれん。この三日で勇儀の妖怪の山での立ち位置もよく分かった。僕も動くしかあるまいな」

「立ち位置って、目の上のたんこぶかい?」

 

  シャレにならない冗談に、どうすればいいのか口を開けたまま文は固まる。梓だけは文の代わりに薄く笑い、勇儀の顔を見返した。

 

「まあそんなところだ。おかげで行くのが容易いだろう」

「行く? どこにだい?」

「天魔に話をつける。天狗を味方につける時が来た」

「は、はあ⁉︎ ちょっと梓さん正気ですか⁉︎」

「嘘をついてなんになる。必要のないことは言わん。天狗は幻想郷最大の妖怪集団だ。そして絶対の縦社会。一番上と話をつければ全て済む」

 

  天魔が白と言えば白。天魔が黒と言えば黒。天狗社会の絶対権限者。そのたった一体の妖怪が、天狗の行動の全決定権を持っている。梓の考えは正しくはある。天狗全てを味方にするなら一番の近道はそれだ。梓の話に勇儀の笑みが深まるが、文は逆に口端を歪めた。

 

「あの、梓さん。言いたくはないですが天魔がどうやって選ばれるかご存知ですか?」

「予想はつく。強さだろう」

「ええそれも天魔様は勇儀様たちが山を統治していた時代から、今も変わらず天狗の頂点に立つ方です。その力は甘くないですよ」

「私たちが統治してた時って、それは文屋も」

「あぁっと⁉︎ 勝つ見込みがおありですか梓さん! 天魔様は天狗最強で間違いありません。梓さんのことです、勇儀様の力を借りようとかは思ってないんでしょ?」

 

  文の問いに梓は微笑で返し、勇儀もまた笑った。答えを言葉で聞かずとも、梓の考えていることが分かり文は肩を竦める。そして文もまた薄っすらと口角を上げた。天魔に挑んだ人間がこれまでどれだけいたか。両手の指の数より少ない。その中で天魔に届いた数は、残念ながら一つもない。

 

  梓ならどこまで行ける?

 

  そんな期待に胸を寄せる自分は馬鹿なのかとも思いながら、好奇心には勝てず、新しい新聞の見出しばかりが頭の中を流れていく。想像の風の中を飛ぶ文だったが、その中に雑音が混じった。風に乗って流れてくる話し声。それに首を傾げながら、必要な一言を拾い上げ、梓の方へと勢いよく振り返る。

 

「梓さん……、ウルシ、蘆屋が来たみたいです。現在妖怪の山の麓、間欠泉センターに」

 

  文の言葉に「また来たか」と勇儀は喜び、梓もそれを噛みしめるように目を伏せる。平城十傑随一の術師。欠けてはならないピースの一つ。

 

「漆が来たか。なら菫も来たな」

「どうしますか? ここに呼びます?」

「……漆も菫も、ここに来たところで勝手に動くだけだろう。間欠泉センターだったな。文女史、地底へ落とせ。漆のことだ死にはしない。菫は……放っておいてもいい。それに、僕は会ったことはないが地底の主に会った方が漆のためだろう」

「あのさとり妖怪にかい?」

「そうだ勇儀、漆にもウルシにも必要だろう。藤や櫟ならおそらくそうする。僕らには出会いこそが大事になり得る。文女史、行ってくれるか?」

「そうですねぇ、いいですとも。できるだけ早く戻って来ましょう。メインイベントを見逃さないように」

 

  風に溶けるように消えた文を見送り、梓は小さく息を吐いた。月軍が来るまでにやれる梓の最後の仕事。天狗を味方に引き入れるために天魔に会う。難しい顔の梓に「どうだい?」と勇儀は盃を差し出した。紅い盃と紅い一角をしばらく交互に見つめたが、「また今度」と、梓はやっぱり断った。

 

 

  ***

 

 

  妖怪の山、山頂。天魔の座す場に向かえば向かうほどに、木々より建物が目立つようになる。山の岩壁に背の高い木の足を伸ばし、投入堂*1のように岩肌と混ざり合った建物は、人の住処にしては危う過ぎた。岩を撫ぜる風は独特の唸り声を響かせて天狗の里を駆け抜け。風に乗った落ち葉が肌を撫ぜるのを眺めながら、木の床を軋ませる足音が二つ。

 

  それを見送るいくつもの黄色い眼光は、黒い羽と白い体毛を風に揺らしながら、口に覗く白い牙を光らせる。それを差し向けようと薄く牙を誰もが開くが、鼻先をかすめる妖気に一様に口を噤んだ。視線を裂く紅い一角。たった一匹の鬼が肩で風を切り歩くそれだけで道が開く。かつて妖怪の山を統治していた四天王。その威光は未だ衰えず。橙色の着物を翻し歩く姿の艶やかなことよ。ズリズリッと後退する天狗たちの足音に耳を傾けて、勇儀はつまらなそうに目尻を下げる。

 

「はぁ、梓は寧ろ向かって来たのに、羽毛のように軽い連中だ。着替えりゃ良かったよ、こんな奴らに見せつけてもね」

「その着物も似合っているがな」

「そりゃありがとさん。男に会いに行くんだから格好くらいしっかりしたいだろう? こいつらに見せることになるとは思わなかったけどね」

 

  天狗の視線は一時は勇儀に向くも、すぐにその視線はその隣を歩く人間の男に向く。背丈はおよそ勇儀と同等。恐れた様子もなく、ただ淡々と足を運ぶ。見慣れぬ服に身を包み、散歩でもするように天狗たちの垣根、その間を歩いていく。

 

  妖怪の山に侵入し脱走した男が鬼と共にやって来た。その意味不明さに天狗たちは顔を歪めただ見送ることしかできない。天狗たちが指し示す道を駆け上がり、斜面が緩やかになり始めた頃、大きな木の扉が視界の下から伸びてくる。その両脇に控えた二体の高い鼻を天に向けた大天狗が来訪者に目を落とし、そのうちの一体の目が鋭く尖った。向ける先は当然人間に向けてであり、その目に優しさはない。

 

「……何をしに来た人間」

「ここまで来れば分かるだろう、天魔に会いに」

「罪人の分際で天魔様に会うか!」

 

  大天狗の妖気が風となり梓の肌を叩く。背後の天狗たちが吹き飛ばされないように踏ん張る中、そよぐ前髪が邪魔だと後ろに流しながら梓は変わらず足を出した。激流の中を変わらず歩く人間に大天狗は目を少し見開き羽を広げる。言葉は不要。梓は大天狗と話に来たわけではない。隣を歩く勇儀の笑い声に肩を竦めながら、梓はポケットへと右手を伸ばしその手に刃を掴んだ。

 

  全く扉を開ける気のない大天狗に開けて貰おうとは思わない。ここまでは勇儀のおかげで楽に来れた。天魔に続く扉ぐらいは自分で開けねば格好がつかんと、壁のように圧の増した風に向かって、梓は思い切り右腕を振り抜く。

 

  壁に楔を穿つが如し。拳大の弾丸に貫かれ弾け飛んだ風の塊に巻き込まれて扉が吹き飛ぶ。大きな木片が風に流れて飛んでいく中、変わらず勇儀と梓は足を進めた。大きな何本もの蝋燭の火が、岩を綺麗に削りくり抜いた風穴を照らし出す。その中央に大きな黒い羽が揺れる。虚空に座した人影を避けたように円を描き散った木片の欠片。それを横目に見る深蒼の瞳は、冬の空風のようだった。

 

  黒っぽいワイシャツと長く綺麗に折り目の入った黒いスカートを靡かせ、同じように長い黒髪を風に揺らしている。全体が黒っぽい中で、唯一色鮮やかな瞳が異様に目立つ。その青い瞳がゆっくりと勇儀に向き、黒い少女は小さく頭を下げた。

 

「これはこれは、勇儀殿。久々に元気そうな顔を見れて嬉しく思うぞ。地底に篭ろうとその輝きが失せていないようで嬉しい限りよ」

「相変わらずだね天狗の頭領。相変わらず偉そうだ。お前さんも変わらないね」

「変わらないとも。貴女と同じ。敬意は払おう、それだけだがな。さて……」

 

  挨拶は終えたと天魔の目がゆっくりスライドした。妖気も魔力も感じない人影を目に留めるほどに、天魔の瞳に差した影が濃くなる。その目を受けても眉すら顰めぬ人間に、より呆れたように天魔は首を回した。

 

「足利 梓、平城十傑とやらの大将だったか? 随分とまあ、うちの天狗を勝手に使ってくれたね。それだけならまあ面白かったけど。私のところまで来るっていうのは、そう、思い上がりね。何しに来たのかは聞かなくても予想はつく。戦力の徴収? 私たちが人間風情の下につくと?」

「下につけと言う気はない。ただ力を借りたい。月の神と戦うのにバラバラでは勝てまい。各々好き勝手やって勝てるような相手なら、そもそも僕らは来ていない」

「なら来なければ良かったのに。この山を襲い、間欠泉センターも吹っ飛び、好き勝手やり過ぎだろうが人間。それで手を貸せ? 随分と虫がいいな、ん?」

 

  天魔が指を弾けば、その音の波紋が刃に変じ広がった。梓を斬りつける刃は梓の肉体に弾かれ四散し、周りの地面に数本の線を刻む。人の形をした鉄塊のような男を興味深そうに天魔は眺め、鼻で笑った。

 

「報告の通り頑丈だな。何を食べればそう育つ?」

「バランスの良い食事と適度な睡眠だ。話し合いで終わらせる気はないのか?」

「話し合い? 話し合いとは対等以上の相手とのみ成立する。私とお前が対等だと? 同じ大将でも価値が違う」

 

  天狗の頂点と平城十傑の調停役。たった十人の纏め役と、多くの天狗を束ねる長。背負うものも見ているものも違う。梓の前で天魔は虚空に腰を下ろすと、静かに緩やかに足を組んだ。表情には笑みはなく、ただ冷ややかな瞳の色で場を覆うように人間を見つめる。それを受け止める梓の顔もまた変わらず無表情。張り詰めていく空気に、鬼だけが静かに微笑んだ。

 

「天狗は天狗だから偉いのではない。偉いから天狗なのだ。そんな私と人間のお前が対等なわけないだろう。私はそんな天狗を率いる者。全てを率いてこその大将だろうよ。なのにお前は、大将としてどうなんだ? 纏め役? たったの九人も纏められていないのに」

 

  来て早々博麗の巫女に斬りかかり、あまつさえかぐや姫を殴った北条。人妖問わず目につく女性の手を取り、冥界にまで踏み込む五辻。吸血鬼とさとり妖怪から自分勝手に宝を奪った袴垂。月に忍び込み、月軍を幻想郷に連れて来た坊門。その策を練り今なお暗躍する唐橋。同じく暗躍し、天界を白煙に染めた黴。間欠泉センターを潰し地底を進む蘆屋。河童と怪しげなものに手を出そうとしている岩倉。幻想郷に邪眼を持ち込んだ六角。

 

  たったの九人の人間が、幻想郷全体で問題を起こしすぎている。足利まで含めれば、妖怪の山に鬼を舞い戻した厄介者だ。これほど自由に周りが動いているというのに、どこが調停役なのだと天魔は呆れることしかできない。少なくとも大将などとは呼べるものではない。

 

  だが、どれだけそこを責めようとも、梓の表情は変わることなく、腕を組み細く息を吐き出すだけ。不遜とも取れるような態度だが、全く気取った様子も見せず、ただ梓は天魔の指摘に頷いた。

 

「まあ……そうだろうな。纏め役などと、そうは見えんだろう。そもそも僕は纏める気がない」

「なに?」

「君のように上に立ち率いる者こそが大将というのであれば、僕は違うのだろう。だいたい彼らは誰かに言われて、その通り動くような者たちでもない。あの我の強過ぎる九人を率いようなどとすれば幻想郷に来る前に空中分解しているだろうと確信が持てる。なにより、彼らは僕にはないもの、足りないものを誰もが持っている。そんな彼らを率いることができようか」

 

  平城十傑。彼らは自分のためにしか戦わない。千三百年積み重なった歴史に削リ出された欲とエゴを胸に抱き、誰もが自分だけの理由を持っている。故に妥協し諦めるようなことがあっても、その芯だけは絶対に変わらない。全く違う位置にある九本の杭を同時に引くなど不可能だ。故に梓は率いない。

 

「だが、僕にも一応足利として生まれた矜持はある。僕の役目は調停役であれ彼らを率いることではない」

 

  その先の言葉を梓は飲み込んだ。梓は平城十傑で最も恵まれている。特に苦労することなく極大の力を持ち、その後も漆や藤、梍のように、力を得た後遺症や問題があるわけでもない。だからこその調停役と言えなくもないが、だからこそ梓は九人に頭が上がらない。

 

  もし彼らが挫折していれば、道半ばで諦めてしまえば、残されるのは梓一人だ。人の理から外れてしまった体を一人で支えなくてはならない。だが、そんなことになってしまうことはなく、誰一人欠けることなく九人は梓の周りにいる。梓の不安を、時に立ちはだかる壁を透け、時に誰より疾く駆け、時に盗み取り、時に殺し、時に煙に巻き、目で見なくても、悪夢を抱え、武器を携え、全てを見、あらゆる手で潰す。

 

「僕は頭も良くなければ弁が立つ方でもない。ただ寄って殴ることしかできん。だが、それでも、彼らが危機に陥った時、救いの手が欲しい時、力を借りたいと思われる存在になりたいと思っている」

 

  絶対に朽ちぬ大黒柱。十人十色という言葉があるように、大将の器というものも千差万別だ。言葉で率いても行動で率いてもいい。それも大将。だが梓の目指すところではない。決して折れず、曲がらず、朽ちず、揺れぬ強固な芯。いざという時寄り掛かってもまるで傾かない存在。それが梓の望む大将の器。

 

  梓の答えに天魔は鼻を鳴らし立ち上がった。口にはしない想いが渦を巻くように、風が轟々と音を立てる。

 

「それは一種の放任主義宣言か? それとも望まれれば全てを背負い切られる蜥蜴の尻尾のつもりなのか。いずれにせよ、それすらできるとも思えない」

「なんとでも言うがいい。大望を望む我らにできることは最後まで追うことを止めぬ事。僕は仲間内で一番足が遅くてな、代わりにいざという時背を押すことはできる。まあ先を行く者たちが速すぎて押す機会もないのだが。我らの歩みを止めたければ、まずは最後尾にいる僕の足を引っ張ることだ。引き摺りながら進んで見せよう」

「ぬかしたな小僧! その歩みが私まで届くか試してやろう、一撃、届けば力くらいは貸してやる。届けばな」

 

  天魔が指を弾けば風が弾ける。同時に打ち鳴る岩を砕く音は梓が足を大地に突き立てた音。その音を飲み込むように風は畝り、梓の姿が掻き消えた。コン、ゴン、と風に切り出された大岩は、飛んで来た岩とぶつかり合いより細かくなって風に乗る。砂をかき混ぜたような音をがなり立て、吹き荒ぶ風は縮こまる。小さくまとまった風は内で暴れ、抱えきれなくなった力が縦に伸びた。雲をかき混ぜる代わりに岩をかき混ぜ、灰色の辻風が空気を貫く。天魔の社を吸い込みながら、山の山頂を削り切り、風の穿孔機は数を増やす。

 

  お互いがお互いを喰い合うように時に重なり、時に増え、天魔を中心に更に回った。小さな回転と大きな回転が合わさって、より多くのものを吸い込みだす。天すら吸い込み落ちてきているように錯覚する景色を、渦の中心で天魔は冷ややかに見つめ指を鳴らす。

 

「……こんなものかよ

 

  天魔の呟きは間も無く風に食われた。天狗たちの雄叫びも、鬼の笑い声も旋風が吸い込むおかげでとても静かだ。普段と変わらずいつもと同じ。ただ椅子に座すばかり、何かわざわざ言うこともなく、天狗たちの書く新聞を読み時間を潰す。

 

  率いていると言えば聞こえはいいが、何もなければ率いることもない。およそ平和な幻想郷で、組織の長などやることもない。天狗の長は強さで決まる。誰より強く、その座を狙いわざわざやってくる者もいない。退屈を埋めようと天魔も異変でも起こそうかと考えたことがあったが、どうしてもできない理由があった。数が多過ぎるのだ。

 

  天狗は幻想郷内妖怪の最大勢力。その気になれば人里などため息で吹き飛ばせる。わざわざ片手間にやることでもなく、そして八雲紫にそれは止められていた。天狗の頂点でありながら、やれることはかなり限られ自由にならない。鬼の居た頃、上を見上げれば常に誰かが居た頃の方が遥かにマシだ。今はもうただ見下ろすばかり。ただ見ているだけで動くこともない傍観者。

 

  だからこそ、文の新聞を見た時に天魔は笑った。外からやって来た人間。平城十傑と月の神。久し振りに見上げ挑めるかもしれない相手。本音を言えば当然やりたい。だが、立場が頷く首を重くする。その首を無理矢理落としにやって来た人間に僅かでも期待しなかったと言えば嘘になる。

 

  風に飲まれ消えた人影に、僅かな希望も飲まれてしまう。弱い者に強さを示したところで意味がない。月の神が来ればそれも変わるかと退屈に埋もれていく天魔の意識を、小さな音が叩き起こした。

 

  ──メギリッ。

 

  と押し潰すような音が旋風の足元から響いている。ゆっくりと、確実に、一定のリズムで打ち鳴るその音に、天魔は小さく目を細めた。足音ではない。灰色の壁の向こうで輝く眼光が二つ。地に伏せ、壁を登るように右拳を打ちつけながら、這うように前へと進む人影に、天魔の瞳の奥で、小さな小さな火が灯る。

 

「くくっ、這い蹲り、それでも進むか人間。滑稽だな、ならこれはどうする?」

 

  迫る人型の戦車に向かって天魔が軽く腕を振る。渦巻く槍はその方向を変え、愚かな人間を食い破ろうとその身に頭を埋めた。服を引き裂き食い込む刃は、肌色の装甲に阻まれ動きが止まる。ダイヤモンドに下ろし金を擦り付けたような音が響き、梓の体が大きく後退した。岩肌を削り細かな破片が視界の中を縦横無尽に飛ぶのを眺め、強く梓は歯を食い縛る。

 

  肌の表面で流れを感じ、足を固定するために強く両足を踏み込み大地から手を離す。

 

「……かっ!」

 

  無理矢理息を吸い込み耐える。吹き飛びそうになる体を丸め筋肉を絞った。折り畳んだ体は弓であり、放つ矢は既に握っている。狙う場所はただ一つ。流れの狭間を肌で感じ理解する。どんな攻撃的な流れでも、それを受け止められる肉体を梓は持つ。薄い狭間に楔を穿つが如く。強固な流れにヒビを入れ割るように。

 

  『かちわり』

 

  風の壁がモーセの奇跡のように二つに割れた。大きなヒビを天魔まで走らせ、通るべき道を形作る。風の消えた回廊を、強く梓は踏み締めた。決して止まらぬ重戦車を薄い笑みで天魔は待ち受け、目の前で崩れた人影を見下ろした。

 

「ぐッ⁉︎ くかッ⁉︎」

「丈夫なのは表だけか。苦しいだろう? 呼吸を封じるだけで人は死ぬ」

 

  息を吸っても何も口に入らない。梓の体から力が抜ける様をつまらなそうに見下ろしながら、天魔は再び手を振った。崩れ落ちた梓の体が引っ張られるように背後に飛ぶ。崩れた岩壁に激突し、破片を撒き散らしながら吹き飛ぶ人形へ、天魔は指を下に向けた。大地に張り付け、呼吸を封じ、赤味の増した梓の頭を夢が過ぎる。

 

  耐え忍ぶこと、それこそ人生。

 

  ただ次代に繋ぐため、そのために人生を終えるはずだった。なんのためかも分からない。人には有り余る肉体を持ち、なんのために生きるのか。北条から六角までの九つの夢に囲まれながら、それが輝く姿を見ることもなく終わるはずだった。

 

「終わりにしよう大将。新しい竹取物語を描いて」

 

  そう白煙と共に吐き出された言葉に、梓は大きな夢を見た。耐えて耐えて耐えてきた。持て余した力を。夢見た景色を。ずっとずっと。夢は所詮夢であり、現実になることはあり得ないと。それが目前に迫った今へ、進むと決めたら足は止めない。止まらない体があるのだから。しんどくても、辛くても、遅かろうと、進むために必要なのは……。

 

  梓が身を起こす。天から落ちてくる風を受け止めながら、力の入らぬ体を無理矢理起こし、二つの足で地を踏み締める。

 

「……一歩」

 

  足を出す。それができたらもう一歩。小さい事をコツコツと積み上げる。それが手も届かぬ大望を成就させる。どれだけ遠くても、どれだけゆっくりでも。いつか届くと信じるが故に。

 

「……初めて、夢を見た。僕にしか、僕らにしかできないことがあるはずだと。見れる景色があるはずだと。息ができない? 道が険しい? それがどうしたぁ‼︎」

 

  肺に残った空気を全て吐き出し、梓は大きく足を出す。それが最後の一歩になろうと天魔に躙り寄るために。それができたらもう一歩、それもできればもう一歩。風を受け止め歩く梓に、天魔の顔が引き攣った。大きく口が弧を描き、青い目に炎が宿る。

 

  限界は超えている。呼吸を止められ、既に意識を失ってなければおかしい。なのに人の歩みは止まらない。一歩づつ確実に距離を潰し、天魔の肩に梓の肩が触れると同時に梓の体は崩れ落ちた。

 

  腕を振れば風が止む。綺麗さっぱり平らになった妖怪の山の山頂で、天魔は小さく息を吐くと空に輝く月を見上げた。

 

「面白いだろう天狗の頭領。こいつら死んでも歩むのやめないよ。だから私は気に入った。鬼に笑って拳を振り上げるような奴さ。一緒に喧嘩をするならそんな相手がいいさね」

 

  崩れた岩に腰掛けて、鬼が紅い盃を傾ける。微笑む勇儀から視線を切って、数瞬天魔は目を閉じると虚空に向かって手を振った。

 

「……いるんだろう文。至急号外を書け。この戦いに天狗が参戦すると。月の神の最後が近いとな。せいぜい上から目線でこき下ろせ。いいな」

「いや……、いいんですけど、今からですか? 号外配るのも?」

「くどいぞ」

「イエッサー! 万事承知しましたぁ! ああもう、はたてぇ‼︎ さっさと帰ってこぉい‼︎」

 

  風から溶け出てきた文が泣きながら夜空に飛んでいく。ただしっかり口元には笑みは浮かべて。舞い散る黒い羽が降りかかる梓を見下ろして、天魔は梓の影に九つの影を見る。

 

「期待しよう梓。平城十傑。お前たちの見る景色を見させて貰うぞ」

 

  青い瞳は熱く輝く。久々の挑戦がより良いものになることを祈って。降り積もる期待を大黒柱は受け止める。意識がなくとも弧を描く口元が決して零してしまわぬように。

 

  平城十傑、大将の器は砕けない。

*1
鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院。山の断崖の窪みに建造された平安時代の懸造りの木製堂




どうでもいい設定集 ④

天魔と文は幼馴染。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日向ぼっこぼこ

  白黒の彗星が今日も空を飛ぶ。懐に天狗の新聞を忍ばせながら、眼下に広がる紅い大地を見下ろした。風が吹けば心地いい音を奏でて揺れる小さな紅葉した手の間に、一本の茶色い線が伸びている。その中を歩く二つの人影を目に留めて、魔理沙は悪い笑みを浮かべるとそれ目掛けて箒を下へと倒した。

 

  風に揺れる黒髪と波打つ銀髪に金色の川が混じる。笑顔を浮かべる魔法使いに、黒い頭はギリギリと歯を擦り合わせ、銀色の頭は呆れたように肩を竦めた。そんなここ数日で見慣れた二人の様子に笑いながら、魔理沙は楠の肩を軽く叩く。その衝撃を楠はゆらりと揺れて受け流した。

 

「なんだよお二人さんこんな朝っぱらからデートか?」

「ふざけんなよマジ違えわアンタなあ!……いや、もういいや。アンタと張り合うのは疲れるだけだ魔法使いさんよ」

「そうつれないこと言うなよ楠、それより昨日の号外見たか?」

 

  魔理沙の取り出した新聞に大きく書かれた『天狗参戦』。平城十傑の名と共に、勝利に間違いないと書き綴られている。もう勝った気でいる新聞の内容に、妹紅も楠も呆れてしまった。が、尻込むよりはマシである。梓と天魔の映った写真は、久々に天魔の姿が拝めるとあって、人里の少ない妖怪マニアの間で大層ウケた。

 

  梓ならそれぐらいはやるだろうと特には驚かず、差し向けられる新聞を手を振って払い除け、楠はただ先を急ぐ。唇を尖らせる魔理沙と呆れる妹紅はそんな楠の背に置いていかれないよう歩みを早め、その両脇に並んだ。妹紅は新聞に目すらくれないので、魔理沙はいそいそと新聞を懐に戻すと、再び二人の顔を見比べ首を傾げる。

 

「で? なんで二人はこんな早朝から霊夢のところに向かってるんだよ。楠一人ならまだ分かるけどさ、妹紅も一緒は珍しいよな。まあ私は朝の散歩相手が増えて退屈しないけど」

 

  博麗神社に続く道は一本道。早朝に剣を振った後、博麗神社に行くか焼き鳥を焼くかの二択しかない楠の動きを追うのは容易い。今面白い平城十傑の動きを追う意味で、朝に博麗神社へ向けて歩く楠との散歩はすっかり魔理沙の日課だ。魔理沙が来ればチルノ同様苦手な相手であるためか不満そうな顔を楠は浮かべるが、なんだかんだ会話はし、愚痴を言おうとも無理に追い払うこともない。今日もまたからかおうと悪い笑みを携えた魔理沙を横目に見ながら、楠は疲れたように手を振った。

 

「いい加減手水舎を放っておくと巫女さんにいいように使われるんでな。妹紅に頼んで木を乾燥して貰うんだよ。そうすりゃ後は切って組むだけだしな。鬼の嬢ちゃんが居れば『密と疎を操る程度の能力』とやらで水分散らしてくれるんだがよ。俺は大工じゃねんだわ。学生なの。なんで焼き鳥焼いて家と手水舎建てるのに従事しなきゃなんねえのか」

「楠のせいで壊れたからでしょうが。だいたい屋台はいいの? 今日の売り上げなしよ? 十両貯めなきゃいけないんでしょ?」

「言うな妹紅、気が滅入る。それに言うならもう手水舎は俺のせいじゃねえし、屋台の給金はどこぞの誰かさんたちのせいで低賃金なんだよ! なあ!」

「それは大変だな、誰のせいだろうな」

「それはうちの屋台の張り紙を見ろ」

 

  巫女禁止、魔法使い禁止、輝夜禁止、椹禁止、吸血鬼禁止、さとり妖怪禁止、一寸法師禁止などなど。多くの者を出禁とする張り紙を貼り付けているというのに、誰もが変わらず勝手に楠にツケて焼き鳥と焼き筍を取っていく。その度に妹紅に肩を叩かれ給金の袋も叩かれる。「うちは給水所じゃねえんだよ!」という楠の叫び虚しく、すっかり楠と妹紅の屋台は幻想郷の人妖の小腹を満たす場所と化していた。商売が好きなのか、妹紅の機嫌が良いことくらいしか楠に良いことはない。とぼける魔法使いに楠は歯を擦り合わせ妹紅に助けを求めて顔を向けるが、優しく肩に手を置かれて微笑まれるだけで言葉すらくれない。

 

「それよりさ、遂に十人揃ったんだってな」

 

  そう言って魔理沙は肩を落とす楠に笑顔を向けた。十人。平城十傑の当主たち。北条、五辻、袴垂、足利、坊門に続き更に五人。最初の五人がとんでもなかっただけに、魔理沙も妹紅も後の五人もとんでもないだろうと予想はつく。特に微笑むこともなく、ムッとした表情を振って楠は足を早めた。勿論嬉しくはある。自分と同じ当主たちだ。あんまり楠がよく知らない者もいるが、同じ立場の九人。だが、全員揃うというところに楠が容易く笑えない理由がある。

 

「……十人な。最後に全員揃ったのなんて大正の頃に一回あったくらいじゃなかったっけか」

 

  目標は同じでも、いささか時間が経ち過ぎた。元は同じ平城京に居を構えていたが、十の一族は日本全国に散り、当主以外はそれぞれ別の仕事も持っている。当主たちだけで集まればいいだけの話ではあるが、奈良時代より千年、進まぬ展開に加え世界的な大戦が続き、集まることがなくなった。楠が知る相手など、それこそ伝令役として全国を渡り歩く桐。調停役である梓。情報役である櫟と、櫟とよく一緒にいる藤に菖、たまに家に泊まりに来る梍くらいのもので、ここから更によく知るなどと言えば桐と梍ぐらいまで減る。他の者達の交友関係だって似たようなものだ。

 

  そんな十人が集まった。遂にかぐや姫が見つかったのだからよっぽどのことではあるが、事態はより悪い。途方も無い敵の姿を思い描いていた一族たちの終着点が、月の神など誰が予想できようか。少なくとも楠が山奥の寺に居た時は全く考えもしなかったことだ。だが、先人たちを思えば、世界を救うなんて大層な土産を引き下げ会いに行った時、どんな顔をするか楠は見てみたくもある。

 

  足を踏み出すほどに口元の緩んでいく楠の横顔を妹紅は見ると、静かに薄く微笑んだ。その楠の姿に古い記憶を重ねて。

 

「楠は歯を擦り合わせてるよりそうやってる方がいいわよ、そっちの方が似合ってるんじゃない? 辛気臭くなくて、二代目に似てるわ」

「そいつはどうも。へっ、妹紅はあれだ、長年怒ってたから笑ってるよりムッとしてる方が似合ってるんじゃないか?」

「あ、そういうこと言うわけね。減給ね、減給」

「おい嘘だろ、それ最終的に俺が払うようになったりしねえよな」

 

  働いてるのに更に金まで払うなど堪ったものではない。意地悪く笑う妹紅に肩を落としながら、楠はずり落ちそうになった刀を背負い直す。かちゃりとカチ鳴った鍔の音に目を覚まされるように、前を向いた魔理沙は帽子のツバを抑えながら軽く顔を上げた。道の先に立ち上がった灰色の斜面の上に開いた赤い口。博麗神社の鳥居が小さく見えてきた。それに伴いちかちかと光る神社の空を楠と魔理沙は呆れたように眺め、飛んでいく霊力の塊を目で追った。

 

「なあ楠、霊夢のやつまたやってるぜ」

「行く気失せてきたな。このまま帰ろうか」

「なによ楠、霊夢のやつそんなに荒れてるの?」

 

  虫歯になったライオンと言うか、尻に火の付いた牛と言うか、今の霊夢に手を出したくはないと言葉にせずに楠は肩を竦めて返す。ここ数日霊夢の機嫌はすこぶる悪い。食い気に倒れ屋台の焼き鳥を大量に奪って行く姿からもよく分かる。

 

  階段を上がり博麗神社の参道を踏めば、参道の上で座禅を組み、眉を地割れのように歪めた霊夢が待っている。苛立たしそうに口端を引き延ばしながら、目を開けると参道の石畳の上に落ちている小石を乱暴に蹴り上げた。飛来した礫は登って来たばかりの楠の方へ飛んでいき、楠は疲れた顔でそれを雑に上へと弾く。宙に舞った小石は魔理沙の帽子を叩き、ぽすりと気の抜けた音をあげた。

 

「おーい霊夢、今日もまた荒れてるな」

 

  頭をガシガシと掻く霊夢に魔理沙が声をかければ、鋭い巫女の目が向けられる。ギラついた目の八つ当たりに魔理沙と楠はウンザリと目を背け、代わりに妹紅が仕方ないとため息を吐いて前に出た。そんな妹紅を見る霊夢の目の険しさは変わらず、妹紅も帰りたくなってきたがなんとか踏み止まる。

 

「どうしたのよ霊夢、なにか気に入らないことでもあった?」

「気に入らないですって? ええ気に入らないわね、あの天照の頭でっかち! 日本の主神だったらもっと協力しなさいっての! そんなに天照って偉いわけ?」

 

  そりゃ日本の主神だからな。と三人とも思ったが、敢えて口にはしない。霊夢が天照と対話し続けおよそ三日。最初こそ櫟の目論見通り上手いこと話は進んだのだが、それ以降がさっぱりであった。霊夢がなにを聞こうともぷいっと天照はそっぽを向き、話にならない。霊夢が太陽に向かって弾幕を放つも届くはずがない。「天照のアホ」と繰り返す罰当たりな霊夢にわけが分からず妹紅は困った顔で楠へ向く。楠もまた困った顔で頷いた。

 

「巫女さんはここ数日天照大神と対話してんのさ。櫟の策でな。月夜見にも俺たちにも協力しないって約束は取り付けられたそうなんだが、そしたら他の情報もくれなくなっちまったんだと」

「月夜見の能力すら教えてくれないってどうなのよ! 言うことといえば幻想郷はどうだとか、月ちゃんは日焼けが嫌いだとか、月ちゃんは引き篭もり症で困るとか知ったこっちゃないっつうの!」

「巫女さん天照大神によくそんなこと言えんな。まああれだ、月夜見の能力は輝夜あたりに聞けるんじゃね? 櫟が永遠亭にいるしもう聞いてるだろ。あとはほら、久々に人と話せて嬉しいんじゃないか?」

「なんで私が天照の御機嫌取りみたいな役引き受けなきゃいけないのよ! ならもうあんたがやりなさい!」

「無茶言うな‼︎」

 

  天照との相談室なんて大役ごめんだと楠は大きく首を横に振る。天照相手に罰当たり甚だしいが、好き好んで強大な神と話をしたいなんて物好きはいない。苦い顔をする楠たち三人を見て霊夢は柔らかく笑うとぶつぶつと何かを唱え始めた。それが長くなればなるほどに霊夢の身体以上の大きな雰囲気が滲み出す。その空気を醸し出すものがなんであるのか、言わずとも理解した楠はすぐさま逃げようと鳥居に振り返るが、服の襟を妹紅に掴まれ足が滑る。少女の姿に似合わぬ膂力に、楠は大きく目尻を下げた。

 

「放せ妹紅! いや放してください! 天照となんて会いたくねえ!」

「なんてとか言っちゃダメでしょ。こんな機会もそうそうないんだし、私も会ったことないしちょっと面白そうじゃない」

「じゃあ俺抜きでもよくね? 魔法使いの嬢ちゃんと二人でよろしくやってくれ!」

「いやあそう言われると逃したくなくなるよな。神妙にしろ楠」

「この天邪鬼どもめ! 魔法使いも巫女も蓬莱人も嫌いだくそったれ!」

「天邪鬼って、お前には言われたくないわよ」

 

  かぐや姫を守るし殴るなんてわけのわからないことをやっている男に言われたくないと、妹紅は強く楠の襟を引っ張った。すっ転ぶ楠に魔理沙は笑い、霊夢の内になにかが落ちてくる。悪どい笑みを浮かべていた霊夢の表情が滑り落ちた。目をパチクリと瞬いた霊夢の顔に浮かぶ柔らかな微笑は陽だまりのようで、馬鹿騒ぎしていたことが恥ずかしく思えてくる。身を包む薄らいだ神々しさに人の肌はピリつき、楠は服の汚れを払いながら呆けた顔で立ち上がり、妹紅も魔理沙も息を飲む。

 

「あ、これは初めまして。皆様のご活躍は拝見しております。人界で流行している漫画と言うのですか? 伎楽や猿楽を眺めているようで面白くて」

「あ、そうですかー、あっはっは!」

おい楠、あれ霊夢か? なんか気色悪いぜ

イタコの口寄せみたいね、神降ろしってこんなこともできるわけ?

知るか俺に聞くんじゃねえ!

 

  両側から魔理沙と妹紅に肘で小突かれ、小声で訴えかけられたところで、楠に分かるわけもない。慈愛の滲み出ている柔らかな笑みを浮かべる霊夢は、魔理沙の言う通りはっきり言って気味が悪い。頬に手を当て物珍しそうに博麗神社を見回す天照霊夢に、今のうちと楠は逃げようと後ずさるが、両脇から少女二人に腕を組まれ逃げの一手を封じられる。全く味方らしくない少女二人に楠は歯を擦り合わせていると、天照に目を向けられコロコロと笑われた。その音色にどうしても耳が惹きつけられる。

 

「あぁ申し訳ありません。貴方は本当にそうギリギリと歯軋りするんだなと」

「はあ、そうですか」

「平城十傑でしたでしょうか? 存じてはいますよ。やはり眺めるのは変わり者の方が面白いですからね。貴方たち十の一族の営みは最初から見させて貰っていますよ」

「最初から……ですか?」

「ええ最初から」

 

  最初から。その言葉に楠は目を瞬いた。初代から百三十七代目まで。北条含めた十の一族。最初からとは最初から。天照の微笑に影が差すことはなく、ただ暖かく向けられる。

 

「……最初から」

 

  ポツリと呟き楠は唇を噛み締める。楠も知らない北条の歴史。手記で漠然と楠も知ってはいるが、知っているのは書かれていることだけ。自分以外に当主達のことを知っている者がいる。楠は足を下げることもなく少し俯けていた顔を上げた。

 

「天照大神様から見て、馬鹿なことをしているとお思いでしょう?」

「だから面白いのではないですか、私は所詮観客ですから。ただ、見ているだけです。今の世は貴方方の世なのですから」

「俺たちの世……」

「ええ、だから妹の件は申し訳ありません。普段受動的なのにたまに能動的になって。ただそれも仕方ないのかもしれませんね。私が不甲斐ないせいでしょう」

 

  そう言い軽く顔をうつ向けた天照大神にかける言葉など、楠も誰も持っていない。少なくともしっかりしろなどとは言えない。なぜなら天照の言った通り、今は人の世なのだから。神の手から離れ人が時代を築き始めてから、その繁栄も衰退も全ては人に責任がある。神を崇めなくなったからといって、それは神のせいではなく人のせい。だから言う言葉は天照を責めるものではない。楠はそっぽを向きながら、小さく歯を擦り合わせる。必要な言葉を削り出すため。

 

「別になんだっていいですよ、勝ちますから」

 

  誰が相手であろうとも、勝つために技を研いできた。たとえ神であろうとも、かぐや姫を守るどころか、奪うために鍛えた技術。今更相手を知ったところでやることは変わらない。勝利を謳う人間に、天照は顔を上げると深く微笑む。人であろうと神であろうと、太陽のように覇を吐く方が面白い。

 

「では安心ですね。せいぜい妹と遊んであげてくださいな。妹も人の強さを見れば諦めもつくでしょうからね。面白い活劇を期待しています」

「ってことは天照様はやっぱり力を貸してくれないんですか?」

「私は誰もの味方ですからね。肩入れはしないのです魔法使いさん。それに私の力なんて必要だとも思っていないでしょう? 努力家さん」

「その顔で魔法使いさんはやめてくださいよ神様。私ダメだ、楠パスだぜ」

「俺に投げんじゃねえよ! 仕方ない、行け妹紅!」

 

  天照に向かい指を突き付ける楠の頭に拳が落ちる。護衛をする気のない護衛役に呆れながら落とした拳骨を振るう妹紅に天照は顔を向けるとくすくすと笑った。そんな神の姿に妹紅は微妙な顔を浮かべて、少しだけ楠の近くに足を寄せる。自分の身を北条の背に隠すように。

 

「やはり貴女はまだ神が苦手ですか。木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)*1も困った子ですね。でも今は、敵を屠る刃が側にいるのですから安心ですね」

「別に私は」

「蓬莱の薬を飲んだこと、私は咎める気はありません。それもまた人生というものなのでしょう。貴女の物語は長く、私のお気に入りの一つです。それも今はより素敵です。友がおり、刃がいる。でしょう?」

「いや、まあ、うん、私もダメだ。楠任せた」

「なんでだ⁉︎ アンタらなあ、俺に任せてもどうにもなんねえよ!」

 

  年の功より神の功とでも言うべきか。社交性抜群の魔理沙も、長く生きる妹紅も天照にはお手上げであるらしい。そんな相手を楠ができるはずもなく、ギリギリと音を立てる楠に天照はただ笑った。その笑い声を聞くたびに、その音に飲まれ楠の歯軋りは小さくなる。生きる限り陽の光に勝てるものはいないと本能で理解してしまう。結局投げられたところで楠も白旗を振るしかない。

 

「ふふ、それで貴方方は今日はどうしたんですか? いつもはこの巫女さんが話しかけてくれるだけなんですが今日は珍しい」

「え? いやあ、なんでしょうね本当に全然分からないですマジで」

 

  巫女の腹いせとは口が裂けても言えることではない。天照が分かっているのかいないのか。とぼけてみる楠に天照は笑うだけ。やられっぱなしは面白くないと、霊夢の鼻を明かす意味も込めて、頭を回し楠は天照に向き直った。

 

「あれですよ。月夜見のことを聞けってことじゃないんですかね。巫女さん大分参ってましたから」

「むぅ、これは貴方方の喧嘩。口出しは無用でしょう? それに面白くないですし。ですが私も久々に多くの人と語らえましたからね、少し面白いものを見せましょうか」

 

  そう言って天照が辺りを見回すと、丁度切り出された木がいくつか転がっているのが目に付いた。小さく頷きその丸太に天照は近寄ると、その上に軽く手を置く。

 

  そして陽が昇った。

 

  眩い太陽の光は強さを増して、全てを包み込むように手から零れた光は光を何重も重ねたように白く輝色に染まり、丸太を優しく飲み込んだ。煙を上げず、火も立てず、影すら残さずただ陽の光に燃え尽きる。まるで初めから存在しなかったように消えた丸太に微笑を与え、天照は楠たちの方へ振り向き輝く右手を差し向けた。その光輝こそ天照の威光。

 

「『万象を染め上げる程度の能力』と、幻想郷風に言ってみましょうか。なかなか面白い手品だったでしょう?」

 

  得意げな天照に楠は何も言えず、強く歯を擦り合わせた。魔理沙と妹紅の顔は神と人の顔を行ったり来たり往復し、なんとか無理矢理楠は事態を飲み込んで、消え去った丸太に力なく指を向ける。

 

「……あの、……それ、俺が手水舎造る用の丸太なんだけどよう」

「…………これは大分長居してしまったようですね、では失礼します」

「え? あれ? ちょっと天照様」

「私はいつでも皆様を見守っていますからね、頑張ってくださいね」

「いや見守るとかどうでもいいんだわぁ‼︎ ちょっと丸太は! おい主神! タイーム! ちょい待て!」

 

  さよならー、と手を振る天照の両肩に楠は急いで駆け寄り両手を置く。太陽の微笑みは蜃気楼のように綺麗に消え、残ったのは霊夢のジトッと重い視線。目の前に突如現れた人相の悪い男の顔に、遠慮することなく拳を見舞う。間一髪それを避けた楠だったが、走り寄った勢いは殺せず石畳の上を転がった。

 

「あ゛ぁぁ、肩が凝ったわ。ここまで深く降ろすとこうなるから嫌ね。楠肩揉んで。で? 天照はどうだった?」

「おー霊夢が返って来たな。やっぱこっちの方がいいぜ」

「どうもこうも、主神て言うだけあってかなりクセが強いみたいね。あれと三日も話し合うなんて私はごめんよ。面白くはあったけど」

 

  慈愛もクソもない人間らしさが霊夢の元に返ってくる。私の苦労が分かったかと妹紅と魔理沙の答えを受け霊夢は満足そうに頷くが、唯一なにも言わずに未だ参道に転がっている楠を霊夢は目に留めると、不満そうに近寄り取り出したお祓い棒で楠を突っつく。だが、楠からは芋虫ほどの反応も返って来ない。

 

「ちょっとなにしてるのよ」

「……俺もう知らない、今度のはもう知らないから。弁償は天照に頼めばいいと思うよ」

「はあ? なに言ってるの? 弁償?」

 

  力なく何もないところを指差す楠の指を追い、あったはずの丸太がなくなっているのを見ると霊夢は大きく頷いた。項垂れる楠に、呆れたように吐くのはため息。いくら霊夢でも天照に弁償は頼めない。

 

「なんか粗相でもしたんじゃないの? さっさと直す」

「粗相したのはあっちだから! ドヤ顔で丸太消したから!」

「ならまた斬ってくればいいじゃない。あれよ、神の試練ってやつよ。ほらシャキッとしなさい楠。今日の夕餉は私が作ったげるから」

「ってことは今日もまた俺とお椀の嬢ちゃんに任せる気だったな。はあぁあ、はいはい、働きますよ働きますともくそったれ」

 

  結局外の世界へ帰してくれる霊夢の機嫌を損ねるわけにもいかず、渋々楠は立ち上がる。神の威光の残照はすっかりと博麗神社から消え去り、あっという間にいつもの空気に包まれる。だがそれが戻り切らぬうちに、疲れた顔で霊夢は腕を組むと、転んだ時に下敷きにした刀の鍔がめり込んだ跡を摩っている楠へ細めた目を向けた。

 

「楠、そういえば昨夜紫が来てね。今日の夕方会議をするらしいんだけど、あんたも出るの?」

「会議? 俺はなにも聞いてないな。ただ会議ってことはお偉いやつらが集まるわけか」

「見知った偉そうなやつらがね、しかも今回は天魔まで含めてよ。私が博麗の巫女になってから前代未聞だわ面倒くさい」

「おいおいそれでいいのか博麗の巫女」

「いいのよ、勝てばいいんだもの。ねえ楠」

 

  不敵に笑う霊夢に返すのは同じような不敵な笑み。いい加減に見えようと、霊夢も楠も目指す先は同じ。平城十傑だけではない。見つめる目標に向く目は、一つまた一つと増えている。増える並ぶ者の影を振り払うこともなく、楠は静かに笑い背負った刀に手を掛けた。

 

「まあ任せておけ巫女さんよ、立ちはだかる壁も関係なく、すり抜けるのは得意でな。それは巫女さんもだろう?」

「まあそうね。それよりほら、壁をすり抜ける前に木を斬って、敵を斬るのはそれからね」

「へいへい、分かったよ」

「ちょっと、私はどうすればいいわけ? 丸太もないならお役御免でいいの?」

「ここまで来たら手伝ってくれよ。頼むよ妹紅」

 

  仕方がないと薄く笑い、森へ消えて行く楠の背を妹紅は追った。たまにはこういうのもいいかと魔理沙もその後を追い、残った霊夢はお祓い棒を肩に掛けホッと一息つく。そんな霊夢の元へ家屋の方からふらふらと飛んでくるお椀の蓋を目に留めて、霊夢はゆっくり振り返る。

 

「あれ? 霊夢だけ? 楠の声が聞こえたんだけど」

「あいつなら今木を斬りに行ってるわ。はぁ、居候同士仲良いみたいで良かったわね」

「よく言うわ。霊夢も今日は機嫌良さそうだよ?」

「気のせいよ、気のせい。はいはい、仕事仕事」

「あーん! 自分はなにもしないくせにい!」

 

  飛んでいく居候の一人をまた見つめ、霊夢は一人笑い縁側へと腰掛ける。困った居候たちであるが、退屈とはおかげで無縁だ。上った太陽を薄い目で見つめ、明日も朝陽を拝むため、霊夢はまた太陽の神に語りかけた。

 

*1
天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚した神。妹紅が蓬莱の薬を飲むことになった元凶とも言える神



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪夢の心

「今日の夕餉は私が作ったのよ、漆も食べてみて!」

「そ、そんな姫様! 危のうございます!」

「危ないって、もう作っちゃったもの。ね、漆」

 

  白布を巻いた指を後ろ手に隠しながら微笑む黒髪の少女は漆にとって太陽だ。安倍晴明や蘆屋道満といった、表で有名になった陰陽師が出てくるまで、政治に食い込んだ国家機密集団として、陰陽師は決して好かれているとは言えなかった。意味不明な言葉を唱え超常の術を振るう。はっきり言ってその存在は妖怪と大差ない。なにより機密として保護されていたこともあり、古い時代の日本の民間では、陰陽師は都市伝説と変わらなかったこともある。そんな蘆屋の一人娘漆の君が、能力は高くとも、いや、高かったからこそ、女性ということも相まって良い生活が送れるということはなく、毎日影の中で燻っているしかなかった。

 

  それが変わったのもかぐや姫が都に来たからだ。大路を牛車に引かれ、簾越しに見た美しい少女の影をやることもなくただ興味から追い会ってみれば、「化生の者」と呼ばれた漆の手を取って笑ってくれた。ただ優しく、柔らかく。

 

「私都暮らしは初めてなの。お爺様もお婆様もそうだし、二人には楽して欲しいから色々教えて下さらない? え? 怖くなんてないわ、漆は初めての友達だもの」

 

  かぐや姫と歳がそれほど離れていなかった事もあり、待女としてこの人に仕えようと漆はこの時心に決めた。手を握ってくれた優しい少女を守る者は自分であると誓ったのだ。かぐや姫にとって平城京で初めての友が漆なら、漆にとってもまた同じ。周りから向けられる冷たい目の中で、唯一向けられた暖かな眼差し。月明かりのように柔らかなかぐや姫の目を漆は雲らせずにいつまでも眺めていたかった。

 

「漆、私月には帰りたくないわ!」

 

  だが、夢のような日々は夢と同じように突然終わりを告げる。少女の目から零れる心の雫を掬える指が欲しかった。少女を抱き寄せ離さないだけの力が欲しかった。与えられてばかりで、まだ何も少女に返せていない。だからたった一度、帰りたくないと言う少女の願いを叶えさせて。たったの一度でいい。たったの一度で……。

 

  ──月が沈み日が昇る。

 

  夢から覚めたように消えた少女はどこへ行ってしまったのか。夢だったのか? それとも現実? 探せど探せど見つからない。少女の影も、痕跡さえ、髪の毛一本ほどもなく。これは悪夢だ、酷い悪夢。まだなにも返せていないのに。夢と現実が頭の中で混ざり合う。きっと今見ているのが夢で、起きればきっと少女が待っている。たった一度の少女の願いを早く叶えて差し上げなければ。だから早く、だから早急に、だから、だから、

 

 

 

 

 

 

 

 

  ────覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ────。

 

 

 

 

 

 

 

 

  隕壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹「め」繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹「よ」繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹「さ」繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹「め」繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹「て」繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧崎ヲ壹a繧阪。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──蘆屋さんッ‼︎」「──漆さんッ‼︎」

 

  ぼんやりとふやけた視界にキラリと光る眼鏡と緑色の髪が揺れている。吸い込む空気は砂っぽく、砂利つく口内の気持ち悪さと酷い頭痛に、喉元まで湧き上がってきた胃液をなんとか飲み込み漆は大きく首を振った。視界を覆う暗闇と、その中に浮かぶ星のような瞬きを目に留めて、漆はガリガリと乱雑に頭を掻く。心にへばりついている悪夢の欠片を削り取るように。

 

  ぼやけた頭がはっきりとせず、呆けたように周りに目を向ける漆の前に屈んでいる二人の少女。顔を青くして心配そうな表情を浮かべている菫子と早苗の二人を見て、ようやく漆の頭が冴えてきた。それでもまだ寝ボケている顔を持ち上げて、視界に滑り込んでくる灯篭の眩さに目を眇める。

 

「よおどうしたんだ?」

「いやどうしたって蘆屋さん……大丈夫なの?」

「なにが?」

「いやなにがって……」

 

  顔を見合わせ黙る二人。それを見て漆も察し、「ああ、くそ」と小さく呟いた。眠ってしまった。それも久し振りに人前で。心を蝕む悪夢。鮮烈で時代を跳んだと錯覚するほどリアルな夢が壊れたラジカセのように何度も何度も繰り返される。少女の微笑みと涙と絶望。会ったこともないのに、遺伝子に刻み込まれているかのように、漆は少女の夢に心底同調してしまう。頬に伝った涙の跡と、砂利つく口元を乱暴に拭い、漆は体に付いた砂埃を手で払うとふらつきながら立ち上がった。

 

「あたしのことは気にしなくていい。それで今どうなってんだっけ?」

「気にしなくてって……、蘆屋さん虚空に手を伸ばしながらなにかぶつぶつ言ってたし冷や汗凄いよ? 本当に」

 

  漆の寝ている姿は、死の近づいた病人のようであった。だが、目を覚ました漆にはその時の姿の面影はない。だからこそ早苗も菫子も心配なのだが、漆はそれを鼻で笑い吹き飛ばす。

 

「気にすんなって宇佐美、いつものことだ。あたしが寝るとな。悪い、迷惑掛けたな」

 

  菫子と早苗の目を振り切って、大きく息を吐き出しながら天を仰ぐ。見えるはずの空は見えず、広がる暗い岩肌を見てようやく漆の意識が完全に追いついた。

 

  お空との激突により地下間欠泉センターが吹き飛んだ。恐るべきは核のエネルギー。長期戦に突っ込もうかといった矢先、本気になったお空の一撃と、人間三人の力が拮抗し弾け飛んだ。吹き飛んだのは岩の天井。降り注ぐ岩塊を避け旧都に潜入したはよかったものの、梓と椹、フランドールとこいしのおかげで外来人に殺気立っていた旧地獄の妖怪たちに追い立てられ返り討ちにした挙句、道端で一夜を明かしてしまった。

 

  砂塗れの服を叩きながら、漆は振り返ると変わらず心配そうな顔をしている二人を見て、自分に対して強く舌を打つ。

 

「マジで大丈夫だから心配すんなって! そんな顔されると逆に気が滅入るっつうの!」

「大丈夫ならいいですけど、これからどうします?」

 

  どうするかと聞かれても、漆の目的はかぐや姫に会うことだが、それを今言ったところでどうにもならない。そんな漆の目につくのは、砂と汚れに塗れた自分と早苗と菫子の服。取り敢えず必要なものが一つ思い浮かぶ。

 

「とにかく風呂に入りてえな」

「だよねー! 着替えはないけど、お風呂が恋しいわ」

「あ、地底なら温泉ありますよ!」

「温泉か! そりゃいいな! 風呂上がりは牛乳が欲しいよなぁ」

「いやコーヒー牛乳でしょ」

「いやいやフルーツ牛乳ですよ!」

「明治のフルーツ牛乳製造終了らしいぞ」

「ええええ⁉︎ 外の世界はなにやってんですか⁉︎」

 

  早苗の叫びに「フルーツ牛乳はない」と女子高生二人手を振りながら嘲笑う。漆も頭さえ冴えればこんなものだ。夢から覚めた頭を振って、漆はようやく薄く笑う。その様子に本当に大丈夫そうだと早苗と菫子も小さく頷き、どうでもいい会話から頭を切り替えた。旧都は忌み嫌われた妖怪の都。そこに人の姿はなく、漆たち三人は存在から浮いている。煌びやかな旧都の中にあって、その煌びやかさが悪寒となり肌に擦り寄ってくるようだった。危機感はそれほど感じないが、気味悪さと疎外感に辺りへと散らしていた視線を戻し、三人は顔を見合わせた。

 

「で? どうすんよ。ってかよく一夜過ごせたな」

「私が結界張りましたからね、結界は霊夢さんだけの専売特許ではないのです!」

「その霊夢ってやつのことは知らねえけど大したもんだな。なあ東風谷、テメエ地底のこと詳しくねえの? どっか行くとこ、というか温泉目指そうぜ温泉」

 

  とにかく風呂! という漆の提案に横に振られる頭はない。温泉と言えばで回る早苗の頭が弾き出した場所はたったの一つ。というより、顔見知りで地底で襲われないだろう住居など一箇所しかない。「では地霊殿に行きましょう」と早苗は言うものの、困ったことが一つあった。

 

「地霊殿てどこだ?」

「それは……」

 

  建物は分かっている。が、滅茶苦茶に逃げて来たせいで現在地がさっぱり分からない。地図なんて気の利いたものはなく、幻想郷に来たことのない漆は地霊殿する分からず、そこまで詳しくない菫子も同じようなものだ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、三人揃っても猿の浅知恵にも至っていない。ただただ迷子。迷子になっても犬のおまわりさんは出て来てくれない。顔を突き合わせて唸る三人の助け舟は流れて来ないが、代わりに小さな車輪の音が迫って来た。

 

  キィキィと喚く鉄の唸り声に目を向ければ、ゴスロリファッションに身を包んだ少女が、赤毛の三つ編みを揺らして路地の奥から顔を出す。三つの人の視線が突き刺さったおかげで産毛立ち、ゆっくりと顔を振り向く少女の猫の目と、人間たちの妖しく光る目が合った。人間たちの服装を見れば見るほどに、火焔猫燐の手に持つ猫車が小さく震える。カタカタ揺れる猫車の取っ手を握りしめ、お燐はピンと立った猫の耳を大きく揺らす。

 

「にゃ、にゃーん」

「んだよ猫か」

「じゃ、じゃああたいはそう言うことで……」

 

  猫車を強く押し、急ぎ足で小さくなっていくお燐の背を三人は見送る。赤い猫耳がピクピクと跳ねる様に三人はため息を吐くと、漆は軽く指を振った。「掴めウルシ、急急如律令」という呟きと共に。漆の影から巨大な手が伸び、火車が勝手に走らぬよう鷲掴みにする。猫の尻尾が土から掘り起こされたミミズのように暴れ回り、お燐の手から零れ落ちた猫車が地面に虚しい音を立てて転がった。それに合わせられるは耳を劈く金切り声だ。

 

「ぎゃあ⁉︎ 殺されるう! 野蛮な外来人に殺されるう!」

「うるっせえ! あんなんで騙されるわけねえだろ! だいたい誰が野蛮だこら!」

 

  どこからどう見ても野蛮であり、「不良だ」と零す菫子を全スルーして、漆は鼻で笑う。お燐を掴んだウルシは物珍しそうに空いた手でお燐の猫耳を軽く引っ張り、それがスイッチであるかのようにダラダラとお燐は滝のように冷や汗を掻いた。

 

「地底妖怪より妖怪らしい外来人に言われたくないよ! どうせお姉さんたちも平城十傑とかいうやつらなんでしょ!」

「げっ、なんで知ってやがる」

「やっぱりそうなんだ⁉︎ あぁさとり様、あたいの命運もこれまでみたいです。お達者で〜」

「……なんなんだテメエは」

 

  ぐでりと死んだふりをするお燐をウルシは指で突っつき、満足そうに笑った。地底に響く式神の声は隙間風のようであり、およそ笑い声には聞こえない。ウルシの様子に肩を竦め、もう放っておこうと漆は早苗と菫子の方へ振り返った。待ち構えているのは早苗のいい笑顔。その気色悪さに漆は引く。

 

「な、なんでそんな満面の笑みなんだよ」

「ラッキーですよ漆さん! お燐さんに聞けば地霊殿の場所は一発です!」

「なんだコイツそこの住人かよ。おぉい起きろ、起きろよー。朝だぜー。だめだこりゃ。仕方ねえなおい、ウルシ起こせ」

「わー! 起きてる!起きてるさね! あたい元気! 元気いっぱい!」

「そいつぁ良かった、なら案内してくれ。よっしゃー! 温泉だ温泉だ!」

 

  ウルシに掴まれたまま地霊殿の場所を指し示すお燐の哀れなことよ。背の大きすぎるウルシと比べると掴まれたままのお燐は人形にしか見えない。これには流石の菫子も同情し、笑う漆と早苗の代わりにお燐の健康くらいは祈ってやった。

 

 

  ***

 

 

「また平城十傑ですか。お空とお燐が世話になったようですね。なんなんでしょうね? 平城十傑とかいう人種は地底で暴れないと気が済まないんですかね? あなたたちが来てからというもの鬼は地上に行きたがるわ、急に開くスキマからは新聞が投げ込まれるわで全くいいことがありません。だいたい向こうから忌み嫌い追いやったくせにいざという時だから力を貸せというのは都合良すぎると思いませんか? でしょう? しかも相手は月夜見だとか。はっきり言って今地上の者たちがしていることなど手の込んだ自殺と変わらない。あなたが勝てないと思っている通り、勝利の目が見えません。ハァ、風祝に超能力者もやる気なのはいいですが、やる気だけで勝てれば苦労しません。だいたいあなたたちは私を仲間に引き込みに来たんじゃないんですか? 違う? ならなぜ来たんですか意味分かりません。地底はパンチングマシーンのような場じゃないんですよ。一汗かいたらすぐ風呂のようなジムでもないんです。それに」

「話が長えんだよ! くそ、あいつらあたしに押し付けやがって、チッ!」

 

  さとりと対面しているのは漆一人。一応屋敷の主人には顔を出さねばならないということで顔を出したところ、喋ってもいないのに漆が平城十傑であるとさとりに看破され、さとりにウンザリとした顔を向けられた。

 

  昨夜の号外で平城十傑が戦う為の戦力を手ずから募っていると書かれていたおかげでさとりに盛大に勘違いされ、そういうことならと漆を置いて早苗と菫子はさっさと温泉に向かってしまった。全く仲間っぽくない二人に漆は舌を打ちつつ、一応客ということで出された茶を啜りながらもう十数分。さとりの愚痴交じりの長い口上に、漆の精神力が削られていく。椅子に沈み込んだ漆を眺めながらさとりも疲れたようにティーカップを傾けた。さとりにとってのお茶請けは相手の心。漆の心を覗けば覗くほどに、その味が一色に染まっているせいで流石に少し胸焼けしてしまう。

 

「複雑な心を相手にするのも疲れますが、単色の心を相手するのもまた疲れる。あの泥棒の心はある一点に向かうのに多くの枝葉を辿っていましたがあなたは逆。ずっと変わらぬ一本道」

「泥棒ってのは椹のやつか。あんなのと一緒はごめんだな、それだきゃあいいこった」

「ええ、私もあの泥棒野郎は嫌いです。でもあなたはそうでもない。優しい心を見るのは気分がいいですから」

「はあ? テメエその目腐ってんじゃねえのか?」

 

  思ってもいないことをよく綴れる。とさとりは口には出さずに言いそうになった言葉を茶で喉の奥に流し込む。言ったところで漆が肯定しないことが分かるからこそ言わない。聞かずとも見えるから。ここまで心と口から出る言葉が反対の人間を見るのはさとりも久し振りだ。漆の内心で反響している臆病な言葉を見つめて、さとりは小さくため息を吐いた。

 

「トラウマとは強烈なほどよく見える。貴女のトラウマはシンプルだからこそ分かりやすい。誰より友達が欲しいくせに、友達のことを思えばこそ強く当たっているのね」

「あのな、テメエなに言って」

「初めてウルシという式神が憑いたのは五歳の時ですか。物心つかずともよく覚えているようですね」

 

  さとりの言葉が漆のトラウマを呼び起こす。ある日を境に周りの自分を見る目が一変した。親しみの色から恐怖の色へ。細かなことは覚えていないが、ある日から向けられ続けた冷たい目はよく覚えている。自分を取り囲む人ではないものを見るような冷たい目。親姉妹に至るまで、恐怖一色に染まった目を向けられる。それからずっと漆はひとりだ。

 

  それから幾数年月が経ち、漆にも友達と呼べそうな者が出来そうになった時があった。だがその度に伸びる影の手腕。傷つける気が毛ほども漆になかろうと、どこかに消えた友へと伸ばす式神の手が、漆の想いに呼応して伸びる。だから漆はひとりきり。もし友達が出来たとしても、悪夢の腕が伸びるから。

 

「だからわざわざ口汚い言葉を吐いて人を寄せ付けないようにしている。言わなくてもいいことを口にして」

 

  さとりの目が細められ、ついっと第三の目がそっぽを向いた。嘘をつけば後ろ暗いものが心に残る。仲がいい相手にはより暗く。普段見えないその後悔を、さとりだけは見てしまう。それを相手も分かるからこそ、さとりと好き好んで仲良くなろうと思う相手は少ない。仲良くなればなるほどに、さとりに顔向けできない時がやって来た時、自分で自分を壊すまで何にも顔向けできないから。

 

「あなたたち平城十傑はおかしいわね。あの泥棒も、行かないと口では言いながら心の奥底ではいざという時仲間のために行くことしか考えていなかった。あなたも同じ。口では適当言いながら、勝てないと思いながらも、行かない戦わないという選択肢が頭にない」

「んなことは……」

「ありますよ」

 

  友ではないが、隣にいる者がいる。そういう関係を超越し、ぼんやり立っている漆の肩を叩き背中を小突くそんな者たち。目がないくせにあらゆることを察する奴。ぶっきらぼうで表情に乏しいが、誰より気にかけてくれる奴。買い物行こうだの、流行りのデザート食べに行こうだの、まるで普通の学生のように。そんな者たちになぜかウルシの手も伸びず、漆はいつも彼らに舌を打つだけだ。

 

  怒りと恨みで壊すことしかできない式神がもし力になるのなら、たった一度でいいからそんな者たちと共に行きたい。漆は何も返せていないから。そんな瞬間を得られたなら、たったの一度でいいのだ。

 

  図星を突かれ黙る漆の心の底に滲む影を見て、さとりは呆れたように口を開いた。パチクリと第三の瞳を瞬いて。

 

「それにそれだけでもないでしょう? だってあなた」

「それは言うな!」

 

  強くギラついた漆の目にさとりは息を飲んだ。影から伸びる巨大な手。黒い世界からずるりと這い出る怨みの塊に、さとりはきつく目を絞りそっぽを向く。心の叫びが強過ぎて見ていられない。一人どころか、百を超える怨念の色。あまりに強く塗り重ねられ過ぎて、穴が空いているようにさえ見える。式神ウルシはゆらゆらと長い黒髪を振って、漆の心を覗く不届き者を睨みつけた。

 

  『あたしの初めての友達』

 

  一人暗い場所で蹲る漆に伸ばされる手が一つあった。影と同じように暗かったが、どれだけ周囲の憂惧に晒されようと、常に漆から離れず側に居た。静かに泣く漆の頭を撫でる大きな手。その時と同じように、漆が荒れれば手が伸ばされる。人を悪夢に陥れるくせに、消えぬ優しさもまた呪い。頭に乗せられた大きな手に、漆は舌を打ちながらその手を払った。視界の端で寂しそうに揺れる長い黒髪から漆は目を背ける。

 

「伸ばす相手が違うそうですよ、ウルシさんとやら」

「テメエ嫌いだ! もう喋んな!」

「あらそんなこと言ってますけど悪くないと」

「うるっせえな! もうテメエのご機嫌取りも終わりだ! あたしも風呂借りんぞ!」

「なら私もご一緒しましょう。頭洗ってあげましょうか?」

「いらんわ‼︎」

「ああはいはい、背中流す方がいいんですか。しょうがないですね」

「ついてくんな‼︎ あたしはテメエが嫌いだよ!」

「なるほど、これが噂に聞くツンデレですね。ちょっとくせになりそうです」

 

  決して力で追い払うことはなく、漆は口で喚きながら地霊殿の廊下を歩く。薄笑いを浮かべてついて行くさとりは、その言葉の裏にあるものを全て掬い上げ、漆の隣へ足を運んだ。今向かう先は温泉だが、目はより先に向いている。なんだかんだ言いながらも、さとりも月軍との戦いに参加しないという選択肢をそもそも持っていない。愛する妹が出て行くだろうことが、どこぞの盗賊のせいで心を見なくても分かるから。だがほんの少しだけ、それ以外にも楽しみができたと足取りが軽くなる。人もさとり妖怪も孤独では生きてはいけないのだ。自ら望んだ孤独、人妖問わずその行き着く先はどこなのか、その終点を見るために。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見えざる手

  目には写らぬ剣先が穴を穿つ。柔らかな白い布に空いた穴から聞こえるのは、空気をただ垂れ流す無機質な呼吸音。漏れ出た空気に運ばれて空へと薄っすら伸びる黒煙を見送り、ゆっくりと菖は目を閉じる。耳を傾け拾うのは、己を取り巻く呼吸音。

 

  ふっ、ふっ。と規則正しく吐き出される生命の息吹に囲まれながら、その音の間に滑り込ませるように菖は鋭く息を吐く。たかが呼吸。だが、心の鼓動、呼吸のリズム、瞬きのタイミング。絶対的な個人の律動。それを狂わされ、菖を取り囲んでいた息吹のリズムが、崩れたジェンガのようにバラバラと散った。とはいえそれも一瞬のこと。そのバラついた一瞬を菖は足を出して踏み締め一歩を出した。動けない獣たちを置き去りに一歩を踏み出す人間を見るのは薄い桃色の瞳。人から包帯で包まれた右腕へと桃色の瞳は移ると、空いた穴を感心しながら見つめ軽く右腕を振る。カセットのテープを巻くように右腕全体の包帯は素早く擦れると空いた穴がさっぱり消える。包帯の擦れた音が消えるのを聞き届け終え、菖は薄っすらと閉じていた瞼を開けた。

 

  菖の黒い瞳に映るのは、大きな木に寄りかかった八面玲瓏の仙女の姿。短く切り揃えられた桃色の髪にシニョンキャップを被り、大陸の空気を感じる衣服に身を包んでいた。物事には格好から入るタチなのか、見るからに仙人の様相を呈している。少女の背からは緑色の龍の頭が覗き、菖を睨むと低いうなり声をあげる。

 

「……その腕、異様だな。命の息吹は感じるが、繋がりが薄いように感じる。どういう仕組みかは分からんが」

「それは貴方もでしょう。感覚で言えば死神に近い。死神では決してないけれど、普通は死から遠ざかるというのに自分から近づくなんて、この子達もすっかり怯えてしまっているわ」

 

  生命が死を恐れるように、理性よりも本能の強い動物たちが菖にいいようにあしらわれている。心の鼓動、呼吸のリズム、瞬きのタイミングを鋭い剣気で乱しては、一足一挙動を制していた。これでは番犬にもならないと岩の上で唸る虎に、仙人、茨木華扇は目を向けて困ったように息を吐く。

 

  困った客人。昨夜華扇の住居を訪ねて来た菖は、一睡もせずに華扇の家の前に突っ立ったまま去って行かない。これが一般人なら華扇の飼う動物たちにさっさと追い払われるのだが、全くそんなことにはなっていない。なぜ菖が華扇の元にやって来たのか、要件は既に菖から聞いている。

 

  『月夜見との戦争に力を貸せ』

 

  華扇の中では、既に菖への答えは出ている。華扇はいざという時人の側に立つと決めているのだ。そしてこれはそのいざという時。手を出さなければ、外の世界へ打って出る拠点として幻想郷は月の軍に占拠される。そうなれば待っているのは何か。穢れを嫌う月人が、人や妖魔を放っておくわけがない。良くて流刑、悪ければ処刑。そんな横暴を許しておく理由がない。だが、その答えを華扇が口に出すことはなかった。菖の存在がそうさせる。既にそう決めているとしても、人の身でありながら死を滲ませる人間が気に掛かった。

 

「懐かしいけど少し違う。最近の堕落した若者とは価値観が違うとでも言いましょうか。一日寝ずに過ごしては健康に良くないわよ」

「問題ない。三日までなら寝ずに変わらず行動できる」

「あぁそうですか……」

 

  不動にして静寂。嵐の中でも折れず曲がらぬ柳のように、水面に浮かぶ木の葉のように。ただそこに居るはずなのに存在感が気薄だ。目で見ていなければふとした瞬間忘れてしまいそうになる。死と対決し生を勝ち取る仙人とは真逆。死と隣り合い死を振り撒く。そんな菖の立ち振る舞いは、仙人の華扇からすれば許容はできない。

 

「ですが貴方にここに居られても、別に答えは変わらない。お帰りはあっちよ」

「必要なものを貰えるまでは帰れんな。答えを貰えるまでは動かんよ」

「なら力付くでやればいいでしょう? 貴女は得意でしょそっちの方が」

 

  わざわざ月に行き、数百人の玉兎を引き連れかぐや姫の命を目指した人間。遠巻きながら華扇も見ていた。必要ないのに菖は博麗神社にまで赴き、霊夢と魔理沙に穴を開け、そして見事に負け戦を演じた。それを菖も望んでいたことではあるが、そこに手加減は存在しない。もしも可能であったなら、ボタンが掛け違えられていたら、かぐや姫は死んでいた。それを見透かす華扇の目に、菖はゆっくり目を閉じる。

 

「私が本気で剣を抜く時は殺す時だけだ。味方に対して剣は抜かん」

「だからそうして立っているだけ? 今更一人や二人、数百匹の玉兎を死に連れて行ったのだから、少し増えても変わらないでしょ」

「私の矜持だ。死には必ず意味がある。必要のない死を振り撒こうとは思わない」

 

  かぐや姫に対する死の想いは建前であった。だが、その建前は、平城十傑ではなく引き連れて来た玉兎、そして、月の監獄に収監されていた月人にこそ必要だった。千三百年前、地上にかぐや姫を迎えに行ったが、まさかの八意永琳の裏切りによって失敗した。だが、かぐや姫を思っていたのは永琳だけでは勿論ない。

 

  菖の持って来た案に乗り、もし成功すれば輝夜は月夜見が来るのを見なくて済む。より酷い戦いに巻き込まれずに済む。失敗すれば、それはそれで安心だ。月人に対抗できるかもしれない、かぐや姫を任せておけるかもしれない、そんな者たちに託せるのだから。

 

  そのために月の彼らは命を賭けた。それに応えるために菖も剣を抜いたのだ。賭けられた命には、命しか賭けられない。それが最も得意だから。そして罪を着せられた月人と玉兎の期待通り、菖たちはかぐや姫を託されたのだ。ならば勝たねばならない。そのために必要なものが欠けてはならないのだ。故に今は剣を抜く時ではない。剣を抜くのはまだ先だ。

 

  菖の黒い瞳が艶やかに光る。ブレず揺れず華扇を見つめて。

 

「だから望む返事を貰えるまで私は動かない。貴様が折れるまで、私はここに居させて貰う」

「いや、それはすっごい迷惑なんだけれど。貴女はカラス除けの案山子どころか呪いの人形みたいだし、誰も寄り付かなくなっちゃうでしょ」

「ならただ頷いてくれ、それで済む」

「私は仙人よ? 人に言われるままは癪よね」

 

  結局仙人であろうと言っていることが妖怪と変わらないと菖は小さく肩を落とした。この後続くだろう言葉は決まっている。「だから欲しいなら力ずくで頷かせてみせろ」、そう言う華扇の笑顔には影が差し、俗世から浮いた仙人には到底見えない。戦いを楽しむような空気は戦闘狂のそれ。菖は目を閉じたまま眉を寄せ、小さく息を吐いた。

 

「よせ、やるなら私は手加減が苦手だ。私の技は死しか呼ばない」

「死と闘うのが仙人です。私が恐れるとでも?」

 

  目を開けた菖の瞳と華扇の瞳が重なった。動物たちを無理矢理けしかけようとした華扇に放った威嚇の一撃はもう放たない。放つは死。命に穴を開ける鋭い刃。息の詰まるような音が菖の手元で唸り、華扇の左の肩口に穴が空く。千切れた白い服の切れ端を追うように龍が仙女から離れ、華扇は服に空いた穴を指でなぞった。

 

「……仙人とはそれほど頑丈なのか?」

 

  服に空いた穴の先に見える肌色は、表面の皮膚こそ薄く削れはしたものの、赤い雫すら零さない。機嫌悪そうに華扇は眉をくねらせて、誰にも聞こえないように内心で大きく舌を打った。

 

  ──速い。

 

  これまで天狗など多くの素早い妖魔を華扇も見て来たが、一瞬の鋭さなら、これまで華扇が見てきたどんなものよりも速い一撃。瞬間移動といった術ではなく、ただ技巧によって繰り出される高速の一撃に、普段抑えている気性が突っつかれる。人の身でこの技を振るうことの異常さが、小さく華扇の心に火を灯す。

 

「一撃を当てられたのなど久しぶりだ。遠慮はいらないぞ人間。どこまでやれる?」

 

  華扇から浮き出る力に押されるように、周りに居た動物たちが一様に飛び去った。滲み出る力は純粋な力。空間を震わせる人とは思えぬ空気に、小さく菖は息を飲んだ。死の空気にも質がある。人には人の。動物には動物の。そのどちらとも違う空気に、遠慮はいらないと菖は左腰に差した剣の柄へと手を伸ばし握るが、口を引き結びそのまま固まった。

 

「どうした? さあ来なさい。月夜見と戦うと吠えるのに、力が伴っているか見せて頂戴よ。貴女たちがやろうとしているのは戦争でしょう? この先多くの命を奪うのに道中の一つなど気にするなよ。……それとも、逆にこちらが貴女たちを殺しにかかればやる気になるのかしら?」

「……貴様」

 

  菖の声音が一段下がった。菖の身を押し留めていた力が抜けてゆき、より生気が薄くなる。色の濃くなる菖の黒い瞳を眺め、嘲笑うように華扇の口が横に裂けた。

 

「自分は死を振り撒くくせに死を向けられて怒るとは、手前勝手が過ぎるだろう!」

「別に私はいい。殺してるんだ殺されもする。だが……」

 

  友が死ぬ姿だけは見たくはない。

 

  死が蔓延して散ってはいかない人生に沈んでいることは理解している。底のない暗い影のような海の中を菖は泳ぎ続けるしかない。が、たまに釣り糸で引き上げるように休ませてくれる者たちがいる。目を抉り、何も見えないくせに「菖ちゃんは美人さんだから」と、菖を着せ替え人形にする女。白煙という名の命を吐き出し寿命を大きく削りながら、「ちょいと護衛頼む」と、必要ないくせに世界中引き連れ回してくる男。どちらも自分の方が大変なくせにお節介が過ぎるのだ。

 

  初めて会った時のことを菖は今でもよく覚えている。一族の当主を選ぶ儀で、菖は一度死んだのだ。菖は一人生き残り、代わりに従兄弟や姉を失った。その瞬間から菖の手には死が握られ、他に何も握れなくなった。日に日に死に魅入られ衰弱していく中、バックアップを取りに来たとやって来たのは一組の幼い男女。目のない目で菖を見つめ、そっぽを向く菖を煙に巻く。離れろといっても離れない。

 

「菖ちゃんの力が必要です」「菖の力が必要なのさ」

 

  二人はいつもそう言うのだ。技を研ぎ、どれだけ技が死に近づいても、それを振るえと言わないくせに力を貸せと繰り返す。

 

  何を貸したらいい? 自分にはなにができる?

 

  そう繰り返して来た菖の十年間が、今ようやく報われている。櫟と藤の本気の願い。全ては終わらせるため。そのためなら菖は全てを賭ける。だがその中で、友の死だけは見たくない。

 

「私は一番我儘なのだ」

 

  薄く笑う菖の顔に、華扇の笑みが返される。そして華扇の服が再び弾けた。前に踏み出そうとした華扇の一歩は、スカートを穿ち足の付け根に飛来した点に、無理矢理足が落とされた。それに小さく笑いながら前を向く華扇に点が集まり壁が迫る。

 

  剣の泣き声が雫を落とす。

 

  肩に、膝に、肘に、腰に。二度と元には戻らぬ黒点を打ち付けようと、華扇の身に針の雨が集中するが、柔らかそうな肌色は崩れず、弾かれた点は華扇の周囲の木の枝葉を噛み千切る。ポトリと落ちた枝の音に歯噛みして、一歩を踏み出した華扇により大きく菖は身を沈めた。華扇は防御の姿勢も術も使っていない。迫る針のような衝撃を身に受けても揺らがず、ただ前に進んでくる。なんでもないと笑いながら。

 

「まるで梓だな!」

 

  ただ純粋に頑強な肉体。これほど厄介な相手はいない。ただただものが違う。鋼にような肉体は盾であり矛。突っ込む姿は水を掻き分け進む魚雷さながら。目の前に揺れた桃色の髪に、菖は冷や汗を垂らし強く剣の柄を握り締める。振りかぶられた華扇の右腕が、勢いよく振り抜かれ菖の顔の横を過ぎ去った。驚いた顔の華扇を見送り、菖は仙人の首の後ろ目掛けて剣を振り下ろし地に転がす。

 

  固い音が響いたが、それが決定打になることはなく、己が背後に伸ばした華扇の手が触れるのは首の後ろではなく、振り被った右腕の繋がる肩の後ろ。服に空いた穴を摩り忌々しそうに華扇は笑う。

 

「ふふっ、跳弾か! 芸達者ね人間! 殴る私の勢いを寧ろ増して避けるとは!」

「こればかりをやってきた。これぐらいできるさ、こんなこともな!」

 

  カチ鳴る鍔の音に鬱陶しいと手を前に出し、盾にして強引に華扇は進もうとするが、目に突如走った衝撃に頭を大きく振って後退った。潰れこそしないが、ぼやけた半分の視界を手で擦り、笑う菖の顔を見据える。訳も分からず、兎に角進もうとした体の横から走った衝撃に僅かに華扇はバランスを崩し、続けざまに足元の大地が弾け再び地面に腰を下ろす。

 

「……まさか」

 

  姿勢を低く華扇は大地を蹴った。目の前から降ってくる剣戟の雨。それに意識を集中すると、全く関係ない方向から衝撃が飛んで来る。横から、下から、背後から。華扇の視界の端で弾ける枝葉や小石は跳弾の軌跡。だがそれだけでは飛んで来る衝撃の数と辻褄が合わない。菖の技の正体、華扇の頭が弾き出す答えはただ一つ。

 

「その居合、軌道を曲げられるのか!」

「千年以上費やしたのだ。これぐらいできなければ寧ろ罪だろう?」

 

  最速の直線に加え、個を取り囲む針の筵。三百六十度を支配する剣尖に、華扇はイラつきながらも大きく笑い足を止めない。人がただ鍛えた技のみで向かってくる。小細工も策もない。敵に向けるは剣一本。それを振るうのは二つの手。それに応えるように、華扇もただ力を漲らせる。術を使わぬ仙人を仙人と呼べるものなのか。人の技がどこまで至っているのかを、極上の料理を吟味するように再び華扇は拳を握る。

 

「次は外さん! さあどう受ける!」

 

  場を支配せんと空気を穴ぼこだらけに穿つ連撃も、本気で体に力を入れた華扇の肉体には弾かれる。振りかぶられた右の包帯だらけの華扇の腕を、腰を落とした姿勢のまま菖は小さく見上げ、熱く燃えるような内側とは裏腹に北風のような冷たい息を吐く。死が迫れば迫るほど頭が冴える。スローモーションのように迫る華扇の拳に、菖は瞬きも身じろぎもせずに、その拳が顔の右頬の皮膚に触れる感触を薄皮一枚で感じ取った。

 

  力では受けない。そもそもそんな力はない。肉体の強度にも任せない。そんな頑強さは持っていない。

 

  坊門は柔らかさから死を生んだ。だから死を退けるのも柔らかさ。拳の力に逆らわず、全身をアメーバのように脱力させて、受けた拳の威力を全身に回すように菖は華扇の拳に乗っかった。天から脳天に一本の杭を打ち込んだように、地に穴を開けるが如く菖は回る。小さな黒い竜巻は、華扇の拳を受け流しながら、全身に回った力を両足で塞き止め、その勢いを右手に握った剣に乗せて射出した。

 

  ガチリッ、と空間同士がぶつかり合う。細い西洋剣の先端が生み出した小さな世界が、世界を押し分け光速で走った。その煌めきに目を見開いた華扇の額を軽く擦り、遠い空に浮かぶ白雲を飲み込み小さな穴に引きずり込む。

 

  固まった華扇の前で顔を歪めながら小さく裂けた右手を菖は振るう。口に溜まった血を大地に吐き出し、殺し屋の口から出るのはしんどそうな吐息。微妙に震えた自分の指先を見つめ手の感覚を確かめるように何度か開閉した。

 

「想像以上の威力だ。御せんな、照準がズレた」

「……ここまで来ると奇術染みてきますね。お見事、その殺人術、よくぞそこまで磨いたわね」

「それしかできん」

 

  殺す。ただ殺す。友の心も関係なく、自分がその光景を見たくないがために、友を殺そうとする相手をより早く殺すため。人も、鬼も、天狗も、河童も、天使も、悪魔も、神でさえ。菖の大事なものに手を出そうとしてくる不届きモノを、終わりを阻む邪魔モノを、絶対に必殺する。それが菖は得意だから。

 

  微笑を浮かべる菖と満足に笑う華扇。

 

  舞い散ったシニョンキャップの欠片が菖と華扇の間に流れ、笑顔のまま華扇の顔は固まった。地面に落ちた布切れを華扇は何度も見直すが、何度見てもシニョンキャップ。桃色の頭に恐る恐る華扇は手を伸ばし、指の触れた感触に石像のように動かなくなる。

 

「あ、あれえ? た、たんこぶかしら? なんども転がったし! いや、固いたんこぶねー。あっはっは! あっはっはっはっは⁉︎」

「それはまあ変わった形のたんこぶだな。それより仙人、答えを聞こう」

「いや、それよりって」

「貴様が何者だろうと関係ない。必要なのは貴様の力だ。それ以外のことなど小事。全ては月夜見に勝つために。全ては終わりにするために。必要なら全てが終わった後私を殺してくれてもいい。だがこの戦いだけは共に来てくれ。頼む」

 

  菖の瞳に映るのは茨木華扇。種族や内に抱えた問題などどうでもいい。菖は華扇に会いに来た。そして華扇は目の前にいる。それが全てだ。初めて華扇に会いに来た時と微塵も変わらぬ菖の雰囲気に、華扇は頭から静かに手を離し、口の端から吐息が漏れた。

 

「……ハァ、良いでしょう。参戦しますよ。元々そのつもりではいましたが。少し羽目を外しすぎたわね」

「そうだったのか? では骨折り損だったな」

「私は久々に楽しかったけれどね。あぁ、それと私の頭のコレはできれば内緒で」

「なぜだ? 問題か? 別にいいだろう」

「いや、よくないので」

「私は櫟と藤に話したい。久々にあの二人に自慢できそうだからな。漆や梓にも話してやろう」

「だからよくないんだって言ってるでしょ⁉︎ 貴女話聞いてるの⁉︎」

「聞いている。よし、話す」

「聞いてないじゃない! ちょっとこっち来なさい! 記憶を消すわ!」

「イヤだ。私はあいつらに自慢したい。ではな」

「ちょ、なに帰ろうとしてるのよ菖! 待ちなさい!」

「イヤだと言ったらイヤだ。追ってくるな華扇」

 

  去る菖を華扇が追う。初めとは真逆の形に遠くで眺めていた動物たちは首を傾げ二人の背を見送った。ズンズン歩いていく菖の姿に華扇は息を荒げながら大きく息を吐き出して、諦めたように隣に並ぶ。不敵。傲慢。強欲。そのどれとも違う無表情な暗殺者の横顔を眺めながら、華扇は穴だらけの前掛けの下に右手を伸ばし、替えの服とシニョンキャップをどこぞから引っ張り出すと一瞬で着替えた。

 

「勝てると思うの菖。月の神に」

「誰もが同じことを聞くのだな。だがそれに返す我らの返事も変わらない。勝てる」

「根拠は?」

「ない」

 

  はっきりと言い切った菖に、呆れるよりも華扇は感心する。少なくとも頼もしくはある。だが、知りたいのはその者の言葉ではなくその裏にあるもの。絶技を振るう人間の考えが知りたいと華扇は緩く腕を組んだ。

 

「ないのに勝てると言いますか」

「少なくとも言わねばならない。この戦いは甘くはない。一人でも負けると言ってはならないのだ。多くの勝ちへの執念がきっと届くと信じるしかない。私たちは一人ではない。自分にできないことができる者が側にいる。自分が考えつかないことも思いつく者がいる。技と、力と、知恵と、意思と。私も含め取り敢えず十人。更に今さっき一人が増えた。姿は既になくとも、分かっているだけで月の意思も六百二十八名分。勝てる。勝つ。それが当事者としての責任だ。敗北の意思は早々に殺す。神がどうした。神より私は櫟たち九人の方が怖い。あの九人に置いて行かれることの方がずっと怖い」

 

  それにまだできていない。殺す以外のことを菖はまだできていない。それができるまで、世界が終わってしまっては困るのだ。たった神一匹。そんな神の我儘で終わってしまうなど菖は許さない。自分は神より我儘なのだと鼻を鳴らして菖は笑う。

 

「それに今はかぐや姫も居るからな。月の姫に自慢してやるのだ。殺せぬのなら、死にたくなるほど自慢してやる。月の姫を守る平城十傑、誰のものにもならなかった月の姫に死んでも手放したくないと思わせるために。ちょっとした仕返しだ。素敵だろう?」

「それはまた、大それた望みですね」

「人間なのだ。欲張りでなにが悪い」

 

  慎ましく生きろ。身の丈の生活を。説教のための言葉はいくつも思いつくが、華扇はそれを口にしない。乾いた笑い声を上げて、ただ菖の隣を歩く。神に救いを求める者。欲を捨て清廉潔白な生を望み、死という概念と戦う。多くの者が正道を目指す中で、浅ましく、頑固で、傲慢で、聞き分けもなく、欲に塗れ、夢を吐き、子供っぽい、どこまでも人間的な人間にただ笑うしかない。無謀こそ、愚者こそ人の姿。華扇が、萃香が、勇儀が望んだ、終ぞ現れなかった人の姿。

 

……遅すぎよ。しかも味方でなんて勿体ない

「なにか言ったか?」

「いえ何も。では楽しみにしましょうか。勝利という名の美酒を飲む時を」

「そうだな」

 

  感覚のない右腕を華扇は摩りながら足を止めない。今こそそれがないことを惜しみながら、左腕に腕二本分の力を込めて右腕を握る。ほんの一瞬、華扇は仙人であること忘れてしまった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

歌物語の歌忘れ

「あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

  扇風機に向けて叫んでいるような嗄れた声を上げて河童が机の上に崩れ落ちる。それを見送るのは菫の乾いた笑み。優しさを感じない人の笑い声に机の上に広がるようににとりは崩れふやける。にとりから目を外し、机の上に転がっているドライバーを菫は拾い上げるってくるりと回し、壁に引っ掛けられている大きな工具箱へと投げ込んだ。

 

  カチャンという音が反響するのは、部屋に散らばっているガラクタたち。所狭して木箱に詰め込まれているロボットアームに、ネジやボルト、水鉄砲のようなもの。どれもこれも作りはいいのであるが、今一歩完成を見ない未完成品がほとんどだ。それらを見回し、菫が目を向けるのは、にとりの溶けている机の上に置かれたいくつかの品々。

 

  作りの精巧さで言えば、申し訳ないが河童が作ったものよりも数段上。部品同士の繋ぎ目も分からぬ芸術品と言っても差し支えない。自動小銃に狙撃銃。装甲服と四つの杭。月軍の置き土産の周りに散らばった工具たちはにとりの努力の跡である。

 

  へにょりと垂れたツインテールに菫は困った顔を向け、にとりの対面に座ると狙撃銃に手を伸ばす。作業用機械のように手慣れた様子で分解し机の上に広げると、取り外した銃身でにとりの帽子を軽く突っついた。

 

「お疲れやね、にとりちゃん」

「もっと労ってくれぇ……。あぁぁぁ、ねぇ菫、気晴らしに行かない?」

「僕はええけど、ほんとにええん?」

「良くないよ! よくないんだよぉ〜♪、あっはっは⁉︎ もうやだぁ!」

 

  悲痛な叫び声に菫はそっぽを向きながらため息を吐く。玄武の沢のにとりの家。外は河童で溢れているが、大瀑布のように垂れ流されるにとりの叫びに怒鳴り込んでくる者は一人もいない。もし扉を開ければ限界の近い河童に引き摺り込まれると分かっているからだ。机から上体を跳ね起こし頭を掻くにとりの目には大きな隈ができており、瞳には光なく、河童の木乃伊に一歩近づいている。

 

「なんで急に天魔様が来るのさ! それもスキマ妖怪と一緒にってなに⁉︎ 私悪いことなんてちょっぴりしかしてないのに!」

「はっは、ちょっぴりはしてるんや」

「笑い事じゃないから! はぁぁん、タイムリミットォォ!」

 

  理性の溶けかけているにとりに優しく見える微笑みを与えながら、菫はヘタリと机に倒れ込んだ手が指差す時計を見る。長針と短針が上を向いたお昼前。この時間が問題である。刻一刻と時を刻んでいく秒針を止めるために、にとりはポケットからドライバーを抜き放ち雑に投げた。小さな置き時計の時間は見事に音を立てて止まったが、それで時間が止まるわけではない。

 

「今日の夕方に会議するからそれまでに月軍の兵器の詳細纏めとけって酷くない⁉︎ なんで昨夜になって急にそれを言うの⁉︎ しかも私一人に押し付けやがってぇ‼︎」

「まあまあ、ほらぼくも手伝ってるんやから」

「それは助かってるけどさ、ぐぅぅ、この戦いが終わったらめっちゃふっかけてやる!」

 

  そう言いながら、にとりはこれまでに纏めた武器の図面を広げて菫の分解した部品を手に取る。苛立たし気に、しかし感心しながら手の中で部品を弄ぶと机の上に乱暴に置いた。「まぁ、よくはできてるよ……」と眉間に皺を寄せながら零すにとりの言葉に嘘はなく、技術屋として悔しいが月の技術の高さを認めるしかない。

 

「この銃、加重銃って言ったっけ? 火薬も使わないでよくあんな威力出せるよね。弾丸に重さを込めるのは銃身。それを吐き出すのは」

「撃針やけど、雷管が着火するわけやなく、言わば重力、落ちる方向を変えてるだけや。射出するにも重力使うてるから、重力加えても反発せん。ようできとるな」

「それにまだまだ銃のバリエーションありそうだしね」

「今回使われてないヤツか。そんなのまだまだありそうやけど」

 

  菫とにとり。二人顔を見合わせてため息を吐く。標準的な装備でこれだ。しかも使っていたのは、監獄から脱走し戦いから離れていた玉兎。これが雑兵ではなく、アメリカの海兵隊やグリーンベレーのような月軍の精鋭が使えばどうなることか。何よりこれ以上の武器が出てくるとなれば、今から頭痛の種である。

 

「技術力なら向こうさんの圧勝だねこれ。どうすんの?」

「一番は使わせないことやね。武器って言っても使う前に倒せれば気にせんでええし」

「そう上手くいく? 広範囲の殲滅兵器とか使われたら終わりでしょ」

「そこはまあ、頭いい人らがなんか考えるやろ」

 

  なんとも投げやりな菫の返事ににとりは肩を竦めるしかない。だが、それもそうかと納得する。幻想郷の賢者、延いては天魔といった幻想郷の重鎮たちが挙って動いている。己には理解できないあれこれを考えるのはその者たちの役目と割り切り、にとりは手元の部品を指で弄り、機関銃へと目を向けた。

 

「この銃、無力化するなら重力をこっちで操るか、強力なエレキテルでショートさせるかしかないね。まあそれが分かっただけでもいいけど、問題はこっちの服だよ」

 

  月の軍の装甲服。誰かが着ていなくても、その肌の表面に光を走らせる服は生物的で不気味である。装甲服の表面をにとりが指でなぞれば、その後を追うように光が走った。指で触れた感触はほんのりと暖かく、鉄やプラスチックを撫ぜる感触ではない。何か得体の知れない生物の柔肌に触れているような感覚に、にとりは深く眉間に皺を刻んだ。

 

「防刃、防弾、耐火、耐水、耐電、耐魔力、耐妖力、耐霊力、耐衝撃、あげればキリがないよ。どれもこれも半端だと貫けもしない。これ着た奴らを斬ったり潰したりした平常十傑は頭がおかしいって。まあそんなのは幻想郷にも多いけどさ」

「これに関してはそう気にせんでもええなぁ。こんなの着んでもこれより頑丈なやつ知っとるし、ちょっと耐久力上がったぐらいじゃぼくも他の子らも関係ないわ」

「そりゃこっちにも鬼とかいるし気にしてないけど、それにしても自己修復機能まであるしどういう仕組み?」

「ナノマシンやね」

 

  装甲服に流れる光を目で追って、菫はその上に指を置く。指先に群がる光たちは、その一つ一つが小さな機械。それらが月の軍の装甲服に多くの効果を与えている。顕微レンズで覗いたにとりは感心したように装甲服を突っつき鼻を鳴らした。

 

「うげぇ、どう作ってるのこれ。ちょっと失敬しちゃお」

「別にええとは思うけど使えるんか?」

「さあ? でも貰えるものは貰っとかないとね。じゃあ菫お願い!」

 

  ため息を吐きながら菫が指を鳴らせば、前腕から刃が飛び出した。腕を振り器用に装甲服の一部を四角く切り取るとにとりに渡す。にとりは嬉しそうにそれを受け取ると、前腕に刃を収納している菫を興味深そうに見つめた。前腕から飛び出していたギロチンのような刃が菫の腕に納まれば、その腕から無骨な刃が伸びてくるとは思えない。体の至る所から刃が伸びる。武器人間の呼称に偽りはないと、菫の体を突っつきたくなるがぐっと堪えた。

 

「よく斬れるねそれ。そんな斬れ味よさそうに見えないのに」

「見た目はな。身体の中の歯車たちが動く振動で斬れ味上げとるんよ。と、まあぼくの説明はええとして問題はコレやな」

「コレだね」

 

  にとりと菫の視線が突き刺さるのは四つの杭。時間固定結界装置と呼ばれる代物。名称とは裏腹に機械っぽさは薄く、見た目は黒く長い六角推の鉄柱だ。軽くにとりが玄能で叩いてみると、甲高い音を響かせるものの欠けすらしない。昨夜からにとりがいろいろと試してみたがどれも結果は変わらず、菫が表面を削ろうとしてみたところ、それでも削れなかった。

 

「打ち込んだ内側に結界が張られるのは分かったけど、肝心のこの楔みたいのが壊せんのやから結界を解くことができへん。コレやと一度張られたらどうしようもないな」

「なんでこう頑丈なのかなぁ、あと他の部材って言ったらコレだけど」

 

  にとりが杭の頭を持ち引き抜けば、小さな六角の箱のようにものが取れる。黒い六角箱の中央には白銀の光が灯っており、弱く明暗を繰り返していた。蛍の光のように目に生える光は美しくはあるが、どこか不安を覚える儚さと妖しさに満ちている。振れば宙にぼんやりと軌跡を残す柔光をにとりは指でなぞりながら苦い顔をした。

 

「なんなのコレ? レーダーじゃないし、かといってコントローラーでもないし、菫分かる?」

「さっぱりやな、なんの効果があるのか。どれにもついてるけど」

 

  一つにつき一つ。杭の上部に必ずついている。同じように周りを突っついても欠けず、継ぎ目もないためバラせない。ただ過ぎ去っていく時間に、にとりは貧乏ゆすりしながら机の上に崩れる。

 

「あぁぁぁ、無理無理、これだけ分かりませんでしたでよくない?」

「そうもいかんやろ、むしろこれだけはどういう仕組みか理解せんとあかんわ」

「えぇぇ……、なんで?」

「なんでってそりゃかぐや姫がおるからや」

 

  月の姫の能力は、発動されればどうしようもない。永遠の時間を操る姫の能力は月の民をして脅威なり得る。八雲紫、西行寺幽々子、といった他の者と比べても遜色ない。そのうちの一つを潰せる手を相手が打たないわけがない。

 

「櫟の考えはある程度読める。この戦い、天狗の新聞読んだけど、同じ神である八坂神奈子、月の頭脳と呼ばれた八意永琳、諏訪大戦で敗れた洩矢諏訪子は出んはずや。他の神も出んやろな」

「でェェ、なんで自分から選択肢潰すの? それで勝とうって、自分たちで勝率下げてるじゃん」

「これは神との戦いやからやろ。神には極力頼らんてな。だいたい月夜見が相手となると八意永琳と八坂刀売神は厳しいやろし、手をこ招くような奴は側に置けん。迷う強者より迷わん弱者や」

 

  命の取り合いで二の足を踏む者を横に置けば足を引っ張られる。足並み揃え、三十人三十一脚のように突き進む戦いだ。目標はただ一つ。元上司だなんだと言っている場合ではない。例え強い力を失っても、使うのか使わないのか迷いを得るよりも、それなら最初からない方がいい。

 

  シビアな菫ににとりは「ふーん」と、適当に相槌を打ちながらそっぽを向いた。観光だなんだとやる気のないようなことを言いながら、口から零すかぐや姫。菫の目の奥で光る戦いの色は濃くなるばかりで薄らがない。手の中で六角箱を回しながら、その白銀の光をにとりは見つめる。

 

「やる気だね菫。私は怖いよ」

「え? あ……、うん、いや、そんなことあらへんよ」

「そうは見えないけど……、月の兵器見る度に目つき鋭くなってるじゃん」

「いややなー、そんなことないやろ」

 

  目頭を揉みながら菫は笑ってみせるが、にとりは納得することなく唇を尖らす。そんなにとりに柔らかな顔を向けつつ、菫は机に乗っている機関銃を突っついた。

 

「……迷う強者より迷わん弱者や。ぼくにやる気はない」

「そんなこと言いながらかぐや姫がいるからーってさ、実はちゃんとやる気あるんでしょ?」

「ないったらないって……、にとりちゃん知っとるか? 戦争ってやつを」

 

  飛び交う弾丸、吹き飛ぶ肉片。鉄の塊が空を裂く音と火の弾ける音が場を支配し、それにあらゆる方向からの絶叫が混じる。鮮烈な光景と共に耳がやられる。一瞬で終わって欲しい光景が永遠だと勘違いするほどに何日も何日も。

 

「人の死なんて腐るほど見たし、戦場の景色も嫌という程見た。ぼくはいつも最前線にいたよ。関ヶ原も、西南戦争も、世界大戦も。おかしなもんでな、時代を重ねるごとに戦場の景色は酷うなる。その中をぼくだけは変わらず走るんや」

 

  時代が進歩し武器は変わる。より強く、より眩く、敵を屠るために進化する。

 

  だが菫は?

