外角低め 115km/hのストレート【完結】 (GT(EW版))
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矛盾だらけの野球少女
星のお姫様


 

 150キロの剛速球を真ん中中央に叩き込み、強打者を空振り三振に仕留める。

 

 それは男のロマンだ。

 力と力のぶつかり合い、男と男の真剣勝負。野球をする上で最も目立つのは、投手ならば奪三振、打者ならばホームランというのが一般的であろう。さらに追究すれば、投手はより速い球で三振を取りたがり、打者はより遠くへ打球を飛ばしたがるものだ。

 豪腕やフルスイングが叩き出した球速表示と飛距離は、観る者と行う者に爽快感を与える。野球は同じルールの中でいくつもの技術があるスポーツだが、結局は剛速球と特大ホームランこそが大衆が好む野球の華なのだ。

 

 ――だが、一人の少女はそれを鼻で笑い飛ばした。

 

 特大ホームラン? 確かにホームランは最も効率的に点を取れる手段だが、飛距離が140メートルを超えたからと言って特別に加点されるわけではない。場外ホームランを狙って打撃フォームを崩すリスクを冒すぐらいなら、確実に真芯で捉え、スタンドの最前列に放り込むバッティングを極めた方がいい。

 剛速球? スピードガンなど粗大ゴミだ。力任せに150キロの直球をど真ん中に投げ込むより、外角低め(アウトロー)に140キロを正確に決めた方が打者は打ちにくい。しかもスピードを追い求めた結果肩を壊し、先の長い野球人生を棒に振るった投手がどれほど多く居ただろうか。どうしても直球で三振を取りたいなら、スローカーブやチェンジアップを織り交ぜた緩急つけたピッチングを学び、140キロを150キロに見せる技術を身につけた方が確実に長く活躍出来る。

 

 登校から朝のHRが始まるまでの時間――その時間を読書に費やしていた少女は、先まで読んでいた文庫本を閉じるとそっと引き出しに戻した。

 その口から、小さく失望の息が漏れ出る。少女が先まで読んでいた文庫本は「スーパーエース」というタイトルの、高校野球を題材にした青春ストーリーである。それは無名校に現れた一人の天才投手が剛速球を武器に仲間と共に甲子園を目指すという、良く言えば王道的で、悪く言えば何番煎じかもわからない見飽きた内容だった。

 

「……やっぱり、そういうものか」

 

 溜め息混じりにそう呟く少女の姿からは目に見えて思い悩んでいることが伝わり、その儚さは元々の雰囲気もあり非常に「様になっていた」と後にクラスメイトが語る。

 ともかく、少女――(いずみ) 星菜(ほしな)は憂鬱だった。

 

 何故、最速120キロの投手が高校野球で奮闘する物語が無いのか――それを声を大にして叫びたい気分である。

 

 いや、決して無いわけではないのだろう。全国の書店を探し回れば何冊か出てくるとは思うが、少なくともこの「竹ノ子高校」の図書室には置いていなかった。それはやはり、球の遅い投手では読者に与える爽快感が少ないからなのだと思う。需要が少なければ供給もされないのは至極当然だった。

 しかし星菜は球が遅い投手の方が――正確に言えば、遅い球を速く見せる投手が好きだ。ハエの止まるような緩い変化球を見せた後、アウトロー一杯に決めた120キロのストレートで見逃し三振を奪う。そんな投手こそが、彼女が空想に求めている理想の主人公だった。

 

 ――150キロなんていらないんです。大事なのはアウトローに決めることと、緩急を付けることなのです……。

 

 竹ノ子高校一年一組の教室内。泉星菜の呟きは、早朝からやかましいクラスメイト達の喧騒に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 泉星菜は野球少女だった。

 

 それもただの野球少女ではなく、リトルリーグ時代では身長160センチの長身左腕から放たれる100キロ超えの直球と、切れ味鋭いカーブ、チェンジアップを武器にチームを全国制覇に導いた超実力派の投手である。制球力も高く、彼女がもし「男子であったならば」、有名なシニアやボーイズリーグのチームから数多の誘いが来たことだろう。星菜はそれほど優れた投手だったのだ。

 しかし残念ながら、彼女の性別は「女」であった。中学に入学して以降、身長の伸びは160センチのままピタリと止まり、しかし腰周りや胸部などはすっかり女性的に変貌してしまった。それは例外なく、全ての野球少女が通る道だった。

 星菜はその時点ではまだ何も感じていなかった。当時の彼女はこのまま突っ走り、初の女性プロ野球選手になってやろうとまで思っていた。しかし、なまじ高い実力を持っていただけに、後に味わう苦痛も大きかった。

 中学に上がった途端、周りのチームメイト達が次々に星菜の身長を追い越していき、それに伴って体力が跳ね上がっていった。対して星菜の身長は変わらず、数ヵ月後には体力的に彼らの練習に付いていくことが出来なくなっていた。

 それでも投球だけは彼らに通じ、同学年の中ではエースを張ることが出来た。しかしそれすらも二年生を相手には一切通じず、どの球種を投げても簡単に打ち込まれた。

 

 彼女の中でプライドがへし折られるまで、多くの時間は掛からなかった。

 やがて先輩達だけでなく同級生からも痛打を浴びるようになり、二年生になる頃には彼女の立場は同学年の中でも下の下へと落ちぶれていった。

 弱小の野球部なら、少しは重宝されたかもしれない。しかし、彼女が所属していた野球部は強豪の類だった。小学六年から成長の停止した星菜は、既に戦力として認められていなかったのだ。

 それでも、野手としてなら通用しないこともなかった。

 パワーこそ男子には劣るが、真芯で捉える技術は同学年一をキープしていた。守備も堅実で、外野手のレギュラー争いには加わることが出来た。

 しかし、星奈は投手に拘った。その選択が間違っていたのか、正しかったのかはわからない。

 ただ、投手に拘ったからこそ転機が巡ってきたのは事実である。

 それは無名校を一人で甲子園出場に導くよりも、遥かに突拍子も無い出来事だった。

 

 ――前世の記憶を思い出したのである――。

 

 ……いや、精神的に追い詰められて例のアレに走ったわけではない。当時星奈は中学二年生だったが、決してアレを患ったわけではないのだ。

 きっかけはある日、星菜がバッティングピッチャーを務め、フリー打撃を行っていた時だった。

 不運にもバッターの打球が星菜の頭部を直撃し、意識を失ったのである。

 幸いにも彼女の所属していたクラブが硬球を扱うシニアチームではなく軟式の野球部だった為、大きな怪我にはならなかった。

 しかし目が覚めた直後、星菜の中には星菜ではない別の記憶が生まれていたのだ。

 

 それは、あるプロ野球選手の記憶だった。

 名を、星園渚(ほしぞの なぎさ)と言う。女性のような名前だが、れっきとした男性である。

 

 それらは妙に現実味のある記憶で、調べてみればその記憶の持ち主が実在していたことがわかった。

 星園は最速130キロ程度の球速でありながら、左腕を全く見せない投球フォームと多彩な変化球によって、その直球を実際より20キロ以上速く錯覚させ、奪三振の山を築いていたという。通算で積み重ねた勝利数は驚異の199勝。遅い球しか投げられないにも拘らずプロを相手に勝ち進む彼を、周りは「緩急の大魔導師」や、「星の大魔王様」と呼んでいたらしい。

 本当に、まるで魔法使いのようだと星菜は思った。

 

 その際、彼女が混在する星園渚の記憶をはっきりと別人のものとして分割出来たのは、単に泉星菜としての精神が強かったことと、友や家族に励まされたことによる部分が大きいだろう。星菜が意を決して彼らに相談したところ、前世が誰であろうと星菜が星菜であることに変わりはないと言ってくれたのだ。その簡単な一言に、星菜は救われたのである。

 泉星菜という自己をより確固たるものとして安定させると、星菜はこの「星園渚」の記憶を自分の投球に利用することにした。

 プロの――それも通算199勝も上げた男の記憶である。同じ左投手として彼の経験は非常に参考になり、元々天才肌な上に努力家でもある星菜はその技術を次々と吸収していった。

 星菜が自分のモノに出来た技術は、全体で星園の一割にも満たないだろう。しかし泉星菜は、これを機に覚醒を遂げた。

 

 星園のものをほぼ百パーセント再現した、左腕を見せない投球フォーム。

 キャッチャーミットが構えたところから動かない、針穴を通すコントロール。

 ストレートと同じ腕の振りで操る、球速差40キロものスローカーブ。

 打者にストレートだと錯覚させ、バットの芯を巧みに外すカットボールとツーシーム。

 そしてスピンの効いた、球速表示以上に速く見えるストレート。

 

 これらを短期間の内に習得してみせた星菜は、間違いなく天才だった。チームメイトの投手を一気に突き放すと、先輩すら抑えてチーム一の投手となった。

 その瞬間が多分、自分の人生の最高潮だったなと振り返る。

 

(良い夢だったよ)

 

 なんで、こんな記憶を持ってしまったのだろうか。星菜は自分の中にある星園渚の存在を呪う。

 この男の記憶さえ無ければ、すんなりと野球を諦められたのにな――と。

 

 窓の外、星菜は席に腰掛けながら早朝の校庭を眺める。

 サッカー部が盛んなこの竹ノ子高校の校庭で、二人の野球部員がキャッチボールをしている姿が目に映った。当然ながら、二人とも男子だ。野球部には全体通してみても、女子部員など居る筈が無い。

 

(どうせ諦めなければならないなら……)

 

 前世の記憶があれば無双出来る、そう思っていた頃が懐かしい。

 どん底から立ち上がった彼女を待っていたのはさらなるどん底で、最早立ち上がる気も起きない相手だった。

 それは監督の一存であり、世間の常識であり、近い将来に立ちはだかる覆し難いルールであり、教師達のお節介であり――何よりも、彼女の性格がそうさせた、野球を続けることへの「諦め」であった。

 

「こんなもの、いらなかった」

 

 自分自身への苛立ちから、星菜はそう吐き捨てて突っ伏した。その言葉を聞いていた手前座席の山田君がビクッと肩を震わせたが、どうでも良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 泉星菜の通う竹ノ子高校は、男女共学の公立校である。偏差値は中の下と言ったところで、場所も田舎の山道にあり、校舎もやや古めかしい。しかし近場に住む者が多い為か生徒の総数自体は多く、それなりに賑やかな学校だった。

 部活動はサッカー部が盛んであり、地区一二を争うレベルを誇る。他にはテニス部や陸上競技部、柔道部などがあり、文化部においては漫画研究部なるものまで存在している。

 そして、野球部がある。昨年までは部員の激減により解散の危機に追い込まれていたものの、二人の部員の入部を機に七月前には復活し、秋季大会では見事二回戦を突破、三回戦では名門海東学院高校と延長戦にまで持ち込むという快挙を成し遂げた。惜しくも試合はショートのタイムリーエラーによって敗れたものの、今後における期待度は相当に高いだろう。

 

「そう、その波輪って先輩が凄い格好良いのよ~!」

「私知ってる! こう、バキューンって投げてパコーンって打つのよね!」

 

 星菜の一年一組でも、野球部の話題は割と頻繁に流れている。野球部と言っても二年生キャプテンの話題がほとんどだが、星菜の周りの女子はどうにもその男のことが気に入っているらしい。

 入学してまだ二日目だと言うのにクラスメイトと打ち解けて早々にそういった話が出来る彼女らのことを、星菜は少し羨ましいと思った。

 星菜は決して無口ではないのだが、人付き合いが得意な方ではないのだ。

 

「泉さんはどう思う? 野球部のキャプテン」

 

 そんな星菜に、隣の席で彼女らの会話を傍聴していた一人のクラスメイトが話を振ってくる。栗色の髪をショートボブに纏めた可愛らしい少女だ。

 名前は確か奥居 亜美(おくい あみ)さんだったかなと昨日行った自己紹介を思い出しながら、星菜は質問に応じた。

 

「球が速くてスライダーもフォークも良い。長いイニングを投げるスタミナもあるし、後はアウトローに投げ切れる制球力とタイミングを外す球さえ磨けば、プロでもある程度は通用するかと。今の時点でもドラフト一位は間違いないと思いますよ」

「………………」

「あっ」

 

 やってしまった――と星菜は痛恨のミスを悔いるが言った言葉は訂正出来ない。

 ドン引きしている。思いも寄らない返答に、奥居さんは絶句していた。

 話の流れから普通に考えれば、彼女が聞きたかったのはキャプテンの男としての魅力についてだろう。それを野球選手としてどうかという質問と誤解したのは、星菜の明らかな失策だった。

 誰がスカウト評を訊いたよ!? 馬鹿かお前は! と、星菜は心の中で自らを叱責する。こんな彼女だから、中学時代は野球好きな人間としか友達になれなかったものだ。入学二日目、これから新しく交友を広げていこうというところでこれである。これでは気味悪がられてしまう――と頭を抱えるが、奥居亜美の反応はクスクスと笑みを漏らすだけだった。

 

「泉さんも好きなんですね、野球」

「え?」

「私も好きなんですよ。兄の影響で」

「奥居さんもですか……少し意外です」

 

 彼女は野球に詳しいようで、星菜の言葉に引かずに済んだようだ。ならば是非とも、彼女とは仲良くなりたい。

 それに、これならば話は広がりそうだ。

 

「お兄さんも竹ノ子生なんですか?」

「いえ、恋々高校の二年生です」

「恋々って、あの恋々ですか……。野球部なんですか?」

「はい。お兄ちゃんったら何を考えたのか、あかつきの誘いを断って「オイラは野球部を一から作るぞー!」って野球部の無い高校に行ったんです」

「それで、本当に作ってしまったと」

「はい! 凄いんですよ、最初の試合からいきなりパワフル第三高校に勝っちゃって――」

 

 彼女と仲良くする為、兄の話を話題にしてみたが思った以上に好感触である。

 彼女の話はHRが始まる寸前まで続き、予想外に長引いたが、兄の話を自分のことのように話す姿はとても微笑ましく、心が癒された。

 

「じゃあHRを始めっぞ~。今日の予定だがまず学級委員を決めて――」

 

 HR中、彼女はその微笑みを保ったまま星菜に顔を向けてきた。

 

「昨日自己紹介があったけど、私、奥居亜美。よろしくね」

「泉星菜です。こちらこそ」

 

 どうやら、彼女とは良い友達になれそうだ。裏の見えない笑顔にそう感じた星菜は、これからの高校生活に手応えを感じた。

 





 舞台はパワポタ3の竹ノ子高校です。
 原作にイベントを追加しつつ野球小説らしく熱い展開に持っていけたらなと思います。


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カレー部に入ろう

 

 この日は入学二日目ということもあり、全校集会や役員決めを行い次第、早めの下校となった。

 しかし大半の新入生は真っ直ぐ帰宅することはなく、部活動の見学を行っていた。

 星菜もまたその一人であり、放課後は高校生活初の友人となった奥居亜美と共に各部活動を回っていた。

 

「奥居さんは何部に入る予定ですか?」

「私? 私もまだ決まってないんだ。料理部とかいいなって思ってるんだけど」

「じゃあ、先に料理部に行きますか」

「うん!」

 

 校舎の廊下では至るところで部員の勧誘が行われており、ユニフォーム姿で新入生達に声を掛ける部員の姿がちらほら見えた。

 

「そこのお二人さん!」

 

 最初に見学すると決めた料理部の部室に向かう道中、星菜達も彼らに何度か声を掛けられた。いわく彼らはサッカー部で、マネージャーを募集しているのだそうだ。

 小動物的な可愛らしい外見の亜美は、むさ苦しい運動部の中では引く手数多であろう。何と言うか、そこに居るだけで癒されるのだ。しかし亜美自身はそれらの誘いを全て断わっており、運動部に入る気は無いようだった。

 

「あ、貴方はどうですか?」

「後で見学してみます」

「おお、ありがとうっ!」

 

 彼女に断られた勧誘員がめげずに星菜に声を掛けてくるが、星菜はそれを保留という形で受け止める。しかし正直なところ、星菜に運動部のマネージャーになる意志は無かった。生憎にも今のところサッカーに興味は無い。マネージャーというものは、その競技自体を楽しめなければ苦痛なだけだと思っていた。

 日頃の練習による日焼けからかほのかに顔を赤くした勧誘員が星菜の元から離れると、他の新入生達に呼び掛けていく。その様子を背景に、星菜達は再び料理部室へと足を進めた。

 

「凄いね」

「え、何がですか?」

 

 すると、亜美が小声で言った。

 その言葉が何に対して、どういう意味で出てきたのか理解しかねた星菜は問う。

 

「泉さんが。周りの人達、みんな泉さんに注目してるもん」

「奥居さんを見ているんじゃなくて?」

「うん。泉さんが、凄く綺麗だから」

 

 返ってきた言葉に、ピタッと足が止まる。今星菜は亜美が言った言葉に対し、怪訝な表情を浮かべた。

 そんな星菜の様子を不思議に思ったのか、亜美が小首を傾げる。

 

「どうしたの?」

「……そういうことは冗談でも言わないでほしいです。自分が美人だと勘違いします。ナルシストになります」

「泉さんぐらい綺麗なら、少しナルシストなぐらいで丁度いいと思うけどなぁ」

 

 中学まで男子に混じって野球一筋で生きてきた星菜にとって、容姿が綺麗だと褒められるのは居心地が悪い。着飾る努力もしない、女らしさの欠片も無い自分が、その対極にある女の子らしい亜美に尊敬されるのは酷く可笑しな話だった。

 だがそれも、亜美が中学時代までの自分を知らないからなのだと納得し、星菜はまた歩き出した。

 星菜は耳に被さった横髪を払いながら、随分伸びたものだと鬱陶しく思い、そしてほんの少しだけ感慨に浸る。

 

 中学校までの星菜――野球をしていた頃の星菜は、その黒髪を丸刈りにしていた。所謂坊主頭という髪型だった。

 初めてその髪型にした時は両親や同性の友人から猛反発を受けたが、後悔はしていなかった。

 女を捨てているとも言われたが、それで結構だった。女風情が男と同じ舞台に立とうと言うのなら、その覚悟を態度で表す必要があったのだ。

 当時の自分は随分と盲目的に男子を超えようとしていたんだなと、今になって振り返る。

 星菜は思う。その覚悟は間違いだったと。いや、「覚悟を決めること」自体が間違っていたのだと。

 

「ほら、そうやって何か物思いにふけている時とか、女優さんみたいだもん」

「好意的に見てくれるのは嬉しいですけど、行き過ぎは反感を買いますよ」

「だから本当だってば」

 

 容姿のこと――それ以外のこともだが、褒め殺されるのは好きじゃない。過剰に持ち上げられると、いつ落とされるのか不安でならないからだ。泉星菜の野球人生もまた「前世の記憶の復活」によって光が見えたと思えば、結局は深い闇へと落ちていった。彼女にとって希望が絶望に変わる時ほど、苦しくて恐ろしいものはなかった。

 

 

 

 

「カレー部に入ろう!」

 

 料理部の部室――家庭科調理室の前では、美味しそうなカレーの匂いと共に数人の部員が勧誘活動を行っていた。

 部活動の勧誘活動は午前に開かれた全校集会でも行われていたのだが、部室の前ではその時以上に熱の入ったコマーシャルが繰り広げられていた。

 竹ノ子高校料理部――通称「カレー部」の実情が、そこにあった。

 

「なんかイメージと違う」

「……そうですね」

 

 コマーシャルを行っている部員達は皆やけに筋肉質であり、料理部ではなく柔道部と言った方が酷く当てはまる風貌だった。それらがこの廊下という狭い空間で何故か上着を脱いだ状態で、集団で踊ったり跳ねたりしている光景は実に暑苦しかった。

 部室に入るのを躊躇いそうになるが、いざ中を見てみれば十数人の女子部員が談笑しながらカレーを作っており、至って普通の料理部であることがわかった。

 

「これ、人選間違ってる……」

 

 星菜と亜美は揃ってそう呟いた。勧誘はあのようなマッチョメンではなく、あそこに居る女子部員達で行うべきだと思った。

 あえて新入部員を少なくしたいのかなと彼女らの思惑を推理しながら、二人は部室に入った。

 

 

 

 

 カレーライス――それはインド料理を元にイギリスで生み出され、日本でアレンジを加えられた言わずと知れた人気料理である。

 日本が誇る最強のメジャーリーガーが好んで食す料理としても、一部の人間の間では有名である。

 かくいう星菜もまた、カレーライスの魅力に取り付かれた者の一人だった。

 カレーは辛れぇとは誰もが考えつく親父ギャグだが、本当にその通り、カレーは辛い。

 星菜は辛いものは得意ではなく、寧ろ苦手だ。しかし苦手でありながらも、何故かスプーンを運ぶ手が止まらない。甘口も用意されているところを自分から辛口をよそり、辛さに眉を顰めながらもおかわりを所望する――その矛盾が、彼女を悩ませていた。

 

「辛いです。だがそれがいい」

「泉さん、カレー好きなんですね」

「これぞ食の究極です。美学です。お水ください」

「ふふ、どうぞ」

 

 家庭科調理室のテーブルに並べられたカレーライスを頬張りながら、星菜は向かいに座る亜美にこの料理の魅力を語り出す。そのあまりの勢いには亜美が半笑いを浮かべていたのだが、星菜はカレーに夢中で気付かなかった。

 ここ料理部の部室では、新入生への活動紹介として、部員が作った料理の試食会が行われていた。もちろん一人当たりの量には制限があるのだが、まずは自分達の味を知らしめ、新入生の胃袋を掴もうという算段なのだろう。

 肝心な試食品であるカレーライスの味は、星菜からしてみれば上等であった。

 カレーは誰が作っても一定の味は保証される料理であるが、無論作り手の力量次第では一定以上の水準で完成させることが出来る。

 作り手いわく食材やカレールーは一般的な家庭と同じ物を使っているようだが、星菜は明らかに自分が作ったものよりも美味しいと感じていた。

 なるほど、これが料理部の力か。

 星菜は廊下で勧誘のダンスを踊っている半裸のマッチョメンに目を向け――すぐに戻す。アレが自分より料理が上手いとは、思いたくなかった。

 

 

 

 

 見学は料理部から始まり、この日は手芸部、写真部、美術部と回った。この中では最初に回った料理部が好感触である。

 竹ノ子高校では校則として最低一年間はいずれかの部活に所属しなければならない為、やむを得ない事情が無い限り無所属は認められていない。本入部期間は五月までとなっているので、星菜は時間を掛けて慎重に決めていく予定である。

 一方、亜美は既に料理部に入ることに決めたようだ。活動内容はもちろんだが、部の雰囲気が気に入ったらしい。カレー部という通称だが、普通にカレー以外の料理も作っていると聞いて安心していた。

 気さくで人懐っこい性格の彼女なら、先輩達とも上手くやっていけるだろう。星菜は彼女の選択については何の不安も無かった。

 

「私も料理部に入ったら、その時はよろしくお願いします」

「こっちこそ! えっと……星菜ちゃんって呼んでいい?」

「どうぞ。私も亜美さんって呼びますね」

「えへへ、よろしくねっ!」

 

 共に見学をしたことで、亜美との距離が随分と縮まったと思う。ここまで早く名前で呼び合える関係になれたのは今まで過去に無かったことだ。この縁を大切にしよう――と、星菜は思った。

 

 とりあえず、今日の見学はここまでにしよう。そう言って、星菜と亜美は校舎を出る。すると、二人の視界に広大な校庭――屋外の運動部が使用している共用グラウンドが広がった。

 そのグラウンドでは陸上部、サッカー部、そして野球部が、それぞれに活動している。

 野球部はノックによる守備練習を行っている最中であり、内野、外野と分かれて練習している最中だった。

 星菜はその光景を一瞥すると、何事も無く帰路に着こうとする。その時、亜美が足を止めた。

 

「あそこに居るの、鈴姫君だよね? もう練習に参加してるんだぁ」

 

 グラウンドの方向を向きながら、亜美が言った。その視線の先にあるのは野球部の練習風景――そこに混ざっている、一人の少年の姿だった。

 鈴姫(すずひめ) 健太郎(けんたろう)。星菜達と同じ新入生であり、一年一組の同級生である。端麗な顔立ちに水色の長髪をオールバックにした風貌は入学初日から注目を集め、クラスの中で一際目立つ存在感を放っていた。それはグラウンド内でも変わらず、野球部の練習風景を見れば真っ先に彼の姿が目に映った。

 鈴姫はその外見が見掛け倒しなどではなく、実力も大いに優れている。ノックを受けているポジションはショートで、先輩部員の誰よりも安定した守備力を見せていた。

 

「入学前の春休みから参加していたみたいですね。彼の実力なら、野球部も大歓迎でしょう」

「そう言えば星菜ちゃん、鈴姫君と同じ中学だったんだよね?」

「ええ、まあ……」

 

 星菜は中学時代、彼と同じ学校に通っていた。そこは軟式野球ではそこそこ名の知れた中学校だったが、その中でも鈴姫の実力は突出しており、キャプテンも任されていた。

 だからこそ、入学式で彼の姿を見掛けた時は驚いたものである。彼には、名門「海東学院高校」から推薦が来ていた筈なのだから。

 

「まったく、どうしてこんな学校に来たんでしょうね……」

 

 彼がファインプレーを連発し、見学に来ていたギャラリー(主に女子生徒)達から歓声が上がる。その度に、星菜の口から溜め息が漏れた。

 名門校の推薦を蹴ってまで、何故無名校である竹ノ子高校に入学したのか――ある程度想像はつくが、その疑問に答えたのは聞き覚えのない声だった。

 

「それはもちろん、波輪君の凄さを知っているからッスよ」

 

 その声が聴こえた方向に、星菜と亜美が振り向く。

 そこに居たのは星菜はもちろん亜美よりも身長が小さい、小柄な少女だった。

 

「あ、話に割り込んで申し訳ないッス。川星ほむら、野球部のマネージャーッス」

「ああ、どうも……」

「もしかして先輩ですか?」

「他に何に見えるんッスか」

「……すみません」

 

 やや垂れた大きめの瞳に、二つ結びにした桃色の髪が特徴的である。亜美以上に小動物的な外見は失礼ながら先輩には見えないのだが、どうやら彼女は二年生らしい。

 しかしそう言った外見や雰囲気からか、馴れ馴れしくも会話に割り込んできた彼女のことを不快には感じなかった。

 

「波輪先輩……野球部のキャプテンのことですよね?」

「そうッス。もう新入生に知られているなんて、流石ッスねぇ~」

「それで、なんで鈴姫君と関係あるんですか?」

「フフ、鈴姫君が来てくれたのはッスねぇ……」

 

 亜美の方も不快には感じなかったようで、それどころか亜美は彼女、川星ほむらに話の詳細を求めた。

 ほむらはよくぞ聞いてくれたとばかりに快く、そして何故か頬を染めながら応える。

 

「もちろん、波輪君が居れば甲子園に行けると思ったからッスよ!」

 

 それは実に単純明快な答えだった。将来有望な選手が名門校を蹴ってまで竹ノ子高校に入学したのは、それが彼にとって最も甲子園に近付ける方法だと考えたからだとほむらは語る。

 腑に落ちない点は多々あるが、それは多方星菜が想像していた通りだった。

 

「確かに投手力に関しては、波輪先輩が居る限りは万全ですからね。竹ノ子の弱点は攻撃力と守備力――そこに自分が入ることで、名門校に勝てるとでも思ったんでしょう」

 

 さらに付け加えるなら、この学校には名門校にありがちな面倒臭いしがらみが無いという理由もあるだろう。まるで野球漫画みたいな入学理由だな、と星菜は思った。

 すると星菜は、ほむらの目が自分の方を見たまま固まっていることに気付いた。

 

 ……またやってしまった。

 

 どうにも野球の話になると饒舌になってしまう。中学時代に野球部を辞めて以降、これからはなるべく女の子らしく生きようと決めたのだが、簡単にボロが出てしまう有様だ。

 

「詳しいんッスね! もしかして去年の公式戦、観てたんッスか?」

「……はい」

 

 嘘をついても仕方が無いと、星菜は正直に答えた。

 星菜は毎年、強豪校の試合はチェックしている。竹ノ子高校のエース波輪 風郎(はわ ふうろう)のことは海東学院高校の試合を観に来た際、目に止まったのだと。

 だから入学する前から、星菜は竹ノ子高校野球部の事情はある程度知っていた。もちろん、同級生の鈴姫が入学することまでは知らなかったが。

 そこまで話すと、ほむらの目がキュピーン!と光った気がした。

 

「やったー! 仲間が居たッス! 野球マニアがここに居たッスー!」

「せ、先輩!?」

 

 次の瞬間には、嬉しそうな笑顔を浮かべた小動物に抱きつかれていた。

 驚いたが、納得もする。野球は男がするスポーツだ。故に野球が好きな女子は少ない。「野球マニア」の域に立つ者となれば、さらに数は減るだろう。

 この川星ほむらという少女は、自分と星菜が同種の人間であることを本能的に察したのである。故に喜び、行為に及んだのだと星菜は分析する。

 

「「おおっ!」」

 

 どこからか聴こえたギャラリーの歓声は、今もファインプレーを連発している鈴姫に向けられたものか、或いはキマシタワー的状況である彼女達に向けられたものなのか……答えはわからなかった。

 



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野球マニア

 

 入学二日目は、元来人付き合いの苦手な星菜としては上々の滑り出しだった。

 奥居亜美、そして川星ほむら。話の合いそうな二人の友人が出来たのは、今後の高校生活においてプラスに働くことだろう。

 友人が二人とも野球好きである点は、中学時代の友人と共通点している。

 やはり野球部を辞めても、結局自分は野球から離れることは出来ないらしい。土の着いた白球を握りながら、星菜はなんだかなと苦笑を浮かべた。

 

 

 川星ほむらとの十五分に及ぶ語らいの後、竹ノ子高校の校舎を後にした星菜はバス停で亜美と別れ、そのまま自宅へと帰った。

 星菜の自宅は、山道を下った先の市街地にある一軒家である。家族には両親と弟がおり、裕福か貧窮かと聞かれれば間違いなく裕福な家庭で、庭においてはキャッチボールをするには十分な広さがあった。

 その自宅に帰るなり星菜は鞄を置くと、制服のままグラブを持って庭に出た。

 帰宅からシャワーを浴びる前に、何球かボールを投げなければ落ち着かない。それは小学時代から染み付いてしまった星菜の習慣であった。

 

(未練がましいところは本当に男らしくない。それは女として喜ぶところなんだろうか……)

 

 振りかぶり、右脚を上げ、一気に振り下ろす。

 ワインドアップのオーバースローから放たれた一投は美しい軌道を描き、グリーンのネットに突き刺さる。

 キャッチボールをする時は弟を相手に投げるのだが、このような投球練習をする時は無機物であるネットを相手に投げている。まだ小学四年生の弟はリトルリーグに所属してこそいるが、今は100キロ以上の球を受けるのは危険だと思ったからだ。

 無論、あと一年も経てば涼しい顔で取れるようになるのだろうが、今は時期尚早だ。

 いつかは弟と勝負もしてみたいな――と思いながら、星菜は二投目を投じた。

 

「速ぇ……!」

「あ、白だ」

 

 ふとその時、横合いから声が聴こえた。その方向――この庭の直近にあるベランダに目を向けると、そこには十歳ぐらいの二人の少年の姿があった。

 内一人は泉 海斗(いずみ かいと)。星菜の弟だった。

 

「海斗、帰ってたんだ。お友達もこんにちは」

「こ、こんにちは!」

「姉ちゃん、部屋にあるゲーム、使っていい?」

「どうぞご自由に。でも喧嘩しないでよ?」

「わかってるよ!」

 

 どうやら弟は友達を連れてきたらしい。星菜と違って人付き合いの上手い彼はこうやってよく家に友達を招くが、今日の友達は見ない顔だ。また新しく作ってきたのかとその手腕に感銘を受けた。

 しかし部屋にあるゲームと言えば、友情破壊ゲームと有名なあの鉄道ゲームしか思い浮かばない。そのチョイスには少し疑問が浮かぶが、弟ならきっと大丈夫だろう。

 

「お友達も、この子と仲良くやってね」

「ハイ! さあ海斗クン! 僕と仲良くやろう!」

「やめろよ気持ち悪い……じゃあ俺達、二階に居るからね」

「わかった」

 

 小さい頃の縁は、将来も大切なものになる。星菜とてたかだか十五歳の身だが、「前世」の記憶からそのことが身に染みていた。

 だからこそ、弟にはそれを大事にしてもらいたい。そう思いながら、星菜は三投目のストレートを外角低め(アウトロー)に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やらないかッス」

 

 翌日の昼休み。

 一年一組の教室に、二年生である川星ほむらが訪れた。

 やらないか――「やらないか?」ではなく「やらないか」と言うのがポイントである。その言葉は答えを訊いているのではなく、ほとんど強制しているようなものなのだ。

 

「野球部のマネージャー、一緒にやらないかッス」

 

 目的語と修飾語が抜けていたところを訂正すると、ほむらが再度言った。

 この日は朝からこんな感じである。休み時間の度にクラスに押しかけては星菜にマネージャー入りを打診し、断られても何度もめげずに立ち向かってくる。

 それをしつこいとは思わない。星菜自身優柔不断なところがあり、断り方が実に曖昧だったからだ。

 

(どうしよう……)

 

 星菜は彼女の申し出に対し、迷っていたのである。中学で野球部を辞めて以降、彼女は女らしく生きることに決め、徐々に野球から縁を切ろうと考えていた。しかしその決意も実際のところはブレブレで、これは趣味の範囲だと自分に言い訳しては昨日のように野球の練習を欠かすことはなかった。

 そこに、ほむらから来たマネージャー入りの打診である。話によると去年までは彼女一人で仕事をこなせていたのだが、今年になって新入部員が多く入った為、一人でこなすことが難しくなったのだと言う。

 昨日星菜を見つけた瞬間彼女の中で何かがビビッと来たらしく、今朝から熱烈なラブコールを受けている次第であった。

 

「頼むッス! この通りッス! 同じ野球マニアじゃないッスかぁ~」

 

 懇願の瞳は先輩らしからぬ捨てられた子犬のようで、非常に断り難い。その様子を見て、亜美他周りのクラスメイト達は同情的な視線を彼女に向けていた。

 

「……わかりました。見学はさせてもらいます」

「本当ッスか!? やった! ありがとうッス!」

 

 星菜もまた、何も悪いことをしていない彼女に頭を下げられるのは酷く罪悪感があった。

 マネージャーの仕事自体、決して興味が無いわけではない。野球は今でも好きだし、彼女の言う通り自分が野球マニアであることも否定出来なかった。

 野球部を見ることで自分の中にある「迷い」が強くなることは怖いが、見学するぐらいなら大丈夫だろう。

 その返答にほむらが大喜びすると、交渉の行方を見守っていたクラスメイト達と熱いハイタッチを交わした。いつの間に仲良くなっていたのだと星菜が軽く驚愕していると、彼女の元に一人の男が近づいてきた。

 

「大丈夫なのか?」

 

 隣の亜美が彼の接近に驚くと、すぐに納得の表情を浮かべる。一体何を納得したのかは知らないが、星菜は彼の顔を見上げるとその言葉に返した。

 

「何が?」

「何がって、それは君が……まあ、大丈夫なら良いさ」

「そろそろ授業始まるよ。席に着いた方が良いんじゃない」

「ああそう、わかったよ委員長」

 

 彼――鈴姫健太郎は腑に落ちない表情を浮かべながら自らの座席に戻っていく。

 星菜はその後ろ姿を見送ると、視線を外し、外の校庭へと向けた。

 

「本当に、大丈夫だって」

 

 彼に聴こえない声で、独り言のように呟く。

 そして程なくして、五時間目の授業が始まるチャイムが鳴り響いた。

 

「起立」

 

 昨日のHRで担任から学級委員に任命された星菜が号令を掛けると、午後の鬱々しい授業が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 波輪(はわ) 風郎(ふうろう)が竹ノ子高校に入学した理由は、二つある。

 一つは、頭が悪かったからだ。その頭の悪さと言えば赤点ギリギリの学力を差してもいるが、それ以上に際立っているのは名門海東学院高校への入学願書を返却されたテストのプリントと一緒に間違ってシュレッダーに掛けてしまったほどのアホ具合である。願書は再発行してもらうことも出来たのだが、元々海東への入学は乗り気でなかった為、本人の中では入学をやめる良い機会だったと思っている。

 それとは二つ目の理由、自分の力で名門校のライバル達を倒したかったからという目標も絡み合い、学力との兼ね合いもあって彼はこの竹ノ子高校に入学したのである。

 何とも無茶苦茶な、とは誰もが思うだろう。だがそんな漫画のような野球人生を送ることが、彼の幼い頃からの夢だったのだ。

 

 竹ノ子高校に入学してからは色々あった。

 野球部に部員がおらず、廃部寸前の状態だったり。

 野球マニアのマネージャー、川星ほむらと出会ったり。

 唯一の入部希望者である矢部(やべ) 明雄(あきお)と共に校内を駆け回り、他の部から野球経験者の一年生を引き抜いてきたり。

 その過程で、池ノ川(いけのがわ) 貴宏(たかひろ)ら気の置けない仲間と出会ったり。

 あかつき大附属高校の偵察では中学時代のライバル、猪狩(いかり) (まもる)と再会したりもした。

 ようやく試合が可能な人数を集めた頃には、夏の大会には間に合わなかった。しかし秋の大会には無事に間に合い、初めて試合が出来た時は深い感慨を味わったものだ。

 初の公式戦は惜しくも三回戦で敗退したが、それでも手応えは十分にある。今年の大会では必ずや名門校を倒し、甲子園への切符を掴んでみせる――と波輪は意気込んでいた。

 

「さあ練習だ! 練習に行こうぜ!」

 

 スーパールーキー鈴姫の加入もまた、その気力を後押ししている。今年になってさらに闘志が増したキャプテンを周囲は少々困り顔で見ていたが、波輪からは慣れてくれとしか言えない。

 燃える闘魂! 燻らない情熱! それこそが波輪風郎十六歳のアイデンティティなのだから。

 

「大変でやんすー!」

 

 その時だった。

 更衣室で練習着に着替えていた波輪ら野球部員達に向かって、慌てた形相で一人の少年が駆け寄ってきた。

 牛乳瓶の蓋のような丸眼鏡が特徴的な男――本人いわく知的な眼鏡が光る男らしいが、そんなことはないと誰もが思う少年――矢部明雄である。

 彼は頻繁に慌ただしく話題を持ち込んでくるのだが、大抵はくだらない話なのでこの時も波輪達は皆「ああ、またいつものアレか」と呆れ顔を浮かべていた。

 しかし次に彼が放った言葉に、その余裕は断ち切られた。

 

「新しいマネージャーが入ってくるでやんす! 女の子でやんす!」

 

 「なにィッ!?」と、一同が意表を突かれた悪役のような声を上げる。その中には自分の声も入っているんだろうなと思いながら、波輪はその話の詳細を求めた。

 

 

 

 

 

 放課後――鬱々しい授業が終わり、部活動の時間となった竹ノ子高校野球部員達の前に現れたのは、彼らの予想を上回るルックスの持ち主だった。

 肩先まで下ろされた癖のない黒髪に、整った長い睫毛。筋の通った鼻先に、パッチリと開いた瞳は澄んだ栗色を帯びている。肌の色は健康的ながらも白く、端正整った輪郭は触れればかすれてしまいそうな線の細い少女。

 川星ほむらが「美しい」というよりも「可愛らしい」という表現が似合う親しみやすい小動物系美少女だとすれば、こちらは何よりも先に「美しい」という表現が先に来る、どことなく幻想的な儚さを持ったお姫様系美少女という印象を受ける。

 品定めをしているわけではないのだが、波輪が抱いたその第一印象はこの場に居る全員と共通しているようだった。言葉は無いが一同の目は明らかに彼女に見とれており、矢部に至っては喜びの余りハッスルダンスを踊っていた。

 

「紹介するッス! 一年一組の泉 星菜ちゃんッス!」

「……泉 星菜です。この度はマネージャーの活動を見学させていただきありがとうございます」

 

 彼女を引っ張ってきたと思われるジャージ姿のほむらが満面の笑みで彼女を紹介すると、本人が後に続く。160センチ程度の身長は女子にしては高い方で、色々小さいほむらと並ぶとどちらが先輩なのかわからなかった。もちろん本人に直接言うのは恐ろしいので、波輪は思うだけにしたが。

 

「本入部はまだ決めていませんが……もし入部することがあれば、その時はよろしくお願いします」

 

 野球部員達の反応を気にしているのか、星菜と紹介された少女は少し不安そうなトーンで挨拶をする。

 

 そして、数拍の沈黙がこの場を支配した。

 

 それはきっと、皆が彼女の存在を拒絶しているからではない。おそらく一同の脳内がこの状況を整理するまでに時間が掛かっているのだ。

 波輪もまたその例に漏れず、現在頭の中では「ロード中……メモリーカードを外したり、電源を切らないでください」という謎の警告が繰り返し流れていた。

 そして状況の整理が完了した瞬間、歓喜の嵐が起こった。

 

「そうか、そうきたか」

「マジですか! フハハ!」

「お! 美少女ゥー!」

「我が選んだ道に、悔いはなし!」

「やんす! やんすッ! やんすウウゥゥゥッッ!!」

 

 お前ら本入部は決めてないって言葉が聴こえなかったのか? と言いたかったが、それも憚られるほどの部員達の興奮ぶりであった。

 彼女の方はと言うと、やはりそんな彼らの反応に若干引いている様子だった。マネージャーになるのならいつかは彼らの愉快さを目の当たりにすることになるのだろうが、初対面からこうも飛ばされては悪印象を抱かれかねない。そう思った波輪は、部の代表としてフォローすることにした。

 

「ま、まあこういう面白い奴らだから、不安がらなくて大丈夫だよ。わからないことはほむらちゃんに聞けばいいから」

「……はい」

「ああそうだ。一応、監督には言ってきたか?」

「ほむらから伝えたッス」

「流石」

 

 ほむらいわく、野球部のマネージャーは希望者が多いらしい。

 しかし、その誰もが現マネージャーであるほむらに入部を断られていた。波輪が何故断ったのかと訊けば、「波輪君目当てで入部してくるような素人に、この座は譲れるか!ッス」という言葉が返ってきたものだ。それは要するに、野球に詳しくない者にマネージャーをやらせたくないという意味なのだろう。ほむらがマネージャーという仕事に対してプロ意識にも勝る感情を持っていることを、野球部員達は知っていた。

 そんなほむらが自分から連れてきたのだから、この泉星菜という少女もまた彼女のお眼鏡に叶う人材(野球マニア)だということか――。

 見た目はお姫様のような女の子だが、人は見かけには寄らないものだと波輪はつくづく思った。

 

「正式にマネージャーになるかは見学してから決めれば良いけど、俺達としてもマネージャーが増えるのは本当に助かるよ。みんなこれでも良い奴らだから、よろしくな」

「こちらこそ、お願いします」

 

 彼女を安心させる為の優しいつもりの笑みを浮かべた後、波輪は部員達に練習の開始を煽った。

 六月下旬からは夏の大会が控えている。今は何よりも、練習あるのみだ。

 



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マネージャーになろう

 

 川星ほむらによる簡単なガイダンスを受けた後、星菜は実際に仕事をしてみることになった。

 仕事の内容は練習機材の管理が主で、他には部員の体調管理やドリンクの調合なども行っている。

 時々敵情視察として他校の練習を見に行くこともあり――と言うか、ほむらが星菜を勧誘したのはその仕事を効率良く行いたかったというのが一番の理由らしい。

 確かに短期決戦において敵チームの情報は欠かせないものだ。加えて今年に関して言えば名門あかつき大附属や海東学院高校以外の中堅校も力を付けているらしく、他校の偵察は念入りに、抜かりなく行いたいのだそうだ。

 それらの話を聞いて、星菜は改めて再確認した。

 この先輩は真正の野球マニアで、マネージャーの仕事に対して凄まじい熱意を持っていることを。

 

「おー、やってるなぁ」

「あっ、監督。こんにちはッス」

「茂木先生、今日はよろしくお願いします」

「おうよろしく」

 

 星菜が仕事の実践としてほむらと二人でボールを磨いていると、無精髭を生やした気だるげな目つきの男がその場に現れ、よっこらせと二人が腰掛けているベンチの端に腰を下ろした。

 彼の名は茂木(もぎ) 林太郎(りんたろう)。竹ノ子高校の理科教師であり、野球部の監督である。外見は何かとやる気が無く無気力に見える男だが、実際も概ね見た目通りの人間である。

 その姿はとても野球部の監督を務めるような男には見えない為、星菜が初めて対面した時は言葉を失ったものだ。

 だが野球部の練習風景を見れば、この監督があってこの野球部があるのだと納得も出来た。

 

「一年共っ! 俺様の華麗なるバックホームを見よ!」

「お! ノーバンゥー!」

「フハハ! いいバックが居るな、と改めて感じました」

「流石池ノ川君、肩だけは凄いでやんす」

 

 磨き終えたボールから、グラウンド内に居る部員達へと目を移す。

 何とも和気あいあいと談笑しながら、彼らはキャッチボールをしていた。

 

(……ヌルい雰囲気だなぁ)

 

 その光景に、星菜は心の中で失礼な発言を吐く。

 まだ彼らの練習は始まったばかりであり、この感想を抱くのはまだ早過ぎるのかもしれない。

 だがそれでも、大目に見ても彼らの練習風景が甲子園を目指す高校のそれとは思えなかった。胃から汗が流れるような猛練習の果てにようやく甲子園に出場した「前世」の記憶を持っているだけに、尚更そう感じてしまうのだ。

 だがその中で、一年の鈴姫と二年生と思われる一組だけが黙々と力強いボールを投げ合い、肩を温めている姿が目を引いた。

 

(でも鈴姫は、流石だな)

 

 選手として正しい筈の姿が、ここでは場違いに見える。星菜は既にそんな悪印象をこの野球部に抱いていた。

 ほむらも似たようなことを考えていたのか、深く溜息をついた。

 

「はぁ……キャッチボール一つで選手の程度が知れるってもんスね……」

「先輩から注意しなくていいんですか?」

「アレは一応新入部員との親交を深める意味もあるから、今は黙認するッス。これが数日続くようなら、ほむらのげんこつが飛ぶッスけど」

「そういうものなんですか……」

「まあ、俺としてはサボったり怪我さえしなきゃいいんだけどな」

「監督はもっとスパルタにやるべきッス!」

 

 軽い練習でも、態度を見れば選手の意識がわかる。

 見回したところ、練習に対して上を目指すような強い意識を感じたのは、鈴姫とその相方だけだった。おそらくあの場には、厳しい環境に浸ってきた野球経験者はあの二人しか居ないのだろう。

 所詮は波輪風郎の為の数合わせ要員か。星菜は己の身分もわきまえず上から目線でそんなことを考えている自分を、相変わらず腐った性格だなと自嘲した。

 だがこの時、星菜はそんな苛立ちの中でも他の感情を抱いている自分に気付いていた。

 

 それは、羨望である。楽しそうに野球をしている彼らのことを、羨ましいと思う気持ちだった。

 

「……そう言えば、波輪先輩の姿が見えないのですが」

 

 その気持ちから目を背けるように、星菜は現実世界でほむらに話を振った。

 キャッチボールをしている部員達の中に、キャプテンの姿が見えなかったのである。

 

「波輪君は別メニューで、今は屋外を走ってるッスね」

「別メニュー? ……そんなことをして、大丈夫なんですか?」

 

 波輪風郎の力はあまりにも突出している為、他の部員達と同じ練習メニューではどうしても支障を来してしまう。そのことは理解出来るのだが、個人の特別扱いを周りが認めているのかという疑問が星菜にはあった。

 星菜自身、過去にそう言ったものの「経験」があり、あまり良い思いはしなかったことを思い出す。

 不安に思って質してみたが、返すほむらの表情は明るかった。

 

「別にチームメイトからの反発はないッスよ。波輪君そこのところ上手だから、孤立することもないッス」

「それは……凄いですね」

 

 あまりにも呆気ない返答に、星菜は拍子抜けする。だが、そうでなければいくら実力があるからと言ってキャプテンには任命されないだろう。

 やはり、彼と自分とでは人としての器が違うようだ。星菜は改めて彼に敬意を抱いた。

 

 

「お、もうキャッチボールしてるのか」

 

 噂をすれば影がなんとやら、別メニューである長距離ランニングを終えた波輪が星菜達の元に姿を現した。近くで目にするその姿は自分よりも何回りも大きく、初めて顔を合わせた時も思ったが、プロ野球選手になるような男はこうもオーラが違うものなのかと星菜は驚いた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様ッス。今日は随分早かったッスね~」

「ははは、俺は日々加速する男だからな」

「なるほど、わからないッス」

 

 星菜達は汗の滴る好青年という出で立ちの彼に労いの言葉を掛けるが、その時、彼の隣に立っている見慣れない男の存在に気付いた。

 顔は少し俯いているのでわからないが、身長は170センチ後半ぐらいか。180センチ以上もある波輪よりは小さいが、大柄で、ふくよかな体型をしている。

 星菜がそちらに興味を向けると、ほむらが波輪に訊ねた。

 

「ところで、そこに居る人は誰ッスか?」

 

 その質問を待っていたかのように、波輪が明るい口調で応えた。

 

「おう、新しい入部希望者だ。さっき校門の前で拾ってきた」

「ま、丸林(まるばやし) (たかし)です!」

「拾ってきたって子犬じゃないんスから……え? ちょっと待つッス! 丸林隆って、確か……」

 

 新しい入部希望者――本人から紹介された「丸林隆」という名前に、ほむらが強い反応を見せる。

 その名前には、星菜も聞き覚えがあった。

 そう古くない記憶の為、すぐに思い出した。この男は――

 

「丸林隆、去年の大会で、全国準優勝になった野球部のエースです」

 

 この時何を思っていたのかはわからないが、気付けば星菜は、放っておけばほむらが説明してくれたであろう彼の経歴を紹介していた。

 

「やっぱりあの丸林君ッスか! いやぁ、この学校に来てくれたとは思わなかったッス!」

「全国準優勝!? マジか!」

「は、はい。そう……ですけど……」

 

 ただの大きめの太っちょにしか見えない外見にすっかり騙されていたらしく、波輪は星菜の言葉に大層驚いているようだった。その声にはほむら同様、多分な喜色が含まれていた。

 当の本人である丸林少年は顔を上げると、自身の経歴を語った星菜の顔を訝しげに見つめてきた。

 

 ――そして数秒後、丸林は何かを思い出したように顔色を変えた。

 

「もしかして! い、泉さんですか!?」

「そうですが何か?」

「な、なんでここに……」

「その言葉はそっくりそのままお返しします」

「ひっ」

「なんだなんだ? 君達知り合いか?」

「詳しくッス!」

 

 中学ではチームのエースにまでなっていた筈だが、気が弱いところは昔と変わらないようだ。そんな彼を見て、星菜は自分も昔に戻ったような気分になった。

 それはともかくこの丸林という男は、学校で星菜にとって数少ない顔見知りだった。興味津々な様子である波輪とほむらに向かって、星菜は彼との関係を説明した。

 

「彼とはリトルリーグ時代、同じチームに所属していたんですよ」

 

 特に隠す理由もないので、星菜は躊躇わずに教えた。

 それは自分がかつて野球をしていたことを話すことにもなるのだが、それだけなら何ら不都合はない。彼の名誉を傷付けない程度で、簡単に話せるところまでは話すことにした。

 

「中学の試合も見てましたが、既に140キロ近い球を投げられる素晴らしいピッチャーですよ。変化球も多く、実力は私が保証します」

「そいつはすげぇや、即戦力じゃん! いやあ、俺以外投げられる奴が居なかったから助かったよ。よろしくな、丸林君!」

 

 真実のみを語ったその言葉に波輪が喜ぶと、友好の印として右手を差し出した。

 しかしそれに対する丸林の反応は、星菜にも予想出来なかった。

 

「やっぱり僕、野球部に入らないです! テニス部にしますっ!」

「えっ?」

「すみませぇぇぇん!!」

「ちょ待っ……おおーい!」

 

 彼は波輪の手を取ることなく、後方に向かって謝りながら走り去っていった。

 野球部に入りたいと言う人を快く迎えようとしたら、最後の最後でやっぱり入らないと言われ、逃げられた。

 あっという間に見えなくなる彼の後ろ姿に呆気に取られ、唖然としてその場に立ちすくむ三人。

 その沈黙を破ったのは、冷ややかな視線を波輪に向けたほむらの言葉だった。

 

「なに有望なルーキーに逃げられてるんッスか、波輪君」

「え、なに、今の俺のせい?」

「はぁ……逆指名制度があった頃のカープファンの心境ッス……」

「それは……ごめん」

 

 波輪は目に見えて肩を落とすが、ほむらはもちろん冗談で言ったのだろう。少なくとも星菜の見た限り、丸林に対する波輪の態度に落ち度は無かった。

 きっと丸林には、色々(・・)と入部出来ない理由があるのだろう。

 そもそもこの竹ノ子高校は、全中二位の投手がわざわざ入学してくるような学校ではない。鈴姫のような例外も居るが、彼ほど実力のある選手は順当に推薦された中堅校以上の学校に入学するものなのだ。

 彼がこの学校に入学したのは、怪我などが理由で名門校に行けなかったと考えるのが妥当なところだろう。

 もしそうなら、先程の発言はあまりにも無神経だったか。責任を感じた星菜は、今度会った時は謝ろうと心に誓う。そして、出来ることなら話を訊いてみたい。

 

(それとも……君はプレッシャーの無い環境で、ひっそりと野球を続けたかったのか?)

 

 いずれにせよ本人に直接訊かねば何もわからないが、何となくそんな仮説を立ててしまう。

 もしそれが本当なら、この環境はまさに打って付けの場だろうと星菜は思った。

 



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センター前大好き系女子

 

 泉星菜というマネージャー見学者を交えたものの、野球部の練習は普段と代わり映えなく行われ、この日は十八時に解散となった。ほむらからは他校の練習時間はもっと長いという話を聞いているが、あまり長くても中身が伴わなければ意味がないとも思う。

 全体の練習は集中力が持続する短時間で終わらせ、後は自主トレーニングに当てるべき、というのが波輪の練習論であった。

 尤も、全ての部員にそれが当てはまるかと言えばそうではない。竹ノ子高校のように設備が充実していない野球部ならばなおのこと、せめて練習時間を増やすべきなのは確かだった。

 今後どうするかは、新入部員が全員揃ってから追々決めるとする。とりあえず今は、波輪は量よりも質を重視した練習に取り組んでいた。

 

 野球部として一日の練習を終えれば、下校後は学校裏の神社で自主トレーニングをするのが波輪の日課である。

 波輪は一度自宅で腹ごしらえを済ませた後、この日もバットケースを片手に神社を訪れた。

 しかし階段を上がっていくに連れて自分ではない誰かがバットを振っている音が聴こえ、波輪は神社に先客が居ることに気付いた。

 

「お、鈴姫じゃないか。お前もここでやってるのか」

「……ああ、先輩ですか」

 

 階段を上がりきると、神社の敷地で素振りを行っている水色の髪の男の姿が見えた。

 鈴姫健太郎――走攻守三拍子揃った野球部期待のルーキーである。

 

「ここ、結構いいところなのにあまり人が来ないんだよな」

「幽霊やら座敷わらしが出るって噂がありますからね。誰も近寄りたくないんでしょう。ふっ」

「良いスイングだ――って、幽霊ってマジか! 初耳なんだけど」

 

 この間まで中学生だったとは思えないスイングのキレに感心しながらも、波輪は自分の練習に入るべくバットケースからバットを取り出す。

 波輪のポジションは投手だが、今まで打者としての練習を欠かしたことはない。エースで四番という重役を担う者として、打撃の修練を怠るわけにはいかないのだ。

 

「フンッ!」

 

 右打席に立つ自分と相手投手が投げるボールをイメージし、一閃。

 すると空を切っているだけとは思えない重いスイング音が響き、鈴姫が目を見張った。

 

「流石ですね。俺も先輩のスイングスピードには勝てそうにないです」

「はっはっは、まだまだ若いもんには負けんよ。お前はお前で、得意な分野で頑張れよ」

 

 波輪にはスイングスピード、そしてボールを遠くへ飛ばす力だけは誰にも負けないという自負がある。鈴姫がいくら才能に溢れる後輩だとしても、その分野に関してはおいそれと負けてやるつもりはなかった。

 だがボールをバットの芯で捉える技術なら、鈴姫は波輪にも迫るモノを持っている。おそらく、他校の一年生と比べてもトップレベルにあるだろう。

 そのようなことを波輪が賞賛を込めて言うと、鈴姫は素直に喜びたくないような微妙な表情を浮かべた。

 

「確かにミートの上手さには自信ありますけどね。でも、そんな俺でも全く勝てない奴が居るんですよ」

 

 そりゃあ、そうだろう――と波輪は真顔で返す。

 竹ノ子高校において彼のミート技術は既に波輪と並んで突き抜けているが、野球の試合は竹ノ子高校内だけで行われるものではない。

 地方は広く、全国は言わずもがな。各地を捜し回れば彼よりミートが上手い選手はどこかに居るもので、それは何も不思議ではないことだった。

 

「そういうことを言ってるんじゃないんですけどね……」

「そうか、じゃあどういうことを言ってるんだ?」

 

 鈴姫の言い方から考えると、彼が自分より明確に凄いと言い切れる選手はあまりにも身近な場所に居たのだろう。

 それはきっと彼と同年代で、中学時代はチームメイトだったんだろうなぁ――と、波輪は推理する。

 自他共に頭が悪い男だと認めている波輪だが、この時は冴えていた。

 

「俺の通っていた中学には、俺よりミートが上手い奴が居たんです。速球への対応は俺の方が上だと思うんですが、そいつは変化球打ちがとにかく天才的でしてね。どんな変化球をどんなコースに決めても、簡単にセンター前に弾き返すような奴でした」

「お前がそこまで言うんだから、よっぽど凄い奴なんだろうなぁ」

 

 波輪が最初に鈴姫と知り合ったのは今年の二月だが、波輪が知る限りここまで他人の話を語り出す鈴姫は記憶になかった。その物珍しさには興味が向き、波輪は一旦バットを置いて詳しく聞くことにした。

 

「それで俺が、「なんでそんなに上手く打てるんだ」って聞いたんですよ。そしたらそいつ、なんて言ったと思います?」

「なになに?」

「なんでったって、どうってこともない。自分は来た球を打ってるだけだって。そいつ、自分が打った球種が何かも考えたことないんだそうです」

「それはまあ、天才だな」

 

 来た球を打つ――言葉にするのは簡単だが、実際に実践してみるとそう上手く出来るものではない。

 ストライクを取りに来たカウント球ならばともかく、フォークボールのように空振りを狙って落としてくるような球は前もって頭に入れておく必要がある。どんな変化球も反応打ちでセンター前に出来るかと問われれば、チームの四番を打つ波輪と言えども難しいだろう。

 

「そんな奴が今年の一年に居るのか。どこの高校に行ったんだ、そいつ?」

 

 もしかしたら今後、その選手と対戦することがあるかもしれない。強敵の存在は投手として警戒しておくに越したことはないので、波輪は鈴姫に所属高校を問い質してみた。

 しかしそこで、これまで饒舌だった鈴姫が言葉を詰まらせる。

 数拍の沈黙が支配し、鈴姫がバットを振る音だけがその場に響いた。

 

「……竹ノ子ですよ」

 

 そのスイング音にかき消されるような声で、鈴姫がボソッと言った。

 

「竹ノ子? そんな高校あったかなぁ? どこの地区だ?」

 

 彼の口から出てきた高校の名があまりにも予想外だった為、波輪はそうボケてみる。

 しかし鈴姫の表情は、真剣だった。

 彼の顔を見て今言った言葉が冗談ではないのだと理解し、波輪は半笑いを浮かべる。

 そして――。

 

「そいつを勧誘だああああっ!!」

 

 夜中の神社に、男子高校生による歓喜の叫びが響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くしょんっ……!」

 

 今は春だと言うのに、夜は室内とて中々冷え込むものだ。自室の中、明日の授業の予習を終えた星菜はティッシュを片手に鼻をすすった。

 予習をするなんて、まるで優等生みたいじゃないか――と星菜は自分の行いに対し自嘲の笑みを浮かべる。

 星菜は昨年までハイレベルな私立中学校で学んでいた為か、偏差値が中の下の竹ノ子高校では事実優等生として歓迎されていた。

 しかし星菜としては、優等生というよりもお山の大将の気分である。まあまあの出来だと思っていた受験結果が新入生の中では二番目に良い成績だったと発表された時は大層驚いたものだ。

 それ故に担任教師からは一学期の学級委員をやってくれないかと頼まれ、クラスメイトの期待も背負って星菜が務めることになってしまった。

 自分が学級委員を務めることへの不服はない。どうしても出来ない理由があるわけでもないし、そう言った経歴は進学や就職の役に立つ。任された以上、星菜は快く引き受けることにした。

 だが、それだけ自分は優等生として期待されているのだという意識にもなった。だからこそ予習が必要であり、日々の勉強に手を抜くわけにはいかないのである。

 

「もうこんな時間か……」

 

 教材を机の引き出しにしまい、手元の時計に目を向ける。指針は既に、夜中の十一時を回っていた。

 そろそろ就寝の時間である。そうなると、星菜は自然に明日のことへと意識が向いた。

 

「マネージャー、かぁ……」

 

 今日初めて行ったマネージャーの見学は、明日も同じように行う予定である。

 それは川星ほむらに頼まれたからではない。星菜が星菜自身の思いで、もう少し見学してみたいと思ったのだ。

 マネージャーの仕事は、そう楽なものではないだろう。だがそれでも、星菜にはやってもいいと――やってみたいと思う自分が居た。

 ――やはり、この気持ちに嘘は付けないのかもしれない。自然と綻んでいく自分の頬に気付くと、星菜はベッドの上へと伏せるように飛び込んだ。

 

「……私があんな風に野球をやっていたのは、いつの頃だっけ?」

 

 誰に聞かせるつもりもない独り言である。脳裏に浮かんでくるのは、竹ノ子高校野球部の練習風景だった。新入部員に配慮している為かとても厳しいとは言えない生ぬるい練習ではあったが、部員達は皆楽しそうに行っていた。

 それを一概に悪くないと考えている自分が、星菜には不思議だった。

 

 ――いつからだったか、野球を楽しめなくなったのは。

 

 ――いつからだったか、野球をすることに喜びを感じれなくなったのは。

 

 過去の野球人生を振り返り、星菜は天井を見上げたまま苦笑を浮かべる。

 考えてみたが、何もわからない。もしかしたらかなり早い段階で、自分は野球を「楽しむ」ことよりも野球で「上に立つ」ことを重視するようになっていたのかもしれない。

 だから、辛かったのだ。

 自分が周りの人間から「必要とされていない」ことを知った時、心が折れてしまった。

 

 ……だけど。

 

 もう一度、新しい方向から見つめ直してみても良いのではないか。

 野球部としてではなく、今度は野球好きのマネージャーとして、新しい角度から。

 それならばもう、「女性選手」として辛い思いをしなくて済むのではないか――。

 

 しばらくそんなことを考えていると、いつの間にか、星菜の意識は闇に落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日が昇り、新しい一日が始まりを迎える。

 この日の鈴姫健太郎は六時前には目が覚めており、早朝から家の外に出てバットを振っていた。

 素振りは野球初心者でも出来る手軽な打撃練習だが、一定のレベルを超えたプロ選手すら行っている効果的な練習でもある。鈴姫は打撃マシンを扱う練習などよりも徹底的に自分のスイングを磨くこの練習の方が己の身に合っていると感じており、毎日欠かすことなく素振りに取り組んでいた。

 ブンッ!と空を切る音が無人の道路に響き、鈴姫は何度も繰り返し振り回す。それは打撃の練習以外にも、内なる雑念を払う貴重な手段でもあった。

 

(俺は昨日、なんであんなことを話したんだ?)

 

 今の鈴姫には雑念があった。それは神社で自主トレ中、波輪風郎と会った昨夜のことだ。

 自分は何故ああも唐突に、あんなことを話してしまったのだろうか。波輪もきっと不思議に思っただろうが、何よりも鈴姫自身がその理由を理解出来なかった。

 この鈴姫健太郎が最後まで敵わなかった同級生が居ることを――自分にとって最大の屈辱である筈の出来事を、何故ああも饒舌に話せたのだろうか。

 百回目のスイングが空を切った時、鈴姫はある結論を出した。

 

(……苛立ち、だな)

 

 「彼女」は自分よりも上の実力を持っていたにも拘らず、何かと理由を付けて――或いは付けられた為に野球部を辞めてしまった。鈴姫は自分が負けっぱなしのまま「彼女」が勝負の世界から居なくなったことに、苛立ちを感じていたのだ。

 竹ノ子高校にはスーパーエースの波輪だけでなく、同じ中学校の「彼女」が居た。だからこそ初めは「彼女」もこの小さな野球部で再び野球を始めるのかと思っていたが――どうやら、当の本人にその気はないようだった。

 

(あれだけ努力していたのに、なんで辞めたんだ。環境が変わったのに、なんでやらないんだ!)

 

 百一回目のスイングは、鈴姫らしからぬ軸のブレた荒いスイングだった。

 雑念を払う為には素振りは有効だが、雑念を抱えたまま素振りを行っても練習効果は薄い。今の自分がこれ以上続けても、無駄に体力を消耗するだけだろう。

 このままでは妙な癖が付きかねないと判断し、鈴姫はやむなくバットを下ろした。

 

「女だから……だからマネージャーで妥協するのか、君は……」

 

 誰かに問い掛けるように独語し、鈴姫は自宅に戻っていく。

 それは、日々の練習にも支障を来すほどの苛立ちだった。

 だが鈴姫にとって何よりも腹立たしかったのは、この苛立ちの原因である「彼女」を相手にまともに口を聞くことすら出来ない自分自身であった。

 



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私自身、マネージャーになる喜びはあった

 

 古めかしいチャイムの音が四時間目の終わりを告げると、生徒達はそれぞれのやり方で待ちに待った昼休みを堪能する。

 二年二組の教室では川星ほむらが丁度自らの弁当を食べようとしていたのだが、そんな彼女の元に二人の男子が現れた。

 一人は野球部の主将、波輪風郎。そしてもう一人は、彼が無理矢理連れてきたと思われるお笑いメガネ――矢部明雄である。

 二人とも一組の者であり、本来は他のクラスに居る筈なのだが、波輪にはどうしてもほむらに話したいことがあるらしく昼休みが始まった途端、二組の教室に駆け込んできたのである。

 矢部明雄が突然面倒事を持ち込んでくることなら割と良くあるのだが、今回のように波輪が持ち込んでくることはあまり多くはない。

 その物珍しさに何事かと興味を抱いたほむらは、弁当箱の中身に口を付けながら詳細を求めた。

 すると、波輪はどこか神妙な表情で話し始めた――。

 

 

 

 ――五分ぐらい続いた彼の話を要約すると、

 

 昨日、鈴姫からどうしても勝てない相手が同じ中学校に居たという話を聞いた。

 その選手はあろうことか、今はこの竹ノ子高校に入学しているらしい。

 ならば是非ともその子を野球部に勧誘したいのだが、鈴姫は何故かそれ以上の情報を語らなかった。散々好選手の存在をほのめかしておきながら、名前すら教えてくれなかったのである。

 おかげで波輪は気になって仕方がなく、昨夜はあまり眠れなかった。

 

 ――そうだ! 中学野球の情報も網羅しているほむらちゃんになら、その選手のことがわかるかもしれない!

 

 四時間目の授業を睡眠学習で過ごしていた波輪はふとそのことを思いつき、昼休みが始まったと同時に急いで二組へと駆け込んだ――というのがここまでの経緯である。

 それを聞き終わった時、ほむらの意識はすっかり弁当箱から離れていた。彼の話に対する興味が、弁当箱の中身に対するそれを上回ったのである。

 

「……そんな筈はないッス」

 

 話を聞き終わり、一呼吸置いてからほむらが出した言葉は、波輪の期待にはそぐわないものだったろう。

 

「鈴姫君が居た中学――白鳥附属中学校には、鈴姫君より上手い選手は居なかったッス」

 

 真面目な鈴姫が口から出任せを言うとは思っていないが、ほむらから言わせてもらえばそもそも彼以上の選手が同じ中学に居たという話自体が信じられなかった。

 この川星ほむらの情報網に抜かりはない筈だ。昨年の有望な中学生の情報ならば進路先まで調べ尽くしており、特に鈴姫健太郎の出身中学――「白鳥学園附属中学校」と言えば、中学軟式野球界では有名な強豪校である。近い将来部員の大半が名門校の一つである「白鳥学園高校」へと繰り上がり、強敵になることが必至であるこの中学の情報は、特に念入りに調査していた。

 そんな生粋の野球マニアであるほむらだからこそ、断言出来る。

 彼の出身中学には、彼以上の選手は居なかったと。

 

「そうかぁ……まあ俺だって、アイツほどの選手がそう何人も近くに居るとは思ってなかったけどさ」

「鈴姫君と丸林君みたいな全国レベルの逸材が、二人してこんな高校に来ただけでも奇跡ッスよ。そんなに都合よく行けば甲子園は要らないッス」

 

 竹ノ子高校は昨年こそ波輪一人の力で二回戦を突破したが、本来は弱小もいいところの無名校である。昔は強かった時期もあったようだが、今となっては誰も覚えていない。悲しいが、そんな学校だ。

 現実が見えているからこそ、ほむらは辛辣に言い捨てた。だがそれならそれで、まだ腑に落ちないところがある。そのことについて、ほむらと波輪が意見を出し合う。

 

「……じゃあなんで、鈴姫の奴はあんなこと言ったんだろう?」

「鈴姫君が自分の実力を過小評価していて、逆にその子の実力を過大評価している――とは考えられないッスねぇ」

「だよなぁ。アイツ、他人の評価も自分の評価もすげえ的確だし」

「ほむらも嘘じゃないとは思うんスよ。もしかして、その子は鈴姫君より凄かったけど、怪我か何かで公式戦に出られなかったとか。それならほむらの情報網に引っ掛からないのも頷けるッス」

「あ、それはあるかも! アイツ、妙に悲しそうに話してたから、きっとそうなのかもなー」

 

 鈴姫の話が本当で、尚且つほむらの情報網を潜り抜けるとすれば、その説は合っているのかもしれない。意外とすんなりと結論らしきものにたどり着いたことで、ほむら達は喜ぶ。

 だが、重要な点はそこではない。波輪は最終的に、その選手を野球部に入れたいのだから。

 もし二人の推測が当たっていて、その子が今野球が出来ない怪我をしているのだとすれば、勧誘は諦めるしかないだろう。だが本人と会って真実を確かめない以上、ここで話を終わらせるわけにはいかなかった。

 

「あのさぁ……でやんす」

 

 取って付けたようなやんす口調で二人の会話に割り込んできたのは、すっかり存在を忘れかけていた矢部明雄である。

 そろそろほむらが「矢部君は何の為に連れてきたんッスか」と訊ねようとしたところで、丁度良いタイミングだった。

 

「それ、星菜ちゃんに聞いてみたらどうでやんすか?」

 

 そして、思わぬ名前が飛び出してきた。

 星菜――それは昨日ほむらが熱烈的に勧誘してきたマネージャー候補、泉星菜のことであろう。

 何故この話題で彼女の名前が出てくるのか――二人が考えるより先に、矢部が言った。

 

「星菜ちゃんも、鈴姫君と同じ白鳥中学でやんす」

「なに!?」

「そう言えばそうッス!」

 

 ほむらと波輪は、完全に盲点を突かれた。

 鈴姫健太郎と泉星菜――本人達は預かり知らぬだろうが、実はこの二人は二年生の間で色々と噂されている。とは言っても、実際にほむらの耳に入ってきたのは今朝のことだったが。

 噂の一つは、二人の容姿だ。新入生一番の美男子と言えば真っ先に鈴姫健太郎の名が上がり、美少女と言えば泉星菜の名が上がる。他の新入生にも格好良い男子や可愛い女子も居ないわけではないのだが、この二人だけは別格に飛び抜けていると男女で評判だった。

 そしてもう一つが、二人の出身中学である。鈴姫も星菜も、地元では超エリート校として有名な白鳥学園附属中学校から入学してきたのだ。

 二年にも三年にも、竹ノ子高校に同じ中学の出身者は居ない。優等生だらけの中学校に対し、偏差値が中の下程度の公立高校では質が釣り合わない為、白鳥中学から竹ノ子高校を受験する者など居よう筈がないのだ。

 そんな物好きが、今年になって二人も入学してきた。それも揃いも揃って美男美女と来れば、これが噂にならない筈がなかった。

 

「いや待つッス! 聞いてみる以前に、この学校には鈴姫君と同じ中学の子は一人しか居ないじゃないッスか!」

「な、なんだってー!?」

「ん? どういうことでやんすか?」

 

 そこまで思い出した瞬間、ほむらの思考は一気に答えへとたどり着いた。寧ろ、何故すぐにわからなかったのかと先までの自分を小一時間糾弾したいところだ。

 そうだ、そもそも新入生の中から鈴姫の言う人物を捜し出す必要はなかったのだ。

 鈴姫が「同じ中学」と言った時点で、正解の人物は一人しか居ないのだから。

 

「ってまさかおい、嘘だろ!? もしかしてあの子が!? だって……えええっ!?」

「落ち着くッス波輪君!」

 

 ほむらと同じ答えにたどり着いたであろう波輪が、クラス中の視線を一身に浴びるほど酷く慌てふためいた。

 そんな反応をするのも無理はない。ほむらには彼の気持ちが十分にわかった。

 これを言われたところで、誰が信じようものか。いや、絶対に誰も信じないだろう。

 

 

 泉 星菜――あの少女こそ、鈴姫が認める格上の野球選手であるなどと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 まだ自分が周りからどう噂されているのかを知らない泉星菜は、「職員室」と示されたその部屋の中を訪れていた。

 擦れ違う教師達に対して会釈を交わしつつ、星菜は目標の場所へと向かう。それは理科化学の教師であり、野球部の顧問でもある茂木林太郎の居場所であった。

 

「茂木先生。これをお願いします」

 

 昼食を食べ終え、眠たそうに目を瞬かせている茂木にこんにちはと昼の挨拶をした後、星菜は目上の者に対する硬い口調から一枚の紙を差し出す。茂木はそれをあくびを上げながら気ダルそうに受けると、直後、少し驚いたように目を見開いた。

 

「……早いな。期限は今月まであるのに」

 

 星菜が差し出した紙――そこには、「入部届」と書かれていた。

 昨日のHRより新入生全員に配られたその紙は、各個人の判断で期限までに希望の部活動の顧問へと提出するようになっている。

 星菜はそれを、「野球部」の顧問である茂木へと提出したのだ。その光景を周囲で見ていた他の教師達は驚きの表情を浮かべ、茂木もまた意外そうな顔を浮かべていた。

 

「良いのか? もっとじっくり決めてもいいんだぞ?」

「大丈夫です。全て見学しても、最後にはこちらを選ぶと思いますので」

「お前なら他の部からも引く手数多だと思うんだがな……まあなんていうか、お前も物好きな奴だなぁ」

 

 彼が「驚き」ではなく「意外」で済んでいるのは、星菜が昨日野球部を見学したことを知っているからだろう。だが流石に、翌日になってすぐに入部届を提出してくるとは思わなかったようだ。

 星菜もまた、当初はすぐには決めずに色々と見学し回ってから部活動を決めていく予定だった。だが彼女にも、心境の変化というものがあった。

 

「私はこの部活が、一番好きになれると思ったんです」

「早計な判断だなぁ」

「それに、甲子園に行った高校でマネージャーをやったという経歴があれば、今後の進路にも役立ちますしね」

「おおー、それは随分ビッグマウスだな」

「あとそれと……」

 

 星菜は自ら本心の全てを語ろうとは思っていないが、当たらずとも遠くない入部理由を述べる。

 それらは決して嘘ではない。星菜が他のどの部活よりも野球部を好きになれそうだと感じたのは、確かな事実である。それは美術でも料理でもなく、星菜自身がどう変わろうと思っても彼女は野球を超える趣味を当分見つけられそうにないと思っていたからだ。

 星菜はそれほど野球が好きで、「一度辞めても」まだそれと関わっていたい思いがあったのだ。

 それはアニメ離れ出来ない子供と同じで、離れられない彼女の趣味であった。

 

(……マネージャーなら、もう疎まれたりしない。選手の頃みたく、見捨てられることもない。それで私がこの趣味を楽しめるなら……)

 

 そして、何よりも――。

 

「……川星先輩に、私が必要だと言われたので」

 

 だからこの日、泉星菜は野球部のマネージャーとなった。

 

 



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熱烈歓迎マネー者

フハハ! (赤バー評価とは)マジですか!

全く予想外の喜びに舞い上がっております。ここまで評価していただけるとは思っていませんでした。ご期待にお応え出来るよう気を引き締めなければ……



 星菜自身、その決定を部員達から受け入れてもらえるかという不安はあった。

 彼らがもし拒絶するようなことがあれば、その時は大人しく身を引くしかない。星菜がそのように後ろ向きな気持ちで彼らの前に立っているのは、性格を含めて自分自身への自信に乏しいからでもあった。

 

 ――或いは、他の誰かに「そんなことはない」と言ってほしかったのか。

 

 そうやって自己評価を都合よく落とすことで無意識に予防線を張り、不都合なことが起こった際に精神的ダメージを緩和しようとしていたのかもしれない。初めから期待などしなければ、深く絶望することもない。実にシンプルな思考だった。

 暗い心情が表面に現れていた星菜は、そんな不安げな挙動が先輩部員達の庇護心を刺激していたなどとは夢にも思わない。

 結局その心配は杞憂に終わり、星菜は何の問題もなく野球部の新マネージャーとして歓迎されたのだった。

 

 

「まさか見学一日で決めてくれるとは思わなかったッスよ! 改めて、これからよろしくッス」

「こちらこそ、今後ともご指導ご鞭撻お願いします」

「どんと来いッス!」

 

 先輩マネージャーであり、自分を誘ってくれた人物でもある川星ほむらに対し、星菜は印象を良くすべく律儀に頭を下げる。先輩風を吹かし薄い胸を叩くほむらの姿が、星菜には頼もしく見えた。

 初対面の時こそ失礼ながら小さい先輩だなと思ったものだが、ほむらは後輩に対して面倒見の良い先輩である。昨日見学した時も感じたのだが、彼女の教え方は懇切丁寧な上に優しいのだ。気になることがあれば快く答えてくれるし、嫌な顔もしない。星菜がマネージャーになると決めた理由の一つには、彼女の人柄を気に入ったというのもあった。

 彼女とはこれから先上手くやっていきたい。そして、足を引っ張りたくないと思う星菜であった。

 

 

 マネージャーになった以上、これからは野球部員全員のことを把握しなければならない。

 少ない戦力故にレギュラー争いの激しい運動部の為か、期限までに時間の余裕はあっても早々に本入部を決める者は多く、既に野球部には多くの新入部員達が集まり始めていた。

 ほむらいわく星菜達が入学する前まで野球部員は十人しか居なかったのだが、その数も今では十八人にまで増えていると言う。それは丁度全国大会に出場可能なベンチ入りメンバーの数と等しい人数であった。

 一時は廃部寸前にまで陥った野球部がここまで活性化したことに対して、部の中で最も古参である波輪と矢部には特に感慨深いものがあったようだ。

 実際、いくら波輪風郎が普通の選手でないと言っても、全くゼロの状態から一つの部活動を蘇らせるのは並大抵の努力ではない。しかしものの見事に成し遂げてしまった二人の行動力について、星菜は心から敬意を抱いた。

 そのようにして部員が増えたことで、野球部の練習はこれから激しくなるとのことだ。その為にマネージャーという役職があり、ほむらと自分が居る。自分の役目がはっきりしていることで、星菜のやる気は十分に高まっていた。

 

 この日はほむらからスコアの付け方等マネージャーとして本格的なことを教わりつつ、部員達の練習の補佐を行いながら一日の活動を終えた。

 一日の中で、星菜は何人かの部員の顔を覚えることが出来た。元々他人の顔や名前を覚えるのは得意な方ではないが、そんな星菜でもすぐに覚えることが出来たのは彼らが進んで自己紹介をしてくれたのもあるが、何よりもその個性が強力だったのである。

 

 まずは二年生、波輪(はわ) 風郎(ふうろう)。部の主将を務める彼は昨年の秋季大会、当時一年生ながら最速147キロの直球を武器に名門海東学院高校と対等に渡り合った男だ。その試合を観戦席から観ていた為、星菜は入学以前から彼のことを知っている。昨日会話した限りでは人柄的にも気さくな印象を受け、ほむら同様に親しみやすい先輩だと思った。

 続いて、矢部(やべ) 明雄(あきお)。こちらも同じく二年生だ。部の副主将であり、ポジションはセンターを守っているらしい。星菜や新入部員達の前ではチーム一の瞬足を自称していたが、虚実の方は今後自分の目で確かめていく予定だ。語尾に「やんす」を付ける独特な口調といい、今時珍しい瓶底眼鏡といい、顔を覚えるのには最も困らない人物だった。

 三番目に覚えたのは池ノ川(いけのがわ) 貴宏(たかひろ)である。こちらも二年生で、ポジションはサードらしい。強肩がウリで、「野球部で最も頼れる男」を自称していた。彼は元々サッカー部に入部していたのだがそちらの実力は落ちこぼれで、他のサッカー部員達から笑い者にされていたところを波輪に誘われて野球部に入部してきたのだとほむらは語っていた。因みに中学までは野球一筋だったので、少しのブランクはあるが初心者ではないとのこと。赤く染髪したリーゼントヘアーが特徴的な為、矢部と同様すぐに顔を覚えることが出来た。

 次に覚えたのは外川(そとかわ) 聖二(せいじ)という先輩である。二年生だが最近野球部に入部してきたばかりで、元々は池ノ川と同じくサッカー部に所属していたらしい。しかしこちらは池ノ川と違ってサッカーの才能もありレギュラーの座も十分に狙えていたのだが、他の部員達と上手く行かなかった為、自分から転部を申し出てきたのだとほむらは言っていた。「こっちで楽しくやるのはいいんスけど、何かに付けてサッカー部を見下すのはやめてほしいッス……」というほむらの愚痴を聞く限り、性格にはやや難があるようだが中学時代はシニアで三番を打っていたらしく、ブランクはあるものの部内での実力は五指に入るとの評価である。興奮すると「お! ○○ゥー!」と何かの定文のような奇妙な叫びを上げる為、仮に星菜に顔を覚える気がなくてもすぐに覚えることが出来ただろう。

 そして、六道(ろくどう) (あきら)。ポジションはキャッチャーで、昨日鈴姫のキャッチボールの相手をしていた男である。黒紫色の髪に赤い瞳という特徴的な容姿をしているが、性格は寡黙で物静かである。彼自身あまり目立とうという意識はないようだが、彼が波輪風郎という超高校級投手のボールを捕球出来るからこそこのチームは成り立っているのは紛れもない事実だった。この高校に彼が居たことが、波輪風郎最大の幸運ではないかと星菜は考えている。しかし、バッティングの方は本人いわく得意ではないらしい。

 

 以上の五人はただ個性が強いだけでなく、ほむらは現在の野球部における欠かせない主戦力であると語った。他の部員達はそのほとんどが弱小中学校で補欠部員だった為、この五人とはかなり実力に開きがあるのだと言う。今年加入した新入部員においても中堅校以上の野球部でレギュラーを張っていたのは鈴姫(すずひめ) 健太郎(けんたろう)と、青山(あおやま) 才人(さいと)の二人だけらしく、やはり全体の戦力は心許なかった。

 その青山のポジションはと言えば、去年までは波輪一人しか居なかったピッチャーである。最速124キロの直球と縦に曲がるスライダーを持っており、高校一年生としては悪くない水準だ。しかし今の段階では即戦力として厳しく、夏の大会ではバッティングを買ってライトを守らせたいなと茂木監督が呟いていた。何か面白いことがあると「フハハ!」と高笑いするのが口癖で、強気になると「猪狩! 出てこいや!」などと熱いビッグマウスぶりを見せる。鈴姫を除く同級生の中では、良くも悪くも星菜の印象に残った人物だった。

 

 

 

 

 

 

「星菜ちゃん!」

 

 時刻が十八時を過ぎたことで一日の活動が終わり、更衣室に移動した星菜が学校指定のジャージから制服に着替えていると、ほむらが名を呼びながら近づいてきた。見れば、ほむらは既に着替え終えている。胸部にほとんどとっかかりが無い為か、中途半端に出っ張っている自分よりもスムーズに着替えれるのだろう。何の悪意もなくそんなことを考える辺り、星菜の性格は中々にあくどかった。

 

「一緒に帰ろうッス!」

 

 そんな星菜の心の内を知らぬほむらは、邪気一つない笑顔を向けてそう言った。

 これは着替え中に聞いたことなのだが、どうやらほむらの自宅は星菜と同じ方角にあるらしく、バスの行先が同じらしい。

 

「はい、いいですよ」

 

 彼女とは同じバスに乗って、帰宅することが出来る。彼女が誘ってくれたことに対して、星菜に断る理由は何もない。上着のボタンを丁寧に取り付けると、星菜は振り向き、その提案を了承した。心なしか彼女から胸部に向かって恨めしげな眼差しを送られている気がするが、こちらとて言われるほどのものはない筈だ――と星菜は考えている。……全く持って、どうでもいいことだが。

 

「……星菜ちゃんは仲間だと思ってたのに」

 

 星菜は真剣にどうでもいいことだと考えているが、それが一般的な女子の認識として正しいかと言われると自信はない。ほむらの反応を見る限り、本当はどうでもいいことではないのだろう。胸に手を当てて目に見えるほど深刻に気にしているようなので、星菜はふと思い出した話でフォローに入った。

 

「大丈夫ですよ、先輩。最近ではそれが小さい人が流行っているそうです。練習中、そのようなことを矢部先輩が池ノ川先輩と話しているのを聴きました」

 

 だがそれを聞いたほむらは星菜の予想に反し、機嫌を良くするどころかさらに悪化させた。

 

「あ、あの二人は練習中に何を話しているんッスか!」

 

 顔を赤くしながら、ほむらは今にも暴れたそうに拳を握る。

 彼女が何故怒るのか――一瞬理解出来なかった星菜だが、少し考えればすぐにわかることだった。

 

(……確かにそんなくだらない話は、練習中に話すことじゃないな)

 

 それならば、ほむらが怒るのも当然である。どうにもあの先輩方は、練習に対して集中力が足りないのではないかと疑問が浮かぶ。

 

「練習に集中出来ていない人には、私からも声を掛けてよろしいですか?」

「どんどんやっていいッスよ! 先輩が相手でも思いっきりやっていいッス! もし何かあったらほむらが守るッスから!」

「――ッ、そ、そうですか……」

 

 新入マネージャーという身分ではあるが、現場への口出しをある程度許してもらえるのなら今後の仕事がやりやすくなるかもしれない。そんな思惑で星菜は訊いてみたのだが、ほむらから返ってきたのは予想以上の言葉だった。彼女はマネージャーとして、彼らが練習中に駄弁っていたことが相当頭に来ているようだ。

 

 ――それにしても。

 

(守る、か……)

 

 さっき、何かあったら守ると言ってくれた。

 入ってきたばかりの後輩に、味方をしてくれるというのだ。

 自分には勿体無いほどよく出来た、先輩の鑑のような人間である。

 

(いつも、周りの人間には恵まれているのにな……)

 

 せめて、彼女の後輩として恥をかかせないようにしよう――星菜は心に誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 バスに揺られること十分弱、自宅から最寄りのバス停にて、星菜はほむらと別れた。片道がこの程度の移動時間で済むところも、星菜が竹ノ子高校に入学した理由の一つである。中学時代は自宅から遠く離れた学校に通っていたこともあり、短くて済む移動時間の有り難みは深く理解していた。

 

 バス停から五分と掛からず自宅に着いた星菜は、ただいま帰ったと家内に報告する。

 

「あら、おかえりなさい。お風呂なら沸いてるわよ」

「ありがとう、母さん」

 

 時計を見ると、時刻は六時半を回っている。台所には夕食の用意を行っている母の姿があり、居間には座布団に顎をつけながらテレビを眺めている弟の姿があった。

 弟――海斗の元に近寄ると、星菜は身を乗り出してそこに映る画面を確認する。

 画面に映っていたのは、室内球場で行われているプロ野球のナイター中継だった。

 

「ん、バファローズはファイターズ戦か」

「今日はチャンネル争わなくていいね」

 

 対戦カードは「ファイターズ」対「バファローズ」の一回戦だ。ファイターズは海斗の、そしてバファローズは星菜の贔屓しているプロ野球チームである。姉弟とも贔屓チームが異なる弊害から、日頃ナイター中継が始まる時は決まって互いの贔屓チームの試合の視聴権を巡って争うのだが、この日は直接対決の為か穏やかに観戦することが出来た。

 

「ファイターズは只野か。バファローズの先発は誰だっけ?」

「神童だよ。どこも今日は開幕投手が投げてる」

「おお、なら早く風呂入ってこよっと」

 

 その上先発投手が贔屓チームのエースだと言うのだから、テンションは上がるというもの。特に神童(しんどう) 裕二郎(ゆうじろう)と言えば、バファローズのみならずいずれは「日本のエース」になることが濃厚の大投手である。最速151キロの直球やスライダー他多数の変化球を武器に、ルーキーイヤーの昨年はタイトルを総なめした上で新人王を獲得し、全プロ野球ファンに大車輪の活躍を見せつけた。今年は開幕投手を務めると二年目のジンクスも何のその、あっさりと完投勝利を収めている。

 彼の直球や変化球の威力はもはや規格外の一言に尽きるが、星菜が最も評価しているのはその精密なコントロールにある。彼の左腕から放たれたボールが寸分狂わず外角低め(アウトロー)に叩き込まれる瞬間、星菜は喉元を撫でられた子猫のようにとろけた表情を浮かべるものだ。

 星菜は150キロの直球など必要ないという持論を持っているが、だからと言って剛速球そのものを嫌っているわけではない。彼女が嫌悪しているのはまともに制球出来ない力任せの150キロのことであり、外角低めに決まった150キロに関してはその限りではないのだ。同じ球速でも神童のような「技」を持った剛速球ならば、十分に好みの範疇だった。

 

 

 

 

 風呂に浸かり、一日の汗を流した星菜は、一刻でも早く神童の投球を観るべく素早く寝間着へと着替えた。

 ドライヤーで髪を乾かした後居間に戻ると、テーブルには母が作ってくれた今晩の夕食が並べられており、弟が眺めているテレビ画面には見慣れたコマーシャルが流れていた。

 

《こんにちは。アシク・ジーターです》

「CM中だったか。試合はどうなった?」

「これから三回表が始まるとこ。まだどっちも0点だよ」

「ふふ、神童と只野なら、今日はバファローズが貰ったな」

「む、只野だって打たれないよ!」

 

 贔屓チームのエースが登板している試合に高揚しているのは、星菜だけではない。それはファイターズファンである海斗も同じだった。

 この日先発の只野(ただの) 一人(かずひと)は今年で二年目。昨年は14勝を上げたファイターズの勝ち頭である。高校時代はチーム打率1割台のチームを甲子園出場に導き、大学時代は各球団のスカウトから「左の神童」、「右の只野」と並び称されたほどの投手である。

 実力もさることながら、そんな彼の野球人生を少年心に面白いと感じたのか、海斗はファイターズの中でも彼を最も贔屓していた。

 

《こちらのお値段5980円! 5980円です!》

「さてと、三人揃ったところで、いただきましょうか」

「うん。いただきます」

「いただきまーす!」

 

 テレビのコマーシャルが明けるのを待ちわびながら、星菜と海斗、そこに母を加えた三人が食卓に着く。父親だけは仕事の超勤が多い為、基本的に一家全員が食卓に揃うことはなかった。

 だが、三人だけでも母と弟と食べるご飯は一人の時よりも数段美味しい。母親お手製の味噌汁をすすりながら、星菜は改めてそう思った。

 コマーシャルが明けると、テレビ画面にバファローズのエース神童の姿が映し出される。ヒットはまだ、一本も打たれていない。

 そのイニングも危なげなく打者三人で抑えると、再びコマーシャルが始まった。そう言った攻守交替の空き時間を見計り、星菜はテレビから母親へと視線を移すと「伝えるべきこと」を話した。

 

「母さん。事後報告で申し訳ないけど、私、今日から野球部のマネージャーになったよ」

「……そう。それで、上手くやっていけそうなの?」

「まだわからないけど、そう思う。先輩、いい人なんだ」

「……うん、貴方が決めたことなら、私は何も言わないわ。貴方が野球が大好きだってことは、一番わかってるつもりだから。お父さんもきっと、そう思ってるでしょうね。でも、困ったことがあったらもう一人で悩まないこと。あと、坊主頭にだけはしないでね?」

「わかってるよ。……ありがとう、母さん」

 

 夕食の時間は、家族とゆっくりコミュニケーションを取ることが出来る最良の時間である。星菜は竹ノ子高校の野球部の質が多くの面で中学時代と異なっていること、愉快な先輩達が居ること、そして自分を誘ってくれた頼れるマネージャーの先輩が居ることを、母親に話した。

 母親は、それらの話を嬉しそうに聞いてくれた。波輪風郎の話題を出した時は、横から割り込んできた海斗にサインを貰ってくるようにせがまれたものだ。確かにこれから先波輪がプロ野球選手になるとすれば、今の内に貰っておいたそれは良い記念品になるだろう。

 だが、そう上手く行くとは限らないのが人生である。

 自分のこれまでの人生と、「もう一つの」人生の記憶を思い返し、星菜はしみじみと思う。

 昨年の秋季大会で見た竹ノ子高校のエース――波輪風郎が残りの二年を順調に消化すれば、プロ入りはまず間違いないだろう。だが、どんな時にも「もしも」は起こりうる。

 

(そんなことが起こらないように選手を支えていくのも、マネージャーの仕事だな)

 

 期待に輝く弟の目を見て、星菜は自らの責任の重さを感じる。

 だがそれは、決して悪いものではなかった。

 



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紅白野球合戦

 

 翌朝の星菜は、すこぶる機嫌が良かった。

 その機嫌の良さと言えば登校中の足取りが終始軽やかで、バスに揺られている間は他の乗客の迷惑にならない程度に鼻歌を歌っていたぐらいである。

 星菜自身にそのつもりはなくとも教室の者達は皆彼女が上機嫌なことに気付いており、無自覚に振りまかれる笑顔によって一日の授業への憂鬱を霧散させられるハッピーな生徒達の姿もちらほらあった。

 そんな星菜に向かって、隣座席から奥居亜美が「何か良いことあったの?」と訊いてくる。

 答えは是。星菜としては良いことがあったどころの話ではなかった。

 

「私、バファローズファンなんですよ」

「えーっと……ああ!」

「はい。なのでとても嬉しいのです」

 

 同じ野球好きならばそれだけ言えば通じるだろうと思い、星菜は上機嫌の理由を簡潔に述べた。

 思った通り亜美は無事彼女の心境を理解し、笑顔を浮かべて祝福してくれた。

 

「凄かったね! ニュースで見たよ。神童さんのノーヒットノーラン」

 

 そう。昨日、星菜の敬愛するバファローズの神童裕二郎投手が、ファイターズ打線を相手に味方のエラー一つで抑えるノーヒットノーランを達成したのだ。

 彼のヒットもホームランも許さない力投に星菜は釘付けになり、偉業達成の瞬間には両手を上げて喜びに舞い踊ったものである。ファイターズファンの弟は悔しがりながらも彼を賞賛し、その後で「もうウチには投げさせるなよ……」と愚痴をこぼしていた。残念ながら、そうはいかないだろうが。

 因みに最後の打者を仕留めたのは外角低め(アウトロー)のストレート。球速は148キロの見逃し三振だった。それは120キロのカーブを見せた後の一投であり、外角低めマニアであり緩急マニアでもある星菜にとって最上の快感だった。

 神童の何が凄いのか、何故彼はあれほどまでに活躍出来るのか――その持論を、星菜は亜美の顔が引きつるほどに熱く語り続けた。

 

 

 

 

 

 

 この日の授業は、星菜にとって別段気になるものではなかった。特に難しいものはなく、学級委員として恥じるようなことも何もなかった。

 そして放課後、部活動の時間になる。

 制服からジャージに着替えた星菜は、ほむらと共にグラウンドへと移動する。

 すると、先に一箇所に集まっていた野球部員達の中で熱く何かを語っている波輪風郎の姿を見つけた。星菜はその近くに寄り、話の内容を聞き取った。

 

 

 ――紅白戦――それはスポーツにおいて同一のチームが「紅組」、「白組」に分かれて戦う実戦形式の練習である。こと野球においては一チーム最低九人居なければ試合出来ない為、本当に実戦形式に行うのなら二チーム分の人数である十八人の部員を揃えておく必要がある。

 そして現在本入部が決まっている人数はここに居る全員で、丁度十八人居る。

 

「この意味がわかるか?」

 

 主将波輪風郎が、野球部員一同の前に立って問い掛ける。

 その言葉に誰かが答える前に、波輪はグッと拳を振り上げて叫んだ。

 

「やるぞ紅白戦っ!!」

「オオオォォーー! でやんす!」

 

 勿体ぶった言い回しに一同が呆然とする中、副主将の矢部明雄がその言葉に真っ先に反応する。

 

 ――要するに、今日の練習は紅白戦を行うらしい。

 

 主将と副主将の妙に気合の入った様子に、星菜は他の部員達同様に困惑の表情を浮かべるが、今まで最も率先して部員を勧誘してきた彼らにとってこの野球部に紅白戦を行えるぐらいの人数を集めるのは活動当時からのささやかな目標だったらしく、現在二人して感極まっているのだとほむらが耳打ちしてきた。

 

「行くぞお前らッ! ランニングだ!」

「みんな、黙ってオイラ達に着いてくるでやんす!」

 

 既に監督からは許可を貰っているらしく、二人の姿は今まで星菜が見てきた中で最も活気に満ち溢れていた。ランニングやストレッチ、キャッチボール等のアップが終わり次第、すぐに紅白戦を始めるとのことだ。

 総勢十八人もの野球部員達が、二人を先頭に掛け声を出しながら校庭の大回りを走り出す。その場に取り残された星菜は、ほむらから試合の準備をするように仰せつかった。

 

 竹ノ子高校野球部が扱っているグラウンドは、普段サッカー部と共有している。独立した野球場でない為、間の仕切りとしてネットを張る必要があるのだ。それは丁度外野のフェンス代わりにもなり、柵を越えればホームランというルールをそのまま適用出来るほどには十分な距離があった。

 星菜はほむらとの共同作業でネットを張った後、用具庫からバットやキャッチャー防具など野球の試合における様々な必需品を運搬していく。その中には審判用のマスクもあり、ほむらがそれを持ちながら言った。

 

「審判はほむらがやるッス!」

「え、しかし大丈夫なんですか?」

「問題ないッス! 審判として必要な知識は完璧にマスターしてるッスから」

「いえ、そうではなくて……」

 

 審判――彼女がやりたいのはおそらくストライク、ボールを判定する球審のことだと思うが、星菜にはほむらの適性について少々疑問があった。

 それは彼女の知識について疑っているわけではない。疑っているのはもっと単純な問題で、身長150センチ前後しかない彼女がキャッチャーの後ろに立ってしっかりとボールを判定出来るのか不安なのだ。しかしそれを伝えようにも、低身長という彼女のコンプレックスを指摘するようで非常に気まずい。

 

「審判は俺がやるよ。お前達は試合の記録を付けてくれ」

 

 星菜がどう上手く彼女に話そうか思考を巡らせていると、思わぬところから助け舟が来た。

 いや、彼の立場を考えれば思わぬところというよりも、当然なところではあるのだろう。球審の役目を全うするのはほむらよりも彼――茂木林太郎に適性があった。

 その横槍にほむらは少々不服そうな顔を浮かべるが、監督が相手ではやむを得ず、反発することなくあっさりとマスクを手渡した。

 

「監督にしては随分積極的ッスね」

「審判だって安全じゃないんだ。もしピッチャーの球やファールチップがぶつかったらどうする? お前に怪我されると、周りがうるさいんだよ」

「優しいッスね監督」

「はは、惚れたか?」

「それはないッス」

 

 茂木監督の言い分は尤もである。確かにキャッチャーの後ろに立つ球審には、色々と危険が多い。しかもボールは軟式ではなく硬式なのだ。それが何かの間違いでほむらの身体にぶつかる危険性を考えると、球審は茂木の方が適任だった。

 

 男よりも、女は脆いのだから――。

 

 

 

「監督、アップ終わりました!」

「準備完了でやんす!」

「あ、ああ、終わったか」

 

 グラウンドから、部員の代表として主将の波輪と副主将の矢部が揃って茂木の元に駆け寄ってくる。二人の瞳は純真なまでに輝いており、無礼ながら星菜の目には飼い主に餌をねだる子犬のように見えた。しかし二人とも屈強な肉体を持つ男子高校生であり、特に180センチを超える逞しいガタイの持ち主である波輪がそんな瞳をしているのは似合っていないことこの上なく、正直言って気持ち悪かった。茂木も同じことを感じているのか、頬の筋肉が若干引きつっている。

 

「じゃあチーム分けするから、皆を集合させてくれ」

「ハイ! 集合ォッ!!」

 

 監督から指示を受けた波輪が、ハリのある大声を上げて部員達を呼び寄せる。星菜は波輪に対して見た目の割に飄々とした人物という印象を持っていたが、その姿はこれぞ野球部主将と言える熱い姿だった。

 十六人の部員が呼応すると一斉に走り出し、監督である茂木の元へと集合していく。

 

「あー、これから新入生の力量と現状戦力の確認ということで……ってよりはキャプテンと副キャプテンにうるさく提案されたわけなんだが、紅白戦を行う。チーム分けとポジションは俺が決めているが、打順はお前らで勝手に決めてくれ」

 

 新入部員達は固い雰囲気を持って真剣な眼差しを送っていたが、茂木はそれを受けても至って平時通りの適当な言葉遣いだった。内心では相変わらず監督らしくない男だなと溜め息をつく星菜だが、目上の人間の態度について口を出す気はない。郷に入っては郷に従うしかなかった。

 

「じゃあ紅組から。ピッチャー池ノ川、キャッチャー六道、ファースト戸田――」

 

 星菜がそんなことを考えている間に、茂木は上着ポケットから取り出した一枚の紙切れ――事前に書き込んでいたらしいその「メンバー表」を注視しつつ、チームを紅白に分けていく。その数はもちろん片方九人ずつで、茂木は紅組は波輪、白組は矢部がリーダーを務めるように指示を出した。

 

「ほい、マネージャー」

「どもッス」

 

 気だるげな表情ながらテキパキとチーム分けを終わらせた茂木が、読み上げたメンバー表をほむらに手渡す。星菜は横から覗き込むと、そこに書かれている文字を自分の目で確認した。

 

【紅組 1池ノ川(二年)、2六道(二年)、3戸田(一年)、4浅生(一年)、5稲田(一年)、6石田(二年)、7宮間(一年)、8城所(一年)、9波輪(二年)

 

 白組 1青山(一年)、2山田(一年)、3外川(二年)、4小島(二年)、5沼田(二年)、6鈴姫(一年)、7義村(二年)、8矢部(二年)、9鷹野(二年)】

 

 それぞれ名前の横にはポジション番号が振られており、後ろには学年が書かれていた。パッと見でわかるように紅組の方が一年生が多く、白組には二年生が多い。加えて、鈴姫健太郎までも白組である。その点を見れば明らかに白組の方が有利に思えるが、紅組には何と言っても波輪風郎の存在がある。ずば抜けた存在である彼が一人居るだけで、両陣の戦力差が埋まっている形だ。これで彼の名前の横に書かれている数字が「1」でさえあれば、その戦力は圧倒的に紅組が上になっていただろう。

 星菜がメンバー表を眺めた中で、唯一不審に思った点がそこだった。

 

「ピッチャーは波輪先輩ではなく、サードの池ノ川先輩なのですか?」

「そうみたいッスね。でも波輪君が投げたってウチの打線が相手じゃ大した練習にならないし、新入生の力量も測れないッスからねぇー」

「なるほど……」

 

 ポジション番号「9」は右翼手――ライトの番号だ。それはつまり今回波輪はライトを守るということで、本来の番号である投手の「1」は池ノ川の横にあった。

 波輪はライト。池ノ川がピッチャー。それが、茂木の指示した彼らのポジションだった。

 

「それと、池ノ川君にピッチャーが出来るか試してみたいっていうのもあるんだと思うッス。あの人無駄に強肩だし、二番手三番手はいくら居ても困らないッスから」

「……確かに、いくら波輪先輩でも大会を一人で投げ抜くのは厳しいですからね」

 

 野球部の現状戦力の確認が名目なら、最初から出来ることがわかっている波輪をわざわざ投げさせる必要はない。だからライトに回した。

 池ノ川を紅組に入れたのは、おそらくレギュラークラスの多い白組打線を相手にどこまで抑えれるのか知りたかったからであろう。

 やる気がないように見えて、よく考えられたメンバー表である。星菜は内心、茂木に対する評価を改めていた。

 

 それにしても――と、星菜はすぐ横で作戦会議を行っている両チームの様子に目を向ける。

 

「打順を決めるでやんす! 一番はオイラが譲らないでやんす!」

「僕が先発ですか! うわあ頑張ろう。打順は五番を打たせてもらいます」

「お! 俺は三番で頼むゥー!」

「四番は鈴姫君にお任せするでやんす! オイラ、絶対出塁するでやんすから」

「……わかりました」

 

 白組は、なんだか小学校低学年の頃を思い出すような賑わいぶりである。少年野球時代、紅白戦の打順を決める時は自分もあんなノリだったなぁと星菜は在りし日の記憶をしみじみと思い出す。矢部副主将は相当に、今回の紅白戦が楽しみだったようだ。

 

 紅組の方は、白組に比べて一年生が多い為かそれほど賑わってはいない。謙虚な彼らを、主将の波輪や少ない二年生が先頭に立ってまとめていた。

 

「明日からはもう、こんなノリではやってけない。矢部君や監督はどうか知らんけど、明日から俺はビシバシ厳しくしていくつもりだ」

「新入部員の力量把握という名目もあるが、今日に限っては楽しんでやればいい。こんな日に怪我なんかするなよ」

「まあそんなとこだ。しまっていこうぜ」

「「ハイッ!」」

 

 波輪の他の二年生はキャッチャーの六道明も誠実な印象を受け、まとめ役の優秀さは白組よりも紅組が優っているように見える。

 

「フッ、てめーら大船に乗ったつもりでいな。この池ノ川様が投げる限り、ランナーの一人だって出しはしねぇ」

「お前はどこからそんな自信が出てくるんだよ……実戦で投げるのはこれが初めてだろ」

 

 仲間内で紅白戦を「する」のは確かに面白いが、マネージャーとして自チームの紅白戦を「観る」のもまた面白そうだ。竹ノ子高校の野球が如何程のものか、今一度この場で知っておきたいという思いも星菜にはあった。期待と不安の半々ずつで、星菜はこの試合の行方を心に記録することにした。

 

 




今回色々と選手の名前が出ましたが、前回紹介された主力六人+鈴姫だけ覚えて頂ければ十分です。


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内心毒舌解説

 

 リーダー同士のジャンケンによって、白組が後攻、紅組が先攻となった。

 白組の九人(ナイン)は矢部の指示に従って各々の守備位置に着くと、内野と外野とでボール回しを行う。その中心では白組先発の青山才人がマウンドに上がり、投球練習を始めていた。

 

「星菜ちゃんはどっちが勝つと思うッスか?」

 

 今まさに紅白戦が始まろうとしているグラウンドを見つめ、スコアブックを膝に置いたほむらが星菜にそう訊いてきた。

 この紅白戦で重要なのは、現状の選手達がどれほどのパフォーマンスを発揮出来るかにある。故に勝敗など二の次ではあるのだが、試合をするとなれば何だかんだでそちらにも目が向いてしまうものだ。

 

「わかりません」

 

 だが、星菜はほむらにとって最もつまらないと思われる答えを返した。昨日マネージャーに加入したばかりの新入りに過ぎない星菜には、両チームの戦力差など精々が学年とビッグネームぐらいでしか把握出来ていない。その程度の情報量で勝敗を予測しては、試合をする選手達に失礼だと思ったのである。

 

「ただ、イニングは五回までですからね。やはり両投手の出来次第になるのではないでしょうか」

 

 個人的な感情で勝手なことを喋るのも拙い気がするので、星菜は特に当たり障りのない言葉を選んだ。

 今回の紅白戦は登板する二人の投手に配慮している為か、イニングは五回制と極めて少ない。加えて、初対戦では持ち玉の球種がわからない分、打者よりも投手の方が有利である。順調に抑えれば打順が二巡することもないので、ある程度はロースコアになるだろうと予想していた。

 

「ほむらちゃん、星菜ちゃん、教えてあげるよ」

 

 その時、これまで素振りをしながらベンチの付近に立っていた白組ナインの一人――波輪風郎が二人の会話に割り込んできた。

 

「この試合、竹ノ子高校が勝つ!」

 

 どこか得意げな――所謂「ドヤ顔」を浮かべて、波輪が言った。

 そして、数秒の沈黙が訪れる。

 

 ……この人は、うまいことを言ったつもりなのだろうか。

 

 彼の意図が読めなかった星菜は、どういうことかと隣に座るほむらへと目配せする。

 ほむらは短く溜め息をつくだけで、何も言わない。だが、呆れの滲んだその瞳は雄弁に語っていた。

 

 何も聞かなかったことにしよう――と。

 

「おーい、何かツッコんでくれよー、虚しくなるじゃないかー」

「……やっぱり、私は白組が勝つと思います。一年生主体と二年生主体のメンバーでは、少々守備力に差があると思いますので。その点、紅組よりも多くの二年生がバックに居る青山さんが有利かと」

「何より白組のセンターラインには鈴姫君が居るッスからねぇ。ほむらもさっきまでは紅組かなって思ってたんスけど、今は白組が勝つ気がするッス」

「おーい」

「波輪、始まるぞ。前来い」

「……へーい」

 

 波輪風郎――このような無名校に居るのがあまりにも場違いな実力者には違いないのだが、なんだか真面目なのか不真面目なのかわからない男である。星菜は彼に対する印象を、そっと心の中に追加しておいた。

 

 グラウンドでは、既にボール回しも投球練習も終わっていた。

 白組の先頭バッターは数少ない二年生の一人、遊撃手(ショート)を守る左バッターの石田である。野球選手らしくない細身な体型だが、元々は陸上部に居たところを引き抜いてきたのだとほむらが解説してくれた。

 

「頑張れ石田!」

「お前に言われんでもわかっとる!」

 

 ベンチの波輪から熱い声援を受けながら、石田が左のバッターボックスに立つ。そして、球審の茂木監督が試合開始を告げた。

 

 ――その瞬間、場の空気が切り替わる。

 

 それまでの和やかな空気は一転し、打席の石田はもちろん、波輪らベンチに居る全員が頬を引き締めていた。

 紅白戦とは言え、その空気はまさに試合中のベンチのものだ。その光景を見て、星菜は内心で安堵の息をつく。

 流石に、彼らも遊び感覚でいるわけではないようだ。野球部として在るべき正しい雰囲気に、当たり前だと思いつつも星菜は感心した。

 

「ストライク!」

 

 そして白組先発の青山が上手から投じた一球目のボールが、何の障害もなくキャッチャーミットへと突き刺さった。

 目測したところ、球速は110キロ台後半といったところか。彼が入部したての一年生であることと今はまだ春先であることを考えれば、悪くないストレートだと星菜は思った。

 キャッチャーからの返球を受け取ると、青山はすぐにグラブを胸の前まで移動させ、ノーワインドアップから二球目のボールを投じる。

 

(……でも、フォームが悪い。左脚が突っ張っているし、リリースが早すぎる)

 

 そのぎこちない投球フォームに難癖をつけたくなったのは、星菜もまたかつては投手だったからであろう。そうやって今の己の身分もわきまえずに、相変わらず偉そうな奴だなと星菜は自嘲する。だが、思わずにはいられないのだ。

 青山の右手から放たれたボールは、鈍い金属音と共にグラウンドを転がっていった。

 威力のない打球――平凡なゴロである。その打球は白組二塁手(セカンド)の小島に捕球されると、危なげない送球によって一塁へと送られた。

 バッターランナー石田も懸命に走ってこそいたがタイミングは特に惜しくもなく、球審の茂木が覇気のない声で「アウト」と唱え、ワンアウトとなった。

 

「フハハ!」

 

 続く紅組二番の浅生も、石田と同じく左バッターである。彼は青山の投球にカウントツーエンドツーから二球粘ったが、内角低めに外れるスライダーを空振りし、あえなく三振した。

 グラブを叩き、歓喜の声を上げる青山。その投球を、白組ナイン達がナイスピッチと称える。

 だがベンチからそれを眺めている星菜の目は、決して彼らのように暖かいものではなかった。

 

(アウトコースに投げきれているところを見るとコントロールはそう悪くなさそうだけど、あの球で他校の二年生に通用するとは思えない。入ったばかりの新入生に何を期待してるんだと言われれば、それまでだけど……)

 

 解説者気取りだなとは、星菜自身も思っている。その癖やっていることと言えば内心でネチネチと酷評しているだけなのだから、つくづく情けないものである。

 

 ツーアウトとなり、三番の六道明が右打席に立つ。

 彼はチーム内で主力と言われている選手の一人だ。この対決は見物だな、と星菜は注目する。尤も、その「見物」と言うのは仮にもレギュラーを張っている選手がこの程度の投手を打てなければチームの底が知れるものだ――という意味での、非常にひねくれた見方ではあるが。

 だがその打席は、星菜を落胆させるものではなかった。

 キィンッ! と甲高い金属音が響くと、地を這う打球が猛スピードで青山の右横を抜けていく。

 文句なしに、ヒット性の当たりである。打球はそのまま二遊間を抜け、センターの前に到達する――筈だった。

 

「おお!」

 

 ほむらが歓声を上げる。

 センター前ヒットになる筈だったその打球は突如現れた白組遊撃手(ショート)の鈴姫によって捌かれ、すかさず横手から放たれた送球が勢い良くファーストミットへと叩き込まれた。バッターランナー六道は一塁ベースに到達出来ずにアウト、スリーアウトになった。

 

「凄いッス! やっぱり鈴姫君の動きは違うッスね!」

「……位置取りが良かったですね」

 

 今のは、バッターの六道に否は無い。強いて言うなら守備の名手の守備範囲に打球を飛ばしてしまったことであろうが、これは白組のショート鈴姫を褒めるしかなかった。

 

「ナイスプレーだ鈴姫!」

「別に、あのぐらいわけないですけど」

「青山君も良い球投げてるでやんすよ!」

「フハハ! ミスター・ゼロと呼んでください」

 

 初回の守りを三者凡退に終わらせた白組ナイン達が、投手と遊撃手を労いつつ星菜達の居るベンチへと走ってくる。

 両チームともベンチは同じ物を共用する。攻守交替となったことで、今度は今までベンチに居た波輪ら紅組ナインがそれぞれの守備位置へと散っていった。

 

「さあ先制するでやんす! 一番オイラが塁に出て二番小島君が送りバント、三番外川君がタイムリーで四番鈴姫君がホームランでやんす!」

「目標に向かっていくって、こんなに楽しいことなのか! サッカー部では味わえなかった感覚だ」

「……俺、ホームランバッターじゃないんですけどね」

「フハハ! 援護は一点あれば十分ですよ!」

 

 白組のナインは、紅組よりも随分と賑やかである。とは言っても実際に賑やかなのは約二名の二年生と一名の一年生だけなのだが、彼らだけでその場が騒がしくなっているのだ。

 星菜がそんな彼らの様子を横目にしていると、ふと一人の男と目が合った。だがすぐに、星菜はそれを外した。

 

(私も、まだしばらくは馴染めそうにないかな……)

 

 難しい表情を浮かべながら、星菜は視線の先をマウンドに立つ紅組先発、池ノ川貴宏の方へと移す。

 投球練習を行っている彼の球は、想像以上に速かった。流石に強肩を自慢するだけのことはあるようで、彼のストレートは青山のそれよりも数段上の威力があり、六道のキャッチャーミットを重く揺らしていた。

 だが、彼の投球フォームには青山以上に多くの欠陥があった。

 踏み出した左脚がつっかえ棒のようになっている上に、上半身の開きが早く、ボールが見やすい。腕の振りは鋭いが肘の動きがあまりにも固く、彼の投球フォームは典型的な「野手投げ」であった。

 汚すぎて見ていられないフォーム――それが、星菜が内心に抱いた池ノ川への感想だった。

 

 池ノ川が十球程度の投球練習を終えると、白組先頭打者の一番矢部明雄が打席に立つ。

 しかし構えに入る前に、矢部は左手に持ったバットの先端をレフトスタンドに相当する遠方へと突き出す「予告ホームラン」のポーズを取った。

 

「花は桜木、漢は矢部でやんす!」

「なっ、テメー舐めやがって!」

「ふん、猪狩コンツェルン本社の向こう側まで飛ばしてやるでやんす!」

「いいからさっさと構えろよ……」

 

 何とも派手な演出である。と言うか、先ほど彼は「オイラは塁に出る」と言っていた気がするのだが、ならばあの予告ホームランは何なのだろうか――もしやホームランを狙うフリをしてセーフティーバントを敢行するつもりなのだろうか。それならばアレは意味のある行動ではあるが――彼の奇行に星菜が熟考して思考を巡らせていると、隣からその肩にポンッと手を置かれた。

 その方向に目を向けると、呆れ顔で首を左右に振っているほむらの姿が見えた。

 

「深く考えなくて良いッスよ。だって矢部君だし」

「そう……なんですか」

 

 その一言に、星菜は何故だか重い説得力を感じた。星菜はまだ矢部明雄という男のことをほとんど知らないのだが、きっとそういうものなのだろうと納得することにした。

 

 後に、星菜は知ることになる。

 

 矢部明雄――一年生の頃は波輪風郎と共に校舎中を奔走し、野球部復興へと尽力した功労者の一人である。そして野球部副主将も務めるその男は――野球部随一の、お笑い担当であると――。

 

 

 

 その打席、矢部はレフトへのポップフライに終わった。

 

 



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よーいドンで大炎上

 

(だーめだよ……全然ダメ……)

 

 昨夜はプロ野球で応援しているバファローズのエース、神童裕二郎投手がノーヒットノーランを達成したことで、星菜の機嫌は非常に良かった筈だった。

 だが、紅白戦の一回表から始まった彼女の内心毒舌解説は、未だ尚鎮まることはなかった。それどころか一回裏の現在、その毒舌度はさらに悪化していた。

 と言うのも、紅組のマウンドに立つ池ノ川貴宏が、星菜にとって最も嫌いなタイプの投手だったからである。

 池ノ川はその強肩を生かしたオーバースローから確かに力のある速いストレートを投げるのだが、コントロールがあまりにも悪かった。白組先頭打者の矢部は初球を打ち損じてくれたから助かったものの、続く二番小島には一球もストライクが入らずフォアボールを与え、三番外川が打席に立った今もカウントはスリーボールのノースリーとなっていた。

 

(四球を恐れずにしっかりと腕を振れているのは良いけど、ど真ん中を狙って外角高めに大きく外れているようじゃどうにもならない。これじゃ六道先輩も、リードのしようがない)

 

 本職は三塁手(サード)で投手経験が皆無の選手に、あれこれ文句を言うのは間違っているだろう。だが少なくとも、今のところ星菜が池ノ川貴宏に対して何の魅力も感じていないのは事実だった。

 池ノ川がマウンド上で露骨に苛立ちながら、外川に対して四球目のボールを投じる。

 不格好な野手投げから放たれたそのボールは、大きくストライクゾーンの外へと外れる。

 球審の茂木がフォアボールを告げると打者の外川が嬉々として一塁ベースに向かい、次の打者である鈴姫健太郎が左打席へと入った。

 走者(ランナー)一塁二塁のピンチで、四番打者を迎えてしまった。それが連打を受けて招いたピンチなら何か策を講じることも出来るのだが、いずれもノースリーからのフォアボールでは何も始まらない。周りから言えるのは、とにかくストライクを投げろという初歩的な言葉だけだった。

 紅組捕手(キャッチャー)の六道明がタイムを掛けてマウンドに向かうと、そのような旨の言葉を池ノ川に掛けたのだろう。再びキャッチャーボックスに座る六道は先までよりも大きく構えており、キャッチャーミットの位置をわかりやすく真ん中中央へと固定していた。

 

「うおらっ!」

 

 池ノ川が気合を入れ直し、打席の鈴姫に対して一球目のボールを投じる。スピードは先までより若干落ちているが、制球は六道のミットが僅かに動く程度のコース――左打者に対しての外角(アウトコース)に決まり、ストライクがコールされる。初めてのストライク判定に、紅組ナイン達がナイスボールと声を掛ける。

 

(それでいい。140キロなんて要らないから、コースを突けば。でもそれだけじゃ――)

 

 ベンチから眺める星菜はその一球に小さく頷くが、だからと言って賞賛はしない。今の池ノ川が球威よりも制球を重視するべきだとは思っていたが、それを実現出来たところで投手としての彼が星菜にとって最低の評価であることに変わりはなかった。

 

(鈴姫には、まず通用しないだろうな……)

 

 打者を打ち取るのは一定の球威と制球力、そして何よりもタイミングだと星菜は考えている。ストレートのスピードに自信のない投手は他の武器として、逆に自信がある投手はそのストレートをより速く見せる為、緩急を付けた変化球が必要だ。

 池ノ川にはおそらく、それがない。

 彼のストレートに頼ったこれまでの投球に星菜が何故外角に変化球を投げないのかと呟くと、隣に座るほむらから「投げられないんッスよ」という何ともわかりやすい言葉が返ってきた。

 球は速いがコントロールが悪すぎて、その上変化球も投げれない。以上の点を踏まえれば、この時点で池ノ川の底は十分に知れたと言って良い。彼を紅白戦の先発投手に指名した茂木監督も、既に気づいていることだろう。

 

 ――池ノ川貴宏に、投手の適性はないことに。

 

 それを決定づけるように、金属バットからの快音が響いた。鈴姫の一振りが、外角高めに入ってきた池ノ川二投目のストレートをジャストミートしたのである。打球はあっという間にライト波輪の頭上を越えていき、そのままノーバウンドでネットのフェンスへと直撃した。

 それを見た二塁ランナー小島が悠々と三塁ベースを回ると、間もなくホームベースへと生還していく。一塁ランナー外川は打球を処理した波輪から物凄い送球が帰ってきた為、三塁を回ったところで足を止めた。

 ほむらのスコアブックに、鈴姫のタイムリーツーベースヒットと白組先制の記録が追加される。

 一回裏にして0対1。だが星菜は、このイニングにおける失点がそれだけで終わるとは思っていなかった。寧ろ本気で他校との試合に勝ちたいのなら、この程度の投手からは一イニングで八点は取らなければならないと思っている。

 

「あっさり先制したッスね」

「……私の予想、外れましたね。この試合は白組のワンサイドゲームか、乱打戦になると思います」

「ほむらもちょっと予想外ッス。全然駄目じゃないッスか池ノ川君」

 

 今のツーベースヒットは、なるべくしてなった当然の結果である。打った鈴姫としては今のボールをホームランに出来なかったことを悔やむところであろう。

 

(……昔は私よりもずっと小さかったのに、飛ばすようになったなぁ)

 

 さも当然のことをしたような涼しい表情で二塁ベースを踏んでいる鈴姫の姿は、打たれた投手としてはたまったものではないだろう。池ノ川はさらに苛立ちを募らせ、その苛立ちが次の打者を相手にも響くという悪循環に陥っていた。

 

「ボールフォア」

「フハハ! 満塁ですよ満塁」

 

 白組五番の青山が一球もバットを振らずにフォアボールを選び、全ての(ベース)が埋まる。

 キャッチャーの六道始め紅組の内野陣がマウンドに向かって落ち着くよう声を掛けるが、その言葉も池ノ川の耳にはどこまで届いているのかわからない。

 ああなると、投手はひたすらに孤独で、苦しいだけだ。ストライクが入らず塁を埋め、ストライクを入れようと力を抜けばあっさりとツーベースを打たれてしまう。そして次の打者相手にはどうすればいいのかわからなくなり、フォームが崩れて制球が定まらなくなる。

 ここからは開き直ってフォアボール連発を覚悟して思い切り押していくか、後ろを信じて制球重視の力を抜いた球を投げ続けるか――そのどちらも通用しないと思った時点で、投手は死んだも同然なのだ。投手が何もわからなくなってしまえば、もうアウトを取ることは出来ない。

 

 ――だからか、池ノ川は炎上した。

 

 ワンアウト満塁で迎えた白組の六番、沼田からセンター前に抜ける二点タイムリーヒットを浴びると、続く七番義村にも単打を打たれ、再び満塁となる。そして八番鷹野、九番山田による連続タイムリーヒットによって白組はさらに二点を追加し、池ノ川はこの回五失点となった。

 打順は一巡し、尚も満塁のまま一番の矢部明雄へと戻る。

 矢部は今度は予告ホームランなどせず普通に打席に立ったが、一球目に彼が見せたフルスイングは明らかに一発(ホームラン)狙いによるものだった。その一振り目こそ空振りに終わったが、彼も流石に副主将を任されているだけのことはあり、星菜が思っていたよりも鋭いスイングをしていた。

 紅組の内野陣はそのスイングを脅威に感じたのか、それまでホームゲッツーを狙って前に出ていた守備位置が全体的に半歩ずつ後ろに下がる。

 

「次、スクイズ行きますよ」

「え?」

 

 そこで次に矢部が行うであろうことを悟った星菜が、これまでの池ノ川の投球に苛立っていたのもあって口に出してそう言った。

 すると次の瞬間、池ノ川の二投目に対して矢部がバッティングの構えを解き、バントの構えを取った。バントによって三塁のランナーを帰す作戦、スクイズである。それも、これは矢部自身も生きようとするスクイズだ。制球重視を選んだ為か池ノ川の投球が真ん中に安定してきたところで、仕掛けるにはそう悪くない機会だと星菜は思う。

 先ほどのフルスイングは、全てこの為の布石だったのだ。前進守備よりもやや後ろに下がったサードの守備位置を見るに、タッチプレーを必要としない満塁の状況でこそあるがサードランナーの生還はそう難しくはないだろう。これは矢部の作戦勝ちだ――と、星菜は思っていた。

 だがそれは、良い形で裏切られた。

 紅組の内野陣はまんまと騙されていたようだが、キャッチャーの六道明だけは彼の奇策に気付いており、池ノ川に対して投球の前にあえてボールをバットの届かない位置に外す「ウエスト」のサインを出していたのだ。

 左のバッターボックスに向かって大きく外されたボールに対し、矢部が跳躍してバントを試みるもあえなく空振りしてしまう。スタートを切っていた三塁ランナーはキャッチャーとサードの間に挟まれると、すぐさま六道の手でタッチアウトとなった。

 

「おい矢部! お前からサイン出しといてそれはないだろ!」

「一々カッコつけようとするからだ! このおバカ!」

「チャンスだと本当に駄目だな!」

「俺が貸した漫画返せ!」

「フハハ! ミスは誰にもありますから気にしないでください」

「も、申し訳ないでやんす……」

 

 紅組としては、これでようやくツーアウトである。白組としてはワンアウト満塁のチャンスがツーアウト一塁二塁になってしまい、矢部はベンチに居る白組ナインから熱い叱責を浴びていた。

 だがその直後、彼は三球目のストレートをライト前に運び汚名返上。ランナーはまたしても満塁となった。

 

「……池ノ川君、最初よりはストライク入るようになったッスけど、なんだかポコポコ打たれてるッスねぇ」

「ストライクゾーンを狙いすぎて最初より腕が振れなくなっているから、多少コントロールは改善されても本来の長所である球威が無くなっているのです。スピードよりコントロールの方が大事だとは私も思いますが、あのような棒球なら誰でも打てますよ。コントロールを重視するのとボールを置きにいくのとでは全く持って意味が違うことを、池ノ川先輩はわかっていないのでしょう。見てください先輩のフォーム。身体の開きが早すぎて、バッターに対してずっとボールを見せています。こう言っては何ですが、あれではバッティングピッチャーよりも打ちやすいですよ」

「う、ううん? 星菜ちゃん……?」

「それに、鈴姫さんに打たれてから一度もインコースのストレートを使っていませんよね? だから白組の皆さんは思い切り踏み込んで、気持ちよくバットを振ることが出来るんです。あ、また外に投げました。何故あそこでインコースのストレートを使わないのでしょう? 使えないのか、使いたくないのか、使う度胸もないのか」

「ほ、星菜ちゃん目が怖いッス! 落ち着いて」

「……すみません。少し取り乱しました」

「今のは少しどころじゃないッスよ……」

 

 紅白戦でフォアボールを連発しているようではどうしようもないので、とにかくストライクを投げる。その考え自体を決して悪いとは思わないが、その為に池ノ川という投手の持ち味が殺されてしまってはさらにどうしようもなくなる。

 その結果がこれである。もはや池ノ川という投手には、何の見所も無かった。

 

(まったく……たかが紅白戦の試合で、何を怒っているんだか……)

 

 星菜は彼の投球に対して苛立ちを超え、憤怒を抱いている自分に気付いていた。

 だが考えてみればキャッチャーの六道や紅組の人間ならばともかく、自分が怒る理由など何もない筈だ。ましてや池ノ川貴宏は本来サードを守っている選手であり、投手として投げるのは今回が初めてである。そんな彼に対してマネージャーである星菜が抱くべきなのは、「出来ないならしょうがないか」というぐらいの考えで良かった筈だ。

 それが今や、内心だけで行われていた解説が余すことなく口から出てきている始末である。

 

(先輩に当たってもしょうがないのに……)

 

 ふと、星菜は考えてしまう。「もし自分が彼に代わってマウンドに上がったら、その時は白組の打線を抑えることが出来るだろうか」と。そんな考えが頭に浮かんでは、何を馬鹿なと笑い飛ばしていく。

 この怒りの理由は何よりも、池ノ川に対する醜い嫉妬心からであろう。自分はそこに居る資格すら貰えなかったから、マウンド上でどれほど無様な投球を見せても投げ続けることが出来る池ノ川のことが気に入らないと――それはあまりにも滑稽で、勝手すぎる言い分だった。

 

「本当に、勝手なことばかり……」

 

 そんな自分が、心底嫌になる。

 自分があそこから離れたのは他の誰かから資格を貰えなかったからではなく、自分自身がそう決めたからだと言うのに。

 



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内角高め 148km/hのストレート

 

 

 ――駄目だったか。

 

 球審を務める野球部の監督、茂木林太郎が内心で小さく溜め息をついた。

 彼が今回の紅白戦を行うことを了承したのは、夏の大会を見越してエースの波輪以外にも使える投手を用意しておきたかったからでもある。秋ならばまだしも、真夏のマウンドは過酷極まりない。いくら波輪が優秀な投手だからと言っても、彼一人に頼りすぎるのはあまりにも危険なことだと考えていた。

 それはチームの勝敗というよりも、波輪の身体を気遣ってのことである。茂木は別段、野球部の勝利に対して然程執着があるわけではない。例え試合に勝てなくても、選手が怪我なく無事に三年間部活動を続けることさえ出来ればそれで良いと思っていた。

 茂木はかつて、現役時代ではプロ入り目前まで行ったほどの優秀な投手だった。しかしドラフトを前にしてそれまでの酷使が祟り右肩に致命的な怪我を患ってしまい、プロ入りを断念したという過去がある。

 そんな苦い経験をしてきた茂木だからこそ、自分が教える選手には怪我をしてほしくないのだ。だからこそ彼は、波輪の右肩を酷使し過ぎないようにと二番手に使える投手を捜していたのである。

 強肩がウリで、良くも悪くも負けん気の強い池ノ川貴宏には、能力と性格を含めて投手の適性があると考えていた。その為今年の二月からは彼に投手としての練習もさせていたのだが……結果は見ての通りの有様である。

 

 0回2/3を7失点。相手の攻撃は尚も継続中――。

 

 長い目で見れば初登板ならばこの程度でも仕方ないと納得出来るのだが、現時点の池ノ川は新入生の青山にすら遠く及ばない完成度だった。彼をこれから育成しようと思えば、年単位でも相当の時間が掛かるだろう。少なくとも、夏の大会まではまず間に合いそうにない。

 

(青山の制球はそこそこ良さそうだし、二番手はあいつに決まりか。けどなぁ……)

 

 夏の大会の二番手は、少々荷が重いが新入生に任せるしかないようだ。初回を見た限り青山の投球は思っていたよりもまとまっていたし、まだ入部したてと思えば球の質もそう悪くはない。だが現時点の実力では、他校の打線を相手に通用するとは思えなかった。

 後ろに控えている投手が心許なければ、波輪は「勝つ為に」どんなことがあってもマウンドを譲らないだろう。あれはそういう人種だ。

 問題は何かアクシデントが発生した時、そんな人種である彼をすんなりと交代させることが出来るかというところだった。

 

(いざと言う時は、監督権限で無理矢理にでも下ろすしかないか。そんな事態にならないのが一番だが……)

 

 いっそチームが一回戦で敗退してしまえば、彼が背負う負担は少なくて済むだろう。だが彼の存在はたった一人で弱小校を強豪校と渡り合えるレベルにまで押し上げている為、場合によっては多くの試合を投げることになる。それこそ本当に甲子園に出場するとなれば、その負担はより一層に跳ね上がることだろう。波輪は頑丈な人間だとは思うが、肩の怪我は一度でも発症するとかつての自分のように選手生命が絶たれる恐れがあるので、非常に不安なのだ。

 茂木は周囲の人間からは無気力でやる気のない監督に見られがちだが、選手の怪我に関しては過剰なまでに神経質な男だった。

 

 そんな彼の元に、一人の選手が声を掛けてきた。

 

「監督」

「ん、どうした鈴姫?」

 

 打線爆発によってこの回二度目の打順が回ってきた白組の四番打者が、打席に入る前に呼び掛けてきたのである。

 彼の名は鈴姫健太郎――一回表の守備ではヒット性の当たりをいとも容易く捕球し、先の一打席目ではたった一振りで池ノ川のボールをフェンスへと直撃させたこの選手は、未だ入部したばかりの一年生だと言うのだから末恐ろしい。打って良し、守って良し、走って良し。おまけに顔も良しという、竹ノ子高校の大半の男子生徒に対して喧嘩を売っているような存在である。性格は生真面目で、茂木が知るところかなりの努力主義者である。故に色々な意味で個性派揃いである他の部員達とのコミュニケーションが上手く取れているのか等、実力以外の部分で少々不安に思っているのがここだけの話だ。

 

「これでは練習にならないので、ピッチャーを代えてもらえませんか?」

 

 そんな彼が、現在マウンドに立っている赤髪リーゼントの男を指差しながらそう言った。打てて当然の投手を打っても、練習にならない――彼の生真面目な性格故に出てきた言葉であろうが、こうも直球に言ってくるとは思わなかった茂木は思わず目を丸くする。

 鈴姫の顔を凝視してみると、常の彼らしからぬ苛立ちの色が浮かんでいることに茂木は気付いた。

 

 

 

 

 ――全くもって、意義を感じない試合である。

 

 この時鈴姫の心を占めていたのは、現在マウンドに立っている存在に対しての深い侮蔑心であった。

 ストライクが入らず二人のランナーを出した後、ボールを置きに行く真ん中狙いの投球に切り替えたところを滅多打ちにされ、どうすれば良いかわからなくなったピッチャー――鈴姫にとって、そんな存在はもはや戦うに値しなかった。

 情けない投手の球をいくら打ったところで、何の練習にもならない。

 もし池ノ川が打ち込まれながらも何かを掴むことが出来る男ならば、これはこれで有意義な練習だと思えただろう。しかし、現在マウンド上で放心している彼の姿を見る限りでは、その願望は叶いそうになかった。

 たった一本の長打を浴びた程度でこうも歯止めが効かなくなるようでは、元々彼に投手としての適性はなかったのだろう。こればかりは、投げさせた茂木監督が悪いとしか言えなかった。

 だからこそ、鈴姫は進言したのだ。これ以上池ノ川に投げさせても意味がないから、早くまともなピッチャーを出してくれ――と。

 

 ――と、ここまでが建前の話である。

 

 練習にならないから交代してほしい。それも確かに理由の一つではあるが、鈴姫の本心はさらに個人的な部分で別にあった。

 

(なんで、アイツじゃない……!)

 

 すぐ近くに居る「あの少女」を差し置いて、池ノ川がマウンドに立っていることがこの上なく不愉快だったからだと――そのような、思った本人ですら苦笑を禁じえないほどの理不尽な理由だった。だがこればかりは、鈴姫にとって何よりも譲れないことなのだ。

 監督がこの紅白戦で二番手投手を見極めたいと言うのなら、最も試すべき人間は他に居る。

 すぐ近くのベンチから、ずっとグラウンドを眺めているのだ。

 

(そんなところで何をしているんだよ、君は……)

 

 鈴姫はその視線をベンチに向けようとして――途中で止める。今の「彼女」の顔を直視することに、鈴姫は拒否反応を起こしてしまうのだ。

 

(……くそっ、今更何を考えているんだ俺は)

 

 二、三回そこで素振りを行うと、鈴姫は心を落ち着けてからマウンドを睨む。その視線の先に、池ノ川の姿はなかった。池ノ川は、ピッチャーからライトへと守備位置を移していたのだ。

 どうやら「あの少女」のことでしばらく考え事をしていた間に、茂木監督が投手の交代を決めてくれたようだ。入れ替わって、先ほどまでライトを守っていた選手がピッチャーマウンドへと移っていた。

 

 ――それは竹ノ子高校のエース、波輪風郎が登板したことを意味していた。

 

 

 

 

 

 白組の一番矢部にライト前ヒットを浴びた後、続く二番小島にレフト前、三番外川にライト前へと運ばれ、それが連続のタイムリーヒットとなった。いずれも当たりが良すぎた為にランナーは各駅停車に留まったが、ランナー満塁の状態からきっちり一点ずつ奪われたことで、池ノ川はこの回七点目の失点を喫してしまった。

 打順が四番鈴姫の二打席目を迎えたところで、ようやく茂木監督が投手の交代を告げた。

 いや、あれは鈴姫が何か言ったのであろう。ベンチから眺めていた星菜の目にはそう映った。

 

「うーん、池ノ川君、とうとう見切られちゃったッスか……」

「このままでは手応えがなさすぎて白組のバッティング練習にもなりませんからね。妥当な判断でしょう」

「星菜ちゃんって、結構容赦ないッスね。意外に毒舌で、ちょっと驚いたッス」

「……すみません」

 

 何一つとして得るものがなく終わってしまった池ノ川の初登板に、ほむらが残念そうに眉をしかめる。だが彼女には星菜の口から飛び出してきた罵声じみた発言の方が衝撃的だったようで、そう言って星菜に向ける表情には若干の恐れの色があった。

 星菜は一度、冷静になって自らの発言を省みる。確かにあれは、問題発言もいいところだ。星菜は隣に居るほむらの気分を害したことと先輩に対しての行き過ぎた不敬な物言いに、深々く頭を下げた。

 

「試合中に他の人の意見を聞けるのは楽しいから、ほむらは嫌じゃなかったッスよ?」

「……ですが、池ノ川先輩に対して酷いことを言いました。後で謝らなければ……」

「別に本人に聞こえたわけじゃないんだから良いんじゃないッスか? でもほむらのことはあんな風に罵らないでくださいッス! 絶対トラウマになるッス!」

「し、しませんよ。あの……どうもすみませんでした」

 

 ほむらが懐の広い先輩で良かった――と星菜は心から思う。だがどうにも先ほどの態度が彼女を怖がらせてしまったようで、心から申し訳ない思いである。

 今度から内心で解説する時は、出来るだけその選手の良いところを探そう――と、星菜は心に決めた。

 

「……ピッチャーは、波輪先輩が投げるようですね」

 

 先までの自分のことを話題に続けるのは、お互いに居心地が悪いだろう。そう思った星菜は、新しくマウンドに上がった投手の姿へと視線を移した。

 波輪風郎。野球部のエースが、ようやくマウンドに上がってきたのである。

 ……いや、まだ一イニングも終わっていないことを考えると、「まだ」ではなく「もう」マウンドに上がってきたと言った方が正しいだろう。

 

「結局、大会は今年も波輪君に頼りっきりになりそうッスねぇ」

「弱小チームのエースの宿命でしょう。仕方ありません」

 

 波輪は自分がマウンドに上がることを待ちわびていたかのように、嬉々として投球練習に精を出している。

 現在塁上にランナーが居る為セットポジションから投じているその投球フォームは、流石に一年の青山や投手初心者の池ノ川とは比較にならない完成度を誇っていた。

 それを見て星菜の内心が下したのはいかにも本格派らしい、豪快なオーバースローという評価である。

 脚を高く振り上げたモーションから、テイクバックは白鳥が翼を広げるように大きく、上手から凄まじい勢いで右腕が振り下ろされている。投球練習に過ぎない今はそれほど力を入れていないだろうに、キャッチャーミットから響く音はこれまでの投手のものとは明らかに異なっていた。

 

「よっしゃ。しまっていこうぜ!」

 

 投球練習を終えたところで、波輪は後ろに振り向いて守備陣へと声を掛ける。一同はそれに対して勢い良く「オオッ!」と応えた。

 星菜にはただ彼がマウンドに立っただけで、周りの空気が随分引き締まったように感じた。

 

「いきなり鈴姫君との対決ッスか」

「見物ですね」

 

 竹ノ子高校最強の一年生対竹ノ子高校ぶっちぎりのスーパーエース。それはこの紅白戦で、星菜が最も見たいと思っていた対決だった。

 鈴姫が打席に入り、スクエアスタンスに足場を固める。肩から四十五度程度の位置にバットを構えた佇まいは、一切の無駄を省いたシンプルな打撃フォームをしていた。彼の打撃スタイルは基本的に質実剛健で、一発狙いの派手さこそないが常に基本を突き詰めたものだった。

 球審の茂木が試合再開を告げると、波輪がセットポジションに構えながらキャッチャーのリードに頷く。そして一球目を――投げた。

 

「ストライク!」

 

 まさしく糸を引くような、気持ちの良いストレートだった。

 豪快なオーバースローから放たれた一球は鈴姫の内角をえぐり、見逃しのストライク判定を勝ち取る。

 波輪はキャッチャーからの返球を受け取り次第、五秒と経たず投球動作に戻る。鈴姫もまた、無意味に打席を外すことはしなかった。

 そして二球目――今度も同じコースに、ストレートだった。鈴姫はそれを迷わず振り抜くが、バットはあえなく空を切った。

 

「凄い球……」

「あの鈴姫君が空振りするなんて、やっぱり波輪君は流石ッスねぇ」

「……140キロは出ていますね」

 

 ストレートが来るとわかっていても、振り遅れている。今の空振りは、そんな反応だった。

 実際の球速は定かではないが、少なくとも中学の試合では見ることの出来ないボールであろう。

 しかし鈴姫は怖じけるわけでもなく、寧ろ楽しそうに唇を吊り上げていた。その表情を見た波輪が、得意げに笑む。この時、二人の視線の間では「そうこなくちゃ面白くない」「まだまだこんなもんじゃないぜ」というようなやり取りがされていたことだろう。

 まさしくそれは、男と男の真剣勝負で。誰にも介入を許さない熱い空気に満たされていた。

 

「ファール」

 

 三球目に投じたのも、内角のストレートだった。それを鈴姫は、今度はバットに当てて三塁方向のファールゾーンへと飛ばした。

 

(楽しそうにやる……)

 

 四球目も内角のストレート。しかし今度は僅かにストライクゾーンよりも高く、鈴姫が見送った為にボール判定となる。

 

「ファール」

 

 そして次に投げた球も、内角のストレートだった。波輪にはこの打席において外角や変化球を使う気はないのだろうか、堂々と真っ向勝負を挑んでいた。

 しかし、そのストレートは投げる度に球速を増しているように見えた。

 

「去年の秋に私が見た時よりも、速くなっていますね」

「この間は全力投球で151キロを計測したッス。まだ春先のこの時期でそれッスからね。大会が始まる頃には155ぐらいは出るんじゃないッスか」

「……とんでもない方ですね。波輪先輩は」

 

 惚れ惚れするほど綺麗で、そして憎たらしいほど速いストレートである。そんな武器を持っている波輪風郎には軟投派投手のような小細工は一切不要だと、そう断言するような投げっぷりに星菜は息を呑む。

 

 ――なんて頭の悪い投球だろう。

 

 ――なんて格好良い投球だろう。

 

 ――なんて勿体無いピッチャーなんだ。

 

 ――なんて素晴らしいピッチャーなんだ。

 

 それは星菜が抱く理想の投手像とは掛け離れているが、敬意を抱かざるを得ないほどに圧倒的であった。

 規格外の投手とは、まさに彼のことを言うのだろうと思う。

 

「ファール」

 

 だがそんな彼のストレートを相手に尚も粘り続けている鈴姫もまた、普通のカテゴリには収まらないだろう。

 幾度も繰り返される甲高い金属音とファールの判定にグラウンド中の視線が支配され、他の部活の者すら手を止めて注視していた。

 もしかしたら波輪は、鈴姫のことを試しているのかもしれない。馬鹿の一つ覚えのようにストレートを投げ続けているその投球に、星菜は波輪の内なる意図を読み取った。

 これはあくまで味方同士による紅白戦に過ぎず、大事な試合ではない。だから今はフォークやスライダーを使って打者を抑えることを優先するのではなく、打者がこのストレートを弾き返せるかどうか試しているのではないかと。

 もし弾き返せるのなら、それは名門校のエース――例えば海東学院高校の樽本(たるもと) 有太(ゆうた)やあかつき大附属高校の猪狩(いかり) (まもる)と言った超高校級の怪物を相手にも対抗出来うる存在である。星菜には、波輪が鈴姫健太郎という後輩にそれを期待しているようにしか見えなかった。

 

 その期待に――鈴姫は応えた。

 

 粘りに粘った末の、十一球目のストレートである。内角低めに決まったそのボールを、鈴姫はバットの真芯で完璧に捉えた。

 その打球は唸りを上げて真っ直ぐにセンター方向へと飛んでいき――途絶えた。

 

 当たりは痛烈だったのだが如何せん打球が上がらず、波輪が伸ばしたグラブの中にすっぽりと収まってしまったのである。

 ピッチャーライナー――その結果に波輪が歓喜し、鈴姫が肩を落とす。男と男の真剣勝負に、一先ずの決着がついた瞬間だった。

 

「どうしてっ……!」

 

 その光景を目にした星菜が、胸を押さえて蹲る。

 

(……駄目だ……ここに居るのが、辛い……!)

 

 突如として、胸がズキリと傷み出した。星菜は堪らず、ベンチから立ち上がる。

 突然の行動にほむらが何事かと心配そうに問うてくるが、星菜は大丈夫だと帰す。だがお腹が痛くなったのでお手洗いに行ってくると言ってその場を誤魔化し、星菜はグラウンドを離れていった。

 

 

 



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矛盾だらけの野球少女

 

 それからのイニングを、紅組が失点することはなかった。

 波輪風郎はただストレートのみの投球で白組打線を圧倒し、ヒット一本すら与えることなく4回裏までを投げきったのである。

 だが最終的に、試合は7対6で白組の勝利に終わった。紅組は二回表から波輪が二本のホームランを放つなど打線が奮起し追い上げたものの、反撃及ばず惜しくも敗れたのである。

 

「フハハ! 1勝出来て竹ノ子高校の仲間入り出来たかなと思いました」

「お前は褒められた内容じゃないだろ」

「でも、とりあえず勝てて良かったでやんす。後でちゃんと反省するでやんすよ」

「お前もなー」

 

 五回を9安打6失点で投げ抜いた白組先発の青山が渾身のガッツポーズを取り、センターの矢部が喜びに舞い踊る。内容はともかく、とりあえずは勝てばいいというのが白組の方針らしかった。

 

「なんだろう、凄くムカつくぞ」

 

 塁上から試合終了の瞬間を見届けた波輪が、苦虫を噛み潰しながらベンチへと引き下がる。結果は紅組の敗北に終わったが、それなりに有意義な練習だったとは思う。

 波輪はこの紅白戦において結果や内容よりも、部内で新入部員との距離が縮まったのが何よりの収穫だと考えている。馴れ合いに過ぎないと言われれば今のところ反論は出来ないが、それでもチーム内で不和が生まれるよりはよっぽど良い。ただでさえ元々の戦力が心許ないのだから、部員同士の衝突で綻びが生まれるようなことはあってほしくないのだ。

 

 波輪は球審の任を全うし、くたびれた表情を浮かべている茂木監督の元へと指示を仰ぐに行くと、軽いランニングとストレッチが終わり次第解散していいという指示を受け取った。体力はまだまだ有り余っているのだが、明日からは本格的に新チームとして始動していく予定なので今日は皆をゆっくり休ませておくべきかと納得する。

 

「ほむらちゃん、俺のドリンク取ってくれない?」

「はい。お疲れッス、今日のボール走ってたッスよ」

「サンキュー、六道も公式戦まで取っておきたいぐらいだって言ってたな。俺も今日の調子なら海東にも勝てる気がするよ」

「でも飛ばしすぎて怪我したら駄目ッスよ? 後でマッサージしてあげるッス」

「助かるよ」

 

 ほむらから手渡されたスポーツドリンクを喉に流すと、その時波輪は先ほどまで彼女の隣に座っていた筈の人物が居ないことに気付いた。

 ボトルをベンチの上に置くと、波輪はほむらの隣の空間を指差して事情を訊ねた。

 

「星菜ちゃんはどうしたんだ? 四回まではそこに居たよね」

「星菜ちゃんは少し体調が悪そうだったから、ほむらが先に帰したッス」

「そうか……なんか元気なかったもんなぁ」

 

 ほむらから返ってきた話に、波輪はすぐに納得する。

 波輪は決してずっと星菜の顔を見つめていたわけではないのだが、思い返してみれば彼女はどうにも顔色が悪かったものだ。

 波輪の後ろでは、そんなほむらの話が聴こえた部員達がざわついており、揃いも揃って心配そうな顔をしていた。

 

(人気あるなぁあの子も。まああんなに可愛いんだし、当然っちゃあ当然か)

 

 誰も彼も忙しない様子で居る部員達の姿を見て、波輪は苦笑を浮かべる。マネージャー一人の体調不良でここまで心配するとは、彼らも中々に人が良いと言えた。尤もそれは、星菜が並外れた美少女だからという理由も少なからずあるのだろうが。

 本人は預かり知らぬだろうが、彼女は既に部員達の中ではアイドルばりに人気を集めている。校内でも一二を争うほどに美しい容姿をしているが、だからと言ってそれに奢らず極めて真面目な性格をしており、何と言っても野球が好きと来ている。そのことが、彼らの中では非常にポイントが高いようだ。今はまだ積極的に話しかける者は少ないが、時折ほむらと談笑している姿は遠目から見るだけでも癒されるというのが矢部を始めとする一同の談だ。

 そんなことがある為、波輪は彼女に関してはマネージャーとして何一つ仕事をしてもらわなくても特に問題はないと思っている。それはもちろん彼女が必要ないという意味ではなく、彼女にはただ練習を見てもらい、労ってもらうだけでも部員達のモチベーションが向上し、練習効率が上がるという可笑しな効果が得られるからであった。

 

「……よし、お前ら、ランニング行くぞ」

 

 彼らは彼女の体調を気遣っており、無論波輪も心配している。だが今は、自分達にはやるべきことがあるのだ。波輪は勉強はまるで出来ないが、その辺りの分別はしっかりと出来る人間だった。

 主将(キャプテン)として一同を集合させ、整理運動(クールダウン)のランニングへと移行する。「竹ノ子ファイトォ!」という男達の掛け声が、グラウンド内に響いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ならお前は、アイツが野球をやっていることをどう思っているんだ?』

 

『僕達と同じです。彼女は野球が好きだから野球部に入り、実力があるからこの学校を選んだ。どこも他の部員と変わりません!』

 

 脳裏に、男の声が聴こえてきた。片方は中年の男、もう一人はこの学校の男子生徒の声だ。

 それは周囲から、耳を伝って聴こえてきたわけではない。星菜はそう古くもない記憶から、忘れられない一つの出来事を思い出していたのだ。

 

『それに、監督だって見たでしょう? 先日の紅白戦で、レギュラー揃いの白組を相手に九者連続三振を含めた十五奪三振で無失点……彼女は間違いなく、チーム一のピッチャーです!』

 

『たかが調整の試合だろ。あんなもので活躍したところで、今更大会のスタメンを変える気はない』

 

 あの時の自分は、廊下に立ち止まって二人の会話を聴いていた。職員室に用事があって中に入ろうとした時、部屋の中から彼らの声が聴こえてきたのだ。

 会話の内容が自分のことを指しているのだと悟ってから、星菜は彼らの言葉を一句一句逃さずに聞き取ろうとした。だがその時、彼女の心を支配していたのは、この身を押し潰さんばかりの不安と震えるほどの恐怖であった。

 

『ですが、実力は冬野よりも上なのは明らかです! なのにどうして、練習試合すら一度も投げさせないのですか!』

 

『……小波、アイツを試合に出して、お前はそれでいいんだろう。だが他の連中は、アイツが試合に出ることをどう思っている?』

 

『っ……! それは……!』

 

『お前はキャプテンだ。連中のほとんどがアイツのことをやっかんでいるのは知っている筈だ。大会の前に、チーム内で不和を生むわけにはいかんのだ。それに、だ。もうとっくにわかっているとは思うが、我が白鳥中学は他の何よりも面子を重視している。女なんかにレギュラーを取られる野球部なんざ、他校から見ればお笑い種だ。お前はウチに恥をかかせる気か?』

 

『そんな声、実力で黙らせます! 彼女は絶対に、誰にも文句を言わせないピッチングをしてみせます!』

 

『大した自信だな。まあ俺だって馬鹿じゃない。アイツがウチの中で誰よりも練習していて、今や投手の中で誰よりも高い実力を持っていることはわかっている』

 

『なら……!』

 

 彼らの放つ一言二言が、星菜の心を重く揺さぶっていく。

 会話から二人とも自分の努力と実力を認めていてくれたことを知り、星菜は嬉しいと思った。だがそれでも、未だ星菜の心に渦巻く不安と恐怖は拭えなかった。

 

『だがな、俺は次の大会だけじゃなく、アイツを今後一切試合に出す気はない』

 

 そして男の放った次の一言を聴いて、星菜はその場で俯いた。

 対して、男子生徒が今まで以上に声を荒げる。

 

『何故っ!』

 

『さっき言った通りだ。チームの不和を生む上に、女なんかにレギュラーを与えればウチの面子が崩れる。確かにお前の言う通り、実力を見せればそんな声も無くなるかもしれん。だがな、小波。これはここに居る全教員の総意なんだよ』

 

『総意……?』

 

『昔からの付き合いらしいお前は知っているだろうが、アイツは頭が良い。学業の成績はとにかく優秀で、毎日野球漬けの癖にこの間のテストでも学年三位になりやがった。野球なんかやらないでもっと勉強すれば一位も狙えるし、いつかは官僚大学にも行けるだろうと言われている』

 

『……彼女は……野球をやるべきではないと?』

 

『それが俺も含めたここに居る教員全員の総意だな。アイツは野球しか出来ない他の連中と違って、大抵のことは何でも出来る。その上性別は女だ。なんで野球なんかやっているんだって皆言っているさ』

 

 星菜は彼らの会話を逃さず聴き取り、決して耳を塞ごうとはしなかった。

 廊下の壁に寄りかかりながら、部屋の中から聴こえてくる言葉をありのままに受け止める。

 そして男の――野球部の監督が放った言葉に対して、星菜には何一つとして反抗する意志はなかった。

 思えばもう、この時点で心が折れていたのかもしれない。

 

『なんで野球をって……そんなもの……彼女も野球が好きだからに決まっているじゃないですか!』

 

『それだよ、アイツはまともじゃない。頭は良いが正真正銘の野球馬鹿なんだ。だから、周りがなんと言おうが野球部を辞めようとしない。俺がどんなに厳しい練習メニューを渡しても、アイツは一度だって練習をサボらなかったな』

 

『練習メニュー? ……そうか、貴方は彼女が入部してきた時から彼女だけには別メニューで練習させていた。他の部員達と引き離して!』

 

『女が男と同じ練習に着いていけると思うか? あれは監督として当然の指示だと思うがな』

 

『なら、あの無茶苦茶な練習メニューは何ですか! あれはどう考えても、男の僕達よりも厳しいメニューでした!』

 

『あれはアイツが練習を途中で投げ出すことを前提にしたメニューだ。本当はアイツが練習に耐えられず、自分から部を辞めてくれれば一番良いんだがな……しぶとく粘りやがる』

 

『じゃあ貴方は……彼女を退部させる為にあんなメニューを!』

 

『全教員の総意だと言っただろ? その方がアイツの将来の為になるのは事実だ。最近では女子プロ野球なんてのもあるが、アイツほどの頭ならそれよりも良い職に就ける筈だしな。俺はアイツに、より良い進路先を選んでやっているに過ぎん』

 

『なんて勝手なことを! 貴方達の理屈で彼女の将来を決めるんですか!?』

 

『……鬱陶しいな。いい加減にしろよ小僧』

 

 自分の居場所がそこにないということを知れたのは、この時の星菜にとってはある意味幸運だったのかもしれない。

 頭が良いのに、女の子なのに、野球をやるのは間違っている。貴方には他にもっと相応しい道があるのだから、どう頑張っても不遇に終わる「女性の野球選手」なんてものは早々に諦めるべきだと――教師達にそう言われたことは、過去に何度もあった。

 

 ――だがそれでも、星菜は野球が好きだったのだ。

 

 不遇な扱いでも構わない。向いてなくても構わない。ただ投げて、打って、走って――野球部の中でライバル達と競い合って野球が出来るのなら、それが自分にとっていかに不幸な道であろうと星菜に後悔するつもりはなかった。

 

 だけど。

 

『そもそも俺は、女という生き物が嫌いだ。どいつもこいつも鬱陶しいんだよ。何もかも劣っている癖に、男と対等ぶりやがって』

 

 信じていた、欲しかった自分の居場所がそこにないということは――悲しかった。

 

『どうせお前も、可哀想な私の味方をしてくれとでも言われたんだろ。同情するよ、色男』

 

 星菜がその場で泣き崩れても、喚いても、どう足掻いてもそこに辿り着くことは出来ない。

 ライバル達と高め合って、栄冠を掴み取ることは叶わない。

 最初から間違っていたのだ。彼らと共に野球をしようなど――。

 

『そんなわけないだろっ!!』

 

 ――せめて自分が悲しい思いをするだけなら、まだ良かったのかもしれない。

 

 しかしこの時、星菜の存在が大切なライバルの居場所まで奪ってしまった。

 監督の言葉に彼が激昂し、怒りに任せて拳を振るってしまったのだ。

 彼はその場に居合わせた他の教員達によって取り押さえられたものの、監督は殴打された顔面を骨折し、意識を失った。暴力行為に及んだ彼は、卒業まで重い謹慎処分を受けることになった。

 彼はそれによって野球部最後の試合に出場することが出来ず、それまで来ていた名門校への推薦も取り消されてしまった。

 

 ……自分だけではないのだ。

 

 自分が野球部に居ることで、他の人間にまで迷惑をかけてしまった。

 彼は星菜にとって一つ上の先輩で、仲の良かった幼馴染でもあり、そして互いに実力を競い合うライバルでもあった。

 そんな彼の野球人生を、自分が野球部に居たことで無茶苦茶にしてしまったのだ。

 もう、たくさんだった。

 元から野球部に居場所のない自分の為に、他の誰かまで一緒になって居場所を失うなんて嫌だ。

 だからその日以降、星菜は白鳥学園附属中学校の野球部から姿を消したのだ。

 

(……そうだ、全部私が決めたことなんだ。もう野球部には入らない。私があそこに居たら、また誰かに迷惑が掛かる)

 

 星菜自身が心強い味方を周りに何人も作れるような人間だったなら、部を辞めるなどという選択をしなくても済んだのかもしれない。

 だが星菜は、人との関わり合いが苦手だった。それは好意を持って味方になろうとしてくれた大切な友人まで、心無い言葉で追い払ってしまうほどに。

 

『何だよ! そんなに哀れかよ! 実力があるのに皆と野球が出来ない私が、そんなに可哀想なのかよっ!!』

『違う……! 星菜、俺はそんなつもりで……』

『うるさいっ! いつもいつも、健太郎はお節介なんだよ!』

 

 今の今まで、星菜はその友人のことを傷付けてしまったあの日のことを忘れてはいない。

 だが、後悔はしていなかった。今年その友人と同じ高校に入り、同じクラスにもなったと言うのに、未だにまともに口を聞いていないのは心の底から自分自身に否があると思っていないからである。

 

『あの時だってお前が私にボールをぶつけなければ……! 私がこんな記憶を思い出すことさえなかったら、諦めることが出来たのにっ! そうやって……そうやって私に……期待させるようなこと言うなっ!!』

 

 ――だが自分が叫んだその言葉を思い出す度に、星菜は胸が痛むのだ。

 

 

 



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シンカー投げお姉さんとロリ親方
運命の出会い


 

 

 夕暮れに照らされた某所では、金属バットから放たれる甲高い金属音が幾度も鳴り響いていた。

 それは、とあるバッティングセンターの光景である。

 そこは駅の周辺で営業している「バッティングセンター」の一つであり、この日もいつものように利用者による打撃練習が行われていた。

 アーム式のバッティングマシンから飛び出してきた130キロもの速球を、左打席に立つ一人の利用者がものの見事にセンター方向へと打ち返していく。

 言葉だけ抜き取れば、至って平常な光景である。

 だがその光景は、周囲の者からは誰の目にも珍妙に映っていた。

 

 ――その利用者の姿が、真新しいセーラー服に身を包んだ女子高生だったのだから。

 

 

 

 今自分が周りからどのように見られているのかを想像したところで、左打席に立っている少女、星菜が小さく苦笑を浮かべる。実際に振り返って確かめてみたわけではないが、自分の元に視線が集まっていることは打席の中でも強く感じていた。

 

 ――可笑しいだろう。女の子が一人でバッティングセンターに来るなんて。

 

 ――哀れだろう。真芯で捉えても精々センター前が限界な長打力は。

 

 だが、今の星菜には自分が周りからどう思われようと関係なかった。ただ自分のスイングでバットを振り抜き、マシンから放たれたボールを打ち返すだけだ。

 

(こうしていると、やっぱり落ち着くな……)

 

 野球部の紅白戦が五回の表を迎えた時、それまで顔色の優れなかった星菜はほむらから気分が悪いと見られ、早めに帰宅させられることになった。

 だが、星菜はそのまま真っ直ぐに自宅へ帰ることはしなかった。自宅直近のバス停を通り過ぎると、星菜はその足でこのバッティングセンターを訪れたのである。

 

「ふっ!」

 

 星菜はマシンから放たれた三十球目のボールをコンパクトなスイングで弾き返すと、投手の頭を貫くような打球をまたセンター方向へと叩き込んだ。

 ワンコイン三十球という制限によりマシンがその役目を終えると、星菜は一息ついて借りたバットを元の位置へと戻した。

 

(にしても……立派なずる休みだな、これは)

 

 思えば部活動を早退したのは、これが初めてだろうか。野球部に居た頃は意地でも抜けなかったのに、我ながら随分と情けなくなったものだ。

 確かに紅白戦を観ていた時の星菜は、ほむらの言う通り顔色が悪かった。だが、決して体調を崩したわけではなかった。

 星菜はただあの「勝負」を見た際に考えることが多くなりすぎて、少々頭の中が混乱してしまっただけだ。それが苦しくなかったと言えば嘘になるが、そこまで心配されるほどのものではなかった。

 余計な思考を吹き飛ばすように、何らかの方法で心を無にしさえすれば、気分は良くなる。そう言った治療法を経験上理解しているからこそ、星菜はその方法としてこのバッティングセンターを訪れたのである。

 そして、何故あの時頭の中が混乱してしまったのか――その根本的な原因が自分自身にある「迷い」であることを、星菜は自覚していた。

 あの時――波輪と鈴姫の一進一退の攻防を見て、星菜は思ってしまったのだ。自分も波輪のボールを打ってみたい、自分も鈴姫を抑えてみたいと。星菜はあろうことか、自分も彼らと共に野球がしたいと思ってしまったのだ。

 

「……こうなることはわかっていたのに。いつもいつも、やることがぶれ過ぎだよ」

 

 マネージャーとして近くで野球部を見ていれば、いずれはこの未練と直面することになるとわかっていた。自分が野球部に入っても居場所なんてなく、それどころかまた誰かの居場所を奪ってしまうかもしれないと言うのにだ。

 だが愚かなことだと知っていても、星菜の中にはそれでも諦めきれない自分が居た。

 過去にどれほど辛く、悲しい思いをしても、星菜は野球その物を嫌いにはなれなかった。

 もはやとっくに手遅れなほど、星菜はこのスポーツに魅了されていたのだ。

 

(……アイツに触発されたのか、私も今日は調子が良かったな)

 

 このバッティングセンターを訪れたのは、今日が数ヵ月ぶりである。

 このバッティングセンターは近隣に建つホテルの陰に隠れている為か、質が良い割に利用者が少ない。しかしそれ故に周りから向けられる人の目が少なくて済むという点を、星菜は気に入っていた。

 利用者が多いと、その分だけ自分に向けられる視線が多くなる。それは決して星菜が自意識過剰なわけではなく、それだけ女子が一人でバッティング練習をするのが珍妙な光景だからだ。好奇の眼差しを浴びることを、星菜は好きではなかった。

 尤も利用者が他よりも少ないとは言え、周囲から人の目が無くなるわけではない。打席を外れた星菜は今までこちらを見ていた利用者達と目が合うと、思っていたよりも多かったそれらの眼差しに若干気押されながらも小さく一礼し、その場を離れた。

 

「なに今の子可愛い……」

「あの制服どこの高校だっけ?」

「えーっと、確か竹ノ子高校じゃなかったか?」

「全部センター方向に打ち返していたな」

「へえ~、女の子なのに凄いなぁ!」

「おい、お前話しかけてこいよ」

「嫌だよ! さっきあっちのおさげの子に思いっきり睨まれたのに……」

 

 離れながらも星菜は、自分の後ろでその利用者達がヒソヒソと何かを話していることに気付いた。その会話の内容を全て聴き取れたわけではないが、これだけははっきりと聴こえた。

 

(女の子なのに凄い、か……)

 

 まるで、男よりも女が下であることを前提にしたような発言である。

 実際、その言葉に間違いはない。少なくとも野球に関しては男女間での身体能力差が歴然としており、星菜自身も今まで嫌と言うほど耳にしてきた言葉だった。

 

(そんなハンデ、女の子の方だって意識したくないんだけどな……)

 

 自分がどれほど対等でありたいと願っても、周囲は対等に扱ってくれない。そんな眼差しに、かつては随分と悩まされ続けてきたものだ。今でこそそんなものは何も言わずに無視出来るが、それでも慣れたいとは思わなかった。腑抜けきった今の自分が出来る、せめてもの抵抗である。

 

「……喉、渇いたな」

 

 このバッティングセンターを訪れてから既に一時間近くが経過している。先程まで百二十球ものボールを一心不乱に打ち続けていた為か、少々喉が渇いてきた。

 何か飲み物を買おう――と自動販売機を探そうとしたその時、星菜は何とも興味を引く看板を見付けた。

 

「ん、ピッチングコーナー? 最近はそんなものが出来たのか」

 

 バッティングマシンと打席が一セットずつ何箇所かに分かれて設置されているのが、一般的なバッティングセンターの造形である。しかしこのバッティングセンターには、ピッチャーマウンドを模した場所からストライクゾーンを模した的を目掛けてボールを投げる「ピッチングコーナー」なるものがある――と、星菜が見付けたその看板には書かれていた。

 

(コースを狙って高得点を狙おう。600点以上ならパワリンを無料プレゼント……ストラックアウトみたいなものかな?)

 

 看板に書かれた文字を全て読み上げると、今の星菜にとって非常に喜ばしいことがわかった。パワリンと言えば全アスリートが御用達の人気栄養ドリンクの名前であり、味は良好の上に渇いた喉を潤してくれる一品だ。そのピッチングコーナーというもので高得点を上げれば無料で手に入るのなら、これは美味しい話である。

 ……尤も、ピッチングコーナーに挑戦すること自体に料金が発生する為、パワリン目当てで挑戦するならば普通に自動販売機で買った方が安いという話ではあるのだが。

 だが、それとは別に投球の練習が出来るのは面白いと思った。今の星菜の心は、紅白戦で散々波輪に見せつけられたことで投げたい思いに溢れていたのだ。

 なら、やってみるか――と、星菜は軽い気持ちで挑戦を決意する。肩や肘のストレッチをしながら看板に示された場所まで移動すると、程なくしてそのピッチングコーナーの前へと辿り着いた。

 

 ――しかし、そこには先客が居た。

 

 周囲から他の利用者達の視線を集めながら、マウンド上から勢い良くボールを放っている「少女」がそこに居たのだ。

 

「女の子だって!?」

 

 その人物の姿を目にした瞬間、星菜は驚きの声を上げた。

 ピッチングコーナーは男性ではなく、女性の客が利用していたのだ。

 それが今の星菜のように学生のセーラー服を纏いながら、ストライクゾーンを模した的に向かってボールを投じていた。

 

(それに、なんだあのフォームは……!? 一片の乱れもない完璧なアンダースローだ! しかも凄いコントロールじゃないか! 指に掛かったキレのあるボールで、外角低め(アウトロー)をえぐっている……っ!)

 

 その光景を目にした時、星菜が抱いたのは一に驚愕、二に戸惑い、三に感動だった。それぞれ一は自分以外に女の利用者が居たことに対しての、二は思わず声を上げたことで周囲の男性達が一斉にこちらに視線を向けてきたことへの、三はその少女が見せた美しい投球フォームと、精密な制球力に対しての感情である。

 球速は決して速くはない。だがその完成度は、星菜の理想とする投手像に近いものがあった。

 

「やった! 記録更新だぁ!」

 

 付近に設置されていた電光掲示板に「630点!〈最高記録更新〉」という文字が点灯すると、少女は満面の笑みを浮かべながら飛び跳ねて喜んだ。それを見届けた周囲の者達が一斉に拍手し、彼女のことを祝福する。

 彼女が「ありがとうございます!」と言って彼らに一礼すると、星菜はその際に振り向いた彼女の素顔をはっきりと視認した。

 意思の強そうな大きな瞳に、端正整った顔立ち。肌の色はやや白っぽいが星菜よりも随分と健康的で、明るみの強い緑色の髪をおさげに纏めている。身長は160センチ台中盤から後半で、星菜よりも手のひら一つ分ほど高い。年齢は少女と女性の中間に見えるがどこか少年のようなあどけない雰囲気を持っている――星菜にとって、今までに見たことのないタイプの人間だった。

 

「……あれ? 君はさっきあそこで凄いバッティングしてた……」

 

 そんな彼女と、星菜は目が合った。

 紺色に透き通った彼女の眼差しは、星菜には何となく直視しにくいものだった。

 決して顔の作りが似ているわけではないのだが、星菜はこの時、何故だか鏡を見ているような気分になったのだ。

 何となく居た堪れなくなった星菜は軽くお辞儀すると、ピッチングコーナーには向かわず踵を返し、その場を立ち去ろうとする。しかしその背中を、彼女が呼び止めた。

 

「待って! 君の名前、もしかして泉 星菜さんじゃないかな?」

 

 彼女の放った言葉に、星菜は驚きの表情を浮かべて足を止める。

 

 ――何故、この人は私の名前を知っている?

 

 自分が一切知らない人物から己の名を呼ばれたことに、星菜は振り向きながらも怪訝な目を彼女に向けた。

 

「あ、ごめんね! 何度も噂に聞いていたから、もしかしたらそうなんじゃないかって思ったんだ」

「私は確かに泉と申しますが……貴方のことは存じ上げません」

「あれ? ああ、そっか。しばらく会ってないって言ってたから、ボクのことも聞いてないんだ。……うーん、いきなり話しかけてごめんね?」

 

 言いながら、彼女は星菜の元へと近づいてくる。その表情は人を安心させる色を持って柔和に笑んでおり、星菜が一瞬抱いた警戒心すら吹き飛ばすような温かなものだった。

 今こちらに向けられているのは一目で悪い人間でないことがわかる、純粋な瞳である。彼女はどう説明しよう……と困ったように呟いた後、「よし!」と何かを決心してから言い放った。

 

「ボクは早川あおい! 恋々高校の二年生で、君のことは小波君から聞いたんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――もしも「運命の出会い」というものが本当にあるのなら、泉星菜にとってのそれはまさにこの瞬間であろう――。

 

 

 

 泉星菜の人生はこの時、再び転機を迎えようとしていた。

 一度は完全に停止した筈の時間が、非常にゆっくりだが動き始めたのだ。

 それは、「帰還」への第一歩。

 遠く離れた筈の「居場所」へと踏み出した、小さな一歩だった。

 星菜自身はまだ、そのことに気付いていない。

 ただ、この出会いが自分にとって何か大きなものを生むのではないかと――星菜はそのように、直感していた。

 

 

 泉星菜と早川あおい――それは後に最高の友人となり、最大のライバルとなる二人の出会いだった――。

 

 

 

 



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シンカー投げお姉さんとアウトロー投げ猫

 

 

 少女にとって野球とは、己の人生を捧げるに足る最愛の恋人であった。

 

 故に少女は周りの友人達のように流行りの服や異性との恋愛事に興味を抱くことはなく、ただひたすらに白球を追い掛け続けてきた。

 しかし、本来野球は女ではなく男が行うスポーツである。中学野球までならばまだしも、高校野球ともなればそもそもの原則として女性選手の公式戦参加は認められていない。故に、少女が幼き頃に思い描いた「プロ野球選手」になる夢など叶う筈もなかった。

 だが少女はそれでも、例え試合に出ることが出来なくても野球を続けたかった。夢が叶わないと諦めてもまだ、少女は純粋に野球が好きだったのだ。

 しかしそんな思いすらも、少女は事あるごとに否定されてきた。女子と男子では身体能力に差がある為、女子がどれほど努力をしたとしても、同じ分だけ努力した男子達に追いつくことは出来ないと。そんな世界である以上、「女が野球部に入るなんて有り得ない」と言われ続けてきた。

 だが少女には、男女間にある身体能力差を埋めて余りあるほどの実力を持っていた。

 身体能力で劣るなら技術を磨けば良い。そう考えた少女は「剛」を捨てて「柔」を極め、あるプロ野球選手の投球フォームを参考に「サブマリン投法」を完成させたのである。打者にとってリリースを限りなく地面へと近づけたアンダースローから放たれるボールは、その変則さ故に対応しにくく、加えて少女には精密なコントロールと空振りを取れる大きなシンカーという二つの大きな武器があった。

 中学のシニアチームにも、少女の実力は間違いなく通用していたのだ。

 しかし、周囲の人間は少女のことを男子と対等な野球選手としては見てくれなかった。少女の身には結果を出している時すらも「女の癖に~」や「女の子なのに~」と言った蔑みや哀れみの視線が付き纏ってきたのである。

 

 ――もう、いいや……。

 

 視線ばかりが気になって、少女には自分が本当に野球を愛しているのかがわからなくなった。

 少女とてそう言った視線には昔から慣れていたが、だからと言って何も感じないわけではないのだ。それまで少女の心に溜め込まれていたストレスは、中学校を卒業する頃になってとうとうその胸を押し潰してしまった。

 

 ――疲れた……もうボクのことなんて、放っておいてよ……。

 

 だから高校に上がった際、少女は野球を諦めるつもりだった。野球をやめて、友人から誘われたソフトボール部に入ろうかと考えていた。

 しかし少女の心の中では、どこかで野球を諦めきれない自分が居た。今まで愛していた野球をこんなところで捨てたくないと、せめて完全燃焼したいという思いがあったのである。

 そんな未練によって野球への情熱が再燃した少女は、入学当初は毎日投げ込みを行わなければ気が済まないような状態になっていた。

 

『やあ、今日もやってるね』

『……また君? 今日は何の用なの?』

 

 そんなある日のことである。

 少女と同じ恋々高校の制服を身に纏った一人の男子生徒が、飄々とした態度で話し掛けてきた。

 放課後の校舎裏で少女が壁を相手にボールを投げ込んでいると、彼は決まって近寄ってくるのだ。

 

『昨日と一緒だよ、野球部への勧誘さ。それと、そうやって毎日投げ込み過ぎるのは肩に良くないよ? ピッチャーの肩は消耗品なんだから、気を付けて練習しないと』

『君に言われる筋合いは無いんだけど。もう放っておいてよ!』

『はは、それは出来ないよ。こんなことで、僕達のエースに怪我なんかしてほしくないし』

『何が……何がエースだよっ! どうせ君だって、野球をやっている女の子が珍しいからって誘っているだけでしょ? すぐに飽きたら捨てる癖に、勝手なこと言わないで!』

『……ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ僕と奥居君は、野球選手としての君が欲しい。本気で、君の実力を評価して言っているんだよ』

『――っ、そんな顔して、謝らないでよ……』

 

 彼がやって来る度に追い返しても、次の日は何事もなかったかのように現れる。

 何度断っても、執拗に勧誘してくる。

 「僕がこれから新しく作る野球部に、君には投手として入部してほしい」と――言葉は、いつも同じだった。

 その健気な思いに、いつしか少女の心は揺れ動いていた。彼が本当に自分のことを女の子としてではなく純粋に野球選手として評価してくれるのならば、それがどんなに嬉しいことか――彼の甘い言葉を信じたくなっている自分に、少女は気付いていたのだ。

 

『……君は本当に、ボクが欲しいの? 言っておくけど、ボクは野球部のマスコットになる気はないよ』

 

 だが少女には、己の気持ちに素直になることが出来なかった。

 ルール上女性選手の公式戦参加が可能な中学校時代ですら、散々苦い思いをしてきたのだ。女だからという理由で他の部員と同じ練習が出来なかったり、ろくに試してもいない癖にスタミナ不足と言われては先発資格を剥奪されたり。女は男よりも劣るという周囲の抱く先入観によって、彼女は一度としてその実力を満足に発揮出来なかったものである。

 高校野球では、それがさらに過酷になっていく。どんなに練習して技術を磨いたとしても、ルールとして決められているからという一言で女性選手はベンチに入ることも出来ない。

 そんな環境に一人で飛び込んでいけるほど、少女は自分が強い人間だとは思っていなかった。

 

『もちろん、本気だよ』

『ボクにまた、あの時みたいに苦しめって言うの?』

『自分の実力をちゃんと評価してもらえる場所で、何も気にせず野球が出来るなら……それでも良いんだろう? 君は』

『それは……!』

『七瀬さんから聞いたよ。君が今までどんな思いで野球をやってきたのか。……どんなに辛くても、それでも君は、野球を諦めていないってことも』

『…………っ』

 

 そう、少女は決して強くはない。嫌なことがあれば落ち込むし、辛いことが続けば心も折れる。だが、支えてくれる者さえ居れば頑張れる。少女は不屈な人間ではないが、屈しても立ち上がれる人間だったのだ。

 不幸なことに、今まで少女が所属していた野球チームにはそのような頼れる存在はどこにも居なかった。少女の味方が誰も居なかったわけではないが、そんな人間はいずれも何らかの下心を持って接してくるような連中ばかりだったのである。

 この男には、不思議とそんな連中から感じられるような不快感は無い。少女は彼を、純粋に自分のことを受け止めてくれるキャッチャーのような男だと感じていた。何故だかわからないが、傍に居るとこちらも居心地が良いのだ。

 それでもまだ完全に信用しているわけではないが、彼のことは出来れば信用したいなとは思っていた。

 

『君の要望にどこまで応えられるかはわからないけど、僕に出来ることがあれば何でもする。だから、野球部に来てくれないか?』

『……君はどうして、そこまでボクに入れ込むの?』

『僕は野球部のキャプテンだから、近くに居る逸材をみすみすソフト部へ逃したくないっていうのが理由の一つ。あともう一つは、君が僕の友達に似ていたからっていうのがもう一つの理由かな』

『友達に似ている? へぇー、ボクに似ている子なんて珍しいね』

『その子は僕の一つ下の幼馴染で、君と同じ女の子のピッチャーだったんだ。しばらく会ってないけどね』

『……そうなんだ』

 

 少女は何故この男はこんなにも上手く自分の心に入り込めるのかと疑問に思っていたが、そんな彼の言葉を聞いた際にはなるほどと納得した。似ている人間が友人に居れば、それと同じように接すればそうそう不快には思われないものである。

 彼の話を聞いて、少女はその彼の友人というのが自分と同じような悩みを抱えていないか心配になった。こんな自分に似ている人間が何人も居ては、あまりにも可哀想だと思ったのである。

 そう言った少女の心配は的中していたらしく、その友人のことを語る彼の瞳は憂いを帯びたものだった。

 

『僕は、その子の力になれなかった。キャプテンなのにその子の苦しみをわかってあげられなくて、その子の心を傷付けてしまったんだ……だからあの子に似ている君に入れ込んでいるのは、罪滅ぼしみたいなものなのかもしれないね』

『ボクはその子とは違うよ? ボクなんか助けたって、その子には関係無いのに』

『わかってる。でも、このままじゃ僕も君もきっと後悔すると思う。だから野球をすることを、諦めないでほしいんだ。出来るだけのことはするから』

 

 ――ああ、この人は本気なんだ……。

 

 自分の顔を真っ直ぐに見据えている彼の瞳を見て、少女はようやく確信した。

 彼の心には、何の侮蔑も下心も無い。哀れみはあるがそれは決して、少女にとって屈辱的な同情深いものではなかった。

 どこまでも純粋で、そして頼りがいのある眼差しであった。

 

『あははっ……』

『早川さん?』

『ふふ、負けたよ。決めた。ボク、野球部に入る』

『本当に!?』

『練習と練習試合しか出られなくてもいい。それでも君と野球やるの、面白そうだもん』

『ありがとう。公式戦も、何とか出れるようにしないとね』

『こっちこそ……ありがとう。あと、今まで冷たく当たってごめんね? 本当は羨ましかったんだ。野球部を作ろうって頑張っている、心から野球が大好きな君達のことが』

 

 一度は歩みを止めた。

 立ち止まって、倒れそうになった。

 だけど支えてくれる人が居るならば、まだ歩める。

 結局自分は、誰かに守ってほしかったのかもしれない。少女はこの時、自分自身の気持ちにようやく気が付いた。

 お姫様願望にも似たそれは非常に男らしくなく、今まで自分には無縁だと思っていた何とも女の子らしい感情だった。

 

『ボクに似てるって言う、その女の子のこと……もっと聞かせてもらってもいいかな?』

『いいよ。でも似てるって言っても僕がそう思ったのは同じ女の子のピッチャーってところと、変化球のキレとコントロールの良さ、投球スタイルぐらいだから。見た目や性格は全然違うよ』

 

 彼ともう少し、話がしたいと思った。

 そして彼の言う自分に似ているという少女の話を、聞いてみたいと思った。

 

『あの子には君以上に放っておけないオーラがあったって言うか……いつも悩んでいる時なんかは、まるで捨てられた子猫みたいでさ。ものすっごく、庇護心を刺激されるんだ』

『……ちょっと、会ってみたいかも』

『君もきっと気に入ると思うよ? 少しとっつきにくいところはあるかもしれないけど、君ならあの子とも気が合うだろうし。あの子も君と同じぐらい、野球が好きなんだ。僕に野球を教えてくれたのも、あの子だった』

 

 少女――早川あおいが「泉星菜」という存在を知ったのは、その時のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋々高校――それは一昨年から共学になった元女子校の名前で、スポーツでは主にソフトボール部が優秀な成績を収めていることで名が知られている。

 星菜は桜色のリボンが映えるその高校の制服に身を包んだ彼女――「早川あおい」と名乗った少女と共に、付近のベンチに座りながら自動販売機より購入したパワリンを飲んでいた。

 

「……では、小波先輩は恋々高校に入学されていたのですか?」

 

 星菜は喉の渇きを一通り潤した後、唇から瓶の口を離して今一度問い掛ける。

 その言葉に、あおいはほのかに苦笑を浮かべながら頷いた。

 

「うん。でも驚いたよ。小波君はしばらく会ってないって言ってたけど、まさか中学を卒業してから一度も会ってないなんて思わなかったから」

「……色々あって、会うことが出来なかったんですよ」

 

 現在星菜の頭からは、先程までピッチングコーナーに挑戦しようとしていたことなど完全に離れていた。先ほど出会った少女の口からそれどころではない重大な話を聞かされたことで、やや思考が混乱しているのだ。

 それは彼女が言い放った、「小波君」という一言が原因である。

 小波――小波(こなみ) 大也(だいや)。それは中学校時代、星菜が所属していた野球部の先輩の名前であり、互いに高め合ったライバルの名前であった。

 

「小波君、出会った時は事あるごとにボクと君を比べたがっていたからね。その時に、一つ下の後輩に「泉星菜」っていうボクと同じ女の子のピッチャーが居たって話を聞いたんだ」

「……先輩が、私のことを話していたのですか?」

「うん!」

 

 彼は星菜にとって、幾度となく世話になった先輩だった。

 投球練習をする時にはいつも座ってボールを受けてくれて。

 「前世の記憶」に悩まされた時は、星菜は星菜だという強い言葉で励ましてくれて。

 他のチームメイトが星菜のことを蔑ろにしても、彼だけはいつも味方をしてくれて。

 

 ――そして彼は、星菜の為に、監督に怒ってくれた。

 

 彼は中学三年生の頃、監督による星菜の扱いに対しその怒りを抑えきれず、遂にその顔面を殴打した。鼻が折れ曲がり顎が砕けるほど、我を忘れたかのように、何度も拳を打ち付けていた姿が星菜の脳裏に焼きついている。

 現場に居合わせた他の教職員達が止めに入らなければ、彼は監督をそのまま殴り殺していたかもしれない――そんな勢いで彼が激怒していたことを、星菜ははっきりと覚えている。

 彼が自分の為に怒ってくれたことは、涙が溢れるほどに嬉しかった。

 だがその為に彼は校則によって重く罰せられることになり、それまで来ていた野球名門校からの推薦を取り消されてしまった。

 彼は、中学野球の名門校である白鳥学園附属中学校の中でも随一の野球センスを持つ素晴らしいキャッチャーだった。

 

 ――そんな逸材たる彼の人生が、自分なんかの為に怒ったせいで壊れてしまった。

 

 それは、竹ノ子高校に入学した星菜が野球部に入らなかった理由の一つである。

 自分の存在が彼の居場所を奪ったことに対して、星菜は深く負い目を感じているのだ。

 

「あの方は他に、何か言っていましたか?」

 

 事件以来、彼とは一度しか会っていない。その際は、両手を付いて何度も頭を下げた記憶がある。

 自分が野球部にさえ居なければ、自分がさっさと野球部を辞めてさえいれば――こんなことにはならなかったのだと。

 

 だが、彼が星菜を責めることは一度としてなかった。

 

 それどころか。

 

『顔を上げて、星ちゃん。僕は元々あかつきに入る気はなかったし、推薦が取り消されたからと言ってもプロになれないわけじゃない。それに、アイツのことはいつかぶん殴ってやろうと思ってたからね。だから僕のことは気にしないで。ね?』

 

 そう言って笑っていたのが、星菜の記憶に残っている彼の最後の姿である。

 だがその笑顔も、優しい言葉すらも、当時の星菜には信じることが出来なかった。

 何もかもが苦しくて、星菜には純粋に受け入れることが出来なかった。口ではそう言っていても、星菜には自分が野球部に居た為に進路が断たれたことを、彼が恨んでいるのではないかと疑っていたのだ。

 今でこそ落ち着いてはいるが、当時の星菜は人間不信に陥っていた。それまで長く付き合ってきた家族や友人すらも信じることが出来ず、そうやって少しずつ彼のことまでも避けるようになり――いつの日からか全く顔を合わせることがなくなってしまった。人間不信が治った頃には彼は既に高校に入学していた為、そのまま疎遠になったというのが現在の二人の関係である。

 

「んーそうだね。とにかくあの人は、君のことを褒めていたね。ボクよりも球が遅いのに速く見えたとか、球種が多すぎてサインを決めるのが大変だったとか」

「ほ、他には……」

「バッティング練習で見せてくれるセンター前ヒットは、見学料を払いたくなるような芸術品だったとか、色々と凄いことを言ってたよ。大体そんな感じで、君は何か心配しているみたいだけど、特に悪いことは言ってなかったよ?」

「そうですか……教えてくださりありがとうございます」

 

 かつて世話になった先輩の近況を知りたくはあったが、それよりも彼が自分のことをどう話していたのかを最初に聞く辺り、星菜は今更ながら自分のことを小さな人間だと思った。あおいの返答を聴いてようやくそのことを自覚し、冷たく自嘲の笑みを浮かべる。

 

 ――人間不信が治った今だからこそ思うが、自分の為にあれだけ怒ってくれた小波大也が、自分のことを恨んでいる筈がなかったのだ。

 

 あおいからの返答を聞いて、星菜はほんの少しだけ肩の重荷が下りたような気がした。

 脱力した星菜が息を吐きながらベンチの背もたれに寄りかかると、ふと頭の上に軽い感触を感じた。それは隣に座る少女、早川あおいの手のひらの感触であった。

 

「あ、ごめんごめん! 何だか君を見てるとついこうしたくなっちゃって」

「……別に構いませんが、だからと言って初対面の人の頭を撫でるのはどうかと思います」

「あはは、気を付けるよ。でも、本当に噂通りの子でびっくりしたよ。……本当に捨てられた子猫みたい」

 

 一つ歳上とは言え子供扱い――もとい子猫扱いされるのは好きではない。だが不思議にもこの時、星菜には悪い気はしなかった。

 あおいの浮かべる含みのない微笑みに、すっかり毒気を抜かれたというのもあるが、何となく彼女とは波長が合うのだ。

 話を聞くには、彼女もまた自分と同じ野球少女だったと言う。しかし彼女は星菜と違って高校二年の今になっても現役で続けているらしく、その話には大きな興味をそそられた。

 

 ――もっと、話がしたい。

 

 傷を舐め合うような関係になるかもしれないが、それでも星菜は、彼女とは仲良くなりたいと思った。

 

「そうだ、泉さん。一つお願いがあるんだけど」

「何でしょうか?」

 

 そんな星菜の思いを知ってか知らずか、あおいが友好的な笑みを浮かべながら言う。

 

「さっきボクが使ってたあそこのピッチングコーナーで、投げてくれないかな?」

「私が……ですか」

「小波君からはコントロールも相当良かったって聞いているよ。だから、ボクに見せてほしいんだ」

「……わかりました。ですが、ご期待にお応え出来るかはわかりませんよ?」

「あはは、その顔で言う? 随分自信満々に見えるけど」

「え? あっ――」

 

 星菜には、その頼みを断る理由は無かった。寧ろ心の中では、彼女に自分の投球を見せたいとすら思っている。

 何が自分にそう思わせているのか――理由もわからずに崩れてしまったみっともない表情を隠しつつ引き締めながら、星菜はベンチから立ち上がり、ピッチングコーナーへと向かった。

 

 



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恵まれない身体から嘘みたいな投球

 

 泉星菜と実際に会ってみて、早川あおいには同級生の小波大也が放っておけないオーラがある――と言っていた理由がわかるような気がした。

 美しくも触れれば壊れてしまいそうな容姿は元からの物だとは思うが、あおいの目にはその儚さがただ危うく映った。

 

 ――うん、確かに、何だか放っておけないね……。

 

 あおいはこの日、早めに終わった部活動の帰りにたまたまバッティングセンターに立ち寄ったのだが、それがこうして噂に聞いた泉星菜と出会うきっかけになったことを幸運に思った。

 かつて小波が言っていた通り、彼女の纏う雰囲気は何となく自分が味方をしてあげなければならない使命感のような感情を与えてくれた。それは彼女が自分と同じ苦労をしてきたと思われる女性野球選手だからでもあるのだろうが、もしも何か悩んでいるのならば先輩として助けたいと思った。

 しかし、今回は初対面だ。出会って早々いきなりそんな関係になれるとは思えないので、あおいはまず最初に選手としての泉星菜を知ろうとした。

 

「投げるボールはあそこにあるケースの中にあって、全部で十五球だね。得点は的の端に行けば行くほど高くなるんだ」

「最も高得点が取れる場所は?」

「右バッターから見た外角低め(アウトロー)かな。内角高め(インハイ)も同じくらい稼げるよ」

「ありがとうございます」

 

 それとあおいには、「あの」小波大也が手放しで絶賛する投手がどれほどの実力か純粋に知りたいという思いがあった。

 あおいはピッチングコーナーに設置されたマウンドに上がろうとする星菜の後方へと移動する。その際、好奇心に煽られて集まってきた周囲の男性客達を目で追い払うことは忘れない。あの場で投げて欲しいと言ったのは紛れもなくあおい自身ではあるが、今の星菜は着ている服が服である。ポジショニングによっては翻ったスカートから見えてしまう恐れがあるのだ。何が、とは言わないが。――と言うか、この頼み自体それが理由で拒否されるかもしれないと思っていたのだが、平然と受けてくれた辺りこの少女はあまり気にする方ではないらしい。

 

「ケースはあそこに三百円入れないと開かないんだけど、お金はボクが払うよ。今回はボクがお願いしたことだからね」

「良いのですか? では、恐縮ですがお言葉に甘えます」

 

 準備が整ったところで、ピッチングコーナーに配置されていた専用のボールケースが開かれる。そこに並んでいる十五個のボールの中から一つを取り出すと、あおいは星菜へと手渡した。

 

「じゃあ、見せてもらうね」

「……はい。頑張ります」

 

 星菜が左手でそのボールの感触を確かめながら、マウンドのプレートに足を掛ける。あおいはこれから行われる彼女の投球の妨げにならぬようさりげなくその場を離れ、ボールの軌道が最も見やすい位置へと移動した。

 

(こうして見てみると、見た目は全く野球が出来る子には見えないんだけどね……)

 

 離れた位置から改めて星菜の姿を眺めてみると、その体型がいかに野球向きでないかがよくわかる。

 身長は160センチ少々しかなく同じ女性投手であるあおいよりも低く、肉付きも悪い。肩幅は一般女性と比べても狭いし、腰周りも細い。スラッとした細長い脚は女性としては文句のつけ所のない完璧なものなのだが、野球選手として……それも投手として見るならば、あまりにも心許なかった。あおいの方も大概華奢な体型で他人のことを言えたものではないのだが、そう思うほどに星菜の姿はか弱く映った。

 だがあおいは、だからと言ってそんな先入観だけで彼女の力量を見計ろうなどとは考えていない。

 

(でも、違うんでしょ。泉星菜は)

 

 斜めからではなく、真っ直ぐに星菜の姿を見据える。

 泉星菜の双眸は、マウンドから18.44メートル先に設置されているストライクゾーンを模した的を睨んでいた。

 そして数秒の沈黙を経て、ようやく投球動作に移る。

 ボールを持った左手に右手を添えながら、肘を折り曲げて後頭部まで振りかぶる。一般的なワインドアップのモーションである。

 そのまま流れるような動作で身体を一塁ベース方向に向けると、左足を軸に右足を振り上げ、両手を胸元の下へと持っていく。

 全体的にゆったりしているが、ここまではごく一般的な投球フォームである。

 あおいが明らかに「違う」と思ったのは、星菜がその右足を踏み出そうとする瞬間だった。

 

 招き猫投法――そんな言葉がふと脳裏に浮かぶ。

 

 ホームベースの位置よりもやや一塁ベース方向に向かって頭よりも高く振り上げた右腕は、手首が大きく曲がっており、招き猫の上げた前脚のように見えた。

 それだけでも独特なフォームではあるのだが、何よりもあおいの目を引いたのはボールを持った左腕と、それを身体全体で隠している変則的な全身の使い方だった。

 加えてさらに打者からボールの出どころを見にくくする為に、テイクバックを極端に小さくして左腕を見せないようにしている。即座にそのフォームの意図を見抜いたあおいだが、同時に疑問が浮かんだ。

 

 あんなフォームで、ちゃんとボールに力が伝わるのかと。

 

 もし自分があの投げ方をしたら、まずまともなボールは行かないだろう。星菜のフォームは、それほどまでに窮屈だったのだ。

 しかし星菜の左手から放たれたボールはそんなあおいの心配を嘲笑うかのように至って直線的な軌道を描き、的の最端である右打者から見た外角低め(アウトロー)の部分へと直撃した。

 

「――っ!」

 

 一球目から、最も得点が高いコースを捉えたのだ。

 見事なコントロールである。あおいは付近に設置された電光掲示板へと目を移し、そこに表示されていた電子の数字を確認する。

 

《107km/h》

 

 それは、たった今星菜が投じたボールの球速である。その数字は星菜の目にも映ったらしく、彼女は次のボールを取り出しながら呟いていた。

 

「この掲示板、球速表示も出るのか。……おっそ」

 

 その言葉は若干溜め息混じりであったが、星菜の表情は苦笑でもなく純粋に笑んでいた。

 しかしあおいはそこに表示されている球速表示から、しばらく目が離せなかった。

 

「……今の、107キロしか出てないの?」

 

 放たれたボールは山なりでもなく、的まで真っ直ぐな軌道で到達していた筈だ。

 しかし実際に表示された球速はたったの107キロであり、女子としては速いが高校野球基準ではあまりにも遅いストレートだった。

 

「よしっ」

 

 二球目――先程のリプレイを見ているかのように全く同じ投球フォームから放たれたボールは、糸を引くような軌道でまたも的の外角低め部分へと命中する。

 あおいが再度電光掲示板へと目を移すと、今度は109km/hと表示されていた。

 

(思ったより遅い? ……違う、思ったよりも速いんだ。初速と終速があまり変わらないから、実際の球速よりも速く見えるのかな)

 

 コントロールの良さは噂に聞いた通り――と言うかそれ以上に凄まじいようだが、あおいが何よりも気になったのはそのストレートの質である。ボールの回転数が尋常ではないのだろう。スピンの効いたストレートは投げた瞬間からストライクゾーンに到達するまで、ほぼ変わらないスピードが出ているように見えた。

 実際は110キロにも届いていないが、あおいの視点からは120キロ近いスピードが出ているように感じる。バッターボックスから見れば手元でノビを発揮し、さらに速く感じることだろう。

 

 それから五球ほど投じたストレートは、平均は109キロを、最速では111キロを計測した。いずれも的の外角低めを徹底的に捉えており、見物人であるあおいはその投球に完全に目を奪われていた。

 体格に恵まれない上にテイクバックが極端に小さいフォームでありながらこれほどのボールを投げられるのは、全身の使い方が上手いからだと見える。肩や肘の使い方が柔らかくしなやかで、下半身のスムーズな体重移動が放たれるボールに数字以上の威力を与えている。球持ちも長く、打者に対して極限まで近い位置でボールを離している。

 このフォームは彼女が体格というハンディを覆す為に、多くの試行錯誤を重ねた末に作り上げたものなのだろう。とてもではないが他人が簡単に真似出来るフォームではなかった。

 あおいからあえて指摘することがあるとすれば――派手に全身を使っている為か、想像以上にスカートが翻っていることぐらいか。何球か投げていると流石に彼女も意識し始めたのか、一球投げるごとにしきりに周囲を気にしながら裾を直していた。

 

「大丈夫、周りの人が寄って来ないように追い払ってあげるから。泉さんは気にせずに投げてて」

「あ、ありがとうございます」

 

 そんな彼女の姿を見て、自分が投球を見たいと言ったことをあおいは申し訳なく思った。

 自分がここで投げている時も、周りからはあんな感じに見えていたのかなと今更になって羞恥心が沸いてくる。今度から下にはジャージを履くように徹底しよう――とあおいは密かに心に決めた。

 

 先までよりも周囲に注意を傾けながら、あおいは星菜の投じる八球目を見届ける。

 招き猫投法という名が脳裏に浮かぶ投球フォームから放たれたストレートは、今度は的の外側へと大きく外れた。

 周りが気になって手元が狂ったか――一瞬そう考えたあおいだが、それが誤りであることを即座に思い知る。

 

 ――ストレートが、曲がったのだ。

 

 18.44メートルの間をそのまま真っ直ぐに駆け抜けていくかと思われたボールは、ホームベースの手前横から突如として大きく軌道を変え、的の外角低め部分へと命中した。

 それはこのピッチングコーナーで、星菜が初めて見せた変化球であった。

 

「スライダー?」

「一応、高速スライダーです。私のは高速と呼べる速さではありませんが」

「いやいや、106キロも出てるじゃん! あんなに曲がっているのに、真っ直ぐとほとんど変わらない速さだよ!」

 

 驚嘆に値するのは素人が見てもわかる凄まじい変化量とコントロールだが、打者がスイングするギリギリの位置で変化するキレの良さ、そしてストレートと比較した際にほとんど落差がない球速があおいをさらに驚かせた。

 

「……今日は調子が良いので、投げられる変化球を投げてみます」

 

 かつて彼女とバッテリーを組んでいたという小波大也は、球種が多すぎてサインを決めるのが大変だったと言っていた。今投げたスライダー――それもハイレベルの高速スライダーは、その内の一つなのだろう。

 そしてこれから色々な球種を使うということを、星菜は宣言してくれた。そのことにあおいは大きな好奇心と同時に畏怖を抱いた。

 

 ――この子はもしかして、ボクよりも上手いんじゃないか――と。

 

 次に投じた変化球は、左バッターボックスの背中側から緩い軌道で弧を描いた。ハエの止まるような遅いスピードだが、先程のスライダーとは比較にならないほど大きく曲がっている――スローカーブである。表示された球速は70キロしかなく、ストレートと比較した際には約40キロにまでなるその緩急差は、打者にとっては非常に対応しにくいだろう。それがストレートと全く同じ腕の振りから放たれるのだから、見分けるのは困難である。

 

「凄い……!」

 

 あおいの口から漏れた言葉は、まるで小学生のような感想だった。

 だが今は、それ以外に掛ける言葉が見つからない。オーバースローとアンダースローとで違いこそあるものの、あおいには同じ技巧派投手だからこそ泉星菜の格上の投球技術を理解出来たのだ。

 それからも星菜は、淡々と変化球を投じていった。

 

 左打者の内側へと鋭く食い込んでいく、ストレートと球速差の無い高速シュート。

 

 打者の手元で動くツーシームファストボールと、カットボール。

 

 そしてフォークボールと見間違えるほどに、縦に大きく沈むチェンジアップ。

 

 それらが全て同じ投球フォームで、同じ腕の振りから、尋常ならざるキレを持って外角低めへと吸い込まれていく。

 球速は確かに遅い。だが、彼女を見ていると球の速さに何の意味があるのかとすら思えてきた。

 

「ラス、トっ!」

 

 それから外角低めにスローカーブを一球投げた後、最後の仕上げとばかりに投じられた十五球目のボールは、外角低めの変化球ではなく内角高めへのストレートだった。

 外に遅い変化球を見せた後、内に速い球を投げる。それは投球のセオリーではあるが、セオリー故に効果は折り紙付きだ。

 的の内角高め部分へと叩き込まれたストレートの球速は、実際にはたった110キロしか出ていない。

 しかし直前に緩い変化球を見せられた為、あおいにはその球速表示がスピードガンの故障としか思えなかった。

 

(……あはは、君の言う通り、とんでもないピッチャーだよ。こんな子から偏見で野球を奪うだなんて、ボクだって殴りたくなるね)

 

 最後の一球を認めたあおいの目には、既に好奇心も畏怖もなかった。

 そこにあったのは敬意と――純粋なライバル心。あおいはこの時、泉星菜という存在をはっきりと所属野球部を脅かす強敵として認識したのである。

 

「最後の一球、もう少し内に寄せたかったな……」

「泉さん」

「あ、はい。……何でしょうか?」

 

 ちらりと電光掲示板へと目を向ける。そこには「680点!〈最高記録更新〉」という文字が点灯していた。これは今しがた彼女が叩き出した数字であり、それまであおいが所持していた最高記録の630点を大きく上回るスコアである。遠くからは、彼女の投球を眺めていた他の利用客達が盛大な拍手を送っていた。

 数字にして二人の差は50もある。コントロールには絶対の自信があったあおいが、そんな自分すらも上回っている彼女には悔しさを抱いた。

 

「負けないからね」

 

 だから、戦いたいと思う。

 試合で投げ合って、勝ちたいと思う。

 出来れば、公式戦の場で。

 自分にとって最大のライバルと呼べる存在を見付けたことが、あおいには悔しくも嬉しかった。

 

 



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すれちがい

 

 

 少女が寂しげな瞳でグラウンドを眺める度に、過去の記憶を思い出す。

 少女が儚げに微笑む度に、過去の過ちを後悔する。

 

 ――時折、夢の中にも少女が出てくる。

 

 その表情は出会った頃のように幼く明るいこともあれば、現在のように儚くほの暗いこともある。

 そして今回現れた少女は、泣いていた。

 

『キャプテンになったんでしょ? なら、早く部活に行かなきゃ』

 

 ――違う、そんな顔が見たかったんじゃない。

 

『大会打率七割超えか……凄いなぁ。もう私なんかじゃ、足元にも及ばないな』

 

 ――俺はまだ、君に負けたままだ。

 

『惜しかったね……もう少しだけ、ピッチャーが踏ん張っていれば』

 

 ――君が居れば、勝てた試合だった……!

 

 夢の中の光景が、ビデオ映像の早送りのように次々と切り替わっていく。

 少女が「居なくなった」野球部での、退屈な日々。

 何一つとして意味を感じない、空っぽな生活。

 そんな空虚な時間があっという間に過ぎていくと、場面は最も深く記憶に残っている一つの出来事へと移った。

 

『実力があるのに皆と野球が出来ない私が、そんなに可哀想なのかよっ!!』

 

 それは、決して忘れてはならない出来事である。

 少女のことを、傷付けた。

 心からの善意で放った筈の言葉が、他ならぬ少女自身に深い苦しみを与えてしまったのだ。

 

『もう嫌なんだっ! そうやって見下されて、みんなに邪魔されて! どんなに努力したって認めてくれなかった……! 全部、監督の言う通りだった……! ……私なんて最初から、あそこに居ちゃいけなかったんだ……』

 

 もう一度、君と野球がしたいと――正直な気持ちを伝えた筈だった。

 しかし少女はその手を取ることはなく、返事は悲しみの涙によって返された。

 

『……お前にだって、私の気持ちはわからない。だからもう、同情するのはやめてくれ……』

 

 何度も、思い出す。

 少女がこうして夢の中に出てくる度に、呼吸も出来なくなる。

 彼がそんな夢から目を覚ました時は、決まって同じ言葉を吐くのだ。

 

 ――俺は今でも、君の帰りを待っている――。

 

 誰一人として伝えることはなく、彼はただ一心に願い続けていた。

 彼の憧れにして最大のライバルが、いつかマウンドに帰ってくることを。

 その日が訪れることを、いつまでも待ち続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は早く流れ、今では四月も下旬に差し掛かろうとしている。

 紅組先発池ノ川貴宏の大炎上によって白組の勝利に終わった紅白戦から、既に二週間以上もの時間が経過していた。

 新入生達も徐々に高校での生活に慣れ、各部活動もそれぞれ活発的に活動を行っている。野球部もまた新チームとして本格的に動き始めており、波輪主将先導の下日々過酷な練習を送っていた。

 彼ら竹ノ子高校が出場する地区大会は国内で最もレベルが高いと言われている、所謂「激戦区」である。地区内には強豪校の存在が数多くあり、その中には昨年度の甲子園優勝校である「あかつき大附属高校」の名もあった。

 下馬評では今回の優勝候補もそのあかつき大附属高校が最有力と言われており、次点ではMAX150キロ左腕の「樽本(たるもと) 有太(ゆうた)」を有する「海東学院高校」と、プロ注目の三遊間「鮫島(さめじま) 粂太郎(くめたろう)」、「尾崎(おざき) 竜介(りゅうすけ)」がクリーンアップを打つ「パワフル高校」の名が対抗馬として挙がっている。大穴としては「魔球」を操る技巧派右腕「阿畑(あばた) やすし」が主将を務める「そよ風高校」と、昨年度は一年生の身でありながら海東の樽本と互角に渡り合った本格派右腕「波輪(はわ) 風郎(ふうろう)」が居るこの「竹ノ子高校」が、それらの下に名を連ねていた。

 

 ――そう。甲子園出場という目標は道程こそ相当に厳しいが、波輪風郎が居る限りは決して夢物語ではないのだ。たった一人で強豪校と対等に戦える絶対的エースピッチャーの存在は、地区予選優勝という万が一の奇跡を可能にしていた。

 故に、他の部員達も真剣に練習に取り組む。優勝は無理だとしても、ベスト8までには残れるのではないか――そんな期待感が彼らの心を支えている為、未だ厳しい練習に根を上げる者は居なかった。

 主将が一人で「甲子園を目指す」と本気で宣言すれば、部員達から多かれ少なかれ不平不満の声が飛び交うことも覚悟していたのだが、言われずともやる気に満ちている部員達の姿を見ればそれが杞憂だったことがわかった。波輪自身も含め、この学校には良い意味でも悪い意味でも単純馬鹿が多いのである。

 波輪にとって何だかんだで自分に着いてきてくれる部員達の存在は、口に出さずとも何よりも有り難いものだった。

 

 

「さあ今日も練習だっ!」

 

 この日は土曜日である。平日のように鬱陶しい授業を聞く必要はなく、朝から晩まで野球に打ち込むことが出来る。

 天気は快晴。練習開始時刻は朝の八時となっており、現在時計の指針は七時十五分を差している。

 竹ノ子高校のシンボルカラーである緑色のアンダーシャツを身に纏った波輪が、早朝の野球部室へと足を踏み入れる。普段この部屋には波輪か鈴姫が一番乗りに到着するのだが、この日は珍しいことに他の部員達が何人も先にその場に集まっていた。

 

「だから! あのぐらいの大きさが丁度いいんだってば!」

「わかるでやんす。でもオイラ的にはもっとグラマラスな方が好みでやんすね。……あっ、波輪君おはようでやんす」

「おはよう。矢部君達がこの時間から居るなんて珍しいな。いつも時間ギリギリで来るのに」

「今日はいつも見てるアニメが休みだったんでやんす」

「はは、やっぱりそうかい」

 

 学校が休みの日の部活動では自宅で練習用ユニフォームに着替えてからそのままの姿で集合する為、部室で着替えるような手間は必要はない。故に早めに部室に着いたところでやることと言えば荷物を置いた後、外に出て素振りをするぐらいなのだが――この日は矢部明雄ら数人の部員達が一箇所に集って、何やら怪しげな会議を行っていた。

 その会議は波輪が部室に入ってきた直後こそ途切れたものだが、挨拶を交わした後すぐに再開する。

 

「あの子の真骨頂は時たま見せる儚げな微笑みだと思うの」

「癒されますよねー。普段あまり笑わないからこそ、見れた時は幸せな気分になれるって言うか」

「今度ガンダーを見つけたら、あの子に引き合わせてみるでやんす!」

「おお、それは名案だな! 美少女+子犬のコンビと言えば昔からの鉄板だ。ほむらちゃんの時みたく、きっと物凄い破壊力が生まれるぞ!」

「ぐはっ、想像しただけで鼻血が……」

 

 彼らは何やら随分と盛り上がっている様子だが、おそらく野球には関係のないことだろう。

 時計を見ればまだ練習開始時刻までには余裕があり、彼らの会話の内容が何となく気になったので波輪もその中に介入してみることにした。

 

「お前ら、何話してるんだ?」

「学校の可愛い子についてでやんす!」

「ふーん……この学校、女子のレベルだけはやけに高いもんなぁ」

「まあ、今はほとんど星菜ちゃんの話題になっとるがな」

「モテる上に彼女持ちのお前には関係ないことよ。ほら練習行った。シッシ」

「ふはは、妬むなよ!」

 

 矢部がノリノリだったことからどうせまたしょうもない話だろうとは思っていたが、案の定しょうもないことを話していたらしい。

 

 しかしそれがきっかけで、波輪は昨夜あった電話のことを思い出した。

 

「そう言えばその星菜ちゃんだけど、今日の練習には来ないってさ」

「「なにィッ!?」」

「……いや、そんなに声を揃えて驚かんでも」

 

 波輪は昨夜、野球部のマネージャーである川星ほむらから今日は二人ともグラウンドに来ないという話を聞かされた。

 それは決して、二人が体調を崩したわけではない。一応ここに居る彼らの心配を解く為に、波輪は事の詳細を説明した。

 

「ほむらちゃんから、星菜ちゃんと一緒にパワフル高校とかの練習試合を見に行くって電話があったんだよ。二人とも、今日は他校の偵察をするんだと」

「あーなるほど。相変わらず、ウチのマネージャーはよく働くねぇ」

「それじゃあ、二人とも来れないんですか!?」

「うん。だからネットとか用具の準備は俺達でやらないとね」

「それは別にいいんでやんすけど、あの二人が居ないとやる気が下がるでやんすね……」

 

 四月から敵情視察を行ってくれるとは、仕事熱心で頼りになるマネージャー達である。ほむらいわくこれからは二人の内一人は学校に残すことにするが、今回は星菜にとって初めての偵察である為、ほむらも指導の為に同行するという話である。情報収集にも色々とやり方があるだろうし、それを教える為には確かに先輩であるほむらも星菜に着いて行くべきであろう。マネージャーが一人も練習に着いてくれないのは不便にも思ったが、波輪はほむらの意思を尊重してあっさりと了承した。もちろん、茂木監督も了承済みである。

 

 

「おはようございます……」

 

 竹ノ子野球部が誇る二人のアイドルが来ないことを知って一気にお通夜ムードとなった部室の中に、間が悪く一人の部員が入室してくる。

 水色の長髪をオールバックにした彼は、三年の六道明と双璧を成す野球部の生真面目ツートップの片割れ――鈴姫健太郎である。

 その姿をこの時刻で見たことに、波輪は少し驚きの表情を浮かべた。

 

「お前がこの時間に来るなんて珍しいな。いつも一時間前には来てるのに」

「……最近、夢見が悪くてあまり眠れないんですよ」

「おいおい。夢の中にカレンさんでも出てきたか」

「……洒落にならないことを言わないでください」

「ごめん、悪かった。本当にごめんなさい」

 

 いつも土曜日の鈴姫と言えばグラウンドに早出して練習を行っているのが基本なのだが、この日はそんな彼にしては随分と遅い到着だった。心なしか顔色が悪く、よく見れば目の下にクマがあることに気付いた。

 

「今日はマネージャー二人とも、他校の偵察に行くってさ」

「ご苦労様ですね」

「だから星菜ちゃん、今日は来ないみたいだなぁ」

「そうですか」

 

 波輪は先ほど他の部員達に話したことと同じ話をするが、鈴姫が寄越してきた反応はそれだけだった。表情一つ変えず、落ち込みも喜びもしない。完全な無表情を貫いた彼は左肩に掛けたショルダーバッグを下ろすと、その中からタオルやドリンク、グラブやスパイクなどをせっせと取り出していった。

 矢部達のように激しすぎる反応を寄越されても困るが、逆に鈴姫のそれは薄すぎるように映った。これではまるで、マネージャーのことなど全く関心が無いような反応である。

 

「……なあ鈴姫、前から思ってたんだけどさ」

 

 前々から、波輪には彼に対して訊きたいことがあった。それは恐らく、他の部員達も同じことを思っていることだろう。しかし、今まで波輪は訊くことが出来なかった。訊いた際、場合によっては悪いことにもなりかねないと思ったからである。

 だがこの時、波輪は野球部の主将(キャプテン)としてとうとう訊かずには居られなくなった。

 

「お前、もしかして星菜ちゃんと仲悪いのか?」

 

 その問いに、鈴姫が予想以上の反応を見せた。一瞬目を見開いた後、苦虫を噛み潰しながら顔を背けたのである。

 

「……なんで、そんなことを訊くんですか」

 

 数拍の間を置いて、鈴姫が質問を聞き返してくる。

 その反応は図星を突かれて動揺しているようにも見えた。

 

「お前、部活中一度もあの子と喋ったことないだろ? それだけならまあわかるんだけど、なんかお互い、いつも避け合っているように見えるんだよなぁ」

 

 四月も下旬に差し掛かろうと言うのに、鈴姫は部活中マネージャーの星菜と一度も話したことがない。高校に上がりたての新入生などはしばらくの間同じ出身中学の者と連むものなのだが、同じ白鳥中学出身者の二人に関してはそれが一切当てはまっていないことが気になっていた。偶々会話をしているところを見ていないだけならばわかるのだが、波輪の目には鈴姫と星菜がお互いに避け合っているようにしか見えないのだ。

 例えば鈴姫が部活のことでマネージャーに訊ねたいことがある時は近くに星菜が居ながらも真っ先にほむらのところに向かうし、星菜も星菜で鈴姫とはほとんど目を合わせようとしない。偶然目が合った時もすぐにそっぽを向き、擦れ違う時などは互いの顔を見ようともしないのである。

 

「実はオイラも気になってたでやんす。同じ中学に通ってたのに、二人とも全然話さないじゃないでやんすか」

「よく訊いた波輪! ようし、この際はっきりさせておこうじゃねぇか!」

 

 そのことは矢部ら他の部員達にとっても周知の事実だったらしく、彼らは波輪に便乗して一斉に鈴姫に問い質してきた。逃げ場を与えないとばかりに数人がかりで周りを取り囲んでいく彼らの剣幕はどこか殺気立っており、波輪から見ても中々におっかないものがある。彼らがそうも鈴姫に対して威圧的な態度を表しているのは、ある一つの「噂」が竹ノ子高校内に広まっているからでもあるのだろう。

 

「あの噂、本当は真逆だったのか」

「噂?」

 

 波輪がこのようなことを鈴姫に訊いたのも、その噂を現実と見比べた際に大きな齟齬を感じたからである。

 故に真偽を確かめようとしたのだが――

 

「お前と星菜ちゃんが付き合ってるって噂だよ」

「はあ!?」

「二年の間じゃ有名だぞ」

「有名でやんす」

「どういうことですかそれはっ!? だって俺はまだ何も……!」

 

 鈴姫自身はその噂について、全く聞き覚えがないようだ。波輪がその内容を話した瞬間、普段冷静な彼が面白いぐらい過剰な反応を見せてくれた。

 

「何だってそんな噂が……」

「二人とも容姿端麗の上に、この学校に初めて入学してきた白鳥中学の出身者だ。白鳥と言えば県下有数のエリート校。そこの生徒は普通、もっと高レベルの高校に入学するものだ。それが今年になってこのような高校に二人も入学してきたのには、何か理由があるに違いない。その理由を考えてみた結果、野球の名門校を倒す為に入学してきたお前(鈴姫)のことを応援しに、恋人(泉星菜)が一緒に着いてきたのではないかという説が一番しっくり来た――という二年生女子達の妄想だ。それが噂として広まっているのだよ」

「お、六道か。入室と同時に解説とか地味に高度なことやるな」

「日頃から、空気の読み方は鍛えている」

「流石寺の子だ、ドアの厚さもなんともないぜ」

 

 夢を叶える為に入学してきた彼と、そんな彼を応援する為に入学してきた彼女。愛の力は無限大だ。確かにそう考えると、不思議なことに全てが納得出来てしまう。星菜がマネージャーとして鈴姫の居る野球部に入部してきたという事実も、その噂に信憑性を与えていた。

 何と言っても、二人はそこらを歩いているだけでも公衆の視線を集めてしまうような美少年と美少女である。恋人同士だと言われれば誰も疑わず、文句の付けようがないほどにお似合いであった。

 しかし今の鈴姫の顔とこれまで波輪達が見てきた二人の姿から判断すると、その噂はやはり噂でしかなかったのだということがわかる。

 

「……随分と、迷惑な噂ですね」

「じゃあ、二人は付き合ってないってことでやんすね!」

「はい。ありませんよ、そんなこと」

「よしきたあっ!」

 

 波輪からしてみればその噂の真偽自体は割とどうでもいいことなのだが、彼らの仲が悪いのかどうかという点だけは知っておきたかった。

 選手とマネージャーという違いこそあるものの、二人とも同じ野球部の仲間なのだ。主将として仲間内での不和だけは、お節介であっても見過ごしたくなかったのである。

 

「で、どうなんだ? 本当は仲悪いのかお前ら」

「……悪いってことは、ないと思いますが」

 

 若者のものとは思えないような深い溜め息をつきながら、鈴姫が波輪の顔も見ずに応える。

 しかし、明らかに落ち込んでいる様子である。波輪は優等生な後輩が初めて見せるその姿から、彼が何か複雑な事情を抱えていることを察した。

 

「……話すのが気まずいんですよ。中学時代、俺が下手なことしたせいで……」

 

 そしてしばらくの沈黙後、鈴姫が耳を凝らさなければ聴こえない声でそう言った。

 

「あっ」

「おっ」

「なるほど」

「そういうことだったのか! そうか、お前も俺達と同じだったんだな!」

 

 その声を聴き取った一同が、何故か全身から緊張を解いた様子で各々に声を上げた。

 彼らは今の鈴姫の発言から、一体何を感じたというのだろうか。おそらくこの場でただ一人だけ理解出来ていない波輪が、そんな彼らの態度を不思議に思い周囲を見回した。

 矢部の顔を見てみる。「ざまあみやがれでやんす!」とでも言いたげの、悪そうな笑みを浮かべている。

 六道の顔を見てみる。微笑ましいものを見るような目つきで、暗い表情を浮かべる鈴姫を見つめていた。

 その他の部員達はと言うと何かに納得したようにうんうんと頷きながら、生暖かい眼差しを鈴姫へと送っていた。

 

「え、みんなどうした? なんでそんな目で鈴姫を見てるんだ?」

「フン! モテ男の波輪君にはわからないことでやんす!」

「そーだそーだ、彼女持ちなんか禿げちゃえば良いんだー」

「え、え? 鈴姫、どういうこと?」

「うるせー、後輩の傷口を抉るんじゃねぇ!」

「ほむらちゃんを返せ! バーカ!」

 

 先ほどまで殺気立っていたのは何だったのかという彼らの変貌ぶりを目にし、波輪は理解が追いつかない。

 中学時代に下手なことしたせいで星菜と話すのが気まずい――鈴姫は確かにそう言った。その「下手なこと」とは何か気になって問いかけてみるが、何故か周りの連中に怒鳴られてしまう。

 一体自分の何が彼らの怒りを買ってしまったかわからず焦燥する波輪だが、その肩に横からポンと手を置かれた。

 振り向くと、そこにはどこか得意気な顔を浮かべている六道と、満面の嘲笑を浮かべて彼らを見下ろしている池ノ川貴宏の姿があった。

 

「負け犬共め、すんなり上手く行った俺達にはわからん気持ちだな!」

「波輪、あまり関わってやるな。これは鈴姫自身の問題だ」

「あれ、どういうこと?」

「……察してやれよ」

 

 彼らまで何故生暖かい目をしているのだろうか。この状況を把握しかねている波輪に対して、六道が呆れ顔を浮かべながら耳打ちしてきた。

 

「失恋したのだろう、おそらくは」

「マジか!」

 

 ――つまりこういうことである。

 

 中学時代、鈴姫健太郎は泉星菜に愛の告白をした。

 しかし、盛大にフラれた。

 故に彼女と話すのが気まずくなっている――それが、鈴姫と星菜がお互いに避け合っている理由なのだと。

 なるほど、確かにここに居る非彼女持ち連中が妙に優しくなるわけである。そしてそれは、波輪にとっては理解出来なくて当たり前の感情だった。

 

(鈴姫……強く生きろ)

 

 こんな時、どんな顔をすれば良いのだろう。二人が決して不仲なわけではないことを知れた以上、波輪には迂闊に深入りするのも憚られた。

 

 

 

 

 ――野球部内に広まったその認識が全くの誤解だと知ったのは、夏の大会が終わった後のことだった。 

 

 



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その名は恋々高校

 

 彼を知り、己を知れば、百戦(あや)うからず――という格言があるように、情報は戦う為に欠かせない大きな武器である。竹ノ子高校の選手達が学校で練習している間、マネージャーである星菜とほむらは他校の情報を集める為、遠征に出掛けていた。

 今回行うのは他校の練習試合の偵察である。新チームとして本格的に始動しているのは竹ノ子高校だけではなく、全国中の高校が夏の大会に向けて調整を行っているのだ。

 この日の偵察は優勝候補の一角であるパワフル高校の練習試合が本命である。プロ注目打者の三番尾崎と四番鮫島のクリーンアップを抱える打線は強力であり、最速140キロを超える二年生エース山道(やまみち) (かける)は昨秋三試合を投げて防御率一点台を記録している好投手である。守備も固く、攻守において隙の無いチームとして期待されていた。

 

「一時半……少し、遅れましたね」

「仕方ないッスよ。あかつきと激闘第一の試合があんまりにも面白かったッスからねぇ……」

 

 そのパワフル高校の練習試合はほむらが事前に集めた情報によると、場所は大会でも使われる「山の手球場」にて時刻は十三時からプレイボールとなっているらしい。しかし現在の時刻は十三時ニ十分を過ぎており、星菜とほむらは少々遅刻してしまっていた。

 その原因は、直前に行った他校の練習試合の偵察にある。

 両者とも甲子園の常連校である「あかつき大附属高校」と「激闘第一高校」の練習試合――激闘第一は他県の高校なので分析はほどほどにしたが、同地区であるあかつき大附属の分析には一番から九番まで穴の無い打線や今季春センバツの優勝投手であるエース猪狩守の実力等、あまりにも見るべき物が多過ぎた為に予定よりも時間が掛かってしまった。

 故に、多少スケジュールが狂ってしまったのは仕方のないことだった。何事にも、物事には優先順位があるのだから。

 

 

「着いたッス」

 

 山の手球場で現在行われているパワフル高校の練習試合では、全観客席が他校にどうぞ偵察してくださいとでも言っているかのように堂々と開放されていた。それはパワフル高校側がこの試合を観られたところで、何の問題も無いと判断しているからだろうか。

 いや、あえて他校の偵察員に自校の力を見せつけたいのかもしれない。球場の観客席へと続く階段を上りながら、星菜はこの練習試合におけるパワフル高校側の意図を推理した。

 

 パワフル高校の練習試合の相手は――恋々高校である。

 

 片や優勝候補の一角であることに対して、片や公式戦に出場したことすらない無名校だ。客観的に見れば、練習試合にしても釣り合いが取れていない対戦カードだった。

 このニ校が試合をすると聞けば、誰もがパワフル高校の大勝を予想するだろう。

 

 ――だが、しかし。

 

 星菜には、試合の結果が予想出来なかった。

 恋々高校のエースは早川あおいで、捕手は小波大也――ならばこの試合、一筋縄には行かないかもしれない。パワフル高校としては恋々高校を噛ませ犬にして自信を付けたいところなのだろうが、あの二人が大人しく噛まされるとは思えなかった。

 

 そしてその懸念は、当たっていた。

 

「え?」

 

 階段を先に上りきり観客席にたどり着いたほむらが、モニタースクリーン上のスコアボードに映し出されている数字を見て驚きの声を漏らす。遅れて到着した星菜も、それを認めた瞬間目を見開いた。

 

 一回表のパワフル高校の攻撃が「無失点」で終わっており、裏の恋々高校が「二点」を先制していたのだ。

 

 恋々の攻撃は今も続いているらしく、アウトカウントはゼロ。星菜がグラウンドに目を向けると二塁ベースを踏んでいる走者の姿が映り、一塁側にある恋々高校のベンチでは先ほど帰ってきた走者と思わしき二人の選手と喜び合いながらハイタッチを交わしていた。

 

「パワフル高校が先制されたんスか……?」

「………………」

 

 強豪のパワフル高校を相手に恋々高校が先制するという予想外の状況に驚いているほむらを尻目に、星菜は再度モニタースクリーンへと目を向ける。しかし今度はスコアボードではなく、その下に書かれたニ校のスターティングメンバーを注視した。

 

 一番ライト蒔田。

 二番セカンド円谷。

 三番ショート尾崎。

 四番サード鮫島。

 五番ファースト椿本。

 六番センター生木。

 七番キャッチャー片倉。

 八番ピッチャー山道。

 九番レフト松倉。

 

 先行のパワフル高校のスタメンである。

 聞き覚えのない一年生と思わしき選手が何人か居るものの、クリーンアップと先発投手の名を見る限りはおおよそ今季のベストメンバーと言っても良いだろう。

 星菜は一旦深呼吸をした後、続いて後攻の――恋々高校のスタメンへと目を移した。

 

 一番ショート佐久間。

 二番レフト球三郎。

 三番サード奥居。

 四番キャッチャー小波。

 五番セカンド陳。

 六番ライト天王寺。

 七番ファースト小豪月。

 八番センター村雨。

 九番ピッチャー早川。

 

 ……予想していた通り、そこにはあった。

 二週間前に出会った自分と同じ女性投手の名前と――かつての恩人とも言うべき中学時代の主将の名前が。

 

「四番、キャッチャー、小波君」

 

 球場のウグイス嬢が恋々高校の四番打者の名を読み上げると、背番号「2」を付けた一人の男が打席に入っていく。

 身長はパッと見ても180センチ以上はあり、筋肉質な体つきはとてもではないが高校生の物とは思えない。今星菜が居る位置からは距離の関係上顔まではっきりとは見えないが、打席での佇まいは星菜の記憶にある人物と完全に一致していた。

 

「キャッチャー小波君って……もしかして一昨年の白鳥中のキャプテンの、「あの」小波君ッスか!?」

「はい。恋々高校に入学していたようですね」

「もしかして星菜ちゃん、知ってたんスか? 知ってたならほむらにも教えてほしかったッスぅ……」

「すみません……私も話でしか聞いたことがなかったので」

 

 彼は中学時代、あのあかつき大附属高校の監督から世代ナンバーワンキャッチャーとまで評価されていたほどの男である。やはり野球マニアであるほむらも一目で気付いたようだ。

 星菜は息を抑えながら、右打席に立つ彼の姿を見据える。

 彼は投手側の足をホームベース寄りに踏み出す「クローズドスタンス」に構えると、最上段に構えたバットを大きく揺らす。その特徴的な打撃フォームは星菜の記憶にある小波大也のものと相違なかった。

 

(……本当に、居たんだ……)

 

 二週間前早川あおいが言っていた通り、彼は恋々高校で野球を続けていた。

 名門校からの推薦が取り消されてもまだ、彼は夢を諦めていないのだろう。記憶に残っているものと変わらない独自の打撃フォームを前に、星菜はどこか心地の良い懐かしさを感じた。

 

「うおおおっ!!」

 

 主審が「プレイ!」と声を掛けた次の瞬間、マウンド上の山道翔が気迫の篭った声を上げ、セットポジションから打者への一球目を投じる。

 その球種は――ストレート。豪快な腕の振りから放たれたそれは、目測でも140キロを超えているように見えた。

 

 だが、そのボールがキャッチャーミットまで到達することはなかった。

 

 ――キィンッ!!――と、目も覚めるような甲高い金属音が響き渡る。

 初球から積極的に振り抜いた四番打者の一閃が、渾身のストレートを捉えたのである。

 白球はそのまま右方向へと押し込まれ、美しい放物線を描きながら飛翔していく。

 それは、打った瞬間それとわかる当たりだった。

 もはやパワフル高校の右翼手(ライト)は、打球を追わなかった。否、追うことが出来なかったのである。

 打球はライトスタンドの最上段へと着弾し、その行方を見届けた山道は力なく崩れ落ちた。

 

「す、すごいッス……! 逆方向なのに……」

 

 たった一振りで特大のホームランを放った男はゆっくりとダイヤモンドを一周し、二塁に置いたランナー共々ベンチへと迎えられた。

 一回裏、恋々高校の攻撃中。

 得点は0対4で、恋々高校がリード。

 この練習試合を観に来た者の、誰がこんな滑り出しになると思っただろうか。

 今回もまた、長い偵察になりそうだ。驚きながらも楽しそうにメモを取っているほむらの姿を見て、星菜はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は二週間前に遡る。

 泉星菜の投球を一目見て、早川あおいは彼女が今の自分よりも上の実力者であることを即座に見抜いた。自分の方が一年先輩だというプライドはあるが、それでも力の差は素直に認めざるを得なかったのである。

 星菜の球ははっきり言って遅い。しかし、だからと言って球速表示だけで実力を判断するあおいではない。球の遅さなど大した問題にならないほど、彼女にはあおいを魅了してやまない強力な武器を持っていたのだ。

 抜群の制球力と変化球のキレ、打者にとっての「打ちづらさ」を突き詰めた投球フォーム。それはあおいにとって、女性投手として目指した理想の投手像だったのである。

 力ではどうあっても男子には敵わない。だからこそそれ以外の武器で男子を圧倒しようという思いが込められた彼女の投球スタイルには、同じ女性投手として感じるものがあまりにも多かった。

 彼女ならきっと、高校野球に革命を起こせるかもしれない――そんな大それた希望を見出している自分に、あおいは気付いていた。

 

『負けないからね』

 

 だからこその、ライバル宣言である。

 彼女はあおい達女性野球選手の希望だ。あおいはいつかそんな彼女と公式戦の舞台で投げ合い、そして勝ちたいと思った。

 そんなあおいの意思に気付いてかどうかはわからないが、彼女はその言葉を聞いた際、困ったように笑った。

 

『負けないって……何にですか?』

 

 しかし口元は笑っても、目は笑っていない。

 彼女の――星菜が見せた反応は、あおいが望んでいたものとはあまりにもかけ離れたものだった。

 

『こんな的当てだけで、投手の優劣は決められませんよ。しかし優劣を決めるには、どうすれば良いのでしょうか……』

 

 今にも泣き出しそうな悲しい目をしている癖に、強がって、無理に笑おうとしている――あおいにはその時の星菜が何を思い、何を感じているのかが痛いほどわかった。

 何度も周りから邪魔されて、何もかもが嫌になっていた一年前までの自分と、彼女は同じ目をしていたのだ。

 

 ライバルとして認識してくれるのは嬉しいが、女性選手である自分達には決着をつける場所が無い――彼女が考えていることは、そんなところだろうか。

 

 もしかしたら彼女は、野球部にすら入っていないのではないか。脳裏でかつての自分の姿と重ね合わせながら、あおいは今一度質問を行った。

 

『……君、その制服は竹ノ子高校だよね?』

『え? はい、そうですが……』

『野球部に入ってるの?』

『……いえ。今は野球部のマネージャーをやっています』

 

 思った通り――今の彼女は自分自身がマウンドに上がろうとは考えていないようだ。

 これは想像以上に、自分と似ているのかもしれない。

 

 ――これほどの実力を持った選手が、本当に自分がやりたいことも出来ないで居る。

 

 内心で、深い溜め息をつく。もし彼女が野球をすること自体が嫌になったと言うのなら、あおいはそれもまた仕方がないとして諦めるしかなかった。しかし彼女の態度を見ればマネージャーよりも選手になりたかったという思いは、口で語らずともすぐに察することが出来た。

 ピッチングコーナーで投球をしている時の彼女は、それまで纏っていた儚さが嘘のように活き活きとしていたからだ。

 

『……よし、わかった』

 

 マネージャーで満足しているのか?

 自分が試合に出たいとは思わないのか?

 マウンドに戻って、甲子園を目指してみたくはないのか?

 彼女に問いたいことは数多くある。しかし、それらのことを思うがままに問うだけでは彼女の心をいたずらに傷付けるだけだということを、あおいは他の誰よりも理解していた。

 かつての自分がそうだったという経験から、あおいは決して多くのことを問わなかった。

 だが一つだけ、彼女には「頼みたいこと」があった。

 

『再来週の土曜日、山の手球場でボク達恋々とパワフル高校が練習試合をするんだ』

『――?』

『そこでお願いなんだけど、その試合を見に来てくれないかな? マネージャーなら、パワフルの偵察に行くとか理由を付けてさ』

 

 約二週間後に行われる恋々高校対パワフル高校の練習試合には、あおいも登板する予定だ。そこで彼女には、是非ともその投球を見て貰いたいと思った。

 女性投手が優勝候補のチームの打線を抑える姿を見せれば、少しは勇気付けられるのではないか。

 そうでなくても自分が投げている姿を少しでも羨ましいと感じさせれば、彼女に選手復帰を促すことが出来るのではないか――そんな打算があおいにはあった。

 幸いにも彼女の高校は竹ノ子高校で――あおいとはシニア時代に面識のある波輪風郎が主将を務めているチームである。彼は女性選手に対しても珍しく寛容な男だった。自分が小波に頼ったように彼女も彼に頼れば、部内でもそう居心地が悪くなることはない筈だ。

 

 

 

 

(……要らないお節介かもしれない。君と投げ合いたいっていうのも、完全にボクの我が儘だ。だけど……)

 

 時は現在へと戻る。

 パワフル高校先発の山道から早くも四点を先制した恋々高校が二回表の守備につき、恋々高校先発のあおいがマウンド上にて投球練習を始める。

 何球か投じて持ち球のキレが初回と変わらないことを確認すると、あおいはチラッと見える範囲で観客席へと目を向けた。

 場所は三塁側、座席はやや手前寄り――全体の客入りが少ない為、目当ての人物はすぐに見つかった。

 竹ノ子高校のもう一人のマネージャーと思わしき少女と共に、約二週間前出会った彼女はメモ帳を片手にこちらを眺めていた。

 

「君はそのままじゃいつか絶対、後悔すると思うんだ……」

 

 今だからこそ、あおいには言える。一年前、野球を諦めなくて良かったと。

 仲間に恵まれた今のあおいは充実しており、精神的にもかつてないほどに安定していた。

 だから彼女にも、ここで野球をすることを諦めてほしくなかった。

 

「ラスト一球!」

 

 キャッチャーから掛けられたその声に、あおいは力強く頷く。

 そしてアンダースローから投じた投球練習最後の一球を、球場を訪れた一人の観客に見せつけるように外角低め(アウトロー)へと決めた。

 その球種は、ストレート。センター後方にあるモニタースクリーンに表示された球速表示は、115km/hだった――。

 

 



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真の男は孤独に燃える

 

 パワフル高校を目当てに来た筈の観客達は、試合が終わる頃には誰もが当初の目的を忘れていた。

 

 試合は九回の表まで進むとパワフル高校の攻撃が終了した時点でゲームセットが告げられ、裏の回に恋々高校が攻撃することはなかったのである。

 目の前に広がっている光景に対し、パワフル高校の監督は口をポカンと開けて「信じられない」とでも言いたげな表情を浮かべていた。

 最初から一筋縄には行かないと思っていた星菜にとっても、試合の結果はあまりにも予想外なものだった。

 

 ――11対3――恋々高校の勝利――。

 

 モニタースクリーンに映し出されたスコアボードを何度も見つめ、星菜はその度に息を呑む。

 相手にリードを許すことは一度もなく、先制、中押し、ダメ押しと次々に得点を重ねていった完璧な勝利を見れば、それがまぐれの結果だとは誰も思わないだろう。

 打っては四番小波が二本の特大ホームランを放ち、三番奥居と五番陳がそれぞれ三安打三打点の大暴れである。投げては先発の女性投手早川が七回を一失点に抑え、八回よりサードからクローザーとして登板した奥居はパワフル高校の四番鮫島にツーランホームランを浴びたものの、最速142キロものストレートを武器に最後まで大量リードを守り抜いてみせた。

 それは間違いなく、パワフル高校ではなく恋々高校の実力を見せつけられた試合だった。星菜の隣に座っていたほむらもまた、観戦中は終始興奮しっ放しだったものである。

 仮にこの試合が出来すぎの物だったとしても、恋々高校の実力は今までノーマークだったことが考えられない強さである。特に奥居、小波、陳のクリーンアップは、プロ注目打者を二人も有するパワフル高校のクリーンアップが霞むほどの大活躍を見せつけてくれた。この三人のスイングスピードは目に見えて他の選手のそれを凌駕しており、今回の活躍が偶然の物とは思えない。昨秋防御率一点台を記録した山道翔を三人揃って打ち崩していることもまた、こちらが受けるインパクトをより大きくしていた。

 

 

 

「恋々高校……あれは強敵ッスよ」

「警戒する必要はありますね」

 

 試合終了と同時に星菜とほむらは球場を立ち去り、今は直近のバス停に向かって歩いているところだ。道中の話題は尽きない。恋々高校という思わぬ強敵の出現は、いかに優秀なマネージャーであるほむらと言えども全く予想していなかったようだ。

 

(早川あおい、か……)

 

 クリーンアップの活躍ぶりにも驚いたが、星菜が最も驚いたのは恋々高校の先発投手早川あおいが見せた投球である。ストライクゾーンの四隅を丁寧に突く精密なコントロールを武器にランナーの居ない状況では打たせて取る投球で、逆にランナーを置いた場面では変化量が大きいシンカーやカーブを混ぜて三振の山を築いていた。

 これはバッティングセンターで会った時も感じたことだが、その投球スタイルには星菜の心の中に引っ掛かる物があった。

 決して球速があるわけではないが、緩急とコントロール、変化球のキレで打者を幻惑し自分のスイングをさせない投球は、かつて選手だった頃の星菜と酷似していた。

 柔能く剛を制すということわざをまさに体現した投球に、星菜は親近感を抱いていたのである。

 

(……やっぱり、140キロなんて要らないんだな)

 

 女性投手であることを含めて自分と似たタイプであるあおいが、夏の優勝候補の一角であるパワフル高校の打線を相手に堂々たる投球を見せたことに対して、星菜は自分事のように喜びを感じていた。

 しかし、同時にこんなことを考えてしまった。

 

 ――私でも、あの打線を抑えることが出来るだろうか――と。

 

 勝負したいと思った。

 投げたいと思った。

 それはあおいの投球に触発されての、実に子供じみた対抗意識であった。

 趣味としてではなく、選手として野球をしたいと――あおいの見せた投球が諦めた筈の感情を刺激し、星菜の内なる「迷い」を強くしていた。

 自分のせいで名門校からの推薦を取り消された小波大也が新天地で野球を続けていたという安心もまた、その思いを後押ししている。

 これでは、いつかの紅白戦の時と同じである。星菜はその時と同じように、またしても胸が苦しくなった。

 

(……決めたのに……選んだ筈なのに……どうしてこうも……っ!)

 

 女性投手同士共通点の多い泉星菜と早川あおいだが、二人の間には決定的に違うものがあった。

 

 それは、それぞれの視線の先である。

 

 いつまでも過去に縛られ続けている星菜と、今現在の自分に正直で在り続けているあおい――それこそが二人の、諦めた者と諦めなかった者の違いだった。

 

(早川さんは強いよ……)

 

 投手としては似ていても、人間としてはまるで正反対だ。

 星菜の心は彼女のように、強くは在れなかった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星菜がその「迷い」に悩まされている間にも、時間の流れは止まることなく動いていく。

 順調に日付が変わっていき、もうじきに五月を迎えようとしている。その間に星菜の身の周りで起こった変化と言えば、奥居亜美以外にもクラスで気楽に話せる友人が何人か出来たことと――

 

「むう……」

「うわぁ……今日もあるね」

 

 星菜が朝登校する時、不定期的に下駄箱の中に手紙を入れられるようになったことだろうか。

 可愛らしいハート型のシールで封をされているそれは、俗に言うラブレターという手紙である。そんな物は漫画や小説の中にしか無い空想上の産物だと思っていたが、この学校の男子生徒達は中々にユニークな発想をしているようだ。

 本日分のそれを手に取った星菜は、同じ場に居合わせた亜美に対して常々思っていた疑問を口にした。

 

「一体、私のどこに魅力があるのでしょうか?」

「うーん……見た目と性格、かなぁ?」

「亜美さん達が思っているほど、私は良い子ではないのですが……」

「でも、女の子もみんな星菜ちゃんのこと尊敬してるよ? 美人だし、勉強もスポーツも出来るし、おしとやかで優しいもん」

「そんな風に見えるのですか……」

 

 自分が女として高い評価をされていることは光栄に思うが、それは学校内での星菜が周囲に対して外行きの態度を徹底し、素の自分を隠し通している結果である。学校内での星菜は、周りから嫌われぬようにとおしとやかな自分を演じているに過ぎないのだ。

 そんな嘘つきな自分が人様から恋愛感情を向けられるのは、相手を騙しているようで申し訳ない気分だった。

 

「手紙ではすぐに謝ることが出来ないですね……直接会いに来れば良いのに」

「あはは……」

 

 思わず、深い溜め息が漏れた。亜美ら友人達はこの下駄箱の光景を羨ましがるが、生憎今の星菜にとっては悩みの種でしかなかった。

 

 中学時代と比べて、星菜の高校生活はあまりにも順調に行っていた。

 教師や生徒からの期待に全て応えてみせる姿は、他者から見れば完璧な優等生にしか見えない。

 しかし、星菜自身は今の自分に大きな不安を感じていた。

 

 ――本当に、このままで良いのかと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アーム式のバッティングマシンから放たれた130キロものストレートを、星菜はコンパクトなレベルスイングで打ち返していく。

 星菜の打撃スタイルは実にシンプルである。マニュアル通りの面白みのない打撃フォームから、最短距離でバットを振り抜くのみ。故に目立った特徴は無いが、それこそが星菜の特徴とも言えた。

 

 恋々高校とパワフル高校の練習試合を観てから、部活後の星菜は頻繁にバッティングセンターに通うようになった。それはやはりストレスの解消が目的であり、バットを振っている時やボールを投げている時だけは嘘偽りの無い本当の自分で居られるからである。

 何事においても、結局は野球から離れられないで居る。そんな自分にもいつかは決着をつけなければならないとは思うが、今の星菜にはその勇気が足りなかった。

 

(……選手に戻ったって、公式戦には出られない。部員の皆に、迷惑を掛ける……)

 

 かつて何もかもが嫌になって、その苦しみから逃れるように野球部を辞めた。そんな自分が今更選手に戻ったとしても、同じ過ちを繰り返すだけだ。星菜はそう思ったからこそ、高校では選手にならなかったのである。

 この「迷い」も、いい加減に断ち切らなければならない。

 泉星菜は竹ノ子高校野球部のマネージャーであり、それ以上でもそれ以下でもないのだから。

 マネージャーにはマネージャーとして求められている役割があり、今のところは選手達もマネージャーとしての自分を受け入れてくれている。対して半端に実力のある女性投手など、居ても扱いに困るだけだろう。

 

 ――それに、何よりも。

 

(……同じ場所に立ったって、もうアイツと同じ物は見れない……だから、もういいんだ……)

 

 ゴツン――と、ラスト三十球目のボールを捉えたバットから鈍い金属音が響く。打球は完全に死んでおり、ボテボテのピッチャーゴロだ。ミート能力には些か自信のある星菜だが、筋肉の少ない細腕故に少しでもバットの芯を外してしまうとこのように初心者並みの打球になってしまうという欠点がある。

 

「ううっ、痛い……」

 

 そのような打球を打てば、当然バットのグリップを持つ両手には気持ちの悪い感触が返ってくる。バッティンググローブでも着けていればその手応えもある程度は緩和出来たのだろうが、生憎にもこの時は素手で行っていた為バットの痺れがモロに襲いかかってきた。

 

(……本当に、何をやってるんだろうな……)

 

 バットを所定の位置に置いた後、星菜は両手を押さえながらその打席から離れた。

 余計なことばかり考えているからあのような情けない打球を飛ばしてしまうのだと、星菜は心の中で猛省する。雑念だらけで打席に立つこと自体が間違っているのだとは理解しているが、性懲りも無く何度も同じ失敗をしてしまう。間違いだとわかっていても、それでも野球以外のことでストレスを解消する術を知らないのが泉星菜という人間だった。

 そんな女性失格者が異性からそれなりに人気があるのだと言うのだから、星菜には解せなかった。

 

(こんな女の子、私が男だったら嫌だけどなぁ……)

 

 星菜は自分が周りから尊敬されるような女性だとは、思っていない。

 野球部を退部して以降、外ではなるべく女らしく振舞っているつもりだが、それでも今こうしてバッティングセンターに居るように、簡単にボロが出てしまう。

 

 野球選手としても、女性としても中途半端なのだ。

 

 高校三年間はずっとこんな感じなのだろうなと、星菜はそれをどこか他人事のように考えていた。

 

「……野球にしか熱中出来ない女の子なんて、普通は誰も受け入れてくれない……」

 

 

 

「なら、君はどうしてここに居るの?」

 

 一人そう独語した諦めの言葉に、自分以外の者から指摘の声が入った。

 それは全くの予想外だが、今の星菜が最も聴きたかった人物の声だった。

 

「――ッ、は、早川さん!」

「やあ、三週間ぶりぐらいだね!」

「……こんばんは」

「うん、こんばんは。ここに来れば、また会えると思ってたよ」

 

 緑色の髪に、意志の強そうな大きな目。

 星菜が声の聴こえた方向へと振り向くと、予想通りそこには早川あおいの姿があった。

 

 今の星菜には、彼女と話したいことがたくさんあった。

 先日の練習試合のことや彼女自身のこと、そして自分自身のことを。

 

 近い立場である彼女と話をすることで、今は少しでも前に進める気がしたから――。

 

 



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小さな前進

 夕日は完全に沈み、時刻は午後の七時を迎えようとしている。

 駅周辺に並び立つ内のとあるファミリーレストランの中では、夕食を摂ろうと訪れた学校帰りの学生達や家族連れの来客達で賑わい始めていた。

 その来客の中に、泉星菜と早川あおいの姿があった。バッティングセンターで出会した二人はその後気の済むまで打撃練習を行った後、あおいが「一緒にご飯でも食べようか」と提案してきたのである。

 星菜はその提案を、二つ返事で受け入れた。元々あおいとは話したいことが山ほどあったのだが、出来ればバッティングセンター内よりも落ち着ける場所で話をしたいと考えていたのだ。その点、ファミレスはまさに打って付けの場所だった。

 入店後窓際のテーブルに着き、財布と相談した手頃な料理を注文した後、料理が出来上がるまでの待ち時間を使って二人はゆっくりと語らうことにした。

 

「この間の練習試合、観に来てくれてありがとね」

 

 先に話を切り出したのは、やはりあおいの方だった。どうやら練習試合の日、あおいはマウンドに居ながらも星菜が球場に来ていたことに気付いていたようだ。屈託のない笑みを浮かべて礼を言う彼女に恐縮しながら、星菜は敬意を込めて言葉を返した。

 

「素晴らしい投球でしたね」

「一点取られちゃったけどね。でもあの試合は、ボクもみんなもかなり調子が良かったよ」

「早川先輩、全ての球種が低めに決まっていましたからね。打線の皆さんもよく振れていました」

 

 星菜による手放しの賞賛の言葉は、お世辞ではなく本心からの物だ。先日パワフル高校との練習試合で見せたあおいの投球は当初の予想を遥かに超えており、辛口の星菜と言えど快く満点評価を与えられるものだった。

 四球を一切出さなかったことも含め、精密な制球力を生かしたあおいの投球は、まるで星菜を喜ばせる為に投げていたように思えるほど好みな内容であった。

 

「……何故、あの試合に私を呼んだのですか?」

 

 しかし知り合い(小波大也)からの噂でご存知だったとは言え、あおいが初対面の人間である星菜に対して自分の登板試合を観に行くように言ったのは不思議に思っていた。その理由を想像出来ないわけではないが、今一度確認しておきたかったのである。

 あおいはその質問に対し、簡潔に答えた。

 

「君のことを元気づけたかったからだね。ボクが投げて、小波君が打っている試合を見せれば、落ち込んでいた君も元気になってくれると思ったんだ」

「落ち込んでいた? ……そう、見えたのですか」

「うん。落ち込んでいたって言うか、悩んでいるように見えたと言うか……君、今すっごく迷ってるでしょ?」

 

 星菜が思っていた通り、あおいはこちらのことを気遣ってあの練習試合に招待したようだ。

 しかしその言葉を受けて、星菜は胸の奥にチクリと何かが刺さったような痛みを感じた。

 

「……何故、そのようなことを言うのですか?」

 

 図星だったのだ。

 あおいの言う通り、星菜は今、迷っている。今だけではない。高校に入学する前からもずっと、星菜は「野球をすること」への迷いを断ち切れていないのだ。

 あおいは頬を緩めながら、しかし真剣な眼差しを向けて応じる。

 

「野球が好きで好きで仕方がない癖に、周りが気になってどうしたら良いのかわからない。ボクもそうだったからね。今の君を見ていると他人事には思えなくて……失礼だけど君の目は、あの頃のボクとそっくりなんだよ」

「………………」

 

 似た者同士、同じ女性野球選手として共感することがあったということか。星菜としてはその心遣いはお節介ではあったが、決して不愉快なものではなかった。

 この人になら、本当にわかってもらえるかもしれない――あおいと相対してみて、星菜にはそう思うことが出来たのである。

 

「ボクも、去年は辛かったよ。野球部に入ってからは体力的な問題もあったし、周りから変な目で見られることもあった」

 

 頼まれたわけでもなくそう語り出すあおいの目は、しかしその話の内容とは対照的に明るい色をしていた。

 不愉快な経験をしてきたことは確かだが、それも今となっては良い思い出だと――そう語っているように見える。

 

「でも、それでも野球が好きだから。ボクは野球部に入って、本当に良かったと思ってる」

 

 曇り一つ無い笑みを浮かべて、あおいはそう言い切った。

 女性選手同士にしか理解出来ない苦しい思いをし続けても、あおいは尚も前を向いて野球を続けているのだ。ただ純粋に野球が好きだからと――たったそれだけの理由で。

 やはり、彼女は強い人間だ。あおいの表情を見て、星菜はつくづくそう思った。

 野球があらゆる障害を乗り越えられるほどに好きだというその気持ちは、今の星菜にも理解することが出来るものだった。しかし理解出来るが故に迷い、悩んでいるのだ。

 その心理を見抜いてか、あおいは星菜に対し容赦無く問い質してきた。

 

「君は、野球が好きなの?」

「好きです」

 

 星菜はその質問に対して、即答だった。

 過去に幾度となく否定され続けてもまだ、星菜は野球が好きなのだ。野球が嫌いになったのなら、今日のように一人でバッティングセンターに通い続ける筈も無い。

 あおいはその返答を聞いて満足そうに笑むと、小さく頭を下げた。

 

「変なこと訊いてごめんね。でも、今の君を見ていると放っておけないんだ。小波君が可愛がっていた後輩だからっていうのもあるけど、ボクは君の助けになりたいと思った。……多分ボクになら、少しでも君の気持ちをわかってあげられると思うから」

「……ありがとうございます」

「お節介かもしれないけど、こんなボクで良かったら力になるから。そうやって、一人で悩まなくていいんだよ?」

「いえ、そんな……」

 

 どこの誰に影響されたのやら、何ともお人好しな先輩である。あおいの言葉は嘘のように甘く聞こえたが、星菜はそれを自分でも驚くほどに快く受け止めていた。

 星菜は本来、半端に高いプライドの為にそう言った哀れみを受けることは嫌いな性格である。しかし近い立場であるあおいが相手ならば、それでも不思議と悪い気はしなかったのである。

 

「そこでボクは聞いてみる。君はどうしたいの?」

「……どう、とは?」

「マネージャーのままで良いのか、選手に戻りたいのかってこと」

「……内角に、厳しく攻めてきますね」

「ごめんね。でもこうでも言われないと、はっきりしないでしょ? うるさい先輩だなぁって思いながらで良いから、ボクに教えてくれないかな」

 

 遠慮なく星菜の「迷い」の核心を突いてくるのは、あおい自身が星菜の立場を理解しているからこそであろうか。女性野球選手の先輩として、例え憎まれ役になってでも今の自分の気持ちをはっきりさせてあげたいと――大方そんなところだろうかと星菜はその意図を察する。

 どこまでも、お人好しな先輩である。しかし言われてみれば、自分には彼女のように強く踏み込んでくる人間こそ必要なのかもしれないと星菜は思った。

 

「……わかりません」

 

 だがあおいに厳しく内角を突かれてもまだ、星菜には本心を曝け出すことが出来なかった。

 それは答えることを渋ったわけではなく、星菜には自分自身の心がどこにあるのかもわからないのである。

 

「……そっか。うん、それでも良いと思うよ」

 

 あおいはその返答に対して残念そうな顔一つせず、それどころか力強く頷いて言ってみせた。

 

「あはは、自分でもどうしたら良いかわからないから悩んでいるんだもん。それがわかれば苦労はないよね」

 

 あおいは自分の掛けた質問の方が間違っていたと、そう言って笑ってみせる。

 星菜にはその言葉が、「まだ焦らなくて良い」と励ましてくれているように聞こえた。

 

「今はわからなくても良いけど……これだけは言わせて。君は確か、野球にしか熱中出来ない女の子なんて誰も受け入れてくれないって言ったよね? でもボクは、そんなことはないと思う」

 

 真剣な眼差しのまま、あおいが星菜の目を見つめながら続ける。

 

「君のことを受け入れてくれる人は、必ず居るよ」

 

 それは泣いている子供を落ち着かせる母親のような、優しげな口調だった。

 あおいの言葉を聞いて、星菜の脳裏には思い当たる存在である一人の少年の姿が浮かび上がってきた。

 ……彼女の言う通り、星菜が野球をすることを受け入れてくれる存在は近くに居るのだ。星菜はバッティングセンターに居た時に呟いた自らの言葉を、心の中で訂正する。

 リトルリーグ時代から面識のある「彼」は、いつだって星菜のことを認めてくれていた。中学時代も不器用でこそあったが星菜の味方をしてくれて、庇い続けてくれたのだ。

 

 ――だがそんな彼すらも、星菜の気持ちを理解してはくれなかった。

 

 彼にならわかってもらえると思っていた。

 彼だけは自分のことを理解してくれると信じていた。

 ある日その信頼を裏切られたと思った星菜は彼にその怒りをぶつけ、以来まともに口を聞いていない。

 

「でもね、待ってるだけじゃ駄目だよ?」

「……っ!」

 

 そんな星菜の心を、直接覗き込んだかのようにあおいの一言が揺さぶってきた。

 

「受け入れてほしいって思っているなら、自分から動かなくちゃ」

「……私は……もう……」

「大丈夫。今からでも遅くない」

 

 ――何故だろうか。

 

 当たり前なことを言われているだけだと言うのに、何故こうも心が震えるのだろうか。

 星菜は自らの身に起こっている異変に、思考が混乱していた。

 それ故に、言葉が出てこない。あおいの言葉に対して何言でも返せるというのに、口では何も返すことが出来なかった。

 

「……あ、あれ? 泉さん?」

「……っ……! だい、じょうぶ……ですっ……」

「いやあの、ごめんね! そんなつもりで言ったんじゃなくて……! ……どうしよう」

 

 何故だろうか、止まらないのだ。

 

 瞳から溢れてくる――大粒の涙が。

 

 

 

 

 

 

 

 思えば今までずっと、誰かにわかってほしかったのかもしれない。

 

 そしてわかってもらえた上で、今の自分のことをはっきりと否定してほしかったのだろうと星菜は思った。

 早川あおいという先輩は、今の星菜にとって道標とも言える存在だった。

 苦しみから逃げることなく、自ら望んで野球をすることを選んだ少女――そんなあおいのことを、星菜は心から尊敬していた。

 そんな彼女に厳しくも温かな言葉を掛けてもらえたことが、嬉しかった。少しだけ、心の中が洗われたような気がしたのである。

 

 しばらくして涙が止まった後、星菜はようやく運ばれてきた料理を味わいながらあおいと話をした。

 今度は悩みとは関係の無い、他愛の無い世間話である。例えば道端で交通事故に遭いそうになった野球部の主将を、その場に居合わせた副主将が「危ないでやんす! ヘアーッ!」と叫んで間一髪で救助した話や、主将と交際している先輩マネージャーの惚気話が最近うるさくなってきた話等、普段親しい友人にしか言わないようなことを話題にした。

 星菜は会話能力に自信がある方ではないが、あおいが聞き上手の上に話し上手だった為、二人の会話は思っていたよりも弾んだ。

 

「それでね、小波君ってば酷いんだよ? ウチのマネージャーや理事長の娘さん、ソフト部の子達からも一斉に言い寄られてるのに、全然気付いてないんだよねぇ」

「あはは、中学時代もそうでしたね。大勢の女子生徒から好意を寄せられていて、近くに居ることが多かった私はその人達によく睨まれていました」

「あ、ボクもそんな感じだよ。別にこっちはそんなんじゃないのにねー」

「あの時は野球に必死でそれどころではなかったので何も感じていませんでしたが、今思うと恐ろしかったですね……」

 

 話の種として巻き込んでしまった数人の野球部員達には心の中で謝りながら、星菜はあおいと談笑する。野球少女として共通の話題を持っている二人は、学校に居る友人達とはまた違った内容で会話をすることが出来るのだ。それが星菜には新鮮で、楽しい時間であった。

 

「泉さん……じゃなくて、もう星菜ちゃんって呼んでもいいかな?」

「はい、どうぞ」

「ありがと。ボクのことも名前で呼んでいいよ」

「わかりました。あおい先輩」

 

 その時間の中で、あおいとは友人関係になれたと思う。友人の定義は人それぞれで、下の名前で呼び合える関係になれば友人だと言う者も居れば、その程度では友人と認めない者も居る。星菜には、あおいが前者の人間であることを信じたかった。早川あおいという人間を、星菜はいつの間にか好きになっていたのだ。

 きっかけはピッチングコーナーでの投球を見てからか練習試合を見た時からかはわからないが、星菜は彼女と友人になりたいと思っていた。

 

(……多分私は、この人のファンになったんだろうな……)

 

 自分には無い強さを、彼女は持っている。

 だからこれから先、少しずつでも学んでいきたいと思う。

 彼女の心の、その強さを――。

 

「さっきの質問ですが」

「ん?」

「マネージャーのままで良いのか選手に戻りたいのかと、先輩は訊きましたよね?」

「うん。でも、無理矢理答えを出さなくても良いんだよ?」

「大丈夫です。……もう、大丈夫です」

 

 自分のことを受け入れてほしいのなら、まずは自分から動く。

 先ほどあおいが言ったその言葉が、星菜の胸に残っている。

 たったそれだけの言葉が、星菜には自分の進むべき道を指し示してくれたように感じたのだ。

 今の自分がすべきことは、バッティングセンターでがむしゃらにボールを打ち返すことではない。

 もっと簡単で、誰にでも出来ることなのだと気付かされた。

 

(そうだ、私は……)

 

 窓の外へと目を移し、星菜は夜の街並みを眺める。

 本来ならば暗闇で何も見えない筈のその道は、辺りの外灯や建ち並ぶ民家の光によって明るく照らし出されていた。

 

「もう、答えは出ているんだと思いますから」

 

 ――その日。

 

 泉星菜ははっきりと、前に進み出した。

 







 星菜のやる気が上がった!▼

 あおい病になってしまった!▼


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恩師と野球少女

 

 

『大丈夫。今からでも遅くない』

 

 その言葉が、星菜の心に小さな勇気を与えた。

 もしその言葉を放った人物が男子の野球選手であったなら、星菜の心に響くことはなかっただろう。それどころか言われた途端、「お前に私の何がわかるんだ!」と激怒していたかもしれない。星菜は己がそう言ったひねくれた性格であることを理解しているつもりだ。

 その言葉を掛けてくれたのが他でもない彼女だったから――同じ立場として傷を舐め合うことも可能な早川あおいだったからこそ、星菜の心は揺れ動いたのである。

 

「……ふふ」

 

 今日は、自分には居る筈がないと思っていた「理解者」が出来た。

 そしてその理解者と、友人になることが出来た。

 

「うへへ」

 

 それはバファローズの神童裕二郎投手がノーヒットノーランを達成した時以上の幸福感を星菜に与え、心では彼女と別れ自宅に帰った今でもその余韻が残っていた。

 寝巻きを纏った星菜はリビングにあるソファーの上でうつ伏せに寝転びながら、右手に持った携帯電話をじっと眺めていた。そんな姉に向かって、それまでテレビで野球中継を観ていた弟の海斗が振り返って声を掛けてきた。

 

「どうしたの姉ちゃん。さっきから携帯眺めてニヤニヤして……ちょっと気持ち悪いよ」

「うん、気にするな。私は気にしない」

「いや、俺が気にするんだって! 大体なんなのその笑い方!? 何か姉ちゃんらしくなくて不気味すぎるんだけど」

「……ん、そうかな?」

「そうだよ!」

 

 帰宅後から延々と携帯を眺めて微笑んでいる姉の姿を不愉快に感じていたのか、海斗は若干表情を引きつらせながらそう怒鳴った。

 だが最高に上機嫌な今の星菜にとって、その程度の雑音は取るに足らないものだった。彼の言葉を適当に流した後も、尚も気にせず携帯画面を眺める。

 

《早川あおい先輩》

 

 そこには星菜がファミレスで交換した、敬愛する先輩のメールアドレスが記されていた。

 

「へへ、やったやった」

 

 両足をバタつかせながら、星菜は一切自重することなく満開の笑みを咲かせる。後ろで弟が何か言っているようだが、全く聴こえない。聴こえないったら聴こえない。星菜は今、完全に自分の世界に入っていた。

 

「……いや、この方が姉ちゃんらしいのかなぁ……」

 

 しかしただ一言、弟が呆れたように呟いたその一言だけは、耳に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分から歩み寄る――その決意をした星菜ではあったが、翌日の土曜日は野球部に顔を出すことすらなかった。

 それは星菜がまた体調を崩したわけではなく、部活動その物が休みだったからである。

 四月上旬に行われた紅白戦以来、本格的に甲子園を目指し始めた野球部の練習は徐々に過酷になり、最近では休日も休みなく練習を続けていた。

 部員達全員に疲労が溜まってきたところで、この土曜日は身体を癒す為の授業も練習もない完全なOFF日となっていたのである。またさらに翌日の日曜日も同じ理由で休みとなっており、野球部にとっては貴重な連休となっていた。

 しかし登校のない完全な休日だからと言っても、星菜の朝が普段より遅くなることはない。この日も登校日と同じ時刻に起床すると早朝から十数キロのランニングに出掛け、心地良い朝日を浴びながら汗を流していた。

 ランニングが終わり、自宅に帰った頃には、既に時計の針は十時を回っていた。後二時間もすれば一日の半分が終わってしまうのが悩ましい限りである。

 

「ふう……」

 

 帰宅した星菜は着替えを持って風呂場へと直行し、温水のシャワーを浴びて身体中の汗を洗い流す。今日一日はこれからも運動をする予定ではあるが、午後に入る前に一旦気分を変えておきたかったのである。大量の汗でシャツがベタつく感覚は昔から慣れてはいるものの、そんな星菜にとっても取り払っておくに越したことはなかった。

 

 シャワーを浴び終えた星菜は上下の下着と着替えのジャージをさっさと身に纏うと、少々空腹を感じていたので台所へと向かった。

 日頃から泉家の食卓を支配している母親ほど美味しい物を作れる自信はないが、星菜には一般家庭に出す味として恥じない程度には自炊出来る自信がある。野球を辞めた後は料理を趣味にしようかと考えたこともあるぐらいだ。恐らくあの時川星ほむらから熱心に誘われることがなければ、友人の奥居亜美と共に料理部に入っていただろうことは想像に難くない。

 頭の中で適当に昼食の献立を考えながら、星菜は台所まで辿り着く。

 

「星ちゃん、ちょっと頼んでもいいかな?」

 

 そして冷蔵庫の中身を調べようとした瞬間、後ろから最も聞き慣れた声を掛けられた。

 

「なに?」

 

 星菜は振り返り、その声が聴こえた方向へと目を向ける。今年で四十路を迎えると言うのに依然艶のある黒い髪に、栗色に澄んだ大きな瞳――そこに居たのは間違いなく、星菜の母親であった。

 その右手は、水色のランチクロスに包まれた長方形の箱を持っている。星菜自身もほぼ毎日使用しているそれを、一目で弁当箱だとわかった。

 登校のない土曜日と日曜日も、母は朝早くから起床して昼食の弁当を作る。それは野球部のマネージャーをやっている星菜の為でもあるが、リトルリーグに所属している弟の海斗の為でもあった。

 今日母が作ったその弁当は、まさしく海斗の為だ。しかしそれが今彼女の手にあるということは――星菜はその理由を察し、苦い笑みを浮かべた。

 

「……海斗、忘れていったの?」

「そうなのよ。あの子ったら寝坊したって言って慌てて出て行くんだもの。星ちゃんこれから外出するなら、ついでに届けてくれないかしら?」

「わかった。河川敷のグラウンドに居るんだよね? まったくアイツは、しょうがないなぁ……」

「助かるわ。車には気をつけてね」

「大丈夫」

 

 母親が時間を割いて作ってくれた弁当を、持っていかずに家に忘れた。そんな親不孝者には後で苦言を呈さなければいけないな、と思いつつも星菜の表情は厳しくなかった。と言うのは他でもない星菜にもまた、かつてリトルリーグに居た頃は今の弟と同じことをしていたからだ。

 人にはあまり言えないが、小学生時代の星菜は相当なやんちゃ者だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おげんきボンバーズ――それが星菜の弟である泉海斗が入団した、リトル野球チームの名前である。「おげんき川」の河川敷に広がる小さなグラウンドを本拠地に構えるそのチームは、星菜にとっては懐かしさの塊だった。

 

(中学時代は一度も行ってなかったけど、ここはあの時のままだな……)

 

 おげんきボンバーズというこのリトルチームは、小学四年生から六年生までの間星菜が所属していた野球チームでもある。当時非凡な才能に加えて肉体的にも成長が早かった星菜は丸林隆など他のチームメイトを圧倒し、五年生からエースに任命されてはチームを引っ張っていたものだ。そして全国大会に二度出場し、いずれも優勝を飾った――という栄光がある。

 過去の思い出は美化されるものとは言うが、それを差し引いても当時の感動は人生最高のものだったと星菜は振り返る。

 弟には自分達のように全国制覇をしろとまでは言わないが、是非ともこのチームで良い経験をしてほしいものだと思う。仲間と共に一つの目標に向かっていくことがどれほど素晴らしいことか……星菜はそれを、他の誰よりも理解しているつもりだった。

 

 

 河川敷グラウンドは、星菜の自宅から割と近い距離にある。

 徒歩にして二十分近く。目的の場所に到着した星菜が一旦立ち止まってグラウンドを眺めていると、小学生特有の甲高い掛け声が聴こえてきた。

 自分よりも身長が小さい少年野球選手達が、地面を転がってくる打球を捌いて一塁へと送っている。弟が所属しているリトル野球チームは現在、内野のポジション別で守備練習を行っていた。

 

「え……?」

 

 その光景を見て、星菜は目を大きく見開く。

 それは少年達の行っている練習に対して驚いたからではなく、少年達に向かって打球を飛ばしているノッカーの姿が見知った人物だったからである。

 

「ファースト、もっと足を伸ばして捕れ」

「ハイッ!」

「セカンド!」

「お願いします!」

 

 少年達に守備動作を指導しながらノックを行っているその人物は、星菜は昨日も顔を見ている。

 黒紫色の髪と凛々しい顔立ちが特徴的なチームの正捕手――六道明。竹ノ子高校の野球部員であった。

 

「六道先輩が、なんでここに……」

「おや? 年若いおなごがこんなところに来るとは珍しい」

「あ……」

 

 星菜はしばらく彼の姿を呆然と眺めていたが、不意に横合いから掛けられた声によって思考が切り替わる。

 声の方向に顔を向けるとそこにはいつから居たのか、野球のユニフォームを纏った老人が杖をつきながら立っていた。

 その老人は星菜にとって、これが初対面の人物ではない。それどころか小学校高学年の頃は毎週のように顔を合わせてきた人物であり、星菜がこの世で最も尊敬している野球の恩師であった。

 

「監督っ!」

「ほえ?」

「監督、まだ監督を続けていらしたんですね!」

「お、おおぅ? はて……前に会ったことがあったかね?」

「私です! 泉星菜です! もしかしてお忘れに……?」

「泉……泉星菜? 星菜って言ったらあのお転婆娘で……うえええ!?」

「あはは、その星菜です」

 

 懐かしい顔を見たことで気分が高揚し、自然と頬が綻ぶ。そんな星菜に対して目の前に居る老人――おげんきボンバーズの監督が、普段は糸のようになっている目をクワッと見開いた。

 その老体に響きかねない大層な驚きぶりに苦笑しながら、星菜はペコリと一礼して挨拶を交わした。

 

「おお~、こりゃおったまげたわ! あの悪ガキが、こんなに立派になって」

「はは、監督はお変わりないようで」

「ホッホ、たった三年じゃわしは変わらんよ。お主が変わりすぎなんじゃよ。偉いべっぴんになってたもんだから見違えたわい。せっかくナンパしようと思ったのに」

「……本当に、お変わりないようで」

 

 星菜にとっては時間にして三年以上ぶりの再会であったが、八十年以上も生きているこの老人にとってはその程度の時間はそう懐かしむほどのものではないのだろう。少しだけ不安に思ったが彼は自分のことをしっかりと覚えているようで、昔と変わらない様子に星菜は安堵した。

 

「今日は、弟にお弁当を届けに来たのです」

「おお、海斗か。そう言えばあやつ、お主の弟じゃったな」

「今、どこに居ますか?」

「あそこ」

「ん? ああ、本当だ。では、終わるまで待ってて良いですか?」

「おう、好きにせい」

 

 懐かしい恩師と再会したことで星菜は昔話に花を咲かせたいところだったが、この場所を訪れた当初の目的を思い出し、一歩踏み止まる。

 星菜は再度グラウンドに目を移し、監督が指差したセカンドの守備位置を確認する。数人が一列に並んでノックの順番を待っているその場所では、確かに星菜の弟である泉海斗の姿があった。

 

「アイツ、上手くやっていますか?」

「お主に仕込まれたのかは知らんが、新入りにしちゃ中々やりおるよ。まあお主よりは素直なんで、教える方としちゃ助かっとるがな」

「あはは……やっぱり私、問題児でした?」

「おうよ。お主、わしの言うことよりも小波の言うことの方が聞いてたからな。面倒臭くて敵わんかったわい」

「あの時はすみませんでした。ぶっちゃけて言いますと、あの頃の私は監督のことを舐めていたんです」

「じゃろうな。わしのことを監督じゃなくて「まさる」と呼び捨てにした選手なんて、後にも先にもお主しかおらんわ」

 

 正面に、右に、左に。ノッカーの六道明が一打ずつバウンドを変えながら、ポジション別に打球を転がしていく。どれも飛びついて捕るような難しい打球ではないが、基礎を固めていくには効果的な打球である。

 内野手にはヒット性の当たりよりも、簡単な当たりこそ手堅く抑えてほしいものだと星菜は考えている。難しい打球を難しい場所に飛ばされてしまうのは、打たれた投手が悪い。故に、内野手がそれを捕れずにヒットにしてしまうのは仕方がないことだ。しかし、内野手のイージーミスで簡単な当たりをエラーもしくはヒットにされてしまうのは、投手にとって精神的にきついものがある。ファインプレーは要らないが、イージーミスはするな。それが星菜の、守備に関しての考え方だった。

 

「そういや、お主ももう高校生か……あの頃はって言うのは、今はもうわしのことを舐めておらんのか?」

 

 ノッカーの六道明も自分と同じ考え方なのかなぁと考えていた星菜の思考は、老人からの質問によって中断させられる。

 星菜はグラウンドを眺めながら数拍の間を空けると、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 星菜は当時、彼の下で野球をしていた頃のことを思い出す。

 小学生時代の星菜は誰がどう見てもやんちゃな性格だった為、彼には随分と迷惑を掛けてきたものだ。しかし幼い星菜は彼に叱られる度に反発し、教育者である彼の気持ちなど全く理解しようとしていなかったのである。

 そのことを星菜は今更ながら、申し訳なく思っていた。

 

「このチームに入って監督の下で野球が出来た私は、本っ当に幸せ者でした」

「……そういうことは、三年前に言ってほしかったのう」

「その後の三年間で思い知らされたんですよ。監督が私にとって、いかに素晴らしい指導者だったのかって」

 

 このチームに居た頃の星菜は、自由その物だった。

 何にも縛られることなく、まるで猫のようで。

 ただ投げて、打って、走って――自分が好きなことを思うがままに行い、結果を出し、仲間達と笑い合うことが出来ていた。

 人は失ってから、初めて気付されることが多いと言う。星菜にとってのそれは、まさしく「純粋に野球に打ち込める」ことへの幸福感であった。

 当時の星菜は、それが特別に幸福なことだとは考えていなかった。しかし中学に上がってからの三年間で失ってしまった今になって、自分にそんな時間を与えてくれた恩師のことを敬えるようになったのだ。

 

「……今になってそんなことを言うってことは、お主も色々あったんじゃな」

「はい。色々ありました」

「そりゃあ、性格も丸くなるってもんよのう。じゃがはっきり言うとちょっと寂しいぞ、今のお主を見てると」

「そう、ですか……」

 

 長年リトルリーグで監督をやっていれば、今の星菜のような人間も他に見たことがあるのだろう。彼は多くを語らずとも星菜の中学時代を察してくれたらしく、グラウンドの方向を眺めながらも労わるような表情を浮かべていた。

 

「だからわしは言ったんじゃよ。白鳥中だけはやめとけって」

「でも、あの中学に行ったことは後悔していませんよ。他の中学では、あそこほど現実を知れなかったでしょうし」

 

 過去を振り返ってみて、あそこでああすれば良かったと思えばキリがない。後悔だらけの人生だが、その分学ぶことが多かったのは確かである。

 そう、白鳥中で過ごした時間は、決して無駄なものではなかった。

 

(……そう考えられるようになったのは、あおいさんのお陰なのかな)

 

 三年前までは、女である自分が野球を続けていくことがそこまで過酷なものだなどとは思っていなかった。幼い故に、立ちはだかる壁に対して無知だったのである。

 そこにあるものがいかに巨大な壁かを知ることが出来たという点では、中学の進路選択に失敗したとは考えられない。それは間違いなく、星菜にとって今後の為になる経験だったからだ。

 

 ――ああ、その通りだ。

 

 星菜は最近になって気付かされた。自分はずっと、目の前の壁から逃げ続けてきたのだと。

 そんな星菜だからこそ、その壁に真っ向から立ち向かっていく存在が――早川あおいのことが、眩しく見えたのである。

 今の自分がどうするべきか、彼女のお陰で少しだけ見えてきた。だが、まだ足りない。

 星菜は非常に厚かましくはあるが、かつて世話になったこの恩師から何か助言を貰えれば、さらにもう一歩進めるのではないかと思っていた。

 

「その現実は、どんなものじゃった?」

「辛いことや悲しいことばかりで、泣いてばかりでした」

「ふむ。まあ、人生なんてそんなもんじゃよ」

「だけど私は逃げたくなくて……まだ、心では諦めたくないんです」

「そうか」

「野球は、一度辞めました。でも、私はまだ好きなんです! 野球をやりたいんです!」

 

 また甘えるのか? と頭の中でもう一人の自分が責め立ててくる。

 それに対し、これで最後にすると誓う自分が居る。

 他人に甘えてでも、星菜は自分自身への答えを早急に出したかったのだ。

 

「……私は、どうすれば良いのですか?」

 

 感情が昂ぶり過ぎている為か、口から出てくる言葉は支離滅裂で、傍からは何を言っているのかわからないかもしれない。

 彼がこの問いに対して「わからない」と返してくれるのなら、それでも良かった。星菜はただ、今の自分に対して何か一言でも言ってほしかったのである。

 

 しかし恩師が返したのは――小さな笑みだった。

 

「お主、もうわかっとるじゃないか」

 

 労わるような表情から一転し、彼は意地の悪そうな微笑を浮かべる。

 そして何を思ったのか、グラウンドに居る誰かに向かって手招きをし始めた。

 

「おうい六道! ちょっとこっち来なさい」

「はい」

「お主じゃない! 妹の方じゃ!」

「監督。私は妹じゃなくて従姉妹なのですが」

「それはわかったからこっちに来なさい」

「……はい」

 

 監督の呼び掛けに応じ、ノックを行っていた六道明がその手を止める。

 すると彼の傍ら――キャッチャーの守備位置に立っていた少年が、駆け足で向かってきた。

 

「……!」

 

 少年がこちらへ近付き、その顔がはっきりと見えるようになった瞬間、星菜は驚きに目を見開いた。そんな星菜の反応を面白がり、監督はホッホッホといかにも年寄りめいた笑い声を漏らした。

 端麗で中性的な容貌に、日本人形のような色白い肌。黒紫色の長髪を一束に纏めており、瞳は大きく、色は赤い。心なしか少々不機嫌そうな表情を浮かべている彼――いや、「彼女」は、少年ではなく「少女」だったのである。

 

「八十二年間も野郎で生きているわしには、おなごのお主が考えとることなんてさっぱりわからん」

 

 少女を呼び寄せたおげんきボンバーズの監督は、星菜に対し意味深な笑みを浮かべながら語り出す。

 

「人一倍気が強い癖に、肝心なところで臆病になるんじゃよなぁお主は……」

「………………」

「ほれ、これやるよ」

 

 星菜は彼の意図を読み込めずにしばらく困惑していると、不意に球形状の物体を手渡された。

 硬い手触りに、ほんの小さな弾力――長年慣れ親しんでいるその感触から、星菜には直接目を向けずともそれが野球のボールであることがわかった。

 

「……監督」

「悩みはいつも、それで解決してきたじゃろ。わしに頼るのも結構じゃが、今回はそっちの方が手っ取り早いかもしれんぞ?」

 

 何故これを手渡してきたのか――そう問おうとした星菜だが、直後に掛けられた言葉によってなるほどと納得した。その時星菜が抱いたのは何の取っ掛りもなく、あっさりとすり抜けていくような感情だった。

 星菜が両手でボールを弄んでいると、監督は自身の元に呼び寄せた黒紫色の髪の少女に向かって告げた。

 

「六道よ、ちょっとばかしこっちのお姉さんと勝負してみないかね?」

 

 ――その言葉に対する少女の返答は、星菜の「野球少女」としての分岐点であった。

 

 

 



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六道聖

 

 六道(ろくどう) (ひじり)は野球少女である。

 現在十一歳の小学六年生であり、おげんきボンバーズ年長者の一人だ。

 黒紫色の髪と赤い瞳が特徴的な容姿で、顔立ちは小学生のものとは思えないほどに凛々しい。性格も同学年の子供と比べ非常に落ち着いている為、周りからの評判はすこぶる良好である。

 将来を期待出来る大和撫子、というのが彼女と相対した者の誰もが受ける印象であろう。そんな華奢な少女がリトルリーグに所属している野球選手だと知った者は、皆大いに驚くものだ。聖の実家が「西満涙寺」と呼ばれている歴史ある寺院だということを知る友人達からは、揃って「野球のユニフォームよりも寺で遊んでいる姿の方が似合っている」などと言われる。

 

 聖自身、一年前ぐらいまではボールと言えば野球のボールではなく、真っ先にお手玉が思い浮かぶような娘だった。

 そんな聖が野球と出会ったきっかけは、四つ上の従兄にある。

 六道明。聖が思うに自分を男にして年齢通りに成長させればこうなるのだろうなという外見の、現在十六歳の従兄である。従兄ではあるが中学時代までは他地区に住んでいた為、聖は彼とそれほど交流があったわけではない。しかし彼は高校入学を期に「通う学校が近いから」という理由で聖の家に居候を始め、聖にとって良い兄貴分として接してくれていた。

 聖が野球に興味を持ったのは、彼が野球をしていたからだ。

 ある日偶然彼の練習風景を目撃した時、聖は今までに感じたことのない激しい衝動に駆られた。

 

 その時までテレビ中継すら観ることのなかったスポーツ――野球。

 

 その競技に聖は魅了され、心を奪われた。

 自分もやってみたいと。ボールを投げて打って、捕ってみたいと。

 要するに、聖は「野球」という競技に一目惚れしたのである。それは間違いなく、聖の初恋だった。

 

 小学五年生の春。聖は両親に頼み、地元にあるリトルリーグの野球チームへと入団した。両親からは女子が野球を行うことに対して難色を示されるかと思ったが、その心配は杞憂に終わり、意外にもすんなりと許可を下ろしてくれた。いわくしっかり者の娘が珍しく頼み事をしてくれたことが嬉しかったのだと――聖の日頃の行いが功をなした結果である。

 

 それからの聖は、毎日が幸せだった。

 

 打撃も守備も、初めは思うようにいかなかったことが練習を経て出来るようになっていくのは今までに体験したことのない快感であり、聖は思う存分に野球を学び、楽しみ続けた。

 入団したチームの老人監督の田中まさるは、聖には凄まじい才能があると褒めてくれた。それもその筈、聖は野球を始めてたった一年で上級生すら凌ぎ、チームのレギュラーになってしまったのだ。

 正ポジションは内野手の送球を捕球するのが主な仕事の一塁手(ファースト)である。まさるは聖に対し、既にチーム一の捕球能力を持っていると言った。聖にとっても、野球の中でボールを捕る瞬間こそが最も好きなことだった。

 一年間の経験を積み、最上級生である六年生となった現在は、別のポジションである捕手(キャッチャー)へと挑戦している。聖は投手と共に相手打者と戦っていくこのポジションに対し、一塁を守っている時以上のやり甲斐を感じていた。コンバートは順調この上なく、現時点でも聖は今の正捕手よりも守れると確信している。

 

 そのように女子の身でありながらも短期間の内にメキメキと実力を付けていく聖に対し、監督のまさるがある日こんなことを呟いた。

 

『まるで、泉星菜のようじゃなぁ……』

 

 それが、聖が初めて泉星菜という存在を知った瞬間だった。

 その呟きを聞き逃さなかった聖がすかさず詳細を訊ねると、その人物は聖の先輩団員であり、ボンバーズの黄金期を支えたエースピッチャーだったと説明される。

 いわく聖同様女子の身でありながらも卓越した野球センスを持ち、打てば打率六割を超え、投げれば防御率0点台を記録したまさに神童と言える選手だったと。

 その半面性格は男勝りのじゃじゃ馬で、聖のように落ち着いた性格の優等生ではなかったが、飲み込みの早さや野球に対して誰よりも楽しんで打ち込む姿などは聖と姉妹のようにそっくりだったと語った。

 

 凄腕の女子野球選手の先輩――そんな話を聞けば、好奇心旺盛な年頃である聖が興味を抱くのは当然のことだった。

 

 いつか会ってみたいなと、その時の聖は思ったものだ。

 

 

 

 

 

 その出会いは、思ってもみないところで訪れた。

 

 練習中にまさるから呼び出しを受けたことで聖は些か不機嫌だったが、彼の横に居る人物を前にした途端、思考が切り替わる。

 聖より幾つか歳上の――従兄と同じぐらいの年齢だろうか。まさるの横に立っていた人物は、身に纏うジャージが不釣り合いに思えるほど華やかで美しい少女だった。

 

「こんにちは」

「――こ、こんにちはっ」

 

 同性とは言え、間近で対面すれば思わず見とれてしまうような容姿である。彼女から先に言われると聖は遅れて挨拶を交わし、その横に立つまさるへと目を移す。

 

「監督、それはどういう……」

「ホッホ、言った通りじゃよ。こっちのお姉さんと勝負してみないかね?」

 

 勝負? なにそれ?

 それが、まさるから告げられた言葉に対する聖の心の声である。

 勝負と言うのは、まさか彼女と野球をしろと言うのだろうか。その見た目から野球などとても出来そうにない清楚な少女へと目を向けた後、聖はまさるの顔を怪訝な目で覗った。

 そして次の瞬間、彼の口から爆弾発言が飛び出してきた。

 

「ほれ、この間話した泉星菜じゃよ。この姉ちゃんがそれじゃ」

 

 その思いがけない発言に、聖は目を見開く。

 すると、少女が意外そうな顔でまさるの目を見つめた。

 

「監督、もしかして私のこと噂してました?」

「うむ。この子にお主の問題児ぶりを話して反面教師にしろって言ってやったわい」

「酷っ! でも、確かに話してくれた方がこの子達の為になりますね」

「ほう。そこで怒鳴らないとは、お主も冷静になったのう」

「あはは、私だって成長していますよ」

 

 彼女の反応は、まさるの発言を肯定するものだった。

 聖が想像していた人物とはあまりに掛け離れているが、この少女は本当に泉星菜だったのだ。

 

「君は、キャッチャーをやってるの?」

「は、はい。今年から挑戦している……います!」

 

 聖はつい普段の調子で話しそうになったが、彼女から掛けられた問いに対して背筋を正して応じる。

 彼女が噂に聞いた泉星菜であるのなら、同じ女子選手である聖にとって尊敬すべき人物であるからだ。自分よりも上と思った人間には相応の敬意を払うのが、聖の主義だった。

 聖の返答を聞いた泉星菜は目を細め、柔和に微笑む。

 

「野球は楽しい?」

「はい。他の何よりも大好きだ……大好きです!」

「そっか。私も好きだよ。だけどその気持ち、忘れないでね」

「え?」

 

 それは思わず吸い込まれそうになる綺麗な笑顔だったが、一瞬で消えてしまいそうな儚さを併せ持っていた。

 西満涙寺という寺院の家系に生まれたこともあり、聖は幼少の頃から他人の感情に機敏な人間だと言われてきた。そんな聖だからこそ、その笑みに含まれた感情を深く読み取ってしまった。

 

(何故、そんな顔をする……?)

 

 それは懐かしさと悲しさが入り混じったような、物寂しげな感情で――彼女が何故そのような顔で自分を見つめるのか、聖にはわからなかった。

 聖は野球が楽しいかと問われれば、全力で肯定するまでだ。しかしそのことが、何故彼女にかの感情を抱かせるのかが理解出来ない。

 

「将来は、プロ野球選手になるの?」

「はい。女子のプロ選手はまだ居ませんが、私は目指しています」

「……やっぱり、そうなんだ。頑張ってね」

 

 理由は何もわからない。

 彼女が初対面である自分に対し、何を見ているのかはわからない。

 だが、この時聖は思った。

 

「貴方に言われなくても、頑張るぞ……」

 

 ただ、不愉快だと。

 その哀れむような眼差しが。表情が。

 言葉では応援してくれているが、聖には彼女が女子である自分がプロ野球選手を目指していることを滑稽に思っているように感じたのだ。

 

(私はプロを目指すぞ。それが何だと言うのだ……)

 

 過去に聞いたまさるの話によれば、泉星菜は激しい情熱と確固たる信念、屈強な意思を持つ人物だった筈だ。

 それがどうしても、今目の前に居る人物と当てはまらない。哀愁の篭った眼差しと言い、触れればかすれてしまいそうな儚さと言い、噂とはことごとく真逆に見えるのである。

 

 期待を裏切られたのか?

 そもそも、この人は本当に泉星菜なのか?

 

 そのような疑念が聖の心に立ち込めるのも、ここに居る彼女の様子を見れば当然であった。

 

「監督、やるぞ」

「良いの?」

「貴方のことは噂に聞いています。是非、私と勝負してください」

「ふふ……こちらこそ、お願いするね」

 

 まさるの提案を受ければ、このモヤモヤした感情も取り払われるのだろうか?

 彼女と勝負してみれば、何かがわかるのだろうか?

 元々数多の噂話から泉星菜に対して強い興味を抱いていたのもあり、聖は躊躇うことなく勝負の提案を受けた。

 少女が満足そうに笑み、優雅に一礼する。

 

「私は泉海斗の姉の、泉星菜と申します。よろしくね」

 

 その笑顔に危うく調子を狂わされそうになりながらも、聖は「六道聖です」と遅れて自己紹介を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グラウンドの端にて、星菜は六道聖との対戦の準備に取り掛かる。

 服装は元々ジャージを着ていたので問題なく、一時間以上休んではいたものの早朝からランニングに出掛けていたので身体の方も十分に温まっている。そんな星菜に今必要なのは、キャッチボールによる文字通りの肩慣らしであった。

 左腕を上から下へと振り抜き、白いボールを投げつける。そしてキャッチボールの相手である六道明から投げ返されたボールを、右手に装着した小さめのグラブで受け止める。このグラブは、同じ左利きである弟の海斗から借りたものだ。その海斗は現在キャッチボールをしている姉の横で、いかにも不服そうな目を寄越していた。

 

「なんで姉ちゃんがここに居るのさ」

「お前が忘れてきたお弁当を届けに来たからだよ」

「……いや、そうじゃなくて、なんで親方と勝負することになってるんだよ?」

「うーん、成り行き?」

 

 徐々に距離を開けながら、星菜は左肩を大きく使ってボールを投げる。

 肩肘に違和感は無い。中学まで野球をしてきて大きな怪我をした経験が一度もないこともまた、星菜の投手としての強みだった。

 

「ってか親方って誰のこと? もしかしてあの子のことを言ってるの?」

「うん、六道聖親方。なんか貫禄が凄いし、キャプテンより偉そうだからってみんなそう呼んでるよ。実際キャプテンよりキャプテンっぽくて頼りになるし」

「……女の子に対して、酷いあだ名を付けるな」

「いや、でもあの人案外気に入ってるよ。格好良いあだ名だって」

「そ、そう……」

 

 まさるから紹介された野球少女、六道聖との対戦は一打席勝負となっている。勝負の最中は少年達の練習を止めてしまう為、あまり多くの時間を掛けるわけにはいかないからだ。

 監督の田中まさるからはいっそ星菜を打撃投手にしたフリー打撃練習という名目でチーム全員に打たせれば問題無いと言われたが、星菜が断った。今の星菜は、ただ六道聖との対戦だけに集中したかったのである。

 

 ――六道明の従妹、六道聖――。

 

 当時の自分よりも遥かに落ち着いた性格のようだが、彼女の目には奇妙な既視感を覚えた。

 純粋で、真っ直ぐな目をしていて。その上確固たる自信に満ちている。後に訪れる過酷な運命を知らなかった頃の、無垢な自分にそっくりだったのだ。

 故に彼女の姿を直視するのが心苦しく感じ、どうにも変な表情を浮かべてしまったものだ。

 星菜には初対面である筈の彼女のことが、あおいと出会った時と同様に赤の他人とは思えなかった。

 彼女は何の逡巡もせずに、プロ野球選手を目指していると言った。彼女がどれほどの選手なのかは知らないが、それもまたリトル時代の星菜と同じである。

 女子野球選手である以上、いずれ彼女も自分と同じ道を辿ることになるのだろう。しかし、本当の問題はその後の彼女が早川あおいのようになるのか、はては自分のようになるのかにあると星菜は考えている。

 

(……よし、決めた)

 

 人付き合いに自信のない星菜には、尊敬する先輩のように他の野球少女を導くようなことは出来ない。

 しかしそんな星菜にも、彼女が自分のような不抜けた人間にならない為にと出来ることはあった。

 

「六道先輩、もう大丈夫です。グラウンドに行きましょう」

「わかった。サインはどうする?」

「あちらで決めましょう」

 

 星菜は六道明とのキャッチボールを切り上げると、マウンド上へと駆け足で向かっていく。

 様々な思惑は別として、星菜は長らく行っていなかった野球の対人戦に胸が高鳴っていた。

 



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言い訳をする人間に進歩はないぞ

 

 まさか彼女が――というのが、マウンドに上がった星菜に対する六道明の心境である。

 かつてリトルリーグでの栄冠を欲しいままにした泉星菜という野球少女の存在を、聖の従兄である明もまた耳にしていた。

 明はこのおげんきボンバーズのOBというわけではないが、自身が可愛がっている従妹が入団したリトル野球チームという縁から、部活が休みの日には今日のようにコーチとしてチームの練習に顔を出すことがあった。その折に、明もまさるの口から彼女の噂を聞いていたのである。

 しかし今日まで、明は件の「泉星菜」が自分の所属している高校野球部のマネージャーと同一人物だとは思っていなかった。

 もちろん、その名が同姓同名であることから彼女のことを連想しなかったわけではない。それでも明が二人を同一人物だと思わなかったのは、まさるの言う「泉星菜」と明の知る「泉星菜」とでは明らかに性格が異なっているからであった。

 まさるの話によれば泉星菜という少女は監督のことを呼び捨てで呼ぶような礼儀知らずの上に、普段から口やかましくて男勝りな少女だったとの話だ。

 しかし明の知る泉星菜は誰に対しても丁寧な言葉遣いで、物腰柔らかく儚げな印象が強いおしとやかな少女である。

 その二つの性格があまりにも対照的であることから、明は二人のことを関係の無い別人だと思っていた。

 しかしその認識が、この場で覆されてしまった。

 お姫様のように可憐な自分達のマネージャーが、まさか凄腕の野球選手だったなどとは――明には想像も出来なかった。

 キャッチボールをするまではやはり別人ではないかと疑っていたものだが、今となってはもはや認めるしかない。

 

(……確かに、良い球を放る)

 

 捕手として彼女のボールを受けてみれば、その実力が並大抵の物でないことがわかる。しなやかな腕の振りと言い、完璧な体重移動と言い、投球フォームの完成度は竹ノ子高校のエースである波輪風郎と比べても遜色無く、部の正捕手である明の目から見ても文句の付けどころがなかった。

 球速は高校野球公式戦を基準にすれば遅いかもしれないが、まだ高校一年生であることを考えればそれでも十分な速さである。加えて何よりも、無駄のないオーバースローから放たれるボールは非常にコントロールが良かった。

 これらの要素と左腕であることも考慮すれば、はっきり言って青山才人や池ノ川貴宏などよりも使えそうな投手である。後はまだ見ていない変化球のレベル次第だが、彼女が「選手」だったならば茂木監督も喜んで彼女を二番手投手に任命したことだろう。

 

(歯がゆいな……いや、だからこそマネージャーに甘んじているのか)

 

 彼女の姿と投げるボールを見比べると、驚くよりも現実味を感じられず、やはり信じられないものだ。女性としても細身なあの体格でこれほどのボールを投げられるまでに、今まで一体どれほどの練習をしてきたのだろうか? 少なくとも、並大抵の努力ではなかった筈だ。

 彼女の実力は、波輪以外の選手が心許ない竹ノ子高校の野球部員として申し分のないものである。特に現在悩まされている投手不足問題を解消する為には、是非とも戦力になってほしいと声を掛けたいところだった。

 

 しかし、彼女の性別は「女」である。

 

 たったそれだけのことが、あまりにも重い足枷だった。

 高校野球連盟が定めた規定は、女子選手が公式戦に出場することを許していない。最近ではそう言った規定の改正を求める声も上がっているようだが、それで彼らの腰が上がるかと言えばやはり絶望的だった。

 

(くだらない話だ……)

 

 明はその規定を、あまり良い物だとは考えていない。

 野球は男子のスポーツであり、女子にはソフトボールがあるからというのがあちら側の言い分であろう。

 だが彼女らの野球をやりたいという純粋な思いを、たったそれだけの理屈で踏みにじってしまって良いものなのだろうか。

 時代は変わっていくものであり、近頃は高校の野球部でも男子に混じって練習を行う女子部員達の姿も多い。少数だからと言って、彼女の存在を蔑ろにして良いものなのかと疑問なのだ。

 確かに肉体の構造上、基本的には女子よりも男子の方が身体能力は高い。正々堂々とレギュラー争いを行った結果、男子に能力で劣る女子が試合に出られないのならば、それは仕方のないことだと思う。しかしレギュラー争いに勝った筈の女子部員までも、そう決まっているからとベンチにすら入ることが出来ないのは――明にはどうしても、理不尽に思えた。

 

(プロが高校野球に出るのとは違う。同じ野球部員である女子が高校野球に出るのが何故悪いのだ? これでは、聖だってプロになれない……)

 

 一高校球児に過ぎない明が強くそう思うのは、自身が可愛がっている従妹がプロ野球選手を目指す野球少女だからである。

 従妹――聖が野球を始めるきっかけを与えたのは明であるが、彼は彼女に秘められた桁外れの才能を見抜いていた。

 決して、身内びいきなどではない。明は聖のことを、自分などでは足元にも及ばない天才だと確信している。彼女のプレーを時にコーチとして間近で見てきた明は、その異常な成長スピードに戦慄すら覚えていた。

 まだ自分の得意分野であるキャッチングに関しては遅れを取る気はないが、打撃に関しては既に自分を超えているのではないかと思っている。野球を始めてたった一年弱の小学生が、小中高と野球を続けてきた高校生よりも打てるようになったのである。明には聖の成長が、我が従妹ながら末恐ろしくなっていた。

 彼女は間違いなく、プロ選手になれる逸材だ。そのような存在が古くから定められている理不尽な規定で苦しむ光景など、明には想像したくもなかった。

 

「ラスト三球、お願いします」

「わかった」

 

 ――ああ、だからなのか。

 

 顔を上げ、明は悟る。

 今現在マウンドに立っている少女の姿は、その苦しみを味わったからこそ儚いのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六道聖という少女がどれほどの実力を持っているのかはわからないが、彼女はあくまでリトルリーグの小学生である。しかし星菜は現在高校一年生の身であり、さらに「前世の記憶」を上積みさせれば野球経験の差は天と地以上もの開きがあった。

 まさる監督は勝負と言ったものの、星菜は彼女に対して全力で投げる気は全く無かった。

 

「変化球のサインは要りません。今回私は、ストレートしか使いませんので」

 

 星菜がマウンドに上がって投球練習を始める前に、捕手役を務めてくれることになった六道明に向かって放った言葉である。

 それを聞いて、明が僅かに眉間をしかめた。

 

「それは、相手が小学生だからか?」

「いえ、そういうわけではありませんが……」

 

 明は従妹の実力を侮られているのだと思ったようだが、星菜からしてみればそのようなつもりは欠片もない。ただ星菜は自分がこの対戦で「すべきこと」を決めた際に、ある程度自身の投球に制限を付けておく必要があると判断したのである。

 この勝負では、変化球は使わない。

 加えて星菜は本来の投球フォームである「招き猫投法」を封印し、あえてオーソドックスなオーバースローで投げる予定だった。

 それは決して、単なるハンディキャップというわけではない。

 星菜には、そうしなければならない理由があるのだ。

 

「私は野球少女の先輩として、従妹さんには中学野球の壁を感じさせたいのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対戦の時が、訪れた。

 投球練習のボールを見た限り、泉星菜のコントロールは噂通りに良いようである。

 六道聖は愛用の金属バットを持ってニ、三回ほど素振りをすると、ゆっくりと右打席へと向かう。その手前まで来たところでヘルメットを外して丁寧に一礼した後、聖はヘルメットを被り直し、バットを上段に構えた。

 

「……どうぞ」

「では、投げますね」

 

 聖が打撃フォームに入り準備が整ったところで、マウンド上の泉星菜が投球動作に入る。

 その瞬間から聖は目つきを変え、彼女の姿を鋭く睨んだ。

 大きく振りかぶり、投球練習で見たものと変わらないオーソドックスなオーバースローから、彼女が一球目を投じた。

 

「ストライク」

 

 風を切り裂いて通過していくそのボールを微動だにせず見送った聖の耳に、受け止めた捕手の口から判定の声が聴こえた。

 外角低め(アウトロー)一杯に決まったストレートは、実に際どいコースであった。

 聖はその判定を一切不服に思うことはなく、即座に次のボールへと意識を切り替える。捕手からボールを投げ返された泉星菜もまた、早いテンポで二球目の投球動作へと移った。

 左腕から放たれたボールは、先ほどとはほんの少しだけ軌道がずれていた。

 

(今度は……半個分足りない)

 

 左足を上げてタイミングを合わせた聖は、出かかったバットをスイングに入る寸前の位置で止める。

 そしてボールが乾いた音を立ててキャッチャーミットに到達した瞬間、審判兼捕手である従兄が感心げに呟いた。

 

「よく見れるな……」

「際どいが、ボール半個分だけ外れていると思った。当たっているか、明兄さん」

「ああ、その通りだ。今の球は当たっても内野ゴロだろうな」

 

 泉星菜の球はゆうに100キロを超えており、聖達が行っているリトルリーグの試合では見たことのない速さである。

 しかし聖はその速球に対して何ら動じることなく、機械のように冷静にボールの軌道を見切ることが出来ていた。

 そのメンタリティーの強さ、集中力の高さこそが天才野球少女たる六道聖の才能であった。

 

(外のコントロールが、良い)

 

 そして、小学生離れした分析力を持っている。

 事前の投球練習と、実際に打席に立って見送った二つのボールによって、聖は星菜の特徴である制球力の高さを見抜いていた。今彼女が投げたボールも綺麗に整った投球フォームや投球練習中から安定し続けているリリースポイントの位置から分析して、ストライクを狙ってストライクゾーンを外れたわけではなく、凡打を誘う為にあえて際どいボール球を投げたのだと悟った。

 

(なら少し、ベース寄りに立つか……)

 

 外角一杯に110キロ以上ものストレートを投げられては、小学生の力で前に飛ばすのは至難である。故に聖は打席での足の位置をさりげなくホームベース寄りに移動させ、バットを出した際に外角のボールを真芯で捉えやすいように対策した。

 泉星菜がその対策に気付いているのか否かはわからないが、彼女が次に投じた三球目は再び外角低めへと向かってきた。

 

(甘いっ!)

 

 予想通りの球種、予想通りのコースだ。予め狙っていたそのボールを見逃すことなく、聖は一気にバットを振り抜いた。

 短く、何かが潰れたような金属音が響く。聖のバットは星菜が投じた外角低めのストレートに対して完璧なタイミングで命中したが、飛んでいった方向はキャッチャーの後方――バックネットであった。

 

「……ボールの、下か」

 

 振り遅れたわけではないが、球の威力に負けたようだ。どうやら泉星菜のストレートは、こちらの想像以上に手元で伸びるようだ。

 だが、それがわかれば次こそ捉えることが出来る。聖には、その自信があった。

 たかが110キロ程度のボールなど、プロを目指す自分にとっては恐るに足らないものだと――そう思っていたのである。

 

「ふふっ」

 

 そんな聖の顔を見て、泉星菜が小さく笑った。

 その笑みはどこかいたずらっぽく、被害妄想かもしれないが聖には自分が小馬鹿にされているように見えた。

 

 そして投球動作に入り、四球目のボールが向かってくる。

 

 球種は、またしてもストレートである。しかし狙われたコースは、外角低めではなかった。

 左投手特有の軌道で右打者の懐に食い込んでくる――クロスファイヤー。それは内野ゴロ狙いではなく、聖から三振を奪いに来たボールだった。

 

(舐めるなっ!)

 

 しかしそのボールとて、聖の意表を突いたわけではない。ホームベース寄りに立っている以上、相手投手が内角を突いてくることもまた最初から覚悟していた。

 寧ろ聖としては、その方がありがたい。聖にとって内角のストレートは、外角よりも得意な球だった。

 右肘を折りたたみ、腰を素早く回転させる。コンパクトなスイングで思い描くのは、レフト前に運ぶクリーンヒットである。

 タイミングは完璧。聖は今度こそ、泉星菜のストレートを弾き返す――筈だった。

 

「――ッ!?」

 

 その場に金属音が響くことはなく、代わりとばかりにキャッチャーミットの衝撃音が響き渡る。

 聖は驚愕に目を見開き、バットを振り抜いた態勢のままその場に固まった。

 

「……空振り三振だぞ、聖」

 

 そして後ろから聴こえてきた従兄の声によって、聖はようやくその事実を理解した。 

 

「タイミングが、外れたのか……?」

「いや、ドンピシャだった。ただお前は、ボールの下を振ったのだよ」

「……そうか」

「かなりのスピンが効いていたからな。さっきまでの球よりもさらに伸びてきた。今の球は、初見では俺でも打てないだろう」

 

 聖は彼女との勝負に、負けたのだ。

 従兄が遠まわしに励ますような言葉を送ってくるが、聖にはそれを受け入れることが出来ない。

 元々、高校生対小学生の対決だ。小学生である聖が野球経験で勝る星菜に敗れるのは当たり前のことであり、従兄からしてみればそこまで気にしなくても良いことなのかもしれない。

 だが、聖には悔しかった。リトルの試合で同年代の投手に打ち取られた時と同じか、それ以上に泉星菜に負けた悔しさは大きかったのである。

 

「うん。確かに、プロを目指していると言うだけのことはあるね」

 

 しばらく打席の上で立ち尽くていた聖に向かって、マウンドの上から泉星菜が言った。

 

「六道聖さん。君には今投げた私のボールが、どんな風に見えた?」

 

 泉星菜が聖を見つめる。聖も僅かに顔を上げて目線を向けた。

 彼女が何を思ってそのようなことを問うているのかはわからないが、聖はその質問に対し、正直に思ったことを口に出した。

 

「リトルの試合では、見たことのないスピードと球威でした。それとコントロールも完璧で……今回は、私の完敗です」

「……なるほど。小六でそこまで言えるなら、大したものだよ。単純に私の球を凄いと感じてくれたのなら、今はそれで良かったんだけど」

 

 聖の返答に泉星菜が一瞬目を丸くするが、すぐに微笑んで賞賛の言葉を送ってきた。

 そして数拍の間を置いた後、彼女は言葉を続けた。

 

「私はね、今の君と同じ年齢の頃にはこの球を投げられるようになっていたんだよ」

「……リトル時代から、あのストレートを?」

「うん。だけど結局、私はこれ以上上には行けなかった。中学に上がった途端に身長も伸びなくなって、投手としての成長が止まってしまったんだ」

 

 泉星菜は話し始めた。

 いわく彼女はリトルリーグに所属していた当時こそずば抜けた実力を持っていたが、中学校に上がって以降は周りの男子達の成長に追いつけなくなり、いつしか完全に取り残されてしまったのだと。

 

「もちろん、努力はしたよ。名門の野球部で男の子以上の練習をしたし、変化球だって何種類も覚えた」

 

 それは、血のにじむような呟きだった。

 

「……だけど私のボールは、周りの男の子達には通用しなかった。君を三振にしたストレートだって、私の居た中学の人には簡単に打ち返されてしまったよ」

 

「女の子の限界はね、男の子のそれよりも近くにあるんだ。根本的に体格が違いすぎるし、筋肉の付き方にだって差がある。だから私は、周りから「もう成長は見込めない」って言われたよ」

 

「それに、やっぱり浮くんだ。男の子に混じって野球をやっていると、どうしてもみんなから変な目で見られてしまう」

 

「……どうして私はこんなところに居るんだろう? いつからか、そんなことばかり考えるようになってしまって……」

 

「気付いたら、あれだけ頑張っていた野球を楽しいと思うことが出来なくなっていて……結局、私は野球部を辞めてしまったよ」

 

 泉星菜は淡々と、自らの挫折談を語っていく。

 それはまるで「プロ野球選手になる」という聖の夢を、現実的な視点に立って否定しているような言葉だった。

 女性選手として野球を極めることは、男子のそれとは比べ物にならないほど険しい道程なのだと――彼女の瞳は、そう語っていた。

 それは味わった挫折も、野球を諦めた自分のことも、全てを受け入れているような静かな眼差しだった。

 

「同じ女の子の野球選手として、聖さんには目の前にある壁の大きさをわかってほしいんだ。今は成長期だから良いけど、それが止まった途端、一気に周りの男の子達に追い抜かされてしまう。……私のようにね」

 

 泉星菜はうつむいて唇を噛んだ後、黒髪を揺らして首を振り、改めて聖に目を向ける。

 対する聖はただじっと、そんな彼女を見つめ続けていた。

 

「この先、中学に上がれば君も男子との壁を感じることになる。そうなれば、二度と立ち直れなくなるかもしれない。女の子がプロを目指すということがそれだけ苦しいんだってことを、よく覚えておいて」

 

 泉星菜が最後にそう言い、二人の間を重い沈黙が流れていく。

 彼女が聖の夢に対してそうまで否定的な言葉を紡いだのは、自分が経験した苦しみを後輩である女子選手に味わってほしくないが為であろう。

 だからこのような話をしたのだと、聖は理解した。

 随分と、優しい先輩なのだなと思う。

 しかし聖には、そんなお人好しな先輩の言葉を受け入れることが出来なかった。

 

 

「私には、貴方の言っていることがわかりません」

 

 きっぱりと、聖は言い切った。

 

「苦しみを味わう覚悟なら、貴方に言われなくても出来ています。第一何も苦労せずにプロになれる人間なんて、男子にだって居ません」

 

 彼女の言うことは、違う。

 絶対に、違う。

 確かに自分達は女子である以上選手としての成長に大きな壁があり、男子と混ざって野球をしていれば嫌でもその差に悩まされることになるのだろう。その経験者であろう彼女の言葉には力強い説得力があり、聖の心にも重く響いてきた。

 しかし六道聖は、その言葉を認めなかった。

 理屈っぽく言っているが、彼女の言うことは所詮、ただの詭弁だ。

 

「言い訳をしないでください。貴方が壁に当たって野球部を辞めてしまったのは、貴方が女子だったからではなく、貴方だったからでしょう」

 

 自分は女子だから仕方が無いと、いかにも尤もらしい言葉で挫折した己自身を慰めているに過ぎない。

 

 ――貴方と一緒にするな!

 

 聖はその胸に、かつてないほどの怒りを抱いていた。

 しかし反面、口から出てくる言葉はどこまでも淡々としていた。

 

「ただ女子だからと言い訳をして、自分の努力不足を認めない。そんな貴方だったから、進歩がなかったのです」

 

 女子だから、男子には勝てないのか。

 違う。自分の未熟さを性別に押し付けるな。

 泉星菜がそうだったから、六道聖もそうなるのか。

 ふざけるな。そんなこと、やってみなければわからない。

 中学時代の挫折によって野球をやめたと言う目の前の少女が自分にとってありうる未来だなどとは、聖は断じて認めなかった。 

 

「もう一打席、勝負してください」

 

 そうだ、認められるものか。泉星菜が言っているのは、ただの言葉ではないか。女子が野球を極められないと、誰が決めたのだ!

 例え身体能力に差があろうと、それだけが野球の優劣を決めるわけではない。そんな単純なスポーツでないからこそ、聖はこの競技に惚れたのだ。

 

「私は貴方とは違う。貴方のようにはなりません!」

 

 聖はマウンドに立つ彼女に向かって左手に持ったバットの先端を突き出すと、強く怒気を込めて言い放った。

 野球に掛けるこの思いが、あんな言葉で否定されてたまるか。

 

 ――この場で打ち砕いて、それを教えてやる!

 

 それは二人の野球少女の誇りを賭けた、第二ラウンドの幕開けだった。

 

 



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君は僕に似ている

 

 泉星菜が野球部を辞めたのは、女子だからではなく泉星菜だったから――十一歳の少女から掛けられた容赦の無い言葉に星菜は落ち込んだが、その一方で目からウロコとばかりに納得していた。

 言われてみればなるほど、確かにその通りである。現に早川あおいのように女子でも高校で野球を続けている者は居るのだ。女子だから駄目だったという先ほどの話は、確かに聞き苦しい言い訳だったのかもしれない。

 

(……言われても仕方ないな。どんな理由があっても、結局諦めたのは私自身が弱かったからだ)

 

 先ほどの話は星菜がかつて体験したことではあるが、実のところその中には嘘も混じっている。

 星菜が中学の野球部を辞めた理由は、男女間での能力差に挫折したからではない。その問題に関しては、「前世」の技術を手に入れたことで解決しているのだ。

 しかし、それをこの少女に話すことはしない。

 何しろ経緯が特殊すぎるのだ。彼女が自分のようにプロ野球選手の前世を持ち、尚且つそれが今後蘇る可能性など考えるべきではなかった。

 故に星菜は、「前世の記憶を取り戻さなかった自分」を仮定してみることにした。

 「前世」を手本に投球技術を磨いた星菜であるが、あの日もし記憶を手に入れることがなければ、男女間の能力差に挫折したまま野球を諦めたことは想像に難くない。

 六道聖の夢を否定するつもりはないが、彼女が昔の自分のように目の前に立ちはだかる壁に対して無知な状態ならば、先輩として助言をしておきたいと思ったのだ。

 

 ――しかし言い方が悪かったのか、意図しないところで六道聖を怒らせてしまったようだ。

 

 彼女は明確に敵意を持って、星菜の顔を睨んでいた。

 

(下手くそだな、私は……)

 

 星菜としてはそのような顔をさせたくて言ったわけではないのだが、彼女には先ほどの言葉が自分の夢を否定しているように聴こえてしまったのだろう。振り返ってみると、やはり言い方に問題があったように思える。

 本当の思いを言葉で伝えるのはやはり難しいものだと、星菜はつくづく思った。

 

(……でも、この子がちゃんと自分の意志を持っていることはわかった。そのことは、嬉しい)

 

 しかし誤解にせよ、野球をしている自分を否定されたことに対して彼女が反発してきたことは、嬉しく思った。

 心が折れてしまった頃の自分は、今の彼女のように激する気力すら沸かなかったものだ。彼女にはこのまま、どうか最後まで反発し続けてほしい。

 

(なら、その気持ちに応えないとな)

 

 その姿は怖いもの知らずだった頃の自分を見ているようで、星菜には全てが懐かしかった。もしも昔の自分が今の自分を見たら、その時は彼女のように強い言葉で否定してくれたのだろうか。星菜には、そう考えずにはいられなかった。

 既に「貴方のようにはならない」と宣言された時点で、自分の二の舞を踏ませないというこちらの思惑は果たしているのかもしれない。

 だがそれとは別に、星菜はかつての自分と似ているこの少女とは正々堂々とぶつかり合いたいと思った。

 

 ――きっとまさる監督は、それが狙いで自分と彼女を対面させたのだろう。

 

 こうして過去の自分と似ている彼女と勝負させることで、今の自分をかつての自分と向き合わせたかったのだと――星菜はこの時、彼の意図をはっきりと理解した。

 

(過去と向き合うことで変わるものがあると……そう言いたいのですね、監督)

 

 口ではさっぱりわからないと言っておきながら、どうやら彼には全てお見通しだったようだ。

 なるほど。これならばこの心も――救われるかもしれない。

 

「……ふふ」

 

 ボールを持った左手にグラブを添えながら、ゆっくりと後頭部まで振りかぶる。

 そのまま流れるような動作で右足を振り上げ、両手を胸の下へと持っていく。

 そして目標よりも一塁ベース寄りの方向に右腕を高く上げると、グラブを着けた手首を招き猫の前脚のように折り曲げた。

 

 ――見ろ、六道聖。

 

 ボールを持った左腕のテイクバックを極端に小さくし、打者の目からボールの出どころを見にくくすべく全身を使って左腕を覆い隠す。

 

 ――これが壁を越えようと足掻いた女の、全力投球だ。

 

 ゆったりとした投球フォームから、腕を振るう瞬間だけ一気に加速し、星菜はボールを放った。

 

「――ッ!?」

 

 バシンッ!と、今までとは一段違う衝撃音がキャッチャーミットから響いた。その瞬間星菜の双眸が捉えたのは、バットを振ることすら出来ず表情を驚きに染めている六道聖の姿だった。

 

「ど真ん中だよ?」

「――ッ、くっ!」

 

 前置きなくいきなり投球フォームを変えたのは、少し卑怯だったかもしれない。

 だが、こればかりは仕方がない。

 あまりにも純粋なこの少女を相手にするには、これ以上白々しく嘘をつきたくなかったのだ。

 変化球は使わない。だが、全力で勝負する。それが星菜にとって、今彼女に見せられる最大の誠意であった。

 

(……言い訳は、確かにしていた)

 

 捕手の六道明からボールを返されるなり、星菜は二球目の投球動作へと移る。予め投げる球種とコースを決めている為に、投球のテンポは早かった。

 

(……そうしなければ自分を納得させられなかった。……そして、諦めたことを正当化出来なかったから……)

 

 ワインドアップから、ゆったりとモーションに入る。

 ボールの握りはストレート。狙いはストライクゾーンのど真ん中だ。

 

(「あの時」も、悪いのは私だった。なのに私は見苦しく言い訳して、アイツに責任を押し付けてしまった……)

 

 外角でも内角でもない、打者にとってはそのままバットを出すだけで真芯で捉えることの出来る絶好球である。

 しかしそのボールを、六道聖は大きく空振りした。

 

(……今からでもやり直せるだろうか……もう一度、お前(・・)と向き合うことが出来るだろうか……)

 

 投球フォームとボールのノビに幻惑され、タイミングが取れていない。いくらコースが甘かろうと、スイングするタイミングが遅ければボールを打つことは出来ない。そして何よりも、今の彼女は星菜に対する怒りからか肩に力が入りすぎていた。

 悔しがる六道聖の姿から、星菜は一人の男の姿を思い浮かべる。

 かつて星菜が性別間の能力差に苦しんだ時、先ほどの聖のように厳しく叱咤してくれた友が居た。

 彼はいつも善意で練習に付き合ってくれて、星菜の目の前にある壁を壊すことを手伝ってくれた。

 

(……本当に今からでも、遅くないのだろうか……)

 

 しかし、星菜は諦めていた。

 本気で野球をすることを。そして、本当の自分と向き合うことを。

 

(……もう一度戻れるだろうか、あの頃の私に)

 

 似ている境遇でありながら自分とは違い前に進み続けている早川あおいや、かつての自分と同じように未来への希望に満ち溢れている六道聖と出会ったことで、星菜の心には不思議な感情が芽生えていた。

 迷いが――恐怖が薄れているのだ。心は安心に包まれており、身体が軽く感じた。

 だからか、今の星菜には余裕があった。心なしか視界が広がったように見え、打席に立つ少女の姿もこれまでよりはっきりと見えるようになった。

 

「始動がワンテンポ遅いよ。それと君は甘い球が来たと思うと無意識に力んで、それまでの集中力が途切れてしまうんだ。ボールがちゃんとバットに当たる瞬間まで、最後まで見届けて」

「なっ、何を……」

「一度深呼吸して肩の力を抜くこと。無理に遠くへ飛ばそうと思えば思うほど、フォームが崩れて自分のスイングが出来なくなる」

「……! そうか……」

 

 彼女、六道聖は小学生――それも女の子とは思えない鋭いスイングをしている。細身な体つきから見るに単純な筋力は少ないのだろうが、全身の使い方やキレ、何より腰の回転が速く、それが彼女のスイングスピードを高めているのだと思える。

 彼女の野球歴が何年になるのかは知らないが、若干十一歳とは思えない野球センスである。少なくともプロを目指すと言うほどの才能が、今の彼女にはあった。

 

「ふふ、素直でよろしい」

「……むっ……」

 

 その上彼女は、かつての星菜よりも純粋な心を持っている。

 敵投手の言葉に律儀に従って深呼吸を行う彼女の姿は、星菜の目には微笑ましく映った。

 そんな星菜の視線に不機嫌そうに眉をしかめながらも、彼女は再び構えに入った。

 

「落ち着いたようだね。じゃあ、最後の一球を投げようか」

「そうですね。次のボールを打って最後にします」

「ふふ、出来るものならね」

 

 ……ずっと、力んでいたのだ。

 己の信念を貫き通すことが出来なかった自分の弱さが悔しくて、そしてそんな自分すらも受け入れられず、言い訳ばかりしていた。

 それが、今の泉星菜という女である。

 

(……私も、もう少し力を抜いてみるか)

 

 投球や打撃のように、もう少し力を抜いて生きてみよう。

 彼女達のように、自分の気持ちには正直に生きていこう。

 

(弱い自分を肯定して、もっと馬鹿になってみるか)

 

 それがきっと、今の泉星菜には必要なのだと思う。

 このマウンドに立って、どこかかつての自分と似ている少女と対峙してみて、それがわかった気がした。

 

(突き当たった先が今度も行き止まりだった時は、また悩もう)

 

 遠回りかもしれない。

 全てが無駄に終わるかもしれない。

 だがそれ以上に、自分の心には譲れないものがあることに星菜は気付いてしまった。

 

(どんなに辛くても、私はこの場所(・・・・)が大好きなんだ……)

 

 それは、理屈ではないのだと。

 ただ自分も早川あおいや六道聖と同じように、野球を愛しているのだと。

 

「行くぞっ!」

 

 だからこそ、もう一度歩みを進みたい。

 星菜は振りかぶり、三球目のボールを投じる。

 その瞳には何の憂いも無く、ただ純粋な野球選手としての情熱だけが宿っていた――。

 

 

 

 

 

 

 

 決着は両者の宣言通り、その一球でついた。

 

 泉星菜の投げたボールはまたしてもど真ん中のストレートで、しかしその球には今まで以上の威力が込められていた。

 対する六道聖は、今度こそそのボールを捉えた。泉星菜の助言に従って始動をワンテンポ早くした力みの無いスイングでバットを振り抜き、グラウンドに初めて快音を響かせたのである。

 しかし、打球はヒットにはならなかった。センター方向に弾き返した打球は痛烈なヒット性の当たりだったのだが、投手の泉星菜による素早い反応によってあえなくグラブに収められたのである。

 勝敗で言えば聖はこの勝負に敗れたことになるのだが、彼女の打撃を間近で見届けた捕手の六道明は従兄として誇らしい思いだった。

 三球ともど真ん中だったとは言え、聖はたったあれだけの助言で星菜のボールをジャストミートしてみせたのだ。他者からの助言を一瞬でモノに出来るのは、立派な才能である。少なくとも、この六道明には無いものだ。

 彼女ならばきっと、星菜の言った壁すらも乗り越えていけると思いたかった。

 

「いい当たりだったけど、惜しかったね」

「……何故、変化球もコースも使わなかった?」

 

 そしてこの場に居る天才は、恐らく聖だけではない。

 捕手として彼女のボールを受けた明は、そのことに気付いていた。

 

「打たれた時の言い訳を残しておく為……と言ったら、君はどうする?」

「……もう一打席、勝負をお願いしたいところです」

「ふふ。そういうところも、リトル時代の私と似ているね。でも、わざと甘いところに投げたのはそんな理由じゃないから安心して」

 

 突然ボールを放す寸前まで左腕を見せない変則的な投球フォームに変えては、三球ともど真ん中に――それも最初の一球から一ミリ足りとも変わらない同じ場所へとストレートを投げ続けた彼女。星菜もまた並外れた才能を持っていることを、明は確信していた。

 最初の勝負とは違うフォームで投げてきたが、それでも彼女はほとんど手の内を明かすことなく勝利してみせた。打者に対して、自分が不利になる助言をしてまでもだ。

 彼女にとっては、これは始めから勝負ではなかったのかもしれない。

 

「君はまだ小学生で、覚えることがたくさんある。まだ、私と戦う資格が無いんだよ」

「なに?」

「あ、いや……君を馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ君とはお互い、もっと対等になってから戦いたいと思ったから」

 

 星菜が、真っ直ぐに聖を見る。

 

「君はもっともっと上手くなる。だから君が良ければ、いつか成長した君と本気で戦わせてほしい」

 

 そう言って、星菜はマウンドを降りる。その横顔を呆けたように眺める聖に対して、星菜は言葉の後に付け足すように言った。

 

「だからその頃には、「私のようにはならない」と言ったその言葉を、実現させていて。私は君の夢も思いも、否定しないから」

 

 その時の泉星菜の表情はまるで太陽のように明るく、普段の儚さとは対照的な笑顔だった。

 これがいつだったか矢部明雄が熱く語っていたギャップモエというものなのか。その表情を向けられたのは明ではなく聖だったのだが、明は思わず顔を赤くしてしまうところだった。この時のことを、明は後に「既に恋人が居なければ即死だった」と振り返ることになる。

 そのようなおかしなことになっている従兄の心境を他所に、聖が短く凛とした声を上げる。

 

「一つ、聞いても良いですか?」

 

 そう言って、聖は田中まさる監督が居るベンチへと向かおうとする星菜の背中を呼び止める。

 星菜は歩みを止めると、再びその顔を聖へと向けた。

 

「本当に中学野球は、貴方のボールが通用しないレベルなのですか?」

 

 その質問は、既に中学野球を経験している明にとっても気になることだった。

 一打席目の星菜のボールなら、力のある野球部ならば打つのはそう難しくないだろう。しかし二打席目に見せた星菜のボールならば、よほどコントロールと変化球が悪くない限りは全く通用しないということはなかった筈である。

 聖が感情の読み取れない口調で掛けた問いに、星菜が答えをはぐらかすように返す。

 

「それは一年後、君の目で確かめてみて」

 

 何かを期待しているように、どこか楽しげな表情だった。

 聖が求めていた返答を得られなかったことにむうっと唸ると、それを見て今度は星菜が問い掛けてきた。

 

「不安ですか?」

「……いいえ。不安どころか、今から一年後が楽しみになったぞ」

「――! ふふ、そっか……。これからも練習頑張ってね」

「……はい」

 

 星菜は力強く放たれた聖の言葉に虚を突かれたような表情を浮かべたが、満足そうに笑んでその場を立ち去っていった。

 

 その際「私もあの子に負けないように、頑張ってみるか……」と呟いた彼女の声を、明は聞き逃さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も無い真っ白な世界に、一人の青年の姿が浮かび上がる。

 一年と数ヵ月前、スローカーブを教わりに来た時以来だろうか。彼とこうして「夢」で会うのは、随分と久しぶりのことであった。

 

『また、選んだようだね』

 

 彼はこちらの顔を見るなり、嬉しそうに言った。

 選んだ――ああ、また選んだのだ。と言うよりも、自分の心と向き合う決心がついたというべきか。

 

『早川あおいちゃんやあの聖ちゃんって子も、きっと凄い選手になるだろうね』

 

 それは、彼の元プロ野球選手としての勘だろうか。知り合った二人の女子選手からは、他の選手には無い物を感じられた。彼の言うことについては、自分もまた同感であった。

 

『勝負したいよね、あの子達と』

 

 叶うなら、二人とは公式戦の舞台で勝負したいところだ。

 ただそこに至るまでには多くの問題が待っているし、それ以前に自分には、向き合わなければならないものがある。

 

 ――明日、アイツと話してみるよ。

 

 彼は許してくれるだろうか。……いや、許してもらえなくてもいい。許される許されないの問題ではなく、自分はそうしなければならないのだから。

 

『……良いことだと思う。でも、あまり自分を責めすぎるな。自分だけが悪いと決めつけずに、一度彼と思いっきりぶつかり合って、吐き出してしまうのも一つの手だよ?』

 

 その資格が、今の自分にあるのだろうか――わからない。

 

『うーん、なんでそう一歩引いてでしか自分を見れないのかなぁ。そんな生き方、絶対損してるよ』

 

 そんなつもりではないのだが。寧ろ自分は、周りに甘えながら好き勝手に生きすぎている。

 

『前会った時も言ったけど、君まで僕に影響されて老いる必要はないよ。今日決めたように、これからは楽にしてみなよ』

 

 うん、わかってるさ……。

 

 ようやくたどり着いた、たったそれだけ決意――青年はその言葉に頷くと霧のように姿をくらまし、そして目覚まし時計のベルによって、星菜の夢は途切れた。

 

 

 



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不器用&不器用
友達になった日の話


 

 

 ――昔は身体が小さく、そのことにコンプレックスを持つ弱虫な性格だった。

 

 周りでワイワイと賑わいでいるクラスの輪に入ることが出来ず、まともに友達すら作れなかったものだ。

 決して周りからいじめられていたわけではないのだが、彼は昼休み時間もグラウンドに出かけることなく、孤独にも常に自分の席に居た。

 彼はそう言った毎日を過ごすことを、心から寂しいと感じていた。しかし、友達を作ることが出来ない。自分に自信の無い彼にはどうすれば友達を作れるのかがわからなかったのだ。

 

 ――このまま、ずっと一人ぼっちなのかなぁ……。

 

 休み時間、友達同士教室の一箇所に集まって楽しんでいるクラスメイト達の姿を遠巻きに眺めながら、彼は八歳児の身にはあまりにも不似合いな溜め息をついた。

 

 

 

 

 当時の彼は勉強も運動も人並みに出来ない、所謂落ちこぼれの生徒だった。その上人一倍気が弱く、自分が周りから浮いていることに悩みを感じていた。

 しかし、そんな彼の生活はある日を境に大きく変わった。

 

 彼が小学二年生から進級して間もない、四月のことである。三年生になってから四回目の体育の授業の時間に、それは起こった。

 元々勉強嫌いな彼だったが、学校の授業の中では体育の授業が最も嫌いだった。身体を動かすこと自体にはそれほど抵抗はないのだが、彼にとって体育の授業は他の何よりも精神的な苦痛を味わう時間だったのである。

 

『では、今日もサッカーをやります。まずは二人組を作って、パスの練習をしましょう』

 

 体育教師の放つ無慈悲な一言が、その要因だ。

 その言葉を受けて皆が仲の良い者同士で二人組を作っている中で、彼だけが誰ともペアを組むことが出来ない。その事実は孤独感からの寂しさと同時に、ひたすら情けない思いを彼に味わせた。

 彼のクラスは全員で37人である為、二人組を作れば一人だけ余ってしまう。教師が告げた瞬間、彼の居場所はいつも例外なくその余りに収まっていた。

 

 ――また、先生と組むのかなぁ……。

 

 情けなくて、恥ずかしい。

 なんで僕が、こんな思いをしなくちゃいけないんだろう。

 なんでみんなは、あんなに簡単にペアを作れるんだろう。

 僕には真似出来ないことだ。

 

 ……どうせ僕なんて何の取り柄も無い、駄目な奴なんだ……。

 

 その時の彼には、諦めて塞ぎ込むことしか出来なかった。

 どうせ自分はクラスメイトに声を掛けることも出来ない駄目な人間なのだと。最初から諦めていた方が、下手に希望を持つよりも楽だと思っていたのだ。

 

 そう、この時までは――。

 

『えーっと、鈴姫だっけ? 一緒に組もうよ!』

 

 彼――鈴姫は不意に聴こえた自分の名前を呼ぶ声に驚き、顔を上げる。

 するとクラスメイトの一人がひょっこりと間近からこちらの顔を覗き込んでいることに気付いた。

 

『あ、え、えええええっと……』

『なんで怯えるんだよ? もしかして私の顔、怖い?』

『ち、違うよ。そ、そうじゃなくて……』

『まあ、いいけど。そんなことより君、私と組もうよ。今日、智恵が休みのせいで組む人が居ないんだよねー』

『う、うん……でも、僕なんかでいいの?』

『え、なんで? あ、もう始まっちゃう。早く集合しよ?』

『あ、うん……』

 

 その人物はクラスメイトではあるが、自分とは一切無縁な人間だと思っていた。

 黒髪のショートカットが似合う、栗色の瞳の少女――泉星菜。

 彼女はこの年から同じ小学校の生徒になった、転校生の少女である。しかし彼女はそう言った境遇にも拘らず転校初日から次々と友達を作っては周囲に溶け込んでいったクラスの人気者であった。

 コミュニケーション能力の高さはもちろん、勉強も運動もクラス一番にこなせるほど万能な上……可愛い。臆病故に鈴姫には到底話し掛ける勇気は無かったが、彼女に対しては芸能人に対する憧れのような感情を抱いていた。

 そんな彼女に話し掛けられ、あまつさえ一緒にペアを組んでくれと頼まれれば、当時の鈴姫が動揺するのは至極当然の話だった。

 

 ――彼女との初対面は、そのように無様で格好悪いものであった。

 

 だが、決して悪い思い出ではない。

 それどころか、この時のことは彼の記憶にある中でも最も幸福な思い出の一つだった。

 

 

『そおい!』

『うわっ!?』

 

 初めて教師以外の者と組んで行ったサッカーの練習だが、鈴姫は初っ端から失策を犯してしまった。星菜の蹴ったボールを鈴姫がトラップし損ね、盛大に後逸してしまったのだ。彼女のボールの威力は強く、みるみる内に遠くへと転がっていった。

 

『あ、ごめん! 強く蹴りすぎちゃった。私が取りに行くね』

『あ、ううん……僕が取りに行くよ。僕がちゃんと止められなかったせいだし……』

『いやいや、私が悪いよ』

『いや僕が……』

『私だって!』

『でも……』

『うーん、じゃあ二人で取りに行こう!』

『う、うん……』

 

 鈴姫は後逸した責任を取って一人でボールを取りに行くつもりだったが、彼女はそれを認めなかった。その際鈴姫は責任感の強い人なんだなぁと、彼女に対して改めて好感を抱いたものである。

 

 

『ねえねえ、鈴姫ってさあ』

『な、なに?』

 

 二人でボールを取りに行く最中、星菜が声を掛けてきた。クラスメイトと話した回数が少なく、女子との会話に関してはこれが初めてに等しい鈴姫には、これから何を言われるのかと怯えを隠せなかった。

 そんな自分が彼女にはどう見えたのか、この時の鈴姫にはわからなかった。ただ彼女の言い放った次の言葉は、彼の心中へと容赦無く突き刺さってきた。

 

『友達居ないの?』

 

 遠慮など欠片も無い、直球の質問である。

 鈴姫には、友達が居ない。それはまごうことなき事実なのだが、だからこそ自分の口からはっきりと言うのは心苦しいものがある。鈴姫はその問いに対しどう返せば良いのかわからず、言葉を詰まらせてしまった。

 三年生にもなって友達が一人も居ないことを、彼女にも笑われるのだろう。それを思うとあまりの情けなさに怒りが沸き、泣きたい気持ちになった。

 

 しかし彼女は、鈴姫の沈黙を肯定と受け取っても尚笑わなかった。

 

『そっか。私も四年ぶりにこっちに戻ってきたばかりだから、知ってる人が全然居なくてきつかったよ』

『え、戻ってきたって……?』

『ん、自己紹介で言わなかったっけ? 私元々この街に住んでたんだけど、幼稚園の頃遠くに引っ越して、んでまた戻ってきたんだよ』

『そうだったんだ……』

『まあその話は置いといて、こっちに引っ越してしばらく寂しかったってわけ』

『でも、泉は……』

『うん! 一から頑張って友達作ってみた。クラスのみんなに話しかけて仲良くなったよー』

 

 鈴姫のことを嘲笑せず、哀れむわけでもなく、しかし彼女はこう言った。

 

『でも君はどうして、周りの子に話しかけないの?』

 

 だがその言葉は、どこまでも容赦が無かった。

 いつもクラスの中に一人で居て、体育の授業では先生とばかりペアを組んでいる。自分から動かずおどおどしていて、進んで友達を作ろうともしない。そんな彼のことが、彼女には不思議だったのだろう。

 サッカーボールを取りに行く足を止めて、鈴姫は沈黙する。彼の返答を、彼女はじっと待った。

 

『……だって僕、何の取り柄も無いもん』

 

 そして、鈴姫は語った。

 それは両親や教師にすら打ち明けたことのない、彼がこれまで抱き続けてきた悩み事だった。

 

『僕、チビだし……頭も悪いし運動も出来ない……僕なんかと友達になってくれる人なんて、どこにも居ないよ……』

 

 当時の鈴姫は自分の能力に対するコンプレックスが、同年代の子供の中でも際立って強かった。自分に対して何一つとして自信を持てる物が無いが故に、彼は非常に内向的な性格になってしまったのだ。友達を作ろうとすればまず最初に「こんな自分が相手に釣り合うのか」と考えてしまい、一歩すら踏み出すことが出来ない。その悩みを、鈴姫は自分と対照的な万能少女へと打ち明けた。

 何の面白くもない話である。しかし彼女は、そんな彼の話を一切遮ることなく聞いてくれた。

 

 そして話が一通り終わると、彼女は柔和に頬を緩めた。

 

『そんなの、言い訳じゃん』

 

 そう言って、彼の悩みをバッサリと切り捨てたのである。

 

『あーあ、聞いて損した。さっさとボール拾って続きやーろうっと』

『え、え? あの……』

 

 鈴姫をその場に置いたまま駆け足でボールを拾いに行くと、彼女はそのボールを使って巧みにドリブルをしながら戻ってくる。そして彼との距離を五メートル近くまで詰めたところで、彼女はポンッと優しくパスを送ってきた。

 先ほどと違って強く蹴られなかった為か、咄嗟に反応した鈴姫にも楽に受け取ることが出来た。

 

『っとと……』

『ナイスキャッチ! ……じゃなくて、こう言うのはナイストラップって言うんだっけ? えへへ、サッカー用語全然知らなくて』

『あの、泉……』

 

 先ほどの会話はつまらなかったので、彼女の中では何事も無かったことになっているのだろうか。

 そのことを訊いてみたかったが、鈴姫には自分から切り出すことが出来なかった。

 そんな彼に向かって、彼女は何を思ったのかグッと親指を突き立てて言った。

 

『私のボール、捕れたじゃん。それは君の立派な取り柄だよ。つまり、君は凄いということだぁ!』

『えっ……?』

『フフフ、君にはちゃんとそういう取り柄があるんだから、さっき言ったのは君が友達を作らない理由にならないよ』

 

 今考えてみれば無茶苦茶な理屈であったが、幼い鈴姫には心からすんなりと受け取ることが出来る言葉だった。

 その言葉に続けて、彼女が高らかに言い放った。

 

『ってことは、君は私の友達になれるってことだ』

『えっ?』

『だって釣り合い取れてるもん。これなら友達になっても大丈夫だよね? ね?』

『あ……』

 

 突然の友達宣言に身を硬直させる鈴姫に、それを見てにししと笑う星菜。してやったりと言いたげなその笑みはする者によれば相手に不快感を与えるものだったが、彼女に関しては全くの反対で――まるで、いたずら好きな子猫のような愛嬌があった。

 

『さあ、どんどんパスろうぜ鈴姫ー。あっ、そう言えば下の名前なんて言うの?』

『け、健太郎……』

『じゃあケンちゃんでいいや。なんかデジモ○カイザーっぽくて格好良いし』

『え、あれ格好良い?』

『格好良いじゃん! 特にあのマント! ……あ、そうだ。私のことは星菜か星ちゃんって呼んでね。ホッシーでもいいよ。なんならブラックホッシーでも。とりあえず苗字で呼ぶのは友達だから禁止で』

『それって……う、うん。ふふ、わかったよ、星菜』

 

 ――その時、鈴姫は初めて学校で笑った。

 

 彼女との出会いが、彼を変えてくれたのだ。

 

 もし彼女が居なければ、彼は今でも友達の居ない弱虫のままだったかもしれない。

 

 彼が初めて出来た友達――泉星菜。

 

 そして同時に、彼が初めて――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……また、アイツの夢か……」

 

 まどろみから覚めた時、鈴姫健太郎が開いた双眸は日頃から見慣れている天井を映していた。ベッドの上に仰向けになっていた鈴姫はゆっくりと上体を起こすと、枕元に配置していた目覚まし時計をベルが鳴り響く前にスイッチを切った。

 夢を見たにしては、妙に寝覚めが良いものだ。最近はよく眠れていなかったが、今朝は久しぶりに快眠出来たようである。

 再び目覚まし時計へと目を移す。時計の指針は早朝の五時を差していた。

 

「……はっ、どんだけ未練がましいんだよ……」

 

 鈴姫は記憶している夢の内容を振り返りながらベッドを離れると、クローゼットの中にある竹ノ子高校の制服へと手を伸ばす。登校するにはまだ随分と早いが、二度寝が出来る時刻でもない。そもそも今の鈴姫には、気持ちが良いほどに眠気が無かった。

 それはきっと、今朝の夢の内容が幸せな内容だったからだろう。余韻に浸る鈴姫の気分は、鼻歌を歌いたくなるほどに上々なものだった。

 

 

 

 

 

 

 連休明けの月曜日と言えば、大半の高校生が鬱々した気分で登校するものだ。

 しかし、この鈴姫健太郎に関してはその限りではない。鈴姫は今、非常に晴れやかな気分だった。

 

 ブンッ――と、金属の棒が空を切る音が響く。

 

 時刻は七時十分頃。竹ノ子高校の正門が開かれてから間もない時刻だが、鈴姫の姿は自宅ではなくグラウンドにあった。

 早出の自主トレーニングという名目で、彼はグラウンドの端にて素振りを行っていた。野球部を始め竹ノ子高校の運動部は基本的に朝練が強制されているわけではないので、彼のように早朝から部の練習をする者は多くない。野球部ではこうして毎日早出の自主トレーニングを行うのは鈴姫と主将の波輪ぐらいなものであり、この時間帯のグラウンドはいつも非常に静かなものだった。

 特に今朝はまだ波輪が来ていない為、今グラウンドに居るのは鈴姫一人である。少し寂しくはあるが周りに誰も居ない分自分の練習に集中出来る。――その筈なのだが、今の彼はどこか集中力に欠けていた。

 原因は、わかっている。

 

(駄目だ……今朝の夢のせいか、アイツのことばかり頭に浮かぶ……)

 

 人の夢は起きてから五分も経てばほとんど忘れてしまうものだと言うが、今の鈴姫の頭には夢で目にした光景が鮮明に浮かび上がっていた。それは夢の内容が過去に実際にあった出来事だったからなのかもしれないが、それ以外の理由もあるのだろう。

 わかっている。ああ、わかっている。

 

「くっ!」

 

 わかっていても、どうしようもないことがある。

 120回目のスイングを終えた瞬間、鈴姫の口から苛立ちの声が漏れた。

 せっかく早出の練習を行っても、こうも雑念が多いと望む効果も得られない。バットを振る度に理想のスイングから遠ざかっていることに気付いた鈴姫は、一旦休憩して素振りの手を休めることにした。

 

 ――その時である。

 

 ふと何気なく背後に目を向けてみると、そこには竹ノ子高校の制服を着た一人の生徒の姿があった。

 鈴姫は一瞬波輪が来たのかと思ったが、自分よりも小さなシルエットから即座に彼ではないことに気付く。

 

 それは、夢で出会った少女が十五歳に成長した姿であった。

 

 肩先まで下ろされた癖のない黒髪に、栗色に澄んだ大きな瞳。白い肌に端整な顔立ちの少女は、ただ真っ直ぐに鈴姫の目を見据えていた。

 

「――ッ! ほ……泉……さんですか……」

「……おはよう、鈴姫さん」

「あ、ああ、おはよう……」

 

 思いがけない人物との対面に、鈴姫は常の落ち着きが崩れてしまう。彼女が自分の前に現れたことは、鈴姫にとってそれほど衝撃的なことだったのである。

 

「相変わらず、お早いですね。今日はまだ、波輪先輩は来ていないのですか?」

「……ああ、今日は俺一人だよ」

「そうですか……それは……寂しいですね」

「そうだな……」

 

 内心の動揺を可能な限り抑えつつ、鈴姫は彼女との会話を続かせる。

 思えばこうして連絡以外のことで彼女と話をしたのは、随分久しぶりのことである。

 その為か――口には出せないが、鈴姫は現在非常に緊張していた。

 

(……なんだ? なんで話しかけにきた? あの時、君は俺を……)

 

 入学以来鈴姫は彼女と意識して顔を合わせないようにしてきたが、それには理由がある。もちろん野球部員全員が誤解している「自分が中学時代彼女にフラれたので気まずい」という理由ではなく、大きな理由が。

 ……いや、フラれたという認識は案外間違っていないのかもしれないが。

 

「………………」

「………………」

 

 そして、気まずいというのも間違っていない。彼女はこちらの目をしっかりと見てくれているが、鈴姫の視線は彼女の目からやや外れた位置へと向けられていた。

 

「……練習、手伝います。よろしければ、あちらのネットを使ってトスバッティングをしませんか?」

「あ、ああ。助かるよ……」

 

 二人の声が、錆び付いたロボットのようにぎこちなく交わう。

 お互いに高校生へと成長した二人の間柄は、過去のそれとはまるで異なる物へと変貌していた――。

 

 

 



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一緒に居た日の話

 

 成り行きでクラスの人気者である泉星菜と友達になった日から、数日経った日のことである。

 鈴姫の自宅は彼女の自宅の近くにあった為、放課後の帰り道は二人で一緒に歩くことになっていた。その際下校中の二人を見たクラスメイト(主に男子)達は揃いも揃って冷やかしの声を浴びせ掛けてきたものだが、鈴姫にとってはそれもまた心地の良い物であった。冷やかされることによって自分が彼女の隣に居ることをより強く実感出来る為、寧ろご褒美だったのである。

 多分、自分は彼女に対して「そういう感情」を持っているのだろう。幼いながらも鈴姫は、当時から己の気持ちを何となく理解していた。

 

 そんなある日、彼女は唐突に切り出した。

 

『やきゅう?』

『うん、野球! 前の学校に居た時は軟式のをやってたんだけど、四年生になったら硬式のリトルに入ろうって思ってるんだ』

『星ちゃん、野球やってたんだ。運動神経抜群だもんね』

『ふへへ、それほどでもあるよ!』

 

 軟式だの硬式だのという話は当時の鈴姫にはわからなかったが、野球というスポーツの存在はもちろん知っていた。仕事から帰宅してきた父親の傍らで、何度かプロ野球の試合をテレビで見たことがあったのだ。

 常識として野球は男が行うスポーツだということも知っていたが、鈴姫は彼女がそれを行っていることに関しては何も不思議に思わなかった。

 何と言っても彼女は天才だ。女子ではあるが、学年に居る男子の誰よりも高い運動能力を持っているのだ。ドッジボールでは誰も捕れないほど速い球を投げてくるし、五十メートル走もクラスで最も速く、体育の時間では常にヒーローであった。

 故に、鈴姫は驚かない。彼女ならば当然のように野球も上手いのだろうと、心から納得していた。

 

『……ケンちゃんは、変に思わないんだね』

『え? なんで?』

『ふふ、何でもない。でね、もし良かったらさ……』

 

 だがそんな鈴姫にも、彼女が言い放った次の言葉には驚かざるを得なかった。

 

『ケンちゃんも来年、一緒に野球やろうよ!』

 

 

 

 

 

 

 ――ふと、過去の思い出を振り返った。

 

 自分が野球をするようになったきっかけ。今の自分の原点。それこそが、彼の全てであった。

 七年も前になる思い出を今更になって振り返ったのは、今朝に見た夢の内容と、今目の前に当の人物が居ることが原因であろう。

 

(まずい、余計に集中出来なくなった……)

 

 現在鈴姫は近くからトスを上げてもらったボールをネットに向かって打つ「トス打撃」を行っているのだが、十九球ものボールを打っても尚思い通りの感触を得られなかった。

 とにもかくにも集中力が足りない。練習中に過去の思い出を振り返っているようでは、とてもではないが集中出来ているとは言えないだろう。

 これじゃあ矢部先輩達のことは言えないな、と心の中で自嘲の声を吐く。すると、二十球目のボールをネットに突き刺したところで彼女がトスを上げる手を止めた。

 

「……スランプ、ですか?」

 

 そして、訊ねてくる。

 本調子でないとは言えそれでも並の選手よりは鋭い打球を飛ばしており、大半の野球部員達にも隠し通せる自信があったのだが、彼女にはやはり気付かれていたようだ。「ああ」と、鈴姫は短く肯定の言葉を返した。

 

「……スランプと言うのは、一流の選手になってから初めて使える言葉なのですよ?」

「......わかってるよ。相変わらず、君は手厳しいな」

「……スイングに力みがあります。両肩に力が入りすぎていますね」

「……だろうな」

「……気づいていたのなら、もう少し意識して練習してください」

「……申し訳ない」

「……いえ、こちらこそ、出過ぎた発言をすみませんでした」

「ああ……」

「………………」

「………………」

 

 実に、気まずい空気である。彼女との会話の間には、やはり言い知れぬ空気が漂っていた。

 昔とは偉い違いだな、とつくづく思う。これまで積み重ねてきた多くの苦難が、お互いの心を変化させてしまったのである。

 しかし、そんな会話でも久方ぶりに彼女と言葉のやり取りが出来たことに、鈴姫は喜びを感じていた。

 今になってもまだ、彼女に対する感情は変わっていないらしい。鈴姫はそのことを、改めて理解した。

 

「……あの……」

 

 鈴姫が器用にも無表情でそんなことを考えていると、星菜がその沈黙を破った。

 常に自信満々だった昔とは別人のように、たどたどしく言葉を紡ぐ。

 

「……今更、こんなことを言うのは恥ずかしいですが……」

 

 鈴姫は、黙って言葉の続きを待つ。

 彼女が何を言うつもりなのかはわからないが、恐らく彼女は、それを言う為に自分の練習に付き合ってくれたのだと直感したからだ。

 

 数拍の間を置いて、彼女は言い放った。

 

「私も、もう一度、野球をやろうと……思います」

 

 ぎこちなく、しかし最後まで言い切った。

 その言葉は鈴姫にとってあまりにも唐突であり、そして同時に、今まで何よりも待ち望んでいたものだった。

 

「高校では公式戦に出られませんが、それでも……」

「……そうか」

「貴方だけには、先に言いたかった……だから、その……」

「わかった。なら監督やキャプテンにも伝えた方が良いな」

「あ……はい。そうですね……」

 

 本当に、今更の話だと思う。

 内心では喜びに打ち震えている筈なのだが、鈴姫がそれを外面に出せないのはこれまでの経緯があるからだ。

 涙が出るほど嬉しい筈なのに、笑うことが出来ない。それどころか彼女の言葉が酷くつまらないもののように感じ、気付けば怒りすら覚えている自分が居た。

 

「……人の気も、知らないで……」

 

 ほぼ無意識に、鈴姫は吐き捨てた。

 

「なんで君はそうなんだよ……! 勝手に野球部を辞めて……勝手に居なくなって……!」

 

 嫌なことを、思い出す。

 彼女に誘われて地元のリトルに入団してから、今に至るまでの野球人生を。

 彼女は持ち前の天才肌を遺憾なく発揮しチームのエースとして順調に成長していったが、そんな彼女とは対照的に鈴姫は三年間とも補欠であった。人並み以上に努力したとは思うが、体格が悪かった為に打球がほとんど前に飛ばなかったのである。

 そして、中学時代。

 鈴姫は小学六年春から必死に勉強し、エリート校である白鳥学園附属中学校へと入学した。地元の公立校に入学しなかったのは、他でもない彼女の進路先がその学校だったからだ。今にしてみればストーカーのように思うが、鈴姫にとって彼女は一番の親友であると同時に憧れの存在であり、最大の目標だったのである。

 野球に関してもリトル時代こそ補欠に終わったが、いずれはレギュラーを取り、彼女と同じ試合に出たいと考えていた。それこそが鈴姫の、ささやかな夢だったのだ。

 

 しかしその夢は、半分だけしか叶うことはなかった。

 

 中学に上がって以降、鈴姫は文字通りの急成長を遂げた。小学校時代は140センチも無かった身長は一年で158、二年で166、三年生になって173センチへと変貌していったのである。昔は女子生徒に間違われるほど細かった腕も一年の秋には引き締まった筋肉に覆われ、リトル時代とは比べ物にならないほど打球を飛ばせるようになった。そう言った肉体的な成長に加えて元々持ち合わせていた努力家な性格と野球部の監督の指導法が身に合ったのもあり、二年の春には一番ショートのレギュラーの座を掴み、試合で結果を出すようになった。

 中学野球の名門校でレギュラーを掴むという偉業を、鈴姫は成し遂げたのだ。しかし彼が出場する試合のマウンドに、彼女の姿は無かった。

 二人の立場は、完全に逆転していたのである。

 中学野球で順調に飛躍していった鈴姫に対し、彼女は一度として試合に出ることはなかった。

 元々は、女子選手としての身体能力差による挫折だった。

 だがそれも「思いがけない出来事」からプロの大投手だった「前世の記憶」を手に入れたことで完全に克服し、彼女はチーム一の投手になった筈だった。

 

 ――しかしそれでも、彼女がマウンドに上がることはなかった。

 

 彼女を試合に出さない理由をどれだけ問い詰めても、監督は答えをはぐらかすばかりだった。

 そしてある日、彼女の冷遇に異議を唱えた野球部の主将小波大也が監督に暴行を加えるという事件が発生し、責任を感じた彼女は部を退部してしまったのである。

 

 結局、鈴姫の夢は叶わなかった。だがそんな自分事は、もはやどうでもいいことだった。

 ただ彼女のことを思い、人知れず涙した。

 彼女を終始冷遇した監督のことは恨んだが、自分が選手として成長出来たのは彼のおかげでもあった。彼は彼女への扱い以外は、非常に優秀な指導者だったのである。鈴姫以外にも彼の指導によって大成出来た選手は多く、部員からの信頼は相応に厚かった。

 もちろん、だからと言って鈴姫が彼を許す道理は無い。いかに自分を鍛えてくれた恩師と言えど、他の誰よりも大切な友人を傷付けた存在を許せる筈が無かった。

 だが鈴姫には、それ以上に許せないものがあった。

 

「一人で勝手に解決するなって言っただろ! 俺が一体どれだけっ……!」

 

 その一つが、今目の前に居る彼女だ。大事な決断をする前に、自分を頼ってくれない彼女が許せない。

 我ながら何とも不器用で、子供じみた理由である。

 再び彼女と共に野球が出来るかもしれないことを素直に喜びたいのが本心なのだが、それまでの経緯がそれを許さない。

 

「……ごめんなさい……」

「なんで君が謝るんだよ……! くそっ、何を言ってるんだ俺は……」

 

 和解して過去の、元通りの関係に戻れればどんなに嬉しいか。

 だが過去に二人の間に起こったある一件が、お互いに踏み出すことの出来ない要因となっていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分がもっと、彼女に気を掛けていれば。

 

 もっと、監督に反発していれば。

 

 小波なんかに、彼女を任せなければ……。

 

 今にして思えば、彼女を助ける方法はいくらでもあった。しかし、全てが遅すぎたのだ。

 白鳥中学の野球部への入部を期に、彼女は変わってしまった――。

 

 

 それは野球部の主将、小波大也が泉星菜を巡る口論の果てに野球部の監督を負傷させた事件の後日のことである。

 星菜は不運にも事件の現場に居合わせてしまった為、しばらくの間人間不信に陥ることになった。その間、鈴姫は学校の誰よりも彼女の傍に寄り添っていた。小波すらも信じることが出来なくなっていた当時の彼女だが、何故か鈴姫だけには気を許していたのである。

 それまで共に過ごした時間が多かったが故に、積み重ねてきた信頼が大きかったのだろう。しかし鈴姫はそのことに特別な優越感を感じることはなく、ただその胸にあるのは彼女の心を追い詰めた監督と、彼女に要らぬ責任を感じさせ、退部の原因を作った小波への怒りだった。

 彼女は不登校にこそならなかったが、その瞳には本来の輝きはなくなっていた。そんな彼女の姿を見る度に、鈴姫は胸が締め付けられるように痛くなった。

 

 ――もう、小波なんて信じない。これからは、自分が傍に居なければ……。

 

 彼女が最も信頼している友人としての使命感が芽生え、それからというもの鈴姫は何としてでも彼女に元気を取り戻させようと行動した。

 野球部の部活は大会もあった為に非常に忙しかったが、希少なOFF日には彼女を連れて遊びに出掛けた。と言っても、行き先は一般的なデートスポットではなく彼女の希望を呑んだ結果高校野球やプロ野球の試合が行われている野球場がほとんどであったが、彼女が楽しめるのならそれで良しとした。やむを得ず野球部を退部してしまった彼女だが、野球そのものへの愛情は全く薄れていなかったのだ。

 

『健太郎……』

『ん?』

『……ありがと』

 

 事件からあまり日が経っていない間は交わした言葉は多くなかったが、そう言った時間を過ごしたことで彼女の人間不信は少しずつ和らいでいった。最後まで小学生時代のような元気を取り戻させることは出来なかったが、鈴姫は彼女が微笑んでくれるようになったことに対し、ただ安堵した。

 

 その時は、ほとんど恋人に近い関係だったのかもしれない。

 鈴姫も彼女も一度として互いの想いを伝えることはなかったが、それに等しい信頼を寄せ合っていた。

 

 ――そう、鈴姫は誤解していた。

 

 自分が彼女から誰よりも信頼されていると疑わなかったその自惚れが、最大の過ちだったのである。

 

 

 

 小波と監督が引き起こした事件から、一年半もの時間が過ぎた秋。

 三年生になり、自身の中学最後の大会を終えたことによって部を引退した鈴姫は、受験勉強の息抜きがてらその日も彼女を連れて屋外に出掛けていた。

 行き先は彼女に任せたところ、やはり地元の野球場となった。その日は高校野球の秋の地区予選が催されていたのである。

 この時の彼女は、後に出会うことになる川星ほむらにも劣らぬ野球観戦マニアになっていた。彼女いわく野球部を退部した後は暇な時間が増えてしまった為、新しく野球観戦が趣味になったのだと言う。その言葉を聞いて鈴姫には重い沈黙を返すことしか出来なかったが、彼女は柔和な表情で笑ってくれた。

 

『大丈夫だよ。もうあの時のことは、気にしてないから』

『……ごめん』

『いや、だから気にしないでってば。元々健太郎は何も悪くないんだし』

 

 事件から一年半が過ぎたと言っても、彼女が完全に立ち直ったとは思えない。

 今までの自分を――野球にかける全ての思いを否定された挙句、完膚なきまでに打ちのめされたのだ。その気持ちは同じ経験を味わった女子野球選手ならばいざ知れず、男子の野球選手に過ぎない鈴姫には本当の意味で理解することは出来なかった。

 それが堪らなく、悔しかった。そしてそんな鈴姫の心情を気遣ってか、彼女は気丈に振舞う。

 

『これからは、女の子らしく生きることにしたから。だからもう、悔いはないよ』

『女の子らしく、ねぇ……』

『なに? 私、何かおかしいこと言った?』

『いや、別に……』

 

 彼女の言葉を聞いて、改めてその姿を見つめてみる。

 野球部に居た頃は坊主頭にしていた頭髪は肩まで掛かるセミロングにまで伸ばしており、艶やかな色合いでよく手入れされている。そして日差しによって黒く焼けていた肌も、彼女が元々持っていた色白さを取り戻していた。

 確かに客観的に見れば、女の子らしくしているというその言葉に偽りは無い。野球部に居た頃とは比較にならないほど身だしなみを整えており――本当に、綺麗だった。

 以前から元の素材が良いことを考えれば学年の誰よりも綺麗になるだろうとは思っていたが、改めて見ると彼女の容姿はまさに天下一品であった。長い付き合いであっても、思わず見とれてしまうほどに。

 

『なに呆けてるんだよ?』

『わ、悪い』

 

 ただ一つ、彼女自身が己の魅力についてあまり自覚していないのが難点だろうか。決して鈍感というわけではないのだろうが、彼女はこちらが寄せている想いに気付いていないように思える。

 だがそれならばそれで、しばらくはこのままで良いのかもしれない。まだ彼女の心には、こちらの想いを受けるだけの余裕は無いだろう。時間を掛けてからゆっくりと、心を交えていければ良いのだ。

 鈴姫は「そういう話」でのこれからのことを思い、小さく溜め息をついた。

 

『あ、そろそろ始まるみたいだね。健太郎の入る海東高校と、竹ノ子高校の試合』

『……そうだな。どうせ勝ちは見えているけど、一応将来の先輩方を応援するか』

『うん。竹ノ子も二回戦まではなんとか勝ったけど、所詮は一年生チームだからね。プロ注目ピッチャーの樽本からしてみれば、完全試合以外許されない相手だよ』

『さらっと酷いことを言うな君は。せめて周りに聴こえないように言ってくれよ頼むから』

『でも、それを含めて「私」だから……』

『ああ、知ってる。それでこそ星菜らしいな』

『えへへ』

『……なんで笑う。まあ、良いけど』

 

 球場の観客席の一部で交わす、他愛の無い会話。人間不信になった時はどうなることかと思ったが、こうして彼女が自然に笑うことが出来るようになって、とりあえずは一安心だ。そんな笑顔を誰よりも近くで見ることが出来るということも、非常に喜ばしいことである。その際席の近くから誰かが舌打ちする音が聴こえてきたが、鈴姫はあえてその方向に得意気な顔――所謂ドヤ顔を見せつけることで応じてみせた。残念ながら、性格の悪さには自信があるのだ。そうして涙目になった相手を見て、鈴姫は愉悦した。

 小波でも他の誰でもない。彼女の隣に居る資格があるのは、自分だけなのだと――この時の鈴姫はそう確信していた。

 

『プレイボール!』

 

 グラウンドの方向から、主審の声が響く。

 鈴姫が当初入学する予定だった海東学院高校と、後に入学することになる竹ノ子高校の試合。二人はその行方を、最後まで見届けた。

 

 



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通じ合えなかった日の話

 

 試合の結果だけを見れば、前評判通り名門校である海東学院高校が順当に勝利を収めた。

 しかしその内容は全くもって、二人の予想を大きく裏切るものだった。

 

『思ったより接戦……って言うか、後一歩で竹ノ子が勝てた試合だったね』

『そうだな。あの波輪って人の前にもう少しランナーを溜めて、守備のミスさえ無ければわからなかったかもしれない』

『何だかんだ言っても、結局はチーム力の差かぁ。やっぱりエース一人で試合に勝つのは難しいってことだね』

 

 プレイボールからゲームセットの瞬間まで、終始緊迫していた熱い試合であった。

 試合は竹ノ子の波輪、海東の樽本の両投手とも一歩も劣らぬ好投を披露し、2対2のまま延長十二回までもつれ込んだところ、最後は竹ノ子高校のショートが犯したタイムリーエラーが決勝点となり、海東学院高校の勝利に終わった。

 敗れた竹ノ子高校としては、後一歩のところで大会優勝候補を倒せたかもしれない惜しい試合であった。

 

『今年は波輪のワンマンチームだったけど、竹ノ子は今後が楽しみなチームだね。今日の試合、健太郎が居れば勝てたんじゃない?』

『そんな簡単じゃないだろ。……まあ、自信はあるけど』

『さすが』

 

 絶対に敵わないと思われていた前評判を覆し掛け、強敵を後一歩のところまで追い詰めた。その試合から鈴姫は、勝敗という結果以外に重要なことを教わった。

 何事も、諦めなければたどり着けるかもしれないのだと――そう言った「勇気」を、微量だが竹ノ子高校から貰えた気がした。

 

 ――ならば、彼女はどうなのだろうか?

 

 鈴姫は帰宅の道中、横目から星菜の顔を覗った。思った通り、彼女は何かを思い悩んでいるような目で虚空を見つめていた。

 試合開始当初こそ、彼女は鈴姫が来年度入学する予定である海東高校を応援していた。しかしイニングが重なるごとに徐々に竹ノ子高校の野球に惹かれ始めて行き、本人は気付いていないかもしれないが最後の攻撃では声に出して応援するようになっていた。

 相手チームよりも圧倒的に戦力が劣りながらも負けじと奮闘する竹ノ子ナインに、彼女は人よりも感じることがあったのだろう。敗北が決まった瞬間は、肩を落としながらも惜しみない拍手を送っていたものだ。

 その姿から、鈴姫は彼女の野球に対する真摯な思いを受け取った。彼女は内部の事情によって野球部を退部したが、野球という競技に関しては今も変わらずに愛している。それどころか今の彼女は、離れているが故に野球部に居た頃よりも野球への愛が高まっているように見えた。

 先ほど彼女は竹ノ子高校に鈴姫が居れば――と言ったが、本当にあの場所に居たいと思ったのは他でもない自分自身であろう。彼女もあのグラウンドに立って、選手として共に戦いたいに決まっている。

 彼女はその気持ちを隠そうとしているようだが、一番の理解者である鈴姫には手に取るようにわかった。

 彼女が今、何を悩んでいるのかが。

 

『……野球、しよう』

 

 だから、言った。

 彼女の気持ちを知っていたから。

 彼女の内面をわかっていたから。

 

 ……それが思い上がりであることに気付かぬまま、この時の鈴姫は良かれと思って彼女の心に入り込もうとしたのである。

 

『隣の地区に、(セント)ジャスミン学園って高校がある。何でもその高校は、今年から共学になったばかりの学校らしい』

 

 その言葉に黙って耳を傾けている彼女に対して、鈴姫は以前から調べ集めていた情報を話した。

 

『その高校の野球部は部員のほとんどが女子選手で、君と同じ境遇の人がたくさん居るって聞いた』

 

 全ては、心からの善意であった。

 

『だから、そこに入学しよう。俺と、一緒に』

 

 彼女ならばその提案を、喜んで受けるだろうと思っていた。

 そのような浅はかさな考えが、直後の事態を引き起こしてしまったのである。

 

『……健太郎と一緒に? 私が入学したら、健太郎もそこに入るつもりなの?』

 

 掛けられる彼女の問いに、鈴姫は力強く頷く。鈴姫にとって彼女の存在は、それほどまでに大きかったのだ。彼女の為ならば海東学院高校からの推薦を蹴り、全くの無名校だろうと喜んで入学しよう。こればかりは幼い頃から変わらず、鈴姫の行動原理は彼女にあったのだ。

 

『俺は君と一緒に野球がしたいんだ。その為なら甲子園に出られなくても、プロになれなくてもいい』

 

 去年まで女子校だったと言う聖ジャスミン学園の野球部には、ほとんど女子部員しか居ない。そして高校野球は規定上、女子選手の公式戦出場は許されていない。

 無論、それが何を意味するのかわからない鈴姫ではない。現状聖ジャスミン学園は無名どころか大会に参加することすら出来ない高校なのである。

 だが、それでも良かった。

 彼女と共に野球が出来るのなら、他のものは全て些細な問題だと思っていたのだ。

 

『でも、そんな……』

『今度は小波なんかに頼らない。ずっと、俺がついている。それなら大丈夫だろう? もうあんなことにはならない。俺がさせない』

 

 事件以来、鈴姫は今後何があろうと自分が彼女を守るのだと決意していた。だからこそ高校も自分と居ることは、彼女にとってもプラスに働くと信じて疑わなかった。

 それもまた、今にしてみれば酷い思い上がりだった。

 

『……私は健太郎にとって、何なの?』

 

 彼女が数拍の沈黙を置いた後、面と向かってそう問い掛けてきた。言葉こそ短いが、鈴姫の中では非常に重い意味を持つ質問だった。

 

『誰よりも大切な、守りたい人だ』

 

 彼女の目を見つめ返し、鈴姫は何の迷いも無く言い切った。

 その言葉に嘘偽りは微塵も無い。鈴姫は彼女のことを本気で想っていたのだ。

 

 しかし。

 

 その言葉を受けた彼女は――悲しんだ。

 

『……そう……なんだ……。もう私と貴方は…………じゃないんだね……』

『星菜?』

 

 自分にとっての彼女の大きさを、ありのまま言葉に込めて伝えた筈だった。

 しかし彼女の表情は鈴姫が望んでいたものとは程遠く、まるで全てを諦めたような――希望を失った者の、絶望に染まった表情を浮かべていた。

 

『なんで、泣いているんだ?』

 

 彼女は俯き、涙を流していた。

 鈴姫が二度と見たくないと思っていた――事件以降二度とさせないと心に誓っていた筈の顔が、目の前にあったのだ。鈴姫にはこれを狼狽えずには居られなかった。

 

 ――何故、泣いている?

 

 ――誰が泣かせた?

 

 ――泣かせたのは……俺?

 

『……放っておいて。目に……ゴミが入っただけだから』

 

 それは断じて嬉し涙などではなく、深い悲しみによる涙であった。

 原因は自分にあるのだろう。しかし一体自分の何が彼女をそうまで悲しませているのか、鈴姫には全くわからなかった。

 鈴姫は彼女にとって最大の理解者になったつもりが、この時の彼女の心情を何一つとして理解することが出来なかったのだ。

 

『そんなわけあるか! なんで君はそうやって……』

 

 そして彼女が今その涙の理由を誤魔化そうとしていることに、鈴姫は憤りを感じた。

 他の人間相手にはそれでも良いが、理解者である自分にだけはしっかりと説明してほしかったのである。

 

 ……その考えが、間違っていたのだ。

 

 誰にだって隠したいことや、話したくないことはある。それは仲の良い友人の間であったとしても同じであり、必ずしも心の内をさらけ出さなければならない義務など無いのだ。

 この時まで気付かなかったが、鈴姫は彼女の心の中に強引に入り込み過ぎていた。それが他ならぬ彼女の心を追い詰めていたことを、当時の鈴姫にはわからなかったのである。

 

『放っておいてよ! もうっ!!』

 

 その時である。

 鈴姫が彼女の左肩を掴もうとした手を、彼女は振り払った。

 顔を上げ、キッと鈴姫の目を睨むその眼光は、長い付き合いである鈴姫すらも見たことがない感情に彩られていた。

 

『……何だよ……!』

 

 それは、明確な憎悪だった。

 一度として自分に向けられることのなかった感情。その瞳に鈴姫は声も出せず、彼女は溜まりに溜まったそれを爆発させるように叫んだ。

 

『何だよ! そんなに哀れかよ! 実力があるのに皆と野球が出来ない私が、そんなに可哀想なのかよっ!!』

 

『同情なんかたくさんだっ! いつから私はお前に庇護される立場になった!? ふざけるなよ! 馬鹿にするな!!』

 

『何が一緒に野球がしたいだよ!? お前はまた私に恥をかかせたいのか!? ふざけるなっ! ふざけるなぁ……!』

 

 幼い子供のように喚き散らし、その場に崩れ落ちて大粒の涙を流す。

 それは、鈴姫が知らない泉星菜の姿だった。

 

『違う……! 星菜、俺はそんなつもりで……』

『うるさいっ! いつもいつも、健太郎はお節介なんだよ! 人の気も知らないで、なんでいつもそうなんだ……! なんでいつも私のことを見下すんだ!!』

 

 彼女は自分が同情されたことを、哀れみを受けたことを怒っているのだろうか?