 

  六百年も前に完成してしまったが故に、そこから先に進めない。菫の体は、人のようにスムーズに動かすために全ての部品に菫の血肉が混じっている。もう菫の体に生物的な部品は残っていない。故に新たなものは作れない。馬や牛が相手なら問題なかった。だがそれが戦車や戦艦に変わる。数百年のうちにもの凄い速度で進化した人の武器より更に先を行く月の武器。それに対抗するために他の九の一族は技を研ぐ。菫にはもう研ぐものがない。

 

「それになあ、それに……武器は使われるもんや」

 

  引き金を引き弾丸を放つ。柄を握り刃を振るう。菫にそれは必要ない。菫が考えれば刃が滑り、鉄礫が飛ぶ。菫が武器だから。だが、武器とは一人でには動かない。武器は武器。ものであって生物では決してないのだ。

 

「道具もな。誰かに使われてこそやろ? にとりちゃんが使うてる道具はよく手入れされとるわ」

「そりゃ大事なもんだからね」

「そやろな、それに道具たちも使い手が分かって幸せやろ」

「なにそれ、菫は誰かに使って欲しいの?」

「そう見えるか?」

「全然。菫はなんて言うか、自分を使いたいって感じ」

「そう……」

 

  拭えない。腕を振り、足を振り、敵を斬り裂き命を穿つ。その最中に何かに使われているような違和感。見えない糸に操られているような感覚。自分で敵を屠っているはずなのに、誰かがやっているのをただ見ているかのよう。見えない誰かのマリオネット。それがどうしようもなく嫌なのだ。

 

  景色を見ても、水を手で掬っても、音楽を聴いても、何を食べても消えない剥離感。人の体を失ったのと同時に心まで失ってしまったようで。

 

「にとりちゃん技術屋だからかよく見とるね。ぼくはな、ぼくに絡まるイトを断ち切りたいんや。ぼくはぼくやと言いたい。それがどうすればいいのか分からんのよ。幻想郷に来れば変わるかとも思うとったけどそうやなかった。なにも変わらん。これまでと同じ」

 

  いつもいつも、なにかに糸を繰られている。ずっとずっと変わらずに。そんな菫を残し誰もが去る。北条も、五辻も、袴垂も、足利も、坊門も唐橋も黴も蘆屋も六角も。当主の顔がいくつも変わる。岩倉だけが変わらない。

 

  薄く笑う菫の顔を眺めながら、にとりは凝り固まった肩を伸ばし腕を伸ばした。懐から取り出したドライバーをくるくると手で回し、それを宙に軽く放り、今度は腰に付けていた小さなバッグから伸ばしたロボットアームで取り回す。器用に数度ドライバーをお手玉すると、菫に向かって軽く放る。照明の灯りが銀色のドライバーの芯に反射して輝くのを目で追って、菫は片手で簡単に受け止めた。

 

「ほんと滑らかに動くね、絡繰とは思えないよ」

「そりゃどうも」

「私たち技術屋っていうのはさ、新しくできることを増やすためにものを作るんだ。ねえ盟友、菫も技術屋でしょ? ないなら作るしかないじゃん。そのイトを断ち切るもの作ってみようよ、一緒にさ。菫が協力してくれたから私も協力したげるからさ」

「……にとりちゃんが?」

「一人で無理なら二人でってね。ただし安くないよ? お値段以上! それ商品化したら売れるかな?」

 

  頭の後ろで腕を組み楽観的に笑うにとりに、菫の顔から表情が滑り落ちた。

 

  新しく舞台に上がってきた役者。河童の技術屋。菫の内心で燻っている燃え滓を冷やすように、ふらりと河に流れて来るように、それが変わらず今まで通りまた流れてしまうのか。人生とは劇である。主演は菫だ。もし引き止められるなら、それは菫にしかできない。

 

「でもどう作ろう。見えないイトなんて切ったことないし」

 

  考え込むにとりを見て、菫は小さく顔を伏せると軽く口元を持ち上げる。伸ばす手がきっと自分が伸ばしていると信じるように。

 

「まあまあにとりちゃん、まずはコレや、この結界装置どうにかせんとあかんやろ。この勝負勝てんとにとりちゃんの家なくなるんやない?」

「ああそうだった⁉︎ あぁぁぁ時間がああ⁉︎」

 

  戦うには理由が必要だ。理由のない戦いなど存在しない。一族の掲げる呪いでもなく、世界を守るなんてものでもない。ただ新たな演者が舞台を降りないように。この劇が終幕を迎えるために。

 

にとりちゃんのためなら戦ってもええかな?

「なにか言った⁉︎ それより早くこれを解明しないとさ! もうなんなのこれ⁉︎」

「これって『目』でしょ? 破壊の目。それを無理矢理集めるなんてパクりっぽいわよね」

「「は?」」

 

  机の上にちょこんと乗った金色の頭。紅い瞳が四つの杭を睨みつけ指で突っついている。菫とにとりの前で七色の宝石を煌めかせる枝葉を振って宙に座ると、おもむろに金色の悪魔は手を指し伸ばした。広げられた右手に『目』が集まる。銀色の輝きを吸い取るように。握り込まれた右手に合わせて、にとりの手元にあった六角箱が弾け飛んだ。

 

「うふふっ、盗んじゃった?」

「う、うぇぇぇ⁉︎ きゅ、吸血鬼⁉︎ なんでいるの⁉︎ どうやって⁉︎」

「……どうやって? あんなやる気のない警備でオレたちを抑えようなんて百年早いかや?」

「そうともー! 私たちこそ幻想郷を股にかける大盗賊ー!」

「あれまー」

 

  白い綿毛と第三の青い瞳が宙を舞う。揺れる金髪を巻き込んで、三人が地を踏めば見せつけるようにポーズをとった。真ん中に立ち指を突きつけてくる大盗賊。その肩に乗り、幻想郷随一の奇麗な羽をはためかせる破壊の使徒と、反対の肩に乗るのは閉ざされた第三の瞳を抱え込んだ無意識の主人。見慣れた顔に菫は呆れ、にとりは「誰なの⁉︎」と叫びあわあわと冷や汗を垂れ流す。

 

「はっはー! よくぞ聞いた‼︎ オレこそ幻想郷の大盗賊! 袴垂椹!」

「無意識の申し子! 子分そのいち、古明地こいし!」

「破壊の使者! 子分その二、フランドール=スカーレット!」

「覚妖怪の妹と吸血鬼の妹⁉︎ なんでこんなとこに⁉︎ わ、私悪い妖怪じゃないよ!」

「椹無視されとるでー」

「なんでだ⁉︎ またこれかや⁉︎ なーんでどこ行ってもフランとこいしばっかり⁉︎」

 

  頭が最も影が薄いという現状に、椹は大きく頭を掻き毟る。元々の知名度がないためしょうがなくはあるのだが、頭を掻く姿がより椹の影を薄くし、両肩で妖艶に微笑む少女たちをより引き立てていた。椹の髪が白いこともあり、「大根のつまみたいやー」という菫の暴言に、椹はがっくりと肩を落とす。

 

「なんだよ、菫の旦那もいるとかよ。河童のお宝狙って来てみれば紅魔館以上に警備が雑だしつまんねえやな。で? フランはなに盗んだんだ?」

「なんかよくわかんないやつ。私のパクリっぽかったからムカついちゃった。他のも壊していい?」

「うわああ⁉︎ ダメダメ! これ夕方までに調査しなきゃダメなんだよう! それに全然壊れないしやっても無駄だって!」

「無駄? ふつうに壊れてるよ?」

 

  こいしの突っつく黒い杭に、明らかにヒビが入っている。目をパチクリとさせてにとりも菫もそのヒビを眺め、指でなぞり、幻ではないことを確かめる。それもヒビが入っているのは杭一本ではなく四本とも。つまらなそうにフランドールは杭に瞳を落とし、翼の宝石を指で弄った。

 

「壊れないってそれは『目』を無理矢理その箱に移してるからでしょ。だから杭になにしても『目』がないから壊れないの」

「なるほどなー、じゃあなんで四つ同時にヒビ入ったん?」

「それ四つで一つなんじゃない? 一つの箱に四つの目が分割して入ってるみたい。器用ね。ムカついてきた」

「おわあっと⁉︎ なしなし壊すのなし! 夕方に献上しなきゃならないんだから! 菫ぇ⁉︎」

「ああはいはい、これ以上壊すんならぼくが相手や」

「うげえ、菫の旦那が相手とかダリイやな。フランやめとけ、戦車擬人化したようなのの相手はゴメンかや」

 

  キリキリという歯車の音に椹は口角を落としそっぽを向く。虚空に手をこ招くフランドールににとりは慌て、こいしは変わらず杭を突っついた。

 

「いやあでもそのちっこい吸血鬼ちゃんお手柄や、ぼくらの問題見事に奪ったわ。椹より腕ええんやない?」

「ほんと? だって椹、私頭越えしちゃったって」

「はあ⁉︎ おいちょっと待った! 今からオレがもっと凄いの奪うやな! ……って、あれ?」

「お頭どうしたの?」

「お宝がねえ⁉︎」

 

  自分の体を弄りながら、椹の顔から血の気が引いていく。四つの首が傾げられたのを合図にしたように、疑問を打ち壊す笑い声がにとりの家の中に木霊した。五人のものでもない新たな声は少女の声。カラカラと響くその音色に、誰より早くにとりは泡を吹く。窓辺に寄りかかった少女の頭から生えた三日月が少女の正体を教えていた。「急に来客凄いなー」という菫の言葉などにとりの耳には入らず、ただ地面に倒れて死体を演じる。ただ一人、椹だけが新しい珍客を睨みつけ、わなわなと指を震わせた。

 

「テ、テメエは⁉︎ オレのお宝返せ!」

「やーだよ。それよりあたしの瓢箪はどうしたんだい? まさか売ったとかないよね? これと交換なら返すけどさ」

 

  毘沙門天の宝塔を手で弄りながら、萃香の悪どい笑みが盗賊に突き刺さった。盗賊の矜持にかけて鬼に奪われたなど口が裂けても言いたくない。小さく頭を振って拳を握る椹を萃香は目を細めて眺めると、煙のようにふわりと消えた。

 

「うげ⁉︎ 萃香嬢のやつ逃げやがった⁉︎ フラン! こいし! 追うぞ! ここで逃したら盗賊の名折れよ!」

「……椹って盗賊の割に奪われてばかりね」

「お頭かっこわるーい!」

「うるせえや! 口より手を動かす! これ盗賊の心得そのよんにしよう」

「……心得ってそんな適当でええん?」

 

  菫のツッコミが叩き込まれる前に、三つの影はさっさと窓から飛び去ってしまう。揺れる窓のキィキィと鳴る音の耳障りさにため息を吐きながら菫が窓を閉めると、同時に開く玄関の音。家の主人は動く気もなく、代わりに多過ぎる来客に向けて疲れた顔の菫が振り返る。

 

  玄関から差し込む陽の光が、来客の長い影を家の中へと落とし込んだ。ただでさえ大きく見える人影はゆらりと揺れると、スルリと滑るようににとりの家へと容易に踏み込む。菫に向けて溶けたような笑みを貼り付けて。

 

「これは菫さん、来てたんですね」

「今度は桐かいな。どうしたん? 今日は来客多くて家主もお疲れや」

「すいません、泥棒野郎を探してるんですけど。姫様の扇子を盗みやがりましてね。いよいよアレを叩っ斬る時が来たようです。居場所をご存知ですか?」

「な、なんか怖いな。桐なんか変わったか? 椹なら今さっき出て行ったとこや」

「ふっふっふ、そうですか。いよいよ追い詰めましたね。この距離で私から逃げられるわけないでしょうに。ではまた、近いうちにお会いしましょう」

「お、おう、せやね」

「行きましょう妖夢さん、盗っ人退治です」

「ええええ⁉︎ 私今来たばっかりなのに⁉︎」

 

  玄関へと走って来ていた妖夢を掬い上げるように抱えた桐の姿が音もなく消えた。現れては消える来訪者たちに笑いながら菫は肩を落とし、玄関を閉めると死体ごっこ中のにとりに近寄った。突っついても、声を掛けても起きないにとりに顔を寄せれば、聞こえてくるのは浅く一定間隔で繰り返される安らかな吐息。傾く日を一度見上げて、菫はにとりに毛布を掛けた。

 

「世の中の 人はなんとも 言わば言え 我が為すことは 我のみぞ知る、やね。ぼくもぼくのできることをするとしよか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

化かす化かすが化かされる

  深紅の瞳と漆黒の瞳が重なり合う。鏡合わせのようにお互いの姿を写し取り、少女と少年は向かい合ったまま身じろぎひとつしなかった。漆黒の瞳は全てを吸い込む穴のように少女の視線と情熱を奪い、肌に張り付く冷ややかな空気に少女は冷たい汗を流す。

 

  少女は一息ついて漂う落ち葉から正体を奪う。葉という形を失った落ち葉は、形ない紅い欠片となって舞い落ちた。血のように不定形の紅色が地面に滴り広がる中で、少年、梍は瞬きもせずにただ少女、封獣ぬえを見つめ続ける。落ち葉は所詮落ち葉でしかなく、まやかしはまやかしでしかない。床に散らばる落ち葉を踏みしめながら、苦い顔のぬえから目を離さず、梍もまた口を引き結ぶ。

 

「まてやコラ泥棒!」

「あっはっは! 捕まえてみせろ大盗賊ー!」

「あぁあぁ、私の宝塔返してくださいぃ!」

「姫様の扇子返していただきます、死んでください椹」

 

  落ち葉を掻き分け走る三日月。それを追うのは白い綿毛。虎柄模様の毘沙門天が走り、大太刀の煌めきが視界を斬る。四者四様の姿が梍とぬえの間を行ったり来たり。極力目には入れないようにしながら、梍はぬえから目を離さない。いや、離したくない。耳を塞ぎたくても、それでは不自然。なんとか自然な風を装って、梍は乾いた唇を一度舐める。

 

「やるな。まさか椹先輩や桐先輩をちらつかせるとは、よくできた幻術だに」

「いや、あの……」

「よくできた幻覚だに!」

 

  もうそういうことに梍はしたい。だから耳も塞がなければ目も動かなさい。目の前で振るわれた大太刀は、落ち葉と共に椹と萃香を巻き込んで、壁へと椹を叩きつけた。人の形にくり抜かれた壁に向け、いつのまにか塀の上に座っている萃香が指を指して笑い、そんな鬼に毘沙門天の弟子が躍り掛かる。崩れていく壁の音に梍は口端を崩しながら、なんとか力ない一歩をぬえに向けて踏み出した。

 

「平安京の恐怖の象徴が一人、大妖 鵺。月の神との戦いに是非おんしの力を「うおおお! 相棒! 宿敵だ! 宿敵が来たぞ!」借りえぇぇ……」

「あっはっは! 他の面も奪ってくれるー!」

「ちかちか綺麗ね、つい潰したくなっちゃうわ」

「に、二対一でも引かんぞ! 此方にも相棒がいるんだからな!」

 

  進もうと出した梍の足が一歩を踏めない。後ろから学ランをこころに強く引っ張られ、無理矢理振り向かせようとくっ付いてくる。それでも梍はこころに抵抗し足を強引に踏み込んだ。ズリズリと玉砂利を削りながらよろよろ向かってくる邪眼の男は恐ろしいが情け無い。罵倒の言葉も喉の奥に引っ込み、ぬえはただただ背中の翼をへたらせた。隣で揺らめく狸の尻尾を目に留めて、ぬえは狸の大将へと顔は向けずに目だけを送る。にやけた友人の顔にただぬえは呆れるだけだ。

 

「いやあ、面白いやつらじゃのう。梍以外にもあんなのがいるとは」

「いや、なんていうか、本当に人間?」

 

  ぬえが前へと目を戻せば、壁に空いた人型の穴から飛び出た盗賊が、金魚すくいのように大太刀に絡め取られて本堂に吹っ飛ぶところであった。空を掴みなんとか宙に制止した盗賊は、綿毛のような三つ編みを揺らしながら笑みの皺を鋭く深める。難敵である追っ手に向けて手を向けて、迫る銀線を圧縮した空間で弾く。固められた空気の上を削ぐ刃滑りの音に目尻を歪め、そのままぬえは固まった。

 

  舞い散る落ち葉も、玉砂利を削る足音も、屋根を走る鬼も虎も一様に制止し、その間を銀色が流れる。白い綿毛に向けて落ちる銀色は二つ。盗賊の瞳が大きく揺れる。悪童の笑みを睨みつけながら、二つの銀色は繋いでいた手を離し、床についた足音が時を動かした。それと同時に動かそうとしていた椹の口が勢いよく開き息を吸い込む。

 

「ぎ、銀髪が増えやがった⁉︎ もうメイド服は返したじゃねえか⁉︎」

「返せば許されるわけじゃないでしょうが! これは貴方が妹様を引き連れ歩いて紅魔館の評判を落とした分よ!」

「幽々子様に礼を失した無礼者め! 言葉は不要! ただ斬る!」

「なんで銀髪の奴ってのはこんなおっかな、ぐふぉ⁉︎」

 

  迫るナイフと楼観剣に歯噛みしながら笑顔を潰し、両手を差し出した椹の隙間を縫って桐の足が滑り込んだ。めり込む足に蹴り出され、今度こそ椹は本堂の無双窓を突き抜けて暗闇に消えた。同時に宙に放り出された扇子を優しく桐はその手に取って、ふやけた笑みを庭師に送る。返されるのは半人半霊の苦い顔。妖夢は連れ出された挙句まだ何もしていない。「よかったよかったですねぇ」と一人笑う渡り鳥の頭に妖夢は楼観剣の鞘を力任せに振り下ろす。

 

「痛たた、ひどいです妖夢さん。でもこれで姫様に褒めてもらえますね」

「無理矢理引き摺り回された挙句これってどうなんですか? 私居る意味ないでしょ」

「そんなことないですよ、目の保養です」

 

  二度めの楼観剣の鞘は御免だとスルリと横に滑った桐に鞘は当たらず、虚空を叩き妖夢は苦虫を噛み潰す。呆れて冷ややかな息を零し腰に手を当てる咲夜の前ににゅっと伸びるふやけた笑み。目を瞬く咲夜の手は取らず、桐はただ柔らかな笑みを与える。

 

「いやいや、これほど美しいメイドさんと共闘できるとは幸福ですね。私は五辻 桐と申しますフロイライン。是非ともその冷たい美声でお名前をお聞かせ願いたい」

「……十六夜咲夜。よろしくお願いしますわ白玉楼の居候さん」

「こちらこそよろしくお願いします!」

「こんな事務的な挨拶されてよくそんな元気に返事できますね……」

 

  接待用の使用人の笑顔でも、桐にとっては満足らしい。妖夢はがっくりと肩を落としながら、吐いたため息。それを閃光が貫き四散する。吹き飛んだ玉砂利の石に目を見開きながら妖夢が振り向けば、目に飛び込んでくるのは深紅の灼熱。振り回される炎剣に妖夢は口端を引攣らせ、その炎剣の根元を見つめる。碧色の学ランを頭から羽織る破壊の君。学ランの奥で光る紅い瞳が、炎熱の中を踊っていた。

 

「なんなのコイツ! なんで『目』がないの!」

「なにあれなにあれ! 犬? 狼? 不思議で素敵!」

「いいぞ相棒! これぞ演目犬神だ!」

「……おれはなにをやっているんだろう」

 

  吸血鬼と覚の周りを回る黒い狗。影のような体毛を靡かせて、金色の瞳をギラつかせながらただ跳ね回る。吸血鬼が斬っても殴ってもすり抜けるばかり。実体のない黒狗に合わせて舞い踊るこころは妖艶で美しくはあるが舞っているだけで戦力にはならない。即興で演目などと宣われても、梍には別段できることがあるわけでもなく、ただ破壊と無意識の少女に当ててしまわぬようにそれとなく狗を動かすだけだ。瞬きすれば消えてしまうためそれもできず、乾いていく瞳に梍は怠そうに一歩足を引く。

 

「あの金髪の妖怪怖えな。あんなので斬られたら死んじまうだに」

「相棒! 宿敵には気をつけろ! 気を抜くなよ!」

「気をつけろったってどうすれば……あれ?」

 

  黒狗と遊ぶ少女の姿が減っている。狗と共に飛び跳ねていたこいしの姿は消え去って、フランドールだけが残された。豪快に振り抜かれた炎剣の余波に玉砂利が溶け、落ち葉を燃やし火の粉が散る。その派手さに目を奪われているうちに、梍の視界の下からせり上がってきた小さな手が目の前で打ち鳴った。意識の狭間からの衝撃に、邪眼の前に幕が落ちる。

 

「にひひ、お兄さんの無意識盗んじゃった?」

「わあ相棒! だから宿敵には気をつけろと!」

「ッく、やるな、妖怪。猫騙しとはやられただに」

「ナイスよこいし! 後は私に」

 

  炎剣を振り被ったフランドールの前に轟音と共に白い閃光が横切った。壁にまた一つ人型の穴を開け、白い綿毛が転がった。玉砂利を踏みしめる鈍い音に全員の意識が引っ張られる。砕けた本堂の外壁の破片を蹴りながら、緩く歩いて来るのは大魔導。柔らかい笑みに温かみはなく、弧を描く目元は釣り針のように尖っている、薄く柔肌の上で弾ける魔力の飛沫に梍は口端を引攣らせながら、背後に隠れるこころをただ見送る。

 

「騒がしいですね、なに事でしょう?」

 

  仏の顔は三度もなく、たった一度で火が点いた。

 

  地獄絵図の描かれている庭をゆっくり眺め、中でも突っ立っている男二人と転がる男を目にすると白蓮の眉は小さく跳ねた。幻想郷を掻き回す外来種。それが遂に命蓮寺にやって来た。梍だけならばおとなしかったが、一夜明ければコレである。ふつふつと煮詰まる白蓮の怒りを更に煮つめようと笑うのは鬼。本堂の屋根の上で踏ん反り返り、毘沙門天の宝塔を弄びながら、生仏の腹わたを突っつき出す。

 

「折角のお祭りに不粋だね、こういう時は騒ぐのが吉さ。同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」

「今日は縁日でもないですよ。それに踊るならその宝塔は邪魔でしょう? 星に返してください」

「えー、どうしようかねえ? ただ返すのもつまらないし、返すより他のことがしたいよね」

「そうだよなあ、アンタ他にやることあるもんなあ!」

「あ、あれえ?」

 

  一人でに浮き上がった萃香が上を向けば鬼の身を釣り上げる男の手。ギリギリと耳に痛い歯軋りを落とす人相の悪い顔を見て、萃香はポロリと手から宝塔を落とす。「な、なんでいるのかなぁ?」と零す萃香の言葉により大きく楠は眉をくねらせて、手に持った萃香をぶんぶん振った。

 

「アンタらが暴れるから博麗神社まで苦情が来たんだよ! なんで巫女さんじゃなくて俺が来なきゃなんねえんだ! 呆れて妹紅が帰っちゃったから木の乾燥も終わってねえんだぞ! つまりこういう事だ! アンタが乾燥機!」

「鬼め! 神妙にしろ!」

「うへえ、一寸法師まで貼り付けて来たの?」

「断ればお椀の嬢ちゃんを口に放り込むぜ」

「え? 楠私聞いてないよ⁉︎」

 

  頭の上でペシペシと髪を叩いてくる針妙丸に鬱陶しそうに楠は頭を振り、同じように鬼を掴んだ手を振った。乱暴に掴まれるのは堪らないと萃香は身を霧のように散らすため動こうとするが、不意に萃香の首ねっこを掴む手が一本増える。白い綿毛の一部はたんこぶによって腫れ上がり、血の滴る顔は幽鬼のよう。ギリギリと擦り鳴る歯の音と、ぽたぽた落ちる血垂れの音。鬼をして恐ろしい顔が二つ並んだ姿に、萃香も流石に少し引く。

 

「掴んだぜ萃香嬢! 楠放せ! コイツにゃ借りがあるやな!」

「ふざっけんな椹! アンタな、これはうちの乾燥機だ!」

「ちょっと、調子に乗ってない? 人間」

 

  ────ガツッ。

 

  と、萃香の足が屋根に落ちた。姿形を変えずに質量を増したように男二人を引っ張って。力を凝縮し結晶化したような萃香の腕が振り上がる。柔らかそうな拳は砲弾と同じ。音もなく発射された百鬼夜行を率いる戦船の砲撃が人に迫る。空を貫く豪腕に、二つの舌打ちが打ち出され、片やその拳に向かうように身を寄せて、片や普通に腕を出す。

 

  二つの砲弾は透け捻れ、その着弾点を大きくズラした。萃香の口は歪むよりも横に裂け、温故知新、最新式の玩具の登場に歓喜する。

 

「ふっはっは! なんだよなんだよ! そんなにあたしと遊びたいのか人間たち!」

「はあ? なに言ってんだ萃香嬢、メンドくせえ!」

「遊ぶ前に仕事しろ! だいたい最初に手水舎潰したのアンタだからね!」

「鬼に言うこと聞かせたきゃ、力尽くでやってみな!」

 

  「メンドくせえ‼︎」と二つの声が重なり、小さな戦艦が屋根の瓦を刮ぎ割った。その内に収縮された力は力士十人でも敵わない純粋な暴力。力で受けてはただでは済まない。ただ砕かれひしゃげ散るだけだ。

 

  そうならないために技がある。山を崩す豪腕も、地を割る震脚も、透けては捻れ当たらない。たった二人の人間を追い、萃香は心の底から大きく笑う。術や能力ではない純粋な技術。人が人のまま魔を討つために、神にすら挑むために磨いた手足。石畳を蹴り割って突き出された鬼の拳撃は、同じ極致に至った拳撃に打ち崩された。

 

  押し引かれた拳を振りながら、壁まで飛んだ人影を萃香は見る。楠ではなく椹でもない。紫がかった長い金髪が揺れる。命蓮寺が誇る三人目の人間に、萃香はつまらなそうに口を曲げた。

 

「大したもんだけどさ、ちょっと残念だよね。人の技はご馳走さ。魔法や霊術も綺麗だけどさ、やっぱり無骨な方が好みだよ。肉を裂き骨を絶つ。あたしは骨で感じたいんだ」

「そんなに殴って欲しいなら殴って差し上げましょう。それならいくらでも。おイタが過ぎますよ貴方たち。本堂をこんなにして」

「……なんだろうな、果てしないデジャビュを感じるんだが」

「なーに楠また修繕?」

「やめろ! 言うな! だいたい俺避けてるだけでなんもしてねえよ! 椹のせいだろ!」

 

  大工仕事がまた増える。そんなことは認められない。ただでさえ妹紅と霊夢にこき使われている現状がより悪くなるなど断固誇示だ。椹に指を突きつける楠を見て、椹はその指先の行き先を咲夜と妖夢の間に突っ立っている男へと慌てて流す。

 

「はあ⁉︎ そもそも追っかけて来た桐のせいやな!」

「おやおや責任転嫁ですか? 盗んだ椹のせいでしょう?」

「いえもう貴方たち平城十傑のせいですね。月軍より先にここを戦場にするとは、やっぱり置くんじゃありませんでした」

「あれ……なんかおれまで巻き込まれてる⁉︎ 絶対おれ悪くないだに⁉︎」

 

  とばっちりが邪眼に飛ぶ。白蓮から立ち上る攻撃的な魔力の色が梍の元まで伸びており、梍は誤魔化すように急いでサングラスを掛けるが時すでに遅し。一度飛び火した炎は消えてしまうことなく、梍を火だるまにしようと燃え盛るだけ。崩れそうになる梍の体を背中からこころがなんとか支え、上を向いた梍はその格好のまま固まった。

 

「相棒! 重いぞぉ! シャキッとしてくれ!」

「……やべえだに、逃げるぞ秦さん」

 

  サングラスがズレるのも気にせずに、梍は急いで立ち直るとこころを担ぎ塀へと跳んだ。梍の冷たい体温にこころは首を傾げつつ、二人はぬえとマミゾウの間に滑り込む。梍の青白い顔を見てマミゾウも首を傾げぬえと顔を見合わせた。白蓮たちの闘争から背を向け逃げて来た梍の姿を訝しんで。

 

「どうしたんじゃ梍? ぬえの元に戻って来たか」

「あーもういいよ、仲間になるって。どうせ逃げ場ないしここ気に入ってるし、あんなの見た後じゃやる気起きないって」

「いや違えだに! この色は先輩が!」

 

  梍の邪眼の向く方へぬえとマミゾウは顔を向けると、目を見開いて固まった。白い壁が迫ってくる。疑問の声を柔らかく吸い込んで、秋風に乗って白煙が滑る。崩れた命蓮寺の外壁から、侵入者はあっという間に場を蹂躙し命蓮寺をただ緩やかに包み込んだ。命蓮寺を覆う悪夢のような雲海を見下ろし、塀の上で四人は固まる。中から響く弾けるような音は魔力と霊力、妖力の断末魔。

 

  それに耳を痛めながら四人が目で追うのは、壁の穴から泡のように浮き出て来た翡翠色の二つの光。ゆっくりと雲海の中を泳ぐ光は、塀の上の四つの影をその瞳に写し、柔らかな壁を引き連れながら塀の上へと降り立った。口から伸ばした硬質な舌を唇で回し、吐息と共に白煙を吐く。上には学ランの姿はなく、血塗れのワイシャツに身を包み、藤は赤の混じった白煙を吐いた。

 

「よお梍、久しぶりだね。元気そうで何よりだよ。鵺は仲間にできたようだね」

「藤先輩……、あーっと、大丈夫ですか?」

「大丈夫かって? あっはっは! 全然大丈夫じゃないんだよねこれが! ゴホ、コポ⁉︎」

「ちょ、ちょっと藤大丈夫なの? だから休んだらって言ったのに!」

 

  笑いながら血を吐く藤の背を、白煙を急に突き破って来た青い髪の少女が摩る。「流石天子」と感嘆の台詞を吐きながら血を吐く藤にぬえもマミゾウもドン引きし、新しく空から大輪が落ちる。秋の葉を燻らせて鬱陶しそうに雲海を眺め、閉じた日傘を振って雲の海を真っ二つに割った。雲海の引いた後に残るのは痙攣しながら固まるいくつもの影。痺れ煙の効能に天子は顔を引攣らせながら、震える指先を握り込む。

 

「神霊に体の毒素純化されて死にかけた。しかもまだ話し終わってないからこの後帰らなきゃならない。最悪だろう?」

「えぇぇ……なんで藤先輩来ただにか? 忙しそうなのに」

 

  分からんと肩を大きく竦める藤に代わりに、ため息を吐きながら花の大妖が面倒くさそうにヘタれている鬼を指差した。疲れたように頷くのは大妖が二体。産まれたての子鹿のように震えながら萃香は立ち上がるが、「卑怯者ぉ」と口にしながら一歩を出して銅像と化す。「なんで立てるんだ」と膝をつかない影たちに藤は嬉しそうに頷き、同じように幽香が微笑む。

 

「鬼がああもなるなんて愉快ね。藤、もっと面白いのはないの?」

「それは俺に死ねと言ってるのかい? 今強いの使ったら死ねるよほんと」

「いやあの、藤先輩? 楠先輩も桐先輩も椹先輩も巻き込まれてるんだにが」

「ん? いやあいつらは大丈夫だろう。なんのために霊力だの魔力だのを鍛えてないと思ってるんだい? 鉄人みたいなこの二人は別みたいだが」

「誰が鉄人よ誰が」

 

  胸を張る天子と折り畳んだ日傘を肩に掛けてくるくると回す幽香を指差し、藤は口に咥えていた電子タバコを引き抜いた。それに合わせて塀の上に伸びる三つの手。墓場から這い出て来た亡者のような男たちに藤は手を振り、その笑顔に三つの拳が向けられたがどれも当たらず塀の上に落とされる。弱々しい打撃音に藤は笑い、梍は口の端を深く落とした。

 

「ふ、藤さんふざけんな。お、俺らまで巻き込みやがって」

「藤の旦那、も、もっと穏便な手をせめて使って欲しいやな」

「い、いやはや、私もこれはちょっと、久しぶりに効きますね」

「みんな元気そうで何よりだね。大丈夫、梍が介抱してくれるさ」

「ええええ⁉︎ おれだにか⁉︎」

 

  全く嬉しくない仕事に梍は叫ぶが、藤が三人の男以外の白煙の後に残された少女たちを指さしたことで、梍の叫ぶ気力は地の底に落ちた。唯一梍の肩につま先を伸ばし手を置いてくれる面霊気の少女の同情の色を見ていると涙が出そうだ。そんな梍から目を外すと藤は一度大きく息を吸い込みぶわりと白煙を吐く。赤みを増した空に消えていく薄い煙を目で追って、それより白い天球を仰ぎ見た。

 

「もう夕刻が近いな。梍、聖白蓮殿と伊吹萃香殿をよろしく頼むぞ。もうすぐ会議だ。あの二人には出て貰わんとな。今なら引き摺って行けるだろうさ。聖白蓮殿を連れ出せれば豊聡耳神子殿も引っ張り出せて一石二鳥だ」

「藤先輩は?」

「俺は出ない。うちからは梓と櫟が出る。俺は神霊との最後の詰めだ。天子と幽香が一緒にやってくれるだろうから後は頼むよ」

「ちょ、ちょっと藤! 私たちは留守番てわけ? そんなのつまんないわ!」

 

  牙を剥く天子に藤は肩を竦める。そうは言われても会議が近く天子を連れていけない理由があった。幽香の方へ藤は目を流し、小さく微笑む。

 

「天子は天界代表だろう? 楽しむのは本番でいい。頼むよ幽香」

「いいけど、貸しよ? ちゃんと返しなさい」

「分かっているさ。そういうわけだ梍。月はどうだ?」

「大きな光が一箇所に集まってる……まるで目玉ですよ、大きな目玉だにな」

 

  空に輝く天球が、蛋白石のような輝く瞳を浮かべる。誰を視線で射抜くわけでもなく、月光に溶けて見つめるのは世界。月の表面に漠然と漂う光色の瞳は、白痴や夢遊病者の瞳のようで気味が悪い。そしてそれを唯一地上から見る人間は梍一人。苦く笑い額から汗を垂らす梍を見て藤は小さく白煙を零すと肘で小突く。

 

「よく見ておくといいさ梍。お前だけが見れる景色だよ。お前だけが始まりを見ている。勝利のだよ?」

「発破の掛け方がやらしいですよ先輩。でもまあ悪い気はしないだにな。勝てるだに?」

 

  梍の疑問な藤は笑い、口を開こうとしたが止めてただ煙を吹く。首を傾げる梍に藤は答えをくれず、代わりに答えをくれるのは肩に寄りかかって来た人相の悪い顔。梍の首に楠は腕を回しギリギリと笑みを嚙み潰し浮かべる。

 

「勝つさ、みんないるんだ。 なあ、桐」

 

  楠の問いに楠とは反対の梍の肩に桐がしなだれ掛かる。

 

「勝ちますとも、姫様方に恰好をつけませんと。ねえ椹?」

「勝利はまあ奪ってみたいやな。それも神からよ」

「クッソ重いだにィィ⁉︎ なんで先輩たち乗るだにかぁ⁉︎」

 

  上から椹がのしかかり、梍は潰れないようなんとか踏ん張る。三人を乗せてふらつく梍に大きく顔を破顔させて藤もその上に飛び踊った。ペチャリ。という血の張り付く音に強張る男の顔が四つ。一気に顔を青くさせ、転がる姿はだるま落とし。

 

「のわあああ⁉︎ 藤さんの血が⁉︎ お椀の嬢ちゃん水だ! 水水‼︎」

「ええー⁉︎ お椀の蓋で足りるかな?」

「いやこれは! まだお迎えは早いです⁉︎ 妖夢さんハンカチを!」

「痺れてるのに動けるわけないでしょうが‼︎」

「ありえねえ! こんなのいらねえやな⁉︎ フラン! こいし! ずらかるぞ! 風呂だ風呂!」

「お風呂ー! フランちゃん背中流したげる!」

「分かったから寄りかからないで! 陽に焼けるぅ⁉︎」

「重いだにぃ⁉︎ こんな最後は絶対嫌だに!」

「のわあ! 相棒! 頑張れ引っ張ってやる! スーパー能楽も演ってないのに死ぬなあ!」

「あっはっは! いい気分だね。こりゃいいもんだよ、なあ天子、幽香」

「あぁそ、はあ、楽しそうで良かったわね藤」

「……あほらし」

「ねえマミゾウ、こんなのが仲間で勝てるの?」

「頼もしいじゃろう? 騙されたと思って信じるしかないぞい」

 

  転がる五人の男たちは全く頼もしくは見えない。が、一度動けば太古からの鬼武者。幻想の宝箱を守るに足る者たちなのか、幻想の住人の目は呆れはしても目は離さない。それに足る結果は十分見ている。鬼も狸も鵺もただ薄く笑い月を見る。それらを眺め仏もまた呆れたように小さく笑った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想対月軍戦前軍議

  ほっ、と櫟は一息ついて障子を透かす朱色の肌触りに腕を擦った。それと合わせて肌をひり付かせる妖気の気配が一つ。迷い家の縁側から聞こえる茶を啜る音を聞き流しながら、また櫟は深く大きく呼吸をする。

 

「貴女でも緊張するのね櫟」

 

  ポツリと投げかけられた問いに、櫟は口を開くが上手く言葉が出てくれない。ごくりっ、と喉を鳴らしても口の中は乾いていて、生温い空気だけが喉の奥へと進んでいった。目は見えずとも一度目を瞬いて気持ちを落ち着けて、なんとか口の端を持ち上げる。妖気の揺らぎは変わらず、幻想郷の賢者に気取られていることを悟りつつも、櫟は笑顔を崩さない。

 

「しますよ、恐らくこれが最初で最後の軍議。これで緊張しないほど私は大物ではありませんし、それに恐ろしくもある」

 

  魑魅魍魎、百鬼夜行、修羅神仏、聖人君子。それらを率いる主たち。本来なら一人いるだけで世の多くを掌握できる傑物たちが一度に集う。緊張するなという方がおかしい。それに加えて話す内容も内容だ。櫟のせいではないとはいえ、命の掛かった戦の会議。それも戦力を募り集めたのは平城十傑。ただ足並み揃えてスタートラインに立つだけの行為がこれほどの緊張を呼ぶとは櫟も予想外だ。

 

  そもそも櫟にとってもこれは初めてのこと。命を賭けた大戦、千三百年前にたったの一度。それも相手の姿も分からず完敗した相手。それが今はある程度の敵の情報も分かり、当時よりも一騎当千の者たちが多く周りにいる。そしてそれを動かすための話をしようというのだ。死へ向かわせるかもしれない話を。

 

「多くの者が死ぬでしょうね。敵だけなどあり得ない。此方も何人が黄泉道を歩くことになるか。唯一の救いがあるとすれば私は血を見ないで済むことです」

「でしょうね」

 

  呆れたように笑う紫だが、その声には明るさが足りない。櫟とはまた違うが、恐怖、という感情を紫も抱かずにはいられない。

 

  第一次月面戦争。

 

  多くの強大な妖怪を率い紫が月に攻め入った戦いは惨敗に終わった。月の近代兵器の前に多くの妖怪が死に倒れ、妖魔の時代の驕りは叩き潰された。それから幾数年月が経った後に行われた第二次月面戦争は、大規模な戦いというよりは、冷戦地味た戦い。渦巻いた陰謀の決着は、月人に一杯食わせることで落ち着いた。その後の神霊、純狐の起こした異変の際に一度月が幻想郷に手を出して来たが、今回はその時の比ではない。月の意志によって完全に幻想郷を潰しに来る。平城十傑以上に月をよく知る紫が恐怖を覚えないというのは無理からぬことだ。

 

  質だけで言えば第一次月面戦争の時より良いかもしれない。だが、数で言えば圧倒的に少ないと言えた。幻想郷という箱庭で戦力を募っているのだから当然だ。湯呑みの茶に映る夕日に目を落とし、紫は残った茶を一気に飲み干す。不安も一緒に飲み込むように湯呑みを大きく傾けて、少し強めに縁側の上へと湯呑みを置いた。そんな幻想郷の賢者の僅かな機敏を櫟の肌は見逃さず、身を叩く音に小さく微笑む。

 

「紫さんでも緊張するんですね」

「……当たり前ですわ、相手は月なのだから。それも月夜見自らが出てくるのよ。私は貴女たちよりも月のことに詳しいですもの。どれだけ勝率が低いかは私が一番分かっている」

「でも私の案に乗ってくれたでしょう?」

「……理には適っていたからよ」

 

  神の力を借りない。無謀とも言える策ではあるが、長い目で見ればそれで得た勝利には価値がある。神の力などなかろうとあしらうことができるのだと示せれば、伸びてくる手には迷いが生まれる。それだけでも十分だ。なによりプライドの高い月人の鼻柱をへし折るにはそれしかない。

 

  だがそれがどれだけ難しいか。第二次で一矢報いたとは言っても、それは武力によってではない。しかし、今回必要なのは武力による勝利だ。三度目の正直で勝つしかない。そうでなければ幻想郷が消える。姿形は残っていても、中身はまるで違うものに。それだけは許すわけにはいかない。幻想郷は紫の子と言っても相違ないから。

 

「負けるわけにはいかないのよ。今回だけは」

「それは此方もです。勝つしかない」

 

  負ければ人の世が終わる。夢も幻想も消え去って、残るのは生命の薄い不毛な世界。人が神にだけ頼り進歩のなくなった世界。誰も知らない秘境の中でそれが決まってしまう。

 

「……かぐや姫を追っていただけなのに、こんなことになろうとは誰も思いもしなかったでしょうね」

 

  人ひとりを追っていただけで、いつしかそれに世界の命運が乗っかった。この時期に当主になったことを少し恨みながらも、櫟は微笑を崩さない。恨むことも、嘆くこともいくらでもできる。だが、喚いたところで月夜見は来るのだ。世界の命運を見ているだけでなく、手を伸ばせる状況に少々の感謝を込めて、縁側を立った紫の気配に櫟も気を引き締める。

 

  紫が迷い家の座敷に置かれた長机の席に着いたと同時にスキマが開いた。沈みかけている朱色に目を細めながら最初に入って来るのは、夕日よりも紅い気配。血を長年煮詰めたような深い生命の匂いを漂わせる幼い妖女。黒い翼を一度はためかせ、長椅子の端に座った少女を二人目に留め目を細めると、吸血鬼は白い牙をゆったりと覗かせた。

 

「ご機嫌よう、私が一番乗りのようね。パチェを同席させても構わないわね?」

「勿論ですわ、レミリア=スカーレット」

 

  気分良さげに畳に足を落とすレミリアの後には久々に動いた紅魔館の大図書館が続く。強大な魔力と妖力の空気に櫟は腕を摩るが、その空気に冷たさが混じり櫟の肌が産毛立つ。新たにスキマから流れて来るのは半透明の人魂の影。黄泉の冷気を引き連れて、亡霊の姫が顔を出す。紫の姿に微笑みを向け、滑るように畳の上に幽々子は足を進めた。

 

「あら、幽々子は一人で来たのね」

「妖夢と桐は野暮用でね。扇子を取りに行って貰ってるのよ、私も着いていけば良かったわ」

 

  柔らかに笑い紫の隣に腰を下ろした幽々子は、櫟を見ると小さく手を上げた。人よりも薄っすらとした少女の気配の不思議さに緩く笑う櫟だったが、その緩んだ空気に御柱が突き立てられたように引き絞られた。澄んだ山の空気がスキマから流れ込む。神という自然と人の祈りを一身に背負い揺らがない存在感。それと共に吹き荒れる暴風のような空気と、噴火前の火山のような力の結晶に櫟は少し姿勢を正す。姿を見せるは神と天魔。日の本有数の戦神と最高峰の祟り神。幻想郷最大の妖怪勢力、天狗の長。山の四天王が一柱の登場に櫟は身を強張らせたが、見知った気配を感じ取り少しだけ肩の力が抜けた。

 

「梓さん、お久しぶりですね。最後に会ってから二週間も経っていないのに、もう何年も会っていないように感じますね」

「櫟、元気そうで良かった。君の顔を見れて嬉しく思うよ。藤たちの顔を見るのも楽しみだ」

 

  薄く笑みを浮かべて櫟の隣へと歩いて来る梓の背に隠れるように、人知れず気配が一つ増えた。湿気を含んだ暗く冷たい空気を纏う三つの視線。長机の両端に並ぶ妖魔たちの姿に大きくため息を吐きながら、古明地さとりは第三の目を顰めさせた。

 

「お疲れのようですわね、地底の主」

「貴女たちの顔を見たからですよ、それにしても……」

 

  一度咳き込み、さとりは大きく開いたスキマへ目を流した。スキマから薄っすらと漂う白煙の気配に櫟は大きく笑い咳き込んだ。ヨタヨタとスキマから小さな百鬼夜行の主が歩いて来る。その背に続く聖人が二人。片や同じように足取りが怪しく、もう一人はそんな二人から一歩離れるように歩いている。よろめく萃香の姿に勇儀は大笑いし、腰にぶら下げていた瓢箪を投げつけた。顔にべたりと張り付いた瓢箪を手に取って、萃香の顔が破顔する。

 

「あたしの瓢箪! お帰りぃ! もう放さないよ!」

「どこぞの盗賊に貰ってね、返すよ萃香」

「……全く会議の空気ではないですね」

 

  二体の鬼に呆れながら仙人が迷い家の畳を踏む。片腕有角の仙人の登場に二体の鬼は悪い笑みを浮かべるが、何か言われ絡まれる前にスタスタと華扇は二人の前を通り過ぎ後ろへ小さく手をこ招いた。それに引っ張られるように姿を表すのは死神の親類。よく知る気配に今度こそ櫟の気が緩む。その隣では梓がゆっくりと腕を組んだ。

 

「菖ちゃん、良かったです、無事でしたか」

「ちゃんはよせ、私もいいか? 華扇が一人は寂しいと言うのでな」

「言ってませんから⁉︎」

「ええ、さあさ私の隣に」

 

  嬉しそうに笑う櫟だったが、ふとその口角が下がる。月明かりのような空気を感じた。ここ数日何度も身を浸した空気が場を満たす。緩やかに靡く銀髪。月の頭脳の姿に、皆微妙な表情を浮かべた。それを予想していたように八意永琳は一度目を伏せ強く足を出す。その後ろからは人里の代表が緊張した様子で歩いて来た。一言もなく席に着いた二人を最後に、一つのスキマを残し全てが閉じる。

 

  最後に現れるのは幻想郷の守り人。気怠そうにお祓い棒を肩に掛け、面白そうだと野次馬に来た白黒魔法使いを伴って、座る幻想郷の有力者たちを見ると大袈裟にため息を零した。空間に浮かんでいたスキマは全てが埋まり、縁から九つの狐の尾が居間へと滑り込むと障子が一度に同時に閉じる。

 

  八雲紫、八雲藍。

 

  西行寺幽々子。

 

  レミリア=スカーレット、パチュリー=ノーレッジ。

 

  八坂神奈子、洩矢諏訪子、天魔。

 

  古明地さとり。

 

  伊吹萃香、星熊勇儀、茨木華扇。

 

  聖白蓮、豊聡耳神子。

 

  上白沢慧音。

 

  八意永琳。

 

  博麗霊夢、霧雨魔理沙。

 

  足利梓、唐橋櫟、坊門菖。

 

  必要な役者は揃った。長机を挟み顔を突き合わせる人妖神魔。残照が彼らを血に塗れているかのように朱色に染める。それが自らの血か返り血か。それを決める最初で最後の話し合いが静かに幕を開ける。その合図は紫が扇子を閉じる音だ。

 

「さあ始めましょうか。幻想郷の命運を決める話し合いを」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  話し合いは想像以上に長引いた。給仕係に徹している藍が一人につき何度茶のお代わりを淹れたかも分からない。声を荒げこそしないものの、静かに淡々とあらゆる方向から言葉が飛ぶ。口から零す言葉以上に、その裏に潜む影を読むのに苦労する。運命を覗くように未来を零す者。死の気配を零す者。力を謳う者。心を覗く者。ただ黙り話を聞く者。神命、天狗の礫、巫女のため息。あらゆる声音をその身に落とし櫟は細く息を吐いた。

 

  話が長引いている一番の要因は簡単だ。誰が舵を切るか。

 

  “栄誉ある” とでも頭に付ければ多少は聞こえ良くなるが、戦力差、能力差、技術格差などを考えれば勝率は高くなく、誰が黄泉比良坂の先陣を切る地獄への道先案内人になるのか決めかねていた。

 

  これに率先して手を挙げたのが、レミリア=スカーレット、天魔、豊聡耳神子の三名。レミリアは第二次月面戦争の際にいち早くパチュリーにロケットを作らせ月に乗り込んだ。天魔は幻想郷で最も多くの兵士を持っている。豊聡耳神子は誰かを率いることにおいては三人の中では一番であろう。三者三様の選ぶに足る理由はあったが、周りの反応は良くはない。

 

  幽々子は微笑みながら茶を啜り、紫は扇で口元を隠す。白蓮は正座し目を閉ざしたまま微動だにせず、この戦いに参加しない神と月の頭脳は退屈そうに話を聞くだけ。さとりは第三の目で周りを見回し、大きくため息を吐いた。

 

「話が進みませんね。ここにいる多くの者が負ける気はないとして、総大将となり勝てば功績も大きい。それを牽制しあってただ時間を潰しては軍議の意味もないでしょう。なんなら私が進行役になってもいいですけど」

「馬鹿を言えよ地底の主。引きこもりを総大将にしてみんなで冬眠でもするの? 蒸し焼きにされて終わる未来しか見えないわね」

 

  鼻を鳴らしさとりの話をレミリアは流す。反対意見は出ることもなく、それが分かっていたと言うようにさとりは視線を横へと外し肩を竦めた。「私こそが相応しい」と胸の前で手を組み得意げに笑うレミリアを見て呆れるのは天魔。

 

「月に行ったからなんだと言うのか。なあ吸血鬼、今回は月に行くのではなく月から来るんだよ。なら自ずと誰が上に立つのかは分かるはずだろう?」

「同意見ですね。ただ、山の信仰を別の者に譲った者が一番上はないと思いますけど」

「宗教家がトップこそないわよ、十字軍の遠征でもあるまいし、神のために戦うのではなく神と戦うんだから」

 

  天魔を神子が咎め、神子を吸血鬼が咎める。不毛なイタチごっこに終わりはなく、巫女と魔法使いはつまらなそうに欠伸をした。我こそはと手を挙げた六つの瞳が火花を上げる中、幽々子は柔らかく微笑んで、注目を集めるために長机の上に強めに湯呑みを置く。

 

「ほんと終わりが見えないわね。幻想郷の者たちの中で大将を決めるから悪いのよ。こうなることは始める前から分かっていたことだもの。なら誰を大将に置けばいいかは決まっているようなものだわ」

 

  そう幽々子が言えば、視線の集まる先は三箇所。一つは幻想郷の調停役である博麗の巫女。もう一つは幻想郷の賢者であるスキマ妖怪。そして最後は平城十傑。強者たちの視線を霊夢は頬杖を突いて流し、紫は動かず、櫟は微笑を崩さない。

 

「なに見てるのよ。私はパスよ、あんたらの大将なんて。だいたい総大将なんてやったことないし、キャラじゃないわ」

 

  霊夢の吐き捨てた言葉に、魔理沙は笑った。言葉を吐かずとも笑い声が賛同の証。霊夢の役割は特別高等警察のようなもので、最低限の規律を守らせる事に向いてはいるが、誰かを率いる事には向いているとは言えない。普段の霊夢の行いを見ていればそれを理解するのは容易く、特に何も言うことなく誰もが目をスキマ妖怪へと見送った。

 

「やれと言われれば勿論やりますけれど、不服な者は多いでしょうね」

「実績がないからよ」

 

  誰が何か言う前に幽々子が口を挟み笑った。その笑顔に唇を尖らせながら紫は扇を音を立てて閉じる。紫の力量を疑う者はいない。だが、第一次に完敗し、第二次も武力で終ぞ勝っていない。その紫に三回目を任せるかと問われれば、手をこ招くのも理解できる。最後に回ってきた視線を受け、梓は腕を組み、櫟は「私たちこそ実績がありません」と、視線に返す。「でもそれは千三百年前のことでしょう?」と紫が助け舟を出してくれるが、「それは紫さんにも言えますね」と流れてきた舟を櫟は見送った。

 

「元々、月夜見が来ると私たちより早くに外の世界で準備していたのは彼ら。そして神と戦うための策ももう打っている。そのまま大将になっても構わないと思うけれど」

「幻想郷の賢者が後ろ盾か? それともその方が自由に動けるからか。なんにせよ、千三百年前、勝負にすらならなかった者を大将にするとは正気を疑う」

 

  紫の言葉をレミリアが制するが、そんな吸血鬼を百鬼夜行の主が笑う。

 

「それこそおかしいだろう? こいつらは千三百年前の奴らじゃないんだ。長く生きるあたしたちとは違うさ。それはここにいる全員が感じてることだと思うけど」

「鬼が人の肩を持つんですか?」

「こいつらのことは気に入ってるんだ」

 

  覚妖怪の瞳に返される笑顔が三つ。升と盃に瓢箪の酒を萃香は注ぎ、自分はそのまま口へ瓢箪を傾ける。軍議中に酒盛りを始めた鬼に呆れながら、流れてきた酒気を手で払い白蓮は閉じていた瞼を開けた。

 

「誰が上に立つかなどどうでもいいことです。私が気になるのは戦わぬ者はどうするのか、ということですよ。人里の者たちや妖精、弱い妖怪たちをどうする気ですか」

「それは私も聞きたい。人里は今不安に包まれている。人里は他の場所と違い率いる者が居ないからな。幻想郷が動いた時どうなるか知りたいのだ」

 

  白蓮に慧音が続く。「後で話そうと思っていたけど」と紫は櫟に目を送り、小さく櫟は頷いた。

 

「慧音さんと言いましたね? 貴女の能力で隠して頂きます」

「私の? いや、だが」

 

  慧音の寄せられた眉に櫟は変わらず微笑んだ。慧音の歴史を食べる程度の能力を使えば、無かった事にして存在を隠すことができるが、実体験として知っている長命の者には効果がない。そんなことはもう聞いていると、櫟は紫の方へ閉じた視線を送る。

 

「紫さんの能力と合わせるのです。歴史という無限にある分岐点の境界に幻想郷の全てを隠します」

「幻想郷の全て?」

「人里、紅魔館、妖怪の山、白玉楼、永遠亭、地底、命蓮寺、博麗神社、戦えぬ者、全てを。残された広大な森と山と岩と川が戦場です。月の都と違い、命溢れる森の中ならこちらの方が上手でしょう」

 

  慧音の問いへの答えに声は返されず、そのまま櫟は言葉を続けた。

 

「そして隠した幻想郷の都の防衛には、八坂神奈子様に洩矢諏訪子様、八意永琳さんと先代の博麗の巫女さんにお願いします」

「神の力は借りないんじゃなかったのか?」

「そこまで攻められた時は私たちはもういないでしょうから保険というやつですよ」

 

  魔理沙の疑問に死んでるからね、とさらりと言って櫟は笑う。あまりに迷いがなかったおかげで問うた魔理沙の方が苦笑した。

 

「ただ負けずとも慧音さんと紫さんのどちらかがやられた場合その魔法は解けてしまうでしょうから、お二人をしっかり守らねばなりませんけれど」

「博麗大結界はどうするのよ、そのままなんでしょ?」

 

  珍しく博麗の巫女らしいことを言う霊夢に何人か驚いたが、櫟は変わらず言葉を返した。

 

「勿論そのままです。それに多少強度を落として」

「はあ? 強度を落とすって、壊れたらどうするのよ」

「困りますね。でもそれは月の者も。幻想郷の結界が壊れれば幻想郷を手に入れる意味がなくなりますからね。これで敵は威力があるだろう広域殲滅兵器は使えない。残された方法は森の中に潜む我々を力で潰すことです。これで少なくとも戦いにはなる」

 

  櫟はそこで言葉を切り、紫と永琳に向けて小さく頷く。それに二つの頷きが返され、ホッと櫟は気づかれないくらい僅かに息を吐く。勝利のために幻想郷の結界を人質に取る了承と、千三百年前の二の舞にならない確認。千三百年前の平城京の敗北は、八意永琳が敵だったことが最大の原因だ。永琳印の眠り香に人間たちは手も足も出なかった。それがなく頭が働き手足が動かせればまだどうにかなる。

 

  反対の意見が上がらずに、唸る者たちを紫は眺め、閉じた扇子を手に落とし視線を集めた。全員の目が集まるのを確認してから紫は少し目を伏せる。

 

「櫟の策には一定の価値がある。他の手があるなら別だけど、この通り使える策を持ってきたのは彼らよ」

「紫は彼らを大将にする気なのね」

「千三百年。これほど長く対月軍を想定し技を研いできた者たちは幻想郷の中にはいない。その狂気に賭けるのが一番勝率が高いと思うが故よ。それに幽々子の言う通り、幻想郷の者を誰か下手に大将にすればその後遺恨が残る可能性が高い。そういう意味では平等でしょう?」

 

  勝てればの話ではあるが、と誰もそれは口にはしなかった。ここまで来れば、勝てると信じるしかない。ある種の冗談に多くの含み笑いが起こり、そうと決まれば、戦いに最も通じていると言える戦神の目が櫟を射抜いた。

 

「それで? どうする気なんだ平城十傑。どこまで考えている」

 

  敵の動きを。月夜見をよく知る加奈子と永琳。二つの目が櫟に集まり、櫟はスッと背筋を伸ばす。

 

「この戦い、こちらに神がつかないということは既に月夜見も天照大神から聞いていることでしょう。そうなれば、彼らから見れば残りの我らは下等種族。プライドの高い月の民のこと、下手な策は弄さずとも力で潰しに来るでしょう。ただそんな中で厄介なものが一つ」

 

  櫟の話に紫は一度軽く手を振った。開くスキマから落ちてくるのは黒い四つの六角杭。長机の中央に転がった四つの杭はどれも少しヒビが入ったもので、そんな壊れかけた楔にいくつもの首が傾げられた。

 

「それは時間固定結界装置と言いまして、時の流れを固定してしまう代物です。その結界の中では誰にも平等に時が流れる。能力として時を止めたり、加速させることはできない」

「咲夜の天敵みたいなやつね」

「かぐや姫にとってもですよ」

 

  月人が警戒するのは月人。永遠を操る姫の能力を必ず月軍は警戒する。紅魔のメイドと月の姫を使い物にならなくさせるこの装置を、相手が使わないわけがない。

 

「ですが河童さんと吸血鬼の妹さんのおかげで壊し方は分かりました。この杭の上部に破壊の目を集める装置が付いています。この装置は四つで一つ。その破壊の目を集めている四つの箱を壊せれば結界も壊れる」

 

  そしてそこに勝機がある。永遠を手に動ければ、輝夜一人でほとんどの敵は問題にならない。だがこの装置こそが、大きな問題なのだ。壊すべき箱が四つ。そして敵の大将も四人。依姫、豊姫、天探女、嫦娥。必ずこの四人が箱を持つ。安心して持たせられる者は他にはいない。そう言い切った櫟に、そう信じ切っていると心を覗いたさとりが眉を顰めた。

 

「月夜見が全て持つということはないんですか? なぜその四人と?」

「誰が相手だろうと月夜見だけは負けない自信があるでしょうから。どんな装置や武器を使わずとも、月夜見はその身一つで誰を相手にしても負けないだろう能力を有している」

 

  月夜見の能力。その言葉に全員の意識が集まった。加奈子は腕を組み細く長く息を吐き、永琳は茶を喉へと流し込むことで口を挟むことを止める。

 

「『万象を反射する程度の能力』」

 

  拳も刃も矢も火も雷も、月夜見には何も届かない。永遠に殴り続けようと、殴った方の手がおかしくなるだけだ。いくつかの生唾を飲み込む音を聞きながら、櫟は乾いた唇を舐めた。

 

「そんなわけで月夜見以外は結界さえ解ければかぐや姫一人で最悪どうとでもなります」

「いや、一番の問題が残ったままじゃない。月夜見はどうするのよ」

「どうしましょうね?」

 

  もう開き直ってそう言うしかない。櫟も月夜見の能力を聞いてからどうしようかと考えを巡らせ続けているが、これだけは名案も妙案も全く出なかった。笑う櫟に誰もが呆れてしまうが、それは誰もが同じ。月夜見とどう戦うか。誰も案は浮かばない。鈴仙が永琳でも首を横に振るうといった理由はここにある。少しの間沈黙が流れ、重くなった空気を変えようと、「そもそも」と霊夢が口を開いた。

 

「輝夜はここにいないけど、あいつは戦う気あるの? 永琳が参加しないとは聞いてるけど」

 

  月の頭脳に博麗の巫女のやる気なさげな目が送られた。その目に永琳は目を返さず、瞳を閉じて顔を背けた。

 

「姫様は……どうかしらね。今の姫様の心は私にも読めない」

「ちょっと、そこからなわけ? 結界装置がどうのこうの以前の話じゃない」

「だが、彼女が大将だ」

「はあ?」

 

  誰が声を上げたのか。全員かもしれないし、そうでないかもしれない。これまで口を挟まず腕を組み黙っていた梓が零した一言によって、梓に視線が集中する。多くの視線が突き刺さっても変わらず、梓は、「総大将はかぐや姫様だ」と言い淀むことなく再度言い放つ。

 

「梓が平城十傑の大将なんだからお前さんが大将じゃないのかい? かぐや姫が大将?」

「そうだ勇儀。我らはかぐや姫様を追って来た。我らに大将を任せてもいいと言ってくれるなら、その御旗はかぐや姫様以外にありえない」

「……やる気があるのかどうかも分からないやつを大将にする意味が分からないんだけど。勝つ気ないの?」

 

  これにはこれまで静観していた諏訪子も呆れてしまう。が、そんな神の唖然とした顔を向けられても、梓の答えは変わらず。「やる気は今に分かるだろう」と、身動ぎ一つせずに言い切ってしまう。

 

「今にって、そんな時間あるのかしら? やる気が出るまで百年かかるなんて言われても向こうが待つとは思えないわ。敵がいつ来るかそれとも分かっているの?」

 

  本を閉じ、顔を上げたパチュリーの目が梓を見た。梓は口を開かず、代わりに口を開くのは櫟。「それは……」と、櫟は言葉を続けようとしたが、それに待ったがかかる。扇子で手を打ち、紫は鋭い声で櫟の名を呼ぶ。それにいの一番に答えるのは菖。西洋剣の鍔がかち合う音が座敷に響く。

 

「申し訳ありません、皆さん。少し行くところができました。軍議はこれまで、総大将を迎えに行きます。菖ちゃん」

「ちゃんはよせ。いつでもいい。この時をずっと待っていた。いや、また待つことになるやもしれんがな」

「大丈夫だろう。きっと、我らが賭けてきたものにはそれだけの価値があったと信じよう」

 

  周りの目も気にせず梓、菖、櫟の三人が立ち上がったと同時に紫が手を振りスキマに落ちた。それを見送る幻想郷の瞳をスキマは吸い込み続け一向に閉じる気配はない。紫はスキマから聞こえてくる十の声を聞きながら背後の障子を少し開け、夜空に輝く月を睨む。ただし口元を緩ませて。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍対幻想戦前軍議

  月の重力は地上の六分の一と言われているが、それでもなお重い体に、少女は重苦しい息を吐く。目の前で真っ白く細長い指が滑らかに動くのを目に留めて、少女は口を怪しく引き結んだ。

 

  稚児髷と呼ばれるような、頭上に黒髪で結った輪を二つ揺らしながら少女、嫦娥は月の都の大広間、その円卓の前に並んだ者たちを見る。

 

  嫦娥の正面。椅子に座るは、薄紫色の長い髪を頭の後ろで黄色いリボンを使い纏めた武人然とした少女。

 

  綿月依姫(わたつきのよりひめ)

 

  月の使者のリーダーの一人。第一次、第二次月面戦争の際に乗り込んできた人妖のことごとくをこてんぱんにあしらった月の武の筆頭。体術、剣技もさることながら、あらゆる神をその身に降ろすことができる。天照から名もなき道祖神まで。その能力は無限と言えるが、今回に限って言えばそうではない。天照が参戦しないことを表明したため、依姫に残されたのは、祇園様の刀とその武力。そのためかどこか不機嫌な様子で、ムッとした表情を浮かべている。

 

  その依姫の隣にいるのは、長い金髪と瞳を持った少女。普段被っている帽子は目の前の大きな円卓の上に綺麗に置かれていた。

 

  綿月豊姫(わたつきのとよひめ)

 

  同じく月の使者のリーダーの一人。月と地上という遠い距離をものともしない規格外の転移者(テレポーター)。地上侵攻の要とも言える人物。その能力と併用し、最も恐ろしいのは、今も豊姫が手で弄っている一つの扇子。一度煽げば、森を素粒子レベルで浄化する風を起こすことができる月の最新兵器。浄化とは穢れを。穢れとは生命。生きている者を例外なく塵と化す滅びの風。普段暇しているからか、今回はそれなりに乗り気のようで少々頬が緩んでいる。そんな姉の様子に妹は少々呆れ気味だが、地上の者からすれば堪ったものではない。

 

  そして嫦娥の右に座るのは舌禍をもたらす女神。片翼を綺麗に折り畳み、目を閉じ静かに座っている。

 

  稀神(きしん)サグメ。

 

  月の賢者が一人。前回の月での神霊騒動の功績として、月の神の勅命とも言える今回の戦の将として選ばれた。永琳からも“聡い”と言われるだけの頭のキレと、望外の能力を有している。『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』、良いこと悪いこと関係なく、ある事象に対してサグメが口を出せば、流れが逆転してしまう人型ポロロッカ。一種の運命兵器とも言える彼女は、当然口を開くことなくただ席に座し、手慣れた様子で口を片手で隠している。

 

  そして残る最後の一人へと嫦娥は目を向けようとしたが、「久々の人の姿はどう嫦娥」と、豊姫に言葉を投げかけられ、顔の動きは途中で止まる。そんな嫦娥の様子を楽しそうに豊姫は眺めた。

 

  嫦娥(じょうが)

 

  玉兎たちの支配者。神霊騒動の原因とも言える罪人。強大な能力を有しているが、蓬莱の薬を飲んだ罪によって蝦蟇へと姿を変えられていた。が、今は人の姿。全体的に白っぽい袍服に身を包み、闇のような黒髪を稚児髷として頭の上で二つの輪として纏め、残りを背へと流している。頭上の輪を二つうさぎの耳のように揺らし、嫦娥は豊姫の言葉に眠たげな目を歪ませた。

 

「蝦蟇のままじゃ、兎たちの前に出た途端(きね)でタコ殴りでしょうしね。それじゃあ恰好もつかないわね」

「よく喋るじゃないの豊姫。私と話せてそんなに嬉しいわけ? それとも構って欲しいのかしら? 普段暇してるものねぇ、羨ましいわほんっとう」

「罪人風情が姉様を愚弄するか」

「罪人? それって八意永琳と蓬莱山輝夜のこと?」

 

  にやける嫦娥に牙を剥き依姫は立ち上がろうとしたが、豊姫に閉じた扇子でパシリと肩を叩かれ諌められ、渋々浮かせていた腰を落とした。とはいえ、豊姫も尊敬する師を愚弄され平静でいられるはずもなく、浮かべた笑顔に影が帯びる。

 

「馬鹿なこと言わないで頂ける? 電波女」

「あらまあ、私の機嫌損ねていいの? 誰が玉兎を動かすと思ってるのよ」

 

  嫦娥が手を掲げれば、指先にバチリッ、と紫電が舞った。それに合わせて壁際に控えていた玉兎の一人が銃を構える。瞳は大きく泳ぎ、体は震え、冷や汗を流し、何かの意思に抵抗しようと抗っているがその動きは止まらない。引き金を引こうと動く玉兎の指に合わせて、石の床から伸びた刃が銃を貫いた。地に祇園の剣を突き刺したまま、依姫がより深く剣を押し込めば、嫦娥の周りに白刃が伸びる。背後でヘタリ込む玉兎の気配に嫦娥はつまらなそうに呆れながら、目の前の白刃を指でなぞった。

 

「怖いわぁ、私が死んだらどうするのよ。()()()()()()()()依姫」

 

  僅かに剣を引き抜いていく自分の腕を依姫は強く睨みつけ、振り払うように思い切り剣を突き下げた。首元の薄皮一枚残して伸びた刃に嫦娥は冷や汗を流しながら笑う。怒りの色を顔に貼り付けている依姫と嫦娥の顔を見比べて、呆れたようにサグメは肩を竦めると笑う嫦娥へと目を流した。

 

「貴方は死なないでしょうに、悪い冗談ね」

「ちょ、サグメ貴女‼︎」

「……そうでは無い。口が滑ったというやつよ」

 

  意図的に死を願ってないとサグメは言うが、それこそ悪い冗談である。舌禍の冗談に豊姫は笑い、依姫も肩の力が抜けた。少し緩んだ空気の中、四人とは毛色の違う笑い声が流れ空気が引き絞られる。へたり込んでいた玉兎も、ここで座ったままだと死ぬと本能で察知し、力の入らぬ足に火事場の馬鹿力を総動員して立ち上がった。

 

  依姫は背を正し、豊姫の微笑みの中に緊張が見え、サグメは口を閉じ、嫦娥は笑みを消した。

 

  円卓を囲む五つの影。その内の一つは四つの影より影は濃く見え、ただ周りの空気は薄く輝いて見えた。誰が周りにいても、ただ一人その者がいるだけで場はその者のものになる。夜空に無数に浮かぶ星々よりもなおも目を惹く月のように。ただ優しく輝きそこにいる。太陽と同じだが同じではない。どれだけ近づいても身を焼かれることはない。だが、それこそ魔性。一度目にすれば脳裏から離れない。

 

  月明かりを流したような透き通った白い髪。白い上衣の下に黒い服を着込み、薄手のスカートを履いている。ゆったりと椅子に座す姿は自然体で、笑い声は鈴虫のよう。中性的な月の神の優美な姿に、玉兎たちは息を飲み、呼吸さえ忘れてただ突っ立つ。一頻り月の神は笑い終えると、楽にしろよと緩く手を振った。

 

「そう殺気立つなお前たち。嫦娥も久々の人型で舞い上がっているだけだ。なあ?」

「ええそうですわ月夜見様。できればずっとこの姿でいたいものです」

「それはお前の働き次第だ。そうだろう?」

 

  今は戦前、能力を加味し温情で人の姿に戻っているだけ。笑顔のまま嫦娥は固まり、月夜見はそのまま視線を切る。

 

「永琳のことは残念だが、あやつは今地上だ。敵になる可能性もないわけではない。それは理解しているな?」

 

  依姫と豊姫、サグメの頭が軽く下げられ、月夜見も小さく頷いた。その様子に満足し、「首尾は?」と月夜見が聞けば顔を上げた依姫が口を開く。

 

「逃亡していた罪人は全て捕らえ処刑しました。これで月を離れても仔細ありません。どこぞの蝦蟇がもっと早く動いていればもっと早く終わるはずでしたが」

 

  蝦蟇の時は喋れないから無理だと言わんばかりに、「ゲコゲコ」口遊む嫦娥を見て依姫は青筋を立てるが、月夜見の前ということもあり、再度刃を抜く事は控え、ただ手を握り締める。それに加え、失態を思えば、更に手に力が入るというものだ。

 

「まさか人間一人に月に侵入され、かつ監獄に侵入されるとは。迷いなく進み、月の罪人たちが立ちはだかったお陰で取り逃がしてしまい申し訳ありません」

 

  これまでにない失態だ。神霊の騒動もひと段落し、気の抜けたところで起こった失態。人一人と侮った。前回神霊、純狐の辿った道筋が閉じぬままその道を辿られ、一直線に監獄を目指された。更に月人の抵抗と。どこで情報が漏れたのか、考えれば、依姫が思いつく原因は一つしかない。

 

「恐らく前回人妖が攻めて来た際、月の都を好き勝手に歩いてくれた亡霊、あれに月の都の詳細を取られたのでしょうが」

「それだけではないでしょう。だいぶ前に表の月に来た人間。やたら歩き回っていたと報告にありましたが、その時に漠然とした情報を抜き取られていたかと」

 

  依姫の言葉にサグメが付け足す。五十年程前に何度か月に来た外来の者。ただ月の大地に立ち喜んでいた者と違い、喜びはなく確かめるようにウロウロと月面を歩いていた者がいたという報告があったのをサグメは思い出していた。そしてそれはサグメが打った手と似たようなもの。神霊に攻められたという大義名分の元に軽く幻想郷に手を出し、今回のために情報を抜き取る。お陰で幻想郷の重要施設の場所は既に手の内。地上の者もなかなかに馬鹿にはできないと考えるサグメの顔を見ながら、月夜見は薄く笑った。

 

「どこで話が漏れたのか分からないが、少しくらい手強くなければ、張り合いもないだろう。少しくらいはあちらに華を持たせてやってもいいさ。それで、どう攻めるつもりだ豊姫」

「天照大神様がどちらにも手を貸されないという事で、こちらの戦力も幾分か落ちますがそれは地上の者も同じ。気にしなくても良いでしょう。広域殲滅兵器の使用を考えていますが、いかが致します?」

 

  使えと言われれば、即座に豊姫の能力で穢れを祓う爆弾を雨のように振らせてお終いだ。拳を合わせることもなく、月の民にとってはただ静かに戦いは終わる。豊姫の問いにしばし月夜見は考え、「それもいいが」と口にした後依姫に目を向けた。

 

「依姫、お前の意見はどうだ? この中で純粋な武人はお前だけだ。お前の意見を聞きたい」

 

  そう言われて依姫は考える。そして軽く右肩を摩った。菖が侵入して来た際、侵入者の目前まで依姫は迫った。多くの月人たちが立ちはだかったが故に取り逃がしたが、その際に地上の民から受けた一太刀。掠っただけであったが、その鋭さは偽物ではなかった。それを兵器で吹き飛ばすのかと問われれば、迷いがある。目の泳いだ依姫を見て月夜見は微笑んだ。

 

「技を競いたいのか依姫」

「……できれば」

「それもいいだろう。この戦いは要は狩だ。だがそれならアレを使うのがいいだろうな。何度でもというのは無粋だろうし」

 

  アレとは時間固定結界装置。誰もがそれを察し、中でも嫦娥が苦い顔をする。時間の固定された中では蓬莱の薬の効果が意味をなさない。「負けると思っているの?」と言いたげな豊姫の目を嫦娥は受けて、鼻を鳴らしそっぽを向く。

 

「そう気負うな。ここにいる者たち誰もが神としての側面を持っている。死んだところで蘇るのだし、遊びだとでも思えばいい」

 

  不遜な月夜見の発言は、間違ったものではない。負ける可能性など僅かもない。たとえ誰が相手でも、永琳さえ敵であろうと月夜見に負けはないのだ。月夜見に勝てるのは天照だけ。ゆったり椅子に座す月夜見の姿は揺らがない。四つの月人の顔を視界に収め、月夜見はホッと息を吐いた。

 

「あの結界装置の核はお前たち四人で持てばいい。気付かれれば向こうの方から寄って来てくれるだろうし、私も安心で一石二鳥だ」

 

  言葉の裏を読みサグメは少しだけ眉を寄せた。やるからには手柄を立てろということ。依姫などは口元を緩ませるが、サグメからすれば悩みの種だ。なぜなら、敵の総戦力が分からない。どちらかと言えば豊姫の案に乗り、爆弾で一切合切を吹き飛ばし終わりにしたいところであるが、それをサグメが口にすれば何が逆転するか分からない。故に閉口。逆に嫦娥は口を尖らせ、疲れたように椅子に深く沈み込んだ。

 

「兵で攻めるって事は私の出番てわけね。疲れるなぁ。幻想郷なんて行ったことないし、どう攻めるか決めてるの依姫」

「敵の大将は恐らく八雲紫だろう。吸血鬼、亡霊等いるが差して問題ではないでしょうから、重要拠点を囲って叩けば済む筈よ」

「スキマ妖怪の能力は私が抑えるわ。向こうも同じことをしてくるとは思うけど、問題はスキマ妖怪ではなく我らが師よ」

 

  八意永琳。その名に豊姫は依姫と二人唸った。罪人として流刑扱いされてはいるが、月の頭脳と呼ばれ月の使者の元リーダー。蓬莱の薬の開発者。永琳一人で戦局がひっくり返ることもないわけではない。豊姫と依姫よりも永琳と付き合いの長い月夜見がそれを分かっていないはずもなく、同じように少しの間顔をうつむかせたが、すぐに顔を上げた。

 

「今更永琳が敵になったからと言って止めるわけにもいかないのだ」

 

  長らく手をこ招いてきた。日に日に輝きの弱まる太陽の光と、人口の明かりの強まる青い星を月からただ眺める毎日。文明に沈む地上の民を嘲笑うことは簡単だ。だが、陽の光を敬うことを辞め、人口の明かりを敬う姿など見るに耐えない。技術を称え神を嘲る。神など幻だとそこに居るのに見もしない。そんな痴呆者たちを放っておくのにも飽いた。誰のおかげで今があるのか。それを思い出させなければならない。

 

  想いこそが神の力。普段祈らず、必要になった時だけ漠然と捧げられる祈りになんの意味がある? 空っぽの想いなどなにも生まない。その空っぽを今一度満たそう。畏れと敬意で満たすのだ。いつも照らしてくれている太陽への感謝と恐怖。青い星が自ら光らず陽の光で青く光るのを今一度見るために。そのための一歩をついに踏む。幻想郷など最初に足を落とした先にある石ころに過ぎない。それをせいぜい高く蹴飛ばすために。

 

  その一歩を踏む一抹の不安が八意永琳。小石を踏んで足を挫くかもしれない。月夜見のことも依姫のことも豊姫のこともよく知る相手。そんな永琳がどう動くか。そんな不安を豊姫が手に持った扇子でポンと叩く。

 

「月夜見様、一応私の方で八意様への手は打っております」

「ほう、手が早いな豊姫」

「暇だったからでしょ」

 

  嫦娥の軽口を澄ました顔で流し、豊姫は月夜見へと顔を向けた。一々子供っぽい罪人の相手などしているだけ時間の無駄だ。

 

「蓬莱山輝夜の元に使者を送りました。今なら罪を流し月に戻っても良いと」

「蓬莱山輝夜ぁ? なんでよ」

「世間知らずさんは黙っててくれる?」

 

  牢獄で何百何千年も蝦蟇として鳴いていた者など知らないと豊姫は軽く手を振り、嫦娥を遇らう。

 

  永琳がその昔、他の月の使者と共に輝夜を迎えに行った際裏切ったのは輝夜が月に帰るのを拒んだため。であればこそ、輝夜さえ月に戻ってくれば永琳が地上に残る理由がなくなる。永琳を説得したところで得られる結果は分かっている。だからこそ、たった一つの最も深い外堀を埋めれば、それだけで月へと通ずる道となる。最短で最高の一手。それが成功すればそれで済む。

 

  使者を送ってもう数時間。そろそろ返事があってもよいはずだと軍議が始まってから、気にしていた豊姫だったが、頭の中で呼び声が掛かり小さく口角を上げた。

 

「丁度良かった。軍議中に来るか不安でしたが、返事が来ました」

「へぇ、なんて」

「さっきから煩いですね嫦娥、それは直接聞けばよろしい」

 

  また一つ扇子を手の中に豊姫が落とせば、円卓から少し離れた空間に玉兎が一匹放り出される。水色のショートヘアーに、垂れた兎の耳が特徴的な玉兎は、急な視界の転換に目を白黒させて辺りを見回した。「レイセン」と呆れたように豊姫に名を呼ばれ肩を跳ねさせると、月夜見、豊姫、依姫、サグメ、嫦娥という月の重鎮たちに気付き慌てて立ち上がり敬礼を捧げる。

 

  あわあわと口を動かし言葉にならない声を上げるレイセンからはなんの返事も聞く事はできず、軽く舌を打ちながら嫦娥が腕を振ると、縮こまっていたレイセンの震えがピタリと止まった。それでも月の神の視線に思い切り背筋を伸ばし、小さな玉兎は荒く呼吸を繰り返す。

 

「さて、どうだったかしらレイセン。口を開いてくれなければ分からないわ」

「あ、あの、そのですね、えぇと」

 

  豊姫の優しい言葉を受けてもレイセンの緊張は和らがず、言葉はただたどしい。全員の呆れたような目にこれはマズイとレイセンは覚悟を決めて大きく息を吸い込んだ。

 

「輝夜様はお断りになられました」

「……そう」

「ダメじゃない」

 

  レイセンの様子で豊姫も依姫も察してはいたが、言葉で聞けばまた違う。鼻を鳴らす嫦娥を睨みつけながら依姫は腕を組み瞼を閉じ、豊姫も小さく肩を落とす。そんな主人たちの様子にレイセンは慌て言葉を続ける。

 

「あの、ただ八意様は参戦しないと」

「は?」

 

  呆けた綿月姉妹の声が重なった。八意永琳が参戦しない。その意味を図りかね、ついつい声に出てしまう。「そう地上の者が決めたと言っておりました」と続く言葉に、本格的に意味が分からないと、依姫は顳顬を抑え、豊姫は笑顔のまま固まり、サグメは思考を巡らす。自ら強いカードを捨てることになんの意味があるのか。神にも永琳にも頼らない。「思い上がりか」と小さく呟いた月夜見の言葉の鋭さにレイセンは呼吸を殺し、弱々しく服の内ポケットから綺麗に三つ折りされた紙を取り出す。

 

「あのですね、地上の者から親書だと」

 

  そうレイセンが言い差し出した手紙を依姫が受け取り机の上に広げる。書かれていたのはたったの一行。その短い文に込められた想いに、五つの顔が激しく歪んだ。立ち上る怒気を見てレイセンの耳がより垂れる。

 

「……それが意志だと、平城十傑なる者たちが申しておりました。それに、敵の総大将は蓬莱山輝夜様です」

「平城十傑? 誰よそれ」

「千三百年前、八意様たちが輝夜様を迎えに行った際にかぐや姫を守るために集った十の一族という事です」

 

  嫦娥の問いへのレイセンの答えに、声にならず嫦娥は間抜けに口を開けた。総大将が輝夜というだけでもおかしな話であるが、そんなことも後半の言葉で吹き飛んでしまう。依姫も目を見開き、豊姫も呆れたように首を傾げる。笑ったような怒ったような表情を嫦娥は浮かべ、サグメはただ黙り目を閉じた。ただ一人、月夜見だけが静かに笑い、その声は次第に大きくなると広間の中に木霊する。

 

「くっはっは! かつて惨敗した人と妖、罪人だけで我らに挑むか! その心意気やよし! ……だが愚かだ」

 

  カチリッ、と歯をカチ鳴らし月夜見は笑みを消し口を閉じた。その透明な瞳の中に灯った火の明かりに、レイセンは呼吸を止め足が崩れる。席を立った月夜見は周りの目も気にすることなく足音を立て窓辺に寄ると、人工光に包まれた青い星と、その先に輝く太陽を見つめた。

 

「人の強さを知りなさい」

 

  かつて天照が言った言葉が思い出される。だが、人の強さが何だというのか。恩を忘れ、ただ青い星に蠢く寄生虫のような連中の強さなど知らない。輝く太陽を瞳に写し、ゆっくりと月夜見は口を開いた。

 

「……明日の夜は十五夜か、縁起のいいことだ。豊姫、依姫、サグメ、嫦娥。最後の準備を始めろ。明日の夜、幻想郷を獲る」

 

  四つの気配が同時に席を立ち離れていった。もう後戻りは許されない。ノアの大洪水のように、神の怒りが地上に落ちる。方舟のように箱庭は浮くのか。浮いたところで沈めればいいと月の神は薄く笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千三百年前からの『』

  肩に掛かった髪を指で掬い背へと流し、永遠亭の縁に座し退屈そうに足を揺らす。日増しに寒くなる秋の夜の空気に腕を擦り、輝夜は空に浮かぶ月を見上げた。鈴虫の羽音に耳を向け、冬に向けて静かに、だが活発に動く生命の音に肌を這わせた。

 

「……暇ね」

 

  昼間焼き鳥屋台に行っても楠も妹紅も居らず、永遠亭にいれば話し相手になる櫟も今日は居ない。永琳も上の空の時が多く、幻想郷の者たちが忙しなく動いている中、輝夜の周りはとても静かだ。自分だけ取り残されているような異物感。霊夢たちがやって来る前、ただ竹林の中で流されていた時と同じ。月にいた時と同じ。既知に塗れた代わり映えのない日常。

 

  平城十傑が来てから、遊び相手が増えたおかげでここ数日はそれも変わった。屋台に行けば同じく永遠を生きる店主と、人相の悪い店員がなんだかんだと相手をしてくれる。傅くわけでもなく、仲間というわけでもない。殴ってくるような野蛮な者たちであるが、その対等性を悪いとは思わない。

 

  月にいた時も多くの者が頭を垂れ、平城京にいた時も蝶よ花よと愛でられるだけ。育ててくれた竹取の翁や婆様の愛とは違う、下心の透けて見える想い。それを持つ者の多いことよ。逆に自分のためにと、好き勝手やる者の多い幻想郷は、それこそ口には出さないが輝夜は気に入っていた。

 

  その幻想郷に危機が迫っている。月から使者がやって来る。千三百年前、輝夜を迎えに来た時と違い、幻想郷を狙って。そう梓に聞いてから、輝夜が思い出すのは、やはり千三百年前のことだ。

 

  月の使者を迎え撃とうと、慌ただしく周りが動く。輝夜はただ座すがまま、勝てないだろうことを輝夜だけが確信する中、周りの者は『勝つ』と声高に謳う。なんという喜劇。滑稽に過ぎる。だが、その無鉄砲さに、僅かばかり期待し、縋りたくなってしまった。結果は変わらず思い描いたままであっても。

 

  ホッ、と吐いた息が薄く白むのを見て、輝夜は月から目を離す。綺麗ではある。綺麗ではあるがそれだけだ。鏡に映る自分を見ているようで面白くない。

 

「……私も行けば良かったかな」

 

  対月軍議。幻想郷の総意を決するこの会議には、誰もが認める幻想郷の有力者たちが顔を突き合わせるために集まっている。永琳や櫟が永遠亭に帰って来ていないあたり、まだ会議が続いていることは明らかであり、輝夜はただただ待ち惚けだ。

 

  だが、永琳についていったところで、なんの力にもなれないことは輝夜も分かっている。なにより最近の永琳の様子では近くに輝夜が居ても気にして邪魔になるだけだ。それに月のことを聞かれたところで輝夜より永琳の方が詳しい。

 

  そうなると輝夜の役割はただの置き人形と変わりなく、居ても居なくても関係ない。それが分かるからこそついていかなかったが、どうせ暇ならついていった方がマシだったかもしれないと考え、輝夜は再びため息を吐く。

 

  ────カサリッ。

 

  と、その吐息に吹かれたように輝夜の前の竹藪が揺れた。月明かりに照らされて竹の隙間から見える白い耳。イナバと輝夜は口を動かそうとしたが、影から出て来た見慣れぬ水色の頭髪と、垂れた兎の耳、月軍の服に身を包んだ玉兎を見て口を閉じる。玉兎は恐る恐る輝夜に向けて足を出し、月光の下まで歩み出ると膝をつき頭を垂れた。

 

「……貴女前に一度来たわね」

「は、はい。その節はありがとうございました。レイセンと申します」

 

  うやうやしく言葉を紡ぐレイセンに、似た名前が永遠亭にいるせいで紛らわしいと輝夜は眉を寄せる。鈴仙も月での名は『レイセン』、そして来た玉兎もまた『レイセン』。月の民は長い年月でネーミングセンスまで失ったのかと呆れながら、結局輝夜は「月のイナバ」と月人らしくネーミングセンスの欠片もなくレイセンを呼ぶ。

 

「なにしに来たの? もう戦争は始まっているってことなのかしら?」

「ち、違います! 私はちょっと、その、豊姫様の命で」

「ああそ、永琳なら居ないわよ、どうせ永琳に伝言かなんかでしょ」

 

  だいたい月の民が気にするのは永琳であって輝夜ではない。永琳が月に齎した恩恵は数知れず、月夜見でさえ認めるところ。対して輝夜が月でやったことは、蓬莱の薬を永琳に作ってもらい、罪人として地上に流れたくらいである。誰もに惜しまれるのは、輝夜の人となりよりも、輝夜が有している能力くらいだ。

 

 『永遠と須臾を操る程度の能力』

 

 穢れを嫌い永遠を好む月人の象徴なような力。月の民にとって、あればいいがないならないで気にされないくらいの力。自分に用などないだろうと、戦前に急にやって来た玉兎に輝夜は鼻を鳴らすが、レイセンはブンブンと首を横に振った。

 

「いえ、私の用は輝夜様にです」

「私に? なによいったい」

「はい、あの……その前にお茶を頂けませんか?」

「……貴女なにしに来たのよ」

 

  肩で呼吸し、頭や服に笹の葉を貼り付けたレイセンはどうやって永遠亭まで来たのか分からないが、何やら苦労して来たらしい。「イナバ」と輝夜は永遠亭の中へと声を掛けるが、寄って来る足音は聞こえない。どういうわけか丁度よく鈴仙もてゐも居ないらしいことに肩を落とし、輝夜は自分の隣を手で叩きレイセンを呼ぶと指を鳴らす。一呼吸の間も無く茶の入った湯呑みが二つ縁に置かれ、疲れたと輝夜は肩を回した。

 

  そうして、レイセンが縁に座ってから一時間。おかわりを淹れるのは怠いため、それはもうレイセンに任せてから何杯目か。「依姫様の訓練がキツ過ぎる」だの、「豊姫様から桃を貰った」だの、「月に人が侵入した」といったレイセンの世間話が終わらない。本格的になにをしに来たのか目的が行方不明だ。ただ時間を潰しに来ただけと言うのなら輝夜も今は願ったり叶ったりだが、そうではないだろうことは分かる。月と幻想郷の戦前、それに必ず絡んでいる。

 

「それで? 私に用ってなに?」

 

  いい加減世間話も聞き飽きたために輝夜がそう切り出せば、レイセンは、そうだった! とお茶を喉に詰まらせ大きく咽せた。呆れて肩を竦める輝夜の前でひと通り呼吸を整えると、レイセンは背筋を正し輝夜へと顔を向ける。豊姫に言われたことを思い浮かべながら、間違えてしまわぬようにゆっくりと口を動かした。

 

「輝夜様、月にお戻りください」

 

  一瞬の間が空く。月の兎の言った意味を輝夜が理解するのに数秒を要した。冗談の類かと思い輝夜は苦笑を浮かべるが、玉兎の言うことは変わらず。「月にお戻りください」と同じように口を動かした。

 

「……今更?」

「罪は全てお流しになると」

 

  迷いなく言う玉兎の瞳の色から嘘かどうか輝夜には分かった。五つの難題をだまくらかそうと言い寄って来た者たちのおかげで、そういう手合いは見れば分かる。兎の瞳を覗き込み、輝夜は小さく息を吐いた。

 

  月に帰る。

 

  千三百年前にも一度やって来た月の使者。それを永琳と二人振り払い逃げ出した日が、目を瞑れば昨日の事のように思い出せる。帝の命で集まった十の英傑。そして勝負にもならない完敗。仲間を鏖にしてまで側に来てくれた永琳。長い逃避行。

 

  玉兎の持って来た話が、輝夜のためを思って言っていることではないことはすぐに輝夜も理解する。このタイミングでの月への帰還、かぐや姫を戦火に巻き込みたくないと、そんな人の帝のようなことを考える月の姫たちや神ではない。輝夜が帰れば付いて来るであろう大きな副産物を狙ってのこと。輝夜が帰ると言えば必ず永琳が付いて来る。

 

「……そう」

 

  輝夜に顔を向けたまま固まる玉兎から目を外し、取り敢えず一言挟み輝夜は場を繋ぐ。玉兎から視線を切り輝夜が臨むは夜空の月。

 

  思えば、人の一生では一攫千金のお釣りが貰えるほどに輝夜はもう地上にいる。

 

(なんで地上に来たかったのかしら)

 

  わざわざ永琳に罪となる薬を作らせ、それを口にし罪人になってまで輝夜は地上にやって来た。

 

  なぜ?