 この期に及んでも彼女の心情を掴めない自分に鈴姫は焦り、そして初めて思い知らされた。

 自分は彼女のことを勝手に、一人でわかった気になっていたのだと。

 

『あの時だってお前が私にボールをぶつけなければ……! 私がこんな記憶を思い出すことさえなかったら、諦めることが出来たのにっ! そうやって……そうやって私に……期待させるようなこと言うなっ!!』

 

 だが、一つだけわかったことがあった。

 

『もう嫌なんだっ! そうやって見下されて、みんなに邪魔されて! どんなに努力したって認めてくれなかった……! 全部、監督の言う通りだった……! ……私なんて最初から、あそこに居ちゃいけなかったんだ……』

 

 自分もまた彼女の心に傷を負わせ、苦しめていた者の一人だったということだ。

 

『……お前にだって、私の気持ちはわからない。だからもう、同情するのはやめてくれ……』

『同情なんかじゃない! 俺は本気で……!』

『やめろって言ってるだろっ!』

『じゃあ君は……君にとっての俺は何なんだ!?』

『言わなきゃわかんないのかよ! 馬鹿っ!!』

 

 自分にとって心から大切な存在が放つ憤怒の叫びは、鈴姫の心にどこまでも重く突き刺さった。

 

 ――鈴姫健太郎は、泉星菜に拒絶されたのだ。

 

 当時の彼女が何を思い何故泣いていたのか、今になってもはっきりとはわからない。

 ただ鈴姫は、この時を持って自分は彼女と共に居る資格を失ったのだと思った。

 自分では、彼女の理解者になれない。彼女を泣かせてしまった自分は、もう彼女の隣には居られないと。

 

 

 だが、だとしても――。

 

 

 諦めなければ、また彼女と共に野球が出来るかもしれない。その期待は今もまだ、鈴姫の中に残っている。

 

(だから、俺はこの高校に入ったんだ。君と同じ高校に居ればいつか君が戻ってきた時、一緒に野球が出来ると思ったから……)

 

 今しがた彼女から告げられたもう一度野球がやりたいという言葉は、心から待ち望んでいたものだった。

 しかしその筈が、今の鈴姫にはどこか面白くなかった。

 彼女は何かがきっかけとなって復帰を決意したのだと思うが、かつての鈴姫は自分こそがそのきっかけになるものだと信じていた。

 彼女を野球のグラウンドに連れ戻せるのは自分しか居ないと――そのような勝手な幻想が呆気なく打ち砕かれたことが、心のどこかで気に入らないと感じていたのである。

 そんな理由で彼女が戻ってくることを素直に喜べない自分に、鈴姫は激しい嫌悪感を抱いた。口では彼女の為だ何だと言っても、所詮お前は自分本位で動いているだけなのだと――そう突きつけられているような気がして、耐えられない。

 

「泉……さん」

 

 彼女を泣かせてしまった自分に、今更彼女と向き合う資格は無いのかもしれない。

 だが出会った頃から抱き続けてきたこの感情ばかりは、どうしても捨て切れなかった。

 

「職員室、一緒に行きましょう。監督の説得、手伝いますんで」

 

 もう、かつての関係には戻れない。だがそれでも、鈴姫は彼女の味方でありたかった。

 

「……はい」

 

 その時、思い違いでなければ――鈴姫は微笑以外の彼女の笑顔を、久しぶりに見た気がした。

 

 



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巡り合いと、助け合いと……

 

 あれだけのことを言っておきながら。

 今更、野球をやりたいと言って。

 彼の心中は、決して穏やかなものではないだろう。

 

 だが、それでも自分が野球をすることに反対しなかったことを、星菜は感謝した。

 

 しかし、彼の許しを得ただけで目的は果たせない。次は野球部の監督である茂木林太郎と、主将の波輪風郎に報告しなければならないのだ。星菜は少々気が重かったが、ここに来て彼が説得を手伝ってくれると聞いて幾分か気持ちが楽になった。

 

 自主トレーニングを切り上げた二人は教室ではなく、そのまま職員室へと向かう。

 朝の職員室には既に何人かの教職員達が各々のデスクについており、目当ての人物である茂木の姿もまたそこにあった。

 

「茂木監督」

 

 その両目を今にも眠たそうに瞬かせている彼に向かって、星菜は大きくも小さくもない声で呼び掛ける。茂木はパチッと目を開くと、椅子を反転させてこちらを向いてきた。

 

「おはようございます」

「お、ああ、おはよう……珍しい組み合わせで驚いた。どうした? 何か用か?」

「部活のことで、お話したいことがあるのです」

「ふーん、話してみろ」

「はい。実は……」

 

 重い口を開き、星菜は話した。

 自分が幼い頃から中学二年の春まで投手をやっていた、野球経験者であることを。

 退部の経緯などここでは不要と判断した情報までは明かさなかったが、適度にへりくだりながらかつての自分が並以上の実力を持つ投手であったことを茂木に語った。

 まるで面接に使う自己PRのようだなと、星菜は内心で苦笑を浮かべる。

 するとその話に対して、横合いから鈴姫がかつてのチームメイトとして口を挟んだ。

 

「彼女の言ったことは全て本当です。リトル時代から彼女を見てきた俺の見立てでは、彼女は今でも相当な実力を持っていると思います」

「……貴方は、わざわざそれを言う為に着いてきたのですか?」

「証人は必要だろう。君の見た目でそんなことを話しても、普通は信じてもらえない。どう見ても野球選手には見えないからな」

「……そうですね」

 

 付け加えられた補足は、星菜にとって非常にありがたいものであった。

 悔しいが彼の言う通り、自分が自分の実力を語るだけではその話に説得力が無く、茂木からは胡散臭さ故に信じてもらえないだろう。彼が隣に居ることは精神的なことを抜きにしても、今の星菜にとって大いに役立っていた。

 

(……懐かしい感覚だな)

 

 友人だった頃は、こうして勝手に突っ走っていた自分を良くフォローしてもらっていたものだ。無論自分が助けられるだけの関係を望まなかった星菜は同じぐらい彼のことを助けてきた記憶があるが、常にお互いを助け合える関係は非常に居心地が良かったことを思い出す。

 だが、今はそんなことを考える時ではない。首を左右に振り、星菜は意識を切り替える。

 見れば鈴姫が中学時代の星菜がいかに優れた投手だったかという話を、具体的なエピソードを交えながら話していた。

 

「――ということで、野球部にとって彼女の能力は選手としても有用だと思います」

「……なるほど、泉が凄いピッチャーだったっていうのはよーくわかった。にしても知らなかったな。クールなお前にも、そういうところがあったとはな……」

「何のことですか?」

「さあ、何のことだと思う?」

「はあ……」

 

 話の内容は客観的な視点から見た星菜の武勇伝であり、決して余計な脚色を入れているわけではないのだが当人としては背中がむず痒くなるものだった。

 だが星菜は無表情を装い、あえて口を出さなかった。これから本題に入る上で、野球部の監督である茂木には自分の実力を少しでも高く評価してもらわなければならないからだ。

 星菜が知るところ、茂木林太郎という監督としては軽い性格の男である。星菜は決して話術が得意なわけではないが、上手く言いくるめれば自分でも説得は可能だと思っていた。

 

「……それで、お前はどうしたいんだ?」

 

 そして、彼が問うてくる。これからが、本題の始まりだ。

 鈴姫と茂木の視線が、一点して星菜の元へと注がれる。緊張をその身に感じながら、星菜はゆっくりと口を開いた。

 

「どうか監督には、今日から私が野球部の練習に参加することを認めていただきたいのです」

 

 星菜はたった一つ、それだけを頼みに来た。その頼みこそ、彼女が過酷な現実を踏まえた上で下した最大の妥協点であった。

 連盟の規定を無視して、女子である自分を試合に出せなどとは言わない。今は自分が野球部の一員としてグラウンドを使うことが出来れば、それで良かったのだ。

 

「女子選手は公式戦に参加出来ない為、野球部の戦力としてはお役に立てないでしょう。しかし私達の野球部はただでさえ投手が不足している上に、バッティングマシン等の練習設備が充実していません」

 

 どれだけ練習しようと、女子選手は公式戦に出場することが出来ない。だが、それでも星菜は構わないと――本気で野球をすることを心に決めていた。

 

「私は、制球力には自信があります。戦力にはなれなくても、バッティングピッチャーとしてならば部のお役に立てると思うのです」

 

 星菜がそうまで強い気持ちを抱いたのは、やはり早川あおいや六道聖に触発されたからであろう。同じ女子選手として、二人には負けたくないと思ったから。そう言った単純な競争意識が、再び星菜の中で燃え上がっているのだ。

 

 結局のところ、話は難しくなかったのかもしれない。 

 

「川星先輩の負担を増やすわけにはいきませんので、ある程度はマネージャーの仕事も兼業します。なので……大変厚かましいお願いですが……」

「ああ、よろしくな」

「え?」

 

 話を難しくしていたのは、他ならぬ自分自身だったのかもしれないと。

 あまりにもあっさりとした茂木の対応に、星菜はそう思った。

 

「お前、俺のことを鬼か何かと思っているんじゃないか? 何も悪いことしてないんだから、そんな申し訳なさそうな顔するなよ。おかげで俺が、さっきから周りの先生から恐ろしい顔で睨まれているんだが」

「……あ、すみません。そんなつもりは……」

「大体役に立つからとか厚かましいとか、そんなことを高一の女の子が言うなよ」

 

 茂木は困ったように笑うと、常と変わらない砕けた口調で言った。

 

「野球がやりたいんだろう? なら、それでいいじゃないか。決めるのは俺じゃなくて、お前自身なんだからさ」

 

 彼の言葉は星菜が今まで気を張っていたことが馬鹿馬鹿しく思えるほどに簡単で、呆気ないものだった。

 

「お前がそうしたいって言うなら、俺は歓迎するよ。でも無理はするなよ? お前に怪我なんかされたら俺が他の先生や部員達から袋叩きにされちまう」

「え、あの……」

 

 喜びよりも先に、星菜はこんなにも簡単に望みが叶って良いのかと都合の良すぎる状況に虚をつかれていた。これまでの経験上、今のように女子である自分が野球をすると言えば大半の人間が良い顔をしなかった記憶があるからだ。

 その点、この茂木林太郎という男は不思議そうな顔一つすらせず、星菜の頼みを受けるのが当然のように受けてくれた。

 たったそれだけ。星菜にはたったそれだけのことが、幸せに感じられた。

 

 ――どうやら自分は、思っていたよりも恵まれた環境に居たらしい。

 

「何だ? まだ何かあるのか?」

「いえ……その……ありがとうございます」

「おう。そろそろ授業始まるから早く教室に戻れよ」

 

 彼が野球部の監督だった幸運に、心から感謝したいと思う。

 クスッと、思わず笑みが漏れる。確かな前進を感じた星菜は、心無しか肩が軽くなったような気がした。

 感謝を込めて深々く頭を下げた後、星菜は鈴姫と共に教室へ向かおうとする。すると、茂木が思い出したように「ちょっと待った」と言って背中を呼び止めてきた。

 

「律儀なお前達のことだ。次は今の話をキャプテンに伝えるつもりなんだろ?」

「はい、そうですが……」

「なら、ついでに伝言を頼んでもいいか?」

「はい、どうぞ」

 

 間もなく朝のHRが始まってしまう為、主将の波輪への報告には昼休みを使うことになる。既に監督から許可を貰った以上、彼にまで話す必要性はやや薄いかもしれないが、何も報告しないよりは心象が良いだろう。

 

「土曜日の予定を変更したんだが……」

 

 茂木からの伝言を前置きとして利用すれば、普通に切り出すよりも幾らか話しやすくなるかもしれない。そんなことを考えながら彼の言葉に耳を傾けていると、その口から予想だにしない言葉が飛び出してきた。

 

「山の手球場で、恋々高校と練習試合をすることになった」

 

 その言葉を耳にした瞬間、星菜の顔は驚愕に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セットポジションから大きく踏み出した足に体重を乗せ、オーバーハンドの右腕から力強いボールが放たれる。

 バシンッ!――と、爽快な衝撃音がキャッチャーミットから響く。目測では良いところ140キロ程度だろうか。高校野球の地区レベルでは文句なしに剛速球と呼べる、見事なストレートだった。

 多くの強豪校が大会に参加する激戦区として有名なこの地区でも、彼のストレートは十分に通用するレベルにあると見ている。そしてオーバースローの速球派である彼に加えてアンダースローの技巧派である彼女を有する恋々高校は、既に名門校に対抗しうる投手力を持っていると主将は考えていた。

 

「ナイスボール!」

 

 捕手として投手のボールを受ける主将――小波大也はキャッチャーボックスに座ったまま返球し、受け止めた彼の一球を賞賛する。投手の奥居は良くも悪くも単純な性格をしている為、こうして褒め称えることで長所を引き出すことが出来るのだ。その長所とは言うまでもなく、高校二年生にして140キロを超えてくるこのストレートであった。

 

「ははっ、今日のオイラ、中々やるだろ?」

「そうだね。今日は随分走っていると思う。ただ、三十球中二十一球がボール球なのはどうかと思うよ」

「うっ、それを言われると返す言葉もないぜ……」

 

 逆に短所を上げるとすれば、思うように定まらない制球力の悪さである。彼の投球はストレート、変化球共に構えたところにボールが来ることはほとんどなく、練習試合でも頻繁にフォアボールを連発している。さらには低めを狙ったボールが甘い高さに浮いてしまい痛打を浴びることがある為、捕手である小波は非常に頭を悩ませていた。

 本職は野手である彼に対しては、恋々高校のエースを張るもう一人の投手ほど高い制球力は要求していない。だが、それでも彼の現状の投球を享受出来るほど小波は甘くなかった。

 

「奥居君の場合は下半身が出来ていないわけじゃないから、リリースポイントの問題だね」

「それが一番難しいんだけどなぁ……あおいちゃんとかどういう仕組みでコントロールしてるんだろ?」

「彼女の場合は今まで投げ込んできた量が尋常じゃないからね。いつ肩肘を壊してしまうかわからないほど投げ込んできたから、今の制球力があるんだと思う」

 

 荒れ球ならば荒れ球で、制球力の高い投手よりも打者が的を絞りにくいという長所がある。プロの世界でもそう言ったタイプの投手が活躍していること自体は珍しくない為、小波とて一概に制球力が悪い投手イコール使い物にならないとまでは考えていない。

 だが、何事にも限度というものがある。アバウトでもせめて狙ってストライクカウントを稼げる制球力を身につけてもらわなければ、捕手としても配球(リード)のしようがなかった。

 

「じゃあ次、フォーク行ってみようか」

「おう」

 

 小波にとって、自分の構えたところにボールが来る投手ほど頼もしい存在は居ない。ある人物の影響からか小波には制球力こそが最大の武器という信条があり、狙った場所に寸分の狂いもなくボールを放れるのなら、極端な話140キロのストレートなど不要だと考えていた。

 

「おらぁっ!!」

「っと」

 

 奥居が投じた変化球がホームベースを越えた直後の位置でバウンドすると、小波が全身で覆いかぶさるような態勢で捕球する。幾度となく繰り返してきた練習によって、反射的に染み付いた動きであった。

 

「ナイスキャッチ! いやあ、お前がキャッチャーじゃなかったら何度ワイルドピッチしてるかわからないぜ~」

「……それは、お互い様だよ」

「うん?」

 

 ボールに付着した土をユニフォームで拭った後、小波は先ほどよりも速いスピードで返球する。暗に「ちゃんと投げろ!」という意図を込めてのものだ。奥居はその意図に気付いてか申し訳なさそうに帽子を外すと、小さく頭を下げた。

 だが彼も自分もまだ高校二年生だ。至らぬことが多々あるのは仕方が無く、問題はそれを今後どう補っていくかにある。

 

「君やあおいちゃんがこの学校に居なかったら、僕がこうしてまた野球をすることもなかった。それは多分、村雨君達も同じだと思う」

 

 目を閉じて、小波は自身の過去を振り返る。

 今までの人生の中で、自分は多くの人間と出会った。そしてそれらの存在に、重ね重ね助けられてきたのだ。

 幼馴染の影響を受けて野球を始めた頃の小波はキャッチボールすらまともに出来なかったものだが、多くのチームメイト達や優秀な指導者との出会いを経て、人並み以上の実力をつけることが出来た。

 自分一人ではこうして野球をすることもなかったとは、今になっても思う。

 

「……僕達はきっと、この巡り合いと助け合いの中で成り立っているんだ」

 

 だからこそ、自分もまた周りの人間に良い影響を与えられる存在になりたいと思う。

 この恋々高校野球部の一員として共に野球をすることで、自分にも何か出来ることがあるのなら――小波には何一つ、惜しむ気は無かった。

 

「ホント、お前ってアレだな……。色々凄い奴だよ、本当に」

「君ほどじゃないよ、打率八割君」

「うるせぇ、得点圏打率十割野郎。次の試合はオイラが勝つからな!」

「練習試合から本気になってどうするって、この前(チェン)君が言ってたよ?」

「なにー? あの自称台湾の至宝め。男はいつでも全力勝負だぜ」

 

 小波がこのチームで主将を務めるという大役を引き受けたのも、そう言った意志が何よりも強かったからだ。そしてその決断は、間違いではなかった。今の彼は、心から充実していた。

 様々なことで苦渋を味わってきた中学時代の経験があるからか、近頃は特にこんなことを思ってしまう。

 

 ――野球はこんなにも、楽しかったのかと――。

 

 今更になって中学校を卒業した喜びを感じるのも可笑しな話だが、環境が変わったことによって少なからず周りに対する見方が変わったように思える。

 これが「成長した」ということなのかどうかはわからないが、悪い気はしていないことだけは確かだった。

 

 ならば、と思う。

 

 「あの子」は、同じリトル、中学校で野球をしていた幼馴染は今、どうなのだろうかと。

 噂では今週の土曜日に練習試合を予定している「竹ノ子高校」の野球部で、マネージャーを行っていると聞いているが……果たして彼女は今充実しているのだろうか。

 

(……僕が心配しなくても、健太郎君が居るなら大丈夫か)

 

 もしかすれば、土曜日は彼女と会うこともあるかもしれない。その時はどんな顔をすれば良いのかわからないが、出来ることならば試合が終わった後にでも話したいと思った。

 

 それは小波にとって、竹ノ子高校のエース波輪風郎と一戦交えること以上の楽しみであった――。

 



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受け入れられた野球少女

 

 誰もが、息を呑んでいた。

 グラウンドに居る者に例外はなく、サッカー部の者もテニス部の者も陸上部の者も――誰もが、その光景に目を奪われていたのだ。

 彼らが自らの練習を疎かにしてまで注視しているそれは、野球部の練習風景だった。野球部は現在、実戦形式の打撃練習であるシート打撃を行っている。それだけならば、この竹ノ子高校においては日常的に行われていることだ。しかし、彼らが見ているのは練習そのものではなく、「誰が」練習を行っているかにあった。

 一打席ずつ交代しながら打席に入る打者を、少ない球数で次々と打ち取っていく投手。

 マウンド上に立っているその人物は、今校内で最も有名な一年生の「少女」だったのである。

 

「なあマル。あそこで投げてるのって、噂の一年生の泉星菜ちゃんだよな?」

 

 テニスコートからその姿を眺めるテニス部員の一人が、新入部員に向かって確認の意図を込めて訊ねてくる。

 しかし訊ねられた少年はその問いに応えることが出来ず、呆然とその場に佇んでいた。

 

「おいマル。聞こえてんのかー? 丸林隆!」

「あ、はい! 丸林です!」

「相変わらずだなお前は。あの子に見とれるのはしゃーないけど、一応練習中なんだからあんまボーッとすんなよ?」

「す、すすすす、すみません先輩! 丸林です!」

「なにキョドってんだよ……」

 

 少女を眺める少年はその心に驚愕と畏怖、そして懐かしさを同時に感じており、とても自分の練習に集中出来る状態ではなかった。

 彼がかつて所属していたリトル野球チームで、同じポジションを争った少女――泉星菜がマウンドに居る。

 彼女という存在は当時類まれな才能を持っていながらも一度としてエース投手になれなかった丸林隆にとって、誰よりも巨大な壁であった。

 在りし日の丸林はどれほど練習を重ねても彼女との間にある実力差を乗り越えることが出来ず、その現実に多大なトラウマを植え付けられたものだ。

 

(や、やっぱり泉さん、まだ野球やってたんだ……)

 

 それこそが四月上旬、彼が寸でのところで野球部への入部を決められなかった理由の一つでもある。

 要するに、丸林隆は泉星菜を恐れているのだ。

 見知った関係でありながらも廊下で彼女と遭遇した時は一目散に逃げ出し、学校内ではほとんど会話をしたことがない。

 

「そういやお前、あの子と同じ小学校だったんだってなぁ。今度紹介してくんない?」

「む、無理ですよそんなおっかないこと!」

「おっかない? なんで?」

 

 ああしてマウンドに居て、ボールを投げているということは、やはり彼女は丸林の知っている泉星菜のようだ。

 それは彼が今まで避けてきて良かったと、心底思える情報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 堂々たる佇まいからキャッチャーミットを見据え、ゆったりとした動作で振りかぶる。

 全身を使って左腕を覆い隠し、地面に叩きつけるかのようにボールを長く持つ――球持ちの良さ。

 独特な投球フォームから放たれたボールはキャッチャー視点、打者視点からは予備動作なしで突然現れたように見える為、オーソドックスなフォームで投げるよりもよりも非常にタイミングが取りづらい。

 さらに恐るべきは構えたところから一センチも違えない、正確無比な制球力だ。加えて打者の手元で驚異的な切れ味を発揮する、数多の変化球であった。

 

「あれ? 捉えたと思ったのに……」

 

 カツン、と鈍い金属音が響き、小さなフライが打ち上がる。

 これで九人目かと、泉星菜の投球を受ける六道明は彼女に打ち取られた打者の数をカウントする。

 茂木監督の指示によってシート打撃練習を行うことになったのが十分前のこと。その際は野球部員一同が茂木の言い放った言葉に揃って驚きの声を上げていたことを思い出し、キャッチャーマスクの中で笑みが漏れる。

 

『バッティングピッチャーは泉、お前がやれ』

『はい』

『ああ、バッティングピッチャーだからってわざと打たせなくていいぞ。本気で投げてみろ』

『わかりました。全力で投げます』

 

 あろうことか女子マネージャーである泉星菜が、監督から打撃投手に任命されたのである。本人がその言葉に返事を返すまで、大半の部員が聞き間違いをしたと思ったことだろう。

 後にされた茂木の話によれば、今日から彼女は部員の一人として野球部の練習に参加するとのことだ。流石に体力的な問題から独自のメニューを組まれることになるのだとは思うが、既に彼女の才能を目の当たりにしている明からしてみれば彼女の参加は大いに賛成であった。

 彼女と聖の対戦を最も近くで見た明は、以来気になっていたのだ。

 

 彼女の投球は、高校野球レベルではどこまで通用するのか――と。

 

 

(とりあえず、ウチの補欠レベルが打てる球じゃないのはわかった……)

 

 打者九人を相手に投げて、打たれたヒットは0本。フォアボールどころかスリーボールになったことすら一度も無く、テンポ良く打者を抑えていた。

 一人、また一人と打ち取っていく度にグラウンドの空気が変わっていくのが見てわかる。そんな彼女の姿には野球部だけでなくサッカー部やテニス部の者からも視線が集まっている気がするが、それは彼女の存在感たる所以か。今明には、目の前に広がる光景が夢幻のように映っていた。

 

「次はオイラの番でやんす!」

 

 彼女と十番目に相対する打者は、現時点の竹ノ子野球部においてレギュラーメンバーの一人である矢部明雄であった。打席に入る前に行う素振りだけでもわかるが、彼のスイングスピードは補欠の選手とは比べ物にならないほど速い。

 尤も、それを見たところで星菜の表情は全く変わっていない。凛とした表情のまま、他の打者に対する際と同じように応対していた。

 

「よろしくお願いします」

「よ、よろしくでやんすぅ~!」

「なに鼻の下を伸ばしているのだお前は」

「可愛い女の子によろしくされて嬉しくない男は居ないでやんす!」

「その言い方はやめろ、誤解を招く」

 

 明は捕手として投手である彼女をリードする立場にあるのだが、観客視点のようにこの対決を見物だと思っていた。

 矢部明雄は頭が悪い上に空気の読めないどうしようもない男だが、一選手としての実力は他校に出しても恥ずかしくないレベルにある。彼との対戦結果は、他の選手以上の判断材料になるのだ。

 

「でも、オイラは真面目な高校球児でやんすから、相手が星菜ちゃんだからって手加減しないでやんす!」

「ああ、お前は逆に手加減される立場だ」

「ムッ、それは聞き捨てならないでやんす。オイラの華麗なバッティングを見せるでやんす!」

 

 矢部が打席に入り、スクエアスタンスに立ってバットを構える。

 打者の準備が出来たことを確認すると、星菜がゆっくりと投球動作に移る。極端にテイクバックを小さくした腕から放たれたボールは、鋭い腕の振りとは対照的に緩い軌道を描いていた。

 

「貰った! ホームランでやんす!」

「残念、空振りだ」

「ジャストミートしたと思ったんでやんすよ……今のスローカーブ、とんでもなく曲がったでやんす」

 

 泉星菜が操る中で最も変化量の多い球種――スローカーブ。八十キロ足らずの球速でキャッチャーミットまで到達するそれは緩急の厄介さも無論だが、変化量も凄まじかった。打者の予測よりもさらに一段二段と曲がっていく変化には、これまで相対したどの打者も対応することが出来なかった。

 

(矢部よ、驚くのは早いぞ)

 

 変幻自在な彼女の投球に対する打者の反応を見るのは、彼女をリードする明にとって愉快極まりないものだった。非力ながら技巧を凝らした玄人好みの投球で打者を打ち取る彼女の姿には、圧倒的な力を持って強引に打者を捩じ伏せる波輪には無い魅力があるのだ。

 

(次は……カット行ってみるか)

 

 豊富な変化球を受けるのも、捕手として楽しいことだ。カット、ツーシーム、スライダー、スローカーブ、チェンジアップ、シュート等々……彼女いわく細かく分別すれば投げられる球種は全部で二桁にも上るらしい。実戦で使えるのはその半分ぐらいだとも言っていたが、打者を相手に実際に投げ分けてみせる彼女を見て、明は捕手という立場を忘れて唖然としたものだ。

 そしてその球種は、ただ豊富なだけではない。

 

(ここだ。今の矢部にはこの高さで十分だ)

 

 二球目の投球は、あえて打ちやすい甘い高さを要求する。その要求に従って投じられたボールは、打者の矢部にとって絶好球に見えたことだろう。

 しかし、彼がフルスイングした打球はフェアゾーンには飛ばなかった。

 

「何で、今のがファールになるんでやんす?」

「芯を外したな。力んでいるのではないか?」

「ありえないでやんす! 一年生は皆打ち取られたでやんすけど、いくらなんでも今のコースのあのストレートを打ち損じるオイラじゃないでやんす!」

「では……俺から聞かせてもらおう」

 

 これまで対戦してきた打者の誰もが、彼女のボールが持つその性質に敗れていた。

 そして今現在相対している矢部明雄もまた、既に彼女の術中に嵌っていた。

 

「一体いつから、ストレートを投げていると錯覚していた?」

「なん……だと……でやんす」

 

 今の矢部のようにこれまでの打者一同の反応があまりにも面白すぎた為、彼女をリードする明は楽しげに弾んだ声で囁いた。

 小刻みに交えるスローカーブによって視点をずらされ、緩急をつけられる為、そしてあまりにも球自体のキレが良すぎる(・・・・・・・)為に、遅い球速でも打者は容易く打ち取られてしまう。

 相対した打者からしてみれば何故捉えきれないのかもわからないまま、アウトカウントだけが増えていくのだ。

 

「い、今のはストレートじゃなかったんでやんすか?」

「さあ? どうだろうか。今度はボールをよく見てみればいい」

「やってやるでやんす!」

 

 先ほど投じたボールをストレートだと思った時点で、勝敗は決している。

 溢れる笑みを抑えきれない。この事態は六道明にとって、全くもって予想外だった。

 矢部明雄は既に、彼女の相手ではない。そのことがわかってしまったのだ。

 

(三球で十分だ、泉)

 

 出したサインに頷き、彼女が三球目のボールを投じる。

 相変わらず美しい軌道を描く白球は、何にも遮られることなく真っ直ぐに(・・・・・)ミットへと収まった。

 

「あ」

 

 外角低め、球速は115キロぐらいか。ストライクゾーンギリギリ一杯に決まったストレートに手を出すことが出来ず、矢部明雄はあえなく三振した。

 

「ボールをよく見ている間にボールが来たってところか」

「き、汚いでやんす! 六道君がごちゃごちゃ言うから……!」

「集中力の無いお前が悪い。これは囁き戦術という立派な戦術だ。多分」

 

 彼女のストレートは決して速くないが、だからと言って変化球のタイミングで待てるような球でもない。彼女のボールには並外れたスピンが掛かっている為、体感では実際の球速よりも速く感じられるのだ。一般的に「ノビのある球」と呼ばれる球質である。

 高校野球レベルでも戦えるという自信が確信に変わったとでも言ったところか。矢部を容易く切って伏せた彼女の顔は、どこまでも晴れやかなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――話は数時間前、四時間目の授業が終了した後の昼休みまで遡る。

 

「おう、よろしく。同じピッチャーとして一緒に頑張ろうな」

 

 星菜が主将の波輪に向かって野球部の練習に参加する旨を報告すると、彼は茂木と同様に、拍子抜けするほどあっさりと承諾してくれた。

 クラスメイトの矢部明雄や彼の教室に遊びに来ていた川星ほむら共々、大層驚いているようではあったが、女子である星菜が練習に参加することに対しては嫌な顔一つせず、寧ろ歓迎の言葉を掛けてくれたものだ。

 

「あの、本当によろしいのでしょうか……私なんかが一緒に練習して」

「みんな歓迎すると思うよ。もし練習がきつかったら監督に相談してメニューを変えてもらえばいいだけだし、問題ないだろ。なあ矢部君?」

「………………」

「あ、やべぇ。矢部君がフリーズしてる」

「嬉しすぎて固まっているみたいッスね。まあそんなことはどうでもいいッス、重要なことじゃないから。星菜ちゃん、ほむらも構わないッスから、あんまり気にしなくていいと思うッスよ」

「ですが……すみません、我が儘を言ってしまって。マネージャーの仕事も、私に出来ることは手伝わさせていただきます……」

「うーん、気持ちは有難いッスけど、それだと星菜ちゃんに負担が掛かるッスからねぇ……いっそ新しいマネージャーを勧誘した方が良いかもしれないッスね」

「……重ね重ね、申し訳ありません」

 

 彼らの対応は、信じられないほどに優しかった。星菜としては、優しさがここまで来れば逆に不審に感じるぐらいである。

 事が上手く運ぶのが、あまりにも都合が良すぎるように思えて――星菜にはこれが、全て夢の出来事とすら思えた。

 

「ああそうだ、グローブとかスパイクは持ってるか?」

「はい。グローブは軟式用ですが、中学時代に使っていた物があります。傷ついて汚れていますが……」

「使い込んだんだな。なら、これを期に買い換えても良いんじゃないか?」

「新品を買いに行くならほむらも一緒に行くッス!」

「……考えておきます」

 

 「彼」と過ごした穏やかな時間によって既に人間不信は治ったものと思っていたが、まだ心の底では人を信じきれていないのかもしれない。

 彼らの好意をどこか胡散臭いと感じてしまう己の心の汚さに、星菜は改めて失望した。

 

 ――本当に、自分なんかがあの場所に居て良いのだろうか。

 

 自分が頼んだこととは言え、現場への復帰を決めればこうも簡単に前進出来たことに、今までの悩みは何だったのかと思ってしまう。

 

「……星菜ちゃん、俺は君が野球をやるのは大歓迎だけど、その代わり一つだけ俺のお願いを聞いてくれ」

 

 しかし、現実はそう楽なものではない。波輪の言った言葉に顔を上げると、星菜は彼の顔を真っ直ぐに見つめる。

 お願い――つまりは、女子である自分が野球をすることへの対価か。五月になって新チームの目処が立ったところで、後からノコノコ現れては共に練習したいと言うのだ。こんな勝手な人間の参加を、無条件で快く受け入れる道理は無い。

 

「……どうぞ」

 

 星菜は静かに、彼の言葉を待った。無理難題を押し付けられたらどうするかなど、そう言った不安ももちろんあるが、ある程度のことは受け入れるつもりだった。

 これから先自分が部に掛ける迷惑を考えれば、それに見合うだけの対価の支払いは当然のことだと考えていたのだ。

 しかし彼は、彼らは、それすらも星菜の心を拍子抜けさせてくれた。

 

「ないとは思うけど、部の誰かに嫌なことをされたら俺に言ってくれ。以上だ!」

「あ、それならほむらにも相談してほしいッス! ウチの部員に限ってそんなことはないと思うッスけど」

 

 それは星菜にとって、二人が今後も自分の味方で居てくれるという宣言のようなものだった。口では「お願い」と言ったが、その言葉からは彼らなりに星菜のことを心配してくれているのだということがわかる。

 

「……はい」

 

 全くもって、人の良いことだ。

 彼らの優しさは、守られることに対して抵抗を感じるような女には勿体無いものである。

 ならば今度こそ、誰にも迷惑を掛けられない。

 かつて犯した過ちを彼らの居る野球部で繰り返さないことだけは、その胸に強く誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ありがとうございます――そう言って深々くお辞儀した後、彼女は二年の教室を去っていった。多くの生徒達が談笑する憩いの時間である昼休みだが、彼女が居る間教室の空気が普段と違う気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。

 本人がどこまで自覚しているのかはわからないが、彼女の際立った美しさはそれだけ周りの注目を集めてしまうのだ。

 教室を立ち去る彼女の姿を見送った後、波輪はドサッと机の上に突っ伏した。

 

「重すぎだろぉ……」

 

 彼女が居る間は言えなかった言葉を、喉から呻くように呟く。ポンッと肩に乗せられたほむらの小さな手が、今の波輪の唯一の癒しだった。

 

「なに? 俺なんかあの子に酷いことした? なんであんな目で俺を見るんだよぉ……」

「なんかさっきの星菜ちゃん、近所の怖い大型犬の頭を恐る恐る撫でようとしている子供みたいな顔してたッスね」

「思いっきり怖がられてたよね俺……別に取って食やしないってのに……」

「取って食ったら今波輪君はここに居ないッスけどね」

 

 先ほど波輪の前で見せた星菜の表情は、驚くほどほむらの言う表現に当てはまっていた。そう、彼女は一言一言、どこかで波輪に噛み付かれるのではないかと思っているように恐る恐る話していたのだ。

 要点をまとめれば「自分も野球部で練習したい」、「色々と迷惑掛けるかもしれないけどよろしく」と、ただそれだけの内容だった。しかしたったそれだけのことを、彼女は非常に言い辛そうにしていた。

 

「あれは何か、過去に辛い目に遭ったって顔だったなぁ……」

 

 波輪もほむらも、そんな彼女の態度に何も感じないほど鈍感な人間ではない。

 幸いにも波輪には中学のシニア時代に出会った野球少女の知り合いが居る為、彼女の態度には思い当たる節が幾つかあった。

 

「なんか、土曜日の予定が変わったことがすっかり話のおまけになっちゃったッスねぇ……」

「あー、恋々高校との練習試合だっけか。危ねぇ忘れるところだった」

「新チーム初めての練習試合ッスからね。気合入れてビシッと頼むッスよ波輪君、矢部君……って、矢部君はまだフリーズしてるんスか」

 

 彼女からは彼女が練習に参加するという話の他に練習試合の予定も報告されたのだが、ほむらが居なければ危うく頭から抜け落ちるところだった。先ほど彼女から向けられた怖いものを見るような表情は、波輪にとってそれほど精神的ダメージが大きかったのである。やましいことは何一つしていない筈なのだが何故だか罪悪感が膨れ上がっていくという、非常に理不尽な目に遭っていた。

 そこで、波輪はあることに気付いた。

 恋々高校という、練習試合の対戦校についてのことだ。

 

「……恋々高校って、この間ほむらちゃん達が偵察に行った高校だよね?」

「うん、本当はパワフル高校の偵察だったんスけど。活き活きしてて強いチームだったッスよ」

 

 いつだったか竹ノ子高校二人のマネージャーが偵察した試合に名前が上がった高校、恋々高校。その偵察の報告には、少々気になる点があった。スタメンに名を連ねた選手達の名前に、何人か心当たりがあったのだ。

 記憶が確かなら、奥居、村雨、天王寺、球三郎という名前はシニアで身に覚えがあり、試合で対戦したことがある。そして四番を打っていた小波という男は、波輪は会ったことはないが鈴姫の出身校である白鳥中学の主将だったらしい。そしてほむらが言うには、当時の軟式野球で中学最強のスラッガーだったと。

 私立校とは言え最近まで女子校だった学校がよくもそれだけの選手を集めたと思うが、それ以上に驚いたのは先発投手の名前だった。

 早川あおい――波輪はその名の投手ともかつてシニアの試合で対戦したことがあり、そして完璧に抑え込まれた記憶がある――女性投手である。

 

(あの子がまだ野球を続けていたとはなぁ……)

 

 生半可な捕手では捕球することすら出来ない曲がりの大きなカーブとシンカーを投げ、抜群の制球力を持つ投手。性格は男勝りで気が強く、個人的には少し苦手だったが、彼女の野球への熱心な打ち込み方には敵ながら学ぶものが多かった。

 練習試合ならば、女子選手でも試合に出ることが出来る。もしかしたら土曜日は、久しぶりに彼女と投げ合うことがあるかもしれない。

 

「楽しみだな」

 

 女子選手同士、彼女と星菜を引き合わせてみるのも良いかもしれない。見たところ星菜はどうにも心に闇を抱えているようだが、だからと言って波輪には自分が不用意に彼女の心に踏み込んでしまうのはあまりに失礼だと思えた。こういうことは近い立場に居る人間に任せた方が無難ではないかと――学力こそ皆無だが、波輪はそういったことには頭の回る男だった。

 

 土曜日に向けて、今日は投げ込みを増やしてみるか――そんなことを考えていると程なくして昼休みが終わり、ほむらが慌てて自分の教室に帰った。

 



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そんなことより野球しようぜ

 

 

 星菜が野球部の練習に参加することを表明した際は部員達一同から大いに驚かれたものの、不思議なことに批判的な声を浴びることは全く無かった。おそらくは監督の茂木や主将の波輪から根回しがあったのかもしれないが、日頃の自分の行いが功を成した結果だとも星菜は思っている。

 中学時代の過ちを二度と繰り返さない為、星菜はこれまで常日頃から他人から嫌われぬようにと心象の良い態度を心がけてきたつもりだ。ほむらの前では少々あったが彼らの前では素の性格を出したことはほとんどなく、常に礼儀正しく、そして控えめな言動をしてきた。彼らからこうもすんなりと受け入れてもらえたのは、そう言った自分が被っている猫を好意的に見られているからなのだろうと星菜は考えていた。

 本来の自分は、決して彼らの思うような上品な人間ではない。だが演技でも上品ぶることによって泉星菜という人間が評価されるのなら、その方が良かった。

 

 ――こうして彼らの中で、純粋に野球に打ち込むことが出来るのだから。

 

 拙いコミュニケーション能力ながらも星菜は周囲に対して内に篭った感謝の気持ちを振りまくと、思うがままに自己の練習に励んだ。普段は猫を被っているが、練習に集中している間だけは普段よりも自分らしく在れるような気がした。

 

 

 そして、時は土曜日へと移る。

 主将の波輪はもちろんとして、この日を待ち望んでいた野球部員は多い。何せ今年の新チームが始動して以来、初めて行う対外試合なのだ。竹ノ子高校の校舎の前にて多くの野球部員達が集合しているその場所には、練習日以上の緊張感が漂っているように見えた。

 試合を行う山の手球場へは朝の八時に校舎前に集合し、民間のバスを利用して移動する予定である。皆それなりに気合が入っているのであろう、星菜は集合時刻よりも十分以上前に到着していたのだが、その頃には既に十七人もの野球部員達が集まっていた。

 

「あ、星菜ちゃんだ。ユニフォーム、似合ってるじゃん」

「こんな地味なユニフォームでも着る人が着れば変わるでやんすね」

「……ありがとうございます」

 

 この日、星菜が身に纏っていたのは前日まで練習着として使っていた高校指定のジャージではなく、緑色を基調とした竹ノ子高校のユニフォームであった。監督の茂木が気を利かしてくれたのか練習に参加すると言った次の日からメーカーに発注を頼んでくれたらしく、昨日の練習が終わった後に星菜の元まで届いた次第である。

 急ピッチで仕上げてもらった為にその出来には些か不安はあったものの、実際に着てみれば特にこれと言った問題はなく、星菜の寸法にピッタリと合っていた。

 サイズが小さい為に端からは高校球児と言うよりもリトルリーグの選手に見えるだろうが、開口一番に社交辞令を言ってきた波輪を始め、無闇にこちらのコンプレックスを突いてこなかった部員達の優しさに星菜は感謝した。

 当然のことながら、背番号は貰っていない。星菜自身も元より今回の試合に出場する気は持ち合わせておらず、出場する資格があるとも思っていなかった。

 ベンチ入りメンバーの十八人の中で、試合に出れるのは実力のある一部の人間だ。星菜は自分の実力が他の補欠部員よりも劣っているとは思っていないが、それでも彼らから受ける心象の良し悪しについては常に頭の中にあった。

 ほんの数日前に入部してきたばかりの女子選手が、入学時からこれまで野球部員として頑張ってきた自分達を差し置いて試合に出る。それがどれほど大きな顰蹙を買うことになるのか、気に掛けない星菜ではなかった。

 無論、本心を言えば試合には出たい。しかしそのことでチーム内に不和が生まれるのなら、星菜は幾らでも自分の気持ちを押し殺すつもりで居た。

 

「これで監督以外は全員揃ったか?」

「先輩、青山の奴は腹痛で休むみたいッスよ」

「はあ? アイツ、しょうがねぇなぁ……」

 

 故に星菜は、自ら前に出ようとはしない。

 投手が一人欠席したという報告を聞いてこちらを一瞥してきた主将の視線にも、先程からチラチラと何か言いたげにこちらを見ている元友人の視線にも、あえて気付かないフリをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突発の欠席部員が約一名出たものの、無事に集合が完了した竹ノ子高校野球部員達はバスに乗り込み、球場へと向かった。これがあかつき大附属や海東学院のような資金に余裕のある学校ならば専用のバスが用意されていたのだろうが、生憎にも竹ノ子高校は田舎の公立校である。一般の利用客も乗り合わせているバスの中では若干窮屈だったが、今の星菜にとっては然程気になる問題ではなかった。

 移動中の星菜の頭は、今回の練習試合の対戦校のことで一杯になっていたからだ。

 

(恋々高校か……)

 

 練習に支障を来す恐れがあった為に昨日まではなるべく考えないようにしていたが、やはり当日になるとどうにも落ち着かないものだ。恋々高校と言えば昨年から共学になった元女子校というのが一般的な認識だろうが、星菜にとってはそれだけではない。

 早川あおいと小波大也という、自分が世話を掛けた二人の恩人が居る高校なのである。

 今回は試合をしに来ている以上、あまり話すことは出来ないだろう。しかし星菜の心には、二人に会えるかもしれないという期待が少なからずあった。

 

(いや、でも会わない方がいいのかもしれない。あおいさんはともかく、あの人とは……)

 

 会いたいようで、会いたくないような。

 言葉には表現し難い、複雑な心境だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星菜の心構えが曖昧な間にもバスは滞りなく進行していき、程なくして山の手球場へと到着した。

 山の手球場は良く言えば年季のある球場で、悪く言えば古めかしい球場だ。しかしそれでも高校野球の公式戦で使われることがある程度には整備されている為、普段校庭のグラウンドで練習している竹ノ子高校野球部からしてみれば立派な野球場には違いなかった。

 星菜達が球場入りすると場内では既に恋々高校の選手達が練習している最中であり、こちらの来訪に気付いた主将が一同の練習を中断させると帽子を外して挨拶してきた。竹ノ子高校の主将波輪もそれに応え、メンバー全員で挨拶を返した。

 

「やっぱりキャプテンは小波君なんスね」

「……みたいですね」

 

 星菜がこの空気を味わえたのは、年にしてリトルリーグ以来のことだった。しかしそのことに感動するわけでもなく、今一つ実感が沸かないというのが正直なところだった。

 女子選手である自分が、ここに居て良いのだろうか――そう言った後暗い感情は、ここでも付き纏ってきていた。

 

「俺らも始めるぞ。良いっすよね監督?」

「ああ、試合は一時からで、それまでは好きに練習して良いんだとさ。くれぐれもあちらさんの邪魔はするなよ」

「おし、じゃあ空いてるとこ使ってランニングするぞ」

 

 竹ノ子高校用に割り当てられたベンチに野球用具を置くと、星菜達は波輪に先導されて土のグラウンドへと足を踏み入れる。普段のように一同整列してランニングから始めようとするが、一人だけ列に加わらない者が居た。

 

「おい鈴姫、始めるぞ」

「………………」

「おーい!」

「……ああ、すみません」

 

 鈴姫健太郎――彼は一人その場に佇み、恋々高校の練習風景を眺めていた。

 波輪が二度声を掛けたことでようやく反応を返したが、すぐにまた立ち止まってしまい、再びあちらの方向を眺め始めた。

 いや、眺めていると言うよりも、もはや睨んでいると言った方が正しい鋭い目つきをしていた。

 まさかと思い星菜が目を向けるが、彼の視線の先に居たのは恋々高校の主将――小波大也であった。

 

(まったくアイツは……)

 

 中学時代は同じ野球部で先輩と後輩の関係だった二人だが、鈴姫は先輩である彼のことを慕ってはいない。

 実際に二人が喧嘩をしているところまでは見たことないが、星菜が野球部を退部して以降、「あんな奴」だとか「役に立たない先輩」だとか、頻繁に彼の陰口をついていたことが記憶にある。

 当時から鈴姫は彼に対して深い憎しみを抱いているようだったが、星菜にはその理由に心当たりがあった。

 

「練習、始まりますよ?」

「……あ、ああ。悪い、大丈夫だ」

 

 恐らくは、自分のせいだ。

 恨みの原因は、この泉星菜にある。それがわかっているが故に星菜は列から外れて鈴姫の元に駆け寄ると、彼の意識を覚ますべく強引に腕を掴んでこちらに引き寄せた。

 

(……本当に、まったくもう……)

 

 冷静なようで、一つの感情に囚われると途端に周りが見えなくなる。鈴姫健太郎という男は、そういう男だ。一度説教したくもあったが星菜にもまた同様の部分がある為、強く口に出すことは出来なかった。

 だがぼそりと、ほんの小さな声だが思わず漏れ出てしまった。

 

「……私達は、野球をする為に来たんだからさ……」

 

 近くに居た為にその言葉を聞き取ってしまったのか、鈴姫は一瞬驚いた後、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 そして星菜は、自分が言ったその言葉に納得し、頷いた。

 そうだ、自分達は野球をする為にここに来たのだ。

 だから今は、それだけを考えれば良いのだと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前中の間に練習を切り上げた竹ノ子高校は軽く腹ごしらえを済ませ、刻一刻と迫る試合開始の時を待つ。

 時刻は既に正午を回っており、両チームともスターティングメンバーが決定している。今回出場するそれぞれの九人の名前がアナウンスから発表されると、センター後方の電光掲示板に次々と浮かび上がっていった。

 先行は恋々高校。そのメンバーは、星菜とほむらが偵察した際に見た物とはところどころ異なっていた。

 

 一番ショート佐久間。

 二番レフト球三郎。

 三番ピッチャー奥居。

 四番キャッチャー小波。

 五番サード陳。

 六番ライト天王寺。

 七番ファースト小豪月。

 八番センター村雨。

 九番セカンド茂武。

 

 これが、今回の恋々高校のスターティングメンバーである。

 星菜が気になったのはやはり先発投手の名前だ。パワフル高校戦で先発した早川あおいの名前がメンバー表から外れており、二番手として登板した奥居が先発投手となっている。その他はセカンドを守っていた(チェン)がサードに着いているぐらいの変化であり、打順に関しては九番以外は変わっていなかった。

 これを見てはっきりしているのは、あの山道翔を打ち崩した打線とほぼ同じ面子が相手になるということだ。こちらの先発投手である波輪からしてみれば、相手にとって不足は無いと言ったところだろう。

 

 そして、高校の竹ノ子高校である。

 

 一番センター矢部。

 二番キャッチャー六道。

 三番ショート鈴姫。

 四番ピッチャー波輪。

 五番ファースト外川。

 六番サード池ノ川。

 七番セカンド小島。

 八番レフト義村。

 九番ライト石田。

 

 茂木が発表したそれは、星菜が監督でもそうするだろうと言うところの顔ぶれだった。

 星菜もまた日頃の練習を見て他の選手よりも優秀だと感じたのは、この九人である。本来ならばライトを守るのは一年生の青山だったかもしれないが、腹痛で休んでしまった以上はこれが現状のベストメンバーであった。

 下位がやや薄いかもしれないが、上位打線に主力を固めて四番の波輪の前にランナーを溜めた方が竹ノ子高校としては効率が良いと星菜は考えていた。

 

「ビシッと頼むッスよ波輪君!」

「頑張ってください、波輪先輩」

 

 勝敗の鍵を握っているのは、やはり波輪の活躍である。星菜は微力ながら彼を応援するべく、ほむらに続いて声を掛ける。すると彼は快活に笑い、右肩を回しながら「よーしお兄さん頑張っちゃうぞー!」と気合の入った声を上げた。

 

「なに!? ずるいぞ波輪っ!」

「ふはは、日頃の行いだよ日頃の」

「うぜぇ……」

「星菜ちゃん、オイラにも応援の言葉が欲しいでやんす!」

「はい。頑張ってください、先輩」

「……フッ、もはや今のオイラに敵は居ないでやんす」

 

 試合に出場しない人間にも、出場しないなりの役目はある。本当はランナーコーチを引き受けたいところだったが今の自分はそこまで選手達から信頼されていないのか、その役目は他の補欠部員が行うことになっていた。人の良い彼らは皆口を揃えて「星菜ちゃんはここから応援の言葉を掛けてくれれば十分すぎるよ」とフォローしてくれたが、本当に役に立っているのかという不安は拭えなかった。

 

 

 そして、時は来た。

 

 時計の指針が午後の一時を差した瞬間、一斉に飛び出した竹ノ子高校、恋々高校両陣の選手達が審判員達の待つホームベース付近へと整列し、一礼を交わした。

 







 


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ラブパワー発動

 

 一度豪腕を振り切れば、空気が唸る。

 マウンド上の男が全神経を指バネに集中させて放った白球は直線を描き、半瞬後にはキャッチャーミットから重い衝撃音を響かせていた。

 

「ストライクッ! バッターアウト!」

 

 試合が始まって二分と掛からず、スコアボードに初のアウトカウントが刻まれる。

 恋々高校の一番打者(リードオフマン)佐久間は、己のバットから一度も手応えを感じなかったことに肩を落としながらベンチへと帰っていった。

 相手チームである恋々高校のベンチは、そして味方チームである竹ノ子高校のベンチすらも、彼の放つ剛速球に騒然としていた。

 

「うわぁ……」

「おい見ろよ、今の148キロだってよ」

「やっぱりキャプテンってすげぇ……」

 

 小手先の技術など無用とばかりに、彼が投じた三球のストレートは圧倒的な威力を持っていた。

 まさに別格――モノが違い過ぎるというのが彼に対する評価である。

 

(仕上がっているな、波輪先輩は)

 

 多くの一年生部員が自分達の主将の投球に興奮している中で、星菜は川星ほむらの隣で無表情にそれを観察していた。

 変化球はまだわからないが、真っ直ぐ(ストレート)に関しては何の不安もなく本大会を迎えられそうな仕上がりぶりである。やはり二年生になって身体が一回り大きくなったからか、波輪の投球は星菜がかつて観客席から観た時よりも数段レベルアップしていた。

 

「ストライク! アウトッ!」

 

 恋々高校の一番佐久間を空振りの三球三振に仕留めた後、続く二番球三郎もストレートの三球勝負で見逃し三振に切って取った。星菜が参考程度に目を向けたモニタースクリーンに映る球速表示は常に140キロ台後半をマークしており、目視でも球が走っているのがわかる。本日の竹ノ子高校のエースは、すこぶる好調のようだった。

 

《三番、ピッチャー――奥居君》

 

 しかし相手の恋々高校は来年のドラフト候補である好投手、パワフル高校の山道翔を打ち崩した打線である。そのクリーンアップが波輪の剛速球にどう対応していくか、星菜は敵ながら期待していた。

 たった今ウグイス嬢からコールされた三番の奥居――彼は苗字から察するに、おそらく以前友人の亜美が話していた彼女の兄なのだろう。顔を見た限りでは全く似ていないが、そう何人も居るような苗字ではないので星菜はそう推測する。彼はスパイクで足元を慣らしながら、自分のペースでゆっくりと右打席へと入った。

 試合が始まる前、星菜とほむらはマネージャーとして仕入れてきた情報から恋々打線では特にクリーンアップに注意しておくように伝えている。そのことがしっかりと頭に入っているらしく、奥居の名がコールされてから若干波輪の目つきが変わったように見えた。

 キャッチャー六道明のサインに頷くと、波輪はノーワインドアップから左足を振り上げ、大きなテイクバックから右腕を振り下ろした。

 

 ――瞬間、鋭い金属音が響いた。

 

 それは、この試合七球目にして初めて聴こえたバットの音だった。打球は一塁ランナーコーチの傍らを通り抜けていくファールボールだったが、奥居は初球にして剛速球を打ち返したのである。

 

(やっぱり、パワフル戦での活躍はまぐれじゃないみたいだ)

 

 打った本人は今の打球がフェアゾーンに飛んでいかなかったことに首を傾げているが、初見でバットの芯に当てただけでも十分に褒められることである。

 キャッチャーの六道も彼は只者ではないと感じたのか、二番打者までよりもミットの構えを厳しくしていた。

 

 波輪が二球目に投じたボールはこの試合初めての変化球――スライダーだった。

 外角に向かって放たれたボールはベースの手前でキレ良く横滑りすると、右打者のバットが届かないストライクゾーンの枠外へと外れた。あわよくば空振りを狙ったのだろうが、打者の奥居はピクリとも動じずに見送ってみせた。

 しかし三球目、奥居は同じコースに続けたスライダーを強振し、空振りする。ストレートを狙っていたのだが読みが外れたと言うところか、打席上の奥居は悔しそうに苦笑いを浮かべていた。

 

「あちらの三番バッター、良い振りをしていますね」

「当たったら飛びそうッスねぇ」

 

 波輪の長所には最速150キロを超える剛速球の他にもこのスライダーの曲がり、キレの良さがある。彼が一年生だった昨秋は寧ろこちらの方を武器にしていたぐらいであり、強者揃いである海東学院高校の打線を苦戦させていたことが記憶に新しい。

 そして今年はそのスライダーにさらなる磨きを掛けており、既にプロ級のレベルにあると見ていた。

 だがだからと言って、何球も連続してスライダーだけを続けるのは愚行である。キャッチャーの六道は腰を上げると、四球目は高めに大きく外れた釣り球のストレートを要求した。

 外角の変化球に意識を向けさせた後、それまでと異なるコースに異なる球種を投げさせるのは配球のセオリーだ。高めの釣り玉は制球を誤った際には丁度打者が打ちやすいコースであるベルトの位置へと入ってしまう恐れがあるが、今日の波輪の調子ならば問題無いと踏んだのだろう。六道は自信を持って要求していた。

 そのリードに従い、波輪はこの回最速である149キロのストレートを高めに外した。

 打者の奥居は迂闊に手を出さなかったものの危うくバットが出掛かり、打席を外して「危なかったぜぇ……」と呟きながらその場で屈伸運動を行った。

 

(今の球を振ってくれれば儲けもの。振ってくれなくても、今の真っ直ぐは頭に残った筈。私なら次は外角低め(アウトロー)に緩いカーブかチェンジアップを投げたいところだけど、波輪先輩はどっちも投げられないから……)

 

 波輪風郎は現時点でも超高校級の実力者であるが、あえて課題を上げるとすれば星菜が得意とするスローカーブのような球種を持っていないことであろう。それ故に投球の引き出しが狭くなりがちで、何度か投球を見ればある程度は配球が読めるのである。

 無論、だからと言って簡単に打てる投手ではない。

 

(あえてインコースに真っ直ぐとか良いかもな)

 

 わかっていても打てない、それが波輪風郎という男の強さなのだ。

 

「っ!」

 

 奥居の表情が苦渋に染まる。

 カウントツーエンドツーから投じた五球目のボールは、星菜の読み通り内角へのストレートだった。高さは六道の要求よりも甘く入ってしまったが球自体に威力があり、奥居は当てに行くだけの打撃になってしまった。

 この期に及んでも140キロ台後半のストレートに振り遅れなかった点は賞賛出来るがボテボテと転がる打球の勢いは褒められたものではなく、フェアゾーン上でサードの池ノ川に捕球されると、強肩からすかさず一塁へと送られスリーアウトとなった。

 

「スマンな小波」

「ドンマイ、ピッチング頼んだよ」

「おう、任せとけ」

 

 凡退となった奥居はネクストバッターズサークルに待機していた四番打者と共にベンチへと帰り、守備の用意へと移る。

 そして初回の守りを三者凡退で乗り切った竹ノ子高校ナインは、波輪の好投と池ノ川の好守を称えながら星菜達の居るベンチへと戻ってきた。

 

「ナイスピッチングッス波輪君!」

「サンキュー!」

「ナイスピッチングだ。だがいきなり飛ばしすぎだ。青山が居ないんだから少しは手を抜いとけ」

「へーい……」

 

 ほむらや茂木監督から各々の言葉を掛けられ、波輪はそれぞれに正反対の反応を返す。

 確かに今日は二番手投手である青山が欠席している為、波輪には長いイニングを投げ抜き、可能ならば完投をしてもらわなければならない。選手の故障に関してだけは異常に神経質な茂木としては、この初回は完璧過ぎるが故に不安な立ち上がりに見えたのかもしれない。

 

「おっしゃ行けよ矢部!」

「一発かましたれメガネェッ!」

「任せるでやんす!」

 

 攻守交替となったことで竹ノ子高校の一番打者、矢部明雄がバッターボックスへと向かう。久しぶりの対外試合の初打席だからか、常にも増して気合いが入っている様子である。

 恋々高校のバッテリーは投球練習最後の一球を投げ終えた後、捕手の小波がボールを緩やかに二塁へと送り、仮想の盗塁阻止練習を行っていた。

 

「打たせていくよ」

「おう!」

 

 捕手は守備陣に一声掛けるとマスクを被り、キャッチャーボックスに座って矢部の到着を待った。

 矢部が打席に入りバットを構えると、「プレイ!」という号令によってイニングが始まった。

 そして投手奥居の一球――セットポジションから投げ下ろされたボールは、リリースポイントから糸を引いてキャッチャーミットへと収まった。

 

「ストライク!」

 

 星菜が観に行ったパワフル高校の練習試合でも奥居は登板していたが、この試合で投げた第一球はその時と変わらず威力のあるストレートであった。

 

「138キロか……」

「向こうも結構速いなぁ」

 

 モニターの球速表示を見た部員達から驚きの声が上がる。

 右のオーバースローから放たれる奥居のストレートには、強豪校を相手にも通用するほどのスピードがある。他のメンバーにも言えることだが、星菜は公式戦に出場したことのない恋々高校が良くもこれほどの人材を集められたものだと感心していた。

 部員の数は辛うじて試合が出来る程度の人数しか居ないらしいが、レギュラーメンバーの質は驚くほど高い。おそらくは今後の大会において、恋々高校の名はダークホースとなりそうだ。

 

(……でも、あの人は大したピッチャーじゃなさそうだ)

 

 だが星菜は、現時点の奥居という投手自体にはそれほどの脅威は感じなかった。

 確かに球は速いかもしれないが投球フォームに粗が多く、制球があまりにもアバウトだからだ。

 テンポ良く投げ込まれていく矢部の打席は初球と二球目こそストライクを取ったものの、次からの投球は捕手の構えから大きく外れ、ツーナッシングからスリーボール、あっという間にフルカウントになってしまった。

 

(前観た時も思ったけど、このピッチャーは典型的なノーコン速球派だな)

 

 そして次の一球は140キロを計測したものの際どく内に外れ、球審からボールを取られる。そして矢部の一打席目は、一球もバットを振ることなくフォアボールとなった。

 

「ナイス選ナイス選!」

「矢部君、案外落ち着いてたッスね」

 

 球離れがやや早いため、投げる瞬間にボールがどこへ来るのかわかりやすいのだろう。今のフォアボールに関しては打者矢部の選球眼も賞賛すべきかもしれないが、星菜としては投手奥居を叱りたい気分であった。

 

「あの人の構えたところに投げれば、何の問題も無いのに……」

 

 捕手がどれほど思考を練って配球しても、投手が応えられなければ意味は無い。恋々高校の捕手の優秀さを知っているだけに、星菜は彼の投球が腹立たしかった。

 

「……あっちじゃなくてウチを応援しましょうよ、泉さん」

 

 奥居の制球力を苛立たしく思っていると、どこからかそんな声が聴こえてきた。星菜がその方向に目を向けると、声を放った人物はヘルメットとバットを持ってバッターズサークルへと移動している最中であった。

 

(……それもそうだ)

 

 彼の言う通り、対戦校の投手を応援するのは確かにおかしいだろう。しかしあの人物が捕手を務めていることへの小さな嫉妬心と速球派投手へのコンプレックスからか、星菜はつい苛立ってしまい、勿体無いと思ってしまうのだ。

 

《二番、キャッチャー六道君》

 

 矢部が出塁すると、ウグイス嬢からコールされた六道明が打席に入る。二番打者の仕事としては、この走者(ランナー)は何としてでも進塁させたいところである。

 しかし六道明は本人も言っているが、打撃は得意ではない。身長は172センチ程度あるが体格は捕手とは思えないほどスリムであり、ボールを飛ばす力には乏しい選手である。

 だがそう言った短所を補う為に練習したのか、進塁打やバントのような小技は大の得意としていた。打席に入る前にベンチに居る茂木からサインを窺っていたが、おそらくこの場面での指示は送りバントであろう。

 

(でもピッチャーの制球が荒れているから、四球を狙って一球ストライクが入るまで待った方が良いかもしれない)

 

 バントの名手であれば、ここは初球から簡単に決めてしまうのは勿体無いような気もする。

 それは打席上の六道と監督の茂木も同じ考えだったのか、クイックモーションから放たれた奥居の一球に対して、六道は一度バントの構えを見せた後、寸前のところで後ろに引いた。

 しかし、それはただの揺さぶりではなかった。投手の奥居を揺さぶる目的は少なからずあったのかもしれないが、本来の目的ではない。どちらかと言えば、捕手を揺さぶる為の行動だった。

 

「走ったぞアニキ!」

 

 奥居が投球動作に入った瞬間、一塁ベースに着いていた恋々高校の一塁手(ファースト)が声を上げた。走者の矢部が盗塁のスタートを切り、全力で走り出したのだ。

 矢部明雄は貧相な見た目で損をしているが、竹ノ子高校野球部随一の俊足の持ち主である。加えて彼の盗塁走塁の技術は強豪校相手にも通用するレベルであり、昨秋の大会でも何度か盗塁を成功させていた。

 しかし、今回ばかりは相手が悪すぎた。

 

「……! アウトッ!」

 

 矢部が盗もうとした二塁ベースに、彼の足が届くことはなかった。

 恋々高校の捕手が座りながら放った弾丸のような送球が、瞬く間に遊撃手のグラブへと収まったのである。矢部はたった今自分が刺されたことが信じられないでも言うように、スライディングの態勢のままその場に固まっていた。

 そして盗塁の成功を疑わなかった竹ノ子高校のベンチもまた、驚愕に包まれていた。

 

「あれが、小波って奴の肩か。座りながらの送球でアレとか、いくらなんでもヤバすぎだろ」

 

 その声を漏らしたのは、竹ノ子高校野球部の主将波輪風郎である。

 しかしその顔には驚きこそあれど怯みはなく、寧ろ非常に楽しそうにしていた。

 そしてこちらに顔を向けると、メンバー一同に向かって強く言い放った。

 

「おいお前ら! 恋々高校が大会に出たこともないチームだからって舐めてる奴が居たら、そんな考えは捨てろよ!」

 

 既に彼は、恋々高校というチームをはっきりと強敵として認識しているようだった。

 その心中は、あの小波に打席が回る次のイニングが今から待ち遠しいといったところであろう。その気持ちは星菜にも、痛いほど(・・・・)わかった。

 

(……小波先輩……)

 

 自分も戦ってみたい――そう思ってしまう今の自分には、彼のような熱い心が備わっているのだろうか。

 もしそうならばこの試合は自分にとって思っていた以上の苦痛になるかもしれないと、星菜はまるで他人事のように冷静に考えている己に気付き、ふっと苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その男のことを、鈴姫健太郎は心から尊敬していた。

 

 彼は星菜と同様に天才肌で、何をやらせても完璧にこなせる人間で。

 人当たりも良く、先輩や後輩、大人達からも信頼されていた。

 リトルリーグに所属していた頃の鈴姫は三年間とも補欠であったが、彼はその反対で、四年生の頃からチームの中心選手として活躍していた。そして六年生時にはエースの星菜の球を受ける正捕手のキャプテンとして、チームを優勝にまで導いてくれた。

 鈴姫は彼に恩がある。片や正捕手、片や補欠という関係でありながらも彼は鈴姫の練習に何度も付き合ってくれて、鈴姫はその都度多くのアドバイスを貰ってきた。

 

 そして何よりも重要なこととして、彼は星菜と仲が良かった。

 

 話によれば彼は星菜が一度この街を引っ越す前に知り合った親友で、当時野球のやの字も知らなかった彼に野球を教えたのが星菜だったのだと言う。

 それが数年後になって同じ野球チームのチームメイトとして再会したというのだから、鈴姫は子供心にロマンチックなものを感じたものだ。

 

(……あの時の俺は、あんたとアイツの仲に嫉妬していた。でも、それでも良いと思っている自分が居た)

 

 彼は当時から背が高く、性格も大人っぽくて落ち着いていた。

 一年先輩だと言うのに後輩に対して一切偉ぶることがなく、それでいて他人が間違いを犯した際には厳しく叱ることが出来る男だった。

 そんな完璧な人間である彼と自分を見比べる度に、幼い鈴姫は「あの人には勝てない」と激しい劣等感を抱いていた。

 

 ――だが、だからこそ安心もしていた。

 

 もしも今後星菜と彼が「そういう関係」になったとしても、彼ならば間違いなく星菜を幸せにしてくれると。小波大也という人間の器の大きさには完膚なきまでの敗北感を味わったが、同時に絶大な信頼を寄せることが出来たのだ。

 それ故に、今の鈴姫は激怒していた。

 

(俺が勝手に期待していただけだっていうのはわかってるさ。でも、あんたはアイツを助けてくれなかった。何もアイツにしてくれなかった……!)

 

 中学時代に星菜が野球部を辞める原因を作った男がよくもまあおめおめと野球をやっているものだと、ここが野球場でなかったらまた一発殴ってやりたいところだった。

 しかしバットを片手に持つ鈴姫は表面上は無表情を装っており、その内心をぶちまけることはなかった。

 

「アウト!」

 

 二番六道明がカウントツーエンドツーから打ち上げた小フライを、キャッチャーマスクを外した小波が危なげなく捕球する。彼はツーアウト!と二本の指を立てて声を上げると、そのボールを投手へと返した。

 

《三番ショート、鈴姫君》

 

 そして、自分の打席が回ってくる。

 凡退した六道と無言で擦れ違った後、鈴姫はゆっくりと左打席に入った。

 

「試合前に、何か言われると思ったよ」

 

 足元を慣らしている最中、ふとキャッチャーボックスの方向から声を掛けられた。

 一年以上ぶりに耳にする、どこまでも苛立たしく甘い声色である。

 

「俺はそうしてやりたかったんですけどね。でも、今日は野球をしに来ているんだ。……アイツにそう言われた」

「はは、君は相変わらず、星ちゃんが大好きだね」

 

 球審からプレイの声が掛かり、相手投手が投球動作に移る。

 柔らかさを感じないロボットのような投球フォームから、その右腕が素早く振り下ろされた。

 指から放たれたボールは18.44メートルの間で緩やかな弧を描くと、ホームベースの後ろでショートバウンドしてから小波のミットへと収まった。

 球審の判定は、もちろんボールである。鈴姫にとっては反応するに値しない、球のキレを感じられないカーブだった。

 

「見せ球にもなりませんよ。そんなへなちょこカーブ」

「そう言うなよ。奥居君の本職はサードなんだから」

「言い訳をする人間に進歩はありませんよ、先輩」

「ふむ、一理あるね」

 

 小波からの返球が、ビシュッと風切り音を立てて投手のグラブへと到達する。その間、鈴姫は一度としてキャッチャーボックスの方向を見なかった。

 今そちらに目を向ければ、野球どころではなくなってしまう気がしたのである。鈴姫は今の自分の精神状態を深く理解していた。

 バットを構え直し投手の姿を睨んでいると、間を置かずに二球目のボールが向かってきた。直線的な軌道を辿るそのボールには、中学野球ではほとんど目にかかれないほどのスピードがあった。

 

 ――だが、それがどうしたというのか。

 

 鈴姫は思い切り右足を踏み込むと、内角に食い込んできた速球をバットの真芯でいとも容易く弾き返してみせた。

 爽快な金属音と共に打ち返した打球は、瞬く間にライト線を突き破っていった。

 

「フェア!」

 

 二転、三転と転がっていく打球は勢いを緩めないままフェンスまで到達し、鈴姫は悠々と二塁ベースへと辿り着く。

 隙あらば三塁を狙おうとしたがライトからの返球が予測していたよりも早く内野に返ってきた為、鈴姫は数歩ほどオーバーランをしたところで二塁へと戻った。

 

(アイツの前であんなノーコンの、球が少し速いだけのピッチャーに抑えられてたまるか……)

 

 ツーアウトからツーベースヒットが出たことで、竹ノ子高校ベンチからはやたらと大きな歓声が聴こえてきた。その声の中に心の内の大半を占める人物の声が混じっているのかどうかは、今の鈴姫にはわからなかった。







 今回試合が始まったということで、おまけとして今回登場した竹ノ子選手のパワプロ風ステータスを。


※あくまでこのステータスは参考程度に考えてください。


 矢部(やべ) 明雄(あきお)

 右投右打

 ポジション 中堅手

 弾道2
 ミート E
 パワー C
 走力 B
 肩力 E
 守備力 D
 エラー回避 F

 チャンス2 ヘッドスライディング 盗塁4 走塁4 エラー

 備考:原作パワポタ3と大体同じ


 六道(ろくどう) (あきら)

 右投右打

 ポジション 捕手

 弾道2
 ミート F
 パワー F
 走力 E
 肩力 D
 守備力 B
 エラー回避 B

 バント○ キャッチャー○ 流し打ち

 備考:劣化ひじりん 弱肩


 鈴姫(すずひめ) 健太郎(けんたろう)

 右投左打

 ポジション 遊撃手

 弾道3
 ミート B
 パワー D
 走力 B
 肩力 C
 守備力 B
 エラー回避 A

 安定度4 アベレージヒッター バント○ 流し打ち 内野安打○ 盗塁4 走塁4 寸前× 星菜病

 備考:主人公の存在で原作よりも少し強くなっている



 次回の後書きでは四番~六番打者のステータスを載せる予定です。


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天才vs天才

 

 ――それは、ストライクを一つ取った後の二球目だった。

 

 恋々高校の捕手小波が要求したのは外角から外れるカーブだったが、投手奥居はそれを上手く制球することが出来ず、誤ってストライクゾーンの内側に入ってしまったのだ。

 それも真ん中中央――絵に書いたようなど真ん中に。

 そしてその失投を竹ノ子高校の主砲、波輪風郎が逃す筈もなく。

 豪快に振り抜いたバットは目の覚めるような快音を鳴り響かし、白球は鮮やかな放物線を描いてレフトスタンドへと吸い込まれていった。

 

 モニタースクリーンに映し出されたスコアボードに、数字の「2」が刻まれる。

 それは波輪風郎のツーランホームランによって、竹ノ子高校が先制点を上げた瞬間だった。

 

「……それでこそ、僕のライバルだ」

 

 一塁側の観客席の奥部からその瞬間を眺めていた青年は、我が物顔でダイヤモンドを一周していく男の背を見て満足そうに笑む。

 あのボールを打ち損じるようなライバルでは、自分と相対する資格もない。

 流石は中学時代唯一自分からホームランを打った男だ――と、青年は誰にも聴こえない心の内で呟いた。

 

「ちょっといいかな」

 

 その時、ふと横方から声が聴こえた。

 瞬時にその声が自分に向けられているものだと察した青年は、どこかで聞いた覚えのある声の主に対し、ちらりと顔を向けた。

 

樽本(たるもと)先輩……」

「やっぱり猪狩(いかり)君だったか。奇遇だね。君も観に来ていたのか」

 

 北欧のハーフを思わせるウェーブの掛かったプラチナブロンドの髪に、甘い声色の印象と寸分違わぬ甘いマスクを持つ美青年――樽本(たるもと) 有太(ゆうた)。名門海東学院高校のエースにして主将である彼がこの場に居たことに、青年――猪狩(いかり) (まもる)は意外そうな顔を浮かべる。

 

「樽本先輩こそ、海東のキャプテンがわざわざ出張るとは珍しいですね」

「波輪君が久しぶりに投げるって聞いてね。僕は丁度OFF日だったから、マネージャーの偵察に付き合わせてもらったんだ。ほら、あそこに居るのがウチのマネージャー」

「……なるほど。海東は、随分とアイツのことを警戒しているみたいですね」

「まあね」

 

 樽本の指差した方向に目を向ければ、空席の多い客席の中で黒紫色の髪の少女がビデオカメラを片手にグラウンドを眺めている姿が見えた。

 彼の所属チームは相当に偵察熱心な様子であるが、それに対して猪狩の所属チームであるあかつき大附属高校の者は、この場には猪狩一人しか居なかった。それはあかつき大附属というチームにとって、この程度の試合は偵察する価値も無いという意味でもある。

 無論、それは彼らが王者としての余裕を気取っているわけではない。今春の全国大会を制したあかつき大附属高校は現在「帝王実業高校」や「壱流高校」と言った全国レベルの強豪校の偵察に力を注いでいる為、竹ノ子高校のような地区予選レベルのワンマンチームの練習試合などはこの時期からわざわざ偵察しに行く余裕が無かったのである。

 

「君は違うのかい?」

「アイツの実力は認めています。しかし、それだけです。あのチームでは僕達あかつきには遠く及びませんよ」

 

 猪狩もまた、決して竹ノ子高校の試合に興味があるわけではない。

 彼が今回この場を訪れたのは自分の認めた二人(・・)のライバルが大会に向けて順調に仕上がっているのか、今一度確かめておきたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レフトスタンドへ飛び出した波輪のツーランホームランによって二点を先制した竹ノ子高校は、続く五番外川がショートゴロに倒れたことで、初回の攻撃は終了した。

 ツーベースを打った鈴姫と言い、たった二人で二点を稼いだ攻撃は見事と言わざるを得ない。一つ注文を付けるとすれば矢部の盗塁失敗だが、こればかりは相手捕手の強肩を知っていながら事前に伝えていなかったこちらのミスであり、彼を責めるのは少々酷であった。

 

「ようし、この回もしまっていこう!」

「おう!」

 

 攻守が交替し、二回の表が始まる。投球練習を終えナインに声を掛ける波輪だが、その表情には自身がホームランを打ったことによる浮つきはなく、ただ投手としての純粋な闘志が宿っていた。

 この辺りの意識の切り替えは、流石はエースで四番を打つチームの主将(キャプテン)である。今の彼の表情には、欠片ほどの油断も見えなかった。

 

《四番、キャッチャー――小波君》

 

 そして攻撃に移った恋々高校の先頭打者が、バットを担ぎながら右打席へと入る。

 一塁側のベンチから彼の姿を視界に捉えた星菜は、一人息を呑んだ。

 

(小波先輩……)

 

 小波大也――彼と小中学校と共に同じチームに所属していた星菜は、その実力の程を理解している。

 一言で言ってしまえば、彼は野球の天才である。

 守れば強肩堅守の名捕手であり、打てば勝負強い打撃で幾度となくチームの窮地を救ってきたスラッガー。その打撃センスは中学時代から学生離れしており、星菜が記憶している限りでは打ち取られた姿をほとんど見ていない。

 彼と長らく同じチームに所属していた星菜は何度か対戦したことがあったが……通算では大きく負け越している。

 もはや天敵と言っても良いほどに、全く歯が立たなかったものだ。

 

 しかし、現在マウンドに立っている竹ノ子高校のエースもまた、他の高校球児を凌駕する天才選手である。

 バットを上段に構えた小波と相対する波輪は、ノーワインドアップから投球動作へと移る。

 180センチを超える大柄な全身をフルに扱い、その豪腕を力強く振り下ろした。

 

「ファール!」

 

 打席上の小波が彼の投じた一球目――スクリーンに150km/hと表示されたストレートをバットに当てると、打球は真後ろのバックネットへと突き刺さった。

 バットがボールの下を擦った為に前にこそ飛ばなかったが、タイミング自体は完璧であった。波輪が投げた目にも止まらぬ剛速球に対し、小波は目にも止まらぬスイングスピードで対応してみせたのだ。

 

(初見の150キロをああも完璧なタイミングで……相変わらず、速球に強いですね……)

 

 その一振りを見て、竹ノ子高校のバッテリーはさぞや驚いていることだろう。 

 星菜の記憶している小波大也という打者は、リトル時代から速球に強い男だった。パワフル高校山道の剛速球をいともたやすくライトスタンドへ放り込んでいたことからわかってはいたが、高校レベル……それも波輪のような超高校級の投手が相手であっても、その強さは変わらないらしい。

 目つきを厳しくした波輪が、二球目を投じる。

 初球よりもより一層気合を込めて放たれたボールは唸りを上げて突き進み、キャッチャーミットに対し一直線に向かっていく。

 

 そして――落ちる。

 

 ボールはホームベースの手前からストライクゾーンの下を潜り抜けていき、ショートバウンドして六道のミットに収まる。この試合で初めて使った、波輪のフォークボールであった。

 

「ボール」

 

 しかし打席の小波は直前まで踏み込んだものの、最後までバットを振ることはなかった。

 

(良いフォークだったけど、あれに手を出さないのがあの人の選球眼だ。私もあの人から空振りを取るまで、どれだけ苦労したことか……)

 

 空振りを取れると思ったのか、マウンドの波輪は不服そうな顔を浮かべながら返球を受け取る。しかし打者にフォークボールがあるという意識を植え付けるだけでも、星菜は今の一球を良い見せ球であったと思う。

 配球的には次もフォークを続けても良いし、落とすと見せかけてストレートを投げるのも良い。小波を抑える為にはとにかく球種を巧みに使い分け、かつコースを散らして的を絞らせないことが重要なのだ。

 

 そして、三球目。

 

 球種はストレートだった。そしてその球速表示は、またしても150キロを計測していた。コースは内角の高めで、打者にとって自分の身体に近い場所へと迫ってくる剛球は、先ほどのボールよりもまた一段と速く見えたことだろう。

 ボールはしっかりと波輪の指に掛かっており、棒球でも制球を誤ったわけでもなく、波輪にとっては決して打たれる筈の無い、渾身のベストピッチであった。

 

 ――しかし次の瞬間グラウンドに響いたのは波輪の剛速球がキャッチャーミットに突き刺さった音ではなく、打者の一閃が生み出した甲高い金属音であった。

 

「打った!?」

「しかも大きいぞ!」

 

 ベンチに居る補欠部員達の口から驚きの声が上がる。星菜もまた、目を見開いて打球の行方を眺めていた。

 小波が打ち返した打球は物凄い速さでセンター左方向へと飛翔していき、センターの矢部が全速力で後退していく。

 伸びていった打球は100メートル地点を越えた辺りでようやく失速すると外野フェンスへとぶつかり、数秒後に追い付いた矢部がそのクッションボールを処理し、中継に来たショート鈴姫へと送球した。

 あまりにも打球が速かった為にバッターランナーの小波は二塁を回ったところで止まり、辛うじてスリーベースは免れた。しかしあわやホームランかと言う打球を目にした竹ノ子のナインは、打たれた波輪を始め驚きを隠せない様子だった。

 

「あ、危なかったッス……」

「……さすがです」

 

 並大抵の高校生であればボールの威力に力負けしていたであろう波輪のストレートを打ち返し、見事長打にしてみせた。その打撃はまさしく、星菜の知る小波大也のものだった。

 

《五番サード、(チェン)君》

 

 だが驚いてばかりも居られない。間を開けずに次の五番打者が左打席へと入り、バットを構える。三番奥居、四番小波と同様に、彼もまた高校生らしからぬ大柄な体格をしていた。

 対する波輪は、この試合初のセットポジションから第一球を投じる。

 ストライクゾーンから内角に向かってボール一つ分ほど外れる、大きなスライダーである。やはり先頭バッターを二塁に出してしまった以上、簡単には攻めたくないというのがバッテリーの心情であろう。

 しかし打者の陳は初球からそのボールを軽打し、バットに当ててみせた。右方向へと転がる打球の勢いは弱く、前に出たセカンド小島が無難に捌く。その間に二塁走者の小波が三塁へと進塁し、状況はワンアウト三塁となった。

 

(あっさりと進塁打を打たれたな……)

 

 セカンドゴロに終わった陳の姿に目を向けると、彼はベンチに戻るなり恋々高校のチームメイト達とハイタッチを交わしていた。

 それを見て星菜は今の打撃が迂闊にボール球に手を出した結果ではなく、打者陳が狙って進塁打を打ったものだということがすぐにわかった。まさに練習試合で行うべき正しいチームバッティングであり、彼の意識の高さが伺える打席であった。

 

《六番ライト、天王寺君》

 

 ワンアウトを取ったとは言え全く安心出来ない場面で、続く六番打者が打席に入る。こちらもまた身長180センチを超える大柄な体格をしており、さらに目を向ければネクストバッターズサークルに待機している七番打者の身体も大きかった。

 

「恋々高校の選手は身体が大きいッスねぇ……」

 

 ここまで出てきたあちらの選手の姿を思い、隣に座るほむらがどこか羨ましげに呟く。星菜もまた、彼らの恵まれた体格には強い羨みと同時に妬みすら抱いていた。

 

(……まあ、私があの身体に憧れても仕方がないか)

 

 自分の身体も彼らのように逞しい筋肉に覆われていればという思いはあるが、生まれつきそう言った体質に恵まれない星菜はそれも無駄な憧れだと心の中で笑い飛ばす。

 そして竹ノ子高校で最も恵まれた体格を持つ男へと目を向けると、マウンド上の彼は既に初球を投じていた。

 その投球は外に大きく外れると、捕球した六道が三塁走者を目で牽制する。どうやらスクイズを警戒したボ一ル球のようだが、三塁走者の小波にスタートを切る様子はなかった。

 打者天王寺との勝負がついたのは数秒後、ストレートを二球続けてツーエンドワンと追い込んだ後の四球目だった。

 是が非でも三振が欲しいこの場面で波輪が投じたのは、外角のストライクゾーンからさらに外へと逃げるスライダーであった。

 彼のキレの良いスライダーは打者の目からは途中までストレートに見えてしまう為、ボール球であっても思わず手を出してしまう。そして打者天王寺もまた、その球に手を出してしまった。

 本来であれば彼のバットは空を切り、この打席は波輪の完全勝利に終わったことだろう。

 しかし波輪が投じたその一球は、本来ある筈の変化ではなかった。

 

「むうん!」

 

 打者天王寺がストライクゾーンの外へと曲がりきらなかった(・・・・・・・・・)スライダーをバットの先に捉え、力技で右方向へと押し込む。

 打球は芯を外した為にそれほどまでは伸びなかったが、それでも天王寺のスイングは強く、ライトの定位置まではノーバウンドで届いていった。

 それは三塁走者小波がホームベースまで到達するには十分な距離であり、フライを捕球したライト石田が懸命にバックホームするも、程なくして恋々高校に一点が記録された。

 

「あっさり点を取られたッスね……」

「パワーもありますが、恋々高校はチームバッティングが上手ですね」

 

 ツーベース、進塁打、犠牲フライ。無駄のない流れるような攻撃で一点を返してみせた恋々高校の攻撃を、星菜は心から賞賛する。これは個人的な意見であるが、星菜はどちらかと言えば豪快なホームランで得点を稼ぐ一発攻勢の野球よりも、この回の恋々高校の攻撃のようなチーム全体で点を取りに行く野球スタイルの方が好みであった。

 

(それも、貴方が決めたチーム方針なのですか? 小波先輩)

 

 実に好感が持てる攻撃である。

 星菜は恋々高校に二人の恩人が居ることも含めて、このままではいつの間にか竹ノ子高校ではなく恋々高校を応援していそうな自分に気付いていた。

 

『……あっちじゃなくてウチを応援しましょうよ、泉さん』

(……わかってるよ)

 

 そんな時こそ星菜は一人のチームメイトの言葉を思い出し、これではいけないと自分の頭を小突く。

 今の自分は竹ノ子高校野球部のマネージャー兼選手であり、小波大也の幼馴染でなければ早川あおいのことを尊敬する女子選手でもない。彼らとてグラウンドに居れば敵同士であり、余計な感情は捨て去るべきなのだ。

 気を取り直してマウンドの波輪に目を向けると、星菜は不要だと思いつつも彼に落ち着きを促す為の声を掛ける。その応援の声が届いたのか否かはわからないが、彼は続く七番小豪月を今度こそ外に逃げるスライダーで三振に仕留めた。

 








 それでは竹ノ子選手能力を四番~六番までを。

 ※あくまで参考程度に考えておいてください。


 波輪(はわ) 風郎(ふうろう)

 右投右打

 ポジション 投手

 弾道4
 ミート B
 パワー A
 走力 C
 肩力 A
 守備力 C
 エラー回避 B

 プルヒッター パワーヒッター ムード○

 備考:きれいなパワプロ君その1。作中トップクラスの実力者


 外川(そとかわ) 聖二(せいじ)

 右投右打

 ポジション 一塁手

 弾道3
 ミート D
 パワー D
 走力 D
 肩力 D
 守備力 F
 エラー E

 盗塁2 積極盗塁 送球2

 備考:速球に強い。某SB生え抜き選手とは何の関係もない


 池ノ川(いけのがわ) 貴宏(たかひろ)

 右投右打

 ポジション 三塁手

 弾道3
 ミート E
 パワー D
 走力 E
 肩力 B
 守備力 C
 エラー回避 E

 送球4

 備考:大体原作パワポタ3と同じ


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好投×拙攻×ファインプレー

 

 二回裏の竹ノ子高校の攻撃は、何とも煮え切らないものだった。

 まずはこの回先頭の六番池ノ川が制球の定まらない奥居の高めに抜けたカーブを叩き、見事左中間を破るツーベースヒットを放った。先頭打者が出塁しノーアウト二塁。簡単に得点の好機を作った状況は先ほどの恋々高校と同じだったが、その後に続く攻撃があまりにも正反対だったのである。

 七番小島が、初球を打ち上げピッチャーフライに倒れる。ここは恋々高校の五番陳のように最低限走者を進塁させる打撃をしなければならない場面だったのだが、あろうことか初球のボール球を打ち上げてしまったのだ。

 

(野球脳が無いなぁ……)

 

 彼とてフライを打ち上げたくて打ち上げたわけではないのだろうが、せめてもう少し頭を使って打席に入ってほしかったものである。

 星菜は呆れながらそんなことを考える自分を、我ながら何様かとは思う。しかしこの時の星菜は、さながら球場で野次を飛ばす観客のような心理状態だった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

「くそっ……」

 

 そして少し目を離した隙に、また一つとアウトカウントが増えていく。ワンアウト二塁と続くチャンスに八番の義村が低めに外れたカーブを空振りし、呆気なく三球三振に倒れたのである。

 

(……ここは闇雲に振り回す場面じゃないでしょうに。完全に先輩のリードに遊ばれたな)

 

 ノーアウト二塁から、あっという間にツーアウト二塁に変わってしまった。既に恋々高校のバッテリーは、下位打線になってからこちらの打者のレベルが急激に落ちたことに気付いているだろう。以降奥居は余計な遊び球を一切使うことなく、多少甘く入っても打たれないだろうと踏んでアバウトな制球ながらも堂々と投げ込んできた。

 

「ストライク、アウトッ!」

「え? 入ってた?」

 

 ラストバッターである九番の石田は奥居の140キロ前後に及ぶストレートを前に手も足も出ず、最後はゾーンの外側から入ってきたカーブを見逃し、あえなく三振に切られた。

 結局この回の竹ノ子高校の攻撃はノーアウトで出した二塁走者を本塁に返すどころか、進塁すらさせられないままスリーアウトになったのだ。

 

「……ったく、せっかく俺様が打ったツーベースが無駄になっちまったな」

「池ノ川先輩、グラブをどうぞ」

「おう、わざわざサンキューな」

 

 塁上から駆け足でベンチへと戻ってきた池ノ川が下位打線の雑な攻撃に対し小声でぼやいていたが、彼もまた星菜と同じようなことを考えているのであろう。やれやれと言わんばかりの呆れ顔を浮かべていた。

 

(……チームとしては、まだまだ弱いか)

 

 池ノ川のような気の強い男がそのことを声を大にして言わないのは、彼ら下位打線の弱さが今に始まったことではないからであろう。もちろん課題を放ったらかしにしたままには出来ないが、こればかりは選手層の薄い竹ノ子高校野球部の中では致し方ない問題だった。

 

(私なら、あのランナーを返せたのだろうか……)

 

 故に星菜には、そう思わずには居られなかった。

 なまじ中途半端な自信があるだけに、歯痒くて仕方が無い。

 彼らが不甲斐なければ不甲斐ないほど、その思いは強まっていくのだ。

 試合に出たくとも自分にはその資格が無いと考えている一方で――それでも星菜は、この試合に出たがっている自分に気付いていた。

 いつものことながら矛盾してばかりだと、星菜はまるで一貫性の無い己の気持ちを自嘲した。

 

 

 

 

 

 イニングが替わり、三回の表。竹ノ子高校が守備を行う時間は、非常に短かった。

 唸る波輪風郎の剛速球は恋々高校の下位打線を相手に尚も冴え渡り、八番の村雨、九番の茂武と続けざまに連続三振を奪う。

 一巡して打席が回ってきた一番の佐久間を相手にも、竹ノ子高校のエースはバッティングらしいバッティングを一切許さなかった。

 

「ナイスショート!」

 

 打者佐久間がバットに当てただけの力無い打球をショートの鈴姫が軽快に捌き、危なげなく一塁へ送ってスリーアウトとなる。前のイニングは犠牲フライによって失点してしまった波輪だが、たったそれだけのことで投球が崩れる心配など皆無だと、星菜達を安心させてくれる投球だった。

 

 三回裏の竹ノ子高校の攻撃は、一番矢部の二打席目から始まる。彼から三番の鈴姫までの間に一人でも塁に出れば四番の波輪へと打席が回る為、このイニングは得点の好機であった。

 

「ストライク!」

 

 140キロとモニターに表示されたストレートが、気持ちの良い音を立ててストライクゾーンの外角に決まる。先の回でこちらの下位打線を相手にしたことで自信がついたのか、投手の奥居は球速表示こそ変わらないが初回よりも腕の振りに勢いがあり、依然アバウトながらも制球が安定し始めていた。

 

(だからさっきの回に点を取っておきたかったのに……)

 

 制球さえ多少まとまれば、奥居は元々威力のあるボールを投げれるのだ。鈴姫や波輪を除けば、非力な自軍の打者陣が彼の速球を捉えるのは難しいだろう。

 冷静な心の中で失礼にもそう思った星菜であるが、残念ながらその分析は当たっていた。

 

「しまったでやんす!」

 

 奥居の力のある投球を前にツーストライクへと追い込まれた矢部が、高めに外れたボール球に手を出し、あえなくセカンドフライに倒れる。

 奥居は回の先頭を切ったことでさらに勢い付いたのか、続く二番六道の打席ではこの試合で初めて落ちる球――フォークボールを投げ、六道から空振りの三振を奪った。 

 

「おっしゃあ!」

 

 バシッ!と右手でグラブを叩き、奥居が雄叫びを上げる。波輪と比べればストレートの速さもフォークの落差も見劣りするが、それでも無名校で背番号5を付けているとは思えないほどに優秀な投手であった。

 個人的には彼のような技巧の無い力任せな投球はまさしく嫌悪の対象であったが、それだけで投手自身の実力を見誤るほど星菜は盲目的ではない。

 しかしその一方で、彼が優秀な投手で居られるのは精々が地区大会レベルまでだとも思っていた。

 

《三番、ショート――鈴姫君》

 

 鈴姫健太郎――彼ら全国レベルの好打者からしてみれば、奥居の速球もまた凡百あるそれと大差ないだろう。

 随分と遠くへ行ってしまったものだと、星菜は左打席に立つ元ライバルの背中を眺めた。

 

 その打席の決着は、一瞬でついた。

 

 鈴姫は初球――外角低めに決まった140キロのストレートを逆らわずに打ち返すと、鮮やかにレフト前へと運んでいった。

 決してコースが甘かったわけではない為、奥居の投球を責めることは出来ない。星菜をしても脱帽し、打った鈴姫を褒めるしかない打席だった。

 

「あの球を打ち返すか!」

「すげぇなアイツ……」

 

 彼の打撃を目の前に、チームメイトの誰かが呟く。

 真に恐ろしいのは彼はまだ入学してから一ヶ月程度しか経っていない一年生部員だということだ。中学時代は軟式の野球部に所属していた彼にとって高校野球は扱うボールから何まで全く異なる環境の筈なのだが、彼はここまで一切戸惑うことなく誰にも文句を言わせない活躍を見せている。

 

「入学して初めての試合なのに……」

「キャプテンにも言えるけど、才能がある奴はやっぱ違うよなぁ」

「ああ、俺達とは住む世界が違うよ」

 

 天才――彼の適応力の高さ、野球センスの高さを見れば誰もがその二文字を思い浮かべるだろう。

 才能に恵まれた、自分達とは違う世界の生き物――竹ノ子高校の補欠部員達が彼のことをそう認識するのは、至極当然の話だった。

 

(……アイツは、そんなんじゃない)

 

 リトル時代の彼はチームで下から数えた方が早い実力しかなく、三年間補欠だったことを知れば、ここに居る連中は驚くだろうか。それとも、誰も信じないだろうか。

 このベンチに居る者は高校からの彼しか知らない為に誤解しているようだが、昔の彼のことを知っている星菜からしてみれば、鈴姫が彼らの言うような特別な人間だとは思えなかった。

 彼はただ、人よりも頑張り屋だっただけだ。

 

(……アイツは昔から覚えが悪くて、だからその分、人の何倍も努力して……時間を掛けて、苦労して、やっとここまで成長したんだ)

 

 星菜の知る限り、鈴姫よりも努力家な人間は見たことがない。誰よりもがむしゃらに練習に打ち込んできたからこそ、一流の選手になったのだと知っている。

 

「……天才とか、たった一言でアイツのことをわかった気になるな」

「え? どうしたッスか星菜ちゃん」

「……いえ、何でもありません」

 

 自分が苛立っても仕方が無いとは思うが、どうにも彼を才能ありきの人間だと思われるのは不愉快である。確かに彼らよりも素養はあったのかもしれないが、それでも彼が選手として開花出来たのはこれまでの努力があったからなのだ。

 ……尤も今の星菜は、そのことを周囲の人間に伝えられるほど勇敢ではなかった。

 

(だけど本当に……よくここまで育ったよ)

 

 しかし彼が人から天才と称されるほどの選手になったという事実は、一時は彼のライバルとして競い合った過去のある星菜には嬉しいことだった。決して自分が育てたなどとは思わないが、彼の成長を間近で見てきた者として、彼の実力を認めてもらえることは自分事のように誇らしかったのである。

 

(なんて……そうやって今更幼馴染ぶっても、滑稽なだけか)

 

 何とも都合の良い己の思考に苦笑を浮かべると、星菜は目の前の試合へと意識を切り替える。

 アウトカウントは二つ。走者鈴姫を一塁に置いた場面で、打席には一打席目でホームランを打った波輪風郎。相対する投手奥居は目に見えて萎縮しており、打たせたくない余り投球が窮屈になり、際どいコースを狙った結果ワンエンドスリーとボール球が先行していた。

 そんな投手の姿を見かねた恋々高校の捕手がキャッチャーボックスを立つと、その場から大声を出して呼び掛けた。

 

「ピッチャー、もっと自信を持って腕を振ろう! 全力で投げた君の球なら、多少甘くなっても簡単には飛ばないよ」

「お、おう……うし! やってやるぜ!」

 

 こう言った場面で捕手から掛けられる言葉は、投手にとって助けになるものだ。

 特に彼――小波大也は人の緊張を和らげることに関しては他の追随を許さない天才である。これはかつて彼とバッテリーを組んでいた星菜の実体験だが、彼の言葉には不思議とこちらの心を安心させる何かがあるのだ。

 恐らく、現在マウンドに居る奥居もそれを感じているのだろう。その顔には先ほどまでの萎縮は見えず、鈴姫に打たれる前の落ち着きを取り戻していた。

 セットポジションから、奥居が右腕を振り下ろす。

 そして放たれたボールは、この試合で最も威力のあるストレートだった。

 

 ――次の瞬間、ストライクゾーンの真ん中に入ってきたそれを、波輪のバットが捉えた。

 

 小波の言った通り自信を持って腕を振り下ろした奥居は、打球の行方を祈るように見送っていた。

 大きな放物線を描いて打ち上がった打球は左中間へと向かっていき、逆風に煽られながら徐々に落下していく。

 落下が予想出来る地点には、まだ誰も居ない。

 二打席連続のホームランとはならなかったが、そのまま地に落ちればツーベース以上は免れない当たりだった。

 

 ――しかし。

 

「アウトッ!」

 

 今まさにボールが落ちようとする刹那、間一髪で到着した中堅手(センター)が脇目も振らずダイビングキャッチを敢行し、そして見事グラブへと収めた。

 その瞬間恋々高校の選手達から歓喜の声が、竹ノ子高校のベンチからは落胆の声が上がった。

 

「ナイス村雨君!」

「ふう、助かったぜー」

「なに、拙者にはこれしか無いのだ。奥居殿には、もう少し後ろを信用してほしいですな」

「面目ない……」

 

 皆が間違いなくヒットになると思っていたところで起こった、芸術的とすら言えるファインプレーである。まるでプロの一流外野手のような好守に星菜は思わず拍手を送りそうになり、成し遂げた村雨という男には敵ながら賞賛の声を浴びせたいところだった。

 

(恋々高校……やっぱり良いチームだ)

 

 味方があのような守備を見せてくれれば、投手はさぞ投げやすいことだろう。既に星菜は彼らが一般的には無名校と呼ばれているチームだということを、完全に忘れていた。

 

「お前らも頼むぞ矢部君、池ノ川」

「フッ、当然だ。どんどん俺のところに打たせるがいい」

「恋々高校にオイラの華麗な守備を見せるでやんす!」

 

 惜しくも長打をアウトにされる結果となった波輪は苦々しい顔でベンチに戻ると、ほむらからグラブを受け取るなりマウンドへと向かっていく。

 次は四回の表、二番の球三郎から始まる恋々高校の攻撃だ。それは打順が波輪から唯一ヒットを打っている四番打者へと回ることを差しており、彼との二回目の対戦を期待する波輪の横顔は非常に楽しそうにだった。

 

(それは、楽しみに決まっているか。私だって……)

 

 監督の茂木には練習さえ出来れば良いと言ったが、そんなものは嘘だ。自分の心に対する誤魔化しだ。

 目の前で波輪の投球や鈴姫や小波の打撃、そして先ほどの村雨の守備を見て、根っからの野球馬鹿である自分がベンチに座ったまま我慢出来るわけがない。

 

(……自分で自分を誤魔化すから、こんな気持ちになる。自業自得だな……)

 

 早川あおいと六道聖に諭されてからは弱い自分を肯定して、弱いなりに戦っているつもりだが……どうにも。

 どうにも自分はまだ、心の奥底では強い気で居るらしい。星菜は静かに俯くと、痛み出したその胸を押さえた。

 

 






 ao;eth様からパワプロ風星菜のイラストを頂きました! 許可が頂けたのでこちらに掲載します。


【挿絵表示】


【挿絵表示】


 絵心が皆無な私にとって、こうして可愛く描いて頂いた自分のキャラのイラストを見ることは、SSを書いている中での目標の一つでもありました。まさか実現するとは思わなかったのでびっくり、そして超感動。嬉しさのあまり即保存させて頂きました。今この時を持って、悲願は達成されました……。ao;eth様、本当にありがとうございます。


 感動し過ぎたので、竹ノ子の七番打者以降のステータスは載せません。主力以外はみんな原作で言うところのザコプロ君みたいなものなので、能力に大分差があります。その弱さは今後作中で明かしていく予定です。


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マウンドに相応しい者

 

 五月の昼はこの日のように快晴の天気では特に日差しが強く、高く昇った太陽がじりじりと選手達の体力を奪っていた。

 しかしマウンドに立つ波輪風郎は、今更その程度の日差しを受けたところで気に掛けることはなかった。

 寧ろ波輪は、夏の暑さが大好きである。気温が高くなればなるほど心が燃えるように熱くなり、それに伴って自然と投球の調子が良くなっていく。

 波輪は一般的に、「夏男」と呼ばれる人種だった。

 

「でも、簡単にはいかんなぁ……」

 

 しかし現在波輪は、ワンアウト走者(ランナー)三塁のピンチに陥っていた。

 打席には恋々高校の四番、小波の姿がある。一打浴びれば同点になるというプレッシャーが、彼の熱い心を覆っていた。

 

 このピンチを作ってしまった流れはこうだ。

 四イニングス目になるこの回、波輪は先頭の球三郎に高めに抜けたスライダーの失投をセンター前へと運ばれると、次の三番奥居に対する一投目にすかさず盗塁を決められてしまった。

 それは、竹ノ子高校のバッテリーが持つ一つの弱点が露呈した瞬間だった。波輪はセットポジションからでも走者が居ない時と変わらず威力のある球を投げることが出来るが、クイックモーションに関しては贔屓目に見ても上手くなかった。その上打者奥居のスイングを警戒する余り走者球三郎への警戒を怠っており、絶妙なタイミングでスタートを切られたのである。さらに言えば、捕手六道明の肩は平均的な捕手のそれよりも幾らか弱い。送球が意味を成さないほど余裕なタイミングで決まった盗塁は、それらの要因が折り重なった結果だった。

 波輪は気を取り直して再度打者の奥居と対峙するが、奥居が取った行動はヒッティングではなく、サードへの送りバントだった。

 手堅い攻撃は、次の四番打者に対する信頼故か。結果的に一球で送りバントを成功させられてしまい、現在のワンアウト走者三塁という状況を作られたというここまでの状況である。

 

(大会なら、敬遠のサインが出るかもなぁ……)

 

 打席に居るのは一巡目では唯一ヒットを打ち、恋々高校唯一の得点のきっかけを作った四番打者――小波大也その人である。波輪にとって最も厄介な打者が、このピンチに回ってきたのである。

 一打で同点に追いつかれる場面であるが、ベンチからも捕手からも敬遠のサインは出ていない。まだ前半戦の四回ということもあるが、新チーム初の練習試合という現段階ではあえてそこまで勝ちに拘る必要は無いというのが茂木監督の判断だろうか。

 何にせよ波輪には、元より彼との勝負から逃げる気は無かった。

 

「ふんっ!」

 

 心にあるのは絶対の自信と、夏の太陽のように燃え盛っている熱い闘志だ。

 サインが決まったことで波輪はセットポジションから左足を上げると、渾身の力を込めて右腕を振り下ろした。

 コースは内角、球種はストレート。この状況下においても、波輪は攻める姿勢を一切崩さなかった。

 

 しかし。

 

 打者小波はそのボールを相手に仰け反ることなく、思い切り左足を踏み込んでバットを一閃。コンパクトながらも豪快に振り抜いたバットは特有の打撃音を響かすと、打ち返した打球は物凄いスピードでレフト方向へと飛翔していった。

 

「……マジかよ」

 

 後方へ振り向き、打球の行方を見届けた波輪は驚愕に染まった声で呟く。

 小波の打球は尚も勢いを緩めることなく伸び続け、そのまま場外(・・)へと消えていったのだ。

 それは波輪にとって、これまでの野球経験上信じ難い光景だった。

 

「ファ……ファール!」

 

 騒然とする球場の中、審判が遅れて判定を出す。波輪の目からもはっきりと見えていたが、小波の打球は惜しくもポールの左側を通り過ぎていたのだ。

 しかしほんの少しだけタイミングが遅ければ、逆転のツーランホームランとなっていたことだろう。竹ノ子高校としては肝が冷える光景だった。

 

「おいおい、猪狩にだってあそこまで飛ばされたことはねぇぞ……」

 

 だが波輪が何よりも驚いたのは、その飛距離である。無論いくら飛距離があろうとファールはファールであり、ストライクカウントが貰えることに変わりはない。しかしたった今飛ばされた打球を見れば波輪と言えど気楽に考えることは出来ず、そして改めて思った。

 

(コイツ、まじでやべぇ)

 

 一打席目の初対戦で打たれたツーベースと言い、これほどの打者は昨年戦った海東学院高校にも居なかった。

 一体どうしてこれほどの打者が恋々高校のような無名校に居るのか不思議でならないが、もしかすれば彼もまた自分と同類で、自分のようにあえて挑戦者の立場に回って名門校と戦いたかったのかもしれないと波輪は小波大也の境遇を想像してみた。

 それはあくまで想像でしかないが、しかしそれとは別に、波輪はこの男にどこか親近感を抱いていた。同時に、これまで対戦したことのある数多の好敵手達に対するそれと同じ、強いライバル意識を。

 波輪は球審からボールを受け取ると、一旦深呼吸をすることで心を落ち着ける。

 

 ――と、その時である。

 

(って、おいおい)

 

 一塁側の客席の深く――ふと、そこに立っている二人の青年(・・・・・)と目が合った。

 

「なんか居るし……」

 

 波輪はすぐにその場から目を逸らすように三塁走者へと視線を移したが、そこに居たのが名門校のライバルである猪狩守(いかりまもる)樽本有太(たるもとゆうた)の二人であることは見間違いようがなかった。

 どうやらこの球場には、高校最高レベルの左腕が二人も揃って偵察に来ていたらしい。全くもって、何とも光栄な話である。

 

(……来てるなら来てるって言えよ)

 

 プレートに沿ってセットポジションに入ると、波輪は捕手六道が指で出すサインに目を向ける。

 初球のストレートをあわやホームランの特大ファールにされたからか、六道は一度打者のタイミングをずらす為に外側に外れるスライダーを要求していた。

 セオリー通りの攻めで、この状況では正しい配球(リード)だろう。

 しかし、波輪はそのサインに対し、あえて首を横に振った。

 

(オメーらに見せてやる)

 

 波輪が首を振った瞬間、その意図を察してか六道は若干呆れ顔を浮かべながらもサインを変更してくれた。流石によくわかってらっしゃると、波輪は満足げに頷く。

 

(これが俺の……全力だっ!)

 

 彼が構えるキャッチャーミットを睨みながら、波輪は投球動作に移る。

 左足はマウンドからホームベースに向けて深く沈み込ませ、両腕は翼を広げた白鳥の如く大きく展開する。身体の全体で得た力の限りを指先に集中させると、空気の捻れと共にボールを解放(リリース)した。

 

 ――スパァァンッッ!!

 

 瞬間、六道のキャッチャーミットから強烈な破裂音が響いた。

 コースは内角高め(インハイ)。ゾーンの枠内に収まっていた為、球審は右手を振り上げてストライクをコールした。

 

「ナイスボール」

 

 マウンドから数歩前に出て六道から返球を受け取った後、波輪は元の位置に戻りながらおもむろに後方のモニタースクリーンを見上げた。

 

《153km/h》

 

 今の一球には絶妙な感触があったが、やはりそれなりの球速が出たようだ。

 

「どうよ、俺のストレートは」

 

 得意気な顔を浮かべると、次は一塁側の観客席を見上げる。その場に居た歳上のライバルは素直に賞賛の拍手を送ってくれたが、同学年のライバルは口をパクパク開けて何か言っていた。波輪にはその口の動きから、彼が何を言っているのかが何となくわかった。

 

 () () () () () () () () () 。

 

「あ、あんニャロォ……」

 

 相変わらず、心底嫌味なライバルである。

 だがだからこそ、倒しがいがあると言うものだ。

 

「オリャアッッ!」

 

 彼に見せつけるようにさらに力を込めると、波輪は三球目の投球を行う。

 球種は尚もストレート。高さは真ん中だが、コースはやや外角寄りだった。

 全力投球では細かい制球は効かないが、それでも真ん中以外のコースには投げ分けることが出来る。見送ればストライクは確実であろうそのボールに対し、打者の小波は迷わずバットを出し、次の瞬間重い金属音が鼓膜に響いた。

 刹那、小波のバットが弾き返した打球は160キロをゆうに超えるスピードでマウンドの横を通り過ぎて行き、打たれた波輪は慌ててその行方へと目を向けた。

 

 するとその頃には既に、打球はショートのグラブへと収まっていた。

 

「アウトッ!」

 

 方向が悪ければ長打は免れない鋭い当たりだったが、飛んだ場所がショートの真正面だったのである。内容はともかくとしてとりあえずはこの勝負を乗り越えたことに、波輪はホッと胸を撫で下ろした。

 

「サンキュー鈴姫! 良いところに守ってたな」

「投球が短調ですよ、先輩」

「悪い、あそこまで速球に強いとは思わなかったんだ」

 

 しかし、やはり小波の打力には恐れ入る。今の一球には無駄な力みがあったかもしれないが、それでも150キロは超えていた筈だ。その剛速球をまたもや容易く打ち返してみせた彼の打力が、波輪には今まで相対してきた誰よりも恐ろしく感じた。

 

(アイツ……化け物だ)

 

 この打席はショートライナーに終わったが、その痛烈な当たりを見れば自分が勝ったなどとは口が裂けても言えない。一方でタイムリーを打てなかったことに残念そうにベンチへと引き下がっていく小波の後ろ姿を見送りながら、波輪は苦虫を噛み潰した。

 

 次の打席こそは、何としてでも勝ちたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 小波を相手に自己最速の153キロを計測して以降、波輪のギアはまた一段と上がっていった。

 星菜達第三者は、彼が今まで本気を出していなかったことに目を見開いて驚く。あまりにもスケールが違い過ぎて未だどこに底があるのかもわからない彼の剛速球は、まさに「怪物」のそれと言えた。

 

「……凄いです。波輪先輩」

「おう、スゲーだろ」

 

 波輪は小波をショートライナーに打ち取った後、続く五番陳を152キロのストレートで二球で追い込み、決め球に投げたフォークボールで空振りの三振を奪った。

 走者三塁のピンチを無事脱出しスリーアウトチェンジとなったことで星菜がベンチに戻ってきた波輪を労うと、彼は四回裏の守備についた相手捕手の姿を眺めながら言った。

 

「でも、君の先輩もスゲーよ。あんなバッターと戦うの、猪狩以来だぜ」

 

 興奮を隠せない、嬉しそうな横顔だった。

 彼は相手が手強ければ手強いほど燃くなり、力を発揮するタイプなのだろう。小波大也という打者を相手に投げる気持ちは、過去に彼と対戦した経験のある星菜にはこの場に居る誰よりもわかっていた。

 

「……この回は、五番の外川先輩からの打順ですね」

「おう、そろそろ追加点が欲しいとこだな」

 

 小波大也のような強打者と戦って、投手として燃えないわけがない。波輪の心の昂ぶりは、深く考えずとも察しがつく。

 だからこそ、心から「羨ましい」という気持ちが湧き上がってしまう。

 星菜はその気持ちを周りから隠すように表情を掻き消すと、遠くを眺めるような目でグラウンドを見つめた。

 

 四回の裏の竹ノ子高校の攻撃は、五番の外川から始まった。

 外川はその打席で奥居が投じた二球目、真ん中に甘く入ったストレートを逆らわずライト前に運ぶと、続く六番池ノ川はフルカウントから二球粘り、最後は見事にフォアボールを選んでみせた。

 そして巡ってきた、ノーアウト一塁二塁のチャンス。ここまではもう一つ安定しない投手奥居の制球難を突いた、賞賛するに足る巧みな攻撃である。

 

 しかし問題は、やはりその後に続く七番からの打線にあった。

 

 七番小島、送りバントを試みるも転がす勢いが弱すぎた為、即座にボールを拾った恋々捕手小波がサードへと送球し、二塁走者はフォースアウト。走者を三塁へ送るバントは失敗となり、みすみすワンアウトを献上しまう。

 八番義村は初球のボール球を打ち上げ、呆気なくショートフライに終わりツーアウト。

 そして九番石田はど真ん中のストレートを空振り三振し、二者残塁のスリーアウトとなった。

 

(なんという下位打線……)

 

 星菜は思わず頭を抱える。五番六番が良い打撃内容で繋いだと思えば、またも下位打線が後に続かない有様である。

 誠に失礼だとは思うが、だからと言って星菜には溢れ出る溜め息を抑えることが出来なかった。

 

「うーん、切り替えていくでやんす」

 

 しかし情けない攻撃ではあったが、それを試合中に引きずってほしくもない。チャンスで打てないのなら、せめて守備で投手の足を引っ張らないでほしいものだと星菜は思った。

 だが、五回の表の守りに関してはその心配は杞憂だった。

 そもそも彼ら三人には、守備を行う機会すら無かったのである。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 六番天王寺、七番小豪月、八番村雨と続く恋々高校の攻撃は、三者連続三振という形で幕を下ろした。その回エンジンを全開にした波輪のストレートは、ヒットどころかファールすら打たれなかったのである。

 しかしその投球に触発されたように、恋々高校の奥居も次第にボールのキレを見せ始めた。

 五回裏の竹ノ子高校の攻撃は、一番矢部、二番六道から続けざまに三振を奪い、あっという間にツーアウトを取った。

 だが、竹ノ子高校のクリーンアップがそのまま相手投手を調子に乗せることはなかった。

 

(鈴姫、また打ったか……)

 

 三番鈴姫、今度は三塁線を破るツーベースヒットを放ち、ツーアウト二塁となる。打った球は外角のストレートであり決して甘い球ではなかったが、彼の卓越した打撃技術が成せる技であろう。

 

《四番ピッチャー、波輪君》

 

 そして得点圏に走者を置いた場面で願ってもない打者、波輪風郎に打席が回った。鈴姫に連続奪三振で掴みかけた投球のリズムを乱された奥居は、打者波輪に萎縮するあまりストレートのフォアボールを与えてしまった。

 

 だが、奥居は周りの守備陣に恵まれていた。

 

 次の五番打者である外川は低めに決まったフォークを上手くすくい上げたが、恋々高校のショート佐久間がその打球を見事にジャンピングキャッチし、竹ノ子高校の追加点を防いだのである。

 

「さっきからチャンスは作ってるッスけど、中々生かせないッスねぇ」

「堅守ですね。恋々高校は」

 

 得点の好機は何度も訪れているが、結局前半戦が終了した時点で竹ノ子高校が上げた得点は初回のツーランホームランによる二点だけだった。

 恋々高校との点差は、僅か一点のみ。しかしここまで自分を援護出来ていない味方打線に対して、投手の波輪が文句を言うことはなかった。

 

「ま、俺としてはこのぐらいの点差の方が気が引き締まるかな」

 

 そう言って浮かべた快活な笑みに、皮肉っぽさは微塵も感じられなかった。そのような人の良さが、彼が周りから気に入られる要因なのだろうと星菜は思う。

 

(投手らしい性格なのか、らしくないのか……)

 

 同時に彼の場合はもう少し厳しい態度を見せても良いのではないかと思うが、彼はそう言ったものは嫌いな性分なのだろう。その優しいとも甘いとも取れる性格は、星菜にはどこか恋々高校の主将に似ているような気がした。

 

 そして次のイニングである六回の表に起こった一つの出来事から、星菜は彼の性格の良さを重ね重ね再確認した。

 

 それは竹ノ子高校のナインが各々のポジションにつき、波輪が恋々高校先頭の九番茂武を容易く三球三振に仕留めた後、続く一番佐久間の打席に回った時のことである。

 150キロを超える波輪の剛速球は後半戦になっても衰えを見せず、打者佐久間にはバットに当てるのが精一杯だった。辛うじて三振だけは避けたものの、彼の打球は弱々しくセカンド方向へと転がっていく。

 

 ――しかし、彼はアウトにはならなかった。

 

 何の変哲もない平凡なゴロ。その打球をあろうことか、竹ノ子高校の二塁手(セカンド)小島がファンブルし(捕り損ね)たのである。

 

「あちゃー……やっちまったよ」

「なんで焦るかなぁ」

 

 竹ノ子高校のベンチから、溜め息混じりの呆れ声が漏れる。

 完全に打ち取った打球をエラーし、必要の無い走者を塁に出してしまう。野手の凡ミスは投手にとって自分の好投に水を刺されたも同然であり、波輪とて気分の良いものではないだろう。

 

「……下手くそ」

 

 ボソッと、星菜は苛立ちを隠せずに吐き捨てる。表情にこそ出していないが、元来星菜は気の長い方ではないのだ。

 チャンスに打てないばかりかあのような投手にとって最もやってほしくない凡ミスを見せられれば、沸き上がる不愉快な気持ちを抑えることは出来なかった。

 

 だが――

 

「ドンマイドンマイ! 次は頼むぜ」

「すまん……」

 

 現在マウンドに立っている男は、星菜が思うような苛立ちを一切口にしなかった。表情も平時通りであり、リラックスしている。味方のエラーぐらい何ともないと言うように、彼は落ち込むセカンドを言葉で励ましていた。

 

「あれが、波輪君の良いところッスねぇ~」

 

 そんな彼の姿に驚く星菜の隣で、ほむらがやや赤らめた顔で微笑みながら言う。

 良いところ……確かにあのメンタルならば、味方のミスで投球を崩すことはないだろう。なるほど、確かにそれは投手として長所だと星菜は思った。

 セットポジションに構えた波輪は、落ち着いた表情で二番球三郎への投球を開始する。

 その打席の、三球目である。波輪は150キロ超えのストレートを二球続けてツーストライクに追い込んだ後、外角のスライダーを上手く引っ掛けさせ、先ほどと同じような打球をセカンド方向へと打たせた。

 

「ナイスセカン! いい判断だ」

 

 セカンド小島は今度こそ確実に捕球し、すかさず二塁へと送球する。ベースカバーに入ったショートがそれを受け捕ると一塁走者はフォースアウトとなり、ショート鈴姫はそのままゲッツーを狙って一塁へとボールを送る。バッターランナー球三郎の足は速く一塁はセーフとなったが、これでツーアウトとなった。

 

「オッケーオッケー! ツーアウトツーアウト!」

 

 アウトカウントが一つ増えたことで、波輪は気を取り直したセカンドのプレーを素直に賞賛した。

 

(……私には、ああは出来ないな)

 

 ミスを犯しても、決して味方へのフォローを怠らない。あのような投手であれば、野手は非常に守りやすいだろう。

 だが、それで良いのかとも疑問に思う。それは単に、星菜の考え方がひねくれているだけなのかもしれないが。

 

(もっと厳しく言わないと、悪い意味で緊張感が無くなるんじゃないか?)

 

 星菜は、味方に優しくし過ぎることもまた悪だと考えている。

 ミスをしても叱られない、エラーをしても責められない。そのような緩い環境では野手は守りやすいかもしれないが、同時に一つ一つのプレーに緊張感が無くなり、単なる馴れ合いになりかねないからだ。

 尤もその辺のことは一マネージャーに過ぎない星菜が考えずとも監督の茂木が考えているだろうが、星菜は目の前の――彼らの野球に疑念を抱いていた。

 

《三番ピッチャー、奥居君》

 

 ……いや、違う。

 

 これは単に、嫉妬しているだけだ。

 中学時代の星菜は味方のことなどまるで気に掛けなかった為、随分と自分勝手な行動をしてきた。周りのことなど全く考えず、迷惑を掛け続けていたのだ。それは一体、どれほど醜く格好悪い姿だっただろうか。故に星菜は、少数のチームメイト以外からは常に敵意を持たれていたものだ。

 その点波輪風郎の姿は、当時の星菜の対極にあった。だからこそ星菜の目には彼の姿が眩しく、そして映画のヒーローのように格好良く映ったのである。

 この気持ちは、そのことへのつまらない嫉妬だ。

 

(やっぱり……マウンドに立つのは貴方だけでいい。このチームには、貴方しか居ないんだ)

 

 彼こそが、チームのエースとして相応しい。彼がチームに居る限り、自分がマウンドに上がることはないだろう。

 良いのだ。それが正解なのだと、一秣の寂しさを感じながらも星菜は思った。

 

 

 

 ――しかし、時は訪れた。

 

「あっ」

「――ッ!」

 

 そう、訪れてしまったのだ。

 

 自他共にマウンドに相応しくないと認めている女が、マウンドに上がってしまうその時が。

 

 恋々高校三番奥居の打席で起こった、思いがけないアクシデントによって――。

 

 



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スクランブル

 

 カキィン!――と、恋々高校の三番打者奥居の払ったバットが、波輪の投じたストレートを捉えた。

 山を張ったコースに丁度良くボールが来たというところであろう。1、2、3のタイミングで振り抜いたバットは、150キロを超える剛速球をものの見事に弾き返してみせた。

 

 ――アクシデントが発生したのは、まさにその瞬間だった。

 

 マウンド上の波輪が、左膝を押さえて蹲る。

 星菜の隣に座るほむらが、悲鳴混じりに叫んだ。

 

「波輪君っ!」

 

 あまりにも一瞬過ぎた為に反応が遅れたが、星菜はほむらから上がった叫びとマウンドから(・・・・・・)サード方向へ転がっていく白球を見て、今しがた起こった出来事を理解した。

 

 奥居の打ち返した打球が、波輪の左膝に直撃したのである。

 

 転々としていくボールをサード池ノ川が慌てて拾い一塁へと送球するが、バッターランナー奥居は既に一塁ベースを駆け抜けていた。記録は内野安打となり、これでツーアウト走者一塁二塁となる。しかし今の竹ノ子高校のベンチにとって、得点圏に走者を出したことなど問題ではなかった。

 竹ノ子高校はこの試合どころか、今後の野球部に関わるほどのピンチを招いてしまったのである。

 

「おい! 波輪にスプレーを持っていけ!」

「は、はい!」

 

 監督の茂木が血相を変えてベンチから立ち上がり、付近の部員に向かって怒鳴るように指示を飛ばす。普段常に気だるげにしている茂木だが、この時の表情は星菜達が今までに見たことがない感情が浮かんでいた。

 

(あの当たり方はまずい……)

 

 踏み込んだ足である左膝の――それも丁度皿の部分に当たったのだ。ラインドライブの掛かった奥居の打球は鋭く、直撃後の跳ね返り方も尋常ではなかった。マウンドに蹲った波輪は立ち上がることが出来ず、苦悶の表情を浮かべていた。

 内野手全員が集まったマウンドへと茂木の指示を受けた部員が駆け寄り、その手に持ったコールドスプレーを波輪の膝に吹きかける。しかし焼け石に水か、それでも波輪の表情が和らぐことはなかった。

 

「波輪、一旦こっちに下がれ! 池ノ川と外川は肩を貸してやれ!」

 

 即座に「最悪の事態」へと判断が及んだ茂木が、この試合初めてベンチから出て声を上げる。

 早急にベンチに下げ、適切な処置を施す必要があると――この場に居る誰もが同意見だった。

 自力で立ち上がることの出来ない波輪を内野陣の中でガタイの良い二人が支えながら、ベンチへと一歩ずつゆっくりと歩いてくる。

 一方ベンチでは次なる茂木の指示を聞くまでもなく、マネージャーのほむらがクーラーボックスの中から大量の氷とビニール袋を取り出し、アイシングの用意をしていた。

 

(川星先輩……)

 

 打球が直撃したと見るや即座に行動に移ったほむらの対応は、あまりにも素早かった。その間同じマネージャーでありながらもすっかり出遅れてしまった星菜に出来たことと言えば、テキパキとこなされていく彼女の作業を見守っているだけだった。

 そして数秒後池ノ川と外川に連行されてきた波輪がベンチへと腰を下ろし、ズボンの裾を捲り上げた膝にほむらが用意したアイシングを直に当てることで応急処置を施した。

 張り詰めた空気が、その場に漂う。

 波輪の左膝が、青く腫れ上がっていたのだ。

 

「……悪い。ちょっとこの試合、無理かもしれない」

 

 重い沈黙を破ったのは、あははと困ったように笑いながら放たれた波輪の一声だった。その言葉に対し真っ先に反応したのはマネージャーのほむらではなく、監督の茂木であった。

 

「そんなことは当たり前だ。下手すりゃこの試合どころか、大会も危ないぞこれは。……なんとか、加藤先生に診てもらうよう頼むか……」

「すみません、監督。つつッ……」

 

 普段は野球部の監督とは思えないほど覇気の無い男だが、それでも選手の怪我についてだけは口を酸っぱくして気を付けるように言っていたことを星菜は思い出す。そして実際に怪我人が発生した今、彼の姿は星菜達の知る茂木林太郎とはまるで別人のように見えた。

 だが、そうやって感心している場合でもない。試合中のエース投手の戦線離脱が何を意味するのか、それが理解出来ない星菜ではなかった。

 

「……いや、お前が悪いわけじゃない。あんな打球は現役時代の俺にだって捕れないさ。それでも、もう少し上手く避けてほしかったところだけどな」

「おお痛たた……打球が速すぎて……悔しいなぁ全く……」

「波輪君、大丈夫ッスか……?」

「折れちゃいないと、思いたいけど……」

 

 彼にとって膝の痛みと降板せざるを得ないことへの歯がゆさ、そのどちらが大きいかは、星菜にはわからない。だがどちらにせよ、監督の茂木が下せる決断は一つだった。

 

「ピッチャー交代だ」

 

 そして次の問題は、彼が降りたマウンドに誰が上がるかということになる。

 今この場に控えの一番手である青山が居れば間違いなく彼に出番が回ってきたところだろうが、この日に限って彼は不在という状況である。彼の他に投手経験のある者と言えば、散々な内容ではあるが紅白戦で登板したことのある池ノ川貴宏だけだった。

 彼がマウンドに上がればたちまち同点に追い付かれ、そのまま一気に逆転されるであろうことは想像に難くない。何せいきなり小波大也を相手取ることになるのだ。後半戦を残して攻守の要である波輪が引き下がれば、竹ノ子高校としては厳しい戦いになるだろう。

 いや、間違いなく負ける。その確信が星菜にはあった。

 しかしだからと言って、仮にもチームの一員である自分が諦めるわけにはいかない。今後の試合展開を考えると絶望的だが、星菜は波輪に代わってマウンドに上がることになるだろう池ノ川に向かって月並みの応援の言葉を送ろうとする。

 

 その時だった。

 

 星菜がグラウンドに向けた視線を、監督の茂木が遮ったのである。

 

「……泉、準備しろ」

「はい?」

 

 そして次の瞬間、彼は言った。

 

「波輪に代わって、お前が投げろ」

 

 波輪が降りたマウンドを守る――茂木はあろうことか、その役目に星菜を任命したのである。

 星菜にとってそれは、決して思いがけないと言うほどの言葉ではなかった。そんなことはまず有り得ないだろうと考えていた一方で、心のどこかでは期待していた部分もあったのである。

 或いは多くの悩みを抱えた胸の中でも、「自分なら波輪の後を守り抜けれる」という自信だけはあったのかもしれない。この時茂木から指名を受けたことで、星菜は己の本心がどこにあるのかを理解した。

 だが同時にそれが波輪の不運を喜んでいるように思えて、心底どうしようもない女だと自己嫌悪に浸った。

 そんな星菜の姿から何を悟ったのか、茂木は星菜に対して、安心を促すような微笑を浮かべた。

 

「まあ、細かいことは気にするな。どうせ非公式の練習試合だ。今向こうと話を付けてくるから、それまで肩を温めて待っとけ。池ノ川のように四球さえ連発しなければ構わんから、結果は気にしないで思い切り行ってこい」

「あの、私は……」

「おっ、星菜ちゃんが投げるのか。いきなりピンチの場面で投げさせて悪いな」

「波輪先輩……」

 

 本当に、自分が試合に出ても良いのだろうか。

 女子選手である自分が……それも数日前練習に参加したばかりの自分が茂木の指名を受けたからと言って、図々しくマウンドに上がることを他の部員達は何も思わないのだろうか。

 主将の波輪は、優しいから何も思わないかもしれない。だが、しかし――やはり後暗い、負い目のような感情が星菜の心にはあった。

 

「頑張れッス、星菜ちゃん!」

「えっ、星菜ちゃんが投げるの? よっしゃ、これで勝てる!」

「が、頑張ってくださいっ!」

 

 しかしそれでも周りに目を向ければ、聴こえてきたのはそんな自分すらも快く応援してくれる彼らの言葉だった。

 初めて練習に参加した時から、彼らは何かと自分のことを気にかけてくれた。

 

(野球は下手くそだけど……私とは比べ物にならないほど、良い人達なんだよな……)

 

 ここ数日部の一員として共に練習してきたことから星菜は散々思い知らされてきたつもりだが、竹ノ子高校の野球部員達は揃いも揃ってお人好しなのである。

 星菜自身これまで素の自分を隠して優等生として演じ続けてきた効果もあり、自分に対する彼らの心象はすこぶる良いことには気づいており、この野球部に居る限りは中学時代のような目に遭うことはないともわかっているのだが、それでも星菜の心から本質的な恐れが消えることはなかった。

 己が望むことを行うことによって起こることが、怖くて堪らないのだ。

 

(……私は……)

 

 試合に出たいのか、出たくないのか。答えは問われるまでもなく決まっている。

 後はこの恐怖に打ち勝てば良い。それだけなのだが、星菜にはそれだけのことが難しかった。

 

 その時、頭の中から男の声が聴こえた気がした。

 

『投げたくて仕方が無い癖に。断る理由なんか無いだろう?』

 

 ――ああ、そうだ。私はこの時が来ることをずっと待っていた。

 

『しのごの言わずにマウンドに上がりなよ。そうすれば自然と、余計なことは考えられなくなる。だから何も、怖くなんてないさ』

 

 ――他人事だと思って簡単に言うよ……。でも、「お前」の言うこともわかる。

 

(……何だって今になって出てくるんだよ、星園……)

 

 心の中で溜め息をつくと、星菜はちらりと恋々高校のベンチに目を向ける。そのベンチの前にはこの回の裏に遂に登板するのであろう、キャッチボールで肩を慣らしている緑髪の少女の姿があった。

 

「……わかりました」

 

 練習試合とは言え、試合で投げることが出来る。

 そして何よりも、これは同じ女子野球選手として尊敬している彼女と投げ合うことが出来る千載一遇の機会なのだ。

 それだけ舞台が整っているのなら、今後どうなろうと悔いは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バッターボックスの外でスイングを繰り返しながら、小波大也は試合の再開を待っていた。

 相手竹ノ子高校のエースである波輪風郎が、奥居の放ったピッチャー返しによって膝を負傷した。

 直撃という二文字がこの上なく当てはまる嫌な当たり方をしていた為、恐らく波輪がこの試合中にマウンドに戻ってくることはないだろう。彼には気の毒であるが、小波からは不運としか掛ける言葉が無かった。負傷の原因を作った奥居はただ綺麗なピッチャー返しを放っただけであり、彼が責められる謂れも無い。

 

(でも、健太郎君が星ちゃんの頭に当てた時はすっごい謝ってたなぁ)

 

 投手という捕手の次に打者から近いポジションを守っている以上、常に起こりうるアクシデントである。投手は日本野球の華ではあるが、最も危険なポジションでもあるのだ。

 

《竹ノ子高校の、選手の交代をお知らせします》

 

 場内のアナウンスが響く。

 小波の予想通り、竹ノ子高校は波輪を交代させるようだ。夏の大会を控えている今、たかが練習試合で無理をさせたところで悪戯に彼の将来を傷付けるだけだ。竹ノ子高校の監督は賢明な判断をしたと小波は思った。

 

《ピッチャーの波輪君に代わりまして――泉さん》

 

 そしてアナウンスが告げた二番手投手の名に、小波は思わず笑みが溢れた。

 

「……向こうの監督が加藤先生と審判を集めて何か話していたと思ったら、やっぱりそういうことか」

 

 竹ノ子高校のベンチから、使い古したグラブを右手に付けた少女が駆け出してきた。

 小さく揺れるセミロングヘアーの黒髪からは、中学時代坊主頭だった頃の彼女とはまるで違う印象を受ける。噂には聞いていたが今の彼女はかつてより身だしなみに気を配っているようで、中学時代の彼女しか知らない者が見れば全くの別人に見えることだろう。

 だが、彼女と幼馴染の間柄である小波大也には一目でわかった。

 彼女が自分の知っている、「泉星菜」であることを。

 

「あの監督は、凄い名将だ。本当にもう、最高の継投をしてくれたよ」

 

 嬉々とした呟きが、小波の口から溢れる。既に小波の中では、彼女を波輪の代役に任命した竹ノ子高校の監督の株が上限を極めていた。

 なんたる僥倖か。試合前からあわよくばという期待はあったが、よもやこのような形で彼女とあいまみえるとは思わなかったものだ。

 

(あの子と対戦するのは中学最後の紅白戦以来か。あの時の三振は、今でも忘れないよ)

 

 マウンドに上がった彼女はすぐに捕手を座らせると、テンポ良く投球練習を行っていく。急な事態に肩が出来上がっていないのではないかという心配は少なからずあったが、彼女は五球も投げれば十分とばかりに実戦に使えるボールへと仕上げていった。

 

(あまり投げ込まなくても、君なら感覚で制球出来るよね。ああ、楽しみだ)

 

 数分後、緊急登板の為通常よりも多く球数を放った彼女の投球練習が終了する。

 アウトカウントは二つ。走者は一塁と二塁に二人。現在自分が置かれているその状況を忘れかけてしまうほどに、この時の小波は高揚していた。

 

「……ありがとう、と言っておくよ」

「む?」

 

 打席に入る際、小波は竹ノ子高校の捕手に対して声を掛けた。尤も、返事は期待していない。ただマウンドに上がった彼女の姿を見れば、その場で言わずにはいられなかったのだ。

 中学時代、練習試合すらも出番を与えられなかった彼女が、今こうしてあの場所に居る。例えそれが竹ノ子高校にとって不測の事態だったとしても、今一度言いたかった。言わなければならなかったのである。

 

「あの子のことを受け入れてくれて、ありがとうございます」

「仰る意味がわからんのだが……ピッチャーがマウンドに上がるのは当然だろう」

「ふふ、そうだね。確かに君の言う通りだ」

 

 捕手から返ってきた怪訝そうな言葉に、小波は苦笑する。

 見回せば竹ノ子高校の面々は彼女がそこに居ることを当前のこととして受け入れており、小波にはその光景が何よりも嬉しく思えた。

 

(さあ星ちゃん。あれからどれだけ成長したか、僕に見せてくれ!)

 

 クローズドスタンスに立ち、バットを最上段に構える。

 その眼光に見据えた投手泉星菜の挙動を、小波は一挙一動とて見逃す気は無かった。

 

「プレイ!」

 

 球審から試合再開の声が掛かり、彼女がセットポジションに入る。

 しかし捕手とのサイン交換が上手くいかないのか、数秒の長い沈黙がその場を支配した。

 

 十秒過ぎた後でようやく右足を上げると、待ち待った第一球を――

 

 セカンドベースに向かって投じ、帰塁に遅れた二塁走者が刺された。

 

 



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背番号のない二番手と美しきエース

 

 それはアクシデントが発生し、波輪風郎がマウンドを降りた時のことである。

 

 それまで観客席から試合を観ていた猪狩守は、これ以上この場に用は無いとばかりに球場を立ち去ろうとしていた。

 二人のライバルが順調に調整出来ていることを十分に把握した以上、猪狩にはこの場に留まり続ける理由がない。波輪の膝の状態が夏の大会までに間に合うかどうかは気掛かりだが、自分が心配することでもないのだ。今の猪狩には、彼ならば無事間に合わせてくるだろうと信じるしかなかった。

 そうして猪狩が踵を返しグラウンドに背を向けると、ふと声が聴こえた。

 

《ピッチャー、波輪君に代わりまして――泉さん》

 

 場内アナウンスの声が響くと同時に猪狩は思わず足を止め、再びグラウンドへと目を向けた。

 何の気なしに振り向いただけで、特別な理由があったわけではない。

 しかし猪狩は次の瞬間、驚きに目を見開くことになる。

 波輪が立ち去ったマウンドには、屈強な選手達が揃うグラウンドの中で際立って華奢な体つきの少女(・・)の姿があったのだ。

 

「女性投手……?」

 

 猪狩の視力は両目とも2.0とすこぶる良い方だ。観客席からでもマウンドに立っている人物の姿ははっきりと捉えることが出来る。故にたった今マウンドに上がってきた竹ノ子高校の二番手投手が女性であることを、ぱっと一目見ただけでも認識することが出来た。

 

(……泉……泉星菜?)

 

 そして先ほど場内アナウンスがコールした泉という名前から、猪狩の頭にはいの一番に一人の人物の姿が浮かび上がった。

 幼い頃から天才ともてはやされてきた猪狩守だが、これまでの人生で一度も挫折を経験しなかったわけではない。挫折と言って思い返すのは今から五年前の出来事であり、彼の頭の中に初めて刻まれることになった敗北の思い出の中に、「小波大也」と「泉星菜」という存在があった。

 

「……まさかね……」

 

 向かうところ敵無しだった当時の自分の前に現れた、最強のバッテリー。天才である筈の自分達兄弟を打ち破った、最大の好敵手。

 女性投手自体珍しい存在だが、「泉」という苗字も同じとなると気にならないこともない。

 だがしかし、あそこに居る投手は間違いなく自分の知る少女ではないと、猪狩には彼女の投球を見ずともその確信があった。

 

(あの泉が……僕と進を倒した泉星菜が、あんなに儚いわけがない……)

 

 何せ猪狩の知るその人物とは、身に纏う雰囲気があまりにも異なっているのだ。今しがたマウンドに上がった少女の表情からはかつて自分達を苦しめた闘志も覇気も感じられず、その身に纏っているのはグラウンドには不釣り合い過ぎる、今にも消えてしまいそうな儚さだった。

 

「ふっ、つまらないことを思い出したな」

 

 ――さて、ランニングに戻るか。心の中で呟き、猪狩は彼女の投球を見ることなく球場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二塁走者の牽制死によってスリーアウト。相手投手が一球も投げることなく恋々高校のチャンスが終わってしまったという六回表のイニングの結末に、小波はしばらく打席上で呆然とするしかなかった。

 相手からしてみればピンチでの緊急登板なのだから、一旦緊張を解す為にも牽制球を入れるのは正しい判断である。故に二塁走者としては、投手の動きを警戒しておかなければならない場面だった。

 

「君らしくないミスだったね、球三郎君」

「すまない。真剣勝負に水を差したな」

 

 打席を離れ、ベンチに戻る途中で二塁走者の球三郎と合流した小波は、皮肉でもなく純粋に思ったことを口にする。

 恋々高校の二番を打つ球三郎はチーム内でセンターの村雨と一二を争う瞬足の持ち主であり、走塁のセンスも抜群に良い。中学時代では名門のシニアで主力を張っていた実績がある彼は、高校でもその実力を遺憾なく発揮しており、小波には今までに彼が初歩的なミスを犯した光景は見たことがなかった。確かに先ほどの星菜の牽制は見事であったが、それを差し引いても普段なら有り得ないことだったのだ。

 

「なんであんなミスをしたんだい?」

「いや……つい、あのピッチャーに見とれてしまったのだ」

「あー」

「美しいものを見るとつい呆けてしまう癖がな。しかし、あのような不意打ちは反則だ」

「まあ、驚く気持ちはわかるよ……でも、試合中にそれは勘弁してほしいかな」

「すまない。全ては美しいものを愛する我が性故」

「そ、そうか」

 

 投手の容姿に見とれている間に牽制で殺されるとは、心に空いた隙を完全に突かれた形である。本人に言及してみれば、小波にも男として理解出来ないことはないが何とも情けない理由だった。

 小波はあえて、ドンマイとは言わない。無論彼には主力である為に切り替えてもらわなければ困るが、今回のミスは大いに反省してほしいと思ったからだ。

 

(……そう言えば、球三郎君が野球部に入った理由はアレだったな。あおいちゃんが頑張っている姿が美しかったからとか。はぁ……)

 

 恋々高校の野球部には、こう言っては悪いが変人が多い。この球三郎の他にも坊主頭の前頭部に「天」の文字が浮き上がっている奇抜な髪形をしている天王寺や、侍かぶれな口調の村雨は特に変人であり、台湾の至宝を自称する陳においては重度のナルシストであり、彼らが練習中に起こす奇行には数少ない常識人である奥居らと共に日々胃を痛めているものだ。

 だがそんな彼らではあるが、野球の試合においては頼もしい存在である。小波は他でもない彼らが居るからこそ、恋々高校野球部はチームとして成り立っているのだと思っていた。

 

 そして、誰よりも頼もしいのは彼女――。

 

「頼むよ、エース」

「任せて」

 

 このチームで最も大きいのは彼女――早川あおいの存在だ。

 何せ小波を含む恋々ナインの大半が、彼女の存在に惹かれて集まってきた者達である。ベンチに戻り捕手用の防具を装備した小波は、彼女と共に軽い足取りでグラウンドへと向かった。

 六回裏の守りからは、チームのエース投手であるあおいがマウンドに上がる。彼女の球を受ける小波は、竹ノ子高校の打者陣にヒット一本すら与える気は無かった。

 

 

 

 

 

 

《恋々高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャーの奥居君がサードに入り、サードの陳君がセカンド。セカンドの茂武君に代わりまして、ピッチャー――早川さん》

 

 六回表の時は恋々高校のベンチ前で準備をしていた姿を見たが、思った通りその名がアナウンスから告げられた。

 おさげに伸ばした緑色の髪を靡かせ、マウンドに上がった彼女は颯爽と投球練習を始める。下手からボールを放つアンダースローは星菜がバッティングセンターやパワフル高校戦で見たフォームと同じであり、それまで恋々のマウンドを守っていた奥居とは投手としてのタイプがまるで違うことが一目でわかった。

 そんな彼女の姿に安心した後、星菜は横目から自軍ベンチの反応を窺う。

 

「あれが噂の女の子ピッチャーか」

「可愛いでやんす!」

「おいおいこの試合は女の子祭りか」

 

 純粋に彼女の投げるボールに感心する者に、彼女の容姿に関心を示す者、高校野球界で希少な女子選手がこの試合に二人も出場したことに驚いている者と、実に三者三様の反応だった。

 一方で元々早川あおいと面識のある星菜は今更彼女が登板したことには驚かず、ただ彼女が竹ノ子打線を相手にどれだけ魅せてくれるのかということだけに興味があった。

 

(……でも、一番見たかった波輪先輩との勝負が見れないのは残念だな)

 

 最大の見所だった竹ノ子高校一の打者である波輪風郎の打席には他ならぬ星菜自身が入ることになってしまったが、それはそれで楽しみでもある。ブランク明け最初の対戦相手があの早川あおいであれば相手にとって寧ろこちら側が不足だらけという有様であるが、星菜はその時が来ることを心待ちにしていた。

 

《六回の裏、竹ノ子高校の攻撃は、六番サード池ノ川君》

 

 彼女が投球練習を終えると、この回の先頭打者である池ノ川が右打席に入る。

 奥居を相手にしていた頃の池ノ川は一打席目はツーベースヒットを放っており、二打席目はフォアボールを選び、いずれも出塁している。今日好調な彼が彼女のボールにどう反応するのか、それも見所であった。

 

 ――しかし今回の三打席目は、たった三球で終わった。

 

 一球目は、外角低めコーナー一杯に決まったストレートを見逃しストライク。

 二球目は、内側から大きく曲がってきた90キロのカーブを見逃しストライク。

 三球目は内角高めに外された120キロのストレートを空振りし、あえなく三振を喫するという形で。

 

「くそっ、全くタイミング合わねぇ!」

 

 首を傾げてベンチに引き下がった池ノ川が、苛立ちを口にしながらバットを置く。その言葉に興味を抱いたのか、横から六道明が声を掛けていた。

 

「荒れ球の速球派の次に、あのサブマリンはきついか?」

「ああ、この俺様が打てないんだからそういうことだ。女の子だからって甘く見るなよ、特にそこのメガネ!」

「も、申し訳ないでやんす……」

 

 ――と、そんなやり取りに耳を傾けつつ星菜はグラウンドから目を離さない。

 足腰と右腕をしなやかに動かし、マウンドの少女はテンポ良くストライクカウントを稼いでいく。賞賛すべきはその制球力である。先発の奥居が投げていた時とは極めて対照的に、捕手小波が構えたミットはピクリともその場を動かなかった。

 

「バッターアウトッ!」

 

 そしてまた三球でフィニッシュを決める。七番小島の打席で投じた球種は全てストレートであったが、彼は三回振るったスイングの内一球もバットに当てることが出来なかった。

 

(今試合に出ている人達は、アンダースローを相手にしたことはないだろうからなぁ。それもあそこまでリリースの低いサブマリンじゃ、タイミングが合わないのは当然か……)

 

 投手が奥居の時も働くことが出来なかった下位打線であるが、今回の打席に関しては星菜にも責め立てる気は無い。先の回に自らがマウンドに上がったことで苛立ちが薄れたというのもあるが、彼らが早川あおいに手玉に取られるのは仕方の無いことだと思ったのだ。

 寧ろ竹ノ子高校の下位打線が対応出来るような彼女であってほしくないというのが、星菜の思いだった。

 

(……やっぱりは私ってば嫌な奴。どうにも評論家気取りで、上から目線で考えてしまう)

 

 竹ノ子高校の打線を圧倒してこそ自分が見込んだ投手と、そう考えてしまう己の尊大な思考に呆れる。

 今の泉星菜は、相手をどうこう言える立場に無いと言うのに。

 

(さっきマウンドに上がった私は、投げるどころか緊張で一杯一杯だったクセに……)

 

 そう、星菜は六回表のピンチに登板した時、思考が真っ白になっていたのだ。

 あまりにも実戦から遠ざかっていたが為に、マウンド上での心構えを忘れてしまっていた。表面上こそポーカーフェイスを装いあたかも落ち着いているように見せかけていたが、内心は怯え固まっていたのである。

 あのまま投球を行っていれば制球が定まらずにフォアボールになっていたか、高めに浮いた球をスタンドに運ばれていただろうことは想像に難くない。

 しかし、そんな星菜を救ってくれた者が居た。

 

「……泉さん、水は飲まなくて良いんですか?」

「……あ、はい。必要無い……です」

「……そうか」

 

 あの時牽制球を投げると決めたのは、投手の星菜ではない。そして、捕手の六道でもなかった。

 今現在ベンチで二人分ほど離れた位置に座っている男、遊撃手の鈴姫健太郎だったのである。

 星菜が投球練習を終えた後、彼はこう言ったのだ。

 

『……少し緊張しているなら一球、牽制を入れればいい。二塁ランナーは何故かさっきからボーッとしているから、多分刺せますよ』

 

 星菜は日頃から努めている為に他人に悟られぬよう己の心情を隠すことは得意なつもりであったが、どうやら彼には見抜かれていたらしい。策が成功するかしないか以前に、星菜はその言葉を聞いて少しばかり緊張が和らいだような気がした。

 

(また、お前に助けられるなんてな……)

 

 選手として復帰すると決めた日から、彼には助けられてばかりいる。何か恩を返したいところであるが、星菜には今のところこの試合を無失点に抑えるぐらいしかその方法が見つからなかった。

 だが取り敢えず今抱いている気持ちだけは、先に伝えておいた方が良いのかもしれない。

 

「……鈴姫さん」

「……何ですか?」

「前の回は助かりました」

「何が……?」

「その、声を掛けていただいて……」

「声? ……ああ、あれか」

「ありがとうございました」

「あ、ああ……別に……」

 

 本当は守りが終わった時に言うべきだったのかもしれないが、今からでも遅くないと星菜は礼を言った。出来るだけ頬を緩めて笑顔を浮かべたつもりだが、どうにも彼を前にすると表情筋がぎこちなくなってしまう感覚が否めない。案の定、鈴姫の反応は微妙だった。

 

(はぁ……一番下手くそなのは私の人付き合いだよな、やっぱり……)

 

 星菜とて「あの出来事」からもうじき一年が経とうと言うのに、彼とこのままの関係で良いとは思っていない。元の関係まで戻れるとは思わないが、それでも今はチームメイトなのだ。お互いのプレーに支障を来すようなわだかまりは、近い内に無くしておくべきだと思っている。

 しかし、それを許したくない自分が居ることも確かだった。

 

(でも私は、あの時の言葉だけは謝れない)

 

 早く解決したいとは考えているが、上辺だけでなあなあで終わらせることもしたくない。

 単に意地を張っているわけではなく、自分が謝るだけで解決出来るとは思えないのである。

 

(さっき私の緊張を見抜いたように、あの時もお前が、私の気持ちをわかってくれたら……)

 

 当時のことを思い出す度に、星菜の心から堪えようのない悲しみと憤りが沸き上がってくる。それ故に普段は彼を前にしても極力思い出さないようにしているが、それは単なる「逃げ」であることも自覚している。

 自覚はしているのだ。しかしこの問題について自分がどうすれば良いのか、星菜にはわからなかった。

 

 そうして星菜がグラウンドとは関係の無いことで悩んでいる間に、早くも六回裏の攻撃が終了した。池ノ川、小島と連続で三球三振に切られた後、八番義村もまた空振りの三振に取られたのである。

 つまりは三者連続三振。この回の攻撃は下位打線であったが、奥居の時以上に打てる気配が無かった。星菜は先輩女子投手が披露した見事な投球に思わず拍手を送りたくなったが、流石にそれを実行することは出来なかった。

 

(流石、あおい先輩だ。私も負けてられないな……)

 

 彼女の惚れ惚れする投球内容に口元を弛緩させると、星菜は七回表の守りに着くべくマウンドへと向かう。

 緊張は相変わらずあるが、今回のそれは身体が固くなるほどのものではない。寧ろ余計な感情を払拭出来るという意味では、理想的な緊張度合いだった。

 そこで星菜は、登板前に言われた「彼」の言葉を思い出す。

 

「マウンドに上がれば自然と余計なことは考えられなくなる。だから何も怖くない、か……」

 

 先ほどの回にマウンドに上がり鈴姫に声を掛けられるまでは、皆が皆お前のように心が強いわけじゃないんだよと言いたくなったが、早川あおいの投球をも見た今ならばその言葉の意味を理解出来る気がした。

 



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七色の流星

 

 彼女と出会ったのは、まだ五歳の頃だったろうか。

 実のところその日のことはあまり覚えていないが、それでも幾つかは今でも覚えていることがある。

 それは家の近所にある公園の中で、彼女が一人で黙々とボールを投げ続けている光景だ。

 

『なにしてるの?』

 

 周りでは同い年ぐらいの子供達がサッカーボールを蹴り合っている端で、彼女はただ一人手のひらほどの大きさのボールを投げ続け、壁に跳ね返されてはそれを拾ってを繰り返している。

 それは当時の小波大也の目には、どうにも奇妙な光景に映った。

 

『……やきゅう』

 

 彼女は近寄ってきた小波に対して一片も目を向けることなく、しかしその質問にはきっちりと答えた。

 

『やきゅう? たのしいの?』

『……うん』

 

 幼子故の小波の率直な問いに、彼女は幼子らしからぬ憂いの篭った目で応える。

 寂しそうな子だなぁというのが、この時小波が抱いた彼女への第一印象だった。

 

『みんなはサッカーやってるけど、いっしょにやらないの?』

『やだ。あいつらとなんかやりたくない』

 

 公園の端で一人で遊んでいるよりも、真ん中で遊んでいる子供達に混ぜてもらった方が楽しいのではないか。小波はそんな善意で問い掛けたのだが、彼女から返ってきたのはどこか不貞腐れたような言葉だった。

 それは誰も自分の傍に居ないことに苛立っているように見えて、小波にはやはり、寂しそうに映った。

 

『そうなんだ。じゃあぼくも、それやっていい?』

 

 だからそう言ったのは、幼いながらも同情する心があったからなのかもしれない。

 その時の自分が何を思っていたのかは、今となってははっきりとは思い出せない。

 しかし。

 

『……え?』

 

 その言葉に対する彼女の反応は、今でも記憶に残っている。

 壁当てを行う手を止めると、彼女は驚きに目を見開き、こちらに向かって初めて顔を見せた。

 昼の太陽に照らされた栗色の瞳が、深く印象に残った。当時は幼い故に「なんで驚いているんだろう?」ぐらいにしか思わなかったが、今にしてみればその姿は、可笑しくて可愛らしかったと思う。

 

 これが小波大也の――泉星菜との出会いの一幕であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 天敵――それは、主に特定生物の死亡要因となる外敵のことを差す。生物学的な意味合い以外では、自分が苦手とする人物という意味等で使われている言葉だ。星菜にとっての天敵は、まさに小波大也こそがそれに該当した。

 1勝13敗、それが中学時代における彼との対戦成績である。星菜の方が一学年下であることを差し引いても、彼を相手にした際の投球はそのほとんどが散々たる結果だった。

 

(……こっちの手の内は知り尽くされている。敵に回したくない相手だけど……)

 

 加えて今は実戦であり、それも二対一という一点差の緊迫した場面である以上、彼にここで打たれることはチームが同点に追いつかれることを意味している。

 責任は重大で、緊張はもちろんしている。

 しかし今の星菜の心に、恐怖の二文字は無かった。

 

「よし」

 

 イニングは七回の表。捕手六道のサインに頷いた星菜は振りかぶり、この回先頭の小波へと一投目を投じる。

 球持ちの良い左腕から放たれたボールは一直線に突き進むと、打席上の小波(・・・・・・)を目掛けて直進していく。

 そのまま真っ直ぐの軌道を辿れば、ボールは小波の腰へと直撃していたことだろう。

 しかし結果としてボールは無事キャッチャーミットに収まり、球審はストライク判定を告げることとなった。

 

「ナイスボール」

 

 初球にストライクを取れたことに一息つくと、星菜は捕手からの返球を受ける。

 星菜が投じた球種はストレートではなく、高速シュート――投手の利き腕の方向に変化する変化球であった。そして今のように内角のボールゾーンからストライクゾーンに入る球を投げる投球術を、一般的に「フロントドア」と呼ぶ。

 しかし打席上の小波は星菜がこのフロントドアを使ってくることを頭に入れていたのか、曲がるまでデッドボールの軌道であっても尚一切打席上でボールを避けようとする仕草を見せなかった。

 察するに今のは「見逃した」と言うよりも、「見送ってくれた」と言うところか。顔色一つ変えずバットを構え直す小波の姿に、星菜は内心で舌打ちした。

 

(同じ球を続けるのは危険そうだ。なら……)

 

 グラブの中でボールを弄びながら、星菜は次なる球種を思案する。その選択は捕手六道が出したサインと合致していた為、快く二球目の投球動作へと移ることが出来た。

 

(これで……!)

 

 右足を踏み込み、左腕を全力で振り下ろす。

 左手から抜き放たれたボールは、時速90キロにも満たないスローカーブだった。ボールは先ほどのシュートとは全く異なる軌道を描くと、まるで二階から降ってきたかのように上方向から飛来していった。

 そのボールを小波は、スイング寸前までバットが出掛かるものの見送ってみせた。

 

「ボール」

 

 球審が告げた判定は、ストライクではなかった。捕手六道の構え通りに決まったボールは、小波のストライクゾーンよりもやや低かったのである。

 

(あの球には手を出さないか。でも軌道が頭に残れば、それで十分だ)

 

 ちらりと後方のモニタースクリーンに目を向けると、星菜は今しがた投げたボールの球速表示を確認する。そこに映し出されていたのは「78km/h」という、概ね星菜の体感通りの数値だった。

 

(今のでタイミングを崩せれば、それでいい)

 

 今のスローカーブのようなハエの止まるようなボールを見れば、さしもの小波と言えどその軌道が意識に残った筈だ。最速でもストレートが120キロを超えることがない星菜にとって、このボールはまさに投球の軸であった。

 

「……出し惜しみはしませんよ、小波先輩」

 

 ボールの縫い目から指をずらすと、星菜は間を開けずに三球目へと移る。打席上の小波に考えさせる時間を与えたくなかったのだ。

 

 そうして投じたボールは鋭いキレを発揮し――この試合、初めて小波のバットが空を切った。

 

 

 

 

 

 

 ――ああ、この球だ。

 

 その一球を空振りしたことで、小波はカウントツーエンドワンへと追い込まれた。それによる焦りは無い。しかしたった今ストライクゾーンの内角から「消えた」ボールを見たことで、小波は打席上での昂ぶりを抑えることが出来なかった。

 

(今のは高速縦スライダー……あの時の紅白戦で、僕を三振にした球だ!)

 

 高速縦スライダー――その名の通り、ストレートにより近い速度で縦に滑り落ちていく変化球である。泉星菜の投げるそれは元々の球速が遅い為に決して速くはないが、尋常ならざるキレがあった。

 打者が踏み込み、バットを振り抜こうとする寸前のところで、魔球の如くボールが鋭く大きく変化していく。それは空振りした打者目線からは、まるでボールが「消えた」ように見えるのだ。

 ストレートの球速の遅さはそう言った変化のキレ、加えて先ほどのスローカーブのような緩急差で補うのが彼女の投球スタイルである。そしてそれを実現することが出来るのは、彼女に並外れた投球技術があるからこそであった。

 

(星園さんの教えで、君はとんでもなく化けたね。腕の振りは全部同じで、あの球持ちの良さと、コントロールの良さ……打ちにくいピッチャーになったよ、君は)

 

 ストレートの球速表示だけに限定して見れば、適度に打ちやすい球を放る打撃投手と変わりはない。しかし実際に打席に立って数多の変化球と織り成す技の数々を見れば、そんなことは口が裂けても言えなかった。

 もし彼女の前でそんなことを言う者が居るのなら、小波には五時間以上その者を説教し続けることが出来る自信がある。小波にとって彼女は、それほどまでに打ちにくい投手なのだ。

 

「往年のキレは衰えていないようで安心したよ、星ちゃん!」

 

 ――さて、追い込んだところで何を投げる?

 ――もう一度スライダーを投げるか? それとも、そう思わせてストレートを投げるか?

 ――他にもツーシーム、カット、チェンジアップと引き出しはたくさんある。君はその中で、次に何を選ぶ?

 

 小波は彼女との勝負を、もはや心だけの言葉では抑えられないほどに楽しんでいた。片頬を持ち上げ、高らかに叫び出す。

 勝ちたいわけではなく、戦いその物を楽しんでいるのだ。

 この狂おしいまでの情熱に、野球人生の充実を味わっている。

 自分に野球を教えてくれた彼女とお互いが満足出来るほどぶつかり合い、不完全燃焼に終わった中学時代の記憶を払拭出来るほどの勝負を、小波は一心に望んでいた。

 

「……っ! 今度は横か!」

 

 四球目、彼女が投じたのは縦方向ではなく、利き腕の反対方向に横滑りする高速スライダーだった。外角のボールゾーンからストライクゾーンへと入ってくる「バックドア」と呼ばれる投球術である。初球のシュートを用いたフロントドア、そしてこのバックドアを自在に使いこなすことが出来るのが、彼女の武器の一つだった。

 そのボールを寸でのところで見切った小波は最短距離でバットを払うと、ファールゾーンへと弾き飛ばす。辛くもカットに成功したが、依然カウントは小波に不利だった。

 そして十秒と待たず、続く五球目が放られる。

 

「ここでチェンジアップか! 流石だ星ちゃんっ!」

 

 五球目は外角低めのチェンジアップ――厳密に言えば、ややシュート方向に沈んでいくサークルチェンジと呼ばれる変化球だった。

 小波はストライクゾーンの下を潜り抜けていったそのボールを見送ると、己が危うく手を出しかけたほどのキレの良さを賞賛する。

 彼女の球はいつだってそうだ。多彩な球種を完璧な制球で投げ分け、面白いように厳しいところへと決めていく。そのボールが辿る軌道を見る度に、小波の昂揚は限界を知らぬかのように上り詰め、血を熱くさせた。

 自然と闘気に満ちた笑みが浮かび上がり、小波は今一度星菜の姿を見据えた。

 

(星ちゃん、君は……)

 

 マウンドに立つ彼女の表情はほとんど変わっていないが、小波にはほんの少しだけ唇がつり上がっているように見えた。それは自惚れでも、気のせいでもないだろう。自分が最高の気分に浸っているのと同じように、彼女もまたこの勝負を楽しんでいるのである。

 

(……やっぱり君には、その顔が一番似合うよ)

 

 自分と会うことがなくなったあの日からも、彼女は苦しみ続けてきたのだろう。

 今もまだ、それこそチームメイトの早川あおいのように辛い思いをしているであろうことは想像に難くない。

 

 ――だが、今この時は。

 

 マウンドに立っている時の彼女の姿は、誰よりも純粋な野球選手であった。

 

「来い!」

 

 そんな彼女と戦える幸運に、小波は感謝する。二打席目までの波輪との勝負も非常に楽しかったが、彼女に対して複雑な感情を抱えていた小波にはこの時こそが何よりの幸福だと感じていた。

 

 そして。

 

 その幸福な三打席目は、次なる六球目で幕を下ろした。

 

(遅い球じゃない! これは高速スライダーか、シュートか……!?)

 

 華奢な左腕から放たれたボールは、その球速に見合わない高速回転で風を裂きながらキャッチャーミットへと向かっていく。

 スクリーンに浮かぶことになる球速表示は115キロ程度であろうが、打者である小波がそれほど遅く感じているかと問われれば――否。

 左腕を隠したボールの出どころを見せない投球フォームと、これまで交えてきたスローカーブやサークルチェンジと言った球速が遅「すぎる」変化球。そして高速シュート、スライダー、縦スライダーと言ったストレートとほぼ変わらない球速の速い変化球。これらの組み立てが小波のタイミングを、そして思考を狂わせていた。

 

(違う! これは……)

 

 まず投げた瞬間、今度もまた変化させてくるかと疑い、始動が遅れた。

 そして元々の球持ちの良さに加え、スローカーブのような緩い変化球を見せられたことで、その緩急差によって実際の球速よりも速く見えたのだ。

 

外角低め(アウトロー)のストレートォッ!!」

 

 外角低め一杯目掛けて放たれたその球は縦にも横にも変化せず、しかし次第に加速しているかのようなノビを錯覚させた。

 極限の集中力でその球種を見破った小波はややホームベース寄りに踏み込むと、強引に腕を伸ばしてバットを押し込んだ。

 グリップから振動が伝わり、甲高い金属音が響く。しかしその振動も音も、小波にとって心地良いものではなかった。

 

「差し込まれたか……!」

 

 ボールは、バットの芯を外れていた。バットの先端付近に当たってしまった為、右方向へ打ち上がった打球は程なくして失速していった。

 やがて打球はライトのほぼ定位置へと落下していき、危なげなくグラブへと収められた。

 それは小波にとって、彼女に対する「二連敗」を意味していた。

 

「お見事っ!」

 

 打球の行方を見届けた小波はヘルメットを外すと、後腐れ無く恋々高校ベンチへと引き下がっていく。マウンドを見れば彼女もまた、帽子を外して小波の顔を眺めていた。

 

『……ありがとうございました』

 

 思い上がりでなければ、彼女はそんなことを言っているような気がした。

 もしそれが事実であるのなら、小波は一言こう返したい。

 

「それは、こっちの台詞だよ」

 

 一球一球気を抜けない、心が躍る良い勝負だった。

 それは本当に、練習試合で終わらせるには勿体無いぐらいで。

 

 ――また一段と、野球が楽しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 先頭の小波をライトフライに打ち取ったことで、星菜は上手く波に乗ることが出来た。

 続く五番陳は内角に食い込ませたボール球のカットボールを打たせ、ショートゴロ。

 六番天王寺は高速スライダーとシュートでカウントを整えた後、外角低めに外したチェンジアップを引っ掛けさせ、二者連続のショートゴロに仕留めた。

 竹ノ子高校の守備陣には不安があるが、堅守のショート鈴姫と強肩のサード池ノ川の三遊間だけは他校にも引けを取らない。その二人が居る方向へと打たせる配球を、捕手である六道明は徹底していた。

 

 三者凡退でスリーアウトチェンジとなり七回の裏と替わった竹ノ子高校の攻撃は、しかし早川あおいの好投を前に封じ込まれる。

 先頭の九番石田は二球でツーストライクに追い込まれた後、外角に大きく外れるシンカーを空振りし、三振に終わる。

 続く打順は一番矢部と二番六道の上位打線へと回ったが、二人共に内角高めのストレートに空振り三振し、瞬く間にスリーアウトとなった。

 アンダースロー特有の軌道とあおいの制球力、ボールのキレを前に、竹ノ子高校の打線は手も足も出ないと言ったところか。前のイニングを合わせれば、これで六者連続三振となる。

 恋々高校の背番号「1」は、彼らに付け入る隙を与えなかった。

 

(八回……この回は、あおい先輩の打順に回る。……裏は私の打順にも回るか)

 

 短い休憩が明けるとすぐさま攻守が切り替わり、星菜は八回表のマウンドへと向かっていく。

 残るイニングは二回。いよいよこの試合も終盤だ。

 

 後を考えれば自身最後のマウンドになるかもしれないこの試合の中で、今度こそ完全燃焼したいものだ。星菜はそう思いながら、恋々高校七番小豪月と相対した。

 

 



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変幻自在のアウトローお嬢さん

 

 八回表、恋々高校の攻撃は七番の小豪月から始まる。

 下位打線とは言え小豪月の身長は180センチを超えており、尚かつその肉体は分厚い筋肉に覆われている為、160センチ程度の小柄な体格である星菜からはさながら巨人のように見えた。

 しかしベンチから彼の波輪との対戦を見てきた星菜は、既にそのウィークポイントを見抜いていた。

 

(このバッターは強いスイングが出来るけど、二打席とも変化球への対応が悪かった。それなら……)

 

 ワインドアップからモーションに入ると、星菜は独特な投球フォームから第一球目を投じる。

 高さは低めに、コースはストライクゾーンの外際を擦過するように、ストレートと同じ腕の振りからスローカーブを投じた。

 

「くわっ!」

 

 小豪月はそのボールに対しバットを強振するが、ボールは何事も無く捕手六道のミットへと収まった。

 

(スイングスピードだけは小波先輩にも劣ってないけど、技術が追いついていない。そんなタイミングの取り方じゃ、この球は打てない)

 

 そして二球目も同じコースにスローカーブを続け、同じように空振りを奪う。

 打席の小豪月は何故当たらないのかわからない様子で苛立ちを隠すことが出来ず、忙しない動作でバットを構えていた。

 

(貴方みたいなバッターは、正直大好物だよ)

 

 今の彼には、もはやストライクは要らないだろう。ボール球を要求してきた六道のリードに頷くと、星菜は今度はワンテンポ間を空けて三球目を投じた。

 インサイドから低めに外れる高速縦スライダー――小豪月はそのボールを見極めることが出来ず、あえなく三球三振を喫した。

 

「オッケイゥー!」

「ナイスピー! ナイスピー!」

「ピッチャーいいよいいよ!」

 

 周囲の内野陣の口から、星菜のこの試合初の奪三振を労う声が聴こえてくる。

 星菜は極力マウンド上では表情を変えたくないと思っているのだが、その時だけは思わず口元が緩くなってしまった。しかし余韻に浸るのは二秒間に留め、星菜は気を引き締めて次の打者へと向き合った。

 八番はセンター守備で好守を見せた村雨。しかし前二打席では波輪を相手に軽く捻られており、その内容はお世辞にも良いとは言えなかった。

 その情報から星菜は、真ん中にさえ投げなければ己の球威でも十分に抑えられると判断する。

 

「うっ、タイミングが……」

 

 その判断は正しく、村雨は小豪月と同様に星菜のスローカーブを面白いように空振りしてくれた。それには六回途中まで投げていた先発の波輪が150キロを超える本格派右腕であることに対し、星菜が120キロも超えない軟投派左腕であることへの落差もあるのだろう。投げる星菜は現在、初めて登板した高校野球とは思えないほどの投げやすさをその身に感じていた。

 結局その村雨の打席はツーエンドワンまで追い込んだところで内角に食い込ませたカットボールを打たせ、星菜自らが捌くボテボテのピッチャーゴロという結果に終わった。

 

(私の球も、まだ捨てたもんじゃないな……)

 

 中学で死にぞこなった女性投手にしては、存外まともに戦えるものだ。先の回は天敵小波をライトフライに打ち取り、この回も早々にツーアウトを取ったことで幾分か自信が付いた気がした。

 これで次の九番打者には、すっきりとした晴れやかな心で挑むことが出来る。

 

《九番、ピッチャー――早川さん》

 

 ピッチャープレートに入る前に深呼吸し、星菜は右打席に入った野球少女の姿を見据える。

 早川あおい――彼女が居なければ、自分は今頃ここには居なかっただろう。

 彼女が示してくれた一つの道が、星菜をマウンドへと導いてくれたのだ。

 その感謝の気持ちを込めて、この勝負には臨んでいきたい。

 

「……行きますよ、先輩」

 

 彼女がバットを構えると、星菜は捕手六道の出したサインに目を移し、それに頷く。

 六道は割と、自分が投げたい球種を中心にリードしてくれる捕手だと思う。先発波輪のアクシデントからの急造コンビではあるが、良い相方に恵まれたものだと星菜は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ナイスピッチングだ、泉」

「……ありがとうございます」

 

 八回表の守りを三者凡退で乗り切った星菜は、ベンチに戻るなり監督の茂木らから温かく出迎えられた。

 早川あおいとの勝負は、思いのほかあっさりと終わってしまった。投じた球数はたったの二球で、どちらも外角低めのストレート。あおいの打ったボールは力無く一塁方向へと転がっていき、結果的にファーストゴロという形で幕を下ろしたのである。

 

(そう言えばバッティングセンターでも、あの人はあまり打っていなかったっけ。バッティングは上手くないのかもしれないな……)

 

 細腕故に筋力が足りていないのか、それとも投球練習に時間を費やしすぎて打撃練習が疎かになっているのか……いずれにしても早川あおいの打撃には、言っては悪いが全くセンスを感じなかった。

 今後機会があり、あちらが了承してくれるのなら、その時は自分が打撃指導でも出来れば良いものだ。それに限らず彼女には一つでも多く、何か恩返しをしたかった。

 そして、と星菜は周囲に目を向ける。

 

「いやあ、星菜ちゃんが居てくれて本当に良かったなぁ」

「これ青山なんかいらなかったんじゃね?」

「オイラは星菜ちゃんは最初から活躍すると思ってたでやんす!」

「ははは、恋々の奴ら全然タイミング合ってねぇもんな」

 

 泉星菜という女性投手の登板に不満一つ言わなかった彼らチームメイト達にも、いつか恩返しをしたいと思った。

 すると、横合いから不意に打者用のヘルメットを手渡された。振り向くとそこには先輩マネージャーである川星ほむらの姿があり、彼女はにこやかに微笑んでいた。

 

「ナイスピッチングッス、星菜ちゃん。はいこれ、星菜ちゃん四番に入ってるッスから、鈴姫君の次ッスよね?」

「……ありがとうございます。しかし先輩は、波輪先輩のところに居なくて大丈夫なのですか?」

 

 ほむらは波輪が負傷して以降、ベンチの裏で彼の様子を看ていた。その為七回と八回表の間はベンチには居なかったのだが、いつの間に戻っていたのだろうか。

 星菜は波輪を一人にして大丈夫なのか、心配ではないのかという意味を込めて訊ねたが、ほむらは問題無いときっぱりと返した。

 

「恋々高校の監督は加藤理香先生って言う、この道では有名な名医なんスよ。その人が診てくれるみたいッスから、もうほむらの出る幕は無いッス」

「しかし……」

「星菜ちゃんの高校初登板なんスから、見ないわけにはいかないッス! ……まあ、波輪君には別の意味で心配してるッスけど。一体なんなんッスかあの人の胸は……」

 

 波輪のことが心配であろうに、それでも彼女は取捨選択としてこちらを優先してくれたようだ。その意志の固い瞳を前にしては何も言い返すことが出来ず、星菜は申し訳なさと共に大きな責任を感じた。

 

「……ご期待にお応え出来るように、私に出来るだけのことはやってみます」

「頑張れッス」

 

 打席でも、くれぐれも彼女を失望させるような結果は出したくないものだ。星菜は渡されたヘルメットを頭に被ると、バットを担ぎながらクストバッターズサークルへと向かった。

 その際、視界の上方からヘルメットのつばが割り込んできた。

 

「ふふ、ぶかぶかだ……」

 

 頭に被ったヘルメットを左右に揺らしながら、星菜は小さく苦笑を浮かべる。当然ながら、星菜には専用のヘルメットなどという物は無い。これもまた誰から借りてきた物かはわからないが、そのサイズは頭の小さな星菜には合っていなかった。

 しかしそもそも野球という身の丈に合わないことを好んで行っている自分には、このようなサイズの合わないヘルメットこそがある意味似合っているのではないかと前向きに考え、感傷に浸った。

 

 ……と、そんなことを考えている間に前の打者の打席が終わったようだ。

 これまで三打数三安打という見事な打撃を披露してきた三番鈴姫の四打席目は――早川あおいの投じた三球目を打ち上げるセカンドフライとなった。

 一塁に到達することなくベンチへと引き下がっていく彼の表情は苦々しさを通り越しており、普段冷静な彼らしからぬ苛立ったものであった。

 それまでの経緯から鑑みて、星菜は現在の彼の心境を推測する。

 

(……アイツらしくない大振りだったな。大方、小波先輩に対抗してホームランを狙ってみたってところか。そこまであの人のことを敵視しなくても……って、私が言えることじゃないよね)

 

 彼の小波大也への対抗心が、先ほどのらしくない打撃結果を引き起こしたのだろう。

 しかし星菜には、それをやれやれと他人事のように呆れることは出来なかった。

 彼が小波のことを親の仇のように敵視している要因は自分にあるのだと、星菜は深く理解しているつもりである。

 その問題も、いつかは解決しなければならないが……。

 

《四番ピッチャー、泉さん》

 

 複雑に絡み始めた星菜の胸中を、違和感だらけな場内アナウンスの一声が払拭する。

 波輪に交代してそのまま入ったのだから、星菜は打順の関係上四番に入る形となっている。しかしこの声だけを聞けばまるで自分がエースで四番を打っているようで、可笑しく思える。

 三番の鈴姫が凡退したことで意識を切り替えると、星菜はぶかぶかのヘルメットを外しながら左打席に入った。

 

「……よろしくお願いします」

 

 思えばこれは、何年ぶりの打席になるだろうか。星菜は久しく味わうことの無かった感覚に懐かしさを感じていた。

 数日前から参加し始めたチームの練習でも、未だ打席に立ったことは無かった。故に星菜は、マシンではなく投手が投げる生きたボールを打つのは久しいことだったのだ。

 

「ブランクは大丈夫かい?」

 

 その事情をどれほど知っているのかはわからないが、後ろに座る恋々捕手小波がそんな声を掛けてきた。

 彼は捕手として、キャッチャーボックスでの囁きで相手打者を惑わせるような戦術を好まない。彼は温和な雰囲気や言動とは異なり、投手も相手打者も全力を発揮した上での真剣勝負を好む武人肌の男なのだ。その為に何度か手痛い一発を浴びることもあったが、それもまた彼の個性であった。

 そんな彼が声を掛けてきたということは単に話したかっただけで、そこに戦術的な理由は無いのだろう。そう判断した星菜は、快く問いに応じることにした。

 

「いえ、全然駄目ですね」

「あはは、わざわざ自分が不利になる情報を与えなくても」

「では無視しますか」

「あー、それはそれで寂しいね」

「……今は試合中ですよ?」

「わかってる。余計な言葉は要らなかったね」

 

 投球では小波大也で、打撃ではこの早川あおいと来た。ブランク明けの相手としてはどちらも厳しい強敵であるが、同時に彼らが最初の相手で良かったという思いもある。

 どちらも星菜にとって恩人であり、人として憧れを持っているファンでもあるからだ。

 

「あの人との勝負に、余計な言葉は要りません」

 

 スパイクで足元を慣らした後、バットの真芯の位置を目視で確認し、構えを取る。

 バットの角度は肩の位置から約45度。立ち方はマウンドに対して並行なスクエアスタンス。

 教科書通り、基本を突き詰めたようなシンプルな打撃フォームを見て、「鈴姫に似ている」と思った者は竹ノ子高校のベンチに何人居るだろうか。もし彼らがそう思ったのなら、心の中でこう言いたい。

 この構えが鈴姫に似ているのではない。鈴姫がこの構えを真似たのだと。今の鈴姫の打撃フォームは、昔の泉星菜が彼に指導した結果なのだと――。

 

(……初球は、あそこに来る)

 

 バットを構えた星菜は、マウンドのあおいがボールを投げる時をじっと待つ。

 あおいはボールを右手に持ったまま小波の出したサインに首を横に振っているが、その様子を見て星菜は一球目がどこに来るのか確信した。

 元々彼女が投げたいコース、球種には心当たりがあった。もし今の彼女の立場に自分が居るとすれば、狙うコースは一つしかない。同じ女性投手としてのプライドがあるのならば、お互いに対抗心を抱くのは必然であった。

 

外角低め(アウトロー)ギリギリのストレート……私が貴方に投げた球を、お返しとばかりに投げてくる。私ならきっと、そうする)

 

 この予測が外れた時は、それは星菜が単に自惚れていただけということになる。それならばそれでも構わないが、予測が当たるのならば心から喜べるというものだ。

 その時は彼女が自分をライバルとして――対等な存在だと認めてくれたということなのだから。

 

 そして待つこと数秒後。準備が整ったあおいがノーワインドアップから、ゆったりとした足運びで投球動作へと移る。

 腰を折りたたみ、左足を踏み込み、沈み込ませた身体を海の波のように揺らめかせ、地面擦れ擦れの低位置から右腕を振り払った。

 そうしてリリースされたボールはアンダースロー特有の下から上への軌道を辿り、ストライクゾーン目掛けて一直線に疾走していく。

 その球種、コースは――星菜の予測した通り、外角低め(アウトロー)一杯のストレートだった。

 

(もらった!)

 

 予測の的中に喜ぶ暇もなく、右足を踏み込んだ星菜は容赦無くバットを振り抜く。

 タイミングは完璧、スイングの軌道にもブレは無い。次の瞬間バットから快音が響き、ボールは狙い通りセンター前へと落ちる――と、星菜は確信していた。

 

 ――突如上方からはみ出してきた物体が、己の視界を覆い隠すまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 投手あおいのグラブに収められた打球はすぐさまファーストへと送られ、星菜は早々に引き返すこととなった。

 バットの芯を完全に外してしまったが為にグリップからの振動が強く伝わり、その両手は投球に影響が出るほど長引くことはなかったが痺れを催していた。

 

「惜しかったな。ヘルメットに邪魔されなければセンター前だったのになぁ」

 

 星菜がベンチへと戻ると、最初に目が合った茂木からそんな言葉を掛けられた。

 振り抜いたバットがボールに当たる瞬間、ヘルメットが傾き、一瞬だけ星菜の視界を遮ってしまったのである。そのような要因が先ほどのピッチャーゴロという中途半端な結果を生んでしまったことを、彼は心底残念そうに言った。

 

『言い訳をしないでください』

 

 ふと、脳裏に言葉が過ぎった。

 それは泉星菜の野球人生その物に対して向けられた、まだ幼い野球少女の言葉である。そしてその後に

続く言葉を、星菜は今一度思い出した。

 

『貴方が壁に当たって野球部を辞めてしまったのは、貴方が女子だったからではなく、貴方だったからでしょう』

 

 もしその言葉が無ければ、此度の打撃結果にもヘルメットの不具合を言い訳にしていたかもしれない。

 だが今の自分ならば、当時よりも物事を客観的に見れるような気がした。

 

「……買いかぶりすぎです。私のバッティングはこの程度ですよ」

 

 理屈をこねくり回すよりも、自分自身が変わらなければ仕方が無い。そう思えるようになったのは、少しは成長した証なのだろうかと――繰り返し、自問した。

 



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勝利投手は誰の手に

 五番外川は内角のシンカーを打たされショートゴロとなり、八回裏の竹ノ子高校の攻撃は三者凡退という形であえなく終了した。

 

 

 そして、九回の表が訪れる。

 

 依然変わらぬ2対1のまま迎えた最終回のマウンドへと上がった際、星菜が感じたのはやはり重い緊張感だった。

 このイニングを無失点にさえ凌げば竹ノ子高校の勝利となる。しかし一点でも失えばたちまち同点となり、二点以上も失えば逆転されてしまうのだ。表面上ポーカーフェイスを装っているが、それは少しでも気押されれば簡単に砕かれてしまうほどの脆さだった。

 

(……大丈夫。三人で抑えれば、小波先輩には回らない)

 

 この回の恋々高校の攻撃は一番の佐久間から始まる。走者さえ出さなければ最も厄介な四番打者(小波大也)へと回ることはなく、星菜にとっては都合の良い打順だ。

 しかし問題は、一番から三番までの三人をきっちりと抑えることが出来るかというところにある。上位打線を打つ彼らは、これまで相対してきた下位打線ほど簡単には終わってくれないだろう。特に三番の奥居は左の変化球投手である星菜にとって相性の良い右打者であり、前の打席では波輪を負傷退場に追い込むクリーンヒットを放っている。小波ほどではないが、彼もまた危険な打者であった。

 

(慎重に、一人ずつ切っていこう……)

 

 投球練習を終えた星菜の耳に球審の声が響き、試合が再開する。

 左打席に立っているのは恋々高校の一番打者(リードオフマン)、佐久間だ。まだあどけない顔立ちや他の打者よりも細身な体格から察するに、星菜と同じ入学したての一年生と思える。

 尤も、相手が一年生だろうと二年生だろうと、グラウンドの中では関係無い。星菜はこれまでと同じように振りかぶると、これまでと同じように左腕を振り下ろした。

 

「ストライクッ!」

 

 球審の気持ちの良い声が耳に響く。外角一杯のゾーンに決まった高速スライダーであったが、初球はこちらの思惑通り手を出してこなかった。

 

(左対左じゃ、負けるわけにはいかない)

 

 続いて二球目に投じたのは内角低めへのツーシームファストボールだ。110キロ程度のスピードでシンカー方向に食い込んでいくその球を、打席の佐久間はスイングし、一塁方向のファールゾーンへと弾き飛ばした。

 

 そして三球目。打者の頭にスライダーとツーシームの軌道を意識付けた直後に投じたのは、左右に変化の無い真っ直ぐの軌道を辿るフォーシームファスト、即ちストレートであった。

 コースは内角のボール球であったが、打席の佐久間はそこからスライドして入ってくると思ったのか、迂闊にも手を出してくれた。

 またも一塁方向へと向かっていった打球はしかし今度はフェアゾーンを転がっていき、間もなくして一塁手の外川のグラブへと収められた。外川はそのまま一塁ベースを踏み、一塁審判から打者走者アウトの声が上がる。これでワンアウト――残る打者は二人となった。

 しかし油断をすれば、直ちに敗北へと繋がる。そのことを過去の経験から理解している星菜は気を引き締め直すと、次の二番打者との対戦に集中した。

 

《二番レフト、球三郎君》

 

 恋々高校二番の球三郎は、先ほどの佐久間と同じ左打者である。こちらも左投手の星菜にとっては料理しやすい打者であるが、彼は四回の表に二塁への盗塁を楽々成功させている俊足の持ち主だ。内野安打の可能性は頭の中にあり、そして塁に出してしまった際における危険性もまた熟知していた。

 

(三振を取れれば最高だけど)

 

 うるさい打者は三振を取るに限る。しかし、狙い過ぎた配球で長打を浴びるなどということになれば目も当てられない。捕手の六道はそう考えたのか、これまでと同じように確実性の高いボールを要求してきた。

 その構えに頷くと、星菜は球三郎への第一球――外角低めへのスローカーブを放った。

 そのボールを、ギリギリまで引きつけた球三郎のバットが金属音を鳴らして打ち返す。予め狙いすましていたのであろう、バットの芯で弾き返した打球は低い弾道で地を這い――サード池ノ川のグラブへと、ノーバウンドで収まった。

 野手の正面を突くサードライナー。その結果に安堵し、星菜は捕球した池ノ川からボールを受け捕る。鋭い打球であったが、ポジションの真正面であればそれは凡打も同然だ。とにもかくにもチームの勝利という結果を第一に求める星菜にとって、アウトの内容などは二の次だった。

 

「これでツーアウト、か……」

 

 結果的にたった四球でツーアウトを取れたわけだが、しかし気を抜くことは出来ない。寧ろここからが本番であると、星菜の頭脳が絶えず警告していた。

 

《三番、サード――奥居君》

 

 右打席に現れた男の姿を栗色の双眸に移すと、星菜は次の四番打者が待機している相手のネクストバッターズサークルへと目を移した。

 

「貴方に四打席目は与えません……」

 

 これが漫画の世界であれば、最大の強敵(ライバル)と決着を付けるべく前を打つ三番打者にわざとフォアボールを投げると言った演出がされるかもしれないが、生憎にも星菜は現実主義者である。そのように自分で自分の首を絞めるような愚かな真似は出来る筈が無かった。

 それにこれは個人的な試合ではなく、チームの勝敗が賭かったマウンドなのだ。自分の投球が竹ノ子高校の選手全員を背負っていることを思えば、とてもではないが今彼と勝負する気にはなれなかった。

 

(このバッターで終わらせる!)

 

 どんなことがあっても、自分が投げる試合で負けるわけにはいかない。

 自分のような人間は、部に選手として居るだけでも不都合な存在なのだ。せめて投球だけでも結果を出さなければ、ここに居られなくなる(・・・・・・・・・・)

 だからこそ星菜は、全力で勝ちに行きたかった。

 

「ファール!」

 

 指先に力を込めて投じた初球のツーシームを、奥居は三塁側のファールゾーンへと弾く。これまでの投球パターンから今回も初球からストライクを投げてくると読んでいたのか、そのスイングに迷いは無かった。

 

(……なら、この球で迷わせる)

 

 打者にとって邪魔になるのは、的を絞れなくさせる緩い変化球だ。その残像が頭に残るだけでも、打者は次のボールへの対応が鈍くなる。

 

(星園ほどじゃなくても!)

 

 ストレートが遅い星菜が投球の軸として何回も研究を重ねた変化球――それがこの超スローカーブだ。ストレートを投げる時と変わらないリリースで放たれた一球は空中で大きな弧を描き、ストレートの二倍近い時間を掛けてようやくキャッチャーミットへと収まった。

 

「ストライク!」

 

 球審の判定はストライクであったが、それ自体はそれほど問題ではない。

 ストライクやボールと言った判定よりも、問題は今の一球に対する打者の反応にある。その点打者奥居は見事にタイミングを崩されたらしく、スイングこそ思いとどまったものの打席上で悔しげな表情を浮かべていた。

 

(……あの反応なら、いける)

 

 捕手六道から返球を受け捕った星菜は、ボールの縫い目に指を掛けながら六道とアイコンタクトを交わす。

 遊び球は要らない。次は小波にも投げたように外角低めの際どいところにストレートを投げれば、115キロ程度の球速でも十分に打ち取ることが出来ると。

 星菜は打者が自分のボールの軌道に慣れていない今の内に勝負を決めるべきだと判断していた。六道もまた意見を同じくしたのか、三球目の選択に勝負球――外角低めへのストレートを要求した。

 その構えを見て、星菜は彼が自分の捕手で良かったと改めて思った。

 

(これで終わらせる……!)

 

 深呼吸で心を落ち着かせた後、星菜はボールを持った左手にグラブを添えながら、後頭部までゆっくりと振りかぶる。

 自然的な動作で右足を振り上げると、その両手を胸の下へと持っていく。

 そして目標のキャッチャーミットよりも一塁ベース寄りの方向に右腕を高く上げると、グラブを着けた手首を招き猫の前脚のように折り曲げた。

 ボールを持った左腕は全身を使って覆い隠し、一連のゆったりとした投球フォームから腕を振るう瞬間だけ一気に加速し、星菜は指先からボールを放った。

 波輪風郎のような剛速球とは行かないが、ボールのノビというものには自信がある。先ほど投じたスローカーブとの緩急差も相まって、打者の目からは実際の球速よりも速く感じられたことだろう。

 投げる度に、自信が付いていた。

 そして小波をライトフライに打ち取ったこのボールなら、恋々高校の三番奥居にも通用する筈であると。

 

「くっ!」

 

 その自信は、自惚れではなかった。

 打席の奥居はバットをおっつけて打ち返してみせたが、その打球に勢いは無い。

 ボールの行方を見届けるべく、星菜は後方へと振り向く。高く打ち上がった打球は星菜が思っていたよりかは飛んでいたが、センター矢部のほぼ定位置へと落下していった。

 それを見た瞬間、肩から力が抜ける。これでセンターフライとなり、アウトカウントは三つ。星菜は一点リードを守り抜くという己の役目を果たし、試合はゲームセットとなる。回数はたった三イニングで投げた球数も多くなかったが、相手打線にヒットを与えなかったという内容は大いに納得の行くものだった。

 それこそ有終の美を飾るには、十分なほどに。

 

(また試合に投げることが出来て良かった。ありがとうございます、茂木監督、ナインの皆さん)

 

 練習だけは今後も続けていくつもりだが、恐らくこれは自分にとって実質的な引退試合になるだろう。その終わりを晴れやかな気持ちで迎えられたことで、星菜はまた一つ憑き物が取れたような気がした。

 

 

 

 

 ――ただその時、センターの矢部が打球を捕り損ねなければ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……今夜は、眠れそうにない。

 

 自室のベッドの中、枕元に置いた目覚まし時計へと目を向けるが、時計の指針は夜中の九時を差していた。高校生が眠るにはまだ早い時刻であるが、かと言って星菜には、これ以上何かをする気力が沸いてこなかった。

 夏用の薄い布団で身を包むと、枕に顔を埋めて蹲る。それによって枕に涙の跡が残ることも、今の星菜にはどうでも良かった。

 

「……なに、いきがってたんだよ……」

 

 自分以外に誰も居ない部屋の中、星菜は自分自身に対して言葉を溢す。

 

「……なに、その気になってたんだよ……!」

 

 怒りで震える身体を両腕で抑えながら、星菜は孤独に吐き捨てた。

 

 何が部の役に立つ、だ。

 結局、何も出来ないじゃないか――と。

 

 

 星菜は今日行った試合を振り返る。

 その度に溢れ落ちていく大粒の涙は、しばらく止まりそうになかった。

 

 

 恋々  010 000 003

 竹ノ子 200 000 000

 

 

 それが、試合が終わった後に見上げた球場のスコアボードである。

 奥居が打ち上げたセンターフライによって試合終了かと思われた次の瞬間、竹ノ子高校のセンター矢部がまさかの落球。スリーアウトの筈がツーアウト二塁となり、星菜は思いもよらぬピンチを招くこととなった。

 次の四番打者、小波への投球は迷わず敬遠を選択した。

 ベンチからもサインが出ていたが、仮に出ていなくても星菜は勝負から逃げたことだろう。一塁ベースが空いている時点で、恋々最強の打者と勝負する意志は無かった。

 

 しかし、次の打者だった。

 

 五番陳――初球に甘く入ったど真ん中(・・・・)のストレートをフルスイングで打ち返し、レフトスタンドを越える特大の場外スリーランホームランを叩き込み、恋々高校は一挙逆転。

 その裏は早川あおいが三人でピシャリと締め、試合は4対2、恋々高校の逆転勝利となった。

 

(負けた……私のせいで負けたんだ……! 私のッ……私のせいで……!)

 

 あそこで勝ったと思って、気持ちを切らさなければ。

 あそこで意識を切り替え、集中して次の打者に向かっていくことが出来れば。

 あそこでコントロールを誤らなければ。

 あそこで六道のリードに首を振らず、要求通りチェンジアップを投げていれば……。

 

 終わってみれば試合で得た物など何も無く、ただ後悔しか残らなかった。

 自分のせいで勝ち試合を落とした。その憤りや悲しみが、星菜の胸を苦しめている。

 そして涙の理由は他にもあった。監督の茂木も竹ノ子高校の選手達も、リードを無視された六道すら、誰も星菜を責めなかったのである。ただ「君はよく頑張った」と、甘い言葉を掛けてくれたのだ。

 その対応こそが、星菜には辛かった。

 

「……悪かったのは矢部先輩じゃないのに……っ! なんで誰も、私を責めなかった……!? 打たれたのは私なのに……! 対等じゃないから……? 責める価値も無いから?」

 

 それは「始めからお前になんて期待していなかった」と、周りからそう告げられているような気がして。

 

 星菜自身、過去の経験から思い知っていたことだった。

 女子選手である自分が相手打者を抑えようが打たれようが、どちらにせよ周りの目は自分のことを対等な存在として見てくれないと。

 選手として復帰したところで本当の意味で彼らの中に入ることは出来ないのだと、星菜自身もまた元よりそのつもりであった筈だ。しかし頭ではわかっていても、心は苦しいままだった。

 心地良い夢から覚めた後に待っていたのは、やはり冷たい現実でしかなかった。

 

「……だから私は、そうやって大人しく守られていれば良いってことなの……? ……健太郎……」

 

 投げている時は怖くなくても、その後に星菜を待っていたものは全てが怖かったのだ。

 そんな自分でも甘えさせてくれる人間が近くに居たとしても、星菜は二度と甘えたくなかった。ただそれでも、その言葉にだけは誰かに答えてほしい自分が居た。

 

 

 

 一頻り涙を流して泣き疲れた後、星菜の意識はそのまま夢の世界へと落ちていった。

 

 それは、ある日の幼少時代の光景だった。

 星菜がピッチャーで、小波がキャッチャー、鈴姫がバッターで。

 投げたボールがすっぽ抜けてデッドボールとなり、鈴姫が痛みに泣いて、星菜が謝り、小波が星菜に怒って、鈴姫が大丈夫だと言って宥めて……そんな他愛もない、誰にでもあるような幼少期だ。

 今そんな夢を見るということは、心の中ではその頃の自分に戻りたいと思っているからか。

 その頃に戻って、今までの人生をやり直したいと――そう考えている自分が居るのだろうか。

 

『大丈夫、今からでも遅くない』

 

 幼少期の星菜達を背景に、早川あおいの言葉が頭に響く。

 後悔する過去はあっても、今の自分を否定する必要は無いと。

 今からでも十分に始められると、彼女は言った。

 

 そして星菜の中に存在する一人の青年が、その言葉に続いた。

 

『君まで僕の影響を受けて老いる必要は無いって言ったろ? 君はまだ十五で、生前の僕の半分も生きてないじゃないか』

 

『当たって砕けても、まだまだやり直せるさ。後は君自身にその勇気があるかだ』

 

『僕が言うのもなんだけど、野球選手として周りと対等になりたいなら、自分からもっと歩み寄りなさい。怖いから、無駄だから、苦しいからって諦めないで、最後まで挑むんだ』

 

『……説教っぽくなったけど、僕が言いたいのはこれだけだ。頑張れ、泉星菜』

 

 言いたいことだけ言った後、彼は満足げな笑みを浮かべて去っていく。その姿は不愉快にも映ったが、言っていることは間違いではないと思った。

 

 中学時代とは環境が変わり、所属するチームも変わった。

 ならば自分の頭だけで決めつけず、泉星菜は確かめなければならないのだ。

 

 周りが自分のことを本当に対等に思っていないのか。そして自分は、今後彼らと対等になることが出来るのかどうかを――。

 

 

 





 星菜の投球内容       あおいちゃんの投球内容

 投球回数 3回1/3    投球回数 4回
 失点 3          失点 0
 自責点 0         自責点 0
 奪三振 1         奪三振 8
 被安打 1         被安打 0
 被本塁打 1        被本塁打 0
 与四死球 1        与四死球 0


 波輪の投球内容       奥居の投球内容

 投球回数 5回2/3    投球回数 5回
 失点 1          失点 2
 自責点 1         自責点 2
 奪三振 10        奪三振 6
 被安打 3         被安打 5
 被本塁打 0        被本塁打 1
 与四死球 0        与四死球 3


 男矢部の覚醒フラグでお送りしました。
 試合が終わったということで各投手の投球内容を上げました。


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ひとりじゃない

 

 呼吸が乱れる。

 心が乱れる。

 後に振り返ってみても、その時の精神状態は平常心とは程遠かったと思える。

 ならば、何が悪かったのか?

 センター矢部の守備だけが悪かったのか?

 ならば、自分は悪くないのか?

 そんなことは無い。確かに彼も失策を犯したが、最も悪いのは星菜自身のピッチングだ。

 まだあの時点では失点していなかったし、後の打者を抑えれば済む話だった。さらに言えば、星菜が奥居を三振にさえ取っていれば彼の守備範囲へとボールが行くことはなかったのだ。

 

(……もう、三振しかない。私が三振を取れば、矢部先輩がエラーすることはなかったんだ!)

 

 それが、その時星菜が出した結論である。もはや気が動転していたとしか言い様が無い。

 後一歩で勝てた試合が、味方守備のつまらないミスの為にツーアウト二塁のピンチを招くことになった。その事実が、星菜の中にある苛立ちを一気に爆発させたのである。

 

(外角のスライダー? この期に及んで、何を言っているんですか? そんな配球じゃ駄目です! 内角に思いっきりストレートを投げなくちゃ、このレベルのバッターからは三振を取れない!)

 

 奥居に続く四番小波を敬遠の四球で歩かせた後、捕手の六道が五番陳に対して出したサインはこれまで通り打たせて捕る配球に基づいたものだった。

 しかし冷静さを欠いたその時の星菜に、彼の要求を呑むことは出来なかった。

 恋々高校の五番陳は相手投手の利き腕に応じて打席を変えるスイッチヒッターだ。左投手である星菜に対して右打席に入った陳からは、ぶつけるぐらい強気に責めなければ三振は奪えない。

 

 三振だけを狙うしかない――そのような星菜の勝手な判断が、直後の逆転スリーランホームランを許すサイン無視へと繋がったのである。

 

 六道のサインを無視して内角高めへとストレートを投げようとした結果、余計な力みが発生。制球を乱し、あろうことかど真ん中へと入ってしまったのだ。

 好打者である陳がその失投を逃す筈もなく、彼の打球は瞬く間にレフトスタンドを越えていった。

 

 

 頭に血が上っていた

 冷静さを欠いていた。

 そして投手にとって必要不可欠である――味方守備への信頼を失っていた。

 スコアボードに刻まれた「3」の数字がようやく星菜の目を覚ました頃には、既に遅かった。

 

「……すみません……」

 

 タイムを掛けてマウンドに駆け寄ってきた六道に対して、星菜は自身の勝手な投球を顧み、深々と頭を下げる。

 俯いた顔を上げることは、出来なかった。その顔は、人に見せられるものでなかった。

 涙が溢れた。

 自分があまりにも弱くて、情けなくて。

 その謝罪をどう受け取ったのか、六道はそんな星菜に対して短く言った。

 

「……切り替えろ。まだ裏の攻撃が残っている」

 

 その時の彼がどんな顔をしていたのか、俯く星菜にはわからない。ただ己の不甲斐なさ故に、星菜は彼の顔を直視することが出来なかった。

 しかしサインを無視した星菜に対して、彼は何の罵声も浴びせなかったのだ。

 

 

 それは、他の選手達も同じだった。

 打たれた星菜に対して誰一人として批難しない。誰一人として責め立てない。

 それはまるで、始めから星菜が打たれることがわかっていたような反応で。

 始めから全く、「お前には期待していなかった」とでも言っているような反応で――。

 

(……そう……だよな……)

 

 泉星菜が打たれることはその程度の扱いなのだ。

 彼らにとっては責め立てる価値すらない、くだらないものだと。

 そういうことなのだと、星菜は認識した。

 

「……一人で舞い上がって、馬鹿みたい」

 

 今更の話ではあった。中学時代から、既にわかりきっていたことだ。

 泉星菜の野球選手としての価値など、自分が思っているよりも遥かに安いものなのだと。

 

 ミスを犯せば叱責される。そんな当たり前なことすら、泉星菜には当てはまらないものなのだと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けると、週の始まりである日曜日となった。

 星菜が目を覚ましたのは、朝の七時だった。カーテンを開けた窓から外を眺めれば心地の良い朝日が降り注ぎ、今日の天気もまた快晴であることがわかる。

 昨日が試合だったということもあり、この日の野球部の活動は休みとなっていた。しかし監督の茂木からは昨日の試合の反省点を各々のノートへ記入し、月曜日に提出するように宿題が出されている。敗戦の戦犯である星菜としては書く内容には困らないが、何も嬉しくない、頭が痛くなる思いだった。

 

「ランニングでもしてくるか……」

 

 星菜が起床してから放った第一声には、眠気が一切無かった。一睡して身体の疲労も取れているし、気分も昨夜よりかは落ち着いている。とは言っても平常時とは程遠い精神状態であり、依然うやむやな感情が心の中に残っていた。

 こんな時はがむしゃらに走り回るに限る。走り回ることでストレスを和らげてからでなければ、机と向かっても良い反省文は書けないだろう。星菜はそう思い、タンスの中から上下のジャージを取り出すことにした。

 

 

 そうして寝巻きからジャージに着替えた星菜が、軽く朝食を摂るべく二階の自室から一階の居間へと下りた時のことである。

 

 星菜の前には、どういうわけか何の脈略も無しに五枚の札束が差し出されていた。

 

「はい」

「はい?」

 

 目の前にあるのは、朝の挨拶よりも先に朗らかな笑みを浮かべて五枚の一万円札(・・・・)を差し出してきた母親の姿だ。

 階段を下りた矢先に待ち構えていたその光景に、星菜は呆然と立ち竦む他なかった。

 

「母さん、えっと、これは……?」

「五万円よ」

「それは見ればわかるけど……」

 

 そう、五万円分の札束である。星菜のようなアルバイトをしていない高校生にとっては縁のない大金が母の手に握られており、それが今目の前に差し出されているのである。

 時々、母はこういった突拍子も無い行動を起こすことがある。そんな時は決まって気持ちの良い笑顔を見せてくるのだが、顔を見る限り今回もその類のようだった。

 そこまでしか状況を掴めない星菜がしばし無言のままに居ると、母はようやく事情を話してくれた。

 

「これを貴方に渡してって、昨日の夜お父さんに頼まれたのよ」

「えっ、父さん帰ってるの? でも、何だってこんな大金……」

「最近、中々顔を合わせることが出来ないお詫びだって」

 

 五枚の一万円札の出処は彼女の夫、星菜の父親らしい。話を聞くに父は星菜が熟睡している深夜の時間帯に帰宅し、今は仕事の疲れを癒す為に布団の中に居るようだ。

 星菜の父親はIT企業「シャイニング」に勤めている。その会社は近年から台頭し着々と勢力を伸ばしている一流企業なのだが、収入に恵まれている半面激務であり、休暇は少ない。その為学生である星菜や弟の海斗とは時間が合わず、姉弟とも中々実父と顔を合わせることが無い――というのが泉家の親子関係であった。

 

「……別に、そんなのいいのに」

「そう言わないで、貰える物は貰っておきなさい。このぐらいのお小遣いでもあげないと、自分が何の為に働いているかわからないって言ってたわ」

 

 半ば強引に渡された計五万円の札束を受け取り、星菜は眉尻を下げる。顔を合わせることが少ない父親ではあるが、それでも彼の都合をわからないほど子供な星菜ではない。それに、父は少ない時間の中でもしっかりと星菜達姉弟へ愛情を振りまいてくれている為、五万円という「お詫び」を受けるほど迷惑を掛けられた覚えが無いのである。

 そんな星菜の反応に苦笑しながら、母は言った。

 

「お父さん、言ってたわ」

「……なんて?」

「星ちゃんがまた野球をやっていることが、嬉しいって。中学のことがあったじゃない? それでお父さん、「俺が野球を教えなければ良かった」って、ずっと責任感じてたから」

「……じゃあ、父さんが起きたら「そんなことはない」って言ってあげないとな」

「ええ、そう言ってあげると喜ぶわ」

 

 星菜が現在野球部のマネージャーを兼業しつつ練習にも参加させてもらっていることは、既に両親に伝えている。その時は二人とも最初こそ良い顔はしなかったが、それでも星菜が決めたことならばと最終的には快く受け入れてくれたものだ。

 

「それで、その五万円は新しいグローブを買うお金にでも使ったらどうかって」

「父さん……」

 

 父は大の野球好きである。

 星菜が幼少の頃から好んで野球に打ち込んでいたのも、そんな父親の姿がきっかけだった。

 野球に関することで気になったことがあればいち早く彼に質問し、悩み事もまた真っ先に聞いてもらっていた。仕事が忙しくなってからはそう言った相談事は小波のような頼れる先輩、友人達を相手にすることが多くなったが、ここぞというところではやはり父親が助けてくれたものだ。例えば件の騒動の後日に白鳥中学の監督を辞任に追い込んだことや、校内での星菜の立場を悪くしないように信頼出来る教師達に話を付けてくれたこと等……例を挙げればキリがない。

 

「お詫びをされるどころか、こっちがお詫びしたいぐらいなのに……」

 

 そのように、昔から父には助けられてもらってばかりいるのだ。それがわかっているからこそ星菜は中々顔を合わせることが出来ない父親に対し尊敬こそ抱いても、悪感情を抱くことはなかった。

 故に、この札束を受け取る気にはなれない。自分には受け取る資格があるとは思えないのだ。

 星菜がそう言って札束を返却しようとするが、母はその手をそっと押し返した。

 

「何言ってるのよ。親が子に尽くすのは当然のこと。子供なんて親に迷惑掛けてなんぼなんだから。貴方の場合はもう少し我が儘になってくれた方が嬉しいぐらいよ」

「……散々、我が儘言っているでしょ。反対を押し切って白鳥に入ったり、一度やめようとした野球をまた始めたり……私って、やってること滅茶苦茶じゃないですか」

「そうね。でも良いんじゃないの? 若い内には滅茶苦茶やっても。子供が迷惑を掛けることばかり恐れていたら、一番したいことも出来ないまま大人になって、後悔する。あの時ああすれば良かったってね」

「……でもだからって、そうやって皆が皆やりたい放題やっても」

「それはそうよ。だから、その為に私達大人が居る。貴方達子供が度を越えるぐらい無茶をやったら、私達がそれを止める。まあ、あのアホンダラ監督みたいな見た目だけ大人な人も居るけど……またあんなことが起こったら、その時は今度こそ私が止めるわ。もう健康面はバッチリだしね」

「いや、母さんにこそ無茶はさせられないよ」

「はいはい。でも、そういうこと。だから貴方は私達を信じて、そうやって周りに迷惑掛けることばかり恐れてちゃ駄目よ?」

 

 母は普段と同じ優しい声で、しかし真剣な眼差しを真っ直ぐに向けて言った。星菜を見つめるその瞳には強い感情と大きな説得力が込められており、その言葉は自然と胸の中に落ちてくるものだった。

 

「……そういうものなのかな」

「ええ、そういうものよ。だからそのお金も、今は有り難く受け取っておきなさい。でも、後でお父さんにお礼を言うのよ」

「……うん」

 

 大人として、そして親の目でそう言われてしまえば、十五の小娘に過ぎない星菜に言い返すことは出来なかった。泉星菜の中に星園渚という「前世の記憶」があったとしても、星菜の心は紛れもなく繊細な少女の物だからだ。

 そのことを星菜が語らずとも、母と父は理解していた。だからこそ二人は星菜の心を娘としてはっきりと認め、愛してくれている。星菜はそんな両親のことが、思春期が始まって以降は直接口にこそしていないが大好きだった。

 

「ああ、そう言えば。この間星ちゃんが払ったユニフォーム代の分だけど、お母さん財布の中に入れておいたからね。一応確認しておいて」

「え?」

「私に言ってくれたら払ったのに、星ちゃん一人でやっちゃうんだもの。部活に必要な物ぐらい親に負担させなさいって」

「……うん、ごめん。あと、それと……」

 

 そう、口には出さなかったのだ。

 今、この時までは。

 

「……ありがとう、母さん。母さんも父さんも、大好きです……」

 

 弟に聞かれたら悶えものだな、と。

 そう思いながら言い放った言葉は、母親に無事伝わった。小学三年生か四年生ぐらいを最後に長いこと言っていなかった為か言われた方はしばらくキョトンとしていたが、理解した途端その腕に抱きつかれることになったのは、星菜にとっても予想外の事態だった。

 家の親は案外、親馬鹿なのかもしれない。十五歳も後半になって初めてその疑惑が頭に浮かんだ星菜は、しかし今のところはされるがままになることを選んだ。

 気恥ずかしくはあったが、居心地が良かったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しいグラブの購入は前々から考えてはいたが、学生故の手持ちの少なさからしばらくは諦めざるを得ないという実情が星菜にはあった。

 そこで舞い込んできたこの五万円という大金である。正直に言えば助かるなどというどころの話ではなく、父には感謝の極みであった。これだけあればグラブは勿論スパイクも買い揃えることが出来、これまで以上に練習が捗ることだろう。全くもって、試合に出られない野球選手もどきには勿体無い話である。

 家を出る前に、星菜は川星ほむらに電話を掛けた。新品のグラブということで彼女が以前「新品を買いに行くならほむらも一緒に行くッス!」と目を輝かせながら言っていたことを思い出したからだ。

 しかし彼女からは、今日は都合が悪いという言葉が返ってきた。

 心底行きたそうではあったが、理由を聞くにどうやら彼女は昨日の試合で見付けた課題をノートへ書き殴る作業に忙しく、今は手が離せない状態なのだと。その言葉は星菜の胸に痛いほど突き刺さり、星菜は必要な物を購入次第即行で帰宅し、反省文を書くことを心に誓った。

 その為には、楽しんで商品を選ぶわけにはいかないだろう。

 

「グラブと言えば、ここだな」

 

 星菜がランニングがてら表に出て早速向かったのは、駅付近にある野球専門の用品店だった。周囲にも何軒かスポーツ用品店が建っているが、その中でも星菜は昔行き着けていたお気に入りの店を選んだ。

 店の名前は「太田スポーツ用品店」。店長の苗字がそのまま看板になっている、何の変哲もない用品店である。店内は決して広くはないが名の通ったメーカーが製作した品質の良いグラブやバットが豊富に並んでおり、星菜の要望にはまず応えてくれるだろうという安心感があった。

 

「ヘイ! いらっしゃー……い?」

 

 星菜が手動の扉を開けて入店するとレジに立つ店員の男から威勢の良い声が上がったが、星菜の姿を見るなり目を丸くして固まった。思わずクスッと笑みが溢れる。野球をする人間が入店する野球用具専門店の中に、そんな競技とは無縁そうな女子高生が一人で入ってきたのだ。店員がこうも露骨な反応なのは些か気にはなったが、驚くのも当然だろうと星菜は思った。

 少し前までなら奇異な目で見られることに不愉快さを感じたかもしれないが、今の星菜は精神的に安定していた。母と交わした言葉が、幾分か心を楽にしてくれたのかもしれない。

 店員と目が合ったので愛想笑いを返すと、星菜は目的である左利き用の投手用硬式グラブを見つけるべく店内を移動した。

 

 ――と、その時だった。

 

「あっ」

「む?」

「ほう」

 

 バッタリ、と。

 特徴的な黒紫色の髪の男と、その後ろで店棚のキャッチャーミットを左手にはめて弄んでいる、男と同じ髪の色の少女と出会したのである。

 それは情けない姿を晒した昨日の今日では星菜が最も会いたくなかった人物である六道明に加え、そんな情けなさとは対照的な強い少女――六道聖との再会だった。

 

 



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信頼は勝ち取るもの

 今最も会いたくない人物ではあったが、会ってしまった以上後に退くことは出来ない。前向きに考えれば予定していたよりも会うのが一日早くなったというだけであり、星菜はすぐに意識を切り替えることにした。

 そして簡単な挨拶から始まり、星菜は話す。流石にいきなり本筋を切り出すには心の準備が不足していた為、まずは自分がグラブを買う為にこの野球用品店を訪れたことを話した。

 次に、彼らのことを尋ねる。

 

「六道先輩達は?」

「ああ、俺は聖の付き添いだが……」

「ボンバーズで使っているキャッチャー防具とミットがいい加減古くなってきたので、その買い替えに」

 

 横から会話に介入してきた六道明の従妹、六道聖の言葉に星菜は思い出す。星菜は彼女の所属しているリトルチームのOBでもある為、事情はすぐにわかった。

 

「……なるほど。私達が居た頃も、相当傷んでいましたからね」

 

 彼女の居る「おげんきボンバーズ」は歴史のあるチームであり、チームメイト全員が共有している野球用具も幾分か古びた物が多い。丁度買い替えの時期が来た為、正捕手である聖とその従兄が買い出しに来たというのが二人の事情であった。

 

「明兄さん、これはどうだ?」

「ああ、良いんじゃないか。チームで使う物だから、これぐらい地味な色の方が良いだろう」

「ふむ……だが、私が着けるには少し大きそうだぞ」

 

 二人は捕手防具の並んでいる商品棚を眺めながら、今回購入する商品を選別する。

 基本は現役のリトル選手である聖が選び、不服があれば明が助言するというのが二人の選別法のようだ。

 明は割とアバウトに考えている様子だが、聖は中々お眼鏡に叶う物が見つからないようで、「むう……」と唸りながらしばらく商品棚と睨み合っていた。

 

「……泉」

 

 その時である。

 

「昨日はすまなかった」

 

 商品を厳選する聖を他所に、明が星菜へと頭を下げた。

 星菜は彼の唐突な謝罪にすぐに言葉を返すことが出来ず、彼はそんな星菜に構わず言葉を続けた。

 

「あの場面、俺は真っ先に君に声を掛けに行くべきだったんだ。君が動揺しているように見えなかったからと勝手に勘違いして、気遣いを怠ってしまった……」

 

 心底申し訳なさそうな表情を浮かべながら、明は昨日のことを話した。あの場面と言うのはセンターの矢部が落球した直後のことであろう。投手の動揺を見抜くことが出来ず、星菜に落ち着きを促す一声を掛けられなかった自分を明は「キャッチャー失格だな」と自嘲しながら言った。

 

「……いえ、全ては私のせいです……」

 

 そんな彼に星菜が返したのは、最初に自分から言おうとしていた話の本題――改めての謝罪の言葉だった。

 

「本当にすみませんでした……。私の方こそ勝手な判断で、先輩のリードを無視してしまって……」

 

 あの場面で自分が彼の要求にさえ従っていれば、被弾を浴びることはなかった。無論、チームの敗北はなかった筈だと。

 後悔は先には立たない。失ってからでは遅いとわかっていても、星菜は彼の前で顔を上げることが出来なかった。

 六道明はその言葉に虚を突かれたように、そして間を空けて苦笑を浮かべた。

 

「反省する点は、お互いにあるということか。まあ、これから精進していこう」

 

 星菜の肩をポンと叩き、明はそっと顔を上げるように言う。その声に星菜の失策を責め立てるような厳しさは無く、寧ろ過ぎるほどに甘い響きだった。  

 しかしその言葉に対して星菜が抱いたのは責められなくて良かったという安堵ではなく、昨夜抱いたものと同じ感情――深い悲しみであった。

 

「……先輩は私を責めないのですか? 私が先輩のリードに従っていれば、チームは負けなかったのですよ?」

 

 打たれて負けようが、チームからはどうでもいいと思われている。チームにとって泉星菜とはその程度の存在でしかなく、犯した過ちを責める価値すらも無い。チームメイトからそう思われているのではないかという猜疑心が、星菜の中にはあった。

 故に星菜は、早朝に決意したのだ。例えこの心が不安に押し潰されたとしても、今一度チームメイトと対話してはっきりさせる必要があると。

 

「私のせいで負けたんです……なのにどうして、皆さんは私のことを責めないのですか?」

 

 恐怖に震える唇でゆっくりと言葉を紡ぎながら、星菜は六道明と向き合って問い質した。

 彼はその言葉に対し小さく「なるほど……」と呟くと、数拍の間を置いて言った。

 

「泉、君が感じているその気持ちは自惚れだ。昨日の敗戦は君に限らず、チーム全体のミスが招いた結果だ。あのホームランが君の勝手な投球で打たれたからと言っても、チームが君一人のせいで負けたわけではない」

 

 依然甘い言葉ではあるが、真剣な眼差しは厳しく星菜を見据えていた。

 

「俺から言わせてもらえば再三に渡るチャンスをことごとく潰し、結局波輪のホームランでしか点を取れなかった俺達打線の方が戦犯だ。池ノ川や外川、レギュラーメンバーのほとんどはそう思っている。波輪だって降板したことを悔やんでいたし、誰だって一年の後輩に責任を押し付けたりはしないさ」

 

 従妹の聖と同じ赤い瞳には、彼自身の意地が感じられた。先輩としての誇りとも言うべき感情が。

 自分達先輩が敗戦の責任を後輩に押し付けるような真似をする筈が無いと――それは星菜にとって、全くの盲点だった。

 

「二年生の俺やイージーフライをこぼした矢部は流石に猛省しなきゃいけないが……君は高校初登板、それも緊急登板としては十分すぎる働きだった。それでも君が自分のミスで負けたと思っているのなら、今後はしないように悔い改めればいい。だが君は三失点こそしたがエラー絡みの失点で、ヒットはホームランの一本のみ、自責点は0だ。ミスを悔やむのもいいが、そのことには自信を持っていいと思う」

 

 心から星菜を擁護する、皮肉や悪意の無い言葉だった。その言葉に、星菜の心が揺らぐ。

 自分が思っていたよりも自分が責められなかった理由は単純なものだったのかと――淡い期待を抱いてしまったのだ。 

 

「……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

「ああ、俺に答えれることなら」

 

 しかし、素直になることは出来なかった。

 だからこそ星菜は彼の言葉に喜ぶことが出来ず、神妙な面持ちで明の顔を見上げた。

 

「私は……皆さんから一選手として対等に思われているのでしょうか……」

 

 返答次第では二度と立ち直ることが出来ないかもしれない。それを恐れて今までは気になっても口に出さなかったのだが、星菜は決心して問い質すことにした。

 鈴姫健太郎のように綺麗に取り繕わなくても良い。ただチームメイトがありのままに思っていることを、明には言ってほしかった。

 明はその問いにしばらく考え込む仕草を見せた後、ゆっくりと言葉を返した。

 

「……君を他の部員と同じように扱っているかと言われれば、そうではないな。特にあの連中は女子の扱いに疎い男が多く、君にとっては要らない気を遣っている部分は少なからずある。君も気付いてるとは思うがな」

 

「だが……」

 

「少なくとも、今君のことを不当に見下していたり、差別しているような奴は居ないと思う。波輪も矢部も池ノ川も、全員君の一選手としての実力は認めているし、俺も認めている。俺はそういう意味では対等だと思っているぞ」

 

 星菜がどういう意図を持って問うてきたのか、それを理解している様子で明は言葉を紡いだ。故にそれらの言葉は、早川あおいと対話した時のように星菜の心に入り込んでいった。

 厳しい現状と安心すべき事実、良い意味でも悪い意味でも捉えることの出来るそれは、まさしく今の星菜が欲しかった言葉だった。

 

「これじゃ足りないか?」

「……昨日私が打たれたことで、チームの和が乱れたりは……」

「それは無いだろう。寧ろ全員、矢部を筆頭に練習への意識が変わったと思うぞ?」

 

 流石に身内に野球少女が居るだけあってか、彼は星菜にとって相談しやすい人間だった。

 つくづく自分は、周りの人間に恵まれていると思う。しかし星菜には今まで、その幸運を生かすことが出来なかった。

 元々人間不信な嫌いがある上に、星菜自身今まで周りから信頼されてきた人間でなかったという過去の経験から、その幸運を生かす術を失っていたのだ。

 だからこそ星菜は、今しがた六道明が放った言葉すらも深い部分では真偽を疑っていた。

 星菜の顔を見据えながら、六道は言った。

 

「そう言われても不安なら……これから勝ち取っていけばいいだろう?」

 

 その眼差しから厳しさが消え、相手の肩を解すような優しさが生まれる。

 

「最初から対等に信頼される人間なんてものはそうは居ないさ。俺だって最初は波輪や矢部のことも嫌いだったし、上手く溶け込めていなかった」

 

 自分の過去の経験から、まるで妹に掛けるような口調で続ける。

 

「……だが一緒に練習をしているうちに、いつの間にか信頼出来るようになっていた。人の信頼関係なんてそんなものだろう。腹の底を探り合ってばかりいたらキリがないし、俺やアイツらは表面だけ綺麗に取り繕えるほど器用な人間じゃない。気に食わない奴には面と向かって、はっきり言うさ」

 

 幼い子供を安心させるような明の口調に、星菜は今の自分がどんな顔をしているのかを察する。恐らく今の自分は、迷子の子供のような情けない表情をしているのだろう。己の惨めさに恥ずかしくなり、星菜は彼の眼差しから顔を背けてしまう。

 

「だから君はもう少し、その器に合った自信を持つべきだと思う」

「……私は自分の投球には、過大評価と言うぐらいの自信を持っていると思いますが……」

「野球についての自信じゃない」

 

 ふっと微笑を漏らし、六道明ははっきりと言った。

 

「君という人間は、君が思っている以上に評価されているのだよ」

 

 自分に言えるのはこれまでとばかりに、明は捕手防具と睨み合っている聖の元へと向かう。その場に残った星菜は、彼と話す前よりも心が楽になっていることに気付いた。

 不自然に擁護ばかりされれば疑心暗鬼にもなるが、擁護されること自体に悪い気はしない。卑屈ぶったところで、結局自分もそういうことなのだろうと思った。

 

 ならば上辺だけと思った言葉も、これからは出来るだけ素直に受け取ってみるか。

 相手の腹を探って怯えるよりも、少しは受け取った言葉を表面のままに信用してみるか。

 無駄なことだと諦めないで、本当の信頼を勝ち取れるまで自分を磨いてみるか……。

 

(……簡単に出来れば、苦労の無いことだけど……)

 

 親友すら信じられなくなったこの心が、どこまで素直になれるかはわからない。

 だがこのままで良いとは、今の星菜には思えなかった。

 

「ありがとうございます、先輩」

 

 また一つ、自分が進むべき道が見つかった気がする。

 頬を緩めながら、星菜も六道聖の元へと向かう。明に対しての礼代わりに、彼女の手伝いをしたいと思ったのだ。

 

 

 その後、星菜は聖とお互いの近況について話し合いながら買い物を進めた。

 星菜は新しいグラブ、聖はキャッチャー防具とそれぞれ目当ての品を購入し、この野球用品店を訪れた目的を果たした。

 

「聖さん、これを君にあげます」

「む、手袋?」

 

 その際、星菜はグラブと共に購入したバッティンググローブを聖へとプレゼントした。明のことを抜きにしても、以前彼女には救われたからだ。尤も彼女自身には星菜の心を救った自覚など無いのだろうが、それでもこの機会に何か礼をしておかなければ星菜の気が済まなかった。

 

「大分手に豆が出来ているようですからね。試合の時はそれを着けるといいですよ」

「練習の時に着けるのは駄目なのか?」

「豆は潰せば潰すほど手が頑丈になりますから。バッティング練習の時はともかく、成長期の間にいつも着けているのは反対ですね」

「ふむ……ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」

 

 こちらが貰ったものへの対価としてはあまりにも安すぎるが、ここで高すぎるプレゼントをあげて聖を困らせては本末転倒だ。彼女にはその分、今後女子選手の先輩として多くのアドバイスをしてあげたいものだと星菜は思った。

 

 その後、星菜は自宅に帰り昨夜の反省文をノートに書き綴った。筆はスラスラと進んで行き、数ページが短時間の間に埋め尽くされた。

 書き終わった後は新品のグラブを自分好みの形にするべく手入れを施し、夜はグラブを抱きながら就寝した。

 

 そして久しぶりに、幸せな夢を見た気がした――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋々高校との練習試合から、二週間が経過した。

 一点リードの九回表ツーアウトから逆転されるというあの試合内容は、長年野球を続けている人間にとっても改めて野球の怖さを思い知るものだった。

 試合は敗北した。しかし、時には負けることによって勝つよりも得るものが多いこともある。少なくとも試合終了から二週間が過ぎた今、敗戦チームの監督である茂木林太郎は、あの試合に負けて良かったと考えていた。それだけ、恋々高校戦の敗北には大きな収穫があったのである。

 

「監督! もう一球お願いしますでやんす!」

 

 その収穫の一つが、日々の練習に対する部員達の変化だ。

 特に今現在センターのポジションに着き、再三に渡ってノックの要求を行っている矢部明雄の変化が著しい。茂木の目からも、それまでの彼とは明らかに練習への取り組み方が変わっているように見えた。

 

(……瓶底眼鏡で隠れているが、随分と野球選手の目になったじゃねぇか……)

 

 矢部明雄という生徒には入部一年目からも一目置いていた。

 50メートルを六秒弱で駆け抜ける瞬足に、打球判断の良さと広大な守備範囲。そして細身ながら大きい当たりを打てるパンチ力を持っており、前々から鍛え方次第では全国レベルにも劣らない素質があると思っていた。

 しかし、彼にはプレーに対する甘さがあった。練習で自分を追い込むということが、彼にはなかったのである。

 彼の頭には周りと自分の練習を見比べた際に「これだけやれば十分だろう」という意識があり、傍目からわからない程度に手を抜いてしまう癖があった。周りの選手よりも遥かに自分を追い込めるだけの体力があるのだが、波輪や鈴姫のように早朝や居残りで自主練習をすることもなかった。こちらが与えた練習はサボることなくこなしていたのだが、悪い意味で練習に慣れてしまっていたのだ。

 

(あの試合で何も責任を感じないんじゃ、男じゃないな。あの時はしょうもないエラーをしたもんだと呆れたが、アイツにとっては良いきっかけだったのかもしれないな)

 

 同じミス一つでも、それから先選手が進んでいく方向は人それぞれだ。ミスがトラウマになり、以後も満足なプレーが出来なくなる者も居れば、犯した過ちをバネに成長する者も居る。茂木は矢部が前者の状態に陥らぬか心配であったが、彼は幸いにもたくましく、後者の人種のようだった。

 叩けば伸びるタイプの選手――かつてはプロ入り目前まで行った茂木が本気で鍛えれば、将来は面白いことになるかもしれない。

 

「……まあ、精々才能を腐らせないように鍛えておくか。いくぞ矢部!」

「さあ来いでやんす!」

 

 センター深く――彼の守備範囲が及ぶ限界の位置を狙い、茂木はノックのボールを打ち上げる。狙っていたよりもやや難しい方向へと軌道が逸れてしまったが、彼はダイビングキャッチを敢行し見事に捕球してみせた。

 

「無理しすぎて怪我すんなよお前も」

 

 ナイスプレーと声を掛けたくなる素晴らしい守備であったが、それよりも先に身体を痛めていないか気にしてしまうのは些か神経質過ぎるだろうか。

 怪我の二文字というところで、茂木は同練習試合で負傷退場した波輪風郎のことを思い出す。幸いにも骨に異常は無く、見た目ほど大事にも至らなかったようで、医師からは波輪の回復力をもってすれば二週間後ぐらいには練習に復帰出来ると聞かされた。

 その二週間後というのが、丁度この日に当たる。三日前には既に腫れがひいているのを見て、茂木は彼の回復力の高さに驚きを通り越して呆れ顔を浮かべたものである。

 そんな彼は現在チームの練習に参加し、グラウンドの端側を使ってキャッチボールを行っていた。

 

(ああ、変わったと言えば泉もそうだな……)

 

 その光景を横目に映しながら、茂木は彼のキャッチボールの相手をしている少女の姿へと意識を向ける。筋骨隆々の大男と野球のやの字も知らなそうな華奢な美少女とのキャッチボールは、まるでプロ野球で行われるアイドルの始球式のようにも見えた。

 しかしお互いに構えたところへ威力のあるボールを投げ込み合うその内容は、地区予選初戦で敗退するような野球部ではまずお目にかかれないほどハイレベルなものだった。

 

「もう一球! 今の球もう一球見せてくれ!」

「……膝が治ったばかりなのですから、今は普通にキャッチボールをした方が良いのではないですか?」

「そんなこと言わずにもう一球!」

「……数球見ただけで、このスローカーブを盗むことは出来ませんよ? 後日私がじっくりと教えますから、今日は余計なことは考えないでください」

「本当か!? 約束したからな! でももう一球見せてよ星菜ちゃん!」

「……これだけですからね」

 

 ……時折少女が投げた変化球に対し、大男が瞳を輝かせてアンコールを仰ぐという小学生染みたやり取りが行われているが、二人のレベルが野球部の中で際めて高いということは誰の目にもわかった。

 

(アイツ、マネやってた頃よりも溶け込めてきたな……)

 

 茂木は練習試合の後、矢部明雄同様に変わった人物として少女こと泉星菜を上げていた。

 あの日まではマネージャー専任だった頃も含めてどこか遠慮がちな言動が多く、部の一員としてどこか溶け込めていない様子が気になっていた。

 尤も彼女は他の選手と違って性別が「女」であり、加えてボーイッシュとは程遠い性格や容姿であるが為に、部の男連中も遠巻きに見守ることはあっても自分達から積極的に引き込むようなことはしなかった。無論避けられているわけではないのだろうが、彼女と他の部員の間にはアイドルと一般人のような遠い距離感が感じられたのだ。

 

「うお、すげえ! なんでその腕の振りでこんな球になるんだ?」

「後日教えます。……波輪先輩に実践出来るかはわかりませんが」

「うーん、でも投げてみたいよなこういう球……」

 

 その距離感が、今は良い意味で縮まっているように見える。茂木には試合後の練習日から、さりげない変化ではあるが泉星菜が自分から彼らの中に溶け込もうとしている姿勢が窺えた。

 

(ぶっちゃけると俺にもああいう子の扱いはわからんからなぁ。アイツにもアイツらにも、悪い思いはさせたくないところだが……)

 

 本当ならば監督である自分が彼女に対して何かすべきなのだろうが、デリケートな年頃の少女が相手ということもあってか中々接し方がわからないで居る。まるで反抗期の娘を持つお父さんみたいだなと、こういった面での自身の不甲斐なさを自嘲した。

 一度同じ野球少女の部員を抱えている恋々高校の監督のところにでも相談するべきかと、茂木は一考した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、時は順調に過ぎていく。

 五月が終えると衣替えの季節である六月へと移り変わり、竹ノ子高校の生徒達は白を基調とした夏服を纏って登校することになった。

 

 上旬には、学生達の学力を測る中間テストが実施された。テスト一週間前には多くのクラスメイト達(主に女子生徒)が教えを乞いに星菜の元へと集まってきたものだが、結果として彼女らにどれほど貢献出来たかは星菜にはわからない。だがおかげで追試を免れたと多数に渡って感謝の声を掛けられたことは、決して悪い気分ではなかった。

 出題されたテストの問題は予想していたよりも幾分か簡単だった為、星菜はほぼ満点の成績を修めることが出来た。結果を残せたことで一先ずは安堵し、クラス委員としてある程度は示しがついたのではないかと満足している。

 

 中旬には、竹ノ子高校の恒例行事である文化祭が開催された。

 星菜達のクラスの出し物はこれと言って特別なものではなく、どこの高校にもあるような何の変哲もないクラス店であった。

 可もなく不可もない出来ではあったが、売上が思いのほか伸びたことは嬉しい誤算である。途中、恋々高校から小波大也や奥居亜美の兄、そして早川あおいが訪れたのには驚いたが、非常に楽しい時間を過ごすことが出来たと思う。

 

 そして下旬、遂に全国高等学校野球選手権大会――即ち甲子園大会の地区予選の抽選が行われた。

 竹ノ子高校が参加する地区は総勢117校ものチームが出場する。昨年優勝を飾ったあかつき大附属高校、準優勝校である海東学院高校、ベスト4に残ったパワフル高校などは二回戦から登場するシード校に選ばれ、その他一回戦から登場する高校は抽選のくじを引かなければならない。

 そして最終的に決まった組み合わせに、各々が各々の表情を浮かべた。

 

「一回戦は、パワフル第三高校ですか……」

「二回戦は順当に行けば阿畑君の居るそよ風高校、三回戦はシード校の海東に当たるッスね」

 

 主将の波輪がくじを引いた結果、決定した組み合わせは少々首を捻るものだった。

 一回戦に当たるパワフル第三高校は走攻守にバランスの取れた中堅校。星菜とほむらが集めたデータによれば、エース兼主将の皆川孝也は今年急成長した好投手である。最速140キロを超えるストレートとスライダー、シュート、決め球にはフォークボールを持ち、低めの制球が良い。初戦に当たるチームとしては厄介な相手だった。

 さらに厄介なのは二回戦に当たるであろうそよ風高校だ。高校自体は名門ではないが、エース阿畑やすしが使う彼独自の変化球「アバタボール」は昨年度の大会では猛威を振るい、優勝校となったあかつき大附属高校の打線すらも九回三失点に抑えている。惜しくも打線の援護なく敗退したが、今年は各名門校を食うやもしれぬダークホースとして注目されていた。

 そして三回戦、それまでの組み合わせを見るに間違いなく勝ち上がるであろう海東学院高校は説明不要の強豪だ。エース樽本有太はドラフト一位間違いなしの本格派左腕で、三番ザンス、四番九州、五番渋谷のクリーンアップが誇る破壊力は今年のあかつき大附属のそれに匹敵すると呼び声高い。

 

「まあ、どこが当たっても結局は波輪君次第ッスけどね」

「……そうですね」

 

 竹ノ子高校が彼らに対抗出来るか否かは、大黒柱である波輪風郎に懸かっている。幸い膝の状態は完治しているようで、既に練習試合でも何回か登板している。投球に不安は無いというのが当人の弁だ。

 くれぐれも無理をしてほしくはないが、そうは言っても聞かないのが投手の性だ。ましては波輪はエースで四番であり、無理を押してでもグラウンドに出てくるだろう。

 当日の星菜に出来ることと言えば、申し訳程度の忠告と応援スタンドから彼の戦いを見守ることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして迎えた、一回戦当日――

 

 

 竹ノ子高校は、5対0で勝利した。

 

 






 星菜の自責点はホームランの一点ではないかという感想がありましたが、記録上、スリーアウトを取る機会を得た後の失点は自責点にはなりません。今回の場合は二死で打者の打ったフライを外野手が失策して打者走者が出塁しましたが、これは守備側にスリーアウトを取る機会があった(既にイニングが終わっている)と考えるので、それ以後の攻撃側の得点はその投手の自責点にはならないということです。極端なことを言えばあのエラーの後に100点取られようと自責点は0になります。
 これより詳しいことはWikipediaの「自責点」を読めばわかると思います。野球は難しいですね。


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分かり合えた二人
エース無双


 

 波輪風郎と皆川孝也の両エースの投げ合い。誰もが投手戦を予想していた試合は、初回から竹ノ子高校のペースで進んでいった。

 まず先頭打者の矢部が皆川注目の第一球、やや高めに浮いたストレートを逃さず振り抜いた。バットの真芯に捉えた打球は弾丸ライナーで空中を疾走し、瞬く間にレフトスタンドへと突き刺さっていった。

 初回先頭打者初球ホームラン。早々に相手エースの出鼻を挫いた竹ノ子高校の攻撃は鮮やかだった。

 続く二番六道がフルカウントからのフォアボールで出塁すると、三番鈴姫が外角のシュートを弾き返し、レフト線を破るツーベースヒットを放つ。そして竹ノ子高校最強の四番打者、波輪が一振りでダメ押しとなるスリーランホームランを叩き込んだ。

 

(凄い……)

 

 竹ノ子側の応援席は黄色い声援に包まれる。クラスメイトと共に応援に訪れていた星菜は、場外に届こうかという波輪の打球を憧憬の目で見届けた。

 初回の攻撃から一気に4対0と突き放した試合はその後皆川が立ち直り、七回表に鈴姫のタイムリーヒットが飛び出すまではスコアボードに0が刻まれる。しかし竹ノ子のエース波輪風郎はパワフル第三打線を終始圧倒し、一度も得点圏に走者を出さない快投を披露した。

 

(スローカーブ以外は完璧か……)

 

 降板する八回までに奪った三振は15個。打たれたヒットは僅か3本――球種は、いずれもスローカーブの投げそこないである。点差がついていることから最近習得した新球種を試験的に投じているようだが、そちらの成果は思わしくなかった。

 しかしそれ以外の投球はまさに完璧で、怪我の影響を一切感じさせない内容だった。

 そして九回裏、点差故に酷使は避けたい茂木の方針により、投手は二番手の青山へと交代(スイッチ)する。二本のヒットを浴びてツーアウト一二塁のピンチを迎えるも、最後の打者をセンター矢部のダイビングキャッチで打ち捕り、試合は5対0という形で終了する。終わってみれば最初から最後まで一度も主導権を手放さない、見事な横綱相撲であった。

 

「……よし」

 

 見下ろしたグラウンドに自分の姿がないことには一抹の寂しさを感じるが、定められた高校野球のルールに逆らうことは出来ず、妥協するしかない。だからこそ星菜は母校の応援という立場で、グラウンドではなく応援席に居るのだ。

 

「ありがとうございました!」

 

 試合終了後に両チームが挨拶を終えると、野球部のメンバー全員が竹ノ子高校の応援席前へと移動し、帽子を外して挨拶を行う。母校の健闘を称える惜しみない拍手が、星菜とその周囲の生徒から響いた。

 

 

 

 

 

 竹ノ子高校の野球部の応援には、毎年応援部やチアリーディング部の他に原則として一年生が強制参加することになっている。

 野球にも行事にも興味の無い少数の生徒達は終始退屈そうな顔をしていたが、そうでない者は試合後もその余韻に浸っていた。

 

「波輪先輩凄かったね!」

「鈴姫君もカッコよかった!」

 

 星菜の周りに居る女子生徒達の話題の中心に居たのはやはり圧巻の投球を披露したエースの波輪と、本日4打数4安打1打点と大活躍した鈴姫健太郎の二人だった。個人的に星菜は勝利の立役者として先頭打者ホームランで出鼻を挫き、守備では最後にファインプレーを見せた矢部明雄を押したいところであったが、いかんせん瓶底眼鏡は一年生女子からビジュアル受けしなかったようだ。野球に詳しい者はきっちりと彼のことも評価しているのだろうが、一人の女子として星菜は何とも哀れに思った。

 そんな彼女らの雑談を耳にしながら原位置を離れようとすると、星菜は横合いからポンと肩を叩かれた。

 

「お疲れー」

「あ、マイちゃんだ」

 

 チアガールの格好をした藍色の髪の少女に気付くと、星菜の隣に居た友人の奥居亜美がその名を呼ぶ。

 星菜よりもやや身長の低い少女の名は園田舞子――星菜のクラスメイトであり、亜美と共に友人付き合いしている一人でもある。やや抜けているところはあるが快活な性格をしており、一緒に居て楽しくなるタイプの少女だ。彼女はチアリーディング部に所属しており、今回は応援席の最前列に立って演技を披露し、野球部の攻撃を応援していた。試合が終了した今、やはりその表情には薄らと疲労が見え、ただ声で応援していただけの星菜達よりも運動量が多かったことが窺えた。

 

「お疲れ様です、舞子さん」

「ホント、疲れたよ星菜っち~」

 

 星菜の肩に抱きつくように寄りかかると、舞子がにひひと笑みを漏らす。何が嬉しいのかはわからないが、星菜が肩を貸したことによって舞子の表情に本来の元気が戻っていった。

 

「うー、やっぱ癒されるわ、星菜っちの空間」

「そう……なんですか?」

「んー、言われてみればそうかも。星菜ちゃんと居るとなんか落ち着くよね」

「いや、そんなことは……」

 

 自分が傍に居ることで元気になってくれるのは嬉しいが、二人が言うほど自分が癒し系の人間だとは思えない。そこまでの自信は星菜には無かったし、寧ろ本来の自分は一緒に居ると相手に負担を掛ける人間だと思っているからだ。

 尤も彼女ら友人達の前に居る時は、そう在らないように気を付けているつもりだが。

 

「亜美っちもわかるー? やっぱり私には星菜っちが必要だよ。野球部辞めてチア部に入りなよー」

「それは……」

 

 寄りかかってきた舞子の背中をよしよしと子犬をあやすように撫でていると、冗談げな口調から聞き流せない言葉を掛けられた。

 舞子が顔を上げ、やや上目遣いに星菜の目を見つめる。深刻そうな眼差しではなかったが、口調ほど軽い眼差しでもなかった。

 

「いや、真面目な話。星菜っちってば運動神経凄いし身体柔らかいし、チア部に入れば大活躍だと思うんだよねぇ」

「はぁ……」

「いや、悪い意味じゃないんだよ? ただ、せっかく練習してるのに今日みたいにベンチにも入れないなんて、辛くないかってさ」

「……そう見えますか?」

「ん、私はそう思う。亜美っちもそう思うでしょ?」

「それは……少し、思うけど」

「……そう、でしたか……」

 

 野球部に居るよりも他の部に居た方が良いと言われるのは、別段これが初めてのことではない。特に野球の練習に参加するようになってからは「勿体無い」と他の部から勧誘されることが多くなり、舞子に限らずそう言った話は何度か受けていた。

 今の星菜は、その言葉を不快には思わない。勧誘されるということはそれだけ星菜の能力が高く評価されているということでもあるので、決して悪い気はしなかったのだ。心が荒んでいた中学時代ならば、友人から同情されたくないばかりに激しい嫌悪感を抱いていたかもしれないが。

 苦笑を浮かべながら、星菜は返答する。

 

「それでも私は、野球一筋で行くつもりです」

「……凄いね、星菜っちは。まあ私もダメ元で言ったつもりだし、そんなに深く考えないで。星菜っちが良かったらチア部はいつでも大歓迎だよってだけだから。あはは、実は星菜っちのこと、部長から誘って来いって言われたんだよね!」

「光栄ですが、その気はありませんと伝えてください」

「うん、そう言っておくね」

 

 きっと自分は試合中、彼女らからも気を使われるほど情けない顔をしていたのだろう。ポーカーフェイスには自信のある星菜だが、どうにもこういった方面には弱いことを改めて実感する。

 

「んー、そう言えば、星菜ちゃんはまだここに残るんだよね?」

 

 こちらの複雑な心境を察知してくれたのか、亜美が話題を変えてくれた。

 竹ノ子高校の試合が終わったことで、これまで応援に来ていた生徒達は次の高校の試合が始まる前にその場から撤収することになっている。しかし竹ノ子高校のマネージャーである星菜には、以後も球場に残って二回戦の対戦校となる二校の試合を偵察する役目が残っているのだ。無論この応援席からは席を移すことになるが、星菜はこのまま帰宅する二人と違って球場に残る予定だった。

 

「はい。どちらかが二回戦で当たる「そよ風高校」と「山ノ宮高校」の試合は、私達にとって重要な試合ですからね」

 

 数十分後この山ノ手球場で行われる試合には、今大会の注目投手の一人である「阿畑やすし」が登場する。星菜にはその投球をビデオに収め、次に竹ノ子高校が戦う為のデータを集めるという仕事があった。

 

「あれ? 次の試合で勝った方が、二回戦に当たるんだっけ?」

「そうなりますね」

「星菜っちはどっちが勝つと思うの?」

「勝負は時の運と言いますけど、十中八九そよ風高校でしょうね」

 

 そう、星菜にとって次に行われる二校の試合に対して興味があったのは、阿畑やすしの投球それだけだった。

 不測の事態が起こらない限り、次の試合の勝者はその男がエースを張るそよ風高校でまず間違いないだろう。阿畑やすしとは、高校野球に詳しい者にとってそれほどの存在なのだ。

 

(……噂のアバタボール、この目で見させてもらいます)

 

 昔の話だが、星菜には少々阿畑とは接点があった。彼と星菜は小学生時代所属していたリトルチーム「おげんきボンバーズ」のチームメイトであり、先輩後輩の関係だったのである。

 当時の彼はチームの主将を務めており、その関係上まだ入団したての四年生だった星菜もそこそこに面倒を見てもらった記憶がある。

 阿畑の方は覚えていないだろうが、星菜の方は「自分が入団一年目からエースになれなかった障害」として、彼のことをよく覚えている。星菜よりも二つ歳上ではあったが、彼の投球は全てにおいて当時の星菜を上回っていたのだ。

 そんな彼が今やドラフト候補の一人であり、母校のライバル校のエース投手として立ち塞がろうとしている。因縁めいたものを感じざるを得なかったが、肝心の自分が当時の雪辱を果たすことが出来ないのが強く心残りであった。

 

(……ああ、この巡り合わせの良さを生かせないことに、私はイラついているんだな……)

 

 そこで星菜は思い至る。先ほどの竹ノ子高校の試合を観ていた時、その勝利を心の底から祝えなかった理由を。

 そして、心の中で自嘲する。そんなだから器が狭いのだと、改めて自分の考え方を滑稽に思った。

 

(二年生のあおい先輩は、もっと悔しいだろうに……)

 

 自分と同じ立場――学年を考えればそれ以上に苛立ちを感じているであろう早川あおいのことが、脳裏に浮かび上がってくる。今日は竹ノ子高校の試合が行われたが、明日は別の球場で恋々高校が試合を行う予定である。その対戦相手は古豪の「白鳥学園高校」だと言うのだからまたしても因縁めいたものを感じたが、小波大也に限って冷静さを失うことはないだろう。他所の心配は置いておくことにして、星菜は自分の仕事へと向かうことにした。

 

「じゃあね、私もそろそろチア部のとこに集合しないと」

「うん、またねマイちゃん」

「応援、ありがとうございました」

 

 それから何言か交わした後、星菜は舞子と亜美と別れ、もう一人のマネージャーである川星ほむらと合流して席を移した。規定により試合中マネージャーはベンチ内に一人しか居られない為、星菜は先輩であるほむらへとその役目を譲っていたのだ。尤もマネージャーとしての経験や能力もほむらの方が勝っている為、星菜は年齢を抜きにしても彼女の方がベンチに入るべきだと思っていた。

 ほむらと合流した星菜は試合を見やすい位置へと移動すると、鞄からスコアブックとビデオカメラを取り出し、調整を行う。試合開始時刻は刻々と迫っており、周囲にも他校のマネージャーと思わしき者の姿が何人か見えた。

 他校も偵察に来るほど、阿畑やすしは恐れられているということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《オリジナルナックル! 阿畑やすし、ノーヒットノーラン!!》

 

 翌朝の地方紙の一面には、無精ひげを生やした高校生らしからぬ容貌の青年が拳を天に突き上げた写真が掲げられていた。

 その下には「15K! 来季虎の恋人も絶好調!!」と波輪風郎の写真と記事が掲載されている。どちらも一面にするネタとしては十分すぎるものであったが、達成した記録の大きさから波輪の扱いの方が若干小さく扱われていた。

 

 ノーヒットノーラン――それはヒットもホームランも許すことなく、試合終了まで無失点に投げ勝ったということだ。そよ風高校の相手となった山ノ宮高校は、良くて初戦突破レベルの弱小校だ。ドラフト候補である阿畑からしてみれば、完封はそう難しくないだろう。しかしノーヒットノーランまで達成してしまうとは、星菜にとっても予想外なことだった。

 

「こりゃひでえ……」

「なんだこの変化球……」

 

 星菜とほむらが撮影してきたその投球映像を眺めながら、竹ノ子高校の野球部員達が口々に呟く。この映像を見るまでは昨日の活躍に浮かれていた矢部や池ノ川も今では真剣さを取り戻し、真面目に阿畑やすしの分析を行っていた。

 阿畑やすしの球速は昨日打ち破ったパワフル第三の皆川と比べても大差なく、寧ろ皆川の方が速いぐらいだ。

 制球力がそれほど良いというわけではなく、球種も精々が三つばかりとそこまで多くはない。

 にも拘らず彼がドラフト候補に名を連ね、昨日ノーヒットノーランを達成出来た要因は、全て彼が投げるその決め球にあった。

 

「ひえー、これがナックルかぁ……」

「本当に回転しないんだな」

「どう変化するのか、全くわからないでやんす」

 

 ナックル――それはボールに回転を掛けないことで、左右へ揺れ動くように変化しながら落下していく変化球である。その様はまるで木の葉がひらひらと揺れ落ちていくようで、右へ曲がったボールが左に曲がって戻って来るなど、常識的には考えにくい不規則な変化をもたらす。現代の「魔球」と呼ばれるその球は本来打席に立たなければ変化がわかりにくく、遠くから撮ったカメラからはただのスローボールのようにも見える。

 しかし阿畑の投げるそれは非常にわかりやすく変化しており、星菜達が撮影した映像からも十分に脅威がわかるボールであった。

 それこそが阿畑やすしの代名詞であり、彼が他校から恐れられている最大の要因、「アバタボール」の凄みだった。

 

「ほー、なるほどな」

「どうした池ノ川、なんか気付いたか?」

「いや、全くわからん……」

「知ってた」

 

 球速が速いという長所ならば、竹ノ子ナインは波輪のストレートを見ることで一応の対策は出来る。

 しかし今だ生で見たことのない魔球が相手だとすれば、事前の対策など取れる筈が無かった。

 

「フハハ! 戦う前から恐れてどうするんです。元々僕達はチャレンジャー、出たとこ勝負上等じゃないですか!」

「おう、いいこと言ったな青山」

「でもまあ、色々考えてみようぜ。何も考えずにやったら相手の思う壺だからな」

 

 二回戦に戦う対戦投手の快挙を前にして弱気にならないのは、昨日自分達が良い試合をしたということもあるが、持ち前のポジティブ思考所以だろう。

 だがそれでも、映像を見て何の対策も打ち立てられないのは問題であった。

 

「……一つ、よろしいでしょうか?」

 

 眉間に皺を寄せて思案する彼らに向かって、透き通るような少女の声が響いたのはその時だった。

 

「……阿畑投手ほどではありませんが、私もナックルを投げることが出来るので、参考までに皆さんで球筋を見てみるのはどうでしょうか……?」

 

 周囲から一斉に向けられる男達の視線に遠慮がちになりながらも、少女は――泉星菜は提案する。

 そして男達から歓喜の声が上がったのが、数秒後のこと。

 その提案が一同から採用されるまでには、一分と掛からなかった。

 

 



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予定調和の番狂わせ

 

 親指と小指でボールを真横から挟み、残りの指を上から突き立てる。

 通常の投球フォームではリリースポイントが安定しない為、下半身は体重移動の小さい立ち投げの形から、上半身は大きく振りかぶらずに左腕を振るう。そしてボールを指から離す際、固定した手首からボールを突き立てた指で弾いて回転を殺すことが出来れば、現代の魔球「ナックル」の完成である。

 

「おお! こんな球なのか、おもしれぇ!」

 

 ボールは風に揺られながら不規則な軌道でキャッチャーミットへと収まっていき、一連の流れを打席上で見送った波輪が驚嘆の声を上げる。間近で見たナックルボールは、やはり映像で見るそれとは感じ方が違うようだ。

 

「……私のは、ナックルもどきなんですけどね」

 

 彼のような反応を見せてもらえるのは投手として嬉しいものがあるが、自分では阿畑やすしの投球を完全に再現を出来ないことを申し訳なく思う。その感情を誤魔化すように、星菜はふっと苦笑を浮かべた。

 投手をピッチャー返しから防護するグリーンネットから身を乗り出すと、星菜は15.44(・・・・・)メートル前に座る六道明から返球を受け捕った。

 そう、今星菜が立っている場所は本来のプレートの位置である18.44メートルよりも3メートル近くにある。星菜は捕手に対し、規定にそぐわない距離で投げていたのだ。

 その理由は実に単純で、単に規定通りの距離ではナックルが捕手まで届かないからである。

 それこそが、星菜が先日の恋々高校戦でナックルを使わなかった理由の一つでもある。練習ならばこのように投げる位置を近くすれば良いだけが、実戦ではそうはいかない。たった今投じたように一応の変化こそ見せるが、ホームベースにすら届かないボールでは全く使い物にならないのだ。

 

(……でも、この球がチームに役立つなら嬉しいな。今までは完全に覚え損だったし)

 

 元々このナックルは中学時代、星園渚の記憶を手にする以前の星菜が独学で習得した変化球である。

 当時、星菜は男女間の体格差に対抗する一手としてナックルを練習し続けていた。そして自在に無回転のボールを投げれるところまでは出来たのが、前述した「ボールが届かない」という致命的な欠陥を克服することが出来ず、今までは一度として日の目を見ることはなかったものだ。

 しかしこの機会に投げることで竹ノ子ナインの阿畑やすしへのささやかな対抗策となるのなら、星菜は思う存分に投げ込みたいと思う。

 数年のブランクがあるとは言え、一度習得した変化球の投げ方は忘れない。距離が三メートル近いとは言え無回転のボールをストライクゾーンに投げ続けられるのは、単に星菜の野球センスの高さによるものだった。

 

「うしっ!」

「ナイスバッティングです、先輩」

 

 押し込まれた波輪のバットが白球をライト方向へと運び、その行方を見届けた星菜がグラブで拍手しながら賞賛の声を上げる。

 星菜はそれから十球ほど続けてナックルを投げ込んだが、その内打たれたヒット性の当たりは四本ほど。波輪は最初こそ不規則な軌道を辿る未知の変化球に手こずっていた様子だが、流石の順応性かほんの数球で対応してみせた。

 このボールを打てれば阿畑のナックルも打てるという簡単な話ではないが、このボールすら打てなければ阿畑やすしの攻略は土台無理であろう。少なくとも星菜は、近距離で投じていても尚自分のナックルが彼のそれには到底及ばないと思っている。

 

(投げられると言っても、私のはあの人のナックルとは比べ物にならない。だから、あまりこれに慣れすぎてもらっても困るけど……)

 

 だが事前知識の有無は、あるとないとでは優位性が段違いだ。星菜はこの機会に、是非とも彼らにナックル使いの厄介さを知ってもらいたかった。

 

 特に阿畑やすしが厄介なのは、状況に応じて球種を使い分けることが出来るという投球テクニックにある。通常、ナックルを投げる際は先ほどの星菜のように独特な投法を強制される為、打者から球種の判別がされやすくなってしまう。故に他の球種との併用が難しいことからナックルボーラーは必然的にナックルを連投し続け、それ以外の球種を投げることはほとんどない。

 しかし、阿畑やすしは違う。

 星菜や数多のナックルボーラー達が変則フォームからでしかナックルを投げられないことに対して、阿畑やすしは何の変哲もないオーソドックスな投球フォームからナックルを投げることが出来るのだ。

 通常の投球スタイルを持つ投手が、まるでストレートの合間にカーブを挟むようにナックルを投げてくる。阿畑には球速が100キロも出ないナックルを見せた後に、140キロ弱のストレートで緩急を付けるという投球も出来るのだ。打者からしてみれば堪ったものではなく、山ノ宮高校の打線がノーヒットノーランを喰らったのもまたそれが最大の要因だった。

 

(そればかりは私には真似出来ない……。ナックルとストレートを同じリリースで投げ分けるピッチャーなんて、日本中を捜してもあの人しか居ないと思う)

 

 ナックルを投げることが出来ても、星菜には「仮想阿畑」になることは出来ない。

 彼が自らのナックルに「アバタボール」という自身の名を付けているのも、そのように他者が真似できない彼オリジナルの高等技術に対する誇りがあるからなのだろうと星菜は思う。

 そう言った感情から来る優越感はさぞや心地良いのだろうと察すると、星菜はふとかつて自身にもあった恥ずかしい過去を思い出してしまった。

 

(……私も小学校時代とか、中学校時代とかに考えたなぁ。スライダーの抜け球を意図的に投げればジャイロ回転してホップするボールになるんじゃないかとか、なんとか習得したその球に「スターライジング」とか名付けて意気揚々と小波先輩に挑んだり……見事に打たれたけど)

 

 自分専用のオリジナル変化球というものには、言葉では表現しきれないロマンがある。幼い頃から投手をやっている者がそれに憧れた経験があるのも、そう珍しい話ではないと星菜は思っている。尤もそのような願望が叶うことなどほとんどなく、星菜もかつては新魔球を思いつく度に玉砕してきたものだ。

 

(このナックルにも、ヴァルキュリアボールとか大層な名前を付けてたっけな。例によって小波先輩から生暖かい目で見られたけど……ああ、私はなんであんなことをしたんだろう……?)

 

 誰にでも――中学生ぐらいの年代の少年少女には誰にでもある経験だ。故に頭では恥じる必要は無いと思っているが、今更思い出す必要も無い。星菜はその小さな思い出を記憶の引き出しの中に再度封印すると、無心に戻って打撃投手を再開する。

 その際、波輪の姿は打席に無く、入れ替わって「次は俺が打ちたい」と池ノ川貴宏が入っていた。

 捕手までの距離が近いとは言え流石にこちらの肩も無限では無いので、100球以上ナックルを続けるのは不可能だ。しかし試合が始まる前までには出来るだけ多くのナックルを投げ、多くの打者に球筋を見てもらいたいものだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふう……」

 

 数時間後。試合があった翌日ということもあって早めに一日の練習が終わると、星菜はただ一人女子更衣室に入って練習着を脱ぎ払った。普段は川星ほむらもこの更衣室に来る為ある程度は上品に着替えるのだが、この日は彼女が練習に参加していない為、その行動は日頃の星菜の学校生活を知る者には想像も付かないほど荒々しかった。

 せめて誰の目も届かない更衣室内ぐらいは、自宅のようにリラックスしていたいと――今回の練習で最も疲労と心労が多かった星菜の、切実な思いだった。

 持参のフェイスタオルで汗を拭いながら一日の練習を振り返り、その手応えを確かめるように左手を開いて見つめる。

 

「まったく、何が「参考になる」だよ……」

 

 そして一言、星菜は自嘲の笑みを浮かべてそう独語する。

 今回の練習はチームメイトにナックルの球筋を体験してもらう為、星菜が提案したものだ。監督の茂木からも承認が下りており、実際に体験してもらった波輪達は口を揃えて有意義な練習だったと言っている。

 確かに、事前知識無しで阿畑やすしに挑むよりは幾らか効果があったかもしれない。しかし実のところ、星菜が今回の練習を提案した理由は他にあった。

 

「単に、自分が投げたかっただけのくせにさ……」

 

 どれほど上手く建前を取り繕おうとしても、自分の心まで欺くことは出来ない。星菜はこの時、改めてそう思った。投球を行っている間に、この気持ちに気付いてしまった。今回の練習を提案したのは言葉通りチームの為にという思いもあったが、その根底にある気持ちは自分本位のものだったのだと。

 

 ――試合に出られなかった鬱憤を晴らしたかったという、自分本位の気持ち――。

 

 入部する前から覚悟しておきながら、いざその事態に直面してみればコレである。同じことで悩み続けている自身の進歩の無さには、ほとほと呆れるばかりだった。

 

 一頻り涼んだ後、夏用の白い制服に着替えると、星菜はグラブやスパイクをショルダーバッグに収め、鍵を持って更衣室を立とうとする。

 その時、ピピピッとスカートのポケットに入れていた携帯電話が鳴り響いた。

 

「川星先輩から?」

 

 その着信元は先輩のマネージャー――この日はわけあって部の練習に参加していない、川星ほむらであった。

 ほむらはこの日、部活動の時間になるなりそそくさと学校を離れ、他の高校が試合を行っている球場へと偵察に出掛けていたのだ。

 時間の都合上試合の途中からの観戦になり、その目で観ることが出来るのは精々が五イニングと言うところだろう。しかしその対戦カードには、ほむらがそうまでしても偵察しに行く理由があったのだ。

 

「……もしもし」

 

 電話を取り、星菜はほむらの言葉を待つ。彼女の用件は、間違いなく偵察した二校の結果報告であろう。

 

 

 恋々高校と、白鳥学園高校の試合の――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白鳥学園高校――過去には甲子園優勝を三回達成しており、当時は地区内外で名の知れた甲子園常連校であった。

 プロ野球にも数多の名選手を輩出しており、野球以外に限らずサッカーや陸上競技など、多方面のスポーツで結果を出している。偏差値も国内トップレベルに高く、非の打ち所が無いエリート校と評判の高校である。

 しかし近年は昨年の王者あかつき大附属高校を始めとする他強豪校に有望な人材が拡散している為か、その戦力は年々衰えており、現在では「昔は強かった」中堅校として数えられている。今年の白鳥学園があかつき大附属や海東学院のように優勝候補の一角に入っていないのも、そのように世間から落ち目の高校だと見られているからであった。

 しかし全盛期より弱体化したとは言え依然一流の練習環境に身を置く選手達のレベルは高く、そうそう時代遅れと侮られるような高校でもない。あかつき大附属の猪狩守や海東学院の樽本のような突出した実力者こそ居ないが、その実力は竹ノ子高校の野手陣などと比べれば雲泥の差があった。

 

「なんやて!? 白鳥が負けた!?」

 

 ――だからこそ、一回戦で恋々高校などというどことも知れない無名校に敗退したという報告は、他校の選手達を大いに驚かせるものだった。

 この「そよ風高校」の主将「阿畑やすし」もまた、今しがたマネージャーから寄せられたその報告に目を見開いていた。

 

《そや、8対2で恋々高校の圧勝。でもあたしの見たところまぐれって感じはしなかったし、ナインの顔ぶれを見れば納得の行く結果やったよ? なんたって小波大也や奥居がおったからなぁ》

「んん? ああ、アイツらが居るんか。それでも8点ってなぁ……白鳥の先発は誰やったんや? 戸井やなかったんか?」

《んー、山田ってピッチャーや。130キロそこそこの左ピッチャーで、まあ良くも悪くもそこそこのピッチャーやったな》

「あれ? なんや、戸井の奴は投げんかったんか。まあ詳しい話は後にして、偵察ご苦労さん」

《マネージャーの仕事やからねー。ほなお疲れ》

「おう、帰り道は気を付けろよ」

 

 通話を切り、ズボンのポケットに携帯電話をしまう。

 何の特色も無いそよ風高校の制服を着崩して身に纏う阿畑は、少し残念そうな表情を浮かべながら帰路を進めた。

 九イニングを投げ抜いた昨日の疲労を癒す為、この日の練習は軽めに終わらせた阿畑だが、その分執拗なマスコミへの対応に追われることになり、身体こそ問題無いが少々気疲れする一日であった。そして最後は恋人兼野球部のマネージャーから寄せられた報告に驚かされることになり、気の安らぐ時間は居眠りに没頭していた授業中ぐらいだったなと振り返る。

 

「怪我でもしてたんかいな、アイツは。勿体無いなぁ……」

 

 白鳥学園に所属する一人の二年生のことを考え、まあアイツには来年があるかと苦笑を浮かべる。願わくば彼とは阿畑最後の高校野球で投げ合いたかったところだが、敗退となってしまった以上は仕方が無い。他人事ではなく、明日は我が身と思い、阿畑の所属するそよ風高校にもまたそうなる可能性があることを深く頭に入れた。

 

「まあ次の試合は波輪と戦えて、その次は上手くいけば九十九や樽本とも決着がつけられるんや。これ以上は贅沢やな」

 

 三年生であり、人よりも社交性に優れた阿畑には他所の高校にも絆を深めてきた友人達や、ライバルが居る。トーナメントという巡り合わせ上その多くが自分と対峙出来ないまま夏を終えていくものだが、阿畑はそれを寂しいとは感じても悲しいとまでは感じなかった。

 勝負の世界に居る以上、そんなことで思い悩んでも仕方が無い。

 哀れむことは相手に対する侮辱も同じだ。そんなことをするぐらいなら、自分達のこれからを心配しておく方がよっぽど建設的だった。

 

(波輪とは一点二点の勝負になるやろな……猪狩と言い戸井と言い、ほんま、おっかない二年ばかりやで)

 

 二回戦に当たる竹ノ子高校は、そよ風高校と同じく主将中心のチームである。四番波輪の豪快な打撃でもぎ取った得点を、エース波輪の圧倒的な投球で守って勝利を収める。不安要素としては下位打線の貧弱さと全体的な層の薄さ――良くも悪くも全て波輪次第という点だろう。そして最高学年が二年生であり、三年生が不在というところも弱点である。

 一方で阿畑のそよ風高校もまた世間からは阿畑のワンマンチームと評されているが、それでも竹ノ子高校と違って「三年間」という豊富な経験を培った人間が何人も居るのは大きい。

 そよ風高校には、波輪風郎のような「天才」と呼べる選手は居ない。それは、昨日ノーヒットノーランを達成してみせた阿畑やすしも同じだった。

 

(正直、ワイの昨日のピッチングは出来すぎやったからな。二回戦までにはなんとか新魔球を物にしてかんと、この先きついで……)

 

 阿畑は自分のことを才能ある特別な投手だとは、思っていない。

 樽本有太やあかつき大附属に所属する同級生のライバル達と比べれば寧ろ出来の悪い方であり、切り札(アバタボール)を習得するまではプロから声が掛かるなどとは考えもしなかった。

 しかし、幼い頃からいかなる過酷な状況にも屈しなかったこの不屈の精神力だけは、唯一他人に自慢出来る長所だと思っている。

 

「まあ、最後に勝つのはワイらやけどな」

 

 正直言って、フィジカル面では波輪や猪狩のような天才投手には勝てる気がしない。しかし阿畑は彼ら他校の者に優勝旗を譲る気など、欠片も持ち合わせていなかった。

 

 最後に勝つのは自分達そよ風高校だと――阿畑の双眸は自信に満ち溢れていた。

 

 





 投稿が遅れたのは、贔屓チームが交流戦で沈んだからだZE
 次回は二回戦開始。
 因みに本作の阿畑さんのスペックはこんな感じです。

右投右打
球速142km/h
コントロールC
スタミナB
球種 スライダー1 カーブ1 シュート2 オリジナル5

回復4 リリース ピンチ4 打たれ強さ4 キレ4 闘志 根性 変化球中心


 もちろん高校野球基準ですが。



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理解出来ないこと

 

 恋々高校が白鳥学園に勝利したという報告をほむらから聞いて、星菜は喜びこそしたが然程驚くことはなかった。

 かつては甲子園に名を轟かせた古豪とは言え、所詮は過去の話だ。白鳥学園は今も中堅校の中では上位に位置する実力はあるかもしれないが、恋々高校の戦力も劣っていない。それは半ば願望込みではあったが、星菜は試合前から恋々高校の勝利を予想していたのである。

 しかし勝利という結果は別として、星菜はほむらから告げられた信じられない報告に目を見開くことになった。

 

《恋々高校は、あの早川あおいちゃんが先発したッス!》

 

 早川あおいが――女子選手が、堂々と出場したのである。

 それまで恋々高校は竹ノ子高校との練習試合で先発した奥居が投げたものだと思っていた星菜は、その事実に驚愕を隠せなかった。

 

 

「……ありえない……」

 

 ほむらとの通話を切った後、星菜は肩を震わせながら繰り返し呟いていた。

 

「ありえない……ありえないありえないありえない……! あおい先輩は何を……恋々高校は何を考えているんだ!?」

 

 確かな、激しい動揺がそこにあった。人前では澄ましきっている普段のポーカーフェイスが崩れ去り、常の星菜であればまず見せないであろう狼狽え方で息を吐く。

 

「馬鹿げている! 決められたルールに真っ向から抗うなんて……!」

 

 その声には星菜自身でも驚く程に強い怒気が篭っており、同時に、何かに怯えるように震えていた。

 それも当然だ。早川あおいが登板したということは即ち、「女子選手は公式戦に出場してはならない」という高校野球の規定を破ったということだからだ。

 そんなことをすれば高校野球連盟からどのような処分が下されるか――そこから先を想像出来ないほど、星菜は楽天的ではなかった。

 

(ありえない! なんでそんな……そんな、馬鹿なことを!)

 

 規定を破ればただでは済まない。無論、そんなことは早川あおいの方とて熟知している筈だ。規定を破った場合にはチームの勝利その物が「無かったことにされる」可能性があることもわかっているだろう。それだけでなく、最悪の場合、恋々高校は今後の大会も出場停止処分が下されるかもしれないのだ。

 彼女が何を思ってそんな愚行を犯したのか、同じ女子選手として星菜にはあおいの行動が信じられなかった。

 そして恋々高校の監督や主将の小波他、その行動を容認した周りの人間達が考えていることも、わけがわからなかった。

 

「電話を……」

 

 とにかく、今の星菜は直接本人に訊ねることで真偽を確かめたかった。手の震えからボタンを押す指が思うように動かなかったが、一度胸に手を当てて深呼吸をすることで少しは立ち直ることが出来た。我ながら酷い動揺ぶりだと自身に呆れる。

 そして引き続き携帯電話を弄ると、星菜は早川あおいに向けて発信したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は雲ひとつ無い見事な青――これ以上無いほどの快晴である。

 しかしそれは頭上から注ぎ込んでくる日光を遮る物が無いということでもあり、住民達はこの日、今年一番の暑さに喘ぐことになった。

 そんな猛暑の中、日陰の無いグラウンドを駆け回っている高校球児達はさぞ苦しいことだろう。その光景に対し同情するでもなく、真っ先に「羨ましい」と感じてしまう自分は少し可笑しいのだろうかと――星菜はこの暑さに気だるげな表情を浮かべている周囲の生徒達の姿を見てそう考えてしまう。

 

 ――竹ノ子高校対そよ風高校の試合の日が、訪れた。

 

 波輪達が数日間取り組んできた星菜のナックルを打ち返すという申し訳程度の阿畑対策が、実戦においてどこまで役立つかはまだわからない。しかし星菜としてはサポート出来ることは全て行ったつもりであり、試合当日となったナインの表情にもさして不安の色は見えなかった。

 

「……ちゃん! ……ちゃん!」

 

 元々、難しいことは考えずに当たって砕けろというのが波輪風郎率いる竹ノ子高校のスタイルである。強敵を前に余計なことを考えている感情は、良い意味で馬鹿である彼らには持ち合わせていないようだった。

 

(これでいざ試合になって阿畑のナックルに手も足も出ませんでした、それどころか私のせいで余計に打てなくなりましたってなったら……責任を取らなくちゃいけないかな……)

 

 竹ノ子高校野球部においてネガティブ思考が強い人間は、恐らく自分だけだろうと星菜は思う。

 その点、自分がベンチに入れない現状はかえって都合が良いのかもしれない。下手にあの場所に居てもネガティブ思考の己が余計な一言を言ってしまい、それによってベンチの雰囲気を悪くしそうで怖いのだ。

 

「星菜ちゃん! おーい!」

 

 今の星菜には、こじつけでも現在自分の置かれている立場に何か一つでも納得出来る理由が欲しかった。

 「女だから」という理由以外で、一つでも多く自分が竹ノ子高校のベンチに相応しくない理由が欲しかったのだ。そうしなければ、いつか自分の気持ちを押さえつけられなくなりそうで。

 

「星菜ちゃん、応援部の人達が呼んでるよ?」

「……え? あ、すみません。今行きます! 亜美さん、ありがとうございます」

「ふふ、頑張って」

 

 グラウンドを一望出来る球場の外野付近の観客席の中、最前列の席に並んでいる応援部の二年生達に呼ばれていたことに気付くと、星菜は急いで席を移動する。

 時刻は試合開始の十五分前。グラウンド内では全体練習を行っているそよ風高校ナインの姿があり、星菜はその光景を背景にしながらスタンドを見上げた。

 

(……ああそうか、二回戦からは二年生も応援に来ているんだっけか)

 

 一回戦では一年生とチアリーディング部、そして応援部の面々しか応援に来ていなかったが、二回戦からは二年生も加わる校則となっている。三年生は受験生の為強制参加ではないが、何人か試合に興味のある者は自主的に球場を訪れているようだった。

 この場に詰め込んだ総勢200以上もの生徒の姿は球場全体として見ればなんてことはないが、正面に立って彼らを前にするのは中々壮観な光景である。彼らは竹ノ子高校の一年生と二年生であり、校則上強制されているものでこそあるが皆この試合に応援に来てくれた同志であった。

 

 生徒達は自分達の前に立つ星菜の姿を沈黙しながら眺めている。言い知れぬ緊張感を漂わせる彼らの前で一礼して姿勢を正すと、星菜はメガホンを口元に添えて声を発した。

 

「一回戦は、皆さんのおかげで勝利をおさめることが出来ました」

 

 これは、星菜が事前に応援部の者達に頭を下げて頼んだことである。選手としては勿論マネージャーとしても「公式戦にベンチ入り出来るマネージャーは一人だけ」という規定上、野球部においてただ一人だけベンチ入りすることが出来ない星菜であるが、そんな自分でも野球部の一員として出来ることがあるかもしれないと――その為に考えたのが、此度応援に来てくれた生徒達への声かけだったのだ。

 

「この真夏の日差しが辛いとお思いになる方も居るでしょう。野球にも野球部にも興味が無く、なんで自分がこんなことをと……野球部の応援に気が乗らない方も居ることでしょう」

 

 先日行った文化祭でもあったのだが、こうやって大勢の前に立って何かを話すことは、あまり自分の柄ではないことだとは思う。しかしそれでも星菜は、今は少しでも自分に出来ることをしたかった。

 この日、学校が休日の土曜日にも拘らず野球部の応援に来てくれた生徒達は、その全員が応援に乗り気というわけではないことを星菜は知っている。同じ応援席に居るからこそ、真夏の暑さに欝屈した彼らの心が伝わってくるのだ。そしてそんな彼らを、出来るだけ乗り気にさせたいと思った。グラウンドでプレーする選手のことを、本気で応援してほしいと。自分の言葉一つで何もかも動かせるなどとは思っていないが、この場に居る以上は何もせずに終わりたくなかったのである。

 

「グラウンドでプレーしている選手達にとって、皆さんの応援はとても力になります。失敗をしてしまったら励ましてほしい、良いプレーをしたら褒めてほしい……野球部の皆さんはきっと、そう思っています」

 

 どう言えば乗り気でない生徒達を鼓舞出来るか、コミュニケーションが苦手な星菜にはわからない。

 ただの押し付けに過ぎないのかもしれないと思っている一方で、しかし星菜はこの気持ちだけは伝えたかった。

 

「……ですから、どうか誠心誠意の応援をお願いします。皆さん、今日は頑張って戦う野球部を、一生懸命応援しましょう。竹ノ子高校の生徒として……野球部の一員として、お願いします」

 

 深々と頭を下げ、星菜は彼らに「お願い」をする。話している間全員が行儀よく自分の目に集中し、誰一人として口を開かなかったことに星菜は感謝した。

 そして最後に、星菜は応援部でもない自分に全員の前で発言させてくれる機会を与えてくれた応援部の面々に一礼した。

 

 竹ノ子高校の応援席が満員の甲子園球場のような盛り上がりを見せたのは、その時だった。

 

「いいいいよっしゃあああああっっ!! 今日は本気で行くぞオメエらァッ!!」

「おおおおおお!!」

「やったるぜおらあ! 面倒臭いとか言う奴は出てこいやああ!!」

「そんな気持ちはたった今捨てたぞゴルァッ!!」

「竹ノ子魂見せてやっぜオイ!!」

「オラ! 波輪っ!! 何が何でも勝てよこんちきしょう!」

「池ノ川! 外川! 元サッカー部の意地を見せつけてやれ!!」

「矢部ぇ! 死ぬ気で打てええええええ!!」

「……俺、野球部入ろうかな……」

「くそっ、よりによってなんで野球部のマネージャーなんだ……!」

 

 星菜が喋っていた最中はシーンと静まり返っていた竹ノ子高校の生徒達だが、発言が終わるなり荒ぶった調子で声を上げ出した。想像を遥かに超えてきたその反応に何事かと戸惑う星菜に対し、頭部に「竹ノ子魂」と書かれたハチマキを巻いた応援団長が親指を突き立てて笑顔を向けてきた。

 

「まあ、あれだ。うん、凄いな君、このまま応援部に転部しない?」

「……え? えっ? あの……」

「うわー、すっげえ盛り上がり。流石だわ星菜ちゃんのカリスマ性」

「そ、その……皆さんどうしてこんなに……」

 

 望み通り一同が応援に乗り気になってくれたのは嬉しいが、予想を遥かに上回る盛り上がりぶりに星菜は喜びよりも先に困惑を覚えた。なまじらしくないことをしたが故に、その後に起こることが予測出来なかったのだ。

 確かに言葉には自分なりの誠意を込めたつもりだが、一同がここまで盛り上がってしまう要素が――生徒一同に対して懇願する自分の姿が彼らの目にどう映っていたかなど、自分の容姿に無頓着な星菜には知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……な、なんでウチの連中、あんなに盛り上がってるの?」

「さあ?」

「泉がみんなの前で、なんか言ったみたいだな」

 

 突然活気に溢れ出した竹ノ子高校の応援スタンドの様子は、グラウンド内に居る波輪達からも異様に映った。どうやらマネージャーの泉星菜が応援に来てくれた生徒達のやる気を高めてくれたようだが、あそこまで焚きつけてくれるとは大したものである。

 実のところ竹ノ子高校内において、野球部の評判はあまり良くない。

 それには昨年度、廃部寸前の部を存続させる為とは言え、波輪と矢部が各部活動から部員を野球部へと強引に引き抜いてきたからでもあった。特にサッカー部や陸上部のような運動部から引き抜いてきた選手の数は多く、おかげで野球部の戦力は潤ったが貴重な部員を引き抜かれた方としては堪ったものではないと言ったところで、他所の部長達からは少なくない反感を買っていたものだ。

 そう言えば、と波輪は思い出す。

 昨年度はそういったことから時折他の運動部から嫌がらせを受けることがあったのだが、鈴姫達が入学してきた今年になってからはそういうことはまだ無い。一年の間に恨みが風化されただけという線もあるが、今現在お祭り騒ぎに盛り上がっている応援席を見れば、その理由がなんとなくだがわかるような気がした。

 波輪の口元から、思わず苦笑いが漏れる。

 阿畑戦を想定したナックル打ちの練習と言い、つくづく彼女には助けられるものだ。

 当人は理解していないが、既に泉星菜という存在は野球部には欠かせない存在と言って良いほど頼りになっており、波輪も時々彼女が一年後輩の新入生だということを忘れそうになるぐらいだった。

 

「先輩方、スタンドなんて眺めている余裕あるんですか?」

「ああ、そろそろ整列だな」

「……アイツはアイドルじゃないんだぞ……」

「ん、なんか言ったか?」

「いえ、別に……」

 

 しばらく彼女が居る観客席を眺めていた波輪達竹ノ子ナインだが、鈴姫の言葉が各々の意識を引き戻す。無表情で放たれた鈴姫の言葉にはどこか不機嫌そうな刺々しさがあったが、今は試合直前でピリピリしているのだろうと察した。

 

 ――そして数分後、ベンチの前に整列した竹ノ子高校ナインとそよ風高校ナインが一斉に駆け出し、互いに試合開始の挨拶を行った。

 

「阿畑さん、今日はよろしくお願いしますよ!」

「波輪、お前には絶対負けへんからな!」

 

 両チームの主将、波輪風郎と阿畑やすしが互いに闘志を隠すことなく向き合う。

 二人とも、世間からは将来が期待されている好投手だ。誰もが投手戦を予想する二回戦が、遂に幕を開けた。

 

 

 



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力のパワプロ、技のアバタ

 

 試合が始まり、散開したそよ風高校のナインが各々の守備位置(ポジション)へと着く。見渡したところ全体的に細身な体格の選手が多く、長打力だけは一回戦で当たったパワフル第三高校の方が上と見える。

 実際、そよ風高校の打力に関しては良くて中の下程度と言った認識である。星菜がほむらと共に調査した情報によればそよ風高校は典型的なスモールベースボールを軸に掲げる攻撃スタイルで、足やバントを絡めて一点を取り、その一点を守り抜くことに重点を置いた守備型のチームという評価だった。

 総合的な守備力では、竹ノ子高校よりも上を行っているだろう。しかし結局のところ勝敗の行方がエース投手の出来に掛かっているという点では、竹ノ子高校の野球に類似していた。

 

《一回の表、竹ノ子高校の攻撃は――一番センター、矢部君》

 

 そよ風高校不動のエース阿畑やすしが投球練習を終えると、場内アナウンスに名を告げられた竹ノ子高校の切込隊長、矢部明雄が右打席へと入る。

 先攻の竹ノ子高校のスターティングメンバーは、恋々高校と行った練習試合の顔ぶれとほぼ同じだった。

 

 一番センター矢部。

 二番キャッチャー六道。

 三番ショート鈴姫。

 四番ピッチャー波輪。

 五番ファースト外川。

 六番サード池ノ川。

 七番ライト青山。

 八番セカンド石田。

 九番レフト小島。

 

 変わったところといえば七番に新入生の青山が入り、石田と小島のポジションが入れ替わった程度である。

 だがその程度の変化は、失礼ながらこの試合においては大したものではないと星菜は考えている。

 何せ相手はノーヒッターの阿畑やすしだ。この試合では下位打線に誰を並べようと出塁は期待出来ず、得点の鍵は一番から四番までの上位打線だけが持っていると見ていた。

 

「ストライク!」

 

 多くの観衆が見守る中、阿畑やすしはノーワインドアップから投球動作へと移る。注目の第一球――いきなり投じた無回転の変化球、阿畑の代名詞とも言える「アバタボール」がキャッチャーミットへと収まっていく。矢部はストレート読みだったのか初球から思い切って強振したが、バットには掠りもしなかった。

 

(あれが阿畑やすしのナックル……アバタボール)

 

 生で見るアバタボールは、遠目で見ても自分のナックルとは違うことがわかる。しかし事前知識が多少でもあるからか、空振りしたところで矢部の顔に驚きは見えなかった。

 

「ボール」

 

 二球目。矢部の胸元に食い込んできたシュートボールがストライクゾーンを外れ、スコアボードに映し出された「B(ボール)」のランプが一つ点灯する。そよ風のバッテリーとしてはあわよくば今のボールを引っ掛けさせて内野ゴロを狙いたかったのだろうが、打席上の矢部は落ち着いた佇まいで見極めていた。

 

(矢部先輩、あの試合から浮つきが大分無くなったな……)

 

 恋々高校との練習試合以来、矢部は迂闊にボール球に手を出すことが少なくなってきた。何か心境の変化があったのか日々の練習にもより力を入れるようになり、その為かそれ以降の練習試合では五割近い出塁率を叩き出しており、今では竹ノ子高校にとって頼れるリードオフマンとなりつつあった。

 だがそれでも、まだ完璧とは言い難いが。

 

「ああん、くそっ」

「ドンマイドンマイ! 今度は頼むぜぇ!」

 

 阿畑の投じた三球目――矢部は外角低めのスライダーを打ち損じ、あえなくショートゴロに倒れた。ストライクゾーンの球ではあったがバットの真芯に捉えるには些か難しい球であり、ツーストライクでもないカウントから打ちに行く必要は無かったように思える。

 応援席内から落胆の声が上がる。が、応援する立場の者がいつまでも気落ちしてはいられない。一同総立ちの星菜達は、すぐに二番六道明の応援合唱へと取り掛かった。

 

「かっとばせ! 六道っ!」

 

 矢部の時よりも声援が大きい気がするのは、星菜の気のせいではないだろう。矢部もまたある意味では人気者には違いないが、凛とした顔立ちに加え面倒見が良く学級内ではクラス委員も務めている明は、同級生はもちろん一年生からも強く慕われている存在なのだ。

 

「ストライク! バッターアウッ!」

 

 しかしその応援も虚しく、五分と経たずアウトカウントが追加された。

 空振りの三振。決め球はやはり、「アバタボール」であった。

 

《三番ショート、鈴姫君》

 

 そして星菜がこの試合のキーマンと見ている人物の一人、鈴姫健太郎が左打席へと入る。教本に載せたくなるような無駄のないスクエアスタンスから、油断なく鋭い目つきでマウンドを睨んでいた。

 

(……あの球を、お前ならどう打つ?)

 

 一年生ながら三番ショートという攻守の要を任された、竹ノ子高校の超新星。彼が阿畑の魔球に対しどう対応していくのか、勝敗を抜きにしても星菜には興味があった。

 パワフル第三高校戦では全打席ヒットを打っている彼をそよ風高校のバッテリーも警戒しているのか、一球に掛ける時間は六道に対するそれよりも長かった。

七秒ほど間をおいて、ようやくサインが決まった阿畑が左足を振り上げる。ナックルボーラーでありながらあまりにもオーソドックスすぎるオーバースローから投じられた一球は、18.44メートルの間に緩やかなカーブを描いた。

 その球種は頭に無かったのか、鈴姫はストライクゾーン低めに入ってきたそれをあっさりと見送る。

 

(そう言えば、リトル時代の先輩後輩対決か。多分阿畑先輩の方は鈴姫のこと、覚えていないんだろうけど)

 

 いつも以上に強張っている鈴姫の顔を見て、星菜は二人の間にある因縁を思い出す。尤も阿畑が当時の鈴姫のことを覚えていたとしても、今の鈴姫は当時の彼とは似ても似つかない変貌を遂げているのだが。

 

(……時間の変化というのは、残酷だよな……)

 

 そう思うにはまだ、自分も若すぎるが。リトル時代から一人だけ悪い意味で変わってしまった自分を嘲笑うように、星菜は微笑を浮かべた。

 

(……成長したところ、先輩に見せてやれ)

 

 リトル時代は補欠でしかなかった小さな男の子が、高校野球公式戦の舞台で堂々と阿畑と対峙するレベルにまでたどり着いた。お互いの当時を知る星菜からしてみれば感慨もあり、嘘のような光景だった。

 

「大丈夫星菜ちゃん? 辛そうだけど……」

「……大丈夫です。暑いのは好きですから」

 

 どうやら傍目からは変な顔に見えていたのか隣で応援する亜美から心配そうな声を掛けられるが、星菜は視線をグラウンドに向けたまま問題はないと返す。

 平常時の星菜ならば言った後で「私が夏の暑さに強くてもしょうがない」と卑屈に考えていたのだろうが、この時はただ目の前の対決に集中していた。

 

 ――カキィン! と、鋭い打球音が響く。

 

 勝負の五球目、阿畑がツーエンドツーの並行カウントへと追い込んでから投じた、アバタボールであった。

 内角低めに決まった一球――空気抵抗によって左右に揺れながら落ちてきたそのボールを、コンパクトに振り払った鈴姫のバットが捉える。痛烈な打球は右方向へと転がっていき、投手阿畑の左側を抜けていく。

 しかし観客席が沸き立ったのも一瞬。ボールは素早く回り込んだ二塁手によって捕球され、すかさず一塁へと転送される。打者走者鈴姫の瞬足も間に合わず、惜しくもセカンドゴロとなった。

 

「少しだけ、芯を外したか……」

 

 初対戦の一打席目としては上々の内容だったが、本人はそう思っていないのだろう。不満げな表情で阿畑の顔を一瞥した後、渋々とベンチへと引き下がっていった。

 

 

 一回の表が終了した攻守交代の合間に、星菜は改めて後攻のそよ風高校のオーダーを確認する。

 

 一番センター鈴木。

 二番ショート田中。

 三番サード佐藤。

 四番ピッチャー阿畑。

 五番キャッチャー木崎。

 六番レフト高橋。

 七番ライト伊藤。

 八番ファースト山本。

 九番セカンド渡辺。

 

 全くもってどうでもいいことではあるが、妙にありふれた苗字が多いのが気になるところだ。

 前述したがそよ風高校は小粒な選手が多く、長打力に関してはパワフル第三高校の方が上なぐらいというのが事前に調べた情報である。

 しかし中には注意しなければならない打者もおり、四番の阿畑はもちろん一回戦では五番の木崎が特大のホームランを放っていたことを星菜は思い出す。

 

《一回の裏、そよ風高校の攻撃は、一番センター鈴木君》

 

 くれぐれも、二人の前にだけは走者を出したくないところだ。星菜他二百人以上もの竹ノ子高校応援団が見守る中、エース波輪風郎が豪腕を解放した。

 

 

 

 

 

 それは、圧巻の投球だった。

 いきなり153キロのストレートで観衆の度肝を抜くと、そよ風高校のトップバッター鈴木をたった三球で三振に仕留める。続く二番田中、三番佐藤を相手にもほとんどストレートのみの配球で両者空振りの三振に切って取り、三者連続三振という形で上々の立ち上がりを締めた。

 これが竹ノ子高校のエース――今大会最速の男と呼び声高い、波輪風郎の投球である。

 得意気な表情でマウンドを降りていく相手エースの姿を目に映しながら、阿畑やすしはグラブを片手に二回表のマウンドへと駆け出していく。

 

(そうや、それでええ。不調のお前を倒してもしゃーないもんな)

 

 その心にあるのは相手エースの上々の出来に対する怯えでも、勝利に対する不安でもない。

 ただ純粋に、強敵と投げ合えることへの喜びだ。

 相手が強ければ強いほど、阿畑の闘志は熱く燃え上がっていった。

 

《四番ピッチャー、波輪君》

 

 手短に投球練習を終えると、場内アナウンスから四番打者の名が読み上げられる。初回を三者凡退に抑えたこのイニングは、両陣共に四番から始まる。

 阿畑としては、待ちに待ったライバルとの直接対決だった。

 

「いくで!」

 

 捕手木崎の出したサインに快く頷き、阿畑やすしはオーソドックスなオーバースローから一球目を投じる。

 回転の無い、揺れて落ちる変化球――アバタボール。

 挨拶代わりに投じたそのボールを、波輪はバットをピクッと反応させながらも見送った。

 

「ボール」

 

 審判の判定を耳にしながら、阿畑は捕手からの返球を受け捕る。あわよくば空振りか内野ゴロを打たせたかった一球だが、相手も冷静なのか初球から低めに外したボールに手を出すことはなかった。

 

(そうそう、じっくり楽しもうや)

 

 波輪風郎は投球もさることながら、打者としても非凡な才能を持っている男だ。阿畑もまたエースであると同時にチームの四番を打つ好打者でもあるが、そちらに関しては目の前に立つ彼ほど才能があるとは思っていない。

 投手でも野手でも十分にプロの世界で羽ばたいていけるだろう。彼の贅沢すぎる才能は、一歳年上の先輩から見ても実に憎たらしいものであった。

 

「ストライク!」

 

 二球目。先ほどのアバタボールと全く同じリリースから投じたのは、短く曲がるスライダーだ。何を狙っているのだろうか、打席の波輪は外角一杯に決まったその球を今度はピクリとも反応せずに見送った。その佇まいはどこか不気味に映り、阿畑の投手としての嗅覚が危険を訴えていた。

 

(竹ノ子高校で一発のあるバッターはコイツと絶好調の時の矢部ぐらいや。まあワイの球を柵越えに出来るのはコイツだけやろなぁ。せやから、コイツに対しては慎重にアウトローを攻めなあかん)

 

 初回の波輪の投球を見る限り、打線の援護はあまり期待出来ない。故に、この試合は竹ノ子打線に一点も与えることが出来ないのだ。走者を置いてのホームランどころか、ソロホームランすら許されない試合――だからこそ阿畑は、竹ノ子高校一の長距離砲である波輪風郎を執拗に警戒していた。

 

(……と、並のピッチャーなら思うとこやろうけど)

 

 だが、警戒と逃げ腰は違う。

 二イニング目からピンチでもないのに相手打者の長打力に怖がっているようでは、宿敵の居るあかつき大附属を打倒し甲子園に出場するなど無理の一言だ。

 

「ここで向かっていかな、話にならんやろ!」

 

 チラッと自軍のベンチに居るマネージャーの姿を一瞥した後、阿畑は渾身の力を込めてボールを投じた。

 打者の内角に向かって食い込んでいくボールはシュート。打席の波輪はその変化に臆すことなくフルスイングするが、バットは空を切った。真芯で捉えれば、いとも容易くスタンドまで運ばれていたところだろう。その豪快な空振りに一度安心の息をつくと、阿畑は即座に気を引き締め直す。

 これでツーストライク、ワンボールだ。投手に有利なカウントに追い込んだ阿畑は、既に次に投じる球種を決めていた。語らずとも捕手木崎もまた同じ考えらしく、彼から寄越されたサインは阿畑の望み通り「アバタボール」のものだった。

 

(ちゃんとかかれよ!)

 

 空気抵抗によって気まぐれに変化するナックルは、阿畑自身にすらどう曲がるかわからない。しかし阿畑はこれまで幾度となく繰り返してきた練習によって、細かい制球こそ出来ないもののある程度のコースにはそれを決めることが出来た。

 間違っても真ん中には行くなと、その思いを込めて投じたボールはストライクゾーン――外角低め一杯へと上手い具合に揺れ落ちてくれた。

 

 そして、一閃――。

 

 打者が振り抜いた金属バットが快音を、阿畑の耳にとっては不吉な音を響かせる。打席上の波輪は阿畑がこれ以上無いほど完璧に決めたアバタボールを強引に引っ張り、そのフルスイングで捉えたのだ。

 

「アウト!」

 

 空を掻く痛烈な打球はしかし外野まで到達することなく、ショートのほぼ定位置にてグラブへと収められる。抜けていれば長打コースという当たりに一瞬肝が冷えた阿畑だが、とりあえずはその結果に安堵した。

 

(あっぶなかったぁ~……一打席目であそこに決まったアバタボールを打ち返すか普通? ほぼ完璧に対応しとるやないか!)

 

 安堵の後に阿畑が覚えたのは、やはり打者波輪風郎の才能に対する恐れだった。

 ショートライナーに終わったとは言えこの試合の一打席目、ほぼ初見に近い筈のアバタボールに対し、波輪は完璧にアジャストしてみせたのだ。それがどれほど異常なことかわからない阿畑ではない。

 

「……三番の鈴姫って奴にしてもそうや。そりゃあノーノーなんて大層なことをやらかしたんやし、試合前から研究されてるんやろけど、これでも付け焼刃で打てるような球やないんやけどなぁ。……まあ良かったわ、あの球が完成する前に当たらなくて」

 

 竹ノ子高校は随分前からアバタボールの対策を研究していたのか、それとも何か効果的な練習方法を見つけたのか。どちらにせよ、一回戦の相手のように簡単には行かないようだ。

 阿畑は彼に対してこれまでしてきた警戒すらも甘いと認識し、気を引き締め直した後で後続の打者と向き合う。

 

 阿畑の制球は冴え渡る。竹ノ子高校の五番外川には出し惜しみ無しとばかりにアバタボールを多投して追い込むと、決め球に選択した外角低めのストレートで見逃し三振に打ち取る。続く六番池ノ川へは内角へのシュートボールを詰まらせることで、球数少なくショートゴロに抑えた。

 

 (パワー)は波輪の方が上だが、(テクニック)は自分の方が上だと。

 

 そう言い張るような、阿畑の投球であった。

 

 



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ムテキング

 

 二回の裏。竹ノ子高校のマウンドに佇む波輪風郎は、この日最初のピンチを迎えていた。

 この回の先頭打者は四番の阿畑やすし。波輪が彼を相手に投じた球種は、その全球がストレートであった。初回から全開に飛ばしている豪腕は152キロ、153キロとギアを上げていき、最後は154キロのストレートを外角一杯に決め、見逃しの三振に仕留めてみせた。

 驚きに眼を見開きながらベンチへと引き下がっていく阿畑の姿に、波輪は唇をつり上げる。波輪はこの時、自身の右腕が最高の状態であることを実感していた。

 しかしそこで気を緩めた――と言えば語弊があるが、単調な攻めになってしまったのが反省点である。阿畑の次を打つ五番木崎に対する初球では続けて投じた外角のストレートを見事に狙い打たれ、ライト前へと運ばれてしまった。

 

「アイツ、やるなぁ」

 

 単調に行き過ぎたとは言え、狙っていたからとそう簡単に打てる球ではない。波輪はこの試合許した初の被安打に苦虫を噛み潰す一方で、今しがた見事な右打ちを披露した五番打者の打撃センスを賞賛した。

 あの打者の名は木崎彰――守備ではここまで捕手として阿畑をリードしている彼は、竹ノ子高校野球部が誇る二大マネージャーの情報によれば今年入学した一年生らしく、中学時代は強肩豪打の捕手として有名だった選手らしい。波輪は今のヒットでその噂に違わぬ実力を感じ取り、将来的な成長が末恐ろしいものだと思った。

 

 この試合初の出塁を許した波輪がワンアウト一塁で迎えた六番打者は、すかさず送りバントを敢行してきた。

 打者の体格は木崎と比べれば一回り以上小柄ではあったが、波輪の150キロのストレートに怯むことなく、敵ながら見事に三塁線へと転がしてきた。猛ダッシュでボールを拾ったサードの池ノ川が一瞬だけ一塁走者に目を向けたものの、二塁への送球は間に合わないと判断し手堅く一塁へと投げた。

 打者走者はアウトとなり、これでツーアウト二塁である。ワンアウトであったにも拘らず初球からバントを仕掛けてきたことから、とにかく走者を得点圏に進めたいというそよ風高校ベンチの思惑が窺える。

 

「二塁まではくれてやるさ」

 

 二塁ベースに先制の走者を置いた波輪だが、その状況にプレッシャーは感じていない。

 寧ろ波輪には、自分はピンチであればあるほど力を発揮するタイプであるという自負があった。

 好きなだけ進塁してくれて構わないが、決してホームベースは渡さない。ボールにより気迫を込めると、波輪は続く七番打者と相対した。

 

 

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 球審の判定に応援席が沸き上がり、喝采の大拍手がグラウンド内へと送られていく。

 二回の裏、竹ノ子高校が初めて迎えたピンチは、全く胃を痛めることなくあっさりと幕を下ろした。それまでほぼストレートしか投げていなかったところにキレのあるスライダーを織り交ぜ、最後は低めに落としたフォークボールで空振り三振。そよ風高校の七番打者に一度もバットを当てさせない、完璧な投球だった。

 

「……絶好調だな」

 

 星菜は周りの歓声にかき消される声量でそう呟いた。愕然とまではいかないものの、その表情には驚きが隠せない。

 今までマネージャーとして数ヶ月間波輪風郎のことを見てきた星菜であるが、今日ほどボールが走っている彼は見たことがない。阿畑やすしという好投手と投げ合うことで、より力が引き出されているということなのだろうか。初回から150キロ台を連発している彼の投球は、技巧派投手を好む星菜をしてもいつまでも見ていたいと思わせる快投であった。

 

 そしてそんな波輪に対抗するように、三回表は阿畑やすしが魅せてくれた。

 回先頭の七番青山をアバタボールで空振り三振に打ち取ると、続く八番石田を外角一杯のスライダーで見逃し三振。九番小島には内角高め(インハイ)に決めた142キロのストレートで鮮やかに空振り三振を奪ってみせた。

 

 呆気なく終了した三回表の竹ノ子高校の攻撃であったが、裏のそよ風高校の攻撃もまたあっという間に終わった。

 八番山本、140キロのスライダーで空振り三振。

 九番渡辺、高めの釣り球の152キロのストレートを空振り三振

 一巡して回ってきた一番の鈴木は138キロのフォークに手を出してしまい、空振り三振。

 三回の攻防は両陣とも三者連続三振という、二人のエースが球場を支配する奪三振ショーであった。

 

(どっちも流石だ……)

 

 お互いに高校球児のレベルを超えている。近い将来では二人ともプロの舞台で投げ合っているのだろうなと、他人事ながら遠くを見るような目で星菜は思った。

 そう、全くの他人事である。

 彼らの投げ合いに、自分が入り込める余地などどこにもない。二人のエースが戦っている世界は、星菜にとってどこまでも遠いものだった。

 

(……他人を煽っておいて、自分はこんな風に拗ねているだけじゃダメか……)

 

 楽しそうに投げ合う二人の姿に嫉妬めいた感情が沸き上がってきたことを自覚した星菜は、苦笑を浮かべながらそれを心の奥へと閉じ込める。

 今自分がすべきことは波輪達竹ノ子高校の勝利を信じて応援することだけだと、星菜は周りの空気に乗って彼らに声援を送った。

 

 イニングは四回の表へと移り変わる。この回になってようやく打順が一巡した竹ノ子高校は、遂に初ヒットが生まれた。

 一番の矢部、二番の六道が立て続けにセカンドゴロに打ち取られ、簡単にツーアウトを献上した直後のことである。三番の鈴姫がツーエンドワンへと追い込まれてから投じられた外角低めのアバタボールを巧みにすくい上げ、引き手一本でセンター前へと運んだのである。

 

「キャアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 技ありの一打に星菜が喜ぶよりも早く、耳を塞ぎたくなるような黄色い歓声が周囲の女子生徒達から上がった。それにはチーム初ヒットによる盛り上がりもあるのだろうが、何より打ったのが鈴姫健太郎というのが大きいのだろう。少女達にとって美少年は正義であり、目に見える活躍があれば盛大に喜ぶのは道理であった。

 

(……アイツはこの先プロになったら、いろんなファンに追っかけられそうだなぁ……)

 

 ルックスが良く、野球に対し真摯に打ち込む生真面目さも持ち合わせている。将来的にプロの世界でデビューするとなれば、多くの女性ファンを獲得する選手になるであろうことが容易に想像出来る。

 しかしその一方で彼は異性の扱いにぶっきらぼうな面があり、何かトラブルを起こすこともありそうだなと少々不安に思った。

 

(……って、私が心配してどうするんだか)

 

 自分にとっては気にする必要の無いことである。何かを諦めるように一塁上の鈴姫の姿から目を離すと、星菜は右打席に入った四番波輪の打撃に注目する。

 

 ――初球であった。

 

 阿畑が投じた初球、ストレートと同じリリースから放たれたスライダーを捉え、金属バットから鼓膜を揺らす快音が響く。

 左方向に引っ張った打球は痛烈な勢いのまま瞬く間に内野の頭上を越えていき――数歩後退したレフトのグラブへと収まった。

 

「ああっ! 正面か……」

「惜しいなあくそっ!」

 

 当たりは間違いなく長打性だったが、飛んだ場所が悪かった。沸き上がった応援団の歓声は一瞬で落胆の声へと替わり、四回表の竹ノ子高校の攻撃が終わった。

 

 そして面白いことに、裏のそよ風高校もまた同じような攻撃内容であった。

 まず二番田中が空振り三振に打ち取られると、三番佐藤がちょこんと当てただけの打撃でボテボテのセカンドゴロに打ち取られる。

 容易くツーアウトを献上したそよ風高校だがそのまま三者凡退とは行かず、四番阿畑が意地を見せ、内角高めのストレートを詰まらせながらもレフト前に運ぶテキサスヒットを放った。

 そして回ってきた、五番木崎の打席。内側からストライクゾーンに入ってきたスライダーを上手く捉え、センター方向へと鋭い当たりを放った。

 

「ああっ……おおおおお!?」

「おおお! ナイス!」

 

 連打を浴び消沈しそうになった竹ノ子応援団が、歓喜の叫びを上げる。

 センター前に抜けるヒットかと思われた打球は横合いから飛び込んできたショート鈴姫のグラブに収まり、素早く二塁へとバックハンドトス。一塁走者阿畑がフォースアウトとなるショートゴロに終わったのである。

 スリーアウトチェンジとなり、竹ノ子ナインが鈴姫に賞賛の声を掛けながら自軍ベンチへと駆けていく。しかし一打席目のヒットと言い、星菜は波輪に最もタイミングが合っている打者として四番の阿畑以上に五番木崎のことを強く警戒した。

 ……尤もベンチに居ない人間が相手選手の打撃を警戒したところで、チームに影響は無かったが。

 

 

 

 

 

 試合は滞りなく中盤の五回へと差し掛かり、先頭の五番外川が打席に入る。

 しかし阿畑の癖の無いリリースから投じられるアバタボールにバッティングを崩され、自分のスイングが出来ないでいた。持ち前のミートの上手さで五球ほど粘ったものの、最終的には内角のシュートを引っ掛けてしまい、あえなくサードゴロを打たされた。

 

「ここまで来ると打ち取られて嬉しいね。サッカー部では味わえなかったドーンときて、ガシャーンとやられる感覚。あんな投手を打たなければいけないと思うと、わくわくする」

「ああ、気持ちはわかるな」

 

 凡打を打ちながらも言葉通り嬉しそうな表情を浮かべてベンチへと帰ってきた外川に、波輪は共感を覚える。

 大会きっての好投手である阿畑やすしは竹ノ子高校にとって厄介な強敵だが、選手個人としては戦っていて非常に楽しい相手なのだ。

 

「でもそんなこと言っておいて負けたらカッコ悪いッスよ」

「まあ今はとにかく粘って、我慢の時だろーな。粘って食らいついて、終盤ピッチャーが疲れてきたところが勝負だろう」

 

 波輪の言葉へのマネージャーほむらの尤もな意見に対し、監督の茂木が常と変わらない気だるげな表情を浮かべながら言う。

 

「いくらドラフト候補ったって、全くノーチャンスってことはないさ」

 

 相手も同じ高校生。精密な機械でも妖怪でもないのだから、と茂木は続ける。いかに阿畑やすしと言えど全てのボールが狙ったところへ完璧に決まるわけではなく、こちらも必死に食らいついていけばいつかは隙を見せる筈だとも。

 そして五番外川の後を打つ六番池ノ川の打席――阿畑はこの試合、初めてその隙を見せた。

 

「ボールフォア」

 

 池ノ川はタイミングを崩されながらもフルカウントまで粘ると、低めに外れたアバタボールを見極め四球(フォアボール)を選んだのである。

 

「いいぞ池ノ川ー!」

「ナイス選ナイス選!」

 

 ストライクゾーンを外れた低さは非常に際どくストライクを取られてもおかしくなかったのだが、寸でのところでバットを止めることが出来た池ノ川の粘り勝ちである。マウンド上の阿畑はその高校生らしからぬ老け顔に苦々しげな表情を浮かべていた。

 

《七番ライト、青山君》

「フハハ! 僕が試合を決めてみせますよ」

 

 ワンアウトながら、貴重な走者を出すことが出来たのは大きい。場内アナウンスに名を告げられた青山は大振りな素振りをしながら、意気揚々と打席に向かう。

 しかしその態度とは裏腹に、彼が次に起こした行動は謙虚なものだった。

 

「バントのサインは出してないんだけどなぁ」

「でも監督が出してたのは「好きにしろ」ってサインですから、今のはサイン無視じゃないっすよ」

「まあそうだけどな……なんつーかお前ら自由だよな」

 

 送りバント。二回裏のイニングにそよ風高校がワンアウトからも走者を送ってきたように、青山は手堅く一塁走者を進塁させることを選んだのだ。

 悪く言えば消極的だが、連打が難しい竹ノ子高校の下位打線が阿畑やすしを相手に移す行動としては最良の選択かもしれない。一塁線へと転がした送りバントは一球で成功し、竹ノ子高校はツーアウト二塁とチャンスを作った。

 

「お! ナイスバントゥー!」

「石田君! ここで打てばヒーローでやんす!」

「おう! スタンドの星菜ちゃんにホームランボールをプレゼントしてやるぜ!」

「……いや、それは無理だろ」

 

 五イニングス目にしてようやく得た得点のチャンスにベンチの熱気が増し、個性の強い面々がはしゃぐように声援を送る。それに対し鈴姫一人だけが妙に冷めた言葉を吐くという自軍の試合では見慣れた光景に、波輪は苦笑を浮かべる。

 良くも悪くもムードメイカーが多いというのが、竹ノ子高校の特色だった。

 

 そしてその盛り上がりは、八番石田の打撃結果でさらにヒートアップする。

 

 打ったのは外角のストライクゾーン一杯に決められた140キロのストレート。タイミングは振り遅れ、当たったのは芯を大きく外れたバットの先。打球は力の無いボテボテのショートゴロとなり、内容では完全に負けていた。

 しかし、打球が死にすぎたのが幸いした。

 力の無い打球はショートが前進して捕球するまでに時間を要し、素早く送られた送球がファーストミットまで到達する頃には、既にヘッドスライディングした石田の両手が一塁ベースに触れていたのである。

 

「出たー! 石田先輩のインチキヒットだあーっ!」

「俊足を生かした内野安打って言ってやれよ……」

 

 元々石田は、波輪と矢部が野球部に引き込むまでは陸上部に所属していた選手である。お世辞にも打撃が上手いとは言えないが、その走力だけは声を大にしても誇れる長所だった。加えて右打者よりも一塁ベースに近い左打者だったというのも、今回の幸運を呼んだ要因であろう。

 一方で完全に打ち取った打球をヒットにされた阿畑は、微々たる変化ではあったが不服そうに表情を歪めていた。

 

「これでランナー一三塁のチャンスだ。頼むぞ小島!」

 

 練習試合や一回戦では今一つチームに貢献できなかった下位打線だが、ここに来て意地を見せている。ここで九番打者である小島にタイムリーヒットが飛び出そうものなら、この先他校に「竹ノ子高校は波輪のワンマンチームではない」と認識させることが出来るかもしれない。そうなれば非常に美味しく、また主将の波輪にとって気分が良い話だった。

 元来波輪は自分の個人技による得点よりも、全員野球で繋ぎ得た一点の方こそを尊重したいと思う人間なのだ。

 

 しかし現実として目の前に映るのは、このチャンスで一段ギアを上げてきた阿畑を相手に手も足も出ず三振を喫する小島の姿であった。

 

「うわ、えげつねぇ……」

「ド、ドンマイドンマイ! しまっていこう!」

 

 走者を一塁と三塁に置いたピンチで阿畑が投じてきたのは、これまで以上に精度もキレも高まったアバタボールであった。石田は泉星菜のナックルよりも遥かに上を行くその変化に翻弄され、最後は捕手の手前でワンバウンドしたボールに手を出し空振り三振に終わったのである。

 

(小島の打席に打てる球は来なかったな。今のはしょうがない)

 

 これでスリーアウトチェンジ。結局二者残塁に終わったイニングではあるが、次が一番の矢部から始まる好打順というのは大きい。波輪はこの回で打順を調整出来た点では下位打線の攻撃を批難する気は全く無かった。

 尤も本人達にはそれで満足してほしくはないが、彼らは現状最低限の仕事はしてくれたと思っている。

 

「今度は、俺が自分の仕事をしなきゃな……」

 

 だがエース投手である波輪風郎には、下位打線よりも求められるものは厳しい。彼にとっての最低限の仕事とは、「試合に勝てる投球」をすることなのだ。

 そして阿畑やすしを相手にするこの試合において、勝てる投球とは即ち「無失点」に抑えることだと考えている。

 

 座右の銘は有言実行である。

 

 五回の裏、波輪は球場に詰めかけた者全てにエースが何たるかを見せつけるように、そよ風高校の六番から八番までの打者をこの試合三度目の三者連続三振に切り伏せてみせた。球速は自己最速を更新する155キロを計測し、僅か五イニングで早くも十二個目となる三振を奪ったのである。

 その圧倒的な投球に訪れていたプロ野球のスカウト全員が熱視線を向けていたことは、もはや語るまでもない。

 



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猪狩式デート申し込み

 

 五回裏のそよ風高校の攻撃が終了したことで、試合は一時中断しグラウンド整備が行われる。

 両校の応援団としては数少ないグラウンドから目を離しても問題の無い休憩時間となり、生徒達がトイレや飲料水購入の為席を外す姿があちこちに見えた。

 星菜もまた、その一人であった。

 炎天下の中大声を上げていれば、自ずと喉は渇く。手元の水筒の中身を切らしてしまった星菜にとって、この時間は水分補給用の飲料水を購入する絶好の機会だったのだ。

 しかし同じ目的で席を外す者が何人も居れば、当然販売場所が混雑してしまう。その為星菜は他に飲料水が必要な者が居るか周囲に聞き回り、要求された分を一人で販売場所へと向かって購入することにした。

 

「悪いな泉さん、まじ助かる」

「泉ちゃんが優しすぎて生きるのが辛い」

「辛い? 団長、大丈夫ですか……?」

「いやあ……はは、このぐらいへっちゃらさ!」

「なにデレデレしてんだこの野郎!」

 

 その際、最前線で応援している応援部の元にも聞きにいくことは忘れない。グラウンド内で戦っている選手達を除けば、今最も疲労しているのは彼らなのだ。そんな彼らに飲み物を届けるのは、協力している野球部のマネージャーとして必要な気遣いであった。

 幸いにも要求された数は一箱のクーラーボックスに余裕で収まる程度であり、星菜一人でも持ち運ぶことは可能だ。周りからは数人ほど手伝いに名乗り出てくれた親切な者も居たが、星菜はそれらに自分だけで大丈夫だと断って一人販売場所へと向かった。

 

 

 

「泉?」

 

 そうして一旦スタンドを離れ、十数個の飲料水を購入した星菜であったが、販売場所を後にスタンドへ戻ろうとしたところで足を止めた。道中、思いがけない人物と遭遇したのである。

 

「おお、君やっぱり泉やろ? 泉星菜!」

「……九十九(つくも)さん?」

「そや、九十九(つくも) 宇宙(そら)。いやあ、懐かしい顔に会えたなぁ」

 

 肩に掛かる長さの黒髪に、やや目つきの悪い顔立ち。180センチ前後の長身は一般人の中には溶け込めないほど引き締まった体格だが、人相の悪さから一見不良にも見える容貌。しかしその口から出てくる言葉は彼の本質である気さくさが表れており、星菜に向ける表情もまたその目つきの悪さが気にならない爽やかなものだった。

 

「ご無沙汰しています」

「おう、リトル以来やな。あの時とは偉く雰囲気が変わっとるもんやから見違えたで」

 

 それは星菜にとって、六年ぶりになる再会であった。年齢も違い、長期間会っていなかった人物であるが、星菜は彼のことをよく覚えていた。

 彼の名は九十九(つくも) 宇宙(そら)。星菜が小学四年生の頃のリトル野球チームの元チームメイトであり、二つ上の先輩に当たる。今しがた球場で投げているそよ風高校のエース阿畑やすしとは同級生であり、彼とは非常に仲が良かったことを覚えている。

 六年前に会って以来である彼のことを星菜が覚えているのは、彼が当時チームの中で重要な存在だったからというのが大きい。彼の代はチームのキャプテンこそ阿畑やすしであったが、最も優れた野球センスを持っていたのは他でもない彼、九十九宇宙だったのだ。星菜はその活躍ぶりを何度も目にしていた為、顔を見れば自然と思い出すことが出来た。

 しかし彼の方が自分のことを覚えていたのは、星菜にとって意外な事実であった。

 

「九十九さんは私のことを、覚えていたのですか?」

「ん? あー、そりゃあな。あんなにセンスのある女の子なんて君ぐらいなもんやったし、ワイらが引退した後二年連続で優勝投手になった後輩やからな。よく覚えとるで。そっちこそワイのことをちゃんと覚えてたのは意外や。逃げられるのを覚悟で声掛けたんやけど」

「……あかつき大附属のレギュラーですから、忘れていても思い出しますよ」

「ほー、調べておったんか」

「これでも竹ノ子高校のマネージャーですから」

 

 九十九は現在、今春の選抜優勝校である名門あかつき大附属高校のライトを守っている。マネージャーとして星菜は偵察に趣いたものだが、あかつき大附属高校は今大会ではシード校として出場し、前評判通りの圧倒的な実力を見せて既に三回戦進出を決めている。そんなチームのレギュラーに名を覚えてもらっているというのはそれなりに光栄なことであり、少々嬉しくもあった。

 対する九十九は星菜の言った言葉と身に纏っている制服から今の星菜の立場を理解したのか、飄々した雰囲気から一転して真剣な表情を浮かべた。

 

「なんや、マネージャーってことはもう野球はやってないのか?」

「この見かけで、野球が出来ると思いますか?」

「……そりゃまあ、野球選手には見えへんけど」

「だから今はマネージャーを務めています。結構楽しいですよ」

「そうか? ……なーんか嘘くさいなぁ」

 

 星菜はこの過去の知人との再会には喜ばしい気持ちはあったが、同時に怖くもあった。昔話に花を咲かせるのは悪くないが、彼の知らない自分の五年間を詮索されるのを恐れているからである。

 故に星菜は、その内心を微笑で誤魔化しながら言葉を紡いだ。

 

「申し訳ありませんが、そろそろコレを持って母校の応援に戻らなければなりません。お話はまた後で、今は失礼します」

 

 ここで再会したのも縁と話したいこともないではないが、話したくないことの方が遥かに多かった。元々彼とは先輩後輩の関係だけで、特別に親しかったわけではないのだ。素っ気ないと思われるかもしれないが、クーラーボックスに入れた飲料水を言い訳にその場から離れることにした。

 

「待て」

 

 だがその時、物陰から現れた一人の青年が星菜の行く手を遮った。

 完全に不意を突かれた登場に不覚にも怯えの声が漏れそうになった星菜だが、辛うじて澄ました表情だけは取り繕った。

 

「貴方は……」

 

 九十九よりも数センチ高い身長に、星菜は自然と下から見上げる形になる。天然と見受けられる茶色の髪が特徴的で、腰の高い体つきは細身ながらもがっしりと鍛え上げられたことがわかる。顔立ちはその半袖から覗く筋肉とは不釣合いな童顔だが、若い女性ならば思わず目が行ってしまいそうな甘いマスクを持っている。

 生憎にも星菜は常日頃から美青年の顔は見慣れている為全く意識しなかったが、彼の大きな青色の瞳には無意識に引き込まれていった。

 恐らくは彼の瞳が映す「意志の強さ」が、自分には持ち合わせていない為に羨ましく見えたのかもしれない。

 

「おいおい猪狩、せっかくワイが仲介してやったってのにそんな不気味な登場の仕方があるか」

「……泉星菜、野球をやめたというのは嘘だろう。だったらなんで、君はあの恋々高校との試合で登板したんだい?」

 

 青年はジト目で睨む九十九の視線を無視しながら、己の名を名乗るよりも先に問い質してきた。

 彼とはこれが初対面というわけではないが、最後に会ったのは五年前のことだ。しかし九十九に続いて彼までも自分のことを知っている様子に、星菜は内心驚いた。

 猪狩 守(いかり まもる)。二年生にして名門あかつき大附属高校のエースの座を掴み、今春の選抜でその名を全国に知らしめた天才投手――高校野球界一の大物である。

 

(猪狩守が、あの時の試合を見に来てたのか……)

 

 そんな人物がこのような場所に居ること自体が驚きであったが、深く考えてみればそれほど可笑しい話ではない。川星ほむらから聞いた話だが、彼は竹ノ子高校の波輪風郎を強くライバル視しているとのことだ。そのライバルの登板試合を直々に偵察しに来たというのは、十分納得出来る話だった。

 もちろん、恋々高校との練習試合を見に来ていたというのも可笑しな話ではない。

 

「……波輪先輩にアクシデントが起こったので、緊急的に登板しただけです」

「緊急登板は事実でも、野球をやめた人間にあんなピッチングは出来ないさ」

 

 だが、解せなかった。

 今彼がグラウンドに居るライバルの波輪ではなく、泉星菜に対し強い視線を向けていることが。

 星菜が抱いたその疑問は、彼が直後に言い放った言葉によって腑に落ちる。

 

「すまない、僕としたことが申し遅れたね。僕は猪狩守。あかつき大附属……いや、「いかりブルース」のエースだった男だ。九十九先輩のことは覚えていて、僕のことを覚えていないとは言わせないよ」

 

 あかつき大附属高校のエースではなく、「いかりブルース」のエースとして名乗った。その言葉に星菜はポーカーフェイスを崩し、驚きに目を見開く。

 いかりブルースとは、彼がリトルリーグ時代に所属していたチームの名だ。彼がエースを張っていた当時は優勝候補筆頭と呼ばれており、実際小学生とは思えないほど強力なチームだった。

 しかしそんなブルースも最終的には敗北し、大会で優勝を収めることはなかった。

 星菜と小波が率いるおげんきボンバーズが、彼らを打ち破ったからである。

 

(そうか、この人も、あの時のことを覚えているのか……)

 

 どんな天才も、常に勝ち続けているとは敵わない。横綱力士もまた幼稚園児の頃は喧嘩で泣かされたことがあるというのも、別段珍しい話ではないのだ。

 

「懐かしいですね……弟さんはお元気ですか?」

「ああ、進なら来年にはレギュラーになるだろうね。まあ、そんなことはいいんだ」

 

 だが、この時星菜は思い違いをしていた。

 星菜は猪狩守にとってのリトルリーグ時代など、所詮は幼い頃の遠い記憶に過ぎないものだろうと思っていたのだ。「そう言えばそんなこともあったな」と、久しぶりの再会の話の種にするような昔話でしかないものだと。

 しかし、それは誤りだった。

 

「……僕は五年前、君と小波との対決で初めて挫折を味わった。その屈辱は今でも忘れていない」

 

 彼は単に覚えていただけではなく、「根に持っていた」のだ。

 星菜が思っていた以上に、彼の中での当時の敗北は重いものだったのだろう。執念めいた強い感情が込められたその瞳に、星菜は気押される。

 

「君と再会する日を待っていた。是非とも、僕の挑戦を受けてほしい。あの時のリベンジをしたいんだ」

「おっ、女の子が相手だから小波相手にする時よりも紳士的やな」

「先輩は茶化さないでください」

「いやだって初めて見るからなぁ。お前が男じゃなくて女の子に絡むところ」

「……人を同性愛者みたいに言わないでください」

 

 春の甲子園優勝投手が、小学生時代の因縁を持ち出して挑戦状を叩きつけてきた。

 波輪しかり星菜の身の回りに居る才ある者は総じて負けず嫌いであったが、彼もまた同じ人種のようだ。しかし全く持って予期していなかったこの事態に、星菜は困惑した。

 

「……私は、貴方に挑戦されるほどの大物ではありませんよ」

 

 困惑しながらも返すことが出来たのは、挑戦に対する拒否の言葉だった。

 数秒胸に手を当てながら目を閉じると、心を落ち着かせてから再度猪狩の表情を上目に見上げて言う。

 

「……と言うよりも、今の私は貴方と戦うに値しません」

 

 星菜の心から告げたその言葉に、猪狩は何かを言いかけて押し黙る。

 彼にとって過去の因縁がどれほどのものか、星菜にはわからない。しかし挑戦を申し込んできた以上は、半端に浅くないことだけは理解出来る。故にこの拒否の言葉は、彼にとってショックなものだったのかもしれない。

 しかし今その言葉に最も傷付いていたのは、言葉を告げた張本人である星菜自身であった。

 

(……受けたくてしょうがない癖に、また嘘をついて……)

 

 高校ナンバーワン投手の挑戦――同じ高校球児であれば、これを受けたくない筈が無かった。しかし、今の星菜にその勇気は無かった。

 

 ――怖かったのである。

 

(また、自分に嘘をついた。挑戦を受けて負けるのが怖いから……負けてしまったら自分が唯一追い縋れる過去の栄光すら無くなってしまうから。それが怖いんだ、私は……)

 

 何とも情けない理由である。例え負けたところで過去にあったこと全てが無くなるわけではないとはわかっているのだが、それでも星菜の言葉から出てきたのは拒否の言葉だった。

 それ以前に、負けることを前提に考えている時点で今の自分に彼の相手が務まるとは思えなかった。

 

「……残念だ」

 

 猪狩はその星菜の表情に何を見たのか、意外にも呆気なく引き下がる。それから「邪魔をしたね」と時間を取ったことを謝り、潔くその場を離れていった。

 姿勢良く歩き去る彼の後ろ姿は有名人ということもあってか衆目を集めているが、星菜には心なしか肩が沈んでいるように見えた。

 

「はは、まるで告白をフラれたみたいやな。こりゃあ珍しいもんを見たわ」

 

 とは九十九の言葉である。星菜には実際に告白をフラれた男の姿など見たことないが、その表現は酷く当てはまるように思えた。

 

(……でも、私にはあの人の挑戦を受ける資格は無い)

 

 申し訳ないとは思うが、後悔はしていない。猪狩守と自分とでは、そもそも実力以前に明確な差があるのだ。

 

(……今の私は、あの人の知っている私じゃないから……)

 

 いずれにせよ挑戦を受けたところで彼の期待に応える自信が、今の星菜には無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 グラウンド整備が終わり、試合が再開する。

 イニングは六回表の竹ノ子高校の攻撃へと移り、阿畑やすしは気を引き締め直してマウンドへと向かった。

 

「木崎」

 

 ――と、その前に捕手の定位置に着こうとする後輩を後ろから呼び止める。

 振り返る彼の表情は常と変わらず高校生らしからぬ厳つい顔立ちであったが、彼がその顔に似合わず心根の優しい人間であることを阿畑は知っていた。

 

「何ですか先輩」

「この回から、アレ使うで」

「アレ?」

「そや、アレやアレ」

「わかりました。やりましょう」

「おっ」

 

 木崎彰――そよ風高校が誇るゴールデンルーキーは阿畑が意図して少なくした言葉の意味を理解すると、即座に了承の言葉を返す。想定していた以上に乗り気な後輩の様子が嬉しく、阿畑は深い笑みを浮かべた。

 

「なんや、てっきり「ぶっつけ本番なんて無茶や!」ぐらい言われると思ったんやけど、偉く素直やないか」

「断っても投げるでしょうからね、先輩は。それに、俺も見てみたいんです。あの波輪風郎が、先輩の「本当の魔球」に打ち破れるところを」

「……言ってくれるやないか、一年坊。頼もしい限りや」

 

 阿畑やすしは代名詞であるオリジナルナックル――アバタボールの他にも多数の球種を持っている。カーブやシュートにスライダー、いずれもキレは超高校級のそれには及ばないが、十分実戦で使える程度には優れている。

 そしてもう一種、阿畑にはこの試合で一球も投じていない変化球があった。

 

「ワイルドピッチも全部受け捕ってやりますから、先輩は思い切り投げてください」

「おう、頼りにしとるで」

 

 それはそよ風高校の一回戦が終了した後、この試合の数日前にしてようやく完成した変化球である。その威力は捕手の木崎も絶賛しているが、アバタボール以上にじゃじゃ馬な変化球の為、これまではあえて使用を控えていた球だった。

 使用せずに勝てるのなら、それに越したことはない。しかし阿畑は竹ノ子高校の打線が三巡するこの回になって、そろそろ相手打者が捉え始めてくるのではないかという懸念を抱いていた。

 阿畑はそう言った投手としての嗅覚には優れている。悪い予感を抱いた時は、ほとんどの確率で的中していた。

 

(三番の鈴姫、四番の波輪はアバタボールにタイミングが合ってたからなぁ。流れを掴む為にも、コイツらは完璧に封じておきたい。となると、やっぱりあの球の出番や)

 

 マウンドに立った阿畑は、一球一球足場を確認するように踏み込んで投球練習を行う。

 そして持ち球を無駄なく投げ終えた後、最後に自軍ベンチに腰掛けている一人の少女の姿を一瞥した。

 

(見とけ、茜。ワイがライバル全員倒して、お前を甲子園に連れて行く!)

 

 未だ0対0のまま動かない試合だが、阿畑の気の昂ぶりは序盤のそれとは比べ物にならないほど充実していた。

 

 



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阿畑やすし、ココニ在リ

 

 六回の表、竹ノ子高校の攻撃。

 マウンド上の阿畑やすしは今、二塁に走者を置いた状態で三番鈴姫、四番波輪を迎えるというこの試合最大のピンチを迎えていた。

 この回先頭の矢部明雄に対しては、決して油断していたわけではない。打球は強くはなかったが、あの一球に関してはそよ風バッテリーよりも矢部の方が一枚上手だったと言う他ないだろう。矢部はツーストライクに追い込んでから投じた一球――低めに外したアバタボールを払うように捉え、三遊間を抜けるゴロヒットを放ったのである。

 追い込んでから打たれたのは勿体無い配球であったが、阿畑にとって先頭の打者を出塁させることは特に面白くない。

 走者を置いた状態では、アバタボールを使いにくくなるのだ。カーブ以上に球速の遅いこの変化球は阿畑の決め球であると同時に、走者にとっては何よりも盗塁しやすい隙となる。特に矢部明雄は竹ノ子高校きっての俊足の持ち主だ。捕手の木崎は一年生ながら並外れた強肩だが、彼の二盗を防ぐのはまず不可能だろう。

 

(まあ、その辺りの問題は今更やけどな)

 

 走者を一塁に置いた状況で盗塁されない為には、自ずと速球中心の組み立てにならざるを得ない。しかしその弱点を自覚しても尚、阿畑のメンタルは揺らがなかった。

 いくら走者が進塁しようとも、本塁にさえ帰さなければそのイニングは投手の勝ちなのだ。

 今の阿畑には、それを実践出来る自信があった。

 何球かストレートを連投し、牽制球も混じえながら一塁走者の動きを警戒する。そして次のボールで盗塁を仕掛けてこないと判断すると、阿畑は二番六道の内角高め(インハイ)へとシュートを投じた。

 六道が打撃フォームを解き、送りバントの構えに入る。それは、阿畑と木崎のバッテリーが予測していた行動だった。

 しかし六道も焦らない。打者にとって最もバントのしにくいコースである内角高めのシュートではあったが、ボールを打ち上げることなく巧みに三塁線へと転がしてみせた。

 

「まあええことよ。これでワンアウト、問題は次からや」

 

 送りバントを成功され、ワンアウト二塁となった。得点圏に走者を置いたこの場面で、二打席目ではアバタボールを見事センター前に弾き返した三番の鈴姫が打席に入る。

 

(簡単に攻めたらあかん……)

 

 五回表にも下位打線を相手にピンチを招いたが、迎える打者が彼となればその度合いはわけが違う。既に阿畑の中で鈴姫は、波輪に次ぐ要注意人物であった。

 阿畑は木崎のサインに頷き、セットポジションから一球目の投球動作に移る。

 選択したコースは外角、ストライクゾーンからボール球になるシュートだ。指先から放たれたボールは打者の手元で小さく曲がり、木崎の構えたミットへと狂い無く収まった。

 

「ボール」

 

 あわよくば手を出してもらいショートゴロを打たせたかったボールだが、鈴姫はそれをあっさりと見送る。一年生とは思えない落ち着いた佇まいは、秀麗な容姿も相まってか憎たらしく映った。

 

(うーん、なんやろなコイツ? なんかどっかで会った気がするんやけど……)

 

 その顔と言い、珍しい苗字と言い、彼とはどこかで会った気がした。しかしその記憶がどこまで正しいか、阿畑にはわからない。何か引っ掛かってはいるが、全くはっきりしないのだ。

 だがそれも、この勝負には関係の無いことだと頭から切り離す。グラウンドで違うチームに所属している以上、彼は阿畑にとって敵でしかないのだから。

 

「ストライク!」

 

 慎重に制球しながらも、腕の振りは緩めない。二球目に投じたのもまた外角の変化球だったが、一球目とは逆にボールゾーンからストライクになる曲がりの小さなスライダーであった。

 波輪のスライダーより球速は遅いし変化量も少ないが、阿畑にとって細かい制球の効く優秀なカウント球だ。打席の鈴姫はストライクゾーンギリギリに決まったそのボールに手を出さず、カウントはワンエンドワンとなった。

 

(待ってるのはアバタボールやろなぁ……)

 

 二打席目の内容と今現在における打席上の反応を見る限り、彼が何を待っているのかはある程度予想出来る。

 アバタボールは狙ったからとそう簡単に打てる球ではないが、彼は実際に二打席目に打っている。それでもあえてアバタボールを投げるか、このまま違う球種で攻めるかは難しいところだが……捕手木崎が要求してきたのは後者だった。

 左打者への内角。投手の利き手とは反対側に立つ打者の、インコースに向かって投げるストレート――クロスファイヤーと呼ばれるボールである。二球外角を意識させた直後なら、その球が有効だと判断したのだろう。

 その選択は結果的に、正解ではあった。

 非常に危ういところではあったが。

 

「ビビったぁ……心臓に悪い打球打つなや」

 

 内角一杯に投じたこの日最速の142キロのストレート――鈴姫はそれを真芯で捉え、フェンス直撃の打球を放ってみせたのだ。僅かにライト線を外れたファールボールではあったが、危うく配球ミスによって先制の失点を許すところであった。

 

「一年のリードを責めるわけにはいかへんな。まあ、とりあえずこれで追い込んだんや。後は……そう、わかってるな木崎」

 

 一瞬肝が冷えたが、結果的にツーストライクへと追い込むことが出来た。

 ツーエンドワンならば投手有利のカウントであり、次の一球がボール球になろうとさして問題は無い。もはや「新魔球」をお披露目するお膳立ては十分と言えよう。

 阿畑の性格をよく理解しているのか、木崎の出したサインは阿畑の望み通り、この試合で一度も使ったことのない「新魔球」のサインだった。

 

 

 

 

 

 

 阿畑やすしという男は、決して才能に恵まれた人間ではない。

 阿畑に波輪風郎や猪狩守、樽本有太のような剛速球など、一生かかっても投げることは出来ないだろう。それでも高校野球レベルでは平均以上の球速を持ってはいるが、彼らのような天才選手と比較すれば雲泥の差があった。

 身長も173センチ程度と投手としては心許なく、いずれも180センチを超えている彼らとは比べるまでもない。持って生まれた身体的な才能は普通の高校生と何ら変わりなく、野球エリートのそれとは言い難かった。

 だが阿畑は誰よりも努力家で、負けず嫌いだった。

 走り込みや投げ込み、地道ながらも常人ならば途中で投げ出すであろう過酷な練習をあくる日も繰り返し続け、急成長はしなくとも着実に、少しずつ力を付けていった。

 今では代名詞となっている「アバタボール」もまた、その過程で習得した変化球だ。

 しかしそのアバタボールですら、決して最初から完成していた球ではなかった。

 

(アバタボール、お前とは長い付き合いやな……)

 

 過去を振り返り、感慨に浸る。

 現代の魔球と呼ばれるナックルの存在を知り、習得に励んだのはリトルリーグ時代のことだ。小学五年生当時の阿畑は弱小チームの次期エースとなれるそこそこ速いストレートは持っていたが、何一つとして変化球を投げることが出来ず、「九十九宇宙」という同級生のライバルに挑んでは返り討ちにされるという日々を延々と送っていた。

 そんなある日、偶然テレビで行われていたメジャーリーグの中継から「ナックル」という変化球を初めて見て、「これだ!」と閃いたのである。

 誰にも変化を予測出来ないあの変化球を投げることが出来れば、どんなライバルにも勝てると確信した。それは自分好みの美しい女性を見た時のような、わかりやすい一目惚れだった。

 それから本やビデオで資料を集め、その投げ方を徹底的に調べることへと移した行動は早かった。しかし手が小さく握力も弱い小学生時代では最後までナックルを投げることは叶わず、完成は雲のように遠かった。

 しかしナックルを習得しようと練習を重ねた結果、阿畑はナックルとは違う奇妙な変化球を覚えた。ナックルのように無回転でも揺れて落ちもしないが、打者の手前で僅かに沈んでいく。スローボールとも微妙に異なる、チェンジアップの投げそこないのような変化球だった。

 それがアバタボール1号――「タコヤキボール」と名付けた、阿畑やすしが習得した最初の変化球である。

 今からしてみれば変化球と呼ぶのもおこがましい拙さであったが、当時の阿畑は自分が初めて投げることが出来た変化球に興奮し、歓喜に打ち震えた。自慢したい一心で九十九宇宙の家へと押しかけ、意気揚々と勝負を挑んだのには日も跨がなかったほどである。

 

 ――しかし、結果は惨敗だった。

 

 始めはストレート以外のボールを投げることに驚いた九十九だが、対応は早かった。阿畑は時折ストレートも混ぜて投球に緩急をつけたがタコヤキボールでは最後まで一球も空振りを奪うことが出来ず、僅か一打席目にして呆気なく長打コースへと運ばれたのである。

 

「くそっ! なんでや!」

「そのタコヤキボールってのを投げる時だけ、ピッチングフォームがめっちゃ緩むんや。それじゃあ何投げるかバレバレやで」

 

 腕の振りの緩み、投球フォームのズレ、そう言った致命的な欠陥に気付いたのは勝負が終わった後のことだ。不完全とは言え初めて変化球を投げることが出来た喜びから、幼い阿畑は重要なことを失念していたのである。

 

「弱点は克服したで! 勝負や九十九!」

 

 それから数ヵ月後、阿畑はシャドーピッチングや投げ込みと言った地道な練習でその欠陥を修正し、再度九十九へと挑んだ。

 しかし、対戦の結果は変わらなかった。

 

「なんで打たれるんや……」

「お前のその球、空振りするほど変化ないからな。こっちからしてみりゃヒットにしなくても、適当にカットしてりゃあええだけや。そんなチェンジアップもどきより、本物のチェンジアップか他の変化球を覚えたらええんやないか?」

「うっさい! これはチェンジアップやなくてナックルや! 凄い魔球なんや!」

「へいへい」

 

 惨敗の都度寄越された九十九の言葉は、今にして思えば彼なりの親切なアドバイスであった。こちらの欠点を客観的に分析し、その解決法まで丁寧に示してくれたのだから。

 しかし当時の阿畑にとってライバルから助言を貰うなど屈辱以外の何物でもなく、その親切心に気付くことはなかった。九十九とはそれが原因で喧嘩することも珍しくなかったぐらいである。

 

「言われた通り新しい変化球を覚えたで! 勝負や!」

「懲りずに何度もやるなぁ……まあ、ええけど」

 

 それでも最終的には助言を聞き入れていた阿畑は、意地を張りながらもそれなりに現実を見ていたのだろう。

 そしてそこまで暇でなくとも頻繁に訪れる阿畑の挑戦を受けてくれた九十九も、そう悪い気分ではなかったのかもしれない。

 

「………………」

「4打数2安打やからワイの勝ちやな。そこそこええカーブやったで」

 

 何度挑戦しても九十九の勝利は変わらない。

 しかし一年が過ぎて六年生へと進級する頃には少しずつ、ほんの少しずつだが阿畑の実力は九十九へと迫っていた。

 

「九十九!」

「おっしゃ、やろう」

「またかいな、あんたら仲ええね」

「まあなんや、腐れ縁?」

「ライバルや!」

「ふっ、対戦成績全敗のライバルがどこにおるねん」

「なんやと九十九!」

「せやかて阿畑!」

「「ふはははははは!」」

「……もうやだこの先輩」

 

 二人の関係が対等なライバルへと、そしていつの間にか親友にまでなっていたことに気付いたのは阿畑でも九十九でもなく、小さな頃から彼らと近所付き合いしていた幼なじみの「芹沢(せりざわ) (あかね)」だった。

 彼女がそんな二人の関係を呆れながらも見守ってくれていたのは、彼女もまたそんな他愛ない日常を好いていたからだと言っていた。

 彼女はいつも、二人の勝負を見届けてくれた。

 そして阿畑が努力している姿を誰よりも傍で見てくれたのも、彼女だった。

 

 中学校卒業後、阿畑はあかつき大附属高校に入学した九十九を倒す為、地元のそよ風高校へと入学した。

 一年後、茜はそんな阿畑と同じ進路を選択し、野球部のマネージャーになってくれた。

 彼女が実際に口に出して言ったことはないが、それが自分の為ならば嬉しいと阿畑は思う。

 野球でも勉強でも九十九に勝てなかった阿畑だが、彼女と共に過ごす日常だけは勝ち取ることが出来たのだ。「そこはワイが一番勝ちたかったとこなんやけどな……」とは、後に再会した九十九が溢した愚痴である。それを聞いて阿畑は、自分は天才ではなかったが勝ち組ではあったと思った。

 

『なんや今の球?』

『おう! 見たか、魔球「アバタボール」や!! 今度こそ本当に、揺れて落ちるんやで!』

『え? それってもしかして、昔投げようとしてたアレ? やったやないか! これなら宇宙にも勝てるかもしれんな!』

『おいおい……そこは「かもしれん」やなくて、はっきり「勝てる」って言ってくれや』

『嫌や。日頃から野球は何が起こるかわからんからおもろい言うてんのはやっちゃんやろ?』

『せやけどなぁ……まあ、真面目なマネージャーで助かるわ』

 

 高校に入学して初めて「アバタボール」を投げた時も、茜は傍に居てくれた。そしてまるで自分のことのように喜び、阿畑を祝福してくれた。

 しかしそのアバタボールすらも実戦では通用せず、心が折れそうになった時もあった。それでも、彼女は一時として阿畑のことを見放さなかった。

 「今のアバタボールで駄目なら、いつものようにまた改良すればええだけや」――明るくそう言って、何度も励ましてくれた。

 それがどれほど有難かったか、おそらく彼女はわかっていないだろう。彼女にとっては昔の関係の延長に過ぎず、阿畑やすしが日頃から行っている馬鹿を見守るのもまた、何ら特別なことではないからだ。

 だが、だからこそ阿畑は嬉しかった。

 そして、そんな彼女の為に勝ちたいと思った。

 いつしか彼女の為に勝ちたいと思うことが、阿畑の心を支える最大のモチベーションとなっていたのだ。

 

 阿畑はこれまでの野球人生を振り返り、マウンドに立っている今の自分に感慨深い思いを抱く。

 

「……凡ピーやったワイが、よくここまで来れたもんやな」

 

 木崎から受け捕ったボールを「二本」の指で挟むと、グラブの中で強く握り締める。

 ライバル達とチームメイトと、そして芹沢茜と歩んだ野球人生の結晶がそこにある。

 これがある限り、阿畑やすしは絶対に負けない。最後の夏にするには、まだ早かった。

 額から頬を辿って滴り落ちていく汗が、今は心地良い。あかつき大附属高校に居る最大のライバルに向けて、阿畑は小声で呟く。

 

「ワイの執念、ちゃんと見てろよ」

 

 出会った時から今に至るまで何度挑んでも勝つことが出来なかったライバルを打ち破る為、阿畑は魔球アバタボールを編み出した。

 今から投げるのは、敗北の度に改良に改良を重ねてきたアバタボールの集大成だ。

 阿畑やすしの執念がたどり着いた、最強の魔球だ。

 

「……勝負や」

 

 セットポジションから素早く左足を振り上げ、神経を目標に集中し、右腕を振り下ろす。

 二本の指から抜き放たれたボールは縫い目を見せたまま決して回転することなく、キャッチャーミットを目掛けて直進していく。

 回転の無い変化球。しかし打席に立つ鈴姫は、それが阿畑が今までこの試合で投じてきたアバタボールでないことに気付いた。

 そして、驚きに目を見開く。阿畑にはその理由を、三つまで想像出来た。

 

 一つ目は、目測でも球速が130キロ近く出ていたことがわかり、アバタボールのそれとは比較にならない速さだったこと。

 二つ目は、その目で最後まで確認出来ないほど大きく、鋭く曲がったこと。

 そして三つ目は、カットをする筈で振り抜いた自らのバットが、何の手応えもなく空を切ったことに驚いたのだと。

 

「ッ……ス、ストライク! バッターアウトッ!」

 

 判定する立場である球審すらも動揺し、反応が遅れた。

 相手ベンチの驚愕が目に浮かぶようで、阿畑は最高の気分だった。

 

「見たか! これが魔球“アカネボール”やあっっ!!」

 

 そして阿畑はキャッチャーミットに収まったボールを指差しながら、たった今投じた「新魔球」の名を高らかに叫ぶ。命名したのは今この瞬間。捕手の木崎も同様、そよ風高校のチームメイトすら初めて聞いた球種名であった。

 

 場内がどよめき、そして間を置いて歓声が上がる。

 名前の由来にいち早く気付いたであろう愛しの少女は今頃、そよ風高校のベンチの中で顔を真っ赤にして悶えていることだろう。

 心なしか、こちらに注がれるそよ風ナインの眼差しが冷たい。だがこの魔球の名前は他に思いつかず、命名のタイミングも今しかないと思ったのである。

 後悔など、どこにも無かった。

 

 



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狂い始めた歯車

 そのボールの特徴をわかりやすく挙げるとするならば、さしずめ「高速ナックル」と言ったところだろうか。

 従来のナックルよりもストレートに近い速度で到達するが、その軌道はフォークとは異なり全く予測出来ない。加えて変化の大きさ、手元で曲がるキレは共にアバタボールのそれを上回っており、打席に立って間近に見る者としては何よりもこのボールを捕球出来る相手捕手のキャッチング技術を賞賛したいところであった。

 

「なんだこの球……!?」

 

 波輪のバットが手応えなく空を切る。デタラメとしか言い様のない不規則な変化球が、130キロ近い速度で向かってくるのだ。いかに竹ノ子高校の主砲と言えど、それは初見で対応出来るようなボールではなかった。

 

(アバタボールなら、まだギリギリ反応打ちでいけたんだけどな……)

 

 波輪が前の打席でアバタボールに着いていけたのは、単にそれまで行っていた打法による要因が大きい。

 試合の前日まで星菜と行っていたナックル打ちの練習から、波輪は下手に配球を読む打ち方では術中に嵌ってしまうだけだということを思い知った。故に波輪は「来た球を打つ」という――単純にして難易度の高い打法に切り替えることにしたのだ。

 事前に相手の配球を頭に入れた読み打ちではなく、自らの打撃センスと野性的な勘に依存した反応打ちで対応する。その方が打率が高く、練習では結果が出ていた。しかしそれは、球速が遅いナックルだからこそ効果のある打法だったのだ。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 変化量もキレも球速もあるアカネボールを前にはタイミングが振り遅れてしまい、カットをしてファールで逃れることも出来なかった。結局波輪はこの打席一度もバットに当たることなく、あえなく空振りの三振に倒れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 アカネボールを解禁し、阿畑やすしが竹ノ子高校きっての好打者二人を連続三振に仕留めたことで、試合の流れがそよ風高校に傾いたように見えたのも束の間。

 相手の好投に自分の投球を崩すことなく、それどころかさらに凄みを増していくのが波輪風郎の波輪風郎たる由縁であろうと星菜は思う。

 六回の裏。波輪は九番から始まるそよ風高校の攻撃を、流れを渡すことなく三人で終わらせてみせた。何事にも屈しないその投球を応援席から眺めていた星菜の目には、背番号「1」をつけた彼の背中がとてつもなく大きく映った。

 

(まるで、大魔神だな……)

 

 阿畑が常人離れした「技」を披露するならば、波輪は如何なる小細工をも無にする「力」を見せつける。六回裏が終了した時点で、早くも奪った三振は十五個となった。この回最速は155キロを計測し、竹ノ子高校のエースは味方すらも唖然とさせる真価を存分に発揮していた。

 

 

 そして竹ノ子高校の野手陣が守備で疲弊することなく七回表のイニングへと回ってくる。「ラッキーセブン」とも呼ばれるこの回は、野球の試合ではターニングポイントのイニングという認識が根強い。いよいよ終盤に差し掛かってくるこのイニングでは先発投手の疲労が見えてくる頃であり、得点の期待が高まっていくからだ。

 その傾向は、投手の肉体や精神が未熟である中炎天下で行われる高校野球では特に激しい。それまで好投を続けていた投手が七イニング目にあっさりと失点してしまうケースもまた、そう珍しいものではなかった。

 しかし、それは阿畑やすしにおいては当てはまらなかったようだ。

 

「っしゃあオラァッ!!」

 

 五番外川、六番池ノ川、七番青山を連続三振に抑え、阿畑は渾身のガッツポーズを見せる。いずれも決め球は魔球「アカネボール」であった。何が何でも失点してたまるかという、彼の凄まじい執念が込められた投球だった。

 

 

 

 

「こういう試合をしてると、ピッチャーやってて良かったと思うよ」

 

 アバタボールを上回るアカネボールを前に、竹ノ子打線はなす術もないという現状である。アバタボールにすら手を焼いていたのだから、それも当然であろう。敵ながら惚れ惚れする阿畑の投球を目に、波輪は心から思ったことをそのままに呟いた。

 

「それは、一点も援護してくれない俺達への皮肉か?」

 

 波輪の発言を耳に拾った六道が、苦笑を浮かべながら問うてくる。しかしその言葉から波輪に対する嫌悪感が感じられないのは、彼もまた捕手としてボールを受けているが故に何となく今の波輪の考えていることがわかっているからであろう。

 意地悪な質問だと思いながら、波輪は微笑を浮かべて答える。

 

「こういう味方が点を取ってくれるまで一点もやれない試合が、一番燃えるってことだよ」

「……毎度のことながら、大した奴だよ」

「はは、それほどでもあるよ。まあそれもこれも、お前がちゃんとボールを受けてくれるからさ」

「せめて壁ぐらいにはならなければな。バットで結果を出せなくて申し訳ない」

「まあ、そこはきっと矢部君や鈴姫達がやってくれるさ。俺も頑張る」

 

 相手が完璧な投球をしても、波輪はまだ味方からの援護を信じていた。得点までのイメージは一向に浮かんでこないが、それでも最後には自分達竹ノ子高校が勝つ筈だと。

 だからその時が来るまで、投手である自分がむざむざと失点するわけないにはいかない。そう言ったプレッシャーが掛かったマウンドこそが、波輪の最も好きな場所だった。

 

(……俺は元々、この為に竹ノ子に入ったんだからな)

 

 ただ甲子園に出場したいだけならば、猪狩守と共にあかつき大附属高校に入れば良かった。波輪にはそれだけの実力も自信もあったし、高校側も是非入部してくれとばかりに彼を欲しがっていた。いずれプロ野球に挑戦することになるであろう将来も考えるのなら、尚更名門校に入学しておくべきだったのだ。

 しかし波輪は結果として、当初は部員すら確保出来ていなかった弱小校である竹ノ子高校へと入学した。その選択に知人の皆は困惑と落胆を隠さなかったが、ただ彼の両親だけがそんな彼を肯定してくれた。

 

『そこまでしてピッチャーに拘りたいなら、僕達は止めないよ』

『貴方が選んだ道だものね。私もあかつき大附属なんて名門校、貴方の頭じゃ苦労すると思ってたし』

 

 その進路選択に二人は驚きこそしていたが、一度として彼の選んだ道を間違っているなどとは言わなかった。両親とも優しい性格ではあったが、息子が間違っている時は鬼にもなれる人間だった。そんな二人が肯定してくれたからこそ、今の自分が堂々と迷いなく突き進めているのだと波輪風郎は思う。

 

「んじゃあ、この回も守りますかね」

 

 波輪はグラブを左手にはめると、頼れる相棒(キャッチャー)と共にマウンドへと駆け出していく。

 気分は快調。スタミナも全く問題なく、監督の茂木にはあと二試合分は余裕で投げられそうだと本気七割、冗談三割に言っている。自分でも驚くほど絶好調である今の波輪には、何の不安も無かった。

 

(……ッ! ……おいおいマジか。ここに来て……今更それって……)

 

 七回裏の投球練習中、右肩に微かな痺れを催すまでは――。

 

 

 

 

 

 

 

 七回の裏。そよ風高校のラッキーセブンであるこの回の打順は巡りが良く、三番の佐藤、四番の阿畑、五番の木崎のクリーンアップと続いていく。攻撃開始前にベンチの前で円陣を組んでいたそよ風ナインとしては、得点するならこの回しかないというぐらいの気概で攻撃に臨んでくるであろう。

 ここまでの波輪風郎は付け入る隙が無いほどにボールが走っており、プロの打者すらも手こずるであろう最高の状態である。だが調子が良い時ほど自分をコントロールしにくくなるのが、投手というデリケートなポジションだ。絶好調を常に維持出来れば問題ないが、思わぬところで落とし穴に嵌った時、脱出することは非常に難しくなる。

 

(まあ、そんなヘタレピッチャーは私ぐらいなもんか……)

 

 以前の練習試合で味方のエラーから崩れ、あっさりと負け投手になった星菜が良い例である。だがそれが竹ノ子高校のエース波輪風郎にも当てはまるかと言えば、星菜は首を横に振る。

 彼はその程度の器ではないと、わかっているのだ。

 だが、だからこそ違和感を覚えた。

 

 

 このイニングから、突然異変を見せ始めた波輪の投球に。

 

 

 異変は、回先頭の佐藤の打席から始まった。

 初球、外角への148キロのストレートでストライクを取った。そこまでは良かったのだ。

 しかしその後投げたスライダーはストライクゾーンの枠を大きく外れ、走者が居ないから良かったものの六道が捕ることが出来ないほどの暴投であった。

 続く三球目。これもストライクゾーンに構えた六道のミットから大きく外れ、ツーボールとなる。

 その後の二球も球審からストライクを告げられることはなく、ワンエンドスリーからこの試合初めてのフォアボールを与えることになった。

 

(先頭バッターのフォアボールなんて、らしくないな……)

 

 先頭打者のフォアボールは、ヒット以上にそのまま得点に結びつくケースが多い。相手打者の力量と波輪の球威を考えれば真ん中でもストライクを投げなければならない場面だったのだが、拍子抜けするほどに呆気なく出塁を許してしまった。

 制球も冴えていたこの試合の波輪が与えた不用意なフォアボールに、星菜は眉をひそめる。

 三番の後は好打者の阿畑、木崎の四、五番へと続いていく打順だ。この回においては特にフォアボールを与えてはならなかったことは、波輪が誰よりもわかっている筈だった。

 

《四番ピッチャー、阿畑君》

 

 思わぬ走者を置いての主砲の登場に、そよ風高校側の応援席が沸き上がる。彼らの合唱の声が一際大きく響き渡る一方で、星菜達の座る竹ノ子高校側の応援席は沈黙して見守っていた。

 だが、大半の者はこの状況にそれほど心配していなかった。これまで波輪風郎は圧倒的な投球を披露しており、来る打者を契っては投げ続けてきたのだ。この程度はまだピンチの内に入らないと、そう楽観視している者は多かった。

 

 しかし波輪が投じた一球目――四番阿畑の振るったバットがこの試合最高の快音を響かせた瞬間、竹ノ子高校側の応援席各所から悲鳴が上がった。

 

 阿畑の初球から振り抜いたバットが波輪のストレートを真芯で捉えると、打球は弾丸のような速さを持ってセンター方向へと飛翔していったのだ。センターの矢部は全力で背走し打球を追いかけるが、捕球には到底間に合わないだろう。

 

(駄目だ! 越えるなっ……!)

 

 その時点で長打は免れないことを悟った星菜は、祈るように両手を組んでせめてツーベースで押さえてくれと願った。

 間一髪その願いが届いたのか、打球はセンターバックスクリーンまで届くことなくフェンスに阻まれ、駆けつけた矢部が転々とするクッションボールを素早く処理すると、脇目も振らず中継のショート鈴姫へと送球した。

 

「ランナーは……! 三塁でストップか……」

 

 鈴姫は即座にバックホームの態勢に入ったが、一塁走者は三塁ベースを回ったところで停まっており、辛うじてこのツーベースヒットによる失点は免れた。

 しかしこれでノーアウト二三塁である。外野フライでも一点が入ってしまうこの状況は、阿畑攻略の目処が立っていない竹ノ子高校にとって最悪に近かった。

 

「あ、危なかったね……」

「……今のは入ったかと思いましたよ」

 

 隣から掛けられた奥居亜美の言葉に、星菜は心から同調する。未だ危機は去っていないことから命拾いしたとまでは言えないが、今の阿畑の打球には寿命が縮まる思いだった。

 と、そこまで考えて、星菜は自分が思っていた以上にこの試合に感情移入していたことに気付いた。

 

(やっぱり、あの人達には負けてほしくないんだな……)

 

 その気持ちが竹ノ子高校の一生徒としてか、野球部のマネージャーとしての気持ちなのかはわからないが、彼らには絶対に負けてほしくないことだけは確かだった。

 

(今のは多分、真ん中高めの絶好球だった。何やっているんですか、先輩……)

 

 あわやホームランかという当たりを打った阿畑は見事であるが、星菜としては初球から甘すぎるボールを放った波輪を批難したいところである。先頭打者をフォアボールで出してしまった上に、次の打者には初球の甘い球を痛打される。あまりにも精細を欠くこの回の波輪らしからぬ投球に、星菜は苛立ち以上の困惑を感じた。

 

(とりあえず集合……うん、それでいい。今の波輪先輩は少しおかしい)

 

 五番の木崎を迎える前にワンクッションを置く為、捕手の六道が審判にタイムを掛けさせ、内野陣が輪になってマウンドへと集まっていく。彼らが何を話しているかは応援席からはわからないが、今の波輪を落ち着けようとしていることは見て取れた。

 

《五番キャッチャー、木崎君》

 

 話が終わったのか内野陣は声を掛けながら各々のポジションへと戻り、場内アナウンスから名を呼ばれたそよ風高校の五番打者が右打席へと入る。

 一点も与えることが出来ない場面の為、内野も外野も即座にバックホーム出来るよう前進した守備位置へとポジション取りを変えている。投手波輪はこの窮地にボールを長く持ち、自身の心を落ち着けるべく意識して投球のテンポを遅らせているようだった。

 そしてセットポジションから、豪快に右腕を振り下ろす。糸を引く剛速球は唸りを上げながら、勢い良くキャッチャーミットへと叩きつけられた。

 

「ストラァァイクッ!」

 

 外角に決まった一球に対して球審から告げられた判定に、星菜は一先ずの安堵の息をつく。参考とばかりに球速表示に目を向ければ153キロという数値が読み取れ、波輪のスタミナは依然問題無いことがわかった。

 

(大丈夫。ちゃんとコースに投げきれば、貴方のストレートは打たれない)

 

 二球目は、内角を抉る152キロのストレートだった。相手打者の木崎はその一球をコンパクトに振り抜いたものの完全に振り遅れ、空振りを取ったことで簡単にツーストライクへと追い込んだ。

 

(そう、それで追い込めば、後はこっちのもの……)

 

 ツーナッシングと早いカウントで追い込み、波輪が優位に立った。しかし木崎は前二打席でタイミングの合っていた打者だ。追い込んだと言えど迂闊に攻めれば、何が起こるかわからない。それこそ阿畑の打席のような不用意な失投を投じれば、犠牲フライどころか簡単にヒットを打たれてしまうだろう。

 だが波輪は迂闊ではなく、勇敢な投手であった。

 

「ストライク! アウトッ!!」

 

 木崎の打席は、三球勝負だった。

 ツーナッシングというカウントで波輪が投じたのは尚もストレートで、それもここ一番のところで最高のノビと制球力を発揮した。

 外角低め(アウトロー)ギリギリ一杯――審判によってはボール球と判定されかねない一球に木崎は手を出すことが出来ず、見逃しの三振に倒れた。

 この試合十六個目の三振を奪ったストレートは155キロを計測しており、そよ風ナインの頭にはやはり波輪風郎は怪物であるという認識が深く刻み込まれたことだろう。

 

 だがしかし、星菜は見逃さなかった。

 

 木崎を抑えた瞬間、波輪が右肩を重そうに回していたことを――。

 

 

 



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燃え尽きたエース、燃え尽きれなかったエース

 

 彼を知る人間に「波輪風郎とはどういう人間か?」と訊ねれば、大抵は評判の良い言葉が返ってくる。

 小学校教師いわく勉強は全く出来ないが興味のあることには驚くほど吸収力が良く、体育のように身体を動かす時間ではいつもヒーローだったと。

 シニア時代のチームメイトいわく味方としては居るだけでも周囲に好影響を与える頼もしいキャプテンだったと。

 高校のクラスメイトいわく野球漫画の主人公みたいなスペックを持っている上に可愛い彼女まで持っているとんでもない野郎だと。

 他校のライバルいわく追い込まれれば追い込まれるほど実力を発揮してくる、呆れた根性の持ち主だと。

 傍から見れば波輪風郎の人生は順風満帆その物であり、誰もが羨むほどの恵まれた境遇であろう。

 しかしそんな波輪風郎とて、昔から現在まで万事が順調だったわけではない。

 体格や運動神経こそ並より優れていたが、練習も無しに最初から今のように投球も打撃も万能にこなせていたわけではないのだ。当初は守備に着けばその度にエラーし、打席に立てば三振だらけ。投手として初めてマウンドに立った頃は緊張で投球どころではなく、一球もストライクが入らないという惨状であった。

 チームメイトとは意見の食い違いから些細なことで喧嘩し、仲間割れを起こしかけたこともあった。今のように部員達全員から慕われる主将としての姿は、昔からあったわけではないのだ。

 しかしそう言った多くの挫折を乗り越えた結果、今の波輪風郎がある。生まれ持ったものは確かに恵まれていたのかもしれないが、波輪とて人一倍の努力を怠らずに行ってきたからこそ、今こうして堂々とマウンドに立つことが出来るのだ。

 

 しかし過去に乗り越えてきた挫折の中に、非外傷性肩関節不安定症――「ルーズショルダー」があった。

 

 ルーズショルダーとは肩関節が柔らかすぎる為に投球時に肩が痛み、もしくは肩が抜けそうな感覚を催すと言った症状が出る障害である。

 投球動作を繰り返すことで肩の前後方向にストレスが蓄積し、小さな傷が肩の関節包に起きる。そして元々の関節包の緩みが増幅され、肩が不安定になるという――生まれつき関節の柔らかい選手ほどなりやすいとされている、投手にとっては致命傷になることもある厄介な障害である。

 波輪の右肩をルーズショルダーが襲ったのは、中学三年生の頃のことだ。違和感を覚え始めたのは練習中のことで、ボールを投げ終わった後に右肩から疼くような痛みと妙なだるさを感じたのである。

 その違和感を不審に思った波輪は、中学時代の監督の勧めにより後に行きつけの病院となる加藤接骨院にて診断を受けることにした。

 そこで非外傷性肩関節不安定症、即ち「ルーズショルダー」との診断を言い渡されたのが、全ての始まりだった。

 

 右肩に爆弾とも言える痛みを抱えた状態では、過酷な高校野球の環境では投手は務まらない。しかしこんなことで投手をやめる気になど到底なれなかった波輪は、診断されたその日からすぐに治療を行った。

 治療法として行ったのは、内側の筋肉であるインナーマッスルを鍛える運動療法である。もう一つの確実な手段として「手術」という選択肢もあったのだが、そちらの場合は術後のリハビリに多大な時間を浪費する上、完治した後も以前と同じ球威のボールを投げることが出来ないリスクが高いと言われ、波輪には踏み切ることが出来なかった。

 我が儘ではあるが、速いボールを投げられなくなるのも、長期間野球が出来なくなるのも嫌だったのだ。

 最短の期間で右肩を治し、これからも痛める前と変わらないボールを投げ続けたい。その一心で、波輪はしばらく治療の日々を送った。

 その際、波輪のルーズショルダーを知ったあかつき大附属高校のスカウトからは投手ではなく野手としての入部を勧められたものだが――あくまで投手に拘った波輪は、その誘いを断ることにした。そもそもが投手として名門校を倒したいという目標を持っていた波輪には、野手として名門校に入学する気など微塵も無かったのである。

 

『良かった。君みたいな熱血馬鹿が入部したら、僕のチームが暑苦しくなってしまうところだったよ』

 

 そのことを同じくあかつき大附属高校に入学する予定だった猪狩守に言うと、嫌味な性格の彼らしく波輪の入学拒否を喜ぶような言葉が返ってきた。思った通りと言ったところかその言葉から残念な気持ちは全く感じられず、自惚れでないのなら、むしろ彼もまた自分とライバルとして戦えることを喜んでいるように聞こえた。

 

 

 徹底したスケジュール管理の下治療を続けた結果、竹ノ子高校に入学するまでには右肩の違和感は無くなっていた。試しに投げてみるとボールのスピードはブランクの分だけやや遅くはなっていたが、痛める前と比べても極端に衰えてはおらず、その球威も数週間の練習によって無事取り戻すことが出来た。

 高校野球デビューとなる最初の大会では中学時代の自己最速145キロを更新する147キロを計測し、投球中は自分がルーズショルダーであることなどすっかり忘れてしまうぐらいだった。

 実際、高校に入学してからは一度として右肩の痛みがぶり返すことはなかった。寧ろ中学時代よりも肩が良く動き、二年生にして150キロを超える剛速球投手にまで飛躍したほどである。その順調な成長ぶりには何より波輪自身が驚いており、もう右肩の心配は要らないものだと思っていた。

 

 ……そう、思っていたのだ。

 

(鎮まれ! 鎮まれ俺の右肩! ふはははは、はぁ……笑えねぇよ……)

 

 七回裏、ワンアウトを取ったものの、依然変わらず走者を二三塁に置いたピンチの場面。このイニングが始まる前から感じ始めていた痛みは広がり、波輪の右肩を酷く蝕んでいた。

 その痛みは極力表情には出していないつもりだが、波輪は星菜ほどポーカーフェイスが得意ではない。いつ周りにバレてしまうか、気が気でなかった。

 

(何だかなぁ……昔は怪我に強い方だったのにな……)

 

 グラブの中でボールを弄びながら、波輪は六道のサインを窺う。先の五番木崎には執念で150キロ超えのストレートを投じたが、既に波輪の右肩は悲鳴を上げており、とてもではないがそのようなボールを何球も投げられるような状態ではなかった。

 

(大人しくあかつきに入ってれば、ここに来て痛み出すことはなかったんだろうなぁ……)

 

 サインに頷いた波輪が、セットポジションから左足を大きく振り上げ、打者に対して一球目を投じる。

 球種はストレート。波輪の持ち球の中で最も精度の高いボールは、六道の構えたミットよりも真ん中へと向かってしまったものの、空振りを奪うことが出来た。

 

「危ないぞ」

 

 結果的にストライクを取れたが捕手の六道明はナイスボールと声を掛けることはせず、見たままの正直な感想を述べてボールを返してきた。印象や結果に囚われず本質を捉えてくれるところは、波輪がバッテリーを組んで以来この捕手のことを信頼している理由の一つでもある。少々空気が読めないのが玉に傷だが、今この状況下においてはむしろ望むところだ。

 今の波輪には、優しい言葉よりも厳しい言葉が必要だった。

 

(……でもまあ、ここに入って良かった。ああ、そうだ! こんな痛みに負けてどうする! 俺は何の為にここに来た!? 猪狩や樽本さん、そして阿畑さんみたいな凄い奴と戦って、勝つ為だろうが!)

 

 痛みで思い通りのボールが投げられない? 甘ったれるな! それでもピッチャーを続けたいから、また痛むことも覚悟して竹ノ子に入ったんだろうが!

 心の中で自身の考えの甘さを叱責し、波輪は六道から受け捕ったボールを潰すように強く握り締める。

 こんなことでこの勝負を終わらせたまるかという、その一心であった。

 

「行くぞっ!」

 

 肩が痛くても、まだ肘と手首がある。

 その全身に気合いを込めると、波輪は六道のサインも見ずに二球目を投じた。

 

 しかし溢れ出る気迫に反して、指先から放ったボールはハエの止まるような緩い軌道を描いていた。

 

 そのボールを投じた瞬間、キャッチャーマスクの中で目を見開く六道の「おい」という声が聴こえたような気がした。波輪が今しがた投じた球種は、彼の出したサインとは全く異なるものだったのだ。

 球種の名は泉星菜直伝の、超スローカーブである。山なりの軌道でキャッチャーミットへと向かっていくその変化球は、阿畑のアバタボールよりも球速が遅かった。

 泉星菜の投げるそれはストレートと全く同じリリースから放たれる為、打者にとって非常にタイミングが取りにくい。しかしそれに対して波輪のスローカーブは投げる瞬間腕の振りが極端に緩くなるという欠陥を持っており、練習こそしたが実戦では危なっかしくて使えないと落第点を受けた変化球である。無論、試合前にも六道からは「アレを要求することはない」と事前に伝えられていた。

 だがそれでも、波輪はあえて彼のサインを無視してこのボールを投じた。決して肩よりも肘を主に使うこのボールならば右肩の負担も少なく済むだろうという自分本位な理由ではない。この状況下で、ただでさえ速球派投手のイメージの強い波輪に対して相手打者が遅い球を待っていることなどまず考えられず、今は正直にストレートを投げるよりは抑えられる自信があったのだ。

 

 その博打は、成功した。

 

 この試合初めて投じた変化球に相手打者は六道以上に驚き、そして一流投手である波輪が投げたものとは思えないほど不格好で粗末な完成度のボールに身体が反応してしまい、思わずバットを出してしまったのである。

 ボールはバットの芯を大きく外した先端部にちょこんと当たり、前進したサード守備位置の真正面へと転がっていく。その間三塁走者はホームベースに進むことが出来ず、無事ボールを捕球したサードの池ノ川は手堅く一塁へと送球した。かくして波輪は二三塁に置いた走者を釘付けにしたまま、アウトカウントを二つに増やすことに成功したのである。

 

「……おい、エース」

「ハイ、スミマセン!」

 

 ツーアウトと二本の指を立てて守備陣に声を掛ける波輪の耳に、氷のように冷たい正捕手の声が突き刺さってくる。理由は聞くまでもない。一打先制のピンチでこの試合一球も投じたことのない変化球を、それも実戦で使用出来ない小便のようなスローカーブをサインを無視して投じたのだ。結果的に抑えたから良いものの、捕手の六道が激怒するのは当然であった。寧ろ波輪としては殴られても文句は言えないと思っているぐらいだ。

 

「……そういうことは、さっき集まった時に言ってくれ」

 

 しかし次に六道の口から吐き出されたのは冷たくはあったが激怒は感じない、何かを悟ったような一言だった。

 

「六道、お前……」

 

 彼が何を考えているのか、波輪はその声音から察する。

 思えば今まで入学して以来、彼とはずっとバッテリーを組んできた。正妻と言える立場である六道にとっては、元々ポーカーフェイスの得意でない波輪の表情から彼の状態を察するのは、そう難しくなかったのだろう。

 

「……散々、お前に支えられてきたチームだからな。絶対に肯定はしないが、一度ぐらいの我が儘は聞いてやる」

「……悪い。この試合からは逃げたくないんだ」

「わかった……」

 

 ――今すぐにでもマウンドから降ろしたいところだが、お前のことだ。意地でも降りないだろうから今は黙っておいてやる。

 

 その言葉が、口に出さずとも聴こえた気がした。

 

(ほんと、自分勝手なピッチャーで悪いな……)

 

 マウンドを後にし、六道が捕手の守備位置へと戻る。その後ろ姿を申し訳ない思いで見送る波輪だが、心なしか今のやり取りで心が軽くなった気がした。

 しかし心は軽くなっても、右肩は変わらずその重みを増していく一方だった。

 

 

 

 

 

 

 ――結果から言えば、波輪はこのピンチを無失点で乗り切ることが出来た。

 

 ストライクゾーンの高めに抜けたストレートを真芯で捉えられ左中間へと運ばれたものの、センターの矢部が敢行したイチかバチかのダイビングキャッチが成功し、辛くもスリーアウト目をもぎ取ることに成功したのだ。

 

 

 

 しかし、代償はあまりにも大きかった。

 

 

 ボールを放した瞬間から、波輪は右肩から先の感覚を失っていたのだ。

 

 竹ノ子高校監督の茂木が有無も言わせず交代を告げたのは、次のイニングが始まる前のこと。

 

 波輪風郎はこの大会一点も失うことがないままマウンドを去り、そして戻ってくることはなかった。

 

 

 この日、竹ノ子高校は不動のエースを失ったのである――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そろそろ、竹ノ子高校とそよ風高校の試合が終わった頃だろうか?

 

 時刻が十六時を過ぎ、日の暑さが少しずつ和らぎ始めた空を仰ぎながら、恋々高校のグラウンドの中小波大也は離れた場所のことを思う。

 波輪風郎、阿畑やすしがそれぞれ率いる両校の試合はどちらが勝ってもおかしくはない。大会屈指の好投手の投げ合いにはライバル校の選手としても興味があり、出来ることならば直接球場へ観に行きたいぐらいだった。

 しかし、恋々高校は明日に二回戦を控えているのだ。他所の試合と自チームの試合、どちらが重要かは答える必要の無い愚問である。故に今日はチーム全体で調整に専念し、明日の試合に対してなるべく万全を期する必要があった。

 

「一番ショート佐久間。

 二番レフト球三郎。

 三番サード奥居。

 四番キャッチャー小波。

 五番セカンド陳。

 六番ライト天王寺。

 七番ファースト小豪月。

 八番センター村雨。

 九番ピッチャー早川。

 ……明日はこのメンバーで行く。相手はパワフル高校で、練習試合では勝ったけど今度は本番だ。相手もこっちの情報を知っているから、一筋縄ではいかないだろうね。でも第一に、相手がどうこうよりまず自分のプレーをすること。相手は優勝候補だけど、僕達だってあの白鳥学園を倒してきたんだ。自力では決して負けていない。実力を出し切れば、勝てない相手じゃない。萎縮せずに自信を持っていこう」

 

 この日は調整日として利用し、練習は早めに切り上げた。そして最後に部員全員の前で明日のスターティングメンバーを発表し、小波は緊張した空気の中でそう締めた。

 勝負は時の運という言葉があるように、勝負事に関して「絶対」は無い。その日まで万全を喫したつもりが試合当日になって何らかのアクシデントが発生することなど野球においては珍しくなく、だからこそ小波は注意事項を述べるように言ったのである。

 しかし周囲の顔を見回した限り、この恋々高校野球部の面々に対しては要らぬお節介だったようだ。

 

「自分達の野球をすれば負けないって? サッカー日本代表みたいだね、それ」

「フッ、何も心配することはないナ。この台湾の至宝が居る限り、俺達は無敵ダ」

「萎縮~? お前、このメンバーの頭にそんな言葉があると思うか? それよりこっちが強くなりすぎてて油断する心配をした方がいいと思うぜー」

「はは……頼もしいね」

 

 部員達の軽口に頬が緩む。

 明日の試合に対して不安を抱えている様子の者は、誰一人として居はしない。皆が自信満々と言った様子であり、誰も自分達が負けることなど考えていないのだろう。

 無論、小波もその一人である。人数は少なく歴史も浅いチームだが、それでも自分達の実力が対戦校に劣っているとは思っていない。

 

(僕は良い仲間に恵まれたな……いや、この言葉は来年、引退する時が来るまで取っておこう)

 

 過去も今も、つくづくチームメイトには恵まれてきたと思う。そんな彼らを主将として率いることが出来ることに、小波は喜びと誇りを感じていた。

 小波は微笑を浮かべてもう一度周囲を見回すと、目に止まった緑色の髪の少女の方へと顔を向ける。この場に居る誰よりも華奢な彼女こそが明日の試合の行方を占う先発投手であり、恋々高校のエースである。

 

「調整は大丈夫? あおいちゃん」

「うん、バッチリだよ。星菜ちゃんから教わったスライダーも、それなりに使えるようになったしね」

「ウチのバッターにも通用していたからね。キャッチャーが使い方を間違えなければ、実戦でも問題なく行けるよ」

「ちゃんとしたリード頼んだわよ、キャプテン」

「プレッシャー掛けてくるね。頼まれたよ、エース」

 

 早川あおい――筋力も体格も男子の選手に劣る女性投手であるが、彼女の存在を見下している者はここに居ない。チームメイトの誰もが彼女の能力の高さを認めており、140キロを超えるストレートを投げる奥居を押しのけてまで恋々高校の背番号「1」をつけるに足る選手であることを全員が受け入れていた。

 野球に対する姿勢は誰よりも熱く、ここに居る男達は小波含めそんな彼女に心を惹かれた者ばかりであった。

 

 それこそ彼女が居なければ、チームとして成り立たないほどに。

 

 名目上野球部の主将は小波ということになっているが、チームの中で最も重要な存在は他でもない早川あおいなのだ。彼女は恋々高校野球部の中で、差別的な意味を含まずして特別な存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――だからこそ、その手紙を監督の加藤を経由して受け取った時、一同は激昂を隠さなかった。

 

 

 

 

《恋々高校様へ。

 日々御健勝のことと思います。

 

 

 (中略)

 

 

 今回の大会において、本来出場させることの出来ない女性を参加させた件を大会本部では重く受け止め、貴校を公式大会出場停止とする旨をお伝えします。

 つきましては……》

 

 

「ふざけるなっ!!」

 

 部員の誰かが上げた叫びは、手紙を書いた者達へは届かない。

 それでも一同は、叫ばずには居られなかった。

 

 恋々高校の長かった暑い、そして熱い夏が終わりを告げようとしていた――。

 

 

 



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野球人生は終わらない

 

 七月も下旬になろうと言うのに気温ほどの暑さを感じないのは、胸の内の心の部分が酷く冷めているからだろうか。

 授業合間の休み時間中、星菜は感傷に浸りながらぼんやりと窓越しに外の景色を眺めていた。太陽の光が降り注ぐ空は澄み渡る青をしているが、今の星菜にはその全てが色あせて見える。

 

「星菜ちゃん、最近元気無いね……」

 

 その横顔を傍目に見ていた友人の亜美が、星菜の浮かない表情から体調が悪いのかと窺ってくる。だが実際には、身体に関しては寧ろ好調なぐらいだった。

 

「……いえ、少し考え事を」

 

 無用な心配は掛けまいと微笑を作り、星菜はそう返す。嫌なことは引きずりやすい性格だとは自覚しているが、今回の件には全く関係の無い亜美にまで気に病まれたくはなかった。

 

「考え事?」

「努力ってなんなんでしょうって、そう考えていて」

「……それって波輪先輩のこと?」

「それもあります……」

 

 ずっと、考え続けていた。

 いや、星菜にとってそれは、また(・・)考えるようになったと言った方が正しいだろう。

 一つのことに真剣に打ち込む人間の「努力」というものの意味が、あの試合以来星菜にはわからなくなっていた。

 

 

 ――そよ風高校との試合は、結局4対1で竹ノ子高校の敗北に終わった。

 

 竹ノ子高校は波輪が右肩の負傷によって降板した後、八回表の攻撃は相手投手阿畑に疲れが見え始めたものの、アバタボールとアカネボールの二つの魔球を相手に手も足も出ないまま三者凡退に打ち取られられてしまった。

 均衡を破られたのはその後の八回裏、この試合二番手としてマウンドに上がった青山が、そよ風高校の打線に捕まってしまったのだ。四球絡みで出してしまった走者を四番の阿畑にタイムリーヒットで返されるなど、先制点を含む一挙四点を失ってしまったのである。好投の波輪の後を受け継ぐプレッシャーを考えれば、まだ一年生投手である青山を責めることは誰にも出来なかった。

 九回には先頭矢部のレフト前ヒット、二盗成功からの六道進塁打、鈴姫の犠牲フライによって一点を返したものの反撃はそこで打ち止めとなり、終わってみれば試合は三点差で敗れることとなった。

 だがそれ自体は、星菜は重く考えていなかった。

 竹ノ子高校のメンバーは二年生が最高学年だ。その負けがただの敗北であったのなら、まだ来年に望みを繋げることが出来たのである。

 

 しかし試合終了後、波輪風郎の右肩の状態を知った星菜はそんな望みすらも失うこととなった。

 

 これは川星ほむらから聞いたことだが、試合が終わった時点で波輪の右肩はもはや手術する以外治療法が無いほど深刻な状態に悪化していたらしい。その診断を受けた波輪はやむを得ず手術を決断し、今は無事手術を終えているが今後のリハビリには数ヵ月単位の時間を要することになり、仮に完治したとしても投手として元通りのボールを投げられる状態になるまで回復するのは絶望的とのことだ。

 

『波輪君がルーズショルダーだったことも知らなかったなんて……ほむら、マネージャー失格ッスね……』

 

 その話を聞かせてくれたほむらは星菜などよりも遥かに悲しい思いをしていただろうに、彼女は気丈にも部を休むことなく皆勤を続けている。

 

『あんなことになっても、ほむらは信じてるッスから。波輪君なら絶対復活するって』

 

 投手として再起を目指すか、心機一転野手に転向するか。どちらにしても右肩が壊れた程度で彼の野球人生が終わる筈が無いと――それが自分が惚れた波輪風郎という男だと、彼女が僅かに頬を染めながら熱弁していたことを思い出す。

 ほむら以外にも矢部明雄や六道明など、彼の復活を信じて希望を抱いている者は何人か居る。

 しかしその一方で、明らかに意気消沈している者も居た。

 

(……練習の鬼だと思っていた鈴姫まで、ああなるなんて……)

 

 そちらには、鈴姫健太郎が最も当てはまるだろう。

 入部以来他の誰よりも自分に厳しく猛練習を続けていた彼が、波輪の右肩の状態を知ってから何日か練習に参加しない日が出始めたのだ。

 それには波輪の怪我によって甲子園に行ける可能性が無くなったことに絶望し、竹ノ子高校よりも練習環境の良い他校に転校しようとしているのではないかという噂もある。

 誰も本人に確かめたわけはないので信憑性は全く無い話だが、大黒柱を失った今の竹ノ子高校に戦力的な魅力が無いことは悔しくも事実であった。

 波輪を追って竹ノ子高校に入ったという彼の入学経緯を考えれば、その噂もあながち冗談ではないかもしれないと思ってしまう。

 星菜自身ポジティブなほむら達よりもネガティブ気質な鈴姫寄りの心境で、試合前までと比べて幾分精神を憔悴させていた。

 

「あんな形で負けてしまって、先輩方は一体何の為に努力してきたのか……なんだか、今までやってきたこと全てが無駄になってしまったみたいで……」

「星菜ちゃん、野球部の練習を一緒にやったり、ずっと傍で見てきたもんね……」

「一番辛いのは先輩方なのでしょうから、私がいつまでも落ち込んでいては駄目なのですが……」

 

 努力した人間が報われることなく終わってしまうのは、傍で見ていても心苦しいものだ。それが勝負の世界と言ってしまえばそれまでだが、あまりにも不完全燃焼に終わってしまった光景には思うものが多い。

 なまじ自分がそうであったからと、余計に重ねて見てしまう。

 そんな己の心に、星菜は思う。

 

(つくづく弱くなったな、私は……)

 

 以前の自分ならば、もう少し冷めた考え方をしていた筈だ。

 投球中に右肩を壊した波輪に対しても、周りに肩に爆弾を抱えていることを隠してろくな控え投手もいない環境で強豪と戦うなどという無謀を冒した彼の自業自得だと――そう考えて、鼻で笑っていたところである。

 

(あの人達の投げ合いに、無茶をやっていた頃の自分を思い出してしまったんだ……だから波輪先輩の気持ちも、わかるような気がして……)

 

 しかし自分の居場所を失いたくないと――痛みを我慢してでもマウンドに残りたいと、ライバルとの勝負を最後まで戦い抜きたいという彼が抱いていたであろう思いは、かつては星菜の心にもあったものだった。

 その頃は野球という競技を今よりもずっと純粋に見ていて、周りの人間と同様に特大のホームランと剛速球に憧れていて、何の苦しみも知らなくて――。

 ルーズショルダーを中学三年の頃に患ったと言う波輪は、現実問題の苦しみも十分に理解していた筈だ。それでも尚幼少時代から持っていた熱血を最後まで貫き通してみせる根性は、愚かしいと思うと同時に尊敬したくもあった。

 それは自分がしたくても、出来なかったことだから。

 

「……亜美さん」

「なに?」

「もし、ですよ? もし今までの自分の行動が全て無駄になってしまったら……亜美さんなら、その時はどうしますか?」

「えっ? ……うーん、怖い質問だね」

「すみません。でも参考にしたいので、亜美さんの意見を聞かせてほしいんです」

 

 何をやっても上手くいかない事態に陥った時、それでも前に進むことは出来るのか。右肩を故障した波輪と、もう一人――今大会で夢も希望も踏みにじられることになった一人の女性選手のことを考えながら、星菜は亜美に問うた。

 この時の星菜は無意識であったが、そうやって直面した疑問に対し素直に人から意見を貰えるようになった点だけは、星菜の自己完結しがちな性格が少しずつ変わっている証だった。

 亜美は解答に時間を掛けながらも、休み時間が終わるまでには答えてみせた。

 

「答えになってないかもしれないけど、全部が全部無駄になる行動なんて無いって思うよ。失敗したことの中にも、何か一つでもこれで良かったって思えることがあるんじゃないかって……」

 

 その解答は星菜には無い前向きな言葉で、星菜が欲しかった明確な答えとは違ってこそいたが自然と腑に落ちるものだった。

 それこそ「ああ、この人に訊いて良かった」と思えるほどに。

 

「それに……そんなことばかり考えていたら、結局何も出来ない、何もしない人間になっちゃうと思うから。私は無駄だからって言って何もしないのは嫌だって思う」

「……ありがとうございます。とても参考になりました」

「ごめんね、こんなことしか言えなくて」

 

 彼女にそんなつもりはないのだろうが、星菜にはその言葉が今の自分のことを正確に指しているように聴こえた。故に綺麗事と笑わず、真摯に受け止める。

 如何なる形になろうと、目標に向かって努力をしたという事実は変わらない。その事実が彼らにとって何らかの形で成功へと結びつくことを、星菜には信じたかった。

 

 ――でなければ、あまりにも可哀想だ。

 

 

 

 

 

 

 

 性格が明るいことは美徳である。今の星菜にそれが足りていないように、誰もが努めようとして簡単に明るくなれるものではない。

 そしてこんな状態にあってまだ、最も辛い立場に居る筈でありながらも普段の明るさを失っていない人間は極めて稀だった。

 

「おっす、星菜ちゃん!」

 

 放課後の部活動時間。女子用の更衣室で練習着に着替えた星菜は、男子部員達よりも一足早くグラウンドに出ていた。そんな彼女に左手を振りながら何食わぬ顔で近づいてきたのは、竹ノ子高校野球部主将の波輪風郎その人であった。

 

「こんにちは……大丈夫なのですか?」

「まあこの通り、大丈夫じゃないけどね。でも右肩以外は普通に動くし、今日から俺も練習に戻るよ」

 

 右肩を庇うように巻きつけているギプスが痛々しく見えるが、当の本人の表情は平常その物だった。彼と会うのはこれが試合の日以来であったが、そのあまりにも変化の無い様子に星菜はどこか拍子抜けしてしまった。もちろん、良いことなのだとは思っているが。

 

「………………」

「いやあ、あの……そういう顔しなくても大丈夫だからね、うん。手術は成功したし、これで二度と野球が出来なくなったわけじゃないしね」

 

 しかし投手として生命線である右肩を怪我してしまったのだ。いくら彼が明るい性格とは言え、そのショックは計り知れなかった筈である。

 それでも今までと変わらず明るく振舞っているのは、内面を隠して平静を装っているだけなのだろうか。そう思いながら波輪の右肩を見つめていると、彼は頭を掻きながら苦笑を浮かべた。

 二度と野球が出来なくなったわけじゃない――確かに彼ほどの才能があれば、最悪投手として復活することが出来なくても野手に転向することでプロを目指すことも十分に可能だろう。星菜が思っていたよりも右肩の怪我を悲観的に感じていないように見えるのは、その為かもしれない。

 

 ――だが、だとしても解せない。

 

「……先輩は、悲しくないのですか?」

 

 解せないのだ。確かに彼個人としてはまだ、これで野球人生が終わったわけではないだろう。しかし彼がこれまで投手として行ってきた全ての努力が、あの試合で無駄になってしまったのだ。

 これから先仮に怪我が治ってボールを投げられるようになったとしても、完全に元の状態に戻ることはないだろう。それどころかリハビリを行っても状態が一向に良くならないという可能性も十分にある。

 二度とマウンドには戻れないかもしれない。そうなれば彼の悲願である甲子園出場など、もはや夢に描くことすら出来なくなるだろう。彼を待っているのは、希望よりも絶望の方が圧倒的に多い。それにも拘らず明るい表情を浮かべていられる波輪の気持ちが、同じ投手として星菜にはわからなかった。

 この時、星菜は今の彼が陥っている状況をどこかかつての自分と重ねていたのだ。

 

 長年続けてきた努力を運命に否定されたこと。

 夢を追いかけることが出来なくなったこと。

 自分の居場所が無くなってしまったこと……。

 

 故に星菜は、この時平常心では居られなかった。

 そんな星菜の言葉に波輪は困ったように笑い、そしてはっきりと返した。

 

「そりゃあ、俺だって悲しいさ。悲しくて悔しくてしょうがないし、リハビリしても本当に投げられるようになるか不安で、夜だってあんまり眠れやしない」

「……あまり、そうは見えませんが」

「まあ、後悔なら十分したからね。後はそう、前に進むだけだ!」

 

 左手でポンッと星菜の右肩を叩きながら、波輪はそう強く言い放つ。彼は星菜の過去など知らない筈だ。しかしその言葉が自分のことを励ましているように聴こえたのは、きっと自惚れだろうと星菜は思う。

 だがそれでも、その言葉が自分に向けられたものではないにしても少しだけ元気づけられたように感じた。

 波輪は口を開き、言葉を続ける。

 

「悲しんでばかりじゃいつまで経っても進めやしない。こうなることも覚悟して選んだ道だし、これから頑張って、何とかしてみせるさ。甲子園だってまだ諦めちゃいないよ。それに……」

 

 言って星菜の肩から手を離すと、波輪は星菜の後方へと視線を移す。

 星菜がそれに釣られて背後を振り向くと、竹ノ子高校指定の緑色のジャージを身に纏った桃色の髪の少女がピョコピョコと駆け寄ってくる姿が目に映った。

 

「……こんな馬鹿な俺でも見捨てないでいてくれて、傍で応援してくれる女の子が居るんだ。応えてやれなきゃ、男じゃねぇよ」

 

 彼女――川星ほむらを見つめる波輪の横顔は穏やかで、優しげで。

 この男と自分を重ねて見ていたことが、星菜にはあまりに恥ずかしく思えた。

 

「強いんですね、先輩は……」

「弱いよ、俺なんて全然。あの子が慰めてくれなかったら、多分ずっと沈んでた。あっ、このことはアイツらには内緒な! 絶対殴られるから」

「……ぷっ、あはは! 私には話せるんですね、そういうことっ」

「……ん?」

「はははっ、心配して損しちゃった。やっぱり、貴方は強いですよ」

「あ、ああ……」

 

 傍に居る存在からの慰めを受け入れて、立ち直ることが出来たのが波輪風郎である。

 そして傍に居る存在からの慰めを拒み、今も立ち直りきれないでいるのが泉星菜だった。

 

 良かった――星菜はそう、心から思った。

 

(この人は絶対、私のようにはならない。……絶対に)

 

 自分には無い強いモノを、波輪風郎は持っている。そして彼自身は、それを良い意味で当然のことのように思っている。

 その姿を見て、星菜の心から一つの不安が解消された。安心のあまり、思わず素の口調が出てしまったほどだ。

 

「あのさ、星菜ちゃん……」

 

 あまりにも自分と違っていることが嬉しくて、笑いが止まらない。

 後輩のそんな態度が無礼に映ったのか、波輪が掛けてきた言葉に星菜はハッと口元を押さえながら、彼の顔を上目遣いに窺った。

 何を言われるのかと内心怖々としていた星菜だが、波輪が浮かべていた表情は微笑みだった。

 

「やっぱり、元気に笑っている顔の方が似合うよ」

 

 そう何事も無いように言ってくれるところも、彼の美徳なのかもしれない。星菜はこの時、僅かに彼の顔から目を背けながらそう思った。

 

「……そういうことは、川星先輩にだけ言ってください」

「え、なんで?」

「……なんでも、です」

 

 これが彼に好意を持つ女性であれば、下手に勘違いしていたところだ。見た目通りこういった方面には鈍い男なのだろうと星菜は思った。

 ……それがどこか、小波大也と似ているように思う。星菜は多数の女子生徒から好意を寄せられていた中学時代の先輩を思い出しながら、そんな他愛の無いことを考えた。

 程なくして、駆け寄ってきた川星ほむらが二人の元に合流する。

 

「星菜ちゃん! 波輪君と何話してたんッスか?」

「先輩に口説かれていました」

「ちょっ、ちが」

「波輪君……それはどういうことッスか」

「うわーい! 待ってくれ、いや待ってください。おい星菜ちゃんなんてこと!」

「……先輩」

「ハイ!」

 

 この男の手綱を握っておくのも大変であろう。これはそんなことを考えた星菜の、ほむらに対するささやかな手助けだ。

 

「川星先輩のことを泣かしたら、私許しませんから」

 

 二人にはどうか、これからもお互いに必要な存在同士で居てほしいと思う。完全な部外者である自分がそんな口出しをするのも何様かと言う話でもあるが、それでも星菜は言わずには居られなかった。

 

(……私もお前の気持ちを受け入れていれば、この二人のようになれたのだろうか……)

 

 彼ら二人の姿を「有り得た筈の自分達の姿」のように見てしまったのもまた、自惚れなのかもしれない。

 だがこれも、星菜には考えずに居られなかった。

 

(いや、そういうことを考えている時点で、私はもう駄目なんだろうな……)

 

 過去に戻りたがっていると――そう気付いてしまった自分に、これ以上前に進むことが出来るのだろうかと。

 

(後悔なら十分、後は進むだけ……か)

 

 波輪の言った言葉は、星菜にとって共感出来るものではあった。しかしそれでも、星菜と彼とではあまりにも立場が違い過ぎているが為に、元気づけられる以上にその言葉を素直な心のまま受け止めることは出来なかった。

 

 前に進んだ筈の道が行き止まりに終わった野球少女――早川あおいの姿が脳裏にちらつく。

 自分も同じ野球少女である以上、どれほど前へと突き進んだところで、結局行き着く先はあそこしか無いのだから――。

 

 



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自分の居場所

 

 

 ――二回戦、そよ風高校との試合が始まるより数日前。

 

 それは、恋々高校の一回戦が終わった日こと。

 二人の野球少女が交わした電話の内容である。

 

『署名運動?』

『うん。女子選手の参加を運営に認めてもらう為にって、小波君達が気を効かせてウチの野球部みんなでやってたみたいなんだ。……ボクに内緒で』

『そんなことが……』

 

 署名運動――それは個人や団体が何らかの社会問題や政策に反対したり法令の改正や制定を求める際、その意見に同意する者の名前を集め、問題のある会社、政府、都道府県等に提出する運動のことである。この場合、提出する相手は高校野球連盟になるだろう。電話の相手であるあおいすらも恋々高校の野球部員達がそれを行っていたと知ったのはつい最近のことらしく、星菜にとってはもちろん初耳の情報であり、そのような運動が自分の知らぬ間に行われていたことに大層驚くことになった。

 女子選手の公式戦出場禁止という高校野球の規定その物に立ち向かう――それがどれほど茨の道かは、もはや語るまでもないだろう。

 

『しかし……運営の返事はどうなったのですか?』

 

 答えは問うまでもなくわかりきっていたが、星菜はほんの少しだけ期待する思いがあったのか気付けばそんな質問をしていた。

 しかし高校野球の長い歴史の中でそう言った署名運動は過去にもあった事例だろうし、大会の運営側はその度に首を横に振ってきた筈だ。

 そもそもそのような要望が通れば新聞の一面へと大々的に掲載されるのは確実であり、今頃はテレビでも多く報道されている筈だ。ここ最近のメディアにそう言った動きが無い時点で、彼らの署名の結果がどうなったかは既に明白だった。

 

『それが、返ってこなかったんだ』

 

 しかし早川あおいが返したのは、星菜の予想の斜め上を行くものだった。

 

『署名は結構集まったみたいなんだけどね……向こうはウンともスンとも、反応すらしてくれなかったんだ。大会が始まってからも今まで、ずっとね』

 

 可決とも否決とも言われることがないまま、署名運動自体が始めから無かったかのように完全に無視を決め込まれてしまった。

 大会運営側としては、聞く耳すら持ちたくないということなのだろうか。

 

『……真面目に取り合ってくれなかったのでしょうね、ご老人方は』

『悔しいけど、そういうことなんだろうね。だから思い切って強行しちゃったってわけ。メンバーの登録も「あおい」って名前の男の子も今時は普通に居るし、勘違いしてくれたのか案外すんなり通ったよ』

『そんな、簡単に言えることでは……』

 

 しかしだからと言って、星菜には無理を押して強行策に出た恋々高校を擁護することは出来なかった。

 後になって考えれば、この時星菜は自分が延々と悩んでいることをこうもあっさりと乗り越えてみせようとするあおいの強さに、幾分嫉妬していたのかもしれない。

 

『ボクも最初は断ったんだけどね。こればかりはホント、下手したらボクのせいで出場停止になるかもしれない問題だから』

『それを……それをわかっていて、どうして!』

 

 返されたあおいの言葉に、自然と語尾が荒くなってしまう。

 女性選手である自分が出場することでチームメイト全員に迷惑を掛けることになる可能性もわかっていて尚、彼女は出場を強行した。その行動は星菜の目から見て、自分以外の者の都合を顧みない身勝手な行動にも映ったのだ。

 星菜の言葉に対しあおいはその自覚があるのか決まりが悪そうに、しかし自身の言い分は最後まで通した。

 

『返事が来なかったってことは、受け取り方次第では許可が下りたと受け取ることが出来る。だからボクが出場した結果チームが今後の大会に出られなくなったとしても、その時僕達が恨むのは無責任な運営だけで、絶対に誰も君を恨むことはない。だから安心して投げてくれ……そう言って、みんなが背中を押してくれたんだ』

『小波先輩……』

 

 無茶苦茶な理論だ、と星菜は思う。だが、そんなことは言った本人である小波ら恋々高校野球部員達も承知の上だろう。

 それでも、無理を通してでも彼らは早川あおいを公式戦に出場させたかったのだ。温かい、まるで青春ドラマのような話だと星菜は思った。どうやら彼女は、星菜が思っていた以上に周りから愛されていたようだ。

 そして早川あおいは、そうやって愛されているだけの人間でもなかった。

 

『「エースは君しか居ない」なんて、面と向かってそんなことを言われて閉じこもっていられる? 少なくともボクには無理だったよ。マウンドはボクの居場所なんだ。……だから投げたんだって言えば、言い訳になっちゃうのかな』

 

 誰からも愛される人間でありながら、常に自分の信念を持って行動している。

 眩しくて、女子選手として理想的な姿だと思う。だが同じ女子選手であっても泉星菜には、やはり彼女のようにはなれなかった。

 

『温情で規定は覆りません……結局、私達女子選手の出場が認められることはありませんよ』

『そうなったら、ソフトボールの世界か女子野球の世界に……ううん、やっぱりボクはこのままだろうね』

 

 女子選手の今後について最悪にして最も可能性の高いケースを想定した質問をすれば、あおいからは間も空けずにそんな言葉が返ってきた。だがそれは、星菜にとって聞く前から予想の出来た答えだった。

 目の前の現実に徹底的に叩きのめされたその時は、潔く高校野球界から身を引く。そんな器用なことが出来る人間ならば、彼女とて始めからこのような道は歩んでいないだろう。

 彼女にとっては愚問すぎたかと、星菜は携帯電話を通した己の質問に苦笑を浮かべる。

 

『星菜ちゃんは?』

 

 一方で、彼女の方から自分が問い返されることは頭に無かった。

 しかし仮にその可能性を事前に想定していたとしても、星菜にはその質問に答えることは出来なかっただろう。返すことの出来る言葉が、何一つ見つからなかったのだから。

 

『……私は最初から、諦めていますから。このままマネージャーを兼任して、バッティングピッチャーをやっていても……』

『ウソだってわかるよ、その声は』

 

 苦し紛れに言ってみれば、一瞬で心の内を見抜かれた。同じ女子選手同士、彼女にはわかってしまうのだろう。

 

『ボクは恋々高校のエース、早川あおい。君は?』

『背番号すら持っていない、自称選手の……』

『違うよ! ボクが聞きたいのはそんな言葉じゃない!』

 

 星菜にとって答え難い質問だと知っていても、答えなければならないことだと理解してそう訊いてくる彼女は、やはり良い先輩だと思う。何度目になるか数えてもいないが、星菜は彼女ともっと早くに出会えていたらと悔やんだ。

 

『今の自分のままじゃ駄目だと思ってるから、そんな風に辛そうな声になるんだよ』

『……私は、今の自分を肯定出来ません……』

『なら、どうする?』

『私は……』

 

 彼女のように、胸を張ってマウンドが自分の居場所だと――そう言える強さが欲しい。

 たった一人の親友と別れたその時から、星菜は自分自身を肯定出来なくなっていた。

 自分の存在に大した価値を見出すことが出来ず、気付けば奪ってでも欲しいと思えるような居場所も、気概も無くなっていた。

 

 ――私は、どこに居るんだろう?