 

  地上でのことを思い起こせば、爺様と婆様の笑顔。怒りの形相で拳を振るってくる妹紅。罠にハマる鈴仙と笑うてゐ。弾幕を燻らす巫女と魔法使い。愛を運んだ桐。決意の瞳で拳を振るってくる楠。なぜ拳が二つもあると自分の記憶に歯軋りしつつも、小さく輝夜は微笑んだ。

 

  地上に来たのはそれが見たかったからだ。

 

  命に触れてみたかった。

 

  春夏秋冬、移ろう季節のように命は色々な色を滲ませる。春のように暖かく、夏のように苛烈で、秋のように哀愁を纏い、冬のように冷徹だ。人も自然も千差万別。それがいと面白い。なにも変わらぬ月の都とは違う。輝夜が月で思い描いていた通り、いやそれ以上に地上は命で溢れていた。移ろう雲のように同じ命はあり得ない。月の民が“穢れ”と呼ぶそれで輝夜の手はもう泥だらけだ。それを流してくれると言われても、その泥に塗れた手を輝夜は濯ぎたいとは思えない。その穢れ一つ一つが暖かさだから。

 

  手を握りしめ、そして輝夜は奥歯を噛みしめる。

 

  自分一人ならもう答えは決まっている。輝夜の答えは否である。だが、永琳のことを考えれば……。

 

  永琳が地上に残ったのは、偏に輝夜を想ってのこと。罪になると分かっていても、蓬莱の薬を煎じ輝夜が口にすることを止めなかった負い目。蓬莱の薬を作った永琳は罪に問われず、月に戻れば罪人として扱われる輝夜のことを考え永琳は地上に残った。永琳だけなら月に居てもなんの問題もなかったのに。輝夜はもう千三百年も永琳を地上に引き留めている。

 

  輝夜と違い永琳を慕う者は月には多い。永琳が帰れば多くの者が喜ぶだろう。永琳の憂である輝夜の処遇も今帰れば関係ない。永琳のことを考えれば、帰る方がいいに決まっている。いい加減永琳に自由をあげてもいいはずだ。

 

  そうして帰れば……。

 

  帰れば……。

 

  それでも戦いは止まらぬだろう。玉兎が持って来た案は一種の月人同士の温情で、狙いは輝夜でなく幻想郷。輝夜や永琳が居ても居なくても戦いは始まる。そして残った者は戦うのだ。

 

  妹紅も、てゐも、鈴仙も、霊夢も、魔理沙も、楠も、桐も、椹も、梓も、櫟も。誰もが戦いそしてきっと負ける。そう分かっていても彼らは引かず戦うのだ。千三百年前と同じように。

 

「……帰るのは、私と永琳だけ?」

「そうです」

 

  短な玉兎の返事に僅かな希望も撃ち抜かれる。もう引くことはない盛大な負け戦。それは絶対避けられない。

 

  手を閉じたり開いたりを繰り返し、輝夜はもう一度月を見上げた。

 

  月に居れば見ているだけだ。月の使者が来ると嘆き、ただ座して終わりを待っていたあの時と同じ。そうあの時と……。

 

  輝夜は“穢れ”に塗れた手を握りしめそして笑った。「連れ帰るのは永琳だけにして」と力強く玉兎に言って。

 

  月の民と地上の民。どちらと共に居たいかと問われれば、答えはやはり後者なのだ。永遠ではない者たちが、永遠ではないからこそ手放したくない。無くなってしまう有り難みをもう輝夜は多く知り過ぎた。月に戻っては満足できない。手にこびり付いた穢れこそ、五つの神宝にも勝る輝夜だけが持つ最高の宝。絶対口には出さないが、輝夜はそうだと知っている。

 

「か、輝夜様⁉︎ なぜですか⁉︎ 負けますよ!」

「でしょうね」

 

  そんなことは百も承知。輝夜が地上に残ったところで、勝利が手に入るわけではない。だがそれでも輝夜は決めたのだ。嘆き座すだけのか弱い姫を演じる必要は、幻想郷では必要ない。負け戦だろうと、なんだろうと、帰りたくないと駄々をこねて拳を握るだけの年月を、千三百年で重ねることはできた。「お考えは変わりませんか?」と再三しつこい玉兎に大きく胸を張り、二言はないと強く笑う。

 

「私は地上にいる。鈴仙ではないけれど、もう私は地上の姫よ! その地上に攻め入って来るのなら来てみなさい! こてんぱんにしてやるわ!」

 

  瞳を月のようにギラつかせる輝夜にレイセンは非常に困った顔を浮かべ縁を立った。地上の姫などと言っても輝夜の本質は月人と同じ。一度決めたらテコでも動かない。豊姫からの命を思い出しながら、レイセンは「どうしてもですか?」と無意味な確認をする。

 

  輝夜の答えは当然変わらず、レイセンも覚悟を決め、懐へと手を伸ばし月の姫へと振り返った。

 

「……豊姫様からの命です。輝夜様にはどうしても帰っていただきます」

「……そういうことね」

 

  玉兎が手に握る拳銃を見て、輝夜は全てを悟り肩を落とす。どうせなら初めからそうしていればいいものを、と呆れ過ぎて皮肉も言えない。輝夜の答えなど必要なく、月の者はただ永琳を敵に回したくないだけ。億に上る人に手を出そうとしているというのに、たった一人の月人を恐れる月軍など憐れむことしかできない。

 

「……月に帰ってはいただけませんか?」

「私は月には帰らない」

 

  引き金は引きたくないと、最後の注告を輝夜は一刀両断した。月の拳銃。それが普通であるはずもない。どんな結果が訪れるのか、兎に角撃たれる前に手を打ってしまおうと能力を振るおうとした輝夜は、そよぐ風が変わらないのを肌で感じ薄く笑った。全ては相手の手のひらの上。能力は既に使えない。引き絞られていく引き金を睨みつけ、輝夜は笑みだけは崩さないと胸を張る。

 

「その答えを待っていた」

 

  ────カヒュ。

 

  浅く息の詰まるような音が響いた。玉兎の拳銃に穴が空く。ポトリと地に落ちた食い千切られた鉄の欠片に輝夜とレイセンは目を落とし、その合間に輝夜の横を一つの影が通り過ぎた。ギリギリと歯を擦り合わせる不快な音。大小ふた振りの刀を背に背負い、ゆらりゆらゆらと月光の合間に揺れる人影。

 

「ようアンタ、うちの輝夜に何の用だこら」

「……楠」

 

  人影が二つに増えたように、輝夜の視界の中に人影が一つ滑り込む。スルリスルスルと摩擦なく、違和感なく輝夜の前に立つ柳。背丈六尺。その背と変わらぬ大太刀を担ぎ、ふやけたような笑みを顔に貼り付けて。

 

「輝夜様、お待たせしてしまいましたか?」

「……桐」

 

  ふわりふわふわと白い綿毛が落ちて来る。登場を告げる高笑いを上げながら、両手で全てを奪う大盗賊。輝夜の前に落ちて来た影、その背に視線を盗まれる。

 

「あっはっは! また奪いに来たぜ! なあ輝夜嬢」

「……椹」

 

  目の前に杭が打ち込まれた。絶対に折れず曲がらぬ至高の盾。脅威も期待も、良いも悪いも全てを受け止める大黒柱。決してブレないその背中についつい期待してしまう。

 

「我らが総大将に手は出させん」

「……梓」

 

  総大将って? という輝夜の疑問を死の影が塗り潰す。音もなく増える人影が一つ。頭の後ろで一纏めにした長い黒髪が秋風に揺れる。月明かりに溶けたような人影に輝夜の口端が小さく引き攣るが、その様相こそ期待の表れ。

 

「月の姫君、守りに来たぞ」

「……菖」

 

  輝夜の横を新たに通るは目を閉じたままの盲目の少女。頼りなさげなその背には、多くの叡智が詰まっている。月光も秋風も影も竹の匂いでさえ、その全てを余さず吸い込む瞳のない眼光。少女の浮かべる微笑は崩れない。

 

「輝夜様の見る景色、それ以外は私が見ましょう」

「……櫟」

 

  輝夜の視界に白煙が伸びる。流れる雲のように淀みなく、這いずるように視界に忍び込む人影が一つ。長い硬質の下を口から伸ばし、人妖神魔を煙に巻く。輝夜も櫟から話に聞いた煙の悪魔。陰謀家の影は淀みない。

 

「輝夜殿、貴女のために煙を吐こう。新たな竹取物語を語りながら」

「……藤」

 

  一つ、大きな影が視界を割った。見慣れ過ぎたその影形。並んだ背は二つ分。世に反抗するように長い金色の混じった黒髪は外側に大きく跳ねていた。平城京からやってきた変わらぬ術師。その姿に輝夜は目を見開く。

 

「かぁぁぁぐぅぅやぁぁぁさぁま!」

「呪いを解きに来てやったぜかぐや姫!」

「……漆」

 

  キリキリと歯車が鳴った。見た目は人と変わらない。だがその身は武器で出来ている。刀も槍も礫も爪も、あらゆる武器はそこにある。後必要なものは武器を振るう相手だけ。武器を握る者はそこに居る。見えないイトを断ち切るために、からくり人形が稼働した。

 

「かぐや姫ちゃん、相手を砕く武器は全部ある。どれがええ?」

「……菫」

 

  漆黒の瞳が横切った。人も妖も神も誰でも、破滅を与える瞳が二つ。その眼に映る九つの影を追い、最後の影が輝夜の前に立ち並ぶ。手に持つサングラスを人影は投げ捨て、隠す必要は既にないと、睨む相手は決まっている。

 

「おれには全てが見えている。輝夜様が見ているものも」

「……梍」

 

  十の人の背が前に立つ。輝夜の前に今一度。千三百年前の焼き直し。だが、その背は年月に削られ、より強く、頼もしく、果てしない時間を掛けて再び集まった最高の十人。口を開きそして閉じる。震えた声を聞かせたくなかった。輝夜の手にこびり付いた十の“穢れ”。その輝きから目を離さぬように。視界が薄くぼやけているのは気のせいだと一度強く目を拭って。最強の馬鹿たち。その馬鹿さ加減にまた少し期待をしてしまう。勝てないと思いながらも、もしかしたらと考えずにはいられない。彼らこそが千三百年前からの……。

 

  背後で振るえる輝夜の気配を感じながら、瞬きもせずに一歩後ずさった玉兎に櫟が口を開く。相手が聞き逃してしまわぬように大きく口を開いて流れる秋風に声を乗せた。

 

「月の使者。輝夜様の答えは出ました。そしてそれが、八意永琳の答えです。我ら平城十傑の答えです」

「……平城十傑?」

 

  玉兎の問いに十の笑みが返された。どこまでも不敵に。どこまでも傲慢に。神が相手であろうとも引かず媚びずただ笑う。月の姫をその背にして。首を傾げる玉兎に対し一歩出るのは平城十傑が大黒柱。

 

「千三百年前、輝夜様を守るため集まった十の一族。千三百年掛けて勝ちに来たぞ。八意永琳の力は借りない。我ら平城十傑。延いては幻想郷、総大将蓬莱山輝夜が相手を仕る」

「ちょ、ちょっと梓」

 

  再び零された『総大将』という言葉に、輝夜は今度こそ飛び付いた。どういうわけかいつのまにか担がれている。慌てる輝夜に梓はブレず、誰も相手をしてくれない。そんな輝夜に薄く藤は笑うと、なぜかやたらと血塗れの学ランの懐から、綺麗に三つ折りされた純白の紙を取り出し玉兎へと白煙と共に流した。

 

「月夜見に渡してくれよ。それこそ我ら全ての意志である」

 

  親書を受け取り玉兎の目が再度十の人へと向けられた。誰も彼もが不動に立つ。その姿の傍若無人さに意味が分からず、垂れた耳を揺らしながら、レイセンの姿はふっと消えた。初めからそこに居なかったように。消えた玉兎に肩の力を抜き、十の影が肩を小さく落とした。その隙を見計らい輝夜は一番話になりそうな楠に詰め寄った。

 

「ちょっとどういうことよ楠! 私が総大将⁉︎ ていうかなに渡したわけ? それよりなによこの見計らったような登場は! 貴方たち盗み見てたわね!」

「まあそうだけどよ、良い啖呵だったぜ輝夜。俺らが長年探してただけあるぜ」

「だからこそ総大将足り得る。輝夜様、我らを率いるとしたら貴女しかいない。それとも僕らでは不服ですか?」

 

  不服だ! と言おうとしたが、思ってもいないことは言葉にならない。薄く笑う梓と、にやけた楠の勝ち誇ったような顔が癪で恥ずかしく、輝夜は楠の頭を一度叩く。「なんで俺だけ⁉︎」と叫ぶ楠の声に藤は笑い、それにつられて櫟と菖も小さく笑った。

 

「輝夜殿、渡したのは我らの総意ですよ。あれだけは月夜見に言っておかなければね」

「あれ?」

 

  首を傾げる輝夜を見て、十の顔がお互いを見合わせ大きく笑った。視線を切り目を向けるのは、満月になろうかという丸い月。それをしばらく十の顔は見つめると、それに伸びる十の中指。大きく息を吸い込んで、十の呼吸がピタリと合わさる。

 

『くたばれ月夜見! 月軍死すべし‼︎』

 

  十の声の合唱が、迷いの竹林に木霊した。その声は風に乗ってスキマに乗ってどこまでも。その声に呼応し迷い家で、紅魔館で、白玉楼で、妖怪の山で、地霊殿で、命蓮寺で、はしたないなど気にせずに、至る所で中指が立つ。

 

  声の残響を聞き届け、呆けていた輝夜に意識が追いつき心の底から大きく笑った。呼吸もままならず、目尻に溜まった雫を指で払い、輝夜もまた月に向かい中指を立て息を吸い込む。それに合わさる無数の呼吸。人が、吸血鬼が、天狗が、鬼が、河童が、覚が、蓬莱人が、魔法使いが、狸が、尸解仙が、妖精が、全ての瞳が向く先は一つ。全ての心が向かうは一つ。今日、この夜の一瞬だけは一つの言葉に幻想郷が染まる。

 

『月軍死すべし‼︎』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

総大将 蓬莱山輝夜

「機嫌を直してくださいよ姫様、櫟の策だったんですって」

 

  手をすり合わせる鈴仙の言葉に鼻を鳴らし輝夜はそっぽを向いた。輝夜に使者が送られれば、それが開戦が間近に迫った合図となる。地上にいる輝夜と何より永琳になんのアクションもないなどあり得ないという櫟の目論見は見事に当たった。それに伴う輝夜の意志の確認。平城十傑の理想とする答えを得られ、一夜明け事態は一気に動き出す。

 

  鈴瑚と清蘭から、月の侵攻が今夜に迫っているという情報が齎され、幻想郷はてんやわんやの大忙しだ。急遽作戦本部の設置された博麗神社は、宴会や初詣の時以上に多くの人妖で溢れかえっている。そんな中で総大将である輝夜のする事は、博麗神社の縁側に座りただ動く人妖を眺める事だ。ぶっちゃけ総大将だからと言ってやる事がない。

 

  自分から手を挙げたわけでもなく、勝手に肩書きに『総大将』が足されただけ。輝夜自身戦争の経験があるわけでもなく、将として戦さ場に立った事があるわけではない。暇を持て余す輝夜の傍に困り顔で立っている鈴仙へと輝夜は目を移し鼻で笑った。

 

「貴女今櫟の秘書みたいに動いてるのにここに居ていいわけ?」

「あー、手の空いてる時は姫様についててやれって」

 

  忙しいだろうに、櫟の気の使いように輝夜は大きく肩を竦めた。空を飛ぶ天狗たち。至る所へ走り回る河童。萃香や勇儀以外の鬼も多くが地上に出て動いている。そんな中で一人座っていても退屈で気が滅入ってくるだけなので、輝夜は一度伸びをすると縁を立った。

 

  顔を向けるのは境内の中央。櫟、藤、梓、紫、幽々子、レミリア、さとり、天魔といった多くの主、智慧者たちが石畳の上に置かれた簡素な木の机を囲み、顔を突き合わせ絶えず口を動かしている。少し気まずそうに輝夜が近寄れば、机の上に広げられているのは幻想郷の地図。重要拠点には旗が立てられ、マーカーで多くのことが書き加えられている。手に持った長い棒で地図を叩きながら、瞳のない目で地図を見つめ櫟は言葉を紡ぎ続けていた。周りの喧騒が邪魔どころか防壁のように櫟の言葉を反射しているようで、机の近くに寄った輝夜の耳に少女の言葉はスッと入ってくる。

 

「序盤は萃香さんが要です。その後は相手の動き次第ですが、藤さんが中盤の肝。この序盤、中盤の流れで全てが決まると言ってもいい。その間に敵の将をどれだけ落とせるか。萃香さん、にとりさん、進行状況はいかがですか?」

「鬼も河童も協力して急ピッチで進めてるけど量が量だよ。あたしらでもハリボテが精一杯だね」

「見た目上の形さえできれば中身はがらんどうで構いません。どうせ置物、小細工ですよ。質感などはマミゾウさんとぬえさんに任せますから出来るだけ本物っぽい雰囲気を」

 

  全てを隠した幻想郷には自然しか残らない。野山での戦闘はもってこいではあるのだが、何もなければ敵の動きも分からない。よって置くのは偽物の重要拠点。紅魔館も白玉楼も博麗神社も、突貫工事で外装だけ似せたものを同じ場所に設置する。ハリボテにマミゾウとぬえの能力でさらにハリボテを重ね、更に紫の能力で本物と偽物の境界を弄っておく。そうすれば見た目と空気感だけは全く本物と遜色のない一夜城の出来上がりだ。

 

  人の悪知恵に感心する輝夜の横に鈴仙が並び、その気配を感じた櫟の顔が鈴仙へと向いた。

 

「鈴仙さんいいところに。玉兎たちの動きを傍受する斥候役は鈴仙さん、鈴瑚さん、清蘭さんに任せます。それに椛さんとはたてさんを付けますので、連絡は術などではなく原始的ですが足で取り合います。敵の技術力を考えれば、どう傍受されるか分かりませんからね。なるべくアナログチックにやるしかないです。動きの確認をお願いしますよ」

「分かったわ」

 

  そう短く参謀へと返事を返すと鈴仙はスタスタ歩いて行ってしまう。ポツンと残された輝夜は右、左と顔を動かし辺りを眺め、真面目な顔で地図へと目を向け続けている者たちとの場違い感に大きく肩を落とした。なにかやる事はないか櫟に聞こうと輝夜は考えていたが、明らかに口を挟める雰囲気ではない。こここそが櫟にとっての戦場。平城十傑の誰より早く地図の上で月軍と戦う櫟の顔は真剣そのもので、額から垂れる一筋の汗を拭いもしない。

 

  一歩作戦会議の只中から離れ難しい顔で固まる輝夜だったが、目の前に薄い白煙が流れてきて思わず鼻を擦る。森の空気を凝縮したような自然の匂いに喉を鳴らし、白煙の流れてきた元へ顔を向ければ長い舌を口から伸ばした男がいつの間にか隣に立っている。「ご機嫌いかがか輝夜殿」と青白い顔に微笑を浮かべ、目は机上の地図から外されない。

 

「藤いいの? 私の側に居て」

「私の打てる手は全て打った。それに私のやる事はもう決まっていて後は櫟たちがタイミングを決めるだけですからね。見たところお手隙のようだ」

「ええ、とってもね」

 

  それは良かったと笑う藤に輝夜は目を半眼に絞り口元を歪めた。藤は不貞腐れた総大将の顔を横目に一瞥し、ぶわりと白煙を零すと電子タバコを口から離し、手の中でくるりと回す。

 

「輝夜殿、厨房を訪ねてみてください。そこなら輝夜殿の隙も埋まるんじゃないかな」

「それは私に料理しろってこと?」

「大事な仕事の一つです。それも総大将手ずからならば士気も上がるというものですよ」

 

  さあさあ、と藤は電子タバコの舌先で厨房の道を指し示し、ふらりと作戦会議の渦中に戻っていく。掴み所のない変な奴から輝夜は目を外すと、やる事があるわけでもなし、藤の言う通り渋々厨房を目指して足を進めた。普段参道や周りの木々の方が視界を埋める割合の多い神社の景色が肌色に埋まっている。それだけの者の食事を賄うのに博麗神社の厨房の中だけでは物足りず、野外にはいくつもの寸銅鍋が置かれ絶えず何かを煮立てていた。

 

  簡易で設置された机の上には多くの調理器具が並び、まな板の上に忙しく妖夢と咲夜が包丁を落としている。高速でリズミカルに淀みなく落とされる包丁の音は、そのまま並べられた食材を細切れにし、できた端から寸銅鍋に飲み込ませていた。お燐や美鈴、星といった輝夜の見慣れた者たちの多くが料理に従事している中、少し離れたところで楠がジャガイモの皮を剥いているのを目に留めて、そちらへと足の向きを変える。

 

  手慣れた様子で芽を取り、途中で千切ってしまうことなくジャガイモの皮を剥き続ける楠は、視界の端に夕焼け色のスカートが揺れるのを見ると顔を上げた。難しい顔で立つ輝夜を見て楠は首を傾げ、皮の向けたジャガイモを手元のボールへと放る。

 

「どうしたよ輝夜、なんか用か?」

「藤が暇なら料理手伝えって。厄介払いされたわ」

 

  そう言って鼻を鳴らした輝夜に楠は小さく笑い、また一つジャガイモを手に取って芽を抉る。

 

「料理? アンタが? できんのか?」

 

  残念ながら輝夜には料理のできる雰囲気がまるでない。あははと座敷に座りただ笑ってる姿の方が似合っている。そんな空気を散らすように「私に不得意はない」と胸を張る輝夜に楠は包丁を一本手に取って持ち手を向ければ、少しの間それを見つめた後粗雑に輝夜は包丁を手に取った。

 

  右手に包丁を、左手にジャガイモ。童歌『うさぎ』を鼻歌で奏でながらジャガイモの皮を剥く楠に目を落とし、輝夜は一息吐くと楠の隣に腰を落とした。楠の動きを見ながら、輝夜もまた同じように包丁をジャガイモの肌に添わせる。辿々しくも包丁を滑らせる輝夜を見て、楠は感心したように小さく頷いた。

 

「へぇ、意外だな。思いの外上手いもんだ」

「当たり前でしょうが。私をなんだと思ってるのよ」

「食い逃げ常習犯。ケチな金持ち。後は……お転婆姫?」

「ちょっと! なによそ、っ痛⁉︎」

 

  狂った手元がジャガイモから離れ指を切る。普段なら蓬莱人の特性ですぐに繋ぎ合うような小さな指の傷が治らず朱雫が垂れた。赤い筋を輝夜は睨みつけ指を振る。そんな不機嫌な輝夜に楠は笑うと、手を引き水をかけて消毒すると取り出したハンカチを巻き付けた。不思議な顔で目を瞬く輝夜の顔に楠はまた大きく笑う。

 

「ははっ、だっせえの。俺も小さい頃はよくやったぜ」

「う、うるさいわね! 久しぶりだったからよ……久しぶりだったから!」

「ああそうかよ、久しぶりね。いつぶりかは聞かないでおいてやんよ」

 

  にやけた楠の手を振り解き、輝夜はハンカチの包まれた手を握り締めると再びジャガイモに手を伸ばす。いそいそとジャガイモの皮を剥く月の姫の姿はシュールであり、やはり似合っていない。ぶつぶつと文句を口遊む輝夜に楠は肩を竦め、また一つジャガイモをボールに放る。

 

「総大将は嫌か、輝夜」

 

  シャリシャリと鳴り続ける包丁の音に楠の声が加わった。総大将。昨夜から何度も聞く大きな役職に、輝夜は口の端を歪めて手を止める。楠は手を止めずに包丁を動かし続け、すぐにまた一つジャガイモをボールに投げた。

 

「……似合わないでしょ私には。ジャガイモの皮一つ満足に剥けないってのに」

「別にいいだろそれは、野菜の皮剥きなんて総大将の仕事じゃないしな」

 

  ジャガイモの皮を剥くのが抜群に上手い総大将なんてなんか嫌だと笑う楠につられて輝夜も小さく笑うが、表情は暗いまま変わらない。なんとか一つ皮を剥き切りボールへと転がした輝夜は包丁を置き、緩く腕を組んでため息を零した。

 

「……周りは忙しく動いてるってのに私にはできる事がないのよ? 能力も使えなければ私にできることなんて和歌を詠むか琴を弾くか、そのくらいのものよ」

 

  戦いにはまるで向いていない。戦う気迫を見せたところで、そのための術を持ち合わせていない。ついっと楠の方へ輝夜は顔を上げ、そのまま膝を折り畳みその上に顎を乗せる。自分とは違う現代に紡がれて来た武士。戦うために人生を繋いできた者。この日のために彼らは生き、逆にどちらかと言えば輝夜はこの日が来ないことを願っていた。

 

  月に戦いの意志を叩きつけたとはいえ、想いと能力はまた別だ。嫌だと言ってもそのための力がなければただの戯言。そしてその力が輝夜には欠けている。それを理解している出来の悪くない頭が今は疎ましいと落ち込む輝夜に楠が向けるのは呆れでも怒りでもなくただ笑い。出会い頭に殴って来たとは思えない楠の郎らかさに輝夜の方が呆れてしまう。

 

「馬鹿じゃねえの。アンタはかぐや姫だろう? 俺たちはアンタの命ならまあ多少は聞いてもいい。だから私は座ってるからさっさと倒せとか言っときゃいいんだよ。どうせアンタが何もしなくたって、こっちは勝手に戦うんだ」

「でもそんなのって」

 

  無責任じゃない。と言葉を続けようとした輝夜の前にジャガイモが放られ言葉を止められる。平城十傑が今現在まで続いている原因の一端を、輝夜が持っているのは確か。千三百年前に月の使者が去った後、手紙でもなんで書いて無事を知らせておけば狂気の歯止めにはなっていた。だがそれがなかったために平城十傑は今まで輝夜を探す無駄に長い年月を過ごして来たのだ。そんな負い目が輝夜から強い言葉を出さない。平城十傑が一笑に付そうと、それが消えることはない。

 

  ジャガイモを手に目を瞬く輝夜に楠は苦笑を浮かべ、新たなジャガイモを手に取った。

 

「意味が欲しいならあるさ。梓さんなんかは立場上アンタを総大将にしたんだろうが、藤さんや櫟の思惑は別だろうよ」

 

  月出身である月軍を知る輝夜が総大将に立ち、なんの心配もないと振る舞えばそれだけで一定の安心を得ることができる。幻想郷の重鎮たちや平城十傑にとっては関係ないが、末端の関わりの薄い者には効果はある。そう楠は言うが、輝夜の表情は特には変わらず、楠も仕方なく手を止めて包丁を置く。

 

「俺たちは平城十傑だぜ。かぐや姫だって言うなら、俺たちは自分のもんだって偉そうにしとけよ。人も財産とか言うだろ? 五つの神宝より役立ってやるぜ」

「だってそんなの! そんなことでいいの? それが嫌で貴方は私を殴りに来たんじゃない!」

 

  声を荒げ立ち上がろうとした輝夜に、「それは違え」と制し楠は偉そうに足を組んだ。

 

「俺は無価値な人生が嫌なんだよ。誰もと同じように人生を生きたいのさ」

「ならここに来ずに好きにやれば良かったのよ……」

「だからそれだと先代たちの人生が無価値になっちまう。俺たちにはこれが必要なんだよ。それにアンタも必要だ。ただ居てくれるだけでいいんだよ」

「……なによそれ

 

  結婚を申し込むわけでもなく、蝶よ花よと愛でるわけでもない。ただ居てくれるだけでいいなどと輝夜が言われた数はどれほどか。それが一気に十人分だ。輝夜の前に不動で仁王立ちし、つい期待してしまうような背中ばかりを見せてくる。

 

(……本当にズルイ人間たち)

 

  座しているだけではいつまでも背中を見つめてばかり。手を伸ばしても虚空を泳ぐだけで永遠に掴めない。その背に触れるためには、顔を見るためには、その場を立って歩み寄るしかない。何人もの者が輝夜へと歩み寄って来たのに、歩いて来いと言わずとも示す人間。手に持ったジャガイモを握り締めて、輝夜は楠の顔を見つめる。

 

「……置物なんてごめんよ。料理だってなんだってするわ。なんなら月軍だって殴るわよ。戦いを決めたのは私だもの、もうただ座って月を眺める私じゃない」

「そうかよ、なら俺がアンタを守ってやるぜ。妹紅のついでにな!」

 

  笑う楠に輝夜も笑うが、妹紅のついでと聞いて顔を顰める。なんだかんだと藤原家の護衛役である男がちょっとだけ羨ましいと思いながら輝夜は口を尖らせた。そんな輝夜の顔に楠は笑い声を一段高くし、手に残ったジャガイモの皮を無駄に剣技を用いて一瞬で剥くと宙に放った。

 

「まあその前に料理だ。包丁が苦手ならアレはどうだ? 輝夜なら得意なんじゃないか?」

 

  元気になったと見える輝夜に楠が指し示すのは、白兎たちと共に餅を搗いているてゐの方。輝夜と楠の視線に首を傾げ、立ち上がった輝夜をてゐは見ると、「マジで?」と言いたげな顔で恐る恐る杵を渡した。

 

  軽く振って杵の重さを確かめながら、輝夜は両手で杵を握り締める。餅になりかけている不定形の白い餅米が形となるように。これまでの自分を叩き潰すように輝夜は思い切り杵を持ち上げ振り落とした。

 

  ────ドゴンッ!!!!

 

  響く音は臼を叩く音にあらず。空気を押し潰したような炸裂音に、博麗神社にいる者たちは一様にして肩を跳ねさせ目を向けた。神社の地に半分以上も臼は埋まり、小さな煙を上げている。恐るべきは輝夜の怪力。そんな威力で餅はできるのか。輝夜の力に耐えている杵と臼が凄いのか。疑問は尽きず固まる楠の手から新たに取ったジャガイモが零れ落ちる。肩に杵を担ぎVサインを向けてくる笑顔の輝夜に弱々しくVサインを返す楠の視界に、落ちたジャガイモの代わりに紅白の巫女が落ちてくる。青筋を立てて腕を組む霊夢を楠は呆けた顔で見上げ、その頭にペシリとお祓い棒が落とされた。

 

「このクソ忙しい時にうちの神社に今度は穴を開けたわけ?」

「……輝夜がな」

「ならあんたにツけていいわけね? 外の世界に帰す料金倍よ」

「うそォォ……、あ、輝夜が払って「頑張りなさい楠、自力でね♪」……くれねえよなあ‼︎ くそったれ‼︎ 幻想郷なんて大っ嫌いだ‼︎」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  数十分後。未だに耳から離れない楠の叫びに口元を緩ませながら、抜群の耐久性で一仕事耐え切った杵と臼のおかげでできた団子を携えて輝夜は境内を練り歩く。月の姫からの差し入れはなんだかんだと好評のようで、桐も椹も美味しそうに頬張っていた。椹に少しばかり多めに掠め取られたが、それでもまだまだ大量にある。「なんでおれが……」と、小さく零しながら団子の積み上げられている大皿を抱えた梍を伴い、輝夜はまた新たな集まりどころへと顔を出す。

 

  鼻を擽るのは鉄と紙の匂い。楠や桐の刀なども含めて多くの武器が立ち並び、天狗や河童の鍛治師たち、付喪神たちが武器の調整を行なっている。その中心に座るのは菫。六百年近く武器と共にあった絡繰人間の指示のもと、夜に向けて急速に武器の微調整が進められている。

 

  振るわれる金槌と砥石の上を滑る刃の音と共に流れるのは、規律正しく流れある形を描こうと蠢く霊力や妖力。藍、パチュリー、魔理沙、アリス、白蓮、青娥、漆といった術に通じた者たちが急いで仕上げているのは、弾幕ごっこ用のスペルカードを戦争用へと調整する作業。一々術式を練っていたのでは、生死を賭けた戦いの中では無駄がある。大技なら尚更だ。それを緩和すべく、発動に時間のかかる代物をすぐに使用できるようにカードに落とし込む作業。マスタースパークや夢想封印といった一種の技ともいえるものとは微妙に外れた大技を簡略化する作業は、彼らをしてなかなか面倒な作業だ。

 

  個々人の術を落とし込むには、それぞれのクセや霊力、妖力、魔力の質に合わせなければならない。小さなことだが絶対に欠かせない武器調整の詰めどころは、細かな作業ということも相まって殺気立ち、あまり踏み込みたい空気ではない。が、輝夜は気にせず庭を歩くように悠々と踏み込む。

 

  マグマの中のようなどろりとした赤い感情の中を歩く月の姫に、梍は口元を引攣らせながらも、輝夜に小さく手招きされてしまい嫌々ついていく。

 

  「ご苦労様」と輝夜に言われ誰もが最初は「んだコラ」と暴動一歩手前の決起人のような表情を浮かべるが、平城京で絶世の美女と呼ばれた輝夜の全力の才女ムーブの前にその顔も緩む。風鈴を鳴らしたような優しい澄んだ声音。人が一生のうちに見れるかどうかという最高の微笑。洗練された無駄のない優雅な動きで団子をその手に差し出す輝夜の姿は、どこを切り取っても最高の名画だ。その動きの細部までよく見えるからこそ、梍は誰より呆気にとられ、傾国の美女という単語が慌ただしく梍の頭の中を駆け巡った。

 

  カリスマで率いるレミリア、武力で率いる天魔、心を覗く恐怖で支配するさとり、決してブレない梓の誰とも違う大将の姿。男も女も性別関係なく魅了する、物ではなく血の通った至高の珠玉。近くにいて欲しい、手放したくないと思わせる魔性の色香。妖しく艶やかな大将の器の色に、梍はホッと息を吐いた。誰も持ち合わせていない、ただ美しさを磨き抜いた唯一無地の総大将に、なるほどと梍は一人納得する。

 

  殺気を振りまいていた鍛治師が、頑張ればまた輝夜が来るんじゃね? と期待して元気良く玄能を振るう姿を見て、梍は頷く代わりに目を瞬く。

 

「ふふんどうよ梍。私もやるでしょ?」

「ははっ、ええ流石ですよ総大将。流石はかぐや姫様です」

「でしょ! その目にしっかり私の勇姿を焼き付けなさい! そして言いふらしなさい!」

「……おれの目は別にカメラじゃないんだにが」

 

  楠も藤も輝夜もよく見ておけ、お前しか見れないと多くのものを勧めてくる。その景色が、本当に梍にしか見れないのだから困ってしまう。形としては残らなくても、梍の記憶には決して崩れず消えずに焼き付く。「次よ!」と歩く輝夜が視界から消えてしまわぬように追う梍を一瞥しながら、輝夜は見慣れた一つの後ろ姿に寄った。

 

「ご苦労様、私が団子を作ったのよ、漆も食べてみて!」

 

  昨夜会ったのが初めてなのだが、全く初めての気がしない少女。輝夜も漆も影のように剥がれない既視感の中顔を見合わせ動かない。輝夜の記憶の中の漆から幾分かいろいろ跳ねている漆と、漆の記憶の中の輝夜からいろいろとやんちゃな輝夜。漆は輝夜を前にどんな顔をしていいか分からず、いつもの癖で小さく舌を打ち、輝夜の顔から横へと目を外す。

 

「ちっ、大丈夫なのかよ。ちゃんと作れんのか?」

「作れるのかって、もう作っちゃったもの。ね、漆」

 

  ハンカチを巻いた手で団子を差し出してくる輝夜の姿に漆は小さく目を見開いて手を伸ばそうとしたが、その手は途中で止まり顔が俯いた。首を傾げた輝夜の微笑を見て、漆は小さな声で式神の名を呼ぶ。

 

  漆の影から手が伸びる。這いずり出てくる影の怪女が、陽の光で伸びる影法師のように現実世界へと背を伸ばした。輝夜の見慣れた姿から、遥かに離れたウルシの姿。漆黒の長い黒髪は蜘蛛の巣のように地に張り付き、紅い眼はどこを向いているのか。目の前にいるはずの探し人には向けられず明後日を向き、小さく輝夜の名を呼んだ。

 

「……ウルシ、テメエにやる。あたしはいい」

 

  顔を背けた漆はそのまま手元の札に目を落とす。少し寂しそうな漆の背から輝夜は団子を持った手をウルシへと向けると、紅い瞳が輝夜を覗いた。一分か十分か、時間感覚がズレるような感覚は十秒ほどのものだったが、その十秒ウルシは輝夜をその瞳に写し、団子を摘むと無理矢理漆の口へと団子を捩じ込んだ。

 

  咽せる漆を見もせずにウルシは輝夜の名を呼びながら影へと消えていく。睨みつける相手が居らず、あたりを見回す漆の鋭い目と輝夜の目が合わさって、どうにも漆にとって気不味い空気が流れた。顔を見合わせたまま二人は固まり、その膠着状態を輝夜の微笑みが進める。

 

「味はどうだった?」

「…………まあまあだな。これならあたしの方が美味くできるぜ」

「言ったわね漆! 次は美味いって言わせてやるわよ!」

「……そうかよ、まあ頑張りな。…………ただ包丁は気を付けろよ。あんまり危ねえこと「漆さぁぁん‼︎ 凄いスペルカードが完成してしまいました! どうですか! 封印解除(レリーズ)!」ったく!うるせえんだよ東風谷(カードキャプター)! 静かにやれ!」

 

  突っ込んできた風祝に揉みくちゃにされ、早苗にチョップを落とす漆を見て笑い輝夜はその場を離れた。漆の黄色い色に肩を竦める梍を伴い隣の武器職人の元へ。「いい音ね! ドラムやらない?」という付喪神の誘いを丁重に断り玄能を振るう菫は、月の姫を見ると目を細めて頭を下げた。

 

「どうかしたん輝夜ちゃん。漆とはもうええん?」

「ええ、今の漆を見れて満足だわ。それより菫もご苦労様、褒美をあげるわ」

 

  そう言って団子を差し出す輝夜に菫は額を指で掻き小さく目を背ける。

 

「いやあ、ぼくは別に食事せんでも」

「しっかり食べなきゃダメよ。腹が減ってはなんとやらでしょ? さあありがたく食べなさい!」

 

  食べようが食べなかろうが菫にとっては関係ない。食べなくたって生きていける。だが、分かっているのかいないのか団子を差し出し動かない輝夜の手へと歯車の音を奏でながら菫は手を伸ばすと団子を摘みしばらく見つめた。ものを食べるなどいつぶりか。口へ団子を放り込む菫に満足そうに微笑む輝夜を見ながら、菫はゆっくり団子を飲み込んだ。

 

「輝夜ちゃん強引やなあ、ぼく六百歳やで?」

「あら、私より随分若いじゃない。もっと食べて早く大きくなりなさい」

「……まだ若いか、輝夜ちゃん顔に似合わず老けとんのやね」

「なんですって⁉︎ 次言ったらぶつわよ!」

 

  腕を振り上げた輝夜に菫ほ大きく笑い声を上げた。菫の何倍も生きる少女がこれほど人間らしいことが可笑しい。菫と違い永遠の物語を書き綴る少女。終わりがないとはどういうことか。そんな中で生命溢れる少女の姿に目が離せず、菫はまた一つ団子を手に取る。

 

「輝夜ちゃんにとってはこれも永い物語の章の一つやろ? 何があっても続くのにそれでも本気でやるんやね」

「過去は無限に積み重なるけれど今は一瞬だもの。その一瞬を適当に流すと過去もつまらないものになる。過去に長さは関係ないけれど、思い返すなら良いものがいいでしょう?」

 

  口に放った団子を何度も強く噛み締めて、そして零さぬようにしっかり飲み込んだ。そりゃそうだと飲み込んだ後に湧き上がってくる笑いを我慢せず、手に持った玄能をくるりと回す。

 

「さあさ、輝夜ちゃん邪魔やー。まだ武器の調整中、手に取るのは本番でな」

「あらいやよ、私武器なんて持ったことないもの。菫が持ちなさい」

「くくっ、あっはっは! 了解やー! ぼくに任せとき!」

 

  大きく手を振って見送ってくれる菫に手を振り返し、輝夜は小さく息を吐いた。普段静かな場にしかいないせいで、戦前の熱気の中に居るのは気疲れする。それでもしっかり黄色い色を滲ませている菫に梍は感心しながら輝夜に続く。

 

  気を入れ直し輝夜が最後に向かうのは作戦本部。熱気は冷めやらず、寧ろ白熱した言葉が飛び交っている。少々輝夜の足取りが重くなるが、喧騒の中へと後ろ髪を引く想いを振り払い足を出す。

 

「だから地底に重要な拠点やら者を置けば良い。それで集まった有象無象を藤の白煙や土蜘蛛の病で沈めれば済むではないか」

「地底も隠すのに何を地底に置くのですか? だいたいそれでは一緒に重要拠点も人も妖も潰れます。それにその後の地底の洗浄はどうするのです? 勝利を得る代わりに地底を生贄にしろと? ふざけないでください。それなら天魔さんの妖怪の山を使えばいいでしょう」

「さとりも天魔も落ち着きなさいな。だいたい月からやって来る者を地底に向かわせるのがまず大変だわ。萃香の能力で無意識に敵を集めるとして、適当な場所はもう決まってるんじゃないの?」

「そうですね幽々子さん、妖怪の山を中心に右か左か、どちらかに寄って貰えればそれでいいんですが。魔法の森は藤さんの技と相性が悪いかもしれませんし、そこに集めるとしましょうか」

「文女史、伝令役の天狗の斡旋は終わったか? ならば桐も纏めて話を詰めよう。アナログに頼るのならば動きを密にしなければ話にならん」

「梓さん、ある程度ハンドサインみたいなのも決めときましょう。どこで盗み聞きされるか分かりませんし、簡単なことなら言葉で伝えなくてもいいようにした方がいいですかね」

「霊夢、それでは脆くし過ぎよ。こちらも大技が使えない。もう少し目を細かく、バランスを考えて。ただ細かくし過ぎないで、あまり細かいと豊姫に扇子を使わせる機会が増えてしまうわ」

「ああもう面倒くさい! なら紫ももう少し手伝って! 結界はお手の物でしょ! 調整がシビア過ぎんのよ!」

「ご苦労様! 摘める甘いもの持ってきたわよ! 感謝なさい!」

 

  飛び交う声に負けないように声を張り上げ梍から受け取った大皿を輝夜は机の上に置く。打ち鳴った皿の音と跳ねた団子を見て僅かに静寂が流れたが、すぐに無数の手が伸び咀嚼音と話し声が戻ってきた。もりもり減っていく団子に満足そうに腰に手を当てる輝夜の前に白煙が流れ、輝夜はまた鼻を擦った。

 

  輝夜が横へ目を流せば、いつのまにか横に立っている人影が二つ。団子をもぐもぐと食べる藤と、腕を組み静かに佇む菖。輝夜の目を受けて藤は微笑むと、一度電子タバコを咥えて白煙を燻らせた。

 

「どうも輝夜殿、隙は埋まりましたかね?」

「まあ暇じゃあなくなったわ。団子はどうよ」

「いい味してますよ。ほら、菖お食べ」

「ん、ああ悪いな。ってなにをさせるか!」

 

  菖の口へと団子を押し込み食べさせてくる藤から団子を貰い、ついつい食べてしまった菖は藤に拳骨を落とす。「食べたくせに……」と言いながら地面に転がる藤を見下ろし菖は鼻を鳴らした。少し顔を赤くして自分で団子を手に取るとまた一つ口へ運ぶ冷徹そうな暗殺者の意外な一面にクスクスと笑う輝夜は菖と目が合い、輝夜は小さく咳払いをして間を開ける。

 

「貴女でもそんな顔するのね」

「私をからかうのは藤と櫟ぐらいのものだ。お節介な奴らだよ」

「ふーん、藤と櫟だけね。ほら、菖お食べ!」

「む……むう、……どうも」

 

  輝夜の手から直接団子を口に貰い、顔を赤くして菖はそっぽを向くとスタスタと離れていってしまう。道中櫟からも菖は団子を口に放られ、そのまま歩き去ろうとしたが小石に躓き情けなく菖は地に転がった。爆笑する藤と櫟、堪らず噴き出した梍と、薄く笑う梓。遠くからも聞き慣れた楠や漆たちの笑い声が流れてきて、その声に菖は飛び起きた。チキリッ、と鳴る鍔の音に笑い声はピタリと止むと、なかったことにして全員元の作業に戻ろうとしたが、それで止まる菖ではない。

 

「貴様ら……それで誤魔化せていると思っているのか? 殺す」

「ちょ馬鹿お前シャレにならん。照れ隠しにしても酷過ぎだ! おい櫟どうにかしろ」

「ではそう言う藤さんをサンドバッグとして差し上げます。あまり張り切ってはダメですよ菖ちゃん」

「ちゃんはよせ、では行くぞ藤。戦前の準備運動だ」

 

  「死んだ……」と呟き引き摺られていく藤に櫟と輝夜は手を振って、ほとんど空になった皿を手に輝夜は厨房へと戻っていった。まだ少し笑いの治っていない楠の隣には妹紅の姿もあり、同じように笑っている。輝夜は二人の隣に腰を下ろすと、残った団子を一つづつ二人に放り投げた。

 

「最後の三つよ、一つは私が貰うけど」

「おいおい、これでツケはチャラにならないからな。ちゃんと払えよ輝夜」

「輝夜の料理なんて大丈夫なの? うちの焼き鳥の方が美味しいと思うけど」

「食べてから言いなさい! きっと屋台に並べたくなるわ!」

「え? これって商品の売り込み? どうします店長、バイト雇います?」

「んー? そうねー、別にいいわよ私は。顎で使ってやるわ」

「はぁ⁉︎ 顎で使うなら私でしょ! 貴方たちの屋台買い取ってやるわ!」

「売るわけないでしょうが」

 

  空になった大皿をてゐは拾い上げると、騒ぐ三人を一瞥して洗い場へと持っていく。遠くから見ている分には、誰も彼も昔からの友人にしか見えない。不思議な来訪者たちのおかげでいつもより明るい輝夜の笑みをてゐは眺め、千三百年前の戦前とは随分違うなあと一人笑った。

 

 

 




どうでもいい設定集 ⑤

料理できる。 楠、漆、梍。

料理できない。桐、椹、梓、菖、藤、櫟、菫。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ①

  青から紫がかり朱色へと。光を失い塗り重ねられた色に空は時間を追って黒へと変わっていく。夕闇の中に浮かんだ満月は、空の色が沈むのに合わせて輝きを強め、影に覆われたように薄暗い大地を覗いている。目から溢れる雫のように、誰に見られることもなく地に落ちる月の結晶。最新の兵器に身を包んだ月の兎は、餅を搗く代わりに幻想郷を叩くためにやって来た。静かな森の中に響く鈴虫の鳴き声。

 

  リーン、リーンと優しい音が地面を覆う色とりどりの落ち葉の下から伸びてくる。それを掻き消すように葉の音を起こし鈴虫の声を玉兎は踏み潰す。一瞬流れた沈黙は、しかし、すぐに少し離れた別の場所から湧き上がる鈴虫の声に包まれた。踏み潰しても踏み潰しても這いずり出て来る生命の声。ただ、一々玉兎も小さな命の声を気にしたりしない。一定のリズムの呼吸を意識し、身の内で暴れようとする感情に蓋をする。考えるのは流れて来る指示と引き金を引くこと。己が身を武力の一矢として律し、いらない思考は隅に追いやる。

 

  情報よりも木々が多い。出だしから違う情報に掻き乱された心を抑えるので精一杯だ。「進軍、進軍」と頭の中でやる気なく繰り返される嫦娥の声に舌を打ちつつ、玉兎たちは足を止めずに進み続ける。目指すは重要拠点。もう間もなく見えるはずの目標だが、肌に張り付く嫌な空気が拭えず、無意識に鳴る喉の動きを感じ玉兎はまた呼吸に意識を集中する。

 

  道中何にも遭遇していない。隠密行動をしてはいるが、それにしても出会わな過ぎだ。幻想の都のはずの幻想郷に妖魔の影が見当たらない。上へと報告したところ、僅かな沈黙の後「逃げたんじゃない?」と不安の残る一言。本当に逃げたのならそれに越したことはないのであるが、姿形のない不安は拭えない。妖と対峙しているような不安は、しかし妖とほとんど遭遇したことのない玉兎たちには言いようのない脅威として眼に映る。そしてその眼に映るものは何もない。

 

  何不自由なく過ごすことのできた月の都。

 

  争い事や戦火とは無縁。最近になって急に人妖、神霊が月に攻め入って来たが、結局は小競り合い。それと相対し戦った者など数えるほどしかいない。月軍の玉兎のほとんどは、都市伝説のようにしかそれを知らず、人妖の時も神霊の時も何かが攻めて来たとしか分からない。そんな不定形な侵略者の根城に踏み込んでいる。神霊騒で踏み込んだ時とはまるで違う本当の侵攻。その時の幻想郷の空気とは百八十度違う静かな都。

 

  一歩。人の手が入っていないと見える広大な森から抜け出して、月明かりが照らす重要拠点の一つを玉兎は見上げる。月明かりを反射するのは紅い肌。夜に映える吸血鬼の館には薄っすらと明かりが灯り、静かに佇んでいる。妖しく輝く館から感じる生命の鼓動はなく、門番の姿もない。首を傾げながらも先頭にいる玉兎は辺りを見回し、後列の玉兎に進むよう手で促した。紅魔館の大きな入り口扉に張り付き呼吸を整える。肩に張り付いた扉をぶち破る瞬間を今か今かと待ち、頭の中で響いた月の女神の号令に合わせ扉を力任せに蹴破った。

 

  館の口から玉兎が雪崩れ込む。その侵入を阻む者はなく、打ち鳴る兎の足音が館の中に反響した。足音を返すのは薄い壁。シャンデリアも絨毯も階段もない。飛び交う妖精メイドの羽音も生命の呼吸も感じず、玉兎たちの呼吸が止まった。

 

「こちら『ろの三』、白玉楼もぬけの殻だぞ!」「『はのニ』、妖怪の山もだ!」「『への一』、命蓮寺も同様!」「『りの五』、地霊殿も空だ!」

 

  一気に流れ込んで来る情報に心が殴りつけられる。一歩足を後ろに踏み出し、紅魔館の現状を伝えようと頭に手を置いた玉兎の目に飛び込んで来る紅い光。急速に強さを増して視界を塗り潰す紅光が窓から伸び、紅魔館を根元から吹き飛ばした。

 

  ────キィィィィィィン

 

  と頭の中で響く耳鳴りになんの音も聞こえない。ふわふわとした浮遊感を削ぐのは肌を焼く炎熱。動ければ地を這う炎から逃れられるが、一度手を引かれれば骨の髄まで炭となる。砕けた木片と燃える大地を満月と共に見下すのは四つの紅い瞳。黒い翼と七色の翼をはためかせ、白い牙を覗かせた。

 

「「ようこそ紅魔館へ、そしてさようなら」」

 

  笑うように呟かれた二重の声が、嫌にはっきり玉兎たちの耳に届く。青い髪の吸血鬼は胸の前で手を合わせ静かに笑い、金髪を振った吸血鬼は右手を前に大きく伸ばし壊れたように高笑う。玉兎たちの体から奪われる大事な核が、たった一人の少女の右手に収束する。右手に浮かぶ数多の『目』を宝石をのぞむように眺め、「盗んじゃった」と、破壊の使者は小さく舌舐めずりをした。ゆっくり握り締められる少女の手の動きに合わせてヒビの入る玉兎の身体。

 

  止めろ! 頼む! 命だけは!

 

  侵攻して来たと言っても、命の危機には変えられない。阿鼻叫喚の声は至上のオーケストラ。破壊の音と濁流のような悲鳴に耳を澄ませて吸血鬼たちは静かに笑う。救いを求める声はご馳走で、歪んだ顔は最高の名画。玉兎は手を伸ばす相手を間違えた。人差し指を一本立てる姉の姿に妹は小さく頷いて右手を握り締める。パキリッ、と砕けた音に合わせて玉兎が爆ぜた。地と鉄と木片が降り注ぐ光景を見上げる玉兎が一匹。同じ玉兎の波長は周りから消え、代わりに小さな足音が二つ両脇に落ちる。鋭い爪に頭を掴まれ玉兎の瞳にねじ込まれるのは紅魔の主の歪んだ笑顔。

 

「動くと喉が乾くわね。戦いは続く、貴女に私たちの喉を潤す最初の栄誉を与えよう。玉兎の血は美味しいかしら?」

 

  叫び声を肴に牙が二つ突き立てられた。行儀悪くぽたぽたと血溜まりを広げながら、玉兎の体から命の泉が溢れていく。水を失った枯れ木のように絞られた玉兎の体を小枝のように二つに千切り、レミリアとフランは口を拭って放り捨てた。森で蠢く命の叫びに耳を向け、姉妹二人顔を見合わせ小さく笑うと思い切り大地を蹴る。

 

 

 

 

 

 

 

  視界を走る銀線に、瞬きをすることも忘れ玉兎は立ち尽くしていた。放つ弾丸が当たらない。銃弾の雨を縫うように走る銀の線は三つ。鮫の背びれのように隙を割り迫る大太刀の刃。流水のように静かに流れる半霊の長刀。そして蝶のようにヒラヒラと舞う亡霊の刃に、玉兎の肌は優しくなぞられた。

 

  落ちる腕。崩れる足。小さく赤い線を引く肌。傷の大小は関係ない。刃に斬られる。斬られりゃ死ぬ。その死の実感と共に玉兎の視界は暗転する。刃が触れれば死が訪れる。当たり前だが、その目前に迫る恐怖に足が竦み、次の瞬間にはバターにナイフを入れるように音もなく刃が肌に埋まった。小さく指を切っただけでもその細い糸を手繰り寄せて死が手を強く伸ばしてくる。その手を振り払うことは叶わず、暴れても喚いても一度掴まれれば最後。

 

  分かりやすい暴力でもなく、迸る妖力でもなく、ただ静かに確実に首を握り潰す死の姿と得体の知れない恐怖に、玉兎たちの口からは同じような言葉が漏れる。

 

  死にたくない。

 

  その命の極限に絞り出された想いの結晶は、しかし、簡単に摘まれる。いつか必ず生者に訪れる死が今来ただけの話。冥界という死の総本山に踏み込んで、生を謳うことこそ馬鹿らしいことはない。この場で命を支配するのはただ一人。いつも隣に居て離れない親愛なる隣人である死と同じように、優しく微笑む妖艶な少女。地面に転がる動かぬ人形たちにいつしか諦め膝を折った玉兎に、少女は静かに近寄り死を授ける。血に濡れ微笑む幽々子の頬の血を目に留めて従者はハンカチを手渡し、風来坊は兎の空を蹴る音に耳を這わせた。

 

「お見事です、幽々子様。腕は落ちていませんね」

「妖忌に三百年も剣術指南を受けていたんだもの、たまにはね。それに弾幕よりもこの方が死を実感できる」

 

  刃に指を這わせる亡霊の姫の姿に妖夢は口を引攣らせる。普段なら絶対見ることのない亡霊の剣鬼の珍しさ。剣術指南役としての肩書きも持つ妖夢だが、その役目はほとんど必要ない。理由は単純、幽々子の剣の腕は妖夢が教えるようなものではないからだ。本当なら妖夢の方が幽々子に剣術の手解きをして欲しい。

 

  「三銃士〜」と、笑いながら妖夢と桐の間に立つ幽々子に妖夢は少し困り、桐は非常に真面目な顔で幽々子を見つめている。その見たこともない桐の真剣な顔つきに妖夢は大いに引いた。「どうしたんですか?」と、嫌々ながら聞かないことには分からないため妖夢は桐に声を掛けようとしたが、スッと手を挙げ桐は妖夢の言葉を制す。

 

「今姫様の姿を目に焼き付けているところです。邪魔をしないでいただきたい!!!!」

「えぇぇ……」

 

  怒られた。と、理不尽な桐の怒りにドン引きする妖夢の横では、あらあら笑いながら刀を肩に掛け見せつけるように幽々子が一回転。これには桐も渾身のガッツポーズ。

 

  普段の緩やかな幽々子の着物姿はなく、白い襷を背に十字に掛けて袖を挙げ、着物は崩され、裾は切り取られたように短い。覗く生足の艶かしさからは目が離せず、袴履けばいいじゃんとか無粋なことは言ってはいけない。

 

  「敵来てます」と前を指差す妖夢の訴えに、桐は前髪を一度弄り、大太刀を強く握り締めると不埒な侵略者に向けて一歩を踏み出しそして止まった。桐は居場所を決めた。白玉楼こそが桐の終着点。身を焦がすような情熱を刃に乗せて、炎の線が空に引かれる。それを更なる一歩で押し出して、炎の刃が空を飛ぶ。焼き別れた玉兎を見上げて、妖夢は目を見開き幽々子は笑う。開戦の狼煙は挙げられた。その熱に乗って舞い上がるように三者三様の剣技が空を走る。

 

「ようこそここは白玉楼。こここそが死地、貴女たちの行き着く先」

 

  首を斬り落とすギロチンは避けられない。処刑場に繋がれたように、迫る死もまた避けられない。穢れの極地に座す姫に、静かに死へと誘われる。

 

 

 

 

 

 

 

  千切っては投げ、千切っては投げ。地底は暴力の釜である。玉兎の叫びは振り抜かれた拳の音に打ち抜かれる。考える時間も瞬きをする時間もない。弾丸も弾幕も関係なく、その身一つで受け止め駆け抜け迫る拳。先頭にいる者が倒れようとも、気にせず振り向かず力を振り抜くためにただ迫って来る。

 

  鬼、鬼、鬼。

 

  額から伸びる角は強さの証。揺らめく角が全てを砕きにじり寄って来る。玉兎の叫び声と鬼の笑い声の二色に地底は染まっていた。止まらぬ進撃を止めようと、ガトリング砲を取り出す玉兎の斉射に数多の鬼が崩れ去る。薄っすら笑みを浮かべた玉兎の身を影が覆い、その口角は一気に下がった。百鬼夜行を率いる鬼の大将、地底の天蓋を削りながら頭を揺らす巨鬼の拳骨が、蟻を潰すように玉兎を潰す。

 

  最新式の機関銃も、月の兎もちっぽけであることに変わりはない。強大なただ単純な暴力に、口に含んだ飴玉のように砕かれる。それを狙撃銃のレンズ越しに遠目で覗いていた玉兎は一瞬呆けた後狙撃銃を握り直したが、飛んで来た人影に潰されて引き金を引かずに終わった。紅い角を振り回し、手近にあるものを強引に手で引っ掴み怪力乱神が投げ飛ばす。手に持つ瓦礫も玉兎も砲弾と一緒。空を裂き肉を裂き地底の壁を打ち壊し赤い花を咲かせて崩れる脆い砲弾に呆れながら勇儀は動かす手を止めない。

 

  暴力の間を縫って隙なく暴力を差し込む仙人は肩を竦めながら、形ない右手を滑らせ玉兎の足を引く。いや、引くなどと生易しいものではない。そのまま足を握り潰し千切飛ばす。吹っ飛ぶ玉兎の欠片を頭に受けてそこを指で掻きながら、萃香は宙に跳ねた玉兎の欠片を叩き落とした。地に落ちるまでもなく手に張り付いた赤い色を服に擦り付けこそぎ落とし萃香は一歩を踏む。

 

  性能が違う。言ってしまえばそれまでの話。生まれながらに存在の強度が違い過ぎる。同じように息を吐き、同じように生きているはずなのに、一体なぜこれほどまでに違うのか。鬼に生まれなかったのが悪いと言ってしまえばそれまでだが、そんな言い訳を考える暇もなくただ災害のような暴力に怯える。

 

  つまらん、つまらん。

 

  と愚痴をこぼしながら萃香は小さく縮み、酒で心の隙を埋めた。

 

「歯応えがなさ過ぎる。楠たちと遊んでた方が楽しかったよ」

「それを言っちゃあおしまいだね。はぁ、梓と殴り合いたいねぇ」

「そうですね、菖とまたやりたいわね」

「あ、いいの? 仙人がそんな好戦的でさ」

「うるさいわよ萃香、今は無礼講でしょ」

「これが終わったら異変でも起こすかい? 相手は平城十傑でさ」

 

  それもいいかもと鬼たちは笑いながら、また暇を潰すように腕を振るう。そんな力の津波を見下ろしながら息を零すのは地底の主。力が跳ね除け溢れた月の兎を三つ目の瞳で見つめ、その心に浮かぶ闇を呼び覚ます。今生まれたばかりのトラウマを、熱いうちに叩くように再来する鬼の拳に玉兎は目を瞬かせ、質量のない拳に心を殴りつけられる。当たらずとも当たろうと心を砕く鬼の脅威に、玉兎の心は壊れていく。

 

「地底にようこそ。忌み嫌われた私たちの相手をしてくれるなんて優しいですね」

 

  優しく伸ばされた手を握り潰す。綺麗な花には棘がある。地底に咲く花は綺麗だが、その棘の長さもまた長い。地底の花に手を伸ばした玉兎たちは、その鋭い棘に見事に指を食い千切られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  そよぐ風は刃。捲き上る石は拳。妖怪の山に踏み入った玉兎たちは、手では掴めない災害の渦に巻き込まれて、上下左右の感覚を失っていた。いくつもの暴風を束ねられ、少しでも近づけば引きずり込まれる。普段肌を叩く心地いい風が牙を剥く。噛み砕かれる玉兎たちの間を木の葉のように踊る黒い翼。兎の耳を引っこ抜くようにそれを睨むのは天狗の瞳。風に隠れるように光る黄色い視線は刃物のようで、一瞬それを見た玉兎の視界はすぐに掻き混ぜられて見えなくなる。

 

  天狗は偉いから天狗なのではない。天狗だから偉いのだ。空に浮かび地上の者を見下ろす月の者を天魔は見下ろし、渦の中心の上空で偉そうに足を組んだ。風のミキサーに細切れにされていく兎の肉の音に耳を澄ませて、指を回し風を吹く。

 

「妖怪の山によく来てくれた。登山の手伝いをしてやろう」

 

  空に巻き上げ肉をばら撒く。妖怪の山は、飛び散る玉兎の血肉を摘み食いしながら空を舞う天狗たちの餌場でしかない。吹き荒れる風がやすやすと侵略者を連れ去ってしまう。隣で羽ばたく翼の音に天魔は目を向け、腕を組んだ文がその目に小さく頭を下げた。

 

「雑兵ならこの程度か。文、しばらくはこれを維持しなければならない。お前もたまには働けよ。ここで力を振るっても私のせいにできるのだし」

「はいはい、貴女も変わらないわよね。動くのが好きなら天魔になんてならずに私みたいにのらりくらりしてれば良かったのに」

「仕方ないだろう。どっかの鴉天狗のやる気がないせいで私がやるしかなかったんだもの。ただ天魔にも楽しみはある」

「それは?」

「偉ぶれる」

 

  鼻を鳴らす天魔に呆れながら、文も黒翼を羽ばたかせる。蠢く風が幻想郷中の風を吸い込み、その風の運んでくる噂に腕を摩った。

 

「天魔様、全体的に動き出したようですよ。吸血鬼、亡霊、宗教家たちが大きく玉兎を囲みながら魔法の森を目指しています」

「全く、急に下手に出るな。ではもう暫し我らは翼を燻らせようかな。虎穴から虎が出るまでまだかかりそうだ」

 

  風の強さが増していく。天まで届くバベルの塔のように高く厚く、巨大な建造物のように聳える風の社は打ち崩れず、幻想郷に渦を巻く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーもう何やってんのよ! 地上の者風情に掻き回されちゃってまあ」

 

  飛び交う悲痛な通信に頭を痛ませて嫦娥は椅子に深く沈む。未だ居るのは月の都。歓喜の声は一つもなく、ただ叫び声一色。うっさいと玉兎の波長をスイッチを切るように打ち切って、嫦娥は雑に頭を描いた。予想はしていたのか、依姫も豊姫もサグメも取り乱すことなく静かに椅子に座し、そんな三人の顔が苛つくと嫦娥は舌を打った。

 

「なによ、こうなるって分かってたっての? 余裕そうね豊姫。玉兎を送ったのは貴女でしょうにね」

「幻想郷は彼らのホーム。名を馳せた人妖が相手なのだから楽に進むわけもない。だから広域殲滅兵器を投下した方が楽だったのに。まあ幻想郷を包む結界の強度が下がってるって報告が上がってきてるしどっちみち使えないけれど。現状は?」

「重要施設を狙って行った玉兎はほぼ壊滅、地底に至っては全滅ね。どうするのよ」

「取り敢えず第二波を送るとしましょうか。もう少し装備の固めた者たちをね。どうかしら依姫」

 

  組んでいた腕を解き、衛星が写す幻想郷の映像を見つめながら小さく依姫は頷く。

 

「第二波で粘り一箇所に敵を誘導し、残りの大部隊で回り込み一気に叩くのがいいと思うわ。そうすれば数でもこちらが上回りそれで片がつく。広く場を使っても時間が掛かるだけでしょうから」

「質の高いのが何人かいるし、勝てても消耗戦は望むところではないものね。ほら嫦娥、華を持たせてあげようというんだから動かしなさいな」

 

  「そりゃどうも」とため息を吐きながら指を振った嫦娥の周りに紫電が散る。月の女神の毒電波を受けて耳をビクつかせる玉兎たちの内面を感じながら、玉兎たちの中で吐き出される毒素に楽しげに稚児髷を揺らした。葛藤を持たぬ穢れなき悪意。毒婦嫦娥の笑みに三人は小さく肩を落とす。

 

「そんな退屈そうにするならもうさっさと貴女たちが攻めに出ればいいでしょうが、そうすればすぐに終わるのに」

「どうせ出るなら今出ても乱戦に巻き込まれて楽しめないでしょう? それに誰がどこにいるのか分からないと送りようも行きようもないし」

「なによ豊姫、戦いたい相手でもいるの?」

 

  嫦娥の問いに豊姫は少し考える。思い浮かぶのはスキマ妖怪と亡霊。どちらも扇子で消しとばしたいところだが、どちらを先に潰したいかと言われれば決まっている。

 

「八雲紫には私が会いに行きますわ、依姫はどう?」

 

  豊姫に言われ依姫は再び緩く腕を組んだ。吸血鬼、メイド、巫女、魔法使い。一度月に攻めに来た人妖たち。その時のことを思い出し薄く依姫の口が持ち上がる。そんな者たち以外にも月に侵入してきた暗殺者もいる。手を合わせる相手は色とりどり。その中でも一番を選ぶなら誰か。

 

「霊夢にはまたお仕置きが必要かしら。私が出るわ」

「はいはい、相手が決まってて羨ましいわね。サグメはどうよ」

 

  目を閉じるサグメの脳裏に浮かぶのは、異変解決にやって来た者たち。神霊騒動の際はこれ幸いと今日のために幻想郷に手を出したが、神霊を追い払うために期待したのも確か。そしてその期待を見事に背負い切った。依姫も豊姫も嫦娥も楽しげにしているが、サグメはどうにも嫌な予感が拭えない。イレギュラー。その存在が月を救ったように、月を穿つ銀の弾丸に成り得るかもしれない。事態が未だどう転ぶか分からず口を開きかねる。だが、事態が読めないからこそ、取り敢えず一つ小石を投じる。

 

「鈴仙」

「ああ言うのね、会えるかどうか知らないけど」

「そう言う嫦娥は? あの神霊が出てくるんじゃなくて?」

「はあ? 純狐が? まあ今なら会ってやってもいいけどね」

 

  頬杖を突きにやけた嫦娥の表情に、残る月人たちは肩を落とした。純狐。月人をして面倒な相手。万物を純化させる神霊と、他の者を誑かし物のように操る嫦娥。その二人の闘争がろくなものにならないことは容易に想像ができる。泥沼となりそうな戦場を思い描き、中でも玉兎を送る豊姫は大きなため息を吐く。

 

「まあなんにせよ、あんまり前戯が長いと白けるし、どうせ出るなら早く出番が欲しいわね」

「はしたないわ嫦娥。でもそうね、地上の者がもう少し頑張ってくれればですけど。玉兎に負けるようなら私たちが出ても無駄」

 

  できることなら労力は抑えたい。勿論玉兎のことではなく、月人のこと。玉兎をどれだけ消費しても関係ない。問題は月の民がどれだけ楽ができるか。表面上優しく接しても、所詮は月人にとっての消耗品。豊姫の後ろの壁際で、ここにいることを感謝しつつレイセンは仲間の冥福を祈った。

 

  ただ静かに口を挟まず眠ったように動かない月夜見はなにを考えているのか。

 

  それは月の神だけぞ知る。

 

  天に輝く満月が瞳のように幻想の都を見下ろす姿が、本当に月の神の瞳であると気付いている者は何人いるか。ただ全てを眺めながら、月夜見は小さく笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結果はまずまず、ですかね」

 

  幻想郷の森の中。遠くから聞こえる喧騒を感じながら、広げられた幻想郷の地図、盤面の上に櫟は鉛筆を走らせた。鈴仙たち地上の兎と遠く景色を覗く白狼天狗と鴉天狗の話を聞きながら、ひっきりなしにやってくる鴉天狗たちの報告を纏める。

 

  どこも勝利。その結果の速さこそまだ敵の将が来ていない証。簡単に得られた勝利にうつつを抜かすことはできない。出頭に月人に遭遇しても困るが、いつまでも来ないのもまた困る。「どうするの?」と聞いてくる鈴仙の言葉に櫟は頭を回し、盤面の上にまた鉛筆を置く。

 

「第二次の話は聞いていますし、月人もその相手は気にするはず。こちらの強者をチラつかせながらこのまま誘導するとしましょう。敵の全軍はまだ来ない。勝利を決めようと思うまで動かないでしょう。それまではこの勢いに乗って、敵の思惑に乗ったフリといきましょうか。序盤は優勢、中盤は敵が動いてからが勝負。それまでは耐えるだけですよ」

 

  消極的に見えてもこれは防衛戦。こちらから月に出向くわけではない。敵の将を引っ張り出せてからが本当の勝負。優勢と言っても、雑兵同士の戦いでは勝負にならない。既に幾人もの天狗や鬼、河童など、妖怪が玉兎の兵器の前に倒れている。今勝てているのは幻想郷の大駒を既に動かしているから。

 

  切れる手札は多くはない。周りが静かでも櫟は戦場の中にいる。そして平城十傑も。ペンを手の上でくるくる回し、櫟は小さく息を零した。そんな櫟の姿に鈴仙は耳を揺らし、その隣へと歩み寄る。

 

「どうしたの? なにか問題?」

「……いえ、将が来れば一気に被害が増えるでしょう。それを思うと今から気が重い」

「でも櫟のことだからもう戦い方は決めてるんでしょ?」

 

  鈴仙に微笑を返し櫟は盤面へと顔を戻す。勿論決めている。動きの決めている者たち以外、ゲリラ戦術を取り広域に展開している平城十傑。幻想郷という戦力を借りておきながら、自分たちがなにもしないなどあり得ない。将が来れば短期決戦。時間を掛けるだけ勝率は下がる。どこに将が降りてもいの一番に平城十傑をぶつけるため。まず切る手札は平城十傑であるべきと、分かっていても、その結果が分からないが故に、言いようのない不安が拭えない。

 

「……勝ちますよ」

 

  呪いのようにその言葉を呟く櫟の背を鈴仙は見つめ、ホッと息を吐き肩の力を抜く。櫟の頭が煮詰まった時はぶっ叩けと言った藤の言葉を思い出しながら、嫌な役を押し付けられたとその時が来ないことを願う。

 

「敵の第二波が来るよ。暴風ドームになってる山は避けて魔法の森に集まろうとしてるみたい。こっちの外側に展開するみたいだよ」

「ではやられるフリをしてそのまま第二波を魔法の森に誘導、気を見てこちらが優勢になるように動きましょうか。清蘭さん準備を」

「あいあいさー」

 

  鈴瑚の報告に櫟は頷き、月の狙撃銃を担ぐ清蘭を近くに呼ぶ。目は見えずとも遠くの戦況を肌で感じられる櫟と、異次元から弾丸を飛ばす清蘭の狙撃コンビが動き出す。

 

  序盤は幻想郷が上を取った。戦いは中盤へと動いていく。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ②

  霧雨魔理沙は乾いた喉を鳴らした。

 

  住み慣れた魔法の森の空気が、血と鉄の匂いに侵略されている。化け物茸の胞子も魔力や妖力とのぶつかり合いで摩擦によって爆ぜ、空気の中に火花を散らし舞っていた。黒い空に反射して赤い色が空気を満たし、その中で箒をくねらせる魔理沙の視界には、見慣れた木々の間に妖怪が転がり生々しい匂いを放っている。ぼんやりと見送るそれが三重に見え、魔理沙は頭を叩き意識を起こした。

 

  魔法の森の至る所で生えている幻覚作用のある茸が、火に炙られて空気を汚染していた。血の匂いに紛れて分かりづらくはあるが、少しずつ魔法の森に踏み入っている者たちの脳内へと手を伸ばしている。

 

(最悪だぜ)

 

  控えめに言ってもそうである。見慣れた住処が、本当の存在を隠しているとはいえ砕けていくことではない。弾幕ごっことは違う華麗さの欠片もない銃弾の雨。木々を穿ち、肉を食い千切り、大地を抉る。玄武の沢で普段騒いでいる河童が、妖怪の山で偉そうにしている天狗が、紅魔館の妖精メイド、地底の鬼、見知らぬ顔が多いが、何度か見た顔もある。

 

  腕が捥げ、足が取れ、人形のように転がるそれは血溜まりの中に沈み、光のない瞳はただのガラス玉。物言わぬ人形と化した妖怪たちの骸にかける言葉などなく、魔理沙はただ歯を噛み締めるのみ。

 

  戦いなどと、どこか夢物語のように思っていた。

 

  これまでえげつない異変もあったが、最後には宴で誰もが騒ぎ丸く収まる。そんな最後は訪れないと思える戦い。

 

  月軍が攻めて来る。菖のお陰でその触りは知ることができたが、渦中に巻き込まれればまた違う。生物のように這いずる死の気配に魔理沙の肌は産毛立ち、いつまで経っても治らない。不意に飛んで来た肉塊を魔理沙は頭を下げて避けるが、飛び散った血糊が顔に張り付いた。

 

  飛んで来たのは腕か、足か、それとも頭か。

 

  そんなことはどうでもよろしい。目に血が入らないように顔を擦った手に付く赤い色。そのあまりに生々しい匂いと感触に、言葉にならない想いが喉からせり上がって来るのをなんとか飲み込もうとする。

 

  そのむせ返るような匂いが、これは夢ではなく現実である。と、少女の幻想を塗り潰す。

 

  なぜこうなったのか?