 

 そこから先を考えれば涙ばかりが溢れてきて、言葉にならなかった。

 答えは結局、分からずじまいだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今でも、後悔はしてないよ」

 

 向かい側の席に座るあおいが、晴れやかとまでは行かないが落ち込んでもいない様子で言った。

 一日の部活動が終わり、帰路に着こうとしたその時。星菜はあおいから待ち合わせの電話を貰い、いつだったか彼女と行ったことのあるファミリーレストランを訪れていた。

 あおいとは通学している高校は近くないが、その日の気分で共に時間の都合が合った時などはこうして共に夕食を摂ることが何度かある。時々彼女の友人である恋々高校のマネージャー「七瀬はるか」が同席することもあるが、この日はあおいと星菜の二人きりであった。

 二人だけでこう言った時間を取れる程度には、彼女とはそれなりに親睦は深まっていると言えるのだろうか。親友と疎遠になって以降そこまで友人と深い仲になることが無かった星菜には、少々判断しかねる事柄であった。

 

「……自分が出場した為にチームの二回戦以降の試合が無くなってしまっても、今の貴方に後悔は無いと?」

「そう言われると辛いけど……なんだか最近、星菜ちゃん厳しいね」

「そうですか?」

「うん。前はもっとこう、迷子の子猫みたいだったけど、今はなんか反抗期の猫みたい」

「どうあっても人間にはなれませんか。そうですね、自分がどういう人間なのかもわからないような人は、猫呼ばわりで十分ですね」

「いやその、ごめんね? 悪気は無かったのよ」

 

 最近はお互いの近況以外にも話すことが増えてきて、星菜の話す口調も星菜自身が意識せずとも素に近いものとなっている。あおいにとって星菜が出会った当初よりも遠慮が無くなったことは良いことなのか悪いことなのかわからないが、星菜としては現状の態度が彼女を不快にさせるようであればすぐにでも元に戻すつもりではあった。

 

「……こちらこそ言葉を荒くしてすみません。少し気が立っていたので、あおい先輩に当たってしまったようです」

「ん? 何か嫌なことでもあったの?」

「嫌なことと言うわけではないんですが、先輩達のことを心配していた自分は何様だったのでしょうかと自己嫌悪に」

「ああ、波輪君のこと」

「あおい先輩のこともです」

「あはは、心配してくれてたんだ。すぐに連絡しなくてごめんね」

 

 行き止まりにぶつかってからどうすれば良いかわからず、立ち止まり続けていた五月までの自分。

 六月からは漠然と自分の進むべき道が見えたような気がしたが、この七月に起きた波輪の故障とあおいの登板による恋々高校の出場停止という事件でまたわからなくなってしまった。

 だと言うのに、事件の渦中に居た筈の二人の人物は然程思いつめている様子ではない。無論星菜の見ていないところで苦しみもしたのだろうが、数日の間ですぐに再起動を果たし、今も自分の信じた道を再び進もうとしている。

 

 ――彼女らと自分の強さの差は、一体どこから来ているのだろうか?

 

 そのことに苛立っているのは単に拗ねているだけだと星菜はわかっているが、それでも家の中のようにリラックスした精神状態であれば愚痴を溢さずには居られなかった。

 

「……恋々高校は、今後どうするおつもりですか?」

 

 自分の態度が招いてしまった気まずい場の空気に居た堪れなくなった星菜は、話題を変えるべく今回問いたかった本題とも言える質問をぶつけてみた。

 それに対し、あおいが大方予想通りの言葉を返す。

 

「認めてもらうまで署名を続けるつもりだって。小波君や奥居君も、みんなしてそう言っているよ。今度はボクも運動に参加しないとね」

「あおい先輩は、本当に慕われているんですね……」

 

 恋々高校の野球部員は皆、一人の野球少女の為に自主的に署名運動に取り組んだ男達だ。今回大会の出場停止処分を受けた程度では、やはりあおいの出場を諦めなかったようだ。

 主将からして諦めの悪い男が務めているのだ。処分を受けたところで逆に闘志を燃やしている姿が容易に想像出来てしまう。普段は澄ました顔をしているが、小波大也の本質は波輪風郎同様に熱血漢なのである。

 彼だけでなく他の部員達にも慕われているのは、誰よりも努力に打ち込んでいるあおいの姿を普段からその目で見ているからだろう。

 

 ――そう言うと、あおいが気になる言葉を返してきた。

 

「君だって、他人事じゃないでしょ」

「えっ?」

 

 その時は一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 

「でもあの時は驚いたなぁ……竹ノ子高校の一年生がいきなり野球部に訪ねてきて、「署名運動に参加させてください」なんて頼んできたのは」

 

 何のことを話しているのか、星菜にはわからなかった。

 

「聞けば中学校時代の小波君の後輩で、星菜ちゃんとはチームメイトだったって言うんだもん。だから納得しちゃった。この子は星菜ちゃんの為に、星菜ちゃんが公式戦に出れるようにしたいんだって」

 

 話の内容を遅れて頭の中で繰り返すことで、星菜はようやく理解することが出来た。

 その瞬間、星菜は遅れて驚愕に目を見開いた。

 

「あれ? もしかしてその反応は……知らなかったの?」

「……あおい先輩、その方は水色の髪をオールバックにした男子部員でしたか?」

「うん、そうだよ。鈴姫健太郎君、練習試合では三番を打ってたよね」

「……教えていただき、ありがとうございます」

 

 なるほど、道理で練習の鬼である筈の彼が部活動に参加しなくなったわけだ。

 星菜はこの時、初めて合点が行った。この日も彼は練習に参加しなかったのだが、その理由が今わかったのだ。

 茂木監督には彼から何か聞いていないかと訊ねてみたが言い辛そうにしているばかりで教えてくれなかったし、主将の波輪に訊けば何故かニヤつきながら明後日の方角を眺めていたことを思い出す。それもあおいの言葉が真実ならば、全て理解出来た。

 

(鈴姫、健太郎……)

 

 この泉星菜の為に、恋々高校の署名運動に参加していた。それならば練習に参加出来ないのも納得だった。

 

 だが、とても礼を言う気にはなれないだろう。

 

(お前は……)

 

 ――思い出す。彼と別れた日のことを。

 

『……お前にだって、私の気持ちはわからない。だからもう、同情するのはやめてくれ……』

『同情なんかじゃない! 俺は本気で……!』

 

 ――あれから、全てが変わったと思っていた。

 

『やめろって言ってるだろっ!』

 

 ――自分も。

 

『じゃあ君は……君にとっての俺は何なんだ!?』

 

 ――彼も。

 

『言わなきゃわかんないのかよ! 馬鹿っ!!』

 

 あの日自分達が「対等」でないことを知った星菜は、彼に暴言を吐き捨て、別れた。

 そして次の日からは親友であったことも忘れたように余所余所しく振る舞い、お互いに踏み込むことも無くなった。

 

 自分達の関係は変わったものと――そう思っていたのだ。

 

(お前は、まだ……そうまでして……!)

 

 テーブルに置かれた料理もそのままにして、星菜は俯きながら頭を抱える。その様子にあおいは数瞬考え込むような仕草を見せた後、星菜に言った。

 

「誰にも言わないから、良かったら聞かせてもらえないかな? 君とあの子の関係。ボク、ちょっと興味あるな」

「……多分、先輩が思っているような関係じゃありませんよ? 聞いてもつまらない話ですし、それでも構わないのでしたら……」

「うん、いいよ。お願い」

 

 第三者には、家族にすら話したことの無い話である。元を辿れば、それは今の星菜が自分の居場所がわからないでいる最大の理由でもあった。それをこの場で話してくれと言われた星菜であるが、この時は不思議と口が重たくなかった。

 それだけあおいに対して気を許してしまっているのか、それともいい加減自分で抱え込んでいるのが辛くなってしまったのか……恐らくは、後者だと思う。

 しかしいざ話すとなると、中々上手く思考がまとまらないものだ。下手な話し方になるとは思うが、その辺は勘弁してもらいたいところである。

 呼吸を整え、周囲に目を見やる。この店の客入りはあまり良くはなく、幸いにも星菜の周りに聞き耳を立てるような人間の姿は無かった。

 

「あの人は……」

 

 ポツポツと、小さく、それでもあおいの耳に伝わるように、星菜は話し始めた。

 

 

 

 そして十数分後、その話が終わった時、星菜はあおいに本気で――

 

 

 

 ――本気で、激怒された。

 

 

 

 







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星菜

 

 ――怖かったのだ。

 

 野球部の中で孤立していた自分に、それまで傍に居てくれた親友の優しさが。

 その優しさが自分だけに向けられていることに気付いた瞬間、怖くなった。

 それまでに周りの人間に多大な迷惑を掛けてきた自分。

 小波大也に至っては、自分が野球部に居た為に彼の進路を狂わせてしまった。

 

 そして次は、自分の存在が彼の――鈴姫の進路にまで悪影響を与えようとしていた。

 

 多くの強豪校の推薦を蹴って、ただ自分の為だけに無名校に入学しようと言った彼。

 その優しさは、正直に言えば嬉しかった。

 嬉しかったが――重すぎたのだ。

 

 泉星菜のあまりにも小さな手では、その想いを受け取ることが出来なかった。

 

 自分と一緒に居れば、それだけで本来彼を待っていた筈の輝かしい将来が離れてしまう。

 自分に優しすぎる為に、彼は彼の人生を台無しにしてしまう。

 

 ――そんなことが、耐えられる筈が無かった。

 

 彼の告白まがいな言葉を受けて、そんなことをいの一番に考えてしまった自分自身にも失望した。

 彼の優しさが自分に対する庇護心から来るものだと悟った時、もはや自分達はライバルどころか対等な存在ですらなくなっていたことに気付いてしまったのだ。

 そんな自分に彼の隣に立つ資格があるなどとは――泉星菜には思えなかった。

 

「……それは、違うと思う」

 

 早川あおいに対して一言ずつ語る度に、胸の内が痛んだ。だが星菜には決壊したダムから溢れ出てきた水流のような言葉の群れを、途中で止めることなど出来なかった。

 星菜が当時の自分が抱いた怒りの思い全てを吐き出した時、最後まで黙って聞いていたあおいが言った。

 

「今、君が話していた時……ここのところが痛かったよね? 苦しかったよね?」

 

 あおいは真剣な眼差しを向けると、自らの左胸に手を当てながら質してくる。その言葉に星菜は、無言で首肯した。

 

「それってさ、君の中にある何かが傷ついているってことだよね。……鈴姫君に言った言葉を、後悔しているってことでしょ?」

「違うっ……それは、違います……! アイツは……アイツも他の連中と変わらなかった! 誰よりも守りたい人だって……私が欲しかったのは、そんな言葉じゃなかったのに! アイツだけは私のことをずっと対等に見てくれるって、信じてたのに!」

 

 別れた日の話をしている間、心が痛かったことは事実だ。しかしその痛みが自分の下した決断に対する後悔から来るものだとは、とても思いたくなかった。

 あおいに話したのは、失敗だったかもしれない。

 星菜はこれ以上内心をさらけ出さないように、作り笑いの仮面で素顔を隠した。

 

「……だから、始めから間違っていたんですよ……私のことを対等に見てくれる人なんて、どこにも居なかった」

 

 彼を突き放したことを後悔しているなどと認めてしまえば、今の自分自身を否定することになる。自分にとって対等な人間などどこにも居る筈が無いと、そう諦めたことが無駄になってしまう。

 竹ノ子高校の皆には諦めて、始めから期待せずに接していたから今まで上手く付き合っていくことが出来ていた。しかし自分が本当は今でも対等な存在を欲していると認めてしまえば――またあの時の自分に戻ってしまう。それでは、同じ過ちの繰り返しだ。

 だから星菜は、自ら本心を隠し続けていたのだ。

 

「……駄目だよ、そんなんじゃ」

 

 そんな星菜と向き合って、あおいが正面から否定する。

 

「君は、今の自分が好き?」

「……嫌いです」

「じゃあ、昔の自分は好き?」

「……嫌い、です……」

 

 自分の殻に閉じこもって、言いたいことも何一つ言えない今の自分も、傍に居てくれた大切な友人さえ突き放した過去の自分も――どちらも嫌いだ。

 こんな自分なら、いっそ居なくなりたいとすら思っていて――それでも、蔑ろにされることは人並みに不愉快に感じて。

 

 本当のところ、自分のことが好きなのか嫌いなのかもわからない。我ながらあまりにも面倒で、自分勝手で、不器用な人間だと思う。でもそれを、自分から治すことは出来ない。それが、星菜が認識している泉星菜という人間だった。

 

「なら今度は、違う自分を捜そうよ。自分を好きになろうよ、星菜ちゃん」

 

 心では周りから認めてもらいたいと強く思っていながら、自分自身を肯定出来ず好きになれないでいる。そんな星菜のことが、あおいには他人事に思えなかったのだろう。親身に応じたその言葉は、他の誰よりも星菜の胸に響いた。

 

「ボクは言ったよね? 待っているだけじゃ駄目だって、君のことを受け入れてくれる人はどこかに居る筈だって」

「……居ないですよ。そんな人は」

 

 同じだけ苦しんできたあおいの言葉には、説得力がありすぎていた。

 自分の心が無意識に受け入れてしまう彼女の言葉が今は怖く感じ、星菜はこれ以上聞くまいと耳を塞ごうとする。しかしその両手は思うように動かず、自身の震える肩を押さえるばかりだった。

 

「鈴姫君は、君のことを受け入れようとしてくれたじゃない。なのにどうして、そんな言葉を掛けたの?」

「……私はアイツから貰ったたくさんのものを、何一つ返せなくて……そんな私じゃ、アイツと……対等になんかなれないと、思っていたんです……!」

「本当にそう? 星菜ちゃん」

 

 気付けば星菜は、今まで自分自身すらも知らなかった己の本心を吐き出していた。

 大粒の涙を溢しながら、星菜は言葉を紡ぐ。

 

「私だって……私だって本当は、守りたいって言われて、嬉しかったんですよ……! アイツとなら対等じゃなくても、あのまま守られる関係でも良いと思っていた……!」

 

 誰よりも大切な、守りたい人だと――年頃の少女なら、親しい仲だった男からあのような言葉を掛けられて嬉しくない筈が無い。それが本当に欲しかった言葉でなかったのだとしても、星菜の心はあの時確かに満たされかけていたのだ。

 だが、だからこそ星菜は拒絶しなければならなかった。

 

「……でも、そんなことを言ったら私は……その瞬間から野球に対する未練も何もかも無くなってしまいそうで……」

 

 それまで星菜は、何も気にせず野球に打ち込んでいる時の自分こそが本当の自分だと思っていた。

 だが鈴姫に対してそれまでに無い感情を抱いてしまった星菜は、どちらが本当の自分なのかわからなくなってしまったのだ。

 

「……だから私は、アイツの優しさが怖かった……! 嫌いになったんじゃないんですッ……! 私は……!」

 

 決して鈴姫のことが、あの一件で嫌いになったわけではない。星菜はただ、彼に対し特別な感情を抱くのをやめて――

 

「それまでの自分が……ずっと打ち込んできた野球よりも、アイツのことを好きになってしまうのが怖かったんです……!」

 

 ――それまでと違う、変わりかけていた自分自身から逃げ続けていたのだ。

 

「冷たいよ、それは」

「……わかってます。でもそうなったら私は、もうそれまでの私じゃなくなってしまうから……」

 

 野球以外のことで満たされてしまったら、その時は野球に対する情熱も未練も完全に失ってしまうだろう。

 猫を被るのではなく心の芯までも普通の少女になってしまったら、それまでに歩んできた野球少女としての人生を否定することになる。

 過去を否定することを恐れたが、決して過去の自分が好きだったわけではない。

 それからは過去を否定しない為に表面だけ取り繕った野球好きの少女を演じていたが、中途半端な現状の自分も嫌いだ。

 

 過去の自分も今の自分も嫌いで――その上変化を恐れ、自分がどこに居るのかもわからない。

 

「……君ってさ、なんて言うか不器用なんだね。……ボクと一緒。だからわかるよ、君の言うことも」

 

 そんな星菜に対して、あおいが己にも覚えがあるのか自嘲気味にそう言った。

 しかしすぐに真剣な眼差しに戻り、あおいは確かな厳しさを持って星菜に問うた。

 

「星菜ちゃん、また聞くよ。君は、どうしたい?」

 

 一度目は「わからない」と答えた、二度目の質問である。

 その時は野球に関する質問であったが、今回では意味合いが異なっている。しかし何についての質問なのかは聞き返すまでもなかった。

 

「私は……」

 

 どうしたいのか――このまま、今まで通りで良いのか?

 

「私は……!」

 

 それでは駄目だと、思い始めている。

 二度と引き返せないと、そう決めていた筈の道だ。

 そんなことをすれば、どうなるかわからない。

 しかし星菜には、たった一つだけ決心したことがあった。

 

「……もう一度、アイツと話したい……」

 

 あの日から敬遠し続けてきた彼と、向き合わなければならない。

 肩に不安を抱えながらも夢を追った波輪や、苦しくても諦めず公式戦出場を目指す早川あおいのように、己にとって直視したくない現実とも対峙する。

 泉星菜は二人のように強くはないが、強く在りたいと思う気持ちだけは失っていなかったのだ。

 

「うん……鈴姫君言ってたよ。まだ星菜ちゃんのこと、待ってるって」

 

 星菜の言葉に、あおいは満足そうに笑った。

 彼女が居てくれて本当に良かったと、星菜は改めて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試合をしている時、鈴姫健太郎は常々思っていた。

 何故この場所に、彼女が居ないのだろう? と。

 誰よりも実力のある筈の彼女は、ただ女子だからと言う理由だけでベンチにも入ることが出来ず、スタンドからグラウンドを遠目に眺めている。そしてそのことに対し、彼女は不満そうな顔一つすることなく現状を受け入れている。

 

 ――いや、あれは受け入れているように見せかけているだけだ。

 

 今まで、どれだけ彼女の顔を見てきたことか。笑った顔も、怒った顔も……泣いた顔も見てきたのだ。例え彼女がポーカーフェイスを装おうとも、その奥底にある感情を察することの出来ない鈴姫ではなかった。

 彼女は決して、現状を受け入れているわけではない。受け入れざるを得ないから、諦めているだけだ。

 

 彼女の居ないグラウンドでは、試合に勝ったところで喜びは無かった。

 優秀な投手からヒットを打った時も、特に高揚感があるわけでもない。淡々と、作業をこなしているようなものだ。

 

 ……我ながら、女々しすぎる男だと思う。これではまるで、読んだことはないが少女漫画に登場する乙女のような恋愛脳ではないか。

 

 だがそれは、彼女の居ない試合をつまらないと感じているのは間違いなく、鈴姫の本心だった。

 だから所属チームの大黒柱である波輪風郎が右肩を壊し、下手をすれば二度とボールを投げることが出来ないかもしれないと知った時も、他の野球部員達のように落ち込むことはなかった。

 それには、彼ならばどうせ復活するだろうと割と楽観視しているという部分もあるが、結局のところ鈴姫がこの高校に入学したのは彼女とまた野球をしたいと思ったからで、甲子園を目指す気持ちはそれほど強くなかったからなのだろうと分析する。

 純粋な波輪を見ていれば、それがいかに不純な動機かは鈴姫自身がよくわかっているつもりだ。

 

 ――それでも、だ。

 

(俺は一体、何の為に……)

 

 鈴姫は彼女を目標に野球に打ち込み、あくる日も努力を続けてきた。

 しかし肝心の努力を発揮する場所に彼女が居ないのなら、一体何の為の努力だったのか。

 何の為に、自分は野球をしてきたのか……。

 

 

 そよ風高校に敗北してから、鈴姫はある日駅前にて恋々高校が大会運営に女子選手の公式戦出場を認めさせる為の署名運動を行っていることを知った。

 それ以後、鈴姫が起こした行動は迅速だった。

 

『俺も署名運動に、参加させてください』

 

 あの男(小波)に頭を下げるのは非常に癪だったが、こちらの事情を把握しているあの男が恋々高校の主将だったからこそ頼みやすかったというのは、何とも皮肉な話だ。

 彼女と同じ野球少女である早川あおいからは動機を問われたが、彼からは特に何も言われることなく了承を貰えたものだ。

 しかしそのようなことを勝手に行ったと彼女が知れば、また怒られるだろう。彼女は強い人間で、庇護されることを良しとしない性格だ。別れた日はそのことを完全に失念していた鈴姫だが、今ならば彼女があの日見せた涙の理由も理解出来る気がする。

 

 だがどうせ、一度は盛大に嫌われた身だ。これ以上失うものなどありはしないだろうと思い、鈴姫は恋々高校の署名運動に参加した。

 

 彼らの運動に参加する日は部活動を欠席することになるから、監督の茂木と主将の波輪には大方の事情を話している。この件に関して怪訝そうな顔は見たくなかったから、彼らには署名運動に参加すると決めた動機を洗いざらい話してやった。

 

 波輪に対しては話の流れからか、彼女に対する気持ちまで語ってしまった。

 

 その時の鈴姫は、彼自身が思っていた以上に精神的に参っていたのだ。誰かに話したい思いはずっと持っていたが、親友と呼べるほど深い仲の人間が居ない鈴姫にはそれまで誰かに本心をさらけ出すことはしなかった。

 しかし機会さえあれば、鈴姫自身が驚くほど躊躇い無く話すことが出来た。

 

『……なるほど。お前とあの子がそんな関係だったなんて知らなかったよ』

 

 それに波輪風郎は聞き上手である上に、話し相手としては理想的な相手だった。

 彼とはお互い踏み込むには深すぎも浅くもない関係であり、個人としても少々抜けている部分こそあるものの時と場を弁えられるほどには誠実で、一定の信用は置ける先輩だ。

 彼が相手ならば、話したところで下手なことはしないと思ったのである。

 

『でもな、鈴姫。お前は、嫌われてなんかいないと思うぜ?』

 

 そして別れた日の話を語り終えた時、波輪は自分の言葉で意見をくれた。

 

『別にさ、怒られたって良いじゃねぇか。一度も喧嘩しないで、対等な関係になんかなれるかよ』

 

 それは、考えてみれば当たり前のことで。

 

『話を聞くに、お前はちょっと傷付けることを怖がりすぎだ。もっとあの子のことを信じてみろよ。後はカッコつけずに腹割って話し合って、お互いの気持ちを確かめてみろ。俺も体験したことだけど……まあ、俺が言えるのはそれだけだな』

 

 今の鈴姫にとって、それは何よりも必要な言葉であった。

 波輪から掛けられたその言葉には、鈴姫自身同調出来る部分があったのだ。

 喧嘩もせずに対等な関係にはなれない――思えば彼女とは、あの日までまともに喧嘩したことは無かったように思える。

 だからたった一度の衝突でどうすれば良いかわからなくなり、気が付けばあの日から一年近くの時間が過ぎてしまった。

 

 ――今度こそ、俺に向き合えるだろうか?

 

 違う、向き合わなければならないのだ。

 彼女に対するこの気持ちに。

 

 

 

 

 午前の授業が終わった昼休み時間。

 そよ風の吹く竹ノ子高校校舎の屋上にて、鈴姫は自身の心を落ち着けるべく深呼吸を繰り返していた。

 野球の試合でチャンスの場面で打席が回ってきた時よりも遥かに緊張しているのが、自分でもわかる。

 

「……決着を、つけないとな」

 

 この日、鈴姫は彼女との過去に決着をつけるつもりだ。

 あの日のことについて彼女がどう考えているのかわからない以上、自分一人の空回りに終わってしまうことも十分に考えられる。だが、鈴姫にはやらなければならないのだ。

 竹ノ子高校には入学してから、少しずつだが彼女と話すことが増えてきた。その関係は他人行儀でぎこちないものだが、一応の改善は見せている。

 今腹を割って話したことで、また口も聞けない関係に戻ってしまう恐れもある。だが彼女を公式戦の舞台に立たせる為には……自分が彼女の隣に立つ為には、避けては通れない道だった。

 

 ガチャッ――と、ドアノブの回る小さな音が響く。

 その瞬間鈴姫は背筋を正し、息を呑みながら一人の少女を出迎えた。

 癖のないセミロングヘアーの黒髪に、鈴姫の知る何者よりも澄んだ栗色の瞳。端正整った輪郭の触れればかすれてしまいそうな少女の姿は、普段にも増して儚げに映った。

 

星菜(・・)

「……!」

 

 その少女の名を、鈴姫はかつて友だった頃と同じように呼んだ。

 苗字にさん付けで呼ぶ他人行儀な呼び方ではなく、気安く下の名前を呼び捨てにする。たったそれだけのことで声が震えていることを、この時の鈴姫は自覚していた。

 

「呼び出して悪い。今更……本当に今更だけど、言わなければいけないことがあるんだ」

「……私も、お前(・・)には言いたいことがある」

 

 まるで昔に戻ったような鈴姫の口調に対して、星菜が同じように崩した口調で返してきた。

 表情には出していないが、鈴姫はそのことに喜びを感じる。彼女が学校生活で他の人間に向けている丁寧な言葉遣いよりも、鈴姫は自然体であるこちらの方が好きだったのだ。

 

 ――そして、二人による約一年ぶりの対話が始まった。

 

 



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分かり合えた二人(前編)

 

 数秒間の沈黙は、鈴姫にとって何倍にも長く感じられた。

 泉星菜の吸い込まれるような澄んだ栗色の瞳は鈴姫の視線を掴んだ離さず、ただじっと彼の言葉を待っている。

 この場所に呼び出したのは自分だ。ならばまず、自分から話すのが筋というものだろう。意を決し、鈴姫は口を開いた。

 

「あれから、一年ぐらいか……」

「………………」

 

 鈴姫は元来人付き合いが得意な方ではない。口下手な為にこういった場合どのような会話運びをすれば良いのかわからず、しかし不器用なりに切り出した。

 

「……俺、あれから君と向き合うことが出来なくて……ずっと、逃げ続けていて……」

 

 まともに彼女と向き合って「あの日」のことを話すのは、言うまでもなくこれが初めてである。二人にとってそれは、この時まであえて触れずにいた話だった。

 

 そうやって、お互いに逃げ続けてきた。

 

 だが、逃げ続けた結果手にしたものなど、どこにも無かった。

 だから今、鈴姫は決着をつけたいと思ったのだ。

 

「それで、決めたんだ。俺は君と……話さなきゃならないって」

 

 あまりにも時間が長く掛かりすぎてしまった。

 彼女にとってはいつまでも触れて欲しくない、忘れたい思い出なのかもしれない。

 そう考える度に、鈴姫には一歩が踏み出せなかった。話をした結果彼女を傷付けることを、ずっと恐れていたからだ。

 だがこの空白の期間で、鈴姫はそれでは駄目だと思い知った。

 彼女が隣から居なくなったまま変わらない世界など、とても耐えられなかったのだ。

 平静を装うのも限界で――彼女に対する思いの丈をぶちまけてしまった先輩の波輪からは、今一度しっかりと話し合うべきだと言われた。

 

 故にもはや、迷うことなど無かった。

 

「星菜、俺は……!」

「……その話をする前に、鈴姫さんは私に何か言うことがあるのではないですか?」

 

 鈴姫が話をする――前に、星菜が出鼻を挫くように問い掛けてきた。彼女の表情を正面から窺えば僅かに柳眉が逆立っていることがわかり、どこか不機嫌な様子である。

 その隠し事を見破ったような言葉から、鈴姫は即座に彼女が何について質しているのかを察する。

 

「……早川さんに聞いたのか……」

「昨日、聞きました。その口ぶりからすると、貴方が私の為に署名運動をやっていたって言うのは本当なんですね?」

「ああ、本当だ」

 

 彼女の丁寧な言葉遣いが、胸に痛く突き刺さる。

 そんな態度は、望んでいなかった。

 

「……どうして、私に教えてくれなかったんですか?」

 

 星菜が一歩ずつ詰め寄り、鈴姫の顔を間近で見上げながら問う。その真剣な眼差しもまた鈴姫が逃げ続けてきたものの一つであり、今はしかし、受け止めなければならないものだった。

 

「俺が勝手にやっていることだから……いや、違うな」

 

 どうすれば、納得してくれるか。

 野球の能力が全く役に立たない状況の中、鈴姫は己の脳内で最善と判断した言葉を選び、そのままに返す。

 

「あの時、君は俺から哀れまれたことを……自分が俺に庇護される立場になることを、許せなくて怒った」

 

 ズキッと、胸が痛くなる。あの時のことは話す方も話される方も辛いのだと、話しながら改めて実感した。

 だが、言葉は最後まで言い切ってみせる。

 

「今俺がやっている署名運動も……君から見ればあの時と同じなのかもしれない。そう思うと、君に伝えるのが怖くなったんだ」

 

 自分の練習時間を割いてまで、彼女の為に署名運動を行っていた。鈴姫の行動は考え方によってはそう受け取れてしまうものであり、その事実は己の為に誰かが迷惑を被ることを嫌う彼女としては非常に耐え難いものだろう。

 やはりまた、あの時の二の舞か。鈴姫は何一つ進歩の無い自身の行いに内心で苦笑を浮かべるが、心の中は不思議と晴れやかだった。

 それはある種の諦めか、或いは開き直りの精神か。この時の鈴姫は、今更失う物など何も無いという思いだった。

 ただ今は、これまで抱え続けてきた自分の想いをはっきりと伝えたかった。

 

「……すまない。でも俺は、どうしても君と一緒に野球をやりたいんだ。この気持ちは、一年経ってもずっと変わらなかった」

「今だって、一緒に練習しているじゃないですか」

「あれは君にとって、本当の練習じゃないだろう? 練習の為の練習……俺達の補佐をするのがメインで、試合の為の練習とはほど遠い」

 

 自分の想いと彼女の想いが同じなどと、思い上がったことを考えているつもりは毛頭ない。

 ただ、そうで在ってほしいとは思っていた。自分が彼女の帰還を待っていることに対して、彼女にもまた少しでも帰りたい思いがあるのだと。

 だから、言った。

 

「……俺は、君と一緒に公式戦に出たい。俺はずっと、その為に野球をやってきたから」

 

 彼女がこの言葉をどう受け取ろうと、鈴姫に発言を撤回する気は無かった。

 彼女に教わった野球。彼女の隣に居る為に続けてきた野球。彼女が居たから自身の才能の無さにもめげず、あくる日も努力を継続することが出来た。

 だから今の自分が一定の実力者になれたところで、彼女が同じ場所に居なければ意味が無いのだ。

 

「……変わらないな、お前は」

 

 鈴姫の言葉に、星菜は俯きながら言った。

 呆れの混じったその声すらも、鈴姫には愛しかった。

 彼女は続ける。

 

「どんな時だって私のことを一番に考えてくれて……そのせいで自分が不利になることも厭わなくて。私が人間不信になっても、お前はいつだって優しくしてくれた」

 

 気付けばいつの間にか、彼女の口調は学校生活で見せているような言葉遣いではなくなっていた。

 お姫様のような容姿に反して親しみやすく、至って庶民的な口調は――紛れもなく鈴姫の知っている泉星菜のものだった。

 

「本当はね? 嬉しかったんだ。誰も信じられなくなっていたあの時の私に、お前はいつも着いていてくれた。私はお前に救われたんだ。お前が居なかったら、私は……」

 

 重たそうに紡がれた彼女の言葉を、鈴姫は一句たりとも逃さずに聞き取る。

 あの日から一度も聞くことが出来なかった彼女の本心を、ようやく聞くことが出来たのだから。

 

「でも私の方は、そんなお前の優しさに何も返すことが出来なかった……それに気付いた時、私はお前と対等な関係になれないって思ったんだ」

「星菜……」

 

 星菜にとっては、あの日までの関係は鈴姫が自分に与えてくれるだけの一方的な関係に見えていたのだ。

 あの時の状況と彼女の性格を考えるならば、積もり溜まった感情の爆発によって激怒してしまうのも無理もないことだった。

 

「……始めから、対等な関係なんか望むべきじゃなかったのかもしれない。私が受け入れさえすれば、丸く収まった話だったのにな……」

 

 諦観したように言いながら、星菜が目を伏せる。

 鈴姫には、どんな言葉を掛けて良いかわからなかった。

 その時である。

 

「健太郎」

 

 鈴姫の――かつての呼び名である下の名前で、星菜が呼び掛ける。

 鈴姫は目を見開き、自身の目前に立つ星菜の姿を見下ろす。

 それに対し、星菜が顔を上げ――

 

「ありがとう」

 

 そう言って、笑った。

 

「私の居場所を、ずっと守ろうとしてくれて。ずっと……私を待っていてくれて」

 

 それは淀みなどどこにも無い、正真正銘の笑顔で。

 苦労も知らなかった小学生時代のような、純真無垢な目で。

 太陽の光に照らされていたことも相まって、神々しさすら感じるほど華やかで、眩しい笑顔だった。

 

「……ふふっ」

 

 もちろん単に彼女のその表情に見とれていたのもあるが、そんな顔が今の自分に向けられるなどとは露ほども思っていなかった鈴姫は、間抜けにも口を開けて硬直してしまった。

 普段の彼らしからぬ表情を前にして、星菜が腹を抱えて笑う。

 

「はははっ、なんだよ? そんなに驚くことないだろ! 私が礼を言うの、そんなに意外だった?」

「……あの時のように、拒絶されるかと思った」

 

 署名運動に参加したことも、全て拒絶されることを覚悟して話したことだ。彼女の古傷を抉るようなことをしてしまった以上、如何なる批難も受け入れるつもりだった。

 それが礼と、あのような笑顔で返されるなどとは思いもしなかったのである。

 

「……そうだね。あの時も、お礼を言えれば良かったのにな……」

「不器用なのは、知っていたさ……何でも出来るように見えて、一度上手くいかないことがあると途端に頑固になる。君は、昔からそうだった」

 

 昔の彼女のような笑顔を見て、心まで昔に戻ってしまったようだ。

 鈴姫は先ほどまでの緊張が嘘のように、全身がほぐれたように感じた。

 

 ――今ならば、伝えられる気がする。

 

「でも俺は……」

 

 変わっているように見えて、心根の部分は何一つ変わっていない。

 それがわかった、今ならば。

 

「そんな君だから、ずっと傍に居てやりたいと思った。……こんなことを言うと君は怒るかもしれないけど、誰よりも守りたいと思ったんだ」

 

 何も隠さなくていいと、そう思えた。

 

「……私は、性格悪いよ?」

 

 本心だろう、星菜が心から思っていると見受けられる己の短所を述べる。

 

「自分嫌いぶっているくせに無駄にプライドが高くて、過ぎたことをネチネチ言うし人の好意すら素直に受け取れない……」

「俺だって、至らないことだらけさ。なのにあの時の俺は、自分が君の隣に居ることを当然だと思っていた。そうやって、思い上がっていたんだ」

 

 誰にだって至らない部分はある。ありふれた言葉かもしれないが、鈴姫は自嘲気味に笑みながらそう返した。

 

「一年近く経った今だって、心の中はあの時と変わっていない。君が隣に居れば、他に何も要らないって思っている」

 

 彼女の至らない部分など、鈴姫にとっては気にもならない。寧ろ彼には、それすらも愛しく感じていた。

 これが、病だと言うのなら――

 

 

「星菜、俺は……君が好きだ」

 

 

 ――きっと、恋の病とでも言うのだろう。

 

「……いや、そう言うのも何か違うな。そんな気持ちは、何年も前からとっくに超えていた気がする」

 

 それを何年も患ったままでいいと思ってしまうのは、やはり可笑しいだろうか。

 だがそれが自分だと、そう思えるほどには胸を張って生きてきたつもりだ。

 これまでも。

 これからも。

 

「知ってたよ。始めは、私の自惚れなんじゃないかって思ってたけど……」

 

 星菜が鈴姫の目を見つめながら、間も空けずにそう返す。普段の冷静さを保っており、頬も全く赤くなっていないのは想像の範囲内だ。

 彼女がこうも正面から異性からの告白を受けても動じないのは、昔からのことである。これまでも彼女は、そう言った少女らしい少女の反応は見せなかった。

 それが異性として認識されていないだけだとしても、鈴姫にはそれで良かった。己の告白がどう取られようと、泉星菜が昔のままで居たことに安心出来たのである。

 

「お前の気持ちは、多分あの時も知っていた。……でも、受け止めるのが怖かった」

 

 星菜が自身の制服の袖を掴んで、身をよじらせながら言った。

 

「お前にずっと守られることを受け入れたら、対等な野球選手としての関係がなくなってしまうから……野球に対する感情全てが、お前に向いてしまいそうだから……」

 

 鈴姫はただ、その後に続く言葉を待つ。

 

「だから私は……」

 

 そして、星菜が――

 

「私は、野球をやめるよ」

 

 今にも泣き出しそうな表情で、そんな言葉を放った。

 それは、鈴姫にはある程度予測の出来た言葉である。

 

「これからは野球に対する執着を、今度こそ完全に無くすように努力する。お前だけをちゃんと見れるようにならなくちゃ……お前の想いに応えられそうにない」

 

 このどうしようもなく不器用で可愛い野球少女ならば、野球も恋も両立しようとは思わないだろうから。

 

「健太郎、だから……」

「……だったら、今はまだ応えないでくれ」

「えっ?」

 

 予測出来たからこそ、鈴姫にはさらに続く筈だった星菜の言葉を遮ることが出来た。彼女にとってはそれが予想外だったのか驚きに目を見開いていたが、鈴姫は彼女がまた何かを言い出す前に手早く己の言い分を述べた。

 

「もう待つのも慣れたし、君がまた傍を離れさえしなければ、少なくとも高校卒業までは待っていられるよ」

「健太郎?」

 

 自分も大概不器用なつもりだが、彼女の不器用さはそれ以上である。

 鈴姫が自分の気持ちを伝えたのは、彼女に野球をやめさせる為などでは断じてないのだ。

 

「だから俺の為に野球をやめるなんて言わないでくれ。君が自分の為に俺が不利になることを嫌がるのと同じぐらい、こっちだって君に気を遣われるのは嫌なんだ」

「……ごめん」

「謝るなよ。俺が勝手に言ってるだけだ」

「私の方が勝手だよ……」

 

 野球と自分を天秤に掛けて一瞬でも自分を選んでくれたのは、正直言って嬉しい。だが、野球をやめると言ったその言葉が彼女の本心でないことは悲痛な目を見ればわかった。

 彼女はまだ、燃え尽きていない。

 野球への執着心を捨てるには、やり残したことがあまりにも多すぎるのだ。

 

「こっちはそういうところも含めて好きになったんだ。あまりに勝手が過ぎたら俺が止める。だから、それまでは安心して勝手をしてくれ」

「そんなこと、お前に出来るの? お前、私の言うことにはほとんどイエスしか言わなかったじゃないか」

「あの時は、下手に反発して君を傷付けることを怖がっていたからな。でも君が許してくれるのなら、今からだって出来るさ」

 

 星菜に限らず、自分もまた勝手なことをするだろう。それが悪いことだった時は、彼女に止めてほしい。

 彼女が苦しんでいた時は助けたいし、こちらが悩んでいる時は相談にも乗ってほしい。

 一緒に居て、本心からぶつかり合える関係を彼女が許してくれるのならば――

 

「……許すよ。お前になら、傷付けられてもいいから……だから言いたいことがあるなら、はっきり言い争おう」

「ああ」

「それと……今までずっと、振り回してごめん」

「振り回されるだけ、いいさ。傍に居てくれるなら……」

 

 振り回されることすら無くなったら、その時こそ本当に自分達の関係が終わる時だと思う。

 わだかまりが解けた今ならわかる。あの時、自分達は決して「別れた」わけではないのだと。

 

「私は、自分の居場所がわからなかった……」

「俺も、君がどこに居るのかわからなかったよ」

「……馬鹿だよね、私は。対等になりたいなんて我が儘言って、一番の友達を裏切って」

「いや、対等だよ。俺と君は」

「健太郎?」

 

 きっとまだ誤解している彼女に、鈴姫は力強く言った。

 

「君がどう思おうと、誰がなんて言おうと……俺は君を、対等だと思っている。俺は君が思っている以上に、たくさんのものを君に貰ったんだ」

「……健太郎のくせに、クサいこと言ってるんじゃない」

 

 再び俯いた彼女が放った声には、涙が滲んでいて。

 その場で泣き崩れてもおかしくないのに、自分に弱さを見せたくないが為に気丈を装っていて。

 だから鈴姫は、「勝手に」その身体を抱きしめることにした。

 

「ああ、そうか。ならこの際だから俺も言わせてもらうけど、星菜のくせにお嬢様ぶった話し方をするなよ。アレ、中学時代の君を知っていると不気味にしか見えないよ」

「うるさい……私だって似合わないことしてるって思ってたよ!」

 

 彼女は、拒まなかった。

 震える背中を割れ物を扱うように撫でながら、鈴姫は自身の胸から漏れてくる言葉に耳を傾けた。

 

「……人から嫌われるのが、怖かったから……」

「……わかってる。いいさ、当分は周りにいい子ぶっても。俺の前では、素顔の君で居てくれれば」

「簡単に言うなよ、ばか……」

 

 

 

 その日――

 

 二人の不器用男女は、ようやく分かり合うことが出来た。

 

 







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分かり合えた二人(後編)

※恥ずかしいシーンがありますのでご注意ください。


 

 自身の体力の全てを注ぎ込むように本心を語った星菜は、その疲労感からかしばらく鈴姫の胸を借りることになった。

 最近は、以前よりも涙もろくなった気がする。自身の弱さを目の前の人間に曝け出したことに羞恥心はあるが、今ではそれも悪くない気分だった。

 まるでここが自分の居場所とでも言うように、不思議と彼の傍は落ち着くのだ。

 

(不思議、でもないか……あの日までは、いつもこんなだった。ずっと目を背けていたから、この感覚を忘れていたんだ……)

 

 彼と話し合って、自分でも気が付かなかった己の感情を振り返り、気付くことが出来た。心の中から余計な感情が抜けて晴れやかな気分になれたのも、その為だろう。

 星菜は微笑を浮かべ、彼の顔を見上げながら訊ねる。

 

「健太郎は、野球少女から野球を取ったら何になると思う?」

 

 彼の告白を受けて、星菜は一瞬だけ思ってしまった。

 野球と彼、どちらが好きなのか――その二つの選択肢を天秤に掛けた結果、茨の道である女子野球選手の道を行くよりは彼の為に尽くす人生の方が自分にとって幸福ではないか――と。彼に卒業までは待っていると言われて頭が冷えたが、あの時、星菜には確かに野球への未練が弱まっていたのだ。

 鈴姫健太郎という人物のことはよくわかっている。彼の一途な思いも十分すぎるほどに伝わり、自分もまた彼の気持ちに触れたことで、彼に対して友情以上のものを感じつつあることにも気付いている。

 だが、泉星菜はそう言ったことに関しては極端に不器用な人間だ。彼の想いに応えて交際しようものなら、きっと今までよりも野球が疎かになるだろう。逆にこれから本気で公式戦の出場を目指そうとすれば、彼とそう言った時間を過ごすことも少なくなる。少なくとも自分には川星ほむらや波輪風郎のように野球は野球、恋愛は恋愛と別々に割り切って励んでいくことは出来ないと考えていた。

 今の自分には、どちらか片方しか選べない。今までもずっと、そうだったのだから。星菜は彼の胸から身体を離すと、コンクリートの塊である適当な床に脚を伸ばしながら座り込んだ。

 

「ただの少女……になるのか?」

「……うん。私はまだ、そうはなれないかな」

「わかってる。だからこそ君は苦しんでいるんだからな。でも、君から野球を取っても君は君だ。俺の気持ちはこれからもずっと変わらないし、俺は君がどうしようと君を応援する。本当に、君がそうしたいって思ったことなら」

 

 星菜の隣に腰を下ろしながら、鈴姫は星菜の言葉を肯定して受け止める。

 そして、問うてきた。

 

「野球をやめるって言ったさっきの言葉は、君の本心じゃないだろ?」

「公式戦に出られない野球少女を続けるよりも、潔くお前の女になった方が幸せかもしれない……そう思ったのは、本当だよ」

 

 今までの自分自身を否定することは、ずっと恐れていたことだ。自分嫌いを装っていたのは単なる予防線で、有事の際に己が受ける傷を和らげる為。

 そんなことを続けてきたのは――今までの自分が好きだったからなのだろう。星菜は今ならば、先日の早川あおいに対してまともな答えを返すことが出来る気がした。

 

 ……ああも一直線に好意を向けられては、自分を見つめ直さざるを得ない。

 

 今までも何度か異性から告白を受けたことはあったが、思えばここまで深く考えたことは無かった。

 それが良い機会だったと言ってしまえば、あまりにも失礼だろうか。

 

「でもそうしたらそうしたで、お前の気持ちに対しても中途半端に返すことになったかもしれないな……」

 

 答えはもう、出ているのだろう。

 星菜は間近から隣合わせの場所に座っている鈴姫の顔へと目を移し、肩をすくめるように笑った。

 

「野球は、続けてくれるんだな?」

「……うん。だから当分は恋人になれそうにない。こんなんじゃ満足出来ないと思うけど……ごめん」

「いいさ。俺はただ、昔から変わっていない自分の気持ちを伝えただけだ。それをどうするか、決めるのは君さ」

 

 鈴姫が星菜の返した言葉に安堵の表情を浮かべる。悪意一つ無いその反応に、星菜は彼に対してまたしても大きな借りを作ってしまったと自身の行いに苦笑した。

 

「……そこまで言われて結局フッちゃったら、私は完全に悪者だね」

「ああ、俺もここまで言ってフラれたら立ち直れそうにない」

「……色ボケ野球馬鹿」

「色ボケでも努力する理由には十分さ。惚れた女の為に野球をするとか、よくある美談だろ?」

「あーあー聞こえなーい」

 

 彼との関係は借りすぎて、貰いすぎて、いつか絶対に破産してしまう。そう思ったからこそ自ら関係を断った星菜であったが、それを行うには未練がありすぎた。

 この場所は野球と同じく居心地が良すぎて、たった一度本気で向き合うだけでも離れたくなくなってしまう。 

 自分にはもう、二度とこの場所を離れることは出来ないだろう。そう思えるほどに。

 

「……しばらく、話そうか」

「……うん」

 

 時計を見れば残り数分で昼休みが終わろうとしていたが、星菜はいつまでも話していたいと思った。

 今までどんな思いで彼らの練習を見ていたか、どんな思いで野球をしていたか。交友関係や最近のプロ野球の話、くだらない話でも良い。今は一時でも空白だった時間を取り戻したいと――星菜はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 心の汚れが、また一段と取り払われた気がする。

 星菜も鈴姫も口が上手い方ではない為に会話は理想ほど弾まなかったが、それでも充実した一時間を過ごすことが出来たと思う。

 授業を放棄して充実も何も無いと言われてしまえば、全くもってその通りではあるが。

 

「……五時間目、サボっちゃったな」

「国語だったな。まあ、君なら予習済みのところだろう? 一時間程度、この学校なら期末にも内申にも響かないさ」

「これで不良生徒の仲間入りってわけだ」

「初犯だから多目に見てくれればいいけど……なんか、良い言い訳無いだろうか」

「うーん……二人して保健室で一緒に寝て過ごしていたって言うのは、アリバイが無いからきついか」

「……その言い訳、俺が男連中に殺されるからやめてくれ」

「なんで?」

「なんでも、だ。君はもう少し今の自分の容姿に自覚を持った方がいい」

「そう? よく言われるけど、今一つ自覚出来ないんだよなぁ……」

「……今の言葉、俺以外には言うなよ? 要らない嫉妬を買うから」

 

 本音を言えば六時間目も彼と居たかったのだが、星菜の理性は学生の本分全てを忘れるほど花畑な状態ではなかった。

 腰を上げて背伸びをしながら立ち上がり、その後でスカートの埃を払いつつ皺を直す。普段の上品ぶっている時の星菜は人前でそのような行動は見せないのだが、ここに居るのが鈴姫健太郎一人である以上何の躊躇いも恥じらいも無かった。

 

「星菜」

「なに?」

 

 六時間目の授業が始まる前に、教室に戻らなければならない。名残惜しいが屋上を立ち去ろうとする星菜に、後から立ち上がった鈴姫が声を掛けてくる。

 

「今日の練習が終わったら、本気で勝負してくれ」

「……言っておくけど、お前にはまだ負けないから」

 

 昔の星菜は、悩みがあれば野球で解決していた。六道聖と初めて会った日、リトル時代の恩師から言われた言葉だ。

 今の星菜にある悩みは当時抱いていたようなものとは比べ物にもならないが、それは全く抜きにして、星菜は彼と本気で戦いたかった。

 対話も大きな効果があったが、野球馬鹿同士最も心が繋がるのはきっと、同じグラウンドで野球をすることなのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親友である星菜から見ても、野球を始めた頃の鈴姫はお世辞にもセンスがあるとは言えない選手だった。

 力はひ弱で足も速くなく、身長は同年代の男子より大分小さかった。鈴姫という苗字の通り、見た目はまるで少女のような華奢な少年であった。

 小学校四年生当時、星菜は口には出さなかったが彼を野球に誘ったことを申し訳なく思っていた。星菜にとってスポーツを行う上で最もつまらないと感じるのは、自分が下手なことだと思っていたのだ。星菜自身は運動神経が他者より優れている為につまらないと感じるスポーツはほとんど無かったが、鈴姫もそうとは限らない。星菜は野球が大好きだが、彼の場合はこのまま上達しなければ野球をつまらないスポーツだと感じてしまうかもしれない。

 自分が誘った為に彼がつまらない思いをしているかもしれない――そこに考えが至る程度には、当時の星菜にも思いやりがあった。

 そのことを一度だけ、小学生らしい無遠慮な言葉で問うたことがある。

 

『ケンちゃんは、野球楽しんでる?』

 

 入団から数ヵ月経っても一向に上達せず、それどころか同時期に入団した同級生との実力の差は開く一方。そんな彼にとって、野球を続けている現状は苦ではないのか。なまじ彼が人一倍努力家であることを知っている為に、星菜には気になったのだ。

 鈴姫はそんな星菜の質問に、バットを振りながら返した。

 

『なんで、そんなこと訊くの?』

『だってケンちゃん、いつも必死であんまり楽しそうに見えないから』

 

 好きなものだから必死でやれるのだとも言うが、鈴姫の場合は傍目から見て危ういほど必死すぎたのだ。まるで何かに取り憑かれているかのようにがむしゃらに練習に打ち込む姿は、当時はあらゆる分野で努力以上の成果を発揮していた天才肌の星菜にとって共感しにくいものであった。

 そんな星菜に対して、鈴姫は当たり前ことのように言った。

 

『……必死でやんなくちゃ、みんなに追いつけないもん』

 

 頬を膨らませながら、自分自身に対する苛立ちを隠そうともしない。

 その姿はやはりと言うか、野球に対して楽しみを感じているようには見えなかった。

 

『僕は下手だから、たくさん練習しなくちゃ……』

『話しながら素振りしても、あんまり効果無いよ? まさるが言ってた』

 

 どうにも引っ掛かりを覚えた星菜は、鈴姫の言葉を途中で遮った。 

 

『それと、疲れで下半身がぶれぶれになってる。私の飲み物あげるから、一旦休憩しようよ』

『……うん』

 

 当時の星菜はそこまで深く考えていたわけではないが、幼心ながらその時の鈴姫を友達として放っておくべきではないと感じたのは事実である。

 故に休憩という言葉を使って彼と一対一で、話し合いの場を設けることにした。

 

 その時、溜息をつくように鈴姫が言ったのだ。

 

『星菜は凄いね……僕達の中で一人だけ、六年生の試合に出てて』

『えへへ、すごいでしょ! でも、私は前の学校で軟式やってたからね。ケンちゃんも練習すれば上手くなるって思うんだけどなぁ』

 

 鈴姫の言葉に含まれていたのはほとんどが星菜の才能に対する尊敬心であったが、少なくない嫉妬心もまた含まれていたのだろうと思う。

 万事が上手く行っていた当時の星菜にはわからなかった感情だが、年齢が上がっていくに連れて壁にぶつかってきた今の星菜には当時の彼の気持ちが痛いほどにわかった。

 どれほど練習を積み重ねても、一向に自身の成長が感じられない。その辛さを味わっている段階である者に、純粋に野球を楽しいと感じる余裕など無いのだ。

 

『全然、上手くならないよ……でも』

『でも?』

 

 だがそれでも、星菜は心から野球を嫌いになったことは無かった。それは鈴姫もきっと、同じだったのだろう。

 そして一向に上手くならなくても練習を続ける意味など、説明するまでもなく決まっている。

 

『星菜とやる野球は好きだし、練習をやめたら……もっと上手くなれないから……』

 

 好きだからやる。やらなければ上手くならないからやる。野球少年が努力を続ける理由など、たったそれだけで十分なのだ。

 それに加えて鈴姫は、こんなことを言い出した。

 

『上手くなれないと、星菜の友達じゃなくなっちゃうから……』

『え? なんで? なんで上手くないと私の友達じゃないの?』

 

 野球が下手なままでは、星菜と友達で居られない。

 その言葉の意味することが全くわからなかった星菜は、コテンと小首を傾げて聞き返す。

 それに対して鈴姫は、今にも泣き出しそうな目で地面を見下ろしながら震える声で応えた。

 

『……星菜の友達、みんな、上手い人ばっかりで。僕だけ下手くそなんだもん……こんな僕が友達じゃ、星菜は迷惑でしょ……?』

 

 当時星菜と仲の良かった友達は、次期キャプテンである小波大也を含めてチームのレギュラーを張るような実力者ばかりだった。当時の星菜としては補欠だろうと関係なくチームメイト全員とは仲良く接していたつもりだったが、鈴姫の目はわかりやすい実力者にばかり向いてしまったのだろう。彼らと自分を比較した際に強い劣等感(コンプレックス)を抱いてしまい、自分は星菜と友達である資格が無いのではないか――これは後に鈴姫自身から聞いたことだが、当時の彼はそんなことを考えていたのである。

 当時の星菜にはそこまで深く彼の気持ちを読み取ることは出来なかったが、彼が野球が下手という理由で自分の友達でなくなることを恐れていることだけは十分に理解出来た。

 

『ケンちゃんってさ……』

『な、なに?』

 

 その言葉を受けた星菜は、今年度に十六歳を迎える今よりもよっぽどあった母性本能がくすぐられ――

 

『可愛いなぁもう!』

『えっ、あ、ちょっと!?』

 

 いじらしくなって、思わず抱きついてしまったものだ。

 

『むへへ、コイツめ~』

『や、やめてよ! 撫でないでってばぁ!』

 

 当時身長が鈴姫よりも頭一つ分以上大きかった星菜は覆いかぶさるように彼の身体を腕に収めると、悪戯な笑みを浮かべて彼の水色の頭を撫で回した。

 五歳の弟も居た星菜であったが、この時の鈴姫はその弟並かそれ以上に可愛がりたくなる少年だったのだ。

 

 そうして撫で回すこと数分、始めはもがいていた鈴姫も観念したのか次第に抵抗を諦めた。小動物よろしく腕の中で大人しく撫でられる鈴姫に対し、星菜はそれまでと打って変わって真剣な眼差しを向けて言った。

 

『……馬鹿なこと、言わないでよ』

 

 そのスキンシップは、自分が母親からされて嬉しかったことを真似てみた結果だ。星菜は彼の内面の不安を取り払うように、真心を込めて己の気持ちを伝えることにした。

 

『野球が下手でも、これからも上手くならなくても、ケンちゃんは私の友達だよ。言っておくけどケンちゃん、結構友達ランク高いんだよ? なんて言うかアニメみたいな言葉だけど……お前とはこれからもずっと、仲良くしていきたいな』

『ほ……本当に?』

『本当に決まってるだろ、親友』

『しんゆう……』

 

 それは昔の友情がいつまでも続くとは限らない、という冷めた現実を知らないからこそ出すことが出来た言葉かもしれないが、彼と未来永劫「良い関係」で居たいと思ったのは本当のことだ。

 その気持ちが無事伝わったのか、幼い鈴姫の顔に近頃見られなかった笑顔が咲いた。

 

『……でも、僕もいつか星菜に追いつきたいな』

『言っておくけど私負けないよ? だってプロになるもん』

『……じゃあ僕も、プロになる。星菜と同じ試合に出て活躍するんだ』

『その前に、このチームでレギュラーにならないとね。私がエースでお前は四番ショート! うん、いい響き。そうと決まれば休憩終わり! また素振りもなんだし、私がバッティングピッチャーやるよ。一球も打たせないけどね!』

『むっ……今日こそ打つよ』

『クククッ、打てるもんなら打ってみよ』

『変な笑い方。似合ってないよ?』

『格好良いじゃん! ケンちゃんわかってないなぁ』

『……ごめん』

『いや謝らないでってば。ほら行くよ』

『あっ、待って星菜』

 

 

 ――今まで、忘れていた思い出だ。

 

 今になって思い出すことが出来たのは、励まし励まされる当時の関係が真逆になってしまったことへの感慨からか。

 だが彼と戯れていたその時間は、掛け替えのないほどに幸せだった。

 

 ――いや、過去形にしてしまっては駄目だ。

 

 今だって幸せなのだ。ただ自分は勝手に不幸ぶって、向き合おうとしなかっただけだ。

 これからの自分はもう迷わない、とは言えない。

 これからも今までと同じように、幾度も迷い続けることになるだろう。

 

 だが幼い頃から自分を慕ってくれた親友と共に迷路を歩いてみるのも――きっと、悪くないと思う。

 

 

 

 

 

 日は沈み、まだ真新しい照明が点き始めた校庭練習場。

 野球部の一日の練習が終了し、十分ほど過ぎた頃。後ろに誰も守っていない無人の野球部使用ペースにて、ただ一人マウンドに登った少女――泉星菜が帽子を締め直しながら打席を睨んでいた。

 そして更衣室で着替えを済ませて帰宅しようとしていた野球部員達の全員が、その光景を見て一様に足を止めている。だが今の星菜は、それらの存在を気にもしていなかった。

 その栗色の双眸に映るのは悠然と左打席に入った鈴姫健太郎――星菜の一番の友にして、最高のライバルの姿だ。

 

「おい、何してんだ星菜ちゃんと鈴姫の奴……?」

「見りゃわかるだろ、勝負するんだよ。多分」

「マジかよ。なんで?」

「んなこと俺が知るか」

「頑張れでやんす星菜ちゃん!」

 

 数多の戸惑いの声や事態を素早く飲み込んだ者の声が周囲から聴こえてくるが、今の星菜と鈴姫にとっては全てが雑音にしか聴こえない。

 ――否、もはや雑音にすら聴こえていなかった。二人の間にあるのは、ただお互いの存在のみ。完全に二人の世界に突入している今の星菜と鈴姫に、周囲の存在を感じることは出来なかった。

 

「お前と本気で勝負するのは、いつ以来だっけか?」

「リトル時代の最後の紅白戦以来だ。中学時代は一度も、君と勝負したことは無かった」

「お前、よく覚えてるなそんなことまで……」

「覚えているに決まっているさ。俺は一度だって忘れちゃいない」

「……嬉しいこと、言ってくれるよ」

 

 打席に立つ鈴姫と言葉の応酬をしながら、星菜はマウンドの付近に配置していたカゴの中からボールを一つ取り出す。カゴの中には野球部が保有する百球以上ものボールが全て詰め込まれており、一人の打者を相手にするには些か大袈裟すぎる準備が整えられていた。

 だが星菜と鈴姫にとって、足りるボールの数などありはしない。きっとこれから、どちらかが力尽きるまで勝負を続けるからだ。

 

「勝負どころじゃなかったもんな……私達はずっと」

 

 野球部の正規の練習によって、星菜の左肩は十分に温まっている。ライバルを打席に立たせた今になって行う投球練習など、彼女には必要無かった。

 左手に握ったボールをグラブの中でトンと叩き、星菜は全身に気迫を込める。

 

「いくぞ、健太郎……!」

 

 星菜が振りかぶり、鈴姫がバットを構える。

 あの日停止した二人の時間は絡み合い、動き始め、そして――加速した。

 

「……流石ッ!」

 

 一球目は星菜が外角に外した高速スライダーを鈴姫が空振り、ワンストライクとなる。最初はストライクゾーンに投げてくると予測していたのであろう、バットに当たらなかったものの鈴姫のスイングに迷いは無かった。

 

「まだ負けないって言ったでしょ?」

「一球ストライク取っただけで粋がるな」

「そっちこそ、日頃女の子にキャーキャー言われて自分の実力を勘違いしてるんじゃないか?」

「それは君にも言えるだろ!」

「お前と一緒にすんなぁっ!」

 

 二球目、鬼気迫る形相で勢い良く左腕を振るった星菜だが、彼女の感情を大きく逸脱した緩やかな軌道の――球速70キロ台で大きく曲がる超スローカーブである。

 だがそれを投げた瞬間、鈴姫の唇が僅かにつり上がった気がした。

 

「こんなものでッ!」

 

 思い切り右足を踏み込んだ鈴姫はその打撃フォームを一切崩すことなく、自らのタイミングでボールを線で捉え、豪快に振り抜いた。

 引っ張った打球は弾丸ライナーで飛翔していくと瞬く間にライトの守備位置を越え、グラウンドのサッカー部使用ペースへと吹き飛んでいった。

 だがその打球の行方を見届けた星菜は、ニヤリと口元を綻ばせていた。

 

「残念、三振前の馬鹿当たりでした」

「くそっ、ファールか!」

「狙い球が来たからって力みすぎ。お前のバッティングはシャープさが売りだってことを忘れるな」

「君が教えてくれた打法だ。忘れるわけないさ」

「……あっそ。三球目、いくよ」

「来い!」

 

 お互いが、童心に返ったようだった。

 お互いに認め合った投手と打者が、純粋に己の実力を競い合う。

 男も、女もそこには無い。

 泉星菜と鈴姫健太郎が野球選手として求めていたものが、そこにはあった。

 

「よし! 見逃し三振!」

「ボールだ。数センチ低い!」

「……チッ、選球眼良くなったじゃないか」

「言っておくけど、今の俺から見逃し三振は無理だ。君ぐらい遅い球なら、簡単にカット出来るからな」

「そんな言葉は、私を打ってから言ってみろ!」

 

 四球目、星菜が「故意に」胸元付近へと投じたストレートに対して、鈴姫が上体を仰け反らせて反応する。

 

「危ないぞ」

「ブラッシュボールは立派な投球術だよ。これがあるからバッターは、わかっていてもそう簡単に踏み込めない」

「120キロも出ないストレートにバッターがビビるかよ」

「私のストレートは体感140キロだ!」

「それは盛りすぎだ!」

 

 馬鹿になってみるか……――それは星菜が、もう一人の自分自身に対して宣言した言葉だ。

 この時の星菜はまさに、いい意味で馬鹿になっていた。

 まるでそう、野球を始めた頃のように。

 

「くっ!」

 

 バット先端から、いかにも芯を外したような鈍い音が響く。星菜の投じた五球目は外角低めのボールゾーンに落としたサークルチェンジ。しかしバットを振り切った鈴姫の打球は完全に死んだ当たりではなく、あまりにも微妙な速度を持って星菜の右側へと抜けていった。

 野手が守備に着いていない現在のグラウンドでは、結果を判定し難い打球だった。

 

「ショートゴロ!」

「違う、三遊間を抜けるレフト前ヒットだ!」

「打球が弱い! 健太郎がショートならアウト!」

「健太郎はここに居るだろ? だからヒットだ」

「うるさい! ショートゴロ!」

「ヒットだ!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

「ショートゴロ!」

「ヒット!」

 

 ショートゴロともレフト前ヒットとも言えるその打球について、二人の内どちらかが折れることなど有り得ない。

 野球部員だけでなくまだ学校に残っていた誰もが、その光景を呆然と眺めていた。

 星菜と鈴姫は普段の学校生活で被っていた猫を投げ捨て、これまでの澄まし顔が嘘のように顔面を赤くしてお互いの主張を続ける。

 

「あんな当たりで満足するのかお前は!」

「これで抑えた気になれるのか君は!」

 

「「そんなわけないだろ!」」

 

 衆目を一切気にすることなく痴話喧嘩のように騒ぎ出した二人は、結局その打席を無かったことにしてカウントゼロから勝負をやり直すことになる。

 

 だが、それはこの勝負を続ける建前の理由に過ぎない。

 

 今の打球がショートゴロだろうとレフト前ヒットだろうと、二人の心がたった一打席勝負で満たされる筈が無いのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 結局二人の勝負はそのまま一時間以上続き、グラウンドでの異常に気付いた茂木監督が懇願するように止めるまで続いた。

 何打数何安打だったか、結局どちらが勝ったのか、それは曖昧なままだ。

 

 だが寧ろ、星菜はいっそ曖昧なままでいてほしいと思った。

 

 決着がはっきりしないままであれば、この先何度でも彼とぶつかることが出来る。

 自分と彼は、対等な関係で居られるのだから。

 

 

 

 ――友と分かり合えたその日。泉星菜は、やっと自分自身を取り戻した――。

 

 

 

 

 







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背番号「19」

 

 

 その子は、野球が大好きな少女だった。

 

 その子が野球に興味を持ち始めた切っ掛けは何だったのか、実のところあまりよく覚えていない。

 少なくとも鈴姫健太郎のような青春ドラマめいた切っ掛けではなかった気がするし、振り返ってみればほんの些細なことに過ぎなかったような気もする。

 だが彼女が執念めいた感情を抱いて野球に打ち込むようになったのは、元来の人一倍負けず嫌いな性格に加えて女子とは思えない天性の野球センス、そして何よりも野球そのものを愛していたからなのだということは、彼女が生まれた日から共に居た「彼」にとっては既知の事実だった。

 

 「彼」が何故彼女の中に居るのか、それは「彼」自身にもわからない。無論、中学時代とある事件を切っ掛けに初めてその存在を知ったその子――泉星菜にもまだ、何もわかってはいなかった。

 

 彼女が初めて自身の中に居る「彼」と対話を行った時、「彼」は最低でも彼女から一発以上の拳骨や罵声を浴びることは重々に覚悟していたものだ。

 没年三十七歳のおっさんの魂が、生まれた時から自身の魂に寄生していたのである。それが生前の「彼」の死後、「彼」の意志とは無関係に起こってしまった出来事だったとしても、思春期も真っ盛りな女子中学生にとってはあまりにも気持ちが悪かった筈だ。

 だが実際には「彼」の存在を知ったところで彼女は拳骨も罵声も浴びせることなく、しかし「彼」の予測からは盛大に外れた一言を放った。

 

「私に、貴方の技術と技を教えてください」

 

 生前の「彼」はプロ野球選手で、それも一チームのエース投手として名を馳せたこともあった。「彼」は120キロ台の平均球速というプロの世界ではあまりに遅い球速のボールしか投げられなかったにも拘らず、卓越した投球技術とキレ味鋭い変化球を武器に通算199個もの勝ち星を上げたほどの男だった。思春期の身体の急変化によって周囲の男子との筋力差を一気に引き離されてしまった当時の彼女にとって、誰よりも柔に優れた「彼」の存在はまさに渡りに船だったのだ。

 

 元プロ投手の技術を習得する。確かにそれが出来れば、女子の身であっても中学野球以上の世界で男子とも対等に渡り合えるかもしれない。

 不本意ながらも彼女の魂に寄生していることに負い目を感じていた「彼」にとってもまた、当時野球に行き詰まっていた彼女の為に指導を行うのはやぶさかではなかった。

 ただ彼は仮に彼女が自分の技術を習得した時、彼女がそれを周囲の者を見返す為だけの手段として使ってしまうことを恐れていた。

 

 ――それは、君を馬鹿にする男の子達を見返す為かい?

 

 故に、意地悪ながらもそう問うたのである。

 幼少の頃はいじめられっ子だった子供も成長の過程で力を持ち、その方向性を誤れば容易にいじめっ子へと変わってしまう。なまじ当時の彼女はそうなってしまってもおかしくないほどに人格が歪み始めていた為に、彼女に自分の技術を教えるのは危険かと疑ったのだ。

 彼女の考えを見極めるべく「彼」が行った質問に対して、彼女はこう返した。

 

「私はこれからも、野球を好きでいたいんです……」

 

 ただ今まで打ち込んできた野球をこれからも永遠に好きでいたいから、現在行き詰まっている自分にアドバイスが欲しい。彼女が紡いだその言葉を聞いて、「彼」は安心したものだ。

 

 「彼」はずっと、彼女の中から彼女を見続けてきた。野球をやり始めた幼い頃の彼女のことも、思春期を迎えた当時の彼女のことも。

 そんな「彼」だからこそ、時は流れても昔と変わらず野球が大好きな彼女の心を知って安心したのだ。

 彼女の答えは、間違いなく「彼」が望んでいた言葉だった。

 

 ――わかった。だけど、そう簡単に覚えられるとは思わない方がいいよ? 僕の技術は僕にしか無かったものだったからこそ、プロの世界でも一定の結果を残せたんだからね。

 

「……そんなことは、貴方に言われなくてもわかってます」

 

 生前はどうにも女運が悪く結婚も出来なかった「彼」ではあるが、泉星菜という少女のことは彼女の父親には失礼だが我が子も同然に想っていた。そんな彼女に自分の技術を継承することが出来るという喜びもまた、「彼」の背中を後押ししていた。

 それから、彼女とは毎夜夢の中で野球講習を開くことになった。それによって何よりも驚いたのは、異常とも言える彼女の飲み込みの良さだ。彼女は二十年に一人という表現すらも生温い、「彼」が知る誰よりも優れた野球センスを持っていた。彼女は信じられない速度で「彼」の持つ技術を次々と自分の物にしていくと、あっという間に野球部最高の投手の座を掴んでいったのである。

 その才能は昔から知っていたつもりだったが、そんな「彼」をしても全く予想外であった。

 

 恐らく彼女ほどの才能があれば、自分が教えなくとも一線級の投手に成長することが出来たのだと思う。

 ただ彼女はその適性を伸ばすことの出来る指導者に恵まれず、そして中学時代という多感な時期に自信を喪失したことによって野球選手としてそれ以上成長することを自分から拒んでしまっていたのである。

 精神的な原因で運動の動作に支障を来たし、自分の思い通りのプレーができなくなる――スポーツ用語で「イップス」と呼ばれる運動障害を患っていた嫌いもあった。

 現在の彼女は自分の実力に対する自信自体は取り戻せているが、一部では今も同じく引き摺っている部分も見える。どれほど練習を行ってもリトル時代とストレートの球速が変わらないのもまた、彼女自身が無意識下で自分の限界を作っているからだと推測している。

 

 だがその壁の存在は、「彼」が何を言ってもこれ以上壊すことは出来ないものだ。彼女の心を変えることが出来るのは自分のような死んだ人間ではなく、他ならぬ彼女自身や鈴姫健太郎のように今を生きている人間でなければならないと――「彼」は、星園渚は思っていた。

 

『……星菜、良かった……』

 

 自分が彼女を「実力を持った野球少女」という複雑で孤独な存在にしてしまったが為に、事態を重くしてしまった。これまでの彼女を見てきて、星園は後悔もしていたのだ。自分が指導を行わなかった方が、彼女は幸せになれたかもしれないと。だが、そんなことは無いと今ならば言える気がした。

 この分なら、彼女の傍から自分が必要無くなる日もそう遠くなく訪れるだろう。今まで敬遠してきた時間を埋め尽くすように鈴姫健太郎と野球で戯れている彼女を見て、星園は改めてそう思った。

 

 ――それが本当に、心から嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の幼馴染が可愛すぎて生きるのが楽しい。それが、再び分かり合えた日から変わった鈴姫健太郎の心理状態であった。

 鈴姫としては決して表情には出していないつもりだ。だがあの日から彼の中で何かが変わったことは、日頃学校で接しているクラスメイトにとっては共通の認識だった。

 

「……健太郎、聞いてるの?」

 

 机の上に両手を置いて彼の座席の前に立っているのは栗色の瞳の少女、泉星菜の姿だ。

 彼女はその柳眉をしかめながら、ずいっと大きな目を鈴姫の顔へと近づけてくる。

 

「ああ、聞いているよ」

 

 今手を伸ばせば、簡単に彼女の頬に触れることが出来るだろう。実際にそれを行う気は鈴姫には無いが、彼女との距離が近いという事実そのものが今の鈴姫にとって何よりも大きかった。

 後ろから突き刺さってくる悪友の其処野(そこの) 御前(おまえ)新路宋(しんろそう) (だん)達の視線が何とも心地良い。

 鈴姫は「どうだ! 俺はお前達が遠巻きに見守ることしか出来ないコイツと仲良くお喋り出来るんだぞ!」という意図を込めて彼らの姿を得意気な目で一瞥すると、鈴姫のその行動の意味がわからず首を傾げている目の前の少女へと向き直った。

 

「……それで、何の話?」

「おい、やっぱり聞いてないじゃないか。健太郎の期末試験の点数、案の定下がってたって話!」

「ああ、そうだった。でも国語の点数が90点台から80点台になったぐらい、どうってことないだろう? このぐらいなら普通に良い点数じゃないか」

「私が言いたいのはそういうことじゃなくて! ……あの時、授業をサボったせいでお前の点数が下がったからさ……」

「君が責任を感じているのか?」

「……当たり前だろ。お前は私のせいで取れた筈の点数を落としたんだから」

「皮肉か? 一緒にサボってた君は同じテストで100点だったんだ。結局は、俺が勉強不足だったってことだよ」

「いや、でも……」

「いいんだよ、俺は気にしない。君も気にするな」

 

 星菜が今抗議しているのは夏休み前日であるこの日に返却された、期末試験の結果についてのことである。

 鈴姫の机の上に広がっているのは、右上の欄に82点と書かれた答案用紙だ。休み時間、今日の部活動について鈴姫と話をしようと訪れた星菜がそれを認めた際、この抗議へと発展したのである。

 数ヵ月前に行われた鈴姫の同教科の中間テストの成績は、これよりも十点は多く取れていた。出題項目が異なるとは言え前回と比べやや成績を落としてしまった鈴姫について、彼女はあの日共に授業を放棄したことに対し負い目に感じているのである。

 

(こういうところは昔から真面目だからな。全く、コイツは……)

 

 鈴姫としては彼女のせいで成績を落としたなどとは――まあある意味ではその通りかもしれないが、今回の件について彼女に責任があるとは露ほども思っていない。

 鈴姫は野球のことならばともかく、学業の成績に関してはそれほど執着が無いのだ。赤点を取って追試の為に部活動に参加することが出来ないならばそれは大問題だが、80点以上も取れているのなら何の問題もない。最近署名運動や野球に忙しく日々の自習が疎かになっていた鈴姫としては、寧ろこの程度の点数の減少で済めば万々歳だと考えていた。

 

「君は、本当に可愛いな……」

 

 先日、彼女との関係が修復されたことで浮かれているのは間違い無いと自覚している。だがそれはあくまでも鈴姫自身の気の持ち方の問題であり、彼女には責任の無いことだ。

 にも拘らず要らぬ負い目を感じている彼女の姿が健気で、鈴姫は改めて愛おしいと思った。

 

「茶化すな、健太郎のくせに」

「ああ、本音が口に出ていたか」

「……お前はいつからプレイボーイになったんだ?」

「大丈夫だ。こんなことは君にしか言わない」

「……そういうことを言っているんじゃないんだけどさ」

 

 もはや彼女に対して何の感情も隠す必要が無くなったことで、鈴姫は自分でも不思議なほどに口が回るようになったと思う。それが彼女にとって不快に感じるのであればすぐにでも自粛するつもりだが、本人の反応を見る限り呆れてはいるが今のところ悪くは思っていない様子だった。

 

「まあ本当に成績が悪くなったら、その時はその時で俺の勉強を見てくれよ。あの時(・・・)のようにさ」

 

 教室に居る他の生徒達の耳に聴こえるように、あえて「あの時」の部分を強調して言う。

 自分は他の者が知らない時間の彼女を知っているのだと、彼女に好意を持っている男子に対する槍のように鋭い牽制であった。

 

「あの時って、中学受験の時のこと? ああ、あの時のお前は頑張っていたな」

「高校受験よりもずっと、あの時の方が勉強したと思う。君と同じ中学に行きたかったから、あそこまで必死に勉強出来たんだろうな。全部、君を追い掛ける為だから出来たことだよ」

「……お前、言うことがストレートすぎる」

「君が直球に弱いことは知っているさ。言葉でも、野球でも」

「上手いこと言ったつもりか」

「それは、まあ」

 

 何年も親友付き合いをしていれば、彼女がどういった言葉の類に弱いのかわかるものだ。

 彼女は決して鈍いわけではなく、知らないフリや気付かないフリをするのが上手いのだ。変化球のようにそれとなく好意を伝えるのではこちらも納得してしまうほどあっさりとかわされてしまう。逆に、直球による力押しの攻めの方が格段に効果が大きかった。

 尤もそれは、長い下積みを終えた鈴姫健太郎にしか出来ない攻めではあるが。

 

「ちくしょうっ……ちくしょうっ…!」

「おのれ鈴姫! 泉さんの為に祝ってやるよ、くそったれ……!」

 

 自分はようやく、彼女に直球でぶつかることを許されたのだ。その事実を改めて確認した鈴姫は、だらしなく綻びそうな口元を引き締めるのに必死だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月も間近に迫ると学生達は一学期の修了過程を終え、待ちに待った夏休みを迎えることとなる。

 高校野球では各都道府県にて行われている全国高等学校野球選手権大会――通称甲子園大会の予選が佳境を迎え、続々と代表校が決まり始めていた。

 竹ノ子高校が出場した大会は昨夏、今春の覇者であるあかつき大附属高校を筆頭に強力な高校が集まっている激戦区である。彼らの決着もまたその評判に違わない激闘となり、地方紙に留まらず全国規模で新聞の一面を独占するものとなった。

 

《あかつき大附属敗れる! 海東学院、悲願の甲子園出場!!》

 

 高校野球に「絶対」は無い。何が起こるかわからないからこそ面白いのだと、人々にそう再認識させた一報であった。

 

 波輪風郎の負傷によって竹ノ子高校が二回戦敗退となった後も、当然だが予選は変わらず続いていた。竹ノ子高校を破ったそよ風高校は続く三回戦で優勝候補の一角である海東学院高校と激突し、死闘を繰り広げた。

 竹ノ子高校の打線を手玉に取った阿畑やすしの魔球、アバタボールとアカネボールは大会きっての強力打線である海東学院高校を相手にも猛威を振るった。

 一回から九回に掛けて奪った三振は圧巻の13個。最速153キロ左腕の海東学院エース樽本有太との両者一歩も譲らない壮絶なエース対決は、波輪との勝負と同様に場内の視線を釘付けにしたものだ。

 失った失点もまた、ラストイニングである九回に失った一点のみ。しかし惜しくもその一点によって、そよ風高校は夏の舞台から姿を消すこととなった。

 

 1対0、サヨナラパスボール――それが、そよ風高校の終幕である。

 

 たった一球の悲劇、相手の海東学院高校としてはたった一球の奇跡と言ったところか。一年生ながら巧みなキャッチング技術を持ち、竹ノ子高校戦でも一球もボールを逸らさなかったそよ風高校の捕手木崎が、0対0で迎えたサヨナラのピンチの場面で阿畑が投じたウイニングショットのアカネボールを捕り損ね、海東学院高校に対し最初で最後の一点を与えてしまったのだ。

 マネージャーとして現地で観戦していた星菜の目には敗北の責任を一身に抱えて涙する一年生の木崎の姿と、そんな彼を笑って慰めていた三年生の阿畑の姿が酷く印象に残った。

 

 そよ風高校を完封勝利で破り、勢いに乗った海東学院高校はそのまま順調に勝ち進むと、甲子園出場を賭けた決勝戦は昨年の覇者あかつき大附属高校とぶつかった。

 あかつき大附属高校は準決勝で戦ったパワフル高校以外全ての対戦校を相手にコールド勝ちを収めており、その圧倒的な実力を世間の目に知らしめていた。両校の下馬評もエースの樽本有太と猪狩守は互角の実力だが、それ以外は全てあかつき大附属が勝っているという認識で大方一致していたものだ。

 

 だが結果的に勝者は海東学院高校となり、優勝候補最有力と持て囃されていたあかつき大附属高校の夏はここで終わってしまった。

 4対3、逆転に次ぐ逆転のシーソーゲームだった。熱戦の果て高校三年目にして初の甲子園出場を決めた瞬間、ようやくマウンド上で笑顔を浮かべた樽本の姿が印象的であった。

 猪狩守というスターが出場しない甲子園大会ではあるが、実力もルックスも申し分のない彼が出場するのならば世間様も大いに満足してくれることだろうと、割とどうでも良さげに星菜は思った。

 

 今年の夏の甲子園もまた、きっと大いに盛り上がるだろう。

 しかし予選で敗退を決めている竹ノ子高校にとってそれは、全くもって遠い話であった。

 八月――甲子園球場では今夏最強の高校を決める大会が行われるこの月を、竹ノ子高校はチーム全体の強化(レベルアップ)期間として扱う。

 学校のグラウンドを離れ、それまでに無い強化練習に取り組むことを監督の茂木が決定したのだ。

 

「合宿……でやんすか?」

「そうだ。八月頭からやるぞ」

「ま、またあれが始まると言うのか……っ!」

 

 一日の練習後、茂木は星菜を含む野球部員一同を集合させるなり開口一番にそう言った。

 その言葉を聞いて期待から喜色を見せる者も居れば、反対にどんよりと顔色を悪くした者も居る。後者の反応は主に、矢部明雄ら二年生の者が多かった。星菜は噂にしか聞いていないことだが、昨年度行われた竹ノ子高校の強化合宿は胃から汗を流す非常にハードな内容だったようだ。

 だがチームが強くなる為に厳しい練習を行うのは至極当然のことだ。昨年度の合宿を実際に体験していないからとも言えるが、星菜の反応はどちらかと言えば前者寄りだった。

 

「合宿施設はパワフル高校とか、他県のときめき何たらって高校とかと共同で扱うから粗相のないようにな」

「何たらって随分適当ッスね監督」

「あー、あとついでだ。合宿中に練習試合もやるつもりだから、新しい背番号を配っておくぞ」

 

 部員達のざわめきを普段通りの軽い調子で流すと、茂木が手に持った一枚の布切れを広げる。

 その布切れ――ユニフォームに縫い付ける真新しい背番号「19」の元に、星菜達の目が集まった。

 

「……と言っても、1番から18番までは今までのままなんだけどな」

 

 薄い無精ひげを生やした口元を苦笑に歪めながら、茂木は星菜に対して(・・・・・・)それを差し出した。

 

「泉、お前の背番号だ」

「……えっ?」

 

 一瞬――この時、星菜は自分が何を言われたのかわからなかった。

 

「は……はい」

 

 無礼にも遅れて返事を返しながら、星菜は一歩前に踏み出して茂木の顔を窺う。

 苦笑の中にどこかいたずらっぽさを浮かべるその表情は、予期せぬ出来事を前にどうすれば良いかわからない星菜の反応を面白がっているようにも見えた。

 

「お前の番号は19番だ。まあ暫定の番号だから、今後の状況によっちゃ変わることもあるがな」

「……ありがとうございます、監督」

 

 茂木の手から背番号を受け取った瞬間、星菜は内から沸き上がる喜びを衆目から隠すように顔を俯かせると、一礼を行うことでそれを誤魔化す。その後一枚の布切れを大事そうに抱えて後退する星菜に対し、茂木は後頭部を掻きながら呟いた。

 

「ウチは人数少ないから背番号なら誰でも貰えるんだがなぁ。そんなに嬉しそうにされると、何か調子狂うな……」

 

 人数の関係上、部員ならば誰でも貰える背番号を貰えた。それだけの――それだけのことだからこそ、星菜には嬉しかった。星菜にとってそれは、自分がこの野球部に所属する選手として正式に認められたことと同義だったからだ。

 これがどうして、嬉しくない筈が無かった。

 

「やったッスね星菜ちゃん!」

「おめでとう、星菜ちゃん!」

「って言うか監督、渡すの遅いでやんす! 大会始まる前に渡せば良かったでやんすよ!」

 

 そして何よりも……女子である自分が監督から背番号を貰ったことに対して誰一人として不服そうな顔をしない部員達の姿に、星菜は彼らが持つ心の温かさを感じた。

 

「良かったな」

「……うん」

 

 最後に鈴姫から肩を叩かれると、星菜は喜びを込めてその言葉に頷く。

 こんなどうしようもない自分でも、彼らは受け入れてくれるのなら。

 

 ――もう、逃げ場なんてないじゃないか……。

 

 野球チームとしての実力は心許ないかもしれないが、このチームは最高だ。星菜は「らしくない」と思いながら、素直な気持ちでそう思った。

 

 



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竹ノ子高校の泉星菜

 

 七月も終盤に差し掛かった今、小波大也の率いる恋々高校もまた、八月の頭には竹ノ子高校と同様に強化合宿を控えていた。

 夏の大会では女性選手である早川あおいが出場した為に規定違反として無念の脱落を喫した恋々高校であるが、生憎にも恋々高校の野球部員達は諦めという言葉を知らなかった。誰も彼もが往生際が悪く、この日も時間の浪費となることも厭わずに駅前にて署名運動を行っていた。

 

 そして道行く通行人達にビラを配る恋々高校野球部員達の中には、同校とは違う緑色の制服を纏った二人の生徒の姿があった。

 

 一人は、竹ノ子高校が二回戦で敗退して以降間も無くこの運動に加わってきた鈴姫健太郎という少年。

 そしてもう一人は女子選手である早川あおいと同じ境遇に居る、泉星菜という少女だった。

 

 恋々高校主将の小波がこの署名運動に新たに加わった星菜の働き振りを遠目に眺めていると、傍らからチームメイトの奥居が呟いた感心げな声が耳に入った。

 

「すっごいなあの子、とんでもない勢いでお客さん集めてるぜ」

「誰だって綺麗な女の子に呼び止められて悪い気はしないからね。僕達みたいなむさ苦しい男達よりも、彼女みたいな子の方が人は集まるよ」

「だな。はは、鈴姫の奴怖い目でお客さん睨んでるぜ」

 

 一輪の花に群がる蝶々よろしく、彼女の周りには署名をしに集まった多くの通行人達の姿がある。恋々高校の美人マネージャー、七瀬はるかが署名運動を行っている時も同じような現象が起こるものだが、彼女のそれもまた全く劣らない成果をたたき出していた。

 こう言っては本人は嫌な顔をするだろうが、彼女には売り子の才能があるのだと思う。彼女自身は否定するだろうが、泉星菜という少女にはその場でじっとしているだけでも人の目を引き付けるカリスマ性があるのだ。

 

「しかしまあ、何だ。あおいちゃんにはるかちゃんに彩乃ちゃんに、そして今度は星菜ちゃんと来た。お前って奴は本当に美少女と縁があるよな」

「自分のことながら、幸運だよね」

「全く憎いぜー。その運、オイラにも分けてほしいぜ……」

 

 心底羨ましそうに吐かれた奥居の言葉に、小波は改めて考えると確かにその通りだと認める。これはこれでまた色々と気苦労もあるのだが、彼には何かと美しい女性と接点が多いのだ。

 

(……まあ、あの子は昔から妹みたいなものだったけどね)

 

 小波自身は星菜に対して恋愛的な感情を抱いたことはないが、彼女が多くの男達から人気を集める理由は十分に理解している。彼女の学校では色々と面白いことになっているのだろうなと、彼女の周りに鼻の下を伸ばしながら集まってくる通行人達へと鋭い視線を向けている鈴姫の姿を見て思った。

 しかし小波が最後に会った時と比べ、星菜の表情は生き生きとしているように見える。通行人達に振り撒いている愛想笑いも見る者が見れば本当に心から笑っているようにも感じられ、その変化は彼女と幼馴染である小波でなくとも傍目から気付くことが出来るほどあからさまなものだった。

 その姿を見るに、どうやら彼女は過去をある程度断ち切ったと見て良いのだろう。この署名運動に自分から参加したいと言ってくれた時点で、彼女が以前よりも前向きになっていることは明白だった。

 

「二人とも手が止まってるよ! 喋ってないで手伝って」

「お、おう! そうだな、余所者にばっかいい格好はさせられないぜ! 見ていろあおいちゃん!」

 

 小波と奥居が他の部員以上のペースで署名を集めていく星菜の姿を眺めていると、後方から恋々高校の女子選手、早川あおいの声が突き刺さってきた。奥居は持ち前の聞き分けの良さから声を掛けられた途端にピリッと背筋を正して即刻通行人達の群れへと突入していったが、小波は彼の後を追う前にあおいと向き合った。

 

「あの子のこと、君にばかり苦労を掛けさせたね」

「苦労? ボクはただ自分が思ったことを星菜ちゃんに話しただけだから。苦労だなんて一度も思ったことないよ」

「……それでも、あの子が立ち直れたのは君のおかげだよ。僕の言葉じゃ、あの子には重荷にしかならなかっただろうから。だから本当に、ありがとう」

 

 星菜が野球に対して再び前向きになってくれたのは、他ならぬ早川あおいが同じ女子選手という立場から親身に相談に乗ってくれたからなのだと小波は思っている。小波は直接現場に居合わせることこそ無かったものの、彼女とあおいが互いに連絡を取り合う仲であることはあおいから聞いていたのだ。

 そして数日前あおいが彼女と口論したことも、小波は聞いていた。

 その際、星菜があおいに語っていた内容までは余計な詮索として聞かなかったが。

 

「……でも、良かったの?」

 

 晴れ晴れとした顔で礼を言う小波に、あおいは一度別の場所で署名運動を行っている鈴姫健太郎の姿に目を向けた後、再び星菜の方へと視線を戻して言った。

 

「ボクが横槍を入れたせいで、あの子達の仲ってば随分進展しちゃったみたいだけど」

 

 言いながらほのかに苦笑を浮かべるあおいの横顔からは、ほんの少しばかり後悔の色が窺える。というのも、彼女が小波に対して後ろめたさを感じているからであろう。周囲の人間からは浮ついた話に「鈍い」と言われることのある小波であるが、自分が彼女にそんな表情をさせる理由には即座に思い至った。

 

「良かったに決まっているさ」

 

 そして、迷うことなく返答する。

 

「あの二人ならお互いに足りないものを埋め合うことは難しくても、足りないものをどこまでも一緒に探して、埋めるまで一緒に努力することが出来る。だから二人合わさると恐ろしいんだよ、あのコンビは」

 

 自ら体験した出来事を脳裏に浮かべながら、小波は実感を込めてそう言った。

 幼馴染という立場から過去に二人と友人付き合いのあった小波からしてみれば、二人が過去から未だに恋人同士になっていないことの方が驚きなぐらいである。あの二人が元々それほど相性の良い関係であることは、他の誰よりも小波が知っていた。

 あおいが二人の仲を近づけたことに対して小波に多少なりとも後ろめたさを感じているのなら、それは見当違いだと言いたかった。寧ろ小波は、どこまでも二人の今後を応援したいと思っているのだ。

 

「だから二人の間には僕が付け入る隙なんか無いし……まあ、実際に付け入ろうと思ったことは一度も無いけどね。周りからは、よく勘違いされていたみたいだけど」

「へぇ~。その割には、いつも鈴姫君からは親の仇みたいに見られてるみたいだけど?」

「はは……まあ、僕は彼に恨まれて当然だからね」

「でも、そっちの方もなんとかしたいね」

「……そうだね」

 

 かつては恋人同士のように仲の良かった二人の道が再び交わったようで、小波もまた肩の荷が下りた気がした。

 現金な気もするが、これで何の遠慮もなく自分の恋路(・・・・・)に専念することが出来る気がしたのだ。

 

「ところで話が変わるけどあおいちゃん、次の休日、もし良かったら僕と……」

「あっ、そこの人すみませんがお時間いただけますか?」

「む、オイラでやんすか? ってあんた恋々高校の!」

 

 この場では割とどうでも良いが小波にとっては至極重要な話を口にしようとした瞬間、あおいの意識は間が悪く小波から外れ、目の前を横切ろうとした瓶底眼鏡の通行人へと向かった。

 

「いつも間が悪いんだよなぁ……ん? あの人、確か竹ノ子高校の……」

 

 溜め息をつく小波は、どこかで見覚えのある通行人の姿に意識を切り替える。

 あおいがその通行人――偶然この場を通りがかった矢部明雄を呼び止めたことが切っ掛けとなってこの署名運動のことが竹ノ子高校野球部全員へと広まり、後に彼らがチーム一丸となって「なら俺達も参加しようぜ!」という話に発展していく辺り、小波は自身の間の悪さも一概に捨てたものではないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋々高校の署名運動への参加は星菜と鈴姫が勝手に行っていた(監督の茂木には許可を取っていたが)ことであり、部員の全員までもが参加することは星菜も鈴姫も求めていなかった。署名を集め終わったところで女子選手の公式戦出場が認められる可能性は限りなく低く、この運動も時間の無駄になる恐れがある。星菜は自分とあおいの為に、貴重な練習時間を割いてまで彼らのことを巻き込みたくはなかったのだ。

 本当のことを言えば鈴姫にも同じ理由で参加してほしくなかったのだが、こちらはどうしてもやるという彼の熱意に負けた結果である。

 だが他の部員達となると、話は別だった。

 

 矢部明雄に署名運動のことが知られ、野球部全体で協力しようという話になるまで多くの時間は掛からなかった。

 彼らの気持ちは本当に嬉しかったが、星菜には同時に怖くもあった。

 何故、彼らはこうも自分に良くしてくれるのか――星菜には自分が彼ら全員を動かすだけの大きな対価を支払った記憶が無いのだ。

 

 故に星菜は合宿の始まる前日、部室に赴くなり直接彼らに問い質すことにした。

 

「同じ部の後輩を助けてやるのは、先輩なら当たり前のことだろ?」

 

 波輪風郎は言葉通り当然な顔をしてそう答え、

 

「可哀想だと思ったからでやんす!」

「お前の場合は下心満載だろーが。まあ、同じチームメイトなのに一人だけ仲間外れにしたくなかったからだな」

「はは、サッカー部でいつもハブられていた奴は言うことが違うな」

「うっせーぞ外川。オメーだってサッカー部に居た時はドン引かれてただろうが」

「僕は野球部の生え抜きです」

「うぜぇ……」

 

 矢部明雄と池ノ川孝宏が口々にそう答えると、横合いから外川がそんな彼らの言葉を茶化した。

 そして星菜が他の部員達の方へと顔を向けると、皆が皆、微笑を浮かべながら彼らの言葉に頷いていた。

 

(結局のところ、ただの哀れみか……昔の私は、そういうのが一番嫌いだったけど……)

 

 チームメイトが困っているから助けたい、境遇が可哀想だから助けたい、そう言った言葉を受けて素直に喜べるほど、星菜の心は真っ直ぐ出来ていない。外面では謙虚ぶっていても性根の部分は無駄にプライドが高いという厄介な性格を抱えているが為に、星菜にはこれまでも苦しまなくて良い言葉で苦しんできた経験が多い。

 星菜は周りの人間と対等になることを望んでいる。実のところ彼女は、ウサギのように寂しがりな人間なのだ。

 その点同情や哀れみと言った感情は、どうあっても対等からは程遠い。彼らが自分のことをチームメイトとして認識してくれているのは確かに嬉しいが、本当の意味ではまだ、自分は彼らと対等の立場になれていないのだと改めて認識した。

 

(……このままは、嫌だ)

 

 星菜のことを不当に見下していたり、差別しているような者は居ないといつか六道明が言っていた。そして、対等になりたければこれからの努力で勝ち取っていけば良いとも。

 その通りだと思う。

 今は立場上、彼らの好意に甘えるしかないのはわかっている。だが星菜は、やはり現状で満足する自分にはなりたくなかった。

 

「フハハ! 署名が成功して君がベンチに加わってくれれば戦力的にプラスですからね! 何と言っても波輪先輩亡き今、ピッチャーは僕一人だけですから!」

「おいそこの一年坊、勝手にキャプテンを殺すなよ……」

「だが、その通りだ。青山の言うことは一理も二理もある」

 

 そんな星菜の心を無自覚に救ったのは、同じ一年生投手である青山才人の言葉だった。

 その言葉を聞いた瞬間星菜の心から負の感情が和らいだのは、彼の言ったその言葉こそが今の彼女にとって哀れみや同情よりも欲しかったからであろう。

 練習では星菜の投げるボールを受けている捕手の六道明が、青山の言葉を肯定しつつ補足した。

 

「泉、君の実力はここに居る全員が知っている。波輪が今後投げれるようになるかわからない現状、君は今チームで一番優秀なピッチャーなのだよ」

「六道先輩……」

「少なくとも俺は、秋の大会を勝ち上がっていくには君の力が必要不可欠だと考えている。俺達が恋々の署名運動に協力するのは確かに君と早川さんへの同情もあるが、チームとしての戦力補強の意味もあることを頭に入れてほしい。

 ……要するに君が公式戦に出場する資格は、俺達の練習時間を多少削ってでも手に入れる価値があるものだということだ。他の連中は知らんが、俺はそう考えているぞ」

「あっ、俺も考えてるぜそれは」

「俺も俺も!」

 

 家族以外の者から寄せられる無償の好意ほど怖いものは無い。これまでの経験からそのようなひねくれた考え方を持っている星菜は、六道明の言葉を聞いて少しだけ安心することが出来た。

 流石に女子選手の従妹を持っているだけあり、女子選手のアフターケアは万全と言ったところか。彼がこのチームに居て良かったと、星菜はつくづくそう思った。

 

「……この人達が星菜に優しくしているのは下心が理由だと思って今まで協力させなかったけど……こんなことなら、監督と波輪先輩に口止めさせなくても良かったな」

 

 鈴姫もまた彼らの言葉を聞いて意外そうな表情を浮かべると、ここに居る野球部員達を見る目が変わったようにそう呟いた。

 星菜にとっては彼らが色眼鏡も無く純粋に選手としての自分を評価した上で必要だと言ってくれるのなら、これほど嬉しいことはなかった。

 泉星菜というちっぽけな野球少女への同情や哀れみではなく、竹ノ子高校野球部というチームの戦力補強の為に署名運動に協力する。その大義名分ならば、ひねくれた星菜の思考でも受け入れることが出来る気がした。

 

「……本当に、良いんですか?」

 

 だが星菜には、それだけでこの嘘のように恵まれた仲間達の言葉を信じきることが出来なかった。

 闇のような暗い時期は過ぎた今の星菜であるが、深いところではまだ他人を信じることが出来ないでいる。例外は家族とあおい、そして鈴姫ぐらいだ。ここに居る野球部員達は皆人柄の良い人間だとは思っているが、だからこそ彼らの優しさに自分の存在が釣り合うと思えなかったのだ。

 

「皆さんは、こんな私のことを……受け入れてくれるのですか?」

 

 いつか彼らが自分の本性を知った時、彼らは自分のことを見捨てはしないだろうか? その不安を完全に払拭するには、今の星菜には乗り越えてきた過去が少なすぎる。それ故に心から振り絞って紡ぎ出した星菜の問いに、彼ら一同は一斉に首を縦にした。

 そして主将の波輪が星菜の猜疑心を取り除くように柔和な笑みを浮かべ、力強く言い放った。

 

「おうよ!」

 

 欲しかった、肯定の言葉である。

 それを受けた瞬間、星菜はようやく自分に自信を持って出発出来る気がした。

 

「……なら、お願いします……署名運動に協力してください。あおいさんと私のことを……助けてください……っ!」

 

 そして初めて、星菜は自分の言葉で救いを求めることが出来た。

 ずっとそれを待っていたとばかりに一斉に承りの言葉を返してくる竹ノ子野球部員達の姿に、星菜は理解した。

 

(……今、わかった……)

 

 自分だけでは何も出来ないと思いながら、他人を信用出来ないが故に救いの手を求めない。これではまるで、今までの自分は気の弱いいじめられっ子のようではないか。

 自分から求めさえすれば、簡単だった。野球のことも、鈴姫のことも、チームメイトも。

 胸を張って自分の居場所と言える場所は、ここにもあったのだ。

 

(私は、竹ノ子高校の(・・・・・・)泉星菜なんだ)

 

 だから今後、彼らから見捨てられないように。

 どこまでも、投げ抜きたいと思う。

 この場所が自分の居場所であることを許される限界まで……例え、この肘が捻じ切れても。

 

 ――それは星菜が入部して、「彼ら」と最も「野球」をしたいと思った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 そしてその決意を投球を持って表明したのが、八月の合宿期間――そこで行われた「ときめき青春高校」との練習試合であった。

 

 



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軟投王誕生

 

 猛暑の八月。高く昇りきった太陽は惜しみない光を地上へと降り注いでおり、屋外でスポーツを行うには最も負担の大きい時期である。

 しかしこの立っているだけでも辛いと感じる高気温さえも、グラウンドに立つ高校野球児達にとっては日常のようなものだ。

 

 そう、日常である。

 

 白土のマウンドを踏みしめながら、泉星菜は己がこの日常に戻ってきたことを実感した。

 波輪風郎の負傷というアクシデントから、状況に流された節のあった前回とは違う。今自分は、はっきりと自分自身の明確な意志を持ってここに居るのだ。

 

(思えば、あの時打たれたのは必然だったんだな……)

 

 今でこそ思う。前回の練習試合でホームランを打たれたのは、打たれるべくして打たれた結果に過ぎないのだと。

 あの時のマウンドには、今この身に感じているような強い意志――投手として自分がチームの勝敗を背負うということへの覚悟が足りていなかったのだ。自分の中では理解しているつもりでも、本当の意味で竹ノ子高校の一員という自覚が無かった当時の自分では、味方のミスがあったと言えど詰めが甘くなるのは自明の理だった。

 グラブの中に隠した白球を左手で握り締めながら、ユニフォームに背番号「19」を背負った星菜は小さく苦笑を漏らした。

 

「帰ってきたんだ……今度こそ、ここに」

 

 栗色の双眸が見据える先にはストライクゾーンの外角低めを要求する捕手六道のキャッチャーミット。その傍らの打席に立っているのは今行っている練習試合の対戦相手、「ときめき青春高校」の打者だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 竹ノ子高校全体で恋々高校と協同し、練習の傍ら署名運動に勤しみながら迎えた八月の夏である。監督の茂木から宣告された通り竹ノ子高校の練習場所は校庭グラウンドから市外のスポーツ合宿場へと移り、今季初のチーム強化合宿となった。

 だが、その日合宿場を訪れたのは竹ノ子高校だけではない。他には「パワフル高校」と「そよ風高校」、そしてこの中では唯一他県の高校である「ときめき青春高校」の三校が、その合宿場を訪れていたのだ。しかし合宿場のグラウンドは数箇所に渡って用意されている為、それが原因で窮屈になるということはなく、使用可能な広いグラウンドは四校それぞれに一箇所ずつ分配されていた。

 日頃校庭のグラウンドをサッカー部の者達と相談しながら細々と使用している竹ノ子高校野球部にとって、与えられた範囲内であれば周りに気兼ねなく広いグラウンドを使うことが出来るのは願ってもない機会だった。

 だが、竹ノ子高校が合宿場入り初日に行ったのは、そのグラウンドを使っての練習ではなかった。

 

 そのグラウンドを使っての、「練習試合」だったのである。

 

 本格的に合宿に入る前に、実戦形式の試合を行うことでチームとしての課題を明確にしておきたいというのが監督の茂木の意図である。彼が言うには、丁度良く同じ意図を持って練習試合の相手を探していた高校が同じ合宿場に居たとのことだ。

 その高校が他県所属の高校、「ときめき青春高校」だった。

 しかしその「ときめき青春高校」という高校。特徴的な名前であるにも拘らず、星菜も含め竹ノ子高校内で知る者はほとんど居なかった。それには他県の高校であることも理由の一つだが、この高校は野球に関しては一切目立った活躍の無い学校で、今年の始めまでは二年生二人しか部員が居なかった為に廃部の危機にまで瀕していた高校だったからである。

 

「なんだか、オイラ達に似てるでやんすね」

「だな」

 

 その事実を唯一ときめき青春高校の情報を持っていたマネージャーのほむらから聞かされると、竹ノ子野球部員二年生の誰もが矢部明雄の言葉に同意した。

 去年までは部員の確保すら満足に出来ず、最近になってようやく始動した野球部――それはあまりにも、竹ノ子高校と酷似した境遇だったのだ。

 だが酷似しているが故に、竹ノ子高校の選手達はそう言ったチームが強くなることがどれほど難しいのかもよく知っている。そのことから、一同はときめき青春高校のことを大黒柱の波輪を欠くチーム状況で戦う相手にしても些か物足りない程度の相手だと判断していた。

 普通にやれば楽勝だろうと――そう緩みそうになった選手達の心に待ったの声を掛けたのは、マネージャーであるほむらの言葉だった。

 

「ブランクはあるみたいッスけど、部員の顔ぶれを見るとウチよりもずっと凄いッスよ? 三森兄弟に鬼力君、茶来君……とにかくシニア時代有名だった選手ばっかりで、特にこの朱雀(すざく)君とキャプテンの青葉(あおば)君はボーイズリーグの日本代表メンバーだった選手ッス」

「朱雀と青葉? ああ、そいつら俺知ってる! あの球がめっちゃ速いサウスポーと、すげえスライダーを投げる奴か!」

「そうッス。二人揃って無名校に入るなんて酔狂な話って思ったッスけど、考えてみれば波輪君も同じッスね」

「まじか、あの二人が居るのか……! くっそ~……試合出たかったなぁ……」

「フハハ! 試合は僕が投げますので、キャプテンはリハビリを頑張ってください」

「ああ……早く治さないとなぁ。でもお前は頑張れよ青山?」

「フハハ! 大船に乗ったつもりで居てください! 僕は入部から体重が2キロ増えましたから!」

「で、球速は?」

「フハハ! フハハ……」

 

 ときめき青春高校は野球部として始動したのは最近のことでも、部員達が中学時代の頃に築いた実績は竹ノ子高校の面々とは段違いのようだ。ほむらから上がった二人の名前に聞き覚えのある波輪が興奮しながら、しかし自分の右肩を見て悔しげに唇を歪めた。

 実力のあるメンバーが校内に揃っていながらも最近まで野球部に部員が二人しか居なかったのは不思議な話だが、実力があるからと言って素直に野球部に入るとは限らないことは星菜自身が十分に理解していた。部外者である自分がそのことについて詮索する必要は無いだろうと、細かな疑問は頭の片隅に置くことにする。

 練習試合を迎えるに当たって、星菜にはただ相手にとって不足が無いことだけがわかればそれで十分なのだ。 

 

 

 

 そして当日、合宿初日であり、練習試合の日を迎えた。

 貸切のバスで数時間揺られてたどり着いた合宿場は、一キロ圏内には広大な大海原が見える潮風爽やかな場所だった。

 

 竹ノ子高校が合宿場入りした頃には既に先に訪れていたときめき青春高校の選手達がグラウンドにて練習を行っている様子であり、監督の茂木に挨拶しに来たときめき青春高校の主将「青葉(あおば) 春人(はると)」いわくこちらはすぐにでも試合が出来る状態とのことだった。

 その言葉を受けた星菜達竹ノ子高校野球部員一同は柔軟体操、キャッチボール等のアップ運動を終えるなり、早速試合の準備へと取り掛かった。

 

「よし、そんじゃあメンバーを発表するからよく聞けよ?」

 

 選手達を手元に集合させた茂木が、この練習試合に出場する九人のスターティングメンバーを読み上げた。

 

 一番センター矢部。

 二番キャッチャー六道。

 三番ファースト外川。

 四番ショート鈴姫。

 五番サード池ノ川。

 六番ライト青山。

 七番レフト石田。

 八番セカンド小島。

 

 九番ピッチャー泉。

 

 

「……以上だ。反論は聞かん」

 

 名を読み上げられた瞬間、思わず変な声が出そうになった。それを我慢することが出来たのは、恐らくはこのスターティングメンバーにおける最大の異端人物――九番ピッチャー泉たる張本人よりも先に、周囲の人間の声が先走ったからであろう。

 

「反論? あるわけないっすよ」

「まあ、現状最高のメンバーだろう」

 

 不平不満の声は無く、勝負の場に似つかわしくない浮ついた声も無い。自分が名を呼ばれなかったことに悔しげな顔をする者は当然多く居たが不満そうな顔は無く、この場においてこのスターティングメンバーを読み上げた監督のことを批難する者は居なかった。

 

「そんなに気負いすぎず、練習通りいこう」

「……はい」

 

 今回は怪我の為出場メンバーに登録されていない波輪が、先輩の投手としてのアドバイスを言いながら星菜の肩をポンと叩いた。

 

 

 こうして泉星菜は、高校初先発の試合となったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ――そして、時は戻る。

 

 主将同士のじゃんけんにより後攻となった竹ノ子高校は一回表の守備につき、星菜もまた自らのポジションであるマウンドの上へと立った。

 足場の感触が普段使っている校庭のものと違う気がするのは、きっと場所が違うことだけが理由ではないだろう。

 例え練習試合であっても、実戦のマウンドに立つとなれば気の入り方が変わるものだ。尤も星菜の場合、緊張で身体が固くなるということはない。

 

 ――ただ、気持ちが良いのである。

 

「……私は、ここに居る」

 

 自分の意志で、ここに居る。

 野球を捨てなくて良かった。

 自分がまだ野球を続けていることに、星菜はこれ以上無いほどに誇りを感じた。

 

「さて……」

 

 そして、思考を切り替える。

 先発を任された以上は、投げるだけで満足するわけにはいかない。

 まずは一人目の打者――右打席に立った目つきの悪い水色の髪の男と対峙する。

 その男の顔立ちはありふれたものではなく平凡と言うには特徴が多かったが、二番打者の座るネクストバッターズサークルには彼と全く同じ顔の男が待機していた。

 

(あれが三森右京、三森左京……中学時代はシニアで活躍していた三つ子の兄弟の二人)

 

 ときめき青春高校との練習試合が決まった次の日から先輩マネージャーのほむらが集めてくれた情報を、星菜は頭の中で復習する。

 その情報によると、ときめき青春高校の一番二番を打つ二人の顔が酷似しているのは彼らが同じ血を分けているからだという。そして兄弟共に抜群の俊足と広大な守備範囲を持っており、打撃センスも非凡なものがあると。

 

(……毎回思うけど、ほむら先輩の情報網には恐れ入るよ)

 

 苦手なコース、得意なコースと言った試合で活用出来る有用な情報はもちろん、個人情報めいた部分まで収録しているのが川星ほむらのデータベースである。

 しかし彼女はあくまでそこに収録されていたのは中学時代の情報であり、今この場で鵜呑みにし過ぎるのは危険だという助言を据えてくれた。だが知っていると知っていないとでは違うものは多く、彼女からの情報が助けになることだけは間違い無かった。

 星菜としては選手としてマネージャーの恩恵を受けるというのも、新鮮な気分だった。

 

「よし」

 

 投球練習を終えたところでプレイボールが掛かり、星菜はワインドアップから一投目の投球動作に移る。

 打席の三森右京は星菜が投じた外角低めへの緩く大きな変化球――スローカーブを見送り、簡単にワンストライクを取った。

 立派な球場でない為に球速表示は見れないが、手応え的には球速80キロを切っていたと思える。捕手六道からの返球を受け捕ると、星菜は初球から狙ったコースでストライクを取れたことに一先ず安堵した。

 だがその一秒後には思考を切り替えており、星菜は一投目の投球以上に集中して六道のサインを見据えていた。

 

(しばらく実戦から離れていた選手が大半の野球部……条件は、私とほとんど一緒だ)

 

 六道の構えたミットを目掛け、小さなテイクバックから全力で左腕を振り下ろす。

 ボールは振り下ろされた左腕からワンテンポ遅れて放たれ、ようやくホームベース上へと到達した。

 

「っヤベッ」

 

 打者の目からは思ったよりも「来ない」ボール――チェンジアップである。打席の三森右京は投じられた瞬間腕の振りから変化球ではなくストレートと判断していたのか、バットを出すタイミングを誤り、完全に芯を外した打球をサードの正面方向へと転がしてしまった。

 打球は竹ノ子高校サードの池ノ川が前進して抑えると、流れるような動作で一塁へと送球した。

 

「アウトッ!」

 

 いかに俊足と評判の三森右京でも、池ノ川の強肩を持ってすればさして苦もなくアウトにすることが出来るようだ。先頭打者を狙い通りの打球に打ち取った星菜は、一塁外川から寄越されたボールを受け捕りながら呟いた。

 

「ブランク持ち同士じゃ、言い訳も出来ないな……」

 

 最近になって本腰を入れ始めた野球少女と、今年本格始動した野球部との対決。この練習試合を組んだ監督の茂木には、その構図になることを最初から狙っていたのかとすら疑ってしまうほどだ。

 だとすればとんだ演出家である。

 

「二番の左京は名前通り、左打ちか……」

 

 ときめき青春高校の二番打者、三森左京が左打席に入る。その顔はやはり、先ほどの三森右京と瓜二つだった。

 そして似ているのは顔だけでなく、プレイスタイルも酷似しているというほむらからの事前情報がある。

 

(走力が今の右京並と考えると、タイミングからして今みたいな当たりだと内野安打になるな……)

 

 情報によれば、左京の右京との特徴の違いはほとんど「左打者」であることぐらいしか無いらしい。

 だが彼のように俊足巧打の打者にとって、打席が左というのはそれだけで投手側に厄介な武器となる。

 単純に考えても右打者より一塁ベースへの移動距離が短くなる為、それだけ内野安打の確率が高くなるのだ。

 

(でも、この打席にその心配は無さそうだ)

 

 だが、左京が先ほど凡退した右京に向けていた表情から見て、星菜は彼がこの打席において狙って左方向に打球を転がすことはないだろうと判断した。

 これは星菜がチラリと一瞥したネクストバッターズサークル上での彼の様子だが、彼は凡退した右京に対して呆れの目を向け、そして星菜のスローカーブに対して嘲るような笑みを浮かべていたのだ。

 これまで極端な軟投派という投球スタイルを続けてきた星菜には、そう言った笑みを浮かべる者の考えなど容易に想像することが出来た。

 

(なんであんな遅い球を打ち損じる? あんな球なら簡単に打てるだろ……そんなところかな。確かに、そう考えるのが普通だ)

 

 打者の立場から、このような小学生レベルの球速ならいつでも打てると考えるのは決しておかしくはない。だが、それは自分の投げるボールがただ遅いだけでないことを知らないからこそ出来る考え方なのだと星菜は心の中で笑い返した。

 重要なのは打者にとって思ったよりも「来ない」ボールと、思ったよりも「来る」ボールを自在に使いこなすことだ。それさえ出来れば球速のハンデなど無くなるというのが星菜の持論であった。

 

「チッ」

 

 アウトサイドに決まった星菜の思ったよりも「来る」ストレートを強引に引っ張ろうとした結果、どん詰りのセカンドフライを打ち上げることになった左京の舌打ちが響く。

 ボールは二塁手小島のグラブに無事収まり、あえなくツーアウトとなった。

 

(球が遅いからと、無理に引っ張ろうとするからそうなる。足の速いバッターが簡単に打ち上げてくれると助かるよ)

 

 ここまでに星菜が投じた球数は僅か三球である。彼らは投球練習からの星菜の投球を見て、簡単に打てそうだと認識しているが為に早打ちになっているのだろう。

 尤も、ここまで簡単に打ち取ることが出来たのは二人が野球から遠ざかって一年のブランクがある選手であることが最大の要因だと星菜は認識している。

 

「打てよ、朱雀!」

 

 ときめき青春高校側のベンチから応援の声が響き、背番号「1」を着けた三番打者がゆっくりと左打席に入る。

 身長は180センチをゆうに超え、鍛え上げられた強靭な筋肉はユニフォームの上からでもわかる。バットを高々く上げて槍のように突き出した構えは、彼の纏う独特な雰囲気も相まってまるで「王」のような堂々とした佇まいだった。

 

(問題はこの人だ。朱雀(すざく) 南赤(なんせき)……)

 

 この男の名は朱雀(すざく) 南赤(なんせき)。ほむらの情報によればかつてはボーイズリーグの日本代表のメンバーだった男であり、ときめき青春高校野球部に一年生の頃から入部していた者の一人だ。

 彼の投げる速球は中学時代の時点で145キロを記録しており、打撃センスも抜群に良かったと言う。

 

 実は試合を行う直前、彼は竹ノ子高校の主将である波輪と対面しに来ていた。

 二人は中学時代、シニアとボーイズリーグというお互いの所属の違いから直接対決したことこそ無かったものの、当時は波輪が「右の速球王」、朱雀は「左の速球王」として比較されていたらしく、波輪は知らなかったが朱雀は波輪のことをライバル視していたらしい。

 そんな因縁のある朱雀は、本当ならば是非とも波輪と投げ合いたかったことであろう。波輪の右肩の状態を聞くなり厳つい顔つきながらも目に見えて落ち込んだ様子でときめき青春高校のベンチへと引き下がっていった彼の姿が、何とも印象的だった。

 

(140キロ超えのストレートなんて、私には一生縁が無い)

 

 超高校級の選手が続々と登場している現代の高校野球界。

 所属が無名校と言えど、いずれはこの男もまた、その中に名を連ねることになるだろう。

 

「だけど……」

 

 グラブの中でボールを握り、大きく振りかぶる。

 腰の位置にて膝を曲げ、大きく踏み出した右足をバネに、左足でマウンドの土を蹴り、左腕を思い切り振り下ろす。

 しかし指先から抜くように放たれたボールは腕の振りよりも遅れて飛来し、月の如き大きな弧を描いてキャッチャーミットへと収まった。 

 

「ストライク!」

 

 審判――を務めているこの試合に出場する予定の無い竹ノ子高校野球部の部員が判定の声を上げると、外角低め一杯に制球されたボールに捕手の六道が満足げに頷く。

 そのボールを打席上で何ら反応することなく見送った朱雀は、尚も表情を変えることなく構えに戻った。

 返球を受け捕った星菜は続く二投目の投球に入り――朱雀は全く同じコースに決まったスローカーブを強振し、空振りした。

 

「ナイスボール!」

 

 タイミングが全く取れていない、と言った形の完全に的外れな空振りだった。マウンドを睨む朱雀の顔は依然厳つい表情のまま変わらないポーカーフェイスであったが、星菜には彼の考えていることが何となくわかった。

 

(……そう睨むな。私は貴方のことを馬鹿にしているつもりはない。ただ、剛速球ばかりがピッチングじゃないってことです)

 

 苦笑を浮かべ、星菜はグラブの中でボールを弄びながら六道のサインを見る。

 三球目の投球に入る六道のサインは、朱雀の内角にシュートを外せというボール球を要求するものだった。

 そのサインに星菜は――初めて首を振った。

 

「すみません、先輩」

 

 それを受けてすぐに星菜の希望通りのサインに変更してくれた六道の要求に頷くと、星菜は打者を焦らすように数拍の間を空け、ゆったりとしたモーションから三球目のボールを投じた。

 

「ストライクッ! バッターアウト!!」

 

 外角低め、先の二球と全く同じコースへのスローカーブであった。

 朱雀はそれに手を出すことが出来ず、拍子抜けするほどあっさりと見逃しの三振に倒れた。

 その打席は周囲の目から見てどこか不気味に映ったが、星菜は直後に呟かれた朱雀の言葉を聞いて安堵した。

 

「……タイミングが合わぬ」

 

 マウンドからベンチに帰る前に聞いてしまった、朱雀が打席上でボソりと呟いたその一言に星菜は危うく吹き出しそうになった。

 

「これが、私だ」

 

 初先発のマウンドにおける緊張の立ち上がりは、たった六球で締めることが出来た。

 その内、球速が100キロを超えたのは左京を打ち取ったストレートだけだ。

 剛速球など不要と――良い意味で自分らしさを発揮することが出来たイニングだったように星菜は思う。

 

 だが、これからだ。

 まだ、始まったばかりだ。

 

 まだ泉星菜のマウンドは、終わっていない。

 

 







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幸福な野球少女と不幸な野球少女

 

 竹ノ子高校初回の攻撃を圧倒的な力でねじ伏せてみせたのは、噂を遥かに上回る朱雀南赤の投球であった。

 特筆すべきは何と言ってもその剛速球である。万全な状態の波輪と比べても遜色の無いレベルの剛速球は、星菜のスローカーブのような緩急すらつける必要も無く、竹ノ子高校の上位打線を三者三振に切ってみせたのだ。

 球速はもちろん、彼の完成されたトルネード投法――打者に背中を見せるまで大きく捻りを加えながら並進運動を起こし、上体の回転を利用して一気にボールを放つ投法――はボールに対して絶大な球威を与えている。彼はまさに、投球の「剛」を体現した投手と言えた。

 

「……超高校級投手のバーゲンセールだな」

 

 150キロを超える剛速球投手をこうも頻繁に見かけるようになった現代の高校野球に対して、星菜は驚きよりも呆れを滲ませた声でそう呟いた。「前世」の高校時代では140キロオーバーの投手すらそうそうお目に掛かれなかったというのに、時代の移り変わりとは何とも激しいものである。

 全くもって、つくづく自分のコンプレックスを刺激するのが上手い連中だ。彼らのような剛速球投手に対して星菜には思うところが多くあったが、そう言った私情はマウンドでは一切切り捨てることにする。

 相手は相手、自分は自分だ。自分の身体が力勝負では指一本で弾かれてしまうほどに脆弱なことを誰よりも理解している星菜は、勝負の場において相手のペースに巻き込まれることなく己を保つことに掛けては一流だった。尤も、それは今のように心に何の「迷い」も抱えていない本来の精神状態であれば、の話である。

 ――そう、今の状態こそが泉星菜の本来の姿なのだ。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 スローカーブの調子が最高に良い。星菜は二回表の先頭打者、ときめき青春高校の四番鬼力を僅か四球で空振りの三振に仕留めると、早々にワンアウトを取った。

 朱雀の剛速球を目の当たりにしたところで、星菜が「軟投」という自分の持ち味を見失うことは無かった。

 

「ショート!」

「任せろっ」

 

 続く五番打者茶来(ちゃらい)には外角に外れるボール球のシュートを引っ掛けさせ、ボテボテのショートゴロに打ち取りツーアウトとなる。

 そして迎えた六番打者はときめき青春高校の主将、青葉春人だ。彼の本職は投手だが、ほむらの調査によれば登板していない時は部員数の関係からライトを守っているらしい。彼は朱雀と同じくこのチームでブランクの無い数少ない選手の内の一人であり、星菜のスローカーブに対しても前打者のようにタイミングを大きく崩されることはなかったものの、センター方向に打ち返された打球は投手星菜のグラブに無事収まり、ピッチャーゴロのスリーアウトとなった。

 

(生憎、打球反応の良さには自信がある)

 

 苦々しげな表情でベンチへと引き下がっていく青葉の姿にほくそ笑みながら、星菜は自軍のベンチへと駆け戻っていく。

 

 試合は早いテンポで二回裏へと進み、そのイニングにおいて竹ノ子高校はノーアウト二塁のチャンスを作ることとなった。

 その切っ掛けになったのはこの回の先頭打者、四番鈴姫の打席だ。150キロを超えているであろう朱雀の剛速球に対し、鈴姫はボールに逆らうことなく流し打ちし、バットの芯で捉えた打球を巧みに三遊間方向へと運んだ。

 レフト前ヒットになるか……そう思った星菜の目に映ったのは、打球を外野に抜ける手前で逆シングルで捕球してみせた、ときめき青春高校の遊撃手(ショート)の姿だった。

 ポジション取りが見事だったと言えよう。ときめき青春高校のショートを守る茶来(ちゃらい) 元気(げんき)――表のイニングでは五番打者を務めていた糸目の男の守備に、星菜は敵ながら見事と心の中で拍手を送った。

 しかし彼がその直後に起こしたプレーに、星菜の彼に対する拍手は即座に鳴りやんだ。

 

 送球ミス――茶来は捕球したボールの送球を誤り、一塁手がジャンプをしても捕れない位置へと暴投してしまったのである。

 

 その結果一塁を蹴った打者走者鈴姫の足は二塁へと到達し、ときめき青春高校にとってファインプレーとなりかけた守備は一転して痛恨のエラーとなった。

 

「すざっち悪い! くっそ……雅ちゃんのようにはいかないな」

「今は慣れぬポジションだから仕方あるまい。だが同じ過ちは繰り返すなよ?」

「オッケ! 次はバッチリ決めてやるぜ」

 

 ほむらが記入しているスコアブックを横から覗き見ると、記録上はワンヒットワンエラーとされていた。三遊間をそのまま抜けていればシングルヒットで済んだところを、皮肉にも彼が鈴姫の打球に追い付いてしまったことで被害が拡大してしまったことに、ときめき青春高校側としては面白くない展開だろう。だがマウンドを任された朱雀の姿に動揺は見えず、それどころか彼は鈴姫の後を打つ池ノ川に対してより凄まじい威力のボールを放っていた。

 

「ああっ!」

「なんだありゃ……」

 

 周囲のチームメイト達が漏らす驚愕と落胆の声が耳に入る。

 クロスファイヤーで内角を抉る彼のストレートを前に、池ノ川はノーアウト二塁のチャンスで進塁打すらも打てずに空振り三振を喫することとなったのだ。

 

「……こういうところが攻撃の課題だな、ウチのチームは」

 

 呟かれた茂木監督の言葉に、星菜は内心で同意の言葉を返す。

 ドラフト候補でもない高校生にとって、あれほどの剛速球をヒットにするのはあまりにも難しい。故に星菜も、タイムリーヒットを打つことまでは出来なくても仕方が無いと思っていた。

 だが最低限、どのような形であれ二塁走者を三塁へと進めて、次の打者が内野ゴロでも点が取れる状況を作る打撃を彼にはしてほしかったのだ。

 打撃力の無いチームだからこそ、勝つ為にはそう言った細かい野球が必要になっていく。得点能力の乏しいチームである以上、竹ノ子高校の勝ちパターンは必然的に「守り勝つこと」へと絞られていくことになるからだ。

 相手のミスに付け込んで一点をもぎ取り、敵の攻撃は無失点に抑えて最終的に1対0で勝つのが理想的である。ロースコアのゲームを物に出来るチームであれば、打撃力は弱くとも強豪校と渡り合うことができるのが野球の面白さでもあった。

 尤もそれは、こちらの投手がきっちりと試合を作ることが最前提になるが。

 

(……もし私が公式戦に出ることがあったら、それだけ責任は重大ってことか)

 

 竹ノ子高校の打線で勝利を得るには、投手の好投が何よりも必要不可欠だ。だが幸いにもこのチームには鈴姫や六道、池ノ川に時々ポカをやらかすが矢部と言った守備力のある選手が多く揃っていた。察するに、既に茂木の頭の中ではチーム作りの方向性がはっきりと定まっていることだろう。

 

(実際、鈴姫と池ノ川先輩の三遊間は頼もしい。後はセカンドに良い選手が居ればセンターラインも磐石なんだけど……無い物ねだりは出来ないか)

 

 星菜の考える当面の課題は一点を取る細かな攻撃と、守備面――特にセンターラインの強化と言ったところだ。星菜は投球の際、出来るだけ鈴姫と池ノ川の居る左方向に打たせるように気を配っている。それはチームの現二塁手である小島には失礼かもしれないが、それだけ右側の守備が頼りないということでもあった。

 

(なんてね……)

 

 だが、成長の余地が無いとまでは考えていない。

 小島に限らず他の選手達も、まだまだこのチームは発展途上だ。これからの練習次第では幾らでも上達する可能性があり、星菜もまたそれを信じていた。

 既に野球選手として技術的に「完成されてしまった」自分とは違い、未熟な彼らには未来があるのだ。

 

(みんなを導くなんて偉そうに言える立場じゃないけど……星園渚から受け取った物は、出来るだけ生かしてみよう)

 

 グラブを右手に着けると、星菜は颯爽と三回表のマウンドへと向かっていく。

 池ノ川が三振に倒れた後、六番の青山と七番の石田もそれぞれキャッチャーフライ、見逃し三振に倒れてスリーアウトとなったのだ。

 攻守交替の合間二塁ベース上から一歩も進めなかった鈴姫とのすれ違い様、星菜は慰めるように彼の背中をトンと叩いた。

 

「ナイス内野安打」

「……なんだか、楽しそうだな」

「わかる? そりゃもう、今は人生が楽しいよ」

「そうか……」

 

 声を掛けた時、鈴姫は苦笑を浮かべながら言葉を返した。長い付き合いだからか、彼には今の自分が抱いている胸の高鳴りを見抜かれていたようだ。

 今の星菜には、自分がこの練習試合を誰よりも楽しんでいるという自信があった。もちろんそれは、この試合を遊び感覚でやっているという意味ではない。練習試合は監督に対するアピールの場だとか、そう言った打算的な感情を一切抜きにして、星菜は純粋に野球というスポーツを楽しんでいるのだ。

 

「これも、お前のおかげだ。ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 無論、今の自分が誰のおかげで野球を再び楽しむことが出来ているのかは忘れていない。

 鈴姫はもちろん、最初に野球部のマネージャーとして誘ってくれた川星ほむらやこんな優柔不断な女を快く迎えてくれた波輪を始めとするチームメイトの皆、それまで逃げ続けてきた自分自身と向き合わせてくれた早川あおいや六道聖、リトル時代の恩師である田中まさる等、多くの人々との関わり合いの中で泉星菜はこの場所に帰ってくることが出来たのだ。

 

「お前のところに打たせていくから、しっかり守れよ」

「あんまり俺のとこばっかに寄越されてもな。それじゃあ他の人の練習にならないだろ」

「あー……それもそうか」

「まあ、こっちの打球は全部捕るから任せてくれ」

「はは、頼もしいショートストップが居てくれて助かるよ」

 

 陳腐な言葉だが、自分は良い仲間を持ったと思う。

 彼らと出会うことが無ければ、きっと自分は、今とは違う人生を歩んでいたことだろう。

 それでは駄目なのだ。この泉星菜にとって、野球を続けている今こそが何よりも幸せな時間なのだから。

 

 幸せがいつまでも続くと思っていたら大間違いであり、この幸せも一秒後には無くなっているかもしれない。経歴的には成功した星園渚という「前世」もまた、人生の幕引きには幸せとは言い難い最期を迎えたものだ。

 詳しくはここで語ることはない。

 ただ、彼は――

 

 ――彼は、野球を続けていたが為に命を落とした人間だった。

 

 だがそれでも、彼は自分が不幸だと思ったことは一度も無いと言っていた。

 好きなことをやって、好きなことの為に死んだ。そんな素敵な人生が送れて、僕は満足だったと――いつだったか、彼は星菜に話してくれたことがある。

 

「……今なら私も、その気持ちがわかる気がするよ。腐っても貴方の来世ってことなのかな? 私も多分、命が懸かっていたとしても野球を捨てたくないんだと思う」

 

 己の中に居るもう一人の自分に語り掛けながら、星菜は一球ずつマウンドを踏みしめて投球練習を行う。

 気のせいか、目の前にそんな星菜の言葉を聞いて微笑む長身の青年の幻影が見えた気がした。

 

「……つくづく思うよ。私は馬鹿になれないつもりで居ながら、どうしようもない馬鹿だったんだなって。今じゃ考えられないよ。例え一時で終わるんだとしても……こんな幸せから、離れようとしていたなんて」

 

 投球練習を終えると、星菜は左肩を大きく回しながら小声で呟いた。

 

「……よーし、お姉さん完封しちゃうぞ~」

 

 誰に聴こえる声でも無かったが、心に思ったことを素直に出すというのは随分と気の晴れる行為だと思う。

 監督がこの試合どこまで自分を引っ張ってくれるかはわからないが、星菜としては言葉に偽りはなく任されたイニングは全て無失点に抑えるつもりだった。

 

 そしてそれを実現出来るだけの実力が、万全な精神状態の泉星菜にはあった。

 

 三回表のマウンド。星菜はこの回も下位打線を打者三人でピシャリと締め、初回から掛けてときめき青春高校の打者一巡をノーヒットに封じることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻、恋々高校の練習場は不穏な空気に包まれていた。

 

 ――それは早川あおいにとって、悪夢のような光景だった。

 

 女子選手ながら彼女の実力は高校野球中堅レベルには十二分に通用するレベルにあり、アンダースローから放られるキレのある変化球は正捕手である小波大也もお墨付きである。

 実際、これまでに行ってきた練習試合では先発した全ての試合で勝利投手になっており、失点も三失点以上したことは一度も無かった。

 自分の実力は男の子にだって負けていないと、その自信に満ち溢れた彼女は試合や練習の度に着々と実力をつけており、残る心配は運営から公式戦の出場を認めてもらえるかという球場外での問題ぐらいだった。

 

 少なくともこれまで、彼女には野球の実力面での心配は無かったのだ。

 

 ――そう、これまでは。

 

「嘘……だろ?」

 

 その光景を見ていた誰かが、愕然とした表情から信じられないとばかりに呟く。

 彼女のボールを受ける捕手の小波すらも、その表情を驚きに染めていた。

 だが彼女自身は――マウンドに立って正面から「彼」と対峙している早川あおいの方は、もはや驚きだけでは到底済まない心情だった。

 

「はぁ……はぁ……っ!」

 

 呼吸を荒げながら、あおいは目の前の左バッターボックスに立つ少年の姿を睨む。

 少年の身長は170センチにも届かない程度で、166センチのあおいよりもやや低いぐらいであり、体つきも野球選手とは思えないほどに華奢な身である。

 腰に掛かる長さまで下ろされた長い金髪は美しく艶やかであり、身体全体から放たれるしなやかな雰囲気も相まってか彼自身は男性を自称しながらもどこか育ちの良い女性のような気品を纏っていた。

 だがその外見だからこそ、彼の頭部全体を覆い隠している特撮物の変身ヒーローのようなマスクが酷く異様に映った。

 そんなふざけた格好をしている彼だが、名前はわからない。彼自身は己のことを「野球マン」と名乗っていたが、それが実名でないことは考えずとも明らかだった。

 

「……来なよ」

 

 肩を上下させて息を切らし始めたあおいに対して、左のバッターボックスに佇む「野球マン」がバットを左肩に担ぎながら右手でクイッと手招きしてあおいを挑発する。

 

「こ……こんな……っ」

 

 右手でボールを握り締めながら、あおいは「野球マン」を睨む眼光をさらに険しくする。

 だがマスクに隠された「野球マン」の表情は、バットを構えに入ったその仕草からでしか反応を読み取れなかった。

 

「気丈だね。でもわかるよ。ボクも君と同じだからね……そんな風に強がったって、心の弱さは隠せないんだよ」

「っ!」

 

 スクエアスタンスに立ち、バットを身体の正面でゆったりと構える。神主がお祓いをする姿に似たその打撃フォームは「神主打法」と呼ばれるものだ。全身から無駄な力を取り除いた状態で構え、スイングの瞬間にのみ全身の筋肉を動かすことでより大きな力を発揮するという理論に基づく打法である。

 その打法はオーソドックスな打法よりも長打が望める反面、バットコントロールが非常に難しいという欠点を持つ。構造上、タイミングの見極めにも熟練が必要とされる非常に難度の高い打撃フォームなのだ。

 しかしその打撃フォームを、この「野球マン」は完全に自分の物にしていた。そしてバットコントロールが難しいという欠点など全く感じさせないほどに、彼はあおいの投じた球種を全て左右自在に打ち返してみせたのである。

 

 ――彼女の最大の決め球である、シンカーでさえも。

 

 全く、通用しなかったのだ。

 今まで磨き上げてきた変化球が、何一つ。

 どれも制球に間違いは無かった。あおいの投じたボールは確実に狙った高さ、コースへと決まった筈だった。

 それが、打たれた。

 一打席目も、二打席目も、三打席目も、四打席目も、五打席目も……左打席に死神のように佇む「野球マン」は、何打席勝負しようとあおいのボールをことごとくヒットにしてみせたのである。

 何を投げても打たれてしまう。それはあおいの野球人生の中で、初めてのことだった。

 

「うわあああああっっ!!」

 

 自分のやってきたこと全てを否定するような男を前に、あおいは咆哮を上げ、アンダースローから右腕を全力で振るう。

 闇雲に力任せに投じられたストレートは瞬く間にストライクゾーンの真ん中――「野球マン」の振り払ったバットの真芯へと吸い込まれていった。

 

「あ……」

 

 引っ張り、高々く打ち上がった打球はライトの柵を覆いかぶさるように越えていき、文句の無いホームランとなった。

 マウンド上で愕然とその打球の行方を見届けたあおいに、「野球マン」がバットを地に下ろしながら言った。

 

「笑わせるね……」

 

 それは打たれたあおいに対して、はっきりと侮蔑の色を込めた言葉だった。

 

「そんな程度で秋の公式戦に出る気だったのかい? 非力なボクにホームランを打たれる程度の球威で、よく夏はおめおめとマウンドに上がれたもんだよ!」

 

 そして次に放たれたのは、彼女の存在を嫌悪するような眼差しと、激しい憎しみの篭った言葉だった。

 顔を覆うマスクの中、彼は動きの見えない口から糾弾の叫びを上げる。

 

「野球はアイドルのステージじゃないんだよ! 君程度のピッチャーがいくら頑張ったところで、高野連が本気で動くわけないだろ!」

 

 言葉が鋭利なナイフのように、あおいの胸へと突き刺さる。

 何も言い返せないあおいに何を感じたのか、「野球マン」は踵を返し、小波の制止の声も聞かずその場を立ち去っていった。

 

「……夢なんか語る前に、君はもっと現実を見るんだね」

 

 彼が最後に吐き捨てるように言い残した言葉が、沈黙する恋々高校のグラウンドに重苦しく響いた。

 

 



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覚醒
マリンブルー


 

 

 

 朝日に照らし出された水平線には、雄大ながらもどことなく儚さを感じる。

 特別な理由があるわけではないが、星菜はその儚さが好きだった。潮風に当たり静かな波の音を聴きながら、星菜は合宿場付近の浜辺に一人佇んで海原の景色を眺めていた。

 あの広大な深い青色を見ると気分が落ち着くのは、海が人間にとって母親だからか。まるで詩人のように一丁前に感傷に浸っている自身のことを「似合わない」と思いながら、星菜は苦笑を浮かべた。

 

「……随分、久しぶりに見た気がするな」

 

 自宅が海から遠い場所にあることと、普段休日はそれほどの距離まで遠出することのなかった星菜は日頃このように近くから海を眺めることは滅多になかった。改めて振り返ってみて、星菜は自分の行動範囲の狭さに呆れたものだ。

 星菜が最後に海水浴に出掛けたのは、今から十一年前まで遡る。弟の海斗がまだ生まれておらず、星菜が四歳の頃、一家三人の家族旅行で訪れたのだ。そこまでは覚えているのだが、誤って飲み込んでしまった海水の味等、細かい部分は全く覚えていなかった。

 

「星菜」

「……ん?」

 

 星菜がそうしてしばらく漠然と海を眺めていると、後方から名前を呼ばれた。

 潮風に揺られる髪を右手で押さえながら振り向くと、そこには鈴姫健太郎――ランニング中だったのだろう、星菜と同じく竹ノ子高校指定の緑色のジャージに身を包んだ彼の姿があった。彼はそのまま、昨日の練習試合の疲労を微塵も感じさせない足取りで駆け寄ってきた。

 

「なんだ健太郎か。おはよう」

「おはよう。君もランニングか?」

「私の場合はランニングって言うよりも、散歩かな。なんだかすぐに目が覚めちゃって」

「俺もそんなところだ。池ノ川先輩のいびきがうるさくてね」

 

 時刻はまだ朝の六時前だと言うのに、どうやら彼も起床時間は早かったようだ。

 しかし昨日の試合では六回からマウンドを下りた自分とは違い、彼は九イニングフルに渡って出場している。竹ノ子高校野球部にとって欠かせない戦力である彼に怪我をされてはたまったものではなく、マネージャーの立場としては十分な睡眠を取った万全な状態で今日の練習に当たってほしいところだった。

 目の下にクマが無いか等を確認する為、星菜は下から覗き込むように彼の顔を窺った。

 

「大丈夫? 今日から本格的に合宿なんだから、健太郎はちゃんと寝ないと。そんなにうるさいんなら監督と相談しておくよ?」

「……いや、そこまではいい。早速早起きで得したことがあったし」

「そう? ならいいんだけど」

 

 顔色は良く、目の下にクマも無かった。無事に昨日の疲れは取れているようだと、星菜は安堵した。

 最近は疎かになっているが、星菜はまだマネージャーを兼業している立場だ。部員の体調を管理することは、星菜にとって最も重要な務めなのである。

 特にこの鈴姫健太郎は、昔から無茶な練習を行うことが多かった。人並み外れた努力家であることは彼の美点だと思っているが、何事もやりすぎは良くない。根を詰めすぎて波輪風郎のように大怪我をされては、今まで行ってきた練習すら無駄になってしまうのだ。

 星菜は彼には、彼にだけはそうなってほしくなかった。

 

 

「昨日は、流石だったな」

 

 静寂の浜辺に二人並び立って海を眺めていると、鈴姫が言った。

 それが何のことか、星菜には問い返すまでもない。今だけでなく昨日も散々言われた言葉だが、やはり一選手として人から褒められて悪い気はしなかった。

 

「……いや、普通のことをやっただけだよ」

 

 鈴姫の言葉に気取った言葉を返す星菜だが、内心では間違いなく浮かれている部分があったし口元も常よりだらしなく綻んでいた。

 そのことに気付いたのだろう。鈴姫は触れないでおけば良いものを、悪戯な笑みを浮かべて指摘してきた。

 

「そう言う割に嬉しそうだな。にやにやしてるぞ」

「うっさい。嬉しいに決まっているだろ」

 

 それに対して星菜が取った反応は、誤魔化しではなく開き直りだった。

 冷静を取り繕うのはやめ、堂々と頬を弛緩させて笑みを溢す。そう言った顔を人前で出来るのは、相手が異性であれど誰よりも気を許せる人間だったからなのかもしれない。

 嬉しいに決まっている。そう、「昨日のこと」を振られて、星菜が嬉しくない筈がなかった。

 

「嬉しいなら、始めからそうやって笑えよ」

「そんなことをしたら、皆から自分のことしか考えていないって思われるじゃないか。好投したって、チームが負けてちゃ何の意味も無い。嬉しいなんて言えるもんか」

 

 昨日の練習試合――結果を言えば、竹ノ子高校は2対0で敗北した。

 先発した星菜は六回までを二安打無四球無失点に抑える好投。しかし試合は七回からマウンドに上がった青山がときめき青春高校の四番鬼力からツーランホームランを被弾し二点を失い、攻撃では相手投手の朱雀と七回からマウンドに上がった青葉春人の二人の前に完璧に抑え込まれ、竹ノ子高校打線は屈辱的にも完封リレーを喰らうこととなったのである。

 自分自身の投球内容は良かったと言えど、チームが負けた以上表立って喜んで良いものだとは思えなかった。

 

「それはそうだけど……チームが負けた責任は君に無いだろ」

「そうやってお前は、私だけはぶくの? 私だって、チームの一員のつもりなんだけどさ……」

「いや、俺はそんなつもりじゃ……!」

 

 星菜個人としては満足の行く投球内容であった。七回から青山に交代されたのも星菜のスタミナが切れたからでも投球に問題があったからでもなく、茂木から聞いた話では始めからこの試合は二人で継投していく予定だったらしく、星菜自身も口惜しさはあったがその采配には練習試合ということもあり納得していた。

 昨日の試合の敗北の責任は、星菜には無い。しかし面と向かってそう言われるのは自分が竹ノ子高校というチームから仲間はずれにされているようで、良い気分ではなかった。

 星菜が少し怒気を込めてそう言うと、鈴姫が慌てて弁解し始めた。普段は涼しげな顔をしている彼の珍しい一面を見て、星菜は「くっ」と思わず腹を抱えた。

 

「ぷっ、くくっ……はははっ! 健太郎ってばなに慌ててるんだよっ。大丈夫だよ、怒ってなんかいない」

「……性質の悪い冗談はやめてくれ。普段冗談を言わないだけに、怖すぎるから」

「ごめん。もうしない。許してください」

「ああ」

 

 鈴姫の至極尤もな言葉を受け、星菜は素直に頭を下げる。

 星菜としては「お前のことは信じている。だからこのぐらいのことでは拒絶したりしないから安心してくれ」という意思表明のつもりで冗談を言ったつもりだったのだが――どうにも、彼にはあまり伝わらなかったようだ

 ならば素直にその言葉のまま直接言えれば良いのだが、どうにも抵抗感が拭えない。つくづく不器用な女だと、星菜は自嘲の笑みを浮かべた。

 

「……でも、そんな不謹慎なことを思っているのは事実だよ。チームは負けたけど、私自身は良いピッチングが出来て嬉しかったって、そう思っているのは確かだ」

「いいんじゃないのか、それで。試合の中で自分が活躍して喜ぶのは当たり前のことだろう? 確かに、その上チームが勝てば言うことないけどさ……昨日のは元々、チームの課題をはっきりさせる為の練習試合なんだ。勝敗は二の次だろ」

「課題か……チームとしては、やっぱり打力不足かな。私個人としては球速不足にスタミナ不足、身長不足に体重不足、そもそも公式戦に出られないとかもう、色々ありすぎて困るぐらいだよ」

「身長体重はそのままでいてほしいのが俺の個人的な我が儘だな。球速は……君の場合は特殊すぎて何とも言えない。案外、球が速くなったしてもその方が逆に打ちやすくなるかもな」

「ありそうで嫌だ。まあ、今更球が速くなるなんていうのも望み薄だけど」

 

 昨日の練習試合によってチームの課題は改めて明確になったと言えるが、星菜自身の場合はとっくの昔から克服に努めては失敗してきた課題である為、今更明らかにしたところであまり効果は無かった。

 球速という課題と向かい続けた結果確立したのが今の投球スタイルなのだ。球速アップは諦め、今後も変化球の強化を行っていた方が建設的だろう。尤も、それも既にほとんど完成されているが故にこれ以上の大きな飛躍は見込めないだろうが。

 

「俺の場合は筋力不足だな。波輪先輩が居るとは言え、このまま中軸を打つなら俺にももっとパワーが欲しい」

「でもそのせいで身体が重くなって、守備範囲が狭くなるほど筋肉を付けたら、お前の魅力が一つ無くなる」

「自分の身体のことは自分が知っているさ。これまでも散々考えてきたことだし、まあなんとかなるだろう。って言うか、なんとかする」

「頼もしいこと言うじゃないか」

 

 泉星菜には伸びしろが無いが、反対に鈴姫健太郎は今が伸び盛りな選手だ。

 星菜は彼ならばこの合宿で何かを掴み、また一皮むけてくれるだろうと確信(・・)している。

 そう、期待ではなく確信だ。彼は決して天才ではないが、自分とは違って確実に前へ前へと突き進んでいく。その内、自分が彼に完膚なきまで叩きのめされる日も遠くないだろう。

 

「……寂しいな」

「寂しい? なんでだ?」

「……自分で考えろ、ばーか」

 

 彼の頼もしさが寂しいと感じるのは、別段今に始まったことではない。

 それでも一向に慣れることは出来ず、そして慣れたいとも思えなかった。

 何度も何度も、彼に甘えたい気持ちばかり抱いていれば、野球選手として完全に終わってしまう。

 それだけは、嫌だったから――。

 

「……海、行きたいな」

「今、居るじゃないか」

「そうじゃなくて、久しぶりに海に泳ぎに行きたいなってこと」

 

 今の感情を誤魔化すように、星菜は海を眺めながら唐突に切り出す。

 海はこうしてぼんやりと眺めているだけでも気持ちが良いが、やはり水に直接肌で浸かっている方が気持ち良いものだ。特に太陽の光が一際強いこの真夏では一層その思いが強かった。

 

「そう言えば中学の終わり頃、君とプールに行ったことがあったな」

「ああ、私がちょっと人間不信になってた頃のこと? あの時は誘ってくれてありがと」

「……あの時は、俺よりずっと泳ぐのが上手い君を見て何とも言えない気分になったよ」

「昔から水泳得意だったしね。健太郎なんか、小学校の頃は水に顔すら着けられなかったじゃん」

「いつの時代だいつの」

「大切な記憶は全部、覚えているから」

「それは忘れてくれ」

「やだ。今のお前がいくらカッコつけてたって、過去は変わらないってことだよ」

「君はもうちょっと、今と未来を生きろよ」

「うん、頑張る」

「頑張れ、俺も頑張る」

 

 星菜が最後に海水浴に行ったのが十年前のこと。

 その頃は五歳児真っ盛りで、星菜はまだ鈴姫とも出会っていなかった。

 そこに思い至った時、星菜は笑みを漏らしながら隣に立つ鈴姫と向き合った。

 

「……そろそろ、合宿場に戻ろうか」

「そうだな。地獄の特訓の始まりだ」

 

 野球部の練習が激化していく今後、そうそう機会など訪れないとは思うがいつか海に行きたいと。

 家族ではなく、ここに居る一番の親友と一緒に――。

 

 



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再会はバッティングセンターの中で

 

 初めて野球をやると言った時、両親は二人とも快く認めてくれなかったことを覚えている。

 

 尤も、今でも両親は自分が野球をすることに対しては常に否定的であり、出来ることならばそんな男だらけの空間から身を退いて、家業を継いで欲しいとまで言われている。

 そんな彼女だが、彼女は今までに一度として彼らの言葉を疎ましく思ったことはない。娘として十分なほどに愛情を注いでもらい、両親が本気で自分の将来のことを考えてくれているのはわかっていたし、高校生になっても野球を続けることがいかに困難なことか、他ならぬ彼女自身が理解していたのだ。

 だがそれでも、彼女は我が道を進むことを諦めようとはしなかった。

 

 シニアリーグに所属していた時、彼女は周りの者から「お前は本当に凄い奴だけど、高校野球に女の子は参加出来ないんだ」と聞かされた。

 ならばと彼女は「だったら男の子になればいいんだ」という極論に至り、高校入学からは性別を偽ることで男子部員として野球部に入部するという強行に出た。彼女が入学した「ときめき青春高校」は生徒の性別を真面目に確認しないほど杜撰な校風であり、その杜撰さを活用して高校野球に参加することを決意したのである。

 しかし当然のことながら、入学以降も問題は続いた。仲間の部員達に性別を偽り続けることも困難であったが、それ以前に彼女の仲間となる野球部員自体が、自分を含めて三人しか居なかったのである。

 そして彼女らが部員の確保に奔走し、ときめき青春高校野球部がようやくチームとして形になった頃には一年が経過しており、彼女は二年生になっていた。

 

 しかし人数は少ないながらも野球部として活動していた日々は間違いなく充実しており、彼女にとってはまるで夢のように楽しかった。

 青葉春人や朱雀南赤や茶来元気等、部の仲間達は誰も彼もが一癖も二癖もある変人であったが、一選手としての実力は申し分なく、お遊びではなく、本気で高め合いながら練習の日々を送ることが出来たのだ。

 

 

 ――そう、あの日までは。

 

 

 全てが狂い始めたのは、今夏の公式戦で起こった一つの事件からだった。

 

 ――恋々高校、女性選手の出場により二回戦進出を取り消し。

 

 早川あおいという一人の野球少女が規定を破り、スポーツ紙の一面を飾る問題となったこと。本来ときめき青春高校とは全く無関係である筈のその事件が、巡り巡って彼女の――小山雅の元へと回ってきたのは必然だったと言えた。

 

「小山雅は早川あおいのような処分を受けることを避ける為、女子であることを隠して男子を装っているのではないか?」

 

 学校の誰かがそのような疑問を持ち始めれば、そこから彼女の正体が知られるのに時間は掛からなかった。

 事件の数日後、程なくして彼女の秘密が学校に、チームメイトの皆にバレてしまったのだ。彼女の性別が本当は男子ではなく、女子であることが。

 ときめき青春高校は管理の甘い校風とは言え、見た目からして女子生徒その物であった彼女に、元々無理のあった秘密を隠し通すことは出来なかった。ほんの少し調査を受ければ厳しい確認などする必要もなく、彼女が女子であることがバレ、当然チームメイトにも知られてしまった。

 

 そうして絶対に知られたくなかった秘密が知れ渡り、彼女は自身の居場所を失ってしまったのである。

 チームメイトの皆は厳つい顔をしているが根は優しい為、もしかしたらこれまで嘘をついていた自分のことも許してくれるかもしれない。そんな思いはあったが、雅には彼らと顔を合わせるのが怖かった。

 そして仲間である彼らをこれまで騙し続けていたという罪の意識から逃げるように、彼女は次の日から学校へ通わなくなった。

 

 夏休みが明ければ、両親のツテで他県の高校に転校する話になっている。彼女はもう、ときめき青春高校には居たくなかったのだ。

 

 ときめき青春高校に居て野球部の仲間の顔を見る度に、彼女は自分も野球がやりたくなってしまう。しかし彼らを騙してしまったが為にその場に居辛くなり、またチームとして本格的に始動した彼らに、自分の為に余計な気を遣わせるのも嫌だった。

 転校という選択は彼女にとって、野球をやめることへの決意表明でもあったのだ。故に彼女は、転校先の学校で野球に関わる気も無かった。

 

 ――そう、頭の中では考えていた。

 

 しかし彼女の心は、未だ変わらず野球人だった。諦めるべきだと思っている一方で、それ以上に野球をやめたくない思いが強かったのである。

 

 そして彼女は、誰よりも野球が上手かった。

 

 打撃も守備も超一流に優れた野球選手。それは行き過ぎた過信ではなく、客観的に自分の能力を分析した上での小山雅という選手だった。

 未だ公式戦に出場したことがないにも拘らず、プロ野球の名スカウトである「影山秀路」から声を掛けられたこともあった。シニア時代もまたチームが弱小であった為に目立つ機会こそ無かったが、対戦してきた投手は全員、例外なく打ち砕いてきた。その中には、天才と名高いあの猪狩守の名もある。

 なまじ野球選手として優秀すぎた為に、雅は野球を諦めることに不完全燃焼だったのだ。

 試合の中で女子選手として戦っていく自信を失ったのならば、まだある程度は潔く野球から身を引くことが出来たのかもしれない。しかし彼女が野球を諦めるには、実力も情熱も有り余り過ぎていた。

 スポーツ雑誌の中で取材を受けている高校球児などよりも上の実力を持っている自分が、このまま公式戦にも出られないまま野球をやめなければならない。

 彼女は多感な時期の真っ只中の、高校生の少女である。元は気の優しい乙女であろうとも、度重なる理不尽を前にして、人格に影響を受けない筈が無かった。

 

 ――故に彼女は、やがて野球に対して、高校球児に対して歪んだ考えを抱くようになった。

 

「ハッ、何が来年の注目選手、山道翔だよ……」

 

 書店の中、立ち読みしていたスポーツ雑誌の内容を嘲笑い、雅はそれをつまらなそうに本棚へと戻す。

 何か興味の沸く話題は無いかと思い手に取った雑誌であったが、その内容は「自分よりも劣る高校球児達」の特集ばかりで、雅の頭へといたずらに苛立ちを募らせるだけだった。

 

「どいつもこいつも、私に滅多打ちにされたくせに……」

 

 ――気に入らない。

 

 自分よりも劣る彼らが、世間から注目されているのも。

 自分よりも劣る彼らが、のうのうと野球を続けているのも。

 

 ――気に入らない。下手くそな彼らが認められ、本当に優秀な選手がしょうもない理由で認められない現実が、実に不愉快で怒りが沸いてくる。

 

 こんな小娘一人抑えられない無能共が、よくプロから注目されるものだ。

 いよいよプロ野球もお仕舞いだなと、雅は鼻で笑った。

 

「紹介されるピッチャー、みんなしてヘボじゃないか……あの雑誌の見る目は節穴だよ。やっぱり、猪狩守君みたいな有名どころを当たるしかないか」

 

 彼らが本当に、プロ注目の選手ならば。

 本当に高校野球の上の上、超高校級の選手ならば。

 誰でもいいから、この不完全燃焼な野球少女から完全に野球を諦めさせるだけの圧倒的なものを見せて欲しいと思う。

 

「いい加減、私に野球を諦めさせてよ……」

 

 今の小山雅の考えていることはただ一つ。

 やっぱり女の子では野球は無理だったと、自分にそう言わせて諦めさせてほしいのだ。

 このまま夏休みが終わってしまえば、自分は野球を続けたいと思いながら新しい学校に入ってしまう。それではまた、同じ過ちの繰り返しだから……。

 

 野球を諦めきれない心からの脱却――今の小山雅は、切実にそれだけを考えていた。

 

「あっ、バッティングセンター」

 

 書店を後にして五分ほどで、雅は緑色のネットが張り巡らされたバッティングセンターを見つけた。

 その時、つまらない雑誌の為に溜まったストレスを発散したかったからか、雅の足は自然とその方向へと向かっていた。

 

 ――それが彼女にとって思わぬ再会の切っ掛けとなろうとは、この時の雅には知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間以上に及ぶ強化合宿が終わり、星菜達竹ノ子高校野球部員は地元地区へと帰っていた。

 合宿内容は選手達の体力を限界まで追い込むハードなもので、それだけに収穫は大きかったのではないかと星菜は思う。

 しかし星菜自身に何か収穫があったのかと問えば、首を捻らざるを得ないのが厳しい現実だ。合宿によって多少基礎体力は上がったかもしれないが、彼女に至っては突然球速が上がることも変化球がさらに曲がるようになることもなかった。

 猛練習をしたと言えど必ずしもそれが報われるとは限らないのはこれまでの経験で嫌というほど思い知らされてきたが、それでも周りがレベルアップをしている中で自分だけが取り残されていくような疎外感は、一度として慣れたくないものだった。

 

(焦っても仕方が無いって……わかっているけど……)

 

 練習がまだ足りないのではないか、自分を追い込むことに対し甘さがあるのではないか。そう考え、より激しい練習を行おうとすれば身体が悲鳴を上げ、監督の茂木からストップが掛かる。

 怪我をしてしまったら元も子もないことはわかっているが、自身の野球選手として虚弱すぎる体質にはほとほとに悩まされるばかりだった。

 

 そんな星菜は今、自宅の中で暇を持て余していた。半袖のTシャツに短パンというラフな格好で自室のベッドに寝転び、ただ何もすることなくぼうっと天井を見つめている。

 昨日は強化合宿から帰ってきたこの日、星菜達竹ノ子高校野球部員は合宿の疲れを癒すべく一日の休暇を言い渡されていた。故に星菜はこうして楽な格好で寝そべっているのだが、昼の十二時を回れば疲れもそれなりに癒え、今は無益に手持ち無沙汰な時間を過ごすだけとなっていた。

 中学で野球をやめてから高校に入学する前までは、料理に裁縫、生け花と野球以外の趣味を見つけようと色々なものに取り組んできたのだが、今の自分にはそれらに掛けていた感情が丸っきり冷めてしまっていることに星菜は気付いた。

 四六時中野球のことしか頭にない姿はまるで幼かった頃の昔の自分のようで、それがなんだか可笑しく思え、星菜は口元から笑みが溢れた。

 

「……少しだけ、あの頃の私に戻っているってことなのかな……」

 

 せっかくの休日で野球のことしか考えていない自分に呆れながら、しかしそれで良いじゃないかと胸を張る己に星菜は気付いていた。

 野球馬鹿ならば野球馬鹿らしく、休日も野球のことに使えばいい。あまり激しい運動は出来ないが、バッティングセンターで三十回ほどバットを振るぐらいならば問題は無いだろう。

 

「よし、行こう」

 

 ベッドの上から跳ねるように起き上がると、星菜は運動用のジャージに着替え、自室から飛び出した。

 そのまま階段を下りて玄関口へと向かうと、屋外に出る前にリビングに居るであろう母親へと声を掛けておいた。

 

「ちょっと外出してくるね」

「行ってらっしゃい。もしかしてデート?」

「……一人でバッティングセンターだよ」

 

 近頃、母は星菜が外出する度に異性との――鈴姫とのデートではないかとほざくから笑えない。

 星菜が彼との関係を修復出来たことについて話した時、彼女は自分のことのように喜んでいた。そんな母としては、彼のことは割と気に入っているらしい。

 だが生憎にも自分と彼は、友人であっても「そういう関係」ではない。何度もそう弁解しているのだが完全に思い込まれているらしく、星菜は一々構うのは無駄だと諦め母の言葉を冷静に対処し、逃げるように屋外へと立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目的地である行きつけのバッティングセンターに着いた時、星菜は奇妙な遭遇をした。

 普段星菜が立つことの多い打席に、初めて見る客が佇んでいたのだ。

 頭の後ろで一束に結ばれた鮮やかな金髪に、星菜とて人のことを言える口ではないがバットを持つには華奢すぎるくびれた体つき。まず最初に映ったのは、バッティングセンターの打席には不釣合いなその姿だった。

 しかしそんな小柄な体格でありながらも、彼女(・・)は向かってくる速球をいとも簡単に遠方のネットへと打ち返していた。

 その打球の鋭さも飛距離も、到底少女(・・)のものとは思えなかった。

 

 ――そこに居たのは、星菜と同じ野球少女だったのである。

 

「神主打法……」

 

 容姿と同等に異質なのは、神主がお祓いをする姿に似たその「神主打法」と呼ばれる打撃フォームだ。それは打撃の基本から完全に外れた、並大抵の技術では習得不可能である非常に難度の高い打撃フォームである。

 その神主打法から、金髪の少女は左右中央、自由自在にヒット性の打球を連発している。それも全てバットの真芯で、狙い通りの方向へボールを弾き返していた。

 その打撃は間違いなく、星菜をしても自分以上のものだと断言出来る精度だった。

 

「結構良いところだね、ここは……球は速くないけどコントロールが良くて。無駄に速いだけのバッティングセンターより、よっぽど良い練習になるや」

 

 アーム式のバッティングマシンが全てのボールを投げ終えると、金髪の少女はこのバッティングセンターの感想を呟きながら貸出品の金属バットを置く。

 そして打席から外れて後ろを振り向いた時、丁度そこに居た星菜と目が合った。

 

「……っ」

 

 その時、星菜の顔を見た金髪の少女が目を見開いた。

 驚きの色を露に、彼女は愕然と佇んだまま固まったように星菜と見つめ合う。

 

(なんだ? この人の顔、どこかで……)

 

 星菜の方もまた目の前に立つ彼女の顔に見入り、その場から動くことが出来なかった。

 整った顔立ちに、パッチリと開いたやや垂れ目の金色の瞳(・・・・)――他の人間には無いその特徴から、星菜の記憶の中で何かが引っかかったのだ。

 

 ――この少女と会ったのは、これが初めてではない。

 

 思い出す。

 昔、そう、随分昔のことだ。

 星菜が昔、この町から遠く離れた地で暮らしていた頃。

 あれはまだ鈴姫とも知り合っていなかった転校前の、小学一年生の頃のことだ。

 彼女は隣の家に住んでいて、一つ歳上ではあったが何かと一緒に居ることが多かった。

 十年も経てば容姿は大分変わっているが、それでも今向かい合っている少女には確かに、かつての面影があった。

 

「あのっ」

「その……」

 

 沈黙を破り、声を掛けたのは同時だった。

 

「君はもしかして……!」

「貴方はまさか……」

 

 声を重ね合わせながら、両者は互いに名を問うた。

 

「泉星菜って言いませんか!?」

「小山雅さんではいらっしゃいませんか?」

 

 そしてその瞬間、二人の疑問はお互いの名を持って解消されたのである。

 

 

 最後に会った時の星菜は、まだ野球を始めたばかりの幼子で。

 最後に会った時の彼女は、まだ野球を始めてすらいなかった。

 泉星菜と小山雅――それはかつて仲の良かった友人同士の、思いがけない再会であった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋々高校の校庭グラウンドの片隅で、早川あおいは一心不乱にボールを投じていた。

 限界までリリースポイントを低くしたアンダースローから右腕を振るい、直球の軌道から曲がりながら落ちていくボールが相棒の小波大也の構えるミットを目掛けて音を立てて突き刺さっていく。

 シンカーボール――早川あおいの代名詞と言って良いその変化球は、傍目から見れば変化量、キレ共に申し分無かった。しかし誰よりも、当の投げた本人であるあおい自身が己の投球に納得していなかった。

 

「こんなんじゃ、駄目……っ!」

 

 かれこれこの投球練習を初めて七十球になる。いずれも全て彼女の決め球であるシンカーであったが、一球足りとて満足の行くボールを投げることは出来なかった。

 

(こんなボールじゃ……あの人には通用しない……!)

 

 あおいの脳裏に過るのは、頭に特撮物の変身ヒーローのようなマスクを被ったふざけた格好をした少年の姿だ。

 先日、「野球マン」と名乗る金髪の少年がこの恋々高校のグラウンドに押し掛け、あおいを指名して勝負を仕掛けてきた。

 そしてあおいは、これまでの人生で一度も味わったことのない完全な敗北を喫することとなった。

 野球の実力以外のことで悩まされてきたことならば幾らでもあるが、野球の実力そのもので決定的な挫折を味わったのはこれが初めてのことである。彼にはあおいの持ち球全てが通用せず、棒球でもない渾身のボールがことごとく打ち込まれていった。

 勝負から一週間以上経った今でも、あおいが目蓋を閉じればあの日のことを鮮明に思い出してしまう。

 

 そして去り際に彼が言い残した言葉が、あおいの胸を締め付けた。

 

『笑わせるね……そんな程度で秋の公式戦に出る気だったのかい? 非力なボクにホームランを打たれる程度の球威で、よく夏はおめおめとマウンドに上がれたもんだよ!』

 

 野球マンの口から放たれた、激しい憤怒の言葉。

 それははっきりと、あおいの存在に対して憎しみを込めた言葉だった。

 彼が何故、あれほどまで自分のことを嫌悪していたのかはわからない。

 しかしあおいの中では、今でも彼の言葉が響き続けていた。

 

『……夢なんか語る前に、君はもっと現実を見るんだね』

 

 ――あの時、その言葉に何も言い返せない自分があおいには悔しかった。

 現実ならば散々見せつけられた。だがそれでも、今まであおいは自分の夢の為にそんな現実と戦い続けてきたのだ。

 

 ――あんたに何がわかるっ!

 

 普段の彼女であれば彼の言葉に対して怒りを抱き、その場で否定の言葉を口にしたところだろう。

 だが、それが出来なかった。

 あおいは彼の憎しみの言葉を受けた時、何か、その姿に「自分自身」を見てしまったのだ。

 

(……あの人、なんだかボクと似ていた……気がする)

 

 その胸に怒りや憎しみを抱き、修羅のように打席に立っていたあの少年。

 とても野球を楽しんでいるようには見えないあの姿は、あおいにとって過去に見覚えのあるものだった。

 

 何故ならばあおい自身、十年近く昔のことではあるが純粋とは掛け離れた邪な思いで野球をしていたことがあったのだ。

 

 ――父への復讐というスポーツ選手にあるまじき理由を持って、野球をしていたことが。

 

(ボクとは違うと思うけど……あの人は何だか、他人の気がしないよ……)

 

 近頃恋々高校内では、各野球部のエースを相手に道場破りのように勝負を挑んでいるあの少年の姿が目撃されているとの噂が流れている。

 その打率は驚異の十割で、全ての投手との勝負に完全勝利を収めているとのことだ。彼に打ち砕かれた投手の中には、パワフル高校エース山道翔などプロ注目の投手の名も幾つかあった。

 あおいもまた、彼に為す術もなく敗北した身であるからこそわかる。

 彼は、あの少年は天才だと。

 そして、同時に思った。

 

「次は負けない……絶対に」

 

 壁は大きければ大きいほど、あおいの挑戦心は強まっていく。

 この恋々高校の野球部の中で、彼女は一人の野球人として「強く」成長していた。

 敗北はそこで終わりではない。敗北を糧に、例え迷いながらでも突き進んでいくことが出来る。

 それが、早川あおいという野球少女であった。

 

 そして投球練習を再開し、彼女は七十一球目のシンカーを投じた――。

 

 

 

 







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初めて出会った日のこと

 

 

 ――四歳の頃の話である。

 

 星菜は走り回ったり、高いところを上ることが好きだった。日頃から高いところを探し回ってはよじ上り、その度に「危ないからやめなさい!」と両親から叱られていたものだ。

 当時の星菜は年相応に行動力があり、年相応に活発な子供だったのだ。

 そしてその日もまた、幼い星菜は塀の頂を目指していた。

 

『とうっ!』

 

 裏庭に飛び出し、自分の家の塀をよじ上ろうとする。本来ならば即刻家の者に注意されるのだが、生憎にも父は仕事に出掛けており、母は来客を応対すべく玄関に居る為、この時星菜の周りは親の目が届かない状態にあった。幼い星菜はこれ幸いとばかりに、この家に引っ越してから前々から目標に定めていたその塀の制覇を行おうとした。

 塀の大きさは大人ならば普通に立っているだけでも向こう側が見えてしまうような低さだったが、しかしそれでも四歳児の星菜にとっては身長の倍以上もある巨大な壁だった。どれほどジャンプし短い手足をばたつかせても、星菜の指先は塀の半分にも届かないだろう。

 

 しかし幼い星菜は諦めが悪く、また妙に賢かった。

 

 星菜は自力での登頂は無理だと判断するなり一旦家の中へと戻り、家中から積み木や洗面器など足場になる物を手当たり次第かき集め、塀の前に次々と重ね置きしていった。そうして簡易的な階段を作ることで、星菜は塀の制覇を目指したのである。

 

『よし! いくぞー!』

 

 早速、階段を上っていく。滅茶苦茶な造形の階段は見た目通り星菜が一歩踏み出す度に足元がぐらつく脆さだったが、星菜の体重が軽かった為か、意外にも慎重に上ってさえいれば崩れ落ちることはなかった。

 

『そ~と……そ~と……おりゃ!』

 

 一段、二段と自作の階段を上り、最後まで上りきったところで星菜は塀の頂上を目掛けて一気に跳躍した。

 その瞬間、とうとう強度の限界を超えた階段が音を立ててバタバタと崩れ落ちていったが、その頃には既に星菜の足は塀の上へと移っていた。塀の制覇を完了したのである。

 

『やった~!!』

 

 一歩間違えれば高所から転落し大怪我を負うことになっていたのだが、幼い星菜はそんなことまでは気が回らず、この時は目標としていた塀の制覇を成し遂げたことがひたすら嬉しかった。

 得意げな表情を浮かべ、ガッツポーズを取る星菜。そして塀の上に立って周りを見渡した瞬間、星菜は自分より高かった物が低く見える光景が嬉しくて堪らず、夢中になってその一メートル以上の世界を眺めていた。

 

 ――そんな時である。

 

 ポンッと、何かが跳ねる音がした。

 

『ん?』

 

 その音が気になり、星菜は音が聴こえた方向へと顔を向ける。

 そこは丁度、星菜の上った塀の向こう側――隣の家の裏庭だった。

 

 ――着物を着た一人の少女が、白色のボールを突いていた。

 

 少女の肌はそのボール以上に白く、まるで雪のようだった。そして特に目を引いたのが、星菜の黒髪とは違う金色の髪だ。

 頭の後ろでポニーテールに結ばれた長い髪は、真横を通り抜けていく風に従ってゆっくりと靡いている。小さな身に纏う着物はこの上なくその容貌に似合っており、星菜には彼女の周りだけ違う世界のように見えた。自分と同じ世界にいるとは思えないほどに、彼女の姿が幻想的だったのだ。

 その時こそ塀の上から見下ろしている形だが、身長は星菜よりも少し高い程度に見える。おそらく年齢も同じぐらいなのだろうと星菜は思った。

 少女は星菜の視線に気付かず、尚もボールを突き続けている。

 しかし星菜の目には彼女が楽しんでそれを行っているようには見えず、ただ暇な時間を潰す為に退屈そうに行っているだけに見えた。

 

『ねえ!』

 

 星菜は塀の上に腰を下ろすと、落ち着き無く足をばたつかせながら声を掛ける。

 すると少女はボールを突く手を止め、自分を呼び掛けてきた声の主を探してキョロキョロと周囲を見回す。しかしその存在が塀の上に居るとは気が付かなかったのか、少女は周囲に人の姿が見えなかったことに不思議そうに首を傾げた。

 その姿に、星菜はにししと笑みを溢す。自分が今彼女の目線よりも高いところに居るという事実に、大きな優越感を感じたのだ。

 

『え……なにこの声? やだっ、おばけ……!?』

 

 周囲に誰も居ない筈なのに声だけが聴こえてくるという恐怖体験に、少女はその場に縮こまって怯えの声を漏らす。

 怖がらせるつもりは無かった星菜はその様子を可哀想に思い、彼女に対してもう一度大声で呼び掛けることにした。

 

『おばけじゃないよ! こっちこっち! うえをみてよ!』

『う、上……? あっ、なんかいる!』

『なんかじゃないよ! ほしなだよっ!』

 

 声に従い、恐る恐る上の方向を見上げる金髪の少女。

 そこでようやく星菜の存在に気が付いたのか、少女は安堵と驚きの表情を同時に浮かべるという器用な反応で出迎えてくれた。

 

『あ、あぶないよっ! そんなところにいたら落ちちゃう!』

『へーきへーき! きもちいいんだよー!』

 

 自分の身長よりも高い場所である塀の上に座っていた星菜の姿に、少女は至って常識的な言葉を放つ。

 しかし星菜は自分の行動を省みることなく、笑って言い返した。

 少女は尚も心配そうに見上げてくるが、星菜はそんな彼女の目を気にも掛けずその場に居座った。

 そして問い掛ける。

 

『ここって、きみのうち?』

『そ、そうだけど……』

『じゃあ、おとなりさんなんだ!』

『えっ、きみ、となりの家の子なの?』

『うん! わたし、ほしなっていうの! よろしくねっ!』

『……へんな子』

『へ、へんじゃないよ! ほしなだよ!』

 

 当時、家の事情により引っ越したばかりである星菜にとって、その町にはまだ年齢の近い友達は一人も居なかった。

 だからだろうか、少女の姿を見た瞬間から星菜は「この子と仲良くなりたい」と思ったのである。当時の積極性が今の自分にもあればとはよく思うことだ。 

 

『ねえ、きみはなんてなまえなの?』

『え?』

 

 自己紹介の後で、星菜は金髪の少女に名を尋ねた。

 すると少女は両手で白いボールを抱き抱えながら、二拍ほどの間を置いて名乗った。

 

『……おやま みやび』

 

 

 小山 雅(おやま みやび)――彼女は、星菜にとって古い友人だった。

 星菜が四歳の頃、星菜と彼女は互の家が隣同士で年齢が近かったこともあり、初めて出会ったあの日を境に一緒に遊ぶことが多かった。

 彼女は良くも悪くも活発だった当時の自分とは対照的で、穏やかでおしとやかな性格だったことを覚えている。最後に会ったのが随分前のこととは言え、星菜には彼女の正体に気付くことが出来たのは容姿もあるが、そんな彼女が持つ当時と変わらない柔和な雰囲気を今しがた対面した少女に感じたというのもあるのかもしれない。

 

 ただ今の彼女が野球をやっていたことは、星菜にとって全くもって予想外であった。

 

「まさか、貴方が野球をやっていたなんて……」

「驚いた? 君が引っ越すって言って別れた時からかな。私も君みたいに、野球をしたいって思ったんだ」

 

 星菜の知る小山雅という少女は、少女らしい少女であるが故に野球とは縁が遠い人間だったのだ。

 まさかそんな人間とバッティングセンターで再会することになり、あまつさえあれほど見事な打撃を見せられることになろうとは誰にも予測出来まい。

 

「これでも、結構上手いんだよ? つい最近までは野球部で三番を打ってたし、打率だってチームで一番だったんだから」

 

 自慢げな顔をして胸を張る雅に向かって、星菜には掛ける言葉が上手く見つからず、無礼にもしばらく茫然としてしまった。

 そんな星菜に対して、雅が苦笑を浮かべて言う。

 

「あはは、信じられないって顔してるね」

「いや、そういうわけじゃないんです。ただ、貴方が野球をしていただけでも驚きなのに、高校で野球部に入っていたなんて……」

 

 自分や早川あおいのような境遇に、昔の友人である彼女まで居たと聞かされた星菜の心中は何とも言えない複雑なものだった。

 彼女と趣味を共有出来ることへの喜びは大きいが、それ以上にその境遇を心配する気持ちがあったのだ。

 喜びが三割、心配が七割というのが雅に対する感情である。尤も早川あおいと出会う前の自分ならばそれとは違う心境になったのだろうが、鈴姫とも和解を果たし、野球を続けることを選んだ今の星菜には精神的な余裕があった。つまり、他人のことを心配するだけの余裕があるのだ。自分と同じ境遇に居る他の人間に対して、星菜には六道聖と対峙した時よりも真摯に向き合うことが出来た。

 その相手が、かつて仲の良かった友人ともなれば尚のことだ。

 

「大変ですよね、私達が野球を続けるのは」

「ああ、高校野球の規定のこと?」

「え? ええ、それもありますが……」

 

 無論、これは哀れみとは違う感情だ。自分もまたそうであったように、野球少女にとって同情や哀れみといった感情は時と場合によっては真っ向から否定されるよりも心に来るものだ。

 だが、自分ならばそんな女性選手にしかわからない複雑な思いを、彼女と共有することが出来る。

 早川あおいが自分にしてくれたように、星菜は雅の為に何か相談に乗れるかもしれないと思ったのだ。

 しかしその星菜なりの親切心は、あっけらかんとした雅の言葉を前に要らぬお節介と化した。

 

「うん、そうだね。だから私も、今年の七月で野球部をやめちゃった」

 

 その言葉を聞いた瞬間、星菜には彼女の目を直視することが出来なかった。

 

「新聞にも載ったことだけど、今年の大会で女子選手が試合に出たせいで出場停止になったチームがあってさ。私の居た高校とは違うところだけど……その話を聞いて、私もなんだか必死になって野球をやってるのが馬鹿らしくなっちゃって」

「……そうですか」

 

 彼女は――小山雅は既に、野球少女ではなくなっていたのだ。

 星菜には、彼女の下したその決断に対して責め立てる気は無かった。

 今夏の大会で早川あおいの為に恋々高校が起こした問題はメディアを通じて全国中にもある程度広まっており、それが切っ掛けで他の野球少女達がユニフォームを脱ぐという事象も考えられる限りは別段おかしな話ではなかった。

 野球などやめた方が良いとわかっていてもやめられない――それこそつい最近までの星菜のような人間にとって、かの出来事は野球少女が野球を諦めるのには十分な理由だと思えたからだ。

 

(他人事じゃない……私も一人だったら、そうなっていた可能性は高いから……)

 

 だから客観的に見て、小山雅の決断は正しい。

 女子選手という圧倒的不利な立場にあって、今も尚熱心に野球を続けていられるあおいのような人間の方が異常なのだ。星菜としては野球をやめたと言った雅に対して、寧ろ安心すら抱いたぐらいだ。

 ただ、彼女が自分の知らないところで野球をしていて、知らない間に野球をやめていたということには一抹の寂しさを覚えた。

 たらればの話になるが、星菜はこの時、世が世なら彼女と一緒に野球が出来たかもしれないという「もしも」を考えてしまったのだ。

 

「それで、星ちゃんはどうなの?」

「え?」

 

 そうして感傷に浸っていると、今度は雅の方から問い掛けられた。

 興味津々という具合の彼女の眼差しを受けて、星菜は問いの内容を今の自分の近況についてのことだろうと察する。

 長年別れていたとは言え、元は誰よりも仲の良かった同性の友人だ。話している内に、星菜はかつて以心伝心のように通じ合っていた彼女との付き合い方を思い出していった。

 

「星ちゃんだってこんなところに来たってことは、今でも野球を続けてるってことだよね?」

「……一応、続けています」

「そっか。……ふふ、星ちゃん、雰囲気が昔と違うなって思ったけど、そういうところは今も同じなんだね」

「そういうところ?」

「野球が好きだってことさ」

「ああ……」

 

 雅の微笑に、星菜は苦笑を返す。

 あの時とは何もかもが変わってしまった自分だが、野球への思いだけは何も変わっていない。そう自負していた星菜であったが、他人からもそう言われるのは照れくさいものだった。

 

「……そこだけは変わらなかったと言うか、変えられなかったと言うか」

「含みがある言い方だね。なになに? やっぱり深い話があったりするの?」

「深い……のだろうか? ……よくわかりません」

「あはは、何それ。はっきりしないなぁ」

 

 星菜の記憶にある小山雅という少女は、女の子を絵に書いたような可愛らしい乙女だった。

 一方で小山雅が持つ泉星菜のイメージは、男の子のように活発で好奇心旺盛な女の子と言ったところだろうか。

 それが今ではこの通り、あの頃の面影は影も形も無い。

 十年近く経てば人は変わるのが自然だが、こうして改めて考えてみると星菜はしみじみとそれを実感した。

 雅もまた似たようなことを考えているのか、会話中にも今の星菜の姿をまじまじと見つめていた。

 

「星ちゃんは、これから時間空いてる?」

「今日は練習が休みなので。恥ずかしながら、暇を持て余していました」

「じゃあ、話せない? 久しぶりに星ちゃんと会って、嬉しくなっちゃって」

「もちろん、構いません」

 

 昔別れたこの友人との再会に、星菜としても積もる話は山ほどあった。

 自分が聞かせたい話はもちろん、彼女から聞いてみたい話も。

 外面上こそ冷静を装ってはいるが、今の星菜の脳内は彼女との再会という事態に喜びのあまり舞い上がっていた。故にこのバッティングセンターとは別の落ち着ける場所で話したいという彼女の提案に、星菜は快く応じることにした。

 

「あそこの喫茶店でいい? スイーツでも食べながらさ」

「はい」

 

 雅と共にバッティングセンターを後にした星菜は、彼女に連れられて近くにある喫茶店へと足を運んでいった。

 その道中も、二人は会話を弾ませる。

 

「しつこいけど、星ちゃん本当に雰囲気変わったよね~。見た目的には昔のまま順当に成長した感じなんだけど……美人になっててびっくりしたよ」

「あれから十年近く経っているんですから、人は変わりますよ。そう言う貴方だって、昔とは少し変わっています。綺麗なのは相変わらずですが」

「はは、それもそうだね。あとお世辞ありがとう。……でも私に敬語は使わなくていいからね? 星ちゃんは、昔みたいに雅ちゃんって呼んでよ」

「……そう言ってくれると、助かります」

 

 彼女に対して敬語は必要無いと頭ではわかっているのだが、長年染み付いてしまった癖は意識しなければ抜けないものだ。竹ノ子高校は異常に緩いが、上下関係の厳しい白鳥中学の野球部で染み付いた「上級生への言葉遣い」というものは、友人であったとしても直接許可を貰えなければ崩すのは難しかった。

 しかし昔と同じように接して良いと言われ、星菜は気が楽になった。

 頬を弛緩させながら、星菜は心の底から思った言葉を言い放つ。

 

「私もまた会えて嬉しいよ、雅ちゃん」

 

 今はただ、彼女と再会出来たことがとにかく嬉しかった。

 

 



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エース破り

 

 手近な喫茶店に場所を移した二人は、一つ落ち着いたところで会話を再開した。

 最初に話したのは、雅から訊ねられた星菜の近況についての話だった。根掘り葉掘りというほどではないが、雅にこれまでの近況について聞かれた星菜は場を無駄に重苦しくしない範囲でそれらのことを話すことにした。

 

 しかし一通り話し終えた後で雅の顔色を見て、星菜は持ち前の陰気さがここでも発揮されてしまったのかと反省する。

 

「……君も、随分苦労しているんだね」

 

 同情的な視線を覗かせながら、雅が言う。その金色の瞳が涙で潤っているように見えるのは、決して気のせいではないだろう。

 しかしそれもすぐに柔和な表情に戻り、彼女は朗らかな笑みを浮かべた。

 

「でも、最近は良い時間を過ごしているみたいで安心したよ。って言うか星ちゃん、思いっきり青春しているじゃん!」

「青春?」

「ほら、その鈴姫君とのこと」

「青春……青春ですか。そうなの?」

「そうなの?って……話を聞くに、私には君達の関係が恋愛ドラマに出てくるようなカップルにしか思えないんだけど」

「………………」

「えっ、もしかして自覚してないの?」

「いや、自覚も何も……」

 

 雅は星菜の話に登場した鈴姫健太郎という男の存在に偉く興味津々の様子だったが、自分と彼は彼女の想像するような関係ではないと言って否定する。

 それは特に照れ隠しだとか、そう言った意味ではない。

 星菜としては、ただありのままの事実を話しただけだった。

 

「私達の関係は、あくまでも親友なんだと思います。アイツも、今はそれでいいって言ってくれたし……」

「男女の友情は何とやらとも言うけどね。告白までされて、君だって満更じゃないんでしょ?」

「……しつこい」

「あはは、ごめん。だけど君がそこまで特別に想っている男の子か……どんな子か興味があるね」

 

 鈴姫の気持ちは聞いた。彼の方は雅の想像する関係になることを望んでいることも、直に告白された。

 だが、高校を卒業するまでは待ってくれるとも言ってくれたのだ。それまでの間は、星菜は女で居るよりも野球人として在るつもりだった。

 そう雅に言うと、彼女は「そういうところ、昔と同じだね」と相変わらずの野球馬鹿ぶりに安堵の笑みを零した。

 

「私も会ってみたいな。その鈴姫って子と」

「……機会があればどうぞご自由に」

「やきもちは焼かないでね?」

「焼き餅? 餅のシーズンは随分先でしょ」

「なんて古いすっとぼけ……ああ、これは鈴姫君、苦労しそうだね。まあでも、君はそこのところ相変わらずで安心した」

 

 注文したコーヒーを飲みながら、星菜は雅との旧交をのんびりと温める。

 お互いに愚痴をこぼし合ったり、最近はこれが楽しかっただとか誰が何をしただとか、どこにでも広がっているような他愛の無い友人同士の会話風景であった。

 

「そう言えば、雅ちゃんはプロ野球は観てるの?」

「見てるよ、私はホークスを応援してるかな。君は?」

「ブルーウェーブ」

「えっ? バファローズじゃなくて?」

「私の中ではいつだってブルーウェーブだよ。まあ吸収合併された後は、バファローズに居る元ブルーウェーブの選手だった人を応援してるけど」

「変わった観方してるね、君」

「人それぞれの観方で観れるからプロ野球は面白いんじゃないか。でも、雅ちゃんまでパのファンだったなんて」

「昔は本当酷い扱いだったよねパ・リーグは。あっ、そうそう、そう言えばなんか最近ニュースで新しいリーグを作るとか言ってたね。数年後の話になるんだろうけど」

「レジェンド・リーグだっけ?」

「レボリューション・リーグだよ……」

 

 気付けば星菜の雅に対する言葉遣いは昔と同じ砕けたものに戻っており、雅もまたそれを指摘することなくごく自然のままに受け入れていた。

 星菜にとって思いがけない再会を果たしたこの休日は、野球をしていないにも拘らず心から有意義だと思える時間だった。

 長時間喫茶店に居座り続けることは迷惑なのではないかと思った星菜だが、店内は空いており店員も彼女らを見て注意することが無かった為、二人は思うままに談笑を続けた。

 

 そして話し込むこと数時間後、ようやく日が暮れたことに気付いた星菜と雅はお互いの連絡先を交換し合うと、普通の女子高生のように手を振りながらその場を別れた。

 いつかまた会う日のことを、その胸で楽しみにしながら――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 束の間の休日によって体力を全快させると、竹ノ子高校野球部は翌日から早速練習を再開した。

 彼らが次に目指すことになる十月開催の秋季大会まではまだ期間に余裕があるとも言えるが、逆に無いとも言える。二ヶ月という猶予は勿論それまでの間を無益に過ごせば全く意味を為さないものとなるだろうが、肉体的に育ち盛りの男子高校生達が突き詰めて鍛え上げれば夏季から掛けて大幅なレベルアップを果たすには十分な期間でもあるのだ。練習時間など、要は使い方次第なのである。

 しかし男子部員達とは違い、肉体の成長が止まり技術的にもほぼ完成されてしまっている星菜にとって、この二ヶ月間で全ての能力を大幅に向上させることは難しいだろう。星菜がそのことについて監督の茂木に相談したところ彼も概ね同意見だったようで、それならば星菜の最大の課題である体力作りにと焦点を当てた練習メニューが組まれることとなった。

 

 未だ女子選手大会出場を求める署名運動の効果が現れていないにも拘らず、すっかり秋季大会に出場する気になっている自分自身に苦笑しながら、星菜は練習着に着替えるなり軽い足取りで校庭のグラウンドへと向かっていく。

 野球部の練習スペースであるそこには星菜よりも一足先に何人かの部員が集まっており、練習開始時刻の前から何やら話し込んでいる様子だった。

 

「エース破り? なんだそりゃ」

 

 集まっているのは波輪、ほむら、矢部、六道の四人だった。

 星菜が挨拶がてら後ろから彼らの元へと近づいていくと、疑問の色が篭った波輪の声が聴こえる。

 質問を投げ掛けている様子の波輪に対して、彼にしては珍しく早めにグラウンドに出ていた矢部明雄が最初に応じた。

 

「波輪君知らないんでやんすか? 最近有名な噂でやんすよ」

「いや、今初めて聞いたぞ。六道は知ってるか?」

「俺もさっき矢部から聞いたばかりだ。どうやら最近、この地区内の高校のエースピッチャーを相手に、手当たり次第に勝負を吹っ掛けている野球少年が居るらしい」

「ふーん。あれか、倒したら看板を持っていく道場破りみたいな」

「現実にもそういう変な人が居るもんッスね」

「そこはかとなく香ばしい臭いがするでやんす!」

 

 エース破り――聞き覚えの無い単語が聞こえたことで星菜は興味を抱き、彼らの話の輪へと控えめに介入する。

 

「……皆さん、何の話をしているのですか?」

 

 幼い頃ならばいざ知らず、コミュニケーション能力に自信の無い星菜はこれが野球に関する話題でなければ進んで話に加わろうとはしなかっただろうが、その単語の響きからして何となく野球に関する話題だとイメージが浮かんだのである。

 波輪の背中から出てくる形となった星菜の姿にようやく気付いた彼らは揃って挨拶を行うと、最も喋りたがりな矢部が件の話題について説明した。

 

「最近、野球部の間に流れている噂でやんす」

「噂、ですか?」

 

 いわく、最近――丁度星菜達竹ノ子高校野球部が合宿に繰り出した辺りから、この地区内で妙な野球少年が出没しているとのこと。

 いわく、その野球少年は地区内の高校の野球部の前に神出鬼没に現れては、各チームのエース投手に勝負を挑んでいるとのこと。

 いわく、少年の服装は至って普通のジャージだが、頭部には日曜朝のテレビで放送されているような戦隊ヒーローのようなヘルメットを常時被っている為、素顔は誰も知らないのだとのこと。

 先に説明を受けた波輪は「エース破り」という単語から格闘家の道場破りのようなものを連想していたようだが、星菜もまた大体同じようなものを連想した。

 そして、矢部による説明を一通り聞いた後で星菜はばっさりと言い切る。

 

「変態ですね、その人」

 

 その野球少年は、間違いなく変態だと。

 正体を隠し、各高校のエースに手当たり次第挑戦していく野球少年――まあ、これ自体はそう聞かない話ではない。野球漫画では。

 しかし星菜はそう言った行動はフィクションにのみ許されることだと認識しており、彼女の中ではそのようなことを現実で行ってしまうような人間などは現実と空想の区別もついていない実に愚かな人間――変態以外の何者でもなかった。

 

「結構、容赦なく言うね星菜ちゃん」

「最近地味に遠慮が無くなってる気がするでやんす。まあ、オイラは大歓迎でやんすけど!」

 

 蔑んだ感情が珍しく顔に出てしまったようだが、そんな自分を見て不快な思いをしていない彼らの様子に星菜は安堵する。被っていた猫も少しずつ外していけば、こうして彼らに受け入れてもらえるのだろうか……そう思い、対人関係への不安が以前よりも和らいでいる自分にちっぽけながらも確かな成長を実感した。

 そんな星菜の胸中はさておき、会話に入っていた六道明が噂の「エース破り」について話を戻す。

 

「だが、噂によれば実力は確かなようだ。驚くことに、その打率は十割……どうやらそのエース破りとやらは、対戦した全員に完勝しているらしい」

 

 くだらない話を聞いてしまったと思っていた星菜の耳に、再び興味を引く言葉が響いた瞬間だった。

 トンチキな格好で各校のエースに勝負をふっかけ、全て勝利する――実にフィクションめいた話である。しかしそれがもしも本当ならば、噂の「エース破り」が只者でないのは間違いないだろう。

 少なくとも、野球漫画の登場人物に憧れて馬鹿をやっているだけの素人ではないようだと、星菜は再びその存在に興味を示した。

 ――しかし。

 

「単に、相手のエースが大した投手ではなかったのでは?」

「俺も最初はそう思って聞き流していたんだけどな。そいつに打たれたエースピッチャーの名前には、あの山道翔と――早川あおいも挙がっていた」

「ッ!」

 

 ――六道の口から「エース破り」によって敗れたエース投手のリストが挙げられた瞬間、星菜の興味は興味とは別の感情へと切り替わった。

 

 それは、近頃良いことが続いていた星菜の中では久しぶりに抱いた不快感であった。

 

「……六道先輩は、真面目な方だと思っていたのに」

「おい泉、そんな顔をするな。俺は冗談で言ってるわけじゃないぞ」

「やーいやーい嫌われてやんのー」

「ざまあみやがれでやんす」

「……もういい」

 

 「エース破り」という人物の噂を最初に流した人物への軽蔑心と、そのようなくだらない噂を信じている野球部の仲間達への失望、憤怒である。

 

(エース破り……? そんなふざけた奴に、あおいさんが打たれるわけない……!)

 

 パワフル高校の山道翔を打ったのが本当ならば、大いに賞賛するところだ。

 しかし、早川あおいは違う。

 星菜にとって早川あおいという人物は、ただの優秀な投手という枠に当てはまらない感情を抱いている「特別」な人間なのだ。そんな彼女がどこの馬の骨かもわからない人間に打たれたという根拠の無い噂を耳にして、面白い筈が無かった。

 

 ――あの人に限って、そんな変態に負けるわけがない。

 

 それは星菜の意地だった。例えその事実の裏付けがあろうとも、星菜には意地でも認めることが出来なかったのだ。

 そんな星菜を置いて、波輪達は話し合っていた。

 

「でも、もしそいつがウチのところにも来たらどうしようか?」

「わざわざ勝負を受けてやる義理は無いだろう。練習時間は有限、俺達は暇じゃないんだ」

「でも、本当にそのエース破りっていうのが良いバッターなら、良い経験になるんじゃないッスか?」

「絶対、勝負するべきでやんすよ! その方が面白いでやんす!」

 

 どうやら噂の人物、「エース破り」がこの竹ノ子高校に現れた場合の対処法を考えている様子だった。

 しかし現在の竹ノ子高校のエース投手が勝負を受けたくとも受けることが出来る状態にないことは、この学校に居る誰もが周知の事実だった。

 未だ波輪の右肩は、ボールを投げられる状態にないのだ。

 

「まあ、心配してもウチの野球部には来ないだろう。勝負を受けるエースがこのザマではな」

「ハハッ、ぐうの音も出ねぇよ……」

「まあ、過ぎたことをネチネチ言ってもしょうがないッス。波輪君は焦らず、じっくり肩を治すッスよ。どうせ秋には間に合わないんスから、来年までに万全にしておくッス」

「おう、来年なら俺は完全体になってるぜ」

 

 波輪の右肩の状態は学校外でも知られていることであり、彼のことで時々校内に出入りしてくるテレビ局の取材陣によって、今や地区内で知らない者はほとんど居ないだろう。

 それは恐らく、噂の「エース破り」もまた聞き及んでいる筈だ。故に可能性としてみれば、エースが現状不在である竹ノ子高校に件の人物が押しかけてくることはほぼ有り得なかった。

 しかし、それでも「エース破り」がこの学校にも来ることがあるのなら――星菜の心は決まっていた。

 

「……もしその人が来たら、私が波輪先輩に代わって投げます」

 

 静かに闘志を燃やしながら、星菜が彼らに宣言する。

 常の彼女らしからぬ気迫を受けてか彼らの表情は慄くように強張っていたが、この時の星菜がそんな彼らの様子に気付くことはなかった。

 「エース破り」にあの早川あおいが負けたという噂を、星菜は今のところ欠片すらも信じていない。

 しかし、真偽を確かめたい気持ちはあった。

 あおい本人に直接訊ねれば事足りるが、星菜はあえてそれをしない。

 この竹ノ子高校に現れた件の人物の相手を自分が行い、完膚なきまでに叩きのめす――そうすることで、早川あおいが負けたという聞くに堪えない噂話を偽りだと証明したかったのである。

 尤も、そもそも「エース破り」という人物が最初に噂を流した誰かによるくだらない妄想だったのならばそれで良い。よくある作り話だったと笑い飛ばし、数日後には頭の端から綺麗さっぱりと忘れることが出来るからだ。

 

 

 ――しかし、この時の星菜には知る由も無かった。

 

 早川あおいを破った「エース破り」の存在が、全て嘘偽りの無い事実であったこと。

 そしてその「エース破り」の正体が、昨日再会した親友の野球少女だったなどとは――。

 

 



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青い春と野球少女

 

 それから数日間、星菜達竹ノ子高校野球部は概ねスケジュールに従った練習の日々を送った。

 合宿以前よりも練習内容は厳しくなっていたが、日々の練習が選手の体力の上昇に合わせて増えていくのは至って当たり前のことだ。故に星菜にとって、その程度のことは大した変化と呼べるほどでもなかった。

 

 そして今日に至るまでの間、先日噂に聞いた「エース破り」がこの竹ノ子高校に現れることもなかった。

 

 竹ノ子高校だけでなく、近頃は彼が他所の高校に現れたという話すら聞かなくなり、件の人物もそう遠くない内に人々の間から忘れ去られていくのだろうと星菜は察した。

 人の口で語られた噂など、所詮はその程度の扱いだということだろう。

 エース破りなど、やはりどことも知れない誰かが流したくだらない妄想話に過ぎなかったのだと、星菜は今一度改めて理解する。

 しかし不思議にも、星菜はそのことに対して安堵と同時に落胆の感情を抱いていた。

 星菜自身、初めて気付いたことである。実在していたのならば、星菜はその「エース破り」との対決を楽しみにしていたのだ。

 星菜もまた一人の野球人として、腕の良い野球選手と勝負出来る機会をそれなりに期待していたのである。

 早川あおいの名誉を考えれば「エース破り」は実在しない方が良いのだが、自分が勝負出来なかったことに対して星菜が落胆していたこともまた事実だった。

 

 

 

 

 

 

 さて、八月も残り僅か。県代表として夏の甲子園へと駒を進めた海東学院高校は順調に勝ち進んでいるようだが、悲しいことに予選で脱落している竹ノ子高校にとっては大して関係の無い話題だった。

 この日に当たって夏休みという長期休みの終わりが近づいてきたことで、竹ノ子高校野球部員達は矢部明雄を筆頭に何人かは溜まりに溜まった宿題の消化に忙しない様子である。

 野球の練習に勉強と、両方こなさなければならないのが部活少年の辛いところだと、焦る彼らの姿を見て星菜は他人事のように思ったものだ。

 

 その日の練習が終わり、疲労した身体で帰宅した自宅の中。

 冷房が程よく通った自室にて、星菜は現在絨毯の上に寝そべりながら野球小説を読みふけっていた。

 上機嫌に鼻歌まで歌い、星菜はこの部屋に居るもう一人の人物へと当てつけるようにその姿を見せつけていた。

 星菜が自宅、それも自らの部屋に他の誰かを招き入れることは多くない。

 数年前までは弟の海斗が遊びに来ることが多かったが、その彼も最近は姉の部屋に入るのが気恥ずかしい年頃なのだろう。元々自宅に招くほど仲の良い友人が少ない今の星菜は、自室では自分一人で過ごすことが常だった。

 そんな星菜の自室の中に珍しく居座っている部外者――鈴姫健太郎が迷惑そうに眉をしかめながら、リラックスした体勢の星菜に向かって低く声を掛ける。

 

「あのさ」

「何だよ?」

「そこでそうされると気が散るんだけど」

「それはお前の集中力が足りないだけだ」

「いや、そういう問題じゃ……はぁ……」

 

 うつ伏せに寝転がりながら快適そうに野球小説を読んでいる星菜に対して、鈴姫と言えばちゃぶ台ほどの大きさのテーブルの前に窮屈そうに座りながら、ほどほどに分厚い問題集を広げて睨み合っていた。

 星菜は自分の時間を満喫しているが、鈴姫は現在夏休みの宿題に取り組んでいる真っ最中だったのだ。

 

「おい、なんでそこで溜め息をつくんだよ?」

「……こっちはコレの消化で四苦八苦してるって言うのに、君は気楽なもんだな」

「私はもう合宿前に終わらせたからね。今更やることがないんだ」

「おいおい、早すぎだろ」

 

 目の前で学生の本分に邁進している鈴姫を見て星菜が欠片も焦りを抱いていないのは、星菜にとってそれが既に通った道であるが故。夏休みの終わりが近づいている今、彼がこうして夏休みの宿題に取り掛かろうとするよりも数日前に、星菜は既に自らに課せられた分の宿題を終わらせていたのだ。

 本格的に野球の練習に取り組み始めたことによって、星菜の中では勉強をする時間は以前よりも格段に少なくなっているが、だからと言って勉学の面で堕落したというわけではない。寧ろ気持ち良く野球をする為にと、煩わしい宿題などは早々に片を付けるように徹底していた。

 勝ち誇った笑み――所謂ドヤ顔を浮かべながら、星菜は身体を横に倒して鈴姫の顔を見る。

 

「まあ、だからこうしてお前の勉強を見てやれるわけで」

「だったら本ばっかり読んでないで、俺の宿題を見てくれないか?」

「はいはい、後で見てやるよ」

 

 現時刻は夜中の七時半頃。野球部の練習が終わり、高校から帰宅したのが丁度一時間前だ。

 それから星菜が入浴を済ませて髪を乾かしたと同じぐらいの時刻に、鈴姫がこうして星菜の自宅を訪れたという次第である。

 この状況に至ったのは、鈴姫から部活動の帰り際に「宿題を見て欲しい」と頼まれた星菜が、「なら今夜、家に来い」と自らの家に誘ったのが発端であった。

 鈴姫としてはまるで同性の友人に対するような警戒心の無い星菜の言葉を受けて男として思うことが無かったわけではないが、彼女が他でもない自分のことを信頼しているからこそそのように誘ってもらえたのだと、彼が内心で高笑いを浮かべていたことは星菜の知るところではない。

 星菜も星菜で一年以上ぶりに彼を自宅に招くに当たって思うことは色々とあり、今はその内心を曝け出すことなく一見リラックスしているように見える姿で平静を装っているのだが、そのことは幸いにも鈴姫の知るところではなかった。

 妙な感覚である。

 決して嫌なわけではないが、いつもとは違う空気――そんな慣れない感覚から逃れるように野球小説の黙読を続ける星菜の耳に、鈴姫が問題集のページを叩くシャープペンシルの音を止めて言った。

 

「……今更言うのもなんだけど、良かったのか? こんな時間に家まで押しかけて」

「あ、うん。健太郎なら大丈夫だって母さんも言ってたしね。私も、別にお前なら遅くまで居てもらっても構わないから」

「信頼されてるのな、俺」

「うん。母さん、久しぶりにお前の顔見れて嬉しそうだったし。結構気に入ってるみたいだよ」

「それは素直に嬉しいな」

 

 夜中に高校生の男女が同じ空間に……と文章で表せば何とも背徳的だが、何も今現在星菜と鈴姫でこの家に二人きりで居るわけではない。

 下の階には母も居るし、弟の海斗も居る。母が鈴姫のこの時間での来訪を認めてくれたのもおそらくその為――だとは思うが、鈴姫を玄関先で迎えた際に見た母の顔を思い出すとこの考察にも少々自信が無くなる。鈴姫の顔を一瞥した後で母がこちらに見せたニヤついた表情は、まるで自分に対して何かを期待していた顔だった――と星菜は振り返る。

 

(何を期待しているんだか……)

 

 ……母は自分達の関係に対して色々と誤解している様子だが、それも苦笑で済む問題だ。何にせよ、家族が彼のことを好意的に見てくれているのはありがたい話だった。

 

「……にしても、相変わらず君の部屋は男っぽいな」

 

 星菜がそんなことを考えていると、鈴姫が勉強の手を止めて周囲を見回しながら呟いた。

 定期的に清掃を行っている星菜の部屋には、誰か他の人間を招き入れるに当たって恥ずかしいところは何も無い。いや、寧ろ無さすぎると言えた。

 素朴な色をした部屋にはこれと言って特別な物は無く、一般的な高校生男子が想像するような少女らしい部屋とは言い難かった。それどころか壁際に並んだ野球用品の姿を見れば、少しマメな性格をした野球少年の部屋にしか見えないだろう。

 そんな彼の言葉に星菜は不快な顔をすることなく、極めて日常的な調子で言い返した。

 

「寧ろお前は、ぬいぐるみとかたくさん並んだ部屋を私に期待していたのか?」

「……違和感でおかしくなりそうだ」

「でしょ? 私も色々やってみたことはあったけど、どれもこれも私には似合わない気がして元に戻したんだ」

「ああ、なるほど。この部屋がほとんど昔のままなのはそういうことか」

「そういうこと……だけど、あまりじろじろ見るなよ」

「あ、ああ、悪い」

 

 思えば家族以外の人間に自分の部屋を見せるのは、随分と久しぶりのことだ。

 そう思うと妙に恥ずかしくなり、興味深げに部屋を見回す鈴姫の視線を言葉で遮ることにした。

 

 星菜はパタンと野球小説を閉じるとゆっくりとその場から起き上がり、部屋の出口を指差して言った。

 

「……そろそろ夕飯が出来ると思うから、下行こう。お前も食べて行けよ」

「いいのか?」

「母さんもそのつもりだろうしね」

「助かる。今日は家には誰も居ないから、少し困っていたんだ」

 

 こんな調子では、野球小説の内容もさっぱり入らない。

 集中力が続かないのはきっと空腹のせいだ。そう思うことにした星菜は鈴姫にもやや強引に問題集を閉じさせ、共に部屋を退出することに決めた。

 

(青春、か……)

 

 不意に、先日再会した幼馴染――小山雅の言葉が脳裏に過ぎる。

 辞書的な意味では、夢や希望に満ちた活力のみなぎる若い時代を人生の春に例えたものを、青い春と書いて「青春」と呼ぶようだ。

 今の星菜には夢と呼べるほど大きなものは無いかもしれないが、少なくとも以前よりも遥かに希望と活力に満ち溢れているだろう。

 恋愛的な意味でのそれは置いておくとして、そういう意味では確かに泉星菜は青春を満喫しているのだ。

 

(……充実しているのは間違い無い)

 

 そう思い、星菜は自身の背中に続いていく鈴姫の姿を一瞥した後でふっと笑みを漏らす。

 自分が思っていたよりもずっと、私はただの少女だったのかもしれない――今一度、星菜はそう思った。野球に対する執着が薄れることを恐れている星菜としては、それは麻薬のように甘美かつ、恐ろしい感情だったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――翌朝のことである。

 

 星菜はこの日、目覚まし時計の設定よりも早くに目が覚めてしまった。

 昨日星菜が床に着いたのはあれから夕食を摂って軽く鈴姫の勉強を見てやり、彼の帰宅を玄関先まで見送った後の夜中の十一時頃のことだった。

 鈴姫にとっては随分と遅い時間での帰宅になったわけだが、彼らの住まいは元々徒歩でも五分と掛からず、道中にも大した危険は無い為、この近所間の行き来のみ鈴姫の側には許されていた。それだけ、鈴姫健太郎のことは彼の家内から信頼されているのだ。

 尤もそれは鈴姫側の都合であり、当然のことながら星菜の方は家の掟としてそんな夜中にまで外を出歩くことは近所の間であろうと許されていない。そのことを忘れて普段の調子で「家まで送ろうか」と言ってしまい、母親から軽い叱りを受けたのが寝る前に残った一日最後の記憶である。

 以前までの星菜なら、言葉には出さないまでもそんな家の掟には嫌だと感じる思いがあった。

 こんなちっぽけなことですら男の彼は許されて、女の自分には許されないのかと――まるで子供のような、しょうもない感情を抱いていた。

 

 しかし、今の星菜は「そのことについては」思い悩むことはなかった。

 

 その変化は、普通の見方をすれば星菜が一つ大人になったからだと見えるだろう。自分が女であることを強く自覚した上で、受け入れて前を向いて生きている。そう考えれば、この心情の変化は喜ばしいことであった。

 しかし星菜の頭は、そのことを野球選手としての退化だと捉えていた。

 

「……私は他の何よりも、野球の方が優先だったのにな……」

 

 女としての成長は、野球選手としての退化だと。

 それは誰かがそう決めたわけではなく星菜が勝手に考えていることであるが、これまでの野球人生の中で常に意識していたことだ。

 女としての自分の弱さを心から完全に認めてしまうことは、星菜にとって野球選手としてのプライドを放棄することと同じだった。

 他の誰かに言われる分には良い。だが他でもない自分自身が女であることを受け入れてしまえば、ことあるごとに言い訳してしまうのではないかと。

 例えば、自分はよく頑張った。試合に出れないのは女だから仕方が無い、などと――自身が野球選手である以前に女であることを優先した場合、星菜にはこれから先の野球人生でそう言い訳しない自信が無かった。

 

(もしもこのまま高野連が女性選手の出場を認めなかったら、私の心はきっと……)

 

 自分が本気で野球に打ち込めるタイムリミットは既に目の前まで迫っていることを、星菜は理解する。

 鈴姫は高校を卒業するまでは待ってくれると言っていたが、星菜自身がそれまで待てそうにない。

 このまま公式の舞台で女性選手の出場が認められなければ、今度こそ自分は野球を諦めるだろう。その確信は、彼の顔を見る度に強まっている。

 野球を諦めさえすれば、星菜は心置きなく「野球選手として」ではなく「女として」彼の傍に居られるから……彼がそれを望むにしろ、望まないにしろだ。

 

(今の私には、そうなりたいのか、そうなりたくないのかすらわからない……わからなくなってしまった)

 

 練習をしている時は考えないことだが、星菜の中では野球に対する情熱が以前よりも曖昧になっている気がした。それは鈴姫にも相談していないことだ。

 認めるしかないのだろう。今の自分には、かつてほど野球に対する未練が無くなっていることを。

 

(今の私は本当に、野球少女と呼べるんだろうか?)

 

 馬鹿な悩みだとは思うが、星菜にとってそれはこれまでの自分の在り方を覆しかねない悩みだ。

 こればかりは誰の言葉に頼るわけにはいかず、自分自身で答えを出さなければならない。

 勿論早川あおいや鈴姫健太郎、そして星菜の中に居るもう一人の自分の言葉にも、頼るわけにはいかなかった。

 

「……なるようになるしか、ないのかな」

 

 朝っぱらからこんなことに頭を悩ませていても、仕方が無いか。

 そう思った星菜は家を飛び出すと、鬱屈した思考を吹き飛ばすべくランニングに出かけることにした。

 時刻はまだ朝の六時。バスに乗って竹ノ子高校へ向かうには、幾分か早すぎる時間だった。

 

 

 この朝星菜がランニングのコースに選んだのは、眼下で緩やかに流れている「おげんき川」の河川敷、その横に沿った道路であった。

 河川敷の一部には星菜がかつて所属していたリトル野球チーム「おげんきボンバーズ」の練習場があり、信号も少なく早朝は車の通りも少ないという理由から、最近の星菜はこのコースを利用して走っていた。

 自分のペースを守り、それまで思い悩んでいたことが嘘のように軽快な足取りで走り続けていく星菜。

 

 ――その時だった。

 

「あっ」

 

 ランニングの走行スピードに合わせて景色が流れていき、眼下におげんきボンバーズの扱う河川敷の練習場が見えた時、星菜は思わず声を上げる。

 早朝故に本来ならばまだ人が集まっていない筈のグラウンドに、三人の人影が見えたのだ。

 内一人は、この夏休みに偶然の再会を果たした金色の瞳と髪を持つ幼馴染の少女だった。

 

「雅ちゃん? それに……」

 

 距離はまだ離れているが、視力の良い星菜はその姿を見間違えなかった。

 そしてその顔の輪郭がはっきりと見えるまで走り寄った星菜は、グラウンドに立っている人物の一人がやはり小山雅であることを確認した。

 彼女の方はまだ星菜の姿に気付かず、両手に一本の金属バットを構えてその場に悠然と佇んでいた。

 それだけでも、驚くことではある。

 しかしそれ以上に驚いたのが、雅と共にグラウンドに居る二人の人物の姿だった。

 

「……っ、なんで、あの二人が……?」

 

 その二人の内一人は、この地区のみならず全国的に名の通った人物であった。

 彼の姿をこうしてテレビ画面越しではなく生で見るのは、夏の大会二回戦の日、スタンドで遭遇した時以来である。

 高校二年生にして身長は180センチを超え、程よく完成された体格の少年。左腕から投げる速球は最速150キロを超える豪腕にして、キレのある七色の変化球を自在に投げ分ける技巧の繰り手でもある彼。

 打者としての能力も高く、昨夏の甲子園と今春の甲子園では共に観衆の前で豪快なホームランを放っており、既にプロ野球のスカウトからは投打共にドラフト一位級の評価を受けている正真正銘の「怪物」。

 二十年に一人、いや、それ以上の逸材と持て囃される彼は、星菜を含めた誰もが認める「天才」だった。

 

 ――彼の名は猪狩(いかり) (まもる)。あかつき大附属高校のエース、その人であった。

 

 そんな彼は今、愛用のグラブを片手に18.44メートル先に立つ小山雅と対峙していた。

 

 

 



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猪狩守vsダース=ミヤビー

 

 ――豪腕が唸る。

 

 上体を捻り、全身をバネのように使って放たれたボールはドリルのような凄まじい回転で空気を切り裂いていき、キャッチャーミットへと到達する。

 そのミットから響き渡る衝撃音も、まるで大砲が着弾したかのような重さだった。

 一球、そのボールを自分の間合いで見送った金髪の少女――打者である小山雅は思わずピューと口笛を吹き鳴らした。

 

「平成最高の逸材と言われるわけだ。中学時代とは比べ物にならないね」

 

 雅は端正整った唇を不敵に歪め、マウンドに佇む「天才」の姿を見据える。

 世代ナンバーワンと呼ばれている圧倒的な実力と、アイドルばりの甘いマスクを持った男。天からニ物を与えてもらったとしか思えないような完璧超人――それが彼、猪狩守という少年だ。

 今自分は打者としてそんな彼の前に立ち、たった一度だけの勝負を許されている。千載一遇の機会を前に、雅は内なる興奮を抑えきれなかった。

 彼こそが、本物の天才だ。野球をする為に生まれてきた神童だ。やがてプロの世界に羽ばたき、日本最高の投手として世界にすら君臨していくことは想像に難くない。

 

 彼より球の速い投手は他にも居る。

 彼より鋭い変化球を放る投手は他にも居る。

 

 しかし彼よりも野球の才能がある人間を、雅は他に知らなかった。

 

「わざわざ君のランニングコースを調べておいた甲斐があったよ!」

 

 たった一球ボールを見ただけで気分が最高潮に達した雅が、バットを大きく振り回して構えを直す。

 神主打法。小山雅がその野球人生でたどり着いた、彼女の中で最も効率良くボールを弾き返せる打撃フォームだ。

 雅は女子であるが故に非力で、単純な筋力ではその辺の高校球児にすら劣っている身である。しかし、その少ない筋力を限界以上に引き出すことの出来る技術を彼女は持ち合わせていた。

 故に彼女には、本来女子選手の誰もが感じる筈の身体的ハンデを感じたことが、野球を始めてから一度として無かった。

 猪狩守が天才ならば、小山雅もまた同じ天才なのだ。

 そこに小難しい理由など何も無い。二人とも、ただ天才だから天才というだけだった。

 

「ふっ!」

 

 投の天才、猪狩守がワインドアップの左腕から二球目のボールを投じる。

 コースは内角、球種はまたもやストレート。彼が得意とする対角線上の速球、クロスファイヤーだ。

 ボールが彼の手元から離れた瞬間、即座にその配球を見抜いた雅は左足を開き気味に踏み込むと、インサイドに食い込んできた剛速球をレベルスイングで振り抜いた。

 

「っ!?」

 

 快音と同時――猪狩守のボールを受ける捕手、猪狩進の息を呑む音が聴こえてくる。

 それも無理は無い。誰よりも優秀で、誰よりも天才である筈の守のストレートが、初対面の打者のたった一振りによってバットの真芯に捉えられたのだ。

 尤も、ややタイミングが早すぎたらしく、低い弾道で弾き返された打球は弾丸のような速さで三塁線の左側を転がっていった。

 

「まさか……どうやら僕は、君のことを見くびっていたようだ」

「今はどうなの?」

「気に入らないけど認めるしかないね。中学時代、君が僕からマルチヒットを打てたのはまぐれじゃないみたいだ」

「なんだ、覚えててくれたの」

 

 彼の方もファールとは言え、自信を持って投じたクロスファイヤーが一球で真芯に捉えられるとは思っていなかったのだろう。雅の顔を見つめる彼の表情には、確かな驚きの色が浮かんでいた。

 そんな彼に対してしてやったりと言った表情で、雅が笑む。

 

「今時は、140キロを投げる高校生も珍しくないからね。ボクのチームメイトにも居たんだよ、150キロの剛速球を内角にポンポン投げ込んでくるサウスポーが。まあ、君ほど真っ直ぐの質やコントロールは良くなかったけどね」

 

 今のボールはざっと見て142km/h程度というところだろう。事前の調整も無く投げたにしてはそれでも十分すぎる球速だが、生憎にも雅にとっては初見で対応出来ないほどの速さではなかった。

 雅がかつて所属していたときめき青春高校というチームには、彼と同じ豪腕左投手である朱雀南赤という男が居たのだ。彼とは何度か練習であいまみえたこともあり、その経験上140km/h台の剛速球にはある程度目が慣れていた。

 そう言った以前の経験則を即座に実戦で活かすことが出来るのもまた、小山雅の才能の非凡さを示していた。

 

「面白い」

 

 小山雅の打撃に確かな才能を感じた猪狩守が、その頬を引き締める。彼の闘志に火がついたというところだろう。

 三球目、カウントツーナッシングと追い込んだ彼が投じたのは、遊び球ではなくストライクゾーンだった。

 それも、外角低めギリギリ一杯のコースだ。ゾーンの角をピンポイントで攻め込んだ伸びのあるストレートである。

 これに対し、雅は迷うことなくバットを繰り出した。

 

「ふう、えぐいコントロールだね」

 

 神主打法から放り投げるようにして振り放たれたバットは彼のストレートをまたも弾き返し、打球は今度は一塁線の右側へと転がっていく。

 外角低めに完璧に制球された140キロ台のストレートは、プロの打者でもそう簡単にはヒットに出来ない。雅もまたそのボールは待ち球でも無かった為、バットの先に当てることによってファールで逃れたのである。

 140キロ台で完璧なコースに決まったストレートを、事も無げにカットしてみせたのだ。ごく自然的に、何の苦も無く。そのバット捌きは一見地味に映るかもしれないが、並大抵の技術ではなかった。

 勿論、雅とて余裕でそれをこなせたわけではない。ほんの少しでも反応が遅れていれば、あえなく見逃し三振となるほどのボールだった。

 

「ピッチャーの生命線はコントロールだよ。僕はそのことを思い知らされた」

「樽本有太にかい?」

「ああ、あの人も今年の夏は剛速球への拘りを捨てて、ツーシームを低めに制球するスタイルにモデルチェンジしてたね。あれはまるで、一ノ瀬先輩を見ているようだったよ」

 

 マウンドの猪狩守は雅のカットに挑発的に笑むと、軽口に応えた後で続く四球目を投じる。

 球種は尚もストレート。そしてコースと高さも、先ほど投じた三球目のボールと寸分の狂いも無かった。

 

 瞬間、乾いた金属音が鳴り響く。雅の振り抜いたバットが、彼のボールを捉えた音だ。

 

 鋭い打球はライト方向へとライナー性に伸びていくと、空中でスライスしていき、惜しくもファールゾーンへと切れた。

 

「惜しいっ、絶対またそこに来るとわかってたのに……!」

 

 ボールの行方を見届けた雅はバットの芯を叩き、悔しげに呟く。

 打ってもそう簡単にはヒットにならない難しいコースへと何度も正確な精度で投げることが出来るのが、猪狩守投手の強みだ。その制球力を見せつけるようにもう一度同じコースに投げ込んでくると雅は読み当てていたのだが、今度もまたヒットにすることは出来なかった。

 ファールになったのは、彼の特殊な球質が要因だ。彼のストレートがこちらが思っているよりも手元で伸びることは予めわかっているが、それでも尚予測を超えてくるのである。

 そして、今回は彼も力が入っていたようだ。以前の三球よりも、格段に速いと感じさせるストレートだった。

 

「……驚いたな、僕のライバルがまた増えたみたいだ」

 

 あわや長打コースという痛烈な打球が消えていったファールゾーンの方向を一瞥した後、猪狩守がマウンド上で呟く。

 雅が猪狩守の投球を手放しに賞賛している一方で、彼もまた小山雅という打者を強敵と認識していた。

 ただそこに、相手が女子選手であることに特別な感情は一切挟み込んでいない。ただ純粋に、一人の好打者として守は雅に敬意を払っていたのである。

 

「でも、これならどうだ!」

 

 だが、猪狩守はプライドが高く、負けず嫌いな男として有名だった。

 彼は生まれながらの天才であるが、自分が天才であることを理解しているからこそ、その才能を最大限に生かすべく努力を重ねることが出来る男だ。

 そしてそんな天才の名を欲しいがままにしている彼もまた、これまでの野球人生の中では数回に渡って挫折を味わってきた。

 その一つがリトルリーグ時代の泉星菜、小波大也への敗北であり、最も記憶に新しいのは樽本有太擁する海東学院高校への敗戦である。

 しかし、それらの挫折が彼の未熟な心を鍛え上げた。負けたという経験を忘れることなく、次なる舞台への糧としていくことによって、猪狩守という選手からは才ある者にありがちな慢心や油断と言った付け入る隙が次々と無くなっていったのだ。

 

 ――敗北が、彼を強くした結果である。

 

 五球目、尚もツーナッシングから猪狩守は投球動作に移り、その左腕から豪快にボールを解き放った。

 今までよりもさらに速い、雅が未だかつて見たことの無いほどに伸びのあるストレートだった。

 変化球を一球も使わないのは、彼の意地であろう。ストレートに強い打者はストレートで仕留めたいという、プライドの高い彼らしい配球だ。

 しかしそれは、決して油断や慢心の類ではない。彼は現在の持てうる全力を出し、このボールを投じていた。

 

 コースは内角高め(インハイ)、対角線上のクロスファイヤー。

 

 ボールが、まるで閃光のようだ。一瞬にも満たない打席の中で雅はそんな感想を抱いたが、それからはただ無心に、研ぎ澄まされた感覚でボールを追い――狙いに合わせた軌道に沿ってバットを強振した。

 

 

 ――そして、二人の勝負に決着がつく。

 

 

「ピッチャーフライ、僕の勝ちだ」

 

 いつの間にかボールは、猪狩守が右手に着けたグラブの中へと収まっていた。

 いや、決着の行方は雅もその目で見届けた。

 ドンピシャのタイミングで振り抜いたバットは猪狩守のストレートを捉え――打球はマウンドにふわりと落ちる小フライとなった。

 打席結果はピッチャーフライ。文句のつけようのない猪狩守の勝利であり、小山雅の敗北だった。

 

 しかし、雅には解せなかった。

 

 決して、この勝負の結果が認められないわけではない。

 負けは負けであり、今の打球が言い訳の出来ない凡打であることは疑いようもない。

 しかしただ一つだけ、雅には納得出来ないことがあったのだ。

 腑に落ちない表情で、雅はそのことについて彼に訊ねた。

 

「さっきのボール、何? ボクとしては完璧に、センター前に弾き返せたと思ったんだけど」

 

 勝負を決定づけた五球目のボール――インパクトの瞬間、雅の中では確かにバットに捉えた筈だった。

 彼のボールの威力に力負けしたとは思えない。タイミングは完璧であったし、バットは最後まで自分の形でしっかりと振り抜くことが出来た。

 

 しかし、あの打撃の感覚は何だと言うのか?

 

 ボールの芯をバットの芯でジャストミートしたのならば、本来感じる筈の手応えだ。中途半端で、肩透かしを喰らうような不愉快な感覚である。

 

 あれは、そう。ボールの芯ではなく、ボールの下を擦る感覚だ。

 

 雅の問いに対し、猪狩守は数拍の間を置く。

 そして得意げな表情を浮かべ、高らかに言い放った。

 

「僕のオリジナルストレート、「ライジングショット」だ! 光栄に思うといい。この球を見たのは、進以外では君が初めてだ!」

 

 ストレートであって、ストレートではないストレート。

 いや、これこそが本来のストレートだと言うべきなのかもしれない。

 何故ならばそのボールは猪狩守の手元を離れてから、「真っ直ぐ」に突き刺さってきたのだから。

 

「凄いボールだよ……このボクが、歴史の立会人になったってわけだ」

 

 ライジングショット――誰が命名したのかは知らないが、悪くないセンスだと雅は思った。

 あのストレートは、ストレートでありすぎるが故にストレートとは言えない未知のボールだった。

 極限まで増やしたボールの回転数によって空気抵抗をほとんど受けない為に下方向に沈むことがなく、打者の目からは上方向に浮き上がってくるように見えるボール――それが雅が分析する彼の投じたオリジナルストレート、「ライジングショット」の正体だった。捉えたと思った筈が実際はボールの下を擦っていたのも、恐らくはそのためだ。

 

 ……これは、今後の猪狩守の野球人生の中で大いに役立つ武器となるだろう。それこそ高校野球やプロ野球の世界に、伝説を残していくほどの。

 

 そんな時、自分の存在が偉大なる猪狩守伝説の始まりとしてマスコミから取り上げられてみればどうだろうか。それはそれで嬉しい……筈がない。

 

 ――そうだ。それじゃあ私が、いいかませ犬じゃないか!

 

 この時、雅の中に湧き上がっていた感情は、彼女が彼に挑んだ当初の目的として得たかったものとは真逆にあるものだった。

 

 それは野球選手として、スポーツ選手として当たり前の――悔しいという感情である。自分の限界を知ることによって野球を続けることに諦めをつけたかった思いとは対極に位置する、貪欲に「勝利」を求める感情だった。

 

「続きをやりたかったらうちと試合すればいい。別に、僕は逃げも隠れもしない」

 

 一打席勝負で終わるのが物足りない。そう言いたげな表情の雅に対して、猪狩守がマウンドを下りながらあっけらかんと言い放つ。

 だがそれは、雅にとって既に不可能なことだった。

 

「……わかってて言ってるでしょ、それ」

「気に障ったなら謝るよ。でも、練習試合なら女の君だって出れるだろう? うちの監督が取り合ってくれるかはわからないけどね」

「練習試合で大人しく満足していろって言うのは、今更無理な話だよ。ボクだって満足出来ていれば、こうして君に勝負をふっかけることもなかった」

「そうかい」

 

 エース破りとして、野球マンとして、雅は自分が野球を諦める為に自分を叩きのめしてくれる高校生を求めて旅回ってきた。

 我ながら勝手な行動だ、と雅は思う。

 しかしそんな中でも「小山雅」として猪狩守と全力で勝負して負けることは、彼女にとって最高のシチュエーションである筈だった。

 自分のことを天才だと思っていた哀れな女が、猪狩守という本物の天才の才能を体験し、絶望する。一丁前の才能を持つ人間が野球を引退するには、何とも納得の行く筋書きである。

 しかし実際にこれを実行出来た後になっても、未だ雅の中では何の解決にもなっていなかった。

 

(そっか、これでもまだ諦められないのか、私は……)

 

 この程度では、負けを認められない自分が居る。

 雅の中にある野球人としてのプライドが、この程度の負けで諦めるなと言っている。

 現に雅は、猪狩守との勝負が実現し、敗北が叶った今でも彼との才能の差に絶望を感じていなかった。

 小山雅の野球人生を終わらせるには、トップレベルの才能を見せ付けるだけでは足りなかったのだ。

 

 

「兄さん」

 

 ふと、後ろの方から声が聴こえた。

 声変わりはしているがどこかあどけなさを感じるその声は、今回の勝負で捕手を務めてくれた猪狩進――猪狩守の実の弟である。

 雅の一つ歳下に当たり、出身校は兄と同じあかつき大附属高校。夏の大会では一年生ながら代打出場を果たし、各打席でヒットを記録している将来の有望株というのが雅の調べだ。ついでに性格が兄と違って謙虚で大人しいとも調べていたが、実際会ってみてその噂に違いがないことがわかった。

 そんな謙虚な彼がここで口を開いたことに雅は振り向いて反応し、守も彼の発言に注目した。

 

「なんだ進?」

「あそこに居る人、もしかして……」

「む? ……ほう」

 

 進が言って指差した方向に顔を向けると、守が突如美形の顔を悪役風に歪めてクククッと忍び笑いを漏らした。

 そのただならぬ変貌に何事かと興味を抱いた雅が彼と同じ方向に目を移してみると、そこには、一人の少女が居た。

 

 小山雅が野球を始めた原点にして元凶、尊敬すべき野球の先輩にして後輩、かつての親友の姿が。

 

「あっ、星ちゃんだ」

「君も知っているのか、泉星菜のことを」

「うん、私達は友達だからね」

 

 泉星菜。簡素なジャージを纏っていても、やはり彼女は華やかで美しい。尤もそれは彼女の方もまた雅に対して全く同じことを思っているのだが、それは雅にとっては預かり知らぬことだった。

 この河川敷のグラウンドにいつから居たのか……もしかしたら、最初から全部見ていたのかもしれない。そう思うともう少しいい格好を見せてやりたかったなと、まるで体育の授業で気になる女子の前で張り切ろうとする男子のようなことを考えている自分に気付き、雅は苦笑した。

 

「おはよう星ちゃん! 君もこっちに来なよ!」

 

 河川敷の隅からこちらを眺めている彼女に向かって右手を振りながら、雅は明るい声音で呼びつける。

 

 ――そう言えば、彼女は今でも野球を続けていると言っていたか。

 

(……そうか! 星ちゃんだ! まだ星ちゃんが居たじゃないか!)

 

 ランニングの要領で駆け寄ってくる後輩にして先輩である彼女の姿に微笑む裏で、雅は思考を巡らせる。

 そして、思った。思い至ってしまった。

 

 自分の野球人生を終わらせるには、これ以上無いほどうってつけな相手に。

 

 

 



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最期を求める野球少女

 

 思っていたよりも、早い再会となった。

 しかしそれは、星菜が想像していた再会の形ではなかった。

 

 河川敷のグラウンドで、彼女は猪狩守と勝負をしていたのだ。

 

 普段はリトルリーグのチームであるおげんきボンバーズが使用しているこのグラウンドに彼女――小山雅が居ることも意外だったが、加えて猪狩兄弟までも居るのはさらに意外であった。

 

「……勝負していたの?」

「うん、一打席勝負だけど、私から彼に勝負してって申し込んだんだ。星ちゃんは、いつからあそこで見ていたの?」

「三塁線に際どいファールを打った時ですね」

「そう……ってことは、ほとんど最初からだね」

 

 星菜が見ていたものと、雅の語る情報は同じだった。

 いわく雅はこの辺りをランニングしている猪狩兄弟を見つけ、その場で勝負を申し込んだのだという。たまたま出会した形なのか、始めからそのつもりだったのか――雅の口ぶりからすると、恐らくは後者なのだろう。

 勝負を申し込まれた側の猪狩守も案外気前が良い男ならしく、彼女の挑戦を受けてくれた。そしてその結果が、先ほどの一打席である。

 

「見ての通り、勝負は私の負けだったよ。流石、世代ナンバーワンピッチャーって感じだった」

「当然さ。僕が負けることはあり得ない。ましてや、君のような同級生なんかにね」

 

 雅の言葉に堂々と口を挟みながら、端正整った顔立ちの青年がグラブを片手に星菜の元へと歩み寄ってくる。

 猪狩守――先ほどの勝負の勝利者である彼の表情には、薄らほども疲労の色が見えなった。

 彼はその切れ目の長い大きな目で星菜の姿を見下ろすと、挑発的な微笑を浮かべながら言った。

 

「君も、僕と勝負する気は無いか?」

 

 ――第三者的には、何とも異様な光景だろう。星菜は彼の放った言葉に驚く雅の姿を横目に映し、そう思った。

 超高校級天才投手として有名なかの猪狩守が、自分から勝負を申し込もうとしているのだ。

 そこに冗談めかした軽薄な様子は欠片も無く、彼は間違い無く本気で星菜との勝負を望んでいるようだった。

 夏の大会の時、スタンドで会った時も彼は同じ目をしていた。それは試合中、相手打者を睨む時とも同じ目だ。

 過去の因縁とは言え、たかだか小学生時代での敗北――リトルリーグ時代でのことなど彼にとっては取るに足らない過去だろうに、今でも糸を引いているとは何とも完璧主義な男である。それとも女子選手に負けたという人生の汚点を排除しなければ、天才たる彼のプライドが許さないのだろうか。

 

 ともあれ、これは彼による二度目の勝負の申し込みだ。

 前回、星菜には彼からの挑戦に対して望み通りの答えを返せすことが出来なかった。

 それは、怖かったからだ。

 彼の挑戦を受けて、もしも負けてしまえば自分が唯一追い縋れる過去の栄光すら無くなってしまう。

 そしてそのように負けることを前提に考えている時点で、星菜には彼と再び勝負をする資格が無いと思っていた。

 

 ――だが今の星菜は、あの時とは違う心境だった。

 

「今ここで、その勝負を受けるわけにはいきません」

 

 しかし、そうであるが故に今回もまた勝負を受ける気にはなれなかった。

 その理由は、今度も怖かったからなどではない。

 前回とは正反対で、星菜自身も驚くほどに前向きな理由だった。

 

「……理由を聞いてもいいかい?」

「貴方も私も、投手だからです。貴方が投げて私が打つにしても、その逆にしても……お互いバッティングは本職ではありませんから、投げる側が抑えたところでそれは当たり前のことです。だから、言い訳は幾らでも出来てしまいます」

 

 彼と勝負をするならば、公平なルールで、正当な勝ち負けを決めたいと――それが星菜の、今回の勝負を回避した理由だった。

 彼や雅の価値観を否定する気は無いが、星菜としては二人が先ほど行っていたような一打席勝負をしたいとは思えなかった。たった一打席の勝負で全てを決めてしまうなど公平性に欠けており、お互いの選手としての優劣を決める場としてはあまりに不適切だと思ったのだ。

 そう思ったからこそ、星菜は言った。

 

「貴方と勝負をするなら、私は勝ち負けに言い訳の余地を作りたくないのです」

 

 それが真剣に、本気で勝負を申し込んできた彼に対する星菜なりの誠意である。

 以前までなら、そんな言葉は絶対に出てこなかっただろう。星菜自身も自ら言い放った身の程知らずな発言に内心では呆れているが、それでも後悔はしていなかった。

 大胆な発言を受けた猪狩守は、唇をつり上げながら星菜に訊ねる。

 

「それはつまり、君が投手で僕が打者として勝負した場合、君には僕を打ち取れる自信があるってことかい?」

「相手が誰であっても、です。例えプロ野球選手が相手でも、マウンドに上がる以上は始めから負ける自分なんて想像しません。それは、貴方も同じでしょう?」

「ああ、僕もピッチャーをやっている時は常に相手を見下しているよ。そうでなければグラウンドの中で一番高い場所に、マウンドに上がる資格は無いと思っているぐらいさ」

 

 勝負をする前から負ける気で居る者に、勝負のマウンドに上がる資格は無い。それは、星菜の持論であった。

 だからこそ前回、星菜は自分には彼と勝負をする資格が無いと思っていたのだ。

 しかし、今の星菜は友達や仲間達に背中を押され、監督の茂木からは選手の証である「背番号」を受け取った。他校との練習試合の際も、その実力を持って結果を出した。それが泉星菜という人間に、かつての自信を取り戻させていったのだ。

 

「いいよ、最高の返事だ。そう、君の言うことはまさにその通りだよ」

 

 星菜の発言はあまりにも無礼であったが、猪狩守は満足そうに笑むだけでそれを咎めることはしなかった。

 それこそが、王者の風格――天才猪狩守の余裕の表れにも見えた。

 

「なら言い訳の余地の無い場所なら、君は僕のリベンジを快く受けてくれる。言い換えればそういうことだね?」

「……生意気なことを言ってすみません」

「ふっ、構わないさ。挑戦者は僕の方なんだ。その程度のことは、挑戦を受ける側の人間が言う分には許されることだ」

 

 過大かどうかは星菜自身からは何とも言えないが、彼の方は彼女の実力を随分と高く評価しているようだった。

 そんな彼は星菜の望みを理解すると、高らかに喜びの声を上げた。

 

「そうだね、どうせやるなら試合だ! はははっ、この僕がそんなことを言われるなんてね」

 

 そして、彼はこれで用事は済んだとばかりに星菜に背を向け、朝の日差しの方向に向かって走り出す。

 元々、ランニングの続きだったのだろう。走るペースが幾分か飛ばし過ぎのように見えるが、このように即座に意識を切り替えて行動に移ることが出来る点は星菜にとって見習いたくもあり、羨ましい長所だった。

 

「さて、行くぞ進! 天才猪狩兄弟に休息の日は無い!」

「あっ、待ってよ兄さん!」

 

 そんな猪狩守の後ろを追い掛けて、弟の猪狩進が走り出す――前に、彼は律儀に星菜と雅に対して別れの挨拶をした。

 

「それじゃ、泉さん、僕達はこれで」

「あ、はい……」

「貴方も、とてもいい勝負でした」

「それはどうも」

 

 整った容姿に見合う整ったお辞儀をすると、彼もその場から走り去っていく。

 尊大な兄と、謙虚な弟。たった一つしか歳は離れていないというのに見事に正反対な兄弟の性格は、星菜の知るリトルリーグ時代の二人と同じだった。

 

 

 

 みるみる内に遠ざかっていく二人の背中を見送った後で、星菜はその身にやや疲労を滲ませながら息を吐いた。

 そんな星菜を見て、雅がにやりと笑む。

 

「やっぱりモテるんだね、君は」

「……茶化さないでよ、雅ちゃん」

「謙遜しなくていいよ。あの猪狩君が自分から勝負を申し込むなんて、事件だよ。良かった、私と進君以外誰も見てなくて」

「まあ、そうなんでしょうけど……」

 

 猪狩守は高校野球界きってのスター選手だ。今夏チームは甲子園にこそ出場出来なかったが、そのスケジュールは過密に敷き詰まっている筈であろう。

 ただでさえ雅との勝負というイレギュラーのせいでスケジュールにズレが生じていただろうに、それを承知でこんなつまらない人間にかまけているとは何とも熱心なことである。

 それもまた、本物の天才故の余裕なのだろうかと……星菜には少々嫉妬心が湧き上がった。星菜が先ほど彼に言い放った挑発的な言動にも、そう言った個人的な感傷も絡んでいたりした。

 彼ら兄弟の姿が見えなくなったところで、そんな星菜に雅がグラウンド端のベンチを指差しながら提案した。

 

「ねぇ星ちゃん。折角また会ったわけだし、少し話そうか。君も、何か聞きたそうな顔してるし」

「うん。私も雅ちゃんには聞きたいことがあるけど……」

 

 会話の提案は、星菜にとっても望むところだった。

 雅がどういった経緯で彼ほどの有名人と勝負をすることになったのかも気になるし、そもそも彼女は以前会った時、「野球をやめた」と言っていた筈だ。

 この数日の間に、何か心境の変化があったのだろうか。それにしても彼女がこんな場所で猪狩守と勝負をしていたという光景は、星菜にとって驚愕すべき出来事だった。

 

 

 ベンチの上に星菜と雅が横並びに座り、数秒間の沈黙がその場を包み込む。

 その間で雅がバットケースの中に猪狩守との勝負で使用していたバットを収めた後、彼女は開口一番に言い放った。

 

「実は私、エース破りをしていたんだ」

 

 星菜が、目を見開く。

 エース破り――いつの日か聞いて、最近はすっかり忘れかけていた言葉だ。

 いや、まさか……と星菜は飄々とそう言ってのけた雅に対して疑って掛かるが、雅の顔は嘘を吐いているとは思えなかった。

 そもそも雅には、星菜に対してそんなしょうもないことで嘘を吐く理由が無いのだ。それに、数々の高校のエース投手を打ち崩しているという眉唾な噂も、猪狩守と対峙した際に見せた彼女の実力に鑑みれば納得出来ない話ではなかった。

 事の詳細は星菜が問うまでもなく、雅の方から全て語ってくれた。

 

「色んな高校のエースピッチャーに勝負を吹っ掛けて、この街を回っていたの。道場破りみたいにこう……なんて言うのかな? 昔のスポコン漫画に出てくるライバルキャラみたいなことをしていたんだ」

「それで、エース破り……」

 

 ……どうやら、予想は見事に的中してしまったらしい。

 矢部明雄を筆頭にする竹ノ子野球部の情報網も、存外侮れないようだと星菜は再認識する。

 噂のエース破りは、確かに実在していたのだ。

 

「噂は本当だったのか……」

「えっ、なに? 私のこと、噂になってたの?」

「それなりに、ね。一時期、私の居る野球部ではいつエース破りがやって来るかという話で持ち切りでしたよ」

「そ、そう……あはは、中々愉快な野球部だね」

 

 そのエース破りが自分と同じ女子選手で、尚且つかつての親友だったとは何たる奇妙な話か。

 そんな運命的な巡り合わせは野球漫画か小説の中だけにしてほしいものだと――星菜は溜め息を付きながら指先を額に当て、天を仰いだ。

 しかし、彼女が本当に噂のエース破りだと言うのなら、星菜には是が非でもこの場で確かめておきたかった。

 

「貴方が恋々高校の早川あおいさんを打ったって言うのも……本当のことなの?」

 

 星菜が尊敬してやまない先輩、早川あおい。星菜の耳にした噂には、エース破りが打ち崩した投手の中に彼女の名も挙がっていた。

 星菜はそのことを、信じたくなかった。だからあおいとの連絡手段を持っているにも拘らず、星菜は本人に直接訊ねることをしなかったのだ。

 星菜は高校入学以後の野球人生において、彼女からあまりに大きなものを貰い続けてきた。それだけに神格化と言うには大げさかもしれないが、星菜は彼女のことを過剰なまでに強く尊敬していたのだ。

 天を仰いでいた視線を横に移すと、星菜は栗色の瞳でじっと雅の目を見つめる。金色の、綺麗な目だ。

 雅はその問いに幾拍かの間を置いて、はっきりと答えた。

 

「本当だよ」

 

 ……出来ることならば、嘘だと言ってほしかった。

 しかし、それが本当だと言うのならば星菜には受け入れざるを得なかった。

 あおいが打たれたことはまるで自分のことのように悔しいが、先ほどの一打席勝負のような正々堂々とした真剣勝負の結果ならば受け入れるしかない。勝負の世界とはそういうものだ。

 

 寧ろ、星菜は嬉しかった。

 

 彼女は以前会った時、野球をやめたと言っていたが、本当はまだ続けていたのだ。公式戦の出場が叶わなくても、彼女はエース破りという異端な方法ながらも野球を楽しんでいる。星菜は自身の経験から推測して、彼女もまた彼女なりに自らの野球への思いに決着をつけようとしているのだと思った。

 かつて親友の間柄にあり、今も女子選手として共通の立場に居る星菜としては、雅のエース破りとしての行動には協力してあげたいとすら思った。

 エース破りの存在について詳細を知るまでは変態だ何だのと侮蔑していた星菜だが、それを忘れるほどに雅への友情は厚かったのだ。

 

 きっと早川あおいもまた、彼女に対してはそう思っていることだろう。あおいの性格を考えれば負けた悔しさをバネにして今頃特訓の真っ最中であろうが、自分の時と同じように雅の気持ちを理解し、良い関係を築いているに違いないと星菜は思っていた。

 早川あおいも小山雅も、どちらも素直で優しい人だ。片方には尊敬心から、もう片方には親友として接していた経験から、星菜は二人に対してある種絶大の信頼を置いていた。

 

 しかし、その信頼は間違いだと気づかされる。

 

 ――他ならぬ、小山雅(親友)の言葉によって。

 

 

「あの人には、もう少し期待していたんだけどね。正直、あの人のピッチングには何の才能も感じなかったよ」

 

 

 雅の口からあおいのことで告げられたのは、星菜が想像だにしなかった冷酷な言葉だった。

 そのあまりの冷たさに、星菜には最初、小山雅の言葉だとは思えなかったほどだ。

 何かの間違いではないか……そう信じたかった星菜は先の言葉について問い返した。

 

「今、なんて言いました……?」

「ああ、気を悪くしたならごめん。でも、本当のことさ」

 

 あおいのことを慕う星菜の感情を察したのか、雅が頭を下げながら言う。星菜に対しての対応だけは、変わらず穏やかだった。

 しかし、彼女の口から早川あおいについて放たれるその言葉には、明らかな敵意が込められていた。

 そしてその表情は、星菜の知る他の人物が浮かべるものと似ていた。

 

 今の雅が浮かべている不快げな表情は、小波大也のことを語る際に鈴姫健太郎が浮かべる表情と酷似していたのだ。

 

「早川あおい……あの人はコントロールはそれなりに良かったよ。ピッチングフォームも綺麗で、アンダースローの良さを上手く生かせていたと思う。相当な努力をしたんだなってことは一目見てわかったし、あれほどのピッチャーはそうは居ないんじゃないかな」

 

 語る言葉の内容だけは確かにあおいのことを賞賛するものだ。しかし、そこに誠意は感じない。

 紡がれる言葉の数々は、あおいのことを尊敬する星菜の為に投げやりに取り繕ったもののように聴こえた。

 そして一応とばかりに彼女の実力を持ち上げた後で、雅は再び冷たく言い捨てた。

 

「でも、その程度なんだ。あの人には、私ほどの才能は無い」

 

 それは否定を許さないと言うような、断定的な口調だった。

 淡々とありのままの事実をそのまま言い放つように、不気味にも雅の声には感情が無かった。

 

「……正直、意外です。ビッグマウスなんですね、雅ちゃんは」

「でも、本当のことなんだ。あの人はどちらかと言うと優秀なピッチャーだったけど、それは私の……小山雅の才能の裏付けにしかならなかった」

 

 早川あおいのことをまるで足元に転がっている踏み台のように見ている発言には、近頃機嫌の良い日の続く星菜も流石に苛立ちを覚えた。

 しかし、雅は不遜な態度を改めなかった。星菜の苛立ちに気付いたのか申し訳なさそうに目尻を落とすが、それでも彼女はこれだけは譲れないとばかりに言葉を続けた。

 

「自分で言うのもなんだけど、私には野球の才能があったんだ。それこそ、早川あおい程度のピッチャーが相手ならボールの縫い目まではっきりと見えるし、読み打ちなんてしなくても来た球を振るだけで簡単にヒットにすることが出来た。女の子だから男の子には体格で負けているけど、そのハンデを埋めることに苦を感じたことも無かった。……そんな私だから、今まで野球を始めてから壁に当たったことは一度も無かったね」

 

 己の才能に対する確固たる自信。それは、かつて負け知らずだった頃の星菜も持っていたものだ。

 自分の才能は誰にも負けていない。自分は誰よりも優れた選手だと――雅の言葉は、そう確信している物言いだった。

 しかし星菜には、その才能が信じられなくなるほどの挫折を経験したことがある。挫折に打ちのめされ、野球を続けることを諦めたこともあった。

 ――だからか、今の星菜には雅の言う「野球の才能」がガラスの自信だとしか思えなかった。

 

「……雅ちゃん、それが本当の話なら、確かに貴方は凄い。私やあおいさんとは比べ物にならない天才だよ。でも、そうやって増長するのはどうかと思う。上には上が居るものだから」

「うん、私もそう思った。だから、捜し回ったんだ。私よりも上の、本物の天才と会いたくて……色んなところで勝負を吹っかけてきた」

 

 星菜の指摘に、雅が応える。

 自分で自分のことを天才だと称する人間に、ろくな者は居ない。雅もそう思ったのだろう。故に彼女は、星菜の言う「上」を捜していたのだと言う。

 

 それこそあの本物の天才――猪狩守のような。

 

「それが、エース破りの理由?」

「私より強い奴に会いに行くって言うと、なんだか武闘家みたいだね。まあ、それは手段であって目的じゃないんだけど」

 

 しかしそれは、彼女が各高校のエース投手を打って回っている理由ではなかった。

 怪訝に眉を潜める星菜に、雅は自嘲するような苦笑を浮かべながら言った。

 

 

「……私はね、実力で諦めたかったんだよ」

 

 

 

 



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正直な気持ちでいこう

 

 

 ――実力で、諦めたかった。

 

 その言葉が何を指してのものなのかは、今更問うまでもないだろう。

 野球のことだ。

 以前小山雅と会った時、彼女は必死になって野球をやってるのが馬鹿らしくなったと――同じ女子選手である早川あおいを引き合いに出しながら、そう言っていた。

 しかし、それまで青春という青春を野球に捧げてきた者が野球を諦めるなどということは、口で言うほど簡単なものではない。そのことを、経験者たる星菜は理解しているつもりである。

 そしてそれは、雅もまた同じ筈だった。

 

「言い訳も出来ない条件で、壁にぶつかって、惨めに負けて……それで私は、野球を続けることに諦めをつけたかったんだよ」

「……っ」

 

 そう、同じだったのだ。

 彼女の言葉は、野球など諦めてしまえれば楽だったと嘆いていた――以前の星菜に。

 

「それは……!」

「私の才能が本物じゃないってことを、誰かに証明してほしかった。女の子が野球をすることが間違いだったんだって、言葉じゃなくて力で証明してほしかったんだ」

 

 ズキリッと胸に痛みが走る。憂いを帯びた表情でそう言う雅の顔は、つい最近までの星菜とそっくりで。

 特に、野球を諦めることに言い訳を欲しがっているところが、悲しいほど似ていた。

 なまじ自分が経験したことであるが故に、星菜には彼女の気持ちが手に取るようにわかってしまった。

 

「猪狩君だけは力を見せてくれたけど、何だろうね……そんなに遠いとは感じなかった。確かに私以上の天才だとは思ったけど、どれだけ頑張っても打てないとは思えなかったんだ」

 

 諦めなければならないと思い、それらしい言い訳を欲しがって、道に迷っている。

 自嘲するような笑みを浮かべながら雅が星菜の目を見つめ、星菜はその視線を静かに見つめ返した。 

 

「……それどころか私は、彼とはいつか再戦したいって思っている。野球を諦める為に始めたエース破りで、寧ろ今までよりもやる気が上がってしまったんだ。これじゃ、本末転倒だよ」

 

 野球に対する未練から野球部のマネージャーとなり、その結果さらに未練が強まり、結局は選手として戻ってきた。

 この半年の間に星菜の身に起こった出来事は、以前の雅と再会した時に粗方話し終えている。

 故に、雅の方もまた星菜と自分が似通った心情にあると考えているのだろう。星菜を見つめる雅の瞳は、星菜に対して同調を求めていた。 

 

「どうして……私に、そんなことを話したの?」

 

 我ながら、白々しい質問だと星菜は思う。野球少女である雅が、同じく野球少女である自分に対してそんな話を切り出す理由などそう多くはないだろう。早朝のランニングで活性化した思考の中、星菜は数少ない選択肢の中で今しがた雅が抱えている思惑に当たりをつけると、彼女にそれを確認するべく問い質す。

 その問いに対して雅はニ拍ほどの間を置くと、怒らないで聞いてね?と前置きした上で言い放った。

 

「君にも、野球を諦めてほしかったから」

 

 案の定、というところである。それは星菜にとって、予想通りの言葉だった。

 その言葉だけを抜き取って聞けば、あまりにも勝手すぎる言い分であろう。しかしこの野球人生の中で雅の苦労と似たものを経験してきた星菜にとっては、純粋な善意として受け取ることが出来る言葉だった。

 

「女の子が……特に君みたいな子が野球なんて続けても、得なんて無いよ」

「………………」

 

 雅のその思いはかつて星菜に向かって中学時代の野球部の監督が言い放った言葉と同じで、身勝手ではあるが正しい言い分なのだ。

 黙り込む星菜に対して、雅は申し訳なさそうに、苦笑を浮かべながら言葉を続けた。

 

「ずっと、辛かったんだ。野球を続けてきたことで、私は辛い思いをいっぱいしてきた……。みんなを騙して、利用して、負担を掛けて……挙句の果てにこの有様だよ。こうなったら駄目だし、君にだけはなってほしくない」

 

 溢れ落ちてくるのは、世に絶望した老婆のような自嘲の言葉だ。

 それは星菜にとって――他でもない星菜だからこそ、既視感を覚える光景だった。

 

「星ちゃんには……歳下だけど私にとって誰よりも憧れだった君にだけは、あんなに無意味で無駄な時間を一年でも多く過ごしてほしくなかったから。だから言ったんだけど……はは、私ったら、とんだお節介だね」

 

 ――私がそうだったから。

 

 ――君もそうなる。

 

 ――そうなるかもしれない。

 

 ――そんなのは駄目だ。

 

 ――だから、させたくない。

 

 なるほど、これは確かに他人に言われてみると何とも腹が立つ言葉だ。あの時の六道聖はこんな気持ちだったのかと、星菜は黒紫色の髪の少女の姿を脳裏に浮かべながら苦笑を浮かべた。

 親切にも聞こえようが、主張の押し付けと言ってしまえばまさにその通りである。しかし、星菜自身も女子選手の後輩である六道聖に対して同じようなことを言った経験がある為に、星菜にはそんな雅のことを責める気にはなれなかった。

 

「星ちゃんは私にとって今でも大切な友達だから、放っておけないと思ったんだ」

 

 雅がそれだけは譲れないとばかりに、力強く言い切った。

 面と向かって友達と言われるのは気恥かしさもあったが、その気持ちは星菜にとっても心から嬉しいと思えるものだった。

 

「……私も、雅ちゃんのことは今でもそう思っているよ」

「ありがと。……あはは、この一年で一番嬉しかった言葉かも」

 

 年齢と共にお互いに性格が変わっているが、それでも昔と変わらずに友達で居たいと。星菜の気持ちを知った雅は花の咲くような笑みを浮かべ、星菜もまた雅の気持ちを知って柔和に微笑んだ。

 しかし星菜は、雅の焼いたお節介にだけはやんわりと拒絶を示した。

 

「雅ちゃん、その気持ちだけはありがたく受け取るよ。でも、私は野球を諦めない。まだまだ、野球にはしがみついていくつもり」

 

 彼女の言葉と、その意志に共感は出来る。

 正しいか間違っているのかで言えば、正しいのだろうとも思う。

 しかしそれは正しいからと言って、今更星菜の心を揺るがすことはない。

 星菜は過去を振り返りながら、返す言葉を紡いだ。

 

「諦めなきゃいけない、私はここには居られない……そんなことばかり考えて、私はずっと動けなかった」

 

 女子選手故の苦悩を、今とて星菜は乗り越えたわけではない。全てが過去のこと、終わったことだと忘れることも出来はしない。

 だがそれでも、今の星菜の心にはかつてほどの迷いは無かった。

 屈折していて、優柔不断で――そんな自分を受け入れてくれたお人好しな仲間達の姿が、星菜の脳裏に浮かんでいく。

 

「だけど私の周りには、そんな私を叱ってくれる子や、待ってくれる人、励ましてくれる人が居たんだ」

 

 そんな仲間達の優しさを裏切って、今更どうして後に退けようものか。

 退ける筈が無い。退いてなるものかと――悪い結果になることすら承知した上で、星菜が選んだ確かな道だった。 

 

「その人達のおかげで、私はやっと前向きになれた気がしたから。……だから、私は野球を続けるよ」

「でも、現実は非情だよ。そんな仲間達と過ごした君の大切な時間すらも、結局は全部が全部、無駄になってしまうんだ」

「無駄なんかじゃない!」

「星ちゃん……」

 

 星菜の心境の変化に対してあくまでも冷静な視点から指摘する雅の言葉に、星菜は声を上げて否定する。

 無駄――それは、星菜がずっと否定を求めていたことだ。努力した結果が全て無駄に終わることなどありはしないと、愚直に信じ続けたかったことだ。

 一度は信じることをやめてしまった星菜だが、今はきっと、違う。

 星菜は例えこの先、野球を続けてきた今までの時間が報われることがなくとも、それが無駄なことだったとは思いたくなかった。

 そして彼女の言う通り、自分では女子選手としての運命に逆うことが出来ないのだとしても……星菜は他の誰かに自分の野球人生を否定させる気はもう無かった。

 

「誰かに無駄だったと思われても、私だけは無駄じゃなかったって信じてみせる。だから私は、もう他人の言葉で野球を諦めるつもりはないよ。私の野球人生の終わりは、私が決める」

 

 それは星菜にしては珍しく、確固たる信念を込めて言い切った言葉だった。言いながら星菜は、自分で思っていたよりも案外心の中は纏まっているものだなと自らの心情の変化に感心していた。

 胸中から吐き出された星菜の思いを聞いた雅は残念そうに、しかしどこか嬉しそうに言った。

 

「そっか……やっぱり、君はこれからも野球を続けるんだね」

「完全燃焼するまではね。このままじゃ、諦めがつかないよ」

 

 それが、今の星菜に出せる精一杯の答えだ。

 他の何かに動かされるだけではなく、自分の意志で選ぶということ。今だけは自分の気持ちに正直に生きていくことを、鈴姫と話し合った日以来、星菜はその心に誓っていた。

 

「……雅ちゃん、貴方がこれからどうするんだとしても、自分に嘘をつくことだけはやめた方がいい」

 

 そんな星菜だからこそ、この言葉を雅に捧げた。

 

「そこまで野球に熱中しておいて、自分の心を騙し続けられるわけがないんだ」

 

 星菜がこれまでの経験で得た、数少ない教訓の一つである。

 野球を続けることが嫌になったというその気持ちが雅にとって本当の気持ちなのだとすれば、星菜にはこれ以上彼女に指図するつもりはない。しかし、その気持ちが彼女にとって不本意な感情なのだとすれば、星菜には雅の思いを否定したかった。

 やがて羽ばたいていく社会の荒波の中では、自分の気持ちに正直で在り続けることは誰にでも出来ることではない。

 だが、思うままに青春を謳歌することが出来る今ぐらいは、正直で在っても許されるべきなのだ。それが星菜と――星菜の中に居る「彼」の考えだった。

 そんな星菜の言葉を受け取ると、雅は肩の力を抜くように頬を弛緩させた。

 

「ありがとう、星ちゃん。でも……今の私は正直者だよ。色んな人を騙していた分、せめて今ぐらいは正直にいようと思ってる」

 

 星菜の思いは、無事に伝わった。

 その言葉に何を思ったのだろうか、雅は複雑そうな顔で空を仰ぎながら、小さな声で呟いた。

 

「……だから、イライラするのかな。これだったらまだ、「ボク」という仮面を着けていた頃の方がよっぽど楽だった」

 

 雲の数を数えるようにして、雅はしばらくそのまま空の景色を眺めていた。

 日の光が強くなった空の色は、朝焼け間もない暗さとは別れ、既に透き通るような青に染まっている。

 また随分と野球日和だなと思いながら、星菜もまた彼女に釣られて空を見上げてみた。

 そんな二人穏やかな時間を破ったのは、ふと思いついたように吐き出された雅の言葉だった。

 

「星ちゃん、そろそろ時間大丈夫?」

「あ」

 

 空の色が明るくなっている。それは即ち、朝日がより高く昇っているということであり――時間の経過を意味していた。

 猪狩守と遭い、雅と話し、思えばランニングの為に家を出てから一時間近く時間が過ぎてしまっている。

 間抜けなことに今更その事実に思い至った星菜は右腕に巻きつけていた腕時計に目を落とすと、その指針を見て愕然とした。

 

「っ……もう、無いじゃん……」

 

 もう、最寄りの駅から出発するバスが無い時間であった。

 竹ノ子高校の休日の練習開始時刻は八時からとなっており、基本的に朝の早い星菜にとっては本来余裕のある時間だった。七時頃に出発する自宅から最寄りのバスに乗っていけば余裕を持って間に合うようになっている為、星菜は普段から時間に追われることは皆無だった。

 しかし、既に時刻が七時を過ぎている状態ではシャワーは諦めるしかないにせよ、一旦野球用具一式を取りに帰ってから向かうにしても時間が掛かりすぎてしまう。

 仮にそれで八時に間に合ったとしても、練習開始時刻ギリギリである。それでは、もはや一年生の身分で許される集合時刻にはならないだろう。この時、星菜はマウンドで得点圏に走者を置いた状態よりも思考が纏まらず、蒼白な表情を浮かべていた。

 

「送っていくよ。私が呼び止めちゃったせいだしね」

 

 そんな星菜に対して、雅が落ち着いた表情で後方――グラウンドの最端に寄せて駐車しているオートバイへと親指を向けながら言った。

 責任を感じたのか、雅は焦る星菜へと救いの手を差し伸べたのである。

 

「あのバイク、雅ちゃんのだったの? ……って言うか、バイク乗れたんだね」

「前に居た学校の嗜みでね。バイクぐらい乗れないと、周りがうるさいんだ」

 

 ベンチから立ち上がり、雅はスタスタとオートバイの元へと向かっていく。事は急を要し、もはや彼女の好意に甘えるしかなかった星菜は、己の間抜けさを恥じながらも彼女の後に着いていった。

 

「それで、今からあれで君の家に帰って、練習場に着くまでどれくらい掛かるかな?」

「……二十分あれば、なんとか」

「OK、十五分で行こう。案内よろしくね」

「あっ」

 

 雅は自身のバイクの元に着くと荷台に括りつけていたスポーツ用のバッグからヘルメットを一つ取り出し、下手からそれを星菜へと投げ渡す。

 両手で受け取った星菜はすぐに礼を言ってそのヘルメットを頭に被ろうとしたのだが、思いがけないヘルメットの造形を見て表情を引きつらせてしまった。

 

「ヘルメット、余計に一つ持ってて良かったなぁ」

 

 ヘルメットの色は桜色。やや派手なカラーリングだが、雅の性格と可愛らしさを思えば彼女に似合う色だとは思う。星菜が問題だと感じたのはその色ではなく、あくまでもその奇抜な造形にあった。

 正面の中央部にはダイヤモンドのようなイラストが描かれており、耳あて部分にはアンテナのような形の装飾品が無意味に施されている。

 ヘルメットは頭部全体を覆うタイプのようだが、前部分に広がるバイザーは妙に鋭角的であり、ヒロイックな造形をしていた。

 これではそう――バイク用のヘルメットではなく日曜日朝に放送されているような戦隊ヒーロー物の被り物である。

 それでも見る者が見ればこれを格好良いと評価するのかもしれないが、生憎にも今の星菜にとってこれは過剰すぎる造形としか言い様が無かった。

 

「これ……被らなきゃダメ?」

「え、駄目でしょ」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 

 星菜の知る小山雅という少女のファッションセンスは同年代の子供達よりも際立って良かった記憶があるのだが……それも時が経てば変わるということなのだろう。自分のように。

 時の流れの残酷さを身に染み渡らせながら、星菜は雅から渡された戦隊ヒーローチックなヘルメットを頭に被る。嫌々ではあったが、バイクの同乗を許可してくれた上に安全の為にこれを用意してくれたのは彼女の善意である以上、感謝の意を示すことだけは忘れなかった。

 

「はは、似合ってるよ」

「……あんまり見ないでください」

「えー、折角かわい……格好良いのに」

 

 良い年こいてこのようなヘルメットを被っていると思うと、恥ずかしいことこの上ない。この場に雅以外の人間が居ないのがせめてもの救いだろう。

 そんな羞恥心と一人悶々と戦っている星菜を他所に、雅は見せびらかすように至って普通のバイク用ヘルメットを被る。それも、悪意は無いのだろう。

 

 程なくして二人の野球少女を乗せたオートバイは音を上げて発進し、河川敷のグラウンドを後にした。

 

 






 ※グラウンドを使用した後は、きちんと整備をしましょう。

 本文ではテンポが悪くなるので省略してしまいましたが、一打席勝負で荒れてしまったグラウンドの整備は猪狩兄弟の二人が華麗にやっておきました。

 次回はかなり久しぶりに原作メインキャラの丸林君が登場。主に雅ちゃんの視点で進めていく予定です。



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きっと、果たせたかもしれない約束

 

 彼女が居なくても、どこかで野球を始めていたとは思う。

 しかし彼女が居なければ、男の世界である野球に対してこうまで執念深く打ち込むこともなかっただろう。

 

 彼女の方はきっと、覚えていないのが残念なことだ。

 

 あの日、彼女と別れた時、小山雅がその後どれほど辛い思いを抱えることになったのか。

 泉星菜という存在が雅に対して、どれほど大きな影響を与えていたのか。

 

 幼少の頃の記憶というものは得てして大切なものであるが、儚く消えてしまいがちなものだ。時の流れは残酷という言葉があるように、昔は仲良くしていた友達との思い出などは精神と身体の成長と共に酷く曖昧になってしまい、夢の出来事のように忘却してしまうか、或いは都合の良い脚色を足したりなどして美化されがちなものだ。

 彼女が過ごしたであろう激動の時間を思えば、彼女が雅との思い出を昔のまま綺麗に保存しておけなかったのも無理はない。だから雅は、このことを彼女が忘れているからと言って、それを咎めようとする意思はなかった。

 だがあの日、二人がまだ小学校もまだ低学年だった頃――小山雅と泉星菜は確かに交わした筈だった。

 

『いつか、いっしょに野球しようね!』

 

 ――どこかできっと、果たせたかもしれない約束を。

 

 

 

 

 

 

 あの頃はまだ、何も苦労を知らなかったから。

 抱いた夢に対して、どこまでも純粋に追いかけることが出来たから。

 

 だが今は、今の小山雅にはそれが出来ない。あの日思い描いた未来を選ぶことなど、既に出来はしなかった。

 

(私達はもう選ばされたんだ……目の前にあるのはあれも駄目、これも駄目な現実さ。だからやめた方がいいんだよ、野球なんてものは)

 

 竹ノ子高校のグラウンドの外れから野球部の練習風景を眺めながら、雅は思う。

 遅刻寸前まで呼び止めたお詫びに星菜をバイクで送り届けたついでに、雅は竹ノ子高校野球部の練習を見学することにしたのだ。友が練習をしている姿をこの目で一度見ておきたかったし、彼女が所属している野球部のレベルも少々気になった。

 竹ノ子高校と言えば世間的にはエースの波輪風郎のワンマンチームという印象が強いが、肝心の波輪が右肩の故障によって投げられないでいることもまた雅は知っている。しかしもし彼が万全の状態で投げられるのなら、雅とて真っ先に勝負を吹っ掛けていたところだろう。

 彼もまた、雅に野球を諦めさせることが出来たかもしれない才能の持ち主だったのだから。

 

「でも、怪我なんかしちゃったら折角の才能も全部無駄になっちゃうね。本当に残念だよ」

 

 野球部が活動をしているグラウンドに、彼の姿は見えない。噂通り、やはり彼の右肩の具合は思わしくないのだろう。

 人よりも恵まれた才能を持って生まれて、相応の努力もしておきながら、思い描いたように行かない現実がそこにある。雅にはそれが実に悲しいものだと思う一方で、何とも間抜けな話だと思った。

 卓越した実力がありながらそれを生かすことの出来ないもどかしさは、どこか今の自分とも重なって見える。

 

 ……やめよう、妙な感傷を抱くのは。

 今私はここで、竹ノ子高校野球部の見学をしているのだから。

 

「……良い選手も何人か居るけど、随分と極端な野球部だね」

 

 雅がしばらく練習を眺めていると、グラウンドでは監督自らのバットによるシートノックが始まった。

 ポジション別に着いて打球を処理するこの守備練習は、わかりやすく実戦を想定したものである。そして雅の目を持ってすれば、打球処理の動きを一度見ただけでも誰の守備が上手いのか下手なのかは一目で理解することが出来た。

 雅が竹ノ子野球部の中で上手いと感じたのは、星菜を除けば三遊間とセンターの瓶底眼鏡の男だ。特にショートを守る色男の守備力は、驚愕に値するレベルのものであった。雅の守備とも遜色は無いように見え、地肩の強さで言えばあちらの方が上回っているぐらいだろう。そして高い身体能力を頼りすぎない基本に忠実なフィールディングは、個人的に雅の好みに合致していた。

 

「あれが鈴姫健太郎……星ちゃんの旦那さんか」

 

 ここに本人が居ないことをいいことに、雅は意地悪な笑みを浮かべながらそう呟く。星菜自身は否定していたが、話を聞いた限りではどう考えてもそのようにしか思えないのだから仕方が無い。

 しかし、彼女が仲の良い友人に対して男と女の仲になることを頑なに否定したがる気持ちは、雅にもよくわかっていた。何より野球のことを考えなければならない今の彼女では、「そういう気持ち」にはなれないのである。彼女ら野球少女は、女としてはどこまでも不器用な人間であった。

 

「だけどロマンのある話だよね。小さな頃から友達だった女の子と男の子が、高校生になった今でも同じ夢を追いかけて、同じ舞台に立とうとしているなんて……まるでドラマや映画みたいだ」

 

 現実はそうそうドラマや映画のようには行かないことを、雅はこれまでに散々思い知らされてきた。しかしそれでも、雅の心のどこかには彼女らのことを羨ましいと思う気持ちがあるのかもしれない。

 彼女らを否定したい思いと、応援したい思い。複雑な二つの思いが、雅の心には確かに混在していた。

 

「ねえ、君もそう思うでしょ?」

 

 このまま一人でじっと見ているだけでは、余計なことまでも考えてしまいそうだ。そう思った雅は、気を紛らわせる為に、適当に近くにいた少年へと声を掛けることにした。

 雅が声を掛けたその相手は彼女から五メートルほど横の位置に立ち、先程から静かに野球部の練習風景を眺めていた少年だった。

 

「おーい、君だよ。そこの君」

「えっ? ぼ、僕!?」

「そう、そこの丸っこい君のこと」

 

 唐突に話を振られたからか、もしくは集中していたからか。中々こちらの声に気づかない少年の元へと近寄りながら、雅が再度呼びかける。

 近づいてみてわかったが、思っていたよりも大柄な体格である。身長は180センチ近くあり、胴回りの広い体型は華奢な雅と並ぶとまるで丸太と割り箸だ。

 しかしその身体はただだらしなく太っているわけではなく、二の腕の筋肉は引き締まっており、見た目からは想像し難いがテニスでもやっているのだろうか、彼の手には幾つものマメも見えた。

 横から急に呼び掛けられる形となった丸っこい少年は慌てた様子で雅の側へと振り向くと、挙動不審に言葉を返した。

 

「ぼ、僕は本当にお似合いだと思うよっ、あの二人は。む、昔から仲が良かったし、いつも一緒に頑張ってたから……」

「ん、なに君? 君、昔からあの子達を知っているような口ぶりじゃない」

「あっ……え、えっと……」

「ああ、ごめん。急に話しかけて悪かったね」

「い、いえ、とんでもございませんっ」

 

 雅としては気まぐれに話しかけただけだが、どうやら彼は二人とは昔からの知人らしい。

 しかしまあ何とも大柄な見た目に反しておどおどした態度である。雅が前に居た「ときめき青春高校」には居なかったタイプの男子であり、雅にとってはなんだか新鮮な気分であった。

 同級生かなと思って話しかけたのだが、こう見えて歳下の一年生なのかもしれない。尤も今の雅は、例え相手が先輩であろうと自身の態度を変えるつもりはなかったが。

 

「昔から野球が上手かったでしょ、女の子の方は」

 

 客観的に見た自身の親友の評価等、少々気になった雅は彼に問い掛ける。答えないならそれでも構わなかったが、数拍の間を空けたものの彼は律儀に答えを返してくれた。

 

「は、はい。泉さんは小学生の頃から、何でも出来ました。どこを守っても僕より上手でしたし、僕よりもずっと、ずっと凄いピッチャーでした……みんなやっつけて優勝したんです」

「あの頃の敵は猪狩兄弟しか居なかったって、あの子は懐かしそうに言ってたね。過去の栄光というのはよくある話だけど、本当に残念だよ。あの子が男の子でさえあったら、今でも猪狩君と比べられるレベルだったろうに」

 

 リトル時代の星菜がいかに優秀な選手だったかは、本人の口からも思い出話として聞いている。

 そして彼の話を聞く限りでは、客観的に見ても当時の彼女は相当に高い次元にあったのだろう。それが過去の話で収まってしまうことは、彼女の友人として寂しく思えた。

 

「い、今でも!」

「ん?」

 

 グラウンドで皆と共にノックを受けている彼女の姿を眺めながら感傷に浸っていると、雅にとっては思わぬところで少年の言葉が割り込んできた。

 

「今でも、泉さんは凄いです! 女の子なのに、野球が上手くて……僕とは違って、ずっと諦めないで頑張っていて……っ」

 

 まるで彼女の努力を知っているような口ぶりで、彼は声を荒らげて言った。

 その言葉からにじみ出ている感情を、雅は知っていた。それはどこか、今の自分が抱いているそれと通ずるものがあったのだ。

 それは、持たざる者による持つ者への渇望――自分には無い物を持っている存在に対する憧憬、或いは嫉妬か。

 雅はそう言った感情を察知する感覚には、昔から優れている方だ。丸っこい少年の方も、今は自らの気持ちを隠す気は無いようであった。

 しかしたったここまでの会話だが、雅には何となく彼の素性を推測することが出来た。

 

「君はもしかして、丸林隆って名前かい?」

「えっ? どうしてそれを……」

 

 これも思い出話として、星菜から聞いた話だ。

 星菜が小学生時代に所属していたチームには、自分以外にもとても優秀な投手が居たと。

 その子の名前は丸林隆。星菜にとってはエースの座を争ったライバルであり、誰よりも頼りになる抑え投手だったと。

 そして雅はその投手のことを、多少の情報ならば星菜から聞く以前からも知っていた。

 

「どっかで見たことある顔だなと思ったけど、いつだったか前に見た新聞の写真だ。丸林隆……確か、中学軟式の準優勝投手だったっけ」

「ぼ、僕のことを知ってるんですか?」

「私、記憶力は良い方なんだ。興味のあることはそんなに忘れないよ」

 

 細かいところまでは覚えていないが、彼のことはどこかの新聞紙で少し話題に挙がっていた記憶がある。

 中学生ながら最速140キロに迫る剛速球を誇り、軟式球ながら変化球の切れ味も抜群。あかつき大附属や帝王実業高校等甲子園常連の名門校からも注目されるスーパー中学生だったという情報に、雅は目を通した覚えがある。

 写真で見た顔も目の前にある丸っこい特徴的な顔だったからか、何となく印象に残りやすかったのも覚えていた理由の一つだろう。違っていたら少し恥ずかしいが、彼の反応を見る限り雅の推測は正しかったようだ。

 

(奇妙なもんだね……)

 

 星菜の練習を見に来たら、かつて星菜と共に野球をしたチームメイトと出会い、そのチームメイトは中学時代に名を馳せた好投手だったとは、人の縁とは奇妙なものである。

 さらに言えばこのような小さな高校に、その二人が共に入学していたこともまた奇妙だった。星菜に鈴姫健太郎に丸林隆、同じリトルに所属していた三人が中心となって甲子園を目指せば、それはそれはさぞ面白い青春物語となっただろうにと、雅は有り得たかもしれない光景を想像し、苦笑する。

 しかし現実として彼が今野球部の練習に混じっていないということは、つまりはそういうことなのだろう。

 

「でも、そんなどうでもいいことはもう忘れることにしたよ。あのピッチャーは今どこの高校でやっているんだろうなって考えたこともあったけど、君はもう野球をやめたみたいだし、興味もすっかり無くなったから」

「っ……」

「無様なもんだね。そうやって、野球をやめた癖に未練たらたらな目で野球部の練習を見ている気持ちは、私にはとても理解出来ないよ」

「だって……だって僕はっ……」

「もしかして、高校でも自分のエラーでチームに迷惑をかけるのが怖いのかい? 怪我とか、単純に野球がつまらなくなったのがやめた理由なら仕方が無いけど、それが理由だったらちょっと笑っちゃうね。そもそもメンタルが野球に向いていなかったとしか言い様にない」

「……! そ、そのことも知ってるんですかっ?」

「あれ、ビンゴだった? はは、馬鹿馬鹿しい。そんなしょうもない理由で野球がやれないんだったら、君のチームメイトだった人達はさぞや満足だろうね」

「……っ……あ、あなたに何がわかるんですか……!」

「そうだね、わかりたくもなかったよ」

 

 雅の記憶している新聞の情報では、丸林隆の率いるチームは決勝戦で、優勝まであとワンアウトのところで逆転負けを喰らい、惜しくも敗北を喫していた。その逆転負けの引き金となったのは投手丸林自身による痛恨の悪送球である。

 エラーがトラウマになって、野球が怖くなったのではないかと――雅の言った言葉は大した根拠もない質問だったのだが、勘が良いことにどうやらこちらも的中してしまったらしい。

 彼の立場からしてみれば、名前も知らない初対面の人間に自身のトラウマを心無く抉られるという実に迷惑な話だ。

 雅としても、この時は何故そのような言葉が己の口から出てきたのかすぐにはわからなかった。

 彼と自分は初対面の人間同士であり、彼が何故野球部の一員としてあの場に居ないのかなどは本来聞いてどうにかなる話でもない。

 あ、そうなんだ、と――たったそれだけで、雅は彼との会話を切り上げれば良かったのだ。

 しかし今の雅の心には、そう出来ない理由があった。

 

(こいつは私達とは違って、いつでも舞台に上がれる癖に……!)

 

 心に沸き上がっているこの苛立ちだ。

 苛立ちの理由は、持たざる者が抱く「持っている癖にそれを使おうとしない者」への深い嫉妬心である。

 誰が自分の道をどう選び、何を思おうとそれは個人の自由の筈だ。しかし赤の他人である雅がそれを指摘し、あまつさえ頭ごなしに否定することは、もはやエゴの押し付けでしかないのかもしれない。

 彼とて彼なりの理由があって、野球部には入らなかったのだろう。初対面の名前も知らない人間に対して、あれこれと言われる筋合いは無い筈だった。

 

「ぼ、僕は……!」

「……ごめんね、名前も知らない女の子にそんなことを言われる筋合いは無いよね。悪かったよ」

 

 何か一つ、苦し紛れのように言い返そうとした丸林少年に対して、冷静になって自らの発言を省みた雅が頭を下げる。

 雅とて、頭の中では自分の心情が無茶苦茶であることはわかっているのだ。しかしその気になればいつでも舞台に上がれる丸林隆とは違って、舞台に上がろうとしても不可能だという現実を突きつけられた人間である雅には、冷たい言葉の一つも言わずには居られなかった。彼に対して、苛立ちを感じずには居られなかったのである。

 

(……本当に何様のつもりなんだろうね、私は)

 

 どうかしている。

 自分自身で思っていた以上に、小山雅という人間は歪んだ性格になっていたのだ。

 そんな彼女に比べて、丸林隆はその体格に反して随分と温厚な人間らしい。いや、この場合は温厚で助かったと言うべきか。彼が少しでも気の強い人間だったなら、この時雅に対して激昂し、一つ間違えれば手を上げていてもおかしくはなかった。

 尤も気が強かったら今頃はこんなところには居らず、グラウンドの中で野球部の一員として励んでいた可能性の方が遥かに高いだろうが。

 

「あなたは一体、なんなんですか……?」

 

 近くに居たからって、適当に話しかけたりするんじゃなかった。苛立ちと自己嫌悪と呆れからそう後悔する雅に対して、丸林少年が至極まともな質問を浴びせてきた。

 それに対して雅は、先ほどの発言の侘びも兼ねて正直に答えることにした。

 

「私は小山雅。君と同じで、最近まで野球選手だった人だよ」

 

 自嘲の表情を浮かべながら、雅は視線をグラウンド内へと戻す。

 丁度その頃、彼女の無二の友であり、今でも現役の野球選手である少女がフリー打撃のマウンドに上がっているところだった。

 

 程なくして、彼女がその投球を雅の目に披露する。

 

 細腕から投じられる曲がりの大きく切れ味の鋭い変化球、遅い球速ながらも正確無比な制球力に、雅は七割の感心と一割の同情、そして二割の落胆を抱いた。

 

 ここからでは距離が遠い為に少々わかりづらいが、今も諦めずに野球選手としてあの場に居る彼女の投球は、正直言って当初の予想よりも上回っていたと言えよう。

 打者の反応を見る限り、確かにあれならば高校野球界でもある程度は通用するのだろう。華奢で可憐な身の少女が屈強な高校球児達をバタバタと切り伏せていく光景は、傍目から見る分には圧巻ですらあった。

 彼女自身は嫌がるだろうが、雅はここまで自分の投球スタイルを極めたその努力に惜しみない賞賛を浴びせたいと思うし、気持ちとしては今すぐ抱き締めて褒めてやりたいぐらいだ。

 

 「自分の野球人生の終わりは自分で決める」と、そう言うだけの実力は確かに備わっているのだろう。

 ならば……ならばこそ雅は、彼女に挑むことに躊躇いは無かった。

 

(よし、やるか)

 

 フリー打撃で誰一人としてヒット性の当たりを打っていないところを見れば、彼女の実力が期待以下でないことはわかる。

 早朝の出来事さえなければ、雅はこの時点で「エース破り」の「野球マン」として彼女に勝負を仕掛けていたところだろう。

 しかし雅があえてそうしなかったのは、早朝に星菜が猪狩守に対して堂々と言い放った一言が要因だった。

 

『貴方と勝負をするなら、私は勝ち負けに言い訳の余地を作りたくないのです』

 

 負けず嫌いで意地っ張り。他人を振り回すのが大好きな癖に、中々責任を取ってくれない。まさしく雅の知るままの星菜と同じあの言葉が、雅に今この場で勝負を仕掛けることを善しとしなかった。

 

「ふふっ」

 

 雅は懐から、おもむろに携帯電話を取り出す。

 そして宛先の名に「大空監督」と書かれた文字を選ぶと、彼女は躊躇うことなく発信ボタンを押した。

 

「丸林君、君は物事への未練を綺麗に無くすには、どうするのが一番いいと思う?」

「え?」

 

 スピーカーの向こう側にて、通話相手を呼ぶコール音が一回、二回と鳴り響く。

 この時間では、あちらも竹ノ子高校と同じく練習の真っ最中だろう。すぐには電話に出られないことは、雅もわかっている。

 故に、雅は粛々と待ち続けた。

 

「私はね。いつまでも未練を抱き続けるような綺麗な思い出を、全部壊してしまうことだと思うんだ。野球なんてもう懲り懲りだ、もう二度とやりたくないってぐらい、思い出すのも嫌な記憶にしてしまえばいいんじゃないかってね」

「な、何を言って……」

 

 丸林少年の表情筋が引き吊っている様子が、目に見なくてもわかる。今の自分はきっと、狂った悪人のような顔をしていることだろう。

 その間にも、携帯電話のコール音は通話の相手を呼び続ける。

 

「私は君みたいに、いつまでもウジウジしたくないからね……思い残すことがないように、私はこの思い出を壊すことにしたよ」

 

 六回、七回、コール音が八回目に到達した時、雅の望む相手が遂に着信の手を取った。

 

 最初に聴こえてきたのは、「もしもし、久しぶりじゃな。元気か?」と言ったこちらのことを気遣うような言葉であり、年老いた老人の声音だった。

 彼の名前は、大空 飛翔(おおぞら ひしょう)。かつて雅が所属していた、ときめき青春高校野球部の監督である。

 

「練習中なのに、どうもすみません。実は私から監督と、野球部のみんなにお願いしたいことがあるんです」

《なんじゃ? そうか、戻ってくる気になったのかえ》

「……相手は、竹ノ子高校で」

《む……?》

 

 言い放った途端、相手側が息を呑む様子を雅は察する。

 雅は冷たく、凍りついた眼差しを浮かべながら淡々と要件を話す。

 二度と野球をしないと決めなければ決して口に出すことが出来ない、強い覚悟を込めた言葉を。

 

「私に、最後の試合をさせてください」

 

 自分自身に最後の舞台を用意する。

 どこまでも自分勝手に。心の仮面も全て脱ぎ捨てて。

 利用出来るものは、全て利用してみせる。かつて友人だった人達に嫌われても、雅には構わなかった。

 

 ――そうして彼女は、自身の「引退試合」の開催を、かつての監督に承諾させた。

 

 

 

 

 

 

 勝負をするのなら、言い訳の余地を作りたくない。

 ……ああ、流石は心の通じ合ったかつての親友だ。こういう部分では、昔からよく気が合ったことを思い出す。

 

 雅の方も同じだ。自分の心に決着をつける為の舞台に、言い訳の余地など作りたくない。だからこれは、これだけは雅にとってどうしても必要な準備だった。

 

(そうさ……私は私に野球を始めさせた君を倒して、野球への憧れも、君への憧れも全部無くしてやる!)

 

 それはこちらの勝手な事情に彼女らを巻き込むことを意味するが、彼女らにだって利はある筈だ。後ろめたい思いなど、今の雅には欠片も無かった。

 

「ふふ、一緒に野球をしようじゃないか……私達は友達だからね!」

 

 マウンドに立つかつて自身の目標だった少女の姿を見据えながら、雅は哄笑を上げる。

 

 ――最高潮の気分の中で何かが軋む音を感じたが、雅にはそれすらもどうでも良かった。

 

 

 

 



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金色の野球少女の最期

 

 一日の練習が終わり、帰宅しようとバス停まで向かおうとした矢先のことである。

 ピリリッと携帯電話の音が鳴り響き、星菜は発信先の人物の名を確認した上で通話ボタンを押した。

 着信元の名前は小山雅。先日に連絡先を交換し合った、金髪の友人からの電話だった。

 

「引退試合?」

 

 そして、星菜は聞いた。

 星菜の身にも関わる、彼女の今後の話を。

 

《そう。そっちの監督が断らなければ、明後日、私の居るときめき青春高校が君達と試合をすることになる》

 

 野球部の予定である。

 行うのは九月の始まり。丁度、夏休み最後の日だ。

 雅が言うには彼女が所属していたときめき青春高校が、竹ノ子高校に対して練習試合を申し込んだとの話だった。

 

《私にとっては、それが最後の試合になるね》

「……そっか」

 

 そして、彼女は語った。

 雅はときめき青春高校からの転校が決まっており、既に野球部からも退部している身だが、今回だけは特別に練習試合に帯同することを許されたのだそうだ。

 言うならばこれは、彼女にとっての引退試合。小山雅が野球人生の最後の相手として、星菜達竹ノ子高校野球部を指名したというわけだ。

 

《でも君達は、ただの練習試合の一つと思ってくれればいい。引退試合だと思ってやるのは、私だけだから》

 

 かつての友の引退試合と言うと星菜は何とも気を張ってしまうが、雅からしてみれば普段通りで構わないとのことだ。

 彼女はただ自分の野球人生の終わりに、星菜と正々堂々、本気で勝負をしたいのだということだけを告げてきた。

 

「気を遣わずに、本気で来いと?」

《うん。まあ、嫌でも私が君を本気にさせるんだけどね》

 

 急な話ではあるが、星菜には今の彼女の心境に対して、理解することも納得することも出来た。

 彼女は既に野球をやめたと言っていたが、まだ心のどこかには執着心が残っているのだろう。だから最後に自分の望んだ相手と試合をすることによって、心の中から思い残すことを完全に無くしておきたいのであろう。

 ……引退試合一つでそれが出来るとは星菜には思えないが、星菜も友人として、少しでも彼女の助けになるのならば彼女との勝負を歓迎したいと思った。

 

「……わかった。万全な状態で待っているよ。まあ、出番があるかはわからないけど」

《あるさ。なくても、私が無理にでも引きずり出す》

 

 尤も彼女側の申し出を竹ノ子高校監督の茂木が引き受けてくれるかはわからないが、もしも渋るようならば自分の方からも頼んでおくと、星菜は雅に伝える。

 しかし星菜は、茂木がときめき青春高校との練習試合を断るとは思っていない。合宿の際に試合をしたことがあるからこそ思うが、朱雀南赤、青葉真人の二人の好投手を擁するときめき青春高校との試合からは、こちらもまた間違いなく得られるものは大きいと感じていたからだ。

 竹ノ子高校からしても、ときめき青春高校との試合は何度やっても美味しい経験になるのである。あくまでも理屈としては、試合をすることに関しては何の問題もないのだ。

 

《じゃあ、また明後日》

「うん、またね」

 

 雅はただそれだけを言って、通話を切った。

 電話中の彼女は話の内容は至って簡潔であったが、どこか引っかかる態度をしていたと星菜は思った。

 

「雅ちゃん……」

 

 彼女の声が、冷たかった。

 淡々としていたと表現するよりも、冷たいと感じたのだ。

 電話から聴こえてくる声にはまるで能面のように感情が篭っておらず、感情豊かな本来の彼女の姿を知っているからこそ、星菜は通話中の彼女に違和感を覚えた。

 

(緊張しているのかな? 何だか、様子がおかしかった気がする……)

 

 予定通り行けば、明後日は彼女にとって最後の試合――引退試合になる一戦だ。それ故に、彼女の頭では思うことが多すぎて混沌としているのかもしれない。いずれにせよ、先ほど自分が話した相手は小山雅であって、星菜の知っている彼女ではないように感じた。

 しかし一つ言えるのは、彼女は明後日の練習試合に対して並々ならぬ思いでぶつかってくるということだ。

 

「ときめき青春か……」

 

 星菜は合宿で一度試合をした、ときめき青春高校というチームのことを思い出す。

 竹ノ子高校と同様に部の活動歴が浅いという事情も含めて、どこか竹ノ子高校と似た雰囲気のあるチームだった。しかし個々の選手が秘めているポテンシャルは明らかに竹ノ子高校のそれを凌駕しているように感じ、特に二枚看板の青葉、朱雀の実力は現時点でドラフト候補に名を連ねるレベルのものと思えた。

 投手力は既に名門校レベルであり、実際竹ノ子高校の打線が手も足も出なかったのも無理はないだろう。欠点を言えば打線がまだまだ発展途上と言ったところであり、個人のセンスはあるがチームとしてそれを生かしきれていないというのが実際に対戦をした星菜からの評価だった。

 もう一度彼らと勝負をしても、星菜には抑える自信はある。しかしあの打線に小山雅が加わると考えると話は変わり――久しぶりに、星菜は武者震いを覚えた。

 

「何の電話だったんだ?」

 

 そんな星菜を隣に見て、不思議がった鈴姫が訊ねてくる。

 遺恨を断ち切って以降は元々家が近いこともあり、星菜は彼とこうして一緒に帰ることが多く、近頃はかつてもそうであったように星菜の中では彼が隣に居ることがごく自然になっていた。

 友人の奥居亜美を始めとするクラスメイト達からはそんな光景を見るなり二人が付き合い始めたのだと誤解されたこともあったが、鈴姫の方からは一切否定しないものだから質が悪かった。

 閑話休題。携帯電話を懐にしまった後、特に隠す必要もなかった為、星菜は彼の質問に正直に答えた。

 

「明後日、ときめき青春高校と練習試合をするかもしれないってさ」

「ああ、またあそことやるのか……さっきの電話、川星先輩だったのか?」

「違うよ。ときめき青春高校の選手からの電話」

「は?」

 

 ときめき青春高校のことは彼も合宿を通して知っている為、今更説明する必要はない。

 しかしかの学校の選手達の風貌を知っているからこそ、鈴姫は眉間にしわを寄せて、怪訝そうな表情で問い詰めてきた。

 

「……誰だ? あのチャラい奴か? そう言えば試合が終わった後、奴に何か声を掛けられていたな」

「え? あー……ときめきはときめきでも、()ときめき青春高校の生徒だよ」

「元?」

 

 彼としては、自分の知らないところで星菜が他校の男と連絡先を交換していたことが面白くないのだろう。実際には違うのだが、執拗にこちらの通話相手の素性を知りたがる様子はどうにも滑稽で、星菜には可笑しく思えた。

 

「おいおい、お前の反応、なんかドラマに出てくる面倒くさい彼氏役みたいなことになってるよ?」

 

 彼をそのように嫉妬深く、不器用な男にしてしまった責任の一端は星菜にもあるが、正直言って見苦しい。

 しかし言い換えればそれだけ彼がこちらのことを想っている証でもあり、悪い気はしなかった。

 そんな心情の星菜に心外な揶揄をされた鈴姫はと言うと、一つ溜め息をついて言った。

 

「……そうにもなるさ。君は警戒心が強い方だけど、一度身内に入れた相手には甘いところがあるからな。まあ、俺はそれに助けられたんだけど」

 

 その言葉に、星菜は立ち止まって考えてみる。

 星菜としては特別そう意識しているわけではないが、確かに客観的に見ると自分にはそんなところがあるのかもしれないと思った。修復するまでに多くの時間は掛かったが、身内への甘さゆえに何だかんだで鈴姫との友情を捨てきれなかったのもまた事実である。

 しかし、それではまるで……

 

「……それ、私がまるで人見知りの猫みたいじゃないか」

「言い得て妙だな。まさにそんな感じだ」

 

 自分は猫と一緒か……と星菜にとっては不本意な分析に微妙な表情を浮かべる。

 いつぞやの早川あおいからも同じように例えられたことを思い出し、さらにげんなりする。

 

「まあ、そんなことよりもさっきの電話は誰からだったんだ?」

「……さっき私が話していたのは、可愛い可愛い女の子だよ。前に話したでしょ? 小山雅っていう、昔からの友達なんだ」

 

 話を戻し、星菜は先ほどの通話相手の素性を述べる。

 彼女のことは、一応前に鈴姫にも話している。故に鈴姫も合点がいったようで、納得の表情を浮かべた。

 

「君が俺と出会う前の、向こうの小学校に居た頃の友達だって言っていたな」

「うん、仲良かったよ。よく二人で遊んだ」

 

 そう、小山雅は星菜にとって昔からの友達だ。

 一つ歳上ではあるが家が隣同士だったことからいつも一緒に居て、勝手に遊びに連れ出しては彼女の親に怒られていた記憶がある。

 星菜としては、今でも彼女のことは友達だと思っている。彼女との友情は、時間の経った今でも忘れたことはない。

 

 ……忘れていない、筈である。

 

 しかし何かが、この心に引っ掛かっているような気がした。

 覚えている筈なのに、大切な何かを忘れているような気が――。

 

 

 

 

 

 

 そして、翌日。

 練習の開始時刻にグラウンドに現れた茂木林太郎が部員達一同を集合させると、彼はいつにも増して気だるげに言い放った。

 

「明日、またときめき青春高校と練習試合をすることになった。んで、場所はここでやる」

「またでやんすか。オイラとしてはいい加減もっと弱いところとやりたいでやんす……」

「弱気なこと言うなよ。でも、確かにあそこのピッチャーは反則だぜ……」

「フハハ! リベンジの機会ですね! あの時は力の差を感じましたが、その差は埋める価値のあるものだと思っています」

 

 ときめき青春高校との二度目の練習試合の話は、星菜の予想通りトントン拍子に運んでいったようだ。

 夏の大会が終わり、秋の大会が近づいている今、練習試合は何度行ってもこちらに損は無い。それが手の内を知られても然程問題のない他県の高校が相手となれば尚更のことである。

 監督の茂木からしても、ここで夏休みの修めとして試合の予定を組むことに異存はなかったようだ。

 しかしやはり急な話だった為か、彼個人の準備としては少々問題があったらしい。

 やや申し訳なさそうに、茂木が頭を掻きながら一同に言った。

 

「試合をすることになったんだが、俺にはちょっと外せない用事があってな。明日は帯同してやれない」

 

 そう言い放った茂木を責める者は、おそらくこの場には居ないだろう。

 そもそも夏休みの終わりになって、急に練習試合の申請が来たのだ。野球部の監督であり、社会科教師でもある茂木にもまた外せない用事があることは、至極まともな話だった。

 

「……それって、何が問題なんでやんすか?」

「お前、明日ベンチな」

「じょ、冗談でやんすっ! 監督が居ないとオイラ達超困るでやんす!」

 

 監督が明日の不在を宣言したことによって六道明や鈴姫等の真面目な部員達が渋い表情を浮かべ、副主将の矢部明雄や池ノ川貴宏らが俄かに笑みを浮かべていたのは、きっと星菜の気のせいではないだろう。

 だが練習試合の一試合程度ならば彼が居なくても行えるという意見も、あながち間違いとは言い切れない。

 幸いにして竹ノ子高校野球部には川星ほむらというどこに出しても優秀なマネージャーが居り、星菜自身もある程度の補佐を務めることは出来る。そして何よりも、試合中はこのチームのことをよく理解している上で、確定的に暇を持て余している人物が一人居ることが大きかった。

 

「……俺の顔になんか付いてる?」

「いえ、気のせいでした」

 

 怪我の状態が悪く、初めから試合に出る予定の無い野球部主将の顔から視線を外すと、星菜は再度茂木の方へと目を移す。

 監督の代行は、彼に任せれば問題無いだろう。茂木もまた、星菜と同じことを考えているようだった。

 

「そんなわけだから、明日は頼んだわ、キャプテン。必要事項のメモはマネージャーに渡しておくから、後はお前が勝手にやっといてくれ」

「あ、はい!」

 

 それは本人の実力もさることながら、日頃の練習態度も評価されているからこそだろう。

 茂木は特に悩む素振りも無く、波輪風郎に対して自身の代役を任命した。

 命じられた側である波輪と言えば、こちらは予想以上に乗り気な様子だった。

 

「よっしゃ、プレイングマネージャーだ! 一度やってみたかったんだよなこれ!」

「……言っておくが、試合には出るんじゃないぞ? ギプスは外れたって言っても、まだリハビリメニューの途中なんだからな」

「わかってますって。怪我人は大人しくしてますよ」

「どうだか……六道、ないとは思いたいが、コイツが率先して変なことしたら副キャプテンのお前が止めるんだぞ?」

「勿論、そのつもりです」

「あれ? 副キャプテンってオイラじゃ……」

「矢部君が一番心配ッスからねぇ」

 

 優秀なキャプテンと、マネージャー様々である。

 監督の不在という予定外はあったが、とりあえずは練習試合を拒否されるという事態にはならなかったようで、星菜は安堵の息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ときめき青春高校。

 

 甲子園の常連校である強豪校、激闘第一高校と地区を同じくするその学校のグラウンドには、七月以来登校を拒否していた一人の野球部員が初めて姿を見せていた。

 小山雅――七月までは男子生徒としてこの学校に通っていた、野球部所属の「少女」である。

 夏休みも残り僅かとなった今になって唐突に部に帰ってきた彼女のことを、部員達は皆戸惑いながらも受け入れてくれた。

 ときめき青春高校の野球部員達は誰も彼も人相の悪い者ばかりであるが、こと身内に関しては熱い信頼を寄せ合っている。その校名の通り、彼らは明日へときめく高校球児達であった。

 

「ありがとね。わざわざ私のわがままに付き合ってもらっちゃって」

 

 日が暮れて、一日の練習時間が終えた後、雅は改めて彼らに礼を言った。

 雅としては彼らの人柄からこうなることは始めから予想していたが、自身の「引退試合」に快く付き合ってくれることに対する感謝の気持ちは確かに存在していた。

 本当の性別が女だと知れ渡った今でさえ、彼らはかつての仲間として雅のことを認めてくれる。彼らの懐の広さにもっと早く気づいていれば、もっと色々と、他にすることが出来たのかもしれない。しかしそう考えたところで、雅にとっては全てが後の祭りだった。

 

「まっ、気にすんなよ。お前には世話になったしな」

「臣下が有終の美を飾りたいと言っているのだ。応えてやらねば王の器が知れるというものよ」

 

 雅の礼を受け取り、そう返すのは主将の青葉真人と副主将の朱雀南赤だ。雅と彼らは、ときめき青春高校に野球部を復活させようとした一年生の頃からの仲間――友達だった。

 ……恐らくは、他の誰よりも雅のことを心配していたのも彼らであろう。決して口には出していないが、雅には何となくその気持ちが伝わっていた。

 

「にしても雅ちゃんも冷たいッスよ~。黙って居なくなっちゃうなんて、俺っちもう会えないと思ったッスよ!」

「悪かったよ。ごめんね茶来君。私にも、色々と思うことがあったんだ」

「ふふーん?」

 

 雅が久しぶりに部の練習に混ざって思ったことだが、誰よりも以前との変化が見えないのがこの茶来元気という男である。

 その名の通り「チャラい」風貌の彼は、雅に対して以前と変わらない気安い口調で話しかけてくると、本人の自覚は定かではないが雅と他の部員達との関係を上手いこと取り持ってくれたのである。

 尤も雅としては野球部の仲間が自身の復帰を受け入れようと受け入れまいと関係なく、我が物顔で試合に出るつもりであったが。

 

「なんだい? 珍妙な顔して」

「いや、雅ちゃんが自分のことを私って言うの、案外違和感無いなぁって思ってさ」

「こっちの方が素だからね。別に私だって、好きで僕っ娘をしていたわけじゃないよ」

「ふぅん……でも今だから言えるケド、別に演技なんかしなくても良かったッスよ? 俺っちやミヨちゃん、鬼力っちなんかは雅ちゃんが女の子だってこと、とっくに気づいてたし」

「ああ、やっぱりバレてたんだ」

「ま、バレバレっしょ。今だから言えるけど、どう考えても君の男装には無理があったし」

 

 今日一日における茶来の態度には、あまりの変わらなさに違和感すら感じたものだが、やはりそういうことかと雅は納得する。

 何人かは雅が女の子であるという事実に動揺したりそわそわした反応を見せたものだが、彼は以前からこちらの男装に気づいていたのだ。

 今でなければその事実に雅は慌てていたことだろうが、全てがバレてしまった今となってはもはやどうでも良いことだ。ただ雅の心に反省として残るのは、男装などという無理なことは始めからするものではなかったという教訓ぐらいである。

 

「朱雀、お前は気づいてたか?」

「……黙秘する。貴様こそどうなのだ青葉よ」

「俺、全然気づかなかったぜ。単純だな、俺ら」

「貴様と一緒にするでない」

 

 そんな小声に、雅は思わず噴き出しそうになる。我ながら拙い男装であったが、部員達の中で最も付き合いの長い二人には隠し通せていたようだと妙な安堵を覚えた。

 しかし彼らのようにこちらの言葉を疑わずに信じてくれる仲間が居てくれたからこそ、短い間であったが夏の大会まで野球を続けることが出来たのかもしれない。

 そう思うと、純粋な彼らを騙し続けてきた自分自身への嫌悪感と罪悪感に苛まれる。雅には到底、感傷を抱かずには居られなかった。

 

「ま、まあ、みんな何だかんだでお前のことはこれからも仲間だと思ってるからさ。明日は気負わず楽しんでいけよ」

 

 照れ臭そうに鼻先を掻きながら、青葉が雅に言った。

 ……心の温まる、何とも優しい言葉だ。

 それはきっと、今の今までずっと欲しかった言葉なのかもしれない。 

 

(……本当に、相変わらずだ)

 

 ……だが。

 

「それは、出来ないよ」

「ん?」

 

 彼らが自分のことを今でも野球部の仲間として受け入れようとしてくれても。

 雅自身には、そんな自分を受け入れることが出来なかった。

 諦めたがっているのだ。この心は。

 しかしそれでも完全に燃え尽きていない自分に満足出来ないから、いつまでもしがみついている。

 

「宿命のライバルっていうのかな? 竹ノ子高校には、どうしても勝ちたいピッチャーが居るんだ。波輪風郎よりも、ずっとね」

 

 それが、雅の執着の理由だった。

 

「それってもしかして、泉星菜って子か?」

「あのヤバめっちゃ可愛い女子投手のことッスね! 合宿で試合をしたからよく覚えてるッスよ」

「……なるほどな」

 

 この執着を断ち切らない限り、きっと雅は前に進めない。

 そして断ち切る機会を、彼女との再会が与えてくれたのだ。

 

「そうだよ。実は私が野球を始めたのも、その子がきっかけなんだ」

 

 ――何よりも重い執着の原因となった、他でもない彼女が。

 

(……全ての元凶は、君だった。ああ、早くやりたいな……私をこんな女にした責任を取ってもらうよ、泉星菜)

 

 彼女を倒す。

 完膚なきまでに。

 たったそれだけのことでこの醜い執着は完全に消え去るのだと、雅はその心に信じて疑わなかった。

 

 

 

 ――そして次の日、小山雅の最後の野球人生が始まった。

 

 

 

 



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ホシナミヤビ

 

 

 しなやかなアンダースローから投じられた白球が、鋭い回転を上げて地面へと落ちていく。

 早川あおいが投手として絶対の自信を持っていたのがこの「シンカー」である。キレ味は鋭く、変化量も大きい。そして右打者の内角低めから狙った位置にボールを落としていく制球力も正確であった。

 そんなシンカーを危なげなくショートバウンドで捕球した小波が、両手でボールの土を拭きながら言い放つ。

 

「あおいちゃん、今日はここまでにしよう」

 

 この日、延々と投げ込まれてきた彼女のボールの数は既に180球は超えているだろう。上を見上げればつい先ほどまで昼間だった筈の空は茜色に染まっており、そんな空がこれまでの投げ込みに集中していた彼女に時間の経過を思い出させてくれた。

 

「まだ……あと十球!」

「駄目だ。いくらなんでも投げすぎだよ。昨日だって150球以上投げているんだから」

 

 一心不乱にボールを投げ続けるあおいに対して、捕手でありながらも彼女のストッパー役でもある小波は冷静な判断を忘れなかった。

 あおいが人一倍努力家なのは知っているし、そも彼を含む野球部の皆はそんな彼女の美徳に魅かれて集まってきた男達ばかりだ。しかし、何事にも限度というものがある。彼女が何を目指してこうして投げ込みを行っているのかはもちろん理解しているが、それでもこれ以上のオーバーワークは許容できなかった。

 

「じゃあ後五球だけ投げさせて! お願い……! あと少しで掴めそうなの!」

「掴めそうって……疲れでフォームが崩れ始めているのにかい?」

「それは……っ」

「そのフォームでもコントロールを大きく乱さないのは流石だよ。正直、僕は今まで君のスタミナを侮っていた。だけど、過ぎたるは及ばざるがごとしだよ。練習の為の練習をしたって意味が無いんだ。どんなに上手くなっても怪我をしたら元も子もないんだし」

 

 あおいの方とて、これ以上の投げ込みが過度な練習だということは疲労で重くなった右肩から理解している筈である。

 しかし、感情の部分が彼女にそれを認めさせなかった。小波の指摘に返す言葉を言い淀んだ後、彼女は苛立ちを募らせた表情から怒気を込めて言い放った。

 

「今さらっ! 怪我なんか怖くない! つべこべ言わずさっさとボールを渡しなさい!」

 

 それは、彼女の中で積み重なっていたこれまでの感情が爆発した結果でもあった。

 一向に先行きの見えない女子選手の立場に、先日出会った野球マンのこと。望んだ成果を得られない練習の日々。……これまでがずっとそうであったように、一向に思い通りに行く気配のない現状にあおいは叫んだ。

 

「私なんか、怪我したって関係ないじゃない! どうせ……! どうせ私は……試合に出ないんだから……っ!」

 

 彼女とて、焦っているのだ。

 恐れてもいた。

 このまま一向に改善の兆しが見えないまま、運命に従って野球から離れていきそうな未来が怖かった。そんな自分に変わってしまうことを、あおいは心の中で恐れていたのだ。

 泉星菜という同じ志を持つ後輩の前ではそう言った自分を見せない彼女であるが、元来早川あおいという少女は冷静な人間ではなかった。

 

 しかし、彼女のボールを受ける小波は今ここでその感情をぶつけてくれて良かったと思った。

 彼女の今の態度は子供のような八つ当たりにしか過ぎないだろう。しかし、吐き出せばその分楽になる。またそこから始められる。

 なまじストレスを溜めに溜めた結果最悪なところで爆発させてしまった幼馴染が居るだけに、小波には彼女までもそんな目に遭ってほしくなかった。

 

「……投げやりなこと言わないでくれ、あおいちゃん。誰が何と言おうと、君はうちのエースだ」

 

 小波は彼女の感情を察した上で、そう言い返す。

 幼馴染の野球少女ほどではないが、彼女もまた不器用な人間だ。それがわかっているからこそ、小波の言葉は穏やかだった。

 そして、その次は叱責である。小波は眉間にしわを寄せ、強い言葉で言い放った。

 

「だから君も、怪我をしていいなんて二度と言うな。そんなことは僕が絶対に許さない」

「……っ」

 

 同情や哀れみは、彼女にとっては不愉快なものにしかならない。

 それを理解しているからこそ、小波はただ必要な事実を述べた。

 彼女は恋々高校のエースだ。他の誰もがそれを認めなくても、恋々高校の野球部員は、小波大也は認める。

 どこのチームに自分のところのエースを潰す馬鹿がいるものかと、小波はそう言い返す。それがあおいにとっては効果的だったようで、あおいは申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「……ごめん。つい、カリカリしちゃって……」

「大丈夫さ、秋までまだ時間はあるんだ。焦らず、じっくりいこう。ここで無理をして身体を壊したら、折角の公式戦も出れなくなるんだからね」

「私、本当に出れるのかな……」

「野球部のみんなと竹ノ子高校の人達と、加藤先生も協力してくれているんだ。絶対に出れるさ」

 

 でなきゃ、みんなで高野連にテロでも起こそうか。冗談めかしながらそう言って、小波はあおいの心を励ます。

 彼女の努力を間近で見続けてきた彼だからこそ、報われてほしいと切に願う。

 中学時代のいざこざから、小波は一度は野球から離れようとした。だからこそ小波は当時野球部のなかったこの恋々高校に入ったのだが、彼は今もまだこうして野球を続けている。

 それは何故か? ――勇気をくれた人が居たからだ。

 早川あおいという、誰よりも野球を愛し、努力する人がこの学校に居た。

 彼女の存在が、小波大也に野球への情熱を取り戻させてくれたのだ。

 

「ありがとう、小波君……でも、もう一球だけお願い。それで、今度こそ終わりにするから」

「……わかった。悔いが残らないように、思い切り来なよ」

 

 既にオーバーワークの域に達しているが、意地でも折れようとしない彼女の姿勢に妥協点を見つけて小波はやむなくボールを返す。

 捕手の姿勢でしゃがみ、ど真ん中を要求して大きく構える。ここでの投げ込みの球種は彼女に一任している為、小波は自分からはサインを出さなかった。

 

「シンカー、行くよ」

「オーケー」

 

 この日投じた200球近い投球の中で最も多く投げ込んだ球種、シンカーを宣言し、あおいはワインドアップから大きく振りかぶる。

 あの日、野球マンを名乗る奇妙な乱入者に完膚なきまでに叩きのめされてから、あおいは彼とのリベンジの為、そして何よりも自分自身のレベルアップの為に一層ハードな練習に取り組んできた。

 その一つが、このフォーム改造である。

 元々あおいには並外れた制球力があった。野球マンとの勝負でも、決して最初から投げミスをしていたわけではないのだ。

 だがそれでも、制球力だけでは勝てなかった。小手先の技術だけではどうにもならないほどの天才が、彼女の前に現れてしまったのだ。

 

 ……彼に負けたことは今でも夢に出てくるほど悔しい。しかし、負けたからこそあおいは次のステップを踏むことが出来たとも言えた。

 敗北が人を育てるか、或いは腐らせるか。それは実に人それぞれであるが、今のあおいは決して――野球マンに負けた時までのあおいではなかった。

 

「ッ!?」

 

 以前よりも身体全体を使ったフォームで、テイクバックを大きく下から振り払った右腕から、小波がこれまでに見たことのないスピンの掛かったボールが迫っていく。

 彼女が宣言したのは、間違いなくシンカー――直球の軌道から利き腕のクロス方向に曲がり落ちる変化球だった筈だ。

 しかしこの時投じられた一球は、彼女がこれまでに投げたどのシンカーよりも速く、大きく、鋭かった。

 

 ――かの天才猪狩守からも名捕手と認められていた筈の小波大也のミットを掠り、完全に捕り損ねてしまうほどに。

 

 それは、後に高校野球界を席巻することになる魔球、「マリンボール」が誕生した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、空は快晴の野球日和だった。

 普段サッカー部等他の運動部と共用している竹ノ子高校のグラウンドだが、この日は野球部だけが貸し切りの状態だった。それは無事他校との試合を行えるだけのスペースがこのグラウンドに確保出来たということでもあり、普段よりも広々とした空間には今、竹ノ子高校とときめき青春高校の二校の選手達が整列して対峙していた。

 

「この日が来るのをずっと待っていたよ」

 

 お互いのチームに挨拶を交わし、一同がそれぞれのベンチに戻ろうとする中で、金髪の少女が同様に竹ノ子高校のベンチに戻ろうとしていた星菜の背中へと語りかけた。

 筋骨隆々と言った体格の高校球児達の中で一際異彩を放つ二人の少女――泉星菜と小山雅。

 呼び掛けられて足を止めた星菜は雅の方へと振り向き、その表情を窺った。

 

「……雅、ちゃん……?」

 

 声からも異変を感じていた。

 いや、もっと言えば一昨日掛かってきた電話の時からだ。始めは自身最後の試合に赴くことへの緊張からかと思っていたが……星菜は彼女の表情を見て自身の認識の間違いに気づいた。

 まるで、氷のようだ。表情には一片足りとも綻びはなく、星菜の知らない小山雅の表情がそこにあった。

 そして、ただ冷たいだけではない。金色の瞳からは試合に対する喜び、憂い、執念が……そして、星菜には身に覚えのない強い「憎しみ」のような感情が感じられた。

 あまりにも複雑な思いを滾らせている眼差しに、星菜は得体の知れない恐れを抱いた。

 

「雅ちゃん、貴方は……」

「良い試合にしようね。フフ……星ちゃんとの勝負だぁ……」

 

 そんな表情をした雅に対して疑問を感じた星菜が問い掛ける前に、彼女は踵を返して自身の守備位置――ショートへと歩いていった。

 今から行われる竹ノ子高校との練習試合が引退試合になると、彼女は言っていた。

 しかしどうにも、長年続けてきた野球の花道を飾るには不穏すぎる雰囲気を感じながら、星菜は竹ノ子高校側のベンチへと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 一番ピッチャー青山。

 二番キャッチャー六道。

 三番センター矢部。

 四番ショート鈴姫。

 五番サード池ノ川。

 六番ファースト外川。

 七番レフト石田。

 八番セカンド小島。

 九番ライト鷹野。

 

 この日、予定通り不在の茂木林太郎に代わって監督を代行する波輪風郎が読み上げた、今回のスターティングメンバ―である。

 攻守の大黒柱である波輪が欠場せざるを得ない中、監督の茂木が部員達の夏休みでの成長を加味して組みなおしたのがこの打線の並びだ。中でも成長著しいと見ているのが、矢部明雄と青山才人の二人である。

 矢部は今年最初の練習試合で犯してしまった悔しいエラーをバネに、練習への姿勢を改めて以降は目覚ましい活躍をしている。

 青山もまた、鈴姫を除く一年生の中ではこの夏で最も伸びた選手と言っても過言ではないだろう。自信のつく結果としてはまだ現れてはいないが、星菜の目から見ても彼は間違いなく入部した頃のそれとは一段も二段もレベルアップしている。

 彼に関しては監督の茂木がプロにまで行きかけた元投手であり、先輩には波輪風郎が居たことが大きいだろう。二人の教えから得るものは大きいようで、春よりも球速は大きく上がり、使える変化球の数も増えていた。星菜もまた求められれば彼に指導する立場に回ることもあり、当人の要望でカーブの習得やフォームチェックなどを手伝うことがあった。

 普段タカビーな発言が目立つ青山であるが、彼もまたマウンドを背負う者の一人として恥じない努力を行っているのだ。茂木が今日の先発に星菜ではなく彼を起用したのも、そんな彼の成長を買ってのことだった。

 

「フハハ! ここは僕の先頭打者ホームランで、自援護と行きましょうか!」

「出来やしないこと言ってないでさっさと行ってこいや」

 

 試合前の取り決めにより、この練習試合では竹ノ子高校は先攻、ときめき青春高校は後攻となっている。

 あちらの先発投手の青葉春人(あおば はると)が投球練習を終えたことで先頭打者の一番青山が颯爽と打席へと向かっていき、そんな彼に対してもはや恒例となっている野次めいた応援がベンチから寄せられていった。 

 

「……時々、ああいう根拠のない自信が羨ましいと思います」

「あー、ほむらも時々そう思うッスね。青山君はあれさえなければ有望な一年生なのに」

 

 思わず呟いた星菜の言葉に、隣に座るマネージャーのほむらが同意見を返す。

 常に自信家で、前向き。あいつは現実が見えているのかと疑問に思うこともあるが、彼の野球に対するポジティブな姿勢はネガティブで傷付きやすい星菜にとっては掛け値なしに見習うべき点であった。

 

「プレイ!」

 

 球審には高校野球連盟から来た大人の審判が、塁審にはホームグラウンドである竹ノ子高校の一年生達がそれぞれつく。

 そして球審の口からプレイボールの声が掛かり、二校の練習試合が始まった。

 

 

 

 ときめき青春高校の先発投手は朱雀南赤ではなく、青葉春人だった。テイクバックの大きいサイドスローから投じられるボールは朱雀ほどの球速はないが140キロ前後のストレートとカーブ、そして変化の大きな高速スライダーが武器の本格派右腕である。

 彼がリリーフとして出てきた以前の試合では、竹ノ子高校のナインは鈴姫以外誰一人としてヒットを打つことが出来なかったものだ。

 

(私はフォアボールを選ぶことが出来たけど……みんなにはまたきつい相手が来たもんだ)

 

 奥居にあおいに皆川に阿畑に朱雀に青葉と……公式戦を含めて、つくづく竹ノ子高校が試合をするチームには好投手ばかり揃っているものである。それだけ近年の高校野球にはレベルの高い投手が揃っているということでもあるが、たまには普通のピッチャーと戦いたいとぼやく矢部の気持ちもわからなくはなかった。

 実際のところ、彼ら超高校級の投手を相手にするには竹ノ子高校の打線はまだ貧弱である。波輪が復帰すれば秋までには形になるかもしれないが、それでもこの激戦地区で甲子園を目指すには心許ないと言えた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 その弱点を露呈するように、早速たった三球で凡退してしまった一番青山がベンチへと帰ってくる。

 投手の青葉が彼に投じたのはストレート、ストレート、スライダー。それぞれ見逃し、見逃し、空振りという内容の悪い三振であったが、無理もないだろう。青葉のキレを前にしては、彼にはまだ荷が重いと言わざるを得なかった。

 三球三振という結果に彼が一番打者の役割を果たせたかどうかははなはだ疑問だが、取り敢えず青葉の調子がすこぶる良さそうだということはナイン全員に伝わってきた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 続く二番六道も呆気なく三振に倒れる。こちらは変化球でカウントを取ってから、決め球にはストレートの空振り三振だった。

 

「……前よりもボールが来ているぞ」

「心配無用でやんす。今度こそオイラの華麗なバッティングを見せるでやんす!」

 

 打席に立った感想を忠告として伝える六道と擦れ違いながら、リードオフマンとしてではなく初めて三番打者として出場した矢部が打席へと向かう。

 頼もしい発言をするに当たって、矢部明雄という男には決して実力がないわけではない。

 しかし、何故かその背中が頼もしく見えないのもまた矢部明雄という男の愛嬌めいた特徴であった。

 

「言っちゃなんだけど、三番矢部君ってなんか暗黒臭がしない?」

「キャプテンがそんなこと言っちゃダメッスよ! ……まあ、ほむらもそう思うッスけど」

「どうにも矢部先輩は、得点圏になると力んで凡退することが多いですからね。でもリストの強さと言い走塁技術と言い、あの人の野球センスはどこに出しても恥ずかしくないと思います」

 

 冗談めかしながら矢部明雄の頼りなさを語る波輪に苦笑しながら、星菜は後輩の立場として副主将の存在感にフォローを入れる。

 ちゃらんぽらんな本人の器質からか確かに小物的な部分は見受けられるが、それでも矢部明雄という選手はチームの中軸に相応しくないわけではないのだ。

 

「間違いなく、このチームでは二番目に良いバッターですよ。矢部先輩は」

 

 身体能力もあり、野球センスもある。将来的にどこまで成長するのか楽しみな選手だという評価は、星菜の中でも偽らざる思いだった。

 そう、星菜が言った次の瞬間だった。

 

「打った!」

「まじか!?」

 

 矢部明雄の第一打席目。青葉が投じた初球だった。

 彼が内角に目掛けて投げ切った渾身のストレートを、矢部は狙いすましたかのようなフルスイングでジャストミートする。

 白球は弾丸のようなライナーで瞬く間にレフトの頭を越していくと、フェンスとして張り巡らされた柵へと突き刺さっていった。

 

「いいぞ矢部君!」

「流石、足は速いッス!」

 

 レフトがボールを追っている間に打者走者の矢部は一塁を回り、ボールがショートの中継に渡る頃には既に二塁を陥れていた。打球の速さが災いして単打になってしまう恐れもあったが、矢部の俊足の前には要らぬ心配だったようだ。

 

「やるッスね矢部君! でも、星菜ちゃん。そこまで持ち上げておいてさらっと二番目って明言しちゃうのはどうッスかねぇ……なんか引き立て役みたいなニュアンスを感じるッス」

「え?」

「まあ矢部君なら二位でも満足しそうだし、いいんじゃないか。しっかし信頼してるんだな、今のうちで一番良いバッターのこと」

「……打率的に言っているだけです」

 

 これでツーベースヒット。二者連続三振の後に生まれた思いがけない得点のチャンスである。

 この勝負どころの場面で現れるのはこの試合の四番打者――波輪が怪我してからはこの座を一人で守っている、現状のチームで「一番目に良いバッター」の鈴姫健太郎だった。

 

(さて、どうなるかな……)

 

 合宿での試合では、鈴姫は唯一この青葉からヒットを放っている。その時は青葉がカウントを取ろうと投じた外角のストレートを上手く捌き、レフト前に運んだのだ。その時もまた、出会いがしらの「初球」だった。

 

「ボール」

 

 今度もまた初球を狙われているかもしれない。そう判断したのであろう相手側のバッテリーが、まずは緩いカーブを低めに外してきた。

 ツーアウト二塁と迎えたこの試合最初のピンチに、あちらも慎重に攻めて来ていると星菜は感じる。

 二球目、今度は緩急を生かした球威のあるストレートが内角(インサイド)にクロスファイヤーで食い込んできた。際どいコースではあったが球審の手が上がり、カウントはワンエンドワンとなる。

 

「ふんっ!」

 

 三球目、青葉は自身の最大の武器である高速スライダーを選択した。

 投じられたボールはストレートに近い球速から大きく変化し、外角のボールゾーンから曲がってキレ良くストライクゾーンへと入ってくる。

 それは左打者の目からはベースよりも大分遠くに見える一球であり、打つことが出来ないと見逃しても仕方のないボールだった。手を出すにしても外角一杯に制球された難しいボールであり、ここは見送って次の一球に掛けるのが得策であろう。

 普通の打者であれば。

 

 一閃。鈴姫のスイングが、完璧なタイミングでボールを捉えた。

 

 瞬間、彼が振り抜いた金属バットから快音が響く。

 鈴姫はこの一球、青葉が得意とするボールゾーンから外角に入ってくる高速スライダーを狙っていたのだ。過去に一度勝負している投手である以上、青葉の実力は知っている。左打席からは遠くに見えても必ずストライクゾーンに入ってくる筈だと、青葉の高速スライダーの変化と制球力を信頼しているからこそ出来た思い切りの良い打撃だった。

 

「よっしゃ!」

「先制だ!」

 

 痛烈な打球は投手青葉の真横を通り抜けていき、ベンチの選手達が喜びの歓声を上げる。

 二塁走者矢部のスタートは速く、このタイミングならばセンターからのバックホームは間に合わない筈だと。その時、誰もが先制点の奪取を確信していた。

 

 

 ――しかし、その期待は一瞬にして裏切られる。

 

 

 二塁ベースを抜けていき、センターの前へと転がっていく筈だった打球は、即座に横合いから割り込んできた遊撃手(ショート)のグラブに収まったのだ。

 

「っ……!」

 

 打球のスピードは速かった。

 飛んだコースも完璧の筈だった。

 星菜はその瞬間、我が目を疑った。センター前へ抜けていくタイムリーヒットとなる筈だった鈴姫の打球は金色の遊撃手によって飛び込むまでもなく阻まれ、優雅なステップから投じられた一塁への送球によって打者走者はアウトにさせられたのである。

 

 何故、ショートがそんな場所に居るのか。それは、打った当人である鈴姫もまた驚愕している様子だった。

 確かに二塁に走者が居た為、ショートの守備位置は定位置よりもやや右寄りになっていたが……そんな要因を踏まえても、彼が完璧に捉えた痛烈な打球は捕られる筈がなかったのだ。

 

 それこそ、名手である鈴姫自身がショートを守っていたとしてもだ。

 

「サンキュー! やっぱ茶来のショートよりも頼りになるぜ」

「これぐらいは、当然さ。でも青葉君、配球が単調だよ。今回は予測しやすいバッターで助かったけど、私だっていつもあんなところを守っているわけじゃないんだから気をつけなよ」

「あ、ああ。気をつけるよ」

 

 相手のショート、小山雅は予め鈴姫のスイングのタイミングを読み切っており、最初から打球が飛んでくる方向を予測していたのだ。そして青葉が足を上げた瞬間僅かに右寄りにポジション取りを変えることによって、二遊間のヒットコースを狭めていたのである。

 しかし、だからと言って今の鈴姫の打球ほど速ければ普通は抜けていく筈であり、それは彼女のあまりにも広大な守備範囲が無ければまず生まれない好プレーだった。

 

「雅ちゃん……」

 

 小山雅。最初から警戒はしていたが、それでも想像の上を行く彼女の実力を感じ取り、星菜は思わず畏敬を込めて彼女の名を呟いた。

 一方で小山雅はそんな星菜の声を聴いていたかのようにちらりとこちらを一瞥すると、不敵な笑みを浮かべてときめき青春高校のベンチへと戻っていった。

 

 一回の表が終了。彼女の引退試合は、始まったばかりである。

 

 



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さらば碧き日々の面影

 

 

 

 二人は親友同士、本当に仲が良かった。

 

 天真爛漫で常に勝気な泉星菜と、おしとやかで大人しい小山雅。二人はまさに正反対な性格であったが、だからこそお互いに足りない部分を補い合うことが出来ていた。

 引っ込み思案な雅を星菜が引っ張り、星菜がやりすぎれば雅がそれを止める。まるで姉妹のように、二人の関係は程よくかみ合っていたのだ。

 時に雅が向こう見ずな星菜のやらかした問題行動によってとばっちりを受けることもあったが、それでも雅が彼女の存在を鬱陶しく感じたことはなかった。

 色々と迷惑を受けることもあったが、それ以上に雅は星菜と居る時間が楽しかった。端的に言って、雅は泉星菜というお転婆な友人のことが大好きだったのだ。

 比較的裕福な家庭の中で箱入り娘として大事に育てられていた幼少当時の雅には、彼女のような年齢の近い友人が居なかった。そんな事情も手伝ってか、雅はいつでも元気で明るい星菜と居る時間に大きな幸せを感じていたのである。

 

 ――しかし、そんな二人の関係は唐突に終わりを迎えた。

 

 それぞれ雅が九歳、星菜が八歳の頃のことである。お互い同じ学校で小学四年生、三年生への進級を控えていた季節に、雅はある日星菜の口から聞かされた。

 

『転校!?』

『……うん。あと一か月たったら、もうひっこししなくちゃいけないんだって』

 

 転校――家庭の事情により、星菜が雅の居る町を去ることになったのである。

 心苦しそうに別れの話を切り出した彼女の顔にはやはり普段の元気は欠片も無く、この町で最も仲の良かった友人と離れ離れになることへの悲しみの気持ちが浮かんでいた。

 彼女にとってもまた、小山雅という少女はその心の中で大きな存在だったのだ。

 

『そんな……うそだよね……? いやだよ、星ちゃん……!』

『わたしだっていやだよ……っ!』

 

 雅にとって、それはあまりにも残酷な宣告だった。

 幼い故に行動範囲が限られている二人にとって、友人の引っ越しは今生の別れと何ら変わりはない。その苦しみは果てしないほどに大きく、揺れる雅の瞳からは耐え難い悲しみとして涙が溢れてきた。

 

 もちろん、星菜の両親とてまだ幼い娘達の為にとこの町を去らずに済む方法を模索してくれた。しかし、その努力も最後まで報われることはなく、二人の別れの日はとうとう訪れることとなった。

 

『……また会えるよ。うん、ぜったい会おう!』

 

 別れは辛くて仕方がない。だが、それでも……星菜は力強くそう言い切った。

 雅ちゃんとはいつか、また会える。だから笑って見送って、と――星菜はこの日まで泣いてばかりだった雅に対して、励ますようにそう言った。彼女自身も、その目に浮かぶ大粒の涙を拭いながら。

 

『星ちゃん……』

『大丈夫っ! 私ね、プロ野球選手になるんだ。そしたら、またこの町に帰ってこれるよ。だって、この町にはプロ野球チームがあるもん!』

 

 かけがえのない親友との別れを前に、星菜は雅にそう約束した。

 泉星菜は、当時から夢を持っていた。プロ野球選手という、この町で小山雅と出会う前から持っていた壮大な夢を。

 当時彼女らが住んでいたその町には、プロ野球チームの本拠スタジアムがあった。プロ野球選手にさえなれば、そのスタジアムで試合をすることが出来る。どこに居たって、この町を訪れることが出来るのだと。

 だから雅ちゃんともまた会えるのだと――雅がその日までいつも見ていた自信満々な表情で、星菜は言った。

 

『……本当……?』

『ほんとにほんと! その時は雅ちゃんのこと、球場に呼んであげるね!』

 

 自分がプロ野球選手になることを微塵も疑っていない、自分の将来に対して何の悲観も抱いていない――どこまでも眩しくて輝いていた、泉星菜の宣誓だった。

 

 その言葉を後に、星菜は手を振りながら踵を返す。

 

 瞬間、この町で彼女と過ごした大切な思い出が、次々と雅の脳裏に過っていった。

 泉星菜――明るくて元気で……誰よりも優しくて強い。彼女は雅にとって一つの憧れであり……初めて出来た最高の友達だった。

 故に雅はこの時、その心に一つの目標を抱いた。

 プロ野球選手になってこの町に戻ってくる――星菜がそれを実現させてくることを、雅は信じて疑わない。彼女なら、絶対に出来ると心の底から確信している。

 だからこそ、雅は自分自身に問い掛けたのだ。

 

 ――自分はただ、その日が来るのを待っているだけか? と。

 

 ――星菜と出会う前の、ただ家で大人しくしているだけの自分に戻って良いのかと。

 

『……私も、なる』

『え?』

 

 自分の傍から立ち去ろうとする星菜の背中に、雅もまた宣誓する。

 

『私も、星ちゃんと同じプロ野球選手になるっ!』

 

 その時には既に、雅は四年間共に過ごした星菜の影響によって、おしとやかな自分に耐えられなくなっていたのだ。

 彼女と同じプロ野球選手を目指す――雅もまた、星菜に対してそう叫んだ。

 星菜と同じ目標を持って走り続ければ、いつかそう遠くない日にその道が交わる時が来るかもしれない。幼い子供にとって、十年という年月は途方もない時間だ。それだけの時間をただ黙って待ち続けられる自信が、雅には無かった。

 両親は、きっといい顔をしないだろう。それでも必ず説得してみせる。この夢を叶えてみせる。

 振り向いた星菜は大人しい雅が初めて見せた決意の表情に驚き、そして笑った。

 

『……うん! いっしょにがんばろう!』

 

 二人が確かに交わした、確固たる友情の約束である。

 

『いつか、いっしょに野球しようね!』

 

 いつか訪れる輝きに満ちた未来を信じて――その日、小山雅は野球少女となった。

 

 

 それは、忘れてはならない筈の記憶だった。

 それは、忘れさせてはならない筈の記憶だった。 

 

 二人が大人に近づいていくほど、色褪せていった大切な思い出。

 雅の十六年の人生にとって、それは最大の分岐点であった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「流石じゃな」

「どうも」

 

 攻守交代によってときめき青春高校のベンチに戻ってきた雅が、監督の大空飛翔から賞賛の言葉で出迎えられる。彼女が今しがた行った好プレーは、並のショートにはまず出来ない守備だ。そして何よりも彼女の守備範囲が恐ろしいのは、普通の選手では追いつけない打球を飛び込むまでもなく簡単に捕球してしまったところにある。

 彼女にとって、先ほどのプレーはファインプレーでもなんでもない普通の守備に過ぎなかったのだ。

 そんな彼女は自身に送られてくる賞賛の声におざなりに対応すると、相手のマウンドに上がる竹ノ子高校の先発投手へと目を移した。

 

「なんだ、相手のピッチャーはあの女の子じゃないのか」

「前の試合で、鬼力がホームランを打った奴だな」

 

 向こうの先発は泉星菜で来れば良かったのだが、残念ながら全てが雅の思惑通りとは行かなかったようだ。

 もちろん相手の先発が違う可能性は雅とて想定していた。これは練習試合だし、言わばお試しの場。決してチームの中で一番良い投手が投げなければならないというわけではないのだ。

 

「でも向こうの監督もKYッスねぇ~……あれ? そう言えば向こう、監督居ないじゃん! マジッパネェ」

「用事で来れないんだってよ。今日はキャプテンが代わりにやってるらしい」

「ほーん」

 

 この試合における雅の目当てを知るチームメイト達は、あちらの先発投手が泉星菜でないことを知るなり露骨に拍子抜けした顔を浮かべるが、当の雅はと言うといっそ不気味なまでに平然としていた。

 相手のマウンドに上がった青山才人という招かれざる客人に対して、別段落胆も怒りも感じていない。彼に向けられる雅の目は、どこまでも虚無だった。

 

「はっ、雑魚はさっさと引っ込めりゃいいだろーが」

「その通りだ。わかってるな左京、右京」

「おう、二者連続ホームランでも打ってあっちのお姫様を引っ張り出してやるぜ」

 

 イニングは一回の裏、ときめき青春高校の初めての攻撃だ。

 この時、ときめき青春高校のチームメイト達は今日で野球を引退する小山雅の為に最高の舞台を作ってやるのだという気持ちで一つに纏まっていた。誰も彼もガラの悪い顔つきをしているときめき青春高校の野球部であるが、不良グループよろしく彼らの仲間意識は人一倍強いのだ。

 そして、小山雅自身にもそれだけの人望があった。

 相手のマウンドに彼女の花道を飾る相手として相応しい泉星菜という投手が居ないのなら、彼女が出てくるまで徹底的に打ち込んで降板させればいい。先頭の一番打者「三森左京」がそう吐き捨てると、バットを担ぎながら左打席へと向かった。

 

(……まあ、心配しなくてもこの回であの子は出てくる)

 

 彼らの気持ちが有り難くないと言うと、それは嘘になる。自分の為に泉星菜を引きずり出してくれるのなら、それは大いに結構だ。

 しかしその為に彼らがどれほど張り切ろうと、この試合にかけていようと……雅にとってはどうでも良かった。

 彼らが頑張らずとも、既に結果は見えている。一番の三森左京、二番の三森右京がヒットを打とうがアウトになろうが、三番の自分が打ち終えた後には既に役者は整うのだということを雅は欠片も疑っていない。

 絶対的な確信を胸に抱きながら、雅はなおも無表情でグラウンドを見つめていた。

 

 

 

 一番センター三森左京。

 二番ライト三森右京。

 三番ショート小山。

 四番キャッチャー鬼力。

 五番レフト朱雀。

 六番セカンド茶来。

 七番ファースト神宮寺。

 八番ピッチャー青葉。

 九番サード稲田。

 

 小山雅がショートに入ったことで完成した、ときめき青春高校のベストオーダーである。

 始動当初こそ一年のブランクからか、今一つ実力を発揮しきれてはいない様子だった。しかし厳しい夏合宿を経た今、竹ノ子高校の選手達がレベルアップしたように彼らも相応に力をつけていると見て良いだろう。

 相手にとって不足は無い。心配なのはこちらの先発青山が、どこまでこの打線を相手に拮抗出来るかというところだ。

 

(さて……)

 

 何と言ってもこの打線で要注意なのは小山雅である。スコアブックと共にほむらが持っているメンバー表から相手のスターティングメンバーを覗き込んで確認した後、星菜はマウンドの青山を見守る。

 その一球目。青山がノーワインドから軽く上体を捻りながら足を上げると、オーバースローから投じたボールがショートバウンドでキャッチャーミットへと収まった。

 

「ナイスボール」

 

 打席の三森左京が、見逃せばボール球になる筈だったそのボールを空振りしたのだ。青山のボールは捕手が捕る時こそショートバウンドにはなったが、一度はストライクゾーンに入ろうとしてから地面へと落ちた(・・・)のである。

 

「おお、早速投げたッスね、波輪君直伝のフォークボール」

「意外に……と言うと失礼ですが、フォークはすぐに覚えましたね、青山さんは。私が教えたカーブはあまり上手くいっていないみたいですが」

「あはは、青山君も贅沢ッスねぇ」

「青山はワシらが育てた」

「はいはい名コーチ名コーチッス」

 

 初球はストレートを狙ってくると読んでいたのだろう。要求した六道明も、狙ったところに投げ切ってみせた青山も見事なものである。

 このフォークボールは以前のときめき青春高校との試合では投げなかった、もとい投げられなかったボールだ。波輪が教えた結果習得した青山の新しい変化球に、打席の三森左京も首を傾げていた。

 

「ストライク!」

 

 二球目。今度は左打席の外角低めいっぱいに決まったストレートに、球審が手を上げる。

 指に掛かった良いボールだと、ベンチから眺めている星菜はその一球を素直に賞賛する。球速は130キロ近く出ているだろう。入学したばかりの頃とは比べ物にならない威力だと、星菜は青山の確かな成長を感じた。

 ツーナッシングと簡単に追い込んだ青山はテンポ良く投球動作に移り、続く三球目を投じる。

 こちらも際どいコースに決まったストレートを、打者三森左京が辛うじてカットし、打球は左に切れるファールとなる。

 

「フハハ! 絶好調ですよ!」

 

 指先の感覚と打者の反応から球で押せていると感じたのか、気を良くした青山がマウンドで歓喜の声を上げる。マウンド上では常にポーカーフェイスであろうとする星菜とは対照的に、彼の態度は端から見ても非常にわかりやすかった。

 

「ちっ……!」

 

 だが、今のところは言うだけのボールは来ているようだ。

 続く四球目。打者三森左京は青山がここでも投じてきたフォークボールに手を出し、当てるだけの形になった打球は力なく一塁へと転がり打ち損じのファーストゴロに倒れた。

 青山は見事注目の先頭打者を打ち取り、危なげない形でワンアウトを取ったのである。

 

「いいぞ、その感じだ。これはひょっとしたら、あいつも結構いい線いくかもしれねぇな」

 

 彼にフォークを教えた張本人である波輪が、そのボールのキレに頷きながら青山の投球を賞賛する。

 まだ一人打ち取っただけでは気が早いが、彼が秋までに順調に育ってくれれば竹ノ子高校にとって大きなプラス材料である。強豪校相手では厳しいかもしれないが、面白いところまでは行けるかもしれないと感じているようだった。

 

「アウト!」

「ナイスショート」

 

 ときめき青春高校の続く二番打者、三森右京に対して青山は先のようにストレートとフォークを有効に扱いながら、最後は内角のツーシームを引っ掛けさせて簡単にショートゴロに打ち取った。

 球速はあちらの先発青葉春人ほど速くはないが、丁寧にコースに投げ分ければ十分に打者を打ち取ることが出来る。ここまでの青山のボールはほぼ完璧に制球されており、星菜の持論をその身で体現しているとも言えた。

 

「いい感じいい感じッス」

「……ですね」

 

 一番、二番を打ち取り、これでツーアウトだ。

 そしていよいよ、彼女の打順に回る。

 

 女子選手という異質な存在だからか、はては今の彼女が放っている独特の雰囲気のせいか、彼女が左打席に入った瞬間、グラウンドの空気が変わったように星菜は感じた。

 

「あの子が、星菜ちゃんの言っていた小山雅って選手ッスね」

「……はい」

 

 小山雅――その第一打席だ。

 彼女から感じる張りつめた空気はこの試合が彼女にとっての引退試合であるというプレッシャーからと考えるのが自然だが、どうにも星菜にはそれ以外の理由があるように見えてならない。

 スイッチヒッターである彼女は右投手の青山に合わせて左打席に入ると、バットを高く突き出した神主打法の構えを取る。

 

 ――そして、第一球目だった。

 

 その一振りは、泉星菜をマウンドへと駆り立てた。

 

 

 

 小山雅が青山の投じた一球――外角低めのフォークを打ち返した結果、その打球が彼の右手に直撃したのである。

 

 

 青山の反応が追いつかない、あまりにも鋭い打球だった。

 彼の右手から跳ね返ってきたボールが転々としている間に打者走者の雅は悠々と一塁ベースを駆け抜け、記録はピッチャー強襲の内野安打となる。

 雅がヘルメットのズレを直しながらその視線をマウンドへと向けると、予想通り竹ノ子高校の内野手全員が苦い表情を浮かべて投手の元へと集まっていた。

 

「青山っ!」

 

 ベンチからはコールドスプレーを持った部員と、監督代行を務める波輪が慌てた形相で飛び出してくる。これもまた、雅にとっては想定済みである。

 ……尤も、彼ら竹ノ子高校の選手達にとっては些か想定外の事態かもしれないが。

 

「これはお気の毒に」

 

 まるで感情の篭っていない棒読みのような声で呟きながら、雅は密かに微笑む。

 しかし気の毒と思っているのは本当だ。ああ、あの青山という投手は不幸としか言いように無い。

 

 彼が身分不相応にもこの試合のマウンドに上がってこさえしなければ、こうして右手を負傷する(・・・・・・・)こともなかったのだから。

 

「まあ、精々突き指か打撲程度でしょ。この試合はもう無理だろうけど、悪く思わないでね」

 

 狙い通り。我ながら、笑ってしまうほど狙い通りである。

 痛みから苦悶の表情で右手を押さえている彼には気の毒だが、恨むのなら狙い通りの打球をまんまと打たれてしまった己の未熟さを恨めというのが雅の言い分だった。

 バッティングの基本はセンター返しだ。それは野球をしていれば誰もが当然のように教わることであり、今の雅はそれを実践したに過ぎない。ただこの場合は、そのセンター返しの打球が少々低く、速すぎたというだけなのだから。

 形からして見れば、グラウンドに居る誰もがそれを不幸な事故としてしか認識出来なかった。

 

 

 その後、しばらくの間審判からタイムが取られ、竹ノ子高校はボールが直撃した青山の右手の状態をしきりに確認する。しかし結局青山は投球練習すらままならず、竹ノ子高校ベンチからは雅の思惑通り降板せざるを得ないという判断が下された。

 青山はベンチで治療に専念する為に悔しそうにマウンドを下りると、監督代行の波輪が球審に向かって告げた。

 

「ピッチャー交代します」

 

 それは、それこそがこの場で他の誰よりも、雅が待ち望んでいた展開である。

 全てはこの「引退試合」の舞台を整える為に。ただ彼女を早期にマウンドへと引きずり出す為だけに、雅は意図的にあちらの先発青山を物理的に退場させる一打を放ったのだ。

 別段、そこに悪意があったわけではない。雅はただ、彼を降板させる手段としてこれが最も手っ取り早いと思っただけだ。

 

(これで、邪魔者はいなくなった)

 

 青山と入れ替わり、グラブを右手に着けた野球少女がグラウンドへと駆け出してくる。

 マウンドに上がった彼女の姿を見て、雅は満足げに頷いた。

 やはり、彼女こそがその場所に相応しい。心の底からそう思った雅は、熱い情念を込めた目で彼女の姿を見据える。

 

 

 泉星菜――小山雅にとって愛してやまない、宿敵の姿を。

 

 

 



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高速とは言っていない高速スライダー

 

 

 緊急登板のマウンドに上がるのは、恋々高校との試合以来これが二度目になる。

 あの時もまた先発投手の負傷が切欠となって登板したものだが……まるで自分が登板する為に誰かが怪我をしているみたいで、星菜には己が疫病神のように思えた。

 しかしこれはどちらも、インプレー中に起こった不幸な事故としか言いようにない。投手というポジションについている以上、いつだって起こりうることなのだから。

 

 ……しかし、何故だろうか。

 

 バッティングの基本がセンター返しということを考えれば、今の打球で打者が責められる謂れはどこにもない筈なのだが……それでも何か、星菜には上手く言い表せない引っ掛かりを感じていた。

 

(雅ちゃん……)

 

 球数多めの投球練習を終えた後、球審からプレーを再開する声が掛けられる。

 同時に星菜はセットポジションに入り、一塁走者の動きを窺う。

 そしてその瞬間、星菜は気づいた。

 

(笑っている?)

 

 一塁ベースからやや大きめのリードを取る一塁走者――小山雅の表情が笑っていたのだ。

 愉悦に唇をつり上げ、まるで星菜の投球動作を今か今かと待ち詫びているかのように、雅は嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 友達が投げるのが嬉しいと、そう考えるのが自然だろう。しかし顔立ちは整っているのに、星菜にはその表情が何故だか酷く不気味に映った。

 

(なんだって言うんだ……)

 

 盗塁を警戒したクイックモーションから第一球、星菜は右打席に立つときめき青春高校の四番、鬼力の胸元に向かって左腕を振り下ろす。

 放たれたボールは仰け反った打者の手元でシンカー方向に曲がると、内角一杯に構えた六道のミットへと寸分狂わず突き刺さっていった。

 

「ストライクッ!」

 

 ボールゾーンから右打者の内角に入っていく、フロントドアのツーシーム。球審の右手が上がり、狙い通りの感触に星菜は頷く。

 たとえ緊急登板で準備が不足していようと、その程度のことで定まらなくなるようなヤワな制球力はしていない。星菜にとって制球力は最大の武器であり、なくてはならない生命線なのだ。

 

(よし)

 

 制球が定まらない自分など、もはや球種が多いだけのバッティングマシンのようなものだ。そこに至ってこの日の星菜はすこぶる好調であり、不測の事態ながら既に万全の状態だった。

 星菜はこちらの制球力への信頼が窺える六道の要求に快く応じ、次の投球動作に移る。

 一球目よりも微妙に間合いをずらし、走者を警戒しつつ投じた二球目。その球種は打者の手元で小さく曲がるカットボール。コースは外角低めの、ボールゾーンから際どいストライクゾーンへと食い込んでいくバックドアだった。

 打者鬼力がそのボールを強振し、瞬間、乾いた金属音が響く。バットの先端寄りの部分に当たった打球は後方のバックネットに突き刺さり、ファールとなった。

 

「ナイスボールだ」

 

 意図して打たせることの出来たファールボールに満足し、星菜は六道からの返球を受け捕る。これでストライク二つのツーナッシング、どんなボールを使える投手に有利なカウントだ。

 

(盗塁は、仕掛けてこないか……)

 

 ここまで動きのない一塁走者のリードを目で牽制しながら、星菜は再びセットポジションに入る。受ける捕手の六道明はそのリードや捕球技術にこそ確かな信頼を抱いているが、肩は強い方ではなく、こと盗塁阻止に関しては少々心許ない。加えてただでさえ球速が遅い上にカーブやチェンジアップと言った緩い変化球を得意とする星菜にとって、足の速い走者の盗塁はまさに天敵とも言えるのだ。

 故にこの二球は極端に間隔の短いクイックモーションからツーシームやカットボールと言った比較的球速の速いボールを使っていたのだが、ここまで走者小山雅に盗塁の動きは見られなかった。

 

(……六道先輩も、要求が厳しいな)

 

 三球目の投球動作に移る前に確認した六道の要求に、星菜は内心で苦笑を浮かべる。

 六道明という捕手は、自分が受ける投手の特徴を実によく捉えている。剛腕投手である波輪をリードする際には細かい制球よりも球威の方を重視させる方針であり、ボールにより強い力を伝えてもらう為にコースはある程度アバウトに、しかしミットの構えは必ず大きく取る。たとえ要求通りのボールが来なくても、指に掛かった彼の剛速球ならば力技で空振りを奪うことが出来たからだ。

 一方で彼と比べれば至って平凡な投手である青山をリードする際には、まず第一に内野ゴロを打たせるべく外角低めを中心とした堅実な配球になり、波輪の時と比べれば小さめな構えで慎重な攻めを基本としていた。

 

 そして星菜をリードする時は、そのどちらでもあり、どちらでもない。

 

 基本的には青山のように内野ゴロを狙った堅実なリードなのだが、勝負どころに関しては星菜に対して二人よりも大胆な要求をすることが多いのだ。僅かに変化が甘かったり、ほんの一個分ボールの制球を間違えるだけでデッドボールやホームランボールになってしまうような紙一重の配球が目立ち、他の投手以上に投げミスを許さない厳しい要求を行うのである。

 

(でも、それがいい)

 

 星菜は、そんな注文の多い彼のリードが嫌いではなかった。

 その身の貧弱さ故に豪速球を投げることの出来ない星菜は、波輪のように高めのストレートで強引に空振りを奪うなどという芸当は出来ない。だからこそ、慎重にコースを投げ分ける必要があるのだ。

 しかし星菜には、彼よりも高い制球力と完成度の高い多彩な変化球という大きな武器があった。

 故に、時に軟投派投手を扱っているとは思えなくなる六道の大胆なリードにも十分に応えることが出来る。

 否、完成された軟投派投手だからこそ、要求の厳しいリードに応えることが出来るのだ。

 

「ふっ……!」

 

 ポーカーフェイスの下に気合いを振り絞り、星菜は鬼力に対して三球目のボールを投じる。

 ツーシームやカットを投じた時と変わらぬ腕の振りで放たれたボールは打者鬼力の内角のストライクゾーンに向かっていき、そのバットを豪快に走らせた。

 しかし彼の一閃が金属の快音をグラウンドに響かせることはなく……この打席に決着をつけた白球は、ボールゾーン低めに構えた六道のミットに収まっていった。

 空振り三振。最期の一球は高速の縦スライダー――一見ストレートと見間違う速度から縦に大きく割れていく、泉星菜が持つウイニングショットの一つだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ツーアウトランナー一塁という場面をたった三球で切り抜けた星菜は、チームメイト達の温かい声援によってベンチに出迎えられる。

 攻守が入れ替わり、イニングは二回表の攻撃だ。打球が直撃した右手をアイシングで押さえている青山の姿は実に気の毒であったが、それでも試合は当然のように続いていく。

 

「うちのピッチャー陣、呪われてんのかなぁ」

「打球直撃、ルーズショルダー発症、打球直撃……肩の不安を隠していた波輪君は正直言っちゃ自業自得ッスけど、こんなに打球が当たりまくるのはどうしたもんッスかねぇ」

「まあなー……守備練習以外にも、上手く避ける練習とかした方がいいのかもしれんね」

 

 あれほど強烈なピッチャー返しを「捕れ」とは同じ投手として簡単には言い辛い。ベンチから見ていた波輪も星菜と同じ考えのようであったが、彼はそれでも一言キャプテンとして青山に物を申していた。

 

「だけど右手だけは守らねーと駄目だぞ。お前が投げられなくなったらもう星菜ちゃんしかいねーんだからな」

「フハハ……面目ありません」

 

 元々は三人居た筈の投手も、マウンドに上がれるのは今や女子選手である星菜だけだ。苦肉の策として野手の池ノ川を投げさせるという手段もないわけではないが、はっきり言ってそうなったらもう試合にならなくなるだろう。

 後の控えが居なくなったことで、星菜の身に大きな責任が回ってきたということだ。

 少なくともこの試合は、後のイニングは全て自分が投げきらなくてはならない。これまで行ってきた練習試合では最長でも六イニング程度しか投げてこなかった星菜にとって、ほぼ完投しなければならないというその条件は高校生になって未知の世界だった。

 

「星菜、わかっちゃいるだろうが気負いすぎるなよ。君はいつも通りのピッチングをすればいい」

「……わかってる」

 

 こちらのプレッシャーを察してか、隣に座った鈴姫が要するに「気楽に行け」という意味で星菜に声を掛けてくる。

 この夏は徹底的に走り込み、星菜なりに長いイニングを投げる為のスタミナを作ってきたつもりだ。責任は大きいが、ポジティブに言えばこれはスタミナ強化の成果を見せる良い機会でもあった。

 

 

「ストライク! アウト!」

 

 そうこう考えている間に竹ノ子高校の二回表の攻撃は始まり、この回先頭の五番池ノ川が外角のボールゾーンに逃げていくスライダーを空振り、あえなく三振に倒れる。

 相手マウンドの青葉春人がテイクバックの大きいサイドスローから投じるボールのキレは、初回と比べてなんら落ちていない。打席に立つ打者陣は青葉の高速スライダーに対して、バットを振るまでことごとくストレートだと錯覚させられている様子だった。

 

「お! 直球ゥー!」

 

 続く六番外川の初球、こちらも自信を持って振り抜いた筈のバットは音も無く空を掻いていた。

 確かにスライダーにしてはスピードがかなり速く、ベンチからでも140キロ前後の球速が出ているように見える。

 一見ではストレートと見分けがつかないそのボールは、たった一巡の間に見極めるには非常に困難であった。

 

「駄目だ……あれもスライダーだ」

「良い高速スライダーを投げるよね、あのピッチャー」

「なんだ、自慢か?」

「私があんな速い球投げれるわけないだろ」

 

 相手投手を分析し、素直に賞賛する星菜に対して至って真面目な声で茶化す鈴姫。

 変化する方向の違いはあるが、確かに星菜も先の回のように高速スライダーを投げることは出来る。しかし、星菜と青葉とではそもそものポテンシャルに大きな開きがあるのだ。

 青葉は140キロ台中盤のストレートと、140キロ前後で大きく曲がる高速スライダーを扱う。

 星菜は110キロ台中盤のストレートと、110キロ前後で大きく割れる高速スライダーを扱う。

 同じ高速スライダーでも青葉は本物の高速であり、星菜のは高速の後ろに(当社比)とつくような偽物の高速だ。数字として記録に表れている以上、誰がどう言おうとそれは確固とした事実である。

 ……尤も、だからと言って星菜は自分が投手として青葉に劣っているとは思っていない。

 肉体のポテンシャルに劣る日本人選手の一部がメジャーリーグでも一線級の活躍が出来る理由のように、星菜は投球の「工夫」を重要視していた。

 

「君は遅い球を速く見せれるんだから、似たようなもんだろ」

「わかっているじゃないか。それが出来なかったら、私なんてとっくにピッチャー諦めてるよ」

 

 最速115キロという事実を事実として認識しているからこそ、泉星菜という投手は完成しているのだ。

 緩急、ボールの回転数、フォーム、リリース、球種、制球――球速以外ほぼ全ての要素を極めているからこそ、星菜は高校野球という舞台でも対等に渡り合えていた。

 所詮は偽物の高速。ならば最後まで偽物として気持ち良く打者を騙してしまえばいい。それが星菜の中に居る彼女の前世――星園渚の教えでもあった。

 

 

 六番外川は結局アウトコースに逃げていく高速スライダーを最後まで見極めることが出来ず、池ノ川と同じような配球であえなく空振り三振に倒れる。右打者にとってこのボールは脅威というほかないだろう。

 無論左打者にとっても容易いボールではなく、続く左の石田は外角のストライクゾーンに入ってきたバックドアの高速スライダーに手を出すことが出来ず、文字通り手も足も出ないまま見逃し三振に倒れていった。

 五番から始まったこのイニングだが、これで三者連続三振である。それも青葉のボールのキレを見れば意外でもなく、至って必然的な結果なのかもしれない。

 

「締まっていきましょう」

「おう!」

「オイラの華麗な守備が星菜ちゃんを守るでやんす!」

「てめーには無理だ」

「もうエラーすんなよダメガネ」

「チキンハート」

「ひ、ひどいでやんす……」

「……先輩方」

「すみません」

「言い過ぎました」

「さっさと守備に着けよ……」

 

 相手のリリーフにはまだ朱雀南赤が控えていることを考えると、やはりこの試合は一点でも取られると勝利は厳しくなるだろう。

 だがそれは、星菜にとっては寧ろ望むところである。

 投手戦になればなるほど気合いが入り、良いパフォーマンスが発揮出来るというものだ。元来投手とは、そういう生き物だった。

 

 そんな気合いをポーカーフェイスの裏に隠しながら、星菜は再びマウンドに上がった二回裏のイニングを淡々と投げ込んでいく。

 ときめき青春高校の先頭打者、五番朱雀を内角のツーシームを詰まらせてピッチャーゴロに仕留めると、六番茶来には先の回で鬼力相手に投じた膝元の高速縦スライダーで空振り三振を奪う。そして七番神宮寺にはワンエンドワンから外角のカットボールを引っ掛けさせ、狙い通り鈴姫の守るショートへとゴロを打たせていった。

 この回星菜が投じた球数は、僅か六球。危なげない投球でときめき打線を三者凡退に封じると、イニングはテンポ良く三回表へと進んでいった。

 

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 竹ノ子高校はこの回、八番小島からの攻撃である。

 しかし先頭の左打者である小島は高速スライダーを警戒している隙にクロスファイヤーで決められた内角のストレートに見逃し三振を奪われ、続く九番右の鷹野は池ノ川や外川のリプレイを見ているような形で空振り三振に倒れていった。

 前のイニングから続けて、これで五者連続三振だ。マウンドの青葉がこれまでに奪った三振の数は早くも七つとなった。

 矢部と鈴姫以外、バットに当たってすらいないのである。青葉に圧倒される形で竹ノ子打線は一巡し、打順は再び一番打者へと回ってきた。

 

「打ったれ星菜ちゃん!」

「ファイトでやんすよー!」

 

 尤もその一番打者は、この試合では初めての打席である。

 青山に代わったことで一番ピッチャーという形でオーダーに加わっている星菜は、足場を軽く慣らしながらゆっくりと打席に立った。

 

(実は私、一番って打順、結構好きだったりする)

 

 星菜がプロ野球を最初に見始めた小さな頃、野球は一番良い打者が一番を打つものだとばかり思っていたものだ。単純に考えて最も打席が多く回ってくる打順なのだから、始めはそう考えても何もおかしくはないだろう。

 星菜自身、幼い頃は何でも一番でなければ気が済まない性格だったというのも理由の一つである。そんな昔の名残りからか、星菜は今でもこの一番という打順はそれなりに好んでいた。

 尤も、だからと言って星菜がこれまでに培ってきた打撃スタイルが変わるということはない。九番だろうが四番だろうが一番だろうが、チームが勝つための打撃をするのが野球なのだ。

 

 

「ストライク」

 

 青葉が投じた一球目、外角の難しいコースに決まったストレートを見送ると、球審からストライクがコールされる。

 

(朱雀ほどじゃないけど、やっぱり速いな……私の力じゃ前に飛びそうもない)

 

 以前の練習試合では剛腕投手の朱雀、変化球投手の青葉という印象が強かったが、かと言って青葉のボールが剛速球ではないのかと問われればそれは断じて否だ。今の一球を見ても140キロは超えていると感じ、星菜は改めて青葉という投手を本格派右腕として認識する。

 星菜は彼の投げるような速いボールはあまり得意ではない。この細腕では、強くスイングしたつもりでもボールの力に振り負けてしまうからだ。

 故に星菜は構えを低くし、クリーンヒットよりも実現性の高い出塁を最優先にした打撃へと切り替えることにした。

 

「ボール」

 

 二球目、高めに迫ってきたストレートをやや身を屈めながら見送ると、球審からボールがコールされる。その判定にムッとした表情を浮かべるマウンドの青葉だが、今のは決して誤審などではない。

 他の打者であればストライクゾーンに入っていたボールでも、今打席に立っているのは竹ノ子高校の野球部で最も小さい身長160センチメートルの星菜なのだ。必然的に、そのストライクゾーンは狭く設定されていた。

 

「ンなくそオッ!」

 

 しかし、だからと言ってボールを置きに行かないのは流石は元ボーイズリーグ日本代表投手というところであろう。横手から強く腕を振って投じた次の三球目は高めのストライクゾーンに決まり、カウントはツーエンドワンとなった。

 

(……追い込まれたか)

 

 以前の対決では星菜の狭いストライクゾーンに苛つきながらフォアボールを与えてくれたものだが、この打席では制球を乱しそうな様子は欠片も見当たらない。

 冷静な思考で青葉の調子の良さを分析すると、星菜はこの打席での方針を再び変更する。

 そして青葉の四球目、テンポ良く星菜を追い込んでから投じてきたのは――石田を見逃し三振に仕留めたバックドアの高速スライダーだった。

 外角に鋭く食い込んできたそのボールに対して、星菜は右手で放り投げるようにバットを突き出した。

 

「ファール」

 

 辛くもバットの先端部に当たった打球は三塁側のベンチへと転がっていき、球審からファールの判定がコールされる。

 

(石田先輩のようにインコースを見せられていたら、今のは手が出なかったかな)

 

 危うく見逃し三振を浴びるところだった星菜はカットの成功に内心で冷や汗を掻きながら、バットを構え直す。

 速いボールは当てるのも簡単じゃないから嫌いだ。常日頃から持ち合わせている剛腕投手へのコンプレックスも相まって、今この打席に立っている星菜は非常に不愉快な気分だった。

 

「へっ、当てるだけが……」

 

 カットはしたが、完全に押されている。

 自分が打者を圧倒していることを感じているのであろう。マウンドの青葉が不敵な表情を浮かべ、自信満々なフォームで五球目を投じた。

 

「精一杯かよ!」

 

 五球目はクロスファイヤー――内角へのストレートだった。外角に決めた先の高速スライダーを意識させておけば、そのボールはより大きな効果をもたらす。反応が遅れて空振りか、或いは反応が出来ずに見逃しか……バッテリーはそのどちらかを狙っていたのだろう。

 しかし星菜とて、むざむざとやられて帰っていくつもりはない。既に一矢報いる策は用意していた。

 

(当てるだけで十分なんだよ)

 

 セーフティーバント――ヒッティングの構えを解くなり自己判断でそれを実行した星菜は、内角のストライクゾーンで勝負を決めに来たその一球をコツンとバットに当てた。

 

「なっ……サード!」

 

 ツーストライクと追い込まれた後に行ったそれはもちろんスリーバントとなり、打球がファールゾーンに転がればあえなく三振となる。仕掛けてくる可能性を考えておらず、警戒を緩めていた青葉は僅かに反応が遅れ、勢いを殺されて転がっていく打球の対応をサードに任せた。

 

「捕るなYO! どうせファール……何っ!?」

 

 打球は左に流れており、そのまま三塁線に切れていくと思いきや……寸でのところでピタリと動きを止めた。星菜のセーフティースリーバントは、フェアゾーンに留まったのである。

 

「フェア!」

「くっそマジかYO!」

 

 スリーバントの失敗を狙ってサードはわざと捕球を見送ったが、それは判断ミスとなった。球審からフェアが判定された頃には時既に遅く、星菜の足は一塁ベースを駆け抜けていた。

 

(よし、ヒットヒット~)

 

 してやったりと言わんばかりの悪戯っぽい表情を浮かべながら、星菜は狙い通りのバントが決まったことを心の中で喜ぶ。

 半分以上まぐれのようなものだが、ヒットはヒットだ。これも野球の面白さだと、星菜は今一度それを感じていた。

 

 

 

 

 






 参考までに本作のMIYABI氏の能力を。

 
 右投両打

 ポジション 遊撃手

 弾道3
 ミート S
 パワー D
 走力 B
 肩力 D
 守備力 S
 エラー回避 S

 広角打法 安打製造機 盗塁4 走塁4 芸術的流し打ち 大番狂わせ ムード×
 威圧感 チャンス5 固め打ち 魔術師 ストライク送球 対エース○ 孤高 星菜病末期

 備考:持ち味のサヨナラ男を失った代わりに色んな能力を身に着けたスーパーチート。現時点では作中最強の打者です。


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竹ノ子の未来を担え君の手で

 

 

 ツーアウトからの走者が出塁し、打席には二番の六道明が入る。

 その初球だった。

 

「ランナー走ったぞ!」

「っ!」

 

 青葉が六道の打席に高速スライダーを投じた瞬間、一塁走者である星菜が完璧なスタートを切った。

 投手の青葉が無警戒だったことが何よりも功を奏したと言える。星菜は彼のモーションを完全に盗み、二塁への盗塁を成功させたのである。

 星菜の走力は一般的な女子としては非常に高いものがあるが、平均的な高校球児と比べればそれほど速い方ではない。それでも結果として危なげないタイミングで二塁に到達することが出来たのは、彼女の盗塁センスの高さと青葉、鬼力バッテリーの警戒の薄さによるところが大きかった。

 

(よし)

 

 ベンチから盗塁のサインが出ていたわけではないが、星菜はこのタイミングならば絶対に成功するという確信を持って走り、その狙いを的中させたのである。

 それによって状況はツーアウト一塁から二塁へと変わり、一転して竹ノ子高校先制のチャンスとなった。

 

「やるね星ちゃん、盗塁も上手いじゃない」

「……どうも」

「まあ、今のはバッテリーが無防備すぎたね。あんな風に一度もランナーを見ないで投げていたら誰だって盗めるよ」

 

 いくらランナーが投手、それも女の子だからってツーアウトのランナーを警戒しないのは良くない。捕手からの送球に対して素早く二塁ベースのカバーに入った雅が、滑り込んだ星菜の足にタッチした後でボールを返しながらそう言った。

 ツーアウトの走者である以上、仮に盗塁を阻止されたところで次の回は二番からの好打順になる。

 盗塁が失敗した場合におけるリスクが少ない状況でありながらバッテリーの警戒が薄かったことに関しては星菜もまた同意見であり、だからこそ星菜は二盗を敢行したものだ。

 

 しかしどうにも、雅の言葉が妙に鼻について聞こえてしまう。

 

 それは星菜の中で、同族嫌悪に近い感情だった。今の雅の態度はまるで入学当初の自分――選手として復帰する前の、野球をすることを完全に諦めていた頃の星菜と同じで、自分以外の野球選手を心から見下しきっているように見えた。

 

(もしかして、貴方は……)

 

 だからこそ星菜には、彼女の感情を理解出来てしまう。

 今の雅の思考が、これまでの言動から鑑みてもある程度察することが出来てしまったのだ。

 

「……初回の打席」

「ん」

「青山君に打球をぶつけたのは、わざとだったの?」

 

 故に星菜は、彼女に問うことにした。

 言葉にして問うことによって、彼女の真意を確かめたかったのだ。

 

 球審からプレイの声が掛かったことで二塁ベースからリードを取り、目の前の試合に一定の注意を払いながら星菜は背後に立つショートの雅に問い掛ける。

 その問いと同時にマウンドの青葉が二塁に牽制球を送ると、星菜はヘッドスライディングで帰塁し、再びベースカバーに入った雅と接触した。

 タッチの判定はセーフ。

 一方で星菜の察する雅の心中は、とてもではないがセーフとは言い難かった。

 

「だったら何さ?」

「凄いバットコントロールだと尊敬する。……だけど、軽蔑するよ」

「心外だね。私はバッティングの基本を実践しただけなのに」

 

 送られてきた牽制球を投手に返しながら、雅は薄い唇をつり上げながらそう言い返す。

 口ごもる星菜に対して、それに……と雅は言葉を続けた。

 

「あんな打球、避けられない方が悪いじゃないか」

 

 そこには悪意も憤怒も無い。ただひたすらに呆れきった口調で語った後、雅は笑った。

 

「公式戦でもないのに、ピッチャーがあの程度の打球で簡単に利き手を怪我するようじゃ話にならないね。私はそんな二流なんかと残り三打席も勝負するのは真っ平御免だよ」

 

 二流投手とずっと勝負するのは嫌だから、彼を早々に退場させる為にあの一打を放った。雅の発言に込められたニュアンスをそう受け取った星菜は、その心に打ち付けられるような痛みを催した。

 自分の知っている雅は、そんなことをするような人ではなかった。

 穏やかで優しい彼女は、こんな……心の歪んだ自分みたいなことを言う人ではなかったと――友人の変貌ぶりを見て、星菜には掛ける言葉が見つからなかった。

 

「……わざとだったんだね、やっぱり」

「最初から私の目的は君さ、星ちゃん。私は君と勝負する為だけにこんな試合を組ませたんだ。君とは試合の中でちゃんと勝負したいと思ったから。星ちゃん好みのシチュエーションでしょ? こういうの」

「私は、猪狩守さんにはそう言ったけど……」

 

 これでは巻き込まれて怪我をさせられた青山があまりにも不憫だと、星菜は思う。

 彼が打球の直撃を受けた時、星菜は自分のことを疫病神のように感じていたが……どうやらそれは、あながち間違いではなかったようだ。

 こんなことならあの時余計なことを言わないでさっさと猪狩と勝負しておくべきだったと、星菜は自らの発言を悔いた。

 

「でも、君との勝負は思ってたよりつまらなくなりそう」

 

 そんな感情で苦々しく唇を噛む星菜に、雅が一昨日の電話の時と同じ冷たい口調で言った。

 先は青葉に向けていた――人を見下しきった目を、星菜に向けながら。

 

「あんな子供だましのピッチングじゃ、私には通用しないよ」

 

 こちらの反論を一切許さないように、彼女はそう言ってまだ見ぬ勝負の結果を断定する。

 挑発、と言うには些か行き過ぎている驕った発言である。

 鈴姫健太郎からはなんだかんだで身内に甘いところがあると言われていた星菜だが、それでも彼女のその発言が気に障らないほど気が長くはなかった。

 

「……言ってくれるじゃないですか。猪狩守さんから打てなかったくせに」

「事実だよ。何なら、今から予告してあげてもいい。これはあくまでも敬遠されなかったらの話だけど……」

 

 星菜は眉間にしわを寄せて雅を睨むが、雅は顔色一つ変えずに言い返す。

 それもまた絶対的な確信に満ちた、あまりにも大胆な発言だった。 

 

「次の打席、私は君からホームランを打つ。一発、豪快な奴をね」

 

 侮辱している、というわけではない。

 まるで実際に未来を見てきたかのように、雅は至って冷静にそう言い捨てた。

 

 

 

 

 

 

「ストライク、バッターアウト!」

 

 打席の六道明が内角のストレートに振り遅れ、空振り三振に倒れる。

 セットポジションになった青葉は走者の居ない状態に比べてやや制球を乱していたが、それでもフルカウントから決めにいったボールは目的を成し遂げた。

 ツーアウト二塁のチャンスで打てなかった六道は苦々しい顔でベンチへと引き下がり、星菜もまた裏の守りに移るべく一旦ベンチへと戻ろうとする。

 しかし、その前に。

 

「雅ちゃん」

「何だい?」

 

 ショートからすれ違う金髪少女の背中に対して、星菜はその名前を呼んで彼女を呼び止めた。

 彼女から受けた言葉に対して、星菜の内心は穏やかではなかったが……それでも星菜は、これまで辿ってきた女子選手としての境遇から彼女の精神状態を察せぬほど鈍感ではない。

 今の彼女が異常な状態であることを、星菜は見抜いていたのだ。

 故に星菜は本当なら彼女の予告ホームランに対して「やれるもんならやってみろ」と強気に言い返したいところであったが、ここはあえて違う言葉を選んだ。

 

「楽しいですか?」

 

 何が、とは言わない。星菜はたったそれだけの抽象的な言葉だけでも、今の彼女には意図が伝わるとわかっていた。

 振り向いた雅は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに平静に戻って問いに答える。

 

「楽しいさ。あの時君と別れてからずっと、私はこの時が来るのを待っていたんだから」

「あの時?」

 

 約束したろう? ――そう言い残して、雅は攻撃のベンチへと帰っていく。

 同じくベンチに戻り、ヘルメットを置いてグラブを手に取るまで、星菜はこの心に引っ掛かっているものがさらに煩わしくなっていることを感じていた。

 

 しかしマウンドに上がれば、星菜の心からそのような雑念はたちまち消え去る。

 

 野球は純然なるスポーツだ。今は試合中である以上、星菜は淡々と自分の役割を果たしていくことが優先だと考えていた。

 確かに同じ女子選手として、一人の友人として、小山雅とは話をする必要がある。

 彼女は今、非常に危うい状態だ。この試合を引退試合と銘打っていることもあり、これ以上失うものがない故にその心にはもはや何の躊躇もないだろう。

 

 ――だから、簡単に捨てることが出来てしまう。野球人として大切なものでさえ。

 

 彼女は今、悪い方向に振り切れて投げやりな気持ちで野球をしているのだと――星菜は自身の経験則から、雅の心情をそう推測していた。

 だからこそ、星菜は彼女と徹底的に話し合いたいと思う。もちろん――

 

(この試合を終わらせた後でっ!)