 

  理不尽。葛藤。焦燥。

 

  頭の中でぽこぽこと浮き上がる言葉がどれも正解で不正解。弾幕ごっこはまだ楽しいと言える。だがこれに楽しいなど微塵もない。あるのはただ恐怖と侮蔑。早く終われ! と子供のように祈る魔理沙の肩を鉄礫が擦り、僅かに体勢が崩れた。

 

  揺れ動く視界に入り込む兎の耳。

 

  鈴仙のようなブレザーではなく、生物的な外装を引っ付けた玉兎に口端を歪め、死の足音を遠くへ追いやるように腰から魔法瓶を取り出し投げつける。

 

  閃光を上げて青い煙を立ち上げる爆風に飲まれた玉兎にホッと魔理沙は息を吐いたが、揺れる兎の耳の影が爆煙を引き裂き一歩前へと抜け出した。

 

  弾幕ごっこから大分威力を上げた魔法薬を物ともせず、目に映る標的をただ穿つための殺人マシン。目を見開いた魔理沙を追って死の口が揺れ動く。

 

  吐き出される牙になんとか魔法障壁を張り身を守ろうと腕を伸ばすが、月の牙は容易く食い破り魔理沙の足を薄く削った。痛みなく垂れた赤い跡を一瞥し、魔理沙は笑いながら目尻に雫を溜めた。

 

(もうわけ分からん)

 

  なぜこんなことをしているのか。

 

  なぜ月軍はやって来たのか。

 

  どの理由も分かっているが、理解と納得は別である。

 

  普段何気なくやっていることが、なぜかこんな時ばかり頭を過る。

 

(パチュリーに本返さなきゃな。もうちょっと霊夢の飯が食べたかったぜ。チルノとはもう少し遊んでも良かった。アリスと人形劇を一度くらいしたかった。それに親父と……)

 

  上げ出せばキリがない。歯止めの効かなくなった欲望の渦に目を瞑り、ただただ耐えることに意識が移ったが、思い出されたように身に走る痛みは足からやって来る一つだけ。

 

  薄く目を開けた魔理沙のぼやけた目の先で、玉兎の身体は真っ二つに胴から崩れ去り、その背から二刀を揺らす人影が姿を現わす。

 

  いつも擦り合わせている口は弧を描き、鋭い歯と目はギラギラと満月の月光を反射し獣のように光っている。その二つの瞳が木を背に腕を出して座っている魔理沙を見つけると、鋭い目を柔らかく曲げて立ち止まることなく歩いて来た。

 

「無事か魔法使いさんよう、腰でもやったか?」

「……楠」

 

  博麗神社に通ずる一本道で一緒に散歩をする時と同じ。

 

  いや、『博麗神社に行く』と、不機嫌にいつもは歯を擦り合わせているところが笑みのことを考えれば、いつも以上に気楽そうな様相だった。魔法障壁を張るために伸ばしている魔理沙の手を引こうとし、一度未だ消えない魔法障壁に手を弾かれると、楠は呆れたように笑い、楠の手が魔法障壁を擦り抜け魔理沙の手を掴んだ。

 

「魔法の森ってのはアレだな、なんか鼻がピリピリするな。藤さんの白煙でこういうのは慣れちゃいるんだが、こんなとこには住みたくないな」

「……ははっ、私住んでるぜ?」

「マジで? 魔法使いの嬢ちゃんて実はドMか?」

 

  いつもの調子の楠に魔理沙の肩から気が抜けるが、がさりと揺れた木々の間から兎の耳が伸びて来て、すぐに魔理沙の体が再び強張る。間髪入れずに吐き出された銃弾を、「おっと」と魔理沙を抱えながらお使いにでも行くような気楽さでふらりと楠は避け玉兎に近寄ると、躊躇することなく腕を振るい玉兎の首を両断した。

 

「鎧着たやつらが外側から来てる。苦戦したフリしてここに止まれって鼠が紙咥えて伝えに来たぜ。気を見て穴を開けるからそしたら狩っていいってさ」

「いや、狩っていいって……」

 

  追いかけているのはただの兎ではなく玉兎である。それは魔理沙も楠も分かっている。だが、敵に対する感情がまるで異なる。

 

  どこかしらから飛んで来たのは銃弾を呆れながら楠は弾き、魔理沙の肩に手を置いて身を寄せ、ふらりふらふらと歩き出す。蜃気楼のように揺らめきながら、まるで実体がないように。霞の中を歩いているようなふわふわとした浮遊感に魔理沙は包まれて、「女子と歩くならデートの方が良いよなぁ」と場違いなことを口遊んでいる楠を見上げる。

 

「……楠、恐くないのか?」

 

  異常だ。

 

  ただでさえ楠の振るう技は異常であるが、それにしたって気負わな過ぎる。戦いが苛烈であるほどに笑みを深める鬼の姿を魔理沙も知っているが、そんな姿に近い。

 

  凄惨な戦いは霊夢だって顔を顰める。咲夜だって、早苗だって、妖夢だって、元軍人の鈴仙だってそうだ。

 

  だが、楠の姿はこここそが居るべき場所と言うようで。

 

  頼りになると言うより不気味でさえある。そんな魔理沙の心配をよそに、楠は少し考えるように口端を落とすと、「恐いな」と呟いた。その言葉に少し魔理沙は安心したが、「何もできずに終わるのがな」と続けられた言葉に魔理沙は息を飲む。

 

「俺たちは千三百年待ってたんだぜ? 寧ろ少し気が張り過ぎて抑えるのに必死だ」

 

  ずっとずっと刀を振ってきた。

 

  雨の日も風の日も。

 

  何人も何年も。

 

  刹那の死より永遠の無価値が恐ろしい。

 

  それも全てこの日のため。今ここに居るために振ってきた。

 

  視界の端に揺れる兎の耳に笑みを深め、すれ違いざまに刀を振って首を落とす。狂気のドライブスルーで注文する口は必要ない。かぐや姫を守るよりも何よりも、全ては月軍を穿つため。その今に身を浸している。血溜まりに足を落としても、妖の骸が視界を掠めても、何より目に留まるのは玉兎の耳。

 

  それが揺れる度に楠の心も揺れる。その揺れが腕を揺らし刀を揺らせる。その揺れが月軍を揺らし勝利を零すと信じて。夢見た終わりのために牙城を崩す。

 

  強張った魔理沙の顔に楠は刀を握ったまま額を指で掻き、魔理沙の肩に回している手で軽く肩を叩く。安心しろなどという言葉は銃弾が四方八方から飛んでいる場で効果があるのか。困ったことに女性への気の利いた言葉など山奥の寺で楠は習っていない。厳つい爺と向かい合っていた数年間は剣術ばかりが思い出としてあり、実生活にマジで使えねえと楠は小さく肩を落とした。

 

「まあ大丈夫だって。恐いならアレだ、ほら、楽しみは後でとっとくみたいな感じで、楽しい未来に想いを馳せる的な? 俺だってこれが終わればなんだって好きなことができるんだ。やりたいことが色々あるぜ! カラオケに行ってみたいし、旅行したいし、恋人欲しいし」

「ははっ、なんだそりゃ」

 

  あまりの楠の俗っぽさについつい魔理沙は笑ってしまう。鋭い顔つきになっても結局楠は楠のままだ。やりたいことがいっぱいあるなどと、それは魔理沙も同じであり、とんがり帽子で少し顔を隠すように少し俯いた。

 

「やりたいことか、私もまだまだたくさんあるな」

「ほういいじゃんか。何したいんだ?」

 

  「そうだなぁ」と言いながら魔理沙は帽子のツバの切れ間から楠の顔を目だけ動かし少しの間から見つめると、悪戯っぽい笑みを浮かべる。楠からはそれが見えないように隠しながら、陰鬱な気を払うように一度小さく咳をして真面目そうな顔に作り変える。

 

「魔法の研究とか、霊夢にだって勝ちたいし、幻想郷は女っ気しかないから私も恋人は欲しいなぁ。今度デートしてみるか?」

「えぇぇ……魔法使いの嬢ちゃんと?」

 

  大変苦く楠の表情は歪む。思い起こされる焼き鳥屋台での数日。霊夢に奪われ、魔理沙に奪われ、ろくなことが一つもない。思った返し方と違う返され方をして、流石の魔理沙も少しムッとした。

 

「朝の散歩みたいに一日中ダラダラ歩く分ならいいだろ?」

「まあそれなら。博麗の巫女さんと人里練り歩いた時よりマシそうだ」

 

  その楠の言葉に、「あっそ」と言いながら微妙に不機嫌になる霊夢の姿を思い浮かべて魔理沙は苦笑し、目の前を銃弾が通り過ぎその顔のまま固まった。

 

「敵の数が増えてきたな。包囲が狭まって来たと見える」

 

  敵の姿以外にも楠と魔理沙の視界にちらつく見知った顔。魔理沙と同じように血を貼り付けた妖夢や、幽々子、椹や梓の姿を見て二人して少し肩の力を抜いた。

 

「魔法使いの嬢ちゃんは近接戦闘が苦手みたいだし、俺に張り付いてろ。なに、気にすることはないさ、魔法使いの嬢ちゃんが必要になる時が来るさ」

 

  魔理沙を伴いゆらりと揺れる。戦場の中を踊る炎の翼を追って、楠は妹紅の側へと戻っていった。魔理沙は懐の八卦炉を握り締め、今はただ戦場の喧騒に揉まれる。夜空を引き裂く閃光を吐き出すのはまだ先だ。その時びびって引き金を引けないことだけはないように、ただ指を掛けたまま覚悟を固める。

 

 

 

 

 

 

 

 

  鉛筆を強く握り締め、櫟は肌を撫ぜる戦火の風に集中する。時間を追うごとに間隔が短くなりやって来る切羽詰まった報告を纏め、なんとか最適解を導くために頭を回す。

 

「寅丸星負傷! 聖白蓮も軽傷です!」「紅美鈴、十六夜咲夜も同じく軽傷!」「天狗伝令役、い、に、へ、ち、死亡!」「河童迷彩部隊全滅!」「霊烏路空負傷! 火焔猫燐軽傷!」「リグル=ナイトバグとミスティア=ローレライは重症です!」「わかさぎ姫と赤蛮奇も同じく重症!」「九十九姉妹も負傷しました!」

 

「戦域を動かすわけにはいきません。紫さんと何より慧音さんの居場所がバレないように。怪我人は内にして成美さんに治療を、鬼や楠さん桐さん梓さん妖夢さん影狼さんを外側に。もう少しだけ包囲網が狭まるまで耐えて下さい」

 

  遠く離れていても櫟の耳に届く色とりどりの悲鳴。遠く赤らんでいる空を見つめなくても、そこがどれだけ死地となっているかは肌で分かる。肌にチクチクと突き刺さる叫喚と妖力、魔力の爆ぜる音に腕を擦り、ただ必要な瞬間を待つ。

 

  装備を固め送られて来た第二波に、幻想郷側の被害が一段と増した。月の装甲服をものともしない者はいい。萃香や勇儀や白蓮の怪力。隙に刃を差し込む妖夢と神子と桐と梓に菖。壁を透ける楠と青娥。問題なく技の通る漆、菫、梍、お空など。だが、そうでない者は玉兎の足を止められても一方的にやられる他ない。

 

  波長を読み姿を消そうとも追って来る玉兎の眼。時に姿を隠すことのできる能力。それに加え一定以下の攻撃は意味を成さない装甲服と、同士討ちにはならない重力を用いた重い弾丸。均一化された戦闘力。能力にバラつきのある幻想郷の者たちでは、数と数でぶつかった場合どうしても弱い方から削れてしまう。そして残った強者が今度は数で削られる。

 

  優しさは邪魔だとまでは櫟も言わないが、仲間を庇い早々に削れてきた白蓮やお空には歯噛みする。火力で言えば上から数えた方が早い二人。敵の将が出るより早くそれが削れる。

 

  だが嬉しい誤算もあった。十五夜の満月。上白沢慧音と今泉影狼の力の増大。幻想郷の隠蔽が想像以上に上手くいき、影狼のおかげで戦力としての強い手札が一枚増えた。

 

  フランケンシュタイン、吸血鬼と並ぶ三大怪物が一柱『ウェアウルフ』。狼の語源が大神であると言われるように、崇拝対象とまでさえなる怪物。人間の約百万倍と言われる嗅覚、十倍はあるという聴覚。速さと強さを兼ね備えたしなやかな肉体。影狼はあまり他人に満月の時の姿を見せたがらないが、今日ほど頼りになる時はない。桐とともに縦横無尽に戦場を駆け、負傷者の救出と敵の牽制に大きく貢献している。

 

  玉兎の中でも上位に食い込む鈴仙のおかげで姿を隠しながら、圧縮鍋の中のように煮詰まっていく魔法の森の空気に瞼を開けて、櫟は目に空いた黒穴に熱気を吸い込む。脳を直接撫で付けるような空気に口の端を大きく引っ張り櫟は清蘭の名を呼んだ。

 

  大きく兎の耳を揺らし、清蘭は喉を鳴らし銃を構える。銃口を向けるのは何もない虚空。目で標的を目視することは叶わず、肌で戦場の空気を感じる事もない。唯一分かるのは揺れ動く数多の波長。長短、高低、ごちゃごちゃと絡まった波長が重なり合い、見ているほどに目がチカチカする。

 

  冷や汗をダラダラ垂らし奥歯を噛みしめる清蘭の肩に櫟は手を置いて、やるべきことはチューニング。清蘭がどの波長へ向けて弾丸を飛ばすべきか、モールス信号のように波長の長さに合わせて清蘭の肩を指で叩き標的を合わせる。遠く波長の主は映らない生命のうねりと櫟の指の動きが同調し、清蘭の指が引き金にかかる。

 

  そして、

 

  清蘭はそのまま固まった。

 

「……清蘭さん?」

 

  櫟の静かな声が清蘭の背を撫でる。

 

  その声に一度清蘭は顔を俯き、狙撃銃を構え直して唇を舐めた。

 

  睫毛の上に乗る冷たい雫に目を擦って、引き金に指を掛ける。

 

  そのまま清蘭は指を押し込もうと手に力を入れるが、自分のものではないと思うほど動かない。

 

「清蘭さん、引き金を。時間を掛けるだけ被害が増えます」

「……わかってる」

 

  何度か呼吸を整え、清蘭はレンズを覗き波長を見る。

 

  吐き出す弾丸は重弾ではなく、敵を穿つ銀の弾丸。

 

  玉兎へと向けて銃弾を飛ばす。その意味に清蘭の歯は噛み合わず、食い縛ることで無理矢理噛み合わせる。

 

「清蘭さん、早く」

「……わかってるって」

「清蘭さん」

「……うん、おっけーおっけー」

「清蘭さん」

「あいあいさー」

「清蘭さ、っ痛!」

 

  「落ち着きなさい」と鈴仙に拳を頭に落とされ、櫟は頭を摩りながら振り向いた。叩かれる瞬間まで鈴仙に気付いていなかった櫟の様子に鈴仙は大きくため息を吐いて腰に手を当てる。そんな鈴仙の姿に櫟は瞼を瞬いて、ホッと小さく息を吐く。

 

  気が早っていたのは櫟も同じ。団子を口に放り込み、串を咥えたまま鈴瑚は櫟の肩を叩き清蘭に並ぶと、新しく団子を出して清蘭に差し出した。

 

「お疲れ。ねえ清蘭、なんだかんだ団子売り対決楽しいよね」

「……うん」

「引き金引けば流石に私たちも裏切り者だよねー。どう鈴仙、裏切り者生活は」

「最っ高ね、 私はもうこの生活は手放せないわ。本格的に永遠亭に来る?」

「それもいいかもね。それになんでも輝夜様がバイトで団子作るんだってさ、今度は私と清蘭と鈴仙で輝夜様と団子売り対決しない?」

「え? 私もなの?」

「……ふふっ、やるなら勝ちたいね」

 

  受け取った団子をほうばって、清蘭は銃を構え直す。口には串を咥え、その動きで狙う波長を示すように上下に動かし、背後に立つ櫟に一度ちらりと目をやった。

 

「大丈夫、もう波長は覚えたよ。だから大丈夫」

「……お願いします」

「こちら清蘭、月の侵略者を確認。これより殲滅を開始する!」

 

  押し込まれた引き金に連動し、火を吹き口から飛び出した弾丸は、そのまま異次元に滑り込む。大きく跳ねた狙撃銃を押さえつけ、飛び跳ねた薬莢を目で追う事もなく再び構える。引き千切れた波長にまだ少し清蘭の口端は歪んだままだが、それでも目を引き絞り再び引き金を引いた。

 

  魔法の森の包囲に穴が開く。狭まっていた包囲網は、破れた風船のように中身を吐き出した。一律ではない戦闘力がここで意味を成す。速度で勝る影狼と桐がいち早く反対まで回り込み、新しく包囲されないように動きを抑える。逆包囲までする必要はない。必要なのは拮抗状態。怪我人を離脱させつつ、強者は残る。幻想郷の重鎮たち、その存在を見せつけながら、一度に叩ける隙を見せるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、包囲網崩れた。今の感じ……、誰か玉兎が寝返った? はぁ、ふーん、誰よ。特定できたら冬の海に裸で入水自殺でもさせてやるのに。それとも万年発情兎らしく娼館にでも放り込む方がお似合いかしら? うざいうざいうざい!」

 

  がりがりと頭を掻く嫦娥に呆れながら豊姫は手に扇子を落とし、依姫の方へとちらりと目をやる。姉の目を受けて依姫は小さく息を吐き出すと、目の輝きが怪しくなって来た嫦娥を睨むように目を細め、「報告をしろ」と口を動かす。

 

「あぁ? はいはい、鬼も亡霊も巫女も魔法使いも全部魔法の森に居るわよ。スキマ妖怪とかぐや姫は見当たらないらしいけどどうするの?」

「敵の戦力の大半は集結したな、このまま一網打尽にすれば勝ちは決まる。敵のいない迷いの竹林に大部隊を下ろし挟撃すればお終いよ」

「ならもう送って構わないわね?」

 

  手に何度か扇子を落とす豊姫に依姫も嫦娥も待ったは掛けないが、唯一サグメが片手を上げ制す。もう片方を口につけたまま思考を巡らせ、その一手の危うさに一人頷いた。

 

  思惑通り行き過ぎている。特に激しい抵抗もなく魔法の森に集結している幻想郷の戦力たち。地上の者を第一次第二次月面戦争とあしらった依姫と豊姫に隙があるのも少し分かる。第二次も武力では終ぞ負けていない。罪人で長年牢獄にいた世間知らずな嫦娥が変わらず傲慢なのは放っておき、サグメは口を開こうとして閉じた。

 

  代わりに空に指を這わせて文字を書く。その手間に嫦娥は疲れたように椅子に沈み込み、依姫と豊姫だけでその動きを追う。

 

「敵戦力の確認? いや、それは一度幻想郷に手を出したサグメの方がよく分かっているんじゃないの? 敵の主要戦力、重要人物ぐらいこちらでも調べているわ。そのほとんどは確かに魔法の森にいる。読めないのは八雲紫だけれど、私がスキマ妖怪の能力を制限している今一人で全ての玉兎は倒せない。問題はないと思うけれど」

 

  サグメは少し考えて、『平城十傑』の名を指で描く。その字を見て豊姫は開いた扇子で口元を隠し、依姫は唸り腕を組んで、嫦娥はくだらなそうに手を振った。

 

「人間になにができるってのよ。千三百年前に月相手に大敗、惨敗、完敗したような奴らが」

「月に侵入し監獄を暴いたな」

「それは依姫、貴女の失態じゃない。それに奇襲みたいなもんでしょ。それとも人一人でほとんどの玉兎を殲滅できるような奴が居るとでも? 居るなら会ってみたいわね」

 

  嫦娥の言葉は間違いではない。だが、その全貌を知らないのもまた事実。イレギュラーの存在がどうしても頭から離れないサグメに、嫦娥は舌を打ち、つまらなそうに足を揺らす。

 

「ならこのまま魔法の森に送ればいいでしょうが、乱戦の中で数で潰せばいいじゃない」

「それは優雅さに欠けるわね」

 

  戦いに優雅さが必要なのかと豊姫の言葉に大きく首を回して嫦娥は呆れ返り、「だったらもうさっさと迷いの竹林に送りなさいよ!」と苛立たしげに吐き捨てた。

 

「サグメ、どちらにしろ今送らなければ第二波が崩れ戦域が変わるわ。戦力を小出しにしても敵は恐らく倒しきれない。勝利を得るならダラダラとしたものではなく完全な勝利を。そうではないの? これは外の世界への足掛かり。幻想郷を落とすのにそこまで時間も掛けられないわ」

 

  華々しい劇的な勝利。

 

  それを望む依姫と豊姫になんと声を掛けていいかサグメの頭の中に最適な言葉が浮かばない。

 

  慎重に。勝利は勝利。

 

  引き止めるための言葉は多く浮かぶが、それを口にしてなにが変わってしまうのか。それがサグメにも分からないため口を開くに開けない。ただ消費されていく時間に嫦娥が貧乏ゆらしし、目を閉じるサグメを急かす。

 

  瞼を半分開けて頷くサグメに、「どうせ送るならさっさと頷いときなさい」と毒を吐いた嫦娥に合わせて、扇を閉じた豊姫の合図で地上に玉兎の大群が足を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  短い平城十傑の参謀の呟きは月人の耳に届いたようだった。

 

  さてどうしようと手を擦り合わせる嫦娥の手の動きが次第に緩みそして固まる。

 

  ────ガタリッ。

 

  倒れた椅子も気にせずに嫦娥は立ち上がり、一滴汗を垂らして口を戦慄いた。

 

  嫦娥の様子に悪い予感が当たったとサグメが察してももう遅い。

 

  幻想郷の風を巻き込む妖怪の山の暴風ドームに分けられるように、一本の境界線が幻想郷に引かれる。澄んだ空気と煙の海。

 

  迷いの竹林を踏んだ月軍の玉兎、月軍の半数が白煙に沈む。

 

  言葉にならない叫び一色に染まった玉兎の声に嫦娥はただ拳を握り、椅子を起こしに来た玉兎を睨みつけ指を鳴らした。

 

  自分で自分の首をへし折り崩れる玉兎に暗い目を落とし、「脆い、使えない、ごみごみごみ」とぶつぶつ呟きだす。

 

  その空気を変えたのは月の神が手を合わせた小さな音。

 

  戦いが始まった時と変わらずゆったりと月夜見は椅子に座し、「豊姫、依姫、サグメ、嫦娥」と一人一人の名を静かに呼んで、その目の前に時間停止結界装置の破壊の目となる箱を滑らす。

 

  地上の者が狙いに来るだろう標的はやる。直々に潰せ。

 

  月夜見が言葉は発さずとも理解して、月の将は箱を手に席を立つ。

 

  豊姫が扇子を手に落とした音に合わせて四つの影が月から消える。ホッと肩の力を抜いた玉兎たちに月夜見は小さく笑い、レイセンに向かって手招きした。

 

「つ、月夜見様。な、なんでしょうか」

「地上に結界装置の杭をよく打ってくれたなレイセン。褒美が遅れた」

 

  垂れた兎耳を撫ぜる月夜見にレイセンは顔を赤くしてヘニャヘニャと溶けていく。玉兎の姿に笑顔を向けて、月夜見は頬杖をつきその手を握る。響く骨の音に撫でられながら首を傾げるレイセンには笑みを与え、内心は点いた火に焦げ付いていく。

 

  玉兎の毛並みでそれを落ち着け、月夜見は一人月に残った。姉、天照の浮かべた人への期待と、自身のもつ人に対する怒り。二つの想いを掻き混ぜて、月の神はまだ動かない。想いが一つに混ざるまで、まだ少しの時間が必要だ。

 

 

 

 




どうでもいい設定集 ⑥

楠が幻想郷の住人の中で妹紅と輝夜の名しか呼ばないのは、女性の扱いが分からな過ぎて気を本当に使わなくていいやと思っているのがその二人だから。

どうでもいい設定集 ⑦

月夜見は両性具有。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ③ 依姫

 ────パキリッ。

 

 足の落とした先、砕けた小枝の音に依姫は顔を上げた。魔法の森の端、昼間霧の張る霧の湖は、月明かりに透かされたようにはっきりと見え、対岸には小さく吹き飛んだハリボテ紅魔館の残骸を見ることができる。夜の清々しい空気ではなく、血と白煙の匂いが薄っすらと混じった気味の悪い空気に依姫は鼻を擦り、ビュービューと喚く風の音が変わったのを聞き目を動かした。

 

 妖怪の山を覆っていた風の膜が横合いから吹き飛んだ。

 

 その様子に依姫は姉の姿を見たが、内側からではなく横から吹き飛んだのを見て小さく眉を歪める。

 

 降り立つ場所がズレた。

 

 スキマ妖怪のせいかと依姫は舌を打つが、正解は白煙のせい。妖怪の山が巻き込む風に乗って、薄く幻想郷の上空に広がった白煙のせいで、精密な操作を要求されるスキマも空間移動も無理矢理位置をズラされる。暴風ドームと月の扇の起こした風の衝突に、幻想郷の空気が掻き混ぜられ、依姫の視界の端で揺れ動いていた白煙の壁は薄らいでいった。

 

 本来なら魔法の森の乱戦の只中に降り立つはずだった依姫は小さく息を零し、腰に括りつけた結界装置の『目』の箱を一瞥したあと、未だ小さな戦闘音を零している魔法の森を睨んだ。静かに闘気を立ち上らせながら一歩を踏んだ依姫だったが、視界の端でゆらりと人影が揺れたのを見るとそのまま立ち止まる。

 

 怪しく畝る妖気ではない、鮮やかな魔力でもない、清々しい霊気でも眩い神気でもなく、肌に突き刺さるは鋭い剣気。月の都を踏んだ暗殺者と同等の武士の気風を受けて、依姫の口は薄く弧を描く。

 

「──何者だ?」

 

 剣気に刃を沿わせたように零された依姫の鋭い声は、一人に向けられたものではない。視界の端で揺れる蜃気楼には顔を向けず、反対の目の端にスルリと滑り込む人影が一つ。蜃気楼に負けぬ燃えるような熱い剣気。依姫の声は今まさに刃を鍛えているというような赤銅色の剣気と、薄く透明な身の内に滑り込んでくるような剣気の二つに向けられたもの。

 

「平城十傑、北条家第百三十七代目当主 北条楠」

「平城十傑、五辻家第七十八代目当主 五辻桐」

 

 平城十傑。天探女の気にしていたイレギュラー。月に喧嘩を売った十の人間。二刀と大太刀。立ち姿から戦法は分かる。肌で感じる刃のような感覚に、依姫は今度こそ大きく口を横に引き裂いた。その笑みに楠と桐の手が刃に伸びる。

 

 ただの笑み。だがその口に浮かんだ三日月は名刀と呼ばれる刀よりなお鋭く、肌を撫で上げる依姫の闘気に、楠と桐の肌は薄っすらと冷たい汗に覆われた。

 

 格の違い。

 

 こうも違うのかと思わずにはいられない。玉兎と月人。月に存在する二つの種族がどうして綺麗に上下に分かれているのか、依姫を見て理解する。数多の人妖をただ一人で撃滅せしめた現月の使者のリーダーが一人。八百万の神を使役できるというのも脅威ではあるが、そういう問題ではない。

 

 華奢に見える女性らしい肢体は薄っすらと脂肪に包まれ、形の良い筋肉を覆っている。目で見てすぐ理解できる鬼の力ある肉体とは違う、言うなれば梓に近い均等の取れた無駄の無さすぎる完成された形。腕が長いだの、胸が小さいとか、そんな文句が一つも出ない完成された肉体は、梓よりもなお一つのことに向けて完成されている。

 

 依姫の腰にぶら下げた刀が、物ではなくその身の一部であるというように、依姫自身が一振りの刃のようであった。神社に奉納される鏡のように磨き抜かれた刃。無数の神を降ろせる依姫の身に不思議と納得がいく。

 

「──月に侵入したあの人間の仲間たちね。見事、そう言っておきましょう。どうやらそちらには私よりも頭がキレる者がいるらしい。誰か名を聞いてもいいかしら?」

「……いいだろう、どうせアンタは会うことないんだ。平城十傑、唐橋家八十一代目当主 唐橋櫟。平城十傑の参謀だ」

「平城十傑ね……」

 

 その名を一度依姫は口遊み、己への戒めとして心に刻む。神を身に降ろせる人間、博麗霊夢に感心したように、人の中から時折突然変異のように現れるおかしな人間。それが命、穢れの妙なのか、ただどんな人間にせよ斬るだけである。

 

「それで……私の相手は人二人? 随分と舐められたものね」

 

 ゆっくりと弓を引くように、依姫の空気が張り詰めてゆく。心の臓に刃を突き立てられ押し込まれているような空気に、楠と桐は刀の柄を掴み構えるが、依姫の気に押し出されるように新たな気配が二つ依姫の前後に静かに降りる。

 

 目の前で揺れる青い夜色の着物に依姫の眉が小さく上がり、背後で回る半霊の人魂を瞥見した。

 

「あら、これは当たりなのかしら、それともハズレなのかしら。困ったものね」

「姫様、それに妖夢さんまで」

「桐、それに楠、梓たちは櫟の方へ行ったわよ。天探女が櫟の方に出たみたいでね」

 

 作戦本部が暴かれた。つまりこの先、櫟たちの方で事態が終息しない限り頭脳は動かない。月の将が動けば戦況が変わる。たったの四人。個で軍をぶち抜いてくる月人の出鱈目さに楠も桐も苦笑しかできない。

 

「──私を挟んで余裕そうね」

 

 呆れたような冷笑と共に吐き出された依姫の言葉に仲間たちへの心配は斬り捨てられ、楠と桐の意識は目の前へと引っ張られる。人二人の気配が自分に戻ったのを見て、依姫は一度くるりと周りを見回し刀の鍔へと手を添えた。

 

 開戦の合図は不要。

 

 そんな依姫の動きに合わせて鞘を滑る刃の音が五つ。

 

 二刀を揺らす人相の悪い男。

 大太刀を肩に担いだ痩身の男。

 笑みを絶やさぬ亡霊の姫。

 長刀を地に沿わせる半人半霊の庭師。

 

「四対一なんてと無粋なことは言わないわ。私は月の使者、綿月依姫。地上の者よ、自らの愚行を嘆きなさい」

 

 刃、刃、刃、刃。

 

 依姫を取り囲む剣客が四人。そのどれもが一定以上の質を秘めていると言っていい。緩りと依姫も刃を鞘から滑らせて、刀を地に構える。刃を地に突き立てることなく、お前たちの切れ味を見てやると言わんばかりの風体に楠は歯を擦り合わせるが、腕を揺らし体勢を前へと倒したまま動かない。

 

 隙が見えない。

 

 ただ静かに刀を平に下に向け佇む依姫の形は、彫像のように完成している。前後左右どこを切り取ってもそれは同じ。下手に踏み込めば返しの刃で真っ二つ。優れた戦闘者であればこそよりよくそれが理解できるジレンマで、僅かに擦り出された四つの足は進むことなく二の足を踏んだ。

 

 誰かが斬られる覚悟を決めて一斉に飛び込むか。

 

 桐の一瞬の目配せに楠は目で止めろと訴え、顎から滴る一滴の汗を拭うことなく見送る。

 

 武芸の達人であればこそ、相手の肉つきや体に付いた傷跡、構えである程度の相手の動きは予測することができる。楠は先代と刃を合わせること一年のうち三百六十五日。それが数年分。刀を握る者の相手なら、下手をすれば数百年を生きる妖怪よりも数多く楠は手を合わせている。そんな楠の目から見て、依姫の動きがまるで読めない。

 

 依姫の立ち姿から予測できる刃の動きは無限であり、戦いの最中でなければ感嘆の息を吐きたいほどだ。剣術に対して良い思い出が然程ない楠でも、剣士の目指す先がコレなのだと理解でき、こうなりたいとさえ思ってしまう。楠や桐の奇術めいた技とは違う純粋に剣技を練り上げた姿。一斉に飛び掛ったところで、高確率で骸が四つ転がるだけ。楠は乾いていく喉を鳴らし、擦り合わせていた歯も止まっていた。

 

 周りを取り囲む四人の剣客を依姫は半眼で見つめ、突き刺さる四人四色の剣気を拒むことなく受け入れる。そして静かに誰も気付かない程小さく口端を上げた。

 

 第一次、第二次月面戦争の時と違い、純粋に武だけを競うのなどいつ振りのことか。依姫はお飾りで刀を腰にぶら下げているわけではない。誰も手に武器を持たない月人の中で一人、依姫だけが目に見える凶器として刃を持っているのは、誰もが認める武の極致であるからこそ。

 

 遥か昔、弓を手に矢を射た八意永琳の姿に憧れ、形は違くとも依姫も武芸を磨いてきた。狙撃手のように広く視野を持つことは苦手だったが、肌で直に脅威を感じる近接戦の方が向いているという師の意見を素直に聞いて、何年も人より長く刃を振った。実際に誰かと手合わせした数こそ少ないが、剣術、そのたった一つだけは既に師よりも遥か先に至っている。

 

 そんな依姫が笑みを浮かべるのは、体を捩ってわざわざ正面に置いた二刀の男を見てのこと。

 

 北条 楠。その名を頭で思い浮かべて、依姫はより口角を上げた。

 

 周りの全員が一定以上の武芸者だ。それは身を撫ぜる一流の剣士の気配から察することができる。その中で一番は誰かと問われれば、依姫は迷わずに楠の名を挙げる。

 

 他の三人も質は良い。が、半人半霊は一流に半歩届かず、亡霊の剣気には、久しぶりなのか淀みが見える。痩身の男は一流だが、動きから戦闘経験が楠よりも無いように見えた。山猫のように背を少し丸め両腕を揺らす獣のような様相。ただ一人依姫の動きを余さず頭の中で思い描いているように揺れ動く瞳は、畏れからではなくただ武に没頭してのこと。

 

 やるのならばこの男。剣士の構えとは言えないが、剣客として依姫に最も近いのは北条 楠。

 

 人の身で、それもまだ若いと見える人間が一番自分に近い所にいるという事実。

 

 どうすればそうなるのか。才能か修行方法か。それが依姫には分からないが、事実は事実、目の前にいる。ホッと、感嘆の息を吐いた依姫の僅かな完成の形の綻びに、そこを擦り抜けるようにして楠の剣気が滑り込み楠の腕が一瞬大きく揺れた。

 

 それに反応したのは依姫ではなく妖夢。僅かな機敏に反応できるのは流石であるが、自身よりも磨き抜かれた目に見えぬ剣戟の応酬に堪らず反応してしまう。一歩を踏み出し刃を振る。まだ間合いから遠い届かないはずの距離を刃が斬り出した霊力の刃が埋めてくれる。

 

 それに笑みを浮かべることなく、寧ろ舌を打ち怒りの形相で依姫は下から斬り払った。

 

「半人前が‼︎」

 

 己が身でなく弾幕を一番に放ったのは、剣の腕では敵わないという諦めの証。下手な弾幕は乱戦を呼び、そのゴタゴタの中でも依姫ならば刃を摩り込ませて来ると分かるからこそ幽々子も剣術に徹していた中での不必要な弾幕。

 

 空を走り飛び散った弾幕の後を追って二歩目を踏み込んでいた妖夢の目前に依姫が振り返り、上へと振り上げていた刃を八相の構えに落とし込む。無駄なく最短で相手を最も容易く袈裟斬りに斬り払う動きへと形を変えた依姫の姿に、目を見開きながら冷や汗を地に滴らせ妖夢の動きはもう止まらない。

 

 ────斬られる。

 

 どう動こうと自分の身体が依姫の刃によって両断されると妖夢の頭は理解する。刀と刀を打ち合わせようと、空に逃げようと、なんとか踏ん張り止まろうと、得られる結果は全て同じ。それならば身を犠牲に隙の一つでも作るしかないと、後悔と覚悟を決めて歯を食い縛り依姫の刃を見つめる妖夢の瞳に映る影が三つ。

 

 妖夢が斬られる。幽々子も桐も楠もそれは瞬時に理解した。だが、妖夢を守るではなく、依姫を斬ると動いたのは楠ただ一人。そのアンバランスが歪みとなって依姫の刃に迷いを生んだ。

 

 斬られる覚悟を意識したせいで依姫を斬る気のない妖夢には背を向けて、残る三つの影を迎撃する。前後左右の一つが欠ければ、残りは百八十度。妖夢に背をぶつけるように背後に飛び、その衝撃を利用し低く沈み込んだ依姫の刃が下から迫る刃の間をすり抜けて振り上げられる。

 

「幽々子様!!!!」

 

 地に転がり少し離れた妖夢だけが依姫の刃、その軌跡の全貌を見た。

 

 体勢の低い楠よりもなお低く、一番に迫った桐の大太刀の横薙ぎの下を潜り抜け、最も丁度いい位置にあった伸びた幽々子の腕をなぞった。

 

 肉の繊維が千切れる音も、骨を断つ硬い音もしない。

 

 一瞬の立ち会いが過ぎ去り身を起こし背を伸ばした依姫を通り抜け、三つの影が地を踏んだと同時、

 

 

 ────ポトリッ。

 

 

 と、溢れる血よりも早く、白い腕が刀を握ったまま紅葉した落ち葉の上に小さな音を立て転がった。

 

 鋭く息を吐き出して、愕然とした妖夢の腹へと鋭く桐は蹴りを放ち幽々子が腕を抑えるよりも早く蹴り飛ばした。少女の口から漏れる空気の音を聞き流し、桐の目は依姫に向いたまま、いつもより荒い口調で言葉を紡ぐ。幽々子を巻き込み転がる妖夢の姿を一瞬見たのを最後に、もう気を使う余裕はありはしない。

 

「姫様を連れて離れろ‼︎ 邪魔だ‼︎」

 

 妖夢は口を引き結び、何か言葉を紡ごうと思ったが出てこない。桐の背から立ち上がる剣気が炎のように揺らめいた。その熱に当てられるように、楠と依姫の気配へと飛び火する。向かい合った刃はお互いしか気にしていない。下手に足を踏み入れれば、気配だけで斬られるような。

 

 妖夢と幽々子が離れたのか。桐も楠もその足音を拾う余裕さえない。背を向ければ待つのは死。ただ、二人の少女に迫る死が離れたことを信じるしかない。大太刀を背に一段と目が鋭くなり前のめりに身を倒す桐の気を鎮める余裕さえ楠にはない。二人になり場を広く使えると言っても、それは依姫も同じこと。

 

 気の立っていく人間二人の姿に依姫は小さく肩を落とし、一度ゆらりと刀を振った。

 

「──あの二人は離れたわ、気を張って技を鈍らせないで。それはとてもつまらない。順当に剣の腕が立つ三人が残ったのだから」

「……余裕ですね、月の剣豪。私たち二人の本気も届かないと?」

「それは貴方たちの方が分かっているんじゃない? 楠、桐、そう呼ばせて貰うわ。なるほど、『人』と一括りにして分けるにはそうもいかない者たちがいるというのは霊夢で痛感したはずなのだけれど、武でまでもそういう者がいると知れたのは嬉しい誤算なの。そんな貴方たちだからこそ分かるはず。どうかしら? 貴方たちが私の下につくなら見逃すわ。共に剣の道を行きましょう」

 

 優しく微笑む依姫の顔に影は見えない。本気で依姫はそう考えている。今の世では珍しい本物の武士。その人間まで消してしまうのは惜しい故の勧誘。その手を握れば嘘はなく月に迎えられる。振り払えば待つのがなんであるか理解できぬ楠と桐ではない。一太刀あれば実力を知るのに十分。合わせなくても分かっていたが、一対一では依姫に勝つための目がまるで見えない。

 

 依姫の微笑に楠と桐は一瞬目を合わせ、構えを解いて馬鹿らしいと二人鼻を鳴らした。

 

「アンタは強いよ、笑えるぐらいな。月軍ていうのは本来アンタたち数人のことを言うんじゃないかって程強い。……だが悪いが強さに折れる心は持ってねえんだ。アンタたちが強いなんて千三百年前から知ってる。先代から聞き過ぎて耳ダコだよ。月の者はきっと想像を絶する怪物だってな。その通り過ぎて驚きもしねえ。俺たちがなんのためにやって来たと思ってやがる、その強い怪物に笑いながら殴りかかるためさ。だいたいなんだって? 剣の道? ざけんなくそったれ! 剣を振るなんてもう十分なんだよ! 俺は放課後ダラダラ過ごして! 買い食いしながらコンビニで立ち読みして‼︎ 恋人なんかと休日に温泉行ったりしたいんだよ‼︎ そんな道死んでも歩くか‼︎」

「楠……発想がなんとも……、でも私もお断りです。私の居る場所はもう決めた。ここで私は姫様とこう縁側でお茶を啜りながらゆったり過ごすんです。手を繋いで歩きたいですし、ふと寄った甘味処で頼んだ甘味を交換しながら街を歩いて、最後は夜景を背に口吸いなんかしちゃったりできれば死んでもいいですねーって……、死んでもいいですねって! ねえ‼︎」

「アンタも大概だからな‼︎」

 

 漫才のようにお互いを肘で小突き合う人間たちに苛立たしげに依姫は肩を震わせて眉を吊り上げた。激しく感情の乗った人間たちの叫びは心の叫び。こんな奴らが自分の至っている剣技の域に近い。長く生きる半人半霊の庭師より。更に長く生きる亡霊より。意味が分からない。侮辱としか見れない。輝かしい名刀に見えた人間たちが途端に竹光のように見えてくる。所詮“穢れ”、霊夢も含め、どうして自分を少しでも喜ばしてくれる存在は底を覗けば人間的過ぎるのか惜しまずにはいられない。

 

「低俗が」

「低俗結構! どうせ俺たち人間は低俗だよ! 世界で一番栄えてる低俗舐めんな!」

「愛まで低俗とは言われたくないですね! その低俗さが私たちの武器で強さの源です!」

「だいたい低俗じゃなきゃこんなことやってねえんだよ!」

 

 ぶっちゃけもうヤケである。千三百年分低俗だからここまでやって来た。感情のないロボットだったりしたのなら、早々にかぐや姫? 知らねと言って今日ここに居たりしない。

 

 絶対に相容れないとたった幾つか言葉を交わしただけでお互い理解した。楠も桐も言葉は不要と再び構える。叫んだおかげか余分な力が抜けたと見える人間たちに、気を使う必要もなければ、もう怒りしか依姫の中には湧き上がってこない。なぜあんな言い草で先程よりも隙が少ないのか。男たちの真面目な顔付きまで演技のように見えて癪に触る。楠も桐も叫んだ言葉も含めて本気も本気なのだが、本気であればあると分かるほど、寧ろ依姫の怒りは煽られていく。

 

 機械的ではなく、踊る風のように淀みなく姿勢を落とす二人の人間に依姫はもう刀の切っ先を向けることなく、大地に勢いよく突き付けた。

 

 祇園の剣、女神を閉じ込める祇園様の力。

 

 祇園様とは神須佐能袁命(スサノオノミコト)。天照が力を貸さないと決めたことによってほとんどの神はそれに従ったが、神の世を再び望み依姫に力を貸してくれる神が数神残った。その一柱が神須佐能袁命(スサノオノミコト)。月夜見同様、姉の威光を取り戻そうと思わないわけもない。だが、月夜見のように姿までは表さず、姉の顔を一応は立てている。

 

 大地から突き出した刃に行く手を阻まれる。無理に突き破ろうと動けば、磔にするように地から伸びる刃の檻が大太刀を担いだ桐の足を出させない。

 

 神の足さえ押し留める刃の檻に囲まれた人間に肩の力を抜き、瞼を落とした依姫の耳に届いた落ち葉を踏む音。

 

 新たな敵。

 

 その足音に視界に落としていた暗幕を上げ、依姫は小さく口を開ける。

 

「剣術で勝てねえからって負けたわけじゃあねえ‼︎」

 

 檻の外に人がいる。

 

 人相の悪い顔が笑みを浮かべ、普通に依姫に向かって大地を踏んでいる。楠の背後には取り囲んでいたと見える刃の檻が聳え立ち、呆けていた顔を依姫は引き締め今一度刀を地に押し込んだ。人の足を止めようと迫り上がる刃の壁は、無理に通ろうとすれば尋常ならざる斬れ味に細切れにされる。楠は足を止めずに伸びる刃の壁の一つに勢いのまま突っ込んだ。

 

 楠の身に沈んだ刃を見て、愚かであると依姫は断じる。

 

 自らギロチンの刃の元に飛び込む自殺志願者。二つに泣き別れ地に落ちる楠の姿を思い描く依姫の前で、刃は楠の身を通り抜け、楠は変わらず一歩を踏む。

 

 また一歩。

 

 そして一歩。

 

 揺れる楠の体はいつまでたっても泣き別れず、血の数滴すら零さない。身に沈んだはずの刃で斬れていない。術の気配を感じない不可思議な現象に、慌てて依姫は刃を引き抜く。

 

「その間抜け顔が見たかったぁ‼︎」

「っ吐かせ‼︎」

 

 僅かに汗を一滴額に浮かべ、迎撃のために姿勢を依姫は整える。未だ刀の間合いには至らず、その間に体勢さえ整えば、どちらが勝つかは自明の理。

 

 楠の軌道を先読みしながら、刀を両手で握りこもうと力を込める依姫の瞳に映り込む人影が二つに増える。鋭く息を吐き出しながら横薙ぎに振るわれる人一人ほどの長さを誇る刃の姿、檻から解き放たれ、瞬き程のほんの一瞬。その一瞬で前へ誰より速く進む人間。目前に迫った五辻の刃に、思わず依姫は刀を振り上げる。

 

 ──キャリ。

 

 短い削るような音を残し、依姫の髪を数本巻き込み頭上を大太刀が流れてゆく。その速度に目を見張るも、連撃の速さなら依姫が上。身を攀じる桐を斬り落とそうと振り上げた刃は、しかし、その合間を縫い迫る二刀の揺れに堰き止められ、依姫は地を滑るように身を屈めて二刀を避けた。

 

 すれ違いざまに擦られた依姫の刃に、楠の服の端は斬れ、依姫の頬から朱玉が伝う。それに伸ばされた依姫の手が朱玉を掬った。指を赤く染めているものが自分の血であると依姫が理解するまで一瞬の間が空き、その間を締めたのは依姫が強く奥歯を噛む音。

 

 刃で傷をつけられた。

 

 百年ぶり? 千年ぶり? 思い出せないほど遥か昔。その久し振りの一掬いが、わけの分からない人間につけられたもの。

 

 怒りで引き絞られる依姫の目は、高速で走る刃の光と、蜃気楼のように揺れる二刀の動きに向けられて、より鋭く歪んでゆく。

 

 前へ、前へ。

 

 足を出すほどになお速く。依姫の刃を振る速度と、走る桐の速度が並ぶ程に。剣技で追いつかなかろうと、身を動かす速さで桐が張り付いてくる。一瞬でも速度が落ちれば依姫は斬れる。桐の足を止めるため依姫が祇園の剣を突き立てれば、それを擦り抜け楠が迫る。

 

 一対一なら負けない相手、それが二人で依姫に掠るほどに手を伸ばしてくるその鬱陶しさ。依姫の刃で幾数本の赤線が楠と桐の肌に引かれるが、それは依姫もまた同じ。綻んだ服の端と肌に走った薄い刃の跡を睨みつけて、依姫は強く刀を握り込む。

 

 人間とは何か?

 

 愚かで頑固で学習しない。

 

 長い年月で依姫もそれを知っている。

 

 そんな者たちで溢れ返っている地上。だが、そんな地上に足を下ろした八意永琳も蓬莱山輝夜も悪くないと笑みを零す。

 

 低俗さが強さ。人の強さを知りなさいという主神の言葉。

 

 自分には何が見えておらず、師や天照になにが見えているのか依姫には分からない。命とはそれほど大事なのか。不要だと斬り捨てたから穢れとして月の民は地上を離れ月に移ったのではないか。穢れに纏われれば、永遠に振れる剣も百年も経たずに振れなくなる。楠と桐の刃もまた、百年も経てばなくなるのだ。

 

 なぜ? 

 

 浮かぶ疑問に依姫の手が僅かに鈍る。そして、その僅かが命取り。

 

「──終わり?」

 

 ただ一瞬で決着が決まる刃の刺し合い。命に届くと見える大太刀と二刀の煌めきに、依姫の中で何かが弾けた。

 

 ──終わりたくない! 

 

 まだ刃を振っていたい。二対一、それで自分と同等に斬り結んでくる者たちがいる。その強さの源をまだ理解していないのに終われない。

 

 地上の者という侮辱の言葉は遥か遠くへ消え去って、永遠を持っているはずの月人が今の一瞬をただ望む。依姫の中で小さく灯った叫びの炎を掬い上げるように、その祈りを汲んで愛宕様が手を伸ばす。天照に続かなかった二柱目の神。その威光が炎となって現界する。

 

「──マジっかっよ⁉︎」

 

 足を踏ん張り吹き出した炎に突っ込まないように二人、楠と桐は足を止めるが、火に触れずともその熱気に肌を焼かれる。愛宕様の火、「地上にはこれほど熱い火はほとんどない」と依姫がかつて言った通り、太陽の炎熱に近いその熱に呼吸もままならず、棒立ちのまま楠と桐の身が熱に焦がれる。

 

 背後に飛び熱から逃げようと動いても、迫る炎の壁が人間二人を炭にしようと後を追った。落ち葉を溶かし地を溶かし、流動的に溶け出す大地はマグマと同じ。魔法の森に飛び火すれば中にいる者たちは総じて焼死。その結果が分かっていたとして楠と桐にその火を塞き止めることは出来ず顔を引攣らせたまま後退る。

 

「まだだ‼︎ まだ私は負けていないぞ‼︎」

 

 身を揺らす依姫の動きに合わせて、地を這う炎もまた揺れて、手に取る命を燃やしてゆく。「まだ!」と叫ぶ依姫の叫びに呼応し跳ねた火の粉が魔法の森の木々を焼き、燃えた木々を慌てて楠は斬り落とすが、また一つと木が燃える。

 

「あっつ⁉︎ おいコレヤベぇぞ⁉︎」

 

 燃え移っていく木々になす術はなく、ただ見送る事しかできない。どうするべきかと歯を擦り合わせ依姫へと体を向ける楠と桐の背後から、燃える木々を食い千切りながら深紅の槍が飛来する。炎の壁を穿ち突き立てられる妖魔の槍を燃える腕で依姫は掴み力任せに握り潰す。弱まった火の手の上に幾つもの氷塊が落とされ、炎の翼が炎の行く手を遮った。

 

「くっくっく。敗者ではない? だが勝者の顔ではないな月の使者」

「やっと見つけた! まったくもう、親分ほっといて何してるのよ!」

「苦戦してるみたいね楠、ご主人様が手を貸してあげようか?」

 

 紅魔の主が翼をはためかせ降りて来る。小さな氷精が楠の頭上に落ち、永遠を生きる銀色の少女が楠の側に立った。なぜ二人も上に立ちたがるような言葉を零すのか、楠は歯を擦り合わせ、頭の上に乗っているチルノを落とそうと頭を振るう。それでも落ちないため、仕方なく腕を伸ばしチルノの頬を引っ張った。

 

「親分だあ? アンタ巫女さんが来た時逃げたよなあ? どの口が言うんだマジで」

(いは)(いは)い⁉︎ あれは逃げたんじゃなくててんしんてやつよ! 湖の端をこんなにして! あたいが許さないわ! さいきょーのあたいが来たからにはもう安心よ!」

「なによ楠、チルノとまで知り合いなの? 意外と顔が広いのね」

「……吸血鬼に、蓬莱の薬を飲んだ罪人か。邪魔だ!」

「こら無視するなー‼︎ っうぉ⁉︎」

 

 頭の上に乗ったチルノと妹紅を抱え、振られた腕によって伸びた愛宕様の火を地を転がるように楠は避ける。燃え移ればそれまで。反対に跳んだ桐とレミリアに目を向けて、どうするべきか楠は頭を回すが、いい案は浮かばない。炎を透けることはできない。透けようとも熱に炙られ、骨になってお終いだ。

 

 歯噛みする楠の意識を叩き起こすように、吸血鬼が牙を剥く。

 

「私が穴を開けてやる! 刃を突き立ててみせろよ人間!」

「鬼かアンタは⁉︎ 厳しいなおい!」

 

 が、それしか終わりはあり得ない。放っておいてもいい相手ではなく、腰には穿たなければならないものがある。時間の流れを固定する結界さえ剥がれれば、月夜見以外永遠を操る姫一人でどうにかなる。小さく息を吐き、熱いと喚くチルノを頭から下ろして楠は刀を握り直した。

 

 少し離れたところで大太刀を担ぐ桐と目を合わせ、紅い妖気を圧縮する吸血鬼の合図を待つ。

 

 レミリアが放つは紅十字。火に飲まれぬよう大地を抉りながら吐き出される巨大な魔の十字架(グランドクロス)が進むべき場所を示す。骨すら溶かす炎の海に穴を開け、紅い残光が作る道に桐とレミリアが一番に足を落とす。その後に続くは楠、満月の夜に笑う吸血鬼と、平城十傑一の俊足が燃える月人へ肉薄する。

 

 頭の冷めやらぬ依姫でも、その身に潜む力は変わらず。

 

 眼に映る高速で動く影を撃墜するため、手に握った刀に力を込める。大きく弧を描き動く大太刀と、燃える依姫の刃が合わさり、大太刀の切っ先が溶け落ちた。ごてっと落ちた大太刀の切っ先は依姫の足元で燻った火に炙られて溶けてゆく。その溶けた鉄を冷ますように、青い閃光が火に炙られるのも気にせず突っ込んだ。

 

「ついに殴ったぞ依姫ぇぇぇぇ!!!!」

 

 小さな吸血鬼の握り拳が月人の頬に突き刺さる。炎に巻かれ肉が焼け落ち骨になってなお振り抜き、砕けた骨の破片を飛び散らせ、湖の中に依姫は吹っ飛んだ。水蒸気を大きく上げて湖に沈む依姫を睨み、依姫の軌跡をなぞるように再び大地を踏む。

 

 燃え落ちた右手をレミリアは見やり、小さく舌を打ちながら左手に魔の槍を浮かべ掴む。焼け焦げた右手が上手く再生しない。轟々と水蒸気を上げる根元目掛け、レミリアは歯を食い縛ると、吸血鬼の膂力に任せて思い切り魔の槍を投げ放った。当たらぬ可能性を握り潰した必中の(グングニール)

 

 水面を割って突き進む紅槍は、水面を弾き噴き出した炎によって焼失する。未だ冷めやらぬ依姫の熱。吸血鬼に殴られたという事実に更に燃ゆる。蒸発する端から穴に落ちた水が水蒸気となる。揺らめく炎に口端を引攣らせたレミリアたちの足は止まった。

 

 地から刃が伸びてくる。レミリアの左手を斬り裂き、炎を纏ってより鋭く。楠、桐、レミリア三人の足を止め、空いた手で依姫は炎を繰る。

 

 ──マズイッ‼︎

 

 浮かべた冷や汗もすぐに蒸発してしまい、透けられぬ壁に楠は長刀を振るうも刃は溶け落ち焼失した。絶対に敵を逃さぬ牢獄。檻に囚われた者が蒸し焼きになってしまうより早く、己が熱で焼き殺そうと依姫の炎が水面を焼き払い地を這った。

 

「凍れぇぇぇぇ‼︎」

 

 湖を氷らせ炎の手を止めようとチルノが宙を舞い両手を突き出す。秋の夜の空気が凍てつき、空気中の水分が雪の結晶へと形を変えるが、すぐに熱で形のない水分へと戻ってしまう。焼け石に水。シャーベット状になった湖の水が迫る火の手に流れ込むが鎮火に至らず、下手に伸ばされた手に寧ろ怒りを煽られたように、その勢いを強め三つの命を握り潰そうと迫る。

 

 命の危機になんの言葉も出てこない。

 ただ迫る死を待つしかない。

 

 歯を強く噛み締める楠と桐は目を合わせ、決死の突撃のために姿勢を倒す先で、炎の翼が広がった。不死鳥の後ろ姿に、目を見開いた楠が叫ぶ。

 

「妹紅!!!!」

 

 迫る炎に炎を打つける。妹紅の銀色の髪が上昇気流に寄って靡き、その端をチリチリと神の火の粉が焼いていく。不死鳥の炎と愛宕様の火。どちらが熱いかは、手を差し出している妹紅が誰より分かっている。

 

「罪人の火が神の火に勝てるか!!」

 

 ジワリジワリと喰い千切るように妹紅の炎が神の炎に飲み込まれる。鉄すら溶かす炎熱に差し出した妹紅の指先が焦げ、その匂いに妹紅は顔を顰めた。

 

「妹紅退け‼︎ そのままじゃアンタ‼︎」

 

 背から吐き出された楠の言葉に背後にちらりと目をやって、妹紅は薄く笑うと顔を前に戻す。指が炭化していく言いようのない激痛と、燃え出した服に歯を食い縛り、小さく妹紅は首を横に振る。何か言いたくても、口の中の水分が全て蒸発し声にならない。

 

「なんでだ‼︎」

 

 後ろ手に差された妹紅の指を楠は追う。愛宕様の火で溶け出している地から伸びた祇園の刃。それが溶け落ちるまでもう少し。それまで妹紅が耐えれば三人は動ける。だがそれは……。

 

 背中から聞こえていた北条の叫びは、妹紅の名を呼んだそれを最後にただの振動となって妹紅に伝わった。耳が焼け、身の内の水分が沸騰し耳が死ぬ。

 

 そんな中で妹紅は楠には決して顔を向けずに声にならない笑い声を一人上げる。

 

 守るなと言うのに勝手に守ると前に出て来た男。

 

 遥か昔、北条の名を今まで繋いで妹紅の前までやって来た。

 

 守ると妹紅に言っていたくせに輝夜を守るために北条は一度離れ、そして戻ってこなかった。

 

 やっと戻って来たと思えば勝手に守ると……。

 

 何度見たか分からぬその背中をまた見ることになるとは思わなかった。

 

 それがあまりにも懐かしくて、どうせまたどこかへ行くんだと思いながらも、ついつい側に置いてしまいたくなる。そしてそれが悪くないものだから、妹紅は今ここにいる。

 

 燃え尽き、肉が焼け動かない体をなんとか動かし、目が見えるうちに背後を見る。人相の悪い男の顔を。

 

 北条は守ると言った通り妹紅を守った。小さな頃は初代が、同い年だった二代目はよく妹紅の隣を歩き、いじめっ子の頭に竹を落とした。楠もわざわざ月軍の前に立つ。妹紅が死なないと言っても聞かず、血を垂れ流し笑いながら。

 

(一度ぐらいは私だって)

 

 北条を守ってみてもいいのではないか。

 

 困った護衛役にこれまで一度もなにもやってこなかった。千三百年越しの褒美としては丁度いいかと炭と化した口端を持ち上げ、焼け落ちる視界と意識の中、守ると言った北条の言葉を今も信じる。

 

「馬鹿かアンタ、護衛役は俺だろうが‼︎ 妹紅に守って欲しいなんてどの当主も思っちゃいねえよバカ!!!!」

 

 銀色の髪の面影はなく、黒く炭となった亡骸を溶けた刃を踏み付け楠が握れば、風に乗って崩れていく。その飛沫に手を伸ばそうとし、楠は強く拳を握った。

 

 妹紅は不死身。時の結界さえ破れば蘇る。

 楠だって分かっている。分かっているがそういうことではない。かぐや姫と共に北条だけが追っていたもう一人の少女。かぐや姫を追った初代。妹紅を探した二代目。ようやくその二人を見つけたのに、目の前で一人が焼け落ちる。

 

 死ぬとか死なないとかそういうことではない。ただ、ただただ情けなく悔しく虚しい。

 

 なんのために技を研いだ。それは大事なものを零さぬように。

 

「楠、恰好悪いですね女の子に守られるなんて」

「──ぁぁ、ああゴミだ。桐、俺のこと殴れ」

「イヤです。それはアレにぶつけてください。妹紅さんのおかげで炎の海の抜け方を思い付きました。乗りますか? 残った刃は楠だけだ」

 

 両腕の焼け切れているレミリアを一瞥し、桐の鋭い目が楠を射抜いた。その瞳に全てを賭けることを楠は躊躇しない。が、通る刃がない。燃える依姫の身に触れれば、斬れるより早く刀が溶ける。残っている刀は、短くなった桐の太刀と、楠の短刀。

 

「依姫のところに辿り着いて後はどうする? あの炎で刃が溶けちまうぞ」

「熱いのが嫌なら冷やせばいいじゃない」

 

 空から降り胸を張ったチルノに楠と桐は顔を見合わせ、チルノに短刀を冷やして貰いながら楠は立ち上がる。目を向けるのは、水蒸気を上げながら湖を出ようかという依姫の姿。「どうするんだ?」と言う楠の問いに、桐は前髪を弄りながらふやけた笑みを返した。

 

「私が先を行くので後ろについて来てください。私があの炎の壁に穴を開けて見せましょう」

「いや……桐の後ろって」

「姫様の腕一本分のお返しは楠に任せます」

 

 楠は顔をうつ向けて、弱々しく息を吐き歯を食い縛る。擦り合わせることはなくただ強く。勢いよく上げた顔を笑顔に変えて、楠は桐の肩を組んだ。

 

「幻想郷に来るまでの旅は楽しかったなぁ桐、またしようぜ!」

「私は幻想郷に来てからが楽しかったですね。次の待ち合わせ場所は黄泉比良坂あたりで、遅刻しなきゃ駄目ですよ。大丈夫、楠は私より強いですから」

 

 男とくっ付いているのは嫌だとスルリと桐は楠の腕から抜け出し前を見る。前へ、前へ。五辻は死ぬ時は前のめり。幽々子の笑顔と妖夢の呆れ顔を思い浮かべてふにゃりと笑い、桐は足の調子を確かめるように軽く跳ぶ。

 

「世の中を そむき果てぬと いひおかむ 思ひ知るべき 人はなくとも」

 

 五辻の旅は終わった。この旅は言えば蛇足である。

 

 それでも誰に引き止められようと、桐は前に進むことしか知らない。どこまでもどこまでも。かぐや姫にまで辿り着いた桐だから。きっとどこまでも行けるはず。

 

 ──例え先に進み続けても、きっとあなたは冥界(ここ)に来るわ。

 

「私は誰より愛の力を信じています。きっと会いに行きましょう。前に進んで。────────行きますっ」

 

 姿勢を落とし大地を蹴る。もういらないと大太刀を手から放り出し、桐は前へと足を出した。

 

「信じなさい、運命とは掴もうと思わなければ掴めない。足を止めないで」

「吸血鬼の嬢ちゃん⁉︎」

 

 レミリアの頭突きに送り出され、楠が桐の後を追う。レミリアの頭突きのせいで痛む背中にチルノを引っ付け、楠も大きく身を倒した。

 

「まだ来るのか……?」

 

 人間が二人走って来る。依姫に向かい迷わずに。

 

 理解ができない。輝夜や妹紅、嫦娥のように永遠に不滅の肉体を持っているわけではない。一度失えばそれまでだ。人より強固な蓬莱人や吸血鬼でさえ燃え溶かす炎。見ていないわけがない。自分たちから進んで死地に飛び込む人間に理解が及ばない。ただでさえ短い生を何故そうも簡単に投げ出せるのか。人がよく言う命より大事なものがあるというやつなのか。

 

「愚か者どもめ!!!!」

 

 分からない。分からない分からない!

 

 理解が及ばぬものは恐怖だ。それが向かって突っ込んで来る。こっちに来るなという祈りは炎となり、向かって来るものをこの世から消すため、依姫は刃の溶け落ちた刀を放り捨て極大の火柱を突き立てた。

 

 迫る火柱を睨みつけ、桐は深い笑みを浮かべる。

 

 前へ、前へ。これまでこれほどの茨の道を走った五辻はいたか。いやいない。そしてその道は帰り道。五辻は初めて帰り道を走っている。必ず冥界へと続いているその道を、友人と共に走っている。

 

 俺の家で遊ぼうぜ! と言って走って帰る小学生をいつも羨ましいと思っていた。そんな道を、誰もが走るそんな道を。帰りを待つ者がいてくれるそんな道を。

 

 愛する者に会いに行く気分とは? 

 

 桐はいつも知りたかった。ふわふわと気分は浮ついているのに、いつもより強く体は躍動し、自分の心音以外が聞こえない。打ち鳴る鼓動の熱に身を焦がされるように、桐の身体が火を纏う。神の炎に燃やされてではない。普段は進むことに使っている摩擦熱を、滑らせず寧ろ増して、桐の体が空間を擦り上げ火を上げた。

 

 桐が上げるは恋の炎。不思議と燃える体は熱くなく、そのまま火柱の中へと突っ込んだ。熱を熱の壁で避ける。神の火に長くは耐えられずとも、一瞬穴を穿てれば十分。足を出すごとに自身の摩擦で燃え削れていく体を止めず、ただ笑いながら桐は走った。

 

 これが五辻 桐の帰り道。

 

 炎の弾ける音を突き破り、桐の笑い声が湖に響く。体が削れ切れる最後まで笑い声を残して。

 

「桐っ……‼︎」

 

 楠の目に浮かぶ涙もすぐに消え去る。先を行く桐の炎に掬われて、燃え切った桐の先に残った薄い炎のベールを睨み、ただ叫び声も力に変えるように奥歯を噛む。

 

「全く、子分のわがままを聞くのも親分のつとめね」

 

 茹で上がるような楠の耳に冷ややかな声が流れ、半分溶けた小さな手が楠の顔の横から伸ばされた。その薄い炎のベールを、最後に小さな手が捲る。楠の背に涼しさだけを残して質量を残さず。開けた視界に映った燃える月人の姿を捉え、楠は叫び短刀を薙ぐ。

 

「依姫ぇぇぇぇええ!!!!!!!!」

 

 依姫の眼に映る人の姿は夢か幻か。

 刀を。

 ない。

 腕を。

 防御を。

 身を守らねば。

 

 突き出された依姫の腕は最後の盾。楠の刃は振るえて一太刀。それ以上は神の炎に耐えられない。その腕一本の壁は、彼だけには無意味である。

 

 腕を擦り抜け刃が届く。

 

 ──パキリッ。と、半ばから短刀はへし折れ、その刀身は依姫に残る。見下ろした月人の眼に映る胸の中心に埋まった刃。込み上げてくる血を吐き出して、神の火が嘘のように風に流され消えていく。命に届いている。これで終わり。これが終わり。

 

「楠……お前は死ぬのが恐くないの? 他の者たちも、なぜ死が恐くない。なぜ、……なぜ?」

「死ぬのが恐くない? 恐いに決まってんだろうがぁ‼︎ ……でもなぁ、守ってくれる奴がいて、先を行く友がいて、背を押してくれる奴がいて、道を開けてくれる奴がいる。無駄じゃないだろう、無駄じゃねえよ……。俺がやらなきゃあよう。俺がやらなきゃ本当にあいつらが死んじまう。俺の足を動かすのは俺じゃないのさ」

 

 あぁ……、と小さく零して依姫は笑った。

 胸から溢れる血も、口から溢れる血も気にせずに。

 楠が最後に信じたのは自分。依姫が最後に祈ったのは神。

 八百万を降ろせる能力にかまけていたかと、自虐の笑いが止まらない。

 なぜ刀を捨てたのか。

 なぜ危機を感じ神に祈ってしまったのか。

 せめて最後まで刀を握っていたならば、なにかが違ったかもしれないのに。

 姿形のない命を恐れた。ただそれだけのこと。

 それは一種の永遠で、人は永遠を背負っている。

 

「ああ、楠、楠楠、また私と戦ってくれる? 今度は最後まで私と刀で」

「ああ、次は俺が一人で勝ってやるよ」

「そうか……そうかぁ」

 

 不滅の魂に感謝する。近いか遠いか、信仰で蘇るその時を夢見て。消え逝く自分の体を依姫は見下ろし、ただ一言、自身に勝った人間に言っておかなければならない言葉を絞り出す。

 

「武運を」

 

 月夜見への裏切りと言われても、この一言だけは依姫の本心。その一言を残し結界装置の『目』の箱を落として依姫が消える。地に転がった光る箱を踏み砕き、楠は長く細く息を吐いた。軽い火傷だらけの手を閉じては開き、ぼやける視界の切れ端が地面に落ちてしまわぬように空の満月を睨みつける。

 

「取り敢えず一つかしら、平城十傑」

「……吸血鬼の嬢ちゃんか。腕は?」

「満月の下でも今夜中には生えないでしょうね。最高の血を飲んだとしても」

 

 神の火で焦げた肘上から先のない両腕を掲げレミリアは残念そうに顔を横に振った。そんな姿に楠は何も言わずに、桐が投げ捨てた短くなった大太刀を拾う。

 

「あら楠、もう行くの? こんなに素敵な月夜だものね。散歩をまだ続けるの?」

「月夜見の首を取るまでな。吸血鬼の嬢ちゃんの頭突きの分まで、俺が殴っといてやる」

 

 それと妹紅と桐とチルノの分まで。歩き去っていく楠の背を見つめ、レミリアは手頃な岩の上に腰を下ろす。紅魔の主の戦いはこれで終わり。

 

「Fortune favors the bold. *1私も信じるわ、勇者たち」

 

 満月を見上げレミリアは勝利のために小さく歌う。愚者たちへの鎮魂歌。それが届くことを祈って。

*1
幸運は勇敢な者を好む



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ④ 天探女

「……遅れたな」

 

 ポツリと梓は呟き一人ため息を吐きながら眉を寄せる。

 幻想郷の軍を動かしていた櫟の元への天探女襲来を聞き梓が魔法の森を抜けてからもう十分。少し前に妖怪の山の暴風ドームが吹き飛び、大部分の戦力はそちらへ向かった。漆と梍、早苗や神子、菫子が逸早く作戦本部のある人里と博麗神社の狭間の森に向かったため、梓はそこまで心配はしていないのだが、こういう時こそ足の遅さが煩わしい。

 

 天探女の登場は、他の月人の襲来も知らせていた。これまで月の兵器を耐えていた風のドームを一撃の元吹き飛ばした姿からもそれが分かる。それに加えて、伝令として飛んでいた天狗の影がぐんと減ったことも梓の焦りの原因の一つだった。

 

 伝令役は必ず作戦本部を経由する。玉兎の数がそれ程でもないのに天狗の姿が減ったということは、作戦本部でなにかがあったという証。それに加えて、梓の目指す先から戦闘音の類が響いて来ないのも不安を煽る要因の一つ。やって来た月人が大したことなかったということか、それとも月人が強過ぎて最悪の結果となっているか。

 

 どちらにせよ向かわないということはあり得ない。

 

 遠くで轟く破壊音を背に、一人梓が走る先、地に倒れている影を見つけ梓の目が細められた。伝令役の天狗が地に伏せている。墜落でもしたように周りの木々の枝をへし折ったようで、枝を下に倒れている。突き刺さった枝によって血を流し動かない天狗を目に、梓は今一度強く地を蹴った。

 

 月人が強いか弱いか。そんなことは幾らでも聞いていたが、実際に敵としてみなければ本当の脅威は分からない。だが、例えどんな相手だろうと寄って殴る以外の手が梓にはないのだ。

 

 敵が強力な矛であればこそ、盾である己が必要となる。

 

 木々の間から兎の耳やマントの端を見やり、梓はポケットへと手を伸ばすと右手に鏃を握る。出会い頭にぶつかろうと、それならそれで押し通るまでと意思を固め、迷わず木々の間から飛び出した。

 

「櫟、漆、梍、無事か!」

 

 開けた場で足を止め、右拳を引き構えた姿で梓は固まる。

 

「櫟! 漆! 梍!」

 

 見慣れた三人が道中の天狗と同じように倒れている。櫟は目の前の机の上に倒れるように。漆は木に寄りかかり。梍は岩を背に腰を落として。見開いた梓の目に飛び込むのは、そんな三人に間を埋めるように崩れた多くの妖の姿。鈴仙も、清蘭も、鈴瑚も、椛も、早苗も、神子も、菫子も。皆一様に地に倒れている。木々の間からは多くの天狗が倒れているのが見え、小さな鼠たちに囲まれたナズーリンも同じように倒れていた。

 

「……はたて女史?」

 

 一番近くで横になっているはたてへ近寄り梓は膝を折る。他の天狗と違い、念写によって敵情視察をしていたはたては墜落はせず、枝などが刺さっているわけでもなく、体には傷もない。ぼやけだした視界に梓は顔を顰め左手で頭を叩いた。

 

 驚愕はした。動揺もしたが、ぼやけた視界は悲しみからではない。小さく上下するはたての胸の動きを見て、状況を察し梓は立ち上がると、鼻を抑えて周りに目を散らす。

 

 千三百年前の再来。月の使者を撃退しようと集まった一騎当千の武士たちが手も足も出なかった状況と同じ。ただ眠りこけ事態が過ぎ去るのを甘受しなければならなかった屈辱的な一瞬。その到来に焦る梓を嘲笑うように、ゆるりと風に流れが変わる。

 

「おやこれは、貴方には眠り香への耐性でもあるのかしら? 千三百年経ち人も進歩したのね、夢の世界を拒むだなんて。何者?」

「──生憎普通の毒や薬は効き辛くてな。僕は平城十傑、足利家第八十八代目当主 足利梓。ようやく会えたな月の使者」

 

 バサリッ。と音を立てて羽ばたく白い片翼。端を矢印の形に幾つも切り抜かれているスカートを揺らして、梓の後方の枝に音も立てず天探女が降り立った。全体的に白っぽい中で輝く瞳は紅く、満月の夜に降り立ったトキのようにも見えた。ただ零された言葉は静かで小さく、周りが静かだからこそ梓も拾えたが、風に吹かれ揺れる木々の葉音に叩かれてしまえば、途端に聞き取れないだろうことが分かるほどか細い。

 

 平城十傑と吹く夜風よりも小さく頭の中で呟いて、僅かにサグメは瞼を落とした。狭まった視界の中でサグメを見上げている鏃を握った男の姿。イレギュラー。何よりサグメの気にした相手の登場に、口元は隠さず目を合わせ、サグメは一度飛ぶわけでもなく純白の片翼を羽ばたいた。自分の不安を吹き飛ばすように。

 

「私はサグメ、稀神サグメ。月の賢者が一人。また見せて貰いましょう、人の可能性というものを。他でもない外の世界の人の可能性を」

「幾らでも試せばいい。その全てを殴り抜けよう」

「そうでは無い。私が知りたいのは貴方の底だ。力ではなくその内側」

 

 サグメの言葉に首を傾げながら、梓の膝が地に落ちる。ぼやける視界と意識を叩き落とすような強烈な眠気。その不可解さに梓の頭が働かない。霊的な薬物を行使する黴の煙と違い、睡眠薬も毒薬も、化学的に体に異常をきたすような薬物は足利の体に効き目が薄い。そんな中での意識の暗転。舌禍の妙技を遮ることのできる者は存在せず、神であろうと眠りに落ちる。膝を折ったまま倒れることなく、腕を地に着け今にも跳んで来そうな形で固まった梓に興味深そうに目を落とし、サグメは枝の上に腰を下ろすと翼を伸ばす。

 

 今はただ、ただ待つだけである。

 

 

 

 

 ♠︎

 

 

「おーい、梍どうしたんだよ」

「ああいや」

 

 友人に呼ばれ梍は小さく頭を振った。そうすれば聞こえてくる喧騒に耳を這わせ、簡素な鉄パイプの脚に支えられた机が立ち並んだ景色を眺めると、教室にいたんだったと思い出す。

 

 午前の授業も終わり昼休み。購買に早く行かなければパンの類は早々に売り切れてしまう。「早く行こうぜー」と言って梍の顔を覗き込んでいる数人の友人たちの姿を見て、弁当の類を持って来ていないことを梍も思い出し慌てて席を立った。慌てたせいで机とぶつかり、そのせいでアレがズレてしまったのではないかと急いで梍は眉間へと手を伸ばす。

 

「なにやってんの?」

「いや、サングラスが」

「サングラスゥ〜? なに言ってんだ?」

 

 触れた眉間には何もなく、なんとも座りの悪いような不思議な感覚を梍は感じる。教室の窓に薄っすらと映る自分の姿へと目を移しても、サングラスなど掛けているはずもなく、茶色いよくある瞳がパチクリと梍の姿を見つめていた。

 

「──おれいつもサングラス掛けてなかっただに?」

 

 だがそんな自分に言いしれない違和感がある。何かが足りないような、いや、足りており何もおかしくないのだが、影のように張り付いて拭えぬそんな違和感。教室の窓を見つめて動かない梍に「気持ち悪」と言って幾人かの男子生徒たちは顔を見合わせ引き、そのうちの一人が落ち着けと言うように梍の肩に手を置いた。

 

「梍、考えてみろって。いつもサングラスなんか掛けてたら生活指導室行きだっつうの! 目が悪いわけでもないんだからさ」

「あ、あぁ、そうだに、な」

 

 それもそうだと生徒たちに恐れられている生活指導の教員の姿を思い出しながら、サングラスなんて掛けているわけがないと梍も思い直し教室を飛び出した。

 

 変な事に時間を割いたお陰で購買レースからは脱落だ。残っているだろうは売れ残りのパンばかり。それを思えば、急ぎながらも足が緩みため息が零れる。

 

 そんな中で目に映る代わり映えしない学校の廊下が、不思議と目新しく梍の目に映った。人々の話し声に多くの上履きの音。窓から差し込む陽の光はただ暖かく眩しい。人々の顔に浮かぶ表情はなんというか生々しく、ついつい見つめてしまう。そんな風によそ見をしているものだから、購買の列に気付かず前で立ち止まった友人に危うく突っ込みそうになり、梍は慌てて立ち止まる。

 

「おいおい、どうしたんだよお前今日おかしいぞ」

「わ、悪い、怒ってるだに?」

「怒ってねえよ、呆れてんだよ」

 

 眉間に皺を寄せてそう言う友人に、悪いと返しながら梍は首を捻る。本当にそうなのか。確かに呆れたような顔を梍の友人は浮かべているが、もっと感情とは分かりやすく輝かしい色を持った何かではなかったか? 途端に世界が色褪せたように感じる。まるで安っぽいクレヨンで描いたような。中身のないハリボテのような。

 

 首を捻り唸る梍に、梍の友人たちは一層呆れ、梍の後方を見て何かに気づくとやれやれと疲れたように首を振った。

 

「なんだにか?」

「お前そんなんじゃ折角彼女できたのに捨てられんぞ。しかもなぁ、なんでお前が、ハァ」

 

 友人の言葉に梍の呼吸が止まる。非常に梍が聞き慣れない言葉が含まれている。パチパチと目を何度も瞬き固まる梍の背中に、「相棒!」という声と共にぶつかってくる衝撃。蹌踉めき振り返った梍の目に飛び込むのは、ピンク色の髪、ではなく黒髪の少女。ピンク色なんておかしな髪色の人間がいるわけない。「秦さん」という梍の呟きに満面の笑みを返し制服のスカートを揺らす少女の姿に、梍は大きく首を傾げた。

 

「どうかしたのか相棒」

 

 秦さんの笑顔はもっと弾けるような色だったような、と口にしようとして、それはあり得ないか? と頭の中で浮かぶ思い出に一人頭を振るう。古くから能を嗜んでいる一族の出で、演劇部の看板娘であるこころの笑顔に勝るものはないだろうと梍は納得し頷いた。

 

「いや、どうもしないだに。それよりなんで相棒だに?」

「え、ぇえ⁉︎ そ、それはバカこんなところで言えないだろ!」

 

 そうなの? と再三首を捻る梍の頭をボコスカと背後から男子生徒たちは叩き、ご馳走さま死ね! とそっぽを向く。そんな感じがどうもこそばゆく、頭を掻きながら目を流した梍の目が瞳を見る。それに梍は今度こそ固まった。廊下の窓に映る漆黒の瞳。宙に浮いた二つの穴のように黒々とした眼が、金色の虹彩を輝かせ、静かに梍を覗いていた。

 

 その全てを覗くような瞳の恐ろしさに小さく後ろへと足を出した梍の前に、下からにゅっとこころが顔を出し心配そうに梍の瞳を覗き込んだ。「相棒?」と首を傾げたこころの背後の窓からは黒い瞳の影は消え去って、秋の風に校舎を囲んでいる木々がただ揺れているだけ。目を擦り、目を瞬き、夢のようだった一瞬に梍の鼓動が速まる。

 

「今、……外に」

「外? 別に何もないぞ? 梍大丈夫? 具合でも悪いの?」

「秦さんこいつ昼からちょっとおかしいんだよ」

「んー、きっと疲れてるのよ! 映画に行こう相棒! ほら今度の休みに話題のがやるんだって! 梍好きでしょう? 二人で行こう!」

「え? ああいやおれ映画は……」

 

 嫌いではないが、感情を揺さぶるような作品を梍はあまり見れない。一人でならいいが、映画館などの多くの人が居るところではダメだ。この敵役クソ野郎だな! と想った瞬間画面や銀幕に穴が開く。そうでなくてもマナーが悪い者がいてイラつくだけでいろいろヤバい。唸る梍にこころは大きく首を傾げて、ただ顔を見つめてくる。そんなこころの悲しげな顔に、なに考えてるんだと強く梍は首を振る。

 

「……いや、行くだにか、映画」

「ああ行こう! ついでに買い物とか食事もしよう!」

 

 表情をコロコロ変えて喜ぶこころが微笑ましいと梍は笑うが、何かが引っかかる。そんな梍の顔を相変わらず見つめてくるこころに梍は気まずそうに頭を掻いた。

 

「ふふっ、そんなに秦さん映画行きたかっただに?」

「え? ああいや、その、相棒と同じものが見たいんだ」

「……おれと同じ?」

「同じものを見ている時はきっと同じ想いだろう? 私は相棒と同じものを感じたい」

 

 口を開けたまま梍は固まり、ふと目へと手を伸ばす。そんな梍の背後からまた男子生徒たちに頭を叩かれ、笑うこころと共に昼を過ごした。

 

 同じものを見ながら、同じものを感じて。

 それがずっと、ずっと梍が感じたかった……。

 

 

 

 

 

 ❤︎

 

 

 うんっ、と伸びをして櫟は席を立つ。ようやく学校の授業が全て終わった。あまり得意でもない体育の授業に、パソコンを使った授業が続き肩と目が疲れた。目頭を軽く揉んで鞄を手に、櫟は友人に軽く手を振って教室を出る。向かう先は文芸部。先輩二人と櫟だけの廃部寸前な部活であるが、櫟はそんな部を気に入っている。スキップするように廊下を通り抜け部室の扉を開けば、昔から知っている幼馴染の二人が既に椅子に座っていた。

 

「菖ちゃん! 藤さん!」

 

 んー、と言葉にならない相槌を返して手を挙げる藤と菖のやる気なさそうな顔を見て、櫟はやれやれと首を振った。いっつも椅子に座っているだけで動かない二人を動かすために、櫟はなんとか一日頭を回したのだ。

 

「もう二人ともまたそんな顔をして、五月病ですか? もう秋ですよ! そろそろ新入部員の募集に力を入れなければ、栄えある我らが文芸部が潰えてしまいます!」

 

 そう言って櫟は椅子に座り、注目を集めるために机の上へと強めに鞄を置いた。

 栄えある文芸部。

 江戸時代寺子屋の時より続くと実しやかに噂されている文芸部は、一応本当に百年近い歴史がある。それが今やたったの三人。ここで手を打たねば存続が危うい。櫟の声に藤と菖はちらりと目を向け、藤は頭を掻いて背を正した。細められた瞼の奥で輝く翡翠の色を櫟は宝石を見るように見つめ、藤の言葉を待つ。

 

 ぶわりと白煙は吐かず、藤は櫟と目配せすると、疲れたようにため息を零した。

 

「あのなあ櫟、もう秋だよ? 無理だって、諦めるのが吉だね」

「なに言ってるんですか! まだ文化祭があります! ね! 菖ちゃん!」

 

 黒真珠のような菖の瞳を見つめて櫟は静かに返事を待つ。菖は静かな雰囲気、というか死んだようにぐったりとした覇気のない空気を振りまいて、机の上に頬杖を突いた。そんな姿に少し櫟の気が抜ける。

 

「文化祭はもう間近だろう? なんの準備もしていないのにどうするんだ? 無理だ無理」

「今から頑張れば私たち三人なら大丈夫です! 三本の矢というやつですよ!」

「私たち三人? 三人でなにができる。櫟、貴様の目は節穴か?」

 

 困った奴だと呆れて肩を竦めた菖の姿に、櫟の口からただ息が零れ言葉にならない。椅子の上で固まった櫟に藤も菖も手を振って、椅子に深く沈み込んだ。

 

「別に私は文字を書くなんて得意じゃないし、得意じゃないことをやろうとも思わん」

「そうそう、ここで頑張ってなにになるよ、人生は長いんだ。諦めよく行こうじゃないか、なあ?」

 

 翡翠色の瞳と黒真珠のような瞳が櫟に流され、柔らかく微笑んだ。藤の顔と菖の顔。その二つを見比べて、櫟は小さく肩を落とす。そんな顔を向けられてしまうと、強い言葉が櫟の内から出てくれない。

 

「で、でも、それじゃあ私たちの文芸部はどうするんですか?」

「別にどうもしないさ。文芸部が潰れたって死ぬわけじゃないし」

「い、いやそうですけど……」

 

 それでいいのか?

 今手を伸ばせる位置に自分がいるのに見送っていいのか?

 藤も菖も手を出す気は微塵もなく、ただ椅子に座し本を読むばかり。その席を立つのかどうかも分からぬほどに動かない。ただ櫟が見たかった笑顔を浮かべてそこに居る。だが……。

 

「……いいんですか? 何もしなくても」

「そう言うがね櫟、それじゃあなにができるんだい? 櫟、君にはなにができる?」

「……私に?」

 

 藤の問いに櫟は自分の手を見下ろす。目に映った両手でなにができる? 不思議と目に映った途端、マネキンのように自分の手がチープに見える。それでいて生気溢れた空気をどうにも気持ち悪く感じ、酷く櫟の顔が歪む。肌に触れる空気も心地良いだけ。耳を澄ませても藤と菖の心音が聞こえたりしない。匂いも紙の匂いだけ、目には見たい景色を写して。それだけで、目で見ているはずなのに何も見えない。

 

「まあなんだ、来年になれば俺の先輩の妹が新しく入って来るし大丈夫さ。来年の新入生に任せるとしよう」

「それがいい、無理に動いて何になる、私たちが何をしたところで何が変わるわけでもない。ただこうして日々を過ごすのも悪くないだろう?」

「……そう、ですかね」

「そうとも、どうせうちの学校大学までエスカレーターなんだ。三人でゆっくりしようじゃないか」

 

 藤と菖とただ時を過ごす。

 見たかったものだけを見てただ時を。

 そんな時間が少しでいいから櫟は欲しかった。

 

 

 

 

 

 ♦︎

 

 

 

「やろうか梓」

「やろう勇儀」

 

 鬼の笑みに梓も笑みを返す。これぞ現代の鬼退治。鬼と殴り合うなどという途方も無い夢の中に今まさに身を置いている。笑顔で腕を振り被る勇儀の動きに合わせて、呼吸を合わせるように梓も腕を振り被る。交差する拳。その擦りあった衝撃で梓の腕が捻じ切れ、飛んで来た拳が顔半分を拳の形に千切り取った。

 

 崩れ落ちた梓の顔を見下ろす勇儀の顔からは笑顔が消え、とても残念そうでつまらなそうで……。何故そんな顔をするのか聞きたくても、もう激痛で口は動かない。身を翻し去っていく勇儀の背に言葉は掛けられず、ただ地面に転がったまま意識は薄らいでいく。

 

「これは……」

「蒙昧な人間ですねえ」

 

 妖怪の山にやって来た愚かな侵入者。天狗の責め苦に耐えられるはずもなく、腕は捩じ折れ、足はへし折れ骨は飛び出し、片目は抉れ地に落ちている。何しにやって来たか終ぞ言わなかったが、絶叫と血肉を滴らせ、今まさに絶命する寸前だ。

 

 残った片目を小さく動かして、入ってきた鴉天狗を梓は見る。つまらなそうに腕を組みペンを回す文の心中を伺うことはできないが、ただその落胆の表情が心に刺さる。部屋を出て行こうとする文に梓は手を伸ばしたくても動かない。ただ離れていくその背を見送るしかない。黒い翼が視界を覆うように暗幕が落ちる。

 

「終わりにしよう大将。新しい竹取物語を描いて」

 

 そう白煙と共に吐き出された言葉に、梓は大きな夢を見た。ただ季節を繰り返すだけの人生。それが変わる瞬間。その一言で全てが変わる。進むべき道を見出したように、初恋のような煌めきを持って。

 

 壁を透け抜ける奴がいる。誰より早く走る奴がいる。なんでも奪う奴がいる。殺すことを突き詰めた奴がいる。目の見えぬ最高の参謀。白煙を燻らす陰謀家。悪夢に折れぬ最強の術師。あらゆる武器を繰る絡繰師。脅威を脅威で捻じ曲げる邪眼師。

 

 そんな者たちが共にいる。それを喜ばずして一体どうする。梓が持たないものを誰もが持っている。技と業と術。その輝きに並ぶものを梓は持っていない。

 

 どれだけ走ろうと桐には追いつけない。壁を抜けることなど出来ず、空間を掴むこともできない。居合など上手くいかず、目を瞑れば何も見えない。術なんて理論がさっぱりだ。

 

 才能ナシ。その烙印を自ら押せるほどに何もできない。

 鬼に潰され、天狗に削られ、玉兎に身を穿たれる。

 強固な体、ただそれを取られてしまえば何もできることがない。並び立つことさえ難しい。

 

 耐え忍ぶこと、それこそ人生。

 

「やろうか梓」

「やろう勇儀」

 

 鬼の笑みに梓も笑みを返す。何度潰されようと、言葉は変えない。その笑顔に笑顔を返し、変わらず拳を結ぶ。鬼の拳に体が弾ける。腕が千切れほとんど半分になった梓を見下ろす勇儀の冷たい目。

 

「まだ、だ」

 

 滴る血に力が抜けていく。それでも立ち上がろうと腕を動かす。僅かに揺れた勇儀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなるのを見て梓は立ち上がる。打ち出される鬼の拳に返す拳は出せず、体が潰れ吹き飛んだ。ただ、呆れた目を見たくなくて、何度だろうと、勝てなかろうと梓は立つ。

 

 初めて見た夢だから。

 

 才能がなかろうと、完成された肉体がなかろうと関係ない。ただ並びたい。共に居てくれる九人と共に。そのためなら、繰り返せるなら泥を飲もうと、血を吐こうと、何度だって立ち上がる。何度だって挑んでみせる。

 

 鋼の肉体がなかろうと、梓の鋼の心は奪えない。

 

「諦め悪いね、諦めればいい夢が見れるのに」

 

 鬼の拳、天狗の爪、何度切り替わったかも分からない意識の隙間を繋ぎ合わせるように、サブリミナル効果のように、意識の切り替わるその一瞬に浮かぶ少女の姿。赤いナイトキャップを被る白黒ワンピースの少女。眠たげな目を擦りながら、記憶を繰り返しては潰れてを繰り返す梓を見る。

 

 頭の中に突如浮かんだ少女の姿に梓は目を見開き、勇儀の拳に頭を潰される。「ぴったし三万回目」と、夢の支配者、ドレミー=スイートは手を合わせ、困ったように首を傾げた。

 

 夢は現実以上に心を蝕む。そのはずなのに、未だに一人抗っている者がいる。そのせいで、どうにも夢のバランスが悪い。永遠に繰り返される悪夢に抗い続ければ、いずれ心は磨耗し擦り切れる。それを避けて神子すら夢に堕ちたのに、なぜか人一人がまだ抗っている。鬼や天狗、玉兎や菖、それらに梓が殺されること数万回。なぜ諦めないのかドレミーには分からない。

 

「別に命を取ろうなんて思ってないわ。このままただ夢を見て眠るだけ。なのになぜ諦めないの? このままじゃ貴方の心が死ぬわ」

 

 鬼に潰され、天狗に飛ばされ、声にならないが梓は笑う。繰り返される死の中で梓が目指す先は一つ。

 

 

「夢は見るのではなく追うものだ」

 

 

 夢の中で九人と並びたいのではない。夢のような光景を、現実の中で九人と共に並びたい。

 

 梓がブレずにいられるのは、九人がいてくれるから。九人が支えてくれるから。だからこそ、今支えるのは梓の番。何度悪夢を繰り返そうと、自分にないものを持つ誰かが必ず立ち上がると信じているから。

 

「数万、数億繰り返そうと僕は絶対折れてはやらないぞ、首を洗って待っていろ。稀神サグメに言った通り、必ず殴り抜けてやる」

 

 梓の言葉に口を引攣らせてドレミーは姿を消す。頑固過ぎて相手をしたくない。千、二千と積み重なっていく死の落ち葉から逃げるように、ドレミーは大きく目を外らす。

 

 

 

 

 

 ♧

 

 

「あれ?」

 

 ふと漆は耳を擽る音に振り返る。

 夕焼けの空の向こう側、学校の帰り道、ビルとビルの間に伸びた小道を睨み、漆は動かしていた足を止めた。目に映る薄暗い路地には何もなく、ただ室外機のファンが回る音が小さく路地の中に反響していた。首を傾げて目を細める漆の肩を叩く手が二つ、その柔らかな感触に漆は路地から顔を戻した。

 

「蘆屋さんどうかしたの?」

「ああ悪い、なんか今女の泣き声が聞こえた気がして」

「ええ⁉︎ そんな人居ました? ひょっとして幽霊だったり!」

「いや気のせいだったよ、だからテンション上げんな。行こうぜ菫子、早苗」

 

 友人二人と並んで歩く帰り道。途中寄った肉屋で買ったコロッケをほうばりながら歩く。学校の先生の悪口や、早苗が先輩に告白されたとからかいながらしばらく歩けば、何かに気づいたように菫子は短な声を上げて鞄へと手を突っ込んだ。そして引っ張り出したのは一枚の紙。悪い笑みを浮かべて、漆と早苗の前に掲げる。

 

「言うのが遅れたけど遂にやったわよ! 私たちの秘封倶楽部が今日から正式に認められたわ! これで部費が下りる!」

「おー! やったじゃんか! 流石会長! よく認められたな!」

「これこそ私の努力の結晶よ! もっと讃えなさい!」

「わー! じゃあ副会長は私で!」

「なんでだよ!」

 

 早苗と小突きあいながら漆は笑う。高校に入り、部活どうしようかと悩んだ結果漆は色々と道を間違え変な部活を選んでしまったと後悔したのも遥か昔。代々続く陰陽師という不気味な境遇を早苗も菫子も嫌な顔せず寧ろ両手を上げて喜んでくれた。喜んでくれたのは微妙だが、なんにせよ受け入れれくれたのは事実。今ではすっかり気のいい友人である。

 

「それより冬はどうする?」

「冬も合宿するのか……」

 

 菫子の笑みにげっそりと漆は肩を落とした。秘封倶楽部の合宿と称して行われた夏の合宿は、洩矢の末裔という怪しい経歴を持つ早苗の実家で行われた。諏訪子が近く涼しく、花火大会もあったため非常に楽しめたが、東風谷の資料を漁る女子高生三人の姿は非常に怪しかっただろう。約一ヶ月早苗の実家に泊まったという事もあって、漆としては頭が上がらない。

 

「冬は漆さんの実家で合宿しましょう!」

「それいいわね!」

「え〜あたしん家か? まあ夏は早苗の家に世話になったし大丈夫かな?」

「次は陰陽師の資料を漁ってみましょう!」

 

 急急如律令‼︎ と声を上げる二人に、なんも起きねえよと漆は肩を竦めて小さく笑った。授業が終われば放課後こうして三人で部室に集まりあーだこーだオカルトチックな話題で騒いだ後帰路につく。部活の内容としては怪しさ満点であるが、歴史のテストの点数が上がったりと悪いことばかりでもない。それに帰りにふらりとゲーセンに寄ったりカラオケに寄ったりするのも悪くなく、早苗と菫子が騒ぐ中、また一人漆は笑みを浮かべた。

 

「そうだったわ蘆屋さん、昨日撮ったプリクラの写真送ったけど変更した?」

「変更?」

「秘封倶楽部正式化を記念して待ち受けにです!」

 

 二人して携帯の待ち受けを向けて来る早苗と菫子の笑みに苦笑して、漆も学生鞄へと手を伸ばし、五芒星と蛙とルーン文字のストラップのついた携帯を手に取った。それと同時に、漆は小さく目を開けると携帯と共に鞄の中のものをいくつか外に零しながら、手を引き抜き、隣にあった家と家の間に走る細い路地へと顔を向ける。

 

「わわ⁉︎ どうしました漆さん!」

「いや、今また泣き声が聞こえたような……」

「何も聞こえないけど、うーん、空耳の伝承とか追ってみる?」

 

 本気で心配してくれる早苗と菫子に悪いと謝りながらも、どうもおかしいと漆は頭を掻いた。アスファルトの上に散らばったメモ帳や筆箱を慌てて拾う中、「あれ?」と共に拾ってくれていた早苗が首を傾げた。何かおかしいものでもあったかな? と同じく首を傾げる漆に早苗は笑みを浮かべて、拾ったものを漆に突きつける。

 

「これなにかのカードゲームのカードですか? 私も昔いろいろ集めてましたよ! 漆さんもそういうの好きだったんなら言ってくれればいいのに!」

「カードゲーム?」

 

 そんなもの漆は持っていない。早苗に突き出されたカードを受け取り、漆の中でなにかが弾ける。

 

 

 ──漆さぁぁん‼︎ 凄いスペルカードが完成してしまいました! どうですか! 封印解除(レリーズ)! 

 

 

「……これじゃあ、捕獲者(カードキャプター)じゃなくて決闘者(デュエリスト)じゃねえかバカ、オタク娘め

 

『友情』

 と銘打たれた薄い一枚のカードには、呆れて笑う菫子を背景に、早苗と漆が漢らしく握手している姿が描かれている。どういうつもりで作ったのか意味不明だ。月軍襲来前に早苗と揉みくちゃになった際に勝手に紛れ込んだと見えるスペルカードを握り込み、心配そうな顔で見つめてくる早苗と菫子を一瞥すると、漆は素早く携帯を操作して待ち受けを変え、数秒それを見つめた後携帯を二人に向けて漆は放った。女子高生三人で肩を組んだ女子高生らしくない写真に苦笑して。

 

「蘆屋さん?」「漆さん?」

「悪い! ちょっと野暮用思い出しちまったから行ってくるわ! 早苗! オメエあんまりカラオケで古いアニソンばっか歌うなよ! それと菫子! オメエはまあ、マントと三角帽子、あたしはナシだと思うけどオメエにはまあ似合ってると思うぜ!」

 

 急に走り出した漆に早苗と菫子は顔を見合わせ、二人揃って肩を竦める。菫子はマントなどしていない。漆がなにを言っているのか二人には分からなかったが、去り際の気持ちのいい笑顔を思い出し行ってらっしゃい! と手を振った。

 

 それに見送られ漆は家々の間に伸びた細い路地を全力で走る。向かう先は分かっている。早苗のスペルカードを握り締めれば、聞き慣れすぎた泣き声が聞こえる。工場の横を通り抜け、家の姿が減り、田園風景の中ずっとずっとその先を目指して。稲穂の揺れる田園の先、森に入る手前に立った古ぼけた蔵は、小さな頃に漆がよく逃げ込んでいたものそのものの姿。重い扉の取っ手である輪を力任せに引っ張って、暗闇から流れてくる啜り泣く声に、漆は肩で呼吸したまま大きく息を零した。

 

「……よぉ」

 

 蔵の中に反響する声に、蔵の隅で丸まった小さな背はピクリと跳ねてゆっくりと振り向いた。まだ七歳くらいの小さな少女は、漆の昔の姿に似ていたが、髪は全て黒く外側に跳ねたりしていない。

 

「ウルシ」と少女の名を呼ぶ漆の声に合わせ、小さな少女は漆の元に走り抱きついた。その軽さに蹌踉めくこともなく漆は受け止めると、膝を畳み少女の頭に手を乗せる。

 

「……友達ってのはいいな、すっげえ楽しかったぜ。あたしもこれは、一度手にしたら手放せないかな」

 

 ウルシは涙の枯れない目を擦りながら、ぽたぽたと雫を零し続ける。そんな姿に漆も顔をうつ向けて、スペルカードを握り締めた。

 

「でもこれは夢だ、そうだろ? 現実であたしたちの友達が困ってる。だから行かなきゃよ」

 

 早苗と菫子と、櫟と菖と、それに輝夜も。そう続ける漆の言葉に、ウルシはびくりと顔を上げると、小さく後ろへ足を出した。そんな小さな少女の襟元を漆は掴み引き寄せる。優しく手を伸ばしたつもりであったが、漆の手は血が垂れるほどに握り締められ、少女を掴み離さない。

 

「あたしが気付いてねえと思うかっ……!」

 

 ウルシは恐れている。唯一姿形を残している初代当主でありながら、誰より月軍を恐れている。その相手から輝夜を守れなかった。輝夜にどんな顔を向ければいいのか分からない。月に帰りたくないと言った輝夜の初めての願いを叶えられず、更に千三百年前よりも強いと見える者が今回の相手。

 

 また負けたら? 

 

 と考えられずにはいられない。それが恐ろしいから、輝夜を目の前にしてもただ気付かないふりをして、ウルシは終わらない悪夢に逃げている。

 

「あたしはなッ! あたしはまだ一度も、一度もアイツらに友達だって言ってねえんだよ‼︎ 菫子にも! 早苗にも! 櫟にも菖にも! テメエだってそうだろウルシ!!!!」

 

 ウルシに傷付けられないように、漆が素っ気なくしていても側にいてくれる者たち。そんな者たちに、悪いと謝っても、ありがとうとお礼の言葉を渡したことはほとんどない。

 

 そしてウルシが友に手を出そうとするのもまた、友のことを考えてのこと。願われても友人のお願い一つ叶えられない己が身ができることなど、期待する前に自分に見切りをつけて貰うことだけ。

 

 初代から続く不器用さに苦笑もできない。

 

「あたしが優しく手を引いてテメエを悪夢から引っ張ってくれるとでも甘えんならふざけんな! 輝夜はテメエの友達だろうが! 昼間見たあの笑顔を壊したくねえから今までやって来たんだろ! なのにこんなとこに引きこもって! オメエだってあたしの……あたしの初めての友達だから、一人で何もできねえなら手を貸してやる! ただしあたしは優しくねえぞ‼︎ テメエみてえなしみったれはぶん殴って立ち直らせる! テメエはあたしで、あたしはウルシだ! ここでやらなけりゃ、できなけりゃ女が廃んだよ! いい加減目え覚ませバカ‼︎」

 

 早苗のスペルカードを握り締めた右手をウルシの首元から放し、思い切り拳を小さな少女目掛けて漆は振った。快音を響かせ壁に吹っ飛んだ少女は、壁にぶち当たるとズルズルと腰を落とし紅い目を瞬かせる。ただ眼に浮かぶ雫はもう品切れ。枯れた目元を一度拭い、口をいつもの形に動かす。

 

「かぐやさま」

 

 小さな少女が影に溶けるようにその身を伸ばす。十尺に上ろうかという巨体を揺らし、長い黒髪は、敵への敵意からか大きく外側に跳ね、紅い瞳をルビーのように輝かせて大きな手を拳に握る。

 

「行くぜウルシ! 百人分超えた悪夢舐めんな! あたしらの友達を助けに行くぞ、あたしたちが‼︎」

 

 勝つ。

 今度こそ。

 二度目はない。

 

「夢から覚める時は今だ! 急急如律令ォ!!!!」

 

 漆の指の動きに合わせてウルシは強く拳を出す。どこに向けるかなど分かっている。千三百年悪夢と向き合った拳だから。伸ばされた悪夢の拳は、卵から雛が孵るように、小さなヒビを世界に穿つ。

 

 

 

 

 

 ♤

 

 

「ん?」

「どうした相棒?」

 

 こころと映画館へと向かう道中、ふと梍は足を止めた。不思議そうに首を傾げるこころを視界の端に捉えながら、遠く梍の目に映る一つの人影。大きく外へと髪を跳ねさせた少女の影。すぐに人混みの先へと足を伸ばし消えた少女の影が、どうしても梍の目についた。

 

「今、見たことある影が見えたんだにが」

「影? 見えないわよ? 幻覚だったんじゃないか?」

「幻覚? ……でも確かに」

「相棒しか見てないとしたら幻覚と同じじゃない? 他に誰も見てないなら。それより映画だ! 共に同じものを見よう!」

 

 こころに手を引っ張られ、梍はもう目の前の映画館へと入っていく。こころがチケットを買うぞと手を上げる横で、一人梍は黙り込んだ。梍しか見ていないなら幻覚と一緒。こころの言葉が身の内で反響する。それがどんなに綺麗でも、それを感じられるのは梍一人。それが実在してるか、本物なのかどうかなど、証明のしようがない。

 

「ふふーん、なあ相棒、前の席がいいか? それとも後ろ?」

「あ、ああ。そうだにな」

 

 生返事を返し慌てて梍は笑顔のこころに目を向ける。分かりやすく表情を顔に出すこころに同じように笑みを向けて梍は返事をしようと思ったが、口から言葉は出なかった。

 

 こころの背後のガラス張りの壁に目玉が二つ浮かんでいる。ただじっと梍を見つめて浮かぶ暗黒の瞳。その眼の恐ろしさに梍の足が僅かに下がる。

 

「相棒? どうした? 何を見てるんだ? 恐いぞ」

 

 こころの言葉を聞いて梍は目を瞬いた。二つの暗黒の眼は梍にしか見えていない。外を歩く人々も、映画館の他の客も、誰も気にした様子がない。一度梍が目を擦っても、ガラス張りの壁に浮かんだ瞳は消えず、一歩足を出した窓に映った梍の姿と瞳が重なる。漆黒の瞳の梍の姿は、なぜか全く違和感がなかった。その不思議さに目を瞬いた梍の視界の中に、九つの後ろ姿が映る。一人ひとり全く異なる宝石のような輝きは感情の色。見惚れ呆けた梍の腕をこころが引っ張り強引に振り向かせた。

 

「おい相棒大丈夫か? 具合でも悪いのか?」

 

 心配してくれるこころの顔を見下ろして、少し残念そうに梍は顔を俯く。感情豊かなこころの顔は可愛いが、なぜか輝きを強く感じない。

 

「秦さんには何も見えなかっただに?」

「え? 何がだ……?」

 

 口端を引攣らせるこころに頷き、梍は一度強く目を閉じた。

 

「なあ、秦さん、秦さんはなんでおれを相棒と呼ぶだに?」

「え⁉︎ い、今それを聞くのか⁉︎」

「教えてくれ」

 

 梍の真面目な顔にこころは顔を赤らめて前髪を弄り、仕方ないと小声で話しだす。その声を聞き逃さないように、また見逃さないように梍はしっかり目を開けた。

 

「は、初めて私の全部を見てくれたから。梍なら同じ所に行ってくれると思って」

「同じ所……ふふっ」

「な、なんで笑うんだ!」

「いや、悪いだに。なあこころ、もしおれがさっき見た影を追おうって言ったらついて来てくれるか?」

「え、いや……まあ相棒が本気なら」

 

 こころの答えに梍は心の底から大きく笑う。

 見えるものが違うからなんだと言うのか。

 見えるものが違っても、同じ場所に進んでくれる者がいる。

 別に同じものを見なくても、同じことを感じなくても、進む先は信じる者と同じ。

 それなら自分が見たいものを見て何が悪い。

 それが梍一人にしか見えていなくても、梍だけがその輝きがなにか知っている。

 幻覚だったとして、それが本物ではないという証明もまたできない。

 ならば……。

 

 自らの眼へと指を突き入れる梍にこころは息を飲み、声にならない悲鳴を上げた。これは自分の見たいものではないと目玉を潰したその先で、暗黒の中に光が瞬く。誰もと同じものを見るのもいいが、梍には梍だけが見て追ってきたものがある。その素晴らしい輝きたちに近づくため、自分の輝きだけは梍は見えないが、見えなくても同じ所を目指して歩いている。忌み嫌われる瞳を持った梍が、誰より最高だと思う先輩たちと同じ道を。

 

 虚空から浮かび上がって来た邪眼を瞬いて、梍は顔を青くさせたこころを見つめた。その髪色は鮮やかなピンク色。その色に優しく吐息を零し梍は微笑む。頬に垂れた血を拭い笑う梍に、こころはなにも言えずに固まった。

 

「ありがとう、それと悪いだにこころ。おれは行かなくちゃあ、見たいものがあるんだ。それにこころ、おれは別にこころと同じものを見たいとは想わない、同じ感情を抱きたいとは想わない。こころ見てる方が楽しいし綺麗だ。それでも同じ所へ行けるし同じことがやれるだに。おれはいろいろなものが見たい、おれだけに見れるものを! そしてきっとおれはそれと同じ方へ歩くだに! そんなおれは変だにか?」

「変だ‼︎」

 

 こころに断言され、梍は頭を掻く。

 こころの内に見える困惑の色。その多彩な色に目を細める梍に、こころは困ったように腰に手を当て、どんな瞳よりギラギラと輝く穴にような漆黒の瞳を覗き込んで小さく息を吐いた。足が竦むような視線を飛ばす梍の姿は恐ろしいが、その堂々たる梍の立ち姿が言っている。

 

 目を向けた先が進む先。

 

 忌み嫌われようが、恐れられようが、確固たる自分を持ち歩く者の目指す先がなんであるか、こころもそれは見たいと想う。自分には見えない景色を見て歩みそこに至った理由が知りたい。

 

 相手を知る、それが感情の第一歩。ただ自分の感情を振りまくのではない。相手の感情を知りたいと思ってこそ、感情は先へと歩みを進める。それが正しい方向ならば、いろんな感情を持ち行き着いた先にきっと希望が待っている。

 

 だから変だと叫び口を噤んだこころは、少しの間を開けて再び口を開ける。

 

「でもだからこそ梍は相棒なんだ!」

「そうだにか……、きっとやろう、おれとおんしで演目を! 偽りでも普通の生活は悪くなかった! でも、おれが見たいのはそれじゃない! おれはもう追う背中を決めている!」

 

 そしてその背に並び同じ場所を目指す。

 見たいものを見るために! 

 

「おれはもう目を開けた! 見たいものは夢じゃない‼︎」

 

 夢のヒビから邪眼が覗く。不良少女の後ろ姿を追うように、その先を目指して瞳を絞る。邪悪な瞳が脅威を撃ち込む。悪夢より恐ろしい悪意を持って。

 

 

 

 

 

 ♡

 

 

「俺は黴家第百六十四代目当主 黴 藤って言うんだ、よろしくね」

 

 櫟の元にやって来た少年は、とても命の音が小さな少年だった。その音よりもなお命の音が小さい一六三代目と共に度々櫟の元を訪れる少年が、櫟は最初とても苦手だった。生まれながらに目を抉られ、小さな頃は聴覚が優れているぐらいで、周りのことがそこまでよく分からない。そんな中、多くの命の中で、特に小さな二つが一番忙しなく動いている。その危なっかしさについつい耳を澄ませてしまう。いつ消えてしまうか気が気でない。だから櫟はもっと気をつけて生きろと言ったのに。

 

「やだ」

「なんで? 私も君も体が強いわけじゃない。なにができるかも分からないんだから、命くらい」

「俺はもうあと二十年生きれるか分からない。その間になにができるって、なんだってできるさ!」

 

 強がりか無謀なのか。どちらにせよ、そう言った通り藤はなんだってやった。将棋や囲碁といった遊びから、普通の子と同じように野球やサッカーまで。時に血を吐きながら、何か満足していないようであらゆるものに手を伸ばす。

 

「なにしてるの? 馬鹿じゃないの?」

「師匠にはヘビメタがあるんだ。俺にはまだ何もない」

「だから?」

「俺も何かに命をかけたい」

 

 短い生を何故そう早く消費しようと言うのか。彼らは言わば命の蝋燭が短いのだ。それも望んでそうなのではない。もっと我儘になればいいのに、自分を試すようにわざわざより大変な道に足を伸ばす。

 

「決めた。俺は竹取物語の続きを描く」

 

 そう少年が言ったのは、櫟が藤と出会って一年後。その頃にはもう一六三代目の黴の当主はあまり唐橋の家にはやって来なかった。体の崩壊が始まっている。そんな中で先代の近くにいればいいのに、唐橋の資料を漁りに藤は連日やって来る。時には徹夜し、血を吐いて。これまでどの当主も終わらせられなかったことを終わらせるという少年の言葉があんまりにも無謀過ぎて、櫟は鼻で笑ってしまった。

 

「無理だよ、できないって」

「できるできないじゃなくてやるんだよ」

「はあ? なんで? わざわざ寿命を削ってやることがそれなの? 無理よ無理」

「それは俺が決める」

 

 すぐに藤は諦めるだろうと櫟は思っていた。なのに黴の修行で体を壊しながら毎日毎日資料を漁りにやって来る。十の一族の千年以上続く資料を漁り、一年が過ぎようかという時、いつも資料室に篭っていた藤がひょっこり櫟の前に顔を出した。

 

「……なに?」

「いや面白い資料を見つけてさ、幻想郷だって! 幻想の集まる秘境らしい! ひょっとしたらかぐや姫はここにいるんじゃないかって走り書きがあったんだけどまだ誰も行ってないみたいでな。これは当たりを引いたかも!」

「……あっそ」

 

 そんな喜ぶ藤の姿を櫟は滑稽に感じた。かぐや姫がなんだと言うのか。櫟は存在しない視界の代わりに、別のものでものを見るための訓練でいっぱいいっぱいだ。わざわざ寿命を削ってかぐや姫なんて夢物語を追ってなにになる。終わらせたところで、寿命が戻って来るわけでも、目が戻ってくるわけでもない。それなのに……。そして更に一年、藤と櫟が出会って三年経ち、櫟も九歳になった頃。色のない世界に絶望する櫟の端で藤は笑った。

 

「幻想郷の行き方分かったよ、場所もね。ただ見つけた月に関する資料が不審だよ。月の監獄の資料なんてよくあったもんだ。先代たちもやるよなあ。ただ軍事基地の資料なんてのもあるし、先に一度月の情報を洗った方がいいかもしれないよね」

「……あのさ、なんで私に言うの?」

「なんでって、櫟も来るだろう? 櫟だけじゃない、北条も五辻も袴垂も足利も坊門も蘆屋も岩倉も六角も、終わらせるならみんな欲しい」

「いや、行かないから」

「え? なんで?」

「なんでって、私には目がないのよ? 普段の生活送るだけで大変なの! そんな私がなにかできるはずないじゃん!」

 

 それが全て。

 他の人より大事なものが一つない。

 それだけで途端にできることが減る。

 それは藤も同じはず。

 櫟と同じはずなのに、藤はいつも笑っている。

 

「櫟ならなんだってできるさ! 一緒に竹取物語の続きを描こう! 誰にもできなかったことを俺たちで終わらせちまおうぜ!」

 

 櫟はなにも言えなかった。それからまた毎日毎日。日に日に命の鼓動を小さくしながら藤はやって来る。あーだこーだとたった一人で資料を漁り、ふと気になって寄った櫟を拒むことなくあーだこーだと。

 

 何故諦めない? 

 何故続けられる? 

 

 そしてある日の夜。藤は大量に血を吐いた。

 

「もうやめた方がいいって、君このままじゃただ死ぬだけだよ。これになんの意味があるの? もう諦めなよ」

「別にかぐや姫を放っておいても死ぬわけじゃない。俺が何かやったところで何も変わらないかもしれない。でも諦めない。諦めることなんて一番に諦めた。何も変わらないとしたら、何をやってもいいだろう? 俺が当主だ。俺は黴の最後の当主になる。先代ももう長くない、先代たちの命の炎に負けたくない。ほかの奴らは悔しがるぞ、あいつらが終わらせたんだってな。ほかの奴に譲りたくないだろう? 櫟、大事なものを持ってないなんて言う君だから、一番大事なものが誰より見えてる筈だ。君の目は節穴じゃあないだろう? 俺は今生きてるだろう?」

 

 なんじゃそりゃ。

 あまりの可笑しさに櫟は噴き出した。

 生きてるかって、そんなの生きているに決まっている。

 目がないから誰より見えているとは矛盾してはいないか。

 誰より命の鼓動が小さいのに、誰より激しく燃える命。

 目はなくても、その命の輝きが見えた気がした。

 一気に視界が開けたように、櫟の鼓動が速くなる。

 目がなくたって、寿命が短くたって、誰にもできなかったことをやってみせる。

 その夢の輝きを長く見つめていると、目が離せなくなってしまうから櫟は目を逸らしていたのに。

 藤より大分遅くなったが、まだ手を伸ばすのに遅くはないか? 櫟が藤に聞けば答えは決まっている。

 どうせ夢を掴むなら、自分の手で掴みたい。

 目がなくても手は伸ばせる。

 

「…………藤、次はどうするの?」

「坊門家の九十八代目当主に会いに行ってみよう、裏の事情に詳しい者の話を聞きたい。俺たちと歳が近いらしいしきっと話合ってくれるよ。ちょっと塞ぎ込んでるらしいが、なに、諦めずに続ければどうにかなるさ」

「……、なら、それを利用してバックアップを取りに来たとでも言う? そうすれば……、すぐに会える、かも?」

「そいつはいいな! 流石櫟! 頼りにしてる!」

 

 そう言って笑う男の顔を櫟は初めて見たいと思った。

 それもまた一つの夢、だけど本当に見たいものはそれじゃない。

 

「私はなんだってできるんです」

「なに?」

 

 文芸部の一室で、首を傾げる藤の顔を見つめて微笑み、櫟は自分の目へと手を伸ばし力任せに瞳を抉る。脳に電流を流されたような鋭い痛みに歯を食い縛って、掴んだそれを握り潰した。

 

「櫟⁉︎ なにしてるんだお前⁉︎ 気でも狂ったか⁉︎」

「……目がなくたって大事なものは見えます。藤さん、貴方が教えてくれたんですよ」

 

 その命の輝きが眩しかった。なにも見えないはずの櫟の視界を照らしてくれる。同じように誰より死に近いはずの友人も、静かに激しく燃えていた。その輝きを分けて欲しい。隣り合えば、藤と菖の命の蝋燭に灯った輝きが、櫟の蝋燭にも火を分けてくれるようで。

 

 なのに、火の消えた二人など見たくない。燃えるのではなく、腐って落ちる蝋燭なんて見たくない。火を灯してくれた彼だから、そんな彼の火が消えたなら、再び火を灯すのは自分でありたい。

 

「生きてるのに死んだような顔なんて見たくない! 例え顔は見えなくても、誰より生きてる貴方が見たい! 菖ちゃん! 藤さん! 歯食いしばってください! 私だって握る拳は持っています‼︎」

 

 見えなくたって目指す先は分かっている。

 彼の隣に。

 彼女の隣に。

 振るわれた櫟の拳は、迷い無く空を走る。

 ヒビから覗く視線を辿り、そのヒビを広げるように櫟は手を這わす。例え目がなかろうと、大事なものは見えているから。

 

 

 

 

 ♢

 

「うっそ」

 

 ドレミーの呟きを吸い込むように、ピキリッ、と夢に走ったヒビが勢いよく伸び穴を開ける。小さな拳一つ分の穴に呆け、急いで塞ごうと手を伸ばしたドレミーを、穴から邪眼がギョロリと睨んだ。その射殺すような視線にドレミーの手は固まり、その間にポロポロと、夢の殻が剥がれてゆく。

 

 決して大きくはないその穴から手が伸びる。ただ一人夢に堕ちなかった頑固者。誰よりドレミーの近くにいた人一人、変わらぬ瞳の輝きを持って、足取りに迷いなく一歩を強く踏み出した。

 

「ちょ、ちょっと待って。私は頼まれて手を貸しただけで月軍とは関係ないって言うか、貴方たちを無力化するだけで戦う気だってないし、その手に握る鏃痛そうだから殴られたくないって言うか……、貴方みたいな大男が女の子を殴るなんていうのも絵面的にちょっと、ね? それでも殴るの?」

「然り」

 

 迷いなく固まったドレミーの土手っ腹に梓は右手を振り抜いた。蛙の潰れたような声と共に、風船が弾けるようにドレミーの身は弾け、「もう月の言うこと聞いてやんないから⁉︎」と悲痛な叫び泣く声を残して消え去った。

 

 崩れていく景色から浮き上がるように、意識が浮き上がるのを梓は感じた。夢の中で暗幕を下ろせば、別の暗幕が呼応して上がる。枝の上に座る天探女を見上げて立ち上がった梓に合わせて同じく立ち上がる影が三つ。それが誰であるかなど、梓は見なくても分かる。他の三人もまた立った影には目も向けない。見つめる先は誰もが同じ。

 

 サグメは己を見上げる四つの顔を見回して、ゆっくり一度目を閉じる。腰に括り付けていた結界装置の『目』の箱を手に取り、人間たちに見せつけるように掲げた後躊躇することなく握り潰した。

 

「……それは降参という意思表示ですか? それとも寝返る気なのでしょうか?」

「……そうでは無い。幻想郷には神霊を追い払って貰った借りがある。それを今返しただけ。千三百年前の敗北を殴り抜いた貴方たちがどこまで行けるのか見たくなったわ。この先は舌禍も届かぬ領域。どうなるのか私にも読めない。夢の中にいた方が良かったと泣いてももう遅いわよ?」

「は! バカ言え! 悪夢なんて見飽きてんだよ!」

「それに、今まさに夢を見ているようなものだに」

「歩く道は違えん」

「初心忘れずと言いますか懐かしいことも思い出せましたし、この先なにがあろうとも、一度灯した火は消しません」

「そう、……運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。その手に持つ札で後悔はしないで」

 

 飛び去って行く月人の意味不明さに四人顔を見合わせ肩を竦めた。サグメにどういう思惑があるのか分からないが、砕かれた結界装置の『目』の箱が本物だということは、櫟と梍には分かる。四人以外の周りの者たちが、起きて来るには少し時間が入りそうだと櫟は頷き、携帯を取り出す。

 

「……参りました。天探女が来てから一時間が経っています。戦局が今どうなっているか……」

「少なくともあたしらが捕まってなかったり怪我がねえとこを見ると負けてはいねえみたいだけどよ」

「梍、どうだ? なにか見えるか?」

「いや、……これは」

 

 周りに目を移した梍の目に映る少なくなった輝きたち。幻想郷の半分を覆っていた白煙も既に消え、戦闘音もほとんど聞こえない。そんな梍の視界の端で光が瞬いた。

 

 呼吸も忘れて梍は瞳を空へと向ける。

 

 月が二つ浮かんでいる。そう錯覚するほどに眩しい月光色。

 

 梍の輪郭を伝って落ちる冷や汗を感じて櫟が続いて顔を上げ、漆と梓がその後に続く。

 

 遠く、月に重なるように浮かんだ一人の少女の後ろ姿から誰も目が離せない。

 

 月夜見。

 

 月が幻想郷に浮かぶ。

 

 その身を少し朱に染めて。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ⑤ 豊姫

 妖怪の山を覆っていた風の盾は、緩く煽がれた扇子の一撫でで剥がれてしまった。ぼふっ、と薄手のシーツが靡いたような間抜けな音を響かせて、月の重弾さえ通さなかった触れられぬ壁をいとも簡単に捲ってしまう。行き場を失った風の流れは、酒を失った蟒蛇のように暴れ狂い、幻想郷を覆っていた白煙と、細い枝葉や落ち葉妖怪や死体も関係なく、一切合切を吹き飛ばす。

 

 足元に転がって来た誰のものとも知れぬ腕や木の枝を足で小突き避けながら、豊姫は忌々しそうに鼻を鳴らし扇子を閉じた。

 

 空間移動のズレ。妖気などに作用する白煙が微量ながらも幻想郷の大気中に含まれているせいで精密操作の邪魔をする。風を操る火を操る、単純な力ならまだしも、スキマや空間移動という強力ながらも細かな操作を要求される技はどうしてもズレが出る。白煙の外であった月から幻想郷への移動だから多少のブレで済んだものの、これが幻想郷からとなれば、無理に移動した場合どこに出るか分かったものではない。だいたい点から点に跳ぶような豊姫の能力は、重なるはずのその点がズレれば跳ぶことすらできないのだ。

 

 白煙の持続時間がどれほどのものか豊姫には分からず、長くはないが短くもないだろうと当たりをつけて、閑散としている妖怪の山に目を細めた。扇子をたったの一扇ぎ。それだけで暴風ドームの暴風の中を走っていた天狗たちの大部分が、血肉すら残さず消し飛んだ。月の扇子が起こした風を自らの風に乗せられて。自滅のような状況に残った天狗の多くはわけも分からず地に堕ちるだけ。

 

 風によって葉のなくなった少ない木々の間を悠々と豊姫は歩き目当ての場所へと足を進める。目指す先は暴風ドームの中心。姿のなかった八雲紫や蓬莱山輝夜。幻想郷に一度は広く分布した玉兎たちから一度も報告がないとなればいる場所は一つ、早々に風の盾で覆われ中の様子を伺えなかった妖怪の山しかありえない。

 

 元々逆巻いていた天狗の風と、月の扇子の風によって大きく削られた山の肌の丘へと豊姫は足を掛け、なだらかな下り坂の岩肌の上に立った幾つかの人影を見つけると、扇子を広げ口元を隠すこともなく運がいいと笑みを浮かべた。

 

「御機嫌よう、八雲紫、それに輝夜様。お元気そうでなによりですわ」

「あら豊姫、地上に足を着けたのね。地上を罪の地と言った貴女が」

 

 柔らかな笑みには柔らかな笑みを。お嬢様たちの対面と絵面だけを見れば言えなくもないが、二人から滲む魔力と妖力の衝突と、笑みの下に隠された暗い気配が吹き飛んだ山の空気を埋めるように充満するのを端から見れば、笑顔など浮かべられるはずもない。顔を苦くする輝夜の顔は紫にも豊姫にも気にされず、紫の言い草に豊姫は目を細めた。

 

「スキマ妖怪、流石地上では気が大きいわね。もう地に額は着けないのかしら?」

「地に頭を着けるのは死ぬ時だけ。平城十傑の親書は見たのでしょう? 誰も貴女に頭は垂れない。払う礼などありはしない」

 

 もう道は決めていると瞳を輝かせる地上人たちに目を細め、豊姫は緩りと扇子を開きふせに持つ。扇子に描かれた目玉のような満月の柄が地上の者を睨み付けた。

 

 八雲紫、蓬莱山輝夜、天魔、上白沢慧音、射命丸文。

 

 五つの顔へ順番に目を流し、最後に口元を扇子で隠し目を細める紫を豊姫は見た。口元を隠そうと、苦々しい紫の表情が手に取るように分かった。豊姫の広げた扇子はただの扇子ではない。森を一瞬で素粒子レベルで浄化する扇子。小さな月の超兵器。一度煽げば穢れは例外なく霧散する。

 

 それが命ある者ならば、そのたった一つの扇子に全てを消される。豊姫と紫がお互いの能力を妨害しあい、更に白煙のおかげで空間移動もスキマを開くのも手間取るような状況で、輝夜の能力も使えないとなれば、豊姫の手を止めるものは何もない。扇子の風と天狗の風、どちらが上か比べるしかないかと張りつめられてゆく天魔と文の目の先で、軽く動いた豊姫の手から扇子が弾けた。

 

 ──チィィィィィン

 

 金属の小刻みに震える高い音色が山に木霊し、荒い岩肌の上にこつりっと音を立て落ちる。一度目を瞬いた豊姫の目が弾けた扇子の方向とは反対の方へと動いた。ひゅるりと蠢く風に紛れて運ばれて来たように立っている薄い人影。その“穢れ”の濃度の深さに豊姫の目が引き絞られる。

 

「丈夫だな、穿つつもりで放ったが傷も付かんか。ただの扇子ではないと見た」

「──何者です?」

「……菖」

 

 豊姫の問いに誰より早く輝夜が口を開いた。その小さな呟きに一瞬豊姫の目が輝夜を見たが、すぐに現れた人間へと戻される。影のように静かに佇む濃い穢れ。その姿に小さく笑みを浮かべた。名を聞くなら本人から。豊姫と菖は瞬きもせずしばらく見つめ合い、菖は一度目を瞑るとゆっくり口を開いた。

 

「平城十傑、坊門家第九十八代目当主 坊門菖。我らが姫に手は出させん。天魔、文、我らが姫と賢者たちを任せた。行け」

「い、行けって⁉︎ 菖! 貴女一人じゃ!」

「一人じゃねえやな」

 

 ふわりと風に流され綿毛が飛ぶ。地に落ちた月のお宝をしっかりと手に掴み、無意識と破壊を引き連れ盗賊がやって来た。不敵な笑みの向く先は月の使者。その先に立つ暗殺者の傍に音もなく仙人が降りる。包帯に包まれた右腕と左腕で緩く腕を組み、望まぬ来訪者を睨む。

 

 豊姫は左右に立つ地上の民へと目を向けて、耳を叩くキリキリとした音を追い背後にも目を向けた。人の背に隠れるように豊姫を見る河童、河城にとりを貼り付けて、三人目の外来人が腰に手を当て立っている。一人、二人、七人と豊姫は頭の中で数を数え口元に浮かべた笑みを深める。そんな豊姫の表情に僅かに目を顰めながらも目は外さず、菖は静かに言葉を紡ぐ。

 

「行け。八雲紫と上白沢慧音を失うわけにはいかん。この場は私たちに任せろ」

 

 射殺すような菖の視線を受けて、文は頷き、そんな文の姿に仕方がないと天魔はため息を零した。険しい顔の紫と慧音、口を引き結んだ輝夜を二人の天狗は掴むと、背の翼を目一杯に伸ばす。能力さえ関係なければ最速の運び屋たち。その純粋な力を信じて、菖も他の者も豊姫へと焦点を絞る。

 

「菖! 椹! 菫! 絶対勝ちなさい! 貴方たちは私の、……私のものなんだから! 勝手に居なくなったら怒るんだから‼︎」

 

 天狗の羽ばたきが輝夜の言葉を地に残す。黒い羽を数枚落として天へと風のように消え去った総大将を三つの微笑が送りだし、ただ静かに気を高める。そんな人間たちを見回して、豊姫は一度肩の力を抜くとホッと息を吐いた。張り詰めた穢れを祓うように。その穢れに身を浸すように。

 

「──名を聞いておきましょう地上の者たち。私に挑むという愚者たちの名をせめて私が覚えておいてあげましょう」

 

 そう言って豊姫は心の底から柔らかな笑みを浮かべる。その笑みに誰もが少し見惚れてしまう。

 

 豊姫の佇まいは戦闘者のそれではない。

 

 華奢な見た目は見たまま華奢で、刀や槍といった見たまま武器を持つような姿は似合わない。桃源郷の空気をそのまま引き連れて来たかのような柔らかな空気を振りまいて、刺々しい空気も、怪しい空気も、全て関係なく包み込む。豊姫のいる場が舞台というように、誰が近くにいようと主演が誰かは一目瞭然。華が違う。誰がスターか見れば誰もが理解する。視界に入れば絶対に目で追ってしまうそんな存在。

 

 その空気感に絆されそうになった空気を盗賊が奪う。拾った月のお宝をお手玉し、パシリと強く掴み音を上げ、豊姫の視線を自らに向けた。舞台役者のような豊姫の流し目に椹は笑いを噛み殺し、獰猛な笑みを返した。

 

「平城十傑、袴垂家第九十二代目当 袴垂椹。覚えておけ、月から勝利を奪う盗賊の名を!」

「その子分そのいち、古明地こいし!」

「子分その二、フランドール=スカーレット!」

 

 盗賊。下賤の中でも更に下賤。穢れらしいその色に豊姫は首を回し背後を見た。ただし言った通りしっかりとその名を忘れぬように頭の中で三つの名を繰り返し、豊姫は河童と男を見る。鼻を擽る鉄と油の匂い。それを弄る汗の匂いに片目を瞑り小さく頭を振った。

 

「平城十傑、岩倉家第十二代目当主 岩倉菫。よろしゅうな」

「か、河城にとり。お、覚えなくてもいいよぉ〜」

 

 柔らかく笑いながらも、時を追うごとに目が鋭くなっていく菫と、大胆不敵な発言のようにも聞こえなくないが、その実誰より逸早く帰りたいと考えているにとりにも豊姫は微笑みを与えて、扇子を飛ばしてくれた暗殺者に顔を戻す。そしてその隣に立つ仙人の元へ。一度言ったと口を噤む菖に肩を竦め、華扇が組んでいた腕を解く。

 

「仙人、茨木華扇」

「そう、それで全員ね、あと一人教えてくれないかしら。私たちを引きずり出してくれた者の名を。貴方たちと遊んでいたら妹が先に殺してしまうかもしれないから。それともそれは八雲紫?」

 

 笑う豊姫の姿に、誰より早く菖が鋭い目を返した。豊姫の妹、依姫なら菖も知っている。月の都で一度見た武神の姿。真正面から殺り合えば、どちらが死ぬことになるか嫌でも菖は理解した。単純な武の競り合いなら、平城十傑であろうと単身では敵わない。豊姫の到来は依姫の到来。それに眉を寄せながらも、豊姫に親友たちの名を聞き逃すことがないように叩きつけた。

 

「一人ではなく二人だ月の使者。平城十傑、黴家第百六十四代目当主 黴藤。同じく平城十傑、唐橋家第八十一代目当主 唐橋櫟」

 

 平城十傑。何度も出て来るその俗称に豊姫は静かに目を瞑った。ある意味スキマ妖怪に一杯食わされるよりも煩わしい。人間の、それも外の世界の人間の智慧で引き摺り出された。それがどうにも豊姫の心を揺さ振る。

 

 薄く笑みを浮かべて周りを取り囲む地上の者の顔を忘れぬように、豊姫は今一度その並んだ顔を脳に焼き付ける。顔と名を違えぬように頭の中で名を口遊みながら。足を止め、そして返すは己の名。地上の者が死の瞬間まで忘れぬように、この刹那をせめて長く感じるように。

 

「月の使者が一人、綿月豊姫。地と月を繋ぐ唯一の使者。この名を胸に刻みなさい」

 

 名には名を。

 お互いの名を噛み締めて、飲み込む間も無く暗殺者が動いた。

 

 平城十傑として正々堂々と相対してはいても、菖の本質は暗殺者。必要なことが終わればもう刃を抜く以外にすべきことは何もない。豊姫の言葉の終わりと同時に足を広げ西洋剣の鍔に手を添えれば、射出準備はすぐに整う。空気の層に穴を開ける音の速度を超えた剣針をゆったりと豊姫は眺めたまま、その豊姫の体がくにゃりと揺れた。

 

 直線で突き刺さる空気の棘に押し退けられるように、その隙間へと豊姫の身が滑る。小さく菖の瞳孔が開き、その右手の速度が上がる。響き続ける鍔の音をBGMとするように、豊姫は降り掛かる空の針の雨の中ひらりひらりと舞い踊った。

 

 擦り抜けているように豊姫の背後に蜂の巣のような穴が空いた。飛び散る岩肌の破片は次第に細かく砕けていき、轟音と共に大きな破片が一つ混じる。豊姫の背後ではなく豊姫の前方。針の雨はいつの間にか止み、鍔のかち鳴る残響を、仙人の震脚が蹴り飛ばす。鬼と見間違うような仙人の踏み込みは、一瞬で月の使者との距離を潰し包帯に包まれてはいない左腕が撃ち込まれる。

 

 空気の層を力尽くでカチ割る華扇の左腕の一撃が豊姫の体に沈み込んだ。

 

 ──ぼふんっ。

 

 その音の力の無さに華扇は大きく目を見開いた。菖よりなおも柔らかく、薄手のシルクに手を落としたような感触。華扇の力を完全に受け流し、追撃の一撃を打ち込むようなこともなく豊姫はただ背中を押すように華扇を背後へと押し出した。

 

 華扇に当たると固まった菖の代わりに、別の方向から豊姫に鉄礫が撃ち込まれる。キリキリと歯車の音を上げ菫の背と前腕の内部から四つの鉄筒が顔を出した。歯車の振動を含んだ鉄礫は、螺旋によって空気を裂き、振動によって衝突したものを砕く。それに合わせてにとりの背の鞄から伸びたロボットアームが、水の銃弾を共に吐いた。鉄礫の螺旋が水の銃弾を引っ張るように迫る武器の壁。

 

 それに小さく笑いながら豊姫は舞う動きを変える。螺旋に合わせて踊るようにくるりくるりと身を回して、身を穿つはずの鉄礫を背後に流す。振動と水に服を破れさせながらその身には全く傷を付けず、豊姫はただ踊りを続ける。その妙技に菖も葉扇も菫もにとりもついつい目を奪われた。

 

 豊姫は戦闘者ではない。

 ただ優れた踊り手である。

 

 浦島太郎が迷い込んだという竜宮城、そこで最高の踊り手であった乙姫の如く。武を豊姫の妹依姫は極めた。師、八意永琳よりも優れた剣技。最高の武人がいるからこそ、姉、豊姫は安心して芸に手を出せた。永遠を埋めるために月の娯楽は発展していると言える。ただそれは踊りや音楽などの類のこと。それを千年以上嗜み、また才ある豊姫の踊りもまた一つの極致である。妹が武の極致なら、姉は芸の極致。極限に至った技術はどんなものであろうとも、無限の可能性を見せてくれる。

 

 空を裂く刃の音も、大地を抉る足音も、血が噴き出す流血音も、荒い息も浅い息も、早い鼓動遅い鼓動、悲鳴、絶叫全てが音楽。で、あればこそ豊姫はそれに乗り踊れる。どんな色にも豊姫は乗れる。

 

 その動きを目で追って、盗賊がその動きを盗む。違う動きで避けられても、同じ動きなら当たらぬものも当たるようになる。自分の動きと呼吸を合わす人間に驚き目を瞬いた豊姫の顔に歯を見せて、豊姫に向けて椹は扇子を広げた。

 

 月の兵器。踊り手である豊姫に合わせられたが故にその形。穢れを祓う扇子の風は月人に効果が薄く、その一撃で消え去るようなことはない。が、それを向けられるのは面白くないと豊姫はくすりと小さな笑い声を上げて手を叩いた。

 

 人のような大きなものを送るのは今は不可能。また視界よりも遠くへ運ぶのも難しい。だが長年愛用している小さな扇子一つなら、手の中に呼び込むことくらいは未だ造作もない。人に妖に能力を制限されようと月と地上を繋ぐ唯一の月の姫、その能力は甘くなく、豊姫の合わせた手が離れたその間に、見慣れた扇子がふわりと落ちた。盗賊の手から一瞬で奪われた月の扇子に誰もが口を開き叫ぶ。

 その言葉はどれもが同じ。

 

「避けろ!!!!」

 

 緩りと回り振るった扇子の凪いだ風が、豊姫を中心に逆巻いた。豊姫と同じく柔らかに流れた風は、その柔らかさとは裏腹に絶対の牙となって全てを喰い千切る。地に生えた雑草一本に至るまで、元の姿も分からぬほどに細かく崩して風と共に無に運ぶ。

 

 パチリッ、と扇子を閉じて豊姫が吐くのは感嘆の息。人妖の上げた叫び声に呼応して躊躇なく逃げの一手を打った者たちが、一人も消え去ることなく未だ視界に留まっている。

 

「菖! 貴女腕が!」

「お頭‼︎」

「す、菫⁉︎ な、なんで‼︎」

 

 菖の左側面が削り取られる。腕一本と西洋剣の鞘を二度と届かぬ場所へと運ばれた。ゆらりと揺れた菖の体を華扇が支え、菖は痛み無く消え去った左腕に目を向けて、噴き出す血を右の服の袖を噛み千切ると急いで肩口を縛り上げた。

 

 こいしとフランドールを抱えて右足一本が消し飛んだ椹。にとりを庇い下半身が完全に消え歯車が見えている菫。その二人を一瞥し、菖は歯を食い縛り、右手に持った西洋剣を肘を曲げて豊姫へと剣の切っ先を向けた。絵に描いたような西洋剣の構え。華扇も椹も菫も見たことない居合ではない形に疑問を持つも、菖だって居合しかできないわけではない。休む事なく足を出し、右手の刃を前に出す。

 

「まだ続けますの? 元気ね菖」

「まだ腕一本! 足は動く! ならばやめる道理はない!」

 

 居合ほどの速度はなくても、突きの速さならば日本刀よりも速い。相手の動きを制限するように振るわれる剣技は見事だが、最速の居合を避けた豊姫には当たらず、ひらりと避けた豊姫に閉じた扇子で左腕の断面を叩かれる。その痛みに顔を歪めるも、呻くことすらなく菖の動きは止まらない。

 

 菖に笑顔を向ける豊姫の視界に人影が増えた。誰が来たのか目を動かした豊姫は飛び込んで来た人物を見て口角をなお上げる。

 

「貴方足がないのに来たの?」

「たかが足一本よ! 両手が空いてりゃオレには関係ねえ! オレから奪ったこと後悔しろ!」

 

 豊姫の柔らかな動きが二つに増える。足一本を失ってなおその身体能力は健在。伸ばされた盗賊の拳が豊姫の頬を擦り、僅かに崩れた豊姫の動きを刺すように菖の刃が伸ばされる。それを扇子の先で受け止めるも威力を殺すことは叶わず。大地を転がった豊姫は、頭から落ちた帽子も気にせず立ち上がり向かってくる人間二人に微笑む。

 

 第一次月面戦争は依姫がただ武力で潰した。第二次月面戦争は豊姫も動いたが、なんら遊びと変わらない。

 

 だが今回は違う。

 豊姫も戦場を踏んでいる。

 

 昔から豊姫の役割は、その能力が故に後方支援。誰々をどこに送れ、アレをあっちにこれをそっちに。誰かが攻めて来たところで、優秀な妹に誰も勝てず豊姫まで届かない。そして繰り返される退屈な仕事。送り迎えた玉兎などは、地上でアレをこうしたなどと楽し気な話を聞かせてくれるが、豊姫はそんな話をいつも聞くだけだ。

 

 第二次月面戦争で八雲紫と対面した時も、ようやくなにかできる機会がやって来たかと想って期待してみれば、目の前で地に額を擦る始末。それがどれだけ退屈だったか。追い返すのが仕事故に、喧嘩を売って豊姫の方から火を起こすこともできない。

 

 そしてようやく機会を得た。

 豊姫の師である八意永琳も、妹である依姫も、月の神である月夜見も、その姉である天照も、誰かに聞かせ自慢するだけの心踊る話がある。豊姫が嫌いな嫦娥でさえ純狐という宿敵がいる。豊姫には誰もいない。だから八雲紫こそ宿敵だと思っていたのに、やって来たスキマ妖怪と戦わず土下座させた、ただ酒瓶一本取られたなんて自慢できるようなものでもない。

 

 それがようやく覆る。

 現れたのは平城十傑。

 それが宿敵の名前。

 

 宿敵らしく、腕を失おうと足を失おうと突っ込んで来る。それがとても喜ばしい。豊姫が望んだ敵の姿。隙を埋めるために芸を嗜むこともない。宿敵を倒し、豊姫が誰にでも語れる英雄譚を描くため、豊姫も迫る宿敵に突っ込んだ。

 

「さあ来なさい人間たち! 私の元へ!」

 

 豊姫の動きをトレースする椹。豊姫の動きを乱し、その間を菖が埋めてくる。肌に赤い線を引く菖の刃に豊姫は笑みを深め、伸びて来た椹の腕をくぐり抜け残った盗賊の足を払う。足一本分トレース不可能な動きの隙で一歩豊姫が先を行く。振るわれた菖の一撃を問題なく避け体を寄せて動きに巻き込み地に転がす。

 

「もう終わり?」

 

 下から伸びて来る椹の腕を残念そうに眺めながら余裕を持って避けた豊姫の顔が驚きに変わった。芸は超一流でも絶対的に豊姫は戦闘経験が足りていない。伸ばされた盗賊の腕は豊姫を狙ったものにあらず、椹が掴むは暗殺者。豊姫の動きに沿わせるように動かされた菖の刃が、豊姫の喉に向かって伸びた。

 

 ──避けられない‼︎

 

 迫る死に豊姫の意識が働かない。

 突き出された菖の腕が伸び切って刃が豊姫の髪を喰い千切る。

 

 ズリィ、と滑るような音。菖が足を踏み込んだ音でも、椹が地に転がった音でもない。菖の刃は豊姫の頭上を通り過ぎ不発に終わった。地に転がっていた豊姫の帽子を豊姫が踏み付け足が滑った。

 

 運がいい。

 

 幸運に喜ぶべきか、豊姫は引かれ曲がっていく菖の腕を目で追って、慌てて椹と菖の間に滑り込むと二人を少し遠くに弾き飛ばした。そして広げるのは月の扇子。その姿に平城十傑は目を細め、妖怪たちは肩を跳ねる。

 

 その違いを見て僅かに豊姫は落胆した。菖と椹と違い、乱戦の中飛び込んで来なかった妖怪たち。それは豊姫の扇子を恐れてのこと。勿論平城十傑もそうだが、存在がより穢れに近い妖怪の方が、なんの感情もなくただ相手を無に帰す扇子を恐れている。その姿に落胆のため息を零しながら、一番初めに邪魔な暗殺者を消そうと菖の方へと豊姫は振り向いた。適当に扇いではまた避けられる可能性がある。故に扇子の先の相手を絞る。体の正面を向けて扇子を構えた豊姫の姿に、菖は弱々しく歯を食い縛った。

 

 

 ────あぁ、死ぬな。

 

 

 長らく死と隣り合って来た菖だから誰より早く理解した。避けられない死だ。どう動こうと、誰が助けに飛び込んで来ようと自分は死ぬだろうという確信。そんな中で想うのは、藤や櫟の姿ではなく、離れたところにいる他の六人は大丈夫そうだという安堵。走馬灯すら浮かばない己が内に、ふと菖の口が弧を描く。

 

 自分はなにができただろうか。

 

 ただ玉兎たちを死に向かわせただけ。藤や櫟の力にはなれたか。不安は尽きない。自分が何か残せたのかそれだけが不安で堪らない。

 

 走馬灯は見えずとも、脳内で暴れる生存本能が菖の意識を加速させ目に映る景色を緩やかなものにした。スローモーションの景色の中、目に映るのは豊姫の姿。それが菖の死神。こんな美人な死神に殺されるなら悪くもないかと自嘲する菖の中で意識した死が菖の意識を弾く。

 

 そんな死を友に向かわせていいのか? 

 

 ここで死ねば先を見ることはない。

 だが、豊姫という死が友の元へ向かうかもしれない可能性。

 それが菖の内に火を灯す。

 それは嫌だ。それだけは嫌だ! 

 ここで何かしなければ死んでも死に切れない。

 だからなにか。

 少しでもなにか。

 なにか。

 なにか‼︎

 

 極限の状況で、菖の体は無意識に最も形にして来た形をとる。坊門が誇る居合の形。右手に持った刃を左の腰に差し向けたものの、鞘は既になく、あったとしても狙いをつける左腕はない。

 

 なにしてるんだ。と、小さく呆れて笑う菖の笑みがふと引っ張られる。

 

 笑みを消した菖が左の腰へと目を落とせば、刃を掴む腕がある。鞘の代わりと言うように細い刃を掴む包帯だらけの右腕が菖の刃を掴んでいる。

 

 前に顔を向けた菖の視界に映る前垂れへと右手を差し込んだ仙人の姿。穢れを祓う扇子に強く本能が警鐘を鳴らし脂汗を浮かべる中で、再度右腕が犠牲になると分かっていながら力を貸してくれる仙人に菖は心の底から感謝した。

 

 その感謝に報いるために、ここで豊姫を必ず倒すための一手を穿つ。

 

 自分はもう駄目だろうが、それでも残った者のためになるように。

 

 

華扇、輝夜……、藤、櫟…………達者でなっ

 

 

 菖と豊姫の動きは同時。

 

 緩やかな風が菖を包む。

 

 豊姫の頬を擦って開いた穴が魔法の森へと消えていくのを豊姫は見送り、姿の消えた暗殺者に豊姫は小さく息を吐いた。

 

 そして振り返る先は片足で立ち上がっている盗賊。

 

 再び扇子を構えた豊姫を見て、椹は深く笑みを浮かべ両手を軽く握る。

 

「貴方もまだやる気なんですか。平城十傑の一人が今消えたというのに」

「……ああ、想像以上に今苛ついててオレも驚いてるよ。菖の姉御は、オレが一番苦手な命を奪うのが得意なやつでさ。どうせやるならこれが最初で最後の比べる機会だって思ってたんだがよ……まあそりゃあの世で続きをやるさ。菖の姉御と同じようにオレがテメエの命を奪う」

「私の命? ……はて、菖は失敗したでしょう? それに貴方も失敗するわ、ねえ!」

 

 振られる扇子の動きに合わせて、椹は両腕を前に出し強く空間を捻った。掻き混ぜられた空間は緩く全てを包み込む扇子の風を散らすが、前に手を出す椹の腕は別だ。右の指先が塵と化すのを睨み、椹は右へと風をいなして腕一本犠牲にする代わりに左腕を残す。また一つ四肢を失い倒れた椹を次こそ消すため豊姫は扇子を構えるが、その前に二つの影が割り込む。

 

「待ってお願い! 椹を消さないで! お願いだから!」

「壊さないでくれたらなんだってするわ! だから……椹だけは!」

 

 無意識と破壊が堪らず飛び出した。穢れを祓う扇子より、なお怖いものがそこにあるから。

 

 無意識を掴んでくれた人がいる。

 狂気を掴んでくれた人がいる。

 

 これまで誰も手に取ってくれなかったものを手に取ってくれた男。

 それを失いたくないから。

 

 覚の涙と吸血鬼の涙を目に留めて、豊姫は扇子を閉じるとポンと手に落とした。

 

「泣けば全てが許されるなどということはありません。これは戦いなのですよ?」

「わ、分かってるけど……でも……」

「お願い、お願いします。やだやだやだやだ!」

 

 顔を俯かせるこいしと、頭をがりがりと掻き血を垂らすフランドール。妖怪がこれほど人間を気にするかと思案して、「人へのものの頼み方があるでしょう?」と妖しく豊姫は笑う。頭を垂れろ。頭を地に落とせ。八雲紫が言っていた、頭を地に落とすのは死んだ時だけ。だから額を地に着けろ。そう言う豊姫の言葉に膝を折った二人の少女の背に、笑った盗賊が寄りかかった。

 

「フラン、こいし、やめろ」

「で、でも椹!」

「こうしなきゃ椹が壊されちゃう! それだけはイヤだ‼︎」

「いいからやめろ。じゃなきゃテメエらクビだ」

 

 笑みを消した聞いたことのない椹の低い声にフランドールとこいしの動きが止まった。そんな三人を見て、豊姫はつまらなそうに口を尖らす。

 

「やめろって、貴方死にたいの? 二人が頭を下げるなら本当に見逃してあげてもいいけど?」

「な、なら‼︎」

「だからやめろって言ってんだろうが!!!!」

 

 牙を剥いた椹の声は死に掛けの人のそれではない。覚と吸血鬼の肩を大きく跳ねさせて、どんどん力の抜けていく椹の鼓動に少女二人が泣きながら盗賊の身を支えた。

 

「オレたちは盗賊だぜ、なあ。慈悲だのなんだの言って上から捨てるように零されたものは受け取んじゃねえ。それも自分を捨ててはダメだ。絶対ダメだ。盗賊なら自分から掴まなきゃあよ……。フランとこいしなら絶対大丈夫だ。なんたってこの天下の大盗賊の初めての子分だぜ。こいし、お前が本気になれば誰の心だって絶対盗めるぜ。フラン、お前が本気になれば、破壊以外のものがなんだってその手に掴める。信じろオレを。他でもねえオレが言うんだぜ。信じろ。それが盗賊の心得その五かや」

「お頭……」

「椹……」

「はあ、悲劇ねつまらないわ。向かってくるのをやめるならもうお終いよ」

 

 豊姫が扇子を広げて緩く扇ぐ。

 それを目に笑うと椹は残った左腕でこいしとフランを背後に放り前へと手を伸ばした。空間を捻り後ろにだけは風がいかないようにその身に受けて。

 

 背に掛かる少女二人の叫びに椹は笑みを返す。

 自分よりも優秀だろう子分たちに。

 奪ってばかりの人生だった。

 だが月相手にこれだけ多くの者と同じものを奪おうなんていうのは初めてで、幻想郷に来てから椹は奪われてばかりだ。

 そんな椹から初めて孤独を奪った二人ならなんだってできるとただ信じて。

 平城十傑とは違う仲間の形。

 それが何より嬉しいから、椹は自分が持つ最高の宝を奪わせない。

 ふわりと気づけばそこに居るような盗賊は、同じくふわりと消えてしまう。

 

 消え去った二人目の宿敵を惜しみながら、豊姫は周りを今一度見回す。

 

 ただでさえ繋がりの薄かった右手を吹き飛ばされ、その痛みに顔を歪め膝をついた仙人。呆然と突っ立っている覚と吸血鬼。壊れかけている絡繰を治すためかかちゃかちゃと手を動かしている河童。十分にも満たない戦闘で随分と様変わりした光景に、これが勝利か。と豊姫は肩透かしを食らった気分だ。

 

 菖と椹との戦いは心を揺さぶられたが、得られたのはそれだけ。戦闘経験がなさすぎて、良し悪しの判断もつけ辛い。ため息を零し向かって来る者もいないならと場を後にしようと足を出した豊姫の視界の端で揺れる人影。突っ込んできた影の動きに合わせてひらりと踊り、人影の勢いを殺し対面する。

 

「あぁ、今更動くのですか仙人さん。いえ、鬼だったのね」

「私は茨木華扇、それだけでいい、種族などどうでも。貴女をここから先にやるわけにはいかない」

「たかが一つの扇子を恐れ動けなかった妖怪が何を言うの? 貴方たちの賢者八雲紫さえこの扇子を恐れ戦わず頭を垂れた」

 

 シニョンキャップが外れ角を隠すことなく豊姫に突き付ける華扇の姿に呆れたように広げた扇子の先を向ける。脂汗を垂らしながらも華扇は薄く笑い、退く気はないと足を踏ん張り大地にヒビを走らせる。残った左手の指を扇子へと突き付けて。

 

「それはもうこの場では使えないのでは?」

 

 華扇の笑みに小さく豊姫は眉を寄せた。図星。強度の落ちた博麗大結界。同じ場所で何度も扇子を振るっては穴が空いてしまう。使えないということはないが、この場ではあと煽げて一回がいいところ。それを分かっていると笑う鬼に向かって、豊姫は強く扇子を閉じ音を響かせる。

 

「──扇子が使えないと分かれば立ちはだかると。臆病者の発想ですね、勇ましいと讃えられる鬼が落ちたものだ」

「なんとでも。だがここから貴女は逃がさない。……友が命を賭けたのだから」

 

 菖の最後の一撃。外れたわけでも外したわけでもないはずだ。冷徹な暗殺者が命を賭して放った一撃を外すわけがない。ならば必ず意味がある。それが何か華扇には分からないが、菖が刃を抜いたならここで仕留めると決めているはず。だから華扇は今立ちはだかる。

 

 左拳を軽く振り骨を鳴らす鬼を見てため息を吐くと豊姫もゆるりと閉じた扇子を構える。

 

 大地を砕き迫る華扇から目を外さず、豊姫はその力に乗る。多対一でも舞えた豊姫が、一対一で舞えぬ道理はない。技を極めた菖や椹の方が相手としては鬱陶しく、ただ力が強かろうと動きが粗雑なものならばより楽に避けられるというもの。振り回される力の流れは、更に腕一本分の隙があり、その隙を埋めるように華扇の体に豊姫は閉じた扇子を打ち付ける。

 

 扇がずとも穢れを祓うために作られた兵器。より穢れに近い妖怪であればこそ、その影響を強く受ける。鬼の鋼の肉体など関係ないと骨にヒビを入れる扇子の衝撃に顔を歪めながら、それでも華扇は引かない。地を砕く足を出し続け、豊姫に向かい残った左腕を振るう。

 

(しつこい……)

 

 ぐだぐだぐだぐだ勝利がどちらのものとなるか聡明と見える鬼が分からぬわけがなかろうに、負けると分かっていながらなぜ続けるのか。勝利を得るなら華々しく。まるで寝物語のように。菖と椹は良かったが、こんな泥々とした勝利を豊姫は望まない。右腕の隙に潜り込み、強く華扇の右足に向かい扇子を振るった。枝を折るような音に華扇の右膝が崩れるが、それでもなお鬼の拳が振るわれた。

 

「……しつこいですね貴方、なぜ拳を握る? 何故まだ立とうとするの? 勝てぬと分からぬ者ではないはずだ」

「それが勝利に繋がると信じるが故。くくっ、お前は戦いがどういうものか分かっていないらしい。踊りと戦いは違う。それは優雅さとは対極のもの。それがお前の敗因だ綿月豊姫!」

「ッ! 戯言をっ‼︎」

 

 強く振られた扇子の一撃に頭を跳ね上げられて華扇は地に転がった。ヒビの入った角を持ち上げることなく動かない鬼が勝利を吠える意味が豊姫には分からない。予想は予想の通り豊姫の勝利。なのに何故華扇は笑みを浮かべたまま倒れているのか。その笑みが腹立たしい。頭を踏み砕いてやろうと足を出す豊姫の前に七色の宝石が揺れた。

 

「ッ、泣き喚いてた吸血鬼が! 貴様も今更立ちはだかるか!」

 

 涙の跡を拭うことなく、小さな狂気が揺れている。ゆっくりと手を握り締めてフランドールが拳を構えた。形を見れば豊姫には分かる。華扇よりもなお雑な構え。その瞬間にどちらが勝つかは予想できた。だからこそ、よりそれが腹立たしい。歪んだ豊姫の顔をフランドールは睨みつけ、握る拳に『目』は握らない。ただ自分の想いを握る。

 

「……おまえの『目』なんていらない。よくも私が壊せなかったものを私より早く壊したなっ! この手でおまえの勝利を奪ってやる‼︎」

「吐かせ妖怪風情が!」

 

 突っ込んでくる狂気の煌めきも所詮は鬼と同じ。吸血鬼の方が鬼より速さで勝ろうと、一対一なら関係ない。雑な吸血鬼の動きに舌を打ちつつ、無防備な小さい頭目掛けて豊姫は扇子を横薙ぎに振るった。

 

「フランちゃんしゃがんで‼︎」

 

 鋭く差し込まれたこいしの指示を疑うこともなくフランドールは実行する。虚空を薙いだ扇子に豊姫は目を見開いて、遠く座り込んでいる覚を睨んだ。

 

 ぽたぽたと垂れた三つ目の瞳の涙が、その瞼を優しく押し上げる。

 僅かに開いたその隙間から瞳を覗かせ、ただじっと豊姫の姿を追った。

 慣れない見たくもない相手の心を覗き、膝が言うことを聞かなくてもこいしはその場を動かずただ豊姫の心を奪う。

 

「フランちゃん右! 屈んで! 左足を一歩前! 二歩下がって!」

「貴様らッ‼︎」

 

 こいしの絶え間ない指示に、吸血鬼の聴覚と身体能力で無理矢理合わせフランドールが揺れ動く。豊姫の動きを直接覗き先読みされる鬱陶しさに豊姫は歯噛みするが、予想される結果は変わらず。すぐに得られるだろう勝利が伸びただけ。その証拠に一瞬一瞬身を削られてゆくフランドールは血を振り撒き、次第に動きは精彩を欠く。

 

 なぜ続ける? 

 なぜまだ戦う? 

 結果は変わらないのになぜ意地汚く勝利を汚す。

 心の乱れは動きの乱れ。

 誰にも見られないはずの心は、ただ一人の少女には奪われる。

 

「フランちゃん今! 掴んでぇ‼︎」

「うわぁぁぁぁ!!!!」

 

 扇子の下を潜り抜けて小さな腕が伸ばされる。すぐに身を捻り返した豊姫の蹴りに弾かれてフランドールはこいしを巻き込み転がった。心を盗まれようと負けはない。

 

 笑みを浮かべる豊姫に二つの笑みが返される。

 

 小さな吸血鬼が掲げた手に掴まれている光る箱。

 結界装置の箱を見事盗み取った盗賊の笑みに豊姫の笑みが握り潰される。

 

「──キュっとしてどかーん」

「このッ! 穢れどもが‼︎ 私の邪魔ばかり!!」

 

 フランドールに握り潰された箱を見て面白いように豊姫の顔が歪む。けたけた笑う二人の少女に青筋を立てて、迷いなく月の扇子を広げ腕を伸ばす。だが、少女二人を睨む豊姫の視界から少女の姿が掻き消えた。

 

 フランとこいしが動いたわけではない。ただ豊姫の視界が光に塗り潰される。魔法の森から豊姫目掛けて魔力の大河が放たれる。

 

 その根元、いつも顔の横で揺らしている金色の三つ編みを暗殺者の針に食い千切られた魔法使いが、強く歯を食い縛っていた。どこからか飛んで来た暗殺者の針は、それに腕を穿たれたこそ魔理沙はよく知っている。その死の気配に意識を手繰り寄せられて魔法使いの目が月人を捉えた。

 

 ならば魔理沙のすべき事はただ一つ。いつも最後は理不尽さえ打ち払って来た自慢の巨砲を放つのみ。当たらなければ意味がないなら当てれば済むだけのこと。

 

 迫る魔力の輝きに強く顔を歪めて豊姫が魔力の大河に向き直る。避ける暇も盗賊たちを気にする余裕もない。ただ迫る敗北の光を追いやる為に扇子を振るう。その豊姫の膝が扇子を構えたまま地に落ちた。強く大地を凹ませて。

 

「流石やにとりちゃん、幻想郷一の技術屋やね」

「へへっ、ま、まあね」

「きっさまらぁぁぁぁ!!!!」

「ひゅい⁉︎」

 

 豊姫の身に降り掛かる重力。加重銃の機構を用いての即興の改造。加工は菫が、組み立てはにとりが。簡易故にその動力を菫が賄っての即興兵器。胸に妖しげな光を灯して手を差し向けて来る絡繰を睨み、それでもなお豊姫は重い体をなんとか動かす。

 

「うそだろ──ッ‼︎」

 

 八卦炉を構えたまま、魔理沙の頬に汗が伝う。振り切られていない僅かな豊姫の扇子の風に、光の川が削られる。進む先から消失していく魔力の閃光が途切れてしまわぬように、あらん限りの魔力を総動員して小さな八卦炉を掴み足を踏ん張る。ここで仕留められなければどうなるか。そんなことは魔理沙も分かっている。光の影に転がっている血濡れの華扇とフランドールとこいしの姿が、敵の脅威を教えていた。

 

 だから魔理沙がすることはただ一つ。

 今ここで月の使者を仕留めること。

 

 魔法使いの嬢ちゃんが必要になる時が来るさと笑って言った男の言う通り、今がその時だと歯を噛み締め。

 

 霊夢のような才能はない。

 咲夜のように器用でもない。

 妖夢のように技に長けているわけでもなく、

 早苗のような神秘性も、

 魔法使いとしても半人前。

 

 それでもやらなければならない時は分かる。

 

 弾幕はパワー。単純なただそれだけは一番になってやると、霊夢に並ぶためにコツコツ磨いて来た魔理沙だけの大砲。全身全霊で魔力を注ぐその一撃を、一扇ぎにも満たない扇子の一撃に相殺されている。

 

「くそっ! ……私には無理なのか? 

 

 魔力に震える八卦炉の照準がズレないように両手で八卦炉を押さえ込み踏ん張ったまま動けない。

 

 これが本当に精一杯。

 

 強く目を瞑った魔理沙の周りに見知った魔力が静かに降り立つ。

 火水木金土日月、自然的な色。

 どこまでも精密な糸を張ったような繊細な色。

 白い中に妖しい輝きを隠した色。

 小さくも純粋な濃い生命の色。

 いずれも方向性は違くても己の色を秘めた魔力の色。その色の輝きを見たいがために魔理沙の眼は開かれる。

 

「全くこんなに無駄に魔力を垂れ流して、見つけて下さいと言わんばかりね」

「戦争なんて興味もないのに家が火事になれば動かないわけにもいかない、さっさと終わらせるとしましょうか」

「正道だと信じるなら俯いてはなりません。これは恥ではありませんよ」

「これも衆生の救済のため。力を貸すわ魔法人間」

 

 喉から零そうとした魔理沙の声は急激に膨れ上がった魔力に塞き止められる。霧雨魔理沙、パチュリー=ノーレッジ、アリス=マーガトロイド、聖白蓮、矢田寺成美。星を描く五つの頂点が揃う。色の異なる五色の魔法使いが、己の色を混ぜ合わせ魔力を紡いだ。数多の色を混ぜ合わせ白く輝いた魔力が魔理沙に収束し、その膨大な魔力に目を顰める。

 

「ぐぅっ⁉︎」

 

 力が膨大すぎて吐き出せない。人の身に引っ掛かった魔力の結晶が内から魔理沙を焼いていく。魔力のバランスが崩れないように他の四人も動けない中、魔理沙の背後から影が伸びた。秋だというのに魔法の森の緑で染めたような深緑の髪が魔理沙の視界の端に流れる。

 

「み、魅魔様!」

「悪霊を誘うなんて酷い人間の男もいるもんだと思わないかい魔理沙。前だけ向いてな、背は押してやるよ」

 

 黒が白を優しく押し出し、極光が極光を塗り潰した。光の線を光が追う。何十倍にも膨れ上がった魔力の瞬きに吹き飛ばされそうになる魔理沙の体を悪霊が悪霊らしからぬ柔らかさで受け止めて、光の向かう先を決して違えぬように魔理沙の手の甲に手のひらが重ねられる。

 

 

マスタァァスパァァァァクッ!!!!

 

 

 白い閃光が世界を両断する。視界を塗り潰す魔力の白光に大きく目を見開く豊姫の頭の中を短い言葉が占領する。

 

 敗北。

 

 その短くも決定的な言葉が、胸の内から喉を伝い競り上がり、大きな叫びとなって豊姫の腕を動かした。

 

「イヤだ!!!!」

 

 負けたくない。

 ずっと望んで来た瞬間なのに。

 高天原で神と戦った天照たち。

 月面戦争で勝利を掴んだ依姫。

 誰もが自信と輝きに溢れているのは勝ったからだ。

 勝ったから。

 目に分かる形で自分たちの力をぶつけ合い勝ったから。

 負けては何にもならない。

 初めて全てをぶつけ合い、それで負けるなど死んでも嫌だ。

 それで負けてしまったらお前はちっぽけだと言われるようで。

 幸運、運だけでここにいると思いたくない。

 師である八意永琳のように、妹の依姫と同じように、

 豊姫だからそこにいるんだと言いたいから。

 だから豊姫は、

 

「負けたくないっ‼︎」

 

 骨が折れるのも構わず豊姫は腕を振る。この一瞬を凌いでも負けるかもしれない。それでも、目前に迫る地上の輝きには負けたくない。

 

 少しづつ動いてゆく豊姫の腕を見つめ、「ああダメや」と呟くのは壊れかけの絡繰人間。自分を支えてくれる河童の技術屋の顔を下から見つめて小さく笑った。

 

「にとりちゃん、他の子たちのこと頼むな」

「……え?」

「こういう時こそ武器の出番や」

 

 菫の背から伸びた腕がにとりを引っ掴み投げる。もう一本の腕は勝利を掴むため。大きく菫は身を跳ねさせて、光の壁と対面する豊姫の元へ飛ぶ。少し呆れて笑いながら、菫は己が名を呼ぶ河童がロボットアームを伸ばして三人を引っ張るのを目に止めると視線を切った。

 

ありがとな、にとりちゃん。イト切れたわ

 

 誰かの為に命を捨てるなんて馬鹿げたことを機械ができようか。自分で自分のイトを繰り、菫は豊姫の長い髪を引くように勢いを止めた。豊姫が何度も扇子を振った場にこんな極光が通り抜け結界にでも当たれば幻想郷の最後。後先考えない無鉄砲さは正に人のそれだと、同じ人間に大きく笑い、にとりが最後に菫にくれた加重装置の光を強める。それを輝かせるものこそ菫の心。

 

「月の技術は凄いなぁ、落ちる方向変えられるなんて。僕ら目掛けて落ちて来る光。消せるもんなら消してみい」

「ふざけ、イヤだ、私は‼︎」

「僕らの勝ちや」

 

 白い閃光が菫に落ちる。突き抜けるはずの魔力の奔流は、菫を中心に満月のように膨れ上がった。妖怪の山を消し飛ばしゆっくり広がった魔力の恒星は、次第に収縮し幻のように消えてしまう。

 

 ぽっかり空いた妖怪の山跡の大穴の淵で三人の少女を下ろしへなへなとにとりは膝を折った。

 

 同じように光が消えたと同時に転がるのは魔法使い。誰も魔力を絞り尽くし、干からびた体を落ち葉の上に落とす。夢だったのか魔理沙を支えていた悪霊の姿はどこにもなく、ただ手のひらに残った熱を魔理沙は握り、とんがり帽子で顔を覆う。

 

「To say Good bye is to die a little. *1だからさよならは言わないぜ……またいつか……」

 

 薄れていく意識の中、魔理沙はただ暖かさを握り締める。

 

 目が覚めたらきっと明日が来るから。

 

 

 

 

*1
さよならをいうのは、少し死ぬことだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ⑥ 嫦娥

「ッ────────ハァ……」

 

 ぴちゃりと、白煙は零れず血が垂れた。

 迷いの竹林の枯れた笹の葉の上に転がるのは玉兎玉兎玉兎。

 月の生物的な鎧を這いずっていた光の輝きは消え失せ、蝉の抜け殻のようながらんどうに見える。が、所々内部から破裂したように覗く血溜まりが、中には肉が詰まっていることを教えてくれる。

 

「貴方は天国には行けないでしょうね」と嘲る幽香のクスクスとした笑い声と、ムッとした天子の荒い鼻息を背に感じ、玉兎の骸の山に胡座を組み座っていた藤はようやく薄く白煙を零す。ただ白は薄っすら朱に染まり、居心地悪そうに身を捩った。

 

「これも一種の極楽かしら」

「悪魔ならそう言うだろうさ天子」

 

 誰も彼も虫の息。地を覆う落ち葉よりなお地を覆うのは月の兎。誰が死んでいて誰が生きているのか分からない。今来たばかりの天子と幽香は言わずもがな。白煙で幻想の都を覆った藤本人でさえそれは分からない。

 

 櫟の策通り天魔と天狗の力を信じ殆どの薬煙を藤は使い切った。爆発、毒、溶解、出血、沸騰、凝固、興奮、沈鬱、どの効果が出ているのか。白煙地獄と化した幻想郷の半分は、薄く白い海に隠され静かに死に向かっていたというのに、穢れを祓う柔風と天狗の暴風との衝突に巻き込まれ隠していた地獄を引き摺り出された。

 

 そのおかげで天子も幽香も藤の元に降りることができたのだが、見える景色は絶景とは言えない。死を呼ぶ白煙が蠢いた後、蟲の声も木々の声も煙に巻かれて生気を立ち上らせるのは人ひとり。屍の上に身を置く男の空気は、白煙に沈んだのか薄暗く、微動だにせず月明かりが照らす竹林の隙間を見つめていた。

 

「楽しい景色とも言えないわね。藤、なんで座ったままなのよ」

「待っているんだよ」

「待つ? 誰を?」

 

 さて誰だろう? と待ち人の姿を思い浮かべるように藤は白煙をぷかりと浮かべる。誰などと聞かれても、藤は天子に一度その名を口にしている。大多数の玉兎が潰れた。月人のペットのような扱いを玉兎は受けているが、軍として動いているからには責任者がいる。全ての上は月夜見、将軍は依姫、後方支援の責任者が豊姫なら参謀はサグメ。残る一人こそ玉兎の司令塔。波長を繰る玉兎の波長を乗っ取る電波姫。

 

 月の女神嫦娥。

 今更わざわざその名を藤は口にしない。月夜見以外で月の神の名を冠する少女。

 

 その到来は屍の上で待つ藤と同じく静かなものだった。

 

 視界の端からゴキブリが迷い込んで来たような嫌悪感に幽香と天子が口を噤み思わず二度見する。少女はカツカツと兎の呻き声を踏み付けて目すら落とさない。ただひとり、久々に気に入らない人間の男だけを目に留めて、兎の耳のように頭上の二つの輪を揺らし月の少女が月下に立つ。その顔を柔らかく歪めた笑みは傾国の形。どんな男も恋に落ちるだろう笑みを藤はつまらなそうに見つめると、どっこいしょ、と腰を上げる。

 

「お初にお目に掛かりますわね。人間の男を見るのは久々よ、それもとびっきりの穢れをね」

「俺も貴女みたいな怖い女を見るのは二人目だよ、平城十傑、黴家第百六十四代目当主 黴藤。よろしく蝦蟇(ガマガエル)

「…………こちらこそ、燃滓(もえかす)

 

 にっこり笑う少女に、おお怖と藤もにっこりと笑い返し口から電子たばこを引き抜いた。藤と嫦娥、お互い笑い合い顔を付き合わせる中で考えることはどちらも同じ。

 

『気持ち悪い野郎がいる』

 

 人を誑かす事に長けた嫦娥の笑みや声音、物腰の柔らかさ、少なからず嫦娥を前にすれば何かしらそれを見た男は反応を返すというのに、藤にはその欠片もない。そして、藤の白煙の後に残ったものにまるで目を留めずに藤を見続ける月人。唯我独尊という言葉があるが、ここまで己をひけらかす女を藤も初めて見た。

 

 そしてお互いがお互いを一目見れば分かる。

 こいつは戦いが得意じゃない。

 嫦娥の美貌と藤の生弱。

 お互いがお互いを汲み取って眉を顰めた。

 

 傷一つどころか赤切れさえないと見える嫦娥の四肢。艶やかな髪には枝毛一つなく、整えられ過ぎているその姿が戦いから遠くに身を置いている者の証。それに加えて女性的すぎる体には筋肉の姿もない。およそ戦争の前線に出る風体ではない。見た目の身体能力で言えば月人の中で最も惰弱。

 

 そしてそれは藤も同じ。青白い顔は吹けばすぐに飛びそうで、痩身の体躯は戦士ではない。そんな男が白煙の中心にいる矛盾。最も多くの玉兎を潰した人間、玉兎が繰り返し嫦娥に送り付けてきた煙の悪魔。その俗称に見合わぬ風貌。命の小ささと穢れの大きさ。その違和感こそが薄気味悪さの証。

 

 傾国銀蟾*1と煙の悪魔。

 

 その意味するところが力でないのなら自ずと舌を伸ばす先は内。見た目以外に何かなければ、ここでお互い向かい合ってなどいない。ゆっくりと硬質の舌を咥え直す藤の先で、嫦娥が舌を打つように指を鳴らした。ばちりっ、ばちりっ、と打ち鳴らされる火花を見て藤もぶわりと白煙を燻らす。

 

「ちょっと、いつまで見つめ合ってるのよ。……ちょっと、……ちょっと!」

「藤、その子うるさいわ。()()()()()()()()()?」

「……自分でやれ蝦蟇、できるなら」

 

 天子と嫦娥が喧嘩すれば天子が勝つ。見た目だけで言えばそれが絶対の結果。だが、嫦娥は拳を振らずに藤を睨み付けた。月人さえ操れる嫦娥の電波ジャックが目の前の男に通用しない。嫦娥から弾ける有毒電波が、より大きな暗雲に突っ込んだように藤の中で四散した。そのいいえも知れぬ感触に口端を歪める嫦娥を見て、笑みを深めた天人が地に剣を突き付ける。

 

「待ってたわよこの時を! 来たれ月人! ようやっと喧嘩の時が来たの「()()」……ッ⁉︎ ……ッッ⁉︎」

 

 口をムニムニ動かす天子の口がくっ付いたように離れない。その天人の様子に満足し、薄く笑みを浮かべた嫦娥が指を弾く。それと同時に藤の横に大輪の一撃が落とされた。

 

 ──ドチャリ。

 

 と潰れる音は幾体もの玉兎から。自分の横に振るわれた閉じた傘の凶撃と、怒気を孕んだ幽香の表情を見て藤はゆっくり嫦娥の元へ顔を戻す。浮かべられているのは笑みではなくこちらもまた怒り。怒りの向く先は幽香と嫦娥。お互いに怒りの矛先を向けている。その間に挟まれた藤は、たらりと一粒の汗をかいた。

 

「……幽香?」

「あの……売女! ……私の体をッ!」

「ああ……なるほど」

「なるほど? 余裕ね燃殻。それとも頑張って兎を狩ったからもう頑張る元気がないのかしら?」

「ゲコゲコうるさくて何を言ってるのか聞こえないな。悪いがもう一回言ってくれるかい?」

「死ね」

「ああそれは聞こえた」

 

 藤の言葉を緋想の剣が斬り捨てる。鋼鉄の意思で抵抗する天子にゆるゆると振られた剣を屈むように藤は避け、振りかぶられた幽香の傘には動かない。動かずとも藤には落ちず、目の前を通り過ぎ地に向けられる幽香の一撃が地を抉るのを見届けて、藤は一歩嫦娥に向けて足を出した。天子の一撃、幽香の一撃。どれもまともに当たればただでは済まない連撃の中を散歩でもするような気軽さで藤は嫦娥に近づいてゆく。

 

「……なによそれ、新しい雑技? うっざい」

「俺が自ら仲間にした二人だ。これぐらいやってくれるさ、お前とは違う」

 

 黴の白煙の中でさえ動いた鉄人たち。気合い、根性、純真、無垢、意地、なんだっていいが、藤にもよく分からない論理で己を動かし不可能を覆す二人に藤がわざわざ手を出さなくても、いや、出さないからこそ勝手にどうにかしてくれる。体を操られようと、幽香も天子も望まぬ一撃をそのまま放つような柔な精神をしていない。

 

「はあ? 信頼? 友情? そういうこと言う奴が一番嫌いなのよね。人のため誰のためって、結局大事なのは自分。自分さえ良ければいいじゃない」

「まあ、否定はしないよ。それで俺もここにいる。だが信じるものは人それぞれだろうに」

「あらならお前は何を信じるの藤、吐息の代わりに白煙を吹く男」

「そうだなぁ、少なくとも明日が来ると信じてる。後は、そろそろ不死身の天人が怒るって信じてる」

「もう怒ってるわよ!」

 

 藤を避けて振られた天子の一撃が風を呼び、真空の刃が嫦娥に迫る。嫦娥が指を弾いた衝撃に叩き起こされたように半死半生の玉兎が血を垂らしながらその前へ立ち塞がった。そうして切り裂かれる盾には目も向けず、飛び散った血を払いながら次々と嫦娥は指を弾く。

 

 死にかけだろうと関係なく立ち上がる月軍。己の意思は関係なく、嫦娥一人がいれば玉兎は動く。それも視界に入っている者ならば尚更に。千切れかけた腕を振り、足を出す玉兎たちはゾンビと変わらない。本人が望もうと望むまいと死ぬその瞬間まで動き続ける。

 

 天子や幽香と違い虚ろな瞳の玉兎が自分を統制することができるわけもない。引き金に伸ばされる玉兎の指を見た藤は電子タバコのカートリッジを咥え引き抜き吹き出してから、換装せずに歯噛みした。

 

 吐く薬煙がなくはないが、残っているのは藤でも使うのを躊躇うようなものばかり、玉兎に対して躊躇するようなことはないが、幽香と天子に対しては別だ。生死に関わらないだろう白煙の中でなら、何があろうと二人なら動くだろうと藤は信じている。だが、とっておきなどになると別だ。藤本人の体すら即座に蝕むようなものを使えば流石の二人もどうなるか分からない。いつもより長く荒く藤の手の中で回っていた薬煙のカートリッジのない電子たばこの動きが、藤の目の動きに合わせてぴたりと止まる。

 

 そして普段絶対に嵌めない薬煙の薬包を電子たばこの頭に嵌めてその硬い舌先を嫦娥に向けた。

 

「なによそれ、新しい降参の形? 許すと思う?」

「さて、お前が許そうと許さなかろうと、関係ないんじゃないかい? 何があろうとお前を許さない者が来た」

「はあ? 誰よその命知らずは」

 

 玉兎に囲まれ頭でもイかれたかと笑う嫦娥の鼓動が一瞬止まる。嫦娥の口は弧を描いたまま口端は痙攣し、だらりと大粒の冷や汗を一つ零す。竹林を揺さぶる絶叫が落ち、地に大きなクレーターを描いた。吹き飛びめくれ上がる大地の中をぷかりと白煙が浮いたように藤は漂い、薄く振動する空を見つめる。竹林の消えた大地に立つ人影は()()。体が上手く動かなかったからか、土竜のように緑の髪と青い髪が地から伸びた。少し背の低くなった二つの人影が見つめるのは、変わらず地に立つ三つの影。

 

 急に他人事のようにそっぽを向いた藤と、笑顔のままなおも固まる嫦娥。

 

 そしてギラギラとした霊力を花火のように瞬かせる一つの影。空を揺らし、地を揺らし、それでもなお治らぬ心があらゆるものを細かく揺らす。その始まりは、影のように黒い服を纏う少女の咆哮。

 

 

「嫦娥ァァァァァァァッ!!!!」

 

 

 その短い名前、たった一言に込められた純粋な憎悪の輝きに、天子も幽香も息を飲む。

 

 純粋過ぎる怨霊、その到来に場の空気が塗り潰された。目だけで殺せそうな空気を隠すことなく、身の内で暴れる心の熱を冷ますため、少女、純狐の口から白んだ息が零れた。

 

「────純狐ッ」

 

 噛み殺すように呟かれた嫦娥の言葉に、純狐の殺気がふと消える。

 忘れたことのない顔。

 忘れられない声。

 忘れるはずのない瞳。

 どこを切り取っても純狐の頭に張り付いた影と同じ。

 

 何年想い描いたか分からない宿敵の姿を見て、純狐の中で想いが縮小した。余分なものを削り落とし、ただ一つの感情だけが削り出されていく。より静かに。より鋭利に。それが終わってしまう前に、純狐はどこ吹く風の人間の男に向けてちらりと目を向ける。

 

「──約束通り。引きずり出したのね藤、本当に」

「貴女も。来たね」

「来たわ」

「貴女の前で死に掛けた甲斐があった」

 

 嫦娥の名を藤が純狐の前で発した瞬間毒素を純化され死に掛けるを繰り返し、藤が話を聞いて貰えるまで数十回を要したが、それでもそれだけの意味はあったと藤は微笑む。嫦娥の精彩を欠いた動きを見れば明らかだ。笑う藤と薄く笑みを浮かべる純狐。その二人を見比べて、押し殺すように嫦娥は笑い出す。人間の浅はかさと復讐者への哀れみで。

 

「──くくっ、くっくっく。ああそう、泣き虫と燃滓が手を組んだわ、け、ね。いじめられっ子同士仲良さそうで良かったわね。ええ?」

「ああ嫦娥、嫦娥嫦娥嫦娥! 何故かしら? ようやく会えたというのに不思議と心が落ち着くわ。何故なのでしょうね?」

「今日で最後だからじゃないかなぁ」

「ああ……、納得」

 

 だから貴方もそうなのね。という言葉を藤へ出さずに純狐は飲み込み、静かに嫦娥の方へ向き直る。それに合わせて藤はゆっくりと背後にいる天子と幽香に手を振った。離れろと口には出さないまでも、藤の態度と柔らかな笑みが言っている。その動作に天子は藤に噛みつくため手を振り上げようとしたが、幽香に頭を掴まれ遮られた。鋭く見上げられた天子の目を、同じく鋭い幽香の目が見返す。天子が口を開く前に、二つの影が天に飛んだ。

 

「ちょちょっと幽香⁉︎」

「……分かってるでしょ」

 

 目に光の失くなった淀んだ藤の瞳。迷いの竹林を白煙に沈めた時と同じ、白煙で敵の生を煙に巻くと諦めた顔。そんなことは天子にだって分かっている。分かっているが、分かっているからといって離れるか離れないかは別のことだ。なぜならまだ天子は楽しくない。退屈するかと聞いて多分しないと藤は言った。だというのにどんどん藤だけが命を削り先に行く。ふと目を離せば浮き雲のように消えてしまうような儚さを持った人間の背が最後に見るものとならないように、大きな声で天子は藤の名を呼んだ。その声に藤は口に咥えた狼煙で返す。

 

「……約束は守るさ。まだ俺は死ぬわけにはいかないのでね。だからもう諦めたよ」

「何を諦めたんですって? 生を? 殊勝ね人間」

「それはもうとっくに。諦めたのはもっと残酷なことさ」

「どんな手を使おうと私に通じるかしら? この状況で」

 

 嫦娥の周りで大きく稲妻が散る。

 電波塔の最大出力も藤と純狐には効かず、嫦娥はそれに口を歪めるがすぐに笑みに戻した。そもそも純狐に己が能力が効かないことなど嫦娥は何百年も前から知っている。意識の純化。自分の意識を純化して毒電波の乗っ取りを防ぐ。その代わり他のものの純化を抑えられるので立場は同等。嫦娥が計算外だったのは同じく操れない人間がいることだ。

 

 だが、それならそれで打つ手はある。藤は確かに月軍の半分に及ぶ玉兎を半死の状態にしたがまだ半数。第一派、第二波と幻想郷を踏んだ玉兎。その全てが消えたわけではない。幻想郷に散り散りになっていた玉兎たちを唯一問答無用で嫦娥は集めることができる。竹林の消え去った大地を踏む多数の兎の影。竹の代わりに自分たちを囲んでいる玉兎の姿を見て、藤は勿体ぶって電子タバコを咥えた。

 

「約束を守ろう純狐。奴を引きずり出し貴女は来た、梅雨払いは俺がする。奴を潰せるか?」

「何度でも。そのために来た、藤、ここから先は手出し無用よ」

「分かってるよ、ただ負けないでくれ」

「ふふっ、吹いたな煙の悪魔。その前に約束を果たしなさい」

 

 了解と言う代わりに藤は白煙を吐く。少し吸い込んだ白煙の苛烈さに藤は眉間に眉を寄せながら、目に見える命の残り香が空を漂う。嫦娥を取り残し白い緩流が場を包んだ。

 

 けほりっ、と藤の口から吐かれた血の塊を純狐は横目に見て、そして嫦娥に向かい一歩を踏み出す。

 

 周りなど気にしない。純狐が目に写すのは嫦娥ただ一人。掘り出され磨き抜かれた憎悪の結晶が形となる。目の前以外不用心。隙だらけの純狐に向けて銃を構える玉兎の指先を動かすため、嫦娥が指を弾くと同時にそれは起こった。

 

 ─────パキン。

 

 響いた陶器の砕けるような音は骨と爪が割れる音。

 玉兎の指が弾け落ちる。

 

 まだ生き生きとした玉兎たちは、言いようのない恐怖に叫び声も飲まれてしまう。宙を漂う白煙に触れた肉体、装甲服が触れた先からひび割れ剥がれ崩れてゆく。痛みはなく、血も共に剥がれ雫も垂れない。白煙から離れても玉兎たちの崩壊は止まらず、これはいけないと玉兎を受け止めた玉兎の体に崩壊の波は伝染してゆく。

 

 煙に巻かれた相手の自由を奪う。緩りと死へ誘う煙と違い、せっかちに命へと即座に手を伸ばして来る白煙に玉兎は何もできず崩れ落ちるのみ。骨の一片すら残さずに消えるその姿に、玉兎が思い浮かべる言葉はただの一つ。

 

 ──煙に喰われるッ! 