 

 今は、この試合を全力で投げ抜く。三回の裏、より一層強まった思いでマウンドに上がった星菜の投球は、文句をつけようのない完璧な内容だった。

 八番の青葉はカウントワンストライクからスローカーブによってレフトフライに抑えると、九番稲田にはファールで追い込んでから投じた外角低めのチェンジアップを引っ掛けさせ、サードゴロに打ち取る。

そこでときめき青春高校の打順は一巡し、一番の三森左京に戻る。彼にはツーエンドツーの並行カウントから外角低めギリギリ一杯のストレートを投げ切り、球審から気持ちの良いコールが上がる見逃し三振を奪い取ってみせた。

 いずれも一度もスリーボール以上のボールカウントを与えず、勿論四死球は無い。一回裏の三分の二イニングから登板した星菜は、ここまで一人の走者も出さないパーフェクトピッチングだった。

 

 ――そんな星菜の好投に竹ノ子高校の打線が報いたのは、次の四回表の攻撃だった。

 

 この回の先頭、三番の矢部が初球から思い切ったフルスイングを見せる。

 彼が振るったバットは完全にストレート狙いであったが、青葉が投じてきたのは外角のボールゾーンに逃げていく高速スライダーだった。

 しかしそこで青葉の制球が僅かに狂い、本来ならば空振りを奪う筈だったスライダーは捕手の構えたミットよりも僅かに内側に入ってきた。

 故に矢部のバットは会心の当たりではなかったが、その先端に彼のボールを当てることが出来たのである。

 

「走れ矢部えええっ!」

「竹ノ子の韋駄天なめんなやあああっ!」

「うおおおっでやんすうう!」

 

 バットの先端に当たったボールはフェアゾーン、サードの前へと力なく転がっていく。とてもヒット性とは言えない、完全に芯を外れた打ちそこないの当たりである。

 しかし、打ちそこないが幸いした結果であろう。ときめき青春高校のサード稲田は素早く前進するなり素手でボールを掴んで一塁へと送球したが、ヘッドスライディングで伸ばした矢部の両手は間一髪のタイミングで一塁ベースまで届いていた。

 

「セーフ!」

「よっしゃ! 流石矢部君!」

 

 ベンチの声援に応え、自慢の快足を飛ばした結果である。

 記録はサードへの内野安打。相手サード稲田の守備には特に落ち度はなく、上手い具合に死んでくれた打球の勢いと矢部の並外れた走力が生み出した、待望のノーアウトの走者だった。

 

「健太郎」

「わかっている」

 

 そして迎えた、四番鈴姫の打席。ネクストバッターズサークルから左打席へと向かっていく鈴姫に星菜は一つ助言を与えようとしたが、要らぬ心遣いだと彼の背中は語った。

 星菜も鈴姫も知らないが、この時、二人が抱いている思考はほぼ完全に重なっていた。

 

 ――打席に立った鈴姫は考える。

 

(あのスライダーを仕留めるのは難しい)

 

 キレ味が鋭い上に、スピードが速く曲がりの大きい青葉のスライダーは確かに脅威である。左打者に対してはストライクゾーンの外側から入ってくる変化球になるが、このボールが厄介だということに変わりはない。

 しかし。

 

(足の速い矢部先輩が塁に出た今、盗塁を警戒した配球が増える……)

 

 ――ベンチから見守る星菜が、ときめきバッテリーの配球パターンを分析する。

 

 だからこそ、今はクリーンヒットを打つならばスライダー以外の球種に狙いを絞った方が確率は高い。

 その為の舞台準備が、ノーアウトから矢部が出塁したことによって整ったのだ。

 

(さっきの回で星菜に完璧にモーションを盗まれた反省からか、今はしつこいぐらいバッテリーの警戒が強まっている)

 

 ――鈴姫がこの状況で、狙うべき青葉の球種を一本に絞る。

 

 先の回では六道が凡退した為得点することは出来なかったが、それでも星菜の盗塁は確実に効いていた。

 それは打席に立った鈴姫を前にしても、中々一球目を投じず執拗に牽制球を送っている青葉の様子から見ても間違いない。

 存外、青葉春人という男は熱くなりやすい投手のようだ。

 

(狙うは初球……)

 

 ――ベンチから見守る星菜は忙しない青葉のマウンド捌きを見て、ここはあえて待ちにいくべきではないと判断する。

 

 青葉の高速スライダーはストレートと比べてもほぼ球速は変わらない、その名通りの高速スライダーだ。その球速差は数字に表せばほんの五キロ内程度の違いに過ぎず、盗塁阻止に与える影響としては誤差の範囲である。

 実際のところ、コースを間違えない限り高速スライダーが捕手の送球の足を引っ張ることはないだろう。しかしバッテリーがそう思っているかどうかはまた別の話であり――ここでは、先の回で星菜が盗塁を決めた時のボールが偶然にも高速スライダーだったことが幸いしていた。

 

 ――故に鈴姫にはこの時、青葉が一球目に投じてくる球種、コース、高さを予測ことが出来たのだ。

 

(外角高めのストレート!)

 

 それは、まさに予測通りだった。

 コースは外寄り、高さはストライクゾーンよりもボール二つ分ほど外れている。やはり盗塁を警戒したウエストボールであろう。

 しかしその外し方は打席から見て中途半端であり、狙っていれば打てない高さではなかった。

 

 ――鈴姫の走らせたバットが、その真芯にボールを捉える。

 

 大きな打球の行方は瞬く間に左中間を破っていき、ワンバウンドでフェンスに当たって跳ね返ってきた。

 それを確認しながら一塁走者の矢部は二塁を回って三塁へと進み、打者走者の鈴姫は一塁を回って二塁へと到達する。打球を処理したときめきのレフト朱雀南赤から矢のような送球が返ってきたために一塁走者の矢部が一気に本塁まで帰ることは出来なかったが、竹ノ子高校のチャンスは走者一塁からノーアウト二三塁へと拡大していった。

 

「すげぇ……なんだあの打球」

「広角打法だな。アイツ本当に、どんどん成長してるな」

「愛の力は凄いッスねぇ星菜ちゃん」

「愛か。チッ」

「まさしく愛だな」

「……皆さん、なんで私を見るんですか」

 

 外しが甘かったとは言え、ボール球の高さを逆方向の長打コースに弾き返す鈴姫の打力は見事と言うほかない。入学時点でも元々高かった鈴姫の能力はこれまでの練習と実戦によってさらに磨きが掛かっており、星菜には彼がこの先どこまで成長するのか末恐ろしく思えた。

 

「打てよ池ノ川ー!」

「フハハ! 僕としては間を抜ける当たりで良しとしましょう、先輩」

「ったりまえだ!」

 

 一打先制、それも二点をもぎ取れる大チャンスに打席に立ったのは、この試合五番起用の池ノ川貴宏だ。

 この試合の流れを変える重要な場面であり、緊張の場面でもあったが意外にも彼は冷静だった。慎重にボールを見ていき、カウントはワンエンドツーのバッティングカウントとなる。

 

 ――その四球目だった。

 

「オラァッ!」

 

 打ったのは外角のスライダー。こちらもボールゾーンに外れる一球であったが、池ノ川はそのボールに左手一本で食らいついた。

 執念で打ち返した、と言うよりも「当てた」打球は前進守備のセカンドへと転がっていくが、駆け出した三塁走者矢部のスタートが速かった。

 

「っ……ファースト!」

 

 あの足とこの打球では、バックホームしても間に合わない。そう判断したときめき青春高校のセカンド茶来がボールを一塁へと送り、打者走者の池ノ川はアウトになる。

 

 しかしその間に三塁走者の矢部が本塁へと生還し、竹ノ子高校に先制点が入る。

 

 それはタイムリーヒットでなくとも、チーム全体で勝ち取った質の高い一点だった。

 

 

 

 

 

 

「すまねぇ、雅……一点やっちまった」

 

 自らの迂闊なミスで相手に先制点を許してしまったことを、ときめき青春高校の投手青葉が謝る。

 その言葉がこの場で雅に向けられたのは、彼女がこの試合を自身最後の試合にすると決めた引退試合だからか。

 だから、今日で野球人生を終える彼女の為にせめて勝利をプレゼントしてやりたい。それがときめき青春高校の主将であり、チームメイトであり、一人の友人として抱いた青葉春人の思いなのだろう。

 その気持ちはもちろん、雅にも伝わっていた。伝わってはいたのだが……雅はこの時、その優しさに何も感じていなかった。

 

 ――ピッチャーが失点した……それで? それがどうしたというのか。

 

 雅はこの試合の結果そのものに対して、さしたる拘りは持っていない。彼女にとって重要なのは、いかに自分が野球を続ける心残りを綺麗に無くせるかということだけなのだから。

 それをする為にはもはや、泉星菜を倒せれば十分だ。故にチームの勝敗など、彼女にとっては二の次三の次だった。

 

「まあ、いいよ。どうせすぐに取り返せる」

 

 しかし、勝つに越したことはないということもまた確かである。

 尤もそれについても、雅は今のところ全く気にしていなかった。

 

「あの子も所詮、一流になれなかったピッチャーみたいだし」

 

 次の回には自分に打席が回ってくる。そうなれば同点以上は確定しており、雅は自分が居る限りときめき青春高校の打線に得点の心配は皆無だと確信している。

 

 彼女の言葉は決して、慢心などではなかった。

 

 

 

 



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MAZIGIRE

 

 

 

 

 1対0で竹ノ子高校が先制点を上げた四回の表。状況は尚もワンアウト三塁と得点のチャンスは続いたが、マウンドの青葉春人はそれ以上の得点を許さなかった。

 外野フライでも内野ゴロでも竹ノ子高校に追加点が入るこの状況において、青葉は続く六番外川からこの試合九つ目の三振を奪うと、外角低めのストレートで七番石田をショートゴロに打ち取り、このイニングを最少失点で切り抜けてみせる。

 しかしこの前半戦の内に一点が入ったのは、星菜にとってもチームにとっても間違いなく大きかった。

 

 そして、攻守交代した四回の裏。

 ときめき青春高校の打順は二番の三森右京から始まった。

 

(打線から援護を貰った。後は、私の責任だ)

 

 先制点を入れてもらったことによって投球のリズムが崩れるほど、星菜はヤワなメンタルをしていない。

 星菜はこれまでと同じ投球フォームと腕の振りからボールを放り、淡々とした投球で右京と対峙していく。

 

「クソッ!」

 

 右京は何故こんな遅い球が打てないのかという苛立ちをありありと表情に浮かべながら、星菜の投じた110キロ程度のツーシームを詰まらせ、名手鈴姫の守るショートゴロへと打ち取られていく。

 

 先頭打者が倒れ、ワンアウト走者は無し。

 そして続く三番――金髪の輝く優美な少女が、堂々たる足運びで右打席に入った。

 

「……ようやくおでましか」

 

 小山雅――この試合で引退を決めている、星菜の親友である。

 彼女が自分と戦う為だけにこの試合を企てたのだということは、彼女自身の口から聞いている。そして、その舞台を整える為に先発の青山を物理的にノックアウトしたことも。

 彼女は自分の知らぬ間に野球を始めて、知らぬ間に野球を辞めていた野球少女だ。星菜の胸にはこの時、言葉に表しきれないほどの感傷があったが……勝負となると話は別である。

 ただキャッチャーミットを目掛けて無心に投げ込み、チームを勝利へと導く。星菜はそれこそが自らに課せられたこの試合での役割だと理解していた。

 

(貴方が、どれだけ凄いバッターだとしても……)

 

 彼女はこの打席に入る前に、挑発的な言動から「ホームランを打つ」と星菜に予告している。それは決して根拠のない虚言ではなく、彼女の自信と実力に裏打ちされたものなのだろう。

 しかし星菜とて、彼女を打ち取れるだけの自信はあった。

 球速だけはリトル時代から全く上がっていない星菜であるが、ボールのキレ、制球力、変化球の精度、投球技術――球速を除いたあらゆる面で、星菜はこの場に居るどの投手をも凌駕していたのだ。

 だからこそ、小山雅を前にした今の星菜に怯えはなかった。

 

「ストライク!」

 

 ワインドアップからの一球目。挨拶代わりに投じたのは内角高めのストライクゾーンに入っていくフロントドアのツーシームだ。

 雅がそのボールを微動だにせず見送ると、球審が素早くストライクをコールした。

 

(焦らず、慎重に)

 

 制球は星菜の生命線だ。カウントを取りに行く際は、これまでと同じくストライクゾーンの四隅を丁寧に突く投球を心掛けている。

 しかし制球が良いからと言って何も考えずにストライクゾーンにばかり放っていれば、相手打者には堂々と踏み込まれてしまうだろう。

 だからこそ、投球術として打者付近に投じるブラッシュボールやタイミングを狂わせる見せ球が必要になっていく。星菜が二球目に投じたのは、その内の後者であった。

 

 ストレート以上に勢いが込めた腕の振りから放たれた、大きな弧を描くスローカーブ。

 

 打者の目線とタイミングを狂わせるそのボールは、フワッという擬音が似合う70キロ台の球速で雅の膝下を抜けていき、素手でも捕れそうな勢いを持って六道のミットに収まった。

 球審の判定はボールである。しかし、それはバッテリーの狙い通りだ。このボールは先のツーシームのようにカウントを取りに行くボールではなく、打者を幻惑し、次のボールを投げる為の布石に過ぎないのだから。

 

(よく見てなよ雅ちゃん。これが……)

 

 元来のセンスというものか、星菜は元々質の良いストレートを持っている。

 それはボールの回転数――一般的にノビやキレと言われるものに直結していく要素だ。投手の指先から弾かれてからキャッチャーミットに到達するまでのボールの回転数が多ければ多いほど初速と終速の幅が狭くなり、ボールは失速せず真っ直ぐに伸びていくのだ。

 星菜のストレートもまた球速が遅い割には回転数が多い為、打者の目には実際の球速よりも速く見えていた。いつか鈴姫と勝負した際、星菜は「私のストレートは体感140キロだ」と言ったことがあるが、それはあながち冗談ではない。

 星菜のストレートは素でも体感130キロ近くまで打者に速いと感じさせる球質である。それに加えてボールの出どころが見にくい投球フォームと球持ちの良さ、今しがた投じたスローカーブのような打者のタイミングを狂わせる球種を交えることによって、体感140キロ近くまで水増しすることが出来るのだ。

 

(世界で一番速い115キロだ!)

 

 打者の目から左腕の見えない投球フォームから繰り出される球質の良い、緩急を交えた115キロのストレートは115キロであってただの115キロではない。流石に超高校級の好打者から空振りを奪うことまでは難しいが、高校野球界でも通用する威力を十分に発揮していた。

 世界で一番速い115キロだと豪語するストレートが精密機械の如く外角低めに決まっていくと、ストライクの判定と同時に球審の右手が勢い良く上がった。

 

「そう簡単に、打たせるもんか……」

 

 彼女が球速だけを見て「通用しない」などととほざいたのなら、今度は星菜が彼女を見下すことになる。まだ一度もバットを振っていない雅の顔を見て、星菜はポーカーフェイスの裏で鼻を鳴らした。

 ナイスボールという言葉と共に六道から返されたボールを受け捕りながら、星菜はテンポ良く次の投球動作に移ろうとする。

 

「ガッカリだよ……」

 

 ――打席の雅から「失望」の声が吐き出されたのは、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 小山雅は、その心に立ち篭った落胆の感情を抑えることが出来なかった。

 

 泉星菜――自分が今に至るまでの道標となった、かけがえのない大切な友達。

 昨日、グラウンドの外から彼女の投球を眺めていた時からも、彼女の投球技術の高さはわかっていた。

 その実力も、野球センスもただ者ではないように見えた。

 今この試合においても彼女の投球は決して弱くないときめき青春高校の打線をノーヒットに抑えており、その実力が高校野球界でも通用しているという事実を存分に知らしめていた。

 雅がこうして打席に立ってみれば、球速という重いハンディを懸命に埋めようとした彼女の努力の程を肌で感じることも出来た。

 制球の良さに、遅い球を限界以上に速く見せる投球技術、そして変化球のキレ。それらのみを取れば、彼女の能力はあの猪狩守と比べても遜色はないだろう。

 

 だからこそ、雅はその胸に深い失望を抱いたのである。

 

 そして、落胆した。

 気を抜けば涙を流してしまうほどに、雅は星菜の投げる情けない(・・・・)ボールを哀れんでいた。

 だからか……その心の中で複雑に絡み合った感情が、雅の口から罵倒とも言える言葉を紡ぎ出したのである。

 

「ガッカリだよ……君がこんな偽物のピッチャーになっていたなんて。こんな情けないボールを投げるために、今までずっと青春を捧げていたなんて!」

 

 堪えようのない苦しみと悲しみと共に、雅はマウンドに立っている友に向かって吐き出す。

 それは雅の心を守っていた最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。

 

「なんだって……?」

 

 放たれた雅の言葉に、星菜が眉を顰める。

 ホームランを予告した時と同様に、さしもの彼女もこれには気を悪くした様子だった。

 そんな星菜の顔を見て、雅はその脳裏にかつて彼女と過ごした思い出の一部を想起した。

 

 喧嘩するほど仲が良いという格言があるように、回数はあまり多くないが、雅には彼女と喧嘩したことが過去に何度かある。

 尤もいずれも十分と経たずに仲直りするような小さな喧嘩であったが、意図せずして迂闊な一言で怒らせてしまうことがあったのだ。

 雅の記憶に残っているのは星菜と知り合ってまだ間もない頃のことで、初めて彼女の趣味が野球であることを知った時のことだった。

 

(そう……あの時も、そうだったね……)

 

 女の子なのに彼女は野球が大好きで、将来はプロ野球選手になることを目指していると知ったあの時、雅はなんでそんな「変なこと」をするのかと彼女に訊ねた。

 当時の雅にも悪気があったわけではない。おぼろげながらも野球というものを男が行うスポーツだと認識していた彼女にとって、幼くともそんな競技を好き好んで行っている彼女のことが不思議に思えたのだ。

 当時の雅が抱いたのは当然と言えば当然の疑問だったのだが、雅の訊き方や星菜の受け取り方が悪かったこともあってか星菜に「大好きな野球を馬鹿にされている」と誤解され、口論になったのである。

 些細な喧嘩の切っ掛けは、どれもお互いに幼かったから話がこじれてしまったというだけだ。喧嘩が終われば雅も星菜の夢に理解を示して応援するようになり、少しずつではあったが彼女自身もまた野球というスポーツに魅かれていった。

 

 ――そして巡り巡って、二人は今に至る。

 

 星菜が投手で、自分は打者。お互いに野球という競技のグラウンドで対峙しているこの瞬間が雅には感慨深く、そして今また似たようなことを言い放とうとしている自分にも感傷を抱いた。

 

 しかしその言葉だけには、既に欠片の容赦もなかった。

 

「所詮、女の子が投げる球なんてその程度で限界だってことさ!」

 

 小山雅にとって、泉星菜が大切な友達だからこそ……雅はこの打席で彼女のボールを見た瞬間、許せなくなった。

 彼女はこれだけの才能があって、努力もしているのに――たかが女であるが為にこんな情けないボール(・・・・・・・)しか投げられないのかと。

 

 ――彼女は自分に野球を諦めさせるどころか、性別の壁すら超えていない。

 

 雅はこの打席で彼女のボールを一目見て、そう確信したのである。

 

「何を言って……!」

「君みたいな女の子が野球をするのは間違いだって言ったんだよ! 他の奴らはどうでもいい! だけど君だけは、ここにいちゃいけなかったんだ!」

「……っ!」

 

 それは、早川あおいに向けたものとは種類が違う叫びだった。

 彼女のことを愛していたからこそ、雅は言わずには居られなかった。こんなボールを見てしまっては、もはや黙って居られなかったのだ。

 ああ、なんでこんなボールしか投げられないのか。

 ああどうして、こんなボールしか投げられないのに野球を続けているのか。

 他でもない……泉星菜ほどの女の子が。

 

 それは雅にとって、何もかもが間違いだったのだ。

 

「はっきり言うよ、星ちゃん! こんな情けない球しか投げれない君に、野球を続けるのは無理だ!」

 

 かつて自分の道標となってくれた彼女ならば、今の自分に今度こそ野球を諦めさせてくれると信じていた。

 

 ……野球人生というものの無意味さを説く自分に、彼女は言ったのだ。

 誰かに無駄だと思われても、自分だけは無駄じゃなかったと信じている。だから他人の言葉で野球を諦めるつもりはないと。自分の野球人生の終わりは、自分自身の手で決めるのだと。

 堂々とそう言い切ってみせた彼女の姿はまさしく雅の知る綺麗な泉星菜のままで……その姿に雅は、この日が来るまでずっと光を見出していた。

 

 彼女ならきっと、今の自分を救ってくれるのではないか――また自分に、導きを与えてくれるのではないかと。

 

 だが、期待は裏切られた。希望は踏みにじられた。

 最初から疑念はあった。だけど、信じたくはなかった。

 しかし彼女の投げるボールを打席から見たことで、雅には嫌が応にもわかってしまったのだ。

 

「生まれてきた時点で、君は野球の神様から見放されていたんだからねぇ!」

 

 彼女もまた一流になれなかった、早川あおいと同じ凡百の投手に過ぎなかったのだと。

 

「……君、それ以上の暴言はやめなさい」

「はっ、高野連の人は黙ってなよ。あんた達が言うには女の子は選手扱いされないんだろ? いつもは居ない者扱いしているくせに、都合が悪くなればそれかよ」

 

 連盟出身の球審から掛けられた制止の言葉に、雅は蔑みの視線を向けながら言い捨てる。

 

「本当にね、あんた達の傲慢さにもっと早く気づくべきだったよ。私も、星ちゃんも……あんた達のおかげでこのザマだ」

 

 星菜の投球では絶対に、自分には勝てない。当然、この心は永久に救われないままだ。

 泉星菜に見出した光が偽りだと知ってしまった以上、雅にとってこの試合には何の価値も無かった。今更退場を宣告させられようとも、もはや痛くも痒くもない。

 

 しかしそんな雅の冷め切った心に火を灯したのは、他でもない彼女の言葉だった。

 

「それを……貴方が言うのか? さっきから聞いていれば何だよ……! 貴方の方がずっと傲慢じゃないか!」

「……なに?」

 

 ――混沌としたグラウンドに、激昂する星菜の叫びが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ほんの少し前までの自分なら、雅の言葉に何も言い返すことが出来なかっただろう。

 正直言って、この時星菜が雅の言葉から受けた心の傷は浅いものではなかった。

 

『そもそも俺は、女という生き物が嫌いだ。どいつもこいつも鬱陶しいんだよ。何もかも劣っている癖に、男と対等ぶりやがって』

 

 中学時代の監督が小波大也に言っていた言葉が、星菜の脳裏に蘇っていく。

 それらはずっと忘れたいと思っていた記憶だ。野球選手としての星菜を徹底的に全否定する雅の言葉は、未だ癒えきっていない星菜のトラウマを的確に刺激していたのだ。

 

 自らの叫びにグラウンドが静まり返り、注目が一身に集まっていることを感じる。だが、それでも星菜には開く口を止められなかった。

 

 雅が言わずには居られなかったように、星菜もまた何に代えてでも黙っては居られなかった。

 私情をグラウンドには持ち込むまいと決めていたが……ここまで馬鹿にされれば話は別だ。

 

 故に星菜は、その仮面を外すことに何の躊躇いもなかった。

 

「いつまでもいじけて、自分の弱さを誰かのせいにして……! そういう考えが甘いんだよっ! 貴方がそうなったのは誰のせいでもない! 貴方自身が招いた結果だ!」

 

 まるで過去の自分自身に対するように、星菜は雅の在り方を否定した。

 ようやくわかったのだ。今まで雅の眼差しに不穏さを感じ、恐れを抱いていたのかが。

 星菜が恐れていたのは、変わり果てた雅の冷たい瞳に対してではない。今再び、かつての自分その物と向き合うことが星菜には怖かったのだ。

 

 目の前の現実に挑むことが怖くて、いつまでもうじうじと悩み続けていた自分。

 そんな自分とどこまでも似ている彼女に対してだからこそ、星菜の中でとうとう堪忍袋の緒が切れたのである。

 

「ふん……本当は悔しいんだよね? 自分はあおいさんみたいに強くなれないから! 自分を綺麗に強く見せようとしたって、中身は空っぽのままで……貴方はそうやって現実から逃げてるくせして、全部誰かのせいにして不幸ぶってんだろっ!」

「ッ……! 何がわかるんだよ君に!」

「どっちがだよ! 貴方こそ、私が受けた苦しみを何だと思っているんだ!」

「私は君を心配しているんだ! こんな情けないボールを投げているよりも、君には色んなことが出来たんだ! 私の知っている泉星菜はずっと前を走っていて……野球なんかでつまらない二流で終わる人じゃなかったからっ!」

「勝手な理想を押し付けんな! 今の私が昔と違うのは見ればわかるだろ!?」

「……ああ……ああそうだね! 君は友達との約束を破るような子じゃなかったッ! あの頃の君は決して私を裏切らなかった! 大切な約束を忘れたりなんかしなかったよ!」

「貴方こそ、昔はこんな情けない人じゃなかった! 自分を棚に上げて偉そうに言うな!」

 

 寧ろ、今全力で自分のことを棚に上げているのは己の方だと自覚しているが、それでも星菜は叫んだ。

 説教ではない。ただ、腹が立ったのだ。雅のことを大切な友人だと思っているからこそ、星菜には彼女が自分みたいになっていることが許せなかった。

 恐らく自分も鈴姫や小波、六道聖や早川あおい、そしてこの竹ノ子高校の皆に出会わなかったら……今の雅の居るところまで堕ちてしまっていたのだろう。だからこそ、許せない。許せなくなった。

 

「……座ってください、六道先輩」

「あ、ああ……」

「審判も、プレーを再開しましょう」

「は、はい」

 

 導火線に点火された炎はそう簡単には消えない。消える時は、爆発し終わった後の静寂だ。

 元々は激情家であった星菜には、雅の発言の何もかもが神経に障っていた。

 

「情けない球がどうか、試してやろうじゃないか!」

 

 自分みたいなうじうじ女を、これ以上増やしてたまるかと――そんなことを考える星菜は怒りの中でも最低限の冷静さを失うことなく、雅を抑えるべきボールを左手に握り、グラブを添えてワインドアップに入る。

 そして雅もまたバットを構え、闘志に滾った眼光で星菜の投球フォームを睨んだ。

 

 

「雅っ!」

「星菜ああっっ!!」

 

 

 左腕を隠した招き猫のような投球フォームから、泉星菜が右打席の内角へとボールを解き放つ。

 神主のような構えから正面に突き出したバットを振りかぶり、小山雅が左腕から放たれたボールを一閃する。

 

 ――互いの宿敵の名を叫び合いながら繰り広げた第一ラウンドは、つんざくような金属音を轟かせて幕を下ろした。

 

 

 

 

 

 



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異次元の遊撃手

 

 気迫を込めた一球は、完璧なコースに決まった筈だった。

 

 内角から低めのボールゾーンに割れていく高速縦スライダー。右打者にとっては泣きどころのコースであり、変化のキレも制球された狙いにも狂いは無かった。

 星菜にとってそれは、決して打たれる筈の無い最高のウイニングショットだったのだ。

 

 しかし、小山雅が振り払ったバットは空を切ることなく豪快な金属音を鳴り響かせ――

 

 

 ――美しい放物線を描き、フェンスを越えて地面へと落ちていった。

 

 

 特別なことは何もない。

 ただ泉星菜が完璧に投げ切った筈のウイニングショットは、それ以上に完璧だった小山雅の打撃によって打ち砕かれたのである。

 

 レフトの彼方に消えていった打球の着弾点を打席から確認した後で、ようやく一塁方向へと歩き出した雅はそのまま二塁、三塁、と緩やかにベースを一周していき、最後はその足でホームベースを踏みしめた。

 その間、彼女は終始無表情で。

 まるでそれまでの動騒が嘘だったかのように落ち着いた表情で、彼女はマウンドの投手へと言い捨てた。

 

「言った筈だよ……こんな子供だましのピッチングじゃ、私には通用しないって」

 

 この打席でホームランを打つという予告を自らの手で実現させてみせた雅だが、その表情は自身の打撃を誇ってはいなった。

 プロの野球選手が小学生を相手にホームランを打つのと同じで、彼女にとっては星菜のボールを打つことに何の愉悦も感じなかったのだ。

 

 この打席での結果こそが、二人の間を分かつ絶対的な力の差であった。

 

 雅は哀れむような眼差しを彼女に送り、そしてベンチへと戻っていく。

 試合はこれで1対1の同点だ。戦況はまだ振り出しに戻っただけではあったが、雅の放った一撃は竹ノ子高校にとってそれ以上の傷を与える結果となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(まずいな……)

 

 今のホームランは、自分のミスだ。雅の達人的な打撃を間近で目の当たりにした捕手の六道明が、苦虫を噛みながら一旦タイムを取ってマウンドへと向かっていく。

 彼女に打たれたボールは星菜の投げミスではない。間違いなく、明が要求した通りのボールであった。

 投手が狙い通りのボールを投げたのにも拘らず打たれたのであれば、責任は投手をリードする捕手にある。ましては自分は先輩で、彼女は後輩なのだ。然るべきフォローを行わず手痛い目に遭うことは、明には以前の恋々高校との一戦で十分だった。

 

「……すまない、今のは俺の配球ミスだ」

 

 打たれたのはボール球とは言え、捕手の工夫次第では防げたかもしれないホームランである。

 今のは決してお前のボールが悪かったわけではない、だからこれからも自信を持って投げろという意味を込めて、明は励ますように星菜に告げた。

 小山雅という少女とはただでさえあのような言葉のやり取りがあった後だ。明の言葉は今の星菜の精神状態に配慮した言葉であったが、当の星菜には聞こえていないのか、彼女は俯いたまま顔を上げなかった。

 

(無理もないか……)

 

 彼女からしてみれば自分のこれまでの野球人生を全否定された挙句、それを決定づけるようなホームランを打たれたのだ。鈴姫健太郎のお陰か最近こそ以前より明るくなったように見えていたが、彼女の中で未だ燻り続けている女子選手特有のコンプレックスなど明には到底わからなかった。

 ホームランを打たれて上の空な投手など、本来ならば引っ叩いてでも立ち直らせるのが捕手の務めであろう。しかし今回の場合は状況も状況であり、相手も相手であり、明にはどうやってフォローしてやればいいものかと気の利いた言葉が見つからなかった。

 そんな時である。

 

「……先輩は」

「む?」

 

 俯いたまま、彼女は明に切り出した。

 どうやらこちらが恐れていた以上に、彼女にとって今のホームランは堪えていたようだ。重く沈んだ声に、明は彼女の受けた苦痛を察する。

 そして次の言葉を紡ぎ出す際に彼女が上げたその顔からは、「恐れ」や「迷い」と言った今にも不安に押し潰されてしまいそうな危うい感情を読み取ることが出来てしまった。

 

「先輩はこれでも……私のことを見捨てませんか……?」

 

 そんな彼女の問いを受けて、明は静かに目を瞑る。

 打たれた自分を見捨てないか……その問いに、明は泉星菜という人間の弱さを感じた。そして彼女のことになると度々普段の冷静さを失う鈴姫健太郎の気持ちが、この時の明には何となくわかるような気がした。

 放っておけない――まるで捨てられた子犬や子猫のように、彼女の落ち込んだ姿は庇護心を刺激してくるのだ。彼女自身が望もうとも望むまいとも、男である自分が守ってやらねばと考えてしまう。

 恵まれた容姿と相まって、年頃の少女が持つものとしてそれは十分に長所なのであろう。しかし、野球選手としてそれが必要かと問われれば答えは否だ。

 小山雅という少女が放った言葉は暴言ではあったが、一部分では確かに的を射ていたのだ。感情を抜きにして客観的に見れば、彼女のような人間は野球から離れた人生を送っていた方が大成する気はした。

 

 しかし。

 

「そんな顔をするな」

 

 ――そんなことを、一体誰が決めたというのか。

 

「ピッチャーを見捨てるキャッチャーなど居るものか」

「…………っ」

 

 人の野球人生を否定する権利など、例えメジャーリーガーであろうとありはしない。雅の言った言葉に対して、明はそう笑い飛ばしたい。

 彼女の人生を決めるのは、彼女だけだ。

 泉星菜があの小山雅という少女とどれほど深い繋がりがあったとしても、それは決して変わらない筈だ。

 客観的に、あくまでも「他人事」だからこそ、明は彼女の不安を吹き飛ばすように星菜に言って笑いかけた。

 そんな明の言葉に、彼女の表情から暗い色が落ち着きを見せる。こんな言い方でも、励みになってくれれば幸いである。

 明は自分も大概器用な人間だとは思っていないが、捕手としての立場から投手の心を激励することは出来る。

 そしてこの時の明には与り知らぬことであったが、そうした物言いこそが泉星菜が求めていた言葉でもあった。

 

「しかし、君もまだまだ甘いな泉。試合中にそんなくだらないことを考えているから、奴にホームランだって打たれるんだ」

「先輩……」

「自分を信じて俺のミットに投げろ。安心しろ、責任は全部俺が取る。失敗するのが俺に……俺達に申し訳ないと思うなら、そんなことを考える暇もないぐらい集中して自分のピッチングをしろ」

 

 傷心している後輩の少女に掛ける言葉としては少々手厳しいかもしれないが、明も伊達に彼女とバッテリーを組んできたわけではない。

 彼女は波輪風郎ほど強くはない。しかし泉星菜という人間は、決して弱くはないと明は信じていた。

 

「君なら出来ると思っていたんだが……買いかぶりすぎだったか?」

「……いけます。私はまだ、投げられます」

「いい返事だ」

 

 彼女のグラブにボールを渡し、明は彼女の言葉に満足する。

 今は試合中。難しいことを考える時間など、試合が終わった後ならばいくらでもある。そんな明の意図は無事に伝わったのであろう。左手でボールを握り締める彼女の目は弱々しい乙女のそれではなく、打者に立ち向かっていく力強い投手の目だった。

 

「よし、行くぞ。鈴姫、お前も戻れ」

「……はい」

 

 彼女はまだ戦える。そのことに安堵した明は、いつの間にかマウンドに寄っていた頼もしいショートストップに声を掛けてからキャッチャーボックスへと引き下がっていく。

 

 そして球審の声によって、プレーは再開した。

 

 

 

 

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 四番鬼力が完全にタイミングを外され、相手のスローカーブによって空振りの三振に倒れる。

 小山雅のホームランによって同点に追いついたときめき青春高校であったが、それによって相手投手が投球のリズムを崩すことはなかったようだ。

 先ほど会話をしていた様子を見るに、恐らくはあの捕手が上手いこと彼女の心を立ち直らせたのだろう。

 余計なことを……とベンチから眺めていた雅が小さく、心底忌々しげに呟く。

 彼女などあのままずっと落ち込んで、諦めて野球の舞台から引っ込んでくれれば良かったのだ。

 

「私は、私以外のバッターに君が打たれる姿なんて見たくないんだけどね……」

 

 それは雅なりの、彼女に対する慈悲であった。

 あれだけ野球が大好きだった泉星菜だ。昔は彼女と特別仲の良かった雅からしてみれば、彼女が他の雑魚共と同じように叩きのめされていく光景を見るのは友達として忍びなかった。

 彼女の敗北は雅にとっての勝利であり、雅が野球を完全に諦める為には必要な条件だ。しかしその一方で、雅は彼女を傷つけることを良しとしていない。それが明らかに矛盾した考えであるということに、雅は気付いている。しかし気付いていたところで、もはや雅自身にもどうすることも出来なかった。

 実のところ、明らかに挑発の枠を超えていた先ほどの言動に関しては、雅にとっても想定外だったのだ。

 

(私がこうなったのは、私自身が招いた結果か……)

 

 あの時、雅の言葉が星菜の心を抉ったのと同じように、星菜が雅に言った言葉は雅の心をきつく抉ったのである。

 彼女の指摘は、雅にとっては最も直視したくないと思っていた自分の弱さに対するものだった。

 自分は早川あおいのように、真っ向から現実に立ち向かうことが出来なかった弱い人間であると――他でもない泉星菜から受けた言葉だからこそ、雅が受けた痛みは大きかった。

 

「……もっと早く、再会したかったな……」

 

 人は図星を突かれた時こそ大きく取り乱すものだ。

 彼女の叱責は、ときめき青春高校の一員だった頃の自分になら届いていたかもしれない。

 あわよくばこんな風に変わり果てる前に、自分を救ってくれたかもしれない。

 しかしそんなことを考えても、今となっては後の祭りだった。

 

「残念だよ、星菜」

 

 彼女との再会が遅すぎたことも。

 彼女の実力が、自分の期待に応えられるものでなかったことも。

 その全てが、雅には残念で仕方なかった。

 

 そう呟いて雅がグラウンドを眺めていると、ときめき青春高校の五番朱雀がヒットを放った。

 

「……早速打ったな」

「朱雀君のスイングスピードなら当然だよ。ちょっと頭を使えば見ての通り、ヒットは出る」

 

 ツーアウトから飛び出した朱雀の当たりは外角のボールゾーンに外れていくスライダーを意図的に引っ掛けて、サードの頭上を越してレフトの前へと落としていくテキサスヒットであったが、雅としてはそれで上出来だった。同じシングルヒットならば、ポテンもクリーンヒットと同じだというのが雅の野球論でもある。

 野球は所詮、野手の居ないところへ打球を飛ばせばいいスポーツだ。特にあの泉星菜という投手には、それこそが最も効果的であることを雅は見抜いていた。

 早速打った、とまるで予定調和のように言う青葉春人の言葉に、雅は頬杖を突きながら返す。

 

「あの手のピッチャーは鬼力君みたいなフリースインガーとの相性は良いかもしれないけど、逆は最悪だからね」

 

 先ほど、打席に鬼力が立っていた頃のことである。

 雅は自らのホームランによってベースを一周してベンチに戻った後、ときめき青春高校のチームメイト達に泉星菜の「攻略法」を伝授したのだ。

 雅は自分が打席に立った際に確信した彼女の弱点を明かし、そこを徹底的に突くように一同に仕向けたのである。

 

 

『あの子のボールは、遅すぎるんだ』

 

 雅がチームメイト達に伝えたのは、本当に見たままの情報である。

 そんな雅の発言であったが、やはりと言うべきかこれまで泉星菜の「遅い」ボールを前にノーヒットに抑え込まれていた一同にしてみれば腑に落ちていない様子だった。

 

『そりゃ、スピードガンで見たら大したことなさそうッスけど……実際打席立つと打ちにくいッスよアレは』

『ってか、言うほど遅いかね? 俺の目には思っていたよりずっと速く見えたが……』

『いや、やっぱりコントロールだろ。ああも続けて打ちづらいところに投げられると簡単には打てんぜ』

『それより変化球が厄介だYO。腕の振りも全部同じだし』

『ああもキレの良い変化球を混ぜて来て、ボールの出どころも見にくい……真っ直ぐ自体、手元でかなり伸びてくるが……』

 

 遅いボールしか来ないにも関わらず自分達がヒットを打てないのは、決して自分達の実力が低いからではないのだと……暗にそう弁明しているかのように、一同は打席で見た泉星菜の投球に対する感想を口々に述べる。

 実際、彼女は無策で勝負して連打が簡単に打てるような投手でないのことは雅もわかっている。しかし、雅からしてみれば彼らの感想はどれも失笑ものであり、既に自らの無能さを知らしめるだけの醜い言い訳にしか聞こえていなかった。

 

『良いように騙されているってことだね、それは』

 

 あの程度のボールに対して、打ちにくいと考えてしまうこと自体が彼らの実力の無さを物語っていた。

 これではヒットが出ないのも道理である。雅以外のときめき青春高校ナインは全員、泉星菜の魔法にまんまと嵌まってしまっていたようだ。

 

『確かに打席から目で感じるボールの質自体は悪くない。でも、あれはただ小手先の技術でそう見せているだけだ。どんなに頑張って速く見せようとしても、バットから感じる球威は110キロそこそこのボールに過ぎない』

 

 確かに彼女は、遅いボールを速く見せるというまるで魔法のような投球技術を持っている。

 それも、かつてプロ野球界に名を馳せた「星の大魔王」を彷彿させる投球技術である。

 

 ――「星の大魔王」の異名を持つ伝説の投手、星園渚――。

 

 一昨日の見学で彼女の投球を見た時、雅は彼女の招き猫のような投球フォームがかの大投手のそれに似ていることに思い至った。

 星園渚とは十五年前、名球会入り目前にして病に倒れた、プロ野球ファンの間では有名な悲劇のエース投手の名である。

 かの大投手は最速130キロ程度の球速でありながら、左腕の見えないボールの出どころを隠した投球フォームや緩急を織り交ぜる多彩な変化球によって、遅い直球を実際の球速表示よりも速く錯覚させていたと言う。

 没年35歳にして彼がプロ野球人生において積み重ねた勝利数は驚異の199勝である。アマチュアレベルの球速のボールしか投げられないにも拘らずプロの打者を次々と切っては勝ち進んでいく彼を、人々はいつしか広まっていた「星の大魔王様」という二つ名で讃えていたと言う。

 

 尤も雅は当然ながら、かの大投手の投球を生で見たことはない。

 彼がこの世を去ったのは十五年前のことであり、当時は雅がまだ野球に興味を持っていないどころか、一歳の赤子だったのだ。雅が彼のことを知っていたのは、何度かドキュメンタリー番組や動画サイトなどで残っていた情報を目にしたことがあったからである。

 現代のプロ野球の世界で彼のような遅い球速で活躍出来る投手は極めて稀であり、アンダースローやナックルボーラ―のような投手を除けば限りなくゼロに近い。故に雅も彼のことを知った時、彼の特異な投球スタイルに興味を抱いたものだ。

 その好奇心から、彼の関係者が書き綴った彼についての著書を読んだこともある。

 そしてその著書には、球速が遅い故に彼が苦労したことなども丁寧に書き綴られていたことが記憶に残っている。

 

『球威が無いから、多少のボール球でもタイミングを合わせれば飛んでいく。それが攻略法だよ』

 

 その内容を思い出しながら、雅は一同に泉星菜の致命的な弱点を明かした。

 伝説となった大投手、星園渚――彼の防御率は毎年安定した数値を保っており、様々な指標でもトップクラスであったが、一つだけ大きな欠点があった。

 それは「被弾」の多さである。規定投球回に乗った年はそのほとんどが二十本前後のホームランを浴びており、被本塁打王争いの常連だったと言う記録が今でも残っている。

 

 そう言った知識も手伝い、雅は打席に立つ以前から星園渚の投球フォーム、投球スタイルが驚くほど酷似している星菜もまた、彼と同様の弱点を抱えているのではないかと睨んでいたものだ。

 答えは、まさにその通りであった。

 雅は彼女のボールをフルスイングで打ち返し、会心の一撃を放った筈だが、その手には本来ならある筈の痺れるような感触が無かったのだ。

 

『……球が軽いってことか?』

『簡単に言えばそんなところかな。あの子が投げるボールは、ストレートも変化球も軽いんだ。こんなにやわっちい私の手ですら、あの子のボールを打った時は全く痺れなかった。真芯で打ったのもあるけど、それにしたって感触が弱すぎたよ』

 

 星園渚と似ている投球フォームが直接的な要因とは限らないが、性別、体重の軽さ、角度の無さ、ボールの軌道、ボールの回転、そのあらゆる点が、彼女の投げるボールの反発係数を引き上げてしまっているのだとは推測出来た。

 彼女もまたその弱点はある程度理解しているのだろう。だからこそ彼女はせめてもの小細工としてツーシームやカットボールなどと言ったバットの芯を外すボールを主体的に多く使い、綺麗な軌道で入ってくるフォーシーム――通常のストレートは見逃しのストライクを取れる自信がある時ぐらいしか使わない。

 これだけわかりやすい配球パターンと実際に打席に立った情報が頭にあれば、彼女の攻略法など誰にでも思い浮かぶというのが雅の言い分であった。

 そしてここまで言った後になって、雅には自分が打つまで彼女の情けないボールに手も足も出なかった味方ナインに対して腹が立ってきた。

 

『……君達はボールの待ち方がなっていないんだよね。まともに来もしないフォーシームばっかり狙っているから、あんな子供だましのスローカーブやチェンジアップなんかに騙されるんだ。配球の割合的に、そもそもが変化球中心のピッチャーなんだから始めからストレートは捨てるなりなんなりして、ちょっとは頭を使いなよ』

『うっ……』

『雅ちゃん、怖いぃ……』

 

 無策で打席に立ってバットを振るだけ……そんなことは、今時リトルリーグだって許されないことだ。

 ましてや彼らがやっているのは高校野球だ。泉星菜程度の投手に手こずっているようでは、甲子園出場など夢のまた夢だと雅は言ってやりたい。

 そんな彼女の棘のある言葉に、筋骨隆々な男児たる一同は全員が怯えた反応を寄越したものである。

 

『ストレートが来たところで、実際の球速よりは速く見えるだろうけど精々体感130キロがいいところだからね。変化球狙いのタイミングでも、君達ならカット出来るでしょ?』

『あ、ああ……』

『まったく……私はもういなくなるって言うのに、そんなんじゃ先が思いやられるよ』

 

 深くついた溜め息が、これでもかと言うほどに雅の気持ちを表していた。

 雅は落胆する。どいつもこいつも、ときめき青春高校の選手はセンスだけで野球をやっている者ばかりだ。

 良く言えば天才肌な選手が多いとも言えるが、頭を使ってプレーをすることが少ないという欠点を露呈していた。

 自分の野球人生は今日で終わる。故に彼らが今後どれだけ苦労することになろうと知ったことではないのだが、彼らのような無能な男達を見ると雅は無性に怒りが沸いてきた。

 それでも辛うじて苦言程度に収めているのは、この試合の間は共に泉星菜を叩き潰す為に必要な戦力だからでもあった。

 

『……とにかく、あの子を打つのに長打狙いのフルスイングは必要ない。具体的に言うと、右バッターならセカンド方向、左バッターならショート方向に小フライを打ち上げるイメージかな。そうすれば、上手く詰まったテキサスヒットを連発出来ると思うよ』

 

 チーム全体で徹底的に打ち込んでやれば、彼女も野球を続けていく自信を失うだろうか……そんなことを考えながら、雅は具体的な指示を彼らに与える。 

 要は逆転の発想。彼女の投球でバッティングを崩されないように、自分からバッティングを崩していけということだ。

 

 ――尤もそれは、雅が適当に思いついた何パターンもの攻略法の一つに過ぎない。

 

 小山雅自身が先ほどの打席で実践したのはフルスイングによるホームラン狙いの打撃であり、彼らに告げたものとは明らかに正反対なものだった。

 一同もその矛盾に気づいたのであろう。怪訝な表情を浮かべながら、一同を代表して青葉が訊ねた。

 

『……そうは言うけど、さっきのお前は、思いっきり強振していたよな? なのにどうしてあんな簡単に打てたんだ?』

 

 周りには長打狙いのフルスイングは要らないと言っておきながら、自分はその長打狙いのフルスイングで豪快に引っ張り、泉星菜からホームランを放っている。

 彼女自身の打撃が、泉星菜の攻略法を否定していると彼らは思ったのであろう。

 しかし、それは間違いである。

 攻略法は攻略法でも、雅はただ自分が出来る中で最も効果的である「別の攻略法」を実践しただけなのだから。

 

『私はマウンドからベースに届くまでのボールの回転を見て、そこから球種を見極めて打ったんだ。これも球が遅いから出来たことだけど……君達には無理でしょ?』

 

 打席でボールを見た瞬間、雅にはわかってしまったのだ。

 雅には星菜の放つボールの回転が、縫い目まではっきりと見えていた。そしてその回転から彼女が選択した球種を瞬時に見極め、同時にそれまでの配球パターンからコースと高さを計算しながらバットを振り抜いたのである。

 

 雅にとっては、全て「球が遅いから」で済まされてしまう攻略法だった。 

 

 球が遅いから、ボールがベースに到達するまでの計算を楽々クリアすることが出来る。

 球が遅いから、狙い球だけに的を絞って迷いなく振り抜くことが出来る。

 そして球が遅いから、バットにさしたる抵抗も無いままレフトスタンドに運んでいくことが出来ると言うわけである。

 

 尤も、そんなことが出来るのはほんの一握りの天才だけだ。

 ボールの回転が見えたところでバットを振る身体の反応が追いつかなければ意味はなく、コースや高さが読めていても確実に仕留められないのであれば結果は凡打の山である。

 先のホームランは高い打撃技術は勿論のこと、超人的な動体視力と反応速度の高さ、一球先の配球を読み通す未来予知染みた予測能力を併せ持つ小山雅だからこそ成し遂げることが出来た離れ業であった。

 

 

 

「……異次元だな、お前は」

「そう思うなら、君は選手として低次元だってことだよ。青葉君」

 

 あまりにも規格外な才能を目にして、十分に天才と言われる人種である筈の青葉が慄然としている。そんな彼に対する雅はもはや取り繕う気も無く、心の落胆と共に薄い冷笑を返した。

 

 そんなことを話している間に打席ではときめき青春高校の六番茶来元気が外角のボール球を詰まらせながらもセカンドの頭を越えていくライト前ヒットを放ち、その間に一塁走者の朱雀が三塁まで陥れる好走塁でツーアウト一塁三塁へと得点圏のチャンスを作っていく。

 

 ――そして、続く七番神宮寺の打席。左打ちの彼がおっつけた打球はサードの頭を越えてレフトの前へと転がっていき、ときめき青春高校のスコアボードに追加点を加える勝ち越しのタイムリーヒットとなった。

 

 これで三連打。それまでノーヒットだった打線が嘘のような活気であった。

 

(……そう、球が遅いって言うのはどんなに誤魔化しても致命的な弱点なんだよ。大振りされない限り空振りを取れないから、こうして不運な当たりが続いたりもする)

 

 こちらの狙いにあちらが気付けば、内野が後退して外野が前進するテキサスシフトを敷くなりと対策を行うことは出来る。

 しかしそうなれば今度は外野の頭を越える長打を狙いやすくなる。彼女の場合はボールの球威が無いから、尚更だ。

 かの大投手、星園渚にはそう言った弱点を補う為の絶対的なウイニングショットが――「魔球」とも言える強力な決め球があったと聞くが、これまで見た限り彼女がそのようなボールを備えている様子はない。彼女にとっては、あの縦スライダーこそが決め球のつもりだったのだろう。

 

 ――それが、泉星菜の限界だということだ。

 

 プロの大投手の真似事をしたところで、彼女はその大投手とは何もかもが違うのだ。

 フォームを似せたところで、彼女は彼より腕が短いし身長もずっと低い。何より体重なんかは彼の半分程度しかないだろう。だからどう頑張っても物真似の域を出ることはなく、雅からしてみればその程度の投手など相手ではなかった。

 器用に変化球を投げ分けてもそうだ。肝心の真っ直ぐが遅いから、打者はすぐに慣れてしまう。軽打に徹しろという雅の指示には、彼女のボールの軌道に打者の目を慣れさせるという意味も含まれていたのだ。今はまだテキサスヒットばかりであるが、回が進めばその内クリーンヒットや長打もぼちぼちと出始めるだろう。彼女にとって絶望的な未来が、この目に浮かぶようだった。

 

 ……尤も、何度も言うようにそれでも泉星菜の投球は高校野球のレベルで戦っていくには十分なものではある。

 

 彼女の投球技術なら、多くの弱点を背負いながらも試合を作ることは出来るだろう。

 打線次第では、面白いところまでチームを勝たせることが出来るかもしれない。

 しかし、雅はその程度で満足するような星菜を見たくなかった。

 野球が出来るだけで喜んでいるような志の低い泉星菜を、雅にはどうしても認めることが出来なかったのだ。

 

(プロになるって約束したのにね……そんな球じゃ、なれるわけがないよ……)

 

 今と言う時代で、最速115キロのプロ野球選手など居る筈がない。

 球が遅いと言う彼女の弱点はかつて彼女が抱いていた壮大な夢を実現不可能にしており……それが、雅には悲しかった。

 彼女はまだ一年生、将来的にはもっと速くなるかもしれないと……そんな希望的な観測を抱くにも、今度は性別が重い足枷となっていた。

 

「なんで、君は男の子に生まれなかったんだ……」

 

 性別の壁が、彼女の伸びしろを消していたのだ。彼女の球速は他の子よりも一足早く成長期を終えた小学生時代から1キロも上がっていないことを、雅は彼女自身の口からも聞いていた。

 

 だから打席に立った時、雅にはわかってしまった。

 

 彼女が野球を続けたところでかつての夢を叶えるどころか、こうして騙し騙しの投球で打者をかわしていくだけの小さな投手で終わっていく運命なのだと。

 故に、疑問を感じてしまう。

 

 

 ――どうしてそんなになってまで、いつまでも「向いていない」競技に拘り続けるのだろうかと。

 

 

 

 




 


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『信頼』

 

 

 

 

 猪狩守は自他共に認める野球の天才である。

 あらゆる分野において自分が人よりも才能に恵まれていることを理解しており、人よりも多く努力することを惜しまない人間でもある。己の才能を生かすことに対して、彼は誰よりも貪欲な人間なのだ。

 努力をする天才――単純に言えば、それが猪狩守という男の人物像である。

 しかしそんな彼とて、元からそうだったわけではない。

 もちろん昔から野球の才能には恵まれていたが、それ故に少年時代の彼は傲慢な性格をしていたのだ。

 挫折を知らなかった幼い頃の彼は、持って生まれた才能で他者を圧倒することを当然のこととして受け入れていた。彼にとっては試合に勝つことなど始まる前から決まっていることであり、試合中には自分がどれぐらい気持ち良く投げれるか、打ち込めるかということぐらいしか頭に無かったのだ。

 

 そんな彼が初めて圧倒することが出来なかった、それどころか勝負に勝つことすら出来なかった相手が泉星菜という野球少女である。

 

 もちろん、彼女一人に負けたわけではない。

 当時彼女のボールを受けていた女房役であり、今は恋々高校の主将を務めている小波大也という男。彼と泉星菜のバッテリーによって、天才猪狩守と弟の進が率いる最強のチームは敗れ去ったのである。

 

 当時の思い出は風化しても尚、猪狩守は忘れていない。守にとってその日のことは人生初の敗北という汚点であると同時に、自身の野球に対する考え方が変わった大きな分岐点でもあったのだ。

 

(あの時の君の球は、誰よりも速かった……そう、この僕の球よりもね)

 

 あの時、最後の打者となったのは他でもない猪狩守だった。

 最終回の攻撃、一打が出れば逆転サヨナラのチャンスで、守は彼女と三打席目の対峙をした。

 彼女のチームとの試合は手に汗握る大熱戦だった。マウンドに立つ彼女の球数は既に100球を超えており、初回から中盤に掛けての投球に比べればボールの力は明らかに落ちていた。それこそ天才である守のバットなら、一振りで決まられる筈の状態だったのだ。

 

 ――しかし守はその打席、遂に彼女のボールを打つことが出来なかった。

 

 彼女が最後の力を振り絞って投じた渾身のウイニングショットは、体力的に疲れ切った身でありながら、その試合におけるどのボールよりも速かったのである。

 

 結果は、ど真ん中のストレートに振り遅れた猪狩守の空振り三振だった。

 

 それは彼が野球を始めてから見たことがないほどに、体全体で「速い」と感じたストレートだった。その時になってようやく、猪狩守は彼女が自分に匹敵する……もしくは自分以上かもしれない才能の持ち主であることに気づいたのである。

 そして初めて、少年守は心の底から悔しいと思った。自分の努力が足りなかったことを思い知った。一つの敗北が、彼の野球人生の中に延々と残り続けたのである。

 

 

 リトルからシニアに移り、今に至るまで守は全国各地に存在する多くの好投手と戦ってきた。

 

 竹ノ子高校の波輪風郎。

 海東学院の樽本有太。

 帝王実業の山口賢。

 橘商業の久方怜。

 星英高校の天道翔馬。

 白鳥学園の戸井鉄男。

 ……いずれも同年代であり、守に勝るとも劣らぬ才能を持つ剛腕投手である。

 実際に打席に立って見た時、彼らのボールは確かに速かった。それこそスピードだけなら、守よりも速いボールを投げる者は何人も居たものだ。

 だがそれでも、猪狩守がこれまでの野球人生の中で最も「速い」と感じたのは、彼らの内の誰かではない。

 

 猪狩守の野球人生において最も「速い」と感じたのは、リトルリーグの大会で勝負した泉星菜――彼女との最後の対決で空振り三振に仕留められたど真ん中のストレートこそが、今に至るまで彼が最も「速い」と感じたボールだった。

 

 尤も当時の守は小学生であり、高校生になった今とはボールの見え方も感じ方も異なる。泉星菜への評価の高さを思い出補正と言われてしまえば、否定出来る具体的な根拠はどこにもないだろう。

 しかしそれほどまでに、猪狩守にとって本当に追い詰められた時の(・・・・・・・・・・)泉星菜のストレートは凄まじいものだったのだ。

 

「……怪我人を笑いに来てみたら、面白い物が見れたな」

「ピンチですね、泉さん。流石に高校野球まで来ると、球速が遅いのは厳しいのかな……」

「どうかな? 僕にはそうは思えないね」

「え?」

 

 彼らがその場を訪れたのは、ほんの気まぐれだった。守が弟の進と共に日課のランニングがてら竹ノ子高校の練習を視察しに来てみれば、何とも興味を引く光景が広がっていたのである。

 相手のチームがどこの高校かは知らないが、見れば先日自分のライジングショットを当てた(・・・)新しいライバルの姿がある。竹ノ子高校のグラウンドではそのチームを相手に、あの泉星菜が登板していた。

 しかし、泉星菜が球威の無さを突かれるような形で連打を浴び、今も尚ピンチが続いている。ヒットらしいヒットと言えばあの小山雅という少女が放ったホームランぐらいなものであるが、狙いすましたようなテキサスヒットの連発は彼女の球威の無さという弱点を露呈していた。

 その光景は、暗に猪狩守の彼女に対する評価が過大であると言っているようにも見えた。

 

 ――しかしこの時、猪狩守の胸には泉星菜の投球に対する失望は無かった。

 

 それで居て、彼女に勝負を申し込もうとした時に抱いていた情熱的な感情も全く薄れていない。

 猪狩守は彼女が投げている光景を自分の目で見てもまだ、彼女へのライバル意識は冷めていなかったのだ。

 それは普段の彼を知る者が見れば、あまりにも異常な姿だった。

 

「僕には、あの子のボールが本当に遅いとは思えない」

 

 彼は、猪狩守は信じていた。

 かつて自分に人生初の挫折を味わせ、これまでの野球人生の中で最も「速い」と感じさせた泉星菜という投手の才能を。

 あれから長い時間は過ぎた。彼女の見た目の雰囲気も随分と変わった。もちろん、その投球スタイルも。

 彼女の投球スタイルの変化が性別の壁によるものだと言うのなら、守は心底勿体ないものだと思った。

 

 彼女ほど才能のある投手が、女性であるということに対してではない。

 彼女が「自分自身の才能を信じていない」ことに対して、守は勿体ないと思ったのだ。

 

「……どんな馬鹿な指導者に教わったのか知らないけど、なんで自分の才能を自分で封じているんだろうね。あの子は」

「兄さん?」

 

 泉星菜の投球を冷静に分析しながら、この時の猪狩守は直感的に彼女の本質に気づいていた。

 彼女の弱点を目の当たりにした上で小山雅のように見限っていないのも、それが理由である。

 

「……そのことに気づかない限り、君はそこから抜け出せないだろう」

 

 しかし、「現時点での彼女」が守にとって恐るに足らない相手だということもまた事実ではあった。

 だがそれでも、彼女の「全盛期」を知る猪狩守には、彼女がこのままで終わるとは欠片も思えなかった。

 

「それでも、抜け出してみろ。僕のライバルである君なら、そのぐらいのことは出来る筈だ」

 

 猪狩守は自身が天才であることを微塵も疑っていない。

 だからこそ、「天才のライバル」に対する信頼は鋼のように分厚い。故にその言葉に込めた感情に、揺らぎはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小山雅のホームランから、明らかにときめき青春高校の攻め方が変わってきている。

 相手打線とマウンドで相対する星菜もまた、そのことには気付いていた。しかし星菜には、こればかりは気付いていても対処が難しい問題だった。

 球威――投げたボールで、相手のバットを押していく力。自分のボールにはそれが無い。それはこのマウンドに立つずっと前から、既にわかっていた弱点なのだ。

 だからこそ星菜はその弱点を補う為に制球を磨いたり、星園渚の投球フォームを取り込んだり、打者を幻惑する為の変化球を幾つも覚えたりしてきた。小細工も極めれば大きな武器になることを信じて続けてきたからこそ、星菜はその努力の成果によって打者を打ち取ることが出来たのだ。

 ……これまでは。

 

(150キロのボールがなくても、140キロのボールをコーナーに決めればいい。140キロのボールがなくても、130キロのボールをコーナーに決めればいい。だけど……)

 

 球速よりも制球、球威よりも変化球。それが中学以来抱き続けてきた、星菜の信条である。

 だがそれでも、限度というものがある。今の星菜が立たされている状況についても、ただそれだけの話だった。

 

(115キロじゃ、これが精一杯って言いたいのか?)

 

 小山雅は自らの打席を持って、星菜の能力を否定した。そして今もまだ、彼女の助言を得たのであろうときめき青春高校の打線を前に星菜は苦戦を強いられている。

 遂には、勝ち越しの失点を許してしまった。捕手の六道にはまだ行けると言った手前これでは、あまりにも恰好がつかないだろう。

 

「……違う」

 

 だが、星菜の目はまだ死んでいない。

 これが、自分の限界だと……悔しいが、それはとっくの昔に認めていることだ。しかし、チームの勝敗はまた別の話である。

 例え野球選手としての才能が否定されても、それが試合に負けていい理由にはならない。

 下向きになろうとしていた意識を、星菜は自らを鼓舞する言葉を持って振り払う。

 

「まだ……ここからだ」

 

 七番神宮寺に勝ち越しを許すタイムリーヒットを浴び、状況は尚もツーアウト一二塁とピンチが続く。

 心中では悔しくてたまらない。悲しくて仕方がない。投手としての将来性の無さを他でもない親友と思っていた人物に突き付けられたことで、星菜には二重の意味でこの現実が直視し難いものだった。

 

 ――それでも、決して逃げてはならない。

 

 野球というスポーツに制限時間は無い。どんなに苦しくても、最終回のスリーアウトを取るまで試合は続いていく。

 ましてや星菜は、今この状況下においてマウンドに立つことが出来る竹ノ子高校唯一の投手なのだ。

 そして何よりも、こんなにも周りに助けられておきながら逃げるなどという選択は、星菜のプライドが許さなかった。

 

「ファール!」

 

 打席にはときめき青春高校の八番青葉春人。彼に対して投じた七球目のボールは、一塁線を切れてファールになる。

 これで、カウントはツーストライク、ツーボール。外角の厳しいコースのボールで簡単に追い込んでからの、青葉の粘りである。

 彼は明らかに、これまでの打者達と同様の打撃で当てに来ていた。それは彼女の緩急によって打撃の形を崩されたのではなく、狙い球以外のボールを徹底的にカットで逃れているという形である。

 四番鬼力以降のスイングを見るに、彼らは狙い球を絞って逆方向に軽打することを徹底している。小山雅の差し金であろうその攻め方は、星菜にとって最もいやらしい攻撃だった。

 星菜の投じるボールは球速が遅い為に、思い切って踏み込むことがしやすい。その為にブラッシュボールも混ぜてはいるが、ファールを打つだけならば難しくないのだ。

 もしも星菜に波輪のような相手の内角を抉る剛速球があれば、ここまで粘られることもないだろう。

 無い物ねだりほど見苦しいものはないとは言うが、この時ばかりは星菜もそう思わずには居られなかった。

 

(嫌なチームだな、ほんとに……)

 

 ……とは言うものの、力のあるボールを投げればそれで抑えられるという話でもない。

 星菜が攻め方を変えられただけでこうも苦戦を強いられるようになったのは、単に彼らときめき青春高校野手陣の高い打撃センスによる要因が大きかった。

 

(……やってやる)

 

 星菜は思考を切り替え、六道の構えるキャッチャーミットへと集中する。

 そしてこの打席六球目となる投球を、寸分狂わず外角低めのコースへと投じた。

 

 その一球を、青葉のバットが打ち据える。

 

「……っ」

 

 星菜が投げたのは外角低めのボールゾーンへと外れていくツーシームであった。

 そのボールを打席の青葉が腰を折り曲げながら強引に打ち返すと、ふらっと上がった打球は微妙な高さと速さを持ってセカンドの後方へと上がっていく。

 

 それは、この回で何度も見た――テキサスヒットになる打球の軌道である。

 

 ツーアウト故に二塁走者が切ったスタートは速く、落ちれば相手にさらなる追加点を許してしまうことは確実だった。

 

 ――しかし。

 

「うおおおおおおおっっ!」

 

 気迫の篭った咆哮が、センターを守る外野手の喉から響き渡る。

 セカンドの頭を越えていったボールが今まさにグラウンドの地に着こうとする刹那、物凄いスピードで突っ込んできた中堅手(センター)のグラブが、その打球をノーバウンドで掴み取ったのである。

 彼の捕球を認めた審判が、表情を驚きに染めながらアウトをコールする。

 マウンドから見ていた投手の星菜にとってもそれは、まさに目の覚めるような大ファインプレーだった。

 

「ナイスプレー!」

「信じていたぜ名センター!」

「こいつ、やればできるじゃねぇか!」

 

 絶妙なタイミングで敢行したダイビングキャッチを見事に成功させた竹ノ子高校のセンター――矢部明雄に対して、グラウンドの選手とベンチのメンバーが一緒になって賞賛の声を上げる。

 

「……ありがとうございます、先輩」

 

 星菜が高校初登板をした恋々高校との試合では、竹ノ子高校は彼のエラーが切欠となって敗北を喫した。その彼が、今度はその広大な守備範囲を持って星菜と竹ノ子高校の窮地を救ったのである。

 スリーアウトチェンジになったことで先にベンチへと戻った星菜は、惜しみない感謝の気持ちを胸に矢部の帰還を迎える。

 今の打球が落ちていれば追加点は確実として、ビッグイニングを作られてしまう恐れすらあった。

 帽子を取り、星菜は深々と頭を下げる。

 そんな星菜に対して、彼は言い返した。

 

「オイラはただ、必死にやっただけでやんす」

 

 普段から感情の起伏が激しく、良く言えばムードメーカー、悪く言えばお調子者である矢部明雄という男は、おだてられれば天にも昇ってしまうほど浮かれた言動をするのが常だ。

 そんな矢部であったが、今この時の彼にそのような様子はなかった。掛け値なしに自身の好プレーによってチームが窮地を脱したにも関わらず、彼の表情はそれを誇ろうとはしていなかった。

 彼は、浮つきのない穏やかな口調で続けた。

 

「オイラだけじゃなくて、みんなも必死でやんす。星菜ちゃんの必死な気持ちも、みんなにもちゃんと伝わっているでやんす」

「先輩……?」

 

 トレードマークである瓶底眼鏡の裏に隠れた彼の瞳には、闘志の炎が静かに揺らめいていた。

 その姿は星菜が今まで見てきた矢部明雄のものとはまるで異なり、気のせいでなければ公式戦の最中よりも真剣な様子に見えた。

 

(……怒っている? 私の、不甲斐ないピッチングに……?)

 

 今まで見たことの無い彼の態度に、星菜は最初、彼が自分の投球に喝を入れようとしているのだと思った。

 しかし矢部の口から直後に飛び出した発言から、そんな推測が全く持って的外れな被害妄想であったことに気づき、星菜は己の思考を恥じた。

 

「大変な目に遭っても頑張って、必死で投げている星菜ちゃんの気持ちは、ちゃんとみんなにも伝わっているでやんす!」

「………………」

 

 彼は責めているのではない。……励ましているのだ。

 それはいつものお調子者で楽天的な彼ではなく、野球部の副主将として、後輩を導く正しい先輩の姿だった。

 

「矢部先輩……」

「要は、もっと後ろを信用しろってこった。俺以外は頼りねぇバックかもしれねーけど、苦しくなったらど真ん中にでも投げて打たせとけ」

「ああ!? 池ノ川君、それはオイラがカッコよく言おうとしていた言葉でやんす!」

「うっせ、泉の初勝利消した戦犯のくせにカッコつけんな」

「言ったでやんすね! 今度は成長したオイラを見せるでやんす!」

 

 余計なことばかり考えている自分などよりも、この試合に対してずっと真摯だった先輩は、池ノ川を筆頭とするチームメイト達にもみくちゃにされながら場の空気を和ませる。

 矢部明雄という男は、星菜が思っていたよりも遥かに立派な先輩だった。

 

 

 この試合で最も長い守りを終えたことで、若干の疲労感を感じた星菜はチームメイト達が空けてくれた席に腰を下ろす。

 丁度喉の渇きを感じていたその時、星菜の横合いからタイミング良くペットボトルを持った友の手が差し出された。

 

「飲むか?」

「……ありがと」

 

 礼を言いながら鈴姫健太郎の手からスポーツドリンクを受け取った星菜は、程々の量を口内へと流し込む。

 次の守りに入る前に気持ちを切り替える為にも、この時飲み込んだドリンクの甘さは丁度良かった。

 

「さあこっから逆転するぞ野郎どもォ!!」

「小島からの打順だな! この回50点取るぞ!」

「反撃するぞ反撃! あんなしょんべんスライダーにビビッてんなぁっ!」

 

 イニングは五回の表。打順は巡り悪く、八番の小島からの攻撃である。

 得点の期待度で言えば、最も力の無い下位打線である以上望みは薄いだろう。しかしベンチから放たれる声援は、これまでの攻撃時よりも明らかに激しかった。

 逆転された直後で、矢部のファインプレーの余韻があるからだと考えても、少々不自然に感じるほどに。

 

「みんな燃えてんなぁ……」

「当然ッスよ!」

「ああ、当然だな」

 

 ベンチの雰囲気の変化を不思議に思う星菜の横で、波輪とほむら、六道明が口々に語る。

 彼らにしてみればそんな一同の様子も至って当然のことらしいが、推理を重ねてみても星菜の頭には今一つその理由がわからなかった。

 

「一体、どうして……」

「どうして俺らがこんなに燃えてるのかって? そいつはグモンだぜ、星菜ちゃん」

 

 不思議に呟いた星菜の声に答えたのは、今から打席に向かう八番打者、小島の言葉だった。 

 

「うちのエースを馬鹿にされてムカついてんのは、鈴姫だけじゃねぇってことさ」

「えっ……?」

 

 言い捨てた後で左打席に入り、小島がバットを構える。

 両チームの準備が整ったことで、球審からプレイ再開の号令が掛かる。その間、星菜の思考は彼の口から飛び出してきた予想外な発言に硬直していた。

 

「いったれ小島ァッ! 竹ノ子下位打線の力を見せてやれ!」

「大量援護指令だ!」

「打てなきゃお前、ベンチだベンチ!」

「這ってでも出ろよオイ! 足だけは速いんだからさぁ!」

「流石の僕もアッタマ来た……何だろ! あれは! 今日だけは負けられないね!」

 

 優等生とは言い難い中年の野次のような声援が、ベンチで待機する選手達全員から矢継ぎ早に送られていく。

 その言葉はどれも打者である小島を鼓舞するものであって間違いないのであろうが……自惚れでなければ、こちらを気遣ってのものなのだろうと星菜は察した。

 彼らの声援には「馬鹿にされた泉星菜の為にも、何としてでも勝とう」という気遣いが込められていたのだ。

 

「……何と言うか」

「なんだ?」

「馬鹿ばっかり」

「今更だな」

「うん、今更」

 

 真偽はさておき、彼らのやる気に火をつけるだけの魅力が自分にあるとは思えない。

 それ以前に無駄にプライドの高い星菜は、このように他の誰かから庇護される立場は好きではなかった。

 

 ――しかし、何故だろう?

 

 星菜には、心の奥から沸き上がってきたこの感情がわからなかった。

 そして何故、今自分が……

 

「……! 星菜……ッ」

「……馬鹿で良かった。みんなも、私も」

 

 ……泣いているのかが。

 

 自分もまた竹ノ子高校の一員であることを理解したから? いや、そんなものは試合が始まる前からわかっている。今になって涙を流すほどのことではない。

 

 ――ならば、何故?

 

 この涙は何が理由なのか――星菜にはわからなかった。

 

「大丈夫だよ、健太郎……これは多分、悪い涙じゃない」

「……そうか……」

 

 それでも確かなのは、チーム一丸で勝利を目指して向かっていくことへの喜びを、星菜はこの時、誰よりもその胸に感じていたということだった。

 

 

 



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『結束』

 

 

 ――何も無い、真っ白な世界。

 

 星菜がこの場所を訪れるのは、随分と久しぶりな気がした。

 鈴姫との友情を取り戻してからというもの、星菜は再び帰ってきたこの野球漬けの日々に確かな充実を感じていた。故に思い悩むことも減り、自然とこの世界に浸り込む機会も減っていたのである。

 

 しかし星菜は今、ここに来た。

 

 「彼」に会う為に。

 「彼」と相談する為に。

 不要な時は全く訪れないくせに、必要な時だけ訪れる。それが都合の良いことだというのは百も承知だ。

 しかしそれでも、今の星菜にとっては他の何よりも「彼」の助けが必要だったのだ。

 

『どうした? 試合中に、こんなところに来たら駄目じゃないか』

 

 星菜の訪れた白い世界に朧のように浮かび上がってきたのは、見た目は二十台後半に見える若い青年の姿だった。

 細身ながら180センチ以上もある長身から、彼は苦笑した様相で星菜の姿を見下ろしていた。

 

 ――そう、今は試合中だ。故に星菜が本来居るべき場所はグラウンドにあり、間違ってもこんな場所に居てはならない筈だった。

 

 お前は今ここに来るべきではないと……そう追い返そうとする青年だが、星菜とてそんなことは既に承知の上だった。

 間違っているとわかっていても。卑怯だと思われても。自らの精神状態の不安定さを認識している今、星菜には彼との対面が必要だったのである。

 

「……雅ちゃんを抑えたい。どうすればいいか、教えてください」

 

 心苦しさと後ろめたさから言葉を言い淀みながら、星菜は目の前の青年――星園渚に対して用件を述べる。

 彼女が絞り出した頼みに対して、彼は静かに目を瞑り、数拍の間を置いて語り出した。

 

『小山雅か……確かに、あの子は凄いバッターだ。性別の壁とか、体格の壁とか……君がずっと苦しんできたものを、遥かに通り越して彼方に置いているよね。体力さえ保てば、あの子はもうプロの一軍でもやっていけるんじゃないかな?』

 

 199個もの勝ち星を僅か三十台中盤で積み重ねていった伝説的な名投手、星園渚。そんなプロ中のプロとも言える彼が手放しにそう評する時点で、あの小山雅という選手の異常性は明らかであった。

 稀に見る天才――彼女は既に、あの猪狩守と同じ次元に立っているのだ。

 そう語り、真剣な眼差しで星菜を見つめる星園の瞳に、冗談の色は無かった。

 

『彼女はそれほどのバッターだ。いくら技術があっても、技術だけではどうにもならないレベルに彼女は居る。確かに、君の持ち球で抑えるのは厳しそうだ』

「……わかってる」

『君がここに来たのは、僕なら彼女を抑える方法を知っていると思ったから……僕の「魔球」を教わりに来たのかな? 泉星菜』

 

 星菜と星園は、星菜が生まれた時から一心同体だった存在である。お互いが考えていることは言葉に出さずとも何となく理解しており、それ故に話の展開は速かった。

 しかし、それがすんなりと通るとは限らない。星園は明らかに、星菜の頼みに難色を示していた。

 

「……無謀だってことは、わかってる」

『ああ、無謀だね。あれはそう簡単に覚えられるものじゃないし、ましてや試合の真っ只中で習得するなんて不可能だ。よくある少年漫画じゃあるまいし』

「わかってる……でも!」

 

 お互いに考えていることがわかるからこそ、星菜は彼にこの頼みを聞き入れてもらえないこともわかっていた。

 だがそれでも、星菜には譲れなかった。

 だから、ここに来たのだ

 少しでも可能性があるのなら……星菜は藁にも縋る思いだった。

 

「私は……雅ちゃんに勝ちたいんだ!」

 

 今の星菜は、どんな手を使ってでも彼女に勝ちたいと思っていた。

 そう思うだけの理由が、この試合の中で出来てしまったのだ。

 それはこの試合が小山雅の引退試合だからという話とは一切関係無いのないもので。

 今もなお星菜の心の中で膨らみ続けているその思いは、もっと初歩的な――「勝ちたい」という、野球をするチームの一員として至って当たり前のものだった。

 

『雅ちゃんを言い訳にするのかい?』

 

 ――しかし、間髪入れずに掛けられた星園の問いに、星菜は首を横に振った。

 

 小山雅に勝ちたい――だがそれは、それだけでは手段であって目的ではない。

 星園から向けられる意地悪ながらも真剣な眼差しを受けた星菜は、自身に生まれた心境の変化に対し苦笑し、本当の思いを静かに紡いだ。

 

「うん……雅ちゃんだけじゃない……私は、この試合に勝ちたいと思ったんだ。この試合だけは負けられない。負けたくないから……私はもう、みんなに迷惑を掛けたくない」

 

 矢部明雄から掛けられた言葉も、チームを鼓舞するチームメイト達の声も、星菜には全てが懐かしい感覚だった。その感覚は星菜にとって、栄冠を掴んだかつてのリトルリーグ時代以来のものだったから。

 友と仲直りして。

 今の仲間に受け入れられて。

 背番号を貰って。

 この試合では、そんな仲間達に星菜は勇気づけられた。

 だから思ってしまったのだ。

 この場所をもう二度と、失いたくないと。

 自分を信じてくれる仲間を、もう二度と裏切りたくないと。

 

 そして何よりも、星菜にはいつまでも周りに甘えている自分が許せなかったのだ。

 

「……悔やんでいるだけで……自分の心を守ろうとするばかりじゃ、強くなんてなれないって思い知った。……みんなに思い知らされた」

 

 他人の優しさに甘えて、自分の過去ばかり振り返って。

 予防線を張ることで、傷の痛みを和らげようとする。思えば、それが泉星菜の人生だった。

 だがそれでは、何も始まらないのだと思い知った。たったそれだけのことが、星菜が竹ノ子高校に入って得た教訓である。

 

『なら、君はどうしたい? 何をして、何になりたい?』

「……わからない。だから、貴方に聞きたかった。……教えてよ、星園さん……」

 

 わかりかけていた。

 しかし、またわからなくなっている自分が居る。

 かつての自分と考え方が似ていながら、自分以上の才能を持っている小山雅と対峙したことによって――そんな彼女からはっきりと自分の人生を否定されて、時間を掛けて固まりかけていた星菜の心は再び揺らいでしまったのだ。

 

「私は……強くなりたい。だから……貴方の知恵を貸して」

 

 この迷いを捨てたい。もう一度、立ち向かう勇気が欲しかったから。

 その一心で、星菜はもう一人の自分である星園渚に答えを求めた。

 そうすることで自分の選択に自信を持ちたかったというのが、星菜がここを訪れた一番の理由でもあった。

 星菜の頼みを目を逸らさずに聞き届けた星園は再び目を瞑り、しばらくの間を空けて目を開く。そして、微かに微笑んだ。

 

『……星菜、君が来るべきなのはここじゃない。早く試合に戻れ』

 

 そして言い放たれたのは、頑なな拒絶だった。

 頼みを聞き入れてもらえなかった――既にわかっていた結果に対して、星菜は帰る場所のわからない子犬のように叫び、髪を振り乱した。

 

「わかってるさっ! 私がここに来るべきじゃなかったってことは! それでも私のボールじゃ、雅ちゃんを抑えられない! あの子に対してもう、何を投げても無駄なんだ! 結局……っ、貴方の知恵が無くちゃ勝てないんだよ私は……っ!」

 

 星園からそう言われるのはわかっていた。自分の頼みの愚かさにも気づいていた。

 しかし、このまま何も得られないまま試合に戻ることを……今の自分がチームに迷惑を掛けてしまうことが、星菜には許せなかった。

 耐えられなかったのだ。打たれる恐怖に。負ける悔しさに。……居場所を失う恐怖に。それは泉星菜という投手の、人間的な面における一番の弱さであった。

 どんなに取り繕ったところで、彼女は酷く臆病で、怖がりな少女なのだ。

 星園渚は星菜にとって前世の自分。言わばもう一人の泉星菜とも言える存在だ。当然のように彼は星菜の心の弱さを見透かしており、その恐怖も理解していた。

 故に。

 だからこそ、彼は星菜を突き放した。

 

『さっき自分で言ってたじゃないか、そうやって自分の心を守ろうとしているだけじゃ駄目だって』

「…………っ」

 

 しかし。

 言葉では突き放していても――彼は間違いなく、泉星菜の味方だった。

 

『気持ちで負けるなっていう誰にでも言えるような精神論は、個人的にあまり好きじゃない。だけど今の君のように気持ちの時点で負けていたら、小山雅にも、他の誰にも勝てはしないさ。それはもう、勝負する以前の問題だからね』

「……私は……」

『なんでそんなに怖がるんだ? 打たれたっていいじゃないか。負けたっていいじゃないか。プロの世界じゃあるまいし、勝ちに拘ることだけが野球じゃない。負けて得られるものだってたくさんある』

 

 泉星菜の理解者の一人として、星園渚は持論を語る。

 説教めいた物言いは、今の星菜にとって最も必要だったのかもしれない。

 

『確かに、仲間の為に勝ちたいっていうその気持ちはとても大事だと思う。だけどそう思うんならまず、そうやって自分自身に負けていたら駄目だと思うよ、星菜』

「星園……」

『……まあ、僕の持論だけどね。偉そうに言ってみたけど、結局どうするかは君次第だ。ただ、僕が言いたいのは、いつまでもこんな死人に頼るなってことさ。自分の意志で前に進めるようになった今の君にとって、僕の存在は必要無いんだから』

「そんなこと……」

『でも、それでもこんな死人の話を聞きたいんなら、一つだけ言っておこうか』

 

 自嘲的な笑みを浮かべながら、星園は自分よりも一回りも二回りも小さい星菜の肩に手を添えた。

 彼は彼女の頼みは受けない。けれども彼は、たった一つだけこの言葉を贈った。

 

『野球は楽しい。形はどうであれ、仲間と楽しんでこそ価値のあるものだってね』

 

 ――その言葉を最後に白い世界は消え去り、星菜の意識は現実へと引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

「星菜、大丈夫か?」

 

 横合いから掛けられた鈴姫の心配そうな声に、星菜がゆっくりと目を開く。

 そして再びグラウンドに目を移した星菜は鈴姫の言葉に頷き、しばし「彼」の言葉に思いを馳せながら応える。

 

「……星園渚に、会ってきた」

「……そうか」

 

 星菜の中に居る彼女の前世の存在――星園渚のことは、鈴姫もまた認知している。

 故に彼に会ってきたという言葉の意味も、すぐに察することが出来た。

 

「小山雅を抑える方法を聞きに行ったのか?」

「駄目だった。死人に頼るなって怒られた」

「……他には、何か言われたか?」

「いじめられたよ」

「なんだと?」

「……まったく、どいつもこいつもそんなのばっかりだ」

 

 星園渚と言えば、現役時代プロの世界で名球会クラスの活躍を収め、若くしてこの世を去った悲劇の名投手である。そんな彼に星菜が会ってきたと聞いて、その目的を察するのは鈴姫にとって難しくはない。

 あの天才打者を抑える方法が無ければ、恐らく全打席敬遠でもしなければ竹ノ子高校がこの試合に勝つのは難しいだろう。鈴姫の目から見ても、あの小山雅という選手はそれほどまでに実力が突出しているのだ。

 彼女を抑えられる手があるのならば参考までに聞いてみたいところであったが、鈴姫がそう訊ねた途端、星菜の機嫌が目に見えて悪くなった。

 

「いつもそうだ……お前達もあの人も結局、いつもそうなんだ……!」

 

 そして込み上がってきた感情を抑えきれぬとばかりに、星菜は取り乱した。

 

「みんなして私を責める……! 受け入れない人は私を否定して! 受け入れてくれる人はみんなして私に自分で決めろと言う……! どいつもこいつも正しいことを言ってるくせに、無責任な言葉で私をいじめる……っ」

「……俺は、君の味方だぞ?」

「それが、ずるいって言っているんだよ……! お前もこのチームの人達も、そういうのが卑怯なんだ……っ」

「星菜……」

「お前もみんなも、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ……! こんな女の前で張り切ってさ……!」

 

 それは明らかに、彼女らしからぬ姿だった。

 しかし今口にしている全霊の恨み節こそが、彼女が腹の中で考えている感情の全てなのだろうと鈴姫は悟る。

 彼女はいつだって辛い立場に居て……彼女自身も、そう思い込んでしまっているから。

 だから今まで、彼女はずっと苦しんでいたのだ。

 

「何が野球は楽しいだよ……! そんなこと……そんなこと……っ」

 

 脈略もなく、それでも心底腹立たしそうに、彼女はただひたすらに怒りの言葉を吐き続ける。

 そして――

 

 

「当たり前だ! バカヤローッ!!」

 

 

 ――今まで燻り続けてきた何かが吹っ切れたように、彼女は力いっぱい叫んだ。

 

 

「かっ飛ばせ小島っ! かっせかっせぇ!!」

 

 それは、どこの誰に向けていたものだったのやら――言いたいこと全てを早口で捲し立てた後、彼女はグラウンドを見据え、ただがむしゃらにプレイ中の選手を応援する。

 仲間達に交じって声を張り上げて――普段冷静な彼女らしからぬあまりの形相に、周囲は一瞬びくりと肩を震わせるが……彼女のその姿はこの場においては鈴姫だけが知っている、リトル時代当時の彼女そのものであった。

 

「……本当にこいつは……めんどくさい女だ」

 

 彼女の心境の変化を察した鈴姫が、呆れたような口調でそう呟く。

 しかしその心情は、試合でヒットを打った時よりも遥かに上機嫌なものだった。

 

 

 

 打席に立っているのはこの回先頭、八番打者の小島だ。左打席でバットを短く持った彼は、それまで青葉の高速スライダーを前に為すすべもなくツーストライクに追い込まれていた。

 しかし、ベンチの応援を背に受けた今の彼が必死にボールに食らいつこうとしているのは誰の目に見ても明らかである。

 打席ではホームベースに覆いかぶさるように前に立ち、思い切り踏み込んでゴロを転がそうという意識がはっきりと見える。内野安打だろうとエラーだろうと何でもいいと、彼は彼なりに塁に出るべく奮闘しているのだ。

 ツーナッシングに追い込まれた後、彼は紙一重でボールを見極め、ツーエンドツーの並行カウントまで粘りを見せていく。

 

 そして、青葉が決め球に投じた次の一球だった。

 

「痛ッ……!」

 

 コースは内角、球種は高速スライダー。

 空振りを奪うべく内角から膝元のボールゾーンへと曲がっていった彼のボールは僅かに制球が狂い、身を翻そうと見せかけた(・・・・・)小島の右足に向かって命中したのである。

 

「よし! ナイスデッドボールだ!」

「フハハ! 今のは避けてようとしていましたね!」

「ああ、どう見ても避けようとしていたな。あれならデッドボールで間違いない」

「お前らちょっとはあいつの足を心配してやれよ」

「大丈夫だろ。上手く当たってたし」

 

 避ける素振りを見せなかったり故意に当たりにいったものであればボールと判定されていたかもしれないが、ここで球審が告げた判定は死球であり、小島は名誉の負傷を負いながら一塁へと歩いていく。念の為ベンチからは補欠の一年生が治療に向かったが、当たりどころが良かったらしく、彼は無事をアピールするようにベースの上で跳ねていた。

 この場合、痛かったのは先頭打者の出塁を許したときめき青春高校の方であろう。

 

「怪我したらどうするつもりだよ。ちゃんと避けろ、下手くそ……」

「おい、先輩だぞ」

 

 喜ぶベンチを他所にネクストバッターズサークルに向かう星菜の呟きは、小島の打席を危ないと批判する。

 今の死球は投手青葉の制球ミスと、彼のスライダーの曲がりの大きさが仇となった結果であった。

 しかし打者の小島が素早く反応すれば、体に当たる前に避けることが出来た筈のボールだった。彼は故意に、避ける反応を遅らせたのである。

 恐らく小島は、まともに戦っても自分では青葉を打てないからと……怪我のリスクも恐れず死球を受け入れたのである。

 

「本当に……なんなんだこの人達は」

 

 そんな小島の闘志に盛り上がる一同を見て、星菜にはもはや呆れの言葉しか出ない。

 馬鹿みたいに純粋で、自分が正しいと思ったことに全力で取り組んでいける。彼らは自分と違って、性根が真っ直ぐなのだ。

 

 星菜はそんな彼らの在り方を、ずっと羨ましいと思っていた。……妬んでいたとも言っていいほどに。

 

 だが、本当なら出来るのだ、自分にも。

 

 自分は彼らのようになれなかったのではなく、なろうとしていなかっただけなのだと思い知った。

 だから、小山雅の言葉なんかに憤った。お前に言われんでもわかってると、そう返して一笑に付すだけで良かった言葉に逆鱗を掴まれた。

 

 泉星菜はずっと恐れていた。

 自分の心が傷つくことに――今の自分が、今までの自分でなくなってしまうことに。

 

「俺だって!」

 

 八番の小島が塁に出た直後、九番打者の鷹野が一球目から送りバントを仕掛ける。

 彼のバットは投手青葉のストレートの球威に押されながらも跳ね返し、上手く勢いを殺された打球は一塁方向のフェアゾーンへと転がっていった。

 同時に駆けだした一塁走者小島の足は早く、ときめき青春高校の一塁手がボールを捕まえた頃には既に二塁ベースへと到達していた。

 

「よし! ナイスバントだ鷹野!」

 

 打者走者だけがアウトとなり、送りバントは見事に成功の形となる。

 そして打順は返り、一番打者――星菜の番へと回ってきた。

 

「頑張れ星菜ちゃん!」

「打てる打てるよ!」

 

 右肩にバットを担ぎながら、星菜は悠々と左打席へと向かい、得点圏で迎えたこの場面に登場する。

 状況はワンアウト二塁。

 八番と九番、貧打の竹ノ子高校の中においてさえ打力の劣る二人が繋いでくれた、得点のチャンスだ。

 失点の直後に自分の打席に回ってくる。この状況は何か、因果めいたものを感じざるを得なかった。

 

「たかが女子投手の打席にみんなしてあんなに期待して……」

 

 足元を慣らした星菜はすぐさまバットを構え、栗色の双眸で真っ直ぐに投手の姿を見据える。

 そして小さく――捕手にも聞き取れないほど小さな声で言い捨てた。

 

「……大好きだよ、みんな」

 

 自分で言って、自分の言葉に笑ってしまう。

 そして球審によってプレイが掛かったその瞬間、青葉のボールに対する星菜の集中力はこれまでの限界を超えていた。

 

 ――既にこの心に、陰りは無い。

 

 そこにあるのは真剣勝負の場においては温すぎるほどに、どこまでも穏やかで澄んだ感情だった。

 

(そうだ……私が、野球をやってきたのは……)

 

 友に否定されて。

 仲間に励まされて。

 前世の自分に説教されて。

 そして今、仲間の応援を聞いて、星菜の心は光に染まった。

 

 挫けてばっかりで進歩の無い――あまりにも滑稽な自分に対して、既に真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなっていたのだ。

 

 否定がなんだ。負けるのがなんだ。

 自分は今まで周りから肯定される為に――勝つ為だけに野球をやってきたわけではない。

 昔からいつだって、その筈だった。

 

 ただ楽しそうだと思ったから野球を始めた。

 ただ楽しいから夢中でやり続けた。

 承認欲求も、勝利への執着も……野球を始めたあの頃の自分に、そんな俗な感情は無かった。

 

 それは、野球をしているだけで満たされていたからだ。

 

 投げることも打つことも、星菜にはその全てが喜びだった。

 野球と言う競技の全てを愛おしく、素晴らしいものだと思っていた。

 

 だから。

 

 そんな競技の中で星菜が一番に追い求めていたのは、誰にも負けない実力でも、絶対に打たれない魔球などでもない。

 

 考えてみれば、それは今も同じだった。

 何もかもが幼かったあの頃と比べても、何一つ変わらない。

 

 そう、泉星菜という少女はただ純粋に――

 

(同じ野球馬鹿たちと、全力で馬鹿やりたいだけだったんだ!)

 

 金属の快音が響く。

 白球がショートの頭上を越えて、左中間を割っていく。

 手の痺れが大きかろうと、投球に支障があろうと、何ら関係ない。投手の投げたボールを打った打者は、ただ次の塁へ走るだけだ。

 

 自らの心で答えを出し、がむしゃらに振り抜いた星菜のバットは――彼女自身を苦しませてきた過去を振り払うように、140km/hのスライダーを打ち砕いたのである。

 

 

 

 



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『崩壊』

 

 

 

 偏差値もあまり高いわけでもなく、とりわけスポーツに力を入れているわけでもない。通っている男子生徒達は何故かガラの悪い者ばかりだというのが、世間におけるときめき青春高校の評判だ。

 そんな学校に三人の天才児が入学したのが、ときめき青春高校野球部の始まりだった。

 一人は青葉春人。

 もう一人は朱雀南赤。

 そして三人目は、小山雅という少女だ。

 

 青葉春人には、無名校を自分の力で全国制覇させるという夢があった。

 我の強い朱雀南赤は、OBや指導者の権威が高い名門校の体質が嫌いだった。

 そして小山雅は自分の性別を偽る為に、管理の杜撰なこの高校を選んだ。

 彼らは三人とも入学した時点で既に超高校級の選手であったが、そんな彼らが名門校でもないこの学校に入った理由は実に異端なものだった。

 

 三人が入学したときめき青春高校の野球部は、始めは部員の一人すら確保出来ていない練習以前の状態だった。

 故に、彼らの高校野球人生は最初から苦難の連続だった。

 しかし、彼らはそれぞれの目的に向かって諦めることなく、明日に向かってひたすらに突き進んだ。

 その結果、彼らは「廃部寸前の野球部を三人の新入部員達が立て直す」という、まるで少年野球漫画のような現実を実現させたのである。

 

 初めて練習試合を行った時、小山雅は感極まって一人嬉し涙を溢したものだ。そして、思った。

 今まで諦めないで良かった。野球をやってきて良かった――と。

 猪突猛進な二人よりかは冷静なところがある雅は、そこに至るまで何度も諦めかけた。しかし、その度――彼女の仲間は、馬鹿みたいに真っ直ぐな行動で元気づけてくれたのだ。

 このチームは最高のチームだと、雅は心から思った。

 そんなチームで野球が出来て、自分は幸せ者だとも思った。その時はきっと、小山雅にとって野球人生の絶頂だったのかもしれない。

 

『よう! あんたも野球部志望か。女……じゃなくて、学ラン着てるから男か。俺は青葉春人ってんだ。コイツは朱雀南赤。最近ちょっと言動があれだけど、根はいいヤツだから大目に見てやってくれ』

『フン……小童よ、光栄に思うが良い。貴様は余の後ろを守る最初の眷属となったのだ!』

 

 高校で最初に出会った野球部員である二人との対面は、今となっては懐かしい記憶だ。

 実力者でありながらこんな無名校に来るだけあって、二人とも非常に個性が強い男で、その勢いには大いに戸惑うこともあった。

 だが――

 

『わた……ボクは小山雅って言うんだ! お、男の子だからよろしくねっ!』

 

 二人とも、野球に真摯でいい人だった。

 そして入部して早々、彼らと部員集めに奔走した日々もまた、雅には悪くないものだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竹ノ子高校対ときめき青春高校の試合は、二対二の同点に変わった。

 泉星菜のツーベースヒットによって、竹ノ子高校のベンチは大いに沸き立ったものである。

 たかが一点、されど一点。投手自らのタイムリーヒットは試合を振り出しに戻した上で、竹ノ子高校というチームに数字では測れない活気を与えていた。

 

「女子相手になんてザマだ……」

 

 たった一打で流れを引き込んでみせた彼女の打撃と、たった一打に子供のように沸き立っている彼らの姿に、ショートを守る雅は苛立ちを隠そうともせず毒づいた。

 なんて情けないピッチングだ……と、憤怒を込めた眼差しをマウンドに向けた後、雅は二塁ベース上に立つ打のヒーローもといヒロインへとその目を移した。

 

「ふ……どんな気持ち? こんな私に、良い恰好をされるのは」

 

 見事な打撃を披露してくれた彼女――泉星菜はあえてこちらの感情を逆立てるような口調で、雅に問い掛けてきた。

 挑発的で強気なその態度は……雅にとっては懐かしく、かつて慣れ親しんでいたものだった。

 

「ふん……私はただ、君が通用する高校野球のレベルに呆れているだけさ」

「あっそ」

 

 大して雅が心底うんざりとした表情で返すと、彼女は素っ気ない返事を寄越すだけだった。

 煽るように訊ねておきながら、手のひらを返すように澄ましたその態度が、雅には気に入らなかった。

 

「チッ……」

 

 苛立ちに舌を打ち、雅は奥歯を軋ませる。

 この愛しい親友は、どこまでも癪に障る態度が上手い。だが所詮、試合はまだ同点になっただけだ。彼女の弱点が雅以外のチームメイトにも広まっている今、この後の攻撃で勝ち越しを決めるのは容易だと考えていた。

 自分さえ居れば、点など簡単に入るのだ。それこそ、この嘘つきで自分勝手な野球少女に引導を渡してやれるほどの得点を。

 今しがたマウンドで醜態を晒した青葉春人とて、この程度の打線にそう何度も失点を許す投手ではなかった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 泉星菜の後に続く竹ノ子高校の二番打者が、外角に外れる青葉のスライダーを空振り、三振に倒れる。

 このイニングもこれでツーアウトだ。竹ノ子高校の二番打者は、何の抵抗も出来ない惨めな打席だった。そのスイングの下手くそさ加減に、雅が嘲笑を溢しながら星菜に言った。

 

「見たかい星ちゃん、あの情けないスイングを。あんなんでも私達より評価されるんだからやってられないね」

 

 意図的に、彼女を怒らせる為の言葉だ。返ってくる言葉は仲間を嘲られたことに対する激昂か、はては平静を装い無関心のポーズを取るか。雅はその辺りを予想していたが、彼女から返ってきた言葉はそのどちらでもなかった。

 

「貴方は一体、誰の為に野球をしているの?」

「……なに?」

 

 ただ一言、マウンドを注視しながら後ろに立つ雅に訊ねる。

 怒りも憐れみもなく、素朴な疑問だけがそこにあった。

 その口調は穏やかだが、優しくはない。しかし冷たくもなく――表情が見えないのもあって、雅はほんの少しだけ返す言葉が遅れてしまった。

 

「そんなの、自分の為に決まっているじゃないか」

 

 この期に及んで……今更何をという質問だ。

 雅が誰の為に野球をしていたのか、そんなものは雅自身の為以外に理由は無い。

 何をわかりきったことをと思う雅に、泉星菜は何も言わない。そんな彼女の沈黙が、彼女の興味が自分から無くなったように見えて雅には不快だった。

 

 ――もっと私を見てよ。もっと構ってよ!

 

 苛立ちがさらに募り、双眸がきつく尖る。

 そんな雅の前に、甲高い金属音と同時に痛烈な打球が飛来してきた。

 

「アウト!」

 

 雅はその打球を、一歩も動くことなく払い落とすようなグラブ捌きで手中に収めた。

 ラインドライブの掛かった打球は芯を食った良い当たりであったが、正面に来ればどうと言うことはない。雅はふんと不快さを露わに鼻を鳴らすと、スリーアウトとなったことで自軍ベンチへと引き上げようとする。

 そんな雅に、泉星菜がぼそりと言い放った。

 

「……やっぱ勝てないよ、君は」

 

 彼女が独り言のように放ったその言葉を、雅の耳は聞き逃さなかった。

 

「は?」

 

 それは一体、誰に向かってほざいているのか。もしもそれがこの小山雅に向けた言葉だとするならば、雅には到底聞き捨てならなかった。

 威圧的な態度を露わに雅は振り返り、再び星菜と向かい合う。

 

「私が勝てないだって? さっき打たれたばかりの君が、私に勝てるって言うのかい?」

「私にじゃない」

 

 激情を胸に問い質す雅に、星菜が静かに首を横に振る。

 そしてはっきりと――これまでにない力を込めた眼差しを向けて、彼女は言った。

 

「貴方自身にだよ」

「…………」

 

 小山雅は、小山雅自身に勝つことは出来ない。

 哲学のように語る星菜は、言いたい言葉だけを言ってベンチへと戻っていく。

 一人その場に取り残される形となった雅の心からすれば、やはり穏やかではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ワンアウト二塁の状況から、星菜のタイムリーツーベースで同点に追いついた竹ノ子高校。

 確実にワンチャンスをモノにしたという形ではあったが、後続の打者が青葉春人を捉えることは叶わず、試合は五回裏の守りへと移った。

 この回、ときめき青春高校の攻撃は九番の稲田からだ。無論引き続きマウンドに上がった星菜は大きく息を吸い込むと、球審の号令から程なくして投球動作へと入った。

 

「ストライク!」

 

 初球は得意のスローカーブから入り、見逃しのストライクを奪う。それは狙い通り、外角低めのストライクゾーン一杯に制球されていた。

 左腕から放たれる制球力に、ブレは無い。先の回で塁上を走り回ったことによる疲労はまだその身に残っているが、今はそれが問題になる気はしない。

 

「ファールボール!」

 

 ……寧ろ、あの一打から身体の調子が良くなった気さえする。この回の星菜は以前までと全く同じ投球フォームで、全く同じ腕の振りであったが――星菜は何故か、今はその身を軽く感じていた。

 二球でツーナッシングに追い込んだ後、星菜はテンポ良く三球目を投じた。

 そして、打者のバットが白球を打ち上げる。

 

「ライトッ!」

「おうよ!」

 

 三球目のボールは初球と同じ外角のスローカーブ。打者の稲田は体勢を崩しながらも上手くおっつけ、打ち上げた打球をライトとセカンドの間に落とそうとする。

 こちらの球威の無さを突いた、テキサスヒット狙いの軽打。それは、小山雅のホームランの後から変わったときめき青春高校の攻め方だった。

 

 ――しかし、今回の打球が地面に落ちることはない。

 

 それは、予め定位置よりもやや前進していたライトの鷹野がスライディングキャッチを敢行し、ボールが落ちる寸前のところで軽快にもぎ取ったからである。

 

「それワンアウトォ!」

「ナイス先輩! 次もいきますよ」

 

 ライトを守る二年の鷹野は実力的には今試合に出ている選手の中でも最も下の、竹ノ子高校においてレギュラー当落線上に居る選手だ。その守備力はお世辞にも高い方とは言えないが、この時のプレーは間違いなく、チームを盛り立てる見事なファインプレーだった。

 そしてそんな彼の気迫溢れるプレーは、他の選手の身にも次々と伝染していった。

 二巡目に入るときめき青春高校の一番三森左京はレフト前へのテキサスヒットを狙うものの、未然に後退していたサード池ノ川の守備範囲に阻まれサードフライに倒れる。

 続く二番三森右京。こちらも再びライト前に落とすテキサスヒットを狙うものの、倒れ込むように捕球したセカンド小島のグラブに収まり、このイニングは十球に満たない球数でスリーアウトとなった。

 いずれも、本来ならヒットになっていてもおかしくない好守備の連発だった。

 

(打たれるのは仕方ない。いや、打たれればいいんだ。今更頼りにするのも情けない話だけど……私が情けないのは今に始まったことじゃないか)

 

 まるで憑き物が剥がれ落ちたような顔で、星菜は後ろを守ってくれたチームメイト達へと礼を言う。

 しかし、ここでは頭を下げない。それをするのはこの試合が終わった後からだ。今は同じグラウンドに立っている以上、後ろが必死で守るのも、自分が必死で投げるのも当然なことだった。

 ……でなければ、また矢部明雄に怒られる。

 

「ナイスピッチッス、星菜ちゃん!」

「立ち直ったみたいだな。……って言うか、立ち直りすぎじゃない? なんか、生まれ変わった顔してるぞ」

「そうですか?」

 

 早々の攻守交代によりベンチに戻ると、頼りになるマネージャーと野球部主将が手を叩いて歓迎してくれた。

 その際主将の波輪が今の自分を指して言った言葉に、星菜は苦笑を浮かべた。

 

 生まれ変わる――自分はもう、変わらなければいけない。

 

 それこそが、彼らへのせめてもの誠意だった。

 

「変わらなきゃも変わらなきゃ、か……」

 

 いつだったかテレビのコマーシャルに出ていた、現メジャーリーガーの台詞がふと頭の中に浮かび上がる。それは少々哲学的な台詞であったが、今の自分にはしっくり来る言葉だと感じた。

 

 さて、これで五回の裏は終了し、次は六回の表――試合は後半へと向かっていく。

 星菜にはこの試合に掛かっている時間が、今までに行ってきたどの試合よりも長く感じられた。

 後半戦に移行することで今現在グラウンドには試合に出ていない一年生達がグラウンド整備を行っている最中であり、六回の表が始まるまではプロ野球ほどではないが少々間隔が空く。

 彼らに感謝しながら星菜はベンチに腰を下ろし、適度に精神をリラックスさせようとしたが……その時、星菜の目にはある光景が映った。

 

「雅ちゃん……君は何をやっているんだ……」

 

 それは、グラウンドを挟んだ向こう側のこと。相手チームであるときめき青春高校のベンチの様相だった。

 そこでは今、敵ながら目を背けたくなるほどに陰鬱とした空気に包まれていた。

 

 その空気の中心に見えるのは、やはり彼女の姿だった。

 

 小山雅――彼女はとうとう、その感情をチームメイト達に対しても抑えられなかったようだ。

 彼女がチームメイト達に向けている眼差しは、およそ仲間に対して向けて良いものではなく……激しい憎悪と憤怒に満ち溢れていた。

 その姿が星菜には、やはり自分自身を見ているようで痛々しかった。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 六回表の守備につく筈のときめき青春高校のベンチは、かつてないほどに最悪のムードに包まれていた。

 

 切り口は、他の野手陣を糾弾する小山雅の一言だった。

 先の回で送った自分の指示をこの回も継続し、テキサスヒット狙いの軽打を行ったのは良い。しかしこの回、竹ノ子高校の守備陣は内野手が定位置よりやや後ろに下がり、外野手がやや前に来る「テキサスシフト」を敷くことで対策を講じていたのだ。

 文字通り露骨にテキサスヒットを警戒したシフトを敷いてきた以上、先の回と同じ打球ならば簡単とは言わないまでもある程度グラブに収めることは出来るだろう。そんなことは、雅からしてみれば一目見て判断出来ることだった。

 しかし、彼らが自ら陣形を崩してくれたのならばこちらの戦術の幅はさらに広がるだろう。それこそ俊足の三森兄弟なら、内野手が後退している以上セーフティーバントの成功率は極めて高い筈だ。

 ほとんどお飾りの老人監督である大空飛翔は特にサインは出していない。基本的にこのチームは、各打者の感性に委ねている節がある。

 しかしそれでも、彼らは揃いも揃って馬鹿の一つ覚えのようにテキサスヒットを狙い、何の内容も無いままに三者凡退に倒れたのだ。この回は一人でも塁に出れば、自分に打席が回ってきた筈なのに……。

 

 ――この時点で、既に雅の苛立ちは臨界点を超えていた。

 

 これまではどうせ辞めた野球部だからと無関心を決め込んでいたのだが、彼らの無能さが自分の打席数を減らしたことが雅の逆鱗に触れたのである。

 

「うちの男どもがこんなにヘボだったとはね……少しでも期待していた私が馬鹿だったよ」

 

 ネクストバッターサークルから帰ってきた雅は頭に被っていたヘルメットを外すと、冷酷な眼差しをチームメイト達に向けて言った。

 歪にも、口元だけは笑っている。そんな彼女の姿は、チームメイトの全員が静まり返るには十分すぎるものだった。

 

「あれだけ露骨に狙えば、猿でも対策してくるに決まってるだろ。なんだ、君達の頭は飾りか? 身体だけで野球やってんなよ馬鹿か」

「小山、お前……」

「本当に、君達は……あんな野球選手のなりそこないになにグダグダやっているんだ! それでも男かよ、お前らはッ!!」

 

 ヘルメットをベンチに叩き付け、小山雅はただ感情のままに叫んだ。

 怒りに染まった金色の瞳に、一同は言葉を失う。既に目の前に居る少女は、彼らの知っている小山雅ではない。

 しかし戸惑いの中で彼女の言動を不審に感じ、場の沈黙を破ったのは彼女と入部以来の付き合いである青葉春人だった。

 

「……俺達が不甲斐ないのはわかる。だけど、そんな言い方はないだろ」

 

 完全に頭に血が上っている雅に対して、その怒りを鎮める為に彼は言った。

 青葉春人は、自分でも野球をやっていなければ不良少年になっていただろうなと考えているほど元来気の長い性格ではない。しかし同時に、信頼している「仲間」の様子がおかしいことに対しては、何も察せないほど愚かなつもりはなかった。

 故に青葉は彼女の激昂に対して激昂を返すことはなく、努めて冷静に問い質した。

 

「あの子……泉星菜に対してもそうだ。お前らは、友達じゃなかったのか? お前は野球人生の最後に友達と戦いたかったから、この試合を組んだんじゃないのか?」

 

 ――それは、腹の中ではときめき青春高校野球部の全員が抱えていた疑問だった。

 

 今日は朝から、雅の様子がおかしいとは思っていた。そしてそれが単に最後の試合に向かう緊張などではないことに気づいたのは、彼女と泉星菜が行った叫びの応酬からだ。

 そして、彼らは疑問を抱いた。

 

 彼女は一体、この試合を何だと思っているのかと。

 

 小山雅の真意を、彼らは知りたかったのだ。

 一同を代表して訊ねた青葉の問いに、雅は美しくも歪な唇で答えた。

 

「そうだよ! 私はあの子と本気で戦いたかった! それは本当さ。私はあの子を愛しているんだ! あの子は昔、私に道を示してくれた。色んなきっかけを作ってくれた! 私がこうして野球を知ったのも、あの子との出会いが始まりだったから……世間知らずだった私に、たくさんの思い出をつくってくれたあの子が大好きだったさ!」

 

 泉星菜は小山雅にとって、間違いなく友達だった。箱入り娘だった小山雅にとって初めて出来た親友であり、その存在は彼女の中で家族ほどに特別だったのだ。

 しかし――雅の想いはあまりにも混沌としていた。

 

「だけどそれと同じくらい、憎くてたまらないんだ! 私を置いていったくせに! 私と同じ立場のくせにっ! 私との約束を忘れて……楽しそうに野球をしているあの子が許せないのさ」

 

 泉星菜が友達であることは肯定する。

 彼女と戦うことが目的だということも肯定する。

 しかしはっきりと、彼女はこの試合が彼らの望んだ爽やかな引退試合であることを否定した。

 

「似ているんだ、あの子は私と! だからあの子と勝負すれば、私の想いは何もかも終わると思った。叩きのめしても、叩きのめされても……どっちに転んだって、こんなろくでもないスポーツをしていた自分を忘れられるんじゃないかって思ったから。自分勝手に、馬鹿な周りを振り回してね!」

 

 この試合は決して、最後の野球を楽しむ為に行ったものではない。

 この試合の全ては雅にとって……泉星菜への私怨の為だった。

 

 あまりにも歪んでいる彼女の真意を聴いて、彼らは何も返すことが出来なかった。

 ここに居る少女は、彼らの知る純粋な野球少年ではない。自分達の知っている雅とは何もかもがかけ離れている言動に対して皆が動けない中で、この場で唯一の同性であるマネージャーの大空美代子が問うた。

 

「貴方の動機はわかりました。それについては、私から言う言葉は何もありません。……ただ、これだけは聞かせてください」

 

 なまじ一同の知る以前の小山雅が穏やかで優しい人間だっただけに、彼らには目の前に居る彼女を直視し辛かった。しかし、誰しも隠しておきたいことやコンプレックスは抱えているものだし、完璧な人間などこの世には居ない。

 だから、最後の試合ぐらいこうして負の一面を爆発させても仕方がないと、美代子は思っていたのだ。

 しかし、これ(・・)だけは別だ。

 

「……貴方にとって、この野球部はなんだったのですか?」

 

 小山雅が、自分達の思っているような人間ではなかったことに対して批難する気は無い。そんなものは、他人が勝手に決めた印象に過ぎないからだ。

 しかし、彼女は青葉や朱雀と共に、この野球部に誰よりも尽くしてくれた者の一人だ。彼女が居なければこの野球部が活動することはなかったし、今でも試合の出来る人数すら揃えることは出来なかっただろう。

 だからこそここに居る者は全員彼女に感謝していたし、彼女の引退試合に対しても身を砕く思いで行っていた。ときめき青春高校の選手は皆、彼女の味方でありたかったのだ。

 

 しかしそんな思いさえ彼女にとってはどうでもいいもので……一方通行なものだったというのなら、彼らは最後まで彼女の味方であれる自信がなかった。

 

 監督を含めた一同の視線が集中している中で、雅は美代子の問いに数拍の間を空けた後、何を思ったのか哄笑を上げる。

 

「くふ……っ、あっははははははははははははハハハ」

 

 無邪気な子供のように声を出して笑い、右手で目元を隠し、左手で腹を抱える。

 そして雅は、もはや何も隠す必要はないとばかりに全てを語った。

 

「本当に……本当に君達は都合のいい仲間だったよ。どいつもこいつも頭は悪いし、人を疑うことを知りやしない。そんな呆れたお人好しでも、そこそこ野球が上手かった。まったく本当に……私が「ボク」として野球をするには、ここは最高の環境だったと思うよ」

 

 ひとしきり笑い終えたところで、雅は目元から手を放し、一同に向けて金色の双眸を晒した。

 そこにあったのはおぞましいほどに冷め切った、決して仲間に向けて良いものではない冷酷な瞳だった。

 

「最後まで本当に、都合がいい「駒」だったよ。君達は」

 

 どこまでも冷めた口調で、彼女は言う。

 

「今までだって君達とは、女の子の私が野球をする為に仲良くしていただけだ。仲間意識なんて何も感じていないし、元から友情なんてあるわけない」

 

 ――だって、私とみんなは違うでしょう? そう言って、雅は笑った。

 

「……俺は、お前のことを仲間だと思っていた」

「俺っちもさ! 雅ちゃん何悪ぶってんスか! き、君らしくないッスよ……」

「仲間? 私のこと何も知らないくせに……冗談はやめてよ。女の子の私が、君達と同じ立場で野球出来るわけないじゃん。対等でもないのに何が仲間だ。笑わせるな」

 

 信じられないものを見るように震えた声で返す青葉や茶来達に、雅が冷たく返す。

 激情を通り越した今の雅の声は冷淡で――しかしだからこそ、一同の耳には焼き付いて離れなかった。

 これ以上、聴きたくないと思うほどに。

 

「君達の頭にもわかるように言ってあげるよ。私は私より下手くそなくせに、何不自由なく野球が出来る君達のことがずっと……」

 

 ――もう、何もかもが終わっている。

 

 ――もう、何もかもがどうでもいい。

 

 そんな響きを込めて、彼女は告白した。

 

「大嫌いだったよ」

 

 それは、彼女自身が積み上げてきたものを、一瞬で崩壊させる言葉だった。

 

 









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『一喝』

 

 

 

 

 

 後半戦の開幕は、打った瞬間にソレとわかる当たりから始まった。

 

 六回表の先頭打者は竹ノ子高校の四番、鈴姫健太郎。

 彼が振り抜いたバットがど真ん中(・・・・)の半速球を捉え、打球は華麗な放物線を描いてライトフェンスを越えていったのだ。

 

 誰が見てもわかる、文句のつけようのないホームランであった。

 

「よっしゃあああっ!」

「流石うちの新四番! 気分爽快だぜ!」

 

 沸き上がるのは竹ノ子高校のベンチ。静まり返るのはときめき青春高校の守備陣。

 試合はこれで3対2。一度は追いつき、逆転した筈の試合は再び竹ノ子高校のリードに変わった。

 しかし勝ち越しの殊勲弾を放った筈の鈴姫健太郎の表情に、清々しい色は無い。

 そこにあったのは「同情」の色。ときめき青春高校の野球部に対して、まるでかつてのどこかの誰かと重ね合わせているかのような憐れみの表情だった。

 

 

 

 ――小山雅の慟哭の後も、試合は続いた。

 

 本来ならば、もはや既に試合どころではないのかもしれない。しかし他ならぬときめき青春高校監督の大空飛翔が、この練習試合の続行を決めたのである。

 

「相手に失礼の無いようにしろ」

 

 普段はあまりの滑舌の悪さに言葉が聞き取れないことが特徴になっている老人監督であったが、ナインに対して告げる彼の言葉はいつになくはっきりとしていた。

 当然だが、試合というのは相手が居なければ成り立つものではない。あまりにも今更――今更すぎる言葉であったが、その言葉に最初に反応し、真っ先にレフトの守備位置へと向かっていった朱雀南赤を皮切りに、ときめき青春高校の野手陣はそれぞれのポジションについていった。

 

 そこまでは良かったのだ。

 

 ……そこまでが、今の彼らには限界だった。

 

 誰もが皆、心ここにあらずという状態だった。

 一同は自分が信じていたものに裏切られた思いで心の中の整理が追いついておらず、投手の青葉に関しては極端なまでに抜け殻めいた様子になっていた。

 

 

 ――そんな彼の集中力の欠いた投球が、先程の鈴姫のホームランを呼び込んだのである。

 

 制球力のある青葉にしては、あまりにもお粗末な投球だった。

 彼を受ける捕手の鬼力にしても、あまりにも不用意な要求だった。

 それは普段の彼らならば防げた筈の失点であり、あり得ない筈の失投だった。

 

「うおらっ!」

 

 そしてその集中力の欠落は、鈴姫の一発を浴びただけではおさまらない。

 続く竹ノ子高校の五番池ノ川。彼に対する初球は、またしても変化しない(・・・・・)ど真ん中のスライダーだった。

 曲がらないスライダーはただの半速球となり、それを見逃すほど今の池ノ川は優しい打者ではない。彼の振り抜いたバットは青葉の失投を芯で捉えると、左中間を真っ二つに切り裂く長打となった。

 

「…………」

 

 投げやりな表情で中継に入った小山雅のグラブに、レフトの朱雀からレーザービームの如き送球が送られてくる。

 その間に打者走者の池ノ川は二塁ベースへと到達し、得点圏に走者を置くツーベースヒットとなった。

 

 それまでほとんどヒットを許していなかった青葉が、ここに来て連続の長打である。その原因は、先ほどの騒ぎから察して竹ノ子高校の者も気づいているだろう。

 

 だがそんなことは、彼らが手心を加える理由にはならない。どんな理由があろうとも、今は試合中だ。

 故に、竹ノ子高校の打線は決して容赦しなかった。

 

「ボールフォア」

 

 ノーアウト二塁で打席には六番の外川。マウンドの青葉はとうとうストライクが入らなくなり、本来の制球力とは程遠い形でストレートのフォアボールとなった。

 これでノーアウト一二塁。まだ試合は一点差に過ぎないが、早急に何か手を打たなければ一方的な展開にもなりかねない雰囲気がグラウンドに立ち篭っていた。

 

 その時である。

 

「監督よ!」

 

 何の声出しもなく、完全に静まり返っていたときめき青春高校の守備陣――レフトの男から放たれた大きな声が、グラウンド内に響き渡った。

 朱雀南赤――彼が自らのチームの監督に呼び掛けた瞬間、大空飛翔がベンチを立ち、球審に簡潔な一言を告げた。

 

「レフトとピッチャーを交代」

 

 それはときめき青春高校にとって、この試合初めての投手交代となった。

 

 

 

 

 レフトからマウンドへ駆け寄った朱雀が見た青葉の顔は、見るに堪えないほどに酷いものだった。

 顔色は病気にでもなったように蒼白で、完全に上の空の様子。普段の闘志溢れる姿は見る影もなく、完全に気持ちが切れている状態だ。

 そんな青葉は虚空を眺めるような目で、朱雀へと振り向いた。

 

「朱雀……」

「交代だ。貴様はレフトへ行け」

 

 朱雀は突き飛ばすような動作で青葉を追い出すと、強引な足運びでプレートの上へと上がる。しかしそれを見ても青葉はその場から動こうとせず、投球練習に入ろうとする朱雀に対して言葉を溢した。

 

「俺達……駒だってよ……ずっと、仲間だと思っていたのに……一緒に部員集めを頑張って、一緒に戦ってきたのによ……」

 

 今にも泣きそうな顔で、青葉が嘆きの声を紡ぐ。

 まるで別人だな……と普段の彼を良く知る朱雀は思うが、そんな彼の心情も仕方ないと、理解()出来る。

 青葉春人は人一倍情に篤い男だ。一度仲間と認めた相手のことは決して裏切らず、見捨てることはしない。今時珍しい、時に暑苦しいとすら思う熱血漢である。

 そんな彼だからこそ、先の雅の言葉が余計に効いていたのだろう。立ち直るには長い時間が掛かりそうに見え、少なくとも今投球を続けられる状態でないことだけは確かだった。

 

「裏切られたんだ……俺達はあいつに……俺はもう、あんな奴の為に投げられない……」

 

 彼女の言葉をその通りに受け止めれば、反感を覚えるのは当然のことだ。

 しかし青葉はその反感の上に裏切られたという感情まで重なっており、今の彼の悲壮感を前にすれば同情の一つもしたくなるだろう。

 

 

 だが、朱雀南赤は違った。

 

 朱雀は今の青葉に対して――全くと言っていいほどに、共感も同情もしていなかった。

 

「打たれた言い訳はそれだけか?」

 

 言葉は冷たく……しかし気持ちは熱く、朱雀は彼を突き放す。

 

「余は今、生まれて初めて己の愚かさに激怒している。周りを騙し続けていた臣下の苦しみを理解してやれなかったこと……そして、貴様のような軟弱者を友と思っていたことにな!」

「朱雀……?」

 

 裏切られた――なるほど、確かにそう思うのも道理だ。

 奴の為には投げたくない――理解は出来る。

 だから打たれてもいい――恥を知れ! たわけがっ!

 

 朱雀南赤は、青葉春人に叱咤する。

 その言葉は、気の無い投球で点を取られた青葉に対してだけではない。

 それは彼女に「裏切られた」という思いで己の行動や考えを正当化しようとしている、軟弱なときめき青春高校の選手全員に向けた言葉だった。

 

「小山よ!」

「……なに?」

 

 ……確かに今日の彼女はあまりにもおかしい。

 その姿はスポーツマンシップに乗っ取っているとはとても言えず、人の心を踏みにじるような罵倒の言葉の数々には朱雀自身も思うところはある。

 

 しかし朱雀はそれ以上に彼女が――あの(・・)小山雅がこうなってしまうまで、何もしなかった自分達のことが許せなかったのだ。

 

「すまなかったな。お前がそこまで思いつめていたことに気づかず、何一つ助けてやれなかったことをここで詫びよう」

 

 真摯に、朱雀は普段の尊大な態度もやめて頭を下げる。

 朱雀南赤はその口調の通り、自尊心の塊と言ってもいい男だ。そんな彼が放った謝罪の言葉には雅すらも目を見開いており、青葉達もまた言葉を失っていた。

 

「今更、君は何を言って……」

「お前は余らを駒として利用していたと言っていたな。フッ……余を体よく利用してみせた人間は、お前が初めてだ」

 

 顔を上げた朱雀はいつになく自嘲の笑みを浮かべながら、周囲の者達の姿を見据える。

 ときめき青春高校のナイン――彼らも全員が全員揃って、不甲斐ないものだ。よほど皆は、小山雅のことが好きだったと見える。

 竹ノ子高校のナイン――こちらの準備不足の為にわざわざ試合を中断させて申し訳ない。だが、審判共々もうしばらくこの茶番に付き合ってもらいたい。

 監督――は、おそらく最初からこのつもりで試合を続行させたのであろう。チームメイトの手で解決させなければ意味がないと、あの老人は常にそういう方針だ。

 朱雀は再度ショートの方向を見据えると、あえて全員にも聞こえる声量で叫んだ。

 

「だが、それがどうした!」

 

 自分のように頑固たる信念を持ってさえいれば、そのように落ちぶれることもないだろうにと――心の底からそう信じている朱雀南赤は、この試合中ずっと腹の底に蓄積させていた感情を遂に言い放った。

 

「貴様の癇癪など、余の心には全く! これっぽっちも響いておらぬわっっ!!」

 

 もはや清々しいとまで言える、思い切った開き直りの言葉だった。

 その言葉には雅が眉を顰め、竹ノ子高校のベンチでは彼らの様相を見守っていた野球少女が相槌を打つ――が、朱雀には知ったことではない。

 そうとも、知ったことではないのだ。

 

「小山よ、お前は余らが嫌いだったと言ったな? お前にあそこまで言わせたのだ。嫌われる理由など、余らには山ほどある。思うだけならば好きにすれば良い。

 だが、余らとてお前を利用していたのは同じ! 同じチームの同志として、お前の心にまともに踏み込むこともせず、ただ都合の良いチームメイトとしてお前を利用していた!」

「……だから、なに?」

「そうだ! だから何だと言う!?」

 

 吐き出した言葉に雅が怪訝な表情を浮かべ、朱雀が尚も開き直る。

 朱雀はその言葉で雅をどうしたいのか――実のところはあまり考えていない。ただ彼は今自分が声を大にして言いたいことを好き勝手に叫んでいるだけであり、相手にどう受け取られるかまでは細かく気にしていないのだ。

 彼はどんな時でも、唯我独尊を信条にしている。故に……だからこそ、そう言った迷いの無い言葉が、周囲の意識を集めているとも言えた。

 そんな衆目の中で、朱雀は高らかに語る。

 

「ときめきの腑抜けどもよ! 貴様らが野球をするのは何のためだ!? よもや仲間の為などとは言うまい! 貴様らはただ野球をやりたいからやっている! いかに小難しい理由を並べようと、全ては己自身のためであろう!」

 

 小山雅に裏切られた――だからどうした。

 

 いや、彼女は全く裏切っていない。彼女は同じチームのメンバーとして今も試合に出ているではないか。裏切り者というのは、試合中に敵チームに移るような者のことを言うのだと――朱雀は思う。

 小難しい人間関係など、野球の試合においては関係ない。野球人は大人しく自身の持てる最高のパフォーマンスで野球をしていればそれで良いのだと、朱雀は言い切ってみせた。

 そして、その眼光を憤怒に染めて一喝する。

 

「利用されていたからやる気が出ない? 貴様らはいつからそんな軟弱になった! 小娘の癇癪一つで自分のプレーが出来ぬ半端な気持ちなら、今すぐ野球などやめてしまえ!」

「癇癪だと……簡単に言ってくれるね……!」

 

 半端な野球人を、朱雀南赤は許さない。無論、自分自身もだ。

 どこまでも真摯に、全力でプレーに取り組むこと――それが彼なりの、「野球が出来る感謝」の表し方だった。

 

「仲間と野球をしたくても出来ない者は、この世にゴマンと居るのだからなぁっ!」

「…………」

 

 そこまで言ってようやく思い至ったのか、抜け殻となっていた青葉が朱雀の瞳を窺う。

 朱雀南赤は小山雅に対して、裏切られたという感情を一切抱いていない。もちろん、こちらが何も言い返さないことをいいことに好き勝手に罵ってくれたことに対して思うことは多々あるが。今は試合中だからと抑えているだけだ。

 だから彼女とは試合が終わった後で、じっくり話し合って喧嘩すればいい。その時間はきっと、いくらでもある。

 

 彼女と自分はチームメイトで、彼女が何と言おうと、彼女は自分の仲間なのだから――。

 

「朱雀、お前……」

「……余は、臣下を見捨てん」

 

 あの程度の癇癪で引き下がってやるほど、朱雀南赤は情の薄い人間ではない。

 ……要は、それだけの話だ。

 

「余は奴を信じる。貴様はどうする? 青葉春人」

「……カッコつけやがって」

 

 朱雀が捕手に向く。捕手が何も言わず座る。

 青葉が笑い、レフトへ走る。

 

 そして十球ほどの投球練習後、試合は再開した。

 

「待たせたな、球審に打者よ」

「……以後気をつけるように」

「いいってことよ」

 

 状況はノーアウト一二塁。点差は一点ビハインド。

 外野にヒットを打たれれば一点は入るこの状況。点差が離れることは、相手投手の出来を考えると喜ばしくない。

 だがその程度の状況――朱雀には今更どうということもなかった。

 

 集中し、プレートに左足を添えた朱雀は、まるで打者を威圧するような風貌を持って投球動作へと移った。

 

「ぬん!」

 

 振りかぶった際に上体を大きく捻り、身体全体を竜巻のように回転させる――トルネード投法。

 朱雀の投球フォームはボールを持つ時間が長い為、打者にとってリリースポイントがわかりにくく、投げたボールをより打ちづらくすることが出来る。反面、投球動作が長い分クイックが出来ず、走者が居る場面では使いづらい投法でもあるのだが――身体中のアドレナリンが沸きに沸き立っている今の朱雀には関係ないことだった。

 豪快に振り下ろされた朱雀の左腕から放たれた白球が、唸りを上げてミットに突き刺さる。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 いずれも、コースはほぼど真ん中。しかし竹ノ子高校の打者は、そのボールに一球も掠ることが出来なかった。

 一安打も許せないピンチの中で登板した朱雀は七番石田、八番小島、九番鷹野と続く竹ノ子高校の打線をストレートだけで三者連続三振に切り伏せると、ショートの野球少女に見せつけるように咆哮を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、貴方にも良いチームメイトが居るじゃないか……」

 

 竹ノ子高校としては追加点のチャンスを生かせなかったが、今の星菜はどこか晴れ晴れとした気分だった。

 こう言っては薄情な気もするが、鈴姫がホームランを放った打席よりも、朱雀が見せた圧巻の投球の方が心が震えた気がする。

 もちろん、鈴姫がくれた貴重な援護点には、惜しみないほどに感謝している。だがそれでも、雅や自分が抱えているネチネチとしたもの一瞬で吹き飛ばすような朱雀の物言いは、いっそ気持ちの良いものだったのだ。

 よくよく聞いてみると彼の言い分は酷いものではあったが……それが正解だと星菜は思う。

 

 半端な気持ちで野球をやっている――それはまさしく、つい最近までの自分と、今の雅を表しているように思えたのだ。

 

 昔なら、そんなことはないと否定していたところだ。

 この気持ちは半端なんかじゃない。自分は確かに、心から野球に熱中していたと言い返していた。

 ……でも、違う。きっとそれは、そう思いたがっているだけだったのだ。

 

 

「裏は、アイツの打順からか……打ち取る策はあるか?」

「あるわけないだろ」

「なら、打たれても仕方が無い。敬遠するのも手かもな」

「冗談。ランナー無しからの敬遠なんて、練習試合でやることじゃないよ」

 

 攻守交代となり、次は六回の裏だ。ときめき青春高校の打順は三番の雅から……必然的に得点圏での勝負にならない点では、最高の形で最強の打者を迎えることになったとも言えるだろう。

 鈴姫と軽口を叩いた後、星菜はグラブを右手にマウンドへと上がる。入れ違ってベンチへと戻っていくときめき青春高校の選手達の顔は、朱雀の一喝によって一先ずは落ち着いたように見えた。寧ろ何人かは闘志を燃やしている様子であり、この回は雅以外の打者も厄介になりそうだと星菜は思った。

 

 

「真剣勝負だ。雅」

 

「上等だよ。星菜」

 

 

 そして、マウンドで投球練習を終えた星菜は再び対峙する。

 小山雅――自分を遥かに超える天才との実力差は歴然だと、既に先の打席で証明されている。

 

 しかしそれでも、指示が無い以上投手は野手と戦わなければならない。

 

 半端な気持ちを心から無くし、迷いを消す。それが本気で野球をすることなのだと、星菜は思う。

 今の自分にはきっと無理だろう。だがそれでも、せめて最善だけは尽くしていきたい。

 

 

 ――そうして上がった六回裏のマウンドは、泉星菜にかつてない変化を与えた。

 

 

 

 

 

 



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『覚醒』

 

 

 ――不愉快だ。

 

 具体的に何が、とは言わない。しかし小山雅には、今自分が抱いている感情が心底気に入らなかった。

 それをただただ不愉快だと思いながら、雅は脇目も振らずにベンチへ戻り、バットを持って打席へと向かおうとする。

 その背中に、大嫌いな男の一人が呼び掛けた。

 

「雅!」

 

 男の名前は、青葉春人。この野球部の主将であり、ここに居るときめき青春高校野球部の中では最初のメンバーの一人だ。

 雅は彼の声にほんの数秒だけ立ち止まると、横目をちらりと彼に向けた。 

 

「……その、頑張れ」

 

 彼が放ったのはこの場の沈黙を振り払い、辛くも絞り出すような苦しげな言葉だった。

 雅はその言葉に何も返さず歩みを進め、そのまま右打席に入った。

 

(……どういう神経してるんだか)

 

 あれだけ執拗に毒を吐いてやったのに、まだ自分に声を掛けてくるとは――正直言って、雅には彼の態度が意外だった。

 神経が太いのか細いのかわからない。尤もそれは、朱雀以外のチームメイトに関しては皆同じだったが。

 

 

「さて……」

 

 気を取り直し、雅はマウンドに目を向ける。

 自分が野球を続ける未練の一つは、先の回に雅が己が自身の言葉で打ち砕いた。

 次はもう一つの未練――泉星菜との勝負に完全な勝利を上げるだけだ。尤も既に、勝負はついているつもりであったが。

 

「終わりにしよう、星ちゃん」

 

 神主打法の構えに入り、雅は極限の集中力を持ってマウンドの星菜と対峙する。

 この打席で行うスイングは一回、一振りもあれば十分だ。彼女のボールならばストライクゾーンを大きく外れない限り、どこへ投げようとフェンスの向こうに放り込めると雅は確信していた。

 

 プレイの号令が掛かり、金色の視線に曝される星菜がワインドアップに振りかぶる。そして持ち前のボールの出どころが見にくい「招き猫投法」から、その一投目を繰り出した。

 雅の内角を抉るクロスファイヤーの軌道で食い込んできたボールは、球速の割には(・・・・・・)鋭い切れ味で縦に割れ、ベース手前の地面へと落ちていく。

 高速の縦スライダー。星菜が投じた変化球はストライクゾーンを大きく外れ、当然ボール判定となる。彼女の指先から地面に叩き付けられるまでの一部始終を冷めた目で見送った雅は、小さく溜め息をついた後でゆっくりとバットを構え直した。

 

(この球じゃ決して……君は私を打ち取ることが出来ない。女の子として生まれてきたことに、後悔するしかないね)

 

 最初の対決の際には失望のあまり怒りすら沸いたものだが、今この打席においての雅は意外にも冷静であった。

 冷静に彼女のボールを見つめながら分析し、評論している。そこに込められた感情に怒りはなく、ただ彼女を愛するが故の憐れみだけだ。

 

(そりゃあ、110キロちょっとのボールを130キロぐらいに見せる技術は凄いさ。ここまでなるにはきっと、並大抵の努力じゃなかったんだろうね)

 

 女子としては、才能がないわけではない。

 努力だって間違いなくしている。

 しかし、それだけではどうにもならないのが泉星菜という野球少女の限界なのだ。

 緻密に構成された彼女の投球は、この程度のレベルであまりにも完成しすぎていた。彼女は自身の持てうる努力と才能の全てを掛けたことによって既に伸びしろを失い、成長の頭打ち状態になっているのだ。

 

(……ほんの五キロ。君の球質なら、あとほんの五キロでもストレートが速ければ、体感で140キロ近くまで速く見せられるかもしれない。そうなったら私も、少しは手こずるかもしれないね。……でも駄目だ。このボールじゃ、駄目なんだよ)

 

 野球の神様などこれっぽっちも信じていないが、もしもそんな神が居るのならこの仕打ちはあまりにも酷すぎると雅は思う。

 あんなに野球が好きで頑張っていた泉星菜が、相対した自分に対してこんなにも情けないボールしか投げられないことが。

 

(私には君のボールの回転が、はっきりと見える)

 

 再びワインドアップから投球動作に移った星菜が、左腕から弧を描くスローカーブを振り放つ。

 もしもその腕が華奢な少女の細腕ではなく、屈強な男子の筋肉質な左手であったなら。

 もしも彼女が彼女ではなく、彼だったなら……一体どのような物凄いピッチャーになっていたのか、想像もつかない。

 あくまでも「女子としては」という条件さえ入れれば、雅とて星菜の野球の才能を認めていたのだ。しかし雅には、他でもない彼女がその程度のレベルでいてほしくはなかった。

 

 ――だからこそ、最速115キロという現実が心苦しいのだ。

 

『そんなこと知らないよ! 私はプロ野球になるんだからっ!』

 

 一瞬――昔、いつぞやに幼い頃の彼女が高らかに言い放った言葉が脳裏を掠める。

 その瞬間、雅の振り抜いたバットが低めに曲がり落ちたスローカーブを真芯に捉え、会心の金属音と共に豪快な飛球(アーチ)を吹き飛ばした。

 レフトフェンスをゆうに越えていく当たりは、推定110mと言ったところか。非力を自称する雅の中では、過去最長と言ってもいい飛距離だった。

 

 しかし、三塁審判の判定はファールである。

 

 雅にとっては打った瞬間からわかっていたことであり、何の不服も無い判定だった。

 

「……悲しいよ」

 

 バットを出した瞬間、脳裏にちらついた幼少時代の彼女のビジョンに邪魔をされたような気がした。……でなければ、今の一振りで確実にホームランにしていた筈だろう。

 つくづく、野球に感傷を持ち込むと碌なことにならないものだ。雅はほんの僅かに切なげな笑みを浮かべた後、再び冷酷な眼差しを持ってマウンドを見据えた。

 

 ――次は、外さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝てない……まるで先の打席を再現したかのような雅の打球を見送った後、星菜は自らの左肩に鉛のような重さを催した。

 肩が痛いわけではない。身体の調子は万全どころか、かつてないほどに良好の筈だ。そしてボールを投げた感触も、今までがそうだったように狙ったコースに狙った変化と、間違いなく狙い通りのものだった。

 しかし、小山雅にはまるで通用していない。先の大飛球は決して星菜が意図した打たせたものではなく、彼女が運よく打ち損じてくれただけに過ぎないのだ。

 その事実が、星菜に自分と雅の間にある隔絶した実力差を思い知らせる。そしてその絶望こそが、星菜の左肩に圧し掛かってきた重さの正体だった。

 

(……ああ、わかっていたさ。技術だけじゃ……最速115キロの限界なんか、こんなもんだって……)

 

 幼い頃に抱いていたプロ野球選手になるなどという夢は、もう既に過去のものだ。球速も無く上背も無く筋力も無い、何よりこれ以上の成長の見込みも無い。現実的に考えて、どこにそんな投手を目に留めるスカウトが居るだろうか。

 そんな夢が果たせないことはとっくの昔に、中学の時点で悟っていたことだ。今自分が再び野球をやっているのもプロを目指しているからではなく、今の星菜は鈴姫ら信頼出来る仲間達と共に真剣に野球に打ち込み、自分の野球人生に対して悔いを残すことなく完全燃焼することが出来ればそれで十分だった。

 

(野球選手としては、ここが私の死に場所か……いや、とっくに死んでいたか。志のある私なんてのは)

 

 投手としての、野球選手としての泉星菜は既に死んでいる。だからここに居るのは、前の泉星菜の亡霊みたいなものだ。この内にある未練と、復活を望んでくれた友の願いによって生まれた性悪な亡霊である。

 対する小山雅の方は、志半ばに散った名も無き女子選手の怨念が形を変えて生まれた妖怪か何かだろうか。心の中でそんなおかしなことを考える自分に、星菜は渇いた笑いを溢した。

 

(……私のボールじゃ、雅ちゃんは抑えられない。ノーアウトランナー無しだけど、ここは敬遠するのが一番良い気がするよ)

 

 ここまで力の差を思い知ると、いっそ諦めがつくというものだろう。

 地区内に居る各高校のエース投手達も、猪狩守以外は全員あの妖怪にやられたのだ。星菜の尊敬する早川あおいも同様に。だからここで自分が二打席連続のホームランを浴びたとしても、敬遠で勝負を逃げたとしても……いずれにせよ大した恥にはならないだろう。

 

(人間諦めが肝心……先人は良い言葉を作るもんだ……)

 

 諦めは、決して悪いことではない。

 何故ならば一つの可能性を諦めることによって、もう一つの可能性を得ることが出来るからだ。

 そう……野球を諦めることによって、泉星菜の人生が女性としての幸福を得る可能性が高いのが良い例である。

 

 ――しかし、星菜はそうしなかった。

 

 何度も挫けて、何度もウジウジして。

 何度も説教されて、何度も立ち直って。

 何度も支えられて。何度も這い蹲って。

 

 ――それは泉星菜が、まかりなりにも自分自身で選んで決めた道の筈だった。

 

外角低め(アウトロー)の、115キロのストレートか……)

 

 長く間合いを置きながら、星菜は捕手六道明の出したサインを読み取る。

 見るにしても投げるにしても、星菜はそのコースが最も得意であり、最も好きだった。

 

無法者(アウトロー)の、115キロのストレートってか……)

 

 アウトロー――その言葉は野球で言えば外角低めを意味するが、世間一般の俗語としては「無法者」だとか、無法な生活スタイルの者を示す意味合いがある。法の埒外であり、自分の信念や弱肉強食が正義という世界に自ら好んで身を置く者などはまさにそう言われるものだ。

 そう考えると、高校野球という規定の埒外である場所に自ら好んで身を置いている自分もまた、まさにアウトローと言えるのではないかと星菜は思った。

 

 

 ――だが、そんな無法者(アウトロー)のことを、彼らは一度として見放したりはしなかった。

 

「勝負していこう、ピッチャー!」

「――っ、健太郎……」

 

 昔から自分のことを好きでいてくれた、幼馴染も。

 

「余計なことを考えるな。今まで通り、ここに投げろ」

 

 小山雅に対峙するこちらの不安を察して、投げやすいコースを要求してくれた捕手も。

 

「ファイトッスピッチャー! まだまだ球はキレてるッスよ!」

 

 この野球部に初めて誘ってくれた、マネージャーの先輩も。

 

「ベンチのことは気にすんな! 俺、馬鹿だから!」

 

 パワフルで頼もしい、尊敬するキャプテンも。

 

「外野の打球は全部捕ってやるでやんす!」

 

 コミカルで頼りない……だけど、心から信頼出来る副キャプテンも。

 

「打たせてこう打たせてこう!」

「さあ、バッチ来い!」

 

 頼りない仲間だと思っていた――だけど、自分には無い大切な物を持っていた他の先輩達も。

 

 彼らはいつだって、こんなしょうもない女の独りよがりに付き合ってくれたのだ。

 

 

「私は……」

 

 何故か心拍数が上がってきた星菜は、一旦気を落ち着ける為にプレートを外して六道にタイムを取らせる。

 マウンドの上で胸に手を当てて深呼吸すると、星菜は黙祷を捧げるように静かに目を閉じた。

 

 ――みんな誰しも、自分自身の為に野球をしている。色んな思惑があっても、結局は自分自身の選択で彼らはここに居るのだ。

 

 先の回に朱雀南赤が言い放った言葉が、星菜の脳裏に過る。彼の言葉に対して、星菜もまた概ね肯定の思いを抱いている。

 

 だが、それだけが全てなどとは思っていない。

 自分の為に行うことが、野球の全てではない。

 

 マネージャーとして竹ノ子高校野球部に入り、マウンドに帰ってくるまでの間に訪れた心境の変化が、星菜の心の中に決して砕けない力強い「何か」をもたらしていた。

 

 その胸に広がっていくのは、今しがた掛けられたチームの人々の思い――勝つ為には当たり前の、チーム全体の信頼感だった。

 

 野球をする理由は自分自身にある。しかし、野球の試合は絶対に、自分だけの為に行うものではない。

 

 一人はチームの為に、チームは一人の為に。

 

 そこに特別なものは何も無い。

 星菜自身とて、そんなものは既に、野球を始めて間もない頃に教わっていたことだったのだから。

 

「野球をしよう……泉星菜の全力で」

 

 心拍数が落ち着くと、不思議なことに星菜が左肩に催していた重さが消えた。

 そして星菜の栗色の瞳に、純真無垢だった頃の輝きが蘇る。

 

 投手の準備が整ったことでプレーは再開し、星菜は打席の小山雅と向き合う。

 神主打法に構える雅に対して、星菜は大きく振りかぶり、右足を高く上げた。

 

 そして上半身を大きく捻り(・・・・・・・・・)大きなテイクバックを入れて(・・・・・・・・・)、左腕を豪快(・・)に振り下ろした。

 

 

 

 

「ストライクッ!」

 

 呆気に取られた――というのが星菜の投じた三球目の投球に対する雅の反応だった。

 ボールは見えていた。ストライクゾーンに来ることもわかっていた。

 しかし思いも寄らない星菜の「投球フォーム」を見て、雅は虚を突かれたのだ。

 

「星園の次は、朱雀の真似か……」

 

 トルネード投法。星菜が投じたこの投球は、彼女本来の技巧を持ち味とした招き猫投法ではなく、全体重を振り絞る豪快さを持ち味とした朱雀南赤を模倣した投球フォームだったのだ。

 

「やけっぱちになったのか。そんなくだらない技で、私を抑えられると思っているのか?」

 

 テイクバックを大きく取り、身体全体を軸にして投げるトルネード投法。それならば確かに、上手くハマれば彼女のピンポン玉のような球威に産毛ぐらいは加えられるかもしれないだろう。

 しかし、そんなものはたかが知れている。それも、ただでさえ強靭な足腰が要求されるトルネード投法など、華奢な彼女が、碌にフォームを固めていない即席の状態でモノに出来る筈がないのだ。

 

 それが自分に勝つ為に彼女が考え付いた手段だというのなら、雅には嘲笑を浮かべる気にもなれなかった。

 

「ふん……野球をなめるな」

 

 四球目、ツーエンドワンから星菜が投じてきたのは、尚もトルネード投法からの外角低めのストレートだった。

 雅はそのボールへ思い切り踏み込み、逆方向への柵越えを狙ってバットを強振する。

 

 一閃、快音が響く。

 しかし、手応えは微かに外れだった。

 

「……?」

「ファール!」

 

 バットが弾き返した痛烈な打球は、ノーバウンドでファールゾーンのフェンスへと直撃する。

 力み過ぎたからか狙い通りの飛距離が出ず、それどころかフェアゾーンにすら飛ばなかった自身の打球に対して雅はギリギリと奥歯を軋ませた。

 

「なんで……」

 

 仇敵を睨むような目で星菜と向き合い、バットを構える。

 しかし当の星菜はどこ吹く風か、涼しい顔でその目線を受け流し、続く五球目の投球動作に移った。

 

(内角高め、この回転はストレート……)

 

 星菜が指先から放った瞬間、雅は彼女のボールの回転から球種を断定し、すかさずバットを振り抜く。

 ボールの縫い目すら見切る動体視力と、見切った後でバットを出し、ジャストミートすることが出来る反応速度。持ち合わせた超人的な才能が可能にする、雅の星菜攻略法がそれである。

 星菜のボールは遅く軽い。故に通常であれば振り遅れてしまうタイミングでも、星菜が相手の場合には完璧なタイミングで捉えることが出来るのだ。

 例え彼女のボールの出どころが見にくくても、奇策のつもりで繰り出してきたトルネード投法であろうとそれは同じ筈だ。寧ろ本来の投球フォームよりも精度が落ちる筈の彼女のボールは、雅にとって余計に打ちやすくなった――筈だった。

 

「ファール!」

「――!」

 

 完璧に捉えたと思った筈の打球は、今度は音を立ててバックネットに突き刺さっていく。

 自分のバットが叩いたボールの位置。彼女の左腕から、ホームベースにするまでの速さ。グリップから手に伝わってきた痺れた感触――そのどれを取っても、雅には不可解な現象だった。

 

(なんだ……?)

 

 彼女の投げるボールなら、思い通りの打球を飛ばすことが出来る筈だった。

 小山雅の予測を覆すことなど、決してあり得ない筈だった。

 

「ファール!」

 

 次のボールもまた、内角高めのストレートである。それに対して今度こそ間違いなく捉えたと思って振り抜いた雅の打球は、またしても後方のバックネットに飛んでいった。

 

 一度ならず二度までも、星菜の投げたボールは雅の一閃を凌いだのだ。

 

(なんで……私が振り遅れている?)

 

 次のボールもファール、その次もファール。

 いずれも、球種は全てストレートである。気づけば馬鹿の一つ覚えのように真っ直ぐだけを投げ込んでいる星菜と、そのボールを前に飛ばせなくなっている雅がそこに居た。

 

(どうしてッ!)

 

 前の打席と同様に、雅は彼女のボールの縫い目から回転まで見極めて、バットを振っている。そんな芸当が通用してしまうほどに、彼女のボールは遅かった筈なのだ。

 

 ――しかし、今はその打法が通用していない。

 

 回転を見極めてからバットを振るのでは、タイミングが間に合わなくなっているのだ。徐々に振り遅れている――ファールの打球が次第に一塁方向へと逸れていっていることからも、それははっきりと窺える事実だった。

 

(どうして今になって……球が速くなっているんだ!)

 

 彼女はこの勝負の中で、一投を放る度に球威も球速も増していた。

 スピードガンで計測していない以上、実際の球速はわからない。しかし雅の体感では、既に140キロを超えている。

 ここに来て剛腕投手のような球を放り出してきた彼女の姿はまるで、これまでの彼女とは別人が投げているようだった。

 

(トルネードに変えたから? 馬鹿な! それだけで、こんなに球速が上がるわけがない!)

 

 この打席、十球目のボールを尚もファールで凌ぎながら、雅は今しがた彼女の投球に起こっている不可解な現象を探る。

 考えられる可能性と言えばこの勝負から突然変えた豪快な投球フォームぐらいなものだが、雅は朱雀南赤というトルネード投法を扱う投手を身近に見てきた経験から、即座にその可能性を否定する。

 泉星菜の中で完全に自分のフォームとして定着していた招き猫投法と、思い付きで試してみたような即席のトルネード投法。どちらがより速いボールを投げられるのかなど、常識的に考えれば誰にでもわかることだ。泉星菜とて、フォーム一つでこれほどのストレートを投げられるのなら始めから星園渚のフォームを真似たりはしなかった筈である。

 故に今の彼女の投球に起こった変化には、それ以外に別の要因がある筈だった。

 

「くそっ!」

「ファール!」

 

 十一球目のボールを打ち損じ、これもファールになったことで雅は舌を打つ。

 何故速くなったのかは知らないが、たかが体感140キロのボールなど本来の自分であれば簡単に弾き返せる筈だ。しかし現実としてホームランどころか前にすら飛ばせていない状況が続き、雅は苛立ちをさらに募らせた。

 

「手が痺れているだって……? なんでだ……! こんな球威があるなら、なんで今まで投げなかった!?」

 

 今まで手を抜いていたのではないか……そんな疑問から吐き出した雅の声に応じたのは、マウンドに居る泉星菜ではなく、彼女のボールを受ける捕手の言葉だった。

 

「勘違いするな……俺だって、彼女のこんな球を受けたのは初めてだ」

「なに……?」

 

 彼女は今までも、いつだって本気で投げていた。

 雅と同じように、彼女のボールを受ける捕手もまた驚いている様子だった。そして周囲に目を向けてみれば、竹ノ子高校のナインも彼と同じ様子である。その中でただ一人、ショートを守る鈴姫健太郎だけが訳知り顔で安心したような表情を浮かべていた。

 

「感謝するよ、小山雅。君のおかげで、うちの新エースが目覚めたらしい」

「ッ!」

 

 ここに来て、急激に成長したとでも言うのか?

 それとも、元々持っていた彼女本来の力が目覚めたのか?

 いずれにせよ今の彼女の投球は、ご都合主義のように非現実的な現象だった。

 そしてそれは小山雅にとってはこの上ない屈辱であり、決して許されないことだった。

 

(認めるか……!)

 

 十二球目。またしてもクロスファイヤーで食い込んできた星菜のストレートを、雅のバットが真芯に捉える。

 鋭い金属音を上げて打ち放たれた痛烈な打球は、160キロを超える速さで三塁側の竹ノ子高校のベンチへと直撃していく。感情に任せ、出鱈目に引っ張った打球は当然のようにファールだった。

 しかし雅はこの瞬間、彼女の新しい球筋を見切った。際どいコースを突く体感140キロのストレートとて、雅にはさして脅威的なボールではないのだ。

 

「あの球を打てるのか……」

ボク(・・)は君達とは違うのさ。次はレフトスタンドだよ……!」

 

 勝負の中で急激に進化した星菜のボールを前にして、一打席の中で順応していく雅の才能を前に、竹ノ子高校の捕手が驚愕を通り越して呆れたような言葉を呟く。

 

 そう、彼女が今までの彼女でなくなったのなら、こちらはそれすらも凌駕する打撃で挑めばいい。

 

 数多のエース投手を相手に勝負を挑み、いずれも打ち勝ってきたのが小山雅という打者だ。この打席も彼らにしてきたように、無慈悲に打ち砕けばいい。

 雅は金色の双眸を見開き、他でもない自分自身に対して宣言した。

 

「そうだ……今こそボク(・・)は、私の「過去」を超えるんだっ!」

 

 ただ自らの過去と決別する為に、雅はここに来た。宿命のライバルと言って良い彼女との決闘を望んだ。

 左手に持ったバットをマウンドへと突き出しながら、雅は燃え滾った闘志の瞳で星菜を睨む。

 対する星菜の瞳の色もまた、紅蓮の炎のように熱く燃えていた。

 遊び球は使わない――次でこの打席の勝負は終わると、雅だけではなくこのグラウンドに居る誰もがそう直感していた。

 

 

 星菜がワインドアップに入り、雅がグリップを握り締める。

 

 星菜が上体を大きく回転させつつ、左腕を隠しながら右手を招き猫のように振り上げる。

 

 雅が神主のような構えからテイクバックに入り、左足のステップ動作に移る。

 

 星菜の右足がマウンドの土を踏み締め、雅の左足がバッターボックスの土を踏み締める。

 

 

「――――!!」

「――――!!」

 

 

 投手と打者、隔てる物の無い二人はお互いの持てる全てを振り絞り、ボールを投げ、バットを振った。

 

 

 ――そして。

 

 

 雅の目から、ボールが消えた。

 

 

 

 

 

 

 

「ストライク! バッターアウトッ!!」

 

 球審からこの試合最大の声量を振り絞った判定の声が上がり、マウンドの星菜が声を上げてグラブを叩く。

 対する雅は吐き出す言葉も失い、茫然とその場に立ち尽くしていた。

 

 

(……泉、星菜……ああ……やっぱり君は、私の……)

 

 驚愕に震える瞳を上げ、雅は彼女の姿を見据える。

 この打席の決着をつけた一球――それは、雅が生まれて初めて見たと言っても良い未知の変化球だった。

 

 自分がバットを振った瞬間、ボールが消えたと――そう錯覚してしまうほどにブレーキの掛かった、まさに真のチェンジアップ(・・・・・・・・・)。胸元に体感球速140キロ超えのストレートを投げ続けてきたからこそ雅を打ち取ることが出来た、彼女が誇る渾身の外角低め《アウトロー》だった。

 

(私の……!)

 

 彼女は決して、あの時から落ちぶれてなどいなかった。

 この打席でそれを理解した雅はあらゆる感情を綯い交ぜに抱えながら、顔を伏せてベンチへと戻っていった。

 

 

 



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最強の野球少女

 

 

 ――永い、眠りだった。

 

 今この時を経て、ようやく本来の実力(・・・・・)を発揮した彼女の姿に星園渚は我が子の成長を喜ぶように満面の笑みを浮かべた。

 彼からしてみれば、今の彼女の投球は意外でもなんでもないものだった。

 これまで彼女を苦しませてきたコンプレックスの存在は、彼女の心に自分の成長が止まったものとばかり錯覚させ続けてきた。自分はもう伸びしろが無いと。自分の才能では、これが限界なのだと。どれだけ厳しい練習を重ねても、女である自分には周りの男子達のように飛躍出来ないのだと――彼女はずっと、そう思い込んでいた。

 

 だからこそ、彼女はかつて夢見ていたプロ野球選手への道も諦めた。

 彼女は女子の身でありながら類稀な素質を持ち、かつ諦めが悪く野球にしがみつこうとする執着心を持ちながらも、妙に一歩退いた現実主義者(リアリスト)であろうとする一面が強かったのだ。

 

 つまるところ彼女は、無意識の中で自分自身に限界の壁を作ってしまっていたのである。

 

 順風満帆だった筈の彼女の野球人生にそれが起こったのは、中学時代に味わった最初の挫折からか。

 今まで誰にも負けなかったものが大した選手でもない野球部員に打ち負かされ、それまで培ってきた自信を粉々に砕かれた。敗北と周りからの否定が無意識の中でイップスを発症させ、彼女自身が気付かぬ内に己の左腕にブレーキを掛けていたのだろう。

 

 彼女は決して、115キロで終わる投手ではなかったのだ。

 

 今の彼女を見ていると、彼女に自分の投法を伝授してあげたのは失敗だったのだろうと星園は思う。才能が開花した彼女の姿を目に、星園は後悔する。

 力で足りない分を、技巧で補う。その発想自体が間違っていたとは思わない。しかし星園も彼女も、教わり教わる関係になる以前に大切なことを失念していたのだ。

 

 泉星菜が本来伸ばすべきだった、彼女が生まれ持った天性の長所を。

 

『君はこの僕を超えられる逸材だったんだ……嬉しいけど、悔しいな』

 

 彼女の最大の武器は制球力でも球種の多彩さでも出どころの見にくい投球フォームでもない。それらはあくまで、彼女の最大の武器を生かす為のオプションである筈の武器だった。

 

 彼女最大の武器は昔と変わらず、浮き上がるような伸びを持つ「本物の」ストレートにあるのだから。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 三番小山、四番鬼力、五番朱雀と続くクリーンアップを三者連続空振り三振に切り伏せ、彼女はグラブを叩く。その内、鬼力と朱雀に投じたウイニングショットはどちらも外角低めギリギリのストレートだった。

 キャッチャーミットへと至っていくボールには、とてつもない回転数から凄まじいノビを生み出していた。そして球速自体も、おそらく120キロをゆうに超えているだろう。

 それはまるで、彼女が今まで蓄えていた経験値を一気に注ぎ込みステータスアップしたような、RPGの勇者のように理不尽な飛躍であった。

 あまりにも非現実的――だが彼女は、そんな非現実的な才能の持ち主だったのだ。腐りさえしなければ泉星菜の才能はあの小山雅と比べて何ら劣るものではなく、最初から男子と女子などという常識的な物差しで測るべきではなかったのかもしれない。

 

『やっと過去を乗り越えた……いや、君はきっと「乗り越えさせてもらった」って言うんだろうね』

 

 中学時代深く心に負った傷はこの高校生活の中で癒され、迷いながらも回り道に回り道を重ねたことで彼女は多くの人と出会い、世界を広げた。

 それは、鈴姫や波輪達チームメイトだけではない。

 六道聖という幼い野球少女からは発破を掛けられ、努力する心を忘れなかった。

 同じ境遇に立ちながらも、決して挫けず前に進んでいく早川あおいという手本を見つけた。

 そして小山雅という、言わばもう一人の自分と戦い、一度打ちのめされたことでがむしゃらさを思い出した。

 最高のチームで最高の仲間達にお膳立てしてもらい、自分自身を本当の意味で見つめ直すことが出来たのだ。

 

 

 ――ここまでして目が覚めないほど、泉星菜は弱い人間ではない。

 

 

 覚醒した彼女の姿を見て、星園は死人でありながらも武者震いを覚えていた。

 それは「いつか生まれ変わったら、自分もあの子と投げ合ってみたい」と、そんな無茶なことを考えるほどに心を動かされていた。

 つくづく、野球の力というものは素晴らしいものだと思う。

 

『頑張れ、星菜。君はもう、誰にも負けない立派な野球選手だ』

 

 永い眠りから覚めた今、ここからが彼女の本当の野球人生だ。

 その人生に死人が口を出す必要は、もはやどこにもなかった。

 

 

 

 

 

「ぬおおおおっ!!」

 

 七回の表。星菜が披露した快投に呼応するように、ときめき青春高校の二番手朱雀もまた剛腕を唸らせた。

 150キロを超える剛速球がアバウトなコースながらも豪快にキャッチャーミットへと突き刺さり、この回一番の星菜から始まる竹ノ子高校のバットは、ことごとく空を切った。

 絶好調の三番矢部すらも全く手も足も出ないという、恐るべき投球内容である。

 好打順で始まったこの回も三者連続の三振に倒れ、早い時間で再び攻守が交代する。

 

 ――しかし、今の泉星菜もまたときめき青春高校打線につけ入る隙を与えなかった。

 

 七回の裏。六番茶来、外角低め一杯のストレートを見逃し三振。

 七番神宮寺、予想以上に手元で伸びてくるストレートを擦り、キャッチャーフライ。

 八番青葉、星菜の投球に対応すべく際どいコースのボールを見極めようとするが、最後は雅と同じく低めに外れるチェンジアップを空振り、三振に倒れた。

 

 野球用語には「ラッキーセブン」という言葉があるように、高校、プロ野球共に七回は統計的に見ても点が入りやすいことで有名なイニングである。

 しかしこの回の両投手、朱雀南赤と泉星菜はどちらも難なく相手打線を三者凡退に打ち取り、試合は3対2の竹ノ子高校リードのまま八回へと進んでいった。

 

 

「凄いよ君は……あの頃のまんまだ」

 

 終盤にも拘わらず低調な自軍の打線に対して、既に雅の心に思うことは何もない。自分が打てないのだから、他の打者に打てる筈がないのだ。

 

 はっきりと言おう。小山雅は今、心の底から震えていた。

 

 しかしそれは恐怖でも畏怖でもない。彼女の心にあったのは、やはり泉星菜こそが自分にとって最大の壁だったのだという確信だ。野球人生の最後に決着をつけるべき最強の宿敵だと思っていたのは間違いではなかったのだと、彼女は喜んですらいた。

 

 ベンチへ引き下がってくる青葉に苦言すら浴びせずに、雅は楽しげな笑みを浮かべて守りにつこうとする。

 そんな雅に向かって、ベンチに座る老人監督が静かな声で呟いた。

 

「とても、引退する野球部員の顔には見えんな……」

 

 それは何故か、小さな声ではあったが既にグラウンドに足が向かっていた雅の耳にも、はっきりと聴こえる言葉だった。

 

「……やめなきゃいけないから、やめるんだよ」

 

 誰が好き好んで、こんな楽しいスポーツをやめるもんか。

 彼の言葉が聴こえた瞬間だけぴたりと立ち止まった雅は、彼にしか聴こえない声量で一つだけそう返すと、駆け足でショートのポジションへと向かった。

 

 

 ――あとはあの子を超えるだけだ。もうこれ以上、ボク(・・)に失うものはないのだから。

 

 

 

 

 八回の表。この回は一度だけ、竹ノ子高校打線のバットが快音を響かせた。

 それは先頭の四番、鈴姫の打席である。鈴姫はボール気味のストライクゾーン高めに入ってきた150キロを超える朱雀のストレートを逆方向へと弾き返すと、バットの芯で食った痛烈な打球はそのままレフトの前へと落ちる「筈」だった。

 

「アウト!」

 

 しかしその打球が到着したのは、右利き用グラブの網の中だった。

 ショートの小山雅が背走しながらジャンピングキャッチを敢行し、彼の打球を高く伸ばしたグラブへと収めたのである。

 

「化け物か……」

 

 どう考えてもヒットになる筈の打球を、ことごとく処理してみせる。

 悔しいが、彼女の守備力は間違いなく自分より上だろう。いともたやすく行われる彼女の魔術師的な好守備を前にして、打った鈴姫の方もまた同じショートとして賞賛するしかなかった。

 

 

「ストライク! アウト!」

 

 その後、鈴姫の後に続く五番池ノ川と六番外川は共に三振に打ち取られ、この回も三者凡退に終わっていく。

 星菜を援護したい打線ではあったが、生憎にも朱雀の調子は気力だけでどうにか出来る次元を越していたという様相である。今の朱雀が披露している後先考えない全力投球は先発ではなく、二番手としてマウンドに上がったからこそ出来る投球であろう。

 

「150キロ超えのボールは、やっぱキツイなぁ……」

「上手いこと高性能なバッティングマシンでもあればいいんだけどね。まあ、今日の朱雀はうちに限らずあかつきや海東でも打てないよ」

 

 竹ノ子高校とときめき青春高校の間にあるリードは未だ一点のみ。しかし一点があるだけでも、星菜の気持ち的には十分助かっていた。

 今の朱雀南赤から点を取るのは難しい。ならば、この一点を全力で守れば良いのだ。

 

「結構球数も来ていると思うが、大丈夫か?」

「……この程度でバテてちゃ、甲子園で戦えないさ」

 

 八回のマウンドに向かうこちらの身を案ずる鈴姫の声に、星菜は気丈な態度で応える。

 実際、これまでの投球で体力はかなり消耗している。しかし星菜には今更誰かにマウンドを譲る気は無かったし、今の自分の状態ならばこれ以上失点を許さない自信があった。

 甲子園の炎天下での試合を想定すれば、この程度の消耗は寧ろ温すぎるぐらいだ。と、そんなことを自然に語る自分自身に、星菜は苦笑を浮かべた。

 

(ナチュラルに大会に出るつもりなんて、頭のおかしい女だ……)

 

 常に一歩後ろに下がったつもりで、難癖つけたがって物事を見ていたかつての自分。

 達観して大人になったつもりで、冷静になろうとしていたかつての自分。

 今にして思えば、それがどれだけ薄っぺらなものであったことか。

 自分で自分が馬鹿みたいだ。だがそれでも、星菜はそんな時間も無駄ではなかったと思いたい。……無駄だったとは、言わせない。

 

「健太郎」

「何だ?」

 

 憑き物が取れたような笑みを浮かべ直し、星菜は今一度気合いを入れるように帽子と頬を締め直す。

 そして鈴姫に対して今一度向き直り、投手として一つ頼んだ。

 

「この回が山場だ。ゴロを打たせていくから、後ろは任せた」

「三振取る気満々なくせに……任せろ、君は俺が守る」

「キザんな馬鹿者」

 

 八回の裏。ときめき青春高校は九番から始まるこの回、一人でも塁に出れば三番の雅へと打順が回る。恐らくは、それが彼女との最後の対戦になるだろう。

 

「勝つぞ、星菜」

「うん」

 

 ポンと背中を叩き、鈴姫がショートのポジションへと駆ける。

 そして星菜は、一歩一歩足元の感触を確かめるようにマウンドに上がった。

 

「プレイ!」

 

 数球の投球練習を終え、球審から号令が掛かる。

 向かい合う右打席には、ときめき青春高校の九番稲田の姿があった。

 

(勝つんだ……)

 

 捕手六道のサインを確認した星菜が、即座に投球動作に移る。その投球フォームは、小山雅との勝負の中で直感的に完成させたものだ。

 大きく振りかぶった後、右足を上げながら上体を大きく捻り、左腕を背中に隠しながら右手を招き猫のように振り上げる。

 朱雀南赤のトルネード投法に、これまでの招き猫投法を組み合わせたような投球フォームである。あえてこれに名を付けるなら、ネーミングはそのまま「トルネード招き猫投法」というところか。

 

「ストライク!」

 

 あの時、星菜は雅に対してひたすらがむしゃらに、強いボールを投げることだけを考えてボールを放った。

 個人としての感覚は、その程度のものだ。しかしその時から星菜は、かつてない手ごたえを感じていた。

 

「ストライクツー!」

 

 それはまるで、身体中に着けていた重りが外れたような――重力さえ感じなくなるほどの左腕の軽さ。

 それを感じた時、星菜はこれまで長い間、自分がずっと勘違いしていたことに気付いた。

 

(私の成長は、止まってなんかいなかった……)

 

 例えるなら、それは「ノミの天井」の話と同じだろう。

 ノミを飼育ケースの中に入れた時、ノミは自らのジャンプ力によって跳ぶ度に天井に叩きつけられてしまう。

 そうして何度も叩きつけられ、痛い思いをする内にノミは小さく跳ぶことを学習していくのだが、しばらくその環境で育て続けると、箱の天井を取っ払った後も本来のように高く跳ぶことは出来なくなるという。

 

 ノミに生来備わった驚異的ジャンプ力が、失敗経験によって失われるという話である。

 

 星菜の境遇に置き換えてみれば、これと似たようなものだ。

 飼育ケースとは「周りの環境」を意味し。

 ノミ本来のジャンプ力は「才能」に当たり、ジャンプは「挑戦」に当たる。

 天井にぶつかるのは「失敗」と「苦痛」の経験。

 小さく跳ぶようになるのは「学習」。

 天井を無くしても跳べないのは、「恐怖」による「限界」の自己設定。

 星菜もまた、跳べなくなったノミと何ら変わりはなかった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 だが今の星菜には、己の恐怖を打ち砕いてくれる仲間達が居る。

 天井はもうないのだと、教えてくれる仲間達が居る。

 

 故に、彼女はここで再び跳ぶことが出来た。それが星菜の身に起こった、数年ぶりの「覚醒」の真実だった。

 

「ナイスボール!」

 

 先のイニングの勢いをそのままに、星菜はときめき青春高校の九番稲田を三球で仕留める。いずれのボールも以前のそれを凌駕するキレを見せており、際どいコースに絶妙に制球されたその球を打者のバットが掠ることはなかった。

 決して剛速球と呼べるボールではない。しかし、捉えられない。左腕から放たれる星菜のボールは、一球ごとに力を増しているようですらあった。

 

「くそっ! なんで打てねぇっ!?」

 

 続く一番三森左京もまた、苛立ちを隠そうともせず空振りの三振に倒れる。決め球は外角低めに落ちていくチェンジアップであり、タイミングを完全に崩されていた。

 今まではストレートが遅かったからこそ食らいつくことが出来たボールであったが、ストレートの体感球速が爆発的に跳ね上がった今の星菜の変化球に対応するのは至難の業だった。

 

 雅を抑えて以降、ときめき青春高校の打線は完全に星菜に支配されていた。

 まさに打たれる気がしないというのが、今の星菜の安定感を指した言葉であろう。

 続く二番は三森右京。こちらも二球でツーストライクに追い込み、星菜のボールは打席上の彼を幻惑している。

 ネクストバッターサークルでは今か今かと自身の出番を待ち構えている雅の姿が見えるが、この回はこのまま三者凡退に終わり、勝負は最終回に持ち越しかと思われた。

 

 しかし、野球に「絶対」は存在しない。

 

 抜群の安定感を見せている星菜の投球であったが、だからと言って金輪際ときめき青春高校の打者に出塁のチャンスが無いわけではなかった。

 クリーンヒットだけが塁に出る方法ではないように、どんな投手が相手であろうと四死球やエラー、振り逃げと言ったあらゆる出塁の可能性が打者には残されている。

 

 ――当たり損ねのボテボテのゴロが内野安打になることもまた十分に考えられた可能性であり、それが現実に起こった光景を目の前にしても、別段星菜が驚くことはなかった。

 

「すまねぇ、俺のミスだ」

「ドンマイ、先輩で無理ならみんな無理ですよ」

 

 ときめき青春高校の二番三森右京との対決は、サードへの内野安打を許すことになった。

 彼がバットの芯を完全に外した打ち損じの打球には全く勢いがなく、勢いがなさすぎたが為にセーフティーバントのような当たりとなって三塁線上へと転がり、サードの池ノ川も懸命に送球したが間に合わなかったというのがこの打席の内容である。全くの偶然だろうが、それはこの試合の四回表にもあった矢部明雄の内野安打を再現したような打球だった。

 記録上はれっきとしたヒットだが、こんなものは投手からしてみれば不運な当たりだったと割り切るしかない。星菜は深呼吸して気持ちを切り替えると、力を込めた眼差しを向けて次の打者へと相対した。

 

「……さて」

 

 九番一番からツーアウトを簡単に取ったところで、二番に内野安打を許した。そしてときめき青春高校の打順は、最強の三番打者へと回る。

 

 三番ショート、小山雅。

 

 もはや言葉は不要とばかりに、彼女は何も語らず、悠然とした佇まいで右打席に入る。

 神主打法に構えた彼女が、鬼さえも殺しそうな眼光で星菜を睨みつけた。

 

「最後の勝負だ」

 

 ツーアウト、ランナー一塁。イニングが八回である今、打順の巡りを考えればこの打席が彼女の最終打席になるだろう。星菜もまたこの試合では(・・・・・・)彼女にそれ以上の打席を与える気は無かった。

 

 全力で抑え、そして勝つ。その為には彼女につけられた因縁も、今はどうでもよかった。

 

 

 

 

 



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野球少女たちの仲間

 

 

 小山雅にとって、泉星菜は過去の象徴だった。

 野球との出会いも彼女との出会いが最初であり、箱入り娘だった雅に自分の知らないことを教えてくれたのもまた、彼女だった。

 今の自分があるのは泉星菜のおかげであり。

 今の自分があるのは泉星菜のせいだった。

 

 だからこそ、断ち切らなければならなかったのだ。

 

 野球を断ち切るためにも。

 自分自身のためにも。

 

(超えるんだ……)

 

 泉星菜は雅の天敵にして、最大の壁だ。

 彼女を乗り越えることで、初めて雅は自分の過去を乗り越えられると思っていた。

 ……新しい自分に、変わることが出来ると思っていたのだ。

 

 

「プレイ!」

 

 球審から号令が掛かり、雅がバットを構える。

 もはや余計な言葉は要らない。

 ただ雅は、星菜の投げるボールを打つ為だけにその意識を集中させた。

 

 そして、マウンドの星菜が投球動作に移る。

 

 トルネード投法と招き猫投法を組み合わせた新たな投球フォームは、タイミングの取りにくさと球威を両立させている。体重移動が難しくなった分、制球が難しくなりそうなものだが――彼女はこれまで、狙ったコースを外したことがなかった。

 

「ファール!」

 

 一球目。挨拶代わりの如く完璧に制球された外角低めのストレートを、雅は一塁線外側へと弾き返す。その打球は、バットの芯を食った強烈な鋭い当たりだった。

 

(……凄い子だよ、君は)

 

 前の打席と同様に、自信を持って振り抜いた筈のバットが狙い通りの打球を飛ばせなかったことに、雅は今一度確信する。

 この試合の中で急激な成長を遂げている、泉星菜の途方もない投球センスを。

 その才能は雅にとって完全に読み違えであり、大きな誤算だった。

 しかし、それは嬉しい誤算でもある。

 

「ボール」

 

 二球目。低めに曲がり落ちた高速スライダーをハーフスイングで見送り、カウントはワンエンドワンとなる。振っていれば間違いなく、雅のバットは空振りを奪われていたボールだった。

 今の泉星菜には、間違いなく雅を抑え込めるだけの力があるのだ。

 

 ならばこそ。

 

(私の過去を象徴する君を乗り越えて、初めてボクは未来を見ることが出来る……野球の全てを、捨てることが出来る!)

 

 惨めな彼女を倒したところで、その心には虚しさと怒りしか湧き上がらなかった。

 だが今の彼女との勝負は、たとえどう転ぼうとそんな結果にはならないだろう。

 雅は今の彼女が相手ならば、どんな形であれこれが最後の打席として納得することが出来るのだ。

 

「ファール!」

 

 三球目。前の打席では空振り三振を奪われている低めのチェンジアップをすくい上げ、雅の打球はレフト線を大きく越えて遠方へと消えていく。その飛距離は、最初の対決で打ったホームランよりも大きかった。

 

「見切ったよ、星菜」

 

 前の打席ではそのキレに翻弄されたが、それでもなお雅の打撃は彼女の一歩上を行く。

 ボールの軌道が頭に残ってさえいれば、たとえ球種を読み違えても反応打ちで対応することが出来るのだ。唯一タイミングの微調整だけはまだ上手くいっていないが、今の時点でもストライクゾーンのボールを真芯で捉えることは造作も無かった。

 

 雅の呟きに、彼女は何も応えない。

 

 周りの様子など目にも入っていないかのように、今の泉星菜は集中していたのだ。

 そして相対する雅もまた、自らの集中力を極限まで高めていた。

 

「ボール!」

 

 四球目。内角高めのブラッシュボールを、雅は身じろぎ一つせずに悠々と見送る。

 これでカウントはツーエンドツーの並行カウントとなり、投手と打者、どちらにも有利と取れる状況になった。

 

 ――勝負は、次で決まる。

 

 五球目がこの打席最後の……自身の野球人生最期の一球になるだろうと雅は直感していた。

 その緊張からか、雅はこの場で初めて打席を外し、一旦素振りをした後で再び右打席に入った。

 

 憎しみも、怒りも――全ての思いをこのバットに込めて、彼女を打ち砕く。

 

 その決心で雅は星菜を睨み、星菜は息を吸った。

 そしてマウンドの星菜が、大きく振りかぶって五球目の投球動作に移る。

 

「これでっ!」

 

 ――全てが終わる。

 上体を捻り、星菜が思い切り振り下ろした左腕に、雅のバットが疾る。

 彼女の指先から放たれたボールは真っ直ぐの軌道ではなく、空中で大きな弧を描きながら何段階にも分かれるように曲がり落ちてきた。

 

 スローカーブ――80キロも行かない人を食ったような変化球。

 

 コースはストライクゾーン。見事な緩急を織り交ぜてきたその一球は、雅の膝元一杯に制球されていた。

 その一球に対して――雅の体勢は崩れない。

 決して読んでいたわけではない。

 ただ雅は、勝負が決まる最後まで、己の打撃の形を守り抜いていたのだ。

 

 雅は力強く左足を踏み込み、重心を低くして一瞬で腰を回転させる。

 そうして振り抜いたバットの軌道は鮮やかで美しく、鋭いレベルスイングだった。

 

 ――そして、快音が響く。

 

 雅はその瞬間、確かにボールを真芯に捉えた感触があった。

 タイミングもまた、完璧だった。そうして弾き飛ばされた打球は、間違いなく左中間方向へと飛んでいく筈だったのだ。

 

 一瞬にも満たない刹那の中で、打球の行方を目で追い掛けていた雅はその時――この勝負の決着を、はっきりと認識した。

 

 そして彼女は――この試合で初めて、その頬を緩めた。

 

 

「アウト!」

 

 

 雅が打ち返した打球の行方は、寸でのところで竹ノ子高校のショートに阻まれた。

 あと数センチでも方向や高さが違えば確実に左中間を破っていた筈の打球は、彼のがむしゃらな跳躍によって掴み取られたのである。

 

 ボールを捉えたのは小山雅だ。

 

 しかしこの対決を制したのは、泉星菜だった。

 

 その結果は、何も特別なことではなかった。

 

 野球は決して、投手と打者だけの戦いではないのだから。

 少なくとも今の泉星菜は、このチームには小山雅という強敵を共に乗り越えられるだけの「仲間」が居るのだと示していた。

 

 

「……終わった」

 

 一塁ベースに到達する前に終わってしまった勝負の行方に、雅はやり切ったような笑みを浮かべてベンチへと下がっていく。

 

(星ちゃん、やっぱり君は……私の全てを終わらせてくれる人だった)

 

 小山雅はこの瞬間、自らの過去の象徴と――かつての友との勝負に敗れたのである。

 肩の荷も胸の苦しさも、全てが取り払われた気さえする。

 

 かつての友が、はっきりと自分に引導を渡してくれたのだ。

 

 ならばもう……思い残すことは何も無い。

 

「終わったんだ……」

 

 これでもう、野球を続ける意味は何もかも無くなった。

 仲間さえ自分の手で切り捨てた以上、元々小山雅には戻る場所も無い。これで晴れて、待ち焦がれていた未来への道を歩くことが出来るようになったのだ。

 

 それは正しく雅が望んでいた筈のことであり――しかしこの時、小山雅の胸には何故か芽生えてはならない感情が芽生え始めていた。

 

 

「まだ試合は終わっておらんわ、馬鹿者」

 

 そんな雅がベンチに戻ると、朱雀南赤が真っ先に彼女を出迎えた。

 これで終わりと言った雅の言葉に対して、真っ向から否定する言葉だった。

 そしてそんな彼に続いて、茶来や稲田達が次々と雅に対して声を掛けてきた。

 

「そうそう、まだ九回が残ってるッスよ!」

「俺達を見捨てねぇでくれYO、雅ちゃん」

「ここまでやられてばっかりで何もしねぇんじゃ、男が廃るってもんだぜ」

「その通り! ついでにお前にも、もう一打席回してやるよ」

 

 雅が打ち取られたことによって、この回はスリーアウトになった。

 普通なら九回表の守りにつくべく攻守交代を迅速に行うところを、彼らはわざわざ雅に一声掛けてからそれぞれのポジションへと入っていった。

 

 ……あれだけ冷たくして、遠ざけた筈のときめき青春高校のチームメイト達にしては、あまりにも不可解な態度だった。

 

 彼らの様子に気味の悪い違和感を感じた雅は、最後に雅のグラブを抱えながら声を掛けに来た青葉春人へと言い放った。

 

「私は……君達が大嫌いだって言った筈だ」

「ああ、言ったな。だけど生憎、俺らは不良で馬鹿な奴らなんでな」

 

 あの地沖、雅は共に野球をしていた頃からずっと、彼らのことは嫌いだったと言った筈だ。

 その言葉は彼らの心に深く突き刺さり、大きな傷を与えた筈なのだ。

 

 ――そう、雅は仕向けたのだ。彼らの方から自分を見放してもらうように。

 

 朱雀南赤の予想外の一喝で、そんな彼らもある程度は立ち直ったように見えた。しかしそれにしても、雅はこの期に及んでの彼らの馴れ馴れしさが不可解でならなかった。

 雅の疑問に対して、青葉が困ったように頭を掻く。その表情は普段の彼の顔と何ら変わりなく、雅が打席に入る前に見た気まずそうな雰囲気は微塵も見えなかった。

 

「気に入らない顔だね……何があったって言うんだい?」

「いや、な……お前の打席を見ながら振り返ってちゃんと考えてみると、今まで俺達が見てきた雅ちゃんが全部嘘だったなんて信じられないんだよ」

「ふん、そんなことか……」

 

 青葉の言ったその言葉が思いがけず、一瞬でも表情を変えてしまったのは雅の誤算だった。

 その時の雅の様子は傍から見ればまるで、今の青葉の発言に図星を突かれたような反応にしか見えなかったからだ。 

 

「……女は、嘘が上手いんだよ」

「そんな女に上手く騙されてやるのが、いい男の条件らしい。さっき監督が言ってた」

「監督が? 似合わないことを……」

「まあ、はっきり言って俺ら、みんなお前のこと好きだったんだぜ。もちろん、一緒に野球をしてきた仲間としてな」

 

 言いながら、青葉が雅にグラブを手渡す。

 お前の居場所はいつだってグラウンドだと、そう語りかけるように。

 

「……嫌われても、俺は信じるさ。お前は俺達の仲間だ」

 

 

 

 

 小山雅は、彼らを完全に裏切った筈だった。

 自分の立場が悔しくて、何もかもが嫌になって……その怒りを、自分の気持ちを何もわかっていない彼らに対して包み隠さずぶつけて叫んだ。

 

 ――雅にとってそれは、丁度いい機会だったのだ。

 

 自分の人生から野球というものを切り捨てる為には……自分がこれからの未来へ向かう為には、これまでに得てきた余計な物を一切捨てなければならないと思っていた。

 

 その切り捨てるべきものの中には、今まで共に野球をしてきた彼らの存在もあったのだ。

 

 そんな彼らさえゴミのように捨てれば、この後の人生に何の後腐れも無くなる。必然的に、野球にだって戻れなくなる筈だと思っていた。

 小山雅にとって彼らへの言葉のほとんどが、自分自身で退路を断つために行った選択だったのだ。

 言わば彼らへの暴言は、半分が演技で……半分が本気だったのである。雅は自分の気持ちに気付いてくれなかった彼らのことを憎んではいたが……確かに、仲間だと思っていた。

 心の中では捨てるのが惜しい仲間だと、そういう思いもあったのだ。

 

 

「……なんだって言うんだよ」

 

 鈍感な彼らが、そんな雅の思惑を察したとは思えない。

 しかしこの時、彼らからは何故か自分に対するかつてのような信頼を感じていた。

 

 レフトのポジションへ向かっていく青葉の背を怪訝な目で見送った後、雅は彼らの態度を変えたと思わしき元凶たる人物の元を尋ねる。

 

「監督……あれは、貴方の仕業ですか」

「ふぉっふぉっふぉっ、はて? なんのことかな?」

 

 白々しく、そう言い返すのはときめき青春高校野球部の監督、大空飛翔だ。

 とぼけた老人のフリをして、中々にしたたかで狡猾な男だというのはこの時に改めた彼への認識だ。

 ……これだから、大人は嫌いなんだ。雅はそう、心の中で悪態をついた。

 そんな雅の感情に弁明するように、飛翔が言った。

 

「わしはただ、あやつらにお主の打席を真剣に見るように言っただけじゃよ」

 

 その言葉に、雅は「まあそんなことだとは思った」と納得する。

 雅が打席に立つ前と立った後の彼らの様子を見比べてみれば、その変わりぶりは明らかだ。変化の切っ掛けは雅が打席に立っている間に、彼らの間で何らかのやりとりがあったのだろうとはおおよそ察していた。

 

 しかしその推測はある意味では正解であり、ある意味では間違いであった。

 

「バッターが本気で挑んだ打席っていうのにはな、見ている方にもその思いが伝わるもんなんじゃよ。だからこそ、あやつらも感じたんじゃろうな……今のお主を、そんなにまで歪めさせてしまった責任を。そして、何より……」

「何より?」

 

 彼らの態度を変えたのは飛翔ではなく、他でもない雅自身だったのだ。

 しかし、それだけでは納得いかないし、面白くもない話だ。

 老人の話を冷めた目で聞き取りながら、雅が続きを促す。

 

 そして後に続く彼の言葉が、そんな雅の目つきを大きく変えた。

 

 彼の言葉が雅にとって、信じがたいほどに衝撃的な事実を明かしたのである。

 

 

「今のお主の顔を見ていたら、さっきまでのお主が強がっているようにしか思えなくなったんじゃろうて」

「は?」

 

 その時になってようやく、雅は自分自身の表情に気付いたのだ。

 金色の瞳から涙を流している――悲しみに染まった、自らの表情に。

 

「うそ……なんで……っ」

「ハンカチ、どうぞ」

 

 それは雅の中では、決してあり得ないことだった。

 星菜との勝負が終わり、思い残すことが無くなった今、その心に芽生えたのは確かな充実感だった筈だ。

 ならば決して、涙を流すことなどあり得ない。

 

 その涙を、雅は認めなかった。

 認めるわけにはいかなかった。

 

 それは全て、何もかもを捨てた筈の彼女には認めてならない感情だったのだ。

 もう二度と野球が出来ないことを自分が……悲しんでいるなどということは。

 

「雅さん。もう一度、みんなとお話しましょう。貴方には聞きたいことも、言いたいこともたくさんあります」

「……嘘だ……だって、散々言ったじゃないかっ!」

 

 全てを察したような顔をする大空美代子の手を振り払いながら、雅は頑なに否定する。

 周りから向けられる余計な気遣いも、優しさもたくさんだった。

 泉星菜との勝負が終わり、全てが終わった今……小山雅が進む道は野球を捨て去り、チームを捨て去り、何もかもを忘れ去った上で進める未来それだけだ。

 

 ……今更、どうして過去を顧みる必要があるものか。

 

「私はただ、君達を都合よく利用していただけだ! 自分が野球をやる為だけに、媚び売って! 親しくしていたように見せていただけなんだっ!」

 

 だから、否定する。

 小山雅は早口にそう叫び、チームメイト達が自分に対して思っているであろう気持ちの全てを高らかに否定した。

 

「今泣いていたのだって、悔しいからでもボクの野球が終わったからでもない! そうだ……! 嬉し涙なんだ! これでやっと、野球や君達から解放されるって!」

 

 呼吸を荒げ、神を振り乱しながら叫ぶ雅の姿はどこまでも必死で……癇癪を起こした子供のそれと同じだった。

 錯乱したように叫ぶ彼女に……チームのマネージャーは、どこまでも落ち着いていた。

 落ち着いて、その頭を下げた。

 

「……わかってますよ、全部。ごめんなさい……一時でも、貴方のことを疑ってしまって」

「冗談じゃない! 最低なのは私だ! 今更……! 君達に謝られる筋合いなんかないよっ!」 

 

 貴方の葛藤を、何もわかってあげられなくてごめんなさいと――チームを代表するように言った彼女の言葉が、雅には耐えられなかった。

 

 その瞬間こそ、わかってしまったからだ。

 今までの自分が、一体何を求めていたのか。

 

 ――自分は本当は、どこで何をしたかったのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たった一回でも、納得出来る負けが必要だったんだろうな……」

 

 ときめき青春高校のベンチの様子を竹ノ子高校のベンチから眺めながら、鈴姫健太郎が悟ったようにそう呟く。

 小山雅という少女が、どういう人間なのか……今ときめき青春高校のベンチで広がっているその光景を見ているだけでも、彼には何となくわかるような気がした。

 ……というのも、彼女のああいった強情な物言いが、どこぞの野球少女のそれに似ていたからだ。

 その張本人が、彼の呟きに対して言い返す。

 

「負けって言っても、ピッチャーとしては全く勝った気がしない決着だけどね」

 

 彼女とのこの試合最後の勝負がショート鈴姫のファインプレーに終わったことについて、チームの一員としては喜んでいても投手泉星菜としては不満そうな様子だった。

 確かに打球自体は完全に真芯に捉えられたものであり、飛んだ方向が僅かでも違えば完全にこちらの敗北になっていたことだろう。一塁走者三森右京の走力を考えれば、そのままタイムリーになっていてもおかしくない当たりだった。

 この試合の中で突然の飛躍を見せた星菜もとてつもない怪物だが、あの小山雅もまたつくづく恐ろしい化け物である。とても少女に対して抱いて良い感情ではないが、鈴姫にはそんな彼女らの才能が怖いとすら思えた。

 だが、そんな素晴らしい選手が居るからこそ、野球は面白いものなのだ。願わくば彼女のチームとはお互いにもっと成長した後で、今度は公式戦で戦ってみたいと思った。

 

「なら、リベンジすればいいさ。また何度でも(・・・・)な」

「……そうだね。お前の言う通りだ。負けて悔しがる。次を求める。それは誰にだって許される、当然のことなんだから」

 

 小山雅は野球をやめるつもりだと言っていたようだが、鈴姫の目にはそんな様子にはとても見えない。

 経験者は語る、という言い方も妙だが、彼には思い当たる節があり過ぎるのだ。

 

 彼女の全てを否定して見下そうとする、やせ我慢の上手そうなあの顔には。

 

「……なに?」

「いや、やっぱり君とそっくりだなと思ってさ」

 

 星菜の顔を見つめながら、鈴姫は苦笑を浮かべる。

 彼女らの在り方は一見対極に見えるかもしれないが、その実鏡写しというのがまさにあてはまるほどに似すぎている。

 

 ……ならば自然と、解決への道筋は見えるというものだ。

 

「それにしても、泣き方まで君と似てるよな。ああやって自分が泣いてることもわからないところとか、そっくりだ」

「あーあーきこえないきこえなーい」

「それだけ、余裕が無かったってことなんだろうな。面と向かって話し合うことの大事さが、身に染みるよ」

 

 泉星菜にも居るように、小山雅にも信頼してくれる仲間が居るのなら。

 それに気づくことさえ出来たのなら、彼女もすぐに自分と向き合うことが出来るだろうと――他人事の気がしない気持ちで、鈴姫はそう思った。

 

 



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ゼロからキミと

 

 九回表の攻撃もまた、竹ノ子高校の打線が朱雀南赤の剛速球を捉えることはなかった。

 心なしか先の回よりも球威を増した朱雀のストレートを前に、この回下位から始まる七番石田、八番小島、九番鷹野の三人は為すすべも無く三者三振に切り伏せられたのである。

 

 しかし依然両チームの得点は竹ノ子が三対二とときめき青春高校をリードしており、九回裏をこの一点差に抑えれば長かったこの試合も遂に幕切れとなる。

 

 そしてその九回裏は竹ノ子高校としては最後まで踏ん張り、ときめき青春高校としてはあと一歩まで追いつめたところでの終焉となった。

 

 

 ときめき青春高校の先頭四番鬼力は、変幻自在に曲がる星菜の変化球に必死に食らいつこうとするものの、打球は名手鈴姫の前へと転がりショートゴロに倒れる。

 しかし続く五番朱雀は星菜の初球――握力の疲れからか僅かに高めに浮いたスライダーを逃さず、ライト前ヒットを放って出塁に成功した。

 ここまで来れば、さしもの星菜とは言え体力的な限界が見え始めていた。気力ではあと一試合分投げてもお釣りが来ると言うモチベーションであったが、そうは言ってもここまでの回を投げてきたことによる負担は大きかったのだ。

 そしてときめき青春の六番茶来もまたレフト前ヒットで次の打者へと繋ぎ、走者一二塁と最後の得点圏を作った。

 だが、そこで踏ん張ったのは星菜と六道明のバッテリーである。

 彼らの連打の勢いのまま七番神宮寺が快音を響かせたが、投手星菜のマウンド捌きに衰えはなく、痛烈な打球ながらも結果はピッチャーライナーに終わった。

 

 これでツーアウト――もはや後が無くなった、ときめき青春高校の打席に立つのは八番のキャプテン青葉だ。その瞬間、ときめき青春高校のベンチでは応援の声が一層激しくなった。

 

 

 ――そんな彼らの中には、ベンチから身を乗り出して声援を送る小山雅の姿があった。

 

 

「青葉君っ!」

 

 彼女の声援に応えるように、青葉のバットが低めに決まった星菜のストレートを拾い、打球をセンター前へと運んだ。そのまま二塁走者が生還し同点になるかと思われたが……打球をワンバウンドで抑えた竹ノ子高校センター矢部のストライク送球により、走者は三塁で釘付けとなる。

 

 しかしこれで走者は満塁。一打同点どころか、今度は一打サヨナラのチャンスがときめき青春高校に回ってきたのである。

 

 それには前の回で雅の打席に全てを出し切るほどの投球を行ったことにより、投手星菜の疲労が重なったことも大きな要因であろうが、何よりも大きかったのはときめき青春高校がチーム全体で一丸となっていることであろう。

 

 それは間違いなく、このチームが生まれて初めて気持ちが一つになった瞬間であり――小山雅という野球少女が、本当の意味でチームの一員になった瞬間でもあった。

 

「いけぇ! 稲田ぁっ!!」

「雅ちゃんに回せぇぇっ!!」

 

 チームがチームとして機能するのは、いつだって一人の天才の力ではない。

 一人一人が勝ちたいと願い、勝つ為の最善を尽くす――至って当たり前のこと。

 チームが結束すること……弱小校にも当たり前に存在する、信頼関係なのだ。

 

 それが「野球」というチームスポーツであり――少女達の求めた最高の競技だった。

 

「おおおおおおっっ!!」

 

 必死に投げる投手と、必死に守る野手。

 必死に打つ打者と、必死に応援するベンチ。

 

 そんな少年少女達のそれぞれの思いが集う勝負を締めたのは、外角低め(アウトロー)に決まった115キロのストレートだった。

 

 

 ――ストライク! バッターアウト!! ゲームセット!!――

 

 

 最後の打者を空振り三振に仕留め、試合は竹ノ子高校の勝利に終わる。

 そして当の本人は気づいていないが、これが泉星菜の記録上、高校「初勝利」となった。

 

 

 ――だが今の彼女はただ、チームを勝利に導けたことだけを喜んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――何もかもが、これで終わりだ。

 

 やりたい放題暴れて、言いたいことも言って。

 憎んでやまない最愛の友との決着もつけることが出来て、小山雅はこれ以上ないほどにやり尽した思いだった。

 

 しかしその心は何故か、充実感にも満足感にも満たされていなかった。

 

 試合が終わり、夕焼けに染まった暁の空の下、小山雅はただ一人、帰りのバスにも乗らずベンチに座っていた。

 

 ――チームメイト達には、ちゃんと別れの言葉を済ませてきた。

 

 謝るべきことは、頭を下げて謝った。

 その後で、彼らにも謝らせた。それで……彼らとの関係にも思い残すことは無くなった。

 

 高校野球連盟所属の球審には……子供染みた意地もあってか、顔を見て謝ることは出来なかった。彼に言ったことは完全に八つ当たりだったという自覚はあるが、雅の方とて言わずには居られなかったのだ。

 ただ、彼はそんな彼女のことを糾弾しなかった。それが大人の余裕という奴なのか、そもそも女なんて相手にしていないのかはわからない。もしかしたら同情してくれたのかもしれないが……彼に彼女をどうこうする気がないことだけは、確かなようだった。

 尤も今の小山雅は無所属の身であり、監督の大空飛翔も狸爺だ。雅の言った言葉のせいでときめき青春高校野球部に何か悪いことが起こるということは、おそらく無いだろう。

 

 懸念事項など何も無い。部員全員に嫌われて退路を塞ぐという当初の目的は彼らの優しさにより果たせなかった雅だが、既に彼らの元に戻る気が無いこともまた確かだった。

 

 ――これで、ゼロになったということだ。

 

 さしずめ、今の自分は野球マン0号と言ったところか。何もかもを捨て去ったゼロの自分に、雅はかつて行っていた妙な変装と合わせながら、そんなくだらない言葉遊びを行っていた。

 

(元はと言えば、あれは小さい頃に星ちゃんが考えたヒーローなんだけどね)

 

 わたしがかんがえたさいきょうのヒーロー、ヤキュウマン!――そんないつしかの思い出を振り返りながら、雅は僅かに頬を緩める。

 あの頃はいつだって、ひょんなことからくだらない思い付きで彼女はやって来た。

 そうして引っ込み思案な自分をいつも外に引っ張り出して、時々危険な遊びをしてはお互いの両親に怒られていたものだ。

 いつもいつでも、彼女と自分は一緒に居たのだ。

 

 ――ああ、そうか……

 

 あの時、野球を楽しそうにやっている彼女の姿に憤りを感じたのは、その実力に幻滅したからではない。

 

 ――野球に彼女が取られてしまった気がして、なんとなくムカついただけだったのだ。

 

 今一つ整理がつかなかった当時の精神状態を、落ち着いた今になって雅は冷静に分析する。

 なんだそれは、なんか気持ち悪いよ私……まあ、今更か。

 今になって明かされた自身の内面に軽くショックを受けながら、雅は天を仰ぐ。

 

 夕焼けの空は嫌になるほど綺麗で――そんな綺麗な景色を、ジャージ姿の少女が塞いだ。

 

「……やあ、星ちゃん」

「まだ、帰ってなかったんですね」

 

 こうして夕日に照らされている彼女を見ていると、まるで天使か何かに見違えるほどに神秘的に思える。

 尤も彼女の性格をよく知っている雅からしてみれば、そんなことは口が裂けても言わないが。

 ともかく二人は、そんな形で再び対面した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試合が終わったことで憚れるものが無くなった雅と星菜は、存分に語り合った。

 ……とは言うものの、その話の内容はほとんどが星菜から雅へと送られる苦情であり、説教だった。

 雅としては確かにそれだけのことを彼女には言ったつもりだし、竹ノ子高校にも迷惑を掛けた。どうにも苦情にはチームメイト達からの伝言も含まれているらしく、今の雅の心には痛く染み渡るものだった。

 

「……と、まあそんな感じにみんな言ってました。これからは、私との喧嘩は他所でやるように」

「肝に銘じておくよ。ま、もうそんな気はないけどね。そっちには、後で直接謝っておくよ」

「そうしてください。……とは言っても、私以外あんまり怒ってませんでしたけどね。本当に、あのお人好し達は……」

「お互い、人が良い仲間を持つと大変だね。自分の醜さが浮き彫りになる」

「……まったくだ」

 

 つくづく、彼女とは共通点が多いものだ。

 お互いに野球と出会い、野球に翻弄され、今は恵まれた仲間を持っている。尤も雅の方は過去形になってしまったが、もっと早く気づくべきだったというのが後悔の一つだ。

 そしてそんな後悔の仕方までそっくりだというのは、雅の知らない彼女らの共通点だった。

 

 

「それで、気は済んだ?」

 

 ひとしきりの説教を終えた後、本題を切り出すように星菜が訊ねた。

 自分の引退試合が終わり、気は済んだかと――これだけのことをした後なのだ。首を縦に振らなければ許さないぞと言うような、星菜の厳しい剣幕だった。

 

「……うん、私の目的はこれで果たせたよ」

「そう……」

「ありがとう、星ちゃん。やっぱり本当の意味で私を負かすのは……私の心を折るのは、君だった」

「嘘ばっかり。一打席目にホームランかっ飛ばしたのは誰だよ」

「あんなのはノーカンだよ。君も全力出し切ってなかったんだし」

「ああ言えばこう言う。おっとりした顔して、割と頑固だよね昔から」

「そうかな? 昔は素直だったよ、私」

 

 ベンチの隣に腰を下ろした星菜と、雅は語らう。

 その表情はお互いに試合をしていた時とは異なり、すっきりとしたものだった。

 ただ実際には、まだ雅の心には燻っているものがある。

 そしてその思いを、泉星菜は読み取っていた。

 

「今になって言うのもなんだけど、さっき昔の約束を思い出したんだ」

「……えっ?」

 

 星菜が唐突に言い出したその言葉に、雅が首を傾げる。

 文字通り、思い出したように言い放たれた彼女の言葉は、雅の心に深く刻み込まれている記憶の一つだった。  

 

「いつかお互いプロになって、一緒に野球をやろうって……何て言うか、今にしてみれば少し恥ずかしい約束だけどね」

 

 はっと息を呑み、雅はしばし沈黙を返す。

 その沈黙を怒りとして受け取ったのか、星菜は居心地の悪そうな顔で視線を逸らす。

 そんな彼女に対して雅の口から出てきたのは、ほのかに笑みの混じった溜め息声だった。

 

「……今更になって、それを思い出すのか。君って、肝心な時に間が悪いって言われない?」

「ごめん! 別れ際のことを忘れるとか、普通に酷いよね?」

「君って幼馴染の男の子とのフラグとか、そうやって無邪気にへし折ってそうだよね……まあ、いいけどさ。なんか怒るのも馬鹿らしくなったよ。記憶なんて案外脆いもんなんだ。君もあれから色々あったみたいだし、忘れていたって仕方ない」

 

 かつての、忘れてはならなかった約束を今になって思い出した星菜に、雅は怒りの行き場もわからず突っ伏すような思いで地面を見下ろす。

 試合の時は「君は友達との約束を破るような子じゃなかったッ!」と憎悪の叫びを上げていた雅だが、今はとても同じ気持ちにはなれなかった。

 怒るのも、疲れるのだ。

 

「ただ……あの頃の私とついさっきまでの私は、ほとんど同じ気持ちだった」

 

 だから雅は、その時抱いていた自分の気持ちを正直に語ることにした。

 

「私はいつか君と……同じ舞台で野球をすることを夢見ていた。別にNPBじゃなくてもいい。女子プロでも、独立でも、高校野球でも構わなかったんだ」

「雅ちゃん……」

「……だから、もういいんだ。今日このグラウンドで、私は君と野球をすることが出来た。願いは……ちゃんと、叶ったんだよ」

 

 約束を永久に果たすことが出来ないと知った時の怒りを余すことなくぶつけた雅だが、妥協点を見つければこうも丸く収まる。

 たったそれだけ――一つのことを諦めるだけで、こんなにも楽になるのだ。

 

「これでもう、野球への未練は……」

 

 自分に必要だったのは――本当の意味での諦めだったのだと。

 そう言って、雅は笑った。

 泣きながら、笑った。

 その涙が雅自身の心を浄化していくように、雅は荒んでいた心が穏やかになっていくのを感じていた。

 或いは彼女に約束を思い出してもらえただけでも、この心は十分だったのかもしれない。

 

 しかし。

 

「本当にそう?」

 

 雅の隣に座る彼女は、そんな雅の心情に疑問を投げかけた。

 

「あんなに悔しそうな顔をしていたのに、本当に未練は無くなった?」

「……っ」

「私には、そう思えないよ」

 

 ベンチの席から立ち上がり俯く雅の正面に立った星菜が、雅にそう問い掛ける。

 それは自身の経験則も入っているからか、どこまでも真っ直ぐな言葉だった。

 

「自分のことは、自分が決めればいい。だけど本当に……貴方の野球人生は終わったの?」

 

 他ならぬ雅自身に、最後の選択肢を突き付けるような問い掛けだった。

 その問いに雅は答えを言い淀み、両手をきつく握り締める。

 

「私は……!」

 

 

 ――未練が無いわけ、ないじゃないか……。

 

 

 近くに居る星菜だけが辛うじて聞き取れるような小さな声で、雅は言った。

 そして俯いていたその顔を上げ、見上げるように星菜と目を合わせて微笑む。

 

「……敵わないな、君には。幾つになっても、あの頃のままだ」

「今のは、貴方の嫌っているあおいさんの受け売りもあるけどね」

「それでも、君の思いは君の物だ。やっぱり君は、私の大好きな親友……泉星菜だった」

 

 雅が不意に握手を求め、星菜がその手を受け取る。

 そして雅が掴んだ彼女の手を引っ張るようにベンチから立ち上がると、彼女の手を放してその場から歩き去っていく。

 

「雅ちゃん……」

「いい夏休みだったよ、星ちゃん」

 

 今度こそ思い残すことはないとばかりに、雅は真っ直ぐに前を向いて歩いていく。

 旅立ちの朝のように悠然とした後ろ姿を見送る星菜に向かって、彼女は歩きながら右手を上げ、簡潔に別れの言葉を述べた。

 

「……またね」

 

 今度はきっと、そう遠くない日に再会出来ると――そんな希望に満ちた、少女達の静かな別れだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一か月以上に及ぶ、学生達の夏休みは終わった。

 時は九月二日。昨日は二学期開始の始業式が行われ、二年生の教室もまだ夏休み気分が抜け切らない頃合いである。

 登校し教室に入れば、やれ夏休みはどこに行ってきただのという会話が各所から聴こえてくる。

 

 ――その中で波輪風郎は一人、机に頭を伏せながら眠りに落ちていた。

 

 それもその筈、彼は昨夜遅くまで野球の練習に明け暮れていたのである。

 先日の練習試合ではひっそりと「代打オレ」の準備を固め、九回表の攻撃では悠々と打席に向かおうとしてはマネージャーの川星ほむらに「どこへいくつもりッスか?」と腕を引っ張られて止められていたりする彼だが、その甲斐もあってか昨日の夜には遂に、医者からバットに触れるぐらいならと練習の許可が下りたのである。

 

 そんなこともあってか、波輪は喜びのあまり徹夜する勢いでバットを振りまくった。

 

 その事実を知れば周りの人間に怒られるであろうことはわかっていたが、それでもなお彼はバットを振る手を休められなかったのだ。

 それほどまでに、彼が先日の練習試合に触発されたというのもある。青葉春人に朱雀南赤、そして小山雅は彼から見てもトップレベルの選手であり、そんな彼らに負けない為にもと波輪は出遅れた分の埋め合わせに必死だった。

 ただその努力は、学生の本分である学業に支障を来すものであれば褒められたものではない。

 朝のHRが開始したことにより隣の席に座るほむらから後頭部にチョップを受けて起床した波輪だが、眠気に染まった彼の目はまさに心ここに非ずという状態だった。

 

 ――しかし、そんな彼の眠気は一瞬で吹き飛ばされることになる。

 

 彼が顔を上げた瞬間、彼らの担任教師の隣に立っている、他校の制服を着ている見知った(・・・・)生徒の姿が目に留まったからである。

 

「よーし、今日は転校生を紹介するぞ」

 

 転校生として紹介された彼――の格好をした彼女(・・)は、つい先日波輪が対面したばかりの少女だった。

 一礼をした際に肩先からふわりと跳ねる、一目で柔らかな質感だとわかる金色の髪。ポニーテールに結っていた長い髪は、今はその必要が無いからと言うように真っ直ぐ腰の高さまで下ろされている。

 体格は華奢だが、身長は160センチ台と女子にしては大きい方だ。

 顔立ちは整っており、筋の通った鼻先に、大きくパッチリと開いたやや垂れ目の瞳もまた髪と同じ金色を帯びている。

 その姿からは一度見れば忘れない印象を、波輪達野球部員達は例外なく一様に与えられていたものだ。

 

「どういう……ことでやんす……?」

 

 彼女の姿をこの竹ノ子高校の教室で目にした波輪の心境を、後ろから代弁するようにクラスメイトの矢部明雄が呟いた。

 美少女の転校生ならばそれだけで湧き上がる筈の彼が、信じられないほどに大人しい。何も知らぬ他のクラスメイト達はそんな矢部の様子を気味悪そうもとい心配そうに眺めていたが、波輪の思いは今の矢部と全く同じだった。

 

「隣の県の、ときめき青春高校から転入しました、小山雅です。制服の新調が間に合わなかったので、わけあって今は前の学校の男子用の制服を着ていますが……れっきとした女の子です。その……よろしくお願いします」

 

 慎み深く、服装は男子用の制服だが淑女然とした態度でもう一度一礼する転校生の名は、小山雅。

 誰だよお前……そう固まる波輪だが、隣ではほむらも同じ顔をしていた。

 そんな波輪達の視線に気づいたのか、自己紹介の際に目が合った彼女がくすりと笑う。そんな彼女の儚い笑顔に矢部と波輪以外の男子及びほむらを除く女子までも沸き立つが、彼らの心中はただひたすらに困惑だった。

 

 

 ――これは一体全体どういうことだ、と……。

 

 

 

 

 

 







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外角低め 115km/hのストレート
星の決意


 

 

 時は九月――中旬には新チーム初の公式戦である、都道府県大会が控えている。その都道府県大会で好成績を収めた上で地区大会或いは明治神宮大会を経て、選考委員会の目に留まった高校だけが初めて選抜高校野球選手権、即ち春の甲子園大会への出場資格を手にすることが出来るのだ。出場校の枠の関係で言えば、春の甲子園は夏以上に狭き門と言えた。

 

 そんな九月が始まって早々に、竹ノ子高校には大きな変化が訪れていた。

 

 まず、野球部に新しいメンバーが加わった。

 

 

 その部員の名前は「丸林隆」。

 

 中学時代は軟式野球で名を馳せた本格派投手であり、一年生ながら180センチ近い身長に恵まれた体格を持つ有望選手である。

 そんな彼の入部に対してはほとんどの者が歓迎していたが、夏の大会が終わったこの時期と言うのは妙に気に掛かるところがあった。

 

「小山さんじゃなくてお前かよ……。一体なんで、今になって野球部に入ったんだ?」

 

 それは、丸林が初めて野球部に加わった日の練習前のことである。

 男子更衣室の中で心なしか冷めた目を向けながら、そのことについて訊ねた鈴姫の言葉には別段悪気があったわけではないが、彼は少し怯えた様子で問いに答えた。

 

「この間の練習試合、僕も見ていたんだ……そ、それで……」

「……触発されたのか」

「う、うん……」

 

 話によれば彼はあの日、テニス部の練習を抜けて、グラウンドの外から先日の練習試合を観ていたらしい。

 竹ノ子高校とときめき青春高校の試合――その中でぶつかり合った、泉星菜と小山雅。

 二人共に女子の身でありながら男子の誰よりも激しい戦いを見ていた彼は、その心に感じるものがあったのだと言った。

 迷いを抱えていた少年の心を、少女達の戦いが大きく動かしたのだ。

 

「僕もずっと迷っていたんだ……野球をやめてテニス部に入ったけど、このままでいいのかって、ずっと迷っていた……」

「迷うくらいならやめるなよ」

 

 かつての自分を省みるように語る丸林に、鈴姫が辛辣に返す。星菜に対する態度とは雲泥の差があるが、これも彼自身には何の悪気も無かった。

 悪気は無いのだが、如何せん不器用なのだ。故に彼の丸林に対する態度は常以上に辛辣に見えた。

 

「……うん。僕もそう思ったから、また野球をやることにしたんだ。別に、試合に出させてもらえなくてもいいから……僕もあの人みたいに、自分のやりたいことに、真剣に向き合いたくなったんだよ」

「まあ、そんなことだろうとは思ったよ。相変わらず、優柔不断だな君は」

「それを言ったら鈴姫君だって……」

「なんか言ったか?」

「な、なんでもないよ……!」

 

 必死に戦う選手の心というものは、見ている者にも伝わってくるものなのだ。それが元々迷いの中で揺れていた者であれば尚のことであり、丸林隆などはまさにその典型だった。

 

 要するに自分よりも厳しい条件の中でもめげずに頑張る少女達を見て、自分も頑張ろうと思ったのが丸林の心境である。

 

 それはある意味では単純で、理解のしやすい心境の変化だった。

 しかしそんな彼の言葉に溜め息をつく鈴姫の姿を見て、外野の野球部員達が苦笑を浮かべる。

 

「なんか鈴姫君、丸林君に厳しいでやんすね」

「リトル時代、チームメイトだったんだってさ。厳しいのはアレだよ、ライバルの登場にピリピリしてるんだよ」

「ライバル……小山雅のことか」

「えっ、そっち? 丸林君じゃなくて?」

 

 野球部に訪れた変化の一つが、丸林隆の入部であるならば。

 竹ノ子高校そのものに訪れた変化が、誰もが予期しなかった小山雅の転入である。

 

 先日の練習試合ではときめき青春高校最強の選手として竹ノ子高校の前に立ちはだかり、泉星菜を苦しませた超高校級の女子選手。

 

 先日の練習試合では彼女に対して苛烈な印象を受けた竹ノ子高校野球部員達であったが、実際クラスメイトになった波輪やほむら達が彼女に話し掛けてみれば、寧ろ試合の時は何だったのかと思うほどに穏やかで、こちらの質問にも快く答えてくれたものである。

 その本人の談によると、彼女がときめき青春高校からこの竹ノ子高校に転校すること自体は練習試合をする前の時点から決まっていたらしい。

 真意のほどは彼女自身にしかわからない。当初の予定とは色々と異なっている部分があるとも言っていたが、彼女が正式な手順でこの学校に転入してきたことは間違いないようだった。

 

「あの子にも入部してもらえば、マジで甲子園行ける戦力になるんじゃないかな」

「いや、本人は今のところ乗り気じゃないみたいだぜ? 転校して即別のチームに入るなんて、ときめき青春高校の人達に申し訳ないってさ。まあ、裏切り者に見えるっちゃあ見えるもんなぁ」

「でも、野球は続けるんでやんすよね?」

「うん、そうらしい。高校野球はしないけど、女子プロを目指すつもりなんだって」

 

 この場に居る誰もが考えていることであろうが、彼女の転入は野球部にとって大きなプラス要素になり得る可能性を秘めている。

 無論、これまでの経緯が経緯なだけに、残念ながら事はとんとん拍子には運ばないだろう。

 

 しかしそれでも同じく野球を愛する者同士、かつては泉星菜がそうであったように収まるべきところに収まるのではないかとキャプテンの波輪は楽天的に考えていた。

 それは波輪だけではなく。偶然にも共に彼女のクラスメイトとなり、直接言葉を交わす機会のあった矢部明雄と川星ほむらの二人も同じである。

 その中でほむらなどは気が早く、授業中に自らのノートに将来の竹ノ子高校のスターティングメンバーを妄想しては落書きしていたほどである。

 因みに、その際に完成した打線は、

 

【一番センター矢部

 二番ピッチャー泉

 三番ファースト波輪

 四番ショート鈴姫

 五番セカンド小山

 六番サード池ノ川

 七番レフト外川

 八番キャッチャー六道

 九番ライト丸林】

 

 ……という具合である。

 彼女の書き上げた打線は現状、波輪の怪我の状態やポジションのコンバートの兼ね合い諸々の問題は多々あれど、実現すればどこに出しても恥ずかしくないメンバーであろう。

 二人の野球少女が加わるだけで一段とレベルが上がるチームの顔ぶれに、ほむらは一人満足そうに笑っていたという余談である。因みにキャプテンである波輪の考えるベストメンバーはこれのクリーンアップの並びが入れ替わるような形であったが、彼もまたその日が実現することを待ち焦がれている一人であることは同じだった。

 

 それほどまでに小山雅というプレイヤーは大きな存在であり、周りと隔絶した実力を持っているのだ。今甲子園を目指そうとするチームとしては、是が非でも彼女には入部してもらいたいのが正直な気持ちだった。

 そんな彼女のことで、波輪はふとこの場に居ない可愛い後輩から伝言を頼まれていたことを思い出した。

 

「ああそうそう、そう言えば星菜ちゃんからみんなに聞いてくるように頼まれたんだけど、ぶっちゃけみんな、雅ちゃんのことどう思ってるよ? 人としてのあれで」

「かわいい」

「怖い。かわいい」

「そりゃもう、最初は敵だけど改心したらツンデレな味方になるあれよ」

「怒らなければかわいい子」

「お! 最強ゥー!」

「素晴らしい先輩」

「素晴らしい先輩」

「かわいいは正義でやんす!」

「色々思うことはあるが、泉が許しているなら俺に思うことはないぞ」

「フハハ! 僕にピッチャー返しを打ち返すセンスは本物ですよ! いつかリベンジしたいですね」

「前は怖かったけど、今は穏やかそうだし別に」

「寧ろ俺は、前のSっぽい感じのが良いんだが……」

「わかるでやんす! あんな感じに見下されたら何かに目覚めそうでやんす!」

「変態だ、ころせ」

 

 波輪の質問には彼女のことを他の野球部員達が受け入れるつもりかどうかを確認する意図が込められたものであったが、矢部を筆頭に一部の男達が妙な話題で盛り上がっていく。

 そんな彼らの相変わらずな姿に波輪は乾いた笑いを浮かべるが、今の彼らが小山雅に対して概ね悪感情は抱いていないことは確かな様子だった。

 

 そして返答する者が最後の一人になったところで、波輪が個人的に最も気になっていた彼の心境について訊ねてみた。

 

「鈴姫、お前は?」

「……ポジション争いが厳しくなりますね」

 

 おそらく、この場に居る中で最も複雑な心境なのが彼女の「友達の友達」である彼こと鈴姫健太郎だろう。

 その上ポジションは互いにショートと被っており、彼女がもしチームに加わるとしたらポジション争いは必至な立場である。

 

 ……ただ、そんな鈴姫もまた彼女のことを拒絶する気は無いようだった。

 

「それは別に、入部しても問題ないってことだな?」

「まだあの人が入るって決まったわけじゃないでしょう。……どっちにしても俺は、負ける気ありませんけど」

 

 入部したならしたで、正々堂々とポジション争いに勝つつもりだと――あくまでも選手としての意見を押し通すように、鈴姫は言った。

 とどのつまり彼も彼女が入部すること自体には異存がないということでもあり、いつものことながら不器用な言い方に波輪は苦笑する。

 そして彼は、これまでの話を全てひっくるめた上で今一度新入部員である丸林と向き合った。

 

「と、そんな感じな野球部だうちらは。こいつらみんな、昨日ムカついたことも明日には綺麗さっぱり忘れる奴なんだよ。だから丸林も、時期がどうとか面倒なことは気にすんな」

「は、はい……ありがとうございます」

 

 大柄な体格に反して、小心者めいたおどおどした態度の丸林を気遣うように波輪が言った。

 彼もまた竹ノ子高校野球部の一員になった今、キャプテンである彼は誰がどう言おうと彼の入部を歓迎するつもりだった。

 

「波輪君、すっかり良いキャプテンでやんすね」

「去年なんか一番の問題児だったくせにな」

「あー、そろそろ行くか。ほむらちゃん達を待たせちゃ悪いもんな」

 

 ――と、そんな形でこの日もまた変わりなく練習に取り組んでいく。

 

 迫る大会に向けて、懸念事項は山ほどある。

 しかしこのチームは確実に、良い方向に向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 星菜のその日の練習は先日の練習試合で九回を投げ抜いてからまだ間もない為、監督の茂木の計らいによりボールを触らないノースローでの調整になった。そう言った日には主に肩に負担を掛けない走り込み等のスタミナ強化や下半身を強化する為の練習がメインとなる。

 そしてそれはまさに今の自分にとって、重点的に伸ばしていかなければならない課題だろうと星菜も考えていた。

 特に下半身の強化だ。あの試合の中で編み出した新しい投球フォームは上体を捻るが為に足腰への負担が大きく、生半可な肉体では多くのイニングを投げる前にバテるか最悪怪我をするのが関の山である。

 今の星菜は自分の最高の状態を維持することよりも、それよりも一歩上の状態に持っていくことを考えていた。

 自分にはまだ伸びしろがあるということがわかった以上、もはや前進を止める理由はない。たとえ高校野球の規定という根本的な問題に変わりがなくとも、泉星菜の心に迷いは無くなっていたのだ。

 

 

 ――そして、この日。

 

 これまで高校野球の長き歴史の中で、多くの女子野球選手達の前に立ち塞がって来た不落の壁は、若者達の努力の果てに遂に崩れ落ちた。

 

 

「喜べ泉、お前、試合に出れるぞ」

 

「は?」

 

 

 それは、この日の練習メニューである長距離走を終えるなり、竹ノ子高校のグラウンドに戻って来た星菜が他の野球部員達と共に集合を掛けられ、一同の前に立った監督の茂木が開口一番に言い放った一言である。

 

 いつもと変わらない気だるげな様子のまま、いつもと同じ指示を出すようにあっさりと――彼は星菜の高校野球人生の未来において、最大の障害となっていた問題の決着を言ってのけた。

 その唐突さゆえに星菜がその言葉の意味を理解したのは、集められたチームメイト達の中で最後になったほどである。

 そんな星菜の前で、茂木は続ける。

 

「さっき連盟のお偉いさんから電話が来てな。ようやく本部も、重い腰を上げたらしい」

 

 呆けたような星菜の反応を面白がるような表情で、茂木が事情を説明する。

 その話によると、先日の練習試合で彼が留守にしていたのもまた、彼が恋々高校の加藤監督やチームに女子選手が所属している他の野球部の監督を集めて連盟本部へと向かい、一日中会議を行っていたからとのことだ。

 今や高校野球連盟にとっても、彼らに対してそんな時間を割かなければならないほどにまで女子選手の大会出場問題というものは無視できなくなっていたのだ。

 そしてその千載一遇の機会を、彼らは逃さなかった。

 

「今年の秋から、ようやく女子選手の公式戦出場が認められるって話だ。泉や恋々の早川あおいを始めとする近年の女子野球選手のレベルの向上と、お前達や他の学校もやっていた署名活動が規定変更の主な理由なんだそうだ。今日の夜か、明日の朝にでも正式に発表するらしい」

 

 彼女らがこれまでの練習試合で示してきた実力や、彼女らの出場を望む者達の思い。そして、協力してくれた大人達の力。その全てが合わさり、絶妙に噛み合ったことで――難攻不落だと思われていた既定の壁を、遂に打ち破ることが出来たのだ。

 

 これまで何十年と守られ続けてきた高校野球の常識が、彼らの手で覆されたのだ。

 

 少女達のこれまでの努力が無駄ではなかったことを、遂に証明することが出来たのだ。

 

 心なしか寝不足の目を瞑りながら感慨に浸るように茂木がそう言うと、彼はこの場に居る若者達を祝福した。

 

「これで俺も、あのかたっくるしい会議に参加した甲斐があったって言うか……まあその、なんだ。おめでとうお前ら」

 

 彼らをストレートに祝うのがどこか気恥ずかしそうに、しかし心から喜んでいる様子で、茂木が微笑みを浮かべる。

 

 その時になってようやく――星菜の心の中に数々の思いが込み上がってきた。

 

「いいいいいいいいいやっほおおおおおおおおおおおおでやんすううう!!」

「やった……やったぞ……!」

「いよっしゃあああ!!」

「ばんざああああい! ばんざああああい! ヒャッハー!」

 

 積み重ねてきた努力が大人達に伝わり、遂に実ったのだ。

 竹ノ子高校の野球部員一同は皆自分事のように狂喜乱舞し、矢部を筆頭とする者達は宴のように踊り回った。

 

 一方で最大の当事者である星菜は、まだ実感が沸いていないようにその場に立ち尽くしていた。

 

「やったな、星菜」

 

 そんな星菜の元へ真っ先に歩み寄ったのは、おそらく彼女の出場を誰よりも喜んでいる鈴姫健太郎だった。

 その瞳に潤いが見えるのは、きっと気のせいではないだろう。

 

「夢……じゃないよね?」

「みんなの力で、夢を現実にしたんだよ」

「健太郎……」

 

 この時の星菜は傍から見れば不自然にも落ち着いているように見えたが、実際は寧ろその逆だった。

 星菜は今喜びを通り越して戸惑いを覚え、その上にこれまで積み重ねてきた感情が綯い交ぜになった結果、もはやどのように感情を表現すれば良いのかわからなくなっていたのである。

 そんな彼女に向かって、これまで尽力してくれたチームメイト達が一人ずつ祝いの言葉を贈ってきた。

 

「おめでとう、泉。これで俺の従妹も、安心してプロを目指せるというわけだ」

「六道先輩……」

 

 どこか重荷が下りたような晴れ晴れした表情で言うのは、星菜と同じ女子選手であり天才的な素質を誇る野球少女、六道聖の従兄に当たる六道明である。

 捕手としてバッテリーを務める彼にはこれまで何かと気に掛けてもらい、幾度となく助けられてきたものだ。

 

「良かったな星菜ちゃん! でもほんっとうに今更すぎるぜ高野連さんはよぉ! もうちょっと早かったら雅ちゃんも助かってたろうに!」

「波輪先輩……」

 

 六道明の次に声を掛けてくれたのは、竹ノ子高校野球部のキャプテン波輪風郎だ。

 怪物的なフィジカルと野球センスを持つ、この野球部を作り上げた竹ノ子高校最強の男。そんな彼は人格的にも大きく、星菜の存在を快く受け入れてくれた。

 彼がキャプテンでなければ、おそらく今の自分は居ないだろう。星菜にとって彼は間違いなく恩人であり、最高のキャプテンだった。

 

「おめでとうッス、星菜ちゃん! こうなったら星菜ちゃんの名前を全国に知らしめてやろうッス!」

「ほむら先輩……」

 

 身体中で喜びを表現するように、その小さな身体で勢い良く星菜の胸に飛び込んできたのは、この野球部のマネージャーである川星ほむらだ。

 思えば星菜が野球部に関わる意思を決めたのは、彼女の勧誘が最初の切っ掛けだった。

 女子ながら誰よりも純粋に野球が好きで、部員達の面倒を率先して真摯に見てあげる彼女の姿には、星菜もまた身も心も大いに救われたものである。

 

 何度も迷惑を掛けて……未だにそんな自分が好きではない星菜だが、そんな自分の為にも協力を一切惜しまなかった彼らのことを、星菜は大好きだった。

 だからこそ満面の笑みを浮かべ、星菜は言う。

 今この場に居ない恋々高校の者達や、自分が野球をすることをずっと受け入れてくれた家族にも向けて、強く言い放った。

 

「みんな……ありがとう!」

 

 ――未来への希望に満ちたその気持ちはきっと、誰にも負けない「感謝」だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 115キロの野球少女の物語は、これで終わりではない。

 寧ろその逆――少女は今、ようやくスタートラインに立ったのだ。

 

 先行きの見えない野球少女は、難儀な性格ながらも人の優しさを受け入れることによって、遂に自らが舞台に上がる資格を手に入れた。

 そんな彼女がこれから先の未来、高校野球の世界でどんな活躍をするのかはわからない。それは決して都合の良いことばかりではなく、これまでがそうであったように苦しいこともまた多く待ち構えていることだろう。

 だがそれが自然であり、当然なのだ。

 

 

 ――それが彼女達、「生きている者」の証なのだから。

 

 

 そう考える者は、一人。

 

『……僕も、未来に進まなくちゃな』

 

 今を生きている彼女らとは違う「死んだ男」の物語は、人知れず終焉を迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          【最終章】

 

  ―― 外角低め 115km/hのストレート ――

     

 

 

 

 

 

 

 



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スタートライン

 

 

 

 その日、長年に渡って続いてきた高校野球界の歴史に、前代未聞の変革が訪れた。

 

 この世界における野球人気の絶大さを思えば、その一報に関心を寄せる者は少なくない。

 連盟の元から正式に発表された「女子選手の公式戦出場容認」という一報は、やはり各メディアでも大々的に取り上げられ、人々の感情を驚きと歓喜へと賑わせた。

 

 そんな興奮の冷めやらぬ夜。自室のベッドに寝ころびながら、星菜はこの日が来るまで誰よりも努力をしていた先輩から送られてきたメールを見て笑みを浮かべた。

 

《早川あおい先輩:負けないよ》

 

 携帯のメールに載せられた簡潔な一文は、それだけで彼女の思いの丈を悟るには十分なものだった。

 高校球児としてのスタートラインに立った自分達は、これで共に公式戦の舞台で戦う資格を得たというわけだ。即ち友人からライバルという立場に変わったわけでもあり、お互いに勝ち続ければ、いつか共にぶつかり合う日が実現することもあるだろう。

 もしもその時が来たとすれば――星菜のやることは一つだった。

 

「全力で叩きのめしますので、覚悟しててください――と……」

 

 お手柔らかに、などという生易しい言葉はもはや自分達の間に必要無い。

 他チームの対等なライバル関係になったこれからの彼女とは、もう以前までの仲間意識を抱くことはないだろう。

 それが寂しい、とは思わない。何故ならば、泉星菜もまた彼女と同じ野球人だからだ。

 ここまで幾度となく助けてもらった恩は、試合の舞台で返す。星菜はそう返信すると、再び枕に顔を埋めた。

 自分で思っている以上に疲れていたのか、程なくしてその意識は睡魔の闇に落ちていった。

 

 

 

 歯車は噛み合い、野球少女達の野球人生は軌道に乗り始めた。

 早川あおいの他にも、高校野球界に起こったこの変革を喜んでいる者は多いことだろう。

 そしてそれは、星菜にとって周りの人々も同じだった。

 

「おめでとう、星菜ちゃん!」

「おめでとう! 今度の大会から出るんでしょ? 応援するからね!」

「あ……ありがとう、ございます……」

 

 学校へ行けば校内では既に高校野球の規定改正の話題で持ち切りとなっており、奥居亜美を始めとする友人達が揃って星菜を祝福してくれた。

 昔ほど人付き合いは得意ではないと思っている星菜であったが、今の自分でも見ている人は見ていたということであろう。そんなクラスメイト達の言葉は素直に嬉しく、自然と笑みが浮かんでいくものだった。

 星菜自身、心の内から込み上がってくるものはあった。野球を諦めなくて良かったと、改めてそう思ったものである。

 ただ、意外にもその感慨はすぐに切り替えることが出来た。

 あくまでこれはスタートラインに立てたと言うことであり、公式戦に出ることがゴールではないからだ。

 脳裏に浮かぶのは、これまで自分の為に良くしてくれた仲間達の姿だ。彼らに受けた多大な恩を返す為にも――今の星菜の目標は既に、スタートラインの先にあった。

 

 

 ――ただ、気になることもある。

 

 この変革の中で、まだ選択を迷っているであろう彼女は今、何を選ぶのだろうかと。

 

 

「どうもしないさ」

 

 放課後、授業が終わり次第女子用の部室に向かう道中で出くわした小山雅と、星菜は一つ言葉を交わした。

 

 女子選手の公式戦出場が認められた今、もはや彼女の心を縛るものは無くなった筈だ。

 

 ならばこれで彼女も、心置きなく竹の子高校野球部に入れるのではないか。彼女の心情がそんな簡単なものではないことは百も承知だが、星菜には彼女の今後が気になったのだ。

 

「どうもしないって……本当に?」

「前にも言ったけど、私は前の学校の子達を裏切ることは出来ないよ。だから、どうもしない……野球は続けるけど、君達の野球部に入る気は無いんだ」

「ときめきとうちとは地区が違う。そうそう、対決することはないと思うけど?」

「でも君達は甲子園を目指しているんでしょ? ときめきも同じだよ」

 

 ふっと微笑を浮かべ、雅はそう答える。その表情が無理をして作ったものなのかどうかを窺い知ることは出来なかったが、言葉に関しては全て彼女が抱いている正直な気持ちだと思えた。

 

 彼女は共に野球をしてきたときめき青春高校の元チームメイト達に対して、今も強い絆を感じているのだ。

 

 竹の子高校もときめき青春高校も、共に本気で甲子園を目指すのならばライバル校であり敵同士だ。

 ときめき青春高校の人達を、もう二度と敵に回したくないという言葉は紛れも無く彼女の本心だった。

 ただ、それとは別の部分で彼女には今回の一報に思うことがあったようだ。

 

「間が悪いよね、今になって女子選手が認められるなんて……いや、焦って馬鹿をやった私にバチが当たったのかな? ……でも、おめでとう星ちゃん。今度の大会には、私も応援に行くよ」

「雅ちゃんは……本当に、それでいいの?」

 

 恩人達を裏切りたくないという理屈は理解出来るし、筋も通っているとは思う。

 だが、感情の部分ではまた別の話だというのは星菜自身もよくわかっていることだった。

 だからこそ、この時に浮かべた雅の笑顔は、憑き物が落ちたように晴れやかではあったがどこか儚く映った。

 

「……良いも悪いもないさ」

 

 言葉を濁すように、彼女は問いに答える。

 

「……わかった。でも、後悔しそうになったらいつでも相談してね。雅ちゃんは私より何しでかすかわからないし」

「生意気な後輩だね。……まあ、その時はよろしく頼むよ」

 

 今の彼女が非常に複雑な事情を抱えているということはよくわかっている。

 だからこそ星菜は自分から不用意に干渉し過ぎることは避けながらも、求められればいつでも助けになる態勢だった。

 この学校に転入してきたことは心底驚いたし動揺もしたが、小山雅は今でも変わらずに、星菜にとって大切な友達なのだから。

 

「頑張って、星ちゃん。君なら、全国でもやっていけるよ」 

 

 そんな彼女は、同じく友としての言葉で星菜を激励した。

 

 

 

 

 

「あっ、来た来た!」

 

 その日の練習が始まる前、練習着に着替えてグラウンドに出てきた星菜を見つけるなり、主将の波輪風郎が駆け足で出迎えてきた。

 

「星菜ちゃん、これやるよ」

「え?」

 

 彼がその手に持っていたのは、一枚の布切れである。

 星菜の元へ駆け寄った彼が、それをまるで旅行先の土産を渡すような態度で手渡してきたのである。

 

「俺の魂だ。受け取ってくれ」

「魂って、これは……!」

 

 手渡された布切れを両手で広げ、その正体を確認した瞬間、星菜は思わず驚きに目を見開いた。

 そんな星菜が見せた反応に、波輪がいたずらが成功した小僧のようなしたり顔を浮かべた。

 

「先輩の背番号じゃないですか!」

「おう、当たり」

 

 その布切れ――ユニフォームの背中に縫い付ける正方形の布地の上には、数字の「1」が大きく刻まれている。それは見紛うことなき、この竹の子高校野球部の選手達が身につける背番号であった。

 

「俺がつけていたエースナンバーだ。今度の大会じゃ、まだ俺は投げれそうにないからな。だったら、俺よりも君がつけた方が相応しいって思ったんだ」

「でも、それは……」

「エースナンバーってのは、チームで一番良いピッチャーがつけるもんだろ? ちゃんと周りと相談したし、監督も賛成してる」

 

 何の気なしに手渡されたたった一枚の布切れが、その価値を知った瞬間から急激に重く感じる。

 背番号1番――それは高校野球においてはチームのエース投手がつける数字であり、数多の高校に所属する多くの投手が自チームのその番号を狙い、日々厳しい練習に励んでいるのだ。

 

 だからこそ、その番号は重く尊い。

 

 そしてこの波輪風郎という男は、本来ならば実力でそれを掴み取った正真正銘のエース投手なのだ。

 その彼が、たじろぐ星菜の顔を見据えて堂々と言い放った。

 まるでこの竹の子高校というチームの総意を、代表して語るように。

 

「今のうちのエースは怪我人の俺じゃない。君がエースなんだ」

「……!」

 

 その言葉に込められたのは、主戦力としてこちらに自覚を促す意図か。

 はっきりとそう言い切った彼の方とて、本来エースであった筈の者としてプライドはあった筈だろう。自身の魂とまで言ったエースナンバーを手放したい筈もなかっただろうに、彼は律儀にも直接このような形で自らの手で「エース」の座を譲り渡したのである。

 星菜には並々ならぬ思いで彼に託されたそれを無下に贈り返すことなど出来る筈も無く、大切なものを扱う気持ちで「1番」を胸元に抱きかかえた。

 尚も神妙な表情を浮かべる星菜に対して波輪は苦笑を浮かべた後、おどけたように言う。

 

「まあ、来年には取り返させてもらうけどな! それまで、そいつは君に預けておくよ」

 

 エースという立場に誰よりも妥協しないからこそ、彼は右肩を故障している今の自分が1番を着けることが許せなかったのだろう。

 何ともストイックで……どこか子供らしい先輩の在り方に、星菜の口からも思わず笑みが零れた。

 

「ふふ……負けませんよ」

 

 託された以上、この番号に恥じない投球をしよう――と、星菜にはまた一つ背負うものが出来たのである。

 それは自分が本格的にこのチームの一員として戦えるということへの、格別な喜びだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――週末。

 

 失ったものが少しずつ取り戻され、そして新たなものを獲得していく。

 公の場において長らく否定され続けてきた彼女の野球人生はついに肯定され、表立って仲間と共に戦うことが出来るようになった。

 彼女と公式戦の舞台で一緒に野球をするという当初の夢が現実に近づきつつある現状に対しては、鈴姫健太郎もまた大いに喜んでいた。

 

 先日には大会の抽選も終わっており、既に一回戦の相手が決まった今、後は来る一回戦に向けてやるだけだ。その調整は、かつてないほどまでに順調に仕上がっていた。

 

「うわ……」

「すっげぇなアイツ……」

 

 フリー打撃。

 投手丸林隆の非凡な投球に対してそのバットから快音を連発させていく鈴姫の姿は、この夏における彼の成長をはっきりと知らしめていた。

 打球音の強烈さも打球の伸びも、打球の鋭さも入学当時のものとは比べ物にならない。努力は嘘を吐かないと言うのは鈴姫の持論だが、これまでに積み重ねてきた努力は間違いなく彼の血肉として身についていた。

 

「どうした? 本気で投げていいんだぞ?」

「も、もうやってるよ!」

「そうか……努力が嘘を吐かないのと同じで、君のブランクも嘘を吐かなかったみたいだな」

「む……」

 

 絶好調、という言葉が今の鈴姫の状態を一言で言い表しているだろう。

 体付きも入部当時よりも一回りがっちりとしており、それに比例するように打球の飛距離が伸びている。

 そのパワーはまだ波輪ほどではないにしろ、チームの四番として一発を狙うべき時には十分狙うことが出来るものへと成長していた。

 そんな成長著しい後輩の恐るべき実力を目の当たりにしながら、次の打席の順番を待つ主将の波輪が苦笑した。

 

「ブランクっつっても、丸林のボールも結構来てるように見えるけどな」

「130キロ中盤ぐらいは出てるッスよ。丸林君も半端じゃない一年生ッスけど、鈴姫君の成長はそれ以上ッス!」

「ああ、何と言うか、モノが違うって感じだ」

「波輪君も、うかうかしてらんないッスよ」

「……ああ、本当にな。すげぇ後輩達だよ」

 

 丸林のあらゆる球種を捌いて広角に痛烈な打球を弾き返していく彼の姿には、頼もしさと末恐ろしさを感じる。

 丸林隆という優秀な人材が加わった上に新エースである泉星菜が公式戦でも投げれるようになったこともあり、この竹の子高校が攻守において格段にレベルアップしているのは明らかだ。

 これで小山雅も参戦してくれたならば言うこと無しだったのだが、今の時点でも十分に戦っていくことは出来るだろうと考えていた。

 

 元からそのつもりはないが、ここまで来たら「言い訳出来ない戦力」である。このチームを引っ張っていくことに対して、波輪は来る将来の試合が楽しみになっていた。

 

「よし、次。波輪」

「ういっす!」

 

 監督の茂木に告げられ、波輪が鈴姫と交代して打席に入る。

 

 そうして久し振りに生きた球を打った練習の結果は波輪としては可もなく不可もなくと言ったところであったが、丸林にとっては高校野球のレベルを大いに痛感する形になったことだろう。

 いい意味で向上心に火がついてくれたのなら幸いだが、早々に自信を失ってしまうのもまた問題である。元来気の弱い彼には後でメンタル的なフォローが必要かもしれないと思った波輪だが、そこのところは何の気なしに副主将の矢部明雄が上手いこと立ち回ってくれた。彼自身は特に意図していたわけではなさそうだが、こういった役割においては非常に頼りになるのが矢部という男である。

 何だかんだでこのチームはバランスが取れているなと、波輪はつくづくそう思った。

 

 

 練習後、一同は監督の茂木に集合を掛けられ、彼の口から明日――土曜日の予定を聞くことになった。

 

「明日は俺も色々と忙しくてな……練習は休みだ。大会も近いし、ほどほどにリフレッシュしておけよ」

 

 来週には、いよいよ都道府県大会が始まる。

 泉星菜が初めてメンバーに登録された公式戦である。

 各学校も今は丁度調整の時期であり、選手達にとっては一日も無駄に出来ない重要な時期だ。

 本番に向けて鍛えていくことももちろん重要だが、本番前に潰れてしまっては本末転倒である。そんな中で明日は重要な会議があると語った茂木は、ここで一日の休暇を入れることを決めたらしい。

 急に降ってきたような休日に、一同の反応は喜んだり戸惑ったりとそれぞれである。

 

 解散後には各部員達も、各々に明日の予定を話し合ったりしていた。

 

 そしてそれは、泉星菜も同じだった。

 

「健太郎」

「ん?」

 

 部室までの道中で彼女に呼び止められた鈴姫が、即座に反応して振り向く。

 心なしかこちらを気遣うような表情で、彼女が彼に問い掛けた。

 

「明日、健太郎は何か予定ある?」

「……いや、特に無いけど」

「良かった……なら、ちょっと頼みがあるんだ」

 

 鈴姫は野球の気分転換に野球をするほどの野球小僧であるが、裏を返せば野球以外の趣味に乏しい男とも言える。そんな彼には折角の休みだと言う明日の予定も、これと言って特別なものは無かった。

 星菜がそんな彼の返答に安心したような表情を浮かべると、彼に一つ頼みごとをした。

 

「明日、一緒に出掛けてほしいんだけど」

「わかった」

 

 答えは即答だった。

 この時点では出掛ける先の場所がどこなのかもわからないのだが、鈴姫からしてみれば愛する友と過ごす時間が何よりの気分転換である。

 その意味では共に練習している部活の時間ですら彼はリフレッシュしているとも言えるが、休日も彼女と共に過ごせるのなら答えは一つだった。

 

「それで、場所はどこに行けばいいんだ?」

「じゃあ、朝九時頃にお前か私の家の前に集合で」

 

 あまりの即答ぶりに口元が軽くひくついている星菜だが、望んだ通りの答えが返ってきたことには安堵の表情を浮かべていた。

 その間二人の後ろからは「へーデートかよ」と茶化す波輪の声や、嫉妬に燃える矢部達の声が突き刺さって来たが、鈴姫には寧ろ誇らしい気分だった。

 彼女がどういう意図なのかはわからないが、こうして彼女の方から誘ってきたことは記憶上珍しいことである。そんな彼女の頼みならば、尚更受けない理由が無かった。

 

「俺が迎えに行くよ」

「そう……ありがと」

 

 ――しかしその時、彼女が一瞬だけ微かに浮かべた神妙な表情に、鈴姫は気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 そして、その翌日である。

 

 出掛け先では公共機関を使うからと徒歩で集合場所である星菜の自宅前へと向かった鈴姫だが、そこには予定時刻よりも早く彼女の姿があった。

 肩先まで下ろされた癖のない艶やかな黒髪。筋の通った鼻先に、パッチリと開いた瞳は澄んだ栗色を帯びている。端正整った輪郭は触れればかすれてしまいそうな線の細い少女。

 

 いつもと変わらない、泉星菜の姿。

 変わらない筈の、友の姿。

 

「星菜……?」

 

 しかし今、自宅の前に立ってこちらの到着を待っている彼女の姿からは何か、感覚的な部分で何かが「違う」と感じる違和感を覚えた。

 そしてその違和感は、彼女がこちらに振り向いて、満面の笑顔を浮かべたことで明らかになる。

 

「こんにちは、鈴姫君」

「……!?」

 

 別段不自然ではなかった筈の彼女の笑顔――しかしそれは、鈴姫にとって泉星菜のものには見えなかった。

 彼女であって彼女ではないような……それは鈴姫がかつて、中学時代のある日に一度だけ見たことのある表情だった。

 

「あんた……星園か?」

 

 急冷された眼差しを向けながら、鈴姫が問い掛ける。

 一目見た瞬間にそう言い出した彼に対して――彼女の中に居た筈の「彼」がどこか嬉しそうに答えた。

 

「はは、もうバレちゃったか。そうだよ、僕は星園渚。近い人には、何となくわかっちゃうのかな?」

「…………」

「いや、ずっとあの子のことを見てきた君だから、すぐに気づいたって何もおかしくないか。若いっていいよね」

 

 くつくつと楽しそうに笑いながら、「彼」がゆっくりと鈴姫の元へと歩み寄る。

 服装のコーディネートは星菜がしたのだろう。彼女が相手ならば誉め言葉の一つでも送っていたであろう私服姿が非常に似合っていたのもあって、今この時に「彼」がこうして表に出ていることが特に気に触った。

 

 ――なんであんたが、今更出てきたのかと。

 

「君とこうして会うのは二度目だね。今日は一日、よろしくね」

「俺が約束したのは星菜とだ。あんたじゃない」

「でもあの子は、誰と(・・)一緒に出掛けてほしいとは言わなかっただろう? 連れないこと言わずに、あの子との予行演習のつもりでいいから僕と出掛けてくれよ」

「……ちっ」

「うわー、すごいセメント対応……そんなことされると、僕も泣きたくなっちゃうな。あの子の顔で」

「やめろ、殺すぞ」

「ごめん、僕もう死んでるんだ」

 

 表に出てきた彼――星園渚。彼と二度目(・・・)の対面をした鈴姫の反応は、星菜が相手ならば絶対にしないであろうほどまでに冷たかった。その心中は、当然ながら穏やかではない。

 

 

 しかしこの一日はそんな鈴姫にとって――泉星菜にとってもまた、生涯忘れることの無い一日となる。

 

 それは彼女が師の元から旅立つ、始まりの日だった。

 

 

 

 



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旅立ちのデート

 

 鈴姫健太郎が彼の存在を初めて知ったのは、忘れもしない中学時代のある日のことだ。

 打撃練習の際に、鈴姫の打ち返した痛烈な打球が打撃投手である星菜の頭を打ち抜いたのである。

 その瞬間、星菜は気を失いマウンドで倒れた。幸いにも後遺症が残るほどではなかったが、当時の鈴姫からしてみれば頭が真っ白になり、まさに心臓が止まるような衝撃だった。

 

 そして倒れた星菜は保健室へ運ばれてから数分後、鈴姫が見守る中で目を覚まし、その栗色の瞳で彼の顔をじっと見つめて言ったのである。

 

『はじめまして、鈴姫君』

 

 そこに居たのは泉星菜であって、泉星菜ではない存在だった。

 泉星菜と同じ姿でありながら、明らかに異なる雰囲気を纏いながら彼は自らの存在を明かした。 

 

『僕は星園渚。この子の前世というか……この子に憑りついた幽霊?みたいな存在かな』

 

 自分は泉星菜ではなく、星園渚だと、彼は語った。

 かつて200勝目前で病に倒れ、生涯現役のままこの世を去った伝説の投手――星園渚。

 彼は星菜のことを物心つく前からも見守り続けてきた、姿形も無き彼女の師匠だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街路樹の隅で展示されている、過去の名プロ野球選手達の記録や手形が刻まれたプレート。

 その内の一つである「星園渚」のプレートをまじまじと覗き込みながら、瞳を輝かせながら感動の表情を浮かべる少女の姿があった。

 

「わっ、「悲劇のエース星園渚」だって! こういうの、やっぱりあったんだ!」

「ああ……」

 

 現時刻は昼の正午。

 星菜と鈴姫の姿は今、兵庫県神戸市にあった。

 

 待ち合わせ場所で合流した後、鈴姫は行先も告げられないまま笑顔の彼女に連れられて最寄りの駅へと向かった。

 その後半ば強引に新幹線に乗せられた鈴姫は目的地である新神戸駅で降りると、地下鉄へ乗り換えること数十分後、二人はその場所にたどり着いたのだ。

 

 ――神戸総合運動公園野球場。

 

 またの名を、「グリーンスタジアム神戸」と呼ぶ。

 

 プロ野球ファンならば、その名前を聞いたことがある者は多いだろう。

 かつてはあるプロ野球チームの本拠地であり、今でもシーズンでは何度かプロ野球の試合が行われている野球場である。

 その球場の周辺を観光がてらのんびりと巡りながら、星菜――星園渚は満面の笑みを浮かべ、子供のように楽しげな顔をしていた。

 そんな彼の後ろには彼とは対照的に憮然とした表情の鈴姫の姿があり、いかにも不機嫌だと言いたげな雰囲気を纏っていた。

 

「……行きたい場所って言うのは、ここなのか?」

「そうだよ。最後にもう一度、ここに行きたかったんだ」

 

 このグリーンスタジアムは、生前の星園渚が所属していたプロ野球チームの本拠地である。

 ブレーブス、そしてブルーウェーブ。合併や球界再編騒動を経た今ではバファローズの準本拠地となり、当時と変わらずに神戸の野球ファン達を集めている。

 鈴姫もまた過去に何度か、星菜を誘って観戦客として訪れたことのある場所だった。

 

「君もここに来るのは初めてじゃないよね? 星菜が落ち込んでいた頃、よく誘ってたっけ」

「…………」

「怒らないでよ……僕もああいうプライベートな時は、基本的に外の情報は見ないようにしてるから」

 

 彼が喋る度に不愉快げな表情を浮かべる鈴姫を見ても構わず、星園は苦笑を浮かべながらベラベラと楽しげに喋り出す。

 周囲の通行人からは不愛想な彼氏とお喋りな彼女のカップルのようにも見えようが、鈴姫には今だけは目の前の少女との関係をそのように思われるのがまったくもって嬉しくなかった。

 

「もちろん生理現象の時とかお風呂の時とか、そういう時も全部シャットアウトしているし、僕自身もあの子のことを不埒な目で見たことは一度も無いからね?」

「……誰がそんなこと聞いた」

「僕だって年頃の女の子に付きまとう変態だと思われたくないし、君もそういう細かいことは微妙に気になっていると思ったから……思春期の男の子なら、僕の立場を知ったら変な想像をするもんでしょ?」

「はぁ~……」

「うわっ、すっごい溜め息」

 

 冗談めかしながらそう笑う星園に、鈴姫はただただ呆れたように深い溜め息をつく。

 今目の前に居る「星園渚」という伝説の投手の性格は、万人がイメージするものとはあまりにもかけ離れていると感じる。

 ……尤も鈴姫の目には、今はあえてそんな自分を作っているようにも見えるが。

 

 

 周囲を見回せば映るのは、贔屓チームの帽子やレプリカユニフォームを纏いながら、それぞれスタジアムに向かっていく人々の姿だ。

 そんな人々の集うスタジアムの立派な姿を眺めながら、鈴姫はかつての自分自身がつけた手形にニヤニヤと微笑みながら右手を合わせている星園に対して訊ねた。

 

「あちゃー……やっぱり僕と比べるとちっちゃいなぁ、星菜の手」

「今日は……試合を見るのか?」

「ん……そうだよ」

 

 わざわざデーゲーム開始前の野球場に来た以上、場内に入らないとは考えにくい。

 鈴姫の質問に星園は頷くと、ポーチの中から取り出した二枚の紙切れを鈴姫の前に見せた。

 

「ほら、試合のチケット。星菜が昨日、君と僕の分で二枚取ってくれたんだ」

「……金は後で俺が払うと言っておいてくれ」

「いや、お金は星菜のお母さんが出してくれたんだ。良い人だよね、あの人は」

 

 バファローズ対イーグルスの、デーゲームのチケットである。

 開催地はここグリーンスタジアム神戸であり、プレイボールは14時だとそこに記載されていた。

 星園は自分用の一枚を再びポーチに戻すと、もう一枚を鈴姫に向かって差し出してきた。

 そして彼は、今この時になってようやく鈴姫の知りたかったことを話してくれた。

 

「……僕がこうして表に出てきたのは、君とこうして話したかったっていうのもあるんだけど、最後の時ぐらい、ファンの目線で古巣の応援をしてみたくなったんだ」

 

 微笑みの裏で憂いを帯びた表情を浮かべながら、星園が言う。

 その発言から、鈴姫にはある引っ掛かりを覚えた。

 

「最後……? あんたは、まさか……」

「そう。僕は今日、成仏するつもり」

 

 今日この日。

 星園渚は泉星菜の中から消え去る、と。

 彼ははっきりと、そう言った。

 

「僕という魂が今まで彼女の中にあったのは、何かこの世に心残りみたいなものがあるからじゃないかって思っていた。だけど、僕が一番心残りだったことは……君や野球部のみんなが解消してくれた。だから後は、一日だけでもパーッと遊べばスッキリするんじゃないかって思ったんだ」

 

 彼は今日、自分自身で自分の存在を終わらせようとしているのだ。

 それは他の誰でもない星菜の為であり、彼女の明日の為に。

 

 ……彼もまた彼女のことを大切に思っていることは、星菜の話を聞いていれば鈴姫の方とて嫌と言うほど理解していたつもりだ。

 

 だからこそ、鈴姫には何も言えなかった。

 

「本当のところは何事もなく、ひっそりと彼女の中から消えれれば良かったんだけどね……この前あの子にそう言ったらガツンと怒られてさ。強引に身体を押し付けられたんだ」

「おい」

「あ……ストップ! いかがわしい言い方になっちゃったね」

 

 やはり、この男は嫌いだ。

 鈴姫は彼に対して、改めてそう認識した。

 

「だけど……何と言うか君、あの子のことになると本当に余裕無いよね」

「好きな女に他の男の悪霊が寄生していたら、不機嫌にならない方がおかしいだろ」

「……うん、そりゃそうだ。僕だって逆の立場ならそう思うだろうね。誰だってそういうのは、気分の良い話じゃない」

 

 苛立ちを隠そうともせずに鈴姫が不機嫌な理由を語れば、星園が大人の余裕とも言える態度で納得する。

 彼に対する鈴姫の態度は理屈的には至って当然のものであり、星園自身もまた負い目を感じているように、切実な物言いで口を開いた。

 

「だからさ、今日一日だけでいいから協力してほしいんだ」

 

 それまでのちゃらけたような雰囲気ではなく、真剣な眼差しで見つめながら、彼は頼んだ。

 

「あの子の中から悪霊を……僕を追い払ってくれ」

 

 自身のことを悪霊だと認めた上で、彼は頭を下げる。

 急に態度を変えたその姿が鈴姫には予想外であり、これが計算ずくなら大した狐だと思いながらもすっかりと毒気を抜かれてしまった。

 

「……はっきり言って俺は、あんたが好きじゃない」

「うん、知ってる」

「だけど、恨んでいるわけじゃない。寧ろアイツのことを色々と助けてくれたあんたには、どれだけ感謝しても足りないと思っている」

 

 だったらもっと彼のことを敬っても良いぐらいだが、それはそれとして彼女の中に彼が居ることが気に入らない気持ちも鈴姫には大きかったのだ。

 だがそれでも、鈴姫の中で最も優先されるのは彼女のことだった。

 

「……本当に、居なくなるつもりか? アイツは、それでいいと言ったのか?」

 

 自分や小山雅の件でもそうだったが、泉星菜という少女は一度自分の懐に入れた人間には何だかんだで甘いところがある。彼女が自分から彼を追い出すようなことを言ったとは、思えない。

 その推測は正しかったようで、星園は苦笑を浮かべながら首を横に振った。

 

「……あの子には引き留められたよ。僕自身、君達の成長を間近で見れる日々は楽しいし、ずっと見ていたいという気持ちはある」

「だったら……」

「僕は死んだ人間だ。君達のおかげでやっと前に進めたあの子に、いつまでも過去の人間が引っ付いてちゃ駄目だろう?」

 

 居心地の良い場所をわざわざ自分から離れようとする理由を、尤もらしい言い分で説明し、笑みを浮かべる。

 鈴姫は死人ではないし、彼の気持ちなど推し量りようも無い。

 ただその決意の程が並大抵なものでないことぐらいは、目を見ればわかった。

 元々彼と自分とでは、親子ほども歳が離れている大人なのだ。言い合いでは、どうあっても勝てそうになかった。

 観念したように、鈴姫が言った。

 

「……わかった。わかったよ、おっさん。だけどはっきり言うが、俺は男友達は少ないからな。今日は精々勝手に楽しんでくれ」

 

 まともなエスコートなど出来ないし、するつもりは無いと――暗にそう忠告しながら、鈴姫は踵を返してスタジアムへの歩を進める。

 

「ふふっ……ありがとう」

 

 礼を述べる彼の表情は、鈴姫の方からは見えない。

 だが喜んでいる様子は、その直後に背中に押し当てられてきた柔らかい感触から存分に思い知らされた。

 

「健ちゃん、だーいすき!」

「ッ……!? おいやめろ」

「あちっ!?」

 

 性質の悪い悪ふざけである。

 人目もはばからず星菜の身体で抱き着いて喜びを表現して来た彼は、やはり確信犯なのであろう。周りから向けられる視線を察してにやけ笑いを浮かべている彼の額に、鈴姫は容赦なく一発のデコピンをお見舞いしてやった。

 

「いたたっ……せっかくサービスしてあげたのに……」

「……やめてくれ、頭がおかしくなる」

「押しの強い子は苦手なのかい? 僕としてはあの子も、たまにはこういうことをすればいいのにって思ってたんだけど」

「俺達は付き合っているわけじゃないし……そうなると俺が持たない。今のアイツでいいんだよ」

「はいはいご馳走様。将来美人局にやられる心配は無さそうで何よりだよ」

「……大人は汚くて嫌いだ」

「うん、僕もそう思う」

 

 冗談を交えたりしながら、談笑しつつスタジアムへと入っていく二人。

 彼とこうして言葉を交わしたのは初めて会ったあの日以来であったが、鈴姫には何となく彼とは旧知の仲のように話しやすく感じていた。

 ただ慣れないのは、話しているのは三十代でこの世を去った星園渚という男でも、その姿は泉星菜という美少女だということだ。

 故に鈴姫はこの時、どう表現すればいいかわからない感情を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 今のパ・リーグに所属しているバファローズというチームは、かつて二つの球団が合併したことによって生まれた特殊なチームである。

 ストライキにまで発展したプロ野球再編問題と言えば、今も記憶に新しい者は多いだろう。

 片やイーグルスというチームは、二つの球団が合併した際に生まれた空白の一チームを埋めるように誕生した新規参入球団である。歴史はまだ浅く、当然ながら星園渚が存命していた頃には存在すらしていないチームだった。

 

「始めはほとんど二軍レベルの選手しか居なかったのに、十年も経たずに優勝したんだもんね。凄いよね、イーグルスは」

「あんたが生きていたら、バファローズとイーグルス……どっちに行ったんだ?」

「うーん……順当なら親会社が同じバファローズなんだろうけど、僕からしてみればバファローズと言えば今でも鉄道会社のイメージだからね。ブルーウェーブと同一リーグのライバルチームに行くぐらいなら、いっそタイガースみたいなセ・リーグに行ってたかもしれないねぇ」

「メジャー挑戦は考えなかったのか?」

「あんまり興味は無かったかな……向こうでの評価は低かったみたいだし」

「球速が無かったからか。あんたなら、案外向こうでも通用すると思ったんだけどな」

「日米野球では抑えたり打たれたりって感じだったかな? あまりの球の遅さに驚かれたことは覚えているよ」

 

 両チームのスターティングメンバーが発表された試合開始三十分前、二人の姿は一塁側の内野席にあった。

 星菜の取っていたチケットに指定された座席に座った二人は、試合に向けて観客が集まり始めている球場で気ままに駄弁り合っていた。

 

「それにしても、今の子達は球速いねぇ……。高校生にも波輪君や猪狩君みたいな怪物がたくさんいるし、今日投げる市場君と神童君なんかも、平均で150キロ出してるもんなぁ」

「今年の三年はかつてないレベルの豊作だろうな。プロだって神童はオフにメジャーに行くだろうし、市場はイーグルス元祖生え抜きのスーパーエースだ。あんたの時代にもこのレベルの選手は居なかったんじゃないか?」

「まあ、今の子達は栄養学とか練習効率とか何から何まで恵まれてるからね。少なくとも、平均的な体格なんかは僕達の時代より遥かに上だよ」

 

 鈴姫にとって、自分が生まれる前の時代で活躍していた彼の話は誰にでも聞けるものではなく、貴重なものだ。既に死んでいる彼を生きた伝説と呼ぶには不適切だが、プロ野球の世界では英霊の如き存在である彼の話はそれだけで贅沢なものであり、価値のある者だった。

 かつて自分が生きていた頃のことを懐かしむような穏やかな目で、彼は語る。

 

「……ただ、同じ条件なら僕も僕のライバルだった人達も負けないさ。今でも武蔵君とか鉢柳君とか昌さんとか、主力でバリバリやってるしね」

「あんたも生きてたらその中に入ってたんじゃないか?」

「それは流石にどうだろう……? でも君も、近い将来プロになるなら、何より身体づくりに気をつけるといい。野球の実力はもちろんだけど無事是名馬、怪我をしないことが一番大切だからね」

「……ああ、わかってるよ。波輪先輩を見ていたら嫌でもそう思う」

 

 プロで成功した先人のアドバイスを真摯に受け止めながら、鈴姫は彼の言葉を心に刻み込む。

 今日で居なくなる彼の言葉を聞けるのは、星菜以外では自分だけなのだ。こうして真面目な話をしている時の彼は間違いなく鈴姫にとっても恩人であり、表情は素っ気なくとも彼がここに居たことを忘れまいと鈴姫は心の中で誓っていた。

 ただ存外、星園渚という男の話にはどうでもいいと感じるものも多かった。

 

「年上の人と結婚する野球選手が多いのも、案外その辺りが関わっているのかもしれないね。自分の健康に気を遣ってくれる余裕を持った女性が、僕としても好きだったなぁ」

「あんた独身だったろ」

「どうも女運悪くてね。付き合う子はことごとくメンヘラばっかりで、よく修羅ばってたっけ……君も気をつけなよ。今も片鱗はあるけど、あの子もどっちかというとそっちのタイプだ」

「……マジなトーンで言うなよ。アイツが色んな意味で重い奴だってのは知ってるけど」

 

 あまり友人の多い方ではない鈴姫からしてみれば、星菜には言えないようなことを話すことも新鮮な気分だった。

 それは何の気兼ねも無く、男友達と談笑しているようで。

 

「……今の会話、アイツに聴こえていないだろうな?」

「いや、デート中は普段の僕のように眠ってもらっているよ。お花摘む時は交代してもらうけどね」

 

 ほとんど最初で最後のようなその時間が、今は少しだけ心地良かった。

 

 






 TSものみたいな話になりました。
 ちょっと気を抜くと更新が滞り申し訳ございません。


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最期のマウンド

 多くの来場客が詰めかけたスタジアムで行われた一戦はエース対決の前評判通り、息の詰まる投手戦が繰り広げられた。

 序盤から好投の光る神童、市場の両先発は自慢の快速球を武器に凡打の山を築き、イニングは八回表まで0行進が続いた。

 試合の均衡が破れたのは八回の裏、バファローズの攻撃である。

 この日、バファローズの七番にスタメン起用されたドラフト一位ルーキーの雷轟。フルスイングで振り払った彼のバットは、白球をライトスタンドへと叩き込んでいった。

 値千金のソロホームランは両チームにとって重い一点を刻み込み、試合は1対0のバファローズリードで九回表を迎えた。

 

 そして最終回のマウンドに上がったのは、なおも先発の神童。

 

 それまでに投じた球数は118球。完封を狙うマウンドにてやや疲れを見せた彼は、先頭打者に粘られた末にこの試合初のフォアボールを与え、ノーアウトの走者を許した。

 次の打者は送りバント、とはいかず、イーグルスベンチはあえての強行策を敢行。それが功を為してライト前ヒットが飛び出し、走者は一塁三塁とさらにピンチが拡大していった。

 堪らずバファローズの投手コーチがマウンドへ向かっていくが――バファローズベンチが下した判断は神童の続投。

 ……いや、星園の目にはそれが神童自身が志願しての続投のように映った。この試合は俺の試合だと、絶対にマウンドを下りたくないと言う気迫を感じたのである。

 

 そして、そこからは圧巻の投球だった。

 

 ノーアウト一三塁のピンチで投じた第一球は内角を抉るこの日最速の153キロ。

 底力を発揮した神童のストレートに打者のバットを掠りもせず、三球三振に切り伏せる。

 そして次の打者には一転して変化球責めである。スライダー、フォーク、ムービングと織り交ぜ、最後は打者を食ったようなど真ん中へのカーブで見逃し三振に仕留める。

 あと一人。走者を釘付けにしたまま、神童が投じたこの試合最後の一球が夜空に打ち上がった。

 

 ――キャッチャーフライ。ゲームセット。

 

 試合結果は1対0。神童がこの日投じた140球の粘投により、バファローズは完封勝利を収めた。

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅の新幹線に揺られながら、鈴姫と星園が試合の余韻に浸る。

 パ・リーグ屈指の実力を誇る両エースの投げ合いは、それこそどちらが勝つのかまるで予想がつかない投手戦だった。バファローズの神童もイーグルスの市場も、投球内容は完全に互角だったと言えるだろう。

 

「いやあ、やっぱり凄かったね神童君は。星菜が気に入るのもわかるよ。僕も一発でファンになっちゃった」

 

 鈴姫の隣の座席で朗らかな笑みを浮かべている星園の手の中では、バットの跡が微かに残された硬式の野球ボールが弄ばれている。

 そのボールは、この日球場に訪れた彼の元に舞い込んできた一つの幸運であった。

 

「記念になったか?」

「うん! 明日を担う期待のルーキーのファールボールだからね。僕ってこういう運は強いらしい」

 

 丁度良く、星園の座っていた席にファールボールが落ちてきたのである。

 今日のバファローズ勝利の立役者である雷轟が打ち上げたややライナー性のファールフライであり、丁度良く彼らの席に落ちてきたそれを星園が涼しい顔をしながら掴み捕ったのだ。その瞬間には周囲の観客から温かい拍手が贈られ、彼も彼で子供のように無邪気に喜びながらバシバシと鈴姫の背中を叩いてきたものである。

 そんな彼の純真無垢な野球少年のような姿を見た際には思わず実年齢を疑った鈴姫であったが、星菜の姿で可愛らしく笑う彼を見て不覚にも温かい気持ちに包まれてしまったのが微妙な感情である。

 そんな彼はボールの縫い目に左手の指を掛けながら、懐かしむように微笑んでいた。

 

「あの子への、良いお土産になったよ」

「そうか」

 

 現役時代は数えきれないほど手に触れて、何球投げ込んできたかもわからないNPBのボール。感触を確かめながら目を細めている彼が、何を思い何を感じているのかはわからない。

 ただ鈴姫は、気づけば訊ねていた。

 

「今日は……満足出来ましたか?」

 

 目上の人間に対して敬意を払うように、敬語で訊ねた。

 そんな問いに、星園は答える。

 微笑みながらもどこか儚げな、自分を偽っていた頃の時の星菜によく似た表情で。

 

「……大満足だよ。今日は夢みたいに、楽しい一日だった」

 

 それはきっと、本心からの言葉ではあるのだろう。彼の表情に憂いは無く、感情の部分では割り切っているように見える。

 しかし。

 

「今を頑張る野球選手達の姿を見ていたら、改めて思い知った」

 

 球場で目にしたありのままの事実を認めたように、彼が言った。

 

「僕の居場所はもう、この世には無いんだなって」

 

 死人である自分はやはり、ここに居るべきではないのだと。

 今一度、そのことを確認したような物言いだった。

 

「あんた……」

「それでいいんだ、鈴姫君。死人が誰かの足を引っ張るのも、生きている人間が死んだ人間に引き摺られるのも……本当はあっちゃいけない」

 

 自分自身を否定する彼の言葉に眉を顰める鈴姫だが、そんな鈴姫を諭すように星園が語る。

 それは、彼自身が死人であるからこそ説得力のある言葉だった。

 

「そういう意味でも、安心したんだ。僕が居なくても古巣はちゃんと回っている。形を変えてもチームは生き続けていて、きっとそれと同じように泉星菜の未来も続いていくんだなって……そう思うと、僕の役目はとっくに終わっていたんだなって思い知らされた」

 

 彼の目に映る世界と、鈴姫の目に映る世界。

 同じ筈でありながら、生きた時間のまるで違う二人にはまるで違う見え方をしていた。

 それがわかるからこそ、鈴姫は複雑な心境だった。

 

「……あんたは大人だし、俺にあんたの決意を曲げさせるような大層な台詞は言えない」

「わかってる。それが出来ていたら、君らとっくに恋人同士になってるだろうし」

「言うなよ……」

 

 星園渚という偉大な男の決意に、所詮子供に過ぎない自分が茶々を入れるのは違うと鈴姫は感じる。

 しかし、だからこそ。

 

「……まだ心残りがあるんなら、何度でも付き合ってやるから無理するな」

 

 自分に出来るのは彼の決意をに対して、少しでも後押ししてやることだと思ったのだ。

 偽りない気持ちでそう言った時、星園はどこか子の成長を喜んでいる父親のように、嬉しそうに笑った。

 

「君って奴は……生意気に育ったもんだ。あの弱虫君がさ」

「今でも弱虫だよ。誤魔化すのが上手くなっただけだ」

「うん、知ってる」

 

 もしも彼が自分と同じ世代の人間だったならば、もう少し仲良く出来たのだろうか。そんなことを思いながら、鈴姫も苦笑を浮かべる。

 そしてしばしの談笑を挟んだ後、星園が口を開いた。

 

「……じゃあ君の善意に甘えて、もう少しだけ僕のわがままに付き合ってくれないかな」

 

 泉星菜の栗色の目を開いて鈴姫を見据え、真剣な表情で彼が言う。

 これが最後の頼みだと、そう前置きして。

 

「最後に一度だけ……ピッチャーとして、君と勝負してみたいんだ」

 

 何の勝負かは……もはや問うまでも無い。

 その頼みを自然な感情で受けた鈴姫は、意外な顔一つ浮かべずに快諾した。

 

「わかった。引導を渡してやるよ、おっさん」

 

 自然に、そんな憎まれ口が出てくる。

 鈴姫の方からしてみれば最初からその申し出を待っていたような、不思議な感覚だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、翌日の月曜日。

 場所は日が出始めて間もない、早朝の河川敷グラウンド。

 そこが、二人の決戦の舞台だった。

 練習着を身に纏い、バットを片手にその場へ到着した鈴姫が目にしたのは、ジャージの上にレプリカユニフォームを羽織っている少女の姿だ。それはマウンドに佇んでいる泉星菜――星園渚の姿だった。

 

「朝早くから悪いね」

 

 今日は平日の登校日であり、あと数時間もすれば授業が始まってしまう。

 しかし今の鈴姫にはそのことを気にする意識は皆無だった。その心にあるのは全力を持って目の前の投手と勝負し、完膚なきまでに打ち砕いてみせるという打者としての闘争心だけだ。

 

「そのユニフォームは?」

「これ? これはブルーウェーブ時代の僕のレプユニだよ」

 

 彼が羽織っているユニフォーム――今で言うところのバファローズに近いロゴであるもののチーム名の違うそれは、星園渚の現役時代のレプリカユニフォームだった。「28」と刻まれたその背番号もまた彼がかつて背負っていたものと同じであり、本来ならば野球場に応援に来た中年以上のファンが身に着ける衣装である。

 そのユニフォームを羽織っている今の彼の姿を見て、鈴姫はこれから始まる勝負が彼にとってどれほど重い意味があるのかを改めて認識した。

 

「ゲン担ぎって奴か」

「星菜からの気遣いさ。おかげで身が入るってもんだけど……よっ」

 

 泉星菜ではなく、星園渚としての本気の勝負。

 引退試合としてマウンドに立っているその姿を見て、鈴姫の闘志が一層強く湧き上がって来る。

 鈴姫の姿を横目に見て薄く笑んだ後、星園はマウンドから振りかぶり18.44メートル先のキャッチャーミットへとボールを放った。

 

「ナイスボール!」 

 

 テイクバックの小さいどころの見にくいフォームから放たれたボールは、寸分の狂いもなくキャッチャーミットへと突き刺さっていく。

 星園の投球に対して当然のように座って捕球している捕手の存在に気づいた鈴姫は、そう言えば一体誰が彼のボールを受けているのだろうかと興味を向ける。

 しかしキャッチャーボックスに座っている人物の姿は、鈴姫にとって見知った男の姿だった。

 

「おはよう、鈴姫君。久しぶりだね」

「……っ、小波……先輩」

 

 恋々高校主将、小波大也。

 中学時代は同じチームで共にプレーしたことのある先輩であり、星菜を巡る問題については度々反発していたことが記憶に新しい。

 今ではその星菜が立ち直り、恋々高校と合同で行った署名運動の際には協力した関係でもある為、鈴姫もまた昔ほど彼のことを憎んでいるわけではない。

 しかしこうして突然の形で会うには思考が割り切れず、心が落ち着かない人物なのもまた確かだった。

 

「キャッチャー兼審判として、彼に来てもらったんだよ。こんな時間で申し訳ないけど、僕と星菜のことを知っているのは君の他には彼しか居なかったから」

 

 元々星菜と小波は幼馴染であり、年齢こそ一つ違うものの二人は仲が良かった。その関係から、彼もまた彼女の中に居た星園の存在を知っていたのだ。

 ボールを受けてくれる上に、第三者として公正な審判が出来る。その上こちらの事情を知っているとなれば、寧ろこの場に彼を呼ばない方が不自然かもしれない。

 しかしその事実は理解出来てもまだ、鈴姫は素直に彼を受け入れられるほど大人ではなかった。

 

「……いいんですか? こんなところで油を売って」

「構わないよ。確かに昨日、あおいちゃん経由で星ちゃんから連絡が来た時は驚いたけど、こういうことならお安い御用さ」

 

 皮肉気に吐いた鈴姫の言葉を意に介さず、小波はありのままの感情で返す。

 そういう余裕を持った対応もまた、鈴姫には何となく気に入らなかった。

 

「僕にとっても、星園さんは他人じゃないからね」

「……頼もしい先輩ですよ、まったく……」

 

 かつて野球選手として行き詰っていた泉星菜の開花の裏に、星園渚の存在があることを小波も知っていた。

 故に彼もまた友人を助けてくれた星園に対して感謝しており、一選手としても尊敬しているのだと言う。

 そんな小波を座らせながら投球練習を行う星園が、バットケースからバットを取り出した鈴姫の姿を見て問い質す。

 

「僕の方は準備OKだけど、君は大丈夫かい?」

「ええ、アップは済ませてきたんで、いつでもいけます」

 

 この河川敷に来る前に鈴姫はランニングと準備運動を済ませており、フォームチェックも万全に終わらせている。100%の力で――それこそ公式戦と同じ感覚で勝負に入れると鈴姫は確信していた。

 そう答えれば星園はよしよしと満足そうに頷き、左打席に入った鈴姫を見て高らかに宣言した。

 

「じゃあ、さっそく始めようか。ルールは公平に四打席勝負。一打席でも出塁すれば君の勝ち、ヒットを打たれたり四死球を与えたら僕の負けだ」

 

 四打席を無安打無四球に抑えなければならないという、投手に不利だと思えるルールの提案に内心で驚く。

 実戦で回ってくる打席を考えれば四打席勝負は適正かもしれないが、公平かどうかで考えれば疑問符がついた。

 

「公平、か……」

「うん、一球勝負の誰かさんとは偉い違いだ」

 

 打者の鈴姫からしてみれば自分側に有利だと思えるルールだが、これは彼の引退試合である以上、彼の言う「公平」には大人しく従うことにする。

 そんな二人のやり取りに苦笑する小波がマスクを被り、キャッチャーミットを構えた。

 

 

 星園渚対鈴姫健太郎――おそらくこの地球上で初めてであろう、死者と生者による投打の対決が始まった。

 

 

 



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外角低め 115km/hのストレート

 

 パシッ――白球がグラブに収まる渇いた音が響く。

 

 何も無い、全てが真っ白な世界。この世でもあの世でもないその場所に、二人の人間の姿があった。

 一人は三十代ながらも青年的な若々しい姿をした壮年で、もう一人は十代半ばの女子高校生だ。親子ほど歳の離れた二人だが、しかしその出で立ちには共通点があった。

 一人はプロ野球チームの、もう一人は高校野球の――どちらも「野球」チームのユニフォームを身に纏い、その右手にグラブをはめているところである。

 

 パシッ――何回繰り返しただろうか、再び白球がグラブに収まる。

 

 片方がボールを投げ、もう片方がそれを捕まえる。反復して幾度となく繰り返されるそれは、野球という競技に深く関わったことのない者も行ったことがあるであろう、平凡な「キャッチボール」の風景だった。

 

「息子が出来たら、一度やってみたかったんだよね」

 

 胸元に目掛けて投げ返されたボールを捕球し、それを同じ場所へ投げ返しながら男が笑う。

 今自分が行っていること、置かれている状況、それがなんだかとてもおかしくて、自然と笑みが零れる。

 とてもとても楽しくて、すごくすごく物悲しい。この気持ちをどう表現すれば良いのやら、彼――星園渚には見つからなかった。

 そんな彼の思いを白球と共に受け取った少女――泉星菜が呆れたような目を返しながら再び投げ返す。今度は少し、強めに放った投球だった。

 

「女の子らしくなくて悪かったな」

 

 娘ではなく、息子扱いされたことに不服そうに口を尖らせる星菜。

 そんな彼女のボールを捕りながら、星園は苦笑を浮かべて弁解した。

 

「まさか、僕の周りには君ほど女の子らしい子は居なかったよ」

「どんな人生だよ、それ」

「まあ、色々あったんだよ、色々……それはそうとして、最近どう?」

 

 実際、女々しいという意味で言えば彼女ほど女の子らしい少女は居ないだろうと星園は思っている。寧ろもう少しサバサバした方が良いのではないかと思っているぐらいなのだが、それを口にすれば怒られるだろうなと予感していた。

 女の子らしくしろと言えば悲嘆的な表情を浮かべ、男らしくしろと言えばそれはそれで不満そうな顔をする。思えばそんな面倒くさい性格も、彼女の個性だろうと星園は思う。

 

「今更、それを聞くんですか」

「キャッチボール中にする会話としては定番だろう? どうなの最近。色々なことがあったけど、これからも頑張れそう?」

「そんなの、貴方が一番わかってるでしょうに」

 

 やや無理矢理な形で話題を変えてみると、彼女から呆れ声でそう返される。

 彼女の中で共に過ごしていた星園は、誰よりも彼女の近況について詳しく知っている。しかしそれでも、星園にとっては彼女と会話をする行為自体に意味があったのだ。

 

「言葉にしなきゃ、伝わらないだろう?」

「……そうだね」

 

 わかっている筈だ。

 わかっていると信じていた。

 そんな思い込みと思い上がりで人間関係を拗らせた彼女には、耳の痛い話であろう。少々意地悪だったかと反省する星園の言葉にバツの悪い表情を浮かべた星菜は、思わずボールを落球しかける。そんな星菜だが、グラブから零れたボールを素早く左手に掴むとサイドハンドで投げ返した。

 

「昔、負けるのが嫌で……置いていかれるのが嫌で、貴方に野球を習った」

 

 彼女がその口で語るのは、かつての思い出話だ。

 

「理屈ばっかり語って自分の殻に塞ぎ込んで、大事なことも見なくなっていた」

 

 今だからこそ見える、自分自身の間違い。それを彼女は、客観的な事実として受け止めるように言った。

 

「誤魔化してばっかりの自分……全部誰かのせいにして周りを見下していた」

「でも、今は?」

 

 人並みになったかどうかはわからないが、少なくとも昔よりは成長したと思っている。

 野球を通じて味わった悔しさと喜び、出会いと絆。それらが彼女の足を、舞台の上まで引っ張り上げてくれたのだ。

 

「そんなお高く留まった自分をぶん殴ってやりたいと思えるくらいには、前向きになったと思っているよ」

「それは結構」

 

 だが、引っ張り上げられただけでは足りない。スタートラインに立っただけでは物語は始まらない。

 そこからの未来は、自分の意志とその足で勝ち取らなければならないのだ。

 

「私なりに全力でぶつかってみるよ。行き当たりばったりでも、何度道に迷っても」

 

 それが、彼女の未来。

 死人が入り込むべきではない、泉星菜の人生なのだと星園は思った。

 

「私は決して、貴方のことを忘れません」

 

 ……だから星園はもう、その言葉を彼女から聞ければ十分だった。

 

 

「今まで、ありがとうございました」

 

 

 星園が投げ返したボールを受け止めた後、星菜は帽子を外し、深々と頭を下げる。

 不器用な彼女らしい、最後の最後までお固い感謝の言葉。

 しかしその言葉は、生前に受けたどの言葉よりも胸に響いた――そんな気がした。

 惜しむらくは頭を下げた星菜の目からは、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちていたところか。

 

「……君って、本当にずるいよね」

 

 女の武器をこんなことで使うんじゃないよ、と……心の中でそうごちりながら、星園は苦笑する。

 そんな彼女の前から星園は数歩離れると、18.44mの距離を空けてしゃがみ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 自らの帽子を吹き飛ばしながら左腕を振り抜いた星園が、自らの投球結果を見届けた後で高らかに叫び、華奢な身体を揺らして卍のポーズを取る。

 マウンドに立っている時の泉星菜が見せることのない得意げな――いわゆるどや顔を浮かべた星園が、捕手を務める小波からの返球を受け捕った。

 

「……空振り三振で派手なジャッジするなよおっさん」

「いやだってほら、気持ち良かったから」

 

 勝負開始から二度目の三球三振。その結果に苦渋の表情を浮かべた鈴姫が、苛立たしげにマウンドの星園を睨む。

 コースは外角の、低めに落ちていく変化球だった。一打席目と全く同じ結果に終わったことを、彼は屈辱に感じている様子だ。

 

 ――そう。泉星菜の身体を使って投球する星園は、彼を相手に二打席連続の空振り三振に仕留めたのだ。

 

 

「……これが、星園渚の魔球か」

 

 受ける捕手の小波大也が、予想だにしないこれまでの経過に驚嘆の声を漏らす。

 この勝負の中で星園が鈴姫に投じた六球は、いずれも同じ球種である。

 ストレート以上に激しい腕の振りから放たれる、急激なブレーキが掛かった止まる魔球(・・・・・)。それは球速が遅く被弾率の高かった生前の星園渚を名球会入り寸前までのし上げた、必殺のウイニングショットである。

 生前の当時、記者から受けたインタビューに対して自らが名付けたそのボールを、星園はこう呼んだ。

 

「魔球ブルーウェーブ」

 

 迫り来る大海の青い波のように、緩やかであろうと激しかろうと決して押し返されることのない大魔球。

 彼自身がかつて所属していたチーム名から拝借した魔球の名は、開発以後彼の代名詞となったほどだ。

 そんな彼の死後、球界から消え去った伝説の変化球を目の当たりにして、鈴姫と小波の反応は二者二様だった。

 

「ただのチェンジアップだろうに……」

「言ってしまえばそうだけど、これは究極系だね。比喩じゃなくて、本当に二回振れそうな球だよ」

 

 ブルーウェーブと名付けられた星園の魔球は、ストレートの球速で迫って来たボールがバットの手前で急停止を掛けたように勢いを落としていくボールだ。チェンジアップの究極系というのは正しい表現であり、最初の数球は名捕手である小波さえ取り損ねるキレ味だった。

 

「二打席三振だね。あと二打席だよー? 大丈夫健ちゃん?」

「それだけあれば十分だ」

 

 類稀なミート力を持ちながらも呆気なく二打席を終えた鈴姫に対して星園が煽るように二本指を突き出すと、彼は憮然とした表情で返す。

 仮にも200勝を達成しかけた投手のボールを前にしても、全く臆していない。そんな鈴姫の反応を見た星園は、浮かべた微笑を隠すように拾い上げた帽子を締め直した。

 

「そうかい!」

 

 楽しい時間はあと二打席。

 左腕の見えない招き猫投法から、星園は三打席目の投球に移った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「星園さん?」

 

 突然しゃがみ込み、右手にはめたグラブを大きく広げた星園の姿を見て星菜は何のつもりだと首を傾げる。

 そんな彼女に対して、星園は簡潔な言葉で答えた。

 

「投げてよ。思いっきり」

 

 キャッチャーやってあげるからピッチャーやれ――キャッチボールをしたことのある野球少年ならば誰もが行ったことのあるであろう投球練習を、星園は促したのだ。

 そんな彼の言葉に、星菜は帽子を被り直しながら小僧らしい笑みを浮かべる。

 

「……プロ野球選手が女子高生の球を捕り損ねたら、すっごいカッコ悪いですよ?」

「コラ、生意気言うな。君のおっそい球なんて僕でも捕れるよ!」

 

 元プロ野球選手とは言え、星園のポジションは投手だ。成長した自分の球を捕手のように捕れるのかと挑戦的な笑みを浮かべる星菜に対して、星園は休日に無茶して張り切るお父さんのような表情を返す。

 

「その挑発、乗った!」

 

 子供染みた、売り言葉に買い言葉である。115キロの壁を乗り越えた今の自分の実力を見せるように、星菜は小山雅との対戦で編み出したトルネード招き猫投法を披露した。

 

 

 

 

 

 

 パシッ――と、力の無い打球が星園のグラブに突き刺さる。

 

 三打席目の初球を叩いた鈴姫の打球が、マウンドの手前でワンバウンドして星園のグラブに収まったのである。

 わかりやすいピッチャーゴロ。その結果に確信犯めいた女子高生的仕草でぴょんぴょんと喜びを表しながら、星園は鈴姫を煽りたてた。

 

「はい、アウトー! ほれほれどうしたー? そんなんじゃうちの娘はやれないねぇ!」

「……ムカつく」

「はは……なんか昔の星ちゃんみたい」

「だからムカつくんだよ! あの野郎ッ!」

「うわ……星ちゃんが野球部から居なくなった時みたいにキレてる……」

 

 打ち損なった球種はまたも変化球――外角低めのブルーウェーブだった。

 良いように打ち取られていく鈴姫はマウンド上でこれ見よがしに喜ぶ彼の姿を前に、新球を習得しては自身をその実験台にしてくれた昔の星菜を重ね、普段の語彙力を失うほどに闘志を燃やした。

 

 

 

 

 

 

 

 バシンッ!――と、力強い投球が星園のグラブに突き刺さる。

 

 思わず跳び上がり、星園はグラブを外しながらヒリヒリと痛む右手を擦った。

 

「いってぇ……! くぅ……っ、ス、ストレート……馬鹿みたいに威力上がったね」

「馬鹿になったからね。これが私の成長だよ。捕り損なって顔面にぶつかれば面白かったのに」

「この、鬼畜女子! 女子高生の皮を被った悪魔! つば九郎! たまべヱ!」

 

 彼女の持つ技術と球のキレにより体感球速は140キロ以上出ているように感じるが、実際の球速は130キロ前後と言ったところであろう。

 しかし、いずれにせよつい最近までたった115キロのストレートで足踏みしていたとは思えない球威がそこにあり、星菜のこれまでにはない明確な成長がそこにあった。

 上体に大きな捻りを入れた投球フォームは星園渚のものではなく、彼女が彼女自身の手で編み出したものだ。

 そこに星園は、彼女が自分の手から離れて羽ばたいていった事実を改めて再確信した。

 彼女は、女子選手の壁を遥かに越えてしまった。

 そして一気に、高校野球のレベルさえ飛び越えようとしている。

 なればこそ、星園は一選手として期待を抱かざるを得なかった。

 

「じゃあ次、変化球いってみようか! 球種は……チェンジアップで!」

 

 彼女――泉星菜はいつか、星園渚さえ超えてくれると。

 

「……うん」

 

 ボールの縫い目に二本の指を掛けたストレートから鷲掴みの握りに変えて、星菜はワインドアップに大きく振りかぶる。

 上体を大きく回転させながら右足を振り下ろし、渾身の力で左腕を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 ――甲高い、透き通った金属音が朝日の空に響く。

 

 そして舞い上がったのは音だけではなく、振り抜かれたバットによって弾き飛ばされた白球も同じだった。

 迸るような痛烈な打球は投げた星園の頭上を瞬く間に抜けていき、インフィールドゾーンを越えた先で勢い良く落下していく。

 

 センター前ヒット。都合よく前進守備でも敷いていなければどんな名手でも捕れない場所に、打球は着弾した。

 

「ナイスバッティング」

 

 その結果を振り向いて見届けた星園が、惜しみない賞賛の言葉を打者に浴びせる。

 しかし当の打者――左打席に立つ鈴姫健太郎は、その結果に不服そうな表情だった。

 

「……なんで、ストレートを使わなかった?」

 

 数拍の間を置いて鈴姫の口から放たれたのは、この勝負における徹底した星園の配球に対してのものだった。

 彼がこの四打席で投じた球種は、全てブルーウェーブ。タイミングを外し緩急をつける為のチェンジアップの究極系を扱いながら、ストレート系の速いボールを一切使わなかったのだ。

 

 ……流石に、あからさま過ぎただろうか。鈴姫は自分が手加減されたと感じている様子だが、星園の方としてはそんなつもりでこの配球にしたわけではない。

 星園はこの四打席勝負において間違いなく自身の持てる全てを出し切ったつもりであり、ブルーウェーブ一辺倒だったのにも相応の理由があるのだ。

 

「泉星菜のストレートは、泉星菜だけの武器だからさ」

 

 その理由を、星園はセンター方向の芝生で転々としているボールを眺めながら言い放った。

 

「僕の武器は君に投げたブルーウェーブだけ……この身体はあの子が何度も挫けながら試行錯誤を重ねて、それでも前に前に進みながら真剣に鍛え上げてきたものだ」

 

 星園渚が星園渚として勝負をするには、始めからこうするしかなかったのだ。

 彼が今扱っている身体は泉星菜のものであり、頭の先から足の指先まで彼女のものだ。

 そんな彼女の身体を使ったところで、ストレートもカーブも彼女が編み出した泉星菜の武器に過ぎない。

 星園渚として彼女の力に頼らない形で勝負をするには、星園渚唯一無二の武器であるブルーウェーブを投じる他なかったのである。

 

「あの子の身体であの子の武器を使えるのは……使って良いのは、泉星菜だけだ。僕じゃない」

「あんた……」

 

 それが星園渚の、せめてもの矜持だった。

 故にそれが理由で勝負に負けたとしても、彼には何の悔いも無いし相手からの批難を受ける気も無かった。

 投手とは、それだけふてぶてしくあるものだ。

 しかしだからと言って、星園は手加減どころか負ける気さえ持ち合わせていなかった。

 

「だけど……ああも綺麗に打たれるとはね。君達の飛躍には本当に、驚かされるばかりだよ」

「……俺は、もっと上手くなる。星菜や小波先輩よりも……あんたよりも」

「その意気だ」

 

 まるでリリーフに後を託すようにマウンドを下りた星園の目が、左打席に立つ鈴姫の目と交錯する。強い意志の見える少年の瞳に、星園は頬を緩める。

 

 やりたかったことは、これで全て終わった。

 

「だけど、君には一つ言っておこうか」

 

 最後にたった一つだけ、彼には死人らしく遺言を残しておくことにした。

 それは本当に、どのような形でも良いと星園渚が心から願った彼らへの想いだった。

 

 

「幸せになれよ、二人で」

 

 

 鈴姫の元へ歩み寄った星園が、拳を突き出してコツンと彼の胸に押し当てる。

 幸せにするのではない。彼女はもう、彼に庇護される弱い子ではないのだから。しかし、誰の助けが要らないほど強い子でもない。

 

 だから、共に幸せになる(・・)のだ。これから先、どんな未来に分かれても。

 

「……当たり前だ」

 

 星園渚最後の遺言を聞き届けた鈴姫は、泉星菜を抱き留めながら確かに受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――見事なものだった。

 

 ストレートと同じ――いや、それ以上に見える速球が、ベース手前の位置で急停止するように急激に速度を落とし、星園のグラブの下を抜けていく。

 

 最後のキャッチボールが後逸で終わるとは、何とも自分らしい結果だ。

 

 だが、泉星菜は成し遂げたのだ。

 捕手が取り損ねるほどのブレーキが掛かった魔球(チェンジアップ)――星園渚最後の武器である、ブルーウェーブの習得を。

 

「完成、おめでとう。これで君は、晴れて僕の後継者になったわけだ」

 

 師匠らしいことはあまりしてやれなかったが、それでも彼女のことは最初で最後の弟子だと思いたい。

 やはり彼女は、自分を超える才能の持ち主だ。ボールを捕り損ねたことをこんなにも嬉しいと感じたのは、生前を含めても初めてのことだった。

 

「星園さん……私は……っ」

 

 満足そうに笑んだ星園の言葉に何を感じたのであろうか、涙ぐんだ顔で星菜はその手を差し伸ばしてくる。

 

 逝くな――と、そう言いたい様子は、目に見えてわかった。

 

 そんな彼女に対して、星園は伸ばされた手を受け取らなかった。

 しかし彼女の手に対して、星園はたった一つ、慣れ親しんだ白球を手渡した。

 

「……!」

「最高に幸せな人生だった。君もいつか、そう言えるようになれ」

 

 彼女のことを、娘のように思っていた。

 生意気な弟子のようにも思っていた。

 だからこそ、星園は彼女と共には居られない。

 泉星菜の人生が、待っているのだから。

 

「元気でね、星菜」

 

「……さようなら、師匠」

 

 片方は笑顔を。

 もう片方は、涙ぐんだ笑顔を。

 

 それが最後の対面となり、一人の少女に宿った魂の一つは――途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星菜が目を開いた時、最初に視界に映ったのは心配そうにこちらの顔を覗き込む親友の表情だった。

 

「星菜! ……大丈夫か?」

 

 ――約束の勝負はもう、終わったのだろう。

 今の星菜は見覚えのあるグラウンドで彼の腕に支えられながら立っており、その横には勝負の立会人になってくれたのであろう小波大也の姿があった。

 彼らには、本当に世話になった。どちらも大切な幼馴染で、感謝してもし尽くせない恩人――。

 

「……かえった、よ……」

 

 震える唇を開けて初めて出てきた言葉は、「彼」の望みが無事に叶ったという報告だった。

 そんな星菜の言葉に、鈴姫と小波が黙祷を捧げるように顔を伏せる。

 

「そうか……」

 

 還った……途絶えたのだ。

 今の星菜の頭には、甲子園に出場しプロ野球選手となり、名球会入り直前で病死した男が持つ記憶は――もう、無い。

 「星の大魔王」と呼ばれた名投手は、この世界から文字通りに消え去ったのである。

 

 

「あの人はずっと、私を見守ってくれた……私の無茶やわがままを何度でも聞いてくれて、不貞腐れていた私のことだって見捨てず、受け入れ続けてくれた……」

 

 だが――星菜が持つ泉星菜自身の記憶にある、彼との思い出は消えていなかった。

 

 だから、膨れる。

 膨れ上がってしまう。

 

 大切な人を永遠に失ったのだという――悲しみが。

 

「……ごめん、ケンちゃん。ちょっと胸貸して」

「っ……星菜……」

 

 ――今だけは、許してほしい。

 

 何も考えたくない。時間さえ忘れて、星菜は生まれて初めて恋を認めた親友の胸で声を上げ、泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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ベースボール・イブ

 

 

 

 

 肌寒い冬の季節。自室のベッドで目を覚ました鈴姫は真っ先に時計に視線を移すと、予定よりも随分長く眠ってしまったことに気づいた。

 時刻は昼の一時。野球部の活動もないオフ日とは言え、普段の生活リズムが整っている彼にしては珍しい寝坊だった。

 昨夜は遅くまでトレーニングを行っていたからか、それとも柄にもなく今日という日を楽しみにしていたが故に上手く寝付けなかったからか。いずれにせよ身体の調子は快調であり、体調不良というわけではない。

 そんな鈴姫はベッドから下りると寝巻からジャージ姿に着替えると、階段を下って下の一階へと向かった。

 

《バッター冬野、第三球――打ち上げた! 打ち上げた! 打球は上がるっ!》

 

 一階に下りた鈴姫の鼓膜に響いたのは、テレビから聴こえてくる大きめの音声だった。

 母がまた録画したビデオでも見ているのだろうかと、鈴姫は何度聴いたかわからない声に苦笑しながら、開けっ放しにされていた今の中へと入室する。

 案の定、そこにはコタツに温まりながらテレビを眺めている母親の姿があった。

 

《泉が指差した! 六道追い掛ける! 追い掛ける! 追い掛けて……捕った! 掴んだぁっ! その手に掴んだボールは、衝撃の! 衝撃のウイニングボォォーール!!》

 

 ローカル放送特有のハイテンションで送られているその実況音声は、放送以降も幾度となくスポーツニュースやワイドショーで流されたものだ。

 しかし、それも当然の反応だろう。

 この世に決して現れることがないと思われていた超高校級の女子選手が、彗星の如く高校野球界に現れたのだから。

 

《何と言うことだぁー! 公式戦初出場初登板初完封勝利を上げた恋々高校早川に続いてぇ! 竹ノ子高校泉星菜! 古豪白鳥高校を相手に成し遂げたのは! 27個のアウトを連続でもぎ取った完全試合ッー!!》

 

 「野球の常識が今、完全に打ち砕かれましたー!」と続く実況を聞き流しながら、鈴姫はようやく息子の存在に気づいた母と向き合い、また苦笑を浮かべる。

 この母親も母親で、息子の幼馴染のことを随分と気に掛けているらしい。

 

「あら健太郎、もしかして今起きたの?」

「うん、まあ……」

「とっくに出発したと思っていたわ」

「集合時間は四時だし……まだ早いよ」

 

 寝起きだが寝覚めは良かった鈴姫は、微妙な具合に小腹が空いていたので何か食べる物はないかと訊ねる。

 数時間後のことを考えれば満腹になるほど食べる気は無かったが、その意図を理解してくれた母は冷蔵庫にある物で軽食を作ってくれた。

 コタツに落ち着きながらそれを口に運ぶ鈴姫は、今度はビデオに録画したスポーツニュースを再生し始めた母の姿を見て溜め息をついた。

 

「母さん、同じの観すぎだろ」

「いいじゃない。未来の娘になるかもしれない子の晴れ舞台なのよ? ついでにあんたもいい活躍だったし、何度見ても飽きないわ」

「そうやってプレッシャー掛けてくるの、やめてほしいんだけど……」

「何言ってんのよ今更」

 

 幼馴染のことが大々的にメディアに取り上げられるほど、母から掛けられるプレッシャーは日々増大してくる。母が、ついでに父も彼女に好意的なのは喜ぶべきなのだろうが、昔のように答えを急いでいない今の鈴姫からしてみれば彼らの気持ちは要らぬお節介に過ぎなかった。

 テレビ画面で交わされている自分と彼女のハイタッチを熱っぽい目で眺めている母に呆れながら、居たたまれなくなった鈴姫はこの場から離脱することを選んだ。

 

「……走ってくる」

 

 オフ日というのは、どうにも落ち着かないものだ。常に身体を動かしていないと敗北した気分になるのは、体育会系の証拠だろうか。

 「時間に遅れないようにね」と掛けられた言葉を後ろにしながら、鈴姫は外に出て日課の一つであるジョギングを開始した。

 

 

 

 12月24日。

 

 

 

 シンシンと白雪が降り出した空の下、白い息を規則的に吐き出しながら鈴姫は走る。

 いつものジョギングコースである河川敷を回りながら、彼は肌を刺す冷たい空気に上昇した体温で抵抗していた。

 運動はいいものだ。自分が生きていることを実感出来る――と感傷的なことを考えるようになったのは、十月にあったあの出来事からか。あの日から少しだけ、自分の中で物の考え方が変化しているように鈴姫は感じていた。

 

「ん」

「あ」

 

 舗装された快適な道路を軽々に走る中、鈴姫は思わぬ人物と遭遇した。

 茶髪の髪を頭の後ろで束ねた少年は、直近の大会で死闘を繰り広げた相手――あかつき大附属高校の猪狩進だった。

 

「やあ」

「おう」

 

 お互い知らない関係ではないが、親しい仲でもない。そんな間柄である鈴姫と進だが、こうしてバッタリ出くわした以上無視するわけにもいかない。

 そんな理由で簡単に挨拶を交わした鈴姫は、進の出で立ちを見て彼もまた自主トレーニングの最中なのだろうと察した。

 

「今日は兄貴と一緒じゃないんだな」

「兄さんなら、波輪さんに一球勝負を申し込んでいるよ」

「君は付き添わないのか?」

「うん。いつまでも兄さんと一緒だと、一生自分の壁を破れない気がするから」

「そうか」

 

 猪狩進と言えばリトルリーグ時代から兄の守と常に共に居る印象であったが、進もまた天才的な野球センスを持っている超高校級選手の一人だ。あかつきとの試合ではそんな彼の強肩と好リード、打撃を前にことごとく苦しめられたものである。

 

「じゃあね」

「ああ」

 

 そう言って言葉少なく別れた二人だが、鈴姫は自身を前にした彼の瞳に闘志の炎を感じ取っていた。そんな彼を見て、俺も負けていられないなと改めて上昇意識を高める。ここで彼と遭遇したのは偶然であったが、ライバル校の天才が次の大会に向けてひたむきに鍛錬している姿を見ると、否が応にも刺激を受ける。

 そんな鈴姫の背中に向かって、こちらへ振り返った進が思い出したように言い放った。

 

「あっ、そうだ。地区大会、優勝おめでとう」

 

 彼の口から礼儀正しく放たれた祝福の言葉には、心なしか悔しさが滲んでいるように鈴姫は感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 頃合いを見計らってジョギングを切り上げた鈴姫は、一旦自宅に帰ってシャワーを浴びた後、外行きの私服に着替えて防寒用のジャンバーを羽織る。

 重くかさばらない程度の荷物を持った鈴姫は母に頼んで車に乗せてもらうと、竹ノ子高校野球部副主将により集合場所として指定された駅前のバスターミナルへと移動した。

 

 

 

 

 

 

 

 目的地付近まで母の車に送ってもらった鈴姫は、運転席から送られる生暖かい視線と茶化される声援を追い払いながら集合場所へと歩を進めた。

 左腕に巻き付けた腕時計の指針が差している時刻は三時四十分。指定された集合時刻より二十分も早い到着になったが、駅前のバスターミナルには既に先客が居た。

 赤いコートにピンク色のマフラー、深々と被ったニット帽と目元に掛けたサングラスで素顔を隠した少女は一見不審者のようであったが、鈴姫にはその人物が誰なのか一目でわかった。

 

「星菜……」

「あ、ケンちゃん」

 

 彼女の名前を呟くと、少女はこちらに気づき、軽く手を振って目線を合わせる。

 あの日以来、彼女が自分のことを再び昔のあだ名で呼んでくれるようになったことを嬉しい半面、気恥ずかしく思う。

 和解して以降、これまで彼女への想いを恥ずかしげもなく直球の言葉で表現してきた鈴姫だが、彼女から直球な好意を受けることは逆にこそばゆく感じるのだ。

 そんな面倒くさい感情を誤魔化すように、鈴姫は呆れ笑いながら彼女の装いを指摘した。

 

「なんだよその格好」

「変装だよ。こうしないと迂闊に外も歩けなくて」

「すっかり人気アイドルだな」

「悪意が無いだけに、対応に困るんだよ……」

 

 彼女がこうしてこてこての衣装を纏って変装を行なっているのには、そうせざるを得ない相応の理由があるからだ。

 元々ルックスの良い彼女は街を歩けばナンパの声やモデル勧誘の声が絶えなかったが、今や「泉星菜」という少女はこの地区で知らぬ者は居ない存在となっていた。

 

 

 女子選手の出場が初めて解禁された秋季都道府県大会――その一回戦で竹ノ子高校のエースナンバーを背負った星菜は、あろうことか強豪チームを相手に完全試合などというとてつもない偉業を成し遂げて見せた。

 それはこの地区のみならず、全国区でも大々的に話題に上った出来事だった。

 

 遂に公の舞台に姿を現した彼女は、まさに「大魔王」の如き無双を繰り広げたのである。

 

 完全試合でデビューを果たした後も彼女の快進撃は続き、当初は対戦校の八百長を疑っていた一部の愚か者共さえ実力で黙らせた。

 130キロ前後のノビのあるストレートに、多彩かつキレ味鋭い変化球、正確無比なコントロールとコンパクトかつダイナミックなトルネード招き猫投法。そして亡き名投手が現世に蘇ったような魔球(チェンジアップ)ブルーウェーブは、素人が見ても本物だとわかる力を見せつけたのだ。

 

 古豪白鳥学園に続き、夏の雪辱を果たしたそよ風高校、山道新主将率いる強豪パワフル高校、そして名門あかつき大附属高校さえも薙ぎ倒した泉星菜の投球は、波輪風郎のワンマンチームと侮られた竹ノ子高校野球部を地区大会へと伸し上げたのである。

 それからも変わらずに見せ続けた左腕の活躍に加えて彼女自身の美貌も相まり、本来メディア上では目立つことの少ない秋季大会において泉星菜という選手は空前絶後の一大フィーバーをもたらしていった。

 

 特に因縁深い白鳥学園をその手で叩きのめした時は、鈴姫としては胸が空く思いだった。しかしそんな彼女を賞賛する世間に対して抱いたのは、嬉しさと腹立たしさが合わさった気持ちである。

 今の彼女が世に出ればそれほどの影響を撒き散らすであろうことは、最初からある程度想定していた。しかし世間が彼女の力を認めてくれたことを嬉しく思う一方で、都合よくヒロイン扱いしている連中に苛立ってもいるのだ。

 これがさらに注目度の高い夏の大会だったらどうなってしまうのか……寧ろ怖くなるほどに世間は秋季大会で見せた彼女の姿に魅了されていた。

 

「……年が明ければ、少しは落ち着くだろう。まあ、春になったらわからないけど」

「フィーバーっていうのも、当事者になるときついな……」

「……自慢に聞こえるぞ」

「あ、そう?」

 

 だが本当に喜ぶべきなのは、泉星菜がもう、周りの目に怯えていない事実であろう。

 今の彼女は確固たる自分を持っている。だからその心は、周りからどう見られようと真っ直ぐな芯が通っている。

 以前の彼女なら決してしなかったであろう軽口をあしらいながら、鈴姫の頬は綻びを浮かべた。

 

 

 

 

 数分の間、星菜と鈴姫が世間話をしながら駅前で待機していると、ターミナルに立つ二人の前に貸し切り表示のバスが一台目の前に停まった。

 扉が開いたバスの中には運転手の他に茂木林太郎やその奥方の姿があり、いつもの如く気だるげな表情で「乗った乗った」と促される。二人は彼に挨拶をした後、その言葉に従って暖房の効いた車内に入り込むと、示し合わせたわけでもなくお互い隣の席に腰を下ろした。

 すると程なくして、今度は筋骨隆々の少年と小柄な少女の凸凹カップルが車内に乗り込んできた。

 竹ノ子高校野球部主将とマネージャー、波輪風郎と川星ほむらである。

 

「オッス、ご両人!」

「ほむら先輩、波輪先輩もこんにちは。ですが波輪先輩……なんでユニフォームを着ているんですか?」

「俺のファッションだからな!」

「ほむらとのデートでも着てくるんスよこの男」

「うわぁ……」

「やめてよ星菜ちゃん! そんな目で見ないで!?」

 

 そんな二人の到着を川切りに、後から続いて見知った顔の少年達が次々とバスに乗り込んでくる。

 矢部明雄に外川青山、小島石田山田丸林……竹ノ子高校野球部員の面々である。そこに数人、竹ノ子高校が練習試合で戦ったことのある他チームの面々が混ざっていた。

 

 清楚な美少女マネージャーと共にバスに乗り込んできた小波大也も、その一人である。

 

「小波先輩も来たんですか。他所でデートしているのかと思っていました」

「そんな相手は居ないし、僕もみんなでワイワイやるのは好きだからね。企画してくれた矢部君には頭が上がらないよ」

 

 恋々高校の主将を務める彼は、昔から非常に異性にモテる。そんな彼が世のカップル達の聖典であるクリスマス・イブのこの日、今回の集まりに参加することは星菜には意外に映ったが、彼から返って来た言葉を聞いて納得する。

 かく言う波輪風郎、川星ほむらも同じ理由でこの集まりに参加しているのだ。希少なオフ日だからこそ、こうして大勢で馬鹿をやりたいのかもしれない。

 

 出発目前となったバスの中、おもむろに席から立ち上がった星菜は周囲を見回し、集合した少年少女達の姿を見て唇を緩める。

 一部を除いてここに集まった竹ノ子高校と恋々高校の野球部員達。そんな彼は今日この日だけはそんな関係も忘れて、各々に談笑に講じていた。

 

「……こうして集まると、賑やかだね」

「六道先輩とか池ノ川先輩とか、欠席の人も居るけどな」

「イブだからね。二人とも、彼女さんと出掛けているんでしょ」

 

 クリスマス・イブをこれほどの大人数で過ごすのは、星菜にとっても鈴姫にとっても初めてのことだ。

 甲斐性のある彼女持ち部員の何人かは自身の恋人の為に別の場所で疲れを癒しているのだろうと想像すると、後ろの席に座っていた伊達眼鏡の先輩が唐突に叫んだ。

 

「あの二人は裏切り者でやんす! 特に池ノ川君はイケメンでもないのにズルいでやんすぅぅ!」

 

 ……何か怨嗟のような感情がこもっていたが、星菜と鈴姫はお互いに目を見合わせた後、何も聞かなかったふりをして前に向き直った。

 集合時間の四時を回ったところで、前方では二人の主将が名簿を手に出席を取っていた。

 

「うちの出席は、これで全員か。小波、そっちはどうだ?」

「後一人、まだあおいちゃんが来ていない」

「主役じゃねぇか……しょうがない、待つか」

 

 恋々高校の野球部員と言えば、真っ先に思い浮かぶ緑色の髪の少女が居ない。

 おそらくだが、変装をしないであろう彼女は道中でミーハーなファンにでも集られているのだろうと星菜は予想した。

 

 ――公式戦史上、初めて出場し、初めて完投完封勝利を記録した女子選手が早川あおいという少女だ。

 

 そんな彼女は星菜と同じく今や全国区のニューヒロインであり、迂闊に出歩けないほどの有名人となっていた。

 女子選手――その響きから、星菜はもう一人の竹ノ子高校野球部員がまだ到着していないことに気づき、波輪に問い質した。

 

「雅ちゃ……小山先輩は来ないんですか?」

「ああ、大会では一緒に戦ったけど、俺らと慣れ合う気はないんだってさ」

「……あの子は一体、どこに向かっているんだ」

「フハハ! ツンデレですね!」

「王道のライバルムーブでやんす!」

 

 

 小山雅――自分の望みを取り戻したことで竹ノ子高校野球部に加わった彼女は、今回の集まりには参加しないらしい。

 彼女も大概、面倒くさい性格になってしまったものである。そうしてしまった最大の原因である星菜としては頭が痛いが、もう悪い方向には行かないだろうとも思っていた。

 

 彼女もまたこのチームの仲間なのだ。星菜は秋季大会の土壇場で満を持してチームを救いに来てくれた彼女の姿を思い出し、薄く笑んだ。

 

 

 そんな時、ブザー音と共に扉が開き、外気を纏いながら一人の少女がバスに乗り込んでくる。

 少々息を切らせながら到着した緑色の髪の少女は、恋々高校野球部を導いたサブマリンプリンセス――早川あおいであった。

 

「ごめんね! 待たせちゃった?」

「一分遅刻だね。もしかして、いつもの?」

「そうっ! 色んな人に呼び止められちゃって……」

 

 星菜の予想通り正直者の彼女は変装などしておらず、遅れてしまったのは人気者であるが故の悩みによるものだった。

 そんな彼女は手荷物を荷台に載せると脱いだコートを折りたたんで膝の上に乗せ、空き席に腰を下ろす。すると斜め横に座っている星菜の存在に気づき、目を合わせた。

 

「あおいさん」

「あ、星菜ちゃん。なにその格好、浮気現場の芸能人みたい」

「……生々しい例えはやめてください」

 

 不審者ルックで変装した星菜の姿に引きつったような笑みを浮かべる彼女に、星菜は心外だと口を尖らせながらサングラスを外す。

 このサングラスは今回出掛ける前、変装の一環として父親に貸してもらった物だ。これを掛けている間スムーズに移動出来たことを考えると、彼女に苦言を呈されても効果があることは間違いなかった。

 鈴姫の隣で栗色の瞳を露わにした星菜は、バスの中ならもう変装は要らないだろうとニット帽を外し、その中にしまっていたショートカット(・・・・・・・)の髪を下ろした。

 

「前にも言った気がするけど、やっぱり印象違うね」

「そう、ですか?」

「うん、セミロングだった頃より活発そうで、元気に見えるよ」

 

 元々はセミロングヘアーに伸ばしていたのが、野球人らしからぬ星菜の黒髪だ。

 それを星菜は今、襟足が肩先まで届かない長さのショートカットに変えていた。

 彼女にとってはゲン担ぎとも言うべきか、原点回帰とも言うべきか。

 

 ――星園渚が還ってから星菜は、心機一転の気持ちを込めてその髪を切ったのだ。

 

 おかげで随分と、見た目的にも気持ち的にもさっぱりしたと思う。

 奥居亜美らクラスの友人からは声を上げて驚かれたものだが、元々星菜はショートカットにしていた頃の方が長いのだ。

 鈴姫や小波などは、この髪型を見てリトルリーグ時代を思い出したのか「懐かしい」と言ってくれたものだ。

 

「クラスメイトからは、お姫様みたいな前の方が好きだって言われましたけどね」

「あはは……ボクも、どっちかと言えば前の方が好きかも。なんかこう、良い感じに頼りなく見えたから」

「……それ、馬鹿にしてるでしょう」

「可愛かったって言ってるのよ。今は、カッコ良く見えるよ」

「……ケンちゃんどうしよう。私、あおいさんに口説かれてる」

「……知るか……」

 

 年相応な少女のようにあどけない顔をした星菜は、恩人であり大切な友である彼女と談笑し合う。

 そんな彼女とその仲間達を乗せたバスは、ターミナルを発って目的地へと発車していく。

 

 向かう先はパーティー会場――青春に彩りを添える、馬鹿馬鹿しくて楽しい聖夜祭の開催だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  外角低め 115km/hのストレート

 

  最終話【 Grand Touring(壮大なる旅) 】





 長い間ありがとうございました。
 次回で本編は完結します。


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Grand Touring(壮大なる旅)』 (終)

 この冬休み、「クリスマスパーティーをやるでやんす!」と最初に言い出したのは、竹ノ子高校野球部副主将の矢部明雄である。

 冬休みも変わらず練習漬けの日々を過ごしていた野球部員達であったが、丁度その日は翌日までオフ日となっており、催しを行うには都合が良い日程になっていた。クリスマス・イブも特に予定の無かった部員達は彼の思いつきに乗りかかり、「どうせなら監督や恋々高校の奴らも誘おうぜ!」という主将波輪の意見の下、話の規模はどんどん広がっていった。

 

 この一年、竹ノ子高校野球部では色々なことがあった。特に恋々高校と共に行った署名運動などはその最たる例であり、良くも悪くも濃厚な一年を過ごした彼らはその一年の締めくくりとして、忘年会を兼ねた泊りがけのパーティーを企画したのである。

 

 それが、今回開催された竹ノ子高校と恋々高校の「合同クリスマスパーティー」である。

 

 会場はバスに揺られて数十分ほど離れた場所にある和風の旅館だ。

 温泉旅行にも人気な綺麗な宿であり、一同はその宴会場を貸し切って料理やカラオケ大会、ビンゴ大会などのゲームへと賑やかに講じていた。

 活発な少年達の思い付きに巻き込まれる形となった茂木や恋々高校野球部の加藤監督達であったが、二人とも教え子がこの企画を持ちだしてきたことに驚いてはいたが満更でもなさそうに引率を引き受けてくれた。彼らも彼らで家族や親しい人間を誘い、祝杯を上げて大人達の忘年会を楽しんでいた。

 

 星菜にとっても仲間達と過ごしたその催しは、時間を忘れるほど楽しい思い出となった。 

 

 カラオケ大会では無茶ぶりをされてレトロなアニメソングを熱唱する矢部とデュエットしてみたり、とんでもない音痴ぶりを発揮して考え難い点数を記録してみせた鈴姫のことを一同と共に指差して笑ったり、恋々高校の奥居紀明が放つ予想外な美声に慄然としたりもした。

 

 ビンゴ大会では早々にリーチを決めながらも最後の番号が一向に出ず、結局ビンゴゼロで終わると言う何とも残念な結果に終わった。そんな星菜に対してカラオケ大会の意趣返しとでも言うように得意げな顔で近づいてきた鈴姫の手には、某プロ野球チームのマスコットキャラクターを立体化したペンギンのようなツバメのぬいぐるみが握られていた。それは星菜がひそかに狙っていた景品だったのだが、そのことを知りながらもまざまざと見せつけてきた彼に対してぐぬぬと唇を噛んだものだ。

 

 そんな平和的で、賑やかな時間。

 

 十代の若いテンションは終始衰えることなく、パーティーが終わった後も何人かは個室の一部で二次会と洒落込んでいた。

 星菜やあおい達女子組も彼らに誘われたものだが、その前に温泉に入り、一年の疲れを癒すことにした。

 この旅館の最大の売りである露天風呂は見事なものであり、生まれたままの肉体を湯船に浸からせながら、心地良い温もりの中で見上げる満天の星空はどこまでも美しく、壮大だった。

 雪の降りやんだ空は晴れており、無数の煌きが黒いキャンバスに広がっている。

 当たり前にある、何の変哲もない景色――しかしそれは、間違いなく絶景だった。

 

 ――あれのどこかに「彼」が居るのだろうかと、そんなロマンティックな感傷に浸ってしまうほどに。

 

 

「恵まれているね、ボク達」

「え?」

 

 白い湯気が噴き上がる露天風呂の中――しばらく漠然と空を見上げていた星菜に対して、隣から同じ空を眺めていた早川あおいが温もりに目を細めながら呟く。

 恵まれている……はっきりとした実感の篭ったその言葉は、過去から今に至るまでの全てに対して向けられた言葉だった。

 

「……そうですね」

 

 口元を緩めながら、星菜は彼女の言葉に同意を返す。

 男の競技である高校野球に女子選手として加わり、これまでに味わってきた思い。振り返れば苦しんでばかり、泣いてばかりな一年だったと、星菜は思う。

 だがそれを含めても星菜にとってこの一年は、間違いなく有意義なものだった。

 

「何にもなれないと思っていた……そんな風に何度も諦めかけたけど、ボク達には居場所があった。こんなにも楽しい時間を、勝ち取ることが出来た」

 

 過去を振り返りながら語るあおいの横顔は、普段の強気な彼女とは違う儚さが見えた。 

 そんな彼女はふわりと力の抜けた笑みを浮かべ、感傷に打ち震えたような声で言い放つ。

 

「だからボクは……野球をやってて良かったって思ってる。星菜ちゃんやみんなに会えて、本当に良かった」

 

 こちらに顔を向けてそう締めくくった彼女の表情は、普段のように快活さに満ち溢れていた。

 彼女が一年の総括――自らの内面を曝け出すような言葉を語ったのは、彼女と同じ立場である星菜にはその言葉が誰よりも理解出来るからであろう。

 

「……私も、そう思います」

 

 全くもって同じ心情だった星菜は、あおいの言ったその言葉に再び同意する。

 そして星菜はふと彼女と出会って以後、泉星菜という捻くれた人間を最も動かした発言を思い出し――今だからこそそのことを掘り返した。

 

「あの時、あおいさんは私に言いましたよね。今の自分も昔の自分も嫌いだった私に、違う自分を捜そうって。自分を好きになろうって」

「……あー、うん、そんなこともあったね」

 

 たった数か月前のことが、随分と遠い昔のように感じる。

 しかし星菜は当時のことを一度として忘れていなかったし、これからも決して忘れはしないとその胸に誓っていた。

 それほどまでに早川あおいと交わした言葉は、星菜にとって大切なものだったのだ。

 

「それで……違う自分は見つかった?」

 

 自らが放った言葉を思い出したあおいが、改めて星菜に問い掛ける。

 星菜はその言葉に迷いなく頷くことは出来なかったが……今の自分があの時とは違う自分になっていることは、強く実感していた。

 

「これがその自分なのかもしれない。私にも、よくわかりませんが……最近、思うことがあるんです」

「何を?」

 

 おもむろに両手を合わせ、その手で湯船から汲み取った湯を眺めながら星菜は苦笑を浮かべる。

 何と言うか――整理がつかない。この心はこれでもかというほど満たされているのに、ほんの一ピース、何かが足りないような……そんな心情だった。

 だから星菜は、その口から零れ落ちるように哲学的な悩みを打ち明けた。

 

「幸せってなんだろう?って」

 

 最高に幸せな人生だった。君もいつか、そう言えるようになれ――星園渚から言われた最後の言葉が、夜空に消えて良く流れ星のように脳裏に過る。

 あれから時間は経ったが、今でも彼のことは時々夢に見る。完全に吹っ切るには時間がまだ足りておらず、その絆は強固過ぎた。

 しかし、その言葉に引き摺られて不自由に生きているつもりは欠片として無い。死人が生きている人間を束縛することを善としないからこそ還ることを選んだのが星園渚という男であり、泉星菜はもう、その別れに引き摺られない強さを得たと思ったからこそ彼は逝ったのだ。

 わかっている……ただ、星菜は、改まって自分の幸せというものを考えると、今一つ心の整理がつかなかった。

 そんな星菜の言葉に、あおいが当たり前のことのように返す。

 

「何言ってるのよ。こうしてあったかい温泉に浸かって綺麗な空を見上げていれば、それも幸せのうちでしょ? 答えを一つに絞る必要なんてないでしょ」

「……そうですね」

 

 君って本当に不器用だよねー、と……真面目な顔で相槌を打つ星菜を見て、あおいが呆れたように笑う。

 幸せなどというものは個人の感じ方一つで、人生という壮大な旅路の中にはどこにでもあるものだ。そう思える程度にはここは平和な世界であり、自分達は恵まれた環境に居た。

 ――たったそれだけの、簡単な結論。しかしそれは、足りなかった一ピースを埋めるように星菜の胸へと溶け込んでいく言葉だった。

 幾らでもある答えの中から、無理に一つに絞ろうとして悩む必要は無いのだ。自分の望む本当の幸せもまた、一つに拘る必要は無いのかもしれないと星菜は思った。

 

 ……そろそろ、上がろう。

 

 長いこと湯船に浸かっていた星菜はのぼせてきた身体を適温に冷ますべく、冬の外気に肌を晒しながら脱衣所へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脱衣所に戻った星菜は温まった身体をバスタオルで拭うと、籠に入れていた下着を湯冷めしないうちに素早く身に着ける。その上に旅館の借用品である一着の浴衣を纏い、ドライヤーで髪を乾かしながら身だしなみを整えた後で脱衣所を出た。

 こういう時、坊主頭ほどではないがショートカットに切った髪の手入れは以前よりも楽だった。

 

 脱衣所から一階のロビーに出た星菜は、長時間の入浴で渇いた喉を潤すべく自販機を探し回る。風呂上がりに飲む牛乳は、やはり幾つの年齢になっても美味しいものだ。

 そうして自販機を見つけた星菜は早速目当ての瓶牛乳を購入しようとしたのだが――そこには先客が居た。

 

「あ、ケンちゃん」

「ん、星菜か」

 

 考えることは一緒だったのか――風呂上がりの、同じく旅館から借用した浴衣を身に纏っている鈴姫健太郎の姿がそこにあった。

 そんな彼は星菜の声に気づくと、今しがた購入した瓶牛乳を片手にこちらへ振り向いた。――途端、その目線がふらつきだす。

 

「お前も、風呂に入ってたんだ」

「あ、ああ……まあな」

 

 星菜が彼の元へ近づくと、何故か挙動不審な態度を見せて応答する。

 その視線は湯上りでやや日照った星菜の顔と生地の薄い浴衣の間で行ったり来たりしており――それに気づいた星菜が胸元を抑えながら眉をしかめる。

 

「……えっちい目だな」

「悪い……」

 

 確かに物珍しい装いをしている今の星菜であるが、いかがわしい恰好をしているわけでもあるまいに彼の視線は思春期始まりたての中学生のように泳いでいた。

 自分のことをそういう目で見ていたことを言い訳せずに謝ったのは彼の真面目な性格所以か、星菜にはそんな彼の不器用さがどこかおかしくて、くすりと笑みが漏れた。

 

 そんな彼の横を抜けて自販機に着くと、星菜は小銭を入れて目当てのボタンを押した。 

 そうして自販機の口から牛乳の入った瓶を取り出した星菜に対して、鈴姫が言う。

 

「……やっぱり、変わったな。最近の君はなんか、内面が見た目に追いついてきたように感じる」

 

 泉星菜という今の少女を見て、率直な感想を語ったしみじみとした物言いだった。

 それを聞いた瞬間、星菜は瓶の蓋を開けようとした右手の指先を止めた。

 

「意識しているつもりはないんだけどね。やっぱり、そう見える?」

「……まあな」

 

 彼が言っているのは、今の星菜の立ち振る舞いが以前よりも随分と女性らしくなったことだろう。星園渚と別れたあの日以来、明らかに変わったように感じる星菜の姿はかつてのような外行きの自分を作った礼儀正しい少女の演技ではなく、極めて自然な姿であった。

 そんな自然体な星菜を見て、鈴姫が納得したように頷きながら呟いた。

 

「星園さんが消えたがっていた理由が、改めてわかるような気がする」

「……どっちも私だよ、ケンちゃん。昔の私も今の私も、どっちも泉星菜だ」

 

 この立ち振る舞いが前より女性らしくなったと感じるのは、星園渚という男性の記憶が心から消えたことによる影響なのかはわからない。星菜自身としてはあの日以来も意識して変わろうとしている気は無かったし、特別なことは何もしていなかった。

 ただ……今の星菜の心には、野球選手であるが故に自分が女であることを疎む感情は、もう無かった。

 そんな心境の変化が何故か気恥ずかしく、星菜は照れ隠しのように語る。

 

「これでも迷ったりしているんだよ? 女のくせに、野球人として生きるのが本当に幸せなのかって」

「あんな活躍をしておいて、よく言う」

「手のひらを返すように持ち上げられたら、不安になるんだよ。こんなに上手くいって良いものなのかって」

「それはまあ、わかるが……」

 

 女子選手の存在が公式の場で許された今、泉星菜が大好きな野球を諦める理由は無くなった。

 だがそれと同時に、それまで野球に対して抱いていた病的な執着心が変わり始めてもいた。

 我ながら贅沢すぎる悩みであるが、思うのだ。

 

 今まで一つに打ち込んできた野球とは別に、もう一つの幸せを求めてもいいのだろうかと。

 

 そんな星菜はぎこちない眼差しで周囲を見回すと、そこに人影がないことを確認した上で鈴姫に訊ねる。

 

「それでさ……あの時、お前に告白された時の私が返した言葉、まだ覚えてる?」

「ああ、一言一句覚えているよ。君は俺の一世一代の告白を受け入れる為に、「野球をやめる」と返した。あの時は本当に慌てたよ」

 

 やや唐突気味に切り出した話に対して即座に答えてみせた彼の言葉に、星菜は感心する。

 好きだと言ってくれた鈴姫の言葉に対して、「野球をやめる」という答えを返したのが当時の星菜だ。

 当時よりも男らしく身体が大きくなり、身長も伸びた彼は、対照的に当時と比べて髪型程度しか変わりのない星菜の姿を真っ直ぐに見下ろしながら、かつての言われた言葉をかみ砕いて言い放った。

 

「恋人として俺に守られることを受け入れてしまったら、対等な野球選手としての関係が今度こそなくなってしまう。だから前提として野球を切り捨てるぐらいしなきゃ、君は俺の想いに応えられなかったんだろう?」

「……本当に覚えているんだな」

「君らしい答えだと思ったよ。ただ……君の中でも俺の存在が、野球をやめるに足るものだと聞いて少し嬉しかった。本心では野球を選んでいたんだとしても、な」

 

 数か月前のことを懐かしそうに語る彼を見て、星菜も当時のことが懐かしくなる。

 あの時の自分と、今の自分。改めて振り返ると、その考え方は随分変わってしまったものだと星菜は思う。

 何を持って対等とするか、何を持って彼の気持ちと向き合うのか――当時言い放った自分自身の言葉を振り返りながら、星菜はあの時の心境を語る。

 

「……どうにも不器用らしいからね、私は。いつだって野球が一番だったから、その執着を無くさないと恋愛すらまともに出来ないと思っていた。そんな中途半端な心で、お前の想いに応えるわけにはいかなかった」

「だったら俺は、君の心が決まるまでいつまでも待っていると言った。その気持ちは、今でも同じだ」

 

 俺からしてみれば生殺しもいいところだが、惚れた弱みだ。苦笑しながらそう語る彼の姿に、星菜は申し訳ない気持ちになる。

 彼は今でも、こんな自分勝手で面倒くさい女を好きでいてくれているのだ。

 

「……うん。まあ、そのことなんだけどさ」

 

 頃合いなのかもしれない。星菜は彼の目を見つめている今の自分が何を想っているのか自覚し、だからこそそう感じた。

 星園渚から幸せになれと言われて以来、星菜はこれまでずっと傍で支えてくれた彼のことを、今までと同じように見れなくなっていたのだ。

 

 彼にばかり苦痛を強いていては、それこそ対等(・・)ではない。

 そう思い、星菜は語り出した。

 

「よくよく考えれば、何事も挑戦だと思うんだ」

 

 こんな時、どんな顔をしてどんな言葉を言えば良いのだろうか。

 不安や戸惑いを隠しきれず挙動不審な仕草をする星菜に、鈴姫が不思議そうな顔をする。

 そんな彼に対して、星菜は悪いことをした子供の言い訳のように御託を並べた。

 

「その……私が野球を始めたのも、こうして戻ってきたのも……全部挑戦だった。出来るわけがないと馬鹿にされるようなことを、私はやってきたわけで……お前やみんなのおかげで、諦めなければ叶えられることもあるってそれなりに自信ついたりして……」

 

 真剣に言葉を選びながら、しかしどこかたどたどしい言葉。

 ポーカーフェイスも随分下手になってしまったものだと内心で自嘲する星菜に対して、鈴姫は首を捻ってこちらの意図を問い質した。

 

「……何が言いたい?」

「それはその……今まで私がやってきたことに比べれば、野球とそれ以外の気持ちの両立も、案外何とかなるんじゃないかって思ったんだよ」

「つまり、どういうことだ?」

「だから……それは、こう……ちょっと屈め、ケンちゃん」

「屈む?」

 

 言葉での説明が、どうにも難しい。

 どうしたものかと悩んだ星菜は、身長の高い鈴姫に自分と視線を合わせるように命じ、彼の目を間近に見据えた。

 そして星菜は、上手く言葉に出来ないその気持ちを――彼の唇に押し当てた。

 

「――っ」

「――!」

 

 投手の投げたボールが捕手の構えたミットに到達するように、一瞬の出来事だった。

 しかしその交錯は確かな現実として、二人の唇に感触として残っていた。

 一瞬の時間が通り過ぎた後、そこに残っていたのは呆けた顔で硬直している鈴姫の姿と、真っ赤に染まった顔を下に伏せている星菜の姿だった。

 

 意識を復帰させるまでの数拍の間を置いて、鈴姫が問い掛け星菜が答える。

 

「いいのか?」

「……いいわけないだろ」

 

 以前鈴姫に返した言葉を反故にするような、たった一度、一瞬の接吻。

 我ながら馬鹿なことをしたと思う星菜であったが、馬鹿で良いのだと擁護する自分も居た。

 

 これがきっと――捜していた違う自分の一つなのかもしれないと、茹で上がったような思考の隅で星菜は思った。

 

「今のはただ……これまでの感謝と、これからの願いとか誓いとか……私からのクリスマスプレゼントだっ!」

「星菜」

「っ……」

 

 言い訳になっていない言い訳を早口で捲し立てながら、自分のやらかした空気に耐えられなくなった星菜は慌ただしく、その場から走り去ろうとする。

 しかし、そんな星菜の腕を、鈴姫は掴んだ。

 利き腕ではない右腕を掴んだのは、星菜のことを野球選手として見ているからか。

 しかし今度は絶対に逃がさないという強い意志が宿った彼の眼差しは、泉星菜のことを野球選手であると同時に一人の女性としても見ていた。

 

 ――幸せというものを、一つに絞る必要は無い。

 

 早川あおいが言っていた言葉が脳裏に過り、今この時、星菜はそれを実感する。

 野球選手として野球を続けることも、野球から浮気して誰かを好きになることも――それは等しく幸せなことであり、両立出来る可能なことだった。

 

 少女を追い掛ける過程で逞しくなった少年が、道に迷って右往左往していた少女と顔を突き合わせ、力強く宣言する。

 

「俺は、強くなる」

「…………」

「世界で誰よりも、君と対等な関係になる為に」

 

 少女のことを守る為ではなく、対等に並び立って互いに切磋琢磨し合い、共に寄り添い合いながら旅を続けていく――そんな男になってみせると、鈴姫健太郎は言う。

 

「……それは、こっちの台詞だ」

 

 泉星菜は笑う。

 野球も恋愛も、どちらも両立させる挑戦をしてみるのもまた人生だ。

 その壮大な旅がたとえ困難な道のりだとしても、この気持ちに偽りはなかった。

 

 

「愛しているよ、ケンちゃん。野球の次に、大好きだ」

 

 

 かつてないほどに恥ずかしい表情を浮かべた星菜が言い放ったのは、我ながら何とも自分らしい、最低な告白だった。

 

 

 

 ――その後、そんな彼女らのやり取りを柱の陰から見守っていた恋々高校バッテリーにより、二人が盛大に茶化されつつ祝福されたのは別の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――選抜高校野球選手権、通称「春の甲子園大会」。

 

 秋の大会で優秀な成績を収め、選考委員会によって選抜された全国各地の代表校がしのぎを削り合うその舞台に、地区大会を制した竹ノ子高校野球部は出場していた。

 全ての高校球児達が憧れる聖地、甲子園球場。開会式が終わった後でその第一試合が始まり、詰め掛けた満員の観客達の前で愉快な九人が各ポジションへと散らばっていく。

 

《キャッチャー、六道君》

 

 場内アナウンスのウグイス嬢に紹介される竹ノ子高校の司令塔は、新三年生の捕手六道明。

 堅実なフィールディングと巧みなインサイドワークは年下の投手陣を引っ張り、これまで各々の長所を引き出してきた。

 校内では生徒会長も務めており、真面目な性格と整った顔立ちは女子生徒達からも人気なのだが、彼には既に中学時代から一途に想っている彼女が居り、今この時でもその恋人は「データ取りの一環」として観客席から見守っていた。

 実はその恋人、昨年の夏甲子園に出場した海東学院高校のマネージャーだったりする――のだが、そんな裏話である。

 

《ファースト、波輪君》

 

 一塁を守るのは都道府県大会の二回戦からスターティングメンバーに復帰した竹ノ子高校の主将、波輪風郎である。

 昨年の夏まではエースとしてチームを引っ張ってきた彼だが、右肩の故障と一年生投手が台頭してきたことから背番号「1」を預け、肩の負担を減らす為にファーストへのコンバートを行っていた。 

 長い距離を遠投をすることはまだ出来ないが、依然その打棒は健在。秋の大会ではあかつき大附属の猪狩守からチーム唯一の得点となる逆転のツーランホームランを放ち、竹ノ子高校野球部を地区大会制覇へと導くこととなった。

 右肩を負傷して以後も変わらずプロ注目選手の一人であり、チームの大黒柱が大舞台でどんな活躍を見せるのかは各方面から注目されている。

 

《セカンド、小山さん》

 

 二塁を守るのは――小山雅である。地区大会から特例的な形でチームに加わり、彗星のように現れた天才的な三人目の女子選手。

 そんな彼女の存在は、各方面から注目を集めた。器用に両打席をこなす神主打法から放たれる痛烈な打球は正確無比の狙いでヒットコースを突き破り、九割を超える凄まじい打率を残して春の甲子園へと乗り込んできた。

 加えてプロ野球でも滅多に目に掛かれない広大な守備範囲を持ち、その超人的なプレーによってチームのピンチを幾度となく救ってきたものだ。

 しかしその一方でプレー以外でのメディアへの露出は本人の頑なな意志で拒否されており、珍しく行われた試合後のインタビューへの対応も放送事故一歩手前の塩対応だったりする。そんな彼女だが同じ女子選手である泉星菜にだけは穏やかな表情を見せる為、その様子がテレビに映った際には一部の層が百合の花として扱うどうでもいい話がある。

 新聞記者のインタビューに応えた数少ない発言の中には、「早川あおいのマリンボールが竹ノ子高校野球部に加わった理由です」という、何やら因縁めいた言葉が記録されている。

 

《サード、池ノ川君》

 

 三塁を守るのは新三年生の池ノ川貴宏だ。

 打球反応の良さと持ち前の強肩から放たれる品のある送球が持ち味の選手であり、打撃もまた秋から春に掛けて大きなレベルアップを果たした選手の一人である。

 これもまたどうでも良い話であるが、甘いマスクの選手に囲まれている内野陣の中で彼だけは甘さとは無縁な顔立ちをしている為、一部の地元民からは憐れみの意味も込めて人気だったりする。しかしそんな彼にも外国に旅立った遠距離恋愛の恋人が居るということは、知る者ぞ知る話である。

 

《ショート、鈴姫君》

 

 遊撃を担うのは、内野陣唯一の新二年生である鈴姫健太郎だ。

 走攻守三拍子揃ったハイレベルな能力は昨年夏の時点で非凡な素質を見せていたが、秋からはさらに磨きが掛かっている。

 秋季大会の通算打率は六割を超えており、その内記録したホームランは三本と激増した長打力も見せつけている。

 主将の波輪を五番に添えて彼を四番に置いたクリーンアップは驚異の得点力を誇り、チームの課題であった得点力の問題を一気に解消した。

 セカンドを守る小山雅との連携も抜群であり、二人がコンビを組んで以降、二遊間を抜けていくゴロヒットは未だに記録されていない。

 しかし個人的な仲はあまりよろしくないらしく、時折彼女から憎々しげな目で睨まれている彼の姿がカメラに映っていたりとかなんとか。

 

《レフト、外川君》

 

 左翼を守るのは外川聖二。元々はファーストを守っていたが、波輪のコンバートを受けて外野に移ることになった背番号「7」である。

 ミート力の高い打力が持ち味で、夏はチームの五番を打っていた好打者だ。そんな彼も今は七番と下位打線に追いやられているが、それは彼の成長が停滞したわけではなく、チーム全体の層が底上げされている何よりの証であろう。

 勝負強い打撃はチームメイトからも信頼されており、敬遠されて出塁した走者波輪を彼が帰すという展開は秋季にも何度か見られた。

 

《センター、矢部君》

 

 瓶底眼鏡がトレードマークの中堅手は、外野の守りの要である矢部明雄である。

 俊足を生かした広大な守備範囲とミスを恐れないダイナミックなフィールディングが持ち味であり、リードオフマンも務める副主将は攻守に渡ってチームを引っ張っていた。

 細身ながらもツボに嵌まればフェンスを越える打球を放つことが出来、都道府県大会のパワフル高校戦では好投手山道翔の自己最速149キロを弾き返した先制のホームランを記録している。

 そんな彼はチームでは二番を打ち、茂木監督の方針の下バントをしない攻撃的二番打者として持ち味を発揮していた。

 

《ライト、青山君》

 

 フハハ!と、いつも笑顔の絶えない右翼手は新二年生の青山才人だ。

 竹ノ子高校野球部はライトだけは明確なレギュラーが居ない為、最も激しいポジション争いが行われている守備位置だ。彼もまた元々のポジションは投手なのだが、監督からは外野手としての評価も高く、同学年の控え投手である丸林隆の調子が良い時などはこうしてスタメンライトに入ることがある。

 

 

 一番ピッチャー泉。

 二番センター矢部。

 三番セカンド小山。

 四番ショート鈴姫。

 五番ファースト波輪。

 六番サード池ノ川。

 七番レフト外川。

 八番ライト青山。

 九番キャッチャー六道。

 

 

 ――以上の九人が、大金星を上げて甲子園球場に乗り込んできた竹ノ子高校のスターティングメンバーである。

 

 良くも悪くも個性的で、一部頼りないような気がすれば頼もしくなることもある不思議な仲間達だ。

 そんな仲間達に囲まれながら、「星のお姫様」あるいは「かぐや姫」などというあだ名をいつの間にかメディアから付けられた野球少女がマウンドに上がる。

 プロ野球の始球式以外では史上初めて甲子園球場のマウンドに上がった野球少女は、投球練習を終わらせた後、気合いを入れ直すようにロジンパックを叩き落とした。

 

「よし、やるか」

 

 自惚れでなければ全国大会の舞台に現れた世にも奇妙な女子選手の試合を観に来たのであろう、この甲子園球場には圧倒されるほど多くの観戦客が詰めかけていた。

 しかしこの試合の先発マウンドに上がった野球少女――泉星菜の心は、そんな彼らの存在も決して悪いプレッシャーにはならなかった。

 

 ――ただ純粋に、この日を迎えられたことが嬉しい。野球を諦めなくて良かったと、ただ、そう思った。

 

 

「プレイボール!」

 

 主審の号令の下、試合が開始する。対戦相手は優勝候補の一角、神帝学園高校だ。海外の血が混ざったハーフの選手を集めたこのチームは、主将のグラビトン新井を筆頭に大柄な選手が多く、その打線は下位打線まで高校野球離れした長打力を誇る。

 

 ――そんな打線を遅いボールできりきり舞いにしたら、面白いよね。

 

 自身の投球との相性を考えながら方針を定めた星菜は帽子を締め直し、上体を前に屈めて捕手のサインを窺う。

 一生一度の大舞台。その第一球に何を投じるか……実を言うとそれは事前の打ち合わせて決めており、捕手の六道もまた星菜から持ちかけられたそれを了承していた。

 

 投球の基本であり、技巧派投手の生命線。彼女自身は本格派を自称しているが、その場所は分割されたストライクゾーンの中で最も好きなコースであり、これまでの野球人生で最も投げ込んできたところだった。

 

 捕手が構え、投手が振りかぶり、打者がバットを揺らす。

 広大なグラウンドで目に出来る動作の一つ一つが、泉星菜がこの世で最も愛する「野球」を成していた。

 

 

外角低め(アウトロー)!」

 

 

 オーバースローから振り抜かれた華奢な左腕から、開幕の第一球が放たれる。

 ストライクゾーンの限界に挑戦した渾身のストレートに、球審の右腕が大きく振り上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その後、竹ノ子高校野球部がどのような活躍を見せたのか……その顛末は今、ここで語られることはない。

 

 

 

 

 

 

 ただ――そう遠くない未来、大人になり自らの家庭を築いた少女の住居には、栄光の旗を掲げた高校球児達の写真が、いつまでも飾られていたと言う。

 

 

 

 そしてその部屋の奥では額縁に収められた背番号「28」のレプリカユニフォームと共に、ただ一言感謝の気持ちが書き込まれたサインボールが静かに供えられていた。

 

 

《ありがとう  鈴姫星菜より》 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【外角低め 115km/hのストレート】 THE END(おしまい)

 

 

 

 

 

 







 くぅ疲、これにて完結です。お疲れ様でした!

 四年に及ぶなっがいなっがい投稿期間の中、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました! 何度も停滞を続けてきたツッコみどころ多数な本作ですが、皆さんの温かい応援のおかげでこうしてようやく、ようやく! 完結させることが出来ました(感無量)

 そんな本作でしたが、「え? これで終わり?」と思った方もいるかもしれません。
 私としても書き始めた頃の予定では星菜が卒業するまでの三年間を書く予定だったのですが、この後の話になると星菜よりも雅氏やあおいちゃんが中心になる感じだったので、主人公の物語としてはここを落としどころにした方が綺麗にまとまると思い、こうして全89話で完結となりました。打ち切りというわけではありませんので、どうかご容赦くださいm(__)m
 後出しジャンケンのようで申し訳ありませんが、私としては本作のことは「理屈っぽく捻くれ曲がった野球少女が周りの影響を受けながら自分の道を取り戻し、球速の遅いストレートのように前に進んでいく」という王道的な物語を一貫して書いてきた……つもりであります。なお表現力。文章力。

 あおいちゃんのリベンジなど、私の至らなさによりぶん投げてしまった伏線もちらほらあるので、機会があればその辺りのことをまた一話完結の番外編か何かの形で書くことがあるかもしれません。卑劣な私を許してくれ……

 再三に言いますが本作をここまでお読みいただいた方々には、本当に感謝の極みです。
 後書きをあまり長くここに書き綴るのもアレなので、書きたいことがあったらまた活動報告の方に載せたいと思います。

 それでは、サヨナラ!





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番外編 その後の少女たち
【後日談ネタ】一年後のドラフト会議


 89話を崩してしまうのがちょっと惜しかったですが、新井さんが引退する悲しみに耐えられなかったので一話完結の番外編を投稿します。

 時系列は最終話から約一年後になります。


 

 

 ――プロ野球ドラフト会議。

 

 十月下旬、最近では日本シリーズの前に行われるそれは、プロ野球チームにとっては未来への投資であり、スカウトにとっては数年間に及ぶ発掘調査の集大成。そしてプロ志望届を提出したアマチュア選手にとっては、夢の舞台への最後の登竜門となる。

 

 近年、野球人口の爆発的な増加により、志望届提出者の人数は年々最多を更新していき、その倍率は年々高くなっていた。

 

 しかし来年度から、かねてより水面下で計画が進められていた「猪狩カイザース」、「頑張パワフルズ」、「まったりキャットハンズ」、「極悪久やんきーズ」、「津々家バルカンズ」、「シャイニングバスターズ」の六チームからなる新たなプロ野球リーグ「レボリューション・リーグ」が創設されたことによって、このドラフト会議にも以上の六球団が新たに参加することになった。

 それはいい意味ではプロ野球の敷居が低くなったということでもあり、一部では国内リーグのレベル低下を招くのではないかと懸念されているが……近年から溢れ返っていた優秀な人材を鑑みれば、さほどの影響はない筈だろうと分析されている。

 

 これはそんな新リーグが発足後、初めて行われた「18球団」によるドラフト会議――猪狩守らを筆頭に後に球史に名を残す数々の名選手を輩出することになる、歴史的なドラフト会議の一幕である。

 

 

 

 

 

《第二回選択希望選手、広島東洋――グラビトン新井。投手、神帝学園高校》

 

 各球団が提出した指名選手の名前を、アナウンスの男性が妙にダンディーな声で読み上げていく。

 多くの国民達が注目しているドラフト会議の様子は、「竹ノ子高校」の職員室に配備されているテレビにも映し出されていた。

 指名リストの中にはこの「竹ノ子高校」に所属する選手も居る為、今日ばかり野球部の練習は早めに切り上げ、部員達は特例として引退した三年生を含むほぼ全員が職員室のテレビを取り囲んでいた。

 

「新井さん帰ってキター!」

「グラビトンは広島かー、でっかいピッチャー好きだからなあそこは」

「グラビトンツライ……いや、何でもない」

 

 そんな今の彼らの様子は現役の野球部員、と言うよりは一介の野球ファンと言った方が相応しいのかもしれない。

 やれあの高校のアイツはここで来るか、アイツはまだ指名されないのか等、何人か実際に対戦したことのある名前が呼ばれてくる会議の内容を、彼らは和気藹々と好き勝手に感想を溢しながら眺めていた。

 

「上位指名は高卒組が多いなぁ」

「過去最高の豊作世代って言われてるッスからね。進学するんじゃないかって言われていた猪狩君や山口君まで志望届を出したんだから、そりゃ凄い顔ぶれッスよ」

 

 プロ志望届を提出された選手についてはこの場に居る誰よりも詳しい、自他共に認める野球オタクであり、()竹ノ子高校マネージャーである川星ほむらが驚嘆する一同に解説を入れる。

 そんな彼女のとなりには、一年生時から付き合っている彼女の恋人であり、既に指名を受けている()主将、波輪風郎の姿があった。

 野球部を引退した後も髪を伸ばすことのないその頭には、アルファベットの「H」と「T」を組み合わせたマークの黒い帽子が被さっている。

 交渉はまだ始まっていないのだが、彼は既にプロ野球チームの一員になった気分だった。

 

「風郎君、タイガース一位指名おめでとうッス! グラビトン君が二位指名される顔ぶれで一位ッスよ一位! やっぱり、風郎君の努力は間違いじゃなかったッス!」

「ああ、ありがとうほむらちゃん。でも、俺だけの力じゃないよ。ほむらちゃんや監督、ここにいるみんなのおかげで掴み取れたんだ。……ありがとな、マジで」

「……言ってくれるじゃないか、波輪」

「ぶわっ……泣いてねぇぞ俺ァ!」

 

 八月に(・・・)野球部を引退した後、その距離感をさらに近くした恋人のほむらに抱き着かれながら、波輪は自身の一位指名を屈託なく喜び、仲間達への感謝の言葉を告げると野球部のチームメイト達が一様に祝福する。これには普段クールな六道明も口の悪い池ノ川も、感極まっている様子だった。

 

 彼らがこうして気楽に会議の行方を眺めていられるのも、波輪が一位指名で早々にリストから消えたのが最大の要因であろう。二年夏は発覚したルーズショルダーによって評価が落ち、以後三年夏までほぼ野手として活躍してきた彼だが……ドラフトのこの日、「投手として」単独一位という指名はチームメイト達にとっても、本人にとっても驚きの結果であった。

 

「でも、まさか本当にピッチャーとして指名してくれるなんてなぁ。タイガースさんのスカウトは一年の頃からずっと見ててくれたし、期待に応えないとな」

「さっきのアニキ監督のインタビューだと、野手転向も考えていると言ってたが」

「いや、夢はでっかく二刀流だ! スタメンで四番を打ってから、クローザーでマウンドに上がったりしたら最高にカッコ良くね?」

「波輪君……! それはカッコいいッス!!」

「……引退してから順調にバカップルになってるな。そう言えば、阿畑やすしとはチームメイトになるのか」

「はは、あの人とも何かと縁があるよな俺」

 

 一年生の頃から高校野球界で活躍し、甲子園でもその打棒で幾度となく華々しい活躍を収めてきた波輪だ。

 怪我の具合もまた、短いイニングを全力投球する程度ならほとんど問題ない状態まで回復している。

 元々、野手としてならば上位指名は固い。それがドラフト開始前からの波輪の評価だった。

 そんな彼が投手として一位指名を受けたという予想以上の結果は、ドラフト評論家を気取る一部の者達にとっては賛否両論あるものかもしれないが、指名された当人からすれば願ってもない高待遇だった。

 

 最高の順位で指名を得て、これでめでたしめでたし――と野球部OBであり同級生の外川聖二がパンッと手を叩くと、一同に向かって言い放った。

 

「よし、波輪も指名されたし帰るか!」

 

 

 

 

「酷いでやんす! まだオイラの指名が残っているでやんすよ!」

 

 外川の言葉に対して悪ノリ良く職員室から撤収しようとした一同に抗議したのは、野球部()副キャプテンの矢部明雄である。

 元来こういったイベントでは誰よりも盛り上がり、一位指名を受けた波輪の親友でもある筈の彼は、このドラフト会議の間妙に大人しくしていた。

 

 ――その理由は彼がアナウンスの口から「矢部明雄、外野手、竹ノ子高校」の声が出てくることを今か今かと待ち構えているからであった。

 

 もちろん、一同はそのことを知っている。

 彼がプロ志望届を提出することに対して、快く背中を押してあげたのもまた彼らなのだ。

 その上で、彼らはいつもと同じように接しているだけなのだ。少々性質が悪い体育会的な冗談であったが、矢部も本当に怒っているわけではなかった。

 

「冗談だよ冗談! 外ではインタビューも待ってるし、指名されたら矢部君も一緒に受けようぜ」

「指名されなかったら?」

「大学でも頑張れ!」

「ふ、不安でやんす……」

 

 ――皆、これでも全員矢部のプロ入りを信じているのだ。

 いつもと同じイジリ方をするのもまた、そんな彼らが快く矢部を送り出したいと思っていればこそである。

 尤も、彼が波輪と同じように上位指名を貰えるかどうかで言えば、不安な思いは大きかったが。

 

「……実際、プロから見た矢部君の評価ってどうなんだろうな」

「足の速さや守備力、見た目と裏腹に丈夫な身体なんかは結構評価されているみたいッスね。ただ、外野専門の高校生ってなると、よっぽどの実績がないと補強ポイント的に後回しにされがちッスから……下位指名ならワンチャンある筈ッス」

「し、信じているでやんす……プロの目は、オイラという逸材を逃さないでやんす」

「ああ、逃さねえよ」

 

 客観的なスカウト評価を冷静に行う川星ほむらの姿はその言葉だけ抜き取れば非情に見えるかもしれないが、そんな彼女もまた矢部の指名を疑っていない。

 

 そして、指名順位が三巡目に回ってきた時である。

 

《第三回選択希望選手、まったり――早川あおい。投手、恋々高校》

 

 チームメイトではないが、署名運動以来何かと縁の多い、恋々高校のエースが指名された。

 高校野球公式戦初の女性選手である彼女は、遂に前代未聞の「女性選手初のNPB入り」を成し遂げたのである。

 

 この快挙に、テレビを囲む一同は多いに盛り上がった。

 

「お! 早川ゥー!」

「おおー! あおいちゃんやっと来たか!」

「キャットハンズの三位指名……ここで来たか」

「寧ろ、なんでここまで残ってたし。雅ちゃんが言うには、今のあおいちゃんはあの猪狩よりも打ちにくいんだろ? 一位で消えると思ってたわ。スカウトは節穴だな」

 

 三位――それは十分に高評価を受けていると言える指名順位であったが、彼女の今の実力を知っている者達からしてみれば、指名を喜びこそすれど些か首を捻るところだった。

 

 誰かが上げたその声に同意したのが、この竹ノ子高校に所属する二年生であり――彼女と同じ女性選手である泉星菜だった。

 

「まったくです。とんだ茶番ですね」

 

 深く呆れたように溜息をつき、彼女はグチグチと彼女の指名に対し難癖をつける。

 ……とは言うものの難癖は彼女に対してつけたものではなく、彼女を指名したまったり――新規参入球団である「キャットハンズ」の親会社である「まったりタクシー」という企業に対するものだった。

 

「……あそこは今、新規球団の中で一番経営がグダグダになっているところじゃないか。来年には創設早々身売りしているかもしれないって言うのに……もうないじゃん」

 

 二位以下の指名は全てウェーバー制になっているNPBのドラフト制度では、指名した時点でそのチームが入団交渉権を獲得したことになる。

 つまり早川あおいが高卒でプロ入りをする為には、どうあってもまったりキャットハンズに入団するしかなくなったということであり……他チームからの指名を得られないことに失望した星菜は、マスコミに抜かれたら炎上待った無しの失言を溢した。

 

 そんな彼女の背中をやめろと冷静に小突いたのは、彼女の隣でドラフト中継を見ていた竹ノ子高校野球部()主将、鈴姫健太郎だった。

 久しぶりに三年生のOB達と会って、どこか気が緩んでいたのであろう。星菜はハッと目を見開いて周囲にマスコミの影がないことを確認すると、自身の失言を誤魔化すようにてへっと笑った。

 美少女とは得なものだ。新入生の後輩達なら一発で騙されたであろうその笑顔(猫かぶり)に、今度は鈴姫が溜息をついて苦笑する。

 

「君は早川さんのモンペか何かか。素直にあの人のプロ入りを喜んでやれよ」

「もちろん喜んでいるよ? でもあおいさんが指名されるのは当たり前の話だし、何巡でどこに入るかだけが心配だったんだよ」

「昨夜は心配で眠れずに、迷惑メールばっか俺に寄越してたもんな……じゃあ、本当はどこに入ってほしかったんだよ?」

「それこそ、まったり以外ならどこでも。泉家的にはバスターズが良かったけど」

「ああ……なるほど。シャイニングはお義父さんが働いている会社だもんな」

「お義父さん呼びはやめてくれ。その、時期尚早だから」

「いや、おじさんの方から是非お義父さんと呼んでくれって言われたんだけど。昨日久しぶりに会ったけど、相変わらず愉快な人だったな」

「あの親父め……普通逆だろ」

 

 最近順調に外堀を埋められたり埋めたりしている星菜は、この野球部に入って以来目まぐるしく変わっていった自身の環境を思い、そして早川あおいという尊敬する先輩であり、ライバルがかつて自分が憧れていた世界に旅立ったという事実に対して儚げな笑みを浮かべる。

 まだ卒業したわけではないというのに、一抹の寂しさを禁じ得ない。これが、恩人の旅立ちへの気持ちなのだろう。

 そんな感情をぶつけるように、星菜は自身のスマホを取り出すなり殴りつけるような早打ちでメールを送信した。

 

「えっと……指名おめでとうございます、と」

「キャットハンズ自体は嫌いじゃないんだな」

「そりゃそうでしょ。どんなチームだって立派なプロ野球だもん。プロ野球選手になることは、あの人の夢だったんだから」

 

 それはそれ、これはこれだ。

 星菜自身としては色々とゴタゴタしているキャットハンズの親会社に対して思うことはあったが、「キャットハンズ」というプロ野球チームに対しては何も言うことは無い。新規参入球団と言えどNPBに所属するれっきとしたプロ野球チームであることに変わりはなく、あおいが入団するのなら全力で応援するつもりだった。

 そんな気持ちで送信した彼女への祝福メールからほどなくして、星菜のスマホがピロリンと着信音を鳴らした。

 

「あっ、返信来た」

「早いな。指名の時点で、あの人の周りにはマスコミが寄ってるもんだと思っていたけど」

 

 早川あおいと言えば、今や各メディアから動向が注目されている人気者だ。

 卓越した能力を持つ女性選手であり、ルックスも抜群に整っているとなればスター揃いの世代の中でも際立って注目を集めるのも当然であろう。

 その多忙さはテレビ中継ではまだ下位指名が行われている最中だと言うのに、ワイプで彼女のインタビューの様子を映そうとしていることからもはや語るまでもない。

 

 だが星菜にとって嬉しかったのは、そのように忙しい中でもこうしてすぐにメールを返してくれたことから窺える、彼女にとっての自身への優先度の高さに対する喜びだった。

 

 そんな彼女から送られてきた返信のメールを見て、星菜は思わずという気持ちでくすりと笑みを浮かべた。 

 

「……まったく、あの先輩は。勝手に人の進路を決めるなっての」

「なんて書いてあったんだ?」

 

 スマホの画面に映し出されたのは、マスコミへの対応に追われる彼女が急いで書いたことが窺える、たった四文字の言葉だった。

 そのひらがなから伝わってくる彼女の思いに、まだ卒業後の進路も決まっていない星菜は戸惑いながらも笑ってしまった。

 星菜はそんな表情を浮かべたまま、横から内容を訊ねてきた鈴姫に対してスマホの画面を向けた。

 

《まってる》

 

 プロの世界で共に野球をする日を、待っているということだろう。

 多くを語らずとも、星菜には何となく彼女の気持ちがわかった。

 

「なるほど」

「そういうこと」

 

 彼女もわかっているのだろう。発展していく野球界の中で、これから先自分の後に続く女性選手達が増えていくことを。

 

 それに対して、星菜がパッと思いつく人物は二人だ。

 

 一人は中学野球の時点で従兄以上の才能を発揮し周囲の度肝を抜いている野球少女、六道聖――彼女とは先日久しぶりに会ったものだが、彼女の野球センスは中学時代の星菜よりも健やかに成長を続けており、いつか本気同士の勝負が出来る日も、そう遠くないのではないかと思われる。

 

 そしてもう一人は、この竹ノ子高校野球部OBの小山雅――夏の甲子園大会では十以上の打数で通算打率1.000を叩き出し伝説を打ち立てた彼女は今、プロ志望届を出すことなく一人趣味のツーリングに出掛けている。

 

 そんな彼女らの姿を脳裏に浮かべながら、星菜はワイプに映し出されたあおいのインタビュー映像を眺めていく。

 竹ノ子野球部にとって不意を突くように重大な発表がされたのは、その時だった。

 

《第五回選択希望選手、頑張――矢部明雄。外野手、竹ノ子高校》

「! 来ましたね、矢部先輩っ!」

 

 星菜が丸渕メガネの先輩に振り返り、ぐっとサムズアップのポーズを取る。

 五巡目の指名――これも新規参入球団である「頑張パワフルズ」によって、ついに矢部明雄が指名を受けたのだ。

 あおいのインタビュー中に指名されるとは、何とも彼らしい締まらない中継だったが――そのあおいもこの指名を見た際には自身のインタビューを止めてもらい、満面の笑みを浮かべていた。

 

《あ、すみません。あの、矢部選手と波輪選手のいる竹ノ子高校には、件の活動をしていた頃から良くしてもらっていたので……はい、二人の指名も、ライバルになりますがとても嬉しいです!》

 

 天使かな?――そんな声が、テレビを見ている部員達から上がっていく。あおいの笑顔を見て、嫉妬しない者であれば大体の国民がそんなことを思っているところであろう。

 この一年で随分とインタビュー慣れしたようで、星菜も安心していた。因みに星菜は普段自分がこの手のインタビューを受ける際には心を虚無にして受け流すことが多い為、彼女のように本心からの笑みをメディアに晒すことはあまりなかった。

 

 閑話休題。

 五位指名を受けた当人たる矢部は、数秒経ってようやく現実を理解したのか、猛々しい奇声を上げながらバタバタと跳び上がった。

 

「やんす……やんす? やんす! やんすー!!」

「やったな、矢部君!」

「おめでとう!」

「おめでとう!」

「おめでとうございます、先輩!」

「お! めどとゥー!」

「フハハ! 先輩が五位指名なら、来年の僕は一位指名確実ですね! いつか十六球団競合を達成して、青山の名を世界に轟かせたい」

「泉と鈴姫の入る二チーム分だけ枠を空けたあたり、成長したな青山」

 

 念願のプロ入りを果たしたのだ。

 元々指名が確実視されていた波輪とは違い、当落線上だと思っていただけに喜びもひとしおか。これまでの緊張や不安を解き放つかのように矢部は歓喜の舞を踊り、一同に感謝の思いを打ち明けた。

 

「みんな、今までありがとうでやんす! 特に監督っ! 下手くそでダメダメだったオイラをここまで鍛えてくれて……本当に、ありがとうございました!!」

 

 監督の茂木と向かい合いながら、矢部は万感の思いを込めて深々と頭を下げる。

 彼の見せたその姿に一同は鎮まり、最も驚いていたのは頭を下げられた茂木の方だった。

 

「矢部、お前……」

 

 メガネの奥で光る雫を見て、彼がどれほど強い感謝を抱いているのか察したのであろう。

 普段がちゃらんぽらんな人物だと思われていたからこそ、そして一年生の頃から指導し続けてきたからこそ――茂木もまた、成長した彼の姿に感慨を抱いている様子だった。

 

 また一人、野球が人を育てたか……そう呟き、茂木は照れくさそうに笑みを浮かべる。

 

「へっ……何言ってんだか。顔を上げろ、矢部。お前も波輪も、プロ入りがゴールじゃないだろ? お前ら二人とも、まだ入り口に立っただけだ。俺に感謝してるんなら、プロでも活躍してファンを喜ばせてこい。俺も、お前らのファンになってやるからよ」

「言われるまでもないでやんす! もっともっとビッグになって、波輪君にも負けない選手になるでやんすよ!」

「ああ、それでこそ矢部君だ!」

 

 矢部明雄という選手は元々プロ入りが期待出来るような選手ではなく、茂木監督の叩き上げでここまで成り上がった選手である。

 そう考えれば彼こそが、高校三年間で最も成長した選手なのかもしれない。彼を指名した頑張パワフルズもまた、そういった矢部のハングリーな将来性に期待し、五位指名に踏み切ったのだろうと星菜は思った。

 星菜自身も、彼の力には何度も助けてもらった。

 そんな感謝の思いもあり、星菜はこれからはチームメイトとしてではなく、ファン目線で彼のことを応援していきたい。そう思い――

 

「そして、美人な女子アナをゲットするでやんす!」

「……それでこそ矢部君だ」

 

 ――思ったところで、躓き、もうっと呆れた。

 彼の正直な性格には好感を持っているが、やはりこの空気の読めなさだけは死んでも治りそうにないなと思った。

 

「さっきまでカッコ良かったのに、相変わらずで安心したッス」

「そういや、アイツが野球始めた理由ってそれだったな」

「先輩のそういう正直なところ、私は好きですけどね。矢部先輩のいいところを知っている人になら、なんだかんだでモテそうだと思うんですけど」

「それが確かならこんなになるまで悪化しなかったろうさ」

「泉ちゃんは知らんだろうが、過去にコイツに興味を持った女の子も居たには居たんだが……みんなコイツの空気を読めない態度に呆れて去っていったんだよ」

「……はい。なんかわかります」

「まあプロ野球選手になって活躍すれば、矢部好みの女なんて幾らでも寄ってくるだろうさ。寧ろ俺はあからさまなハニートラップに引っかからないか心配だ」

「フハハ! 間違いなく引っ掛かりますね! 矢部先輩はすぐに調子に乗りますから」

「青山君にだけは言われたくないでやんす!」

 

 何はともあれ、波輪も矢部もこの日にプロ野球への第一歩を歩み出し、竹ノ子高校としてはこれ以上ないハッピーエンドである。

 

 尤ももう一人、竹ノ子高校には志望届を出していれば指名間違いなしと言われていた人物が居たのだが……こればかりは本人の希望によるもののある為、星菜にはその選択を否定することは出来なかった。

 

 

 ……寧ろ志望届を提出したあおいよりも、彼女の気持ちの方がわかる気がするのだ。

 

 

(来年の私は、どうしているかな?)

 

 来年のドラフトは自分達が対象者になる番だ。

 既に試合を行えば自分や鈴姫を目当てに何球団かのスカウトが視察に訪れており、中には波輪の指名を手掛けたフリーの名スカウト、影山秀路の姿もあった。

 星菜があおいのようにプロの世界を目指すか――と言うと、それは今のところ何とも言えないのが正直な気持ちである。

 

 というのも「野球で完全燃焼する」というのが星菜の当面の目標であり、その目標は必ずしもプロ入りと結びつくものではないからだ。

 

 要は自身が高校野球で満足出来るか、出来ないかの問題だ。泉家が裕福な家庭であるが故に、星菜には「プロ野球選手になって大金持ちになる」というようなわかりやすい目標を抱けなかったのだ。

 

 ――だから、将来のことはまだわからない。

 

 何とも贅沢な悩みで、聞く人が聞けば怒られそうな話である。

 それでもこの心にはお気楽なまでに不安がないのは、一体誰のせいだろうか?

 

 

 星菜は苦笑を浮かべながら恋人の横顔を見上げ――意味も無く、脇腹を小突いた。

 

 

 

 




 作中に出てきた他のネームド選手の進路は

 青葉→スワローズ四位指名
 朱雀→やんきーズ外れ一位
 山道→パワフルズ四位指名
 奥居→ライオンズ五位指名
 小波→進学
 山口→三球団競合→ドラゴンズが獲得
 大西→八球団競合→キャットハンズが獲得

 猪狩守→カイザース、バスターズ、ジャアンツ、スワローズ、ファイターズの五球団競合→カイザースが引き当て守君完全勝利

 という感じです。守君に関しては例によってファイターズの神の手に引き当てられた後、親父大激怒→無念進学ルートとか思いついてしまいましたがそのネタはあまりにもあんまりだったのでボツに。競合数が原作より少なくなっているのは本人の能力が低いのではなく、二年から甲子園に出れてないからと言う激戦区故の悲しみを背負ってしまった為。

 大西氏は甲子園をやるとしたら最強の敵として扱う予定だったので、ドラフト候補の中で最高の評価がされていました。

 因みにあおいちゃんは三年の夏でマリンボールをさらに超えるMMボールとか大変な魔球を生み出したりしています。

 またネタを思いついたら投稿するかもしれません。


※以下パワプロ2018の感想。



 星菜「……鈴姫、再登場は嬉しいが、お前なぜ右打ちになってるし」


 最近は原作で続々と超人染みた女性選手が登場している中、何故か初代女性選手であるあおいちゃんだけ一向に強化されないどころか、昔より弱体化されている気さえするのが納得できないでいます。
 なので私は次に番外編を書くとしたら本編で描けなかったスーパーあおいちゃんを書くために、「竹ノ子+恋々の混合チーム同士の対決」とかそういう話を書くと思います(∩´∀`)∩



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もしも実況パワフルプロ野球に泉星菜が収録されたら

 今回はちょっと世界観が違うIFストーリーです。星菜がプロになったらというもしもワールドな世界観なので、深く考えず軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。


 

 実況パワフルプロ野球――通称パワプロ。

 子供から大人まで多くのユーザーを抱えたそれは、おそらく日本で最も有名な野球ゲームと言っていいだろう。

 シリーズの累計売上は2016年時点で2140万本に達しており、今もなお売れ続けている。ソーシャルゲーム全盛時代である現代こそ据え置きソフトでの勢いこそ多少衰えたものの、ソシャゲはソシャゲの方できっちりとシリーズを展開しており、寧ろ販売側からしてみればそちらの方が主力となっているほどである。

 時代が変われば方針も変わる。野球界がフライボール革命やオープナーなど積極的に新しい戦術を取り入れてきたように、ゲーム会社もまた時代のニーズに合わせて変化し続けているのだ。

 

 しかしただ一つ変わらないのは、巷の野球少年たちにとってこの「パワプロ」というゲームが今も変わらず人気であり、野球そのものを始めるきっかけになることも多いということだ。

 

 世代的に直撃していたこともあってか近年では現役のプロ野球選手の間でもパワプロに親しみを持つ者は多く、パワプロ内での自分のステータスを上げていくことをモチベーションに練習に励む選手もいるのだとか。

 

 ……これは、その「パワプロ」と関わることになったプロ野球選手の――やがてそう遠くない将来に訪れたかもしれない、「もしも」の世界の物語である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ストライク! バッターアウト!』

 

「ああーーっ!? ひっどい! なんでそこでチェンジアップ投げるのよー!」

 

 とあるスタジオの中、悔しさを露わにした若い女性の声が響く。

 穏やかな笑い声に包まれた会場の中で長椅子に腰掛けた緑色の髪の女性が天井を仰げば、右隣に座る黒髪の女性がしたり顔でほくそ笑んでいた。

 

「もう、あおい先輩は追い込まれるとなんでも振り回すんだから!」

「こ、こういうゲームは苦手なの! 大体ボクピッチャーだし! 配球とか読めないし!」

 

 緑髪の女性の後ろでは同じ方向を見つめていた水色の髪の女性が呆れたように溜め息を吐き、そんな後輩の態度にむぅっと唸りながら緑髪の女性――早川あおいが開き直ったように叫ぶ。その姿は二十歳を過ぎた女性とは思えないほど子供らしく見えた。

 実際、今この時の彼女は童心に返った気持ちで目の前のそれと向き合っていた。悔しがるあおいがワイヤレスのコントローラーをチームメイトである「橘みずき」に手渡すと、バトンタッチを受けた水色の髪の彼女が今度は座席に座る。

 

「あたしに任せなさい! ピッチャー交代、あおい先輩を投げさせるわ!」

「ええっ、この展開でボク? 自分を使いなよ自分を」

「あたし、来年はクローザーやるから」

「ボクだって先発だよ!」

「オリンピックでは中継ぎやったでしょ。あたしの采配は完璧よ」

 

 彼女らが今行っているのは「実況パワフルプロ野球」の新作である。

 

 スポーツ選手である彼女らが何故こうしてオフシーズンに集まってテレビゲームをしているのかと言うと、この日は件のゲーム会社とあるネット放送番組が主催する「18球団プロ野球選手パワプロ大会」という一大イベントに参加し、現在二人一組(・・・・)のチームで対戦を行っているからであった。

 そんな彼女らがその身に着ているのは私服ではなく、共に所属しているプロ野球チーム、「まったりキャットハンズ」のユニフォームである。

 共にチームを代表する人気選手である二人は同じ女性選手ということもあってか多少の年齢差はあるものの、まるで姉妹のように掛け合いながら観戦者を飽きさせないプレイを交互に行っていた。

 

 そんな猫の手チームに挑む対戦相手もまた、同じくプロ野球界に所属する女性選手だった。

 

「む……早川さんが出て来るのか」

「じゃ、聖さん次の回よろしく」

「むぅ……私に打てるだろうか」

 

 プロ野球チームであり、昨年度は惜しくも猪狩カイザースに敗れレリーグ制覇を逃した強豪「シャイニングバスターズ」。

 そのユニフォームに身を包む一人は、昨季高卒一年目にしてゴールデングラブ賞獲得、激戦区の中で新人王に輝いたチームの若き正捕手「六道聖」。そしてもう一人は先ほどまであおいの相手としてコントローラーを握っていたチームの左腕エース、「泉星菜」だった。

 

 プロ野球選手が集まっていると言うよりも、女性アイドルが集まっているかのように見える華やかなスタジオの中で、彼女ら女性選手たちの熱き火花がゲーム機を通して飛び散っている。

 

 そんな彼女らを見守るエキストラの席には同じくこのイベントに参加している頑張パワフルズのムードメーカー「矢部明雄」やタイガースの二刀流クローザー「波輪風郎」の姿もあり、豪華なスタジオはちょっとした同窓会になっていた。

 

「ここまでの展開、解説の矢部さんはどう思われますか?」

「うーん、四人とも非常に可愛らしいでやんすね!」

 

 ゲームの対戦カードは当然プレイヤーと同じく、バスターズ対キャットハンズだ。

 昨シーズンはクライマックスシリーズで相まみえた両チームのゲームは、現在五回表のバスターズの攻撃である。

 試合展開はここまでバスターズがリードの3対2。時間の都合上イニング設定は五回までとなっている為、この回がラストイニングである。

 青春時代は常にリアルな野球と共にあった四人の野球少女のパワプロ歴は、やはり極めて浅い。聖に至ってはテレビゲーム自体今までやったことがなかったほどだ。

 その事実に対しては全くもってイメージ通りだというのが、後に放送されることになる番組を見た視聴者たちの感想だった。

 

 

 ――因みにこの後、大会は軒並みゲームに不慣れな出場選手たちの中で最もテレビゲームに精通している矢部が空気を読まずに無双しながらパワフルズチームが勝ち上がり、しかし決勝戦では矢部自身が操作するセンター矢部明雄がスリーアウト目のイージーフライを落球して敗北するという取れ高的に美味しい展開が待っている(その際、何故かバスターズチームの星菜が謎の頭痛を催し、キャットハンズチームのあおいが彼女の頭を優しく撫でて慰める不思議な一幕が見られる)のだが、それはさておくとして――

 

 

 お互いに初心者も同然な状態である四人の試合は終始微笑ましい雰囲気のまま進み、二回までは守備操作のミスもあり両チーム共に点を取り合う展開となった。

 しかし操作に慣れるのはバスターズチームの二人の方が早く、三回からは星菜の操作する「泉星菜」のピッチングによってあおいたちキャットハンズの打線はきりきり舞いにされていた。

 つい先ほどもあおいの操作するパワー自慢の四番打者が三振に倒れスリーアウトになったところであり、攻守が替わった五回の表に、あおいから操作を交代したみずきがマウンドにあおいをリリーフに送り出すという字面にしてみるとなんともややこしいプレイ画面になっていた。

 

 対するバスターズチームもまたプレイヤーが星菜から六道聖へと代わり、聖は礼儀正しくあおいに一礼した後、プレイ画面を見つめながらコントローラーを握る。

 現実の野球で見せるような圧倒的な集中力はゲームにおいてまだ発揮されていないものの、彼女も彼女なりにパワフルプロ野球を楽しんでいた。

 ふとその時、ゲームのマウンドにパワプロ頭身でデフォルメされた「早川あおい」が上がったことで星菜がキャットハンズサイドに呼び掛けた。

 

「みずき、みずき、あおいさんの能力見せて」

「む、私も見たいぞ」

「ん、いいわよ。見よ、この強性能!」

「……なんか恥ずかしいんだけど」

 

 パワフルプロ野球と言えば、現役選手の成績に基づいた特徴的な能力査定である。

 野手能力ではミート、パワー、走力、肩力、守備力、捕球と言った項目がそれぞれS~Gというランクに格付けされており、投手能力もまたコントロールとスタミナが同じように分けられ、変化球に関してはそれぞれ1~7段階までの変化量が設定されている。

 特殊能力もまたプラスに働くものとマイナスに働く多種類なものがあり、時には残酷にも思える査定が全球団の選手に対して容赦なく取り行われていた。

 もちろん、それはこの場に集まった四人の女性陣も例外ではない。

 

「おお、流石です、あおいさん。マリンボールが4で、MM(マストマリン)ボールが7……カーブが3でスライダーが2だぞ」

「スライダーは、あんまり投げてないんだけどね……」

「オリジナル球種が二つもあるのはこの人の特別仕様よ!」

「得能も青ばっかりですね。あっ、でも短気ついてる」

 

 昨年度、早川あおいは先発ローテーションの柱として活躍し、シーズン13勝5敗というエース級の働きを見せた。惜しくもタイトル獲得こそ逃したものの、勝率ランキングは僅差の二位と言う成績であり、ゲームでの好待遇も納得の実績を残したと言えるだろう。

 特に、昨年度のレリーグはどのチームも例年より得点の多い「打高」なシーズンだったこともあり、彼女のような投手はより目立った存在だったと言えるだろう。

 そんな彼女の能力を細かく分析した能力をスタジオの一同がほうほうと眺め、張本人たるあおいが気恥ずかしそうに頬を赤らめた。

 

「み、みんなのも見せてよ。スタッフさんもいいですよね?」

「いいですよー、編集はこちらでやるので、皆さんはご自由にやっちゃってください!」

 

 できるだけプライベートに近い選手の自然体な姿を見せたい、というのが番組の方針らしく、放送はあくまでもネット配信に留まる予定であることもあってかスタジオ内の雰囲気は豪華な顔ぶれに反していい意味で緩いものだった。

 そこに感謝しながら四人は一旦プレイを止めてポーズ画面を開き、投手データのところからシャイニングバスターズの「泉星菜」の情報を開いた。

 

「星菜ちゃんは……うわっ、球種多っ」

「いや、七球種もあるっていくらなんでも多すぎるでしょ!」

「でも、星菜ちゃん実際も十球種ぐらい持ってるよね?」

「試合で使えるのはこの七つですよ。ね、聖さん」

「ええ、大体この七つが泉さんの球種ですね」

 

「誰もコントロールSには突っ込まないんでやんすね」

「まあSでしょ。高校時代よりも凄くなってるし」

 

 矢部を始めとするエキストラ席に待機中の選手たちがうんうんと頷きながら見据えている泉星菜の投手データは、控えめに言って贅沢なページだった。

 コントロールは最大のS、スタミナはBに近いC。

 何よりも凄まじいのは変化球の豊富さだ。シンカー方向以外は全て搭載しており、第二球種まで完備している。

 内、下方向の変化量は最大の7と、総変化量はあおいをも上回っていた。 

 

「スライダーにスローカーブ、カットに縦スラ、ツーシーム、高速シュートにオリジナル変化球のブルーウェーブか。……ふむ、どう見ても鈴本さんより強いな。実際上だが」

「聖ちゃんって、いつも鈴本君に厳しいよね……」

「っていうか、沢村賞投手より強いでしょこれ! 猪狩さん見たら絶対怒るわよ!」

「いや、私だってタイトルホルダーだからね? 猪狩さんも納得してくれる……筈。それに、私の場合は球速が遅いから、このぐらい強くしないとバランスが取れないんじゃない?」

 

 大盤振る舞いと言ってもいいほどにインフレしている星菜の変化球査定には多くの者が目を見開いたが、しかし実際の星菜の球を見たことがある選手たちからしてみれば決してやりすぎな査定ではなかった。

 加えて星菜自身が考察したゲーム的なバランス調整説が割と的を射ていた大人の事情もあり、この場においては不満そうな顔をしている者はいなかった。

 そうしてエキストラ席からちらほらと上がる賞賛の声には表面上涼しげな顔で、内面では若干の気恥ずかしさを感じながら星菜は微笑みの愛想笑いを返す。

 次、得能行こう得能! あおいにそう促されながら、みずきが表示した画面を次のページに切り替えると、そこには多数の青と一つの金、少数の赤が映し出された。

 そしてそれを見た瞬間、エキストラ席の矢部が歓声を上げた。

 

「おお、星菜ちゃんは金得持ちでやんすか!」

「金得って?」

「青よりも上! 特別な能力でやんす!」

 

 金色に輝く特殊能力――「精密機械」。

 低めの制球力が抜群に良くなる、星菜自身の信条を具現化したような能力だった。

 そのような偉大な能力を付けてもらったことに、彼女の球をシーズン一年間受け続けてきた六道聖が頷く。

 

「精密機械、か……確かにその通りだ」

「いいなー、あたしも欲しいわね、そういう奴」

 

 嫉妬の色はなく、素直に羨ましがるみずきの姿には気持ちのいいものを感じ、星菜は思わず頬を緩める。

 彼女と会ったのはこうしてプロになってからだが、二人は意外なほど相性が良く、お互いに先輩後輩としてリスペクトし合う関係になっていた。

 そして高校時代から付き合いのあるあおいが、画面に映る星菜の特殊能力を感慨深げに見やる。

 

「キレやノビ、球持ち、緩急……やっぱり、ボクたちの色んなところを見てくれてるんだね」

「こういう査定をしてくれると、やっぱり嬉しいですよね。その分期待に応えなきゃ、って思うけど」

 

 このゲームをプレイした子供達が、泉星菜はこんなに凄いんだぞ、と思ってくれるのはプロ野球選手冥利に尽きるところだ。

 あの時、プロ志望届を出して良かったと――高校最後の夏が終わった時には進路に対して大いに悩んだものだが……このような形でも自分自身の存在を確かめることができることを、星菜は嬉しく思った。

 

「でも、これ……」

 

 だが、ただ一つ。

 ただ一つだけ、泉星菜の選手データには欠点があった。

 それは、いかんともしがたいマイナスの特殊能力――いわゆる「赤得」のことである。

 

 ――ただ一点の援護もなく。

 ――ただ一つの勝利もない。

 

 泉星菜の登板試合を見た者は、誰もがそれをこう呼んだ。

 

 

「……負け運ってなに?」

 

 

 特殊能力――「負け運」。

 登板すると何故か打線の能力が低下する能力。身も蓋もない三文字に、星菜はおっとりした世間知らずのお姫様のような顔で首を傾げ、心から困惑した。

 

 

 

 

【泉星菜 20XX年シーズン

 

 投球回 162

 防御率 1.94

 勝利数 8

 敗戦数 13

 奪三振 152

 

 最優秀防御率 ゴールデングラブ賞】

 

 

「……来年はちゃんと援護します」

「いや、私も援護吐き出したりしてたし……あっ、ここ放送しないでくださいね?」

「善処します」

 

 

 ――パワフルプロ野球の能力査定は、やはり残酷である。

 

 

 

 




 最近、久しぶりにパワプロ2018を起動しました。
 そしてふと思い出したように、LIVEパワプロで検索をかけてみたのです。「名前・泉」「左・投手」という感じで。
 いわゆるエゴサーチみたいなものですが、もしかしたらあるかなーあったら嬉しいなーという気持ちでした。
 そしたら、驚きました。
 いたのです。泉星菜が。
 それも一人だけではなく、二人も、三人も……

 感動しました。初めて感想を貰った時のような嬉しさでした。

 最近は色々あって何か自分の中で創作のモチベーションが薄れているのを感じていましたが、やっぱりそのようなことがあって、皆さんへの感謝の気持ちを忘れたらいかんのですと改めて身に染みます。




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