 

 その緩やかな形なき悪魔の舌に舐められたら最後、歯のない牙に存在を噛み砕かれる。そんな不定形の怪物を吸い込む藤もまた無事なわけがなく、小さくひび割れていく指先。それを藤は少しの間見つめ、指揮者のように腕を緩く動かし続けた。

 

 白煙の雲海ほどではないが、視界に写るのは白い糸が宙を這うような不気味な光景。それだけ多量に藤が薬煙を吸えず吐き出せないということでもあるが効果は覿面。その糸を手で手繰り漂わせる藤の動きに侵入停止の壁が築かれた。

 

 毒電波が白煙に食い千切られる。場に残されるのは純狐と嫦娥のみ。向かって来る純狐が幻のように嫦娥の目に映り、呆けた嫦娥の意識が数瞬暗転した視界に叩き起こされた。

 

 殴られた。

 

 誰にと聞くまでもなく相手は分かる。特異な能力があり術もある、そんな中で純狐が取った行動はただ拳を握り殴ること。骨同士のぶつかり合う鈍い音が嫦娥の中で反響した。その音が嫦娥の意識にへばり付く。鈍く痛々しい音だが、威力は然程でもない。純狐もまた武術家ではなく術師。放たれた拳の一撃が決定打になるわけもない。嫦娥にも純狐にだってそれは分かっている。そんな中で放たれた二撃目の衝撃に嫦娥は鼻から血を噴いた。

 

「嫦娥ァァ!!!!」

 

 心の叫びをそのまま垂れ流して放たれる純狐の拳の熱さに嫦娥の心が焦がされる。ただ一人、血肉を分けた子の未来を奪った女の今を奪うため。例え嫦娥を神が許しても、純狐が絶対に許さない。怨霊の熱はどろりと熱く熱を増すばかり、ただ幼稚に無骨に乱暴に嫦娥の器にヒビを入れる。

 

 三度、四度と振られた純狐の拳を顔に受け、嫦娥の中で何かが切れた。

 

「純狐ォォ!!!!」

 

 交差した嫦娥の拳が純狐の顔に突き刺さる。

 額が切れ顔に垂れた血を指で掬い笑みを浮かべた純狐の拳が再び嫦娥の顔を跳ねた。歯を食いしばり顔を下げ、嫦娥もまた拳を振るう。

 

 純狐の憎悪の炎の熱をどれだけ打ち込まれようと関係ない。

 

 初めからだ。

 

 幻想郷の地を足で踏むことになった初めから嫦娥の中は怒りの色で満ちている。

 

 人間ごときに地に引きずり落とされる。それも純狐と同じ、嫦娥の能力が効かない人間に。

 

 純狐と藤。長い人生の中で二人も嫦娥の前に平然と立つ者がいる。それが兎に角気に入らない。

 

 振られた純狐の拳に足を踏ん張り嫦娥は額でそれを受けた。

 ──ピキリッ。

 と割れた純狐の右拳から血が垂れるのを見て、額から垂れた血を舐め取りながら嫦娥は笑い拳を握った。純狐に電波を発しながら更に毒電波で乗っ取るのは自分。体が武術家のように強く動かないなら、そのようになるよう動かすだけのこと。リミッターは外れ、限界を易々と超えた嫦娥の一撃が純狐を殴り飛ばし、その背後にいる藤のところまで押し切った。慌てて上に向かって白煙を吐き純狐から白煙を逃す藤を睨みつけながら、嫦娥は顔の輪郭を伝う血を振りまきながら人生の中で最も気に入らない二人に中指を立て血の混じった唾を吐き捨てる。

 

「……マジムカつくわ。煙を吐く死体みたいな男と憎悪しか持ってない泣いてばかりいた女。そんな奴らが私の前に立っている。私の邪魔をしてくるのがなんで貴方たちみたいな奴なわけ? うざいうざいさっさと消えなさいよ」

「餓鬼っぽいことを言うのね嫦娥、自分にはもっと相応しい相手が居るとでも?」

「当たり前、貴方たちじゃ役不足もいいところよ。復讐譚? 御伽噺? そんなくだらない舞台に私を巻き込んでんじゃないよ! 虫酸が走るわ! キモいキモい‼︎」

「……巻き込んだだと? 吐かしたな嫦娥ァ! 始めたのは貴様だろうが‼︎」

「私が始めた? 寝言は寝て言え純狐ォ‼︎」

 

 交差した拳がお互いを突き飛ばし、嫦娥と純狐の血が宙を舞う。それを見つめてより嫦娥の怒りに薪がくべられた。

 

 嫦娥は元々さして身分の高い家の出ではない。

 言ってしまえば下賤の民。月の中でも下から数えた方が早い程だ。

 そしてそれは永遠に変わらぬはずだった。

 それが何より嫦娥は許せない。

 人間のように努力したから何かが変わるわけではない。

 穢れを嫌い生から離れたということは成長もない。

 永遠に偉い奴らから見下ろされ続ける生活など地獄と一緒だ。

 だから嫦娥は一度自ら地上に身を落とした。

 必要だったのは誰にも命令されない力と、永遠を謳いながらその実死を恐れそれから逃げた月人を嘲笑うこと。

 嫦娥の目的は八意永琳が実験で作り破棄された初期の蓬莱の薬を求め、更に力をつけること。

 その挑戦は全て上手くいった。

 

 人を手玉に取り誑かし、いつしか意のままに操れるまでになった。

 そして蓬莱の薬に手が届くかというところでぽっと現れた誤算が一人。蓬莱の薬を手に入れるために近づいた男が嫦娥とは別に妻を娶った。人間と触れるなど嫌だとした嫦娥より先に子を作りいつの間にか嫦娥より先へ。

 

 そんなことは当然認められない。

 

 たかが人ひとりに阻まれるなどあってはならないと、夫を操り子を殺し全ては万事上手くいったはずなのに、怨みを溜め込み人は怨霊にまでなった。

 

 だがその手も届かない。

 地上に降り力をつけた嫦娥は、月の玉兎を全て操れる。その有用性を買われ勝手に月が嫦娥を守ってくれるはずだったのに、また人が嫦娥の前に立ちはだかった。

 

 その気になればころっと死ぬような人間が二度も立ちはだかるなど許して置けない。永遠を望みながら死を恐れる月人の中で数少ない死すら完璧に投げ捨てた。それでもなお嫦娥に手を伸ばしてくる者たち。そんな存在は嫦娥の人生に必要ない。

 

「邪魔だ! 邪魔過ぎるんだよお前たちは! 私は永遠になったのに、それでもまだ滲みが私にへばり付く! それも二つ! 永遠にもなれない塵芥が‼︎」

 

 嫦娥に殴られ飛んで来た純狐を受け止めて、藤はスッとと白煙を零す。立ち上る白線を視界に留めながら、少し薄らいだ視界を瞬き、純狐の背に置いた手に少しだけ力を込める。

 

「……手を貸そうか? と、言っても貴女は断るだろうね。貴女が倒れるまで俺は手を出さないよ」

「……当然。そこでただ私の勝利を見てなさい藤。その権利をお礼としてあげてるのだから」

「分かっているよ。貴女が来てから俺は貴女の勝利を疑っていないさ純狐。命は燃やすものだ。その火を絶やした奴が勝つなんてあるわけないだろう?」

 

 藤の熱に背を押され、純狐はそれを鼻で笑った。

 

 人の熱を身で感じたのなどいつぶりか。

 それはもう大分前だ。

 ただただ純粋な命の熱。

 幼き子を腕に抱いたその暖かさ。

 

 その命の炎に煽られて、純狐の熱が激しさを増した。

 

「嫦娥ァァァァァァァァ!!!!」

 

 純化を強め憎悪の炎の勢いは止まらず、リミッターの外れた嫦娥の体を純狐の拳が殴り飛ばす。不毛で美しさの欠片もない殴り合いを純狐はやめない。やめるわけがない。やめるわけにはいかないのだ。ただ己が拳で嫦娥の全てを奪うために。

 

 奪われた未来は未来でしか取り戻せない。子の未来を奪った宿敵の未来を奪うため。野蛮な殴り合いは加速しかせず、憎悪の火花が嫦娥の頭を大きく弾く。叩き込まれるのは『嫦娥』というたったの一言。それに頭を大きく揺らして後退る嫦娥を追い、放たれた怨霊の二撃目を受け嫦娥は無様に大地に転がった。口の中で入り混じる砂と血を噛み砕き、無理矢理立ち上がった嫦娥への三撃目は見事に顔の中心を射抜き嫦娥が後方に弾かれる。

 

「嫦娥ァ‼︎」

 

 会話にすらならず純狐から吐き出され続ける嫦娥の名前。耳に届くそれを打ち消す打撃音。

 

 名前、

 拳、

 名前、

 拳、

 名前、

 拳。

 

 ごちゃ混ぜになった嫦娥の頭ではもう何発殴られたのかさえ分からない。ぐるぐると回る視界のせいで前後左右も不確かで、ただ時々視界に火花が散り見ている景色が飛ぶ。呼吸も苦しく出て行くのは薄い吐息と血の塊。ぼたりと落ちた赤い点を見下ろす嫦娥の視界が天に向けて吹き飛んだ。

 

(……めんどくさ)

 

 殴られるなんて楽しくないし、痛いのだって大嫌い。ただひとり異様に熱くなっている純狐は滑稽だと薄く笑い、嫦娥は傾いてゆく景色を見送りだらりと両腕を垂れ下げた。もう今はさっさと横になって意識を投げ出したい。

 

 そんな嫦娥の移ろう視界がピタリと止まる。

 

 眉を傾ける嫦娥の背にへばり付いた熱。

 小さくも火のように熱いそれを追って背後へと嫦娥が目を向ければ、最も気に入らない男の顔がそこにあった。

 嫦娥に白煙が喰いつかないように気を使い天に向けて白線を燻らす男の顔は、やはり嫦娥にとって気に入らない。

 倒れそうな嫦娥の背を支えている男を見て、嫦娥はなんの表情の浮かべずにただ一度その男の手へと目を移す。

 

「……何してるの貴方」

「お前が俺の方に飛んで来たから手を出しただけさ」

「……意味不明、私が飛んで来たなら殴ればいいじゃない。それともなに? 弱ってる奴は殴れないとかいう博愛主義者? ウザ、貴方はなんのために戦ってるのよ」

「俺の望む未来のために。俺に殴って欲しければまず純狐に勝つことだ。そうすれば殴ってやってもいい。まあ嫦娥が負けるだろうから俺に殴られる心配は要らないな」

「……なにそれ、殴られるために私に勝てって? 馬鹿じゃないの貴方。だいたい永遠を持つ私からすればこんなのは小事なのよ。無限ではない貴方たちなんて道端の石にもなれない宙に浮く塵。なのになんでそこまでするの? 寿命を削って、命を賭けて、これが無意味だと理解できない馬鹿ではないでしょう」

「なんでか……、なんでかなぁ。先代との約束とか、百六十五代目に大見得切っちゃったとかいろいろあるけど。賭けられた命には命しか賭けられない。俺は今生きてるだろう?」

「…………なによそれっ」

 

 軽く藤に背を押されて数歩嫦娥は前に足を進めた。前からふらふら歩いて来る純狐と、背後で白煙を立ち上らせている男を見やり、嫦娥は強く歯を噛み締める。

 

……ウザい

 

 背中がどうにも痒くて堪らない。べったり張り付いた命の熱が煩わしくて仕方ない。

 

 未来のため。

 我が子のため。

 

 自分以外のために動ける意味が分からない。大事なものは己だけ。ただ自分が高みへ登るために。

 

 それが嫦娥の生。

 

 見下されるなど許さない。生まれで全てが決まるなど、永遠に見下され続けるなど、それを嫦娥は否定する。上へ、上へ、空より高く。そして月まで至った嫦娥だ。自ら地に堕ちようと自ら帰った。自分にはなんだってできるのだと嫦娥は自らを証明した。その自負が再び嫦娥に火を灯す。誰がためでなく己のため。息を吸い込む純狐に合わせて嫦娥も息を吸い込み心を吐き出しながら足を踏み込む。

 

「嫦娥ァァ‼︎」「純狐ォォ‼︎」

 

 交差する少女たちの拳を少し離れた場に立つ藤は白煙を小さく吐き見届ける。驚きもせず、騒ぎもせずじっと見つめる先に広がる光景は、藤が思い描いていた通りのもの。

 

 己がため、一代で誰より長い旅路を歩き切った嫦娥。その精神力は異常と言える。能力の効かぬ者を前にして苦手な拳で応戦する気概もそう。己にさえ己の毒を向け、外され底上げされた稼動力は人を超える。

 

 ただ偏に相手が悪かった。

 

 ただ一人嫦娥を追い続けた少女。我が子に向けるはずだった愛を怨みに変えて何百年経とうと嫦娥を追った。

 

 自己愛と憎愛。

 

 ただひとりを想い過ごした年月は、種類は違くとも純愛と同じ。嫦娥のことをずっと考え続けた純狐だからこそ、嫦娥の動きをここで読み切る。

 

 純狐が放ったのは割れていようと右の拳。嫦娥の放つ左の拳を前に進みながら頬の皮薄皮一枚で受け切り、子と嫦娥に捧げる十字架を純狐は描く。

 

 完璧な形の十字架(クロスカウンター)が、嫦娥の顎を打ち抜いた。

 あご骨の割れる音を響かせて嫦娥の体が崩れ落ちる。

 ぐるりと暗転した視界の中で、嫦娥は割れた顎も気にせず歯を食い縛り、その痛みをもって意識を叩き起こす。力の入らない力を能力で無理矢理動かして、嫦娥は純狐と藤へなんとか目を合わせた。嫦娥の美しさは血と汗に塗れて失われ、残ったのは自分を信じる眼光のみ。

 

 純狐は僅かに目を細めて薄く息を吐き出すと顔に張り付いていた血をここで拭った。血に染まった嫦娥の顔をよく見るために。今この瞬間を焼き付けるために。

 

「……無様ね嫦娥、ようやく……、ようやく貴女のその顔を見て笑ってやることができる」

「……あっそ。満足したわけ?」

「満足? するわけないじゃない。降参しようが許しを請おうが私はお前を許さない」

 

 純狐の闇に染まった瞳を受けて嫦娥は息を詰まらせると、ゆっくりと押し殺したように笑い始めた。純狐に向けてではない。静かにただ自分へと向けて。

 

「降参? 許し? くっふっふっふ……」

 

 そんなものを嫦娥は必要としていない。なぜなら嫦娥は悪いと思っていないから。一頻り笑い終えて嫦娥は今一度純狐を見つめた。そうすれば少しぐらいは思わないわけがない。

 

 もし嫦娥が上を向くことをやめて地上で生きると決めていたら。もし嫦娥にも子がいれば。もし純狐ともう少し仲良くすれば。意外といい友人になったのではないか。

 

 そこまで考えいつも最後は馬鹿らしいと嫦娥はひとり笑う。もしもなんてあり得ない。何度繰り返す事になっても嫦娥は同じことをする。永遠に上の者に媚びへつらうなど、

 

 だってそんなの惨めだから。

 

「純狐ォォ‼︎」

 

 宿敵の名を叫び足を出す。負けると、そんなことは分かっている。もう腕も上がらなければ歩くだけで嫦娥はやっとだ。それでもやめず、そして純狐も同じくやめない。分かっていたというように一歩を踏んだ嫦娥を殴り飛ばす。

 

 意識が吹き飛び体がいうことを利かない。そんな中でも最後の力を振り絞り嫦娥は手を伸ばす。宙に漂う白糸を、静電気で無理矢理手繰り寄せ、掴んだ腕がひび割れようと膝だけは折らない。崩れ剥がれてゆく腕を見送りながら、嫦娥は最も気に入らない二人の顔を強く見つめた。

 

「……絶対に私は倒れない。お前たちの前でだけは絶対に膝をついてやらないし頭も下げない。私が操れないお前ら二人の思い通りにだけはなってやらない! ……認めるわ、今回は私の負けよ。ただし、こんなの私にとっては永遠の中の一欠片。次は私が勝つ。それでダメでもその次こそ勝つ。それでダメでもいつか勝つ。これから永遠に私は貴方たちの敵。純狐! 黴藤! せいぜい怯えなさい! 貴方たちの名前と顔を私は未来永劫忘れない! あっはっは! あっはっはっはっは‼︎」

 

 崩れ去りなお高笑い。薄れる白煙の中に木霊する笑い声を聞きながら、藤と純狐は地に倒れ、ひび割れた手を天に掲げて口角を落とし藤はぷかりと煙の船を浮かべる。

 

「……やべえ、次代に負の遺産を残したかもしれん……。なあ純狐、うちの一族で祀ってあげるから守り神になってくれないかい?」

「……まあ、考えてあげてもいいけど」

「それは良かった。それよりいいのかい? 嫦娥をただ死なせてしまって。貴女なら半死状態で固定できたんじゃないかな?」

 

 藤の問いに純狐は少しの間目を閉じると鼻を鳴らした。勿論できなくはない。痛みを純化するにしろ、永遠に叫び声を上げる彫像としてもよかったが、それを純狐はやめた。

 

「──これは終わりではなく始まりよ。久々にあの女を! ……見て殴れた。これからも何度も殴ってやる。永遠の敵? 初めから私はそのつもり。何度アレが万全を期そうがそれを全て踏み躙りまた殴ってやる! 殴って殴って殴って‼︎ ……やっとその始まりを掴んだ。……まあ、貴方のおかげね。あの腐れ穴熊をようやく引きずり出せた、約束は果たすわ」

「頼むよ」

 

 

 ────カチャリ

 

 

 ハァ、と小さく息を零す藤と純狐から少し離れたところで小さな音が鳴る。地から持ち上がる蛍のような淡光を浮かべる箱を横目に見て、それを持ち上げる女性的な指を追い藤は気怠い体をなんとか持ち上げた。

 

「天子、幽香、やっぱり来たのかい? 今の白煙には絶対に触れるなよ。いくら二人でも────……」

 

 藤の声は次第に弱々しくなり、煙に巻かれるように完全に消え去った。その覇気のない残響を聞き純狐は勢いよく立ち上がる。

 

 

 

「────……依姫、サグメ、豊姫、嫦娥。さて……、大したものだと褒めればいいのか。それとも怒った方がいいかな? どう思う百六十四代目黴藤、平城十傑の陰謀家だったか? ああ私が知っているのは気にするな、見ていただけさ。ただそれも今夜からだがな。もう少し早く見ておけば良かったよ。いい暇潰しになっただろう」

 

 宙に小さな満月が二つ並んで浮かんでいる。最初に藤が想ったのはそんななんとも言えない感想だった。ぼんやりと月光に包まれながら、それをローブのように身に纏った痩身の女性。に見えるが男と言われればそうも見える。それだけ性別も一見しただけでは分からなほどあやふやだ。

 

 だが誰かは分かる。

 

 ふと口から落とした電子タバコを空中で掴み、藤は薬煙の代わりにただその場の空気を深く吸い込み静かに吐いた。月は魔性と言う通りの空気に、藤は一度強く目を瞑りゆっくり電子タバコを咥えて白線を燻らす。

 

 向かってくる白煙に月の神は手を伸ばすと、仔犬を撫でるように指を回した。手にまとわりつく白煙を神は可笑しそうに眺めて小さく笑う。その結果が分かっていたと言うように藤は薄く目を開けて、目の前の神の姿を脳裏に深く刻み付けた。

 

「──ようやく会えたな、俺は黴家第百六十四代目当主 黴藤。俺が最初かな月夜見殿」

 

 神を前にして気負わず薄く笑う人間を見て、月夜見は少しだけ口端を歪めたが、それを笑みに持ち上げて白煙を口遊む人間と静かに目を合わせた。

 

「玉兎、嫦娥、最も多くの月の民を殺した人間よ。忌々しい煙の悪魔よ。お前に最初に会いに来てやったぞ。なにか言っておくことはあるかな? お前の話なら聞いてやってもいい」

「さて、と。なぜ今になって攻めに来たのか、なにを考えているか、戦いをやめる気はないかとか色々あるがね。どれも今ここに至っては意味はないだろう。そう、ただ終わらせるために来た。この無駄に長い物語をたたみにな」

「ふむ。…… 二人、いや、怨霊は消えたか。君の策かな?」

「さて、全て見えるなら俺から言う必要はないだろうさ。だろう?」

 

 いつの間にか消えている純狐に藤は目も向けない。予定通りという藤の顔を月夜見は少し不機嫌な顔になって首を横に倒し身を包んでくる白煙を手で払う。笑う藤の顔が純狐の行き先を告げている。即ち外の世界。幻想郷の中なら少ない人数故にすぐに分かるが、信仰が薄れ億に上る人混みに紛れられると楽には見つからない。

 

「……私が見ていることに気付いていたのか?」

「保険だよ、よく言うだろう? お天道様が見てるって。ならお月様だって見てるだろうよ。そのつもりで色々考えて動いてただけさ」

 

 幻想郷の者が戦うことはほぼ決定事項であった。だから幻想郷内で仲間を集めるのは気にすることはない。気にするのは外でやるべきこと。それが済んだから藤も幻想郷にやって来たのだ。

 

「甘く見たかな月夜見殿、たかが人間だとさ」

「それは認めよう、だから私がここに居る。ひとりで私と殺り合う気か? だがそれは私を甘く見ているだろう藤」

「一人じゃないわよ‼︎」

 

 空から舞い降りてきた青い髪と共に、月明かりを塗り潰す閃光が神に突き刺さる。薄らいでいるとはいえ未だ場は白煙の中。緑の髪と青い髪を見て藤の顔は引き攣るも、少し嬉しそうに目を伏せる。新たな来訪者を降り注いだ閃光を容易く手で搔き消して月夜見は歓迎の笑みを浮かべた。

 

「結局来たのか。天子、幽香、ここは死地だぞ?」

「今ここでやんなきゃ私まだ一度も月の奴とやってないんだけど⁉︎ 月の神上等‼︎ さあようやっと勝負の時よ!」

「偉そうにいつも空に浮いてる奴を叩けるなんて滅多にないんだから、私にも遊ばせなさい藤!」

「人に妖怪に天人まで。あぁ、まあいいだろう思い出すがいい。天照姉様、須佐男、そして私。誰もが知ってる神々がなぜ誰もに知られるようになったのか」

 

 薄らと月の輝きが強さを増す。蜘蛛の巣の姿すら露わにするという月光の輝きに透かされて、月夜見の瞳が全てを見透かすように透き通ってゆく。陽の光と違い優しく冷ややかに身を包む月の空気が白煙を飲み込み場を支配した。

 

「敬えよ、まずはそれからだ」

 

 三日月のような鋭さを持って、月夜見が柔らかく牙を剥く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
銀蟾とはガマガエルのこと




どうでもいいおまけ ①

「俺は黴藤、力を借りたい純狐殿」
「へー、よく来たわね人間。それで?」
「月から嫦娥が「嫦娥ァァァァァァ‼︎」ゴパァ」

これで死にかけ数十回。
ようやく話を聞いてもらえた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ⑦ 月夜見

 月夜見はその著名さとは裏腹に神話に出てくる回数が極端に少ない。天照大神、須佐之男命、と並び呼ばれる三貴神の中で、性別すらあやふやで話にほとんど出ないのは、文献を抹消されたから、有名な二神とバランスを取るためなど諸説ある。女神と言えば天照、男神と言えば須佐之男命。だからこそその中間たる月夜見は、男女両面を持つ両性具有の神。男であり女である。バランスを取るための存在だからこそこれまで表に出なかったが、天照大神と須佐之男命の力が薄れ二神が動かない今だからこそ動くのは月の神。

 

 神として矢面に立った天照大神と須佐之男命と同じ三貴神である月夜見が、表に出たことが少ないから弱いなどということがあるはずなく、口を開き牙を覗かせた月夜見の牙の鋭さに、藤の笑みはすぐに消え、向けられた牙に目を見開く。

 

 緩く振られた月夜見の腕は三日月と同じ。暗黒に浮かぶ大型の鎌が滑る先の全てを抉る。白煙の壁を形成するように前に出していた藤の指先に、薄っすらと赤い線が走り、風に吹かれて左の薬指と中指が第二関節の先から椿の花のようにぽとりと落ちた。歪みない断面から溢れてくる血に藤は歯噛みし、止血のためにワイシャツのすそを破き強引に断面を縛りつける。

 

「ほら、休むなよ藤」

 

 日本刀のような鋭さを持って月夜見の手が続けて振られる。進行方向にある障害物など意味を成さない刃腕に藤が白煙を吹き掛けようと崩れない。止まらず迫る神の腕を紙一重で避けようと藤はぷかりと風に乗るように後ろへ動くが、肩を掠った月夜見の指の形に肉が刮ぎ落とされた。

 

 細い月夜見の指先が、拒絶するように世界を裂いている。薄皮一枚で万象を反射し振るわれる拳撃から身を守る術は人や妖には存在しない。その月夜見の姿は、存在そのものがなにかの境界線のよう。川が大岩を避けて流れるように、月夜見を避けて流れていく様を目で追って、藤は強く歯を噛み締めた。電子タバコのカートリッジにヒビが入り、漏れ出る煙にカートリッジを引き抜き月夜見目掛けて噴き出すが、ずるりと月夜見の表面を滑り月夜見の背後の地面に転がると細々と薬包は煙を上げるだけだ。

 

「さて、と……」

 

 電子タバコに新しい薬包を嵌めて藤は小さく白煙を零し、肌を覆う冷たい汗を振り払うように指の千切れた左手を振るう。能力もさる事ながら、月夜見を見れば見る程に勝ちの目が見えない。

 

 存在の強度が違い過ぎる。

 

 藤の白煙が全く聞いていないわけではない。空に僅かに響く焚き火の木々が弾けるような音は、月夜見の神力に反応して薬煙が火花を上げて弾ける音。だが、月夜見はそんなことも気にせずに飛んできた薬包が当たった場所を手で払い微笑を崩さない。薬煙は月夜見から漏れ出た神力に反応しているだけで神の体には傷一つ付くことはなく、変わらずそこに佇んでいる。黴の薬煙では削り切れない存在力。神という存在をそこまで藤も見たことがあるわけではないが、それでも格の違いを感じずにはいられない。

 

 人ならば、必ず生きている中で一度ならず見上げる夜空の月。見つめられぬ太陽の代わりに、夜に人々は月を見つめる。その視線を一身に受けて数千年以上。何もせずとも静かに変わらず居続ける神の強度は、八百万の神の中でも並ではない。

 

 武術だの技だの術だのを必要としない純粋な存在としての強さ。烏合の人間とは違う絶対的な個。月を統べる者に月夜見以外の代わりは居ない。今までもこれからも月夜見だけ。

 

 地上に浮かぶ人型の月の姿を今一度藤は見つめて拳を握る。咥え直した電子タバコから薬煙を吸い込み続け、筋力の限界を無理矢理上げた。血管の浮き上がった人の異様な姿を拒むことなく月夜見は微笑を返す。来いと指で神が招く相手は三人。笑みの消えた藤の代わりに笑みを浮かべるのは天人と妖怪。獰猛な妖怪たちの間を駆け抜けて、小さく舌を打ちながら神に向け藤は右拳を振り抜いた。

 

 

 ────ボキリッ。

 

 

「ほう、人の身でなかなかの威力だな。おかげで腕がへし折れた」

「……ッ⁉︎」

 

 ダラリと垂れ下がった己が右腕を一瞥し、藤は痛みと返って来た異様な感触に眉を顰め小さく呻く。『万象を反射する程度の能力』、月夜見の能力を実際に藤も聞いていたが、ただ知っているのと実感するのではまるで違う。殴り返されたわけでも強固な盾を殴ったわけでもなく、ただ自分の拳の威力が、月夜見にぶつかった瞬間そのまま自分の腕に流れたような感覚。砕けた骨と関節の痛みに腕が上がらないのを確認しながら、頭上に薄く雲を引きながら振り抜かれた傘を藤は見送った。

 

 激しい衝突音と共に粉々に砕け散るのは幽香の傘。パラパラと地に落ちる傘の音に耳を澄ませて楽しげに目を閉じる月夜見の姿に幽香は大きく舌を打ち、そのまま圧縮された妖力の閃光を月の神に撃ちつける。

 

 地は剥がれ空を震わせる大妖の閃光を空に跳んだ天人の風の剣尖が突き立てられ、同時に隆起した大地が神を潰す。メギリッ、と大地同士が擦り合う重音が響く中、その中からするりと盛り上がった地に手を掛けて月夜見が変わらぬ姿で滑り出る。別に服にも付いていないだろう土埃を手で払い、ふっと小さな息を零す。

 

 遠慮なく神に向けられ振るわれる攻撃。その懐かしさを少しばかり月夜見は惜しむ。

 

 依姫、豊姫、天探女、嫦娥。

 

 誰一人とっても弱くはない。どんな状況、状態だろうと、その能力の高さは間違いない。それを穿った人と妖も弱くないことは月夜見だって分かっていた。藤と幽香と天子を眺め、惜しみながらも怒りを抱く。これだけの力を持っており、そしてこの場を作った人間に。そんな人間と並ぶ妖怪に。

 

「私の力がただ反射するだけのチャチなものだと思うか? 返そう妖怪」

「コイツ──ッ‼︎」

 

 月夜見の手の内で膨れ上がった妖光に幽香の顔が強く歪んだ。月夜見が浮かべるのは幽香の妖光。身に受ける陽の光で輝く月のように、身に受けた幽香の妖光をその手に浮かべる。その姿に目を見開いた藤たちに目を流しながら、大妖の閃光を人間たちに軽く放った。動作は軽く見えようと、光に秘められているのは大妖怪の力。その光を睨みつけ、より強い輝きを幽香は手に纏う。

 

「舐めるなよ神がっ!」

 

 花開く妖気の大流が神に返された閃光を飲み込み神の身をを包み込む。空の塵と水蒸気を蒸発させ薄煙を上げるその中心に浮かぶ影は崩れず薄い笑いを零すのみ。その影に徐々に閃光は収縮し、月の神の手に収まる。受ける力はそのまま月夜見のものと言わんばかりのその姿に、幽香は強く目を顰め、天子は息を零し、藤は口を閉じ目を軽く閉じた。

 

 三者三様の姿からは好戦的な空気は消えず、静かに月夜見から目を離さない。手の中の妖気を握り潰しながら、月夜見は細いため息を吐く。

 

「それだけの力を持ち頭も悪くない。だからこそ惜しいものだ。妖怪はどうでもいい、お前だ藤。依姫を斬った北条楠、豊姫を穿った霧雨魔理沙、この発展した人の世にあって、未だにお前たちのような人間もいる。なぜお前たちのような者ばかりがここにいる? 私が忌避するのは陽の光を弱める者。そうでない者は寧ろ好ましい。だというのにお前たちはなぜ向かってくる? そうでないならお前たちを側に置きこそすれ消す理由がない。輝夜を総大将に置き、竹取物語を終わらせることがそんなに重要か?」

 

 力を抜いた月夜見に、藤は口の電子タバコを摘み手の内で回す。くるくると回る硬質の舌を見つめ、強くそれを握り込んだ。

 

「……たまたまだよ」

「なに?」

「……全部たまたま、俺が当主になったのだって、楠や櫟や菖や梓が当主になったのだって、ここに俺がいるのだって、たまたま俺たちが当主になったからそう選んだだけだよ。もし俺たちがいなくても誰かが貴女に立ち向かうさ。人は貴女が思うより多分弱くない、世界中回った俺が言うんだから間違いないさ。だからそれは心配していない。俺が心配しやるべきことは竹取物語を終わらせること。重要かって? 重要だよ。いつまでも昔のことで命を燃やしていて欲しくないだろう? 技術や技は進歩しても、俺たちは一歩足りとも進んでいない。そろそろ俺たちの一族も俺たちの物語を描いていいだろう? 趣味じゃなくて本気でヘビメタやったりさ。そういうのが俺は見たいんだ。嬉しいことに俺以外に九人が一緒にいてくれている。だからここで終わらせるんだ。俺たちの未来のために世界にはまだこのままでいて貰わなきゃ困るんだよ」

 

 普通に生きたい楠も、夢を追う梓も、未来が見たい藤も、そのためには今が壊れて貰っては困る。世界のためではなく己のため。自分たちのために世界はあれという独善的な人間性に月夜見は頭を痛めながらも、その神性よりな考えに共感もする。人は確かに神の子孫。矛盾した想いを抱えながらも月夜見はそれをどちらも否定はしない。それが月夜見の在り方だから。狭間に生きる月夜見は、だからこそ今手を出さなければならない。このままでは遠い未来に神は消え、陽の光も潰えるだろう。そうなってからでは遅いのだ。まだ神の名が生きている今だからこそ、その名すら忘れられてしまう前に動かなければならない。

 

 そう、その名すら忘れられてしまう前に……。それを胸に月夜見は強く目を開き白煙を吐く藤を見つめる。その輝きが嘘でないかを見極めるために。

 

「……未来か。平城十傑、五辻桐、袴垂椹、坊門菖、岩倉菫の四人はこの世を去った。それでもまだ未来を追うのか? それがお前の追う未来か?」

「……そうか、……桐も……菖も、か」

 

 最後に会ったのは半日前、その時の顔をはっきり覚えている。正直誰も生きて帰れるとは思っていなかった。だが勝利は信じている。電子タバコを咥え藤が吸うのは思い出、吐き出すことなく噛み締める。

 

 桐は藤が会いに行かずとも、伝令役らしく自ら藤に会いに来た。

 

 椹は黴の財宝を狙って黴の本家に侵入し、あえなく藤の白煙に包まれ御用となる。

 

 菫も面白そうだと唐橋の資料室に居た藤を訪ねひょっこりと顔を出してきて。

 

 菖は数少ない藤から会いに行こうと決めた相手だ。

 

 四人の顔を思い出しながら電子タバコのカートリッジを換装する。目を向ける先は月の神。瞳の中の光を強め、命の炎を激しく燃やす。

 

「…………なら、余計に勝つしかなくなったなぁ。相手してくれよ月夜見、で、勝ったらさ、諦めてくれ」

「それは勝ってから言え」

 

 同じ先を目指してくれた者がいる。その数が減ろうと目指す先が変わることはない。寧ろだからこそ勝つしかない。未来を見るために未来を諦める。藤は一歩前に出て後ろ手に緩く横に手を振った。

 

「天子、幽香、少し────」

「もう退かないわよ! 藤、やっと面白くなってきたじゃない! 歳月不待、退屈はさよならよ!」

「そうね……藤、せいぜい綺麗に咲きなさい。特等席で観賞させて貰うから。いいわね?」

「……なら、距離を取れよ。これは最高に苛烈だぞ」

 

 吸い込む白煙に神経が焼かれる。元からぼろぼろの神経が破裂し溶けていくような気持ち悪さに、口からポタポタと血を流しながら、藤色の煙を重く吐き出す。風に揺られても吹き流されず、地を這うように進んで来る藤煙を見下ろした月夜見は、動かず眉を顰めたまま、それが爪先に触れた瞬間大きく背後に身を翻した。

 

「これは……」

「……────魔力でも、妖力でもない、純粋に神力に最も反応し効果を及ぼす薬煙。貴女の能力は脅威だが、信仰までは反射できないだろう? それでは存在が消えるからな、これが俺の貴女の攻略法だ」

「なるほど、面白い! が、ここまで苛ついたのも久しぶりだな藤‼︎」

 

 大きく笑う月夜見に、藤も深い笑みを返す。藤色の煙で神を巻き取る。その鮮やかな煌めきに触れれば、煙に引っ張られ混ざるように歪んでしまう。ならばやることは決まっていると、天子も幽香も目配せもせずに月夜見の元へ突っ込んだ。藤色の煙の元に月夜見を叩き込む。それが勝利への条件と見定める。

 

 放つ弾幕は煙に巻かれてしまうため、叩き込むのは拳と剣。振るわれる妖怪の一撃を避けることなく月夜見はその身に受け、反射される衝撃を受け震える緋想の剣に天子は歯噛み、割れた拳も気にせずに幽香は再び拳を握る。

 

「妖怪! 影の存在が神に楯突くか! 忌々しい陰者が!」

「あら、神の歪んだ顔を見れるなんて最高だわ。でしょう?」

「全くだわ! いつも偉そうに天に浮かんで、邪魔ったらないわよね!」

「天人なら天人らしく無為に過ごせばいいものを!」

「絶対嫌よ!」

 

 脅威もなにもない生活なんて謳歌できないし、天子にはそれをする気もない。なにもせずに過ごす毎日に一体なんの意味がある。褒賞として得られたとして、与えられるものがそんなものなら投げ捨てたいのにもう投げ捨てることもできない。だが、それでも賭けられるものはある。

 

 例え死ぬことになろうとも、命を賭ける煌めきには代えられない。無限に続く平穏より、退屈がぶっ飛ぶ一瞬の必死。それが天子は欲しかった。その一瞬が今まさに目の前にある。有頂天よりなお高く、空に輝く月の主が壁として目の前にいる。遠慮も躊躇も必要ない。ただ全力を振るっても、全てを受け止めるような相手。

 

「私の欲しいものは今! 拳も握れない神に用はないわ!」

「吐いた唾は飲み込めんぞ天人風情が!」

 

 握られた月夜見の拳を見て、天人の顔が引き攣った。世界を反射する拳が迫る中歯を食い縛る天子の体がふいに横に引っ張られる。頬を掠る神の拳を見送り、その次に視界を撫ぜた緑の髪に天子は顔を向け目を瞬いた。

 

「幽香……」

「怒らせて難易度上げちゃってまあ。まあその方が面白いかしら」

 

 幽香の手から滴る血を見て慌てて天子はその場を離れる。「ありがと」と小さな声で感謝を呟く天人から目を外し、笑いながら月の神へと目を戻す。

 

 力と力のぶつかり合いによって生まれる衝撃は花と同じ、人と妖の生き様もそう。初めは小さな種であっても、芽を出し茎を伸ばしいずれ花を咲かせる。永遠に夜空に輝く大華が相手、そして今正に満開になっている華が一つある。藤色に染まったゆらゆらと揺らめく煙の華。

 

 能力で見たい花をいつでも咲かせられる幽香にも、いつでも見れない華がある。見頃を過ぎれば永遠に。そんな諸行無常を楽しむのが長く生きる幽香の楽しみ。見頃を迎えた華を視界に収め、地を覆う藤色の煙を見据える。

 

 永遠に咲き続ける華など存在しない。いずれ枯れてしまうからこそ美しい。我が物顔で咲き続ける月の花を地に落とすため、幽香は空を蹴り再び月夜見に拳を振るった。

 

 骨の砕ける音に口端を歪めながら、なおも拳を振り続ける幽香につまらなそうに月夜見は目を反らしながら風に揺れる髪を搔き上げる。

 

「拳が砕けても再生力に任せて振るうか妖怪。無駄なことを、お前たち妖怪という存在が私は嫌いだ。己が楽しむためだけに力を振るう愚か者」

「お互い様ね、私も偉ぶってる奴が嫌いなの。その鼻柱是非折りたいものだわ」

「先に私が折ってやる」

 

 血に塗れながらも笑う妖怪の顔が気に入らないと、その顔を掻き消すように振るわれる神の腕。幽香の顔の皮を引き剥がすように抉り取る。そのはずだった一撃は幽香の鼻先をほんの少し掠めるだけで終わった。ついでとばかりに満面の悪どい笑みを幽香は月夜見に贈る。

 

「好きな奴より嫌いな奴を前にする方が視野が狭くなるものだわ、だから足元を掬われるのよ」

「ッ、藤か⁉︎」

「……────掴んだよ神様」

 

 ずるりと宙へ踊った藤色の煙が月夜見の足に巻きついた。重力に従い地へと垂れる藤の色に引っ張られ、神の体が地に落ちる。大地を這う淡い青紫色に身を包まれて、月夜見は顔を歪めながら膝をついた。

 

「……────信仰心まで反射したのか」

 

 月夜見の全身を薄く覆うように弾ける火花。これまで反射しなかったものを急に反射したせいで、止まり切らなかった信仰心の流れが空間の中を暴れ狂う。それを追って腕を伸ばす藤煙に引き千切られ、神が繋がりを失い地に一人。その姿は孤独であるが、油断できる状況でもない。

 

 恐るべきは判断の速さ、信仰の消えた空間は神にとって栓の抜けたバスタブであり、息を止め潜水しているのと同じ。そんな中に身を置くことを月夜見が躊躇しなかったせいで薬煙の効果がほとんどない。月夜見の足に淡い青紫色の蔦に絡まれたような痣を残すのみに終わり、引き絞られた神の瞳が藤を射抜いた。

 

 神の目に浮かぶ絶えぬ光を見て藤の足が止まる。月夜見が窮地にいることは間違いないはずなのに拭えぬ違和感。月夜見の顔に浮かぶ二つの満月が徐々にその明るさを増す。

 

「天子! 幽香! 来るな‼︎」

 

 地に向かい飛んで来る二人に向かって藤は叫ぶ。

 

 だが、その言葉はすぐに柔らかな光に飲み込まれてあっさりと消えてしまった。

 

 深夜の大地に陽が昇る。

 

 暗闇も、自然も、生物も、万物を全て染め上げる極光が視界を潰す。月明かりは陽の光を反射した光、日ノ本の最高神の威光を唯一再現できる月の瞬き。光に触れたものを焼き尽くし大地に上った太陽はその姿を消した。

 

「ッ……、く!」

 

 強過ぎる光を受けて目が上手く機能しない。満遍なく体に細い針を突き刺されたような痛みは重度の日焼けの痛み。白く濁った視界の中、頭の中を過ぎる生きている不思議。藤は頭を振って、なんとか目を回復させようと目を瞬く。焼けるような大地に目を落とした視界の中、小さな影が地を滑った。藤の顔を上げた先に靡く青い髪は長さを失い首元まで短くなっている。体から湯気を立ち上らせた天人は、地に剣を突き立て妖怪と人間を背に背負う。

 

「──天人、お前は不死身か?」

「よ、余裕よばーか……」

 

 息が詰まるように笑いながら、天子は短くなった髪を振って地に突き立てていた剣を引き抜いた。真っ赤になった体をふらふらと揺らし、立ち上がっている月夜見に向けて天子は剣の切っ先を向ける。

 

「ほら、まだまだ勝負はこれからよ!」

「藤の煙で威力が落ちたか、なら次も防いでみせろ! 我が姉様の威光の輝きを!」

 

 周囲を吹き飛ばすためではない、前に控える三つの生命を消し飛ばすために指向性を持った光。空間を焼く閃光を前に、天子は歯を食い縛り地に剣を再び突き付けた。太陽の威光を再びその小さな体で受け止めるため。目を反らさず瞳を絞る天子の横を、スルリと緑の影が通り過ぎた。短くなった青い髪を指で掬い、両の手に有らん限りの妖力を握りしめ、陽の光を大輪が迎え撃つ。

 

「よくやったわ天子! 貴女は優雅さには欠けるけど……、天人の中なら最高だわ!」

 

 妖力と神力がぶつかり合う。空間に白い線を引いたような閃光を、向日葵のような黄色い閃光が受け止めた。バチリッ、と空間同士が擦り合う重苦しい音が場を捻る。細く吐いた吐息も吸い込むような魔と神の衝突の輝きに、藤は細く白煙を吐きながらよたよたと天子の横に歩を進めた。

 

「はっは! 最高だわ! ねえ藤、正に生きてるって感じ!」

「……────そうだな」

「私たち三人なら勝てるわ! ほら行くわよ藤!」

「……────そうだな」

 

 弾けるような天子の笑顔を横目に見つめ、獰猛に笑う幽香の横顔へと目を移し藤も小さく微笑んだ。二人の見つめる先に立つ月の神へと目を這わせ、しばらくの間見つめると小さく頷いた。隣で姿勢を落とし突っ込もうとする天子の肩に、千切れた左手の中指と薬指の血が付かないように注意を払い柔らかく手を置く。不満気な天子の顔が見上げてくるのに笑顔を返し、藤は天子の顔の横へと顔を近付けた。

 

「……────天子、月夜見の攻略法を見つけた」

「え? 本当⁉︎ なによそれ!」

 

 藤が指差すのは光の影になって良くは見えない月夜見の姿。目を凝らした天子は訳が分からず藤の方へ小首を傾げ、それに藤は左肩を小突くことで返す。目を細めた天子の先で僅かに舞う赤い飛沫。染め上げられ削れてゆく幽香の閃光の欠片が月夜見の肌に薄い朱線を引いている。

 

「あれって……」

「……────天照の光を反射するのには相当力を使うらしいな。陽光を放っている間は他のものを反射できない」

「なら今が勝機ってわけね! 流石幽香! やりましょ藤! 」

 

 駆け出そうとする天子の肩を再び藤が緩く掴む。

 

「ちょっと藤」

「……────幽香がもたない。天子、櫟か紫殿か、楠か梓、博麗の巫女、誰でもいい伝えてくれ。あいつらなら大丈夫、天子なら大丈夫だろう?」

「藤?」

「……────天子、君は良い女だ。幽香には、ハンカチは必ず黴藤が返すと」

 

 男の横顔を見て天子は眉を歪めた。

 

 藤は白煙を吸い込み続けているだけで一向に吐こうとしない。

 

 藤の体に浮き上がった筋と、握られた肩に掛かる力の強さに眉を寄せ、ふと天子の目に映った藤の左手に目を見開く。

 

 藤の千切れた指先から、一滴も血が流れていない。

 

「藤……、貴方まさかもう……ッ⁉︎」

 

 藤の微笑みを見たのを最後に天子の視界が掻き混ざった。途中重い衝撃と共に天子の視界に緑が混ざり、男の姿が遠ざかってゆく。男の名を叫ぶ天子の声に藤は笑い、口から落ちた電子タバコを途中掴もうとしたが手から滑り落ちてしまう。

 

 じゃりっと鳴る砂を踏む音が規則正しく近づいて来るのに耳を澄ませ、藤はゆっくり顔を上げた。視界に映える白い影。もう目が霞み姿を朧げにしか見ることができないが、相手が誰か分かるのは幸いだと微笑を崩さない。

 

「藤、お前嫦娥の時にはもうほとんど立っているのがやっとだったな? よくも私を前にあれだけ動き喋れたものだ」

「……────最後まで、恰好つけたいだろう?」

「……そうか、最後に言い残すことはあるか?」

 

 

 ────最後。

 

 

 その言葉を聞いて藤はまた薄く笑った。この瞬間まで今際の際の言葉など考えもしなかったことに。いざ最後と言われても、浮かんでくるのは短くも濃密な日々ばかり。幻想郷に来る前の慌ただしくも平城十傑の全員と出会い、目指す場所は同じだと知った喜びや。元気過ぎる先代や天人の顔ばかり浮かぶ。その二人のように笑えているかが気になり、また笑ってしまう。

 

 地に落ちたはずの電子タバコを手探りでなんとか掴み、上がらない腕を無理矢理動かし、口まで届かないため顔を下げて口に咥えた。小さく藤色の煙を吐きながら、

 

「……────煙はもう吸い飽きたなぁ。月夜見様、またすぐ会うことになるさ……」

「お前たちが勝ってか?」

 

 月夜見の問いに返される言葉はなかった。ただ線香の煙のように口に咥えた舌先から煙を上げる。無言で立つ男に向けて、月夜見は薄く笑いながら手をかざした。

 

 陽光に焼かれて藤が散る。

 

 陽の光が消えた先、淡い青紫色の煙だけが儚く夜空に消えていった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ⑧ 月夜見 弐

 夜は静かだ。

 

 静寂の中に生命は息を潜める。一足もふた足も遅く、幻想郷はいつも以上の夜の静けさを取り戻した。丸く抉れ形を失った妖怪の山、焼け爛れた霧の湖の湖畔、更地と化した迷いの竹林。残された大きな爪痕は、無限に分かれている歴史の境界に隠された幻想郷には何の影響もないとはいえ、見慣れた場所が荒れる事を甘受することは難しい。

 

 至る所で上がっていた戦闘音はすっかりなりを潜め、ようやく静かになった森の中で平城十傑の四人は影の中で顔を見合わせていた。天探女襲来から一時間。梓たち四人が夢の世界に行っていた間に月夜見が幻想郷の地を踏んだ。状況はいつの間にか最も切迫している。櫟も頭を回すが、状況を判断するピースが足りない。遠く夜空に浮かぶ月の神の影に瞳のない目を向けながら、乾く口内に舌を這わせる。

 

「月夜見が来ましたね。どうするべきか、鈴仙さんたちはまだ起きませんか」

「自力で夢を壊した僕らとは違う、いつ起きるのかまで分からん。揺すったりしてみたが効果もない。置いていくしかないだろうな。それに他の月人がどうなっているか、結界装置の箱を壊すことができているかどうか」

 

 梓の言葉に梍は強く目頭を抑える。青い唇の梍の様子に、漆は頭を掻き少し目を反らしながら梍の名を呼ぶ。

 

「どうした?」

「いや、漆先輩その……」

「言えって、なに言っても気にしねえよ仲間だろ」

 

 頬を軽く朱に染めて頬を描く漆の姿に梍は少し驚き苦笑するが、嘘のない感情の色を見て笑みを消した。櫟と梓を一瞥し、梍は「まず」と間を空けてからゆっくり口を開く。

 

「月夜見の腰に結界装置の箱が見えただに」

「……本当ですか?」

「間違いなく、それと……、月夜見の足に青紫色の痣が……藤先輩の色が見えた」

 

 梍の言葉に三人が息を飲む。月夜見と藤の交戦。それに伴う結果がどうかなど予想すれば行き着く先は一つ。まず藤が勝っていれば月夜見は既にいない。生きているか死んでいるか分からないが、月夜見は良い方に考えられるような相手でもない。膝の上で手を握り締める櫟から目を外し、梍は梓の顔を見つめる。梓は櫟を横目でチラリと見てから顎に手を置いて、考えるように指で下唇を数度撫でた。

 

「……なんにせよ、今ここにいるのは僕たち四人。月夜見に特攻をかけるわけにもいくまい。他の無事な者もどこにいるか分からない現状、こうなった場合の集合場所を決めていたか?」

「見晴らしがいいからって理由で人里だったと思うけどよ、ここの奴らにはあたしが簡易的な結界張るとして、どうする櫟?」

「……え? あ、そうですね」

「おいしっかりしろ、オメエが参謀だろうが。勝つんだろ?」

「……ええ、ええはいそうです。人里です。場が乱れた場合の集合場所。ここからなら近い、向かいましょう。結界は漆さんにお任せします」

 

 漆に頭を小突かれ、櫟は軽く頭を振った。どんな状況だろうと、櫟がするべきは勝ちに対して頭を回すこと。ここにはいない藤と菖の顔を思い浮かべながら、櫟は握り締めていた手の力を抜く。瞼の奥の空洞を開き、静かな夜の空気を吸い込んだ。冷たい秋風の中に漂う生命の鼓動の薄さに眉間に眉を寄せ、ホッと息を吐く。

 

「敵の気配はありません、行きましょう」

 

 返事もなく頷く気配を三つ感じ、梍を先頭に四人が動く。一時間前とは違う空気感に未だ頭はついて来ず、だが進むしか道はない。寝て起きれば別世界。戦いはまだ続いているが、辺りはすっかり戦闘後の荒れ果てた姿を転がしている。森の中に充満するのはただ濃い血の匂い。地に転がっている玉兎と妖怪たちを見ている分には、どちらが敵か味方かも分からない。ただどちらも腕がもげ、内臓を曝け出した死体というだけ。空気さえ紅く染まっているように見える森の中を、四人は下に落ちているものには目もくれず走り続ける。血溜まりの中にとちゃりと漆は足を落とし、小さく舌を打った。

 

「……あぁあぁ、夢に見そうだぜ。ここまでやって勝てなかったらと想うとゾッとするな」

「この光景より勝てない方が怖いだに? あと漆先輩その冗談笑えないだによ」

「私は見えませんからよく分かりませんけど、やはりこの匂いには慣れません」

「最初から分かっていたことだ。今更驚くこともない」

 

 この日のために外の世界で準備をしてきた。見えない櫟には関係なく、見え過ぎる梍は慣れている。漆は悪夢で鍛えられ、梓はこの日のために藤や菖と紛争地帯を渡り歩いた。今更血みどろの景色に足を落としても気後れはしない。

 

 だからこそ恐ろしいのは負けること、なによりもそれが恐ろしい。千三百年が無駄になる。死んだ者が無駄になる。そしておそらく次はない。それを払拭するため足を止めない。紅く濡れた葉を掻き分け、開けた場へと足を出す。マミゾウの能力で化けさせられていた偽人里は、その全てが吹き飛び何もない平野には死体たちが野晒しになっているばかり。「……誰もいねえな」と漆の呟きに三人は無言を返し、周囲に視線を散らす。

 

 平野は舞台上のように、遮るものは何もなく空から月光が降り注いでいた。地に点々としている赤い染みにぼんやりと反射して、生々しい匂いが空気を侵食している。人一倍嗅覚の鋭い櫟は鼻を擦ると、空を引き裂き畝る音に耳をそばだてた。

 

 眉間に皺を寄せる櫟に三人が首を傾げたと同時、空から大きな影が二つ、地を削り、横たわっていた死体を宙へと撒き散らしながら大きな砂煙を上げて平野に落ちる。巻き上がった砂煙を悪夢の式神が漆の一言と共に大きな腕で薙ぎ払い、埃っぽい空気に梓が咳き込む。飛んで来たものがなんであるのか、一目見れば分かる梍と見なくても分かる櫟、この光景をよく知る梓が砂煙の中に潜む五つの影に口を開くよりも早く、影の中に渦巻く異変に梍と櫟が目を見開く。

 

「紫さん!」

「櫟、それに三人も無事だったようね」

 

 砂煙が去った先、薄く笑みを浮かべる紫の肌には脂汗が浮き上がり、いつも口元を隠す扇子の姿はない。天魔に支えられその肩を掴む腕とは反対の紫の腕は肘から先が消失し、ぽたぽたと赤い雫を垂らしていた。それ以外にも全員細かな傷を体に作り、無事そうな者は一人としていない。櫟たち四人を紫が一瞥したのは一瞬のことで、すぐに舌を打つと夜空に向かって顔を上げる。

 

「総大将、八雲紫、平城十傑、上手く纏まったな。初めましてと言った方がいいだろうか?」

 

 強烈な気配もなくその場に佇み、目に入れた瞬間異様に惹きつけられる月の神。浮かべる微笑みは鋭いのに、威圧感がほとんどないことが逆に恐ろしい。歯噛みする妖怪たちと目を見開く人間たちの顔をゆっくりと見渡しながら、月夜見は服の汚れを払うと音もなく幻想郷の大地を踏む。手には少女の白い腕を持って、それを地に捨てることなく握り潰す。血に濡れた手を月夜見が振れば、一滴とつかず真っ白い月夜見の手だけがそこに残り、地に妖の血だけが落ちた。

 

「月夜見⁉︎ どこから……梍さん」

「おれも注意はしてただに、でも」

「なにがおかしい? お前たちは常に空に浮かぶ月を気にして生活しているのか? いないだろう。私の気配などというのはあってないようなものだ。さあ、やろうか」

 

 手を軽く握り込む月夜見に人妖の目が引き絞られてゆく。開始の合図もなく、終わるのは死んだ時だけだ。いの一番に足を踏み出した梓を見据え、月夜見も緩く握った手に力を込めた。振られる梓の左拳に右を合わせ、二つの衝撃に梓は目を見開いた。話には聞いていた月夜見の能力。殴った衝撃がそのまま殴った腕に返ってくる。そして月夜見に殴られた右の肩へと梓は手を伸ばし、赤く染まった学ランに触れた。

 

「……丈夫だな」

 

 驚いたのは月夜見も同じ。完全に穿ったと思った一撃が当たったと同時にズレた。梓の肩の肉をいくらか抉り抜いただけ。笑みを深め再度拳を握った月夜見の拳は振り下ろされず、その動きがぴたりと止まる。月夜見の両足に縋り付くように群がる死体たち。月軍も妖怪も関係なく、多くの亡者が月夜見に手を伸ばす。悪夢のような光景に月夜見は鼻を鳴らしながら、暗黒の瞳を輝かす男へと顔を向けた。

 

「邪眼だったか、面倒なものだ。だが私が返せないと思うか?」

 

 見返された月夜見の瞳の中で光が弾け、叫ぶ暇もなく梍は右眼を抑える。パキリッ、と硝子がヒビ割れるように、悪意を返された邪眼が飴細工のように崩れてしまう。黒い血を右の目から垂らす梍に眉を吊り上げ、漆の指揮に合わせて式神の腕が影から伸びる。神の体を鷲掴む式神の姿を月夜見はしばらく見つめて小さな息を零すと、綿飴でも毟るように簡単に式神の腕を一本千切り取った。

 

 ため息を吐く月夜見の元にあらゆるものが殺到する。風の刃、境界線、魔力、妖力、陰陽術。標的を跡形もなく轢き潰すような猛攻の中、月夜見は流星群の中の満月のように身動ぎ一つせずに佇んだまま。月夜見を中心に渦巻く異様な力の流れにそれが分かってしまう櫟と梍は固まった。月夜見自身が特異点であるかのように、ただ一人世界から外れているように見える。

 

 身の回りを回る蝿を払うように、鬱陶しいと月夜見が手を振り空間を引き裂く連撃を球状に弾いた。

 

「鬱陶しいぞ、そう(たか)ってくれるな」

 

 月夜見の瞳が陽色に輝く。月明かりが白さを増し、櫟と梍が同時に叫ぶ。「離れろ‼︎」という言葉が届いたのか、陽に焼かれて消えてしまう。光に飲まれずとも、視界と肌を照りつける熱に息も苦しい。強い陽射しから身を守るように前を手にかざし動けない人妖の前に立つ人影が二つ。ゆっくり広がる陽光を前に、大将同士目を交わし薄く笑う。

 

「立ったか梓、耐えられる自信は?」

「……さてな、今試してみよう」

「ふふっ、それは後で試せ、私も信じてやる」

「────天魔?」

「文‼︎ 着地は任せたぞ‼︎」

 

 逆巻く旋風が人妖を攫う。文の叫びに微笑みを浮かべ、迫る陽光に天魔は指を弾く。

 

「さあ、最後の挑戦だ月夜見!!!!」

 

 掻き混ぜられた視界の中、吹き飛んだ者たちを風で囲いながら、陽光に嵐の槍を突き立てる天魔の背を文は見送る。飛ぶなんて綺麗な形ではない空をかっ飛び、大地と森を削りながら無理矢理着地し停止したのを確認し、文は雑に風の膜を解いた。悔しそうに顔を歪める輝夜と梓と漆、呆然としている櫟と梍。疲労困憊の紫と慧音。それらの顔を見渡し、額に浮かんだ大粒の汗を拭い文は二つの頭脳の前に立つ。

 

「──紫さん、櫟さん、どうします? 今は貴方たちの頭脳が頼りです。……天魔様は長くは保たない。勝つためには?」

 

 文の問いに返されるのは沈黙だけ。ダラダラと止め処なく汗を垂らしながら紫は目を瞑り、櫟は唇を強く噛んだまま動かない。文は力任せに頭を掻いて、二人の前に足を出す。

 

「天魔様が……あの子が作った時間を無駄にはできない! 頭を回して! 悔しいけど、私には名案なんて浮かばない! だから!」

「文女史……、櫟」

「分かってます! さっきから考えてますけど、月夜見を倒す策がない! 知っているのと感じるのではまるで違う! あれに勝てるものなんて……」

 

 全てを染め上げる陽光。戦闘能力の最も高いだろう紫の境界線すら弾く月夜見の能力。どちらも日ノ本の頂点に君臨するに足る頂上の力。今手にある手札で勝てる見込みがあるかと言われれば、残念ながら首を横に振るしかない。紫の能力も効果はなく、漆の式神も邪眼さえ通じない。それどころか、軽傷と見える月夜見と違い、数分しか経っていないだろう戦闘でぼろぼろだ。

 

 数多の視線が自分に集中しているのを感じ、両手を強く握りしめた。櫟には戦うべき力が足りない。魔力や妖力の流れを感じられてもそれだけで、物の怪を殴り飛ばすだけの筋力が足りない。眼玉がなかろうと常人以上に物事を察するのに精一杯で、知識は詰め込めたが、戦闘技術までは間に合わなかった。だというのに折角詰め込んだ智慧も役に立たない。

 

 

(……────藤さん! 菖ちゃん!)

 

 

 いつも櫟の隣に居てくれた二人は今は居ない。生きているか死んでいるかも櫟には分からない。櫟が困った時はいつも藤は白煙を燻らせ、菖は困ったように笑ってくれた。それがないだけでこんなに自分は脆いのかと思わずにはいられない。項垂れる櫟の体が櫟の意思とは関係なく浮き上がる。櫟の襟を掴み上げ顔を上げさせるのは漆。歯を食い縛りながら、薄っすらと開いている櫟の空洞を見つめる。

 

「しっかりしろ櫟! オメエはそんな弱い女じゃねえだろ!」

「そんなこと……っ! 私には戦う術がない! 漆ちゃんとは違う!」

「ああ違うだろ! 櫟はあたしより強え! 先が見えなくて腐ってたあたしと違ってオメエと藤がいつも未来を描いてた!」

「違う……違うんです私は……っ! 藤さんがいつも……私一人じゃ進もうともしなかった……私一人じゃ」

「一人じゃねえ! 今はあたしも梓も梍も輝夜も他にもいる! なら進めんだろ! ……そうだろ? そうだって言ってくれ、あたしだってなんだってするからさ」

 

 漆の言葉に息が詰まる。漆の手から感じる熱に櫟の口から言葉が出ない。口端を歪めて浅い呼吸を繰り返す櫟の肩に乗る新たな熱。顔は見なくても誰かは分かる。素早く脈打つ鼓動と、柔らかな熱。荒い表面に深い優しさを浮かべるのは月の姫。力強い手が櫟の肩を掴む。

 

「……櫟、貴女は人間の中では最高の智慧者よ。私は信じてる。だから大丈夫、貴方なら大丈夫よ。貴女も漆も梓も梍も、後六人も最高の友人たちが一緒なんだから」

「でも……、でも私…………、月夜見に打てる手がない」

 

 漆に輝夜が熱を分けてくれる。火が灯ったところで燃やせるものが何もない。負けしかない道を親しい者に歩ませるわけにもいかない。強く握りしめた櫟の手から血が滴る。もう無理だと言葉が胸の内から迫り上がるのを意志で抑え込む中で、漏れ出そうになった言葉を茂みの揺れと落ち葉を踏む音が遮った。

 

「手ならあるわ‼︎」

 

 月夜見かと警戒する中で茂みから出てきたのは短い青髪。焼き切れた短髪を揺らしながら、不敵な天人がぼろぼろの体を引き摺って姿を現わす。背には意識のない大輪を背負い、輝夜たちの姿を見ると前のめりにどしゃりと倒れた。

 

「て、天子さん⁉︎ いったい何が」

「あぁ……うるさいわね天狗、ああもう、……さすがに限界だわ」

「……それより天子、手ならあると言ってたけれど」

 

 僅かに希望に紫の顔が上がる。青白い紫の顔を見上げながら天子は「あぁ」と短くこぼし、背に乗る幽香が重いのでごろりと仰向けに転がり短くなった髪を弄る。

 

「……月夜見が天照の陽光を反射してる時は他のものを反射できない。藤が気づいた。貴方たちに伝えろって」

「藤さんが! 藤さんは……」

 

 黙った天子に櫟の口から空気の塊がごぽりと漏れる。震える指先を強く掴み、櫟は青くなった唇を一度舐めた。頭の中で浮かんでは消える思い出を小さく頭を振って片隅へと追いやり、櫟は漆と輝夜に与えられた熱を集めて心のうちに火を灯す。薄い白煙を立ち上らせるように、櫟はゆらりと立ち上がった。

 

「……────紫さん、あと能力はどのくらい使えますか?」

「……一回か二回がいいところね」

 

 幻想郷の隠蔽、豊姫の能力の妨害、二度にわたる月夜見との戦闘。想像以上に消耗している紫に櫟は小さく頷き瞼を開ける。

 

「櫟、どうするの?」

「ええ輝夜さん、考えはまだ纏まりませんが。天照の威光を反射している時は攻撃が通るとはいえ、近付いた時の熱だけで脅威です。容易く近づくこともできなくとも、まずそれを使わせなければなりません。陽光の中では紫さんの能力さえ歪み上手く転移できないとなれば……、天照の威光さえ抜けられる可能性がある人間が候補で二人」

 

 櫟の言葉を受けて誰もが思い浮かべる相手は平城十傑と幻想郷の住民の中で一人づつ。博麗霊夢と北条楠。世界から浮く少女と世界を擦り抜ける少年。術や能力だけではなく、性質とさえ言えるほどに魂に刻み込まれた形。世界から浮く、無限分の一の確立を確実に引き当て壁を抜けるなど常識から外れている。神に届くとすればその二人以外ありえない。梓は楠の姿を。紫は霊夢の姿を強く想い描く。「生きてますかね?」という文の言葉に、

 

「霊夢なら大丈夫でしょう」「楠なら大丈夫だろう」

 

 と二つの言葉が重なった。どちらにせよ、信じるしかないと櫟も相槌を返し、どうやって二人と合流するか考える。

 

「ただ二人の場所が……」

「それは私と櫟ならどうにかなるかもしれないわ。櫟の空間把握能力で突き止め私がスキマで集める。それがラストチャンスでしょうね」

「それをするなら時間が必要です。幻想郷全体に触覚を伸ばすとなると時間が掛かる」

「……櫟先輩、その時間なさそうだによ」

 

 ポツリと零した梍に視線が集中する。残った左眼が向く先は人里の方角。森を抜ける風の音を聞いて文も唇を弱く噛み少しの間目を閉じた。それらを見回し腰を上げるのは梓。ポケットから取り出した鏃を指で軽く回してから強く握り込む。

 

「僕が時間を稼ごう。君たちは行け」

「梓さんそれは!」

「文女史、この中なら僕が一番時間を稼げる。漆と梍はいざという時二人の護衛をしてくれ。総大将と賢者を月夜見は必ず追うはずだからな。輝夜様は紫さんを運んでくれ。文女史は」

「私は残りますよ、ファンですからね」

「いや、それは……」

「私もいいかい? 間に合ったみたいだ」

「ほんとほんと、運がいいね」

 

 茂みの奥から角が伸びる紅い一角と歪な三日月。笑う鬼を二匹見て、梓は大きく笑い声を上げた。足止めどころか一矢報いるぐらい楽そうだと、梓は目尻に溜まった雫を指で弾いた。

 

「……鬼と天狗が共とは心強い。櫟、漆、梍、調停役の命だ。行け」

「梓先輩こんな時ばかりずるいだによ……」

「梓……」

「輝夜様、僕はまだ夢を追っていたい。だから死ぬ気はないですよ」

「あの、盛り上がってるところ悪いけど私と幽香はどうすればいいわけ?」

 

 仰向けに転がっている天子に視線が集中し、天子は苦い顔を返した。呆れて笑った萃香が髪を千切り分身体を飛ばし、天子と幽香、慧音を持ち上げると運んでゆく。拳を突き上げ親指を立てる笑顔の天子を見送って、梓たちは背を向けた。手を上げて去って行く四人の背を見つめ、残りの者も反対側へと足を動かす。

 

 踏み砕く小枝の音に耳を傾けながら、梓は動かす足を止めない。削られた肩口の傷に指を這わせ、ホッと力なく息を吐く。これで最後と思えば、強張る体から力が抜ける。このためにこれまで生きてきた。ここで終わった方がいいのか、それとも……。この戦いが終わった後のことなど考えたところで答えは出ない。不安を拭い去るために、ただ今に没頭しようと拳を固く握るそんな梓の肩を一角鬼が軽く小突き、紅い盃を目の前に差し出した。

 

「どうだい、気付けに一口」

「こんな時に酒盛りか、それにしてもよく僕らの居場所が分かったな」

「萃香が上手く探してくれてね、それにこんな時だからこそ飲まないとね」

「そうそ、ぐいっといきなって」

 

 渡された盃の中にどばどばと萃香が瓢箪の酒を注ぐ。酒の水面に揺れる満月をしばらく見つめ、梓は無言でぐいっと盃を傾ける。鬼が喜んだのも束の間、勢いよく傾けた割に一口だけ啜り、残りを隣の文へと盃ごと手渡した。苦笑しながら受け取った残りを文が一口で飲み干してしまい、酒に強い女傑たちに梓は肩を竦めるしかない。

 

「ああやはりダメだな、酒は毒とは違う捧げ物、僕の体は受け入れ過ぎる」

「そういう体質なんですか、ここに来て新たな発見ですね」

「まあそんなところだ。さて、無闇矢鱈と暴れてもろくに時間は稼げまい。そこで、文女史と萃香君には兎に角月夜見を苛つかせて欲しい」

「萃香と文屋だけ? 私はどうすんだい?」

「勇儀には頼みたい事がある。いいか「そんなにゆっくり作戦会議をしていていいのか? それも酒を飲みながらとは、私も一杯貰えるのだろうかね?」」

 

 梓の話を遮って、木々の間に月が揺れる。枝の上に腰掛けて悠々と地上の者を見下ろす月の神には目立った外傷などあるはずもなく、その変わらぬ姿に文は小さく眉を吊り上げた。天魔を相手に無傷。分かっていた事とはいえ、気にならないかどうかは別だ。「飲み比べでもやりますか?」と険しい顔で言い放つ文に、冗談はよせと月夜見は顔の前で手を振るった。

 

「お前たちは足止め役だろう? そんなことで時間を潰したくはないな」

「分かっていて僕たちのところへ来たのか?」

「お前たちは神の力を借りずに戦っている。その意を汲んでやろうというだけだ。お前たちの策も力も真正面から潰してやろう、無力を知るといい」

「そりゃお優しいことだね」

 

 神とは傲慢なものであるが、それを許容する道理はない。鼻を鳴らす勇儀には呆れたような顔を送り、月夜見は梓へと顔を戻した。「それで負けることになってもか?」と聞く梓に、「勝ってから言え」と何度目かも分からぬ言葉を月夜見は並べる。そう言い浮かべた月夜見の笑みが不意に消えた。月夜見の目の前にぶら下がった小さく歪な逆さ三日月。にんまり笑った小さな鬼が、小さな拳で月夜見の頭蓋をノックする。

 

「詰まってる?」

「──ッ‼︎」

 

 小さな鬼を素早く握り、躊躇することなく月夜見は握り潰す。赤く弾けながら薄い霧を上げ消えた小さな鬼が、一人また一人と月夜見に張り付き拳で叩く。飴に集る蟻のようにわらわらと際限なく湧き出る小さな鬼は潰しても潰しても絶対数は変わらない。反射し遠くへ弾いても、文の風が小さな鬼を神の元へと舞い戻す。小さな百鬼夜行の姿に、流石に梓も口端が引き攣った。

 

「あれは鬱陶しそうだな」

「全くだね、で? 月夜見を苛つかせてどうする?」

「人里でもそうだったが、月夜見の力はどちらかと言えば防御に特化している。ああやって群がられた時に一掃できる技が月夜見にはない。だから」

「天照の威光が出るわけか」

 

 勇儀が言うが早いか、月夜見の瞳が白く瞬き始める。目を見開く数十の鬼の姿に梓が叫べば、文の風が萃香を散らす。月の神を中心に球状に膨れ上がった陽光を睨み、梓は急いで勇儀の隣に立つ。

 

「今だ! 僕を投げろ勇儀‼︎」

「投げっ、なに⁉︎」

「早く投げろ‼︎ それしかあれを突き破る手がない!」

 

 梓の目を覗き込み、勇儀も静かに覚悟を決める。梓の肩に力強く腕を回し、鬼が柔らかく微笑んだ。

 

「もっと一緒に喧嘩したかったね梓、できれば殴り合いで」

「またやろう勇儀、頼む」

「ああ行ってこい! 梓‼︎」

 

 ぐるりと踊るように回った勇儀の手から、絶対に朽ちぬ矢を放つ。怪力乱心の剛腕に射出され、風の壁を強引に突き破りながら、音の消えた世界で梓は静かに鏃を握る。白く輝く光は柔らかなシーツのように見えても、その内に詰まった力は絶大だ。呼吸をする暇もなく肌を焼く陽熱の中に梓は飛び込んだ。

 

 全身をじわじわと染め上げてくる痛みに奥歯を噛む。なまじ体が頑丈なお陰で一瞬では燃え尽きない。梓だけが感じる灼熱地獄。逃げたくても方向転換はできず、ただ前へとかっ飛ぶのみ。自分の意志とは関係なくただ進むような状況が、自分の人生と同じようだと痛みの中でさえ梓は小さく笑った。生まれながらに決まっていた調停役。なにも成せないと思っていたのに、今月の神を目の前にこんなところにいる。

 

 諦めなければ辿り着ける。

 

 どれだけ歩みが遅くても、梓の隣に仲間が居てくれた。

 

続きを描こう

 

 陽光の先に影が見えた。

 

 爛れた手を握り締め、勇儀の力を腕に乗せるように、ただ一撃に全てを乗せる。

 

「──届けぇぇぇぇええ!!!!」

「梓ッ⁉︎」

 

 見開かれた神の姿に笑いながら、梓は腕を振り抜いた。

 

 天照の威光を突き破って来た人間。

 

 腕も足も至る所が焼け爛れ白い煙を上げている。

 

 それでもなお笑い腕を振るう人間に、思考が追いつかず月夜見の動きが僅かに止まった。梓の鏃が月夜見の胸に突き立てられる。深々と沈み込もうと動く鏃は、赤い線を引きながら、熱で溶け月夜見の上でずるりと滑る。

 

 ──パキリッ。

 

 鏃がひび割れ、月夜見の右肩の上で砕け散った。勢いは死に、宙にふわりと投げ出された梓に歯噛みし、陽光の残熱に痺れる腕を月夜見が振り被る中、空を影が横切り人を攫った。

 

「梓さん!」

 

 焼け焦げた肉体に触れる文の手が、熱にやられ炙られてゆく。それでも手を離さずに、意識を手放した梓の重さに高度を落として行く中、上から神が飛来した。笑い声を上げながら怒った顔を浮かべる月の神を瞳に写し、瞳孔の開いた文の下から新たな影が二つ伸びる。

 

「よく掴んだ文屋‼︎」

「鬼共が! 人との闘争に水を差すか!」

 

 月の神が振り払う腕に鬼と天狗が牙を剥き、向けた力をそのまま返され、四つの影が固まりとなって吹き飛んだ。大地を削り遥か遠くへ、弱まってゆく鼓動をどこにいようと感じられるのはただ一人。弱いながらもまだ動いている四つの鼓動に櫟は手を握り締めながら、滴る汗を拭うことなく、目の空洞に幻想郷の大気を吸い込み続ける。

 

「櫟……」

「──大丈夫です、輝夜さん。なんでもないんです……なんでも」

「大丈夫だから、言って」

 

 汗と共に瞳のない目から櫟は雫を零し続ける。拭うことなくポタポタと、落ちる水滴を震わせながら幻想郷に触覚を伸ばす中で、櫟がどうしても手に取れないものがある。

 

「藤さんの鼓動を感じない……、菖ちゃんのも、桐さんも、椹さんも、菫さんも……」

「そう……そうっ」

 

 幻想郷の中から消えた光。五人の友人がどこにも居ない。手を握り締めたところで何か掴めるわけでもない。輝夜の握り締めた手から血が零れるのを感じながら、櫟は顔を上げ触覚を伸ばし続ける。虚空を見上げ、目元を払い、櫟は漆と梍の名前を呼ぶ。それに合わせて立ち上がった漆と梍の見つめる空に揺れる白い影。上半身に斜めに走った赤い線を見て、漆と梍は月夜見を鼻で笑った。

 

「さすがだぜ大将」

「ああ、最高の先輩だにな」

「──ああ、藤といい梓といい、惜しい人間たちだ。あんな者たちばかりが敵だ。天照姉様を敬い、死ななくてもいい戦士が向かってくる。お前たちもなのだろう? 漆、梍」

「当たり前だろ、ここはあたしの友達の家だ。招かれざる客は帰りな、ウルシ‼︎」

「いくだに」

 

 漆の影から式神の手が伸びる。千切られた腕も元に戻り、影の巨女が紅い瞳を神に向けた。ぐったりしている紫の横に立つ櫟に漆がちらりと視線を送れば、櫟は小さく横に首を振った。時間がまだ必要だ。少しの間漆は目を瞑り、懐から早苗のスペルカードを取り出し強く握った。それに合わせて梍の残った左目の暗黒が深くなる。

 

「唵 阿謨伽 尼嚧左曩 摩賀母捺囉 麼抳鉢納麼 入嚩攞 鉢囉靺哆野 吽、神を祓えウルシ! 急急如律令‼︎」

 

 伸びる腕が神を掴む。巨大な影の手に掴まれて、忌々しそうに身動ぎをするそれだけでウルシの手のひらが削れてゆく。唸りながらウルシが手に力を込めれば込めるだけ手が削れる。

 

「影が光を掴めるか、脆いぞ漆」

「ならもっと脆くしてやる! 朱雀・玄武・白虎・勾陣・帝久・文王・三台・玉女・青龍‼︎ 今こそ覚めろ‼︎」

「おれを見ろ!」

 

 漆が指で四縦五横の格子を空へ引くごとに、ずるりとウルシの形が崩れ去った。意志をもった影となり、夜闇の中に薄く交じる。影の大きさがウルシの大きさ。神一人を容易にすっぽりと包む影の手が、絶対に剥がれぬ影となり神を強く締めつけた。ギリギリと影が震える音が虚空に響く。形ないはずの影が、ひとりでに手の形となって月夜見を撫ぜた。神にさえ手を伸ばす悪意の塊。その気味悪さに、月夜見の顎を冷たい汗が伝う。反射と影のせめぎ合いは拮抗し、悪意が神の心を蝕む。強く歯を噛み締めた月夜見の体から陽光が零れた。

 

「ウルシ‼︎」

「かぐやさま」

「ウルシ! 私もここに居る‼︎」

「かぐやさま!!!!」

 

 今度こそ。陽の光によって生まれる影さえ利用して、決して光が外に漏れてしまわぬように、優しく両手で包み込む。砕けてゆく中で式神が夢見た日々が繰り返され、目尻に感情を零しながら笑う輝夜の姿を、紅い瞳がようやく捉えた。

 

 黒が白に塗り潰される。

 

 萎む陽光に合わせて消えた影を神は見送り、不発に終わった陽の光に月夜見は強く歯を擦った。歯の軋む音を吐き出して、擦り切れた服を手で払う月夜見の淡い瞳が、紙を放り増えた漆の影を追う。

 

「……──藤に、梓に、漆に、梍。人にここまでやられたのは初めてだ。だからこそ惜しく、苛つき、嘆かわしい!」

 

 十数人に増えた漆と梍を空気の反射で弾き飛ばす。拳を握る櫟を手で払えば、紫を巻き込み木を巻き込み吹き飛んでゆく。握り込まれた輝夜の拳が月夜見の顔を捉え、輝夜の左腕がへし折れる。腕を抑えて後退る輝夜の元へと月夜見は一歩で距離を潰し、凪いだ足に輝夜の両足が引き千切れる。月の姫の叫び声など聞きたくないと、首を掴み輝夜を無理矢理吊り上げ口を閉じさせ、呻きながら睨みつけてくる輝夜に舌を打ち、月夜見が吐くのは深く大きなため息がひとつ。

 

「お前が総大将とはな輝夜! 月に厄介ごとを持ち込むのはいつもお前だ! 永琳は去り次は平城十傑か! お前は何がしたい! なぜお前は「ふくくっ」……なにが可笑しい?」

 

 月の神の歪んだ顔が可笑しくて仕方がない。その問いさえ可笑しくて、また一度輝夜は笑い声を上げた。含むこともなく堂々と。月夜見を鼻で笑い飛ばす。

 

「可笑しいわ、貴女羨ましいのね月夜見。永琳も、楠も、桐も、椹も、梓も、菖も、櫟も、藤も、漆も、菫も、梍も、手放したくない私の最高の宝物。持っているのは貴女じゃない。今の貴女になにがあるの? 一人でなんでもできても、貴女にはなにもないじゃない」

「輝夜!!!!」

「あっはっは! 貴女はなぜ戦うのよ! 私たちは今のために、この瞬間のために戦う‼︎ 永遠のためじゃない! それが尊いのよ、素敵なの。私が望んだものが確かにここにあるの! 貴女なんかに渡さない! 穢れるのが嫌なら月に居なさい! 貴女が嫌うものは貴女が思うより素敵なのよ!」

 

 月夜見の手に力が篭る。

 

 なんのため?

 

 世界の、ひいては姉のため。

 

 月夜見が月でいつも思い返すのは昔のこと。

 

 月から太陽と地球を眺め、古の記憶に埋没する。

 

 日ノ本の地で姉と弟と共に日ノ本を統一するために続けた戦いの日々。

 

 月夜見だって同じだ。

 

 姉弟と、それに連なる仲間たち。同じ目的地を目指し突き進んだ輝かしい日々。だがそれも永遠には続かなかった。国を統一してしまえば、残されたのは退屈だ。輝かしい日々の輝きは失せていき、後は腐ってゆくだけだ。それが嫌で国が繁栄してゆく中、輝きを閉じ込めるように月夜見は月へと旅立った。だが、それさえも永遠ではない。月夜見が思い出を閉じ込めても、その外側が今度は勝手に腐ってゆく。もう大事なものを手で閉じ込め続けておくことはできない。輝きで暗闇を染めるように、手を伸ばさなければ腐り落ちてゆくだけだ。腐った林檎は捨てなければ、他の果実まで腐ってしまう。

 

 世界のため? 姉のため?

 

 月夜見の願いもそれは月夜見のためだけのもの。

 

 月夜見自身もそれは分かっている。

 

 同じ自分勝手なのになぜこうも違うのか。

 

 月夜見の瞳から陽が差した。

 

「ぐ、ぁああ⁉︎ ああああああ!!!!」

 

 輝夜の両足を焼き、痛みから首を掴んでいる月夜見の手を取った輝夜の右手も焼け落ちた。輝夜の叫びに耳を澄ませながら、月夜見はゆっくりと口角を上げる。

 

「蓬莱の薬で魂を固定する? それで永遠を手に入れたつもりか? 誰が嫦娥を蝦蟇に変えたと思ってる。不老不死など神話では珍しくもない! お前の焼け落ちた手足は何度蘇ってもそのままだ! そうやって無様に転がれ輝夜‼︎ 何もできない箱入り娘が!」

「ぐぅぅ⁉︎ がぁ、くぅ、まだよ! 絶対に、絶対に殴ってやる!」

「はっ! 殴れるものなら殴ってみろ‼︎」

 

 

 

 ────パチンッ。

 

 

 

 空間に亀裂を入れるような、それは小さく弾ける音だった。

 音に弾かれずるりと空間から這い出る二つの拳。

 紅と白を空に靡かせて、浮くように宙を滑る少女の拳。

 歯を擦り合わせ、ゆらりと壁を透け通る少年の拳。

 二つの拳が神の顔にめり込んだ。

 

 放られた輝夜の体を少年が支え、ゆっくり下ろすと大太刀を担ぐ。お祓い棒を担いだ少女と二人、疎らに地に伏せている仲間たちを見回して、終着点は鼻から血を垂らした月の神。六つの目が交差して、これまで暗かった幻想郷に多くの灯りが灯っているのを視界に納め、意識の断ち切れた紫を一瞥すると小さく月夜見は息を吐いた。

 

「……八雲紫の能力が切れたな、これが本当の幻想郷か。遠くからだと夜空のようだな。だがそれも今日で最後だ」

「──それを決めるのはあんたじゃないでしょ、最後なのはあんたの方よ」

「月に去れ侵略者。俺たちの未来は俺たちが決める!」

 

 陽の光を受けて月が輝く。その光を受けて伸びる背の影を、輝夜は夢見心地で見送った。

 

「博麗の巫女、博麗霊夢」

「平城十傑、北条家第百三十七代目当主 北条楠」

「「くたばれ月夜見‼︎」」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月軍死すべし ⑨ 月夜見 参

 世界に生命の息吹が返ってくる。

 偽りの幻想郷の姿は消え、いつも通りの世界に戻る。

 

 ──ただし大量の死体を携えて。

 

 秋の清々しい空気に突如混じった生々しい匂い。遠く灯りの灯った人里から流れてくる多くの悲鳴を聞き流しながら、霊夢と楠は月の神から目を離さない。呼吸は浅く、瞬きはせず、肩に置いたお祓い棒で霊夢は肩を小突いてリズムを取り、楠は短い大太刀を両手で握りゆらりと揺らす。強く足は蹴り出さず、擦るように動かしながら月夜見を中心に二人で挟んだ。

 

 少女と少年の顔を見比べて、月夜見は小さく息を零すと目を瞑る。自らに向けられた視線と気配を探るように、差し向けられる気に意識を繋いだ。

 

 凍てつく冬のような鋭さを持った刃の気と、どこまでも透明な呼吸をするのも憚られる霊気。

 

 どちらも手に取ることが難しい透明度の高い二色に、月夜見は顔には出さず切歯扼腕する。八雲紫、蓬莱山輝夜、平常十傑、幻想郷が送り込んできた人ふたり。多くの人妖が立ちはだかってきた中で、おそらく最後だと見える人間たち。時間を稼ぎ、満を持しただけはあると、忌々しくも嬉しく思い一人納得した。

 

 これまでの者たちとは空気が違う。掴み所がなく妖しい瘴霧のような空気を纏っていた藤や、微動だにブレない六方晶金剛石(ロンズデーライト)のような気を放っていた梓、月夜見の前に立った者で特に独特だったのはこの二人。その二人と同等以上であり、より手に取れない気配なのに確固とした形がある。そして静かだ。

 

 霊夢も楠もただ今に没頭し、目に映る月夜見だけに全てを向けている。呼吸を月夜見に合わせ、一足一挙動を見逃さない。勝利や未来など、先を見据えず今だけを見る人間二人に声を掛けることさえ憚られ、月夜見は小さく微笑んだ。余計な雑念のない視線は、一種の信仰とも言える。人智を超えた異様な集中力を可能とするものがなんであるのか、歩んできた人生か、力か、才能か、背負うものか、あるいはそれら全てか。いずれにしろ、敵意や畏れもない純粋な人間たちに言葉は不要と言うように、初めて月夜見は構えを取る。

 

 ただ緩りと両腕を軽く広げたそれだけで、一気に空気が張り詰めた。拳は握らず、手を開き指を揃えた手刀。その形は人が鍛えたどんな名刀よりも鋭い。万象を返す月夜見の手に弾けぬものはなく、一度振るわれれば、世界を断つ境界線すら両断する。派手さはないが、静かな必殺を孕む姿に、霊夢と楠は細く息を吐いた。

 

 目を閉じ腕を広げ立つだけの月夜見を前に動けない。恐怖で足がすくんだわけでは勿論ない。顔を動かさず、瞼もあげない月夜見だが、霊夢も楠も確かにじっとりと全身を舐め回すような視線を感じた。月夜見は月で場を見ている。夜空に輝く満月が瞳となり、片方しか見れぬなど勿体無いと、天から同時に二人を見る。胸の内の鼓動さえ見透かすような視線を受けて、僅かに楠は足を前へと滑らせるものの一歩を踏めない。

 

 音もなく静かに息を吸い吐く二人の人間と神の姿は、絵物語に一幕を切り取ったように動かず、離れたところだ窺う第三者の目を釘付けにさせる。動き出せばどうなるのかがまるで見えない。ただ一人大地からそれをのぞむ輝夜の呼吸だけが荒くなり、張り詰められている糸を伸ばしてゆく。

 

 息を吸い、吐く。息を吸い、吐く。

 

 輝夜の呼吸の感覚が加速的に短くなり、楠の目が険しさを増す。始まりも終わりも分からず、ただリズムの速まってゆく呼吸が場を支配する中で、ふいに輝夜は大きく息を吸った。

 

 

 ────ぷつりっ。

 

 

 緊張の糸は強引に千切れ、その音を理性が拾うよりも速く本能が楠の足を踏み込ませた。動こうと動くまいと変わらぬのなら、足を出すのが北条楠、ずるりと地を這う楠に、僅かに片眉を跳ねさせた月夜見の顔が楠ではなく霊夢へと向く。

 

 ちくり、と首を刺す衝撃は視線によるものではなく、動いていないとさえ勘違いするほどの最小限の動きで放たれた一本の針。突き刺さらず、月夜見に反射された針を霊夢はほとんど動かずほんの少し首を捻ることでそれを避ける。頬の皮膚を引っ張って、血が出ないギリギリの距離で通り過ぎる針を見送り、霊夢もまた大地を蹴った。

 

 肉薄を終えた楠の大太刀が、動きに合わせて無駄なく振りかぶられた。動作のつなぎさえ分からぬ滑らかな動きに、月夜見は小さく笑うと、広げていた手を円を描くように優しく回す。手刀回し受け、受けの基礎足るその動きは、基礎だからこそ、完璧に描ければ絶大な効果を発揮する。満月を囲む月の輪と同じ、月に届く前に、描かれた円がその絶対反射の丸みを持って凶刃を容易に滑らせる。

 

 防御こそ最大の攻撃。一撃を貰わずとも、完成された受けに形を崩される。そして生まれる隙こそが命の隙。受けに回された手刀は、動きの中で鋭さを帯び、三日月の先端のように空さえ貫く。突き出された月夜見の刃に、楠は怯むどころか短く息を吐きより深くに足を踏み出した。

 

 刃が突き抜け楠を貫く。

 

 スルリと楠を通り抜け空だけを裂く刃に月夜見は微かに瞼を開け、その背中を見送った。当たった実感はほんの僅かでまるで手応えがない。知っているのと実感するのではまるで違う。櫟が月夜見を見て評したそれを月夜見も噛み締めながら、壁を透ける妙技に感心し同時に怒りとは違う熱を抱く。

 

 人の身で神の手さえ透ける芸当。それはある種の賛美に近かったかもしれない。通り過ぎる楠の背を目で追う中で、楠の背からスルリと少女が顔を出す。紅白の着物を揺らし、手に持つ針を躊躇なく薄く開いた月夜見の瞳へと突き立てる。

 

 迫る針を避けることもなく、淡い瞳でそれを受け霊夢の腕ごと弾き返す。震える針に霊夢は動揺することもなく、小さく目を細めると再度針を握る腕を突き出す。身動ぎせずにそれを見受ける月夜見の目の前で、霊夢の手から針が消失し、首の裏に衝撃を感じた。

 

『亜空穴』

 

 空間を超えて飛来した封魔針に、月夜見は口角を上げて腕を突き出す。霊夢の胸元に深く突き抜けた月夜見の腕は、まるで雲の中に腕を入れたかのようになんの感触も手に取れない。ふわりと浮くように身を翻し空に踊る巫女の姿に今度こそ月夜見は瞼を開き、立ち並ぶ人間たちを目に焼き付けた。

 

 浮く女と透ける男。

 

 文字に起こすとなんとも間抜けな響きであるが、形を得ればそれも変わる。月夜見でさえただでは触れられぬ傑物がふたり。少女と少年へ突き入れた手を軽く振り、再び形のない刃の切っ先を向けた。他のことに気を回せば足元を掬われるかもしれない存在、元に戻った幻想郷の中にいて、そちらに気を割く余裕がない。

 

 だが、それは霊夢と楠にとっても同じことだ。

 

 月夜見の刃を避けられても、同じく月夜見へと振るう技が意味を成さない。当たるもののことごとくが反射さえ、月夜見の肌に牙が刺さることがない。そして、月夜見の技がその難易度を更に引き上げている。

 

 振られれば必殺の刃、守りに入られればなお硬い。

 

 月夜見こそ三貴神の誇る絶対防御の盾。全てを染め上げる陽光を繰る天照と、およそあらゆる武の極致であろう須佐男という強過ぎる二つの矛がいるが故、月夜見はただ強固な盾であればよかった。研ぎ澄まされた盾は、敵の首さえ刎ねる鋭ささえ持つが、盾であることに変わりはない。その盾をどう抜くかは、これまでの戦いの軌跡が教えてくれた。

 

 

『天照の陽光を放っている時は月夜見の身に刃が通る』

 

 

 スキマを通って向かう際に渡された情報が勝利への鍵。分かってはいるが、それも容易でないのは事実。霊夢と楠は顔には出さず、内心で舌を打つ。単純な力のぶつかり合いの方がどれだけ楽か。無闇矢鱈と突っ込んだところで、終わりの来ない戦闘が続くだけ。お互いの刃が通らなければ、ただ舞踏しているのと変わらない。

 

 故に動かず、視線同士の擦り合う拮抗状態に踏み入ろうかというところで、月夜見は力を少し抜き手を緩く握る。

 

 

 

 

 

「やめだ」

 

 

 

 

 

 短く零された月夜見の言葉に、霊夢たちはまゆを顰めるも気は抜かない。月夜見の気配に変化はなく、口から出た言葉は当然闘争をやめるということではない。永遠に続くかもしれない千日手に入る前に、月夜見自らそれをやめる。時間を賭ければ賭けるだけ月夜見の勝ちは確実にはなる。だが、時間で勝っても意味はない。力で勝たねば意味がない。

 

「当たらないのに腕を振り続けるのは馬鹿らしい。私も賭けてやろう」

 

 月夜見の瞳に浮き上がる陽光。ただ乱暴に放つのではなく、淡い月明かりのように薄く零す。神の手のひらに浮かんだ光球を目に、霊夢と楠の目が見開いた。初夏の辰野の夜景のように、淡い光球が宙を舞う。無数の光が空に光線を引くのを目に留めて、楠は大きく背後に跳んだ。光に粒は触れるものを消失させながら、縦横無尽に空を走る。木々には蜂の巣のような穴が空き、焦げ付いた穴は黒く変色していた。

 

「場が悪過ぎる! どうする巫女さん、輝夜たちに気を配ってる余裕もねえぞ!」

「なんとか肉薄してあいつの動きを抑えて! できたら私がなんとかする!」

 

 どうやってなどと聞いている時間も惜しい。小さな燈でもそれは天照の威光。蛍の群れのように月夜見を中心に花開いたプラネタリウムを見据え、楠は強く奥歯を噛んだ。

 

 天照の威光ならもう一度見ている。一度月夜見を挟んでいるからか、霊夢に降ろされた天照の陽光より幾枚か落ちていてもそれが神の威光であることに変わりはない。ゆらゆらと体を揺らしながら、ランダムに宙を回る陽球ぬ当たらないように躙り寄るが、横を通り過ぎる陽球の放射熱だけで息が詰まる。チリチリと肌を焼く熱に舌を打ち、それでも足を前に出す中で、楠の目の先で月夜見の口端が持ち上がった。

 

 横に手を振る月夜見の動きに、好き勝手に動き回っていた光の粒が統制される。一斉に楠に向かい横に動いた陽球は壁となって迫って来る。大きく息を吐き出し足は止めず、楠は壁に向かって足を踏み出した。硬さのない光の壁と衝突し、その中をずるりと透り抜ける。

 

「ッぐ⁉︎」

 

 物理的に通り抜けられようと、熱まで避けることはできない。体に穴は開かずとも、身の内を焼く陽熱をの鋭さに、堪らず楠の口から空気が漏れ出る。体の中に熱せられた溶けた鉄が流れたような気持ち悪さに膝が折れ、床に転がりながらも楠は月夜見から目を離さない。大きく息を吸い込みながら大地を蹴り、再び陽球が踊り狂う前に距離を詰める。

 

 地を這う楠に再度月夜見は腕を振り、光の粒が付き従う。揺れ動く光の壁に楠の足がほんの少しばかり鈍ったが、それでも足は止めずに迫る壁へと突き進んだ。

 

「ッアッちぃな! クソが‼︎」

「はっ! それでも足を止めないか楠‼︎」

 

 壁を越えるのに苦痛を伴う。体がやめろと鳴らす警鐘を、歯を食い縛り楠はそれを磨り潰す。

 

 

 前へ、前へ。

 

 

 体も崩れない熱の痛みに臆して止まる足など楠は持っていない。それより熱い炎を知っている。神の火の壁を前に、楠のように透け通ることができないのに誰より早く壁へと突き進んで行った一人の男。その男の背を追うように、大太刀を揺らし幾枚にも折り重ねられるように迫って来る光の壁へと楠は突っ込む。

 

 壁を透ければ痛みが襲う。無理矢理肺から空気を抜き取るような耐えることのできない熱痛。肌に浮かぶ玉のような汗は、浮かんだそばから蒸発してしまう。呼吸をするのも苦しい壁越えを、だが楠はやめるわけにもいかない。友のため、仲間のため、そして自分のため、足を動かさなければ壁を透けられない。

 

 北条の技は動かなければ使えない。ただ災害が過ぎ去るのを隠れて待つように突っ立っていては、脅威に食い散らかされてお終いだ。壁を透けるには、壁に向かって自ら突っ込まねば透けられない。恐かろうと、痛かろうと、前に進むために楠は自ら突っ込む。頭のネジが外れているかのように前に進み続ける人間の姿に、月夜見の笑みが深まった。

 

 転がるように地を進み、大地に沿わせて大太刀を握る手に力を込める。月夜見へと飛び掛った楠は、神の瞳が陽光を消し迫る人間の姿を写したのを目に余計に一歩足を踏み込む。月夜見と楠の瞳がカチ合い、そのまま重なるようにずるりと透り抜けた。大太刀だけを背後に残し、体が全て透過し終えた後、鉤爪のように月夜見に刃を引っ掛け大太刀ごと抱え込むように羽交い締めにする。

 

「やったぞ巫女さん‼︎ なんとかしてくれ‼︎」

「ッ、小癪な!」

 

 抱え込むように貼り付けば、漆の式神のように長くは持たずとも弾かれるまでに一瞬の間ができる。いつ陽光を反射されるか分からない恐怖を、ギリリッと歯を擦り合わせることで誤魔化す。未だ宙に残る光の粒の隙間から、紅白の影を探すが楠の目にはなにも映らず、目を細める楠の背後から聞き慣れた少女の澄んだ声が飛んで来る。

 

「よくやったわ楠‼︎ 吹っ飛べっ‼︎」

「────────痛ッ、このやろぉ⁉︎」

 

 結界を纏った霊夢の足が、楠の背を柔らかく突き飛ばした。楠に押されるがまま吹っ飛んだ月夜見と楠は、空間に開いた黒穴に吸い込まれるように姿を消す。景色を切り貼りしたような視界の転換に楠は目を回し、見慣れた神社の姿を捉える。そのまま床を転がるよりも早く、月夜見に投げ飛ばされ楠は神社に突っ込んだ。賽銭箱に背を打つ楠に月の光が集中し、そのまま神社へと力任せに押し込む。

 

「──ッ⁉︎」

 

 少年の叫びを残し、ガラガラと音を立てながら船体がへし折れ沈没する豪華客船のように地に沈む神社を一瞥して、月夜見は背後で聞こえた足音に向け身を翻した。顔を顰めた博麗の巫女が、お祓い棒で肩を叩きながら立っている。不機嫌に小さく息を零しながら、崩れる神社を背に立つ神を睨んだ。

 

「また神社が……、どうしてくれるのよ」

「ここに送ったのは霊夢、お前だろうに。幻想郷と外の世界の境界に立つ博麗神社なら大きな力は使えないと見たか? 確かにそうだが、それで勝てるのかな?」

「うるさいわね、異変解決が博麗の巫女の仕事。……だけどそんなのは関係なくあんたは殴るわ! 神社の修理にこき使ってやる!」

「修理? これからなくなる幻想郷とお前には関係ないだろう!」

 

 陽の光が膨れ上がるのを目に霊夢はお祓い棒を参道へと放り捨て、空いた両手を緩く振った。神の陽光は霊夢をして浮きづらい。日ノ本なら誰もが天照の加護を少なからず受けている。神の威から浮けようと、天照からだけは逃れられない。宙に舞った光の粒子が、博麗神社の境内に細かく穴を開けていく様に目を鋭くさせながら地を蹴った霊夢の姿に月夜見は小さく目を見開いた。

 

 ほう、と思わず息が溢れる。空間を埋めるように蠢く光に粒の間を、踊るように最小限の動きで飛び交う少女の姿は称賛に値した。弾幕ごっこという遊びの中で培われた技術は、決して無駄なものではない。遊びと言っても、その相手は人より勝る妖怪、亡霊、蓬莱人、天人、神である。同じ土俵で遊ぶためのルールと言っても、本来ならば人と魔のどちらが勝つかなど火を見るよりも明らかである。そんな中で勝ちを拾う霊夢や魔理沙、咲夜や早苗はやはりおかしいのであり、その筆頭とも言える霊夢の流麗な動きに思わず月夜見も見惚れてしまう。

 

 その一瞬の隙に反応できぬ霊夢ではない。針の穴程もない僅かな隙間に寸分の違いなく差し込まれた封魔針の煌めきに、思わず前に差し出した左手に針が突き刺さる。宙を彩る血飛沫に顔を歪めた神の顔へと霊夢の蹴りがめり込んだが、右足を軸に縦に回り力を完全に後方に流す。返しの月夜見の蹴りの熱に脇腹を擦らせた霊夢の体は地に転がり、火傷となって薄く煙を吐き出している左の脇腹に軽く手を置いた。お互いの牙が突き刺さる。それを理解した上で二人は同時に動き出す。

 

 ここまで来ればどちらの牙が先に相手の命に突き刺さるか。より全てを差し出した方が勝利を得る。激しさを増す陽の粒子に、霊夢は躊躇わず空を飛んだ。目指す先が目の前にある。依姫、豊姫、天探女、嫦娥。霊夢が向かった時にはどこも遅く、既に戦いは終わっていた。

 

「勝て」

 

 と、両腕の焼け落ちた吸血鬼が笑って言った。

 

「任せた」

 

 と、満身創痍の友人がとんがり帽子で顔を隠しながら零した。

 

 寝息を立てて転がっていた者たちの顔に苦痛はなく安心したような顔で、迷いの竹林跡の更地には、焼け溶けた電子タバコが舌を出し落ちていただけ。

 

(……わけわかんない)

 

 厄介ごとを他人に押し付けるならまだしも、大切なものを他人に託すということが霊夢はあまり理解できない。全ては自分だけのもの。それも大切なものなら尚更だ。霊夢の仕事は異変解決、わざわざ託されなくても霊夢は戦う。それが博麗の巫女として選ばれた霊夢の役割だから。

 

 だと言うのに会う奴会う奴、誰もが「頼む任せた」と好き勝手零す。勝手に背中を押してくる。それがどうにも虫に刺されたように痒く気になる。掻いても掻いてもその痒みはなくならない。どうすれば痒みがなくなるのか、それがどうにも分からず霊夢は背中の痒みを振り払うように前に進む。

 

 チリッ、と服の袖先を掠める陽球に左の袖が焼け落ちた。振りほどくように袖を前へと捨て、月夜見の視界を僅かに隠す。目の前に飛んできた服の切れ端を手で払った月夜見の視界から霊夢の姿が音もなく消えた。だからこそ、月夜見は目を見開かずに瞼を閉じた。天から見下ろす大きな瞳が、空気の穴を通り月夜見の背後へと身を躍らせた巫女の姿を確かに捉える。

 

 能力の切り替えが間に合わずとも、向かってくる方向と姿さえ分かればどうとでもなる。動きは円。背後から突き出される霊夢の拳を力点に、反転した月夜見の膝が霊夢の腹にめり込み、骨の軋む音と肉の焼ける音、空気が口から吐き出される音が重なり合い、地に伏せた博麗の顔を月夜見は見下ろし眉を寄せた。

 

 霊夢の口元に浮かぶ笑み。息の詰まった月夜見の静まった耳に届くパチリ、という音。小さな稲妻の爆ぜる音へと月夜見が目を移せば、腰に垂れた結界装置の箱を貫いている針の姿。その淡い光が活動を停止し消えるのを目にした月夜見の顔が酷く歪んだ。博麗の巫女へと目を戻せば、突き出されている拳から中指で伸び、馬鹿にするように口から舌が伸びている。

 

「霊夢ッ‼︎」

「あら、神でもそんな顔するのね」

「お前は‼︎」

 

 笑う人間の顔を塗り潰し消すため、月夜見は拳を握り締める。

 

 今になってこんな人間たちが立ち塞がる。

 なぜもっと早く、なぜ今になって。

 浮かんでは消える焦りと怒りと悲しみと喜び。どれを掻い摘んでも正解であり不正解。確固とした答えを得るために月夜見は今ここに居る。月でどれだけ頭を回しても結局答えは出なかった。

 姉の言葉の真意を理解するため、人の強さを知るために。

 

 振るわれる神の拳から目を離さず、霊夢はふわりと宙へ舞う。柔らかな羽毛のように身を反らし、放つ拳は月夜見の回された腕に流され横に反れた。開けた霊夢の顔へと放たれる蹴りを押し流される風に乗るように霊夢は躱すと、脚を折り畳み、地に触れると同時に蹴りだす。

 

 流され返し、

 返し躱される。

 

 互いに避ける技術と守りの技術は一流だが、逸早く削れ出すのは霊夢の体。紙一重の繰り返される攻防は、決定打を生まなくても陽の熱に人の身が削られる。ヒリヒリと身を焦がす陽熱に細かく息を吐き出しながら、突き出された霊夢の拳が神の腹部を捉えその体をくの字に折った。

 

 

 ──いや、折れ過ぎる。

 

 

 月夜見の薄笑いとともに漏れ出た吐息に霊夢が反応するよりも早く、人の体を巻き込みながら宙を回った月夜見に霊夢は地へと叩きつけられた。衝撃に硬直するその隙は大きな隙。見開かれた霊夢の瞳の先、静かな夜空に陽が昇る。球状に広がる光を手に集め、指向性を持った陽光が博麗の巫女へと降り注いだ。

 

 全てを染め上げる白い光。

 

 身を包む灼熱の中で霊夢は────。

 

「くはっは! 終わりだ霊夢‼︎ 私の──」

 

 勝ちだ。

 

 と続くはずだった言葉を飲み込んで、笑い声も萎み鳴りを潜めた。

 白光の中に沈んでいる影がいつまで経っても失くならない。どころか、次第にその濃さを強めて浮上してくる。

 

 

 天照の陽の大河から、するりと小さな手が伸びた。

 

 

 音もなく、

 

 

 煙も上げず、

 

 

 浮き上がって来る少女の影。

 

 

 陽の光をまるでそよ風のように身に受けて、揺れる黒髪を霊夢は指で流す。ふわふわと月夜見の目前までせり上がって来た人の少女に、神の身を冷たい汗が一気に覆う。

 

ありえない……」

 

 月夜見の口からぽろりと、出したくもない言葉が転がり落ちた。

 

ありえない、ありえるわけがない⁉︎」

 

 人の姿をしていても目の前の少女が人に見えない。

 人ならば、人であるからこそ天照の光からは逃れられない。

 朝昼陽の光を身に受けて、夜も月を介して陽の光を受けている。

 地上に生きているからこそ、誰にでも天照の加護はある。

 だが、それすら受け付けないということは、神の手から完全に脱したということ。世界の理から浮き出たということ。

 

(だってそんなの⁉︎ それは⁉︎)

 

 神の力を必要としない人として完全に独立した個。その姿は正に新時代の人の姿。

 

 解脱。輪廻の輪からすら浮き出た存在。

 

 認めたくなくても、現実として目の前に存在する。それから逃れるように、追いやるように、月夜見を中心に広がった陽光を受けても、博麗霊夢は染まらずそして崩れない。

 

 雲霞のようにゆらゆらと揺らめく幻のような霊夢の手が、月夜見の胸に伸び沈み込む。

 

「────ぁ」

 

 呼吸の止まった月夜見の内側で、時が止まったように意識が一瞬停止する。胸に埋め込まれている少女の腕がするりと抜けてゆき、そのまま少女の手の跡へと月夜見の手が伸ばされた先には、何もなかった。

 

 傷も、痛みも。

 

 何もされていないように何もない。

 

 月夜見の顔を上げた先、変わらず徐々に浮いてゆく霊夢の姿を見て、歪んでいた神の口端が小さく弧を描く。

 

「……くは、そうか、そうだな、そのはずだ! 霊夢お前は浮きすぎた‼︎」

 

 世界の全てから浮き上がれば、世界に居られるはずもない。水能覆舟。強すぎる力は使用者すらも滅ぼす。安堵の高笑いを上げる月夜見の顔を、霊夢は傍観者のようにただ眺めた。

 

 別に驚きはしない。霊夢自身どこかでいつかこうなるんじゃないかと思っていた。少なからず、負けるのが嫌だからではなく、純粋に勝ちたいと思ったが故の能力の上昇。今まで出さなかった本気の結果。

 

(……ぁあ)

 

 結局こうなるんだな、とどこか他人事のように心の中で独り言ちる。

 

 霊夢の能力は、まるで霊夢の人生のよう。

 

 親の顔だって知りやしない。気にしたこともあったが、わざわざ先代や紫に霊夢から聞くこともなかった。深海の泡のように、どこからか浮き上がってきたようにいつの間にか幻想郷に居る。誰もが持つ自分の始まりを、霊夢だけが持っていない。どこから来て、始まりはどこなのか。それがどうしようもないズレなのだ。一人だけ異世界の住人のように、同じ場所にいながら同じ場所にいないような感覚。だからどこに居ても誰と居ても霊夢はいつも孤独の中。

 

 霊夢と違い、霊夢の一番の友人は、人里でも大きな道具屋に生を受け、やろうと思えば、何もしなくても箱入り娘として一生をなに不自由なく謳歌することができた。それを自ら全て投げ出して一人、魔法に没頭していても、未だ特になにかしているわけでもない霊夢に届かない。

 

 神さえ顔を引攣らせる自分がいったい何者であるのか、そんなことは霊夢が一番知りたいのだ。

 

(……──勝ちたかったな)

 

 それでも霊夢の後ろ髪を引くのは勝利への執念。背中の痒みは結局消えない。頭に浮かぶのは後悔よりも友人たちが笑っている顔。

 

いやだなぁ、……いやだ、いや!」

 

 勝利を前に負けたくない。どこから来たのか、自分が何者かなどどうでもよく、結局霊夢も──。

 

 

幻想郷(ここ)が好きなの……ッ!!!!」

 

 

 困った居候たちに困った友人たち。万象から浮き上がる霊夢にも好き勝手にならない者たちが愛おしい。彼らがいるから自分でいられる。

 

 それでも振られる霊夢の腕はなにからも浮き上がるばかりでなにも掴めず、勝手に体が浮いてゆく。

 

(誰か……ッ⁉︎)

 

 目を強く瞑り、手を握り締める霊夢の体が不意に何かに引っ張られる。錘がぶら下がったような衝撃に、恐る恐る霊夢は瞼を開ける。

 

 ぼやけた視界のその先で、顔を踏み台にされ地に飛ぶ月夜見の姿が映り、霊夢の手を人相の悪い男が掴んでいる。

 

 幻のように世界との境界線があやふやで、今にも消えてしまいそうな少年は、体のあちこちを白く染めながら、それでも笑い霊夢の顔を覗き込んだ。

 

 

「アンタがいないとよう、帰れねえだろ、なあ?」

「楠っ……‼︎ なんで……」

 

 

 よりあやふやに、

 どんな先にも進めるように、

 ただ強く足を出し壁にぶつかる。

 その分実体が不確かになり、進む勢いに体が追いつかず零れ落ちるのも気にせずに、伸ばした少年の手が少女の手を確かに掴んだ。

 

なんであんたなのよ……っ

「へっ、力がうまく入らねえ、おかげで刀がうまく持てなくてな。重さは俺が出してやる。だから刀を代わりに握ってくれ」

 

 少女の目の端から溢れている心の粒から視線を切り、楠は顔を抑えて地面に立つ月夜見を見下ろした。後ろから聞こえる目を擦る音には何も言わずにただ少女の返事を待つ。

 

「……刀の振り方なんて知らないわよ、あんたも握って!」

「──はっは! なら行こうか‼︎」

 

 楠は隣にゆらりと並んだ少女を身に寄せて、四つの手が大太刀を握る。重さに任せて落ちてくる少年少女を睨みつけ、月夜見は強く歯を噛み締めた。

 

「ぐぅっ! 認めない、お前たちを認めるわけにはいかない! 認めてしまったら私はッ‼︎ 消えろ霊夢! 楠! お前たちだけは!!!!」

 

 月夜見の咆哮が陽光となって天に伸びる。今なら当たる。満身創痍の霊夢と楠ならば、二度も天照の威光は超えられない。

 

 そのはずなのに──。

 

 二つの影が三つに増える。

 

 少年と少女の後ろにもう一つ。

 

 長い黒髪を靡かせて、全身を血と砂に塗れながら、両足と右手がないはずなのに──。

 

「輝夜ぁぁああ!!!! なぜお前がそこにいる⁉︎」

「──くくっ。おいおい輝夜、アンタここまで来るのにどれだけ時間掛けたんだ?」

「──さぁ? でも……そう、きっと……貴方たちより長くはないわ……行って」

 

 月の姫が背中を押す。

 

 ようやっと追いついたその背中を。

 

 その一押しが、

 

 陽の光よりも少しだけ早く少年と少女を前に進ませる。

 

 

「アンタ最高だかぐや姫‼︎ 行くぜ霊夢ッ!!!!」

「ええ、行くわよ楠ッ!!!!」

 

 

 少年と少女が落ちてくる。それでも「まだだ‼︎」と月夜見は叫び、噛み締め過ぎた奥歯にヒビが入った。

 

 ──パキンッ。

 

 と、同時に上げようとした右腕が垂れ下がる。梓の貫いた鎖骨がへし折れた音。

 

 ──カツッ。

 

 と、逃げようと踏み締めた足の膝が折れた。淡い青紫色の痣に引かれるように。

 

ああ…………、そうか……、人間たち、お前たちの勝ちだ」

 

 ずるりと体に滑り落ちた刃の感触が、不思議と暖かいような感じがした。着地もうまくできずに、落ちたまま地に転がる三つの影を見回して、月夜見はふらふらと立ち上がると血が滴るのも気にせずに歩き出す。

 

「そうか、私も……、私も前に……」

 

 差し出し続ける足は止まらず、足音だけがいつしかすっかり消え去った。静まり返った境内の中に流れるのは三つの荒い吐息だけ。身を起こそうにも指先一つ動かない。一度大きく息を吸い込んで、楠は首だけをなんとか動かし二人の少女へ目を向ける。

 

「……終わったか?」

「さあ……、どっちにしても、今襲われたら負けね。もう動けないわよ、輝夜は?」

「ここまで這って来たのにまだ動けって? 冗談っきっついわ」

「這って来たのか? そりゃあ、見たかったな」

「うっさい楠、ばーか」

 

 輝夜の子供っぽい罵詈雑言を鼻で笑い飛ばし、楠は心の底から息を吐き出し天を仰ぐ、始まりは唐突に、終わりもよく分からない。ただ今分かることは一つだけ。

 

 

「「「夜明けだ」」」

 

 

 白んできた空に三つの声が重なった。その後誰から始まったのか薄ら笑いがしばらく続き、声が途切れると同時に静まり返る。長い夜更かしは終わりを迎え、三つの寝息が神社に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 長い夜がようやく明けた。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二幕 終章

 薄く息を吐き瞼を開ける。

 

 月夜見の淡い瞳に映るのは青い地球と眩い太陽。何度見たかも分からない月からの景色。一番最後に体を失っても一番に再生した自身に神は苦笑する。霊夢と楠に斬られてからどれだけ日が経ったのかは分からないが、そこまで長くないのは確か。見事に人は神を退けたが、本当の意味の終わりではない。何度でもやり直そうと思えばやり直せる。玉兎の数は減ったが、実質月の将は一人も減ってはいない。

 

 ────依姫、豊姫、嫦娥。

 

 戦線を勝手に離脱したサグメはすぐに戻るとして、四人さえ揃えば何度だって繰り返せる。幻想郷を覗こうかと、瞼を閉じようとした月夜見の耳に、ぱさりと羽の擦れる音が聞こえ、途中で目を開けた。向く先は太陽と地球。目を向けずとも誰かは分かる。「サグメか」とため息と共に吐き出した言葉に、小さな返事が返された。

 

「今更なんだ、私は斬られてしまったぞ。くふふ、人に斬られた! 初めてだったよ……。それで? 弁明でも?」

「お叱りは後で、今は、お客様が居ります」

「客?」

 

 首を傾げて振り向いた先には二つの影があった。一人はサグメ、勝手に戦線を離れた割に悪びれた様子は薄く、軽く頭を下げると部屋から出て行ってしまう。もう一つの人影に月夜見は本格的に首を傾げる。

 

 外の世界でいうセーラー服に身を纏った少女。平城十傑とも違う彼らより幾分か幼く見える少女は、長いツインテールを揺らしながら、口に含んでいる棒突きキャンディーを転がして、月夜見の目が自分に向いたのを確認すると急いで噛み砕き飲み込んだ。残った棒を手で潰し、ポケットへと放ってから数歩前へと出る。

 

 神を前にしてなかなかに失礼な少女から感じるのは人の気配。人がなぜ月にいるのか、幻想郷での戦いと無関係でないだろうことは月夜見にも予想がつくが、少女が誰であるのかはまるで分からない。「誰だ?」と突き出された鋭い声に、少女は額に汗を浮かべながら大きくなるべく優雅に見えるように神へと一礼する。

 

「お初にお目にかかります月夜見様」

「だろうな、で?」

「私は平城十傑、黴家第百六十五代目当主 黴藤。月でお会いできたこと、感無量と言っておきましょう」

「……藤か」

 

 黴藤を名乗る少女に、ようやく月夜見は納得がいった。「またすぐ会うことになるさ」と言った藤の言葉。だが、蘇ってすぐに目にすることになるとは予想外だ。なぜ? という疑問は、すぐに頭に浮かんだ予想が答えとなる。百六十四代目と純狐の約束。嫦娥を討ち、すぐに外の世界へ純狐が姿を移したわけ。予想外の贈り物に月夜見は一人小さく笑った。

 

「私をここで討ちに来たか? 用意周到だなあいつは」

「……違います」

 

 藤はばっさりと月夜見の言葉を斬り払い、一度深呼吸をして神の淡い瞳を覗き込んだ。

 

「ならなにをしに来た煙の悪魔」

「停戦協定を結びに、……それと私は煙の悪魔ではないです」

 

 月夜見の言葉にそっぽを向き、口が寂しいのか、藤はポケットから棒突きキャンディーを取り出し舐めた。神の前で豪胆な少女に、ああやっぱり黴藤らしいと月夜見は椅子に深く腰掛けて、「停戦ね」と口遊む。その呟きに少女は月夜見へと顔を戻し頷いた。

 

「そうです」

「見返りは? 戦いをやめて私はいったいなにを得る?」

「私の信じる最高の十の一族の信仰を一族が続く限り」

 

 北条。

 五辻。

 袴垂。

 足利。

 坊門。

 唐橋。

 黴。

 蘆屋。

 岩倉。

 六角。

 

 千三百年前からやって来た十の一族。その名を並べ、また強く藤はキャンディーを噛み砕く。ゆっくりそれを飲み込んで、藤はようやく口を開いた。

 

「十の一族の信仰を一族が潰えるまで。それまで手を出さないと約束いただきたい」

「たった十の一族か?」

「神さえ退けた十の一族です。名もない千人や一億人より価値があると思いますが?」

 

 少し険しくなった少女の目を少しの間見つめ続け、月夜見はふと外の景色へ目を流す。藤に絡まれた足を組み、梓に砕かれた鎖骨をなぞり、ばっさりと斬られた胸に手を置いた。人の強さを信じなさい。姉から言われた言葉が今なら分かる。絶対だと思っていた天照の手からすらも離れる人間。一人ではなく、それも二人。博麗霊夢と北条楠。浮く女と透ける男。少年少女の顔を思い浮かべて、一度目を閉じ大きく笑った。

 

 目を開いた月夜見は再び少女へと向き直り、まあいいだろうと諦めたように口から零す。

 

「……本当に?」

「ああ、約束してやる。お前たち十の一族が信仰を失くすまで手は出さない。藤にも勝ったら諦めてくれと言われたしな。だからそう緊張するな藤」

 

 小刻みに震えている少女の足を一瞥し、頬杖をつきながら月夜見は困ったように小さく笑った。「お兄様……っ」と小さく震えた声で呟く少女から身を背け、再び宇宙へと目を戻した月夜見の背に、話は終えたつもりだったが、また少女の声が流れてきた。

 

「……なんだ? 話は終わりだ。月の観光でもしたいならサグメに言え、お前ならまあいいだろう」

「ああいえ……、そうではなく、その」

 

 なんとも歯切れの悪い少女に、言うならさっさとしろと月夜見が手を振れば、意を決したように少女は拳を握り三つ目となら棒突きキャンディーを口に押し込んだ。黴藤は口になにか含まなければ落ち着かないのかと呆れながらも、月夜見は耳を澄ます。

 

「お兄様……ッ、いえ、先代が気にしていたことなのですが、なぜ月夜見様が行動を起こしたのが今なのかと」

「……なに?」

「人々も神の名を未だ覚えており、文明レベルも月に追いついていない今という好機は分かるが、それでも分からないことがあると。信仰は別に人からでなくても集められる。人の信仰を取り戻す必要がなぜあるのか、天照の力が落ちると困ることがあるのかと気にしておりました。月夜見様が動いた真意を知りたいと」

「真意? ……愛する姉のためでは不満か?」

 

 くるくると椅子を回してそう言い切った月夜見を見て、「……いえ」と藤は小さく頭を下げた。失礼しますと出て行こうとする少女の背を見つめ、月夜見は重い息を吐き出した。

 

「────もし」

「はい?」

「もしの話だ。天照大神の力が落ち、闇の世界から神さえ恐れる相手が出てくるとしたらどうする? 遥か昔、唯一高天原にさえ手を掛けた存在が蘇る可能性があったとしたら? お前たちはどうする?」

 

 冗談?

 

 月夜見の瞳を覗き込み、一切揺れ動かないのを見て藤は口に咥えていたキャンディーを引き抜き大きく息を吸い込む。本気なのか、冗談なのか。どちらにしても言う言葉は決まっている。そのために百六十五代目 黴藤は月にいる。月夜見の目から目を離さぬように見返して、強く手を握り締めた。

 

「闘います。再び我らが必ず」

「────そうか」

 

 満足したように微笑んだ月夜見の顔を見て、藤は口へとキャンディーを咥え直し扉へと手を掛けた。少し扉を押した後、足を止めた藤に首を傾げる月夜見へと顔だけ振り返り、藤は口の中でキャンディーを転がし、ただ一つ、先代の気にしていたことではなく、己が気になった疑問を零す。

 

「その時は……月夜見様も一緒でしょう?」

 

 少女の問いに返事は返されず、頬杖をついたまま月夜見の笑みがゆっくりと深まるのを確認し、藤は静かに部屋を出る。

 

 

 

 

 ***

 

「よお、繁盛してるみたいだな」

「魔法使いの嬢ちゃんが来なきゃもっとしてるぜ」

 

 楠の皮肉に両手を上げて、魔理沙は焼き鳥屋屋台のカウンターの上で腕を枕に頭を乗せて人相の悪い店員を見上げた。

 

 月軍が幻想郷を侵略しに来てから既に二週間が過ぎている。偽りの幻想郷のおかげで元の幻想郷に被害はほとんどなく、大変だったのは死体処理だ。火焔猫燐やルーミアは喜んでいたが、ほとんどはうんざりとその作業を手伝った。幻想郷を包んでいた血の匂いはすっかり落ち、今では壊れた博麗神社ぐらいしか戦争の爪痕を見ることはできない。

 

 それがいいことなのか悪いことなのかと問われれば、良いことだろうと楠は断言する。賑わっていた方が焼き鳥が売れる。とは言え、二週間前から増え続けている出禁の張り紙を見ると歯を擦り合わせるしかない。死神、天人、天狗と、勝手に焼き鳥を取ってゆく者が増えたせいで、売り上げはいつも雀の涙。今も焼き鳥に手を伸ばそうとする魔理沙の手をはたき落とし、手を摩る魔理沙に歯を擦り合わせる。

 

「諦めて幻想郷に骨を埋めたらどうだ? 二十両なんて夢のまた夢だろ? それに楠、おまえ輝夜が立て替えてくれるって言ったの断ったんだろ? 私はてっきりここに居つく気になったのかって」

「お恵みで帰るなんてごめんだぜ。しかも二十両じゃねえ、今じゃ神社を壊したからとか難癖つけられて五十両だよ‼︎ ふざけんなよマジで! ぼったくりとかそういうレベルじゃねえだろうが!」

 

 楠を外に返す気がないなと、霊夢が決めたのか紫の策なのか知らないが、魔理沙は楠の冥福を祈るも、それも悪くはないと一人笑う。ぶつぶつ文句を言いながら焼き鳥をひっくり返す楠と空に高く上った太陽を見て、魔理沙は慌てて席を立つ。

 

「なんだよ、用事でもあるのか?」

「まあな、昼にこころと梍が第一回のスーパー能楽やるんだってさ。演目はこの前の戦いで! 私の活躍が見れるぜ! 楠も来るか?」

「あー、やめとくよ。まあ感想今度聞かせてくれ」

「分かったぜ! じゃあな!」

「あぁ⁉︎ じゃあなって焼き鳥取ってくんじゃねえ‼︎ 泥棒だぁ‼︎」

 

 楠は周りに訴えるが、いつものことかと相手にされない。犯罪を黙認する幻想郷にやっぱり嫌いだと愚痴を言い、魔理沙の出禁の紙にツケを足す。こころと梍のスーパー能楽。お試し版なら楠も見たが、なかなかに禍々しく出来上がっていた。が、楠からすれば自分の出る演目など恥ずかしいので見たくはない。嬉々として見に行く魔理沙も魔理沙だとため息を吐きながら、店先に新たにたった人影に楠は歯を擦り合わせた。大きな鎌を肩に掛けた影は、最近よく見る死神の姿。歓迎せずにさっさと帰れと手を振る楠の姿に小町は苦笑し席に座る。

 

「座んな、帰れ、ここはアンタのおサボりスポットじゃねえ」

「おいおい、第一声が帰れとは穏やかじゃないね。それにあたいは良心的なお客だろう? ちゃんと代金は払うし、持ち帰り用まで買うんだからさ」

「死神が居ると客足が死ぬんだよ。アンタが居る内はほとんど客が来なくなるんだ! 長居禁止だ禁止‼︎」

「酷い店員だね全く。まああたいも今日は用があって来たのさ。それ、まだ貼ってるんだね、もうこの屋台にしか貼ってないのに」

 

 盗賊注意の張り紙を指差す死神に、楠は肩を竦めて返した。剥がしてしまってもいいのだが、小町の言う通り人里に貼られて残っている大盗賊の人相書きは、焼き鳥屋の屋台に貼られた一枚きり。一枚ぐらい残っててもいいだろうと小町の話を聞き流す楠に、死神は薄く笑うとそれを破り懐から一枚の紙を取り出した。

 

「おい‼︎」

「まあ待ちなって。そろそろ張り替えの時期だろう? 実は最近になってこんな奴が出没しててね、危ないからここに貼っといとくれ」

 

 そう言って小町から渡された悪霊注意の張り紙を見て楠は固まる。

 

「どこぞの小ちゃな盗賊二人が裁かれる前の罪人を盗んじまってね。まさか繋いどいた鎖が壊されるなんて思わなくて地獄は大騒ぎ。危ないから人里にも報せにね」

「……ふーん、まあ貼っといていいけど、なんでそうなったんだ?」

 

 不敵な笑みを浮かべた綿毛のような髪の男の人相書きを屋台に貼り付ける楠に笑い声を返して、小町は困ったように大袈裟に肩を竦める。

 

「実は二人ほど死神に新人が入ったんだよ、罪が大き過ぎて刑期が凄いんでそのままじゃもったいないってさ。なかなか優秀な新人で、鎌じゃなくて西洋剣使ったり煙ばっかり吹いてる変わり者たちだけど使えると思って任せたらってわけ。まあ新人ならミスもするさね」

「……あっそ、ほら、持ち帰り用オマケしてやるからさっさと帰れ、新人教育でも頑張りな」

「へいへい、酷い店員だね全く」

 

 大量に焼き鳥と焼き筍をオマケしてやり死神を追い返す。ただでさえ死神が常連ということで、死神まで気に入る! と死神が居座ってる! という二つの良い噂と悪い噂が人里に流れているのは宜しくない。不機嫌そうな嬉しそうな楠にまた来ると小町が手を振れば、楠も怠そうに手を振り返した。

 

 そんな楠の頭上から、「あややや」と聞きたくない声が流れて来て再び楠は小さく歯を擦り合わせた。もう連日嫌な常連客ばかりで頭痛の種だ。黒い翼をはためかせて店先に足を下ろす新聞記者に摘んだ塩を楠が投げつければ、にやけた笑みを返されて楠は若干引いた。

 

「いやいや見てしまいましたよ! 人里で知る人ぞ知る焼き鳥屋台の店員が死神とまで知り合いだとは! 最近天人や仙人に死神がよくちょっかいを出しているのと関係でも?」

「帰れゴシップ記者! 知るかそんなの!」

「まあまあここは情報交換といきましょう!」

 

 逞しい記者根性で椅子に座る烏天狗に口端を引攣らせながら、楠は仕方なく追い返すことを諦める。天狗に本気で動かれれば、それを追うのは徒労でしかない。嫌々焼き鳥をひっくり返す楠を見て懐から手帳を取り出した文は、ページをパラパラと捲り手に取ったペンの先をペロリと舐めた。

 

「ではまずそうですねえ、あのスキマ妖怪が弟子を取ったのをご存知ですか?」

「ああ、漆だろ、式神の修行で。日本一の陰陽師になるってさ」

「やはりご存知でしたか、スキマ妖怪の考えはなんなんでしょうね」

「知るか」

 

 漆のやっていることなど楠は知らない。早苗と菫子とよく屋台に顔を出しに来るくらいだ。数少ないしっかり代金を払っていく三人なので、楠も上客と記憶している。ただ代金をちゃんと払うだけで上客なのが悲しいとため息を吐く楠を一瞥し、文はページを一枚捲った。

 

「では月軍襲来で見事な策を打ち立てた櫟さんが天人や仙人に修行をつけて貰っているのは?」

「……よくやるよなあ、それより梓さんは? どうしてる?」

「梓さんは療養のために地底ですよ。リハビリで鬼と喧嘩しているとか」

 

 うげえ、と楠は肩を大きく上げて首を振った。鬼とリハビリで喧嘩なんて絶対に楠はごめんだ。楠を見てなにが分かるのか、手帳にペンを滑るように走らせる文を見て楠は手を止めると、一度妖怪の山へと顔を向けた。少し気まずそうに「そう言えば」と適当に間をとって新聞記者に向き直る。

 

「次の天魔は決まったのか?」

「いえ全く。話し合いが長引いて妖怪の山はてんやわんやですよ。天魔様の遺言状のせいというのもありますけど、天狗も減って今妖怪の山は結構他の妖怪も好き勝手やってますしね。にとりさんなんかは月のナノマシンでなにかを集めてるそうですよ?」

「そうかい、まあ……どうだっていいけど」

「貴方から聞いて来たのに酷いですねー、それよりまだ店長さんは帰って来ないんですか?」

 

 文の中言葉に楠は苦笑しながら見ての通りと両手を上げて答えた。神の火に焼かれてから未だに妹紅は姿を現さない。輝夜の失くなった手足が永琳の治療で生えたもののまだうまく動かないように、神の力はやはり甘くはない。妹紅がいないことで減給される心配はないが、食い逃げ犯が増えたせいでプラマイゼロだ。二週間も一人で焼き鳥屋台を切り盛りしている楠は、すっかり平城十傑の中では一番幻想郷に馴染んでいる。一番帰りたがっている男が一番馴染んでいるという矛盾に文は悪い笑みを浮かべた。

 

「それで楠さん、霊夢さんと付き合ってるって本当ですか?」

「はあ⁉︎ その噂まだ生きてるの⁉︎ んなわけねえだろ! 魔法使いの嬢ちゃんだな‼︎ クソが!」

「おお怖い怖い、鬼の居ぬ間に帰りましょう」

「ああこら待て‼︎」

 

 さり気なく焼き筍を一本奪いながらあっという間に文は風に溶ける。幻想郷最速の食い逃げ犯を掴むことは叶わず、屋台から身を乗り出した楠の目にもう文の姿は映らない。歯を擦り合わせる楠の頭に、ペシリともうすっかり慣れた感触が落とされ、顔を上げた楠の前にいつの間にか紅白巫女が立っている。

 

「また来たのか巫女さん」

「……逃げないように監視よ監視」

「どこに逃げるんだよ……」

 

 そっぽを向いて勝手にカウンターの席に腰を落とす霊夢に、楠は苦い顔を向けるだけでなにも言わない。連日やって来ては特になにか言うわけでもなく居座る霊夢は暇なのか、楠の知ったことではないが、博麗の巫女が常連というのは、評判としては悪くない。ただ、霊夢が好き勝手売り物を食べるせいで売り上げには貢献していない。困った常連客にため息を零し、楠は焼けた焼き鳥を一本霊夢に差し出す。

 

「ほら、一本やるから帰れ帰れ」

「客商売舐めすぎでしょ、どこに客を追い返す店員がいるのよ」

「食い逃げ常習犯がなに言いやがる! ったく……」

「捕まってないから犯罪じゃないわね」

 

 酷い屁理屈にため息も出ない。鼻を鳴らす楠の顔を頬杖つきながら霊夢は見上げ、呆けたように瞬きを繰り返す。

 

「──あんたがねぇ」

「なんだよ」

「……別に、……ねえ、戦争は終わったのに、あんたがやりたいことってこれなの? カラオケ? 行きたいとか恋人欲しいとか言ってたのに」

「うっせ、余計なお世話だよ」

 

 顔の前で手を振って、楠は自分に向けられている少女の視線を散らす。普通の生活は大変に魅力的だ。だが、楠はまだその生活に行くわけにもいかない。初代からこれまで、藤原家から離れてかぐや姫を追った。長い長い時間放っておき、ようやく目的を果たせたのだ。長い間離れていた藤原家の最後の少女。これまで妹紅を待たせて来たのだから今度待つのは北条の番。

 

 決して口には出さず、誰に言うことなく楠は手慣れた様子で焼き鳥をひっくり返す。そんな楠に呆れたように霊夢は首を回し、うんと小さく伸びをする。

 

「で? 楠、明日は神社の修繕に来るんでしょ?」

「うへぇ、おい月夜見はどうしたんだよ! 顎で使うとか言ってたろ!」

「だって来ないんだから仕方ないでしょ」

「天照大神に呼ばせろ! きっと来るぞ!」

「なかなかエグいこと考えるわねあんた……」

 

 だがいい手だろう? と悪い顔をする楠に、霊夢も悪い顔を返す。天照を伝書鳩のように使う二人の会話を加奈子あたりが聞けば口の端を一気に落とすだろう。

 

「ま、やってみましょ。苦労した分神にも働いて貰わなきゃね」

「それがいい、だから俺には頼むな」

「なに言ってんの楠、あんたもよ。明日は来なさい、いいわね」

 

 ふわりと飛んで行く博麗の巫女の背を見送り、楠はまた焼き筍をひっくり返す。パチパチと弾ける炭を見つめながら、額を伝う汗を払う。ひっきりなしに来る困った常連客たちは暇なのか。それとも月軍さえ来なければこんなものか。

 

 月軍との戦いは終わった。

 

 が、どうにもその実感が湧かない。もう戦わなくてもいいはずなのに、朝起きれば楠は刀を振っている。結局刀を振っていなければ落ち着かない。こんなことで普通の生活が送れるのか。それは楠自身にも分からない。ただこうして屋台に立っていれば、馬鹿やってるんじゃないと頭を小突いてくれる少女が、いつか必ず帰って来ると信じるから。

 

 暖簾を掻き分けてまた一人新しく席に座った人影に、楠は歯を擦り合わせ顔を上げた。

 

 席に座った人影を見つめ、楠の歯軋りは萎んでゆく。

 

 陽の光を反射して輝く銀色の川を目で追って、楠は一度顔を伏せる。顔を上げた時、少女がまだいるのなら、それはきっと幻ではないから。

 

「──遅いじゃないか、爺さんになっても来ないんじゃないかって少し思い始めてたところだ」

 

 呆れたように息を零す少女の笑みに、楠は微笑みを返し少女が口を開くよりも早く言葉を吐き出す。

 

 先に言いたい。

 

 きっと素敵な明日のために。

 

 その言葉が新たな竹取物語の終わり。

 

 新たな物語の始まりだから──。

 

 

 

 

 

 

 

「おかえり」

 

 

 ────────月軍死すべし 完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『北条 楠』

 妹紅と屋台を続けながら帰りの資金を貯めているがいつ貯まるか分からない。博麗神社を修繕しながら、霊夢や魔理沙や輝夜にからかわれている。刀はもう振らなくてもいいはずなのだが、月から剣豪が手合わせに来るようになったせいで、手を抜くとガチで斬りに来るため鍛錬をやめることもできない。八雲紫が絶対外の世界に帰さないように画策中。

 

 

『五辻 桐』

 春になり桜の舞う季節、白玉楼に亡霊が一体訪れた。ふやけた笑みを浮かべる亡霊の姿に、半人半霊の庭師は涙目になりながら思い切り楼観剣の鞘を亡霊の頭へ落とし、亡霊の姫は顔を扇子で隠しあらあらと笑った。新しく増えた亡霊が剣術指南役を引き継ぎ、白玉楼では毎朝剣戟の音が、毎夜琴の音色が響いているとかいないとか。

 

 

『袴垂 椹』

 地獄で二人の小さな盗賊が、大盗賊の亡者を盗んだ。死神に追い掛けられることになったのだが、大盗賊の悪霊は不敵な笑みを崩さずに小さな盗賊二人と幻想郷を飛び回っている。新しく悪霊注意の張り紙が人里の至る所に貼られ、物が突然なくなるのはこの悪霊のせいだとか。死神だけでなくたまに紅魔のメイドにまで追い掛けられているらしい。

 

 

『足利 梓』

 全身火傷の痕が残ったが、それを隠すこともなく堂々と晒している。地底の温泉で療養しつつ、リハビリと称して怪力乱神とよく喧嘩をしては地底の主に怒られている。だいたい罰として地底の主とよく将棋を指すのだが、梓が勝てた試しがない。のに、楽しそうに将棋を指している。次はどんな夢を追おうか、たまに平城十傑と話すのが彼の楽しみ。

 

 

『坊門 菖』

 偽月軍を率い多くの者を死地へと扇動した罪で、果てしなく長い刑期を課せられる。だが、ある死神の口添えで、刑期を終えるまで死神として働くことになった。閻魔様とサボリ魔の死神に挟まれて気苦労の絶えぬ日々を送っている。暇な時は片腕有角の仙人にちょっかいを出しに地上に出ている。そのせいで幻想郷中の仙人から恐れられているのだが、本人は気付いていない。

 

 

『唐橋 櫟』

 月との戦いが終わり、その記録を纏めて本を出版した。貸本屋の少女や、稗田の娘と仲良くなり、幻想郷の情報を纏めるのを手伝ったりしている。ある死神の新人二人の噂を聞き、片腕有角の仙人と非想非非想天の娘に弟子入りした。やたらと気合いと根性を押し売りされるのが師への悩み。そのせいで少し脳筋になった。

 

 

『黴 藤』

 膨大な数の死者を出した罪により、果てしなく長い刑期を課せられる。だが、ある死神の口添えで、刑期を終えるまで死神として働くことになった。裏で勝手に動くせいで、閻魔様に目をつけられている。早速大盗賊の亡者を逃した間抜け。暇な時は天界に上り非想非非想天の娘をからかいに行っている。天界に上るたびに天界は阿鼻叫喚となるが、不良天人だけは歓迎してくれる。

 

 

『蘆屋 漆』

 八雲紫に弟子入りした。ウルシがいなければ何もできないと言われないため、自分を磨くために。橙を早速陰陽術で抜いたため、姉弟子としての威厳がないと橙は頭を抱えた。早苗と菫子と共に探検隊を結成し不思議を追うのが漆の休日。ウルシという名の小さな白い女の子をよく傍に連れている姿が目撃される。

 

 

『岩倉 菫』

 現天魔が亡くなったおかげで妖怪の山はてんやわんや。にとりは間欠泉センターの所長を押し付けられ、そのボディーガードを作るために月のナノマシンでヒヒイロカネを集め一体の絡繰人形を組み立てた。どうも絡繰人形はいくつか記憶が抜け落ちているらしいが、にとりの側は悪くないと思っているので、ボディーガードを快く引き受けている。

 

 

『六角 梍』

 片目を眼帯で覆うようになり、余計に見た目が悪くなった。残った邪眼をもう隠すことはなく、秦こころと共にスーパー能楽とやらを幻想郷中で繰り広げている。月の使者との戦いの演目が何より人気であるのだが、恥ずかしがって平城十傑の者たちが全く見に来てくれないのが一番の悩み。ぬえやマミゾウも一緒に四人で演目をやることもあり、その際は人妖問わず多くの者が見に来る。こころは新しく劇団を作ろうと画策中。梍は勝手に副団長にされた。

 

 

 ────────またいつかどこかで。つづく。

 

 

 

 




皆様ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!
これにてかぐや姫と月と平城十傑の物語はひとまずお終いとさせていただきます!
物語は目的ありきのものだと思うので、月の話は一旦完結です。
東方の二次創作は自由度が高くて楽しいですね。
私はどうしてもオリキャラをてんこ盛りにしてしまうタイプなので、もうオリジナル書けよと思われてたりするかもしれませんが、東方Projectで書きたかったんだよ……。
死んだ者たちをどうするか悩みましたが、幻想郷は人妖のバランスをとらなければならないので、丁度半分でバランスとれたかな?
一応次回作も考えているのですが詳しくは割烹で。
いただけた感想が本当に励みになりました!
本当の本当にありがとうございます!
もう感謝が尽きませんがこの辺で、またどこかでお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

外伝
北条楠、強制お見合い編


たくさんの感想とアンケートの回答ありがとうございます!
外伝は一話完結の短編集です。
平城十傑のなんでもない幻想郷での日々の寄せ集め集。
第二幕までの本編を読了してから読むのをオススメします。
それではどうぞ。













「なぜここにいるか分かりますわね」

「……いや全く」

 

 困った子供を見るように口元を扇子で隠す幻想郷の賢者の姿に、楠は歯を強く擦り合わせる。当然楠が理解していると言わんばかりに紫は断言しているが、楠はさっぱり分かっていない。それもそのはず、屋台の休憩で人里を歩いていたら突如足元にスキマが開き落とされた。覚妖怪でもない楠に、それで全貌を知れという方が無理な話だ。

 

 だが、ある程度の予想は楠にもできる。

 

 八雲紫は幻想郷の賢者。それは幻想郷に住んでいようがいまいが、全ての者が知っている。幾人か幻想郷の賢者がいようとその顔役は八雲紫。幻想郷を生物として例えるなら、その頭脳こそ彼女である。そんな紫に楠は呼び出された。ということは幻想郷に関することのはず。ただ、楠が周りを見たところ楠と紫の二人だけ。完全には理解不能と首を傾げる楠に、紫は鋭く目を細める。

 

「実は楠、今日は折り入って貴方に頼みがあるのよ」

 

 そう言って紫は、月夜見に千切られ未だ傷の癒えていない腕に巻かれた包帯を優しくこれ見よがしに撫ぜた。そんな賢者の姿に楠は困ったように小さく息を零す。

 

 平城十傑にも頭脳労働担当がいる。櫟と藤。だいたい頭脳などと比喩されるような者の頼み事が、面倒でないわけがないことを楠だって知っている。ある日楠の寺にふらりと訪れた藤の頼みをよく話も聞かずに安易に引き受けた結果、「エリア51に侵入する」と、藤と菖と楠の三人で即日アメリカに発った日のことを楠は昨日のことのように思い出せる。それを思えば楠の気も重くなるが、困ったことに幻想郷には妹紅と、ついでに輝夜がいるので一方的に断るのも忍びない。

 

「なんで俺なんですか?」と、取り敢えず間を繋ごうと放った楠の言葉に、紫はパシリッと扇子を強く閉じ、「貴方しか頼める相手がいないのよ」とか細く返す。

 

 引き絞られた紫の瞳と目を合わせ、楠は内心で舌を打った。如何にも面倒そうな案件。だが、参謀や頭脳、智慧者と呼ばれる者たちは、絶対に不可能なことは頼まない。その者ならば可能だと信じるが故に口を開く。

 

 幻想郷から外の世界に帰る方法の数あるもののうちの一つ、紫にスキマで帰して貰えるかもしれない事を考えれば、紫に恩を売っておいて損はない。そう考えて楠は細く息を吐き出した。「兎に角話は聞きましょう」と口を開いた楠に、紫は柔らかく微笑んでみせる。

 

「楠、貴方にやって貰いたいのは至って簡単よ。それは……」

「それは?」

「────お見合い、ですわ!」

「なんっ……だ……と……ッ⁉︎」

 

 お見合い。

 

 お見合いとは、結婚を希望する男性と女性が、第三者の仲介によって対面するアレである。世話人と呼ばれる第三者が、見合いをしたいと言う者のプロフィールを受け取り、釣り合いの取れそうな者を引き合わせたり、由緒正しい家の者同士が示し合わせて子供たちを引き合わせたりするアレである。なんであれ、最終的に行き着く先は『結婚』と呼ばれる人生の墓場。

 

 なぜかしてやったりと得意げに静かに笑みを浮かべる紫と、表情筋が死滅し顔から色の滑り落ちた楠の間に静寂が流れる。その無音が止まないうちに音もなく楠はスッと立ち上がると頭を掻き、「帰る」と一言。迷いなく縁側に続く障子に手を掛ける楠にあらあらと紫は笑いながら、スキマで一気に距離を詰めて楠の肩にペシリと閉じた扇子を落とした。

 

「まったく……、貴方はやると言ったでしょう?」

「言ってねえんだわあ‼︎ 話は聞くって言ったんだよ! お見合い? するわけねえだろ! 俺は帰る!」

「でももう何人か来て貰っているのよ? 貴方は折角女性がお見合いに来てくれたというのに一方的に帰るというのは甲斐性に掛けるのではなくて?」

「なんで俺の了承も取らずにもう見合い相手来てんの⁉︎ それも何人かってなんだ⁉︎ 意味が分からん!」

 

「だからそれをこれから説明しますわ」と言って、紫はキリリと険しい目を浮かべ楠に座るように扇子で促した。ギリギリと歯を擦り合わせるものの、真面目な顔の紫に引っ張られるように、話は聞くと言った手前渋々楠は初め座っていた座布団の上へと腰を下ろす。そんな平城十傑の鬼武者に紫は内心でほくそ笑んだ。

 

 座り会話の形にさえなれば紫のもの。毎日毎日口癖のように「早く帰りてえな」と口遊んでいる楠を、外の世界に帰す気など残念ながら紫の頭には毛頭ない。一人では無理であろうとも、依姫を斬り、なにより霊夢と共に月夜見を斬った男。それほどの戦力がわざわざ幻想郷に居るというのに紫が手放すはずがなかった。しかも小難しい蓬莱人である輝夜と妹紅の二人に顔が効き、対等に言い合える。これだけとっても居て貰った方が得だ。

 

 紫に呼ばれた藍が向かい合う主と怪物人間の前に茶の入った湯呑みを置くとそそくさと出て行く。揺らめく九本の狐の尻尾を目で追う楠の意識を無駄に引き締めるため、紫は一度大きく咳払いをする。自分に楠の意識が向いたのを紫は確認し、茶を一口含み唇を湿らせた。

 

「お見合いと言ってもお試しのようなものよ、月との戦いで多くの者が命を落とした。勝てはしたけれど、だからこそ、将来というものに目を向ける者もちらほらと幻想郷の中で出て来たというわけよ。とは言え何事も初めては緊張するから練習は必要、楠にはその練習相手になって欲しいのですわ」

「あぁ……、いや、分かったけどそれなら梓さんとか藤さんの方がいいだろ。梓さんや藤さんなら貴族とかが出る欧米の社交界にまで出てるし慣れてるぞ」

「死神や怪我人に頼むわけにはいかないでしょう? それにあまり手慣れてる者に頼むのもねぇ……。それに貴方も、お見合いというものに興味はありませんの?」

 

 紫の問いに楠は言葉に詰まる。したくないと言えば嘘になる。当主だからと言って、北条は残念ながらお見合いをするような一族ではなかった。当主以外の者は違くとも、当主に限って言えばしない。足利、蘆屋などは見合いで結婚相手を選ぶ。楠も少しは羨ましいと思う。

 

「貴方たちの千三百年に及ぶ仕事は終わった。ならこれまでやらなかったことをしても良いでしょうに」

「……まあ、そりゃあそうだけど」

 

 堕ちた! と紫は心の中で拳を握る。ここまで来れば逃れられない。後は見合いの席までトントンと楠の背を押すばかり。

 

「なら貴方の好みを聞いておきましょうか。何人か来ていると言ったでしょう? 練習を頼むのだから好みくらいは貴方に合わせるわ」

「え? いいの? なら女の子らしい子がいいなぁ、パン屋で働いてるとかさ。趣味は刺繍とか! 刀を振ったり、拳で岩を砕くような奴は嫌だ!」

 

「そう」と、適当な相槌を打ちながら紫は頷く。はっきり言って聞いたは聞いたが楠の好みなどどうだっていいのが本音。既に相手は決まっている。ニコニコと「平城十傑の女たちみたいなのは勘弁」と話し続けている楠の話を手に扇子を落とし打ち切って、紫は湯飲みの茶を飲み干した。

 

「期待していいですわ、なら最初は最も女の子らしい女の子を。貴方さえ良ければこれから会う子たちの中から本当に妻を選んでもいいのだけれど」

「いや、そりゃあ俺が良くても向こう次第だろ」

「まあそうね、じゃあ早速どうぞ!」

 

 そう言って紫は隣の部屋へ扇子を差し向ける。

 

「って隣の部屋に居るのかよ⁉︎ 好みとか言わせんじゃねえ! だいたい服とか学ランでいいの⁉︎」

「あら、結界で覆っているから声は届いていませんわ。服も別に気にしなくていいわよ。ささっ」

 

 紫に促され、ため息を吐きながらも楠は立ち上がり襖の前まで歩を進めた。気分が高揚していないと言えば嘘になる。これまで外の世界では平城十傑の櫟や菖ぐらいしかまともに女性と話していない。結婚という、男女の契りとして深い仲になるかもしれない前提で女性と話すなど楠にとって初めてのことだ。サンタに貰ったプレゼントを開ける子供のように、未知のドキドキ感に突き動かされつつ、楠は手を掛けた襖を静かに開けた。

 

 開けた襖が額縁のように先に待っていた女性を彩っている。長い黒髪は絹のように滑らかで、陽の光を受けてキラキラと光っていた。桜色の唇は柔らかそうで、紅い瞳の鮮烈さが、その柔らかさに鋭さを加えていた。いつもとは違う夜色の着物を身に纏った女性こそ、平城京で帝さえ愛したかぐ────。

 

 

 

 

 

「すいません」と、楠はゆっくり襖を閉める。

 

 

 

 

 

「…………おい」

「なにかしら?」

「おい、アンタさっき将来を考え出してとか言ってたよな? 将来? 将来が無限の野郎が居るんだが。しかも俺ついさっき岩を砕くような女は嫌だって言ったはずなんだが。女の子らしい女の子? はあ⁉︎ 俺怒っていい?」

「あら、彼女は平城京一の才女よ? 彼女ほど女性らしい女性なんて早々いないと思うけれど」

 

「そりゃそうだ!」と楠は半ばヤケになって笑いながら膝を叩く。かぐや姫より美人なやつを連れて来いなんて言ったところで、それは不可能に近い絶世の美女。輝夜は美人だ、それは楠も認める。が、輝夜に関して言えば、楠からすれば容姿以外の問題が多過ぎる。ただでさえ毎日屋台から焼き鳥を奪ってゆくケチな大富豪。しかも他の者と違って須臾の間に奪うせいで防ぐこともできない。たまにバイトに来ては売り子を楠一人に任せる体たらくぶりを考えれば、女の子らしい女の子に当てはまるわけもない。

 

 だいたい普段顔を合わせているのに、なぜこんな風に改まって真面目に顔を突き合わせなければならないのか。ただただ楠は見合い相手から頭痛しか貰えない。

 

「最初は楠も見合いに慣れてそうな相手の方がいいと思ったのだけれど」

「慣れてるって? そりゃあ慣れてるだろうよ! 帝に求婚されるような奴だからな‼︎」

「なにが不満なのかしら?」

「全部だよ全部‼︎ くそったれ!!!!」

 

 理解できないと首を傾げる紫に楠が強く歯を擦り合わせていると、襖が力強くスパン! と音を立てて開いた。不満そうに眉間に皺を寄せて立っている輝夜に、力なく楠は顔を向け、肩を落とす楠を見つけ輝夜は大きく息を吐く。

 

「ちょっと、楠がどぉぉぉぉしても! 私とお見合いしたいって言うから来てあげたのになんで第一声がすいませんで襖閉めてるのよ!」

「俺はアンタとお見合いしたいなんて言った覚えねえよ! おい、スキマ妖怪! アンタ計ったな‼︎」

「あら、やってもいいって言っていたじゃない、私は確かに聞いたわよ」

 

 これだから頭脳担当だの賢者だのは嫌なんだと楠は頭を抱える。お見合い相手が知り合いなどと言われていないし、それもかぐや姫だなんて聞いていない。どうせ文句を言っても聞かれなかったで一蹴される事が楠にも手に取るように分かってしまう。どうにもならない状況に唸る楠に輝夜は唇を尖らせて、今日のために新しく仕立てた着物を楠に見せつけるように翻した。

 

「全く、私とお見合いできるなんて光栄なことなのよ! 折角新しい難題も楠のために考えてあげたんだから!」

「なんで見合いと難題がセットなんだよ⁉︎ そりゃもう見合いじゃなくてなぞなぞ大会かなんかだろ! だいたい難題だってアンタが結婚したくないから考えたやつで、そもそもアンタと結婚する気もねえ俺がなぁんでやらなきゃいけねえんだ‼︎ 難題の押し売りはやめろ! 俺はクイズ王でもなんでもねえんだわ‼︎」

「な、なによ折角来てあげたのに」

 

 しおらしくシュンとなる輝夜に、流石に楠も言葉が出ない。どれほど気に入らなかろうと輝夜の容姿は一級品。儚げな姿はどうしても目を惹き、楠は別に悪くないはずなのに悪いことをしている気になってくる。気不味く頬を掻く楠に、輝夜はちらりと上目使いに顔を伏せた。

 

「わ、私だって見合いの相手ぐらい選ぶわよ。どこの馬の骨かも分からない相手だったらそもそも来ないし……、楠だから来たんだもん……」

「……お、おう」

 

 かぐや姫に貴方のために来たと言われて嬉しくない男などいない。それは楠だって然り。憂を帯びた輝夜の表情に、ついつい顔が赤くなる。バツ悪そうにそっぽを向き、素っ気ない楠の返事を聞いて輝夜は悪い笑みを浮かべると楠に擦り寄りその頬っぺたを突っついた。

 

「なに楠、ドキッとした? 私にドキッとした? 惚れちゃった? はぁぁ、私も罪な女ね!」

「アンタなぁぁぁぁ⁉︎」

「ふーんだ! 男が私を手玉に取ろうなんて千年早いわ! 本気にならなきゃ私には追いつけないわよ、く、す、の、き?」

「ふんっ!」

「痛ったっ⁉︎」

 

 ペシリと輝夜にデコピンを見舞い、輝夜が額を抑えている間に隣の部屋へと押し込むと楠は襖を乱暴に閉めた。輝夜に少しでも見惚れてしまった自己嫌悪に歯を擦り合わせながら紫を睨む。ドタドタ軋む襖にため息を吐き、紫が手を振れば暴れていた襖がスッと静まった。それを確認し全筋肉をフル回転させて抑えていた襖からようやっと楠は手を離す。そしてスッと紫の前を通り過ぎ藍が持って来てくれた茶を飲み干すと縁側に続く障子に手を掛ける。

 

「こらこら、なにを帰ろうとしているのかしら?」

「そりゃあ帰るだろ! 今の感じで寧ろ帰らねえ方が変だろうが!」

「仕方ないわね、分かったわ、私が悪かったわよ。でももう一人くらいは相手をしてあげて頂戴。今度は先に写真を見て貴方が相手を決めていいから」

 

 いかにも悪かったという表情を顔に貼り付けた紫に、楠は少しの間考え込み大きく首を回すと、深いため息を吐いて障子から手を放す。

 

「……おい、次は本当に大丈夫なんだろうな? 襖を開けたら月の剣豪がとかだったらマジでもう帰るぞ」

「依姫なんて流石の私でも呼べませんわ。大丈夫、そうならないために写真があるのだから」

 

 初めてやったお見合いが輝夜とあんなのなんて楠も御免だ。そもそも写真があるのなら最初から出せと顔を顰める楠の目の前に、紫が指を弾いた瞬間に中々の量の見合い写真が落ちてきた。無駄に豪華な包装をされた写真たちにがっくりと楠の肩が落ちる。

 

「え、あとこんなにいるの?」

「その中から一人を選んでくれればいいわ。流石にそれだけの人数の相手をしてくれとは言わないわよ」

 

 紫はそう言い切ったが、それはそれで来てくれている者に悪いんじゃないかと思いつつ、楠は取り敢えず積まれている見合い写真の一番上を手に取り広げる。

 

 その中に貼られた写真を見て楠は僅かに目を見開いた。縁側に座った少女の写真。お祓い棒を傍らにほっぽり湯飲みを持った紅と白の巫女装束を纏った少女。またしても知り合いという事にも驚いたが、それよりも少女がお見合いをしたいということが信じられない。

 

「巫女さんが? マジで? 意外だ……。こういうの全く興味なさそうなのに」

「霊夢もお年頃というやつよ。霊夢にする?」

「いや、他のも見るよ」

 

 珍しいこともあるもんだと一人唸りながら、楠は次の写真を手に取る。博麗の巫女もお見合いをするとは新発見。次はどんな相手が出てくるのか写真を開いた楠の眉が僅かに跳ねる。

 

 竹箒を手に参道に立つ少女の写真。特になにも考えていないのか、無表情で落ち葉を掃く紅白巫女の姿を二度見し、しばしの間楠は固まり写真を閉じた。まさか二度も同じ姿を見るとは予想外だ。辺鄙な場所に住んでいる少女はああ見えて伴侶に飢えているのかと勘繰りながら楠は次の写真を無言で手に取り開く。

 

「……おい」

「なにかしら?」

 

 返される紫の素晴らしい笑顔に歯を擦り合わせながら楠は写真に目を戻す。割烹着を着てなにかを煮込んでいるらしい博麗の巫女の料理姿。小さな皿を手に持ち味見をしているように見える。が、そんなことはどうでもよろしい。二度あることは三度あるとでも言いたいのか、ブレない紫の笑顔に舌を打ちつつ楠はまた次の写真を手に取った。そして開きすぐに閉じる。そして次へ。

 

 開く。

 閉じる。

 次へ。

 開く。

 閉じる。

 次へ。

 開く。

 閉じる。

 次へ────。

 

「……こいつはアルバムか何かか?」

 

 博麗の巫女の寝起き姿。

 博麗の巫女の祭事風景。

 博麗の巫女の座禅。

 博麗の巫女の雑巾掛け。

 かぐや姫が餅を跟いてる。

 博麗の巫女の食事風景。

 博麗の巫女が焼き芋焼いてる。

 博麗の巫女の湯浴み風景。

 博麗の巫女の寝間着姿。

 

 さり気なく混じっていた輝夜は置いておき、開いても開いても待っているのは博麗の巫女。一応最後まで全てを開いて見て、九割九分九厘博麗の巫女だったのを確認し終えた楠の表情が死んだ。

 

 お見合いの経験が全くないと言っていい楠にも分かる。いろいろとおかしなことがあり過ぎて、どこからツッコメばいいのか分からない。これだったら一枚だけにしろ、とか。盗撮じゃないのか、とか。言いたいことはいろいろあるが楠の取る行動はたったのひとつ。紫の顔を楠は真正面から見据えて、紫が聞き間違えたりしないようにゆっくりと大きく口を動かす。

 

「帰る」

「もう、またすぐそうやって帰ろうとして、霊夢はもう来てるのよ?」

「だと思ったわ! 霊夢にする? じゃねえんだよ! 巫女さんしかいねえじゃねえか! 初めからそのつもりだったろ! 一択だけなのに選択肢あるようにひけらかしやがって! 詐欺だよ!」

「あら輝夜のもあったじゃない」

「今さっきあんな感じで別れたのに選ぶわけねえだろう⁉︎ 選ぶやつはドMとかもうそういう次元じゃねえから!」

 

 元気が有り余っているようでよろしいと紫は手の中にポンと扇子落とし、隣の部屋に向けて扇子の先を向ける。楠の取れる選択肢は帰るか行くかだが、これに関しても行く以外に選択肢がない。一人目の相手だった輝夜と同じく、なにを言われて霊夢が来ているのか分かったものではない。ここで楠が有無を言わせず帰った場合、最も確実な金さえ払えば帰れる手段が、また一段と遠のく可能性が高かった。紫の頼みに楠が腰を下ろした時点で既に全ては紫の手のひらの上、これだから頭脳なんて呼ばれてる奴はと歯軋りしながら楠は渋々襖へと手を掛けた。

 

 襖の先には人影はなく、楠が顔を出して辺りを見回せば縁側に座り茶を啜っている霊夢の背中が目に入った。襖が開いたことに気付いているのかいないのか、微動だにせず湯飲みを傾ける霊夢の背に足を向ければ、部屋に入ったと同時に勝手に襖が閉じる。

 

 トンッとカチ鳴った襖の音に小さく肩を跳ねさせるも霊夢は振り向かない。永遠にただ突っ立っているわけにもいかず、襖を開けようにもビクともしないため恐る恐る楠は霊夢の横へ足を進めると腰を下ろす。空になった湯飲みに再び霊夢は茶を淹れ、楠の分も淹れると縁側の上に二つの湯飲みを並べた。

 

「……──意外ね、あんたが私とお見合いしたいだなんて」

「いやそれは……」

 

 やっぱりそうなってんだろうなぁ‼︎ と叫びそうになるのを堪えて、楠は心の中で拳を握る。この言いようのない感情を拳として握り紫にぶつけなければ気が済まない。次紫の顔を見たら一発お見舞いしようと心に決める楠の横で、霊夢は細くため息を吐きだす。

 

「どうせ紫がなにかしたんでしょ、あんたが自分から言うようには見えないし」

「まあその通りだけど……、分かってたならなんで来たんだ?」

「美味しいものどれだけ食べてもいいって言うから」

 

 巫女さんらしい、と呆れた楠のジト目を完全にスルーして霊夢は再び茶を啜る。ため息を零す楠を横目に見ながら、霊夢は湯飲みを置いて軽く自分の手を握った。別になにもないならそれでいいと、ボーっと赤らんできた外の景色へ顔を向けている楠の目が霊夢の方へ動き、目が合わないように霊夢は目を外らす。

 

「あんたはなんで来たわけ? 本当にお見合いしたいの?」

「まあ興味はなくはないけどアレだな、知り合いはイヤだなこういうのは」

「そりゃそうでしょ、私だってイヤよ」

「イヤなのに食べ物欲しさに来たのか? 食い気に倒れすぎだろそれは、別に貧乏なわけじゃないだろうに」

「うっさい、節約できるものはできる時にしとくもんなのよ」

 

 そういうもんかねえ、と唸る楠を見て霊夢は再び手を緩く握った。どうにも手のひらが痒くてしょうがない。不機嫌な表情を浮かべる霊夢に、「どうした?」と楠が聞けば、霊夢はたっぷりと時間を使って口を開けたり閉じたりしながらも言葉は口に出さず、おずおずと右の手のひらを楠へと向ける。

 

「なんだよ」

「…………あんたは、今の私に触れる?」

 

 そう言って動きを止めた霊夢と差し出されている霊夢の手のひらを交互に見て、首を傾げた楠が手のひらへと手を伸ばせば、少女の暖かさを感じることもなく楠の手はなにも触れず少女の手をすり抜ける。そこに確かにあるのに触れない。すり抜けた楠の手を見て僅かに落胆の色を滲ませる霊夢に楠は眉を顰めると、ちょっと待ったと学ランの袖をたくし上げる。

 

 そうして楠はただ触るのではなく、壁を透り抜けるつもりで手を伸ばした。不確かな壁は不確かになっても透り抜けることは叶わない。だが、不確かなものは不確かなもの同士結びつく。いつものように透り抜けることなく楠の指先が霊夢の手のひらにぴとりと当たり、楠は得意げに笑みを浮かべた。

 

「どうよ、触ったぞ」

「…………うん

「どうした?」

「……帰る、……またね楠」

 

 楠がなにを言うより早く霊夢は立ち上がると飛んで行ってしまう。わけもわからず固まる楠の肩にポンっとどこからともなく現れたスキマ妖怪の手が置かれ、紫は夕日のせいか顔を赤くした霊夢を見つめ困ったように小さく笑った。

 

「霊夢もまだ若いわね、そう思わない?」

「……さてな、それより出て来たなスキマ妖怪さんよう‼︎」

 

 振りかぶられた楠の拳に片目を瞑りながら焦ることなくスキマを開く。スッと空間に線が入り開いた不思議な空間に舌を打ちつつ、楠はスキマを透り抜けるつもりで殴り飛ばす。砕け散ったスキマの破片が顔の横を通り過ぎるのを眺め紫は堪らず噴き出した。

 

「ちょ⁉︎ スキマを殴るなんてデタラメな」

「一発ぶっ飛ばしてやるこのスキマ野郎! なにが頼みだ! アンタどれだけの奴に俺がお見合いしたいとか吹いたんだくそッ!」

「いや、まあ、はいこれ」

 

 紫が指を弾くのと同時に開いたスキマからひらひらと一枚の紙が舞い落ちた。それを手に掴んだ楠が紙を見てみれば、文々。新聞の号外、その中央に大きく載っている見出しを見て楠の歯がギリギリと擦り合った。

 

 

『平城十傑の北条楠が見合い相手を募集中』

 

 

 破り捨てられた新聞の間を縫って紫に楠の拳が迫る。楠の拳なんて受けたらどうなるか分からないと焦った紫は躊躇なく楠の足元にスキマを開き、落ちてゆく楠の拳が鼻先を掠め紫は割と本気で冷や汗を掻いた。

 

「はぁ……、霊夢も楠も困ったものだわ、まあ見ている分には面白いけれど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ってなことがあったんだよ。……思い出したらイラついて来た!」

「ふーん、そういうわけだったのね」

 

 号外をひらひら手で振って意地悪く笑う妹紅の顔を手を振って追いやり、楠は鼻を鳴らして少し歩く速度を上げる。ただでさえ紫のせいで夕餉前の売り時を逃したというのに、天狗まで巻き込んだ記事のせいで、来る客来る客からかわれて仕方ない。「嫁は決まったか?」と笑いながらやって来た魔理沙の言葉を最後に、「本日は閉店‼︎」と半ば無理矢理店を閉めた楠に妹紅は大いに呆れた。不機嫌を隠すことなく迷いの竹林を歩く楠に妹紅は笑い、歩く速度を上げて護衛役の隣に並ぶ。

 

「お見合いなら私に言ってくれればよかったのに」

「……なんで?」

「私を誰だと思ってるのよ、輝夜ほどじゃなくても経験ぐらいあるわ」

 

 胸を張る妹紅の爪先から頭の天辺までを楠は見回し鼻で笑った。モンペにサスペンダーにカッターシャツ。元貴族だということを知っていても、どこをどう見ても貴族の娘には見えない。笑う楠の頭を妹紅は小突き、「悪かったわね」とそっぽを向いた。

 

「で? お見合いしてどうだった?」

「どうもなにもアレをお見合いって言っていいのか? 少なくとも俺には愛だの恋だのは早いってことが分かったよ。普通は遠いな……、それに幻想郷(こんなところ)にいたんじゃな」

幻想郷(ここ)は嫌い?」

 

 妹紅の顔をしばらく見つめ、楠は細く息を吐き出した。月軍と戦うために幻想郷で動いたおよそ十日間。それからまだ一ヶ月も経っていないというのに、これまでの十数年よりも随分と濃い日々を送っている。気に入らないことも多いが、それを悪いとも思わない。外の世界では少し浮いてしまっても、幻想郷ではそうではない。それに九人の仲間と新たな友人も幻想郷にいる。悪くないと思っていてもわざわざ口に出すのは気恥ずかしく、頭を掻いてより歩く速度を上げる楠に妹紅はくすくすと静かに笑った。

 

 そんな楠の目の前に一枚の小さな紙が舞い落ちる。楠が上に目を向ければ丁度閉じたスキマの姿。地に落ちた紙に書いてある『領収書』の文字を見下ろし楠は固まる。動かない楠の代わりに妹紅が紙を拾い、ずらずら書き綴られている食べ物と飲み物の料金に肩を竦めた。

 

「輝夜も霊夢も遠慮ないわね、貴方にツケられてるけど」

「……ふくく、うっほっは! ふざっけんなよスキマ妖怪! やっぱり幻想郷なんて大っ嫌いだくそったれ!!!!」

 

 迷いの竹林に木霊する楠の叫び声から逃げるように妹紅は楠を追い抜いていち早く我が家に避難する。叫び声の残響は聞けば聞くほど虚しくなるばかり、大きく深いため息を吐いて家へと入って来た楠に妹紅はにんまり笑う。楠より早く家に入るために妹紅は楠の相手をせず置いて来た。嫌いだなんだと言いながら、結局楠は未だに幻想郷からも妹紅の家からも出て行かない。今日もまたそれを確認するために妹紅は耳を澄ます。どうにもむず痒い心の発散の仕方が分からず、楠はムニムニと唇を動かしてまた今日も言い慣れない言葉を口に出す。

 

「────ただいま」

「おかえり、楠」

 

 少女の柔らかい笑みから顔を背け、楠は玄関の戸をゆっくり閉める。残念ながら楠のこの生活はまだしばらく続きそうだ。

 

 

 




外伝は一、二週間に一度ぐらいで更新します。
平城十傑はまたどこかで使おうと思うのでキャラを忘れないためです。
ただ本編より外伝の話数が超えることはないでしょう。
外伝はオマケとしてお楽しみくださると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

櫟VS天子 恋する盲目編

 靡く風に乗って流れる仙桃の香り。柔らかく、芳醇なその香りを辿り櫟はキツく目を引き絞る。眼球のない洞穴が向く先の気配を吸い込んで放さない。軽く腕を振って調子を確かめ、悪くないと拳を握った。何度目かも分からぬ相対。師と仰ぐ者から今日こそ答えを聞くために。

 

「決着をつけましょう天子さん」

 

 腕を組み片目を瞑った天人の姿が櫟には見えずとも見えている。布ズレの音は天子が腕を解いた音。欠片も天子から魔力が湧き出ることはなく、天子は今日もため息を吐いた。その姿が櫟の気に障ったのか、ムッと口を引き結んだ櫟の顔を見て、天子はより深いため息を零した。

 

「決着って……なんのよ」

「そんなこと決まっています! 今日こそ藤さんは譲ってもらいますからね!」

 

 これだ。

 

 修行のために顔を合わせれば第一声はいつもこれ。白煙を吐く新人死神にさっさと引き取って貰いたいのだが、煙に巻かれるばかりで全くそうはなってくれない。月との戦いが終わり、恋に生きると決めた櫟の行動力は凄まじく、死神に会えるかもという理由だけで天子と華扇の弟子となった。理由が面白いからと引き受けた天子の元にちょくちょく藤が顔を出していると知った途端からの毎日に、天子はウンザリと肩を落とすことしかできない。

 

 恋だの愛だの、およそ不老不死であり、遥かに長い時を持つ天子としてはどうだっていいこと。退屈かそうでないかがなにより大事だ。幻想郷を勝利へと導いた参謀の乙女チックさが眩しく鬱陶しい。そんなことのために優秀な頭脳を使っていいのかと天子は思わないでもないが、その無駄遣いする姿は面白いと、結局いつものように少しばかり相手をしてやる。

 

「そんなこと言われても、あっちから勝手に来るのに私にはどうしようもないでしょ」

「ずるいです! 死神になったからって藤さんも菖ちゃんも私には会いに来てくれないのに!」

「あの二人そういうところ真面目よね」

「そこが二人の良いところなんですよ、なんだかんだ言いながらもきっちりやるべきことを遂行してくれるんです!」

 

 二人を多少なりとも褒めるようなことを言えば、急に嬉しそうに語り出す櫟に天子の瞼が僅かに落ちる。そんな天子の呆れ具合に気付いているのかいないのか、「外の世界で犬神刑部に会いに行った時も」と勝手に話を続ける櫟に「凄いわねー」と適当な相槌を打つことで流した。

 

 天子だって藤に櫟や幽香に会いに行ったら? と言ったことはある。が、「俺死神だから」と、一言でばっさりだ。そんなことを言うくせに天子のところには週一、二回やって来ては天界を大騒ぎさせるのだから、変なところで融通が利かない。おかげで天子は対煙の死神特別外交官。天界には対煙の死神撃退部隊が組織されるまでになっている。

 

 最近は暖かくなって来たわねぇ、と幻想郷の空気に天子が肌を這わせる中で、一人で話藤熱が再燃したのか再び「だから天子さんはずるいんです!」と叩きつけられた言葉に天子は肩を竦めた。

 

「余裕ってやつなんですか? 天子さんは藤さんのタイプだからって負けませんよ!」

「いや、別に私は元からこの性格なんだしそこを突っ込まれてもね……。私幻想郷じゃあ問題児扱いだし、藤の方が変なのよ」

 

 人妖入り乱れる幻想郷の中で、必ずしも歓迎されない者はいる。天子はそんな問題児の一人。退屈を埋めるために異変を起こし、面白そうなことがあれば突っ込み、しかも天人の頑強な体を持つせいでゴキブリ並みにしぶとい。相手をする奴だいたい全員から鬱陶しがられていることは天子にだって分かっている。それを嬉々として一番側に置く藤の方が変わっているのだ。

 

 それが嫌なのかと問われれば、満更でもないので天子の方が困ってしまう。人は自分にないものに憧れる。おまけでいつのまにか天人になっていた天子と違い、短くも激しく命を燃やし尽くした藤に目を奪われたことがないのかと聞かれればないとも言えない。薄っすらと天子の体温が上がったのを櫟は見逃すことができず、頬を指で掻きそっぽを向いた天子に櫟は頬を膨らませた。

 

「なるほどそうですか……、それが天子さんの惚気方ですか……、別に特別なことは何もしてないんですみたいな……、小癪な! 天人!」

「もう! 拗ね方がめんどくさいわね! ぐちぐち言ってないでこういう時は勝負して勝ったら言うこと聞けとか言っときゃいいのよ!」

「そうですか……、分かりました」

 

 ゆらりと腕を振り拳を握った櫟を目にして天子は薄っすらと笑みを浮かべる。これまで頭脳労働担当として参謀に徹していた櫟だが、その才能が戦闘へと伸ばされた。キレる頭と、目で見えずとも視覚以上の情報を掴む感覚器官。力の流れを全て手に取れる櫟の心眼は、返し技や合気のような技を扱うのに最も向いていた。開花し始めた才能がいったいどれだけ伸びるのか、また今日も退屈な時間が埋まる時。笑みを深める天子に向けて、櫟は握った拳から人差し指を突き出し天子の顔に突き付ける。

 

「嫁比べで勝負です!」

「はぁ?」

 

 ずっこけそうになるのをなんとか堪える。ずり下がった帽子の位置を天子は直し、堂々と指差す櫟の顔にため息を吐くが、どこ吹く風で効きもしない。改めて同じことを聞いても無駄だと悟り、天子はただただ棒立ちすることしかできなかった。

 

 嫁比べ。

 

 古くは童話『鉢かづき姫』に出てくる、母が息子にその者が妻として相応しいか試したことに由来するとかしないとか。兎にも角にも櫟が掲げたのは妻としての能力勝負。全く意味が分かりませんと表情の死ぬ天子の腕を絡め取り、櫟は辻風のように駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「で? 私のところに来たわけね。その行動力はどこから来てるのかしらね?」

「櫟姉様……」

 

 困ったように笑う百六十五代目黴藤の横で、純狐は急にやって来た客人たちに片目を瞑り答え、顔の横の長い髪を掻き上げる。

 

 永遠亭の外れ。百六十四代目黴藤と純狐の約束によって、黴家の守り神的なポジションを引き受けた純狐と顔を合わせられる出島のような小さな屋敷。主に百六十五代目黴藤の修行の場として使われているその屋敷に踏み込んだ櫟と天子は、あまり興味ないといった純狐の視線を受けながらも堂々と胸を張った。ただし櫟だけ。

 

「素晴らしい格を持ちながらも結婚していた女性らしい方を私は純狐さんしか知りませんから。審判として貴女ほどうってつけな方はいないと思って」

「月夜見を打ち破った立役者の一人からのその評価は嬉しくはあるけれど、審判って、なにをするつもりなのかしら?」

「嫁比べです!」

「それは分かったから……、具体的によ」

 

 本気で呆れているように見える神霊の姿の珍しさに、百六十五代目と天子は目を瞬く。嫦娥さえ絡まなければ純狐は気の良いお姉さん。分かっていても実際に目にすると感じ方は全く違う。嫦娥と拳で殴り合っていた姿を遠巻きながら眺めていた天子からすれば、その時の姿との違いように別人だとさえ思ってしまう。純狐を戸惑わせる櫟の恐るべき乙女のパワーに百六十五代目と天子は力ない息を吐き肩を落とした。

 

「具体的にですか、純狐さん、良妻に必要な技術で大事なものとは?」

「そうね、必要なものは色々とあると思うけれど、一番はやっぱり料理でしょうね。食事は日々の活力。美味しい料理を作れないようじゃあ良い妻とは言えないわ」

「いやでも、今の世の中別に夫でも料理を「それですね! それでいきましょう! 流石純狐さんです!」あっ、はい」

 

 どうしても歳のせいか古い価値観である純狐の考えを訂正しようかと百六十五代目は動いたが、櫟の叫びに掻き消され口を挟むことを取り止める。「でしょう?」と満足気に微笑む師である純狐の顔を見てまあいいやと諦める百六十五代目の姿に、頑張りなさい! と天子は心の中でエールを送るが、微塵も届きはしなかった。

 

「と、言うわけで天子さん。料理の腕で勝負です!」

「料理で勝負って……決着方法は?」

「純狐さんと藤ちゃんに食べ比べて貰って勝敗を決めて貰いましょう! 負けても恨みっこなしですよ!」

「あぁ、もう、なんだっていいわよ。早く終わらせましょ」

 

 渋々頷いた天子に合わせて純狐が手を叩けば現れる食材の数々。どこから出したんだと突っ込む気力すら天子には湧かない。用意されたエプロンを着けて腕を捲る天子の動きを感じながら、櫟は静かに笑みを深める。

 

(勝ったッ‼︎)

 

 この瞬間、櫟は勝利を確信した。

 

 長い生を送っている古き時代から生きている純狐ならば、嫁に必要なものは? と聞けば高確率で『料理』と返ってくるであろうという櫟の予想通り。料理勝負という枠に嵌めれば、櫟も不得意ではあるものの、勝率が高いだろうと予測する。

 

 それもそのはず、天人である天子が相手が故に。

 

 苦のない生活を送っている天人は、歌や踊りにうつつを抜かし、酒を煽っているばかり。食べるものも仙桃といった具合であり、料理を作る機会などほとんどありはしない。するとしてもそれは召使いの仕事。おまけで天人になったとは言え、天子の位は低くなく、統領娘と言う通り、料理など天子の仕事ではない。

 

 天子はろくな料理を作れないと見越し、櫟は卵へと手を伸ばす。下手に凝った料理など作る必要はない。とは言え目玉焼きなど作っても仕方ないので、作るべきは卵焼き。日本の料理の中で、お弁当のおかずとしては定番の一品。ただの溶いた卵を四角く焼き固めたものだって馬鹿にしてはならない。

 

 寿司屋に行けば必ず置かれていると言っていい卵焼きは、その良し悪しで寿司職人の技量が分かると言われるほど昔は重宝された。上手く焼けなければ一流の寿司職人ではないと言われるほどだ。同じように西洋料理のプレーンオムレツも、料理人の腕が問われると言われるように、シンプルながらこの溶いた卵を美味しく焼き上げるということは大変なのだ。

 

 だが、そのシンプルさが櫟の勝利のための鍵。

 

 油の弾ける音。フライパンに通った熱。焼けてゆく卵の状態が目で見ずとも櫟には手に取るように分かる。薄く表面が焼けた段階で形を整え纏めてやり、蓋をして蒸すように焼けば中はトロッと、外はしっかりとした弾力を残した卵焼きの出来上がり。調味料さえミスらなければ、美味しい卵焼きの完成だ。

 

 悪い顔で笑う櫟をあわあわと悲し気な様子で百六十五代目は見つめ、天子は薄く微笑むと卵へと手を伸ばした。

 

(申し訳ありません天子さん! この勝負勝たせていただきます!)

 

 

 

 

 

 

 

 

「ば、馬鹿な⁉︎」

「い、櫟姉様……」

 

 床に手を付き拳を握る櫟の姿を百六十五代目が死んだ顔で見つめている。櫟らしからぬ言葉と姿を直視できないと、美味しかった方の札を上げてと言われ渡された天子の方の札を掲げながら、百六十五代目は櫟から目を反らす。純狐と百六十五代目の前に並べられた二つの料理は同じ卵料理。卵焼きとオムレツ。それ故に嫌でも優劣がついた。

 

「はっはっは! 残念だったわね櫟! 天人は料理ができないと思った? 師匠を舐めちゃいけないわね!」

 

 腰に手を当て背中を仰け反らし笑う天子のトドメの一撃に、へにょりと櫟の腰が曲がる。図星。天子の言う通り、天子は料理ができないはずと見積もっていた櫟の考えは無残にも木っ端微塵に吹き飛んだ。天子の出したオムレツは見事に型崩れることなく綺麗なアーモンド型をしており、上げられた札は二つ。純狐は迷いなく、百六十五代目は少し迷ったものの結局天子の札を上げた。

 

「な、なぜ?」と顔を上げる櫟を勝利に酔い痴れた様子の天子が見下ろし、これ見よがしに鼻を鳴らす。探偵が紐解いた謎を披露するように、胸を張り一度嚙み殺すように笑うとネタバラシをしてやる。

 

「日夜酒と桃しか食べない退屈な日々に満足する私ではないわ! 美味しいものを出来るだけ食べるため、私は私で料理の腕を磨いたのよ! 周りの天人からは桃があるのに馬鹿じゃない? なんて言われたけど、まさかこんなところで役に立つとは思わなかったわ! ふっふっふ、人間よ、己の無知を呪いなさい!」

「こ、こんな馬鹿な。ぐっ、私の策は完璧だと思ったのに」

 

 なんか悪役のようなことを言っている櫟に掛けられる言葉はない。天人に対する常識は天子に限って言えば通用しない。不良天人。天人でありながら、天人らしからぬ生き方を貫く天子の生き様に櫟は敗北した。

 

 よろよろと力なく立ち上がった櫟は、純狐と百六十五代目の前まで歩き二つの卵料理笑う見下ろした。櫟の卵焼きと天子のオムレツ。見た目はどちらも美味しそうに出来上がっている。スプーンを櫟は手に取ると、天子のオムレツを一掬いし口へとほうばる。

 

 卵の柔らかな香りと桃の香りが口の中に広がった。

 

 細かく刻まれた桃を包む半熟の卵。桃と卵という一見似合わぬ取り合わせではあるが、食べれば意見が百八十度変わってしまう。適度な塩加減で強調された桃の甘み。桃のフレッシュな舌触りがアクセントとなり、卵の柔らかさを引き立てている。天子の試行錯誤が垣間見える一品に、櫟の膝が崩れ落ちた。

 

「うぅぅ、ずるいじゃん! だって、だって私天界行けないからそんな情報集められないし! これまで料理の勉強する時間なんてなかったんだもん! だって、どーしても勝ちたかったんだもん! 藤さぁぁん!」

「い、櫟姉様……」

 

 子供っぽく、うがぁと叫ぶ櫟に百六十五代目はもうなにも言えない。ただ櫟が昔の口調に戻っただけなのだが、それを知るのは百六十四代目黴藤ただ一人、他の平城十傑がいても百六十五代目と同じように目を背けることだろう。月夜見に追い詰められた時でさえここまで取り乱さなかった櫟の姿に、天子も純狐も呆れるだけ。一頻り叫びぐったりした櫟を純狐は見下ろし、ゆっくり立ち上がり寄ると肩に手を置く。

 

「まあそこまで落ち込まないことね櫟、貴女の卵焼きも悪くはなかったわ。ただちょっと味が濃かったのが敗因かしらね。味付けさえ完璧だったら引き分けといったところでしょうね。ねえ藤?」

「は、はい! 確かに後は味の濃さだけです、櫟姉様なら次は完璧に作れますよ! 櫟姉様たちは千三百年の仕事を終わらせた方たちなのですから!」

 

 長いツインテールをぶんぶんと振って百六十五代目はなんとか櫟を励まそうと言葉を紡ぐ。「まあどちらも私には及ばないけれど」と、笑う純狐の姿に苦笑しつつ櫟はようやく立ち上がった。リサーチ不足は己の力不足。「……私の負けです」とそっぽを向いて歯軋りする櫟の姿は、負けを認めたくねえ! と言っているが、それで良しと天子は大きく頷いて強く一度手を叩く。

 

「さーて! 勝負は私の大勝利で終わったわけだし! 罰ゲームの時間よ! 敗者は勝者に従うべし! なにがいいかしらねー!」

「ふ、藤さんに近付くなとかはご勘弁を……」

「そんなつまんないこと言わないわよ……、だいたい藤をダシにしたくないし。そうね……、そう言えば貴方たちっていつもその学生服ってやつ着てるわよね? 着心地いいの?」

「まあ悪くはないですけど……」

 

 櫟のセーラー服をしばらく見つめて、天子はパチンと指を弾く。

 

「じゃあ今日一日服を私と交換しましょう! セーラー服? ちょっと着てみたかったのよ!」

「そんなのでいいんですか?」

「あら、他のがいいの?」

「いえ、それでいいならいいんですが」

 

 なら決まり! とぽいとすぐさま服を脱ぎ捨てる天子に櫟は目を丸くする。天子の行動力にはいつも櫟は驚いてばかりだ。藤が絡んだ時はお互い様ということは棚に上げ、櫟もいそいそ服を脱ぐ。天界に実る仙桃の香りが薄っすらと香る天子の服を手に取って、なんとも装飾の凝った服に袖を通した。天界製だけあって、異様に感触の良い布地に肌を這わせ、青いスカートを緩く揺らす。

 

「おー、これが学生服ねー。これで私も高校生ってやつね」

「天人、歳を考えた方がいいんじゃない?」

「うっさいわね! 何千年と怨霊やってる貴方には言われたくないわよ!」

 

 セーラー服を揺らす天子に服が見合っているかと言えば微妙であり、天人の格に服が追いついていない。服より青空を写し取ったような天子の髪の方に目が向く。未だ短い青髪を掻き上げながらポーズを取る天子の姿に百六十五代目は見惚れるように目を瞬いた。

 

「それにしても櫟、貴女に天子の服は合わないわね」

「うぅ、言わないでください純狐さん。言われなくても分かってます。それにちょっと胸が苦しいですし」

「遠回しに私を馬鹿にするのやめてくれる? どうせもう背丈とかいろいろ私は変わらないわよ! 悪かったわね!」

 

 すとーん、と決してふくよかではない天子の胸を見下し純狐は鼻で笑った。プロポーションという意味において、四人いる中で誰が一番かは自明の理。胸を張る純狐の姿に天子はギリギリと歯を擦った。純狐も天子もお互い歳を重ねようとも姿形が変わることはない。身体の差が埋まることは一生なく、二人を見比べて櫟は百六十五代目の肩を叩く。

 

「良かったですね藤ちゃん。私たちには未来があって」

「櫟姉様のその隙あらば誰にでも毒を吐くところ逞しいと思います」

「違いない違いない、櫟の根は結局昔から変わらないよなあ、そこがいいところだと思うがね」

 

 薄い男の笑いが部屋の中に木霊して、白煙が窓辺から滑り込む。空の中を揺らぐ薄煙のように気配なく、窓の縁に腰掛けるように佇む枯れ木のような人影に、四つの顔が集中する。

 

 櫟たちの見慣れた学ラン姿ではなく、男が着ているのは真っ黒いスーツ。地獄の暗闇で染めたような黒いスーツと、同じく真っ黒いネクタイを締めた姿は葬儀屋のようにも見える。その服の内側に詰め込まれた気配は人のものではなく死そのもの。どこか呆けたように、「あぁ、本当に人ではなくなったんだな」と櫟は男を二つの黒穴で見つめ納得する。ただ変わらずに人を小馬鹿にしたように口から長い機械仕掛けの舌を出す男に、櫟の口端が緩く歪んだ。それと同じように、百六十五代目も大きくツインテールを揺らす。それが心のゆらぎであるかのように。

 

「──お兄様ッ! あっ、私! 月で! ちゃんと!」

「分かってるさ鈴蘭。流石は新たな黴家の当主、お前のおかげで俺に未練はないよ。お前はお前の人生を描くといい」

「お兄様……っ!」

 

 百六十五代目になる前の名を呼ばれ、ふと涙腺が緩むも、零すものかと百六十五代目は目を強く腕で擦り先代へと笑顔を向ける。向けられた次代の当主の笑みに藤も笑顔を向けて、改めて櫟と天子の方へ顔を向けると、表情をころりと変えて爆笑した。

 

「はっはっは! 櫟、天子! お、お前たち似合わないな! 櫟、お前はアレだ、服に着られるって意味が理解できちまう格好だし、天子はなんだ? セーラー服のせいで正に不良って感じだな。髪色のせいかな? 小さな不良」

「うるさいわね! だいたい藤だって同じでしょうが! なによその黒スーツは! それで死神のつもり? 閻魔がよく許してるもんだわ!」

「新しい時代の死神の格好だよ。俺と菖の正装さ。悪くないだろうほら」

 

 黒いネクタイに付いている悪趣味な唇型のネクタイピンを見て、げんなりと天子は肩を落とした。藤以上に葬儀屋スタイルの似合い過ぎている菖のことを思えば、もう少し真面目に寄せろと天子は思わないわけではないが、ピンポイントな悪趣味な衣装が藤らしくはあると天子は思う。

 

 薄っすら垣間見える姉の面影に百六十五代目は鼻を啜り、櫟はただただ唇を噛む。

 

 言いたいことが多過ぎる。

 

 溢れた言葉が喉の奥でつっかえて言葉にならない。

 

 優れているはずの頭脳が機能しないことに櫟は歯噛みし、ただ藤の姿を見つめるばかり。

 

 そんな櫟のあるはずない視線を藤は受け止めながらゆっくりと足を動かし純狐の前へと歩を進めた。

 

「純狐殿、百六十五代目の師になってくれて嬉しく思うよ。純狐殿なら安心だ」

「怨霊が師なのに、そんなこと言うのは貴方ぐらいでしょうね藤。だから気に入ってはいるけれど。それより随分と体調良さそうじゃない」

「俺たち死神は『死』そのもの。死ぬことがない故に死神になってから絶好調。こんなことなら早く死神になっておくんでしたね」

「よく言うわ」

 

 死神とは死の形。小町なら斬殺。菖なら刺殺。藤は毒殺をそれぞれ司っている。死であるが故に死を振り撒き、故に生溢れる世界にほとんど介入しない。死神が本気で動く時は、死を与える時のみ。だから外でどれだけ大きな事象が起ころうと介入することはほとんどないと言っていい。月夜見が動いた時でさえ小町は静観していた程だ。正しき生者が命を賭ける場に死神は居てはならない。

 

 サボリ魔である小町も、勝手に一人動く藤も、死神のルールからは外れない。「なんで今日は来たのかしら?」と笑う純狐に、藤も笑ってあっけらかんと答える。

 

「日課の死から逃げてる天人狩りに。不良天人を今日こそ狩ってやろうと思ったんですけどね。天子の格好見たらやる気が死にました」

 

 なんだかんだと理由を付けて結局なにもせず話して帰るだけ。地獄から登って来て疲れた。三時のおやつだから帰る。閻魔様に呼ばれてるような気がすると藤の言い訳はバラエティー豊かだ。ただ今回の理由は一等酷い。ちらっと天子を見やりぷふっと笑う藤の口から溢れる白煙に青筋を立てて「悪かったわね!」と天子は牙を剥く。

 

「どうせ私に外の世界の服は似合わないわよ!」

「いや、そこまでは言わないが、天子にはいつもの格好が一番似合ってるよ、髪が短くても」

「ぅぐっ、ふ、ふん! 褒められたって死神なんかに絆されないわよ! 勝負よ勝負! 追い返してやるわ!」

 

 急に構え出す天子に藤は白煙をぶわりと吐いては笑い、後ろ手に机の上に置いた手がなにかのこつりと当たるのを感じて藤は手に当たったものへと目を落とす。手の両脇に並んでいる皿に乗ったオムレツと卵焼き。その二つを藤がしばらく見比べていると、どうぞと純狐が笑って手を差し出すので、「それじゃあいただきます」と藤はオムレツと卵焼きの切れ端を摘み口に放り込む。最後に指をペロリと舐めて電子タバコを咥え直すと細く長く息を吐いた。

 

「あら、はしたないわね、それで、どっちが口に合ったかしら?」

 

 悪い笑みを浮かべる純狐の顔を受けてしばらく藤は悩むが、結論はすぐに出る。あわあわと祈る百六十五代目に眉を顰めながら、ふわりと白煙を燻らせた。

 

「卵焼きの方が美味しいですね。俺はどうしても薬煙の影響で味覚が鈍くて、そこも死神になって改善されれば良かったんですけど、濃い味付けの方が好みです。この卵焼きは味付けが完璧。オムレツも美味しいんですけどちょっと味が俺には繊細すぎるかなぁ……とっ」

 

 

 味の感想の途中で突如背中に衝撃を感じ藤はふらりとよろめいた。

 

 

 背中に張り付いた少女の熱に一息遅れて口から白煙を零し口を噤む。

 

 

 死神に張り付いたまま、櫟の口は上手く動いてくれない。

 

 

 月との戦いが終わってから、よく知る二人が死神になったと櫟も聞いてはいたものの、真面目に不真面目な二人は全く櫟に会いに来てくれなかった。ようやく会えた男になんと言おうか、考えていた言葉も吹き飛んで、ただ嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになって言葉にならない。

 

 何も言わず動かない藤に、しかし何かを言わずにはいられず、藤の背に埋めていた顔をゆっくりと引き剥がして大きく白煙の匂いを肺に落とす。

 

 

 乾いてゆく唇を舐める余裕などありはせずに、

 

 

 ただぽつぽつと、

 

 

 小雨が降るように。

 

 

「あ、あの……ですね。私! その……藤さんに……藤さんが……えと

 

 死神は身動ぎ一つせず動かない。ただ口から白煙を立ち上らせるばかり。息遣いも聞こえない死神の体の冷たさに櫟は指を這わせて顔を上げた。

 

 

 追っていた男の後ろ姿を、ただただ時間を浪費して見つめる。

 

 

 結局追いつけなかった背中。

 

 

 藤はまた櫟よりもずっと早く先に行ってしまった。

 

 

 もう追いつけないかもしれないと思いながらも、

 

 

 櫟は藤の背中を握り、諦めることを諦める。

 

 

 

「し、死神になれば死なないんですよね? だ、だから! もし……もし私がその……死神にまでなれた時は……、その時は……、そうしたら! …………そうしたらですね……、そうしたら……」

 

「その時は、夫婦にでもなってみようか櫟。俺の刑期はおよそ5億7600万年、死ぬほど待つ時間はある」

 

 

 

 白煙は吐かず、ぽつりと零した藤の言葉によたりと櫟が後退る。薄く微笑む藤の横顔を見つめ、櫟は小さく頷いた。

 

 櫟に飛び込んでゆく百六十五代目を見送って、「これが……試合に負けて勝負に勝つこと」と呟く櫟に突っ込んでゆく天子を見て藤は再び大きく笑った。

 

「いいの藤、そんな約束をして。仙人や天人になるのはかなり大変よ。更に死神になるなんてどれほどの茨の道か」

「俺は知ってるんですよ櫟ならなんだってできるってこと。櫟の目は節穴じゃあないですよ」

「そう、貴方は櫟を選ぶのね」

「選ぶ? いやいや、逆だと思いますけどね。俺の初恋は確かに先代ですけれど、誰より強く生きる少女に目を奪われないはずもなし。それに、櫟と天子ってどこか似てません? だからつい気にしてしまう」

「それは誰かさんに対してだけだと思うけれど。貴方そういうところがいやらしいわよね。いつか刺されるんじゃなくて?」

「生憎死なないもんで」

 

 うわぁと、微笑を浮かべる煙の死神から純狐は突いた頬杖の上にある顔を背けながら小さく笑う。この死神の相手をする者の冥福を祈りながら、わちゃわちゃと笑い合う人と天人の少女たちを純狐は死神と二人静かに眺め続けた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月夜見が遊びに来やがった編

 ほぅ────っ、と吐き出される吐息は澄んだ色。

 

 伸ばされた白い腕の先には、吊るされたように五つの細指に挟まれたグラスがひとつ。揺れる腕に一息遅れてグラスが揺れれば、もう一拍遅れて、水面を泳ぐ氷の小礫がカランコロン、と透明な壁を打ち付ける。透明な肌に流れる透明な雫は、覗き込まれた瞳を無数に増やして緩やかに反射し、グラスの中に瞳の色を写し込む。氷の小礫の表面で揺らぐ不確かな瞳の輪郭から顔を上げて視線を外し、目の前にいる男の顔へとグラスの持ち主は瞳を合わせた。

 

「神生とはままならないものだな……マスター」

 

 艶やかな吐息と共に吐き出された言葉を渡されて、マスターと呼ばれた人相の悪い男は、苦々しく、強く、果てしなく鬱陶しそうに歯を擦り合わせて焼き終えた焼き鳥を皿に乗せカウンターの上に置く。「俺はマスターじゃねえ」と言葉を添えて。

 

「そうか、じゃあ親父、神生とはままならないものだな……」

「俺はそんな歳食ってねえよ! おいマジかアンタ⁉︎ まさかもう酔ってんの?」

「おかしいな、間違っていたか? 姉様に聞いて漫画というやつを読み勉強したんだが。客は店員にそう言うものなのだろう? どうなんだ店主」

「色々間違え過ぎだ、それに俺は店主でもねえ。おい妹紅呼ばれてるぞ、俺に投げるな」

 

 楠は背中を向けて我関せずを貫く妹紅の首の襟を軽く引っ張ってみるが、うんともすんとも言ってくれない。なぜ月の神の相手を一人でしなければならないのか。天に輝く月の美しさが鬱陶しいと空を見上げた楠は歯を擦り合わせる。天照に引き取ってくださいと心の中で祈ってみるが、月の浮かぶ夜の世界で陽の神へと祈りが届くこともなく、ただ静かな空気が流れるだけ。

 

 そんな楠の内面を見透かしているかのように月夜見は微笑んで、グラスの中身を一口で飲み干した。カウンターに置いたグラスの中を跳ね回る氷の音を聞き、ため息を吐きながら妹紅は振り返り空になったグラスを再び満たす。酒を注ぎ追えればすぐにくるりと身を翻し神に向かって背を向ける。そんな妹紅の様子が面白いと月夜見はまた笑みを零してグラスをあっという間に空にした。

 

「妹紅出番だ」

「はいはい、どれだけ飲むのよ全く。在庫が切れるわ。月の神様は底なしみたいね」

「すまないな店主、美人に注がれるとつい酒が進む。そう思わないか楠」

「俺に聞くな未成年だ。どう思う妹紅?」

「それこそ私に聞かないでよ」

「ああ店主は注ぐより注がれる側だものな。家ではいつも楠に注いで貰っているからか」

 

 なんで知ってんだという楠と妹紅のジト目を身に受け止めて、月夜見は得意げに微笑みながら空に浮かぶ月を指差す。世界でも最高峰の覗き魔に楠は歯をギリギリと擦って重い息を吐き、妹紅も口端を苦く引っ張りそっぽを向いた。隣り合う店主と店員の姿を見比べて、月夜見は満足気にグラスの淵を指でなぞる。

 

 その一見悩まし気な月神の仕草の鬱陶しさにギザギザした歯を擦り合わせる楠の歯の音をBGNにしながら、妹紅はまた空いたグラスへと酒を注ぎ、その月夜見の隣へとついっと目を動かした。

 

 肘を突いて手を組み口元を隠した一体の亡霊。席に着いてから一言も喋らず、注がれた酒を一口も啜らず、ただなにか考えに没頭している。長い前髪が目の先に垂れても除けることなくふやけた笑みも浮かべない。白玉楼の新たな剣術指南役は、剣術指南役だというのに刀も持たず、ただ席をひとつ占領しているだけ。注文しておいて一向に焼き鳥一本食べない客にギラリと楠は鋭い目を突き刺して、男の前のカウンターを小突いた。

 

「おい桐、アンタなんでここにいるんだ。食わねえならさっさと帰れ」

 

 吐き捨てられた楠の言葉に、桐は真剣な目を返す。火星色の瞳がきらりと輝くのを見届けて、楠はウンザリと肩を落とす。桐が戦い以外で真剣な顔をする時ほど疲れることはない。「おい妹紅」と小さく助けを呼ぶ楠の視線を手で払い、妹紅は客からは見えないようにぐっと親指を立てて楠にエールを送ってやり、焼き鳥を焼くのに手一杯ですと下手な口笛を吹いた。

 

 渋々桐へ振り返った楠の顔を覗き込み、スッと桐は組んでいた手を解く。ふぅ、と胸の内に溜まった空気を吐き出して、桐は参ったと言うように額に手の甲をぶつけ天を仰いだ。

 

「楠、私は今非常に難解な困難にぶち当たっているのです」

「そうか、聞きたくねえ」

「そうですか、聞いてくれますか」

「アンタ耳ついてる?」

「私は是非聞きたいな」

 

 口を挟むんじゃねえ! と月の神を楠は睨みつけるが、突き刺さる視線を反射するかのように月夜見は楠の相手をせずに桐の方へと笑顔を向ける。その笑顔の眩しさに、桐は両目を手で覆い「あぁ」と悩まし気に呟いた。

 

「月夜見様は正に月そのもの。その美しさに限りはなく、一晩中眺めていることができましょう。そのお隣に座っていられる今は大変に素晴らしい時ではあるのですが、でも、その……」

「あぁ、男でもあるもんな」

 

「そこなんです‼︎」と叫び桐は強くカウンターを叩く。激しい桐の感情の高揚に「うわぁ……」と呻り楠は目を背ける。が、引いている楠の肩を桐は立ち上がると無理矢理掴み、桐は悲し気な瞳を楠に向けて力任せに揺さ振った。

 

「男にときめくなんて私は絶対嫌なんです! 姫様や妖夢さんの笑顔に癒されるような、そんな素晴らしい感じと同じものを男からなんてノーサンキュー! 男の笑顔なんて欲しくないです! そんなものは霧の湖の水面にでも向けときゃよろしい! でも月夜見様は女性でもあるんですよ⁉︎ 私はもう喜べばいいのか悲しめばいいのか! ねえ楠! 聞いてますか楠‼︎」

「うるせえな! どうだっていいわ!」

「ど、どうだっていい⁉︎」

 

 力なく椅子の上へと崩れ落ちる桐はもう放っておいて、楠は妹紅の横に並び、焼き鳥を焼いていますという作業に集中するふりをする。何も言わずに妹紅は楠のためのスペースを空けてやり、焼き鳥屋台の店員たちに相手をされない桐の相手をするのは残された神。

 

 桐のグラスを目の前へと差し出し握らせてやり、こつんとグラスを合わせて月夜見はまたグラスの中を空にする。そんな神様に合わせてきたもグラスをぐいっと傾けた。

 

「そう難しく考えるな愛の配達人。男だの女だの些細なことだ。そうだろう? それよりも大いなる素晴らしいものをお前は届け切った男なのだ。美しいと思うものを美しいと言ってなにが悪い? なあ桐」

「月夜見様ッ! わ、私は今大いなる一歩を踏み出したような気がします!」

「……俺には大きく一歩を踏み外したように見えるがよ、幽々子さんに言いつけるぞ」

「姫様に⁉︎ なぁんでそういうこと言うんですか⁉︎ 姫様ぁぁああああ! 今帰ります! 私は姫様一筋でぇぇす!」

「あ! こら金払えやぁぁああ⁉︎」

 

 瞬間移動でもしたかのように消え去った桐に楠の叫びは届かず、楠の肩に優しく柔らかな手が置かれる。ギギギッ、と、固い音を響かせて振り返った楠の視界に映る妹紅の良い笑顔。ぐっと親指を立てて掲げられた妹紅の手は、楠の目の前で百八十度ぐるりと回り下を向いた。今日の給金が下がった瞬間。がっくりと項垂れる楠に、今度は月夜見が楠の肩に手を置いてやりカラカラと笑った。

 

「くっくっく、なあ楠、なんなら月で仕事をやろうか? おそらくその方が給料はいいぞ」

 

 マジで? と小さく顔を上げる楠と、その背後で僅かに肩を跳ねさせる妹紅を視界に収めて、月夜見は薄っすら口角を上げた。しばらくぽかんと口を開けて楠は頭を回し、月夜見の手を払うと「別にいい」と吐き出してそっぽを向く。

 

「いいのか? お前はなんでも帰るのに五十両必要なのだろう? うちに来れば早く帰れるかもしれないぞ?」

「…………俺は北条だからな。お守りしなきゃならない相手が幻想郷には居るもんで」

「はあ? 誰よそれ、お守り? 誰のことかしらね? ねえ楠」

「こら妹紅引っ張るな! 焼き鳥が焼けん!」

 

 嬉しそうに笑いながら楠の肩を引っ張る妹紅を月夜見も笑顔で見つめながらグラスを傾けた。「誰のこと?」と繰り返す妹紅の言葉を聞き流しながら、月夜見は頬杖突いてグラスの口を指でなぞり桐が座っていた席とは反対の席へと目を移す。「残念振られてしまった」と零す月夜見に、顔の半分を火傷跡に覆われた男は僅かに口角を上げて肩を竦める。

 

「お前はどうだ梓。月に一度来てみないか?」

「月の地を踏むのは夢ではありましょうが、僕はまだ地上を離れる気はありません」

「なんだお前もか、平城十傑の男たちはあいも変わらずツれないな。私を振るのなんてお前たちくらいのものだぞ」

「ふむ、ではまだそうありたいものですね」

 

 こいつめと、月夜見は梓の肩を小突いて小さく笑った。グラスを傾ける梓の奥で、ダラダラ冷や汗を垂らしながらグラスを持つ加奈子へと月夜見は目を向けて、同じように言葉を紡いだ。

 

「お前はどうだ八坂刀売神。たまには月に来てみないか?」

「ははっ、お戯れをば……」

 

 なぜ自分はここに居るのか。たまには酒でもと守矢神社を訪ねてきた梓の誘いにほいほいと乗った挙句のこれである。楠はいい、桐も全く問題ない。だが、月夜見だけはダメである。

 

 かつて日ノ本の地を譲れと空からやって来た天津神。その天津神と戦った国津神の筆頭が八坂刀売神。幻想郷に攻めて来た月軍などお遊びだと感じるような、天照、月夜見、須佐男、八意思兼神(オモイカネ)武甕槌命(タケミカヅチ)*1、と言った神々との闘争は、思い出せば出すほどに加奈子にとって苦い記憶だ。その中でも、三貴神は特にお相手したくない者たち。敬意よりも畏怖が強い。神をして神を畏れさせる神。月夜見と隣り合って酒を飲むことだけは梓を挟み回避したが、さして意味はなかったと加奈子も投げやりに酒を喉に流し込む。

 

「なんだ加奈子もか、国津神も付き合いが悪い。なんならお前とは喧嘩の方がいいかな?」

「嬉しい申し出ではありますが、勝てぬ戦いはしないが吉。今は……」

「戦神がそう言うなら仕方ない。なぁ梓、藤や漆や梍は来ないのか? 特に藤とはもう一度話したいものだ。お前と楠と藤と霊夢が相手をしてくれればこれほど嬉しいこともないのだがな」

「自由奔放な彼らを集めるのは苦労しましょう。無論僕は呼ばれれば顔は出しますが」

「今はそれで良しとしようか。なあマスター、酒のおかわりをくれ」

 

 マスターじゃねえ! と楠が歯を擦り合わせる音に笑い声を返す月夜見のグラスへと妹紅は再び酒を注ぎ、梓のグラスにも注いでゆく。その光景を珍しそうに楠は眺めながら唸り、梓の前へと足を出した。

 

「梓さん酒が飲めるようになったんだな」

「鬼の酒盛りに付き合わされれば強くもなるさ」

「そうか……、ただ梓さん、今手に持ってるの醤油だぞ」

「ああいい色だな、濃い色の酒は強いと最近知ったよ」

「もうベロンベロンじゃねえか⁉︎ おい妹紅もう梓さんに呑ませんな! 醤油を取り上げろ!」

 

 醤油瓶を手に何食わぬ顔で口へと傾けようとする梓の手を止めようと楠は動こうとするが、それよりも早くこれ幸いと神奈子が動く。神奈子が指を弾けば空から突き出る御柱。鐘を打ったような音が屋台を揺らし、足を僅かに地に埋めながら、梓は微動だにせず静かに寝息を立てる。乱暴なショック療法に顔を痙攣らせる楠に「ではな」と料金を払い、月夜見に会釈し、梓を担いで神奈子は屋台を離れた。その背を見送って月夜見はカウンターの上に項垂れ、人相の悪い店員を見上げる。

 

「なんだよ、ていうかアンタ幻想郷に居ていいのか? なんか普通に来てるけど」

「たまには私も月から離れたくもなる。数千年以上月にいるんだ。それに私ひとりで言えば穢れも反射できるから地上を訪れるのも別に苦ではない。幻想郷には気に入った者も多いしな。妖怪は嫌いだが」

「あっそ、俺は金さえちゃんと払ってくれればなんだっていいがよ、ってか、侵略しかけた相手のとこによく気軽に来れんな」

「長い年月生きてるとあまりそういうことも気にしなくなる。不毛だからな。無論そうではない者もいるが、それにこの歳になるとな、自分を負かした相手というのは嫌いになるより気に入ってしまうよ」

「なんじゃそりゃ、俺には理解できねえ」

 

「なあ妹紅」と楠は同意を求めるが、肩を竦められるだけで妹紅の同意は得られない。姿に似合わぬ年寄りたちとはどうも感性が違うらしいと楠は首を傾げてため息を吐き、月夜見は薄く笑いグラスを置いて手を合わせる。

 

「なかなか美味だったな、月ではあまり食べない味だ。お礼に少し面白いものを見せようか」

「……おい待て、なんか果てしなく嫌な予感が」

 

 月夜見の開いた両手の間の世界が捻れる。万象を手の間同士で反射させ続けて生まれる世界の火花。バチリッ、と音を立てて弾ける度に跳ねる世界の飛沫は、虹よりも鮮やかに無限の色を垣間見せる。極彩色の線香花火に楠と妹紅が見惚れるのを満足気に眺めた後、月夜見はスッと腕を開く。反射され続ける衝撃に耐えられなくなった無限色の雫は屋台の屋根を突き破り、夜空に色彩豊かな幾千の線を引いて大輪を咲かせた。

 

 流星群のように夜空に線引く世界の雫に得意げな顔を浮かべる月夜見に楠は何も言えず、強く歯を擦り合わせる。屋台の屋根にぽっかり空いた穴を妹紅は冷笑とともに見つめ、なんとか無理矢理楠は事態を飲み込んで、穴の空いた屋根に力なく指を向ける。

 

「……おい、得意気な顔して誤魔化すなよ。なんなの? 日本の神ってなにか壊さなきゃ気が済まねえの?」

「…………これは大分長居してしまったようだな、そろそろ失礼しようか」

「天照みたいな誤魔化し方してんじゃねえ! この似た者姉妹が!」

「ば、馬鹿、急に褒めるな。照れるだろう」

「褒めてねえよ! 呆れてんだよ!」

 

 いやぁ、と朱の差した頬を指で掻きそっぽを向く月夜見に楠は歯をギリギリと擦り合わせ続け、紙を一枚取り出して月夜見と書くと「弁償だ弁償」と呟きながらツケを書き足してゆく。妹紅に肩を叩かれて固まる楠に大きく笑い、月夜見へ代金をカウンターに置き立ち上がるとうんと伸びをした。

 

「さて、もう夜も遅い。そろそろ行くとしよう」

「おお帰れ帰れ」

「ひどい店員だな全く、では行くぞ楠」

「は? 行く? 俺も?」

「今夜は博麗神社に泊まろうと思ってな。霊夢に話を付けてくれ」

「なんだそれ⁉︎ ふざけんな行くか馬鹿‼︎ おい妹紅塩を撒け塩塩‼︎」

「ではな店長、店員を借りるぞ」

 

「くそったれぇぇええ!!!!」と叫び空を飛んでゆく楠に困ったような笑顔を向けて、妹紅は今夜の晩餉は少し豪華にしてやろうと店仕舞いを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 張り詰めた空気の中、ジトッとした紅白巫女の目が座敷に座る月の神を貫いた。微笑を浮かべたまま白黒魔法使いは壁を背に固まり、やって来て早々に霊夢に「連れてくるな!」と吹っ飛ばされ帰って行った焼き鳥屋台の店員の冥福を祈る。

 

 満面の笑みを浮かべて胡座を掻く月夜見を前に、霊夢は無表情のまま舌を打ち、魔理沙は目を泳がせ、漆は腕を組んで天井を仰いだ。

 

 三者の反応の違いを楽しみながら、やたらといい笑顔を浮かべている月夜見は鬱陶しく、霊夢は不機嫌な空気を微塵も隠さずに「で?」と一拍置いた。霊夢の言葉に「今日泊めて貰おうと思ってな」と遠慮なく返す月夜見の豪胆さに三人は呆れるばかり。どうすればそういう思考回路になるのか誰一人理解できない。

 

「なんでうちなのよ、永遠亭にでも行きなさいよね。ここは駆け込み寺じゃないんだけど」

「寺じゃなく神社だしな」

「うっさい魔理沙」

「まさか霊夢だけでなく魔理沙に漆も居るとは嬉しい誤算だ。さあ布団を敷こう、パジャマパーティーというやつだ」

「テメエ本当に月夜見か?」

 

 鼻唄混じりに勝手に布団を敷き出す月夜見に威厳は全くと言っていいほどない。漆は偽物なんじゃないかと疑いたいが、月夜見の内に詰まっている神力が本物ですと事実を突きつけてくる。面倒くさそうに頭を掻く漆に、月夜見は布団を敷き終えると目を向けて、薄く笑った。

 

「しかし漆、お前もよくここに来るのか? 守矢神社に居るのはよく見るが」

「なんで知ってんだよ……、まあスキマ妖怪に弟子入りしたからな。その関係でちょくちょく霊夢と修行してんのさ」

「ほう、なら私も歓迎して欲しいものだ」

「神社ぶっ壊したやつを歓迎するわけないでしょ」

 

 霊夢がビシッと突き出した親指の先にある継ぎ接ぎの壁。古材と新材を繋ぎ合わせたその姿は、アンバランスであるが故に、神社の清廉された空気をものの見事に台無しにしていた。それが馴染むのに必要なものは時間だけであり、「ふむ」と月夜見は顎に手を置きちょっとばかり考え手を打った。

 

「新しきものが古きものと交じる。時の流れを目で感じられる楽しみができて良かったじゃないか、なあ?」

「あんたもう一度ぶっとばすわよ」

「ものは言いよう感が半端ないな」

「しかも微妙に上手ぇのが気に食わねえ」

 

 人間の少女たちの文句が突き刺さろうとも気に留めず、月夜見は自慢気に鼻を鳴らすだけ。尊大な神は負けようとも尊大なまま変わらず、調子のいい月の神に霊夢は鋭い眼光を送るが、その気なれば万象を反射できるため月夜見は全く気にしていない。

 

「魔理沙も漆も歓迎しているなら私も歓迎してくれても構うまい?」

「漆はともかく魔理沙を歓迎した覚えはないわね」

「おい酷いな霊夢! 付き合い長い私も歓迎してくれないのかよ!」

「漆は便利だもの。雑用全部式神がやってくれるし」

「あたしは家政婦かなにかか?」

 

 使えるか使えないかで判断するな! と腕を振り上げる魔理沙を放っておき、「あんたはなにかできるわけ?」と霊夢は月夜見に問いを投げる。布団の上に腰を下ろした月夜見はしばらくの間考え込み、ゆったりと首を擡げた。

 

「ふむ、私は料理も洗濯も他の者がやってくれるからやったことがないな。月を治める以外に仕事もない。今でこそサグメや豊姫や依姫が仕事をやってくれるからそれもあってないようなものであるし」

「あんたなにもやってないじゃない……」

「おい霊夢考えてみろ。アイツは超ボンボン野郎だぞ」

 

 漆の言葉に「あぁ……」と霊夢も魔理沙も納得する。イザナミとイザナギの間に生まれた最高神の妹。生まれながらにこれほど地位の高い者も滅多にいない。それに加えて神としても類を見ないほどの類稀なる能力まで持っているとなれば、苦労する方が難しい。そんな存在が安布団の上に胡座をかいている姿は妙にシュールであり、痛む頭を霊夢は抑えた。

 

「輝夜や神子の上位互換みたいなやつね。しかも月を勝手に抜け出しても怒られないなんていい気なもんだわ」

「いやそれは違うな。今おそらく月は私が居ないとてんやわんやではないかな? 依姫あたりが捜索隊でも作ってるかもしれんなぁ。ご苦労なことだ」

「あんた月の神じゃなくてそれじゃあ疫病神じゃない! なにうちに来てんのよ! 依姫まで来たら堪ったもんじゃないわ! 出てけ!」

「はっはっは! 退かせるものなら退かしてみせろ!」

 

 涅槃のように横になり頬杖突いた月夜見の笑みを歪ませることは叶わず、月夜見が動かないと言えばテコでも動かない。霊夢を軽くあしらう月夜見は、なんだかんだ言おうが神であると魔理沙も漆も納得し、二人は早々に追い出すことを諦めて肩を竦めた。

 

「さて、布団の位置どりだが、私は真ん中がいい」

「もう寝転がってるのに真ん中がいいもクソもないと思うぜ……」

 

 苦笑しながら魔理沙はちらりと霊夢と漆の顔を眺めて静かに笑みを消した。漆も霊夢も口を引き結び、考えることは一つ。横並びの四つの布団。障子側、左から二番目が月夜見の位置。ともなれば、月夜見と唯一隣り合わない位置は壁寄りの右端だけである。さり気なく右端の布団へ向けて魔理沙は一歩を擦り出し硬直した。

 

(こいつらッ……!)

 

 同じく擦り合う二つの音。右端の布団に躙り寄る音は三つ。考えることは誰もが同じ。月夜見の隣は嫌だ! 言葉にせずとも理解する。とは言え相手は月の主、口を大にしてそれを叫べばどうなるか分からない。粗相の結果月から殺し屋がなんて事は死んでも御免だ。三つの視線が交錯し、魔理沙は小さく頷いた。

 

「なあ霊夢、来客が来るかもしれないしお前は左端の方がいいんじゃないか?」

 

 微笑みながら無理のない第一声を魔理沙は放る。事実、夜行性の妖怪も多い幻想郷では、酔っ払った鬼などが突っ込んでくることなど日常茶飯事。月夜見を退かすことがおよそ不可能な現状、幻想郷の調停役にこそ貧乏くじを引いて欲しい。そんな魔理沙の思惑は、およそ気を効かせることなどない霊夢には全く意味がなかった。

 

「いやよあいつの隣なんて、私は一番右端で寝るわ」

(このやろうぉぉぉぉ⁉︎)

 

 神だのなんだの関係なく、好き嫌いをはっきり口に出す霊夢には水面下での駆け引きなど意味をなさない。さっさと右端の布団に踏み入る霊夢を呆然と魔理沙は眺めるが、残念ながら誤算はもう一つあった。

 

「なんだ霊夢はそっちの端か、では私も一つ寄ろう」

「なんでよ⁉︎」

 

 月夜見が幻想郷の住民で頗る気に入っている人間が二人。魔理沙、藤、梓、漆と多くの月夜見のお気に入りが幻想郷にはいるが、中でも楠と霊夢は特別である。神の威光さえ超えた人間。その内面に惹かれるように、颯爽と月夜見は横にずれてさっさと布団の中に入り寝る準備を進めてゆく。言いようのない空気を滲ませる霊夢の顔を見ないようにして、魔理沙と漆は顔を見合わせる。

 

 霊夢はおよそ確定。霊夢が動けば月夜見は動く。つまりハナから月夜見の隣を回避できるのは魔理沙と漆の二人だけ。ここまで来ると、もう帰ると博麗神社を後にするのも、逃げているようで煩わしい。ふぅ、と魔理沙は息を吐き出し、漆の肩に手を置いた。

 

「私実は陽の光がないと元気が出ないんだ。陽の光が逸早く当たる障子側でもいいか?」

「テメエは植物かなにかか? あたしは寝相悪くてな、内側だと迷惑かけるかもしれねえから端がいい」

 

 両者譲らず、お互い肩に手を置いてギリギリと力を込める。いくらか言葉を交わしても、どっちも折れないのは分かりきっていること。普段のお転婆に任せ、魔理沙はパッと手を離すと左端の布団へとダイブする。

 

「私はここにするぜー!」

 

 意気揚々と、ぽふりと柔らかな音にのしかかる魔理沙だったが、魔理沙の体の下でなにかがもぞりと動くと掛け布団を大きく持ち上げた。「うわっ!」と、小さな魔理沙の叫び声を隣の布団へと払うように掛け布団の下から出てくる白い長髪を流した小さな女の子。えっへんと胸を張る幼女の頭に手を置いて、勝ち誇ったように漆は笑う。

 

「ああウルシそんなとこにいたのか。悪いな魔理沙、ウルシがこっちの布団がいいってさ。端は貰うぞ」

「汚ねえ! いつの間に仕込んだんだよ! これだから陰陽師ってやつは!」

「あぁ聞こえねえ聞こえねえなぁ。おーしウルシさっさと寝ようぜえ」

「隣は魔理沙に決まったか、いや挟まれると落ち着くな」

「あんたはもっと離れなさいよ! こっちに寄んな!」

 

 わいわい騒がしい部屋の喧騒から逃れるように、カタリと棚の上のお椀が揺れる。蓋を開けてのっそりと顔を出した針妙丸は、疲れた顔の霊夢と騒ぐ魔理沙、ほくそ笑む漆と楽しそうに笑う月夜見を順番に眺め、巻き込まれないように祈りながらそっとお椀の蓋を閉じた。

 

*1
剣と雷の神




次回、楠と桐 新たな刀を手に入れろ編

前回のアンケート結果に冷や汗を垂らしたのは内緒。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

楠と桐 新たな刀を手に入れろ編

 かっちかっちと音を刻む機械仕掛けの音。

 

 時計の音ではない。

 

 かっちかっちかちかちと話し合っているかのように打ち鳴るのは歯車の音。壁一面に並んだ機械たちが、各々の時間を刻んでいる。そんな機械たちに囲まれて、楠と桐は二人並び死んだような顔で椅子に座っていた。

 

「クズノキとギリ、久しぶりやねー」

「名前間違ってんよ……」

 

 あれぇ? と首を傾げる絡繰人形。玄武の沢、にとりの(ラボ)に我が物顔で居座る一人の男。ぱっと見人間に見えなくもないが、首や指の関節部分から多くの細かな歯車が見え隠れしている。三つ分の湯呑みに水を注ぎながらキチキチと音を立てて動く姿からは以前の滑らかさを感じることはできないが、より妖しげな雰囲気を纏ってはいる。「楠と桐な」と思い出したかのように菫は手を打って、湯呑みに並々注いだ水を煽る。

 

「いやぁ、物忘れが激しくて困ったもんや」

「まあ元気そうで良いけどよ、なんで客に出すのが水なんだ。普通茶だろ」

「これが今のぼくの燃料だからや」

「私たちにとってはただの水なんですけどね」

 

 充電! と叫び水を飲む菫は冗談のつもりなのかなんなのか、どうにも少し頭のネジが外れてしまっているらしい友人に楠は大きく口角を落とし、仕方なく出された水を舐める。玄武の沢湧き水百パーセントの水は口当たりがよく、思いの外美味しいことがちょっぴり悔しい。楠は湯呑みから口を離すと、少しの間考えた挙句、しょうがないと膝を叩いた。

 

「……なるほど味は悪くねえ。今度うちの屋台で出そう、リットルいくら?」

「……楠、貴方なにしに来たんです?」

「そやった、二人ともなにしに来たん?」

「いや、菫が呼んだんでしょうに」

 

 ああそやったとあやふやな記憶で生きている菫に桐は頭を痛め、「亡霊でも頭痛持ちになるんですか?」とくだらないことを口にして楠には肩を竦められる始末。放っておけば再び「なにしに来たん?」と壊れたレコードのように菫が口にすることは確実であり、前髪を弄りながら桐が仕方なく話を進める。

 

「私と楠の問題を解決してやるから来いと文を寄越したのは菫でしょうに。それで? なんの用なんですか? さっさとして下さい、私は早く姫様のところに帰りたいです」

「桐……アンタなんで来たの?」

「なにかは分かりませんが“問題”を解決してくれると言うので、楠もでしょう?」

 

 そう言いながらふやけた笑みを浮かべる桐に、楠はほうっと息を吐き出すと、ギザギザした歯を噛み合わせて弧を描く。『問題』、楠と桐が抱える問題など一つしかない。それを解決してくれると菫が言うからわざわざ玄武の沢まで楠と桐はやって来たのだ。楠と桐、二人の頭の中に重く腰を下ろしている問題を取り払ってくれるなら是非もないと、「そうだった」と楠は間を置いて、二人は思い思いの問題を口に出す。

 

「上手い五十両の返済方法があるわけだ!」

「姫様を上手いことデートに誘う方法があるわけですね!」

「ぼくは君らが心配や……」

 

 二人で依姫に立ち向かった時の気迫は何処へやら、すっかり借金持ちと恋にうつつを抜かしている剣客二人に菫の口からはため息しか出ない。二人顔を見合わせて『それは問題じゃないだろう』と眉を顰め合っている楠と桐の意識を引き戻すため、菫は一度強く机の上に湯呑みを置く。

 

「いやぁそんな庶民的な悩みはどうだってよくてな」

「どうだっていい⁉︎ どうだってよくないから困ってるんです! 白玉楼でいつも一緒だからこそこう切り出しずらいなぁ、なんてことがあるでしょう! それに誘うって言ってもどこに誘えばいいんですか⁉︎ 幻想郷じゃあほとんど行く場所ないんですよ! 楠の屋台に行くとか絶対やですもん!」

「いやそこは来いやあ‼︎ なんで隣に店員が居んのに行かない宣言してんだアンタ! 帰りてえのに日々雀の涙みたいな給金しか貰えない俺の悲しみが分かるか! ツケを払え! 妹紅との晩酌ぐらいしか楽しみがないんだよ!」

「いいじゃないですか美人さんと飲めるなら! この幸せ者! 自慢屋! 死んで下さい!」

「亡霊の姫さんのとこにいる亡霊が死を願うんじゃねえ! 縁起悪りぃッ‼︎」

「あの、もうほんとそんなのどうでもええんやけど……それにそんな話ならぼくまだにとりちゃんに上手いことお礼できてなくてなぁ、なにかあげたくてもあんまり他人に深く関わってこんかったしなにを送ればいいやら……、なにがええと思う?」

「知るか!」「知りません!」

「君ら酷いな⁉︎」

 

 誰の問題の解決にもならない不毛な争いに終わりはなく、『五十両』、『デート』、『プレゼント』と必要のない要素だけが積み上がってゆく。学生服を着ているだけに、その部分だけ切り取れば男子高校生たちのどうだっていい話で決着がつくのだが、残念ながら彼らは千年以上続く一族の当主たち。そんな彼らの問題は当然『五十両』でも、『デートのお誘い』でもなく、もっと一族に関わるものだ。

 

 しかしそんなことすっかり頭から抜け落ちた三人の話は全く進まず、密室の中で巻き起こる話に終止符は打たれない。それを打開するようににとりの家の扉が音を立てて開き、一匹の河童が不毛な密室へと足を踏み入れた。

 

「おー、ほんとに来たんだ。よく来たね英雄たち」

「つまりあれでしょう? 二人のは惚気かなにかでしょう? 男の惚気とかいらないのでお引き取り下さい!」

「違えんだわ! ってかいつも惚気てしかいねえアンタに言われたくねえよ!」

「なあ普段合わないぼくの話もう少し聞いてもええかなとか思わんの? 終いには泣くよ? まあぼく涙腺あらへんけどねー」

「うん、見事に聞いてないね。なんで私の家に来たのさ……」

 

 にとりの家は平城十傑の団欒場ではなく、ラボである。力任せに追い出すこともできない疫病神が二人家に居座っている現状に大きく肩を落とした。しかしそんな不毛な会話を延々と家で繰り広げられても困るので、にとりは背負ったリュックを背負い直しロボットアームを強く打ち合う。その音にギラリと差し向けられる六つの瞳ににとりは内心引くが、なんとか逃げ出すことなく頼れるボディーガードに目配せし、「おかえりー」と菫が椅子を引いてくれるので腰を下ろしようやく場は少しの落ち着いた。

 

「全くもう、他人の家でなにしてるのさ盟友たち。ここは私のラボなんだから暴れないでよ、そんなことしたら菫に追い出して貰うからね!」

「仰せの通りにやー、にとりちゃん」

「ふふーん、いまの菫は私の技術で生まれ変わったver.2! 元のヒヒイロカネの歯車と他の材質との相性が悪いから足りない部分は水をツナギに水圧で動かしてね、光学迷彩完備で更にウォーターカッタープラス! 最新式のロボットアームの隠し腕を二本搭載した最高傑作なんだよ! 更に更に」

「いやアンタもなにしに来たんだ? 自慢?」

 

 急に菫を自慢しだすにとりに楠は呆れ、そんな客人の姿におっといけないとにとりは帽子を被り直す。今宵楠と桐を呼んだのは、菫だけでなくにとりの案でもある。訝しむ楠と桐の顔を見比べて、それじゃあ早速と言うようににとりは手を合わせた。

 

「二人に来てもらったのは、他でもない困ってるだろう二人の問題を私と菫で解決してあげようと思ってね!」

「上手い五十両の返済方法な!」

「姫様をデートに誘う方法ですね!」

「いや、そういうのは私ちょっと……」

「うん、そういうのはもうええから」

 

 目を輝かせる二人の願いを菫はばっさり切り捨てて立ち上がると、部屋の一角にある大きく布を被っている場所まで歩みその布を取り払う。布に覆われた下にあったものは、周りのガラクタたちと異なり無骨という言葉が似合っていた。鞘に入った多くの刀剣類。それも大きさや形など様々で、刀の展覧会場のようにずらりと並んでいる。

 

 目を瞬く下さいと桐の顔をにとりは満足気に眺めた後、偉そうに腕を組み椅子の背もたれに寄り掛かった。

 

「二人の問題、月軍との戦いで二人とも刀が折れちゃったでしょ? だから新しい刀が必要なんじゃないかと思ってさ」

 

 桐の大太刀は月夜見まで保ってはくれたが。その時も万全ではなかった。依姫一人との戦いで、楠も桐も刀を壊された。それ以来碌な刀を持っていない。困ったことに刀というものにも等級がある。ただでさえなにかを斬ればその度に斬れ味の落ちるのが刀。出来の悪い刀ならすぐに斬れなくなり、なにより楠と桐の技に耐えられるだけの刀となると、そもそもそれなりの業物でなければ話にならない。

 

 月軍が去って以来多くの刀を下さいも桐も試しはしたがどれも手には馴染まず、使い捨てコンタクトレンズのように使い捨てる日々。それを聞き付け河童が動いた。技術屋のにとりに武器屋の菫。二人が揃えば生み出せぬ武器などこの世にない。楠と桐の驚いた顔を思い浮かべて二人に顔を向けたにとりだったが、そこに並んでいたのは表情のない真顔が二つ。

 

「刀かぁ……」「刀ですかぁ……」となんでもないような台詞を口遊む剣客二人の姿に、にとりの方が面食らう。

 

「あ、あれ? あんまり嬉しくない?」

「いや、もう鍛錬なんかは癖になってて剣は振ってるがよ、戦闘で使うのなんて依姫が来た時ぐらいだし」

「私は妖夢さんとの鍛錬で木刀を振るうぐらいですからねぇ、あんまり新しい刀のことは考えてませんでした」

「あれぇ〜? じゃあひょっとしてあんまり困ってない?」

 

 にとりの嫌な予感は待ったなしで速攻で的中し、縦に揺れる頭が二つ。そんなぁ⁉︎ とにとりが頭を抱えるより速く、菫の目が光り待ったを掛けた。

 

「まあ待ちいお二人さん。結論を出すのはちょっと早いんやないかな? あんまり必要やないと言っても使いはするんやろ? ならどうせならいい刀を持ちたいんとちゃう?」

「そりゃあ……」「まあ……」

「せやろ? だからちょっとぐらい手にとってみれば分かるって」

 

 そう言い菫はにとりに向けてウィンクし、パッとにとりは笑顔を浮かべて楠と桐の見えないところで親指を立て菫に向けた。技術屋としては作ったものを無視されることほど悲しいことはない。やる気になったなら早速と言うように、にとりも席を立ち刀たちのところまで足を進めると剣客たちを手招きする。顔を見合わせて立ち上がると楠も桐も刀たちの前に歩み寄った。

 

「さあさあどれでも手にとってみてや、どれもこれもぼくとにとりちゃんの技術の結晶や」

「河童の技術と菫の技術! 更に私が得た月の技術まで使った自慢の子たちさ! 絶対気にいる刀があるよ!」

 

 言われて楠と桐は刀たちに目を向けて、二人揃って首を傾げた。

 

 刀。鞘があり、鍔があり、柄がある。そう言われれば刀であろうが、形状が様々過ぎてなんとも言えない。幅が広いものや刃が三つ付いている鉤爪のようなものまで。バラエティーに富み過ぎていて選び辛いと手が伸びない。そんな中渋々と楠は手を伸ばし一本の刀を手に取ると、得意気ににとりが説明をしてくれる。

 

「お目が高い! 三十三番を選んだね! それは一見普通の刀に見えるけど、凄い機能が付いてるのさ!」

「凄い機能?」

「その柄のところにボタンがあるやろ? 押してみい」

 

 言われるがまま楠がボタンを押し込めば、かちゃりとなにかが嵌る音が響き柄が引き出しのように伸び開き、柄の中にあったものを露わにする。ツヤツヤに光った緑色の野菜。それはものの見事に美味しそうな胡瓜であった。

 

「…………おい」

「戦場で小腹が空いてもこれで安心! しかも柄の中にある限り腐らないときたもんだ!」

「しかも玄武の沢のだから美味しいんや、あ、胡瓜は別売りな」

 

 楠は無言で胡瓜を掴むと、あらん限りの力で壁に向かって叩きつける。弾け飛ぶ胡瓜に、なんてもったいない! と肩を跳ねさせるにとりと菫にクッソいらねえ! と言葉を差し出すのも馬鹿らしく、ゴミを捨てるように刀を元の場所にほっぽった。

 

 縁日でハズレくじを引かされているような状況に、少しだけ気分の上がっていた楠と桐のテンションが死んだ。それでもまだ一つしか手にとっていないと桐が刀を取ればまたにとりが口を開いた。

 

「五十二番を選んだね! それもまた良い子だよ! それも前のに負けず凄い機能が付いてるのさ!」

「あんまり聞きたくないんですけども……」

「そう言わんと、刀を抜いてみ?」

 

 桐が刀を抜けば、待っているには刀身のない刃。柄と鍔だけの刀に眉を寄せる桐に笑顔を送り、菫がボタンを押せとジェスチャーする。そうして桐がボタンを押せば、水の刃が勢いよく伸びた。

 

「これぞ正しく水の剣や! 斬れ味も保証するよ? 鉄だって斬れる」

「へー、これはなかなか良さそうですね」

「でしょ! ただ柄にある水の分だけだから十数秒しか持たないけどね!」

「え?」

 

 桐の間の抜けた一言がタイムリミットの合図となって、勢いのない水鉄砲のようにみるみる刀身は縮み刃の姿は消え去った。振ってもボタンを押してもうんともすんとも言わない刀に、桐は無言で鞘に収め直すと握り壊す。

 

「あー! なにするのさー!」

「なにじゃねえ! ガラクタしか今のとこねえぞ!」

「これなら人里で売ってる粗悪品を使った方がまだマシです。ふざけてるんですか?」

「ひゅい⁉︎ そ、そんなわけないじゃん! 他にもこれなんかカメラ機能が付いてたり、これなんかなんとボタンを押すと刀身が飛ぶ!」

「なんでそんな一発芸持ちの刀ばっかなんだよ⁉︎」

 

「ガラクタァ‼︎」と叫び楠は歯を擦り合わせ、桐は前髪を弄りながら心の篭っていない笑みを浮かべる。全ての刀に返品の判子を押しそうな二人に、やれやれと菫は肩を竦めた。

 

「なにが不満なん? 斬れ味は全部ぼくが保証するのに」

「斬れ味以外の要素がいらねえ! 付加価値のせいで価値が下がってるんだよ!」

「名画に墨をぶちまけていると言いますか、見事なオーケストラの中に一人尋常じゃない下手っぴがいると言いますか。その一人が気になり過ぎてまるで頭に入ってきません」

 

 良かれと思ってやったことが裏目にでるなどということはしばしばある。技術が素晴らしく品質が良かろうと、使えない機能ならばゴミと同じ。言外にそう言う二人の言葉に、遂に河童が立ち上がった。

 

「仕方ない、こうなったらとっておきを出そうじゃないか」

「最初に作ったふた振りやな。ぶっちゃけ他のは蛇足や」

「最初にそれを出せよ……」

「もったいぶりたかったの!」

 

 ツインテールを振りながら零すにとりの言葉に、ああそうですかと楠と桐は肩を落とす。そんな二人を見て菫とにとりは笑いながら、奥から大きな二つの箱を引っ張ってきた。箱には無駄に達筆な字で『北条』、『五辻』と名が刻まれており、触れ辛い空気を放っている。菫とにとりは二つの箱の両脇に並ぶと、どうだと言わんばかりに胸を張った。

 

「いや、そんな得意気にされてもよ、まだ箱しか見てねえんだが」

「それにしてもどちらも大きな箱ですね。本当にこれ刀なんですか?」

「ふっふっふ、見たら驚くこと請け合いや」

「見たらにとりさんすごーい、菫すごーいって絶対言うよ」

「お、おう」

 

 これまで以上に自信に溢れている二人に楠は少々面食らう。なにが出るのでしょうねと手を合わせる桐たちの前で、菫とにとりは腕を組み含み笑いをし続ける。

 

 十秒、二十秒、三十秒、と笑い続けるにとりたちに合わせて、楠は次第に歯を擦り合わせ、桐はくるくると前髪を弄り出す。一分が経とうというところで、流石に限界を迎えた。

 

「いや、さっさと開けてくれよ」

「もう帰っていいですか?」

「待った待った! もう、そこは合いの手とか入れてよー。なにが出るんだ⁉︎ とか、気になるぜ! みたいなさぁ」

「マジで帰るぞ」

「分かった分かった、せっかちさんやなー、じゃあまずは楠からなー」

 

 唇をとんがらせ、渋々と言うように菫が『北条』と書かれた五尺程の長さの箱を前に出しその蓋を開けた。カパッと空気の抜けたような軽い音に反して、箱の中で光る黒々とした柄と鞘。アクセントと言うように、鍔だけが碧く塗られている。ただ、見た目明らかにおかしな形状に、楠は大きく首を傾げた。

 

「な、なんだこれ、黒い背骨? キモいんだけど」

「失礼な! これぞ菫とにとり印のその名も『百足刀(むかでとう)』だよ!」

「む、百足刀?」

 

 全体の長さおよそ三尺。幅がおよそ二尺。爆竹のように並んだ九つの鞘の両端にそれぞれ一本づつ一尺ばかりの短刀が収まっている。手に持ちぶら下げれば、かちゃかちゃと打ちなる鞘の音が鬱陶しい。全部で十八本の短刀。呆けた顔で楠は百足刀をしばらく眺め、胸を張るにとりと菫に目を移した。

 

「こう背負う感じで背中にぶら下げて横から刀を引き抜く感じで、手で抜く以外にはどんなに動いても外れないよ!」

「そりゃいいんだけどよ、こんなに刀あっても使わねえよ」

「いやいや、楠は刀あってこそやろ? それなら一本や二本壊れても関係あらへん」

「ふっふーん! それにこの刀にも凄い機能がついてるんだよ!」

「そうか、聞きたくねえ」

「じゃあ説明するね!」

「アンタ聞いてねえな……」

 

 半目になる楠の相手をせず、にとりは楠に近寄ると百足刀の鞘から一本刀を引き抜き、離れてゆく。三メートル程離れたところで、「いいよ〜菫ー!」とにとりが手を振れば、菫もにとりに手を振り返し、もう片方の手に持っている小さなボタンをカチリッ、と押した。

 

 それと同時ににとりの持つ刀が独りでに小さく震えると、宙をかっ飛び元の鞘に音を立てて収まる。

 

「月の加重銃の応用でね、鍔と鞘に細工がしてあって手元から刀が離れてもボタンを押せば刀が鞘に落ちるって仕組みさ!」

「このボタンはベルトにでもつけといてな。一本だろうと十八本だろうとこれを押せば鞘に戻ってくるんやー」

「え……、マジで凄え、最初からこれ出せよ」

「へっへーん! もっと褒めて褒めて!」

 

 胸を張る菫とにとりに惜しみなく楠は賞賛の拍手を送り、百足刀から刀を一本引き抜くとくるりと回して机に向けて力いっぱい投げつけた。空を裂き飛ぶ短刀は、ずるりと机をすり抜けて床に突き刺さる。ボタンを押せば机の下に何度か当たりながら鞘へと短刀は戻り、楠は満足そうに深い笑みを浮かべた。

 

「悪くねえ……、これなら何本か投げても問題ねえな」

「…………ねえ菫、平城十傑ってやっぱり頭おかしいね」

「それぼくに言わんといてくれる? それより次は桐の番やでー」

 

 百足刀が入っていた箱よりも五尺ばかり長い『五辻』と刻まれた箱。なにが入っているのかは予想せずともすぐに分かる。菫が箱を開ければ姿を現わす白い鞘。全長九尺に及ぶ大太刀。刃の長さだけで六尺近い。桐の身長以上の大太刀に、それを見た楠は口端を痙攣らせ、桐は小さく笑みを深めた。

 

「さあさあこれぞ菫とにとり印の二本目の刃! 大太刀『尺取虫(しゃくとりむし)』さ!」

「尺取虫? なんなんでしょうかその銘の虫繋がりは……」

「まあまあ抜いてみ?」

 

 長い刀を引っ掛けることなくするりと抜いて刃を上に向け桐は刃に目を這わす。痩身の桐が三メートル近い大太刀をなぜ片手で持てるとにとりがドン引きする中、尺取虫の波紋がその名の通りゆっくりと本当に波打っているのを見て桐は眉を寄せる。

 

「ナノマシンが散布してあるんよ、斬れ味落とさんようにな。百足刀と違い尺取虫は一本の大太刀やからなー、鞘にナノマシン散布機能がついてるんや」

「ちょっと欠けたぐらいじゃ自動で治るよ!」

「ほう……」

 

 笑みを深めた桐がくるりと刃を振るえば、炎の線が空に引かれ炎の輪を描く。「危ねえッ⁉︎」と楠は床に飛び込み、菫もにとりを抱え込むように床に屈む。炎の軌跡が消え去るのを眺めて桐は緩やかに大太刀を鞘に収める。

 

「悪くないですね」

「変なテンションの上げ方をするな! 斬られるかと思ったわ!」

「危ないわー、にとりちゃん平気やった?」

「あはは、ありがと菫。でも気に入ってくれて良かったよ」

「まあこれなら使ってもいいな、ありがとよ」

「ええ、ありがとうございますにとりさん、菫」

「うん、はいじゃあこれ!」

 

 笑顔を浮かべたにとりに楠も桐も白い紙を渡されて目を丸くする。いくつもの丸が並んだその紙を見て、みるみる楠と桐の肩が落ちがっくりと両腕が下がる。

 

「分かりやすいように外の料金で書いてあげたよ!」

「おい……おいッ⁉︎」

「いやはやこれは……、いやはやいやはや⁉︎」

 

 二本の刀の合計が一億円を超えている。二度見どころか三度見しても書かれた丸の数が減ることなどあるわけなく、そっと刀を置こうとする楠と桐の手を強く手を突き出しにとりが制した。

 

「あっ、返品は受け付けないよ」

「ふざっけんな‼︎ そんな押し売りあるかッ⁉︎ 払えるわきゃねえだろうがッ‼︎ 横暴だッ‼︎」

「そんな……、楠と揃って借金塗れなんて絶対嫌です⁉︎ 借金なんてこさえたら姫様と妖夢さんにどんな顔されるか‼︎ あぁぁぁぁイヤですぅ〜‼︎ 姫様そんな目をしないで下さい⁉︎ げふぉッ⁉︎」

「ぶっ⁉︎ 桐が血吐きよった⁉︎ そんなイヤなん⁉︎」

「嫌に決まってんだろ! アンタ借金舐めんなよ! 洒落になんねえんだぞ!」

「わわわ⁉︎ 菫ぇ⁉︎」

 

 にとりに詰め寄ろうとする楠と桐の前にするりと菫が体を滑らす。キリキリという歯車の音に合わせて菫の両の前腕から滑り出る刃。水に濡れたような刃は細かく振動しており、軽く振られた腕を追って刃から水の刃が形を変えて小さく伸びた。

 

「ヒヒイロカネの刃と、それに追随し形を変えて蠢く水の刃。ぼくとにとりちゃんの合作一号、絡繰刀『飴坊(あめんぼ)』。この斬れ味試してみるか?」

「上等だボケ! アンタぶっ飛ばしてぜってえ返品してやる!」

「借金は! 借金は嫌ですぅ⁉︎ 菫ぇ‼︎ いくら私でも許さんぞッ‼︎」

「ちょ、待っ⁉︎ やめ⁉︎」

 

 その日、玄武の沢の一角が吹き飛んだ。水と炎が大地や家屋を細切れにし、刃の壁をすり抜けて短刀が縦横無尽に宙を飛ぶ。にとりの家は木っ端微塵に消失し、しばらく菫とにとりは各地を転々とする羽目になった。平城十傑に新たな武器を与えるために。

 

「あーん⁉︎ 上手いこと儲けられると思ったのにい⁉︎ なんでこうなるの⁉︎」

「因果応報言うやつかなぁ? 次はもっと上手くやろなにとりちゃん!」

「うん! 次は上手くぼったくろう! 目指せ二人で億万長者‼︎」

 

 菫とにとりが懲りることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




*百足刀と尺取虫の代金は後日梓と藤が払った。

次回、レミリア、さとり、椹、たった一度の盗賊編。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア、さとり、椹、たった一度の盗賊編

 

「さて、まずはなにをどうするのがいいんですかね? なに分こういうことは初めてですから勝手が分かりません。段取りは……決めてないんですか? 行き当たりばったり? よくこれまで捕まりませんでしたね。偏に幸運だっただけじゃないですか。そう苛つかれたところで本当のことなのですから自業自得です。少し楽しみにしていましたけど、後悔してきましたよ……、そんなこと思われても知りません。先に言っておきますと、私はあなたの言うことをほぼ聞く気ありませんので。はぁ? 嫌いだからですよ」

「つまんないわね、面白くなってきたら教えてくれる?」

「お前らまじふざけんなよ……」

 

 普段の不敵な笑みは何処へやら。椹のふわふわした綿毛のような白髪は、椹の心情を表すかのように髪先が逆立ち、マミラリア属の仙人掌(サボテン)のようになっていた。それもこれも椹の後ろで偉そうに足を組み座っている二人の少女のせいである。顳顬を押さえ、なんでこうなったと椹でも思わず思い返さずにいられない。

 

 

 ──、

 

 

 ────、

 

 

 ──────。

 

 

「お頭今日はどうするの?」

「どうすっかやぁ、そろそろまた大捕物してえなぁ」

 

 私の可愛いこいしは今日も元気いっぱいです。小さくこてん、と首を傾げる姿が愛らしいですね。おっと、帽子がずり落ちそうになりましたが見事にキャッチ。自称大盗賊(笑)の椹に微笑みかけ(かけなくていいのに)、椹は間抜けな顔で返しながら欠伸を一つ。やる気の欠片も感じられません。そんな椹にニコニコ笑うこいしはまだしも、フランドールさんはちょっぴり不満顔です。

 

「ねぇ椹、またでっかいところに行こうよ。最近は刺激が足りなくてつまんないわ」

「そうだなぁ、どうにもセコいことしか最近はしてねえ気がすんぜ。これじゃあオレたちの沽券にかかわるかもしれねえやな」

 

 白玉楼の煎餅が消えた、博麗神社から饅頭が消えた。焼き鳥屋台から焼き鳥が……。これではただの食い逃げ犯ですね。嘆かわしい、こいしの格が下がっちゃいます。やはりこの大盗賊(笑)には一度お仕置きが必要ですね。横になってぐうたらしている椹のやる気ない言葉にフランドールさんもため息をひとつ。そのまま蹴っ飛ばしてあげればいいのに。腰に手を当て呆れるフランドールさんとこいしを眺めて椹が身を起こそうとしたところで、その動きがカチリ、と固まりました。

 

 そよぐ草木、飛び立つ小鳥、その全てが動きを止め、フランドールさんも腰に手を当てたまま、こいしも帽子のつばを掴んだまま動きません。その中でただひとり、瞳を揺らして停止した世界を眺める椹の前に音も立てずにひとりの少女が舞い降ります。銀色の髪を揺らしてメイド服を纏った少女こそ、紅魔のメイド十六夜咲夜さんです。

 

 両脇に私とレミリアさんを抱えたメイドさんは、勝ち誇ったような笑みを浮かべて鼻を鳴らし、椹を見下すように見つめた後私とレミリアさんを優しく下ろしてくれました。なんだいったい⁉︎ と、処理落ちしたパソコンのようにカクカクと微々たる動きで表情を歪める椹の顔は愉快ですね! ふふっ、お見事です咲夜さん! 笑える

 

 私とレミリアさんを下ろした代わりにメイドさんはこいしとフランドールさんを抱えると、優雅に身を翻して空へと去って行きました。なにが起きているのか分からずとも、奪われたという事実に鬼のような顔になる椹は死んでも変わりないようで……。銀髪メイドのメイド服を全て別の服に変えてやる‼︎ と息巻く椹が立ち上がったところでようやく止まっていた時が動き出しました。

 

「なんだいきなり⁉︎ 銀髪メイドの野郎こいしとフランを盗んできやがった⁉︎」

「頭の中も口も相変わらずうるさいですねあなたは……」

「久し振りね盗賊、死んでも元気そうでなによりよ」

 

 くっくっく、と笑うレミリアさんの横で私はただただ呆れています。私とレミリアさんを見比べて、ものすごい面倒そうな顔をする椹よりも絶対私の方がめんどくさいと思っていますよ。「なんの用かや?」 と不機嫌な顔で言葉を吐く椹の相手をするのは私は嫌なので、会話はレミリアさんに丸投げします。

 

「そう拗ねるのはやめなさい、フランとさとりの妹に居て貰っては不都合なのよ」

「なんじゃそりゃ……」

 

 得意気に腕を組んで微笑を浮かべるレミリアさんはなにが楽しいのやら、訝しむ椹の顔にレミリアさんは指を突き付けると大きく息を吸い込みました。

 

「授業参観とかいうやつよッ!」

「……なんじゃそりゃ」

 

 幻想郷のお姉様同盟の名の下に、こいしとフランドールさんと共にいる椹が相応しいかどうかを試すと、レミリアさんが言うのはそういうわけです。レミリアさんは口調とは打って変わって頭の中はなかなか愉快ですね。椹はレミリアさんの言うことがさっぱり理解できずただただ首を捻るだけです。

 

「つまりどういうことかや? 全然分からん」

「くっくっく、私とさとりが今日は椹に同行してやるという事よ!」

「は、はぁ? なんでそうなった⁉︎ お前らオレの子分になりてえのかや?」

「そんなわけないでしょう、あなたの子分など死んでもゴメンです。死神に追われるような悪霊とこいしが一緒だなんて、はっきり言って心配ですからね。とは言えこいしは言っても聞くような子ではないですし、渋々、本当に渋々、レミリアさんの口車に乗ったわけです。で? 最近はなにをやっているのですか? ……食い逃げ? 万引き並みのしょうもなさですね。大盗賊(笑)」

 

 あースッキリ。苦い顔の椹を見ると気分が良くなりますね! 是非とも椹には苦渋を飲んで貰いたいものです。そしてそのまま溺れてくれればなお丸ですね。

 

「……平安京を恐怖に陥れた日本で最初の大泥棒、袴垂の名が泣いてるんじゃない?」

「うるせえなッ‼︎ 言ったなお前らッ! そこまで言うならやってやんよ! 見てろボケ! かぐや姫が持ってるとか言う蓬莱の玉の枝、遂にオレが奪ってやんよ‼︎ ああやってやんよ!」

 

 そんなこんなで少しして永遠亭にやって来たのですが、椹は藪の中から遠巻きに永遠亭を眺めているばかり。大変退屈ですね。いつまでこうしていることやら、レミリアさんなんか木陰の中でさっきから眠そうにしてますよ? あ、もうそろそろ回想が終わるみたいです。全く、長ったらしい回想ですね。だいたい ──、

 

 

 ──、

 

 

 ────、

 

 

 ──────。

 

 

「なにニヤついてんださとり嬢、気色悪」

「あなたに言われたくないですね、竹藪に隠れた大盗賊(笑)」

 

 お互い笑い合いながら、額に浮かぶ青筋は隠さずさとりと椹は見つめ合う。口にしなくてもお互いの頭の中に浮かぶ罵詈雑言が表情から零れ落ちており、不毛な争いに首を突っ込むこともないとただただレミリアは終わりなき口喧嘩を傍観した。

 

「なんだよ、久々に地底から外出たからってはっちゃけてるわけかや? さっきから人の顔見てニヤニヤしやがってよ! ひょっとしてこいしの真似かや? 言っとくがこいしの方が百倍可愛げあるかんな! さとり嬢じゃあ……、だっはっはっはっは‼︎」

「あなたこそいつまでまごまごしてるんですか? レミリアさんの紅魔館や私の地霊殿にズカズカ踏み込んで来たくせに、今更怖気付いたんですか? あっ……、すいません図星でしたか? つい口に」

「図星じゃねえよ⁉︎ なに言ってんだオメェ‼︎ オレに怖いものなんてねえし! さとり嬢が言うとマジでそんな感じになんだろうがッ! 可愛くねえ! しかも腹黒だ! 真っ黒過ぎて手に取りたくねえな!」

「ならあっち行ってください。あなたの声を聞いてると耳が腐るような気がします」

「さとり嬢お前なんで来たんかや? 居たくないならさっさと帰れ動物保護官様、ペットが恋しがってんぜ!」

「うちの子たちは良い子なのでそんな心配要りません。あなたと喋ってると血圧上がりますね。寝起きには丁度いいかもしれませんが今は昼なんですよ。知ってました? まさか夜までここにいる気ですか? 大した盗賊ですね(笑)」

「うるせえな! だいたいなんでか知らねえけど永遠亭の警備が異常に厳しいんだよ! 元月の兎三匹に、なんか楠に梓の旦那、漆までいやがるしッ! なぜいる⁉︎」

「ああ、それ私が予告状出したからよ」

 

 あっけらかんと木陰に寝転んでいたレミリアが欠伸をしながらそう告げれば、表情の死んだ椹の顔がゆっくりと向いた。「一度やってみたかったのよね」と楽しげに呟くレミリアに、椹は大きく頭を振る。

 

「なんだ予告状って⁉︎ そりゃあ怪盗だろうがよ⁉︎」

「あらなにが違うの? そっちの方が格好イイじゃない」

 

 全然違ぇ‼︎ と椹はがりがり頭を掻いてレミリアに指を突き付けるが、なにが違うのかレミリアにはさっぱりだ。椹は盗っ人でも盗賊で大泥棒。誰に知られることもなく相手の根城に侵入し、オレが盗んだぁ! と名だけを残してさようならが椹の理想だ。一々「今から行きまーす」と書状を送り、自らリスクを上げるような真似はしない。あくまで自然の状態のままを楽しむのだ。それこそがあるがままの素の姿。そこから奪ってこそ意味がある。

 

 そんな風に違いを口にしようとするも、椹は上手く説明ができず頭を掻き、ただひとり椹の頭を覗けるさとりは、相変わらず自分の考えだけはしっかりしているとため息を吐いた。

 

「あなたはあれですね、鬼とは違った意味で裏表ないと言いますか、直球でここまで私をイラつかせる相手は初めてですよ。なんでこいしはこんなのを気に入っているんですかね?」

「悪かったなこんなので、さとり嬢に見る目がないんだろうよ」

「どうでもいいけど行くの行かないの? 暇でしょうがないんだけど」

 

 レミリアに急かされ椹は再び永遠亭へと目を向ける。歯を擦り合わせながら永遠亭の縁に座る楠と、不動で腕を組みその隣に座る梓。小ちゃな白い式神の少女を抱えて座る漆。見れば見る程椹の肩はだだ下がる。平城十傑、よく知った相手だからこそ、椹でさえ手をこまねく。化け物どもぉ……、と頭の中で愚痴を零す椹の背を見て、さとりは今一度大きく深いため息を吐いた。

 

「あなたたち平城十傑って面白いですよね。全員が全員化け物みたいなのに、自分より周りの者たちのことを化け物と言うんですから」

「はぁ? さとり嬢マジでどこに目付けてんだ。あいつらマジで人間じゃねえって。オレなんかよりよっぽどだ。特に楠と梓の旦那と藤の旦那と菖の姉御は別格でやべえ。変態だ変態。オレなんか可愛いもんかや」

「貴方も大概だと思うけど……、形は違えど極東の侍ってやつね、よく知ってるわよ。極東にいる侍って奴はね、だいたい頭がおかしいのよ」

「偏見が酷えやな……」

 

 鼻を鳴らして笑うレミリアの話の相手を椹はせず、椹は永遠亭を見つめて小さく一度うんと伸びる。楠、梓、漆。この三枚を抜くのは椹をして厳しい。単純な武の殺傷能力ならば楠が平城十傑トップ。梓には一度掴まれでもすれば脱出不可能、なにより椹の攻撃は通用しない。漆に至っては平城十傑一の術師だ。なにが出るのか分かったものではない。くるくると三つ編みを指で回しながら、ポンと椹は手を打つと大きく頷いた。

 

「よし、別の場所にしよう。あいつらがいねえとこにな。白玉楼には桐がいるしな……、命蓮寺には梍がいるしな……、妖怪の山は最近菫の旦那が練り歩いてるし……、こうなったら紅魔館か地霊殿しか」

「次来たら今度こそ私のペット総出で本気でお出迎えしましょう。それでもいいならどうぞ」

「おや、なら私もそろそろ紅魔館の本気を見せようかしら。実は最近従者がひとり帰って来てね、美鈴もやる気だから門前払いくらうかもだけど」

「なんじゃそりゃ、ちょっと面白そうじゃねえか」

 

 不敵に笑うさとりとレミリア。その笑みこそを奪ってみたいと椹はほくそ笑む。ただ、今は相手が違うだろうとレミリアは椹の頭を軽く小突き、頭を永遠亭の方へと向けた。

 

「やると決めたからにはやらないと面白くないわ、腹を括りなさいよ椹。じゃないとつまんないわ」

「オレはお前らの暇潰しに命を賭けなきゃいかんのか?」

「暇潰しではなく審査だと言ってるでしょう。それにあなたもう死んでるでしょうに。いいからもうさっさと行って来なさい」

「げッ⁉︎」

 

 さとりに背中を上手い具合に蹴り抜かれ、椹の足がよたよたと意に反して前へと出る。全身の力を総動員し椹はなんとか足を止めて留まるも、視界は晴れ渡り竹藪は背中。「「あっ」」と重なり合った楠と椹の声が静寂を呼び、歯を食い縛る楠、片眉上げる梓、ウルシと共に首を傾げる漆と、三者三様の顔と椹はしばらく見つめ合い、にへらっと笑うと三つ編みを指でくるくる回した。そんな椹にぴたりと楠は擦り合わせていた歯を止めて、力任せにと立ち上がる。

 

「なにマジで来てんだアンタ! めんどくせえ! 予告状送られたとか言って輝夜の野郎に無理矢理引っ張り出されたんだぞこっちは!」

「うるせえやなッ‼︎ オレだってもうなにがなんだか分かんねえんだよ! だいたいこりゃあレミリア嬢とさとり嬢のせいかや! なあオイ!」

「速攻で仲間を売る盗賊ってどうなんですか?」

「盗賊の心得そのさんはどこ行ったのよ……」

「お前ら仲間じゃねえだろうがッ!」

 

 後ろへ振り向き喚く椹の声を止めるため、重い足取りで姿を表すのは吸血鬼と覚妖怪。影から出ぬようにゆったりとレミリアは腕を組み、さとりはため息を吐きながら椹から何歩か離れて横に並ぶ。全く足並みの揃わぬ珍しい三人組に楠たちは目を瞬き、自棄になった椹は楠たちに振り返ると思い切り指を突きつけた。

 

「クッソがッ! 待たせたなぁ‼︎ オレこそ天下の「紅魔館が主、紅い悪魔(スカーレットデビル)、レミリア=スカーレットとは私のことよ」」

「地霊殿が主、心を盗む妖、古明地さとりと申します」

「オレと台詞が被ってんよ⁉︎ 順番! 順番守れ! オレが一番最初だ!」

「……椹、君はまた影が薄くなったか?」

「おい、あたしもう帰っていいか? この後早苗たちと予定あんだよ」

 

 新しい漫才トリオなどお呼びでないと、早々に興味を失くした漆は帰ろうとするが、置いて行くなと楠に強く肩を掴まれ引き止められる。楠だって見るからに面倒そうな者たちの相手をするのは御免だ。周りの騒がしさを気にせずに、ゆらりと立ち上がる梓の姿に椹は小さく肩を跳ねさせてちょっと待った! と手を前に出す。

 

「ちょい待ち梓の旦那! まだオレはレミリア嬢とさとり嬢に話しときゃならないことがある! 今こそ盗賊の心得そのろくをッ!」

「要りません。私別に盗賊になる気ありませんし」

「それより日傘かなにかないかしら? これじゃあ影から出れないわ。椹意外と気が利かないのね」

「お前らマジでなんで来たんだ⁉︎ オレになにして欲しいんだマジで!」

「おっし、あたしは帰る。楠、梓さん、後は任せた」

「嘘だろ……、俺も帰るぞ、昼の売り時に椹の相手なんてしてられるか! 悪いな梓さん」

「ふむ、僕もこの後勇儀と約束があるでな。悪いがお暇させて頂こう。椹、あまり騒ぎを起こして藤と菖を困らせるなよ」

 

 言い争う椹とレミリアとさとりに呆れ返り楠と梓と漆が各々の用事を優先し永遠亭から離れた一方その頃、こいしとフランドールは紅魔館で茶をしばき倒していた。

 

「フランちゃんこれも美味しいよ!」

「たまにはこういうのもいいわね、咲夜、紅茶のおかわりが欲しいわ」

「はい妹様! 少々お待ちくださいね!」

 

 ショートケーキにモンブラン。甘味に囲まれ紅茶を楽しむ。和やかで朗らかな時間を送る少女たちの傍で、咲夜が久々に柔らかな空気を纏うフランドールの相手ができている喜びに顔を綻ばせていた一方その頃、ようやく椹たちは永遠亭の中に一歩を踏む。

 

「作戦成功だ! オレたちの演技で梓の旦那たちは居なくなったぜ!」

「よくアレを演技などと言えますね……、本当にこんな行き当たりばったりでなぜこれまで捕まらなかったのか不思議でなりません」

「そう? 私はこういうの好きだけど」

「好き勝手言いやがって……」

 

 口を開けば文句しか飛んでこないため、もう椹は相手をすることを止めて先を急いだ。永遠亭、その名の通り時が止まったかのように永遠に佇んでいる屋敷には埃の一つもありはせず、時から浮いた潔癖な壁と床に足を落としたところで跡もつかない。後ろから聞こえてくる二つ分の足音を聞きながら、椹は廊下に目を這わせるも、行けども行けども続くのは廊下。迷いの竹林と同じように迷宮のような永遠亭にで、輝夜たちがどんな生活をしているのか想像もできない。

 

「ったく、永遠亭もそうだがよ、紅魔館も命蓮寺もなんで幻想郷なんて言う箱庭にあってこんな広いんだおい」

「うちは咲夜とパチェがいるおかげよ、永遠亭は八意永琳がいるからでしょうね。一種の防衛装置みたいなものよ。どうするの盗賊?」

「空間魔法的なやつか、オレには関係ねえやな。オレに掴めねえものはねえ」

 

 笑い伸ばされた椹の手が壁へと伸び、壁の手前でナニカに吸い付いたかのように椹の手が止まった。閉じられる手のひらに合わせて空間が歪み曲がってゆき、捻られた椹の手の動きに合わせて空間が捻れる。ギュルリと渦を巻いたかのように捻れる壁はペキペキと軋み、椹が腕を引いたのと同時に栓を抜いたかにように穴が開く。半ば感心しながら半ば引き、レミリアとさとりは目を見開く。

 

「やっぱり貴方たち面白いわよね。よくそんなことできるもんだわ」

「どんな人にも取り柄があると言いますが、取り柄どころか手品ですね。タネも仕掛けもないですが」

「運命を操るだの心を読むだのお前らだって大概かや。幻想郷はびっくり箱よ! 退屈しねえぜ! なあ?」

「…………退屈しないのは同意見だけど貴方死にたいの椹?」

 

 椹の下に飛んできた声。レミリアのものでもさとりのものでもない。二つの声とは毛色の違うもう一つの声は、椹が開けた穴から流れてくる。ゆっくりと穴へと顔を動かす椹の先に待つ湯呑みを持った黒髪の乙女。その隣に座る月の頭脳と平城十傑の参謀。元月の兎三匹が銃を構えている姿を見て、椹は乾いた笑みを浮かべた。

 

「……あれぇ?」

 

 そんな椹から目を外し、輝夜は余裕を持って湯呑みを置く。その鈍い音が椹の口端を痙攣らせる。

 

「よくやったわ永琳、櫟、貴女たちの言った通りになったわね」

「梓さんたちを門番に使い容易に通り抜けられれば油断もするというものです。さあさあ鈴仙さんお仕事ですよー」

「はいはい全く、櫟もなんだかんだ人使い荒いわよね」

「おいレミリア嬢、さとり嬢、ここは……」

 

 逃げるぞ。と口に出そうと振り返った椹の背後に人影はなく、綺麗さっぱり吸血鬼と覚妖怪の姿は消え去っていた。ギチギチと音が聞こえるんじゃないかと言うほどにぎこちなく戻ってくる椹の顔に輝夜は最高の微笑みを与え、右手を突き出すと親指を立てた。椹が笑みを浮かべるのを確認し、輝夜はぐるりと百八十度手を回す。下を向いた輝夜の親指に、椹の口角も急降下。慈悲はない。

 

「私の手を噛もうとはいい度胸ね椹。言い残すことはあるかしら?」

「ぜっっっってえッ! 紅魔館と地霊殿には礼をしてやるからな! 覚えてろ!」

「私に言うんじゃないわよ……」

 

 ため息を吐きながら輝夜が指を鳴らすのを合図に、幾発の銃声が永遠亭にの中を跳ね回る。息も絶え絶えに生還した椹が紅魔館と地霊殿にお礼参りに行くのはまた別のお話。レミリアからは「見てて面白かったから」と合格を、さとりからは「椹だから」と理不尽な不合格を、結果は一対一で結局は保留。ただ椹の中での二人の評価が下がって終わった。

 

「もうアイツらとはぜってえ組まねえやなッ!!!!」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。